妻への挽歌(総集編9)
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目次

■2801:久しぶりの墓参り(2015年5月24日)
節子
もう1年近くになりますが、どうも生活リズムがとりにくくなっています。
自分がしっかりしていないせいで、さまざまなトラブルに巻き込まれたり、あるいは周辺の動きに的確に対応できずにいたり、さらには余分な問題を引き寄せたりしているような気がします。
これでは節子がいなくなった当時よりも、生活は不安定になっているとさえ言えます。
しかし、それは当然のことかもしれません。
社会もそうですが、個人も崩れていくのは、徐々になのです。
自分の生活を顧みると、それが実感できます。

最近会う人から言われる言葉に、「お元気そうですね」というのがあります。
この背景には、「元気でない私」が想定されているということですので、言われた本人にはあまりうれしくない言葉です。
同時に、元気が当然の人にはそんな言葉はかけませんから、その真意は元気ではないということでもあるでしょう。
そうした「言葉の機微」が、最近はよく伝わってくるようになりました。
それは、私自身の気が弱くなっているということの現れでしょう。

いずれにしろ、この1年は、それなりに厳しい1年でした。
しかし、そろそろ決着をつけたい気がしてきました。
私も、この30日で、74歳になることも関係しています。
私自身は、誕生日にはあまり意味を感じないのですが、なにかの節目にすることはできます。
とりわけ、四半世紀を単位に生きようと決めたこともありますから、いささか「長い第3四半期」はそろそろ終わりにしたい気もします。
節子が元気だったら、2年前に第4四半期に移っていたはずです。
それができないままに、ぐずぐずしているのも、生活リズムが壊れた理由の一つかもしれません。

ここしばらくお墓にも行けずにいました。
気にはなっていたのですが、いろんな意味で余裕がなかったのです。
今日、行ってきました。
本堂にもお参りしてきました。
挽歌も「2800」を超しました。
気分を改めて、前に向かおうと思います。

■2802:リズムある生活への第1日目(2015年5月26日)
節子
朝、きちんと庭の花木に水やりをすることにしました。
まずは「リズムある生活」の回復です。

相変わらず何かに追われている感じから抜け出られません。
別に契約相手がいる「ビジネス」ではなく、すべてがほぼ自発的な活動なのですが、なんでこうもいろいろと手出ししてしまっているのだろうかとわれながら驚くほどです。
なかには、ちょっと後悔しているものもありますが、基本的にはすべて私が勝手に引き受けてしまったことですから、誰かの責任ではありません。
それに、最近は経済的にもいささか厳しいので、昔ならば専門家に頼んでいたことも、すべて自分でやらなければいけません。
つぶれないで何とか続いている私の会社の決算も、知人を支援するために作ったけれど、結局つぶれてしまった会社の決算も、自分でやらなければいけません。
会社はまだかなりの借金がありますが、節子がいなくなってからは支出ゼロに近づけて、わずかの収入を返済に充てています。
しかし、昨年は、友人を支援するためにまた借金も増やしてしまいました。
にもかかわらず、彼を救うことはできませんでした。

お金をもらう仕事はほとんどしていませんが、逆に何もしていないのに、毎月、会社に入金してくれる人たちもいます。
それで何とか湯島のオフィスは維持できていますし、時に私も仕事ができます。
会社時代には、仕事をするとお金をもらえましたが、いまは仕事をするためにはお金がかかります。
自分がしたいと思って取り組む仕事だからです。
もう少しお金があれば、もっと仕事ができるのですが、最近は出張もままなりません。
それが悪いわけではなく、そのおかげで、私自身は楽ができるのです。
しかし、その分、よけいな約束をしてしまい、時間に追われてしまうことになるわけです。
私はやはり「仕事」が好きなのでしょう。
節子は、いつもそれを少し嘆いていましたが。

しかし、ようやく最近、いろいろと吹っ切れだしました。
自分の愚鈍さが、心底、わかってきたからかもしれません。
私が、少しだけ「賢く」感じられたのは、たぶん節子のおかげです。
自分一人では何もできない自分を、最近、厳しく思い死らされています。

娘たちが、少し早目の誕生日をケーキで祝ってくれました。
しかし、誕生日がめでたいと思ったことは、実は私はこれまで一度もないのです。
せっかくなのでお祝いを受けることにしましたが、子どものころからそうなのです。
でもまあ、これを機会に、もう一度、生活を整えだそうと思います。
最近、気が起きてこないのは、生活にリズムがないからでしょう。

■2803:解けない命題(2015年5月26日)
節子
久しぶりに、ある読者からコメントをもらいました。
pattiさんです。
pattiさんが最初にこの挽歌にコメントしてくださったのは、もう4年近く前だったと思います。
私と同じように、かけがえのない伴侶を喪った後、この挽歌に出会ってくださったのです。
時々、コメントを下さっていましたが、2年半ほど前からとまっていました。
それが久しぶりにコメント送ってきてくれました。
とてもうれしいことです。

というのは、最後のコメントがいささか気になる内容だったからです。
その一部を引用させてもらいます。

私も最近はずっと挫けていました。
彼は私が謝ることは何もないと言ってくれていました。
それでもなお悔いと孤独に喘ぐ日々が続いていたのです。
気がつくと謝る言葉ばかり。
そんな言葉は彼は望んでいませんね。
佐藤様のコメントにはっとさせられました。
ありがとうございます。

このコメントを最後に2年半、コメントが途絶えていました。
だからうれしいコメントだったのです。

この挽歌に出合って、コメントくださる人がいます。
なかには直接に訪ねてきてくださる人もいました。
愛する人を喪うと、みんな混乱してしまうのです。
ですから、こんな自分のための繰り言の文章にさえ、反応してしまうのです。
でも、次第に落ち着いてくれば、他者の挽歌よりも自分の挽歌の世界を生きられるようになります。
それは、とてもいいことです。
ですから、いろんな人が通り過ぎていくことは、私にはうれしいことでもあるのです。
しかし、どこかに少しだけの寂しさが残ることもあります。
一瞬とはいえ、悲しさや寂しさを共有したという思いがあるからです。
特に、pattiさんのように、ご自分の真情を吐露してくださったかたの場合はどこかに残ってしまいます。
ましてや気になるコメントで途絶えてしまうと、どこか気になってしまうのです。

2年半ぶりの、pattiさんのコメントはうれしい内容でした。

コメント欄を読んでもらえればいいのですが、一部を引用させてもらいます。

「かけがえのない伴侶」を喪ってからどのように生きていったらいいのか、という命題が解けないまま続いています。
それでも時間は解決してはくれないけれど、「されど時間」ということも実感しています。
この世に自分は生きているという違和感、浮遊感は変わらないけれど社会や世界を知っていくことが止まらない日々を重ねるようになりました。

解けない命題。
されど時間。
とても共感できる思いです。
そして、
「社会や世界を知っていくことが止まらない日々を重ねるようになりました」。
前に向かいだしたpattiさんに、私も少し元気をもらえたような気がします。
pattiさんに感謝しなければいけません。

■2804:夢のない余生はよくないかもしれません(2015年5月27日)
節子
朝の草花への水やりは、今まで以上にていねいにやれるようになってきました。
時々、自分でも思うことがあるのですが、節子がいなくなってから、生き方が随分と粗雑になっています。
気づいてはいるのですが、なかなか直りません。
まずは、毎朝の水やりから正していこうと思います。

昨日、ジュンのパートナーの峰行が、わざわざ手作りのケーキを作ってきてくれました。
少し早い私の誕生日祝いです。
彼は柏でイタリアンのお店をやっていますので、帰宅するのが真夜中の12時を過ぎることも多いようです。
昨日も12時過ぎに帰宅し、それから作ってくれたのだそうです。
とてもおいしいケーキでした。
節子にもお裾分けをお供えしました。

ケーキを食べながら、質問されました。
今年の夢はなんですか、と。
即座に、夢はない、と口に出てしまいました。
せっかくの元気づけの行為を無にする反応です。
そこが私の一番悪いところなのですが、まあ、彼ももうわかっていることでしょう。

最後まで夢を見続けられる人もいます。
いや、夢を持ち続けることが生きる意味を与えてくれるとも言えるでしょう。
言い方を変えれば、夢があれば生きる意味がある。
しかし、生きる意味への関心を失ってしまうと夢は不要になり、生き方も粗雑になりかねません。
まさに私はこの数年、そういう状況に置かれています。

生き方はかなり粗雑にはなっていますが、だからと言って、他者をぞんざいに扱うことはしていません。
というか、実は昔から他者への言葉を取り繕うことは不得手ですので、それがぞんざいだといえば、昔からぞんざいでした。
娘のジュンから、お父さんと話をして、もう2度と来ないと思う人も多いだろうね、と言われました。
そういえば、湯島に来て、私のあまりに「不躾な」言葉に腹を立てる人は、私が自覚している人だけでも3人はいますし、たしかに来なくなる人もいます。
節子が湯島に一緒にいた頃は、来客が帰った後、あの言い方は失礼でしょうとよく注意されたものです。
しかし、私には悪意はほとんどありませんから(2度ほどは悪意を自覚していたことがありますが)、直しようがありません。
正直な反応をすることこそが、誠実なのだと私は思い込んでいるからです。
困ったものです。

さて、もう少し生き方を丁寧にし、夢もきちんと意識するようにしましょう。
そこからまずは自分を変えていく。
頑張らなくてはいけません。

■2805:節子は決して「これはいい考えだ」に賛成しませんでした(2015年5月28日)
節子
前にも書きましたが、ふと「これはいい考えだ」と思うことがあります。
大体において、そういう時は、あまりいい考えではなくて、後悔することが多いのですが、今日もそれをやってしまいました。

3時から飯田橋である集まりがありました。
その1時間前に湯島で時間ができたのですが、ぼーっと外を見ているうちに、そうだ、自転車で飯田橋まで行こうと思いついたのです。
普段はカジュアルな服装で湯島に来ていますが、今日はその後、お茶の水のビジネススクールで講義を約束していましたので、暑い中を背広で来ていたのを忘れていました。
湯島には小さな折りたたみ自転車があります。
変速ギアなどついていないので、結構疲れる自転車です。
出かける時に一瞬迷ったのですが、まあ気分転換にもなるしと思ったので決行してしまいました。
さて、それからが大変でした。
走り出してから15分も立たないうちに後悔しました。
あまりにも暑いのです。
その上、地図をきちんと頭に入れてこなかったので、途中で迷子になってしまったのです。
先日も千駄木で迷子になって大変でしたが、今日は広域での迷子なのでさらに大変でした。

ちなみにこの自転車はベランダに置いているので、汚いうえに、私がタイヤのパンクを粗雑にセメダインで直したので、もう廃棄されている自転車より汚いのです。
そのため一度、交番に道を訊きに寄ったら、乗り捨ての自転車を盗んだのではないかと疑われたこともあります。
ホームレスの人に間違えられたのでしょうか。
まあ、ムッとしますが、そういう雰囲気をつくったのは私でしょうから仕方がありません。
身だしなみには私はほとんど無頓着ですから。
それ以来、道に迷っても交番には寄らないことにしています。

それにしてもなぜか老人が小さな汚い自転車で、よろよろと都心を走っているのは不思議な光景でしょうね。
さすがに、暑いので背広の上着は脱いで出かけましたが、自動車は迷惑したことでしょう。
それにかなり疲れてしまい、その後の講義は大変でした。
栄養ドリンク剤を飲んで、なんとか3時間、話しました。

決して、「いい考え」ではなかったのです。
ちなみに、節子は、結婚後、数年してからは、私の「これはいい考えだ」に決して賛成しませんでした。
きっと私より先に、学んだのでしょう。
間違いは人を賢くさせるものです。
私も少し賢くなりました。
はい。

■2806:人は常に自らとしか話していないのかもしれません(2015年5月28日)
節子
朝早く、Kさんから電話がありました。
奥さんの入院する病院がようやく決まったという連絡です。
精密検査の結果、思っていたのよりは少し良かったようで、数日前の電話とはまったく違っていました。
私も、前に電話をもらった日よりも精神的に安定していたのと、昨夜遅かったため起きたばかりだったので心が澄んでいて、前回とは違ってきちんと話ができました。
来月、東京に来るというのでお会いすることにしました。

なぜKさんがよく電話してくるかと言えば、なぜか私の声を聞くと元気が出るからだというのです。
私がどんなにひどいことを言っても、それはたぶんKさんには聞こえていないのです。
話していて、そう感ずることが少なくありません。
だから逆に私の言葉はきつくなるのですが、Kさんはそれも聞き流すので、私のトーンも下がってしまうわけです。
人は、聞きたいことしか聞こえてこないものなのかもしれません。
快適に生きるための自己防衛機制が人にはたぶん備わっているのでしょう。
そう考えると、人は常に自らとしか話していないことになります。
そう考えると納得できることが少なくありません。

自らとしか話さないとしても、相手はやはり必要なのです。
独りごとでは、自分とは話せません。
相手が発する言葉を、自分流に解釈し、それを「もう一人の自分」に置き換えて、話すことが大切なのです。
その時、その相手は自分をよく理解してくれている人であることが望ましいでしょう。
いや、正確に言えば、相手が自分を理解してくれていると確信できる人というべきでしょう。
その人が、自分を理解しているかどうかなどは大した問題ではありません。
それにもともと人は他者を理解などできるはずもありません。
大切なのは、理解されていると思えるかどうかです。

もう一人の自分こそが、時に伴侶であり、時に家族であり、時に親友です。
だから、その人がいなくなると、自分もいなくなってしまったような感じがしてくるのかもしれません。
もう一人の自分が不在のまま、8年近くが経とうとしています。
だから時々、無性に人と話したくなるのかもしれません。
そして時々、だれとも話したくなくなるのかもしれません。

今日は午前中は、少し畑にでも行って、鋭気を養い、午後は川口に行こうと思います。
国際箸学会の小宮山さんから誘われていますので。
ちょっと疲れますが。

■2807:輝いている人に会いました(2015年5月29日)
節子
昨日は川口市の国際箸会館の集まりに行ってきました。
そこで、実に幸せそうな人に会いました。
長野県の篠ノ井にある児童養護施設円福寺愛育園の藤本光世さんです。
コミーの小宮山さんからは何回もお話をお聞きしていて、いつかお会いしたいと思っていました。
面識はなかったのですが、会場に言った途端に、ああたぶんこの人が藤本さんだなとわかりました。
輝いていたからです。
頭も輝いていましたが、全身からなにか明るさと元気が出ていたのです。
人は、こうでなくてはいけないと思いました。
最近の私は、たぶんその反対にいるからです。

集まりの後、交流会がありました。
そこで、藤本さんに声をかけさせてもらいました。
そして、幸せですね、と会った途端に不躾にも言ってしまいました。
さすがにそれだけでは伝わらないと思い、子どもたちはみんな純ですからと付け加えました。
藤本さんはすぐに反応してくれました。
現場で子どもたちときちんと付き合っていることが、痛いほど伝わってきました。
現場で、本当の仕事をしている人は輝いています。
最近は私は、そういう場を失ってきています。

昨日は主催者の小宮山さんも輝いていました。
私はいささか疲労気味で、存在感さえ薄かったと思いますが、いろんな人に久しぶりにお会いできました。
途中、交流会を抜けだし、近くにある小宮山さんの会社に気になっていた人がいたので、会いに行きました。
元気そうでした。
私が考えていたことは、会った途端に吹っ飛びました。
彼もまた現場を持っているからだなと気がつきました。

節子は小宮山さんをよく知っています。
こんな経営者がいるのかと節子の世界を広げてくれた人です。
以前は湯島にもいろんな社長が来ました。
節子が好きになれなかった社長は、どこか共通点がありました。
その直感は、私にはとてもよくわかりました。

藤本さんのように、輝かなければいけません。
「純な目」を失わずに、嘘をついてはいけないのです。

■2808:目のない話(2015年5月30日)
朝の挽歌に、「純な目」を持たなければいけないと書きました。
目の話を書きます。

私は、家族から「目がない」と言われています。
たしかに目がほとんどないのです。
生まれた時はそうではありませんでした。
目が細くなってきたのは、コンタクトレンズのせいです。
乱視が強く、学生のころからハードコンタクトでないと矯正が難しかったのです。
ですから大学時代からコンタクトレンズを着用しています。
昔はよく落としましたが、次第に上の瞼が下りてきて、目が細くなったのです。
これは病気だそうで、最近は簡単に手術で治るのだそうです。
しかし、まあいいかと思っていて医者に行かないうちにどんどん上のまぶたがおりてきて、いまや目を覆いだしているのです。
ですから目がないような状況になっています。

しかも、そのコンタクトレンズの取り扱いがよくありません。
もう10年以上前のものを着用しています。
なにしろ目をまぶたが覆ってきたので、最近はレンズを落とすどころか、はずそうと思ってもはずれないことさえありのです。
ですからなくなりようがありません。
そのためたかもしかしたら目に合っていない可能性が強く、コンタクトを入れても読書は不便です。
さらに手入れがよくない。
ほとんど洗ったことがないのです。
雑菌でいっぱいかもしれません。
いつも家族から注意されていますが、医者に行く気も、レンズの洗浄をきちんとやる気もありません。
まあ、これは私の生き方の一つの象徴ですが、生物的な自分の身体的ケアにはほとんど関心がないのです。
健康のために何かをやるということができない人間なのです。
やろうと思うことは、時々あるのですが、続きません。
困ったものですが、そういう性格はそう簡単には直せません。

そんなわけで、私は今や目がなくなりつつあるわけです。
そのため視野が狭く、世界が暗く見えています。
それが私の性格をゆがめているのかもしれません。
まあそれも定めでしょう。

最近、また読書に目覚めました。
それで目の手術に行こうかと思ったりしたのですが、まあ残す時間はそうもないだろうから、このままいきそうです。

節子はもう少し目のある人がよかったようです。
節子に会った時は、いまよりもだいぶ目があったのですが。

昨夜、寝たのが遅かったのですが、久しぶりにうなされる夢を見ました。
妖怪の世界に迷い込んで、自分も妖怪のふりをしなければいけないという夢です。
夢の中では、目の大きさと関係なく、現世よりも世界が見えるような気がします。
よく見えることが必ずしも良いことではないことを、昨日の夢で実感しました。

つまらない記事ですみません。
昨夜は寝不足です。

■2809:2度あることは、…3度はない(2015年6月1日)
ちょっと心ときめいた話です。
4日前に、いつものように千代田線の電車で湯島に向かいました。
いつも始発なので、大体決まった席に座ります。
その日はたしか午後の2時ころに乗りました。
いつも座ったら本を読みだし、途中で寝てしまいます。
そしてなぜか下車駅の少し前の西日暮里で目が覚めるのです。
その日もそうでした。
生きて気づいたのですが、隣になんとなく気になる女性が座っています。
本を読んでいました。
なぜ気になったかというと、私の知っている女性を思わせるような雰囲気を感じたからです。
なぜそう感じたのかわかりませんが、なんとなく伝わってきます。
隣なので顔を覗き込むわけにもいきません。
下車駅で立ち上がって、上から見たのですが、もちろん私が知っている女性ではありませんでした。
でもどことなく心ときめかすものを感じました。

翌日、その日も午後のほぼ同じ時間に、同じ席に座り、同じ駅で目が覚めました。
なんと、昨日と同じ女性がまた隣で本を読んでいます。
蚊をきちんと確かめられないので本当に同じ女性かどうかは確実ではありませんが、雰囲気が同じです。
この日も本を読んでいました。
下車する湯島で、受けから見たら、たぶん同じ女性でした。
心ときめきました。
節子がいなくなってから、女性に心ときめいたのは初めてかもしれません。

しばらく前まで、シンクロニシティが頻発していましたが、最近パタッと止まっていました。
しかし、なんという偶然でしょう。
2度あることは3度ある。
もし明日も同じ人が座っていたら、声をかけるべきかどうか。

そして一昨日ですが、いささかの期待を持って、ほぼ同じ時間に同じ席に座り、また寝てしまいました。
そして運命の西日暮里駅で、やはり目が覚めたのです。
隣席はまた女性でした。
ほぼ同じ年齢の、スマホも化粧もしていない女性です。
しかし、残念ながら、これまでの2回とは違う女性でした。
雰囲気が違うのです。
顔を見えないのに、なぜか伝わってきました。
2度あることがあったとしても、3度目はないのです。

そして昨日の午後も湯島に午後出かけました。
西日暮里で起きたら、隣はスマホをしている若い男性でした。

ただそれだけの話です。
すみません。

■2810:誕生日のケーキと亀まんじゅう(2015年6月1日)
節子
私もとうとう74歳になりました。
節子も知っているように、私自身はあまり誕生日に意味を感じない人間ですので、自分の誕生日も気づかないで過ごしがちですが、フェイスブックをやっていると、誕生日の表記が出るので、みんなから誕生日祝いのメッセージが届きます。
それで自覚できるのですが、正直に言えば、誕生日だからなんだという気もします。
しかし、それを言ってしまったらおしまいですから、そうしたメッセージにはきちんと返信しています。
まあ、基本形は、「ありがとうございます。くたくたの73歳でした。74歳はもう少し楽をしたいですが、見通しは暗いです」というお返しをしています。
あんまり喜びを感じられない返事ですね。
まあ喜びもないのですから、仕方がありません。

誕生日を言われるのはいくつになってもうれしいものだという人もいますが、私の場合は全くうれしくないのです。
誕生日を喜ぶということが、私には理解できないのです。
困ったものです。
ケーキやお菓子をもらえるとうれしくなりますので、私もどうも物欲者です。
しかし、理由もなくケーキやお菓子をもらってもうれしくないのですが(ちなみにバレンタインデイにチョコレートをもらうと以前は不快でした)、なぜか誕生日にケーキをもらったらうれしくなるのです。
いや、これもたぶん、くれた人が「まさか」の人だったのでうれしかったのかもしれません。
まあ、こんなことを書くと、付き合いにくいやつだなと思われそうですが、事実、私はたぶん「付き合いにくいやつ」なのです。

誕生日祝いは年賀状と同じく、友人知人に理由もなく言葉を交わせる日であるというところに意味があるのでしょう。
理由がなければ声をかけられないのは、いかにも現代社会のルールだとも考えられます。
だから、すなおに誕生日は喜び合う日と考えれば済むだけの話なのですが。

5月30日が誕生日でした。
それも忘れて、学生たちとのサロンを開いていました。
大学院生の前田さんが、ネットで調べて近くのケーキ屋さんで買ってきましたとケーキを持ってきてくれました。
そうしたら岡田さんが亀まんじゅうを買ってきてくれました。
思っても見なかったのでうれしくなりました。
みんなでご馳走になりました。
亀まんじゅうの亀の頭は私が食べたかったのですが、私が食べる前に太田さんが食べてしまいました。
楠さんが、あの饅頭はおいしかったと繰り返し言っていました。
楠さんも私より先に食べていました。
こういう人たちとケーキとまんじゅうを食べるのであれば、誕生日もいいものです。
ただ、「誕生日おめでとう」という言葉は、やはり私には理解不能ですが。

■2811:見失っていたあったかさ(2015年6月2日)
節子
私の好きな言葉は「あったかい」です。
今年の誕生日にメールをもらった中に、この言葉が出てくるものがいくつかあり、それがとてもうれしかったです。
たとえば、ある方はこんな過分なメッセージをくれました。

コムケアセンター(湯島のオフィスのことです)にはあたたかい氣が充満していますね!
コムケアセンターは都内随一のパワースポットだと思います。
佐藤さんの存在自体がみんなのオアシスだと思いますので、くれぐれも家庭菜園に熱中しすぎないようお願いいたします(笑)

これはもう過剰な褒め言葉ですが、「あたたかい氣が充満」とか「みんなのオアシス」などと言われると、何かうれしくなってしまうのは、まだまだ自分がしっかりしていないからでしょう。
しかし、節子にも聞かせたい言葉です。

湯島に行くと何かホッとして、あたたかい気持ちになります、という方もいました。

わが家も「あったかな家族」を目指していました。
そう言われていたころもあります。
しかし、節子が闘病生活に入ってから、ある意味で大きく変質しました。
私自身に余裕がなくなったのです。
本来であれば、そうした時期であればこそ、あたたかさが大切でした。
もちろん「あたたかさ」がなくなったわけではありませんし、何かが変わったわけではない。
でも、何かが変わってしまった。
「あったかい」と実感することができなくなってしまったのです。
あったかさを自分で実感できなければ、他者にあたたかさを感じてもらうことなどできません。

「あたたかい」という言葉を聞いたのは、まさに節子が闘病していたころです。
代々木のセンターで、NPOへの資金助成プログラムの公開選考会をやりました。
その会場で、発表前にある人が私の言動に関して、隣の人に「なにかあたたかいわよね」と話しているのが耳に入りました。
実はその方も、伴侶の闘病生活に取り組みながらのNPO活動でした。
その言葉が耳に残りましたが、人からあたたかいと言われることが大切な生き方なのだと気づいたのです。
残念ながら、その方の伴侶も、介護の甲斐なく旅立ちました。
その方はその後、わざわざ湯島にまで来てくれましたが、お互いに伴侶のことは話せないまま終わりました。

実は、私の生き方は、言葉においては決して「あたたかさ」を相手に感じさせるものではありませんでした。
むしろ相手の気持ちを逆なでしたり、不躾だったりすることが多いのです。
節子からはよく注意されたものです。
たぶんそれはいまも変わっていません。
昔も今も、相手がだれであろうと、人として考えているからこそ素直に反応してしまう。
それこそが私にとっての「あたたかさ」なのですが、それがいけないのでしょう。
ソフィストケートされていないのです。
昨日も友人の武田さんから、もう少し注意したほうがいいよと指摘されました。
彼でさえ、腹が立つことがあるようです。

でも私の「あたたかさ」を感じてくれている人もいるようで、そう言葉ではっきり言われると、私自身があたたかくなってきます。
私もまた、少しずつ「あったかさ」を取り戻せているようです。

でも人生は、私にはまだ「あったかく」はなっていませんが。

■2812:自然こそ彼岸(2015年6月3日)
節子
久しぶりの雨です。
最近、今まで以上に心身が自然気象に影響されるような気がします。
人の生体は、成長するにつれて、自然から自律する度合いを高め、ある一定の年齢からまた自然と同調しだし、最後は土に戻るのかもしれません。
外の雨を見ていて、そんな気がします。
旧約聖書によれば、神は泥から人を創ったそうですが、それは実に理にかなったことではないかと私は思っています。

昨日、久しぶりにメンタルヘルス総研の久保田さんが湯島に来ました。
久保田さんは、長年、メンタルヘルスの問題に関わっていて、「体の体操」という運動を広げようとしていますが、なかなか広がりません。
その相談に来たのですが、その話が終わった後に、がん治療のための「ニンニク加湿法」というのにも取り組んでいるという話がありました。
これは日本古来の療法ですが、それを広げたいというのです。
この種の話はたくさんありますが、きちんとした評価はなされていないような気がします。
節子も、こうした古来の日本の知恵に基づく療法を試みましたが、医学の世界では正当視されていませんでした。
そこには、近代医学の傲慢さを感じますが、もっとさまざまな知恵や体験を活かし合う文化が育てばと思います。

節子の闘病中、私もこうした民間療法を集める活動ができないかと思ったことがありますが、節子を見送った後は、逆に思い出したくもないほどの辛い記憶だけが残りました。
それでそうした思いなどはすっかり忘れていました。

友人ががんになったとして、そうした療法を進めるのはとても難しいことです。
私もつい最近、それを体験したばかりです。
自分のことであれば、いかなるリスクも取れますが、他者にはリスクを押し付けるわけにはいきません。
そこで「医学的なエビデンス」などというものが大事にされるのでしょうが、それは単なる言い訳でしかないのかもしれません。
しかし、体験者の事例をたくさん集めていって、それを体系化していけば、生きたエビデンスを含むポータルサイトができるかもしれません。
そういうものがあれば、それを患者の友人に示唆することはできます。
しかし、もはやそういう活動に取り組み気力がありません。

節子の取り組んだ療法の一つに、自然とイメージ的に一体化するというものがありました。
それを思い出しました。
自然と一体化することで免疫力を高めるというものですが、自然と一体化するということは自然に戻るということかもしれないと気がつきました。
自然が私たちの戻るべき世界であれば、それは彼岸でもあります。

雨を見ていると、こんなことが次々と思い浮かびます。
節子のいない雨の日は、ただたださびしいだけです。
自然が彼岸であるというのが、今朝の大きな発見です。

■2813:畑の恵み(2015年6月4日)
節子
今年は畑にもできるだけ行くようにしています。
今日は3本のきゅうりが収穫できました。
雨が少なかったのですが、今年は水を忘れずにやっていたので、野菜はみんな元気です。
ただネギだけはあまり土をかぶせていないので、青い部分だけが育っていますが。

相変わらず少し手を抜くと野草と篠笹がすごい勢いで広がります。
前にも書きましたが、畑で少し休んでいると、その成長が感じられるほどなのです。
狭いとはいえ、50坪あるので、それはもう大変です。

道沿いの斜面の花畑も少しずつ復活させてきています。
節子がやっていた時は、コンクリート塊やレンガなどの宅地に放置されていたものを活用して、段差に境をつけたりしていましたが、長年放置していたので、それもいまや土に埋まってしまっています。
瓦礫であろうと、それを活かすのが節子の方針でしたが、なかには買ってきた造作物も出てきます。
整地していると、そうしたものが出てきて、節子のことを思い出させられます。

それにしても、農作業も花壇作りも、思った以上に大変な作業です。
節子がやっていたころ、もう少し手伝っておけばよかったと思います。

最近は、いろいろあって、心身の調子も必ずしもいいわけではありません。
しかし、疲れていても、畑に行って、少しだけ草刈りをし、草の上に座っていると気持ち的には落ち着きます。
両側を住宅に囲まれているところなのですが、幸いに一方が開けていて、わずかではありますが、手賀沼が見えるのです。
いわゆる「ハケの道」沿いなので、散歩で前に道を歩いている人も少なくありません。
その人たちのためにも、はやく花畑を復活させ、できればそこにベンチでもおければ最高ですが、そうしたことも節子がいなくなったので中途半端になってしまいました。

今日の収穫のきゅうりは見事です。
節子に供えた後、生でそのまま食べてしまう予定です。
来週はナスが収穫できるでしょう。
今年の畑作業は報われています。

■2814:仏壇を和蝋燭にしばらく変えました(2015年6月5日)
節子
ジュンが和蝋燭を買ってきました。
久しぶりに仏壇で和蝋燭を使いだしました。

いつもは100円ショップで買ってきた5分用のミニロウソクなのですが、やはり雰囲気が違います。
ただいささか放置しておくのは危ないので、毎回、人がいる時だけつけています。
ついでに今日は、わが家の仏壇の写真を載せておきます。
燃えている和蝋燭がわかるでしょうか。
炎がとてもやわらかで、あったかい感じです。

奥にあるのが、手作りに大日如来です。
スペインタイルをやっているジュンがつくり、家族みんなで眼をいれ、お寺のご住職に入魂してもらいました。
その右にあるのが、浄土真宗の

一段下の左側は、東大寺三月堂の月光菩薩のミニチュアで、一昨年、娘と一緒に行った時に、三月堂でいただきました。
その奥にあるのが、キスケ3人組です。
「キスケ」と言ってもわかる人だけにしか通じませんが、わが家の仏壇では四天王の役割です。
和蝋燭の左側にあるお地蔵さんの線香立手は、宇治平等院でいただいてきたものです。

わが家の仏壇は二段になっていて、この下にもいろいろとありますが、写真の部分は立ったままおまいりできる位置になっています。
椅子に座っておまいりする時には、下段に向き合うことになります。

私は毎朝、この仏壇に向かって、般若心経をあげています。
時には省略型ですが、それが毎朝の最初の日課なのです。

私が先に逝った場合、節子はちゃんと毎朝、お経をあげてくれたでしょうか。
いささかの疑問は残りますが、まさか、私がこうして毎朝、お経をあげるなどとは、たぶん節子は思ってもいなかったでしょう。
人は変わるものなのです。

■2815:近所づきあい(2015年6月5日)
節子
先日、湯島の帰りに我孫子駅から自宅に向かって歩いていたら、後ろから「こんにちは」と大きな声をかけられました。
振り返ったら、10メートルくらいうしろに中学生の女の子がいました。
あまりに距離があったので、私にではないかなと思ったのですが、よくみたら、近くの高城さんの娘さんでした。
10メートルも離れていて、どうして気づいたのだろうと思ったのですが、どうも電車の中から私に気づいていたようです。
陸上の競技会で、船橋まで行っていて、その帰りだそうです。
普段、とりわけ親しいわけではありませんが、小さいころから顔見知りで、遊んでいるのに会えば、もちろん声をかけます。
節子の葬儀にも、折り紙か何かをお供えに持ってきてくれたこともあります。
お父さんの転勤で、3年ほど、福知山に行っていましたが、中学校は地元に戻りたいというので、3月に戻ってきたのです。

街を歩くと、時にいろんな人と出会いますが、中学生から声をかけられたのは初めてです。
それも10メートル後ろから。

いろいろと話しながら歩いていると、今度は、横に自動車が止まり、そこから「佐藤さん」と声をかけられました。
知り合いの市会議員でした。
ちょうどニューズレターをお届けしに行く予定だったので、と言って、最近号を渡されました。
なぜか、わが家の郵便受けには何人かの市会議員のニューズレターが投函されています。
この市会議員の人には、以前、我孫子市の若者中心のグループの立ち上げを考えた時に、仲間になってもらったことがあります。
残念ながら、その活動の中心になってほしいと思っていた2人の若者が、そろって転居したのと節子の病気の関係で、頓挫してしまったのですが。

また高城さんの娘さんと話しながら歩いていると、これまた近くの岡村さんに会いました。
まだ会社勤めされているので、なかなか話す機会がありませんが、以前、私が自治会長を引き受けたのは、岡村さんのおかげなのです。

まあ、そんな風に、節子がいなくなっても、私も少しだけ地域に溶け込んできています。
節子がいたら、もっともっといろんなことができていたでしょう。

そういえば、隣の人が交通事故で、1年以上、入院しています。
奥さんには、何かできることがあれば言ってくださいとは話していますが、何もできずにいます。
節子がいたら、何かできたはずですが、男やもめには近所付き合いも結構難しいものがあります。
困ったものです。

■2816:リンドウ湖は小さかったです(2015年6月6日)
節子
昨日から那須塩原のリンドウ湖のホテルで企業の人たちと合宿でした。
あいにく茶臼山は雲がかかっていましたが、ホテルのレストランからリンドウ湖は一望できました。
リンドウ湖は、こんなに小さかったのだと改めて思いました。

那須にはあまり良い思い出はありませんが、那須というと必ず思い出すのが、家族で車で来たことです。
途中渋滞に巻き込まれ、目的の那須に着いたのは予定の時間を大幅に遅れてしまい、しかも那須界隈もどこもかしこも混んでいて、結局、どこにも立ち寄らずに帰路に向かいました。
しかも車のガソリンがなくなったのに給油所が見つからず悲惨なドライブ旅行になってしまったのです。
そんなわけで、どうも那須には良いイメージがないのです。

しかし、ホテルの13階からみる那須は緑に覆われて、実に魅力的です。
こんなところで、私の最後の暮らしをおわらせたかったと、やはり思います。
いまさら望み得べきもないことですが。

帰る頃になって晴れてきました。
今回は久しぶりに合宿の最後までみんなとつきあいました。
快く疲れた2日でした。
リズムは戻ってきているようです。

■2817:伴侶がいないと大変です(2015年6月8日)
節子
相変わらずいろいろとあります。
伴侶がいないと、すべて問題は私に降りかかってきますので、それなりに大変です。
節子がいた時には、こうしたことはすべて節子がやってくれていたわけですが、その頃、もう少し私に理解があれば良かったと反省しています。
しかし、反省したところで、目先の事態はかわりません。

先日、ある集まりで、「家族の崩壊」が話題にでました。
その場にいた人から、後日、別の集まりでその話題が出ました。
気になっていたのでしょう。
ちなみに、最初の集まりも後日の集まりも、家族とは無縁のテーマの集まりです。

経済成長は家族を維持するよりも壊すことがプラスに働きます。
家族を壊して、全員を経済成長のための労働力とするとともに、市場の対象にできるからです。
家族のあり方と経済のあり方は、深くつながっています。

なんだか時評編のような内容になってきてしまいました。
続きは、時評編にまわしましょう。
ここで書きたいのは、家族や夫婦は、それぞれの役割分担があればこそ、共に成長していけるということです。
問題は、役割分担がうまく構成されて、夫婦関係や家族関係が良好であればあるほど、誰かに問題が起こると、とたんに全体が壊れかねないということです。
これは「最適化のジレンマ」と言ってもいいでしょう。
環境に適応した生物ほど、環境変化に対して脆弱化するということです。

わが家を振り返ってみると、その傾向があります。
節子がいてのこその家族だったのです。
だからこそ、節子がいなくなった途端に、みんなおかしくなってしまったのです。

誤解を与えそうですが、節子がいなくなって、わが家が壊れたわけではありません。
今も仲良くやっていますが、時にまだぎくしゃくすることがあります。
どこか節子がいたころとは違うのです。
ですから、いまも「節子」の話が、それぞれから出ます。

節子は、私が自立できるようにと、発病した後、私に料理を教えたことがあります。
エプロンまで買って、指導を受けましたが、私はあんまりやる気がありませんでした。
だからいまも自分で料理するのが不得手です。
娘からは、病気の中を折角お母さんが教えたのに、と責められますが、自立する準備など、闘病中の節子に見せるわけにはいきません。
その気持ちは、娘にはわかってもらえないでしょう。
まあ、自立していない私にも言い分はあるのです。
しかし、そんな言い分は、もちろん言い訳でしかありません。

だんだん何を書いているのかわからなくなってきました。
まあそれが、節子がいなくなってからの、私の一番困ったことなのです。
つまり、「生きるための基軸」がなくなってしまったのです。
伴侶とは「生きるための基軸」を与えてくれるものなのではないかと思います。
相手に「生きるための基軸」を与えるべきものではなく、与えてくれる存在なのです。
人はやはり、一人では生きにくいのです。

さて今日は元気に前に進もうと思います。

■2818:感謝がなければ人生はいいものにはならない(2015年6月9日)
節子
問題の山を越しても越しても、新しい問題が起こります。
どうも星回りがよくないようです。
と思って、ネットで調べてみたら、今年の後半はさらに悪くなるようです。
これ以上悪くなるとはどういうことでしょうか。

星回りが悪いのは、どうも私だけではありません。
Kさんからもまた電話がありました。
悪い時には悪いことは重なるものです。
萎えた気が「悪いこと」を呼んでしまうのでしょうか。

Kさんも、すべての問題を一人で抱え込んでいるようです。
相談相手がいないことが、もしかしたら最大の問題なのかもしれません。
どんな難問も、相談しシェアして引き受けるパートナーがいれば、様相は一転するものです。
だれにも相談できないということの大変さを、私も最近痛感しています。
しかし、そう簡単に苦労をシェアしてもらうような人は見つかりません。
一緒に暮らすことによって、シェアは可能になるような気がします。

昨日までの論調と変わって、また内容が暗いものになってしまいましたが、関東が梅雨入りしたせいかもしれません。
小雨の中を濡れながら、歩いたのも気分を冷やしてしまったようです。
傘をさす元気もなかったのです。
風邪をひかないようにしなければいけません。

やはりなにかとても「暗い」ですね。
文章には気分が色濃く出るものです。

今日は何かいいことはなかったのか。
そういえば、節子には昔「良いことだけ日記」を勧めました。
私も、そろそろそんな日記を書き出した方がいいのかもしれません。
しかし、今日はいくら考えても、「いいこと」が思い当りません。
こういう生き方にこそ、問題があるのでしょう。
感謝がなければ、人生はいいものにはならないでしょうから。
感謝よりも、怒りや困惑、嘆き、落胆が、まだ勝る生き方から抜け出られていないようです。
困ったものです。

■2819:たくさんの野菜の収穫(2015年6月10日)
節子
いろいろあったので、畑に行きました。
1時間、草刈りをしてきました。
気分が少し落ち着きました。
今日もまた、実にいろいろありました。
蹴飛ばしたくなるくらい、いろいろと。

今日の収穫は3種類です。

■2820:妻の話をする喜び(2015年6月11日)
節子
畑をやっていたら、Tさんの奥さんが通りかかりました。
Tさんと節子の付き合いはありませんでした。
近くに引っ越して来るというご挨拶に来てくださったのですが、状況変化があったようで、いまだに引っ越しは実現していません。
しかし、時々、いらっしゃっているのだそうです。

節子の葬儀が終わってしばらくしてから、Tさんは夫婦で献花に来てくださいました。
たまたま家の掃除に来て、節子のことを知ったのだそうです。
一度だけの挨拶でお会いしただけですし、近くとはいえ、自治会も別で、もちろん交流はありません。
にもかかわらず、夫婦そろって来てくださったのです。
なんとご丁寧な方たちだろうと思いました。
そこで初めてゆっくりと話しました。

Tさんは滋賀のご出身でした。
話を聞いたら節子の郷里の近くです。
Tさんは、それを聞いて、さらに親しみを感じてくださったようです。
地方なまりがなかったので、てっきり東京の人だと思っていたとTさんは言いました。
なにしろ節子がTさんと話したのは、たぶんちょっと長い挨拶だけだったでしょう。
ですから地方訛りはでなかったのかもしれません。
なぜかTさんは、節子が花が好きだったことも知っていました。
もしかしたら、その頃、畑の花づくりをしていた節子と話したことがあるのかもしれません。
その時も、滋賀訛りは出なかったのでしょうか。
節子がもし、Tさんも滋賀出身だとわかったら、途端に言葉は変わったでしょう。
結婚した頃、その変わりように、私は少なからず驚いたことがあります。
Tさんとは、きっと仲良くなれたでしょう。
それが残念です。

Tさんから「もう何年になりますか」と訊かれました。
もうじき8年です、と答えると、もうそんなにと驚かれました。
そうです、もうじき、8年なのです。
しかし一向に、何も変わらないような気がします。
この8年は、一体なんだったのか、不思議な気がします。

それにしても、わざわざ足を止めて、声をかけてくださったTさんのおかげで、少しだけ節子のことを話すことができました。
亡き妻の話をするのは、とてもうれしいことなのです。

今日はちょっとだけ「良いこと」がありました。

■2821:久しぶりの人をテレビで見ました(2015年6月13日)
節子
今朝、テレビを見ていたら、知り合いが出てきました。
しばらく会っていなかったのですが、いまは福島で活動しています。
お元気そうで、なにかとてもあったかい気持ちになって、メールをしてしまいました。
70年以上生きていると、そういう経験はよくあります。
私自身、社会から「脱落」してもう27年目ですが、脱落前の時代の知り合いはともかく、脱落後に出会った人がテレビに出ているとうれしい気分です。

その方は、とてもあったかな人です。
たぶん湯島のサロンで、節子も会っているでしょう。
学校の校長先生でしたが、型破りの先生で、その活動に感動して、私もある集まりで講演をしてもらったことがあります。
その方の活動が、もっともっと全国に広がったら、たぶん日本の未来は変わっていったでしょうが、なかなかそう簡単ではありません。
しかし、その方は、いまもしっかりと活動を展開しているのです。
それがとても感動的で、最近の私の怠惰さを反省しました。

怠惰の理由を、節子のせいにしているのかもしれません。

ちなみに、節子をテレビ画面で見るのは簡単です。
残っているビデオ画像を見ればいいわけですが、なぜか見る気がしません。
しかし、見れば、気持ちがあったかくなるかもしれないと思いました。
来週にでもトライしてみようかと思います。

さてどうなりますか。

■2822:解けない問題(2015年6月18日)
節子
時に、解けない問題を背負わされることがあります。
いろいろと考えても、どうしても解けない。
そうした場合の方法は3つです。
@誰かに解いてもらうように問題をゆだねる。
A自分で解けるように問題を組み替える。
Bいそがずに解けるようになるまで待つ。

数学の難問と違って、人生において直面する問題は、ある人にとっては、いとも簡単に解けても、別の人には難解な問題になるようなものは少なくありません。
そうした問題の場合は@を選ぶことが大切です。
全ての問題を自分一人で引き受けるのは、普通の人にはできない話です。
しかし、その種の問題が得意な、あるいは解きやすい人がいなければいけません。
いなければ、そのまま自分で背負い続けなければいけません。

Aは、私の基本的な問題への対処方法です。
しかし、問題をどう組み替えても、どうしても解けない問題が残ってしまうことが多いです。
その場合は、解けない問題を背負うことになります。

Bは、緊急の問題の場合は選択できません。

というわけで、いま、私は、ちょっと解けない問題を背負ってしまいました。
一生懸命、解く方策を考えていますが、ようやく少し解き方が見えてきました。
問題を解くのではなく、問題を解けるように、自らを変えることです。
その過程で、これまでの自らの生き方やいまの自分の考え方を問い質しています。
なんとまあ、粗雑な生き方をしてきたことか。

自分のことは自分にはわからないとよく言われますが、まさにそのようです。
しばらく挽歌が書けなかったのは、その自問自答のためです。

私には試練の多い1週間でした。
解けない問題に取り組む試練はもう少し続きそうですが、試練は自らの気づきをたくさんもたらしてくれます。

■2823:長いお休みでした(2015年7月1日)
節子
結局、6月の後半は挽歌を書けませんでした。
こんなに長く挽歌を書かなかったのははじめてです。
書けなかった理由は、私に精神的な余裕がなかったからです。
あまりに長く書いていないので、またまた電話までもらってしまいましたが、私自身の体調はそれなりに元気です。

この間、節子を放っておいたわけではありません。
メロンやサクランボや節子の好きなお菓子など、いろんなもので仏壇はにぎわっていましたし、供花もカサブランカや胡蝶蘭などが欠かさずにおかれています。
節子が始めた家庭農園から収穫してきた新鮮な野菜もお供えしていました。
私の般若心経も、簡略版が多かったですが、毎朝、唱えています。
こういう時であればこそ、ゆっくりとお経を唱え、自らと対峙しなければいけないのですが、余裕がなくなるとそれもむずかしくなるものです。

まわりでもいろんなことがありました。
辛い時には、なぜか辛いことが重なり、加えて辛い話が持ち込まれます。
元気であれば、心を込めて聴けるのですが、余裕がないと耳をふさぎたくなることもあります。
他者の嘆きや救いに耳をふさぐことは、もしかしたら自らの嘆きや救いの求めにも耳をふさいでいるのではないかということに気づいたのは、つい最近です。

挽歌は書けませんでしたが、実にいろんなことを考えました。
世界はかなり見えていたつもりでしたが、自分は全く見えていなかったことを思い知らされました。
自らの「愚かさ」はそれなりにわかっていたはずですが、思っていた以上の愚かさでした。
自分も見えない者に、世界が見えるはずはありません。
それで、時評も書けずにいましたが、愚かな者の考えもまた、意味があると思い直して、時評も再開しました。
挽歌もなんとか再開します。

心配してご連絡くださった方々にお詫びします。
節子からの連絡はありませんが。

■2824:なかなかリズムが戻りません(2015年7月3日)
Sさんから、挽歌再開良かったです、というメールまでもらったにもかかわらず、昨日もまた書けませんでした。
何しろたまりにたまっている課題を一つずつこなしているのですが、どうも集中できません。
それに寝不足が続いていて、思考力がありません。
不思議なもので、10分もあればできることも、気分が乗らないとできないものです。
決して時間がないわけでもありません。
体調が悪いわけでもありません。
ただただ、やる気が出てこない。

やる気が出てこないのは、理由があるからです。
山のように大きな心配事があるのです。
日本が戦争に向かって進んでいくのではないか、というような、心配事ではありません。
自分が深刻な病気ではないだろうか、いうような心配事でもありません。
しかし、ともかく、山のように大きな心配事があるのです。

考えてみると、こういうことは以前も全くなかったわけではありません。
しかし、そういう時には、その心配事をシェアしてくれる節子がいました。
だからどんなに大きい心配事も、何とかなったのです。
心配事を一人で背負い込むことの大変さを痛感しています。
いま少しずつシェアしてもらうようにしていますが、これまであまりに節子にシェアしてもらった生き方をしていたためか、それがうまくいきません。

そんなことも含めて、今、これまでの私自身の生き方を問い質しているのです。
山を越えたと思うと、また谷間がやってきます。
人生の試練は、いつになっても終わることはありません。
でも、それが人生なのでしょう。

■2825:生きるための「労働」への無関心への反省(2015年7月5日)
節子
昨日も書けませんでした。
何が起こるかわからないので、これからは朝に書こうと思います。
私は基本的に朝型ですが、最近は慢性寝不足で、朝もあまりすっきりしないのですが。

今朝も雨です。畑に行けそうもありません。
今や野草の世界に変わってしまっていそうですが、仕方がありません。
しかし、今年は比較的きちんと手入れをしたので、きゅうりと茄子はたくさんできました。
ミニトマトも、とても甘くておいしいです。
一昨日、敦賀の義姉からも野菜がどっさり届きました。

最近、少しずつですが、私も料理を始めました。
そうやって始めてみると、家事というルーチンワークを毎日きちんとやることの大変さを実感します。
私はずっとこういう支えを妻や娘たちから受けていたのだと感謝の念が強く出てきます。
やはりまだまだ私には気づかないことが山のようにあるのでしょう。

アーレントは、「仕事」や「活動」を、「労働」と分けました。
「労働」とは、人間としての生存に伴う自然的な必要を満たすための者と考えたのです。
どうも私は、アーレントの言う意味での「労働」を節子にまかせっきりにして、自分では誠実に対応してこなかったようです。
それは、私が頭で考えていることと真逆な生き方なのです。
それにさえ、これまで気づかなかったのです。
なにかこれまでの生き方を根底から揺さぶられているような気がします。

今日は、幸いに1日中、在宅です。
心やすらげる1日になることを祈ります。

■2826:「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」(2015年7月7日)
節子
相変わらず苦境から抜けられずにいます。
苦境の内容が書けないのもまた辛いところです。
私だけの問題ではないからなのですが。

昨日、東大の大学生たちが3人、湯島にやってきました。
最近交流がある大学院生が、いま、いろんな人の生き方をインタビューしている社会調査の一環で、仲間と一緒に来たのです。
2時間以上にわたって、「佐藤さんの目指す良い社会ってなんですか?」とか「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」などと、いろんなことを質問されました。
メインのインタビュアは、中国から留学している女性でした。
彼女の関心事は「家族」なのだそうです。
それも、人生を共にしあう、ゆるやかなセイフティネットのイメージの家族でした。
血縁にはこだわっていないようです。

佐藤さんにとって奥さんはどういう存在でしたか、とも訊かれました。
久しぶりに、「妻は私の生きる意味でした」と答えました。
答えてからふと思いました。
「生きる意味」がいなくなったのに、なぜ今もなお、生きているのか。
すぐにその答えも頭に浮かんできました。
それは、いまもなお、節子は私の中では存在しているからです。

私のこれまでの人生も話しました。
節子との出会いは詳しくは話しませんでしたが、6畳一間から始まった「神田川」生活やそれぞれ両親に反対されて結婚式も挙げなかったことも話しました。
しかし、節子との別れに関しては、話せませんでした。
話せば今でも涙が出ますので。

彼らからは質問されませんでしたが、彼らが帰った後、私の人生は良い人生なのだろうかと思いました。
少し前であれば、誰にも恥じることのない良い人生だと答えられました。
多くの人に支えられて生きているいまの私の人生は、「良く生きてきた証」だと思いたいのですが、最近はその思いが揺らいでいます。
もしかしたら「生き間違えたのではないか」と言う思いがどこかにあるのです。

しかし、仮にもし「生き間違えた」としても、良い人生だったのでしょう。
自分の人生をしっかりと生きてきたのですから。

大学院生たちからの「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」の問いには、「自分の人生をしっかりと生きること」と答えました。
自分の人生なのですから、良いに決まっているはずです。
生き間違えることもまた、自分の「良い人生」なのです。
この苦境に付き合うことこそが、私の人生なのです。
そう思うと、少し覚悟ができます。

■2827:最後まで責任を持つ生き方(2015年7月7日)
節子
節子もよく知っている杉本さんが、ご自分が立ち上げたNPOの最後の総会を湯島で開いてくれました。
NPO法人科学技術倫理フォーラムの「最後の総会」です。
科学技術倫理フォーラムは、杉本さんが立ち上げたNPOで、私も技術者でもないのに理事にさせてもらっています。
杉本さんもご高齢になったので、このNPOを再来年、解散することになり、その「最後の総会」だったのです。
総会は、いつも学士会館で行っていますが、今回は「最後」だというので、杉本さんが湯島で開催することを決めてくださったのです。
とてもうれしい心遣いです。
科学技術倫理の分野で、草分け的な活動をしてきた、志ある技術者のみなさんが集まりました。
とても刺激的な話し合いができました。

しかし、なぜNPOを解散することにしたのか。
ほとんどの人がかなりご高齢になったので、杉本さんは自分が責任を持てるうちに、NPOを解散し、最後の処理までご自分でやろうと決めたのです。
自分で生んだものは自分で責任を持って整理していくというのは、まさに杉本さんらしいやり方です。
後継者の組織を任せることも一時期考えられていましたが、杉本さんのおめがねにかなう技術者は残念ながら見つからなかったのです。
それに、杉本さんが立ち上げたNPOを引き継ぐほどの人は、そうはいないはずです。
最初解散の話を聞いた時、私は少し驚きましたが、すぐに納得できました。

杉本さんには教えられることが少なくありません。
今回も一つ教えられました。
人生の終わり方です。
というと、何か大袈裟ですが、人生の終わりに向けて、身辺整理することの大切さです。
私がほとんど持ち合わせていないものです。
私は、どちらかと言えば、明朝に野山で朽ち果てようと、それで良しとする生き方にあこがれがちなのです。
節子がいない今は、なおのことです。
娘たちにはさぞ迷惑なことでしょうが。

杉本さんは、NPOを完結させるだけではありません。
これまでの活動の総仕上げとして、ある論考を、500頁の大作にまとめる仕事に取り組むそうです。
私は少しだけその構想を聴かせてもらっています。
杉本さん独自に発見をまとめた論考です。
500頁は読むのが大変なのでもう少し短くしてほしいと軽口をたたいても、杉本さんは相手にしてくれません。
なにしろ杉本さんの人生の集大成ですから、杉本さんが500頁は必要だというのであれば500頁が必要なのです。
杉本さんは、そういう人なのです。
私の場合は一言で総括できそうですが。

私よりも一回り年上の杉本さんのエネルギーには驚嘆します。
節子が亡くなった時、どこで聞き及んだのか、すぐにわが家まで来てくださり、「奥さまも同士だから」と言ってくださったことを今も覚えています。
節子は、それを聞いて喜んだはずです。
私たちが杉本さんに出会ったのは、ハワイのキラウエア火山のツアーでした。
あの頃に戻れるものなら戻りたいです。
一緒に行った人たちはかなり鬼籍に入りました。
現役で活躍しているのは、茂木健一郎さんだけです。
当時、茂木さんはまだ高校生でした。
彼がこんなに大活躍するとは、誰もきっと思ってはいませんでした。

未来はだれにもわからないものです。
しかし、杉本さんには、どうも見えているようです。

■2828:「不安のメカニズム」(2015年7月8日)
節子
よくないことが重なる時にはどんどん重なりますが、それも私の身辺だけではなく、周りにまで広がっている気がします。
高校時代の同級生の訃報が届きました。
高校時代は全く交流がなかった人ですが、ある時、私のホームページを読んで湯島にやってきました。
彼女はサイコセラピーの仕事をしていて、その活動を広げたいという相談でした。
時々、交流があり、東日本大震災の後には、現地での活動支援に関する相談にも来ました。
その後、しばらく連絡がなかったのですが、先日、突然の訃報が高校時代のメーリングリストで流れてきました。
最後に会った時も元気そうだったのですが。

他にも2つの訃報が届きました。
私が薄情なのか、感覚を失っているのかわかりませんが、なぜか悲しさは感じません。
良い人生だったのだろうかという、むしろ奇妙に冷めた感覚が浮かんできます。
私自身が、もうある境界を越えてしまったからかもしれません。
人の死を、素直に受け入れられるようになってきている気がします。
この歳になると、訃報に接することは日常的にさえなっていますので、そのせいかもしれません。

いまも死に直面している友人知人もいます。
その一人が、逆に最近の私を心配して昨日電話をくれました。
最近連絡がないが大丈夫かという電話です。
連絡がないと言っても、以前からさほど連絡をしていたことはないはずですが、それがむしろ気になりました。
彼は、数年前に心臓障害で、死を宣告されたそうです。
不安で不安でたまらない。
その時に、一冊の本を読んで、生死へのこだわりから離脱できたそうです。
本を読んだ翌日、医師から全く別人になったようだと言われたそうです。
彼はそこから抜け出て、いまも元気ですが、別の病気でいまも死とは無縁ではありません。
1時間を超える電話をしましたが、どちらがどちらを心配しているのかわからない関係で、しかもいつものように議論になってしまいました。
議論の内容は、現在の政治状況に関して、です。
私たちの世代の男性は、自分のことよりも社会のことが気になりがちなのです。

彼が読んだ本は40年以上前に出版された「不安のメカニズ」(講談社ブルーバックス)でした。
そういえば、その人から節子が借りて読んでいたのを思い出しました。
私も読んでみようと思い、ネット検索したら、絶版で、いまは中古でも12000円以上です。
ちょっと手が出ないので、図書館で探すことにしました。
この種の本がとても人気なのがよくわかりますが、それもまた社会がおかしくなっているからでしょう。

節子はよく知っていますが、私たちは楽観主義者で、あまり「不安」には縁がありません。
特に節子と一緒に暮らしていたころは、不安とは無縁でした。
力を合わせればどんな苦境も楽しくなるくらいの感覚が、私たちにはありました。
節子がいなくなってから、私は「不安」の感覚を知りました。
言葉で知っていた「不安」を、いま実感として受け止められるようになったのです。
そして、もしかしたら「私の不安」はすべて、節子や家族が引き受けてくれていたのかもしれないという気がしてきました。
気づくのが遅すぎたかもしれません。
困ったものですが、気づかないよりはいいだろうと娘から言われています。

まだ不安に満ちた状況から抜けられずにいますが、少しずつ不安との付き合い方はわかってきました。
このところ、胃腸の調子がずっとよくありません。

■2829:畑で少し元気をもらってきました(2015年7月8日)
節子
しばらく畑に行けなかったのですが、久しぶりに行ったら、キュウリもナスも巨大になっていました。
雨のため、畑作業はできませんでしたが、道沿いの斜面に種を蒔いていた百日草も咲きだしていました。
節子の姉から百日草は強いので、野草に負けないと言われて蒔いたのです。
しかし、あまりに密集させたため、百日草には悪いことをしました。

畑の方は、ジャガイモがもう収穫時です。
我孫子の土壌はメイクインがいいという人のお薦めでそうしたのですが、手入れなど全くしなかったのですが、元気です。
雨が上がったら収穫しようと思います。
節子がいたら、近所の子どもたちを集めて芋掘り大会をやったかもしれません。
そういえば、ここに転居してくる前の家で、隣の空き地にやはりジャガイモを植えて、子どもたちを集めて芋を掘った後、カレーライスをつくってみんなで食べたこともありました。

世間では嫌なことも多いですが、自然は嘘もつきませんし、誠実に応えてくれます。
ただ私と違って、生命力が強すぎます。
ちょっとサボると、野草が土を覆ってしまうのです。
自然には、もう少し思いやりを持ってほしいものです。
年寄りにはかなり酷な作業なのです。

野草を刈るのも結構難しく、ただすべてを一括して刈り取るわけではありません。
差別して申し訳ないのですが、たとえばセイダカワダチ草は容赦なく排除しますし、ワイヤープランツや篠笹は徹底的に根っこから排除します。
名前はわかりませんが、つる草類も排除です。
しかし、今年からハーブ類は残すことにしました。
全ての野草を敵に回すと、勝ち目がないからです。
それで選別しながら刈り取るわけですが、これがまた面倒です。
しかし、野草たちにも敵味方が認識できるように、残すべき種類には、声をかけるようにしています。
草木も人の声を聞き分けることを知っているからです。
これは実際に植物と付き合っていると感じます。
私が残したいと思っている野草は、たぶん頑張ってくれるでしょう。

グラジオラスも咲いていますが、斜面のためかいつも風に倒されています。
それで花のところだけ切り取って、節子に供えることにしています。
最近は見事なグラジオラスを節子も楽しんでいることでしょう。

とまあ、こういうことをしている時は、少し元気になりますが、だからと言って、私の最近の悩ましい問題が解決されるわけではありません。
机に向かって、パソコンを開いても、どうも新しいことに取り組む気が起きてきません。
来週、開催を検討していた集まりも、最終的に止めることにしました。
いつ何が起こるかわからないので、最近はできるだけ自分の時間はフリーにしておこうとしています。
他者の影響を受ける生き方の大変さがよくわかります。

しかし、どんな問題も、つまるところ、その問題の捉え方です。
それが整理できれば、いまの状況から抜け出せるでしょう。
もう少し時間がかかるかもしれませんが、生活のリズムも少しずつ戻りだしてきているような気がします。

■2830:声をかけること(2015年7月9日)
今日も雨です。
いままさに梅雨の真っただ中。

この週末、湯島でサロンを開きますが、そこで話題提供してくれる宇賀さんからメールが届きました。
そこにこんな文章がありました。

篤農家さんと言われる方々は野菜たちにいつも声かけをすると言います。
「何をしてほしいんだろう。何ができるの?」

宇賀さんは、私のブログを読んでいないと思いますが、まさに昨日、私が書いたことにつながっています。
声をかけることは、認め合うことの出発点です。
そして、宇賀さんもメールで書いていましたが、これは別に野菜に限ったことではなく、人に対しても同様です。

私の1日は、仏壇に向かって節子に声をかけることから始まります。
最近は、ぼやくことも多いのですが、基本は感謝のことばです。
いまある私は、節子のおかげだからです。

前にも書いたことがありますが、仏壇は大きな意味を持っています。
彼岸や亡くなった人を可視化し、実体化してくれるのです。
仏壇に向かって話しかけても、誰も不思議には思わないでしょう。
それに話す立場からも、虚空に向かって話をするよりも、とても話しやすいのです。
そして、声をかけることによって、関係を実感することもできます。

そういえば、最近、「声かけ」をしていない人が増えています。
気になりながら声をかけるのがどうも億劫になってきたり、声をかけても反応が弱いので臆病になったりしているのです。
私自身がもう少し落ち着いたら、また声かけを始めようと思います。
私にも、何かできることがあるかもしれませんし。

■2831:また風景が変わりました(2015年7月10日)
節子
下の家が壊されだしました。
数年前に一人でお住まいだったTさんが亡くなり、空き家になっていました。
節子はTさんと、ささやかなお付き合いがありました。
お手伝いの方とは、節子は仲良しになりました。
私はTさんとはお話したことはありませんが、お手伝いさんとは、節子がいなくなってからもお付き合いがありました。
時ど、私のところにもそうだんにきてくれていましたから。
その方も、故郷の仙台に戻ってしまい、この2年ほどは空き家でした。

庭がとても大きく、わが家はその恩恵を受けていました。
わが家は少し高台なので、その家の緑を楽しめていたのです。
家主がいなくなってから、庭は大きく荒れてしまい、庭の樹木も枯れだしました。
わが家からはその様子がよく見えました。
家主の家族が転居する噂もありましたが、結局、売却され、分割されて戸建ての住宅が何軒か建つのでしょう。
庭の樹木が伐採され、ガスの配管工事が始まりました。

立派だった庭木は、造作もなく伐採されました。
大きな樹木がなくなると、なにやら庭がとても貧相に見えてしまいます。
写真を撮っておけばよかったと思いましたが、手遅れでした。
あの樹木が、あそこまで大きく育つには何年もかかったことでしょう。
しかし、1時間もせずに樹木は切り倒される。
何やら悲しい気がしてなりません。

節子が闘病時代に治療のためにもらっていた枇杷の樹もすべてなくなりました。
お手伝いさんの方と一緒に、枇杷の葉を集めたことが思い出されます。
酸っぱくて食べられずにジャムにしていた夏ミカンの樹も、もうありません。
まもなくここに数軒の家が建つのでしょう。

私がいま野菜を植えている家庭農園は、この庭と隣り合わせています。
これまで、何回か、その庭と畑を行き来する大きな蛇を見たことがあります。
たぶんその大きなお屋敷に住んでいたはずです。
あの蛇もまた居場所を追われて、今度は私のやっている畑に住処を構えるかもしれません。
私自身は、蛇年生まれですが、蛇との相性はよくありません。
さてどうしたものか。

まあそんなことはいいとして、わが家の周囲の景観も少しずつ変わっています。
それは仕方がないことですが、その変化を節子と語り合えないのがさびしいです。

■2832:2人で一人前(2015年7月11日)
節子
かなり疲労がたまってきています。
昨夜は帰路の電車の中で、一瞬、視界がおかしくなりました。
幸いに座席が空いて座れることが出来、少し休んだら回復しました。
実は、時々ある現象なのです。
ひどい時は1時間ほど続きますが、もう慣れました。
しかし、やはりきちんと降圧剤は飲まなければいけません。

昨日はサロンをやっていましたが、13人の参加者がありました。
今回のサロンは「ちょっと不思議なカフェサロン」です。
発表者は宇賀夫妻。
会社を経営していますが、どこに行くのも2人一緒だそうです。
たしかに湯島に来る時も必ず一緒です。
私たちは2人で一人前ですから、とあっけらかんと話します。

先日の学生からのインタビューで彼らから教えてもらった本を読みだしました、
「現代日本人の生のゆくえ」です。
そこにこんな文章が出てきます。

個々人が自律的に生き、行動していこうとするとき、孤立していては弱い。
「つながり」があってこそ自律が可能になり、意義あるものになるのではないか。
自己喪失や孤独や集団への逃避に陥らないために、人は「つながり」を必要とし、そのことを意識している。
自律的であろうとすればするほど、それを支える「つながり」のあり方をも強く意識するだろう。

とても共感できます。
私が自律的に生きていられたのは、まちがいなく節子のおかげです。
夫婦とは、もしかしたら、自律して生きるための知恵だったのではないかと思うほどです。
そして、節子がいなくなったいま、私の自律性は失われたように思います。

と言っても、そもそも「自律性」とは何なのか。
最近はそれもよくわからなくなってきました。
節子がいたころは、私たちの世界がありました。
だからそこで「自律的に生きている」という感覚があった。
しかし、いまは「私の世界」はあっても「私たちの世界」はない。
私の世界では、「自律」という感覚は得られません。
律する必要もなく、律せられることもないからです。

2人で一人前。
良い言葉です。
実にうらやましい。

■2833:人がだんだん信頼できなくなってきています(2015年7月12日)
節子
最近また、私のまわりの時間の速度が早まったようです。
私の体験では、生活内容が希薄になると時間密度が薄くなって速度が速まりますが、逆に生活内容が過密になるとこれまた時間が凝縮されすぎて速度が速まります。
いまの状況は、たぶん前者でしょう。
なにしろこれほど意味のない生活を過ごしていることは、私にはほとんど記憶がありません。
誤解されないように補足すれば、意識が内向しているという意味です。
私の考えでは、「自分一人の完結した世界で生きていること」は存在しないのと同じです。
人は他者と関わることにおいてのみ、生きている、と私は考えています。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、この数週間、かなり自閉化して生きています。
だから時間が早く進み、気づいたら翌日になっている。
それで挽歌もまた書き損ねているわけです。
朝に書こうと決めたものの、朝になるとすぐにいろいろなことが始まり、へこんで気を抜いているとすぐ明日になってしまうのです。
一度、生活のリズムを失ってしまうと、なかなか回復できないものです。

昨日は在宅でしたが、突然に知人が訪ねてきました。
市会議員をやっている人ですが、いつもポストに機関紙を投函してくれている一人です。
彼女も、数年前に伴侶を亡くしましたが、その後も、議員活動を熱心にやっています。
以前一度、我孫子市で若者たちを主役にしたグループを立ち上げようと彼女もいっしょに取り組んだこともありますが、想定していた若者が2人も仕事の関係で転出してしまい、頓挫しました。
先日、街中でお会いして立ち話をしたこともあってか、今回は機関紙投函のついでにチャイムを鳴らしたのでしょう。
昨日はちょっと人に会う気になれずに、引きこもっていたのですが、それもあって、いささか機嫌が悪いまま、いろいろと話しました。
不思議なもので、話すとどうも社会とのつながりでの活動をしたくなってしまう。
そうならないように、人に会うのを抑えているのですが、うまくいきません。

しかし、本気で何かをやろうと思っている人は、ほとんどいません。
かく言う私も、たぶんよそから見たらそう思えるでしょう。
ということは、他者もまた、本当は本気でやろうとしているのかもしれません。
しかし、どうも言葉だけで動きのない人が多すぎます。
裏切られるという意味が、最近少しだけ理解できるようになってきました。
こんな生き方を続けていたら、ますます性格が悪くなりそうです。

完全に信頼できる人が、やはりほしいです。

■2834:2人でいるときの方が「自由」(2015年7月14日)
節子
2つ前の挽歌を読んでくださったpattiさんから、こんなコメントをもらいました。

2人でいるときの方が「自由」でした。
豊かであり、可能性も広がりも無限大のようにさえも思えました。
現実には様々な制約があるにもかかわらず。
心はとても自由だったのです。

私も、そうだったなと思いました。
いまとは比べようもないほど、自由だった。
現実には様々な制約があったのは、私の場合も同じですが、にもかかわらず、なぜか自由だった。
pattiさんが書いているように、まさに「無限大のような自由」だったのです。
いまは、まったく自由ではない。
論理的ではないのですが、それは間違いないことです。
たぶん、世界が違っていたのでしょう。

pattiさんは、時間的自由と書いていますが、私の場合、時間的にも自由は失われて気がしてなりません。
時間の意味が変わってしまった。
時間が未来に向けて広がらないのです。
節子がいた時と今とでは、時間の意味さえ変わってしまったのです。
時間に拘束されて生きる「自分」が消えてしまったのかもしれません。

共に生きることで窮屈になることもある。
しかし、共に生きることで、無限大の自由を得ることもある。
自由とは、実に不思議な概念です。
しかし、2人でいるときの方が「自由」というのは、実に納得できることです。
最近の私の生が、生き生きとしていない理由はそこにあるのかもしれません。
私にはもう「自由」はもどってこないのかもしれません。
いささかさびしい気がします。

■2835:ダックスとの無言の再会(2015年7月14日)
任侠の世界でドラマティックな人生を送っていたダックスが余命宣告を受けて、その通りになりました。
彼のことなので、逆境を跳ね返すかと思っていましたが、どうも無理に無理を重ねていたようです。
福井に帰ると電話してきたのが最後でした。

そしてそろそろ福井に見舞いに行こうかと思いだしたころ、訃報が来ました。
差出人のHさんは私の知らない人でしたが、その文面を見て、すぐに誰かはわかりました。
ダックスが、結婚しようと思うと言っていた人でした。

そのHさんが、ダックスの位牌を持って、訪ねてきました。
福井からやってきたのです。
Hさんから、最後のダックスの様子を聴きました。
最後までダックスらしく生きたようです。
2人の息子さんにも会えたようで、少し安堵しました。
最後のお世話からダックスの見送りまで、Hさんは中心になって頑張ったようです。
さぞかし大変だったことでしょう。
ダックスにはいろんな顔がありましたから。
東京と違って、福井では、彼はそれなりの「顔」でしたから、逆にだれもあまり手を貸してくれなかったのかもしれません。
でもダックスは、福井に帰ったのです。
そして、Hさんのおかげで、ダックスは、少なくとも最後は良い人生だったと思います。
東尋坊近くの日本海に、ダックスはいまは戻ったようです。

ダックスとの付き合いは6〜7年でしたが、いろいろなことを気づかせてもらいました。
彼は、生きるためにはさまざまなことをしてきましたが、おそらくすべて後悔はしていないでしょう。
無邪気さと賢さを兼ね備えた人でした。
根が単純なので、嘘も含めてすべてお見通しでしたが、いつも男前を目指していました。
最後の約束は果たしてもらえませんでしたが、それもまあ仕方がありません。
なにしろ急でしたから。

Hさんは、端から見れば、実に献身的です。
位牌を前に、涙が止まらない感じでした。
これだけ悲しんでいる人がいるということだけでも、ダックスは良い人生だったのです。

ダックスの冥福を祈ります。

■2836:縁とは不思議なものです(2015年7月15日)
節子
佐々木さん夫妻が訪ねてきてくれました。
韓国で活動されていた奥さんも、この秋にいよいよ帰国されることになりました。

佐々木夫妻とは、不思議なご縁で、夫婦それぞれとお付き合いがあります。
人の縁は、本当に不思議なもので、佐々木憲文さんとは私の友人がやっていたプロジェクトでお会いしたのですが、私たちをつないでくれた友人とは今はもう付き合いがなくなりましたが、憲文さんとはなぜかその後、縁が深まっています。
おふたりと話していて、憲文さんが生活面で私とかなり似ているところがあることがわかりました。
私がいま抱えている問題の原因にもつながる話なのですが、憲文さんも少し似たようなことを体験しているようです。
それは私たちがいずれもいささか「わがまま」な生き方をしていることにつながるのですが。
佐々木さんもそうだったのかと、変な話ですが、少し安堵しました。
それで、何か私たちはつながりを感じてきたのかもしれません。
実のところ、私と憲文さんには、付き合いが深まるはずもない相違点があるのです。
それは、憲文さんは大のお酒好きですが、私は反対の下戸なのです。
酒を楽しまない憲文さんの友は、私だけかもしれません。

佐々木典子さんは、私が応援していた認知症予防ゲームを韓国でいち早く取り上げ、広げてきました。
それを知ったのは、かなりたってからのことですが、その関係で、私は憲文さんとはまったく別ルートで縁ができたのです。
そういうこともあるのです。

佐々木ご夫妻は、東京に一緒に来ることがあると、いつも訪ねてきてくれます。
うれしいことです。
佐々木ご夫妻は節子の見舞いにも来てくれましたし、その後の私のことをとても心配してくれて、いろいろと元気づけをしてくれています。
数年前には韓国にまで招待してくれました。
節子に先立たれて、死んだような生き方をしていた私に元気を出させようとしたのだと思いますが、その恩にあまり報えられずに、韓国滞在中は、たぶん死んだようだったでしょう。
申し訳ないことをしてしまいました。
いまもって、生き生きと生きられずにいますが、佐々木さんたちが韓国まで引っ張り出してくれたおかげで、まあ死んだような状況からは抜け出られました。

佐々木さんたちに限りませんが、そうした人たちに支えられて、もうじき節子の9回目の命日を迎えられそうです。
今年の夏も、あの年のように、暑くなりそうです。

■2837:夫婦は元気の泉(2015年7月16日)
節子
国会が荒れています。
安保法案を与党が強行採決したのです。
抗議のために国会周辺には多くの人が集まり、夜になってもどんどん人が集まり、主催者によれば5万人を超えたそうです。
私の知人も何人か参加しているはずです。

今回、私は、一度もデモには参加していません。
いささか罪の意識はあるのですが、どうしても行く気になれません。
特に明白な理由があるわけではありませんが、行く気が出ないのです。
この3年ほどで、私もまた何かが変わってしまった気がします。

節子と一緒に国会デモに参加したのは、イラク派兵に関する時だったような気がします。
節子にとっては初めてのデモでした。
議員会館あたりで、もみくちゃになり、くたくたになって帰ってきました。
次に参加したのは、ピースウォークでしたが、こちらは節子も楽しんでいたようです。
いまから思えば、あの頃はまだ社会もまだまともだったような気がします。
しかし、ニーメラーではありませんが、状況はあっという間に変わってしまった。
「閾値」はもう超えてしまった気がします。
私たち世代は、たぶん「生き方」において失敗したのです。
せめてその認識だけは忘れないようにしようと思います。

それでも、もし節子がいたら、国会に出かけたでしょう。
いまほど、引きこもってはいないでしょう。
伴侶は、お互いに元気を与え合っているのではなく、その関係のなかから、元気が生まれてくるように思います。
夫婦は、まさに元気の泉なのです。
伴侶を喪うと、どうも元気が出てこないのです。
ガンジーが、「どんなに無意味だとわかっていてもやらなければいけないことがある」というような言葉を残していますが、人は一人の世界に入り込んでしまうと、そういう気さえ、起きてこないのです。
伴侶さえいれば、「無意味さ」にも「意味」を感じられるのです。
人は、まさに「関係」の中で、生きていることが、伴侶を喪ってよくわかります。
伴侶以外との関係をもっと構築しておく生き方をしておけば、こうはならなかったかもしれませんが、いまさらどうにもできません。
困ったものです。

どこにでも一緒に出掛ける仲良し夫婦がいますが、きっとあの夫婦も国会に行ったに違いありません。
雨がひどくならなければいいのですが。

■2838:こんな時代を見なくてすんだ節子がうらやましい(2015年7月16日)
節子
気が滅入っている中、またTさんから長電話をもらいました。
テーマは、いまの違憲と言われている安保法案についてです。
この種のてーまは、時に1時間を超すので、切り上げたいと思いながらも、ついつい挑発に乗って、長くなってしまいます。
困ったものです。

長電話している余裕がないのだけれど、と嫌みを言うと、Tさんはすかさず、気分転換になるだろうと思っての電話だというのです。
いやはやありがたいことです。
有難迷惑だと言いたいところですが、半分はTさんが言う通りなのです。
たしかにいろんな意味で気分転換になる。

Tさんは、私の友人の中では節子が一番よく知っている一人でしょう。
私以上に不躾なところがあって、ずかずかと人の心に入ってくるですが、嘘をつくことがないので、私も節子も、気が許せるタイプなのです。
お互い不躾なので、時々、絶縁状態になるのですが、まあ1年もすれば、以前と同じになります。
まあお互い、もう先はそう長くないので、まあこれからは絶縁状態にはならないでしょう。
問題は、どちらが先かですが、彼には先に逝ってもらいたくはありません。
私は彼の葬儀にはいかないつもりです。
というか、もうこれ以上、他者の葬儀には行きたくないのです。
だからみなさん、私よりは先に逝かないようにしてください。

私は、誤解されかねませんが、昔から結婚式は嫌いでしたが、葬式は好きでした。
そこに真実があるからです。
葬儀の場に流れている時間が、とても好きだったのです。
その時間は、彼岸ともつながっている。
もちろん過去とも未来ともつながっている。
そんな時間だったからです。

しかし、節子の葬儀のあと、葬式も心やすまる場ではなくなりました。
具体的には説明できないのですが、なんとなく居心地がよくない。
何人かの葬儀に行きましたが、居場所が見つからないのです。
そのため、最近はできるだけ葬儀には行きたくないのです。

安保法制の長電話から葬儀の話になってしまいました。
しかし、テレビを見ていると、日本の平和で豊かな社会も、どうも終わってしまったようです。
こんな時代を見なくてすんだ節子がうらやましいです。
来世は日本には生まれたくありません。
彼岸に行ったら、節子と相談しなければいけません。
たぶん意見は合わないでしょう。

■2839:瀬田の夜空を見たことを突然思い出しました(2015年7月17日)
節子
先日、録画していたキトラ古墳の天井に描かれている星座の謎を解く番組を見ました。
それは紀元前に中国で作成された星図がもとになっているようです。
中国ではすでに紀元前200年ごろには、天体図がきっちりと描かれていたようです。
そこには、北斗七星もオリオン座もカノープスも描かれていました。
そして、それがキトラ古墳の天井に正確に描かれていたのです。

星座には、なぜ夢を感ずるのでしょうか。
私たち人類の故郷が、そこにあるからでしょうか。
たぶんそうに違いありません。
番組を見ながら、いろんなことを思いめぐらしました。

そんなことを考えていると、逆に、現世での生は、ほんの一瞬の夢のように感じます。
その「一瞬」にもかかわらず、そこにすべてが凝縮されている。
まさに「インドラの網」ですが、そこに人間の主体性などあるのだろうかという気にもなります。
すべては宇宙が生まれた時に、決まっていたと考えてもおかしくはありません。
節子と一緒に暮らし始めた、滋賀の瀬田の唐橋の近くで、そんな会話をしたような気がします。
あそこからは、星がとてもよく見えました。

そういえば、星空を見なくなってから、もう長いこと経ちます。
星空を見るために、わが家には小さな屋上をつくりましたが、節子とゆっくりと夜空を楽しむことはできませんでした。
節子がいなくなった今は、もちろん、夜空を見に屋上に行くことはありません。
昼間の青い空はいまもなお見るのが好きですが、夜空はあまり見る気にもなりません。
なぜなのでしょうか。
きっとそれには意味があるのでしょう。

■2840:伴侶なき人生は巡礼のようなもの(2015年7月17日)
節子
節子も知っているSさんが、会社を辞めて、またサンチャゴ巡礼に出かけます。
Sさんは以前にも歩いていますので、2回目になります。
今回は3か月かけて歩くそうです。

サンチャゴ巡礼に関しては、湯島で一度、サロンを開いたことがあります。
サンチャゴ巡礼の映画を制作したいと考えていた女流俳人の黛まどかさんが、ある人の紹介で湯島にやってきたので、その話を広げるためにサロンをやりました。
節子も、Sさんも、参加しました。
私たちも、いつかサンチャゴ・デ・コンポステーラを夫婦で歩きたいねと話していました。
私が忙しくてゆっくりと時間がとらなかったため、私たちは、四国巡礼さえもできていなかったのです。

そんなこともあって、1年間の休業を考え、毎月恒例のオープンサロンを休むことからはじめて。休業に取り組みだしました。
ところが、その直後の節子の胃がんの発見で、休業は廃業になり、人生の計画は白紙になってしまいました。
結局、四国巡礼も、熊野巡礼も、サンチャゴ巡礼も、実現しませんでした。
もっとも、その後の私は、ある意味ではずっと巡礼路を歩いている気分なのですが。

Sさんは、これまでの巡礼体験から「1グラムでも荷物は軽く、余計なものは紙1枚持たない」という教訓を得ているそうです。
Sさんは、数日おきにハガキをくれるのですが、今日のハガキに、「あるお遍路本の著者は、必要なものを見極めて選別するところから遍路は始まっていると述べていました」と書いてありました。
その意味では、Sさんのサンチャゴ巡礼はもう始まっているのでしょう。

そのハガキを読みながら気づきました。
最近私がリズムを壊したり不調になったり、不幸に襲われたりしているのは、余計な荷物を背負い込んでの巡礼だからなのかもしれません。
「1グラムでも荷物は軽く、余計なものは紙1枚持たない」
サンチャゴに旅立つ前に、Sさんと会っておかねばいけません。

■2841:昨夜は不快な夜でした(2015年7月18日)
節子
さわやかな朝です。

節子がいなくなってから、私の生活リズムが変わってしまったことがあります。
夜中にどうしても目が覚めてしまうようになったことです。
時に、そこからいろんなことを考え出してしまいます。
そうすると眠れなくなってしまうこともあります。
いつも、朝の寝起きがよくないのです。

節子がいなくなってから、娘たちから変わったと言われることがあります。
物事の判断ミスが多くなったというのです。
たしかにそうです。
その結果、節子が知ったら怒るかもしれないダメッジを受けてしまいました。
それも複数の人からです。
夜中に目が覚めると、どうしてもそのことを思い出してしまう。

節子や家族がよく知っているように、私は、裏切るよりも裏切られるほうがいいという価値観を持っています。
昨日、時評編に来たコメントにも書いたのですが、殺すよりも殺される方がいいという価値観にもつながります。
しかし、自分でも嫌なのですが、最近、裏切られることの悔しさを感ずるようになってしまいました。
あまりにダメッジが大きかったからかもしれませんが、その程度のダメッジは、これまでも無縁だったわけではありません。
なぜ最近、騙されたことにつぶされそうになっているのか。
それは、真夜中に、眠れずに、思考をめぐらしてしまうからです。
夜中に暗闇でひとり思考をめぐらすと、あまりいい方向には向かいません。
節子が隣にいたら、その思考の進行を止めてくれるのでしょうが、誰も止めないとどんどん膨れ上がっていく。

そんなわけで、昨夜はあまり良い夜ではなく、今朝早く起きてしまったのです。
さわやかな朝なのに、気分はあまりさわやかならず、胃がおかしいです。

人の行為は、常に多義的です。
見方によっていかようにも受け取れるものです。
私の「善意の発言」は、しばしば相手を傷つける「悪意の発言」と受け取られます。
一昨日も、その体験をしました。
昨夜、ある人との関係を「騙された」という視点から思い出してみました。
すると、その人の言動は、これまでとは全く逆の意味を持ち出します。
まあ、昨夜はそんなことで、未練がましく、不快な夜を過ごしてしまったのです。


人を100%信頼できることは幸せなことです。
全ての人を100%信頼する生き方は、幸せに通ずるはずです。
しかし、このところ、どうもそうはならないのです。
何が変わったのか。節子がいなくなったからでしょうか。

さて、今日は湯島で2つの集まりがあります。
たぶん30人以上の人が集まるでしょう。
気分を変えて。さわやかさを取り戻さなければいけません。

祖とは台風一過の強い風が吹いています。
しばらく外の風に当たってこようと思います。
今ごろになって眠くなってきましたので。

■2842:国に身を奉げる(2015年7月19日)
節子
昨日、「女性が中心になって平和を語り合うサロン」を開催しました。
その呼びかけに最初に応じてくれたのが、京都に住む80代半ばの高林さんです。
節子は会ったことはありませんが、それはそれは元気な方です。
彼女が長年取り組んでいる認知症予防ゲームを東日本で広げたいという彼女の熱意に共感して、この数年、ささやかに協力してきました。
何とか彼女との約束は果たせました。

今回は、平和のテーマでの話し合いの集まりでした。
そこで高林さんは、衝撃的な激白しました。
自分は、国家のために身をささげると決意した、見事なまでの「軍国少女」だった、と。
しかも、戦後もその呪縛から抜けることなく、いまなお「個人で戦う戦争」を続けているというのです。
たしかに、そう言われて、これまでの高林さんの活動を考えると、孤軍奮闘の戦いが見えてきます。
そして、それに見事に勝ち抜いてきたのです。
高林さんは、フェイスブックで、「戦争はこんなイビツ人間を作るという、この世への遺言のつもりでした」と書いてきてくれましたが、その深い意味をきちんと受け取れなかったことを反省しています。
ちなみに、高林さんは、イビツどころか、極めてバランス感覚のある誠実な人です。
まあ、かなり頑固ではありますが。
認知症は予防できないと厚生省の役人に呼び出されて怒られても、自らのNPOの名前は「認知症予防ネット」としたのも、そうした反骨精神からです。
高林さんが断言されたように、今や、「認知症予防」が社会的に認められたばかりではなく、「認知症予防ブーム」の観さえあります。

国に身をささげ、結婚もせずに国(社会)のために活動する。
ここで、高林さんが言う「国」とは、社会の理念のようなものだろうと思います。
戦後、食糧難の時にも、子供だったにもかかわらず、親が闇市から手に入れてきたものは食べないと拒否したそうです。
社会のルールに反するのは、当時の高林さんには正義に反することだったのです。
結局、最後は空腹には勝てずに食べてしまい、そのおかげで、生き残れたと本人は言いますが、さぞかし扱いにくい子供だったことでしょう。
どこか、ヒトラーユーゲンを思わせるところがある。
正義や信念は、たしかに人をイビツにしてしまう力を持っているのです。
高林さんは、それを跳ね返しましたが、戦いからは抜け出られなかったのかもしれません。

国に身を奉げる人生を、理念に身を奉げる人生と読み替えれば、イビツどころか、実に豊かな人生に見えてきます。
人の生き方は実に様々です。
しかし、人生を奉げる何かがあるということは、少なくとも幸せなことかもしれない。
これまでの私の考えからは、思いもしない考えですが、そんなことを今回、深く考えさせられました。

■2843:心の拠りどころ(2015年7月19日)
節子
節子もよく知っている、新潟のKさんから電話がありました。
私と同じように、いろんな禍が一挙に襲いかかってきて、精神的にかなりダウンしているようです。
私の声を聞くと、少しは元気が出るようで、電話をかけてきたのです。

Kさんは、いま、かなり八方ふさがりです。
ご自身の体調もそれほどよくないでしょう。
時々、弱気になるようです。
そして、こういう状況になって、いろんなことが分かってきたが、まさか自分がこうなるとは思ってもいなかったと言います。
まさに私と同じです。
時に、もういいかと人生を投げ出したくなるのです。

今日は、宗教について話しました。
Kさんは、これまでどちらかというと、宗教が好きではなかったようですが、もう亡くなられた母上が、信仰していたある宗教の教本を今読みだしたそうです。
Kさんは、私に、新興宗教をどう思うかと訊きました。
私は、新興宗教も含めて、宗教的なものへの帰依や進行は大切なことだと考えています。
人にとって、何が大切かと問われれば、私は経済ではなく、宗教と政治を挙げます。
人の生き方を支えるのが宗教であり、社会の秩序を支えるのが政治だと考えているからです。
もっとも昨今の日本の宗教や政治は、そうはなっていないかもしれませんが、それでもその2つは大切なことだと思っています。

そんな話をしていたら、Kさんも、やはり「心の拠りどころ」を求めているというのです。
その教団の教本は難解ですぐにはわからないが、読んでいると安堵できるというのです。
それこそが、信仰の意味なのでしょう。

Kさんの伴侶はいま、入院されています。
それがいまのKさんにとって最大の問題なのですが、伴侶が入院してしまって身近かにいなくなると、心の拠りどころが見えなくなってしまうのです。
そこで、何か、見えるものとしての心の拠りどころを探し出します。
Kさんは、いまそれに出会いつつある。
その成果、前回よりも状況はたぶん厳しくなっているはずなのに、Kさんの声には力を感じました。
もしかしたら、私の声の方が澱んでいたかもしれません。

心の拠りどころ。
残念ながら、いまの私はまだ出会えていません。
私も宗教の書籍は何冊か読んではいるのですが。

■2844:今日は瞑想日(2015年7月20日)
節子
最近、いささか心身ともに疲労気味でした。
昨日は気の向くままに、ゆったりしていました。
地元の八坂神社の夏祭りでしたが、どこにも行かずに、1日、家で無為に過ごしました。
何しろ暑い日でしたので、熱中症になったら大変ですので。

最近、観られなかった「イタリアの小さな村の物語」も2回分をまとめて観ました。
この番組は、生きることの素晴らしさを教えてくれる、心やすまる番組です。
ついでに、心やすまらないサスペンス映画も観てしまいました。
「消されたヘッドライン」ですが、どうもすっきりしない結末で、心はやすまりません。
毎週やっているホームページの更新を忘れていて、夜になって思い出しました。
あわてて最低限の更新だけを行いました。
久しぶりに夜中までパソコンをやっていました。

今朝は比較的快適に目が覚めました。
疲れはそれなりに残っていますが、だいぶよくなりました。
それでも今週は極力、在宅で休むことにしました。
本も読めそうな気分です。
来週は国会デモにも行けるようになるかもしれません。
その前に病院に行ったほうがいいかもしれません。

人生はいろいろとあります。
私が直面している困難などは、まあ小さなことなのでしょう。
それがさも大きなことに感じられるのは、自分の視野の狭さでしかありません。
今日も1日、瞑想日にしましょう。
自分の問題に内向しそうな視線を、外に向けなければいけません。

■2845:観音の里の高月メロン(2015年7月20日)
節子
滋賀の節子の生家から高月メロンが届きました。
毎年、恒例の高月メロンです。
高月は節子の生家のあるところですが、観音の里と言われているところです。

福井の小浜から奈良の東大寺を結ぶ道は、「観音のみち」と言われます。
琵琶湖の東岸側にはたくさんの観音が祀られています。
それも大きなお寺というよりも、集落単位で住民たちが守っているのです。
井上靖が感動したという、有名な渡岸寺の十一面観音も、私が最初に節子に連れて行ってもらったころは、集落(その集落が渡岸寺という名で、お寺の名前は向源寺です)の住民たちがみんなでお守りしていました。
ですから私が行った時にも、近くの当番の方の家に行って、お堂の扉を開けてもらったような気がします。
観音像もすぐ近くで拝観できました。
その後、何回か場所が変わって、いまは防災完備の部屋に展示、いや、安置されています。
そうなってから、私はもう拝観に行く気が起きず、最近はお会いしていません。

渡岸寺だけではなく、高月の周辺にはたくさんの観音堂があり、さまざまな観音様がいます。
節子と一緒に、そのいくつかを拝観させてもらいましたが、その住まわれ方が私はとても気にいっていました。
しかし、暮らしの中の観音様から拝観される観音様へと、次第に変わっているのでしょう。

話がメロンから観音様に変わってしまいましたが、節子の母方の実家が、高月の唐川というところで、そこにも観音様がいます。
赤後寺と言って、この挽歌でも何回か書きましたが、これも有名な観音様です。
私が最初に対面させてもらったのは、節子の叔父に当たる人がお守りをしている時でした。じっくり対面させてもらいましたが、拝観料はしっかりと納めさせてもらいました。
そのやりとりの中でも、住民のみなさんの思いが伝わってきました。
実に実直で、働き者の叔父でしたが、その人が以前、メロンをつくっていました。
私たちが最初に食べた高月メロンは、その叔父がつくったものでした。

こう書いてしまうと、まあ何でもない話ですが、私たちにはいろんな思い出が山のように込められているのです。
特に節子はそうでしょう。
なにしろ私たちは、それぞれの親の反対を押し切って、同棲し、結婚してしまったのですから。
メロンづくりの叔父は、本家の責任者として、かなり強く反対したはずです。
しかし、メロンをつくりだした頃には、私たちも親戚から認められて、とても親切にしてもらいました。
美味しいメロンもいただきました。
その叔父も、もうだいぶ前に鬼籍に入りました。
しかし、いまも毎年、高月メロンは届くのです。

メロンを節子に供えさせてもらいました。

■2846:蜂からも蟻からも嫌われてしまいました(2015年7月21日)
節子
昨日は夕方、畑に行きました。
熱中症にならないように、久しぶりに草刈りをしようと思ったのです。
梅雨のため。しばらく草刈りはやめていましたが、この1週間で見事に野草は生い茂るほどになっていました。
野菜の成長の数倍の速さです。

鳥が運んできたタネから育った木が数本あるのですが、その周辺も草が覆い茂っていました。
それでともかく刈り込もうとかまを入れていたのですが、突然、手首が一面にチクチクと痛みに襲われました。
数匹の蜂に刺されたのです。
よく見ると、草を刈っていたところに、あしなが蜂の巣があったのです。
彼らにとっては、突然の乱入者だったわけで、刺されるのは当然の報いです。
幸いにまだ小さな巣で、蜂の数も少なく、巣から離れたら追ってはきませんでしたが、数か所刺されてしまいました。

実はその前には、蟻にも襲われています。
斜面の花壇の野草を取り除いた後に、蟻の巣がたくさんできていたので、ムッとして土を掘り返したら、蟻が手首に群がってきたのです。
蟻にかまれるのも、結構痛いのです。

蟻ならまだよいとして、蜂は少し心配だったので、草刈りを放棄してすぐに帰宅しました。
幸いに大事にはならず、おさまりました。

自然は、共生共存でなければいけません。
しかし、それは現実には難しいものです。
さて、翻って私たちは共生共存していたか。
私のわがままが勝っていたかもしれません。
人はなかなか自らの勝手さに気づかないものです。

今日もまた暑くなりそうです。
暑くなる前に、畑に行って、斜面に花を植えてこようと思います。
ついでに、節子のために百日草の花をもらってきましょう。
百日草はわが家ではあまり人気はなかった気がしますが、暑い時の供花には向いているようです。
それに百日草は、私にはもちろんですが、節子にもきっと懐かしい花でしょう。
私たちが子供の頃は、庭の花の定番の一つでしたから。

■2847:「墓参り」ではなく「お見舞い」(2015年7月21日)
節子
今日はどうもこれまでで一番暑い日になりそうで、我孫子も猛暑日が予想されていました。
朝、畑に行ってきましたが、陽射しが強くて、早々に戻ってきました。
畑で倒れてしまっては、みんなに迷惑をかけてしまいます。
うっかり供花用の百日草を持ってくるのを忘れてしまいました。
夕方もう一度行きましょう。

お墓参りに行こうかとも思いましたが、これもまた暑さで危険です。
と書いてきて、墓参りと見舞いの話を思い出しました。

内村鑑三は、「墓参り」とは言わずに「お見舞い」と言っていたそうです。
そしてお墓に行くのは、亡き妻と話をするためだったそうです。
病院にお見舞いに行ったら、その相手に話しかけ、話しかけられますが、そんな感じだったのでしょう。
そういえば、私もお墓に行ったら、節子のみならず、両親にも声を出して話しかけます。
あんまり、というよりも、節子や両親から話しかけられたことは記憶にはありません。
しかし内村鑑三は、亡妻や若くして亡くなった娘からしっかりと言葉も聴いていたようです。
それが、内村鑑三の生きる力にもなっていたのでしょう。

「お墓参り」よりお墓に「お見舞い」に行くという方が、私の実感にも合っています。
お墓に行けばよくわかりますが、そこで出会うのは、お墓ではなく、霊魂です。
意識とは無関係に、何かを感ずるのです。
まったく知らない人のお墓であっても、単なる石の造作物とだけ感ずる人は少ないでしょう。
普通の感覚であれば、お墓は粗末には扱えません。
それは、そこに何か目に見えないものを感ずるからでしょう。
そこにはまちがいなく弔われている人たちがいるのです。
お見舞いという言葉が、適切だろうと思います。

誰かが見舞いに行かないとさびしがるでしょう。
そういえば、最近、お墓に行っていません。
困ったものです。
涼しくなったら、やはりお墓にも行こうと思います。
でも今日はますます暑くなりそうです。
節子も両親も、この暑さに負けて、眠り込んでいるということにして、お墓へのお見舞いは、またの日にしましょう。

さてお昼寝の時間です。
今日はともかく休養日なのです。
昨日も、でしたが。

■2848:生とは、多くの死の上に成り立っている(2015年7月21日)
節子
この挽歌の番号は、本来は、節子の命日からの日数になっていなければいけないのですが、2か月ほど、なかなか挽歌を書けない時期があり、大きく食い違ってしまっています。
最近、毎日、複数の挽歌を書いているのは、次の節子の命日までに、番号を一致させたいと思っているからです。
いま1か月分くらい、つまり30以上、番号がずれているのです。
そんなわけで、今日はもうひとつ書くことにしました。

夕方、広島のOさんから電話がありました。
Oさんは、この挽歌を読んでいるので、私の状況は、もしかしたら私よりもわかっているかもしれません。
実は書いている当人が意外と気づいていない行間の真実はたぶん読者には伝わるでしょう。
伝わるというよりも、私自身の混乱に陥っている様や、伝えたいのにはっきりは言えない未練がましさなども、なんとなく伝わるものでしょう。
先日会った人からは、最近なにかよくわからないことを書いていますね、と言われましたが、もしかしたら読者には、その言外のことも伝わっているのかもしれません。
人は、決して嘘はつけないのです。

Oさんからの電話はちょうど畑にまた出かけようと思っていた矢先でした。
どうもOさんにはお見通しのようです。
無理をしないようにと、いろいろとアドバイスを受けました。
夕方の6時を回っていましたが、1時間ほど草刈りなどをしてきました。
Oさんから電話があったせいか大いにはかどりました。

昨日は蟻や蜂に迷惑をかけましたが、今日は少し良いことをしました。
アブラゼミが野草に絡まれて動けなくなっていました。
もしかしたら、時間を間違えて孵化してきたのでしょうか、羽根が少しおかしくうまく飛べないようでした。
このままだと明らかに蟻の餌食になります。
さてどうしたものか。
蟻の巣のないところにある、樹の茂みに移動させて、しがみつかせました。
大丈夫とは保証できませんが、すぐに蟻の餌食になることはないでしょう。
しかし、考えてみると、これは蟻にとっては迷惑以外のなにものでもないでしょう。
やはり畑作業はさまざまな生命に直結しており、多様な考えに気づかせてくれます。
だから元気が出るのかもしれません。
今日はたくさんのバッタの子どもたちにも出会えました。

ところで、昨日、蜂に刺されたところですか、痛みはもうありませんが、今日になって、その周辺がかゆくて仕方がありません。
まあそのくらいの罰は受けなければいけませんが、痛みも辛いですが、かゆみはどうしようもありません。
夜になって、ますますかゆくなってきました。
その上、熱まで持ってきています。
今夜は眠れるでしょうか。
実は今朝、畑に行った時に、蜂の巣を樹から切り落としてきたのです。
その呪いが、いまごろになって効いてきたのかもしれません。

畑作業は、まさに殺生行なのです。
生とは、多くの死の上に成り立っていることがよくわかります。
個体の生死など、瑣末の話なのかもしれません。

挽歌らしからぬ記事になってしまいました。
忘れていた百日草は持ち帰り、節子に供えました。

■2849:引きこもり生活の効用(2015年7月22日)
節子さわやかな朝です。
しかし、今日も暑くなるようです。

最近いささか「引きこもり」がちになっていますが、引きこもっていると、いろんなことに気づかされます。
動きの渦中にいると気づかないことや考えもしなかったことも見えてきます。
もちろん、生きるということの意味も、違う見え方がします。
生きるのに忙しいと、生きることの意味など問うこともないでしょう。
いわば「感性」が磨かれていく。
引きこもりに陥ってしまう若者たちは、たぶん、それによってますます社会への距離感を持ってしまうのかもしれません。

さらに、止まっていると周りで動いている人たちよりも、もしかしたら止まっている自分の方が生き生きしているのではないかという気にさえなります。
動いているけれど、どうも考えていない存在。
つまりロボットに見えてきてしまう。
まあ、これはいささか「言い過ぎ」ですが。

その一方で、生きることの大変さにも気づきます。
みんな周りのことを気にする余裕がないのです。
そもそも、人は国家単位や世界単位で生きているわけではありません。
小さな人間的なつきあいのコミュニティの中で生きている。
しかし、どうやら最近の「コミュニティ」は、生きていくためには広がりすぎている。
付き合う人も増えてきてしまった。
だからきっと周りを気づかう余裕がないのです。
たぶん「生きづらい時代」になっているのでしょう。
自分で「生きづらく」しているのかもしれませんが。

私はフェイスブックをやっていますが、フェイスブックからは世相が見えてきます。
みんな、それぞれに平和なのです。
もちろん、深刻な問題や現状のままでいいのかという呼びかけもある。
しかし、概して平和でのどかな記事が多い。
どうでもいいような記事が多い。
私も、時々、そんなのどかな記事を書き込みます。
人々の暮らしというもののほとんどは、そんな世界でしょう。
そういうことが流され続けている社会は平和に違いない。

でも、と、引きこもっていると感ずるのです。
「小さなコミュニティ」の生活に埋没していていいのだろうか、と。
むしろ、引きこもっているのは、動いている人たちではないのか、と。
引きこもり生活にも、効用はあるのです。

この先は時評編の世界です。

■2850:ちょっと早目の土用の丑の鰻(2015年7月22日)
節子
久しぶりに娘たちと鰻を食べました。
娘の誕生日が口実でしたが、みんな体調を崩しているので体力をつける意味もありました。
近くに「西周」という鰻屋さんがあるのですが、そこから出前を頼みました。
最近は昔ほどおいしくありません。
と言っても、わが家には鰻はいささか高価すぎて、そうそう食べられるわけでもありません。
最近は鰻も高くなってしまいました。

鰻はやはり成田の川豊さんがおいしいですが、成田にも最近は行けません。
我孫子にも、小暮屋さんというおいしい鰻屋さんもありますが、ここも最近は行けていません。
なにしろ、できるだけお金を使わないようにしているからです。
先月は小学校時代の友人たちと久しぶりにおいしい鰻屋さんに行きましたが、一人当たり1万円でした。
やはりおいしい鰻は、そのくらいかかることを知りました。
もはや私にはちょっと手が出ない高級料理です。

もっとも、鰻を食べなくなったのは、お金の問題だけではありません。
鰻がだんだん少なくなってきたということでもありません。
先日、知人においしい和食をご馳走になりましたが、その時は、たぶん一人1万円をかなり上回ったと思います。
私自身はお金を出さなかったのですが、それでも、そういう高価なものを食べると、最近は心が痛むのです。
こんな贅沢をしていいのかという罪の意識に襲われるのです。
ですから、鰻を食べるのも、いささか贅沢意識が働き、気が引けるのです。
私が高価な食事をしようがしまいが、誰にも関係ないと思うのですが、何か気が引けるのです。
こういう意識が強くなってきたのは、いつのころからでしょうか。
たぶん会社を辞めて、違う世界が見えてきてからでしょう。
会社時代は、いまから思えば、バブルでした。

最近は、ともかく金銭を使わないようにしています。
まあ収入があまりないのに加えて、節子が残してくれていた貯金を私がちょっと失ってしまったからです。
でもそれは決して不幸なことではありません。
おかげで、お金を使わない生活がやりやすくなったからです。

そんな状況のなかでの鰻だったので、頑張ったものの松竹梅の竹でした。
2500円でしたが、いま一つでした。
先日の1万円の鰻とはだいぶ違いました。
しかし、そう思うこと自体、どこかに矛盾があります。
私はまだバブルの延長で生きているのかもしれません。
鰻を食べられたことに、まず感謝すべきなのでしょう。
もうしばらくは鰻は欲しがらないようにしましょう。
一切れ250円の塩サケにしましょう。
やはり、それが私には向いています。

ちょっと早目の土用の丑の鰻でした。
これでもう夏バテは起こらないでしょう。

■2851:湯島の掃除(2015年7月23日)
節子
暑い中を湯島に出てきました。
来客が来る前に、少し早めに来て、部屋の掃除をしました。
考えてみると、この部屋は節子がいなくなってから、あんまり掃除らしい掃除をしてません。
さぞかし汚れていることでしょう。
今日はファブリーズを持参して、まき散らしました。
掃除機が壊れていたので、スティックタイプのものを持ってきましたが、これもまたあまり使い勝手がよくありません。
そもそも私は、掃除が苦手なのです。
困ったものです。

ところで部屋のテーブルとイスは、このオフィスを開いて以来のものです。
なかなか気にいるのがなかったのですが、たしか朝日工業という会社のテーブルとイスが気に入りました。
古くなったので数年前に買い替える予定でしたが、節子の病気で延期になり、そのまま今に至っています。
一脚は壊れ、一脚はカバーに穴があいてしまいました。
さすがに買い替えたいのですが、ネットで調べても同じ商品は出てきません。
新しいものを探せばいいのですが、いまのものを廃棄するのも忍び難いものがあります。
これでも十分大丈夫だよと言われると、ついついその気になってしまいます。
しかし、やはりオフィスはもう少しきれいにしたくなってきました。
少し気分が前向きになってきたのでしょうか。

このオフィスは、いつかみんながシェアするコモンズ空間にしたかったのですが、なかなかそれが実現できません。
集まりの会費で、せめて管理費や光熱費をカバーできればいいのですが、それも難しいのです。
自発的に資金を振り込んでくれる友人が2人いますので、それで回っているのですが、そういう善意にばかりに依存しているわけにもいきません。
みんなでシェアする仕組みも、以前、本郷で試みましたが、見事に挫折したことがあります。
シェアするには、よほどの信頼関係や一体感がなければいけません。
なにしろ金銭が絡むといいことはないのです。

なにか良い知恵はないでしょうか。
そろそろ来客が来そうです。
さて今日はどんな話に出会えるのでしょうか。

■2852:「出会い」は気づきのためにある(2015年7月24日)
節子
人は、人との出会いで、人生を変えていきます。
どういう人に出会うかで、人生は大きく変わります。
しかし、どんな人に出会うかは、かなり自分で決められます。
通り過ぎずに、出会いを活かせるかどうかは、自分の問題だからです。
人との出会いを一過性のものにするのも、自らの人生につなげていくのも、それは自分の問題です。

出会いの最たるものは、やはり結婚でしょう。
お互いに、相手の人生に全面的にコミットすることですから、論理的に考えたら、とても恐ろしいことでしょう。
非常に特殊な関係であり、むしろ人類の歴史の中では「特殊な関係」というべきかもしれません。
私が生きてきた昭和の時代は、その結婚制度がある意味で理念的に存在できた稀有な時代だったのかもしれません。
私たちが、まさにその時代に生まれたのも、意味があることだったのでしょう。
伴侶の人生に全面的にコミットするのは、やはり主体的な生き方とは矛盾します。
にもかかわらず、私の中ではあまり矛盾を感じていないのはなぜでしょうか。

私はこれまでたくさんの人に会ってきました。
会社時代もそうでしたが、会社を辞めてからは、ある意味では人と会うのが仕事でした。
最初の頃は毎年1000人くらいの人に出会っていたような気がします。
毎月、100枚単位で名刺がなくなっていましたから。
しかし、いまも付き合いがある人は、ほんのその一部です。
しかし、不思議と記憶に残っている人はいるものです。
その人たちは、たぶん私の生き方に影響を与えているのでしょう。
もしかしたら、私と出会ったことで、少し生き方を変えた人もいるかもしれません。

節子と出会わなかったら、私の生き方はどうなっていたでしょうか。
たぶん「失速」していたはずです。
そうならなかったのは、節子が「愚妻」だったからです。
節子は、私に何も期待せず、そのままの私を受容していました。
私が、わがままに自分を生きてこられたのは、節子のそういう姿勢でした。
だから節子がいなくなってから、失速してしまったのは、当然のことなのです。

転勤した若い友人から手紙をもらいました。
「佐藤さんとでの出会いでいろいろな“気づき”を得ました。」
その一言がうれしくて、こんなことを書いてしまいました。

「出会い」は気づきのためにこそあるのです。
そして「別れ」もまた、気づきをたくさん与えてくれます。
「出会い」も「別れ」も、大事にしない最近の風潮がさびしいです。

■2853:フィレンツェ(2015年7月25日)
節子
梅雨も明けて、夏が来ました。
今日も朝からうだるような暑さです。
隣の柏では、恒例の「柏まつり」です。
娘の連れ合いの峰行が、お店を休業して、そこに店を出すことになりました。
6年ぶりだそうです。
普段はお店では出せないようなものを出すのだそうで、その料理はもう前から決まっていたようです。
先ほど、これから材料の買い出しだと言って、わが家にも立ち寄りました。
娘も手伝いに行くそうです。
節子がいたら、絶対に行くでしょう。
節子はこういうのが大好きでしたから。

節子がいなくなってから、私はお祭り自体に行かなくなりました。
ハレの場は、私にはあまり居心地のいいものではなくなったのです。
ちなみに、葬儀もまた、ハレの場です。

しかし、今日は本当に湿度も高くて朝から汗がでます。
わが家はほとんどエアコンを使いません。
今夏もまだ一度もエアコンは使用していませんが(必要な場所に設置されていないからでもありますが)、今日はさすがにかけたくなります。
むしろ熱気にこもった祭に行けば、暑さは吹き飛ぶのかもしれません。
家でうじうじしているから、暑いのかもしれません。
しかし、この暑さの中、畑にも行きたくはありません。

ところで、峰行が柏まつりに出店する料理は、フィレンツェの名物ランプレドットのパニーノだそうです。
私は、名前さえも知りませんでしたが。
フィレンツェは、私が行きたかったにもかかわらず、ついに行けずに終わった都市です。
節子は友人たちと行っていますが、節子が描いたフィレンツェの大聖堂の油絵が以前はわが家の玄関に飾られていました。
そういえば、最近は違う絵になっています。
この記事をアップしたら、絵を掛け替えましょう
フィレンツェもヴェニスも、ついに行けずに終わってしまいました。
フィレンツェとヴェニスの風には触れたかったのですが。

■2854:最後の仕事(2015年7月25日)
節子
今日は午後から湯島に行く予定です。
ちょっとハードなカフェサロンというのがありますが、節子もよく知っている杉本さんがスピーカーです。
ところが、昨日から今朝にかけて、3人の参加予定者から急に参加できなくなったとの連絡がありました。
時々、こういうことがあります。
欠席者が重なるのです。
あわてて、フェイスブックで呼びかけを行いました。
まああまり効果はないでしょうが。

杉本さんとの出会いは節子も一緒でしたから、節子がいれば誘ったところです。
その杉本さんも、最後の仕事に取り組みだしています。
「最後の仕事」が見つかった人は幸せなのかもしれません。
たとえ、その仕事が完遂できなくとも、です。
いやむしろ完遂できないほうが、幸せかもしれません。
最後まで前を向けていられたということですから。
それにまた、来世、生まれてくる目標にもなる。

節子は、最後の仕事は持っていたでしょうか。
私が知る限りありませんでした。
節子にとっての最後の仕事は、たぶん私を見送ることだったと思います。
しかし、立場は逆転してしまった。
以来、私は「最後の仕事」を失ってしまったような気がします。
途切れた人生には、最後の仕事など見つかりようもないのです。

最近の私の生き方は、いかようにも正当化できますが、やはり無節操で仕事になっていないというべきでしょう。
ただただ自分の生きる隙間を埋めたいだけなのではないかと言われても反論はできません。

しかし、やはり「最後の仕事」は決めたほうがいいかもしれません。
いつまでも生きてはいけないのですから。
それに世に生をうけた以上、役割が与えられているのですから。

杉本さんもそうですが、先週、湯島に来てくれた京都の高林さんも「最後の仕事」に取り組んでいます。
その活動ぶりは見事としか言いようがありません。
彼女と会って、もう1年近くなると思いますが、半端ではないのです。
杉本さんもそうなのですが。

「最後の仕事」
さて何を最後の仕事にしましょうか。
この夏の課題にしようと思います。
さてそろそろ湯島に出かけましょう。

もし3時半からの集まりに来られる人がいたら、飛び入りでぜひお越しください。
杉本さんの最後の仕事に、少しだけですが、触れられるかもしれません。

■2855:生きる意欲を失ったところから生きる力が湧いてくる(2015年7月26日)
節子
今日もうだるような暑さでした。

Kさんから、いつもになく明るい声の電話がありました。
奥さんの退院が決まったそうです。
よかったです。

奥さんが入院中に、Kさんはいろんな体験をされたようです。
ご自身も、一時期、生きる意欲を失いかけていたほどでした。
そして、病院でいろんな人に出会ったようです。
心が弱っていることもあって、いろんなことが心身に響いてきたようです。
それが逆にKさんに「生きる力」を与えたのかもしれません。
いろんな人の生きる苦労がよくわかった、
これから取り組むことが見えてきた、と話してくれました。

頭でわかったことと心身でわかったことは、まるで違います。
頭と心身は、必ずしも同じではないのです。
もしかしたら、別人格かもしれないほどです。
でも、幸いなことに、頭は心身に比較的従順です。
心身でわかったことは、頭もわかってくれるのです。
おそらくKさんのこれからの生き方は、変わっていくでしょう。
私もそうでした。

他者の抱えている問題は、わかりようがありません。
しかし、一度、頭と心身の違いを体験すれば、わからないままにも、他者の置かれている状況への想像力は生まれます。
だから、見守ることはできるようになる。
それが大切なことなのです。
そして、人はみんな、それぞれに問題を抱えているものです。
それへの想像力があれば、他者を無視することはできなくなる。
時には、心が通じ合えることさえ、可能になる。

生きる意欲を失いかけるほどの問題を背負ったことのある人は、そうした想像力を持っています。
だから、他者にも自分にも優しくなれるのです。
メイヤロフが言っていた「ケア」とは、たぶんそういうことなのでしょう。

暑い1日でしたが、ちょっと良い1日でもありました。

■2856:屋外での居眠り(2015年7月27日)
今日も暑いです。
朝早く起きて、一応のことはすませましたが、畑に行くにはすでにもう暑すぎました。
今日は午後から自宅でちょっと用事があるので、在宅ですが、この暑さではどうしようもありません。

暑い時には暑い中で過ごすのがいいかもしれません。
庭のテーブルにパラソルを立てて、直接の陽射しは避けて。そこで読書をすることにしました。
家の中の陰湿な暑さよりも、外での単純な暑さの方が、過ごしやすいのではないか。
まあそう簡単に考えたわけです。
もっとも我が家の庭でテーブルが置けるような場所は、樹木の影になるような冷涼な場所ではなく、しかもコンクリート張りなのです。
いささか無謀かもしれませんが、思い立ったらやるのが私の性格です。
節子がいたら止めたでしょうが。

読む本も大事です。
ちょうど読みかけの「民藝の擁護」という、松井健さんの本がなんとなく似合っている気がしました。
暑いので、飲み物もと思いましたが、雰囲気に合わせて、かき氷にしようと思いました。
かき氷器で手づくりしました。
そして、テーブルの下にはふんだんに水をまきました。
さて後は読書です。

最初はとても快適でした。
暑いのですが、気持ち良い暑さです。
室内では33度以下だった温度計はすぐに35度を超えました。
もちろんパラソルの下の日陰のところです。
水を撒いたのに、湿度は室内よりも下がりだしました。
そして不思議なことに汗をかかないのです。
昔、海水浴場で感じたあの感覚です。

かき氷はシロップのせいか、あんまりおいしくなかったです。
しかし、室内では読む気にならなかった本も読めました。
そのうちに、アゲハ蝶が寄ってきました。
そして目の前の花の蜜を吸いだしました。
こんな近くで見るのは初めてです。
実に巧みです。
それを契機に、本はやめて、のんびりすることにしました。
で、気がついたら眠っていました。
頭がちょっとくらくらします。
このままだと熱中症になりかねません。
温度計は36度を超えていました。

慌てて室内に戻って、水分補給をしたら、どっと汗が出てきました。
それもとても不快な汗です。
さて、午後はどうしましょうか。
室内で昼寝をするか、また屋外での居眠りにするか。

いやいずれもダメですね。
来客があるのを忘れていました。

■2857:久しぶりのさわやかな目覚め(2015年7月28日)
節子
久しぶりにさわやかな目覚めを体験しました。
5時から動き出していますが、まだ外はあまり人の気配がしません。
昨日の我孫子は猛暑日でしたが、かなりの時間を外で過ごしました。
暑い時には外で過ごすのがいいというのは、最近の常識に反するようですが、注意しなければいけないとしても、暑さからは逃げずに向かうのがいいというのが昨日の体験です。
正午過ぎには庭(日陰)の温度は37℃を超えましたが、内水や風のおかげで、むしろ快適でした。
夕方には畑にも行って、ひと仕事してきました。
新たにネギを植え、最近また少し押され気味になっていた野草との戦いを始めました。
梅雨明けのおかげで、また茄子ときゅうりが復活しました。
道路沿いの斜面には花も植えてきました。
まだ「花壇」とは言いにくいですが、百日草も元気です。

そんなわけで、昨日はかなりの時間を外で過ごしたのですが、おかげで夜は熟睡できました。
暑さも少しやわらいだおかげもありますが、久しぶりに6時間近く眠れました。

今朝も畑に行きました。
昨日、刈っておいた草をゴミに出さなければいけません。
大きな袋を持ち帰りました。
いい運動です。

今年は自宅近くではまだセミがあまり鳴きませんが、遠くで鳴いています。
鳥は朝からにぎやかです。
でもまだ人気(ひとけ)はあまりありません。
いつもならもう気配がたくさんあるのですが、今日はみんな寝坊のようです。
昨夜は涼しかったからでしょうか。

少しずつですが、生活が整いだしています。
節子の闘病時代、こうした静かな明け方に、よく手賀沼公園まで2人で散歩をしました。
節子がいなくなってからは、もう散歩はしません。
しかし、今朝は、あの頃のような朝です。
手賀沼公園に行ったら、節子に会えるかもしれないと思えるほどです。
でも、行くのはやめましょう。

少しずつ人の気配が出てきました。
さて部屋に行って、今日の挽歌を書きましょう。
今日はいい1日になりそうです。

■2858:琉球朝顔(2015年7月28日)
節子
節子がいなくなってから、わが家の庭から消えてしまった植物は多いのですが、新たにやってきたものも少しですがあります。
そのひとつが、琉球朝顔です。

湯島のオフィスにいく途中に、毎年、見事な朝顔が咲きます。
咲きだしたのは、節子が湯島に行かなくなってからです。
その朝顔を見るたびに、わが家にもこんな朝顔があるといいなと思っていました。
それを知ってか知らずか、娘が玄関に、この朝顔を植えました。
1年目は咲いたのですが、北向きで日当たりが悪かったので、翌年はダメでした。
それで2階のベランダに植えてみましたが、あまりの手入れ不足で枯らしてしまいました。
そして今年は、庭に植えることにしました。
2本植えたのですが、1本はどうもモグラに球根をかじられたようで、あまり元気がありません。
でも一本のほうは、元気で、毎朝、いくつかの花を咲かせます。
それも、節子の献花台の近くで花を咲かせるのです。
写真に撮ってみました。
本来は、上に向かってどんどんと伸びていくのですが、わが家では横に向かって延びるようにしています。
朝顔にはきっと不本意なことでしょう。
でも献花台を包むようにしてくれているので、私にはうれしいです。
そういえば、最近、節子の献花台への花もおろそかになっています。
下の畑からとってきた百日草を、後で挿しました。

昨日、この献花台の前のテーブルで、読書をしていたら、朝顔のところにキアゲハが飛んできて、蜜を吸っていました。
それで読書をやめて、あとは自然の中でボーっとしていたのですが、いつのまにかうとうとしていました。
喉が渇いたので、部屋に戻りましたが、腕に小さなカマキリの子どもがついているのに気づきました。
目が合いましたが、こんなにかわいいカマキリの子どもははじめてでした。
箱に入れて、飼いたくなりましたが、やはりそれはよくないので、庭の草の中に放してきました。
大きなカマキリはかわいくありませんが、子供のカマキリはとてもかわいいのです。

昨日は、そんな感じで、自然の中にいたのですが、今日はそういうわけにもいきません。
しかし、5時から動き出したためか、もういささか疲労気味です。
あんまり張り切ってはいけません。
ほどほどにしなければいけません。

今日も湿度の高い暑い日になりそうです。

■2859:私を受け止めてくれる空気(2015年7月28日)
節子
1日挽歌を3つ書こうと決めましたが、なかなか難しいものです。
しかし、そうしないと次の命日までに追いつかないのです。
日数と表示番号がずれていると、どうも落ち着きません。

数日前にもらったメールのことを書くことにします。
節子にも喜んでもらえるでしょう。

挽歌でも書いたかもしれませんが、以前、突然メールをもらい、返信したら、すぐに湯島に来てくださった方がいます。
遠くに住んでいる方です。
しかし、その時には、ある集まりに参加する形だったので、ゆっくりとお話はできませんでした。
それでも、少しだけお話しました。
その後、連絡がなくなり、私自身もちょっと余裕のない状況になってしまっていました。
その方から、久しぶりにまたメールが届いたのです。
いろいろと大変な状況のようです。
しかし、彼女は、こう書いてきてくれました。

いつか私の話を聞いて頂きたいですし、
それを許して下さりそうな佐藤様の存在を心強く思っております。
湯島のあの場所に行けば、
この私を受け止めて下さる空気が待っている、と勝手に思っております。

節子と一緒に、そういう場所をつくりたかったのです。
しかし、節子がいなくなったために、それは難しいかなと思ってしまっていたのです。
夫婦だと相手は安心するでしょう。
それに私は、人の話を聞くよりも、話をしてしまう傾向があるのです。
しかも、その話し方があまりうまくないのです。
思ったことを、ともかくそのまま話してしまうのです。

節子と2人であれば、お互いに補い合いながら、役割分担できますし、第一、相手との距離感がとりやすいのです。
どちらかというと、私は相手に入り込んでしまいすぎますので、危ないのです。
事実、節子がいなくなってから数回失敗しています。

だから、人に会うのもほどほどにしようかと思い始めていたのです。
しかし、このメールには、「湯島のあの場所に行けば、この私を受け止めて下さる空気が待っている」と書かれています。
これは、私が目指していることなのです。
正しくは、「目指していたこと」です。
あまりに騙されることが多いので、もうやめようかと思いだしていたのです。
でもこう思っていてくれる人がいるのであれば、やめるわけにはいきません。
何とかもう少し湯島は維持しようと思い直しました。
最近は、自分の問題もあって、あまり湯島には出かけていないのですが、8月からはもう少し湯島に行くようにしようと思います。

話をしたい方がいたら、どうぞお越しください。
雑談相手くらいにはなれるでしょう。
それに、実は、湯島のオフィスに行けば、私自身も何か落ち着くのです。
節子がどこかにまだいるのかもしれません。

■2860:長い生とよい生(2015年7月29日)
節子
今日も、暑くなりそうです。

まもなく巡礼に出る友人から、1冊の本を教えてもらいました。
トマス・ア・ケンビスの「キリストにならいて」です。
巡礼中に持参する本として選んだのだそうです。
その本のことは知りませんでしたし、もし知っていても、読むことはなかったでしょう。
しかし、なんとなく気になり、手に取ってみました。
なにしろ読書家のSさんが、2か月半の巡礼に持参する本として選んだ1冊ですから。

最初の書き出しは、「私に従うものは暗の中を歩まない、と主はいわれる」とありました。
いかにも、という感じの書き出しです。
そういう反応をする読者がいることは、当然予想されていて、その文章につづき、いろいろと諭されることになります。
以前なら、ますます心は遠のくのですが、なぜか今回は読み進めてしまいました。
そして、すぐにこんな文章に出会いました。

あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みとがなければ、その全てに何の益があろう。

なぜか奇妙に心に響きます。
さらにこう書いてあります。

長い生を望みながら、よい生について心を用いることが少ないのは、空しいことである。

私が最近空しいのは、「よい生」への思いがなくなったからかもしれない、と思いました。
「長い生」への望みは、もとよりありません。
人を信ずることが「よい生」だと思い続けてきましたが、最近どうもそうではないという疑問が生まれていました。
なによりも、自らを信ずることができなくなってきたのです。
しかし、よい生は、神の愛と恵みによってもたらされる。
ケンビスは、そう言っています。
ケンビスの言う神は、キリスト教の神でしょうが、私にとっての神はもっと広義です。
あえて言えば、お天道様ですが、要するに「主語のない」愛と恵みです。
愛と恵みには、主語はいらない、というのが私の考えです。
言い換えれば、神は自らの内にある。

最近、忘れていたことを思い出しました。
「よい生」への思いを取り戻せるかもしれません。
この本を、読み続ける自信はありませんが、この本を開く気になったのもまた、愛と恵みの成せることなのでしょう。

暑さより、さわやかさを感ずる気がしてきました。
今日も「いい日」になりそうです。

■2861:節子へのプレゼントが届きました(2015年7月29日)
節子
今日はやはり「いい日」になりました。
節子に荷物が届いたのです。
いつも届けてくれるヤマト運輸の人が、「節子さん宛ですが?」と声をかけてくれました。
咄嗟に「花ですかね?」と言って受け取りました。
しかしよく見ると、製菓会社からです。
開けてみたら、お菓子のセットのです。
そこに「ご当選おめでとうございます」というカードが入っていました。
そして13種類のお菓子が入っていました。

私はこの春、キャラメルコーンが好きになり、毎日のように食べていました。
ブームは1か月くらい続いたかと思いますが、その時に、プレゼントキャンペーンがあったのです。
娘に頼んで応募しておいてもらったのですが、みんなの名前で複数応募したようです。
そのうちの1枚が節子名義だったわけです。
いささか問題がありますが、まあわが家ではまだ節子は同居していることになっていますので許してもらえるでしょう。
いまも時々、セールスなどの電話が節子にかかってきますが、その場合は、「いま留守にしています」と応えるようにしています。

13種類のお菓子の一つを節子に供え、久しぶりにまた、キャラメルコーンを食べました。
節子のおかげで、またはまりそうですね。

それにしても、節子は運がいいです。
存在しないのに当たったのですから。
もしかしたら、今日はもっといいことがあるかもしれません。
いやあるといいのですが。
最近、あまりいいことがないものですから。

■2862:山本太郎議員の健闘(2015年7月29日)
節子
今日はやはりいい日でした。
というのは、久しぶりに国会中継を見たのです。
山本太郎さんが参議院の特別委員会で質問するというので、急いで帰宅してテレビを見ました。
私が、いま信頼する国会議員は小沢一郎さんと山本太郎さんくらいなのです。
まさか、この2人がつながるとは思っていませんでしたが、いまや仲間になってしまったようです。

それはともかく、見ていて、元気が出てきました。
そのことは時評編に書きましたし、そこに中継の映像も紹介しました。

私は、小沢さんの政策には賛成できません。
戦争のできる「普通の国」にしたいなどという考えには、心底反対です。
ですから、到底、支持などできませんでした。
節子は、政策はともかく、なぜか小沢さんに好感をもっていました。
私たちは意見が正反対だったのです。
しかし、なぜか、節子がいなくなってから、私は小沢さんが好きになってしまっていました。
まさか節子の影響ではないでしょうが、政策や価値観は違っても、どこか未来を考えているような気がしてきたのです。
小沢さんが、検察に狙われだしてからは、すっかり小沢さんびいきになってしまったのです。

その小沢さんが、山本太郎さんとグループを結成したのです。
山本太郎さんも、いろいろと悪い話もありましたが、私は最初から何かとても共感できるところがありました。
そして、最近の山本太郎さんの行動には、共感するところが多いのです。
今日の国会での質疑は、私にはとても元気の出るものでした。
しばらく見る気にもなれなかった国会中継が、また見られるようになった気がします。

今日は、いい日でした。
庶民にとっての「いい日」とは、まあこの程度のことなのでしょう。
そういえば、今日は「重い話」はどこからもなかったです。
お天道様が、ようやく私にも陽を当てだしてくれたのかもしれません。
そうであれば、少しくらい暑いのは我慢しなければいけませんね。

■2863:湯島もさびしくなってきました(2015年7月30日)
節子
湯島です。
4日ほど湯島に来られなかったのですが、やはりランタナが枯れかかっていました。
急いで手当をして、水をたっぷりあげましたので、たぶん大丈夫ですが、わずかとはいえ、植木鉢があるので、夏は注意しないといけません。
植物の熱中症は致命的なのです。

今日は特段湯島に様があったわけではありません。
植木に水をやりに来たのです。
しかし、ここにはクーラーがあって、自宅よりもずっと涼しいので、しばらくここでゆっくりしようと思います。
運よく誰かが訪ねてくればいいのですが、そううまくはいかないでしょう。

以前は、少しでも時間ができれば、だれかを訪ねるか、だれかを呼び込んだりしたものです。
それに、寄ってもいいかとかいう電話もよくかかってきたものです。
しかし、最近はそういうことはめったにありません。
私のみならず、友人知人も、歳をとって、その活動が後退しているからでしょう。
私に限って言えば、最近はほとんど仕事らしい仕事はしなくなってしまいました。
それが歳をとるということかもしれません。

湯島の電話も、最近はほとんどなりません。
先ほどめずらしく電話がかかってきましたが、出てみると、私あてではなく、場所を提供しているNPO当てでした。
電話番号も、ここのを使っているようです。
きっと私が、そう勧めたのでしょう。
電話代節約のため、解約しようと思っていましたが、勝手にはできないようです。
困ったものです。

それにしても、以前はこの湯島の狭い空間が、いろんな人であふれていました。
あの頃は、私もたぶん活き活きしていたのでしょう。
いまは活き活きどころかへとへとになっていますが、いつまでここに通うのでしょうか。
いや、なぜ私は湯島に来るのでしょうか。
そう考えてみると、湯島がもしなかったら、私の生き方はいまとは全く違ったものになってしまっていることでしょう。

人の生き方を決めているのは、意外と気づかないものなのかもしれません。
湯島のない人生は、いまの私には考えられませんね。

■2864:節子、野路さんと話しましたよ(2015年7月30日)
節子
節子が親しかった友人の野路さんのご主人から、桃が送られてきました。
毎年、送って下さるのです。
節子の友人の野路さんは、数年前に事故で記憶を失ったのですが、最近少しずつ記憶を取り戻してきているようです。
ご主人に電話したら、ちょっと待ってくださいと言って、野路さんに代わってくれました。
久しぶりに、直接お話ができました。
言葉はまだ少し不自由なようですが、元気そうな声でした。
ご主人が、電話に出たがる人と電話に出たがらない人がいるのですと笑いながら話してくれました。
電話の向こう側で、我孫子の佐藤さんだよと言っている声が聞こえましたが、もしかしたら野路さんは節子だと思ったのかもしれません。
男の声だったので、がっかりしたかもしれません。
それでも、機嫌よく、話をしてくれました。
ご主人が、最近は我が強くなってきて、大変ですよ、と言いましたが、我が強かろうと弱かろうとそこにいるだけでも「幸せ」な気がします。
しかし、それは私の勝手な思いで、まあ、それはそれでまた大変なこともあるのでしょう。
人の関係は、それぞれにまったく違いますから、勝手に決めつけるわけにはいきません。
でも、電話したらすぐに2人とも出てきたというのは、いまもなお、おふたりは寄り添って暮らしているのでしょう。
うらやましい限りです。

節子は、野路さん夫婦とは2回ほど旅行に行っています。
ちょうど日程が合わなかったのか、私はいつも不参加でした。
私は、野路さんには何回も会っていますが、ご主人にはお会いしていません。
いつも電話だけのつながりです。
しかし、不思議なもので、節子のおかげで、昔からの知り合いのような気がします。
そう言えば、広島の折口さんは、一度もお会いしたことがないにもかかわらず、何か深くつながっているような気もします。
人の関係とは、そんなものかもしれません。

桃は早速、節子の供えさせてもらいました。
私好みの固い桃でした。

■2865:「人は「永遠」に弔われる存在」(2015年7月30日)
節子
一条真也さんが2冊の本を送ってきてくれました。
「永遠葬」と「唯葬論」です。
一条さんの、まさにホームグラウンドでの新著です。
お礼のメールを書いたら、この前の日曜日(7月26日)に、この2冊の本の出版を記念して、地元の映画館で、映画上映と併せたトークショーをやったことが書かれていました。
上映映画は「おみおくりの作法」と「マルタのことづけ」。
その間に、一条さんのトークショーというプログラムです。
なんと魅力的なプログラムでしょうか。
その時に話されたことなどが、一条さんのハートフル・ブログに詳しく書かれています。
ぜひお読みください。
とても共感できるお話です。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150726/p2

そのブログに、一条さんは、「死生観は究極の教養である」という持論を書かれていますが、私も最近、そういう思いを強めています。
すべての教養は、死生観のためにあったのだという気付きと言っていいかもしれません。
ですから、一条さんの「唯葬論」には大きな関心があります。
しかし、まずは「永遠葬」を読むことにしました。
一条さんからも、その順序を薦められましたし。

ところで、「永遠葬」とはどういう意味でしょうか。
一条さんの造語だと思いますが、一条さんは、最近の直葬やゼロ葬に対する問題提起の意図をお持ちのようです。
なんとなくその趣旨はわかりますが、どんな意味を込めて「永遠葬」と名付けたのか、とても興味があります。
本の帯に、「人は「永遠」に弔われる存在です」というコピーが書かれています。
素直に心に入りますが、でもそれだけでは「永遠葬」の心は入ってきません。
一条さんのネーミングのセンスは抜群ですので、そこに込められた一条さんの思いを知るのが、楽しみです。
問題は、暑さのせいもあって、私が最近、なかなか本を読めなくなっていることです。
でもまあ、明日か明後日、「永遠葬」を読ませてもらう予定です。

ちなみに、私自身の葬儀は、自分で設計して実践できればと思っています。
それも、生前葬ではなく、死後の葬儀です。
節子がいたら、実現は確実でしたが、節子がいないいまは、かなりの難題かもしれません。
できれば、死期も自分で決めたいと思っているのですが。

■2866:今日もいい1日になりそうです(2015年7月31日)
節子
今日もまた猛暑日になるようです。
しかし、朝はさわやかです。
5時に起床、シャワーを浴びて、庭の花への水やり。
今日もいい1日になりそうです。

昨夜、若い友人からメッセージが届きました。

実は自律神経をおかしくしてしまい、苦しみながらかつかつと働いております。
完治次第是非お伺いさせてください。
はじめてしっかりメンタルヘルスとの痛みと戦う機会を得ました・・恐ろしい病でした。

実は、彼の頑張りすぎが気になって、ささやかなメッセージを出してはいたのですが、なぜかそれが遮断されてしまい、いささかムッとしていたのですが(その頃は私自身もかなりメンタルダウンしていましたから)、やはりそうだったのだと知りました。
いつでも来てくださいと返信しました。
彼が来るまでに、私自身も元気になっていなければいけません。

若くない友人からもメールが来ていました。

実は、明日、家内が入院します。期間は、2か月位の予定です。

寝耳に水でした。これも気になります。

みんなそれぞれにいろいろある。
自分のトラブルに埋没してしまうと、そうしたことが見えなくなります。
まわりが見えなくなると、ますます埋没してしまう。

明日から8月です。
思い出したくない記憶のつまった8月ですが、今年は乗り切れるかもしれません。
埋没せずに、動き出そうという気が少しですが、出てきました。
今日はいい朝です。

■2867:人は墓標(2015年7月31日)
節子
昨日、書いた一条真也さんの「永遠葬」を読み出したら、おもしろくて一気に読んでしまいました。
一条さんの世界が見事に展開されています。
本の感想は別途またホームページに書くつもりですので、ここでは書きませんが、読み終えて気がついたことがあります。
それは、「人は墓標」だということです。
もっと正確に言えば、私自身が節子の墓標なのだということです。

一条さんの本に、そう書かれていたわけではありません。
一条さんは、「永遠葬」という言葉に、「人は永遠に供養される」という意味を込めています。
その思いや趣旨には、とても共感します。
そうした一条さんの思いを、私なりに受け止めた結果が、「人こそ墓標」だったのです。

日本仏教には初七日から始まる年忌法要があります。
そして、五十回忌で「弔い上げ」となるのですが、一条さんは「死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです」。
供養する人が仏になる。
しかし、供養されている人は、もっと前に仏になっている。
供養する人、供養される人は、結局は同じ仏というわけです。
私にとっては、大きな気づきでした。
そして、脈絡もなく、突然思ったのです。
人こそが墓標なのだと。
そこの繋がりは、もう少しきちんと説明すべきかもしれません。
でもそう気づいてしまうと、すべてが私には理解できたような気になりました。
節子の墓標は私なのだ、と。
そして、「人は永遠に供養される」という一条さんのメッセージが、すんなりと受け入れられました。

人は、愛する人に自らを託し、その人を墓標にしていく。
あるいはまた、愛する人に自らを墓標として、開いていく。
供養することが、実は供養されることでもある。
節子の友人たちが私に声をかけてくるのは、私が墓標だからなのです。
私の心身の中に、時々、節子を感ずるのは、私が墓標だからなのです。
そして、誰かがまた私の墓標になって、節子を含めた私を引き継いでくれる。

これが、私が「永遠葬」を読み終わった時に浮かんできたことです。
私には大きな発見です。
そうか、私は節子の墓標なのだと思うと、いろんなことがすんなりとはいってくる。

一条さんのメッセージを読み違えているおそれがないわけではありませんが、私にとっては、強烈な気付きです。
私も、なんだか「葬儀論」を書きたいほどの気分です。

いささか消化不足ですが、一条さんと節子に早くこのことを伝えたくて、書いてしまいました。
もっとも、節子は、やっと気づいたの、と笑っているかもしれません。
一条さんは、どういうでしょうか。
ちょっと心配ですね。

■2868:樹木葬(2015年7月31日)
節子
湯河原の幕山公園には、死後を意識して自分たちの桜を植える公園があります。
幕山公園は、時々、節子と一緒に行っていました。
私たちの好きな場所で、いろんな思い出があります。
幕山公園に行く途中の家の庭が気にいった節子が、止めるのもきかずに入り込んで、手入れをしていた家人と話し込んでしまったという記憶もあれば、鈴木さんというおじいさんと講演で話したこともあります。
庭に入り込んだ時には、植木までもらってしまい、その花木はいまもわが家に咲いています。
ただし、その桜を植える公園には、ふたりとも関心を持ちませんでした。

前の記事に書いた「永遠葬」の本には、一条さんが実際に取り組んでいる4つのスタイルの永遠葬が紹介されています。
樹木葬、海洋葬、月面葬、天空葬です。
これに関しても、いろいろと思うことはありますが、私が一条さんと知り合ったのは、たぶん「樹木葬」が縁なのです。
最初の縁は、一条さんのお父上の佐久間進さんでした。

いまから30年近く前ですが、ある人が、樹木葬を日本で広げたいと言っていました。
だれも耳を傾けてくれないと嘆いて、私のところにやってきました。
それとはまったく別件で知り合った、佐久間進さんに、その話をしに行ったのが、私がサンレー(現在は一条さんが社長です)を訪問した最初でした。
樹木葬の話はさせてもらいましたが、当時はまだあまり興味を持ってもらえませんでした。
私も自分のプロジェクトではないので、その話はそれで終わったのですが、なぜかその後、息子さんである一条真也<佐久間庸和)さんとのお付き合いが深まりました。
そのあたりの経緯は、いまは全く思い出せないのですが。

私が最初に一条さんの才気に魅了されたのは、対談集「魂をデザインする」でした。
一条さんが送ってきてくれたのだと思います。
以来、新しい本を書くと、一条さんはいつも送ってきてくれます。
節子が亡くなった直後は、私には読めない本もありました。
いまはもう大丈夫ですが、一時は私自身が極度に心が痛んでいたのです。

ところで樹木葬ですが、それを主張していた友人は、数年前に亡くなりました。
私より一回りも年上で、私よりも数回りもロマンチストの夢追い人でした。
夢を追いすぎて、離婚し、最後は館山に転居し、孤独死でした。
その人は節子のファンでした。
節子とその人は、どちらが先に逝ったのでしょうか。
どうもそういう記憶が、私にはとても苦手なのです。

樹木葬か海洋葬が、節子が亡くなる前の私たちの選択肢でした。
しかし、節子は最後になって、通常の葬儀を希望しました。
私も、それに付き合うことになりました。
いまから考えると、よかったと思います。
私たちが考える樹木葬や海洋散骨は、たぶん現在行われている者とは違うような気がするからです。
どこが違うのか、あまり明確には話せませんが、そんな気がします。
一条さんのもう1冊の新著、「唯葬論」を読んだら、整理できるかもしれません。

樹木葬という言葉で、幕山公園を思い出したので、もうひとつ書いてしまいました。

■2869:エアコンが戻ってきました(2015年8月1日)
節子
最近、我孫子も猛暑日続きです。

先日、テレビでバラの手入れを放映していました。
バラの葉は水が不足すると黄色くなるそうですが、それがすぐには出ずに、数日たった時に出てくるのだそうです。
わが家の庭の河津桜は鉢植えをしていますが、葉っぱが黄色になってきています。
毎朝、かなりの水をやっているつもりですが、やはり不足しているのでしょう。
それを見ながら、もしかしたら人間も同じだなと思いました。

最近、なんとなく体調がまた悪いのですが、これは熱中症のせいかもしれません。
数日前までかなりの暑さに耐えていたからです。
なにしろ仕事場にも寝室にもエアコンはなく、リビングのエアコンも調子が悪く、今年はまだ一度も使ったことがないのです。

昨夜も暑くて寝苦しい夜でいた。
ところが起きて、リビングに行くと、なんとエアコンがかかっていました。
見かねた娘が、昨夜、タイマーでセットしておいたようです。
なんとエアコンがきちんと作動しているのです。

今日も暑くなりそうで、外の温度はもう30℃に近づいています。
風はさわやかなのですが、エアコンの効いた部屋から外に出ると、暑さを感じます。
エアコンがなければ、今日もさわやかな朝だと思ったかもしれません。
しかし、今朝は、エアコンの効いたリビングだけが涼しいです。

エアコンが直り、タイマー予約してくれていた娘の心遣いには感謝しますが、その一方で、ちょっと複雑な気分も残ります。
ここから先は、時評編の領域でしょうが、エアコンなしで暑さに対処してきた頑張りが崩れてしまいそうでもあります。
ちなみに、今年は扇風機もほとんど使わないで過ごしてきました。
別に理由があってのことではないのですが、なぜか今年はそうしたかったのです。
しかし、その結果、私が熱中症になってしまったら、どうしようもありません。
娘はそれを心配したのでしょう。
そして事実、この数日、葉っぱが黄色くなってきた桜のように、外からも私の疲労が見えたのでしょう。

今日は、我孫子の花火大会です。
今年は誰にも声をかけませんでした。
花火もあんまり見る気が起きなかったのです。
今日はゆっくり冷房の効いたリビングで、読書三昧しようかと思います。

■2870:ノープロブレムのニヘイさん(2015年8月1日)
節子
久しぶりに近くの家具屋さんのカネタヤに行きました。
年に1回の「キズモノ市」なのだそうです。
別に買いたいものがあったわけではないのですが、娘が行くというので同行したのです。
まあ、気分転換のようなものです。
久しぶりのカネタヤはたくさんのお客さまでごった返していました。

手賀沼公園の近くに転居してきた時、わが家の家具の多くは、このお店で調達しました。
その時の担当者は、「ニヘイさん」と言い、実に個性的な人でした。
口癖は、「ノープロブレム」。
それでわが家では「ノープロブレムのニヘイさん」と呼ばれていました。
家具の調達が終わった後は、特にお付き合いもなくなりましたが、私は時々、会いたくなりました。
節子に、ニヘイさんに会いに行こうかと言ったこともありますが、あまり賛成は得られずに、その後、お会いしたことはありません。
私とたぶん同世代でしたから、もうお辞めになっているでしょう。
しかし、私はカネタヤの横を通るたびに、いつも彼のことを思い出します。
私は、一度でも関わった人のことは、なかなか忘れられないタイプなのです。

もしかしたら、ニヘイさんが手伝いに来ているかもしれないとどこかで思っていたのですが、全館を歩いてみましたが、お目にかかれませんでした。
結局、何も買うものもなく、帰宅しました。

家具屋さんには縁のない年齢になってしまいました。
節子と一緒に家具探しをした記憶はたくさんあります。
なかなか好みが一致せずに、結果的にはどちらの好みでもないものになってしまったこともあります。
そうした「失敗の蓄積」が、わが家にはたくさん残っています。

ニヘイさんはお元気でしょうか。
どことなくマレイシア人を思わせる、楽しい人でした。

■2871:死は怖くはありません(2015年8月1日)
今日は、午前中は外出したり、用事があったりしましたが、午後は自宅のエアコンの効いた部屋で、過ごしました。
1冊の本と一つの映画を観ました。
意図したわけではないのですが、いずれも「死」に関するものです。

本は、前野隆司さんの「死ぬのが怖い」です。
3か月ほど前に、友人から前野さんの本「幸せの日本論」を薦められて読んだのですが、たまたま先週、図書館で前野さんのこの本を見つけて、借りてきていたのです。
しかし、私は「死ぬのが怖い」という感覚もないので、借りては来たものの、読まずに部屋の片隅に置きっぱなしだったのです。
その本が、たまたま涼しい部屋にあったので、読み出したという、ただそれだけの理由です。
この本のメッセージは、人はそもそも最初から死んでいるのだから死を怖がらなくてもいいというものです。
まあ、これはかなり不正確な要約ですが、私にはきわめて納得できるメッセージです。
私流に言い換えれば、人は死ぬことなどないのです、ということになるのですが、たぶんそれは前野さんの本意ではないでしょう。

本はいつものように、超速読してしまったので、ちょっと疲れてテレビをつけました。
ちょうど「主人公は僕だった」という、10年ほど前の作品が放映されていました。
ちょうど始まったところでした。
何気なく見ていたのですが、とても面白く、ついつい最後まで観てしまいました。

ある日突然、自分の人生が人気作家によって執筆中の物語に左右されていることを知った男が、自分の人生を取り戻すために奮闘するさまを描いた、ファンタジーコメディです。
物語は、こんな展開です。

国税庁の職員ハロルド・クリックは、規則正しく単調な毎日を送る平凡な男です。
なんとなく「おみおくりの作法」の主人公を思い出しました。
ある朝、彼の頭にナレーションのような女性の声が響き、それが続くようになります。
そのナレーションは、ハロルドの行動を的確に描写していく内容なのです。
ハロルドは、どこかで自分を主人公にした小説が書かれていると疑い始めます。
ところが彼がある行為をしたとき、 “このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった”というナレーションが聞こえてきます。
さて、彼はどうしたか。
っその先は映画を観てもらうのがいいでしょう。
死は避けられるのか。
ちなみに、主人公のハロルドは、自分が死ぬことを知っても、その定めを受け入れるのです。
よいドラマのためにこそ、生はある。
彼もまた死などおそれてはいなかったのです。

観終わってからネットで少し調べてみました。
実に知的な趣向が隠されていることを知りました。
社会的なメッセージもちりばめられています。
感動を味わえます。
助演のエマ・トンプソンとダスティン・ホフマンも実にいい。

この映画は私は知らなかったのですが、エアコンが復活したおかげで、観ることができました。
これもきっと意味のあることなのでしょう。

■2872:手賀沼の花火大会(2015年8月1日)
節子
今日は恒例の手賀沼花火大会です。
私も節子も、花火好きでしたが、節子がいたころは親戚や友人たちに声をかけてきてもらったこともあって、そのもてなしで、あまりゆっくり花火を見ることもできませんでした。
とりわけ節子はそうだったかもしれません。

節子が迎えた最後の年の花火大会は、おもてなしもできずに、節子も私も花火を見る気も起きず、病室に閉じこもっていました。
花火の音は、身体に響きますが、病身の節子には、かなり堪えたかもしれません。
花火を見に来てくれた人たちも、この年はわが家ではなく、花火会場に見に行ってくれました。
そのやりとりにいささか哀しい思いが残ったのを、いまも覚えています。
その時から、花火が少し嫌いになったのかもしれません。
それ以来、私自身は、人を呼ぼうという気がなくなってしまったのです。

今年は、同居している娘と節子の遺影と3人で花火を見ました。
娘が軽食を用意してくれました。
お母さんは、いつも何を用意しようか苦労していた、と娘が教えてくれました。
私から見れば、おもてなしは楽しい仕事だと思っていましたが、それなりに気の遣うことだったのかもしれません。
私自身がとてもわがままでしたから。

節子と2人で最初に見た花火は、滋賀県大津市の瀬田川の花火大会でした。
あまり覚えていませんが、浴衣姿の節子がとてもはしゃいでいたのを覚えています。
瀬田川の近くには1年ほど暮らしました。
前にも書きましたが、「神田川」で歌われているような、6畳一間に近い貧しいけれど幸せな暮らしでした。
あの頃が私たちにとっては、一番幸せな時代だったのです。
なによりも、お金がなかったのが幸せのもとだったと思います。
いまから考えても、実に慎ましやかな暮らしでした。
エアコンもなければ、暖房機もなかった、
テレビもありませんでした。
しかし、休日はいつも2人でした。

節子がいなくなったいま、私の暮らしはその頃のように慎ましくなっています。
節子がいない、慎ましやかな暮らしは、ただ慎ましいだけですが、それでも不幸せではありません。
慎ましい暮らしは、どこかで節子とのつながりを感じさせられるからです。

節子
今年は、ゆっくりと花火を見られましたか。
私は、いろいろと考えることもありましたが、ゆっくりと見ることができました。
来年は誰かを呼ぶことができるような気がしています。

■2873:誠を尽くして応えていく(2015年8月2日)
節子
この数年、私の日曜日は、NHKテレビの「こころの時代」から始まります。
寝室のテレビを視聴予約しているので、朝の5時になると、その番組が私を起こしてくれるのです。
といっても、きちんと見るわけでもなく、半分寝ながら聞いています。
時にはほとんど寝てしまっていることも少なくありません。

今朝も5時に「こころの時代」が始まりました。
今日は3年前に放映された「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」の再放送でした。
語り手は、山田邦夫さんです。
以前の放送は録画して2回ほど見ました。
「生きる意味」は、私にとってもキーワードの一つであり、当時、それを失っていたからです。

このことは、この挽歌にも何回か書きました。
それまであまり読めずにいたフランクルの本も何冊か読みました。
テレビを見た直後の記事を読んでみると、私が違和感を持ったと書かれていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/05/post-f551.html
その違和感はいつの間にか解消されています。
その過程は、たぶんどこかに書かれているのでしょうが、私の記憶にはもはやありません。

最近、ずっと感じているのは「大きないのち」ということです。
その視点で、フランクルを読むことができるようになったのは、この番組を見てからです。
その文脈から言えば、フランクルの指摘はすんなり心に入ります。
山田さんは、宗教を超えた「宗教性」ということを教えてくれました。

今日は、きちんと目を覚まして、番組をもう一度みました。
新しい気づきはあるものです。

最後に山田さんはこう語っていました。

普通は時は無常ですべて消え去っていく、というふうに考えますけど、フランクルは、まったく逆でして、一旦起こったことは2度となくならないと。
たとえば、稲刈りをして、脱穀して蔵に詰めますよね。
過去は虚しいというふうに思う人は、その切り株の田んぼしか見ていない。
しかし、過去という蔵の中にはいっぱい詰まっている。全部そこに保存されている。
ですから今ここで自分が為すこと、それが永遠に残る。
時間的には、空間的には、全部繋がっている。
そういう世界の中で、フランクルは意味ということを考えている。

そして、山田さんはこう言います。

今ここで自分は何を為すべきかということは、自分の内からは出てこないんですね。
自分にその時、問い掛けてくるものがあるわけです。
その問い掛け、呼び掛けに応えていく。
自分の誠を尽くして応えていく。
それ意外にない。

前回は聞き逃していましたが、今回はこの言葉にとても元気づけられました。

■2874:節子との出会いは私をどう変えたのか(2015年8月3日)
節子
先日、学生たちから私の生き方に関するインタビューを受けましたが、そのテープ起こしの原稿が送られてきました。
インタビュアーは中国からの留学生の欧?さんで、テープ起こしも彼女です。
ですからちょっと文章になっていないところも多く、校正と言っても結構大変です。
しかも、文字数にして2万字を超えています。
それに私の話は、ほとんど文章になっていないのです。
そのため、校正に2日もかかってしまいました。
ほとんどすべてリライトした感じです。

それにしても、テープ起こししたものを読むと、自分がいかにわかりにくい話をしているかを思い知らされます。
思いが先行していて、文章になっていないのです。
これでは、聞いているほうも大変です。
私の思いが伝わるはずもありません。
大いに反省しました。

インタビューでは、冒頭、私の自己紹介をしています。
そこで気づいたことがあります。
節子との別れが私の人生を変えたことは話していますが、節子との出会いが私の人生を変えたことには言及していません。
そういえば、私自身、そのことを考えたことがありませんでした。
節子との別れはよく考えますが、出会いの意味を考えたことはあまりない。
ある意味では、それは当然かもしれません。
なぜなら、節子と生活を共にすることを決めた時に、私は人生を創り直すことにしたからです。
いまから思えば、若気の至りですが、それまでの記憶を一時、かなり捨ててしまいました。
交友関係も、それまでの日記も、まあいろいろのものを、です。
もちろん実際には捨てられるはずもなく、すぐに戻ってしまったのですが、廃棄した日記だあけはもどりませんでした。
まあ、そのこと自体が、節子に出会っての私の大きな変化です。
しかし、節子との出会いの積極的な意味については、あまり考えたことがありません。
この挽歌で、私と節子とは赤い糸で結ばれていたかもしれないと書いたことがあります。
しかし、なぜ結ばれていたのか、そしてそれはどういう意味があったのかは、考えたことがないのです。

私が節子と出会わなければ、そして節子と結婚しなかったならば、私の人生はどうなったでしょうか。
会社を途中で辞めて、お金から自由に生きる方向へと、生き方を変えたでしょうか。
それは解きようのない問題ですが、少なくとも、私が思い切りわがままに生きられたのは、節子のおかげだと言っていいでしょう。
その反面、もし節子と一緒にならなければ、世間的に常識的な道を進み、経済的には豊かになり、社会的な地位も得ていたかもしれません。
娘たちにも、もう少し「豊かな暮らし」をさせてやれたかもしれません。
いささかの悔いは残りますが、しかし、いまさらどうにもなりません。

すべては定めなのでしょう。
定めであれば、詮索は不要です。
しかし、節子との人生は、私の世界を大きくひろげてくれたことは感謝しなければいけません。
それがどんなに広いかは、私だけにしかわからないかもしれません。

大学時代の同窓会の案内が回ってきました。
少なくとも、大学の同窓生たちが語り合っている世界とは全く違う世界です。
今回も、同窓会には欠席することになるでしょう。
あまりにも違う世界で、会話も成り立ちにくいでしょうし。
そう考えていくと、私の世界はむしろ狭くなっているのかもしれません。
いろんな集まりのお誘いを受けますが、最近はどれもこれも不参加です。
何か違う世界への誘いのように感ずるからです。
そう考えると、私の世界は広くなったとは言えないかもしれません。
狭く特殊なものになってしまったのかもしれない。
そうかもしれませんね。
なにしろとても生きにくくなっていますから。

今日も暑くて、生きにくい日になりそうです。
その上、もしかしたら、夏風邪かもしれません。
喉が少し痛いですので。

■2875:久しぶりのお墓見舞い(2015年8月3日)
節子
久しぶりにお墓に「お見舞い」に行きました。
私も、内村鑑三にならって、これからは「お墓参り」ではなく、「お墓見舞い」と言うことにしました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/07/post-3ee4.html

夏は暑いので、お墓に供花してもすぐにダメになります。
それでこの時期はいつも造花にしていますが、今年はユリをベースにしてセットしました。
そういえば、自宅の位牌の前にも、いまユリがにぎやかです。
娘たちが、それぞれに買ってきて供えてくれたからです。
たぶん予算の関係で、カサブランカではありませんが、大きなオリエンタルリリーです。
下の畑も花がにぎやかになってきていますので、それも活けたいのですが、いまは活ける場所がないほどです。

最近の猛暑は、気をつけないと花もダメになります。
朝夕、自宅に居る時には時間をかけてたっぷりと水をやります。
だいぶ水やりのコツがわかってきました。

今日は我孫子駅にも行ったのですが、駅前花壇に花かご会の人が水やりをしていました。
この時期は作業日以外も当番で水やりをしているのでしょう。
私も昔、節子に頼まれて、水をやりに来たことが一度だけあります。
それを思い出しました。
今日は自動車だったので声を掛けられませんでしたが、暑い日の水やりは結構大変なのです。
見えないところで、まちを支えている人がたくさんいるのです。

まちだけではありません。
人も同じです。
節子がもしずっと元気だったら、そういうことへの私の感度は高まらなかったと思います。
どれだけ私は節子に支えられていたのか。
節子がいなくなってよくわかりました。
そして、すべての人への感謝の気持ちも高まりました。
人の不在が教えを与えてくれる。
これも節子から学んだことです。

暑かった1日も、夕方には涼しくなりました。

■2876:死に誠実に向かえあえ(2015年8月4日)
節子
前野隆司さんが書いた「死ぬのが怖い」は面白い本でした。
この本に出会ったのは、友人の岡田さんが私に薦めてきた前野さんの別の本を読んだのがきっかけでした。それがなければ、この本を手に取ることはなかったでしょう。
私は、「死ぬのが怖い」という書名に全く反応しなかったはずです。

その本の最後の方に、いわばこの本の総括としてこんな文章があります。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。
私の一言感想もはさみながら。

あなたにとって大切な人の死は、人生最大のショックだ。
もはや一生、この悲しみを乗り越えられないだろうと感じる。
しかし、人間にはコーピング(うまく対処し乗り越える、という意味の認知心理学用語)能力がある。
大切な人を愛していればいるほど、その人の死を早く乗り越えられるという説もある。

まあ、そうかもしれないな。

自分の死は、自分にとっては最大の問題だが、実は、最愛の人だって、何年かすると、あなたの死を乗り越えるのだ。あなたについての記憶は、大切にはされるだろうが、風化していく。そして、ほんの60年後くらいだろうか。あなたのことを知る人がいなくなると、もう誰もあなたのことを思い出さなくなる。

たしかにそうだ。

はかない人生だ。あなたは生きて、そして、忘れ去られる。あなたの最愛の人は、あなたとともに生きて、そして、忘れ去られる。(中略)すべてが無に帰す。愛する人とのすばらしい思い出も、あなたが今ここに生きた証も。

それはそうだ。
実にはかない。いや、さびしい。

しかし、それに続いて、前野さんはこういうのです。

それは本当に、寂しいことだろうか。
悲しいことだろうか。
はかないことだろうか。
死とは、本当に、寂しく悲しくはかないことなのだろうか。
人間は、その問いに一度まっすぐ立ち向かうべきなのではないだろうか。
死の意味をはっきりと自覚することによって、生き方が変わるからだ。
なぜなら、死とは、「先のことを考えて生きなさい」の究極だから。

もっと早くこの本に出会えていればよかったと思いました。
どの部分で、そう思ったのかと訊かれてもうまく答えられませんが、そう思いました。
それに、この人は自分軸で語っているのが、とてもいい。
輪廻転生を信じていないのが、気に入りませんが、まあこの人は科学者らしいので仕方がない。

しかし、「死ぬのが怖い」という書名がよくない。
死が生きる最終地点というもよくない。
死(自分の死とは限りません)から始まる物語もあるのです。
それを考え出している時期に、この本に出会えたのも偶然とは思えません。

ちなみに私がこの本で一番気に入ったのは、生きることと死刑宣告を受けた死刑囚とどこが違うのかという問いかけです。
たしかに、生きる先には死があります。
これは一例ですが、本書はいろんな問いかけをしてくる、楽しい本です。

■2877:「不垢不浄」「不暑不涼」(2015年8月4日)
節子
節子も、最後の夏は猛暑を体験しましたが、今年の夏の暑さはあの時以上です。
さすがに心身にも影響が出てきそうです。
昔は「夏は暑いところに価値がある」などと言っていましたが、そんなことはもう言えそうもありません。

柳宗悦の「無有好醜の願」を読みました。
浄土には二元はない、と書かれていました。
浄土は「不二」「一如」の世界なのです。
つまり美も醜もない。
般若心経の「不垢不浄」の世界です。
つまり、垢(醜)もないが、浄(美)もないのです。
垢(醜)がないから、浄(美)なのではないのです。
なるほど、とても納得できます。
最近は、こうしたことがすんなりと心に入ってきます。

しかし、まだ悟れてはいないのです。
そうであれば、なぜ「浄土」などというのだという疑問が浮かんできてしまうのです。
垢からも浄からも自由になることが、本来の浄(畢竟浄)なのだという答えはわかってはいるのですが、やはりまだそこに引っかかってしまうのです。
まだまだ悟れません。
ちなみに。悟るとは「差をとる」ことだそうです。
二元の世界から不二の世界に移るということでしょう。
あるいは、時空間を超えるということです。

猛暑の中を、いろんな過ごし方をしてみました。
先日は37℃の庭で、読書をしました。
1日はエアコンの下で怠惰に過ごしました。
まだ暑い最中、畑に行って倒れそうになりました。
それぞれ一長一短です。
暑いとか涼しいとかから自由になれば、どんなにいいことでしょう。

猛暑なので、熱中症に気をつけましょうとテレビが盛んに言っています。
どうもこうした風潮が気に食わないのです。
暑い夏は、暑さに汗をかきながら過ごしたいものです。

■2878:太陽とともに、家族とともに(2015年8月5日)
節子
夏らしい朝です。
いまはまださわやかですが、今日も猛暑日になるようです。
畑に水をやりに行ってきました。
今日は湯島に行くので、夕方の水やりもできないからです。
斜面に植えた、花が枯れないようにしないといけません。

朝からテレビでいろんな事件が報道されていますが、わが家の場合、妻が少しだけ早く亡くなっただけで、家族がこんなに変わってしまうことを思うと、事件で家族の誰かが亡くなってしまった家族は、一体どうなるのだろうと考えてしまいます。
家族の結びつきが強いと、たぶん家族一人ひとりの生き方も大きく変わることでしょう。
地域住民の生活の繋がりが弱くなったなかでの家族のあり方は、考え直してみる必要がありそうです。
地域社会と家族とは、不可分ですから。
そうした意識は、私と節子はほぼ同じところに向かっていました。
しかし残念ながら、転居した後、中途半端なまま頓挫してしまいました。

今朝の畑行きはいつもより早かったので、まだどこも動き出してはいませんでした。
太陽とともに起きだし、太陽とともに床に就く。
やはりそういう暮らしを、人生の最後にはしたかったなと思いました。
いまからでもできないわけではありませんが、まあ無理でしょう。
私の場合は、そこにやはり、「節子とともに」がどうしても必要なのです。
最初から「自立した生き方」を、私は求めていなかったからですが、これだけはいまさらどうにもなりません。

でもまあ、明日からまた、早寝早起きを目指そうと思います。
最近、生活がかなり乱れていますので。

■2879:不二の世界の浄土(2015年8月5日)
節子
今日は暑いですが、我孫子は風があります。
夏の風は、とても心地よい。

いま柳宗悦の晩年の4部作と言われるものを、ゆっくりと読んでいます。
ゆっくりという意味は、思いついた時に、数ページを読むという読み方です。
最初に読んだ「無有好醜の願」は面白かったので一気に読んでしまいましたが、何か未消化だったので、先日からまた読み直しました。
その時、これはゆっくり読まないといけないと思ったのです。
ですから、リビングのテーブルに本を置いておき、ちょっとした合間に数ページを読むスタイルにしました。
こんな読み方はめったにありませんが、時々、やっています。
私の場合、この方法だと必ず途中で挫折しますが、今回はいずれも短い作品なので読み切れるでしょう。

晴耕雨読ではなく、最近は涼耕暑読です。
猛暑日が続いているので、読書も増えています。
今日は、これから湯島に出かけますが、今読んでいた「美の浄土」にこんな記述がありました。

実は興味深いことに、仏教で浄土が語られましてから二千年余りにもなるでありましょうが、浄土の存在の有無はしかく問題になった事がないのであります。

仏教を支える思想は、インドに生まれたと思いますが、そこでの時間感覚や空間感覚は想像の域を超えています。
ゼロも無限大も、その概念はインドから生まれたと言われますが、「浄土」思想もそうだったのでしょうか。
今まで、浄土ということをあまり考えたことがありません。
この挽歌では、彼岸という言葉はよく使いますが(私にとっては今や日常語です)、彼岸は必ずしも浄土とは限りません。
私はなぜか無意識のうちに同じものと捉えてきた気がしますが、やはり別のものです。

柳宗悦は、浄土は「不二の世界」と書いています。
その考えを突き詰めてくと、いまここが浄土にもなるような気がします。
まあどうでもいいようなことですが、そうした問題に柳宗悦の本は気づかせてくれます。

いまはエアコンのない仕事場でこれを書いていますが、暑いですが、外から快適な風が入ってきます。
まるで、浄土にいるような気がします。

さてこれから支度をして湯島です。
都心は暑いでしょうね。
しかし、暑さも涼しさも、不二なるものとして、いずれも楽しみたいものです。
まあ今はそんな気分ではあるのですが、すぐへこたれるでしょう。

■2880:湯島は豊かな場所です(2015年8月5日)
節子
今日は午後から湯島で2つの集まりがあります。
この暑い中を、お一人は葉山からわざわざ休暇を取ってきてくれます。
若い人たちの支援活動なのですが、前回たまたま巻き込んでしまったら、勤務を休んでまで来てくれるというので、せっかくなのでお昼をご馳走しようと思って、早く出てきました。
しかし、残念ながら午前中はいろいろとあったようで、食事には間に合わないと連絡が来ました。
それで、時間ができてしまいました。
外の暑さを考えると、一人では食事に行こうという気にもなりません。
手元にあった、非常食用のリッツとコーヒーで我慢することにしました。
そんな、ちょっとさびしい、しかし私好みの軽食をしながら、ふと考えました。

この湯島のオフィスには、これまで実にさまざまな人がやってきました。
音信不通になってしまった人もいますし、声をかけるのがはばかられるほど有名になった人もいます。
犯罪で逮捕された人もいますし、自殺した人もいます。
足しげく通っていたのに、なぜか突然来なくなった人もいます。
財を成した人もいますし、自己破産した人もいます。
あの人はどうしたかなと時々思い出す人もいますし、全く思い出さない人もいます。
まあ世間には実にいろんな人がいる。
湯島を拠点にして27年生きてきたおかげで、それがよくわかります。
人の世は本当に豊かなのです。

しかし、そうした違いは、ほんのちょっとした違いであって、本人の才能や人格とはほとんど無縁なのではないかと、最近、ますます確信してきています。
とりわけ、世間的に有名になるとか財を成すとかいうことは、ほんのちょっとしたきっかけにどう対応したかどうかだけの話かもしれません。
しかし、不思議なもので、あるきっかけである方向に進みだすと、多くの場合、それは加速されがちです。
才能や才覚が感じられなかった人もそれが育つような気もしますし、人格も変わるような気もします。
最初は本当に小さな違いなのです。
だからこういう生き方をしていると、みんな同じように見えてしまうようになったのかもしれません。

有名になろうと無名であろうと、豊かであろうと貧しかろうと、どんな人でも、同じ一人の人間として、気楽に集まれるような、気楽に交われるような、そんな場に湯島がなればいいなと思っていますが、時間を逆転させれば、実は湯島はそういう場所だったのだと気づきました。
できれば、そこに、死んだ人も集まれるともっといいのですが。

そろそろ集まりに参加する人がやってきました。
暑い中を、この人も仕事を休んできてくれました。
みんなに感謝しなければいけません。
ちなみに私も、その一人でもあるのですが。

■2881:「むき出しの自分」の危うさ(2015年8月6日)
節子
昨日は若者たちを主役にした集まりをやりましたが、新たにまた2人の若者が参加してきました。
結構、打たれ強い若者で、芯もありそうです。
そういう若者を見ていると、元気が出てきます。

若者はなぜ元気なのか。
たぶん前が見えないからでしょう。
未来を自分でつくれるのです。
私の世代でも、そう思って元気な活動をしている人もいます。
逆に、前が見えればこそ、元気に活動している人もいる。

しかし、こういう話し合いの場をいろいろと試みていると、いろんな気付きがあります。
と同時に、私自身がいかに社会から脱落しているかもよくわかります。
27年前、会社を辞める時に、社会から「離脱」し、社会に「融合」しようと考えていました。
どうもそれはうまくいかず、ただ「脱落」してしまっただけかもしれません。
今ごろになって、私はやはりどこかおかしいのではないかという自覚が高まっています。
それにいささかすねている面もあります。
これは直したいのですが、なかなか直せません。

それでも湯島でサロンをやると、いろんな人が参加してくれています。
感謝しなければいけません。
会社を辞めた時に、いつか小さな喫茶店を開店して、毎日サロンをする生活を実現したいと思っていましたが、それは実現できませんでした。
できれば、それが自然の中の喫茶店だと理想的でしたが、そうした計画を話し合う前に、節子はいなくなったのです。
節子がいなくなってから、それまでオープンサロンに参加してくれていた人たちから、サロン再開の要請を受けていましたが、なぜか節子がいなくなってからのサロンの風景は変わってしまいました。
集まる人もほとんど変わりました。
サロンをしてほしいと言っていたのに、一度も来ない人もいます。
言葉で語る人への信頼感は、大きく損なわれました。
しかし、もしかしたら、再開したサロンのイメージが変わって、来たくなくなったのかもしれません。
それなら仕方がありません。

誰もが気楽にいられて、ほっとできる空間。
それが以前の方針でした。
しかし最近は、どうもポレミックな、つまり論争的な場になってきています。
本当はもっとまったりしたサロンが居心地がいいのでしょうが、そうした場を持続させるのは、結構難しいのです。
どうも独りになってから、私はいささか余裕がなくなっているのかもしれません。
節子の存在が、私の偏った生き方のバランスをわずかばかりとってくれていて、しかしその一方で、私の人間的可笑しさをカバーしてくれていたのかもしれません。
伴侶がいなくなると、人は「むき出しの自分」に戻ってしまうのかもしれません。
困ったものです。

今日も暑くなりそうです。

■2882:未だ打たざる太鼓の音の美しさ(2015年8月6日)
未だ打たざる太鼓の音の美しさ。
これはインドの詩人、カビールの詩に出てくる言葉だそうです。
柳宗悦の「美の法門」に紹介されています。
原典を探したくて、ネットで少し探しましたが、いつものようにやはり見つかりません。
でもまあ、原典に当たることもないでしょう。
この言葉の素晴らしさは、この一言で十分です。

私も、こうした経験はこれまで何回かしています。
太鼓ではなく、鐘のことが多いのですが。
見ただけで、美しい音が聞こえてくる。
それがあまりに美しい時には、打ってほしくないこともあります。
打たれた途端に、その美しさが消えてしまうこともあるからです。
音は聞かずに、観るのがいい。
観音像が好きな私は、いつも観音像からも音が聞こえてくるのです。

ところで、カビールのこの言葉で思い出したのは、昔、節子と行った常宮神社で見た新羅の鐘です。
常宮神社は、敦賀半島にある小さな神社です。
昔は気比神社の奥社だったそうですが、いまはほとんど訪ねる人もいないような場所にあります。
しかし、その鐘は日本で一番古い新羅の鐘で、国宝だったと思います。
神社の神職の方が、撞いてくれました。
とてもいい音色だったのを覚えています。

たしか2004年の秋でした。
節子はすでに発病していましたが、手術後、少し体調が回復しだし、滋賀の生家の法事に行った時に、姉夫婦が連れて行ってくれたのです。
あの鐘は、見た途端に音色が伝わってきました。
そして神職の方が撞いてくれた時には、その音色がそのまま伝わってきたのです。
あの頃は、まだ、私たちは節子が回復すると固く信じていました。
だから音色も美しかったのかもしれません。
音色は、心で受けるものですから。
たぶん私たちは、同じ音色を聞いたはずです。

常宮神社にはもう行くこともないでしょう。
たしかきれいな海も見えたような気がしますが、思い出す風景は現実のものでしょうか。
新羅の鐘の音も、もしかしたら、もう聞こえないかもしれません。

音が観える。
風景が聞こえる。
その時は、心身が生き生きしているのでしょう。
そうでない時には、音も観えなければ、風景の音もない。

時々、彼岸が観えたり聞こえたりします。
これも一種の脳の成長なのかもしれません。
こうしたことを、脳の老化とか認知症とかいう人がいますが、私はすべてを肯定的に受け止めています。

■2883:季節外れのさつまいも(2015年8月6日)
節子
今日、畑にさつまいもを植えてきました。
完全に季節はずれです。

昨日、湯島の集まりに節子もよく知っている渕野さんが、焼き芋を持ってきてくれました。
本郷3丁目のマルエツで売っている人気の焼き芋だそうです。
なんで夏に焼き芋?というのがみんなの反応でしたが、夏でもよく売れる美味しい焼き芋なのだそうです。
でも正直、渕野さんの好意には感謝しますが、今回に限って言えば、あんまり美味しくありませんでした。
渕野さん、すみません。

ところで、それで思い出したことがあります。
毎年、福岡の蔵田さんが、小国のさつまいもを送ってきてくれます。
電子レンジで、簡単に焼き芋になるというものです。
毎年贈ってもらうのですが、わが家では実はあまり人気がありません。
それでまあ、周りの人へと行くわけですが、差し上げた人はとても喜んでくれます。
でもわが家では必ず毎年、一つ残ってしまい、気がつくと芽が出たりしているのです。
わが家は、みんな焼き芋が好きではないのかもしれません。

今年もまさに、そういうのが一つ残っていました。
どうしようか迷っていたのですが、いっそのこと、畑に植えてしまおうと思い、2週間ほど前から庭に出しっぱなしにして、芽の生育を促していたのです。
今日はそれを持ち出して、畑に植えてきました。
そもそも本来の植え時からは3か月近く遅れています。
さてどうなるでしょうか。
意外とおいしい芋が育つかもしれません。
節子がいたら、植えさせてもらえなかったと思いますが。

ちなみに、ジャガイモは今年はかなりとれました。
放射性汚染が気にならないこともなかったのですが、まあいいかと思い食べてしまいました。
しかしお裾分けするわけにもいかず、いまなお残っています。
これもまた来年の作付け用になるかもしれません。

畑には、できるだけ水やりに行っていますが、1日でもさぼると確実に影響が出ます。
野菜はまあいいとして、花が枯れてしまうのです。
農業をやっていると、人は必ず勤勉になるものです。

それにしても、野草は駆っても刈っても出てくるのに、植えた花はなぜこんなに弱いのでしょうか。
それが不思議でなりません。

■2884:昨日はちび太の命日でした(2015年8月8日)
節子
昨日は湯島で2つのミーティングをやったりして、ちょっと疲れてしまい、帰宅後、パソコンに向かう気をなくしていました。
それで書き損なったのですが、昨日はちび太君の命日でした。
今年は3回忌です。
ちび太も長い闘病生活でしたが、医師も驚くほどの長寿でした。

ちび太は生後間もなく大病を患ったようです。
わが家に来たのは、その後なのですが、その後遺症が出て、大変でした。
いろいろとありましたが、長いこと私たちを和ませてくれました。
念のために言えば、ちび太は犬です。
節子はもういなかったので、家族3人で葬儀を行いました。
最後の2年ほどは、寝たきりでしたので、その介護も大変でした。
夜中に吠えだすこともあって、眠れない時もありました。
でもそうした大変さも、いなくなると、むしろ楽しい思い出になります。

しかし、なぜか節子の闘病生活は、いくら時間が過ぎても、楽しい思い出にはなりません。
どこが違うのでしょうか。
節子の8月の闘病生活は、思い出しただけで、いまでも精神的に不安になるほどです。

節子の命日も近づきました。
それまでに挽歌のナンバーを追いついておかねばいけません。
そのために、最近は時評編はなかなか書けません。
困ったものです。

■2885:今年も黒崎茶豆が届きました(2015年8月8日)
節子
新潟の金田さんから、黒崎の茶豆が届きました。
枝豆が好きだった節子に供えさせてもらいました。

金田さんは一昨日、電話をくれました。
元気そうな声でした。
入院していた奥さんが退院してきたのです。
問題はまだまだ山積みなのでしょうが、やはり金田さんの声が変わっていました。
もっとも金田さんによると、私の声も、久しぶりに元気そうだったようです。
たしかに、少しずつ、私も落ち着きを取り戻しています。

今年の新潟は雨が少なく、枝豆の出来もあまり良くないのだそうです。
それで金田さんがわざわざ生産者のところまで行って、送ってくれたようです。
ご自身が大変な状況なのに、そんな心遣いをしてくれたことに申し訳なさが高まります。
私も、お相伴させてもらいました。
金田さんは茶豆の出来具合を心配していましたが、確かに小粒とはいえ、いつも以上に香りがよく、おいしかったです。

節子がいたころは、わが家の畑にも枝豆とかピーナツとか、いろんなものを植えていました。
収穫もありました。
ちなみにその時、収穫したピーナツがいまも残っています。
なぜか誰も食べようとしないまま、残ってしまっているのです。
来年、それを蒔いてみようかと思います。
芽が出てくるとは思いにくいのですが、まあ試しです。
枝豆にも挑戦してみようと思います。

■2886:「パリは燃えているか?」をまた観ました(2015年8月8日)
節子
古い映画を観てしまいました。
「パリは燃えているか?」です。
あまり記憶が定かではないのですが、当時、勤務していた会社での映画会で、この映画が上映されました。
なんでこの映画が上映されたのか、不思議ですが、それはともかく、私も節子も、別々にですが、この映画を観ました。
節子は友人たちと一緒に見たようですが、まったく面白くなく、内容もよくわからなかったようで、不評でした。
その話が出たのは、たぶん結婚してからです。

今日、見直してみて、確かに面白くないし、よくわからなかっただろうなと思いました。
節子は歴史には疎かったですし、その背景に関する知識はほぼ皆無だったでしょう。
私もこの映画は、おもしろくなかったのですが、それでもちょっとワクワクする映画でもあるのです。
それは、私の世代にとっては有名な俳優が、ほんのちょっとだけ顔を出すというところです。
今回も物語の内容ではなくそれを楽しみました。

カーク・ダグラスが、バットン将軍役で出てくるのですが、バットンのことを知らないだろう節子にとっては、退屈なシーンだったでしょう。
しかし、私にはその何でもないシーンが、感動的にさえ思えるのです。
アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドが、あんまり目を合わせないで話しているシーンも面白かったです。
まあ、私のうがちすぎかもしれませんが。

節子は、「人が殺し合う場面」が嫌いでしたから、戦争映画は見ませんでした。
にもかかわらず、この映画のことは何回か話題になりました。
まあ、そういうこともあって、私は今日、この映画をまた観てしまったのですが。
どこかに話題になりそうなところがあるかなと思っていましたが、そういう場面はありませんでした。
なぜ夫婦の会話に、この映画が一度ならず出てきたのか、不思議です。

この映画は面白くないと思っているのに、なぜかこの映画をテレビで放映していると録画してしまいます。
やはり、節子との記憶の中で残っている、数少ない映画だからでしょうか。
節子は、そもそも映画はあまり好きではありませんでしたから。

パリには、私も節子も、行ったことがありますが、別々でした。
節子は友人たちとのちょっと贅沢な旅行でしたが、私は仕事で、それも宿泊するホテルがよくわからずに一人で捜し歩いたりして、あまり良い印象は残っていません。

今日は立秋。
暑さがだいぶやわらぎました。
畑にも行けそうです。

■2887:学びの場(2015年8月9日)
節子
涼しくなりました。
今日は畑にも行けそうです。
秋に向けて花を植える場所をつくらなければいけません。
例年であれば、ブルーのセイジが咲き誇っているはずですが、今年はいささか刈り取りすぎたようで、ぱらぱらとしか咲いていません。
草刈りは結構難しいのです。

今年の猛暑で、庭の花木もだいぶ弱ってしまいました。
琉球朝顔に並んで、皇帝ダリアも春に植えたのですが。どうも元気がありません。
朝晩の水やりはかなり習慣化しましたが、それでも抜けがあって、枯らしてしまうのです。
しかし、どんなに水やりをさぼっても、野草だけは枯れません。それが実に不思議です。
これをテーマにするだけでも、生命の本質が見えてくるかもしれません。
言語化はできませんが、ささやかな体験だけでも気づくことは多いです。
お百姓や主婦が、哲学者になる理由がよくわかります。

節子は、毎日、花と接する時間を持っていましたが、私はまだそこまでにはなれません。
大切なのは、水やりではなく、花木への声かけなのだとわかっていても、なかなかそうはなりません。
いまから考えれば、むかし私がやっていたのは、表面をただ濡らすだけの水やりでした。
その花木の状況に合わせて、時間をかけないといけないということに気づいたのは、最近です。
つまり、花木に水をやるということは、花木と話し合うということなのです。
こうしたことを通して、人はさまざまなことを学んでいくのでしょうが、そういう学びの場がどんどんなくなっているような気がします。
少なくとも私は、そうしたことの多くを、つまり生きるための多くを、節子に依存していたために、私の学びの場はいかにも狭かったことを実感しています。

■2888:長崎にももう一度行かないといけません(2015年8月9日)
節子
今日は、長崎に原爆が投下された日です。
テレビで平和式典の様子を見ていましたが、複雑な思いで見ていました。
どうしてそこに、安倍首相がいるのかが全く理解できないのです。
まあ、そういう理解できないことが、最近は増えてきています。

長崎といえば、一度、節子と2人で行ったことがあります。
長崎と佐世保を回ったような気がしますが、例によって、正確な記憶がありません。
ただ覚えているのは、節子と私が長崎に行くと知った、長崎の友人たちが、私たちをしっぽく料理に誘ってくれたのです。
これまたよく覚えていないのですが、見晴らしのいい山腹の料理旅館に招待してくれ、数名の人たちで宴会をしてくれたような気もします。
節子はとても喜んでいました。
当時、長崎県や佐世保市などで、私は仕事をしていた関係で、友人たちは多かったのです。
佐世保はハウステンボスに泊まったのですが、その時ももしかしたら誰かが便宜を図ってくれたのかもしれません。
節子がいたら、覚えてくるでしょうが、私はそういうことは一切記憶に残りません。
費用さえだれが負担したかも覚えていないのです。
困ったものです。

少なくとも、その時、ご一緒した人の何人かは覚えています。
もちろん今もお付き合いがありますが、長崎にも佐世保にも久しくいっていません。
時間的・経済的に、もう少し余裕があれば、一度、長崎もゆっくりと回ってきたいのですが、いまはまだ、その気になれずにいます。
いや、余裕の問題というよりも、一人での旅の自信がないのかもしれません。

でもそろそろ行っておかないと、行けなくなるかもしれません。
日本中に、会いたい人がたくさんいます。
いまならまだ行けそうです。
しかし、どうも先延ばしにしてしまう傾向があります。
こうやって、人は、たくさんの「やり残し」を残して、旅立つのでしょうね。

■2889:27リットルの荷物(2015年8月9日)
節子
まもなくサンチャゴ巡礼に旅立つ鈴木さんから、メールが来ました。

パッキングを準備中です。
モノの山を見るとすべてが27リットルにおさまるとはとても思えません…。
これから本当に必要なものだけに削っていくのが修行ですね。

8月中旬から、2か月半の予定で、フランスからスペインのサンチャゴ巡礼に出かけるのです。
すべての所持品を27リットルのパックに詰めていくそうです。
そこで、何を選ぶかが大切になってきます。
パソコン類を持参するかどうかも検討していましたが、かなり早い時期に持参は止めたそうです。
ですから巡礼中は、連絡はほとんどつきません。
最近は、巡礼路にもネットカフェもあるそうですが、結構、場所の確保が大変だそうです。
鈴木さんは、もともとライターの仕事をされていましたので、本当はしっかりと巡礼記を残してほしいのですが、記録のためのノートも、大きさと重さを考慮して厳選したようです。
鈴木さんの紀行文は、とても面白いので、ぜひとも読みたい気がしますが、書くために歩くのではないので、本にしてくれるかどうかはわかりません。

本当に必要なものを選ぶ。
鈴木さんは、以前からかなり身の回りの所持品を減らす生き方をしています。
独身ですので、比較的自由とはいえ、実家には母親もいます。
完全に独り身とはいえません。
勤務先は先月、退社したのですが、その面は心配ありません。
しかし、2か月半の人生を支えるために「必要なもの」を選ぶということは、自分の生き方を捉え直すということでしょう。
鈴木さんは、何を選ぶかをきっと楽しんでいるはずです。

しかし、すべてを置いて、2か月半、歩き続ける、
うらやましい贅沢です。
大きく変化して戻ってくるでしょうか。
いや、たぶん、ますます「鈴木さんらしく」なって戻ってくるでしょう。
2か月半で、きっと「本当に必要なもの」でないものに気づき、それを棄てて、ますます純な鈴木さんになってくるはずです。

巡礼路を歩くと人は、「本当に必要なもの」に気づいて、身軽になる。
俗世間を俗に歩いている人は、「必要でないもの」をたくさん背負い込んで、生きにくくなる。
最近、巡礼者が増えているそうですが、みんなきっと背負い込みすぎてしまったのでしょう。

27リットルの荷物。
私なら、何を選ぶでしょうか。

■2890:伴侶と社会性(2015年8月10日)
久しぶりに夜に雨が降りました。
今日は畑に行かなくてもよさそうです。
しかし湿度が高く、さわやかな朝とは言い難いです。

知人が、一昨日から川内原発再稼働反対のデモに行っています。
今朝の新聞に報道が出ていましたが、今日までの3日連続デモです。
私自身がいま一番気になっているのは、原発です。
私が、なにもせずに、のうのうとエアコン生活ができないと思っている一因もそこにあります。
それでも新聞が報道してくれていたので、少しホッとしました。
知人は、もう60代を超えた人ですが、国会デモにも出かけ、福島に行き、行動しています。
それに引き換え、私は、どうも動けずにいます。

数日前に、節子もよく知っている田中弥生さんが、フェイスブックで「ヒトラーを支持したドイツ国民」という本を読んだと書き込んでいました。
たしか10年近く前に、日本でも翻訳出版された本ですが、私も前に読んで、日本の社会状況や国民の動きと酷似しているのを感じて、不気味に思ったのを思い出しました。
しかし、残念ながら、時代の動きは速いので、ニーメラーと同じ後悔を私たちはしなければいけないのかもしれません。
いろいろと希望を期待させられることにも出会うことはあるのですが、大きな流れはもう止められないのかもしれないと、空しくなることが増えています。
どうもそれが、私が最近、元気が出てこない大きな理由かもしれません。
気分転換できることにさえ、気が向きません。
節子がいたら、私も人生の第4期に入り、社会から抜け出た暮らしに入れていたのになと思うこともないわけではありません。

時代に暗雲が立ち込めている。
であればこそ、課題は山のようにある。
しかし、伴侶を喪うと、社会性も失ってしまうものかもしれません。

■2891:時間を超えて、悟りを得た気分(2015年8月10日)
節子
もしかしたら、自分ではあまり気づいていなかったのですが、軽い熱中症で思考機構に損傷を受けているのかもしれません。

今日、節子の友人から久しぶりに電話をもらい、話したのですが、どうもうまく話せないのです。
節子の友人とはいえ、私もよく知っている人なのですが、どうも話すことが思いつきません。
いつもなら、必ず笑いにつながるジョークのひとつくらい言えるのですが、うまく言葉を受け答えられないのです。
自分ながらに、なにかおかしい。
もともと電話は苦手で、嫌いなのですが、どうもいつもと違います。
相手もちょっとおかしいなと思ったのか、短い電話になってしまいました。

そもそも自然現象には異常などないと思いたい私としては、認めたくないのですが、今年の暑さは異常なのかもしれません。
もっとも、暑さのせいにするよりも、自分の歳のせいにした方がいいかもしれません。
熱中症のせいにするのは、いかにも安直です。

最近、思考と発言との乖離がますます大きくなってきている気がしますが、これは何も暑さのせいではありません。
涼しいころから起こっていたことです。
要するに、脳機能の老化がかなり進んでいるのでしょう。
にもかかわらず、自分ではそれを納得していないので、意識と実態の乖離から、時に話せなくなることが起きてしまう。

ところで、思考と発言との関係はどう考えるべきでしょうか
人は「考えたこと」を「発言する」のか、「発言したこと」を後追いで考えるのか。
私は以前から「人は話しながら考えるもの」だと思っていました。
だから、思考と発言は同じものだと思っているのですが、どうも最近、そのずれが大きくなってきているので、どうやら前後関係があるのではないかと思いだしているのです。
「考えてから話す」のだから、思考が先にあるのだろうと思う人が多いかもしれませんが、私はそれには違和感があります。
考えていることと、別のことを話してしまうことが多いからです。
人は、まず話してから、それを理屈づけるために、さも前もって考えたように、取り繕うのではないか。
もしそうなら、時間とはいったい何なのかという話になっていきます。
実は今日、私が留守の時に電話をもらっていて、後でまた電話してくると娘から聞いていました。
それを聞いた時、実はうまく電話で話せないなという気がしていたのです。
そしてその通りになってしまった。
電話を受ける前に、電話がうまくできないことを、私は知っていたのです。

暑さのせいで、どうも私のまわりの時間の流れが混乱しているようです。
いや、脳の老化で私の時間の流れが無秩序化してしまったのかもしれません。
いやいや、そもそも時間はヘリウムの流れのように、方向などなく、ただただ多重に存在しているだけなのかもしれません。

だんだんわけがわからないことになっていますね。
実は私には書いているうちに大きな「気づき」があったのですが、もしかしたら、それは脳の損傷か、あるいは、暑さのために脳が溶融してしまったためかもしれません。
最近、なんだか此岸から彼岸に飛んで行けそうな気がしてきていますが、単に暑さに脳がやられてしまっているだけなのでしょうか。
なにかちょっと悟りを得た気分もしているのですが。

■2892:杉野さんの梨が手に入るかどうか心配です(2015年8月11日)
やはり暑いです。
お盆が近づいたので、節子が好きだった杉野さんの幸水梨を分けてもらおうと杉野さんのところに行きました。
ところが、いつもは家族みんなで作業しているはずの作業所に誰も居なくて、「本日完売」の紙が貼ってありました。
ちょっと出遅れたかと帰ってきたのですが、明日、また行こうと思っていました。

ところが、夜になって、杉野さんのフェイスブックを見たら、今年は収穫が少なくて、予約を受け付けたところさえも出荷できないかもしれないと書いてありました。
そうだったのか、いささか心配になりました。

杉野さんの梨は、節子が友人から教えてもらい、節子が元気だったころは毎年、シーズンには何回か買いに行っていました。
場所は、自動車で15分ほどかかりますが、杉野ファミリーはとても気持ちのいい家族なので、ある時から私も一緒に行くようになっていたのです。
ある時、杉野さんと共通の友人がいることがわかり、以来、いろんなお話もさせてもらうようになりました。
これも、節子のおかげでできた縁です。

杉野さんはこう書いていました。

立秋を境に天候が変わったようですが、ナシの収穫が思うようにできてません。
収量がでないのです。
言い訳をお許しいただければ、ご予約いただいているご注文にすべて応えられそうにありません。
晴れても雨が降っても風が吹いても百姓は愚痴ばかり言ってる。
たしか映画七人の侍のなかでこんな台詞があったような気がするのですが、まさに今年のナシは愚痴ばかり。
でも、天に唾しても返ってくるのは自分なんですが。

いかにも杉野さんらしいです。
しかし、「愚痴」ってもしかしたら、生活者が発明した最高の知恵の一つかもしれません。
最近、私も愚痴を言いたいことが多くなりました。

諦めずに、明日か明後日、また杉野ファームに行ってみようと思います。
お盆には節子に供えたいです。
それに、私も食べたいですし。

節子
もう少し待ってください。

■2893:お盆の準備(2015年8月12日)
節子
久しぶりに大宰府の加野さんから電話がありました。
私より一回り上なので、もう80代の後半です。
お元気です。
お元気な理由は、一つです。
以前お会いした時に、先に逝ってしまった娘さんの供養をしなければいけないので、ともかく元気でなければいけないと言われました。
それが加野さんが元気で居続ける理由ですが、その言葉は、私に対する元気づけの言葉でもあります。
佐藤さんも、元気にしなければいけないでしょうというメッセージです。

加野さんが、もうじき奥さんが戻ってきますね、と言ってくれました。
お盆が近いのです。
加野さんは、いまも毎月、大日寺に娘さんに会いに行っていることでしょう。

娘が仏壇に代わって、節子を向ける棚をつくってくれました。
わが家の場合、節子はいつも「ここ」にもいるのですが、お盆の時には精霊棚にするのです。
畑からとってきたわが家の花に加えて、節子の好きなバラを娘たちが供えてくれました。
昨日まではユリが香りを振りまいていましたが、お盆はバラがメインのようです。
今日は杉野さんのところに行けなかったので、節子の好物の梨は供えられていませんが、代わりに畑で採れたジャンボキュウリを供えました。
お盆の精霊棚では、キュウリはお向け用の馬の役割です。
今年は、キュウリも帰りの牛用のナスも、馬や牛にしないで、そのまま飾り、終わったらちゃんと食べようと思います。
考えて見ると、それが合理的です。

お盆の準備もできました。
明日は迎え火です。
もう8回目のお盆です。

■2894:オレンジな節子(2015年8月12日)
節子
今朝、しつらえた精霊棚にまた花が増えました。
隣のMさんが、今年も花を届けてくれました。
もう8年もたつのに、毎年、必ず花を届けてきてくれます。
節子と、さほど親しかったわけではありません。
なにしろ転居してきて、すぐに節子は発病しましたから、2〜3年の付き合いでしかありません。
にもかかわらず、毎年、忘れずに花を届けてくれるのです。
節子が声をかけていた娘さんも、もう大きくなって、道であってもわかりません。

近所づきいというのは、やはり女性の世界で、節子がいなくなってからは、会ったら挨拶するくらいのお付き合いなのですが、お盆には必ず花を届けてくださるのです。

今日は私ではなく娘が受け取ったのですが、
お母さんはオレンジ色のイメージだからと、今年もまたオレンジ基調の花にしてきてくれました。
いまから思うと理由がよくわからないのですが、私も実はオレンジな感じがしているのです。
しかし、節子が実際に好きだったのは、真紅のバラと純白のユリでした。
でも真紅も白も、節子のイメージにはちょっと合いません。

そういえば、これまで写真を撮って置いたことがないので、写真を撮ることにしました。

わが家が用意した花が少しかすんでしまいます。
明日にはもう少し花もにぎやかになりそうですが。

■2895:ガツンとやられた気分(2015年8月13日)
節子
昨日、ある本を読みだしたら、途中で止められなくなって、すべての行動をやめて、その本を読み終えてしまいました。
池田浩士さんの「ヴァイマル憲法とヒトラー」という本です。
戦後ドイツのことも少しは知っているつもりでしたが、実に中途半端な知識しか持っていないことに気づかされました。
いや、知識の問題ではなく、考えが足りなかったというべきでしょう。
ガツンとやられた気分です。

また時評編には書くつもりですが、まずは節子への報告です。
どこでガツンを感じたかですが、それは自らの信条で生きているかということです。
まあここで詳しく書くのは止めましょう。
しかし、ともかくガツンとやられてしまいました。
一人で受け止めるには、いささか荷が重いですが、仕方ありません。
今日もう1日、じっくりと考えようと思います。
いろいろと考え直さなければいけないことが出てきましたし。
節子が言いたら、話し合いながら、生き方を見直せるのですが。

この本は多くの人に読んでもらいたいですが、気楽に進めるわけにもいきません。

今朝は涼しい朝です。
これからお墓に行ってきます。
節子の帰宅の準備はできています。
後はお供えの梨が手に入るかどうかです。

■2896:迎えに行ってきました(2015年8月13日)
節子が、正確には、お墓の節子がわが家に戻ってきました。
少しで遅れましたが、10時過ぎにお墓に着くと、もう迎えに来ている人たちがたくさんいました。
お墓でともしたロウソクの火を、精霊棚のろうそくに移し、般若心経をあげました。
いつもは、お墓で私の両親と同居ですが、お盆はいわば里帰りです。
両親は、仏壇のある阿野の家に戻るのです。

お盆にお墓に迎えに来られる人も、そして迎えに来てもらえる人も、幸せなんだと最近わかってきました。
なかには3世代の家族もいますが、高齢の方が一人でお墓をそうじしている姿も少なくありません。
今日は、昨日までと違って涼しいので助かります。

例年と違い、今年はわが家には誰も来客がありません。
精霊棚のちかくで、ゆっくりと本でも読んで過ごすのがいいでしょうか。
昨日から今朝にかけて読んだ本が、いかにも強烈だったので、思い出して、かなり古い本ですが、「ヒトラーを支持したドイツ国民」がいいかもしれません。
先週、節子も知っている田中弥生さんが、ようやく読み終えたとフェイスブックに書いていたので、思い出しました。
実は。昨日、「ヴァイマル憲法とヒトラー」を読んだのは、それがきっかけでした。
しかし、あまりお盆にはふさわしくない本ですね。
それに、探し出すのも大変ですし。

そういえば、佐久間さんが送ってきてくれた「唯葬論」という本があります。
これがふさわしいですね。
これならいま目の前にあります。
しかし、これも実は調子のいい時に読みたいと思っていました。
なにしろ佐久間さんの集大成的な本の一つですから。

というわけで、読書は止めることにしました。
では何をするか。
やはりボーっとしているのがいいでしょう。
節子が戻ってきているのですが、それが良いに決まっています。

■2897:杉野さんちの梨(2015年8月13日)
節子
もう気がついたでしょうか。
精霊棚に、杉野さんの幸水の梨が供わったことを。

今朝、お墓に行く前に電話して、取り置きをしてくれるように頼んだのです。
予約を受けたところにも送れないかもしれない状況のようなので、気が引けて、わが家用には言い出せないでいたのですが、杉野さんがきちんとわが家用にも用意しておいてくれました。
今年は雨不足で、収穫量が伸びないのだそうです。
それでも今朝は、800グラムのジャンボ幸水が獲れたそうです。
持ってみましたが、やはり重いです。

久しぶりなので、杉野さんといろいろと話しました。
ともかくお客様が多いので、その合間の会話ですが、杉野さんご夫妻は、ともかくチャレンジャーです。
と言っても、とてもゆるやかであったかいチャレンジャーなのです。
今度は食用ひまわり油に取り組んでいます。
そのひまわり畑も見せてもらってきました。

杉野さんのところに行くと、いつも思います。
これが私たちの理想のイメージだったのではないのか、と。
ともかく私の描く理想の家族です。
もっとはやく気づいていたら、私の人生は全く違っていたかもしれません。

帰宅後、梨を冷やして早速、食べました。
やはりすぎのファームの幸水は、おいしいです。
節子はどうでしたか。

■2898:東尋坊のおふたりは元気そうでした(2015年8月13日)
節子
久しぶりに東尋坊の茂さんと川越さんと電話で話しました。
2人ともお元気そうでした。
そういえば、この1年近く、お会いしていません。
なかなか福井には行けません。

東尋坊は投身自殺の多かったところです。
それを何とかしなければと、茂さんは定年後、NPOを立ち上げました。
その関係で、茂さんや川越さんとはお付き合いがあるのです。
茂さんたちは、みんなで東尋坊の見回り活動に取り組んでいるのですが、いろいろと苦労も多いのです。
それで、みんなに節子の好きだった千葉の梨を食べてもらおうと送ったのですが、とても喜んでくれました。
今度、さつまいもを送ると電話の向こうで言っていましたが、さつまいもはあんまり得手ではないのです。
それに私も先日、遅まきながら畑にさつまいもの苗を植えたのです。
何とか元気で育っています。
送られてこないことを祈りますが、茂さんのことですから、有言実行です。
さてどうするか。

節子が元気だったら、もう一度、東尋坊に行きたいものです。
最後に芦原温泉に行った時に東尋坊に立ち寄ったのが、茂さんたちとの付き合合いが深まった理由ですので、茂さんと川越さんは、私には特別の意味のある人たちなのです。
川越さんも元気そうでした。
やはり東尋坊には行かなくてはいけません。

敦賀の義姉が、時々、福井新聞に茂さんのことが載っていたと言っては、新聞を送ってきてくれます。
最後の芦原温泉旅行は、節子の姉夫婦と一緒だったのです。
それで、みんなで茂さんたちのおろし餅をご馳走になりました。
なにが人生を大きく変えるかわかりませんが、あれは節子がいなくなってからの私の人生を変えた気がします。
節子がいなくなっても、路線を変えずにすんだのです。

お盆の1日目は、何もなく過ぎました。
1日、位牌の近くでボーっとしているつもりでしたが、すぎのファームに出かけたり、娘の買い物についていったりして、あんまりボーっとはしていられませんでした。
まあ節子は、3泊4日の寄生ですから、ずっといるのもうっとうしいでしょう。

早いですが、もう寝ようかと思います。
どうものどの調子がよくありません。
夏風邪かもしれません。
困ったものです。

■2899:両親見舞い(2015年8月14日)
節子
両親のお見舞いに行ってきました。
と言っても、私の両親はもうずっと前に亡くなっています。
お盆で兄の家に戻ってきているので、そこにお見舞いに行ってきたのです。
前に書いたように、内村鑑三の言葉に共感して、見舞いという言葉にしたのですが。

ちょうどお寺のご住職が供養に来てくれた時間に重なりました。
お盆の時期は大変なので、手分けして回っているようですが、いつものご住職ではなく、初めてお会いするお坊さんでした。
この暑さで、熱中症になってしまったそうです。
今日はもう大丈夫そうでしたが。

両親は以前は私たちが供養していましたが、いろいろと事情があって、いまは兄夫婦に任せています。
最近は、私自身、兄の家に行くのは年に数回ですので、久しぶりに両親を見舞ったわけです。
「見舞う」という言葉は、なんとなく自然と胎に入ってきました。

お墓には時々、行ってはいるのですが、たまには仏壇にもお見舞いに行かなければいけません。

■2900:親密圏の不在(2015年8月14日)
節子
最近は、会う人たちから元気そうですね、と言われるのですが、この2日間、体調はあんまりよくありません。
なんとなく身体全体が火照る感じなのと、頭の後ろに違和感があるのです。
なんとなく熱っぽいので、体温をはかったら、平熱です。
まあ、この歳になると、身体の不調こそは健全の証拠と思ってはいるものの、調子が悪いとどうも「やる気」が起きません。

寝不足かもしれません。
そういえば、ここしばらく、睡眠時間がかなり少ないのです。
いつも早く寝ようと思って、ベッドに行くのですが、そこから本を読んだりして結局寝るのは12時近くになり、そのくせ5時には目が覚めてしまうのです。
その間、熟睡できているわけでもありません。
そんな状況が続いていますので、疲労感がたまってきているのかもしれません。
夜は読書できるのですが、昼間は本を読もうとするとすぐに眠ってしまいますし、テレビを見ていても眠ってしまいます。
こういうのは、年齢的には健全なのではないかとも思いますが、やる気が出てこないのは辛いのです。

それでもなんとか元気を装ってきましたが。夕方からどっと疲れが出てきてしまいました。
首相の70年談義が原因です。
あいかわらず主語のない話をしています。
心も感じられません。
この人は本当に生きている人なのだろうかと思いました。
こんな人の支持率が40%もあるような社会は、やはり不快でしかありません。
脇道は、ますます歩きにくくなっています。
憂鬱なことが多すぎます。

やはり長く社会と関わりすぎているのかもしれません。
節子との親密圏に逃げ込みたいものですが、それはもう望みうべきもありません。
公共圏と親密圏はいずれも必要であり、偏ってしまうとひずみが生じます。
どうも最近の私は、そのひずみのなかに落ち込んでしまっているようです。

このもやもや感から抜け出したいです。

■2901:今日は敗戦から70年目(2015年8月15日)
節子
今日は70年目の敗戦の日です。
昨日の夕方の首相の70年談話を聴いて、何やら無性にむなしくなって、早く寝てしまったのですが、深夜に目が覚めてしまいました。
枕元のテレビをかけたら、田原さんの朝までテレビ討論会をやっていました。
ついつい見てしまい、気がついたら夜が明けていました。
それでさらに寝不足になってしまいました。
困ったものです。
しかし、そのテレビを見ていて、また更に暗澹たる気分になってきました。
日本では、なにかを生み出す議論ではなく、相手を否定する議論ばかりです。
聞いていて、嫌になりましたが、もしかしたら私もこういうスタイルの議論をしているのでしょう。
反省しました。

朝、起きて新聞を開いたら、大きく「主語「私は」使わず 安倍談話」という見出しがありました。
主語の大切さについては、時評編で1週間ほど前に書いていたことなのですが、昨日もそれが私の一番不快な点でした。
誠実に生きている人であれば、主語のある語りをするはずです。
主語のない話ほど、イライラさせられることはありません。
その見出しで、少しすっきりしました。

パソコンを開いたら、今日の戦争反対カフェサロンに新たに3人の人が参加するという連絡がありました。
それでまた元気が出ました。
寝不足でいささかふらふらしそうですが、元気に湯島に行けそうです。

戦争の悲惨さが、新聞やテレビで盛んに報じられています。
8月15日は、節子と一緒に行った沖縄平和祈念公園を、いつも思い出します。
基地だらけの沖縄で、まだ戦争から解放されていない沖縄ですが、
私には沖縄ほど平和を感じさせるところはありません。
もう一度、ゆっくりと、節子と沖縄を旅行したかったです。

■2902:リンカーンクラブが復活です(2015年8月15日)
節子
武田さんと久しぶりにリンカーンクラブの話をしました。
そこでまた「お金なんていざとなったら何の役にも立たない」と話して、そんなことはないと論争になりかけました。
実は昨日も、ある人と会って、そういう話をしたら、あなたの生き方は理解できないと笑われました。
しかし、私には、お金のために生きている人の方が、理解できません。

武田さんは、日本の政治状況をもっと直接民主主義に近づけさせられないかという思いで、リンカーンクラブという組織を30年以上前に立ち上げました。
かなりの私財を投入したはずです。
しかしなかなか広がらずに、また体調の問題もあって、しばらく活動を中断していましたが、昨今の政治状況を見て、やはりまた活動に取り組まねばと思いだしたのです。
そのためには資金がいるので、資金集めをしたいという話になりました。
その打ち合わせをしていて、冒頭の話になったのです。
お金で立ち上げた組織は、それこそ金の切れ目が縁の切れ目になって、うまくはいきません。
しかし、武田さんは、お金は大切だというのです。
そういう佐藤さんの考えが、節子に苦労をかけたのだと以前、武田さんに言われたことがありますが、そんなことは全くありません。

しかし、もし武田さんがそう思っているのであれば、湯島などには通い続けないでしょう。
そもそも私などとは付き合わない。
お金を最大の価値にしている人は、湯島には来なくなります。
その結果、湯島に集まる人はみんな豊かになるのです。
もちろん経済的にではありませんが。
武田さんもそうでしょうと指摘したら否定しませんでした。
そういえば、あの人は来ないよねという話になって、議論はめでたく円満解決です。

まあそんな話をしながら、リンカーンクラブを再開することになりました。
以前のリンカーンクラブでは武田さんに迷惑をかけたようなので(私は逆に思っていましたが)、今度は少し役に立たないといけません。

そんなわけで、武田さんとの付き合いはまだ続いています。
時々、喧嘩しながらですが。
私も武田さんも、もう少し現世で仕事をすることになりました。
まあまた考えの違いで決裂しかねませんが、以前よりも2人とも丸くなったので、まあ今度は大丈夫でしょう。
丸くなった分、2人とも老化したので、行動力不足でだめになる可能性はありますが。

ちなみに武田さんは、節子が知っている武田さんのままです。
まったく成長がありません。私もですが。
困ったものです。

■2903:節子が帰りました(2015年8月16日)
お盆もあっという間でした。
夕方、娘たちがそろったので、みんなで節子をお墓に送ってきました。
普通の家では、ちょうちんで扇動しますが、わが家はオランダ土産の様式の赤いガラスのランタンです。
お墓に行くとちょっと浮いた感じです。

お墓で般若心経をあげだしたのですが、途中で出てこなくなりました。
最初からまた唱えだしましたが、やはり途中で止まります。
何回やってもうまくいきません。
これはかなり問題です。
脳疲労か、あるいは認知症現象です。
まさか節子との別れがつらくて、脳が作動しなくなっているわけではないでしょう。

お経というのはおかしなもので、
途中で止めると続かなくなります。
一連の繋がりで、脳ではなく口が記憶しているのでしょう。
途中で誰かに話しかけられると混乱してしまいます。
今日は、かなり専心して唱えたのですが、思い出そうとすればするほど思い出せません。
むしろ専心すればするほど思い出せなくなります。
途中で諦めて、真言マントラを唱えたのですが、何とこれもスムーズに出てこないのです。
いささか疲労がたまっている。

思い当る理由はあるのですが、まあ、そのいろんな問題も、すこしずつほどけだしています。
ことしの夏も無事越えられそうです。

お墓に届けた後、みんなで食事に行きました。
もちろん「小節子」もつれてです。

節子は結局、どこに常駐しているのかと娘から言われましたが、
彼岸は時空間を超えていますから、いまここに、いつもいるのです。
となるとお盆とは何なのか。
死者が現世に還ってくるのではなく、現世に生きている私たちがちょっとだけ時空間を超えるのがお盆かもしれません。

■2904:日常の喜怒哀楽が戻ってこない(2015年8月16日)
節子
最近つくづく自分の生活が世間から大きくずれているのを感じます。
どこがどう違うのか、うまく言葉にはできませんが、明らかにずれています。
みんなのように「日常」がないと言ってもいいかもしれません。
いわゆる「日常の喜怒哀楽」というべきでしょうか。
まわりの友人知人たちの日常を見て、そう感ずるのです。

伴侶を亡くした人はたくさんいます。
みんなそうなのでしょうか。
私だけが特殊なのでしょうか。

伴侶を亡くして、日常を失っても、それを回復できた人も少なくないでしょう。
私の場合も、もしかしたら、外部からはそう見えるかもしれません。
節子がいなくなってから、知り合ったある方は、ある時話をしていて、私が妻を見送ったことを初めて知って驚いていました。
外からは見えないのかもしれません。
外からは見えないかもしれませんが、心身の中にいつもぽっかりと空いた暗闇がある。
それがどうしても、日常の回復を邪魔します。
どこかいじけた喜怒哀楽しか持てないのです。
性格がどんどんくらくなっていく。
困ったものです。

組織の中で仕事をしていたら、違っていたのかもしれません。
夫婦一緒に活動していた時間があまりにも多すぎたことも、影響しているかもしれません。
ともかく、日常が瓦解した。
そして、8年が経とうとしているのに、瓦解したまま、日常の肝心の何かが戻ってこない。
日常がなくなると、いうまでもなく未来が始まりません。
未来の出発点になる現在の日常がないからです。

お盆が終わって、自宅の精霊棚を壊し、いつもの仏壇に位牌を戻しました。
その直後に、なぜかこんな思いに襲われてしまいました。
今夜は、奇妙なほどにさびしいです。
やはりお盆には、彼岸から節子が戻ってきていたのかもしれません。

友人たちの夏休みは、みんなとても幸せそうでした。
どこかで羨んでいる自分がいます。
私の夏休みが幸せだったころ、そんな気持ちで私を見ていた友人もいたのでしょう。
そんなことなど微塵も考えていなかった自分が、いまは少し恥ずかしい気がします。

今年のお盆は、いろんな気付きを得て、世界が少し広がったお盆でした。

■2905:色即是空の無常観(2015年8月17日)
節子
お盆が終わったら急に涼しくなりました。
季節が一変してしまったような感じです。

高低差があるため、高台にあるわが家からは一望できる隣の住宅の取り壊しが始まりました。
大きな家で、いままではその庭を上から楽しませてもらっていましたが。お一人住まいだった方がなくなり、土地が売却され、5つの建売建築が建てられることになりました。
庭の植木はもうすべて伐採されていますが、残っていた建物が朝から解体されだしました。
解体の様子はいつ見ても、無残です。
この家で何十年も営まれていた家族の生活の記憶は、消えて行ってしまうわけです。
隣家とはいえ、高低差のために日常的な御付き合いはありませんでした。
なぜか節子が、そこで働いていたお手伝いさんと知り合いになり、その方が時々、わが家に来ていましたが、その縁で、ささやかな付き合いがあったほどです。
しかし、家主が亡くなったため、お手伝いのOさんは故郷に戻りました。
時々、その家にお見えになっていた娘さん(節子と同世代でした)も、節子よりも少し後になって「がん」を発病され、数年前に亡くなりました。
その後、その伴侶の方も亡くなったそうです。

人の記憶は実にもろいものです。
この家がなくなって、そこに新たに5軒の家ができてしまえば、おそらく私の記憶から隣家の人たちの記憶は消えていくでしょう。
そうやって人はたぶん現世での生を終えていくのでしょう。

壊されつつある隣家の家を見ていると、時々、かくしゃくとして庭を歩いていた高齢のTさんの姿を思い出します。
がんが発見され、節子のところに話に来ていた娘さんの顔も思い出します。
いまは仙台に帰ってしまった、お手伝いのOさんの姿も思い出す。

節子がいなくなった後も、何回かOさんはわが家の相談に来たことがあります。
そのお礼にと、一度、たしか洗剤を持ってきてくれたことがあります。
なぜ洗剤なのか不思議だったのですが、Oさんは実に素朴な方でした。

壊される家の外に、しばらく庭掃除のための竹ぼうきなどが放置されていました。
それは、Oさんに頼まれて、娘が買ってきたものだそうです。
まあ、そんな思い出も、すべて消えていくわけです。

いや、消えるのではなく、たぶん「無」の世界へと進むのでしょう。
色即是空の意味が、最近、ほんの少しだけ実感できるようになってきました。
ほんの少し、だけですが。

今日は、なんだか奇妙なほどに悲しい日です。

■2906:死者にとってのお墓(2015年8月17日)
節子
佐久間さんが「唯葬論」という本を送ってきてくれています。
お盆の時期に読めるようにしてくれたのだと思いますが、あえて読まずにいます。
この本は、佐久間さんがかなり心を込めて書いたものでしょうから、私の方も少し気を入れて読もうと思っています。
その本の帯に、佐久間さんは「問われるべきは「死」ではなく「葬」である!」と書いています。
その言葉もかなり気になっています。

このお盆は、それなりに「死と葬」について考えました。
前の挽歌2905も、そのひとつなのですが、その延長で、少し書いてみようと思います。
佐久間さんの本を読んでしまうと、たぶん大きく影響を受けてしまいそうなので、あえて読む前に書いておくことにしました。
ちょっと長いですが、お許しください。

今回、お墓にはお盆の前後に行っていますが、私の考えでは、わが家の位牌にこそ、節子は常住していると思っています。
では、なぜ別のところに墓が必要になるのか。
私は、以前は不要だと思っていました。
節子もそうでした。
愛する人の遺骨がもしあるのであれば、できるだけ身近な、自らの生活の場に置けばいい。
お墓をつくるのであれば、自宅に作るのが一番いいのではないか。
なぜ、いつもの生活の場から離れた墓地に、転居させなければいけないのか。
土葬時代はともかく、最近のように火葬が広がった状況にあっては、墓地は不要ではないかと思っていたのです。
いまも、その考えが大きく変わっているわけではありません。
だから、自分の頭の中では、お墓の存在がうまく整理されていません。
ただ、私の場合、亡くなった両親とは同居していません。
節子と両親は同じ墓にいますが、位牌は、別のところにあります。
両親の位牌は、兄のところにあります。

壊されていく隣のTさんの家を見ながら、お墓は、死者のものなのだと改めて思いました。
この家がなくなると、地域の人たちはそのうちみんなTさんのことを忘れてしまうでしょう。
この地域からは、Tさんはいなくなる。
この家があればこそ、いままでTさんは、亡くなった後もこの地域に住んでいた。
死者にも「家」が必要なのです。

お墓に行くと、なぜか死者たちの姿が自然と浮かんできます。
そして、自然と声をかけている自分に気づきます。
お墓は、姿を失ってしまった死者たちの存在の証であり、現世への顔なのです。
位牌とは、また違った意味がある。

墓は死者のもの、位牌は生者のものかもしれません。
死者を偲んで生者が墓をつくるのではない。
死者がみずから生き続けるために、それも遺していくものたちのために生き続けるために、時間を超えて現世に戻ってきて、生者に墓をつくらせる。
死者は、現世にいる時に、一度、彼岸に行っているのです。
死を意識する段階になって、節子が墓に入りたいと言い出した理由が少しわかったような気がしました。
あの時、節子はたぶん、彼岸に入り、現世的に言えば未来の自分として現世に戻ってきていたのです。

わが家がいつまでもあるとは限らない。
死者にとっての唯一の拠りどころが墓なのかもしれません。
決して千の風ではない。
千の風は、生者のためのものです。

墓は、すでに彼岸のもの。
だから墓地は、他の場所とは違った世界を感じさせるのです。
墓は、個々の生者のためにあるのではなく、すべての死者の彼岸のためにある。
たとえわが家の墓であろうと、死者すべてのためにある。
墓石の下は、時空間を超えた彼岸なのです。
そして同時に、それは死者が生者とつながるための窓なのです。

書いていて、どうもうまく心身にあるイメージが言語化できない。
中途半端ではありますが、まあ今日の時点での思いとして残しておきましょう。
佐久間さんの本を読んだら、もう少し整理できるかもしれません。

明日から、「唯葬論」を読みだす予定です。

■2907:不要なモノをすてた後に残るのは祈ること(2015年8月18日)
節子
鈴木さんが今朝早く、サンティアゴ巡礼抜向けて旅立ちました。
昨夕、メールをもらいました。
無断で、ほぼ全文を引用してしまいます。

家を出るまであと12時間になりました。
きょうは雨で涼しかったのでほとんど家にいて荷造りに励みました。
背負ってみるとあまり重く感じません。
けれども歩きは始めたらきっと不要なモノを投げ捨てたくなることでしょう。

母が旅の無事を仏壇に向かって祈っていたと妹から伝えられました。
それを聞いて涙があふれました。
わたしはこれまで人のために祈ったことがあるでしょうか…?
これではどちらが「病人」なのかわかりません。
佐藤さんがよくおっしゃる「生き方を変えなければならない」。
わたしもいま強くそう感じています。

戻ってからお会いできるときを楽しみにしています。
それでは行ってまいります。

歩きは始めたらきっと不要なモノを投げ捨てたくなることでしょう、と鈴木さんは書いています。
普通の人生でも、同じはずですが、なぜか捨てられません。
巡礼とは、それができることなのでしょう。

すてた後に何が残るか。
たぶん「祈り」ではないかと思います。
鈴木さんは、「これまで人のために祈ったことがあるでしょうか…?」と言っていますが、日々の祈りにただ気づいていないだけです。
心を澄ませば、生きることの多くは「祈ること」だと気づくはずです。
いや「祈り合い」かもしれません。

私は巡礼路を歩いたことはありませんが、長い人生を生きてきて、そう確信しています。

鈴木さんが、元気で最後まで歩き続けられるように、節子とともに、祈りました。

■2908:「すべての人間は、死者とともに生きている」(2015年8月18日)
節子
一条真也さんの「唯葬論」を読み出しました。
その始まりの言葉が、心に響きました。
「すべての人間は、死者とともに生きている」
もし、前にこの本を開いて、この文章を目にしていたら、そのまま読みだしていたかもしれません。
最近の私の心境に、あまりに重なっていますから。
しかし、この文章に今日、出会ったのは、そして今日からこの本を読みだしたのも、意味のあることでしょう。
一気に読みたい気分もありますが、今回は少しゆっくりと読むことに決めています。

ところで、「すべての人間は、死者とともに生きている」です。
8月に入ると毎年、戦死者の思い出がマスコミに取り上げられますが、最近は、戦死者だけではありません。
たぶん東日本大震災以降だと思いますが、死者が語られることが非常に増えています。
御巣鷹山での日航機墜落事件もそうです。
ともかく私たちは、死者の日常的な暮らしへの思い出を通して、過去の事件が生々しく思い出されるのです。
そればかりではなく、その事件と自らの人生がつながりやすいのです。
「すべての人間は、死者とともに生きている」ということが、とてもよくわかります。

死者の思い出とは、実は生者の思い出です。
「死者とともに生きている」ということは、いまなお、死者は生きているということでもあります。
生きている死者が、生きている生者たちをつなげている、と言ってもいいかもしれません。
しかし、最近、ちょっと気になることがあります。
その「死者の思い出」が、少し「生者のための思い出」になりすぎていないだろうか、ということです。
それも、死者を愛する人ではなく、死者とは交流もなかった第三者が、死者を道具にして、物語を仕立てているのを感ずることがあります。

過剰に死者が語られている。
最近、そんな気がしてなりません。
死者とともに生きているのであれば、改めて余計な物語はいりません。
死者とともに生きる日常が、なくなってきているのかもしれません。

■2909:珈琲をあまり飲まなくなっています(2015年8月19日)
節子
昨日、気がついたのですが、最近、珈琲があまり飲めなくなりました。
以前は、朝食で大きなマグカップで1杯。食後、また珈琲カップに1杯いれて、パソコンに向かい、そこでまた飲みます。
湯島に行ったら、そこで、来客に合わせて、2〜3杯。
湯島に行かない時には、自宅で午後にマグカップでもう1杯。
こんな感じでした。
ところが、最近は、朝食時のマグカップが残るため、重ねて淹れることがなくなりました。
しかも、この数日、珈琲ではなく紅茶を飲んでいるのに気づきました。
紅茶はあまり飲まなかったのですが、最近は紅茶の方が多いのです。

むかし、がんになると珈琲が嫌いになるといううわさが流れたことがあります。
最近は聞いたことはありませんが、何かが起こっているのかもしれません。
単に歳のせいかもしれませんが。
夏の暑さで、ジュース類を飲むからかもしれません。

今日は、久しぶりに珈琲豆から挽いた珈琲を淹れました。
最近あまり飲んでいなかったせいか、おいしかったです。
しかしマグカップの半分しか飲めませんでした。

やはり、そろそろ「煎茶の世代」になったのでしょうか。
そういえば、最近、おいしいお茶を飲む機会も減りました。
節子がいないので、私だけで飲むのはなんとなくもったいない気がして、安いお茶ですませています。
それに、お茶はけっこう面倒です。
それで、ますます飲む機会が減ってしまっているのかも知れません。
もっと人生は豊かにしないといけません。

■2910:伴侶の役割はお茶のみ相手(2015年8月19日)
節子
湯島に来ています。
午前中、来客があったので、珈琲豆を挽いて珈琲を淹れました。
朝も飲んできましたが、続けて飲んだのですが美味しかったです。
お客さんもおいしいと言ってくれました。そのせいか、話が弾んでしまい、2時間があっという間に過ぎたばかりでなく、言わなくてもいいことをいろいろと話してしまいました。
湯島には初めての人でしたが、また来てくれるでしょう。

朝、書いた挽歌を読み直しました。
お茶も珈琲も、一人で飲むから、あんまり飲めないのかもしれない、と思いました。 
お茶を共にする人がいないのは、人生をさびしくするものです。
あるいは、お茶を出す人がいないことも人生をさびしくするのかもしれません。
娘たちはいますが、やはり親子はなんとなく違う気がします。

節子がいたころ、わが家には「お茶の時間」がありました。
特に休日は、3時頃になると、節子がみんなにお茶をいれてくれました。
娘たちも集まって、みんなでひと時を過ごしました。
この文化は、いつの頃かなくなってしまいました。

いまも、私は時々、お茶でも飲むかと声をかけますが、あんまり一緒に飲むことはありません。
娘から、お茶を入れたよという声がかかることもありますが、以前とはやはり雰囲気が違います。
子どもにとっては、父親と一緒にお茶を飲むのは、楽しいことでもないでしょう。
私自身のことを思い出せば、よくわかります。
両親は喜んでくれましたが、私はあんまりうれしくはありませんでした。
だからきっと娘たちは、私のためにお茶を誘ってくれているのでしょう。

伴侶の最大の役割は、茶飲み相手を果たすことかもしれません。
最近、何やらそんな気がします。
伴侶とであれば、無言のまま、お茶を飲んでいても、自然です。
しかし、親子や他人では、無言だと何か変な感じでしょう。
無理に話を探し出しかねません。
伴侶であれば、話がなくても、ただただ自然に過ごせます。

私たちは、よく話す夫婦でしたが、話さないでお茶を飲むこともできました。
そんな至福の時間が、失われたのが、残念です。

■2911:節子が逝ってから今日で2911日(2015年8月20日)
節子
やっと挽歌の番号と節子が旅立ってからの日数が一致しました。
一時、挽歌が書けなくなり、40日以上のずれが生じていましたが、命日が来るまでに一致させようと頑張ったのです。
まあほかの人にはどうでもいいことでしょうが、私にはすごく気になることだったのです。
おかげで、この間、あんまり時評編が書けずにいました。

節子が彼岸に行ってしまってから、今日で2911日目ということです。
長いといえば長く、短いといえば短いですが、挽歌も2911回書いてきたわけです。
まだ書いているのかと感心してくれる人もいますが、最初の頃と違い、最近は私の日記のようになっていますから、感心することのほどもありません。
しかし、書く時には、少なからず節子のことを思いながら書いていますので、一応、その時間は節子と一緒にあるわけです。

この挽歌を書くことで、精神の安定を得たこともあります。
思いを発散する仕組みとしては、とても効果があります。
最初は読み手など全く意識していませんでしたが、読者からの反応があると、それはそれでまた元気がもらえます。
最初の頃は、ひどいコメントも来たりしましたが、最近はそういう嫌がらせのコメントもなくなりました。

挽歌のおかげで、知り合った人もいます。
会ったこともない人から元気づけられることもあります。
いつか会えたらいいなと思う人もいます。
挽歌のおかげで、少し世界が広がっているのです。
ただ、挽歌を読んでいるという人に会うと、私の心の奥底までも見られているような気がして、いささか恥ずかしい気がすることもあります。

節子が果たして読んでくれているかどうかはわかりません。
節子は、結婚前に、私が毎日書いて送っていた詩でさえも、あんまり喜んでいた感じがありませんでした。
私なら感動したでしょうが、まあ毎日詩を送りつけられたら、気持ち悪いかもしれませんね。
節子は、この挽歌のような、めんどくさいことは、あまり好みではないのです。
頭を使うのよりも身体を使う方が好きな人だったのです。

なんでそんな人が、私と結婚したのでしょうか。
たぶん私に騙されたのでしょう。
その私から解放されて2911日。
今ごろは彼岸でのびのびと花づくりを楽しんでいるかもしれません。
ちなみに、私はそういう節子が大好きだったのです。
人は誠に複雑なものです。

■2912:東尋坊からの焼き芋(2015年8月21日)
節子
東尋坊の茂さんたちから、焼き芋が届きました。
丸もちも一緒に。
みんなでつくったのでしょう。
大事にしなければいけません。
節子にもお供えしました。

ユカが言うには、この芋は安寧芋ではないかというのです。
私はその分野の知識は全くないのですが、とても甘いのだそうです。
たしかに甘いのですが、やはり焼き芋はさほど得手ではありません。
節子はきっととてもおいしかったでしょう。

先日、わざわざ評判の焼き芋屋さんで買ってきた渕野さんに、やはりあんまりおいしくなかったけど、がんばって他の人の倍食べたよと言って、彼をがっかりさせてしまいました。
私は、彼が喜ぶと思ったのですが、逆効果でした。
まあしかし、嘘はつけませんので、そう言ってしまったのですが、そんなことは言わないでいいでしょうと、節子がいたら注意されたでしょう。
どうも私は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。
困ったものです。

茂さんと川越さんに、お礼の電話をしなければいけません。
美味しかったとは言えないし、焼き芋は好きではないとも負えないし、何と言ったらいいでしょう。
ただ、ありがとうございました、と言えばいいわけですが、余計なひと言を言ってしまうのが、私の悪い癖なのです。

そういえば、先日、ある人がお土産に京菓子を持ってきてくれました。
その人が、お口に合わないかもしれませんが、というので、そうなんですかと反応してしまいました。
そうしたら、その人は、前回持ってきたお菓子があんまりお口に合わなかったようなのでと言うのです。
たぶん持ってきてくれたお菓子を一緒に食べたのでしょう。
そして私の気持ちが、まさに顔に出てしまったのでしょう。
困ったものです。
それでその時は、封を開けずに、その方が帰った後、食べました。
美味しかったです。
一緒に食べればよかったです。

ちなみ、美味しいとか美味しくないとかは、些末な問題です。
要は、気持ちです。
茂さんたちが、そしてもしかしたら、自殺を思いとどまった人たちが、汗を流して作ってくれたお芋とお餅。
うれしくないはずがない。
千疋屋のメロンよりもうれしいです。
でも、それでもなお、美味しいお芋でしたとは言えないところが、私の困ったところです。
正確には、味覚的には美味しくなかったけれど、みなさんの気持ちに感謝しながら、きちんと味わせてもらいました、というのがいいでしょうか。
茂さんのことですから、「美味しかったでしょう!」と畳み込んでくるでしょう。
さてそれをどうかわすか。
かなりの難題です。

■2913:椎原さんと杉本さん(2015年8月22日)
節子
今日はまた暑さがぶり返しました。
その、死にそうな暑さの中を湯島に行きました。
椎原さんの「マトリクス人間学」をテーマにしたサロンです。

椎原さんは、節子は覚えているでしょう。
なにしろ強烈な個性の持ち主ですから、節子はなかなかついていけなかったと思いますが。
オープンサロンに、夫婦そろって参加してくれたこともありますし、突然夫婦でやってきたこともあります。
私が最初に出会ったのは、椎原正昭さんでした。
ベトナム戦争に従軍取材していたという体験に魅かれて付き合いだしました。
その集まりに参加しているうちに、椎原澄さんと会い、澄さんがcos−comという活動をしていることを知りました。
cos−com。コスモスコミュニケーション。
コスモスは、ミクロコスモスとマクロコスモスを含意しています。
2人とも霊性が高く、そこに共感しました。
ただし、私の霊性とはかなり違い、おそらく生まれ故郷の星が違うのでしょう。
おふたりのおかげで、不思議な人とも会いましたが、一緒にプロジェクトに取り組むところまでは行きませんでした。

正昭さんががんを発病、節子もがんを発病。
時間関係を思い出せませんが、交流は途絶え、節子は彼岸に旅立ち、正昭さんも宇宙に戻りました。
それから暫らくして、澄さんが活動を再開。
もしかしたら、挽歌でも彼女が湯島に来たことを書いたかもしれません。
その澄さんが、フェイスブックで湯島のサロンを知り、話をしに来てくれたのです。
全く変わっていませんでした。

節子がいたころ付き合っていた人が、久しぶりにやってくると、いろんなことを思い出します。
今日は、節子もよく知っている杉本さんも、参加してくれました。
そして、なんと驚くことに、最後、杉本さんは今日は私がやるからと言って、みんなが使ったコーヒーカップをお一人で洗ってくれました。
節子が湯島に来なくなってから、私が言ったわけではないのですが、サロンの後は必ず誰かが自発的に片づけとカップを洗ってくれるのです。
それも大企業の部長や杉本さんのような人が、です。
それにしても、杉本さんがカップを洗うとは、節子には想像もできないでしょう。
しかし、杉本さんは節子の訃報をどこかで聞いて、すぐにわが家に駆けつけてきてくれたお一人です。
杉本さんとのご縁は、ともかく不思議なご縁です。
椎原さんたちも、そうですが。

■2914:「悲しみや苦しみ」から生まれるものがある(2015年8月23日)
節子
世界陸上の20キロ競歩を見続けてしまいました。
オリンピックをはじめとした商業主義的スポーツ競技を嫌っているはずなのに、これに限らず見てしまうとやめられなくなります。
困ったものですが、まだ私の中に煩悩が救っているからでしょう。
優勝さえ期待されていた3人の日本選手は残念ながら、1人は途中で棄権、2人はやっと完歩という感じで、入選を逃しました。

ずっと見ていたものの、考えていたことはあまり肯定的なことではありません。
20キロを1時間ちょっとで歩き続けることに、どういう意味があるのだろうかということです。
歩くのさえやっという姿でゴールする選手を見ると、これは拷問ではないかとさえ思えてしまいます。
審判に違反カードを突きつけられないように注意しながら歩いているという姿も、なんだか違和感があります。
素直な身体活動に反しているように思うからです。
だから見ていて楽しくありません。
だったら見なければいいと思うのですが、なぜか最後まで見てしまったわけです。

今朝のテレビ「こころの時代」で、帝塚山大学教授の西山厚さんが「悲しみの力」を語ってくれていました。
「仏教は、釈迦の悲しみから生まれ、悲しみ苦しむ人たちに優しい。悲しみや苦しみの中から、何か新しいものが生まれてくるかも知れない」と西山さんは言います。
「悲しみや苦しみ」から生まれるものがある、という言葉は、よく聞く言葉ですが、西山さんのお話を聞いていて、改めてその意味を考え直しました。
生まれてくるのは、自らの心身のなかになのです。

20キロ競歩は私にはスポーツとは思えませんが(理由はルールに違和感があるからです)、少なくとも今回出状した3人の日本選手は、大きなものを得ただろうなと思いました。
それを、次の大会で金メダルなどという目標につなげてほしくはありませんが、ふらふらしながらも、足を両手でたたきながら、やっとの思いで歩ききった48位の高橋選手の姿は感動的でした。
彼は、記録にも順位にも無関係に、ただ歩き続けて、ゴールに到達した。
完歩したところで、大きな栄誉は与えられません。
しかし、もしかしたら、彼は金メダルよりも大きなものを得たのではないかと思いながら、画面を見ていました。

人生は競歩のゲームとは違います。
もっと大きな試練もあり、制約もあり、「悲しみや苦しみ」にも襲われます。
この2日間、湯島のサロンで語られたことも含めて、いまの自分の生き方をちょっと考え直す気になりました。

今日は自宅で「内省の日」を過ごしました。
この1週間、ちょっとまた自らを省みることの少なかったものですから。

■2915:来世での選択(2015年8月24日)
先日、ある活動の相談で40〜50代の女性たちが、湯島に相談に来ました。
その雑談の中で、おひとりの方が、私は来世も同じ伴侶を選ぼうと思っているのに、そう思っていないのはおかしいわよね、というようなことを発言されました。
私も含めて、みんなが知っている、ある人のことが話題になった時です。
同席していたおひとりも、同じ伴侶を選ぼうとも思っていないと発言しましたが、最初の発言者は、来世もまた同じ伴侶を選ぶことが当然のことだと確信している様子でした。

そのやりとりを聞いていて、同じ伴侶を選ぼうと思っている人が来世を信ずるのかもしれないと思いました。
つまり、そういう人にとっては、来世は現世への未練の延長なのかもしれません。
私自身も、来世を確信していると同時に、そこでもまた同じ伴侶、つまり節子を選ぶとなんとなく思っています。
しかし、考えてみると、それでは「来世」とは言えないかもしれません。
現世への未練が生み出す幻想でしかない。

死者は存在するという考えがあればこそ、葬儀が始まり、宗教が始まり、人間の心の平安が可能になっていく。
これは、先ほど読んだ一条さんの「唯葬論」で語られていることです。
たしかに、その通りで、私の体験から考えても、彼岸があって、そこに節子がいるというイメージが、大きな心の支えになりました。
そこから、ある意味、当然の帰結として、また同じ伴侶を選ぶということになります。

しかし、仮に現世での夫婦関係が「不幸なもの」であるとしたら、その不幸を来世でも繰り返したくはないでしょう。
来世では違う人を選びたいという人がいてもおかしくありません。
だからといって、来世では別の人を伴侶にしたいという人の現世の夫婦生活が、不幸だというわけでもないでしょう。
逆は必ずしも真ではないからです。
それに、人の関係性ほど、はかなく不安定なものはない。

思考のベクトルを逆転させましょう。
来世でももし同じ伴侶を得るのであれば、現世での夫婦関係を見直す動機になります。
その関係性を善いものにしておくことが大切です。
また、もし来世で伴侶にしたくないのであれば、来世まで待つことはない。
現世で解消すればいい。
しかし、すでに様々なつながりの中で、いまさら解消はできない場合、どうするか。
来世では相手から解放されるという希望の中で、現在の関係を少しでもより善いものにするよう努力していくのが次善の策かもしれません。
いずれにしろ、現世の関係性を善いものにしようという力が生まれてくる。

来世を考えるということは、要するに現世を考えるということです。
来世で同じ伴侶を選ぶかどうかは、所詮は同じ決断につながるのです。
関係を解消することも、ある意味では、「関係を善くすること」になるでしょう。

しかし、私のように、すでに伴侶が彼岸に行ってしまい、現世の関係性を変えられない場合はどうすればいいのでしょうか。
そこで出てくる考えが、いやまだ節子は彼岸に行っていないのだという発想です。
いささか難しい議論になりそうですが、禅の公案の一つ、「道吾一家弔慰」の話が考えるヒントを与えてくれます。
この公案も一条さんの「唯葬論」で知った話です。
内容はまた改めて書くことにしますが、どうも現世と来世、彼岸と此岸と二元的に考えるところに、もしかしたら間違いがあるのかもしれません。

■2916:死復活(2015年8月25日)
節子
季節は一転して、秋のようになってしまいました。
肌寒さを感ずるほどです。

昨日書いた、禅の公案「道吾一家弔慰」のことはいつかまた書くとして、それにつなげて田辺元が書いている「死復活」の話は、私には最近少し実感できるようになっています。
「死復活」というのは、例えば教えを請うていた師が、その死後、自らの中で生きていることを弟子が実感できるというようなことです。
田辺元は、「死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証するところの生者に対して、間接的に自覚せられる交互媒介事態だ」と書いていますが、要は自分の中で死者が生きていることを実感するということでしょう。

気づいてみたら、死者(他者)の意思によって動いているという体験はだれにもあるでしょう。
人は、自らの意思で動いているように見えて、必ずしもそうではありません。
死者が乗り移ったような言動を、他者に感じたことがある人もいるでしょうが、自らもまたそういう言動をしていることに気づくこともあるでしょう。
交霊現象というと、胡散臭さを感ずる人もいるかと思いますが、こうしたことを自らが実体験していると、十分にありうる話だと思えてきます。
私は、「生まれ変わり」の考えにも違和感はありません。

死復活は、師弟関係においてのみ起こるわけではありません。
これまでも何回か書いてきましたが、愛する人の死によって失われるのは、その人と創り上げてきた世界です。
日々育ってきた、その世界が、突然に終わってしまう。
ですから遺された者は、それまで歩いていた道が行き止まりにぶつかったり、あるいは断崖絶壁の淵に立たされたりするような気分になる。
愛する人の喪失は、個人の死というよりも、世界の終焉になる。
遺された者が体験するのは、一緒に生きていた「私たちの世界」の喪失なのです。
それに気づくまでには、時間がかかりますが、それに気づいた時に「死復活」が起こるのかもしれません。
客観的事実としてではなく、残された者の内的世界において、死者が蘇ってくる。
そして、動きを止めていた時間が少しずつ動き出す。
そして、生者のなかに死者が生き返り、歴史がつながっていくわけです。

こうしたことは個人の世界で起こるわけですが、その集積が人類の歴史をつなげてきたのでしょう。
それが、仏教思想の「大きないのち」「生かされるいのち」なのかもしれません。

秋は彼岸をすぐ近くに感ずる季節です。
この数年、秋が短くなってきていますが、今年の秋はどうでしょうか。

■2917:フェイスブックの世界(2015年8月26日)
節子
フェイスブックをやっていると、「知り合いではないですか?」というメッセージとともに、何人かの顔写真が送られてきます。
そこで、時々、思わぬ人に出会うことがあります。
今朝も、もう15年ほど会っていない人の顔が飛び込んできました。
実に懐かしい顔ですが、フェイスブックを拝見すると、大活躍されているようです。
湯島にも何回か来ている人ですが、当時の志を見事に守っているのがうれしいです。
懐かしくて、「友だちリクエスト」を送りました。

こういう形で、旧知の人に毎月1〜2人に出会います。
私自身の活動範囲は、このところ急速に狭くなっていますが、節子が元気だったころは、自分でもきちんと把握できないほどの広がりの中で、生きていました。
いまから思えば、面白いことがあれば、どこにでも出かけていました。
いくら時間があっても足りませんでした。
湯島にも、さまざまな人がやってきていました。
そうした時代は、節子の発病とともに終わりましたが、いまもなお、その恩恵を受けて、こうして旧知と出会えるわけです。

フェイスブックは、現実世界とは違う、もう一つの世界を開いているように思います。
最近、私のフェイスブックを読んで、「いいね」というメッセージを送ってくれた人の中に、死者の名前があったことがあります。
彼のフェイスブックは、彼の死後も消えることなく残っています。
ですから、フェイスブックの世界は、現実世界での死後もまだ、生き続けることができるのです。
私の友だちリストにも、死んだはずの彼の名前もまだ残っています。
これは、いろんな示唆を与えてくれます。

もっとも、フェイスブックが残っているとしても、死者はそこに書き込むことも、友だちのフェイスブックに反応することもできないでしょう。
にもかかわらず死んだはずの彼が私にメッセージを送ってきたのは、実は彼の伴侶が引き継いだからです。
たぶんそうだろうなと思っていたら、その人が彼のフェイスブックを引き継ぐことにしたという書き込みがありました。
フェイスブックでは、そんなこともできるわけです。

インターネットは、虚空蔵のような無限の世界につながっていくとともに、華厳経に出てくるインドラの網(インドラネット)の一つの姿を感じるということは、これまでも書いてきました。
しかし、最近は、フェイスブックの世界そのものが、現実世界を飲み込んでいくのではないかという気さえしてきています。
まさに、映画「マトリックス」の世界です。
しかし、ある意味では、そこに「彼岸」が生まれるかもしれません。
そうなれば、彼岸と此岸はつながります。
時空間も越えられますし、生は死を乗り越えます。
まあそうなるのは数百年先でしょうが、もしかしたら数百年先の私が、いまの私と交流できるようになるかもしれません。

今日は雨。
灰色の空を見ながら、彼岸を思いやっています。

■2918:20年ぶりの再会(2015年8月27日)
節子
昨日、フェイスブックで再会した荻阪さんが、今日、早速に湯島に来てくれました。
忙しいだろうに、わざわざ時間調整してまで、私に合わせてくれたのです。
超多忙のはずなのに、その気持ちが、とてもうれしいです。
私は10年ぶりくらいかなと思っていたら、なんと20年ぶりだそうです。
時間の経つのは実に早いです。

最近、新著を出版され、その本を持ってきてくれました。
「リーダーの言葉が届かない10の理由」。
ビジネスの世界では話題になっている本のようです。
荻阪さんと出会った時は、彼がその世界に飛び込んで間もなくだったと思います。
私の言動も、荻阪さんはきちんと見ていてくれたようです。
いまは見事に会社も起業され、活躍されています。

荻阪さんは、むかしの私の言葉を覚えてくれていました。
しかも、私にとっては、結構大切な言葉なのです。
いずれも、さりげなく言ったはずですが、荻阪さんは大事にしまっていてくれたようです。
うれしいことです。
いまでこそ転職や会社を辞めての起業は広がっていますが、27年前は珍しいことで、どちらかといえばかなりマイナスイメージでした。
私が会社を辞めて、生き方を変えたのが、荻阪さんにとってはとても印象的だったようです。
荻阪さんの話を聞いて、あの頃はそんな受け止め方をされていたのかと、改めて知りました。
たしかに当時は、私も仲間から何で辞めたのかとなかなか理解してもらえませんでした。
私には何でもないことでしたが、まわりには理解できなかったのかもしれません。
当時の会社の同僚もそうですが、誰も私が辞めた理由はわからなかったでしょう。
そういう私の生き方を、何も訊かずに、ただ受容してくれたのが、節子でした。
感謝しなければいけません。

荻阪さんとの話は、最近の日本の企業経営の話になりました。
話が実に合いました。
いまの企業のあり方を憂いている点も同じです。
現場をしっかりと踏まえているなと思いました。
それに荻阪さんの情熱は、むかしと同じく、実に熱いのです。
でも久しぶりに、私もちょっと熱く語ってしまったかもしれません。

佐藤さんは20年前と全く変わっていないですね、と言われました。
まあ人間、素直に生きていたら、変わりようはありませんから、当然のことですが、荻阪さんからそう言われるとなにか少しうれしい気がします。
そうそう一言だけですが、節子の話も出ました。
その働き方も、荻阪さんの頭にはしっかりと入っていたようです。

共通の友人の話も出ました。
そのうちの2人は、もう故人です。
私が故人にならないうちにと、荻阪さんは急いできてくれたのかもしれませんが、ちょっと安心してもらえたかもしれません。
今日は、私もちょっと元気だったのです。

旧友との再会は人を元気にします。
今日は、ちょっといい1日でした。

あの頃の佐藤さんの歳になりました。
荻阪さんが帰った後、その言葉が奇妙に頭に残りました。
そうかこういう風にして、人から人へと思いは伝わっていくのかと思うとともに、あの頃の私もきっと今日の荻阪さんのように、熱かったのかもしれないと思いました。
いまではもうすっかり枯れてしまいましたが。

■2919:「死に行ける妻はよみがへりわが内に生く」(2015年8月28日)
先日、少し引用した田辺元の「死の哲学」を、なんとなく読んでいます。
集中して読むには、いささか難解なので、目が行ったところを読むという怠惰な読み方です。
「実存協同」という言葉が時々、目に入ってきます。
言葉だけは以前から知っていたのですが、その意味は十分に理解できていません。
ところが、こんな文章が目に入ってきました。

愛によって可能になる、死者と生者との交互的な関わり。

これを田辺元は「実存協同」という独特の言葉で表現したのです。
つまり、実存協同によって、生死を超えることができるわけです。
田辺元が、奥さんの死を、号泣するほどに、嘆き悲しんだことは有名な話です。

わがために命ささげて死に行ける妻はよみがへりわが内に生く

これは田辺が詠んだものですが、この経験が、田辺の「死の哲学」の根底にあると言われています。
田辺とは比べようもありませんが、同じような体験をした私としても、この「実存協同」といことには違和感はありません。
こうした体験をすると、死や生に対する捉え方が変わってきます。
それだけではなく、人のつながりの感じ方も変わってくる。
自己と他者との境界さえもが、いささか曖昧になえなってくるのです。

「実存協同」を可能にするのは「愛」です。
こでいう「愛」は、情愛とはちがいます。
情愛よりも、広く深いと言っていいでしょう。
もちろん異性である必要もありません。
いや、場合によっては、人である必要もない。

人は、「愛」によって人になったのかもしれません。
人の歴史は、愛によって始まった。
「死の哲学」を、理解できないままに、ぱらぱら読んでいて、そんなことを考えたりしています。
つまり、「死の哲学」とは「愛の哲学」なのではないか。
西田哲学をいかにも勝手に解釈してしまい、笑われそうですが、きちんと読むにはまだ私の世界がそこに届いていないようです。
引き続き、しばらくは気の向くままの拾い読みを続けようと思います。

■2920:節子が褒められることもあるのです(2015年8月29日)
節子の9回目の命日が近づいてきました。
それもあって、この数日は、節子を少し褒めるようなことを書こうかなと思っていたら、節子を褒めてくれるメールが届きました。
私信なのですが、少し引用させてもらおうと思います。
かなり「褒めすぎ」なのですが、まあ命日も近いということでお許しください。

メールをくださったのは、一昨日お会いした荻阪さんです。

佐藤さんに淹れて頂いた「コーヒーの香り」を嗅ぎ、 豆の味わいが、なぜか心に沁み込みました。
佐藤さんと御話が進む中で、懐かしく、奥様の温かな微笑や声があの時間の中で、小生の胸中に 静かに浮かび上がっておりました。
私は、奥様に御会いしたのは、1度だけでしたが、その出逢い、訪れる相手のおひとり御一人をどれだけ大切に、迎えて頂いたか。
その奥様の御心配りが脳裏に浮かびました。
佐藤さんが奥様と共に、コンセプトワークショップを創ってこられたことをあらためて感じました。
「温かな姿勢」「鋭い論理」「人々が集まる人望」を具え、問題意識と正義感を持って歩まれ続けておられる佐藤さんとの再会に、深き御縁を感じました。
そして、 御会いしていない時間が長かった分、その御互いの歳月を通して、素晴らしき再会へ変わることを昨日、訪れた「人生の時間」の中で学ばせて頂きました。

私も褒められていますね。
最後の2つの文章は不要ですが、なんとなく切り離せなくて、一緒に引用させてもらいました。
私も時には褒めてほしいものですから。

節子に対する評価は間違いなく過大評価ですが、しかし、節子が褒められたことは以前にも一度ありました。
節子がまだ湯島に来て、電話などの応対をしてくれていたころです。
四国の経済機関に講演を頼まれました。
当時は私もそれなりに各地に講演に出かけていました。
講演の前夜、呼んでくださった人たちと会食をしました。
その席で、電話で講演を頼んできた方から、佐藤さんのオフィスの受付の方の対応に感激しましたというようなことを言われました。
受付もなにも、私の会社は私と節子しかいません。
節子がそんなに感激してもらうような受け答えをしたとはにわかに信じられなかったのですが、その方はとても感じ入ってくださっていて、何回もおっしゃるのです。
実は女房なんですと言ったかどうかは忘れてしまいましたが、何か私自身とても気分がよくて、翌日の話も楽しくさせてもらいました。
実は私は講演はあまり好きではなく、記憶もあまりないのですが、その時のことだけはしっかりと覚えています。
まあ女房を褒められるのは、自分を褒められるよりうれしいものです。
ちなみに、私は節子を褒めたことがほとんどありません。
それで、この挽歌では、その罪滅ぼしに、いつも過剰に褒めているわけです。
でもまあ、こうして節子を褒めてくれる人もいます。

節子
うれしいですね。
命日まで、あと4日です。
8年前のことは思い出したくありませんが、目の前に浮かんできます。
なにしろ実にドラマティックでしたから。

■2921:同行二人のデモ参加(2015年8月30日)
節子
今日は、「戦争法案廃案!安倍政権退陣! 8・30国会10万人・全国100万人大行動」に参加してきました。
最近の日本は、国民のほとんどが「つんぼ桟敷」に置かれているような状況に見えてしまいます。
しかも80年前の日本と違い、国民が自ら目と耳を閉じているような気がしてなりません。
いや心を失ったのかもしれません。
その背景には、生きるために忙しくしなければいけないという状況が広がっているのです。
実際には、忙しくなどする必要がない条件はできているはずですが、人為的に多くの人は目先の生活の危機感に追い込まれているのです。
そこから抜け出せば、いかようにも生きられるはずですが、心が呪縛されてしまうと、なかなか抜けられないのでしょう。
そうしたなかで、最近、国会周辺に限らず、各地でデモ行動が広がっています。
これが単なるガス抜き活動にならなければいいのですが、国会周辺のデモに参加していつも思うのは、空しさです。
デモをするよりも、まずは自らの生き方を考え直し、自分を取り戻すことが大切だという思いから、最近はデモには参加していませんが、さすがに今日は参加しようと思って、出かけたのです。

電車を乗りちがえてしまい、少し遅れて会場に着いたのですが、すでに地下鉄駅の構内から人があふれていて、地上に出るまでに20分近くかかりました。
友人たちと待ち合わせていましたが、結局、会えませんでした。

最近の国会デモの雰囲気と同じく、私にとっては予想以上に穏やかで平静なデモでした。
節子と一緒に参加したイラク派兵反対のデモとは全く違います。
こういうデモがいいと思ったこともありますが、やはり少し物足りません。
特に現在のように、国民の声など全く聞こうとしない政府の場合は、こんな平静なデモではなく、やはり逮捕者が出るようなスタイルがいいのではないかなどと思いながら、歩いていました。
どこかで小競り合いがあれば、荷担したいという思いもあって、歩き回っていました。

平静とはいえ、人数はこれまで以上に多かったですし、高齢の女性が多かったような気がします。
若者は、シールズががんばっていましたが、総じてやはり少ないのが気になりました。
もう一つ感じたのは、原発事故後のデモの時に比べて、警察があまり協力的ではなかった気がします。
これは思い込みのせいかもしれません。

節子と2人の、同行二人のデモ参加でした。


■2922:「長い8月」(2015年8月31日)
節子
今年もまた、8月は「長い8月」でした。
しかし、8年前の長さに比べたら、比べようもないほど短いのですが。

8月は毎年31日と決まっています。
しかし、私たちにとって、8月は31日どころではない長さを感じる月になってしまいました。
節子が、まさに「闘病」に明け暮れたひと月だったのです。
いまでは記憶の中にないほどに、それは過酷でした。
私には、暑かったことと暗かったことの記憶しかありません。
病室になったわが家の和室で、節子は過ごしました。
家族も夕食は、そこで全員、節子と一緒でした。
節子はベッドの中で食事をしました。
私たちは、その横で、畳に座って食べていたのです。
節子はその頃はもうあまり会話ができませんでした。
というよりも、あまり食事もできなかったのです。
でもみんなで食事をしていました。
不思議な光景だったかもしれません。

節子の親しい友人たちがお見舞いに来てくれても、8月の後半になってからは、ほんの一握りの人以外、節子は会いたがりませんでした。
せっかく来てくださったのに、会えずに帰ってもらったこともあります。
私が、せっかく来てくれたのだからと言っても、節子は会いたくないというばかりでした。
病みあがってしまった自分の姿を見せたくなかったのでしょう。
どんなに病みあがっても、私には以前と同じ節子でしたが、いまから思うと息を引き取った後の節子も私には以前の節子と同じに感じられたので、たぶん私の感覚がおかしくなっていたのでしょう。
節子は、しかし、自分がどう見えているかを知っていたのです。

8月の、長い1か月、節子は実によく頑張りました。
節子にとって、本当に長い長い1か月だったでしょう。
8月の後半は、節子はもう彼岸に行っていたのだと気づいたのは、だいぶ経ってからです。

今年の夏も、長い1か月でした。
その8月も、今日で終わりです。

■2923:節子への供養の言葉(2015年9月1日)
節子
今日はまた、節子を褒めてくれた人の話です。
まあ8回忌の供養の大盤振る舞いで、書いておきましょう。

転職先を探していたSさんから、勤め先が決まったというメールが来ました。
そこに、8年前の話が書かれていました。
Sさんに無断での引用です。

以前、私が、仕事を実質的に失い、呆然とした状態で突然、佐藤家にお邪魔した日のこと、よく覚えています。
その日、奥様は病気が深刻なものであることをお知りになり、ご自身もさぞかしご心痛な時期に突然の訪問者である私にとてもおもいやりのある言葉をかけていただきました。
自分自身の状況ばかり心が行き、他者様への配慮が欠けていた私は、そのことと自分自身の至らなさに身を縮める思いと奥様と佐藤さんのお気遣いに触れ本当に有難く存じました。
その日、その時のことをよく思い出しながらも、今日まで、その時の佐藤家の本当に大切な時間に突然乱入し且つ自分の苦境のみを夢中で訴えていた自分が恥ずかしく言葉にできませんでした。
ただ、今、就職が決まりました機会に言葉にさせていただきます。
思えば、この日が佐藤さんとのお付き合いを再開させていただいた最初の日であり、同時に佐藤節子様との一期一会の出会いの日でした。

節子の胃がんが再発し、症状がかなり悪化してから、見舞いではなく、わが家に来た人はSさんだけではありません。
最後の2か月ほどは、私にも全く余裕がなくなっていましたから、対応はできませんでしたが、それまでは突然近くに来たのでと言って、立ち寄ってくださる人もいました。
その人は、まさかそれほど妻の症状が悪いとは知らないでしょうから、むしろ善意で立ち寄ってくれたはずです。
夫婦で立ち寄った方がいますが、さすがにその時には、節子は対応できず、私だけで対応しました。
気もそぞろだったと思いますが、おふたりはどう感じたでしょうか。

たぶんSさんも、途中でなにか雰囲気を感じたのでしょう。
Sさんのこのメールを見て、私の未熟さを痛感しました。
私は、どうしても思いが表情に出るタイプなのです。
Sさんにもきっと違和感を持たせてしまったのだろうなと、反省しました。

しかし、それはそれとして、Sさんから改めてこう言われると、なにやらとても褒められたような気がします。
私が、でなく、節子がです。

Sさんは、その後も、献花に来てくださいました。
節子だけでなく、私がへこんでしまっている時には、元気づけをしに来てくれました。
私は何のお役にも立てませんでしたが。

そのSさんの就職が決まりました。
命日を前にして、何かとてもうれしいです。
私がどんなに節子を褒めても、節子は喜ばないでしょう。
しかし、Sさんからのこうした言葉は、節子への最大の供養です。
節子にも、さっそく報告しておきました。

自分が精神的に弱っている時には、他の人のことがとてもよく見えるものです。
そして世界も、よく見えてきます。
だからこそ、Sさんのような言葉のうれしさは、大きいのです。
言葉だけではないからです。
そういう体験をしてしまうと、言葉だけの慰めや言葉だけのお褒めの言葉を見分けられるようになります。
その分、生きづらくもなりますが、生きやすくもなるのです。

■2924:節子の友人たちからのメッセージ(2015年9月2日)
節子
8回目の命日を前に、うれしいメールがまた届きました。
節子の幼馴染の、雨森さんからです。
私が雨森さんとお会いしたのは、節子が発病してからです。
節子の生家に帰省した時に、雨森さんご夫妻にお会いしました。
その後も何回かお会いして、ご馳走になったりしてしまいました。
雨森さんの話は、この挽歌でも書いたことがあります。

雨森さんは挽歌を読んでくださっています。
その雨森さんが、こんなメールを下さいました。
少し短くして引用させてもらいます。

8月30日に中学校の同窓会がありました。
何と同窓生198名で、参加が80名の大勢でした。死去された方25名。
幹事長の挨拶が始まりました。
節ちゃんの親友○○さんです。
素晴らしい話をしてくれました。
個人的に、節ちゃんの思い出話もしました。
節ちゃんは、遠くてもきっと参加してくれたのにと思うと、やはり残念です。

来年は、雨森さんが小学校の同級会の幹事だそうです。
この時もきっと、「ああ節ちゃんは居ないのか」と思うでしょうね、と書いてありました。
節子は、いい友だちをもっていますね。
ちなみに、雨森さんは男性です。

節子の友だちと言えば、滋賀の2人の友人から、今年も胡蝶蘭が届きました。
毎年送ってくれているのです。
節子はいまも、彼女たちの中では生きているのでしょう。
うれしいことです。

■2925:9回目の命日(2015年9月3日)
9回目の命日です。
9回目ともなれば、あまり意識することもありません。
法事もありませんし、仏壇に何か特別のものを供えるわけでもありません。
節子がいないことは、もはやみんなの「日常」になっていますから、悲しみや寂しさが命日だからと言って高まるわけでもありません。
お盆よりも、何もない命日です。

今年は畑からとってきた百日草とセイジ花を活けるだけにしていたら、娘がユリの花を買って来てくれました。
節子の友人から送られてきた胡蝶蘭も供えさせてもらいました。
今年は、献花に来てくださる人もいないので、娘たちと一緒に、ジュンの連れ合いがやっているイタリアンのお店エヴィーバに食べに行きました。
節子の写真と小節子も同行しました。
まあ至って地味な9回忌でした。

ちなみに、節子が旅立ってから今日で何日目かを計算し直したら、2923日目でした。
一生懸命、数字を合わせてきたつもりが、計算違いだったわけです。
明日と明後日、書くのをやめて、正しい数字にする予定です。

■2926:誕生日としての命日(2015年9月6日)
節子
節子もよく知っているTさんが来ました。
彼女の妹さんが、昨年末、がんで亡くなったのです。
医療に対する不信感から一時は医療拒否になり、姉としては大変だったようです。
しかし、最後は医師への信頼も取り戻し、眠るように息を引き取ったそうです。
この種の話は、誰にでも話せることではありません。
たぶんTさんは、ずっと心に閉じ込めていたようです。
翌日、話を聞いていただきありがとうございました、とメールが届きました。
そして、改めて最後の様子を書いてきてくださいました。
とても感動的な話です。
妹さんの息遣いさえ伝わってくるような話です。
おそらくTさんには忘れられない日になったでしょう。

娘たちは命日よりも誕生日を祝いたいと言います。
命日は、どうも気が重くなるようです。
たしかに「楽しい思い出の日」ではありません。
哀しいばかりか、思い出すだけで、何か暗闇に引き込まれそうになることもあります。
しかし、私は、実感のない誕生日よりも、命日を大切にしたいと思います。
それに、私には命日は、節子にとっても私にとっても、新しい誕生日のような気もするのです。

節子が息を引きとった前後の記憶は、実は極めてあいまいになっています。
意識的に記憶から消去したいという脳の働きがあるのではないかと思うほど、あいまいです。
時間的な記憶の空隙もありますし、自分の意思で動いていたのかどうか確信を持てないこともあります。
しかし、だからこそ、私は命日を大切にしたいと思っています。
なにそこから新しい2人の時間が始まったのですから。

Tさんはいま、社会的にも大活躍している人です。
しかし、いま彼女は独身です。
妹さんは自分が看取ったが、自分は誰が看取ってくれるのだろうかというような話に少し向かいました。
これは彼女にかぎらず、多くの人の問題でもあります。
家族も、人の付き合いも、いま大きく変わりつつあるからです。
死を共有できる人がいるかどうかはとても大きな問題です。

節子の命日には、今年は誰も来ませんでしたが、何人かの人からお花が送られてきたり、節子はいまもなお見舞われています。
少し遅れましたが、また献花に来てくれる人もいるようです。
少なくとも、私は毎朝、お経をあげています。
節子は、良い時代を生きたのかもしれません。

命日から3日間、いろんなことを考えました。
ちょうど佐久間さんの「唯葬論」を読んだところでもあるせいか、看取り合うコミュニティを育てることを考えたりしました。
そういえば、その佐久間さんも花を送ってくれました。
節子はいま、花に囲まれています。

本当に節子は良い時代に行きました。
それがとてもうれしいです。

■2927:「愛される自分」ではなく「愛する自分」を生きる(2015年9月7日)
節子
ちょっと「愛について」の青くさい議論です。
このところ、愛するということの大切さを改めて感じているものですから。

愛する人がいるということは、愛する自分がいるということです。
人を愛するということは、たぶん世界を愛するということなのではないかと思います。
私は、どちらかというと、「愛する人」よりも「愛する自分」を大切にしてきました。
節子よりも自分を大切にしてきた、という意味ではありません。
「愛される」よりも「愛する」ことを大切にしてきたということです。

そして、「愛する人」の存在こそが、「愛する自分」の存在意味だと考えてきました。
「愛する人」の向こうには、大きな世界が開かれている。
愛の力が大きければ、その愛は「愛する人」で止まるわけはありません。
愛する人を通して、世界がすべて愛おしいものに変わっていく。
節子がいなくなって、そのことが何となくわかるようになってきました。
そのことは、これまでもこの挽歌で、間接的に書いてきたつもりです。

でも、時々、だれかに愛されたいと思うことはあります。
つまり、「愛される自分」がほしくなる。
そうなると、世界は見えなくなりがちです。
素直に生きることも難しくなる。
なぜなら、愛することは自分の問題ですが、愛されることは他者の問題だからです。
愛されることが目的になってしまい、生きることが手段になりかねない。

生きることは、たぶん「愛すること」です。
生きる力は、愛から生まれてくる。
愛する人や物を喪った時、人は生きる気力も失いそうになる。
そのことを考えれば、納得してもらえるかもしれません。
人はパンがなくても、愛がなくても、生き続けられない。
そう思います。

私が、「愛される自分」ではなく「愛する自分」を生き続けられているのは、節子のおかげだと思っています。
でもやはり、時には誰かに「愛されたい」と思うのは、まだ節子への未練があるからかもしれません。
まだまだ煩悩の世界にいるようです。

■2928:森谷さんを見送りました(2015年9月8日)
節子
森谷さんが亡くなりました。
もっとも、節子はそれほどお付き合いがあったわけではありません。
しかし、森谷さんは、節子の葬儀に来てくださいました。
江戸っ子気風の、律儀な人でした。

森谷さんは、私が住んでいる我孫子市での最初のNPOの設立者でした。
日曜大工が得意の森谷さんは、以前から独り住まいのお年寄りの家などをバリアフリーにするとか、階段の手すりをつけるとかのボランティア活動をしていました。
私はその時、知り合ったのですが、きっぷのいい江戸っ子気質でした。

その後、活動も広がり、NPOの先駆者のひとりとして各地に講演などにも行っていました。
ある時、相談があるんだと自宅に呼ばれました。
NPOの展開に関する相談でしたが、森谷さんが多くの独り住まいの高齢者たちにどれほど頼りにされているかが伝わってきました。
その後も、時々、呼び出され、時々、お会いしていましたが、ついに一緒に何かをするという機会はありませんでした。

節子が病気になってからは、付き合いも途絶えました。
しかし、節子の葬儀に、どこで知ったのか、森谷さんも来てくれました。
最後に会ったのは、私が勝手にある人を森谷さんにお引き合わせした時だったでしょうか。
その時は、珈琲をご馳走になったような、あるいは珈琲をご馳走したような、いずれかだったはずですが、なぜかそれが最後でした。
どうして、それ以来、会わなかったのか思い出せませんが、別に会わなくてもいつも会っているような人でした。
心がオープンで、嘘のない人でしたから、いつもつながっていたのです。
そんなに親しいわけでもなく、何か一緒にしたことがあるわけでもないのに、しかしなんとなく認め合える関係だった気がします。
時々、そういう人がいるものです。

その森谷さんが逝きました。
92歳でした。
森谷さんの遺影は、笑い顔のいい写真でした。
良い人生だっただろうなと思いながら、いろいろと思いだしながら、お経を聴いていました。
宗派をお聞きしませんでしたが、あまり聞いたことのないお経でした。

森谷さん
いろいろとありがとうございました。

■2929:お布施のご馳走(2015年9月9日)
節子
武田さんにご馳走になってしまいました。
貧乏な佐藤さんに、たまにはちゃんとした寿司を食べさせたいと言って、お寿司をご馳走してくれました。
まあ貧者へのお布施です。
お布施は受け取らないと失礼に当たります。
それに、武田さんの言葉は、ちょっとムッとしたいところですが、事実といえば事実です。

もっとも、私には高級と言われる食への関心は、まったくと言っていいほどないのです。
むしろ、高価な食事をしていると、なにやら罪の意識が芽生えてしまうのです。
それに、昔からそうですが、グルメと言われる人のおすすめの食事はたいていにおいて、私の口に合わないのです。
たしかにおいしいのですが、それよりも採りたての野菜や魚介類をそのまま簡単な調理で食べるのが、私には最高の贅沢でもあるのです。

とまあ、こんなことを言うと、せっかくのお布施の心を踏みにじることになりますので、あまり言わずに(うっかり少しだけ言ってしまいましたが)出かけました。
連れて行かれたのは、銀座久兵衛です。
有名なお店ですが、残念ながら私はその有名度合さえ知りませんでした。
もっと驚くべきだったのですが、驚かなかったのです。
猫に小判というところでしょうか。困ったものです。
武田さんもご馳走のし甲斐がなかったでしょう。
武田さんのご指名で、平さんという方が握ってくださいました。
平さんは、とてもいい人でした。
それに、とてもおいしかったです。はい。

たまたま武田さんの知り合いのご夫妻が来ていました。
某社の経営者だった人ですが、奥様もよく来られるそうです。
節子には一度もそんなことをさせられませんでした。
穏やかそうに話されているご夫妻を見ると、やはりうらやましさを感じてしまいます。
私たちには、こういう老後はやってきませんでした。

ちなみに、今日は夕食もお布施の夕食です。
2回ほど、ある会でお会いした方なのですが、なぜか私の発言のどこかが心に残ったようで、一度、お話ししたいと連絡があったのです。
ありがたいことですが、お布施に見合うお話ができるかどうか、心配です。
しかし、まあ、いただいたお布施は、いつかまた誰かに恩送りすればいいでしょう。
恩送りできるように、明日からしばらくは、思い切りつつましやかな食事にしようと思います。

台風がひどくならなければいいのですが。

■2930:心揺さぶられる風景(2015年9月10日)
節子
我孫子にも避難所が設置されたほどでの大雨です。
小貝川も越水が起こりそうな状況です。
昨日も東京は時折ひどい雨でした。
3回ほど、都内を歩く必要があったのですが、そのいずれもがすごい雨で、それこそ数分歩いただけだったのに、ずぶ濡れになりました。
なぜか私が外を歩く時には必ず滝のような雨が降りました。
自然に叱られているような気がしました。

午前中、各地の大雨の様子をテレビで見ていました。
自然が荒れている風景は、なぜか心が揺さぶられます。
そこに生を感ずるからかもしれません。
まるで人間たちへの怒りのようにさえ、感じます。
不謹慎な言い方ですが、それを見ていると、なぜか元気が出てくるような気がします。

私が心揺さぶられる風景がもう一つあります。
砂漠の中にある古代遺跡です。
テレビで再放映された、パルミラのドキュメンタリーをみました。
最近、ISが爆破したと報道されているベル神殿も含めてのドキュメンタリーです。
パルミラには行ったことがありませんが、一番行きたかったところです。
パルミラの映像を見ていると、いつも不思議なほどに心がドキドキします。
ここに住んでいたのではないかと言う気になるほどです。
と言っても、パルミラに限ったことではなく、砂漠の中の列柱遺跡をみるといつもそういう気分になるのです。
これは、同じ「心揺さぶられる気分」ですが、むしろ「平安」につながります。
なぜか懐かしさが全身を広がってくるのです。

しかし、そのパルミラ遺跡も破壊されつつある。
それも「怒り」によってです。

怒りは破壊につながるのでしょうか。
破壊は、さらなる怒りを生み出すのかもしれません。
怒りを生み出すために、人は「破壊」をするのかもしれません。

雨が上がったようです。
ちょっと出かけてこようと思います。
雨上がりの風景には、自然のやさしさを感じます。
雨がすべての怒りや不浄を洗い流してくれたからかもしれません。

私たちは、自然に包まれて生きています。
最近そのことを強く実感できるようになってきています。

■2931:人生の過剰を捨てることの難しさ(2015年9月12日)
節子
鬼怒川の堤防が決壊しました。
その様子をテレビで見ていて、自然はやはり生きていると感じました。
正確に言えば、自然の意思のようなものを感じたのです。
いつものように、論理的な思考の結果ではなく、突然にそう感じただけです。

自然の表情の変化は、いつも実に鮮やかです。
その変化の中で、私の感情の乱高下など、些末な話です。
自分の存在を相対化できれば、人生はきっと平安になるのでしょう。
自然は、時々それを教えてくれるのかもしれません。

人生には「過剰」がつきものです。
過剰がなければ、人生は面白くはないでしょう。
しかし、過剰があればこそ、感情は乱高下し、平安はもたらされない。
感情の乱高下は、多くの場合、過剰によってもたらされる。
その過剰を捨てることができれば、人生はどんなに平安でしょうか。
平安が退屈だと感じないようにするにはどうしたらいいか。
それが見つからないまま、感情の乱高下に付き合う気力が次第に消えてきているような気がします。

いまでも、思い出すだけで、気持ちが沈んだり、不安感に襲われることがあります。
本来はしっかりと立ち向かわなければいけないのですが、その気力がない。
その部分を、私の「過剰な一部」として捨てればいいだけの話ですが、なかなかそれができない。
過剰を捨てていくと、人生はどんどん小さくなる。
それを受け入れたくない自分が、まだいるのです。

昨日は、挽歌をかけずに終わりました。
過剰な部分も含めて、昨日は少し厭世観にうもれてしまっていました。
今日の青空にようやく癒されました。

■2932:秋の花の季節(2015年9月12日)
節子
娘の友人が、今年もまた献花に来てくれました。
毎年、おしゃれな花束を届けてくれます。
今年は、品格のある大人っぽいブーケでした。
節子は気にいったでしょうか。
それにしても、節子は本当に花に恵まれた人です。
不思議です。

花言葉というのがありますが、それとは別に、花は物語を生み出す力があります。
花を見ていると、それを感じます。
花の表情は、実に豊かなのです。
これも節子の花に付き合っていて、学んだことです。

庭の曼珠沙華が咲きだしました。
なぜか今年は黄色ばかりです。
雨続きだったので、最近、畑には行っていないのですが、たぶん畑の花はみんな雨風でだめになっているでしょう。
しかし、また秋の花の季節です。
庭もまた、いろいろな花が咲きだすでしょう。
畑にも種を蒔きに行かなければいけません。
節子のいない庭は、最近また荒れ気味です。
小さな庭ですが、毎日接していないと、彼らは自分たちの物語を創りだしてしまうのです。
花の手入れは、思った以上に大変です。
まだ私自身、花の仲間に入れてもらえていないのでしょう。

そろそろまた畑通いも再開です。
秋が長いといいのですが。

■2933:疲れています(2015年9月13日)
節子
夏の疲れが出てきたのか、あるいは歳のせいなのか、最近、どうも疲れやすくなっています。
今日は、あるプロジェクトの相談で湯島に出かけていましたが、5時間近い話し合いが終わった後、何やら疲れ切ってしまいました。
幸い、その後、もう一人、相談に来たいという人と約束していたのですが、急用ができて来られなくなったので、すぐ帰宅したのですが、ぼーっとしていたせいで、一つ手前の駅で下車してしまいました。
それも、何となく違和感をもちながら、改札を出てしまったのです。
われながら信じがたい話です。

我孫子駅に着いたら、駅前で憲法9条をまもろうという署名運動をやっていました。
チラシを配布している人と目が合ったせいか、その人が私を追いかけてチラシを渡してくれました。
しかし、私は書名もせずに、そのまま家に向かって歩いてきてしまいました。
少し歩いて署名を呼びかけられたのだと気づき、一瞬、戻って署名しようかと思ったのですが、結局そのまま歩き続けました。
思考と行動がつながらなかったのです。
かなり疲労困憊しているようです。

疲労しているのは、頭だけではありません。
今日は湯島の58段の階段を上るのがつらくて、途中で休みたくなりました。
オフィスについてから、ぐったりしてしまい、冷蔵庫を探して栄養ドリンクを飲んでなんとか持ちこたえました。
困ったものです。

今日、話し合いをしていた人が、佐藤さんはこういう話し合いをいくつもこなしているのは驚きだと言ってくれたような気がしますが、実はこなしてなどいないのかもしれません。
疲れてボーっとしているだけになってきているのかもしれません。
にもかかわらず、疲れ切ってしまう。
さて、どうしたものでしょうか。
とりあえず、明日は自宅でゆっくり休む予定です。
携帯電話には出ませんので、あしからず。

■2934:2回も携帯電話を受けてしまいました(2015年9月14日)
今日は携帯電話には出ないと決めていたのに、朝、うっかり携帯電話をとってしまいました。
まだぼーとしていたためです。
しかし、内容は、ちょっと「深刻な相談電話」でした。
1時間ほどの長電話になってしまいました。
でも電話で話して、少しは役立ったでしょう。
私も気になっていた問題だったので、よかったです。
かなり「公的な問題」でもあるのですが、いつか公になるかもしれません。
社会にはたくさんの問題が隠れています。
それが見えだすと、本当にやり切れません。

天気がよくなったので、畑に行こうかとも思ったのですが、やはりその元気が出てきません。
テレビの国会中継を見てしまったら、ますます元気はなくなってしまいました。
本を読もうとすると眠くなってしまいます。
パソコンに向かうと、そこにやるべき課題リストがあって、10項目くらいが急いでやるという赤丸がついています。
中には5分もあればやれることもあるのですが、気が乗らないとどうしてもやれないのです。
パソコンは夜にしようと決めました。
まだ相撲をやっているなとテレビを見に行ったら、白鵬が連敗に場面でした。
ますます元気がなくなりました。
私のなかでは、白鵬は負けるはずのない力士なのです。

あまりのことにぼーっとしていたら、携帯電話が点滅しているのが見えて、反射的に受けてしまいました。
九州のGさんです。
どうやらみんなで楽しくやっているような雰囲気の声が聞こえてきました。
いま、佐藤さんの話になって、みんなが会いたいというので電話しました、とちょっと酔っているような感じです。
もしかしたらと思ったら、やはりYさんが私の話をしているようです。
元気ですか、と訊かれたので、ほどほどにと答えましたが、自分が元気だと相手も元気だと思うのが人の常です。
私の身の上相談に乗ってほしいくらいでしたが、相談する元気も出てきません。

というわけで、今日はうっかり携帯電話に2回も出てしまいました。
そのせいではないのですが、疲労感は一向になくなりません。
明日こそ、携帯電話には出ないで、心身を整えましょう。
やはり畑に行くのが一番いいかもしれません。
今や私を癒してくれるのは、自然しかないかもしれません。

■2935:その花はダリアですか?(2015年9月16日)
節子
昨日は久しぶりにゆっくりできました。
だいぶ元気になりました。
午前中、畑に行ってきました。
しばらくぶりだったので、畑は完全に野草の世界に戻っていました。
道路沿いの花畑も野草に埋もれそうでした。
しかし、百日草は元気に咲いていました。
義姉から聞いていたように、強い花です。

その花はダリアですか?
突然、通りがかりの知らない女性から声をかけられました。
いえ、百日草です、と答えると、祖母が育てていたダリアに似ていて、いつもきれいだなと思っていました、と言ってくれました。
手入れ不足で、道を通る人に申し訳ないと思っていたのですが、「きれいだ」と思ってくれていた人もいてくれたのです。

よかったら、いつでもどうぞ切り花にお持ちください、とお伝えしましたが、いまの野草の状況では花畑にも近づけないかもしれません。
もう少しきちんと手入れをしなければいけません。
しかし、百日草は元気で、次々と花を咲かせてくれます。
来年は斜面一面を百日草にしてもいいかもしれません。

ついでにランタナも斜面に植えたのですが、元気です。
しかし日照不足か、花が咲いていません。
これから咲いてくれるでしょう。
もし冬を越してくれたら、ランタナもきれいに咲いてくれるはずです。

畑部分は手の施しようもないほどでしたが、一列、畝をつくりました。
大根か白菜を蒔こうと思っています。
しかし予想以上に、野草が生い茂り、気が滅入ります。
植物の生命力は、実にすばらしいです。

畑の端に、ゆずの木があります。
昨年は100個以上実をつけましたが、今年はほとんど実が成っていません。
植物も年によって元気さは違うようです。

ところで、ダリアですが、隣家の皇帝ダリアが素晴らしいので、今春、庭に皇帝ダリアを植えました。
しかしどうも元気になりません。
枯れてはいないのですが、花が咲いてくれるか心配です。
植物と付き合うのも、それなりに大変です。

■2936:サンピエール修道院(2015年9月16日)
節子
サンチアゴ巡礼中の鈴木さんから、初めてのハガキが届きました。
歩き出したから、間もなく1か月ですが、フランスのモワサックから出状されています。
回廊で有名なサンピエール修道院のあるところだそうですが、残念ながらサンピエール修道院については知識が皆無です。
それでネットで調べてみました。
http://izmreise.la.coocan.jp/France/Romanesque/Moissac/Portail/moissac_portail.html
素晴らしい回廊で、柱頭彫刻も見事です。
一度、巡礼路を歩くと、また歩きたくなってしまうという理由が少しわかりました。
単なる観光とはやはり違った感動があるのでしょう。
観光として行ったら、たぶんこうした柱頭彫刻とは会話はできないでしょうが、巡礼者にはたぶん話しかけてくるに違いない。
そんな気がします。
サンピエール修道院の写真を見ていて、イランのイスファハンのイマーム広場を思い出しました。
あれが節子との最後の海外旅行になりました。

鈴木さんは、フランスの LE PUY から歩き出して、もう400キロは歩いたそうです。

毎日、いろいろな人と会い、また別れていく。
旅、巡礼は人生の縮図であると感じるときがたびたびあります。

と書いてありました。
濃密な人生体験をしているようです。

出会う事柄の密度においては、たぶん巡礼よりも世俗での日常の方が多種多様でだと思いますが、日常生活では事件が多すぎて、人生が見えなくなっているのかもしれません。
そういう意味では、巡礼の日常はたぶん人生の感度を高めてくれるのでしょう。
巡礼は、人生としっかりと向き合う旅なのかもしれません。
毎日の風景が全く違っている。
時間と文化がしみ込んだサンピエール修道院のようなところで、自分を相対化してみると、もしかするとまったく気づかなかった自分に気づくかもしれません。

帰国後に、鈴木さんに会うのが楽しみです。

■2937:雨の中を寄り添って無言のデモをしている老夫婦(2015年9月18日)
節子
昨日、国会デモに参加してきました。
8月30日よりは、参加者は少なかったですが、熱気はむしろ高かったです。
幸いに私がいる間は、雨はさほどひどくなかったのですが、雨を気にしている人はいませんでした。
道端に座っている中高年の夫婦も多かったような気がします。
みんなやりきれなさをかかえているのでしょうか。

昨日はなぜか、安保法案よりも、そうした夫婦の風景が気になってしまいました。
というのも、デモに出かける前、テレビで国会の特別委員会の荒れ模様を見ていたのですが、自民党の議員たちは、家庭でどんな会話をしているのだろうかと気になりだしたのです。
誰一人、トップに異を唱えない政党のメンバーには、たぶん「自分の生活」はないでしょう。
いったい彼らの生活や家族はどうなっているのかと、気になりだしました。
平和の基本は、生活であり、家族であり、夫婦です。
それがなければ、平和を語ることなどできないはずです。
嘘八百で、言うことがコロコロ真反対に変わっていく安倍首相や中谷防衛相を、いさめる伴侶はいないのか。
家族はいないのか。
友人はいないのか。
もしいさめないとすれば、「愛」がないからでしょう。
まあ、そんなことを思ったりしてしまったわけです。
そしてデモに行ったら、雨の中を寄り添って無言のデモをしている老夫婦に出会ったのです。

先日テレビで、新宿での安保法案賛成デモの風景を見た記憶がよみがえってきました。
そこでは若い母親世代の女性が盛んにシュプレヒコールを叫んでいました。
私にはとても信じられない風景ですが、この人たちは人を愛したことがあるのだろうかと思っていました。
本当に子どもを愛しているのだろうかとも思いました。
人を愛したことがあれば、戦争など賛成するはずがありません。
平和のための軍事力などという、矛盾した言葉に惑わされることなどないはずです。
戦う向こう側にも人はいるのですから。

国会での安保法案反対デモでも、女性のシュプレヒコールが目立ちました。
いつもは抵抗なく声が出せるシュプレヒコールも、昨日はあまり声が出せませんでした。
その好戦的なリズムが気になったのです。
「あべはやめろ!」というコールも前回は違和感がなかったのですが、今日は少し抵抗がありました。
もしかしたら、いまの日本から失われているのは「愛」かもしれない、となぜか突然思ってしまったのです。
疲労感がどっと出てきました。

警察官が高圧的で挑戦的だと、昨夜、デモに行った人が書いてきました。
私も一度書きましたが、原発反対デモの時に比べると、今回は確かに警察官が高圧的だと感じていました。
しかし、昨日は警察官をよく観察しました。
若い、本当に子どものような素直そうな警察官が前線にかりだされています。
彼らは、もしかしたら、大勢のデモの市民に恐怖や不安を感じているのかもしれません。
そこに不足しているのは、やはり「愛」なのでしょう。
彼らは決して、高圧的でも、挑戦的でもない。
こちらの意識を少し変えるだけで、見え方はかなり変わってきます。

そうか、いま失われているのは「愛」なのだと、改めて感じました。
そういう気分になってしまったためか、どうもデモの現場にいるのがつらくなってしまいました。
だらしのない話ですが。

昨日は、デモに行かなければよかったです。
愛の失われた時代を、実感させられた気分になってしまったからです。
そんなわけで、足取り重く帰宅しました。
こんなに疲れたデモは初めてです。

時評編では、まったく違ったことを書きそうですが、こんな気分も感じたことを、挽歌編に書いておきたくなりました。
節子がいたら、あの老夫婦のように、シュプレヒコールにも同和せずに、ただ静かに座っているような参加ができたかもしれません。
そうしたら、世界はまた違って見えたかもしれません。

■2938:逝く者の贈り物(2015年9月18日)
節子
友人から聞いた話です。
ずっと頭に残っているので、書いてしまうことにします。

友人の妹さんががんになりました。
おそらく手術の際の不手際が原因で、その人は医療不信に陥り、医療拒否をするようになってしまったそうです。
症状が悪化しても、医師を受け付けなくなってしまいました。
友人は、妹さんの家に寝泊まりして看病しながら、なんとか医師に診てもらおうと思い、いろいろと工夫しました。
最後に苦肉の策で、医師とは言わずに、診てもらうようにしたそうです。
しかし医師とわかった途端に、彼女は拒否反応を示しました。
その時に、その医師が、彼女に厳しく言ったそうです。
「あなたは逝くかもしれませんが、残された方が笑顔になれません」。

その翌日、彼女は医師を受け入れだしたそうです。
しかしすでに時遅く、彼女は結局、逝ってしまいました。
しかし、最後はその医師ともとてもいい関係になっていたそうです。
おかげで、友人は笑顔を失わずにすみました。
まだ1年もたっていませんから、笑顔は無理でしょうが、いつか笑顔を取り戻す時が来るでしょう。
私も、彼女の笑顔をまた見たいです。

かなり不正確な記述ですが、この医師の言葉は、とても考えさせられます。
「逝く者の責任」と言ってしまうと冷たくなりますが、「逝く者の贈り物」と考えると、気分が和らぎます。

「逝く者の贈り物」に気づくのは、しばらくたってからです。
なかなか気づかないものです。
しかし、必ず何かを残してくれています。
それに気づくと、とても幸せな気持ちになれます。
そして、同時に、悲しさもまた戻ってくるのですが。

■2939:お彼岸なのでおお墓に行きました(2015年9月21日)
節子
安保法制の強行採決のおかげで、また生活のリズムが狂ってしまいました。
まあ論理的には関連性はないのですが、精神的にはかなり影響を受けています。
そのため、また2日も挽歌を書かずに終わってしまいました。
困ったものです。

お彼岸なので、お墓に行ってきました。
涼しくなったので、今日から造花をやめて活花にしました。
それもにぎやかにしようと、洋花に加えて、わが家の庭や畑の花も持っていきました。
いわゆる「仏花」は、私は好きではないので、家の仏壇も基本的にはあたたかな感じの明るい雰囲気の花にしていますが、お墓の供花も同じようにしています。
最近はそういう雰囲気のお墓も増えています。
仏花だと菊が多いのですが、菊は長持ちはしますが、華やかさがありません。
今日は、華やかな花を選んで組み合わせたので、とてもにぎやかな感じです。
両親も節子も喜んでいるでしょう。

相変わらず気は萎えたままです。
時評編がまだ書けずにいます。

■2940:気分が変わると世界は変わってきます(2015年9月22日)
節子
気分が変わると世界は変わってきます。
少しだけ気分を変えようと思って、今朝は少し早目に動き出しました。
一段落してテレビをつけたら、ハナミズキの一青窈さんのインタビューが出ていました。
ハナミズキと言えば、以前、地元のギタリスト宮内さんが、わが家にわざわざ献花ではなく、献歌に来てくれた時の曲です。
それもあって、なんとなく見てしまいました。
そして初めて一青窈さんのこととハナミズキの歌の意味を知りました。
一青窈さんの話は、あまりよく理解できませんでしたが、気持ちは伝わってきました。
人はみんな、いろんな思いを背負って生きている。

このテレビのせいではないのですが、気分を変えることにしました。
世間はいま、長い5連休ですが、私にはまったく無縁です。
いろいろと溜まっていた用事などを消化しようと思いながら、心身が動かずに、いささか暗い連休を過ごしていました。
気が萎えていると、それをさらに落とし込むようなことが起こるものです。
そんな悪循環の中にはまっていました。

気を改めて、少し動き出しました。
そうしたら、いろんなことが動き出しました。
いずれも、ほんの小さなことです。
安保法制関連の話もありますが、私の気をふさいでいるのは、安保法制に関しても小さなこと、例えばちょっとした意見の違いや心無い攻撃的メールなのです。
しかし、そういう小さなことも、気が萎えているとひどく響いてしまいます。
それに慰めてくれる人もいません。
位牌の節子も、そんなことは聞きたくはないでしょう。

ところが、気を戻したからでしょうか、奇妙なほど、いろんな動きがいい方向にまわりだしたような気がしてきました。
不思議なほどです。

気分が変わると世界は変わってきます。
節子がいる時は、節子が私の気分を変える存在でした。
その節子がいないいま、自分で気分は変えないといけません。
今日は、ちょっとばかり気が戻ってきました。
朗報も入ってきました。

人間、良い時もあれば悪い時もある。
そう信ずるのがいいようです。

■2941:「…って、どんな意味があるのだろうか」(2015年9月26日)
節子
また挽歌がたまってきました。
別に時間がないわけでもないですし、書きたくないわけではありません。
ただただ書けていないだけです。

人は元気の時はいいです。
自分がやっていることのすべてが、価値のあることのように感じられる。
しかし、何かでめげてしまうと、やっていることのすべての意味が感じられなくなってしまう。
この1〜2年は、そうしたことの繰り返しです。
世間的に言えば、情緒不安定、躁鬱気分とでもいえるでしょうか。

いつも事の始まりは、極めて瑣末なことから始まります。
節子はよく聞いたことのある言葉でしょうが、「…って、どんな意味があるのだろうか」という極めて小さな疑問から始まります。
いま陥っているのは、湯島で毎週のようにやっているカフェサロンって、いったいどんな意味があるのだろうかという疑問です。

実は今日も湯島に来ています。
「個人の尊厳と社会の尊厳」をテーマにしたサロンです。
大学時代の友人に話題提供してもらうのですが、大阪で弁護士事務所を開いている彼の時間を割いてもらって、彼に迷惑を与えたのではないかという気がし出したら、何かちょっと気になりだしたのです。
いつか彼にお返しができればいいですが、なかなか難しそうです。
まあ私の「恩送り」主義から言えば、そういう考えは不要なのですが、気になると止まりません。
それに休日なのにわざわざ湯島まで来てくれる参加者の人たちはどうでしょう。
私に付き合っているのかもしれません。

こんなサロンをやっていても、社会は変わらない。
そう思うとやはり考えてしまうのです。
いうまでもありませんが、私はいまの社会の生きづらさを、少しでもなおしたいと思って、サロン活動をしています。
でも何も変わらない。
だから時々思うのです。
「サロンをやることに、どんな意味があるのだろうか」と。
節子がいたころは節子に訊ねていました。
節子の答えは、いつも、「じゃあ、やめたら」でしたが、それでいるも疑問は解消されました。
あんまり論理的ではないのですが、論理的ではない対話が夫婦では成り立ちます。

そろそろその友人が来ます。
迷いは捨てなければいけません。

■2942:闘うことを忘れるな(2015年9月27日)
節子
昨日のサロンはとてもよかったです。
友人の話も感動的でした。
大川さんは自分が関わった裁判の被告のことを話している時に、涙ぐみました。
大川さんはとても明るいやさしい人で、涙など見たことがありませんでした。

その被告は、冤罪によって生活を破壊されたのです。
幸いに大川さんたちの弁護活動で、その人の冤罪は晴れたのですが、すい臓がんでその人は亡くなりました。
息を引き取る前日、大川さんに電話があったそうです。
冤罪が晴れたところで、すべてが解決したわけではありません。
その思いを、彼は大川さんに伝えたかったのでしょう。
そして大川さんは、それに応えて、いまも彼のことを忘れずにいる。
深い感動を覚えました。

大川さんは大学時代のクラスメイトです。
節子は会ったことはありませんが。
私と違って、社会の表舞台で、正面から不条理に立ち向かい、闘ってきた人です。
社会から脱落した私とは大違いです。
そのせいか、ゆっくり話す機会は最近までありませんでした。
昨日の彼の話を聞いて、そのことを悔やみました。

大学時代、私が触発された先生の一人が「刑法」の団藤重光さんです。
その後、最高裁の判事になった人です。
団藤さんの講義で、ドイツの法律家のイェーリングの「権利のための闘争」を教えてもらいました。
しかし、いつの間にかそれをすっかり忘れていました。
大川さんの、長い、静かな、そして勇気ある取り組みは、まさに闘いだったのです。
それも理解せずに、彼が関わった司法改革を批判したことを少し反省しました。
人の思いは、外からはなかなか見えないものです。

久しぶりに大学時代のことを少し思い出しました。
節子に合わなかったら、違った人生になっていたかもしれません。
もちろん節子も、私と会っていなければ、まったく違う人生になったでしょう。

大川さんは、いまを「闘いを忘れた時代」だと言いました。
穏やかで、いつも笑顔の大川さんの口から、そういう言葉が出るとは、思ってもいませんでした。
その言葉がとてもうれしかったです。
闘いを忘れていなかった人がいたのです。
私も、「闘い」を忘れた「凡庸」な存在にならないようにしなければいけません。

節子からも静かな闘い方を学びはしましたが、節子がいなくなってから、闘う気力も萎えていました。
大川さんの話を聞けたことに感謝しなければいけません。

■2943:とかく人の世は住みにくい(2015年9月28日)
節子
気を抜くとまた、日数との差が開くので、挽歌を優先させようと思います。
今朝、娘と話をしていて、節子は格闘技が嫌いだったねという話になりました。
私も嫌いでしたが、節子はかなり徹底していました。
私は西部劇が好きだったのですが、節子は嫌いでした。
殺し合いがともかく嫌いだったからです。
それまで私は、西部劇での撃ち合いなどを気にはしていませんでしたが、節子から言われてみるとたしかに醜い殺し合いが多いです。
マカロニウェスタンが流行りだしてからの西部劇は、あまり見なくなりました。
西部劇に限らず、殺し合う場面のある映画は、節子は観ませんでした。

私も格闘技は昔から好きではありませんでした。
というよりも、まったく理解できないのです。
闘う相手は、人ではないはずです。
いささか理屈っぽいのですが、格闘技には大きな意味が潜んでいるような気がするのです。

節子から学んだことは、こういうことでした。
節子はたぶん意識もしていなかったでしょう。
だからこそ、私には学ぶことができたのかもしれません。
節子は、人を諭すようなことは言いませんでした。
節子は、知識や言葉ではなく、生き方において私にいろいろなことを気づかせてくれたのです。

いま、安保法制を巡って、いろんな言説が私にまで届いてきます。
私は、軍事による抑止力という発想自体に、格闘技を重ねたくなるのですが、友人からも、3日考えたけれども佐藤さんの主張が理解できないと言って、公開の場でていねいなメールをもらいました。
いただいた問いかけには応えなければいけません。
応えているうちに、世界が広がりますから、反対意見はありがたいことです。
しかし、どこかにむなしさを感じます。
問題は、簡単なことなのです。
節子なら言うでしょう。
なかよくやればいいだけだ、と。
生活者には、難しい理屈も議論も不要なのです。

このブログは、生々しい自分とちょっとソフィストケイトされた自分とを混在させながら、書き続けています。
見栄を張りながら、恥をさらけ出しているということです。
節子との世界は、まさにそうだったからです。
論理だけでの対話は、何か私の性には合わないことを、最近痛感しています。
論理の世界はぶれてしまうからです。
夏目漱石が、「知に働けば角が立つ,情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ,とかく人の世は住みにくい」と書きましたが、漱石も生きにくい社会を生きたのでしょう。

社会からの逃げ場が、やはりほしいです。

■2944:スーパームーンをみながらの月見鍋(2015年9月28日)
節子
昨日は中秋の名月でしたが、今日は、昨日よりも月が大きく見えるスーパームーンだそうです。
それでむすめたちと庭で月を見ながらの食事でした。
メニューはロウソクの灯のもとでの月見鍋。
おいしかったです。

節子はこういうのが大好きでしたが、節子がいなくなってからはあまりやらなくなっていました。
どういう風の吹き回しか、ユカがセットし、ジュンも参加してくれました。
庭から正面に月が見えていました。
たしかに明るい月でした。
そのせいで、星はあまり見えませんでした。

節子がいなくなってから9年目に入りました。
節子が残してくれた文化は、まだ残っています。
節子も写真で参加しました。
節子の話もいろいろ出ました。

節子が逝ってから、もう9年。
もうそんなに時間がったのか、不思議な気がします。

■2945:心にポッカリ穴が空いた感じ(2015年9月29日)
節子
今朝、20年ほど会っていない若い友人からメールが届いていました。
彼は毎年、必ず年明けにメールをくれます。
そして今年こそ湯島に行くといつも書いています。
しかしまだそれは実現されていません。
彼との接点は、そう多かったわけではありません。
ある自治体の都市計画を策定するときに協力してもらったことがあるだけです。
それも直接ではなく、一緒にやった友人の大学教授の学生だったのです。
しかし、どこか羽目を外したところがあり、ずっと気になっていました。
なぜか彼も私を気にしてくれていたようです。
毎年、年初に近況報告も含めた長いメールが届きました。
しかし、彼が卒業してからは一度も会っていません。

その彼からのメールです。
年初でもないのに、何事だろうと思いながら開いてみました。
書き出しはこんな文章でした。

このたび、父が9月25日に他界いたしまいた。
今なら愛妻を亡くした佐藤様の気持ちがよくわかります。

やはりそうかと思いました。
久しぶりにメールをくれる人の多くは、いつも重い内容なのです。

彼のお父さんが、数年前に脳梗塞をおこし、認知症気味になっていたことは知らされていました。
彼はこう続けて書いてきました。

父を預かっていただく、介護施設は少なく、
体重、身長とも大きな父の介護は母では無理であったので
私自分の仕事を辞め、命は二度と帰ってこないと思い、父の介護をがんばったのですが残念です。

野崎泰伸さんが書いた「共倒れ社会を超えて」という本があります。
自らも障害を持つ野崎さんは、いまの社会がいかに生きづらいか明らかにしています。
そうなっているのは、みんな自分で問題を引き受けすぎているからだとも示唆しています。
そのことを思い出しました。
彼も引き受けすぎ、背負いすぎていたような気がします。
そうならないように、今年のはじめに来た彼からのメールにも、一度、湯島に話に来ることを誘ったのですが、たぶんその時間さえなかったのでしょう。
問題を抱えた途端に、逆に小さな世界に埋没しがちなのです。
そういう社会の仕組みは、変えていかなくてはいけません。
そのためにも、もっと人の繋がりを育てていくことが大切だろうと思います。

彼はさらにつづけて書いています。

私には相談できる年長者が周りにいない状態です。
ご迷惑と思いましたが、父の年に近い佐藤様の事を思い出し、メールした次第であります。
今は、毎日介護していた、父がいなくなり心にポッカリ穴が空いた感じで深い悲しみの中にいます。
悲しみの中から抜け出し、ちゃんと生きていかなければと思うのですが、悲しくて、涙ばかり出てきます。
湯島に行き、悲しみからどう抜け出せばよいか相談することもあると思いますが、その節はよろしくお願いできればと思います。

年寄りにもできることはあるのです。
いつでも湯島にどうぞと返事を書きました。

■2946:相談してもらえる幸せ(2015年9月29日)
節子
フェイスブックに、私とほぼ同世代の方からメッセージをもらいました。
私とは考え方がかなり違い、今回の安保法制論議に関しても、いろいろと厳しいコメントをくださっている方です。
しかし、単に私への反論を書くだけではなく、ご自分もしっかりと考えられている、とても誠実な方です。
考え方が違っても、誠実な議論ができる友人がいるのはとても幸せなことです。

その方は、私にはもう一つ「幸せ」があると書いてきてくださいました。

高年齢になっても多くの人々から尊重されご多忙なのは真に幸せなことですね。

たしかにそうかもしれません。
今朝は、実はもう一つ、相談のメールが届いていました。
残念ながら私の答えられる内容ではありませんでしたの、きちんとした相談者を紹介しました。
その方もたぶん、そうしたことを相談する年長者との付き合いがなかったのかもしれません。
実は、彼女は、あることで一度、湯島に相談に来たのですが、それが縁で今回も相談してきてくれたのです。
あんまり役には立てませんが、一人で考えているよりはいいでしょう。
そういう役割くらいは、私でも果たせるでしょう。
時のとんでもないトラブルに巻き込まれることもありましたが、
人の役に立つことは幸せなことですから、たしかに私は幸せなのかもしれません。

もっと気楽に周りの人たちに相談できるような生き方をすればいいのに、と思うこともあります。
しかし、まだまだ問題を抱え込んで、苦しんでいる人が多いです。
何で苦労をシェアしないのか。
節子がいなくなって、苦楽をシェアできることが、どんなに大切な事かがわかりました。
だから私もできるだけ、愚痴をこぼしながらも、誰かの相談に応じたいと思っているのです。

今朝の相談相手は、私のアドバイスを受けて、さっそく動き出すようです。
こんな感じで、自分のことがなかなかできません。
まあ、それが幸せということなのかもしれません。
節子のことを、何もしてやれないのは不幸なのですが。

■2947:生活を共にすることの価値(2015年9月30日)
節子
今日は秋晴れのいい天気です。
久しぶりに畑に行きました。
先週、種を蒔いていた大根が芽を出していました。
植物のすごさは、いつも感動的です。
季節違いに植えたさつまいもはやはりダメそうです。
いまは収穫のない時期なので、もっぱら野草との闘いですが、野草とも何か連帯感が育ってきています。
付き合う時間が重なってくると、親しみは増すものです。
節子との関係も、そういう面もあったのかもしれません。
生活を共にするという意味は、大きな意味をもっています。
節子がいなくなってから、つくづくそれを感じます。

白菜の種も蒔いてしまいましたが、肥料をやるのが面倒なので、何もせずに蒔いたのでいささか心配です。
でもまあ、彼らの生命力に期待しましょう。
先日、来春用のチューリップの球根も買ってきましたが、まだ百日草が元気なのでもう少し待とうと思います。
まあそんな感じで、畑もポチポチです。

そういえば、今年はトンボをまだ見ていない気がします。
例年ならもう出会っているはずですが、今年はセミも少なかったですが、トンボはさらに少ない気がします。
少しだけ畑をやっているだけでも、自然の表情の変化が意識できます。
同時に、生命との出会いもかなりあるのです。
今年の畑は、生き物が少ない気がします。
私ががんばって、環境を破壊し、生き物を追いやってしまったのかもしれません。
生きるということは、残酷なことなのかもしれません。

■2948:書くことの効用(2015年9月30日)
節子
九州のTさんからいま、定期的にメールが届いています。
彼女のこれまでの人生の覚書のような内容のメールです。
彼女はかなりドラマティックな人生を歩んできています。
私は、一度しか会ったことはありません。
節子は会ったことはありませんが、彼女の世話にはなっています。
Tさんの紹介で、「官足法」という療法をしえてもらい、その施術を受けました。
そのほかにも、ちょっとした縁がありました。

節子がとても大変だった頃、Tさんから電話がありました。
Tさんは、別の意味で大変な時期だったようでした。
その電話の後、交流が途絶えました。
そして9年近くがたった先月、メールが届きました。
よくわかりませんでしたが、人生の岐路にあるようです。

そして、むかし話を語りだしました。
私自身はきちんと読んでいましたが、あまりにも私的な内容なので、反応できずにいました。
少し続いた後、こんなことを書き綴っていいいのだろうかと自問のようなメールが来ました。
きちんと読んでいるから、ともかく書き続けたら、とメールしました。
そして今も、メールが続いています。
まだ20年ほど前の話なので、これからかなり続きそうです。

彼女は、過去を書くことで、気持ちを整理できるのだろうと思います。
彼女は昔雑誌の編集もやっていました。
書くのは得意のはずですが、たぶん今は書くことはほとんどしていないでしょう。

彼女がなぜ、私を相手に選んだのかわかりません。
たしかに読み手がいないと、書くのが難しいのでしょう。
それで私が選ばれたのでしょうが、彼女には親しい友人もいます。
その友人が、私を彼女に引き合わせたのです。
なぜ彼女ではなかったのか。
その友人は、節子はよく知っている人です。
その彼女もまた、ドラマティックな人生を送っているはずです。
そういえば、彼女からも最近、パタッと連絡が途絶えています。
聞くところでは、会社に入って普通の生き方になっているようですが、それも故あってのことのようです。

話を戻して、Tさんですが、彼女は私とはまったくと言っていいほど、違う世界を生きています。
いまは大分に住んでいますが、地方の良き共同体社会ではたぶん異質な存在でしょう。
ストレスがたまらないはずはありません。
いまそれが私に向けて吐き出されてきているわけです。
どう受け止めればいいか、よくわかりません。
いまはただ、誠実に彼女の半生記を読むだけです。
Tさんには伴侶がいます。
その伴侶に語ればいい話なのですが、それではだめなのでしょう。
人生の聞き役は、伴侶だけではないのかもしれません。
読み手がいないと、書くのが難しいのでしょう。

私の場合は、節子が読み手です。
だからこうして書き続けていられるのかもしれません。
いずれにしろ、書くことで気持ちはかなり鎮まります。
であれば、書いた人から送られてくるものも、きちんと読まないといけません。
問題は、どういうコメントを返せばいいのか、です。
正直、私は、彼女のことを、酒とたばこが大好きだということ以外、ほとんど知らないのです。

■2949:読書の秋(2015年10月1日)
節子
最近どうも本の世界にはまってしまいそうです。
現実からの逃避姿勢が強まっているのかもしれませんが、そこに広がる世界に魅了されていると言ったほうがいいかもしれません。
節子がいたころは、自宅で本を読むことはめったにありませんでした。
しかし最近は、疲れて在宅していると、ついつい本の世界にはまっているのです。
やらなければいけないことは、それなりにたくさんあるのですが、まあ気分が乗らなければできないのが私の習癖なので、どうも読書が優先されがちです。
いささかわが人生にとっては、異常かもしれません。
宿題を先延ばしにしている相手の人が、これを読むとまずいのですが。

読書と言ってもきわめてランダムです。
半分は以前読んだ本の読み直し、半分は図書館に頼んで探してもらった本です。
昨夜から読みだしたのは、熊本の宮田さんから教えてもらった「里山のガバナンス」です。
気になっていましたが、やっと手に入りました。
読み出したら、実に面白く、寝不足です。
もっと前にこうした本を読んでいたら、私の人生は大きく変わっていたでしょう。
やはり知は、世界を広げてくれます。

遅まきながら、丸山眞男や柳宗悦も読み直しています。
以前読んだ時には、あまり興味を感じませんでしたが、なぜか今は面白いです。
その体験から、ポランニーやオルテガも読み直すべく、机には積んでいます。
最近出版された本も、そうした合間に読んでいます。
友人知人が出版した本を送ってくれるからです。
そこからまた、むかしのテーマを思い出して、本を読みだすこともあります。
知の世界は、知れば知るほど、無知の世界が見えてくる、際限のない世界なのです。
一度はまってしまうと、アリ地獄のように、抜け出せない世界です。

節子がいなくなってから、止めてしまったことは多いですが、始めたこともあるわけです。
節子がいたら、こんないい季節に、本など読まずに、紅葉狩りに行こうと誘ってくれたことでしょう。
誘ってくれる人もないので、この秋は読書の秋になりそうです。

■2950:再会のためにしておくこと(2015年10月1日)
節子
久しぶりに湯島で一人で過ごしています。
今日は来客もなく、ゆったりしています。
天気がよかったら、上野まで足を延ばして、東京国立博物館の聖観音に会いに行こうかと思っていたのですが、どうも午後から雨になりそうなので、早目に帰ろうかと思います。
雨が降るのであれば、ベランダの草にも水をやる必要もなく、来なくてもよかったなと気づきましたが、たまには「ひとりの湯島」もいいでしょう。

金子由香利のシャンソンのCD「ベストテン」を聴きました。
節子がいなくなってから、この曲が大好きになりました。
聴いていたのは、「再会」です。
ご存知の方も多いでしょうが、いろんな歌手が、それぞれ豊かに歌いこんでいる曲です。

はじまりはこんな感じです。

あら ボンジュール
久しぶりね
その後 お変わりなくて
あれからどのくらいかしら。

あなたは元気そうね
え! わたし、変わったでしょ
あれから旅をしたの
いろんな国を見てきたわ
すこし大人になったわ

つまり、別れた「恋人」に偶然出会った哀しさの歌です。
哀しさではなく、歓びというべきでしょうか。
なにしろ「再会」できたのですから。

そういえば、「シェルブールの雨傘」というミュージカルもありました。
ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの「ひまわり」という映画もありました。
いずれも節子と観に行った映画です。
お互いに、当時は別れた恋人がいて、少しだけリアリティがありました。

ちなみに、いま「再会」を聴いて、私が感ずるのは、以前の恋人に会いたいということではありません。
あまり論理的ではないのですが、節子も私も、旅をしなかったということです。
少しも「大人」にならないままに、一緒に暮らし始めてしまった。
その結果、結局、最後まで2人とも「大人」になれなかった。
だから、節子にもたくさんの苦労をさせてしまったのかもしれません。

彼岸で、節子と「再会」した時に、お互いに少し「大人」になったね、と言い合えるようにしたいと思っています。

■2951:強風のため寝不足です(2015年10月2日)
節子
昨夜は台風の余波でのすごい風でした。
寝ていても、家全体が揺れるほどです。
真夜中の3時ころ、目が覚めました。
あまりの風のすごさに、真夜中におきだして、庭のテーブルなどを避難させに行きました。
テーブルを置いてある場所が、まさに「風の道」の線上にあるのです。
いつもは脇に避けておくのですが、昨日は全く忘れていました。
台風などへの警戒心が、かなり弱くなっています。
こういう気のゆるみが、事故につながるのでしょう。

すでに花の鉢はほぼすべて転がっていて、いくつかは割れていました。
幸いにテーブルは大丈夫でした。
それにしても強い風で、空全体がうなっているようでした。
いや、泣いているような気もしました。
自然にもきっと、「感情」があるのでしょう。
悲しい時もあるはずです。
しばらく風の中で佇んでいました。

ベッドに戻りましたが、目が冴えてしまいました。
考え事を始めると眠れなくなるので、横のテレビをつけました。
テレビをつけると、とりあえず思考をとめてもらえます。
思考をとめたければテレビを見ろ。
これは、節子がいなくなってから習得したことです。
そのおかげで、いつの間にか寝ていました。

しかし、夢の中で、いろいろと考える場面ばかりの夢をたくさん見ました。
論争や講演や仲間との討議、そんな夢をたくさん見た気がします。
目が覚めた時は、とても頭が疲れた気分でした。
寝ていた気分がしないのです。
しかも、議論した相手が、なぜか一人も思い出せません。
要するに、ある意味では「うなされるに近い」夢だったかもしれません。
こんなに頭が疲れた感じで目覚めるのは久しぶりです。

実はこの1週間ほど、あえて「思考」を止めていました。
友人たちから、いくつかの問いかけを受けていますが、それに応えるのを止めているのです。
少し間を置こうという理由からです。
それがこういう夢に現れたのかもしれません。

今日は成田で、企業の人たちとの合宿です。
思考の場が、与えられるといいのですが。

もう風はおさまり、穏やかな日になりそうです。

■2952:我孫子は農村だ(2015年10月2日)
節子
成田です。
実は久しぶりに成田線で成田まできたのですが、途中、窓の外をずっと見ていました。
そして、改めて、我孫子は農村なのだと気づきました。
緑が予想以上に広がっているのです。
田んぼも予想以上にあります。しかもきちんと手入れされている。
こんなことをいうと、誤解されそうですが、これは最高の褒め言葉、あるいは喜びの言葉です。
福島原発事故の前の、飯舘村ほどではないのですが、車窓からさえも、いい風景があるのです。
なんで節子が元気だった時に、こんないい風景に気づかなかったのだろうかと思いました。
なぜ歩かなかったのか。
我孫子が、ますます好きになりました。

節子の生家のある滋賀県の高月は、いいところです。
節子には、その良さが、あまり自覚されていなかったと思いますが、そこにいるだけで癒される風景なのです。
しかし、我孫子にもその風景があるのです。
なぜ今まで、それに気づかなかったのか。
たぶん私に見ようとする気持ちがなかったのでしょう。
私たちが一緒に暮らし出した、大津の瀬田にも、そんな風景がありました。
しかし、当時はその良さに、私たちは気づいていませんでした。

節子がいなくなってから、私に見える風景は、変わりました。
しかしなぜ、車窓から見える、まったりした緑の風景が、こんなに懐かしく、平安な気持ちを与えてくれるのか。
もしかしたら、そこに節子を感ずるからかもしれません。

我孫子は、良いところです。
みなさん、引っ越して来ませんか。

■2953:花は咲かないこともある
(2015年10月4日)
節子
昨日は成田での合宿でちょっと疲れてしまい、また挽歌をさぼってしまいました。
今日は、毎月初めのオープンサロンなので湯島に来ています。
秋になったはずが、今日は真夏のような暑さです。
そのせいか、さらに疲れが出てきてしまい、湯島に出かけてくるのもやっとでした。

ところで、今年は、湯島駅からオフィスの途中に毎年咲いている琉球朝顔が全く咲かないままに、終わってしまいました。
とても残念です。
毎年、たくさんの花を咲かせ、楽しませてくれました。
実は、その朝顔を見て、わが家にも植えたのです。
わが家の朝顔も、実はそのお宅の朝顔ほど元気ではなく、何本かは枯らしてしまいました。
今年はいつもとは違うところに植えたおかげで、いまも毎朝花を咲かせています。
しかし、まだ湯島の見事な朝顔には及ばないと思っていましたが、その湯島の朝顔が今年は、私が見る限り、ひとつも花を咲かせなかったのです。
そしてついに、抜かれてしまっていました。
花は、時に、咲かないこともあるのです。

今年はトンボを見ていないと先日書きましたが、今朝、庭でトンボを見ました。
しかしなぜかあまり赤くない赤トンボでした。
トンボもまた、時に赤くなりたくないこともあるのでしょう。

サロンの始まりの時間を過ぎましたが、誰も来ません。
最近ともかくサロンが多いので、まあみんな疲れたのでしょうか。
張本人の私も、ちょっと多いんじゃないのと思っているほどですから。
サロンも、時には、花の咲かないこともあっていいでしょう。

■2954:うれしいことがあっても、それを打ち消すことが多すぎる(2015年10月5日)
節子
また何かとバタバタしだしています。
暇なのかもしれません。
目前の課題に流されているだけの話かもしれません。
生きる主軸がないと、状況に振り回されてしまい、忙しくなりがちなのです。
しかし、一向に充実感がない。
気分は「暇」そのものというわけです。

まわりで、ちょっとうれしいことも起こっています。
昨日、千葉県の起業プランコンテストがありました。
私がささやかに応援している宇賀さんたちが、そこに応募し、1次、2次と勝ち抜き、昨日が最終の選考会でした。
公開の場での発表をし、参加者や専門家が投票で優勝者を決めるのです。
私は別の用事があり、応援には行けませんでしたが、最終のプレゼンテーションのミーティングを湯島で先週行ったところです。
応援に行っていた友人が、途中でちょっと難しいかもしれないとメールしてきました。
しかし、最後に逆転優勝したのです。
宇賀さんから優勝しましたと、電話がありました。
優勝するだろうとは思っていましたが、うれしいニュースでした。
これからのプロジェクト展開において、大きな力になるでしょう。

我孫子でミニコンサートをやるというプロジェクトも、具体的に動き出しました。
予算ゼロでの企画ですので、参加者がその気にならなければ進みません。
言い換えれば、完全なボランタリー活動ですから、楽しくなければ続きません。
いささか心配なこともありますが、動き出したのです。
メンバーがその気になったということです。
ある人にも応援を楽しみましたが、すぐに全面的に応援するという連絡が来ました。
実は、これはその人への約束のプロジェクトでもあるのです。
開催日は12月6日です。
テーマは「平和への祈り」。
よかったら我孫子に遊びに来てください。

もっとうれしいこともあります。
しかし、その一方で、気が萎える話もあるのです。
TPPが実現しそうなのです。
今朝のニュースで、その話を聞いて、実は完全にまた気が萎えてしまったのです。
どうしてそんな大きな事件に、一喜一憂しなければいけないのか。
その理由はさすがに書きにくいですが、いまはTPPのおかげで、気がふさいでいます。
今日から時評編を再開しようと思っていましたが、書く気が失せてしまいました。
TPPは、悪魔の囁きだろうと思っています。
しかし、悪魔は、恐ろしいほどに実に巧みです。

■2955:行楽の秋のさびしさ(2015年10月6日)
節子
秋晴れの良い天気です。
最近また時評編が全く書けず(書く気が起きず)にいます。
その分、なにやら挽歌に時評編的なことが入り込んできているような気がします。
ゾーエとビオスの融合などともっともらしいことを言っていますが、現実の人間は、そんな理屈とは関係なく、一体化していますから、当然のことなのですが。

秋と言えば、行楽の秋ですが、節子がいなくなってからは、行楽から無縁の生き方になっています。
別に行楽地に行くとか行かないという話ではありません。
気持ちがそうなっているということです。

愛する人を喪った人でも、元気そうに見える人はいます。
しかし、そういう人に限って、実は元気ではないのかもしれません。
時々そんなことを考えることもあります。

しかしその一方で、愛する人を喪ったことのない人などいないだろうとも思います。
生きるということは、たぶん誰かを愛することですから、愛する人を喪うことは、限りある生命を生きる人間にとっては、不可避なことです。
もっとも、生きるということがなぜ誰かを愛することなのかと問われれば、答えに窮します。
私がただ、そう思っているだけなのかもしれません。
しかし、もしそうであれば、つまり、生きるということが誰かを愛することなのであれば、生きている私は、決して愛する人を喪っていないということにもなります。

たぶんこういうことなのではないか。
愛する人を喪うことなどないのです。
ただ会えなくなるだけの話なのです。
そこに気づくまでに、私の場合はかなりの月日が必要だったわけですが。
要するに、愛する人を喪ったからさびしいのではないのです。
会えなくなったから、一緒に行楽に行けなくなったから、さびしいのです。

そんなわけで、行楽の秋は、とりわけさびしさがつのるのです。
特に、節子は紅葉が好きでしたから、なおさらです。
高尾山に一緒に行ったときの、見事な紅葉を時々思い出します。
今日のような、気持ちのいい、秋晴れの日でした。
あの時、山頂で出会った見ず知らずの3人組の男性たちのことも、時々思い出します。
あの人たちは、いまも高尾山で鍋を食べているでしょうか。
節子にも会いたいですが、彼らにも会いたいです。
そんなことを思い出させる、秋の空です。

■2956:クロアゲハが庭に来ました(2015年10月7日)
節子
昨日から畑作業を再開しました。
今日は、刈り取った野草の大きな袋が5つもできました。
刈り取るのはいいのですが、畝をつくって種を蒔いたり、花壇の整備をしたりするのは、やはり苦手です。
土に埋めれば肥料になるような草ではないので、ごみとして出さなければいけません。
燃やすのが一番いいのですが、たき火は禁止されています。
畑仕事も大変なのです。

畑には赤トンボがだいぶいました。
自宅ではあまり見ませんが、畑には飛んでいました。
秋の畑は、どこかさびしさがあります。

それよりも、今日、庭にクロアゲハが来ていました。
いろんなアゲハチョウがやってきますが、クロアゲハはめずらしい気がします。
ちなみに、カラスアゲハはよくきます。
それほど知っているわけではないので、間違っているかもしれませんが、今日やってきたアゲハは、黒一色。
それも見事な、深い黒でした。
クロアゲハだったと思います。
私の目の前で、琉球朝顔の大輪の蜜を、それみよがしに吸っていました。
ふと、節子ではないかと思いました。
庭の花に水をやっていた時なのですが、しばらく水やりをやめて、その優雅な動きに見入っていました。

小学校の頃、夏休みは毎日のように、昆虫採集に出かけていました。
その頃の記憶が少しだけ残っています。
当時の私の宝は昆虫図鑑でした。
いまもどこかに残っているはずです。
収集した蝶の標本は、手入れ不足で、節子に見せようと思ったら、跡形もなくなっていました。

子どもの頃、カラスアゲハとオニヤンマに出会うととてもうれしいものでした。
その頃のことを、今日は少し思い出しました。
そして、なぜかとても幸せな気分になりました。
たった一匹のクロアゲハが、こんなにもうれしい気持ちを引き起こしてくれるのは驚きです。

畑にはバッタもかなりいます。
最近のバッタは、気のせいか、弱々しいです。
キリギリスなどは、わが家の近辺からは、もう絶滅してしまっています。
殿様バッタも、見かけなくなりました。
植生も、生態も、変わってきているのです。
それがとてもさびしいです。

■2957:自然の中にいると哲学者になる(2015年10月8日)
節子
たまっていた宿題をほぼ完了しました。
思っていたほど、大変ではなかったということです。
最近は、社会にあまり役立っていないことがよくわかります。

午後は、畑に行ってきました。
今日はいつもよりだいぶ頑張りました。
小松菜とほうれん草も蒔いてきました。
畝づくりが大変でしたが、新しいところを開墾して、畝をつくったのです。
時期的にちょっと遅れてしまったかもしれません。
それでも、この3日間で、畑らしい部分がかなり広がりました。

昨日と違い、今日は赤トンボがすごかったです。
昨日も、こんなに飛んでいたのかもしれません。
畑の赤トンボはとてものどかでいいです。
休んでいると、時に、私の頭にもとまるのです。
のどかさを感じます。

土を耕していると、いろんなことに気づきます。
自らの身体機能の衰えもよくわかります。
自らの性格や行動のくせも、よくわかります。
植物にも感情や意思があることもわかります。
それ以上に、畑にいると自らの役割というか、「仕事」がいくらでもあるのです。
仕事があるということは、自分の居場所を実感できるということです。
自然の中では、すべての生命の居場所がある。
そしてみんな役立っている。
そんなことも考えさせられます。

私の好きな「小さな村の物語 イタリア」に登場してくる人たちは、何らかの形で自然に関わっている人が多いです。
だから、みんな豊かで幸せなのでしょう。
自分の居場所を実感しているのです。
だからこそ、その言葉には含蓄がある。
哲学者は、たぶん自然の中から生まれてくるのだろうと思います。

畑はいいです。
ただわが家の農園は、きちんとした畑ではなく、住宅に挟まれた空き地なので、仲間がいないのです。
だから、想像力を高めなければ、実のところ、農業者気分は高まらないのです。
そのためか、中途半端な哲学者で留まっています。
それでも、時にそんな気分になれるのは、土と草と虫のおかげです。

■2958:自分の老いの自覚(2015年10月9日)
節子
今日はちょっと用事があって、市役所に行ってきました。
用事が終わって帰ろうとしたら、見覚えのある人に出会いました。
とっさには名前を思い出せなかったのですが、関谷さんでした。
関谷さんもすぐに私の名前が出てこなかったようで、まあお互い、そんな歳になったわけです。
関谷さんは、我孫子の市民活動の第一世代です。
パソコン教室などで、市民活動を支援していましたし、一時はご自分でニュースレターも発行していました。

節子の葬儀の時、デイヘルプの森谷さんとおふたりでお通夜に来てくださったのを覚えています。
森谷さんもそうでしたが、関谷さんも、一家言持った実践する市民でした。
おふたりが、節子の葬儀に来てくれたのは、意外でした。
その森谷さんも、先日、逝ってしまいました。
森谷さんがいなくなって、関谷さんもさびしくなったでしょう。
関谷さんは盛んに、私のことを元気そうですね、と繰り返していました。
関谷さんは、少し足が悪くなっているようでした。
思うように活動ができなくなってきているのかもしれません。
それでも今日は、市民活動支援課や副市長に会いに来たようです。

自分が歳をとっていくのは、なかなか実感できません。
ただ同じ世代の友人知人に会うと、自分の老いを実感できます。
自分の意識と他者から見た感じは、まったくと言っていいほど、違うのでしょう。
自他の意識が大きく乖離しないように、注意しなければいけないと思いました。
節子という伴侶がいないいま、特に注意しないといけません。
なにしろ私の中の時計は、9年前で止まったままなのです。

■2959:お元気ですか、一度会いたいですね。(2015年10月10日)
節子
今日もまた、最近まったく連絡のなかった友人からメールが届きました。
1行だけのメールでした。

お元気ですか、一度会いたいですね。

高校時代の同級生ですが、もう10年ほど会っていないかもしれません。
節子が亡くなってからは、会っていないかもしれません。
私の場合は、生活のほぼすべてを公開するように努めていますが、むしろ私の友人たちは、生活ぶりが見えなくなってくることが多いのです。

今日も、友人と一緒に食事をしていて、ある人の名前が話題に出ました。
そういえば、あの人はいまどうしているだろうか、という話になったのです。
一時は、いろいろと話題になった、活躍していた人ですが、最近、あまり名前を聞きません。
社会的に活躍していたのに、ある時から、見えなくなっていく人もいます。
生き方を変えたのかもしれませんが、そんな人のことが、ふと気になることもあります。

今日、連絡をもらった人は、細菌学者でした。
以前一緒に、病原菌の目から企業経営を考える研究会のようなものを、一緒にやっていたことがあります。
彼が言うには、経営学の本を、病原菌の世界に置き換えて読むと、結構当てはまることが多いのだというのが、その会の出発点でした。
何回かやりましたが、なぜか成果を出す前に、終わってしまいました。
いまから考えると残念でしたが、メンバーがともかく個性的すぎて、たぶんパンクしたのです。

最後に彼が湯島に来た時は、ちょっと調子を崩していたようでした。
私もあまり元気がなかった時かもしれません。
その後も誘ったことがありますが、なぜか来なくなりました。
その彼から、「一度会いたいですね」というメール。
会わなければいけません。
こう書いているからには、彼は元気なのでしょう。

私も、旧友に会っておこうかという歳に、なってきました。
こうした、「お元気ですか、一度会いたいですね」という連絡は、最近増えているのです。
しかし、私の場合、まあ彼岸で会えるから、現世で会っておくこともないかという思いが強いのですが。

■2960:メランコリックな雨の朝(2015年10月11日)
節子
今日は雨です。
午後は湯島でカフェサロンなので、午前中に畑に行こうと思ったのに、行けなくなりました。
最近、雨の日はどうも心が沈みます。
これはいつ頃からでしょうか。
以前は、そんなことはなかったような気がします。
むしろ、雨が好きだった時もあります。
しかし、最近はどうも雨は苦手です。
しかも、時に、ですが、沈むだけではなく、悲しさにおおわれます。
これは以前には全くなかったことです。

気が弱くなっていると、ちょっとしたことに心が反応してしまいます。
感受性が高まっているとも言えますが、生命力が弱まっているともいえます。
最近、自分がそういう状況になっていることに気づくことがあります。
これは歳のせいなのか、節子のせいなのか、生活のあり方のせいなのか、よくわかりません。
それらは、みんなつながっているのかもしれません。

自分では気づきませんが、ふだんは、目いっぱい、虚勢を張って生きているのかもしれません。
雨の日は、雨の中に融け込んでいきたくなるような、さびしさと悲しさを感ずることもあります。
今日は、なぜか気分がとてもメランコリックです。
湯島のカフェサロンで、元気が出るでしょうか。
いささか心配ではあります。

■2961:重くて長い喪のはじまり(2015年10月11日)
節子
湯島の往復で、今日、最近出版された「ロラン・バルト」を読みました。
ロラン・バルトについては、ほとんど何も知らないのですが、
「作者の死」とか「エクリチュール」とか、どこか魅力を感ずる言葉が気になっていました。
生誕100年でもあり、まあ手頃な入門書が出たというので、読んでみました。
人柄は少しだけわかりましたが、読み終わっても、よくわかりませんでした。
ただ、共感できた言葉がありました。

ロラン・バルトが、死を受け入れられるようになったのは、最愛の母が亡くなった日からの2日間だったそうです。
ロラン・バルトは、母の死後、日記を書き続けることで、その悲しみを超えていきますが、母の死から2日目の日記には、こう書かれていました。

この時、重くて長い喪が厳粛にはじまったのである。この2日間で初めて、自分自身の死を「受け入れられる」という思いがした。

重くて長い喪が厳粛にはじまった。
この言葉が、私の心に響いたのです。

愛する人を見送った人にとって、葬儀は、バルトが書いているように、重くて長い喪の始まりです。
それは、決して終わることのない喪でもあります。
他者から見たら終わっているように見えるとしても、決して終わることはありません。
始まりはあっても、終わりのないのが、喪なのです。
なぜなら、人生をシェアした、愛する人の死は、自らの死でもあるからです。
バルトにとっては、母はまさに一緒に長年暮らしてきた、人生をシェアした人だったのでしょう。
私にとっては、節子が、そういう存在でした。

しかし、幸いなことに、喪中であろうと、人は生き続けられます。
喪中のなかにも、喜怒哀楽はある。
愛する人に出会うことさえあるかもしれません。
だからといって、喪があけるわけではありません。
ロラン・バルトは、1年後にも、こう書いています。

悲しみに生きること以外はなにものぞんでいない。

これもちょっとうなずけます。
電車の中で読んだせいか、私がこの本から学んだのは、この2つだけです。
ロラン・バルトの言語論もエクリチュール論も、相変わらず何も学べなかったのですが、まあこの2つで良しとしましょう。
ロラン・バルトは、嘘のつけないいい人なのです。
嘘をつけないから、小説も書けなかったのです。
それも実に面白い話です。

■2962:ヴィタ・ノーヴァ(2015年10月13日)
この連休は3日ともゆっくりできなかったので、今日は自宅で休んでいました。
最近どうも疲れやすいのです。
食事をするだけでも疲れてしまいますし、お風呂に行くのも面倒だし、ましてや湯島に行くのも面倒なのです。
しかし、なぜか湯島にはいかないわけにはいきません。
誰かの相談や呼び出しがあれば、できるだけ湯島には行くようにしています。
湯島にいる時には、何とか元気は維持できますが、帰宅すると急に疲れがどっと出てきてしまうのです。

それで、何をやったかというと、イギリスのテレビドラマ「シャーロック」を見直したのです。
何回観ても面白い。
この歳になると、内容をすぐに忘れてしまいますので、いつも新鮮に観ることができるのです。
物忘れの効用です。
しかし、この番組は、仮にストーリーを覚えていても、何回観ても面白いのですが。
今日はシーズン3の3本を通してみました。
実に面白いです。

このシリーズの第1回目で、シャーロックの相棒のワトソンが結婚します。
もちろん相手はメアリーです。
ただし、原作よりもずっと魅力的な女性になっています。
私の好みの女性はめったにテレビには登場しませんが、このメアリーは魅力的です。
まあそれはともかく結婚することになったワトソンに、家主のハドソンさんが「人生は変わる」というのです。
友だちとの関係も変わっていく、と。

この場面を観るたびに、私はいつも共感します。
実に不思議なのですが、なぜか変わってしまう。
私の場合はそうでした。
もちろん変わらない友情もある。
でもどこかで世界が変わるのです。

そしてまた、伴侶との死別は、また世界を変えていきます。
というわけで、私は2回の生活世界の変化を体験しています。

昨日、読んだ「ロラン・バルト」で頭に残っている言葉があります。
「ヴィタ・ノーヴァ」。
「新たな生」です。
バルトは、新しい生に向かいだしたところで、自動車事故で急死しました。
それはともかく、生は死から生まれるのです。
結婚とは「人生を新たにすること」なのです。
つまり、与えられた受動的な自分の人生を、自分で「新たにすること」こと、なのです。
そして、それは同時に、伴侶との別れは、その人生を終えることです。
言い換えれば、再びの「新たな生」、ヴィタ・ノーヴァに挑むことなのかもしれません。
その気力と生命力があればの話ですが。

バルトは、最後の頃の講演で、ブルーストについて言及しています。
ブルーストは母が亡くなったあと、自分と違う「私」を生み出し、あの有名な『失われた時を求めて』を書くことができたというのです。
バルトがもし、事故で死ななければ、彼はどんな「私」を生み出したでしょうか。

ちなみに、ワトソンはどう変わっていくのか。
「シャーロック」のシーズン4が来年からまた撮影を開始するそうです。
実に楽しみです。

しかし、このドラマは、節子は好きにはならないでしょう。
それだけは、はっきりしています。

■2963:久しぶり?の失策(2015年10月14日)
節子
またやってしまいました。
11時近くに携帯電話が鳴りました。
運よく手元に携帯電話がありました。
電話は認知症予防活動に取り組んでいる加藤さんからでした。
「今日は10時半からのお約束でしたよね・・・」
しまった、またやったかと思いました。
まったく失念していたのです。
昨日から予定表を見るのさえ嫌になっていたからです。
加藤さんたちは、いま既に湯島の部屋の前で20分以上待っていたようです。
さてさてどうするか。
もう1時間ほど待ってもらえますかと確認したら、仕方なく了解してくれました。
慌てて支度をして湯島に向かいましたが、まあ久しぶりの失策です。

こうしたこともあろうかと、実は湯島のカギはあるところに預けてあります。
そのおかげで、部屋の中には入ってもらえます。
今回も、そのおかげで、部屋の中で待ってもらえました。
まあ、こういうことが、1〜2年に1回くらいはあるのです。
だから本当は鍵などかけたくはないのです。
しかし、肝心の家主がいないところで待つのも、あまり落ち着いたものではないでしょう。
テレビでもあればいいのですが、何もない部屋ですので。
わざわざ遠くから来てくださったのに、悪いことをしてしまいました。
それでも着いた後、2時間ほど話し、なんとか肝心の目的は達せられたかと思います。

今回のテーマは「認知症予防」です。
まさに私自身が、その対象者になっていることを痛感させられました。

その後、地元で用事がありました。
時間を遅らせてもらっていたのです。
とんぼ返りで戻りました。
今日はゆっくりと用事を済ます予定の日でしたが、
とんでもなく疲れる日になってしまいました。
さらに帰宅したら、もう一つ難問が届いていました。
さんざんの日でした。
娘にそうボヤいたら、さんざんだったのは相手の人たちでしょうと言われました。
たしかにそうでした。
すみません。

昨日、4時間半も、「シャーロック」を観てしまった報いでしょうか。
今日は、シーズン1を観なおすつもりでしたが、その気が失せました。

■2964:知ったものの責任(2015年10月15日)
節子
ずっと読もうと思って読まずにいた『すぐそばにある「貧困」』を読みました。
若い友人の大西連さんが書いた本です。
彼には3か月ほど前に、湯島のサロンに来てもらって、ホームレス問題を話してもらったことがあります。
とてもいい話でした。

大西さんと出会ったのは、自殺のない社会づくりネットワークの活動で、でした。
3回目の公開フォーラムの時に手伝ってもらい、彼にある役割をお願いしました。
彼が誰の紹介で湯島にやってきたのか全く思い出せません。
まだ20代も半ばの、どこかに不思議なものを感じさせる好青年でした。
いまは、法人自立生活サポートセンター・もやいの理事長です。
その大西さんが書いたのが、この本です。
ひと月ほど前に出版されましたが、読みたい本が山積みだったこともあって、まだ読んでいませんでした。

今日、思いついて読みだしました。
しかし、まえがきを読んだだけで、ぐいぐいと引き込まれてしまいました。
読み終えて涙が出ました。
大西さんの活動は、実に感動的です。
ここまでやれる人は、そうはいない。
私など足元にも及びません。
若さの素晴らしさにも感動しました。

大西さんは、先日のサロンに来てくれた時に私にこう言いました。
「いろんなことをやっている佐藤さんって何なのか、よくわからない」と。
たしかにそうでしょう。
私自身、なぜこんな生き方をしているのかわからなくなることがある。
しかし、この本を読んで、大西さんがやっているのと私がやっているのは、活動の次元はともかく、思いはほぼ一緒なのだと思いました。
大西さんと同じく、知ってしまった以上、もう抜けられないのです。
私の場合は、彼ほど深く知ることを避けていますが、それでも見えてきてしまう。
そこで、ついつい深入りしてしまうわけです。

それにしても、大西さんの活動はいさぎよく、誠実です。
本書には、その大西さんの生き方が、生々しく表現されています。
こうやって若者はどんどん育っていくのでしょう。

夕方、京都で認知症予防の活動をしている80代の高林さんからメールが来ました。
ちょっと難題が持ち上がり、会うことにしたのですが、彼女の日程が超過密なのです。
高林さんのメールの最後にこう書いてありました。

月に22日の出張が体力的に限度一杯で、老化を実感しています。

月に22回とは、老体でなくても限度を超えているでしょう。
高林さんもまた、知ってしまったからには抜けられなくなった一人です。

20代の若者と80代の高齢者。
その2人に比べれば、私はかなり誠実さに欠けていますし、怠惰です。
だからいろんな問題に関わってしまう。
しかし、人にはそれぞれ違った役割がある。
まあ大西さんや高林さんのようにはできませんが、私もまあ、それなりに知ってしまった責任を果たすようにしていきたいと思っています。

それにしても、若い大西さんからたくさんのことを学ばせてもらいました。
この本は、みんなに薦めようと思います。
よかったらお読みください。
ポプラ社から出版されています。

■2965:さて明日は何を着ていこうか(2015年10月16日)
節子
急に寒くなってしまいました。
相変わらず気温の変化は目まぐるしいです。
季節の変わり目には、どうも着るものがなくなってしまいます。
というよりも、何を着ればいいかわからなくなる。
身の回りのことをすべて節子に任せていたことで、私の生活力は極めて乏しいようです。
困ったものです。

夕方、娘に頼んで近くのイトーヨーカ堂に買い物に行きましたが、どうもぴったりするのがありません。
明日は出かけるのですが、いまあるものを組み合わせて着ていくことにしました。
しかし、着るものを選ぶのは、実に面倒です。
おしゃれを楽しむというタイプでは全くありませんので。

実は食事もそうです。
いまは基本的に娘が用意してくれますが、食文化を楽しむというのも不得手です。
娘はせっかく時間をかけて作っても10分で食べ終わるのでは張り合いがないと言います。

政治哲学者ハンナ・アーレントは、生命維持のための労働 laborと新たな価値を創りだす仕事 workとを区別しました。
そういう区分で言えば、私は労働をできるだけ極小化したいという性癖があります。
そして、その時間を節子がかなりカバーしてくれていたのです。

そういう生き方への批判も節子から受けていました。
たとえば、もっとゆっくり食事をしたらという指摘です。
食卓で団欒していてもやりたいことがあると、もう上に行っていいかなと仕事場に行くこともよくありましたが、節子はそれをあまり喜んではいませんでした。
それでも節子は、私のそうした生き方を支えてくれていました。
だから私は、思う存分、わがままにやりたいことに専念できたのです。
節子や家族には、いつかきっと返せるだろうから、とも思っていました。

節子がいなくなってから、どれだけ節子の世話になっていたかを思い知らされました。
しかし、わかったからと言って、すぐに生活は変わるものではありません。
そのしわ寄せは娘たちに行ったのでしょう。
悪いことをしました。
家族とはいえ、妻と娘はちがう存在ですから。

節子がいなくなってから、少しずつ私も生活力を身につけてきました。
まあ今では一人でも大丈夫でしょう。
それでもいつも季節の変わり目は、何を着たらいいのか、困ります。
さて、明日は何を着ていったらいいでしょうか。
急に寒くなって、困ったものです。

■2966:節子と歩いていると退屈はしませんでした(2015年10月17日)
節子
今日は久しぶりに西武線に乗り、昔住んでいた保谷を通りました。
その先の入間市で建物散歩ツアーを企画したのです。
その道の名人の若林さんに頼んで、入間市を歩きました。
友人たちも5人、参加してくれました。

入間と言えば、まだ保谷に住んでいた時に、基地に花見に来たことがあります。
しかし、その時のイメージは全くなく、駅のまわりは高層のマンション群に囲まれていました。
しかし、街のなかには懐かしさを覚える建物が散在していました。

よく歩きました。
節子がいたら一緒に来たでしょう。
節子は街歩きが好きでした。
面白そうなお店があるとすぐに入り込み、きれいな庭があると声をかける。
節子と歩いていると、退屈はしませんでした。
そんなことを思い出しながら、今日はみんなで歩いてきました。

久しぶりに長く歩いたので、足が痛くなりました。
いい汗もかきました。
いろんな問題から1日解放されていたせいか、とても気持ちの良い1日でした。
こんな1日は、本当に久しぶりです。
友人たちに感謝しなければいけません。

■2967:フロミスタからの便り(2015年10月18日)
節子
サンチァゴ巡礼路を歩いている鈴木さんから第2報が届きました。
スペインに入ってすでに半月経過し、手紙を書いた10月8日には、フロミスタの聖マルティン教会を通り過ぎたそうです。
ネットで調べてみたら、いかにも古風な教会です。
鈴木さんは、こういう建物や遺跡を毎日堪能しているのでしょうか。
絵葉書の写真は、どれもこれも魅力的です。
しかしハガキにはこう書かれています。

歩く、食べる、寝る…という単調な日々の繰り返しなのに、どうしてこうも時間の過ぎ去るのが早いのでしょうか?

あらゆる煩わしさから解放されて、歩くのを楽しんでいることが伝わってきます。
巡礼路沿いの教会や遺跡などは、もはや日常の風景になっているのでしょう。

鈴木さんが歩き出してから、もう2か月近くになっています。
電子機器は持参しませんでしたから、連絡はハガキだけです。
たしかに、メールで写真などが送られて来たら、ちょっと興ざめです。
絵葉書であればこそ、鈴木さんの息づかいも感じられます。

予定では、大西洋岸にまでは行かない計画でしたが、どうも大西洋岸まで行くことにしたようです。
あと、残り500キロだそうです。
なんとまあ幸せな時間を過ごしていることでしょうか。

人の生き方はさまざまです。
友人に恵まれたおかげで、私もいろんな生き方に触れさせてもらえます。
うれしいことですが、節子とシェアできないのが、ちょっと残念です。

■2968:些少な不安が山のように溜まっているようです(2015年10月19日)
節子
気持ちのいい秋晴れです。
もしかしたら今頃は、世間との付き合いをやめて、湯河原で2人で過ごしていたのではないかという思いがちょっと心に浮かびます。
こんな日は、箱根の恩賜公園でおにぎりでも食べていれば、彼岸にまけないほどの平安を味わえたかもしれません。
それももう果たせぬ夢になってしまいました。

この数日、何か不思議なほどの「不安感」に襲われています。
まだ払拭はされていませんが、口に出せるほどには落ち着きました。
ひどい時には、その不安感を口にするだけの勇気さえ出てこないのです。
友人たちと入間市を散策したり、自宅で地元の集まりのための打ち合わせをしたりして、この週末は過ごしましたが、人と一緒の時には忘れていますが、そんな時にも、突然、「不安感」が首をもたげることがあります。
意識的には消せるのですが、身体は嘘をつけません。
無理に押さえようとしていたせいか、昨夜は胃が痛みだし、後頭部にも違和感が出てしまいました。
一晩寝てだいぶ良くなりましたが、そういうのは気にすると気になってしまいます。
こういう時には、畑に行って、土に癒してもらうのがいいでしょう。

子どもの頃は、不安はすべて親に言うだけで解決できると思っていました。
実際には親に言ったことは1回しかありませんが、いまから考えると瑣末な不安感でした。
しかし、何かあれば引き受けてくれる(と思える)存在が身近にいるのは、それだけで救いになります。
不安は、吐き出すことだけで、かなり解決されるのです。
しかし、これといった大きな理由からの不安感でない、いろんなことの積み重ねからの不安は、吐き出しようもありません。
そういうものは、たぶん日常的に吐き出す仕組みが必要なのでしょう。
溜め込んでいると、自分の中で悪性の不安に育っていくのかもしれません。
夫婦のたわいもない日常の会話が、そうならないようにきっと働いていたのです。
そうした会話がなくなってから9年。
いろんなことが溜まっているようです。
こんなにいい天気なのに、奇妙な不安感から抜け出せないのは、不思議です。

実は、その「不安」のせいで、最近また、ミスが増えています。
他者に迷惑をかけることはまだないのですが、私自身には結構「迷惑」がかかるミスなのです。
それでまた、不安感が増してくるのかもしれません。
そういう時には、実に瑣末なことが大きく感じられるのです。

一昨日、入間を一緒に歩いた人が、最近湯島のサロンが多いことに、佐藤さんの怒りを感ずると言われました。
その人が言ったのは、「時代に対する怒り」という意味だと思いますが、「怒り」は「自分への不安」と言ってもいいのかもしれません。
外部から見ても、最近の私はいささかおかしいのかもしれません。
しっかりしなければいけません。

午前中は、結局、畑に行けませんでした。
最近は、自宅に居てもネットや電話を通して、世間がどんどん入ってきます。
午後は、すべてを切って、畑に行きましょう。

■2969:「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(2015年10月20日)
節子
数十年交流のなかった知人の訃報が耳に入ってきました。
最近は、こういうことも決して少なくありません。
そんな時、ふと、あの人はどうしているかなと考えてしまうことがあります。
不思議なもので、そういう時に思いつく人が毎回違うのです。

今日、頭に浮かんだのは、私よりも少しだけ若い2人の人です。
ひとりは、睡眠時間は3時間程度で、新しいビジネスに取り組んでいた人です。
とても義理堅く、しかも精神性の豊かな人です。
湯島にも時々来ていましたが、そういえば、最近、連絡がありません。
福岡と東京を往復していたはずですが、気になりだすとどうしようもありません。
メールを送ってみましたが、返信はありません。

もうひとりは、節子も知っている人です。
なぜか節子が病気になって以来、パタッと連絡が途絶えてしまいました。
気になって彼のホームページを開いてみましたが、やはりまだ更新されていません。
私よりも若いので、まだたぶんビジネスの世界にいるはずですが。

そんなことを考えているうちに、人はこうやって、現世から少しずつ彼岸へと進んでいくのだろうと気づきました。
連絡のなくなった人を、詮索するのはやめたほうがいいような気がしてきました。
冷たいようですが、訃報は後になって知るほうがいい。
それもなんとなく耳に入ってくるほうがいいです。
悲しさに襲われないですむからです。

同時に、私自身もそうやって消えていく方がいいような気がしてきました。
社会とかかわりすぎていると、自然と現世から彼岸へと移ることが難しくなりかねません。
現世で忘れられ、訃報が届くころには、あれ、まだ佐藤さんは生きていたのか、と思われるのがいい。
そんな思いが強まってきました。

佐藤さんのように、生涯現役が私の目標ですと、ある人から言われたことがあります。
私自身には、生涯現役などという意識はなかったので、少し驚いたのですが、生涯現役ってどういうことでしょうか。

ダグラス・マッカーサーは、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言いました。
その意味がようやくわかりだしました。

■2970:残るものと消えるもの(2015年10月21日)
節子
湯島のオフィスの前のビルが解体工事に入りました。
6階から見ると、その様子がよく見えます。
9.11ではツインタワーが一挙に崩れ去りましたが、解体工事はそんなに早くは進みません。
壊すのと壊れるのとは、明らかに違うのです。
ちなみに、ここに新しいビルができてしまうと、たぶん今のビルはもう思い出せなくなるでしょう。
いつも通っている道沿いの建物が壊されてさら地になってしまって少し経過すると、もうそこにどんな建物が建っていたか思いだせないことがあります。

人生は一挙に壊れることがあります。
じわじわと壊れていくこともある。
どちらがいいかは微妙ですが、伴侶がいる場合は、じわじわでもいいですが、独り身の場合は、「一挙」のほうがいいでしょう。
時間があったので、ぼんやりと解体作業を見ていて、そんなことも考えました。

若い僧籍を持つ友人がやってきました。
お寺や僧侶の役割の大きさについて、お墓や宗教について、少し話し合いました。
建物と違って、生命はそう簡単には消えていかない者だろうと思います。

その後、大学時代の友人が2人やってきました。
一人は節子も知っている人です。
私は大学時代の友人たちのなかでは、かなり脱落している存在ですので、仕事の関係の付き合いは皆無ですが、私も発起人の一人だった古代ギリシアの会を、その2人に引き継いでもらったので、その最近の報告に来てくれたのです。
20周年の記録をつくったと言って持ってきてくれました。
その会を一緒に立ち上げたおひとりの金田さんは、いまは新潟です。
金田さんもその会からは退きましたが、会はメンバーが入れ替わりながら続いているのです。
創設メンバーのおひとりの吉田さんは、いまも時々参加しているそうです。
20周年の集まりの記念写真も見せてもらいました。
懐かしい人もいます。
建物と違い、組織はメンバーを代えて残っていくようです。

この古代ギリシアの会、パウサニアス・ジャパンというのですが、この会の設立に私が関わることになったのは、節子の思い付きが関係しています。
節子とギリシアに行った時に、ミニオン岬に桜を植えたらどうだろうと節子が言いだしたのです。
帰国がギリシア大使館に手紙も書いたのです。
残念ながら取り上げてはもらえませんでしたが、その話を私が友人の守永さんに話したら、守永さんが吉田さんと金田さんに引き合わせたのです。
そして一緒に古代ギリシアの会を設立することになり、発起人会を湯島で開催したのです。
そんなことで、最初は節子も時々参加していました。
ところが、その数年後、節子とツアーでイランに行った時に、メンバーに守永さんの秘書をやっていた小林さんがいたのです。
それでちょっと話が盛り上がりました。
何やら因縁めいた話ですが、守永さんも小林さんも、もういません。
おそらくそのことを知っている人はもういないでしょう。
しかし、組織は残っていく。

残るものと消えるもの。
今日は、そんなことをいろいろと考えさせられました。

■2971:みかんが生りました(2015年10月22日)
節子
畑の花畑から、百日草の種をとってきました。
長いこと花を咲かせてくれました。
綺麗ですねと褒められたことさえあります。
手入れ不足で、あんまりきれいではなかったのですが。
百日草は強い花で、そのおかげで、野草はあまり生えなくなりました。
篠笹さえもあまり出てきません。
来年もチューリップと百日草を中心にしようと思います。
コスモスも蒔くつもりだったのですが、なかなかそこまで行けずに、今年は花壇がつくれませんでした。

季節の関係で、そろそろ野草もあまり成長しなくなりました。
何とか今年は、野草をかなりおさえることができ、畑も少し広がりました。
いまは大根や小松菜が育ってきています。
収穫に至るかどうかはまだわかりませんが、今日は少しつまんできました。
ネギは、土をかけるのをさぼっているので、長く伸びてくれませんが、ちゃんと収穫できています。
レタスを蒔くのを忘れていましたが、これは庭のベランダに蒔くことにしました。

そろそろ寒くなってきたので、冬を越す準備をしなければいけません。
自然と付き合っていると、こういう感じで、季節を感じられるのでしょう。

畑のミニトマトは、まったく実をつけないのですが、元気なので抜く気にならずに、そのままにしています。
今日、そこに大きなカマキリを見つけました。
カマキリは卵から生まれますが、一挙に生まれだします。
一度、その現場を観ましたが、それはそれは楽しい風景です。
小さなカマキリが、まさに「クモの子」のように、わーっと広がっていくのです。
しかし、成虫になるのはそう多くはないのでしょう。
その後は、時々しか会いませんので。
今日、会ったカマキリはたぶんまもなく産卵して、そのまま死んでいきます。
雰囲気的には、その場所として、トマトの木を選んだようなので、注意しないといけません。
今度言った時に、もし産卵していたら、別のところに移しておかないといけません。

畑の奥に、みかんとゆずの樹があります。
みかんの樹は節子と一緒に取手の花屋さんで買ってきたものです。
なぜあんな遠くの花屋さんに行ったのか、いまは記憶がないですが、みかんの木が目的ではなく、ついでに買ってきたものです。
あのころは、よく節子と一緒に花を買いに行きました。
なにしろ節子は、花が好きで、いつも付き合わされていたのです。
このみかんは、種類がそうなのかもしれませんが、なかなか大きくならないのですが、10個近くに実をつけていました。
残念ながら酸っぱくて食べにくいのですが、熟してきたら節子に供えさせてもらいましょう。
節子がいる時には、花をつけてはくれませんでしたが。

畑作業もちょっと肌寒くなってきました。
しかし、畑作業をしていると、少し気分がやすまります。
相変わらず、いろいろと気の沈むことが多いのです。

■2972:新しい出会いがくれる元気(2015年10月23日)
節子
節子もよく知っているように、私は人と会うのが大好きです。
人と話していると元気になります。
しかし、最近は人と会うのが嫌になることがあります。
とても矛盾しているのですが、そうした正反対のふたつの感情が同時にあることも少なくありません。
会うのはうれしいけれど、会いたくない気分もある、ということです。

その理由は、人に会うと、いろんなことを背負いかねないからです。
私は、人と会うということは、何かをシェアすることだと考えています。
ですから、人に会う時は、相手から頼まれようと頼まれまいと、この人に自分はどう役立てるのか、を考えます。
前にも、ある人から、佐藤さんは人に会う時に何を考えていますか、と訊かれて、即座にこの言葉が出てきました。
我ながら、その時は驚いたのですが、その習性は身についています。
理屈ではなく、心身がそう反応するのです。

以前は、それが、つまり人に役立てることがうれしかったのです。
問題を背負い込むことも楽しかったのです。
それを、消化できていたからです。
消化できない問題は、節子にもシェアしてもらいました。

しかし、最近は、問題を背負い込みすぎて、疲れだしています。
それに、問題を理解しても、できないことが増えてきました。
消化能力が大幅に低下しているのといざとなったらシェアしてくれる節子がいないからです。
ですから人と会うのが、以前と違って、少し気が重くなりだしているのです。
「知ったものの責任」を果たせないことは、自らをさいなむことになりかねません。

にもかかわらず、人と会うのが好きです。
特に好きなのは、新しい人との出会いです。
間違いなく世界が広がるからです。
最近は昔ほど、新しい出会いはありません。
それでも先週は5人の新しい出会いがありました。
今週は2人ほどです。
そのおひとりと今日、会います。
さてどんな世界を分けてくれるのでしょうか。

今朝、ふと気づいたのですが、
私がいまもなお、それなりに元気で生きていられるのは、
こうした「新しい出会い」のおかげかもしれません。
世界が広がらなくなると、私はたぶん生きていけないタイプです。
最近元気が出ないのは、「新しい出会い」が少ないからかもしれません。
すべてが節子のせいではないのです。

■2973:人はやはり素晴らしい(2015年10月24日)
新しい出会いのことを書きましたが、最近、無性に本を読みたくなっているのも、そのせいかもしれないと気づきました。
本もまた、世界を広げてくれることは間違いありません。
読書の面白さは、新しい世界との出会いですが、同時に感動的な人に出会うことも少なくありません。

いまは机の上に、読もうと思っている本が20冊近く積まれています。
1冊の本を読むと、そこからまた数冊の本を読みたくなることも少なくありません。
そうやって机の上には書籍の山ができていくわけですが、これも不思議ながら、ある時、読書気分がパタッととまるのです。
そして積んだ書籍の山はなくなります。
読まずに書棚に戻る本も少なくありません。
そのため、私の書棚には読んだことのない書籍がかなりあります。
最近は、ほとんど書籍は買わずに、図書館から借りるようにしています。
自分の書籍だと、またあとで読もうということになりかねませんが、図書館から借りるとそうもいかないので、必ず読むようにしています。
ですから図書館から本を借りる時には、いささかの緊張感が必要です。

書籍で出会った人から、自らの生き方を問い質させられることも少なくありません。
水俣の緒方さんの「チッソは私だった」は衝撃的で、読んだ直後はすぐにも会いに行きたい気分でしたが、行くだけの勇気が出ませんでした。
渡辺清さんの「砕かれた神」は、ただただ驚きました。
今朝、時評編で書いた矢部喜好さんの生きざまは、長いこと、私の頭から離れませんでした。
みんな私にはあこがれる生き方ですが、なかなか自分がそうなれるわけではありません。
しかし、そういう人がいたことを知っているだけでも元気は出ます。

そういう人に出会うのは、もちろん書籍のなかだけではありません。
今日、湯島で子どもをテーマにした集まりをやっていました。
15人も参加してくれましたが、一人、遠くの山梨からわざわざ出てきてくれた人がいます。
その人の生き方は、それはそれは普通ではできない生き方です。
精神に障害を持つ人たちの施設で働きていたのですが、そこに入所していた兄弟を、引き取って、自分の家で生活支援をしているのです。
引き取った理由に感動しました。
湯島には、時々そういう人が来ますが、そういう人に会うと、自分の生き方の中途半端さに、恥ずかしくなることもあります。

書籍の話を書こうと思っていたのですが、結局は人の話になってしまいました。
世界は、人が創りだしているのですから、当然と言えば当然ですが。

昨日は、新しい出会いが元気をくれると書きましたが、
すごい人に会うと、頭を打ち砕かれるような気になることもあります。
今日は、書きだした時に思っていたのとは全く違うことを書いてしまいました。
やはり今日の細田さんの話があまりに衝撃的でした。
細田さんというのは、山梨から来た人です。
実にすごい。
一度ゆっくりお話をお聞きしたくなりました。

今日、サロンが終わってから頭がくらくらするのは、彼女の話を聞いたせいかもしれません。
他者の人生に、自らの人生をかけていく。
以前に書いた、大西さんもそうですが、人はやはり素晴らしい存在です。
人を嫌いになる必要はないのです。

支離滅裂な内容ですみません。

■2974:ミニコンサートの企画(2015年10月25日)
節子
今年の12月、我孫子で平和をテーマにしたミニコンサートを開催することになりました。
ある偶然のつながりの中から、動き出したプロジェクトです。
最初のきっかけは、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった少女(佐々木貞子さん)のメッセージを世界に広げたいという活動をしている佐々木祐滋さんとの出会いです。
祐滋さんは貞子さんの甥にあたります。
彼が我孫子で開催される、ある公式行事に参加するというので、その終了後に、市民とのコラボコンサートが開けないかと思ったのです。
賛成してくれる人たちと進めてきましたが、ようやく形が見えてきました。
今日はその実行委員会でした。

実は最初は、節子が参加していた女声合唱団「道」に歌ってもらえたらと思っていました。
そこでそのメンバーに声をかけたのですが、その方が公式行事の企画メンバーであったこともあり、どうも難しそうなので、諦めました。
節子がいたら、実現したかもしれません。
それに音楽関係は、私のフィールドではないので、その分野で活動している宮内さんに一任しました。
宮内さんは、節子の献花台で、「献歌」してくれたこともあります。
そういえば、宮内さんと企画内容を話し合ったのも、わが家の節子の献花台の前でした。
節子は聞いていたかもしれません。

今年の我孫子の合唱祭は11月だそうです。
節子がいなくなってから、合唱祭には一度も参加していません。
我孫子のいろんな活動にも足が遠のいています。
このコンサートを契機に、また少し地元の活動を始めようと考えています。

節子がいないのがとても残念です。

■2975:空の向こうに何があるか(2015年10月26日)
節子
見事な秋晴れです。
青い空に吸い込まれたくなる気分です。
青空の向こうには、何があるのか、むかしはよく考えました。
節子もよく知っているように、私は、青空がとても好きなのです。

エジプトの空の青さは、実に印象的でした。
ピラミッドもルクソール神殿も、圧倒的でしたが、空の青さほどではありませんでした。
あの青さは実に感動的でした。

日本での青空の圧巻は、節子と一緒に行った千畳敷カールで見た空でした。
節子の病状が回復していた時に、出かけました。
あの時の空の青さは、実に深く、心に残っています。
あの日の節子はとても元気でした。
ですから、もう大丈夫だと確信したのです。
あの時に、空に吸い込まれていれば、どんなによかったでしょうか。
千畳敷カールへの旅行で記憶に残っているのは、空の青さだけです。

節子は紅葉が好きでした。
あの日も、きっと紅葉も美しかったのでしょう。
しかし私は、紅葉よりも、空の青さが好きです。
空が好きなのは、子どものころからでした。

空の向こうに何があるか。
カール・ブッセは、「幸い」が住んでいると言います。
最近あまり聞くことがないのですが、私が子どもの頃はよく耳にした詩です。

山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
ああ、われひとととめゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

節子も、そこに住んでいるでしょうか。
そうであれば、心がやすまります。

私は、そこに「虚空蔵」も感じます。
あらゆる知の宝庫です。
空海は、そことつながっていたという話を聞いたことがありますが、あらゆる知が集まれば、きっと「幸せ」が生まれるのでしょう。
中途半端な知が、いまの私を悩ませます。
空を見ていると、やはり自分が融けていきそうな気がします。
学生のころ書いた詩を思い出します。

■2976:節子への電話(2015年10月26日)
節子
いまでもまだ、節子に電話がかかってくることがあります。
セールスの関係が多いのですが、今日は資産活用のお誘いでした。
資産活用や先物取引、株式投資などは、普通は私あてにかかってきます。
私は、そういうのに結構乗せられるタイプなのですが、いまは幸いなことに「資産が皆無」なので大丈夫です。

いまかかってきた電話は、なぜか節子をご指名でした。
節子さんはいますか、と訊かれました。
男性でしたが、なれなれしそうな電話でした。
もしかしたら、節子の友人かもしれません。
それで話を聞くことにしました。
今ちょっといないのですが、と答えると、いつごろ帰りますかと訊かれました。
しばらくは帰らないと思いますと答え、それでどういうご用件でしょうかと、また質問しました。
そうしたら、株式投資のいい話があるのですが、というのです。
残念、やはりセールスか、とちょっとがっかりしました。
それで、女房は全く関心がないと思いますよ、と答えました。
そうしたら、相手はいろいろと話し出したのです。
めんどうになったので、女房には株式投資をするのは無理だと思いますので、切らせてもらいますと言って、電話を切りました。
相手はまだ話し続けていましたが、切ってしまいました。
娘に話したら、またきっとかかってくるよ、きちんと事実を伝えれば、かかってこないのに、と言われました。
しかし、私としては、嘘を言ったつもりはないのです。

さてこういう時にはどうすべきでしょうか。
後で伝えておきますと言って、用件を聞くのもいいかもしれません。
これも嘘にはならないでしょう。
まあ伝えるのはかなり先にはなりますが。

それにしても在宅していると、この種の電話が本当に多いのに驚きます。
固定電話は、もうやめたい気分になるほどです。
電話セールスを禁止してもらえないものでしょうか。

ちなみに節子宛てのDMもまだ来ます。
世の中には無駄な活動をしている人たちが多いようです。

■2977:人生いろいろ(2015年10月27日)
節子
何やらすごい風です。
今日は在宅のつもりでした。
ゆっくりするはずだったのですが、やはりそうもいきませんでした。
まあ人生はいろいろあります。
いや、私の人生のことではありません。
まわりの人たちにも、いろいろあるという意味です。

昨日、久しぶりに丸の内を歩きました。
昔は、私もビジネスマンとして、よく歩いた街です。
しかし、当時とは建物自体が大きく変わっていて、雰囲気は一変しています。
昨日は、ある会社での集まりに出かけたのですが、いつものようにカジュアルな服装で出てきてしまいました。
昔は、私もそれなりに丸の内のビル街の雰囲気に合っていたと思いますが、少なくとも昨日は場違いな感じだったことでしょう。
受付に向かう時に、それに気づきました。
まわりのビジネスマンとは雰囲気が全く違うのです。
受付も最近は厳重で、2つの受付を通らなければいけません。
入り口にいた守衛の方に、最近は大変ですね、などと余計なことを話しかけてしまいました。
場馴れしていない人の典型的な行動かもしれません。
話しかけられた守衛さんが一瞬困ったような顔をしたので、さらに余計な言葉を話してしまいました。
困ったものです。

ビジネスの世界から大きく離脱してからもうかなりたちます。
丸の内を歩いている人たちも、どことなく、いまの私が住んでいる世界とは違うような気がします。
歩く速ささえ違うのです。
まさに、私は大きく、その世界からは脱落してしまっているようです。

今日は、そうした世界とはむしろ対極にある世界と触れ合っていました。
月末を乗り切るために奔走している人、これからの生活のめどが見えてこない人、降ってわいたような問題を誰に相談していいかわからない人、みんな昨日丸の内で見た人たちとは違う世界に生きている人たちです。

いずれの世界の人たちが、幸せなのでしょうか。
それはわかりません。
もしかしたら、それぞれに幸せなのかもしれませんし、それぞれに不幸せなのかもしれません。
私自身がそうですから。

夜、気になっていた人に電話しました。
元気そうだったので安心しました。

うっかりして、明日の準備をするのを忘れていたことにいま気づきました。
これからやるのもつらいので、中途半端な準備は止めて、明日は謝ることにしましょう。
人生はいろいろありますから、きっと許してくれるでしょう。

今日もとても疲れました。
充実感は全くないのですが。

■2978:世界は自分の考え方で実体化してくる「幻想」(2015年10月28日)
節子
最近またいろんなことを並行的に取り組みだしてしまい、少し混乱しだしています。
その上、やりたいことがどんどん出てきてしまうのです。
何かをやりだすとそこから先にいろいろなやりたいことが見えてきてしまいます。
私の思考形式や行動形式は収斂型ではなく、拡散型なのです。
見えてしまうとついつい一歩を踏み出してしまう。
そのため、身のまわりがどうしてもおろそかになります。
最近は私の机は書類や書籍の山で、かき分けないとキーボードが出てこないほどです。

しかし、ささやかに関わらせてもらっていることに関して、ちょっとうれしいニュースが最近は届くようになってきました。
不思議なもので、悪いニュースは続きますが、良いニュースも続くもののようです。
もっとも、「良い」か「悪い」かは、一概には決められません。
私の価値観というか、判断基準は、往々にして世間とは逆のことがありますので、なんともいえませんが、私としては、ちょっと元気がもらえることが増えてきました。
友人知人が元気になると、私も元気になれます。
人はみんなつながっているからです。

しかし、冷静に考えれば、急に良いことが増えてきたわけではないでしょう。
要は、私自身が前に向きだしたから、同じものも「良い」ニュースとして感じられるのかもしれません。
世界は、まさに自分の考え方で実体化してくる「幻想」なのかもしれません。
そんなわけで、私の気のせいかもしれませんが、いろいろとまわりが前に向いて動き出しました。
いまはあまりに暇なために忙しいのですが(なかなか理解してもらえない表現ですが)、なにか心を燃やせるものに出会えるかもしれません。
しばらくはこのまま、流れに任せて、私も前に進んでみようと思い出しています。
きっと何かに出会えるでしょうから。

■2979:貧しいながら平和な日常(2015年10月29日)
節子
娘たちとお寿司を食べました。
といっても、一皿90円の回転寿司です。

今日は、ちょっとした用件で、近くに住んでいる次女の家に、長女と一緒に行きました。
お昼時になったので、みんなで食事に行こうということになりました。
すぐ近くに、一皿90円の回転寿司があるのですが、そこにしてしまいました。
安い回転寿司は、あまり食べないほうがいいよと言われているのですが、統計的には平均月収にも達していないわが家としては、まあ分相応に安い回転寿司ということになったのです。
友人に知られると叱られそうですので、ここにも書かないほうがいいのですが、書き出してしまったので仕方がありません。

回転寿司に行く前に、その途中にある、これまた安価な「カスミ」というスーパーに寄りました。
その2階に、新しい100円ショップが開店したのだそうです。
そこに親子3人で出かけました。
100円ショップといいても、驚くほどたくさんの商品があるので驚きます。
私も来年の手帳を100円で買いました。

それからついでだからとスーパーカスミの店内で、娘たちはそれぞれ買い物をしました。
今日はなんと、全品1割引きの日なのです。
仕方がないので私も付き合いましたが、途中で、近くの奥さんに出会いました。
先日、たくさんの柿をおすそ分けしてもらったので、そのお礼を言いながら、4人で少し会話が弾みました。
柿は柔らかいのがいいか、硬いのがいいかというのが論点でした。
カスミでは、私自身は買うものはなかったのですが、暇だったのでいろんな商品を見て回りました。
なにしろ娘たちの買い物時間は長いのです。

それからやっと一皿90円の回転寿司に行きました。
だいぶ寄り道が長くて、お腹が減っていたので、私としてはめずらしく、一挙にいくつかを注文して食べてしまいました。
回転寿司と言いながらも、注文するのも奇妙な話です。

娘が子どもの頃、節子と3人でお寿司屋さんのカウンターで食べた時の話をしてくれました。
私は一緒ではなかったそうです。
子どもでカウンター?という気もしますが、柏のデパートの中にあった家族向けのお寿司屋さんだったようです。
小学生だった次女は、カウンターで食べるのはとても高いのだという「知識」があったようで、緊張して、節子に何でも食べたいものをと言われても、卵焼きしか言えなかったそうです。
卵焼きは安いと知っていたのです。
当時、わが家には自動車もなく、お小遣いも世間相場よりもかなり低かったようで、娘たちはわが家はとても貧乏だと思っていたようです。
まあ間違ってはいないのですが、節子も私もお金に無頓着だったためにお小遣が少なかったのと、私がエコロジストだったのでマイカーがなかっただけの話なのですが。

いまでは笑い話ですが、なんで節子は子どもをカウンター席に座らせたのでしょうか。
普通ならそんなことはしないでしょう。
節子なら、まあ不思議はないのですが。
ちなみに、私は節子をきちんとしたお寿司屋さんのカウンターでご馳走した記憶はありません。

一皿90円の回転寿司でしたが、久しぶりに娘たちとゆっくりと話しました。
銀座久兵衛のお寿司もいいですが、一皿90円の回転寿司もいいものです。
今日は、ともかく平安な1日でした。
ちょっと心を揺さぶられそうな電話が2件ほどありましたが。

■2980:人生の疲れ(2015年10月30日)
節子
新潟の金田さんが湯島に来ました。
湯島のサロンの話から、節子の話が出てきました。
金田さんもこの1年、いろいろあったようで、「悪いことはなんでこんなに重なるのだろう」と先日電話で話していましたが、本当にそうです。
そこで、最近の私の体験から、ちょっと意識が変わると、それが「良いこと」の重なりに転化するかもしれないと話しました。
確信は持てませんが、自己予言の成就などということもありますので、もしかしたらそうなるかもしれません。

金田さんとは長い付き合いです。
後でお互いに知り合うのですが、共通の友人知人も少なくありませんでした。
しかし、そういう共通の友人知人もだいぶ少なくなりました。
さびしいと言えばさびしいですが、まあ人生とはそういうものですから、さびしがることもありません。

金田さんと話していて、私も昔のことをいろいろと思いだしました。
私が25年間過ごした「会社時代」は、日本の経済がとても元気に前に進んでいた時代です。
働くのがとても楽しく、かなり自由に働けた時代です。
会社を辞めてからも、この湯島にもいろんな人が来ました。
いまでは考えられないことです。
いまも活躍している人たちは少なくありませんが、もう鬼籍に入った人も少なくありません。

節子が病気になってから、私の生活は一度、終わりました。
世間づきあいもほぼ止めました。
そこで縁が切れた人もいます。
その時に、わが家まで献花に来てくれた人たちは、むしろ生活にさえ困っているような人が多かったです。
いわゆる競争社会の「負け組」に属する人が多かったかもしれません。
そして、「社会の負け組」は、実は「人生の勝ち組」なのだとその時に気づかされました。
つまり、競争に勝っているときには、見えなかったものが見えてくる。
そこにこそ、人生の幸せや豊かさがある。
最近はそんな気がしています。
しかし、豊かな人生は、時に疲れるものです。
なにしろ、山あり谷あり、重荷ありですから。
節子がもし、病気になっていなければ、私の人生はかなり変わったものになったでしょう。

湯島で次の来客まで時間があったので、本を読んでいたら、ついつい眠ってしまいました。
やはり私もちょっと疲れています。
日々の疲れというよりも、人生の疲れかもしれません。
疲れる人生は、豊かな証拠かもしれません。

■2981:冬を感じるような寒さ
(2015年10月31日)
節子
今日は冬のような寒い1日でした。
畑に行かないといけないのですが、寒くて行くのをやめてしまいました。
ここしばらくまた行っていないので、花も野菜も元気をなくしているでしょう。
いささか心配ですが、さぼってしまいました。

庭のランタナがとても元気ですが、なぜか今年は赤い花ばかりになってしまいました。
それも今まで見たことのないような赤さです。
ランタナは、気分によって色が変わりますが、なんで今年はこんなに赤いのでしょうか。
困ったものです。
地植えのランタナはそろそろ越冬の支度をしてやらなければいけません。

畑に通った分、庭の草木の手入れがおろそかになっています。
節子がいたころ植えたサクランボが枯れてしまいました。
秋のバラも、今年はあまり咲いてくれません。
花木と付き合うのは結構大変です。
節子と違って、私はやはり不得手です。
明日は、少し頑張って手入れをしようと思います。

明日から11月。
夜、寒くて時々目が覚めるようになりました。
寒い冬はさびしいです。

■2982:もう今年も2か月しかない!(2015年11月1日)
節子
11月になってしまいました。
今年もあと2か月ですが、年初考えていたことのほとんどが実現できていません。
今年の私の活動量は、自分でも驚くほど少ないです。
その結果、積み残したことが山のようにあります。
残りの2か月でこなすのはいささか無理があるでしょう。
面倒なこと、気の重いこと、一人ではできないこと、などはみんな先送りしてきた結果です。

迷惑をかけることになる人もいますし、私の生活基盤が少し揺るいでしまうこともあります。
でもまあ、先延ばししてきてしまった。
その理由は、心の弱さです。
自分がこれほど優柔不断だったとは驚きです。
節子と結婚して以来、一人で何かを行うことをしなくなってしまっていたため、決断もできなければ、実行しようという気が起きないのです。
いまここで、私が「余命宣告」を受けたら、身の回りの整理にパニックになるでしょう。
真剣に考えなければいけません。

節子は、後事をすべて私に託して逝きました。
何の不安もなかったでしょう。
その節子から託されたことも、まだできていないことが多いのです。

身の回りの整理というのは、そう簡単にできることではないのです。
それにしても、やらなければいけないことが山積みです。
さてさてどうしたものか。

今日も日曜なのに、忙しい1日でした。

■2983:「我を愛せよ、我を敬せよ」(2015年11月2日)
節子
今日も寒いです。
急に寒くなったせいか、体調があまりよくありません。
私自身は、健康に気をつかうとか、自らを守ろうとか、そういう気持ちがあまりありません。
外から見たら、自らを愛していないと見えるかもしれません。
友人には、よくメールでも、「ご自愛ください」と書いているくせに、自分にはそういう思いが皆無です。
まあ、私にとっての「生きる意味」であった、節子がいなくなった今、生きるということにはほとんど執着はありません。
今すぐというのは、ちょっと困るかもしれませんが、さほど慌てることもないでしょう。
寒い日々を過ごすのも、結構つらいものなのです。

昨日、読んだ本のなかに、二宮尊徳の報徳運動のことが書かれていました。
その中に出てきた言葉が、「我を愛せよ、我を敬せよ」です。
尊徳の思想の中心にあった理念のようです。
以前、何かで読んだ記憶がありますが、私の心にはまったくと言っていいほど、引っかからなかった言葉です。
昨日読んだ本には、この言葉の説明に、「ここでいう我とは、明らかに自己に内在する天のことである」と書かれていました。
その言葉の意味への理解が少し深まりました。
尊徳は、仏教に否定的だったというイメージがありましたが、私の間違いだったようです。

人はつねに「自然のなかで、自然とともに」行動し努力し悟るものだとも、尊徳は考えていたそうです。
言葉になった「知識」や権威が語る「知識」には、むしろ尊徳は否定的だったようです。
私が、尊徳を好きになったのは、それを知ってからです。
真の知は自然とのかかわりの中で、生まれてくる。
そして、それは自らの中にこそある。
だから、「我を愛せよ、我を敬せよ」というわけです。
まさに、華厳経のインドラの網です。
我は我であって、我でない。
我でなくて、我である、というわけです。

もっと自らを愛し敬わなければいけません。
投げやりな生き方は、そろそろ卒業しなければいけません。
頭ではわかっているのですが、なかなかそうならないのです。

今年の冬は、もう少し自分を大切にしようと思います。
高血圧のための降圧剤もきちんと飲み、健康にも気をつけましょう。
また玄米食も復活させ、食事もきちんととるようにしましょう。
できれば健康診断にも行こうかと思います。
頭痛が少しひどくなり、胃腸は騒がしいほど音をだし、喉は相変わらずすっきりしないのが治れば、元気も出てくるかもしれません。
どこか無意識のうちに、死への誘惑があり、自らの体調がおかしくなることを肯定的に受け止める自分がいたのです。
考え直さねばいけません。
さもなくば、お天道様に顔向けができなくなる。

尊徳に出会えた本は「相互扶助の経済」です。
時評編で少しまた紹介しようと思います。

■2984:お金をもっと稼いでおけばよかった(2015年11月3日)
節子
一昨日から読みだした「相互扶助の経済」ですが、なかなか進みません。
3日目ですが、まだ読了できずにいます。
しかし、毎日、いろいろと刺激を受けています。

今日は、二宮尊徳の「四大門人」の一人と言われる岡田良一郎のことを知りました。
それを読んでいて、急に「お金をもっと稼いでおけばよかった」と思いました。
娘に話したら、なにをいまさらと一笑に付されましたが、ちょっと後悔しました。
なぜそう思ったかというと、岡田良一郎さんは資産家で、それを活用して、報徳活動に取り組んでいたのです。
私が感心したのは、柳田国男との論争で、岡田さんは信念を曲げることなく、報徳経済を主張し、実行しているのです。
それを読んで、お金を貯めていたら、私もお金で困っている人を助けられるのに、と思ったのです。
説明が不十分なので、お金をばらまくのかと思われそうですが、そうではなく、お金に依存しないで、自分らしい生活をつくりだす応援ができるという意味です。
これまで実は似たようなことをして、見事に何回か失敗しています。
節子が知ったらさぞかし嘆くことでしょう。
しかし、3回も体験すると、私でもそれなりに学べました。
いまならお金を上手く活用することができるでしょう。

私がいま、一番やりたいのは、老後を不安に思っている人たちのための講の仕組みを作りたいのです。
いまならうまく設計できそうなのですが、創業基金を呼びかける自信がありません。
万一失敗したら、迷惑をかける結果になるからです。
それに、これに関しても、一度、途中で頓挫してしまったこともあります。
同じ繰り返しはできません。
念のために言えば、この「講」は、お金だけの仕組みではありません。
人のつながりを基本とした「講」なのです。
ですから本来はお金など不要なのですが、具体的に考えていくと起業資金があればなどと思ってしまうわけです。
こう考えることじたい、すでに失敗に向かっているのかもしれません。
でも、今日は岡田さんの活動ぶりを読んで、急にお金が欲しくなったのです。
いつもながら、あんまり論理的ではありませんが。

とまあ、そんなわけで、お金を稼いでおけばよかったなどと、節子が聞いたら嘆くだろうようなことを考えてしまったのです。
それにしても、むかしの資産家は、お金の使い方も知っていたようです。
私はまだ使い方が学べていないのでしょう。
知っていたら、お金が回ってくるはずです。

報徳経済のことを、もっと早く知っていたら、私の生き方は変わっていたかもしれません。
いまほど、欲深い生き方にはならなかったかもしれません。
節子がいなくなってから、私はかなり欲深くなっているかもしれません。
困ったものです。

■2985:98円の砂糖を買ってきましたが(2015年11月4日)
節子
近くのマツモトキヨシ薬局が、新装開店しました。
チラシを見たら、なんと白砂糖が98円でした。
私の中にいる、節子が、これは買いに行かなくては、と動き出しました。
しかし、一人で特売の砂糖を買いに行くのはいささか抵抗があるので、娘を誘いました。
娘が言うには、特売品を買うには並ばなければいけないので、お父さんには買えないよ、というのです。
私は並ぶのが好きではないのをよく知っているのです。
まあどんなに安くても、どんなに欲しいものでも、並んでまで買うのは私の文化ではありません。
でも、最近は私の半分は節子になっているせいか、並ぶのも面白いかもしれないと思い、行くことにしました。
そこで娘に懇願して、一緒に行ってもらうことにしました。

ところが、平日の朝だったせいか、誰も並んでいないのです。
もしかしたら、もう売り切れたのかもしれません。
そう思って店内に入ったら、白砂糖は山積みになっていました。
もちろん98円です。
ご存じない方もいるでしょうが、普段は200円近くする商品です。
ひとり2袋までだったので、2袋をかごに入れました。
しかし、これだけだとちょっと悪いかなという気になり、
他にも何かあるかもしれないと店内をもう一度まわることにしました。
その気になるといろいろとあります。
気がついたら、買い物かごがいっぱいになっていました。
98円の買い物が、3000円の買い物になってしまいました。
もっとも、会計は娘がやってくれたのでただでした。
私はいつも財布は持っていないのです。
帰宅して、買ってきたお菓子を食べ、コーラを飲みました。

そこでまた気づいたのです。
たしかに白砂糖は安かったのですが、不要のものを買ってしまったので、節約にはならなかったのではないか。
こうやって、節子はきっと無駄遣いをしてきたのでしょう。
実に困ったものです。
節子がいまなお健在であれば、私はそれに気づかなかったかもしれません。

しかし、節子ならばコーラや駄菓子は買ってこなかったかもしれない。
節子はいずれも嫌いでしたから。
としたら、いったい無駄をしているのは誰でしょうか。
もしかしたら、私と節子の組み合わせが無駄の原因かもしれません。
私たちは、あんまりいい組み合わせではなかったのかもしれません。
いまの私は、2人の悪いところの組み合わせになっているかもしれませんね。
だとしたら実に困ったものです。
娘たちが嘆くのも仕方ありません。

明日は、勤勉に生きようと思います。
安いからと言って、並んでまで買おうなどと思ってはいけません。
節子にも、困ったものです。
はい。

■2986:勤勉な1日(2015年11月5日)
節子
昨日のことを反省して、今日は目いっぱい、仕事をしました。
たまっていた課題はかなり処理しました。
途中で読みとどこおっていた2冊の本も完読しました。
1冊はポイントをのt-しながら読破しました。
最近は、図書館から借りた本は3日以内で読了するようにしていますが、購入した本はなかなか完読しなくなってしまっています。
それ以外の時間は、パソコンに向かっていたので、目がしょぼしょぼです。

お昼過ぎに、久しぶりにお墓にお見舞いに行ってきました。
1か月ぶりかもしれません。
最近は、どうもサボってしまいます。
困ったものです。
最近、朝の般若心経もサボっているためか、お墓の前であげだしたら、途中でつかえてしまいました。
一度つかえてしまうともうわからなくなります
幸いに近くには、大きなカラスしかいませんでしたが、カラスにはバカにされた感じでした。
そういえば、お墓でカラスはあまり見かけませんが、あれは節子だったのでしょうか。
花や鳥になって、戻ってくるよと、生前言っていたのを思い出します。
なんでよりによって、鳥なのか。
せめて花か蝶にしてほしかったです。

お墓に行った以外は、読書とパソコンでした。
そのため、目がしょぼしょぼなので、今日はパソコンはこれで切り上げて、夜は……何をしましょうか。
話し相手もいないので、選択肢は読書かテレビしかないですね。
しかし、いずれも目をつかわないといけません。
音楽も、最近の私の生活は消えてしまいましたし、目を使わないですむことはなんでしょうか。
これと言った趣味もないし、どうも最近の私の暮らしは、貧しくなる一方です。
ゆっくりと談笑する時間や夫婦げんかする時間がないのが、とても寂しいです。
親子の喧嘩と夫婦の喧嘩は全く違います。

目いっぱい仕事日だったので、食後は部屋の書類の片づけでもしましょう。
なにしろ山のような状況ですから。
音楽も少し解禁しましょうか。

今日は勤勉な1日だったので、明日はきっといいことがあるでしょう。

■2987:第4期への迷い(2015年11月6日)
節子
今日はめずらしく企業関係の人たちとの2つのミーティングがありました。
私が会社から離脱して、社会に融合しようとして、生き方を変えてからもう27年近くが経ちます。
節子は反対するかもしれないと思って、会社を辞めようと思うと話したのに、節子はいとも簡単に、賛成してくれました。
私の記憶では、一度たりとも反対をしませんでした。
いささか拍子抜けしたほどでしたが、その結果、私の生き方も節子の生き方も大きく変わりました。
それが良かったことかどうかはわかりません。

企業の経営幹部のみなさんと話していて、時々、私もこういう世界に生きていたのだなと感慨深くなることがあります。
同時に、私ももう少し頑張って経営者になっていたら、少しは違う経営文化に挑戦できていたかもしれないと思うこともあります。
しかし、たぶん私の性格や能力では、経営者にはなれなかったでしょう。
節子は、それを知っていたのかもしれません。

湯島には企業関係者もよく来た時期があります。
その後、成功し、財界で活躍した人もいますが、あの頃はまだ企業の人たちともコミュニケーションが成り立っていたのかもしれません。
しかし、最近はどうもコミュニケーションが成り立っているかさえ危ういものを感じます。
それは、実のところ、NPO関係の人と話していても、感ずることです。
社会に融合するどころか、社会からも離脱しつつあるのかもしれません。

企業関係の活動からは、そろそろ離れようと思い出している一方で、最近の企業の状況を垣間見る機会があると、いまだからこそ企業にかかわるべきではないかという気持ちも起こってきます。
これもおそらう節子がいなくなったからでしょう。

私は四半世紀単位に生きようと思っていましたが、どうもその第4期は、自分の意思ではなく、社会から弾き飛ばされながらしがみついていくという、おかしな生き方になるかもしれません。
いささかこれは潔くないので、迷うところではあるのですが。

■2988:死の経験の原型は大切な他者を失うこと(2015年11月7日)
節子
今朝の朝日新聞のコラム「折々のことば」で、鷲田清一さんが、秦恒平の「死なれて・死なせて」の本から、次の文章を紹介しています。

「死んだ」者よりは「死なれた」者の方が、やはり、叶(かな)わないのである。つらいのである。

そして、鷲田さんはこう解説しています。

 英語の自動詞に受動態はないが、日本語には、「死ぬ」という自動詞にも「死なれる」という受動態がある。死ぬ人でなく、死なれる人に思いを重ねるのだ。人は自らの死を恐れるが、その死は想像するだけで体験はついにできない。そのとき自分も消失しているのだから。死の経験の原型はだから、大切な他者を失うというところにある。

私も、節子との別れを通じて、「死」とは自分のことではなく他者のことなのだと実感しました。
死は、自らにはないのです。
だとしたら、たぶん「自死」という概念はあり得ないのですが、これに関しては、いささか微妙な問題があって、当事者の気持ちを見だしかねないので、これ以上書くのは止めます。
この数年、自殺がない社会を目指す活動にささやかに取り組んできていますが、こういう考えにたどり着くと、なかなか活動にも迷いが出てきてしまうのです。
運動は「思い」がないと続けられませんが、「思い」があると運動ができなくなることもあるのです。
それはそれとして、秦恒平の言葉は、改めて心に刺さります。

秦恒平の、その本は知らなかったのですが、さっそく、注文しました。
本の紹介にこう書いてありました。

私たちは一生のうちに、かけがえのない人に何度も「死なれ」、愛する人を何人も「死なせ」てしまう。死の意味の重さは、死なれて生き残った者にこそ過酷に迫る。生きて克服するしかない死別の悲哀を、自らの人生に重ねて真率に語る。

23年前に出版された本でした。
いつの時代にも、人は死別によって、人生を変えていくのでしょう。
「生きて克服するしかない死別の悲哀」
まさに、死は生きるということと重なっているのです。
死者は、死について悲しむこともないでしょう。

今日は秋を感ずる、穏やかな日になりました。

■2989:不幸な最後?(2015年11月8日)
節子
良いこともあれば悪いこともあった1日でした。
しかし、最後がいささか不快なメールだったので、今日は腹立たしいまま眠ることになりそうです。
大切なのは、やはり「最後」ですね。
昼間の良かったことも、すべて吹っ飛んでしまいました。

人生も、そうなのでしょう。
節子は、最後は家族みんなに見守られながら、息を引き取りました。
良い人生だったと言ってもいい。
私もそうありたいと思いますが、なかなかそうはいかないでしょう。

いろんなアンケート調査によれば、最近の若者は「幸せ」だと思っている人が多いそうです。
社会学者の大澤真幸さんは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろう」と考えることができる時に、人は「今は不幸だ」と答えることができるといいます。
逆に言えば、人はもはや将来に希望を描けない時に「今は幸せだ」「今の生活が満足だ」と回答するというのです。
古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」という本で読んだことです。

もしこれが本当ならば、私は「今は幸せだ」「今の生活が満足だ」と回答することになります。
でも、そう答える気にはなれません。
ということは、私にはまだ「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろう」という思いがどこかにあるということでしょうか。
たぶんそうではないでしょう。

若者と私の違いは、いまが「最後」かどうかなのです。
若者には将来がある。しかし、私には「将来」はない。
だから「今は不幸だ」などと言えるわけです。
どうも私の人生は、最後はあんまりよくないようです。
不幸なまま最後を迎える。
「終わり悪ければすべて悪し」の人生だったとは、いささか憂鬱です。
そうならないように、何か最後に「幸せなこと」を探さないといけません。
どこかに落ちていないでしょうか。

でもまあ、今日はとても不愉快なので眠ることにしましょう。

■2990:カツサンド(2015年11月9日)
節子
最近また昼食を食べ損なうことが時々あります。
先日は1時からの約束だと思っていたのに、直前になって12時半に来客が湯島に来るというメールが届いていたことを知りました。
慌ててその前の約束の時間を変えたのですが、その余波で昼食を食べる時間がなくなってしまいました。
それを見越してか、そのミーティングに事務局として同席した竹之内さんがおにぎりを持ってきてくれました。
竹之内さんが言うには、お酒を飲まなくても空腹を続けると脂肪肝というのにかかる恐れがあるのだそうです。
脂肪肝というものも知りませんし、まあ「だからどうした」という気もしましたが、先日、もっと自分の健康に気を使うと決めたので、素直にミーティングしながら、おにぎりを食べました。
そういえば、節子も昼食を抜いてはだめだと言って、お弁当をつくってくれていました。
節子がいなくなってからしばらく娘がお弁当をつくってくれましたが、あまりにも私の生活が不定期なので、やめることにしました。
以来、時々、昼食を食べ損なうわけです。

今日も急に午前中の用事が入ったので、もしかしたら昼食を食べ損なうなと娘に行ったら、冷蔵庫に残っていたとんかつでカツサンドをつくってくれました。
それで、ちょっと遅くなったのですが、湯島でコーヒーとカツサンドを食べました。
これからは、できるだけ昼食を抜かないようにしようと思います。
よくわからないのですが、脂肪肝とかいうのになるとたぶんみんなに迷惑をかけることになるのでしょう。
まあ普段から迷惑をかけているので、避けられるものは避けないといけません。
心配してくれる人がいるということは、すでに迷惑をかけているということなのですが。

ところで、人の健康は、生活によって変わってくるものでしょうか。
病気になるのは、自己責任なのか。
節子が発病して以来、これは私にとってかなり残酷な疑問でした。
もしそうなら、節子が胃がんになったのは節子の生活の不注意ということになります。
節子を見送ってしばらくは、健康に注意していつまでも元気に、などというテレビのコマーシャルの言葉を聞くだけでも、何か私や節子が責められているような気にさえなったものです。
そんなこともあって、私は意図的に健康に気をつけると生き方に背を向けたくなっていました。
しかし、そんなひがんだ考え方は捨てることにして、少しは健康に留意した生き方に変えていこうと思います。

死ぬことがどれほど周りの人たちに迷惑なことなのか、最近少しわかってきました。
なによりも、節子は私に山のような迷惑を残していったわけですから。
ちょっと気づくのが遅かったですが、まあ常識に欠けている私のことなので、仕方がありません。

さてそろそろ次の来客が来る時間です。
コーヒーでも淹れておきましょう。

■2991:「魂は向こうに置いてきた」(2015年11月10日)
節子
鈴木さんがサンティアゴ巡礼から戻ってきました。
73日間で1700q。サンティアゴからさらに歩いて大西洋も見てきたそうです。
最後のハガキはマドリードからでした。

今日、帰国後の最初のハガキが届きました。
2日半、疲れて引きこもっていたようです。
それにしても、1700qとは想像もつきません。
出かけた時とどう変わっているのか、とても興味があります。
会うのが楽しみです。

帰国後のハガキには、こんなことが書かれていました。

かつてワールドカップのメンバーからもれたとき、三浦カズが「魂は向こうに置いてきた」といって帰国しました。
わたしの魂の一部も、まだフランスとスペインを歩き続けているような気がします。

魂は、身体ほどに論理的な動きはしないのでしょう。
節子が旅立った時の魂が、いまもわが家のあたりにいるのかもしれません。
人生は、サンティアゴ・デ・コンポステーラよりも、ずっと長い巡礼路ですから。

もうひとつ、おもしろいことが書かれていました。

大西洋を見たときのほうが「ここまで来たか!」という気持ちが強くしました。

つまり、サンティアゴに着いた時よりも、感激したということでしょうか。
いまサンティアゴのカテドラルは修復中で、ブルーシートに半分は覆われていたそうです。
そのせいかもしれないと鈴木さんはにおわせていますが、私にはもし修復してなくても、そうだったろうという気がします。
自然は魂と、深くつながっているからです。

鈴木さんは、つづけて四国巡礼に出かけると言っています。

■2992:パラレルワールドを生きている夢(2015年11月11日)
節子
なぜか最近また真夜中に目が覚めます。
その上、夢をよく見ます。
節子は最近は出てきません。
なぜか会社に私がまだ勤めている夢を見るのです。
しかし、私が実際に体験した会社時代とは全く違う内容の夢なのです。
会社を辞めずに、私がまだ会社生活を続けているという、いわばパラレルワールドの、もう一つの世界で生きているような私なのです。
そこには、どうも節子の姿は感じません。
そこでの私は、必ずしもハッピーではありません。
とても浮いた存在であり、しかし若い人や女性からはとても助けられているような、あんまり頼りにならない存在のような気がします。
もっとも夢の内容を覚えているわけではありません。
もしかしたらこれこそが「認知症症状」なのかと思えるほど、目が覚めて1分もたたないうちの、夢の内容が思い出せなくなるのです。
ただ「気分」だけが残ります。
それで、その内容を思い出そうとしているうちに、トイレに行きたくなり、行ってしまうとさらに内容が思い出せないのが気になりだして、目が覚めてしまうのです。
しかたがないので枕元の伝記をつけて、枕元の本を読みます。
枕元には常時数冊の書籍が置かれています。

節子は、病気の時に、私が横で本を読んでいるのが好きでした。
安心して眠れるから、と言っていたのを思い出します。
私も、節子が横で寝ていると、安心して本が読めました。
あの「幸せな気分」は、もう2度と体験できません。

私は、節子の寝顔が好きでした。
告別式の夜、がらんとした斎場で、節子と2人で過ごした時の節子の寝顔も、そうしたいつもの寝顔と同じでした。
なんでその節子を火葬にしてしまったのか、残念でなりません。
もちろんその選択しかなかったのですが、とても後悔したのを思い出します。

話がそれてしまいました。
私が最近夢を見すぎるのは、隣に節子の寝顔がないからかもしれません。
目が覚めて、隣に誰もいないのは、やはりさびしいものです。
また話がずれそうなので、もう終わりにします。
今夜は、できれば節子の夢を見たいものです。
パラレルワールドを生きている夢は、もう見たくありません。

■2993:訃報はなぜ2度とどくのか(2015年11月12日)
節子
また訃報が届く季節になりました。
年末に訃報を出状するという文化は、どうもなじめません。
とりわけ年賀状を出すのをやめてからは、なおさらです。
付き合いのある人は、なんとなくどこかから訃報は届きます。
もう一度、訃報をもらうのは、あまり気分のいいものではありません。
あまり付き合いのない人に関しては、訃報が届かなければ、最近連絡がないが元気にしているだろうなと思っていられます。
あえて訃報をもらわないほうが、私の場合はうれしいです。
元気でいるだろうなと思っていられるからです。
それにいずれの場合も、はがきで届く訃報に、どうも違和感があるのです。
それも、多くの場合、会ったことのない人からです。

これは私だけのことかもしれませんが、
この歳になると、親しい友人でもそうしばしば会うわけでもありません。
そうなると、その人が現世にいようと彼岸にいようと、そう違いはないのです。
もう20年ほど前に私よりもずっと早く旅立ってしまった若い友人がいます。
彼は、私の世界の中では、まだ生きていて、ただなかなか会えないだけのような気もしています。
毎年、年始に1度だけ、メールか年賀状を送ってくれる若い友人が何人かいます。
今年こそ合いに行きますと言いながら、この数年、普段は全く音信はありません。
それと、彼岸に旅立った友人と、どこが違うのか。
まあこの歳になると、あんまり違う気もしないのです。
毎日会っていた節子の場合は違いますが、滅多に会うこともない友人の場合は、訃報の通知が届かなければ、心を乱すこともありません。

しかし、これは、受け手側の気持ちであって、出す方の気持ちではないでしょう。
節子が旅立った年の年末、私は節子と連名で、年賀欠礼のはがきを出しました。
出さずにはいられなかった。
訃報は、友人知人に、悲しさを知ってもらうためのものなのかもしれません。
そう思えば、訃報のはがきは大事に受け止めなければいけません。
訃報が2度とどくのは、それなりの意味があるのでしょう。

今年から、訃報の通知は、仏壇に供えることにしました。
悲しさを、分かち合えるかもしれません。

■2994:「ジハーディ・ジョン」の死(2015年11月13日)
アメリカ政府は、「ジハーディ・ジョン」と呼ばれる過激派組織「イスラム国」(IS)の戦闘員を空爆し、ジョンは死亡したと思われると発表しました。
以前、ビン・ラディンが殺害された時のことを思い出しました。
この報道を娘と一緒に見ていて、人の死を喜ぶという心境が理解できないとふと声に出したのですが、娘から、もしお父さんが人質になっていて、生命の危険にさらされていた時に、その犯人が警察によって射殺されたら、お父さんは喜ぶでしょうと指摘されました。
安心はするが喜ばないと思うと答えましたが、少し考えてから、もしそうなったらたぶん私も喜ぶだろうと言い直しました。
人の死を喜ぶということは理解できませんが、実際にはそうなるのかもしれません。
しかし、人の死を悲しまずに喜ぶことさえあると思うと、なにかとても寂しい気がします。
生とは、いったいなんのか。

人が、自らの生を守るためには、他者の死が必要になることがあります。
人に限定しなければ、生は他者の死によって支えられている。
私たちは、動植物の生命を食べることによってしか、生きられないからです。
考えてみれば、生きるということは殺生と重なっています。

その点、植物は違います。
他者を犠牲にすることなく、周辺の生命に恩恵を施しながら生きています。
なんと幸せなことか。
しかし人間は、植物のような生を生きることはできません。
であればこそ、自らが決められることにおいては、他者に恩恵を施すことに心がけたいものです。
これが、私の生きる上での信条の一つです。
他者に恩恵を施すというと誤解されそうですが、それは、いわゆる「恩送り」の意味です。
他者の生に支えられて生きているのであれば、私もまた他者の生を支える存在であることを願いたいということです。

しかし、この信条は実行するのがなかなか難しいのです。
仮にしたとしても、時に「恩着せ」意識が残っています。
「恩着せ」するくらいなら「恩送り」などしなければいいのですが、まだまだ時に虚しくなることがある。
相手を信頼していればこそ、それが否定されると無性に悲しくさびしくなる。
「恩送り」も、そう簡単なことではないのです。

「ジハーディ・ジョン」の死は、ISの仲間からは悲しまれたことでしょう。
彼の行為は、たしかに残虐で許しがたいものですが、そうせざるを得なかった事情もあるのでしょう。
「ジハーディ・ジョン」の魂に平安が訪れるように、祈りました。

■2995:元気をもらいました(2015年11月14日)
節子
今日は1日、フォーラムで会場に缶詰めになっていました。
市川さんが主宰している日本経営道協会のフォーラムです。
最近、私はあまりかかわっていないのですが、活動は着実に広がってきています。
昨日は、私はパネルディスカッションの進行役だったのですが、3人の若い社会起業家と出会い、元気をもらってきました。
いずれも会社や役所を辞めて、起業した人たちです。
話していて、いささかの危うさも感じましたが、思いの純粋さには共感するところがたくさんありました。
私が会社を辞めた時に比べれば、とても純粋で、社会性も高いのがよくわかります。

それはそれとして、終了後のパーティで、久しぶりに風早さんに会いました。
節子の闘病中、ずっと祈り続けてくれていた人です。
節子が逝ってしまった後は、私のことをずっと心配されていました。

パネルディスカッションも前の方で聞いていてくれていましたが、元気そうでうれしい、と言ってくれました。
そして、「奥さんが亡くなった後の佐藤さんはとても見ていられなかった」と付け加えました。
そうだったのかもしれません。
自分では、公開の場では元気を装っていたつもりですが、隠せるはずもない。
でもみなさんは、それを承知で、見守ってくれていたのでしょう。

昨日、フォーラムの往復の電車で、秦恒平さんの「死なれて・死なせて」を読みました。
挽歌2988で書きましたが、朝日新聞のコラム「折々のことば」で、その本の存在を知ったので、さっそく取り寄せて読んだのです。
読むタイミングが悪かったなと思いましたが、実は昨日のフォーラムの前、いささか落ち込んでもいたのです。
そこには、衝撃的な物語がたくさんつづられていました。
ですから、昨日もまた、元気を装っていたのかもしれません。
話していても、どうも心が弾まない、そんな気分だったのです。
風早さんの言葉は、改めて私の心身に突き刺さったのです。
でもまあ、私の人生が戻りつつあるのは間違いありません。
昨日の3人の若者からも、元気をもらえましたし。
しかし、戻った人生の残りはそう長くはないかもしれません。

昨日のフォーラムの基調講演は、カレーハウスCoCo壱番屋の創業者の宗次徳治さんでした。
これもまた、心身に突き刺さるお話でした。
経営の話など全くしないように見えて、経営の真髄を話してくれたような気がします。
CoCo壱番でカレーを食べたことがないのですが、宗次さんのファンになりました。
最近聞いた話の中で、私には一番示唆に富むお話でした。
彼の紹介文にこう書いてありました。
「経営を引退するまで友人を一人も作らず、仕事に専念した」
尊敬できる人は、世の中にはまだまだたくさんいるのでしょう。
元気を出さなければいけません。

■2996:自分を生きられる幸せ(2015年11月16日)
節子
昨日は湯島で民主主義を考えるサロンでした。
日経にいた坪田さんが、久しぶりに参加しました。
20数年ぶりでしょうか。
フェイスブックで、その活躍ぶりを拝見していましたが、サロンの最初の頃に何回か来ていたはずです。
しかし、坪田さんとはどこで出会ったのか忘れていましたが、坪田さんが私との出会いのきっかけを話してくれました。
まだ私が会社時代に、取材に来てくれ、そこですっかり意気投合したようです。
意気投合したのは、取材の内容(新しい企業のあり方だったようです)ではなくて、どうもハインラインのSFの話だったようです。

当時はたくさんの取材を受けました。
会社の企業文化変革に取り組んでいたからです。
あの頃の数年は、それこそ終電に乗り遅れてタクシーで帰るような生活までしていました。
それで、会社の実体がよく見えてきてしまい、プロジェクト完了後に会社を卒業しようと思ったのです。
取材に来てくれた人たちも、最近は付き合いがなくなり、あの頃の私を知っている人もほとんどいなくなりました。

久しぶりに坪田さんは、当時と全くと言っていいほど、変わっていませんでした。
年齢や時代や立場とともに、変わっていく人もいれば、変わらない人もいます。
たぶん、自分を生きているからでしょう。
改めて自分を生きていることの幸せを感じました。
自分を生きることは、そう簡単なことではなく、みんなに支えられなければできません。
その力を与えてくれた節子には、いまも深く感謝しています。
そんなことはだれにもわかってもらえないでしょうが。

■2997:食材の安全性(2015年11月16日)
節子
佐々木さんが久しぶりに湯島に来ました。
佐々木夫妻の愛犬のミホが高齢になったため、今回は奥さんが介護役で、おひとりでの上京です。
最近の佐々木さんの仕事は、ミホの散歩と食事やおやつ作りのようです。
もしかしたら佐々木さんはご自分よりも心のこもった良いものをミホのためにつくっているのでしょう。
食材もとてもこだわっています。
そういう話をしていると、ついつい私は、愛犬のチビ太はもちろん、節子の食材もそんなに気にしていなかったなあと罪の意識が浮かんできます。
私は自分に対してはもちろんですが、そうしたものに関する感度が低いのです。
というよりも、そうしたことを気にする生き方に、どこか不公正さを感ずるのです。

放射性汚染がかなり高いと思われる、わが家の家庭農園の作物も、気にせずに食べています。
自然が与えてくれる食材は、気にせずに食べる。
それでもし身体が蝕まれるようであれば、それはその時代に生きたことの不幸なのだと思うことにしたのです。
お金がある人だけが安全な食材を食べることはフェアなのだろうかなどと余計なことも考えてしまうのです。
しかし、これは私の勝手な考え方であって、娘たちも含めて、そんなものを食べずに、安全な野菜を食べるようにと助言してくれる人は少なくありません。
見るに見かねて直接届けてくれる人もいます。
しかも、私のまわりでは、そうした安全で安心な食材を広げていこうとしている人も少なくありません。
それどころか、そういう活動を私自身応援したりしているのです。
そこが悩ましいのですが、私自身は自分だけが安全安心の食べ物を食べること自体に、どこか安堵できない気持ちがあるのです。

わが家は基本的にお米を農家から直接送ってもらっています。
たぶん市場価格の2〜3倍の価格で購入しています。
わが家にお金がある時には4倍、ない時でも2倍以上です。
だからと言って有機米とかにはこだわってはいません。
その家の人が食べるものと同じでいいのです。
いまの米作り農家がいかにも経済的に引き合わないのが気になって、そういう契約をしているのです。
先日、私の手違いで、10sのお米にカビを発生させてしまいました。
農家の人に伝えたら、送り直すから処分するようにと言われました。
しかし、どうも捨てがたいのです。
そこでカビの少なそうなところを選んで、食べてしまいました。
娘から起こられて、さすがに食べるのは止めて、冬の時期の鳥の餌にしました。
しかし、自分が食べられないものを野鳥に食べさせるのもまた、罪の意識に襲われます。

まあこういうことをくよくよ考えるのが、まだ精神的に安定していない証拠ですが、食材への安全感覚が極めて弱いのです。
娘たちは賞味期限なるものを気にしますが、私は一切気にしません。
1年前に賞味期限を過ぎたものも、食べてみて大丈夫そうであれば食べてしまいます。
娘たちに見つかるといけないのでこっそりとですが、実際には娘たちは私の習性を知っていて、いまは諦めています。
むしろ、こういう親に育てられたのかと、恨まれている感じもしますが。
しかし、食べ物はむやみに捨てないという文化はしっかりと根付いています。

それにしても、安全性には無頓着すぎたかもしれません。
節子も、私ほどではありませんが、あまり気にしないタイプだったかもしれません。
それが胃がんの原因だとは限りませんが、もう少し注意すべきだったと、思うことがあります。
しかし、いまさら私だけが注意するのはフェアではありません。

佐々木さんと話した帰りの電車の中で、こんなことを考えていました。
つまらない話を書いてしまいました。

■2998:歩いているとみんな良い人になる(2015年11月17日)
節子
73日間にかけて、1700qという途方もなく長い、サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いてきた鈴木さんがやってきました。
帰国して10日が過ぎましたが、まだ足の痛みが抜けないそうです。
そのまま四国巡礼に出かける予定だったのですが、そのおかげで、出発を延期し、湯島にも来てくれたのです。

話すことが山のようにあるようで、4時間近く話し続けました。
まだまだ話したりない様子でしたが、次の来客がやってきたので、終わりになりました。
また続きを聞きたいと思います。
話をしてるあいだ、鈴木さんからは何かオーラのようなものを感じました。
これほど輝いている鈴木さんは久しぶりです。

話の内容はとても興味深いものばかりでした。
昨年は年間で25万人以上の人がサンチアゴを歩いたそうです。
鈴木さんが最初に歩いたのはもう10年以上前ですが、その頃とは風景もかなり変わっていたようです。
ただし、歩く人も沿道の人たちも、みんな良い人たちばかりであることは変わっていなかったようです。
歩き続けていれば、みんな良い人になり、良い人と出会い続けていると、みんな良い人になるのです。

鈴木さんが最初にサンティアゴを歩いたのは、パウロ・コエーリョの「星の巡礼」がきっかけだったそうです。
そういえば、むかし、湯島で、その本を翻訳した黛まどかさんのサロンを開催したことがあります。
黛さんが、サンティアゴの映画を制作したいと言っていたころで、その相談を受けたのがきっかけでした。
そのサロンには節子も参加し、「星の旅人」も読んでいました。
帰宅して節子の書棚を見てみたら、その本が残っていました。
節子が元気だったら、私もサンティアゴを歩けたかもしれません。
節子も、鈴木さんの話を聞いていたでしょうか。

鈴木さんは、今回の巡礼で、人生こそが巡礼だと思ったと言いました。
そう言えば、以前、私もこのブログで、そんなことを書いたような気がします。
この挽歌が、私の巡礼記録なのかもしれません。

鈴木さんが四国から戻ってきたら、また会おうと思います。

■2999:「元気そうでよかった」(2015年11月18日)
節子
不覚にも風邪をひいてしまいました。
これからいろいろと予定があるのですが、いささか心配です。
明日は8時間を超える長丁場のシンポジウムがありますし、週末も2つの集まりを予定しています。
今日は自宅で休んでいればよかったのですが、ついついまた人ごみに出てしまい、症状は悪化してしまいました。
困ったものです。
昨日、サロンに参加した人が15年ぶりに風邪をひいたと言っていましたが、その風邪をもらったわけではないでしょうが、最近少し疲れ気味で、免疫力は下がっているのです。

節子に供えている活花が、1週間たつのに今日もとても元気です。
毎朝、声をかけているからかもしれません。
こちらに余裕がなくなり、声をかけずにいると、活花もすぐ枯れてしまいます。
しかし、きちんと声をかけていると元気で咲き続けてくれます。

人も同じかもしれません。
声をかけてくれる人がいたら、免疫力は維持できるかもしれません。
私が最近免疫力が落ちているのは、声をかけてくれる人がいないからかもしれません。
みなさん、声をかけてくれませんか。

しかし声もかけ方があります。
先日、夕方帰宅途中に、近所にお住いのNさんに道で声をかけられました。
「佐藤さん、元気そうでよかったです」というのです。
ちょっとひっかかる言われ方です。
元気そうでよかった、ということは、元気でないと思っていた、ということです。
Nさんはとてもいい人で、会うと必ず声をかけてくれます。
私よりも一世代若いでしょうか、ともかく元気な方です。
でも、会うたびに、「元気そうでよかったです」と言われると何か悪いような気がしてきます。
今日は元気でないので、もし会ったら、実は元気ではないのです、と言えるのですが、残念ながら会えませんでした。

こんな風に考えるのは、私の性格の悪さなのでしょうか。
そう言えば、かなり前ですが、以前住んでいたところの人に、スーパーでお会いました。
やはり、「元気そうですね」と言われましたが、その方は、すぐ奥さんを連れてまたやってきました。
奥さんが盛んに、「心配していたのですが、お元気そうでよかったです」と言うのです。
おふたりともとても親切な方で、奥さんは節子と付き合いのあった方です。
そのおふたりの口調から、私がどれほど心配されていたかが伝わってきました。
まあ、私は、伴侶の後追いをするように思われても仕方がないタイプなので、みんなが心配してくれているのでしょうが、元気でよかった、と言われるのは、正直、あんまりうれしいものではありません。
でも今週は、2人の人からそう言われました。
これは、しかし節子との死別のためではないかもしれません。
もうそう言われても仕方がない歳になったのでしょう。
素直に、喜ばないといけないのかもしれません。
しかし、いまでも「元気でよかった」といわれると、ついつい節子のことを思い出すのです。
そして、心の中では、「元気なはずないでしょう」と思うのです。

性格の悪さは、なかなか直りません。

■3000:3000日目(2015年11月19日)
節子
この挽歌もついに3000回になりました。
つまり、節子のいない日を3000日、過ごしたということです。
よくまあ生き続けてきたものです。

作家の、秦恒平さんは、吉田兼好の「徒然草」は、愛した女性の死によって生じた悲しさを乗り越えるために書き続けた書ではないかと言っています。
兼好は、徒然なるままに書いたのではなく、書くことによって生き続けられたのだというのです。
秦さんがそう思いついたのは、兼好が残した次の歌です。

つらからば 思ひ絶えなで さをしかの えざる妻をも 強ひて恋ふらむ

「徒然草」は、「得ざる妻」への追悼から書き始められた、というのが秦さんのお考えです。
秦さんは、1984年に出版した『春は、あけぼの』の中で、こう書いています。

『徒然草』から私は、一種愛の挽歌を聴くのである。

「徒然草」も、挽歌だったのです。
兼好が出家したのも、それとつながっているのでしょうか。
徒然草は、243段から成っていますので、3000回はその10倍を超えています。
兼好は、243回で悲しさから抜け出せたのかもしれませんが、私の場合は、3000回に達してもなお、抜け出せないでいます。
まあ、兼好の場合、出家していますので、煩悩を断ち切ることができたのかもしれません。

書くことは、喪失の哀しさを埋め合わせてくれる大きな力を持っていますが、逆に悲しさを持続させる力も持っています。
悲しさを埋め合わせるのと持続させるのは、対立するわけではなく、同じものかもしれませんが、ともかく「書くこと」の意味は大きいことを、私は実感しています。

まだ書いているのか、と言われそうですが、たぶんここまで来たら、彼岸に旅立つ、その日まで書き続けるような気がします。
3000日。
いまから思えばあっという間の3000日でした。
そしてまた、あっという間に、彼岸に旅立つ日が来るのだろうなと思えるようになっています。
時間の意味が、変わってしまったのかもしれません。

■3001:モーニング・ワーク(2015年11月20日)
節子
この挽歌は、節子への挽歌というよりも、私自身のモーニング・ワーク(mourning work)、つまり「喪の仕事」になっていることは昨日も書きました。
節子は私が書き続けていけるように、いろんなことを残していってくれたのかもしれません。
3000回書いたところで、モーニング・ワークということを考えてみようと思います。

一般に、モーニング・ワークといえば、「故人をしのび懐かしむ行為」という意味でしょうが、そうした行為への思いは、さまざまです。
はじめは、再会を願う気持ちが強いですが、それが叶わないことを受け容れていく過程で、フロイトが言うように、「死者に対する恨みや怒り」といったネガティブな感情の反省・想起が起こることもあるといいます。
愛する人を喪ったことを受け容れるためには、そうした反対の気持ちを持つことで、心身をバランスさせるということなのでしょう。
頭ではよくわかりますが、実際にはフロイトの言うようなネガティブな気持ちは、たぶん起こらないと私は思います。

私も時々、位牌に向かって、節子に悪口を吐くことがなかったわけではありません。
なぜ先に逝ったのか、遺されたもののほうがたいへんだよ、とか、です。
しかし、そこにネガティブな気持ちなど、微塵もありません。
「死者に対する恨みや怒り」もまた、愛するものへの愛情の表現なのです。
ただ、この挽歌にも見られるように、後悔や罪悪感などが浮かんでくることはありますが、それも決してネガティブな気持ちではありません。

私にとっての、モーニング・ワークは、節子をすべてそのまま受け入れることです。
良い悪いとか好き嫌いは、そこでは全く意味をもたなくなっていきます。
すべてを受け容れていくと、いまの自らもまた受け容れられるようになります。
後悔の念もまた、「あれでよかったのだ」と思えるようになってきます。
そして、「死別」さえもが、素直に受け容れられてくるのです。
そして心が安堵する。

安堵したからと言って、悲しさや寂しさがなくなるわけではありません。
しかし、悲しさや寂しさはあり、突然に涙が出てくることさえある。
しかし、それが日常になってくるのです。
モーニング・ワークが日常になる。
喪が明けるとは、喪が日常化するということかもしれません。
そして、周りの人たちがすべていとおしく、やさしく感じられます。

愛する人の死は悲しいことです。
しかし、愛する人は、死別の哀しさだけではなく、生の意味にも気づかせてもくれます。
私にとって、モーニング・ワークこそ、節子からの最高の贈り物かもしれません。
そう思えるようになることが、モーニング・ワークの意味かもしれません。

■3002:地図条舌(2015年11月21日)
節子
昨日、歯医者さんに行ったら、普段とは違ったことを言われました。
べろを出してみてください、というのです。
いつも言われたことがないのですが、言われたとおりにべろを出したら、先生がやってきました。
そして、またべろを見ながら、最近、体調はいかがですか、と質問されました。
それで、すなおに「最悪です」と答えました。
そしたら鏡をもたされて、舌の状況を見せてもらいました。
驚いたことに、舌に斑点のような傷のようなものができているのです。
地図条舌というのだそうです。
前回は口内炎、今回は地図条舌。
困ったものです。

痛みはないですかというので、鈍感なせいか全くありません、というと、では様子を見ましょうと言われました。
私は、身体の痛みは、生きている正常な現象だと思っているので、ある閾値を超えるまでは、痛みは無視します。
そのうち、痛いのかどうかもあまり気にならなくなってきているのです。
もし痛みを感ずるようになったら、いつでも来てくださいと言われました。

地図条舌は口のなかが汚れていたり、ビタミンBが不足していたりすると起こるのだそうです。
ストレスも原因のようです。
この3つが、たぶんすべて重なっているのでしょう。
最近かなりストレスがたまっていますし、この2日間、起きている時も寝ている時も龍角散ののど飴が口の中にあります。
ビタミンBは、野菜が最近少し不足しているかなと思っています。
心身のひずみや悲鳴は、弱いところに出てくるのでしょう。
舌がそうしたものの受け皿のひとつだということを知りました。

しかし、改めて舌の様子を見ると、かなり悲惨です。
見ているうちに、だんだん痛くなってきました。
私は、視覚に大きく影響される人間なのです。
舌に惑わされて、風邪薬を飲むのを忘れてしまいました。
その成果、また風邪が悪化してきているようです。
今日は、めずらしくお医者さんに行ってから、湯島に行こうと思います。
湯島では、今日もサロンなのです。
最近、ゆっくり休める休日がありません。
どこかでまた生き方を間違っているようです。
節子がいないので、誰も軌道修正してくれません。
困ったものです。

■3003:山のような薬(2015年11月22日)
節子
昨日はめずらしくお医者さんに行きました。
節子もお世話になった遠藤さんです。
高血圧なので、本当は毎月行かないといけないのですが、まあ滅多にいきません。
今日は喉の調子が良くないので行きましたが、血圧も測られてしまいました。
なんと下が90いくつかで上が180以上らしいです。
ちゃんと薬を飲んでるかと訊かれたので、今日は飲みましたと答えました。
頭痛はしない?と訊かれましたが、いまはしていませんと答えました。
時々、頭痛はしますし、よく飲み忘れますが、
嘘は言わないのが私のいいところです。
結果的には、薬を変えることになりました。

ついでに、舌も見てもらいました。
その結果、なんと8種類の薬を飲むことになりました。
1種類だと飲み忘れとしても、8種類だと忘れないだろうという考えではないかと思います。
夕食後、頑張って飲みました。
そう言えば、むかし、私の父がこうやってたくさん飲んでいました。

ところで、診察もしてもらい、薬を山のようにもらったのに、会計は950円でした。
思わず、薬も含めて全部ですかと訊いてしまいました。
なにしろ、サプリメントのドリンクの1本代よりも安いのです。
ちょっと安すぎではないですか、と言いたかったのですが、待合室にはたくさん人がいたので自重しました。
なんだか納得できない気分でした。
私は、たぶん所得が少ないので、保険は1割負担なのです。
それを考えると9500円。安くはないです。
ここに何か大きな落とし穴がありそうです。

世の中には、お金がなくてお医者さんに行けない人も少なくないそうです。
やはりどこかおかしい。
薬をもらいすぎたかなと、ちょっと反省しています。
地図状舌炎などは、薬などなくても治るでしょう。
風邪もそうです。
やはりまたしばらくは遠藤さんのところにはいかないような気がします。
困ったものです。

体調はなかなかよくなりません。

■3004:人は深く深くつながっている(2015年11月23日)
節子
人は深く深くつながっています。
今日は改めてそれを感じました。

大阪のあゆみあいネットというグループが主催した「ドキュメンタリー映画「自殺者1万人を救う戦い」を観て語る会」に参加してきました。
このグループは、数年前から「自死について自由に語り合う、聴きあう場づくり」を行っているグループで、その発足に私もささやかな縁をもっています。
またこの映画そのものにも、ささやかな縁があるのです。
その関係で、今回は話し合いの進行役をさせてもらったのです。

参加者は少なかったのですが、その分、とても気づきの多い場になったような気がします。
参加者のみなさんも、それぞれに気づきがあったようで、うれしいコメントももらいました。
おひとりの方、Tさんが、メールを送ってくれました。

初めてなのに、旧友に再会したような錯覚を抱きました。
参加者 一人一人に懐の深い接し方をして頂き、感銘を覚えました。

その方は、私を前から知っていて下さっていました。
あゆみあいネットを立ち上げたOさんから、いろいろと聞いていて下さったのです。
会が始まる前に、私は偶然にTさんに声をかけさせてもらっていました。
初対面でしたが、なぜかどこかでお会いしたような感じがしたからです。
初対面ではありませんでしたが、あゆみあいネットのメンバーで、自死遺族の方でした。

自殺の問題に関わりだした当初、私は自死遺族の方が一番苦手でした。
私は、あまり言葉を選ばずに思ったことを素直に発してしまうタイプです。
ですから相手を知らないままに傷つけてしまったり、感情を逆なでしてしまったりすることもあります。
とりわけ自死遺族の方は繊細です。
言葉の表現と意味合いが正反対の時もあるような気もします。
正直、最初は少し腰が引けていたこともあります。
でも最近は、むしろどこかで最初から心がつながっているような気がしてきています。
話しやすくなったというと語弊がありますが、どこかでつながりを感ずる気がするのです。

以前、私たちの主催する公開フォーラムでも話したことがあるのですが、
病死も過労死も事故死も自死も、「愛する人」「大切な人」を喪うということでは、みんな同じです。
そのことに気づくと自死遺族さえもが特別のものではなくなってきます。
自死遺族の方は、往々にして自分が「特別」と思いがちですが、そこからまずは抜け出たほうがいいと思います。
そして、「愛する人」「大切な人」を喪うことが、決して特殊なことではなく、すべての人が体験することなのだと気づくと、周りの人たちがみんな友だちに見えてきます。
Tさんが、旧友に再会したような錯覚を覚えたのは、実は錯覚ではないのかもしれません。
人はみんなどこかで友だちなのです。

最近ますますすべての人は友だちだという「気分」が強まっています。
節子はいまもな、いろんなことを気づかせてくれています。
元気だったころよりもずっと節子から学ぶことは多いのです。

■3005:9種類の薬の副作用?(2015年11月25日)
節子
いろんな症状のおかげで、9種類の薬を飲む羽目になっていますが、その成果、どうも調子が悪いです。
まず眠いのと、あんまり思考力が働かないのです。
その原因が、体調が悪いためなのか、9種類の薬のせいなのか、よくわかりませんが、一応、今朝まではほぼ正確に薬を飲んでいます。
もっともそのうちの2種類はビタミン剤、1種類は胃の薬です。
でもまあ、今朝を最後に、降圧剤以外の」薬は止めることにしました。
9種類の薬を毎食後に飲むのは、やはり異常ですし。
しかし、良い経験をしました。

昨日は、そんなわけで帰宅後、あまり何もする気がなくなり、
湯ぶねで寝てしまうほどでした。
疲れているわけでもないのですが、何やら無性に眠いのです。
そして、普段ならすっと入っていけるような本を読んでも、頭に入っていかないのです。
挽歌も書かずに寝てしまったというわけです。

今日は午前中は在宅ですが、相変わらず何もする気が起きません。
私は、する気が起きない時には、本当に何もやれないタイプです。
困ったものです。
しかも、今日は寒いうえに、太陽が全く見えない。
こういう日は、本も読めないし、何もできない。
それに胃の調子が悪いので、珈琲も飲めない。
さてさてどうしましょうか。

こういう日は、独り身であることがこたえます。
胃にやさしい珈琲を淹れてくれて、慰めてくれる人がほしいです。
それにしても寒い。

パソコンはもうやめましょう。
お昼前に出かけなければいけないのですが、それまでなにをやりましょうか。
それを考えることさえ、なにかおっくうです。
これはきっと薬の副作用ですね。
何しろ9種類も飲んでいるのですから。

■3006:ここか、あの世で(2015年11月25日)
節子
ベン・アフレックの映画「ザ・タウン」を見てしまいました。
小説「強盗こそ、われらが宿命」を原作とした犯罪スリラー作品で、ベン・アフレックの2番目の監督作品です。
内容は全く知らなかったのですが、ベン・アフレックの監督作品という理由だけで見てしまいました。
やはりこんな感じだなと思うような感じの映画でした。

ただ一点だけ印象的だったセリフがあります。
そのセリフも、よく聞く言葉ですし、以前もベン・アフレックの映画に出ていたような気がします。
だからこそ印象に残ったのですが。
ベン・アフレック演ずる主役のタグの言葉です。

人は毎朝、目覚め、人生を変えたいと願いながら、でも変えない。

節子の闘病中、私も節子も、毎朝、こう思いながら目覚めました。
タグの言う意味とは違いますが、思いは同じです。
私たちの場合は、変えたくても変えられなかった。
変わらない人生だったのです。
病気が夢であったほしい、という思いはいつも付きまとっていたのです。
しかし、人生は続いていくものです。
変えることはできません。

映画では、主人公のタグは生き方を変えることができました。
しかし、そのための犠牲はあまりにも大きなものでした。
しかも、人生は続いていく。

人生を変える契機になったのは、「愛」でした。
人を愛することで、生き方を変えようと思う話は、映画にはよくある話です。
しかし、皮肉なことに、生き方を変えたにもかかわらず、その愛する人と別れなければならなくなった。
人生を白紙にはできないからです。
映画の最後に、タグの言葉が流れます。

(新しい人生の)道は遠い。
でもいつか会える。
ここか、あの世で。

いつか会えると思えればこそ、遠い道を歩き続けることができるのでしょうか。

■3007:2人の異人からの電話(2015年11月26日)
節子
今日も寒い1日でした。
大宰府の加野さんが甘えびを送ってきてくれました。
お電話したらお元気そうでしたが、どうも耳の具合がよくないようで、うまく話が通じません。
行き違いの多い電話をしばらくしていましたが、どうも会話が成り立っていないことに気づいて、お礼だけを繰り返しお伝えして、電話を切りました。
しばらくして加野さんから電話がかかってきました。
先ほどは携帯電話の声がよく聞こえなかったので、今度は大丈夫ですと言う電話でした。
またしばらくお話ししました。
もう何年になりますか?といつもの質問がありました。
9年目に入りましたと言うと、早いですね、と言われました。
もちろん節子のことです。

加野さんは、たぶん節子とは1回きりしか会っていません。
私とも付き合いがあったわけではありません。
私たち夫婦と加野さんの娘さんが何回か会った程度なのです。
加野さんの一人っ子のお嬢さんは、節子よりも先に逝ってしまいました。
お互いに愛する人を見送ったことから、どこか心が通じているのかもしれません。

加野さんはもう90歳を超えているはずです。
しかしとてもお元気そうです。
それは、オクトのイオン水を飲んでいるからだといつも言っています。
節子も最後は、その水を送ってもらっていました。
でも、間に合いませんでした。

そんな話をして電話を切ったら、また電話が鳴りました。
また加野さんかなと思って出たら、なんとそのオクトの田中さんでした。
一瞬加野さんがまた連絡したのかなと思ったのですが、そうではなく全くの偶然でした。
来週東京に来るので、会いに行きたいという電話でした。
加野さんも田中さんも「常人」ではありません。
加野さんは霊能者であり田中さんは天才です。
ですから普通の会話はなかなか通じません。
不思議な人たちです。

今年も大宰府に行けませんでした。
大宰府はもしかしたら、私が1300年ほど前に住んでいたところかもしれません。
最初に大宰府の観世音寺に行った時に、そう感じたのです。
2回目に行ったときは全く感じませんでしたが。
まあ、そういうことを考える私も、少し常人から外れているのかもしれません。
来年こそは大宰府に行ってみようと思っています。

■3008:那須高原に来ています(2015年11月28日)
節子
昨日から那須高原にきています。企業の人たちとの合宿です。
この活動も今期を最後にすることにしました。
28年間,この経営道フォーラムに関わってきましたが,日本の企業は劣化こそしても道を正す方向には向かなかったような気がして、反省しています。
私の役割はもう終わったような気がします。
どうもこのやり方では歯が立ちません。
しかし、企業の劣化は間違いなく社会の劣化につながっていますので、私自身の生きにくさにもつながってきます。
困ったものです。

今日のプログラムが始まるまでの1時間部屋から那須高原の眺望をぼんやりとみて過ごしています。
12階なのでとても眺望がいいのです。
エピナール那須というホテルですが、こ地域では人気のホテルのそうで、エレベータで一緒になった人に「お客様の多いホテルですね」と話しかけたら,その人は常連客のようで,ここはいつも満員なのですよ,と教えてくれました。
子供連れも多く、昨夜はライブコンサートもやっていました。

ここまで書いて、ついうとうととしてしまっていました。
昨夜はあまり眠れなかったので、まだ眠気が抜けません。
最近はホテルの宿泊でぐっすりと眠れたことがないのです。
どうしてでしょうか。

しかし、こういう1時間を過ごしたのは、本当に久しぶりです。
とても静かで心が静まります。
遠くを見ていると時間が止まっているような感じになります。
そういえば、以前、節子との旅行でこんな時間を過ごしたことがあったような記憶があります。
風景は少し違いますが、やはり動きのない自然風景でした。
あれはイランだったでしょうか。

そろそろプログラムが始まる時間です。
午前中はずっと話し合いです。
企業のあり方を少しでも変えるような生き方をしていく人が一人でもうまれてくれるといいのですが。

■3009:半分退屈で、半分楽しい2日間(2015年11月28日)
2日間の合宿を終わり、いま帰路の新幹線です。
今回は担当チームが一つなので、かなりじっくりと付き合いました。
テーマも決まりました。
面白い展開になるでしょう。

大企業の人たちは、いまの私の住んでいる世界とはかなり違います。
どちらが良い悪いの問題ではありませんが、お互いの世界がもっとつながるといいなと思います。
大企業の人たちの多くは、ダブルスタンダードで、しかもバイリンガルです。
会社人と生活者という2つの世界を生きているという意味です。
そこから抜け出るだけでも、人生も変われば、たぶん社会も変わるでしょう。
私が心がけていることはそういうことですが、これは節子と一緒に暮らしたおかげでしっかりと身についたことです。

今回の合宿のテーマとは無関係ですが、参加者の一人から「自殺者1万人を救う戦い」の映画を所望されました。
詳しくは聞きませんでしたが、何か事情があるのでしょう。
人が人として付き合う。
それだけでも社会は変わっていくでしょう。
組織の中にとどまっていたら見えてこなかったことがたくさんある。
そのことを少しでも垣間見せたいのですが、それが難しい。
だからこの活動を辞めることにしたのですが、ちょっと複雑な気分です。

もうじき上野です。
半分退屈で、半分楽しい2日間でした。

■3010:田中さんのサロン(2015年11月30日)
節子
昨日は田中弥生さんのサロンを湯島でやりました。
なんと20人の参加者があり、超満員でした。
節子と一緒に、田中さんのバレエの発表会を観に行ったのを思い出します。
田中さんから招待されたのですが、あの頃の田中さんは仕事とモダンバレエを両立させていました。
私はモダンバレエに興味がなかったので、いささか退屈でしたが、まあ当時の田中さんは輝いていました。
その田中さんもいまや有名人です。
有名になると湯島には来なくなる人がほとんどですが、田中さんはいまも時々やってきます。
とてもいい仕事をしていますが、仕事の枠を超えて、横っちょに立ち寄ったりしているところも、とてもいいです。

田中さんはある意味で私の生き方に影響を与えてくれた一人です。
小生意気な小娘だった田中さんに影響を与えられたというのも気恥ずかしさがありますが、彼女が日本にコーポレートシチズンシップの考えを普及させたいと相談に来たのが、私が企業経営に再びきちんと関わることになった契機の一つでした。
それにしても、田中さんはなぜ私のところに来たのでしょうか。
いまとなっては思い出せません。

また子どもの問題に関わるようになったのも彼女のおかげです。
森下保育園に面白い人がいるからと連れて行かれ、そこであったのが、新沢さんでした。
それが契機になって保育園の世界にささやかに関わりだしたのです。
新沢さんが代表を務めていた日本子どもNPOセンターの事務局が、今では私のオフィスに置かれているのは、何かの縁があるのでしょう。

昨日のサロンはとても刺激的なサロンでした。
田中さんも、とても元気そうでした。
田中さんが昔、お父様の件で節子と話していたのをふと思い出しました。
湯島があるおかげで、いろいろな縁がきちんと続いているのがうれしいです。

■3011:悪いこともあれば良いこともあった1日(2015年11月30日)
節子
今日も疲れる1日でした。
人と付き合うことの煩わしさを、改めて実感させられました。
不愉快なことが2つも起こってしまいました。
瑣末なことで不愉快になるとは、まだまだ私も人ができていません。
しかし、不快さを飲み込むことができるところまでにも達していないので、愚痴をこぼす存在がいないのは疲れるものです。
不思議なもので、もし節子がいたら、その不愉快な事柄も不愉快にならずにすんでいるかもしれません。

もっとも心和むこともありました。
野路さんがまたりんごを送ってくださったので、電話しました。
節子と親しかった奥さんも少しずつ記憶を取り戻され、お元気のようです。
なかなかお会いできませんが、いつかお会いできる時も来るでしょう。
長らく入院していた近くの家の旦那さんもしばらく退院できるというお話も聞きました。
お引き合わせしていた人と会えたという感謝のメールも届きました。
人を引き合わせることのむずかしさは何回も経験していますが、今回はとてもいい結果になったようです。
突然に湯島で辺野古の話をしてもらえることにもなりました。
これもとてもうれしい話です。

今日はほぼ1日、在宅でしたが、在宅していても、これだけのことがあります。
それがいい時代なのかどうかはわかりませんが、こうした時代のおかげで、私は何とか生き続けられたのかもしれません。
お天道様に感謝しなければいけません。

■3012:生活の充実とは何なのでしょうか(2015年12月1日)
節子
最近いろいろとあって、時間的にも精神的にもあまり余裕がなく、畑もご無沙汰になっていました。
ずっと気になっていましたが、今日の午後、娘に手伝ってもらって、畑にチューリップの球根を植えてきました。
畑の道沿いも今年は少しきれいになってきていますが、来年こそは花壇を復活させたいと思います。
庭のランタナも畑に持っていきましたが、今年の冬は暖冬のようなので、冬超えしてくれるかもしれません。
先日植えた大根もだいぶ育っていました。
今日は娘に料理してもらいました。
収穫しわすれていたピーマンは、硬くなってしまっていましたが、むげに捨てる気もなりません。
何とか食べたいと思います。
自分で食材を育てると、捨てる気にはなりません。
娘が料理に使ったセリの根っこをプランターに植えたらとくれましたので、これもプランターに植えました。
私はセリが大好きなのです。

今日も在宅でしたが、いろいろありました。
今日は、5日にあるところで話すための資料づくりをするつもりだったのですが、やはりその準備は全くできませんでした。
人生は予定通りにはいかないものなのです。
しかし、最近は少し問題が多発しすぎです。
なかなか頭がそれについていけずに、生活が混乱してきています。
どこかで一度、整理しなければいけないのですが、あまりに異質な課題を背負い込みすぎてしまい、自己管理能力を超えてしまっています。
間違いなく、歳のせいでの能力低下です。
困ったものです。

それにしても今年ももう12月。
今年は何もしないままに終わりそうです。
節子がいなくなってから、空疎な年を重ねているような気がしてなりません。
生活に充実感が全くと言っていいほどないのです。
生活の充実とは、何なのでしょうか。
それが最近まったくわからなくなってきています。

明日は、心静まる日でありますように。

■3013:生活能力の低下(2015年12月3日)
節子
やはり私は健全に老化してきているようです。
無意識の気持ちの上では、老人の自覚は皆無なのですが、心身ともにかなり老化してきています。
この数日感じているのは、問題を構造化し整序する力が大幅に低下しています。
いま抱えているさまざまなプロジェクトや課題を、うまく包摂的に対応できなくなっていて、効果的に取り組めなくなっているのです。
数年前まではこんなことは全くありませんでした。
20近いプロジェクトや課題を、並行して進め、しかもそれらの関係性を自然と構造化できていたように思います。
だから毎日がわくわくできていたのです。
しかし、いまはそんなことはできず、ただただ混乱し、一つずつ対応するような退屈な進め方になりがちです。
しかも、トラブルが煩わしくもなってきました。
トラブルこそが面白いはずなのに。

論理的に思考できる仕事と違って、生活においては、論理とは別次元の事態が常に起こります。
生活の予定を組んでいても、思わぬ来客があったり、急に雨が降ってきたり、突然の訃報があったり、気分が乗らずに問題を先送りにしたり、思ってもいなかったことをやってしまったり、いろいろあります。
こうしたことに関しては、男性よりも女性の方が柔軟に対応できるように思います。
仕事場と生活場では、あきらかに様相は違うのです。
私が若いころ、よく「女性は論理的ではない」という言い方がされていましたが、私は、女性の論理は男性の論理よりも大きな論理性を持っていると考えていました。
そしてそれを学びたいと考えてきました。
しかし、残念ながら時代の流れは反対で、女性たちが男性的な「小さな論理」思考によって、男性社会に入り込みだしてきているように思います。
しかし、それによって失うのは、たぶん「生活能力」でしょう。
生活は、大きな論理で動いているからです。
そこが希薄なると社会はおそらくもろいものになっていくでしょう。
いまの日本は、まさにそうなっているように思います。

挽歌編にしてはいささかややこしいことを書いてしまいましたが、要は私は最近、問題の対応を楽しむのではなく、少し追われ気味になっているということです。
まちがいなく「生活能力の低下」です。
そう言えば、いまパソコンでこの文章を書いている机(3つ使っています)は、この1か月以上、整理していないです。
書類の山でうずまっています。
それこそが頭が整理されない原因かもしれません。
今日は帰宅したらまずは整理整頓から始めましょう。

節子がいなくなってから、どうも生活が投げやりになりがちです。
なんだか一昨日と同じようなことを書いてしまいました。
困ったものです。

■3014:科学知識と生活知識(2015年12月4日)
節子
神戸でイオン水などに取り組んでいる田中さんが湯島に来ました。
田中さんは、加野さんの紹介で、交流が始まったのですが、世間的な常識から少し逸脱している人です。
かつては自家飛行機まで持つ生活をしていたようですが、いまはかなりストイックな生活をされているようです。
その人間観や仕事観に共通するところがあるので、田中さんの信条に役立ちたいと思っていますが、私のように、社会から脱落した生き方をしているとなかなかお役にはたてません。

残念なのは、もう少し早く田中さんに会っていたら、節子も私も、少し違った人生になっていたかもしれないということです。
田中さんのイオン水は、生命力を高める効果があるのです。
「奇跡」が起きたかもしれません。

田中さんと話が通ずることのひとつに、現実から発想するという点があります。
以前、田中さんに頼まれて我孫子で放射性汚染土壌の除染実験をやりました
その結果は、通常の科学では説明できないようなことが起こりました。
10人ほどの参加者がいましたが、一人を除いて、「科学知識」を基準にしてその実験の価値を認めませんでした。
みんな「科学知識」が絶対のものだと思っているのです。
しかし、「科学知識」はその時点で分かっていることでしかありません。
そう考える人がとても少ないのです。

田中さんも私も、知識よりも現実を基本にしています。
現実に起こったことを大切に考えるという姿勢です。
その姿勢で考えると、話題になったSTAP細胞事件も違った見え方がしてきます。
今日は、そんな話もでました。
節子がもし隣で聞いていたら、どう評価したでしょうか。

「科学知識」などほとんどない節子の「生活知識」は、意外な示唆を与えてくれることがありました。
知識に偏重しがちな私の生き方を、節子は少しだけ相対化してくれたのです。
いまの私の世界観は、そのおかげです。
節子は、そんなことは全く思ってもいなかったでしょうが、私はそう思っています。

節子との会話がなつかしいです。

■3015:誰もいなくならない(2015年12月7日)
節子
この数日、ちょっとまたバタバタしていて、挽歌を書かずにいました。
この3日間で、挽回します。

昨日、我孫子に広島から「サダコ鶴」がやってきました。
その寄贈式にSADAKO LEGACYの佐々木祐滋さんが来てくれるというので、我孫子在住の宮内さんや原田さんと一緒になって、祐滋さんと地元ミュージシャンとのコラボコンサートを企画しました。
宮内さんの頑張りで、とてもいいコンサートになりました。

ミュージシャンもすべて自発的に参加してくださったのですが、そのお一人に外山安樹子さんがいました。
外山さんはプロのピアニストです。
私は面識はありませんでした。
外山さんは2曲、演奏してくれましたが、1曲はご自身の作品で、「誰もいなくならない」でした。
心に深く入り込んでくる曲でした。

外山さんは、演奏に先立ち、この曲は谷川俊太郎の詩からインスパイアされて作ったと話してくれました。
谷川さんの詩をネットで調べてみました。
その詩の一部を紹介します。

誰もいなくならないとぼくは思う
死んだ祖父はぼくの肩に生えたつばさ
時間を超えたどこかへぼくを連れて行く
枯れた花々が残した種子といっしょに

さよならは仮のことば
思い出よりも記憶よりも深く
ぼくらをむすんでいるものがある

それを探さなくてもいい信じさえすれば

大切な祖父を喪った少年の思いをうたった詩です。
この詩に出会った時、外山さんも「大切な人」を喪った時だったそうです。
そして、生まれたのが「誰もいなくならない」です。
この曲が題名になっている外山安樹子トリオのアルバム『Nobody Goes Away』のプロモーション映像があります。
よかったらお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3osBiAGIPPY

誰もいなくならないとぼくは思う。
そう思えるようになるまでには、私自身はかなりの時間がかかりました。

打ち上げの時、外山さんと偶然にも向かい合いました。
「大切な人」のことを訊きたい気持ちを抑えるのに苦労しました。

余計な話ですが、「誰もいなくならない」はピアノのソロの方が、私は好きです。

■3016:女声合唱団「道」の浜田さんにお会いしました(2015年12月7日)
節子
昨日のコンサートでの話をもう一つ書きます。
久しぶりに女声合唱団「道」の浜田さんにお会いしました。
コンサート終了後、浜田さんが声をかけてくださったのです。
8年ぶりでしょうか。

節子は元気なころ、女声合唱団「道」に入らせてもらっていました。
それで浜田さんのお名前を何回もお聞きしていました。
それとは全く別のルートで、私のささやかな地域活動の中でも、浜田さんとはお会いしていますが、記憶の中ではやはり節子つながりです。
わが家にも献花に来てくださいました。

実はこのコンサートを思いついた時に、最初に相談しようと頭に浮かんだお一人が浜田さんでした。
しかし浜田さんは、すでに別の形で公式の委員になっていたので、ご迷惑をおかけしてはいけないと思い、途中でやめた経緯があるのです。
正直に言えば、「道」のみなさんに、佐々木祐滋さんと一緒に「INORI」を歌ってほしいと思ったのです。
それは実現できませんでしたが、浜田さんが会場に来ていて下さったことはとてもうれしかったです。

そう言えば、節子が最後に外出したのも、実は昨日のコンサートの会場でした。
その日は、「道」の発表会でした。
節子はすでに歌える状況ではありませんでしたが、がんばって聴きに行ったのです。
私も一緒でした。
そこで、「道」の人たちや、他の知り合いにもたくさんあって、私が心配するほど、みんなと話し合えました。
節子には、とてもうれしい1日だったでしょう。

その同じ場所で、浜田さんにお会いできたのです。
浜田さんはいまも歌っているそうです。
もう少しゆっくりとお話したかったのですが、いろんな人にもお会いしたため、節子がお世話になったことのお礼を言い損ねてしまいました。

節子はほんとうに良い人たちに支えられていました。
いつもそう思います。

■3017:久しぶりの「もくれんの涙」(2015年12月7日)
節子
ついでにというのもなんですが、もう一つ昨日の関連で書いてしまいましょう。

コンサート終了後、打ち上げ会をやりました。
今回のコンサートをプロデュースしたのは宮内さんです。
私は実際には何もやらなかったのですが、宮内さんが超人のごとき動きによって、大成功させたのです。
打ち上げに参加する資格はなかったのですが、まあ参加させてもらいました。
宮内さんが、いろいろと気遣ってくれて、最長老者の私を引き立ててくれました。

20人ほどが参加しましたが、ほとんどがミュージシャンです。
プロもいれば、アマもいますが、私にはその差はあんまり意味がありません。
コンサートでは、12人一緒のギターの弾き語りがありました。
佐々木祐滋さんも、そこにも参加しました。
12人が一斉にギター演奏をするというのは、とても迫力があります。
前日の夜、リハーサルでも聴いていましたが、やはり本番になると雰囲気が違いました。
打ち上げには、その12人の半分くらいが参加したので、後半はそれぞれがギターで弾き語りをしてくれました。
みんなそれぞれに個性があって、素晴らしいです。
コンサートの司会もしてくださった若桑さんがイマジンの替え歌を歌ってくれました。
また違った感動がありました。

最後に、宮内さんが、佐藤さんとの出会いの歌ですと言って、「もくれんの涙」を歌ってくれました。
そういえば、そうでした。
あれが宮内さんとの出会いの始まりだったのです。
2008年10月19日。
宮内さんは、わが家の庭で家族のために弾き語ってくれたのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/10/post-a863.html
当時、節子を見送ってから1年後のわが家族は、まだおろおろとしていたはずです。
とりわけ私はまだ、あきらかに正常化していなかったでしょう。
そして宮内さんとの付き合いも7年以上が経過しているのです。
そして初めて、宮内さんと一緒の活動ができたのです。

昨日のコンサートは、私には実にさまざまな思いにつながるものになりました。
節子も、昨日はずっと私と一緒だったのだろうと思います。

■3018:お金がないほうが豊かになれるかもしれない(2015年12月8日)
節子
昨日は勢いに乗って3編も書いてしまいましたが、今日も2編書いて追いつこうと思います。

我孫子でのコンサートの前日、共済研究会で話をさせてもらいました。
テーマは「お金だけでない支え合い(社会)のあり方を考える」です。
今年3月に行われた共済研究会の公開フォーラムで、発表させてもらった「現代における『支え合い』の役割と課題」の続編です。
幹事役の長谷川さんから、佐藤さんの活動を話すのもいいかもしれないと言われていたので、半分は私の活動の話をしました。
かつて取り組んで、頓挫してしまっていたコモンズ通貨「ジョンギ」の話もしました。
そしてその真ん中に、お金に依存しない生き方があるのではないかという「新しい経済」の話を少し入れました。

話し終わった後、共済問題の研究者でもあり、日本の無尽講や結についても造詣の深い相馬さんから、コモンズ通貨はなぜ必要なのかと質問されました。
うれしい質問でしたが、あんまり頭がうまく反応せずに、中途半端な回答をしてしましました。
最近どうも思考したことを上手く話せなくなってきています。
明らかに脳の老化だろうと思います。

まあそれはそれとして、
共済研究会の代表の本間さんから、意外な質問をもらいました。
佐藤さんはいろんな活動をしているが、どうやって食べているのですか?
私の活動が収入よりも支出になっていることを心配しての質問です。
この質問にも、うまく答えられませんでした。
まずは「毎月の年金の15万円で生活はできています」「活動はみんなのお布施のおかげでできています」という的外れの答えをしてしまいました。
参加された方は、たぶん納得はされなかったでしょう。
しかし、私自身、どうして生活できているのかはよくわかりません。
まあ慎ましやかに生きていれば、お金などはそう必要はないのです。

話したお礼として、この研究会からもお布施をもらいました。
事務局の高月さんに、これでまた仕事ができるとお礼を言いました。
うれしいことですが、そのお金で実は宝くじを買ってしまいました。
もし宝くじが当たったら、コムケア基金をつくろうと思います。
1億円の基金ができれば、もっと思いのままに仕事ができるようになるでしょう。
いや、仕事をしなくなるかもしれません。
お金は本当に恐ろしいほどの力を持っています。
宝くじが当たったほうがいいのかどうかは微妙なところです。
しかし、節子が残してくれたお金を私のミスで失ってしまい、どうもその罪の意識から抜け出せずにいるのです。

そう言えば、厳しい質問をしてくださった相馬さんからメールが届きました。

課題となる問題が過不足なく網羅され、どれも筋が通っている。

あの厳しい相馬さんからこう言われると、それがたとえ思いやりからであってもうれしいものです。

肝心なことを書かないままに長くなってしまいました。
私が今回、書こうと思ったことは、「お金がないほうが豊かになれるかもしれない」ということでした。
人はお金がなくても生きていけるが、人の愛がなければ生きてはいけないのです。
そして、お金には「愛に支えられたお金」と「愛を切り捨てるお金」がある。
これに関しては、いつかまた書くことにします。

■3019:明るいイマジンな生き方(2015年12月8日)
節子
今日はジョン・レノンの命日です。
一昨日の平和コンサートでも、布佐中学校の吹奏楽部がイマジンを演奏してくれましたし、打ち上げでは司会をやった若桑さんがすばらしい歌詞で、イマジンを弾き語ってくれました。
そのせいか、この数日、頭の中にイマジンが住んでいるような気分です。

節子と最初に会った1964年に、日本ではビートルズのレコードが発売され、その年にビートルズは来日しました。
あの頃は、いまとは全く違った時代だったような気がします。
未来が輝いていましたし、若さがみなぎっていました。
私たちが若かっただけではなく、時代が若かったのです。
その幸せな時代を私たちは生きられました。
あの時代であればこそ、節子との生き方が成り立ったのかもしれません。
私たちは、時代に支えられて生きてきたような気がします。
生まれる時代が違えば、きっとこんな生き方はできなかったでしょう。

私も節子も、親の意向に抗いながら、わがままに、そして迷惑をかけながら、自分の思い通りの生き方をしてきたのです。
ある意味では2人とも、「親不孝」な生き方だったかもしれません。
とりわけ私は、自分本位のわがままさをまき散らしてきたのかもしれません。
今になって、娘からそれを指摘されると、反論が全くできません。
常識のない親を持つと子どもは大変なのかもしれません。

私たちが「親不孝」だったことのためか、私たちの子どもたちもまた「親不孝」な生き方をしています。
しかし、娘たちから言わせると、おそらく私たちは「親不孝」であると同時に、「子不幸」な生き方でもあったのです。
最近それがよくわかります。
私たちは、子どもが生まれてからも、親と同居してからも、いつもいつも「夫婦」中心で生きていたようです。
相手ばかりを見ていたのかもしれません。
自分が親になると、そのことがよくわかります。
その因果応報は素直に受けなければいけません。

ジョン・レノンは若くして凶弾に倒れました。
しかし、いまもなお、ジョン・レノンは生きている。
谷川俊太郎の詩ではありませんが、「だれもなくならない」のです。

イマジンのメッセージは、しかし、あの頃といまとでは大きく違うような気もします。
あの頃は、明るい世界が伝わってきましたが、いまは必ずしもそうではない。
明るいイマジンな生き方ができたことに感謝しなければいけません。
一緒に生きてくれた節子にも。
そして娘たちにも。

■3020:声をかけてくれた人が思い出せません(2015年12月9日)
節子
オフィスに向かう実盛坂の下で、歩いてきた人に「こんにちわ」と声をかけられました。
突然のことで、すぐに返事を返しましたが、その方はそのまま行き過ぎていきました。
50代の男性で、マスクをしていたので顔はわからなかったのですが、私にはまったく心当たりがありません。
まさか、追いかけていって、「どなたでしょうか?」とも訊けずに、オフィスに着いてからもしばらく考え込んでしました。

湯島には27年通っていますが、最近はあまり近辺とは付き合いもなく、知っている人がいるとは思えません。
姿かたちから、あの人かなと思いつく人はいるのですが、まさか湯島で会うはずもない人ですし、もし会ったとしても、「こんにちは」で通り過ぎることもないでしょう。
考え出すとますます気になります。
ちなみに、その時には道を歩いていたのは私だけですし、私に向かって声をかけたのは間違いありません。

実盛坂は、とても急な階段です。
この坂の界隈ではこれまでも不思議な体験をしたことがあります。
前にこの挽歌にも書いた気がしますが、「ひとりの媼とふたりの童」としか言いいようのない3人に会ったのです。
いまから思えば、三川内焼の絵柄のような3人でした。
3人を見かけた瞬間、不思議な気持ちにおそわれました。
それだけならたいしたことではないのですが、その同じ3人に、それから少しして、確か大阪で会ったのです。
いや、これ自体が記憶違いかもしれませんが、いずれにしろ、同じ3人に、全く違ったところで会っているのです。
それもいずれも、3人の服装はもちろん、その様子も同じでした。
確かめればよかったと思うのですが、そうできなかった何かがあったのです。
私の幻想か幻覚かも知れませんが、その頃は私自身、彼岸と此岸を行きかいながら生きていた時期でもありました。

そんなことをまた思い出してしまいました。
それにしても、今日の「こんにちはの人」は誰だったのでしょうか。
湯島に知り合いなどほとんどいないのですが。

湯島も、節子がいたころとはかなり変わってしまいました。
名刺やら資料などを印刷してくれていた印刷屋さんの夫婦は、節子がいたころにもう、高崎に転居しました。
とてもいいご夫婦で、節子ともささやかな付き合いがあったのでしょう。
転居後、節子に何かが送られてきていました。
近くのコンビニのオーナーの奥様は、もしかしたら経営難でオーナーを別の人に渡したかもしれません。
節子がいたころは、いつも節子はそこで買い物をしていました。
以前は時々、道で会うと話しかけてきてくれましたが、コンビニが改装された後、見かけなくなりました。
それで私もそのコンビニを使わないようになりました。
同じビルの近隣の人もほとんど変わってしまいました。
最近は、食事に行くことも少なくなりましたし、節子がいたころによく行っていたお店は、みんな代変わりしてしまいました。

湯島も変わってきているのです。
部屋からきれいな夕日が見えていたのですが、それを遮るような高層ビルが建ってしまいました。
節子がいたら、そろそろこのオフィスはやめようかという気になっていたかもしれません。
しかし、節子がいなくなったので、逆にここから去りがたくなってしまいました。
ここには節子がまだいるような気がするからです。
今朝会った、「こんにちわの人」も節子の知り合いかもしれません。
もう少し湯島には通うつもりです。

■3021:花かご会のカレンダー(2015年12月10日)
節子
花かご会の山田さんが、恒例の我孫子駅前花壇のカレンダーを持ってきてくれました。
早速、仏壇に供えさせてもらいました。
昨日、オフィスに行く時に、駅前でみんなで作業をしていたので、声をかけようと思いながら、急いでいたためやめてしまったのですが、昨日が今年最後の作業日だったそうです。
今年は結局、一度も差し入れができませんでした。
差し入れ用に買ったチョコレートもうまく出会わせずに、私が食べてしまいました。
困ったものです。

花かご会も女声合唱団「道」も、節子がいなければ接点のなかった人たちです。
節子のおかげで、私の世界も豊かになりました。
節子の世界も、私のおかげで広くなっていたはずです。
しかし、節子がいなくなってから、どうしても私の世界は狭くなりがちです。
異なる世界で育ってきた2人が、一つの生活単位を創りだすという仕組みは、とてもいい仕組みだと思います。

それにしても、もう9年もたつのに、花かご会のみなさんはまだ節子のことを気にしてくださっています。
感謝しなければいけません。

■3022:自動車のない1週間(2015年12月11日)
節子
この1週間、わが家には自動車がありません。
まあさほどの不便はありません。
むしろ気分的にはいい感じです。

なぜ自動車がないかと言えば、先日、スーパーの駐車場の入り口で自損事故にあったのです。
スーパーが車止めを片づけていなかったのが理由ですが、まあそれを責めても仕方がないので、自分で修理することにしました。
運転していたのは私ではなく娘ですが、事故の発生は同乗していた私の責任かもしれません。
私が注意していたら、娘に警告できたはずでした。
節約のため代車を借りなかったので、しばらく自動車なしの生活です。
どういう変化が起こるか楽しみです。

もっとも私は、今は運転はしていません。
昨年、免許更新時に、実習が必要だったので免許を返却してしまいました。
実際、もう10年以上、運転はしていないのです。
私は運転の適性がかなり欠落しているようで、家族からも運転を止められているうちに完全なペーパードライバーになってしまっていたのです。

私が自動車の運転免許を取ったのは、48歳の頃でした。
わが家では私が最後に免許を取ったのです。
免許を取ったころはそれなりに運転していました。
しかし、ブレーキとアクセルを間違えて、危うく事故を起こしかけたりしました。
運転免許をとった直後、節子を乗せて、都心を突っ切って大森の病院までお見舞いに行ったことがありますが、よくまあ節子は不安も持たずに同乗したものです。
事故に合わなかったのは奇跡としか言いようがありません。
しかし、以来、節子はいつも自分で運転していました。
よほど私の運転は危なかったのでしょう。
それをいいことに、私は運転をしなくなっていきました。
そして最後に自宅の門にぶつけてしまい、それ以来、家族から運転をしないようにと言われだしたのです。
たしかに私には適性はありません。
慎重さに欠けるのです。
困ったものです。

実は私は学生のころから、自家用車には否定的でした。
一応、自称エコロジストでしたので、自動車がどんどん普及してくることに異論があったのです。
いまも基本的には同じで、一人ではよほどでないとタクシーには乗りません。
昔ある会社に講演に行って、帰りにタクシー券をもらったことがありますが、それを使わずに電車で帰宅し、タクシー券は返送しました。
それが嫌味だったようで、そこからは2度と仕事は来ませんでした。
それでそれ以来、タクシーで送ってくれる会社の好意は素直に受けるようにしました。
ところが、それに慣れると自家用車にもどんどん乗るようになり、駅に行くのでさえ、節子に送り迎えを頼むようになってしまいました。
家族からは主義に反するのではないかと言われましたが、忙しい時などは、忙しさまで口実にしていたのです。
困ったものです。
ちなみに今はそんなことはありません。
ですから、いっそこのまま自動車のない生活でもいいと私は思っていますが、娘はきっと一番困るのはお父さんだよと言っています。

さてどうなるでしょうか。
少し楽しみでもあります。

■3023:「ゆっくりする」は「退屈にする」(2015年12月13日)
節子
昨日は子ども関係のさまざまな活動をしている人たちの集まりに参加し、その後、みんなで食事に行きました。
参加するのはいささか躊躇したのですが、せっかくの機会なので参加させてもらいました。
やはりどこかに違和感が残りました。
私の居場所はますます小さくなってきているようです。
それに、女性たちの多い集まりは、どうも苦手です。

ビジネスの世界で活躍している人たちの集まりも違和感が高まっていますし、行政関係の人たちの集まりは別世界のようですし、NPO関係も大きな違和感があるのです。
私が安住できるところはどうもなくなりつつある。
こうやって人は彼岸に旅立つのでしょうか。
此岸への未練や執着は不思議なほどになくなってきています。

時評編でドラッカーのことを少し書きました。
彼は、自らの位置と役割がない社会は、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない、と書いています。
社会の中に、自らの居場所があることが、生きるということなのかもしれません。
それがどうも見つからない。
だから、どこにいっても、居ずらいのかもしれません。

今日は自宅でゆっくりしました。
とはいうものの、最近は「ゆっくりする」ということの意味がよくわからなくなりました。
節子がいないと、「ゆっくりする」は「退屈にする」と同義語かもしれません。
独りで時間を楽しむことが、どうも最近不得手になってしまっています。
他者と一緒でも退屈だし、一人でも退屈。
どうしようもありません。
でも、たとえ窮屈であっても、やはり誰かと一緒の方がいいのかもしれません。
今日、一人で過ごしていて、そんな気がしてきました。
居場所は与えられるものではなく、創りだすものかもしれません。
そのエネルギーが、たぶん枯渇しつつあるのでしょう。

今日も寒い1日でした。

■3024:「わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする」(2015年12月13日)
節子
今朝、テレビで久しぶりに無着成恭さんのお話を聞きました。
最初に衝撃的な、しかし私にはきわめて納得できる発言がありました。
無着さんは、こう言ったのです。

わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする。

なぜそう思うのか、それは「こころの時代」を見てもらえばわかるのですが、要は、人間がいなくなってきたということでしょうか。
私の思いと全く同じです。
「人」はいても「人間」がいない。
無着さんの考えを、勝手に解釈するのは不正確の誹りを免れませんのでやめますが、前述の言葉をはっきりと聞かされると、此岸への執着がなくなりつつある私もドキッとしてしまいます。
そして、私の居場所がなくなってきているのも、そのせいかなどと身勝手に思ってしまうのです。

無着さんは子どもたちに作文や詩を書いてもらい、それをガリ版刷りしてみんなに配る活動をされました。
その時の子どもたちの書いたものがいくつか番組で紹介されました。
短い詩ですが、いずれも心に響きます。
こんなに良い時代が日本にはあったのだと思います。
もちろん、経済的には貧しく、「良い時代」などというのは身勝手なことでしょう。
貧しさに負けて死んでいったお母さんのことを詩に書いている子供もいました。
そんな時代を「良い時代」などというべきではないでしょう。
しかし、そういう思いを捨てられません。

節子と結婚したころは、私たちもとても貧しかったです。
両方とも親の反対を押し切っての結婚でしたから、弱音を吐かずに自分たちですべてやってきました。
最初はほとんど6畳一間の生活から始まりました。
しかし、いまにして思えば、その頃が一番「良い時代」だったかもしれません。
エアコンもない借間で、冬は凍えそうになって身を寄せ合っていました。
2年目は2LDKの社宅に移り、いまにして思えば、生活も次第にバブリーになっていきました。
それがある段階に達した時に、私はその生き方をやめました。
会社を辞めて収入は激減、ふたたび経済的には貧しい暮らしに戻りました。
それに比例して、生活は豊かになっていったように思います。
しかし、ようやくそうした「豊かな暮らし」の基盤ができた時に、節子は逝ってしまったのです。

「良い暮らし」とは何でしょうか。
私には、節子がいるだけで十分ですが、いないいまとなっては、いかなる暮らしも「良い」とは言えません。
無着成恭さんが幸せそうなのは、奥様と一緒だからだろうなと、ついつい無着さんの含蓄ある話よりも、そんなことを考えながら、テレビを見ていました。
そして、だからこそ、「わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする」と笑顔で語れるのだろうなと思ったりしていました。

寒かったせいか、どうも今日は思考が後ろ向きです。
しかし、やはり日本が滅んでしまうのは避けたいので、明日からはまた、その流れに抗うように行きたいと思います。
明日は、湯島で「辺野古」をテーマにしたサロンをやる予定です。
節子がいたらと、つくづく思います。
節子がいたら辺野古にも行けたでしょうから。

■3025:伴侶が与えるパワー(2015年12月17日)
節子
また挽歌が書けていません。
月曜から水曜にかけての3日間は、いろんな集まりがあって、バタバタしていました。
3日間で、50人近い人が湯島に来ました。
いろんな人に出会いました。
挽歌に書きたいようなこともいろいろありました。
しかし、最近は人に会うとなにやら脳疲労が起こり、パソコンに向かうのが嫌になるのです。
今日は、その反動で、1日在宅でした。
3日間の疲れのせいか、どうも気力が出ずに、午前中はテレビの録画番組を見て過ごしました。
いまBSで放映している、イギリスの連続テレビドラマ「刑事フォイル」です。
原題は「フォイルの戦争」ですが、第2次戦争下でのイギリスの話です。
あまり派手な内容はありませんし、おもしろいと言うほどのものではないのですが、心に響いてくるものがあるのです。
人の哀しさと言うか、家族の不思議さと言うか、生きることの残酷さと言うか、まあ毎回考えさせられることが多いのです。
静かな映画ですが、反戦思想が強く伝わってきます。

そのドラマのせいか、無性に本が読みたくなって、午後は読まずに積んでおいた「権力論」を読みました。
不思議なもので、本を読んでも頭に入っていかない時と信じがたいほどに頭に入っていくと気があります。
今日は、頭に入っていくときだったようで、かなり学術的なハードな本でしたが、一気に読み進められました。
基本的には、フランスの哲学者ミシェル・フーコーを中心においた「権力論」です。
この種の本を読むと、そこからまたさらに読みたくなる本がどっと広がります。
そんなわけで、明日も読書日にしました。

挽歌はしばらくまた書けないかもしれません。
いまの社会のありように、大きな違和感があるのが、本を読みたくなっている理由かもしれません。
書籍のなかの世界の方が、私には安堵できるようです。
現実の社会から逃げているわけですが、時に逃げないととてもでないですが、一人では生きていけないのです。
伴侶と言う存在の意味が、最近改めてわかってきたような気がします。
そのパワーがもらえないと、時に逃げたくなるのです。
明日もまた、現実から逃げた日になりそうです。

ちなみに、ドラマ「刑事フォイル」の主人公のフォイルは、数年前に妻に先立たれています。
だからなんだ、と言われそうですが。

■3026:写真は、その当時を鮮烈に思い出させてくれます(2015年12月18日)
節子
今日もまた半日は読書とテレビ三昧でした。
テレビは、もう大昔に見た「映像の世紀」の再放送の後半をまとめてみました。
ベトナム戦争の、実に生々しい映像を久しぶりに見ました。
そして、1960年代のアメリカの若者たちの姿も、久しぶりでした。
私にとっても、忘れてしまっていたことをいろいろと思い出させられました。

思い出したことがあり、その写真を探すために、未整理の写真を見つけ出しました。
節子は家族の写真はきちんと整理していましたが、私が一人で海外に出張した時の写真などは未整理のままです。
私は整理するということが不得手なため、写真は箱に無造作に入っていて、しかも混じり合っているため、わけがわかりません。
目的の写真は何とか見つけ出しましたが、未整理の写真箱には、節子の写真もたくさん入っていました。
節子と最初に奈良に行った時に、猿沢の池の階段で撮った写真が、なぜか混じっていました。
この写真のことはよく覚えています。
一昨年、娘と一緒に奈良に行った時に、ここで節子と写真を撮ったことがあると話していたほどです。

この日、私は一人で奈良に行く予定で、電車に乗りました。
そこで偶然、同じ会社の職場の節子に会ったのです。
節子は京都のおばさんのところに行く予定でした。
それで、おばさんのところはまた行けるだろうから、今日は奈良に行かないかと誘ったのです。
それが、私と節子が結婚することになる起点だったかもしれません。
その日は、暗くなるまで奈良を歩きました。
最初の出会いだったにもかかわらず、なぜか話が弾みすぎたようです。

探していた写真とは全く違うことを思い出してしまったのですが、人生には実にさまざまなことがあります。
ちなみに探していた写真のことは時評編で話題にするつもりですが、上空から撮ったベトナムの写真です。
映像の記録を見ながら、思い出したのは、枯葉作戦で国土が枯れ果てたベトナムのことだったのです。

写真を見ると昔のことが生々しく思い出されます。
節子がいなくなってから、写真は見ないようになっていますが、思い切ってこの正月休みに、写真の整理をしてみようかなどと思いだしています。
たぶん私がいなくなったら、遺された写真はすべて廃棄処分されるでしょうか。

たくさんの喜怒哀楽を、どさっと思い出してしまうかもしれません。

■3027:同じものを感じてすごした歳月(2015年12月18日)
節子
久しくお会いしていないMIさんから伴侶を亡くしたというお手紙が届きました。
昨年の9月にがんが発見され、今年の5月に永眠されたそうです。
55歳、あまりにも若く、そして突然のことだったことか。
そういえば、毎年とどく年賀状が今年は届いていませんでした。
闘病中だったのです。

MIさんのお手紙には次の文章がありました。

ふたりがともに黙っていても、
同じものを感じてすごした29年の歳月、
そして今もこれからも、傍らにいてくれる…。

何回も読み返させてもらいました。
「同じものを感じてすごした歳月」
その歳月が、生き続ける力を与えてくれるのかもしれません。

MIさんとは、保育の関係の活動をしていた時に、知り合いました。
私が保育関係の雑誌に連載させてもらっていた時に、彼女はサポートして下さっていたような気がします。
特に深い付き合いはなかったと思いますが、その仕事を辞めてから、いつか湯島に訪ねたいと言いながらも、なかなか来てもらう機会がありませんでした。
落ち着いたら、一度、湯島にも誘ってみましょう。

大事な人に先立たれた時の気持ちは、体験した人でないとわかりません。
もちろんわかったからなんだということでもありますが、同じ体験をした人とは、どこかでつながれるような気がするのです。

連日のように訃報の手紙が届きますが、MIさんからの訃報は、とても心が感じられてあったかな気持ちになれました。
MIさんにとって、来年はおだやかな年になりますように。

■3028:生かされていればこそ、生命は大切にしなければいけません(2015年12月19日)
節子
昨夜、わが家のすぐ近くで自動車事故がありました。
真夜中の2時頃です。
娘が騒いでいるので、私も目が覚めました。
どうも自動車が炎上し、消防車や救急車がたくさんやってきたのです。
高台のわが家から見えるところでの事故ですが、暗いのでよくわかりません。
しかし1時間以上騒ぎは続いていました。
救急車で運ばれていった人は大丈夫だったでしょうか。
その人の家族の人生は、一変したことでしょう。
まったくの準備時間もないままに。

最近、何事もなく人生を全うすることの幸運さがわかるようになりました。
私自身、あまり苦労なく、幸運の中で生きてきましたから、どうもそういうことへの思いが至らないのです。
節子との別れを体験した時には、自分ほどの不幸な人はいないとさえ思ったほどですが、いまから考えればとんでもない思い違いです。
愛する人との別れの時間を経験することができることさえ、幸せと言うべきかもしれません。

これも最近ですが、先の戦争やその後の世界の悲惨な姿を記録したドキュメンタリー番組を集中的に観ています。
このブログの時評編で、「戦争と平和」について書きだしたのですが、それが途中で書けなくなってしまったためです。
いろんな思いが頭にあふれだし、改めて以前から撮りためていた記録番組を観ているのですが、それこそ以前はとても観られずに逃げていた番組をしっかりと観るようにしています。
20世紀はなんとひどい時代だったことか。
そして今もなお、なんとひどい時代であることか。
私は本当にこの「ひどい時代」を生きていることを、認識していただろうか。
そう思うと、自分の生き方にたくさんの悔いが残ります。
そのひどい時代に、節子への挽歌を書き続けられる幸せを大事にしなければいけません。

それにしても、生命と言うのがこれほどまでに「もろく」「弱い」存在なのかを、この頃、痛感します。
節子がいるころは、そんなことなど考えもしませんでした。
娘が医師から見放されるようなこともありましたし、節子の病気も医師からはある意味で見放されていたのです。
娘は生き抜きましたし、節子も生き抜くと確信していました。
しかし、後から思えば、あまりにも思慮が浅かったのです。

生命は、生かされている。
だからこそ、大切にしなければいけない。
もっと早く気づいていれば、と、事あるたびに思います。

■3029:宮澤さんはあったかな人でした(2015年12月20日)
節子
例年、この時期になると、世田谷一家殺害事件がテレビで取り上げられます。
今年は事件後15年経過したため、連日のように取り上げられています。
被害者の宮澤さんは、私の知り合いでした。
その関係からか、事件のあった翌日の大晦日、自宅に電話がありました。
そして年が明けてから、警察の人たちが湯島にもやってきました。
一度は6人もやってきたので、いささか私も緊張してしまったほどです。
当時は、ある会を立ち上げていたのですが、宮澤さんもその仲間でした。
宮澤さんは、とてもあったかな人でした。

事件はすぐにでも解決すると思っていました。
しかし解決せず、その後も湯島に警察がやってきました。
私と宮澤さんとのメールのやりとりのコピーを見せられた時にはさすがにあまりいいい気はしませんでしたが、個別聴取ではなく、関係者を集めての話し合いをやったらいいのにと思いました。
もっとも私には、事件解決に役立つような情報は心当たりもなく、何の役にも立ちませんでした。

こんなことを言うのは不謹慎ですが、一家みんなが一緒だったことに、私はせめてもの救いを感じたものでした。
その気持ちは、節子を見送った時に、さらに強まりました。
しかし、考えてみたら、宮澤さんにも両親がいます。
テレビで宮澤さんのお母さんが話しているのを聞きながら、その不見識を恥じました。
頭では、そう思ってはいるのですが、しかし宮澤さん親子4人の写真を見るたびに、ちょっとだけうらやましい気持ちが浮かんでくることは否定できません。

伴侶がいなくなった者には、どこかゆがんだコンプレックスがあるのです。
毎年、年末にこの事件の報道に接すると、私はとても複雑な気持ちになってしまいます。
それにしても、あれからもう15年。
時間が経つのは、本当に早いです。

■3030:今年最後の野菜便(2015年12月21日)
節子
たぶん今年最後の、敦賀からの「野菜便」が届きました。
敦賀の義姉夫婦も元気です。
今年はついに一度も会う機会がありませんでした。
節子がいたらもっと往来があるでしょうが、節子がいなくなってからは私も行くことはなくなってきました。
それに歳のせいもあって、お互いに遠出はだんだん億劫になってきます。
敦賀に行くのと彼岸に行くのと、どちらが遠いかだんだんわからなくなってくるのでしょう。

野菜便には、水仙とロウバイが入っていました。
早速、節子に供えさせてもらいました。
いまは節子の前は花でいっぱいです。

野菜便は、節子がまだ若いころは、毎年、節子のお母さんが送ってきてくれていました。
それがいつのころからか、義姉へと送り主が変わったのです。
そして、節子がいなくなった今も、それは続いているのです。

私はいまはできるだけ金銭に依存しない生き方を目指しています。
自分で実際にお金を使うことは、ほとんどありません。
節子がいるころは、何か必要なものがあれば節子が買ってきてくれました。
私がお金を使うのは、書籍代と交通費と珈琲代だけでした。
最近は珈琲は自分で淹れますし、書籍は図書館で借りています。
ですからお金は交通費くらいです。
おコメと野菜は送ってもらうので助かります。

もっともただ送ってもらっているだけではありません。
時々、お金をもらえる仕事をした時には、何かを代わりに送っています。
今月はあるところでお話をしたら、3万円ももらえましたので、干しイモなどを送りました。
あんまり引き合いませんが、実は宝くじを30枚も買ってしまったのと、久しぶりに1万円ほど本を買ってしまったのです。
困ったものです。
しかし、もし宝くじが当たれば、お世話になっている皆さんにお返しもできますし、仕事ももっとできるようになります。
まあ当たったほうがいいのかどうかは微妙なところですが。

年末の大掃除はまだ全くの手つかずです。
年を越すことにならなければいいのですが。

■3031:故人にとって一番の供養(2015年12月22日)
節子
今日のこの挽歌へのアクセスは、もう1200を超えました。
すでに、いつもの3倍です。
理由は簡単です。
佐久間さんが、今日の「日経電子版」で、この挽歌のことを紹介してくれたのです。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO95093080U5A211C1000000/ 

佐久間さんは、この挽歌が3000回になった時に、ご自身のブログに取り上げてくれていました。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20151119/p2
過分なご紹介だったので、いささか気恥ずかしくて、その時にはこの挽歌には書きませんでしたが、今回は書かせてもらおうと思います。

本文を読んでいただければいいのですが、佐久間さんはこう書いてくださっています。

佐藤さんは07年に最愛の奥様である節子さんを亡くされてから、ほぼ毎日、3000日以上も彼岸の奥様へ向けてブログを書かれています。亡くなった方のことを思い出すことは、故人にとって一番の供養だと思います。毎日、仏壇に手をあわせて故人を思い出す人はたくさんいるでしょう。しかし、佐藤さんは毎日、仏壇の遺影に向けて「般若心経」を唱えた後で奥様宛のブログを書かれます。そのブログが3000回を迎えたのです。故人へのメッセージの量としては、おそらくギネスブック級ではないでしょうか?

さらに、こう続けます。

 この世には、多くの「愛する人を亡くした人」たちがおられます。いまだに悲しみの淵の底に漂っておられる方も少なくありません。生きる気力を失って自死することさえ考える方もいるでしょう。なにしろ、日本人の自死の最大原因は「うつ」であり、その「うつ」になる最大の契機は「配偶者との死別」とされているのです。
 どうか、そのような方々は佐藤修さんの「節子への挽歌」をお読み下さい。必ずや、闇に一条の光が射し込むはずです。そして、自らが人生を卒業する日を心穏やかに迎えられるのではないでしょうか。できれば、その方ご自身も亡き愛する人へ挽歌を書かれるとよいでしょう。
 3000回を超えた佐藤さんの挽歌は、きっと多くの人々を救うはずです。わたしは、佐藤修さんと佐藤節子さんご夫妻の共同作業による、この前人未到の大いなる社会貢献に心からの敬意を表したいと思います。

いささか褒めすぎだとは思いますが、「佐藤修さんと佐藤節子さんご夫妻の共同作業」と言われるとうれしいものです。
それに、佐久間さんから「故人にとって一番の供養」と言われるのが、私にも一番うれしいことです。

最近ちょっとバタバタしていて、あんまりきちんと書けていなかったのですが、初めての人には「なんだ、これでも挽歌か!」と思われそうですが、まあそれもまた仕方がありません。
師走には、挽歌する心も少し上滑りしそうです。
節子には叱られそうですが。

■3032:巡礼者の垂訓(2015年12月23日)
節子
サンチアゴを歩いてきた鈴木さんから、たぶん、今年最後の手紙が届きました。
いつもと違って、はがきではなく、封書でした。
開いてみると、そこに1枚の文書が入っていました。
スペインの小さな教会でもらったのだそうです。
「巡礼者の垂訓」と題されて、10項目が挙げられています。
同封された鈴木さんの手紙に、こう書かれていました。

「巡礼者」を「(自分の)道を歩む者」にでも置き換えれば、万人にあてはまる内容ではないかと思います。

先日、鈴木さんが来た時に、「人生はまさに巡礼」と言うような話になったのを思い出しました。
この挽歌でも、前にそんなことを書いた気がしますが、そんなことを思いながら、「巡礼者の垂訓」を読んでみました。
先日会った時に鈴木さんが語っていたことに通ずることが書かれていました。
いずれも簡潔な言葉の中に、深い思いを感じます。

この「垂訓」の10か条は、巡礼をした人でなければ、深くは読み取れないかもしれないと思一方、逆に、こういう思いで、人生を歩めば、サンチアゴに行かなくても、その真意を読み取れるかもしれないという気にもなりました。
私自身、この数年、人生は巡礼のようなものと言う思いを強めてきていますが、その思いから、少しだけ理解できるものもありました。

たとえば、こう書かれています。

6.巡礼者は幸いである。全ての予想外の驚きに対して深い感謝の気持ちを表現する言葉を持たないとき。

節子がいなくなってから、「言葉」の意味が変わりました。
そして、「言葉」ではない「気持ち」の存在に気づきました。
深い思いは、「言葉」にはならないことも知りました。
「言葉」を使うことで、「言葉」に影響され、依存しがちになることも知りました。

次の文書も、いまではかなり理解できます。

5.巡礼者は幸いである。一歩戻って誰かを助けることの方が、わき目をふらずにただ前進することよりも、はるかに価値あることだということを見出すならば。

戻ることと進むことは、同じだと気づいたのも、節子を見送ってからです。
私が一時期、好んだ言葉は、「地球は丸いから、どちらに進んでも目的地に着く」ということです。
まあそれで、実際には目的地に定刻に着けなかったこともありますが。

まだ実現できていないこともありました。

4.巡礼者は幸いである。あなたのリュックが空っぽになり、心が静けさと生命で満たされるならば。

これはやはり巡礼を実際に体験しないとだめかもしれません。
私のリュックは、まだ荷物で山のようです。

鈴木さんには、いろんなことを気づかせてもらいました。
お互いに、心穏やかに年を越せることに感謝します。

■3033:支え合う夫婦は過去のものなのか(2015年12月24日)
節子
昨日は湯島で、私が話題提供するサロンを開きました。
サロンは25年以上やっていますが、私が話すサロンは2回目です。
「お金ではない支え合いを考える」というテーマで、私の生き方を絡めながら1時間ほど話をしました。
年末でクリスマス前の休日という日程を組んだので、参加者は少ないと思っていたのですが、20人ほどの人が集まってくれました。
その様子は時評編で書きました。

話しながら、私だけで話していると少し独りよがりになるなと感じました。
節子が私の話に絡んで、それはきれいごとでしょうとか、家族がどれほど迷惑したかなどと、話してくれたら、もっと私の思いが伝わったのではないかと思います。
今思い返せば、私の生き方が、節子にどう映じていたかを、節子に訪ねたことはありません。
たぶん節子は、大きくは満足していたと思いますが、小さなところでは異論がかなりあったかもしれません。
あから夫婦喧嘩が多かったのかもしれません。

このブログにしてもそうです。
時々ですが、娘が読んで、少し創作が入っているんじゃないかと言うのです。
私は、事実と違うことを書いているつもりは全くないのですが、どうもそう感ずることもあるようです。
たしかに、私が節子を美化している傾向は否定できません。
しかし、それはまあ、愛してしまった者には避けがたいことですし、何よりもこれは「挽歌」なので、少しくらいの飾り立ては許してもらえるでしょう。

ところで、昨日のサロンで、家族の話題がちょっと出ました。
その時にふと、「家族ってお金を介さない支え合いの基本」なのではないかという思いが浮かびました。
その時はあまり考えがまとまらなかったので、発言はしませんでしたが。

私たちは、正真正銘、お金とは無縁に支え合ってきました。
そもそも家族とは、そういうものだと私たちは考えていました。
47歳の時に会社を辞めるまでは、私が一応、大企業の正社員でしたので、経済的には恵まれていたと思いますので、あまり説得力はないのですが、お金がなくとも私たちは支え合って生きてきたと思います。
実際に、私たちが一番楽しかったのは、6畳一間での最初の1年でした。

人は困った時にこそ、支え合うものです。
経済的に貧しい社会は、支え合いが広がると言われます。
と言うか、昨日も話させてもらったのですが、生きるとは支え合うことだろうと思います。
しかし誰と支え合っていいかわからないので、まずは一緒に暮らす相手を探して結婚するわけです。
それが男女である必然性はないと思いますが、男女のほうがいろんな意味で好都合なところはあるように思います。
最近は経済的な収入が少ないから結婚できないといことをよく聞きますが、私の考えからすれば、だから結婚するのがいいと思うわけです。
支え合って生きていけば、お金の支出はかなり減るはずです。
でも今の時代はどうもそうなっていないようです。
もしかしたら、夫婦は支え合う関係ではなくなっているのかもしれません。
では夫婦とはいったい何なのか。
節子だったら何と答えるでしょうか。
そんなことはあなた一人で考えてよ、と言われそうです。
しかし、仮にそうであっても、問うことができる人がいることが大切なのでしょう。
やはり夫婦は支え合う関係なのだろうと思うのですが。
そのつもりがなければ、夫婦になる必要はないでしょうから。

■3034:「四苦」から「四喜」へ(2015年12月25日)
節子
僧侶の友人が湯島に来ました。
用件はあったのですが、いつものように、それとはまったく別の話になりました。
一言で言えば、お寺ができることはたくさんあるのではないかという話です。

そこで、その人は「四苦」の話を出しました。
いうまでもなく、四苦とは「生老病死」、つまり生きる苦しみ、老いる苦しみ、病める苦しみ、死ぬ苦しみのことです。
それに対してお寺が関われることはたくさんあるのに、いまのお寺は死しか扱っていないのではないかということです。

私は、最近の思いを話しました。
そもそも「四苦」の発想を変える必要があるという話です。
節子がいなくなってから、私もそれなりにいろいろと考えて、最近行き着いた心境は、「四苦」ではなく「四喜」なのです。
つまり、生きる喜び、老いる喜び、病める喜び、死ぬ喜びです。
老いることは嘆き悲しむことではありません。
老いることを楽しむならば、それは喜びに繋がっていきます。
病いはどうでしょうか。
確かに節子は最後の1か月は、壮絶な闘病生活でした。
苦しかったかもしれませんが、病で得たものも少なくなかったでしょう。
事実、節子はそう話していたこともあります。
病いにかからないにこしたことはありませんが、かかった以上は嘆き悲しむよりも、日々を大切にすることで、生きる意味を問い直せることもあります。
むしろ病むことを楽しむくらいでないと、病いに負けてしまいます。

死は確かに避けたいでしょうが、生きた以上、避けられないことです。
恐れることも悲しむこともない。
避けられないことであるならば、しっかりと受け止めるしかありません。
死を正面から受け入れれば、死の恐怖から抜けられるでしょう。
死にさえ、歓びがあるというのが、私の最近の心境です。

そして、老いがあり、病いがあり、死があればこそ、生きることが楽しくなってくる。
そこにこそ、生きる喜びがあるのです。
発想を、四苦から四喜に変えれば、世界は全く変わってきます。
そんな話を私の体験から話させてもらったのです。

さらに言えば、生きるということは、老いることであり、病むことであり、死ぬことなのです。
人生から、老いや病いや死を取り除いたら、後に残るのはなんでしょうか。
老いや病いや死こそ、人生を豊かにしてくれるものだと考えたら、お寺の意味もまた変わってくるでしょう。
さて来年はお寺にも関わりたくなってきました。

■3035:久しぶりに葬儀の日のことを思い出しました(2015年12月25日)
節子
時間があるので、もう一つ書くことにします。
2日ほど挽歌を書けていませんので、挽回しなければいけません。

前の話に続くのですが、それに関連して、節子の葬儀の話をしてしまいました。
節子が望んでいたような葬儀にはなりませんでしたが、節子は喜んでくれたと思っています。
ただユリやバラで囲みたかった祭壇は、菊中心になってしまいましたし、私自身がいささか精神的に不安定で十分な対応ができませんでした。
葬儀には、やはりしっかりしたアドバイザーやサポーターが必要ではないかと考えたことを話したのです。
節子を見送った後は、私自身がそうした「葬儀カウンセラー」になりたいと思うほどでした。
私なら遺族の思いをしっかりと聞いて、その思いをできるだけ実現する葬儀のやり方が見つけられるだろうと思ったのです。
やはり葬儀は自分で体験しないと分からないことがあるような気がします。
ただ、人によって思いは全く違うでしょうから、私の考えがいいとは限りません。
私のように、自分の思いの強い人間は、カウンセラーには向いていないでしょう。
そう思ってその考えは捨てました。
しかし、葬儀に参加すると、ちょっと違うよなと思うことは少なくありません。

節子を見送ってから、葬儀というものへの感じ方が変わりました。
あれは別れの儀式ではなく、つながりを確認する儀式かもしれないと思うようになりました。
お通夜と告別式が、それぞれ役割分担しているのかもしれませんが、いまはその違いもあいまいになってしまっています。

久しぶりに節子の葬儀のことを思い出しました。
本当に不思議な2日間でした。
いまも夢だったのか現実だったのか、どうも記憶が定かではないのです。

■3036:いるだけで何かホッとする人(2015年12月25日)
節子
今日は3回目の挽歌です。
これでようやく追いつきました。

節子もよく知っている田中さんが、ケーキとプレゼントを持って湯島に来てくれました。
彼女も最近いろいろと悩ましい問題を抱えていて、大変なのでしょうが、何か相談ごとがあると言って会いに来てくれたのです。
田中さんとの付き合いも、もう25年を超えるでしょうか。
最初に会った時は、モダンバレーにも熱中していた、ちょっと小生意気で挑発的な「美少女」でしたが、いまはさまざまな公職もこなしている才媛です。
公職をこなすようになると、往々にして「向こう側の人」になることが多いのですが、田中さんの場合は、ますます「こちら側の人」になっているような気がします。
だからこそ、本人は大変なのでしょうが。

佐藤さんが好きなものですよと言って渡されたプレゼントは、サンタバージョンのスヌーピーでした。
私が好きなのは、スヌーピーではなく、ライナスなのですが、まさかライナスの毛布がよかったなとわがままを言うわけにもいきません。
私にはとても悪い習癖があって、何をもらっても素直に喜ばずに、余計なひと言を言ってしまうので、最近娘から注意されているのです。
困ったものです。
それで、ライナスの名前を言いたくなったのを、あわてて封じました。
でもこのスヌーピーはなかなかいい感じなので、オフィスにしばらく飾って置こうと思います。

ケーキは東京会館のチョコレートケーキでした。
チョコレートケーキは苦手なのですが、食べてみると実に美味しいのです。
途中でまた余計なひと言を言ってしまいました。
実はチョコレートケーキは苦手なんだけど、これはとてもおいしい。
どう受け取られたでしょうか。
いやはや、人間の習癖はなかなか直らないものです。
しかし、大人になった美少女は、「おいしいでしょう、それなのに500円なのです」とにこやかに返してくれました。
私よりもずっと大人です。

実は田中さんは、1年前にとても大切な人を亡くしました。
大切な人を亡くすと、同じ状況にある人の気持ちがわかるものです。
もしかしたら、それで今日は私を元気づけに来てくれたのかもしれません。
しかし本来は、元気づけるのは私のはずですが、どうも女性を元気づけるのは不得手なのです。

ケーキを食べながら、思い出して、ところで今日は何をしに来たんだっけ?と、これまた失礼な質問をしてしまいました。
でもまあ、その質問は雑談の中で解決されていたのかもしれません。
田中さんは、佐藤さんは誰のためにも時間をとってくれるから、と言ってくれました。
そう言われるとうれしい気がします。
私自身、そう心がけているつもりだからです。
しかし、本当は逆であって、いろんな人が相談に来てくれるほど幸せなことはないのです。
おそらくあんまり役には立っていないでしょうが、役に立たない人との雑談こそが、もしかしたらとても大切なのかもしれません。
スヌーピーも話さないので役には立たないでしょうが、いるだけで何かホッとする。
私もそんな人になれればと思います。

節子は私にとって、そういう人でしたから。
私も少しはみんなの役に立っているとしたら、節子もきっと喜んでいるでしょう。

■3037:今年もいろんな人が湯島に来てくれました(2015年12月26日)
節子
今年最後のサロンでした。
たぶん節子も会ったことのある、宮崎稔さんに久しぶりに来てもらいました。

今年はいろんなサロンを開きました。
節子がいなくなってから、サロンの終わった後の後片付けは参加者の誰かが自然とやるようになってきました。
私は一度も頼んだことはないのですが、不思議なほど、誰かがやってくれるのです。
それも、意外な(と言うと失礼ですが)人がやってくれます。
今日はなんと太田篤さんが、「今日はおれがやるか」とつぶやきながら、みんなのコーヒーカップを洗ってくれました。
ご家族や職場の人が見たら、腰を抜かすのではないかと思ってしまいます。
某大企業の部長も、必ずと言っていいほど、カップを洗って、しかもきちんと片づけていってくれます。
若い男性の学生たちもそうなのには驚きます。
もちろん女性たちもそうですが、まあ不思議と言えば不思議です。
そんなわけで、私はほとんど後片付けをしなくてもいいのです。

湯島のこの空間には、少し心がけている2つのルールがあります。
他者を過剰に貶めないこと。
この場ではだれもが同じ立場で尊重されること。
この2つです。
ですから、大企業の社長であろうと新入社員であろうと、
大学教授であろうと大学1年生であろうと、
道を少し踏み外した人であろうと踏み外した人を質す人であろうと、
思想家であろうと専業主婦であろうと、
革命家であろうと保守本流であろうと、
みんな同じ立場で、基本は「さんづけ」で呼び合うのです。
長年そうやってきているせいでしょうか、ここに来るとみんなが「肩書のない個人」になってしまうのかもしれません。
そして、自発的に後片付けをしてくれるのでしょう。
いつぞやは、何と節子もよく知っている、あの80代の大先生の杉本泰治さんさえ、今日は私がやると言って、みんなが使った珈琲カップを洗っていました。
いやはや恐れ入った話です。

■3038:今日は大掃除です(2015年12月27日)
節子
寒いですが、いい天気です。
今日は自宅で大掃除です。
といっても、たぶん途中で挫折しますが、ともかく今年は「混乱の1年」でしたので、自宅での私のまわりも「ゴミ屋敷」状態なのです。
節子がいた時であれば、今年はわが家の大晦日は1週間遅らそうなどとも言えたのですが、いまはたとえ言ったところで娘からは無視されてしまいます。
時計をもたない私としては、カレンダーもなくしたいのですが、やはりパソコンまわりの書類の山積み状況や寝室の衣服の山積み状況を見ると、何とかしないといけないと思わないわけにはいきません。

最近は、衣服もあまり買っていないので、いつも同じものを着ています。
節子が知ったら注意されるでしょうが、ほぼ毎日、同じようなものを着ています。
在宅時も外出時も同じです。
私には、いろんなものを着こなすという文化がありません。
気にいると、そればかり着用し、気にいらなくなるともはやそれは着用しません。
ですから基本的に同じものを複数購入するわけですが、最近はあまり買っていないので、しかたなく数年前に買ったものをひっぱり出して、来ているわけです。
幸いに、気にいらなくなったものも処分せずに放置していたため、それができるわけですが。

こんなことを書くと、節子がいたら、みっともないから消去しろと言われるのですが、幸いに今は娘もこの挽歌をほとんど読まないので、この記事は残るでしょう。
事実をきちんと書くことは、決してみっともないことではありません。
みっともないのは嘘を書くことですが、これは節子にさえなかなかわかってもらえませんでした。
いずれにしろ、私の生活費には衣料費はほとんどありません。
そういえば、医療費もあんまりないです。
食費もないし、お酒も飲まないので嗜好品費もありません。
本当にお金を使わない生き方です。

昨年までは寄付とかクラウドファンディングとかに協力していましたが、今年から原則としてやめることにしました。
ささやかながら関わっている世界が広いためにきりがないというのも理由の一つですが、気分的になんとなくやめたくなったのです。
ですから今年はかなりの不義理もしてしまったかもしれません。

何を書いているかわからなくなりました。
要はやはり掃除がしたくなくて、パソコンに向かってしまったのかもしれません。
困ったものです。
さて大掃除を始めましょう。
いい天気ですので。

■3039:わたしの気餅が今年も届きました(2015年12月28日)
節子
東尋坊の茂さんと川越さんが、今年もみんなでついたお餅を送ってきてくれました。
たぶん茂さんの命名でしょうが、「わたしの気餅」として毎年送って下さるのです。
お礼の電話をしたら、今日もまだお餅つきをやっていました。
お2人ともお元気そうでした。

お2人が始めた東尋坊での人命救助活動(自殺防止)も、もう11年8か月だそうです。
その間、540人を思いとどめさせてきています。
今年1年でも30人を超える人が、おふたりに出会って、人生を再出発されたそうです。
私は今年は何のお役にも立てなかったのですが、おふたりの声を聞くと元気がもらえます。

人生を生き直すために必要なものはなんなのかは、人によって違うだろうと思いますが、人のぬくもりをいつも感じられることは大きな支えです。
「わたしの気餅」には、その「ぬくもり」がこもっています。
近くにそれを感ずるだけで、人は生き続けられるのではないかと思います。
私は、それを茂さんたちから教えてもらいました。

茂さんたちも、私の人生に大きな影響を与えてくださいました。
もし、節子との最後の旅行で、東尋坊に寄らなかったならば、こうはなっていなかったかもしれません。
人の縁とは不思議なものです。
私ほど、縁に恵まれたものはいないかもしれません。
節子がいなくなっても、たくさんの縁が私を支えてくれていますので。

お餅は節子にもお供えし、周りの人にもお裾分けしました。
私は、大好きな豆餅をいただきました。
茂さんたちの仲間の気持ちがこもった気餅は、いつもおいしいです。

■3040:昭和の生き方(2015年12月29日)
節子
今年はのんびりした年末を過ごしています。
こんなにのんびりした年末は生まれて初めてかもしれません。
パソコンにもあまり向かわないのも、のんびりした一因かもしれません。
26日までは湯島のサロンがありましたが、それが終わってから、ほとんど何もすることなく過ごしています。
今年もあまりにいろんなことがあったため、正直、少し疲れて、思考力がなくなっているせいもあります。

その怠惰さの中で、一昨日、録画していたWOWOWテレビドラマ「誤断」6話をまとめてみてしまいました。
舞台は薬害事件を抱える大手製薬会社。
会社の繁栄と存続を優先する上司と薬害事件の隠蔽工作を指示された若手社員の主人公を軸に、さまざまな「生き方」「幸せ」を問題提起するドラマです。
経済的に貧しい時代に育った「上司」はすべてをお金で解決しようとします。
主人公は、その生き方に疑問を持ち出す。
結局、小林稔さんが演ずる「上司」に、「誠意」で立ち向かった主人公が「勝つ」のですが、最後が実に「残酷」なのです。

主人公の上司がこうつぶやきます。
「俺はどこで生き方を間違えたのだろうか?」
その上司に主人公は「時代が変わっただけです」と答えます。

その上司に生き方は、私とは正反対だと思いながらドラマを見ていましたが、もしかしたら私もその上司と同じ生き方になっていたのではないか、と今日になって、ふと思ったのです。
わたしも、間違いなく、「昭和」を生きた人間ですから。
ちなみに、その「上司」は、お金で解決するのですが、それ以外の点では実にほれ込みたくなる生き方なのです。
ドラマを見ていないとわかりにくいでしょうが、どうもそのドラマの昭和時代の人たちのことが頭から離れません。
悲しくてさびしくて、しかしどこかに共感する潔さがある。

9年前の節子との別れは、私の人生を変えましたが、その余波はいまもなお続いています。
たくさんの友人知人に支えられているとは言うものの、伴侶でなければ相談できないこともあります。
独りで生きることは、楽なこともありますが、疲れは癒されずに蓄積します。
「誤断」の「上司」は、妻や娘からもはじき出されてしまいます。
妻のため、家族のため、そして部下のため、社員のためと思っていたことがすべて「裏目」に出てしまったのです。
幸いに私は、はじき出されずにいますが、それは節子であればこそだったかもしれません。
しかし、節子はどう思っていたか。
もちろん、その「上司」と私は、価値観や行動は全く違います。
しかし、どこかに似たものを感ずるのはなぜでしょうか。

もしかしたら、という思いが頭の中で膨れ上がってきています。
私もどこかで、どこかで何かを間違えてしまったのかもしれません。
節子がいたら、節子と話したら、それがわかるかもしれません。
一人で考えていると、ますます頭が混乱してきます。

今年は、いろいろありすぎました。
誰に言えないことがあまりにも多い。
だれかに何も言わずに抱きしめてもらいたい気分です。
テレビを見て、最近涙がよく出るのは、そのせいかもしれません。
涙が出ると、心が少し癒されます。

今年は最後に少し頑張りすぎてしまったかもしれません。
これまでの自分の生き方を、少し恥じたからなのですが、残念ながら自分の能力がついてきていないことを思い知らされています。

■3041:平坦な年末(2015年12月30日)
節子
娘が近くの産地直売のお店に、正月用の花を買い足しに行くというので、久しぶりに私も一緒に行ってみました。
節子がいたころは、いつも遠くの花屋さんまで一緒に買いに行ったのを思い出します。
節子がきちんと花を活けたのは、もしかしたら年始だけだったかもしれませんが、正月の活花にはかなり力が入っていました。
その文化は、節子がいなくなってからも娘が継いでいましたが、最近は、来客も少なく、花がかわいそうな感じもあって、年々、活花も小さくなってきました。
経済的な理由もあるのですが、今年はいっそ、手元の花で済ませようかとさえ話題になっていたほどです。
松はいつも早く良いのがなくなると言って、すでに娘が買っていますので、庭で咲いている水仙や千両万両、ロウバイなどを上手くいければにぎやかになるでしょう。
しかし、どうも娘はそれでは満足できないようで、やはり花を買いに行くことにしたのです。
それにユリだけは欠かせません。

下の娘が、今年最後だからとやってきて、みんなで仏壇の掃除をしました。
小さな仏壇なのですぐに終わるのですが、まあいろいろと話しながら、それなりに節子を思い出していました。

両親と同居していたころは、年末年始ともわが家は忙しかったのです。
年末の買い出しは、家族総出で出かけたものです。
お客様を含めて、毎年10人分の用意をしなければならなかったのです。
料理はすべて手作りでした。
元旦の料理が完成する頃には、除夜の鐘が鳴りだすことも珍しくはありませんでした。
いま思えば、大変なご馳走でしたが、両親のためもあって、まあ年1回の贅沢だったのです。
両親がいなくなってからは、そういう贅沢もなくなりました。
今と言えば、娘夫婦と4人での質素なお正月です。
節子がいたら、もっと楽しい食卓にしないといけないと頑張るのでしょうが。

以前は、「ハレとケ」のメリハリがありました。
そうしたメリハリも、私の両親の時代が最後だったかもしれません。
節子がいなくなった今は、私には「ハレ」はありませんが、私だけではなく、社会そのものから「ハレ」の輝きがなくなってきているように思います。

年々、大晦日が日常化してきていますが、今年はとりわけ、私には平坦な年末です。

■3042:手持無沙汰の大晦日(2015年12月31日)
節子
今年もなんとか元気で年を越せそうです。
挽歌にも書けないような「過酷」な事件もいくつか起こった年でしたが、それも山を越えて、とりあえずは私も娘たちも元気で新年を迎えられそうです。
過酷な事件だけではなく、もちろん「うれしい事件」もありました。
人生はいろいろとあるものです。

今年は、生まれて初めてと言っていいほどのゆったりした大晦日です。
午後からは、むしろ手持無沙汰の状況で、これでいいのだろうかと思うほどでした。
娘を手伝って障子の張り替えをしたり、玄関まわりの掃除をしたりして、節子がいるころとは大違いの頑張りでしたが、まあ何とかお昼過ぎには終わりました。

それで、いつもは夜中に食べる「年越しそば」を夕食にしてしまいました。
その後、もうやることがありません。
後はホームページの更新くらいですが、これもまあほどほどにしようと思います。
例年だと、除夜の鐘が鳴りだす頃までは何やらいろいろあったような気がしますが、以前はいったい何をしていたのでしょうか。
節子がいない大晦日が、なぜこんなに手持無沙汰なのか、不思議です。

今年も無事に年を超せるのは、節子のおかげかもしれません。
この挽歌を書き続けられたのも、節子のおかげです。
まあ苦労させられたのも節子のおかげですが、苦労も幸せの一つです。

そして、この挽歌を読んでくださった皆様にも感謝しています。
時々、読者からのコメントやメールもいただきますが、それがどんなに私の支え合いになっているかははかりしれません。
心から感謝しています。
時に、私と同じく、大切な人を亡くした方からもメールをいただきます。
お会いしたこともない方なのに、何やらとても親しみを感じます。
お会いして、大切な人のことを話しあえれば、どんなに心が軽くなることか。
そんな気もします。
いつかお会いできますように。
たとえ、お会いするのが、彼岸であろうとも。

今年もありがとうございました。

■3043:また新しい年が始まりました
(2016年1月1日)
節子
今年も穏やかな気持ちのいい年明けでした。
屋上で初日の出に祈り、ジュン夫婦とユカと4人で子の神様に初詣。
帰宅してから、ユカが昨夜頑張って作ってくれたおせち料理をみんなで楽しみました。
節子がいたころに比べれば、種類は大幅に減っていますが、合理的と言えば合理的で、無駄のない膳になってきています。
これも時代の流れなのでしょう。
そういえば、お雑煮も作り方が少し変わりました。

みんなでお墓参りにもいきました。
本堂にもお参りしましたが、むかしは大晦日にここに除夜の鐘をつきに来ていました。
そういえば、昨夜、私は除夜の鐘も聞かずに寝てしまいました。
これもたぶん中学生時代以来のことだと思います。
除夜の鐘を聞きながら就寝するのが子供のころからの私の大晦日でしたから。

子の神様からは富士山が見えるのですが、木が茂りだしてきたため、あまりよく見えなくなってしまってきました。
夕方、わが家の屋上から夕日の富士山を眺めようと思ったら、これも近くの斜面林の竹が生い茂りだして見えにくくなってしまっていました。
今年は視界が邪魔される年を予感させます。

節子がいないお正月には、どうしてもまだ慣れません。
普段はあまり気にならなくなっていますが、節子ががんばっていたお正月のような時は、やはりどうしてもさびしくなります。
それに、節子がいなくなってから、来客も減ってきました。
私が付き合いをあまり好まなくなったからでもあるのですが、どこかにちょっと影があるのです。
華やかな時がなぜか苦手なのです。
伴侶や親を亡くした家族は、そういう面があるのかもしれません。

今年は、良い年にしたいと思います。
節子も応援してくれるでしょう。

■3044:ダラダラの2日目(2016年1月2日)
節子
明日、湯島でオープンカフェを開きます。
ブログとフェイスブックの案内ですので、立ち寄ってくれる人がいるかどうかわかりませんが、案内にはコーヒーは「キリマンジャロ」を用意すると書いてしまいました。
手元にあると思っていたのですが、なぜかキリマンジャロはなかったので、近くのショッピングモールの珈琲店に買いに行きました。
ついでに少しお店を回ってみました。

節子がいたころは、三が日の1日は必ず百貨店に行っていました。
特に何かを買うというわけでもなかったのですが、なんとなく華やいだ雰囲気が2人とも好きだったのです。
節子が手術してからは、それもなくなりました。
もう10年以上、三が日の百貨店には行ったことがありません。
華やかさとは縁のない生活になっています。

節子がいたころは、それでも時に何かものを買いたくなることもあったのですが、いまはほとんど物を買いたくなることがありません。
ですからショッピングモールに行く意味はないのですが、そこを歩いていると何となく時代の雰囲気が感じられるので、時々娘に付き合うのですが、お正月に来たのは本当に久しぶりでした。
いろいろとイベントをやっているのも新鮮でした。
初売りのためキリマンジャロは20%引きで買えました。

途中のお店の店頭に、ミニオンズの大きなぬいぐるみがありました。
とても気に入って、ついついほしくなったのですが、持って帰るのも恥ずかしいのでやめました。
しかし、久しぶりに「何かがほしい」と思ったことにわれながら少し驚きました。
ただし買ってしまったら、たぶん後悔したでしょう。
ミニオンズは、「怪盗グルー」の映画に出てくるキャラクターで、今やミニオンズの映画もできていますが、映画はまったく面白くないのですが、私はミニオンたちが大好きなのです。

そんなことはどうでもいいのですが、新年2日目は、ダラダラと過ごしてしまいました。
何かやるべきことがあったのではないかと、時々ふと思うのですが、しばらくはダラダラしていようと思っています。
明日のサロンが終わったら、「今年」を始めようと思います。
ただ、明日は本当に誰か来るのでしょうか。
いまのところ、行けませんという不参加の連絡は4人もありましたが、参加するという人は一人もいません。
果たして今年は良い年になるかどうか心配ですね。

■3045:湯島天神は年々すごいことになってきています(2016年1月4日)
節子
昨日は湯島で今年最初の湯島オープンカフェでした。
突然の呼びかけにもかかわらず10人の人が来店されました。
珈琲はキリマンジャロでしたが、最近、私はモカよりもキリマンジャロが好きになってきました。

それはともかく、驚いたのは湯島に行ったら、湯島天神の行列がすごいのです。
いつもの実盛坂の急階段は歩行禁止になっているほどでした。
オフィスに前から三組坂下、そして不忍通りを地下鉄の駅の入り口まで行列が続いているのです。
おかげで新年の湯島天神詣りは諦めました。
年々参詣客は増えています。
節子とお正月に来たころには、こんなことはありませんでした。

年末年始と掃除にも来ませんでしたので、軽く掃除をし、草花に水をやりました。
みんな元気です。
メダカはまたいなくなったので、新たに2匹を連れてきました。
水草が多かったので酸素不足になったのではないかと思い、水草を処分しましたので、今度は大丈夫でしょう。

準備途中に、早速の来客がありました。
熊本の吉本さんが、魔法使いのカシュカシュさんを連れてきてくれたのです。
魔法使いに会えるとは幸運です。
湯島には、前世の友人をはじめ、いろんな人が来るので、どんな人が来てもあまり驚かないのですが、魔法使いは初めてのような気がします。
魔法使いと仲良くなれば、いつか節子と合わせてもらえるかもしれません。
吉本さんは、もう一人、併せてくれる人の話をしてくれました。
水俣の緒方正人さんです。
吉本さんがいろいろとあたったら、結局は水俣の吉本哲郎さんに頼むのがいいということになったようです。
吉本哲郎さんとも、もう10年以上お会いしていませんから、吉本さんとお会いできるのもうれしいです。

つづいて久しぶりにケーナ吹きの櫻井さん、そして林さんご夫妻がお孫さんを連れてやってきました。
お孫さんといっても15歳のしっかりした若者です。
我孫子からわざわざ原田さんも、おいしい「幸田商店」の干し芋を持ってきてくれました。
不思議な人の一人でもある大島さんは、五輪久保りんごを持ってきてくれました。
予想は2,3人だったのですが、こう続いて来店されると珈琲豆を挽くのが大変で、いささかあわてました。
うまく淹れられられなかったと少し後悔しています。
しかしそこでちょっと落ち着き、各自からお話をしていただくことにしました。
来た人が、私の珈琲を飲みながら、自らのお話をしてくれる。
これが私の理想とする喫茶店なのです。
何やら節子がいたころのサロンを思い出します。
林ご夫妻の話は、私には刺激的でした。
特に昭男さんが長く核廃絶活動に関わっていることを知りました。
どうも高木仁三郎さんと同窓生だったようです。

しばらくして、リンカーンクラブの武田さんと昨年末に初参加してくれた坂本さんがやってきました。
結局10人の来客でした。

今年もこうして湯島でのカフェサロンは始まりました。
終了後、天神様をお詣りしたかったのですが、ますます行列はすごくなっていましたので、遠くから一礼するだけで許してもらいました。

■3046:YKさんとMHさん(2016年1月4日)
節子
年賀状を読みました。
私は節子がいなくなってから、年賀状を出すのをやめました。
年賀状を読んで返信するのが習わしになりました。
今年は、しかし年賀状を読むのも返信するのも、なんとなく気が進まずにいました。

毎年、最初に届く年賀メールはジュネーブからです。
会社時代に私と一緒に仕事をしていたYKさんからです。
彼女には親父の葬儀の時に寒いなかを手伝ってもらったので、節子も記憶があるでしょう。
長いこと海外生活になっていますが、いまも毎年、年1回のメールが元旦に届くのです。
今年は、なぜか伴侶が年末に書いた友人たちへのメッセージが添付されていました。
海外からもやはりいまの状況は危惧するものかもしれません。

例年のようにのどかな年賀状がやはり多いのですが、私よりも多分年長のMHさんの文面はとても共感できました。

春風満面 萬事如意 −とあらまほし。
口を開けば、アの字の人をののしりたくなる。

ちなみに、年賀状には、日光東照宮の三猿のイラストがあり、「これとは反対の気分」と書かれていました。
MHさんとは25年以上前に、15分だけ立ち話をしただけの関係です。
ある講演会に参加したのですが、私は遅れていき、受付だった初対面のMHさんと15分ほど、会場の外で話したのが縁で、その後も交流が続いています。
いったい何を話したのでしょうか。
いまとなっては全く記憶がありません。
普通は時間に遅れていったのですから。会場にすぐに入るはずですが、不思議な話です。
しかし、人のつながりとはそんなものなのでしょう。
節子との始まりも、まあ似たようなものでしたから。

今年はどんな出会いがあるか。
そしてそこから何が始まるか。
そんなことを少し考えられるようになってきました。

今日から少しずつ年賀状や年賀メールに返信しだそうと思います。

■3047:私の両親が節子を呼んだのかもしれません(2016年1月5日)
節子
私の両親に新年のあいさつに行ってきました。
といっても、いずれも節子と同じでいまは彼岸にいますので、仏壇にお線香をあげてきただけですが。

私の両親を最後まで看取ってくれたのは、節子でした。
その点では、節子には感謝しています。
苦労も多かったと思いますが、一言も苦労を言葉には出しませんでした。
私の両親からも深く信頼され感謝されていたように思います。
両親は、いささか変わり者の私よりも、節子の方に心を許していたことは間違いありません。
しかし、その分、節子は実際にはいろいろと大変だったのでしょう。
後から思えば、それを感じさせられたこともないわけではありません。

お墓にはほとんど興味がなく、むしろ自然の中での樹木葬のようなものを望んでいたと思っていた節子から、突然に、私の両親のお墓への埋葬を頼まれた時には正直驚きました。
両親の死後、お墓を管理してもらっている兄に頼んで、お墓に入れてもらいました。
私の両親はきっと喜んだことでしょう。
私は、いささか複雑な気分でした。
私もお墓ではなく、むしろ樹木葬のようなものを考えていたからです。
しかし、節子がお墓を選んだ以上、私もそのお墓に入れてもらうつもりです。

節子がなぜ、死の直前になって、考えを変えたのかはわかりません。
訊ねる余裕は、私にはありませんでした。
しかし、いまにして思えば、いささか恥ずかしいのですが、死後もまた、私と共にあることを望んだのではないかと思います。
もう少し時間があれば、いろいろと死後のことも話し合えたのですが、当時の私には、節子ほど余裕はなかったのです。
「死」など考えたくなく、その種の話には、おそらく強い拒否反応を示したのでしょう。
節子はそれが不満だったかもしれませんが、ある時からは私のことを思ってか、そういう話はしなくなりました。
そして、私はといえば、息を引き取る数時間前まで、私は節子の死を受け容れられなかったのです。
娘たちからもあきれられた程、私は我を失っていたのです。
最後の話さえしていないのです。
情ない話です。

両親の仏壇を前にして、少しだけ節子の話になりました。
今や私も兄夫婦も、いつお呼びが来てもおかしくない歳になりました。
その時が来たら、抗うことなく、素直に旅立つようにしたいと思っています。
しかし、一番年下だった節子が一番先に逝ってしまったのは、やはり悲しさが残ります。
もしかしたら、私の両親が一番お気に入りだった節子を最初に呼んだのかもしれません。
ふと、そんなことを思いました。

■3048:平安な暮らし(2016年1月6日)
節子
いただいた年賀状を読みながら返事を書きだしました。
返事を書こうと思いながら改めて年賀状を読むといろんな思いが浮かんできます。
節子が年賀状を一人ずつていねいに書いていたのを思い出します。

テレビや新聞で時々顔を見ている友人の年賀状の欄外に、12月に2度目のがんの手術をしたと書かれていました。
手術をしたことは知っていましたが、2度目のがん手術とは思っていませんでした。
以前テレビで何回かご一緒した人ですが、その生き方と考え方にとても共感できるところがありました。
有名になってくると、ついつい会うのを遠慮してしまいます。
そうして付き合いが途絶えがちになる知人も少なくありません。
でも本当は、有名になっても友人は友人なのでしょう。
今年は会えるといいのですが。

20年ほど前に湯島に来てくださった航空会社の方が、いまも毎年年賀状をくれます。
その会社で講演させてもらった時に、社会活動について話させてもらったのですが、会社の仲間と一緒に社会活動に取り組むグループをつくったと報告に来てくれたのです。
おそらくお会いしたのは講演の時と湯島に来てくれた時だけだと思いますが、いまもまだ年賀状をくれるのです。
私はあんまり返信もしていないのですが。
いまも大学のスクーリングに出たりしていると添え書きがありました。
久しぶりに返信しようと思います。

まあそんな感じで読んでいくと思った以上に時間がかかります。
人との付き合いはもっとていねいにゆっくりしなければいけないと、節子に言われていたことを思い出します。
こうして昔のことを思い出しながら、友人一人ひとりの顔を思い出しながら、メールや手紙を書くことができるのは、幸せなことです。

節子がいたころは、なんであんなに急いで生きていたのだろうか。
そんなことを時々思いながら、今日もゆっくりと過ごしました。
食事を一緒にしている娘からは、いつももっとゆっくり食べないといけないと注意されていますが、なかなか直りません。
一度身についたスピード感は、そう簡単にはなおらないのです。

途中、近くの農産物直売所に行きました。
野菜を出している農家のみなさんがあたたかな豚汁をみんなに振る舞っていました。
私はいただきませんでしたが、来場した人たちに無料で振る舞っている農家の人たちがとても幸せそうでした。
時間がとてもゆっくりと流れているような気がしました。
平安な暮らしとは、こういうことなのでしょう。

夕方、北朝鮮が核実験をしたというニュースが流れていました。
北朝鮮の政府の人たちは、きっと幸せではないのでしょう。
何かできることがあればいいのですが、まったく思いつきません。

夕方から寒くなりました。
その上、また私にも衝撃的な電話がありました。
平安とは、いっときの幸せであって、平安な暮らしは望みうべきもないことかもしれません。。
いまの「いっとき」を大事にしなければいけません。

■3049:一草汁(2016年1月7日)
節子
今日は七草粥の日です。
娘のユカが、朝、今日は七草粥の日だと言っていました。
実は、私は、親知らず歯の抜歯のために1週間ほど入院した時に、毎日お粥を食べさせられていたため、退院後、もう金輪際お粥は食べないと断言しました。
というよりも、お粥を見るだけで食欲が失せるようになってしまったのです。
七草粥か、苦手だが仕方ないか、と少し諦めていました。
節子とは違い、娘には少しは遠慮しなければいけません。
娘と妻とでは、同じ家族でも、微妙に違うのです。

食事ができたというので降りていったら、幸いにお粥ではありませんでした。
私がお粥アレルギーだと知っていて、普通のご飯を用意してくれていました。
七草粥だとわざわざ言っていたのは、どうやら私をからかっていたようです。
困ったものです。
まあしかし、伝統を無視するわけにもいきません。
七草粥の代わりに、庭に育てているセリを少しお味噌汁に加えました。
そんなわけで、今日は一草汁でした。

私はセリが大好きなのです。
私だけがといった方がいいかもしれません。
私と一緒に暮らしている娘は、私と食生活は全く違います。
どちらかといえば、娘たちはたぶん節子に似ていて、和食より洋食系なのです。
私は、みそ汁とお漬物と美味しいごはんがあれば、もうそれで十分なのですが、節子はお漬物も味噌汁もさほど好みではありませんでした。
節子もいろいろ努力はしてくれましたが、わが家にはお漬物の文化は根づきませんでした。
娘は時々浅漬けをつくってくれますが、私はむしろ漬かり過ぎたようなものが好みです。
したがって、白菜のお漬物も賞味期限をきれてから食べだすのです。

それはともかく、お粥でなくてよかったです。
過剰なほどダラダラした7日間は、こうして終わりました。
明日から湯島に出始めます。
年賀状はまだ書けていないのが気になっていますが。

■3050:良い年を目指すか、怠惰な暮らしを目指すか(2016年1月8日)
節子
湯島に来ています。
今年はまだ今日で2回目です。
この年末年始はおどろくほど怠惰に過ごしています。
前回来たのは3日でしたが、オフィス前の通りが初詣客ですごい行列でにぎやかでしたが、今日は静かです。
オフィスも来客もなく、静かです。

今日は夕方から新年会なのですが、それまで手持無沙汰です。
昨年末に掃除もしなかったことを思い出して掃除をしようかとも思ったのですが、昨日テレビで見た「掃除の仕方」を思い出しました。
それには道具が必要なのですが、その道具をまだ買っていません。
それでまあ掃除は今度にしようと、また先延ばししました。
なにしろ昨年末からの2週間で、怠惰さが身についてきています。
怠惰な生活に慣れるとなかなかそこからは抜け出られません。

そういえば洗面所のタオル類も交換していないことに気づきました。
節子がいなくなってから、そういうことが忘れがちになってしまっています。
困ったものです。
さてほかに楽な仕事はないだろうか。

年賀状も買っていないことに気づきました。
いまさらと思われるでしょうが、電子メールなどをやっていない人にはやはり返信したと思います。
郵便局が近くなので、買いに行ったら、運よく、今日までですよと言われました。
帰りに湯島天神にお詣りしていなかったことを思い出しました。
境内は結構にぎわっていました。
節子と一緒だったら飲むであろう甘酒は節約しました。
お賽銭も少し節約して100円コインにしてしまいました。
今年も神様からは応援してもらえないかもしれません。
でも神様はまだお金次第になっていないかもしれませんし、貧しい者の援けてくれるかもしれません。。
そう願いたいものです。

しかし、そんな感じで外をうろうろしていたら、すっかり身体が冷えてしまいました。
やはり甘酒を飲んでくればよかったです。

というわけで、いったい今日は湯島に何をしに来たのでしょうか。
そろそろ新年会に向かいましょう。
新年会の前に何か話し合いがあるようなことも聞いていますので。
しかし、2週間の怠惰な生活の後には、寒い中を出掛けるのも結構億劫なものです。

この調子だと、今年もあんまり良い年になりそうもありません。
良い年を目指すか、怠惰な暮らしを目指すか。
選択の難しい問題です。
ちなみに、湯島の天神様には、誰にとっても良い年でありますようにと祈ってきたのですが。

■3051:人間とはバラを楽しむもの(2016年1月10日)
節子
三連休だというのに、まだ怠惰さから抜け出せずに、ダラダラしています。
ダラダラしていると、つい挽歌もさぼりたくなってしまいます。
昨日は結局書かずに終わってしまいました。
このままだと今日も書かずに終わりそうです。
困ったものです。

まあそういうダラダラしている人は私だけではなさそうです。
某社の社長のKさんから電話がありました。
今日と明日、暇なんだけど、湯島でなんかやっていないのか、という電話です。
話していると、Kさんは「人間とは何か」がわかったというのです。
要するにそれを私に話したいのかもしれません。
今日はもう出かけたくなかったので、明日、お会いすることにしました。

さて「人間とは何か」とは難しい話です。
Kさんが、パスカルも気がつかなかった定義だというので、私はパスカルにヒントを得て、「人間とはバラを楽しむもの」だと思うと、軽はずみな定義をしてしまいました。
でも定義というのは、口から出てしまうと、その気になってしまうものです。
「人間とはバラを楽しむもの」。
なかなかいい定義です。

パスカルとバラのことは、以前、この挽歌でも書いた気がします。
湯島の玄関の花は、節子が行けなくなってからは、造花にしていますが、最後に節子がセットしたバラの花のままです。
わが家の庭のバラは半分くらいなくなってしまったと思いますが、節子はバラが好きでした。結婚してから、節子は私の友人の男性から真紅のバラの花束をもらったことがあります。
それ以来、節子はバラの花が好きになったのかもしれません。
まあ、好みなどというものは、そんなものです。

念のために言えば、「人間とはバラを楽しむもの」の「バラ」に特別の意味があるわけではありません。
食べられもしないバラを楽しむのが人間だということです。
言い換えれば、パンだけでは生きていけないのが人間なのです。

しかし、問題は、最近私がどうもバラを楽しめなくなっていることです。
バラにあまり関心がなくなっているのです。
かといって、パンに関心があるわけでもありません。
生物的に生きることにも、人間的に生きることにも、さほど興味がなくなってきているというべきかもしれません。
涅槃の境地に近づいてきたと言いたいところですが、単に怠惰さの中で人間であることを忘れつつあるのかもしれません。

バラを楽しむことを、思い出さなければいけません。

■3052:「怒り」の独白(2016年1月10日)
節子
時に、声をかけられないほど、声をかけたくなることがあります。
なんとか声をかけたい気分なのに、どう声をかけたらいいのか全く分からない。
相手は声をかけてほしくないと思っているかもしれません。
しかし、そういう時こそ、声をかけてくれるのを待っているのかもしれない。
私自身の経験においても、自分ながらに矛盾した気持ちが行き来した記憶があります。
どんな声であろうと、私の場合は遠くにしか聞こえませんでした。
しかし、時に声が近くに響いて傷ついたこともある。
節子を見送った後のことをいろいろと思い出しました。

私の友人に、とても残酷なことが起こってしまったことを知ったのは、数日前です。
それ以来、声をかけるべきか、かけないべきか、頭が整理できません。
かけてもかけなくても、後悔が残るでしょう。
かけてもかけなくとも、相手を傷つけることになる。
こんな時には、あまり考えずに、素直に思ったように行動するのがいいのですが、考えてしまうと、もう思考が空回りしだして、動けなくなってしまう。
そんな数日を過ごしています。
このブログを書くことも、なんとなく気が重くさえなっていました。
何かを書いていると、どうもそのことが頭に浮かんでくるのです。
声にならない、文字にならない、なにかが心身に渦巻いている感じです。

節子を喪った「怒り」を、私はこの挽歌でほぐしてきました。
彼は、どうやって、「怒り」をほぐしているのだろう。
25年ほど前に,彼から聞いた話が、いまでも頭から離れません。
彼がああいう話をしたのは、こういう時に声をかけてということだったのではないのかなどと、ついつい過剰な考えをしてしまう。
私なら、ほぐしの相手になれるかもしれないと思う一方で、それは私の思い上がりだという気もします。
彼は、私よりも強いから大丈夫だろうと思う半面、強そうに見える人こそ弱いのだという気もしてくる。
彼の場合は、私と違って、伴侶がいますから、怒りをシェアできているかもしれません。。
しかし、シェアできない怒りもあるかもしれない。

自分のことでもない、そうした残酷な体験の渦中にある友人のことを思うと、私にもなぜか「怒り」がわいてくる。
彼のように善く生きている人が、なぜこんな仕打ちを受けなければいけないのか。
そういえば、私だって節子だって、それなりに「善く」生きていたはずだ。
にもかかわらず、私たちも不条理な別れ方を余儀なくされたのはなぜだろう。
「怒り」をぶつける相手がいないのは、もしかしたら私なのかもしれません。

読者には何のことやらわからないと思いますが、今回は私の怒りの独白としてお許しください。
声にも文字にもならない私の思いを、少しだけほぐすことができました。
書くだけで、先方に何かが伝わることがあるかもしれません。
この挽歌に私が書くことで、彼岸にいる節子に私の思いが伝わるように。

彼の平安を、深く祈念します。
できるだけ早く、彼にところに会いに行こうと思います。

■3053:「思ってもいなかった人」からのメール(2016年1月13日)
節子
昨年はさんざんな年だったので、今年は良い年になるだろうと思っていました。
しかし、どうも新しい年の始まりは、あまり良いものではありませんでした。
また2つ、私にとっては厳しいニュースが入ってきました。
世界がどれほど平和であろうと、身近な人たちが平和でなければ、人は心やすまることもないでしょう。
昨日はいささか滅入りすぎて、そろそろ動きだそうと思っていた気が、また消えてしまいました。
この数日の寒さは、もしかしたら、3人の人たちの心のせいかもしれません。
こうした出来事が、世界を凍らせてしまっているのではないかと思うほどでした。
昨日は湯島に行く元気もなく、また自宅で縮こまっていました。

昨夜、気を取り直して、パソコンに向かいました。
メールを開いたら、思ってもいなかった人からメールが届いていました。
「修さん、挽歌はもしかしたら、私のことでしょうか?」
それを読んでいささかまた混乱してしまいました。
まさに、そうだったからです。
「そうだとすると、ほんとにご心配かけて申し訳ありません。
私はなんとか、元気というかやっています。」

先日は衝動的に挽歌を書いてしまいましたが、やはり少し考えてから書こうと思い直しました。
それで書き出していた挽歌の記事もアップするのをやめました。
どうもまた私の思考は混乱しているような気がするからです。

そして今朝、またパソコンを開きました。
さらに「思ってもいなかった人」からの私を元気づけるメールです。
役割の立場が逆転している。
そう思いました。
もう少し考えなければいけません。

今夕からまた挽歌と時評を再開しようと思います。
今日は延ばし延ばしにしていた年賀状を書きながら、少し自らの生き方を考え直そうかと思います。
反省点がありすぎます。
自らには見えていませんが、今回はまたいろいろと気づかせてもらいましたので。

■3054:「人は愛する何かに出会う度に、自分の一部を得る」(2016年1月13日)
節子
やはり今日もどうも元気が出ません。
書こうと思っていた年賀状も1枚も書けませんでした。
まあそういうこともあるでしょう。
無理をすることもありません。

年甲斐もなく、と言われそうですが、今日は無性に泣きたい気分になりました。
そういえば最近あまり涙を流していません。
人は時に涙が必要です。
怒りよりも涙の方が健康にもいいでしょう。
そこで思いついたのが、ジョディ・フォスター主演の映画「ブレイブワン」です。
以前、時評編や挽歌編で、何回か書いたことのある映画です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/12/post-0d30.html
あの映画なら、泣けるだろうと思いました。
映画のあらすじはもう頭にこびりついてはいるのですが。
映画の冒頭に出てくるのが、主人公のエリカが語る次の言葉です。
「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」

残念ながら涙は出ましたが、泣けませんでした。
泣ける映画は「永遠と一日」かもしれませんが、「ブレイブワン」を観終わったら、泣きたい気分も消えました。
不思議なことに、「怒り」の気持も消えました。
数日かかりましたが、ようやく気分が落ち着きました。
明日は湯島にも行けそうです。

エリカの言葉ですが、こうも言えます。
「人は愛する何かに出会う度に、自分の一部を得る」
人を愛すると、人は強くなる。
だから人を愛した人は、一部を失っても大丈夫なのかもしれません。
エリカがそうであったように、新しい自分が生まれるかもしれません。

いまであれば、以前書いたような挽歌とはかなり内容が変わりそうです。
私もどんどん変わっているようです。
それを、素直に受け入れなければいけません。

■3055:笑い(2016年1月15日)
怒り、涙、とくれば、その後はやはり「笑い」が来てほしいと思います。
昨日、湯島に向かう途中に、ふと、そう思いました。
思うことは実現するものです。

湯島では2人の人に会いました。
一人は今年から交流が始まった「魔法使いのカシュカシュ」さんです。
魔法使いと話していると、ついつい現実の世界から飛んでしまい、自然と笑いが出てきます。
もう一人は、生き方においてノマドな人です。
ノマドな生き方もまた、自然と笑いが呼び起こされます。
それなりに笑いのあった1日でした。
人は気分が重くても笑えるものなのです。

笑いといえば、最近、笑いヨガ(ラフターヨガ)の活動をしている人たちと付き合いが増えています。
私のまわりにもすでに10人以上のラフターヨガの実践者がいます。
いい人ばかりです。
しかしなんでわざわざ「笑い」に取り組むのでしょうか。
どこかに哀しさを感じてしまいます。
人が「笑い」に意味を感ずるときはどういう時か。
それを思ってしまうのです。

節子が病気の深刻さを知った時、数日は泣いてばかりでした。
散歩に出かけても涙が出てきます。
そして、「笑い」が免疫力を高めるからと、笑いを起こすようなテレビなどを見ることもありました。
綾小路きみまろのDVDを送ってきてくれた人もいます。
しかし、免疫力を高めるために笑うことは、いささか哀しいことではあります。
私も節子も、そうどこかで感じていたのでしょう。
大切なのは、「笑うこと」ではなく、「笑いがあふれるような生き方」でしょう。
しかし、そういう生き方は、闘病中の当事者に求めるのは、かなり酷なことでもあります。
笑うために何かをするというのは、私の性分には会いません。
節子もまた、そういう考え方の人でした。
そんなことがなくても、わが家には笑いは十分にあったはずです。
しかし、いまにして思えば、必ずしもそうではなかったのかもしれません。

節子が逝ってしまった後、私に「怒り」と「涙」があふれ出しました。
犬の散歩をしながら、どれほど涙を流したでしょうか。
空に向かってどれほど怒りをぶつけたでしょうか。
しかし、怒りは消えるものです。
そして涙さえ、意味を変えてきます。
ただ、笑いだけはたぶん永遠に戻っては来ないでしょう。
笑っていてもどこかに違和感を持ってしまうのです。

愛する人を喪うと自分の一部を失う。
失うのは、感情かもしれません。
節子がいた頃といなくなってからでは、あきらかに私の喜怒哀楽は、どこかリアリティを感じなくなってきています。
とりわけ「笑う」ことがなくなった。

会社を辞めてからの私に取材して記事にしてくれた人がいます。
その人は、私のことをこう書いてくれました。
「ともかくよく笑う」
しかし、最近は笑うことが少なくなった。
しかしこれだけはどうしようもありません。
免疫力が低下してしまっているかもしれません。
身体はともかく、精神は過剰なほどに弱くなってしまっているのかもしれません。

■3056:人と関わるということ(2016年1月15日)
節子
広島のOさんが、昨日電話してきてくれました。
この挽歌を読んでいて、私の精神があまりに上下しているのを心配してくれたのでしょう。
この挽歌は、時々読者がいることを忘れてしまうことがあります。
読者を意識すると、それなりに「見栄」も張れるのですが、忘れてしまうと支離滅裂になってしまいます。
気分のぶれは隠しようもありません。

Oさんは福祉の世界で活動されていますが、この数日、大変なご苦労をしていたようです。
福祉の世界は、本来的に「人の生き死に」に関わる世界ですから、単なる「労働」や「仕事」とは全く違うものです。
しかし、最近はそれがすべて「ビジネス」にからめとられようとしています。
それに抗うように、活動している人も決して少なくありません。
節子が闘病していた時にも、そういう人に何人かお会いしました。
そういう人に、どうやってお礼をしたらいいかわからないのですが、まあ私にできることは「恩送り」、つまり、誰かに対して、同じような対応をすることです。

福祉の世界に関わりません。
人と関わるということは、そういうことかもしれません。
だからこそ、煩わしくもあり、喜びでもある。
しかし、最近の「人との関わり方」は極めて無機的で、感情を入り込ませないようにする傾向が強まっているような気がします。
人間関係が、まるで機械における部品関係のようになってきています。
そうした社会が行く着く先は明らかです。
人のいない社会は独走し、全体主義へと向かうでしょう。

そうならないように、いろんな人が出会い、いろんな意見や生き方があることの面白さを気づきあうサロンをやっていますが、一人でやっていると頭が混乱したり、時に案内を忘れたりしてしまいます。
そのおかげで、私は実にさまざまな人との出会いに恵まれ、機械部品にならずにすんでいますが、それが幸せな生き方かどうかはわかりません。
気分が乱高下したり、時に怒りや悲しみに襲われたりする人生が幸せなのかどうか。
節子という伴侶がいたら、波乱に満ちた生活は間違いなく楽しいでしょう。
しかし、一人だと、その面白さや楽しさに気づかず、悲しさはただ悲しいだけ、怒りはただ怒りだけになっているのかもしれません。
でもまあ、湯島でのサロンに来てくれる人がいるのですから、少しは誰かの役には立っているのでしょう。
明日のサロンも、いま15人目の申込者がありました。

明日は元気をもらえるといいのですが。

■3057:死者からの支え(2016年1月18日)
節子
東京は雪のようですが、我孫子は残念ながら雨です。
昨年、一瞬だけわが家の庭では小雪が降りましたが、先日の雪降りの日もわが家は雨でした。
わが家は、まだあったかいものに包まれているようです。
とはいうものの寒いです。

エリアス・カネッティの「群衆と権力」を何とか読んだのですが、そこに死者の権力、あるいは死者から力をもらうという話がたくさん出てきました。
たしかに、私たちのいまの生は、先を生きていた多くの死者から支えられています。
まるで人は、未来の人のために生きているようでもあります。
そして自分もまた、その「先を生きたもの」に仲間入りしていくわけです。

そんな大きな話にしなくても、いまの私の暮らしは、節子に大きく支えられています。
日常的な、極めて小さなことで、それに気づくことは少なくありません。
私の生き方は、私一人ではなく、節子とともに育ててきたからです。
ですから、節子がいなくなっても、その生き方は変わりません。
それを変えたら、私ではなくなってしまう気がするからです。
夫婦とは、家族とは、そういうものだと私は思っていました。
しかし、どうもそれは必ずしも基本ではないのかもしれません。

長年一緒に暮らしてきたが、死後は別々に暮らしたいという「死後離婚」が増えているそうです。
具体的には、たとえば、お墓を共にしないということでしょう。
なぜ生前に離婚しないかと言えば、経済的な理由が大きいようです。
私の考えでは、なかなか理解はできません。
私は、離婚は否定はしませんが、一緒に暮らすのが嫌なら、生前、つまり現世でこそ、離婚すべきだと思うのです。
パンのための人生ではなく、バラのための人生だと私は考えているからです。
しかし、生前は我慢して一緒に暮らし、死後の彼岸では別々に暮らす。

やはりみんな死後の世界を信じているのでしょう。
死後の世界を信ずるということは、現世を諦めているということにもつながります。
しかし、死者への追悼の念を失ってしまうことは、彼岸を否定することにもなりかねません。
大きなジレンマを感じます。
なにやら末世の世になってきているような気もします。

カネッティの話に戻せば、死者からの支えこそ、改めて私たちはしっかりと認識することが大切ではないかと思います。
昨日は阪神大震災から21年目でした。
あの日から、生き方を変えた人もあれば、社会が大きく変わったこともありました。
死者の悲しみは、無駄にしないようにしなければいけません。

■3058:中途半端な風の人(2016年1月19日)
節子
今日は地元の我孫子で活動している女性たちと話し合いをしました。
実は、地元の我孫子周辺での新しいネットワーキングをしたいと思っているのです。
節子がいたら、まったく違った方法で、我孫子の女性たちのつながりづくりを試みたと思いますが、いまはそれも難しいです。
幸いにもある方から声がかかったので、会いに行きました。

途中で、近くの、私よりも年上の女性にあいさつされました。
最初は誰だか気づかなかったのですが、以前から我孫子に住んでいて、生活レベルでの地域活動をされている方だと気づきました。
もうかなり前になりますが、市長選挙で、その方たちの仲間の応援をささやかにさせてもらった時にお会いしたのです。
私は、女性の顔がなかなか覚えられません。
男性はかなり覚えられるのですが、女性の顔はなぜかあんまり区別がつかないのです。
ですから街中であいさつされても戸惑うことも少なくありません。
困ったものです。
先日もサロンに来てくださった方の顔がすぐに思い出せませんでした。
女性の顔は「変化」するからかもしれません。

さらに歩いていくと、横に自動車が止まりました。
なんだろうと思ったら、窓が開いて、声をかけられました。
市役所の青木さんでした。
これから都心に出張だそうですが、まさか青木さんに会うとは思っていませんでした。
というのは、我孫子で新しいネットワーキングをしようと思いだした一因は、青木さんのある言葉に始まったからです。
それに関しては、今回は書くのを止めますが、どうやらまたシンクロニシティの波がやって来たようです。

お会いしたのは、それぞれ別々に活動している女性たちでした。
いずれの方も、これまでとは違った発想での活動に転じつつあるようでした。
だとしたら接点があるかもしれません。
そう思えたこともあり、いつものように、失礼な質問を重ねてしまいました。
しかし怒らずに最後まで付き合ってくれました。

話していたら、やはり共通の友人知人がいることがわかってきました。
地域で活動するということは、そういうことなのでしょう。
しかし私は、我孫子に住んではいるものの、転居してきたのが、たしか37歳でした。
ですから生活次元での共有体験を持っている人が、残念ながらいません。
「土の人」と「風の人」に分ければ、私は中途半端な「風の人」でしかありません。
幼なじみもいませんし、子ども時代を知りぬかれた先輩もいません。
女性の場合は、それでもすっと「土の人」に入り込んで行けますが、私の場合は苦手です。
節子がいたらなあと、改めて思った1日でした。

■3059:誠実さの証(2016年1月20日)
節子
今年初めて畑に行きました。
大根とネギが育っていましたので、収穫してきました。
しかし、きちんと土をかぶせていなかったので、あまり良い成長はできていませんでした。
小松菜は蒔くのが遅かったのと、間引かなかったため、いささか惨めな状況で、収穫はできませんでした。

数日前から外食レストランチェーンが起こした、食材のひどい扱いが報道されていて、それに憤りを感じているのですが、これでは私も同罪ではないかと反省しました。
しかし、寒くなると、近いとはいえ畑に行くのは億劫なります。
花がないのも、その理由の一つですが、水仙だけは咲いていました。

暖冬で、しばらく前まで元気だったランタナや琉球朝顔も、さすがに枯れてしまっています。
花がないわけではありませんが、さびしい庭になっています。
しかし、こういう時期にこそ、手入れをきちんとしなくてはいけないのです。
声もかけなければいけません。
誠実に付き合ったかどうかは、その時期になれば、はっきりと現れてきます。
それは、人の付き合いでも同じでしょう。

節子との付き合いにおいて、私は誠実だったことには自信があります。
しかし、むすめたちとの付き合いは、どうも誠実とは言えなかったかもしれません。
最近、それがよくわかります。
娘たちから教えられることが多いです。

友人たちとはどうでしょうか。
これもあまり自信はありません。
見ず知らずの人への誠実さは、少しは自信があるのですが。
どこかでやはり、生き方を間違えているのかもしれません。
自分で思っているほどには、私はどうも「誠実」ではないようです。
その「証」に出会えないのですから。

元気に前向きにと思って始まった新しい年は、なにやら元気が出ないことばかりで、なかなか動きだせません。
困ったものです。

■3060:琵琶を聴く会をやることになりました(2016年1月21日)
節子
流れを変えたくて、急に思いついて、小学校時代の友人たちに声をかけました。
そして、なぜか琵琶を聴く会を開催することになりました。
節子も知っているMさんから、昨年から琵琶を習いだしたという年賀状が来たので、一度、琵琶を聴く会をやろうかなどと半分冗談で話したら、実はもう一人、前々から琵琶をやっている人がいて、彼女がぜひやりたいということになったのです。
既に演目まで決めたというので、後に引けなくなりました。
まあ人生はこんな感じで進んでいくものです。
折角なので、暇そうな気の置けない同窓生に声をかけました。
いつもはうるさい連中ですが、断る理由がないから、ということで、みんな参加することになりました。
男性3人、女性3人、それに私です。
琵琶の弾き手は2人です。
さてさてどんなことになるのでしょうか。

どこでやろうかということになったのですが、それぞれが住んでいるところの中間点が湯島なので、いっそ、湯島でということになりました。
騒音問題はないか気になりますが、大丈夫だと言います。
もしダメなら、上野公園の野外鑑賞会にすればいいとも考えました。
演奏者の前に、空き缶をおいておけば、お金を入れてくれる人がいるかもしれません。
しかし、反面、なわばりの管理者から場所代をとられるかもしれません。
最近、私の運はあんまりよくない状況なので、後者の可能性が強いような気がします。
やはり湯島でやりましょう。

なんで琵琶を聴く会なのかと訊かれたので、まあみんなが集まれるのも最後かもしれないので、お互い、言い残したいことを琵琶に乗せて語ろうよ、とうっかり答えてしまいました。
琵琶は、どこか彼岸とのつながりをつくってくれる楽器のような気がします。
しかし、今回集まるメンバーには、言い残したいことも見つかりません。
言い残される危険があるので、それは止めて、単に琵琶を聴くだけの会にしました。

さてさてどうなるか。
再来週開催の予定です。
女性陣に会うのは、久しぶりです。
なかには30年ぶりの人もいます。いや40年ぶりでしょうか。

流れがいい方向に代わればいいのですが、ちょっとメンバーを間違えたかなと心配です。
この記事を読んでいないといいのですが。

■3061:楽しいランチ(2016年1月22日)
節子
15年ぶりではないかと思われる人と再会しました。
実はその人にも会いたくて、あるプロジェクトに参加することにしたのです。
15年ほど前に戻ったように、いろんな話ができました。
ほかにも2人ほど、同席した人がいますが、もう一人は、お名前は知っていて著書も読んでいるのですが、いつか会えるだろうと思っていた人です。
まあ、人は、会うべき人には会えるものです。
現世でなくとも、いつかは、ですが。
もう一人は、引き合わせてくれた事務局の人です。

15年ぶりの人とは、すぐに昔のように話が弾みました。
価値観や生きるスタイルは微妙に違うはずですが、どこかで認め合えるものがあるのです。
変わっていないなと、たぶんお互いに安心したように思います。
15年ほどの間隙は、もう存在しません。

15年ぶりではない、初対面の人が合気道の話をしてくれました。
合気道は、相手の重心に入り込んで、相手の力を抜くことが大切なのだそうです。
そうすれば、自然と相手は倒れてしまう。
それを聞きながら、そうか私は倒されてしまったのだと思いました。
相手の重心に入ったのが、私か節子かは迷うところですが、力を抜かれたのはたぶん私でしょう。
もしそうなら、私のほうがたぶん重心に入られたのでしょう。
正確に言えば、私が自らの重心に節子を入れてしまった。
これこそ関係性の極意かもしれません。
もちろん節子は、そんな極意など意識していたはずもありません。
ただ単に、そうした関係性が、生まれてしまったということです。
節子もまた、会うべき人だったのかもしれません。
いずれにしろ、入れる入れられるは、瑣末な表現の違いです。

倒されたままで人は生きられません。
新しい重心形成が始まるとしたら、そこから新しい生き方が始まる。
ようやく新しい生き方が見えてきて、重心も安定してきた時に、今度は重心にいた人が出て行ってしまう。
今度は、力が抜かれるのではなく、重心が抜かれてしまった。
再び私は倒れてしまったのかもしれません。
だから今はとても生きにくい、のかもしれません。

初対面の人がメールをくれました。

わたくしも面白く、楽しい時間でした。
みなさんの思想の通底音は一緒ですねえ。

楽しいランチでした。
料理も、節子好みのフレンチで、私にもおいしかった。
節子とはこういう食事をしたことがあまりに少なかったのが悔やまれます。

■3062:開かない金庫(2016年1月22日)
節子
いま金庫を開けようと頑張っています。
と言っても、銀行強盗に入ったわけではなく、湯島のオフィスにある金庫です。
私の金庫ではないのですが、このオフィスを提供していた人が置いて言ったのです。
中には何も入っていないはずです。
金庫をもらった時に、開ける番号を聞けばよかったのですが、聞きませんでした。
なぜなら一度、銀行に忍び込んで金庫の扉を開ける醍醐味を味わいたかったからです。
それに金庫などは、簡単に開けられると思っていました。
それはシャーロックとかその種のテレビドラマを観すぎているせいでしょう。

分かっているのは、たしか4ケタの数字を押せばいいということだけです。
まあそれもいささかあいまいです。
金庫を置いて言った人にも質問しましたが、その人も今や忘れているようです。
鍵の開かない金庫ほど邪魔のものはありませんが、時間があるときの知的ゲームとしては面白いと思ったのです。
実際にはちっとも面白くないし楽しくありません。
困ったものです。
開けたら数億円のお金や宝物が入っているというのであれば、楽しくなるかもしれませんが。

今日は赤坂でランチだったのですが、後は夕方の打ち合わせまで時間があいていました。
最近、ちょっと寝不足なのですが、湯島で本を読んでいたら寝てしまいました。起きたらすごく寒くいのです。
風邪を引いたのかもしれません。
いやはや困ったものです。
また本を読むと眠ってしまうといけないので、金庫開けに取り組みだしたのです。
まったく反応がありません。
金庫を開ける人は尊敬に値しますね。

ちなみに、この金庫はナンバー方式です。
1から10までの数字盤があり、それを4けた押すと開くのです。
どなたか開け方を教えてくれませんか。
うまく開けられたら中のものを半分差し上げます。
もちろん中には何も入っていないはずですが、もしかしたら、強盗が入って何かを入れてくれているかもしれません。
開け方を教えてくれる人はいないでしょうか。

今日は暇な1日でした。
そろそろ来客です。
いつもは早いのに今日は遅いですね。

■3063:不覚にも風邪のようです(2016年1月23日)
節子
不覚にも風邪のようです。
昨日、少しおかしいなと思ったのですが、夕方からの相談を受けている時に、突然悪寒が襲ってきて、体が震え始めたのです。
3本目の栄養ドリンクを飲んで、何とか帰宅しましたが、相談を延期してもらえばよかったのですが、やはりそこに問題があると放ってはおけません。
これはどうも私の習性のようです。
節子がいたら、引き止めてくれるのでしょうが、いまはもう歯止めが聞きません。

帰宅して、湯ぶねで身体を15分ほどあっためて、そのまま寝てしまいましたが、2時半ごろ目が覚めてしまい、また眠れなくなりました。
まあ私もそれなりに自分の心配事もあるのです。
そのうち、昨夜相談に乗っていたことへの対応がいささか不親切な気がしてきて、改めて問題解決について考えだしたら、さらに眠れなくなりました。
熱はあるし、喉は痛いし、何か身体のバランス感覚がおかしいし、何かじっとしていられない気分にさえなってきて、辛い夜でした。

明け方にうとうとして、何とか起きられましたが、早速、昨夜の相談の処方を書き、送りました。
いまもまだなんとなくぞくぞくしますが、少し横になってから、今日も湯島に出かけないといけません。
今日は、「支え合いの仕組みを考える」と言うサロンなのです。
いまの私は、まさに支えてもらいたい状況ですが、こういう状況にあると、ますます支え合いのつながりが大切に思えます。
でも、普段は多くの人は「支え合い」にはあんまり関心は持たないのかもしれません。
今日はあまり集まりがよくありません。

支えられるためには支えなければいけません。
いまの社会は、支える余裕を失っている人が多いのかもしれません。
しかし、支えることこそが支えられることだと気づけば、世界の見方や生き方は変わってくるでしょう。
自分が弱い状況にある時こそ、支え合いを考えるのに適しているかもしれません。
今日は、そういう意味ではいい日なのですが、問題は無事湯島に行けるかどうかです。

その前にまずはもう一眠りしようと思います。
眠れるといいのですが。

■3064:風邪の最終日(2016年1月26日)
節子
風邪を5日間、ひいていました。
今日が最終日です。
最初の2日間はかなり無理をしていましが、中日以降3日間は在宅してなにもしていませんでしたが、元気を吸い取られるニュースが多く、元気が出ないままで、予定よりも1日、風邪期間を延ばしてしまいました。
節子はよく知っていますが、私の場合、一応、風邪をひくと今回は何日間を風邪菌たちに活動の場を提供しようと言うように決めて、比較的それに合わせて対応するのです。
ただ、急に風邪をひくことが多いので、最初の2〜3日はだいたいそれまでの惰性で行くために、体調の限界を超えて、こじらせてしまうことも多いのです。
今回は、まあほどほどで、1日延ばしただけでした。
今日で風邪は終わるのですが、まだのどの調子がよくなくて、いささか気が重いです。
しかし、風邪くらいは自分のコントロールで治したいと思います。

小学校時代の同級生の一人が、いよいよ「終活」を始めるとメールをくれました。
すでにもう入っているようで、1週間ほど前に出した私のメールの返信です。
昨年すい臓がんで入院したと書かれていました。
彼とは年に1回ほど会うのですが、言葉が多いので、どこまでがほんとかどうかなかなかわからなかったのですが、昨年手術をしたことがメールに書かれていました。
この歳になると、まあそうしたことも次第に「日常」のなかにはいってきます。

私はこの数年、健康診断をしていません。
昨年は、あまりに不調だったので、年末に行こうと思っていましたが、診断して何かがわかったところで、どうしようもない気がして、やはりやめました。
しかし、私自身はともかく、周りの人たちへの迷惑を縮減するためには、行くべきかもしれません。
人間は、自分一人で生きてはいないので、どこまで自らの考えを貫くべきかは悩ましい問題です。

風邪の5日間最後の今日は、「思索の1日」に当てました。
思索といっても、何かを考えるのではなく、考えるでもなく考えないでもなく、心を無にするということです。
午前中は窓の外に少しだけ見える手賀沼の湖面を見ながら、ひなたぼっこをしていました。
外は寒いのでしょうが、太陽の光を受けていると汗が出てくるほどです。
しかし、「思索」も2時間もすると飽きてきてしまいます。
風邪の中、23日に開催したサロンで、「支え合いと家族」について話し合いがありましたが、その報告をフェイスブックやメーリングリストで書いたら、いろんな人がコメントしてくれました。
それをなんとなくボーっと思い出しながら、過ごしました。
こうして心身を弛緩させておくと、もしかしたら、風邪は治らないのではないかと言う気もしてきます。
事実、喉の痛さもけだるさも、考えてみるとあんまり変化していません。

私もとうとう、自分の意志で病を治すことができないほどに、生命力が虚弱化してしまったのかもしれません。
困ったものです。

いずれにしろ、明日からは活動再開です。

■3065:誰もが友だちという感覚(2016年1月27日)
人生はうまくいきません。
1日、延ばしたにも関わらず、風邪が治った気分になりません。
生命力の衰えには立ち向かえなくなってしまったのかもしれません。
仕方がないので、今日も風邪モードで過ごしました。
にもかかわらず夕方になってまた熱が出てきました。

ついついパソコンでメールを見てしまいました。
昨日の「支え合い」サロンの報告に関するコメントが、いくつか届いていました。
その中に、懐かしい名前を見つけました。
当時、「納得して医療を選ぶ会」のメンバーだったMさんです。
体調を崩されて、いまは活動をしていないそうです。
病院を生活者の視点で問いなおそうと言う主旨で立ち上げた、「ヒポクラテスの会」に参加してくれた方です。
当時、いくつかの病院評価に取り組むNPOのプロジェクトを支援したのですが、すべてうまくいきませんでした。
それで自分も当事者になって立ち上げたのが、この「ヒポクラテスの会」なのですが、節子の関係で、ある時から私自身が「病院アレルギー」をもってしまったのです。
それで、立ち上げ途中だったのですが、活動を中断してしまいました。
いつか再開しようと思いながら、まだ再開できずにいるプロジェクトです。
もっとも状況は10年前とはかなり変わっていますので、いまさら私が出る幕でもないのですが、気になっているプロジェクトの一つです。

そのMさんが、「支え合い」に関する私見を投稿してくださったのです。
まさかいまなお、このメーリングリストを読んでいてくれたとは思ってもいませんでした。
ついついうれしくなって、他の人へのコメントも含めて、返信しました。
おかげで、さらになんだか辛くなってきました。
もうやめて、今日もまた8時に就寝することにしました。

時間は山のようにあるのに、何もする気が起きない。
それがこんなにつらいとは、思いもしませんでした。

ちなみに、Mさんの名前には覚えがあるのですが、顔は全く思い出せません。
私がとても幸せなのは、それでも私はMさんが友人のよう感じられるタイプなのです。
ちなみに、彼女は私のことを全く覚えていないかもしれませんが。

人間は自己の存在を、他者が自己の存在を認識することによってしか証明できない。
そう考えると、自己が存在しなくても、他者が自己の存在を認識することによって、人間は存在することが可能となる。

これは、神野直彦さんがある本で書いていた言葉です。
彼岸と此岸は、どうも地続きのようです。

■3066:元気ではあります(2016年2月1日)
節子
またしばらく挽歌が書けませんでした。
今回は、「長い風邪」のせいです。
風邪と言っても、さほどひどい状況ではなく、喉がやられ、なんとなくけだるく、夕方になると微熱が出ると言った程度なのですが、全体の身体的なバランスに違和感があって、気力が出てこないというような状況が続いていました。
一種の逃げの状況でもありました。
途中、断りにくい約束があって、湯島にも出かけましたが、その時は奇妙に元気になってしまうのです。
パソコンにも向かうのですが、メールだとかフェイスブックを見ていると、どこかやはり気が萎えてきてしまい、すぐに止めてしまうという状況で、挽歌も書けませんでした。
一番引っかかっているのは、もしかしたら、最近の政治状況や社会状況なのかもしれません。
たとえば、安倍政権への支持率の高さがどうしても理解できないのです。
こんな人たちと同じ時代を生きているのかと思うと、それだけで気が萎えてきてしまうのです。
いささか過剰反応だとは思うのですが、正直、元気は出てこないのです。
軽いメンタルダウンかもしれません。
困ったものです。

昨日から一応、生活は正常化できる状況にあるのですが、そしてそのつもりでいるのですが、どうも抜けられないのです。
パソコンに向かっても、何かをやろうという気が起きない。
7日に開催するサロンの案内も書けないでいます。
案内を出さなければ誰も来ないのはわかっていますが、それもまたいいかというような気にすらなってしまっています。
ブログは書きたいテーマが少なくないのですが、これも書く気が出てきません。

今朝は在宅ですので、朝からもう10回近くパソコンに向かうのですが、どうも頭が動かない。
かなり重症かもしれません。
何かが鬱積しているのかもしれません。
困ったものです。

■3067:ちょっとした刺激(2016年2月3日)
節子
先日、テレビでやっていたので思い出したのですが、「過冷却水」というのがあります。
水温が零度以下に下がり、本来であれば、氷結しているのですが、何らかの事情でまだ液体のままの水です。
そこに、何らかのちょっとした刺激が加えられると、一挙に氷結してしまうそうです。
昔、この社会を「過冷却社会」と捉えてどこかに書いた記憶がありますが、ホームページを探しましたが、どこに書いたか見つかりません。

人もまた、いろんな意味で、過冷却状況に置かれることがあります。
「キレる」という状況は、過冷却状況において行われるのかもしれません。
もちろんそれはいい意味でも起こります。
考えが詰まってしまい、動きが取れない状況の中で、ちょっとしたことで新しい考えが浮かび、問題が解決することがあります。
世紀の大発見もまた、そうしたことで実現するのかもしれません。

まあ、そういう話とは全く次元が違うのですが、
今朝、私の停滞した状況を打破してくれるようなことが起きました。
と言っても、大したことではなく、まったく小さなことなのですが。

見知らぬ人からメールが届いていました。
アメリカ在住のSRさんという人からで、ある人を探しているのだがという内容でした。
探している人が、私と同じ都立西高を卒業しているのだそうです。
残念ながら、その探している人は私とはかなり卒業年次が離れているので、もちろん心当たりなどありません。
しかし、おそらく探すのはそう難しくはないでしょう。
早速、同窓会につながりの深い、2人の友人にお願いのメールをしました。
私自身は、同窓会という組織には関心がないので、ほとんど参加したことがないのです。

ところで、その人はどうして私にメールをくださったのでしょうか。
その方のメールによれば、都立西高同窓会のウェブページに卒業生がやっているブログが紹介されていて、そこに私のサイトが紹介されていたのだそうです。
私自身思ってもいなかったことです。
同窓会のホームページも見たこともありませんし、在校時代から私はあんまり学校が好きではなかったので、目立たない存在だったのと卒業後も一部の友人以外とはあまり交流がありません。
だれがいったい私のホームページをリンクさせてくれたのでしょうか。
実に不思議な謎です。
それに、リンクの数はそう多くなく、個人名の私のホームページは目立つのです。
その方が、私にメールしてきたお気持ちがわかりました。
役に立たねばいけません。

今朝起こったことは、このことです。
それがどうしたのと言われそうですが、いささか退屈していた私にとっては、大きな刺激なのです。
「思ってもいなかったこと」が起こることが、私には一番の刺激なのです。
突然の「ノイズ」は、人生を変えてくれるかもしれませんので。
やろうとしていることのリストが、いまもこのパソコンの横に箇条書きされて並んでいます。
なかには10分で終わることもあるのですが、どうもこれまでの延長で出てきた課題は、その結末もほとんど見えていますから、気が萎えている時には気が動きません。
しかし、今回の話は先が見えていません。
それにしがらみもない。
気が動き出すかもしれません。

晴れてきました。
久しぶりに湯島に出かけようと思います。
もしかしたら、最近の心身的違和感は、過冷却状況のせいだったのかもしれません。
過冷却状況を脱するには、ほんの小さな刺激でいいのです。
いやむしろほんの小さな刺激こそがいいのです。

ちなみに、その人が探しているのは、都立西高を1985年(昭和60年)に卒業した女性です。
もし昭和60年西高卒業の方がいたらご連絡ください。
もう少し詳しい情報をお伝えします。

■3068:贅沢な境遇(2016年2月5日)
節子
一昨日は、魔法使いによる遠隔ヒーリングをしてもらいました。
昨日はしぼりたての新鮮な牛乳を飲ませてもらいました。
そして今日は、思ってもいなかった人から林檎ジュースが届きました。
いろんな人が、心配してメールもくれます。
これほどの支えをもらいながら、一向に気力はもどりません。
困ったものです。
もっとも体調が悪いわけではなく、湯島にも出ていますし、それなりに動いています。
しかし、気が一向に戻らないのです。
どこに原因があるのでしょうか。
精神的な問題かもしれません。
すこし生き方につかれてしまったのかもしれません。
それに今週は、元気のないままに、強烈な本を読んでしまいました。
沖縄の人が書いた、日本人は沖縄を植民地にしているという指摘の本です。
まさにその通り、自らの無知と愚鈍さに気づかされました。
節子がいないので、一人で背負い込まねばいけません。
いささか気が重いです。

気が萎えているとどうなるか。
先に延ばせるものはすべて先に延ばしてしまうのです。
しないでもいいことは、しないままにしてしまうのです。
時評編は全くかけていません。
書きたいことはあるのですが、書く気が起きないのです。
書く資格すら疑わしい。

それでもなんとか困りもせずに生きていられるというのも、考えてみれば恵まれているのでしょう。
人はたくさんの人と支え合いながら生きている。
気が萎えてくると、それがよくわかります。
気にしてくれている人がいる、と思えるだけで、人は支えられます。
気にする人がいるだけで、人は支えられる。
まあ、もうしばらくは、この贅沢さを素直に受け入れていようと思います。
いつかそのお返しは、だれかにできるでしょうから。

■3069:琵琶の演奏(2016年2月5日)
節子
昨日、湯島の小学校時代の同級生が6人来てくれました。
女性3人と男性3人、みんな節子も知っている人たちです。
きっかけは、その一人が最近、琵琶をやりだしたので、その琵琶を聴こうと言うことになったのです。

女性陣が食事を用意してくると言うので、私は何もしなかったのですが、食べきれないほどのものが並びました。
しかも一人は、有機農業のメッカとも言われる小川町の霜里農園の金子友子さんなので、半端ではない良質の食材も届きました。
今朝、乳牛から絞ってきたという牛乳も持ってきてくれましたが、なんと甘くておいしいことか。
もうひとつの絶品は、イチゴでした。
今ごろの位置がハビトゥス、とても甘いのです。
久しぶりに野生の香りのする美味しいイチゴを食べました。

金子友子さんは、アナウンサーから突如、農家に嫁ぎ、今やすっかりお百姓さんです。
節子がいた頃、湯島のサロンに野菜を届けてくれたことがありますが、最近は時々テレビなどでも顔を見るようになりました。
琵琶を始めたのは升田淑子さんですが、かなり個性的な人で、しばらく前までは大学で国文学を教えていました。
時々、論文を送ってくれましたが、私にはとても歯が立たないものでした。
大学を辞めてからは、乗馬をはじめ、昨年から薩摩琵琶を始めたのです。
節子への献花に、わが家にも来てくれました。
もうひとりの女性は、筑前琵琶をもう10年前からはじめて、最近は演奏会などもやっている芳賀庸子さんです。
芳賀さんも、いろんなことにチャレンジしていて、ご主人を亡くしてから、大学院で学び直していましたが、いまは琵琶にかなりのめっているようです。
大学に通っていたころ、偶然にも私が書いた本を見つけられてしまい、その後、どうしたのかと昨日も言われてしまいました。
誰も私が本を書いたことなど知らなかったはずですが、まあ仕方がありません。
私が何をやっているかは、同級生たちには見えていないでしょう。
当の私自身さえ、わからないのですから、当然です。
でも彼らは幼なじみですから、私の生き方はわかっているでしょう。

それにしても、女性陣の前向きの姿勢は圧倒されます。
女性たちの話を聞いていたらあっという間に6時間を超えていました。
しかも、琵琶の話から政治の話まで、実にパワフルで豊かです。
もちろん「むかし話」などありません。
それに比べて男性側はどうしようもありません。
気が萎えたなどと愚痴をこぼしている私は論外ですが、他の3人も、まあ今を生きているだけなのです。
それに、女性たちと違って、何をしているのか、改めて書こうとすると何も出てこない。
困ったものです。

70歳を過ぎると、やはり男女の差は大きく出てきます。
つくづくそう思います。
それに伴侶を見送った同級生は数名いるのですが、私のように男性は元気をなくすのに、女性はむしろ元気に自分の道を見つけています。
女性に見習わなければいけません。

■3070:生きた証(2016年2月6日)
節子
生きていることの意味に関しては、これまでも何回か、書いてきました。
私の考えは、生きることそのものが目的であり意味であるというものですが、それはそれとして、何か「目標」がないと実際に生きる力が出てこないことは否定できません。

先日、ある70代の女性が、そのような発言をしました。
彼女は、かなり充実した生活をしてきましたし、いまもテーマを持っています。
しかし、それではどうも駄目なようです。
話していたら、どうも彼女の生い立ちに関わっているようです。
彼女は被爆した広島出身です。
普段は東京で暮らしていますが、いまも広島に家があるそうです。
そして、彼女が話したのは、原爆への思いでした。

詳しくは聴いていませんが、原爆関係や平和の集まりにも出てきているようですが、どうもみんな波長が合わないようです。
詳しくは聴けなかったのですが、原爆や核兵器に関して、もっと「美しく」(誰かを裁いたり非難したりせずに、寛容に、しかしラディカルに、そして創造的に、というような意味ではないかと思いました)、事実を知り合い、価値を創りだせるようなことはできないのかというのです。
例えば、それが「やさしい絵本」かもしれません。
そんな何かを実現したいというのです。
そして最後に彼女が付け加えたのは、それができれば生きた証を残せる、それがないと今の私は何か「浮遊している」(違う表現でしたが思い出せません)ような状況だ、という言葉でした。

生きた証とは、もしかしたら、現世と彼岸をつなぐものなのかもしれません。
彼岸が近くなると、それがほしくなるのかもしれません。
彼女には子供がいません。
子どもがいて、孫がいれば、ある意味での「証」は残ります。
ちなみに、私にもまだ孫がいません。
もしかしたらかなり遅いですが、今年は孫ができるかもしれません。
しかし、いまはまだ、私には生きた証はまったくありません。
私の場合は、「生きた証」は全く関心もありません。

彼女の言葉を聞いた時、ふと思いました。
生きた証は、彼岸に持っていくものではないのか、と。
現世に残す「生きた証」には興味はありませんが、もし彼岸に持っていくものであれば、捉え方は変わってきます。
少し考えてみたくなりました。

それにしても、彼女がこんなことを思っているとは、まったく知りませんでした。
人の思いなど、知り得ようもないでしょうが、まだまだ私は自分の世界の中でしか生きていないことに気づかされました。

■3071:問題を乗り越えるために問題を創り出す(2016年2月7日)
節子
先日、突然、ある若い女性から電話がありました。
いまも自殺予防の集まりをやっていますか、という電話でした。
3年前にあるところに相談に行ったところ、その相談員が途中で私に電話したのを覚えていたのだそうです。
記憶が呼び戻せなかったのですが、問題にぶつかっている人は、そうしたちょっとしたこともきちんと覚えているのだと、改めて気をひきしめました。
誰かの相談に乗るということは、そういうことなのです。

ある集まりで、相談に乗る時には、自分でできないこととできることを整理して、できないことは引き受けてはいけないと言われました。
私も誰かに対しては、同じようなことを言ったことがあるかもしれません。
しかし、実際に相談に乗っていくと、そんなことなど言ってはいられないのです。
そんなことを考えていたら、相手には信頼してもらえないですし、信頼してもらえなければ相談に乗れるはずもありません。
相談に来ている人は、ともかく感覚が鋭くなっているのです。
相談の基本には、「利己」ではなく「利他」を置かねばいけません。
しかし、それを続けていると、自分がずたずたになることもあります。
私の場合、それを救ってくれていたのが節子でしたが、節子がいなくなってからは、時々、メンタルダウンしてしまいます。
いまはその状況かもしれません。

その方が、なぜ私に電話してきたのかわかりませんが、自分も自殺防止に関わる活動を始めたいようです。
ちょっと遠方なのですが、一度、お会いすることになりました。
これは推測ですが、たぶんかつて私の友人に相談したことを乗り越えようと新しい活動を始めようとしているのでしょう。
自らの問題を乗り越えるためには、新しい課題を創り出すのは、一つの方法です。
それは、「利己」から「利他」へと基本を変えることであり、実はそこから新しい「利己」に気づけるのです。
他者のためはまさに自らのためなのです。
そこに気づくと世界は変わってきます。
何ができるかわかりませんが、相談に乗ろうと思います。

湯島にはいろんな人が集まります。
はっきりとは言いませんが、重荷を背負っている人も少なくありません。
重荷を背負えばこそ、なにか誰かの重荷を軽くしてやりたいという気持ちがどこかで現れてくるのではないかと思います。

実は最近、そんなことをいろいろと体験しています。
ほかの人のことなので、あまりここには書けませんが、重荷を少しでもシェアできることができればうれしいです。
重荷を背負っているのは、自分だけではないのです。
少し前向きになれてきたのかもしれません。

■3072:人の世話になるのもケア活動(2016年2月8日)
節子
だいぶ体調が戻ってきました。
いろんな人のエールのおかげです。
今日は、大忙しでした。
人の世話になるというのも、ある意味でのケア活動だと私が考えていることを知ったら、みんなはどう思うでしょうか。
しかし、私はますますそう思うようになってきています。

節子が元気だったころ、節子のお母さんが入院していた病院にお見舞いに行ったことがあります。
その病院に節子の知っている方のお孫さんが入院していました。
自動車事故で、意識が亡くなり、いわゆる植物状態でずっと入院しているそうでした。
意識もなく寝たきりの、たぶん20代のお孫さんに、そのおばあさんはずっと付き添っていました。
そして、意識のない孫に対して声をかけていました。
私は、病院ですれ違っただけですが、節子からそういう話を聞きました。
もう40年以上も前のことなので、不正確かもしれませんが、その時のそのおばあさんの明るくやさしい雰囲気がなぜか今も残っています。
その時、感じたのは、この人は、孫の世話をしつづけることが生きがいなのだと思いました。
節子とは、よくその話をしたものです。
人の幸せとは他者には決してわからない。
そして、人の不幸も同じようにわからない、と。
これは、私が「ケア」ということに関心を持った、ひとつの契機です。

節子が胃がんになり、私は仕事はもちろん、人との付き合いも最小化しました。
家に引きこもり、節子との時間を過ごしました。
いまから考えると、あまり節子のケアをしたとも思えません。
むしろ私がケアされていたのかもしれないと、今では思います。
一緒にいて、節子の役に立つことができる。
これほどうれしいことはありませんでした。
あまりの幸せのなかで、まさか節子がいなくなるとは思いたくなかったのでしょう。
節子の死を意識したことが、ないのです。
ですから、それは介護とは言えないかもしれません。
相手を心配していたのは、むしろ節子だったかもしれません。

現世と彼岸と、いずれ別れることになる。
物理的には、もう相手をケアできなくなる。
そういう意味では、死に行く者も生き残る者も同じです。
生き残る私を、節子は心配していました。
その心配は、あながち間違いではありませんでした。
節子がいなくなってからの私は、生き違ってばかりしているような気もします。

しかし、もう9年以上も生き残ってしまった。

誰かの世話ができることの幸せに、多くの人は気づきません。
「世話をする人」と「世話をされる人」と、どちらになりたいかと問われて、どちらを選ぶ人が多いでしょうか。
私は、もちろん、「世話をする人」を選びます。
だから、「世話をされる人」になることこそが、介護の起点なのかもしれません。
という意味で、この1か月、私は多くの人に役立ったわけです。

とまあ、こんな「悪い冗談」が言えるほどに元気になってきました。
もしかしたら、昨夜、友人の魔法づかいが、遠隔ヒーリングで私に「魔性」を吹き込んだのかもしれません。
余計なことを言うと、また「気」を抜かれるかもしれません。
いろんな人に支えられていると、けっこう疲れることもあるのです。
はい。

■3073:歯茎の炎症で辛いです(2016年2月9日)
節子
昨日は調子がよかったのですが、また歯茎が炎症を起こしてしまったようです。
免疫力が落ちていると、次々の問題が発生します。
きちんと身体維持管理をしていないので、仕方がありませんが、歯茎の炎症はかなりつらいものがあります。
次の用事まで、湯島で2時間ほど時間が取れたのですが、何もやる気が起きません。それに今日はあったかくなると聞いていたので、薄着で来てしまったのですが、寒くて仕方ありません。

今日は午後打ち合わせだったのですが、呼びかけ人の吉本さんが、佐藤さんはお昼を食べていないのではないかと心配りしてくれて、玄米のおにぎりとゆで卵を持ってきてくれました。
すべて自分でつくったものです。
まだあったかかったですが、歯茎が痛いので、苦労して食べました。
吉本さんは、なぜか珈琲豆まで持ってきてくれました。
最近は、そうしたお布施が増えている感じがしますが、外から見たら、私はいまやとても経済的に貧しく見えるのかもしれません。
しかし、そんなことはなく、私自身は経済的にも恵まれているのです。
年金もきちんともらっています。
経済的に恵まれているかどうかは、かなり主観的なものです。
私の場合、収入は少ないかもしれませんが、支出がともかく少ないのです。
財布を持ったことがありません。

湯島ではいろんなサロンをやっています。
基本的に会費は500円ですが、参加者が自発的に部屋の片隅にある缶に500円入れていくのです。
時々、なぜか1万円札が入っていたりするのですが、忘れる人もいます。
忘れる人がいてもいいというのが私の発想ですが、きちんと徴収するのがいいという人もいます。
悩ましい問題ですが、なかには500円入れるのを忘れたと言って、わざわざ届けに来たり、郵送してきたりしてくれる人もいます。
その人にとっては、500円の意味は、とても大きいのです。
こういうことを長年やっていると、お金に関する価値観のようなものも、なんとなく見えてきます。

お金がなくて500円も払えないので、参加したいが参加できないという人もいます。
お金がなければ払わなくてもいいんじゃないのと、私は無責任に思うのですが、そういっていいものかどうか、これも悩ましい話です。
そういうことを言って、かつてとても嫌な思いをしたことがあるからです。
お金は、額の多寡ではなく、人の本性につながっているのかもしれません。

何のことを書くつもりだったかわからなくなってしまいました。
歯茎は相変わらず発熱しているようで、身体全体がけだるくなってきました。
今日のサロンは大丈夫でしょうか。
いささか心配です。

歯茎が痛く、あんまり食べられないので、栄養ドリンクを飲んでしまいました。
これってしかし、空腹は満たしてくれません。
吉本さんのおにぎりを、もう一つ食べておけばよかったです。

■3074:“A Few Good Men”(2016年2月10日)
節子
久しぶりにテレビで、映画「A Few Good Men」を観ました。
信念のために権力や権威に対峙する人間が主役です。
この種の映画には、私はとても心震えることが多く、私の生き方にもおそらく少なからず影響を与えているはずです。
もう何回も見ているのに、必ずと言っていいほど、2か所で涙が出ます。

この映画には、ある記憶がつながっています。
節子も知っている、私たちよりもかなり若い女性がいました。
彼女は九州の人ですが、東京で一人暮らししていた時期があります。
湯島に来たのがきっかけで、私たちと知り合いました。
どういう経緯だったか、忘れてしまいましたが、私たち夫婦がある舞台を観に行くときに、彼女も一緒でした。
大きな夢に一人で立ち向かったり、あるミュージシャンの追っかけなどしたり、かなり風変りな人でした。
しかし、どこかに「哀しさ」を感じさせる人でもありました。
節子とはなぜか波長が合っていました。

しかし、突然に親元に帰りました。
体調を悪くしたというような話も聞きました。
そして、節子宛てに、高価そうな久留米絣のタペストリーが届きました。
節子はそれがとても気に入っていました。

しかし、その後、少し精神的に安定を失い、わけのわからないメールが届き、音信不通になってしまいました。
そのうち落ち着いたら連絡を取ってみようと思っているうちに、節子が発病、節子も私も彼女のことを忘れてしまっていました。
そして、節子の闘病中に、彼女が亡くなったことを知りました。
もしかしたら、と思いました。
彼女のお母さんとも知り合いでしたので、連絡を取ってみました。
彼女のお母さんは節子の病気のことを知り、その後、いろいろと抗がん効果のあるものを送ってきてくれました。
もし、そうしたものがもう少し早く届いていたら、節子に奇跡が起こったかもしれませんでした。
しかし、間に合いませんでした。

節子が逝ってしまった後、福岡の実家に献花に行きました。
彼女のお母さんとは、それまでも何回かお会いしています。
私よりも一回り以上年上ですが、私よりもお元気です。
とてもよくしてくれます。

「A Few Good Men」と関係ない話を書いてきましたが、実は彼女が音信不通になる前の電話で、「A Few Good Menの映画を観たけれど、とても面白かった」と話してくれたのです。
私が彼女の声を聞いた、それが最後でした。
この映画と彼女はつながるところが全くありません。
彼女は、この映画のどこが気にいっていたのか。
そして、なぜ私にそんな電話をかけてきたのか。
そのせいか、この映画を観るたびに、彼女のことを思い出します。

彼女のお母さんも、とても不思議な人ですが、彼女自身もとても不思議な人でした。
2人とも、とても霊的な人たちなのです。
いまはたぶん節子と一緒に彼岸で白い花摘みをやっているでしょう。
彼女のお母さんが前にそう教えてくれましたから。

■3075:やっと歯ぐきの腫れが引き出しました(2016年2月11日)
節子
どうも体調がすっきりしません。
いろんなストレスが噴出しだしているのかもしれません。
節子がいた頃は、ストレスなどとは無縁だったのですが、最近はストレスだらけなのかもしれません。
困ったものです。

2日前からまた歯ぐきが炎症を起こし、食事ができませんでした。
免疫力低下で、この20日間は次々と問題が起きます。
そしてやはり口腔に来てしまいました。
湯島に来た人たちは、元気そうで安心したと言ってくれますが、人と会っている時には、それなりに気を張って元気にしているのです。
実のところ辛いことも少なくないのです。
娘たちからは、「お父さんはいい格好しいだから」と言われていますが、どうも私にはその傾向があるのかもしれません。
これも最近気づかされたことです。

それでも今日はだいぶ良くなりました。
医者に行こうかと思ったのですが、先日お医者さんからもらったロキソノニンが残っていたので、それを飲んでいたら、ほぼよくなりました。
まだ少し腫れていますが、食事は大丈夫になりました。

今日はお寺に行くつもりでしたが、そんなわけでやめてしまいました。
午前中は電話で過ごしましたが、午後は少し小難しい本を読み、その対極にあるテレビを見て、1日、過ごしました。
相変わらずまだ畑に行く元気は出てきません。

しかし、明日からはだいぶ動けるようになるでしょう。
パソコンにもきちんと迎えるようになりました。
最近内容のない挽歌が続いていますが、もう少ししっかりと書こうと言う気にもなってきました。
長らくかけずにいた時評編も書こうと言う気になってきました。

冬はそろそろ終わりにしようと思います。

■3076:乾いた悲しさ、乾いた寂しさ(2016年2月13日)
節子
しばらく日記的な挽歌を書いてしまっていたため、ちゃんとした挽歌を書こうと思った途端に書けなくなってしまいました。
困ったものです。

節子がいなくなったころ、時間が解決してくれますよ、と数名の人から言われました。
そんなことはなく、時間は悲しさや寂しさを決して癒してはくれないと思っていました。
それは事実なのですが、しかし、時間とともに何かがやはり変わります。
表現が適切ではないでしょうが、「瑞々しさ」が失われるのです。
なにか乾いた悲しさ、乾いた寂しさになっていきます。
挽歌にも瑞々しさはなくなっているのが、書いていてわかります。
あるいは、悲しさや寂しさが日常化してしまう。
生活そのものから喜怒哀楽が失われていくと言ってもいいかもしれません。
心から笑うことも、心から悲しむこともなくなってしまう。
生きる喜びが感じられなくなったと言っていいかもしれません。
死者とともに生きるということは、そういうことかもしれません。

しかし、伴侶や子どもを失ったのは、私だけではありません。
そういう人はたくさんいます。
みんなどうやっているのでしょうか。
その心の奥はわかりません。
私と同じでしょうか。
グリーフケアワークショップで、同じ立場の人たちと話したこともあります。
その場では、奇妙な安堵感がありましたが、正直、何も変わりませんでした。
自らを相対化はできますが、悲しさや寂しさを相対化できるわけではありません。
それは、そこからは消えていかないのです。
ただ乾いていってしまうのを防いでくれるかもしれません。
枯れそうな花に水をやるように、時に悲しさや寂しさを誰かと共有する意味はあるかもしれません。
しかし、それは結構、リスクもある。
悲しさや寂しさが日常化したなかで生きていると、そうしたものへの免疫力も低下します。
だれかの悲しさや寂しさが、感じやすくなり、同調しやすくなるのです。
そして精神が不安定になってしまいがちです。

まあそんな感じで、もう8年以上生きています。
それなりに疲れますが、どうしたらいいのか相変わらず見えてきません。
挽歌を書けない日もありますが、いつもそんな自問自答を繰り返しているのです。
節子との対話は、欠かしたことはないのです。

■3077:他者を思いやる幸せと不幸(2016年2月14日)
節子
昨夜、明け方のテレビで、在宅ホスピスの活動に取り組んでいる人が、がんの末期はあまりに辛くて、他者を思いやることなどできなくなることがあると話していました。
幸いに、節子はそうはなりませんでしたが、たしかに最後の1か月は「壮絶」とさえいえるような日々でした。
当時を思い出しながら、テレビを見ていました。
あの時の私の対応がよかったのかどうかは確信が持てません。
よくがんばったと、友人からは言われましたが、当事者には当然、真実が見えるわけで、正直、とてもよく頑張ったなどという思いは持てません。
娘たちよりも、私が一番、だめだったかもしれません。
落ち度だらけだったと言うべきでしょう。
でも、私も娘たちも、そして何よりも、節子も、それぞれに精一杯だったことは間違いありません。
不十分かもしれませんが、それぞれが他者を思いやることができていました。
完全だったのは、節子だけかもしれません。

他者を思いやることができるのは、とても恵まれた状況なのです。
それは、節子を見送って数年してから気づいたことです。
その幸せ、他者を思いやることのできる幸せに、感謝したいと思います。
しかし、その幸せに気づかずに、節子との関係においては、悔いを残したことが、いまもなお尾を引いています。
そこからなかなか抜けられません。

この挽歌を読んでくださっている方が、こうメールを書いてきてくれました。

何故、ご自分の思いなどお書きになるのか?
奥様に語りかけたい?
ご自分の思いを書くことによって整理というか客観視というか、思いを形にする?

節子に語りかけたいというのは当たっていますが、同時に、悔悛や謝罪の念が大きいのかもしれません。
他者を思いやる幸せは、同時に、他者を思いやれなかった不幸とつながっているのです。
思いやることが不十分だったことに気づくことは、心を萎えさせます。
ましてや、その結果が、相手を守れなかったとしたらなおさらです。
だから、人を思いやることは、幸せだけではないのです。
そして、時にその悔いは大きく膨れ上がってくることがある。

他者を思いやることは、そういう意味では、勇気がいることなのかもしれません。
また哀しい知らせが来ました。
この歳になると、別れは日常になってくるのかもしれません。

■3078:今年のチューリップの季節です(2016年2月16日)
節子
新潟のチューリップがまたどっさりと届きました。
早速、節子にもお供えしました。
毎年、金田さんが送ってきてくれるのです。

思い出して久しぶりに畑に行ってきました。
昨年植えておいたチューリップが芽を出し始めていました。
昨年よりは、少し広がりました。

畑にあまり行かないので、花畑もいささか心配です。
いまはもっぱら水仙が咲いています。
もう少しきちんと手入れをしておかないと、春になると大変なのですが、どうもまだ畑に行く気分になれません。
畑に行ったついでに、ネギと大根を少し収穫してきました。
自然の恵みには感謝しなければいけません。

毎年、この時期になると、チューリップが届き、水仙が咲く。
季節感に疎くなってきていますが、今年は少し季節感も取り戻せればと思います。
節子がいなくなってから、失ったものは少なくありません。
金田さんのチューリップを見ながら、そんなことを考えていました。

3月に新潟に行ければと思っています。
まだ寒いでしょうが。

■3079:社会が変わってしまった(2016年2月16日)
節子
ちょっと気を抜くとすぐ挽歌がたまってきてしまいます。
いま気づいたのですが、また10日ほど、遅れてしまいました。
節子離れが始まったのかも知れません。
決して忙しいわけではなく、相変わらず暇で暇でしょうがないのですが、時間だけはあまりありません。
暇なのになぜ時間がないのかと思う方もいるかもしれませんが、これについては前にも書きました。
暇だから時間がないのです。

数年前に録画した、高村薫さんのテレビを見なおしました。
3.11の後、日本人は変わらなかったと怒りを込めていた番組を思い出したのです。
最近の私の精神不安は、もしかしたらそれに関係しているのかもしれません。
録画しておいたDVDを探して、見直しました。

日本人はなぜ怒らないのか。
福島原発事故が起こったにも関わらず、なぜ原発再稼働を認め、怒らないのか。
これまでの問題を3.11は顕在化させてくれたのだから、復興などではなく、新しい社会づくりに取り組まなければいけない。
高村さんはそう言っています。
私も、当時、強くそう思いました。
復興ではないだろう。
必要なのは生き方を問い質し、生き方を変えることであると。
テレビを見ると、久社の一人が、言葉は違いますが、そう語っていました。
とうじしゃになると、おそらく見えてくるのでしょう。

しかし、日本人は変わりませんでした。
所詮、日本人はキリギリスであって、アリにはなれないのだ、と高村さんは言っています。
そんな恥知らずの人間たちのなかで生きていることに、やはり私も違和感があります。
人は何で生きているのだろうか、と思うのです。
節子は、もしかしたら、良い時代の中で生まれ良い時代のなかで死んでいった。
そういう気もします。

それにしても、いまは酷い時代です。
テレビの描く日本社会は、もうやりきれないほどにおかしいのです。
そういうひどい社会を、私の子どもたちは生きていかなければいけません。
そう思うと、こういう社会にしてしまった自分の生き方を呪いたくもなります。
しかし、せめて自分にできることはないのか。

最近、相変わらず時評編は書けていませんが、挽歌編を書けないのも、こんな気分が少なからずあるからです。

時々、私は「悪夢」を見ているのかと思うことがあります。
節子がいた時には、気づかなかったのでしょうか。
それとも、悪夢が始まったのは、節子がいなくなってからでしょうか。

節子の看病と死後の数年間、私はあまり世間づきあいができていませんでした。
その5〜6年の間に、日本の社会はどうも変質してしまった。
それが私にはずっと不思議でならないのです。

世界は自らの意識で構成されている。
そんなことが真実に思えてくる、この頃です。

■3080:東海道新幹線から見る車窓風景はあまり変わっていませんね(2016年2月17日)
節子
今日は大阪に向かっています。
最近は東海道新幹線にもあまり乗らなくなりました。
先日、会った小学校時代のクラスメイトから手紙が届きました。
彼女は私よりも早く伴侶を見送っています。
しかし、私と違い、その後の生き方は見事なほど、アクティブです。
大学院に通い、経済学を学んだかと思えば、琵琶を始め、今は演奏会にも呼ばれています。
まあそこまでは知っていましたが、来月は沖縄、5月にはウィーンとプラハだそというのです。
私などは、やっと大阪に行こうという気になるだけですが、彼女はさらに、その先は何をしようかと考えているそうです。
見習わなければいけません。

人にはタイミングがあります。
私たちは、さてこれから一緒の旅行を楽しもうかという時になって、節子の病気が見つかりました。
それまでも、年に数回は一緒に、この東海道新幹線には乗りましたが、それは夫婦旅行というよりも、帰省だったり家族旅行だったりしました。
もしかしたら、病気が小康状態だった時に、2人で京都旅行をしたような記憶もありますが、思い違いかもしれません。
旅行など、いつでもできるからという思いが私にはあったのです。
でも、いつでもできるなどということは、決してありません。
できることは、できる時に、しておかねばいけない。
これが節子のモットーでしたが、私は人生をあまく考えていたのです。

車窓から見える風景は、変わったところもありますが、駅と駅をつなぐ風景は節子と一緒に見たのと同じです。
東京の風景は大きく変わっていますが、日本全体の風景はそう大きくは変化していないのでしょう。
久しぶりに車窓をしばらく眺めていて、そう思いました。

節子より私が早く旅立った場合、節子はどうしたでしょうか。
友人のように、プラハに行ったでしょうか。
多分そこまでのアクティブさはなかったでしょう。
しかし、乗り慣れた東海道新幹線には、乗ったでしょう。
彼女の友人は、滋賀に多いですから。
この風景を見ながら私を思い出していたかもしれません。

そろそろ名古屋です。
良い天気です。

■3081:ちょっと感傷的になってしまいました(2016年2月17日)
節子
時間があるので、もう一つ書こうと思います。

名古屋を出て、関ヶ原近くに来たら、なんと吹雪いています。

帰省時は、いつも米原で北陸線に乗り換えるのですが、雪のイメージがあります。
たぶん最初に来た時がそうだったからでしょう。
寒々としたホームで、あったかいうどんを買って、車内で食べたりしましたが、あの雰囲気が私は大好きでした。
北陸線も、昔はいかにもという感じで、自分でドアを開けて乗り、ドアをしめるのです。
昔は今より雪も多く、節子と帰る冬の滋賀の湖北の風景は、私にはとても魅力的でした。
最近は、大阪から新快速といって、同じ電車が乗り入れていますので、以前のような情緒はありません。
自然の風景は変わらなくても、変わったものはたくさんあります。

思いにふけっていたら、もう大津です。
右側に瀬田川は見えました。
ここから私たちの生活は始まったのです。
大津には山のように思い出があります。

間もなく京都。
挽歌を書くよりも、思いにふけってしまいました。
久しぶりに感傷的になってしまいました。

■3082:とてもうれしいことがありました(2016年2月18日)
節子
昨日、大学時代のクラスメイトの大川さんのオフィスを訪ねました。
大川さんは弁護士です。
卒業後、交流が途絶えていましたので、節子は会ったことはありません。
私が再会したのは、もしかしたら、節子がいなくなってからです。

大川さんは、日弁連の事務総長として、日本の司法制度改革に取り組んでいました。
私には共感できるものではありませんでした。
大川さんにも異論を唱えていました。
その後、大川さんは自らが取り組んだ豊島の産業廃棄物訴訟をまとめた本を送ってきてくれました。
大川さんの姿勢に、感動しました。
その後、司法改革をまとめた本など、いろいろと著作を送ってきてくれました。
そうしたものを読ませてもらって、自らの不明に気づきました。
司法改革に込めた大川さんの思いも少し理解できました。
昨年、彼が書いた「裁判の尊厳に懸ける」を読んで涙が出ました。
大川さんにお願いして、湯島でサロンを開いてもらいました。
サロンにはいろんな人が集まるので、私が思ったようなものにはなりませんでした。
大いに反省しました。

もっと話したいとずっと思っていましたが、大川さんは大阪在住ですので、そう簡単には会えません。
それに私と違って、しっかりした社会活動でご多用ですから。
今回、思い切って彼のオフィスを訪ねました。
とてもいい時間を持たせてもらいました。

実は、大川さんは私よりも10年も前に伴侶を見送っています。
なんとなく知っていたのですが、 思い切って改めてたずねました。
大川さんが、とても伴侶を愛していたことが伝わってきました。
大川さんがやさしくて、情感豊かなのはもしかしたら奥さんのおかげもあるのかもしれないと思いました。

大学の同窓生とは、正直、どこかで住んでいる世界の違いを感じているのですが、大川さんとは同じ世界にいるような気がして、元気が出てきました。
彼の生き方に比べたら、私の生き方はいかにも表層的だと、少し自己嫌悪に陥りましたが、久しぶりにとてもうれしい時間でした。

お互いに夫婦で会食したかったと思いました。

■3083:パラレルワールドの四天王寺(2016年2月18日)
節子
大阪の天満に宿泊したので、朝、四天王寺に行ってみました。
30年ぶりくらいでしょうか。
ところが、記憶の中にある四天王寺とどうも一致しないのです。
ちょうど五重塔の回収中で、一直線に伽藍が並ぶ四天王寺スタイルが見えないのも一因ですが、それはともかく、金堂の須弥壇の四天王像の配置が違うのです。
どうしても気になって、受付の人に、変わっていないかどうか訊いてみました。
昭和の中頃の再建以来、変わっていないというのです。
それはそうでしょう。
教えを象徴する須弥壇の配置を変えるはずはありません。

実は、最近、こうしたことが、ときおり起こります。
私の思い違いなのか、私が違う世界にきてしまっているのか。
笑われそうですが、後者の考えが、私には、より馴染めるのです。
パラレルワールドの、隣へのシフトです。
節子がいなくなって、それが起こったに違いないと思うと、いろいろなことが納得できるのです。

四天王寺は、とても生活になじんだお寺です。
以前、来た時、たしかニワトリの鳴き声が聞こえていました。
夕方でしたが、子どもたちも境内で遊んでいた気がします。
今回はなにやら観光寺院的になっていましたが、先祖のご供養が、私が拝観している間にさえ,3件もありました。
地域の檀家の供養ですかと,また受付の人に訊ねたら、檀家以外の人も多いのだそうです。
しかも、金堂だけではなく、他のところでも受け付けているということでした。

節子の供養を頼もうかとも思いましたが、やめて、私が祈りをささげてきました。
四天王寺は節子と一緒に来る機会はありませんでした。
前に来た時は、心象的にですが、瀬戸内海が見えたような気がしますが、今回はそんな気配は微塵も感じませんでした。
私の記憶に残っている四天王寺は、一体なんだったのだろうかと思います。

■3084:張りつめて生きている若者たち(2016年2月20日)
節子
新しいプロジェクトに取り組もいうとしている友人が、一緒に取り組んでいる若い女性と一緒に湯島に来ました。
若者の就労支援のプロジェクトなのですが、いまの社会は、若者にとってはとても生きづらいようです。
その女性も、かなり生き疲れているようで、前の職場ではパワハラで疲弊してしまったようでした。
話しをしていて、こういう人が少なくないのだろうなと思いました。

思いを持って、福祉の世界に入ったにも関わらず、その福祉の世界の実情を見て、ショックを受ける人も少なくないでしょう。
最近もある福祉施設で、若い職員が入居者を死に至らしめた事件が話題になっていますが、私自身はその加害者を責める気にはなれません。
福祉の世界を市場化したり、政治の道具にしてしまったりしている社会にこそ、問題があると思うからです。
福祉や環境問題を産業化してしまう風潮に違和感を持って、会社を辞めたにもかかわらず、そうした流れに何もできなかったことを反省しています。
いささか、自分の世界だけに目を向けてしまっていたのかもしれません。
それは意図したことではあるのですが、間違っていたかもしれません。
社会への関心を少し遠のかせているうちに、予想以上に、社会は劣化している気がします。

昨日会った女性は、私の生き方に少し興味を持ってくれました。
こういう生き方ができるのだと思ってもらえれば、人はもう少し楽に生きられるはずです。
最初に出会った時、彼女からは社会への強い怒りを感じましたが、話しているうちに彼女の柔らかさが感じられるようになりました。
いまの若者たちは、みんな張りつめて生きているのでしょうか。
もっと楽に生きればいいのにと思います。

偉そうなことを書いていますが、実は若い世代をこういう状況にしたのは、私たち世代なのでしょう。
私自身もたぶんに荷担しているはずです。
いまさら悔いても仕方がないのですが、若者たちのこの生きづらさを本当に理解できるようになったのは、この数年です。
それを教えてくれたのは節子と家族です。
もしかしたら、私の生き方そのものが、間違っているのかもしれない。
最近そんなことを考えるようになってきています。
まわりの人は、むしろ私の生き方を少しずつ理解して下さってきていますが、皮肉なもので、当の本人の思いは逆転しつつあるのです。
困ったものです。

■3085:四天王像の怪(2016年2月20日)
節子
今日はずっと雨でした。
時評編に書きましたが、一昨日訪問した四天王寺の四天王像の配置がどうも気になって、自宅にあるいろんな本を探し続けていました。
私の記憶を肯定してくれるものは一切見つかりませんでした。
四天王寺には、以前も一人で行ったので、節子は知らないはずです。
しかし、節子には、その驚きを話したかもしれません。
それが確かめられないのが残念です。

未来は変えられるが過去は変えられないという人がいます。
そんなことはありません。
未来も過去も、たぶん変えられるでしょう。
いずれも私の脳のなかにしかないことだからです。

ところが最近、どうも私の記憶が事実無根ではないかと思うようなことが時々起るのです。
同時に、どこまでが夢でどこまでが夢でないのかも混乱します。
例えば、鮮明な記憶に残っている夢があります。
彼岸行の電車の駅で、なぜか大勢の人が下りてくるのを見た夢の記憶がそのひとつです。
ところが、この夢は実は昨日見た夢かもしれません。
いや、私の記憶の中にあるすべての夢が、昨日見た夢なのかもしれません。
私以外の人に話したり、書きものとして残したものがあれば、その夢は昨日より前に見たことは確かですが、そうでない夢はすべて昨日見たのかもしれません。
いや、私の記憶にある過去はすべて、昨日、見た夢かもしれないのです。
最近、そう思うことが増えてきました。

さて四天王寺の須弥壇の配置ですが、実はこれは四天王寺に訪問する気になった日に見た夢かもしれないのです。
事実はそうではないことは間違いありませんが、そう考えれば論理的に解決できます。
どう考えても、須弥壇で四天王像が横一列に並んでいるはずはないでしょう。

1日中、四天王像のことばかり考えていたら、頭が混乱してしまったようです。
しかし不思議です。
その混乱の中で、せっかく四天王寺に行ったのに、本尊の救世観音をあまり拝んでこなかったことに気づきました。
さらに言えば、中門の仁王像も見てきませんでした。
さて、このことはもう忘れて、明日はまた現世で生きようと思います。

今日は寒い1日でした。

■3086:人はみな「財産家」(2016年2月21日)
節子
鈴木さんが、エマーソンのこんな言葉を教えてくれました。

「先行き知れぬ人生航路にあって、何よりも心強い支えとなるのは、
人と人の結びつきではないでしょうか。
互いに相手をいたわり合う気持ちこそ、
何にもかえがたい心の財産ではないでしょうか」

鈴木さんは、「人と結びつくこと」「相手をいたわる気持ちを持つこと」がそのまま「支え合う」ことにつながるのかもしれないと書いてきました。
「人と結びつくこと」と「相手をいたわる気持ちを持つこと」とは、私は同じことだと思いますが、それは同時にまた、「支え合うこと」でもあるわけです。
私にとっては、それを無条件に保証してくれた節子は「何よりも心強い支え」だったわけです。
ですから、それがいなくなった後は、支えがなくなったようになってしまったわけです。
それで、いささか頼りない数年を過ごしてしまいました。

最近、「支えがなくなる」には2つの意味があることを実感しています。
「支えてくれる存在」がいなくなるということと「支えるべき存在」がいなくなるという意味です。
どちらがより大きなダメッジかと言えば、もしかしたら後者かも知れないというのが最近の思いです。
人は「支えられる存在」ではなく「支える存在」なのかもしれません。

節子がいなくなって8年半。
ようやく最近は自立感が実感できるようになってきました。
鈴木さんはこう書いてきてくれました。

佐藤さんはお金という財産をあまり持たない(???)半面、
エマーソンのいう心の財産には恵まれているのだろうなあ、と思っています。

そうなのです。
私は財産家なのです。
でも本当はみんな財産家になれるはずなのです。
「支える存在」になればいいだけだからです。

節子がいた頃よりも、私の財産は増えたかもしれません。
もう大丈夫でしょう。

■3087:人は決して孤独ではない(2016年2月22日)
節子
湯島のミニシクラメンが咲きだしました。
まったくと言っていいほど手入れをしていないのですが、昨年から咲き出しました。
唯一心がけているのは、その存在を気にしているだけです。
植物も、しっかりと周りの期待に応えてくれるものです。

湯島のメダカも元気です。
芝エビとの共棲のおかげで、水槽は掃除をしなくてもきれいです。
一時期、水草が多くて、メダカを死なせてしまいましたが、最近はバランスが取れているようで、とても元気です。
オフィスに来たら、できるだけメダカにも声をかけるようにしています。

こうして考えると、人は決して孤独ではありません。
声をかけるべき相手はいくらでもいるのです。
そしてしっかりと声をかければ、すべての存在はしっかりと声を返してくれるのです。
それが聞こえるかどうかは、自分の意識次第です。
人は孤独だとか、孤立社会だとかいうマスコミ報道にまどわされてはいけません。
人は決して孤独ではないのです。

いまは新潟のチューリップも部屋を飾ってくれています。
金田さんが送ってくださったものを少し持ってきたのです。
これだけでも部屋の雰囲気はなごみます。

今日はめずらしく、湯島で一人で2時間ほど過ごしました。
窓の外で進んでいる近くの建築工事現場を見ているのも、楽しいものです。
世界は生きている。
そう思うと、それこそ退屈はしません。
私は時々、かなり退屈してしまいますが、これも問題は自分にあるのでしょう。

今日も寒い日で、窓の外は灰色の冬です。
空が青いか灰色かで、世界の風景は一変します。
しかし、一番の問題は、自分の気持ちかもしれません。
空の色に振り回されないように、自らをしっかり持たなければいけません。

今日は早く帰ろうと思います。
やりたいことをいろいろと思いつきだしてきましたので。
節子がいなくなったので、大忙しです。

■3088:鮒寿しの松井さん(2016年2月23日)
節子
久しぶりに滋賀の松井さんからメールが来ました。
琵琶湖の湖北で、鮒寿しのお店をやっている松井さんです。
近江の鮒寿しは有名ですが、私はとても苦手です。
節子の両親から、めずらしいからと言って、鮒寿しを出してもらったこともありますが、歯が立ちませんでした。
節子の闘病中も、鮒寿しにチャレンジしましたが、節子も不得手でした。

節子が亡くなってからしばらくして、節子の訃報を知って、松井さんは突然わが家にやってきました。
滋賀からわざわざ来てくれたのです。
松井さんは節子の遠縁ですが、さほどお付き合いがあったわけではありません。
しかしそこから私もお付き合いが始まり、一度、ご自宅を訪問させてもらいました。
その時には、もうお店は閉まっていたのですが、わざわざお店を開いてくれて、松井さん自らが調理してくれました。
私の記憶力はかなりいい加減ですから、間違っているかもしれません。
鮒寿しも以前より食べやすくなってきています。
特に松井さんのつくる鮒寿しは食べやすいと評判のようです。
上野の松坂屋で松井さんが実演販売をしに来ていたところに行って、いただいた鮒寿しは私も食べられました。
しかし、松井さんのつくる「鯖寿し」は、とてもおいしく、私も大好きです。
松井さんは、職人でもあるので、いろいろと工夫しているようで、ファンも少なくないようです。

最近私は滋賀に行っていないので、会う機会もなくなってしまいました。
その松井さんから、突然のメールです。
最近悪いことばかり起こるので、ドキッとしてメールを開きました。
悪いお知らせではありませんでした。
ネットを見ていて、ふと、私たちのことを思い出してくれたのです。
そして、私のホームページを読んで懐かしくなり、メールをくださったそうです。
とてもうれしい話です。

さらにうれしいことが書いてありました。

うまく言えませんが、今まで私は自分の事ばかり考えて生きて来たように思います。
勝手な話ですが、自分に何かできないかを今は考えています。

松井さんとは何回か話し合ったことがありますが、決して、自分のことばかり考えて生きている人ではありません。
いろんなことを考えている人のように思っています。
たぶん、「自分に何かできないかを今は考えています」というようなことをいう人は、実際にもういろんなことをやっているのです。
やっているからこそ、そう思うのです。

松井さんは私よりもずっと若い世代で、夢を持っています。
その夢はどうなったのか。
また松井さんに会いたくなりました。

松井さんのお店は、滋賀県湖北の塩津にあります。
国道8号線沿いだったと思いますが、もし近くを通ったらお立ち寄りください。
鮒寿し魚助といいます。
http://www.uosuke.jp/index.html
サイトを見てもらうとわかりますが、通販もやっています。
ごひいきにしていただけると嬉しいです。
節子もきっと喜ぶでしょう。

■3089:信の純粋性と主伴無礙(2016年2月23日)
節子
今日も寒い日になりました。
テレビの「こころの時代」で木村清孝さんの「華厳経」の話を再放映しています。
6回シリーズの5回目を見ました。
そこで、厳密一致ということを知りました。
真言宗と華厳経とは融和性があり、明恵はそれを融和させたのだそうです。
たしかに、真言も華厳も、大日如来を基本においていますので、納得できる話です。

今回面白かったのは、さらに華厳経の明恵と浄土宗の法然との類似性について、木村さんが「信の純粋性」ということを話されていたことです。
いくら念仏を唱えても、いくら仏法に通じても、仏法への絶対的信頼がなければ、意味がないということを、明恵も法然も説いているのだそうです。

真言密教も浄土宗も、華厳経も、みんな通じている。
その話がとても面白かったです。
つまりみんな同じところに行くのです。
私は仏法にはまったくの無見識な存在ですが、どこかに親しみを感じます。
寺院に行くと、そこが何宗であろうと、なんとなく「安堵」します。
それは、やはり「絶対的な信頼」の対象にできるものが、そこにあるからなのでしょう。
もちろん、信頼するかどうかは、自分次第です。
しかし、その気になれば、信頼できるものがそこにあるというのは、とても大切なことなのです。

木村さんは、もうひとつとても示唆に富む話をしてくれました。
「主伴無礙(しゆばんむげ)」ということです。
主伴、つまり主役と伴者は、状況によって替わるものであり、そこには絶対的な壁などない、というのです。
木村さんは、家族を例にとって説明してくれます。
家庭の主人という言葉があるように、私たちは、家族の柱(主人)は父親というように固定的に捉えてしまいがちですが、状況によって、主と伴は入れ替わっていくというのです。
たとえば、母親がお料理を作って、みんなに「はい。今日はこれですよ。こんなご馳走ですよ」と出す時には何と言っても母親が主人公。また食事をする中で、子どもが、「今日、学校でこんな面白いことがあったよ」と話をすると、父親も母親もしっかりと耳をそばだてて聞く。その時には子どもが主人公なんだと、木村さんは説明します。
それこそが、人間同士の、あるいは物事の本来的な関わり方なんだというのです。
こうした物事のありよう、関わり方を華厳経では、「事事無礙」と言っていますが、木村さんがやさしく話してくれると、難しい華厳経が、なんとなくわかったような気になってきます。

いずれにしろ、事事無礙のなかでの、信の純粋性という言葉がとても心に響きました。
まだまだ私は純粋さが不足しています。
しかし、節子に対する信は、かなり自信がありました。
節子も、そうだったはずです。
それがきっと、私の心身の平安を支えてくれていたのだろうと、最近思います。
絶対的なものが不在になるとどうしても相対的な関係のなかで振り回されがちです。
主伴無礙を、もっと意識しなければいけません。

■3090:暇で暇で仕方がない(2016年2月24日)
節子
今日も寒いです。
朝からいろんなことがありました。
少しずつですが、ようやく今年もいい方向に動き出した気がします。
まわりが元気になると私も元気になっていけそうです。

それにしても、最近はみんな忙しそうです。
私の体験では、忙しい時ほど、何もしていない。
こんなことを言うと、叱られそうですが、そんな気がしてなりません。

何もすることがなくて暇なこともあれば、忙しすぎて暇なこともある。
私のこの考えは、なかなかほかの人にはわかってもらえませんが、私はいつも気分的には「暇で暇で仕方がない」のです。
だからと言って、時間が余っているわけではありません。
むしろ時間はもう少し欲しいのですが、大切なことや充実感があることが見つけられずにいるのです。
趣味に没頭できればいいのですが、趣味の世界もいまは全くありません。
社会的に役立つことに熱中できれば、それも幸せです。
しかし、そもそも最近は、私には「社会」が見えなくなってきてしまっています。
心身を忘れるほどに熱中できるものが見つけられないでいます。

何かに没頭できないというのは、退屈な生き方です。
忙しさと没頭は、これもまったく逆の概念でしょう。

うまく言えませんが、ともかく私はいま、人生に退屈していると言うべきでしょうか。
ともかく「暇で暇で仕方がない」。
大切だと思えることがないのです。
節子がいなくなって、これが一番の変化です。
どうやってここから抜け出せるか。
でも、少しずつちょっと先が見えてきたような気がします。
そろそろ暇な生き方からは抜け出たいものです。

今日も数名の人たちに会います。
私の生き方を変えてくれる人に出会えるでしょうか。
出会えるといいのですが。

そろそろ出かけます。

■3091:「父は空 母は大地」原画展で篠崎さんに会いました(2016年2月24日)
節子
今日は、久しぶりに銀座のギャラリーで開催している篠崎さんの個展に行ってきました。
篠崎さんの最新の絵本の原画展です。
作品を見せてもらうのもさることながら、篠崎さんに会いたかったのです。
死に咲きさんは、節子は残念ながら知りません。
節子が逝ってしまった後に知り合った人です。
心のきれいさにおいてはたぶん人後に落ちない人です。
私よりも、ほんの少しだけ年下ですが、とにかく話していて楽しい人です。

数年前に、篠崎さんは同居されていた母上を見送りました。
私は、それがとても気になっていて、篠崎さんに会いたかったのです。
訃報を聞いたのですが、私は何もできませんでした。
篠崎さんが、お母様をどれほど大事にしていたか知っていたからです。

たまたま最近、銀座で個展をやることを知って、篠崎さんがギャラリーにいる時間にお伺いしたのです。
とてもお元気そうでした。
それも、以前よりもぐっと若返ったように見えるほど、でした。
7か月ほどかけて集中的に描き込んだという20枚ほどの作品のすべてが、篠崎さんのいまのすべてを語っていました。
篠崎さんは元気であるだけでなく、何かを吹っ切ったような気がしました。

死について、少し話し合いました。
思いをかなり共感できる気がしました。
そして話は「荘子」になりました。
老荘思想の、あの「荘子」です。

荘子の思想が象徴される話としては、「胡蝶の夢」が有名です。
「胡蝶の夢」についてはこの挽歌でも2回にわたって書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/09/post-9d6f.html
その頃といまの私の心境とは大きく変わっていますが、いまのほうがたぶん荘子の無為自然の考えに近いでしょう。
朝起きて、空が青かったら、予定をすべて変えてしまう。
そういう意味での主体性も、いまのほうが理解できています。

篠崎さんとは、そんな話を小一時間させてもらいました。
篠崎さんのファンは多いようで、あまり篠崎さんを独占してはいけないので、話を切り上げましたが、またいつかゆっくり話そうということになりました。

篠崎さんの、透明な笑顔にお会いできて、とても元気が出ました。
篠崎さんの原画展は27日まで開催しています。銀座4丁目の交差点のすぐ近くです。
お時間があればぜひお立ち寄りください。
http://www.galleryokabe.co.jp/16-2-3info.html
篠崎さんと話すと、元気が出ますよ。

■3092:さびしくもあり、楽しくもある(2016年2月25日)
節子
昨日、銀座の画廊で会った篠崎さんからメールが来ました。
篠崎さんの了解は得ていませんが、こんなことが書かれていました。

日頃孤独に過ごしていますので、個展で大勢に対応すると楽しい反面、戸惑いを感じます。

この気分はよくわかります。
篠崎さんと私とでは、違いはありますが、この感覚は共有しているような気がします。

ちなみに篠崎さんは決して「孤独」ではありません。
「孤高」というべきでしょう。
私と違って、強さがある。
昨日も、もういつ死んでもいいというようなことを言っていましたが、それも孤独でない証ではないかと思います。
言い方を変えれば、篠崎さんには世界が見えてしまったのではないかと思います。
私が勝手に推測しているだけではありません。
昨日、篠崎さんと話していて、伝わってきたことなのです。
いわばある意味での「さとりへの到達」です。
言い淀みますが、私にも最近、少しそんな感じがあるのです。

昨日、篠崎さんと話して一点だけ見解が違ったことがあります。
篠崎さんは、自らの死は体験できないし、死んだ自分も見ることはできないと言いました。
それに対して、私はたぶん死んだ自分を見るだろうと思うと言いました。
実際にそう確信しているのです。
来世を確信していますから、死んだ自分を見ることができると思っているのです。
おそらく節子はいまもなお、私を見ているでしょう。
だとしたら、私もまた、死後、現世を見ることができるでしょう。
もしかしたら、自らの死も体験できるかもしれません。

死後の私が見る現世とはどう見えるのか。
とても興味があります。
いま私が見ているような見え方ではないことは間違いありません。
でもおそらく見えるような気がしています。
節子が見ているように、です。

先祖に見守られているという感覚は、とても大切です。
お天道様が見ているという時の「お天道様」には、祖先も入っているのかもしれません。
仏教は、そうした感覚を意識づけしてくれました。
その感覚が持続してれば、孤独などという思いは生まれないでしょう。
宗教の大きな効用は、人の命をつないでいくことだろうと思います。
個人の死は、死ではなくなるのです。

愛する人や大切な人を亡くした人は、そういう思いを持てるかもしれません。
少なくとも私は、節子がいまなお私を見ていると思えるのです。

昨日の篠崎さんがあんなに元気で、透明だったのも、そこにたどり着いたからかもしれません。
昨日の篠崎さんの話は、すべてにおいて、肯定的でした。
前にもまして、ますますさわやかでした。

人の関係は、実に不思議です。
長年付き合ってもわかりあえない人もいれば、瞬時にしてわかりあえる人もいる。
この数日、私も友人に関して、戸惑うことの多い数日でした。
さびしくもあり、楽しくもある。
それが友人というか、人とのつながりなのでしょうか。

■3093:フェイスブックのコミュニティ(2016年2月26日)
節子
フェイスブックというのは節子は知らないでしょうが、面白いメディアです。
人をつなげるメディアやツールは、人の世界を規定していきます。
私にとっての、最大のコミュニケーションメディアは、以前は湯島という場所でした。
そこで会う人たちが、私の世界の中心を占めだしました。

次に、もう一つの中心になったのが、電子メールです。
電子メールをやっている人とやっていない人とでは、交流の頻度や共有情報が圧倒的に変わっていきました。
時間軸さえも、かなり共有できるようになります。
そのため、私の世界を構成する友人知人も、その影響を受けてしまって、変化しました。
メールをやっていないと、いつの間にか疎遠になりがちで、そのうち、交流も途絶えてしまった人もいます。

最近は、私の場合、なんといってもフェイスブックです。
フェイスブックの効用は実に大きいです。
ゆるやかなつながりと、さりげない世界の共有ができるのです。
メールよりも、主体的に関われますので、負担はほとんどありません。
最近は、フェイスブックでなんとなく世界を共有している人が、私の世界の中で大きな比重を締め出しています。
なかには、一度もあったことのない人もいますが、不思議なもので、そういう人ともいつか必ず会えるような気がします。
そして、会った時には、もはや初対面の気分ではなく、旧知の友人のような気さえするのです。

節子がいなくなってから、私の世界はかなりヴァーチャルになってきました。
しかし、それは現実に会うことが伴っているから、成り立っているのかもしれません。
節子とは、いまのところ、この現世では会うことはないでしょう。
それがとても残念です。

今日はめずらしく、小宮山さんが主催する、多彩な人たちの交流会です。
こういうのはあんまり気が進まない上に、会場がお台場のヒルトンホテルです。
最近は、そういう世界には、どうも違和感が強くなってきています。
気は重いですが、小宮山さんにはお世話になっているので、顔を出そうと思います。
もしかしたら、会いたかった人に会えるかもしれません。

でもまあ、現世での交流世界は、そろそろ閉じだしたほうがいいのかもしれません。
とりわけヒルトンに集まるような人との縁は、補足していこうと思っています。
小宮山さんには内緒ですが。

■3094:呪いを解きたいです(2016年2月27日)
節子
昨夜は、小宮山さんのパーティに参加してよかったです。
たまたま隣席だった人と話がとても合ったのです。
とてもいい出会いで、きっと何かが始まりそうです。

とまあ、そこまではよかったのですが、その後が大変でした。
なぜかくもつらいことばかり起こるのでしょうか。
電話がかかってきて、パーティを途中で抜け出しました。
急な相談があるというのです。
公開するのは憚れますのでやめますが、一気に疲れが襲ってきました。
精神的に疲れ切って、帰宅して、倒れるように寝てしまいました。

朝起きて、メールを開きました。
またまた驚く話が届いていました。
元気になっていたと思っていた友人が、またがんで手術なのだそうです。
幸いなことに転移ではなく、重複がんだそうですが。
私がかなり疲労しきってきているので、その人に応援を頼みたい気分になっていたところだったのです。

今年はなんでこうも悪いことばかり起こるのでしょうか。
呪われているのではないかと思いたくなるほどです。

今日は、しかし、社会教育のパラダイム転回を呼びかけるミニフォーラムです。
元気を出さないと呼びかけできなくなります。
頑張って、これから出かけます。
節子の応援が、心底ほしいです。

■3095:琵琶湖の小鮎の佃煮(2016年2月28日)
節子
まるでブラックフォールに引き込まれるように、悪夢はつづいています。
今度は節子も知っている友人からの思いもしなかった知らせです。
いったいどうなっているのでしょうか。
そうしたなかで、いろんな相談事に今日も振り回されました。
こんな言い方は誠実ではありませんが。

先日、久しぶりにメールしてきた滋賀の松井さんが、自分のところでつくった「琵琶湖の小鮎の佃煮」を送ってきてくれました。
節子はこれが好物でした。
生家の近くの琵琶湖畔のお店で売っている、小鮎の佃煮も買ってきたことがありますが、やはり塩津の魚助の小鮎がおいしいと言っていました。
そんなことを思い出しました。
早速、節子にもお供えしました。
今日の数少ないうれしいことです。

明日は、少しゆっくりと休みたいです。

■3096:声の相性(2016年2月29日)
節子
あっという間に2月も終わりです。
今年は少し前を向いて生きようと思っていたのですが、年初からいろいろあって、出足をくじかれてしまい、結果的に時間に追い立てられるように過ごしています。
かといって、何かをやっているわけでもなく、ただ精神的な余裕がないだけなのです。
体勢を立て直そうと思うと、そこでまた新しい問題が飛び込んでくる。
それも気が萎えるようなことが少なくありません。
そして気がついたらもう2月も終わりです。

今日はいささかめげていたので、録画していた「日本仏教のあゆみ」の最終回を見なおしました。
内容が問題なのではありません。
もうこの番組は見ていますから。
このシリーズは、東洋大学学長の竹村牧男さんが解説してくれているのですが、竹村さんの話しぶりが、とても気持ちを和らげ、元気をもたらしてくれるのです。
私は竹村さんとは全く面識もありませんし、どんな人かも知りません。
しかし、その表情や話し方、そしてその声が、ともかく心を平安にしてくれるのです。

なぜそんなことを思いついたかと言えば、実は一昨日のフォーラムに参加してくれていた、澤内隆さんという人から、私の声がとても癒される声だとしつこいくらい言われたのです。
初対面の人ですが、とても不思議な人で、その話には圧倒されたのですが、なぜか私の声が気にいり、隣にいた若い人にまで、同意を強制していました。
その時に、人の声の相性というのがあるのだと気づきました。
澤内さんには、きっと私の声が合ったのでしょう。
相性の問題だとしたら、私の声が耳障りの人もきっといるわけですが。

私は、節子の声が好きでした。
節子はコーラスグループに入っていましたが、私から言えば、ちょっと音痴でしたし、歌の時の声は必ずしもきれいではありませんでした。
しかし、普段話す声は、私は大好きでした。
そして、節子も私の声が好きでした。
いまから思えば、私たちの声の相性はとてもよかったと思います。
だからふたりで話し合っているだけで、気持ちが和み、幸せだったのです。
「声の相性」はとても大切なのだと、気づきました。
しかし、その「心を和ませてくれる声」を聴くことは、私にはもうないのです。
声だけは、誰も変わりをしてくれません。
節子がいなくなってからの不調は、あの声が聞けないからかもしれません。

そういえば、もう20年近く前ですが、「生きがいの創造」の著者の飯田史彦さんからも同じようなことを言われたことがあります。
飯田さんはどうされているでしょうか。
飯田さんとも会いたくなってきました。

いろんな人に会いたくなるということは、そろそろ時期が近づいてきたということでしょうか。
まあ、それも良しですが、3年ほど待ってほしいという気もします。
折角、新しいことをやろうという気になってきているのですから。
でもまあ、節子の時のことを思えば、生命を司る神様は、そんな事情など斟酌してくれないようです。
困ったものです。

■3097:日本人は本来みな仏教徒(2016年3月1日)
節子
昨日、NHK「こころの時代」のことを書きましたが、仏教関係の番組も、最近よく見ています。
私は、仏教に関して、特別に何かを学んだことはありません。
仏像を拝むのは好きですが、お説教を聞くのも苦手です。
仏教関係の書物も時々読みますが、それはかなり小難しい本であり、いわゆる僧侶が書いた本はあまり読みません。
最近人気だという若い僧侶の書いた本を薦められて、読んだことがありますが、退屈でした。
もちろん、たとえば韓国の法頂さんの著作などは面白かったのですが、それは「お説教」などとは無縁だったからです。
その生き方に共感したのです。

ところで、日本人は本来みな仏教徒なのではないかと思います。
NHKの「こころの時代」で仏教関係の番組を見ていると、とても納得できることが多いのです。
言葉は難しいですが、私が子どもの頃の日本人の生き方が語られているだけのような気もします。
そういう生き方がいまは大きく変わってきているのでしょう。
日本人は、おかしな方向に「教化」されてしまったような気がします。
私自身も、忘れていたことに気づかされることも少なくありません。
無意識にやっていることを意識化されることもあります。
ですから、自らを問い質す意味でも、仏教関係のテーマはできるだけ見ています。

そして、思うのです。
日本人は本来みな仏教徒なのではないか、と。
私の生き方も、かなり(日本)仏教徒の生き方だなと思うのです。
少なくとも、キリスト者やムスラムではありません。
人の思想は、やはり風土に深くつながっている気がします。
これも実は、節子と結婚して、滋賀の暮らしを垣間見せてもらったおかげです。
華厳経や法華経、あるいは禅宗でも浄土宗でもいいのですが、そういうものの解説を聞いていると、まさに日本人の生き方そのもののように思えてきます。
私の生き方や思いとも重なっているのです。

誤解があるといけませんが、私が高僧のような生き方をしているという意味ではありません。
人にはみな仏性がある。
利他は利己を包み込んでいる。
個々のいのちにすべてのいのちが畳み込まれている。
信頼すれば裏切られることはない。
疑いを持てば、それが現実になる。
縁がすべてを起こし、因と果は循環している。
素直に誠実に生きることにこそ仏性。
ご先祖様に恥じない生き方。
などなど、こういったことが、素直に心に入ってくるということです。
いささか手抜きのこともあるのですが、毎朝唱える般若心経のメッセージも、あまり違和感なく心に入ってきます。

昨日、竹村さんの声を聞きたくて見た番組では、黄檗宗の「伝心法要」に出てくる「動念即乖 擬心即差」という言葉が紹介されていました。
念を動ずればすなわち乖(そむ)く
心を擬すればすなわち差(たが)う
とてもよくわかります。
たぶんこれは昔の日本人の生き方だったような気がします。
その生き方を大事にしていたはずが、私も世間の風潮に流されて、どうも念を動じ、心を擬する生き方に陥ってきているようです。
改めて、自らを問い直さなければいけません。

■3098:今年は河津桜が咲きました(2016年3月2日)
節子
昨年は手入れ不足でほとんど花をつけなかったわが家の河津桜が、今年は復活しました。
3日前から咲きだしています。
気づいてはいたのですが、この数日、ゆっくりと声をかける間もありませんでした。
今朝、朝日に輝いている桜と少し話しました。

この河津桜は、節子が元気だったころに、節子の姉夫婦と一緒に河津に行った時に、飼ってきた2本の苗木の一本です。
鉢に植えていたのですが、水やりが足りずに一本は枯れてしまい、一本も枯れそうでした。
節子が残した花木は、だいぶだめにしてしまいましたが、この桜は大きな鉢に移植し、元気を回復してくれました。

節子は、記憶力が私よりはいいですが、私にはあまりよくありません。
過ぎ去ったことはどんどん忘れてしまい、しかも、記憶が雑然としてしまうタイプです。
ですから、その時の河津の記憶もあまりないのですが、ともかくにぎわっていたことは記憶にあります。
義兄の車で行ったのですが、駐車場探しが大変だった気がします。
節子は桜が大好きだったので、満足だったでしょう。
その頃は、節子に付き合って、いろんな桜を見に行きましたが、場所と雰囲気が残っているのは、河津だけです。
しかし、河津の帰路に、どこかに寄ったはずですが、それも全く覚えていません。

いま気づいたのですが、もしかしたら、節子との記憶は、節子が持って行ってしまったのかもしれません。
もともと記憶力はよくないのですが(過去への関心が希薄なためかもしれません)、一緒の思い出をたくさん残したいと言っていた節子の意に反して、闘病中の節子との旅行の記憶は特に曖昧です。
これは、節子の思いやりかもしれません。
そう思うことにしましょう。

小さな庭なのですが、節子がたくさんの花木を植えていたため、その手入れも大変です。
最初は水やりさえも、あまりうまくできませんでした。
生き物は、たとえ花といえども、簡単ではありません。
庭の花木に水をやるたびに、節子を思い出します。
記憶に残るのは、そうした日常の風景なのかもしれません。

今日はとてもいい天気になりそうです。
富士山も、見えました。

■3099:チューリップのがんばり(2016年3月2日)
節子
5日ぶりに湯島に来ました。
なんと机の上のチューリップが、まだ元気に花を咲かせていました。
ところが、水を替えようと思って、花瓶を持ち上げた途端に、ぱらぱらと半分の花びらが散ってしまいました。
私が来るのを待っていてくれたような気がしました。
その健気ながんばりに、うれしくなりました。
それで、いささか寒いのですが、部屋を暖めると残りの花が散ってしまいそうなので、エアコンを入れずに、コートを着たまま、パソコンを始めました。
幸いに今日は、夕方まで来客はないのです。

一昨日、時評編に「認知症徘徊の列車事故訴訟、家族の賠償責任を否定」というのを書きました。
同じものをフェイスブックにも書きました。
いずれも反響がいろいろとありました。
それを読んでいると、現代の社会の実相が伝わってきます。
最近の人たちは、みんな誰かのせいにしたがっているのは、いささか気になりますが、でも普通の人たちは、みんなチューリップのようにがんばっているのです。
今回、被害に会った認知症の人の家族も、頑張っているのが伝わってきます。

無理やりチューリップにつなげてしまった感がありますが、ふとそう思ったのです。
でも過剰にがんばってはいけません。
過剰にがんばらせてもいけないのです。
私のためにではなく、散るときには散るのがいい。
あんまり意味のないことですが、チューリップにそう伝えました。
でも、それを聞いても、残ったチューリップは散りません。
今夜の来客のためにがんばっているのです。
私よりは、ずっと根性があります。
見習わなくてはいけません。

ところで、ブログの記事の話です。
ブログやフェイスブックでは、時にかなり激烈なお叱りを受けることもありますが、今回は大方、好意的なコメントやメールが多かったです。
しばらくぶりですと言って、北九州市の上野さんまでメールしてきてくれました。
実にうれしい話です。

みんな、がんばっている人のことはわかるのでしょう。
エールを送りたがっているのです。
にもかかわらず、社会はどんどん劣化してきているような気がします。
しかし、そうであろうとも、このチューリップのように、がんばらないと、ますます社会は劣化してしまうでしょう。
いささか疲れて、いまにも散りそうな3本のチューリップを見ていて、少し反省しました。

それにしても寒いです。
実は、時々やってしまうのですが、今日もちょっと薄着のまま出てきてしまったのです。
チューリップには悪いのですが、エアコンを入れたくなりました。
手もかじかむほど冷たいです。
しかし、彼らには極力、あったかい風が当たらないようにしようと思います。

■3100:湯島の場の不思議なパワー(2016年3月3日)
節子
昨夜はちょっと重いテーマの話し合いを持ちました。
集まったのは4人です。
みんな思いのある、しかしちょっと社会の本流からは外れた人たちです。
いや、ちょっとではなく、かなりかもしれません。
社会に居場所を見つけられずにいる人たちの居場所を増やしたいというのが、共通した思いであり、そのために時々、ミーティングをしています。
みんな忙しく活動しているので、会うのも夜しかありません。
話しているうちに、昨夜も10時近くになってしまいました。

社会のど真ん中にいると、社会の実相は見えにくいように思います。
ど真ん中でないとしても、大きな組織にいると、見えてきません。
私は会社を辞めて、さまざまな現場に関わらせてもらううちに、社会の豊かさを知りましたが、同時に、「やりきれない現実」も知りました。
おそらく昨夜集まった人たちも、そうした「やりきれなさ」に無関心ではいられない人たちなのです。
かなり年上の私だけが、良い時代の恩恵を受けてきました。
ですからいささかの後ろめたさはありますが、そういう私にもできることはあるはずです。
そんなわけで、まあ時々、こうやって話し合いをしているのです。

3人が異口同音に行ってくれるのが、湯島のこういう場はめずらしいということです。
私は、こういう場はほかにもたくさんあり、しかももっときちんとした場があると思っていますが、そういう場をいろいろと体験しているはずの3人からそういわれると、ちょっと「そうかな」という気にもなります。
どこがどう「めずらしい」のか、なかなか言語化はできません。
でも、私自身、なんとなくわかるような気もします。
私は、本当は、もうあんまり社会に関わらずに、のんびりと無為に過ごしたいのですが、どうもこの湯島の「場」が、私を動かしているのかもしれません。
そんな気がしてきています。

昨夜の話し合いで、また新しい活動が始まりそうです。

■3101:「悲しみを知らない者は、生の歓びを知らない」(2016年3月3日)
節子
3月になって少し流れが変わりだしたような気がします。
世界は、自らの脳の中にあると誰かが言っていたような気がしますが、まさにその通りです。
新しいプロジェクトに取り組みたくなってきています。

もっとも自分で自覚している自分と他者に見えている自分とは、かなり違うようです。
最近特にそう感じます。
私があんまり元気がなくて、活動が停滞しているなと思っているのに、佐藤さんの最近の活動は、どうしちゃったのかと思うくらい盛んですね、などと言われることもあります。
人の見え方はいろいろです。
人の思いや実体は、実はあまり表面には出ないものなのだろうと思います。
元気がないからこそ、見かけ上は頑張ってしまうこともある。
悲しいからこそ、笑ってしまうこともある。

「悲しみを知らない者は、法に遇う喜びを知らない」と、仏教思想家の金子大栄さんは言っています。
「法」とは、仏の教えの意味でしょうが、真理と言い換えてもいいでしょう。
私は、生命の、あるいは生の輝きというように受け止めています。
喜怒哀楽の核心は、涙だと思います。
喜怒哀楽のすべてにおいて、涙は出てきますから。
しかし、最も深い涙は、悲しみだろうと思うのです。
そして、その深い涙を体験すれば、生の輝き、エラン・ヴィタールを感じられるようになる。
最近、ようやくそんなことを思い至ることができるようになってきたのです。

しかし、思い至ることと実感することには、まだ距離があります。
残念ながら、私の場合は、まだ実感はできずにいます。
ですから、まだ「笑い」が戻ってこないのです。

会社を辞めて、生き方を変え、節子と2人で仕事を始めたころ、取材を受けたことがあります。
会社時代にも取材を受けた人です。
その人が本に書いた記事に、私が以前とは全く違って、「ともかくよく笑う」と書いていました。
あの記事を書いてくれたライターの工藤さんとは、つきあいがなくなっていますが、彼女がいま私を取材したら、何と書いてくれるでしょう。

法に遭う喜びを得たら、また笑いが戻ってくると思うのですが、まだ戻ってこない。
悲しみがまだ不足しているのでしょうか。
悲しみすぎたのでしょうか。
いや、信仰が不足しているかもしれません。

今日は、節子の102回目の月命日です。

■3102:現世の人はみんなつながれる時代になりました(2016年3月4日)
節子
この頃、お墓に行っていません。
でもまあ、毎日、自宅の位牌に挨拶しているのでいいでしょう。

フェイスブックをやっていると、いろんなことが起きます。
まさかと思うような人が知り合いだったりして、世界のつながりを感じます。
最近知り合った人の奥さんが、何とこれまた一昨年知り合った人の甥のむすめさんだったりして、一挙に親しみを高めました。

今日はまた、友人が私の友人の農場の一画を借りて家庭農園をやっているということがわかりました。
そのおかげで、この20年近く交流が途絶えていた人との交流も始まりそうです。

そんななかで、一つの実験を仕掛けてみました。
私が大学生の頃、家庭教師をしていた「松野直行」さんを探すことにしたのです。
それで、誰か知っていないかとフェイスブックに投稿しました。
何人かの人が、その投稿記事をシェアしてくれました。
南米にいる人までシェアしてくれたので、世界的に情報がまわったわけです。
しかし、1回だけの投稿では、立ち消えてしまい、効果はないかもしれませんので、時々、投稿してみようと思います。
いつかわかるかもしれません。

松野直行さんは、私が大学生の頃、中学生でしたから、私よりも5〜6歳は年下です。
目が輝いている無邪気な子で、新宿の神楽坂の坂上に住んでいました。
妹さんもいました。
1年ほど家庭教師をした気がします。
家庭教師のことはあまり記憶がありませんが、妹さんも含めて3人で後楽園遊園地に遊びに行ったことがあります。
なぜかそれを思い出して、急に会いたくなったのです。
うまくいって彼に会えたら、もう一人会いたい人がいます。
その人はまだ会ったことがない人です。
私のブログを読んで、わざわざ湯島にまである資料を届けてくれた人です。
連絡先がわからずお礼ができずにいます。

インターネットのおかげで、今や地球上の人はみんなつながれるようになってきました。
そのうち、彼岸の人たちともつながれるようになるでしょうか。
まあそうなったとしてもその時は私はきっと彼岸にいるでしょうが。

■3103:二代目のミモザ(2016年3月5日)
節子
今日はあったかくなるという予報でしたが、寒い朝です。
この時期の天候は変化が激しいので、ついていくのがつかれます。

フェイスブックのことを先日書きましたが、フェイスブックの世界に入ってしまうと、それだけで完結しそうな気がしてくるのが恐ろしいです。
投稿すると、途端に数名の方からコメントがあります。
そのコメントをつなげていくと、それだけでバーチャルなコミュニティの中にいるような気になってしまいます。
やりとりは、その気になれば無限に続いてしまい、注意しないと吸い取られそうです。
もっと外に出なければいけません。

今朝、図書館に行った帰りに、手賀沼公園を自転車で少し回ってみました。
節子とよく散歩に来たところです。
元気だったころはほとんど来ることはなかったのですが、節子の闘病期には、毎朝のように来ていました。
ですから、節子がいなくなってからは、この公園にはあまり足が向かなくなっています。
すぐ近くなのですが、そしてとてもいいところなのですが、気が向きません。

そういえば、少し遠くにある、あけぼの山公園も行かなくなりました。
桜もチューリップもとてもきれいな公園です。
最後に家族と行った時に、節子がいつもよりも桜をゆっくりと眺めていたのを思い出します。
それも公園の桜ではなく、なぜか駐車場の桜を見ていた記憶が強く残っています。
人の記憶は、時に不思議な形で残るものです。
その時、節子は何かをしみじみと語っていたような気もしますが、それが全く思い出せません。
思い出せないことを思い出すのも、不思議な話ですが。

庭のミモザがきれいです。
ミモザは節子が好きで植えたのですが、節子がいなくなってから枯れてしまいました。
そこで同じ場所に、新しいミモザを植えました。
あまり育ちがよくなかったのですが、昨年くらいから見事に咲きだしました。
今年もきれいに咲いているので、一枝を切って、節子に供えました。
新潟のチューリップもまだ何本かががんばっています。

■3104:アーユルヴェーダ(2016年3月7日)
節子
一昨日は、湯島でサトヴィックの佐藤真紀子さんにお願いして、「アーユルヴェーダってなんだろう」というサロンを開催しました。
真紀子さんに会うのは10年ぶりです。
節子の胃がんが発見され、その状況を診てもらいに、インドから来日していたサダナンダ・サラディシュムク医師に脈診をしてもらった時以来です。
真紀子さんは、当時よりもずっと元気な感じを受けました。
アーユルヴェーダな生活のおかげで、ますます元気になっているのでしょう。
日本でのアーユルヴェーダ活動がインドでも認められてきているようです。

真紀子さんの説明によれば、アーユルヴェーダとは「生命を果たす/使い尽くすこと」だそうです。
与えられた生命をしっかりと活かすと言ってもいいかもしれません。
そのための、さまざまな知恵の体系がアーユルヴェーダなのです。
節子は、果たして「生命を果たす/使い尽くすこと」かどうか。
こういうことを考えることは、私にはかなりつらいことではあります。

真紀子さんの話を聞いていて、節子が脈診を受けた時のことを思い出そうとしたのですが、なかなか思い出せません。
その場所が、なんとなく現世の場ではなく、まるでインドのような、あるいは彼岸のようなイメージがなぜか浮かんでくるのです。
真紀子さんが通訳をしてくれたはずですが、その姿も思い出せません。
頭の中で、私の記憶がどうもつくりかえられてきているのかもしれません。
どこだったかも全く思い出せないのです。

最後に、真紀子さんは質問に応じて、アーユルヴェーダは「解脱を目指す」という話もしてくれました。
ここだけは私の思いとは違います。
私は解脱を望んではいないのです。
解脱してしまったら、もう節子には会えません。
もう少し輪廻転生を繰り返し、彼岸でも現世でも、また節子と会いたいと思っています。

■3105:「忘れられないけど、忘れるんだよな」(2016年3月7日)
節子
節子は、ワンダーアート・プロダクションの高橋さんに会ったことはないと思いますが、彼女は3.11の東日本大震災が起こるやいなや、アートで被災地の子どもたちを元気づけようと、ARTS for HOPEという活動を始めました。
それ以来の高橋さんの活動ぶりには、圧倒されるものがあります。
その根底にあるものに、少し感ずるものがあって、私自身は何も応援できませんが、ひそかにエールを送っています。

そのARTS for HOPEの「今、ここで生きている」展が上野駅の中央コンコースで開催されていました。
昨日は最終日だったのですが、やっと会場に行けました。
この展示会は、高橋さんたちの活動を広く知ってもらおうと、今年の1月13日に、南相馬から始まり、各地で開催、その最終地が上野だったのです。
最終日にやっと立ち寄れました。
まず目についたのが、パネルにあった言葉です。
「忘れられないけど、忘れるんだよな」
大船渡市で開催した時に、やってきた人の言葉だそうです。
いろんな意味を含意している言葉で、ドキッとしました。

忘れられないのに忘れる。
東日本大震災について言えば、正直、これは私の現実でもあります。
たぶん被災地は、5年前とあまり変わっていないのだろうなと思いながらも、身の回りからはそういうことが見えなくなってきているために、ついつい過去の出来事と思ってしまいがちなのです。
そして、大船渡市の人も、そう思っている。
当事者も、そうなのです。
しかし、その時の「忘れる」の意味は、当事者ではない私とはたぶん全く違うでしょう。
当事者は、忘れないと生きていけないのかもしれません。
記憶を正しく残したいために、忘れるのかもしれない。

比較にはまったくならないと思いながらも、私はつい、節子のことを思い出してしまいました。
文脈は状況と全く無関係に、「忘れる」という言葉は、私の心に引っ掛かる言葉になってしまっているのです。
なぜなら、死者にとっては、忘れられたら生きていけないからです。
そんなことを思いながら展示を見ていたら、スタッフの方が近づいてきました。
「高橋さんはいますか」と訊いたら、ちょうど、不在の時間帯でした。
そうしたらその方が、「佐藤さんですか?」と逆に訊いてきたのです。
前に一度、高橋さんと一緒に会ったことがあるのだそうです。
大変失礼ながら、私は失念していました。
一度でも会ったら、できるだけ忘れないようにしようと心がけていますが、どうも最近は脳機能が落ちているようです。
彼女と別れて、歩いていたら、突然にその時のこと、つまり前に会った時のことを思い出しました。
たしか5年前に、湯島のサロンで話題提供してもらった時に、高橋さんと一緒に来てくださったのです。
一度覚えたことや体験したことは、必ずどこかに残っているようです。
ただ思い出せないだけなのです。
忘れたようで忘れていない。
そのことを忘れないようにしたいと思います。

■3106:自然の天気と心の天気、そして身の回りで起こること(2016年3月7日)
節子
昨日、久しぶりに上野公園と不忍池を通って湯島まで歩きました。
節子がいた頃は、よく一緒に歩いたコースです。
上野公園は、すでに桜が咲きだしていて、にぎわっていました。
不忍池は、ちょっとさびしい季節ですが、それでも暖かい日だったので、これもにぎわっていました。
そこからちょっと脇道に入ると、節子が好きだった陶器屋さんがあるはずなのですが、久しく来ていなかったので見つけられませんでした。
湯島天神も通り抜けましたが、桜と梅が一緒に咲いていました。
湯島天神は、年々にぎやかになってきている気がします。
どこもかしこも、気分は春という感じでした。
残念ながら、私の気分にまでは届いてこないですが。

今日は打って変わって、また冬の気分です。
今日は在宅なのですが、朝から冷たい雨が降っています。
昨日、ほころびだした気持がまた少し冷えてしまいました。
途端に、ちょっと残念なメールも届きだしました。
うれしいメールつづきの昨日とは様変わりです。

不思議なもので、自然の天気と心の天気と、そして身の回りで起こることとは、実に深く共振しているような気がします。

■3107:巡礼者の来訪(2016年3月7日)
節子
昨日、節子も知っている鈴木さんが湯島にやってきました。
昨年2か月半かかってスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラを歩いたために、足を痛め、帰国後すぐを予定していた四国巡礼に出かけられずにいたのですが、いよいよ出かけるようで、その前にということで会いに来てくれたのです。
いつものことながら、鈴木さんに2人で会うと、巡礼の話で私が口をはさむすきがないほど、鈴木さんの独演が始まるのです。
今回も2時間の独演会でした。
話している時の鈴木さんは、顔が輝いています。

鈴木さんはサンチャゴには何回も行っていますが、通しで歩いたのは昨年が初めてです。
しかも昨年はフランスから歩いたので、たくさんの経験をしてきているのです。
鈴木さんは、もともとライターです。
私が最初に鈴木さんの文章を読んだのは、たしか北東欧州の旅行記でした。
とても人間味ある文章だったのですが、その後、そうした鈴木さんらしい文章をあまり読んでいないので、ぜひサンチアゴ巡礼記は書いてほしいと言っていたのですが、ようやく書き出したそうです。
ブログに書いているそうですが、ハンドルネームなので見つけられないでしょうと、ブログアドレスは教えてくれません。
ブログを書き出したことさえ話したのは、私が3番目なのだそうです。
でもまあ、探すのはそう難しいことではないでしょう。
読むのが楽しみです。

鈴木さんは、人生そのものが巡礼だという実感を持っています。
全く同感です。
サンチャゴで出会った数名の人や宿泊所の人との、鈴木さんらしい、誠実な付き合いが広がっているようですが、鈴木さんはたくさんの人生を体験してきたのでしょう。

鈴木さんは以前、インドのアシュラムで数か月暮らしたことがあります。
私は、その出発の時に、たぶん鈴木さんはインドに定着するだろうなと思っていました。
だから4か月で帰国したのは意外でしたが、いまから考えれば、鈴木さんはインドでも日本でも、たぶんそう変わらない生き方をしているのです。
そして、アシュラムを歩いた結果、人生は巡礼だと気づいたというの、なぜまたわざわざ四国のお遍路に向かうのか。
ちょっと気になりましたが、質問は止めました。
巡礼から戻ったら、その時に尋ねようと思っています。
そして鈴木さんによる「巡礼人生カフェサロン」を開催する予定です。

帰宅後、パソコンで鈴木さんのブログを探しました。
意外と簡単に見つかりました。
鈴木さんの巡礼のコースを知っていたからです。
さて皆さんも探してみてください。
ちょっとした楽しいゲームです。
ヒントは、今年の8月にフランスのル・ピュイから出発しています。
私もほぼそれだけの情報で探し出しました。

鈴木さんのそのブログは、さすが鈴木さんというほど、おもしろく示唆に富むブログです。
写真も実にいい。
いつか鈴木さんから解禁の許可が下りたらアドレスを公開しますが、まあ謎解きを楽しむ感じで探してみてください。

■3108:物語はハッピーエンドでなければいけない(2016年3月8日)
節子
久しぶりに映画「グラディエーター」を観てしまいました。
パソコンである報告書をまとめていたのですが、疲れたので気休めにと思い、手元にあったDVDのなかから選んだのが「グラディエーター」でした。
私のDVD映画の観方は、観たいシーンを繰り返し観るという方法なのです。
もちろん初めて観る映画は最初からきちんと観ますが。

「グラディエーター」は、私の好みではないので(題材は私の好みです)、2回目なのですが、ローマ帝国の崩壊が始まったコモドゥス皇帝の時代の物語です。
史実とはかなり違いますが、同じ題材を扱った「ローマ帝国の滅亡」(こちらの方が私の好みでした)とも違い、ハッピーエンドではありません。
だから私の好みではないのです。
私は、ハッピーエンドが好きなのです。
物語は、ハッピーエンドでなければいけないと思っているからです。

ところが、今回、この映画を観て、これはハッピーエンドの物語ではないかと気づいたのです。
主人公のマクシムスもコモドゥスも、です。
そしてローマ帝国も。

映画の内容を説明していないので、観ていない人にはわからないと思いますが、映画の最後は、剣闘士になったローマ将軍マクシムスと皇帝コモドゥスが円形闘技場コロッセウムで決闘し、結果的には2人とも死んでしまいます。
にもかかわらず、なぜハッピーエンドなのか。

皇帝コモドゥスは、賢帝と言われた父親のマルクス・アウレリウスを殺害し(映画のなかの話です)、父親が帝位を譲ろうとしていたマクシムスの家族を殺害します。
マクシムスは殺害を逃れ、剣闘士としてコロッセウムに登場、ローマ市民の熱狂的な拍手喝さいのなかで英雄になっていきます。
そのため、皇帝コモドゥスはマクシムスを殺すことはできなくなります。
唯一の解決策は、マクシムスとの決闘で勝利することで、ローマ市民の拍手喝さいを自らに引き取ることだけです。
結果はマクシムスに殺され、マクシムスもその傷で死んでしまいます。
しかし、皇帝コモドゥスは栄誉ある死を実現し、おそらく最後は幸せだったでしょう。

マクシムスはどうか。
彼は帝位を望んではいませんでした。
戦いが終われば、故郷に戻り、家族と暮らしたかった。
それが彼が望んだ幸せでした。
「ローマ人の物語」を書いた塩野七生さんは、このことだけで、マクシムスは皇帝には向いていないと断定しますが、そうかもしれません。

映画「グラディエーター」のラストシーンは、冥界に向かうマクシムスを迎える妻と息子の出会うシーンです。
間違いなくマクシムスは、幸せを得たのです。
皇帝になることは、決して彼を幸せにはしないでしょう。
この映画は、ハッピーエンドの物語だったのです。

物語はすべてハッピーエンド。
人生もまた、すべてハッピーエンドなのだろうなと、思います。
問題は、その「幸せ」に気づくかどうか、です。

■3109:ハッピーではない物語(2016年3月9日)
節子
今日は冷たい雨の1日でした。
その雨の中を歩いていて、ふと昨日書いた挽歌の「物語はすべてハッピーエンド」という言葉が頭に浮かびました。
昨日は、自らを鼓舞する意味もあって、そう言い切ったところもあるのですが、アンハッピーな人生もあるのかもしれないと思ったのです。
冷たい雨と寒さのせいかもしれません。

そして、ある物語を思い出しました。
どう考えても「ハッピーではない物語」です。
それは、いまテレビでもドラマ化されて放映されている「わたしを離さないで」です。
カズオ イシグロの小説が原作です。
この小説に関しては、以前書きました。
またブログでも、その話も題材のひとつにした、「オメラスとヘイルシャムの話」というシリーズ記事があります。
ホームページにまとめて収録していますので、関心のある方はお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

あの話は、どう考えてもハッピーとは言えません。
いま、放映中のテレビドラマは最初の3回はなんとか我慢して観ましたが、その後はとても観る気になれません。
あまりにもアンハッピーで、心が萎えるからです。
小説は、それほどではありません。
でもテレビはあまりに残酷すぎます。
未練がましく録画はしていますが、私の心身では、受け止められない恐れがあるので、観る気にはなれません。

なぜアンハッピーなのか。
雨の中を帰る途中、ずっと考えて、理由がわかりました。
そこに「いのち」がないからです。
しかし、残念ながら、その意味をうまく説明できません。
「いのち」ってなんなのか。
また一つ難問を背負い込んでしまいました。
ヘイルシャムの子どもたちは、生きてはいないのです。
だから、とても哀しい。
恐ろしいほどに哀しい。
だから読者をハッピーにしないのです。
読者をハッピーにしなければ、登場人物もまた、ハッピーではないでしょう。

アンハッピーな物語もあるようです。
しかし、アンハッピーの物語の上に、もし私が生きているとしたら、私もまたアンハッピーのはずです。
とすれば、すべての人生はアンハッピーということになりかねません。
寒さのせいで、どうも思いが暗くなってしまいます。
昨日とは、まったく違う結論になってしまいました。
困ったものです。

カミユを読み直したくなりました。

■3110:5年目の3・11(2016年3月11日)
節子
今日は東日本大震災から5年目です。
時評編に書きましたが、重い1日です。
いろいろと思うことも少なくありません。

あの日、1日だけで、多くの別れが起こってしまいました。
しかも、その悲しみが複雑に絡み合っていることでしょう。
自分の悲しみであると同時に、自分たちの悲しみでもある。
そして、その一つひとつに、他者とは分かち合えない物語があると思うと、それだけで私には3.11は想像さえできなくなります。
私は、たった一人との別れで、人生を変えてしまいました。
人生を変えた人たちが生み出す社会とは何なのか。

隣に、もしかしたら自分と同じ悲しみや重荷を背負っている人がいる。
そう思うことで、自らの重荷と悲しみは変わるでしょうか。
重くなるのか軽くなるのか、それもわかりません。
悲しさを共有することは、気持ちを楽にしてくれます。
私も、悲しさを出し合う場に参加したことがありますが、そう実感しました。
しかし、それは「いっときのこと」だったような気もします。
それに、もし悲しさがまわり中にあるとしたら、どうなるのか。
不謹慎ですが、そんなことも考えてしまいます。

震災の日以来、行ったことがないところに行った人の話が、報道されていました。
その人は、なぜそこに行ったのでしょうか。
テレビの報道の対象になったからでしょうか。
テレビの取材のおかげで、再訪する勇気を得たのか、
テレビの取材のなかで、自らの悲しみを変えてしまったのか。
こんな思いで、3・11特集を見ていると、何か自分が嫌になってきます。
しかし、なぜかそんな思いが浮かんできてしまうのです。

悲しみは自分だけのものです。
だれにもわかってなどもらえないし、だれかの悲しみをわかることなどできようもない。
それにもかかわらず、多くの人は悲しみに触れたがる。
自分の悲しみをわかってもらいたくなる。

今日はとても複雑な思いで、1日を過ごしました。
テレビをつけては消し、消してはつける1日でした。
ちょっと疲れる1日でした。

■3111:久しぶりの早起き(2016年3月12日)
節子
今朝は久しぶりには朝早く起きられました。
最近、どうも朝が起きられなくなっていました。
というよりも、4時過ぎに目が覚めてしまい、そこから眠れなくなるのです。
そこで起きてしまえばいいのですが、その気にもなれない。
そこからいろんなことを考えてしまい、眠れなくなってしまい、枕元のテレビをつけてしまうのです。
だからと言ってテレビを見るわけでもなく、ただ音が聞こえていると安心なのです。
結局いつのまにか寝てしまっているのですが、長い時には1時間以上も眠れずにいます。
そして目が覚めると、もう7時を過ぎています。
しかしそこからまた起きられずに、起きだすのが7時半を過ぎてしまうことも少なくありません。
昨日は、8時を回ってしまっていました。
にもかかわらず眠りの質が悪いせいか、どうもよく寝たという気がしないのです。
節子がいなくなってから、朝まで熟睡していた記憶がありません。
6時間以上続けて寝たことがない気がします。

早い時には深夜の2時頃目が覚めるのですが、目が覚めて枕元の時計を見て、あまりに早く目が覚めてしまって、がっかりすることもあります。
ですから夜が好きではなくなったのです。
節子がいた頃も、目が覚めることはなかったわけではありません。
しかし、その時には節子が横にいるだけで安心して、また眠りにつけました。
眠れない時には、節子を起こしたものです。
節子は、それなりに付き合ってくれました。

でも今は起きてもいつも私一人です。
暗い夜に一人で目が覚めていろいろと考えをめぐらすのは、好きにはなれません。
でも、昨夜は久しぶりによく眠れました。
今日は、いい日になるかもしれません。
しかも久しぶりの在宅の土曜日です。
さて、なにをやりましょうか。

■3112:「佐藤修さん・節子さんご夫妻の共同作業」(2016年3月12日)
節子
朝早く目覚めたので、動き出す前にもう一つ書いておこうと思います。

佐久間康和(一条真也)さんが新著「死ぬまでにやっておきたい50のこと」を送ってきてくれました。
佐久間さんは50のことの一つに、「先に亡くなった大切な人に手紙を書く」ということをあげています。
そこでとりあげてくれているのが、この挽歌のことです。
佐久間さんはこう書きだしています。

亡き妻に3000通以上の手紙を送った方がいます。
各種のサロンを主宰するコンセプトワークショップ(CWS)代表である佐藤修さんです。

そして、この挽歌の0と3000と3001を紹介してくれたうえで、こう書いてくれました。

3000回を超えた佐藤さんの挽歌は、きっと多くの人々を救うはずです。
わたしは佐藤修さん・節子さんご夫妻の共同作業による、この前人未到の大いなる社会貢献に心からの敬意を表したいと思います。

前人未到とは、かなりの過大評価ですし、多くの人々を救うというのも、とても気恥ずかしいのですが、佐久間さんが、「佐藤修さん・節子さんご夫妻の共同作業」と書いてくれているのが、実にうれしいです。
それに、実は昨日、友人のYSさんからメールをもらったのですが、その友人もこう書いてきてくれました。

修さんのプログは、毎日みさせていただいています。
奥様との会話、やはりすばらしい。
修さんがそうしたいのでしょうから、ただそのことがいろいろな人に共感や修さんのこと、しいてはひとの生きることの大きな参考というか、糧になっていると思います。

ただただ毎日、内容のないたわごとを書いているだけなので、これまた過分な賛辞だと思いますが、でも実にうれしいです。

佐久間さんが同書でも書いていますが、誰かの記憶に残っている限り、その人は生きていると言ってもいいでしょう。
佐久間さんが、本にこの挽歌のことを書いてくれたので、節子の生はまた少し広く長くなりました。
それもまたとてもうれしい。

佐久間さんは最後にこう書いてくれています。

 本書の読者の方のなかには愛する人を亡くすというケースも出てくると思います。
 わたしは、愛する人を想って亡き方への手紙を書くということを提案します。

私も大賛成です。
書いてみればわかりますが、大きな効果があります。

そういえば、昨日、テレビで3.11の津波で夫を亡くされた方が、夫への手紙を書き続けているのが紹介されていました。
ふと何かの紙に書いたのがきっかけになったようです。
彼女も、「ずっと書き続けるつもりです」と言っていました。
書きだしたら止められなくなるのです。
そしてそれがただ3000回も続いてしまったわけです。

読んでくださっている皆さんに、深く感謝したいです。
ありがとうございます。
佐久間さんとSYさんにも。

■3113:仲良し夫婦は認知症を注意しなければいけません?(2016年3月12日)
節子
最近かなり記憶力や注意力が低下してきているようです。
認知症が加速しているのかもしれません。
私は、認知症予防ゲームの普及活動を、縁あって応援しているのですが、認知症予防よりも、むしろ認知症になっても安心して暮らしていける社会が理想です。
ですから、自らの認知症にはそう関心はないのですが、他者への迷惑だけはほどほどにしないといけないので、自らの状況だけ把握しておきたいと思っています。

今日、ホームページの整理をしていて、気づいたのですが、この挽歌が一つ欠番になっていました。
挽歌3101です。
前後を調べたら、3月3日です。
あの日は確か月命日だということを書いた記憶があるのですが、なぜかブログにアップされていません。
おかしいなと思って、原稿記録を探したら、やはりきちんと書いていました。
挽歌3101:「悲しみを知らない者は、生の歓びを知らない」です。
最後にたしかに「節子の102回目の月命日」と書いてありました。
なぜか書いておきながらパソコンへのアップを忘れてしまったようです。
あわてて3月3日付でアップしました。

さてこれは認知症という視点でどう評価すべきでしょうか。
書いておきながらアップしないことはいささか危ういですが、それを内容も含めてしっかりと覚えていたことは、まだ認知症の度合いが少ないと言ってもいいでしょうか。
まあしかし、こういうことがだんだんと増えていくのでしょう。
困ったものですが、それに慣れていかねばいけません。
節子がいたら、心置きなく、認知症を楽しめたのでしょうが、節子がいないいまは、そうもいきません。
妻と娘は全く違うものだということを、最近改めて痛感します。
それはそうでしょう。
私も両親と妻や娘とは、まったく違う存在でしたから。

こうも言えるかもしれません。
心許せる伴侶がいたら、認知症になりやすいかもしれません。
しかし、世話のかかる伴侶や気遣いしないといけない伴侶がいたら、認知症になりにくいかもしれません。
いささか不謹慎な推測ですが、もしかしたらとても仲の良い夫婦の場合、どちらかの方が認知症になりやすいのかもしれません。
となると、節子がいたら、もしかしたら私か節子が認知症になったかもしれません。
それもまた困ったものです。

さてさてつまらないことを書いてしまいました。
これ自体が、認知症の兆候かもしれません。
困ったものです。はい。

■3114:蔵田さんのあさり(2016年3月13日)
節子
福岡の蔵田さんから、今年もご自身で採取した椎田のあさりがどっさり届きました。
寒い中を、蔵田さん自らが潮干狩りで採取したあさりです。
このあさりは、とてもおいしいのです。
昨夜、早速にあさり料理を堪能させてもらいました。

蔵田さんにお電話しました。
蔵田さんご夫妻は、それぞれに趣味の世界を楽しまれています。
蔵田さんは川柳、奥様は陶芸です。
おふたりの豊かな生活が、電話を通して伝わってきます。
何よりも、おふたりの声の響きがとても明るいのです。
声にも、その人のすべてが出るのかもしれません。

蔵田さんは私よりも年上です。
お世話になるだけで、私は何もお返しができませんでした。
そういう先輩からの支えで、私たちは生きています。
それに気づけば、自分もまた、そういう生き方をしたくなります。
果たして私自身、それができているかどうかは確信が持てませんが、できるだけそうなるように心がけたいものです。

今日は湯島で、サロンです。
スワンベーカリーの岡村さんに話題提供してもらう予定です。
岡村さんも、スワンベーカリーの社長になって、いろんな気付きが合ったようです。
人は、世界を広げると必ず生き方が変わってくる。
新しい体験をすると生き方が変わってきます。
そうやって、みんなやさしい生き方ができるようになれば、世界は輝いてくるでしょう。
そう思いながら、ささやかなサロン活動を続けています。

今日はまた、初めての人も3人参加してくれます。
新しい出会いは、いつもワクワクします。

昨日は蔵田さんの心のこもった美味しいあさりをたくさん食べたので、今日はとても元気です。

■3115:相談料は珈琲です(2016年3月14日)
節子
今日もまた寒い、雨の日になりました。
昨日はサロンにつづいて、急な相談がはいりました。
ちょっとパニック気味だと言うので、何はともあれ相談に乗ることにしました。
と言っても、私の専門分野ではありませんし、もしかしたら背景に少し危い問題を感じさせる内容でした。
私の知らない人なのですが、九州の友人が、私を紹介したのだそうです。
まったく困ったものです。
こんな感じでいろんな人が湯島には来るわけです。

ともかく相談に関する分野に詳しい友人に同席してもらうことにしました。
内容は差し控えますが、とても誠実そうなおふたりがお見えになりました。
お話を聞くと、人をともかく信じてしまう人たちのようです。
それでどんどん(表現は悪いのですが)つけこまれてしまっているようです。
同席してくれた、その分野に詳しい友人が的確な、ちょっと厳しいアドバイスをしてくれました。
そのやりとりを聞いていて、私も同じような生き方をしているのかもしれないという気がしてきました。
「その筋にいた」ある友人から、佐藤さんは甘いから骨の髄まで絞りとられるぞと言われたことがあります。
そんなことはないと思いましたが、まあ、髄まで行かないにしても、かなりの被害を受けたことはあります。
特に、節子がいなくなってからは、精神的に不安定な時期もあり、いろいろとありました。
いまはようやく「相談を受ける側」に座れていますが、「相談する側」に座っていたこともあるのです。
ですから、相談する側の人の不安な気持ちや大変さを少しは理解できます。
それにだまされる人には悪い人はいないのです。

終わった後、おふたりが「相談料は?」と質問してきました。
今度珈琲をご馳走してください、と同席の専門家に相談せずに即答してしまいました。
後で考えたら、友人には悪いことをしたと思いますが、まあ友人も異論はないでしょう。
善いことしたら、いつか絶対に自分に返ってきますから。

困った人がいたら相談に乗る。
相談料という発想には、やはり私は違和感があります。
今回に限らず、同じような質問をされることはあります。
答はいつも、「珈琲でもご馳走してください」です。
実は、私が相談に乗ってもらった時も、そうでした。
最初から相談力を払うという考えが、私には皆無なのです。
もしかしたら、相手に失礼を重ねてきているのかもしれません。
しかし、困っている人がいたら、相談に乗るのは人の常でしょう。
こういう私の考え方が、やはりどこか現代に合わないのでしょう。

節子にはずっとそういう生き方に付き合ってもらいましたが、節子から異論が出たことはありません。
節子もまた、ちょっと世間の常識からずれていたのでしょうか。
おふたりが、いまの状況から早く抜け出せるのを祈っています。
落ち着いたら、おふたりとはたぶんいい友人になれるでしょう。

■3116:春が来ました(2016年3月15日)
節子
どうやらわが家の庭にも春が来たようです。
というのは、庭の池にまたガマガエルが戻ってきてしまったのです。
また池の金魚が食べられてしまいました。
ガマガエルが入れないように、一応、金網をかぶせていましたが、どうも隙間があったようです。
今朝、娘が見つけたのです。
娘はガマガエルアレルギー?で、そのためかいつも第一発見者です。
ガマガエルが見つかると、捕まえて近くの手賀沼に放しにいきます。
以前、この辺りは斜面林の一部だったのです。
そのためヘビも見かけます。
いつか書きましたが、1メートル近いヘビの皮が残っていたこともあります。
最近は見かけませんが、いまもどこかにいるかもしれません。

ヘビやカエルが動き出すのは、春が来た兆しです。
私は蛇年生まれですが、爬虫類と鳥類が苦手です。
ですから、あまり会いたくない相手です。
ヘビは遠くから見ているとなかなか優雅でもあります。
しかし、カエルは小さいアマガエルなどはかわいさもありますが、大きなガマガエルはどうも苦手です。
大きいのは20センチ以上もありますので、捕獲するのもそれなりに大変ではあるのです。
それに何よりも、池の金魚やエビや魚を食べるのが困りものです。
なかよく同棲してもらえるのであれば、池を開放してもいいのですが、どうもガマガエルにはその気はないようです。
それで、手賀沼に放しに行くわけです。

ガマガエルを手賀沼に放しに行った帰りに、畑に寄りました。
チューリップが芽吹いていましたが、昨秋植えたままになっていた小松菜が花を咲かせていました。
大根は土をかぶせておかなかったので、あまり生育はしていませんでしたが、2本収穫してきました。

そろそろ畑も耕しださないとまた野草に負けてしまいます。
春が来ると、やることも増えてきます。

ところで、池の金魚は1匹だけ、健在でした。
大事にしなければいけません。
しばらくは水槽で飼おうと思います。
まだガマガエルがどこかにいるかもしれませんので。

今日は春のような日和日です。
私の生活にも、春が来ればいいのですが。
もう少し時間がかかりそうです。

■3117:後光をさした太陽に出会えました(2016年3月16日)
節子
昨日はいささか恥をかきました。
普段は持ち歩かないのに、めずらしくお金とかカードやお守りなどの入ったケースをズボンの浅いポケットに入れて出歩いていて、いくつかの用事を済ませ、お昼過ぎに帰宅しました。
午後は、白井市にある農カフェ「OMOしろい」で打ち合わせの予定でした。
午後2時に、「OMOしろい」の宇賀さんが迎えに来る予定になっていたのですが、待ち合わせ場所に出かけようとしたら、そのケースがポケットに入っていないことに気づきました。
どこかに忘れたか落したかのいずれかです。
お金だけなら落しても無駄にはなりませんが、ちょっとなくしたくないものが入っていました。
あわててしまい、午前中に立ち寄ったり行ったりしたところを探しに自転車で出かけました。
まずは立ち寄った畑に行って、探していたら、「佐藤さん」と声をかけられました。
宇賀さんでした。
そういえば、畑の近くで会う予定だったのです。
事情を話し、少し待ってもらうことにしました。
畑には見つからず、午前中に立ち寄った場所に行きましたが、どこにもありません。
あきらめて、せめてカード会社にだけは連絡しようかと思ったのですが、気がついたら携帯電話に留守電が入っていました。
忘れていったのを、会っていた知人が預かってくれていたのです。
安堵しました。

それでそのまま、宇賀さんの車に乗って「OMOしろい」に行きました。
宇賀さんには、いささかぶざまな私のあわてぶりを見られてしまったわけですが。
話し合いを終えて、帰ろうと思い、近くの電車の駅まで送ってもらおうと思ったのですが、たまたま我孫子の方に宇賀さんが用事があると言うので、自宅近くまで送ってもらうことにしました。
それでお店を出ようとしたのですが、せっかくなのでOMOしろいのお店(野菜なども販売しています)でおいしい野菜を購入しようかと思って、ハッと気づきました。
あわてていたので、お金を全く持ってきていなかったのです。
もしどこかの駅まで送ってもらっても、そこからの電車賃もなかったわけです。
自宅まで送ってもらえてよかったです。
それに野菜を買わないのに、宇賀さんが干し芋をお土産にくれました。
お金がなくても、人は幸せに生きられることを改めて実感しました。
しかし、あわてていたせいか、久しぶりのお店の写真を撮ってくるのを忘れてしまいました。

送ってもらっている帰路、宇賀さんが太陽がきれいだと声をあげました。
太陽の周りをま〜るく虹が囲んでいるのです。
まさに後光がさしている感じです。
宇賀さんは時々見る風景だそうですが、私はこれほどはっきりと見たのは初めてです。
私のあわてぶりを、お天道様が笑っているように感じました。
昨日は朝のガマガエル騒動から始まって、いろんなことがあった1日でした。

写真はうまく撮れませんでしたが、掲載しておきます。

■3118:他事あるべからず(2016年3月16日)
節子
嫌になるほど、相変わらず「不幸の知らせ」が届きます。
一体どうなっているのかと思ってしまうほど、悪い知らせが届き続けています。
まるで悪夢を見続けているような気分です。
宮沢賢治ではないですが、周りに不幸があると、自分も幸せにはなれません。
人の一生は、不幸のなかに、時にちょっとした「小さな幸せ」があることなのかもしれません。

水墨画で有名な雪舟は、禅僧でもありました。
千利休の秘伝書として伝わっている雪舟の古伝書「南方録」というのがあるそうです。
偽書とも言われているようですが、その中にこんな文章があるそうです。
茶事に関して書かれたものです。

火をおこし
湯をわかし
茶を喫するまでのこと也
他事あるべからず。

これを知ったのは、NHKの「こころの時代」ですが、それを解説していた仏教学者の竹村さんは、この「他事あるべからず」こそ、禅の本質だと言っていました。
望めるならば、私も「他事あるべからず」生き方をしたいのですが、心が振り回されてしまう「他事」があまりに多すぎます。
だからといって、それに耳をふさぐことはできません。
ですから、「他事」に関わりながら、「他事」を意識しないようになりたいものです。
自己を離れ、他己を知り、そしてそれを超えた自己になる。
竹村さんは、そんなことも言っていました。

もしかしたら、いまはそれに向けて試されている時かもしれません。
そう考えると、人生もまた、楽しくなってきます。
生きることは、そのまま、まさに禅行なのです。
最近、それが少し腑に落ちてきています。

不幸があればこそ、幸せがある。
自分のことであれば、そうも考えられるところまでにはなりました。
しかし、他者に関しては、まだまだそう思えるところまで来ていません。
不幸に襲われている友人知人が、はやく安堵できるようになりますように、と祈るしかありません。
私には祈るしかできませんので。

■3119:5つの物語(2016年3月17日)
節子
今日はまたいろんな人が来ました。
人に会えば、いろんな世界が広がります。

そのおひとりは、某大企業の経営幹部の方です。
いまは単身赴任で、東京でお一人住まいですが、家族は奈良で、休日は奈良に帰り、奈良を楽しんでいるようです。
もともと東京のお生まれのようですが、奈良が好きで奈良に転居したのだそうです。
それも私が大好きだった佐保路に終着点の西大寺の近くだそうで、うらやましいです。
ところで、その人は東京の単身赴任の家で、毎朝、般若心経を唱えることから1日を始めているそうです。
一人住まいの東京の家には、大日如来をお祀りしているそうです。
ご両親も健在なのだそうですが、大日如来に向かって般若心経を上げると、心が落ち着くのだそうです。
そこから話が弾んでしまいました。

その前には、外資系の会社で長年クリエイティブな仕事をしていた50歳の女性が来ました。
都心のど真ん中に住んでいて、時代の先端を生きてきているようです。
仕事も面白ければ、収入も恵まれ、毎年、3週間の連続休暇を使った海外旅行を楽しまれてきていたそうです。
物欲が強いので、この生活レベルは落とせないと言いながらも、新しい生き方を模索しているようです。
その恵まれた生活を捨てて、次の人生設計に取り組まれているのです。
だから私のとこに雑談に来たわけですが。
私とは正反対の生き方ですが、なぜかつながるところがありました。

その2人の間に、もう一人、昨年事業に失敗して自己破産してしまった人が来ました。
自己破産の処置も一段落し、もう一度、チャレンジするという相談です。
彼のことは、またいつか書ける時が来るかもしれませんが、彼の経営していた企業の倒産には私も巻き込まれてしまって、私自身甚大なダメッジを受けました。
私の人生もかなりの影響を受けたのですが、いまも付き合っています。
彼を信じたいと思うからです。
そして今でも私のところに時々来ています。
新しい事業のきっかけが見つかりそうです。

そして最後は、この1年、ある事件に巻き込まれ、起訴されそうになっていた人が、彼の友人と一緒にやってきました。
不起訴になった報告です。
彼が起訴されるはずはないと私は思っていましたが、やはりいささかの心配はありました。
私は基本的にいまの司法を信じていないからです。
でも起訴されずに、本当によかったです。
まだしかし、いろんな思いが去来しているようで、いまも夜眠れないと言います。
それもまあ、人生だからと憎まれ口をたたきながら、心からよかったと思いました。

とまあ、今日はこんな感じの1日でした。
人には、それぞれ物語があります。
他者の物語を生きることはできませんし、他者の物語と付き合うのはとても疲れます。
でも、どこかでささやかな接点ができると、私自身の物語も豊かになります。
こういう生き方をしようとは、思ってもいませんでしたが、これもまた私に与えられた生き方なのでしょう。
他者の悲しみが自らの悲しみになり、他者の喜びが自らの喜びになる。
そういう生き方をしていて、最近つくづく思うのは、人生とは喜びよりも悲しみの多いことです。
ですから、悲しみもまた喜びにしていかないと、生きるのが嫌になりかねません。
悲しみのなかにも喜びがある。
最近少しだけ、そういうことがわかってきました。

今日は5つの良い顔に出会えて、疲れましたが元気をもらいました。

■3120:久しぶりの墓参(2016年3月18日)
節子
最近お墓に行っていなかったのですが、久しぶりに娘たちとお寺に行きました。
墓前に庭のミモザや水仙の花も、供えてきました。
昨日、湯島に来た人と般若心経の話をしたこともあって、今朝はいつもより少していねいにお経をあげましたが、墓前でも般若心経を唱えてきました。
明日からはお彼岸でお墓もにぎわいますが、今日は一組しかいませんでした。

暖かですが、今日は風が強いです。
午後から曇ってきたので、温度も下がりだしました。
この時期は温度の変化が激しいので、体調を崩しやすいです。
幸いに、3月に入ってから私の体調はよくなっています。
それも不思議なくらいいいのです。
しかし、残念ながら気分の方はあまりすっきりはしていません。
テレビのニュースはあまり見ないようにしていますが、それでも耳には入ってきます。
社会派、どう考えても少し壊れだしているような気がしてなりません。

ところで、なぜか最近連絡がない人が複数います。
もしかしたら、体調を崩しているのかもしれませんが、電話をする勇気が出てきません。
最近は、ともかく悪いニュースに覆われているため、どうも悪い方に考えがちなのです。
ですから電話する勇気が出てこなかったのです。
悪いニュースがこれ以上多くなったら、気分的に持ちこたえられそうもなあく、最近は気弱になってきてしまっています。
困ったものです。

社会の風潮も気になりますが、家族親戚、友人知人に関して気になることが多すぎます。
春になっても、心がワクワクしてこないのは、そのせいかもしれません。
みんなの問題が、少しでもいい方向に向かうことを祈っています。
そして、朗報が増えていってほしいと心から思います。

身のまわりで起こることは、結局は自らの生き方の結果なのでしょう。
自分には責任はおろか、関係さえないと思いたくることがほとんどですが、私にもできることがあったのに、それに気づかずに来てしまったと思うことも少なくありません。
そんなことを、思い知らされる毎日です。
そんなことを考えだすと、どうしてもやはりまた節子のことにつながっていきます。
般若心経をもう一度上げたい気分になることもあります。
人は本当に過ちが多い生き物です。

■3121:「みんカフェ・湯島」が始まりました(2016年3月20日)
節子
昨日は湯島で、また新しい集まりが始まりました。
「みんなのゆる〜いカフェサロン」、略して「みんカフェ・湯島」です。
だれでも、そこに行くと自分の居場所がみつかるような、みんなの「ゆる〜いカフェ」をゆる〜くつないでいく。そして、そこを拠点に「人の支え合うつながり」を育てていく。
これが、「みんカフェネットワーク構想」です。
昨日はさまざまな人が集まりました。
中学生も参加し、しっかりと話し合いに入ってくれました。

この集まりは、1年ほどかけて準備してきました。
前にこの挽歌でも書いたかもしれませんが、友人知人を自殺で亡くした人たちの集まりが発端でした。
そこから何回か、非公開で集まってきていたのですが、昨日から正式にスタートしました。
立ち上げ基金は5万円です。
あるところの講演を断るつもりだったのですが、それを引き受けると5万円もらえるので、もう1回だけ講演を引き受けて、その謝礼の5万円を基金にすることにしました。
その基金を誰かに預ければ、継続的に動き出すでしょう。
それに実際には5万円も不要かもしれません。
なぜかと言うと、湯島はいま不思議な空間になっていて、サロンを終えてみんなが帰った後、机の上に500円玉が4つ置いてありました。
習慣的に、この場所を維持するために、自発的に500円ずつ置いて行ってくれる文化が出来上がっているようです。

会費を明記しているサロンの場合でも、だいたいにおいて参加者の3分の1くらいの人は会費を忘れていくのですが、昨日は会費など一切書いていなかったのに不思議です。
ですから会費など決めなくとも、次第にみんながワンコインを残しておく文化が育ってきているのかもしれません。

会費と言っても最近は以前と違って、通帳に貯めるわけではなく、私が使い込んでしまいます。
でもまあ、時々、ホワイトボードなどを買ったりしているので、許してもらえるでしょう。
そろそろプロジェクターも買わなければいけません。
いまのプロジェクターは友人が寄付してくれたものですが、ちょっと古いタイプで時々トラブルを起こすようになってきてしまいました。
仕事をしていないので、金銭収入はほとんどないため、部屋の維持費や光熱費などにも充当されているのをみんな知ってくれているのかもしれません。
昨日の2000円は、用意していた軽食のサンドウィッチなどの費用に補填してしまいました。
今日の私の朝食は、その残っていたサンドウィッチでしたから、結局は私が使い込んだことになりますが、まあお金は天下のまわりものだから、仕方がありません。

お金が天下のまわりものであれば、場所もまた天下みんなのものでしょう。
湯島の部屋が、できるだけ多くの人たちのものになってほしいと思っています。
節子がいたら、もっと面白い展開ができたはずですが、いまもみんなに支えられて、湯島は千客万来です。
節子が残してくれたお金を私のミスで失くしてしまったために、一時はこの湯島を手放そうかと思ったのですが、何とかまだ維持できています。
みんなに感謝しなければいけません。

■3122:病魔に取り巻かれながら病縁のない奇妙さ(2016年3月20日)
節子
また病気の報せです。
今度は脳梗塞です。
私よりも少し若いはずの友人からの知らせです。
毎日のように悲報が続くと、どうしても滅入ってしまいます。
その人からも、「体に十分気を付けるよう改めて忠告します」と書かれていました。
私も脳梗塞は十分身近にある病気です。
忠告には従わなければいけません。
それに、こう病気の知らせが多いと、そのたびに、同じようなところに微妙な変化が起きます。
友人から肺がんの知らせを受けた時には、しばらく肺がおかしくなっていましたし、今日の中大脳動脈の閉窄発見の連絡を受けてからは、頭や頸動脈が何やら熱っぽく感じます。
まあ、この歳になれば、どこもかしこも、劣化しているでしょうから、どこがおかしくなっても不思議はありません。
それにすべてが平均的に劣化し、健全度が比例的に低下しているのは、健全な老化という私の理想の状況でもあるのです。

それにしても、病魔が私のまわりの世界を覆いだしているような気配のなかで、私自身は奇妙に病縁がありません。
いろいろと体調の不具合は生じても、それを「健全な老化」と考えていますので、もしかしたら、自分の病気に気づいていないのかもしれません。
しかし、まあいまのところ、大丈夫のようです。
節子が守ってくれているのかもしれませんが、節子が逝ってしまってから数年は別として、5年ほどたってからは、むしろ健康度が増しているような気さえするのです。
みんなには、もう2〜3年で終わりたいと言っていますが、終われないかもしれません。
困ったものですが、天命には従わなければいけません。

節子がいなくなってから、現世への未練はほとんどなくなりました。
しかし、身近な人たちの病気の話は身にこたえます。
もうこれ以上、聞きたくないものです。

■3123:挽歌気分(2016年3月21日)
節子
以前は、挽歌を書くときにはある種の儀式的なことがありました。
たとえば、パソコンの前に置いている節子の写真を見ながら、節子に挨拶をしてから書くというように、です。
しかし、最近は、ただ私の日記をつけるような感じになってきています。
「挽歌」と銘うっている以上、もう少し「挽歌」らしい内容にしたいと思うこともありますが、無理して挽歌らしくするのは私の挽歌ではないような気もして、いささか悩ましいです。
まあふらふらしているということです。

この挽歌を毎日読んでいて下さっている人から、メールをもらいました。

心地よい言葉ではなく、修さんもいろいろ葛藤して生きているんだ。
生きることはその葛藤というか、いろいろな思いを持ち続けること。
そのことを、感じています。
ありがたくプログを心待ちにしています。

私のふらふら状況が、読者にもちゃんと伝わっているようです。
たしかにいまの私は、まだ精神的に安定していないのでしょう。
なにしろ「支え」がないのですから。

いま鈴木大拙の「日本的霊性」をゆっくりと読み直しています。
そこに万葉集にはたくさん挽歌が出てきますが、鈴木大拙さんは、それを鋭く切り捨てます。

死者を傷む「挽歌」なるものの中には、ただ悲しいということのほかに、無常とか、「逝くものは斯の如き」とか、「水沫(みなわ)の消えて跡なき」などいう考えも詠まれているが、どうも深いものがないようだ。
何か死の神秘性、永遠の生命、生死を超越した存在、水沫ならざるもの、頼る月の如くに満ち、または欠けることのないものに対するあこがれ、行き方知らざるものを捉まんとする祈り、または努力、または悩みなどいうものが、『万葉集』中には少しも見あたらぬ。

いやはや手厳しい。
もちろんこれは、「霊性」という視点からの論です。
大拙さんは、霊性を大地につなげて考えていますので、万葉集の挽歌は、宙に浮いたものと捉えるのでしょう。
万葉人と一括りにしてほしくない気はしますが、それはともかく、自らの心情を素直に書き綴ることも、深いものがないかもしれないですが、書き手にとっては間違いなく「挽歌気分」ではあるのです。
挽歌として着飾るよりも、防人歌のように、ただただおろおろとする自分も素直にさらけ出したいと思っているので、時には意味不明や矛盾した記事もあるのです。
歌人のような表現力がないことが、時に残念ですが。

■3124:学びの時(2016年3月22日)
節子
この3月に定年退社する原さんが湯島に立ち寄ってくれました。
いろいろとお世話になった人です。
大阪から東京に出てきたご多用の合間をぬって、会いに来てくれたのです。
それだけで感謝しなければいけません。

会社を辞めて何をされるかお訊きしました。
大学に通う計画があるようです。
テーマは、なんとイスラムの歴史を学びたいのだそうです。
スペインのアルハンブラ宮殿に魅せられたのが契機のようです。
思ってもいなかった話です。
若いころは就職を前提に、大学では経済を学んだそうですが、今度は自分が学びたいことを学びたいというのです。
お聞きすると奥さんはすでに大学で美術を学んでいるのだそうです。
お子様がいらっしゃらないということもあって、これからは夫婦そろって大学生になるわけです。
素敵なお話です。
大阪にお住まいなのですが、いつかまた湯島でイスラムの歴史のサロンを開いてくださいとお願いしました。

手段としての学びではない学びは、人を元気にさせます。
私が最近元気なのは、もしかしたら、そのせいかもしれません。
大学には行ってはいませんが、いろんな意味で、私もいまは、「学びの時」です。
学んだからといって、何かの役に立つわけではありませんが、私の世界は間違いなく豊かになります。
思うがままに、それなりに「学び」を楽しんでいます。

節子も学びが好きな人でした。
私とは分野もスタイルも、まったく違いますが、好奇心は強かったのです。
私の話もよく聞いてくれました。
話を聞いてくれる人がいると、学び甲斐は大きくなります。
いまはせっかく学んでも、誰も私の話を聞いてくれる人はいません。
しかし、それでも学ぶことは楽しい。
なぜならば、学ぶということは、自分の知らないことの多さに気づくことだからです。
学べば学ぶほど、知らない世界が大きくなってくる、つまり「無知」に気づくのです。
ですから「学びの世界」は際限がない。
学びの時もまた、終わりがないのです。

1年後にまた、原さんにお会いするのが楽しみです。
いつか奥様にもお会いした気がします。
美術とイスラム、きっとどこかでつながるでしょう。
うらやましい話です。

■3125:ワールドラフターデー(2016年3月23日)
節子
ラフターヨガの活動をしている3人の女性たちがやってきました。
私は、いまの社会をダメにした責任はかなりの部分、女性にあると思っていますので、女性たちのグループは苦手です。
子供も男たちも、しつけてきているのは女性たちだと思っているからです。

私自身、節子の影響を大きく受けています。
たぶん外目から見たら、私が節子に影響を与えているように見えるでしょう。
しかし事実はそうではないのです。
もちろん形の上では、節子は私の影響を大きく受けています。
まああんまりしっかり考えていた人でもないですし、私を信頼していましたから、私の判断には時に異論があっても従っていたと思います。
にもかかわらず、なぜ私が節子にしつけられてきたと思っているかと言えば、なんとか節子を喜ばせたいという思いで私は生きていたからです。
実際には、節子が喜ばないことの方が多かったのですが、しかし、それも含めて、私の生きる指針のひとつが節子の気持ちだったのです。
それに、一緒に暮らしていると、生活の端々での小さな行動はいつの間にか節子に似てきているのです。
もちろん悪い習慣も、です。
困ったものですが。

話がずれてしまいましたが、ラフターヨガとは、ともかく笑うことで個人も世界も幸せにしようという活動なのです。
節子が闘病時代にこの活動を知っていたらよかったのですが、残念ながら私が知ったのは、節子がいなくなってからです。
いろんなラフターヨガクラブの人と知り合ったのですが、私自身はまあそれほど幸せになりたいとも思っていないので、会には参加していません。
しかし、ひょんなことで、ある相談を受けてしまったのです。
そんな関係で、今日はラフターヨガの人たちが3人そろってやってきたわけです。

みんなとても気持ちの良い人たちです。
確かにこういう人たちが増えれば、世界は幸せになるでしょう。
ラフターヨガのみなさんならテロさえ鎮めることができるかもしれません。
そう思うのですが、自分の問題になると悩ましいのです。
いまの私には、笑うことが逆に悲しみを呼んでしまうこともあるからです。
この気持ちは、ラフターヨガのみなさんにはわかってもらえないかもしれません。

5月1日はワールドラフターデーだそうです。
世界中のラフターヨガクラブの人たちが、いっせいに笑うのだそうです。
東京では、代々木公園で、11時からみんなで笑うそうです。
参加しようかどうか迷いましたが、たぶん私には居場所がないほど、幸せな明るい集まりでしょう。
たまには笑うのもいいかもしれませんが、いまのところ参加する勇気は出てきません。
困ったものです。

■3126:遺跡に立つとざわめきが聞こえるという話(2016年3月24日)
節子
ワンダーアートプロダクションの高橋雅子さんが湯島に来ました。
すぐ近くに転居してきているのです。
久しぶりにゆっくりと話しました。
なにしろ高橋さんは、3.11の後、東北の被災地での無謀な活動で、過労死するのではないかと思えるほどの活動ぶりなのです。
しかしとてもお元気そうでした。

ワンダーアートプロダクションは、高橋さんの個人オフィスです。
そのホームページをご覧いただけると、その活動がよくわかります。
http://wonderartproduction.com/
プロジェクトのひとつに、3.11以後に始めた、ARTS for HOPEがあります。
これも素晴らしい活動ですので、ぜひサイトをご覧ください。
http://artsforhope.info/
もしこうした活動を支援したいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

高橋さんと最初に出会ったのは、もう15年ほど前です。
高橋さんが独立した直後でした。
高橋さんは、新たにホスピタル・アートのプロジェクトを起こそうとして、私のところに相談に来たのです。
私は高橋さんから「ホスピタル・アート」のことを教えてもらったのですが、その時の高橋さんの情熱的な話に強い印象を受けました。
高橋さんは、病院をもっと楽しい豊かな場所にしたいと考えていたのです。
まだ節子のがんが発見されていなかったころで、私が、病院に関心を持ち出した契機の一つでした。

ワンダーアートプロダクションは、未だ法人化はされていません。
高橋さんの個人オフィスです。
なぜ法人化していないかと言えば、私も今日、知ったのですが、私が高橋さんに、「法人化にこだわることなく、高橋さんの一番動きやすい形にするのがいい」というようなことを言ったのだそうです。
法人化しておくと、助成金や補助金や寄付を受けやすくなるので、たぶん、高橋さんは迷っていたのでしょう。
しかし、「法人」嫌いな私は、当時も今も、できれば「法人」形態はとらないほうがいいと思っています。
高橋さんは、個人オフィスでやってきてよかったと言ってくれました。

しかし、プロジェクトがここまで大きくなってくると、そろそろ法人化も必要かもしれません。
まあそんなこともあって相談に来たのですが、久しぶりだったので、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
本題以外の余計な話が多すぎたのかもしれません。

しかし、そのおかげで、私と高橋さんの共通点が見つかりました。
それは、遺跡に立つと人々のざわめきが感じられるということです。
高橋さんが、ペルーのマチュピチュに行った話から、そういう話になりました。
私はマチュピチュには行ったことはないのですが、パチャカマには行ったことがあります。
ほぼ完全な廃墟ですが、砂の中からざわめきが聞こえたのです。
そもそもペルーのリマに真夜中に着いたのですが、その時も街中からインディオの鳴き声が聞こえ、ホテルでは寝付けませんでした。
まあそんな話で少し盛り上がりました。
それにしても遺跡に立つと古代人の声が聞こえる話を共有できたのは初めてです。

古代遺跡に立っても、ただの泥の塊でしかないと最初は言っていた節子とは大違いです。
節子に聞かせてやりたい話し合いでした。
いや、節子は聞いていたかもしれません。
なにしろ節子は私よりも一足先に、彼岸に転居しているからです。

■3127:最後の四半世紀に移ろうと思います(2016年3月25日)
節子
節子がいなくなってからの8年半、入り込んでくるものをあまり外に出さずにため込んできたせいか、そうしたものが今年になってから少しずつ形を見せだしました。
いささか遅すぎた感がありますが、これも私の務めかなとも最近思い出してきました。
そうした活動に取り組むとしたら、もう5年ほどは社会と関わらなければいけません。
それは私にとっては、いささか悩ましい話ではありますが、私自身の事情もあって、それもまた仕方がないかという気が最近少ししてきています。
それに節子がいなくなってから、私の時間感覚もおかしくなってきていますので、「あと3年は活動しよう」と公言しているにもかかわらず、いつになってもその「3年」が「2年」になっていかないのです。
ですから「あと何年」ではなく、「何年まで」という規定をしなければいけません。
となると、80歳を終期とするのがわかりやすいです。
しかし、80歳まで生きるとは思ってもいませんでした。

さてそう決めたら、少し意識を変えなければいけません。
自分勝手な生き方や、相談を受けるばかりの受動的な生き方も、ほどほどにしないといけません。
それがうまくできるかどうか。

会社を辞める時に、「四半世紀単位」で生き方を変えようと考えていました。
最初の、ちょっと短い四半世紀は、社会に育てられてきました。
大学卒業後の、ぴったりの四半世紀は、会社人として生きてきました。
そして、3番目の四半世紀は社会人として生きようと決めて生きてきました。
その途中で、節子がいなくなるという予定外のことが起こったため、その四半世紀は、少し長めの四半世紀として今も続いているわけです。
そろそろ最後の四半世紀に入らなければいけません。
もともとは社会から抜け出て自然の中で消えていくのがイメージでしたが、その反対の四半世紀もいいかもしれません。
節子もいなくなったのですから、社会から抜けるのではなく、社会から抜けて社会に融合するというわけです。
まさに華厳の思想を思わせるような生き方で、それもまた最後の四半世紀としていいかもしれません。
自然に溶け込むのと、同じようなものかもしれませんし。

というわけで、この4月から、いよいよ私の最後の四半世紀が始まります。
とても身近四半世紀になると思いますが、一応、5年は続けたいと思っています。
節子にまた報告に行かねばいけません。

■3128:春はどこかものがなしい(2016年3月27日)
節子
春が本格的に始まりだした感じです。
最近はほぼ毎日、湯島に来ていますが、日に日に春を感じます。
今年もミニシクラメンが咲いています。
まったくと言っていいほど手入れはしていないのですが、昨年から咲き出すようになりました。

テーブルの上の水槽のメダカはまた絶滅してしまいました。
とても不思議なのですが、これまでもなぜかわが家の水槽のメダカとほぼ同じ時期に絶滅するのです。
共通点は水草と同棲している芝エビです。
いずれも芝エビはいたって元気です。
もしかしたら水草のせいかもしれません。
水草が多くなるとメダカが死んでしまうのです。
芝エビだけにするか、メダカをもう一度飼うか迷うところです。

ベランダに出しておいたランタナは冬を越しました。
たぶん枝を切るほうがいいのでしょうが、まだ花は咲こうとはしていません。
しかしこの調子だと今年も咲いてくれるでしょう。

節子がいなくなってからは、玄関の花は造花になりましたので、オフィスの生き物はわずかな草花と観葉植物と水槽の生き物だけです。
以前は、ゴキブリやベランダに来るハトがいましたが、なぜか最近はゴキブリも出会ったことがありません。
一人でいると、湯島のオフィスは本当に静かです。
そして、わずかな生き物と一緒に、ぼんやりと空を見ているだけでも、心和みます。

しかし、このオフィスにはこれまで本当にさまざまな人たちが来てくれました。
そうした思い出がずっしりと詰まっていますから、ここで一人でぼんやりしていても、いろんな思い出が去来します。
もう彼岸に旅立った人も少なくありません。
節子はそちらで会っているのでしょうか。

湯島のオフィスを開いてから、実にいろんなことがありました。
それも節子のおかげだと言っていいでしょう。

そろそろ来客がありそうです。
感傷から抜け出さなければいけません。
春は、どこか物悲しいところがあります。
そう思うのは、私だけでしょうか。

■3129:節子はいつもうれしい思いをしてくれていたはずです(2016年3月29日)
節子
今日もまた湯島に来ています。
いまお客さまがお帰りになり、次の来客まで少し時間ができました。
今日は「認知症」と「企業経営」の相談です。
夜は地元での集まりもあります。
以前ほどではありませんが、私の活動も少しずつ戻ってきています。

いま考えると、私はいささか忙しすぎたのかもしれません。
今朝の朝ドラ「あさが来た」を見ていて、ふとそんなことを思いました。
節子との時間があったようでなかったのかもしれません。
その生き方から抜けるために、休業宣言をした直後に、節子の病気が発見されるというのも、いかにも皮肉な話です。

節子の闘病中も、節子のベッドの隣で、本を読んでいたのも、いまから思えば痛恨事です。
本を読むのではなく、節子と語らうべきでした。
もっとも節子は自分の寝ている隣で、私が本を読んでいるのが好きだと言ってくれました。
その言葉に甘えすぎていたような気もします。

まあ、そんなことをいろいろ考えながら、いま、生活スタイルを少し変え始めようと思いだしています。
節子からは、遅すぎね、と言われそうですが。

いま相談に来ていた3人の方のうち、2人は初めての方です。
楽しい時間を過ごせたと言ってくれました。
誰かが幸せな時間を持つことに役立てることは、うれしいことです。
私は、節子が隣にいるだけで、いつも幸せでした。
だとしたら、節子はいつもうれしい思いをしてくれていたはずです。

こうして思い出は、いつも自らを正当化して、安堵して終わります。
さて次の来客は、楽しい時間を過ごしてくれるでしょうか。
珈琲豆を挽いて、お湯を沸かして、待つことにしましょう。

ものがなしい春を、楽しい春にしていかねばいけません。
昨夜は深夜に目が覚めて、眠れない夜を過ごしました。
隣に節子がいなくなってから、熟睡した夜は一度もありません。

■3130:今年初めての「ホーホケキョ」(2016年3月29日)
節子
今日、今年初めての鶯の「ホーホケキョ」の声を聴きました。
残念ながら、耳の右で聴いてしまいました。
まあ最近の私にはふさわしいのですが、ちょっと残念です。

自宅でもよく鶯の声を聴きますが、今年はまだです。
節子がいなくなって数年は、自宅で毎朝、鶯の「ホーホケキョ」がうるさいほどでした。
節子は、鳥になって戻ってくると言っていましたので、あれは節子だったのかもしれません。
そう言う思いがあったので、「ホーホケキョ」が特に気になったのかもしれません。
しかし、最近はあまり気にならなくなっていました。
外の世界は、自らの意識によって大きく変わってくるものです。
とりわけ音はそうかもしれません。

今朝、聴いたのは、自宅ではなく、駅に向かう道の途中です。
近くにいたお年寄りが、あれ、鶯だと声に出していました。
その方も、今年初めてだったのかもしれません。
そして、「ホーホケキョ」は、ただの一回だけでした。
もしかしたら、あれは、私へのエールだったのかもしれません。
例年になく、ちょっと早いですし。

■3131:「過去の私」や「未来の私」が声をかけてくる(2016年3月30日)
節子
最近、どういうわけか、むかし書いたり話したりしたものを送ってもらう機会があります。
昨日は、20年前に雑誌「社会教育」に書いた「地域学のすすめ」を編集長の近藤さんが、私も参加しているメーリングリストで流してきてくれました。
そう言えば、近藤さんは、前にも2回ほど、メーリングリスト仲間に向けて私が書いたものを送ってくれています。
もしかしたら、私にも当時を思い出せよと言っているのかもしれません。
あの頃は、社会を向いて、いろんな活動をしていました。
まだ時代の先が見えていなかったので、ビジョンだけが輝いていたのです。

「地域学のすすめ」を読んだメーリングリストの友人が、「とても20年前の論文とは思えない内容です」と書いてきてくれました。
過分な評価ではありますが、その言葉で私も読み直してみました。
当時を思い出しました。
しかし、当時はほぼどこでも挫折の連続でした。
3年ほど続いたのは「山梨学」でしたが、残念ながら私の思う方向には向けられませんでした。
理由は、すべて私にあります。
私が、いろんなことに関わりすぎて、一点集中しなかったからです。

同じように、当時の小論をある人が読んでくれ、いま読んでも示唆に富んでいると言ってくれました。
「ビジネスの発想を変える高齢社会の捉え方」という小論で、ビジネスのシルバー化という副題をつけています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/siniaronnbunn1.htm
これは読み直してはいませんが、このときは少し頑張って、経済広報センターも巻き込んで、「シニアネットワーク」を立ち上げました。
地方に支部が生まれだしたのですが、経団連の方針が変わってしまい、打ち止めになりました。
以来、やはりどこかに依存したらダメだと思い知らされました。
以来、いつも孤軍奮闘ですが、私自身には集中力がないため、結局は、いま残っているのはコムケア活動だけです。
そしてその活動は、今や私の支えになっているような気がします。

昨日、地元で小さな集まりがありました。
それを呼びかけてくれた方は、ネットで私の書いたものや話した記録を見つけてくれて、私に声をかけてきてくださったのです。
それも改めて読み直してみました。
少しだけ昔のことを思い出しました。

過去の私が、最近、いまの私に刺激を与えてくれているような気がします。
それがとても不思議な気がします。
イギリスの詩人、T.S.エリオットは、「現在と過去はおそらくどちらも未来に存在している」と書いているそうです。
時間が一方向に規則的に流れているという捉え方は、私もしていませんが、最近少し思うのは、自分の中には、過去と現在と未来の私が住んでいるという感覚です。
多重人格という概念にも、こうした時間軸が入っているのかもしれませんが、時々、私に「過去の私」や「未来の私」が声をかけてくるのです。

幽体離脱ではありませんが、時間を超えて私は生き始めているような気さえしだしています。

■3132:マインドワンダリング(2016年3月31日)
心臓がいっときも休まないように、私たちの脳もまた休むことなく、動いているようです。
眠っている時も、脳は休むことなく、夢の世界をさまよっているらしいです。
寝ている時に、私の心がどこをさまよっているかは知る由もないのですが、起きている時にも、時々、思いもしないところをさまよっている自分の心に気づくことがあります。
そうした時のことを、「マインドワンダリング」というのだそうです。
まさに、心がさまよっているということです。

私の場合、昔からそうしたマインドワンダリングが大好きでした。
誰かと話していても、時に心がどこかに行ってしまい、困ったこともあります。
ひどい時には外部から見ると寝てしまっているように見えることもあります。
会社時代、上司と2人で話していて、そういう状況になってしまい、信頼を失ったこともあります。
退屈な会議の時には、それで救われることもないわけではありませんでしたが。

節子がいなくなってから、意識的に心をさまよわせることが多くなりましたが、無意識にさまよっていることに気づかされることも多くなりました。

「メンタルタイムトラベル」という言葉もあるそうです。
つまり、時間をさかのぼったり進めたり、時間軸を超えて、心が動いていくのです。
時間を超えてという感覚は、正確に言えば、過去や未来に行くということではありません。
過去や未来という感覚さえなくなるということです。
おそらく彼岸世界はそうなっているはずです。
トラベルしているのは、自分ではなく、むしろ時間のほうなのです。
そこでは時間が一方向に流れてはいないのです。

マインドワンダリングしている時には、心は人の心にも入っていけることもあります。
それももちろん此岸にいる人だけではありません。
彼岸にいる節子の心にも入り込めます。
マインドワンダリングの効用として、他者の気持ちになることができ、共感や社会的理解がうながされるとも言われています。
私が、これまで比較的、生きやすかったのは、マインドワンダリングしてきたおかげかもしれません。
そして、映画好きだったことから、さまよう世界が比較的広かったおかげかもしれません。

節子と付き合いだした時、節子は、そうした私の言動に戸惑いを持つとともに魅力を感じたことは間違いありません。
しかし、リアリストの節子は、私ほどマインドワンダリングはできませんでした。
そのおかげで、私は大きな逸脱もなく、なんとか生きやすい人生を続けてこられたのだと思います。

今日、入浴中に、そんなことを考えていました。
最近ようやく、一人での入浴に慣れてきました。

■3133:3人の私(2016年4月1日)
節子
4月になりました。
手賀沼沿いの桜も咲きだしています。
あけぼの山公園も満開に近づいているのかもしれません。
今日は、湯島の帰りに上野に寄ってこようかと思いましたが、久しぶりに来訪してくれた旧知のYSさんと長話をしてしまい、何やら疲れ切ってしまって、寄らずに帰りました。
今年も花見の機会はないかもしれません。

YSさんは、夫婦2人でやっていたデザイン会社をたたんで、京都に戻ることにしたのです。
会社勤めの場合には、平和な老後が保証されますが、個人企業の経営者はそんなにあまくはありません。
会社を清算するのも、それなりに苦労が多いのです。
それも、自分たちがやりたい仕事だった場合は、特に大変です。
YSさんも、蓄財どころか、会社をやめるためには資金が必要で、
そのために、自宅を売って、京都に転居するということで、準備をしてきたようです。
そうしたことがほぼ一段落し、先が見えてきたというので、挨拶に来てくれたのです。
京都では、南禅寺近くに住んで、できれば、近くの大学に聴講生として通うことを考えているようです。
夫婦ともに京都のご出身なので、豊かな暮らしになるでしょう。

こんなようにして、私の友人知人も少しずつ、仕事から離れだしています。
夫婦で、これまでできなかったことに取り組もうとしている人も少なくありません。
私自身には、そういう選択肢は残念ながらありません。
やりたかったことはその都度可能な範囲でしてきましたし、節子がいなくなった今は、やりたいこともなくなってしまいました。

しかし、こうして昔からの友人知人との交流もだんだん少なくなってきています。
いま私が付き合っている多くの人たちは、もう節子の知らない人が多くなっているのです。
鬼籍に入った人たちも少なくありませんし、遠い出身地に戻った人たちも多いです。
私のように、いまなお生き方もオフィスも変えずに、同じような生き方をしている人は、一人もいません。
みんなどんどん変わっているのです。
しかし、私の生き方は、会社を辞めた時からは全く変わっていません。
久しぶりに会う友人知人は、みんな異口同音に、「佐藤さんは変わらないね」と言います。
いい加減な生き方をしていると、変えるにも変えようがないというのが、実は正直のところですが、しかし、私の生き方は変わっていないとしても、私が知っている私は大きく変わってしまっているのです。

節子がいなくなってから、私の生き方は大きく変質してしまっています。
それは誰にもわからないかもしれませんが、私にはよくわかります。
節子がいた頃の私は、もういないのです。
節子がいた頃の私が、いまの私を見ていて、そう思うのですから、間違いはありません。
おかしな話ですが、私を見ている私と私に見られている私は、かなり明確にわけられます。
なにやら不思議な気がしないでもありませんが、節子がいなくなってから、私に中には2人の私がいるのです。
いやそれを別々に見ている、3人目の私もいるのかもしれません。

桜を見に行かないのか、と1人目の私が毎年問いかけます。
迷った挙句に、今年もやめようとする私がいる。
そして、やはりまだそうなのかと言う3人目の私がいる。
こうして今年も、まだ桜を見には行っていないのです。

■3134:理解を超えた関係の居心地よさ(2016年4月2日)
節子
人と理解し合うことは至難のことです。
私は学生の頃から、人は理解しあえないものだと確信していましたから、理解しあおうなどとはあまり考えたことがありません。
違いを知って、受け入れることができるかどうかさえ、しっかりしていれば、理解できていなくても問題は起きません。
逆に理解していると思えば、いつか裏切られることがあるかもしれません。
裏切られるということは、自らの理解が間違っていたということでしかありません。
人は理解しあえないものだと思っている私には、あまり裏切られたという記憶がないのです。
まあ時に、裏切られたと思うこともあるのですが、その責任は自らにあると思えますので、腹立ちもまた自らに対してです。
残念ながら、未練がましく少しひきずってしまうことはないわけではありませんが。

最近、つくづく、このことを感じます。
理解しあえると思ってはいないものの、あまりに認識が違うと疲れてしまいます。
私自身、もしかしたら「生きる文法」が社会的な平均から大きくずれてしまっているのかもしれません。
そうでなければ、これほどのすれ違いを味わうこともないでしょう。
そんなことがあまりに多いので、最近はいささか疲労気味なのです。

ところで、節子とは理解しあっていたでしょうか。
たぶんその答えはノーでしょう。
お互いに理解などできていなかったのです。
しかし、理解を超えて思考の一体化ができていたような気がします。
お互いに根本のところで認め合っていたと言ってもいいでしょう。
それを確信できたのは、私が会社を辞めると節子に言った時でした。
一言の異論もなく、そしてさほどの間をおかずに、節子はそれを受け容れてくれました。
それも、極めて積極的に、です。
あの時ほど、節子に感謝したことはありません。
もしかしたら、あの時に、私は節子のすべてを受け容れたのかもしれません。

理解しあう必要のない関係というものがあるのです。
それがどれほど大きな支えになるかは、それがなくなってからはじめて気づくのかもしれません。
理解を超えた関係の居心地よさは、もう体験できないと思うととても寂しいです。

しかし行き違いの多さには、辟易します。
疲れる毎日です。

■3135:困難は克服するためにある(2016年4月3日)
節子
先日久しぶりに会った友人から、もう9年近くですか、よく生き抜けられましたね、と言われました。
私が節子に依存していたのを知っている人ですが、まあ、それはそうですが、こういうことは自分で言う言葉であって、他者からはあんまり言われたくありません。
しかし、なぜか私の場合、よく言われるのです。
困ったものですが、それほど私は自立していないということなのでしょう。

昨日、テレビの「名探偵ポワロ」を見ていたら(このドラマはストーリーとしては退屈なのですが、ホームズものと同じで、観なければいけないという意識が植えつけられていて、何回目かの再放送なのになぜか見ているのです)、秘書のミス・レモンがポワロに名言を吐きます。
それが、「困難は克服するためにある」です。

「克服」を「楽しむ」と言い替えたほうがいいように、私は思います。
人は何のために「困難」を克服するかと言えば、克服した後の喜びのためでしょう。
高校生時代、奥多摩の山によく登りましたが、苦労して登った時の喜びは何とも言えません。
困難のない人生など、たぶん退屈でしょう。
ですから、困難は多いほど、人生は豊かであるともいえるでしょう。

節子を見送った後の私の人生は、困難のなかにあったのでしょうか。
たぶんそうではありません。
しかし、そうとも言えるかもしれません。
確かに、よくぞ「生き延びた」とも言えないこともありません。
足元がしっかりしだしたのは、たぶん5〜6年たってからです。
娘や友人がいなければ、どうなっていたかわかりません。
生き方が変わってしまっていたかもしれません。
つまり、友人たちが言う意味での、「生き抜けなかった」可能性はあるでしょう。

ちなみに、ポワロのドラマの魅力の一つは、ポワロの相棒のヘイスティングスの人の良さです。
ヘイスティングスには、困難を楽しむ姿勢はないかもしれません。
なぜなら彼には、困難などないからです。
つまり、困難の存在にさえ気づかないほど、人がいいのです。
私には真似できない生き方ですが、ああいう人が節子には相応しかったのではないかなと、いつも思いながら、観ています。
節子には、いささかの困難に突き合せすぎたかもしれません。
そんな気がすることも、ないわけではないのです。

でもまあ、節子は良い人生だったと言ってくれました。
そういうふとことが、遺された人には残ります。
私は、その言葉を誰に言えばいいのでしょうか。
うまく言えるといいのですが。

■3135:「10年後には何をしているのですか?」(2016年4月4日)
節子
久しぶりに3時間の激論をしてしまい、疲れてしまいました。
テーマは、「ウォー・ゲーム」、相手は40歳の論客です。
3時間も話していると、のどの調子がおかしくなります。
それにテーマがテーマだけに、ついつい身が入ってしまいます。
相手は、その分野の専門家ですし、話は底がありません。
それに、私の視点は、学問とは全く無縁の視点なので、議論を噛み合わせるためにも大変なのです。
3時間の激論は疲れましたが、いろんな気付きをもらいました。
激論が少し始まったところで、いつものような質問をしました。
「ところで、あなたは10年後には何をしているつもりですか?」
ビジョンがなければ、議論はすべてむなしくなりますから。

人には質問しますが、もし私がそう問われたら、どう答えるでしょうか。
いまでは、それは明確です。
10年後は、彼岸を楽しんでいるでしょう。
しかし、もし節子が元気だった10年前にそう問われたら何と答えたでしょうか。
いまから思えば、私にそう質問してくれた人はいませんでした。
そのせいか、私はずっと「いま」を生き続けてきました。
10年先も、いまに続いていると思い込んでいたのです。
しかし、現実は決してそうではありません。
10年後、どうしていたいのかが明確であれば、私のようなことにはならないでしょう。
伴侶を亡くすようなことには。
その反省があればこそ、私はこれはと思う人には、質問するようにしているのです。
「10年後には何をしているのですか?」と。

節子と老後の人生設計をしようと仕事の整理を始めた時に、人生が狂ってしまいました。
気づくのが遅すぎたのです。
そして、私には老後はなくなってしまったのです。
「10年後には何をしているのですか?」と質問するたびに、私もこういう質問に答えたかったなあと、いつも思います。

10年後の自分を考えられる「幸せ」に、みんな気づいているのでしょうか。

■3137:湯島はにぎやかな1日でした(2016年4月5日)
節子
今日もまた湯島はにぎやかな日でした。
いろんな人たちがやってきました。
湯島にいると退屈しません。
しかし、最近は知らない人たちが、それも私とは関係ない事柄で、相談に来るようになってきました。
湯島は「駆け込み寺」みたいな場所ですと私が話してしまっていたために、
どうも気楽に、「それなら湯島に行けばいい」と気安く私を紹介してしまう人がいるのです。
そのおかげで、私がどのくらい大変な目にあっているのか、わかっているのでしょうか。
困ったものです。

もっとも、大変な目にあうと同時に、楽しい出会いをいただくことも多いのです。
湯島がいまなおにぎわっているのも、そのおかげです。
ですから困ったものだなどと言いながらも、ありがたいことだとも思わないといけないわけです。
ややこしい話で、まあ、それこそが困ったことなのですが。

ところで、今日は、その気安く私を紹介してしまう不埒な人が、ふたりも湯島に来たのです。
文句を言いたかったのですが、一人はおいしいお菓子を、もう一人は手づくりのおにぎりを持ってきてくれたので、文句が言えませんでした。
貧しい暮らしをしていると、そういうお土産にすぐに騙されてしまうのです。
その上、ややこしいことに、その紹介者が私に相談に行けと言った人たちまで来てしまったのです。
実にややこしい。
しかも、その人は問題が解決しましたといってお菓子まで持ってきてしまったので、この紹介好きな2人は、また誰か問題を抱えた人を私に送り込んでくるなと心配になりました。
実に困ったことです。

でもまあその人のフルーツケーキもおいしかったので、良しとしましょう。
貧しい暮らしは、人をやさしくするのです。
貧しい暮らしは、人を豊かにもしてくれるのです。

でも今日は、甘いものを食べすぎて、いささか調子が悪いです。
貧しい暮らしの人に大切なのは、分不相応な美食の誘惑に勝つことです。
今日、食べた中で一番おしかったのは、おにぎりについていた、これも手づくりのきゅうりの浅漬けでした。
貧しい人には、貧しい人に合った食べ物がやはり一番です。

明日は湯島に行かずに、畑にきゅうりを植えようと思います。
貧しい人の、豊かな暮らしは、大事にしなければいけません。

■3138:今年の畑仕事の開幕(2016年4月6日)
節子
今日は久しぶりに在宅です。
庭のカイドウが咲きだし、花木が生き生きしだしてきました。
畑にほとんど行っていなかったので、今日から畑仕事を始めることにしました。
それで、まずは野菜の苗を買いに行きました。
手当たり次第に買ったため、かなりの量になりました。
種類にして10種類を超えてしまいました。
さてさて大丈夫でしょうか。

一部の苗を持って畑に行きました。
冬を迎える前にきちんと手入れしていなかったので、大変です。
あまりの惨状に、気が萎えてしまいました。
若いころは、いや若くなくてもしばらく前までは、こういう状況ではやる気が出たはずなのですが、歳とともに思考は逆転するようです。
へたへたとしてしまい、耕すのも植えるのもやめて、生い茂りだしていた野草を刈るので精いっぱいでした。

ちなみに、秋に植えておいた大根は、みんな花を咲かせていました。
花の咲いた大根は食べられないかなとも思いましたが、もったいないので大きいものだけは収穫してきました。
秋に植えた小松菜も、収穫せずにいたので花畑になっていました。
こえは種子をとるために残すことにしました。
唯一よかったのは、道沿いの斜面に植えておいたチューリップが咲きだしていたことです。
なぜか半分だけが元気に咲いていました。

帰宅して大根を早速おろして食べてみました。
上と下の両方を食べてみましたが、いずれもやはりおいしくありませんでした。
大根は花を咲かせてはいけないことがわかりました。
まあ当然のことですが。

持って行った苗は畑に忘れてきてしまいました。
明日からしばらく不在なので、枯れなければいいのですが。
まあ明日は雨らしいので大丈夫でしょう。

というわけで、今年の畑仕事が始まりました。

■3139:ルーティンとリズムの大切さ(2016年4月6日)
節子
四国のお遍路さんをしている鈴木さんから手紙が来ました。
歩き出してから1週間。
まもなく高知県に入るようです。
サンティアゴ巡礼と違って、宿が個室、納経の時間が結構長いようです。
それでもだいぶお遍路リズムには慣れてきたそうです。

人生もまたリズムに乗れると順調に進んでいけます。
しかし、そのリズムが壊れてしまうと、どうも生きにくくなる。
節子がいなくなってから、一番の問題は、このリズムが変調したばかりでなく、安定しなくなったことです。

この9年の私の生活リズムは、なかなか安定できずにいます。
最近は就寝時間が9時台のこともあるのですが、節子がいた頃に11時前に眠ることなどあり得ませんでした。
それがいまでは、9時に就寝していることさえあるのです。
そうかというと、気がついたら12時を回っていることもある。
朝の起床時間はさほど大きくは変わりませんが、早い時には午前5時、さすがに8時ということはありませんが、7時半ころに起きだすこともあります。
ともかく安定できずにいます。

いわゆる「ルーティン」ということで言えば、朝晩の節子へのあいさつは破られることはないとしても、それ以外の「ルーティン」はほぼありません。
一日単位でも週単位でも、ルーティンがないので、曜日感覚や月日感覚がかなり弱まっています。
それもまた生活をおかしくしているのかもしれません。

自由気ままな生き方のほうが生きやすいと思いがちですが、どうもそうではないようです。
人は、ある程度のルーティンがないと、リズムがつけられないのかもしれません。
生きやすさとは、生活のリズムのことなのかもしれません。
伴侶の存在は、お互いにある程度の制約を与え合うことで、リズムを整える効果があるのかもしれません。

今年は、改めてもう一度、自分で生活リズムを安定させて、ルーティンを増やしていこうと思っています。
この挽歌も、以前ように、毎朝書けるようになるといいのですが。

■3140:箱根への同行2人(2016年4月7日)
節子
雨です。
かなり降っています。
今日はこれから、企業の人たちと箱根で合宿です。
今回で、この仕事はやめることにしましたので、これが最後の合宿です。
仕事ばかりでなく、箱根に行くのもそろそろ終わりにしようかと思っています。
箱根には、節子の思い出がたくさんありすぎます。
節子は、箱根が大好きでした。
少しずつ生活も整理していかねばいけません。

節子は病気が再発した後、たぶん箱根に行きたかったのだろうと思います。
いまにして思えば、どうして箱根に行かなかったのだろうかと不思議です。
最後の家族旅行は房総でした。
まあそれはそれとしてよかったのですが、なぜ箱根に行かなかったのか。
思い出そうにも思い出せません。
まあ当時わが家もいろいろとあったのでしょう。
断片的にはともかく、なぜか当時のことが思い出せません。

そろそろ家を出ないといけないのですが、なんとなく外の雨の様子を見ていたら、いろんなことを思い出してしまい、挽歌を書くことにしました。
なんとなく節子を思い出させる雨なのです。
四国遍路ではないですが、今回は節子と同行2人で箱根に向かいましょう。
節子の分身も、久しぶりに同行です。

さてこれをアップしたら、出かけます。
雨はやみそうもありませんし。

■3141:今日の箱根は良い天気です(2016年4月8日)
節子
小涌園の箱根ホテルに来ています。
昨日は雨風で荒れていましたが、今日の箱根はとても気持ちのいい日和です。
例年のようにロビーから見える庭の桜がきれいです。
昨日の激しい雨風にも散らずにがんばっています。

昨日から企業の経営幹部のみなさんたちとのディスカッションをしています。
経営者に「心と道」を持ってもらおうと、30年近く前に友人が立ち上げた活動にずっと協力してきました。
でも残念ながら、日本の大企業はなかなか社会性を高めてくれません。
これはこの試みが成功していないということです。
私にも責任があるわけですが、そんなこともあって、今期でこの活動は辞めさせてもらうことにしました。
ですから、今回が最後の合宿です。
このホテルも、今回が最後でしょう。
ここにもいろんな思い出があります。
ちょっとさびしい気もします。
しかし、人生は変わらなければいけない時もあるのです。

この活動は、節子がいなくなってからも関わってきました。
合宿は箱根も多かったのですが、恥ずかしながら、箱根の時は涙が出たことも少なくありませんし、箱根の桜の時期には桜を見ないように下を向いて帰ったこともありました。
一度は、帰りに何か急に芦ノ湖に上りたくなって、帰る予定が反対行きのバスに乗ってしまったこともあります。
その時は、節子が好きだった恩賜公園でぼんやり1時間過ごしたこともありました。

その箱根も、しばらくはこないでしょう。
今日は天気がいいので、上にあがれば富士山が見えるはずですが、残念ながら缶詰です。

■3142:「抜け出す」楽しさ(2016年4月9日)
節子
昨日、箱根で挽歌を書いた後、思ってもいなかったことが起こりました。
箱根では企業の人たちとの報告書づくりの合宿でした。
私は、そのアドバイザー役で一つのチームを担当していました。
これまでもそうですが、ホテルに缶詰めになって議論し合うスタイルには、どうもなじめません。
ですから、いつも、途中で帰りたくなるのです。
今回は、最後なのでわがままを言わずにいたのですが、天気がよくなったので、ホテルをこっそり出て、大涌谷にでも行ったほうが気分転換でいいのではないかと、担当チームに提案しました。
以前も時々提案していましたが、採用されたことはありません。
それは冗談なのだろうと思われてしまうのでしょう。
なにしろ私はアドバイザーですから、もっと真剣に話し合うことを勧めるべきだと思う人が多いのでしょう。
しかし、より成果を上げるためにこそ、ホテルを抜け出して、遊びに行くのがいいというのが、私の本心なのです。
もちろん事務局にも何回も提案しましたが、採用されません。
サウスウエスト航空の事例はみんな知っているはずですが、リスクをとりたくない官僚的な人は、それを「冗談」だとしか思えないのです。
まあそんなこともあって、この仕事から今回身を引くことにしたのですが、最後まで私の思いは実現しなかったなと諦めていました。
なにしろ今回も「おとなしくしているよう」やんわりと注意されていたからです。

ところが奇跡が起こったのです。
私の話に、私の担当チームが乗ってくれたのです。
記録のために名前を残しておきたいですが、山口さんのおかげです。
昼食時に、偶然彼が私の前に座ったのが、幸運でした。
そして昼食後、山口さんの呼びかけで全員でこっそり会場を抜け出し、大涌谷と箱根神社まで出かけてしまったのです。
私には最高の贈り物になりました。
ちなみに、大涌谷は噴火の危険性のため道路封鎖でいけませんでしたが。

私は、「抜け出す」ことが大好きです。
思えば、会社に入社した時に。新入社員教育がありましたが、そこからも抜け出して、海に泳ぎに行ったこともあります。
それが最初の「抜け出し」体験でした。
私は誘われたのですが、誘ってくれたのは、私よりもかなり年上の大学院博士課程卒業の岡田さんというドクターでした。
彼にとっては、新入社員教育は私以上に退屈だったのでしょう。
彼と2人で会場を抜け出してしまったのです。
その年、入社した社員は200人ほどでしたから、2人ほど抜けてもわからなかったのです。

しかも電車に乗ってまで海水浴場に行ったのですから、まあ見つかったら大変だったでしょう。
その帰りに電車の中で、岡田ドクターから「エントロピー」の話を教えてもらいました。
その話は、私のその後に大きな影響を与えました。
2週間ほどの新入社員教育は全く記憶にはありませんし、たぶん役には立たなかったでしょうが、電車の中でのエントロピー講座(電車の窓ガラスに図を書いて教えてくれました)は役に立ったわけです。
しかし、それ以上に役立ったのは、「抜け出すことの大切さ」です。
そしてまた、抜け出すことの楽しさです。

そんなわけで、最後の箱根合宿は楽しいものになりました。

■3143:「時は流れない それは積み重なる」(2016年4月10日)
時は流れない。それは積み重なる。
これは1991年にオンエアされた、サントリーのウイスキー「クレスト12年」のテレビCMのコピーです。
秋山晶さんの作品で、CMの出演者はショーン・コネリーでした。
ウイスキーの熟成を、アクションスターだったショーン・コネリーが演技派へと成熟していったことに重ねているわけです。
さらに、この言葉は、さまざまな事柄が積み重なって「歴史」が作られていることも示唆しています。

一般に、時間は「蓄積」というよりも「流れ」で捉えられがちです。
美空ひばりの名曲「川の流れのように」、私たちは人生における時間を捉えがちです。
であればこそ、愛する人を亡くした人に対して、「時間が悲しみを癒してくれるでしょう」とつい言ってしまうのです。
しかし、実際に愛する人を失った人は、時は決して流れ去るものではなく、積み重なっていくものであることに気づくでしょう。
時は、悲しみを癒してなどくれないのです。

時間の流れに身を任せたとしても、人生は、川の流れに身を任せながら、周囲の風景を眺めていくのとは違うのです。
過ぎ去った出来事は、決して流れ去ることはなく、いつも常に、自分のすぐ下に存在し、今現在の自分を支えているのです。
忘れることなどできないばかりか、それなくしては、いまここにさえ、安定して立ってさえいられないのです。
時間は、水平に流れ去るのではなく、人が立つ基盤を形作って、垂直に積み重なっているわけです。

節子がいなくなってから、8年半。
時間とは流れるものではなく、積み重なってくるものだと、つくづく実感します。

今日、久しぶりに、美空ひばりの「川の流れのように」を偶然聴いて、改めて時間の残酷さを思いました。
そして、もしかしたら、積み重なった時間は、足元にではなく、頭上にあるのではないのかと、ふと思いました。

10年前の今日は、節子も一緒に、滋賀の湖東三山をお参りしていました。
あの時はまだ奇跡が起こると確信していました。
あの時、もしかしたら、私自身、時は流れるのだと考えていたのかもしれません。
人は、おろかな存在なのです。
経験してから知ることの、なんと多いことでしょうか。

■3144:人を癒すのは音楽だけ(2016年4月11日)
節子
昨日、テレビで、「福山雅治 SONGLINE」第1回の「人はなぜ歌うのか?」を見ました。
福山雅治さんがアポリジニの人たちと音楽をシェアしているのを見ていたら、わけもなく涙が出てきました。
われながら意外でした。
節子がいなくなってから、音楽とあまり触れることがなくなっています。

番組では、アポリジニの長老らしき人が、「音楽が一番深いところに届く」「人を癒せるのは音楽だけだ」と言っていたような気がします。
そうだなあ、と思いました。
音楽だけが人を癒すと言うといささか異論のある人も多いとは思いますが、音楽の癒し方は、それ以外のものとはやはり違うように思います。

節子と最後にコンサートを聴きに行ったのは、わが家のすぐ近くの柏の市民文化会館での、ポニージャックスのチャリティ・コンサートでした。
節子はすでに再発し、遠出はできなかったのですが、すぐ近くなので、2人で出かけました。
その後、我孫子市の合唱団の発表会にも行きましたが、その時には節子の症状はかなり悪くなり、いわばコーラス仲間へのお別れのあいさつのような感じでした。
節子は、そこでさまざまな人に会え、コーラス仲間とも話せて喜んでいましたが、帰宅後、寝込むほどでした。

おそらく私はそれ以来、コンサートと名のつくものには一度も行っていません。
一度だけ友人が無謀にも企画した市民による市民のための「スロバキア国立オペラ日本公演会」には行きましたが、それは企画した友人のためにチケットを売るのが目的でした。
久しぶりに会った友人は、喜んでくれましたが、私自身はオペラを鑑賞するという気分よりも、友人を応援したいという気分でした。
しかし、その時の最後のアンコール曲はなんと「time to say goodbye」。
友人たちと一緒に行ったので、がんばって涙はおさえましたが、なんでこんな曲を最後に歌うのかと思ったものでした。
音楽は、感情を高ぶらせる効果の強さを、その時、改めて感じました。

ところで、昨日見たテレビ番組のタイトルは「ソングライン」です。
オーストラリアには、ネイティブのアボリジニの人々の生活の中で刻まれ、受け継がれてきた目に見えない道があると言われます。
そのひとつが、ソングラインだそうです。
アボリジニの人々は、その道々で出会ったあらゆるものの名前を歌いながら、世界を創りあげていったといいます。
精霊たちの世界の現れとして、音楽が現れ、人をつないでいく。
そこには、文字を持たない人たちがいまなお、神とともに生きているのです。
番組は、そうしたソングラインを福山雅治さんがギターだけを持って旅していくものです。
旅のなかで、福山雅治さんがつくった音楽が出てきます。
涙が出たのは、その音楽を聴いた時でした。
たしかに、音楽は人を癒す力がある。
そして人は涙で癒される。

でもまだコンサートには行く気は起きません。
生活に少しずつ音楽をとりもどそうとは思いだしているのですが。

■3145:農作業デイ(2016年4月12日)
節子
今日は午後から畑に行きました。
めずらしく娘のユカが手伝ってくれて、10種類以上の苗を植え終わりました。
花の種を蒔いて、苗を育てる畑も作りました。
少しずつ畑らしくなってきました。
何しろ白菜やキャベツまで植えてしまったので、植えた以上はできるだけ畑通いをしなければいけません。
道沿いの斜面に植えた芝桜も元気ですし、チューリップも元気です。
この勢いだとうまくいきそうですが、油断はできません。
梅雨に入り、畑に行かない日が数日続いただけで、野草はすごい勢いで、畑を席巻してしまうからです。

畑作業をしていると、自然の生命力を感じます。
昨日は、人を癒すのは音楽だけだと書きましたが、意味合いは少し違いますが、自然もまた人を癒してくれます。
わが家の農場は、畑というよりも、むしろ野原といったほうがいいのですが(耕してある部分は一部で、野草で覆われているところの方がほとんどなのです)、その草の上に座り込んでいると、とても居心地がいいのです。
今日は、かなり大きな殿様バッタに出会いました。
あまり草を刈り取ってしまうと、彼らの生活環境がなくなってしまいますので、まあそこは微妙なところなのです。

座っている分にはいいのですが、実際に土を耕し、畝をつくっていくのはかなり大変です。
なにしろもともと畑ではない宅地用の空き地なので、土は固いですし、笹が根を張っています。
それこそひとつ農園をつくるだけで息切れがしてしまいます。
頑張りすぎると立ちくらみでダウンです。
今年もすでに一度やっています。
ゆっくりとゆっくりとやらなければいけません。
畑を終わって自宅に戻ると、もうへとへとです。

実はわが家の畑は、自宅から見下ろせる位置にあります。
そこに行くには回り道をしないといけないのですが、高台にあるわが家の下に位置しているのです。
ですから帰宅して庭から見下ろすことができるのですが、いつも頑張って帰宅して、上から見るとあんまり変化が見えないのでがっかりするのですが、今日は、苗が植えられたので変化がはっきりと見えました。
この調子で、今年は大収穫を目指そうと思います。

■3146:育つ縁と消える縁(2016年4月13日)
節子
久しぶりに高須さんが来ました。
高須さんとの縁も、実に不思議で、なぜか一度しか会ったことがないのに、彼から突然、仲人の依頼がありました。
節子も私も、自分の結婚式もきちんとしていないので戸惑いがなかったわけではありませんが、標準的な結婚式の仲人をつとめさせてもらいました。

その高須さんの娘さんたちも大きくなり、上はもう大学3年生です。
先日、電話したら、娘さんが出たのですが、お母さんそっくりの声で、間違ってしまいました。
時がたつのは、実に早いです。

高須さんは、この数年、中国の関係の仕事をしているため、一時は海外ばかりだったのですが、最近は少し落ち着いてきたようです。
しかし、まあ性分上、落ち着くような人ではなく、好奇心が強く、まさに仕事を楽しむタイプなので、どんどんと世界は広がっているようです。
たまに帰国しても、たぶん活動をしまくっているのでしょう。
私のところに来てくれたのは、2年ぶり、いやそれ以上かもしれません。
話していると際限がなく、超古代史から最先端モバイル技術の話まで、止むことがありません。

それにしても、人の縁は不思議なものです。
高須さんが最初に湯島に来たのは、友人から紹介された大学生が就職の相談に来た時に、一緒についてきたのです。
その時は、相談に来た学生と主に話したのですが、一緒に来た高須さんともう一人の学生も、それを聴いていたのです。
それからたぶん会うこともなく、数年してから突然、仲人をしてくれと電話があったのです。
私の記憶に誤りがあるかもしれませんが、たしかそんな気がします。
私も驚きましたが、節子も驚きました。
何しろ節子は会ったこともないのですから。
そして4人で会食をし、仲人を引き受けました。
ある意味で、私たち夫婦と似たものを感じたからです。

その時に相談にやってきた学生は、その後、私が紹介した会社に入社しましたし、彼の結婚式にも行ったのですが、いろいろとあって交流が途絶えました。
もうひとり一緒に来た学生がいるのですが、彼は霊能者の末裔でしたが、もしかしたら「その世界」に戻ってしまっているかもしれません。
高須さんも、いまはその2人と連絡がとれていないそうです。

人の縁は、実に不思議です。
15分立ち話しただけで、いまも続いている縁もあれば、かなり時間を割いていろいろと関係を育てたのに消えていく縁もあります。
何回も相談に乗ったのに、うまくいきだしたら連絡もしてこなくなった人もいますし、友だちと一緒にたまたま来ただけなのに、仲人を頼んでくる人もいる。
私は自分からは積極的に縁を切ることはありませんが、縁には育つ縁と消える縁がありそうです。
高須さんとは3時間を超える話し合いになりましたが、彼のエネルギーの強さに老体の私はかなり疲れました。
エネルギーのある人と話すと、こちらもエネルギーを出さないといけません。
でも、高須さんの人生設計には、少しだけ役だったような気がします。
また新しいことが始まるでしょう。

最近、まわりでいろいろと新しいことが始まりだしています。
ようやく私もまた「生きだしている」のかもしれません。
現世滞在期間を2年延ばしたおかげかもしれません。

久しぶりの春が来るかもしれません。

■3147:人間の本質は移動のなかにある(2016年4月14日)
節子
節子がいなくなって、8年半ですが、ようやく少し動き出せそうです。
その気配を感じます。

「人間の本質は移動のなかにある。完全なる平穏は死だ。」
と書いたのはパスカルでした。
パスカルは胃病のためにあまり行動できず、そのせいで、「人は快適な寝場所を牢獄と感じる」とも嘆いています。
行動したいのに思うように行動できなかったパスカルにとっては、平穏こそが苦痛だったのかもしれません。
そのくせ、パスカルは死に対しては不安を持っていたようですから、快適なベッドで死を待つことを嫌悪していたのかもしれません。
戦場でこそ死にたいという武士の気分を思わせます。

節子がいなくなってから、私には死への抵抗感がなくなりました。
昨日も駅のホームで、電車に吸い込まれそうになりましたが、ある意味での死へのあこがれがどこかに芽生えている気もします。
注意しなければいけません。

節子がいなくなってから、改めて自分を取り戻すと、実のところ「暇で暇で仕方がない」という気分に陥っています。
最近は正直に、そういう気分を吐露するのですが、誰もわかってくれません。
時に時間破産するほどに、時間的な余裕は一見ないように見えるからです。
ですが、心底、正直に「暇で暇で仕方がない」のです。
忙しく心身を動かすのは、暇だからなのです。
これに関しては前にも書いた記憶がありますが、何か自ら意図的に新しいことを始めようと思うのではなく、誰かに誘われたからとか、誰かに頼まれたとか、といった受け身での活動は、暇の意識を埋めてはくれません。
しかし、かといって、自分で何かをやろうという気分が、節子がいなくなってから全くと言っていいほど起こっては来ないのです。
やったところで、何の意味があるのか、という思いがどこかにあるからです。
そういう状況にあるということは、たぶん生きているとは言えないのかもしれません。
パスカルが「完全なる平穏は死だ」というように、ただただ流れに任せて生きるということは、生きているとは言えないのかもしれません。
まあそういう意味では、最近の日本人のほとんどは、生きていないような気もしますが、私もその一人になっているのです。

しかし、最近、私自身、少し気分が変わってきたような気配を感じます。
再び生きようという気が、どこかに芽生えだしているのです。
その気配のせいか、私のまわりで、最近いろんなことが動き出しています。
いささか他人事でおかしなことを書いているような気もしましたが、これが最近の私の気分なのです。

生きていないと死ねません。
ですから、死ぬためにもう一度生き返ろうとしているのかもしれません。

何だかとても誤解されそうなことを書いてしまった気もしますが、まあ素直に受け止めてもらえるとうれしいです。
要は元気だということです。
昨日書いたことを、重ねて少し違った視点で書いただけのことです。

自らを鼓舞しなければ、走りだせないのはちょっと情けない話ですが、走り出し方がどうもわからなくなっているのです。
節子の不在が、その理由なのですが。

■3148:自分の言葉を大事にする生き方(2016年4月15日)
節子
熊本で大地震が起こりました。
気になっていたのですが、こうした時に連絡を取ることは迷惑以外の何物でもないことを体験していますので、相手からの連絡を待ちました。
幸いに、私の友人知人たちはみんな無事でしたが、それぞれに多大な被害を受けています。

最近は電話やメールなどで、かんたんに他者との連絡が取れます。
そのせいか、たぶん「過剰なお見舞い挨拶」が飛び交っているような気がします。
そしてそれに慣れてしまうと、他者への心遣いもまた、形式の世界に吸い込まれかねません。
さらに、「言葉」が軽くなっていく傾向があります。
注意しなければいけません。

私は、一度発した「自分の言葉」にはかなりこだわっていますが、正直、他者の「言葉」には最近、信頼を置かないようになっています。
言葉だけの人が、ともかく増えてきているからです。
たぶん本人はそういう自覚はないでしょうし、ましてや「悪意」などもないように思います。
社会全体が、「言葉」を大事にしなくなってきているように思います。
しかし、「言葉」を大事にしない社会は、住みにくい社会のはずです。
そう思って、私は「言葉」を大事にしています。
自分が発した「言葉」は、自分との約束だと思っているからです。
自分に素直に生きるとは、自分を裏切らないということですので。

熊本では多くの被災者が出ているでしょう。
またみんなの目がそちらに向いてしまう。
それは決して悪いことではありません。
でもそういう大事件に目を奪われやすい社会もまた、私には住みにくい社会のように思います。
ちょっと周りを見れば、大きな事件とは無縁な日常生活の中で、問題を抱えて生きにくくなっている人たちがいます。
そう言う人たちへの心遣いこそが、まずは大事だとも思うのです。
普段は、そういう周辺の問題を見ないようにしながら、大きな災害があるとボランティアに出かけたり、寄付をしたりする、そういう生き方は、企業が事業を通して社会に日常的に負荷をかけながら、社会貢献事業などと言って、無駄なお金を顕示的に支出している姿と重なってしまうのです。

本当はこういうことを時評編に書きたかったのですが、誤解されそうなので、挽歌編で節子に向けて書いてしまいました。
節子ならどう考えるでしょうか。
節子は、東日本大震災も経験せずに、逝ってしまいましたが。

■3149:「いい人」が集まる「ユートピア」(2016年4月16日)
節子
今日は、みんなのゆる〜いカフェサロンと高等遊民会議という2つの集まりを湯島でやりました。
最近は毎週のようにいろんなサロンがあるので、自分ながらいささか混乱してしまいます。
しかし、世間にはいろんな人たちがいることを知ると元気が出てきます。
もしかしたら、この湯島はちょっと変わった人たちが集まってくるのかもしれませんが、ともかく「いい人」ばかりです。
ある意味でのユートピア、つまり「現実的でない場」なのかもしれません。
そんな気もします。

今日、最初に来たのは小学6年生の子供と母親です。
湯島には、小学校入学前の子どもがきたことはありますが、小学生は初めてです。
最後に来たのは、29歳のお坊さんです。
というわけで、今日も実に多彩の人たちとの出会いがありました。
湯島にいると、実にいろんな人と会えるのです。
しかも、みんな「いい人」ばかりです。
そう言う人たちばかりにあっていると、どうして世界には戦争や犯罪があるのか不思議な気がします。
そう考えると、やはり湯島に来る人たちは特殊なのかもしれません。

「いい人」が集まる「ユートピア」。
考えてみると、これは「彼岸」ではないかという気がしてきます。
もしかしたら、私はもう死んでいて、ここは「彼岸」かもしれない。
ふと、湯島からの帰りに、そんな気がしてきました。
実は、彼岸に旅立ったのは節子ではなく私だったのかもしれません。
そう考えるとなにやら納得できることもあるのです。

もしそうであれば、もう少しゆったりさせてほしいなと思います。
帰宅してメールを見たら、明日は朝の9時にはまた湯島に行かなくてはならないのだそうです。
昨夜も真夜中にテレビで九州の地震の報道を見ていてあんまり寝られなかったのですが、そのせいか、帰宅してこの挽歌を書きだしたら、頭が痛くなってきました。
そういえば、今日湯島に来た若者は、職場のストレスで頭痛が絶えないそうです。
「いい人」が集まる「ユートピア」も、それなりにストレスはたまるのかもしれません。

そう言えば、今日、やってきた杉原さんが、よくまあいろんなサロンをやっていますね、と言っていましたが、ちょっとやりすぎかもしれません。
なんでこんなことになってしまったのでしょうか。
きっと「いい人」が多すぎるからでしょう。
困ったものです。

■3150:心がだんだんなくなってきているのかもしれません(2016年4月18日)
節子
昨日は朝早くから出かけなければならず、ホームページの更新もブログも書けませんでした。
節子がいた頃は、何が何でもホームページの更新は日曜日にやっていましたし、ブログも毎日書いていましたが、最近は、無理をせずに、「まあ、いいかっ!」という気分で寝てしまうようになりました。

昨日はいろんな用事の後、「心トリートセミナー」を受講しました。
受講というよりも、そういうセミナーをやっている友人か、一度体験してみて、コメントしてほしいと言われたのです。
ほかの友人たちとも一緒に参加したのですが、私はどうもその枠に入りません。
最初に「性格は変わると思いますか?」と質問されました。
私以外の人は「変わる」と答えましたが、私は「変わらない」と答えてしまいました。
そもそも性格など変える必要はないと思っているからです。
ニーバーではないですが、変わるものは変えればいいですが、変わらないものはそのまま活かせばいいというのが私の考えです。
まあきわめて自己肯定的なのです。
実は、心トリートの目的は、自己否定感を克服して、自分を肯定的に生きるようになることを目指しているもののようです。
本性を抑えている世渡りのための「よろい」も、私にはあんまりないようですし、自己肯定感を引き出すにも、もともと自己否定感がないために、配布されたワークシートがうまく書けませんでした。
困ったものです。
実は、友人はそういう私であることを知って、被験者に選んだのですが。
果たして役に立ったでしょうか。

それにしても、やはり私は社会から脱落しているようです。
最近、そう自覚させられることが多いのです。
昨日も、参加した仲間からは「宇宙人」と言われたり、絵に描いたら、私は地に足ついていない浮遊的な存在になっていました。
そんなはずはないのですが、自覚している私も私なら、外から見える私も私でしょうから、それも含めて素直に受け入れなければいけません。
まあ、節子が苦労したわけです。

しかし、昨日の友人の話を聞いて、普通の人は、先天的な本性と後天的な性格との大きな乖離の故に、その間にある被膜のような「こころ」が痛んでいるというのですが、私の場合、どうも本性が強いようで、痛んでいないのかもしれません。
いや心がだんだんなくなってきているのかもしれません。
心がないとしたら、トリートできるはずもありません。
あんまり「いい被験者」ではなかったような気がします。
しかし、私自身はいろいろと気づくことはありました。
まだ頭の方は作動しているようです。

さて、今日もこれから、ある人と会いに行きます。
我孫子に来てくれると言うので、駅前で会うことにしました。
我孫子である集まりをやりたいという相談です。
さてどんな話になりますやら。
本当は畑に行きたかったのですが、今日はいろいろあって無理そうですね。

■3151:死に向かう生き方(2016年4月18日)
今日、お会いした方の子どもさんたちは、若い時代、お一人は摂食障害、お一人は自傷行為傾向が強かったそうです。
現われ方は違いますが、いずれも「死に向かう」志向が感じられます。
いまはおふたりとも、それを克服されているようですが、ご両親のご苦労も多かったと思います。
しかし、そんなことはおくびにも出さず、その方はお仕事のかたわら、ボランタリーな社会活動に取り組まれています。

その方とは、ある人を介してフェイスブック友だちになったのですが、一度、私に会いたいと湯島のサロンにご夫婦ともども参加してくださいました。
とても自然なご夫婦で、今日、お話を聴くまでは、そんな背景があるとは知りませんでした。
改めてボランティア活動というのは、普通の生活の中から自然とわき出てくるものなのだろうと思いました。
いかにもボランティア活動をやっているという方とは全く違うものを感じます。

ところで、人の生と死はまさにコインの裏表どころか、同じものかもしれないという気が、最近してきています。
死を志向するとは、まさに生を志向することなのかもしれません。
生を意識すればこそ、死が意識されてくる。
私たちはふだん元気な時な時には、生きていること自体への意識はありません。
朝起きて、生きていることへの感謝の気持ちが浮かんでくることは、私の場合はありません。
それが当然だと思うからです。
しかし、節子は違いました。
朝起きると、ああ今日も1日が迎えられたと感謝していましたし、寝る時も1日の生に対して感謝していました。
節子には、死が見えていたのかもしれません。
私も同じような感じを持っていましたが、死への感じ方は違っていました。
どこかで死を直視せずに、節子は治るという思いに覆われていました。
いまにして思えば、勝手な妄想だったかもしれません。
そこには、もしかしたら「生の意識」さえなかったのかもしれません。
いまから思うと悔いがたくさん浮かんできます。

死に真剣に向かうことは、生に真剣に向かうこととつながっているのかもしれません。
節子の病気の相談をさせてもらった知人の2人の医師から、「死に方の問題です」と言われて、ショックを受けて、おふたりとの付き合いをやめてしまったという体験があるのですが、おふたりが言いたかったのはこういうことだったのかもしれません。
しかし、私にはやはり表現が間違っているような気がします。
やはり「生き方の問題」と表現すべきでしょう。
真摯で誠実な生の先にこそ、輝くような生がある。
そして、その生の一部にきっと「死」があるのです。
たとえたどり着いたところが「死」であったとしても、生を誠実に生きたということには変わりはない。
まだ十分には整理できていませんが、最近そんな気がしています。

■3152:生のもろさ(2016年4月19日)
節子
熊本周辺での地震はいまなお続いていて、死者も40人を超えました。
突然の死に見舞われた方への深い哀悼の念とともに、改めて「生のもろさ」を感じます。
生きるということは、実はたくさんの幸運に支えられているのです。
おそらくこの地震で、生と死を分けたのは、ちょっとしたことだったのではないかと思います。
少し大きな視野で捉えれば、このような地震が、私が住んでいる我孫子で起こってもおかしくないわけで、その意味では私自身もまた、今回の死者のみなさんたちとは紙一重のところにいるわけです。
生とは、実にもろい存在で、むしろ「生きていること」がいわば「僥倖」なのかもしれません。
改めて、生きることへの感謝の念を持たなければいけないという気がしています。

生のもろさを実感したことはもう一つあります。
私には孫がいないのですが、娘が来月、出産する予定なのです。
不妊治療のおかげなのですが、それでも高齢出産ということもあり、実際に生まれるまでは不安が絶えません。
娘たち夫婦の出産に至る話を聞いて、子どもが生まれるということはこんなに大変なことなのだと、私は初めて知りました。
恥ずかしながら、私は娘たちの出産も子育ても、ほぼすべて節子に任せてきてしまったのです。
ですから出産に関しては、知識すらほとんどなかったのです。
母親がいないため、娘はいろいろと苦労していますが、私には何もできません。
節子がいたら、彼らもこんな苦労はしなかったかもしれませんが、人が生を得るということがこんなに大変なことなのかということを、私は知りませんでした。
実に恥ずかしい話ですが、おそらく節子は大変だったのでしょう。
母親の支援を受けたとはいえ、夫である私の支援は、いまから思えば何も受けていなかったのかもしれません。
もし節子が今いたら、平謝りしなければいけません。
謝ることができないのがとても残念です。

生は実にもろいものなのでしょう。
そして、運に大きくゆだねられている。
そうであるならば、やはり私ももっと真摯に生きなければいけません。
誠実には生きているつもりですが、真摯さにはかなり欠けているのは自覚しています。
改めなければいけません。
さてどうするか。
まだ答えが見つかりません。

■3153:ワクワクよりもモヤモヤ気分(2016年4月20日)
節子
いろんなことが動き出して、最近少してんてこまいです。
ほんの少しだけですが、昔に戻ったような気分です。
しかし、どうも以前のようにワクワクしません。
むしろあんまりすっきりしない気分が浮かび上がってきます。
なぜでしょうか。
柔軟性が低下しているのでしょうか。

昨日は夕方までは湯島の来客はないので、自宅でのんびりしていたら、電話がかかってきました。
ひきこもり家族会の全国組織の代表の方が、会いたいというので湯島に連れてきた、という友人からの電話です。
連れてきたと言っても、当の私は我孫子の自宅にいるわけですから、湯島は空っぽのはずです。
幸い、彼には鍵を渡していたので、勝手に入って待ってもらうことにしました。
それで急いで湯島に向かいました。
まあ、こういうことが時々あります。
私はいつも湯島にいるわけではないことを知っているはずですが、何しろ湯島は駆け込み寺的な存在なのです。
そのため、私が時々「駈け込まなければ」いけないわけです。
湯島駅から、走るようにして事務所に行ったら、おふたりが神妙な顔をして座っていました。
珈琲くらい淹れておいてよと言いたかったのですが、持参のペットボトルを飲んでいました。
しかたなく、私が珈琲を淹れました。
それから2時間、相談に乗り、解決の方向はたぶん合意できたかと思います。
しかし、資料もないので、まずはその組織の実体を把握するのに1時間ほどかかりました。
なにしろ国会議員に会いに行った帰りに、突然私に会いたくなったのだそうで、資料も何も持ってきていないのです。
そんな相手の気ままさに、どうして私が、自宅でのゆったりした時間を切り上げて、跳んでこなければいけないのか。
断ればいいだけの話なのですが、誰かが相談に来たら行かなければいけないという思考が、私のなかに、どうもしみついているのです。
困ったものです。

さて夜も、別件での相談です。
この方は資料を事前にもらっていましたが、6頁にわたる上に、文字も多く、しかもメールで送られてきて、印刷しておいてください、などと書かれていると、それだけで読む気も起きません。
有料相談ならともかく、珈琲付きで無料相談なのですから、資料くらいは自分でコピーして持ってきてほしいと思います。
まあそう思うのですが、心身の方はなぜか言われたように動いてしまうのです。
これまた困ったものです。

というようなことが毎日起こると、いささかすっきりしない気分が起こってきます。
かなり具体的に書いてしまいましたが、これらはまだいいほうの事例です。
しかし、いろんな人に会っていると、人の善意とは悪意と隣り合わせだなと思うこともあります。
そんなこんなで、最近はワクワクするよりも、モヤモヤすることが多くなっているのです。

実に困ったものです。
だれかにこのモヤモヤをぶつけたいです。

■3154:スーパーでの買い物(2016年4月21日)
節子
今日は一人で近くのスーパーに買い物に行きました。
買い物は苦手だったのですが、最近は少し慣れてきました。
最初のころは財布を落としたり、いろいろありましたが、いまはもう大丈夫です。

前回は自転車で来たのにたくさん買いすぎて持てなくて大変でした。
今日はそうならないように自重して買い物をしましたが、うっかりリンゴとオレンジの徳用袋入りを買ってしまい、そのうえ、飲み物もたくさん買ってしまったので、やはり今回も一袋に収まりませんでした。
物欲がない、お金を使わない、などといいながら、困ったものです。
ちなみに支払いはカードなので、無料です。
ですから気楽に買い物かごに入れてしまうわけです。

風が強かったので、裏道を通って帰りました。
この道は、ハケの道といって、かつては白樺派の文人たちが散策した道なのです。
道沿いには志賀直哉邸跡などもあります。
この道のことは志賀直哉の短編にも出てきます。
手賀沼を囲む斜面林のすそ野をつないでいる道なので、浸水がところどころに出ています。
昔はもっと水が豊かだったでしょうが、宅地開発が進んだので、いまは水場は少なくなっています。
それでも数年前は、水がかなり戻ってきて、沢蟹が出てきたという話も聞きました。

この道は、わが家のほうにもつながっています。
わが家のほうはかなり外れのほうにあるので、ハケの道もまだ十分には整備されていません。
私がやっている花壇は、その道沿いにあるのですが、それもあってもっときれいにしなければいけないと思っているのです。

節子がいなくなってから、私のライフスタイルもかなり変わりました。
まさか私が一人でスーパーに買い物に行くとは節子は思ってもいなかったでしょう。
でもまあ買い物も楽しいものです。
安い商品を買うコツもだいぶわかってきました。
今日は、いつものパンが、黄色いシールがついて、110円で売っていました。
躊躇せずに買ってしまいました。
なんだかとても得をしたような幸せな気分になりました。
これが主婦の喜びなのかもしれません。
しかし、こうやって実は無駄遣いをしてしまうのでしょう。
困ったものです。

■3155:「独身はじめました」(2016年4月22日)
節子
節子がいなくなってから知り合った岡田さんという人がいます。
映像関係の仕事をしていますが、一時期、湯島のサロンによく来てくれました。
実に魅力的な人です。

その岡田さんのフェイスブックに、「4月22日。よい夫婦の日ではありますが…独身はじめました」と書き込みがありました。
「離婚届」の写真付きです。
岡田さんらしい話です。
それに対するコメントがたくさん寄せられていますが、それがみんな実に面白いのです。
まさに岡田さんの生きている世界が伝わってきます。
うらやましいほどに、明るくて楽しくて、あったかい。
私は、「おやおや」としかコメントを書けなかったのですが、それに対してすぐに岡田さんからは「父親・母親であることに変わりはありません」と返ってきました。
まさに「おやおや」。
岡田さんは、私とは違って、「遊び心」の豊かな人なのです。
岡田さんがますます好きになりました。

夫婦のあり方はいろいろとあります。
岡田さん夫婦は、たぶんこれからもお互いに納得できる「いい関係」をつづけるのでしょう。
そんな気がします。
ある意味では、私たち夫婦も、ある意味では「いい関係」がいまも続いているとも言えます。
夫婦とは、実に不思議な関係です。

しかし、考えてみると、私もいまは、「独身やってます」ですね。
岡田さんと違って、あんまり楽しくないのはなぜでしょうか。
人生をおしゃれに生きている岡田さんに学ばなければいけません。

■3156:深いつながりと浅いつながり(2016年4月23日)
敦賀の義姉から今年もタケノコが送られてきました。
義姉の家もいまいろいろと大変なのですが、私のタケノコ好きを知っているので送ってくれたのです。
いつもは娘にすべて任せているのですが、今回は私が皮をむきました。
驚いたことに皮をむいたら大きなタケノコが予想以上に小さくなってしまいました。
なんだかだまされたような気がしました。
もちろん皮をむいたら小さくなることは、さすがの私でも知っていたのですが、実際にやってみるのと観察するのとでは、印象が全く違うものです。

人もまた、タケノコのように、たくさんの皮で包まれています。
私はかなり本性のままに生きているつもりですが、それでもたくさんの皮をかぶっているのでしょう。
そうした「皮」を剥いでいって残るところは、みんな同じではないか。
人は、深いところで、通じ合える。
そういう考えで、日本在住のガーナ人のアナボヌ ユウジンはweasone というNGOを立ち上げました。
理念は、DEPTH(深いところでみんなつながっている)。
彼とは2回ほど、彼の考えている活動に関して激論を交わしましたが、たしかに深いところではつながっていることを感じます。
しかし深くないところでは、やはりかなりの違いもあります。
weasoneは、まだいろいろと試行錯誤段階ですが、彼の活動を少し応援しようと思っています。
実際に何かを一緒にやることで、理解は深まりますから。
深いところでみんなつながっていることの実体が、見えてくるかもしれません。

それはともかく、私たち夫婦は、深いところで理解しあっていたでしょうか。
そして、浅いところではどうだったでしょうか。

人の繋がりは、浅いところと深いところがあります。
浅いところでの理解や共有は、時間を共にしていれば、自然と育ちます。
しかし深いところでの理解と共有は、それなりの努力が必要かもしれません。
人間や生命としての核、つまり一番深い最深部は同じだと思いますが、そこに達する直前の、個人的な本性は、たぶん人それぞれです。
ですから、そこに関わると、誤解や混乱や反発が生ずることになります。
ですから友人知人関係の場合、深入りせずに浅いところで付き合っていたほうが、楽しいでしょう。
しかし、夫婦はそうはいきません。
どうしても相手の深部に関わらないわけにはいかない局面がやってきます。
それがまあ、「7年目の危機」かもしれません。
そこで壁を破れないと、その先にはなかなか進めないかもしれません。

幸いに私たちは、その壁を超えられました。
お互いに、自らの弱みをさらけ出すことができたからです。
弱みを見せられることが、夫婦の出発点かもしれません。
そして私たちは、夫婦になったわけです。
さまざまな気づきがあり、関係が少し冷えた時期もなかったわけではありません。
でもそれを乗り越えたのは、たぶん相手の弱みを十分に知り合っていたからではないかと思います。
深いところで共有するものを持っていれば、浅いところの違いはむしろお互いを豊かにしてくれるものになります。
浅いところでの、違和感は、いかようにも対応できるものです。
逆に、浅いところで世界を共有していても、深いところでのずれがあると、いつかお互いに疲れが出てきます。

弱みを共有する。
それが夫婦の最大の意味かもしれません。

■3157:シャクヤクの花が咲いたのですが(2016年4月24日)
節子
シャクヤクの花が9年ぶりに咲きました。
節子が再発する前に、家族みんなでひたちなかに出かけた帰りに、美野里町の花木センターで購入してきたシャクヤクです。
見事な花に、節子が気にいって買ったのですが、節子がいなくなってから、なぜか花が咲かなくなってしまいました。
そのシャクヤクが、今年は花を咲かせたのです。

植木鉢を庭においていたのですが、先日の強風にももちこたえました。
ところが、今朝、起きてみると、そのシャクヤクが花の重みに耐えかねて、折れていました。
昨日は風もなく、大丈夫だと思っていたのですが。
それで花の部分を切り取って、節子の仏前に供えました。
その時、ふと思いました。
もしかしたら、節子が供えてほしかったので、花を折ったのではないかと。
あるいは、シャクヤクが節子に見てほしくて、折れたのかもしれません。

いずれにしろ、そのおかげで、9年ぶりに咲いたシャクヤクは、いま、節子の位牌の前に供えられています。
きっと来年も咲いてくれるでしょう。

■3158:雑念から解放された3時間(2016年4月26日)
節子
いろいろとあって気分がどうもすっきりしないので、今日は3時間近く畑作業に取り組みました。
まあ取り組んでいる時はいいのですが、帰宅した途端に倒れそうです。
しかしがんばったおかげで、畑の面積がかなり増えました。
改めてまた、きゅうりと茄子と白菜とキャベツとレタスとピーマンを植えました。
風の強いところなので、また強風にやられることも考えて、少し余分目に植えたのです。
さらに今日はねぎを2畝つくりました。
今回はきちんと野菜用の肥料も蒔き、支えもつくりました。
たったこれだけのことなのでが、かなりの労力なのです。
なにしろちゃんとした畑ではなく、宅地の空き地ですから。
篠笹の根っこがともかく張り巡らされているのです。

道沿いの花壇にも、マリーゴールドを買ってきて植えました。
チューリップは終わったので、いまは花目が少なくさびしかったからです。
そう言えば、昨年の百日草の種をとっておいたので、そろそろ蒔き時かもしれません。
だいぶ慣れてきました。

畑作業をやっていると、矛盾した言い方ですが、無心に何かを思いつきます。
たとえば、今日は自分のやっていることは、自然界からすれば、ISと同じではないかなどという思いが、ふと浮かんできました。
そもそもここは農地ではないので、まずある面積の四方に棒を立てて、その一画の野草をともかくすべて破壊するのですから、そう思ってもおかしくないでしょう。
畑を覆っている野草を無残にも根っこから刈り取ったり、鍬を入れてもしかしたらミミズを切断したりしているわけです。
畑作業とイスラム過激派とは、普通はあんまり結びつきませんが、そんなことを突然考えたりしているわけです。
そんなことを思っていると、ISの暴挙も理解できる気もするのです。
自然と付き合っていると、人は自分の考えを相対化できるようになります。
自然の前には、人知など、いかにも小さいからです。

ところで、野菜にしろ花にしろ、私はあんまり植えるのに慣れていないので、時に失敗してしまうこともあります。
今日はうっかりして、マリーゴールドの花を折ってしまいました。
そんな時には、自然と「ごめんごめん」と声が出てきます。
おそらく花はそれを聞いているでしょう。
きちんと謝っておかないと枯れてしまうのです。
まあそんな感じで、畑にいるとさまざまな生命と交流できるわけです。
風と話せることもあります。

雑念から解放された3時間でした。
しかし、帰宅してパソコンを開くと、あっという間に、雑念の世界の住人です。
最近少し疲れ気味なので、雑念に勝てません。
困ったものです。

■3159:「感情が渦巻いている」状況のなかにいます(2016年4月27日)
節子
熊本での地震を知ってか知らずか、四国遍路を巡礼中の鈴木さんは、最後の香川に入ったようです。
毎日30キロほど歩いているようですが、サンチアゴ巡礼と違い、日本の場合は納経の時間がけっこうかかるようです。
今回は、廻向文の書かれた30番善泉寺のはがきでした。
連休明けには戻ってくるでしょうが、熊本の地震騒ぎのことも含めて、たくさんの気づき話をまた聞かせてもらえるでしょう。
毎日30キロも歩いていると、平常心が高まるでしょう。

それに比べ、私は相変わらず「感情に響く事」ばかりです。
今日は朝から電話やメールがたくさんありました。
親しい友人から、いま私が関わっているプロジェクトに関して、手厳しいコメントの手書きをもらったり、新潟での新しい試みの相談があったり、私の身の回りは、相変わらず「感情が渦巻いている」状況です。
私自身の気が弱くなっているせいかちょっとした言葉や表現に、過剰にめげてしまいそうです。
もう少し、物の言いようがあるだろうと思うのですが、相手には悪意はないとしても、時にグサッと来るのです。
もしかしたら、私も同じようなことをやっているはずですから、注意しないといけません。

今日は、昨年、自己破産した人が来ました。
彼と会うだけでも、平常心がゆるぐような関係だったこともあり、この人のことはこれまでブログにもホームページにもほとんど書いてはいないのですが、ふたたび事業に挑戦するという報告に来てくれました。
彼にとっては、熊本地震よりも自らの人生の激震を受けて、この数年、大変だったと思いますが(私も大変でした)、ようやく先が少し見えてきたようです。

熊本の被災者は大変でしょう。
しかし、何も大変なのは大震災の被災者だけではありません。
みんなそれぞれに大変なのです。
熊本の被災者の報道を見ていると、不謹慎ですが、私の周辺にはもっと大変な人が少なくないと思ったりします。
テレビで見る被災者は、みんな幸せそうにさえ見えることもあるのです。
こんなことを書くと非難されそうですが。

今日は、実にいろんなことがありました。
しかし、昨日の畑仕事のおかげで、平常心を貫けました。
鈴木さんの功徳が、少しは私にも及んでいるのかもしれません。

しかしちょっと疲れがまた出てきてしまい、友人の展示会に行くつもりでしたが、電車に乗った途端に気分が変わってしまい、そのまま自宅に帰ってきてしまいました。
昨日の作業疲れが出てきてしまったのかもしれません。
平常心を保てても、平常体は保てない。
困ったものです。

■3160:「あなたはひとりじゃない」からこその哀しさ(2016年4月28日)
節子
東北学院大学の学生たちが中心になって、東北の被災地での聞き込みをベースにした「呼び覚まされる霊性の震災学」を読みました。
その第1章は、「死者たちが通う街―タクシードライバーの幽霊現象」です。
これは当時も大きな話題になった話ですが、実際に幽霊をタクシーに乗せた運転手はたくさんいるようです。
なかには、子どももいて、実際に降りる時に手を貸した事例まで報告されています。
ほとんどが若い人で、季節外れの冬の服装だったようです。

今日、オフィスにまったく別件で、仙台から来た人がいるので、その人に話したら、何の違和感もなく、そうなんですと答えが返ってきました。
なんの不思議もなく、受け入れられていることなのでしょう。

私も何の疑いも持ちませんが、他にも不思議な話が紹介されていました。
名取市閑上の震災慰霊碑に、たくさんのチューリップの球根を植えたそうです。
ところが芽を出したのは14本。
そこでなくなった子どもたちが14人だったのです。
幽霊というといささか適切ではないと感ずる人もいるかもしれませんが、現在の人智では理解できないことはあるのです。

理解できないと言えば、愛する人を亡くした被災者の気持もまた、理解できないことの一つです。
その本にこんな紹介も出ていました。

テレビをつけても、「あなたはひとりじゃない」と呼びかける公共広告や芸能人に怒り、テレビに物を投げつける日もあった。

私は公共広告のCMが好きでしたが、東北の大地震の後、生理的に拒否感が生まれました。
いまもなお、公共広告のCMをみると、心がざわざわします。
「あなたはひとりじゃない」とか「絆」とか、一体だれが言い出したのでしょうか。
決して悪い言葉ではありません。
しかし、被災した直後の被災者に言うべき言葉ではないだろうと私は感じていました。
大切な人を失った人は、矛盾した言い方ですが、その人と一緒であるからこそ、辛いのです。
ひとりじゃないからこそつらい。

タクシーの乗った幽霊たちもまた、ひとりではないからこそ、戻ってきたのです。
私たちは、みんな一人ではないのです。
だから悲しくてつらくて、さびしいのです。

なんだかわけのわからない話になってしまいましたが、この本を読んで、3.11ではなく、9年前の9月3日を思い出してしまいました。

■3161:花かご会のみなさんは楽しそうでした(2016年5月2日)
節子
我孫子駅前の花壇の整備をやっている花かご会が、今日は植え替え日だと言うので、ささやかな差し入れに行ってきました。
今日は山田さんや黒武者さんなど、7〜8人で作業をしていましたが、花を植える場所がどんどん広がってきています。
今年は、ある企業から花苗を80鉢も寄贈されて、そのため花壇の裏側までも花で埋め尽くされていました。
その分、みなさんの仕事も多くなっているのでしょうが、みんな楽しそうに生き生きと動いていました。
みなさんの笑顔もとても素晴らしい。
もしかしたら、節子の姿も、どこかにあったのかもしれません。

市からの苗の提供も順調のようで、むしろ今年は苗よりも肥料などの手当てが大変そうでした。
今年は、表彰もしてもらえるそうです。
花かご会のみなさんの活動がこうやって多くの人たちに知ってもらえるのはうれしいことです。
ジュンの出産予定のことも、山田さんから伝わっていたようで、私よりも詳しい情報をお持ちでした。
困ったものです。

花かご会のおかげで、駅を通る時にいつも、節子を思い出せます。
感謝しなければいけません。

■3162:日本国憲法前文を熟読しました(2016年5月3日)
節子
憲法記念日は、毎年、日本国憲法を読むことから始まりますが、今年はそれをフェイスブックに書いたことで、電話やメールが届きました。
例によって、リンカーンクラブの武田さんとは1時間の長電話になりました。
武田さんはちょうどまた憲法に関する本を書きあがたところです。
節子がいた頃と同じく、武田さんとは毎回同じような議論を繰り返しながら、喧嘩をし続けています。
困ったものですが。

今年は改めて前文を熟読しました。
日本国憲法はこれでもう十分だと思いました。
ほかの条文は不要です。
しかし、それでは権力に対する防御策にはなりませんが。

おそらく私や節子が生きた時代は、人類においても「稀有な時代」だったのかもしれません。
穏やかな平和な暮らしができたのですから。
私は太平洋戦争が始まる少し前に生まれ、節子は太平洋戦争が終わった少し後に生まれました。
そして、ふたりとも戦後の、かなり物質的に貧しい時代に育ちました。
両親の苦労を身近に感じて育ちましたから、「もったいない」の精神はかなり持っています。
娘たちからは、ふたりとも「変わっている」と言われ続けていますが、それなりに自分を貫いた生き方ができています。
それも、日本国憲法のおかげだろうと思っています。
競争しなくても、いきていける時代だったのです。

しかし、そうした「良き時代」は、終わりつつあります
人類の歴史は、もう少しはつづくでしょうが、おそらく人間の時代はそろそろ終焉するでしょう。
早ければたぶん、今世紀で終わるだろうと思います。
来世がどうなっているのか、いささか心配ですが、まあそれはそれで仕方がありません。
でも終わりはわかっていても、生き方は変えるつもりはありません。
来世も人間の社会に生まれたいと思って、いまの生き方を続けていこうと思います。

■3163:育児への反省(2016年5月4日)
節子
今朝の我孫子は台風の時のように荒れていましたが、少し穏やかになってきました。
陽もさしだしました。
もしかしたら畑の野菜がまたダメになってしまっているかもしれません。

ジュンの出産は、この連休中になりそうです。
もういつ産まれてもおかしくないそうですが、まだのようです。
昨日、娘たちと食事に行ったのですが、ふたりからお父さんは私たちの出産のときに病院に来たのかと問われました。
行ったことは間違いありませんが、産まれてすぐではなかったような気もします。
節子の日記を見たらわかるのでしょうが、出産も育児も、かなり節子任せだったと思います。
いまから思えば、節子は一人で大変だったでしょう。

娘からは、チャッピー(今は亡き愛犬です)への接し方を見ていれば、お父さんの子育ての姿勢がわかるとさえ言われたことがあります。
つまり、遊び相手ではあっても、真剣に育てようという姿勢が見られないというのです。
そんなことは決してないと弁明したものの、正直、そう言われると自信をなくします。
それに、子どもと「友だちづきあい」などできるはずがないだろうとも言われています。
私の基本姿勢は、子どもも友だちという考えなのです。
しかし、親子の関係は、そんなに「甘く」ないようです。
いまから思えば、身勝手な子育てだったのかもしれませんが、助け船を出してくれるはずの節子がいないいま、弁明の方法がありません。
孤立無援なのです。
困ったものです。

娘を通して、私たちが親としてはやはり身勝手だったことを痛感させられているのですが、節子がいないいま、すべては私が引き受けなくてはいけません。
それはかなりつらいことではあります。

それにしても、娘たちを見ていると、自分のことがよくわかります。
節子はよく私に付き合ってくれたものです。
感謝しなければいけません。
娘たちが付き合ってくれていることにも、ですが。

■3164:アンニュイな昼下がり(2016年5月4日)
節子
連休の真っただ中、湯島に来ています。
午後からミニミーティングがあるのですが、今日はめずらしく午前中に出てきました。
しばらくいろんな人たちがこの部屋を使うので、掃除をしようと思ってきたのですが、ありがとうございます。さとは大違いのとてものどかな穏やかな日になってしまい、外をぼんやり見ていたら、うたた寝をしてしまいました。
それでせっかくなので、掃除はやめて、外を見ながらの「瞑想」をすることにしました。

休日のせいか、外の工事も休んでいて、ともかく静かです。
視野の一角に緑があります。
それが風で大きく揺らいでいるのが、瞑想に適度の刺激を与えてくれます。
おそらく行楽地はどこもにぎわっているのでしょう。
以前はよく行楽地にも出かけました。
私は混雑が好きなタイプでしたが、節子は好きではありませんでした。
いつの間にか私も混雑を避けるようになりました。
節子がいなくなった今は、節子がいた時以上に混雑は不得手になりました。
というか、混雑しているところには行かなくなってしまいました。

昼下がりの、なんとなくけだるく、甘く、アンニュイな雰囲気もたまにはいいものです。
学生の頃、わけもわからず観に行った、イタリア映画を思い出します。
ミケランジェロ・アントニオーニの作品だったでしょうか。
あの頃は、未来に大きな夢を持っていました。
そんなことを思い出していたら、お客様がやってきました。
この続きはまたあとで。

■3165:朝のミーティング(2016年5月5日)
節子
今日は早起きをしました。
7時に近くのカフェで人と会う約束をしているからです。
白井で農カフェをやっている宇賀さんがぜひ私に引き合わせたい人がいると言って、わざわざ我孫子まで一緒に来てくださるのです。
テーマは、ベイシックインカム。
きっと波長は合うでしょう。

宇賀さんたちは農業にも取り組んでいますから、朝は早いのです。
私も、一時期、朝型になっていましたが、最近は目が覚めるのは早いのですが、なかなか起きてこられません。
しかし、久しぶりに朝早く、外に出てみると気分がとてもいいです。
まあ「季節の良さ」もありますが、朝の雰囲気はとても清浄な気分が漂っていて、いいものです。
玄関のバラも一つだけ咲きだしていました。
この勢いで、畑に行ってひと仕事というところまで行けばいいのですが、それはやはりまだ躊躇します。
しかし、湯島のミーティングも、朝サロンを始めてもよさそうです。
最近土日がなにやかやと用事が入りだし、サロンもできませんし、夜のサロンはどうも疲れます。
問題は、湯島の朝サロンに参加してくれる人がいるかどうかです。

節子
まあこんな感じで、何とか元気になれそうです。
滅入ることも多いのですが。

ではそろそろ出かけましょう。
新しい出会いは、いつもワクワクします。
なにか新しい物語が生まれるといいのですが。

■3166:永遠の安らぎとは死なのか(2016年5月6日)
ヨハン・ガルトゥングの「紛争解決学入門」という本を読んでいたら、こんな文章が出てきました。
ちょっと気になって、メモをしておきました。

生命をもつものだけが目標をもっている。
目標をもたなくなると、生命は終わる。
死ぬ人間がもつ最後の目標の1つは、無目標そのもの、永遠の安らぎであろう。
目標はわれわれを苦しめる。
目標を達成し、満足するためにわれわれが始める活動には限りがない。

その本を読んでいる時には、あまり消化できずにいました。
いくつかの違和感があったからです。
特に、「目標をもたなくなると生命は終わる」ということには、大きな違和感があります。
前にも書きましたが、生命は「目標」とは次元の違う話で、それ自身が「目標」そのものでもあるからです。
それに、永遠の安らぎは「死」と同義語です。
安らぎがないからこそ、生の躍動があるからです。
だからといって、生の目標が安らぎであるとは、到底思えません。

私は、最近、退屈で退屈で仕方がないのです。
節子がいなくなってから、ずっとそうです。
退屈と暇とは、私には同義語のような気がしていますので、
時々、暇で暇で仕方がないという発言をしてしまいます。
どうもそれが、相手には伝わりません。

退屈で暇であるということは、「安らぎ」でしょうか。
少なくとも私には違います。
退屈なこの8年の間、安らぎはあったでしょうか。
たしかにこの1年ほどは、比較的、安らぎの心境になることがあります。
世界が見えてきたような気がしてきているからです。
しかし、それが果たして「安らぎ」といえるかどうかは疑問です。
安らぎがないことと生の躍動は、あきらかに違います。

退屈で暇で、しかも安らぎもない。
なにが欠けているのでしょうか。

昨日、瞑想家にお会いしました。
といっても、瞑想が話題になったわけでも、彼が自らを瞑想家といったわけでもありません。
瞑想どころが様々な活動もされている人で、その関係で私とも会ったのだと思います。
ただ、話の所々で、「無我」という言葉が出てきました。
「無我」ということばが、もしかしたら、ガルトゥングの言葉を消化する鍵かもしれません。

ところで、節子はいまは「永遠の安らぎ」を得ているのでしょうか。
そんなことはないでしょう。
私を待っているはずですから。

■3167:連休と無縁の暮らし(2016年5月7日)
節子
わが家では、連休は、「外部の世界」の話であって、わが家とは無縁のことなのですが、節子がいなくなってからは、ますます連休という感覚はなくなってしまっています。
ただ世間がお休みなので、在宅時間が増える期間ではあるのですが、なぜか今年は、それもまた普段と変わりない状況でした。
私の付き合う人たちが、「連休の恩恵」を受ける人たちではなくなってきているのかもしれません。
いずれにしろ、世間は連休ムードですが、わが家は普段と違うことは、何一つありませんでした。

会社を辞めて実感したことの一つは、「国民の休日(legal holiday)」が赤字になっているカレンダーの「暦」は会社で働く人たちのものだということです。
生活の立場から言えば、季節の暦だけで十分でしょう。
さらに歳をとってくると、週という概念もあまり意味がなくなってきます。
大きな季節、それもカレンダーの暦からは自由な、自然の状況に合わせた季節だけで十分なような気がします。

年齢も、あまり重要ではないという気がしてきます。
先日、一緒にあるプロジェクトに取り組んでいる仲間たちが、私が5月生まれであることを知って、誕生祝いをやろうかと言ってくれました。
そういうことに関してだけは素直でない私は、「なんで誕生日を祝うのかがわからない」と対応してしまったのですが、人はなぜ誕生日を祝い、自らの年齢を確認しなければいけないのか、あんまり理解できません。
たしかに、まだ生命的に安定しない乳幼児や児童の場合は、誕生日を祝うことには意味があります。
しかし、それは15歳くらいでもういいでしょう。
人は15歳くらいでもう一人前だと思いますので、誕生日や年齢も15歳以降は、毎年数えることもないような気がします。
国民を管理する政府にとっては、それでは「管理」できないのでしょう。
しかし、そもそも人を管理することなどできるはずもないし、管理されたくもありません。

とまあ、最近は、だんだんこういう考えになってきているのです。
歳を重ねるのが嫌だ、ということではありません。
自分自身の意識として、誕生日は一つの節目にはなりますので、誕生日そのものは否定しませんが、誕生日を祝うことは、もうやめようと思います。
そもそも記念日を祝う発想が、私にはもともと乏しいのです。

節子はそうではありませんでした。
節子は、誕生日を祝う派でした。
そして63歳の誕生日が、生きる目標になっていました。
それが達成できなかった。
もしかしたら、私の誕生日嫌いは、そのことに起因するのかもしれません。

連休を楽しんでいる様子が、フェイスブックでたくさん届きます。
自分が、社会から大きく脱落しているなと、つくづく思います。

■3168:今日も畑に行ってきました(2016年5月7日)
節子
今日も畑をがんばりました。
しかし、この数日、行けなかったのと雨風がひどかったので、またきゅうりがほぼ全滅でした。
後から植えたナスもダメになってしまいました
小さな苗は、やはり周りを覆っておいてやらないといけないのだそうです。
まあこうやって少しずつ学んでいくわけですが、野菜作りも難しいです。

今やっているのは、野菜作りというよりも、むしろ開墾作業です。
重労働なのです。
ゆっくりと休み休みやらなければ倒れかねません。
耕運機を購入することもちょっと考えましたが、それではやはり意味がありません。
野草と競い合うには、やはりフェアに人力で立ち向かわないといけません。
いまでさえ自然を壊しているという気がするのですから、耕運機は使えません。

花壇はやはり難しいです。
野菜以上に声掛けが必要です。
なかなか思うように元気になってはくれません。

世間の連休も、明日を残すだけになりました。
この連休中に、やろうと思っていたことのリストは、半分しか消せませんでした。
どうしても、先送りする私の悪い習癖は直りません。
しかし、いずれも「絶対にやらなくてはいけないこと」でもないのです。
そもそも人生には、「絶対にやらなくてはいけないこと」などあるはずもありません。
みずからに何らかの課題を課さないと、生きにくくなることも事実ですが、いまの私にはそういう課題がみつかりません。
だからまあ、暇で暇で仕方がないわけですが、考えようによっては、畑の野菜に毎朝、挨拶に行くのだって、「やらなければいけないこと」と位置づけることはできるでしょう。
でもまあ、そんな気にもなりません。

5月の中旬から6月にかけて、いろんな用事が入っています。
京都や福井や新潟にもいく予定です。
その準備も全くできていません。
連休があけたら、きっとまた時間破産に陥るでしょう。
暇で暇で仕方がない状況での時間破産は、ちょっと心身がバラバラになるようで、あんまり気持ちのいいものではありません。
そうならないように、この連休期間で課題リストをすべて解消したかったのですが、見事に失敗しました。
でも、今日は2時間の畑仕事でいい汗をかいたので、少しだけ充実感があります。
だれからもほめてはもらえませんが。

■3169:コモンズの悲劇(2016年5月9日)
節子
この2日間、ちょっと疲れてしまっていました。
まあいろいろとありますが、また人間きらいに陥りそうです。
それにしても、最近の日本には「礼儀」というものがなくなってきているような気がします。
湯島をいろんな人たちに開いてはいますが、がっかりすることが多いのです。

親しき仲にも礼儀ありですが、親しくないのに礼儀もわきまえない人が増えています。
節子は、そういうのがとても嫌いでした。
横から見ていると、そういうことがよく見えたのでしょう。
私も、最近だんだんそういうふうになってきています。

湯島は、できるだけ多くの人たちに開放したいと思っています。
一応、湯島の利用ルールというのがあるのですが、きちんとそれを読んでくれていない人が多いのです。
そのルールでは、コモンズの悲劇ならぬ、コモンズの幸福を目指したいと最初に書いてあるのですが、時々、それが破られます。
もっともほとんどの人は、ルールを守ってくれていますが、時に信じられないような行動をする人もいるのです。
そのくせ、たぶんその人は、それに気づいていないのでしょう。
そういう人には開放したくないのですが、使う人を選んでしまえば、それはコモンズ空間にはなりません。
そこが悩ましいところです。

節子がいたら、私も愚痴をこぼせるのですが、いまはそんな話は誰にもできずに、ストレスがたまります。
それで気づいたのですが、節子がいた頃の私にストレスがなかったのは、節子がいたからだったのでしょう。
いまはすべてが私の中にたまってしまうので、時々、何やら人嫌いになるわけです。

その一方で、見事な言動に感動させられる人もいます。
形式的な礼儀ではなく、洗練された美しい言動をする人に接すると幸せになります。
しかも、そういう人は、むしろ若い世代に多いのです。

他者から見たら、私も礼儀知らずの非常識で醜い言動をしているのかもしれません。
時々、娘から指摘されますが、あんまり注意してくれる人もいません。

その人に似た人たちが集まるということが事実だとしたら、自らの言動をまずは反省しなければいけないのかもしれません。
でもまあ、私だったら絶対にそんなことをしないというような言動に出会うことがどうも最近増えています。
湯島を開放しすぎているのかもしれません。

昔ある友人から、付き合う友だちをなぜおまえは選ばないのかといわれたことがあります。
そう言う生き方をしていると、時に人間きらいになるのですが、大きな目で見たら、きっと人間好きになっている度合いの方が大きいでしょう。

社会には、実にさまざまな人もいる。
不快な言動の人も、受け入れる寛容さがほしいです。
この記事を書いて、少しすっきりしました。
まだまだ未熟です。

■3170:娘の出産入院(2016年5月9日)
節子
ジュンに子どもが生まれそうです。
実は1週間前から、いつ産まれてもおかしくないと言われていたのです。
節子がいたら、いろいろとケアしたのでしょうが、私には何もできないばかりか、アドバイスひとつできません。
ジュンは結局、わが家には戻らずに自宅で出産を迎えました。
そして、けさ早く入院したのです。
しかし、入院してから少し落ち着いたようで、明日になりそうだとメールが来ていたのですが、いまジュンのパートナーから出産しそうだというのでこれから病院に行くと電話がありました。
高齢出産なので、何かと心配ですが、娘夫婦は、出世前診断などは何もせずに、性別ももちろんわかっていません。
その点は、私たちと同じ考えです。

いずれにしろ私には何もできないのですが、この1週間は、なんとなく落ちつきませんでした。
節子がいたらどんなに喜ぶことか。
それを思うと、残念でなりません。

ジュンの妊娠を知ったある人が、「佐藤さんのおじい様ぶりはちょっと想像がつきません」とメールをくれました。
たしかに私にもイメージできません。
たぶん「おじい様」にはならないでしょう。
私は、「お父様」にさえなれなかったのですから。

上の娘のユカが、今日も、私に「まともな父親がほしかった」と嘆いていました。
私には、基本的にどこかに欠陥があるのです。
それが、「障がい」だと気づいているのは、娘たちだけかもしれません。
私も節子も同じでしたから、私たち夫婦はあまり自覚がなかったのです。
しかし、そのおかげで、多様な生き方への寛容さは少し高いように思っています。

まだ出産の連絡はありません。
期待と不安がまじりあった、とても奇妙な心境です。
祈るしかありません。

■3171:孫が無事出産しました(2016年5月10日)
節子
昨夜の11時前にジュンが出産したという連絡がありました。
写真も届きました。
母子ともに元気そうです。

ジュンのパートナーの峰行は、イタリアンレストランをやっています。
ですから、開店日はなかなか病院にも行けません。
ところが9日と10日は連休なのです。
まさにそれに合わせて、生まれてきたかのようです。
それで、昨日の朝、峰行はジュンを松戸の病院に送り、夜また病院に出かけられたわけです。
今日もレストランは休みなので、病院に行けます。
親思いの子どもです。
私の娘たちとは大違いです。

朝、娘から電話がかかってきました。
峰行の両親も来るけれど、お父さんは来るのかという電話です。
こういう時には、普通は行くのでしょうか。
この歳の初孫なので、みんなさぞ喜んでいると思うでしょうが、そういう実感は出てこないのです。
病院に行っても、窓越しにしか会えません。
それに生まれたばかりの赤ちゃんは、私にはみんな同じ顔に見えます。
頑張ったね、と娘に言うのも、なんか白々しいです。
さてなんというべきか。

節子がいたら、すぐにでも行こうという気になるのですが、なぜかそういう気が起きてきません。
これまた実に複雑な心境なのです。
孫に会うのは、私ではなく、節子であってほしかった。
孫に会えなかった節子が不憫でなりません。
その責任は私にあるのかもしれません。

喜びには、かならず悲しみもついてくる。
でもまあ、みんなで病院に行くことにしました。
節子も連れていきましょう。

■3172:素直に喜べない気持ち(2016年5月10日)
節子
病院に行って、母子に会ってきました。
峰行の両親や兄妹も来ていましたが、女性たちと男性たちとの表情や話しぶりには微妙な違いがあります。
私自身、正直、声を上げるほどの感激はないのです。
子どもと孫とでは、やはり違うのかもしれません。
あるいは、私が変人なのかもしれません。
友人たちから、孫の話をよく聞かされていましたが、そのたびに心がかたくなになってきていて、いまさらその心の殻を破れないでいるのかもしれません。
素直に喜べない私がいるのは、なぜでしょうか。

孫ほどかわいいものはないと聞かされるたびに、孫のいないさびしさを感じていました。
だから、仮に孫が生まれても、絶対に他者には喜びの気持を表したくないと思っていました。
これは、孫だけの話ではありません。

他者の喜びは、また自らの喜びでもあるはずです。
しかし、実際には必ずしもそうではなく、人には羨望の念や負い目を感ずる弱さもあります。
孫のいないことや、伴侶を喪ったことを通して、私自身、いろんな複雑な思いを積み重ねてきています。
そんななかで、いつのまにか、自分の喜びを他者に伝えることの罪深さを感ずるようになってきているのかもしれません。
もしかしたら、ひがみかもしれませんし、性格のゆがみかもしれません。

さらに、コムケア活動ということを通して、さまざまな人たちと付き合ってきている中で、私自身の、喜びや幸せの感じ方が違ってきているという面もあります。
宮沢賢治の、すべての人の幸せこそが自らの幸せだということが、最近はとてもよくわかるようになってきています。
ですから、自らだけの幸せは、むしろ素直に喜べなくなってきているのです。

娘たち夫婦の不妊治療の大変さも身近に感じています。
彼らは、幸いにも子どもを授かれましたし、私も孫を授かれました。
しかし、授かれない人もいる。
それを知っていて、どうして喜べるでしょうか。

しかし、母子ともに、元気な姿は見ることは、幸せなことです。
そこで素直に喜べばいいのですが、なぜかとても哀しいさびしさが、どこかにあるのです。
今日もまた、複雑な気持ちに襲われて、とても疲れた1日でした。

■3173:税金の季節(2016年5月11日)
節子
この時期は税金の工面で大変です。
自宅の税金もありますが、実は節子と転居する予定で購入していた湯河原のマンションもあるので、その税金も払わなければいけません。
節子が残してくれた貯金は、あるトラブルのためになくなってしまいました。
困ったものです。
私の生活は、基本的には毎月15万円の年金で成り立っていますが、税金や家の改修工事などがあると、まあそれなりに大変なのです。
今年も庭の藤棚が倒れそうになっているので、造りかえようと見積もりを頼んだら、なんと予想以上に高価で、結局、先延ばしにしました。

もっとも貯金が全くないわけではなく、少しはありますが、定期預金はもはやなくなってしまい、税金の季節になると残高は減ってしまいます。
でもあと2〜3年ほどは大丈夫でしょう。

湯河原のマンションは、もう転居計画はなくなったので売却したいのですが、それも面倒なので放置していますが、この管理費が高いのです。
時々、銀行の残高がなくなって振込できないこともありますので、今年こそ売却して、借金返済に充てようかとも思っていますが、値段を聞いたら、なんと購入時の4分の1です。
売ろうという気が失せてしまいました。

まあしかし、お金は天下のまわりものですから、本当に困ったらどこからかやってくるでしょう。
そういう考えが持てるようになったのは、節子との生活のおかげかもしれません。
収入がなくても何とかやってこられましたし、いつも誰かに支えられているのです。
娘の連れ合いは、私に収入のないことを知って不思議がっていましたが、私がだれかから何かをもらってきたりわが家に何かが送られてくるのを知って(その時には必ず娘夫婦にお裾分けします)、それで私の生活が維持できているのだなと、娘に話したそうです。
そうなるとまるで私がまわりの人たちのお布施によって生きているような感じがしますが、そんなことはなく、ただ単に生活費を切り詰めて、質素な暮らしをしているだけなのです。
質素な暮らしは、私には豊かな暮らしでもあるのですが。

たとえば、最近は本を図書館で借りて読むようにしているのですが、そうすると返却しなければいけないので、メモまで取って、2~3日できちんと読むようになりました。
購入した本は、机の上に積まれたまま、結局、読まずに書棚にうずもれてしまいがちですが、借りた本は必ず読み終えます。
書籍代は以前に比べれば、10分の1以下になりました。

それでもお金があまりないので高い会費の集まりには行けませんし、地方に出かけるのも、ままなりません。
仕立てのいいスーツとも無縁ですし、豪華な外食にも縁がありません。
お金で困っている人がいても、いまでは応援することもできません。
事実、今回の被災地への支援も、わずかしかできませんでした。
でもそれは、私にとってはむしろいいことでしょう。
とんでもないトラブルに巻き込まれることがなくなったからです。
それに、高価な食卓を前にすると、なぜか罪の意識を感ずるのです。

税金はめどが立ちました。
今年は、少し収入のある仕事に取り組もうと思っていますが、そう思うたびに逆に出費が増えてしまうことが多かったので、注意しなければいけません。

税金の季節は、私自身の生き方を考える時期でもあります。

■3174:生と死は人称を超えています(2016年5月12日)
節子
今日、若い在家の僧侶がやってきました。
前から時々お会いしているのですが、このままだと日本のお寺は消えていくという危機感を背景に、お寺を拠点とした活動に取り組みだしています。

私は、節子の死と孫の生を体験して、生と死とは深くつながっていることを感じました。
それは、人の繋がりを復活させる契機なのです。

父が亡くなった時に、葬儀は人の繋がりを再確認しあう場であり、人の繋がりを広げる場であると感じたことを、どこかに書いたことがあります。
そのことを思い出しました。
生と死は、決して、個人の事件ではないのです。
生と死には「一人称」しかないのですが、それが「複数形」であり、言い換えれば「人称」を超えているのです。
最近そう思えるようになってきました。

夜、在日のガーナ人の若者が来ました。
彼は weasone というNGOを主宰しています。
それをどう展開していくかの相談に、時々来ているのですが、今日もまたweasoneの理念の話になりました。
one(一人の存在)としてのwe(みんな)。
we(みんな)が凝縮されたone(一人の存在)。
まさに、華厳経のインドラの網ですが、それが生と死には象徴されているような気がします。

■3175:人生は「ゲーム」なのかもしれません(2016年5月13日)
節子
20年ほど前の映画ですが、マイケル・ダクラス主演の「ゲーム」という作品があります。
テレビで放映されていたので、それを観てしまいました。
実業家ニコラスは48歳の誕生日に、弟」から「ゲーム」の招待状をプレゼントされます。
そのうたい文句は「人生が一変するような素晴らしい体験ができる」というものでした。
そこからニコラスは、とんでもない事件に巻き込まれていく、という話です。
最後は、とんでもないどんでん返しです。
まったくといっていいほど、リアリティのない物語です。
途中で観るのを止めようと思いながらも、ついつい最後まで見てしまいました。

観終わって、ふと感じたのは、その物語のリアリティのなさではなく、私自身のいまの人生のリアリティのなさです。
もしかしたら、私もまた、誰かの演出のもとでのゲームを生きているのかもしれない。
そういう視点で過去を振り返ると、私の人生はいかにも空虚です。
いや、自分自身が実体のない存在のようにさえ、感ずることがある。

節子がいなくなってから、生きていることの実感が得られなくなってきているのですが、そればかりか、どうも今の私が本当に生きているのかどうかが、時々、危うくなるのです。
ふと、自分がやっていることを、夢のように感じてしまうのです。
最近私に会ったことのある人は気づいているかもしれませんか、「まっ、いいか」と言ってしまうことが増えています。
深刻に悩むべき課題を前にして「まっ、いいか」。
放置していたら大変なことになりそうな時にでも「まっ、いいか」。
そんなことはありえないでしょうと友人に言われても「まっ、いいか」。
という感じです。
そして、そろそろ彼岸に旅立つかもしれないが、それも「まっ、いいか」というわけです。
現世への未練は、ほとんど吹っ切れてきました。
そのせいか、現世での感動も薄らいできてしまった。

誠実さを投げているわけでもないのです。
大きな視野で考えれば、個人の犠牲などは瑣末に感ずることもあります。
だからといって、個人をおろそかにしているわけではないのですが、個人としての自らを相対化できるようになってきたのです。
昨日書いたこととちょっと矛盾するような気もしますが、いずれもいまの私の素直な気持ちです。

ゲームであれば、いまの人生に執着しないでもいいでしょう。
ゲームオーバーしたら、また最初からゲームができるのですから。
しかし、次のゲームにも節子や家族や友人知人は登場してほしいです。
顔も見たくない人もいないわけではありませんが、そういう敵役もいないとゲームは豊かにならないでしょう。
ひどい映画でしたが、いろんな刺激を受けました。

実は今日は、ちょっと体調が悪くて、怠惰に過ごしていたのです。
明日は回復するといいのですが。

■3176:孫のあいさつ(2016年5月14日)
節子
ジュンがおチビさんと一緒に退院してきました。
帰宅途中にわが家にも立ち寄って、節子にも挨拶していきましたので、もう節子は孫の顔を見ていることでしょう。
私も抱いてみましたが、実に軽い。
魂には重さはないことがよくわかりました。

今日は我孫子の散歩市に合わせて、わが家の庭でオープンカフェをしていました。
今回は旗も立てずに、知る人ぞ知るというスタイルでしたが、今日は8人の人たちが来てくれました。
ところが、午後の後半は、我孫子在住ではない私の友人関係者たちでした。
みんな2時間もかけてきてくれたのですが、なんだか湯島のサロンのようになりました。
終わったのはなんと7時近くでした。

その合間に、ジュン家族3人が来ていたのですが、ちょうど来客が途切れた合間に立ち寄ったのです。
母子ともに一応元気そうでした。
とても動きのあるおチビさんです。
声をかけると手で合図を返してくれます。
たぶん魂は,すでに存在しているのでしょう。

10時からの1日サロンはやはりけっこう疲れます。
いや、孫との出会いが、疲れの原因かもしれません。
新生児は、人というよりも、神に近いと言われる意味がよくわかります。
その魂は、現世を超えているような感じがします。

■3177:仲の良いご夫婦(2016年5月15日)
節子
わが家の庭のオープンカフェに、取手にお住いだというYさん夫妻が来てくれました。
面識はありませんが、とても仲のよさそうなご夫妻で、休日にはいろんなところを散策されているご様子です。
我孫子は初めてだそうですが、とてもいいところですねと言ってくれました。
わが家にあるスペインタイル工房は、会場から外れたところに一か所だけありますので、普通は立ち寄らないのですが、わざわざ立ち寄ってくださったのです。
とても物静かなご夫妻でしたが、奥様がコーヒーをご所望されたので、座っていただき、いろいろとお話をしていかれました。
幸いにその間、来客がなく、ゆっくりした時間を過ごせました。
Yさんの奥さまは、いわゆる「谷根千」が子どもの頃の遊び場だったようですが、旦那さんは茨城のご出身で、それぞれに関するお話もいろいろと弾みました。
そのうち、奥様が私の写真を撮っていいかと言い出しました。
そう言えば、おふたりとも立派なカメラを持っていました。
それで、私も写真におさまったのですが、その後、彼女がぽつりと言いました。
3年前に父をなくして…。
涙が出そうな顔でした。
それで写真の意味がわかりました。
まあ私の勘違いかもしれませんが、私に亡き父親の笑う姿を感じたのかもしれません。

別れ際にお名前をお訊きしました。
旦那さんは、上野にお勤めだそうです。
私も湯島にオフィスがあるとお伝えしました。
もしかしたら、またお会いできるかもしれません。

後姿を見送りながら、私たちもこんな夫婦になりたかったと思いました。
毎週のように、こうやっていろんなところを散策されているのでしょう。
不思議とうらやましさは浮かびませんでした。
私もだいぶ成長したようです。

■3178:成長する人と衰退する人(2016年5月16日)
節子
昨日のわが家の庭のカフェの最後のお客様は、HYさんでした。
昨日来る予定だったのですが、階段で転んで足を捻挫して来られなかったのですが、ジュンの出産を知っていたので、そのお祝いに足を引きずりながらも、花束を持ってきてくれたのです。
HYさんは、私の挽歌を読んでくださって、コメントをくださって以来のお付き合いです。
彼女も、伴侶をなくされています。
どこかで思いがつながるところがあるのです。
大切な人を喪った人同士には、うまく言えませんが、お互いに支えたくなる心遣いが生まれるような気がします。
その心象が、なんとなく理解できるからです。

HYさんは、私と知り合う前から、ジュンの連れ合いがやっているイタリアンの「エヴィーバ!」のお客様でした。
友人と一緒に時々行ってくださっているのですが、ある時、峰行の伴侶がジュンで、その父親が私であることがわかり、つながったのです。
たぶんジュンとはすれ違いでしか会ったことはないのかもしれませんが、大事な人との別れを体験した人は、人の出会いを大切にするようになる気がします。
私もHYさんにお会いするのは今回が2回目なのですが、そんな気はあまりしません。
HYさんは、私のことをお元気そうでよかったと言われましたが、私以上にHYさんは元気で溌剌とされていました。
孫の命名にまつわるお話もいろいろとしてくれました。

カフェが終わった後、ジュンのところに花を届けに行きました。
ちょうどチビちゃんのおしめを交換しているところでした。
初めて泣き声を聞きました。
昨日よりも少し成長しているのがわかりました。
赤ちゃんはこうして一日一日成長していくのでしょう。
ちょうど私が、一日一日衰退していくように。

私に再び、時間軸が戻ってきそうです。

■3179:最後の椿山荘(2016年5月16日)
節子
今日は、椿山荘で、経営道フォーラムの発表会でした。
節子も知っているように、このプログラムに関わってからもう28年になります。

このプログラムの最初の期のパネルディスカッションに呼ばれたのが縁で、立ち上げた市川覚峰さんとの付き合いが始まりました。
いつの間にか、そのプログラムの設計に関わったりしているうちに、コーディネーターも引き受けてしまい、気がついたら28年です。
企業の不祥事をなくしたい、経営者に「経営の心と道」を学んでほしいという、市川さんの思いに共感したのです。
途中で、肝心の市川さんが、このプログラムから抜け出して比叡山で得度したのですが、その得度式にも行きました。
高野山の断食明けには、節子と一緒に高野山の宿坊に留まって、行明けの護摩だきにも同席させてもらいました。
節子が旅立った翌日には、どこで知ったのか、市川夫妻はわが家に来てくれて、枕経をあげてくれました。

経営道フォーラムそのものを通しても、さまざまな人と出会いました。
企業の経営者を育てるのが目的でしたので、たくさんの社長も輩出しています。
昨日も、古い卒業生でいまは社長になっている人が来てくれていました。

私のスタンスは、最初から全く変わっていません。
経営道という言葉に込められているように、経営者としての心と道に、ささやかながらも刺激を与えることです。
企業に使われるような経営者ではなく、企業を活かして、社会を豊かにしてくれる活動に目を開いてもらうような刺激です。
平たく言えば、経営技術者ではなく、主体性を持った人間になってほしいという思いです。
そのためには、「たこつぼ」から出て、広い世界を持たねばいけません。
演繹的な公理をベースにしたフィクションエコノミクスから抜け出して、生きた経済人にならなければいけません。

その私の思いは、残念ながら果たせませんでした。
最近の日本企業の経営者の多くは、企業を活かして社会を豊かにするどころか、企業に寄生して、社会をむしばんでいるような気さえします。
それで、私も自らの責任を感じて、辞めることにしたのです。
ですから、今日は、最後の発表会だったのです。
最後は、とてもいいチームに恵まれ、参加者が「静かな感動を受けた」と言ってくださるほどでした。
もちろんほめられたのはチームメンバーであって、私ではないのですが、私もとてもうれしい思いでした。

この後、最後の修了式とパーティがありますが、修了式は参加せずに、せっかくなので、椿山荘ホテルのカフェで休むことにしました。
窓の外には日本庭園と三重塔が見えています。

こうして一人で、ぼんやりと外を見ていると、いろんなことが去来します。
暗くなってきたので、お店の人がキャンドルをテーブルに置いてくれました。
炎は人を幽界に誘い込みます。
久しぶりに、ちょっとしんみりした気分になってしまいました。
椿山荘でカフェするのも、これが最後になるでしょう。

こうして私の世界も少しずつ小さくなっていくのでしょう。
そして気がついたら、彼岸に立っているのだろうと思います。

■3180:頭痛がなおりません(2016年5月17日)
節子
昨夜は帰宅途中に地震が発生し、電車が1時間以上も遅れました。
帰宅したのは深夜12時近くになりました。
最近はこうした異常体験も、楽しむよりも疲れに負けてしまっています。
今日はその疲れが抜けずに、いました。
頭痛が抜けないのです。

まあ、この歳になると、心身の不調がいろんなところで起こるのは自然の摂理です。
身体の老化は自然と進むとしても、意識はなかなかそれについていけません。
ですから、身体が意識に向けて、気づかせるためのシグナルを出してくれるのでしょうが、それをなかなか素直に受け入れないのが、また意識です。

昨日、久しぶりに会った風早さんが、私を見て、大丈夫ですと断言してくれました。
風早さんは、他者の健康状況をしっかりとみていて、お医者さんよりも早く、病状を指摘したことも少なくありません。
節子をなくした後の私は、見るに堪えなかったようですが、最近は私に会うたびに、大丈夫と太鼓判を押してくれるのです。
しかし、風早さんから太鼓判を押してもらっても、疲れる時は疲れます。
そして、疲れが翌日にまで持ち越されるのです。

今日は、やらなければいけないことがいろいろとあったのですが、すべてを辞めてしまいました。
疲れた時には休まなければいけません。

休んでいるうちに、気づいたことがあります。
昨日のこと、つまり最後の経営道フォーラムの発表会のことをフェイスブックに書いたのですが、いろんな人がコメントをくれました。
長いことお疲れさまでした、と言うコメントも少なくありませんでした。
私のように周辺の影響を受けやすいタイプの場合、「お疲れさまでした」といわれると、素直に疲れに気づくのかもしれません。
意識は、自分のものであって自分のものではないのです。

「疲れ」とはいったい何なのか。
なぜ電車の渋滞が長引くのかという問題の究明とともに、疲れの原因と解決策の究明が、今日の課題だったのですが、1日じっくりと考えたので、ほぼいずれも解明しました。
それで、今日はゆっくり眠れそうです。
頭痛は少しまだ残っていますが。

■3181:人の縁の不思議さ(2016年5月18日)
節子
久しぶりに佐々木さんが湯島に来ました。
愛犬のミホを見送ってから初めてお会いするのです。
一見、変わりはないようですが、どこか違います。
私自身のことを思い出しながら、いろいろと話しました。
私がそうであったように、こういう時には引き出さないといけません。
余計なお世話をしたくなりました。
私がそうであったように、たぶん「迷惑」に感ずるでしょうが。

人の縁は不思議なものです。

節子を見送った後、ひきこもりそうだった私をひっぱり出してくれたのは、私の友人たちです。
それも、とても意外なのですが、必ずしも親しかった人でもなく、湯島によく来ていた人でもありません。
もちろん、たくさんの言葉を与えてくれた人でもありません。
口数の多い人よりも、口数の少ない人の方が、私を引き出してくれたのです。
人の真実は、言葉にではなく、行動にあります。
いや、行動ではなく、存在にあるのかもしれません。
それも、ある一瞬の出会いに象徴される、記憶の存在にあるのかもしれません。

節子の葬儀に遠くからやって来てくださった方もいれば、わざわざわが家に献花にまで来てくださった方がいます。
とりわけいまも印象に残っているのは、病気で社会の主流から外れ、そのため、家族さえも壊れてしまったおふたりの男性です。
私は、何の役にも立てませんでしたが、ある偶然の出会いから、交流が始まりました。
どこか気持ちが通じ合えたのかもしれません。
庭に献花台をつくった時に、思ってもいなかったその人たちが、来てくれたのです。
経済的にとても大変なはずなのに、大きな花束を持ってきてくださったのを見た時のうれしさを、いまもはっきりと覚えています。
そういう人たちのおかげで、私は、引きこもりに向かわずに済んだのかもしれません。

このおふたり以外にも、いまはもう交流がなくなってしまった人もいますが、私を元気づけてくださった人たちがたくさんいます。
遠くからわが家の庭の献花台に献花して、挨拶もせずに帰ろうとした人もいます。
お恥ずかしいことながら、私もその人とは一度しかある集まりでしか会ったことがなく、顔を覚えていなかったので、危うく気づかないところでした。
彼女は、赤ちゃんを亡くした悲しみを克服する活動に取り組んでいました。
その活動を、ほんのちょっとだけ私は応援したのですが、それだけのことで、わが家まで足を運んでくれたのです。

人の心の繋がりは、付き合いの長さや交流の深さや利害関係とは無縁なのかもしれません。
節子を見送った後、私はたくさんの人たちに支えられていました。
あの人たちはいまはどうしているでしょうか。
そういえば、その後、交流の途絶えた人も少なくありません。
恩送りが私の生き方ではありますが、ちょっと気になりだしました。

まさかこの挽歌を読んではいないでしょうが、もし読んでいたらご連絡ください。
ご本人であれば、たぶん心当たりがあるでしょうから。
私もまた連絡を取ってみようと思いますが。

■3182:久しぶりのおにぎり(2016年5月21日)
この2日間、ちょっと時間に追われてしまい、挽歌を書かずに過ごしてしまいました。
挽歌は朝のルーティンにしようと思いながらも、なかなか定着しません。
今日からまた京都と福井に出かけるので、書けないかもしれないので、新幹線のなかで書いています。
ネットがつながっていないので、いつ投稿できるかわかりませんが。

今朝早く家を出ました。
節子がいた頃と同じで、娘におにぎりをつくってもらいました。
娘のおにぎりは大きいので、小さ目にしてもらいましたが、新幹線でおにぎりを食べるのは久しぶりです。
娘は京都の駅ビルにあるお店を勧めたのですが、私は時間とお金の節約のため、おにぎりを頼んだのです。
ところが、早く目が覚めてしまったので1時間も早く家を出てしまいました。
それで京都に着くのが11時になってしまいました。
それに気づいたのは、新幹線に乗ってからです。
さてどうするか。

京都では会場に行く前に東福寺に寄ろうと思いますが、お寺の庭園でおにぎりを食べてもいいのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、若い頃、節子と一緒にお寺回りをしていた頃、いささか不謹慎なことをしていたことを思い出しました。
節子は最初はともかく真面目で融通のつかない人でしたから、仏様の前で手を叩くことさえ注意されました。
今度来た時まであるかどうかと賭けをして、こっそり須弥壇の角にコインを隠したりした程度のことですが、まあちょっとここには書きにくいこともないわけではありません。

当時の節子は、歩きながら物を飲食することには大きな抵抗を持っていました。
八百屋さんでリンゴを買って歩きながらそれを食べたときには、東京の人はそんなことをするのかと驚かれました。
当時は、そんな時代でした。
一緒に暮らしだした頃の私たちはお互いに文化が違いました。
それがとても楽しかったのです。

私は社会から少し脱落した部分があり、常識がかなり欠落していました。
節子も同じようなものでしたが、しつけられた常識には呪縛されていました。
私とは結婚観も全く違いました。
にもかかわらず、結局、私のスタイルについてきてくれました。
常識の呪縛を離れる魅力には勝てなかったのでしょう。
しかし、そのおかげで苦労したはずです。
それもしかし、楽しい苦労だっただろうなといまは思えます。
飛鳥大仏との約束は破ってはいませんし。
すみません。これは節子と私だけが知っていることなのですが。

■3183:生命に勝るものはない(2016年5月21日)
今日は宇治で開催されるNPOの総会に出席するため宇治に向かっていますが、早く着いたので、途中にある東福寺に立ち寄りました。
東寺の空海の仏像曼荼羅に寄ろうと思っていたのですが、朝、駅まで送ってくれた娘が東福寺の庭を勧めてくれたのです。
前から行きたかったところなので、趣向を変えて、新緑を楽しむことにしました。
京都に着いたら、夏のような雰囲気です。
いつも感じますが、京都駅の賑わいはどこかにハレの気分がいつも漂っています。

東福寺の塔頭のひとつの霊雲院が娘の推薦でしたが、残念ながら工事中で公開していませんでした。
そこで本山の東福寺の方丈庭園で休むことにしました。

途中、これも有名な通天橋を渡りましたが、あふれるような新緑に圧倒されました。
東福寺は紅葉で有名ですが、新緑の季節も素晴らしいです。

方丈庭園は、しばらく座っていましたが、うまく受け止めることができませんでした。
今の私は、もっとシンプルなほうが浸れます。
いや、そもそも石庭がダメなのかもしれません。
特に今回は、直前に心身いっぱいに受けた、新緑のみずみずしい生命のあたたかさの余韻があまりにも強すぎたせいかもしれません。
生命に勝るものはないと、改めて感じました。
今の私は、どうも生命のやわらかさに飢えているようです。

今年の夏は、季節を楽しめるかもしれません。

■3184:余呉湖から敦賀に来ました(2016年5月22日)
京都から敦賀に立ち寄ることにしました。
久しぶりに節子の生家のある高月を北陸線で通過しました。
この辺りは大きく変わってきています。
ぼんやりと車窓から眺めていたら、余呉湖が見えてきました。
急に節子との最後の旅行を思い出しました。
記憶違いかもしれませんが、あの時、余呉湖に寄ったような気がします。
余呉湖は神秘的な湖で、時に湖底から声が聞こえてきそうですが、私たちが行った時には、誰もいない季節で、いつも以上に哀しさがありました。
その余呉湖が、遠くにかすかに見えました。
北陸線にはたくさんの思い出がありすぎるのです。

敦賀に着いた時にはもうすっかり暗くなっていましたが、節子の姉夫婦が駅まで迎えに来てくれていました。
とても仲のいい夫婦で、節子はいつもあの夫婦こそ幸せなのではないかと言っていました。
お金には無頓着で、さほど多くはないだろう収入はきちんと生活を楽しむためや友人知人のために使っています。
貯蓄をするなどという発想はあまり感じません。
ささやかな喜びを、素直に満喫できる人たちです。
人の世話が大好きですし、自分のものを人にあげることにも何の抵抗もないタイプです。
私の好きなテレビ番組「小さな村の物語」に出て来る人たちのような、生き方なのです。

2人の生き方には教えられることが多いのです。
時に私自身の生き方の卑しさを思い知らされることもあります。

敦賀の義姉夫婦の家に来るのは3年ぶりかもしれませんが、なぜか家に着くとホッとします。
どこかに節子がいるような気さえするのです。

その姉夫婦にも、いろいろなことが起こっています。
人生には、いろいろあります。
遅くまで3人、いや節子も入れて4人で話しました。
そのせいか夜はぐっすり眠れました。

今日は3人で、今庄で開催されているそば祭りに行くことになりました。
私が来ると、いつも私のためにすべての用事をやめて、歓待してくれるのです。
それもまた私にはできないことのひとつです。
豊かに生きている人は、何が大切かを知っているのです。

これから出かけます。
今日は夏のように暑くなりそうです。

■3185:久しぶりの西福寺(2016年5月22日)
節子
西福寺に行ってきました。

敦賀の西福寺は、私の好きなお寺のひとつです。
訪れる人がそう多くはないため、観光寺院になっていないのが気にいっています。
しかしここはかつては「腰の秀嶺」と言われた勅願寺なのです。

節子とは何回か来ていますが、節子がいなくなってからも一度来ました。
その時は、回廊の工事をやっていました。
この回廊は極楽浄土への往生路ともいわれていますが、実際に歩けます。

阿弥陀堂では何かの法要が、また書院では句会が行われていました。
庭でも何かの集まりがあったようで、席がこしらえてありました。
西福寺は、いまなお地元住民たちとしっかりつながっていて、生きた空間であることを感じます。
観光寺院には、そういうやさしさを感ずることは少ないのですが。

本堂には法然聖人の坐像はありますが、残念ながら本尊はありません。
須弥壇の四方の柱に、四天王の名前が書かれた紙が無造作に貼られています。
それがまた実にいいのです。

西福寺には山門の前に総門というのがあり、なぜかその門の中の両側にベンチがあります。
西福寺に来る前に立ち寄ったケーキ屋さんで買ったケーキをそこでたべることにしました。
姉はお寺で食べようと言ったのですが、いささか不謹慎ではないかということになり、そうなったのです。
門の前を通る人には異様な光景だったでしょう。

その後、庭を見せてもらったのですが、お茶とお菓子までいただきました。
門のところで食べるよりも、書院の縁側で庭園を見ながら食べればよかったです。
でもまあお寺の門で3人並んでケーキを食べた体験も忘れられない記憶になるでしょう。
節子は彼岸で笑っていたかもしれません。

庭でやっていたのは、芭蕉の弟子の曽良の命日にちなんだ「五月雨忌」だと知りました。
曽良はここに立ち寄ったのだそうです。
雨が降らない時には、外で営まれるのだそうです。

西福寺も、たぶん今回が最後でしょう。
そう思って今日は庭園も一回りしてきました。

■3186:「命に嘘をつくな!」(2016年5月24日)
節子
最近、いろんな症状が出てきたので、今日はいろいろとお医者さんに行く予定だったのですが、3日間、京都、滋賀、福井とで回ってきた疲れのせいか、それも面倒になってしまい、義姉からもらってきた黒にんにくとアリナミンの錠剤とリポビタンゴールドといろいろ飲んで問題を解決することにしました。
しかし、夕方、やはり遠藤クリニックに行くことにしました。
やはりあんまり調子が良くないからです。
それに、最近は降圧剤もきちんと飲んでいるので、遠藤さんに叱られることはないのです。
血圧を測ったら、下は80以下、上も140でした。
ちゃんと薬を飲んでいれば大丈夫なんだから、ちゃんと飲んでくださいと言われました。
ついでに喉の調子を見てもらったら、風邪かもしれないのでとまた薬を2種類くれました。
素直ではないと思いますが、まあ素直に1日は飲んでみようと思います。
遠藤さんには、節子もお世話になったのです。

実は、今日は最優先は眼科だったのです。
かなり危うい状況が時々起るのですが、いまは「意志」の力で対応しています。
もともと私は視力が弱く、もう少し目が良ければ読書も楽なのですが、午前中は目がうまく作動しないのです。
病気なので治せばいいだけの話ですが、眼科とは相性が悪いのです。
困ったものです。
明日はできれば行こうと思いますが、またいつものように先延ばししてしまうかもしれません。
節子がいなくなった後、どうも「生命を大事にする」という発想がなくなっています。

いま、テレビ東京系で『ドクター調査班〜医療事故の闇を暴け〜』という連続ドラマがあります。
1回目を偶然見たのがきっかけで、つづけて見ています。
そのドラマで、谷原章介演ずる主役が毎回見せ場で言うセリフがあります。
「命に嘘をつくな!」です。
そのセリフが心に響いて、退屈しながらもずっと見ているのです。

命に嘘をつくなとはどういう意味でしょうか。
命に素直に従えということでしょうか。
もしそうであれば、私はいま、かなり命に素直に生きているつもりです。
節子に無理をさせてしまったことが、いつもちょっと心に残っているからです。
しかし、命に嘘をつくなという意味は、まだよくわかっていません。
その意味を考えながら、今日もこのドラマを見ました。
医者に行くのは、素直ではないかななどと思いながら。

■3187:自然との交流日(2016年5月25日)
節子
庭の池に金魚を買ってきて放しました。
すべてガマガエルに食べられてしまったので、しばらくだれも住んでいなかったのですが、ボウフラが湧くと悪いので、その対策です。
うまく育つといいのですが。

庭の手入れが行き届かないおかげで、庭の周辺の雰囲気が私好みになってきました。
草が池を覆い、いかにも自然な感じです。
蓮まで生えています。
いまの状況だとカニも棲みついてくれるかもしれません。
しかし逆にガマガエルもまた棲みつきやすい感じです。
網を張ればいいのですが、それでは自然らしくありません。
さてどうしたものか。

いずれにしろ今年はどこかから、カニを見つけてこようと思います。
自然のカニを採取するのはなかなか難しいですが、どなたか生息地をご存じであれば教えてください。
大事に育てますので。

ところで今日、庭に金魚を放す時に、小さなカマキリが池でおぼれていました。
うまく救い上げましたが、カマキリの子どもがいるということは、庭でたくさんのカマキリが孵化したということです。
なにしろカマキリは一挙にたくさんが孵化するので、それはそれは見事なのです。
しかしちょっと周辺を捜しましたが、見つかりませんでした。
探し物が見つからない庭というのは、私の理想です。

それにしても自然は面白いです。
毎日変化しています。
自然そのものが、まさに大きな生物なのでしょう。
そう考えると、私もまた、その一部でしかないのです。
個体の生き死になど瑣末な話なのかもしれません。
自然と触れ合っているとそんな気になってきます。

夕方、畑にも行ってみました。
数日間不在だったので、放置しっぱなしでしたが、野菜があまり元気でない一方、野草はすごく元気です。
草刈りを後回しにしていたところは、驚くほどの繁茂です。
立った数日で様相は変わってしまうのです。
草を食べてくれる羊を飼いたくなる気分です。

今日は、眼医者が休診だったので、自然と触れ合うことで、目を治すことにしましたが、残念ながらやはり治りませんでした。
困ったものです。

■3188:人は一瞬にして通ずることもある(2016年5月26日)
節子
今日は新潟市でゆる〜い集まりを開くというので、やってきました。
というよりも、気になっていた友人に会うのが主目的というべきでしょうか。
いつか新潟にも節子と一緒に来たかったのですが、かないませんでした。
人生は「かなわないこと」のほうが多いものですから、それは仕方がありません。
その友人もまた、最近、生きる意味を問い直させられるような、かなわぬことを体験したのです。

その友人は、この挽歌を読んでくださっているので、少し書きづらいのですが、読んで下さる人がいるということは、心して書かなければいけないということです。
しかし、私にはそれがなかなかできません。
困ったものですが、心せずに書きましょう。

今日の会の目的は、表向きにもいくつかの欲張った目的があったのですが、それは予想以上にうまくいきました。
新しい会も始まりそうです。
私がもう来なくても、たぶん持続できる仕組みがつくれそうです。
市役所の知り合いのメンバーにも挨拶にいけました。
新潟にやってきた目的は、すべて果たせました。
企画した、もう一人の友人も満足してくれているでしょう。
そのはずでした。
でも何かが不足していて、ちょっと疲労感に襲われそうでした。

駅のすぐ近くのお店で食事をしていたのですが、
新幹線の時間が来たので、私だけ抜けさせてもらいました。
会いにきた友人が、一人で新幹線の入り口まで送ってきてくれました。
そして、歩きながらのわずかな時間に、心情を吐露してくれました。
そのわずか1分で、新潟に来てよかったと思いました。ー
何が不足していたかがわかりました。
私が、なぜ新潟にやってきたかも、改めて思い出しました。
握手嫌いの私が、思わず手を出してしまいました。
友人に感謝しなければなりません。

人が理解しあうには、時間は無縁です。
一瞬にして通ずることがある。
ただし、お互いに生きることの意味を考えた体験があればですが。
ちなみに、それは解のない問題なのですが。

人は、それぞれ重荷を背負っていますが、それを肩代わりすることはできません。
でもその重さを感じながら、思いを重ねることはできるかもしれません。

新幹線に乗って、もらってきたおにぎりを食べました。
今日は2人の友人に、お昼も夕食もご馳走になってしまいました。
美味しいお魚やお肉を満喫させてもらいましたが、
一番おいしかったのは、このおにぎりでした。
涙が出そうなほど、おいしいおにぎりでした。

上野まで熟睡できそうです。

■3189:口に出した以上は守らなければいけません(2016年5月27日)
節子
昨年11月に大阪でお会いした方からメールが来ました。
息子さんを自死で失くされた方です。
お会いしたのは、ある会だったのですが、ゆっくりお話しする時間がありませんでした。
その後、メールが届き、大阪に来た時にはぜひまたお会いしたいという内容でした。
私も、かならず連絡しようと思っていました。

しかし、不覚にも失念してしまっていました。
何回か大阪にも行きましたが、声をかけるどころか、申し訳ないことに忘れてしまっていたのです。
その方は、きっと私からの連絡を待っていたはずです。
立場によって、思いの軽重は変わります。
だからこそ、注意しなければいけないといつも心しているつもりですが、うっかりしてしまいました。

その方は、こう書いてきました。

教えて頂きたいことがあります。
「若者、その中でも学生」の自死者の多さに悲しい思いを抱いております。
「若者の生き辛さを、和らげるために、何をしたらよいのか」
何かヒントになる事(本、論文、ワークショップなど)を教えてください。
不躾な事をお願いして申し訳ありませんがよろしくお願いします。

こんなメールを書かせることになったことを恥じなければいけません。
連絡してくれないではないかという、その方の思いを背景に感じます。

口だけの人が多いのに、最近、いささか人嫌いになっているのですが、私自身もそうだったのです。
私が一番恥ずべきだと思っている生き方です。
口に出した以上は守らなければいけません。
不躾なのは、私自身です。
軽々に口には出せないですが、6月にはお会いしようと思います。
大阪に行く用事ができるといいのですが。

今日はもう一人、久しぶりに方からメールが来ました。
この方とも一度しか会っていませんが、明日の湯島のサロンに参加するという連絡です。
この方のことも気になりながら、いつの間にか忘れてしまっていました。
でも、みんなどこかで私のメッセージを受け止めてくれているのです。

感謝しなければいけません。

節子が元気だったころ、時々注意されていたことがあります。
付き合う人の数が多すぎるのではないか。
もっと一人ひとりとの付き合いを大切にしないといけない、と。
そうかもしれません。
しかし、そこに人がいたら声をかけたくなる。
その人に役立てることがあれば、役立ちたいと思う。
それは、人として、とても自然な生き方なのだろうと思います。
そして、時についつい忘れてしまうのも、また自然な生き方。
節子にも、そう言っていたのを思い出します。

■3190:視界が変わると意識も変わります(2016年5月28日)
節子
空き地になっていた隣に、家が建ち始めました。
境界ぎりぎりまでに家が建ちますので、これまで開けていた視界が見事に遮られてしまいます。
土地の段差があるのですが、ちょうど新築の家の2階が、わが家の庭の高さです。
ですからちょっと跳べば、隣家の2階の窓から侵入できそうな距離感です。
これまでの景観が一挙に変わってしまいました。
まあこれまでがあまりに幸運だったと言うべきでしょうが。

視界が変わると意識も変わります。
一番うっとうしいのは、カーテンをしめなくてはいけなくなったことです。
しめなくてもいいのですが、あまりにもよく見えるからです。
相手の住民にとっても、あまりに見えすぎるのは迷惑でしょうから。
庭の植え木の位置も変える必要がありそうです。
まあしかし、そのうち慣れるでしょう。

時々、わが家の庭にやってくる海津さんは、こういう高台から周囲を見ていると意識が変わるでしょうね、と言います。
日常的な視界は、すぐに慣れてしまうので、私自身はそういう意識を持ったことはありませんが、視界がさえぎられて数日を過ごしていると、海津さんの言葉に納得してしまいます。
そういえば、海津さんの家も高台でしたが。

物理的な視界と同じように、意識的な視界というものもありそうです。
私の視界は、あまり常識的でないかもしれません。
節子はたぶん、その私の視界の異質性に魅かれたのだと思いますが、私もまた、節子の視界との違いに魅かれた気がします。
同じものを見ていても、視界によって、その意味は大きく違ってきます。
私が節子から学んだことは少なくありません。

節子がいなくなって、視界はまた大きく変わりました。
そのため、しばらくはまっすぐに歩けないほどでした。
9年近くたつと、新しい視界に慣れてきます。
しかし、その、私の新しい視界は、いまなお揺らいでいます。
それに彼岸までさえ感ずるようになってしまうと、視座をどこにおいていいかさえ迷うこともあるのです。
他者の視座を、自分の視座に重ねることも、自然とできるようになってきました。
ですからますます視界は揺らぎます。

ちなみに、また隣家との関係の話に戻りますが、目の前で視界が遮られると、その手前の庭の様子がよく見えるようになります。
視界とは不思議なものです。
視界が開けていることが、多くのものが見える条件ではなさそうです。
だからこそ、視界によって、意識や行動が変わるのでしょうが。

■3191:障害夫婦(2016年5月29日)
節子
昨日の「みんなのゆるカフェ」に、発達障害の人が参加してくれました。
彼からもらった資料の中に、発達障害の方が子ども時代のことを書いた文章がありました。
こんな文章です。

小学校時代、初めて日直を担当した時、「黒板を消しておいてね」という先生の言葉に戸惑い、1時間近く考えこんでしまった。どうやって「黒板を消す」のだろう? と。

とてもよくわかります。
この方ほど、優れてはいませんでしたが、私もそれと似た経験があります。
いまでも時々、とんでもない勘違いをしてしまって、ミスを犯してしまうことがあります。
世間的な常識や常識的判断思考は、かなり身についてきていますので、あまり問題は起こしませんが、時々、冷や汗が出るような勘違いがあるのです。
節子も戸惑ったことでしょう。

ちなみに、私の場合、「黒板を消しておいて」と言われたら、方法がわからないので、たぶんどうやって消すのですかと先生に質問するでしょう。
1時間悩む前に質問するのが、私のスタイルです。
ですから、とんでもなく簡単な質問を時々してしまうのです。
娘からも時々、ついていけないと言われますし、節子からはよく、私の発言は、冗談なのか本気なのかわからないといわれました。
しかし、私はいたって真面目なのです。

私はたぶん発達障害と診断はされないでしょうが、まあ似たようなものです。
そもそも人はみな、それぞれに世界が違いますし、時間感覚も違います。
「障害」は、誰でも持っています。
持っていなかったらおかしいでしょう。
ですから、一部の障害だけに、特別の名前を付けることには違和感があります。
それに「健常者」などという言葉を聞くと、それこそが「異常な障害者」ではないかと思えてしまうのです。
たぶん、私と節子は、世間的な常識からすれば、「障害夫婦」だったかもしれません。

娘たちも含めて、本当にたくさんの人たちに迷惑をかけて来たなと、最近つくづく思います。

■3192:75歳になってしまいました(2016年5月30日)
節子
今日は私の誕生日です。
自分では確認したことがないのですが、どうもそうらしい。
それで今日は、メールやフェイスブックでいろんな方からお祝いのメッセージをもらいました。
節子からは祝ってもらえませんでしたが。

私も75歳になりました。
学生の頃は40代くらいで終わりたいと思っていました。
47歳で会社を辞めた直後、なぜか友人が大阪まで行って私の運命を勝手に占ってもらってきてくれました。
そうしたら私は93歳まで生きると言われたそうです。
言われたことは素直に信ずるのが私の性格ですので、気は進みませんでしたが、受け入れました。
この話は、節子もよく知っていることですが。
しかし、93歳までの長生きを喜べるのは、節子がいればこそです。
節子がいなければ、長生きは全く意味がありません。
言い方を変えれば、私の人生は、もう9年前に終わっているようなものかもしれません。

節子のいない人生は、長くはつづかないだろうとも思っていました。
でもなぜかまだ生きています。
節子を見送った後の数年は、生きているとは言えなかったかもしれませんが、最近はしっかりと生きている。
しかし、生きる張合いを見失ってしまっているのは、いまも同じです。

実は数年前に、3年ほどで終わりたいと決め、まわりの人にもそう言い続けてきました。
みんなに言っていれば、いつの間にかそれが事実になる。
それは私の体験知でもあるからです。
しかし、人生はなかなかうまくいかずに、勝手に死ねなくなりました。
私の不手際で、死ぬ前にやっておかねばいけないことが、いくつができてしまったのです。
それでついつい旅立ち時期を延ばしているうちに、まあいつでもいいかという気になってきました。

そもそもこだわるほどのことでもありません。
すべて決まっていることなのかもしれません。
できれば、しかし70代のうちに、みずからの意志で、現世を終われればと思っています。
自らの意志というと誤解されそうですが、念ずることで死期を悟り、その前日にお別れサロンをやって、快適に眠りについて、目を覚まさないというのが理想です。
しかし、それができるかどうか。
もしその力を習得できたら、その日が来たら、1週間前にこのブログで告知しようと思います。
一応、秋口を予定しています。
死は、秋にこそふさわしい、と私は思っているからです。
もし、その力を得なければ、ずるずると占いの通り、93歳まで旅立てないかもしれません。
それはいかにも長すぎます。

そんなわけで、誕生日は今年を最後にしたいと思っています。
でもまあ来年も、もし生きていたら、おめでとうメッセージが届くのでしょうね。
あんまりおめでとうとは思えないのですが。
困ったものです。

■3193:幸せと悲しみ(2016年5月31日)
節子
昨夜、夢を見ました。
節子の夢ではありません。
私の両親の夢です。
両親が、私の孫に会いにやってきたのです。
墓前では報告はしていましたが、まさか会いに来るとは思ってもいませんでした。
それで気がついたのですが、節子はまだ会いに来ていませんね。

娘は、節子を見送った後、激しく後悔しました。
孫を見せてやれなかった、と。
妊娠した時、娘が仲良しの友人に話したところ、その友人は「おかあさんがいたらどんなに喜んだろう」と泣いて喜んでくれたそうです。
その話を聞いて、私も涙が出そうになりました。

娘たちが生まれた時の写真を、娘が引っ張り出してきたので、昨日見ました。
孫を抱いている母親がいました。
幸せそうでした。
節子はこの幸せには、出会えませんでした。

孫を産んだ娘は、誕生日前に大病をしました。
医師から見放されて、後は本人の体力の問題ですと言われました。
子どもを授かることは、幸せと同時に、時には悲しみも授かることです。
私たちは、目の前でどんどん衰弱していく娘を見ながら、その時、それを知りました。
私たちの祈りが通じたのか、娘は回復しました。
祈りが奇跡を起こすことも、その時、知りました。

節子を見送った時、奇跡は見事に打ち砕かれました。
人を愛することの幸せと悲しみも、残酷なほどに思い知らされました。
そこで少し私自身が変わったかもしれません。

両親がひ孫に会いに来たのに、節子は会いに来ないと思いましたが、それは間違いでした。
節子の位牌はわが家にあり、その前に何回か孫の顔見世をしました。
節子はもう会っていたのです。
抱けはしませんでしたが。
両親の墓前や位牌には、まだ孫は行っていません。
それで、両親が夢に出てきた理由を納得しました。

両親の夢を見たのは久しぶりです。
そういえば、節子は最近夢に出てきません。
困ったものです。

■3194:75歳のはじまり(2016年5月31日)
節子
75歳になった初日、都内の湯島から本郷のあたりを自転車で走ってみました。
文京区のシビックセンターに行く用事があったので、自転車で行くことにしたのです。
時々、自転車で走る道です。
ちょっと寄り道して、東大の赤門のほうにも行ってみました。
そこで東大生らしき女性が、なんと一輪車に乗って、赤門のほうに向かっていました。
都心の大通りを一輪車で渡る姿を始めてみました。
後をついていきたくなりましたが、ストーカーと間違えられるといけないのでやめました。
途中で交番に寄りました。
道を訊くためですが、以前、一度、同じように自転車で道に迷い交番に寄ったら、あまりに汚れた自転車に乗っていたためか、職務質問のようなことを訊かれて、自転車が盗品でないかどうか確認されたことがあります。
その時は結構面白かったのですが、後で考えたら少し腹が立ってきたことを思い出して、もう一度、やってみたくなったのです。
残念ながら、今回の相手は若い女性のお巡りさんで、完璧な対応をしてくれました。

走っている途中に、湯島の稲庭うどんのお店の女将さんに会いました。
以前はとてもおいしい懐石料理屋だったのですが、いまは仕出し中心になり、お店は稲庭うどんのカウンターになったのです。
私のオフィスの近くの実盛坂の階段の下にあります。
テレビでも放映されたからか、行列ができるようになっています。
うどん屋さんになってからは、ほとんど行ったことがないのですが、会うといつも挨拶をしてくれます。
まさか、本郷で会うとは思ってもいませんでした。
いつもにこにこしている人です。

途中でおなかがすいてきたので、どこかに入ろうかと思ったら、お金を持っていないことに気づきました。
50年前、レストランに入って食べ終わった後、お金がないのに気がついたことがあります。
1,2回しか行ったことのないお店でしたが、また今度でいいよと言われました。
むかしは、みんな人を信じあっていました。
いまはどうでしょうか。
これもやってみようかとも思いましたが、リスクが大きいのでやめました。
娘から、また職務質問されないようにと注意されてきていますので。

自転車で湯島に戻り、おなかがすいたままへとへとになっていたら、次の来客がなんと、ケーキを持ってきてくれました。
ローソクまでついていましたが、誕生日を祝われるのは好きではないと余計なことを言ってしまいました。
彼は、せめてありがとうくらいは言ってくれると思っていたのにと言うので、ありがとうとは言いました。
ケーキは美味しかったです。
甘すぎましたが。

まあこんな風に、75歳は順調に始まりました。
フェイスブックでは、まさかと思える人も含めて、たくさんのエールをいただき、日本はまだ老人を大切にする国だと知って、安心しました。

■3195:トウモロコシとさつまいもを植えてきました(2016年6月1日)
節子
今日は畑に行ってきました。
頑張って、トウモロコシとさつまいもを植えてきました。
ついでに、メロンまでも。
うまくいけば収穫祭ができそうな勢いです。
といっても、今年はまだ収穫がありません。
キャベツは毛虫に食べられて丸くならないですし、白菜かなと思っていたら、黄色い花が咲いてしまったり、ともかくいろいろと植えたのでわけがわからなくなっています。
その上、キュウリもナスも今年は何回植え直しても元気になりません。
じゃがいもは去年の名残りがかなり芽を出しているので、それを育てることにしました。
果たして芋が育ってくれるかどうかわかりませんが。
しかし、今年の目標は、「見た目で畑に見えること」です。

斜面の花壇に巻いておいた百日草も目を出し始めました。
先日、新しいタネを買ってきたのですが、少し様子を見ようと思います。
ひまわりの種も蒔く予定です。
しかし、道路沿いは、アジサイにしようかと思い出しました。
今年は間に会いませんが、来年はアジサイで道沿いを飾る予定です。
こんなことをやっていると、いつまでたっても、彼岸には旅立てませんが。

そんなわけで今日はかなり鍬仕事をしました。
危うくトカゲを切ってしまいそうになったりしましたが、今日はいろいろな小動物に会いました。
彼らにとっては、私は悪逆非道な侵略者になるのでしょうね。
生きるということは、そういうことなのでしょう。

実は、そんなことをやっている時間はなかったのですが、やりたい気分になってしまったのです。
相変わらずどこかで優先順序を間違えているのです。
しかし、まあそれが私の優先順序なのかもしれません。
気分が向いたことからやってしまう。
節子にいつも注意されていましたが、この習癖は、なかなか変わりません。
困ったものです。

■3196:なにやらワクワクするような感じに包まれています(2016年6月2日)
節子
またいくつかのシンクロニシティが起こりだしています。
それとともに、いろんな電話やメールが入りだしました。
まさに、何かから「誘われている」という感じが押し寄せてきています。
まわりで、たくさんの「新しいこと」が芽吹きだしているのです。

いまはまだ暇で暇でしょうがない状況にいますが、もしかしたら暇でなくなるかもしれません。
そうなれば少しは時間的ゆとりができるようになるかもしれません。
まあ、こういう説明は、多くの人には伝わらないかもしれませんが、物理的な時間に追われている時は、要するに暇だというのが私の考えなのです。
あることに熱中できれば、暇な時間など生まれてきません。
そもそも「時間」という概念さえなくなるのです。
若いころは、そういう状況になれることがありました。
最近はそんな「熱い時間」を過ごせることはありません。

いずれかの「誘い」に乗ったら、暇から解放されるでしょうか。
そうかもしれませんが、いずれの「誘い」にも乗れないかもしれません。
シンクロニシティが起きた時には、飛ばなければいけません。
しかし、どうも飛べないのです。
そしてたぶん何かのチャンスを失ってしまう。
こんな繰り返しをこれまで何回もしています。
なぜ飛べないのか。
飛べないのは、飛ぼうとしないからだけのことです。

まわりでいろんなことが始まると、それだけでなんだか楽しくなって、何もやっていないのに、やっているような気になりがちです。
いま私は、まさにそんな状況にあります。
しかし、こうした状況は間もなく終わるでしょう。
私が飛ばないからです。
私を暇の世界から引き出してくれるような世界は、もうないのかもしれません。

今日だけでも、3つの新しい組織が生まれそうです。
たぶん、生まれることは間違いないでしょう。
しかし、こういろいろあると、私自身は飛ぼうにも飛べないのです。
だから、暇で暇で仕方がない世界で、時間に追われていることになるわけです。

暇を暇でなくしてくれた節子がいないのが、とても寂しいです。
暇だったので、今日もまた、やらなければいけないことができずにいます。
さてどうしたものか。
まあ、どうにかなるでしょう。
暇な時には、切羽詰まらないと、何もやる気は起きません。
困ったものです。

■3197:お布施人生(2016年6月3日)
節子
なぜか最近、私にきちんとお金を稼がせたいと思っている人が増えています。
昨日も電話がありましたが、今日もまたそんな話がありました。
ていねいにではなく、かなりぶっきらぼうに電話でお断りしたのですが、私が経済的に困っていると思われているのかもしれません。
たしかに困っていないとはいえませんが、世間的にはそれでもかなり恵まれていますので、お金のために自らの生き方を変えるつもりはありません。

私には「稼ぐ」という概念はありません。
私が目指しているのは、お布施です。
だれかの役に立つ。
役に立ったと思った人が、私にお布施をくれる。
お布施は、何でもいいのですが、もし金銭であれば、その額は私が決めることではないと思っています。
お布施は、その人が思った額でいいのです。
契約で対価を決めるなどというのは、私の好みではありません。
それこそ、自分を貶めるような気がするのです。
私が誰かに役立ったとしても、それを金銭などに置き換えてはほしくないのです。
それが私の基本的な考えです。
お礼はどうしたらいいですかと訊かれたら、おいしい珈琲をご馳走してくださいと言うしかありません。
珈琲が飲みたいわけではありません。
お礼をしたければ、相手に訊かずに思った通りにお布施をすればいいだけの話だと思うのです。
お礼は、その人の自発的な行為でなければいけません。
同じことをしても、受け取るお布施は大根1本のこともあれば、100万円のこともある。
私にはどちらもとてもうれしいです。
しかし、お布施は、布施する人の心を見事に象徴します。
2本しかない大根の中から1本くれるのと、100本もあるのに1本しかくれないのとでは、同じ1本でも、意味は全く異なるからです。
布施の世界は、そこにある種の恐ろしさがある。
人の本性が見えてきます。
だからこそ、私は、布施を大事にしています。

だからといって、金銭を特別視するつもりはありません。
同情するなら金をくれ、というセリフが昔ありましたが、そのセリフにも共感します。
ただただ黙ってお金をやればいいだけの話です。
相手が本当にお金で救われるのであれば、です。
そういう時はあります。
私も、お金がある時には、そうしていました。
いまはなくなったので、できないだけの話です。

私は、時々、どうやって食べているのかと訊かれますが、会社を辞めてから28年目に入りますが、この考えで何とか何不自由なく生きています。
こういう生き方ができるようになったのは、たぶん節子の支えがあったからだと思っています。
鼻持ちならぬ嫌な奴、と思われそうですが、お金で生き方を変えたくはないのです。

心配して下さる方々には、もちろん感謝はしていますが、私の生き方をわかってもらえると、うれしいです。

■3198:他者の夢に寄生した生き方(2016年6月4日)
節子
今日もまたいろんなことがありました。
動き出すと、いろんなことが動き出すものです。
いささか疲れた1日でした。
しかし何かが動き出すとなぜか元気が戻ってきます。

そういえば、一時期、あまり前向きでなかったTさんが、久しぶりに長電話をしてきました。
最後の本にすると言っていた本を書き上げたところなのですが、その勢いで、またもう一冊、本を書く気になったようです。
本だけではありません。
その本を活用した活動もしてもいいと言い出しました。
半年前とは全く違います。
やはり人は目標を持つと元気になるのです。

私は、自分自身、もう目標を持つ気はないのですが、何かをやりたいという気配を感じた人には、目標を持って動き出すように働きかけることはしています。
そしてできるだけそれを応援するようにしていますが、いつもうまくいくわけではありません。
なぜうまくいかないかは、長いことそういう生き方をしているおかげで、よくわかります。
わかっているのに、そうならないのは、残念なのですが、人の生き方は違いますから、押しつけることなどできません。
それに、そうやっても、かならずうまくいくというわけでもありません。

しかし、自分では目標を立てず、友人知人に目標を意識化させて、その実現に取り組むように働きかけるというのは、いわば「他者の夢に寄生した生き方」とも言えるかもしれません。
最近の私の生き方は、そんな傾向があるかもしれません。
困ったものですが、自分の夢が見られなくなった以上、仕方がないのかもしれません。

人はパンだけでは生きていけない。
人生にはバラが必要だという話を、最近また思い出すことが多いです。
しかし、いまの私にはやはり、バラはふさわしくありません。
もちろん、パンなどはもっと不要ですが。

■3199:付き合っていて煩わしくないのが伴侶(2016年6月6日)
節子
人との付き合いは難しいです。
人との付き合いには、必ずと言っていいほど、なにか行き違いが生じます。
私のように、かなり我儘に付き合っていても、それは避けられません。
ですから、本当は人との付き合いはできれば避けたい。
それが本音です。
今日は自宅で1日過ごしましたが、人に会わないとわずらわしさがなくて幸せです。
心の平安が保てます。

しかし、人に会わないでいると、どこかさびしくなります。
人と会うのが嫌いなはずなのに、人と会わないではいられない。
そこがややこしいところです。
昨日、ある人に、あなたもそうでしょうと言ったら、その人からそうだと即答が返ってきました。
たぶんみんなそうなのです。

会うとわずらわしいのに、会わないとさびしい。
人とは複雑な存在です。
昨日会った人は、私と同じく、伴侶を喪った人です。
伴侶とは、付き合っていても煩わしさがない人だと私は思っています。
逆に言えば、付き合っても煩わしさを感じない人が、私にとっての伴侶なのです。
でも多くの場合、伴侶と付き合うのも煩わしいと言う人が多い。
私にはそれがあまり理解できません。
煩わしかったら、伴侶であることをやめればいいだけのことですから。

人と付き合うのが煩わしいことだということを意識しだしたのは、実は節子がいなくなってからです。
人と会わないとさびしくなるということを意識しだしたのも、節子がいなくなってからです。
昨日会った人もそうなのでしょうか。
それを訊くのを忘れました。

ちなみに、今日は誰にも会わずに心の平安が保てると思っていたら、ふたりの友人から長電話をもらいました。
ちょっと心が乱れました。
それで少し過激な発言をしたら「佐藤さんは厳しい」といわれてしまいました。
自分の未熟さを実感して、また自己嫌悪に陥りそうです。

そして夜になって、今度は苦手の人からある問い合わせがメールできました。
その人の、あまりに不躾な態度に、私はめずらしく縁を切りたいほどの怒りを感じているのですが、彼女は私が応援していると思い込んでいるのです。
もしかしたら、周囲の人もそう思っているかもしれません。
さてさてどうしたものか。

やはり人と付き合うのは、平安をもたらしてはくれません。
付き合って、平安をもたらしてくれたのは、節子だけです。
そして、その節子は、私の平安をと一緒に、先に旅立ってしまったのです。
悪いのはすべて節子なのかもしれません。
困ったものです。

■3200:苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。(2016年6月7日)
節子
気が重い話もあれば、元気が出る話もあるのが、人生です。
今日は、そのふたつがどっさりと降りかぶさってきました。

まずは、つらい話ですが、とりわけ辛い話が2人から届きました。
お一人はメールで、お一人はお会いしての話です。
ふたりから、同じ言葉が出てきました。
「ぽっかり穴が空いた」です。
友を見送り、愛する人を見送った、まったく別々の友人から、まったく同じ言葉がでてきたのです。
ぽっかり穴があくと、人生を歩きにくくなります。
その体験をしているが故に、気にはなりますが、こればかりはどうしようもできません。

実は、この数日、元気がどうも出ないため、気分転換に国立西洋美術館に向かっていた途中、電話がかかってきたので、予定を変えて、友人に会ったのですが、そこで出てきたのが、「ぽっかり穴が空いた」でした。
人生はうまくいきません。

しかし、人生はよくしたもので、元気が出る話もありました。
湯島でいささか精神的にダウンしていたら、ある件の相談で別の友人が来ました。
予定していたミーティングです。
しかし、その友人もちょっと疲労気味だったようで、今日は相談はやめて雑談にしようと言い出しました。
それで2時間ほど雑談をしました。
ふたりとも気分的に疲労気味だったせいか、何やらわけのわからない話をしていた気がしますが、帰り際にその友人が楽しかったと言ってくれました。
そういえば、私も少し元気が出ました。

そこから流れが少し変わりました。
元気が出る話が入りだしたのです。
発達障害の友人から、お誘いを受けました。
仲間を紹介したいというのです。
来週早速会うことにしました。
夜には新しい組織の立ち上げのミーティングをしましたが、大筋の合意ができて、動き出せそうです。
帰宅したら、ちょっとうれしいメールが届いていました。
悩ましく思っていた問題が解決しました。

人生は、苦もあれば楽もある。
苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。
それがこの頃、とても納得できるようになってきています。

■3201:穴のあいた背広(2016年6月8日)
節子
出かける時はそうでもなかったのですが、夏のように暑くなってきました。
今日はめずらしく背広を着て湯島に来ました。
最近は背広を着るのは月に1回程度です。
節子がいなくなってから、背広はつくっていませんので、もう10年以上前のものしかありません。
今日、しばらく着ていなかった背広を着ようと思ったら、虫に食べられた穴が背中に開いていました。
手入れなどしておらず、着たものはクリーニングに出してもらっていますが、着ないものはまあいいかと放ってあるのです。
でもまあ小さな穴だから誰も気づかないでしょう。
着替えるのが面倒なので、そのままそれで着て、出てきてしまいました。

今日はビジネススクールで話をすることになっていますが、後ろを見せないようにしなければいけません。
しかし、話しながら教室を歩いてしまうかもしれないので、要注意です。
虫に食われた背広を着ている講師の話は、説得力がないでしょうね。
さて、どうなるか。

妻がいなくなると、身の回りの世話をしてくれる人がいなくなるので、身なりが一変する人がいますが、幸か不幸か、私はたぶんそう大きくは変わっていないでしょう。
それは節子も、そうしたことに比較的無頓着だったからです。
しかし、そうはいっても、私自身は気づいていないところで、みっともない状況になっている可能性はかなりあります。
なぜなら誰も注意してくれないからです。
娘が時々、手厳しく注意することもありますが、たぶん諦めているでしょう。
服装には全くと言っていいほど興味がないのです。

とはいうものの、こだわっていることはあります。
自分が着る服に、ブランドマークや文字が入っているのは、だめなのです。
自分の身体を広告媒体にすることは、生理的に受け付けないのです。
シャツを買う時も、マークが入っているとだめなのです。
だから私が着るカジュアルウァアを見つけるのは、それなりに難しくて、節子は苦労していました。
そんなわけで、私の着る衣服は、いま払底していて、今日は何を着ればいいか困ることが多いのです。
ですから、いつも同じようなTシャツばかり着ているのです。

年齢のことも考えて、それなりにきちんとした服を着るようにといっていた節子も娘も、結局はあきらめました。
たぶん死ぬまで、良いものを着ることなく、終わりそうです。
さて、そろそろ出かけましょう。

■3202:「愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%?」(2016年6月9日)
節子
昨日、この挽歌を読んでくれている、若い女性に会いました。
彼女は昨年、あることで湯島に来てくれたのですが、今回、私の話を聴きにわざわざ来てくれたのです。
話している時にはまったく気づかなかったのですが、話し終えてから、声をかけられたのです。
その時に、彼女が挽歌を読んでいることを教えてくれました。
思ってもいなかったことです。
まさかまさか、という感じです。

そして今朝、こんなメールをもらいました。

佐藤さんのブログは寝る前の楽しみです。
一生のうちに愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%でしょうか?
私は独身ですし、佐藤さんと奥様のような生活を夢見ています。
他の女性の生徒さんも同意見でした。

若い女性が、こんな読み方をしてくれているとは、ちょっとうれしいです。
いささかの気恥ずかしさはありますが。

愛する方に出会い支え合う関係になれる可能性は何%でしょうか?
というのがもし私への質問であれば、100%というのが私の考えです。
なぜなら、ひとめぼれということはあるとしても、愛とは育むものだからです。
愛する人に出会うのではなく、出会った人を愛すればいいだけの話です。
支え合う関係もまた、育むものです。
そして、「支え合う関係」から、愛が生まれ育っていきます。
すべては、そうしようという、自らの思いから始まることなのです。

愛は、出会うものではなく、育てるものだということに、気づけば、相手は誰でもいいとは言いませんが、まあ誰でもいいかもしれません。
少なくとも、支える相手は、よほどのことがなければ、誰でもいいでしょう。
そして、誰かを支えることの喜びに気づけば、「支え合う関係」は自然と生まれ、育っていく。
そして、愛もまた生まれ育っていきます。
愛する人との支え合う関係をつくりだすのは、そう難しいことではないのです。

前にも書いたかもしれませんが、誰かに愛されるのは自分ではできませんが、誰かを愛するのは、その気になれば誰にもできることです。
愛していれば、相手から愛されなくても、何の問題もないでしょう。
愛や支え合いは、決して対称関係にはないのです。
すべての出発点は、よく言われるように自分なのです。
ですから、自分がその気になれば、だいたいにおいて、そうなるでしょう。
これが私の体験です。
ですから、きっとこの方も、愛する人との支え合う関係を実現するでしょう。

まあ、あんまり役にも立たないことを書いてしまいましたが、ブログの読者が話を聴きに来てくれたことが、とてもうれしいです。
今日は、ちょっと用事が立て込んでいて、疲れていたのですが、頑張って書きました。

■3203:携帯電話を忘れました(2016年6月10日)
節子
今日は朝の5時半に家を出て、奈良に向かっています。
企業の人たちとの合宿です。
奈良で行うという、ただそれだけの理由で、引き受けてしまいました。
3年ぶりの奈良です。

寝坊しないか心配だったのですが、無事新幹線に乗れました。
そこで、携帯電話を自宅に忘れてきたことに気づきました。
今日はなんとか乗り切れるとして、明日は夕方から人に会う予定ですが、その方とは一度しかお会いしたことがなく、しかも会う時間も場所も、携帯電話で打ち合わせることになっているのです。
会えるでしょうか。

iPadは持参していますが、フリーのWi-Fiがないと通信できません。
さてどうするか。
対策を考えなくてはいけません。
新幹線のなかではゆっくりと本でも読もうと思っていたのに、それどころではありません。
困ったものです。
しかし、こういう予期せぬ課題に会えばこそ、人生は退屈しません。

最近でこそ少なくなりましたが、以前はよく携帯電話を忘れました。
それで何度かけても電話にでないといって叱られたことがあります。
それで携帯電話が嫌いになり、八つ当たりですがその人も嫌いになり、使わなくなった時期もありますが、最近はすっかり携帯電話依存症です。
と言っても、相変わらず出ないことは多いのです。
たぶん信じてはもらえないでしょうが、私の携帯電話(いわゆるガラケイです)はマナーモードにしていなくても、時々、ならないのです。
持ち主の気分を感知しての配慮ある行為かもしれません。
何でならないことがあるのかと不思議に思い、他の人に頼んでかけてもらうと、不思議と必ず受信音がなるのですが。
ということは、私の携帯電話には意思があるのかもしれません。
だとしたら、今日、私が携帯電話を忘れたのにも意味があるのでしょう。

まあそんなことはどうでもいいのですが、新幹線のゆったり旅気分は楽しめないでいます。
いま熱海を過ぎました。
対策を考えるのは、ホテルに着いてからにしましょう。
着いたら先ずは私がワークショップをすることになっています。
その準備もしなければいけません。
困ったものです。

■3204:不思議なことが続いた良い一日(2016年6月10日)
節子
奈良に宿泊していましたが、朝食前に奈良公園を散歩してきました。
シカにも出会えましたが、シカと話している人にも出会いました。
シカはみんな、平和そうでした。

興福寺の南円堂近くの一言観音堂で、お百度参りをしている女性がいました。
シカと違って、やはり人間は平和ではないのです。
不謹慎ながら、どんな願い事なのかなと気になりました。

一度、そこを離れたのですが、やはり気になってまた引き返しました。
さすがに、その人に訊くほど不躾なことはしませんでしたが、気になって後ろ姿をこっそり写真に撮ってしまいました。
悪気はなかったのですが、後で、私が写真を撮ったために願掛けが成就しなかったらどうしようと、反省しました。

しかし、なぜ戻ってまで写真を撮ってしまったのか。
実は、うらやましかったのです。
彼女にはきっと、自分を投げ出してまで守る人がいる。
そう思ったのです。
そして、私にもそう思っていた頃があったと気づいたのです。
しかし、その頃、私はお百度参りをしなかった。
なぜ気づかなかったのか。

そう言えば,ここは節子と最初に歩いたところです。
一人で奈良に行こうとしていた私が,電車で偶然,京都のおばさんの家に行こうとしていた節子に会い、一緒に奈良に行こうと誘ったのです。
それが、私たちの最初のデートだったのです。
その時、歩いたのもこの観音堂の階段でした。
その時の写真は、いまもはっきりと覚えています。
その写真を見て、私は節子に結婚でもしないかと言ったのですから。

そんな思いが一気に噴き出してきたのですが、なぜか心身があったかくなりました。
理由は全くわかりませんが、裸足で一心不乱に往復していた女性に感謝しました。
彼女に出会えたのには、意味があるのだという気がしたのです。
今日はきっと良い日になるだろうと思いました。
そして、そうなったのです。
今日は、良い日でした。

京都でTさんにお会いできました。
導きがあるとしか思えないのですが、まあそれはともかく、バスを降りた途端にお会いできたのです。
Tさんに会った途端に,なぜか私の抱えている問題が、自然と私の口から出てきたのです。
一度しか会ったことのないTさんが旧知の友のような気がしました。
今日は不思議な日にもなったのです。

■3205:「みどりの愛護」のつどいで花かご会が表彰されました(2016年6月12日)
節子
昨日、暑い中を奈良と京都をいささか歩きすぎたせいか、今日はちょっと疲れが戻らないまま、帰宅後、ダウンしてしまっていました。
やはり歳には勝てないものです。
それに不思議なもので、帰宅した途端に長電話が入りだしました。
少しイライラしてしまって、失礼な対応をしてしまった人がいるかもしれませんがお許しください。
ちなみに、私が電話で持ちこたえられる時間は10分くらいですので、できればご承知おきを。

夕方、テレビを見ていたら、近くの柏の葉公園で行われた「みどりの愛護」のつどいが報道されていました。
皇太子ご夫妻も参加して、植樹などもされている様子が報道されていました。
この集まりで、花と緑の愛護に顕著な功績のあった約90の民間団体が表彰されたことも報道されていました。
節子も参加していた「花かご会」も国土交通大臣表彰を受けたはずです。
我孫子市役所の都市部長の渡辺さんから、表彰が決まった時に教えてもらっていましたし、花かご会の山田さんからもお聞きしていました。
今日はたぶん花かご会のメンバーも参加していたでしょう。
市役所の方が、いろいろとご尽力してくださったのでしょうが、とてもうれしいことです。
節子もきっと喜んでいることでしょう。

我孫子駅前の花壇は年々花が増えています。
節子もきっと見ているでしょうね。
最近はゆっくりお話しする機会があまりありませんが、またお祝いの声をかけることにしましょう。

■3206:湯島は巡礼宿?(2016年6月13日)
節子
今日はたくさんの刺激をもらった1日でした。
まず、40数日をかけて四国を巡礼してきた鈴木さんが湯島に来てくれました。
とても興味あるお話を聴かせてもらいました。
話を聴きながら、四国遍路の世界は、とても幸せな空間なのだなと感じました。
安心してお接待ができると、いわば「残された楽園」なのではないかと思ったのです。
私は、人は基本的に他者を信じ、他者に何かをお接待したいと思っている生き物だと考えていますが(そうでなければ厳しい自然淘汰のなかで残らなかったでしょう)、最近はそれができなくなっている。
しかし、四国お遍路に集まる人たちは、みんな良い人ばかりなので、お接待しても裏切られることなく、いつか恩送りしてきてくれる。
そんな気がしたのです。でも鈴木さんの体験談を聴くと、どうもその「楽園」も10年後には存続が難しいかもしれないような気がしました。
まあ、それは今度の日曜日に、鈴木さんに「巡礼サロン」をしてもらいますので、そこで改めて考えてみようと思います。

続いてきたのは、軍事問題専門家とウォーゲームの専門家です。
私が一度、ウォーゲームを体験したいとお願いしたからです。
今回実物を持参してくれたのは、ボードゲームの朝鮮戦争です。
それで、朝鮮戦争の話になってしまいました。
そしてさらにはフォークランド紛争の話になり、ゲームどころではなくなってしまいました。
それに、そもそも「戦争」の概念が、それぞれに違って考えているようで、おそらく軍事専門家のおふたりにとっては、私の発言はあまりに素人議論に感じられたことでしょう。
途中で少しムッとしているなと感じたのですが、だからといって対応を変えられるほど、私は器用ではありません。
しかし、最後はなんとなく心が通じたようで、なぜか一緒にあるプロジェクトをやるように誘われてしまいました。
断る勇気がなくて、それに興味もあったので、それを受けてしまいました。

最後に来たのは、リンカーンクラブの創設者の武田さんと武田さんの最新の著作の編集者の藤原さんです。
今朝、急に電話がかかってきて、ある相談を受けたのですが、いささか無理難題の相談です。
しかし、まあ無理難題というのは魅力的ですし、何よりも予算がないと言われると断れなくなるのです。
それで結局、頭を使っておふたりの要望にも対応することにしました。

たぶん、この3つの話の順序が違っていたら、後のふたつは断っていたでしょう。
疲れ切っていた昨日では考えられないことですが、私の意には必ずしもそぐわない2つのプロジェクトに関わることになってしまいました。

鈴木さんは、昨年のサンチャゴ巡礼のときにフランス人から受けた親切を、今回の四国お遍路で偶然出会ったフランスからの巡礼者に「恩送り」できたという話をしてくれました。
「恩送り」は、人生を豊かにしてくれるマジックワードです。
そういう気がしていたので、今日は、2つの約束をしてしまったのです。
そこに困っている人がいたら、手を貸さなければいけません。
それこそが、人本来に生き方なのですから。
そして、それこそが、豊かな生き方なのです。
そう言う豊かな恩送り人生が、わずかとはいえ、できることの幸せを感じました。

鈴木さんが行ってくれました。
湯島のこの部屋は「巡礼宿」なのかもしれませんね、と。
そう言われると、そんな気がしてきます。
湯島に来る人たちはみんな良い人ばかりで、そこにいる私は、素直にゆるく生きていても、許されるのです。
私は四国に出かけなくても、毎日がお遍路人生なのかもしれません。

■3207:孫が元気に育っています(2016年6月14日)
節子
節子の孫のお宮参りでした。
私はついていきませんでしたが、その前後に親子3人でわが家に寄ってくれました。
私も誘われましたが、行くのを辞めました。
もし節子がいたら、もちろん私たちも一緒に行ったのですが、どうも私一人だと、行く気分になれません。
おそらく、節子がいないことで、孫の誕生を祝う気持ちも高まらないのかもしれません。

名前は、信じがたいことに「にこ」と名付けられました。
アルファベットでの表記は、Nicoです。
イタリアを意識しているのです。
私は娘たちの名前をカタカナにしてしまったので、大いに反省しています。
それにもかかわらず、娘がまさか、私と似たような発想で命名したことが意外でした。
私と同じように、後々後悔しなければいいのですが。

私は、なにかに呪縛される生き方から自由になりたいと子どもの頃から思っています。
ですから子供の名前も、意味をもたせないように、カタカナ表記にしたのです。
しかし、そもそもそれは、呪縛されないということに呪縛されてしまっていたのです。
そして、どんな名前を付けようと人は名前に呪縛されることを娘を通して実感させられました。

私の名前は「修」です。
それは、私にとっては記号以上のものではなく、みずから自分の名前を意識したことさえありません。
しかし、昔、あるテレビドラマで「佐藤修」という役名の人が登場しました。
その人はドラマの中で殺害されるのですが、なにか不思議な気持ちでした。
名前に呪縛されないで生きることは不可能だと思いました。

私ではない「佐藤修」さんと一緒に食事をしたことがあります。
JTのプロジェクトに関わった時ですが、当時のJTの広報部長のお名前は「佐藤修」でした。
そういえば、大学入試の時に、私の隣の人もまた「佐藤修」でした。

「節子」もよくある名前です。
しかし、「節子」という名前に出会うとドキッとします。
やはり名前は大きな意味をもっているのです。

名前はともかく、孫は少しずつ「人間」らしくなってきました。
しっかりと目戦が合うようになってきましたし、会話はともかく、コミュニケーションはできるようになってきた気がします。
節子がいたら、どんなに喜んだことでしょうか。
そう思うと、とても不思議な気分になります。

■3208:「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃう」(2016年6月15日)
節子
高田馬場にある、大人の発達障害者の憩いの場NeccoCafeに行ってきました。
NeccoCafeを運営しているのも、発達障害の人たちです。
私も、発達障害の長澤さんに誘われたのです。
彼がアレンジしてくれていて、NeccoCafe代表の金子磨矢子さんともお会いしました。
金子さんは「発達・精神サポートネットワーク』の理事長ですが、子どもの頃からADHD(多動性障害)の症状に悩んできたそうです。
ADHDの友人は何人かいますが、金子さんはそういう人たちとは違って、とても物静かな女性でした。
人はみんなちがって当たり前、それを認め合っていけば、生きやすい社会になるのにという点で、私と意見が一致しました。

金子さんのインタビュー記事のコピーをもらいました。
そこに、こんなことが書かれていました。

NeccoCafeは、食器やタオルなどよく使う物は、見えるところに出してある。
「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃうことがあって」と金子さんは笑う。

「見えないところにしまうと、その存在ごと忘れちゃう」。
何でもないような言葉ですが、とても深い意味を感じます。
そして、とても心に響いてきます。
愛する子供を亡くされた方が、子ども部屋を片づけずにそのままにしているのも、しまってしまいたくないからなのでしょう。
私も、節子の残したものを整理することに抵抗があって、いまもまだ片づけられずにいるとことがあります。
先日お会いしたTさんは、いつも、息子さんの一生をまとめたA3の記録を持っています。
そしてたぶん、心を開いた人には、それを見てもらう。
私が、この挽歌を書き続けているのも、見えないところにしまってしまわないためなのかもしれません。

しまうことは忘れること。
考えさせられることの多い、NeccoCafe訪問でした。

■3209:なんでこんなに面白いことが多いのでしょうか(2016年6月20日)
節子
なにやらめまぐるしいほどの状況になってしまい、倒れそうです。
今日も含めてこの3日間、連日で湯島のサロンですが、それはともかく、その前後にいささか作業を伴うプロジェクト起こしが重なっていて、やるべき課題にうずもれてしまっています。
とはいえ、昔と違って、寝る時間を減らすわけにもいかず、人と会う時間も減らせないので、なかなか作業が進みません。
そのせいか、今日は早朝から4人の人から電話がありました。
督促とは言えませんが、何やらプレッシャーを感じます。
幸電話嫌いの私としては、困ったものです。

こうなったのは、私の能力不足です。
能力もないのに、簡単にプロジェクトを起こしてしまい、それで時間破産に陥る。
これが私のよくあるパターンなのですが、そういう状況になってもなお、新しいプロジェクト起こしを働きかけてしまうところが、破滅的なのです。
4人からの電話のほかにも、いくつかのメールが来ましたが、それに反応してしまい、2つほど面白いプロジェクトを思い立ってしまいました。
それで、それを立ち上げないかというメールを送ってしまいました。
いずれも面白そうなプロジェクトです。
でも相手がやろうということになったらどうなるのか。
困ったものです。
しかしみんなは私ほど軽率ではないでしょうから、たぶん大丈夫でしょう。

というわけで、節子が知っている私の生き方は全く変わっていません。
そのおかげで、眼医者にも行けず、畑にも行けず、本も読めず、気になっている人にも会いに行けません。
しかも約束の期限は刻々と迫ってくる。
さてさてどうしたものか。
この1週間が山場です。
まあ、毎週、そう思っているような気もしますが。

ちょっと気分転換に挽歌を書いてしまいました。

■3210:またメンタルダウンです(2016年6月21日)
節子
今日やろうと思っていたことが3つあります。
いずれも、ある構想をまとめることです。
昨日まで、いろいろと用事があったので、すべてを今日にまで延期していたのです。
そしてそのために、今日は、まる1日あけておいたのです。
しかし、昨日までの疲れが出てしまい、午前中はボーっとしていました。
3人からの電話以外は、煩わされることなく、マイペースで過ごせました。
午後、さて宿題に取りかかろうかと思ったのですが、なぜかその気になれません。
最近は、身体の回復以上に、気力の回復が難しくなってきました。

3つの課題は、私だけのことではなく、チームで動いていることでの課題です。
その3つは、それぞれ違うチームとの約束で、明日が締め切りです。
いずれも、「ゼロから創りだす」必要がある宿題です。
つまり、「作業」ではなく「創作」なのです。
ですから「気」がでてこないと取り組みようもありません。
栄養ドリンクを飲みましたがだめでした。
気分転換に、近くの娘の家にも行きましたが、だめでした。
どうしてもやる気が起きません。
さてどうするか。

長年生きてくると、こういう時には開き直れるのです。
まあできないものは仕方がない、と諦めるのです。
同時に、なんとなく形を整えて、こんな形で進めますと予告して安心してもらうわけです。
そう言う資料作りなら、気が向いたら時間をかけずにできるでしょう。
悩むよりも、今日はすべてを忘れて、寝るのがいいでしょう。
早寝早起きこそが、生活リズムを回復させてくれるでしょう。

というわけで、今日はあきらめて寝ることにします。
何だか最近、疲れることが多くなりました。
今日電話がかかってきた武田さんにそんな話をしたら、生命の炎が消えかかってきたのだろうと言われました。
それを自覚できないところに不幸があります。

■3211:気力回復の朝(2016年6月22日)
節子
昨夜はすべてを忘れて、早寝をしました。
早寝をすると12時ころに目が覚めてしまい、結局、また寝不足になってしまいました。
人生は、なかなかうまくいきません。

しかし、頭はかなりすっきりしてきました。
もしかしたら、私も軽い躁鬱傾向にあるのかもしれません。
節子がいなくなってから、実は朝まで熟睡することがほとんどなくなりました。
真夜中に目が覚めてしまうようになってしまったのです。
もう9年近くたつのに、いまもってそこから抜け出られません。

昨日の夕食は、わが家の畑で採れたナスのお味噌汁を娘がつくってくれました。
実はこのところ、畑に行っていないため、畑がめちゃくちゃになってしまっているようです。
娘に行ってもらったら、レタスは溶けていたようですし、キャベツはトカゲに食べられていたようです。
それでもナスがなっていたようで、それを取ってきてくれたのです。
美味しいナスのお味噌汁でした。
娘は味噌汁が苦手なので、私一人で味わいました。
節子に供えるのは忘れました。

代わりに、昨日は山形のサクランボを節子に供えました。
山形の友人が毎年、この時期になると、サクランボを送ってくれるのです。
昨夜は2粒ほど味わい、今朝、たっぷりといただきました。
美味しいサクランボでした。
送ってくれた友人とは、この10年以上、一度もあっていないのです。
仕事の関係で、出会った人ですが、仕事が終わってからしばらくしてから、サクランボが毎年届くようになりました。
不思議なご縁です。
なにか繋がりを感じてくれているのかもしれません。
感謝しなければなりません。

私の朝食は基本的にトーストです。
昨日、気分転換にスーパーに行ったら、88円の食パンがあったので、それを買ってきました。
6枚で88円。いつもの半値です。
パンの味は、値段によってどれだけ違うのか確かめてみたくなったのです。
時々、娘が有名店のパンを買ってきてくれますが、そうしたものはやはりおいしいですが、普段は、せいぜい一斤150円前後のパンを1枚食べています。
そのレベルのパンだと、私の味覚のレベルだと、値段と美味しさはそう関係ないことは確認済みです。
もちろん「コミュニティのみ」の問題はあります。
さて、88円のパンですが、私の味覚ではさして大きな違いは感じられませんでした。
一緒に食べたサクランボのせいかもしれません。
しかし包装のデザインが悪いので、やはり2回目はないでしょう。

まあそんなわけで、今日はなんとか気力を回復してのスタートです。
思考力がかなり回復してきていますので、まあ何とか乗り切れるでしょう。
人生はまことにもって山あり谷ありです。

■3212:「亭主関白道」(2016年6月22日)
節子
先の記事をアップして、気がついたのですが、また挽歌の番号が5つもずれてしまっています。
毎日書こうと思ってはいるのですが、結構、抜けてしまうようです。
それで、今日は、もう一つ書くことにしました。

最近知り合った柿内さんから、「亭主関白道」というのがあるとお聞きしました。
「全国亭主関白協会」というところで、認定しているのだそうです。

亭主関白といえば、さだまさしの「関白宣言」を思い出しますが、その協会のホームページによれば、亭主関白の本来の意味は次のように書かれています。

歴史を紐解けばすぐわかるが、関白とは、天皇に次ぐ2番目の位。
家庭内ではカミさんが天皇であるから、「関白」とは奥様を補佐する役目。
また、「亭主」とは、お茶を振る舞う人、もてなす人という意味。
つまり、真の『亭主関白』とは、妻をチヤホヤともてなし補佐する役目である。

なるほど。
とてもわかりやすい。
そして、そのホームページに、「平成新!亭主関白道段位認定基準」というのがありました。

初段 3年以上たって「妻を愛している」人
二段 家事手伝いが上手な人
三段 浮気をしたことがない人、ばれていない人
四段 レディーファーストを実践している人
五段 愛妻と手をつないで散歩ができる人
六段 愛妻の話を真剣に聞くことができる人
七段 嫁・姑問題を一夜にして解決できる人
八段 「ありがとう」をためらわずに言える人
九段 「ごめんなさい」を恐れずに言える人
十段 「愛している」を照れずに言える人

私の場合、すべてに胸を張って「はい」と答えられますが、肝心の妻がいないので、段位はもらえません。
補佐する人がいなくなった時の補佐役は、どうしたらいいのか。
いまの私にできることは、位牌を守ることくらいでしょうか。
そういえば、最近、お墓にも行っていません。
困ったものです。
やはり段位はもらえそうもありません。

■3213:自己紹介と他己紹介(2016年6月23日)
節子
昨日、自己紹介や過去の物語を語ることが組み込まれた会に参加しました。
前にも同じような会に参加したのですが、そこでどうも私は「自己紹介」ができない人間だということに毎回気づかされます。
加えて、自分を語ることがどうもできないのです。
それならそんな会に出なければいいと言われそうですが、その会は私が代表であるストーリーテリング協会の集まりですので、欠席するわけにもいきません。
実に困ったことですが。

そこで参加者みなさんの話を聞いていると、実に見事なのです。
どうして私には、それができないのか。
少し考えて話そうとするのですが、話している途中で、考えていたこととは全く違う話をしたくなってしまいます。
話すことを考えて、話すことができないのです。
とりわけ過去のことが話せない。
記憶があまり残っていないということもありますが、どうもそれだけではなさそうです。
協会の吉本さんに、お手本まで示してもらいながら、練習もさせられましたが、まったく逆効果です。
ともかく自己紹介ができません。

これはいまに始まったことではないのです。
昔から私は自己紹介が苦手です。
自分がわからないからかもしれません。
もっともわからないのは私だけではなく、先日も私を紹介しようとしてくれた友人が、佐藤さんのことは説明できませんが、と紹介していました。
「説明できない人」というのが、私の紹介というのもおかしな花ですが、私も奇妙に納得できました。
私自身も、うまく自分を説明できませんので。

一種の、これも人格障害なのかもしれません。
自分でも自分がわからない。
いやはや困ったものです。

しかし、なぜ人は自己紹介が必要なのか。
昨日は、自己紹介ではなく、他己紹介もありました。
昨日はあまりうまくできませんでしたが、私は他己紹介は嫌いではありません。
まあかなりめちゃくちゃな他己紹介ですが、他己紹介ならできそうです。

しかし、他者に説明できない自己とはいったいなんなのか。
悩ましい課題です。

■3214:ワクワクした午前中でした(2016年6月24日)
節子
今日もまた、朝から大忙しでした。
といっても、自宅での話です。

インターネットの広がりで、今や私のような高齢者も、社会の中では自由に飛び回れるようになりました。
肉体的な、ちょっとした坂を上るも疲れてしまうようになりましたが、ネットの世界では、そうしたハンディはありません。
ですから、いろんなことができるのです。
私自身はさほどネットを駆使できるわけではありませんが、それでもネットでのチャットや私よりも不得手な人のための支援はできるのです。

今日やったことの一つは、ちょっとワクワクするものでした。
節子も知っているハーモニカ奏者の西川さんが、障害を持つ仲間と3人で、台湾で開催される第11回アジア太平洋ハーモニカフェスティバルに参加したいと考えました。
しかし、西川さん以外の2人は、重度障害者のため、ボランティアヘルパーに同行してもらわなければなりません。
その費用をどうするか。
そこで西川さんは、クラウドファンディングで資金調達しようと考えました。
西川さんのハーモニカ活動は、「人と人を結ぶ」と同時に、身体や視覚に障害がある人たちの人生を変えられ名会いかという思いがあります。
そして、実際に、何人かの人たちは、人生を大きく変えているのです。
西川さんのプロジェクトは次にあります。
https://readyfor.jp/projects/harmonica-2
西川さんの呼びかけを受けて、私の友人たちも支援してくれていますが、そのお一人の80代の女性がどうも手続きができません。
そこで私が事務局をやっているコムケアセンターで代行することをやってみたのです。
単なる代行ではありません。
コムケアセンターという中間組織が、プロジェクトを評価し、支援していくというやりかたがあることに気づいたのです。
もちろんすでにそうしたことは行われていますし、そのための組織もあります。
でも実行してみると、これはなかなか面白い仕組みに発展させられるなと感じたのです。
そこで少しワクワクしてしまったわけです。

ガーナ人の若者とも、今朝はちょっとネットでチャットしました。
ほかにも3つのプロジェクトに関する対応で、いろんな刺激を受けていました。
気がついたらもうこんな時間です。

今日はたまっている宿題を消化するために、在宅なのですが、何か宿題以外のことがやりたくなってきてしまっています。
さてさて困ったものです。
雨が止んだので、畑にも顔を出したくなりました。
さて、宿題は消化されるでしょうか。
いささか心配です。

ネットの世界から現実に戻ると、飛び回るほどのエネルギーがない現実に直面します。
どちらが幸せなのでしょうか。
ネットの世界に逃げてしまいがちなこどもや若者の気持がよくわかりますね。

■3215:支離滅裂な1日(2016年6月24日)
節子
復調しました。
本が読めるようになったのです。
しばらく本が読めませんでした。
といっても、今日は読みませんでした。
ただ読めるようになっただけです。
それで、昔沖縄の人が送ってきてくれた本を探しました。
幸いにわが家の書庫から出てきました。
老後の転居予定先に、かなりの書籍は送っておいたのですが、節子がいなくなって転居をやめた後、また自宅に返送した中に運よく入っていました。
渡名喜明さんの「ひと・もの・ことの沖縄文化論」です。

昨日は沖縄の「慰霊の日」でした。
テレビで、平和の礎の前で戦争の思いを語っている人をみて、その後、安倍首相のスピーチを聞いたら、途端に気分が悪くなりました。
この人は果たして人間なのだろうかと思いました。
彼は、あの平和の礎の前に立ったことがあるのだろうか。
それで、渡名喜さんの本を読みたくなったのです。

平和の礎は、私も節子と一緒に行きました。
あれはまだ節子が発病していなかった頃なのでしょうか。
全く記憶がありませんが、明るい沖縄と悲しい沖縄があって、複雑な旅でした。
しかし、平和の礎を歩いた時には、思わず手をつないだことを思い出します。
なにかが迫ってくる気がしました。
それ以外の記憶はほとんどありません。
夢のような記憶があるだけです。

復調したのであれば、宿題に時間を割くはずなのですが、なぜか無性に外に出かけたくなりました。
じっとしていられなくなった理由は、英国がEUから離脱したというニュースのせいかもしれません。
世界が壊れだした。
そんな気がしてきました。
宿題などやっている時か、というわけです。
人間は極めて不合理な行動をとるものです。
庭の池に、ガマガエルが入らないように、網を張ろうと急に思いつきました。
それで、少し遠くにあるお店に、網を買いに行きました。
そしてちょっと濃いコーヒーを入れて、少し落ち着きました。

というわけで、居は何やら支離滅裂な1日でした。
でもまあ「宿題」は2つだけは何とか目処ができました。
明日はまた、いろいろなことがある1日です。
そのおかげで、たぶん、調子はもどるでしょう。
ここには書けないことも含めて、今日もてんやわんやの1日ではありました。

■3216:自分軸としての挽歌(2016年6月28日)
節子
またしばらく挽歌を書けませんでした。
いろんなことに関わりすぎてしまったせいですが、関わることが毎日のように増えています。
25年前を思い出します。
会社を辞めて、何にでも自由に取り組めると思った途端に、多彩な世界が実に面白く現出したのです。
少しですが、あの頃のように世界が見えています。

もっとも当時の世界には輝きがありましたが、いまはそれはほぼ皆無で、問題だけが見えてきています。
私の年齢の問題だけではなさそうです。
あの頃はまだ世界に期待することがたくさんありました。
いまはほとんどそれらは消えかかってしまっています。
ともかく「人」がいなくなってしまった気がするのです。
退屈な時代になってしまった。
私には、暇で暇で仕方がない時代でもあります。

しかし、最近ちょっと違う世界に触れだしました。
先日は見事な若者にも会いました。
北陸からわざわざ合いに来てくれた若者もいました。
やはりまだ隠棲するわけには行きません。
また大失策をしてしまうかもしれませんが、今度はきちんと自分軸を外さないようにしようと思います。
そんなわけで、いま取り組みだしているいくつかの組織の立ち上げにきちんと取り組む気になってきています。
とりあえずは5つの組織です。
いずれも自分でゼロから立ち上げたものではありません。
誰かが相談に来て始まったものばかりです。
ですから私が主役ではないのですが、端役でもないのです。
さらに、5つのほかにもさらに5つ近い組織づくりの話もあります。
不思議なもので、5つと決めて動き出したら、その予備軍のような話が次々と舞い込むのです。

そんなわけで、挽歌を書かずに数日過ごしてしまいました。
明日からまた挽歌を復活させます。
組織の立ち上げにも、きちんと立ち向かうつもりですので、そのためにもやはり挽歌を書くことで自分軸を持てるでしょうから。

■3217:節子が心配しているようです(2016年6月29日)
節子
朝、畑に行ってきました。
一昨日、時間の合間に行ってみたら、とんでもない状況になっていたからです。
1週間ほど、放置していたら、野草に覆われ、せっかくの野菜も元気をなくしていました。ミニトマトだけは実を成らせていましたが、ナスもきゅうりもいささか悲惨な状況です。
今朝は、時間がなかったのと昨日の雨で、中に入るのさえ大変でしたので、野菜に声をかけて来ただけです。
土曜日までたぶん畑作業はできないので、もしかしたら今年は野草に軍配が上がるかもしれません。
せっかく10種類を超える野菜の植え付けをやったのに残念です。

花壇もまた野草に覆われだしていました。
百日草が育ってきていますが、野草には負けています。
種を蒔いていた苗床はやはりだめでした。
自然と付き合うのは、やはり誠実でなければいけません。
日本人の正直さや誠実さは、長年の農業の営みのおかげだろうな、最近、改めて確信します。

昨日は、久しぶりに頭脳が動き出しました。
やりたいことがまた見つかってしまいました。
時間配分がどう考えても成立しないのですが、動くときには動かないといけません。
最近はお墓にも行けずにいますので、節子も両親もどう思っているでしょうか。

そういえば、今朝の明け方、節子の夢を見ました。
かなりリアルで、少しさびしい夢でした。
節子が泣いていたからです。
みんなに美味しいものをつくってやりたいのに、つくる元気が出てこない。
節子には、こちらの世界が見えていて、
私たちになにかをしてやりたいと思っているのかもしれません。
まあ、一応、質素ながらも、おいしいものは食べてはいるのですが。

■3218:「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」(2016年6月30日)
節子
とんでもない状況に陥ってしまいました。
いろんなことをやっているうちに、どうもまた、自分のキャパシティを超えてしまったようです。
節子がいた頃から、時々やってしまっていたことですが。
いつものように、「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」と開き直るしかありません。
困ったものです。

しかし、明日になって昇ってくるのは太陽だけではありません。
いま抱えている課題もまた、「成長」してのしかかってくるわけです。
さてさてどうするか。
と書いている間にも、いろんな電話がかかってきたり、メールが届いたりします。
今日もまたハードな1日になりそうです。

でもまあ、「それでも明日になれば太陽が昇ってくる」。
そしていつか、朝日が昇らない世界へと行けるでしょう。
いやはや、現世は疲れます。

■3219:湯島にいると世界の変化が見えないのかもしれません(2016年7月1日)
節子
節子もよく知っている武田さんが「子どもたちを戦場に送らない勇気」という本を書きました。
近々、書店に並びだしますが、これまでの武田さんの本の中で、一番抵抗なく読める本でした。
武田さんの、現政権に対する強い憤りも、激することなく、激しないこともなく、書かれています。

この本の出版を契機に、またリンカーンクラブの活動を再開することになりました。
節子がいたら、どう言うでしょうか。
武田さんと私の議論を横で聞いていた節子は、毎回同じような言い合いをして、よく飽きないものね、と言っていましたが、またその再来です。
しかし、言い合いはかなり減りました。

最近湯島に来る人たちは、節子の頃とは大きく変わりました。
節子を知っている人も少なくなりました。
そろそろ湯島を手放してもいいかなと、最近は思えるようになってきました。
湯島を手放す時は、たぶん私の生き方が大きく変わる時でもあると思いますが、湯島を拠点にした活動する仕組みもいくつか生まれだしました。
私が関わっていたり、提案したりしたものもありますが、よく考えてみると、私というよりも、湯島の空間が生み出しているのかもしれません。

武田さんと私はいずれももうさほど長くは活動できないでしょうから、リンカーンクラブももしやるとしたら、継いでくれる人を探さなければいけません。
活動は人に所属しているという考えのもとに、私の組織観は、とてもゆるいものですので、法人概念にはなじめないのですが、最近、湯島で生まれてきている組織は、法人になりだしています。
私も最後に妥協して、いくつかの法人を生み出して、そこから抜けるのがいいかなと思いだしています。
歳をとると、妥協もまた必要です。

時代がどんどん変わっていく。
私のまわりの世界も、どんどん変わっていく。
湯島にいると、20年の世界にいまでも浸れるので、そういうことを忘れがちですが、時代は10年前とは全く違っているのかもしれません。
今回、いろんなことを手掛け始めて、そんなことを痛感しています。

ちょっとさびしいような気もしますが、どこかで安堵感もないわけではありません。
人はいつまでも、同じ世界には留まれませんから。

■3220:弱い人と強い人(2016年7月2日)
節子
人生は思うようにはいきません。
昨日は朝からちょっとしたアクシデントがあり、予定をすべてキャンセルさせてもらいました。
昨年もそうでしたが、7月はやはりまだ「魔の月」です。
今年は大丈夫だろうと思っていましたが、最初の日から大変でした。
節子がいたらとつくづく思いますが、いないものは仕方がない。
依存しあってきた夫婦の一方がいなくなると、残された者はつらいものです。
それに、そもそも7月がわが家の「魔の月」になったのは、節子から始まったのです。
それからもう9回目の7月です。

もっとも夫婦いずれも健在なのに、依存関係のない夫婦がいいわけでもありません。
せっかく夫婦健在であれば、仲良く時間を共にすればいいと思うのに、留守にするのが伴侶への思いやりなどという話を聞くと、それがたとえ冗談であろうとも、複雑な思いになります。
一緒にいたくても、そうできない寂しさをわかってもらうのは無理でしょうが。

それはともかく、なんとか問題は克服しました。
気は許せませんが、昨年の二の舞にはならないでしょう。
しかし、問題は一つだけではありません。
まあ生きているといろんなことがある。
それは誰も同じでしょうが、完全に心を開いて話せる伴侶がいないのは、私のような弱い人間には辛いものです。
そもそも私の生き方を理解してくれる人は、そうはいないのです。
節子は、たぶん完全に理解してくれていました。
だから、弱い私も何とか強く生きられたのです。

しかし、強い人もいます。
実は今朝、節子も知っているOSさんからフェイスブックでメッセージが届きました。
「了解しました」という書き出しでした。
私から何か送ったわけではないので、何のことかとわかりませんでしたが、その前に私のメッセージが書かれていました。
なんと5年前の7月2日に出したものです。
なんと返事が来るまでちょうど5年もかかったのです。
まさにOSさんらしいですが、了解しましたの後に、その5年間のことが書かれていました。
どうやらずっと博士論文を書いていたようです。
彼は、NPO研究者ですが、日本でのNPO研究の分野で草分けの一人です。
生き方が不器用なので、時流に乗れるタイプではありません。
ですから有名な学者になったわけでもありませんし、NPOの支援者や実践者になったわけでもない。

私も、NPOに関わりだした時に、彼にはいろいろと手伝ってもらいました。
私が愛した若手研究者はそれぞれに活躍していますが、彼はあんまり見えてきませんでした。
気になりながらも、このところご無沙汰だったのです。
しかし、5年ぶりの返信とは、おそれいりましたとしか言いようがない。
この間、彼はずっと博士論文に取り組んでいたのです。
強い生き方をしています。

ところで、了解しましたの中見ですが、何を了解したのかといえば、一度、湯島に遊びに来ないかという私の連絡に、了解しましたと言ってきたのです。
私もたぶんにそういうところがありますが、彼はもう世俗的な時間を超えている。
来週、早速会うことにしました。

さて、彼は5年間、少しは成長しているでしょうか。
相変わらず、自分の世界を強く生きているでしょうか。
楽しみです。

■3221:いいことがありそうな朝(2016年7月3日)
節子
昨夜は奇妙な夢ばかり見ていましたが、目が覚めたら、とてもさわやかな朝です。
その上、今朝はうれしいメールが入っていました。
良いことがありそうな1日です。

今日は、朝から夜まで、湯島でいろんな人と出会います。
時間があれば、畑に行こうと思いましたが、昨夜はあまり眠れなかったので、起きるのがちょっと遅れてしまいました。
畑は明日までお預けです。
ひどい状況になってしまっていますが、仕方がありません。

それにしても今日はなにかとても明るい気分になれる朝です。
悩ましい問題を、山のように抱えているのですが、不思議なほど、明るい気分です。
なぜでしょうか。

昨夜の夢は正確には覚えていませんが、夢が元気を与えてくれたのかもしれません。
思い出せることには、何もいいことは入っていないのですが。

久しぶりにホームページの更新を日曜日の朝に行えました。
最近は翌日になることが多かったのですが。
もっとも更新内容は少し省略してしまったのですが。

今日を契機に、生活のリズムを回復できればと思っています。
お墓にも行けるといいのですが。

■3222:「なんでこうなるの」状況(2016年7月4日)
節子
なかなか「ぬかるみ」のような状況から抜け出せません。
ひとつ問題が解決すると、また別の問題が出てきます。
むかし流行った言葉に、「なんでこうなるの」というのがありましたが、まさにそんな気分です。
畑が気になっていますが、畑にも行けません。
困ったものです。

こうした原因の一つは、ネットのせいです。
ネットを通して、いとも簡単にいろんな相談が飛び込んできます。
先日は5年ぶりのメールのことを書きましたが、今日もまた10年ぶりくらいの方から突然の相談です。
10年ほど前、突然手紙が届き、お会いした方です。
節子とな寺名前の「節子さん」だったので、はっきりと覚えています。
今日は結局、対応はできませんでしたが、私を頼ってくる以上は、放置はできません。
一つひとつはさほどの作業量ではないのですが、しかしたぶん頼んでくる人が思うほどには簡単ではありません。
それにそうしたことが毎日いくつかずつ重なっていくと、それなりに時間がかかります。

依頼は一人からだけではありません。
ほかにもあります。
有料にしたら、私はたぶん今ごろ、蔵が建っていたでしょう。
しかし蔵が建たずに、いまもなお、頼りにされるということは、幸せなことでしょう。
蔵が建ってしまうと、そこで人間は終わりですから。
そんな終わり方はしたくはありません。
いささかの負け惜しみの気がしないでもありませんが。

依頼のメールだけではありません。
感謝のメールも届きます。
それには元気づけられますが、感謝されると人はさらに何かをやりたくなるものです。
ですから感謝のメールも、結局は依頼のメールと大差ありません。
困ったものです。

人のいない世界に行きたいと、時々思います。

■3223:最近の私の生活には「ばら」がない(2016年7月5日)
節子
相変わらずバタバタしています。
早く起きて畑に行こうと思っていたのですが、昨夜、宿題がこなせずに、朝からパソコンの作業をしてしまいました。
節子が一番嫌いな姿ですね。
節子は、パソコンに向かっている私が好きではありませんでしたから。

しかし最近なぜこんなに時間がないのでしょうか。
基本的には暇で暇で仕方がないという気分は変わっていないのですが、時間がない。
節子という「支え」がなくなったために、動いていないとだめなのかもしれません。
だから暇なのに、つまり充実感がないのに、何かをやりだしてしまう。
そんな気もします。

そういえば、節子がいなくなってから、ゆっくりと何かを楽しむということがなくなってしまいました。
旅行にも行きませんし、コンサートにも行きません。
私の人生には、いまや「ばら」はなくなってしまった。
いつも余裕のない、必要なことしかやっていない。
いや正確に言えば、必要さえないことばかりを、余裕なくやっているのかもしれません。
いずれもやらなくても、何の変化もない活動なのかもしれません。

しかし、最近はこういうことさえ考えられないほど、時間破産しています。
いつも宿題が山積みで、そのくせ、ひっ迫感よりも暇の意識が強いという、奇妙な状況です。

さて今日もまた出かける時間になりました。
今日もまたいろんな人が相談に来ます。
節子が時々言っていたように、なぜわたしはそういう相談を受けに出向いていくのか。
不思議な気がしますが、それがあるおかげで、何とか生き続けているのかもしれません。

人はまさに、人に支えられて生きています。
相談をしてくれる人たちに、感謝しなければいけません。

■3224:死を「死」としては語らず、「生」として語りたい(2016年7月6日)
節子
先日、京都でお会いしたTさんから1冊の本をいただきました。
瀬川正仁さんが書いた「自死」(晶文社)という本です。
「現場から見える日本の風景」という副題があるように、自死に追いやられる人がなくならない日本の社会の実相のドキュメンタリーです。
いただいてからもう1か月近く経ちますが、読めずにいました。
そこで書かれていることは、予想されていたからです。
パソコンの横にいつも置いてあるのですが、真っ白な拍子に黒字で「自死」と大きく書かれた表紙を見るたびに、いつも読まなくてはと思う一方、読めずにいました。
しかし、ようやく昨日から読みだし、今朝読み終えました。
読み終えて、なぜかホッとしました。
Tさんからもらった宿題を、ひとつすませた気がしたからです。
このテーマの本は、読むにはそれなりのエネルギーが必要です。
ちょっとした表現や指摘にドキッとさせられたり、自分の身の回りと重なる話が出てくると、不安に覆われたりするからです。

以前、開催したフォワードフォーラムで、話させてもらったことがあるのですが、自死も病死も事故死も、「愛する人との別れ」という点では同じだろうと思います。
自死遺族の人には共感してもらえなかったこともありましたが、それは忘れられもしないし、乗り越えられないものです。
ただただ受け入れるしかない。
受け入れて、「別れた人」との新しい関係を創りだすしかない。
そう考えていますので、私は死を「死」としては語らず、「生」として語りたいという気持ちがあります。
しかし、こういう本を読むと、どうしても「死」がよみがえってくる。
だから、読むのがつらいのです。
しかし、読んでよかったです。
自死に向かってしまう現場の実相がていねいに書かれています。
多くのみなさんにも読んでもらいたいと思いました。

昨日は読み終えなかったのですが、今朝早く目が覚めたので、動き出す前に読むことにしました。
読み終えました。
しばらく、ちょっと心がざわめいていましたが、ようやく落ち着いたので、挽歌を書きました。
まだ頭が整理できていないので、本書の内容までは言及できませんでしたが、心から離れないメッセージもありました。
改めて思うことも少なくありません。

今日は、企業の管理者のみなさんが湯島に来ます。
その人たちにも、何らかのメッセージをしたいと思います。

■3225:親切行為は主客同値(2016年7月7日)
節子
今日は出張の予定だったのですが、いろいろと疲労がたまってしまい、直前になって延期させてもらいました。
生活がかなり混乱してしまっているのも、いささかの過労のためかもしれません。

昨日は3つの約束をうっかり失念してしまいました。
午前中の約束は忘れずにいたのですが、午後なんとダブルブッキングしてしまっていた上に、夜の約束を全く忘れてしまっていたのです。
午後、湯島から次の約束場所に移動しようとしていたら、夜の約束のメンバーの一人が、やってきたので、話していて、夜の約束を忘れていたことに気づいたのです。
そこで日程を再調整してもらい、なんとかダブルブッキングを解消したのですが、ホッとしたのも束の間、帰ろうと湯島のオフィスを出ようとしたら、大川さんがやってきました。
節子も知っている、あの不思議な大川さんです。
今日の約束でしたよね、と言われたのですが、どうも頭が働きません。
彼からのメールが届いていないか、私が見落したかのいずれです。
結局、大川さんとの約束も延ばしてもらい、覚えていたほうのミーティングに参加したのですが、どうも頭が混乱してしまい、どっと疲れが出てきてしまったのです。

それに、最近のミーティングは、私向きでないものが多く、疲れます。
私は、手続き的な問題にはまったく興味が持てないタイプなのですが、何かに合わせるということができずに、私に仕事を頼むのなら、私の好きなようにやらせてくれることをいつも条件にしていたのです。
しかし最近は、一人ではなく友人知人と一緒にやることが増えてきたためか、どうもそういうわけにはいかなくなってきました。
一人だったら、はい、わかりました、それでは辞退させてもらいます、といえば済むのですが、友人知人とやる時にはそういうわけには行きません。
本当に困ったものです。

今日もまた、佐藤さんにはマネージャーが必要ですねと言われたのですが、誰かにマネジメントされるような貧しい存在にはなりたくありません。
もちろん誰かをマネジメントするような存在にもなりたくありません。
こうして、時に時間破産になり、ダブルブッキンギしたり約束を忘れたりして、他者に迷惑をかけながら、これからも生きたいと思っています。
いや、そういう生き方しかできないのです。

しかし最近なぜか、いろんなことで、自分が世間の常識とは全く違ったところで生きてきたのだということを思い知らされることがあります。
その原因は、なんとなくわかっています。
なぜか最近、いろんな人が、私のことを心配してくれて、収入につながるような仕事に巻き込んでくれるのですが、たぶんそれが原因でしょう。
しかし、当の本人である私にとっては、手続きの煩雑さや自分の価値観に合わないルールに従うことが、もったいなくて仕方がないのです。
価値観が違うために、どうもみんなの親切が私には理解できず、逆効果になっているような気がします。
つまり、みんな私のためにいろいろとやってくれているのでしょうが、私にとっては、私がみんなのためにやっている気がしてくるのです。

そういえば、以前、近くの方から、傾聴ボランティアの人が毎週親切に自宅まで来てくれるのだが、来週はその人の期待にどう応えようかと苦労していると言う話を聞いたことがあります。
親切行為は主客同値で、主もなければ客もないのかもしれません。

今日はゆっくりする予定です。
幸いに、たくさんの用事が重なってしまったので、たぶん佐藤さんはあっちの方に参加しているのだろうなと思ってもらえるでしょう。
実は、いずれにも参加せずに、ひっそりと自宅でのんびりしているのですが、一応、今日は忙しいことにしておこうと思います。
そんなわけですので、これを読んだ方も、決して真実をばらさないようにお願いします。
ご自分にも、ですよ。

以前、忙しいと言っていたのに、ブログを読んだら旅行に行っていたではないかと叱られたことがありますが、人の付き合いでは、「見逃すこと」も大事なことなのですから。
今日は、朝から、「忙しい日」をのんびり過ごそうと思います。
それにふさわしい、良い朝です。

■3226:自分のペース(2016年7月8日)
節子
昨日は1日、一応、休息しました。
というか、自分のペースで過ごしました。
私は、人生を昔から「自分のペース」で過ごしてきたつもりですが、最近、どうもそのペースが混乱しているのです。
要するに、しっかりした自分を見失っているということでしょう。
それがたぶん「疲れ」の原因なのです。

1日休んで、元気が回復したと言いたいところですが、必ずしもそうではありません。
なにかもやもやとした暗雲が、心を覆っているのです。
今朝の空模様と同じです。

昨日は畑に行って、草刈りをしてきました。
今年は野草に負けてしまい、畑は草で覆われてしまっているのです。
それでも先日少し手入れしたので、キュウリも頑張りだしました。
ナスときゅうりとミニトマトを収穫しました。
まあ苦労の割にはきわめて少ない収穫でしたが、それは苦労が足りないということでしょう。

「自分のペース」ですが、これを維持するのは、それなりに難しいことです。
片足で立ち続けるのが難しいように、やはり伴侶が大切なのだと感じています。
前に書いたことがありますが、節子がいなくなった時に、ある人から、自由に生きられますね、と心無い言葉をもらったことがあります。
自由とは、拠って立つところがしっかりしていないと得られないものです。
それに伴侶の存在は制約とは限らないのです。

10年ほど前に相談に来たことがある方から突然メールが来ました。
娘さんがいま新聞記者をしていて、「卒婚」して、仲よく別居生活をしている人の取材をしたいのだが、誰か知り合いがいないかという内容でした。
いるような気がしますが、思いつきません。
それで何人かの友人に訊いたのですが、残念ながら実例には出会えません。
「卒婚」という生き方は、私には理解できないのですが、たぶん「自分のペース」に関係しているのでしょう。
伴侶がいることで、自分のペースが維持できる関係と、できない関係があるのでしょう。
どうも私の場合は、前者だったようで、節子がいないいま、どうもうまく「自分のペース」を維持できずにいるのです。
困ったものです。

今日も、自分のペースを意識しながら過ごそうと思います。

■3227:この世は悲しみと喜びがあるから美しい(2016年7月9日)
節子
先日この挽歌でも言及した「自死-現場から見える日本の風景」(晶文社)に、自死した高校生の残した詩が紹介されていました。
その一部を引用させてもらいます。

この世は悲しみと喜びがあるから美しい。
6の悲しみと、4の喜び。
これが、私の中のこの世の比率。
なにもない。0
これが、私の中の死という考え。
6つの悲しみと4つの喜びより、起伏もなにもない0。
臆病な私は、0へ。

この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と言っている若者が、なぜ自死を選んだのか。
言い方を選ばずに言えば、生きている人こそが自死できるのだともいえる気がします。
同書には、自死した人や自死を企図した人の話も出てきていますが、みんなそれこそ、とてもよく生きていることが感じられます。
最近私が会う人たちと比べると、どちらが生き生きしているか。
自死した人の方が生き生きと生きている。
そんな気がしてなりません。
なんという大きな矛盾か!

しかし問題は、私自身のことです。
私も、この世は悲しみと喜びがあるから美しい、と思っている人間の一人です。
いや、そうだと思っていました。
でももしかしたら、私は最近、悲しみや喜びを忘れてしまっているのではないか。
そんな気がしてきました。

著者の瀬川さんは、難民キャンプで、生きているのではなく、ただ生存しているような存在に出会ったことに言及しています。
もしかしたら最近の私は、そうなっているのではないか。
それを隠すために、次々といろんなことに関わっているのではないか。
しかし、気を紛らせたり、装いをつくろったりするだけなのであれば、それは生きているとは言えません。

やはりまだ疲れから抜け出せずにいるようです。
気分がどうも、難民キャンプから抜け出せないでいるようです。
7月から8月は、やはり私には苦手です。
昔は大好きな季節だったのですが。

■3228:3人夫婦(2016年7月10日)
節子
昨日、リンカーンクラブ活動再開のキックオフを兼ねての集まりをやりました。
14人が参加しました。
リンカーンクラブの代表は、節子もよく知っている武田さんです。
武田さんとはよく論争で、しばらく絶縁状態が発生することもたびたびありましたが、会社時代からの長い付き合いです。
2人とも現世滞在の期間もそう長くないので、最近は仲良くやろうということで、またリンカーンクラブを始めたわけです。
2人だとまた破綻しかねなので、第3の人として、節子もよく知っている藤原さんに参加してもらったので、まあ今度はうまくいくでしょう。
組織活動は2人だと不安定ですが、3人だと安定します。

そういう話をしていたら、誰かが男女関係は3人だと三角関係に陥ってしまうと言いました。
たしかにそうかもしれません。
しかし、ハタと気づきました。
もしかしたら、そうではないのではないか。
夫婦を拠点としているから家族は壊れだしたのではないか。
そんな気がしたのです。
一夫多妻という意味ではありませんが、3人夫婦関係をベースにした家族も一案です。
まあこんなことを言うと、節子は反対するかもしれませんが、ともかくすべてを2つで対応しようとすると無理が生じます。
3人夫婦はもしかしたら人類を救うアイデアかもしれません。
しっかりと考えてみる価値がありそうです。

節子
どう考えますか?

■3229:千日会の季節(2016年7月11日)
節子
先日会った私と同世代の人が、こんな時代になるとは長生きしすぎたと嘆いていましたが、私も少しそんな気がします。
嫌な時代になってきました。
あからこそ私にはやることがどんどんと増えてくるのですが。
昨日の選挙結果には、いささか元気が出てきません。
テレビは手のひらを返したように、もう憲法改正の報道を始めています。
今日は一日、不機嫌で、畑に行ったのが唯一の仕事でした。

夕方、パソコンを開いたら、節子の小学校の同級生だったAさんからメールが届いていました。
そういえば、またその季節なのです。
その季節というのは、節子の生まれ故郷の滋賀の赤後寺の千日会です。
Aさんは、赤後寺の観音様の御志納の受付をされているのです。
今年は550人の拝観者があったそうです。

私がAさんご夫妻とお会いしたのは、たぶん節子が病気になってからです。
私の記憶は時間軸が混乱しているので、危ういのですが、節子は発病してから、友だちに会いに行きだしました。
私も基本的に同行しました。
節子がそれを望んだからです。
Aさんとも、節子と一緒に滋賀に行った時に、何回か食事をご一緒しました。
とても仲の良いご夫妻でした。
いろんな友達に会いましたが、それが契機でAさんはいまも時々メールをくれるのです。

Aさんのメールには、今年も敦賀に嫁いだ節子の姉が、赤後寺にお参りに来てくれたと書かれていました。
義姉は、節子よりずっと故郷思いなので、毎年、お参りするのです。

Aさんからメールをもらうといつも思います。
もし節子を東京などに引っ張り出さなかったならば、つまり、私と結婚などしなかったならば、きっといまも滋賀の自然の中で豊かな暮らしをしているだろうなと思うのです。
病気をして、自らの死を意識しだしてから、節子は滋賀の友だちとのつながりを深めだしていました。
滋賀にもよくいきました。

節子は東京の生活を楽しんでいたのだろうか。
時にふとそう思うことがあります。
少なくとも私よりは楽しんでいたと思いますが、その東京も最近は荒れてきました。
見栄えはきれいになってきていますが、たぶん節子は形の向こうを見透かすでしょう。
そして、その東京は、昨日の選挙でさらに劣化していくでしょう。
オリンピックなどは、私には狂気の沙汰です。
節子もきっと私と同じ意見でしょう。

東京の暮らしには季節がありません。
季節をしっかりと生きているAさんや義姉の人生は豊かだなと思います。
節子から教えてもらった豊かさは、いまも大事にしています。

■3230:今日も素直に生きましょう(2016年7月12日)
節子
昨日、時評編に書いた私の「機嫌の悪さ」をフェイスブックで紹介してしまいました。
まあたいした記事ではないので、いささか気恥ずかしく書いたのですが、なんといろいろと反応がありました。
数名の方が共感して下さり、私には面識のない人から「感銘した」とまでいわれました。
記事をシェアしてくださった人も複数います。
どうも世の中がよくわからない。

もちろん反論してくださった方もいます。
それもとても丁寧にです。

もしかしたら、と思うのです。
私の価値観もようやく少しは理解してもらえるようになったのか、と。
しかし、そう思うのは間違いでしょう。

一昨日、20年ぶりでお会いした人から、どうやって暮らしているのかとまた問われました。
素直にありのままを話しましたが、信じてはもらえずに、「相変わらず佐藤さんの話は冗談なのかどうかわからない」と言われました。
つまりその人は、20年前もそう思っていたのかもしれません。
それで湯島に来なくなったのかもしれません。
しかし、当時も今も、冗談など云ったことはないのです。
人は、自分の価値観でしか、他者の話を理解できないことがよくわかります。

私は、いろんな問題に関心を持ちますが、他の問題に関心が移ることも多いです。
つまり「飽きやすい」のです。
そういう話をしたら、ある人が、「それですぐ放り出してしまう」といいました。
とんでもない。私はこれまで一度として、「放り出したことはない」のです。
まあ引き延ばしたり、休んだりしたことは多いのですが。
どうもそれが誤解されてしまっているようです。
人はなかなか理解してもらえない。

いま5つの組織を立ち上げつつありますが、いずれも20年来の課題です。
それくらい私の時間軸は長いのです。
時に来世にまで伸びています。
みんな冗談だと思っているかもしれませんが、私は素直にそう考えているだけです。
それを理解してくれたのは、節子かもしれません。
もっとも節子も付き合いだしてから数年は、私の話が冗談なのかどうかわからなかったと後で話してくれました。
節子のような生真面目の人にはそう思えたのでしょう。
節子は私と長年一緒に暮らしたために、生真面目さはかなりなくなり、いい加減さがふえましたが、まあそれは「素直になれた」ということです。
生真面目さは後天的なもので、人はそもそも「いい加減」なものなのだろうと思います。
生命は、いい加減でないと生きていけないからです。

さて、「とかく住みにくい」この世を、今日もまた生きようと思います。
つかれますが、素直に。

■3231:過去よりも未来のなかで時間を過ごしたい(2016年7月13日)
節子
昨日は久しぶりに大川さんが来ました。
この数年、博士論文に取り組んでいると言うので、その構想について少し話し合いました。
コムケア活動を始めた時に、彼が協力したいとやって来て、その活動を踏まえて本を書きました。
たしか「まえがき」を私が書いたのですが、その本を最近読んだ沖縄の人から講演依頼があり、それが縁になり、昨年、沖縄に何回か行ってきたそうです。
テーマはなんと、「花でまちをいっぱいにしよう」という活動の支援だったそうです。
まさか大川さんが、花でのまちづくりに関わるとは、節子も予想できないでしょう。
私も全く予想できませんでした。
私が関わった青森県の三沢市の例や節子が関わっていた我孫子の例を話しました。

花はともかく、大川さんはたぶん節子が知っていた頃と何一つ変わっていない気がします。
彼もまた、長い時間軸の中で生きている人です。
なにしろ今回、湯島に来たのは、数年前に出したメールへの対応がきっかけでした。
不思議なキャラクターですが、どこか気になる存在です。
感情に起伏がないというよりも、すべてを素直に受け入れるのです。
いまは論文作成のため大学院に在籍しているそうですが、大学には行っていないようです。
ただ黙々と博士論文に取り組んでいるわけです。
余計なお世話ですが、少しだけ軌道修正の働きかけをしました。
このままだと親が心配するでしょう。

コムケア活動に取り組んだおかげで、若い世代と一緒にいろんなことができました。
その若い世代も、いまはもう若くはありません。
みんなどんどん変わっていく。
まあ大川さんは変わりませんが、他の人はみんな変わっていき、コムケアを支えるメンバーは一人を除いてはすべて変わりました。
その一人も、最近は子どものPTA活動で忙しそうです。
私は人の年齢を識別できないタイプですが、それでも生活パターンの変化はわかります。
時間はどんどん過ぎているのです。
ということは、私自身、外部から見れば大きく変わっているのでしょう。
しかし、その自覚がほとんどない。
もちろん自分が高齢者であるということは認識していますが、どうも心身はそれを自覚していないのです。
困ったものですが、大川さんと同じで、これはなおらないでしょう。

大川さんと節子はさほど接点はなかったでしょうが、大川さんと話していると、何やら昔を思い出します。
人には、過去も大切なのかもしれません。
しかし、私は最後まで、過去よりも未来のなかで時間を過ごしたいと思います。

■3232:たかつきメロン(2016年7月14日)
節子
今年も節子の生家の高月から、メロンが届きました。
わが家の畑のメロンは、前途多難な状況ですが、いつものように立派なメロンです。
節子は、高月のメロンが好きでしたが、最後の夏は、そのメロンも一口しか食べられませんでした。
メロンを見るたびに思い出します。
でも、いまはもうたくさん食べられるでしょう。
節子にお供えしました。

私は食にはほとんど関心がありません。
たしかにメロンは美味しいですし、おいしいものを食べることはうれしいことです。
でもどこかで「罪の意識」があるのです。
高価でおいしいメロンひとつよりも、安いメロンをたくさんの人たちと分かち合って食べるほうが私の性に合います。
そのほうがずっとおいしい。
メロンを食べたくても食べられない人に食べてもらう方が、自分が食べるよりもずっと幸せな気がします。
そういう気持ちがどこかにあるので、高価なものを食べる時に、罪の意識を感ずるのです。
いつの頃から、こうなってしまったのか。
会社を辞めてからのような気もしますが、生まれながらのような気もします。
前世の暮らしのせいかもしれません。

メロンの食べごろは収穫時から10日ほどたってからといわれます。
それまで節子に供えられたままでしょう。
今日は、畑から収穫してきた、かたちの悪いきゅうりを生で食べました。
鮮度のいい野菜は、何でもおいしいです。
メロンはなぜ収穫してから10日もたたないと美味しくならないのでしょうか。
たぶん枝から切り離されてもまだ生きているのでしょう。
考えてみると不思議です。

■3233:昔を思い出させてくれる友人(2016年7月15日)
節子
荻阪さんが本を書いたと言って、持ってきてくれました。
新しい組織開発論をベースに、物語り仕立てて書いた新著です。
そこに込めて思いを、熱く語ってくれました。
その話の中に、なんと節子のことが出てきました。

荻阪さんと出会ったのは、もう20年ほど前でしょうか。
彼は、プロセスコンサルティングの仕事に取り組んでいました。
その時に、何度か湯島に来たのです。
そして私と議論をした時に、横に節子がいたのを覚えていてくれています。
私のドラッカー批判(顧客の創造が経営の目的ではない!)やCI会議体を立ち上げた時の、私の思いを、私以上に覚えてくれているのです。
そして、そういう議論をしていた時に、横で節子が聞いていたというのです。
その時の節子の反応まで話してくれました。

荻阪さんに限りませんが、久しぶりにやってきた人が、私が昔何気なく語ったことを覚えていてくれています。
その時の表情や話し方、さらには状況まで話してくれる人もいます。
その言葉を覚えていてくださるということは、もしかしたらその人の生き方にささやかながらも役立ったのかもしれません。
うれしいことです。
そしてそんな時に、情景の中に節子が出てくることは、さらにうれしいことです。
これも「湯島」という空間のおかげだろうと思います。

荻阪さんは、自らをチェンジ・アーティストと称していますが、いまの日本企業を変えたいと考えています。
そういう長年の活動を、今回、「社員参謀」という本にまとめたのです。
そこに込めた荻阪さんの思いを聞きながら、会社時代に私が取り組んでいた仕事、さらにはそこで挫折して会社を辞めて始めた活動のことを思い出しました。
たぶんあの頃は、私もいまの荻阪さんのように、熱く語っていたのでしょう。

帰り際に玄関で、荻阪さんがまた言いました。
やはり奥さんのことを思い出しますね、と。
湯島は確かに不思議な空間です。

■3234:さらにまた5つ組織をつくろう!(2016年7月15日)
節子
相変わらず疲労感が残り、やっとこさ生きていますが、何やらまた周りが動き出しています。
今日は、発達障がいの若者が2人、湯島に来ました。
発達障害は、「発達凸凹」という表現もあるのだそうですが、私もその方がぴったり刷るのですが、まあとりあえず発達障害と書いておきます。
名前は長澤さんと神崎さん。
長澤さんは湯島サロンに時々参加します。
神崎さんは、先日Necco Cafe出会いました。
2人は、「はったつ組合」を創りたいと相談に来たのです。
発達障害者たちの働く場を広げていきたいというのです。

私のところに相談に来るのは、かなりの勇気が必要だったでしょう。
来る前に近くのカフェで、2時間以上、ふたりで作戦を話し合ったようです。
2人ともいささか緊張気味にやってきました。
湯島に緊張は不似合いなのですが。
それに私には、作戦はたぶん全く通用しないでしょう。

2時間話し合って、2人が考えていることがほぼわかりました。
中途半端にはコミットできませんが、しっかりしたプロジェクトマネージャーがいれば、大きなプロジェクトにもつながる可能性はある構想です。
彼らは、そういう人を探しているのです。
しかし、考えていても仕方がない、夢は実現しなければいけない、ともかく動き出そうと話しました。
そう言った以上、私にも責任は生まれます。
もうこれ以上、組織の立ち上げには巻き込まれたくないのですが、口に出した以上は引くに引けません。
困ったものです。

私は、もうあまり現世にはいないので、仲間にはなれない。
最低でももう一人、仲間を見つけるようにと伝え、名前はとりあえず「はったつ凸凹ギルド設立準備会」にしました。
そしてできるだけ早く、「リナックスを体験しませんか」講座をやろうということになりました。
失敗してもいいから、ともかく自分で仕事を創りだすことを体験するのが一番の早道です。

ところが帰宅してパソコンを開いたら、この件で相談に乗ってもらおうと思っていた知人から、偶然にメールが届いていました。
お天道様は、やはりしっかりと見ています。

さてもうひとつ動きがあります。
明日から寄居で合宿なのですが、これに関してどうもまた何かに引き込まれそうな気がするのです。
寄居にいる魔法使いの友人の夢を知ってしまったのです。
夢は実現しなければいけない。
それで荷担することにしました。
「みんなの家」プロジェクトです。
これは資金が当面1000万円ほど必要です。
節子が残していたお金があれば、私だけで対応できましたが、いまはすべてなくなっていますので、1口50万円で20人賛同者を集めなければなりません。
さて難題ですが、難題ほど面白い。

夜、まったく別の人からもう一つ相談がやってきました。
いや、考えようによっては2つでしょうか。
こうなったらもうすべて受け入れることにしました。
たぶん完全に時間破産するでしょう。

しかしそれもまたよし。
現世にいる間に、やっておけということなのでしょう。
人は限度を超えると、強くなるものです。
やけくそという感じがしないでもありませんが。
でもどうしてみんな、こんなにやるべき課題があるのにやらないのでしょうか。
不思議でなりません。

■3235:寄居でジャンボリーです(2016年7月16日)
節子
今日は最初は埼玉県の寄居でストーリーテリング・ジャンボリーというのがあります。
20人近い人が参加するそうですが、どんなジャンボリーなのかあまり理解できていません。
家を出る直前に案内が届いているのに気づき、慌てて読みました。
スリッパ持参で、長袖がいいと書いてありました。
あわててスリッパを探したら、運良く昔ホテルからもらってきたスリッパがありました。
長袖は荷物になるのでやめました。
服装も汚れてもいいようなもの、靴もそれに合わせて、と書かれていましたが、いまさら替えられないので、いつもの服装にしました。
最近、衣服を買っていないので,選択肢が少ないのです。
でもまあどうにかなるでしょう。

ちなみに,プログラムをみたら、最初にストーリーテリング的な自己紹介セッションがあるようです。
実は私はこれが非常に苦手なのです。
困ったものです。

でも出かけなければいけない時間になったので、でることにしました。
いま電車の中ですが,どんな一日になるでしょうか。
いささか不安ですね。
でもまたきっと嬉しい出会いがあるでしょう。

ちなみに,主催はストーリーテリング協会。
実は私は,その協会の代表で,このジャンボリーをやろうと言い出した一人なのです。
困ったものです。

■3236:不思議な合宿(2016年7月18日)
節子
一昨日から昨日にかけて、埼玉県の寄居で不思議な合宿をしていました。
昔ある組織の研修施設だったところですが、しばらく使っていなかったところに、友人が住みだして、そこでストーリーテリング・ジャンボリーという、不思議な集まりをやったのです。
主催はストーリーテリング協会です。
その協会の代表は私なので、実は私は主催者の一人なのですが、実際に何から何までプロデュースし運営したのは、協会仲間の吉本さんと内藤さんです。
節子は知らない人たちですが、実に不思議な人たちです。

しかも集まった人たちが、さらに不思議な人たちです。
内藤さんは、実はヒーラーなのです。
それも実に不思議なヒーラーです。
彼女が声をかけて集まった人が半分でした。
ともかくいろんな人が集まりました。
で、2日間、不思議なワークショップをやったり、講談を聴いたり、話し合ったり、まあいろいろでした。
建物は50人ほど宿泊できる大きな施設ですが、何しろ長年使っていないのと広すぎるため、掃除はしようがありません。
まあ不思議な合宿を体験しました。

6月には老舗の奈良ホテルで合宿でしたが、私にはどうも奈良ホテルよりも、今回のような施設のほうが向いているようです。
食事は、吉本さんと内藤さんの手づくりで、20人分をそれぞれ一人で調理してくれました。
本来は私もスタッフなので手伝わなければいけないのですが、結局、まったくの役立たずで終わりました。

でもまあみんなとても喜んでくれました。
近くの人もいましたが、横浜からわざわざ来てくださった方もいました。

私は、最近いろいろとあまり気分のよくない話が集まって来ていて、いささか心身共に疲れているのですが、そうした俗事から解放された2日間を過ごしました。
ジャンボリーのプログラムは、私には不得手なものが多かったので、別の意味で疲れたのですが、なにか心の安らぎは回復しました。
あったかいものも、たくさんもらいました。

こういう場に来るといつも感ずることがあります。
なんでこんなにいい人ばかりなのに、生きづらい社会になってしまったんだろうか。
今回の2日間でもらった課題は、そのことです。
「生きづらい社会をつくるのはいい人たち」という仮説を立ててみましたが、もしそれが正しければ、こんなに悲しいことはありません。

寄居で初めてお会いした方たちからメールが届きました。
私の世界には、あまりいなかった人たちかもしれません。
また世界が少し広がりました。
私よりも、節子が喜んだかもしれません。

■3237:「がんは死ぬ病気ではない」(2016年7月18日)
節子
都知事選が始まりました。
ご自分のがんを克服した鳥越さんが、野党の統一候補として立候補しました。
その演説を聞いていたら、ご自分のがん克服の話を踏まえて、「がんは死ぬ病気ではない」と話していました。
この言葉にとても腹が立ちました。
がんで死んでいった人たちは、ではどうすればいいのか。

たぶん私の過剰反応でしょう。
がんで亡くなる人を減らすために尽力するというのが、鳥越さんの真意でしょう。
しかし、やはり受け手の気持にも思いをいたしてほしいと思いました。
この人は強い人なのです。
がんに対する勝者の言葉です。
負けた者たちには、とても受け入れられない言葉なのです。

こういう体験は、これまでもよくしてきました。
私の場合は、伴侶をがんで亡くした体験が傷みとして心身に刻まれています。
ですから、それに関した言動には、異常と思えるほど反応してしまいます。
その一方で、それ以外の「痛み」に対しては、私はたぶん誰かを傷つける言動をしているのでしょう。
他者の痛みなど、わかるはずはないからです。
ましてや「寄り添うこと」などできるはずもない。
気をつけなければいけません。

鳥越さんは、もしかしたら、この「がん発言」で落選するかもしれないと思います。
いや、落選してほしいと思いました。
人の痛みに無神経な人には、リーダーにはなってほしくはないからです。

でももしそうであれば、3人の有力候補のなかには、リーダーになってほしい人はいないことに気づきました。
困ったものです。
節子なら、誰を入れるでしょうか。

■3238:幸せにすること・幸せになること(2016年7月19日)
節子
今日は明け方、とても夢を見ました。
内容は思い出せませんが、最後のシーンは覚えています。
ある人を幸せにしたという夢です。
それも1人ではなく、別々の2人です。
しかもなんとなく感じたのは、その2人は別々ではなく、仏教でいう「不二」の存在、もっと言えば、「一即多」あるいは「ホロニック」な存在を感ずるものでした。
そこに、私自身もれ場、節子もいる。
目が覚めて気づきました。
宮沢賢治は幸せだったことを。
少し説明が必要かもしれませんが、これまでこの挽歌を読んでくださった方ならわかってもらえると思います。

そして私自身の幸せにも気づきました。
さらに、私のこれまでの生き方が、すべて理解できたような気がしました。
幸せにすることが幸せになること。
そして世界はすべてつながっていること。
菩提樹の下で悟りを得たブッダのような気分です。
久しぶりにさわやかに目が覚めました。

いろいろな「難事」や「課題」が持ち込まれ、降ってくるのは、すべて意味がある。
正面から受け止めないといけません。
不幸を嘆いては行けません。
自らが不幸なのは、誰かを幸せにしていないからなのです。

気持のいい朝です。
改めて生きる意味がわかった気がします。

■3239:節子のおかげで何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします(2016年7月20日)
節子
昨日は引きこもり家族連合会の方たちと半日、ビシッと話し合いをしました。
この分野にもまた、現代社会の実相が象徴されています。
社会の現場に触れるほどに、疲弊感が強まる時代になってしまっているのが残念です。

時代はよくなっているのか、と問われると、いまの私は「なっている」とはとても答える気にはなれません。
昨日、芥川賞が発表されました。
「コンビニ人間」というタイトルの作品で、組織の部品になることで居場所を実感できるという主人公の話のようです。
実に皮肉のきいた作品のようですが、こういう話がいかにも納得できてしまう社会になってしまってきたようです。
つまり、主体性のある人こそが、社会に不適合を起こす時代といってもいいでしょう。
私も、主体性を大事に生きてきたつもりですが、社会に自分を合わせるのはいまなお不得手です。
節子がいればこそ、何とか自分の小さな世界を維持できたような気がします。
一人だったら、とても今のような生き方を貫くことはできなかったでしょう。

それにしても、相変わらずいろんな人が相談に来ます。
たぶんいまの社会が、そうさせているのでしょう。
どこかおかしくて、もがいている人が増えてきているのかもしれません。
そういう人たちが集まって、新しいコミュニティを創りだせばいいのでしょうが、もしかしたらもうコミュニティを生み出す拠りどころさえ、私たちは失っているのかもしれません。
昨日は、山岸会の話も出ました。
いまもなお各地で展開されているそうですが、当初の主旨とは違い、いまや集金マシンになっているという話もありました。
真偽のほどはわかりませんが、私たちはどうも金銭の餌食にされてしまったのかもしれません。
そういう生き方から私が抜け出せたのは、節子のおかげです。
たぶん私一人では、貫けませんでした。
いまになって、つくづく節子への感謝の念が湧いてきます。

■3240:軽い不眠症?(2016年7月21日)
節子
いまさら気づくのも遅いのですが、もしかしたら私は軽い不眠症かもしれません。
節子がいなくなってから、朝まで熟睡した記憶がありません。
夜中に必ず目が覚めるのです。
速い時は就寝後1時間後、遅ければ4時間後です。
また眠れることも多いのですが、眠れないこともあります。
まったく眠れない時には、枕元に置いてある本を読みますが、多くの場合はテレビのスイッチを入れてしまいます。
だからと言って観るわけではありません。
音が聞こえるだけで安堵します。
そのまま寝てしまうこともあります。
テレビをつけるのはやめようと思うのですが、その意志が貫かれることは少ないのです。
ちなみに、寝室のテレビは基本的に観ることはないのですが、なぜか節子がいなくなった後、購入してしまいました。

不眠症といえるかどうかはわかりませんが、朝、どうもすっきりと目覚めないのです。
最近、午前中、頭がうまく作動していないことに気づくことがあります。
どちらかといえば、私は朝型なのですが、10時頃から無性に眠くなるのです。
この数日、電車で眠ってしまい、湯島で降りずに乗り過ごしが起こっています。
以前はこんなことはありませんでした。

もっともこれは「老化」のせいかもしれません。
たしかにこの頃、疲労回復に時間がかかります。
特に健康維持や体力保持に心がけてはいません。
むしろ人は自然に衰えていくのがいいとさえ思っています。

今朝も早く目覚めましたが、気が乗らずに、午前中、ダラダラ過ごしてしまいました。
これではいけないなと思って、メールを開きました。
昨夜、短視眼的なNPO関係者に少し怒りを込めて投稿したサロンの案内に、しばらくお会いしていないアーティストの方からメールが届いていました。

仕事のため、サロンには行けませんが、
自分なりに友人たちとつながって平和をねがい、できることやろうと思います。

こういうメールが時々来るので、活動が持続できています。
節子はなにも言ってくれなくなりましたが、こういう人たちに支えられているわけです。
フェイスブックにも、同じようなメッセージが別の人から届いていました。
不眠症などと言い訳をしていてはいけません。
やるべきことをやっていないのが原因かもしれません。
そう思って、やるべきことを思い出したら、今度は胃が痛くなってきました。

節子
生きるということは、実に苦労が多いです。
そろそろ私も休みたいです。
あなたは休んでいますか?

■3241:カッパ顔の孫(2016年7月21日)
節子
今日は孫が来ていました。
節子が会うことがなかった孫です。
一時は諦めていましたが、今年、娘が出産したのです。
もうひ孫がいてもおかしくない歳ですが、私には初孫です。
節子がいたらどんなに喜んだかと思うと、孫の顔を見るたびにむしろ心が痛みます。

私の友人たちは、ともかく孫はかわいいと言いますが、まだそこまではいきません。
しかし、会うたびに、表情が豊かになってきて、かわいさが少しずつですがわかるようになってきました。
最近は視線が合うこともあります。

娘が、私が孫を抱いている写真を額に入れて持ってきてくれましたが、それよりも孫だけの写真の方が私は気にいっています。
その中に1枚、見ているだけで幸せになるような写真があります。
娘に言わせると「カッパ顔」の写真です。
「かわいい」というよりも「おかしさ」が勝っている写真です。
掲載しようかどうか迷いましたが、やめました。
そもそも孫の写真をアップする権利は私にはないでしょうから。
ネットでは一度アップするともう消えませんし。

しかし、その写真は実に楽しい写真です。
娘たち夫婦は気にいっているようです。
たしかに、その写真を見ていると、何か心やすまるのです。

しかし、このカッパ顔の孫は、ちゃんと女の子になるのでしょうか。
いまのところは、その兆しはありません。
でもまあ、会うたびに人間らしくなってきます。
孫のかわいさが、わかってくるのでしょう。

今日はちょっと脱力気味の1日で、もしかしたら風邪かもしれないと思っていたのですが、何とか無事乗り切れました。
明日は良い日になるでしょう。
お天道様も、そんなに性格は悪くないでしょうから。

■3242:「おさむちゃん」と「おさむくん」(2016年7月22日)
節子
節子は、私の同級生時代の同級生を何人か知っています。
節子も知っている、2人の同級生と、偶然にも最近やりとりがありました。

一人は、埼玉県の小川町で有機農業に取り組んでいる友人です。
アナウンサーだったのですが、なぜか突然、有機農業に取り組んでいた人に嫁いだのです。
彼女が農業をやるとは思ってもいませんでした。
たまたま先週、小川町近くの寄居に行っていたので、電話をしましたが、電話がつながりませんでした。
寄居から帰ってきた翌日、彼女から電話が帰ってきました。
「おさむちゃん、気が付かなくてごめん」と言ってきました。
彼女は、私のことを「おさむちゃん」と呼ぶのです。
私が電話をかけた時には、寄居の近くにいたそうです。

その翌日、また小学生の同級生からメールが来ました。
滅多にしかメールをくれない友人です。
彼女は、私を「おさむくん」と呼びます。
「おさむちゃん」と「おさむくん」。
どこで違いができたのでしょうか。
しかし、この歳にして、「おさむちゃん」とか「おさむくん」と呼ばれるのも、奇妙な気分です。
ちなみに男の同級生は、「おさむ」と呼び捨てです。
「佐藤」という姓は多くて、同級生の中に4人もいたので、名前で呼ばれることになったのです。

さてメールをくれた同級生ですが、猫のテンチャンと一緒に暮らしていましたが、そのテンチャンが夜中に鳴き出すようになったのだそうです。
それで近くから苦情が出てきて、今月はじめに転居しました。
にもかかわらず、転居して2週間して、愛猫はなくなってしまいました。
19歳の大往生です。
彼女によれば、「私の人生最後の、神様からの贈り物のニャンコ」だったそうです。

新しい家からの風景は広々として欅などの巨木が立ち並んでいるのが見えて、東京都とはとても思えないそうです。
彼女は、「テンチャンがここを選らんでくれたのだと感じていますが、私には贅沢なほどで、すっかり気に入っています」と書いています。

彼らと出会ってから60年。
考えてみれば、長い長い時間でしたが、何も変わっていないのが不思議です。

■3243:過去の喪失(2016年7月23日)
節子
昨夜、思ってもいなかったことが起こりました。
パソコンの電子メールの受発信記録がすべて消えてしまったのです。
不要なものはかなりこまめに削除していたのですが、この数年の何千というメール記録がなくなってしまったわけです。
いろいろと試みましたが、回復できませんでした。

一瞬にして記録が消える。
考えようによっては、実にすばらしい経験です。
自らの生き方を問い直す機会を与えられた気もします。
いろいろと考えさせられました。
実にもろい仕組みに支えられて、自分が生きていることにも気づかされました。

過去の記録(記憶)が消える。
節子が逝ってしまった後、そういう感覚に襲われたことがあります。
いろんな思い出が消えていくという感覚です。
そして、いま生きている足元が消えていく感覚です。
それに負けて後追いする人がいるのかもしれません。
過去のない現在や未来は、ありえないからです。

メールの場合、消えたのは「過去」ではなくて、「過去の記録」です。
実体が消えたわけではありません。
過去のメールでのやり取りという事実は、消えるはずもありません。
だからこそ、悩ましいのですが、消えたものにはさほどの価値はないとも言えます。
そこを勘違いしてはいけません。

喪失体験の場合、消えたのは今ここにあるはずの「実体」です。
過去の記憶などではないのですが、あるはずの実体がないことで、実体の記憶にすがりたくなる。
しかし、その実体は、ふたたび現出することはありません。
となると、むしろ記憶を消したくなる。
記憶が、喪失の哀しさを強めるからです。
そして、時に人は再婚する。

私には、後追いも再婚もあり得ない選択でしたが、それなりに足元を失い、記憶を消したいと思ったことがないわけではありません。

データ消失を体験して、いまはどこかにさっぱりした気持ちさえあります。
たぶんこれからいろいろと不都合を体験することになるでしょうが。
それと、決して消えない記憶や記録があるのだという気も、改めてしています。

今日も良い一日になるでしょう。

■3244:節子、自慢話を聞いてくれますか(2016年7月23日)
節子
人は時に、自慢をしたくなることがあるものです。
しかし、自慢をすることは難しいことですし、誰にでも自慢できるわけでもありません。
でも、時に自慢をしたくなる。
節子がいなくなってから、私ができなくなったことの一つは、「自慢」かもしれません。

誰かにほめられることがあります。
たとえそれが過大評価であっても、うれしいものです。
そして元気が出てきます。
めげている時の一番の薬は「ほめられること」かもしれません。
私でも時にほめられることがあります。
そんな時、少し誇らしくなることもあります。
そして、誰かに知ってもらって、その嬉しさを分かち合いたいと思うこともあります。
でも誰に言えばいいでしょうか。
それを「自分のこと」として、聞いてくれるのは、伴侶だけではないかと思います。
節子がいなくなってから、自慢する相手がいなくなってしまいました。
それがちょっとさびしいです。

自慢といってもたいした話ではないのですが、例えば、一昨日、こんなメールが届きました。
気分が少し萎えていることもあって、このメールには元気が出ました。
節子はいないのですが、挽歌で節子に聴いてもらうことにしました。

佐藤さんのお力、つながりはすごいと思います。
みんなをつなげて、一人ではできないことができていく力になっていると思います。
生きる元気にもつながります。
佐藤さんを尊敬し、いいなあと思う人は大勢いると思います。

佐藤さんの記事を見てはいつも考えます。
自分のしていることを。
むなしいとも思います。
でも、いいのだとも思います。

人間の持つ精神力のすごさは計り知れないとも思いますが、反面弱いことも弱いですね。
自分で自分を励まし、支え、歩く、活動をしながら、
さみしいと深く思い、だから楽しいことをやろうとも思う。

本当に優しいということは、本当に強いのだと言います。
佐藤さんは優しいです。

息長く、無理しないでご活躍、お願いします。
健康に気を付けてください。
応援しています!

節子
どうですか。
みんなにほめられて生きているのです。
そちらに行くのは、もう少し後になるかもしれませんね。

久しぶりに自慢してしまいました。
やはりいささか恥ずかしいものです。

■3245:「生きること」を考えるサロン(2016年7月24日)
節子
今朝のNHKの「こころの時代」は、ホスピス研究会OKAZAKI代表の金田亜可根さんが「“普通”の今を生きる」と題して語ってくれていました。
目が覚めるのが遅かったので、途中からしか見られませんでしたが、心に響く言葉が山のようにありました。
そして、私自身が問い質されているような気がしました。
果たして私は誠実に節子に向き合っていたのだろうか。
その後の生き方は誠実だったのだろうか。
この問いは、節子を見送った後、繰り返し自問したことですが、いつも答は出てきません。

「当たり前の日常から、いのちを考える必要がある」と金田さんは言います。
その言葉にドキッとしました。
もしかしたら、私は「いのち」について、考えることを放棄しているのではないか。
「いのち」と向き合うことを逃げているのではないか。
さらに言えば、「生きるための感情」さえ、ふたを閉めているのではないか。

金田さんは、生後間もない長男を突然失った孤独やなすすべのないままに病院で亡くなった友人のことを語りました。
それはいまでも金田さんの生きる姿勢につながっている。
私には、その真摯さが欠けているような気がしました。

なにか朝から思い荷物を背負わされた気がします。
そして、ふと思いました。
「生きること」を考えるサロンを湯島でやってみたらどうか、と。
金田さんは、大学で30回の連続講義を行っています。
私も湯島で、そんなことをやりたい気がしました。
できるだけ人が集まらない仕組みをつくって。

■3246:反省すべきは常に自分(2016年7月26日)
節子
生きていると、楽しいことにも付き合えますが、嫌なことにも付き合わなければいけないことがあります。
嫌なことが増えてくると、生きることに押しつぶされそうになります。
こうしたことを、一度でも体験していないと、他者を思いやることは難しいかもしれません。
注意しないといけないのは、「思いやること」が相手を「追いやること」につながっていくことも、あることです。
「思いやった」つもりが、思わぬ「反撃」を引き起こすことがある。
自分の生き方の甘さの咎を、いま受けています。
この2週間、気分がすぐれないのは、そのせいです。
だからといって、生き方を変えるつもりはないのですが。

よく、佐藤さんのまわりに集まる人たちは、特殊だからといわれます。
実際にはそんなことはなく、私ほどさまざまな人たちに接している人はいないのではないかと思っていたこともあります。
しかし、それは私の思い上がりであることを最近痛感しています。
私が接している世界は、ほんの小さな世界でしかないのです。
世界は実に広い。
そして、人は実に多様です。
もしかしたら、世の中には「悪い人」がいるのかもしれない。
そんな疑心が浮かんできそうです。

他者の気持ちなど、わかりようもない。
自分はいささか世間から脱落している。
そんな気に、最近落ち込んでいました。
昨日も、ある集まりで、そう感じました。
しかし、話しているうちに、まさにそう思うのは自分の心がゆがんでいるからだと気づきました。
そして、その心のゆがみに気づけば、人はわかり合える。
人がわかりあえないのは、それぞれが自らを防衛しているからではないか。
私が、これまで自分の生き方ができてきたのは、無防備だったからではないか。
それなのに、最近少し防衛的になってきているのではないか。

反省すべきは、常に自分です。
迷いを解きほぐしてくれる人がいないのは、本当につらいです。
伴侶やパートナーも持たずに、一人で頑張っている人たちを尊敬します。

■3247:人は記憶の産物(2016年7月26日)
節子
気が萎えた時に、元気をもらえるテレビ番組があります。
前にも書きましたが、「小さな村の物語 イタリア」です。
この番組を見ると、心がやすまります。
ただし、自分の生き方を反省させられることも多いのですが。

先週放映されたものを見ました。
人と人の距離が近い、村の物語でした。
そこではみんなとても豊かに暮らしています。
今回の主役の一人は、村の高齢者の昔話を聞くのが好きな若者でした。
もうひとりの主役は、その地域の言葉を残そうと辞書をつくってしまった高齢者です。
その人が、「人は記憶の産物」だと語りました。
記憶を大切にしなければいけません。
私はこれまで過去にはほとんど関心がありませんでした。
節子は「思い出づくり」を大切にしていましたが、私は「思い出」は好きではなかったのです。
それを少し反省しました。

節子はいま、私の記憶の中で一番生き生きと生きているでしょう。
にもかかわらず、私はその思い出を思い出すことに積極的ではありません。
私にとっては、思い出の中にいる節子ではなく、いまを生きる節子だからです。
しかし、いまを生きる節子などいるはずもない。
そこに私の混乱があるのかもしれません。

人が記憶の産物であれば、私の記憶から節子がいなくなった時、節子も私もいなくなるのかもしれません。
私にとって私がいなくなることはありませんから、節子はやはり、ずっと生きている。

また何やらわけのわからないことを書いてしまいましたが、Oさん、気は確かなので、ご心配は不要です。
今朝はご心配をかけてすみませんでした。
あの電話で、またいろいろと考えてしまったのですが、もう元気です。

今朝の挽歌を読んで、Oさんは遠くから電話してきてくれたのです。
人に心配をかけるとは、困ったものです。はい。

■3248:墓地に親しみを感じました(2016年7月27日)
節子
久しぶりにお墓に行きました。
最近、嫌なことが多いので、まあ厄払いもかねてですが、お墓に行ったら厄払いができるのかどうかわかりません。
それでも一応、節子と両親に墓前で般若心経をあげてきました。

お墓で気づいたことがあります。
久しぶりのせいか、奇妙に親しみを感じたのです。
昔は、お墓が好きではありませんでした。
というよりも、怖かったのです。
お恥ずかしい話ですが、大人になっても怖さは残っていました。
夜、一人でお墓には行けなかったのです。
でも、たぶん今ならば行けそうです。
ただしどこのお墓でも、というわけではないかもしれません。
今日なんとなく感じたのは、節子や両親がいる宝蔵院の墓地であれば、夜、一人でも来られるなと思ったのです。
それくらい、不思議な親近感を持ちました。
そこに節子がいるからなのでしょうか。

節子が彼岸に行ってから、死とかお墓とかいうものへの感じ方が変わりました。
それを感じたのは、節子の葬儀の通夜の時でした。
以来、現世と彼岸の区別が、私の中では曖昧になってしまっています。
時々、私はまだ現世にいるのだろうかと思うことがあるほどです。

今日は、もう一つ厄払いしてきました。
お墓から帰っても、まだ明るかったので、畑に行きました。
畑で生い茂る野草と闘ってきたのです。
植物の成長速度は、信じられないほどに早いです。
ひとつの花の苗畑は、野草で覆い尽くされてしまっていました。
それでも百日草の種を蒔いておいたところは、苗が出ていて、野草に勝っていました。
野菜も何とか頑張っています。
メロンが実をつけ、トウモロコシも実がなってきました。

野草と話しながら闘っていると、生きることの罪深さを感じられます。
少しは厄払いができたでしょうか。

明日もまた早いです。
本が読めないので、またたまってきてしまいました。
たまっているのは本だけではありません。
気が萎えていると、物事の進み方が遅いです。
困ったものですが。

■3249:朝の日課(2016年7月28日)
節子
広島の折口さんがメールしてきてくれました。
折口さんの朝の始まりは、こんな感じだそうです。

朝起きて、まず愛犬の表情を見てから山道のお散歩コース!
続いて甕に住んでいるメダカ集団に谷川の水を足してから餌やり、
その後金魚の水槽の状態を把握して餌やり、
これが毎日朝夕の日課となっています。
どの生物も私に癒しの時間を与えてくれます。

豊かな毎日を送られている折口さんの姿が目に浮かびます。
といっても、実は私は折口さんにお会いしたことがありません。
もう10年以上のお付き合いになりますが、電話かメールか手紙だけの接点です。
実に不思議なご縁です。

そのメールを読んで、私も今朝は、少しだけ見習いました。
メダカと金魚に声かけと餌やりを行い、庭の花木の水をたっぷりとやりました。
畑にも行こうかと思いましたが、今日は出かけなければいけないので、やめました。
明日は畑もメニューにいれようと思います。

折口さんも言うように、生き物は癒しの時間を与えてくれます。
動かない花木も、その気になれば、声が聞けます。
自然と触れ合うことが、生きているということなのかもしれません。

庭の花木に水をやりながら、そういえば、節子がいた頃は、これが私の日課だったと思い出しました。
その日課さえ、忘れて、9年が経とうとしています。
庭が荒れてしまったのは、当然です。
畑だけではなく、庭も回復しなければいけません。
小さな庭とはいえ、一度、荒れてしまうと元に戻すのは大変です。
なにしろ相手は生き物ですから。

生きる意志が強いかどうか。
昨今、あまりにも「いのち」を軽んずる社会の風潮に、私自身の生き方を重ねて、反省しました。
私もあまり他者のことを言える資格がないのかもしれません。
明日からは、朝の日課を守ろうと思います。

今日は、さわやかな朝です。
良い一日になるでしょう。

■3250:しばらくの同居者(2016年7月29日)
節子
この数日、わが家には同居者がいたのですが、みんなわがままで勝手に家の中を散策していたようです。

3日ほど前、ジュン家族からプレゼントをもらいました。
カブトムシ2匹とクワガタです。
家のベランダにやって来ていたのだそうです。
なんで私にプレゼントされたか、といえば、昔から私はそうした生き物が好きだったからでしょう。
私自身の言動の結果でしょうが、節子がそういう私の生き方を面白がって付き合っていたということもあります。
いずれにしろ、そういう生き物と、同棲したいという思いが昔から強くあります。
しかし、そのために犠牲になった生き物はいます。
沢蟹はなじめなかったようですし、鈴虫は手入れ不足で絶滅しました。
ですから、最近は無理やり同棲を要求はしていないのです。
いまの庭の池は、沢蟹には絶好の環境なのですが。

もらった3匹を少し大きめの虫籠に入れ、キュウリと蜂蜜を与えて、一晩休息を与えた後、庭に放そうと考えていました。
ところが、朝、起きてみると1匹のカブトムシしか残っていませんでした。
戻ってくるだろうかと心配していたら、残りの1匹もいつの間にかいなくなってしまっていました。
困ったものです。

昨夜、娘が2階でクワガタを見つけました。
わが家に来た時には元気がなくて心配だったのですが、とても元気になっていました。
そこで暗かったのですが、わが家の庭に放しました。
もう大丈夫でしょう。
安心しました。

そして今朝、娘がカブトムシを見つけました。
彼は1階のリビングの入り口にいたそうです。
この2日間、食べるものもなかったはずですが、やはり元気そうでした。
不幸にして、わが家にはあまり樹液が出る樹木がないのですが、彼がつかまりやすい樹に放したら、元気に上まで登っていきました。

問題は残りの1匹です。
いささか心配ですが、寄ってきそうなところにはちみつを塗った樹をおいています。
戻って来てくれるといいのですが。
まあみんな私と同じくわがままのようですが、一宿一飯の仁義というものがあるはずです。
わが家の庭に住みついてくれるといいのですが。

生き物との同棲は難しいものです。
いまはメダカが10匹、元気ですが、金魚はあまりなついてくれません。
それに3.11以降、なぜかわが家の庭の池に魚を放しても、死んでしまうのです。
新たに金魚を放すのも、いささか躊躇します。
いまは何とか3匹ががんばっていますが、毎朝、彼らが元気かどうか心配です。
ガマガエルが入らないようにネットを張りましたが、油断はできません。

そういえば、先日、娘と一緒の時に、すぐ近くでハクビシンに出会いました。
わが家の庭に住んでくれたら、安住できるのですが、その意図を伝える方法がわかりません。
困ったものです。

■3251:夏が来ました(2016年7月30日)
節子
朝、起きて、玄関に行ったら、行方不明になっていたカブトムシが出てきていました。
どこを探訪していたのか知りませんが、ほこりだらけになっていました。
そこできゅうりに加えて、桃を食事に供し、少し休んでもらってから庭に彼らの部屋ごと移すことにしました。
これまでの経験から、まあ居座ることはなく、結局はどこかに行ってしまうのですが、懲りずにもう一度試みることにしました。
昨日、出て行ってしまった2匹は、その後、音沙汰ありません。
困ったものです。

昨日から庭でミンミンゼミがにぎやかです。
たぶん庭の土中から出てきたセミでしょう。
セミの羽化の様子は、感動しますが、今年はまだ見たことがありません。
セミの抜け殻も、あまり見かけません。
しかし梅雨も明け、夏が本格化してきましたので、いよいよセミの季節です。

庭では琉球朝顔が元気です。
手入れをしていなかったら、庭中にツルを延ばし、他の樹木にも絡まりだしました。
琉球朝顔の元気さには、驚きます。
おかげで、犠牲になった花木もあります。
昨年植えた皇帝ダリアまでもが、からめ捕られそうなので、心配です。

畑からミニトマトの枝を2本切って庭に植えることにしました。
ミニトマトは、挿し木が簡単にできます。
畑の場合、週に2回くらいしか行けないので、熟したトマトが落っこちてしまっていて、いつも申し訳ないと思っていますが、庭で熟してくれれば、毎朝、食べられますので、お互いにハッピーになれます。

今日は、来客もあるので自宅なのですが、時間がありそうなので庭の整理を少ししようかと思っていましたが、油断していたら、もう暑さが増してきました。
熱中症になるといけないので、静かに過ごそうと思います。
久しぶりに本を読む気にもなってきました。
暑い庭にでて、日陰をつくっての読書もいいかもしれません。
暑い夏は、熱さを楽しまなければいけません。
熱中症にならないようにエアコンを使いましょう、というテレビでの呼びかけに応ずる気持は全くありません。
その発想を捨てなければいけないと、ずっと生きてきていますので。

節子ならきっとわかってくれるでしょう。

■3252:人はなぜ歩くのか(2016年7月30日)
節子
ベルナール・オリヴィエの「ロング・マルシュU」を読みました。
前に読んだ作品の2巻目です。
前作に関しては、この挽歌でも書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/11/post-6504.html

著者のオリヴィエは、61歳から64歳までの4年間をかけて、イスタンブルから西安まで、12000キロにおよぶシルクロードをたったひとりで歩きとおしました。
その記録を3冊の本にまとめていますが、今回読んだのはその2巻目です。
今日、この本を読んだのは、朝、図書館に行ったら、新着の書棚に偶然この本があったので、読もうという気が起きたのです。

あとがきに著者のことが書かれていました。
長いですが、引用させてもらいます。

フランス北部ノルマンディー地方の貧しい家に生まれたベルナール・オリヴィエは、努力の末にジャーナリストとなり、よき妻と2人の息子に囲まれて充実した生活を送っていた。ところが、著者が51歳のとき、25年間連れ添った妻が死んだ。心臓発作でパリの路上に倒れ、1か月の昏睡状態の後、著者の誕生日に亡くなったのだという。著者はその死を受け入れることができず、仕事に打ち込むことでやりすごしていたが、心の空洞が埋まらないまま退職の日を迎える。息子たちはすでに自立して家を離れていた。やりたいこともなく、なんの希望も持てない孤独な年金生活。落ち込みは激しく、自殺を考える。だが、うまくゆかなかった。それで、逃げることにした。パリの家から重いザックを背負って2300キロ、スペイン西端のキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンボステラに通ずる巡礼の道を歩いたのだ。

悲しみから逃げるために、彼は歩きはじめたのです。
サンティアゴ巡礼路を歩きながら、彼はこう気づきます。

歩きに歩くうちに気がついた。自分は思っていたような老いぼれじゃない。歩きの幸福に酔い、生きる意欲がもどってきた。歩くことの治癒力は、どんな抗鬱剤にもまさるのだ。

こうして彼の「歩く人生」が始まりました。
そしてついに、12000キロのシルクロードを踏破しました。
そしてさらにいろいろと歩いているうちに、一人の女性に出会い、やがて一緒に暮らしはじめるのです。
75歳の著者は言っています。「生涯で2人のすばらしい女性に出会いました。私はほんとに運がいいんです。まず妻です。それからベネディクトに出会いました。4年前から一緒に暮らしていますが、4年間で一度も喧嘩したことがないんですよ。ほんとにうまく行っていて、もう言うことなしです」。

ベネディクトに会って、彼のマルシュは終わったでしょうか。
実は、最後にもう一度、今度は2人で歩いたそうです。
その記録は今年の5月に刊行されたそうですが、翻訳が出るのはかなり先になりそうです。
これまでの作品とはかなり違っているようですので、興味があります。

人は、どうしたら歩くのをやめられるのか。
歩き出したのが愛のためであれば、たぶん歩くをやめたのも愛のためでしょう。
私もそろそろ歩くのをやめようかと思うことがあります。
オリヴィエとは、違ったマルシュではありますが。

ちなみに、「ロング・マルシュ」を教えてもらったのは、巡礼人の鈴木さんからです。
鈴木さんにまた話を聞きたくなりました。

■3253:炎天下の畑(2016年7月31日)
節子
また暴挙に走ってしまいました。
夕方畑に行けなくなりそうなので、曇っていたので午後1時に畑に行ってしまいました。
この時間帯には畑は厳禁といわれていたのですが、思い立ったらやってしまうのが私の悪癖です。

畑に行くと、待っていましたとばかりに、野草が私を挑発してきます。
仕事は山ほどあるのです。
少し作業をしていたら、急に雲がなくなり、強い日差しが襲ってきました。
帽子が嫌いなので、まったくの無防備です。
しかし、これしきの事にめげてはいけないと熱さを我慢して、野草との闘いをつづけました。
汗がひっきりなしに出てきます。
熱中症対策として、水分を並々とコップ一杯一気に飲んで出てきたせいかもしれません。
炎天下で、頭はどんどん熱くなる。
さすがにこれはまずいと思い、10分ほどで引きあげてきました。
自宅についたら、再び汗の洪水。

ところが、自宅についてすぐに、また太陽は雲の中に隠れ、風が吹きだしました。
あのひとときの強い日差しは、私への警告だったのでしょうか。
なんだかお天道様にもてあそばれた気分で、すっきりしません。
しかし、さすがにもう一度、出かけようという気にはなれません。

それで、へこたれずに、庭の手入れをすることにしました。
節子がいたら、なんでこんな時間にやるのかと注意するでしょうが、幸いにいませんで、やってしまうことにしました。
実は畑から追ってきたミニトマトの枝を仮植えしていましたが、それを地植えすることにしたのです。
いつもは、花が植えられているところにです。
花よりトマトというわけです。
こんな時間に植え替えて大丈夫かどうかいささか心配ですが、ミニトマトにも苦難は必要です。
しかし、やはり外で動くと暑いです。

夕方から出かけるので、エアコンの恩恵を受けられるかもしれません。
わが家にもリビングにはエアコンはあるのですが、壊れてしまっているのです。
困ったものですが、今年はまだわが家でエアコンの恩恵を享受したことがないのです。

しかし2時半を過ぎたら、風が涼しくなってきました。
きっとどこかで雨が降り出したのでしょう。
雨の香りは、かなり遠くからも伝わってくるものです。
今夜は、涼しくなるといいのですが。

■3254:今度はホームページトラブルです(2016年8月1日)
節子
昨日頑張ってホームページを更新して、アップしようとしたら、なぜか接続ができません。
先週はあまり内容を更新できなかったので、昨日は頑張ったのですが。
ネットの世界に依存していると、時にこういうことが起こります。
先日は、メールがすべて一瞬にして消えてしまう悪夢も体験しました。
よく考えてみれば、恐ろしい話です。
いろいろとやってみましたが、ダメです。
私は、あまり深く考えずに、ともかくやってみるタイプなので、今回もいろんな作業を意味も分からずにやってしまったので、もはや収拾がつかなくなりそうです。
さてさて困ったものです。
今日はサービスを提供してくれている会社に電話して修復しようと思いますが、そこが始まるのが10時からです。
どうせなかなかつながらないと思うので、午前中はそのための半日になるでしょう。
今日の予定がまたそれに翻弄されて、心配です。

なぜこうもトラブル続きなのでしょうか。
この挽歌に書いていないトラブルの方が、実は多くて、しかも深刻なのですが、なかなか気持ちのいい生活に戻りません。
しかし、これもきっと意味があるのでしょう。
トラブルがあるということは、しっかりと生かされているということですから。

今さてそろそろ電話受付の時間です。
うまくつながるといいのですが。

■3255:いま、ここに、生きる自分の根源(2016年8月1日)
節子
昨日、NHKのテレビ番組「こころの時代」で、禅僧ティク・ナット・ハンのメッセージを再放送していました。
気になりながら、きちんと見ていませんでしたので、今回は録画してしっかりと見せてもらいました。
ティク・ナット・ハンは、ベトナム出身の、平和に取り組む仏教者です。
ベトナムを追われ、フランスに住んでいますが、マインドフルネスの思想を世界に広げる活動に取り組んでいます。

マインドフルネスとは、いま、ここに、生きる自分の根源に出会うことです。
その手法は、瞑想ですが、生きる過程すべてが瞑想であるというような捉え方です。
ですから、食べる瞑想、座る瞑想など、生きるすべてが瞑想につながっているのです。
特に大事なのが「歩く瞑想」。
とかく走ることの多い現代において、生命に合わせて、環境に合わせて、歩くことは大事だと言います。
これは、ロング・マルシュにも通じます。

ティク・ナット・ハンは、自分をいつくしむことがすべての出発点だといいます。
自分をいつくしむことなしに、他者はいつくしめないからです。
とても共感できます。
私も、それは百も承知なのです。
しかし、それが実に難しい。

自分をいつくしむこと以上に難しいのは、いま、ここに、生きる自分の根源に出会うことです
そもそも、自分に出会うこと自体、極めて難しいことですが、自分の根源に出会った自分は、誰なのか。
そして、出会って何が変わるのか。
論理で考えると、ティク・ナット・ハンからのメッセージは難解です。
しかし、この番組を見て感じたのは、ティク・ナット・ハンの生きざまに、とても親しみを感じたことです。
私の生き方と、深くつながっていると、ついつい思ってしまうほどです。
生きることに誠実な人の生きざまは、私のような粗雑な生き方をしているものさえも、包み込んでくれる優しさがあります。

ティク・ナット・ハンの生きざまを、多くに人に知ってほしいと思いました。

■3256:思い出の世界と生きている世界(2016年8月2日)
節子
自分の世界が、どんどん狭くなってきているのがよくわかります。
私の世界が、どんどんと過去の世界、思い出の世界に移行しているのです。
だからこそ、新しい活動を始めたりもしているのですが、見かけの広がりとは裏腹に、私の世界は間違いなく狭くなってきています。
節子と一緒だった頃に比べれば、私の世界はけた違いに小さくなってきています。
多くのことが、二次元的な記録の世界に収納されてしまったような気がするのです。
アルバムは増えても、世界はしぼんでいる。
そんな感じです。

テレビを見ていて、時々、失ってしまった世界を思いだすこともあります。
今日も高原や海水浴場の風景を見ていて、そう思いました。
高原や砂浜で自らを自然にさらけ出すことは、もう忘れてしまいました。
函館の風景にも、阿蘇の風景にも、私はもう記憶としてしか出会うことはないでしょう。
そこに私がいたことが、いまの私の生活とつながっているとは思えない。
節子がいた頃は、記憶の世界にも、明日、実際に行けたような気がします。
ですから、生きてきたすべての世界が、そのまま生きている世界だった。
しかし、どうも今は違います。

自分の人生がどうもつながっていない。
あるいは、生きていない。
私は現に生きているのに、どうもリアリティがない。
うまく書けないのですが、時々、そんな感覚が襲ってきます。
10年前までの私は、本当にいまの私とつながっているのだろうか、と。

生きている世界が、思い出の世界にどんどん浸食されていくような気がしてなりません。
そうだとすれば、私の世界はますます狭くなる。
狭い世界は、私の好みではないのですが。
 
■3257:節子がいた頃の湯島のサロンの話(2016年8月3日)
節子
久しぶりに小宮山さんの会社に行きました。
先日、お引き合わせした細菌学の益田さんを連れてきてほしいと言うので、私も1年ほど行っていなかったのでお伺いしたのです。
小宮山さんの経営している会社は、いつ行っても気持ちがいいのです。
これほど気持ちのいい会社はそうはないでしょう。
それに、小宮山さんのおかげで、私はなぜか同社では「有名人」なのです。
ただし、前にも書きましたが、私は「しゅうさん」で通っているのです。
小宮山さんが、私のことを「しゅうさん」と呼んでいるからです。

小宮山さんは私と同世代ですが、私よりも間違いなく頑固です。
よく言えば、信条がしっかりしているということですが、それは見事です。
ですから私と小宮山さんと2人だけで話していると、かならず一度ならず数回は意見が分かれ、論争になってしまいます。
私も頑固だからです。
困ったものですが、幸いに今日は、いつも誰かが一緒でしたので、平和に時間を過ごしました。

小宮山さんは、いまは「ぶんぶんごま」に凝っています。
しかもそれを会社の事業につなげようとして、工場長の田村さんに「ぶんぶんごま」の研究を頼んでいるようです。
今日は、その成果を田村さんから教えてもらいました。
実に面白い会社です。
まあ面白いのはそれだけではないのですが、あまり詳しくは「企業機密」に絡んできますのでやめましょう(本当はめんどくさいだけですが)。

今日は同社の顧問の西山さんも少し付き合ってくれました。
西山さんは、亡くなった黒岩さんの友人です。
帰り際は西山さんに車で送ってもらったのですが、車中で、黒岩さんが文壇デビューできたのも湯島のサロンのおかげですよね、と言ってくれました。
それはいささかオーバーですが、たしかに彼女の本格的著作の「音のない記憶」は、湯島での出会いの仲間が大きな役割を果たしたのです。

節子がいた頃のサロンは、実に多彩な人たちが集まっていました。
そういえば、小宮山さんと聾学校の話をしていたら、紀陸さんの名前も出ました。
何回か湯島にも来た同社にも関わっている経営コンサルタントの大泉さんから、どうして湯島にはあんなにいろんな人が集まるのですかと訊かれました。
どうしてなのでしょうか。
考えてみると不思議です。

久しぶりに、節子がい阿多頃の湯島のサロンを思い出しました。
いまとどこか違っていました。
どこが違っているのか説明はできないのですが。

昔のことを思い出すと、なぜか疲れます。
今日は、もう一人、昔のことを思い出させる人に会いました。
これもまた意味があることなのでしょうか。

■3258:電話の向こうはなかなか見えません(2016年8月4日)
節子
岐阜の佐々木さんが、鮎の甘露煮を送ってきてくれました。
節子の大好物ですが、残念ながら節子は味わえません。
久しぶりに声が聴きたくなって、電話しました。
続けて愛犬を見送っていますので、気になっていたのですが、とても元気そうでした。
もっとも、電話の声はあんまり信用はできません。
私も、元気でない時にこそ元気に応対しますので。

そういえば、先日は節子の友人の野路さんからも桃が届きました。
野路さんもだいぶ良くなってこられたようですが、今回はご主人としかお話しできませんでした。
なにやらせわしそうな感じでしたが、もしかしたらまだ大変なのかもしれません。
野路さんは階段を踏み外し頭を打ったのが原因で、記憶に障害が出てしまったのです。
電話の向こう側のご主人の応対が、いつもとは違う気がしました。

私は電話が苦手ですが、それは情報量が中途半端だからです。
いうまでもなくメールなどでは感情は伝わりにくいですが、電話の場合は、逆に感情を過剰に感じさせられるのです。
そしてこちらもついつい感情を出してしまいがちですが、それが自分が思っていたような伝わり方はなかなかしないような気がします。

電話の向こう側は、なかなか見えるものではありません。
彼岸もまた、なかなか現世からは見えないですが、今年もお盆が近づきました。
お盆を超えると、例年少しホッとします。
今年は、節子の10回忌ですが、世間の常識では法事の年には当たりませんが、家族だけで小さな法事をやろうかと思いつきました。
節子も来てくれるといいのですが。

■3259:人のつながりの不思議さ(2016年8月5日)
節子
北九州市の中嶋さんが東京出張の途中、わざわざ湯島に寄ってくれました。
お土産とともに、職員仲間の高橋さんから預かったと言って、お線香を持ってきてくれました。
まさか高橋さんからお線香が届くとは思ってもいませんでしたが、その季節なのです。
節子は高橋さんにも中嶋さんにもお会いしたことはないでしょうが、いずれも節子もよく知っている山下さんのお知り合いです。
不思議なご縁で、北九州市には友人が何人かいるのです。

北九州市は、もしかしたら、私たちが転居するかもしれない都市でした。
節子の友人も住んでいました。
もし転居していたら、私たちの人生は全く変わっていたでしょう。
あの頃は、会社を辞めて、私自身、全く白紙から人生をやり直そうと思っていました。
節子も、そう思っていたかもしれません。
しかし、人生はそう簡単に、やり直せるものではありません。
節子と2人だけだったら、それもできたかもしれません。
親との同居もあり、結局、転居は実現せずに、会社も仕事も辞めはしたものの、都会生活からは抜けられませんでした。
ここまでくると、これからももう抜けられないでしょう。
私一人で、人生を変える気力はもはやありません。

中嶋さんがお見えになる前に、もう一人、友人が訪ねてきていました。
彼女は、仕事を終えたら、離島に転居する計画をお持ちのようです。
これまでゆっくりとお話ししたことがなかったのですが、私が関わってきた世界と同じような世界を、反対側から取り組んでいたようです。
もう少し早くわかっていたら、どこかで連携できたかもしれません。
しかし、彼女が言うには、たまたま参加した湯島のサロンで私がなぜか引き合わせた方との出会いが、彼女の今の活動にもつながっているようです。
それを今日初めて知りましたが、人は自分では気づかないところで、誰かの人生に関わっているのかもしれません。

高橋さんはどうしてお線香を下さったのでしょうか。
彼女と会ったのは、2回ほどではないかと思います。
節子の話はたぶんしたこともないでしょう。
そして、中嶋さんは忙しい中をわざわざ湯島に寄ってくれたのでしょう。
人のつながりは、不思議です。

■3260:花を感じさせる香りのお線香(2016年8月6日)
節子
やはり最近私の記憶はかなり危うくなっています。
昨日のお線香のお礼をメールしました。
高橋さんから返信がありました。
無断ですが、少し短くして、引用させてもらいます。

お盆、奥様の命日と近づくし、ふっと頭に浮かんだものがお線香でした(^^。
奥様やご家族が大変な時に佐藤さんのお宅にお邪魔したのを今でも心苦しく思ってます…(-_-) 。
奥様はお花がお好きでしたよね?
そこで思い立ち、お花の香りのようなお線香があるかも…と探しましたが、そう簡単には見つかりませんでした(*_*) 。
あまり香りのキツくないものを選んだつもりですが、お気に召すかどうか自信なく…すみません(>_<) 。

高橋さんが、わが家にまで来てくださっていたのを、不覚にもすっかり失念していました。
どうも私の中での過去の世界は、かなり薄れかかってしまっているようです。

高橋さんが、苦労して見つけてくれた、花の香りの線香。
高橋さんの報告をしながら、今朝、供えさせてもらいました。
昨日は気づかなかったのですが、封をあけたら、高橋さんからのメッセージもはいっていました。
お線香の香りは、とても控え目な、しかしゆっくりと心身を包み込んでくれるような、深い香りでした。
改めて高橋さんの心遣いに感謝しました。

ところで、高橋家も、今年は初盆だそうです。
連れ合いのご祖母が、101歳の誕生日の前日に大往生したのだそうです。
高橋さんは、こう書いています。

さみしくはなりましたが、極楽浄土に行って、早くに死に別れたご主人に約30年ぶりに会えたのだろうと思うと、良かったね…という気持ちになります(^^;
ここのところ、仏壇に向かっては「お盆は、ちゃんと道に迷わず帰って来てよ〜」とお話しています。
待ち遠しいものですね…。

高橋さんのお人柄が伝わってきます。
私は、何年ぶりに節子に会うことになるのでしょうか。

今日は良い一日になりそうです。
相変わらず、あの年のように、暑いですが。
今日は我孫子の花火大会です。
■3261:手賀沼花火大会(2016年8月6日)
節子
手賀沼の花火大会でした。
この花火大会には複雑な思いがあります。

そもそも、いまのこの場所に転居した理由の一つは、目の前で花火が見られるからでした。
私も節子も花火が好きでした。
最初に一緒に花火を見たのは、たぶん滋賀県大津の瀬田川の花火大会でした。
一緒に暮らし始めた年の夏でした。
現在のところに転居後、花火の日には友人たちを招きました。
いろんな人が来てくれました。
その接待のために、節子はいつもなかなかゆっくりと花火を見られませんでした。
ゆっくりと見られるようになったのは病気になってからかもしれません。

最後の夏は、今年のように暑い夏でした。
節子は花火を見ようとは言いませんでした。
自宅の病室で、私は節子と2人で、花火の音だけを聞いていました。
花火を見に来た人もいましたが、私と節子は病室のなかで音だけを聞いていました。
外のにぎやかさが、どこか遠い別世界のような気がしていました。
それから1か月も経たずに、節子は旅立ちました。
以来、花火を素直に楽しめなくなりました。

今年は、娘が人を呼ぼうと言い出しました。
私は乗り気ではなかったのですが、兄夫婦を呼ぶことにしました。
私も一緒に花火を見ましたが、やはりあまり楽しめませんでした。
しかし、何かが少し変わったような気もしました。

来年は、もしかしたらもう少し元気よく花火が見られるかもしれません。
あるいは、今年以上に見る気が起きないかもしれません。
こころに突き刺さった思い出から、人はなかなか抜け出せません。
花火のように、いさぎよく、始められればどんなにいいでしょう。

■3262:暑さに勝てない年齢になってしまいました(2016年8月7日)
節子
今日の暑さは私にはひどくこたえる暑さでした。
来客のため10時過ぎに湯島につきましたが、ついた途端にダウンしかけました。
しかも、予定していたミーティングが、過剰に疲れるミーティングでした。
話し疲れて、また喉をやられてしまいました。
つづいて、みんカフェでしたが、ここではちょっとうれしい出会いがありました。

しかしいささか疲れてしまい、帰宅してダウンしてしまいました。
暑さに勝てない年齢になってしまったのでしょう。
健全な老化だ、などと言っている余裕もなくなってきました。
今年の暑さはこたえます。

あの年も暑かった。
節子はその暑さを乗り越えられなかったのかもしれません。
明日を乗り越えられればいいのですが。

■3263:孫のにこたん(2016年8月8日)
節子
今日も暑い日でした。
いささか疲れ切って、帰宅したら、自宅のジュン母子が来ていました。
今日はめずらしく緑色の服を着ていました。
服の色で印象はかなり違います。
ミニオンズが大好きな私としては、黄色い服がいいのですが、まだ黄色い服を着た孫には出会えていません。

ジュンが仕事をしている間の20分ほど、相手をすることにしました。
乳児とのコミュニケーションは実に難しいです。
スキンシップが大事だと思って、低い鼻をつまんだり、ほっぺを細くしたりしていたら、泣き出してしまいました。
機嫌のいい時は、私の顔を見て笑ってくれますが、今日はあんまり機嫌がよくないようです。
泣きだしたらもうお手上げです。
保育施設で、時々、事故が起きますが、事故を無くすのは難しいでしょう。
節子は、よくまあ、一人で2人の娘を育てたものです。
やはり、女性と男性は、まったく違う生き物だと、私には思えます。

孫の「にこ」は、今日で生後3か月です。
少しずつ「かわいい」という感覚が出てきました。
「にこ」という名前はどうも呼びにくいので、私は「ちびた」と呼んでいます。
ちなみに、私は小さな生き物は、すべてが「ちびた」なのです。
物事を単純に捉えるのが私の性格です。

娘たちのことも、いまでも時々、「ちびた」と呼んでしまうこともあります。
飼い犬のチャッピーは、生涯「ちびた」でした。
しかし、孫を「ちびた」と呼ぶのは失礼なので、そろそろ呼び方を決めなくてはいけません。
命名のひとつの理由は、いつも「にこにこ」しているようにということなのだそうです。
そうならば、むしろ「にこにこ」のほうが呼びやすいですのですが、「にこにこ」もどうもぴったりしません。
そういえば、娘たちがよく読んでいた絵本に「にこたん」というのがありました。
「にこたん」がいいかもしれません。

それにしても赤ちゃんの笑顔は何とも言えません。
かわいいとかということではなく、そこに透明さを感じます。
いのちの本質を感じさせてくれるのです。
人はみんな、こんなに透明な時代を過ごしてきた。
にもかかわらずどうして大人たちは、みんな透明ではないのか。
赤ちゃんの顔を見て、自らの赤ちゃん時代を思い出さなければいけません。

これからは、「にこたん」に学ぶことが増えていくのでしょう。
にこたんが人間になる3年後が楽しみです。
私は、3歳未満の赤ちゃんは、まだ人間になっていないという考えなのです。
人間でなければ何なのかといえば、もちろん「神様」です
すべての生命が神様のように。
しかし、人間だけが、3歳で神様を卒業してしまう。
これが私の人間観なのです。
節子には納得してもらえませんでしたが。

■3264:暑さよりも世上にうんざりです(2016年8月9日)
節子
うだるような暑さです。
先日来客があった時にエアコンをつけてみたら、何とか動いたので、今日はそのエアコンのなかで半日過ごしました。
おかげで、長崎の平和式典をきちんと観ることができました。
しかし、聞いていて何やら虚しくなりました。
核廃絶と言いながら、原発を止めようなどと誰も言いません。
その上、核兵器推進論者の阿部首相が、そこにいる。
長崎の人たちには申し訳ないですが、ばかげた茶番でしかないような気がします。
しかし長崎市長と被爆者代表の井原東洋一さんのスピーチは心に響きました。

オリンピック報道も観ました。
私はオリンピックのショーはスポーツとは考えていません。
銅メダルをもらいながら、うれしくないというような人に育てる仕組みには、あざとさと卑劣さを感じます。
ますます虚しくなってきました。

暑さのせいでしょうか、無性に腹が立ってきてしまい、あんまりいい日ではありませんでした。
夕方、畑に行って、水をやってきました。
野菜の収穫はほとんどありませんが、百日草が広がりだしていました。
食べられるかどうかわかりませんが、メロンが2つなっていました。
どのタイミングで収穫すればいいかわからないのですが、もう2,3日、そのままにしておこうと思います。

人間界は虚しいですが、自然の世界は豊かです。
庭の琉球朝顔も元気です。

■3265:退屈で暇で、しかし時間がない(2016年8月10日)
節子
暑さが続いています。
宮崎県の綾町出身の若者が湯島に来ました。
大学生ですが、あるプロジェクトを起こし、その相談に来たのです。
友人の友人の伝手ですので、どんな若者がやってくるのかと楽しみにしていました。
実に行動的な若者でした。
私としてできることを考えることにしました。
わずらわしい人間界から少しずつ離脱したいのですが、なかなかうまくいきません。
がんばっている若者を見ると、やはり何かしたくなる。
困ったものです。
しかし、こうやって私もまた、いろんな人の支援を受けて、いまに至っているのです。

節子がいたら、いまもこういう生き方をしていたでしょうか。
たぶん違う生き方になっていたような気がします。
もっとゆったりと、もっと小さく、もっと豊かに、時間を過ごしていることでしょう。
時間がいくらあっても足りないほど、やることもあったに違いない。
でもいまは、暇で暇で仕方がないくらい暇です。
暇と言っても、なぜか時間のない暇ではあるのですが。
だから何かやらなければいけないということに出会うと、ついつい受けてしまう。
時間がないくせに、暇なので受けてしまうというわけです。
たぶん節子は理解してくれるでしょうが、ほかの人には理解してもらえないでしょうが。

宮崎の綾町はいいところです。
一度、綾町の素晴らしさを体験させてもらったことを話しました。
彼は、綾町を知っている人に初めて会ったと驚いていました。
あの頃は私も今日来た若者と一緒で、全国を飛び回りながら、いろんなことに関わっていく生き方をしていました。
その生き方を改めて、新しい生き方に移ろうという矢先に節子が発病しました。
予定はすべて狂ってしまった。
そこからまだ軌道修正できずにいるのです。

九州の加野さんから電話がありました。
そろそろ奥さんが戻ってきますね、と加野さんは言いました。
8月は、いろいろと考えることの多い季節です。
加野さんは、そろそろ90歳ではないでしょうか。
お元気なのは、現世での勤めが明確だからなのかもしれません。
今年は加野さんにお会いしたいと思っていますが、なかなか九州に行く機会が得られません。
いや、ほんとうは「行く気」が出ないのでしょうか。
いつか思い切って出かけようと思います。

午後からはまたお客さまです。
今日も暇で暇で仕方がいのですが、来客が多いのです。
心が揺さぶられるようなことには、なかなか出会えずにいます。
毎日が退屈で暇なのに、忙しく過ごしているのが不思議です。
どこかに、わくわくするようなことはないでしょうか。

■3266:すぎのファームの梨(2016年8月11日)
節子
節子が好きだった、すぎのファームの梨はますます人気です。
収穫期に入ったそうなので、杉野さんにお願いして、私も梨を買いに行ってきました。
杉野さんとの縁をつくってくれたのは節子です。
節子が亡くなった後、節子の親しかった友人たちに杉野さんの梨を送らせてもらいました。
その時に、送り状を入れてもらったのですが、杉野さんの奥さんが、私にも読ませてくださいと言って読んでくれたのです。
たぶんそのおかげで、人間的な関係が生まれました。
今日は、これも節子が好きだった、敦賀の手づくりのおぼろ昆布をお土産に持っていきました。
妻が好きだったのでよかったら食べてください、といったら、奥さんが「節子さんでしたね」と名前を憶えていてくれました。
そんなちょっとしたことが、私にはこの上なくうれしいものなのです。

杉野さんは、ご家族みんなで新しい農業づくりに取り組まれています。
なかなかゆっくりお話しする時間はないのですが、年に1,2回、梨園にお伺いする時には、ご夫妻と少しお話しできるのです。
今日は、来客があふれていたので、あまり話せませんでしたが。
今度一緒に食事でもしましょうということになっていますが、当分はお忙しくて無理でしょう。

杉野さんの梨はとてもおいしいです。
梨好きの方は、すぎのファームのホームページをご覧ください。
私が一番好きな幸水はもう終わりましたが、まだまだいろんな品種があります。
よかったらご注文ください。
http://www.geocities.jp/suginofarm/

節子にも梨をお供えしました。

■3267:お迎えの準備(2016年8月12日)
節子
明日からお盆です。
今年は、節子を見送っての初盆から数えれば、9回目になります。
9回目にもなると、慣れてしまって、あんまり特別の気持にはならなくなるものですが、それでもお盆はお盆、感慨深いものがあります。
なにしろ彼岸にいる節子が帰ってくるのですから。

娘が精霊棚をつくってくれました。
1日早く、そこにお供えが2つ飾られました。

ひとつは、わが家の畑でできたメロンです。
野草の中に埋もれていて、最初は気づかなかったのですが、2つのメロンが育ちました。
どのタイミングで収穫すればよいかわからないのですが、昨日、草刈りをしていて、うっかりして収穫してしまいました。
食べられるかどうは不明ですが、まずは節子に供えることにしました。
ちなみにトウモロコシは8本植えましたが、食べられるほどの実を熟してはくれませんでした。

もうひとつは、お隣の宮川さんが毎年届けてくれる供花です。
節子にお世話になったと言って、毎年届けてくれます。
10年も続いているのですが、節子は何をして差し上げたのでしょうか。
私には思い当ることはひとつだけですが、それも隣人として、当然すぎるほど当然のことでした。
今年はご夫妻ご一緒にわざわざ届けてくれたのです。
お返しするものがなくて、杉野さんの梨をおすそ分けさせてもらいました。
こういうのが、節子と違って苦手です。
今年は、バラとカスミソウでした。
お孫さんができたそうなので、赤い色を基調にしてくれたそうです。
ジュンさんも一人で子育てが大変でしょうね、と言ってくれました。
たしかに、節子がいないので、ジュンは苦労しているでしょう。
父親は乳児段階では戸惑うばかりです。

用意ができました。
明日から節子が、たぶん戻ってきます。
現在、家にいる節子はしばらく生家に戻るかもしれません。
お盆は、人生を考えるいい機会です。

■3268:9回目の里帰り(2016年8月13日)
節子が帰ってきました。
だから、と言って、何も変化はありませんが。
今日は来客も用事もなかったので、できるだけ節子の位牌のある精霊棚の横で、本を読んでいました。
半分は寝ていましたが。

お墓から自宅までの案内の灯明は、わが家では提灯ではなくて、ランプです。
娘たちがベネルックスに行った時に買ってきたガラス製のランプがずっと使われています。
ランプに灯をつけて、帰ろうとしたら、一緒に行ったユカが、実家に帰らせてもらいますと言いました。
そこで気づいたのですが、お盆は節子にとっては里帰りなのです。

お墓には、私の両親と節子が合祀されています。
両親の位牌は兄の家にあります。
ですから、お盆には、両親は兄の家に、節子はわが家に来るのです。
つまり、彼岸で同居している私の両親のもとを離れて、実家に戻ってくるわけです。
今年は、兄よりも私の方が早くお迎えに行ったわけです。
兄も、同じ我孫子に住んでいます。
例年だと、両親が戻っている間に、兄の家にみんなで行くのですが、今年は調整がつかずに、お盆明けにしか行けません。
それで、今日、お墓で両親には「気をつけて」と声をかけておきました。
まあ、どうでもいい話のようですが、私自身はそれなりに気にしています。

幸いに今年はさほど暑くない盆の入りでした。

■3269:節子からの贈り物?(2016年8月14日)
節子
今日はとてもいいことがありました。
節子がいなくなってから、一番のうれしいことかもしれません。
なんと「沢蟹」がわが家にやってきたのです。
もしかしたら、節子のお土産かもしれません。

といっても自然に移住してきたわけでも、天から降ってきたわけでもありません。
午前中、だらだらしていたら、近くに住んでいる娘のジュンから電話が来ました。
買い物に行ったスーパーで、沢蟹を配布しているという電話です。
2匹ずつ入った箱を自由に持っていっていいと書いてあるのだそうです。
もちろん、もらっておいてと言いましたが、2匹では少ないので、私ももらいに行くことにしました。
残りはもう10匹だそうなので、念のために私の分ももらっておくように頼みました。
それから急いでひげをそり、自転車でそのスーパーに向かいました。
自転車で10分近くのところです。

幸運にもまだ残っていました。
その場所に行くとだれも持っていこうとはしていません。
たしかに、もらっていっても飼うのが結構大変です。
しかし、わが家の庭には10年以上かけて用意している沢蟹の棲家があります。
もちろん私が勝手にそう思っているだけなので、沢蟹にとって快適かどうかはわかりません。
しかし、棲息地としては私の考える限り、まあ比較的恵まれているでしょう。
いまのところ、天敵のガマガエルなどの小動物もいないようですし。
それでもう2箱、もらうことにしました。
こうして8匹の沢蟹が、わが家に来てくれたのです。

すぐに放すと、きちんと餌が確保できるか心配です。
彼らはまだ自然の中で生きる訓練ができていないでしょう。
それにお店などで配られる沢蟹は、十分の餌は与えられていないはずです。
そこでしばらく室内で休んでもらって、それから池に放そうと思います。
わがには雑食ですので、いろんな食材を与えました。
食べすぎは注意しなければいけませんが、まあいいでしょう。

節子が帰ってきたのもうれしいですが、沢蟹がやってきたのはもっとうれしい気分です。
節子は、私がどれほど沢蟹が好きかを知っていますから、怒ることはないでしょう。
元気だったころも、そして病気になってからも、節子は私と一緒に沢蟹探しに行ってくれたほどですから。

さて10年後には、この辺りは沢蟹の生息地になっているかもしれません。
そのために頑張らなければいけません。
沢蟹は、私には神の使いのような気がしてなりません。
ずっと昔から、そう思っています。

幸せなお盆になりました。

■3270:節子との絆(2016年8月15日)
節子
節子が戻ってきているせいか、だらだらと過ごしています。
たぶん生前の節子は、こんなにだらだらしている私を見たことはないでしょう。
別にいい格好していたわけではありませんが、私たちはお互いに「だらだらする」ことはありませんでした。
2人とも、いつも何かやっていました。
お互いに、だらだらしている相手を見たことはないでしょう。
そんな気がします。
しかし、最近の私は、たぶん節子が驚くほどにだらだらしています。
何もする気がなく、ボンボンベッドで、寝るでもなく起きているでもなく、だらだらしていることがあるのです。
なぜでしょうか。

今日もまた、だらだらと節子の位牌の前で過ごしました。
せっかく帰ってきているのですが、まあそのくらいしか私にできることはないのです。
なぜ元気だったころに、もっとだらだらした時間をお互いに持たなかったのか。
悔いではないのですが、そんなことを時々思います。

節子が戻ってきているからかもしれませんが、人にとって死者と生者とはどこが違うのだろうk、などとも考えました。」
私には、生きている友人もいれば、死んでしまった友人もいます。
どちらをより多く思い出すかといえば、間違いなく死んだ友人たちです。
なぜか私の好きな友人たちは、若くして死んでしまいました。
だからその記憶は強く残っています。
言い換えれば、死んでしまった友人のほうが、私の世界の中では存在感が大きいのです。

下世話の話になりますが、もし節子が元気だったら、私は「浮気」をしたかもしれません。
節子が元気だったころにも、そうしたことが全くなかったわけでもありません。
節子よりも、魅力的な女性が現れたこともあります。
しかし、節子がいなくなってからは、そういうことは起きません。
節子との絆は、いまのほうが強いように思います。

だらだらしながら、今日はいろんなことを考えました。
彼岸から里帰りした節子とも、十分に話し合えたのかもしれません。

明日はもう送り火。
あっという間のお盆です。

■3271:久しぶりに送り火を焚きました(2016年8月16日)
節子が帰りました。
いつもはお墓まで灯明で見送るのですが、今回は久しぶりに庭で送り火を焚きました。
自動車がなかったからでもありますが、できるだけ在宅時間を長くしようということもありました。
在宅だった娘のユカと2人で送りました。

節子が帰り、位牌は精霊棚からまたいつもの仏壇に戻りました。
あんまり節子へのおもてなしのなかったお盆でしたが、まあずっと節子のそばにいたので、節子もいつもより良いお盆だったでしょう。
それに私の現状もかなり伝わったかもしれません。

お盆というのは、不思議な風習です。
先祖との触れ合いを通して、自らの生き方を考える機会を与えてくれます。
しかし、今年のお盆は、残念ながら日本はオリンピックに明け暮れていました。
昨日の敗戦の日でさえ、終日、ニュースはオリンピック。
私には、実に違和感があります。
節子がいたら、私以上に怒ったかもしれません。

節子がいなくなったからではないでしょうが、私にはますます住みにくい時代に向かっています。
一人では、いささか疲れすぎます。
最近、救いがほしいとつくづく思います。
仏は救いになるかどうか。
世間との縁を消していけば、きっと平安な暮らしになるのでしょう。
さてさてどうするか。
いろいろと考えた4日間でした。
節子に感謝しなければいけません。

■3272:両親と孫とのご対面(2016年8月17日)
節子
昨夜、台風が通り過ぎました。
台風が通り過ぎた翌日の朝が、私は大好きです。
世界の滞留物をすべて掃除してくれたような、さわやかさを感ずるからです。
今朝もそうでした。

今日は娘家族も一緒に、両親を守ってくれている兄の家を訪問しました。
両親が帰省中に、今年は挨拶に行けなかったからです。
お盆で帰省していた両親はもうお墓に戻っているので、兄の家に行く前に、みんなでお墓に寄りました。
私の両親は、ひ孫の顔を見るのは初めてです。
私自身はあんまり親孝行ではなかったのですが、その反省もあって、彼岸に行ってしまった両親は大事にしています。
暑い中をお墓に付き合わされた孫は、大変だったでしょうが、いつかわかってくれるでしょう。

兄夫婦はお盆の期間中は孫たちも帰っていて賑やかだったようですが、孫も大きいので、赤ちゃんは久しぶりで、喜んでくれました。
わが家では時々ぐずってしまう孫が、兄の家では実におとなしく、笑っていました。

孫は、今日でちょうど100日目です。
人間らしくなってきました。
身体的にという意味ではありません。
魂を感じられるようになったということです。
節子がいたら、どんなに喜ぶだろうか。
孫の顔を見ると、いつもそう思います。

■3273:イラン旅行を思い出しました(2016年8月18日)
節子
テレビで、イランの旅番組をやっていました。
テヘランとイスハファンとシラーズが紹介されていました。
イランは、節子と一緒に行った、最後の海外旅行先でした。
あの旅行は、印象深いものでした。

テヘランの記憶はあまりありませんが、イスハファンのイマーム広場は美しかったです。
そこで購入したお皿は、いまもわが家の食卓に飾られています。
イマーム広場のモスクを思い出させるペルシャ模様です。
たしか節子はあの時、調理用の木の棒のようなものも買っていましたが、節子はあれを何に使っていたのでしょうか。
そういえば、最近は見かけません。

シラーズはバラで有名ですが、私たちが訪問した時のバラ園は、シーズンオフの感じで期待はずれでした。
しかし、シラーズは、これもまた美しいまちでした。

イスハファンとかシラーズという名前が美しく、その名前を聞いただけで、最後のイラン旅行のすべてを思い出せます。
エジプトも印象的でしたが、イランもまた実に印象的で、ギリシア世界とは異質でした。

イラン旅行で知り合った、私たちよりも年上の2人の女性たちは、どうされているでしょうか。
帰国後、節子が声をかけて、そのおふたりと湯島で会食をしました。
しばらくは節子との交流があったようですが、節子が発病後、残念ながらそれも途絶えてしまったようです。
もうおふたりとも80を超えているでしょうから、もしかしたら彼岸で節子に会っているかもしれません。
節子との旅行は、いつも誰かと知り合えました。
私にはできないことでした。

イランにはいろんな思い出があるはずですが、実は具体的にはあんまり思い出せません。
あるシーンは思い出せるのですが、それがつながりません。
その時に撮った写真を見れば思い出すのかもしれませんが、一人で見る気にはなれません。
イランも、遠い昔になってしまいました。

■3274:イランに節子の写真があるかもしれません(2016年8月19日)
節子
今日も暑い日でしたが、風に秋を感じだしました。
時は確実に動いています。
それについていけていない自分を時々感じます。

昨日、イランの話を書きましたが、週に何回か届く鈴木さんのハガキに、こんなことが書かれていました。

「サマルカンドへ」も半分ぐらいまできました。
旅人に対するイラン人のもてなしぶりはあのとおりです。
とくに日本人に対しては、より親切だったかもしれません。

「サマルカンドへ」は、前にこの挽歌でも言及した、ベルナール・オリヴィエのシルクロードを歩いた記録の本です。
ちなみに鈴木さんも、20年前に、シルクロードを鉄道で旅しています。
その時のことを書いているのです。
「イラン人のもてなしぶりはあのとおり」と書いているのは、これは同書を読んでもらうしかありませんが、イラン人のもてなしぶりには私も感心しました。

私たちがイランに行った時はどうだったでしょうか。
残念ながらツアー旅行だったので、ほとんど個人的な接触はなかったのですが、どこかのミナレットで会ったイラン人の家族とのささやかな交流はなんとなく残っています。
ちょうど結婚式を終えたばかりの家族と出会ったのですが、なぜか節子は、その家族の中に呼びこまれて一緒に写真を撮られたのです。
残念ながらその写真は入手できていませんが、もしかしたら今もその家族のアルバムの中に、節子が写った写真があるかもしれません。

そう考えると、人はいろんなかたちで、現世に足跡を残していくものです。
今日もイランの番組をつづけて放映していました。
ペルセポリスが紹介されていました。
あそこでもイランの若者たちと話し込んでしまい、肝心の遺跡を見る時間が少なくなってしまったのを覚えています。
私にとっては憧れのペルセポリスだったのに。
その時に連絡先を交わしたはずなのに、写真を送っても返信がありませんでした。
その後、政情が乱れたためでしょうか。
それもまた思い出の一つです。

■3275:ライフシェア・コミュニティ(2016年8月21日)
節子
昨日は朝から大忙しでした。
台風の大雨の中を湯島に行って、2つほどの相談を済ませ、午後からは「自民党改憲案を読む会」を主催し、その後、リンカーンクラブの打ち合わせ。
しかも、この間、3つの組織の立ち上げの相談もやりました。
最近あまり調子が良くないのですが、まあハードな1日で、疲れ切りました。
しかし、私を支えてくれている仲間がいるので、なんとか持っているという感じです。

生活保護などに関わっている友人が、現在の中高年の人たちは、いまのままだとほとんどが生活保護の対象になりそうだと教えてくれました。
生活の仕組みが完全に壊れだしているわけです。
そういう意味では、私は実に幸運な時代に生まれたわけです。
たしかに、日本では1940年代から90年代は、住みやすい時代だったと言えるでしょう。
それをこわしたのは、たぶんお金でしょうが、幸いに私はお金の魔力には呪縛されませんでした。

お互いに支え合いながら生きていける仕組みを作ろうという話も、今日も話題になりました。
さてどうやったらそれができるのか。
そこでLSC(ライフシェア・コミュニティ)構想に取り組むことにしました。
ライフシェアな生き方の仲間づくりです。

私の場合、節子とのライフシェアな生き方のおかげで、わがままな生き方を持続できました。
そういう節子との夫婦関係がつくれたのは、実に幸運でした。
崩れそうになったこともありましたが、最後はほとんど完成の域に近づいていたと思います。
その一歩手前で、節子は旅立ってしまいましたが。

それを今度は、夫婦ではなく、複数の、しかも開かれて持続可能な仕組みにしていくにはどうしたらいいか。
理論的には構想はできますが、人間的にそれを組み立てるのは至難でしょう。
しかし、それをめざした、ゆるやかなコミュニティはできるかもしれません。
歳を考えると、その取り組みには躊躇しますが、考えるだけで元気が出てきますので、まあ今は、元気づけのビタミン剤として構想を楽しんでいます。

自らの人生をシェアできる人がいないことの寂しさは、とても耐えられるものではありません。

■3276:台風直撃ですが出かけます(2016年8月22日)
節子
今朝、関東地方に台風が上陸し、朝から雨です。
今日は、前々から集まりを予定していたのですが、残念です。
参加予定者には連絡はしたのですが、不特定多数に案内を出している集まりなので、私自身は湯島にいなければいけません。
上陸した台風に向かって、雨の中を出かける予定です。
ちょっぴりワクワクする気はしますが。

しかしその集まりの前に、もうひとつ、かなり憂鬱な用件で人に会わなければいけません。
人と関わっていると、しかも私のように、人情的な付き合いをしていると、時にとんでもない事態に陥ることがあります。
ほとんど何も考えずに、印鑑を押してしまったことから生じたトラブルに直面しているのですが、話し合っても埒があかないので、今回は思い切って訴訟を起こすことも考えることにしました。
前にも一度、友人の弁護士に相談したのですが、いろいろと考えて、私には訴訟は向かないなと判断して放置したのが失敗でした。
とても残念ですが、今回はすっきりしたので、苦痛を背負いながら弁護士と相談しようと思っています。
しかし、人と付き合うことに注意しなければいけないというのは、何とも哀しい話です。

節子がいたら、こんな事態にはならなかったでしょう。
自分を見失っていた時の失策です。

さて雨がひどくならないうちに、出かけようと思います。
今日が良い日になるか悪い日になるか。
どちらでしょうか。

■3277:藤棚倒壊(2016年8月23日)
節子
昨日、わが家は台風の強風に直撃されました。
節子のお気に入りだった庭の藤棚が倒壊してしまいました。
つくってからもう15年近く経ち、ちょっと危なかったので、庭師の方には見てもらっていたのですが、今年は大丈夫だろうと言われていました。
満開のノウセンカズラがおわったら建て替えることにしていたのですが、間に合いませんでした。
幸い、倒れた方向がよかったので、あまり被害はありませんでしたが、15年育った藤の木には申し訳ないことをしました。
たしか鉢植えの藤を地植えにして大きくしたのだったと思います。
私は留守をしていましたが、すごい風だったようです。

今朝は、その整理に取り組みましたが、何しろ大きく育っており、棚も古い丸太で頑丈につくっているため、一苦労でした。
ユカは専門家に頼もうというのですが、節約のため、ユカにも手伝ってもらい、何とか大きな片づけはできました。
しかし、ふたりとも止めどもなく汗が出てくるほどの重労働でした。
こんなに汗が出てくることは、久しぶりです。

藤の木は根本1メートルほどの幹だけを残しましたが、根っこまでやられてしまっているため、いささか不安です。
いずれにしろ当分は花を楽しめないでしょう。
ノウセンカズラは成長の速い樹なのですがこれも根元からやられてしまいました。

幸いに直前にユカが庭のテーブルを移動しておいたので、テーブルは無事でしたが、いろんなものが壊れてしまいました。
ちょっと油断しすぎました。

しかし、藤棚がないとリビングは明るくなります。
藤棚を復活させるか、廃止するか、いま協議中です。
室内から楽しむとしたら、棚ではなくて、盆栽仕立てがいいかもしれません。
節子だったら、どうするでしょうか。
作業疲れで、いまは思考力がありません。

■3278:沢蟹は見えませんが存在します(2016年8月26日)
節子
気忙しい毎日に陥ってしまっています。
伴かも2日間、書かずにいました。
たいしたことをやっていない時に限って、そうなります。
問題が多発しすぎですね。
いささかオーバーロードです。
そのくせ充実感は皆無。
こういう時は要注意です。

今朝は、秋晴れのとても気持ちのいい朝です。
やることの多さに、いささかつぶされそうになっていますが、秋の空を見ていると元気が出ます。
台風で、庭は大変な状況ですが、池は幸いに無事でした。
先日放した沢蟹たちが歩いていないかと、時々、見に行きますが、一度も出会えていません。
それぞれの場所を見つけて安住していてくれるといいのですが。
姿は見えませんが、庭のどこかに沢蟹が元気にしていると思うと、なぜか豊かな気持ちになります。

人間の世界は、その人の脳が創りだす世界だと言われます。
実際に沢蟹が見えなくとも、そこに沢蟹が棲んでいることを知っていれば、もう十分なのです。
実際に、私たちに見えている世界は、ほんの一部でしかないのですから。
たまたま見えなかっただけと考えればいいだけの話です。

これは沢蟹に限った話ではありません。
現実の世界では、人には限界があります。
しかし、現実の限界は、知識と想像で無限に広げられるのです。
たとえ節子には実際に会うことは難しいとしても、節子がいる世界に生きることは可能なのです。
さらに言えば、これは節子に限った話でもありません。
世界は、そうやって豊かにしていけるのです。

しかし、豊かにしていくことは、ある意味でさまざまなわずらわしい問題も生み出します。
人と関わることは、かならず何らかの軋轢を伴うものですから。
そして、時にオーバーロードとなってしまうのです。
あまりにも複数の世界に生きているために、藤棚のように、私自身が倒壊しそうになっているのかもしれません。

今日は、発達凸凹組合を作りたいと言っている若者が数人湯島に来ます。
毎日、まったく違う世界を体験することは、昔は「元気の素」でしたが、どうも最近は「疲労の素」になっているのかもしれません。
いのちは無限としても、どうも身体には限度がありそうです。

■3279:異変(2016年8月27日)
節子
昨夜、「異変」が起こりました。
夜の9時頃ですが、パソコンに向かっていたら、
左の手足が私の意志とあまり関係なく動きだしたのです。
それもほぼ必ず3動作の組み合わせです。
上、下、横と動くのです。
パソコンをやっていても、落ち着かない、左手と左足がある。
身体の違和感がなくならないので、ともかくシャワーを浴びて、寝ることにしました。
ところが、ベッドに横になっても、何やら動きたくなる。
なにかの前兆でしょうか。
何か身体の違和感をもちながらも、寝てしまいました。

今朝はだいぶおさまってきましたが、まだ落ち着きがない。
もうひとりの私が、右脳で目覚めてしまったのでしょうか。
それでまあ、いつものように、フェイスブックに状況を書いて、
こんな経験された方はいるでしょうか、と訊いてみました。

これがよくありませんでした。
いろんな人から、すぐに医者に行けとメールが届きました。
それに思ってもいなかった人からもです。
予兆を見逃して、大変な思いをしたという体験を語ってくれる人もいました。
病院を調べて、送ってきてくれた人もいます。
フェイスブックの効用を、改めて感じます。
普段は交流がなくても、どこかでつながっている。
私にとっては、理想的なゆる〜いつながりのコミュニティです。

娘はすぐに医者に行こうと言いますが、今朝はかなり安定しているので、今日の予定をキャンセルして自宅療養で了承してもらいました。
娘は出かける時に、何かあったら電話するようにと、めずらしく本気で心配しているようです。
午後は一人でのんびりしていました。
フェイスブックを見ると、ますますいろんな人が書き込んできています。
個人的にメッセージをくれた人もいます。

そこで、私もまた書き込みました。

みなさん ありがとうございます。
午前中は少しだけ身体を使う用事があったのですが、午後の予定はキャンセルして休養を取るようにしました。
その身体を適度に使うのが良かったのか、症状はほぼ消えました。
しかし、一度、身体を乗っ取られた記憶がどこかに残っている気はします。
初めての経験でしたので、興味深いです。
しかし、やはりどこか心身に違和感があるのは事実なので、できるだけ早くお医者さんに行くつもりです。
ただ、私にはちょっと自虐的な性向もあって、身体は朽ちるに任せるのがいいという気持ちがどこかにあるのです。
ですから、お医者さんに行くとなると、まあいろいろとあるので、どれを優先するかです。
あまりにも問題が多いのです。
性格の悪さの治療を最優先すべきかもしれません。
困ったものです。

後半の文章が良くなかったようです。
さらにコメントがきびしくなってきました。

真面目な話、本当に早く診断を受けてください!
右脳に軽い異常が起こっているかも知れません。

脅かすわけではありませんが母は前兆症状を軽んじて亡くなりました。
なにとぞたくさんの佐藤さんファンのためにも病院へ。

私がいた東北では、どこの病院も混んでいてなかなか診ていただけないのが現状でした。
いつでも診察を受けられることに感謝して、素直に通院された方がよいと思います。

右脳に異常? ちょっと興味があります。
私は、ジュリアン・ジェインズの二分心という考えに共感しています。
ジェインズによれば、3000年前までは,人類は意識をもっておらず,右脳から響く「神々の声」に従っていた、というのです。
もしかしたら、神々の声が聴けるかもしれません。
まあ聴けたとしても、現世で聴けるかどうかは確信は持てませんが。

それに、ファンがいるとは思ってもいませんが、もし万一いたとしても、ファンのために病院に行くと言うのは私の思考にはなじみません。

でも最後のメッセージは反論できません。
「診察を受けられることに感謝」。なるほど、そういうことか。
来週、病院に行こうと思います。

実は節子には内緒ですが、他にもいろいろとあるのです。
歳をとると、いろいろあります。

節子がいないいま、私自身は死ぬことには何の抵抗もないのですが,それでも困る人はいるでしょう。
私の死で迷惑をかけたり、困ったりする人をいなくしたうえで、死ぬのが責任かもしれません。
生きるのも大変ならば、死ぬのも大変です。

今夜もなにごともありませんように。
やはりちょっと違和感はありますから。

■3280:宗旨替え(2016年8月28日)
節子
先日からの「異変」の症状はほぼおさまりました。
今週、病院に検査に行こうと思いますが、最近、かなり身体的な不調和は大きくなってきています。
私は、どこかに身体は自然に朽ちるのがいいという考えがありますので、健康に気をつけるという発想が弱いのです。
たとえば、私の眼はかなり前から「異常」を感じますし、まぶたが落ちてくるという、あきらかな病状があります。
ですから視力もあまりよくなく、特に午前中は読書さえかなりつらいです。
眼医者に行って治療すればいいのですが、どうも行く気にはなりません。
さすがに最近はあまりにひどいので、行こうと思いながらも、先延ばししています。

ほかにもいろいろあるのですが、書くとまたいろんな人から叱られそうなのでやめますが、身体を補修しようという発想があまりないのです。
形あるものは壊れていく。
その自然の摂理に抗うことは、あまり好むことではありません。

今回の件では、神経内科がいいと複数の人から言われました。
脳神経外科を薦めてくれた方もいます。
リンパ師の方からは施術をしてもいいよと申し出がありました。
まあ、とりあえず近くの病院に行くつもりですが、こうやって何か問題が起こった時に、オープンにしてしまうことの意味を改めて実感しました。
現代社会の問題の本質は、個々人が自分の問題を自分で所有しすぎてしまうことかもしれません。
人は一人では生きていません。
なにがしかの影響を周辺に与えながら生きている。
人のいのちは、その人だけのものではない。
節子との別れで、私が一番強く実感できたのは、そのことです。

最近読んだ岩井克人さんの「経済学の宇宙」にこんな文章がありました。

他人の心の働きを自分の心の働きと同様に感じ取るミラー・ニューロンの発見は、人間は他人と互恵的な関係に入る性向を生得的に持っていることを示唆しています。私たち人間は、まさに社会的本能として、様々な驚くべき能力をあらかじめ脳の中に書き込まれてこの世に生まれてきているのです。

私の人生経験からも、このことは納得できます。
であれば、やはり病院に行かねばいけません。
私も宗旨を変えて、ガタガタの身体を少し補修するようにしようと思います。
娘は、まずは無茶をするのをやめるようにといいます。
娘から見ると、私はどうも無茶苦茶に生きているようなのです。
まあこればかりはいまさら治せませんが、過剰な無茶は控えようと思います。
まあ今はそう思っています。

■3281:異変の診察結果報告(2016年8月29日)
節子
朝、ご無沙汰している本間さんから電話がありました。
何だろうと思ったら、「病院に行かないといけない」というのです。
まさか本間さんまでFBを読んでいるとは思ってもおらず、少し慌てました。
それが決め手になって、電話終了後、すぐ病院に行きました。
3時間半かかりましたが、いろいろと検査してもらいました。
結論は特に大きな問題はなく、経過観察でいいそうです。

以下、退屈な報告です。
可能性がある原因は3つでしたが、いずれもすぐにどうということはありませんでした。
何しろ症状が落ち着いてしまっていたからです。
今度、呂律が回らないようなことがあったら、救急車を呼んでください、と言われましたが。
一時的に血液が十分に行かなくて、不随意筋の動きを抑える機能が緩んだというのが、一番可能性の高い原因のようです。
MRIの結果は、前回と同じく、軽い脳梗塞はかなり起こしているようでしたが、まあそれは老化の結果、つまり健康の証拠です。
首のレントゲンからは、脊椎にちょっと問題がありましたが、まあそれも老化のうち。

しかし、思わぬところで問題が発見されました。
血液検査の結果、腎臓機能などにもつながる4つの指標が基準を超えていました。
このままだと、脳梗塞を起こしやすくなると言われました。
詳しくはかかりつけの先生に相談するようにと言われましたが、
今日も、毎日1時間の散歩と食事療法の指導がありました。
健康のための散歩は、私の趣味に合いませんので、指導には従いませんが、
苦手の豆腐を買い日食べることにします。

以上が結果報告ですが、病院での待ち時間に、鎌田茂雄の「正法眼蔵随聞記講話」を読んでいました。
MRIが混んでいたので、1時間以上待たされておかげで、読み終えました。
そこにこんな文章が出てきました。

「設ひ発病して死すべくとも、猶只是れを修すべし。病ひ無ふして修せず、この身をいたはり用ゐてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり。

道元は、「健康であっても修行もせずに、ただ身体をいたわっていても何にもならぬ。病気になって修行してその結果死んだとしてもそれでよいのだ」と言っているのです。
さすが、道元。
いや、さすが佐藤修。道元と同じ考えなのです。
人生はすべて、修行。

それはともかく、大きな問題は見つかりませんでしたが、症状がすっきりしたわけではありません。
なんとなく今も頭がおかしいし、右手は軽い痺れを感じます。
老廃物がきっと身体にたまっているのでしょう。

この記事を読んだリンパ師の丸山さんから、よかったら施術してやるよと連絡が来ました。
丸山さんとは一度しかお会いしていないのですが、うれしいです。
丸山さんは早い方がいいので今日はどうかといわれましたが、この数日、まったく動きがとれません。
それで今度の日曜日にお伺いすることにしました。

というわけで、一件落着です。
しかし、いろいろと気づかされることがたくさんありました。
また時評編で書かせてもらおうと思っています。

■3282:やはり治療をしたくなりました(2016年8月30日)
節子
まだ異変の余韻が残っています。
検査はしてもらいましたが、何も治療的なものはしていないため、体調は変わりなしです。
今日も、企業の関係者とのミーティングをもったのですが、みんなからやはり神経内科には行ったほうがいいと指摘されました。
企業にいると、やはりいろんな病気の体験者を知っているようです。
みなさんと違ってさほど社会の役には立っていないので、私の身体をケアするコスト・パフォーマンスは、社会的に引き合わないよと話しましたが、やはり体調の違和感が残っているのはあまり気持ちのいいものではありません。
でもまあ、幸か不幸か、今週は目いっぱい用事が入っています。
日曜日の午後、はじめて施術を受けられるのですが、それまではこのまま持続しなければいけません。

またおかしなことを書きますが、人の死はいつも突然です。
医師にはわかっていたと思いますが、節子の死もまた、私にとっては突然でした。
同時に、人の死は日常の事柄です。
今日も台風の水害事故で数名の人が亡くなっていますが、マスコミでは毎日紙が報じられています。
当事者には突然でも、世間的には日常なのです。
私が、突然死んだとしても、世界は何も変わりません。
その死が、長く残るのは、極めて例外的な話なのです。
そして、私の死の場合には、たぶん誰の心にも長くは残らないでしょう。
なぜならば、私には両親も妻もいないからです。
死が人生に大きな影響を当てるのは、基本的には妻と子どもたちだろうと思います。
親は自分より先に死ぬのが普通ですので、悲しいとしても受け入れられます。
子どもの死は、たぶん親の人生を変えるでしょう。
妻の死は、もし夫婦関係ができていたら、夫の人生を変えるはずです。
夫の死が妻の人生を変えるかどうかは、あまり自信がありませんが、仮に私が先に死んでも節子の人生は、そうは変わらなかったのではないかという気がします。

生への執着はあまりないのですが、身体の違和感はいささか不快です。
だから死について考えたわけではないのですが、毎日たくさんの人たちが死んでいることを考えると、何かとても不思議な気がします。

支離滅裂な文章になってしましました。
やはり神経のつながり方が、どこかでおかしくなっているのでしょうか。
頭の後ろが、なにかもやもやした感じで、明日の打ち合わせの資料作りはあきらめて、早いですが、今日はもうパソコンはやめましょう。
あの奇妙な感じの再発は避けたいですので。

■3283:救いの人の突然の来訪(2016年9月2日)
節子
節子の友人たちから、また花が届きました。
節子の命日が近づいたのです。
明日は10回目の命日。
早いものです。

例年、命日の前には生活のリズムを整え、この挽歌のナンバーも、節子が旅立った日からの日数に合わせるのですが、今年はそれができませでした。
私が先週、体調を崩したこともあるのですが、まあそれだけではありません。
何か「明らめ」「諦め」の気分があるためです。
それがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんが。

昨日、突然、友人が湯島に来ました。
仕事で疲れ切ったというのです。
職場での人との付き合いに疲れていました。
人と関わるのは、本当に疲れます。

人と付き合うのは疲れること。
でも、人と付き合わないとさびしい。
そう話しました。
私自身、いままさにそのために疲れ切っているからです。
これはジレンマです。

その後、またいささか疲れるミーティングをやりました。
なぜか彼女も同席していました。
なにかこんなことが昔あった気がしてきました。

以前、インドのサイババという人が話題になったことがあります。
ある人によれば、宇宙にあるアガスティアの葉に通じていると言われた人です。
アガスティアの葉とは、私は空海が通じていたと言われる虚空蔵だと思っています。
そのサイババに会いに行ってきた人が、なぜか湯島に来ると言うので、サロンをやったことがあります。
その時に、声をかけてもいなかったのに、福島にいた飯田さんが突然やってきました。
当時、「生きがいの創造」という本で話題になっていた人です。
なんで来たのか、と彼に訊いたら、佐藤さんが心配でと言われました。

人生には不思議なことがよく起こります。
昨日の人は、途中で外に行って、私に豆サラダを買ってきてくれました。
私は豆が苦手ですが、先日、病院での食事指導で豆を勧められていたのです。
頑張って食べました。

人生には良いこともあれば、悪いこともある。
人と関わるのは疲れますが、良いこともある。
死にそうなほど疲れて帰宅したら、今日の午前中のミーティングを延期したいというメールが入っていました。
今日はゆっくりできそうです。
気分的に嫌なことを、未だひきずってはいるのですが。

■3284:ユリの香り(2016年9月2日)
節子
できるだけ追いつくように、もう一つ挽歌を書きます。
発達障害のコミュニケーション支援の活動をしているKさんから、相談があるとメールが来ました。
電話で話し合いましたが、あるプロジェクトの相談でした。
長電話になりましたが、彼がいささか防衛的になっている気がしました。
彼は、自分に誠実すぎて、いささか世間的ではないのかもしれません。
だから生きづらいのかもしれません。

考えてみれば、私もそうかもしれません。
昨日もある相談で弁護士のところに行ったのですが、同席した友人が私の生き方に改めて驚いたと言っていました。
褒め言葉ではありません。
むしろこれまで「師匠」と思っていたが、ちょっと不安になったというのです。
やっと気づいたのかと言いたくなりますが、なかなかわかってはもらえないのです。
節子は生活を共にしていたから、わかってくれたのでしょう。
自らの生き方をわかってくれている人がいると、とても安心できます。
その節子がいないので、疲れた時に寄港するところがないのです。
まさに彷徨人。

今日は予定を延期してもらったので、その気になれば気ままに過ごせます。
しかし、昨日の疲労感が残っています。
精神内科に行こうかと調べたのですが、前回と同じ検査をやられるのではないかという気がしてきました。
神経内科とか脳外科とか、医学科目の細分化は研究側としてはいいでしょうが、医療の現場からはやめてほしいです。
医学と医療の違いに、なぜ病院は気づかないのか。
毎回、検査をされていたら、たまったものではありません。
むしろかかりつけのクリニックの医師に相談に行くのがいい気がしてきました。
せっかく、昨日は行く気になったのですが、もう今日は行きたくなくなってきました。
困ったものです。

まあ、そんな感じで、今日はだらだらと過ごす予定です。
9年前の今日は、奇跡が起こりかけ、そして奇跡が終わった日です。
あの日から、私の世界は一変しました。

節子の位牌の前は、ユリの香りが充満しています。
奇跡への期待は、いまもまだ消えていません。
きっといつかまた会えるでしょう。

■3285:節子の親友たちと電話で話しました(2016年9月2日)
節子
命日が近づくと、毎年、節子の友だちの福岡さんと田村さんから花が届きます。
この2人は、節子の滋賀時代の友人ですが、節子が発病して以来、節子が滋賀に会いに行く時には私も同行するようになりました。
福岡さんの住んでいる近江八幡でも数回お会いしました。

滋賀時代、私もおふたりとは面識もありました。
とりわけ福岡さんにはお世話になりました。
節子が病気になった時、福岡さんに頼んで節子にお見舞いのぬいぐるみを持って行ってもらったこともあります。
私の記憶に間違いがなければですが。
福岡さんは、とても純粋で正義感の強い人なので、私は一度、節子への態度が不誠実だと叱れらて記憶もあります。

例年のように、花が届いたので、お礼に電話をかけました。
2人とも元気そうでした。

福岡さんは、ちょうどプールに出かけていた時で、ご主人と話ができました。
ご主人も知っているのですが、とても自然に生きている人のようで、話がとても合いました。
節子が元気だったら、もう少し夫婦でお付き合いできたと思うと残念です。
私と同じ世代ですから、友人たちが少しずつ欠けだしているようで、今年は3人の友人を見送ったようです。
まあ私たちもそういう年齢になっているわけです。

田村さんに電話しましたが、数回かけましたが不在でした。
女性たちは、みんななにかと忙しそうです。

お昼過ぎに、ようやく田村さんとも電話が通じました。
夫婦ともども、お元気のようでした。
ご主人は、農業と福祉をつなげる先駆的な活動にたぶんいまも関わっているのでしょう。
節子がいたら、一緒にその施設を訪問できたでしょうが、これまたとても残念です。
電話での私の声は、どうも元気そうだったようで、そう言われましたが、実は電話の前で座り込んしまうほど、疲れていました。
そういえば、節子も病気になってから、電話の時の声が異様に元気そうだったのを思い出します。
もしかしたら、電話の声の元気さは、元気でない証拠なのかもしれません。

夕方、午前中は留守だった福岡さんが電話してきました。
お元気そうでしたが、まあ話題といえば、年齢相応で、いまお墓を探しているというような話でした。
話題がそもそもお互いに「元気」ではありません。

節子と福岡さんと田村さんは、仲良し3人組でしたが、私が最初に会った時は、それこそまだあどけなささえ感じる純情な乙女たちでした。
もっともその頃の私は、それ以上に、子どもっぽい世間知らずに子どもだったのですが。

あれから50年。
みんな大きく変わりました。
いや、実はみんな何も変わっていないのかもしれません。
届けてくれた花を見ながら、少し当時のことを思い出したりしていました。

明日は節子の10回忌です。
昨夜会った人が、妻を亡くした男性は4,5年で亡くなることが多いというような話をしていましたが、私はその倍も生きてしまいました。
自分ながら、信じられない気がします。
今日、まったく元気が出ない理由が、なんとなくわかりました。

■3286:10回目の命日(2016年9月3日)
節子
節子がいなくなって10年目に入りました。
何もなかったような9年間でもありますし、あまりにもたくさんのことがあった9年間でもありました。
ただ、わが家の生活環境はほとんど変わっていません。
もし仮に、節子がいま戻ってきても、この9年間が全くなかったように過ごせるでしょう。
たぶん子どもさんを亡くされた方たちは、そういう思いで、子ども部屋をそのままにしていたりしているのでしょう。
自分が体験してみないと実感できませんが、それは特別のことではなく、実に自然の成り行きなのです。
なにしろ「不在」を実感していないのですから。

とはいえ、9年は長い。
庭は荒れ、私自身も朽ち果てそうです。
健康にいたいという気持ちがある一方で、どこかで老いを肯定している気持がある。
健康に生きながらえても、意味を感じられないからです。
しかし、与えられて生は、あまりおろそかにはできません。
私だけのものではないからです。

10回目の命日ですが、当初は10回忌の法事を開催しようかと考えていたのですが、迷った挙句に、今日はただただ静かに過ごすことにしました。
私の勝手な思いで、風習にはない10回忌法事を呼びかけても、戸惑う人の方が多いでしょう。
それに声をかけようと思っていた親戚のみなさんも、みんな私と同じく高齢ですので、いろいろと事情を抱え込みだしているのです。

娘とお墓に行って、菩提寺にお礼を行って、あとは静かに1日を過ごす。
たまには、そういう法事もあってもいいでしょう。

■3287:般若心経が出てこない(2016年9月3日)
節子
ユカと一緒にお墓に行ってきました。
お線香をあげて、般若心経を唱えだしたのですが、途中で躓いてしまいました。
また最初から唱えだしたのですが、やはり途中で次の言葉が出てこない。
3回目もダメだったので、省略版で済ませてしまいました。
やはりどこかちょっとずれだしたのかもしれません。
思い出そうとすればするほど、思い出せない。

2週間ほど前に、お施餓鬼があったのですが、兄に任せて私は来ませんでした。
その時の、新しいお塔婆が立っていました。
最近、ちょっと足が遠のいていたので、おとがめがあったのかもしれません。

それもあって、久しぶりに本堂にお参りしました。
宝蔵院は、本堂の隣に小さな社もあるのですが、そこにもお参りしました。
節子がいた頃は、毎回、お墓に来るたびに本堂にもお参りしていたのですが、最近どうも省略しがちになっていました。
手を抜いてはいけません。

本堂をお参りした後、般若心経を改めて口に出してみたら、最後まで躓かずに唱えられました。
おとがめが解かれたようです。

帰路、八百屋さんに寄ったら、おいしそうな大きな桃がありました。
私好みの、硬い川中島です。
奮発して買ってきて、節子にも供え、早速食べました。
あんまり果糖はとらないようにと先日注意されたばかりですが、今日はまあいいでしょう。

ある本で、誓いを立てる自分とその誓いを破る自分は、別の自分であるという話を読んだことがあります。
とても納得できる話です。

やらなければいけないことは山積みですが、やりたいことは全くないので、今日はともかくのんびりです。
花の香りに包まれながら、何をするでもなく、過ごしています。
こういう毎日を過ごしながら、いつか旅立っているというのもいいかもしれません。

だいぶ涼しくなりました。
久しぶりに畑に行くのもいいかもしれません。

節子が旅立ってから、今日で3289日目です。
あと2つ挽歌を書くと追いつけます。

■3288:沢蟹とゴキブリ(2016年9月4日)
節子
10回目の命日も終わりました。
何もなかったようで、いろいろとあった静かな法事の1日でした。
今日からは、この1週間の眠ったような生き方から抜け出そうと思います。

朝、恒例になっているのですが、庭の池を見に行きました。
池に放して以来、沢蟹の姿は一度として見ていません。
元気にしているといいのですが。

実は迷った挙句、最後の4匹は池に放さずに、まだ室内で飼育しています。
とても元気ですが、やはり自然に戻すのがいいのではないかと迷います。
さてどうしたものか。
しかし、沢蟹の姿を見ていると、なぜか心がやすまります。
もうしばらくは室内に置こうと思います。

昨夜、夜中にキッチンでゴキブリと遭遇しました。
反射的に近くにあったハエたたきで、叩いてしまいました。
むごいことに、ゴキブリはつぶれてしまいました。
同じ生物なのに、一方は愛玩され、一方は殺傷されてしまう。
考えてみると不思議な話です。
生き物にも、相性があるのかもしれません。
生き物は、すべてがつながっているわけではない。

人もそうかもしれない、とふと思いました。
にもかかわらず、私はすべての人が好きになります。
いや、好きにならないといけないという強迫観念があるのかもしれません。
会った人には、何か私にもできることがあるのではないかと思ってしまう。
それで過剰に人に関わってしまう。
そして、相手もみんな、そうだと思い込んでしまう。
これは思い上がりかもしれません。

この歳になって、こんなことに気づくのはおかしいのですが、昨日の静かな法事で、なんとなく気づいたことの一つです。
私の生命力が弱まっている、あきらかな証拠かもしれません。

節子
10年目がはじまりました。
良い年になってほしいです。
心底、そう思います。

■3289:リンパ&カイロセラピー(2016年9月4日)
節子
今日はむかし住んでいた保谷(現在は西東京市)を少しだけ歩いてきました。
偶然だったのですが。

私の体調不良を知って、リンパ師の丸山さんという人が施術を申し出てくれたのです。
他者の親切は、素直に受けることが大切だという私の信条から、ご好意を受けさせてもらうことにしました。
中央線の三鷹まで迎えに来てくださったのですが、何と丸山さんの施術院は、私たちが以前住んでいた家の近くだったのです。
それで懐かしくなり、帰りは保谷駅まで歩いてみました。
駅に向かう途中の道は、なんとなく雰囲気が残っていましたが、駅周辺は一変していました。
千葉に転居後、保谷に行ったのは初めてです。
ここもいろんなことがありました。

丸山さんは、リンパ&カイロセラピーを開業しています。
知る人ぞ知るという感じで、完全予約制でやっています。
今日はわざわざ私のために開いてくれたようで、3時間近くにわたり、説明と施術をしてくれました。
私の顔を見ながら、リンパの流れが悪く、老廃物が滞留しているので、それを流してやれば、心身が軽くなると言われました。
終わった後、顔も身体も変わりましたよと鏡を見せてくれましたが、そう言われればそんな気もしました。
たしかに身体が軽くなったばかりでなく、生命が生き生きしてきている感じが、いまも残っています。
もちろん1回きりの施術では限界がありますので、もう少しお近くであれば定期的に通いたいのですが、わが家からは2時間近くかかるのでちょっと迷っています。
高血圧も食事療法で治るというガイダンスも受けました。
頭の中の身体操縦士を変えたほうがいいという話を、比喩的にしてくれましたが、操縦という言葉が私の生命観に引っかかってしまいましたが、それはそれとして、これまで受けたさまざまな療法のなかでも、効果がかなり実感できるものでした。

節子も、発病後、日本上部頸椎カイロプラクティックに通ったことがあります。
私も受診しようとしたのですが、なぜかあなたはいいと言われた記憶があります。
リンパに関わる治療は、官足法という施術を湯島に来てもらって受けていたことがあります。
症状が悪化してからは、私が毎日2回、施術していました。
節子のおかげで、さまざまな医療を私も体験させてもらいました。
アーユルヴェーダも気功も整体も、ホメオパシーも、インカ療法も、マクロビオテックも。
しかし、どれも節子を守れませんでした。
唯一奇跡を起こしかけたのが、重イオン水とフコイダンでしたが、結局は生命の定めには抗えませんでした。

節子がいなくなってからは、そもそも健康そのものへの関心を失っていました。
いまも正直、健康でいたいという気はあんまりないのです。
困ったものです。

それはともかく、今日は丸山さんのおかげで、元気をもらえました。
そして少しだけまた健康への関心も回復させてもらいました。

今日はきっと熟睡できるでしょう。

■3290:節子の学友からのメール(2016年9月5日)
節子
節子の小学校の同級生の雨森さんから、メールが来ました。
10回目の命日の記事を読んでくれて、むかしの節子が書いた手紙などの写真を送ってきてくれたのです。
もうひとりの同級生と3人で撮った、節子の写真もありました。

勝手ですが、一部を引用してしまいましょう。
雨森さんは、たぶんそんなことには怒らない方ですので。

そうですか、10年目に、そして3,289日、妻への挽歌も3,289回 すごいことです。
褒めさせて頂くのもおかしなことですが。
節ちゃん十分生きられる歳ですから、残念です。
懐かしくなって、小生の保存用書棚から、思い出の品を出してきて 思い出と共に眺めていました。

思い出の品? 
素晴らしい絵と文の冊子は、妻が病気になった時、小生の家の玄関に(私は病院に居てお逢いできなかった)お見舞いとして節子さんがおいて下さったものです。
ちょっとUPして添付します。

修様、お身体大切に、節ちゃん早かった分まで、頑張って頂かないと。 

雨森さんは節子の幼なじみの男友達です。
クラスのまとめ役だったと節子からは聞いていました。
その雨森さんの奥さんが病気になった時に、ちょうど滋賀に行っていて、お見舞いがてらご自宅にお寄りしました。
私も一緒に行きましたが、メールにあるように、お留守でした。
そこで、お見舞いにと節子が、玄関に、星野富弘さんの花の詩画集「鈴のなる道」をおいてきたのです。
たしか、節子が少し小康状態にあり、希望が生まれて来たころだったように思います。
だからこそ、病気の人には元気になってほしかったのだろうと思います。
雨森さんは、その詩画集のあるページを写真にとってメールに添付してきてくれました。
そこに書かれているのは、こんな詩です。

今日もまた一つ
うれしいことがあった

笑ったり泣いたり
望んだりあきらめたり
にくんだり愛したり
・・・・・・・・
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった

まさに、あの頃の節子の心境。
私にとっては、そんな節子が輝いて見えていました。
だから、その節子にできるだけ同行して、「平凡」な時間を過ごしていたのです。
仕事はほぼすべてやめていました。
いまから考えれば、私たちにとってもっとも幸せだった時期なのかもしれません。
しかし、幸せには必ず、終わりが来るものです。
でも欲張っては、星野富弘さんに叱られるでしょう。

思い出して、節子の残していった書棚を見たら、
星野富弘さんの「かぎりなくやさしい花々」がありました。
節子もまた、星野さんの詩画集で元気づけられていたのです。
だから雨森さんの奥さんへのお見舞いに、星野さんの詩画集を選んだのでしょう。

雨森さんから、節ちゃん早かった分まで頑張って頂かないと、といわれると、少しは健康に気をつけなくてはいけないなと思わないわけにはいきません。
しかし、節子がそれを望んでいるかどうかは、確信が持てません。
でもまあ、善司というお名前があらわしているように、仏様のように善良な雨森さんの言葉ですから、素直に従おうと思います。

やはり近日中にお医者さんに行こうと思います。
リンパの流れはよくなったのですが、やはり基本的には状況は変わっていない気がしますので。

■3291:家族の会食(2016年9月6日)
節子
先日の命日には家族が全員集まれなかったので、今日、改めてみんなでお墓参りに行き、食事をしました。
孫がお墓に行くのは、今日が2回目ですが、先日つっかえてしまった般若心経は今日はうまくあげられました。
ジュンの娘がまだ生後4か月ですので、外での会食は避けて、自宅での会食でしたが。

次女の連れ合いは、柏手イタリアンレストランをやっています。
ですから土日は休めません。
それで今日になったのですが、どうもみんなで会食しても、節子がいないと盛り上がりません。
やはり孫に必要なのは、祖父ではなく祖母だなと実感します。
しかも、連れ合いは節子に会っていません。
ですから節子の話も、早々つづくわけでもありません。
でもまあ、節子の位牌の前での家族みんなの談笑には、節子もたぶん参加してくれていたことでしょう。
私の話が少ない、と怒っていたかもしれませんが。

今年、10回忌をやろうと決意したのは、できる時にできることをやっておこうという思いからでしたが、たぶん娘たちには、私の気まぐれが始まったとしか思われていないでしょう。
まあ、そう言われればそうなのですが。
でも一応、私としては10回忌をやった気分にはなりました。
新しい年の始まりを迎えられる気分です。

ジュン家族は帰りましたし、長女のユカは出かけました。
孫のことを話し合う節子もいませんし、手持ち無沙汰でした。
なにかがあった後、それについて語り合う人がいないことのさびしさは、体験しなくてはわかりません。

暑い一日でしたが、夕方になり涼しくなり、やさしい風がとても快適です。
わが家は、風の道にあたっていますので、風には愛されているのです。
だれもいなくなった後、風に当たりながら、少しうたたねをしてしまっていました。
気がついたら、こんな時間です。

さて夕食は、どうしましょうか。
たまには、娘に代わって、調理しようかという気がちょっと起こったりしましたが、私らしからぬことをすると、また生活のリズムが変わるといけないので、娘の帰宅を待ちましょう。
駄菓子を食べながら。

今日は、久しぶりにまったりとした1日でした。
で模合あくぁらず心身の違和感は、あまりなおっていません。
困ったものです。

■3292:意味の反転(2016年9月7日)
節子
昨日は1日、俗事から解放されて、穏やかに過ごしていたのですが、
人生は、そううまくいくものではありません。
夜、電話がかかってきました。
一挙に現実の世界に引きずり込まれました。

現実の世界で私が抱えている問題は、いささか多すぎます。
元気の時には、多すぎるなどとは全く考えることなく、いろんな問題に関われることの喜びを感じられるのですが、自分の気が萎えてくると、多さは楽しさから負担に一変します。
その途端に、モチベーションは激減し、ひどい時にはやる気さえ起きてこないのです。
今日は病院に行くつもりでしたが、課題リストを久しぶりに見たら、それどころではありません。
それを見て、さらに気が滅入ってしまいました。
そして病院行きを延ばしたうえに、課題リストの消化も延ばしたくなっています。
まだまだ気が萎えているようです。
池に行っても、沢蟹も顔を見せないし。

自分の状況によって、同じものなのに意味が反転する。
そういうことはよくあります。
楽しいことが避けたいことになったり、元気づけられていたことが逆にマイナスに働いたりすることもあります。
褒め言葉が、逆に心に刺さるような非難に聞こえることもある。
節子が亡くなった直後は、そうしたことの連続でした。
世界が一変してしまった。
生活も大きく変わりました。
しかし、そんなことは周りの人には知る由もありません。
だから自然と性格が悪くなってくる。

さて、良い方向に「意味の反転」を行わなければいけません。
課題リストは一時棚上げし、まずは少し身体を動かしましょう。
いまとは別の私が主役の座に出てきてくれるかもしれません。

■3293:ばばさんの思い出(2016年9月7日)
節子
今日は結局、病院には行かず、課題にも取り組まず、本を読んでいました。
幸いに、というか、不思議なことに、電話も一本もなく、念じたように、読書できました。

といっても、読んだ本は新書本で、堤未果さんの「政府は必ず嘘をつく」と「政府はもう嘘をつけない」です。
もう1冊、「ブッダ 最期の言葉」とどちらにしようか迷いましたが、堤さんの本は1冊をほとんど読み終えていたので、そちらを選びました。
とても共感できるというか、ほとんど私の考えと同じ本でした。
面白かったです。

堤さんとは面識はありませんが、彼女のお父さんのばばこういちさんとは懇意にさせてもらっていました。
ばばさんのお宅にお伺いした時、お母さんにもお会いしています。
そんなわけで、堤さんが颯爽と登場した時にはとてもうれしい気がしました。
最初の頃の著書は何冊か読んでいますが、視点にも共感が持てました。
ばばさんの思いや問題意識を継承しているように感じました。
今回は、久しぶりに読んだのですが、ますます大きな流れを可視化してくれています。
ばばさんを超えている気がしました。
ばばさんも喜んでいることでしょう。
近く開催予定の堤さんの講演会に誘われたのですが、その日はあいにく都合がつかず、参加できませんが、きっと近いうちにお会いできるでしょう。

ばばさんは、正義の人でした。
そのばばさんも、病気には勝てませんでした。
闘病中のテレビ番組に出させてもらったことがありますが、最後まで強い問題意識をお持ちでした。
節子は、私がばばさんと知り合う前からテレビでばばさんを知っていて、ファンでもありました。

ばばさんは再婚されたのですが、その奥さんが銀座の丸善で小林文次郎さんの染色作品の展示会をされたことがあります。
その時、節子と一緒にお伺いしたことがあります。
もちろんばばさんはいませんでしたが、奥さんがいました。
心底明るい人で、節子も楽しそうに話していました。
節子が発病した後、ばばさんがやっていたテレビ番組に誘われて出演させてもらった時に、久しぶりに奥さんに会いました。
節子の話を知っていて、こんなところに来ていて大丈夫なのかといわれました。
でもその時にテーマが、実は病院のあり方だったのです。
言いたいことがたくさんあったのですが、その時にはほとんど何も言えなかったような気がします。

まあそんなこんなで、ばばさんにはいろんな思い出もあるのです。

堤さんの本を読んだのに、ばばさんのことがいろいろと思い出されてしまいました。
亡くなっても、記憶の薄れない人というのは、いるものです。

■3294:百姓的な生き方(2016年9月8日)
節子
リビングに照明ライトが突然つかなくなりました。
メインテナンスを契約しているところに連絡しましたが、寿命ではないかといわれました。
そういえば、先月は浄水器が壊れ、これも問い合わせたら、もう部品がないと言われ、買い換えることになりました。
娘は15年も使ったのだからといいますが、私はどうも納得できません。

住居備品は10年経過したころから次々と故障しだしています。
節子がいないので、私もその対応に巻き込まれてしまっています。
しかし、どうも納得できません。
埋め込みのエアコンは6年ほどで壊れてしまい、直してもらったのに、結局、すぐまたおかしくなってしまいました。
そのため、わが家はあまりエアコンを使わなくなってしまったのですが、埋め込めのため付け替えるのが難しいのだそうです。
浄水器もそうでした。
埋め込み型の場合は、もう少し寿命設計を長くしておいてほしいものです。
攻めて部品くらいは残してほしいです。
メーカーを告発した気分です。

今回の照明ライトも、当初からの備付でした。
メインテナンス会社に頼むとかなり高そうなので、自分で取り換えることにしました。
娘は、無茶だからやめろと言いましたが、節約するためには自分でできることは自分でやらなくてはいけません。
それにそもそもお金はできるだけ使わないのが、私の信条です。
それで脚立を立てて、にわか工事屋さんです。
汗をかきましたが、何とかはずせました。
後は市販の照明器具を購入してくれば、自分でセットできますから、かなりの節約になりました。

先日の台風で倒壊した藤棚も、外注すると15000円かかるというので、自分で解体しました。現金を節約するのも大変です。
節子がいたらどうしたでしょうか。

私の理想は「百姓的な生き方」です。
自分でできることは自分でする。
ただ残念ながら、私は器用さに大きく欠けています。
だから修繕のつもりが完全破壊につながることも多いのです。
だから家族は私が修理すると言うと何とかして止めさせようとするわけです。

照明器具は、たぶんどれかの部品が壊れただけでしょう。
それが見つかればいいのですが、残念ながらそれを見つけるすべがありません。
しかし、節子のお気に入りだった照明器具ですので、廃棄するのに躊躇します。
節子が埋め込んだわが家の住居備品が次々となくなっているのは、ちょっとさびしい気もします。

■3295:優柔不断さ(2016年9月9日)
節子
心身の異変体験から2週間がたちました。
丸山さんにリンパマッサージをしてもらったおかげで、心身の違和感はかなりなくなりましたが、基本的にはすっきりしないままです。
丸山さんも、2週間以内にもう一度、マッサージをした方がいいと言ってくれていますが、実は丸山さんのところに行くには、ある商品を入手しなければいけません。
それに、片道2時間を定期的に通うことにも躊躇しています。
神経内科にも行こうと思ってはいますが、また脳神経外科と同じような検査をされるのは嫌だなと思い、躊躇しています。
こうして、決断を先延ばしする。
優柔不断な生き方に陥っています。
困ったものです。

しかし、これは今に始まったことではないのかもしれません。
問題を優柔不断に先延ばししてしまう。
これは、まさに私の生き方かもしれません。
困ったものです。

残念ながら、人生には終わりがあります。
今日のように明日も生きられる保証はありません。
そろそろ決着しておかねばいけないこともある。
しかし、そもそも、そういう生き方に問題があるのかもしれません。
死がだれかに迷惑をかけるような生き方を避けようとすれば、
家族も友も縁者もなく、無一物の孤独の人生が理想です。

迷惑を引き受けてくれる人がいる人は幸せです。
節子は、幸せだったでしょう。
私がこんなに迷惑をこうむっているのですから。
しかし、また、迷惑を引き受ける人も幸せかもしれません。
私ももう少し、優柔不断な生き方を続けてもいいかもしれません。

少しくらい、体調が悪い方が、いいのかもしれませんし。

■3296:無条件に信用しあえる関係(2016年9月11日)
節子
ある調査によると、最近、日本では人を信用するよりもまずは疑うという文化が広がっているようです。
最近もそうした生々しいことをつづけて体験しました。
私のこれまでの生き方の基本が、根底から壊されたような気がして、とてもさびしいです。
人を信用することなく、人付き合いをしても、楽しくないだろうなと思いますが、信用して裏切られるのが、それ以上に嫌なのかもしれません。
たしかにそれはそうですが、だからといって、信用しない生き方は、そもそも楽しくないでしょう。

先日、ある人と話していたら、その人が「父がともかく人を信ずる人だったので」というのです。
その人はとてもいい人なのですが、ちょっと他者への寛容さにやや厳しさがあったので、それを指摘したら、この言葉が出てきたのです。
もしかしたら、それは「父」だけではなく「夫」もそうだったのかなと思いました。
彼女の伴侶も、たぶんいろんなことを背負いこんで、みずからを死に追いやったのです。

もし善意の人が生きづらい社会であれば、その社会は変えなくてはいけません。
私が自殺に追い込まれることのない社会づくりの活動にささやかに荷担させてもらったのは、それが理由です。
善意の行先が、自死につながってしまうような社会は変えていかねばいけません。
それに、善意の人でさえ、生きづらいのであれば、善意でない人が、仮にいるとしたら、さらに生きづらいはずです。
善意では生きづらいので、善意から逃げてしまうということです。
それは社会としては本末転倒でしょう。
そんな社会は、社会といえるのか。
人はだれでもみんな、できることなら、善意で生きたいと思っているはずです。
もともと善意でない人などいないのです。
それは赤ちゃんの顔を見ていればわかります。

でもどうして、人は人を信用しないのでしょうか。
この数日、この難問に呪縛されてしまっています。
完璧に信用しあって、絶対に裏切られることなどなかった、節子との関係は、私の生きる力の根源だったのかもしれません。

■3297:買い物行動の効用(2016年9月12日)
節子
月曜日は近くのマツキヨのお店で、ヨーグルトが100円で売っています。
普段はたぶん150円以上しているはずです。
最近、わが家はそこでヨーグルトを購入しています。
1日100人限定ですので、午後に行くともう売り切れていることもあります。
最近、そこではヤクルトも1割引きで売っているのがわかりました。

週に1回ほど、私は娘の買い物に付き合います。
これは節子がいた頃からの習慣ですが、節子がいた頃と違うのは、私自身が価格を見るようになったことです。
むかしは価格を見ませんでしたから、ほしいものがあれば、買い物籠に勝手に入れてしまっていました。
ですから私と行くと不要なものを買ってしまうと、節子に言われたことがあります。
不要なものこそ、生活を豊かにするのだ、などと抗弁していましたが、私から見れば、節子も無駄なものをよく買っていたように思います。
買い物には、その人の生き方が象徴されます。

いまは価格を見ながら、買うかどうかを自分で判断しています。
そうしているとお店と日時によって、価格がかなり違うのがわかります。
たとえば私が毎朝食べているソーセージがありますが、これはわが家の近くにある2つのスーパーでは価格差が2割もあります。
最近それを知ったので、かならず安い方で購入しています。

毎日買いものしている主婦の人は知っているのでしょうが、おそらく買い方によっては、食料品への支出は2〜3割の差が出るのではないかと思います。
しかし、そうしたことを続けていると、価格に対しておかしな価値観が生まれてきます。
たとえば、明治のヨーグルトですが、100円で買えることがわかっていると、170円で売っているところでは買う気が起きません。
そして、次第に、商品が違うのに、価格が安いものを選ぶようになってしまいます。
つまり、価格で商品を評価してしまうようになるのです。
購入の判断基準が、価格になってしまう。
さらにいえば、同じ商品を安く購入できると、得をしたような気分になってします。
また割引商品に目がいってしまうような思考も生まれます。
これは問題です。

私は、お金離れした生き方を目指しているのに、むしろお金に呪縛されてしまっているわけです。
いまはすべてにおいてカード払いになっていますので、本当は価格など気にしなくなるのでしょうが、私の場合は、昔の「主婦感覚」のようなものが身につきだしてきました。
これが結構面白いのです。

高齢者は、男性よりも女性が元気です。
それはもしかしたら、毎日、食料品を買いに行っているからではないか。
最近、私が発見したことのひとつです。
食料品や日用品の買い物ゲームは、ボケモンGOよりも人をワクワクさせるのかもしれません。
こういう生活がいまできるのも、実は節子のおかげです。
いや、節子と娘たちのおかげというべきでしょうか。
私は財布を持ったことがないので、実は買い物は娘に依存しています。
一人でスーパーに買い物に行くのは、いまもなお、とても苦手です。
しかし、元気を維持するためには、一人で買い物に行けるようにならないといけません。
できるでしょうか。

■3298:生活リズムを取り戻そうと思います(2016年9月13日)
節子
梅雨時のような、とても哀しい雨です。

昨夜、久しぶりに熟睡できました。
たぶん何か月ぶりかもしれません。
目が覚めたら、7時を過ぎていました。
そして、哀しい雨。
幸いに今日は出かけなくてもいい日なので、在宅で生活基盤の整理をすることにしました。
ともかく課題が山積みで、机の上も書類と書籍の山です。
これでは、生活が乱れるのも仕方がありません。

この2カ月、生活のリズムが崩れています。
それを正すには、まずは環境を整理することでしょう。
と思いながらも、午前中はあっという間に過ぎてしまいました。
在宅していても、メールや電話で社会と通じているので、思うようにはいきません。
困った時代というべきか、便利な時代というべきか。
問題の多い時代であることは、間違いなさそうですが。

でもなんとか、そうしたことへの対応から抜け出られました。
返信しなければいけないメールはいくつかありますが、まあ1日くらい、放置していてもいいでしょう。
しかし、返信せずにいると、「気持ちが重くなる」というような人もいるので、注意しなければいけません。
何しろいろんな人と関わっているので、その人に応じた応対が必要です。

やっと自分の時間ができたので、2つの机の上の書類の山を片付けましょう。
一番心配なのは、その山の中から、忘れていた課題が出てくることです。
それに読まなければいけない書籍も出てきそうです。
自分で読みたい本は簡単に読めるのですが、誰かから読むように言われた本はなかなか読めません。
そんな本や論文が何冊か積まれています。

さてさて片づけを始めましょう。
机がきれいになれば、生活のリズムも回復するでしょう。
そうなることを目指して。

外は相変わらずの哀しく淋しい雨空です。
机の整理が終わるころには、たぶん青空が見えてくるでしょう。
お天道様も、私を応援してくれているはずですから。

■3299:小さな好意のシャワー(2016年9月15日)
節子
湯島のランタナが枯れてしまいました。
注意していたのですが、しばらく行かずにいた間に水が不足してしまったためです。
失策でした。
物理的には水不足でしょうが、私が十分に気遣いをしなかったことが真因でしょう。
水がなくなっても、私が気にかけていることが伝わっていたら、ランタナも頑張れたはずです。
この1か月、私は他者を思いやる余裕を失っていたのかもしれません。
まわりで起こる変化が、そうしたことを気づかせてくれます。

週に2回はハガキをくれる鈴木さんが、1か月ほど前に、ゲーテのこんな言葉を紹介してくれました。

人生に喜びの種類は多いようだが、人の好意が注がれていると感じたときが、いっとううれしい。
好意の大小は問題ではない。
いや、小さい好意ほどうれしいと言っていい。

鈴木さんはスペインや四国での巡礼で感じた喜びは、まさにこれだったと書いていました。
人生における喜びも、同じかもしれません。
小さな好意は、時に見過ごしがちです。
しかし、たしかに、生きる上で大切なのは、こうした「小さな好意」の積み重ねかもしれません。
余裕がある時に、湯島について最初にやることは、草木に声をかけながら水をやり、水槽のエビに声をかけることでした。
しかし、この1か月、それを忘れていたかもしれません。
そういえば、水槽のエビも増えていません。
湯島の部屋も掃除さえしていません。
自らの不幸は、みずからが招きよせるものなのでしょう。

節子がいた頃は、毎日私は「小さな好意のシャワー」を浴びていたのでしょう。
夫婦とは、そういう関係がつくれる存在です。
ちょっとした間違いから、それが「小さな悪意のシャワー」の浴びせかけになってしまう危険性もありますが、幸いに私たちは、そうはなりませんでした。

私がいま心がけているのは、周辺に「小さな好意」を向けることですが、この1か月、そうなっていなかったのかもしれません。
枯れたランタナを見ながら、そんな気がしました。

■3300:一人で生きること(2016年9月17日)
節子
最近痛感するのは、夫婦で生きるのと一人で生きるとでは、まったく世界は違うのだということです。
とりわけ男性にとっては、一人では生きにくいのではないかとも思います。
そもそも女性は、本来的に生きる力を持っていますが、男性にはそれがあまりないような気もします。

先日、テレビで稲垣浩の「待ち伏せ」という映画をやっていました。
久しぶりに観たのですが、そこに登場する浅丘ルリコ演ずる、おくにという女性が、「女はどうやっても生きていけるから」と言う場面がありました。
一般的な常識はどうかしりませんが、私も生きていく力は男性よりも女性が強いように思います。

まあそれはそれとして、節子がいなくなってから、どうも生きにくいのはやはり一人だからです。
節子がいなくなった後、あるシンポジウムにコーディネーターとして出たことがあります。
その時のパネリストの一人が、私が妻を亡くしたことを知って、「自由になれますね」と言いました。
その方はとてもいい活動をされている方ですが、その一言は決して忘れません。
しかし、妻のために生きにくくなる人もいるわけです。
生きにくくなるために結婚する必要など全くありませんから、私には理解できませんが、その人はそもそも自由ではなかっただけの話です。
たぶんその人は、妻に先立たれても自由にはなれないでしょう。

お互いに、生きやすくなるために結婚する、というのが私の考えですが、私の場合は、それが実現できた気がします。
念のために言えば、節子もまた、たぶん同じ思いを持っていたはずです。
一人ではできないことを、私たちは、結婚したことで実現できました。

しかし、そうした中で40年も暮らしてしまうと、その一方がいなくなると、とたんに生きにくさが現れます。
生きにくい人生の10年目に入っても、まだ、一人で生きることに愚痴をこぼしたくなります。
愚痴をこぼす相手は、もちろん節子ですが。
困ったものです。

お彼岸が近づきました。

■3301:つがるのりんご(2016年9月18日)
節子
半年ぶりに、渕野さんに会いました。
節子もよく知っている渕野さんです。
渕野さんも一緒になって、3月にフォーラムを開催したのですが、当日、彼は体調を崩し、病院に寄りました。
そこで病気が発見されました。
フォーラムどころではなくなり、フォーラムは渕野さん不在で開催しましたが、その後、気になりながら会いに行きませんでした。

病気は肺がんです、
渕野さんは自らのブログなどでもすでにカミングアウトしていますので、書かせてもらいます。
幸いにステージは1でした。
手術はうまくいきましたが、まだ体調が戻ったわけではありません。
入院中にお見舞いに行こうかどうか迷いましたが、行けませんでした。
退院後も会わずにいましたが、今回、あるプロジェクトに渕野さんを誘いました。
気が向いたら来てもらう程度の軽い関わり方を提案させてもらいました。

渕野さんは、「生かされている」という実感を強く持っているようです。
免疫力を高めることについても、少し話しました。
節子の時にも、さまざまな民間療法を試してみました。
あまりもいろんな意見があって、そうした話に振り回されがちでした。
節子が元気になったら、私たちが試してみたものを中心に記録に残したいと思っていましたが、節子がいなくなった後、その気はすっかりなくなってしまい、思い出すのさえ辛いようになりました。
節子を見送った後は、「がん」という文字を見るだけで、心身が縮まりました。
今日は、久しぶりに少し思い出しました。
しかし結局、節子は回復しませんでしたから、何を薦めていいのか迷います。
いろんな人の体験が、いい意味で蓄積される仕組みがあればいいと思いますが、それがやはり難しいのです。

民間療法は保険も効きませんし、経済的にもかなり大変です。
免疫力を高めることにも、保険が効くようになるといいのですが、日本の医療は近代西洋医学の味方ですから、病気を治すことに主眼が置かれがちです。
その発想を変えていくべきだと私は思っています。
経済の論理で考えれば、医療費は無限に増大します。
生命の論理で考えれば、医療費は無限に縮小できるでしょう。
これは福祉に関しても言えることです。

渕野さんは、青森から送られてきたと言って、つがるのりんごを持ってきてくれました。
節子に供えました。
闘病中、節子はりんごが好物になっていました。
それを思い出しました。

■3302:またガマガエル?(2016年9月19日)
節子
今日も雨でした。
夕方、自宅の庭で不吉な声を聞きました。
久しぶりにガマガエルの鳴き声です。
また池に入ってきて、折角、回復気味の池の生態があらされるおそれがあります。
それよりも、池の周辺にたぶん生息しているであろう、沢蟹たちが食べられかねません。
急いで雨の中を庭に出て、声が出ていたであろうあたりを探しましたが、見つかりません。
何しろ自然のままを目指して、荒れ放題ですから、探しようもありません。
池の中に潜っていたら、なかなか見つけられません。
小さな池なのですが、沢蟹が隠れやすいように、まあいろいろと仕掛けをしているのです。

たまたまなのですが、今日、昔書いた記事にコメントが付きました。
5年前の記事ですが、タイトルが「池の金魚が全滅しました」。
その記事に、「南のみかん」さんという方が、こんなコメントを書いてくれました。

うちも同じような事がおこりました。
5年で10CMほどに成長した金魚5匹が池から消えてしまいました。
ほどなく町内誌で野生のアライグマの記事が目にとまりましたが、池は30CM程度の深さで隠れ家風のトンネルもあるのに簡単に捕獲できるのか定かではありません?
安物の金魚を持ち去る人はいないでしょうに不思議です。

わが家の場合ととても似ています。
そういえば、当時、我孫子でもアライグマの話が出ていました。
しかし、その2年後に、池の中に大きなガマガエルが陣取っていたのを見つけたので、犯人はガマガエルだった可能性が強まりました。
以来、わが家の小動物たちにとっては、ガマガエルが天敵になってしまいました。
今年の春も、ガマガエルを捕獲して、手賀沼に逃がしてきましたが、まだどうもいるようです。
どうしたらいいか、対策がわかりません。

ちなみに、室内で飼っている沢蟹は実に元気です。
元気なので、今年は冬を室内で越すことを検討しています。
水槽と砂利などは買ってきましたが、いささか節約して小さな水槽にしたため、沢蟹たちは不満に思っているかもしれません。
彼らにとって、水槽の中がいいのか、自然の池がいいのか、確認できないのが残念ですが、いずれにしろ、彼らを守らなければいけません。

まあ最近の私の生きがいと言えば、これくらいでしょうか。
人間の社会は、もう壊れてしまっているようなので、私の関心事からはかなり遠くなっています。
実に困ったことです。
雨が上がったら、池の大掃除をやって、ガマガエルが入り込まないように、ゲイテッドポンドにしようと思います。
もっともすでにガマガエルがいけのなかにはいっているとしたら、沢蟹に合わせる顔がありません。
もっと、沢蟹たちは、私の前には一度も姿を現さないので、顔を合わせようもないのですが。

■3303:独り寝の辛さ(2016年9月20日)
節子
台風がまたやってきました。
昨夜は一晩中、テレビは台風報道を続けていました。
それを知っているのは、昨夜、あまり眠れなかったからです。
11時に寝て、2時半に目が覚めました。
とくに悩み事があったわけでもありませんが、なぜか眠れなくなってしまいました。
節子がいなくなってから、こういうことがたびたびあります。
時には本を読むこともありますが、多くの場合、枕元のテレビをつけてしまいます。
枕元のテレビは、そのためにあります。
真夜中に目が覚めた時に、一人でいなくてすむようにです。
テレビが見たいわけではないのですが、人の声が聞こえると安心します。
ですから、枕元のテレビをきちんと見たことはありません。

夜中に目が覚めて、眠れないのはそれなりに辛いものです。
最近はだいぶ慣れましたが、最初の頃は早く朝になってほしいと念じました。
独り寝の辛さです
一人で生きていくのもつらいですが、一人で寝るのもつらいものです。
まあそういう生き方に慣れてしまっていたからでしょうが。
寝ている時も、節子は私の支えでした。

昨日はなぜ目が覚めたか思い出せません。
しかし、目が覚めると、途端にさまざまな問題が頭に浮かんできます。
心配事とは限りませんが、極めて身近な問題から壮大な問題まで、さまざまです。
昼間と夜では、世界の見え方も考える対象も違うような気もします。
寝ている時に、新しい発見をしたというような有名人のエピソードがありますが、とても納得できます。
私も時々、とても素晴らしいことに気づいた記憶があります。
しかし、私の場合、起床後、内容を思い出せず、ただなにか素晴らしい気付きがあったのだという記憶しか残りません。
そこが凡人のかなしさです。
枕元にメモ帳やペンを置いていたこともありますが、そういう準備をしていると、ダメなようです。

昨日は真夜中に2時間以上、起きていました。
その後も、うつらうつらの浅い眠りが続いていました。
ですから、起きた後も、頭が重く、思考力がありません。
困ったものです。

節子がいないと、どうも生活リズムが保てません。
私はどうも独りで生きていくのが苦手の人間のようです。

■3304:彼岸花の季節(2016年9月21日)
節子
お彼岸にふさわしく、庭に彼岸花が咲きだしました。

わが家に彼岸花があるのは、節子の闘病とつながっています。
いろんな治療策に取り組みましたが、そのひとつが、彼岸花の球根を材料にしたものでした。
彼岸花の球根は、猛毒を含んでいるため、あまり売られていませんが、漢方の薬局で分けてもらいました。
しかし、残念ながら、効果はありませんでした。
節子が逝ってしまったあと、たくさんの球根が残されたので、庭に植えました。
以来、毎年、この季節になると、彼岸花が咲くのです。
いろいろと思い出すことの多い彼岸花です。

明日はお彼岸です。
10年目になると、お彼岸と言っても、静かに過ごせるようになりました。
今年は、節子が開拓していた花畑に、たくさんの百日草が見事に咲いているので、それと庭の彼岸花で、お花を活けました。
ついでに、畑の花もいくつか追加してしまいましょう。
そうしていろいろ入れているうちに彼岸花の損座が薄くなってしまいました。
困ったものです。
娘がいれば、もう少しきれいに活けてくれるのでしょうが、それはまたあとでやってもらいましょう。
花代を節約してしまったのですが、まあ命日前後にはいくつもの花で飾られていたので、許してもらえるでしょう。

どうもだんだんと手抜きになって来ていますが、それもまあ仕方がありません。
そういえば、お供えのおはぎもまだ用意されていません。
節子が好きだった、みすず飴をジュンが持ってきてくれていたので、それで我慢してもらいましょう。
さてさて10年もたつと、まあこんなものでしょう。
それもまた、私らしくて、節子は喜んでいると考えることにしましょう。

■3305:30代の若者たちから元気をもらいました(2016年9月22日)
節子
子ども関係のNPOの立ち上げを考えているので、相談に乗ってほしいと言われて、今日は雨の中を湯島に出かけました。
以前から知っているKさんが、一緒にやろうとしているSさんを同行してやってきました。
何の相談なのかと質問したら、Kさんが、パートナーのSさんに私の紹介をしたいのだが、説明できないので連れてきました、というのです。
2人とも30代の女性です。
Sさんは、あるNPOに関わりだしたのだそうですが、その集まりで、私の名前が出て、私をよく知っている人と知らない人とでは、温度差がありすぎるので、ちょっと興味を持ったそうです。

私自身、自己紹介があまりうまくないのですが、それは要するに、私自身が自分のことをよくわかっていないからです。
それに、自分を他者にわかってもらおうなどという気もさらさらありません。
時に、自己紹介をしなければいけないことがありますが、いつも言葉にした途端に、誰かほかの人のことを話したような気になってしまい、後悔します。
自分でもわからないのですから、言葉で説明することは無理なのです。
それは私に限ったことではないでしょう。
そもそもどんな人なのかを言葉にすることは、誰であっても難しいのです。
言葉で語られるひとは、たぶん本人とは別の人です。
この挽歌で語られている節子もまた、節子本人が読んだら、私のことではないというかもしれません。
私にとっての節子は、節子にとっての節子とは、違うのです。

自己紹介はできませんが、少しだけ、私の生き方を話しました。
10分ほどでしょうか。
それを聴きおわったSさんは、私を受けいれてくれたようです。
つまりわかってくれたということです。
Sさんにとっての私が生まれたのです。
そこから2時間以上、SさんとKさんが考えていることに関して、話をしました。
少しは役に立ったかもしれません。

いろんな人が相談に来ます。
しかし、実は相談することをわからないままに相談に来る人がほとんどです。
だから疲れることが多いのですが、今日は、あまり疲れずにすみました。
彼らのこれからの活動が楽しみです。

保育の世界にささやかに関わりだしたのは25年ほど前でした。
その後、保育の世界は、私の感じでは、大人の都合が優先される方向で問題が設定されるようになってきているような気がします。
「保育園落ちた、日本死ね」などという文化が保育の世界を覆ってしまったのです。
それに違和感を持って、その世界からは離れていましたが、今日の2人と話していて、新しい動きが出てくる期待が戻ってきました。
私に何ができるかを考えようと思い出しました。

新しい風を起こそうとしている人に会うと、元気が出ます。

■3306:お天道様の支えに感謝しなければいけません(2016年9月23日)
節子
庭の藤棚を作ってくれる人が忙しくて、なかなか来てくれません。
先日の台風で、藤棚が倒壊し多ために、藤のほとんどはダメになったのですが、幹は地面から2メートルほど残りました。
支えがないので、かなり斜めになっているのですが、けなげに頑張っています。
小枝や葉っぱはほとんどなくなっていたのですが、その後、どんどんと枝や葉が出てきました。
それこそ見ているうちに延びるのがわかると思われるほどに成長はすごいのです。
植物の生命力のすごさには驚かされます。
はやく棚をつくってやりたいのですが、業者の方が忙しくてまだ当分だめらしいのです。
かといって、自分で造ることもできません。
さてさてどうしたものか。

しかし、頑張っている藤の木をみると、なにかしてやりたくなります。
支えがなくとも、大きく生きようとしているのです。
それにしても、すごい成長力です。
まさに生きている。
私とは対照的です。

一方、水槽で飼っている沢蟹は、たぶん私の支えがなければ、元気を失うでしょう。
水を変えたり餌をやったり、時には声をかけないと、たぶん元気を失います。
藤とはだいぶ違います。

いや、同じなのかもしれません。
藤の木は、太陽や雨や、時には風さえからも、支えられているのです。
もちろん土壌が支えていることは言うまでもありません。
支えなしに生きることができる「いのち」はないのです。

私もまた、太陽や雨や風によって支えられている。
人の支えなど、小さな支えでしかないのかもしれません。

今日は大忙し。
そしていささか孤軍奮闘。
この程度の支えしかしてくれないと友人にちょっと失望させられた1日でした。
まあそれも、私の見から出たさびではあるのですが。
でも、そう考えるのは間違いでしょう。
あの藤の木と同じく、私もお天道様に支えられているのです。
いや、節子にも支えられていることも忘れてはいけません。
支えがないなどと愚痴をこぼすこともなく、どんどんと伸びている藤の木に学ばなければいけません。

でも、明日はちょっとゆっくりしたいです。
なんでこんなにやることが多いのでしょうか。
まあそのおかげで、病院に行かずに済んでいますが。

■3307:我孫子市民活動メッセ(2016年9月24日)
節子
今日は我孫子の市民活動メッセでした。
さまざまな市民活動の展示と集まりが、今日と明日、駅近くのけやきプラザで展開されています。
私も、少しのぞいてきました。
誰かに会うだろうと思っていましたが、誰にも会いませんでした。
時間帯がよくなかったようです。
いるはずの人さえ、いませんでした。

我孫子合唱祭の記録誌がありました。
見ていたら、節子が入っていた女性コーラスグループ「道」の写真がありました。
メンバーが少し減ったようですが、いまも楽しんでいるようです。
節子は、いつもとてもいい仲間たちだと喜んでいて、病気であまり声が出なくなっても、参加させてもらっていました。

そういえば、節子が参加した「道」の発表会は、今日のメッセの展示会場で開催されました。
と言っても、その時の節子は、もう歌うことは出来ずに、観客として参加していました。
私も一緒に行っていましたが、そこでいろんな人にお会いしました。
たぶんそれが節子の最後の外出だったような気がします。
終了後、節子はコーラスグループの仲間と話していて、なかなか帰ろうとしませんでした。
疲れが限度を超えているのが、伝わってきましたが。
あの日、節子はみんなに別れを伝えていたのでしょう。
市民活動メッセの展示場の会場は、まさにその会場でした。
たしか、節子の友人が、節子のことを心配していたのを思い出します。
それが誰だったかも、今では思い出せないのですが。

あれからもう10年目です。
それ以来、私は我孫子の合唱祭には一度も行っていません。
節子が残していった、発表会のCDも、一度も聴いたことがありません。
思い出は、必ずしも人を幸せにはしないものです。

今日は、肌寒さを感ずる、さびしい雨の1日でした。

■3308:いちばんぜいたくな人(2016年9月26日)
節子
この数日、なぜか忙しくて、挽歌も書けずにいました。
まあ、忙しいと言うのは理由としては一番無意味なことですが。
それにしても人生は、いろいろとあります。
いろんな人との交流のおかげで、自分の時間がなかなかとれません。
困ったものだ。

と思っていたら、今日、届いた、鈴木さんからの「ハガキッタ―」(ハガキツイッタ−で、娘が今日、この言葉を使って持ってきてくれました)にこんなことが書いてありました。

サン・テグジュペリの「人間の土地」に、「真のぜいたくというものは、ただ一つしかない。それは人間関係のぜいたくだ」という文章がありました。とすると、わたしの知る範囲では、佐藤さんがいちばんぜいたくな人かもしれません。

人間関係が多いということは、必ずしも人間関係がぜいたくということではないでしょう。
しかし、考えてみれば、私はほんとうにたくさんの人たちに支えられています。
しかし、時に、支えられているのではなく、もしかしたら悩まされているのではないかという気がしないでもないのですが。
昨日も、ある友人が、別の友人に、「自分も性善説派だが、佐藤さんは私の100倍も性善説だから」と、一見、ほめているようで、実はちくりとくさしている発言をしていました。
性善説かどうかはともかく、どんな人のどんな言動も、信ずることにしています。
しかし、それが完全に裏目に出ることもあります。
今日は、実はそうしたことに対処するために、弁護士に会いに行きました。
弁護士と話していて、私はやはり社会不適合者なのかもしれないと思いました。
そのくせ、ぜいたくと言ってもらえるほど、たくさんの人に支えられている。
不思議な話です。

鈴木さんのハガキッターには、こんな文章が続いていました。
とても示唆に富んでいるので、引用させてもらいます。

この一文の後、「物質上の財宝だけを追って働くことは牢獄を築くことで、人はそこへ孤独な自分を閉じ込める結果になる」と続きます。

私たちの生き方は、間違っていなかったのかもしれません。
きっと節子も、いまもなお、孤独ではないでしょう。

■3309:さつまいもの収穫(2016年9月27日)
節子
畑に行って、さつまいもを掘ってきました。
残念ながら、まだ早すぎて、十分に成長しておらず、大失敗でした。
それでも少しだけ収穫できました。
予定ではこの5倍は収穫できたはずですが。
節子がいたら、ひとつだけ掘り起こしてから収穫時期かどうかを判断したでしょうが、私はまずはすべてを刈り取ってから、掘り起こすという性格です。
芋を堀り出した時には、もう地上の葉っぱがなくなってしまっているというわけです。
出てくるのが、まだ小さなものばかりであることに気づいて、失敗に気づくわけです。
まあ、これは、性格の問題なので、簡単には治りません。

それはそれとして、最初に節子とさつまいもを植えたのは、もう40年ほど前でしょうか。
いまの家に転居してくる前、わが家の隣がまだどこにも売れずに残っていました。
そこに、いまから思えば、たぶん無断でさつまいもを植えてしまいました。
収穫時期に、近所の子どもたちに声をかけて、みんなで芋ほりをしました。
節子は、そういうことが好きでした。
いや、あれはジャガイモだったかもしれません。
掘り起こした後、カレーライスをみんなで食べたような気がします。

節子がいたら、このさつまいもをどうするでしょうか。。
焼き芋がいいかもしれません。
少し天日干しして甘みを出してから、節子にお供えしようと思います。

今年の収穫は、これでおしまいですが、時間を見てまた秋野菜を植えてみようと思います。
まあ食用になるかどうかは疑問ですが、野菜を植えないと、どんどん野草に侵食されるのです。
自然界は、まさに「いのちがひしめき合う場」なのです。

■3310:久しぶりに布施弁天に行ってきました(2016年9月27日)
節子
久しぶりに今日、近くの布施弁天に行きました。
節子がいた頃は、毎年、初詣にも行っていましたし、よく行っていましたが、最近はめったに行くことはなく、たぶん2年ぶりくらいでしょうか。
布施弁天の境内はかなり変わっていましたが、そこに向かう途中は、前と同じ風景でした。
節子と家族みんなで、最後の桜を見た場所も、変わっていませんでした。

慶大は高台にあるので、利根川の河川敷に広がる風景が一望できます。
利根川の堤に、彼岸花が一面に植えられていました。

隣接するあけぼの公園は、ちょうど花の変わり目のようで、花畑には花はありませんでした。
私たちが来なくなったからではもちろんありませんが、少しさびれたような感じも受けました。
いまはちょっと遠くなりましたが、以前は歩いて20分くらいのところに住んでいましたから、時々散歩でやって来ていたのです。
桜の季節には、いつもみんなで花見に来ていました。
もうそんなことは、たぶんないでしょう。

帰る途中、節子がお世話になった岡田クリニックの前も通りました。
最後まで往診してくださったお医者さんです。
岡田クリニックの周辺は、あまり変わっていませんでした。

団地の一画も通りましたが、ここにも私の知人が3人住んでいます。
みんな私よりも年上です。
そういえば、その3人とはもう10年以上、連絡を取っていません。
どうされているでしょうか。
お元気であればいいのですが、まあこんな感じで、人はみんなの世界からいなくなっていくのでしょう。

布施弁天に行くことになったのは、ちょっとした偶然からなのですが、いろいろと思いを広げることになりました。

■3311:葬式がなければ、人は死ねない(2016年9月28日)
節子
一条真也さんが「死を乗り越える映画ガイド」を出版し送ってきてくれました。
副題は、「あなたの死生観が変わる究極の50本」です。
その本の最後に、進藤兼人監督の「裸の島」が紹介されています。
私が大学生だった頃の映画です。

舞台は、瀬戸内海にある、飲み水はもちろん、野菜を育てる水さえ隣の島から運んでこなければいけない小さな島に住む家族の話です。
その家族の息子が急死し、そのお葬式が描かれています。
そのお葬式を見て、佐久間さんは、感動したのです。

わたしは、こんなに粗末な葬式を知りません。
こんなに悲しい葬式を知りません。
そして、こんなに豊かな葬式を知りません。
貧しい島の貧しい夫婦の間に生まれた少年は、両親、弟、先生、同級生という、彼が愛した、また愛された、多くの“おくりびと”を得て、あの世に旅立って行つたのです。
これほど豊かな旅立ちがあるでしょうか。

そして、こう言います。

水がなければ、人は生きられません。
そして、葬式がなければ、人は死ねないのです。

さらにこう書いています。

「裸の島」は、いわば極限までに無駄なものを削った生活だからこそ、人間にとって本当に必要不可欠なものを知ることができるのです。
そして、その必要不可欠なものこそ、水と葬式でした。

詳しくは一条さんのブログをお読みください。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20100228/1267364286

葬式がなければ人は死ねない。
いろいろと考えさせられるメッセージです。
私はこの言葉を見て、こう思いました。
葬式がなければ人は死ねないとしたら、いまはまさに、人は死ねない時代になってきているのかもしれない。
ということは、人が人として生きられない時代とも言えます。

最近、いろんな人と会って感ずるのは、最近、生きるのをやめた人がどんどん増えているのではないかということです。
私以上に、生きていない人が多い。
生きていないから、死ぬ必要もない。
そういう人に比べたら、私の方がよほど生きている。
最近、なんとなく感じていることですが、

佐久間さんは、「愛する人を亡くしたとき、人は葬式を必要とするのです」とも書いています。
葬式不要が広がっていますが、もしかしたら、人を愛することもできなくなっている社会になっているのかもしれません。

いつもながら、一条さんの言葉には、考えさせられることが多いです。

■3312:取り組みたいことが多すぎます(2016年9月28日)
節子
今日、信頼できる人に会いました。
私とほぼ同世代の男性ですが、24歳の時から、不登校問題に取り組んできている人です。
いまは、神奈川や富山などを拠点にして、活動されています。
ある人が、私に引き合わせたいと、わざわざ湯島に連れてきてくださったのです。
初対面でしたが、心が通じました。
やはりしっかりと現場を関わっている人は、違います。

連れてきてくださった方も、長年、引きこもり家族支援の活動をされている方です。
彼女が計画しているプロジェクトに、私を巻き込みたいのでしょうが、私がなかなかその気にならないので、こういうことになったのかもしれません。

私は、これまでそのプロジェクトに乗り気ではありませんでした。
しかし、今日、その方に会って、少し興味を持ちました。
なぜならその方の考えが、あまりにも私と同じだったからです。
このプロジェクトに当事者として参加することに乗り気でないことも含めてです。
いささか伝わりにくいと思いますが、このままだとせっかくの彼女の思いが空中分解しかねません。
今年は、いろいろと新しいプロジェクトを起こしてきているので、これ以上、新しいことを始める余裕はないのですが、少し引き寄せられてしまいました。
私は、負け戦や失敗の確率が高いプロジェクトが好きなのです。

それにしても、どうしてこうも「面白い課題」が多いのでしょう。
そして、それにもかかわらず、みんなどうして取り組もうとしないのか。
私の感覚が、きっとおかしいのでしょう。

今日だけでまた、新たに取り組みたいテーマに、上記のプロジェクト以外に2つ、出会ってしまいました。
せっかく体調が戻しているのに、注意しないとまた破綻しかねません。
困ったものです。

節子の病気が発見される前の私は、もしかしたらこんな感じだったのかもしれません。
それを心配して、休業宣言したところから、人生が変わったのです。
今度は、休業宣言などせずに、前に進みましょう。
節子もいないので、止める人もいませんし。

■3313:金木犀の香り(2016年9月29日)
節子
金木犀が香りだしています。
家の中にまで香ってきます。
雨続きだったのですが、ようやく秋らしくなり、花が元気になってきています。
手入れ不足だったこともあり、琉球朝顔がいたるところにツルを延ばしているのが、気になりますが、そろそろまた庭の花木の手入れもしなければいけません。
人は季節と無縁には生きていけません。
しかし、この数年、かなり無縁に生きてきたような気もします。

季節の変わり目は、人の暮らしにリズムをつけてくれます。
季節をあまり感じないのは、暮らしにリズムがないからでしょう。
リズムを取り戻さなければいけません。

節子がいた頃は、春には桜を見に行き、秋には紅葉を見に行きました。
しかし、節子がいなくなってからは、桜も紅葉も、見ることはあっても、見に行くことはありません。
この違いは大きいのです。

毎年、今年は見に行こうかと思うこともあります。
でも、いつの間にか、季節は過ぎてしまっているのです。

わが家は、春にはジャスミンが、秋には金木犀が、香ってくれます。
今年は、紅葉を見に行けるといいのですが。

■3314:小波乱が起きました(2016年9月30日)
節子
また突然のトラブルです。
朝起きて、パソコンを開いてメールを確認したら(これが私の毎朝の日課です)、なんとメールの記録がすべて消えているのです。
今年の春ごろにも同じようなことがあったのですが、その後、注意して、メールがいつ消えても大丈夫のようにしていたのですが、この1か月ほど、油断していました。
また悪夢の到来です。
しかも今回は、ちょっとややこしいやり取りのメールがあり、忙しさにかまけて処理を延期していたのですが、そのもともとのメールがなくなってしまったのです。

こういう経験をするのは、何回目でしょうか。
4、5回目だと思いますが、その都度、対策をしようと思いながら、時間が経つと忘れてしまいます。
実は、頭のどこかに、まあ時々、こういうことがあっても刺激的でいいではないかという気持ちがあるのです。
波乱のない人生は退屈ですから。
こんな瑣末な話は波乱とは言えないでしょうが、大きな波乱にはいま、私自身立ち向かう気力がありませんので、歓迎すべき適度の小波乱と言って、いいかもしれません。

このことを前回同様、フェイスブックに書きこんだら、またいろんな人がアドバイスをくれました。
しかも、湯島に来ると言いながら、なかなかきっかけを得られないでいた人が、これを契機にもしかしたら、湯島に来るかもしれません。
人はトラブルに巻き込まれると、何かを失うと同時に、何かを得るもののようです。
まさに、禍福はコインの裏表です。

さて今回は、うまく乗り切れるでしょうか。
最近、私にメールを下さった人で、返信が届かないことがあれば、お手数ですが、ご連絡ください。
ご迷惑をおかけします。

■3315:どうしたもんじゃろのう(2016年10月1日)
節子
今日から10月ですが、急に寒いほどの日になりました。
こたつがほしいくらいです。
季節感を取り戻そうとしていたのですが、なかなかうまくいきません。

ところで、わが家の経験則の一つに、「10年周期で家族の誰かが旅立つ」という、いささか「こわい法則?」があります。
これは、娘が気づいたことなのですが、同居していた私の父が亡くなったのが1987年、母がなくなったのが1997年、そして節子がなくなったのが2007年です。
まさに10年周期です。
この定めが事実だとしたら、来年が、その10年目に当たります。
いまのところ、同居している家族は娘だけですので、それぞれの確率は50%。
もちろん年齢的なことで言えば、私が順番ですが、節子の事例でわかるように、年齢順とは限りません。
というわけで、わが家にはこの不気味な定めが覆っているのです。

この定めの呪縛から抜け出るにはどうしたらいいか。
これはさすがに難問です。
定めを決めた人に事情を話して、今回だけは定めを解除してもらうのがいいですが、だれにどうお願いすればいいかわかりません。
それに、今回パスすると、私はさらに10年旅立てなくなります。
さて、どうしたものか。
今日、終わったNHK朝ドラの「とと姉ちゃん」の常子の口癖ではありませんが、「どうしたもんじゃろのう」です。

そんな「定め」のことをすっかり忘れてしまい、今年は、がんばっていろんなことを始めてしまいました。
そのため、もうしばらくは元気で活動してくれないと困ると言われています。
私自身も、最近その気になっているのですが、わが家を覆う「定め」の行方は、私にはどうしようもありません。
困ったものです。

さて、どうしたもんじゃろのう。

■3316:朽ちる身体(2016年10月2日)
節子
人は、60歳を過ぎると、朽ちていくものだ、それに抗うことはしない、というのが私の信条です。
朽ち方はいろいろとありますが、その信条に基づき、無理に若さを保とうとか健康努力をするなどというのは、私の趣味ではありません。
そもそも、健康であることには、以前からさほど頓着はありません。
これは節子とは違っていました。
皮肉なもので、健康意識の強かった節子が、先に旅立ちました。

節子に先立たれてから、私の身体維持への関心はさらに低下しました。
それに70歳を過ぎれば、それを手入れするのにコストをかけるのは、社会的にももったいないと思います。
ですから、少々、身体に不具合が起こっても、よほど困らなければ治療にも関心はありません。
身体もまた、朽ちるに任せるのがいいという思いがどこかにあります。

実は私は視力が弱く、特に右目は最近、本を読むのにも不都合があります。
そもそも眼が小さく、検査の時にももっと大きく眼をあけてと言われれるのですが、眼が明かないのです。
ですから、普通の人に比べて、私の視界は狭くて暗いのです。
暗い世界を生きているというわけです。
これは、いまに始まったことではなく、もうかなり前からそうなのですが、最近、急速に世界は暗くなってきています。
まあさほど余命も長いことはないので、治療することもないと思うのですが、さすがに最近は不便です。
そろそろ限界かもしれません。
信条にはいささか反しますが、治療に行こうかと思います。
もし視力が回復すれば、読書速度ももっと早くなるでしょう。

身体的若さを保とうなどという気はないのですが、精神的若さに関しては、むしろもう少し朽ちてほしいという気がします。
私の場合、精神的成長があまりに未熟なので、人との会話において、いまもなおみっともない醜態をさらすことが少なくありません。
というよりも、どこかで「精神的成長」への忌避感があります。
精神的な成熟には魅力を感じますが、成熟に至る前の「成長」を私の場合、果たしていないので、成熟はまさに「高嶺の花」でしかありません。
実に困ったものですが、今更どうしようもありません。

ついでに「知的」な面はどうでしょうか。
知的でありたいと思いながら、どうもこの面も落第のようです。
ただ好奇心だけは、いまなお、子ども時代とそう変わりません。

余計なことを書いてしまいましたが、朽ちる身体に、掉さすべきかどうか。
信条に反する行為を一度でもとれば、たぶん人生は変わってしまうかもしれません。
これまた悩ましい問題です。
きっと「瑣末な問題」でもあるのでしょうが。

■3317:眼科医は超満員でした(2016年10月3日)
節子
意を決して、眼科医に出向きました。
評判のいい眼科医を教えてもらっていたのです。
ところが、ドアをあけたら、なんと30人近い人が待合室で待っていました。
立っている人さえいました。
それでおそれをなして、反射的にドアを閉めてしまい、今日はやめることにしました。
それにしても、こんなにも患者が多いのであれば、私の場合は診察を遠慮するのが、社会的資源の配分上は、いいのかもしれません。
さらに言えば、評判のよくない眼科医に行くのが、望ましい選択かもしれません。

まあ、それはともかく、今日の眼科医はやめました。
もうしばらくは、「暗い世界」で生き続けることになりました。

帰りに、宝くじ売り場があったので、買いました。
今日は大安なので、当たるかもしれません。
5億円当たったら、取り組めることが山ほどあります。
そうなるとやはり身体ももう少し維持しておく必要があります。
宝くじが当たったら、眼科医ももちろんですが、神経内科に行き、降圧薬もきちんと飲んで、余命を5年延ばそうと思います。
わが家の「10年周期の掟」が作動しなければの話ではありますが。

■3318:飛鳥寺から物部を思い出しました(2016年10月3日)
節子
今日、テレビで飛鳥寺を放映していました。
飛鳥寺は大好きで、私は何回か行っていますが、節子とも3回ほど行ったような気がします。
テレビの映像から、飛鳥大仏の置かれている部屋の様子も少し変わっているのがわかりましたが、飛鳥大仏の表情は、当然ですが、あの頃のままでした。
私たちが行った頃は、飛鳥寺全体に、まだとても素朴な感じが残っていました。
お寺の狭い部屋で、住民のみなさんがご住職の説法を聞いていた場面にも出会ったことがあります。
私たちは、それを聴くことなく、ふたりだけで飛鳥大仏と対面していました。
とてもあったかな不思議な時間を過ごしたのを覚えています。
飛鳥の大仏は、その時もいまと同じように、少しぎこちない微笑を浮かべていました。
あの表情は、一度見たら、忘れられません。

飛鳥寺は、そもそもが蘇我氏の氏寺です。
いまは真言宗豊山派の寺になっていますので、わが家のお寺と同じです。
蘇我氏と言えば、思い出すのが、物部氏です。
節子と付き合って、節子の生家のあるところが、滋賀県の高月町(現在は長浜市)の西物部という集落だと知った時には、なぜか感激しました。
そして、さらに節子の母方の実家が、すぐ近くの唐川という集落であることを知った時にも、心が騒ぎました。
唐川の集落の後ろにある山を最初に見た時には、これは古墳だろうと思いました。
節子にも話しましたが、残念ながらその頃の節子は、まったく興味を示しませんでした。

節子の生家の周辺に限りませんが、滋賀には日本の古代の記憶がたくさん埋まっているようです。
いつか時間ができたら、節子と一緒に、そうした古代を感ずる滋賀の遺跡周りをしたかったと思っていましたが、ついにそれは実現できませんでした。
節子が元気だったころ、節子の生家から米原にかけての「かんのんみち」の寺社は、いくつかまわりましたが、どこも奈良や京都は違う魅力がありました。

私は、古代の日本には物部王朝があったという、鳥越憲三郎さんの考えに、とても魅かれています。
最近、藤井耕一郎さんの本で読んだのですが、卑弥呼時代の直前は、近江の滋賀が出雲だったという説もあります。
滋賀の湖西の栗東郡あたりに、みやこがあったというのです。
それを物語るように、そこからは大きな遺構も発見されているそうです。
私は言ったことはないのですが。
ヤマタノオロチ伝説も、もともとはそこにある二上山から生まれたという説もあります。
二上山は、いまも新幹線で通過するときに見ることがありますが、最初に見た時には、やはり心に感ずるものがありました。
滋賀には古代の歴史がたくさん埋もれている気がします。
私が節子に魅かれたのは、滋賀の人だったからかもしれません。

■3319:今朝の朝はすばらしかったです(2016年10月6日)
節子
心に迷いがあると、平安は得られません。
すべての不幸は、みずからの迷いから生まれるのかもしれません。
しかし、迷いは、それがどんなに瑣末なものであっても、断つことは容易ではありません。
人との関係を持っている限り、迷いからは解放されないのかもしれません。
他力に生きるという発想(正確に言えば、「他力」という概念)は、私にはありませんから、迷いもまた良し、としなければいけません。
不惑のないまま、私は人生を終わることになるでしょう。

今朝、早く目覚めました。
さわやかな朝の空を見ていると、迷いの瑣末さに気づきます。
実に気持ちの洗われるような朝の空でした。
少し見とれていたのですが、この気持ちを残しておこうと思って、わざわざ写真に撮ってみました。
私の、今朝の気持ちを残したいと思ったのです。
幸せな気分で、節子に挨拶し、庭の花木に声をかけてから、質素な朝食を楽しみました。
今日は、いい日になりそうだと思いながら。

しかし、いま、その写真をみたら、何の変哲もない、空でした。
なぜ、今朝は、あんなに心に幸せな気分が湧いてきたのか。
よくわかりません。

すべては、自らの心の中にある、という人がいます。
自然も他者も、みずからが生み出している、というわけです。
写真を見ながら、そうかもしれないと思います。
今朝、私が見た青空は、私に元気を与えてくれました。
世界は、みずからを映す鏡なのかもしれません。
朝の気持を、持続できれば、今日はいい1日になるでしょう。
今朝の空を与えてくれた、お天道様に感謝しなければいけません。

■3320:眠れなかった夜(2016年10月7日)
節子
今日は石和温泉で、企業の人たちとの合宿です。
始まりが早いので、早朝に出発する予定でしたが、まあ私は少し遅れてもいいと言うので、まだ自宅です。
歳をとると、いいこともあるのです。

今日もさわやかな朝でした。
昨日は、朝がとても素晴らしかったので、いい一日になると思っていましたが、あんまりいい日にはなりませんでした。
人生はなかなか順調には進みません。
しかし、昨日も書いたかもしれませんが、良いか悪いかは、受け止め方次第です。

昨夜、テレビで、死刑囚の手記が少し紹介されていました。
それがあまりに生々しかったので、夜中に目が覚めてしまいました。
死を宣告された人の人生はどんなものなのか。
そう考えていたら、がんなどで、余命宣告を受けた人も同じではないかという気がしてきました。
余命宣告は、死刑宣告と同じで、人道に反しています。
生存率で語ることもまた、おかしい話です。
そんなことを考えていたら、また眠れなくなりました。

しかし、朝起きたら、今日もまた、さわやかな朝です。
今日こそ、きっといい一日になるでしょう。
そろそろ出る時間です。
今ごろになって無性に眠たくなってきました。
電車で寝過ごさなければいいのですが。

■3321:今日も前途多難です(2016年10月7日)
節子
今日も前途多難な日になりそうです。
家を出かける直前に、とんでもないことに気づきました。
先日のメール消去事件の後、迷惑メール対策を間違えてしまい、過剰な対策を講じてしまったため、普通のメールまでが受信拒否になっていたのです。
そう言えば、この数日、なぜか返信が少ないと思っていたのですが、今朝、ある人が送ったはずのメールが届いていなかったので、念のために、プロバイダーを確認したら、そこの迷惑メール箱にたくさんのメールが入っていました。
あわてて受信対象にしましたが、未受信だったためにちょっとした不手際を起こしていることにも気づきました。
しかも、かなり重要な問題でした。
この数日の重い気分にもつながっていることです。
私自身の不手際で、勝手に不愉快になっていたわけです。

時間があまりなかったのですが、緊急のものは(たぶん)対応できたと思います。
いささか心配ではありますが。
しかし、なんとか予定の列車には間に合いました。
久しぶりに焦ってしまった20分でしたが、そのために今日一日のすべてのエネルギーを消費してしまった気がします。
今は列車の中で、これを書いていますが、今日の資料を読む元気もありません。

ネットが繋がらないので、ホテルに着いて、これをアップする頃には、平常心に戻っているといいのですが。
それにしても、ネット依存は、やはり注意しないといけません。

もしご迷惑をおかけした人がいましたら、お許しください。

■3322:朝風呂と散策(2016年10月8日)
節子
石和温泉はまだシーズン前のためホテルはすいていました。
昨夜は大浴場をしばらく独占させてもらいますた。
久しぶりにゆっくりせせてもらいました。
朝も露天風呂につかってきました。
とてもやわらかい,やさしいお湯でした。

朝、時間が少しあったので、ホテルの近くを散策しました。
実は笛吹川が近くを流れているのですが、ホテルの部屋から見たら、その近くに小川がありそうで,もしかしたらそこにカニが棲息しているのではないかと思ったのです。
温泉地ですから,いない可能性が大きいですが、久しぶりの朝の散策もいいと思ったのです。
残念ながら、カニには出会えませんでしたが、笛吹川の土手をちょっとだけ歩きました。

節子がいたら、今頃はいろんな温泉に行っていたかもしれません。

しかし、節子がいなくなったいまは、仕事でもなければ温泉にもくることはないでしょう。
伴侶の有無は、人生を大きく変えてしまうものです。

■3323:なぜか涙が出てしまいました(2016年10月9日)
節子
雨の日は、どこか感傷的になりやすい。
ほどほどに疲れていると、これまた感傷的になりやすい。
秋を感ずると、理由もなく、感傷的になりやすい。

そのせいかもしれませんが、今日は、テレビを見ていて、わけもなく涙が出てしまいました。
NNNドキュメント「ニッポンのうた‘歌う旅人’松田美緒とたどる日本の記憶」。
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21853717.html
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/4003/999741/#p_10941607
再放送でした。
日本に伝わる古い歌を探し、今によみがえらせている歌手、松田美緒さんが、歌の記憶をたどる旅のドキュメントです。

たまたまテレビをつけたら、画面に長崎の伊王島の風景が出ていました。
むかし、一度だけ伺ったことがあり、懐かしくてそのまま見ていたら、不思議な歌が流れ出したのです。
伊王島で102歳の女性がおぼえていた「こびとの歌」です。
とても不思議な歌ですが、その歌に引き込まれてしまい、そのまま見続けてしまいました。
つづいて出てきたのが、「西浦の子守唄」。

いずれも初めて耳にする歌です。
そして、なぜかわけもなく、聴いていて、涙が出てきたのです。
それも、涙が止まらないのです。
幸いに私一人だったので、涙の出るままにまかせられました。
しかし、なぜでしょうか。
涙が出てきた意味が、私にはまったくわからない。

「こびとの歌」も「西浦の子守唄」も、後で気になって、ネットで歌詞を探しましたが、見つかりませんでした。
あれほど心に響き、聴きほれていたのに、いまは全く思い出せない。
それもまた不思議ですが、しかし、特に歌詞に感動したわけでもないでしょう。
メロディが特に心に響いたわけでもない。
歌手の松田さんの歌いぶりやしぐさに心揺さぶられたわけでもない。
ただただ涙が出てきたのです。

涙を出したかったのでしょうか。
最近は、あまり涙を流すこともなくなりました。
私の体験では、涙は心をいやす最高の贈り物かもしれません。
今日はきっと、誰かが涙を贈ってくれたのでしょう。
節子かもしれません。
感謝しなければいけません。

伊王島は、私が長崎にささやかに関わっていた時に仕事で訪問したことがあります。
島に上陸して道を歩きだしたら、地元の子どもたちが挨拶をしてくれるのです。
それが強く印象に残っていて、仕事での短い滞在だったはずなのに、伊王島の名前だけは忘れたことがありません。
何のために行ったのかは、まったく覚えてはいないのですが。

私の世界の中には、なぜか、伊王島が存在しています。
死者の記憶も、たぶん同じなのかもしれません。
いまはもう彼岸に旅立った友人たちも、節子と同じように、いまの私の世界では生きている人たちが少なくありません。
旅立った後にも、誰かの記憶の世界で生きつづける、そんな生き方をしたいと、改めて思いました。

■3324:身体が小さくなりだしました(2016年10月10日)
節子
今日はあるコンテストの審査員を引き受けていたのですが、一応、審査員なので、背広を着ていくことにしました。
最近は、背広を着る機会が少なく、先日、ある人に背広で会ったら、驚かれてしまったほどです。
今朝、めったに着ない背広を着ました。
そうしたら、なんとズボンの丈が長いのです。
名探偵ポワロならば、ズボンが延びたと思うでしょうが、凡人の私は、足が短くなったと思いました。
1センチは短くなっていますね。
歳をとると身体は縮んでいくと言われますが、まさに私がその時期に入ったようです。

さてどうしたものかと思い、別の背広を着てみました。
あれ、これは大丈夫です。
どういうことでしょうか。
名探偵ポワロならば、背広の生地の違いにするでしょう。
しかし、凡人の私は、素直に、この背広は大丈夫だと思いました。
そして、その背広を着て、審査員を務めてきました。

さて、私の身体は縮んだのかどうか。
それが証明できませんでしたが、夜、体重を久しぶりに計ったら、3キロ痩せていました。
やはり縮んでいたわけです。

節子がいなくなってから、基本的には背広は作っていないのです。
衣服が枯渇しだしました。
困ったものです。
さてどうしたものか。

■3325:代々木の青少年総合センターに行きました(2016年10月11日)
節子
昨日は、久しぶりに代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターのイベントに参加しました。
15年ぶりくらいでしょうか。
ここでは以前、コムケアの発表会などを何回か行なったことがあります。
節子も参加したこともありますが、それ以上に、記憶がよみがえってくるのは、節子の発病で、私の気が萎えていた時に開催した時の記憶です。
その時は、前日からここに宿泊しましたが、遠くから来て前泊した発表者たちと夕食を一緒にしました。
その時、私と同じく、伴侶の病気になった人がいました。
お互いに元気を装っていましたが、お互いにすぐ、心の底を感じていました。

彼女も、私と前後して、伴侶を見送りました。
私よりはずっと気丈夫の人で、彼女が主催する予定のイベントの直前に、伴侶がなくなりました。
しかし、彼女は予定を変えることなく、そのイベントを開催しました。
私も参加させてもらいましたが、彼女の振る舞いは凜としていました。
私には太刀打ちできないほどに。

しかし、それからしばらくして、彼女は、同じような体験をした女性を連れて、湯島に来ました。
そこでお互いに涙を流しながら、悲しみを共有しました。
しかし、30分ほどして、彼女は、きっぱりと、これでこの話は終わり、と言って、いつもの彼女に戻りました。
女性は強いなと、思いました。

その方が書いた本をいただいたことがあり、節子もその本を読みました。
節子の感想は、すごい人だという一言でした。

彼女と久しく会っていません。
群馬にお住まいですが、どうされているでしょうか。
私よりも少し年上です。
彼女の、あの凛とした振る舞いがいまでも心に残っています。

■3326:「ジェイソン・ボーン」(2016年10月12日)
節子
今日は午前中、時間がとれたので、久しぶりに映画を観にいきました。
先日、封切られた「ジェイソン・ボーン」。
私が最近、一番面白いと思っているシリーズの映画です。
国家権力を暴くアクションものですので、節子にはまったく興味がないジャンルです。
この映画の第1作の「ボーン・アイデンティティ」は、娘から教えてもらったのですが、そんなこともあって、その時には映画を観には行きませんでした。
節子と一緒の頃は、一人で映画を観に行くということはありませんでした。

「ボーン・アイデンティティ」を観たのは、テレビで放映された時です。
以来、すっかりファンになってしまいました。
これまでのシリーズ作品は、いずれもかなりの回数を観ていますが、何回、観ても不思議と飽きないのです。
今日は、私よりもボーンファンの娘も時間があったので、一緒に行くことにしました。
私は、節子と一緒にいたころ、いつも2人で行動していたので、一人で映画に行くのさえ苦手なのです。

朝一番の回に行ったのですが、予想に反して、空いていました。
劇場に入ったら、まだおひとりしかいませんでした。
しかも、その人はなぜか私の席の真ん前でした。
この劇場は自らがあらかじめ席を取っておくのだそうで、娘がとっておいてくれたのです。
開演前まで時間があったので、その人と話しました。
私とたぶん同世代の男性で、毎週、このシアターに映画を観に来ているのだそうです。
最近の映画はついていけないこともあるので、観た後、DVDを借りてきて、観直すこともあるそうです。
よくわかります。
私も最近は、同じようなことをやっているからです。

2時間の映画はあっというまでした。
正直、予想したいたよりは退屈でしたが、まあこれからまた何回か観るうちに好きになるでしょう。
いつもそうなのです。
やはり第1作が一番よかったというのが、私と娘の共通の意見でした。

最近少し時間に追われがちな日々ですが、久しぶりに、ボーンの世界に埋没できました。
これも一種の「瞑想」と位置づけましょう。
おかげで、かなり気持ちが明るくなった気がします。
しかし、午後は、また、雑事に追われて、元に戻ってしまいました。
明日からしばらくまた、多用な日々が続きます。
血圧の薬もまたなくなったのですが、お医者さんにも行けません。
困ったものです。

■3327:信ずる者は救われる(2016年10月13日)
節子
先日、友人からチェーンメールが回ってきました。

今年の10月には、
月曜日が5日、
土曜日が5日、
日曜日が5日ある。
これは823年に一度しかない。
これはお金の袋と呼ばれ、
この事を少なくとも5人以上の人に伝えると4日以内に豊かさが舞い込んでくると言われているとの風水のいわれだそうです。

うっかり忘れていたのですが、ぎりぎりの4日目に、遊び心が通ずると思われる5人に回しました。
そうしたら、2人から連絡があり、昨年の8月も、一昨年の8月も、そうだと連絡がありました。
私も実はそうだろうなと思っていましたが(31日あれば、かならず3日間は同じ曜日になるのは自明ですから)、これはどうなっているのか、とチェーンメールを送ってきてくれた人に送りました。
つまり逆チェーンメールです。
この逆流が、どうなっていくのかは大変興味がありますが、私に見えてくることはないでしょう。

このブログを読んでくださっている方のところにも、同じようなメールが届いているかもしれません。
だとしたら、私ともどこかでつながっているわけですが、そういうことを確認し合う意味でも、チェーンメールは、プラスの効用を持っているのかもしれないと思います。
もちろん運用次第では、マイナス効果の方が大きいとは思いますので、注意しなければいけませんが。

ところで、私はできるだけ物事を良いほうに受け止めることに心がけています。
このメールも、「4日以内に豊かさが舞い込んでくる」を信じたわけです。
私がメールを送ってから2日ですが、昨日あたりから、吉報が届きだしました。
信ずる者は救われる、というのは事実のようです。
もっとも、その吉報は、考えようによっては、凶報でもあります。
すべては、受け取りよう、というのも、また真実なのかもしれません。

今日は冬の到来を感ずる小寒い朝です。

■3328:「喪失」ではなく「出会い直し」(2016年10月13日)
節子
夢を見ました。
まだ会ったことのない女性の夢です。
顔は出てきませんでしたが、節子ではありませんでした。
節子を含めて、これまで会った女性たちを感ずる女性でした。

政治学者の中島岳志さんが、ある本で、「葬式や法事は死者との出会い直しの場」だと書いていました。
目が覚めた時に、なぜか、それを思い出して、その本を探してみました。
たしかに、書いてありました。
そして、哲学者の田辺元や歴史学者の上原尊禄に論及し、「彼らが考えたことを私なりに読み替えてみると、「二人称の死」というのは「喪失」ではなく「出会い直し」である」とも書いています。
その言葉が、すーっと心に入りました。
節子がいなくなってから、ずっと「出会い直し」をしていたのかもしれません。
そう考えると、いろんなことが腑に落ちてきます。

人は、現前する存在だけを愛するわけではありません。
目には見えない存在を愛することは、よくあることです。
現前しているが故に、逆に相手が理解できていないこともあります。
お互いの関係性さえ、うまく構築できないこともある。
節子がいなくなってからの、この9年は、出会い直しの期間だったのかもしれません。
出会い直しがうまくできたかどうかはわかりませんが、
今日、夢で会ったのは、出会い直した節子だったのかもしれません。

夢で、その女性に会ったのは、ほんの一瞬です。
彼女は、私に、何かをしないようにと懇願したような気がします。
ところが、その肝心の内容が思い出せないのです。
覚えているのは、そのうえで、私の生き方を受容してくれたような記憶が残っています。
何を忌避され、何が受容されたのか、思い出せないのがもどかしいです。
ただ、その時の周辺の風景はかなり思い出せます。
荒れは黄泉比良坂だったかもしれません。
女性は、小高い山での私の行動に関して、何かを言っていました。

夢は、いつも不合理で、意味不明です。
でもまあ、「出会い直し」ということに気づかせてくれた夢なのかもしれません。

■3329:愚かさは他者を裏切ることを知った時に始まった(2016年10月16日)
節子
さわやかな秋の朝です。
ここ数年、迷っていたことも、一昨日決断したこともあって、精神的な重荷は少し軽減されました。
最近、少し時間に追われていましたが、今日はゆったりできそうです。
午後、地元の友人が、知人を紹介したいと言って、わが家に来ることになっていますが、それを除けば、今日はほぼ自分のことに費やせる休日です。

久しぶりに畑にも行こうと思いますが、まずは庭の手入れです。
なにしろこの2週間、何もせずに過ごしてきました。
庭の池に、沢蟹へのあいさつにも行けていません。
人は余裕がなくなると、横への関心が少なくなってきます。
そして、それによって、さらに自らの余裕を失っていきます。

余裕がなかったのは、時間のせいではありません。
今回は、生き方を少し変えるという判断に迷っていたのです。
それは金銭が絡んでいる話です。
私が最も苦手の分野ですが、同時に「正義」の問題でもありました。
結局、周囲の人たちから「正義」は実現しなければと言われ、その気になったのですが、決断した後も、どこか心の隅では引っかかっています。
相手への憤りから解放されていない自分がいるからです。
だから雲一つないさわやかさとまでは言えません。
でもまあ、決断した以上は、戻ることはありません。

人はなぜ、他者を信頼できないのか。
みんなが、他者を信頼し合えば、みんな幸せで安らかになれるはずです。
にもかかわらず、人はなぜ他者を裏切るのか。
結果としてではなく、意図的に、です。

昨日、湯島で福島原発事故にまつわるサロンをやりました。
その時、参加者のひとりが、自分を含めて、人間は愚かだと発言しました。
彼女は、被災地に行って、そこの住民たちと話している時の方が、心安らぐようです。
その言葉にとても共感できました。
たぶんそこには、自らの愚かさを気づかせてくれる、何かがあるのでしょう。
私も、体験的に少しわかるような気がします。

愚かさは、他者を裏切ることを知った時に始まったのかもしれません。
孫の顔を見ていると、人は本来は実に賢いのだろうなと、いつも思います。
そこには、嘘も裏切りもないからです。
裏切ることが全くない関係が、もし伴侶だとしたら、節子はまさに伴侶でした。
その人間関係に、私は少し浸りきっていたのかもしれません。
その伴侶もいなくなりましたが、節子から学んだ裏切ることのない人生を、これからも生きたいと思います。

まずは、今日を良い日にすることから始めましょう。

■3330:挽歌を書く人生(2016年10月17日)
節子
先日、久しぶりに若い僧侶のNさんにお会いしました。
以前はネット発信していたり、本なども書かれていたのですが、最近、社会に向けてのNさんからの情報発信に触れる機会がないのでずっと気になっていました。
最近は改めて自分を問い直しているようなお話でしたが、Nさんのように、本質的な問題で社会に情報発信していると、いろいろと押し寄せてくる世間の波も大きいのでしょう。
その点、この挽歌は、極めて個人的なものなので、嫌なメッセージは届かないのです。
それでも、当初は、いろんなヘイトメッセージが届いていました。
たぶんその頃はまだ私自身がかなり感情的に思いを言葉にしていたのでしょう。
それに受けるダメッジも大きかったです。
いまでは仮に嫌がらせのメッセージが届いても、寛容に受け止められるようになりました。
自分で読み直したことはありませんが、この挽歌の表現も大きく変わっているのだろうと思います。
それはもちろん、私の意識や感情の変化でもあります。

Nさんから、気持ちの変化が挽歌に表われていますね、と言われました。
Nさんも挽歌を読んでくださっていたのです。
以前は、少しだけ読者を意識していたこともあります。
しかし、最近は内容のない日記のようなものになっているので、いわば書き続けることが日常になってきていますが、だからこそその時々の気分が出てしまうのでしょう。
たまには、少し意味のあることを書こうかと思うこともあるのですが、無理をしても仕方がありません。
素直にただ、思いつくままを書くしかありません。

しかしこの挽歌を書き続けているおかげで、時に「気になる言葉」に出会うことがあります。
テレビを見ていても、誰かと話していても、ふと、挽歌につながることに気づいて、考えを深めることもあります。
ただ私は、メモをしない人間なので、多くの場合、忘れてしまうので記事にはならないことが多いのですが、時間がかなりたったころに、突然それが思い出されることもあります。
そういう意味では、挽歌を書き続けていることが、ある意味、私の生き方に形を与えてくれているのかもしれません。
それに、この挽歌で、私の心の中をかなり明かしていますので、他者との付き合いも、見栄や虚勢をはることもできません。
それも私にとっては、とてもいいことです。
いまや挽歌は、私の人生の一部になってきているようです。

■3331:寒い1日(2016年10月17日)
節子
今日はこたつがほしくなるような、寒い1日でした。
昨日までで、一応、山積みなっていた課題をほぼ解消しました。
と言っても、まだ気は許せません。
なにしろ11月19日に開催する、少し大き目のイベントのチラシと案内文がようやく完成し、昨日からその呼びかけを始めました。
今日は、いくつかのサイトにアップしたり、メーリングリストで流したりしましたが、まだ反応はゼロです。
目標は100人以上ですが、いささか胃が痛くなるような話です。

明日も集まりをやりますし、23日も集まりをやるのですが、こう多いと、案内を出したかどうかさえ忘れてしまいます。
自分でも、今日はなんの集まりだったっけと戸惑うこともないわけではありません。
実はよそから見たら、別々のテーマに見えるでしょうが、私にはすべてが同じテーマにつながっているのです。
ですからなおさらややこしいのです。
困ったものです。

しかし、そうした集まりのおかげで、私の元気は維持されているのかもしれません。
いろんな人と会うと元気が出ます。
昨日は、我孫子の人が2人、わが家に来てくれました。
音楽活動で我孫子のまちづくりに取り組んでいる宮内さんと最近近くの施設で市民カフェなどを始めた石井さんです。
石井さんも、歌って踊れる人だそうです。
いろんな構想を聞かせてもらいました。
我孫子での私の活動は、あんまりうまくいきませんが、若い世代の活動も育ち始めているようです。
いろいろとお話をお聞きしていると、私などの出る幕はないようです。
我孫子もようやくステージが変わろうとしているのかもしれません。
思い悩むこともないわけです。

しかし、誰かと話していると、ついつい何かを始めたくなる私の悪癖は一向に治りません。
この歳になると、新しいことを始めるのは自重すべきですが、魅力的な課題が見つかってしまうわけです。
これまた困ったものです。

しかし、最近、世代の違いを強く感じます。
あきらかに私が生きてきた時代とは違った時代が始まっているのです。
節子我いたら、そういう時代とは距離を置いて生きていけたと思いますが、節子がいないいまは、それは難しいでしょう。
なんとか彼らの邪魔にならないように、つまり少しは役立てられるように、もう少し社会と関わっていこうと思います。

それにしても、今日は寒いです。
寒いと心まで冷えてくる。
節子がいたら、下からお茶でも飲まないと、声がかかるのですが、それも期待できません。
朝から4杯目のコーヒーを淹れて、身体を温めないと風邪をひきそうです。

■3332:どんよりした朝(2016年10月18日)
教も寒い朝です。
雨まで降っています。
私自身が、何とか山積みの宿題を解消して、少し気が晴れてきたのに、どうも自然はその気分を押さえつけようとしていると思いたくなります。
いや、そうではなく、何か大事なことを忘れていると気づかせてくれようとしているのでしょうか。
それもまた、少し心当たりします。

昨日、ちょっと古い本ですが、「おひとりさまでも最期まで在宅」という本を読みだしました。
今度の日曜日、湯島で「ホームホスピス」活動をしている友人に、サロンをしてもらうのですが、その前に読んでおこうと思っていた本です。
ところが、読んでいるうちに、節子のことをいろいろと思いだしたら、読めなくなってしまいました。

節子は、「おひとりさま」ではなく、家族に囲まれての在宅治療生活でした。
家族への負担が大変なことに気づいたのか、ある時、病院に戻ろうかとぽつんと言ったことがあります。
そういう思いを起こさせたことを反省しましたが、正直に言えば、在宅治療のほうが、ある意味で私も家族も「負担」は少なかったと思います。
ちょうど往診医療の制度が変わった時期で、往診に来てくださった医師も看護師も、みんなとても誠実に関わってくれました。
医師は、費用的なことまで調べてくれました。
当時のことを思い出すと、やはり今でも、思いがあふれ出てしまいます。

そんなわけで、昨日はその本を読み終えられませんでした。
そして、目が覚めたら、どんよりした朝でした。
私は、自然の状況に大きく影響される性格です。
よく言えば、自然とともにあり、悪く言えば、主体性がない。
今日は、このどんよりした朝のように、始めましょう。

もっとも午後には、ラフターヨガ―という、生活に笑いを持ち込んで、みんなを元気にする活動をしている女性たちと会います。
あの人たちとあっていると、元気になるかもしれません。
あるいは、あまりの格差に、ますます落ち込むかもしれません。
さてさて、今日はどんな日になるのでしょうか。

〔追記〕午前8時
ブログを書き終えた後、食事をしていたら、雲が晴れて、太陽が出てきました。
まわりを覆っていた霞が消えて、私が起きた時とは全く対照的な「さわやかな朝」になりました。
世界が一挙に明るくなった感じで、わたしのきぶんもいっぺんしました。
自然の力は驚異的です。

■3333:櫟野寺の十一面観音(2016年10月19日)
節子
櫟野寺の十一面観音坐像に初対面してきました。

今日は午前と午後の用事の間に2時間ほど時間ができたのですが、娘のユカが、東京国立博物館の特別展「平安の秘仏」を観に行くというので、時間を合わせてもらい、同行しました。
http://hibutsu2016.com/
特別展「平安の秘仏」は、滋賀の櫟野寺(らくやじ)の仏像です。
主役は重要文化財の十一面観音坐像としては、日本最大の十一面観音坐像。
お寺からこの像が外部に出るのは今回が初めてだそうです。
展示室に入った途端に、その像が目に入ってきました。
平安時代の典型的な表情です。

櫟野寺は、滋賀の湖南の甲賀市にあるお寺です。
白洲正子の「かくれ里」で紹介されていますが、ちょっと不便なところなので、私たちは行ったことがありません。
写真だけは、以前から見ていましたが、頭上の10面の観音面がとても丁寧に彫られていて、いつかお会いしたいと思っていました。
それに、櫟野寺には20体ほどの重要文化財の仏像がありますが、そのひとつの聖観音の表情は何とも言えないほど、私には魅力的なものでした。

十一面観音坐像はやはり見事でした。
ところが、もうひとつの聖観音は、なぜか見つかりません。
それらしきものには会えたのですが、私の記憶とはちょっと違うのです。
実は、今日、急に立ち寄ることにしたため、きちんと写真を見ていなかったのですが、私の記憶と少し違うのです。
帰宅して、写真をひっぱり出してみたのですが、やはり今日、展示室で観た償還能増とはどこか違います。
観音像の表情も変わるのかもしれませんが、不思議な気持ちです。
時々、こういうことがあるのですが。

滋賀のお寺の観音像は、みんな素朴で心和みます。
節子と一緒に、湖東の観音たちに会いにまわったことを思い出します。

少し時間があったので、いつものように本館常設展の薬師寺の聖観音にも会いたかったのですが、展示が変わっていて、お会いできませんでした。
ちょっと残念でした。

■3334:スパイ大作戦(2016年10月19日)
節子
夜、テレビをつけたら、なんと「スパイ大作戦」をやっていました。
若いころに、節子と見ていた番組です。
節子は、基本的にアクションものの映画やドラマは嫌いでしたが、なぜかこの「スパイ大作戦」だけは、私と一緒に見ていた記憶があります。
今日は、途中で気づいたので、最後の部分しか見ませんでしたが、最近のアクションドラマを見慣れていると、どうもテンポも遅いし、面白くありません。
当時は、どうして、こんな退屈な番組を面白がっていたのでしょう。
まあ、テンポも遅いし、アクションものと言っても、人は死なないし、節子向きとは言えるかもしれません。
最近のアクションものは、節子にはついてはいけないでしょう。
たとえテレビの中であろうと、節子は人が殺されるのが大嫌いでした。
「スパイ大作戦」の映画版の「ミッション・インポシブル」などは、節子の好みでは全くないでしょう。

私たちが生きていた社会は、大きく変わっています。
節子と出会い、一緒に暮らし始めた時の社会と現在の社会は、大きく違います。
しかし、一緒に暮らしていた時の社会は、それでも連続性がありました。
ところが、節子がいなくなってから、世界は一変してしまったような気がします。
もちろんこれは、私だけの思いでしょう。
私自身が変わってしまったのです。
しかし、私には、2007年を境に、社会そのものが変わってしまったような気がしてなりません。
東京の風景もですが、人の意識も、です。

時々、思います。
私もまた、彼岸に半分住んでいるのではないかと。
キリストの死で、紀元前と紀元後がわかれるように、大切な人の死は、世界を一変させるのかもしれません。

■3335:まだ施しするものがある喜び(2016年10月20日)
節子
今日はまた、夏日のような暑さになりました。
畑に行って、残ったさつまいもを掘り出し、庭木の整理をし、ホームページ作成のための新しいソフトをパソコンに入れて、ホームページをつくり替え、11月に予定しているイベントの案内フェイスブックを作成し、・・・と朝は思っていたのですが、暑さのために、結局は何もしませんでした。
娘の家に預かっていた荷物を持っていき、ついでに立ち上げた組織の通帳を(表紙が気にいらなかったので)郵便局で作り替えてもらい、さらに来年の手帳を100円ショップに買いに行ったら、それだけでもう疲れてしまい、ダウンしてしまったのです。
いやはや体力の低下はすさまじい。
そんなわけで、今日の午後は、結局、何もせずにすごしました。
少し涼しくなってから、これではいけないと思い、録画していたテレビの「こころの時代」を見ました。
禅僧の金子真介さんが日常の言葉で読み解く、「釈尊の遺言〜仏遺教経から」です。
実は以前、途中まで見て、そのままになっていたのです。
ぼやっとしてお話を聞いていたのですが、最後の金子さんのお話で、心がピシッとしました。
こんな話です。

ただ苦しみが無ければ、苦しみの自覚がなければ、また喜びの自覚も持てないんですよね。
私が、鳥取に住職をしておりました時に、お檀家を覚えるためにずっと托鉢をやっていました。
ある日のこと、お檀家で火事がありまして、もう丸焼けになっちゃった。
で、その近くに托鉢に行って、それでここの家は、あそこは火事になったから行くまいかな、と思ったんですけれど、昔から「托鉢は、村を残しても、家を残すな」というんですよ。
だから〈行かなきゃ〉と思って、そこの家の納屋だけが辛うじて残りましたので、その納屋の前に立ってお経を読みましたら、納屋の戸が開いて、おばさんが出て来まして、「まあ方丈さん、昼時分ですが、飯は食いなったぁ?」と聞くんですよ。
「いいえ。まだですけど」と言ったら、「これは貰い物の弁当だから、わしも半分食うし、上がって半分食べならんか」って。
〈どうしよう〉と思ったんですけどね、〈ああ、そうだ〉と思って、「頂戴します」。
藁を敷いたところでね、そのお弁当を半分こして頂いて。
そして帰りしなに、「まぁよう来てつかった。ほんによう来てつかった」。
その人が未だに、それから幾十年なんですけれど、まるで親元から小包が来るみたいに、お正月前はお餅を送ってくるんです。
で、幾十年経って話しましたら、「わしは方丈さんに救われた。もうこれでいよいよ人生は終わったと思った。だけどあの何にも無くなったところに、あなたが立ってお経を読んだら、わしはまだ施しするものが、弁当があるということに気が付いた。方丈さんは私の恩人です」って、くすぐったいんですけど言うんですね。
それの中に、私はやっぱり苦しみ、これを先ずは「苦しみは来るのだぞ。思い通りには絶対ならないんだ」という自覚・覚悟を持って、そして来たら、その上に立って、本当の幸福って見えてくるんじゃないか。それが四聖諦を納得した上で、八正道にするということじゃないかな、と思っております。
一寸断片的な引用なので、伝わらないかもしれませんが、その話を聞いて、思わず姿勢を正してしまいました。
まだ施しするものがある、という喜び。
最近少しそれを忘れているのではないか。
そう気がつきました。

だからとって、その後、頑張ったわけではないのですが、何かとても元気が出てきました。
図書館に、白洲正子さんの「かくれ里」を借りに行って、読み直すことにしました。
これまた驚いたことに、昔読んでいた記憶と全くと言っていいほど、違うのです。
あの頃、つまり、白洲正子さんが「芸術新潮」に「十一面観音巡礼」や「かくれ里」を連載していた頃が、とても懐かしく感じられます。
どこで、人生を間違えてしまったのだろうか。
そんなことを考えながら、節子と出会った近江の風景を思い出す1日でした。
近江は、魅力的なところです。

■3336:「喪失」によって「獲得」するものもある(2016年10月20日)
節子
「こころの時代」に関連して、もう一つ書こうと思います。
というのは、最初に思ったことと違うことを書いてしまったのです。
書き終えて、それに気づきました。

その番組での話し手は、禅僧の金子真介さんでしたが、聞き手はいつもの金光寿郎さんです。
その金子さんが、こう話されたのです。

以前、聞いたある人のお母さんですけれども、「無いものを欲しがるよりも、あるものを喜ばしてもらおうよのぉ」って、いつもおっしゃっていたそうですね。そこへ腰が据わると、苦しみの受け止め方が変わってきますね。
 
この言葉を聞いて、「喪失体験」という言葉を思い出しました。
そもそも「喪失体験」という言葉が間違いかもしれません。
「喪失」によって「獲得」するものもある。
あるいは、喪失したと思っていても、残っているものもある。
「ないもの」があれば{あるもの}もある。
節子がいなくなって9年以上経過して、ようやくこのことが納得できるようになりました。
金光さんが紹介しているように、「あるものを喜ばしてもらおう」という姿勢があれば、「喪失体験」は乗り越えられるでしょう。
もちろん、それなりの時間はかかりますが、その時間もまた、喪失によって得られたものかもしれません。
前の挽歌の、「まだ施しするものがある喜び」にも通じますが、これまで気づかなかった小さな喜びやありがたさに気づけるならば、人生は間違いなく豊かになるでしょう。
そして、喪失したものとのつながりを実感できるようにもなるでしょう。
喪失は、世界を深くし、より多くのものを獲得することでもあるのです。

まあ、今日は、暑さの中で、だらだらしていましたが、それなりに生きることをかみしめられたのかもしれません。
そういえば、私がだらだらしているそばで、水槽の沢蟹たちは元気に騒いでいました。
それを見ながら、この沢蟹たちは何を考えているのだろうかなどと考えていたのですが、沢蟹は私を見て、同じようなことを考えていたのかもしれません。

■3337:「修理を待つ商品」(2016年10月21日)
節子
思い切って眼科に行きました。
先月一度、行ったのですが、あまりに混んでいたので帰ってきてしまいましたが、今日は待つ覚悟で出かけました。
前回より空いていました。
そして思った以上に早く対応してもらいました。
しかし、どうも病院は苦手です。

今回の眼科医は初めてのところですが、とても評判がよく、いつも混んでいるのだそうです。
医師は一人ですが、スタッフが10人ほどいて、さまざまな検査がとても効率的に進められています。
待合室には20人ほどの人がいますが、診察ゾーンに入ったら、さらにまた20人ほどの患者がいました。
そうした人が、スタッフの誘導で、次々と次の「工程」に進められていくありさまは、まさに「工場」のようでした。
私も、工場のベルトコンベアに乗った「修理を待つ商品」のような気がしました。
これも以前、人間ドックなどでいつも感じていたことですが、要は「人間」でなくなってしまうわけです。
これが、私には苦痛なのですが、しかしその中に入ってしまうと意外と居心地もいいのです。

しかし、こうした「工程」に乗った「商品」気分は、人間の人生にも言えるかもしれません。
その場合は、「修理を待つ」のではなく「死を待つ」というべきですが、「修理」も「死」も同じようなものかもしれません。
以前、北九州市のエコタウンを見学させてもらった時に、逆工場、つまり解体工場を見せてもらいましたが、「死」とは、人体が自然に戻していく工場と言えるかもしれません。
同時に、魂はもしかしたら、次のステップに「昇華」する工程なのかもしれません。
そんなことを考えていたら、退屈はしませんでした。

もっと興味深かったのは、待合室の受付の近くで待っていたのですが、実にさまざまな人がやってくるのです。
人間は、こんなにも表情や言動がさまざまなのだと、改めて思いながら、受付にやってくる人を見ていました。
残念ながら知り合いには出会えませんでしたが。

ところで、病気ですが、手術をすることになりました。
これで世界はきっと明るくなるでしょう。
なにしろこの数年、ずっと視野が狭く、よく見えない世界に生きてきましたから。
余命幾ばくもないでしょうから、修理するのは私の主義には反しますが、最近のうっとうしさには我慢できないので、仕方がありません。

■3338:読書の秋(2016年10月23日)
節子
毎日、いろんな集まりや来客に対応していて、少しだけまた時間破産状況なのですが、そうした時には昔から、急に本を読みたくなるのです。
ちょっと古いのですが、先週読んだ本の中で紹介されていた、加藤典洋さんの「敗戦後論」を読みだしました。
その本の中に、「語り口の問題」という論文が収録されていていました。
その論文の書き出しは、ハンナ・アーレントの「悲しみは、決して口に出して語られません」という言葉でした。
その言葉は、さらにつづいているので、ここだけを取り出すのは趣旨に反するのですが、私は単純にこの言葉が心にグサッときました。
そして、前に見た、ハンナ・アーレントの映画を思い出しました。
彼女は、「イエルサレムのアイヒマン」を発表したことで、多くの友人を失いますが、映画でも出てきますが、親しい友人から、こう問われるのです。
「あなたはユダヤ人を愛していないのか」。

これについては以前書いたことがありますが、彼女は「わたしはわたしの友人「しか」愛しません」と答えるのです。
その意味は、「民族や集団」ではなく、「表情のある個人としての人間」しか愛せないというような意味であろうと思います。
映画を観た時には、この言葉はそう深くは考えませんでした。
しかし、加藤典洋さんは「語り口の問題」の中で、アーレントの問題の発言は、いまの私自身につながっていることをていねいに書いてくれています。
こうした書籍に出会うと、それこそ目からうろこが落ちる感じです。
そして、興奮するような知的な刺激をもらえます。
しかも、私自身の心にも突き刺さるメッセージももらえます。
このブログの主旨に合わせれば、ゾーエの私にもビオスの私にも、書籍はさまざまな刺激をくれるのです。
そして、元気ももらえます。

実は昨日は、そんなわけで、いささか興奮していて、挽歌を書くのを忘れていました。
今年の秋は、短いそうですが、読書の秋らしく、少しまた本を読んでみようと思います。
白洲正子さんの「かくれ里」も面白かったです。

時間がない時にこそ、読書は向いているのかもしれません。

■3339:お昼をご馳走してもらいました(2016年10月24日)
節子
今日はお昼をご馳走になってしまいました。
ご馳走してくれたのは、若井さんです。
若井さんですが、若くはなく、私よりも高齢の方です。
友人の紹介で、3か月ほど前のサロンに参加してくれたのですが、どうしてこんなにさまざまな人が集まるのだろうかと興味を持ってくれたようです。
それからもサロンに参加してくれています。
たしかに湯島のサロン参加者は多様です。

私にも興味を持ってくれたようで、今日はサロンではなく一度ゆっくり話そうということで、共通の友人と一緒に来てくれたのです。
話がすっかりと合いました。
そして共通点が3つほど見つかりました。
2人とも伴侶を見送っていること。
2人とも新潟出身であること(私の両親が新潟出身です)。
子どものころからアリナミンを飲んでいたこと。

話しているうちにお昼になったので、一緒に食事に行きました。
その途中で、なぜか「佐藤さん、ちゃんと栄養のあるものを食べないといけないですよ」と言われました。
私を見て、栄養不良であることがわかったのでしょうか。
ちなみに若井さんは昔、スーパーのバイヤーをやっていたこともあり、食品に関しては専門家なのです。
食肉をちらっと見ただけで、それがおいしいかどうかわかるそうです。
私も見ただけで、栄養が不足しているかどうか割ったのかもしれません。
そういえば、最近、よく口内炎ができるので、アリナミンをまたのみだしました。

そんなわけで、お昼をご馳走してくれたのです。
お金だけは貧乏な私としては、とてもありがたいので、毎日、お昼時に湯島に来てくれませんかと頼みました。
たしかいいですよ、と言ってくれたような気がします。
しかし、私が毎日湯島にっでてくるのも大変です。
人生はうまくいきません。
でも困ったらきっとまたご馳走してくれるでしょう。
貧しいものには必ず救いの神が現れるものです。

■3340:托鉢行(2016年10月26日)
節子
昨日は留守にしていたのですが、ふたりの方から新米が届いていました。
今年は3つ目の新米です。
それを見ながら、最近の私の人生は、まるで「托鉢」ではないかと、ふと思いました。
そういえば、昨日も、一昨日につづき、お昼をご馳走になってしまいました。
先日、「3335:まだ施しするものがある喜び」で、若いころの禅僧の金子真介さんの体験談を書きましたが、それを思い出しました。
施しを受けることもまた、喜びです。

人生は巡礼のようなものとは、巡礼者の鈴木さんと話していて話題になったことですが、人生はまた「托鉢」なのかもしれません。
そう考えると、いろんなことが楽になります。

ある人に、私は「契約」社会にはなじめないので、契約には関心がないと話して、呆れられたことがあります。
その人は、私と同じ考えだと言って、私のところに出入りしていたのですが、残念ながら、私とは正反対の考えだったわけです。
それ以来、その人の足は少し遠のいた気がしますが、契約を介さなければ人の関係が構築できないような生き方は、私の好みではありません。
私は、できるならば、人を信頼して生きていきたいと思っています。
しかし、契約は、そもそも人を信頼しないところから始まります。
契約の正反対のところにあるのが、布施かもしれません。
布施と托鉢の関係に関しては、私にはよくわかりませんが、私がいま元気なのは、もしかしたら、周りの人が私の鉢に「元気」を托してくれているからかもしれません。

昨日、少し疲れて帰宅して、2袋の新米を見ながら、そんなことを考えていました。
托鉢は、みんなを元気にしてくれます。
私がやっているのは、もしかしたら、托鉢行かもしれない。
そんな気がします。

■3341:祈りの鶴を世界に飛び立たせたいという祐滋さんの想い(2016年10月26日)
節子
昨日はまた「見えないプロジェクト」に巻き込まれました。
巻き込んだのは、宇賀夫婦です。
事の発端は、一昨日、来客中の時に電話がかかってきました。
いつもは出ないのですが、なぜか電話に出てしまいました。
新しいプロジェクトを立ち上げたので参加してほしいと言うのです。
彼らは論理の人ではないので、突然に声がかかるのです。
困ったものです。
しかし、最近、宇賀さんのところに石窯ができたのを知っていたので、ピザが食べられるかと思って、うっかり承知してしまいました。
それに、SADAKO LEGACY活動に取り組んでいる佐々木祐滋さんも来るそうなので、久しぶりに彼にも会いたいと思いました。
http://www.sadako-jp.com/about-sadakolegacy

佐々木祐滋さんは、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった少女「佐々木禎子」の甥にあたるシンガーソングライターです。
「禎子の物語を語り継ぐ責任がある」という想いから佐々木禎子をモチーフにした楽曲を作って活動しています。
禎子の思いをつづった「INORI」は、2010年のNHK紅白対抗歌合戦でクミコさんによって歌われたので、ご存知の方も少なくないでしょう。
よかったら次のところに、祐滋さんとクミコさんのそれぞれのものがあるので聴いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=aNTmENrpRRg

昨日、祐滋さんと我孫子で落ち合い、宇賀さんがやっている農カフェ「OMOしろい」に行きました。
なにか資料があって、話があるのかと思っていたら、大きな夢が語られただけでした。
訊けば、なんとまだ動き出したばかりなのだそうです。
プロジェクトの核は、いうまでもなく、祐滋さんの想いです。
祐滋さんの想いについては、前に書いたことがありますが、サダコ鶴を世界中に飛ばしたい、そしてみんなが幸せな世界を実現したいということです。
言葉だけではない、心からのその彼の想いには、心底、共感しましたので、何ができるかを私もそれなりに考えてきました。

しかし、その構想には共感できるのですが、取りつく島もない感じです。
いや、取りつく島はあるのですが、海図がないと言うべきでしょうか。
しかも、私の役割もわからない。
そこで、どうして私は来たのでしょうか、と質問したら、宇賀さんが知恵を出せと言うのです。
そもそもなんでこんなことを思いついたのかと訊くと、これまた宇賀さんも祐滋さんも、「ひらめき」だというのです。
さてさてどうしたものか。

いろいろと質問しているうちに、だんだんと私がむしろ当事者のような気になってきてしまいました。
まあこうやって、いろんなプロジェクトに巻き込まれてしまうのが、私の人生なのですが、今回はちょっと話が大きすぎます。
まあ余命いくばくもない私には、そのプロローグにささやかに関われるくらいでしょう。
でもまあ、祐滋さんの夢は、すごく純粋です。そしてやさしい。
まあできることをやろうと思いました。
長い長いミーティングでした。
疲れ切って帰宅しました。
最近の流れから抜け出さないと、際限なく、時間破産になりそうです。
彼岸に旅立つ暇さえなくなりそうです。

■3342:「しばらくぶりにお目にかかった気がして何となくほっとしました」(2016年10月27日)
節子
杉本さんからメールが来ました。
杉本さんは、私たちが敬愛していた大先輩です。
私よりもご高齢ですが、信念に沿った活動をされてきています。
時々ですが、湯島のサロンにも顔を出してくださいます。
しかし、以前ほどにはお会いできる機会も少なくなりました。
その杉本さんから、突然のメールが届きました。

フェイスブックで、農カフェ「OMOしろい」を訪問されたという貴稿を拝見しました。
写真に佐藤さんが写っていて、ご様子がよく表れていると思いました。
しばらくぶりにお目にかかった気がして、何となくほっとしました。
佐藤さんが写っている写真が出ることは、めったにないですね。
これが初めてかな。
これから、しばしば登場するようにしてください。

杉本さんは、節子の訃報をどこから聞いたのか、葬儀の前にわが家まで来てくれました。
お礼を言うと、「節子さんは同士でしたから」と言ってくれました。
「同士」、節子が聞いたらどんなに喜ぶでしょうか。
その一言は、いまも忘れられません。

昨日、新潟の金田さんが電話をくれました。
金田さんとも最近は会う機会が減りました。
別に用事があったわけでもありません。
めずらしく私も元気な声が出せましたが、「佐藤さんの元気な声が聞けて良かった」と言われました。

杉本さんも金田さんも、もう80歳を超えています。
私もそうですが、いつどうなってもおかしくない年齢です。
だからそれぞれ気になるのでしょうか。
私は、彼岸世界も来世をかたく信じていますから、深くつながっている人のことはあまり気にはなりません。
どうせまた会えるわけですから。
でも、おふたりの気持もわからないわけではありません。

杉本さんのメールを読んで、フェイスブックには自分が元気であることを知らせる効用もあるのだと気づきました。
これからは少し私自身の写真も、アップしていこうと思います。

杉本さんの「何となくほっとしました」という言葉がとても心に残ります。
みなさんにご心配をかけているようで、申し訳ありません。
挽歌では時々、落ち込んだ記事も書きますが、基本的には私は元気なのです。
たぶん最後まで、元気だと思います。
いや、最期を超えた後も、です。
節子もそうだと思いますので。

■3343:眼瞼下垂(2016年10月27日)
節子
また入院が決まりました。
今度は眼瞼の形成外科手術です。
眼瞼下垂は瞼が下がってくるという症状ですが、実はこの症状は15年ほど前から出てきています。
そのため私の眼は、鼻の孔よりも小さくなっています。
節子はいつもそれを笑っていましたが、まあそれもいいかと思い、手術はしないでいました。
眼瞼下垂のために、私の視野は普通の人に比べると、とても狭くて暗いのです。
つまり、世界があまり良く見えていないわけです。
その結果、いささか不便を感ずることもありますが、慣れてしまえば、世界はこんなものだと思うようになります。
世界を見る目が曇ってくるのではないかと思われるかもしれません。
たしかに、時々、まぶたを手で押し上げると、世界ははっきりと輝くように見えるのです。
つまり、いつもは、薄暗い世界で暮らしているわけです。
私の性格が悪いくて暗いのは、そのせいかもしれません。

しかし、人間は不足するところがあれば、必ずそれを補う機能が発達します。
物理的な視力や視野が狭い結果、物理的には見えない世界が見えだす、つまり「心眼」が育ってくるのです。
だから私には、世界の裏までが、そして未来までが見えているのです。
と、言いたいところですが、そんなことはまったくありません。
ただただうっとうしいだけです。
最近は、本を読むのさえ努力が必要です。
以前に比べて読書速度が遅くなり、読書量が激減したのは、たぶんそのせいです。
最近は読者が時に苦痛になってきました。」

それでついに眼科医に行ったわけです。
先日いった眼科の小川さんが、松久さんという名医を紹介してもらいました。
松久さんが、私の眼を見て言いました。
右目は頑張っていますね、と。
過剰な負担をかけていたようです。
申し訳ないことをしました。
私の眼は、私のものではないのですから、目の立場も考えなければいけません。

手術は2か月先しか時間がとれず、年末になりました。
4日間の入院だそうです。
さてもう2カ月、この眼で頑張らないといけません。

ところで、松久さんが言いました。
この手術をすると顔の印象が変わります。
それで違和感を持つ人も多いのです。
ですからこの手術をする医師は少ないのですよ。

さてさてどんな顔になるのでしょうか。
これも初体験ですので、とてもワクワクします。
性格も変わるかもしれません。
いや、人格も。
来年の私が楽しみです。

■3344:伴侶は、妨げか支えか(2016年10月28日)
節子
不覚にも風邪をひいてしまいました。
2日ほど前からどうも体調に違和感があったのですが、油断していました。
久しぶりに昨日の夕方発熱し、8時過ぎに就寝。
残念ながら熱はおさまっておらず、さてさてどうしたものかと迷っています。
それで午前中にかかりつけのクリニックに行きました。
大したことはないと言われ、それよりきちんと血圧の薬を飲まないとだめだとまた叱られて、帰宅しました。
で、またそのまま、寝てしまいましたが、そんなわけで今日は1日、ほとんど寝ていました。
こんなに寝たのは、本当に久しぶりです。
やはり疲れがたまっていたようです。
熱を計ったら、おさまっていました。
風邪というよりは、疲労解消の警告の発熱だったかもしれません。
発熱は解消、しかしまだ疲労感は残っています。
困ったものです。

自分のことはなかなか見えてきません。
私のように、思慮浅いものにとっては、みずからを相対化することが苦手です。
調子がいいと突っ走り、悪いとめげてしまう。
できないにもかかわらず、何でも引き受けてしまう。
人から言われると、すぐに信じてしまい、その気になってしまう。
そのくせ、奇妙に自信があり、世界が見えているような気になっている。
度し難い、とは、私のようなものを言うのかもしれません。
しかし、そうであればこそ、時に止まらないといけません。
今日は、そういう1日だったのかもしれません。

伴侶は、時に自らの生き方の妨げになります。
人はそれぞれに、生きる時間や価値観が違うからです。
そのおかげで、伴侶と一緒に生きていると、みずからを相対化する機会に恵まれます。
妨げは、実は妨げではなく、みずからを高める支えになります。
伴侶は、妨げか支えか。
そのいずれかと捉えるかで、伴侶の存在は全く意味が変わる。
そして、その伴侶の死もまったく、反対の意味を持つわけです。

風邪をひいたくらいで、そんな大げさな話にするなと言われそうですが、
こうして風邪をひいただけでも、伴侶の存在のありがたさがよくわかるのです。

私にはもちろん、節子は妨げなどではなく、人生の支えでした。
支えがない人生は、それなりに大変なものです。

■3345:「看取れる関係」と「看取れない関係」(2016年10月30日)
節子
昨日、「看取りの文化」をテーマにしたサロンを開催しました。
なんと20人を超すサロンになりました。
関心の高さを改めて感じました。

話題提供してくださったのは、中野でホームホスピス活動に取り組んでいる冨田さんです。
長年、地域包括センターなどで仕事をされていましたが、やはり行政の枠の中だけではできないことも多く、地域の医療職や福祉職の人たちと取り組みだしています。
その誠実な取り組みに、とても感動しました。

サロンには、若い僧侶から恒例の福祉活動実践者まで、さまざまな方が参加されてくれました。
そして、数名の方は、自らの看取り体験を語ってくれました。
それぞれとても心にひびくものでした。
考えさせられる示唆もたくさんなりました。
しかし、それにもかかわらず、やはりどこかに違和感が残りました。

看取るという行為は、やはりそれぞれに違うのだろうなと思います。
いや、もしかしたら、看取るという言葉自体に、私は違和感があるのかもしれません。
看取ると言ってしまうと、看取る人と看取られる人が別のものになってしまう。
たしかに、両親の場合は、「看取る」という言葉でも違和感はありません。
しかし、伴侶だった節子の場合には、どうも「看取る」という言葉がぴんとこないのです。
ではどういう言葉がふさわしいのか、と言われても、代わりの言葉は思いつきません。
でも、少なくとも、「看取る」というような感じではありません。
「看取る」というと、なにかが完結したという感じがしますが、節子との場合は、まだ終わっていないような気がするのです。
むしろ、何かを「共にした」というような気分です。
そして、看取ったはずの人は、その後もまだ生きている。
言い換えれば、私自身は、その後はもう生きていない(それまでの生とは違うという意味です)。
そんな感じがするのです。

両親は看取れても、伴侶は看取れない。
看取れないからこそ、いまもこうして、挽歌を書いているのかもしれません。
こういう気持ちは、たぶん、他の人にはわかってもらえないかもしれません。

わが子の場合も、そうなのかもしれません。
「看取れる関係」と「看取れない関係」がある。
そんなことを、今日は考えています。

■3346:冬には時間が流れない(2016年10月31日)
今日は、とても秋らしい朝でした。
もっとも今年はもうすぐそこに、冬が来ている感じで、秋はとても短いようです。

古代の暦では冬には時間が流れなかったということを以前聞いたことがあります。
いまの西暦の7月(July)は古代ローマのジュリアス・シーザーから、8月(August)は初代皇帝のアウグストゥスから、それぞれ命名されたそうですが、その2か月がどうしてた暦に入ってきたのか、不思議に思っていましたが、昔は冬には暦はなく、10か月だったことを知って納得できました。
古代ローマには、1月と2月、つまり冬には、暦はなく、時間の流れは止まっていたわけです。
それでなぜ不都合でなかったかと言えば、冬には祝祭行事がなかったからだそうです。
つまり、暦はもともと、次の祝祭がいつ行われるかを知らせるものだったというわけです。
ですから、特別な行事が行われないときには時間は流れなかったのです。

たぶん日本においてもそうだったのでしょう。
生活にリズムをつけていたのは、いまでいう時間ではなく、暮らしの中でのお祭りや習俗的な行事だったと思います。
いまも、地方ではそうした時間で暮らしている人は多いでしょう。

節子を見送った後の私の暮らしもまた、そうでした。
時間が止まる中で、でも時々、ある行事がやってくる。
いわゆる法事です。
そこで少しずつリズムを取り戻していく。

そうした中で、時間感覚は変わってきます。
季節感さえ希薄になる。
世界が止まってしまったような、奇妙な感覚に陥ることもありました。
いまは、そんなことはありませんが、しかし明らかに時間感覚は変わってしまいました。
おかしな話ですが、時間の速度さえも均等ではなくなったのです。

冬には時間が止まる。
これは私にはとてもいい考えに思いえます。
時間に追われて生きる状況から、立ち止まれるチャンスになるからです。
私の場合、最近、そうした「時間を止めるとき」を意図的につくっています。
冬に限ったわけではありません。
「意図的に」というよりも、「結果的に」と言った方が正確ですが、そうしたなかで、自分をとり戻します。
これは、節子を送った後に身につけた知恵です。
節子からの贈り物かもしれません。

冬は、時間を止めやすい気がします。
今年の冬は長いようですが、私には豊かな時間をもらえるような気がしてうれしいです。

■3347:呉さんとの再会(2016年10月31日)
節子
台湾の呉さんから突然電話がかかってきました。
いま日本に仕事で来ているが、会えますか、という、電話でした。
あいにくと彼と私の時間の都合が合いません。
聞けば、昨日やってきて3日には帰るのだそうです。
この前に来日した時には、我孫子のわが家にも来てくれましたが、残念です。
呉さんが時間が自由になるのは、どうも今夜だけのようです。
仕事で来ているので、いろいろとあるのでしょう。
今夜は、あいにく、私は湯島であるプロジェクトの立ち上げのミーティングです。
そう話したら、ささやかなお土産を持ってきたので、それだけでも届けると言います。
そこでみんなの了解を得て、ミーティングを早く切り上げることにしました。

8時過ぎに、元気そうな呉さんがやってきました。
忙しい中を、わざわざ立ち寄ってくれて、とてもうれしいです。
節子がいたらどんなに喜ぶことか。
呉さんの息子さんももう大きくなり、次男はいまプロゴルファーを目指して、四国に留学しているそうです。
もうそんなに時間が経ったわけです。
しかし、呉さんはあいかわらず若々しい好青年でした。

呉さんは、台湾で会社をやっています。
ピンバッジやノベルティグッズを扱っています。
http://dskg.com.tw/jp/
もし何かのイベントでピンバッジやノベルティグッズが必要になったら、ぜひ呉さんのところに頼んでやってください。
呉さんのために私は何もやれないでいるのが、とても残念です。
ぜひ見さん、応援してやってください。

お土産を節子にお供えし、元気な呉さんのことを報告しました。

■3348:静かに瞑想(2016年11月1日)
節子
もう11月です。
11月は、寒い雨の朝で始まりました。
心まで冷え冷えする雨です。
できるだけ自然に従って生きようと思っているせいもあって、こういう日は、一人静かに身を縮めて時間を過ごしたい気分です。
しかし、そうもいきません。
朝からパソコンに向かっています。
パソコンは、ネットを通して世界につながっていますので、いろんな話が入ってきます。

先日開催した「看取りの文化」のサロンを巡って、何人かの人が投稿しています。
細菌学者は破傷風菌の話を紹介し、音楽家はブラームスを論じ、画家は荘子の論を展開しています。
いずれも興味ある話題ですが、今回は議論に参加せずに、読むだけに徹しています。

昨日も、そのサロンに参加した人が湯島に来ました。
そこでは、キューブラー・ロスが話題になりました。
死にゆく人々との対話集「死ぬ瞬間」の著者のロスです。
彼は、それを映像にしたいと考えています。

死の話題は、語りを誘うのかもしれません。
今日は、死を語るにはいい日かもしれません。
空を厚い雲が覆っていますが、そのすぐ向こうに彼岸はあり、死はすぐ近くにあると感じられるような日だからです。
寒さと陰鬱さで生命の躍動は抑えられ、涙なしに死を語れそうな日だからです。
しかし、そういう時には、死を語るべきではないでしょう。
あまりにも近すぎるからです。

荘子を語った画家は、荘子の「万物斉同」を語っています。
生も死も万物斉同の例外ではなく、大きな変化の流れの一部だと荘子は語っています。
死は終わりではなく、別世界への目覚め。
私たちは今、夢の中にあるのかもしれないわけです。

今日の午後は、雨が上がるようです。
雨が上がるまで、身心を縮めながら、寒さに身を任せようと思います。
パソコンはやめて、外を見ながら、瞑想するのがふさわしい。
そういう気になりました。
なった以上は、そうしなければいけません。

■3349:瞑想な1日(2016年11月2日)
節子
昨日の午前中は、結局、「老子」の最後の2つの章を読みました。
朝、書いた挽歌の中で、「荘子」について触れたのですが、それで思い出して、「老子」を読み直してみたのです。
と言っても、私の好きな最後の2章だけです。
それは、「小國寡民」と「聖人之道」の章です。
「小國寡民」は有名な話なので、書くまでもありませんが、私も老子と同じように、そういう社会が理想と思いますが、残念ながら、それを完全に受け入れるには、いささかの「小賢しさ」を身に着けてしまったため、たぶんその一員にはなれないでしょう。
それで、せめて最後の章に示された「聖人之道」を目指したいのです。
しかし、これもまだまだ私には難しい。

老子は、こう書いています。

信言不実。美言不信。善者不辯。辯者不善。知者不博。博者不知。聖人不積。既以為人。己愈有。既以與人。己愈多。天之道。利而不害。聖人之道。為而不争。

漢字ばかりなので難しそうですが、要は、こういうことです。

   美しい言葉には真実味がない。
   口の達者な人間はほんものでない。
   本当の知者は物識りではない。
   聖人は蓄めこまないで、
   なにもかも他人に与えて、
   己れはいよいよ豊かである。
   天の道は万物に恵みを与えて害を加えず、
   聖人の道は事を行なって人と争わない。  

いつもこうありたいと思っていますが、なかなかそうはなれません。
言葉で語り、知識をひけらかし、何かを欲しがり、争いから自由になれません。
老子は、「不争」をもって「徳」としますが、私は、いまだ些末な争いさえも克服できずにいます。

昨日は、座禅を組んだわけではありませんが、瞑想の1日でした。
いろいろと思うことも多く、もしかしたら少し生き方を変えられるかもしれません。
おかげで、今朝の寝起きはとてもいい。
時に「瞑想な1日」もいいものです。

■3350:雑想な1日(2016年11月3日)
節子
「瞑想な1日」の次に来たのは、「雑想な1日」でした。
いろんなことが、まためまぐるしく起こりました。
お天道様は、どうして平安な日々を許してくれないのか。
どこかで私自身、生き方を間違っているのかもしれません。

昨日は朝から3時まで、湯島で打ち合わせ。
私の持続時間の限界は2時間ですので、後半はいささか疲れて、冗長なミーティングでしたので、かなり疲れました。

しかし、そこまでは、いつもの日常でしたが、そこからが「雑想」の始まりでした。
いつも、ここに書きすぎてしまうのですが、今回は書くのを我慢します。
どこかに吐き出したいですが、いまはそれもかないません。

雑想というのは、どんどん広がります。
そういえば、あれもそうだったななどと、考えても仕方がない昔のことを思い出させられ、気が萎えているせいか、さらに気持ちを萎えさせます。
腹立たしさまで戻ってくる。
とても「老子」の心境にはなれません。
昨日の決意は、どこに行ってしまったのか、という気もしますが、しかし、それを思い出して、なんとか気持ちを収束させました。
しかし、70代の後半を迎えて、なんという「多惑」な人生のことか。
困ったものです。

帰宅すると、北九州市の佐久間さんからDVDが届いていました。
「裸の島」です。
佐久間さんの近著でこの映画の紹介をしていましたが、それに関してホームページで紹介したら、佐久間さんがもし再度観るのであれば、送ると言ってくれたのです。
かなりの躊躇はありますが、がんばって観ることにしました。
なにやら学生の頃を思い出しそうで、心配ですが。
学生時代は、いまよりももっと多感であり、夢想家でした。

さて、雑想は昨日で終わりにして、今日は再び、晴れた1日にしたいと思います。
雑事の多い時代には、それさえも難しいのですが。
今日を越えれば、明日はたぶん平安に過ごせる日にできるはずです。
明日は、久しぶりにお墓見舞いに行こうと思います。

■3351:みじかい秋を楽しみました(2016年11月4日)
節子
お墓に行きました。
今日は、畑と庭の花を持っていきました。
素朴な感じで、これもまたいいでしょう。

畑も庭も、いまは荒れ放題です。
手入れ不足のために、琉球朝顔が庭中に広がりました。
サルスベリをはじめ、さまざまな木にまでツルが延びて、朝顔の花がそこらじゅうで咲いています。
せっかく植えた皇帝ダリアまで征服されそうだったほどです。
その皇帝ダリアも咲きだしました。
手入れ方法がわからずに、花目をそのままにしていたので、期待していたほどの大きな花にはなりそうもありませんが。

お墓に行く前に畑にも寄りましたが、ここはもう無法地帯化してしまい、今や手の施しようもありません。
百日草はたくさん咲きましたが、雨が多かったのかうどんこ病のようになって元気がありません。
その一方で、紫色のセイジがまた元気に群生してきています。

まあ、そんな感じで、今日はとても短い秋を少しだけ楽しみました。

約束の宿題をまだ提出していないところが2つあるので、こんなにのんびりしていることは、知られたくないのですが、まあいいでしょう。
こういう時間を持たないと、いい知恵が浮かんでこないのです。
最近はあまりにいろんなことがあって、頭がかなり混乱しているのです。

今日は、世間的には「お休み」にさせてもらおうと思います。
まだお昼過ぎですが、こんな調子で、今日はのんびりしようと思います。
体調もあまり良くありませんし。

■3352:バカ素直には困ったものです(2016年11月5日)
節子
今日は、安倍政権を熱烈に支持している人に話をしてもらうサロンでした。
私の付き合っている人たちの多くは、安倍政権には批判的な人が圧倒的に多いので、あまり参加者はいないのではないかと思っていましたが、なんと9人の人が集まりました。
それも遠くからわざわざやって来てくれた人が2人います。
その2人も、安倍政権には批判的な女性です。
帰り際に、そのおふたりに、お休みの日にいろいろと用事の多い中をどうして来てくれたのですかと、大変失礼な質問をしてしまいました。
答えは、「つながりたい」のです、というのです。
いまの社会に不満や不安があるが、一人では何もできないから、と付け加えてくれました。

終了後、5人ほどで居酒屋に行きました。
思想家の川本さんが、サロンには価値を感じていなかったが、参加するようになって、サロンの意味がわかってきたと言い出しました。
サロンから何かが生まれるかもしれない、と。
いやいやそんな手段的な場ではなく、サロンは所詮サロンなんだと言いたかったですが、疲れていたのでやめました。

それにしても、どうして毎回、いろんな人が集まるのでしょうか。
武田さんが、佐藤さんだから集まるんだと言いました。
これは一見褒め言葉にも聞こえますが、佐藤さんの生き方はおかしいということを含意してもいるのです。
たしかに、どこかおかしいのです。
どこがおかしいのか、自分ではわかりませんが、やはりどこかおかしい気が最近はしてきています。

節子がいた頃にはよく節子と帰り道で話したものです。
どうしてみんなサロンに来るのだろうか、不思議だ、と。
私としては、みんなが来るからサロンをやめられないのです。
それどころか、ついつい新しいサロンまではじめてしまうわけです。
昔と違って、いまは好きでやっているわけではないのです。
今日も、実は出かける時に、サロンなんかしなければ今日もゆっくりできるのになと思いました。
サロンなどしなければ、お金もかからないし、準備に気遣いすることも不要です。
どうしてこんな活動をし続けるようになってしまったのでしょうか。
節子も、最初の頃、よくそういっていました。
最近なぜか私自身がそう思うようになってきました。

しかし、わざわざやって来てくれる人がいることほど幸せなことはありません。
だから、やって来てくれた人に、「どうしてサロンになんか参加したのですか」などと質問してはいけません。
それはわかっているのですが、疑問を感ずるとそれがついつい言葉になってしまうのが、私の悪い癖です。

そういえば、昔、あるところから講演を頼まれました。
私の話を聞いても役には立たないだろうなと思いながらも引き受けてしまいました。
そして当日、うっかりと、冒頭、「なんでみなさん私の講演など聴きに来たのですか」と質問してしまいました。
主催者はもちろん、参加者は怒るどころか呆れたことでしょう。
そこからは2度と声はかからず、その主催者ともその後交流がなくなってしまいました。
悪いことをしてしまいました。
こういう失敗は、ときどきあります。

なんでも素直であればいいとは限りません。
困ったものです。
でもまあ、サロンはやめられないでしょう。
できれば、最後に「お別れサロン」をやって、その夜に人生を終えられればと願っています。
人生の最期くらいは、自分で決めたいものです。

■3353:コインの裏表(2016年11月8日)
節子
昨日、湯島の事務所に行ったら、事務所の前の道路が封鎖されていて、警察官がたくさんいました。
すぐ近くの宝石店に泥棒が入ったそうです。
かなり大きな事件だったようで、夕方近くまで道路は封鎖されていました。
28年も、ここにいると、いろんな事件に遭遇しますが、盗難事件は初めてです。

盗難事件の話を聞くと、つい考えてしまいます。
盗難するほうと盗難されるほうと、どちらが幸せだろうか、と。
こたえは明確です。
盗難されるほうが幸せです。
なにしろ盗難されるほどのものを持っているのですから。
それに、好き好んで盗難する人は、多くはないでしょう。
幸せではないからこそ、盗難行為に追い込まれたと思います。
盗難事件によって、格差が少し平準化されるとも考えられます。
こういう私の発想は、なかなか節子には受け入れられませんでしたが、拒否はされませんでした。
私には心やすまる伴侶だったのです。

問題を少し変えましょう。
先に逝く妻と残された夫は、どちらが幸せか。
私は、自分がその当事者になるまで、先に逝く人の方が幸せでないと思っていました。
実際に体験してみてわかったのは、先に逝くものが幸せかもしれないということでした。
見送る悲しさと見送られる悲しさ。
死別に限らず、別離を考えれば、やはり見送った後の寂しさは何とも言えません。

しかし、最近は、やはりいずれも同じだという気がしています。
そんな明白なことに気づくのに9年もかかったのかと笑われそうですが、私の場合は9年かかってしまいました。
もし、問いを「どちらが幸せか」ではなく、「どちらが不幸せか」と立てていたら、最初から答えは明白でした。
どちらも不幸なのですから。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」とトルストイは書いています。
9年かかって、私が気づいたのは、「幸福もまたそれぞれに幸福だ」ということです。
幸福にも、いろいろある。
先に逝った節子も、遺されてしまった私も、それぞれに幸せだったのかもしれないという気になってきました。

すべてはコインの裏表。
最近、その意味が少しわかってきたような気がします。
盗難の話から、おかしな話になってしまいました。
盗難も死別も、ないに越したことはありません。

■3354:ショックによる認知力の低下(2016年11月9日)
節子
突然のショックは、人を一時的に狂わせます。

とても評判の高いシェフが、自分が経営する店を倒産させてしまいました。
発生した債務弁済のため、住んでいた家を売却し、夫婦で転居することになってしまいました。
幸いに、その人をシェフとして仕事をしてほしいと言う人が現れました。
そこで仕事を始めたのですが、どうも様子がおかしい。
あれほどしっかりしていた人なのに、調理した料理に時々、おかしなミスがあるのです。
調理場でみんなを指導する立場にあるのに、指示がころころ変わってしまう。
一緒に働いている人たちは、そのおかしさに次第に気づいてきたそうです。
どうも一時的な自閉症もしくは認知症状況が生じているようです。
そこで、その方をよく知っている人は、病院で検査をしてもらったらどうかと本人や家族に伝えたところ、そんなはずはないと全く受け入れてもらえなかったそうです。
そればかりか、その人やその家族との関係性まで壊れそうになってしまったそうです。

その話を聞いて、私は他人事ではないなと思いました。
節子がいなくなってしばらく、もしかしたら、私がそうだったかもしれないと思ったのです。
それほどひどくはなかったかもしれませんが、あきらかに判断力が狂っていた。
認知力の低下はもちろん起こり、感情の起伏はバランスを崩していたように思います。
私の場合は、どうしてもやらなければいけない契約的な仕事はしていませんでしたし、幸いにそれまで通りのところで住み続けられました。
近隣の人たちも、そして遠くの友人たちも、いろいろと気遣ってくれましたから、そのことが深刻化することはありませんでしたが、もし引き続き、そのショックを引きずることになっていたら、どうなっていたかわかりません。
娘たちは、たぶん私の異常さを気づいていたと思いますが、娘たちもまた、程度は私ほどではないとしても、母親を喪ったショックの中でおかしくなっていたのは、私にもわかります。
他者のおかしさはわかっても、自らのおかしさはわからないものです。

その話を聞いた時に、私も何とかその人に検査をしてもらいたいと思いました。
しかし、それもまた難しい。
みんな後になって気づくのです。

心身の異常は、体験した人でないとなかなかわかりません。
鬱病治療で評判が高い医師は鬱病経験者、統合失調症治療で評判のいい医師は統合失調症経験者だと言われます。
自分が体験しないとなかなかほんとうのところはわからないものなのです。
福祉の世界も、まさにそうです。

この話は、先日、相談を受けた話です。
私がいろんな人から相談を受けるようになったのは、私がいろんなことを体験してきたからなのかもしれません。
自分で少しだけでも体験していると、相談の意味が分かるのかもしれません。
それがわかるのかもしれません。
人は相手のことを最初の数秒でわかってしまうものなのだそうです。
最近、いろんな人からどうしてこんなに相談を受けるのだろうと思っていましたが、それは私がやはり呼び込んでいるのかもしれません。
わたしが、むしろいろんな形で、SOSを発しているのかもしれません。
相談を受けると相談を持ちかけるとは、これもまたコインの裏表です。

■3355:神様に愛された若者のこと(2016年11月9日)
節子
泰弘さんの友人の木村さんが、私のフェイスブックのある記事に関連して、コメントしてきてくれました。
ある事件に関しての、私のちょっと「おかしな」意見へのコメントです。

生前、泰弘さんが「何かあったら修さんに相談するといいですよ。面倒見がいいし、何より発想がユニークですから」と言っていたのを思い出しました。

泰弘さん。
節子も知っている、あの好青年です。
前にも書いたような気がしますが、1年ほど会っていなかった時、なぜか彼のことが気になって、彼に連絡して会う約束をしました。
たしか彼が忙しい状況だったため、それが落ち着いてからということだったような気がします。
それが落ち着くはずの頃になったので、彼に連絡しましたが、もう少し待ってほしいと連絡があり、しばらくして、今回FBにコメントをくれた共通の友人の木村さんから、彼の突然の訃報が届いたのです。
思ってもいない形で、泰弘さんに会うことになってしまったのです。
その時、節子はもう彼岸に旅立っていたはずです。
そうでなければ、泰弘さんの葬儀に、一緒に行ったはずですから。
葬儀は多くの参列者でにぎわっていて、彼の人柄を感じさせましたが、私にはとてもつらい葬儀でした。
彼には、いろいろと応援したいと思っていて、そのためにちょっと厳しいことも彼に言っていたからです。
彼と話したりなかったことが、ずっと悔いになって残っていました。

今朝、木村さんのコメントを読んで、少し救われた気がします。
木村さんは、「修さんの話題はよく出てました」とも書いてくれています。
泰弘さんとの約束は守れなかったですが、その分、他の人にささやかに「恩送り」はしています。

節子は、彼岸で、泰弘さんに会っているでしょうか。
素直で、とても明るい青年でした。
過労死だったかもしれませんが、私には、彼が神様に愛され過ぎたのではないかと思えてなりません。
そういう若い友人たちを、私は何人か見送っています。
いつかまた彼らに会えるのが楽しみです。

■3356:ねぎらいと謝意(2016年11月10日)
節子
昨日から、冬の朝になりました。
今年は秋がありませんでした。
にもかかわらず、わが家の庭の琉球朝顔は元気で、いまも毎朝、花を咲かせ続けていますし、玄関の四季咲きのバラも少し咲いています。
庭の花はかなりさびしいので、お店に買いに行こうと思っていますが、なかなか時間がとれません。
むやみに買って来ても手入れができるかどうかが問題なのです。

今日も寒い1日でした。
予定が変わって、湯島に行かなくてもよくなったので、娘たちと食事に行きました。
孫の「にこ」も一緒です。
まだ離乳食が始まったばかりなので、食事はできませんが、娘も少しだけ楽になって来たようです。
その娘が、なんとご飯のお代わりをしたのです。
節子も知っているように、わが家はみんな小食で、お店に行くと必ずご飯は少な目にとお願いしていたのですが、その中でも一番小食だった次女のジュンが、お替りするとは驚きました。
子育てが、いかにエネルギーのかかることなのかがよくわかりました。

娘たちの子育ては節子に任せっぱなしでした。
いまから思えば、節子はよく頑張ったものです。
その大変さがわかった今では、節子に改めてねぎらいと感謝を伝えたいのですが、残念ながら口で直接伝えることはできません。
気づくのが遅すぎました。

こういうことはたくさんあります。
もしこの挽歌を読んでいる方で、伴侶が健在であれば、いまのうちにできるだけたくさんのねぎらいと謝意を伴侶に伝えておくことをお勧めします。
どちらが先に逝くとしても、お勧めします。
まあ余計なお世話だと言われそうですが。

湯島に行かなかったので、溜まっていた課題を消化するつもりでしたが、人は時間ができると怠惰になるものです。
昼食後、孫がわが家の来たこともありますが、それだけでなんだか疲れてしまい、結局、いつも以上に何もやらずに、時間を過ごしてしまいました。
19日に予定しているイベントの集客がほとんどできていないので、がんばらないといけないのですが、困ったものです。
自分が主催するのであればいいのですが、仲間と一緒にやるのは、それなりにストレスがたまります。
最近は、そうしたストレスに埋もれそうです。

■3357:貧しい生き方(2016年11月11日)
節子
その生き方に、とても共感しているSさんから手紙が届きました。

実家に帰ると、東京でふだんいかにインターネットで時間を浪費しているかよくわかります。母の世話をする以外はとくに用事もなく、手が空いた時間はもっぱら昼寝か読書という、考えようによってはたいへんぜいたくな過ごし方をしています。

「いかにインターネットで時間を浪費しているか」。
これは、節子がいつも私に間接的に投げかけていたことです。
私の場合は、インターネットではなく、パソコンですが。
節子と話す時間も決して少なくなかったと思いますが、それよりも私はパソコンの前に座っていることが多かったのです。
節子は、それをとても不満に思っていたはずですが、同時に、あきらめてもいたようです。
最近、そのことを深く後悔しています。
なんであんなに「仕事」が好きだったのだろうか、と思います。
そのくせ、そうした「仕事」で何か残ったものがあるかと言えば、何もありません。
いったい、パソコンに向かって何をしていたのでしょうか。
実に不思議な気がします。
Sさんの手紙を読みながら、私が長年、いかに「貧しい生き方」をしていたか、指摘されているような気がしました。

Sさんは、私よりも若いのですが、いまは実家を離れ、東京で一人で暮らしています。
時々、実家に帰り、普段は施設にいる高齢の母親に、普段は空き家になっている実家に戻ってきてもらい、ふたりでの時間を過ごしているのです。
施設には行ったのは、認知症が疑われたためだそうですが、
実家に帰ってきた時の母親は、以前と全く同じだとSさんは言います。

ところで、私は、最近もパソコンに向かっている時間が多いです。
節子がいた頃よりも多いかもしれません。
ますます「貧しい生き方」になっているのかもしれません。
節子がいた頃は、それでも時々、私をいろんなところに引っ張り出してくれていたからです。
今年は、紅葉も見に行きませんでしたが、節子がいたらどこかに行っていたはずです。
そこでまた、「紅葉を見て、いったいどういう意味があるの?」などと言って、節子を怒らせていたかもしれませんが。

節子がいなくなってから、自宅での私の最大の付き合い相手は、ますますパソコンになってしまいました。
パソコンとは対話できるからです。
パソコンに思いを入力すると、パソコンを通して、なにかが返ってくるのです。
だから私はパソコンと付き合い時間が増えてしまうのかもしれません。
これは、節子がいたころからそうでした。
パソコンとは対話できる気がするのです。
パソコンから離れるためには、家から出かけて、誰かに会うしかありません。
だから私は今も、いろんな人に会い続ける生き方をしているのかもしれません。
人の生き方は、なかなか変わるものではないようです。

■3358:思い出の美しさ(2016年11月12日)
節子
小林秀雄は、「無常といふ事」のなかでこう書いています。

思ひ出となれば、みんな美しく見えるとよく言ふが、その意味をみんなが間違へてゐる。
僕等が過去を飾り勝ちなのではない。
過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけなのである。
思ひ出が、僕等を一種の動物である事から救ふのだ。
記憶するだけではいけないのだらう。
思ひ出さなくてはいけないのだらう。
多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしてゐるので、心を虚しくして思ひ出す事が出来ないからではあるまいか。
上手に思ひ出す事は非常に難かしい。
だが、それが、過去から未来に向つて飴の様に延びた時間と言ふ蒼ざめた思想から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思へる。

唐突にこんな文章を書いたのは、明け方にふと、「上手に思ひ出す事は非常に難かしい」ということを読んだ記憶が浮かんできたのです。
どこで読んだのか、なかなか思いだせずにいましたが、なんとか見つけました。
私の記憶とはかなり違っていたのですが、改めて読んでみると、なんだかとてもホッとするメッセージです。

「過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけなのである」。
実は、節子に関する私の思い出はあまりに私に好都合に変質されていないだろうかと、最近、挽歌を書きながら感じていたのです。
それが気になっていたのですが、この文章で少し救われた気がします。
節子の記憶がもし飾り立てられているとしたら、それは、節子の思いやりがそうしているということなのですから。

過去を書いたり話したりすることは、そこから抜け出すための行動ですが、同時に、新しい過去への入り口でもあります。
悲しいことは話せば(放せば)いいのです。
でも同時に、それは語ることでもある。
語るとは、象(かたど)ること、型取ることでもある。

ここ数日気になっていたことがちょっと解決して、すっきりしました。
今日は久しぶりに、たくさんの人に会うパーティに参加しようかと思っています。

■3359:沢蟹の思い出(2016年11月14日)
節子
明け方、脚がつってしまい、その痛さが1日中残って、いまもまだ歩くと痛いです。
この週末、いろいろと用事が重なっていささか疲労したせいかもしれません。
テレビで、歳をとって身体が老化しているのに、それを意識しないために階段から落ちたり、けがをする人が多いという番組をやっていましたが、まさに私もその典型的な事例なのでしょう。
身心がバランスしていないのでしょう。

そんなこともあって、今日は在宅で過ごしました。
めずらしく誰からも電話はなく、平安な1日でした。
今日は休日と決めていましたので、気になっていることは山のようにありますが、それを忘れて過ごしました。
こういう日を大切にしているので、まあなんとか元気を維持できているのでしょう。

今日やったことは、沢蟹の水槽の手入れくらいです。
冬になったせいか、動きが悪いのですが、3匹の沢蟹たちは元気にしています。
庭の池に放した沢蟹たちは、その後、一度も出会えていませんが、冬眠に入ったのかもしれません。
もっとも、沢蟹は冬眠するのかどうかも知りませんが、水槽の沢蟹は元気で冬を越させたいと思います。

沢蟹を見ているとなぜか幸せな気分になります。
なぜかはわかりませんが、昔からそうです。
それを本気でわかってくれたのは、節子だけでした。
ですから、沢蟹の向こうにも節子を感ずるのです。
一緒に敦賀の川で、沢蟹を捕まえに行ったことが思い出されます。

それだけではありません。
なぜか、滋賀の観音さんをお参りに行くと、そこで沢蟹によく出会いました。
一番印象に残っているのは、春先に行った、小さな集落の観音堂の近くで、沢蟹から子どもがわっと広がっていた風景です。
また、滋賀の鶏足寺の参道を歩いていたら、道を一匹の小さな沢蟹が横切ったこともあります。
水も流れていないところでしたので不審に思いましたが、誘惑に勝てずに、捕まえてしまい、自宅まで連れてきてしまいました。
しかし、その沢蟹は半年ほどで死んでしまいました。
あれは、節子と最後に鶏足寺に行った時でした。
これまた不思議ですが、それ以来、言い方を変えると、節子がいなくなってからは、滋賀でも敦賀でも、なかなか沢蟹に出会えなくなってしまったのです。
一昨年は、義姉夫婦に頼んで、前にはたくさんいたところにわざわざ連れて行ってもらいましたが、沢蟹はもういませんでした。

私にとって、沢蟹は、とても特別の存在なのです。
ちなみに、沢蟹の水槽は節子の位牌壇の隣に置いています。
節子にも見えるように、です。

■3360:不機嫌な気分(2016年11月15日)
節子
最近、私自身がずっと「不機嫌な気分」を背負い込んでいるのに、気づきました。
不機嫌さに気づいたというのも、変な話ですが、昨日、まあいろんなことを忘れて、平安に過ごしたのですが、さて明日からまた日常に戻るかとベッドに入った途端に、なにやら心身の奥にある「不機嫌な気分」に気づいたのです。
そして、昨日、何もやりたくなくなったのは、そのせいだと気づきました。
そういえば、おとといも、自分で呼びかけておいた集まりなのに、前向きに進めるつもりになれなかったのは、そのせいかもしれません。
みんなを不愉快にさせてしまったかもしれません。
私自身が一番不愉快になっていた気がしていましたが、むしろ私が「不機嫌菌」だったのです。
その前の日は、魅力的な人に会えて楽しかったのですが、パーティはどうも楽しめなかったのですが、これもそうかもしれません。
そう考えていくと、この数か月、ずっとどこかに「不機嫌な気分」があるような気がしてきました。

とくに思い当たる原因があるわけではありません。
しかし、「不機嫌な自分」がいると考えると、いろんなことがうまく納得できるのです。
不機嫌だからこそ、それを打開しようと、何か新しいことをやりたくなる。
しかし、やればやるほど、その不機嫌さは増してきてしまう。
そんな気がします。
要は、私自身が「わがまま」なのでしょう。
自分の思うようにならないと不機嫌になってしまうのは、まるで「子ども」そのものですが、そのくせ、その自分とは違うやり方を受け容れてしまう、実に寛容な「大人」の自分もいるのです。
私の心身の中で、その「子ども」と「大人」は葛藤しているのかもしれません。

「不機嫌」というのは、いまの私の気分にピッタリな気もします。
しかし、もしかしたら、いまの時代そのものが「不機嫌な時代」なのかもしれません。
だからみんな、誰かのせいにしたり、誰かに期待したり、自分をなくして誰かに自分を投影したりしているのかもしれません。
自分を生きている人が少ないのです。
だから、自分をしっかりと生きている人、つまり機嫌のいい人に会うと、うれしくなってしまう。
しかし、同時に、そういう人に会うと、他の人がみんな「生きていない」ようの思えてしまう。
もちろんそこに私自身もはいってしまい、機嫌が悪くなってします。

せっかく昨日は良い日だったのに、今朝は機嫌の悪い朝に戻ってしまいました。
困ったものです。

■3361:忙しい時代(2016年11月165日)
節子
平安な日の後には、けっこう波乱の日が来るものです。
負け惜しみ的に言えば、人生は退屈しないようにできている。
まさにそう思います。
しかし、時にめげることもある。
そうならないために、もしかしたら、人は伴侶を得るのかもしれません。

明け方はどんよりしていましたが、太陽が出てきて、いい天気になりました。
今朝は、朗報も多く、良い日になりそうです。
今日も3つのミーティングが予定されています。
それぞれ全く違うテーマです。

19日に開催するフォーラムのお誘いをいろんな人に出しましたが、私と同世代の方々は、驚くほどにみんな、別の行事と重なっています。
会社時代よりも、むしろ忙しくなっているようです。
考えてみれば、私自身もそうでした。
若い世代の人たちも、休日なのに、いろんな用事が重なっている人が多いです。
改めて、現代は「忙しい時代」なのだと気が付きました。
みんなゆっくりできないのです。
そして、私もゆっくりしていない。

エンデの「モモ」をふと思い出しました。
生き方が間違っているのは、そもそも私自身なのではないかという気がしてきたのです。
節子がもしいたら、いまのような生き方にはなっていないでしょう。
もっと社会から離れて、ゆっくりと生きていたような気がします。
いや、それもまた私の願望なのかもしれません。

むかしはいまよりも自由だったかもしれません。
「そうだ! 京都に行こう」という、生き方を大事にしていたような気がします。
いまは、予定表を見て、今日は湯島に行って、3つのミーティングを行うのか、などと、窮屈な生き方になっています。
これでは、あなたはなんで会社を辞めたのですか、と節子に笑われそうです。
私自身は、「暇で暇で仕方がない」生き方にあこがれているくせに、そして事実、暇なくせに、なぜか時間に追われているような気もします。
私も、忙しさの中で、心を失ってきているのでしょうか。
心しなければいけません。

■3362:ストレスフルな生き方(2016年11月17日)
節子
胃がきりきりと痛いです。
今日は、とてもストレスフルな1日でした。
なかなか平安はやってきません。
今月を越せれば何とかなるというような気分ですが、そういえば、節子と一緒だった闘病の時も、こんな気分だったでしょうか。
しかし、あの頃は、なぜかストレスはなかったような気がします。

1日1日を精いっぱいに生きる。
それが節子の生き方でした。
愚痴は言わずに、毎日を精いっぱいに生きて、1日を過ごせたことに感謝する。
そして、それは言うまでもないことですが、精いっぱいに生きた一生に感謝する生き方につながっていく。
そこには、ストレスなど生まれない。

節子からは、それを学びましたが、それはやはり自らが当事者にならなければ、つまり生の先が見えてこなければ、なかなか実感はできない。
欲があるから、ストレスが生まれてくる。
そこがたぶん節子と私の違いでしょう。
まだ、我欲から抜けられない。
抜けているようで、未だに我欲の塊なのかもしれません。
だからストレスが生まれてくる。

どうも私は、毎日毎日を粗雑に生きている。
精一杯ではなく、先延ばしの生き方に陥りがちです。
本当は先がそうないのに、それが見えてこない。
だから我欲からも解放されない。
節子と私の違いは、それかもしれません。
私にはまだ、生の先が見えてこないのです。
だから毎日をこうやって、無駄に過ごしている。
だからこうも多くのストレスに襲われているのかもしれません。

それでも、一つひとつ、山は越えられています。
これもまた、節子が教えてくれたことです。
小さな山を越えていけば、いつか大きな山も越えられている。
節子はいつも前向きな人でしたから、実直に小さな山に向かっていました。
とくに病気になり、そこから抜けられないと感じた時からは、そうでした。
自分の独力で山に向かい、他者には、私にさえも、多くを依存しなかった。
そして、ストレスがあってもおかしくないのに、それを感じさせなかった。
そこから感ずることはたくさんあります。
でも、なかなかそういう生き方にはなれないのです。

闘病で大事なのは、つまり人生で大事なのは、小さな山を越えることです。
それはわかっているのですが、我欲からは自由になれていない。
その結果、毎日がストレスフル。
ストレスがたまるのは、自分の生き方が誤っているからでしょう。
淡々と山に向かえば、ストレスなどたまるはずがない。
もっと我欲を、いや、我を超えなければいけません。
あの頃の節子を思い出さないといけない。

ところで、目の前の山を次々に越えていったら、どこに着くのか。
節子はどこに着いたのか。
彼岸について平安を得た、そうなのかもしれません。
生の向こうにあるのは、決して死ではない。
最近、そのことがよくわかってきました。
それがわかっているのに、我欲のおかげで、ストレスに悩まされる。

我欲を持たなくとも、平安だった、あの頃は、もう戻ってはこないでしょう。
しかし、我欲を捨てて、ストレスもない生き方に戻りたい。
どうしたらそうなれるのか。
これは実に難問です。

■3363:みずからが生きたいと思う世界に生きる(2016年11月18日)
節子
昨日、節子のことをいろいろと思い出しながら、挽歌を書いていたのですが、そこで思い出したことがあります。
自らの症状がかなり悪化したころ、花かご会の仲間たちが見舞いに来てくれました。
その時、驚いたことに、節子は会いたくないと言ったのです。
いつもは、喜んで会っていたのに。
たぶんやつれてしまった自分をみんなには見せたくなかったのでしょう。
なにしろ、花かご会では、元気な節子で通っていたはずですから。
せっかくお見舞いに来てくださったのに、玄関で帰ってもらうのは、私には心苦しいことだったので、ずっと気になっていました。

昨夜、お風呂に入りながら、その時のことを思い出しているうちに、節子と一緒にお風呂に入っていた頃のことも思い出しました。
節子は病状がかなり進行した後は、一人でお風呂に入るのはいささか危険でしたので、いつも一緒に入っていましたが、風呂上りに姿見の鏡で自分の姿を見ながら、その異様な痩せ具合を嘆いていました。
体重も40キロを切っていましたので、節子にとっては、誰かには見せられない姿に感じていたのでしょう。
私にもすまなさそうに、なぜか謝ることもありました。
しかし、不思議なもので、私には、その異様な痩せ具合も異様には感じませんでした。
人は、見たいものを見たいように見るものです。
いかに異様に痩せていようと、私に見えていたのは、以前と変わらない節子でした。

私たちが見ている世界は、目によって受容したものを編集して生み出されたものです。
ですから、編集の仕方で、世界は変わって見えてきます。
言い換えれば、私たちは、「みずからが生きたいと思う世界」に生きているのです。
しかし、人には「適応性無意識」なるものが働いているとも言われます。
ですから、その「みずから」は、自分の意識だけで設計できるわけではないのですが。

せっかくお見舞いに来てくれた仲間たちに、節子はなぜ自らをさらせなかったのか。
それは、節子の見栄だったのかもしれません。
節子は、仲間たちの心の中に、元気な自分を生きつづけさせたかったのかもしれません。

花かご会のみなさんは、いまも我孫子駅前の花壇の手入れを定期的にやっています。
その姿を見るたびに、あの時のことを思い出します。

■3364:辞去の辞(2016年11月18日)
節子
茂木さんの娘さんから、「辞去の辞」が書かれたお手紙が届きました。
茂木さんといっても、節子は覚えていないでしょう。
一度だけ、湯島に来てくれたことがあります。

茂木さんとお会いしたのは、もう30年程前です。
私がまだ会社に勤めていたころ、あまり乗り気ではない講演会に参加しました。
すでに講演会は始まっていました。
受付に、私よりも年長と思える茂木さんが一人でぽつんと座っていました。
会場に入るのも、あんまり乗り気ではなかったので、そこで茂木さんと15分ほど立ち話をしました。
何を話したのか、まったく覚えていません。
しかし、奇妙に心が通じ、名刺交換をさせてもらいました。
そこから細い付き合いが始まりました。
会社を辞めて、湯島をオープンした時に、その茂木さんは湯島にわざわざ来てくれました。
そこで、節子も会っているはずですが、いろんな人が来てくれたので、覚えてはいないでしょう。
私も少しだけ言葉をやり取りしただけでした。
ですから、私も茂木さんとゆっくり話したことはないのです。
でも、お互い、何かを感じあったのです。

そして毎年、年賀状が届きました。
私が年賀状を出すのをやめてしまった後も、茂木さんからは年賀状が届きました。
いつも一言、茂木さん独特の文字で、メッセージが書かれていました。
しかし、お互いに、一度、会いましょうと言いながら、実現しませんでした。
その茂木さんが、先月、亡くなったそうです。
77歳。肺がんだったそうです。

娘さんのお手紙に、茂木さんの書いた「辞去の辞」が書かれていました。
長いですが、紹介させてもらいます。
茂木さんも、私の中ではずっと生きつづけるであろう人ですから。

5月半ばに突如自分の余命を知り、6月中にもうそろそろ、長い間親しくして頂いた方々にお礼とお別れを申し上げることにしようとこれを記しておくことにしました。

別れるにせよ、新しく知り合うにせよ、私は次に記す、白川静博士の著作の中で見つけた、屈原のこのような詩が好きです。
 悲莫悲兮 生別離
 楽莫楽兮 新相知   

長いことお世話になりありがとうございました。
私の人生は、「耕雲釣月」(順序があるいは逆でしたが)に努めるようなものでしたので、まず殆んど実を結ぶことはありませんでした。何者にもならず一生を終わりました。郷里の実家近くの墓へ参ることになるでしょう。
さようなら。

私もその時がきたら、「辞去の辞」を書こうと決めました。
節子に、その時間をつくってやらなかったことを、とても悔いています。

■3365:楽莫楽兮 新相知(2016年11月19日)
節子
今日は朝からかなり本降りの雨です。
午後に品川で、民主主義をテーマにした公開フォーラムを開催するのですが、雨のためか、当日になって欠席の連絡が入りだしています。
機先を封じられるようで、元気が出ません。

節子が元気だったころ、こうしたイベントをいくつかやりました。
私が企画するのはほとんどが手づくりなので、みんなで創り上げる方式が多かったのですが、スタッフ不足で、節子や娘たちに応援を頼んだこともありました。
節子は、さほどはいけませんでしたが、それでも何回かの記憶はあります。

会社を25年間で辞めてからの生き方は、それまでとは全く違った生き方です。
仕事をすればするほど、収入ではなく支出が増えるというスタイルでしたが、それも次第にバランスするようになり、なんとか平安な暮らしをつづけられてきたわけです。
いまは収入に合わせて、仕事をしていますので、何とかバランスしています。
今回は、かなり赤字のイベントですが、まあ何とかなるでしょう。
声をかけたら、ボランタリーに10人を超す人がスタッフとして一緒にやってくれると申し出てくれました。
参加者はあまり多くはないのが気になりますが、また新しい人にも出会えるでしょう。
昨日の茂木さんの言葉、「楽莫楽兮 新相知」のように、新しい出会いは楽しいものです。

雨は止みそうにありません。
会は午後からですが、事前のミーティングを11時からやりたいと言われているので、そろそろ出なければいけません。
そんなに早く会って、何をするのか、と思いますが、まあ任せた以上は従わなければいけません。
今日の私の役割は、後半の進行役だけで、あとは雑用係ですが、いろいろと気になってしまうので、できるだけ口を出さずに、静かに過ごそうと思います。

今日のフォーラムを契機に、新しい物語を生み出されればいいのですが。

■3366:六郷満山(2016年11月20日)
テレビで国東六郷満山霊場の番組を見ました。
大分の国東六郷満山は、神仏習合の起こったところとも言われます。

昨日、20年ぶりくらいに偶然出会った、高天原神座宮祭主の知人と国東半島の話や神仏習合の話をしていたのですが、今日はまた偶然にも、その話につながるテレビ番組を見てしまったのです。

国東の六郷満山は2003年に一度、これもまた偶然に訪ねたことがあります。
大分の国見町に転居していた知人に頼まれて、そこの大光寺に講演に行ったことがあるのですが、その帰りに彼女がそこを案内してくれたのです。
私は、当時、六郷満山を全く知らず、お寺のご住職に、西の比叡山とも言われていると聞いて、案内してもらったのです。
その頃、節子の病気が発見されて1年目、藁をもつかみたい気分の時でした。
空港に向かう途中に立ち寄ったので時間があまりなく、両子寺と文殊山寺を足早に回っただけなのですが、その時はたぶん気が萎えていて、何も感じませんでした。
霊気さえ受け止められなかったのです。

なにしろ気分はどんぞこに近く、講演自体、友人からは褒められましたが、私としては満足できるものではありませんでした。
それに、講演した夜、お寺の本堂の裏に一人で泊まったのですが(なぜそうなったのか、これも記憶がありません)、真夜中に金縛りにあうなど、いささか、不思議な体験もしていました。
ですから、何をお祈りしたかさえ、記憶が全くありません。
ただただ長い階段を上ったことだけしか覚えていません。
今日、テレビで見て、なんとなく思い出した程度です。

その時、節子の胃がんの話を知った国見の人たちが、がんに効くという民間療法の霊芝というのをくれました。
他にもいろいろと貰いました。
残念ながら、どれも節子に奇跡を起こすことはありませんでした。
やはり私の祈りが弱かったのかもしれません。
六郷満山のことを、もっと知っていたら、違っていたかもしれません。

いまから思うと、あの頃は、私が一番おかしくなっていた頃かもしれません。
世界から現実感がなくなっていたのです。
そんな時に、なぜ国東半島まで出かけたかと言えば、それにはそれなりの理由があるのですが。

両子寺の石段をテレビで見ながら、あの頃に戻って、もう一度やり直せたら、奇跡を起こせたかもしれないとふと思いました。
昔を思い出すと、なぜか、悔いばかりが浮かんできます。

■3367:あの節子さんの佐藤さん(2016年11月21日)
節子
このブログでも案内しましたが、一昨日、民主主義をテーマにしたフォーラムを開催しました。
そこに、わざわざ北海道から参加してくださった方がいます。
節子もよく知っている武田さんの友人です。
武田さんから紹介されて挨拶をしました。
そうしたら、「あの節子さんの佐藤さんですか」と言われました。
こういう言い方をされたのははじめてです。
もちろん彼女は、節子の知らない人です。
きっと武田さんが、この挽歌のことを話したのでしょう。
それで読んでくださったのだと思います。
しかし、なにやら不思議な気分です。
最初に「節子」の名前が、初対面の人の口から出てきたのですから。

節子は一度も会ったこともない、その方の中で、ある意味では生きているのかもしれません。
そして、私もまた、そのついでにその世界に小さな居場所を持っているわけです。
人の生き方はいろいろです。

現世で生きる人の人生は、限られています。
しかし、現世に限定しなければ、人はさまざまな生き方ができます。
私の心の中には、生者よりも、生き生きと生きている死者もいます。
彼らが、私の人生を支えていると言ってもいいかもしれません。

そういえば、その一昨日のフォーラムで、20年ほど前に会った人に会いました。
当時、彼は高校生でした。
20年ぶりに声をかけられても、とっさには思い出せませんでした。
若者だけではなく、私に近い年齢の方たちにも20年ぶりで会いました。
私が覚えていない人も、向こうは覚えていてくれました。

ちなみに、北海道の女性の中で生きている節子は、どんな人なのでしょうか。
人は記憶の中に生きています。
しかし、その記憶の世界は人によって違います。
人が生きているとは、どういうことなのだろうか。
そんなことを考えさせられました。

■3368:津波と夢(2016年11月22日)
節子
大きな地震の揺れで、今朝は目が覚めました。
東北にまた大きな地震が起こり、津波も発生しました。
昨日、ある集まりで、まさに地震の話になり、最近はたくさんの人が大地震を防ぐための「気」を送って、それぞれが少しずつエネルギーを引き取っているのだというような話を、ちょっと怪しげに紹介して下さる人がいました。
怪しさはありますが、私はとても納得できました。
最近また津波の夢を見る人も増えてきているという話もありました。

3.11の大津波が起こる前、私も大津波の夢をよく見ました。
津波に追いかけられて、みんなで山を登っている夢も何回か見ました。
小高い場所ではなく、まさに山でした。
山の坂から後ろを見ると、すぐそこに、市街地ではなく、一面の海が見えたのを今でも鮮明に覚えています。
あるいは、津波に沿われた後の廃墟に残されて私自身の夢も見ました。
なぜか石造りの廃墟後の上に、私だけが取り残されていました。
なぜこんなにも津波の夢を見るのだろうと思っていたのですが、しばらく夢を見なくなってから、あの地震と津波が起こったのです。
その後は、津波の夢はまったく見なくなりました。
単なる偶然かもしれませんが、ちょっと気にはなっていました。

最近は、津波の夢は見ませんので、昨夜の話には、私はただ聞く一方でしたが、まさかその翌日に津波のニュースを聞くとは思ってもいませんでした。

きわめて不謹慎な話ですが、地震が来ると、私は時々、このまま世界がすべて終わればいいと思うことが、いまでもあります。
すべてが瞬時に、です。
もう「別れ」は体験したくないからです。
終わる時は、すべてが一瞬にして、終わってほしい。
そうであれば、誰も悲しむことはないでしょう。
「別れ」の辛さは体験した人でないとわからないでしょう。
そう思うと、私が死んでも、悲しむ人がいないような生き方に、そろそろ変えていかなくてはいけないという気もします。
それこそが、悟りの生き方ではないかと、この頃思うようになってきました。
死んだ後に、誰かを悲しませることだけはしたくないものです。

夢の話に戻れば、最近また夢をよく見ます。
節子はほとんど出てきません。
不思議なほど、知らない人ばかりでてきます。
しかし、遠い昔、会ったこともあり、なぜか会いたがっていたような気がする人ばかりです。
それに、彼らとよく議論しています。
何を議論しているかは思い出せないのですが、ちょっとアカデミックな感じが残っているような場所での議論です。
津波の夢が、もしささやかな未来につながっていたのだとしたら、最近よく見るこうした夢は何を意味するのでしょうか。

今日はどんな夢を見るのでしょうか。
ようやくいろんなことが終わり、懸案事項だったことも、今日なんとか先が見えてきました。
少しずつ、私も平安を取り戻しているようです。

■3369:「朝来た」「僕頑張った?」(2016年11月23日)
節子
NHKテレビの「にっぽん紀行」で、「29歳で逝ったあなた 伝説の棋士を巡るたび」という番組を見ました。
子どもの頃からネフローゼを引き受けた村山棋士の話です。
まさに、壮絶な、しかし輝くような人生を生き抜いた話に、ついつい見入ってしまいました。
テレビをかけたら偶然にやっていたので、途中からなのですが。

最期を看取った看護師の方が、最後の言葉を覚えていて、話してくれました。
「朝来た」「僕頑張った?」の二言だったそうです。
看護師の方は、その言葉は、とても死を迎える人の言葉とは思えなかったと言われました。
たぶんそれは、言葉ではなく、その時の村山さんの全体の雰囲気がそうだったのでしょう。
言葉こそ違いますが、まさにそれは、私が感じている節子の最後の言葉と同じです。
節子は最後の日には言葉を発することはできませんでしたが、ずっと一緒に寝起きしてれば、言葉を通さずとも、言葉は伝わってきます。
「朝が来た」
「昨日も頑張った」
その、節子の思いは、家族には無言のまま伝わったものです。

途中から見たので、正確ではありませんが、村山棋士は難病があればこそ、将棋に全生涯をかけたようです。
彼にとっては、病気あればこその将棋人生、つまりその両方を正面から引き受けたのです。
難病であることへの愚痴や不満は言わなかったようです。
見事としか言いようがない。
些細なことで自らの不運を嘆きたくなる私とは大違いです。
村山棋士は、29歳の人生とはいえ、いのちを燃焼させきったのです。

節子は、いのちを燃え尽きさせることができたでしょうか。
まだ言葉がなんとか話せるときに、「いい人生だった」と苦しそうに言ってくれたのが、私の大きな救いです。
その時に、「私もいい人生だった」と応えなかったのが、いまとしては後悔の念でいっぱいです。
その時には、とても言える言葉ではなかったのですが、節子と別れて10年近く経って、ようやく素直にそう思えるようになってきました。

■3370:節子のまなざし(2016年11月24日)
節子
あまり意識したことはないのですが、なんとなく「節子のまなざし」を感じながら生きていることに、最近気づきました。
おそらく少しさびしさがうすれたのは、そのせいかもしれません。
それに毎日何回かは、いまも節子の声をかけています。
朝、起きて、私が最初にやることは、節子の位牌がある仏壇にロウソクを灯し、水を供えて、線香をあげることです。
そして、節子に挨拶し、般若心経を唱えます。
その日の気分によってですが、節子に感謝の言葉を添えることもあれば、不満をぶつけることもあります。
そして私の1日が始まるわけです。

挽歌を書くときにも、それなりに節子と対話します。
挽歌を書く時間は短いですが、その前後に少し節子と対話することもあります。
就寝する時には、一応、節子に挨拶をします。
真夜中に目が覚めて、ふと節子を思い出すこともある。

そんなわけで、少なくとも1日3度は節子と話しています。
しかし、それだけではありません。
最近なんとなく、「節子のまなざし」を感ずることがあります。
うまく説明できませんが、節子がいつも私のしぐさを見ているような気がするのです。
だれかと話している時に、突然それを感ずることもあります。
一人で本を読んでいる時に、突然に、その気配を感ずることもある。
まあ、そんなわけで、いまの私は常に節子に見張られているともいえるわけです。

ですから、節子を裏切るわけにはいきません。
こういう書き方をすると誤解されそうですが、
節子を裏切るわけには行かないという意味は、誰かを愛することができなくなったとか、そんな話ではありません。
自分に素直に生きる生き方を裏切らないという意味です。
節子は、私が私自身に嘘をつかないからこそ、私を信頼してくれていました。
節子は、いつも、私が私らしく生きることを支えてくれていました。

もしかしたら、最近、その「私らしい生き方」がちょっと崩れているのではないかという気が、しないでもありません。
その生き方に対して、節子はもしかしたら、不満なのかもしれない。
それで、最近少し「節子のまなざし」を感ずる度合いが増えたのかもしれません。
この挽歌を書きながら、それに気づきました。
そういえば、最近少し私自身、妥協が多くなってきています。
妥協と寛容さを混同しているのかもしれません。
それはもしかしたら、究極の仲間の節子がいないからかもしれないのですが。

なにやら矛盾した内容の挽歌になってしまいました。
これもまた節子のまなざしのせいかもしれません。
困ったものです。

今日の朝は、11月にも関わらず、みぞれ降る寒いの朝です。
そのせいか、早く目覚めてしまいました。

■3371:節子の日記(2016年11月25日)
節子
椿山荘で集まりがあったのですが、その帰り、江戸川橋の駅に向かって歩いていたら、目の前のビルに大きな字で「高橋書店」と書いてあるのに気づきました。
懐かしい名前です。
節子は、高橋書店の日記帳で毎日日記をつけていたのです。
それを思い出しました、

その節子が残した日記帳は、いまもたくさん残っています。
節子は私に会う前から日記をつけていましたが、その日記も私の手元に残されました。
節子が逝ってしまった後、いつか落ち着いたら読もうと思っていましたが、読もうという気はなぜかまったく起こってきません。
夫の私がそうなのですから、たぶん娘たちも読むことはないでしょう。
ですから、私がいつかすべてを焼却しようと思っています。
でも今は、まだその気にはなれません。

私も日記は子ども時代から書いていました。
しかし、私の場合は、節子と一緒に暮らすことを決めた時に、それまでの日記はすべて焼却しました。
節子に見られて都合が悪いことが書いてあったわけではありません。
それまでの人生を、すべて白紙にして、節子と新しい人生を描き出そうと考えたのです。
そして、節子と一緒に暮らし始めてからは、私は日記をやめました。
時々、節子の日記に特別出演で書いたことはありますが。

ホームページを作成してからは、そこにかなり克明に私の人生記録を残すことにしました。
いまもそれは書き続けています。
最近は、この挽歌のブログが日記代わりになってしまいましたが、ホームページでも週間記録を書いています。
ほとんど誰にも読まれないでしょうが、書くことで自分が整理できるのです。
整理して、それがなんだと思わないこともありませんが。

時々、昔の言雄思い出すことはありますが、そんな時に、ホームページの週間記録を読むことがあります。
ところが、読んでみると、私の記憶とはかなり違うことが書いてあることがあります。
記憶とは、以下にいい加減なものか、時々思い知らされます。
節子の日記を読んだら、私の記憶に残っている節子とは違う節子に出会えるかもしれません。
最近、私のなかでは、どんどん節子が美化されているようなので、幻滅するかもしれません。
でもそれもまた、面白いかもしれません。

そんなことを考えながら、帰宅しました。

■3372:3000円の使途(2016年11月26日)
節子
今年は秋が短かったですが、このところ、秋の果物が届いています。
昨日は義父の佐々木さんから、節子の好物だった富有柿がどっさり届きました。
早速供えておきました。

わが家の畑のみかんも10個ほどなっています。
ゆずにいたっては、もう山のようになっています。
いずれも、節子が最後に植えていたものです。
なんでゆずなど植えたのでしょうか。
林檎か柿なら、食べられたのに。
なぜか節子はそうした果実には関心がありませんでした。

最近、周りでいろんな問題が起こっています。
景気回復などという報道もありますが、私のまわりではその真逆の風がふいています。
特に、個人で仕事をしている人たちは大変で、今日もそんな相談が届きました。
手元にお金があれば、何とかしたいのですが、幸か不幸か、節子が残していってくれたお金はほぼすべて放出してしまっていますので、資金の支援だけはできません。

実は、先月、低所得者向けの人に3000円の一時金の支給がありました。
私もいま低所得者なので、その恩恵を受けることになり、3000円もらいました。
もう少し額が多ければ、どこかに出張にでも行けますが、3000円では仕事はできないので、どうしようかと思っていましたが、宝くじを買うことにしました。
もし10億円当たったら、来年は良い仕事ができるでしょう。
その前に、周辺で困っている数名に支援もできますし。

しかし、お金は人を狂わせますから、当たらないほうがいいかもしれません。
宝くじなどやめて、どこかにそのまま寄付したほうがいいかもしれません。
いや、寄付したら、どう使われるかわからない。
やはり明日宝くじを買いに行きましょう。

なんだか最近、どんどん考えることが小さくなってきました。
10億円当たったら、きっともっと「小さく」なってしまうのでしょう。
お金は人を小さくします。
節子がいなくなったので、お金のことを考えなければいけなくなりました。
困ったものです。

■3373:「私は沈黙していたのではない」(2016年11月27日)
節子
久しぶりに、遠藤周作の「沈黙」を書棚から引っ張り出して、最後の部分を読みました。
そこに書かれていたのは、こんな文章です。

今までとはもっと違った形であの人を愛している。
私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。
(中略)
あの人は沈黙していたのではなかった。
たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

「沈黙」をひっぱり出してきたのは、今朝のNHKの「こころの時代」で、取り上げられていたからです。
遠藤周作の歴史小説「沈黙」は、江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゲスの「ころび」を題材に、神と信仰の意義を描いた重厚な作品ですが、今年、ハリウッドで映画化されました。
その映像をイメージしただけで、私にはとても見には行けないと思っていますが、今日の番組を見て、本は読み直せるかもしれないと思ったのです。

この本を読んだ時の衝撃は、その後もずっと残っています。
たぶんもう読み直す気にはならないだろうと思いながらも、その本が私の乱雑な書庫のどこに蔵書されているかは常にはっきりとしている、特別の本の1冊です。
40数年間、開いたことのない本を開いて、最後の5ページだけを読みました。
この本のエッセンスは、最後の数ページにあることだけは覚えていたからです。
その前の部分は、ストーリーはともかく、思い出すだけでも気分が重くなるイメージが明確にあるため、いまもなお読む気にはなれません。
そして、その最後の最後にあるのが、上記に引用した文章です。
キリスト教徒たちを拷問の苦しみから救うために、自ら〈踏絵〉してしまった司祭ロドリゲスの言葉です。
そこには、「愛」とは何かが、書かれています。

神への愛と人への愛は、質が違うと言う人もいるでしょうが、私には「愛」は一つです。
節子への愛も、神への愛も、自分への愛も、他者への愛も、すべて同じなのです。
それは節子も知っていたことです。
独占したり、独占されたりする「愛」は、私の考える「愛」ではありません。
それは、はかない愛の幻でしかありません。
「愛」は所有されるものでも限定されるものでもないのです。
まあ、そんな「愛」の議論はどうでもいいのですが、「沈黙」の最後のこの文章は、愛の本質を語ってくれているように感じます。

同時に、「沈黙」の意味も語っています。
同じ場所にこんなやりとりがあるのです。


踏絵を躊躇するロドリゲスに向かって、踏絵の木のなかの主が、「踏むがいい」というのです。
言葉でではありません。哀しそうな眼差しで、です。
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」。
ロドリゲスは、問いかけます。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
それに対する主の答えは、とても心にひびきます。
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」。

この言葉を、私は忘れていました。
40数年前に、とても感激したはずだったのですが。
見えなくても存在するものがあるように、聞こえなくても呼びかけられているものもあるのです。

■3374:語り合う人がいてこそ思い出(2016年11月28日)
節子
最近、テレビでニュースを見ることは少なくなりましたが、テレビ自体は見る時間が増えてきています。
昨日も、NHKの「にっぽん縦断 こころ旅」を見ました。
火野正平が自転車で全国を走り回る番組です。
テレビをつけた時、見たことのある風景が目に入ってきました。
琵琶湖の海津大崎でした。
そしてそこから湖東へと向かい、何回も通ったことのある南下するコースでした。
ところどころで見覚えのある風景に出会いました。

節子と最後に海津大崎に行ったのは、たしか桜の季節でした。
その年は、ともかく桜前線と一緒に、各地の桜を見に行ったものです。
桜三昧の年でしたが、私にはほとんど記憶は残っていません。
ただただ節子についていっただけですから。
記憶に残すほどの余裕が、私にはなかったのかもしれません。

テレビを見ていると、時々、節子と一緒に言った風景に出会います。
こうして見ると、それなりにいろんなところに行ったような気もします。
節子がいたらきっと画面を見ながら話が弾むのでしょうが、一人で見ていては話し相手もいません。
思い出は、語り合う人がいてこそ、思い出なのかもしれません。
一人で、思い出に浸るということもあるのかもしれませんが、どうも私には無縁な気がします。
節子は、いつも、また思い出ができたと言っていましたが、あれは何のためだったのでしょうか。
私への贈り物だったのでしょうか。
それとも節子が彼岸に持っていくためのものだったのでしょうか。

思い出とは、不思議なものです。

■3375:久しぶりのショッピングモールでの買い物(2016年11月29日)
節子
久しぶりに、家族的な1日を過ごしました。
娘や孫と近くのショッピングモールに出かけました。
本当は食事をする予定でしたが、娘家族が買い物があると言うので、少し遠くのショッピングモールに行きました。
そこには映画館などもあるため、何回か行ったことはあるのですが、家族との買い物は初めてでした。
2時間ほどと思っていたのですが、なんと4時間近くもいました。
娘家族の買い物は主に赤ちゃん用品だったので、私はさすがに付き合いませんでしたが、その間、久しぶりにいろんなお店を回ってみました。
節子と一緒に行っていた頃とは、お店の攻勢や雰囲気が大きく変わっています。
時代の変化を感じます。

しかし、時間を持て余して、途中は店内のソファーで休んでいました。
最近は休憩場所がたくさんあるので、ありがたいです。
そういえば、昔、節子と一緒に、両親を誘って、百貨店に食事と買い物に行ったことがありました。
あの頃、買い物に付き合わされた父はさぞかし退屈だったことでしょう。
自分がその立場になって、初めてそれがわかります。
4時間も店内にいたのですが、結局、私はほとんど何も買いませんでした。
思い出せば、父もそうでした。

肉体的には疲れましたが、今日はパソコンなどから解放されて、精神的には疲れが抜けたような気もします。

■3376:涙が止まらない(2016年12月1日)
(今日は挽歌編と時評編に、タイトルを替えて同じものを書かせてもらいました)


なぜか涙が止まりません。
涙が出てくる時には、何かがたまっている時かもしれません。
心がとてもやさしくなっているか、あるいは逆にさびしくなっているときです。
いまのわたしは、いずれでしょうか。
残念ながら、後者だろうと思います。
最近、他者にも自分にも、やさしくなれない自分に、嫌気を感じているほどですから。

何かがあったわけではありません。
ただテレビの番組を見ただけなのに涙が止まらない。
番組は、昨夜の深夜(暦的には今日ですが)、録画していた「世紀を刻んだ歌2 イマジン」。
2002年に放映された番組です。
内容は、9.11事件直後のニューヨークと東京都内の中学校を主な舞台に、ジョン・レノンの“イマジン”が若者たちに何を気づかせるのかを示唆してくれるものです。
その合間に、さまざまな人が歌う“イマジン”がバックに流れます。
それを聞いていると、なぜか涙が出てきてとまらない。

“イマジン”を聴いた日本の中学生の一人がこう語ります。

もし大事な人がいなくなってしまったら、
その人の笑顔を見ることができなくなったら、
と思うと、私にはたえられません。

あるいは、こういう中学生もいました。

わたしはもっとやさしくなりたい。

そんな中学生の言葉に、涙が出てしまう。
“イマジン”のメロディを聞いただけで涙が出てしまう。
Imagine all the people living life in peace.
想像してごらん みんながなかよく生きている世界を。
この言葉だけでも涙が出てしまう。

私の想像力は、まだ病んではいないと安堵しながらも、その思いがまた涙につながっていくのです。
悲しいのは、節子の笑顔を見ることができなくなっただけではありません。
最近は、本当に平安な笑顔を見ることが少なくなってきたような気がします。
世界が深く病みだしている。
多くの人が笑顔を忘れだしている。
そうしたなかで生きている私もまた、おそらく病んでいるのでしょう。
そう思うと、ますます涙が出てきてしまいます。

テレビで明るく話していた杉並区の西宮中学校の中学生たちは、いまはもう成人式を超えて、30歳近い若者になっている。
彼らはいまはどうしているでしょうか。
そのだれかに会ってみたい気がします。
ジョン・レノンの夢を、いまどう考えているか。

ジョン・レノンの37回忌が、間もなくやってきます。
改めて、多くの人たちに、“イマジン”を聴いてほしいと心から思います。
もしよろしければ、ここから聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=dq1z1rkjw-E
歌詞だけでも、ぜひ読んでください。
http://eylyricsdiary.blogspot.com/2012/03/imagine.html

■3376:涙が止まらない(2016年12月1日)
(今日は挽歌編と時評編に、タイトルを替えて同じものを書かせてもらいました)

節子
なぜか涙が止まりません。
涙が出てくる時には、何かがたまっている時かもしれません。
心がとてもやさしくなっているか、あるいは逆にさびしくなっているときです。
いまのわたしは、いずれでしょうか。
残念ながら、後者だろうと思います。
最近、他者にも自分にも、やさしくなれない自分に、嫌気を感じているほどですから。

何かがあったわけではありません。
ただテレビの番組を見ただけなのに涙が止まらない。
番組は、昨夜の深夜(暦的には今日ですが)、録画していた「世紀を刻んだ歌2 イマジン」。
2002年に放映された番組です。
内容は、9.11事件直後のニューヨークと東京都内の中学校を主な舞台に、ジョン・レノンの“イマジン”が若者たちに何を気づかせるのかを示唆してくれるものです。
その合間に、さまざまな人が歌う“イマジン”がバックに流れます。
それを聞いていると、なぜか涙が出てきてとまらない。

“イマジン”を聴いた日本の中学生の一人がこう語ります。

もし大事な人がいなくなってしまったら、
その人の笑顔を見ることができなくなったら、
と思うと、私にはたえられません。

あるいは、こういう中学生もいました。

わたしはもっとやさしくなりたい。

そんな中学生の言葉に、涙が出てしまう。
“イマジン”のメロディを聞いただけで涙が出てしまう。
Imagine all the people living life in peace.
想像してごらん みんながなかよく生きている世界を。
この言葉だけでも涙が出てしまう。

私の想像力は、まだ病んではいないと安堵しながらも、その思いがまた涙につながっていくのです。
悲しいのは、節子の笑顔を見ることができなくなっただけではありません。
最近は、本当に平安な笑顔を見ることが少なくなってきたような気がします。
世界が深く病みだしている。
多くの人が笑顔を忘れだしている。
つくられた笑顔には、心が痛みます。
そうしたなかで生きている私もまた、おそらく病んでいるのでしょう。
そう思うと、ますます涙が出てきてしまいます。

テレビで明るく話していた杉並区の西宮中学校の中学生たちは、いまはもう成人式を超えて、30歳近い若者になっている。
彼らはいまはどうしているでしょうか。
そのだれかに会ってみたい気がします。
ジョン・レノンの夢を、いまどう考えているか。

ジョン・レノンの37回忌が、間もなくやってきます。
改めて、多くの人たちに、“イマジン”を聴いてほしいと心から思います。
もしよろしければ、ここから聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=dq1z1rkjw-E
歌詞だけでも、ぜひ読んでください。
http://eylyricsdiary.blogspot.com/2012/03/imagine.html

■3377:久しぶりの日の出(2016年12月2日)
節子
今朝、久しぶりに日の出を見ました。
起きて寝室から外を見たら、朝焼けがとてもきれいだったのです。
それで思わず屋上に上り、久しぶりに日の出を見ました。
静かな日の出、でした。
節子とは、よく日の出を見ました。

朝起きて、日の出を浴びると、気が高まると誰かが言っていた気がしますが、たしかにそんな気がします。
今日は良い一日になるだろうと思い、フェイスブックに投稿したら、いろんな人が「いいね」を押してきました。
こういう、いわば日常風景にはたくさんの人が反応しますが、いつも私が書いているメッセージ型の記事には、なかなか反応してくれません。

それでも時々、その私のメッセージを読んでくれて、友だちリクエストをしてきてくれる人もいます。
それに、思いもかけない人が記事を読んでくれていることもあります。
ただ、主張のある記事には、最近はみんな慎重になっているのです。
自らの主張を、素直に発信することに「リスク」が伴う時代なのかもしれません。

佐々木さんが柿をどさっと送ってきてくれたので、近所にもお裾分けさせてもらったのですが、久しぶりに近くに住む兄にもお裾分けしに行ってきました。
そうしたら高崎から届いた林檎を、お返しにもらってしまいました。
先日は、私も林檎を友人たちからもらったので、近所にお裾分けしたら、うどんやお塩になって戻ってきました。
丸で、わらしべ長者のようです。
お金がなくても、豊かに暮らしていけることに感謝しなければいけません。

しかし、実は林檎や柿をもらいながら、私はお返しをしていません。
さて何をお返しすればいいのか。
考えているうちに、いつも妙案が浮かばずに、忘れてしまいます。
人からもらうのはいいのですが、誰かに何かを差し上げるのが私はとても不得手です。
困った性格ですが、これはまあ性格なので仕方がありません。
そんなわけで、節子がいなくなってから、わが家は、頂くものと差し上げるものがバランスしていません。
もちろん、わが家がもらい過ぎなのです。
いつかどこかでお返ししたいですが、たぶん今生では難しいでしょう。
これからも、もらい続ける人生になりそうです。
以前も書きましたが、こういう「お布施人生」をしていると、「感謝の念」が心身にたまってきます。
感謝の念が豊かになると、人は平安になれます。
いや、なれるはずなのです。

しかし、どうも最近は、心が平安ではありません。
自分でも、機嫌が悪いことがわかるほどですから、私と最近会った人たちには、それが伝わっているかもしれません。
しかし、今朝の日の出を見たおかげで、少し機嫌が直りました。
お天道様は、すべてお見通しです。
そう思うと、少し心がやすまります。

いまのところ、今日は心静かに過ごせる日になりました。

■3378:(2016年12月2日)
節子
今年も花かご会のカレンダーが届きました。
今年は花かご会にとってもいい年だったでしょう。
国土交通省から、その活動に対して、「みどりの愛護」のつどいで大臣表彰を受けたのです。

今年はメンバーの写真も掲載されていました。
私の知らない顔もいくつかありました。
花かご会も、少しずつ変わっているのでしょう。
それでも今でも節子のことを覚えていてくれて、毎年、カレンダーを届けてくれるのです。
節子の蒔いた種が、順調に育っています。
我孫子のまちの中に、節子を思い出させるものがあるのはうれしいことです。
時に、少し悲しくなるものもありますが、駅前の花壇には明るい記憶しかありません。

■3379:旅立ちの前に会っておくことも大事かもしれません(2016年12月3日)
節子
友人知人の訃報がまた届く季節になりました。
便りがないのは良い知らせ、とは限りません。

足利のシャーロキアンの、中島さんの訃報が届きました。
私は数回しか会っていませんが、心に残る人の一人でした。
もう20年近くお会いしていませんが、なぜか時々思い出す人です。
奥様から、良い人生だったと思うという便りが届きましたが、私もそう思います。

訃報ではなく、うれしい連絡もありました。
意外な人からのメールです。

ご無沙汰しています。
FacebookのImagine!想像力を取り戻そう!を拝読しました。
全私保連で毎月お目にかかっていたときの佐藤さんと変わらない佐藤さんが そこにいました。

京都で保育園をやっている室田さんです。
そのお人柄と取り組みに関心を持って、一度、その方の保育園を訪れたことがあります。
自然の中にある、とても魅力的な保育園でした。
室田さんの子ども観もさることながら、生き方が魅力的でした。
やはりずっと気になっているお一人です。
室田さんは、こう書いています。

イマジンを聴きながら、
佐藤さんも私もdreamerという点で、今も変わっていないのだと思います。

人は変わっていくものですが、変われない人もいる。
私の周りには、そういう人が少なくありません。
変わっていく人は、いつか姿を現さなくなります。
しばらくして、テレビや新聞でお姿を見る人も少なくありません。
しかし、変われない人は、テレビには登場しません。
でもしっかりと夢は持ち続けていて、あきらめることはありません。

室田さんは、いまどうもまた新しい夢を見ているようです。
それに関して、一度お会いしたいという連絡です。
一日も早くお会いしたいですが、京都と東京なので、すぐにとはいきません。
12月はお互いに日程調整が難しくて、結局、お会いするのは年明けになりそうです。

今日はもうひとりの友人からうれしいメールが来ました。
先日、ほぼ20年ぶりくらいにお会いした方からです。
久しぶりにお話しできて楽しかったというメールです。
ただそれだけのことなのでが、なぜか無性にうれしい気がします。
そんなに話したわけではありません。
ちょっとしたやりとりでしたが、しかし密度の濃い話でした。
世界をパーティシペート、つまり融即するという話です。
今日のメールには、これからは「シンポジウム・オーケストラ」が必要だと書かれていました。
体調がまだ完全ではないようですが、年があけたらまた一度、お話しできればと思っています。

彼岸に旅立つ前に、会いたい人が最近増えてきました。
彼岸でも会えるのですから、必要もないのですが、まあ念のために、です。
彼岸は別世界かもしれませんし。

■3380:歯医者さんで考えること(2016年12月5日)
節子
先週、久しぶりに歯医者さんに行ったのですが、マウスピースをすることをまた勧められました。
またというのは、以前も勧められたのですが、その時には面倒そうなので、止めていたのです。
今回は、下顎の骨の一部が沈んでしまっているレントゲン写真を見せてくれました。
ここまでていねいに示唆してくれると、面倒だなどとは言っていられません。
素直に従うのが礼儀でしょう。
それで、マウスピースを使うことに決めました。

それはともかく、どうも私は寝ている時に、噛みしめることがあるようです。
歯ぎしりは節子からも指摘されてことはありませんし、私自身、気づいたことはありませんが、時にはを噛みしめることは、起きている時にもあります。
娘たちから、昔から指摘されているのです。
節子が元気だったころには、私自身はストレスをあまり感じたことはなかったのですが、実はそうしたかたちでストレスは発散されていたのかもしれません。
その受取先は、たぶん節子だったのでしょう。
そのせいか、節子がいなくなってから、ストレスを感ずることが起こりだしました。
しかし、その向け場はない。
それで夜の「噛みしめ」がひどくなったのでしょうか。

もっとも歯医者さんによれば、歯ぎしりや噛みしめの原因はまだ解明されていないようです。
生まれつきの癖かもしれません。
いずれにしろ、マウスピースは使用することにしようと思います。
それで何が変わるのかはわかりませんが、歯は守られるようです。

歯医者さんに行って、検査や治療を任せている時は、私にとっては一種の瞑想の時です。
いろいろと考えることがあります。
節子のことはよく思い出します。
節子は手術後、再発に備えて、歯医者に通っていました。
それが終わった後、ちゃんと歯医者に行けてよかったと言っていました。
闘病の準備は整った、というような意味合いを感じました。
そして、節子はよく闘病に耐えました。

手術後、歯医者に通っていた節子は、治療を受けながら、何を考えていたのでしょうか。

■3380:祈りのワークショップ(2016年12月6日)
節子
年末が近づいてから、またいろんなことが起こりだしています。
いいこともあれば悪いこともありますが。

昨日は、湯島である集まりを持ちました。
テーマは「祈り」。
今回は、たぶん5回目くらいのミーティングですが。はじめたのは2か月ほど前。
その後、急展開で構想は広がっています。
集まりの最中に、オバマ大統領と安倍首相が、真珠湾で会うというニュースが入ってきました。
それと関連があるプロジェクトです。

15日にはたぶん報道されるでしょうが、それに合わせての準備をしなければいけません。
今回は、そのミーティングでした。
話していて、「祈りのワークショップ」ということを思いつきました。

いま2冊の本を、私にはめずらしく時間をかけて読んでいます。
1冊は佐久間さんが書いた「儀式論」。
佐久間さんの大作なので、ゆっくり読もうと思い、まさにゆっくりと呼んでいますが、そこでも「祈り」が関わってきます。
もう1冊は。諸富祥彦さんの書いた「フランクル」。
これはすぐに読み終えることができるのですが、あえてゆっくりと読んでいます。
フランクルの生き方にも、また「祈り」を強く感じます。
なぜか、最近出会う本は、「祈り」につながるものが多いのです。

昨夜の集まりの中心にいるのは、「INORI」を作曲したシンガーソングライターの佐々木祐滋さんです。
広島の原爆少女の像のモデルとなった佐々木禎子さんの甥です。
私はこんなにさわやかな青年に会ったことがありません。
昨年の今日、我孫子で祐滋さんに来てもらって、平和のコンサートを開きました。
その時に、祐滋さんの父親、つまり禎子さんのお兄さんに会いました。
短い立ち話でしたが、お人柄を感じました。
そして、「祈り」を感じました。

昨年は、私の思いとは別の方向に向いてしまったような感じでしたが、なぜか2か月ほど前にまた、祐滋さんの祈りに引き寄せられるように、このプロジェクトが始まったのです。
彼の「祈り」の力でしょう。

なにかがはじまりそうな気配を感じます。
私が関われるのは、最初だけでしょうが。

実は、その集まりの途中に、電話が入りました。
それは、「祈り」が報われなかったことを知らせる電話でした。
人生には、良いこともあれば悪いこともある。
来年は、その2つのことで、に私の生き方が少し変わることになるかもしれません。
いずれも、私の信条に反することも含まれているのですが。

■3380:語る相手がいることの幸せ(2016年12月7日)
節子
久しぶりに岐阜の佐々木さんが来ました。
とてもお元気そうでしたが、今年は佐々木さんにとってはとてもつらい1年だったと思います。
人生には、喜びとともに、悲しみもつきものです。
私自身は、最近はその2つの区別があまり気にならなくなっています。
いずれも、人生そのものだと思えるようになってきました。

もうひとつ最近感じていることがあります。
喜びにしろ悲しみにしろ、「話し」たくなるものと心身に閉ざしたくなるものがある。
そして、身心に閉ざしたい喜びや悲しみは、その一方で、だれかに「語り」たくなるのです。

「話す」と「語る」は、意味が大きく違います。
「話す」は「放す」です。
悲しみや喜びを、自らから放す(離す)ことで、自らを解き放そうとする。
それに対して、「語る」は「象(かたど)る」と言われるように、何かを生み出すのです。
そのために、「語る」相手は、その悲しみや喜びを、一緒になって引き受けてくれる人でないといけません。
いいかえれば、重荷を一緒に背負ってもらうことになる。
ですから、そう勝手に語ることはできません。
そして、語った以上は、相手の語りも引き受けなくてはいけません。
そういう関係は、そう簡単にはつくれません。

「話す」ことは、自然とできることです。
しかし、喜びや悲しみの奥にあるものまでは、放せません。
言葉で話しても、身心に残っているものがある。
その「残っているもの」を、どう語っていくか。
つまり、誰かと分かち合っていくか。
それが人生なのかもしれません。
しかし、語る相手を見つけることは、そう簡単なことではない。

戦争体験を語らない人たちの心情が、最近少しわかってきました。
人は、話すことはできても、語ることは難しい。
最近、つくづくそう思います。
語る相手がいたことの幸せを、改めて思い返しています。

■3383:読書三昧で1日を無駄にしました(2016年12月8日)
節子
最近ちょっと書籍に押しつぶされそうです。
贈られてきた本や図書館に頼んで探してもらっていた本や思いついて書庫から引っ張り出してきた本やらで、10冊近い本がデスクに積まれています。
それも一筋縄ではいかない本も多く、いつものようにさっと読み終えられません。
その上、最近は目の調子があまりよくないため、読書速度も落ちています。

書籍だけではありません。
DVDも4本たまっています。
いずれもいろいろと意味のあるDVDなので、観て終わりというわけにはいきません。
それもあって、なかなか観れずにいるのです。

このように書籍やDVDがたまってくるというのは、私の処理能力が低下しているということでしょう。
にもかかわらず、読みたい本はどんどん広がってきます。
それに以遠読んだ本まで再読したくなってしまうことも少なくありません。
昨日は、ブログの時評編でオルテガの本に言及したのですが、そのために、オルテガの「大衆の反逆」をひっぱり出してきたら、また読みたくなってしまいました。
若いころ読んだ本を読むと、赤線が引かれていることがあるのですが、若いころにどういうことに関心があったかがわかり、当時のことを思いだすことも少なくありません。
世間とは縁を切って、思う存分、本を読みたい気もしますが、その一方で、いまさら本を読んでどういう意味があるのだろうと思わないこともありません。

本を読むと世界が広がります。
映画を観ても、世界は広がります。
そうすると、どんどんこの世に執着も増してくる。
もっと外の世界を知りたいと思うのです。
困ったものです。
こんな生き方をつづけていたら、いつになっても旅立てません。

今日は、先日開催したフォーラムのテープ起こしをするつもりでしたが、古い本を読みだしたら、そこから抜けられなくなってしまいました。
仕事もせずに、今日は読書三昧の日になってしまいました。
夜になって、残り少ない人生の1日を、こんな使い方をしてよかったのだろうかと急に不安の念に襲われてしまいました。
来週は目の手術ですので、当分本は読めなくなりそうです。
その前にと思ってしまったのですが、考えてみると、読書だけでなく、テープ起こしもできなくなってしまうわけです。
みんなとの約束(をしたわけではないのですが)が果たせない恐れがあります。

読書はきっと彼岸に行ってもできるでしょう。
現世でやっておかねばいけないことに、もっと集中しなくてはいけないのですが、どうもそれができません。
どうしてでしょうか。
本当に、困ったものです。

■3384:Habits of the Heart(2016年12月10日)
節子
今日もまた、本を読みふけってしまいました。
30年前に書かれた、ベラーという人の「心の習慣」という本です。
最初は退屈しながら読んでいましたが、最後のあたりになって、引き込まれるような面白さでした。
テーマは「公共善」。
私自身の生き方に、最近少し迷いがあったのですが、この本を読んで、迷いがまたなくなりました。
人はみんな、公共善に従って生きているのがふつうなのです。
たとえ人と違っていても、いまの生き方をつづけようと、改めて思いました。

ベラーは、さらに続編として、「善い社会」という本を書いています。
これもまた分厚い本で、値段も5000円もするので、買わずに図書館から借りるつもりですが、図書館から借りた本は、ていねいに読まないといけないので、疲れます。

ちなみに、この本の原題は“Habits of the Heart”、「こころの居場所」です。
著者の意図とは違うでしょうが、私にはとても気になるタイトルです。
最近、私は、「こころ」は身心の内部には存在せずに、身心からはみ出して存在しているのではないかと思っているのです。
というよりも、私の心の中に、私の心身と私の環境があるという方がいいかもしれません。
さらにいえば、いまの社会そのものもかかわってくるわけです。
となると、社会のありようによっては、私のこころの居場所がなくなってくる。
そこで、こころが私の身心に逃げ込んでしまいがちなのです。

もう少していねいに説明しないとわかってもらえないと思いますが、
私が、人嫌いのくせに、ひとに会いたくなるというのは、たぶんそのせいです。

ベラーの「心の習慣」という本に、そんなことが書かれていたわけではありません。
まあ、その本を読みながら考えたことの一つです。
この本は、また、現代人が「バラバラの存在」になってしまって、心の平安を失ってきていることに警告を発しています。
とても共感できます。

今日も読書三昧でしたが、考えることの多い1日でした。
目の手術前にやらなければいけないことは、これで完全に実行不能になりました。
まあしかし、許してもらえるでしょう。
そう勝手に思いながら、明日もまた、もしかしたら、読書の1日になってしまうかもしれません。
テレビや新聞で報道されている世間の動きから、逃げたい気持ちが、たぶん読書に向かわせているのでしょう。
昨今の世間からは、縁を切れるものなら切りたい気分です。

■3385:太陽の船の案内役だった鳥(2016年12月11日)
節子
今日もまた本を読んでしまいましたが、疲れたので、テレビをつけたら、ピラミッドの番組でした。
日本にも、エジプトと同じ太陽の船があるというような話でした。
ちょうどテレビをつけた時に、その古墳の壁画が放映されていました。
福岡県のうきは市にある珍敷塚古墳と鳥船塚古墳です。
いずれも国の指定遺跡になっています。
その古墳の壁画に、死者が船に乗って彼岸に旅立つ図が描かれていますが、そこにエジプトのピラミッドに描かれているのと同じ、太陽神マークがあるのだそうです。
なんとなく見ていただけですので、不正確な記憶ですが、鳥船塚古墳の絵を見ていて、ハッと気づきました。
たいしたことではないのですが、私にとっては長年の謎だったことです。
前にこの挽歌にも書いたことがあるかもしれません。

節子は、話ができなくなり、死を実感した時に、家族への感謝ととともに、メモを残しました。
そこに、「ありがとう。また花や鳥になってちょいちょい戻ってくる」と書かれていました。
花はわかりますが、なんで鳥なのかと、その時は理解できませんでした。

古墳の壁画の、彼岸に向かう船の船首に、鳥が案内役としてとまっていました。
これはエジプトの絵と似ています。
エジプトの絵と、ちょっと小さくて見えにくいのですが、鳥船塚古墳の絵を掲載します。
それを見ていて、やっと節子がなぜ「鳥」と言ったのかがわかりました。
鳥は、彼岸と此岸を往来する存在なのです。
そういえば、前にもこんなことを書いたような気もしますが、今回はしっかりと実感できました。
節子には、あの時にもう、人類の知恵が移っていたのだと思いました。

エジプトに限りませんが、人類の知は、いまでこそ、国家によって、分断され、その広がりは制限されていますが、歴史時代に移る前までは、もっと自由に往来していたはずです。
場合によっては、その往来の範囲は、宇宙的な規模で、さらには彼岸さえをも含めていたかもしれません。
この世界が、いまのような「現世」として固まってきたのは、3500年ほど前だという説に私は理屈抜きで共感しているのですが、それまでは、時空間を超えて、あるいは種を超えて、いのちは不定型に交流していたのではないかと思っているのです。
まああんまり「科学的」ではありませんが、そう思った方が、いろいろと納得できることが多いのです。

そうか、だから鳥だったのか。
そういえば、最近、わが家にも時々、少し大きな鳥がやってきます。
最近は、いつも二羽のつがいでやってきていました。
節子は彼岸で、もしかしたら、パートナーを見つけ、その報告に来ていたのかもしれません。
もしそうであれば、それはとても喜ばしいことです。
でも、彼岸でも伴侶がいないと生きにくいのでしょうか。
まあ、詮索はやめましょう。
幸せならば、それでよい。
まあ私が彼岸に行くまでのことなのですから。

■3386:忘年会のない年末(2016年12月12日)
節子
今日は湯島で撮影をしました。
と言っても、私の撮影ではなく、武田文彦さんの撮影です。
節子もよく知っているように、武田さんとは長いこと、民主主義の実現に取り組む活動をしていましたが、今年になってまた活動を再開しました。
昨今の状況は、あまりに目に余るからです。
そのホームページに、先月開催した公開フォーラムでの武田さんのスピーチをアップしているのですが、その補足スピーチを録画したのです。
さまざまな機材が持ち込まれ、湯島が一挙にスタジオに変わった感じです。
撮影は無事終了し、年内にはアップできるでしょう。

録画風景を見ながら、そういえば、昔もこんな感じを体験したなと思いだしました。
昔は、私もテレビ取材も受けたことがありますし、湯島のサロンもテレビで取り上げられてこともありました。
まあ、いずれもマイナーにちょこっとですが。

昔の生活と今の生活は、もう全く違います。
湯島のこの場所は全く変わっていませんが、私の生活ぶりは大きく変わってきています。
会社時代も、会社を辞めて仕事をしていたころも、いまから思えば、「華やか」でした。
思い出すだけで、汗が出てしまうようなこともありました。
当時は気づきませんでしたが、わがままで、贅沢でした。
ほどほどのところで、その世界から抜けられたのは、幸運でした。
いまのような生き方が、私にはやはり一番合っています。

俳優の成宮さんが、麻薬疑惑などもあったのでしょうか、突然引退を表明し、話題になっています。
成宮さんは、「相棒」というテレビドラマで知ったのですが、好印象を持っていました。
しかし、俳優業の世界に振り回されたようで、友人に裏切られたことが、引退の理由の一つだと報道されています。
一見華やかに見えて、とてもストレスの多い世界なのでしょう。
お金とストレスは比例するのかもしれません。
俳優に限らず、お金をもらう世界の多くは、ストレスが伴いがちです。
私も最近ストレスを感ずることはありますが、お金とは無縁です。
お金で自らを制約される生き方は、いまは一切していません。
そのおかげかもしれませんが、大麻を吸いたくなるほどのストレスではありません。
人生を豊かにしてくれる程度のストレスです。
まあ歳のせいか、そこからも抜け出したい気分はしますが、お金とは無縁のストレスです。

昔の、あの「華やかな暮らし」と今の「影の薄い暮らし」とどちらがいいでしょうか。
言うまでもなく、いまのような暮らしが、私には合っています。
時には、ぜいたくな食事もいいですが、そういうものには全く魅力を感じません。
昔は、今頃は忘年会ばかりでしたが、最近は忘年会さえありません。
そもそも、「忘年」の必要さえないのです。
実に地味な、そして静かな年末です。

と言いながら、今日は忘年会のようです。
ささやかに相談に乗っていた研究チームが、たぶん私を招待してくれての忘年会なのです。
もっとも、以前そう思って、断れずに出かけた忘年会で会費を取られてしまったことがありますので、招待かどうかはいささか不安です。
いま話題の場所を取ってくれているようです。
そろそろ出かけましょう。
いつも付き合っている人たちと違い、ちょっと高給取りのみなさんです。
話が合うといいのですが。

■3387:人はただそこにいるだけ(2016年12月13日)
フェイスブックで、一条さんの「儀式論」を紹介したら、それに関連して、いくつかのコメントをもらいました。
そのひとつは、魂の人、小林さんからのものです。
彼はこう書いてきました。

ブラームスが作曲する時、必ず神に問いかけた3つの問い。
この答えが得られれば、葬式が必要か否かは明らかになります。
我々はどこから来たのか?(生まれる前はどこにいたのか?)
なぜこの世に生きているのか?
この後どこへ行くのか?(死んだ後どこへ行くのか?)

彼の意図は別にして、それに関連して私もコメントを返しました。
横道の文章を除いて再録します。

人はどこから来て、どこへ行くか。
これはよく語られる問いですが、私にはあまり意味を感じない問いです。
人はどこからも来ずに、そして、どこにも行かずに、
ただここにいるだけだと、私は思っています。

儀式や儀礼は、文化の現れです。
一条さんも、儀式は文化と置き換えてもいいと言っています。
文化とは何かは難しいですが、そのひとつの象徴的捉え方が儀式です。
朝、起きて歯を磨くのも、仏壇に祈るのも、人に会って挨拶をするのも、儀式です。
儀式も儀礼も、そういう捉え方を、おふたりはしているように思います。

葬儀はいまどんどん簡略化しています。
直葬やゼロ葬を提唱している人もいます。
しかし、私たちが折角築きあげてきた、死への文化を経済的な理由や忙しさを理由に、否定するのは悲しいです。
節子の葬儀を行って、それを強く実感しました。
葬儀を他者任せにしてきたことへの反省です。
それは、自らの生き方を他者任せにしていることとつながっています。
他者と共に生きることと、他者任せとは正反対のものです。
共に生きるためには、儀式、文化や社会のマナーが大切です。
儀式というと何やら形式的な行事を思い出すかもしれませんが、一条さんが本書を書いた動機は、人間とは何かという問いからです。
彼の問いかけは、こうです。
私たちはいつから人間になったのか。
そして、いつまで人間でいられるのか。

一条真也さんは、「儀式論」の中で、古代の礼には次の3つの性格があったと紹介しています。
「神霊と交信するツール」「人間関係を良好にする潤滑油」「自他を変容させる通過儀礼」。
私の言葉で言い直せば、「いまここで生きていくための仕組み」です。
平たく言えば、世界を広げる仕組みです。

人はただそこにいるだけ。
これが最近の私の、とりあえずの考えです。

■3388:「ラクリモーサ」(2016年12月13日)
節子
今回は節子と一緒に、モーツアルトのレクイエム「ラクリモーサ」を聴いてみようと思います。
節子は知っていると思いますが、私は教会の雰囲気やミサ曲がどうも苦手なのです。
なぜか心が縛られる気がするからです。
ですから、レクイエムも聴いたことはありません。
それなのになぜ聴く気になったか。
それはフェイスブックで、敬愛する一松さんから、こんなメッセージが届いたのです。
たまたま時間があったので、私としては、めずらしく、いや初めて、聴いてみました。
一松さんのアドバイスに従って。
一松さんの書かれていることがよくわかりました。
それで少しネットで「ラクリモーサ」について調べてみました。
モーツアルトが、自らの死の直前に作曲し、自らはこのレクイエムを聴くことなく、逝ってしまったそうです。
音楽には、いつも物語がある。

一松さんのメッセージを、少し長いですが、引用させてもらい、今日の挽歌にかえたいと思います。

葬式は、死者と送る側が濃い関係にあり(最愛の肉親や生涯の恩人・・・。社葬に末端の取引先として参加する場合などではなく)、かつ霊魂の存在が確信を持てないまでもアタマにある大多数の場合には、痛切な哀悼の祈りが死者の霊を慰め安心のうちに彼岸へと旅立ってもらう働きをするに違いないとの安心感を与えてくれます。
この安心感は未開社会も現代も人間にとって根元的意味を持つものではないかと感じます。
いわば世俗的富や権勢によっても得られない根源的安心感。
それゆえ葬式を(心において)ないがしろにする者がもしいれば本人はむろんのこと周囲をもけっしてハッピーにはしないと思います。

このコメントを書く前にモーツアルト35歳の絶筆、レクイエム(鎮魂曲)のラクリモーサ(涙の日)を聴きなおしました。
壮麗な葬儀の場も真の天才の手にかかると、痛切な哀悼の祈りは祈る者をも浄め、また自分もこれほどに哀悼される者でありたいとの夢ないし意識の覚醒をもたらしてくれるのではないでしょうか。
ベームの名演をご紹介させていただきます。
29分20秒からお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=-1DsJ5YQr5s&t=2042s

節子
一緒に「ラクリモーサ」を聴きましょう。

■3389:心やすまる2曲(2016年12月13日)
節子
少し挽歌が遅れていることと明後日からもしかしたらしばらく書けなくなるので、今日はもう一つ書いておくことにしました。
というよりも、今日は無性にさびしいのです。
先ほど繰り返し聴いたモーツアルトのレクイエムが、どうも心をセンチメントにしてしまったようです。
節子がいなくなってから、私の生活から、音楽がなくなりがちなのです。
コンサートは一度も行かなくなりました。
一度、友人の主催するオペレッタに行ったのですが、あの時の強烈な悲しみから、さらに音楽から遠のいてしまっています。
音楽は、づかづかと心のみならず、身心に入ってくる。
「ラクリモーサ」でなくとも、涙を引きだすのです。

それで、荘厳なミサとは対照的な、ますますさびしく悲しい、しかし、静かなこころになれる歌を2曲ほど、繰り返して聴きました。
その曲はいずれも永六輔さんと中村八代さんの作品です。
「生きているということは」と「生きるものの歌」です。
この2曲は、何度聞いても心やすまります。
悲しくてさびしくて、でもとても心やすまるのです。
できれば、節子と一緒に片寄せあって、口ずさみながら、聴きたいのですが、
いまは一人で、目をつむって聴くことしかできません。
声が出ない。
歌い手は、さだまさしさんが、私の心には一番響きますが、永さん自身のものも、心に沁み込んできます。
2曲がつづけて聴けるユーチューブがあります。
ぜひお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=Gt8posdmTaM&index=13&list=RDMEBhtwsGqvo

もし時間が許せば、さだまさしさんの「生きるものの歌」も聴いてください。
音楽から遠ざかってからも、この曲だけはよく聴いているのです。
https://www.youtube.com/watch?v=MEBhtwsGqvo&list=RDMEBhtwsGqvo&index=1

音楽を聴いていたら、遅くなってしまいました。
久しぶりの夜更かしです。

■3390:佐藤さんの印象はあのころと変わりません(2016年12月14日)
節子
雨です。
冷たい雨です。
巡礼者の鈴木さんのハガキ通信が毎週何通か届きます。
昨日届いた最新のものに、こう書かれていました。

初めてお会いしたのは50歳前後のころだったと思いますが、
佐藤さんの印象はそのころとあまり変わりません。

鈴木さんと会ったのは、私が会社を辞めて、人生を大きく変えた直後かもしれません。
当時の鈴木さんは、世界を旅する若者でしたが、いまは宇宙を旅する巡礼者になっています。
あの頃は、私も広い世界に魅かれて、さまざまな世界を放浪していました。
人生のキャンパスを一新して、そこにまた自分の人生を書きだそうという感じで、毎日が実にワクワクしたものでした。
時代もありますが、あれは幸運以外の何物でもないでしょう。
結局は、書き損じた絵しか残っていませんが、刺激的な毎日を過ごしていたことを覚えています。
実にさまざまな出会いがありました。
その人たちは、いまなお私の中では生き続けています。
歳を取らずに。

人は、最初に出会った時の印象を持ち続けます。
多くの場合、印象はいつになっても変わらない。
私が、節子に対する印象も、最初に会った時の印象がいまなお残っています。
社会のけがれをまだ何も知らないような、まっすぐなまなざしが印象的でした。
けがれを知らないということは、社会に関する知識もないということです。
いまから思えば、思い上がりも甚だしいのですが、私には「マイフェアレディ」のヒギンズ教授のような期待が少しあったのです。
しかし、「マイフェアレディ」と同じように、変えられたのは私自身でした。
それも、「ナラティブ」に、です。
私の人生は、そこで決まったのでしょう。

鈴木さんとの関係も、たぶん変わっていません。
だから私もまた、鈴木さんの印象は、出会ったころとほとんど変わらない。
人は、目で世界を見ているのではなく、身心で世界を見ているように思います。

いまの私の身心では、やはり最初に出会った20代の節子が、元気に生きています。
たぶん、彼岸に行ってしまった節子の中でも、あの最初に出会ったころの私が生きているでしょう。
これまたいまから思えば、たぶん、節子以上に、まっすぐなまなざしをもっていたはずです。
いささか独りよがりで、夢の世界の中でのまなざしではありましたが。

私のいない世界に、私は生きていくつもりはないと、その当時から強く持っていましたから。

■3391:これから入院です(2016年12月15日)
節子
今日から入院です。
前から決まっていたのですが、眼瞼下垂の手術なのです。
昨夜も遅かったので、前日に一応の入院準備はしていましたが、準備がうまくできているかどうか心配です。
こういう時には、改めて節子のありがたさがわかります。
これから娘に病院まで送ってもらいます。

今回は目の手術なので、入院中、何をしたらいいかわかりません。
2日間は、まぶたが腫れあがり、目を冷やし続けなければいけず、目は全く使えないでしょう。
大きな晴れは週間くらいで引くらしいですが、元に戻るまでには1〜3か月かかるそうです。
その上、顔の表情が一変するそうです。
そろそろ飽きだしている、この性格も一変するといいのですが。

毎年、年末には恒例の読書があります。
塩野七生さんの「ギリシア人の物語」を出版後、すぐに読み終えるのが習慣です。
今年は実行できるでしょうか。
まあ、しかしそんなことは些末なことであって、年内にやらなければいけないことが山ほどあります。
しかしここに至っては、いかにあがいても無理なので、むしろ目の手術をしたのでできなかったということにするのが一番いいでしょう。
それでこの数日、ほとんどすべてを放置していました。
これはまあ関係者には内緒なのですが。
ご迷惑をおかけする人があるでしょうが、まあそれが人生です。

一昨日、歯医者さんに行きました。
最近は歯医者さんでも治療の前後に血圧をはかります。
高血圧の人は治療中におかしくなることがあるのだそうです。
となると、それよりもちょっと過激な眼瞼手術はもっと可能性があるかもしれません。
それもまた、楽しみです。
でもまあ死ぬことはないでしょう。
自分が死ぬ時期くらいは、わかるでしょうから。
ただし、節子が呼び寄せるようなことがあれば、話は別ですが。

さてさてどうなりますことか。
ではしばらく挽歌は書けませんが、行ってきます。

■挽歌番外編1:入院初日(2016年12月15日)
節子
今日から人生2度目の入院です。

朝10時に病院に到着。手続きをして、病室にはいりました。
4人部屋です。
担当は今年看護師になったSさん。
ちょっとまだ慣れていない感じはしますが、さわやかのがいいです。
新入の看護師をみるとその病院の実態が伝わってきます。
この病院はいい病院です。きっと。いや、たぶん。
時に間違った説明もありますが、まあ周辺的などうでもいいことなので、逆に気が緩みます。
入院計画表によれば、今日の目標は「手術に関連した不安を表出できる」とありますが、そのためにはむしろいいことかもしれません。
しかし、この目標はちょっと意味不明です。
それにないものを表出するのもむずかしい。
しかし、手術には何が起こるかわかりませんから、こうした無為の一日は必要なのでしょう。

今日は何もやることがないそうなので、外出してもいいかと質問しましたが、駄目だそうです。
しかし、黙って外出してもわからないでしょう。
まあその可能性を残すために、病院衣に着替えるのをやめて、普段着のまま今日は過ごすことにしました。

明日の午前中に手術ですが、手術後48時間はクーリングのため、目が覆われるそうです。
真っ暗な世界を2日間彷徨するわけです。
これは新鮮な体験になるでしょう。
順調であれば、日曜日には退院できるそうです。

それにしても何もやることがない。
昼食後、病院内を探索。
でもあんまり面白くありません。
大きな病院ですが、どこも人があふれています。
いつもながら、この風景には異様さを感じます。
一方、病室の静けさは、これと対照的です。
実に静かで、時間が止まっている。
一種独特の静寂、気だるさを感じます。

隣のベッドの人が、トイレやお風呂やお茶の場所を教えてくれました。
入院患者には不思議な親近感をお互いに感ずるものです。
世界丸ごとがいまは病院のように病んだ人ばかりになっているのに、なぜ世界には親近感が生まれないのでしょうか。

どこかでWi-Fiが使えないかと訊いてみましたが、院内は使えるところがないそうです。
職員用の使える場所はあるそうですが、そこを使わせてもらえないかとはさすがに頼めませんでした。
それでオフラインで、書いておくことにしました。
あんまり本も読めないと思い、出掛けに机の上にあった、読みかけの文庫本を一冊だけ持ってきました。
オルテガの「大衆の反逆」。
若い頃に読んだ本ですが、先日主催した民主主義をテーマにしたフォーラムで話題になった「愚民」論に改めて読み直す気になったのですが、途中で止まっていました。
読みだしたのですが、何時の間にか眠ってしまいました。
目が覚めたら、外はもう薄暗く、寒そうなので外出はやめることにしました。
そんなわけで、病院衣に着替え、いまから晴れて入院患者です。
でもまあ、今日はまだ消灯まで4時間以上もある。
時間がないのも大変ですが、時間があるのも大変なものです。
人間のわがままさがよくわかります。

■3392:それぞれの時間(2016年12月15日)
節子
入院中ですが、もう一度書くことにしました。
なにしろ時間を持て余していますので。

やはり4時間の時間は長い。
日常生活だとあっという間なのですが。
それで気づいたのですが、時間の進み方がここでは明らかにゆっくりなのです。
同じ世界に住んでいるのでそんなはずはないと思ってしまいがちですが、75年も生きていて、ちょっとだけ多次元的に生きられるようになってみると、それはそう不思議なことでもないのです。
時間は、人によって、場所によって、状況によって、速さが変わるのです。

さてそこで気づいたのが、やはり節子のことです。
節子は、手術の前後は病院でしたが、基本的には在宅でした。
しかし、私と節子との時間の進み方はちがっていたのです。
当時、それに気づかなかったのはやはり悔いが残ります。

つまりこういうことです。
時間はそれぞれ人によって進み方が違う。
大切なのは、自分の時間を相手に押し付けるのではなく、相手の時間に沿って自らの時間を生きなければいけないということです。

節子が元気な頃、節子にも話しましたが、脳梗塞の後遺症が残り身体が不自由になった秋山さんが、身体的な障害のある人たちの働く場をつくりたいと相談に来たことがあります。
ささやかにその活動を支援したのですが、ある時にハッと気づきました。
私の時間速度と秋山さんの時間速度が違うことに、です。
秋山さんは私に合わせようとがんばっていたのです。
それからはの時間に合わせるように努力しました。
彼の主催するワークショップにも参加しましたし、彼のオフィスのある館山まで秋山さんに会いに行ったこともあります。
そのたびに、私だけではなく、たぶん世間の時計と秋山さんの時計は違っているので、とても苦労していることが伝わって来ました。
秋山さんは、節子の葬儀にもわざわざ来てくれ、最後までずっと見送ってくれました。
そういえば、最近、連絡がありませ
退院したら連絡してみようと思います。

ここまで書いていたら、突然、明日、手術してくれる高久医師が来てくれました。
何か気になることはありますかと、また訊かれました。
すべてお任せしますと素直に答えました。
節子もそうしていたように。
高久さんは、世界がよく見えるようになりますよ、と笑顔を送ってくれました。
高久さんは徳島大学出身だと病院の掲示板に書いてありました。
先ほどの病院内探索活動で得た情報です。
どなたか知り合いの方はいませんか。

間もなく夕食です。
お腹が減ってきました。
インターネットはできませんが、携帯電話のCメールがいくつか届いていました。
市議会議員からの留守電もありました。
世間ではいつものように時間が進んでいるようです。
今日、湯島でもあるプロジェクトが大きく羽ばたいているはずです。
何か天上界にいるようで、これもまたいいです。
祐滋さんたちがサダコ鶴を持って真珠話に行くそうです。
世界が変わり出すかもしれません。

■挽歌番外編2:入院2日目の朝(2016年12月16日)
今日は手術日です。
朝、6時起床。

となりのベッドの川村さんは、警備のお仕事をされていますが、海沿いの寒いところで仕事をしていたら、急に笛が吹けなくなったのだそうです。
一昨日病院にきたら、即入院。生まれてはじめての入院だそうです。
カーテン越しの会話ですが、いろんな物語が描けます。

前回の入院時もそうでしたが、病院からも社会は見えてきます。
そういえば、前回の入院時に会った、あの若い美容師は元気でしょうか。
私は、一度でも会うと、誰とでもずっと付き合いたくなる性向があるのです。
彼が渡してくれた勤務先にメールしましたが、返信はありませんでした。
どうも私の性向はかなり特殊のようです。

さて今日は、9時に手術室に入り、手術です。
血圧検査にきた若い男性の看護師遠藤さんが、緊張していますかと訊ねてきましたが、手術なので緊張すべきかもしれません。
しかし、どうも実感がない。
と思っていたら、今度は別の看護師が来て、点滴の準備をしてくれました。
手術中は点滴をしているのだそうで、だんだん手術の状況ができてきて、ちょっとずつ緊張感が高まります。
今回は部分麻酔ですので、家族の同伴はやめ、私一人で病室に向かいます。
朝食も終わったので、そろそろ「お迎え」がくる頃です。

これからしばらくは、目が使えなくなるので、書き込みがなくなります。
では新しい 体験の始まりです。

■挽歌番外編3:手術は無事終了(2016年12月16日)
手術室での体験は、面白かったです。
手術台はまさにテレビの世界で、今回は4人のチームでした。
所要時間は1時間半。
後半は麻酔が弱かったのか、かなり痛かったです。

手術中は基本的に目を閉じているので、様子は見えませんが、言葉の端々で進行状況もわかります。
高久さんが話してもいいですよというので、最初の質問が、ずっと気になっていた「バチバチ」という音です。
止血のためのレーザーでした。
あんまり関係ないですが、徳島大学なのに関東風の語調なので、それも質問。
やはり神奈川出身でした。
余計な質問もしました。
医師と看護師のモチベーションみは何ですかという、いささか失礼ながら、ずっと気になっていることです。
少しして、手術が自分の思い通りいった時の満足感ですね、と答えてくれました。
手術後の私の目を見てそう言ってくれましたので、私の手術は成功だったわけです。

さて問題はその後です。
目を覆われたまま車椅子で病室に戻り、ベッドに横になりました。目はアイスノンで冷やしているので、自由に動けません。
夕方になって腰が痛くなり、どうしようもありません。
やっと入院の気分ですが、看護師はみんな忙しそうなので、自分で解決しなければいけません。
ベッドに座って座禅を組むような形でいたら、高久医師が入ってきました。
もちろん見えませんが。
痛みはないかと訊かれましたが、まあほどほどの痛さですので、ないと答えました。
痛みは今がピークだそうです。
ちょっと張り合いがないと思ったのですが、
続けて先生は、笑いながら、これからまぶたがどんどん晴れてくるので、楽しんでください、と言います。
明るくて実にいい。
楽しめるといいのですが。

まあこれだけカジュアルだと、目を使ってもいいでしょう。
というわけで、こっそりとアイパッドを使い出しました。
ただしネットにはつなげられませんが。
でも考えたらほうさくはありそうです。

■挽歌番外編4:入院3日目の憂鬱(2016年12月17日)
暇なので、今朝も書きましょう。
今は入院3日目の朝。
とてもいい天気で、ロビーからは富士山も見えます。

手術してから20時間ほど経過。
痛みも腫れもあまりありません。
張り合いがないのですが、そのせいか、看護師も今やもうあまりやってきません。
それで今はアイスノンがあったかくなったら自分でもらいにいかないといけませんが、逆にいえば、勝手に読書もできるわけです。

昨夜はしかし、腰が痛くて眠れませんでした。
そのためか、今朝の検温では37度の微熱で、腰だけではなく身体全体が不調です。
まさか風邪ではないでしょうね。
困ったものだ。

病院で学べることはたくさんあります。
昨日は「論理の言語(語る言語)と生活の言語(話す言語)」の違いに気づきましたし、「支え合いの文化」はまだまだ根強いことも確認できました。
この2つは、同質の患者さんとその見舞客のやりとりなどからの
看護師は1日2回交代ですが、それぞれ違います。
カウンセリングでかなり状況は変わるだろうななどと思ってしまいます。
システムのすごさも改めて体験しました。
大切なのは、そのシステムに使われることなく、使い込むことでしょうが。
食事は1日1850カロリーの食事ですが、お腹が減ります、
私は基本的に質素な食事をしていますが、それでも2日間の病院食を食べていると贅沢食だと思えてしまいます。
病室は完全に無防備なので、相模原の施設で起こったような事件は防ぎようはないでしょう。
病院でベッドに一人で座っているととても不思議な時間の進みを感じます。
パルミラでは今も戦闘がつづいているのでしょうか。

節子も何回も入院しましたが、どんなことを考えていたのでしょうか。
さて少し休みましょう。

■3393:人生を聴いてもらえることの幸せ(2016年12月17日)
節子
入院生活ももうじき終わりの3日目の夕方です。
今日は土曜日なので、同室のお二人にはいずれも親戚の見舞客がありました。
私は目を冷やしながら横になっているだけなので、話が自然と入ってくる。
もっとも、お一人のほうは地元の方のようで、家族同士の話はどうも方言的でよく聞き取れません。
意味もあまりわからず、雰囲気だけです。
しかも、患者の方は耳が遠く、看護師さんとのやりとりも時々すれ違います。
なんとなく聴いていても、きちんと会話が成り立っていないような気もします。
しかし、3人の会話は言い合いながらも実に楽しそうです。
奥さんが「あんたがいないので喧嘩ができない」と笑いながら話していました。

もう一人のほうは、久しぶりに会った様子の若い人がやってきました。
その2人を相手に昔話や今の話を一気呵成に話していました。
それが実に楽しそうなのです。
ここではあまり紹介できませんが、波乱万丈ともいうべき、ドラマティックな話です。
ちょうど佳境に入った時に、さらにたくさんやってきて病室に収まりきれなくなったため、みんなでロビーのほうにいったため、続きは聞けませんでした。
いささか残念。

後者の人は、いま一人暮らしです。
お話からいまの生活状況が、月収から余暇の使い方までわかりましたが、それはともかく、これまでの人生を話すようすが、となりで聞いていて、手に取るように伝わってくる。
人生を語る相手に久しぶりに会ったような感じです。
一人暮らしだと、なかなかそういう機会はないのでしょう。
人生を共にする相手がいなくなったとしても、人はやはり、人生を聴いてくれる人が必要なのです。
面会から戻った隣人は、とても幸せそうです。
血糖値までいつもより低くなっていました。

ちなみに、私のところには誰もお見舞いはありませんでした。
人生を語る相手もいないまま、入院3日目を過ごしています。
高久医師が先ほどやってきて、順調だと言ってくれました。
本を読んでもいいそうですが、
これからさらに腫れは大きくなるそうです。
冷やすべきか、読書すべきか、それが問題です。

■3393:退院しましたが、正常化はまだ先です(2016年12月18日)
節子
入院生活も終わりました。
たった72時間でしたが、まあいろいろとありました。
朝、高久医師から目の開け方などの指導を受け、いくつかの注意事項を聞いて退院。
ユカに持ってきてもらったサングラスをかけての帰宅でした。
久しくしていなかったサングラスが役に立ちました。

顔の表情は変わりましたが、まぶたが腫れているので、実にこっけいです。
漫画に出てくる登場人物のようです。
節子がいたら、腰を抜かすほど笑ったでしょう。
私の前歯が抜けてしまった時ですら、心配する前に、しゃがみこんで笑いころげていましたが、今回はそれ以上です。
修は目よりも鼻の穴のほうが大きいといつも笑っていましたが、この顔を見たらどう言うでしょうか。
今回は瞼をあげてもらっただけなので、目が大きくなったわけではないのですが、瞼が二重になったのです。
ビフォアとアフターの写真をアップすればわかりますが、鑑賞にたえる顔ではないのでやめます。

それはいいとして、退院したとはいえ、こんな表情では外出もできません。
孫がきてもおそらく怖がって泣き出すでしょう。
それにまだ冷やさなければいけません。
抜糸は一週間後。

これからの人生が楽しみです。
何か変化があることを期待したいです。
ちなみに、読書がしやすくなったという実感はまだありません。
なにしろまだ瞼が熱を持っていて、実に鬱陶しいのです。
年内は自宅待機ですね。
いつもとは違う年末です。
これもまた楽しみですね。

久しぶりに節子にお線香をあげました。
さて今日は何をするか。
先ずは久しぶりに入浴して、たまっていた新聞を読み、それから考えましょう。

■3395:居場所がないのではなく、自分がいないのだ(2016年12月19日)
節子
まあ昨夜から今日にかけて、いろいろとありましたが、ほぼ落ち着きました。
FBではたくさんの人がエールを送ってくれ、大事にしろとか無理をするなと言ってくれますが、まあそれはそれとして、むしろ心にひびくのは、お互いもうぼろぼろだからね、とかもうそろそろ終わりだよ、と言われた方が心にはすとんと来ます。
そう言ってきたのは、小宮山さんと武田さんですが。
まあふたりとも、私と同じでそろそろ終わる仲間ですから、よくわかっている。
身体は朽ちるものであり、死は本人にとっては決して悲しいものではないのです。
節子が、もうそろそろ逝ってもいいかと言っていた言葉の意味が最近ようやく心に落ちてきました。
人は、自らのために生きているのではないのです。

ところで、たぶん今日も、病院では私がいた時と同じような時間が進んでいるのでしょう。
そう思うと、とても不思議な気がします。
人は空間を生きているのではなく、時間を生きているというようなことを、ヴィクトール・フランクは書いていますが、時間と空間は同じものかもしれません。
しかし、いまもあの「病院の時間」は、同じように進んでいて、そこにいる人たちを支えているわけです。
その場所から移れたことを、活かさなければいけません。
それが退院したものの考えることなのでしょう。
人の居場所とは、どこなのか。
これは実に面白いテーマです。
今まで「居場所がない人が多い」と、軽々に考えていましたが、それは間違いだったことに、この数日の体験で気づきました。
「今ここ」が、居場所だと考えれば、居場所のいない人などいない。
問題は「場所」ではない。
やっとそれに気づきました。

なにやら小難しいことを書きましたが、今日は実は何もできずにいろいろと考えていたのです。
退院時にもらった注意書きを忘れていて、今日になって読んだら、入浴はやめろとかいろいろと書いてありました。
昨日は、帰宅後すぐに入浴し、目をつかいすぎてしまい、ちょっと問題を起こしていたので、今日は瞑想の日にしたのです。
その瞑想の結果の気づきが、「居場所がないのではなく、自分がいないのだ」と言うことです。
まだ仮説でしかないのですが。

■3396:幸せな別れ(2016年12月20日)
節子
まだ手術の影響で、目が自由ではありません。
そこで今日は、ユーチューブで、
「生きているということは」と「生きるものの歌」を、
いろんな人の歌で聴いていました。
さだまさしさんのものが、私にはなぜか落ち着きますが、他の人のものも、それぞれに感ずるものがあります。

それぞれの歌詞の最初の部分だけ書きだしてみます。
歌で聴くのと、文字で見るのとでは、また違った感じ方がします。

〔生きているということは〕
生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返していくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かにそうしてもらったように
誰かにそうしてあげよう

〔生きるものの歌〕
あなたが この世に生まれ
あなたが この世を去る
わたしが この世に生まれ
わたしが この世を去る
その時 涙があるか
その時 愛があるか
そこに 幸せな別れが 
あるだろうか

「生きているということは」の歌詞は、私が心がけている生き方です。
できているかどうかはともかく、心がけていることは間違いありません。
こういう生き方をしていると、とても生きやすいのです。
しかし、節子が私にしてくれたことを、私が誰かにしているかと言えば、いささか自信はありません。
相変わらずまだ、節子に目が向きすぎている気がしないでもありません。
今日、この歌を何回も繰り返し聴きながら、それに気づきました。

「生きるものの歌」も繰り返し聴いていて、あることに気づきました。
それは「幸せな別れ」ということです。
節子はおそらく「幸せな別れ」を体験したのではないかと思っています。
「幸せな別れ」には、「愛」と「涙」が必要なように、悲しさや寂しさは不可欠です。
しかし、もっと不可欠なのは、「愛」と「涙」を伴う「別れの相手」です。
「別れ」は一人ではできません。
とすれば、9年前に、私もまた「幸せの別れ」を体験しているわけです。
それがあればこそ、いまがある。
そう考えると、いろんなことの意味合いがまた変わってきます。

この2曲だけを繰り返し2時間も聴いていたせいで、またいろんな気付きがありました。
まだまだ私には世界が見えていないことがよくわかります。

しかし、おかげで目を休めることができました。
もう読書をしても大丈夫でしょう。
入院前に読みだして止まっていた「向う岸からの世界史」を読了しようと思います。
入院中にオルテガの「大衆の反逆」を読んでいて、やはりこの本を読みたくなったのです。
19世紀のヨーロッパのことをもう少し知っておかないと、現在の世界の状況はわからないような気がしてきたのです。

■3397:読み合う関係(2016年12月21日)
節子
目を使わないほうがいいのでしょうが、結局、昨夜も本を読んでしまいました。
入院中に、オルテガの「大衆の反逆」を読み終えていたのですが、昨日は入院前に読みだして止まっていた「向う岸からの世界史」を読みました。
1948年のウィーン革命に関する書ですが、西欧史学の翻訳的な研究ではない、独自の視点からの論考です。
なぜこの本をまた読む気になったかと言えば、それは「大衆の反逆」に19世紀にヨーロッパは変わったというオルテガの指摘に、この本を読もうと思った時のことを思い出したからです。
まあこの辺りは、時評編のテーマです。
しかし、節子は、こうした話し相手にはいつもなってくれました。
ただただ聴く一方でしたが、人は聴いてくれる人があれば話せますし、話していると考えることができます。
いまはそうした相手がいないのがさびしい。
本を読んでいても、考えは動き出しません。

不思議なもので、別に意識したわけではないのに、読んでいる本がつながってくることがあります。
たとえば、机の上に取り残されていた「善い社会」という、20年以上前の本を最初の部分だけ読んだのですが、これもまさにオルテガの問題提起につながっている気がしました。
字が小さく分厚いので躊躇はありますが、今日から読みだすつもりです。

短い期間でしたが、世間と遮断され病院にいたおかげで、生き方を少しだけ相対化することができました。
最近の私に欠けていたのは、もしかしたら、自らを相対化するための時間だったのかもしれません。
本を読むことは、自分を相対化する機会を与えてくれますが、自分に都合のいいように読み解いてしまうことも可能です。
その時、思ってもいない視点からの問いを出してくれる人がいないと思考は広がりません。

節子との会話は、いまとなって思えば、とても創造的でした。
いつも、私の独りよがりの世界を相対化してくれました。
節子はウィーン革命などは知らなかったでしょう。
本もあまり読まない人でした。
しかし、節子の病気が再発し、ほぼ寝たきりになった時、私が隣で、ネグリを読んでいるのを咎めたりはしませんでした。
節子は、私が本を読み、自然を読み、寺社を読むのとは違う形で、世界を読んでいたのです。
私を読んでいたのかもしれません。
私もまた、節子を読んでいた。

そんなことをお互いに意識したことのないまま、その関係は終わりました。
読み合う関係だった節子はいなくなってしまった。
大切なことは、往々にして、なくなってから気づくものです。
でも、だからといって、遅すぎたわけではありません。
その価値に気づくことができれば、世界は変わります。
そして、気づいた価値は、消えることはない。

今日は、節子の位牌の横で本を読もうと思います。
もっとも天気がとてもいいので、庭の掃除をしだしてしまうかもしれません。
節子がいたら、必ずそうするでしょう。
節子的に過ごすか、私的に過ごすか、まあ成り行きに委ねましょう。

久しぶりに、ベランダに布団を干しました。
入院したということが伝わったおかげか、電話もあまりなくなりましたし、メールも少ないです。
ニュースも最近はあまり見ていませんし、世間から離れていると、太陽の陽を素直に受けられます。

■3398:外見が10歳ほど若返ったそうです(2016年12月22日)
節子
今日は手術後の抜糸のため、病院に行きました。
高久医師も満足する結果になったようで、良かったです。
10歳は若くなったと高久さんも看護師も言っていましたが、どうも顔の雰囲気は変わっているようです。
娘たちも別人のような感じだと言っています。
節子が見たら、たぶん大笑いするでしょうが。
しかし、私が鏡で見る限り、あんまり変わり映えはしないのですが。

いろいろな障害は次第におさまっていくようです。
視界は開け、世界は明るくなったはずですが、なにしろこの数日、コンタクトをしていないので、むしろ世界はもうろうとしています。
今日も医師から、当分はメガネを使ってくださいと言われましたが、メガネは持っていないのです。
メガネを持っていないと返事をしたら、医師も驚いていました。
友人は、メガネなんか安いから買ったらと言いますが、安いから買うという発想は、私の信条には合いません。
それに私の収入状況では、安いものなどひとつもないのです。
もうしばらくこのまま、もうろうとした世界で過ごそうと思います。
それもまた面白い。

退院後、すぐ入浴したのはやはりよくなかったようですが、
結果的にはまあ順調に回復です。
なぶたの腫れは1か月ほどはつづくだろうと言われました。

抜糸は、あっけないほどあっけなく、しかも治療費は80円でした。
入院費用も予想以上に安く、間違っていないですかと訊いたほどです。
日本の医療費はやはり安いですが、そのおかげで私のような低所得者も心配なく病院に行けるわけです。
もっともその細目を見たら、ちょっと問題を感ずることもありました。
たぶん医療費体系に産業界の影響が働いているのでしょう。
しかし、汗している医師や看護師がきちんと報われるようにしなければ、医療体系は崩れていくのではないかと心配です。
まあそういうことを考えるのが、私の「悪い癖」なのですが、これでとりあえず手術は完了です。

さて、10歳ほど若返った顔のお披露目をしなければいけません。
みんなに、ビフォアとアフターの評価投票をしてもらおうかと考えましたが、
娘に話したら、相手にもされませんでしたので、やめることにしました。
それは良いとして、いまも鏡を見たのですが、どうしてみんな「別人」になったようだとか、「若返った」とかいうのでしょうか。
私にはどう考えても、そうは見えないのです。

人は、世界を自分の意識で創りだしています。
いまの私の視力は、たぶん0.1くらいで、しかも乱視がかなり強いので、世界はもう極めて粗雑にしか見えません。
その粗雑な低画素映像を、脳が編集し、高画質の世界にしてくれているわけです。
私は長いこと、多くの人よりも低画質な映像素材をもとに編集してきたおかげで、普通の人よりも編集能力が高くなったと考えるのはどうでしょうか。
そのおかげで、逆に普通の人には見えない世界まで見えていた。
そう考えることにしました。

今日も、鈴木さんから「第3の眼が開いた佐藤さんとお話しするのが楽しみです」とハガキが来ました。
残念ながら、今回の手術で、むしろ「第3の眼」は退化し、ますます凡庸になってしまうかもしれません。
それもまた、幸せなのかもしれません。
見えないほうが幸せであることも多いです。
最近の世界は、まさにそんな感じがします。

■3399:何もない10回目のクリスマスイブ(2016年12月24日)
節子
相変わらず世間との没交渉の毎日が続いています。
電話やメールは毎日あるのですが、人に会うことはありません。
こうした生き方に慣れてしまうと、もう抜け出せなくなるのかもしれません。
困ったものです。

娘たちが近くのショッピングモールに出かけると言うので、私も同行することにしました。
病院以外の遠出は初めてです。
なにしろ相変わらずコンタクトレンズをしていないので、世界はいまなおぼやけています。
しかし、考えてみれば、これを常態と考えれば、何の不便もないはずです。
人はなんとぜいたくなことか。
与えられた条件の中で生きていくことを思い出さないといけません。
同時に、いかに私自身がさまざまなものに支えられて生きているかを知るチャンスです。

ついでに食事もすることにしました。
世間はクリスマスや忘年会の季節ですが、そうしたことは無縁になってから、もう10年も経ちます。
そういえば、今年は節子がいなくなってから10回目のクリスマスイブです。
言い換えれば、何もない10回目のクリスマスイブです。

たぶん今日の夕食も、わが家にはケーキはないでしょう。
娘が、数日前から玄関に木製のトナカイとソリの置物を置いていますが、なぜか今年は、いつもそこに乗っているサンタクロースがいません。
娘になぜか質問はしていませんが、まあ娘もそんな気分なのでしょうか。

とてもよく晴れたあったかな日です。
いささか内向きになっている気分が、変わるといいのですが。

■3400:Bei-Sein(2016年12月24日)
節子
昨日のクリスマスは、サプライズがありました。
思いもしないプレゼントを娘からもらいました。
ちょっと人並みのクリスマスでした。
私は、プレゼントが苦手なのですが、節子とユカはプレゼント、それもサプライズなプレゼントの文化を持っています。

アウシュビッツ収容所を生き抜いた心理学者のフロイトの「夜と霧」にでてくる有名な話があります。
冬の朝、冷たい風の中を工事現場へと行進させられながら、フランクルは別れ離れに収容された妻の面影に出会い対話するのです。
臨床心理士の諸富祥彦さんは、著書に中で、「あのとき、フランクルは、妻ティリーの「もとに、実際にいた」のだと思う」と書いています。
実は、その時、すでにティリーは別の収容所で亡くなっていたのです。

フランクルの前にティリーが現れたのではありません。
フランクルが、ティリーのもとにいたのだ、というのです。
認識する者自身が現に他の存在者のもとにあるという実存的認識。
そうした人間精神の「志向性」を、フランクルは、Bei-Sein(バイ-ザイン)と表現しています。
「…のもとにある」ということです。
フランクルは、わかれた妻のもとにいる、ということでしょうか。

フランクルは、人生の意味に関して、立脚点の反転をすることで有名ですが、ここでも同じような立脚点の反転があります。
愛する人を身近に感ずるのではありません。
自らが、愛する人のもとにある。
あるいは「神のもとにある」。
神のもとにあることで、人はどんな場合にも心の平安を得られるわけです。

フランクルが生き抜いたのは、数々の奇跡的な幸運に恵まれたからですが、
その幸運を呼び寄せたのは、フランクルの心の平安に由来する楽観思想だったのではないかと思います。
フランクルは、生き抜くべく生き抜いたのです。

昨夜、深夜の3時過ぎに目が覚めました。
真夜中に目が覚めることは、よくあるのですが、その時、いつも節子の気配を感じます。
時に、そこで呼び起されることがある。
昨夜も眠れなくなってしまいました。
その時、ふと頭に浮かんだのが、フランクルのBei-Seinという言葉でした。

この数日、なんとなく節子のもとにいる自分を感じます。
まるで彼岸にいるような日々でした。
さて、そろそろ此岸に戻りましょう。
ユカからのプレゼントが、その気にさせてくれました。

明日から、俗事を再開します。

■3401:不思議な10日間でした(2016年12月25日)
節子
今日から俗事再開と書きましたが、今日もまだ復帰できませんでした。
何もしないことへの誘惑に勝てなくなってきてしまいました。
それにしても、ほとんど誰にも会わず、不思議な10日間を過ごしていました。
やるべきことはあったのですが、それもすべて放置し、ただただ気の向くままに過ごしていました。
その間、実は悲しい事件も起こりましたし、誘いも受けましたが、それも流しながら、いわば「瞑想生活」のような毎日でした。
いろいろと思うこともあり、いろいろと見えてきたこともあります。
目が不自由だったのですが、何冊かの本も読みました。
考えるきっかけになった本の一つが、ロバート・ベラーの「善い社会」です。
30年ほど前に出版された本ですが、初めて読みました。
そこで驚いたのですが、私の生き方へのエールのような内容だったのです。
節子がいなくなってから、私は自分の生き方にしばしば迷うことがありますが、何かすごく元気づけられました。
そうした視点で少し自分に確信が持てると、他の本もまた、私を元気づけてくれます。

それにしても在宅でありながら、つまり特に拘束されていたわけでもないのに、これほど世間と没交渉であったことはめずらしいです。
しかも極めて怠惰に、です。
以前なら、こんなに私的に、つまり他者への配慮を全くせずに過ごしていると、罪悪感が芽生えるのですが、今回はあまりそれが浮かんできませんでした。
まぶたの手術で顔の表情が変わったから性格も変わったわけではないでしょうが、私にとってはめずらしい10日間でした。

明日からは現世復帰です。
いまのペースがまた崩れないといいのですが。

■3402:「あんまり変わっていませんよ」(2016年12月26日)
節子
手術後、はじめて友人に会いました。
はじめて会った人は、節子もよく知っている田中さんです。
彼女も、この2年、大変なことがつづいて起こっていたのですが、久しぶりに会った田中さんはとても元気そうで、たくましくなっていました。
はじめて会った時の田中さんは、まだ30代にはいったところで、ちょっととんがっていました。
バレーをしていたりして、節子と一緒に発表会に招待されたこともあります。
私には退屈でしたが。
その田中さんも、もう50代後半。
とてもいい歳の取り方をしているのは、苦労のおかげかもしれません。
それにしても、長い付き合いになりました。

田中さんは私と違って、かなり表舞台を歩いてきていますが、決して時流には流されないので、私との交流も切れずに来ているのです。
時々、湯島にやって来てくれて、いろんな話をしてくれます。
困ったときの湯島族ではないのです。
彼女は多彩な活動をしていますが、いずれも私には縁遠い世界です。
しかし、私のように社会から脱落した生き方をしているものの話も、素直に聞いてくれるのです。

考えてみると、彼女もまた私の生き方に大きな影響を与えた一人です。
田中さんのおかげで、保育園に関わることになりましたし、NPOに関わることになりました。
彼女のおかげで知り合った人も少なくありません。
田中さんと話していると、いろんなことを思い出します。
もう亡くなった人もいます。

田中さんは、別人になったとも言われている私の顔を見て、あんまり変わっていないですよ、と言いました。
むしろ今日は、彼女のほうが、私には別人に見えました。
なぜでしょうか。
彼女の5年後が、なんとなく見えた気もします。
もう大丈夫でしょう。
その頃はもしかしたら、もう私はいないでしょうが。

自分よりも若い友人がいることの幸せを感じます。
みんなどんどん大きくなっていく。
私のように、歳を取るのを忘れがちな者にとっては、それはとてもうれしいことです。
ささやかとはいえ、少しは私も役に立っているかもしれないと思えるからです。

■3403:にこを抱く?(2016年12月27日)
節子
昨日もジュン親子がやってきました。
孫の「にこ」も少しずつ立ち上がろうとするところまでに来ました。

ところで、娘は来るたびに私に、にこを抱く?と訊きます。
いつも訊くのですが、抱きたければ抱くだけのことであって、なんでいつも訊くのかがよくわかりませんでした。
しかし、実はこれは娘にとっては大きな意味があるのかもしれません。

娘は、節子に孫を抱かせてやれなかったのを、とても悔やんでいました。
娘が本気で結婚する気になったのは、節子の発病後かもしれません。
娘は、本当は私にではなく、母親の節子に、孫を抱かせてやりたいと思っているのです。
その気持ちは、なんとなく感じてはいるのですが、どう表現していいかよくわかりません。

孫を見ていると、節子がいたらなあ、と思うことはよくあります。
おばあちゃんのいない孫の不憫さも感じないわけではありません。

私が抱くと、時に泣きだしていた孫も、最近は笑うようになりました。
節子の分まで、抱かないといけません。

■3404:手づくりの鏡餅(2016年12月29日)
節子
娘が正月の花を買いに行くと言うので、私も付き合いました。
ついつい昔のことを思い出したからです。
節子がいた頃は、それこそ30分くらいかかって花を選ぶのに毎年付き合っていましたから。
両親と同居していた頃は、正月の料理も大変で、これも家族みんなで買い出しに行っていたことを思います。
しかし、そんな賑やかなお正月も、いまではもう昔のことです。

わが家の花も、年々小さくなってきました。
今年は、セットされている花でもいいのではないかと娘は言っていましたが、経費節減もあって、そうなりました。
どうせ経費節減するのであれば、鏡餅も自分で作ろうと思いつきました。
と言っても、自分で餅つきまではできませんが、幸いにつきたてお餅が届いたのです。
それをレンジでやわらかくして、つくろうと思ったのです。
今朝、また東尋坊から恒例の「わたしの気餅」が届きました。
東尋坊で活動している、茂さんと川越さんからの、うれしいお餅です。
節子と一緒に、東尋坊の茂さんたちのお店でいただいたこともあります。
考えてみれば、それが節子がいなくなってからの私の生き方を方向づけてくれました。

茂さんからのお餅に、「まる餅」も入っていたので、それも使うことにしました。
上に乗せるのは、わが家の畑になっているゆずを使うことにしました。
私は極めて不器用なので、こういうのは苦手なのですが、まあなんとか形になりました。
それにしても出来が悪い。
まあそれもまたいいでしょう。

さて来年は、しめ飾りにも挑戦しようかと思い、玄関に飾られているしめ飾りを見たら、これはかなり難しそうです。
でも来年は、少しずつお金に依存しない生き方をもう一歩進められればと思います。

節子がいたら、もっとうまくこうした生き方に移っていたはずですが、私だけではなかなかうまくいきません。
まあゆっくりと進めましょう。
もう少し現世に留まることにしましたので。

■3405:メガネを作りました(2016年12月29日)
節子
まぶたの手術をした後、コンタクトレンズが外しにくくなったので、腫れが引くまで、メガネを使うことにしました。
節子と違ってメガネは使っていなかったのですが、友人たちからはメガネをつくればいいと言われていました。
でも面倒なので作らないと言い張っていましたが、やはり不便さに負けて作ることにしました。
すぐつくってくれるところがあると言われて、近くのお店に行ったら、本当にすぐできました。
まあ見えればいいと思って、これまた節約して5000円のものにしました。
ところが、受け取ってはめてみたら、コンタクトレンズとはまったく見え方が違うのです。
視力検査では、コンタクトレンズほどは出ていなかったのですが、何かとてもよく見えるのですが、どうも違和感があるのです。
よく見えるようになればいいというものでもないようです。
それにやはりメガネは私には向いていないようです。
でも次に病院に行くまでは、これを使うことにしました。
娘がケアしてくれましたが、私一人だったら、たぶんメガネは作らなかったでしょう。
節子に依存しすぎていたので、その習性はなかなか抜けないのです。
私はやはり、一人では生きていけないタイプかも知れません。

ところで昨日、湯島で最後のオープンサロンを開きました。
時評編で書きましたが、とてもうれしいメンバーが来てくれました。
残念ながら、節子が知っている人は一人もいませんでした。
こうやって私の生活も少しずつ変わってきているのでしょう。

今年もあと2日。
なにやら積み残したことが山のようにあるような気がしますが、まあそれもまたいいでしょう。
どうせ、いつか、山のような積み残しを置いたまま、現世からいなくなるのですから、年を越すくらいなんだという気になっています。
どうせなら残る2日も、何もせずに過ごすのがいいかもしれません。
それにしても、毎年、年末は節子は大忙しでした。
節子に限らず、私の母親も、忙しそうで、紅白歌合戦など見ているまもなく、何か料理をしていました。
しかし、最近のわが家は、娘との2人暮らしなので、料理もだんだん既成のものになってきています。
しかも娘も私も実に質素なので、年々、簡素化してきています。
そんなわけで、正月気分も出てきませんが、まもなく節子のいない10回目のお正月なのです。

親がなくとも子は育つと言いますが、
妻がなくとも生きながらえる夫もいるのです。
まさか私自身がそうだとは思ってもいませんでしたが。

■3406:仏壇の掃除(2016年12月30日)
節子
気分転換で娘と一緒に大掃除、まではいきませんでしたが、中掃除をしました。
私はあんまり力をかけずに済む、仏壇の掃除を担当しました。
整理していたら、父の三回忌の時の写真が出てきました。
それと、野路さんの写真も出てきました。
今までも毎年掃除をしているのですが、気が付きませんでした。

野路さんは、節子の友人です。
節子よりも先に胃がんが発見されましたが、全治しました。
まさかその数年後に節子が同じ、胃がんを宣告されるとは思わなかったでしょう。
野路さんの頑張る姿勢が、節子にも大きな勇気を与えていました。
いつも野路さんが、目標でした。
野路さんは、いまも元気です。

父が亡くなったのはもうかなり前ですが、その三回忌にお墓の前で親戚一同が写真を撮っていました。
いまは法事と言っても、なかなかこんなには人が集まらなくなりましたが、懐かしい顔がたくさんありました。
元気そうな節子も写っていました。
たぶんこの時の法事は、節子が中心で頑張ってくれたはずです。
写真に写っている人たちの半分以上は、もう亡くなってしまいました。

わが家の仏壇は、とても小さく、すべてがミニサイズです。
しかしその空間に、大日如来も月光菩薩も、弘法大師も地蔵菩薩も、鎮座しています。
わけのわからない3人組も節子の遺骨を守っています。
私は毎朝、灯明と線香をあげて、般若心経を唱えています。
まあ時々は、省略版般若心経ですが。

仏壇だけではいかにもなので、娘と一緒にリビングとダイニングとキチンを掃除しました。
掃除もそれはそれで面白いのですが、あんまり頑張ると疲れるので、まあほどほどにしました。
以前は掃除だけで数日かかっていましたが、いまは大幅に手抜きです。
節子が知ったら嘆くでしょうが、まあ許してくれるでしょう。

掃除をしていたらお腹が空いてきて、昼食はお餅にしました。
磯辺巻ですが、それを食べて、掃除をつづけようとしたら、なんだか休み時間のないブラック企業のような気がしてきました。
それで掃除は終わることになってしまいました。

実はトイレ掃除は私の担当なのですが、ついつい延ばし延ばしになっていて、今日までやっていなかったのですが、延ばしついでに明日にまた延ばしてしまいました。
困ったものです。

夕方ちょっと元気が出てきたので、机のまわりを片づけました。
片づきましたが、どうもまだ年末の気がしてきません。
歳を取るとこんなものなのでしょうか。
以前は新年を迎えるための年末は、とてもワクワクするような高揚感があったものですが。

■3407:大晦日とは思えない大晦日(2016年12月31日)
節子
節子のいない10回目の大みそかも、何事もなく終わろうとしています。
今日は、ジュン家族がやって来て、みんなで会食した後、お墓の掃除に行きました。
その後、ユカががんばってお煮しめや酢の物をつくっていますが、今年はイカが全くないそうです。
今年はいささか節約してしまい、メインディッシュがないので、地味な料理になります。
わが家の場合、節子以外は、あんまりそういうことには頑張らないのです。
節子がいない年末と正月も、もう慣れてきましたが、やはりちょっと寂しさはあります。
ちょっとハレの日気分になったものですが、最近はそういう気分はあまり出てきません。
除夜の鐘もつきに行きませんし、いつもと同じような夜です。

この挽歌も、何かいつもと違うようなことを書きたかったのですが、今年はあまり気分が出てきません。
それでも今年は、実にいろんなことがありました。
最大のニュースは孫の誕生でしょう。
ようやく家族が一人増えました。
とても元気で、よく笑ってくれます。
今日もお墓に一緒に行ったので、節子も両親も会えたでしょう。

今年は、いろいろとありすぎて、疲れてしまいましたが、それにふさわしい、何事もない、怠惰な大晦日ももうすぐ終わりです。
明日は初日が見えそうです。
今年は除夜の鐘もきかずに、もう寝ましょう。

今年もお付き合いいただきありがとうございました。

■3408:今年も穏やかな年明けでした(2017年1月1日)
節子
節子がいた頃と同じように、屋上で初日の出を拝みました。

初日の出の光を浴びると、心がとてもあったかくなります。
再発した後の年も、節子と一緒に拝んだ初日の出です。
いまかいまかと待っていたことを思い出します。

節子のいないお正月も10回目になりました。
今年は久しぶりに家族も一人増えました。
ユカががんばって、おせちなどを作りましたが、とてもいい出来でした。
節子の残した文化も少し感じながら、感謝しながらおせちをいただきました。
10年目でようやくみんな少し落ち着いてきたのかもしれません。
いや、私だけがそう感じるのかもしれませんが。

みんなで子の神様に初詣に行きました。
例年よりも人手が少なかったのが気になりましたが、穏やかな年明けです。
富士山も見えました。

年賀状も届きましたが、
私あてになっていますが、節子宛てと考えたほうがよさそうな年賀状もいくつかあります。
友澤さんご夫妻はお元気そうですし、節子の友人たちも元気そうです。
私は、節子を見送って以来、年賀状を出すのは一切やめています。
それでも毎年年賀状をもらいます。
節子は年賀状が好きで、いつも心を込めて書いていました。
その姿を今でも思い出します。

今日は、ほとんどの時間をリビングで過ごしました。
いつもなら、どこかに出かけたくなるのですが、今年はそういう気さえ起きませんでした。
パソコンも、朝、ホームページを更新した以外は、開くこともありませんでした。
こんな元日は初めてかもしれません。

明日からは、少ししゃんとしようと思いますが、
それはそれとして、心煩わすことの全くない、実に平安な1日でした。
節子に感謝しなければいけません。

■3409:怠惰の蜜(2017年1月2日)
節子
今日もまた「シャン」とせずに、ダラダラ過ごしてしまいました。
実はお年始に行く予定だったのですが、箱根駅伝を見ているうちにタイミングを失してしまいました。
一度、何もしない怠惰の蜜を知ってしまうと、もう立ち直れません。
困ったものです。

しかし、それではいけないと思い、昨日届いた年賀状を読みました。
人生にはいろいろあります。
実にいろいろとある。
そしてパソコンに向かってフェイスブックを開いたのですが、そこにいろんな人の年始メッセージがあるのに気づきました。
それをさかのぼって読んでいたら、1時間以上時間がたってしまいました。
しかしまだ見落としがありそうです。
いささか疲れてしまい、あきらめました。
どうもフェイスブックの表示ルールがわかりません。

昨年から始まった「祈り鶴プロジェクト」は半月、目の手術で外れてしまっているうちに、大きく動きだして、もはやついていけなくなってしまいました。
テレビなどでも報道されだしていますが、フェイスブックでたくさんのメッセージが届いていました。
いまさらあまり議論に入れないので、今度実際にメンバーに会うまでは読むだけにしようと思います。
これもまた、怠惰の蜜。

フェイスブックが中心になったのか、メールでの年賀メッセージはあまり届いていませんでした。
時代の変化は実に早い。
年賀メールを始めたのは、私はかなり早いころでしたが、いまやもう時代についていけなくなっているようです。

年が明けての一番早い相談は、意外なことに節子も知っている大川さんからです。
これもフェイスブックで送られてきました。
かなり具体的な相談なので、4日に会うことにしました。
怠惰に陥ると、こうした誰かが引っ張り出してくれる。
それを喜ぶか嘆くかは、迷うところです。

明日は年始訪問に行きましょう。
今年は来客はないでしょうから。
それに来客があっても、接待する料理がもうありませんし。

実に何もない三が日。
こうして没世間でいると世界はとても平和なような気がしてきます。

怠惰に生きることもまた、豊かな人生かもしれません。
ただ私にはたぶん、できない生き方でしょうが。

■3410:最後までだらだらに終わってしまいました(2017年1月3日)
節子
今日は兄の家にある両親の仏壇に挨拶に行きました。
以前は、お正月には必ず行っていたのですが、それぞれの子どもたちも大きくなるとリズムも変わってきて、このところあいさつ程度に終わっています。
今年は、娘も付き合ってくれたのですが、ちょうどお昼時になったので、みんなで食事に行こうということになってしまいました。
兄夫婦はもう80代ですが、ふたりとも元気です。
今日は誰も来客がなく、たぶん退屈していたのでしょう。
久しぶりに会食しました。

兄と私は、会うと必ず論争になるのですが、最近はお互いに歳のせいか、論争を避けるようになってきています。
お互いなにがあってもおかしくない歳ですから、悔いのないようにしなければいけません。
言い争った翌日、どちらかが急死したら、おそらく後悔するでしょう。
まあそんな歳になってしまったということです。
節子がいなくなってから、兄夫婦とこうして食事を一緒にするのは、法事のほかは初めてかもしれません。

そんなわけで、今日もまたあんまり「しゃん」とできずに、ダラダラ過ごしてしまいました。
食事にまで娘を付き合わせてしまったので、娘の午後の予定はだめになってしまいました。
兄夫婦はいつも会うたびに、私が何とか生き延びたのは、娘のユカのおかげだと言います。
たしかにそうかもしれません。
娘たちには感謝していますが、しかしこうも言えるのです。
もし娘たちがいなかったら、私も彼岸に行けたであろうにと。

これで三が日も終わります。
明日からはほんとうに「しゃん」としないと、新しい年がはじまりません。

節子がいない三が日は、いつも正直、とてもさびしい三が日です。

■3411:今年最初のサロン(2017年1月4日)
節子
今日は最初のサロンでした。
いつもながら不思議なメンバーです。
節子の知らない人のほうが最近は多くなってきましたが、今日は節子の知っている昔の常連の人も来てくれました。
30年以上の付き合いだと、私のすべてをもう知っているでしょう。
そうした旧友と会うと、なんだかとてもホッとします。

昨年は1月3日にサロンをしましたが、湯島天神はすごい人出でした。
しかし今年は1日違いなのに、行列もできていませんでした。
例年よりも湯島天神は静かでした。
神田明神は相変わらずだったようです。
世相の流れが変わったのかもしれません。

昨日までは静かな毎日でしたが、今日は早速にいろんな人から電話もありました。
みんなそれぞれの年末年始を過ごしたようです。
良いこともあれば悪いこともある。
それを素直に受け入れられる歳になってきました。

今日はうれしい年賀状も届きました。
節子が生きるか死ぬかという状況の時に、死にたいと言ってきた人からのものです。
いまは元気でやっているそうです。
わずかばかりのお金を貸していたのですが、今年こそそれを返したいと書いてありました。
お金を返してもらうよりも、その気持ちのほうが嬉しいです。
自死したいと思うほどに追い込まれた人は、みんなやさしくなるのです。

父親を亡くして心に穴が開いてしまったというメールも届きました。
彼が大学院生の頃に会ったのですが、もう10年は会っていません。
にもかかわらず会いたいと言って来てくれます。
うれしいことです。
彼も看病のために苦労したようです。
若い時に苦労した人もまた、みんなやさしくなります。

こうして今年もまた、世間とのかかわりを始めました。
改めてみんなやさしい人ばかりだと思います。
厭世観など忘れなければいけません。

■3412:至福の世界(2017年1月5日)
節子
久しぶりに彼岸につながるような夢を見ました。
節子がいなくなってから、時々、見る夢です。
なにやらとてもあったかいものに包まれて、この上ない至福の気持ちが、目が覚めてからも残る夢です。
節子が出てくるわけではありませんが、まちがいなく節子の雰囲気が残る夢です。
至福の気持ちは、目が覚めてもしばらくは残りますし、思い出してもなんだか心身があったかくなるような気がします。
特に「物語」があるわけではないので、内容を具体的に説明できないのですが、ともかく至福とはこういうことかと思えるような大きな光に包まれると言った感じです。
時には、何かに抱かれているという感じが残ることもあります。
しかし残念ながら、それはそう長く続くわけではありません。
しかもさらに進めば、もっと大きな幸せに包まれる気がしますが、そこに行く一歩前でいつも目が覚めます。
もしかしたら、死とは、そういうものかもしれないと、その夢を見るたびに思います。
もしかしたら、節子はそれを体験したのかもしれません。
至福の気持ちの先に、至福の世界がある。
私にはまだ、至福の世界は先のことなのかもしれません。

最近よく夢を見ます。
忘れてしまっていたような、思いもしない旧友が出てくることが多くなりました。
目が覚めると何を会話したかが思い出せませんが、旧友との出会いの感覚だけは強く残ります。

不思議なのは、夢で初めて会う人もいます。
どう考えても会ったこともない人が、夢の中では主役をつとめていることもあります。
有名人などでは全くなく、私がまったく知らない人です。
映画などでは、夢であった人に、その後、現実で会うということがありますが、私の場合はまだそうした経験はありません。
現世で会えないでいる人に、もしかしたら夢で会っているのかもしれません。
夢は実に不思議な世界です。

至福の彼岸と違って、現世には悩ましい問題が多いです。
夢であれば、どんな悩ましい問題も、目を覚ませば白紙にできますが、現世ではそうはいきません。
眠って起きても、消えていないのです。

今日からいろいろと活動を始めましたが、悩ましい問題ばかりで、せっかくの至福の余韻も、消えそうです。
でもまあ、至福の余韻に支えられながら、豊かな判断をしていこうと思います。
そのためにも、今年は、改めて「寛容」な生き方を意識したいと思います。
「寛容さ」を最近少し忘れ気味でした。
昨夜の夢は、それを思い出させるためだったのかもしれません。

■3413:気にかけてもらうことの幸せ(2017年1月6日)
節子
今日はようやくがんばりました。
午前6時からずっとパソコンに張り付いていました。
山のように課題がたまっていました。
困ったものです。
年賀状のお返しどころではありません。
もう少し不義理が続きそうです。
もし該当者がいたらお許しください。

と言いながら、実は、テレビで放映された映画「オッデセイ」を見てしまいました。
ちょっと気分転換にと、3時のおやつの後にちらっと見ようと思ったのですが、なんと2時間半の大作で、結局最後まで見てしまいました。
ご覧になった人もいるでしょうが、火星に取り残された宇宙飛行士が奇跡的に生還するというSF映画です。
主役はマット・デイモン。
http://www.foxmovies-jp.com/odyssey/

奇跡の生還というと何やら感動ものですが、実にコミカルな軽い映画です。
専門用語も多いので、私にはあんまり理解できませんでしたが、なんとなくは伝わってきました。
あんまりリアリティはなかったですが、途中でやめる気にはならなかった程度に面白かったです。
ただし、節子向きの映画ではありません。

火星に取り残された主人公は、普通であれば絶望して自暴自棄になるでしょうが、彼は決してあきらめません。
そのうちに、地球の人たちに自分の生存が知られていることがわかります。
そして交信ができるようになる。
そうなれば、もう生きつづけられます。

今日も、テレビのニュースで、自分の存在を知ってもらいたくて、過激な映像をネットに流して逮捕された人が報道されていました。
人はどうして、自らの存在を他者に知ってもらいたいのでしょうか。
たぶんそうした事件を起こす人には、仲間や友達がいないのでしょう。
仲間や友達は、一人でもいればもう十分です。
一人の、心を許す人がいれば、人は必ず生きつづけられます。
心を許す人でなくても、誰かが私を気にかけていると思えれば、生きつづけられるでしょう。

しかし、あまりに気にかけられすぎると、いわゆるストーカー事件になってしまいます。
フランスではそれがまた殺人にまで行ってしまいました。
ただ、ストーカーの場合は、気にかけるのではなく、気にかけてほしいと相手に強要することですから、意味合いは全く違います。
むしろストーカーになる人は、相手のことを一切気にかけなくなるのでしょう。

この半月、怠惰に過ごしていましたが、いろんな人のことを思い出していました。
思い出しただけでは、その人には何も伝わらないかもしれませんが、もしかしたら伝わっているかもしれません。
なぜかそんな気もします。
そして同時に、私もいろんな人から時々でしょうが、思いをはせてもらっているのかもしれないという気がしています。
今日も何枚かの年賀状が届きました。
同じ地球上なので、火星にいるよりも、その思いは強く感じます。
「オデッセイ」を見た後、急にまた人恋しくなってしまいました。
パソコンよりもやはり肉声がいいですね。

明日はまた今年2回目のオープンカフェです。
どんな人に会えるでしょうか。

さてもう少しパソコン作業をしないといけません。
怠惰な暮らしは、やはりしてはいけません。
苦の後の楽は最高の幸せですが、楽の後の苦は、それはそれは苦痛です。
人生、地道に生きなければいけません。

■3414:すぐに忘れることの良さ(2017年1月8日)
節子
また昨日は挽歌をさぼってしまいました。
今年こそ毎日サボらずに書こうと思っていましたが、1週間ももちませんでした。

昨日は朝と午後、2つの集まりをやっていました。
以前は1日に4回くらいの全く別のミーティングをやっても、大丈夫でしたが、最近は2つもやるといささか疲れて、帰宅するとパソコンに向かう気が出てきません。
困ったものです。

昨日の午後のサロンには、10年ぶりで参加した人が2人います。
私は、基本的に「去る者は追わず、来るものは拒まず」ですので、こうしたことが起きるわけです。
そういえば、前回のサロンで、どんなに激しい言い合いがあっても私はすぐに忘れてしまうと言うような話になりました。
そんなこともないのですが、長い付き合いの、節子もよく知っている小林さんが、だからこのサロンが続けられているんですよ、と言いました。
そうかもしれません。
しかし、それは寛容とかさっぱりした性格ということではなく、たぶん私の生き方なのでしょう。
どんなものにも、良い面も悪い面もあり、そうであればその「良い」面だけを見るようにしようというのが、私の生き方です。
節子もそれを知っていますが、しかしだからと言って、悪い面が気にならないわけではないのです。
時にふと、その悪い面を思い出してしまうのですが、しかし、これまでの私の経験では、ほぼ例外なく、良い面のほうが大きいのです。
だから私は、誰でもが大好きなのです。
それに、嫌いと好きは、同じようなことですから。

ただ苦手な人はいます。
しかし、そういう人は、湯島には来なくなるので大丈夫なのです。

それにしても、何の効用もないだろう雑談だけのサロンに、毎回、いろんな人が来てくれる。
これは感謝しなければいけません。
昨日も、なぜか毎年1度は必ずやって来てくれる鷹取さんが来てくれました。
海外出張が多く、あまり日本にはいないでしょうに、なんで来てくれるのでしょう。
実に不思議です。
いつかみなさんにお返しができるといいのですが。

■3415:人生の選択肢はたくさんある(2017年1月9日)
節子
この2日間、とても寒い日が続いています。
パソコンのある私の仕事部屋はエアコンがないので、寒くて仕事もできません。
先日のフォーラムの記録をまとめないといけないのですが、そんなわけでまたサボってしまいました。
困ったものです。
途中武田さんから電話がかかってきて、寒くて仕事ができないと言ったら、お金を払えなくて電気を切られたのかといわれました。
失礼な!そんなはずはないだろうといったら、いやいや十分に可能性があるというのです。
私がよほど貧しいと思っているようです。
本当に困ったものです。
もっとも今日のお昼は、即席ラーメンでしたから、わが家の家計もかなり大変なのかもしれません。
しかし、私はお金で困ったことはこれまで一度もないのです。
それにお金が必要なほど貧しい生き方をしていないのです。
私は実に幸運に恵まれているのです。
幸運に恵まれた豊かな生き方をしていると、お金などあんまり必要ないのです。

幸運といえば、アウシュビッツを生き延びたフランクルはこの上なく、幸運の人です。
以前書いたことがあるかもしれませんが、フランクルは信じられないほどの幸運の重なりであの過酷な状況を生き延びたのです。
しかし考え方を変えてみれば、生き延びることが果たして幸運なのかどうかはわかりません。
大切なのは、幸運だと思えることであり、その幸運に感謝できることでしょう。
豊かさも貧しさも同じです。
フランクルほどではありませんが、私もかなり幸運な定めなのかもしれません。
それにフランクルとは比べようもありませんが、それなりに苦労や悩みにも恵まれているのです。

フランクルは収容所で、没収された著作の原稿をメモし続けました。
死にそうなほどの病気の時にも、です。
それに比べたらこんな寒さは何ということもないでしょう。
と思って、何回か寒い部屋でパソコンに向かいましたが、やはり続きません。
あたたかいリビングで仕事ができるように、ノートパソコンを買おうかと思いだしています。
やはりちょっとはお金も必要なようです。

3万円のマウスパソコンを買うべきか部屋があたたまるほどの暖房器具を買うべきか。
それとも寒さに耐えるべきか。
いやいや、そもそも寒い部屋での仕事をしない選択肢もあります。
人生にはいつも選択肢はたくさんあるのです。

明日はあたたかくなるといいのですが。
あたたかくならないと仕事が進みません。

■3416:年始のあいさつがなかなかできません(2017年1月10日)
節子
ようやく陽ざしが戻ってきました。
陽が当たりだすと一挙に風景が変わります。
今日は午後から時間ができそうなので、連休中にやる予定だった作業を精いっぱいしようと思います。
また勤勉な生活が戻りそうです。

今年は年賀状も年賀メールもほとんど出していません。
年賀状は一応購入してはいるのですが、まだ全くの手つかずです。
そうしたらある人から、自分が出した年賀状は届いているかという電話がありました。
もしかしたら心配をかけているのかもしれません。
そろそろなんらかの反応をしなければいけません。
生きるということは、人との関係に心遣いをするということでしょうが、なぜか今年は「その気」になれません。
困ったものです。

しかし、それはどうも私だけではないようです。
気になっている人たちからの、年に1回のメールや年賀状が何人か届きます。
いずれも私の反応を期待しているようなので、こうしたものにはすぐ反応するようにしています。
しかし、毎年、そうなのですが、再びの連絡はいずれからもありません。

父親を亡くしてぽっかりと心の中に穴が開いた。
湯島に言っていいですかというメールには、いつでもどうぞと返信しました。
でも何の反応もない。
昨年は行けなかったが、今年こそ伺いますと言う人にも、サロンの案内を出しましたが、返信がない。
どうしていますかと気にしてくれている言葉が、毎年、年賀状に書き添えてある若者には、毎年、年賀状で近況を伝え、メールアドレスを書いていても、また1年間何の連絡もなく、同じ言葉が添えられた年賀状が届く。

問いかけた以上は、その問いへの答えに対して反応してほしいのですが、なかなかそうはなりません。
これは私の生き方とは全く違うのですが、しかし、反応しないのには理由があるのでしょう。
でも問いかけが宙ぶらりんになっていると、どうも気になって仕方がないのが、私の性格なのです。
その理由を詮索すると、また際限がないのですが。

まあそんなこともあって、今年は年賀状や年賀メールを放置したままなのです。
「その気」になったら、書きだしますので、お許しください。
今日はともかく「作業」です。
寒くなるとまたできなくなりますので。
自然とと共に生きると言うのも、なかなかいいものです。

■3417:フェイスブックでまたうれしい連絡がありました(2017年1月10日)
節子
とてもうれしいメールが届きました。
福田粛さんからです。
フェイスブックでつながったのです。

もう30年以上前になりますが、ハワイのキラウエア火山に行くツアーでご一緒した福田さんです。
そのツアーは、実に魅力的なメンバーでした。
いまは大活躍の茂木健一郎さんも、その一人でした。
私たちは夫婦で参加させてもらいました。
帰国後、湯島でみんなで会いました。
その時も、福田さんはわざわざ関西から出てきてくれました。
その後、交流がありましたが、いつの間にか交流が途絶えてしまっていました。
節子が病気になってから、私は一時期、世間と断絶しているような時期がありましたから。

福田さんは、いま大学教授です。
以前送っていただいた論文は、私のとても関心のあるテーマで、いろいろと示唆をいただいたことを覚えています。
いまは何に取り組まれているのでしょうか。

福田さんは、昨年末、またキラウエア火山に行ってきたそうです。
メールにこう書かれていました。

年末にキラウエアに行ってきました。
佐藤ご夫妻や他いろいろ思い出していました。

あの旅はとても豊かな旅でした。
それに、私にとっては、節子との最初の海外旅行でした。
思い出すことがとてもたくさんあります。
その旅の途中で、大学時代の友人に会ったりもしました。
私が新しい生き方に移る契機のひとつにもなった旅でした。
出会った人たちも、みんな魅力的でした。

その時のメンバーはいまはどうしているでしょうか。
よく湯島のサロンに来ていた松崎さんは節子よりも先に亡くなってしまいました。
一番年長だった杉本さんは、いまも時々、湯島に来てくださいます。
節子との交流があった、もう一人の女性の前田さんは粘菌学者ですが、その後、アメリカに移って連絡が途絶えてしまいました。
節子の闘病の時期、そうした人の繋がりをおろそかにしてしまったために、交流が途絶えてしまった人も少なくありません。
いまのようにフェイスブックでつながっていれば、関係は持続できるのでしょうが、10年前はまだ繋がりは意図的に維持しないと失われやすかったのです。

一度また、みんなに声をかけさせてもらおうかとも考えましたが、そういうことも節子がいないとどうもやる気が起きません。
最近、一人では何もできない自分に気づきだしています。
困ったものです。

■3418:幸せな死への流れ(2017年1月12日)
節子
長年、施設で看取りの活動をされている小田原の時田さんが湯島に来てくれました。
時田さんとはもう15年ほど前にあるシンポジウムでお会いしましたが、以来、いろんな面で学ばせてもらっています。
しかし、看取りという関係でお話をするのは、昨日が初めてでした。

実はその直前に会った友人とも話していたのですが、
人生の最後くらいは自分で決めたいと思っています。
その友人も同じ思いでした。
節子もよく知っている武田さんです。

問題はどうするかです。
「山に入る」という方法もありますが、現代社会ではそれはやはりいろんな人に迷惑をかけることになるでしょう。
ですから、方法は一つです。
要は、食を断つということです。

時田さんは、多くの看取りの体験の中で、人は自然に死を迎えられる存在であることを確信されています。
自然に生きていれば、死に向かいだす時には、自然と食べられなくなるのだそうです。
その時に無理に栄養を補給すると、幸せな死への流れが壊されるのだそうです。
自然の流れに任せると、それこそエンドルフィンの作用で、とても平安に死を迎えられるそうです。

私の友人から聞いた話ですが、
彼の父親は、死を悟った時に、食を断ち、1週間後に大往生したそうです。
節子のことを考えると、節子の平安な死を妨げたのは、やはり私のエゴのせいです。
回復を願っていた私は、栄養補給をし、無理やり食べるように働きかけました。
節子は頑張って食べてくれましたが、それは節子の自然な死への旅立ちを妨げていたのです。
いまから思えば、私自らの欲の深さが、節子を苦しめたのかもしれません。
節子の最後は幸せな表情だったのも、私のエゴが見誤らせたのかもしれません。

私自身は、やはり自宅で、食を断つことによって、最後を決めたいと思っています。
しかしそうするにしてもやはり誰かの助けが必要です。
いまのところはそれを頼めるのは娘だけです。
彼女たちが引き受けてくれるといいのですが。

■3419:ラカンを勉強しようと思います(2017年1月12日)
節子
昨日は柴崎さんと食事をしました。
柴崎さんは、節子もよく知っている、かつてのサロンの常連でした。
最近、体調が悪く本も読めないというので、気分転換に食事を誘ったのです。
私のまわりには、社会にはうまく適合できない私のような人は少なくないのですが、柴崎さんはその中でも飛びぬけて、社会不適応者でしょう。
吉本隆明の研究者ですが、マルクスもイリイチもポランニーもラカンも読んでいる勉強家です。
しかもただ読むだけではなく、自分の視点で読みながら、自分でも論文を書いていますが、それがまた難しく、読んでもなかなかわからないのです。
まあ節子にはまったく理解できない人ですが、なぜか節子は気にしていた一人です。

柴崎さんは、人と議論するのも苦手です。
たぶんあまり家から出ずにいるでしょうから、時にほぐしてやらないといけません。
それに彼の頭に詰まっているさまざまな知見を、整理して放出させないと精神的にもよくないでしょう。
なによりも経済的にも大変でしょうし。
人のことよりも私自身のことを考えろと言われそうですが、彼は私よりも2まわり以上若いはずですから、何とか応援しないといけません。
節子もずっと心配していましたし。

しかし、こうやって食事を一緒にすると、またいろいろと宿題を背負うことになります。
もうこれ以上背負いたくないのですが、今週はこれで2つもまた背負ってしまいました。
これはもう私の定めとしか言いようがありません。
困ったものです。

それに、柴崎さんを応援する以上はラカンも読まなくてはいけません。
それ以外はたぶん私も渡り合えるでしょうが、ラカンはまったく知りません。
最近は難しい本はなかなか頭に入っていきません。
でもまあ新しいことを学ぶことはワクワクすることですから、少し頑張ろうと思います。

■3420:主治医がたくさん(2017年1月16日)
節子
私が血圧を下げる薬を飲むかどうかで騒動が起きています。
まあ騒動というのは大げさですが、事の?末はこうです。

私はかなり前から高血圧だと言われています。
といっても、めったに上は200を超えることはないのですが、お医者さんからはもう長いことを薬をもらっています。
あんまりきちんと飲んでいなかったのですが、昨年の秋、ちょっと体調がおかしくなったので、それ以来、きちんと飲むようにしていました。
きちんと飲むと薬はなくなりますので、先週、いつものクリニックに行きました。
ところがいつもはさほど混んでいないクリニックが、大混雑でスリッパがないほどでした。
少し待ってみましたが、これは長くかかりそうだと思い、受付の人に薬だけもらえませんかと頼みました。
いつもはそれで大丈夫だったのですが、今回はダメでした。
新しい看護師さんに、診察しないと薬は処方できないと言われたのです。
当然ではありますが、診察は単に血圧測定ですし、薬は決まっているのです。
私は、ともかく「待つ」という「無駄」な行為が好きではないので、診察券を返してもらって帰宅しました。
帰りの途中、これはきっと啓示だと気づき、これを機に薬の服用を止めることにしました。
薬ではない方法で、血圧問題を克服しようと考えたわけです。
そんなことを、フェイスブックに書いたたら、たくさんの人からコメントが届きだしました。
よせばいいのに、そこに最近歯医者さんで血圧を測ると200を超すと書いてしまったのです。

それで友人知人が心配して、いろんなアドバイスをしてくれたのです。
その内、私の知らない人までていねいにコメントやアドバイスをくれ、さらにフェイスブックではなく個人的なメールまで届きだしました。
私より年上の一松さんは血圧に関する本まで送ってきてくださいました。
さらに、実際にアドバイスするために保健師の方まで連れてきてくれる人まで出てしまいました。
こうなるともはや問題は私だけの問題ではなくなります。
それで昨日から、家に眠っていた血圧計をだしてきて測定することにしました。
昨日の夕方は、87/131。
今朝は、95/157。
薬をやめてから3日目ですが、まあこれくらいなら大丈夫でしょう。
後はいろんな人からのアドバイスに従って、薬に頼らずに、もっと安定させられると思います。
まあ、それだけの話ですが、ある人が「佐藤さんは主治医がたくさんいてうらやましい」と書いてきました。
そうなのです。
節子がいなくなってから、いろんな人が私のことを心配して、何か問題がでるといろいろとアドバイスしてくれるのです。

まあ、それが節子がいなくなっても、私が生きながらえている理由かもしれません。
世の中は、みんな善い人ばかりなので、なかなかそちらには行けません。

■3421:さだまさしさんの歌は哀しすぎます(2017年1月17日)
節子
人は時に無性に感傷的になります。
今日は自宅でパソコンである記録づくりをしていたのですが、その途中で突然に、どうしてこんなことをやっているのだろうという虚しさが湧いてきました。
記録をつくっていた集まりで語られていることは、あまりに私の世界とは違うのです。
こういう人たちとは違う世界に、私は生きているのではないか、という傲慢な自負が時々顔を出すのです。
そうなるともう手がつかなくなってしまうのが、私の未熟さです。

その後がまたよくありませんでした。
さだまさしの毎日聞いている歌を聴いたのですが、それにつづく、さださんの「風に立つライオン」を聴いていたら、無性に涙が出そうになってきたのです。
直接にはつながりませんが、この曲の歌詞は、なぜか私の20代を思い出せてくれたのです。

私たちが付き合いだしたころ、私たちの前にはとても大きな世界が広がっていました。
節子も私も、それをなんとなく感じていて、いささか世間離れした生き方をわずかばかり楽しんでいた気がします。
毎日よく笑い、よく泣きました。
お互いに両親に反対され、それでも友人たちからは祝福を受けながら、神田川的生活から私たちの生活は始まりました。
華やかな結婚式もなく、6畳一間からの生活は、何もないが故に、最高に幸せでした。
「常識」から解き放された、嘘のような生活。
私は楽しみ、節子は戸惑っていたでしょう。
しかし、生活は次第に「ふつう」になりだし、遅ればせながらの式もあげさせられ、家具もそろいだし、その上、東京に転勤したために、生活もパターン化しだしてしまいました。
その時点で、たぶん私たちは、ふつうの生活になってしまいました。

25年間勤めた会社を辞めた時、もう一度、チャンスがやってきた。
しかし、いまから思えば、その生き方もまた、まだ中途半端でした。
そして、いよいよ新しい生き方を節子と一緒に始めようとした時に、節子の胃がんが発見されたのです。
そして私たちの、いや私の人生計画は終わったわけです。
なぜ私ではなく、節子だったのか。
何回それを考えたことでしょう。
もし、節子と立場が入れ替わっていたら、たぶん私の思い通りの人生を過ごせたはずです。
そう思うと、無性にさびしい。
私が考えていた一生は、やはり伴侶との最終章が目的地だったのです。
時々、そんな思いが頭をよぎると、ひどく感傷的になってしまうのです。

節子はグレープの「精霊流し」が好きでした。
さだまさしの曲の歌詞はとても哀しい。
さだまさしの「奇跡」が、いま流れています。
いまの私には、とても残酷な歌詞です。

■3422:2人の友人知人(2017年1月18日)
節子
昨日はテレビで、久しぶりの2人の友人知人の顔と名前を見ました。
長年生きていると人の付き合いも広がり、いろいろなことがあります。

ひとつは、いささか不幸な事件ですが、私の友人は加害者として報道されていました。
彼のことをよく知っている私としては、とても不幸な事件としか言いようがありません。
実は、この2年ほど、会っていなかったので、そろそろ声をかけようと思っていた矢先です。
職場を変えたこともあって、もしかしたらストレスがたまっているのではないだろうかとなんとなく感じていたのです。
そして今回の報道。
わずかな報道でしたが、彼のことだとすぐわかりました。
世間的には「加害者」かもしれませんが、いかなる犯罪も、そこに関わった人たちはみんな被害者だと思っている私には、むしろ友人もまた被害者だという思いです。
大切なのは、いま彼がたぶん深く落ち込んでいるだろうなということです。
娘に、連絡を取ろうかなと相談したら、しばらくはやめたほうがいいと言われました。
たしかにそうでしょう。
善意は、所詮は自分自らの満足のためであることが少なくありません。
でもはやく彼には会いたい気分ではあります。
最初に会った時のさわやかな笑顔と誠実さの好印象が、いまも私には強く残っています。

もうひとつは、事件とは関係なく、ある件に関して話をしている姿を見ただけです。
節子の胃がんが判明した時、最初に相談した医師の一人が、その人です。
いまから思えば、極めて的確なアドバイスをしてくれました。
しかし、当時は、そのアドバイスが私の心を閉ざさせてしまい、以来、交流は全くなくなりました。
ですから、節子のことを報告する機会も失っています。
もっとも、さほど親しかったわけではありませんし、彼にとっては、それこそ記憶にも残っていない些細な話でしょう。

私も時々、いろんな相談を受けます。
しかし、相談に対する対応は、それこそ十分に気をつけなければいけません。
理論的には的確なはずのアドバイスが、実際にはまったく的確でないことは少なくありません。
そのことを気づかせてくれたのは、その知人でした。
だから私の頭から、その人の名前は消えたことがありません。

しかし、たまたまテレビを見たら、2人の友人知人に出合うとは。
なかなか世間から自由になるのは難しいです。

■3423:はみ出し者のたまり場(2017年1月20日)
節子
昨日はまたとても刺激的な人に会いました。
社会からかなりはみ出している人です。
18歳で、岡本太郎に認められて、岡本太郎賞を受賞したデザイナーの鈴木さんです。
その経緯も、実に面白い話ですが、岡本太郎が評価した人ですから、その方もかなり型破りの人です。
見た感じからして、そうでした。
道で会ったら、もしかしたらちょっとよけて通るかもしれません。
昨日も、どでかいバイクでやってきました。
これまでの仕事の内容を見せてもらったら、それはもうとんでもなく面白そうなものばかりでした。
私が大好きだった、久保キリコさんの自宅の設計にも関わったようです。

なぜそんな人がやって来たかといえば、
これまたいささか現世離れした友人から、ある活動を起こしたいと相談を受けました。
それはあるところで、新しい発想のカフェを開店するという話なのですが、論理的に考えると、夢のような話なのです。
その件で話をする予定にしていたのですが、それを知った鈴木さんが応援に駆け付けたというわけです。
かなり風変りの人ですからと彼女から事前に話は聞いていましたが、思っていた通りの人でした。
ですからすぐに心が通じました。
話しぶりからも、いかにドラマティックな人生を送って来たかを感じます。
バブル崩壊以前は、さぞかし華やかな毎日だったでしょう。
しかし、いまは、たぶんあまり生きやすい社会ではないでしょう。
才能は溢れすぎているはずですが、現実とのずれがかなりあるでしょう。
私の感覚では、いまは偽物の時代ですから。
そんなわけで、私は実に魅力を感じました。
かなりの危うさも伴いますが。
まあ少しご一緒することになるかもしれません。

ところで、昨日は、湯島に、3組7人の人が来ました。
みんなかなり社会からはみ出した人ばかりです。

2番目の人は節子もよく知っている大川さん。
彼もまあ現在の社会では絶滅種の仲間でしょう。
そして3組目は4人でしたが、これまた強烈な個性の持ち主ばかりでした。

個性的な人たちと付き合うのは、刺激的ではありますが、こう多いといささかつかれます。
それにしても、どうして湯島にはこうおかしな人ばかり来るのでしょうか。
困ったものです。

■3424:血圧がまた上がっています(2017年1月21日)
節子
今日こそ年賀状や年賀メールを書こうと思っていたのですが、やはり書けませんでした。
必ずしも時間がないわけではないのですが、何か落ち着かずに、書く気が起きません。
困ったものです。
人は怠惰になるとどんどん怠惰になっていくことは、これまでも何回も経験していますが、今度はかなり重症のようです。

ところで血圧を最近は毎日朝夕と2回測定しています。
最初の2日間ほどは安定していましたが、昨日あたりからかなり高い数値になってきました。
気のせいか調子もよくありません。
それにいろんな人からアドバイスをもらったのですが、実行しているのはピーナツを食べることくらいですので、数値が改善されるわけもありません。
まあこういうところが私の一番ダメなところなのですが。

ちなみに、この数日、血圧が上がるようなことがあります。
私は稀勢の里がどうも好きに慣れなかったのですが、昨年秋ころから何とか優勝して横綱になってもらいたいと思い、さほど好きでもない相撲を、稀勢の里の取り組みだけはできるだけ見ているようにしています。
今日も、外出していましたが、その取り組みに間に合うように帰宅しました。
稀勢の里の相撲は安定性がないので、見ているとまさにドキドキして血圧も上がります。
いや最近は見前からドキドキします。
今日は勝ちました。
そして私が好きな白鴎ガマ得たため、なんと稀勢の里が優勝し、横綱になりそうです。
これでもしかしたら、高血圧の原因が一つなくなるかもしれません。

アメリカではトランプが大統領になりました。
世界が変わるかもしれません。
これは、私にとっては血圧が上がる事象ではありません。
明日の血圧測定値は下がっているといいのですが。

■3425:お医者さん通いの1週間(2017年1月24日)
節子
また挽歌がたまってしまいました。
挽歌だけではありません。
またいろんなことが滞りだしてしまっています。
どうも今年は起動できずにいます。
困ったものです。

今週はお医者さん通いの1週間です。
昨日は眼科に行きました。
まあ大きな問題はないのですが、なぜか3カ月単位で定期検査に行くことになってしまっています。
地元の小川眼科医ですが、短い診察時間にも関わらず、いつもいろいろと学ばせてもらっています。
今日は歯医者でした。
ついにマウスピースをする羽目になったのですが、それが完成しました。
ところが今日、前歯が一部かけているのが発見されました。
そういえば、先日、ちょっと歯を使って硬いものをちぎったのですが、その時にかけたのだと思います。
困ったものです。
節子からも娘からも固く禁じられている行為ですが、ついうっかり、でした。
明後日は成形外科。同じ日に遠藤クリニック。
どうせなら今週、すべての医者に行ってみようと思って、重ねてしまったのです。

血圧は、正直あまり調子は良くないのですが、一応、薬をやめたと言ってしまった手前、いまさら方針を変えられずにいます。
これまた困ったものです。

机の上は、ますます雑然としてきて、書類と書籍が山になっています。
年賀状も相変わらず白紙のまま、机の上に積まれています。
1月中は無理そうです。
毎年2月初めに年賀状をくれる人がいるのですが、さてどうするか。

と言いながら、それでも今日は少し頑張りました。
いま話題の「サピエンス全史」を読みました。
厚い割には軽い本ですが、面白かったです。
塩野七生さんの「ギリシア人の物語」がなかなか出版されないので、気になっています。

しかし、無理をすることもないでしょう。
今月はわがままを通しましょう。
今年は、2月から新しい年が始まることにしようと思います。

■3426:元気です(2017年1月27日)
節子
挽歌を書いていないので、心配してくれている人がどうもいるようです。
昨日は、2人の人から電話がありました。
元気にしているかという電話です。
フェイスブックを見ている人は、まあそれなりに元気なのを知っているでしょうが、ブログやホームページだけの人は、最近の書き込みがあまりないので(そういえば、ホームページの更新も忘れていました)、何かあったのかと思っているのかもしれません。
幸か不幸か、まあ何とか元気ではあります。
それなりに活動もしています。
今日も2つほど、ミーティングや相談に乗ってきました。
本当は私自身が相談に乗ってほしいくらいの気分ですが、まあ私はそれなりに何とか大丈夫なのです。
私が気にしてもあまり役には立ちませんが、声をかけてみたい「気がかりな人」は少なくありません。
しかし声をかけて、また何がどさっと背負い込むと今の私には持ちこたえられそうもないので、できるだけこっそりと避けているわけです。
困ったものですが、まあ今は許してもらうしかありません。

あまり書かないとご迷惑をおかけするので、今日は、元気だということだけを書いておきます。
まあ、節子は知っているでしょうが。

■3427:朝晩の歯磨き(2017年1月27日)
節子
この1週間はいささか気分のすぐれない1週間でした。
体調は大丈夫なのですが、どうも気が出てこない。
なにやら忙しく動いていたような気もしますが、実のない1週間でした。
人は忙しい時ほど、暇になる、という感じです。
前にも書きましたが、私が暇だと思う時は、解くべき問題がない時です。
だから時間的な忙しさと私の暇はほぼ同値なのです。

どうして面白いことはないのか。
たぶん私がどんどん世間から離脱しているからなのでしょう。
世の中には解くべき問題はたくさんあるでしょうが、いまの私は狭い世界に浸っていますので、どうもそうした刺戟的な問題に出会うことが少ないのかもしれません。
暇をもてあそびながらも、どこかで暇を目指しているところもある。
要は、私自身の生命力が枯渇しだしているのかもしれません。

ところで、数日前から、かなり規則正しい生活になりだしています。
起きた時と寝る時に歯を磨くようになったのです。
それで生活が規則正しくなったといえるのかといわれそうですが、何しろ1日の始まりと最後の作業が明確になったことの意味は大きいです。

なぜそうなったかですが、それにはそれぞれに理由があるのでです。
先日、テレビの「ガッテン」という番組を見ていたら、朝起きてすぐ歯を磨くと風邪をひかなくなるとあるお医者さんが話していたのです。
知ったことはすぐに実行するのが、私の生き方ですので、それをまずは実行しだしました。
就寝前の歯磨きは、数日前からマウスピースをつけて寝るようになったのです。
歯医者さんから勧められて、私には向いていないなと思いましたが、取り組んだらこれまた調子がいいのです。
就寝中にマウスピースをつけるのは、寝る前に歯を磨かなければいけないのです。
これも歯医者さんから言われたので、素直にそれに従っています。
そんなわけで、1日の始まりと終わりに、私の嫌いな歯磨きをすることになったのです。

実はいずれもまだ3日目です。
問題はこれが持続できるかどうかですが、これを機会に、かなり粗雑になっている生き方を変えてみようかと思いだしているのです。
規則正しい生き方は、私には向いていませんが、朝晩の歯磨きをつづけると何かが変わるかもしれません。

■3428:見返りのない贈与(2017年1月29日)
節子
見返りのない贈与ができることこそが、最高の至福であることは、間違いありません。
しかし、見返りのない贈与をすることはとても難しく、その機会を得ることはそうはありません。
夫婦や親子は、そうした関係を持ちやすい存在ですが、それでもそれなりに難しいものです。
昨日、湯島でサロンをやっていて、贈与が話題になりました。
そのやりとりを聞きながら、そんなことを考えていました。

贈与は、見返りを意図しなくとも、多くの場合、相手に負担感を与えることで、人間関係に影響を与えます。
ですから、何らかの形で、贈与は相互行為になりがちです。
見返りのない純粋贈与の典型として、母子関係があげられますが、私は母子関係の存在があるだけで、すでにそれは非対称ではありえないと思っています。
夫婦の場合は、どうでしょうか。
考えれば考えるほど、夫婦とは不思議な関係です。

私は、なぜかいろんな人から「贈与」を受けます。
それに見合うお返しは、あまり出来ていません。
しかし、それはいつかまた、できる時に「恩送り」させてもらえるでしょう。
輪廻転生を信じていますから、現世で収支を合わせられなくとも、どこかでバランスはとれていると、勝手に思い込んでいます。

贈与は受けるよりも与えられる方が幸せなことは言うまでもありません。
そういう点では、最近少し幸せではなくなってきているのかもしれません。
特に、見返りとは全く無縁な贈与のやり取りの日常がなくなったことが、やはりとてもさびしいです。

先日、ある本で、レレ族という狩猟民のセンザンコウ祭儀の話を読みました。
センザンコウは、アリクイに似た哺乳類動物ですが、レレ族はセンザンコウを精霊動物としているため、狩猟の対象にはしません。
しかし、祭儀のときには、センザンコウを供犠の生贅にし、その肉を食べるのだそうです。
そして不思議なことに、祭儀の日に、センザンコウが「キリストのように」進んで集落にやってくるのだそうです。
自らを見返りのない贈与として、供犠になるためにやってくる。
とても考えさせられる話です。
そんなことも、昨日は考えていました。

■3429:節子おばあさまに抱かせてあげたかったですね(2017年1月30日)
節子
久しぶりに岡山の友澤ご夫妻と電話でお話をしました。
おふたりとも、お元気そうでした。
昨日、ジュン宛にわが家に手紙が届いたのです。
ジュンの出産を知ってのお祝いの手紙でした。

節子おばあさまに抱かせてあげたかったですね。
満面に笑みを浮かべて天界から眺め見守っておられることでしょう。

友澤さんは、手紙にそう書かれていました。
節子にも報告し、お供えさせてもらいました。

節子に孫を抱かせられなかったというのは、私もそうですが、娘にとっても大きな悔いになっています。
しかし、悔いたところで仕方がありません。
ジュンは、ちょいちょいわが家に来て、いつも仏壇に孫の「にこ」を見せています。

孫の誕生は、わが家にとっては大きな喜びではありますが、
節子がいるといないとでは大違いです。
家族にとっての母親の存在はやはりとても大きいです。
いつもそう思いながら、孫の顔を見ています。

■3430:ちょっと気分が浮揚しました(2017年1月31日)
節子
なにもしないうちに1月が終わってしまいました。
まだ起動できずにいます。
しかし、1月最後の日に、ちょっと元気づけられることがありました。
京都の室田さんが湯島に来てくれたのです。
久しぶりに再会です。

室田さんと知り合ったのは、保育園に関わっていた頃です。
全国私立保育園連盟のある委員会の外部メンバーをさせてもらったおかげで、知り合えたのです。
その後、京都に行った時に、室田さんの保育園も案内してもらいました。
私が、その前に構想していた保育園のイメージに少し重なるところがありました。
もう15年ほど前のことではないかと思います。
その室田さんが、突然連絡してきて、湯島に来てくださったのです。
しかも、室田さんは、その委員会での私の発言を覚えていて下さったのです。
今にして思えば、若気の至り?での、小生意気な発言ですが。
しかし、私の生き方の根幹にかかわる言葉でした。

室田さんは、今年からあることにチャレンジします。
そのお話を、かなり幅広く聞かせてもらいました。
ワクワクするような話です。
私がもう少し若かったらぜひとも参加したい活動です。
実に刺激的な2時間でしたが、それで昨日と今日の午前中の、いささか気の重い話に沈みそうになっていた気分が少し浮揚しました。
世界は、動いていると、思いました。
いや動かそうとしている人がいる。

明日から2月。
動き出そうと思います。

■3431:カラダの声(2017年2月1日)
節子
2月になってしまいました。
気を引き締めて、と思い直しての1日目です。

それで気になっていたある人に連絡を取りました。
だれかが書いていましたが、便りがないのは良い報せとは限りません。

最近来ないけれど、一度湯島に来ませんかとある人に連絡しました。
そうしたら、こう返信がありました。

身辺で多事多難があり、メンタル面での不調が続いて、近々に「入院」することになりました。

連絡を取るのが遅すぎました。
もちろん私が会ったところで、事態が変わったかどうかはわかりませんが、やはり悔いが残ります。
入院前に会えるかどうか連絡したら、やはり無理のようです。
フェイスブックにはよく反応してくれていたので、気を許してしまいました。
退院したら連絡すると返信があったので、ともかくゆっくりと休養するように伝えました。
そのやりとりで、次の人に連絡するのが少し怖くなりました。
出ばなをくじかれると、また元の木阿弥になりかねません。

私が連絡する前に連絡が来た人もいます。
昨日のことですが。
同居されていたお母様を亡くされて、一人住まいの一年が過ぎました、と書かれていました。

この1年はいろいろとあったようですが、メールにはこう書かれていました。
1年間の発見を贈ってもらったような気がします。
それでほかの方とも分かち合いたいと思い、一部紹介させてもらいます。

「暮らす」を見直す機会となった経験から
最後自分らしい暮らし方を何とかカタチにしたいと考えていますが・・・。

人のカラダに埋め込まれた時のリズムが、経年変化を起こし、
いたるところに変調をきたしていることはほぼ間違いないところです。

古来、月の満ち引き、潮の干満(tide)が、カラダ内部の時(time)を刻む計り(measureやmeter)の原点でもあり、月(moonやmonth)が暦の月(mensis)につながることも学びました。

自分のカラダの声を聞き、カラダに埋め込まれた時をはかりにする、
あえてそんな「暮らす」スタイルが求められているようにも思います。

電灯の出現による夜昼逆転や、LEDライトを浴び続ける日常生活が
一滴一滴の水のしずくとなって生物体としてカラダに取り返しのつかない穴をあけているのです。
便利さを手放すことがもうできない私達が、戻るべきところは一体どこなのでしょうか。

とても共感できます。
最近私は、できるだけ太陽に合わせて寝起きをしようと心がけていますが、まあ実際にはほとんど無理の話です。

この方はわたしよりもかなり若いのですが、メールの最後にこう書かれていました。

佐藤さんの近くで耳をすませば、
カラダの時計はまだまだこれからと言っているように聞こえます。

今日は、これからまた気になる人に少し連絡を取ろうと思いますが、
いささか不安があります。

■3432:1980年のキラウェア火山(2017年2月1日)
節子
福田さんがフェイスブックに1980年にハワイのキラウェアに行った時の写真をアップしてくれました。
節子も私も、一緒に行ったキラウェア火山ツアーの時の写真です。
福田さんがわざわざアップしてくれたことを連絡してきてくれました。
福田さんは最近もキラウェアに行ったとお聞きしていましたので、その写真かと思ったら、そうではなくて、私たちも一緒だった1980年の時のものでした。
ペレの涙。オヒヤの花。
とても懐かしい。
ボルケーノハウスでの夕食後の中村教授のレクチャーや暖炉の前での談笑などが、思い出されます。
たしかあれは節子にとっては最初の海外旅行でした。
その中村さんも、もう亡くなってしまいました。

過去を思い出すのは、私はとても不得手なのですが、
あの旅行のことはそれなりに覚えています。
わが家を探せば、その時、持ってきてしまったペレの涙の一粒があるはずです。
節子がいない今となっては、もう探す気にもなりませんが。

そういえば、あの時ご一緒だった何人かとは最近ご無沙汰です。
連絡の取りようがわかったら、連絡してみようと思います。
節子が元気だったら、つながりはつづいていたかもしれませんが、
私へネット派なので、手紙派の節子が亡くなってから、そうした人とのつながりも消えてしまいました。
節子がいなくなって、私の世界も狭まってしまったのかもしれません。

明日は頑張って、季節はずれの年賀状を書こうと思います。


■3433:寒風と陽光のもとでのリトリート(2017年2月2日)
節子
うっかりして鍵を忘れて外出し、帰宅したら鍵がないので入れなくなってしまいました。
それで外出していた娘に電話して、鍵を届けてもらいましたが、
届くまでの30分ほど、庭のいすで本を読んでいました。
今日はとても寒い日なのですが、幸いに庭は陽当たりが良いので、何とか持ちこたえられました。
凍死する前に娘がカギを持ってきてくれました。

ところで、その寒さの中で読んでいたのは、ティク・ナット・ハンの「ビーイング・ピース」です。
歯医者さんに行っていたのですが、待たされたら読もうと思って持参した本がポケットに入っていたのです。

ティク・ナット・ハンは、平和活動をしているヴェトナム出身の禅僧です。
私は昨年、テレビで知ったのです。

その本はこう書きだしています。

人生は苦しみに満ちています。
しかし、人生にはまた、青い空、太陽の光、赤ん坊の目といった、素晴らしいことがいっぱいあります。
苦しむだけでは充分ではありません。
苦しむばかりでなく、人生におけるさまざまな素晴らしいことと、つながりをもつべきです。
素晴らしいことは、私たちの内にあり、まわりのどこにも、いつでもあります。
みずからが幸せで平和でないならば、愛する人たちや、同じ屋根の下に住む人たちとさえ、平和と幸せを分かちあうことができません。
平和で幸せであるならば、私たちは微笑し、花のように咲き開くことができます。
家族全員、社会全体が、私たちの平和の恩恵を受けます。

このころ、私もこういうことがわかるようになってきました。
それは節子との別れと無縁ではありません。
節子がもし今も元気だったら、私はこうしたことを頭の中だけの考えにとどめていた可能性が否定できません。
頭の中だけの考えであれば、あるいは知識であれば、こういうことはずっと持ち続けていました。
しかし、それが実践できていたかどうかはあやしいものです。
もちろん節子だけのおかげではありません。
節子がいなくなってからの10年は、多くの人に迷惑をかけ、多くの人に支えられながら、生きていますから、その過程で、頭の中の考えが実践につながりだしたのです。

ティク・ナット・ハンは、さらにこう書いています。

みずからと共にいることに、私たちは慣れていません。
まるで、自分を嫌い、自分から逃れようとしているかのように、ふるまいます。
瞑想は、みずからの体、感情、心、さらには世界で、何が起こっているかを、はっきりと知ることです。

そして、そのために、時々はリトリート、すなわち、心の集中の1日を過ごすのもいいというのです。

「みずからと共にいること」というフレーズには、もう一つの思いを持ちましたが、それはいつか書くとして、リトリートを心がけようと思いました。
そして、鍵が届くまでの数分、寒い中で、しかしあたたかな陽光の中で、青い空を見ながら、ミニ瞑想を行いました。
最近、いささか苛立っている自分に気づいているのですが、少しその苛立ちがおさまりました。
リトリートサロンを、一度やってみようと思います。

■3434:「最近よく星を眺めます」(2017年2月2日)
節子
節子も知っているMさんからメールが届きました。

昨日は、月、火星、金星が接近して縦ほぼ一直線に並び、光輝いて(火星は赤く暗かったですが)、それはそれはきれいでした。
オリオン座のペテルギウスとこいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウスの冬の大三角形も明るく輝いていて。
最近よく星を眺めます。
あまりにきれいで、眺めていると死が怖くなくなります。
古人の言った通り、いつかはあそこに行くのだろうなと思って。

彼女らしい思いですが、なぜ死が怖くなるのか、わかりません。
空を見ていると、それが昼であれ、夜であれ、私は何か包まれているような感じがします。
自分が、その中に溶け込んでいくような、そんな平安な気分になります。
Mさんは、小学校時代の同級生です。
私たち同級生は、卒業後、同級生全員で“ぽんゆう”というグループをつくり、20歳前後の頃は毎年、夏には高原での参加自由なキャンプをしました。
1週間ほど、誰かはずっと滞在し、あとはそれぞれの都合に合わせて、やってくるのです。
私はいつも最初から最後までいる組でした。
その時に見た夜空は、それは美しいものでした。
そうしたおかげかどうかはわかりませんが、同級生同士の結婚が2組も生まれました。
大学卒業後、私は滋賀に移ったので、その活動も終わってしまいましたが、その余韻はいろんなところで残っています。

しかし、そんな時代も、もう遠くになってしまいました。
当時の仲間に会うと、当時に戻ってしまいますが、それはほんの一瞬のこと。
集まった後の帰路には、もう別の、つまり年老いた、あるいは成長した自分に戻ります。

久しぶりにMさんと食事でもしようかと思います。
Mさんだけではなく、当時の仲間にも声をかけてもいいかもしれません。
そういえば、昨年も何人かで食事をしました。
過去を懐かしむのは、私の好みでは全くないのですが、時にはそれもいいかもしれません。
そろそろみんな星に旅立つ時期なのですから。

■3435:「死のにおい」はあっても「死の気配」は全くない(2017年2月2日)
節子
最近のブログには、なにか「死のにおい」がするかもしれません。
書いていて、自分でも少しそんな気がします。

フェイスブックに、友人が自殺した友と消息を絶った友へのメッセージを書いていました。
そしてその記事が、連絡がつかなくなった友に届くように、シェアしてほしいと書いてありました。
その記事をシェアした時に、書き手のkenさんへのメッセージを書き添えました。
「kenさんも、また湯島に顔を出してください。私が遠くに行く前に」
kenさんがコメントを返してきました。
「佐藤さんはたまにぞっとするような冗談をおっしゃるので…」
どこが「ぞっとする」のかわかりませんが、やはり「死のにおい」があるのでしょう。

最近、訃報が多いので、いささか気が滅入っています。
死とはやはり、残された者にとって大きな意味があります。
どうせ彼岸でまた会えるから、などといえるのは、よほど親しい間柄の場合です。
彼岸は、たぶん此岸よりも人口が多いでしょうから、なかなか会えないかもしれませんし、相手によっては、現世のうちに、一応の「人生の整理」をしておきたいような人もいます。
しかし、いささか気になるのですが、年賀状も来なかった人がいます。
もう一度会っておきたいと思いながら、遠いためになかなかお会いできないまま数年が過ぎてしまっていた人です。
そう思い出すと、気になる人がどんどん出てきます。
ということは、私が不義理をしている人がそれほど多いということです。
最近、私の交流の手段は、ネット中心になっています。
手紙はめったに書きませんし、電話は嫌いなのです。
手紙は字が下手ですし、電話は相手の顔が見えないためにうまく話せないのです。

携帯電話は持っていますが、めったに使いません。
持ち歩くことも少ないので、かかってきても出ない場合が少なくありません。
留守電もめったに聞きません。
電話は昔から好きではないのです。
相手の顔も見ないで話していると、うまく話せずに、時に感情的になったりしたりして、電話を切った後、いつも後悔するのです。

有線電話よりも無線電話のほうが、私には向いていると思います。
しかし残念ながら、私には霊界通信やチャネリングはできません。
その気になれば、彼岸との交流はできないわけではないとは思っています。
要は、自分さえ納得すれば、会話はできるのです。
その相手は、現世にいようといまいと、そう関係はありません。
現世にいるからと言って、そう会えるわけでもありませんし。

話がずれてしまいましたが、最近の挽歌からは「死のにおい」がするかもしれませんが、私の周辺には幸か不幸か「死神」の気配はまったくありません。
今日も歯医者さんで血圧の話題になり、血圧の薬を飲むようにと帰り際に心配してわざわざ注意しに来てくれましたが、「死のにおい」はあっても「死の気配」は全くないので、大丈夫ですと話してきました。
まあ歯医者さんに行く時だけ、血圧の薬を飲むようにしましょう。

死とは、もしかしたら「選ばれた人」へのご褒美なのかもしれません。
そんな気が、この殺します。
節子が先に逝ったことを何とかして正当化させたいという気持ちが、いまもまだ私の中には大きくあります。
なかなかその呪縛からは解放されません。

■3436:節分でしたが、豆はまきませんでした(2017年2月3日)
節子
今日は節分。
今年もわが家は豆まきをしませんでした。
節子がいたら、「福は内 鬼も内」という豆まきをやったはずですが。
昨年から、あまり豆まきはしなくなりました。
豆まきに限りません。
だんだん伝統行事への参加がなくなりました。

「福は内 鬼も内」
わが家の豆まきの掛け声は少し違っていたのです。
私は、「鬼も内」だけでいいという考えでしたが、「内」と言いながら豆をまくのはどう考えてもおかしいのです。
それで、わが家の豆まきはいつも元気が出ませんでした。
それでも節子は、豆まきをしなければいけないと言っていました。
節子の「節」は、「節分」からとった文字ですし。

もっとも節子の誕生日は、2月4日です。
節子が生まれた1945年は、もしかしたら2月4日が節分だったのでしょうか。
それもあって、節分はいつも節子の誕生日でもあったのです。
ですから、節子の誕生日は友だちに覚えてもらいやすかったようで、毎年、お誕生日祝いの手紙などをもらっていたようです。
明日もきっと、だれかが節子を思い出してくれるはずです。

しかし、いまの私には誕生日よりも命日のほうが大切な意味を持っています。
9月3日が、節子の命日ですが、今日2月3日は、月命日です。
3日はできるだけ自宅にいるようにしています。
今日は、天気もよかったので、少しだけ庭の整理をしました。
鉢植えの河津桜がつぼみを持ち出していますので、今年はきちんと咲かせたいと思い、日当たりのいい庭の真ん中に持ってきました。
先週、藤棚もつくりなおしてもらったので、少しずつ庭の整理もしていこうと思います。
最近の庭の状況は、節子が戻ってきたら、腰を抜かすほどに荒れていますので。

節子がいないので、今日もまたさびしい節分でした。

■3437:72歳の節子はどんな感じだったでしょうか(2017年2月4日)
節子
節子の誕生日だったので、孫も一緒にお墓に行きました。
めずらしく、というか、当然というか、今日は誰もお墓にはいませんでした。
さほど大きなお寺ではないのですが、だいたいいつも誰かが来ているのですが。
お供えの花の中に、庭で咲いていた白と黄色の水仙をもっていきました。
いまは水仙くらいしか咲いていないのです。

最近はお墓に行く回数も減ってしまいました。
節子を見送った直後は毎週と思っていましたが、それが毎月になり、いまではそれも危うくなってきています。
わが家に位牌があって毎朝、お参りはしていますので、お墓はまあいいかという感じになってきてしまっています。
まあ、そんなものなのです。
立場が違ったとしても、きっと節子もこんな感じだったでしょう。
なにしろかなり似たもの夫婦になってしまっていましたから。

私はお墓とか法事とかにはあまり関心がありませんでした。
そうしたことに関心を深めたのは、節子と結婚したおかげです。
節子の生家のある滋賀県の湖北地方は、浄土真宗への信仰が厚く、法事ではみんなが一緒に読経するのです。
その印象がとても強く、もともとお寺への関心が高かったこともあり、節子に教えてもらいながら、法事の何たるかを理解してきたのです。
祖先を大事にするという感覚も、節子のおかげで、高まりました。
たぶん節子以上にいまは、高いと思います。

それはそれとして、今日も墓前で般若心経をあげてきました。
節子だったらどうでしょうか。
あげてもらえたかどうかいささか心配です。

ところで、もし節子が元気だったら、今日で72歳。
そういえば、今年は年女だったはずです。
72歳の節子。
どんな感じだったでしょうか。
想像もつきません。

それにしても、時のたつのは速いです。

■3438:病院アレルギー(2017年2月5日)
節子
昨夜、久しぶりにHさんからのメールが届いていました。
Hさんといっても、節子は知らないと思いますが、私には節子とのつながりで記憶に強く残っている人です。

節子が逝ってしまってから1年ほどだったでしょうか。
あまり正確には覚えていないのですが、Hさんからある調査に協力してくれないかという連絡がありました。
それは、「病院」に関する調査プロジェクトでした。
Hさんには、私が立ち上げた、病院のあり方を利用者の視点で考えなおすヒポクラテスの会に参加してもらっていた関係だったかもしれません。

節子を見送った後、私は「病院アレルギー」になってしまいました。
当時は、病院や病気という文字を見ただけで、心が縮まるような状況でした。
長生きのためにとか、健康が一番、などといった言葉にさえ、反発を感じたほどでした。
その頃に、Hさんからの誘いだったために、事情を話して断らせてしまいました。
しかし、しばらくしてから、後悔しました。
むしろ、だからこそ、関わるべきだったと思ったのです。
病院に関して思っていたことは山のようにありましたから。

それからしばらくして、今度は私が何かでHさんに案内を出したことがあります。
Hさんはアメリカに転居することになったという連絡がありました。
以来、ご無沙汰が続いていました。

以上が、いまの私の記憶なのですが、
これを書きながら、もしかしたら私の記憶が間違っているような気がしてきました。
人は、自分の記憶したいように過去をつくりかえていきます。
特に、私の場合、節子の闘病や見送った直後の記憶は、とても曖昧です。
つくり替えることもあるでしょうが、その前に、記憶そのものが危ういのです。
あの前後5年の私の記憶は、全体像がなく、個別の事象だけがやけに生々しい、おかしな記憶ばかりです。

Hさんとは近々会えるでしょう。
彼女と話せば、私の記憶が正しかったかどうかがわかるでしょう。

ちなみに、最近はもう「病院アレルギー」はなくなっています。
それに2回も、私自身が入院しました。
それでも、いまでも「長生きが幸せ」という文字は、好きになれません。

■3439:呼び方の文化(2017年2月5日)
節子
先日、歯医者さんでお孫さんは大きくなりましたか、と訊かれました。
だんだん人間らしくなってきましたが、まだ人間の言葉は話しません、と応えたら、「じじ」と呼ばせるのですかと、質問されました。
それで、わが家の文化は、名前で呼ぶのです、と説明しました。
「おさむくん」ですか、とまた訊かれたので、「くん」は嫌いなので、「さん」づけか呼び捨てですと答えました。

わが家の文化といいましたが、節子はあんまり賛成ではなかったので、私の文化というべきかもしれません。
娘たちも、特に上の娘は、私のことを名前では呼びません。
お父さんと呼びます。
小さいころは、「お父さん」ではだれのお父さんからわからないので、名前で呼んでよと頼んでいましたが、彼女にはそれはあまり受け入れてもらえませんでした。
下の娘は、名前で呼んでくれることもありましたが、やはりなかなかそうはならないようです。
人の名前は、個人の名前で呼ぶべきだというのが私の考えですが、どうもあまり一般的な考えではないようです。

節子は、それでも夫婦の間では名前で呼ぶことには賛成でした。
ですから私たちは、基本的に名前で呼び合っていたわけです。
今も毎朝私は、仏壇に向かって、「節子、おはよう」と声をかけています。

しかし、実はその「私の文化」とは矛盾しているのですが、むすめたちに対して、私は自分のことを「お父さん」と呼んでしまっています。
最近気づいたのですが、それが娘たちが私のことを名前で呼ばなかった理由かもしれません。
節子にも、娘たちに私のことを言う場合は、「おさむ」と呼ぶように言っていましたが、「お父さん」と言っていたような気がします。
それでよく、「私は節子のお父さんではないので、その言い方はやめてほしい」と頼んだこともありますが、節子はその他のミーティングは適当のかわしてしまっていました。
困ったものです。
私を心底信頼していた節子さえも、変えられませんでした。
個人の文化を、家の文化にするには、そう簡単なことではないのです。

人をどう呼ぶかで、その人との関係性が決まってきます。
だから私は、どんな人でも、基本的に「〇〇さん」と呼ぶようにしています。
しかし、多くの場合、名前ではなく苗字のほうが多いのです。
このこともまた、私の基本的な考えを象徴しています。
というよりも、日本では苗字ではなく名前で呼ぶのが、いささか礼を失するところがあるような気がして、徹底できなかったのです。

私の文化も、いささか首尾一貫していません。

■3440:豊かに生きることにしました(2017年2月6日)
節子
庭の藤棚は直してもらったので、少しずつ庭の整理をしていこうと思います。
今日は大きくなった樹をかなり思い切って切りました。
さっぱりしましたが、やはりいろいろと枯れてしまっていました。
手入れをしないと自然は維持できませんね。
池も放置しっぱなしですが、金魚とメダカは元気でした。
どこかにカニも隠れていて、あたたかくなったら出てきてくれるといいのですが。

節子がいなくなってから私が植えた琉球朝顔は評判がよくありません。
ともかく元気で、庭を席巻してしまったのです。
ハナミズキにもジュンベリーにも、そしてサルスベリにまでつるがのびてしまい、それこそ枯れ木に花の状況でした。
植木鉢のヒバも枯れてしまいました。
節子が戻ってきたら、さぞかし嘆くことでしょう。
節子が大事にしていた山野草はほぼ全滅です。
困ったものです。

下の畑も、今年はやれなくなるかもしれません。
家が建つかもしれませんので、さてどうしようかと迷っています。
せっかく少しずつ畑らしくなってきたのに、ちょっと残念な気もしますが。
まあそうやって状況は変わっていくのです。

今年は微笑みを大事にしようと思っています。
人生最後の5年くらいは、節子のように、すべての人に感謝しながら生きていこうと思います。
もう遅いかもしれませんし、まだ早いかもしれませんが、今年は腹を立てたり誰かを非難したりすることのないように、豊かに生きたいと思います。
だいぶ心構えができてきましたが、正直、まだ予行練習の段階です。

■3441:中野さんからの年賀状(2017年2月7日)
節子
エジプトの中野ご夫妻から年始のあいさつが届きました。
また生活の拠点をカイロに戻したそうです。
うっかりしていて、この数年、中野さんたちが日本に来ていたことに気づきませんでした。
お会いし損ないました。
まあこんな感じで、友人知人との交流もかなり穴が開いてしまっているのでしょう。
こんなところにも、生活の乱れを感じます。

中野さんはいつも、年賀状に興味ある写真を印刷してくるのですが、今年はカイロ博物館にある「メイドゥムのガン」の写真でした。
偶然なのだそうですが、今年のエジプトの1ポンド切手の図柄も、メイドゥムのピラミッドなのだそうです。
私はメイドゥムのことは知らないのですが、あの豊かなエジプトの世界に触れて暮らしている中野さんたちがうらやましいです。
節子がもし元気だったら、もう一度といわず、何回かは触れることができたと思います。

中野さんの奥さんは、時々、ラジオでエジプト報告をしています。
深夜放送なので、私は最近は全く聞いていませんが、お元気そうです。
エジプトに行ったのはもう25年ほど前ですから、いまもなお年賀状をくださる中野さんたちに感謝しなければいけません。

節分が終わった頃に年賀状をくれる友人がいます。
その友人からの年賀状が届いたら、年賀状を書こうと思っていました。
その年賀状は数日前に届きましたが、やはり年賀状を書く気がおきません。
いやはや困ったものです。
中野さんは、たぶんエジプト情勢の影響もあったのでしょうが、めずらしく2月になってから届きました。
いつもはきちんと元日に届くのですが。

年賀状や年賀メールを出せていないのが、かなり心に負担を与えているのですが、なぜかやはり書けません。
どうしてなのでしょうか。

■3442:認知力の衰えの効用(2017年2月7日)
節子
最近、私の認知力もかなり低下してきています。
いささか危ういかもしれません。
もっとも、記憶力の悪さとうっかりさは、昔からのことです。
今に始まったことではないかもしれません。
重要なことは忘れないのですが、そもそも「重要なこと」に関する評価基準が、どうも私と世間とは違うようなので、困ることがあります。
最近は認知症を危惧されるほどに娘からも注意されますが、歳をとるにつれて、記憶の量は増えるわけですから、忘れていかねば頭の容量がパンクしてしまうでしょう。
忘れることは決して悪いことではありません。
健全な老化として、素直に受け入れるのがいいでしょう。

テレビのドラマや映画を観ていると、忘れることの効用を実感できます。
たとえば、私はテレビドラマの「相棒」が好きなのですが、再放送を見ていても、前に見たことは覚えていますが、筋書きを忘れているので、何度でも楽しめるのです。
いまのところはそれでも忘れるためには数か月の期間が必要ですが、その内、毎日見ても新鮮で面白くなるかもしれません。

もうひとつ最近気づいたことがあります。
人の顔、とくに女性の顔の見分けがつきにくくなってきました。
私はむかしから猿の顔や犬の顔はあまり見分けがつかなかったのですが、最近は人間の顔も次第に見分けにくくなってきています。
これも健全な老化のおかげでしょうか。
顔の見分けがつかなくなると、すべての人が私にとっては同じ存在に見えてくるわけです。
つまり、みんな友だち、かけがえのない人になるわけです。
そうなるとだれにでも優しくできるし、誰にも助けてもらえそうです。

歳をとるということは、そういうことではないか。
などと思い出していますが。さて私の物忘れがこれ以上ひどくなると困ることもあるのでしょうね。
でもまあ、今までもかなり物忘れや勘違いが多かったので、さほど大きな問題は起きないでしょう。
さて、今日もまた、テレビの再放送ドラマでも見ることにしましょう。
今日、やらなければいけないことは忘れて。

■3443:老いや死に対する、安らかな、落ち着いた境地(2017年2月9日)
節子
朝起きたら隣家の屋根がうっすらと白くなっていました。
みぞれが降っていました。
今日は自動車で出かける予定があるのですが、いささか心配です。

昨夜、佐久間さんからメールが届いていました。
友人の青木新門さんが1月23日の読売新聞に載っていた五木寛之さんの「死を語る」での発言に大きな違和感を持っていて、それを青木さんがブログに書いたので、拡散してほしいという内容でした。
青木さんのブログと五木さんの記事を読みました。
青木さんのブログは、下記サイトの2017年1月27日の記事です。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~amitaabha/

私は、青木さんの意見に共感しました。

五木さんは、単独死、孤独死が、悲惨だとは思いませんと書いています。
もし悲惨という言葉を使うのであれば、私はそこに行きつく「生き方」こそが悲しいと思っています。
私は、孤独死しないような生き方に努めたいと思っています。
多くの人もまた、そう願っているのだろうと思います。
それは難しいことではありません。
隣の人に思いやりを持つだけで、実現できることなのですから。

また、五木さんは「老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう」と言っていますが、それにも大きな違和感があります。
私は、安らかな死は、人間にとっての基本ではないかと思っています。
それがおろそかにされてしまっている、私たちの生き方を見直す必要があると思っています。
それで昨年から、「看取りの文化を考える」シリーズのサロンを始めました。
今回は、小田原で30年前から福祉施設での看取りに取り組んでいる人に、自然に死に向かう生き方の素晴らしさを話してもらう予定です。

青木さんのフェイスブックにもそう書き込ませてもらいました。

しかし、なぜ五木さんは、老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地がないと決めつけるのでしょうか。
そんなにさびしい生き方をしているのでしょうか。
五木さんの仕事を手伝っていた黒岩さんが元気だったら、五木さんのことを教えてもらえたかもしれません。

五木さんが、救われることを祈ります。

■3444:「最後」になるかもしれない会食(2017年2月9日)
節子
兄夫婦と食事をしました。
今年になって2回目です。
節子がいなくなってからは、あまりなかったことです。
近くに住んでいますが、わが家と兄夫婦の家とは、「文化」が違うのです。
文化というと大仰ですが、生き方が違うと言った方がいいかもしれません。
仲が悪いわけではありません。

兄夫婦も80歳を超えました。
まあこれから先、何回、食事を一緒にできるかわかりません。
お互いにいつどうなるかわからない。
そろそろお互いに、「残された時間」をなんとなく感ずるようになっています。

先日、「おヒョイさん」こと藤村俊二さんが亡くなりましたが、あの報道を見ていて、私の生き方が少し変わったのです。
私は、懇親を深めるための会食があまり好きではありません。
そもそも懇親を深めるという概念があまりないのです。
一度でも会えば、私の場合は、それでほぼ深い関係(私からの一方的な思いだけではありますが)ができてしまいます。
敢えて、それを深める必要もないのです。
それに、昔話や他人のうわさ話が大嫌いです。
ですからテーマを持った話し合いを伴う会食は大好きですが、単なる雑談のための会食はあまり好きではないのです。

その上、美味しいものを食べるということにも、関心はありません。
ですから会食の誘いはいつもどうも気が乗らないのです。
しかし、今回はわたしからのお誘いです。
相手も戸惑ったかもしれません。
私らしからぬことなのですから。
相手にも迷惑かもしれないので、一応、気遣いして、我孫子では私が一番おいしいと思っているうなぎ屋さんに誘いました。
うなぎは、私のような生活レベルの人には、いまや「ぜいたく品」になってしまいましたが、いつも質素に生きていますので、たまには許されるでしょう。

うなぎ屋さんは混んでいました。
どうも私は、最近大きく社会から脱落してきているようです。
うなぎの美味しさから話は弾みました。
成田のうなぎ屋さんの話から京料理の話へ、そして京都の話へと広がりました。
来月、兄たちは娘家族も一緒に、みんなで京都に旅行に行くそうです。
みんなで行くのは最後だろうと言っていました。

最後という言葉が、抵抗なく往来するようになってきました。
今回は、娘も付き合ってくれました。
感謝しなければいけません。

■3445:新潟のチューリップ(2017年2月7日)
節子
新潟の金田さんが、また今年も、たくさんのチューリップを送ってきてくれました。
今年はあまりいろんな種類がなくて、と昨日、電話をもらっていました。
早速節子に供えさせてもらいました。

わが家の庭にもかつてはチューリップがだいぶ咲いていましたが、いまはほとんど見かけません。
チューリップは毎年植え替えないといけないので、けっこう大変なのです。
節子がいなくなってからの手入れ不足で、庭のチューリップはほぼ全滅です。
下の畑の花壇への球根植えも、昨年さぼってしまいましたので、今年はあまり咲かないでしょう。

節子が亡くなった後、献花に来てくださった人たちに、チューリップの球根を差し上げていた時期があります。
そのひとつはネパールにまで行き、見事に咲いてくれました。
ミニバラの小鉢を持って行ってもらった時期もありました。
私もとても気に入ったミニバラだったので、湯島にももっていきましたが、枯らしてしまいました。
節子の分身として花をお礼にさせてもらった趣旨からいえば、もっと生命力や増殖力の大きなものを選べばよかったなと、いまは思います。
わが家にも同じものを植えたりしましたが、残念ながら我が家の庭からもなくなってしまっています。

チューリップは節子も好きでした。
当分は、節子もチューリップに囲まれて幸せ気分でしょう。
家じゅうがチューリップだらけです。

今日は3編も挽歌を書きました。
もうじき追いつけそうです。

■3446:忘れることはいいことだ(2017年2月10日)
節子
雪の昨日とは違い、今日はまたあたたかな陽光がさしている朝です。
自然の変化は見事というしかありません。

昨日はとても嫌な夢を見ました。
起きた時に心身中に「不安感」が充満しているような気がしました。
もっともその内容は、あまり思い出せません。
起きた時には確かに覚えていましたが、顔を洗ったら、そのまま忘れてしまいました。
しかし残念ながら、不安感はまだ残っています。
最近また気分の変動が激しいです。

昨日、友人がハガキで、本を読んでも読む端から忘れていくということにつづいて、「あの重要な?「佐藤修の3原則」もときどき「なんだっけ?」と思い出せなくなります」と書いてきてくれました。
そういえば、そんな言葉を聞いたことがあったなと私も思い出して、「佐藤修の3原則」ってなんでしたっけ、とメールで質問しました。
今朝、返事が届いていました。

提唱者が覚えていないのですから
たとえ3つでも忘れてしまうのは不思議ではありませんね。
安心(?)しました。佐藤修の3原則は
1)いいとこ探し
2)お金より人間関係
3)できることから小さな一歩
です。
覚えていらっしゃいますか?

なるほど。
私の生き方の真ん中にある考えです。
そこで4つ目の原則を加えることにしました。
4)忘れることはいいことだ

最近、夢はすぐ忘れます。
夢だけではなく、いろんなことを忘れる能力が高くなってきています。
そのうちに、生きていることを忘れられるようになるかもしれません。
しかし、いまはまだそこまで行けていません。
内容は忘れてもまだ、昨夜の夢が生み出した不安感は残っています。
もう少し忘れる能力を高めないといけません。
節子のことも忘れられるかもしれません。
忘れるとは、つまり自らと一体になるということですから。

■3447:昔話もいいものです(2017年2月10日)
節子
今日も寒い1日でした。
久しぶりに近くに住んでいる友人のAさんと食事をしました。
節子もよく知っているAさんです。
海外旅行が好きだったAさんは、パリで病気になり、以来、あまり旅行もできなくなってしまいました。
いまもあまり無理はできないようです。
年に一回くらい、わが家にも来てくれるのですが、昨年は来られなかったようで、食事を誘われました。

Aさんは、私があまり昔話が好きではないことをよく知ってくれているのですが、それを踏まえたうえで、昔話は健康にいいようだと言いました。
たしかにそれはそう思います。
認知症対策にも昔話は効用があるようです。

その認知症ですが、最近さらに状況は悪化してきているようです。
待ち合わせのお店に定刻に着いたのですが、彼が見当たりません。
あれと思ったのですが、まあそのうち来るだろうと思って席に座りました。
そしてメニューを見て、お店を間違っているのに気づいたのです。
あわててお店の人に謝って、お店を出ました。
待ち合わせのお店は隣のお店だったのです。
すでにAさんは来ていました。
困ったものです。

ところで私の昔話嫌いの一因は、あんまり覚えていないからでもあります。
しかし、話しているといろんなことを思い出します。
たしかに昔話の効用はあります。
彼とは私が昔勤務していた会社の同期生です。
ですから共通の知り合いはたくさんいるのです。

こんな話もありました。
私が入社したころの上司が、佐藤は言うことを聞かない部下だったと言っていたそうです。
その上司はとてもやさしい上司でした。
当時、私は滋賀県に勤務していましたが、私が同僚たちに自転車で琵琶湖一周を提案して実行した時のことです。
なぜかお昼ごろに、その上司が心配して車で追いかけてきてくれたのです。
きっと私はひ弱なもやしっ子に見えたのでしょう。
そういわれればその通りだったのです。
幸いに自転車での一周は成功しましたが、しばらくはお尻が痛くて大変でした。
その上司が、私のことをそう言っていたとは今日まで知りませんでした。
私は組織人としては最初から脱落していたのでしょう。
多くの人の支えで、25年間も務めさせていただけたのが驚きです。

そういえば、私が突然、会社を辞めると言い出した時に、節子が最初に言った言葉は、よく25年ももったわね、だったような気がします。

もうひとつ今日は意外なことを知りました。
Aさんが、私のことを当時、「詩人」のようだったと言ってくれたのです。
これも初耳でした。
Aさんは、私たちの結婚通知のことも覚えていてくれました。
それは詩ではなかったのですが、詩のようだったと記憶してくれていたのです。
ちょっとうれしい気がしました。
その結婚通知を私も読み直したいのですが、見つかりません。

昔話もいいものです。
今日はAさんにいろんなことに気づかせてもらいました。
感謝しなければいけません。

■3448:葬儀の記憶(2017年2月11日)
節子
今日は私の父の命日です。
同居してから10年もたたなかったのですが、父を自宅で看取りました。
葬儀も自宅で行いました。
私も節子も初めてのことでしたが、当時はまだ自宅での葬儀が多かったような気もします。
お通夜はすごい寒い日で、凍えそうでした。
会社の仲間が手伝いに来てくれましたが、わけのわからないまま、終わった気がします。

母の時は、お寺で葬儀をしてもらいました。
節子が段取りをつけてくれたと思います。
そのせいか、私にはあまり記憶がありません。

つまり2回も喪主として葬儀を行いながら、ほぼすべてを節子に任せていたということになります。
そして、節子の葬儀。
流れに任せてしまい、結局、葬儀社で葬儀をする結果になりました。
節子は自分の友人たちを中心にした小さな葬儀を望んでいたと思いますが、私の友人が一部の人たちに訃報を流してくれたので、NPO関係の人たちがたくさん来てくれました。
手伝ってくれたのも、NPO関係の人たちでした。
節子が望んでいたのとはちょっと違ったものになってしまいましたが、たぶん節子も喜んでくれたはずです。
私も、想いを話すことができましたし。

父の葬儀の時には、子どもたちにも後で見せようと思い、葬儀の風景を撮影するようにしておきました。
父の死に顔まで記録に残しましたが、葬儀が終わった後、すべてを消去しました。
あの頃はまだ、死を観察する側にいたから、たぶん撮影ができたのです。

ちなみに、節子の両親の葬儀も体験しています。
いずれも自宅での葬儀ですが、義父の葬儀は印象に残っています。
雪の日でしたが、まだ土葬の時代で、みんなで行列をつくって、お墓まで行くのです。
先導は子どもで、私の娘のユカが白装束でその役を担いました。
ジュンは生まれたばかりだったので、私の義姉に預かってもらっていました。

義母の葬儀は全員で行きました。
節子はすでに発病していましたが、微塵もそれを見せずに、場を明るくするようにふるまっていました。

自宅とお寺と葬儀社のホール。
そして信仰深い浄土真宗の時間をかけた在所の人たちが参列する葬儀。
いろいろと体験しましたが、やはり一番よかったのは、自宅かもしれません。
私の場合は、自宅でのそれこそ内輪の家族葬ができるように、準備をしておきたいと思います。
彼岸から節子もきっと参列してくれるでしょうから。

父の葬儀の日ほどではないですが、今日も寒いです。
父が逝ってから30年。
前にも書きましたが、今年はわが家には少し不安がある年なのです。
今年は例外にしてもらうように、お祈りさせてもらいました。
そのお祈りをしたせいか、今日は朝から私の調子があまり良くありません。
今日はゆったりと休養をとろうと思います。

■3449:パソコンに向かう時間が減りました(2017年2月15日)
節子
また3日間、挽歌を書けませんでした。
暇で暇で仕方がない割には、なぜかパソコンに向かう時間がないのです。
まあ節子から見れば、それこそが正常な生き方なのですが。
節子は、私がパソコンに向かう時間が多すぎるといつも言っていましたから。
今にして思えば、本当にそうでした。
パソコンに向かう時間を減らして、節子に向かう時間を増やせば、と反省しています。
すみません。

挽歌を書かない日も、お風呂に入っている時には、必ず節子のことを思い出しています。
お風呂をあがって、すぐにそこで考えていたことを挽歌にすればいいのですが、最近はお風呂から上がるともうパソコンをする気など起きません。
なにしろパソコンのある私の仕事場の部屋は、エアコンもない寒い部屋ですので。
暖房器具は一応あるのですが、あんまり効果がないのです。
先もそう長くないですから、これ以上、余計なものは買いたくありません。
ですから古い電気ストーブを使っているのですが、これがまたあんまり役に立ちません。

午前中は自宅にいることが多いのですが、午前中はリビングの陽当たりがよく、エアコンがなくてもあったかいのです。
そこで陽に当たりながら、時に読書もしますが、そこにノートパソコンを持ち込めばいいのですが、自宅のパソコンはみんな壊れて、というか、壊してしまいました。
仕事で収入があったら、パソコンをもう一台買おうと思いますが、最近は残念ながらその余裕がありません。
困ったものです。
しかし、そのおかげで、節子が嫌いなパソコン時間が減っているのです。

この挽歌はいま、自宅の仕事場のパソコンで書いていますが、寒くなって心身が冷えてしまいました。
気が付いたら電気ストーブをつけるのを忘れていました。
寒いわけです。
書き遅れていた挽歌を2,3書こうと思っていましたが、これが限界ですね。
それでは節子
またあした。

■3450:苦楽を共にする伴侶がいてこその人生(2017年2月16日)
節子
昨日はゆっくり眠れました。
幸いに元気で眼が覚めました。
朝から大忙しでしたが、やっと自宅に戻ってきました。

今日はあたたかいので、パソコンに向かうことにしました。
パソコンはネットを通してさまざまな世界とつながっていますから、良いことも悪いこともパソコンを開いただけで飛び込んできます。
読み流しておけば、それで終わりますが、ちょっと反応すると、そこから何かが生まれることもあります。
それがパソコンの世界の面白さかもしれません。
しかし、きちんとコミュニケーションできる相手は決して多くはありません。
たぶん私もそうなのでしょうが、ほとんどの人が「書きたいこと」を書いてくるだけで、コミュニケーションが成り立たないことも少なくありません。
しかしピシッとコミュニケーションが成り立った時は気分がいいです。
今日はそんな体験もしました。
もちろんそうでない体験も、ですが。

私の体調があんまりよくないという話がどうも広がっているようで、「体調はよくなりましたか?」という言葉が添えられているメールが最近時々あります。
たしかに悪いといえば悪いのですが、まあこの歳になると、体調が悪いのも「健全」、つまり「正常」だと思っていますので、自分ではほとんど気にしていないのですが、そう思わせることは良くありません。
反省しなければいけません。

それにしても、人生は多事多難の連続です。
木枯らし紋次郎のように、「わっしには関わりのないこと」という人生を主義にしていても、あれだけ多事多難に関わってしまうわけですから、それだけの信条もない私が多事多難に苛まれるのは仕方がありません。
お金や権力でかたをつけたがる人が多いのもよくわかります。
お金も権力もない私のようなものは、逆に多事多難を楽しむようにしなければ身が持ちません。
残念なのは、そうしたことを共に楽しみ共に苦労する節子がいないことです。
苦楽を共にする伴侶がいてこその人生。
最近つくづくそう思います。

さてもう一仕事です。

■3451:読書時間が増えました(2017年2月18日)
節子
昨日は、挽歌を書いた後、本を読んでしまいました。
図書館に頼んでいた本が届いたのです。
井出栄策さんの「経済の時代の終焉」です。
先日お会いした室田さんが、井出さんの話をしていたのですが、その関係で読んでみる気になったのです。
ちなみに、以前、井出さんの軽い本は読んでいるのですが、きちんとしたハードカバーを読むのは初めてです。
経済学者の本は、読んでいつも失望しますので、あまり読みたい気はなかったのですが、室田さんにサロンを開いてもらうことにしたので、読んでおこうと思ったのです。
昨日は、とりあえず序章だけを読んでみようと思ったのですが、それが面白くて、結局、夜中までかかって読了してしまいました。
井出さんへの印象が変わりました。

まあそれは挽歌とは関係ない話なのですが、最近読書する時間が増えてきています。
若い友人の一人が、私は本を読めさせすれば幸せなのだと話していましたが、その気持ちも少し最近わかってきました。
本の世界は無限に広いですから。
それに、本の世界では自分が主役になれますし、人間関係やコミュニケーションミスに煩わされることもありません。
現実から逃避しているのかもしれませんが、本は読めば読むほど、読みたいことが広がっていきます。
その気持ちは、若いころを思い出させてくれます。
世界は知れば知るほど広がっていく。
いかに知らないことが多いことか。
そう思うと世界は輝きだします。
どこに行っても、発見がある。
節子も私も、そんな時期がありました。
一緒に暮らしだした時の、新鮮さが思い出されます。

私が一番本を読んだのは30歳前後の頃だったでしょうか。
大学時代はそれほどの読書家ではありませんでしたが、30歳前後に一番本を読んだような気がします。
読書量は減ったのに、書籍の購入が増えたのは40代でした。
当時は関心がある本は近くの本屋さんに届けてもらいましたが、多い時には段ボール箱で届けてもらっていたほどでした。
なにしろ私がお金を使うのは、書籍代くらいでしたから。
そのころ購入した本は、いまも読まずに残っている全集や講座が書棚の奥にあります。
書籍には悪い事をしてしまったわけです。

読書は伴侶の代わりにはなりませんが、どこか通ずるところがあるような気がしてきました。
私の読書の仕方が変わってきているのかもしれません。

■3452:魅力的な人たちその1(2017年2月21日)
節子
ちょっと気を許すと挽歌を書いていないことに気づくようになってしまいました。
私の時間の進み方がかなり変わってきているのかもしれません。

昨日はとても面白い人に会いました。
いわゆる「先住民」の世界とつながりが深い人です。
これもまた魅力的な生き方をしている杉原さんが昨年末に引き合わせてくれた人です。
杉原さんも、節子は会ったことがないはずです。

節子が元気で、湯島にも来ていた頃も、いろんな人が湯島には来てくれましたが、私がまだ、いわゆる「ビジネス」をしていたこともあって、多くは節子にも理解できる人が多かったと思います。
しかし、節子がいなくなってから、そして私がビジネスをしなくなってから、湯島に来る人たちはますます不思議な生き方をしている人が増えてきました。
いま湯島に来ている人たちに、節子が接してくれたら、私の生き方がさほど特殊ではないことを納得してくれるだろうと思います。
節子は私の生き方にはとても共感してくれたはいましたが、どこかでまだ「変わった生き方」と思っていたような気がします。
しかし、たぶん私の生き方は、極めて平凡で普通な生き方のです。
ただし、時間軸を長くとって、いまのような人間たちが生まれてからの平均という意味での「平凡」ですが。

それはそれとして、その先住民の世界の人ですが、彼が話してくれたとりあえずの目標にとても共感しました。
一言で言えば、東京にアイヌの人たちの居場所をつくる応援をしたいというのです。
聞いただけでなにかワクワクします。
私はそうした世界にはとても入れないのですが(最近自分が徹底的に近代人であることを自覚するようになってきています。それも極めて退屈な近代人なのです)、そうしたことができる人には羨望の念も込めて魅かれてしまうのです。
それでついついその話に引き込まれてしまいました。
何かできることがあるのではないか、いつものようにそう思ってしまったのです。

その人はこれから3か月ほど、台湾や韓国に行ってしまうので、しばらくはお預けですが、念何は少し何かが始まるかもしれません。
そうなれば、もう少し暇でない生き方ができるかもしれません。

■3453:魅力的な人たちその2(2017年2月21日)
昨日はもう一人、魅力的な人に会いました。
その人も昨年秋ころに出会った人ですが、昨日が3回目くらいでした。
私よりも年上で、私と同じく、伴侶を亡くされています。

いまは会社も辞めて、たぶん悠々自適なのでしょうが、後輩や仲間のために、活動をしています。
私と違って、経済的にも余裕があるそうで、私はいつも食事をご馳走になってしまいます。
昨日も肉の万世でランチを、そしてコージーコーナーでケーキと紅茶をご馳走になりました。
まあ食事をご馳走になったから魅力的だということではありません。
その人の生き方が、実にさわやかなのです。
最初は、もしかしたら伴侶を亡くして人生を投げているのかとさえ思ったのですが、そうではなくて、それがその人の生き方のようです。
すべてを受け容れ、想いきりいい加減に生きているようで、芯がある。
周りの迷惑など気にしないほどに自分の人生を生きているのに、過去のことには愚痴をこぼさない。
私と同じく、もうさほど先がないのに、先を見て生きている。
話していて、実に気持ちがいいのです。

高齢者と話していて、これほど気持ちのいい時間を過ごせることはそう多くはありません。
一緒にいるとどこかホッとするのです。
その上、ご馳走までしてくれる。
イヤイヤつい自分でも意識していない「本音」?がでてしまったのでしょうか。
やはりちょっと食事で買収されているかも知れませんね。
困ったものだ。

昨日は帰り際に、その人も「佐藤さんとあっているとホッとするね」といわれました。
どこか相通ずるところがあるのかもしれません。
つまりお互いにバランスはとれているのです。
そういえば、昨日会った先住民の世界に魅かれている人も、帰り際に会えてよかったと言ってくれました。

こういう出会いが多いと、人生ももっとワクワクするし、もっと心安らかになるでしょう。
しかし、人は誰もがそうした面を持っているはずです。
昔のように、私ももっと感受性と理解力を高めなければいけません。
節子がいた頃は、だれにでもワクワクすることを見つけられていた気がします。
私もかなり老いてきたのでしょうか。
これこそが困ったことかもしれません。

■3454:「助けてください」(2017年2月22日)
節子
最近少し寝坊になってきています。
5時過ぎに目が覚めるのですが、寒いので起きる気にならず、その内にまた眠ってしまい、気がつくと7時近くになっています。
そして、そこからまずやるのが、歯磨きです。
これは節子がいた時にはまったくなかったことですが、最近、テレビで朝起きてすぐ歯磨きをすると風邪をひかないと町のお医者さんが言っていたので、即実行しだしたのです。
私にはめずらしく、もうかなり続いています。
そんなわけで、この冬は風邪はひかないわけです。

そんなわけで、また平和な1日がはじまりました。
私自身は最近は平和なのですが、世界はそうとは限りません。
新聞を見るのが嫌になるほど、世界はおかしくなっています。
人間が進歩しているなどとはとても思えないような気がします。
身近にさえも、そうした状況は迫ってきています。

昨日の朝、メールを開いたら、「佐藤さん、助けてください」というタイトルのメールが届いていました。
女性からのメールです。
ドキッとしますね。
内容を読んだら、さらにドキッとする内容です。
早速に思いついたアドバイスをしましたが、アドバイスで終わる話ではなさそうです。
さてどこまでコミットするか。
注意しないとまたいつかのような悪夢に引きずり込まれて、私の平和も乱されかねません。
しかし、宮沢賢治がいったように、世界中のみんなが幸せにならない限り、私の幸せはあり得ないのです。
ですから、今朝、気持ちのいい青空を見上げながら、今日も平和な1日になりそうだなどと思うこと自体が、実は間違いなのでしょう。

その一方で、ティク・ナット・ハンがいうように、
自分が幸せでないかぎり、周りの人を幸せにはできないのであれば、世界の幸せなど生まれるはずもありません。
自らの幸せと世界の幸せ。
どちらが先なのでしょうか。

今日はとりあえず、私の幸せを大事にしましょう。
私にとっての幸せは、何もしないことです。
しかし、生きている以上は、何かをしなければいけません。
何かをすれば、何かが起こる。
そして、心の平安は乱されます。
最高の幸せは、だから「死んでいること」かもしれませんが、何もしないで、今日1日を過ごすことは難しい。
幸いに今日はたぶん人に会わずに過ごせそうです。
できるだけ自然に接して、生命力を高める1日にしようと思います。
「助けてください」という声に応えるのは、明日からです。

■3455:機械時計よりもゆっくり進む体内時計(2017年2月22日)
節子
この前の挽歌を書き終えて思い出したことがあるので、もう一つ書きます。

節子も知っているMさんの話です。
私の小学校時代の同級生ですが、大学教授を定年で辞めて、いまは悠々自適な生活をしています。
趣味は琵琶と乗馬。
昨年の今ごろ、湯島に琵琶を弾きに来てくれました。
節子が亡くなった後も、わが家に献花に来てくれました。

琵琶を弾いてくれた時に、一つ残された課題がありました。
彼女の人生最後の仕事の話です。
それがその後どうなったか、先日メールしました。
そこからメールのやりとりが始まったのですが、彼女の時間感覚に教えられることがありました。
最初の私のメールへの返事は、これから乗馬に行くので、戻ったら連絡するという内容でした。
しかしなかなか返信が来ません。
1週間くらいたってから、返信が来ました。
まるで1週間など全くなかったように、です。
それにまた返事をしました。
また1週間後かなと思っていたのですが、やはりすぐには返事がありません。
そして、数日してメール。
何回かのやり取りを通して、あきらかになったのは、彼女が自分の時間を生きているということです。
私もそういうところが少しはありますが、基本的には時計時間をそれなりに尊重しています。
しかし、彼女の場合は、たぶん機械時計よりもゆっくり進む体内時計を持っているのでしょう。
さらにもしかしたら、昨日の翌日が今日ではないのかもしれません。

彼女と来週会う約束をしたのですが、会えるかどうか心配ですね。
まあ、こうやって人は自分の世界に戻りながら、自然に還っていくのかもしれません。
私の体内時計も、世間からは大きく外れているのかもしれません。
それは自分では気づかないのでしょう。
いろいろな人に迷惑をかけていることがないことを祈ります。

■3456:ネパールカレーを食べながら思い出したこと(2017年2月22日)
節子
今日はユカと一緒に、近くのハリオンというインドカレーのお店に行きました。
美味しくて量も多くて、しかも安いうえに、お店の人がみんないい人なのです。
たぶん節子も来たことがあるはずですが、残念ながらあまり記憶が定かではありません。
歳のせいばかりではないのですが、私の記憶力はかなり悪いのです。
たぶん友人知人は、そうは思っていないでしょうが。

今日は中辛に挑みましたが、まあもう少し辛くても大丈夫そうです。
このお店は確かネパールの人たちがやっていると聞いていましたが、それも記憶違いかもしれません。
食事しながら、ネパールで咲いたチューリップはどうしたかなと思い出しました。
節子のためにわが家に献花に来てくれた田中さんがネパールに持ち帰って植えてくれたのが咲いたのです。
チューリップの球根はきちんとケアしていかないと小さくなってしまうので、たぶんもう消えてしまっていることでしょう。
でもまあ、節子の思いはネパールにまで届いているわけです。
節子が元気だったら、訪れてみたいところのひとつでした。

新潟の金田さんが送ってきてくれたチューリップは、まだわが家で頑張っています。
しかし、そろそろ限界かもしれません。
来年はまたわが家でもチューリップを植えようと思います。
そろそろ庭の手入れもしなければいけません。

春が近づいてきています。

■3457:風の声(2017年2月23日)
節子
今日は「春三番」の強風です。
すごい風です。
わが家は、風の道にあたっているところなので、風の日は恐ろしいほどです。
片づけをしていない庭が、ますます大変なことになりそうです。

風の音は、その時々の自分の気持でさまざまに聞こえてきます。
そこに、悲しみや喜び、あるいは怒りやおそれを感じます。
節子がいなくなってからの数年は、特にそう感じました。
心が敏感になっていると、風とも溶解しあえるのかもしれません。
風が自らを代弁してくれていると感ずることさえありました。

最近は、あまりそういう感じを持てなくなりました。
しかし、それでも今日ほどの強い風になると、心が少しだけ共感します。
どこかできっと、かつての私のように、声にならない叫びや思いを解き放ちたいと思っている人がいるような気がします。

悲しさやおそれは、解き放すのがいい。
しかし、解き放した悲しみやおそれ、怒りが、改めてまた自らに戻ってくる。
それを知っているから、みんな、それを解き放てないのかもしれません。
しかし、今日のような強風であれば、きっとどこかに持って行ってくれるでしょう。

強い風に心身をさらけ出すのも、また元気をもらえます。
これで空さえ青かったら、もう何も望むことはないのですが。

今日は、この風の中を出かけなければいけません。
春を迎えるためには、やはり自らを風にさらさなければいけません。
雨が降らなければいいのですが。

■3458:不審者(2017年2月23日)
節子
久しぶりにおまわりさんがやってきました。
むかしは定期的におまわりさんが家庭訪問していましたが、最近はそういうこともないので、何事だろうかと思って出てみました。
この近くは、駅前の交番が担当なのです。
おまわりさんが回ってくるのはめずらしいですね、といったら、わが家の近くで不審者情報が届いているので、周辺の人にも注意してもらおうと回っているということでした。
「不審者ですか?」と訊いたら、背広にズックの見かけない人が近くの階段(結構死角になる階段があります)で目撃されているのだそうです。
わが家は袋小路の一画なので、通行客はいないのですが、その小さな階段だけは、その袋小路の途中にあるのです。

おまわりさんが帰った後、ふと思いました。
もしかしたら私も不審者と思われてもおかしくないな、と。
もちろんわが家の周辺ではみんな知り合っていますから、その恐れは皆無です。
しかし、私のかっこうは、まああまり身だしなみもよくなく、娘からはいつも注意されていますが、近くの場合はいつもサンダルです。
スーツとは言いませんが、ジャケットにサンダルということもあります。
電車に乗る時だけはサンダルはやめてほしいといわれていますが、私はサンダルが好きなのです。
それに最近面倒くさくてひげをそらないことも少なくありませんし、時々、セーターの前後ろを間違って着ていて、娘に注意されたりしています。
典型的な認知症老人になりかかっているわけです。
困ったものです。
まあ、困るのは私ではなく、娘たちですが。

時々、歩いていて、あることが気になると立ち止まって他の人の家を見てしまうこともあります。
節子ほどではないですが、変わった花が咲いていると見てしまうわけです。
節子の場合は、家の人に声をかけて庭に入らせてもらったりしていましたが、私はそんな勇気はありません。
でもまあ、時々、立ち止まって見てしまう。
不審者扱いされる資格はありそうです。

さてさて明日からは、不審者と思われないように、少し身だしなみに気をつけましょう。

■3459:言語の違い(2017年2月24日)
節子
昨日は久しぶりに川口のコミーの会社に行きました。
新しい施設をつくるので、それを見せてもらいがてら、少しはコミーの役に立てることがないかということで、お伺いしました。
コミーの会社では、私は「シューさん」で通っているようです。
「修」を小宮山さんが「シュー」と呼んでいるのが広がったのです。
今日もたぶん朝礼で私が行くことが社員に伝わっていたのだと思いますが、おかげでいろんな人に声をかけてもらいました。
コミーは誰に会ってもあいさつされる会社なのです。

施設を見せていただいた後、コミーの中心にいる3人と話しました。
私が役に立てることが、もしかしたら見つかりそうです。
さてさてやっと「恩返し」ができそうです。
しかし、3人と私の言語の違いを少し感じました。
小宮山さんとは、一見、言語が違うようで、通じ合えます。
お互いにまったく嘘がないので、安心して論争もできます。
しかし、ビジネスの世界にな場くいると、生活言語ではないビジネス言語に呪縛されがちです。

ちなみに、最近少しだけ小宮山さんの役に立ったことがあります。
小宮山さんは、いま、駅構内での事故を減らすためのミラー活用を考えています。
すでに西川口駅では、実験を始めていますが、それをベースに「最良のモデル創り」をしたいと言っています。
それに関して少しだけ役立ちつつあるのです。
まあそれに関しては、いつか報告できるでしょう。
しかし、最近のビジネスの世界の人には、小宮山さんや私のような発想はなかなか理解してもらえません。
いろんな人が絡んでいるので、ちょっとここでは書きにくいのですが、うまくいくかどうか、若干の不安はあります。

コミーの帰りに、まったく別の相談を受けるために湯島に戻りました。
引きこもり家族支援の仕組みづくりの相談です。
以前から相談を受けていますが、ここでも「言語」の違いがあって、なかなか前に進みません。
どうも私の言語は、時代から外れているのかもしれません。
私の言語が、自然に入っていったのは、節子くらいかもしれません。
もっともそこに至るまでには10年以上はかかっていたと思います。
最初は、言語の違いに気づけずに、いろいろと問題が起きました。

夫婦とは、言語を共にする関係ですが、それを支えるのは関係の溶解かもしれません。
女性の場合は、自分の産んだ子どもたちとの関係でそれができるのかもしれませんが、男性には難しいかもしれません。
思えば、夢のような40年でした。

■3460:彼我の境目がない関係(2017年2月25日)
節子
今年はわが家の河津桜は咲きませんでした。
花が咲かないまま芽吹きだしています。
昨年は大きな鉢に植え替えて、それなりに手入れもしてきたつもりでしたが、咲いてくれませんでした。
花が咲かない河津桜は、少しさびしいです。

玄関の四季咲きのバラも、花が咲きだしてくれません。
小さなつぼみはあるのですが、なかなか咲かない。
娘たちが昨年買ってきた、小さなモモも梅も咲きません。

いま咲いている木の花はミモザだけです。
ミモザは相変わらず元気です。

植物も、声をかけなければ応えてくれません。
節子は毎日庭に出て草木に声をかけていたかもしれませんが、私はなかなかそれができません。
とくに冬は寒いので、庭に出ることも少ないからです。
思いついて、木や花に声をかけても、見透かされてしまいます。

古い本ですが、作田啓一さんの「三次元の人間」という本を読みました。
室田さんの保育関係の本を読んでいたら、そこに「溶解」という言葉が出てきて、作田さんの名前があったからです。
作田さんが言っている「溶解」とは、彼我の境目がない関係のようです。
残念ながら、この本だけでは十分な理解ができませんが、私が志向している生き方につながっています。

花の咲かない庭を見ていて、それができていない自分の生き方に気づきました。
まだまだ境目をつくる生き方から抜け出ていません。
29年前に、会社を辞めて、社会に溶け込みたいと思ったころのことを思い出さなければいけません。
それを助けてくれる、節子はもういませんが。

■3461:3つ目の幸せ(2017年2月26日)
節子
昨日、大西さんのカンナちゃんに会いました。
大型犬ですが、もう14歳。
しばらく姿を見なかったのですが、階段でない平地であれば、ゆっくりと散歩もできるのだそうです。
大西夫妻からすごく愛されているのでしょう。
元気そうでほっとしました。
大西さんとゆっくりと散歩している姿を見て、節子と一緒に散歩していたことを思い出しました。
ちょっとした坂さえも、節子はゆっくりとしか進めませんでした。
家から50メートルほど先までの往復に、10分もかかったことがあります。
しかし、節子はそれでも散歩に出かけたいと言いました。

昨日と同じように、今日も散歩ができるというのは、その頃の節子にとっては最高の幸せでした。
毎晩、眠る前に、節子は、「今日もいい1日だった」と感謝し、明日もまた「今日のようでありますように」と祈りました。
変わらないことが節子の平安だったのです。
しかし、私にはまだ、その頃でさえ、「治ること」が幸せだったのです。
落ち着いて考えれば、奇跡でしかなかったのでしょう。
なんという欲深さ。
欲深さは、世界を見間違えさせます。
私には、節子が見えていなかったのかもしれません。

明日が今日よりもよくなることを願う幸せと明日も今日のようであることを願う幸せ。
2つの幸せがある。
最近、ようやくそれが自らのこととしてわかるようになりました。
しかし、残念ながら、明日は今日とは違ってきます。
自分は変化しなくても、まわりはどんどん変化していく。
それをとめることはできません。

この状況をつづけたいと思うような幸せを体験してしまうと、先にある別の幸せを願うことは、難しいでしょう。
守りたい幸せがあまりにも大きいからです。
幸せの体験が、逆に別の幸せへの願いを封じてしまうでしょう。
いまの幸せを超える幸せを願うことができる人もいるでしょうが、私には想像さえできません。

私にとって、行きついた幸せは、節子との平凡な日々でした。
正確には、それは行きつく前に壊れてしまったのですが。
しかし、節子は、ゆっくりと散歩するようになったときに、もしかしたら、その平凡な幸せに行きついていたのかもしれません。

いまの幸せでも先の幸せでもなく、かつての幸せのなかで生き続けることもまた、3つ目の幸せかもしれません。

■3462:看取りを語り合うサロン(2017年2月27日)
節子
昨日、湯島で「看取り」をテーマにしたサロンを開きました。
その報告は時評編に書きましたが、参加者の中には最近、親を見送った人が何人かいました。
その一人は、父親を見送ったばかりで、まだその事実を受け容れられていない様子でした。
彼女は看護師で保健師なので、たぶん多くの人にとってはうらやましいほどのケアを尽くしたと思います。
少なくとも私にはそう思われました。
しかし、彼女は、話しているうちに涙で声を詰まらせました。

その涙に誘われたわけではないでしょうが、別の人たちもまた、親の死を語りだしました。
語りたくても語れる場がない人が多いのかもしれないと、思いました。

自死遺族の方たちが中心になってのグリーフケアの会に参加させてもらったことがあります。
私は節子との別れについて語ったような気がします。
愛する人の死を語ることは、話すことではありません。
話をすると何かが生まれる。
まさに「思いを放す」のではなく、「悲しみや寂しさを形にして象る」ことができるのです。
時には、話を受け止めてもらった人の思いに触れることで、救われることもあるのです。
そういう意味では、自死も病死も事故死も、違いはありません。

看取り体験で学ぶことはたくさんあります。
しかし悲しいことに、学びに気づいた時には、遅すぎることも少なくないのです。
もし誰かの看取り体験を聴いていたら、もう少し早く気づけたかもしれない。
看取り方も変えられたかもしれない。
昨日、みんなの話を聞きながら、そう思いました。

看取りでの学びをもっと社会知にできないだろうか。
そんなことを考えていました。
それは難しくても、看取り体験を語り合う会はできるかもしれません。
ちょっとテーマが重すぎて、広がらないかもしれませんが、そんなサロンをやってみたいと思いました。

私はもう看取ることはなく、看取られる存在にしかなれないでしょうから、看取られ方を学ぶサロンになるかもしれませんが。

■3463:「刑事フォイル」(2017年2月27日)
イギリスのテレビドラマ「刑事フォイル」は私の好きな番組です。
舞台は、第二次世界大戦さなかのイギリス南部の町ヘイスティングズ。
その町で、誠実に仕事に取り組む警視正フォイルが主人公です。
原題は「フォイルの戦争」ですが、戦争が人々の日常をどう変えていくかが、あるいは戦時中であろうと変えてはいけないものは何なのかを、静かに語ってくれる作品です。
いまから15年以上前の作品ですが、戦争の不条理さが生々しく描かれています。
それもとても静かに、です。

最新作は「壊れた心」。
戦争が善良な人たちの心を壊していくありさまが見事に描かれていました。
戦争を体験した人が戦争を恐れる理由を考えさせられます。
戦争の悲劇は、たぶん、人が死ぬことだけではないのです。

既に18話まで放映を終えていますが、3月11日からまた第1話から再放映が始まります。
NHKのBS放送ですが、もしBSを見ることができる人にはお勧めです。
2回に1回は、私は涙が出てしまうとともに、自分の生き方を問い質したくなります。
人間の弱さと人間の可能性を感じて、です。

主人公のフォイルのような生き方をしたいと思いますが、足元にも近づけません。
フォイルもまた、私と同じく、妻を亡くしています。
妻を亡くしても、しっかりと生きている人もいる。
私ももう少ししっかりと生きられるのではないかと、時に思うこともありますが、たぶん私には無理でしょう。
人はやはり、生まれながらの人生が決まっているのかもしれません。
フォイルのような人は、私にはただただ尊敬することしかできません。
でも、その一部なら私にもできるかもしれません。

それは、自らに誠実であることです。
弱さもまた、私の本性ですから、弱さにもまた誠実でありたいと思っています。

■3464:叔母のことを思い出しました(2017年2月28日)
節子
もう2月も終わります。
年賀状は出せなかったのですが、せめて2月中には年賀状をもらったみなさんには、元気ですと言う挨拶状を出したかったのですが、やはり出せませんでした。
その気になればできるはずですし、実際に何枚かは年賀状代わりの寒中見舞いも書いたのです。
でもなぜか出状する気にはなれませんでした。
どうせ出すのであれば、一部ではなく、みんなに出したいという思いのためです。

節子も知っている、私の叔母が、ある年の年賀状に、これを最後に年賀状をはじめとして手紙を出すのをやめるということが書かれていました。
遠方に住んでいることもあり、節子はあまり会ったことはなかったのですが、なぜか敬意を感じていた叔母でした。
今にして思えば、その叔母の気持が少しわかる気がします。
叔母は、たぶん自らの社会的余命を感じたのかもしれません。
人と付き合うということは、それなりに責任の発生することですから。

もっとも、私が今年、年賀状などをかけないのは、社会的余命を自覚したからではありません。
付き合っていく体力に自信がなくなったという気はしないでもありませんが、たぶんそれが理由ではありません。
自分でもよくわかりませんが、なんとなく書けないのです。
手紙だけではありません。
なんとなくできなくなったことがほかにもあります。
困ったものですが。

ところで、叔母と節子の話ですが、これを書いていて思い出したことがあります。
たぶん病気になる前だったと思いますが、節子の投稿が朝日新聞の「ひととき」に掲載されたことがあります。
手紙を書かなくなっていた叔母から手紙が来ました。
あの投稿は節子さんのではないですかという内容でした。
節子はとても喜んで返事を書いたと思います。

その後、節子は発病しました。
そして手術後、また「ひととき」に投稿しました。
節子はもしかしたらまた叔母がそれに気づいてくれることを願っていました。
しかし、残念ながら叔母からは手紙は来ませんでした。

叔母との交流は途絶えていましたので、叔母の消息も分かりませんでした。
いまもわかりませんが、久しぶりに思い出しました。
叔母といっても、かなり遠縁の叔母で、私の母が付き合っていただけで、他の親族との付き合いはない人だったのです。

節子はたぶん彼岸でその人に会っているでしょう。

いや、会えているといいのですが。

■3465:「看取る」ということ(2017年3月2日)
節子
時評編に書いたのですが、昨日、ちょっと思いついて、フェイスブックに「「看取り」という日本語に当てはまるような外国語をご存知の方がいたら教えてくれませんか」と問いかけをしました。
数名の方からコメントがありましたが、私の意図とは全く違いコメントでした。
それについても時評編に書きましたが、やはり「看取り体験」のある人とない人との発想の違いを感じました。
それは仕方がないことですが、改めて節子から学んだことの大きさを感じました。
ありがとう。

ところで、みなさんの書き込みへの返信を書いているうちに、ますます「看取り」ということに興味が深まってきました。
チベット密教のバルドゥのことは、この挽歌でも書きましたが、その時にはあまり深く考えていなかったのですが、いま考えると、その49日間で死者と遺されたものとの新しい関係の構築がそこで行われるのかもしれません。
つまり死者の生き返り儀式であり、実は彼岸への旅立ちではなく、次元を超えた新しい生の誕生儀式とも考えられます。
そこでは、生と死が溶解されています。

まだ思いついたばかりで消化できていないのですが、何かそこには大きな示唆を感じます。
看取りということをもう少し考えたくなってきました。
あるいは、「寄り添い」ということも、です。

「看取りサロン」「看取られサロン」「寄り添いサロン」が実現できないか、考えだしました。
どうも日に日にやりたいことが増えてきます。
昨日、久しぶりに渕野さんにあったら、どうしてそんなにいろんなサロンができるのかといわれました。
次々とやっていないと逆に全くできなくなるんだよと応えましたが、それを心身が感じているのか、最近のさまざまな好奇心の高まりは我ながらいささか以上かもしれません。
たぶん節子がいないせいでしょう。
困ったものです。

■3466:「同質」と「異質」(2017年3月2日)
節子
また武田さんと論争してしまいました。
節子がいなくなっても、相変わらず、お互いに一触破綻に近い論争は止まることはありません。
困ったものです。

今日も、民主主義を深化させる妙案が思い浮かんだと武田さんが電話してきました。
せっかくのアイデアをいつも否定されるけれど、まずは佐藤さんに伝えたいと言ってきたので、内容を聞くとけなしたくなると悪いので、最初に感想を言っておくよ、と言って、「それは素晴らしい案ですね」と伝えてから内容を聞きました。
残念ながら、相変わらず私にはまったく賛同しかねるアイデアでした。
そこで、いつものように、否定してしまいましたが、それから論争が始まったわけです。
30分も経つうちに、だんだん険悪になってきて、どちらかが電話を突然切ってもおかしくない状況になったのですが、幸いにお互い、死期が近いこともあって、つまり一度切れてしまうと修復不能になるかもしれないという自覚が生まれてきたこともあって、ぎりぎり何とか乗り越えられました。
しかし、お互いに発想の違いが、また明確になってきた次第です。
困ったものです。

考えの違いは、誰にもあります。
しかし、なんとなく同じなのに、違うというのが、悩ましいのです。
人は、自己充実志向と繋合希求性とを持つ両義的な存在だと言われます。
自分の世界に浸り切りたいと思いながらも、同時に他者とのつながりを求めてしまう。
それも、つながる他者は自分とは遠い人のほうが魅力的なのです。
しかし、同時に、異質であろうとどこかに同質なものがなければつながりようもありません。
そこが人間の面白いところです。
私と節子は、まさにそうした「同質」と「異質」が組み合わさっていたのです。

武田さんとも、どこかでつながっているのでしょう。
そうでなければ40年以上も付き合いはつづかなかったでしょう。
しかし、生き方も思考も、そして価値基準もむしろ真逆といった方がいいでしょう。

そういえば、昨日と今日、私のフェイスブックにコメントを書いてくれた一松さんも、私とはかなり考えが違います。
しかし、どこかでお互いに敬意を感じていて、つながるところがある。
これまた不思議な関係です。

武田さんと付き合わなければ、私ももっと平安の時間が増えるでしょう。
いや、武田さんばかりではありません。
ほとんどすべての人との付き合いが、私の平安の生活を乱しています。
こんなことを書くと大変傲慢に聞こえるでしょうが、みんなもう少し自立してよと言いたいことが山ほどあります。
他者と付き合うと、そういうストレスがどんどん積みあがっていく。
だからできれば、誰とも付き合いたくないのです。
友人がいなければ、どんなに平和だろうと思います。

しかし、そうしたストレスがあるからこそ、人生は退屈せずに、豊かになる。
それもまた事実です。

これからも武田さんはじめ、みんなと喧嘩をしながら、あるいは腹を立てながら、生きていくことになるでしょう。
そして、それこそが実は支え合う生き方、豊かな生き方なのでしょう。
もし節子がいまもいたら、どんなことになっていたか。
それが確認できないのが、残念です。
いまも夫婦げんかをしていたでしょうか。

■3467:孫の初節句(2017年3月3日)
節子
今日はひな祭り。
孫の初節句です。
初節句には雛人形を贈るのが日本の習わしですが、最近はそれも変わってきているようです。
わが家でもその風習はやめて、節子が娘たちのために創った手づくりの木目込み人形の雛人形を贈ることにしました。
というよりも、娘がそう決めてしまったのですが。

私たち夫婦は、普通の結婚式もしなかったように、若いころは風習に抗っていました。
常識にとらわれずに、新しい家庭や家族を創りだそうという思いが、私に強かったからです。
いまから思えば、冷や汗ものですが、当時はかなり真剣に考えていました。
若気の至りとしか言いようがありませんが、いまはその咎を受けているような気がします。

そうしたいささか反伝統主義の考えは、10年くらいの試行錯誤の結果、見事に挫折し、むしろ反転した思考になりました。
伝統的な風習の中に、価値を見つけられるようになったのです。
しかし、もちろん伝統そのままではありません。
形よりも、その意味を大切にしています。
そして、「手作り」もまた、わが家のスタイルでは大切なことです。
わが家の仏壇に鎮座している大日如来も手づくりです。

そんなわけで、わが家にある雛人形は、ほとんどが節子の手づくりです。
木目込みだけではなく、いろんなスタイルがあります。
今回は、節子がジュンのために創った、木目込みの座り雛にしました。
孫の顔を見ることができなかった節子も、自分が創ったお雛様を通して、祝っていてくれると思います。

写真を撮るのを忘れていましたので、写真がアップできませんが、また写真が入手できたらアップします。

■3468:時代が大きく変わってしまった(2017年3月4日)
節子
世間が何かと騒がしくなっています。
アメリカもヨーロッパも、歴史の流れが反転しようとしていますし、日本は反転した動きに乱れが出てきている感じです。
反転の反転はないでしょうから、反転が無秩序に破たんしていきかねません。
節子の挽歌を書いている時ではなく、世界の、あるいは人類の挽歌を書くべき気分になることも少なくありません。

それにしても、なぜ人は争い合うのか。
不思議でなりません。
今日も孫が来ましたが、その笑顔を見ていたら、人はそもそも争うこころなど持たずに生まれてきていることがよくわかります。
どこで何が変わるのか。
私には、孫の行く末は見られませんから、それがわかることはないでしょう。
しかし、どうして人は「善いこころ」を曲げてしまうのか。

節子は、とても清純でした。
よこしまなところなど全くありませんでした。
たぶん、あまり大人として成長していなかったということかもしれません。
ちなみに私は、いささかどころか、かなりのよこしまさを持っています。
ある時、節子に呆れられたことがあります。
その中身は忘れてしまいましたが、「頭のいい人の考えることは恐ろしい」というようなことを言われた記憶があります。
節子にとっては、私はとても「頭のいい人」だったのです。
まあ同時にかなり「ばかな人」とも思われていましたが。

それにしても、私たちが生きた時代は、おそらく幸せに生きられる時代だったのでしょう。
私が最近いささか不幸を感ずるのは、節子がいないだけではないかもしれません。
時代が大きく変わってしまった。
そんな気がしてなりません。

■3469:穴のあいたまま生きていくこと(2017年3月5日)
節子
本を読んでいたら、こんな詩に出合いました。
ユダヤ人の抒情詩人マシャ・カレコ(1907〜1975)の詩だそうです。
今日は、この詩を私の挽歌代わりに書いておきます。
10年前を思い出します。

自分の死はこわくない、こわいのは
ただわたしの近しい人たちの死。
その人たちがいなくなったら、どうやって生きていけばいいだろう。
独り霧のなかで死の道の辺を手さぐりし、
いそいそと闇のなかへ自分をかりたてる。
立ちどまっているほうが歩くより倍もつらい。
同じ体験をした人ならよくわかる。              
−それを耐えた人たちはわたしを赦すだろう。
考えてほしい、自分の死はただ死ぬだけのこと、
だが、ほかの人たちの死はそれをかかえて生きていかねばならない。

その本にはこんな文章もありました。

愛する人の喪失を意識から遠ざけようとしてもうまくいくものではありませんし、何か代わりになるもので補おうとしても完全にはできません。(大切なのは)穴を埋めることではなく、穴のあいたまま生きていくことです。

最近はそれに慣れてきていますが、時に無性にさびしくなることもあります。

■3470:不眠な日々(2017年3月7日)
節子
昨日は寝つけずに、また夜中にも目が覚めてしまい、寝不足です。
先日テレビで報道されていましたが、3.11で津波を経験した人たちの多くが不眠に悩まされているようです。
不眠は、一度経験すると、その記憶が残ってしまいます。
今日は眠れないかもしれないという思いが浮かんでしまうと、まさにそうなってしまいます。
夜中に目が覚めても、またすっと眠りに戻れることも多いのですが、なぜか瞬間的に、眠りに戻れないような気が起こってしまうと、もう眠れません。
私自身は、節子がいなくなってから、良く寝たなあと思いながら朝、目覚めることはあまりありません。
ですから夜は、あまり好きではありません。

だからと言って、夜、起きているのはもっとつらいのです。
10時を過ぎたら、もう何かをやろうという気は起きません。
節子がいた頃には信じられないことですが、9時過ぎに就寝することもあります。
実際に眠るのは結局11時頃になってしまうのですが、ベッドで本を読んだり、テレビを見たりしています。
以前、9時過ぎに寝て4時半に起きるという友人の話を聞いて、よくまあそんな早い時間に眠れるなあと思ったことがありますが、今まさに私もそうなってきています。

眠れないといろいろなことが頭をよぎってきます。
それがますます眠れない状況にしていきます。
そういう時は、なぜか思考がマイナス方向に向かいます。
思考を切り替えようとしても、なかなかできません。
困ったものです。

今朝はまだ、そうした余韻が残っています。
心がこんなにも乱高下するのは、まだどこかで生き戻りをしていないのかもしれません。
アラビアの詩の一節を思い出しました。

人間は生きているあいだは眠っている。
死ぬときにようやく目覚めるのだ。

死ぬ前に目覚められるでしょうか。

■3471:とても寒い、重い1日(2017年3月7日)
節子
寒い1日でした。
あまり体調が良くなかったのと昨夜の寝不足もあったので、予定を延期してもらい、1日、自宅で過ごしました。
それはよかったのですが、「死」に関する本ばかり読んでいました。
正確に言えば、「看取り」に関しての本や雑誌ですが。
図書館に行って、何冊か借りてきたのです。

窓口で、古い雑誌を探すように頼んだら、その人は面識のあるMさんでした。
3.11の後、福島に応援で2年ほど行っていた人です。
一度、わが家のサロンに立ち寄ってくれた人です。
Mさんも、福島の被災地でいろんなことを体験してきたはずです。
Mさんに限りませんが、みんなそれぞれにいろんな体験をしています。
そんなことを考えながら、何冊かの書籍や雑誌に目を通しました。

波平さんの「日本人の死のかたち」にはさまざまな死の物語が紹介されていました。
アルフォンス・デーケンさんの「死とどう向き合うか」にもまた、死に関わるいろんな話がありました。
3年ほど前の文藝春秋は、死に方と看取り方の特集がなされていました。
今日は、こういう本を午後、ずっと読んでいたのです。
さすがに気が沈んでしまいました。
ちょっと読みすぎました。
外は冷たい雨。
とても寒い、重い1日でした。
たまにはこういう日もあっていいでしょう。

不思議なことに、私には「死へのおそれ」の意識がありません。
節子を見送る過程で、あるいは見送った後に、「死へのおそれ」はすべて使い尽くしたのかもしれません。
死のおそれの実体は、もしかしたら「別れのおそれ」かもしれませんが、そうであれば、私には今やそれは全くありません。
娘たちとの別れも、私が去るほう、つまり看取られる方であれば、まったくと言っていいほど、恐れはありません。
それに多くの場合、親が先に逝くのは自然の理ですから、子どもにとっての喪失感は伴侶の死とは比べようもないでしょう。

そろそろ人生の締めくくり方を考えなければならないのかもしれません。
そう思う一方で、まだ自分はどこか「看取られる側」ではなく「看取る側」にいると考えている自分がいます。
人間とは、度し難いほどに、自分のことがわからない存在なのかもしれません。
今日はたくさんの死の話を読んだにもかかわらず、やはりどこかで他人事のような気がしているのです。
困ったものです。

■3472:高林ゲーム(2017年3月8日)
節子
節子はお会いする機会がありませんでしたが、宇治で認知症予防活動に取り組んでいる高林さんから「魔法のことば」という小冊子が届きました。
高林さんは「認知症予防ネット」というNPOの理事長です。
認知症予防ゲームを広げようと、独自の工夫を凝らして、見事なゲームを生み出しています。
名前は「みんなの認知症予防ゲーム」。
この名前になったいきさつは、いろいろありますし、私も少し関わらせてもらっています。

全国に高林さんのシンパがいて、昨年12月に全国のゲームリーダーを開催したのですが、その参加者のアンケートの問いかけとその回答を小冊子にまとめたのが、送られてきた「魔法の言葉」です。
高林さんらしいスタイルと内容です。

高林さんはもう80代半ばです。
しかし、このゲームをやっているせいか、いまもなお若々しいのです。
常に前を向いています。
そしていつも笑顔です。

この歳になって、自分が生きてきたという確かなものがほしくなったという友人に会いました。
その人も他者から見れば、大学教授として活躍してきてますが、どうもそれではだめのようです。
私は、生きた証などにはまったく興味はないのですが、ある年齢になって、これまでの人生を振り返った時に、そんな気持ちになる人もいるようです。
その点、高林さんは見事なまでに足跡を残してきています。
高林さんが育て上げてきたゲームは、「高林ゲーム」と私は呼びたいと思いますが、高林さんの人生は、そこに凝縮されてきているのかもしれません。
高林さんのライフワークです。

人の生き方は、さまざまです。
節子がもし今も元気だったら、節子はどういう生き方をしていたでしょうか。

今日は寒いですが、太陽のおかげで、ちょっと気分が晴れています。

■3473:えっ!と驚く電話(2017年3月8日)
節子
今日は驚かされる電話が飛び込んできました。
寄付の申し出です。
節子も知っている人ですが、ちょっと余裕ができたのでという電話がありました。
久しくお会いできていないのと、最近連絡も取れていなかったので、さぞお忙しくて、そこから抜け出られたので、電話をしてきたのだろうと思いました。
しかし、話しているうちに、その「余裕」とはお金であることがわかりました。
今までは「余裕ができるといろんなところに寄付していたそうですが、佐藤さんに相談すればきっともっと的確なところがあると思いついたのだそうです。
うれしい話ですが、これはかなり難しい話でもあります。
お金は、たとえ寄付といえども、相手を縛りますから、よほど注意しないといけません。
これまでも何回か、あいだに入ったことはありますが、それは数十万円の小規模のものでした。
今回はそれよりも少しまとまった額のようです。
佐藤さんが勝手に使ってもいいという話までされるのですが、それではますます責任が重くなります。
それに、私自身がいま借金している状況ですから、注意しないと私の個人的借金の返済に投入されてしまうかもしれません。
私の場合、あまり公私の区別がないのと、そもそもお金の管理が苦手なので、その危惧はたぶんにあります。
もし今、節子がいたら、大丈夫なのでしょうが、私一人では自信が持てません。
私に寄付してもらうのは、いまよりももっと仕事ができることになるのでうれしいですが、うまく活用しないと彼女の信頼を失うことになります。

少し考えさせてくださいと連絡しました。
うれしくもあり、悩ましくもある話です。

私は、お金はみんなのものという発想がどこかにあります。
そういう発想は、収入の少ないものにはとても好都合です。
節子もよく知っているTさんと食事をすると必ずと言っていいほど、彼がお金を払います。
10回に1回くらいは、私が出すこともありますが、あまりお金を持ち歩いていないので、高い時には支払い能力がありません。
そもそも、節子がいた頃は、何を買ってもなにを食べても、お金を出すのは節子でしたから、私にはお金を払うという文化があまりないのです。
ですから節子がいなくなった後、食事に行ってお金を払わずに店を出そうになったこともあれば、私が出た後、慌てて一緒にいた人が支払いをするというようなことがありました。
困ったものですが、お金から解放された生き方にあこがれる私としては、それを無理して直そうとは思っていないのです。
そんなわけでまわりの人たちには迷惑をかけていることでしょう。

さて寄付の話ですが、節子ならどういうでしょうか。
もう少し若ければ使いこなす自信はあったのですが、いまは悩ましい問題です。
せめて数十万円だといいのですが。

■3474:20年前の講演を聴いてくれた人たち(2017年3月9日)
節子
今日は朝からいろんな人たちに会いましたが、最初に会ったのが、節子も知っている大川さんです。
私の講演を聞いて、それが縁で、私が取り組んでいたNPO支援活動を手伝ってくれました。
とても個性的な人柄で、表現が難しいですが、不思議な性格です。
最初は、彼は人間ではなく、未来から来たアンドロイドではないかと思ったほどです。
彼がNPOの本を書きたいというので、私が関わっていたNPOの取材をしてもらい、本にしました。
出版費用は、ふたりで負担し、ふたりで売って、経費はほぼ回収しました。
以来、何か問題が起こると相談に来ます。
しばらく相談に来ないと、なぜか気になって、こちらから声をかけてしまいます。

私が知り合った時は、彼がアメリカ留学から帰国した直後だったと思いますが、以来、彼はNPOをテーマに調査研究などをしています。
自由人なので、どこか会社に入るでもなく、大学の講師をしながら、最小限のお金で生きています。
そろそろ自分の拠点をつくろうよと会うたびに行っていますが、ゆっくり行きますといつも言います。

その大川さんから、今日、なぜ彼が今のような生き方になったかを聞きました。
彼は証券マンでした。
やめるきっかけは、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件。
地震の後、被災地に行って、その凄さを実感したそうです。
地下鉄サリン事件も彼の通勤路線で、わずかの差で事件に巻き込まれなかったのですが、身近で感じたそうです。
その2つの事件が、大川さんの生き方を変えました。
一度きりの人生、自由に生きようという気になったのです。
そして今まさに自由に生きています。
お金をもらう仕事を軸にするのではなく、自由に生きるための最小限のお金を手に入れる仕事をすればいいということで、組織には属さない生き方です。
今日、はじめて彼からその話を聞いて、彼がアンドロイドでないという確信を始めて持ちました。
何とか応援しなくてはいけないと、改めて思いました。

最後に会ったのは、40人ほどの企業の社長です。
この人も、節子はよく知っています。
佐藤さんには中小企業のおやじの辛さがわからない。
講釈だけでは食っていけない。
などといつも私を批判するのですが、その一方で、私をずっと支援してもくれているのです。
時々、どちらかが起こりだしそうになるほどの言い合いになるのですが、なぜかしばらく会っていないと気になってしまい、どちらかともなく、声をかけてしまいます。

彼も今日、意外な話をしました。
利益だけではなく、会社の社会的価値を上げることが大切だと佐藤さんは言っていたと、私が昔話したことを覚えていてくれたのです。
今日はその相談でした。

これは偶然なのですが、帰宅途中にハッと気が付きました。
大川さんもその社長も、実は同じところで私の講演を聴いているのです。

その講演は、私の友人の大学教授に頼まれて、私の生き方と活動を紹介する内容だったと思います。
おそらくほとんどの人には、私の話は寝言のような話だったでしょう。
お金よりも大事なものがあり、お金がなくても幸せになれるという話でしたから。
しかし、そんな話を覚えてくれていて、いまも湯島に来てくれる人がいる。
そう思ったら、何か無性にうれしくなりました。

今日はいい1日でした。
2人のために、私も少しは役に立たなければいけません。
役に立てるといいのですが。

■3475:悩みもまた、幸せの大事な要素(2017年3月10日)
節子
昔読んだ本の中で、國分功一郎さんがウィリアム・モリスの思想を発展させて、「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない」と書いていました。
それがとても気にいって、時々思い出します。
食べられるパンよりも、食べられないバラのほうを大事にしようという、私の信条の支えにもなるからです。
しかし、残念なのは、私の人生には今やバラがないことです。
いや、ほんとにバラはないのか。
ちなみに、湯島のオフィスの玄関には、湯島に来られなくなることを見越して、節子が最後に飾った造花のバラが、そのまま残っています。
またわが家の庭には玄関をはじめ、いろんなバラがまだ残っています。

ところで、最近、國分さんの「生きることはバラで飾られねばならない」とは違う言葉が頭に浮かび続けています。
「人は幸せだけでは生きていけない、悩みも求めよう」という言葉です。
「かわいい子には旅させろ」という言葉が、昔ありましたが、それと通ずるものです。
子どもにさせるならば、自分もしなくてはいけないということです。
そういえば、バラにもトゲがある。
幸せには悩みが付き物ということかもしれません。

いささか、いまの私の状況(幸せそうに見えても、悩みに取り囲まれているのです)の居直りや自己満足志向のような気がしないでもないですが、この言葉を繰り返し思い出していると、なんだかとても「良い言葉」のような気がしてきています。
自己暗示にかかっているのかもしれません。

先日ふと友人に、人とのかかわりがなければ、悩みも生まれない。嘘をつかない自然の中に隠棲したいよ、とつぶやいたのですが、それでは生きていることにはならないのかもしれません。
節子に会わなければ、節子に先立たれる不幸もありませんでした。
悩みがなければ、悩みを乗り越えたり解決したりする喜びは得られません。
もしかしたら、いまの私を支えているのは、「悩み」なのかもしれません。

悩みもまた、幸せの大事な要素なのです。
たぶん。


■3479:「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」(2017年3月13日)
節子
ホスピスの医師の小澤竹俊さんの書いた「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本を読みました。
そこにこんな文章がありました。

なんでもない今日に感謝できる人は、本当の幸せを知っている。
どんな成功の日々も、平凡な日常に勝らない。
ただ生きているだけで、十分に価値がある。

小澤さんは、「今日が人生最後の日」と想像したとき、わかることはたくさんある。
そのひとつが、日常というもののありがたさだと書いています。
このことはよく言われることですが、節子もまさにそう実感していました。
節子がいなくなってから、少ししてその意味が私もよくわかってきました。
頭ではもちろんその前からわかっていたつもりですが、数年たって、しみじみと実感してきたということです。

最近、死に関わる本を読み続けていますが、別に私自身が死を意識しているわけではありません。
むしろ、当面死ぬことをやめる決断をしたのです。
93歳まで生きることにしました。
かなり先が長いのですが。

なぜ93歳かといえば、前にも書いたことがあるかと思いますが、30年近く前に、ある人が私の運勢を京都の高名な方に占って来てくださったのです。
その人自身も、ちょっとその道にも通じている人なのですが、私と一緒に仕事をしていいかどうかを判断するためだったような気がします。
93歳まで生きるということが理由ではなかったと思いますが、私は彼の仕事の相談役的な形でかなり長く付き合いました。
そのプロジェクトはうまくいったので、いまは私の役目はなくなりました。

93歳を素直に守ろうかどうか迷うこともあるのですが、この数週間、なんとなく93歳まで現世に留まる気分が強まっています。
まあそんなに自らの生きる期間を勝手に決めていいのかどうか疑問もありますが、まあ決めておいた方が何かと都合がいいでしょう。

それではなぜ死の関係の本を読んでいるかです。
それは、看取るという文化が気になりだしたのがきっかけですが、いろんな本を読んでいるうちにますますわからなくなってきてしまい、読んでいる本に参考文献があるとそれをついつい読みたくなって、とまらなくなってしまったのです。
でもまあ、そろそろ打ち止めにしようと思います。

小澤さんが言うように、もし今日が「人生最後の日」だとしたら、死の本を読む必要はありません。
まもなく、体験できるのですから。
では、なにをするか。
その答えはなかなか難しい。
なぜなら、93歳まで生きることを決めてしまったからです。
小澤さんのメッセージを全く理解していない、悪い読者です。
困ったものです。はい。

■3476:大きく変わった人生をどう捉えるか(2017年3月11日)
節子
時評編で書きましたが、広島の煙石さんの事件に対して、最高裁が無罪判決を出しました。
煙石さんの冤罪が晴れたわけです。
他人事ながら、うれしいことです。

しかし、無罪判決が出ても、煙石さん家族の人生は、大きく変わってしまったことでしょう。
一度傷ついた人生を戻すことはとても難しい。
さまざまな思いが錯綜していることでしょう。
煙石さん家族の平安を祈るばかりです。

話はいささか飛躍しますが、韓国の朴槿恵大統領が罷免されました。
朴槿恵さんは、父親だった朴正煕大統領が殺害された後、それまで一緒にやって来ていた人たちが離れていってしまったということを書いていました。
そのため、たぶん人間不信になっていたのではないかと思います。
いつもその表情は、さびしかった。
両親が殺害されたことで、彼女の人生は二度、大きく変わったわけです。
一度ならず二度、傷ついたといってもいい。
その深さは想像に絶します。
そこに、私はこだわっていますので、今の韓国の人たちのやりようには共感できません。

煙石さんや朴槿恵さんとはまったく事情は違いますが、私もまた、節子に先立たれることで、人生は大きく変わってしまいました。
変わった人生は、時間が癒すなどとは全く無縁な話です。
癒すとか癒さないなどいう話ではないのです。
変わったものは変わったものです。
問題は、その「新しい人生」をどう受け止め、どう生きるかです。
私の場合は、それをきちんと受け止め、いい方向に捕えることができるようになるまでに、10年近くかかりました。

そして今思うのは、人生には良いも悪いもない、ということです。
良いと思うか悪いと思うかだけなのです。
どんな体験も、良いと思えるような生き方ができれば、それこそ心は平安になれるでしょう。
私自身はまだまだ俗事に惑わされて、心は平安とは程遠いところにありますが、どんなことも「私にとって良いこと」と受け止めたいと思いながら、生きるようになってきています。
時に、大きくふらつくことはありますが。

煙石さんと朴槿恵さんの、心の平安を祈ります。

■3477:東日本大震災から6年たちました(2017年3月11日)
節子
今日は東日本大震災から6年目です。
節子が彼岸に行ってしまった後に起こったことですが、節子がいたらたぶん私の関わり方も大きく違っていたでしょう。
私にまだ正面から受け止める気力がありませんでした。
近くなのに、なかなか現地にさえいけませんでした。
現地に行けたのは1年以上たってからです。
その報道も、当初はなかなか受け入れられませんでした。

南相馬で見た集落の風景で頭から離れないものがあります。
海に近い集落のため、人家は跡形なく流されていました。
しかし、その上手の一画の墓地だけが、きちんと修復されていました。
バスから見た風景なので、私の見間違いかもしれませんが、自分たちの住む家よりも、先祖のお墓の修復を優先したのだと、私には思えました。
いや、もしかしたら、お墓だけは死者の力で守られていたのかもしれません。
幻だったのかもしれませんが、いまも頭の中に焼き付いています。

今日はどのテレビも、津波の再現やあの時の話が多かったです。
人の死を取り扱うテレビ報道番組は、私は苦手です。
どうしても違和感があるのです。
それはともかく、見ていて、生きることのもろさを考えてしまいます。
生と死を選ぶのは、ほんの一瞬のことなのです。
ということは、私もまた、いつ、その一瞬に出会うかもしれません。
そう思うと、死もまた日常という気になります。
しかし、死は決して日常なのではない。
普段は遠くにあって、しかし突然に出会うことになるのです。
そして、身近な人の死に出会うことで、死は全く違ったものになる。
それは、他者の死ではなく、自らの死なのです。
そこでは、自分と他者が溶解してしまっている。
節子の死は、私の死でもあるのです。
テレビで、キャスターが語っている死は、やはり観察的で、他人事として死を語っている。
だから、美辞麗句も多い、
私にはとても違和感がある。

私は、両親の死は素直に受け入れられましたが、なかなか受け入れられませんでした。
子どもの死の場合は、もっと受け入れられないでしょう。
そういう不条理の死が、大震災にはあまりにも多い。
しかし、それは当事者でしかわからない死です。
同情や感動などしてほしくないのではないか。
そんな気がしてなりません。

まあそんな理屈は横に置いて、私も黙?しました。
そして、自然のメッセージをしっかりと心に刻みました。

■3478:「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」(2017年3月12日)
節子
ホスピスの医師の小澤竹俊さんの書いた「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本を読みました。
そこにこんな文章がありました。

なんでもない今日に感謝できる人は、本当の幸せを知っている。
どんな成功の日々も、平凡な日常に勝らない。
ただ生きているだけで、十分に価値がある。

小澤さんは、「今日が人生最後の日」と想像したとき、わかることはたくさんある。
そのひとつが、日常というもののありがたさだと書いています。
このことはよく言われることですが、節子もまさにそう実感していました。
節子がいなくなってから、少ししてその意味が私もよくわかってきました。
頭ではもちろんその前からわかっていたつもりですが、数年たって、しみじみと実感してきたということです。

最近、死に関わる本を読み続けていますが、別に私自身が死を意識しているわけではありません。
むしろ、当面死ぬことをやめる決断をしたのです。
93歳まで生きることにしました。
かなり先が長いのですが。

なぜ93歳かといえば、前にも書いたことがあるかと思いますが、30年近く前に、ある人が私の運勢を京都の高名な方に占って来てくださったのです。
その人自身も、ちょっとその道にも通じている人なのですが、私と一緒に仕事をしていいかどうかを判断するためだったような気がします。
93歳まで生きるということが理由ではなかったと思いますが、私は彼の仕事の相談役的な形でかなり長く付き合いました。
そのプロジェクトはうまくいったので、いまは私の役目はなくなりました。

93歳を素直に守ろうかどうか迷うこともあるのですが、この数週間、なんとなく93歳まで現世に留まる気分が強まっています。
まあそんなに自らの生きる期間を勝手に決めていいのかどうか疑問もありますが、まあ決めておいた方が何かと都合がいいでしょう。

それではなぜ死の関係の本を読んでいるかです。
それは、看取るという文化が気になりだしたのがきっかけですが、いろんな本を読んでいるうちにますますわからなくなってきてしまい、読んでいる本に参考文献があるとそれをついつい読みたくなって、とまらなくなってしまったのです。
でもまあ、そろそろ打ち止めにしようと思います。

小澤さんが言うように、もし今日が「人生最後の日」だとしたら、死の本を読む必要はありません。
まもなく、体験できるのですから。
では、なにをするか。
その答えはなかなか難しい。
なぜなら、93歳まで生きることを決めてしまったからです。
小澤さんのメッセージを全く理解していない、悪い読者です。
困ったものです。はい。

■3479:アサリの季節(2017年3月13日)
節子
今年も福岡の蔵田さんから、自らが椎田の浜で採取したアサリをどっさりと送ってきてくれました。
寒い中をわざわざ海に行って、採ってきてくれたと思うと感謝の気持ちでいっぱいです。
椎田のアサリは、それはそれは美味しいのです。
節子は残念ながら食べたことはありません。
蔵田さんのことは節子もよく知っていますが、蔵田さんが近くの浜でアサリが良く撮れる場所を見つけたのは、節子を見送ってからです。
ですから、節子は蔵田さんのアサリを料理する機会はありませんでした。

蔵田さんに電話をしました。
アサリが届くと春を感じますね、というと、蔵田さんもそうなんですよ、といつものように明るい声で応えてくれました。

蔵田さんは会社を定年退職後、ビジネスの世界をきっぱりと捨てて、福岡に奥さんと2人で出身地の福岡に転居しました。
いまは悠々自適の文化人の暮らしで、畑で野菜をつくったり、仲間と川柳を楽しんだりされています。
蔵田さんは、失礼な言い方になるかもしれませんが、邪気の全くない、子どものような人です。
蔵田さんほど、気の善い人を私は知りません。
私はいろいろと迷惑をかけたこともあるのですが、蔵田さんはそんなことを全く気にもしていません。

そういえば、蔵田さんが故郷に戻り、自らも料理もするようになったという話を聞いて、節子はエプロンを贈ろうと言い出しました。
それで節子と2人で百貨店に、蔵田さんご夫妻に送るエプロンを買いに行ったことがあります。
その時に、実は私用にもエプロンを買いました。
あのエプロンはどこにいったのでしょうか。
節子はすでに、発病していた時だったかもしれません。
それで、節子は私に料理を教えたがっていたのです。
自分がいなくなった後、私が自分で料理できるように、です。

残念ながら、私は料理がどうも苦手です。
最近は、それなりに一人で食事の準備をすることはありますが、蔵田さんのように、きちんとした料理づくりはできません。

節子が元気だったら、ふたりで蔵田さんのところに遊びに行けたでしょう。
一人では、なかなかいく気分にはなりません。
しかし、今年は一度、蔵田さんに会いに行きたいような気もします。
蔵田さんは私よりも年上ですので、お互いに元気なうちに会っておいた方がいいでしょう。
でもまあ、いずれ彼岸で会えるのですから、まああまり気にしなくてもいいかもしれません。

昨夜は娘がアサリを料理してくれました。
アサリは、私の大好物です。
蔵田さんに感謝です。
善い人と話すと、たとえそれが電話を通してであっても、幸せになります。
春は、もうそこまで来ています。

■3480:ハードな3日間でした(2017年3月15日)
節子
いささかハードな3日間のため、また挽歌をさぼってしまいました。
13日は、朝の9時から夜の9時まで、いろんな集まりをやっていました。
最後の集まりは、京都の室田さんに頼んでのサロンだったのですが、16人も集まってくれ、とても刺激的なサロンでした。

14日は、ずっと在宅でしたが、山のように積もった課題の処理とともに、来週開催する4つのサロンやフォーラムの呼びかけで1日中、パソコンに張り付いていました。
もっともその間、長電話の常連3人からの電話があり、その対応も、いささか疲れてしまいました。
それにしても、来週は4つの集まりを主催するといった事態になってしまっていますが、一つを除いては、集客がほとんどできていません。
いささか気が重いのですが、まあどうにかなるでしょう。
しかし、夜までパソコン作業をしていたので、使えてしまいましたが、そういう時に限って、真夜中に目が覚めてしまい。眠れなくなってしまいました。
考えるべき悩ましい問題もまた、山のようにあるのです。
結局、眠れなかったので、午前3時からベッドで岩波新書を読んでしまいました。

そして15日。
今日は相談は1件だけですが、湯島に行きました。
かなり切実な相談です。
2時間ほど、相談に乗りましたが、集中しての対応だったので、ぐったりと疲れてしまいました。
時間的にはハードではないのですが、精神的には疲労困憊です。

とまあ、こんな感じで、この3日間、過ごしているのですが、余裕がない気分なのです。
明日は、少しゆっくりできるでしょう。たぶん。
電話がないことを祈ります。

でもこの3日間で、とても魅力的な何人かの人に出会えました。
きっと何かが始まるでしょう。

■3481:物を失うことのないような生き方がなかなかできません(2017年3月16日)
節子
またまた大きなミスをしてしまいました。
予定などを書きこんだ手帳をまたなくしてしまいました。
人生において3回目です。
これまでは、奇跡的に戻ってきましたが、今回は難しそうです。
それにしても、同じミスをこう繰り返すとは、困ったものです。
予定がわからなくなりましたが、誰かに迷惑がかからなければいいのですが。

しかし、毎日を誠実に生きていくためには、あまり先まで予定を入れるべきではありません。
個人で仕事を始めた時に、ある人からそういわれました。
個人で仕事をしていると、先の仕事の保証はありません。
ですから不安になって、予定をついつい先までいれてしまいたくなるのです。
それを、注意されたのです。
何か大事なことが起こったら、いつでも対応できるように、あまり先まで予定を入れるなということです。
それこそが、組織の制約から離れて自由に生きることではないか、と言われたのです。
それが実現できるようになるまでには、10年以上、かかりました。
しかし、いまは基本的にはあまり先までの予定は入れないようにしています。

むかし、台湾の友人が結婚することになり、夫婦で招待を受けました。
ところが、その日、私は約束していた仕事がありました。
仕事を選ぶか友人の結婚式を選ぶか。
いまなら躊躇なく、結婚式を選び、その仕事をキャンセルさせてもらったでしょう。
しかし、その仕事は私でなければできない仕事であり、信頼して私に任せてくれた相手には迷惑をかけられないと思い込んでいたのです。
結局、結婚式には行きませんでした。
まだその頃は、私の思考は切り換えられていなかったのです。
いまから思えば、相手の人と相談すれば、いかようにも対処できたはずです。

以来、動きの取れなくなるような約束は、せいぜいが1か月までにしています。
さらにその上、万一、その仕事よりも私にとって大切だと思うことが起きたら、その仕事をやめさせてもらうことにしています。
そんなわけで、私の手帳の予定欄は、せいぜい1か月先くらいまでしか埋まっていません。
ですから、手帳がなくなっても、まあパニックにはならないのです。

手帳に極秘情報が書かれているわけでもありません。
私の場合、ほとんどすべてのことを公開していますので、秘密などあろうはずもありません。
電車の中で思いついたアイデアや構想のメモを書くことはありますが、そんなものは書いて数日も経てば、無価値のものなります。
私の場合は、考えや構想はどんどん変わるからです。

手帳に誰かからもらったタクシー券が挟まっています。
しかし、これも問題ではありません。
私は都内ではタクシーに乗らないのです。
ですから10年近くも、使われないまま、手帳に挟んでいます。
誰かに使ってもらえれば、むしろうれしいくらいです。

しかし、今回は困った問題があるのです。
じつはその手帳に、先日、名刺交換した方の名刺が挟まっているのです。
さてさて、その方に迷惑がかからなければいいのです。

これからは名刺を持たないようにしようかと思い出しています。
持っていなければなくすこともない。
そういう考えで、私は財布を持っていませんので、財布を落としたことがないのです。

法頂さんの「無所有」の教えを思い出しました。
まだまだ失うものが、私には多すぎるようです。

■3482:彼岸への穴(2017年3月17日)
節子
昨夜、また不思議なことが起こりました。
寝る前にコンタクトレンズを外して、メガネをかけようと思ったのですが、メガネが見つかりません。
いくら探してもないのです。
朝、使っていたことは間違いないのですが、なぜか見つかりません。

実は昨日の夕方、手帳を探すために、山のように散らかっていた机のまわりを片づけたのですが、そのどさくさでどこかに行ってしまったのかもしれませんが、30分近くかかって、家じゅうを探しましたが、どこにもありません。
私だけならともかく、
娘にも頼んで一緒に探しました。
でも、ないのです。
実に不思議です。
そんな広い家ではないので、探す場所もないくらいです。

前にもこんなことがあった気がします。
その時の結論は、わが家には彼岸に通ずる穴があるということでした。
もしかしたら、またその穴が開いたのかもしれません。
そういえば、間もなくお彼岸です。
お盆ほどではないにしても、もしかしたらこの期間は、彼岸との小さな穴が生ずるのかもしれません。
そこに、手帳とメガネが落っこってしまったのかもしれません
困ったものです。

今朝、起きて、また探したのですが、やはりありません。
まあ私の生活空間は、私の活動と同じように、見事に散らかっています。
ですから、空間的には狭いのですが、探すのは大変です。
昨日片づけた時にでたごみの仲間で探しましたが、出てこない。
狐につままれたような気分で、今日はそれが気になって、また何もできなさそうです。
いっそのこと、彼岸に通ずる穴がもっと大きくなって、私がそこにすぽっと落ちてしまえたらいいのですが。
見つからない手帳とメガネだけでなく、節子に会えるかもしれません。
もしその場合は、この挽歌も今日で終わりです。
もしこの続きが書かれなくなっていたら、私が彼岸に落ちてしまったと思ってください。
落ち込む先が、地獄でないといいのですが。

■3483:不安感に寄生されてしまいました(2017年3月18日)
明日から用事でお墓に行けないので、今日、お墓に行ってきました。
もしかしたら、一昨日、こつ然と消えてしまったメガネが、お墓に舞い戻っているのではないかと思わないこともなかったのですが、当然のことながら、メガネはありませんでした。
彼岸の入りなので混んでいるかと思っていましたが、私たちのほかは一組だけしかいませんでした。
でも多くのお墓の花はきれいになっていました。
まだお墓参りの文化は健在のようで、うれしいです。

お線香をあげて、般若心経を唱えて、帰宅し、わが家の仏壇に報告しました。
いつもそうしているわけですが、これってどこかおかしいような気がします。
まあこだわることもないでしょう。

今日は、しかし、いろいろとまた大変な日でもありました。
ネットのおかげで、いまは情報が向こうから入ってくるのです。
考えなければいけない難問が、最近また多発しています。
別にやらなければいけないことではないのですが、言われたら対応しなければいけませんし、言われなくても対応したくなってしまうのが、私の性格のようです。
相手の立場がそれなりにわかってしまうので、気が動いてしまうのです。
しかし、それも考え物なのですが。
相手にとって、それがいいことだとは限らないのです。

それにしても、ゆっくりできる時間が最近ありません。
なにかに追い立てられている気さえします。
別にゆっくりしてもいいのですが、それができない。
どこかで気が病んでいるのでしょうか。
とても小さいのですが、どこかに「不安感」に寄生されてしまった気がするのです。

春が近づいたのに、畑にも行けません。
畑に行けば、不安感は解消するかもしれません。
しかし、畑に行く気が起きてこないのです。
どなたか私の不安感を安心感に変えてくれる人はいないでしょうか。
自分でやらないとだめでしょうね。
さて稀勢の里の相撲を見て、心を落ち着かせましょう。

■3484:またブログの読者に会いました(2017年3月19日)
節子
今日は仲間と立ち上げたまちづくり編集会議(準備委員会)で「まちづくりフォーラム」を開催しました。
そこにある出版社の社長が参加してくれました。
名刺交換したのですが、なんと私のブログを読んでいてくれるのだそうです。
というのも、ある言葉に関してネット検索していたら、私のホームページかブログかに出会ったのだそうです。
当時、その言葉を使っていたのは私だけだったのだそうです。
どういう言葉だったか質問しましたが、もう覚えていないそうです。
ですからかなり前からの読者なのです。

以来、読んでくれているそうです。
もしかしたら、この挽歌も読んでいるかもしれません。
つまり、私のことを、もしかしたら私以上に知っているということです。
なにしろ、私はその時々の心情を、あまり考えもせずに書きこんでしまいますから、良くも悪くも本性がたぶん出てしまっているでしょう。
こういう人に会うと、冷や汗が出ます。

ところがなお驚いたのは、この方はなんと湯島の私のオフィスのすぐ近くにお住まいなのです。
今日も自転車で来たそうです。
またきっとゆっくりとお話しできることもあるでしょう。

ちなみに、その出版社の名前には記憶がありました。
私の書棚にも何冊かあるはずです。
と思って、私の友人の名前をだしてみたら、やはり友人が以前書いた本の出版社でした。
そこからその人の話になりました。
こんな風に、人はどんどんつながっていくものです。

もうひとつの出会いもありました。
北本市の市議会議員をやっている友人が、仲間を連れてきました。
なんと30年以上前にお会いしたことがある高橋さんでした。
当時私は、会社にいてCIというプロジェクトに取り組んでいましたが、その時に出会った方です。
私のことを過剰に褒めてくれましたが、こんな形で出会うとは思ってもいませんでした。

まあこういう集まりをやるといろんな出会いがあります。
そしていろんな物語が生まれます。

うれしいことに、今回は我孫子からも2人の参加者がありました。
我孫子の人はなかなか出てきてくれないのです。
それに以前、我孫子に住んでいたという人にも出会いました。
しかも、わが家のすぐ近くにです。
なんとなくうれしい出会いでした。

■3485:生涯現役とPKK(2017年3月21日)
節子
連日のサロンやフォーラムでいささか疲れました。
というよりも、昨日のサロンでまたやりたいことがいくつか出てきてしまいました。
帰り際に、サロンに参加した大学院生から、佐藤さんは生涯現役なのですか、と訊かれました。
即座に、そんなことは全く考えていないと応えました。
他者から見ると、どうもそう見えるようですが、そもそも私は「現役」という概念が理解できません。
人は、いつでも「現役」です。
たとえ寝たきりになろうとも、です。
節子は、息を引き取るまで「現役」でした。
勝手に「引退」させてはいけません。

もうひとつ、私の嫌いな言葉の一つが、「ぴんぴんころり」、PPKです。
これほど不真面目な言葉はないと思っています。
人は最後までみんなに迷惑をかけながら、生きるのがいい。
そもそも「生きる」とは、人に迷惑をかけることです。
その意識は普段あまり持っていませんが、死ぬ前くらいは、それを強く意識して、人生を顧みたいと思っています。

それにしても、現世には面白いことがどうしてこんなにあるのでしょうか。
私のような、生きる気力が萎えてしまったものにさえ、死を延期させたいほどの面白い課題が山積です。
彼岸にも、これほど面白いことがあるのでしょうか。
それがちょっと気になります。

さて、明日もまた、サロンです。
テーマは「コスタリカ」。
いつもの常連はあまり参加しませんが、私の知らない人からの参加申し込みが数人あります。
また新しい出会いがありますが、新しいテーマ、やりたいことが、これ以上、出て来なければいいのですが。

今日は久しぶりに自宅でのんびりできそうです。
たぶん。

■3486:亜空間への通路はありませんでした(2017年3月21日)
節子
行方がわからなくなっていた、手帳とメガネが無事戻ってきました。
彼岸にはどうも行っていなくて、私のすぐ近くにあったのに気づかなかっただけでした。
手帳は湯島の、メガネは自宅の、少し良く探せば見つかるはずのところに隠れていたのです。
亜空間に通ずる穴があるかもしれないと、ちょっとワクワクしましたが、今回もまた裏切られました。
いずれも出てきたのはうれしいのですが、なぜかあまりうれしくありません。
いやはや人生は退屈です。
駅に忘れ物探しを依頼したりしないで良かったです。

これまでも電車の中で、紛失したり忘れたりしたことは何回かあります。
一番の失策は友人からもらったワインを置き忘れてきました。
私はワインはほとんど飲まないので、拾った人が飲んでくれた方がよかったのですが、せっかく私に持ってきてくれたワインなので、それでは友人に顔向けができません。
それで駅の遺失物係に頼んで、見つけてもらい、かなり遠くの駅にまで取りに行ったことがあります。
カバンがなくなったこともあります。
その時は、実は友人が作成した企画書が入っていたので、かなり慌てました。
少しして、まったく知らない人から電話がきました。
酔っていて、間違えて私のカバンを持って行ってしまったのだそうです。
この時も、なぜか私が電車でその人が届けた駅まで取りに行きました。

だれにとっても価値のあるものを忘れたり落したりしても、拾ってくれた人が使えば無駄にはなりませんが、私にだけ価値のあるものをなくした時はいささかあわてます。
まあ、今回は他の人の名刺だけが心配だったのですが、無事戻ってよかったです。
お詫びの連絡をしないでよかったです。
誰にも知られずにすみました。
いやこの挽歌に書いてしまったので、読まれてしまったかもしれません。
うっかりしていました。

一昨日もブログを読んでいる人に会ったのですが、何でも書いてしまうのはちょっと考えたほうがいいですね。
しかし、いまさら、この生き方は変えられません。
それにもしかしたら、節子も読んでいるかもしれませんし。

■3487:20代の節子の写真が出てきました(2017年3月22日)
節子
ジュンが本の中から節子の昔の写真が出てきたと言って持ってきてくれました。
一緒に暮らしはじめる前に、ふたりで東京に来た時の写真だと思います。

節子がいなくなってから、私はほとんど自分では過去の写真を見たことがありません。たぶんわが家のアルバムのどこかにも、この写真はあるのでしょうが、なぜかこの写真ははがきになっていました。
まさか誰かに出すために作られたのではないでしょうが、不思議です。
まあ、節子はそうした不思議なことを時々やっていましたから、節子らしいといえば節子らしいのですが。
それにしても、いかにも昭和の人という感じの写真です。
節子がいま見たら笑い出すでしょう。
しかし、当時の節子の雰囲気をよく表しています。

写真には、なぜか大きな荷物を持っていますが、この荷物は何なのでしょうか。
節子がいたら、この1枚の写真だけでも話が弾んだでしょう。
それができないのが、とても残念です。
写真は一人で見ていても、あんまり楽しくはありません。
でも人の顔って変わるものだなと思いながら、見ています。

■3488:賞味期限切れのコーヒー(2017年3月23日)
節子
パントリーの奥から古いコーヒー粉の缶が出てきました。
賞味期限が2006年でした。
エスプレッソマシン用のものですが、たしかイタリア旅行に行った誰かのお土産です。
封は切られていましたが、ほとんど使われていません。
そういえば、せっかく購入したエスプレッソマシンも、2〜3回使っただけで、いまはカバーをかけたままになっています。
今と違って、当時のエスプレッソマシンはあまり使い勝手がよくありませんでした。

いまでこそ質素に生きていますが、昔はこうした無駄がたくさんありました。
家族からも、使わないものを買いすぎると叱られていましたが、ついつい買ってしまうのが10年ほど前までの私の悪癖でした。
当時は、書籍もとても読めないほど書店に頼んで届けてもらっていました。
読んでいないシリーズの叢書が、いまもいくつかあります。

その反動で、いまはほとんどお金を使うことはありません。
書籍も、せいぜいが月に2〜3冊しか購入せず、読む本はほとんどすべて図書館から借りています。
そんな質素な生活をしている立場からは、賞味期限が大幅に過ぎてしまったコーヒーも捨てるに捨てられません。
封が切られていないのであればいいのですが、悪いことに封があけられていました。
大きな缶ですが、ほとんど使った形跡がありません。
さてどうするか。

それで、思い切って飲んでみることにしました。
娘はやめろと言うのですが、捨てるのも抵抗があります。
エスプレッソではなく、フィルタードリップで飲むことにしました。
香りはほとんどありません。
苦味はかなりありますが、まあ飲めないことはない。
結局、マグカップで飲んでしまいました。
気のせいか、胃がぐちゃぐちゃになった感じです。
でもまあ、捨てるのも申し訳ないので、飲むことにしました。
当分は、あまりおいしいコーヒーを諦めて、毎朝、この10年以上前に賞味期限を過ぎたコーヒーを飲むことにしました。
そこまで節約をしなくていいのではないかといわれそうですが、そういう問題ではなく、せっかく作ってくれたコーヒーを捨てるのは申し訳ないという気分なのです。
ここまで飲まずに放置していた私の責任です。
しかし、毎朝、まずいコーヒーを飲むと、その日、後で飲むコーヒーはすべて美味しく感ずるでしょう。
人生と同じなのです。

やらなければいけないまま放置している課題があります。
今日こそ、手掛けようと思いながら、気が向きません。
もう2年以上、放置していることです。
このコーヒーのように、期限切れにならないうちに取り組みださなければいけません。
しかし、今日はやめましょう。
明日に延ばさないと、本当に胃がダウンしそうですから。

■3489:健康診断の結果(2017年3月23日)
節子
2か月前に受けた後期高齢者健康診断の結果をユカが聞いてきてくれました。
1月に、どこでどう間違ったか、うっかりして検査を受けてしまったのですが、結果を聞きに行っていなかったのです。
心配して、娘がついに聞いてきてくれたわけです。
結果は血圧と悪玉コレストロールだけが問題なので、まあ問題なしでしょう。
医師から、お父さんはちゃんと血圧の薬を飲んでいるかと訊かれて、娘は飲んでないようですと答えたそうです。
まあ遠藤医師も、「想定内」の話でしょう。
受診票ももらってきてくれましたが、質問への私の回答を見直していると、医師もモチベーションは下がるだろうなと思いました。
たとえば、「生活習慣を改善してみようと思いますか?」という問いには、「改善するつもりはない」と答えています。
「保健指導を受ける機会があれば活用しますか?」にも、私は「いいえ」と答えています。
そういう気ならば、健康診断など受けるなよと、遠藤さんは思ったかもしれません。
悪いことをしました。
後期高齢者としては、もう健康診断を受けるのはやめましょう。
もっと若い人に医療費は充当すべきです。

医療保険にも入っていないのですが、これは入ることにしました。
低所得者の場合、入院などで医療費がかかると大変なことを、前回の入院の時の同室者から教えてもらいました。
ちょっと矛盾しているような気もしますが、まあ娘たちに金銭的な迷惑をかけることは避けなければいけません。

総合判定は「要医療」になっていますが、まあ血圧だけでしょう。
しかし、170/100ですから、さほど高くはないと言っていいでしょう。
そういえば、数日前に、保健師でもある友人が、降圧剤を飲まないのであれば、水分を1日2リットル飲むようにとメールしてきました。
それで昨日から、お茶を盛んに飲むようにしましたが、2リットルは飲めません。
で、今日でやめることにしました。

生命は、自らが生きるために必要なことはたぶん自らで気づく存在だろうと思います。
生命の終わりも、たぶん自らで気づくのだろうと思います。
節子と過ごした最後の3か月を思い出すと、それがよくわかります。
私はまだ数年はどうも生きているようです。
交通事故や殺人事件や合わなければの話ですが。

■3490:追いかける生き方(2017年3月25日)
節子
昨日、私にはまったく歯が立たない本を読みだしました。
ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」です。
超ひも理論を解説した、500頁の本です。
本は基本的には2日以内で読むことにしていますが、さすがにこの本は2日では読めません。
というのも読んでいてもほとんど理解できないのです。
まあ、それでもなんとなく面白くて、昨夜は挽歌を書く間もなく、読みふけってしまいました。
但しほとんど理解できませんでしたが。

理解できなくてもなんとなく雰囲気を理解するのが、私の読み方の一つですので、まあこれは2日は無理としても、3、4日は読んでみようと思いますが、たぶん途中で挫折するでしょう。
しかし、それでも何かが残るのが私の読書の体験です。

今日は、「相対性理論vs量子力学」を読みました。
まったく理解できませんでしたが、私自身の生活実感につながっていて、なんとなく面白かったです。
時間も空間も生きている。
改めて納得できました。

その中に、アインシュタインに関するこんなくだりがありました。

16歳のアインシュタインは、こんな疑問を抱いた。
光線を追いかけたら、どうなるだろう。
ニュートンの運動法則にもとづいて直観的に推論すると、光に追いつき、光が静止して見えることになると思われる。
光は立ち止まってしまうと。
ところが、マクスウェルの理論、さらにあらゆる信頼できる観察によると、静止した光などというものはない。

そこからアインシュタインは、光の速度は常に一定だということにたどり着くわけですが、私自身には光の速度が一定などということは信じがたい話です。
時間と空間が変化するのであれば、当然、光の速度も変わっておかしくない。
そう思うのですが、それは私がまだ宇宙の構造を理解していないからなのでしょう。

しかし、光を追いかけたらどうなるだろうと考える若者は多いでしょうが、そこから相対性理論まで追いかけていったアインシュタインには感心します。
多くの人は、思っただけで行動には移さない。

たぶん、私が節子にあった頃、私はまだ「追いかける生き方」を少し残していた気がします。
節子は、そこにきっと引き寄せられたのかもしれません。
追いかけるものの存在は、人の生きる力の源泉のような気がします。
追いかけるものがなくなるのが怖くて、私はいろんなものに関心を持つのかもしれません。
節子がいなくなって以来、追いかけるものを失った気がしています。
もし、ほんとに追いかけるものがあれば、探すことはないでしょう。
探している時には、探し物が見つかっていないということですから。

■3491:選挙の投票に行くのもさびしさがあります(2017年3月26日)
節子
今日は千葉県知事の選挙投票日です。
私は選挙に行かなかったことはこれまで一度もないと思いますが、これはわが家のルールでもありました。
いつも基本的には家族みんなで投票に行きました。
少なくとも節子とは必ず一緒でした。
ですから選挙があるたびに、節子がいなくなったことを毎回実感させられます。
選挙に行く途中に、お互い誰に投票するかについての会話がありましたが、実際に誰に投票したかはわが家では基本的に話し合わないようになっています。
私はいつも公開していますが、娘たちは教えてくれません。
節子も明言はしませんでしたが、大体わかりました。
私とは意見が合わないこともありました。

今日は、雨の中、午前中に投票に行きましたが、なんと投票率は5%にも達していませんでした。
それにはいささか驚きましたが、議会制民主主義もそろそろ根本から見直すべき時期に来ているのかもしれません。
そういえば、今回はそもそもせんきょをやっていることさえ気がつかないほどの選挙でした。
市議会選挙や国政選挙の場合は、電話も良くかかってきますが、今回は一本も電話はありませんでした。
県知事と生活はなかなかつながってこないのです。

選挙でさえ、節子がいた頃と今とでは、違ったものになってしまったような気がします。
大げさに言えば、世界が変わってしまっているわけです。
不思議なものです。 

■3492:未来の自分の消滅(2017年3月26日)
節子
今日はまた冬に戻ったような寒い日でした。

久しぶりにホームページを更新しました。
と言っても、週間記録だけですが、3週間も更新していなかったので、まとめて3週間を書き込みました。
すっかり忘れてしまっていたのです。
以前であれば、あり得ないことなのですが。

私がホームページをつくったのは2002年ですが、以来、毎週日曜日に更新するようにしていました。
更新できないときも、1〜2日以内には必ず更新していましたが、今年になってから時々、更新が遅れてしまっていました。
理由は2つあります。
一つは、ホームページのプロバイダーのサービス内容が変わってしまい、使い勝手が悪くなったことです。
しかもそれまでは、アクセスした人の人数も計上されていたのですが、それができなくなってしまいました。
しかも表示がずれたりしだしたのです。
私のホームページは、何しろ我流で作っていますので、いまさら新しいソフトで作り変えるのは無理なので、プロバイダーを変えることができません。
そんなわけでモチベーションが下がってしまっています。

しかし、もっと大きな理由は、書き残すことそのもののモチベーションがなくなってきていることです。
これまでは、自分の行動記録をできるだけ残しておこうと思っていたのですが、誰のためにかといえば、それは「未来の自分」のためです。
その「未来の自分」が、最近の私のなかから消えつつあるのです。
このことは、私の生き方に大きな影響を与えています。

人は、今を意識して生きるよりも、未来を意識して生きているように思います。
最近そのことがよくわかってきました。
だからこそ、人は今の生活には必要ないものまで、所有したくなるのです。
お金にこだわるのもそうかもしれません。
いまを生きるためには、余分なお金や余分なものなど必要ないはずです。
最近の私の心境は、かなりそうなってきていますが、しかしまだ「未来の自分」を意識しているので、物を捨てることができないでいました。

ところが最近、「未来の自分」の存在があまり意識できなくなってきています。
そのせいか、自分のことを記録することの意味がなくなってきているわけです。
そんなわけで、最近はホームページの更新を忘れてしまうようになってきている。
そんな気がします。

人は、死ぬ前に、まずは「未来の自分」の死を体験するのではないか。
最近、そんな気がしています。
「未来の自分」がいなくなると、いまの自分を誠実に生きるしかありません。

節子は、がんの再発以降、もしかしたらそういう生き方をしていたのかもしれません。
しかし、もう一つの考え方もできます。
「未来の自分」のためにではなく、「もう一つの自分」のために生きることです。
節子にとっての「もう一つの自分」は、たぶん私です。
それが節子にとっての「生きる意味」だったかもしれません。
残念ながら、私には「もう一つの自分」は存在しません。

最近、どうも生きる意欲が弱いのは、「未来の自分」がいなくなったからかもしれません。

■3493:一人で生きることの大変さ(2017年3月28日)
節子
さわやかな朝なのですが、気が一向に晴れません。
晴れないのは、それなりの理由があるのです。
相変わらず周辺では、さまざまなことが起こります。

最近気づいたことがあります。
社会がおかしくなってきた最大の理由は、多くの人が「雇用労働」につくようになったからではないかということです。
これに関しては、改めて時評編に書きます。

しばらく音信不明だった人に連絡しようと思って、連絡先を探しました。
メールも電話もつながりません。
会社を経営していた人なので、ネットで会社のホームページを探しましたが、なぜか見つかりません。
会社経営が大変だったのは知っていましたが、ネット上から「痕跡」が消えています。
いささか心配です。

昨日、旅行会社てるみくらぶが破産しました。
負債は100億円近い額だそうです。
顧客や従業員も多大な迷惑を受けることでしょうが、私は社長の山田千賀子さんに心から同情します。
たしかに、経営の責任は問われなければいけませんが、山田さんの人生は一変するわけです。
もちろん山田さんの家族も、です。

六本木で豪華な生活をしていた人が、会社破綻で突如、ホームレスのようになってしまうという話も聞いたことがありますが、組織に雇われて安定した「仕事」と「給与」をもらっている人と違い、個人でビジネスをやっている人は毎日が「緊張」の連続です。
そして、時に、巨額な借金を背負い込むこともある。
うまくいけば、巨額な利益を得ることもあるでしょうが、それに見合うリスクを負いながら生きているのです。
意思決定は、常に自らがやらなければいけません。
それは、たぶん体験しなければわからないことでしょう。
そうしたリスクを分散するために、「専門職制度」ができたのかもしれません。

私も一度だけ、組織や制度に守られないビジネスにささやかに関わったことがあります。
私の取り組みのミスで、私も大きな負債をかかえこんでしまいました。
人助けのつもりが、人助けにもならず、むしろ他者に迷惑をかけることになってしまった。
その時のダメッジが、いまもなお私に覆いかぶさっていますが、そのおかげで、少しだけそうした個人でビジネスをすることの意味がわかるようになりました。
以来、個人事業者の捉え方が変化しました。
会社勤めは、そういう意味では実に安定していますし、リスクはさほどありません。
あるのは、突然解雇されるくらいでしょう。
個人が失敗して受けるダメッジとは、まったく違います。
会社生活と個人事業生活を体験して、その違いがよくわかります。
だからこそ、てるみくらぶの山田社長に同情したくなるのです。

連絡がつかなくなった知人ですが、そういうことはその人だけではありません。
私の周辺には、個人で仕事をしている人が少なくないのですが、なぜか私の周りにいる人たちは、みんな苦戦しています。
この年度末を、乗り切れるかどうかが課題です。

お金は本当に邪悪で危険な力を持っています。
しかし、なぜかお金がないと困ることがある。
お金から自由になろうと思いながら、お金が欲しいと思っている自分に、どうも気が晴れないのです。

私が、安定した会社生活を辞められたのは、節子の存在があったからです。
しかし、いまは、安定した金銭収入も節子も存在しません。
困ったものです。

■3494:「生きる意味」を喪失した後の「生」(2017年3月29日)
節子
挽歌3492に、久しぶりにpattiさんからコメントがありました。
pattiさんは、数年前に偶然にこの挽歌に出会い、時々、コメントを寄せてくれるのです。
私と同じく、伴侶を病気で亡くされています。
私たちよりもずっと早い別れだったようです。

コメントを読んでもらえばいいのですが、私の心境を、私以上に深く表現されているので、あえてここにも書かせてもらうことにしました。
もっとも、pattiさんもまた、私の書いた「未来の自分の喪失」が、現在の自分の心境を言い当てていると書いてくれているのですが。

pattiさんは、こう書いています。

今回の挽歌はあまりにも現在の私の心境を言い当てているので切なくなりました。
何かを所有して残すことへの意欲は極端に希薄になりました。
だから写真も一切撮りません。
「もう一つの自分」を実感したあとのこの空虚さを埋めるものは何もありません。

まったくその通りなのです。
なぜか写真が撮れない。
なぜか何かを欲しいと思うことがない。

内面の旅はひとりで続けていくものですが、「未来の自分」を「ふたりの未来」として考えてくれた存在があるときの旅はとても自由に飛翔していました。
ともに計画しながらも予想もつかない展開もあったのです。
ときには危険も伴うこともありましたが。

ほんとうにそうでした。
「未来の自分」を「ふたりの未来」として考えてくれた存在。
まさにそういう関係が実感できるようになった時に、その存在がいなくなった。
私の場合は、自分さえもが見えなくなってしまったのです。
人生そのものが空虚で、生きているという実感がない数年が続きました。
その分、何かをやり続けないといけないという思いから、外部から見ると、私は元気にいろんなことに取り組んでいるように見えていたようですが。

最後にpattiさんは、こう書いています。

「生きる意味」を喪失した後の「生」をどう生きるかが、最期まで続く自分自身への問いかけです。
おそらくその解答は出ないとわかっていても。

まるで私が書いているような気がするほどに、そうなのです。
かけがえのない伴侶がいなくなった後の人生とは、いったい何なのか。
答のない問いかけをつづけるpattiさんは、なんだか同志のような気がします。
お会いしたことはありませんが、そういう人がいると思うだけで少し心がやすまります。
空虚さは埋まりはしないのですが、少しだけ元気も出る。
涙もちょっと戻ってきてしまいましたが。

今日もまた、ちょっと寒い1日でした。
我孫子はまだ桜が咲いていません。
pattiさんの住んでいるところは、もう桜が咲いているでしょうか。

■3495:睡眠トラブル(2017年3月30日)
節子
先日のサロンで、睡眠相談の活動を始めた友人から聞いた話ですが、睡眠トラブルを抱えている人が多いのに驚いたそうです。
そういえば、私も気になることが多いのですが、真夜中の3時とか4時にメールを送ってきたり、フェイスブックに書きこんだりしている友人が少なからずいます。
そういう人には、以前は、「夜はちゃんと寝ないといけません」などと余計な一言を加えることもあったのですが、いつの間にか、あまり気にならなくなるようになっています。
それほど多くなったということです。
スマホになったので、もしかしたら枕元に置いていて、すぐに投稿できるのかもしれませんが、まあ、夜、きちんと眠れない人が増えているのでしょう。
なにしろ、かく言う私自身がそうなのです。

最近、できるだけ早寝早起きに努めています。
10時就寝、5時半起床が目標です。
しかし、なかなかそうはいきません。
なぜなら真夜中に目が覚めてしまうからです。
ひどい時には12時過ぎに目が覚めてしまうこともあります。
そこからまた普通は眠れるのですが、眠れないこともあります。
いや、眠れるとしても、眠りが浅い感じがして、朝の目覚めがすっきりしないことも多いのです。

最近は、3時か4時頃、目が覚めることが多くなってきました。
夜中に目が覚めて、枕元の時計を見ると、時計が2時台だと、もうほんとにがっかりします。
眠れない夜ほど、嫌なものはありません。
眠れないとついついいろんなことを考えてしまいます。
30分も眠れなくなった場合は、本を読むようにしていますが、おかげで最近は読書量が増えました。
真夜中に1冊読んでしまい、その挙句、いつのまにか寝てしまうというようなこともあります。
そんな時には7時を過ぎても目が覚めずにいます。
朝の目覚めが遅いと、どうもその日は調子がよくありません。
太陽の動きとずれが多いと、どうも調子がよくありません。
自然の影響を受けやすいタイプなのかもしれません。

いずれにしろ、最近また夜に眠れない日が増えてきています。
早く外が明るくなってほしいと祈ることもあります。
日の出の時間が早くなったので、最近はとてもうれしいですが、それでも3時に目が覚めてしまうと辛いです。

節子が横にいてくれたら、と、思うことが多いです。
暗い夜中にベッドで一人目覚めていることほど、辛いことはありません。

■3496:節子がつなげてくれた縁(2017年3月31日)
節子
一昨日、pattiさんのことを書きましたが、この挽歌の「おかげ」というか「せい」といか、愛する人を亡くした方たちとの出会いがいろいろとありました。
節子と別れたばかりの頃、私がまだおかしい精神状況に会った時に、娘さんと一緒にわが家を探して突然やってきた女性は、伴侶のことをいろいろと語ってくれました。
それで少しは気が晴れたかもしれません。
群馬からは、同じように伴侶を亡くした女性が2人、湯島に来ました。
お一人は私の友人ですが、その方が書いた本を節子は読んで、この人はすごいなと言っていた人です。
彼女もまた夫を亡くしたのですが、同じように夫を亡くした友人がいると言って、湯島にふたりで訪ねてきました。
そしてお互いに、同じような境遇を涙ながらに少しだけ話し合ったのですが、友人は、この話はこれでおしまいと宣言し、後は涙なしの話題になりました。
彼女は、夫が亡くなった直後に私と会ったのですが、それを億部にも出さ是う、用事が終わった後に、そのことを話してくれました。
その凛とした生き方に、節子がこの人はすごい人だと言っていた意味が分かりました。
子どもを亡くしたという若い女性は、わが家の庭に献花に来てくれました。
私がうっかりしていたら、献花をしたままで帰って行ったはずですが、幸いに何とか気づきました。
妻を亡くしたと言って、湯島に来てくれた男性もいます。
愛する人を亡くした人、大事な人を亡くした人、いろんな人が湯島やわが家の来てくれました。
その内、何人かの方はいまも御付き合いがあります。
しかし、その多くは、その後、連絡もなければ、私も連絡していません。
その後、どうされているでしょうか。

一昨日、pattiさんのことを書いてから、気になりだしました。
みんな、ある意味では、節子がつなげてくれた縁ですから、大事にしなければいけません。
節子から、私が友人知人が多すぎて、誠実に付き合えないのではないかといわれたことがあります。
私はそうならないように心がけているつもりですが、結果的にはそうなっているのかもしれません。

ちょっと反省しています。

■3497:桜の季節がきました(2017年4月1日)
節子
4月になってしまいました。
花見とは無縁な、10回目の春です。
誘われて花見に行ったことも、わずかですがありますが、まだ花見は辛いことの一つです。
節子と最後に見た桜は10年前のあけぼの公園の日本庭園の駐車場の桜でした。
家族みんなで行ったのですが、なぜかその時の情景が鮮明に残っています。
なぜそれが駐車場の桜だったのか、わかりませんが、節子には、最後の桜だとわかっていたのでしょう。
肝心の、あけぼの公園の桜の映像が浮かんできません。
まあ、人の記憶とは、そんなものでしょう。
そして、そうした記憶とは全く関係ないように、春はやってきます。

手賀沼の湖畔を通る道沿いの桜がほころびだしています。
節子がいなくなっても、必ず見ることになる、駅に向かう道路の側にある老木の桜も、咲きだしました。
そういえば、花見はしていませんが、この桜だけは必ず見ています。
そして、あまり意識はしていませんが、たぶん私も元気をもらっています。

花のことで、先日、友人からメールが来たのを思い出しました。
なぜか節子のことが書かれていました。

節子さんには2度お会いしています。
一度目は大津で(覚えてないでしょ)、二度目は湯島のサロンで。
素晴らしい雰囲気を身にまとった方ですね。
生き方や心根の美しさがそのままに現れていらしたのだと感じています。
花を皆さんにどうぞと、家の外にそっと置いておかれた話、印象に残って良く覚えています。
修君の全てを受け入れながら、優しくしかも自分を見失うことなく。
ほんとに早すぎるお別れでした。
でも、「まだ来なくていいですよ。まだ道は半ばで、したいことが残っているでしょ。いつだって会えるのですから。のんびりと待っています」
とおっしゃっていることでしょう。
ちょっと立ち入り過ぎてしまいました。ごめんなさい。

過剰な褒め言葉が並びすぎで、人の記憶とは変わるものだなという気がします。
しかし、褒め言葉は素直に受け入れましょう。
ただ、花の話は私にはあまり記憶がありません。
私が道半ばだというのも、ピンときません。
そんなたいそうな生き方はしていないからです。
記憶だけではなく、いまここにいる人の理解もまた、人によって違うのだなと思います。
でもまあ、こう褒められた以上は、今年も少し、私の思いに取り組もうと思います。

冷たい雨の朝から、今年の春は始まりました。

■3498:手賀沼公園がにぎわっていました(2017年4月2日)
節子
近くの手賀沼公園の近くを通ったのですが、春になったせいか、家族ずれでにぎわっていました。
近くに公園があるのにあまり行くことはありません。

節子が発病してから、よく2人で通った公園ですが、当時に比べるととてもきれいになっています。
この公園に、毎朝、ふたりで散歩に来ていました。
この公園のベンチには、だからいろんな思い出があるのです。
ですから、そう簡単にはこの公園には足が向かないのです。

この公園の近くに転居してきてから、間もなく節子の闘病生活が始まりました。
ですから節子は、この公園を楽しむ間もなかったはずです。
落ちついたらボートに乗ろうと話していましたが、ついにボートに乗る機会はありませんでした。
池に浮かんでいるボートを見るたびに、それを思い出します。
そんなこともあって、この公園には一人で行くことはありません。
思い出があることは、いいことばかりではないのです。

湖畔の桜はほころびだしたばかりですが、菜の花畑は満開です。
自然が生きていることがよくわかります。
私も、今年こそは、その自然とともに生きることを取り戻したいと思います。

■3499:不意打ちに残波(2017年4月3日)
節子
今日は朝早く家を出て、川口市にあるコミーに行きました。
社長の小宮山さんは節子もよく知っている人ですが、小宮山さんから一度、朝礼に出てみないかといわれたのです。
この会社はとても面白い会社で、業績もいいですし、そもそも会社の文化に共鳴できます。
40周年記念に「コミーは物語を創る会社です」という冊子を制作し、関係者に配布しましたが、それがまた面白い。
小宮山さんは、節子が元気だったころの湯島のサロンにもよく来てくれていました。
大企業の社長(モチベーション来てくれたことがありますが)とは全く違って、節子はとても親しみを感じていました。

一応、会社に行くので、背広を着ていきましたが、とてもカジュアルな会社なので、背広姿はちょっと浮いてしまいました。
朝礼のことはずっと聞いていたのですが、予想より長く、30分もやっていました。
しかも、その上、昼礼というのまであって、そこでは毎回、社員が順番に10分ほど話すのだそうです。
月曜日は社長が話す日だというので、小宮山さんがどんな話をするのだろうかと興味を持って参加しました。
会場の会議室に入ったら、なぜか小宮山さんも含めて、みんな学校の教室のように前を向いて座っているのです。
そして、会場に入った途端に、座っていた小宮山さんから、私に10分ほど話してよ、といわれました。
突然のことで、何を話していいかわかりません。
しかし、40人ほどの社員たちが私を見つめています。
さてさて。

この会社では、私は「しゅうさん」と呼ばれています。
「おさむ」という名前で呼ばれることには慣れていますが、しゅうさんというのは初めてです。その話をすればよかったのですが、その話は朝礼で最初に話してしまいましたので、話せません。
まさに、万事休す。
しかし、休んでいるわけにはいきません。
なにしろ、時々社内で話題になる「しゅうさん」に、社員のみなさんは興味津々でしょう。
それで、言い訳はせずにすぐ話し出したのですが、自分でも何を話したかわからないような支離滅裂な話になったと思います。
困ったものです。

人生、油断してはいけません。
もともと私は不用意で油断しがちなタイプですが、節子がいなくなってから、ますますそうなっているようです。
それで、少し人生が曲がってしまっています。

しかし、その昼礼での不意打ちでの惨敗を除けば、いろんな社員とも話せて面白い1日になりました。

■3500:庭の整理という大仕事(2017年4月5日)
節子
昨日から庭の整理を始めました。
なにしろずっと放置していたので、大変です。
一番の大仕事は、80センチほどある大きな鉢に植えていたヒバの木を抜く作業でした。
節子がいた頃は、きちんと手入れもし、とてもいい形になっていたのですが、あれから10年、さすがに手入れ不足に愛想をつかしたのか、昨夏、枯れてしまったのです。
根が張っているので、抜くだけで30分近くかかりました。
それにしても大きな鉢です。
こんな鉢をよくまあ買ってきたものです。
その後も、河津桜用に私も同じくらいの鉢を買ってきましたが、持ち運べるようにプラスティック製にしました。
しかし、節子の買っていたのは陶器なので、注意しないと壊れます。
娘と2人がかりでなんとか作業完了です。
それだけで疲れてしまいました。

次は植木鉢の整理ですが、これまた何が何やらよくわかりません。
野草かと思って抜いたらそうではなく、名前を書いた説明が出てきました。
不注意に抜いてはいけません。
水やりはそれなりにやっているのですが、肥料をやらないとだめだと娘に指摘されて、肥料もやりました。
今年は咲かなかった2本の桜は、来年は咲くでしょう。
ちなみに地植えしていたさくらんぼと桜はどちらもかれてしまいました。
今年の冬は雨が少なかったのでしょうか。

今朝は、朝から家の庭に広がりだしていなにわいばらとシャボンのにおいのする木花(名前を忘れてしまいました)を思い切り刈り込みました。
その木は、ツルを切ろうとすると、白い樹液を出します。
高い位置のツルを切ると、ちょうど樹液が顔にまでかかってきます。
攻撃か懇願かわかりませんが、おかげで手が樹液で真っ黒になりました。洗っても落ちません。
こういう作業をするときには必ず手袋をするように、いつも節子から言われていましたが、そういうのが私は苦手なのです。

おかげで、黒くなっただけでなく、イバラの棘で血だらけになりました。
まあそれくらいの痛みを感じないと、イバラやツルとバランスしません。

昨年末に、畑の花壇に植えこんで置く予定だったチューリップの球根は、芽が出始めてきました。
実は今年は、一度も畑に行っていないのです。
畑を辞めようかと思い出しているからです。
しかし、芽が出てきたチューリップの球根を放置しておくわけにはいきません。
さてさて人生は、やることがたくさんあり過ぎです。
いつになったら、のんびりとできるのでしょうか。
彼岸に行くまでは、無理なのかもしれません。
人にはどうも、それぞれ定めがあるようです。
それには素直に従わなければいけません。

今日は湯島に行く道筋を変えて、上野公園の桜の下を歩いてみようかと思います。
こういう気になったのは、10年ぶりなのです。