妻への挽歌(総集編6)
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目次

■1601:「愛がすべての基本」(2012年1月20日)
痛みを知ってこそ他者の痛みに共感できると、この挽歌では何回も書いてきました。
それが私の実感だったからです。

数日前に、Kさんがコメントを書いてくれました。

私は佐藤さんに一種の「愛」を感じました。
変な意味にとらないでください。^^;人類愛、とでもいうのでしょうか。
だから、佐藤さんはそういう愛をお持ちの方なので、きっと多くの人を惹きつけるのだと思います。

ここでの「愛」は、なんとなくわかります。
自分のことなのでいささか恥ずかしいのですが、15日に湯島で新年会サロンと言うのをやりました。
このブログにも直前に案内を書きましたが、まあ思いつきでした。
ところが、40人近い人が立ち寄ってくれました。
テーマもなく、会費まで取られて、しかも誰が集まるかわからない、全くの無駄な会です。
いろんな人が集まったのですが、ある人がポツンと「佐藤さんの人徳だよ」と口にしてくれました。
その言葉はこそばゆい感じがしましたが、私は同時に、その場に「愛」を感じていました。
そう発言してくれた人も、たぶん私を愛してくれているのです。
Kさんのいう「一種の愛」です。

米国の心理学者ハインツ・コフートは、愛がすべての基本であると言っています。
愛のなかで育った自己愛に満ちた人は、強く、そして楽しく生きられるというのです。
お金や権力などとは無縁に、愛を基準に生きていれば、人生は楽しくなるはずです。
私は、かなりそういう風に生きているつもりですが、まさにそれを実感しています。
たくさんの人に支えられて生きていることも実感していますが、「支えられる」とは「愛される」ということだと気づきました。
「支える」とは「愛する」と同義語だからです。

愛は、どこから生まれてくるのか。
イルカさん(歌手のイルカさんではないようです)という方はご自分のブログで、祖父母の愛は無条件だったと書いています。
http://saint-maybe.cocolog-nifty.com/inevitable_tourist/2011/07/post-f022.html
そのブログがずっと心のどこかに残っています。
まだお会いしたことはありませんが、イルカさんの周りにもきっと愛があふれているはずです。

さて私のことです。
私の周りに「愛」が集まりだしたのは、節子への愛のおかげだったような気がします。
節子を愛することで、人を愛することができるようになった気がします。
また「消化不足」のわけのわからない文章になってしまいましたが、いつかもう少しきちんと書けると思っています。
ハインツ・コフートの本を、一度、きちんと読んでみようと思います。

■1602:愛こそが宇宙の根本的な原理(2012年1月21日)
「愛」に関連して何回か書いたので、もう1回、少し話を飛躍させます。
宇宙は愛に満ち満ちているという話です。
いささか気恥ずかしい話ですが、何人かの方の最近のコメントに勇気づけられて。

映画「ソラリス」については何回か言及したことがあります。
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』を映画化したものです。
私が、その小説に出会った年は、まさに節子と出会った年でもあります。
1964年頃、SFマガジンに翻訳が連載されていたのです。
その後、2回、映画化されました。
ソラリスは架空の惑星の名前ですが、その惑星を覆っている海が知性を持つ有機体なのです。
そして、ソラリス探索のために地球から来た宇宙ステーション「プロメテウス」の乗員に不可思議な厳格を生じさせるのです。
たとえば、主人公の前に亡き妻を現出させるのです。

節子がいなくなってから、この映画を観るとなぜかとてもあたたかな気持ちになれます。
そして私なら主人公のような行動はとらないだろうといつも思います。
映画の主人公は科学者ですので、そんな幻覚にはなかなか惑わされないのです。

それがなんだと言われそうですが、この映画を観ながら思い出したのは、リチヤード・モーリス・バックの「宇宙意識」です。
彼はその本でこう書いています。

宇宙は死んだ物質ではなく生きた存在である。
宇宙はあらゆるものが善に向かって進み、万人の幸福が長期間的には確実であるようにつくられている。
そして愛こそがこの世の根本的な原理である。

宇宙を生み出したのは、「愛」なのです。
これは、仏教の「大きな生命論」につながりますし、華厳経のインドラの網にもつながります。
仏教では、人は生かされているとよく言います。
それは「愛に包まれている」と言い換えてもいいでしょう。
宇宙の愛を感じられれば、人は平安な生を送れます。
覚るとは、宇宙の愛を悟ることかもしれません。

それにしては、地球は不幸や悲惨さに満ちています。
今この瞬間にも多くの無垢な子どもたちが、もちろん大人もですが、餓死し、病死し、殺されています。
愛などどこにあるのかと思いたくもなります。
しかし、いかなるところにも「愛」はある、宇宙は私たちを愛でつつんでいる、と思えば、気持ちは和らぎます。
そして、自らのわずかばかりの愛を、少しはまわりに分け与えられる気になるのです。
その愛は、環境ならずさらに大きくなって自らに戻ってきます。

なんだか寝言のようなことを書きましたが、節子とはこんな話を時々していました。
節子はいつも聴き役でしたが、とてもあたたかく聞いてくれました。
そしていつも、私を愛してくれました。
しかし、私は、その節子の愛に対して、お返しができなかった。
それが哀しくて仕方がないのです。

■1603:人生のピーク(2012年1月22日)
節子
節子がいなくなってから、何が変わったのでしょうか。
お風呂に入りながら、ふとそんなことを考えました。
すべてが変わったとも言えるし、何も変わらないとも言える、そんな気がしました。

形の上で変わったことはたくさんあります。
たとえばお風呂も、節子がいる時は一緒に入りました。
入浴時は、私たちのそれぞれの1日の報告の場でもありましたから、ずっと話し合いながら入浴しました。
今はいつも私一人です。
しかし、節子との話はいまも続いています。
入浴時は、節子と話していることが多いのです。
時々、名前さえ口から出ます。
いささかみっともないかもしれませんが。
ですから変わったといえば変わったし、変わらないといえば変わっていないのです。

明らかに変わったのは何だろうと考えました。
答は、好奇心が落ちてしまったことだと気づきました。
自分の世界を広げることに興味を失ったような気がしてなりません。
もちろん今も誰かから新しい話を聞くと、心身が動きます。
そこまではあまり変わっていないのですが、そこからがまったく違います。
行動に結びつかないのです。行動が広がらないのです。
そのことに気づいたのです。

人の人生のピークはいつでしょうか。
その答がわかったような気がします。
それは最愛の伴侶と別れた時です。
最愛でない伴侶、あるいは伴侶ではない最愛の人ではありません。
最愛の伴侶です。
伴侶でなくただ愛する人であれば、いつか伴侶にめぐり合える時まで人生は上向きです。
最愛の伴侶でなければ、いつかその伴侶が最愛の人になるかもしれませんし、別の伴侶とのめぐり合わせがくるかもしれません。
いずれの場合も、まだ先に人生のピークがあるのです。
しかし、最愛の伴侶の場合は、もうピークはないのです。
ですから、後は静かに下り坂を下りるだけなのです。
お風呂に浸かりながら、そんなことを考えました。

なんだか寂しくてくらいと思われるかもしれませんが、そうではないのです。
その気づきは、私にはむしろ明るい気づきなのです。
なにしろ私は人生のピークを全うしたのですから。
そして、節子もまた人生のピークを全うしたのです。

今日はゆっくり眠れそうです。
そういえば、最近、節子の夢を見ません。
困ったものです。

■1604:怒りの呪縛、悲しみの呪縛(2012年1月23日)
節子
私のブログを読んだ、見知らぬ人からメールが来ました。
その人は、家庭内暴力(DV)で訴えられ、裁判で親権を奪われたそうです。
その人から数年前、自分は冤罪であるということを書いた分厚い資料がわが家のポストに投函されていたのです。
その時は名前も何も書いていなかったので、なんとなく嫌な気分で、そのことをブログに書きました。
私は、匿名で人を批判する人が好きではないので、批判的に書いたかもしれません。

もうすっかり忘れていましたが、その人から突然メールが届きました。
ネットで検索していて、私のブログ記事を見つけたようです。
長いメールでした。しかし、今回は実名でした。
同じ我孫子市内に住んでいる人だともわかりました。
会うことにしました。その旨、メールしました。
昨夜、メールが届きました。

そこに、こう書かれていました。

わたしのしている事は、保健所だか、役所だかに愛犬を殺され?て、役人だかを殺した小泉なんとかと変らないのではないかと、思ってはいます。
(中略)
異常な怒りが止められないのです。

この人は、裁判でDVと判定されたのでしょう。
その裁判の時に、裁判官に向かってペットボトルを投げつけて、新聞で報道されたこともあるようです。
その新聞記事も教えてもらいました。

その方も、もしかしたらまたこのブログを読んでいるかもしれませんが、そのメールを読んで、ますます会わなければと思いました。

家族を不条理に壊されたら、異常な怒りが生まれることはよくわかります。
「不条理」かどうかは、人によって受け取り方は違います。
裁判は決して、双方にとっての正義をもたらしません。
私の感じでは、強いものに加担するのが、多くの裁判です。
司法制度を管理しているのが、権力ですから、それは仕方がありません。
あれ、何やら時評的になってしまいました。

その人と会った後で、また時評編にも書こうと思います。
しかし、今日、書きたかったのは「怒りの呪縛」ということです。
もしかしたら、「悲しみの呪縛」と言うものもあると思ったのです。
もしそうならば、私もこの人と同じところにいたかもしれません。
「悲しみの呪縛」についてはまた書きたいと思います。

ところで、この人の「異常な怒りの呪縛」を解かなければいけません。
小泉某のようになってほしくありません。
ちなみに小泉某が殺害した山口元厚生労働大臣は、私の高校時代の同級生なのです。
まさかここで、その名前に出会うとは思ってもいませんでした。

■1605:2枚の写真(2012年1月24日)
節子
今朝起きたら、雪で真っ白でした。
庭のテーブルに積もっていた雪を測ったら5センチでした。
屋上から白い世界を久しぶりに眺めました。
遠くに富士山もかすかに見えました。
今年初めての富士山でした。

数年前に九州の大日寺の庄崎さんから節子の話を聞きました。
白い花に囲まれていると言っていましたが、こんな風景なのでしょうか。
雪景色を見るといろんなことを思い出しますが、白い花と言われると、献花に包まれた節子も思い出します。
一時期はわが家も白い花でいっぱいになりましたから、私にはむしろ哀しさが浮かんできます。

最近、机の前の写真を変えました。
節子一人の写真ではなく、私と2人で並んで撮った写真を置いています。
節子の使っていた周辺を整理したら、写真立てが出てきました。
そこに2枚の写真が入っていました。
いずれもまだ節子が病気になる前の写真です。
1枚は、たぶん私も40前後だろうと思います。
どこで撮ったのか定かではないのですが、背景には桜が満開です。
その写真の横に、なぜか私の37歳の時のパスポートに使った写真がはさんでありました。
もう1枚は転居前の自宅の前で撮った写真です。
2枚の写真の間には、たぶん10年以上がたっています。
比べてみると、かわいらしい節子とたくましい節子です。
私についてくる節子と私を引っ張る節子です。
それに比例して、私も変化しています。
そして、2枚目の写真からいまは10年以上経過しています。
70代の私たちの写真がないのがとても残念です。
その写真があれば、私たちの関係がまさに逆転したことがはっきりと見えるでしょう。

節子は、この2枚の写真をどうして選んだのでしょうか。
気にいっていたのでしょうか。
そう思いながら写真を見ていると、節子が今にも話し出しそうです。
やはり胸がつかえます。
節子の写真をじっくりと見るのは、今もなお辛いです。

話しがそれましたが、節子も冬景色が好きでした。
きっと見ているでしょう。

今日も寒い夜です。

■1606:パセーナディの問い(2012年1月27日)
原始仏典の阿含経が最近注目されていますが、その一つ『サンユッタ・ニカーヤ』に有名なコーサラ国王パセーナディとマリッカーの対話の話があります。

国王は王妃に、「マリッカーよ、この世で一番愛しい人は誰かね」と訊ねます。
王は、当然、マリッカーが「王」と答えると思っていたのです。
ところがマリッカーは「私にとって一番愛しいのは自分自身でございます」と答えたのです。
そして、「ところで王様、あなたはいかがですか」と訊かれます。
王様も結局は「私にとっても、私自身が一番愛しい」と答えるのです。
この話をパセーナディから聴いたブッダは答えます。
「人の思いはいずこへゆくも、自己より愛しきものはない。それと同じく、他の人々にも自己はこの上もなく愛しい。さらば自己の愛しきを知る者は、他を害してはならぬ」。

この話には、次のようなことが含意されていると多くの本には書かれています。
自己を愛する人は、他人を愛する。
自己へ向けられた愛のごとく、他人へ愛を与える。
他人を害する者は、自分自身を害している。

私にはかなり違和感があります。
私とは発想が逆なのです。
もっと正確に言えば、私であろうと相手であろうとどちらでもいいのです。
この問い自体に、パセーナディの愛の本質が見えてきます。
ブッダの答えも私には不満です。

私は昨今の原始仏典ブームに大きな違和感を持っています。

私はこの問いに、こう答えます。
私たちの関係を支えてくれている、すべての人が愛おしい、と。
大切なのは、関係性なのです。
一人の個人ではありません。

■1607:半脳も削がれてしまっているようです(2012年1月26日)
節子
いろいろと新しいことを始めすぎてしまい、いささか混乱しています。
一時は少し整理された自宅のデスクも書類が山積みです。
読まなければいけない資料や手紙も、いまや限界を超えてきています。
その上、最近はややこしい問題が多発し、人嫌いになりそうです。
まあ、節子がいた頃も、時々、こういう状況になってしまい、節子にSOSを求めたこともありました。
しかし、今はすべてを自分で消化しなければいけません。
そのため、挽歌も時評も書けない日が増えてきています。

今年になって脳の本を何冊か読んでいるのですが、そのどこかにたぶん書かれていたことですが、人間の脳は「個人」単位では完結していないようです。
そのことは実感として納得できます。
節子がいた時には、私の思考世界はもう少し広かったように思います。
つまり節子の脳も活用していたということです。
考えることがもっと楽しかったような気がします。
あまり論理的には説明できませんが、感覚的にはそんな気がするのです。
太い関係性を持った人の脳とは思考を分かち合えるわけです。
なかなかわかってはもらえないでしょうが。

ともかく最近はいささかパンクしているのです。
半身削がれただけではなく、半脳も削がれてしまっているようです。
さてさて、どうやってバランスを回復するか。
明日から大阪ですが、新幹線の中で少し考えましょう。
挽歌も挽回しようと思います。

■1608:関係性(2012年1月27日)
節子
この数日、「関係性」について改めて考えています。
23年ほど前に会社を辞める直前に行きついたテーマが「関係性」だったのですが、それ以来、考えるでもなく考えてきました。
最近、改めて「関係性」の重要性を実感しています。
個人は個人として生きているのではなく、さまざまな人や自然との関係性の中で生きているということです。
仏教でよく語られる「人は生きているのではなく生かされているのだ」ということはとても納得できます。
あたたかな関係性の中で生きていると、実に心地よいのです。

ところが、その関係性が壊れてしまうとどうなるか。
私は節子を見送ることで、それを少し体験しました。
それまで営々として築いてきた自分の世界が壊れてしまった感じで、まさにおろおろとせざるを得ませんでした。
そこから抜け出られたのは、節子はいなくなったけれども、節子との関係は存在することに気づいたからです。
その関係を実感する体験もいろいろとしました。
それが、私の世界がゆるやかに変わりだす契機になりました。

人との関係が育つと、それを壊したくないとみんな思います。
しかし、節子との関係のように、お互いにそのまま持続したくてもできない場合もあります。
そしてある関係が変化すると、その周辺の関係にも微妙な影響を与えます。
節子との別れを体験した後、私の人との付き合いの世界は変わりました。
それまでよく湯島にも来ていた人が、なぜか突然来なくなったりしました。
節子がいなくなったからではありません。
たぶん節子がいなくなったことで私が変わったためでしょう。
私には理由が全くわからない場合もありますが、変化には必ず理由があります。

最近、親しい友人たちとの意識のずれを感ずる時が増えています。
おそらく問題は私自身にあります。
もしかしたら多くを期待しすぎるためかもしれません。
角を立てずに関係性を維持することが、ますますできなくなってきています。
此岸での残り時間が少なくなってきたからかもしれません。
節子がいたら、きっと和らげてくれるのでしょうが、どうもうまく生きられない自分を感じます。

私全体を受け容れていた人がいなくなることの、それが意味かもしれません。
いつか書きましたが、基軸がなくなると、人は戸惑い、怒りやすくなるのかもしれません。
まさに、今の私がそうかもしれません。
心しなければいけない、と、そう思います。

■1609:グリーフケアのワークショップ(2012年1月29日)
節子
大阪で行われたグリーフケアのワークショップに参加しました。
今回は自死遺族を主な対象にしたワークショップです。
主催者が、「自殺のない社会づくりネットワーク」の仲間で、自殺防止をテーマにした4回シリーズの集まりを企画したのですが、その中で一番重要なのがこのワークショップでした。4回目は私もコーディネーターを引き受けているのですが、何しろ彼女にとっては初めての活動なので、いささかの心配もあって、今回は一参加者として参加しました。
とてもいいワークショップでした。

最初のセッションは、グループに別れて、それぞれが一人称で「喪失体験を語る」というプログラムでした。
身近な人の自死が基本テーマでしたが、それ以外の人も参加していました。
最初はなかなかみんな話しにくい感じでしたが、少しずつ話し出す人が出てきました。
そして私も節子との別れを話すことにしました。
淡々と語れるのではないかと思っていました。
ところが、話し出した途端に、涙が出てきそうになりました。
そして話し出しているうちに、なにやらわけのわからない瑣末な話をしだしてしまいました。
何を話したか思い出せませんが、少なくとも心がさらけ出されたことは間違いありません。
まだまだ精神は安定してないようです。

私の話を聞いていた目の前の人が、夫が2年ほど前に脳梗塞で急逝した話を始めました。
私が話した通りの思いだとも語ってくれました。
最後に、それまで一言も話さなかった私と同世代の男性が、話そうかどうか迷っていたが、みんなの話を聴いて、ここなら話してもわかってもらえるという気になったと前置きして、息子の自死の話を始めました。
最初のセッションが終わった後、少しだけみんな気分が軽くなったように感じました。

私が印象的だったのは、最後の男性の「ここならわかってもらえる」という言葉でした。
自らの思いをわかってもらえることが、グリーフケアの基本かもしれません。

さまざまな人たちが参加していました。
どこかに悲しさと怒りを漂わせながら、しかしみんなとても優しくあったかでした。
午前午後の長いワークショップでしたが、終わった時にはみんなとてもいい表情でした。

■1610:「大切な人を失うって、どういうこと?」(2012年1月30日)
昨日のワークショップの午後のテーマの一つが、「大切な人を失うって、どういうこと?」でした。
私には、「失う」という言葉に違和感がありましたので、そのことを話させてもらいました。
失っていない、むしろこれまで以上に身近に感ずると話したのです。
共感してくれる人もいました。

私とほぼ同世代の女性が、「死別した人のところには後妻にいくな」と昔から言われていました、と話してくれました。
死別した人は、伴侶の良さをどんどん頭の中で増幅していき、忘れられないのだそうです。
離婚した人は、逆に相手の悪いところを増幅させるので後妻に行っても大丈夫だといわれていたそうです。
奇妙に説得力のある話です。

私が、今も妻はすぐ近くにいるような気がしますというと、夫を亡くした女性が、私もそうですと言いました。
弟さんを亡くされた女性が、それを聞いて、こんな話をしました。
弟は遠く離れたところに住んでいて、これまでも1年に1回会うかどうかだった。
だから死んだからといって、別に何かが変わったわけではない。
まだ生きていると思えば、なんでもない。
しかし、亡くなってから、弟の存在が強く意識され、心が乱れる、と。
彼女はまだかなり精神的に不安定のように感じました。

彼女にとっては、弟との死別が、弟との距離をなくし、関係性を意識させることになったのかもしれません。
「死」が「存在」を意識化したと言ってもいいでしょう。
夫を失った女性が、いる時には何にも感じなかったのにと、ポツンと言いました。

「失う」とは何でしょうか。
「別れ」とはなんなのか。
とてもたくさんの学びと気づきがありました。
その分、深く深く疲れました。

■1611:アンナ・カレーニナの原則(2012年1月30日)
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。これはトルストイの小説『アンナ・カレーニナ』の有名な書きだしの部分です。
29日のグリーフケアのワークショップでも、そのことを実感しましたが、それに参加するための大阪に向かう新幹線で読んだジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌、鉄」という歴史書に、この言葉が「アンナ・カレーニナの原則」として紹介されていました。
ジャレド・ダイアモンドは、こう解説しています。

結婚生活が幸福であるためには、互いに異性として相手に惹かれていなければならない、金銭感覚が一致していなければならない、そして、子供のしつけについての考え方、宗教観、親類への対応などといった、男と女が実際に生活をともにするうえでいろいろ重要な事柄について、2人の意見がうまく一致していなければならない、ということである。これらの要素は、幸福な結婚生活の実現になくてはならぬものであり、ひとつとして欠けてしまえば、その他もろもろの条件がすべてそろっていたとしても結婚生活は幸福なものにならない。

一つでも欠けていれば不幸になるとしたら、その「欠け方」は実に多様なわけです。
ジャレド・ダイアモンドは、このことは、結婚生活以外にもいろいろな事柄にあてはまる「一つの原則」だと言い、それを「アンナ・カレーニナの原則」と名づけたのです。
そして、多くの人は、「成功や失敗の原因を一つにしぼる単純明快な説明を好む傾向にあるが、物事はたいていの場合、失敗の原因となりうるいくつもの要素を回避できてはじめて成功する」と述べています。

私は、必ずしもそうは思いません。
幸福も成功も、同じようにさまざまなものであることを知っているからです。
そしてまた、幸福と不幸、成功と失敗は、それぞれが同じ事象の裏表からの捉え方だとも思っているからです。
たしかにジャレド・ダイアモンドの「アンナ・カレーニナの原則」はとてもわかりやすく、話としては面白いです。
私も2年前までであれば、確実にそう思っていたはずです。
しかし、最近はちょっと違います。

一昨日のグリーフケアのワークショップに参加した人たちも、みんな事情は大きく違いました。
思いも違っていたでしょう。
しかし、話していて、なにかどこかに共通するところが伝わってくるのです。

セルフヘルプグループというのが増えてきています。
同じ悩みや困難や問題を抱えた人たちが、当事者同士の自発的なつながりで結びついたグループです。
1930年代にアメリカのアルコール依存症者の間で生まれ、その後、さまざまな問題を持つ人たちの間に広がっています。
このことからもわかるように、実は「不幸」もまた深くつながっているわけです。

さらにいえば、不幸や悲しみや辛さを体験した人は、他者のそうしたことに共振する心身になるような気がします。
少なくとも私は、そうです。
これをなんと名づけましょうか。

■1612:平板な時間(2012年2月2日)
節子
今年は大雪の年です。
各地が雪で埋まっていますが、私は最近、いろんな人たちからの宿題で埋まりそうです。
挽歌を書く時間も最近はままなりません。
どこかで何かを間違えています。
机の上には、やらなければいけない事がリストアップされていますが、それが減る気配はなく、1つ終わると2つ増えているという感じさえあります。
困ったものです。
しかし挽歌もそうそうためるわけにはいきません。

節子がいなくなってからの生活は、考えてみると実に「平板」です。
変化がないのです。
メリハリがないといってもいいでしょう。
忙しい時にはすべての時間が忙しく、暇な時にはすべての時間が暇なのです。
忙中閑有り、という気分にはなれません。
言い換えれば、生への執着や変化への欲求が極端に低下しているのかもしれません。
あるいは、感情の密度や質が劣化しているのかもしれません。
ともかく「時間が輝いたり曇ったりしない」のです。

こう書きながら、我ながらどうもしっくり来ないなと思いますが、時間が、あるいは生活が平板になってしまったという思いはずっと感じています。
明らかに節子がいなくなって以来です。

平板になったからといって喜びや悲しみがなくなったわけではありません。
うれしいことも悲しいこともある。
しかし、それを体験することが、逆にむなしさとさびしさを引き起こします。
そうした思いを分かち合う伴侶がいないからです。
不思議なのですか、娘とは、そうした思いは分かち合えません。
なぜでしょうか。
そこに、夫婦の意味があるのかもしれません。

実は、最近の忙しさは、そうした平板さを変えたいという、私の無意識な思いが引き起こしているのかもしれません。
実は誰かから頼まれるわけでもなく、もちろん対価を得る仕事としてでもなく、自らが創りだしている宿題がほとんどなのです。
節子がいたら、節子との時間を増やすために、そんな宿題を創りだす気にもならないのかもしれません。

しかし、もしかしたら、と思います。
節子がいた時も、今と同じように、やらなくてもいい仕事を引き受けては、節子に笑われていたような気もします。
でも、その頃は、私の生き方を笑いながら理解してくれる節子がいました。
同じことをやっていても、時間も生活も平板ではなかった。
それだけは間違いない事実です。
人は何のために生きるかではなく、誰のために生きるか。
昔そんなことを書いたことを思い出しました。

さて、今日ももう一つ宿題を減らしましょうか。

■1613:進化と汎化(2012年2月2日)
節子
今日もとても寒いですが、気持ちのいい快晴の朝でした。
昨夜、布団に入ってから、「アンナ・カレーニナの原則」のことがまた頭に浮かびました。
挽歌で書いたのは、さまざまな不幸の先にある「一つの気持ち」のことでした。

トルストイが書いたように、不幸は「さまざまな表情」を持っています。
しかし、その先には「ひとつの表情」があると考えると、これはリチャード・モーリス・バックの「宇宙意識」につながると気づいたのです。
節子が隣にいたら、起こして話すところですが、残念ながらいまは隣には誰もいません。
そこで挽歌で書くことにしました。

言葉と概念は切り離せません。
そして、人は、まず一つの言葉から、言葉の世界、つまり概念の世界に入っていきます。
赤ちゃんが最初に覚える言葉は「まんま」でしょうか。
それはともかく、成長に従って言葉は増えていきます。
言葉の増加は概念の世界の拡大と深化です。
世界は多彩になり、さまざまなものが表情をもって輝きだします。
バックは、それを「進化」といいます。
人類の祖先はアフリカ大陸に生まれた一人の女性だとよく言われますが、そこからさまざまな人種に分かれていく、それも進化です。
時評編で虹の色のことを書きましたが、人が認識する色は、昔は黒と赤だけだったそうです。
それがいまや500万種の色を認識できるとさえいわれています。

子供は、感性が素直ですから、言葉に邪魔されずに、事象を直感します。
しかし言葉が不足しているために、概念化はできません。
そのため、他者の悲しみは、ほとんどが同じにように考えてしまう。
あるいは、違いが整理できずに混乱してしまう。
そんな気がします。
他者の悲しみの違いが、それぞれに理解できるためには、たくさんの言葉(概念)を持っていなければいけません。
言葉だけではなく、意味を踏まえた言葉という意味です。
そのために、そうした世界の現実にどのくらい関わったかが大切になってきます。
不幸を自らで体験した人ほど、言葉は豊かなはずです。
だからこそ、わずかな表情の違いに気づけるのです。
言葉(語彙)の豊かさは、世界の豊かさに通じています。
虹を5色と見るか7色と見るかの違いが、そこから生まれます。

しかし、実はその先に意識は進みます。
さまざまな表情の奥にあるものを「汎化」されて、そこから一つのメッセージが伝わってくるようになります。
虹が5色だろうと7色だろうと、そんなことはどうでもいい話で、虹は虹そのものなのです。
そう考えると、虹と自分がつながってきます。
バックの言う「宇宙意識」とはちょっと違うかもしれませんが、自らの自己意識を包み込んだ意識が生まれてくる。
そして、そこに立つと、自分も相手も、さらにさまざまな不幸の表情が、あるいは幸福の表情さえもが、つながって感じられるのです。
ここまでくると、なにやら般若心経の世界にもつながってきます。

朝からなにやら理屈っぽいことを書いてしまいましたが、昨夜はもう少し直感的に新しい気づきがあったような気がしたのですが、言葉に書いていくうちに、自分自身にも少し違和感のあるような説明になってしまいました。

ちなみに、今朝、この挽歌の読者から、アメリカ先住民のGreat Spirit に関するメールが届きました。
これもたぶん決して偶然ではないでしょう。

■1614:シルバーバーチの霊言(2012年2月3日)
極めて長い年月を「3千年」と表現します。
リチャード・モーリス・バックの「宇宙意識」を読んでいたら、3千年前に人類の中に「宇宙意識」が芽生えだしたと書かれていました。
関係があるのでしょうか。

今朝、読者からいただいたメールは、「シルバーバーチの霊言」でした。
書き出しが「死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできない」という霊訓ですが、その方はこの言葉に出会って、救われたと書いてきました。
その方も、つい最近、大きな喪失体験をされたのです。

シルバーバーチは、つい30年ほど前まで活動していた霊界の預言者ですが、さまざまな霊媒を通して、さまざまなメッセージを残しています。
私は名前は知っていましたが、その霊言はきちんと読んだことがありませんでした。
その方は、その一部を送ってきてくれました。
ちょうど「宇宙意識」を読み終えたところだったので、すんなりと心身に入ってきました。

しかし、最近はそうしたこともなんだか瑣末なことのように思えてきました。
むしろシルバーバーチよりも半世紀ほど前に活動したバックに共感するところが大きいです。
バックは36歳の時に霊的体験をします。
今回はその話を紹介して挽歌とすることにしました。
いささか手抜きではありますが、節子も許してくれるでしょう。
「宇宙意識」からの引用です。一部省略したりして要約しています。

それは、著者が36歳になったばかりの早春のことでした。突然、何の前触れもなく、著者は自分自身が炎のような輝かしい色彩の煙に包まれていることに気が付きました。一瞬、火事か、大都会で突然大火災でも起こったのではないかと思いましたが、次の瞬間、その光が自分自身の内部にあることを知りました。その直後、高揚感のような限りない喜びの感覚がもたらされ、それと共に、あるいはその直後に、筆舌に尽くしがたい知的啓示がもたらされました。
そして、宇宙が死んだ物質ではなく、生きた存在であること、人間の魂が不死であること、宇宙は、あらゆるものが必ず個と全体の善のために協働して働くように作られ、秩序づけられているということ、世界の根本的な原理が我々が愛と呼ぶものであること、万人の幸福が長期的には絶対に確実であることを理解しました。そのことを信じるようになったのではなく、理解し、知ったのです。

残念ながら私はまだこうした体験に出会っていません。
しかし、最近、少しだけですが、そうした世界が垣間見える気がしてなりません。
此岸で、こうした光に出会いたいと思いますが、私も節子と同じように、彼岸への旅立ちの直前にしか体験できないのかもしれません。
節子に先を越されたのがちょっとだけ残念です。

■1615:今年は豆まきはやめました(2012年2月4日)
節子
昨日は節分でしたが、今年は豆まきをやめました。
節子がいたらさぞ嘆くことでしょう。
節子は節分に生まれたので節子と命名されたと、昔、聴いた気がします。
私が書いた結婚通知の文章に、たしか「妻は節分に豆をぶつけられる鬼の涙のように、やさしい人です」と書いたような記憶があります。
どこかにその文章が残っているのですが、手元にないので確認はできませんが。

私は、昔から「鬼」が好きでした。
小学3年の時に小学校の学芸会で、「泣いた赤鬼」の赤鬼を演じて以来です。
その劇の最後のシーンで、私は舞台で実際に泣きじゃくるほど泣いてしまった記憶があります。
鬼は、やさしいのです。

それもあって、わが家の豆まきは、「鬼は内、福も内」でした。
福はほかの家でも歓迎される、しかし鬼はこの寒い夜にどこにも受け入れてもらえないとしたら、それは情に合いません。
節子もそれに賛成してくれ、「鬼は内、福も内」と声を出して豆まきをしていました。

しかし、節子が病気になり、その頃からわが家にはさまざまな問題や苦労がやってきました。
節子を見送った直後の節分の時には、もしかした鬼を内に招きこんだ結果ではないかとさえ思ったほどでした。
そのせいで、「鬼は内、福も内」の声も小さくなりました。
それに、娘たちは、あんまり納得しておらず、「福は内、鬼は外」のほうがしっくりくるようでした。

今年は、とても寒い夜でしたが、鬼を内に呼び込むのをやめることにしました。
もう「不幸」は呼び込みたくなかったのです。
娘も賛成で、豆まきは中止になったのです。
娘も、鬼を招きこむ豆まきにはどうも反対だったようです。

今朝は朝からとても良い天気でした。
しかし朝からいろんなことがありました。
訃報も届きました。
どうやら最近のわが家の不幸続きは、鬼のせいではなかったようです。
来年からまた、「鬼は内、福も内」は復活させようと思います。
鬼を疑ったことを恥じています。

■1616:涙の幸せ(2012年2月4日)
節子
今日は誕生日ですね。
みんなで一緒にケーキを食べられないのがさびしいです。

テレビの報道特集で、お墓のない人が首都圏には100万人もいるということを知りました。
そのなかで、海に遺灰を散骨する人の話が紹介されていました。
お子さんのいないご夫妻で、前からお2人で決めていたのだそうです。
奥様が64歳で病気で亡くなられたのですが、散骨の様子が映像で流されました。
海に遺灰を戻すことを選ばれた人たちが、船で沖合いに出て、祈りながら散骨する風景です。
カメラがあったせいもあると思いますが、その方はしゃんとしていましたが、船に乗る前に、もう一度の別れのさびしさを口にしていました。
娘と一緒にテレビを見ていたのですが、またもや私は泣いてしまいました。

それにしても、どうしてこんなに涙が出てくるのか不思議です。
しかし、必ずしも悲しいからではないのです。
悲しいとか辛いとか、そんな感情はもうかなり前に超えています。
ところが、ただただ涙が出てくるのです。

実はその前に、新日本紀行の「聖地」の録画を見ていました。
そこでも死者を祀るシーンが何回か出てきました。
一心不乱に祈る若者の姿もありました。
それを見ていて、やはり涙が出てしまいました。
繰り返しますが、悲しいからではないのです。

ではなぜ涙が出るのか。
うまくいえないのですが、涙が出ることで、なぜかとても幸せな気持ちになれるのです。
なにやら「あったかなもの」が私を包み込んでくれるような、あるいは彼岸の節子に少しだけつながったような、そんな気分にさえなるのです。

今日は節子の誕生日。
誕生日が来ても歳をとらなくなってから、もう5回目の誕生日です。

■1617:「何がなんだかわからない」状況(2012年2月5日)
節子
もう数年前ですが、わが家のポストに「私はDV冤罪の被害者」というかなり厚い資料が投函されていた事がありました。
誰が投函したのかはわからず、ちょっと気持ちの悪い感じがしました。
それで、そのことをブログに書きました
すっかり忘れていたのですが、先月、私のブログを読んだ当人からメールが来ました。
それで会うことにしました。
そして昨日、会いました。

彼は10年ほど前に奥さんと死別しました。
そこから人生が変わってしまったようです。
子供が小さかったこともあり、再婚することにし、結婚相談所に行き、そこで出会った人と再婚しました。
ところが、その相手の人が、彼に言わせればいささか異状だったようです。
彼の話だけから決め付けることはできませんが、いろいろな物証を見せてもらい、かなりの部分、彼の言い分に理があるように思いました。
しかし、その話をここで書こうとは思いません。

私が書きたいのは、伴侶と死別することが、いかに大きな打撃なのかと言うことです。
ともすれば、残された者の人生も壊れかねません。
それを超えるには、支えてくれる友人や家族が大切だと改めて思いました。
彼にも友人や両親がいましたが、小さな子供がいた故に、再婚に踏み切ったように思います。
そこでたぶん人生が変わりだしてしまったのです。

彼の場合は、良かれと思ったことが裏目に出たといってもいいかもしれません。
そしていつの間にか、彼はDV加害者にされてしまったのです。
冤罪の訴えを知ってほしいという思いが、数年前の小冊子配布になったわけです。
しかし逆にそのことが、たぶん彼をさらに孤立させ、周辺から避けられる存在になったのかもしれません。
2時間、彼と話しましたが、時に怒りが高じて、不穏な発言をすることもありましたが、本来は優しい人なのだろうと感じました。
ともかく彼の怒りを解きほぐさないといけません。
一歩間違えば、とんでもない事件を起こさないとも限りません。
伴侶の死は自らの死でもある、と前に書いた気がしますが、こういうケースも起こりうるのです。

死別した後の彼は、悲しみと不安で覆われていたと思いますが、それを乗り越えるための行動が、新たな怒りと不信を引き起こしてしまったわけです。
話している間にも、「何がなんだかわからない」と何回か話しました。
どこかで聞いた言葉だと思いました。
先日のグリーフケアのワークショップでお会いした、息子さんを亡くされた方も、確かそう言っていました。
愛する人がいなくなると、「何がなんだかわからない」状況に陥りがちです。
私も、きっとそうだったのだろうなと思いました。
いや、今もそうかもしれません。

■1618:「永遠の僕たち(原題Restless)」(2012年2月6日)
節子
この挽歌で知り合ったKさんがだいぶ前にメールを下さいました。
そこで、最近観た映画のことを教えてくれました。
映画は「永遠の僕たち(原題Restless)」
ヒロインが脳腫瘍の再発で余命3か月と診断されてから、旅立っていくまでのストーリーだそうです。
「命、愛、そしてTeenの純粋な心が、秋から冬へ向かう美しい景色のなかで光り輝いていました」とメールに書いてありました。

Kさんは最近、昔、愛していた女性の死を知りました。
よほど深く純粋な愛だったのでしょう。
その死を知って以来、Kさんの人生は変わったようです。
愛とは、実に不思議なものだと、改めて思います。

それはともかく、Kさんは、こう書いています。

近年、命と死をテーマにした映画が増えているそうです。
私には感性の研ぎ澄まされた芸術家たちの心が、私のような凡庸な一般人に先立って、「命」と「永遠」というテーマに敏感に反応し始めたからではないかと、感じられます。
宗教家や哲学者ではない、死や命の問題を専門領域にしていない人々がこれらのテーマに同時並行的に取り組みだしたことは、われわれの意識が徐々に変化してきていることの証左ではないかと思うのです。
感性の敏感な彼らの間には、明らかにシンクロニシティーが起きている。
「命とはなにか」「死とは何か」に、研ぎ澄まされた彼らの意識が向いている。
荒々しく迫るようにそれらの「意義」を問いつめるのではなく、静かにそれと向き合い、優しく見つめる視点が彼らにはあります。

100年ほど前に、リチャード・モーリス・バックが語ったことが、まさにいま、起こっているのかもしれません。
Kさんは、この映画を観て、人間の「命」が永遠のものであること、死によって失われるものではないことを確信したようです。

メールの最後にはこう書かれていました。

取り留めの無い文章になってしまって、申し訳ありません。
何をお伝えしたかったのか、書いていて自分でも解らなくなりました。
命と死と、そして愛について、私も静かに向き合って行きたいと思います。

人は、自らの愛を語りだすと、何を語りたいのかわからなくなってしまうもののようです。
命と死と、そして愛。
それは語るよりも、静かに向き合うものだからでしょうか。
しかし、同時に、無性に語りたいものでもあるのです。
Kさんのお気持ちがよくわかります。

ちなみに、私はまだこの映画を観る勇気がありません。

■1619:生きることはたいへん。だからこそ、生きる価値がある(2012年2月7日)
節子
最近とても涙もろくなっています。
すぐ涙が出ます。

今朝、パソコンを開いたら、先日会った「DV冤罪被害者」の人からのメールが届いていました。
その人、Mさんは、前回、お会いした時には怒りで世界がたぶん見えなくなっていました。
薬物に依存しないと眠れないとも言っていました。
Mさんに会うといったら、みんなが心配しました。
ある人は、俺が一緒に言ってやろうかと電話してきたほどです。
しかしMさんは、優しく素直な人でした。
ただ怒りを暴発させる怖れを少し感じました。
社会から思い切り疎外されていると感じているのでしょう。
2時間話しました。

Mさんからのメールには、先日はなした時とは違うものを感じました。
とてもうれしく、すぐ返事を書きました。

Mさんのメールにはこう書いてありました。

自分自身は、何年かで立ち直ろうとは思っています。
45歳ですが、40年間かけて自分が作ってきたもののほとんど、大切なものをここ数年で失ってしまったのですが。。。

Mさんが受けた被害に似た話を昨日、時評編で書きました。
裁判で家庭を壊されている人は決して少なくありません。
私も怒りを禁じえません。
しかし、怒りは怒りのままでは何も起こせません。
Mさんが、前を向きだしたことがとてもうれしく涙が出ました。

メールの最後に、Mさんはこう書いていました。

佐藤様も奥さんに先立たれて、辛いだろうと思います。
わたしも、先妻は32歳で、妊娠中に腎不全で亡くしました。
『自愛』とは、どうすればよいのでしょう?
とにかく、平穏な生活は訪れるのでしょうか?
生きることとは???たいへんですね。

そうです。
生きることはたいへんなのです。
しかし、だからこそ、生きる価値がある。
そう思ったら、また涙が出てきました。
最近はどうも涙が出すぎます。
節子がいたずらしているのでしょうか。
困ったものです。

■1620:コンプレックス(2012年2月8日)
節子
今日はちょっと重い話です。

自死遺族の若い女性からメールが来ました。
ある集まりを彼女と一緒に企画しているのですが、私が書いた「自殺をなくすために」という言葉に関して、違和感があると書いてきました。
少し表現を変えていますが、彼女が書いてきたのは次のようなことです。

自殺をなくすことを目標にすると、遺族は自殺した人の人格や人生、存在を否定されているような気持ちになります。
表現した側の人にはそんな気持ちはなくても、自殺をする人を排除する社会をつくるような気分になる場合があります。

言葉とは、むずかしいものです。
自死遺族の人たちの思いが、まだまだ理解できていないのに気づきました。

節子は病死でした。
しかし、その私でさえ、たとえば、「がんで死ぬ人は少なくなった」などという言葉に出会うと、節子や私が否定されているような気持ちになるのです。
その気持ちは、かなり歪んだ思いなのでしょうが、いまだもって克服できずにいます。
ですから、自死遺族の人が、こう考えることもわかります。
もっともっと複雑な思いのなかで、外部の言葉や眼差しには敏感になるでしょう、
それに気づけなかった自分に、少し落ち込みました。
人の死は、関わっている人に大きなコンプレックスを残します。

最近読んだ小冊子「自死遺族14人が語った物語」のなかに、親が自殺した子どもたちはみんなおかしくなってしまう、という言葉があったことを思い出しました。
そういえば、その言葉は、以前、彼女からも聞いていました。
家族の自死は、子どもたちの人生を変えてしまうのでしょう。
彼女とはもう2年ほど交流がありますが、まだまだ心は通じていないのかもしれません。
妻を病死させてしまった私にとっては、どこかで彼女と通ずるところがあると思っていましたが、やはり大きな溝があるのかもしれません。

しかし彼女は、さらにこう書いてきました。

何故かと考えるうち、私は自殺(自死)が病名ではないからだと思いました。

彼女は、自殺も「病気」だと気づいたのです。
私もそう思っています。
社会が引き起こしている「病気」あるいは「事故」です。
いつか溝が埋まる日が来るかもしれません。
しかし、私のコンプレックスが解ける日はくるでしょうか。
3月に大阪で、彼女の企画した集まりに参加することにしています。

■1621:ちょっと愚痴を言いたい気分です(2012年2月9日)
節子
相変わらず寒いですが、今日は晴れ上がった気持ちの良い日になりました。
節子がいたら、そろそろ庭仕事の準備が始まるなと思うような陽射しです。

最近はいろんなことがありすぎます。
なぜこうなってしまったのかわかりませんが、前にも増して、さまざまな問題と出会います。関わらなければいいのですが、ついつい関わってしまい、時に自らを忙しくさせてしまっています。
困ったものです。

節子がもしいま元気だったら、たぶん違った生活になっていたでしょう。
もしかしたら「静かな隠居的生活」に入りだしていたかもしれません。
しかし、節子がいない今は、たぶん隠居生活は夢のまた夢になりました。
節子さえいたら、すべてを捨てられたでしょうが、節子がいない今は、捨てられないものが多すぎるのです。

他者の人生に関わってしまう習癖は、どこで生まれたのでしょうか。
いまの私の生き方を、節子はどう思っているでしょうか。
引き受けなくてもいい重荷を、なんで修は背負ってきてしまうの、と言うかもしれません。
そして、半分を背負う私はもういないのよ、と言うかもしれません。
他者のことより、わが身のことを考えなさい、と言っているかもしれません。
たしかにそうかもしれません。
今日は少しだけ弱気になってしまっています。

人生はつかれます。
一昨日書いたMさんが言うように、生きるってほんとにたいへんです。

明日は元気を回復したいです。

■1623:身体の思想(2012年2月11日)
節子
また仏教の話です。

人は一人で生まれて一人で死んでゆく、と言ったのは一遍上人です。
いまも多くの仏教者はそう言います。
その一方で、四国巡礼では「同行二人」とも言われます。
私にはこれがよくわかりません。
当然、死においても一人であるはずはないと私は以前から思っています。
歴史上、有名な高僧も、その書いているものには私には違和感のあることも少なくありません。
これでは仏教徒とは言えません。
困ったものです。

鎌田茂雄さんの「正法眼蔵随聞記講話」を読んだのですが、そこに一遍は死の恐れから脱却するために、「南無阿弥陀仏」を唱えたと書かれていました。
一遍の『消息法語』に次のような文章があるそうです。
「この体に生死無常の理をおもひしりて、南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生たる命も阿弥陀仏の御命なり。」

死を知り、無常を思うことは、身体で知るのである。頭で知るのではない。
鎌田さんはそう言うのです。
そして、それを「身体の思想」と言います。
「頭の思想」ではなく、「身体の思想」。
なるほどと思いました。
身体の思想ということを自分なりに理解できるようになったのは、節子を見送って以来です。
それを知ってしまうと、頭の思想にはあんまり興味を感じなくなりました。

頭で考えると、人は一人で生まれ、一人で生き、一人で死んでいく。
しかし仏に帰依すれば、「同行二人」を身心で実感できるというわけです。
節子との別れを体験した、今の私には、とても納得できる話です。
見えないけれど、誰かがいつも一緒にいるのです。

帰依するとは素直になること。つまり、自分の考えを全部捨てることだと鎌田さんは言います。
すべてを捨てれば、自然と称名が口から出ると言うのです。
そして、一たび「南無阿弥陀仏」と唱えれば、自分は自分であって自分ではなし 自分の心は阿弥陀の心 自分の言動は阿弥陀の言動、この生かされた命も阿弥陀の命、つまり無量寿、永遠の生命になると言うのです。
何となくわかるような気がします
人は決して一人で生まれて一人で死んでゆくのではないのです。
愛する人はかならず、いつも一緒です。
だから自分も、愛する人のところにいないといけません。
それこそが悟りではない、覚りかもしれません。

■1624:「愛とは裁かないこと」(2012年2月12日)
節子
この挽歌に出てくる節子は、かなり「美化」されているようです。

ある本を読んでいたら、ロンドン大学の神経科学研究者のチームが、愛情と脳の活動の関係を調査した話が出ていました。
愛する人のことを思っている時、人の脳は、否定的な感情や社会的な判断を司る領域の活動が止まるのだそうです。
つまり、「愛によって脳に化学反応が引き起こされ、愛する人について批判的に考えられなくなる」というのです(「見て見ぬふりをする社会」)。
「愛とは裁かないこと」であると証明されたと、その本の著者は書いています。
なるほど、と思いました。
「愛は盲目」とよく言われますが、なぜ盲目になるかがわかったわけです。

「似たもの夫婦」になっていくことも、このことから説明できるでしょう。
相手を批判できずに美化するということは、自らの生き方もそれに無意識に合わせていくことを意味します。
そして、自らをも裁かないということにもなりかねません。
これはいささか危険を伴います。

裁きも批判もない、全面的に肯定的な夫婦や親子の関係は、危険もあれば至福もあります。
危険と至福は、まさに紙一重、ちょっとしたところから関係は反転します。
しかし幸いなことに、私と節子の関係は破綻することはなくなりました。
私の節子像は、批判にさらされることなくどんどん美化されていくからです。

さて今現在で、どのくらい「美化」されているのでしょうか。
美化されればなされるほど、節子を思うほどに私の精神は満たされるのだそうです。
そして、その「素晴らしい節子」の喪失体験に比べたら、いまや何を失ってもそうたいしたことではないような気分になれるのです。
大きな落し穴にはまらなければいいのですが。

■1625:家族の2軸(2012年2月13日)
節子
先日、家族ってなんだろうかと言うようなテーマで、カフェサロンを開催しました。
さまざまな人が集まりました。
仕事よりも家庭よりも地域の祭でがんばっていて、毎年、年末年始の家庭団欒は体験したことがないという50代男性。
まだ親元で暮らしているのに、家族以上に仲良しの仲間が自分にとっての家族だという30代女性。
結婚の時に相手に絶対服従を条件にしたのに関係が逆転してしまった70代男性。
実の親と並んで、もうひとりの「日本のお父さん」を持っている韓国からの留学生。
男友達は多いのに、なぜか結婚していない40代女性。
結婚しているのに、なぜか独身者的行動の多い50代男性。
それに私です。

そもそもこのサロンは、最近、血のつながりのない「家族」のドラマや映画が多い気がすると、ある人が言い出したのがきっかけでした。
家族と血縁は、どうも多くの人には深く重なっているようです。
でもそんなことはありません。

家族には2つの軸があります。
「夫婦軸」と「親子軸」です。
後者は多くの場合、血のつながりがありますが、前者は全くありません。
家族の基本軸は夫婦軸だと思っている私にとっては、家族と血縁はあまり重なりはしないのです。
それに、そもそも「家族」とは「家を同じくする」と言うことでしょうから、暮らし方の形態でしかありません。
そこを混同すると、いろいろとややこしい問題が発生するわけです。

まあそれはそれとして、私も節子も、親子軸よりも夫婦軸を基本に考えていました。
娘たちにとっては、それは大きな不満のタネだったでしょう。
お母さんは娘よりもお父さんを大事にしていた、と、たぶん娘たちは思っています。
私も、同じように思われているでしょう。
もちろん、夫婦と親子とは、その愛情の種類が違うようで、比べることはできません。
もし私たち家族が事故にあって、誰かが犠牲になるという状況になったら、おそらく私たち夫婦は躊躇なく、自らを犠牲にし、次に伴侶を犠牲にしたでしょう。
これに関しては、絶対の確信があります。
にもかかわらず、娘と節子とどちらを愛しているかと問われれば、私は躊躇なく、節子と答え、節子は私と答えたでしょう。
わが家は夫婦軸の家族だったのです。
血のつながりがないからこそ、私たちは純粋に愛し合えたのです。

私にとって、節子はまさにかけがえのない、唯一人の人なのです。
早くもう一度会いたいものです。

■1626:分かち合ってくれる人のありがたさ(2012年2月14日)
節子
いろいろなことに関わっているせいか、真夜中に目が覚めると、そういうことを考えるようになっています。
一人で考えていると、不安が高まります。
最悪の事態を考えてしまうのです。
そういえば、私と話している時になにか目線が定まっていなかったなとか、もっと大きな問題を抱えているのではないだろうか、とか、まさか・・・などと考えていると眠れなくなるのです。
隣に節子がいたら、起こして相談するのですが、今ではそんな事はできません。
いろんな人の相談に応じるということは、ある意味では、その人の人生に関わるということですから、それは仕方がありませんが、一人で不安を抱えることは、それなりに辛いことです。
分かち合ってくれる人がいる事のありがたさを、改めて感じます。

絆とか分かち合いという言葉がよく使われるようになりました。
しかし、いざと言う時に、一体どれだけの人が苦労を分かち合ってくれるのか、それはいささか疑問です。
節子は、よく私にそういっていたものです。
誰かの役に立っておけば、必ずいつかは戻ってくるよ、という私の言葉に対してです。
そのくせ、節子は、私のそうした行為を分かち合ってくれました。
そのおかげで、私自身は自分に気持ちに素直に生きてこられたのです。
以前にも何人かの人の重荷を、ささやかに背負い込んだことがありますが、状況が変わればそんなことはほとんどの人は忘れてしまいます。
それどころか、手痛いダメッジさえ与えられることもありました。
しかも、言葉と行動は、まさに反比例するような気がします。
海援隊の「贈る言葉」にあるように、「人を騙すより、騙されるほうがいい」というのが私の信条ですが、それも騙されるさびしさを分かち合える人がいればのことかもしれません。
人に優しくなれるのは、自分に無限の優しさを降り注いでくれている人がいるおかげなのかもしれません。

最近、そんな気がしてきました。
口では強がりを言っていますが、かなり弱気になっている自分に、時々、気づきます。

今日も寒い1日でした。

■1627:節っちゃんのいる佐藤さんは幸せ者だ」(2012年2月15日)
吉田銀一郎さんは、自殺未遂者です。
ご自分でカミングアウトしていますので、実名を書いても許してくれるでしょう。
それに時々、この挽歌も読んでいるそうですので、へんに匿名で書くのも失礼です。

吉田さんは時々、湯島に来てくれます。
私よりもわずかばかり年上ですが、私とは大違いで、とてもしゃれなのです。
彼との付き合いが始まったのは、2年ほど前からです。
会う前から、吉田さんのことは噂に聞いていました。
しかし会った途端に、噂とは少し違う吉田さんを感じました。

吉田さんは、以前はご自分の会社を経営していましたが、その経営の行き詰まりから人生が変わりだしました。
そして自殺を試みましたが、生還されたのです。
いまも頭にその時の傷が残っています。
残ったのは頭の傷だけではありません。
さまざまな事が起こり、心にも傷が残ったはずです。
しかし、今の吉田さんはとても明るいのです。
それにおしゃれなのです。

先日、湯島で2人で話し合ったのですが、その帰り際に吉田さんが言いました。
「節っちゃんのいる佐藤さんは幸せ者だ」と。
私が、そろそろ向こうの世界に行きたいといったことへの返事でした。
そして、「でも節っちゃんは待っていないよ」とも言いました。
そんなはずはないと言いましたが、そうかもしれません。

吉田さんは、現世でやらねばならないことがまだたくさんあるので、110まで生きるそうです。
吉田さんなら、それも十分に考えられます。
自殺未遂を体験するとたぶん生命観も変わるのでしょう。
そういえば、先月お会いしたもう一人の自殺未遂された方も、もう絶対に死のうとは思わないときっぱり話してくれました。
そういう体験からの思いを語ってもらう場を4月から始めようと思っています。
ちょっとお茶目で、おしゃれな吉田さんの、少し重いかもしれない話をを聴きたい人は、ぜひ聴きに来てください。
私のホームページで案内をする予定です。

節子がいなくなってから、湯島に集まる人たちは、ますます広くなりました。

■1628:心の糧(2012年2月16日)
節子
最近、なんだか挽歌に追われているようです。
書いても書いても、また書かないと追いつけません。
そして、日がずれてしまうことが多くなってきました。
もっと習慣化しないといけませんね。
しかし、それが私の最も苦手なことなのです。

挽歌が書けていないからといって、節子のことを思い出さなくなってきているわけではありません。
テレビで心癒される風景を見れば、節子を連れて行きたかったと思い、おいしそうなレストランのメニューを見れば、節子を連れて行けなかったなと悔い、新しい発見があると節子に話したくなるのです。
まあ、しかしこれは言い訳かもしれません。

ある人が、昨日、自分の仕事の相談に来ました。
相談に乗っていて、なんで私が相談に乗らないといけないのと、つい訊いてしまいました。
こんなことをやりたいという話ばかりだったからです。
節子も知っているように、私は、思いつくとすぐに質問してしまうタイプなのです。
それで時には、相手に失礼なことも起こってしまいます。
幸いに昨日は、手は気分も害さずに、佐藤さんは「心の糧(かて)」ですからと言うのです。
心の糧?
要は、食べられているわけです。
そういえば、必ずといっていいほど、相談に乗ると何かをやらないといけない気分になって、ついつい自分の仕事を後回しにして、やってしまう自分がいます。
実に困ったものです。
今回もそうなりそうです。
うれしいような、腹立たしいような、奇妙な気分でした。

心の糧、心を支えるもの。
私にとっての「心の糧」はなんだろうかと考えました。
節子は心の糧なのだろうか。
どうもぴったりしませんね。
でも、もしかしたら、この挽歌を書くことは、私にとっての「心の糧」かもしれないと思いました。
挽歌を書き続けていることで、私はなんとか平安に生きていられるのかもしれません。
だとしたらもっときちんと毎日書かないといけませんね。
そうしないと、ほかの人の「心の糧」になることもできません。
みんなに食べられて、細く萎えてしまうことは避けたいですし。
だれかの「心の糧」には、あんまりなりたくはありません。

■1629:夢判断(2012年2月20日)
節子
久しぶりに節子の夢を見ました。
最近、挽歌を書いていないので、その督促かもしれませんね。

夢の中での節子は私とは別行動をしていました。
夢は湯島で毎月開催しているオープンサロンでした。
これは毎月最後の金曜日に定期的に開催していた、誰にでも開かれた気楽な集まりでした。
誰が来るか私たちにもわからない集まりでしたが、いつも節子が受け入れ準備をしてくれていました。
節子がいなくなってからしばらくはやめていましたが、今はまた細々と再開しています。
しかし節子がいた頃のような雰囲気は全く戻ってはきません。

そのオープンサロンが夢に登場したわけです。
最初は節子と2人で準備しているような感じでしたが、そこに人が集まりだしました。
節子の知っている人もいれば、知らない人もいました。
私はそのうちのある人とかなり話しこみました。
その人は最近久しくお会いしていない人ですが、節子も知っている人です。
しかし、気がついてみると、話し合いの輪っかが2つに分かれてしまっていました
節子は向こうに、私はこっちにと、いう感じです。
そして、いつの間にか節子が消えてしまったのです。
いつもは節子の夢を見た時にはあったかい気持ちが残ります。
でも昨夜の夢は、目覚めたあとに、そういう気分は残っていませんでした。

まあたいした話ではありません。
「夢判断」とか「夢占い」とかには、私はあまり興味はありません。
しかし、時に自分が見た夢について、考えることがあります。
そこから何かのメッセージを得たくなることもあるのです。
節子との別れのあとには、何回か、彼岸に続く電車や駅の夢を見ました。
2つほどは実に生々しいイメージを受けた夢もありました。
起きてからその駅の名前をネット検索したほどです。
もちろん見つかりませんでした。
しかし、最近はそうした夢は全く見なくなりました。
彼岸願望は消えたのかもしれません。
最近は節子が向こうから会いに来るのです。

夢に関していえることは、節子がいた頃といなくなってからは、見る夢が違っているということです。
これは少し不思議ですが、それまで繰り返し見てきた夢を見なくなったのです。
もっとも夢に関する記憶はとても曖昧ですから、これまで見ていた夢と思っているのが本当にそうなのかは確信が持てません。

しかし、夢が現実とつながっていることは間違いありません。
今朝、起きて、フェイスブックを開けたら、なんと昨夜の夢で久しぶりにオープンサロンにやってきた人からメッセージが届いていないのです。
それも昔を懐かしむメッセージです。
とすると、昨夜、夢で見た節子の行動ももしかしたら何らかの意味を持っているのかもしれません。
最近、いろいろと問題続きで、いささか頭が疲れています。
これ以上、頭を悩まさせないでほしいものです。
節子はきっと、彼岸から、最近の私の混迷ぶりを楽しんでいるのでしょうね。
困ったものです。

■1630:さぁ 春だ(2012年2月20日)
節子
今日の陽射しには、少し春の気配を感じます。
不思議なもので、春をイメージすると、気分が前向きになっていきます。
私の心身の中にいる節子も動き出しそうです。

寒さのせいもあったかもしれませんが、年明け後ずっと、私の周辺では重い話が多かったです。
また自分から進んで、重い話に近づこうという奇妙な気持ちもありました。
そのせいか、この数週間、時間的にも精神的にも、とても不安定な状況を続けていました。
それが、今日の春を感じさせる陽射しを受けて、変わったような気がします。
さぁ 春だ! 気分を変えていこう! というような感じです。
まあ一時的な「気のせい」かもしれませんが。

春は桜の季節です。
節子の胃がんが再発する前の年の今頃、河津桜を見にいきました。
まだ少し早くて寒かったですが、桜は咲いていました。
その頃は、節子に引っ張られて各地の桜を見に回りました。
節子はすでに病気の中にいて、たぶん不安を抱えていたでしょうが、私よりも行動的で、私をいつも引っ張り出してくれました。
節子のすごさを感じたのは、節子が病気になってからです。
不安を抱えていたでしょうが、いつも明るく、私を元気づけてくれました。
しかも、それが実に自然なのです。
時に、節子が病気であることさえ、忘れてしまうほどでした。
節子が病気にならなかったら、私はこんなにも節子に惚れ込まなかったかもしれません。
ほんとの節子に気づかないまま、まあそれなりの夫婦で終わったかもしれません。
それでもまあ、ほどほどに良い夫婦だったとは思いますが。

節子がいた頃、仕事に埋没しがちな私に春を気づかせてくれたのは、節子だったのかもしれません。
そういえば、近くのあけぼの山公園のチューリップ畑にも毎年誘ってくれました。
節子がいなくなってから、あけぼの山公園のチューリップもコスモスも、見なくなりました。
桜も、です。
私にとって、春はどうでもいい季節になったのです。

この5年、私はずっと春を感じたくない気分だったような気もします。
お花見を誘われて行ったこともありますが、桜は心にはうつってきませんでした。
今年はもしかしたら、お花見にも行けるかもしれません。
これも、いまの春めいた陽射しのせいでしょうか。

わが家は幸いに高台にあり、東側が比較的開けていますので、午前中は強い日差しが飛び込んでくるのです。
その陽射しの中にいると気分が明るくなります。
まるですぐそこの庭で、節子が花の手入れをしているような雰囲気です。

この高台の家も、節子が見つけて手に入れてくれました。
それも実に節子らしいやり方で、です。
節子は実に魅力的な女性でした。
まあ、しかしそれは、私にとってだけかもしれません。
娘たちにとっては、かなりいい加減な母親でしかないようですし。

今日は節子の笑顔のような、とてもあったかくなる陽射しです。
家から出かけるのが心残りです。

でもまあ、今日は約束があります。
節子
心残りですが、行ってきます。
夜は遅くなります。

■1631:新潟のチューリップ(2012年2月22日)
節子
新潟の金田さんが今年もどっさりとチューリップを送ってきてくれました。
チューリップは新潟の県花であり市の花なのだそうです。
今年は雪が多くて、出荷も遅れているようですが、寒さのせいか、花自体もいつもより小ぶりです。
しかし色とりどりのチューリップがどっさりとあると節子の周りが華やかになりました。
奥さんがわざわざ花を選んでくださったようです。
節子
とてもありがたい、うれしいことです。

金田さんとの出会いは、前に書いたかもしれませんが、節子のおかげなのです。
節子とギリシアに旅行した時、スニオン岬に行きました。
その前年、スニオン岬は火事にあい、行った時には岬にはまだ燃え残った跡がありました。
節子は、そこに桜の花を植えたらどうかと言い出しました。
そして帰国後、ギリシア観光局に手紙を出したのです。
残念ながらそれは実現しませんでしたが、その話を聴いた私の友人が、ギリシアの会をつくろうといっている人がいるといって紹介してくれた一人が金田さんだったのです。
金田さんとは、それが縁で、長いお付き合いが始まったのです。
ここでもまた節子が出てくるわけです。

チューリップといえば、最初の年にわが家に献花に来てくださった人にはチューリップの球根を差し上げました。
いろんなところでチューリップが育ったら、節子を思い出してくれるかもしれないと思ったからです。
一番遠いところでは、ネパールでした。
その後、どうなっているでしょうか。

そういえば、近くのあけぼの山公園のチューリップも、そろそろ咲き出しているかもしれません。
誘ってくれる節子がいなくなってからは、すっかりご無沙汰してしまっていますが。

■1632:介護する大変さと介護する幸せさ(2012年2月22日)
新潟からチューリップを送ってきてくれた金田さんは、私よりも年上ですが、まだご母堂も健在です。
しかし、ご苦労も多いようで、その介護もあって新潟に夫婦ともども転居されたのです。
大変とはいえ、介護できる相手がいることは幸せなことです。
介護する大変さと介護する幸せさ。
これはなかなか微妙な問題です。

介護疲れが原因で、痛ましい事件が起きることは少なくありません。
そうしたニュースに触れる度に、心が痛みます。
しかし、もしかしたら、と思うことがあるのです。
介護は大変ですが、どちらがより大変だったのだろうか、と。
そして、果たして、それは不幸な結末といえるのだろうか、と。

こういう捉え方をするとどうでしょうか。
介護できる幸せと介護される辛さ。
介護疲れは、双方にあるのです。
そして幸せも双方にあるわけです。

しかし、体力的に介護できなくなったらどうなるか。
介護できる幸せと介護できない辛さ。
介護の大変さは、介護できることの幸せによって報われます。
しかし、その関係が終わったらどうなるか。
二重の辛さが襲ってくるのです。
介護しなければいけない辛さと介護できない辛さ。
双方の幸せを守る方法は、一つしかありません。
痛ましい事件と思うのは、他人事で考えているからかもしれません。

まあ、時々、そんなことを考えてしまうわけです。
介護は、さまざまなことに気づかせてくれます。
私の両親の介護は、私よりも節子がやってくれました。
私がもし両親の介護をしっかりとしていたら、節子が再発して寝たきりになってしまった後、もう少し節子の気持ちを理解できたかもしれません。
金田さんはとても親思いで、献身的な介護をされています。
金田さんと話すと、いつもこのことが悔やまれます。

節子
反省することばかりです。
わるかったね。
でも節子はきっと笑って許してくれるでしょうが。

■1633:私の立場(2012年2月22日)
節子
これは書くのをやめるようにユカから厳しく言われたのですが、まあ、節子亡き後の私の生活ぶりを知ってもらうために書いてしまいます。
ユカに見つからなければいいのですが。

一昨日、湯島である集まりをやっていました。
私は足を組んでいたのですが、隣に座っていた人が私の足の裏を指差して、佐藤さん、風邪ひきますよ、と言うのです。
言ったのは、おしゃれな吉田銀一郎さん、銀ちゃんです。
足の裏を見たら、靴下に穴があいていました。

少しだけ弁解すると、湯島のオフィスはカーペットですが、私はいつもスリッパを履かないので、柔らかな素材の靴下はすぐ擦り切れてしまうのです。
ですから時々、底が薄くなっている靴下は娘が廃棄するのですが、節約家、というか、貧乏な私は少しくらい薄くても捨てられずに、娘にこっそりと再使用してしまいがちなのです。
ユカは、お父さんは良いかもしれないけど、娘の恥になるから、と言うのです。
靴下に穴が開いていて、何が悪い。最近は穴の開いたジーパンをはいている若者もいるじゃないかと言いたいところですが、まあユカの顔をつぶすわけにもいきません。
帰宅してから、穴が見つかっちゃったよ、と言ったら、ユカからまた怒られました。

ユカとそんな話をしていて、そういえば節子ともよくこんなやりとりがあったなと思い出しました。
修はいいかもしれないけれど、私の立場もあるでしょう、というわけです。
逆に、節子はいいかもしれないけど、私の立場もあるからね、と私が言っていたこともありました。

「私の立場」ってなんでしょうか。
節子と私は、大体において考えは似ていましたから、「私たちの立場」ということで一致することが多かった気がします。
しかし、時に、「私の立場」を守るために、相手に言動を替える要求をしあうこともあったのです。
まあ、みんな勝手なものです。
靴下の穴のような、些細な話が多かったような気がしますが、節子がいなくなってから、「私の立場」から私の立場をしっかりとチェックしてくれる人がいなくなったのは、私にとっては大きな影響を与えているのではないかと改めて気づきました。
娘たちが時々、私の言動をチェックしてはくれますが、その親身さの度合いにおいては残念ながら節子とは違います。
そういえば、節子はこのブログを時々読んで書き直したほうが良いと言ってくれていました。
私は、時に感情的になって、書き過ぎてしまうことがあるからです。
節子はそれを止める役目を果たしてくれていたわけです。
それは、私の行動に関してもそうです。
感情的についつい動いてしまい、とんでもないことに関わってしまうことがあまりなかったのは、節子のおかげかもしれません。
しかし、いまはその「私の立場」で止めてくれる人がいないのです。
注意しないと「唯我独尊」ないしは「投げやり」の生き方にならないとは限りません。
「私の立場」から私の立場をしっかりとチェックしてくれる人がいないと、私のように自立できていない人間は危ういですね。
いやはや困ったものです。

明日からは靴下の穴には注意しようと思いますが、まあ風邪はひかずにすみました。

■1634:死の余波(2012年2月23日)
節子
親を自殺で亡くした人から聞いた話ですが、自死遺族の支援活動をされている方が、「経験からですが、親を自殺で亡くした子どもは、たいていおかしくなってますよ」と言っていたそうです。
つい先日、死刑が確定した光母子殺害事件の被告も、母親が自殺したそうです。
人の「死」は、本人だけではなく、周辺の人にも大きな影響を与えます。
これも、生命がつながりあっていることを示しています。
誰がなんと言おうと、人は一人では生きておらず、一人では死んでいけないのです。
そのことがわかれば、人の生命は他者であろうと自らであろうと、おろそかにはできません。
この数年、自殺防止関係の活動をしていて、そのことがよくわかってきました。

おかしくなるのは、親を自殺で亡くした子どもだけではありません。
子どもを亡くした親も、伴侶を亡くした大人も、愛する人を亡くした若者も、です。
自らの生きる一部だった、そうした存在がいなくなると、自らの心身が変調してしまうのです。
それは、悲しさとか辛さとか、そうしたこととは別の話です。
心身に激震が走り、ともかく「まっすぐに」歩けなくなってしまうのです。
大人の場合は、それでもなぜそうなったのかが何となくわかりますが、子どもの場合は、おそらく自分でもわからずに道に迷いだしてしまう。
その結果、前に進むこと、あるいは成長することが止まってしまうこともあるでしょう。
そうしたことを考えると、光母子殺害事件の被告の悲しさが伝わってきます。
そうした状況を、みんながきちんと支えてやれば、被告は変われたかもしれません。
残念ながら、彼を弁護した弁護士には、そうした優しさや人間らしさはなかったように思います。

この事件を最初に知った時に、原告の本村さんの主張に圧倒されました。
家族を奪われた悲しみはいかばかりか、私には想像を絶します。
しかし彼は見事に道を外しませんでした。
節子はいつも、彼の発言に感心していました。
節子がもう一人、感心していたのが、松本サリン事件で妻を奪われた河野さんです。
河野さんも、まっすぐに前に進んでいました。

たとえ遠くの人の死でも、その余波は伝わってきます。
身近で愛する人の死は、強烈です。
そこでおかしくなっても、それこそおかしくはありません。
それを超えられたのは、おふたりの、愛の強さかもしれません。

しかし、もしかしたら、まっすぐに歩いているように見えた、本村さんも河野さんも、おかしくなっているのかもしれません。
だから逆にまっすぐにしか進めなかったのかもしれない。

一昨日の判決とその後の本村さんの発言には、思うことがたくさんありました。
死とは、かくも悩ましい事件なのです。

節子
最近は、そうしたことを考えさせる事件が多すぎて、気が滅入ります。
あなたがいたら、いろいろと話し合えるのですが、

■1635:懺悔1:鬼の修(2012年2月23日)
節子
昨日、ある活動を一緒にやっている人からいろいろと厳しい意見をもらいました。
「佐藤さんは人を追い込んでいって、逃げる隙を与えない」と言われたのです。
そして一緒にやっていくのはもう限界だとも言われました。
4時間も、いろいろと話し込んだなかでの話です。

その言葉を聞いて、すぐに節子のことを思い出しました。
節子も時々そう言って、私をたしなめました。
久しぶりに聴く言葉でした。

節子は、私を「仏の修」と「鬼の修」が同居していると言っていました。
そして、「鬼の修」をとても嫌っていました。
その「鬼の修」とは「追い込む修」です。

節子は時々、私に追い込まれていたのでしょう。
節子がいた頃もそれに気づいて謝ったことはありますが、節子がいなくなってからは、思い出しても謝れないので、ただただ辛いだけです。

節子からよく言われた言葉は他にもあります。
修は強いから、弱い立場の人のことがわからないのよ、とも言われました。
理詰めで責められたら反論もできない、とも言われました。
言葉がうまいからとも言われました。
私にも言い分はありますが、節子は、そうした私が好きではありませんでした。

歳を重ねるに連れて、節子は私との付き合い方に慣れてきました。
鬼の佐藤になる前に、かわすことを身につけました。
まあ、簡単に言えば、ハイハイと聞き流すわけです。
意見が対立してもある程度まで言い合うと、ハイハイで終わってしまうわけです。
そして、私が自分の間違いに気付いて後で謝ると、こうなるとわかっていたわ、と偉そうに言うのです。
もっとも節子がハイハイと言った場合は、私に非があることが多かったのですが。

しかし若い頃には、私はたぶん節子を追い込むことも多かったのでしょう。
いまとなっては悔やむしかありませんが、彼岸で節子に会ったら、まずは素直に謝ろうと思います。

追い込んでわるかったね、節子。
心から謝ります。

昨日の人にも謝らなければいけません。
これからは人を追い込むことのないように、できるだけ注意しようと思います。

■1636:懺悔2:無分別(2012年2月24日)
懺悔ついでに、もう一つです。

私の分別のなさはかなりのものです。
自覚しているのになぜ正さないのか。
それには理由があります。
それは「正すべき」は私ではないと思っているからです。

私は現代の社会常識や大人の生き方から考えるとかなり逸脱した価値観や考え方のようです。
節子もよく言っていましたし、いまでも時々、いろんな人に言われます。
しかし、私自身は、人間の長い歴史という視野で考えると、極めて常識的で平凡な考えの持ち主だと思っています。
つまり現代という時代の人々の生き方こそが特別なのです。
たとえば、お金のために生きるなどと言うのは、たかだかこの100年程度の生き方でしょう。
私は自分の心身から出てくる素直な生き方に従っているだけです。

そこまでは節子も結婚して数年で理解し、共感してくれました。
私があまり世間的はない意思決定をしても、節子はそれには大きく異は唱えませんでした。
それが修の生き方だから、とむしろ賛成してくれました。
私が突然会社を辞めるといった時もそうでした。
拍子抜けするほど、節子はすぐにも賛成したのです。

しかし、家族の迷惑を考えない言動で家族はたぶん迷惑を受けていることでしょう。
節子にも多大な迷惑を与えてきたのかもしれません。
しかしこれも歳を重ねるに連れて、節子に判断を仰ぐ事が増えました。
世間流とは違ったことをする時には、まず、節子に相談するというようにしたのです。
でも、いまから考えると、私の無分別、あるいは「今様の常識」(私からすれば偏屈でしかありませんが)に反する行動は、節子のストレスを高めていたかもしれません。
そもそも結婚の時からそうでした。
私の考えを貫いたが故に、節子は親戚からひどい言い方をされたのかもしれません。
何があっても親戚には弱音や不満は口にしないと、節子は固く決意していました。
しかし最後まで、それを貫き通したおかげで、たぶん節子の親戚からの私の評価は、決してわるくはなくなったのです。
しかし、そこに至るまでの節子の苦労には、あまり思い至りませんでした。
そうしたことも、気づきだしたのは節子を見送ってからです。

私の無分別が大きくは逸脱せずにすんだのは、節子のおかげです。
私が会社を辞めてからは、節子のアドバイスにかなり従ったつもりです。
彼岸に行ったら、それも節子に話して感謝しようと思います。

懺悔しようと思うと、際限なく、節子への謝罪の材料が出てきます。
あんまり良い夫ではなかったのかもしれません。
でもまあ、節子はそれなりに幸せな人生だったでしょう。
苦しい症状の中で、その言葉を残してくれた節子には感謝しています。
残されたものは、そういうわずかな言葉にすがって生きているものですから。

■1637:八尾さんの献花式(2012年2月27日)
節子
八尾さんの献花式に行ってきました。
八尾さんは、節子も会ったことがありますが、山城経営研究所の2代目の代表です。
経営道フォーラムの活動を起こした市川さんが行をしたいといって、山に入った後、それを継いで2代目の代表になりました。
八尾さんは松下電送の社長をされていましたが、その経営者としての実体験を踏まえて、市川さんとはまた違った特徴を持ち込み、多くの企業経営幹部から慕われていました。
数年前に3代目に譲られ、ご自身は長野の小諸に庵をつくって、転居されていました。
陽明学に通じていて、まさに知行合一の生き方をされていたように思います。

昨年末までお元気で、病のそぶりなどなかったとお聞きしていましたが、大晦日の日に足にむくみが出て奥さんの勧めで病院に行ったところ、入院になったそうですが、なんと翌日の元旦に息を引き取られたというのです。
まさに八尾さんらしい生き方、逝き方です。

献花式にはさまざまな人が参会し、私も久しぶりの方々にお会いしました。
その中に、味の素の会長だった歌田さんがいました。
声をかけると私を覚えてくださいました。
もう会社を引退されてから20年近くになると思いますが、お元気そうでした。
私はテレビの経営者インタビュー番組の企画に関わったことがあるのですが、制作費がなくてインタビューを私がやることになりました。
私には全く不得手なことでしたが、12回だけ引き受けました。
その最初のインタビュー相手が歌田さんでした。
番組の最初に街中で私が歌田さんを数分だけ紹介するシーンがあるのですが、それまでそんなことを体験したことはなく、原稿を書いて話す練習をしました。
その時、家族に聞いてもらい、コメントをもらったのですが、何回も練習したので、わが家の家族の間では「歌田さん」が有名になったのです。
その後、歌田さんがテレビなどに登場すると、節子が私を呼んだりしていたのです。
その歌田さんに久しぶりにお会いしたのです。

他にも懐かしい人たちにお会いしました。
献花の後、市川さんとエレガンスの棚沢さんとお茶を飲みました。
この2人は節子もよく知っています。

2人を別れて、帰り道にハッと気づきました。
そういえば、市川さんの比叡山での得度式に、八尾さんと棚沢さんと私とで行ったのです。
もしかしたら、八尾さんが3人を集めたのかもしれません。
大勢の参加者の中で、偶然にも同じ時間に、同じ場所に居合わせたのは、八尾さんの仕業に違いありません。

節子
彼岸で八尾さんに会ったら、よろしくお伝え下さい。
もう一度、此岸でお会いしたかったです。

八尾さん
ありがとうございました。

■1638:哀しみは日々深まっていく(2012年2月27日)
節子
この挽歌を読んでくださっているPattiさんという方が、コメントを書き込んでくれました。
そこに、
>哀しみは日々深まっていくという本の一節がありました。
と書かれていました。
Pattiさんも愛する伴侶を亡くされたのです。

哀しみは日々深まっていく。
そのコメントに私も次のように書かせてもらいました。

私もまさにそう実感しています。
同時に、深くなっていくがゆえに表層的(感覚的)には意識しなくなってもいきます。
しかし心身の奥底で、哀しみが大きくなっているのを、時々、感じます。
そうなると、不安感や疲労感がどっと心身を襲ってきます。
自分ながらに、ちょっと恐くなることもあります。
ですから、それをどこかで発散させていかないと
心身の平安が保たれません。

深いところで哀しさがどんどんたまっていくのは、地震と一緒かもしれません。
心身の奥深くにたまっていく哀しさはマグニチュードを増幅させますが、地表の震度は震源が深いほど小さくなります。
しかし時に直下型で心身を襲ってくるのです。

最近はあまり涙が出ることはありません。
外から見れば、時間によって癒されたと思われるかもしれません。
自分でもそう思うこともあります。
しかし、実はそうではないのです。

最近、それを思い知らされています。
この数週間、いささか抱え込んだ問題が多すぎたのか、心身ともに疲れてきています。
この数日は寝不足状態でもあります。
昨日、友人から電話がありました。
相談というほどの相談ではなかったのですが、気やすい関係の友人だったためか、マグマが噴出するように、イライラを噴出させてしまいました。
長電話のあと、だいぶイライラがたまっているようなので注意したほうがいいと言われました。
確かにそうで、最近、いろんな人にぶつかっているような気もします。
困ったものです。

そして今朝、起きた途端に奇妙な不安感が心身に沸き起こりました。
危険な兆候です。
娘に、こういう時にフッといってしまうのかもしれないと話しました。
まあそう話せるということは大丈夫ということですが、自分ながらに少し怖くなりました。
そんな気分の時に書いたのが、上記に引用した私のコメントです。
人の気持ちは不思議なもので、自分でもわからないことが多いのです。

もしかしたら、3月の2つのフォーラムの準備で、最近自殺に関する情報に触れすぎているからかもしれません。
なにしろ私は暗示にかかりやすいタイプなのです。
まあこんなことを書くと読んでくださった方は心配してくださるかもしれませんが、今はもう大丈夫なので心配はありません。
しかし疲れすぎはよくありません。
なにしろ最近は、「無分別」に余計なお世話ばかりしているのです。

先ほど、知人の紹介で相談に来た人がいます。
そのプロジェクトを一緒にやってほしいという話でした。
一昨日だったら、きっと引き受けていたでしょう。
でも今日は引き受けるのを踏みとどまりました。
はやく今の時間破産から抜け出ないといけません。
余計なお世話を止めれば、時間は山のようにあるはずです。
それに何よりも仕事ができるようになります。

節子がいたらもう少し早く抜け出せたかもしれません。

■1639:水仙(2012年2月28日)
庭の水仙が咲き出しています。
寒さは相変わらずですが、少しずつ春が見え出しています。

先日、娘たちが押入れの整理をしていたら、まだ使われたことのない新品のパジャマが2着出てきたそうです。
入院用に用意していたのでしょう。
節子は自宅療養でしたが、家族に迷惑をかけたくないと入院も覚悟していたのです。
迷惑をかけ合うのが家族だと私は思っていますが、節子は私や家族への迷惑をいつも軽くしようという思いを持っていました。
いつもみんなに迷惑をかけてごめんね、と言っていました。
もちろん、私はそう言わせないように努めましたが、節子は、そういう人でした。
もし、私と節子との立場が逆転していたら、どうでしょうか。
たぶん私も同じようになるかもしれません。
40年も一緒に暮らしていると、言動は似てくるものです。

私たちは、最初から同じ考えや気質だったわけではありません。
むしろ考えはかなり違っていました。
それが次第に近づき、いつの間にかお互いの考えに自然と共振してしまうようになりました。
相手が感じていることや考えていることが、なんとなくわかるようになっていました。
お互いに腹の底まで、心の奥まで、分かり合えていたのです。
そして相手のことがすべて肯定的に受け容れられたのです。
いや、正確に言えば、そうなりつつあったと言うべきでしょう。

私は節子の言動のすべてが好きでした。
もしかしたら、節子の言動の中に、自分自身も重ねていたのかと思うほど、好きでした。
節子に何かを問う時は、その答えはほとんどわかっていたのです。
節子も、そうだったかもしれません。
私たちは、私たちが好きだったのです。

庭の水仙を見ながら、一緒に住みだす前、修さんはナルシストだからと言われたのを思い出しました。
若い頃、私は私が大好きでした。
だからだれもが好きになれたのですが。
自分を愛せれば、他者も深く愛せます。
しかし、節子と長年暮らしているうちに、私は自分よりも節子が好きになりました。
その節子がいなくなって、「私たち」は壊れてしまった。
改めて、私たちは本当に私たちが好きだったんだなあ、と思いました。

週末には水仙をお墓に届けようと思います。

■1640:雪を見ながら思い出したこと(2012年2月29日)
節子
湯島で、雪が降っているのをボーっと見ていました。
朝から降り始めた雪は、いまも降り続いています。
風もあって、窓から見ているとかなり横に流れています。
積もりそうな気配です。

節子と湯島でオープンサロンを始めた頃、湯島に泊ったことがありました。
サロンで遅くなったので、泊ってしまおうということになったのです。
もしもの時のために、当時は寝具も少しだけ置いておいたのです。
お風呂もないし、食事の材料もないし、テレビもないし、どうやって泊り、翌日はどうしたのか、今では全く記憶がありません。
節子が残していった日記を読めば、間違いなく書かれているでしょうが、まだ節子の日記は読む気にはなれません。
最後まで読めないかもしれません。

私たちはとても狭い部屋で一緒に暮らし始めました。
部屋は6畳と2畳と2畳よりも小さなキッチンの借家でした。
もちろんお風呂はなく、隣の部屋の音まで聞こえてくる安普請のアパートでした。
そこでしばらく過ごしました。
節子の叔父さんが訪ねてきて、あまりに狭いので驚いていたという話も聴きました。
その後、会社の大きな社宅に入居できたのですが、社宅のことはほとんど覚えていません。しかし、最初の小さな借家のことはよく覚えています。
そこにいたのも、冬だったと思います。
寒くて夜は凍えるようだったのを覚えています。
でも私にはその頃の生活がとても気にいっていましたし、今も一番豊かに感じられる思い出です。

そこでの暮らしが、たぶん私たちのその後を決めたのでしょう。
その頃の暮らしが、私の理想だったのです。
休みの日はほとんど毎週、奈良か京都に行っていました。
おいしい食事をするわけではありません。
お金もなかったので、ただただ神社仏閣周りくらいだったような気がします。
当時は、私が主導権を持っていましたから、たぶん節子は私に引きずりまわされていたのかもしれません。
おかしな人と結婚したものだと思っていたかもしれません。
生真面目な節子といささか変わった私との結婚は、長くは続かないと思っていた人もいたでしょう。
そんな話も後から耳に入ってきたこともあります。
しかし、それがなんと最後まできちんと連れ添えたのです。
もちろん途中で「危機」がなかったわけではありません。
しかし「危機」のない結婚生活などは退屈以外の何ものでもないでしょう。
私は、そういう考えをしています。

雪がちょっと小降りになってきました。
雪を見ていて、いろんなことを思い出しましたが、書いているうちに雪とは無念なことになってしまいました。
あの頃、雪は降っていただろうか。
小さな借家時代の記憶には、雪の記憶も桜の記憶もまったくありません。
ただ狭い部屋と節子の楽しそうな姿だけがよみがえってきます。

■1641:フォワード(2012年3月1日)
節子
節子と最後に行った旅行先で出会った東尋坊の茂さんの夢を応援しようと立ち上げた「自殺のない社会づくりネットワーク」も3年近くが経過しました。
節子を見送った後、気力を失っていた私が、活動を再開するために、このネットワークづくりやその後の活動は大きな力になりました。
3年目を迎え、そのネットワークで「フォワードが語り合う公開フォーラム」を開催することになり、いまその準備をしています。

自殺企図者や自殺未遂者という言葉があまりに強烈だったので、「前に向かって進んでいく人」という思いを込めて、「フォワード」と命名させてもらったのです。
東尋坊の茂さんのように、自殺防止活動をしている人を「ゲートキーパー」と呼んでいるのに合わせての命名でした。
果たして適切な言葉だったのかどうかは、最近少し悩ましく思い出していますが、私の中では自殺に限らず、先を見て前に進む人を元気づける言葉になってきています。
つまり、私もまさに「フォワード」なのです。

3月のフォーラムの参加申し込みをしてきた方が、参加動機に「フォワードという存在にたいへん興味がある」と書いてきてくださいました。
自死遺族の方のようです。
「フォワード」の命名者としては、とてもうれしいことでした。
そして、少し考えました。
果たして、私自身はいま「フォワード」と言えるだろうか、と。

節子がいなくなってから、どんなに元気そうにしていても、実のところ、前に進めずにいる自分によく気づきます。
昔の私を知らない人は、それでも私がいろんなことに取り組んでいるに感心してくれます。
しかし、実のところ、ほんとは進みたくて進んでいるのではないのです。
だから行動力が全く違います。
その上、時々、そうした「本音」が外に出てしまいます。
先日は、それをある人から注意されました。
素直さもほどほどにしなければいけません。

3月にもうひとつ、「自死を防ぎたい! そのために何ができるか」をテーマにしたフォーラムも開催されます。
その内容をパネリストの方たちと相談していたら、こんなご意見をいただきました。

「自死を防ぐ」という姿勢には、死にたい気持ちを持っている方に対しても、大切な人を自死で亡くした方に対しても、さらなる苦悩を付加してしまう可能性を持っていると経験的に感じています。

ハッと気づきました。
私自身もそうだったのではないのか、と。
「フォワード」などと口で言うのは簡単ですが、人の生はそんなに簡単ではありません。
前に進まなくても、止まっていてもいい。
後ろに進んでもいいのではないか。

「フォワード」と命名してよかったのかどうか。
自分で企画しながら、今度のフォワードフォーラムは少し気が重くなってきました。

■1642:哀しみの表現の場(2012年3月2日)
節子
私と同じように、書くことによってなんとかバランスを保っている人に会いました。
Kさんといいます。
1年前に、同棲していた恋人を病気で亡くされたそうです。
病気がわかってから3か月。
突然の別れでした。

私たちのように、ずっと一緒に病気に向き合っていても、別れは突然に来ました。
そして、正直、別れがうまく理解できずに、思考が乱れ、わけがわからなくなりました。
いまでも私はあまり理解できていません。
節子は今もどこかにいるような気もしますし、節子のいない世界など嘘だろうと思うこともあります。
Kさんの場合は、3か月です。
理解しようにもたぶん理解できないでしょう。

Kさんも、ある時、突き動かされるようにして、思いをブログに書きだしたそうです。
私と同じです。
私と違うのは、書くだけでは鎮まらず、自分と同じような人はどうしているのかと動き出したのです。
そして私のところにやってきてくれました。
私も節子のことを素直に話せました。
Kさんも話してくれました。
こうやって話せる場があるだけでも救いになる、
だとしたら、同じ思いをしている人たちが話したくなったら話す場があればいい、
話でなくてもいい、音楽でもアートでも、ともかく表現できる場があればいい。
Kさんはそう考えて、動き出したのです。

Kさんはまだ30代の男性です。
私になにができるだろうか。
考えてみようと思います。
Kさんの愛の深さには、負けそうな気がしました。
私には初めての思いです。

■1643:不運と思ってあきらめてくれ(2012年3月2日)
愛する妻よ
人間の寿命ははかるべからざるものだ。
不運と思ってあきらめてくれ。

節子
少し前に放映された「日本人は何を考えてきたか」の第4回目「非戦と平等を求め 幸徳秋水と堺利彦」に出てきた、森近運平の手紙の文章です。
森近は全くの無実にもかかわらず、大逆事件と言われる国家犯罪に巻き込まれて、わずか30歳で死刑になります。
その森近が死刑執行の直前に妻に送った手紙に書いた文章です。

人間の寿命ははかるべからざるものだ。
不運と思って諦めてくれ。

テレビ番組を見たのは数日前ですが、この言葉がなかなか頭から離れないのでここに書くことにしました。

たしかに「寿命」は個人の「はかるべきもの」ではないのかもしれません。
昨今の健康志向のブームには、私自身はいささか否定的ですが(生物学的な生よりも人間的な生をこそ目指したいと私は思っています)、それでも私はかなり「寿命」の長さを望んできました。
もちろん節子がいなくなった今は、その気持ちは全くありませんが、しかしどこかに「はかるべきもの」という思いがあることは否定できません。
それに、節子の「寿命」が62歳だったとしても、それを単に「不運」とは思えません。
もっと長くしたかったですし、それができなかったのは私の責任でもあるという思いから、たぶん永遠に解放されはしないでしょう。
しかし、節子はどうだったでしょうか。
テレビを見た時に、そう思ったのです。

節子は、私に何回も「ごめんね」と言っていました。
手術をしてなかなか回復できないでいた時には、なんでこうなってしまったのだろうと悲しむことはありましたが、半年位してからは決して自らの不運さを嘆くことはありませんでした。
節子から「愚痴」を聞いたことは一度もありません。
節子はいつも前しか見ていなかったような気がします。
前に何もないことがわかってからも、です。
私と違って、自らを決してだますことはなかったのです。
そして、私に「不運」の試練を残していくことを謝っていたのです。

4年半経って、しかも森近運平の手紙の文章を知って、さらに数日考えて、やっと気がつきました。
なんという愚鈍さ、我ながら嫌になります。
しかし、不運といって諦めることはしません。
不運とか運がいいとか、そんなことはもう通り抜けました。
節子と人生を共にした事実があれば、それで十分に良しとしましょう。
森近運平も、そう思っていたのではないか、そんな気がしてきました。

■1644:運が離れていっているかもしれません(2012年3月4日)
節子
びわこマラソンをテレビで最初から最後まで見ました。
マラソンをずっと見たのは生まれて初めてです。
しかも一人で見ていました。
特に興味があったわけではありませんし、見るつもりがあったわけでもありません。
NHKのお昼のニュースを見ながら昼食を食べていたのですが、ニュースが終わったらマラソンが始まったのです。
少し見てからやめる、溜まりに溜まっている宿題に取り組むつもりでした。
ところが目を離せなくなりました。
ランナーのせいではありません。
コースのせいです。

びわこマラソンのコースは、私たちが一緒に住み始めた琵琶湖湖畔です。
私たちは瀬田川のすぐ近くの借家から生活を始めたのです。
私たちがよく歩いた道も出てきます。
私たちが住んでいた頃とは街並みも一変していますが、なぜかテレビから離れられなくなったのです。

瀬田川の風景は変わっていませんし、瀬田側の道路風景はあまり変わっていないように思いましたが、膳所から石山辺りの風景はまるで変わっていました。
石山寺の山門前も大きく変わっていました。
私たちが行っていた頃とは大違いです。

コースは私たちの活動範囲にかなり重なっています。
風景は違っても、なにやらひきつけられるものがあり、なんとなく最後まで見てしまったわけです。
肝心のマラソンの内容は、予想を裏切って、一般参加のランナーが日本人のトップでした。
最も期待されていたランナーは惨敗でした。
ずっと見ていたのでよくわかるのですが、彼は最初からついていなかったように思います。
不運だったのです。
昨日書いた「不運と思ってあきらめてくれ」という言葉が頭に浮かびました。

節子
私は実に運の良い人間だと思っています。
節子を失ってもまだ、そう思っていました。
しかしもしかしたら、節子がいなくなってからは運が離れていってしまったのかもしれません。
最近、あんまり良いことがありません。
私の運が良かったのは、節子がいたからかもしれません。
だとしたら、これから少し心配ですね。
困ったものです。

■1645:アモール(2012年3月4日)
また挽歌が滞ってしまっています。
今日はいくつか書こうと思いますが、いささか思考的な話になりそうです。

アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、愛について語り合うとしたら、12世紀の吟遊詩人から始めると話しています(「神話の力」)。
それまでの西洋社会での「愛」は、エロスかアガペだけだったというのです。
エロスは生物学的な衝動、アガペは無条件な理念的な人類愛です。
それに対して、吟遊詩人たちは、目と目が合うことから生じる個人対個人の経験をアモールとして語ったのです。
その愛はどこから生まれるのか。
それはまさに個々人の心身としか言えません。心でも身でもなく「心身」です。
キャンベルは、「私たちはほかの人とではなく、そのひとりと恋に陥る。非常に不思議なことですね」と語っていますが、実に不思議な話です。

ユングは「魂はその片割れを見つけるまでは幸せになれない」と言っていますが、片割れを見つけた時に、それが生ずるのかもしれません。
だからこそ、その人との別れは「自らの半身と半心」を削がれるような状況を引き起こします。
愛には、喜びと苦痛が含まれているのです。
キャンベルは、「愛が強ければ強いほど、苦痛も増す」と言っていますが。同時に、「愛はすべてを耐える」とも言っています。
最近、キャンベルのこうした言葉がすんなりと心身に入ってくるようになりました。
しかし、こうしたことはユングの言う集合的無意識として私たちの心身に埋め込まれているのかもしれません。
そういえば、節子と会ったころに、「とばっちり」という短編小説(と言えるかどうかは危ういですが)を書いたことがあります。
片割れ探しに宇宙をさまよう片割れの話だったと思います。
節子も読んだはずですが、ほとんど興味を示しませんでした。
今もきっと書類や資料のどこかに埋もれているでしょう。

キャンベルとの対話の中で、ジャーナリストのビル・モイヤーズは、「人が経験する最悪の地獄は、愛する人から切り離されること」と言っていますが、最近はそうした考えが、その前にある「出会うこと」という体験を忘れているような、身勝手な考えのように思えてきました。
哀しみにも感謝しなければいけません。

■1646:compassion(2012年3月5日)
10年ほど前から「大きな福祉」を理念にして、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて「自分の一歩」を踏み出している人たちのゆるやかな輪を育てる活動に取り組んでいます。
と言っても、これまた私自身の一歩という程度のささやかな活動です。
節子も一緒に取り組んでくれるはずでしたが、始めてしばらくして、節子が発病してしまったので、最初の展望とは違ったものになってしまいましたが、いまも「自分の一歩」として続けています。
それが「コムケア活動」です。

その活動を設計した時には、メイヤロフの「ケアの本質」に共感し、ケアを「関係性」として捉え、重荷を背負い合う関係を育てようと呼びかけました。
あるNPOに取り組む人からは、とても魅力的な言葉だが、重荷を背負い合うというと腰が引けると言われました。
私は、無理のない範囲で重荷を背負い合うことは生きることを楽にするだろうと思っていましたが、受け止め方はさまざまでした。
いま考えれば、「関係性」という発想が多くの人には弱いのだろうと思います。
昨年の3.11の体験は、そうした状況を変えたのかもしれませんが、まだ確信は持てません。
言葉としての「関係性」は広がってきましたが、実体としての「関係性」は必ずしも育っていないような気がします。

Compassionという言葉があります。
最近、出会った言葉です。
「神話の力」のなかで、キャンベルは「やさしさ」を考える鍵はcompassionだと言っているのです。
passionは「受難」であり、com は「共に」という意味ですから、「共に難に向かう」と言うことでしょう。
つまりは「重荷を背負い合う」ということです。

私が節子と会って、「結婚でもしない?」と誘ったのは、いかにも不謹慎のように響きますが、節子はその言葉の奥に、たぶん「重荷を背負い合う」関係性を感じていたと思います。
だからこそ、その不謹慎な誘いに乗ったわけです。

一緒に暮らしだしてから、どれほどの「受難」があったでしょうか。
たくさんあったようでもあり、なかったようでもあります。
重荷は、一人ではただただ辛いばかりですが、背負い合うと辛さと共に、希望や喜びが生まれるのです。

最近、被災地で生活再建に取り組んでいる人たちのドキュメントをよく見ます。
私など体験した事のないような過酷な状況からの再出発。
しかしそこに登場する人たちの表情には、時に喜びさえ感じます。
解決すべき重荷があり、背負い合う仲間がいる。
不謹慎ですが、時にうらやましくなります。

私は今、果たして重荷を背負っているのか。
その重荷を誰と背負い合えばいいのか。
それが最近わからなくなってきました。
片割れだった節子がいなくなると、思考が本当に混乱します。

■1647:一人旅(2012年3月12日)
節子
挽歌が書けずにいます。
単純に時間がないだけの話なのですが、節子が旅立ってからの日数と挽歌の番号が6つもずれてしまいました。
がんばって追いつかないといけませんが、まだもう2週間、時間破産から抜けられそうもありません。
困ったものです。

昨日、大阪で「自死を語り合える社会に」というテーマのフォーラムに行ってきました。
時評編には少しだけそのことを書きましたが、終わった後、ドッと疲れが出てしまいました。
そのことを書く前に、行きの新幹線のことを少し書きます。

久しぶりに早朝の新幹線に乗りました。
いつものように、本を読むか、パソコンをするかなのですが、昨日は湯河原を通過する頃から、なんとなくボーっと外を見ていました。
東海道新幹線で、こうやってボーっと外を見ているということは、そういえば、長いことをなかったなと気がつきました。
新幹線の車窓からの風景は、節子を思い出させるので、最近はあまり見ないようにしていました。
富士山さえ、ほとんど見たことがありません。
東海道新幹線は、節子とは毎年何回も一緒に乗りましたから、見ているだけで思い出してしまうのです。
昨日もそうでした。
いろんなことが思い出されます。

節子と一緒に見た風景がある。
その中を今は一人で通過している。
そう思うとやはり寂しくなってしまいます。
一緒に見た風景を見れば悲しくなり、新しい風景を見れば、節子に見せたくなる。
一人旅は、やはり好きにはなれません。
思い出すことが悲しすぎるからです。

これは、車窓風景だけではありません。
人生をもし旅にたとえるとすれば、「同行二人」であるとしても、一人で歩く寂しさは時々、心身を襲ってきます。
そんなことを考えながら、見るでもなく見ないでもなく、車窓の外に目をやってぼんやりしていたら、いつの間にか新大阪に着いてしまいました。
そして、夢遊病者のように駅を歩いていたのでしょうか、気がついたらJRに乗り換える予定だったのに、改札を出て、わけのわからない方向に歩いているのです。

いささか疲れているとはいえ、不思議な体験をしました。
事故に合わずに良かったです。

■1648:思いを発することの大切さ(2012年3月12日)
節子
「自殺を語り合える社会に」をテーマにした大阪のフォーラムではいろんな人に会いました。
福井からは茂さんが、京都からは福井さんが、わざわざ来てくれました。

このテーマは、最初はぴんと来ませんでした。
しかし昨日のフォーラムで、その深い意味を実感しました。

自死・自殺相談の取り組んでいる僧侶の方が、「死にたい」という気持ちは、なかなか人には言えないものだと言いました。
自死遺族の方は、親が自死したことを誰にもずっと言えなかったし、誰からもずっと言われなかったと言いました。
こう書いてしまうと、当然だろうと思われそうですが、その言葉の含意することは大きいのです。
言えないのは、きちんと聴いてもらえないと思うからです。
言ってしまった後が不安だからです。
でもそれが言えると生き方は変わります。
昨日の話し合いで、そのことがすごくよくわかったのです。

心の奥にあるものを抱えこんでしまっていると、それがどんどん変化していきます。
良い方向に変化することもあるでしょうが、澱んでしまうこともあります。
心の奥にあるものを誰かと本当に共有できたと思えた時も、またどんどん変化していきます。
その場合は、間違いなく良い方向に変化します。
そして安堵が生まれてきます。力が生まれてきます。
これは、私だけではありません。
これまで何回も、そうしたことを体験してきました。
安堵は力を生み出すことも。

今回、私はコーディネーター役でしたので、個々の話にはあまり深く入りませんでした。
しかし、会場でのさまざまな話し合いから、何か大きなものを感じました。
それぞれが発している大きなものを。
それをまともに受け止めたせいか、昨夜は疲れきり、今朝は不安の中で目覚めました。

自殺の限らず、思いを発することは大事なことです。
だれもが、それぞれに本音を発せる場をもっていなければいけません。
私は、いつもだれにも基本的には本音で接しています。
そうした生き方しかできないからです。
節子は、そうした私を選び、支えてくれたのです。
その節子は、もういませんが、私の生き方は変わりません。
誰の本音も引き受ける生き方をしているつもりですが、最近はその重さにへこたれがちです。

でも、時間がたつと、それが自分の支えになっていくから不思議です。
今日は、疲れきって、不安の中で過ごしていました。

■1649:元気をありがとう(2012年3月8日)
節子
先週、トヨタにいた北川さんが久しぶりに湯島に来ました。
節子も何回か会ったことがあり、節子は北川ファンでもありました。
なにしろ北川さんは、仕事もできれば、社会活動もし、スポーツもやれば、ヴァイオリンまで習いだす、そんな人だからです。
それに比べて、私はスポーツも趣味も社会活動も、仕事さえも、ほとんどやらないのです。
節子に言わせると、私はいったい何をしているのと言うわけです。
もっとも、節子はそういう私が好きだったことは言うまでもありません。はい。

北川さんは、翌日、早速メールをくれました。
そこに、「なぜか、湯島へお邪魔すると、何かしら元気が沸いてくるような気持ちになります」と書かれていました。
うれしいことです。
私も、ようやく周りの人たちに「元気」をあげられるようになりました。
もう節子がいなくても大丈夫、とは決して言えませんが、ともかく元気をおすそ分けできるほどには戻ってきたようです。

そういえば、昨年初めて会った若者がいます。
ヒップアップダンスの名手です。
仕事で会ったのですが、彼が突然、仕事を辞めることになりました。
そのため、彼とはもう会う機会はなくなるかもしれません。
そう思っていたら、彼からメールが来ました。
「佐藤さんと話すとなぜだか力がわいてきて、色々な話も聞けるので、また連絡すると思いますので、そのときはよろしくお願いします」。
これまた実にうれしいメールです。

私は、自分が元気だとはあまり思えません。
まだまだ節子との別れから立ち直れていませんし、時々、どんよりと暗く落ち込みます。
しかし、みんなには「元気」をあげているようなのです。
どうしてそんなことが起きるのか。

元気がなくても、誰かに会うと元気が出てくる。
もしかしたら、そうなのかもしれません。
元気は「良い関係」から湧き出るのかもしれません。
節子がいた頃は、まさにそうでした。
節子がいたからこそ、元気になって、ありあまる元気を周りに振りまいてきたのです。
だとしたら、今の元気はどこから生まれてきているのか。
むしろ元気をもらっているのは、私なのかもしれません。
湯島に来るみなさんに感謝しなければいけません。

節子、そんなわけで、なんとか元気にやっています。
節子も、そちらできっと元気でしょうが。

■1650:ジェミノイド(2012年3月9日)
少し「心」のことを書きます。

大阪大学の石黒教授が開発したアンドロイドがテレビに時々登場します。
その一つ、ジェミノイドFは私には表情やあたたかさは感ぜず、いわゆる「不気味の谷」を思い出させますが、それはそれとして、ジェミノイドFの画像を見るたびに思い出すのが、映画「ソラリス」(リメイク版)です。
挽歌でも何度か書きましたが、主人公の脳を読み取った「ソラリスの海」が自殺した「妻」を主人公の前に創出してくるのです。
主人公は、その「妻」を妻とは思えずに、宇宙に放出してしまう場面は、私には衝撃的であると共に、自分ならどうするだろうと、映画を観るたびに思います。
たぶん私はその誘惑に抗うことはできないでしょう。

ロボット、あるいはアンドロイドに心があるのかという問いに対する石黒さんの話はとても興味深いです。

「自分」というイメージを、自分の脳がつくり出しているという意味では、自分のなかに「自分」というものや「自分らしさ」があると言っても間違いではない。
しかし、自分をつくりだす脳に刺激を与えているのは誰かといったら、それは自分自身ではなく、全部外部からの刺激ではないか。

石黒さんは、そういうのです。
そして、自分のなかに「自分」というものや「自分らしさ」、あるいは「心」というようなものがあるという考えは大間違いだと断言するのです。
確かに、私たちは気安く「心」という言葉を使いますが、心って何かはわかりません。
私に関していえば、つかまえ所がなく、状況によって「心らしきもの」はコロコロ変わるのです。
悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいという話も、前に書きましたが、「自分らしさ」も「心」も、状況によって変わってしまうのかもしれません。
「笑いのヨガ」というのがありますが、あれも楽しいから笑うのではなく、笑うと楽しくなるから笑うわけです。
心とはほんとうにわかりません。
自分の心さえわからない。

石黒さんがいうように、私たちは外部の刺激を受けて、自分を現出させ、感情や思考を生み出しているとしたら、節子がいた時の私といなくなってからの私は同じ存在なのでしょうか。
私の心や自分を形成していた上で重要な刺激は節子だったのですから。それが不在になった今の私は大きく変化しているはずです。
しかし、その変化を実感できないのはなぜでしょうか。

今日は、溜まっている疲労を解消しようと、「ソラリス」をまた観てしまったのがまずかったです。

ところで、ジェミノイドの節子がいたら一緒に暮らしたいと思いますかね。
私が旅立つ時に、ジェミノイドの私を残していったら、永遠にジェミノイドの私たちは生きつづけるのでしょうか。
それも実に興味ある話ですね。

■1651:なぜ人間は心をもったのだろうか(2012年3月14日)
心の話をもう一つ。

最近知ったのですが、人間が「心」という文字は持ち出したのは、3000年ほど前なのだそうです。
つまりそれまでは、心のない生物だったということになります。
ジェリアン・ジェインズの「神々の沈黙」によれば、心のない人間たちは、ただただ神の声に従って生きていたのだそうです。
まあ今の多くの生物がそうであるように、です。
そこには「死」という概念もなかったわけです。
だから生贄が容易に行われていたのです。
それが「運命」だからです。
そこには「自由」はありません。
自由がなければ、悲しみも苦しみもない。恐怖もない。

それが3000年ほど前になって、突如として「心」をもつ、すなわち「自由意志」をもった人間が大量に出現した、とジェインズは書いています。
能楽師の安田登さんの『身体感覚で「論語」を読みなおす』を今日、読み出したのですが、安田さんによると、自由意志をもつと時間が生まれるというのです。
未来を自由に変えることができる、つまり、時間をもつことだというのです。
しかし、それは同時に、未来に対する「不安」と過去への「後悔」も発生させます。
心を持つとは、「希望」と「不安」をもつことなのです。
人間が「心」を持ち出した頃に生きた孔子は、その心とどう付き合えば良いかを『論語』にまとめたと安田さんは書いています。
実に面白い話です。

しかし、なぜ人間は、心などと言うややこしいものに気づいたのでしょうか。
もし私が、心のない存在だったら、どんなに楽だったことでしょう。
希望も不安もないし、生も死もない。
愛もない。
節子もいない。
人間は煩悩に悩むために、心を手に入れたのです。

最近、心って何だろうと思うようになりました。
心は、個々の人間を超えているのではないだろうかと。
もしかしたら、此岸を超えているのかもしれません。

■1652:後姿の寂しさ(2012年3月15日)
節子
ようやく時間破産から抜け出られました。
まだ宿題は山積みですが、先が見えてきました。
節子がいたら、先が見えたから、出かけようと気分転換の外出を誘うところですが、それができないので、気分転換ができません。
仕方ないので、娘たちを誘って、昼食に近くの回転寿司に行きました。
あんまり気分転換にはなりませんでしたが。

お店を出る時、回転寿司の前で一人で食べている高齢の男性が多いのを見た娘が、お父さんはああならないでよかったねと言いました。
たしかに、そうです。
同じお店でも、女性たちはグループで賑やかに楽しんでいるのですが、男性たちは一人で食べているのです。
一つずつ席を空けて、並んで食べている男性たちの後姿しか見えませんが、なにやらさびしさを感じました。
もしかしたら、その中の一人は私かもしれない気がしました。
もっとも私は、一人で回転寿司のお店に行くことは絶対にできませんが。

伴侶のないまま、歳を重ねることはある意味で辛いことです。
意味のない人生を生きているような気に、時になります。
節子の分まで長く生きたいなどとは思ったこともありませんし、そんなことを誰かが言ったら、その人との関係は多分切れるでしょう。

伴侶がいなくなったことでよかったことはあるでしょうか。
もしあるとしたら、執着がなくなったことです。
物にもですが、それ以上に、生きることに執着がなくなった。
昨日の「心」の話につなげていえば、「心」がなくなったのかもしれません。
執着と心は違うだろうと言われそうですし、事実違うのですが、何となくそんな気がするのです。

伴侶と別れた男性が、もういらないと思って自宅に火をつけて燃やしてしまった事件が昨日テレビで報道されていました。
その気分はよくわかります。

お父さんはああならないでよかったねと娘が話した、あの後姿が頭から離れません。
気分転換のつもりが、なにやら変な思いを持ち帰ってしまいました。
節子、生きているといろいろあるよ。
節子は、毎日が平安なのでしょうね。

■1653:悲しむ人に声をかけられなくなっています(2012年3月15日)
節子
韓国にいる佐々木さんが娘のように可愛がっていた愛犬のパルが息を引き取りました。
15歳と15日だったそうです。
佐々木夫妻の悲しみを思うと心が痛みます。
その知らせを受けた時、私はなんと声をかけていいかわかりませんでした。
深い悲しみを知ってしまうと、悲しむ人に声をかけることができなくなります。
節子を見送った後、私に出来なくなったことの一つです。

「思い」と「言葉」は、ほとんどの場合、重なりません。
思いが言葉になるのではなく、どちらかというと、言葉が思いになってしまうのです。
そして、最初の思いがなぜか居場所をなくしてしまう、そんな体験をこれまで何度かしました。
思いには言葉など要りません。
それに、悲しみなど共有できるはずはないのです。
いささか難しいことを言えば、自らの悲しみでさえ、言葉で考えている自分とただ思い感じている自分とでは、その悲しみは同じではありません。
ましてや、こうした挽歌を書いている私は、言葉で考えている以上に、思いや感じよりも遠くにいるのかもしれません。
そういうことを体験しているうちに、「弔意」や「追悼の念」を口にできなくなってきているのです。

話をパルに戻しましょう。
節子も一度だけ、パルに会っています。
佐々木夫妻が、パルともう一人のミホを連れて、わが家まで節子の見舞いに来てくれたことがあるからです。
節子はその頃はもうかなり悪くなっていたので、あまりパルのことを覚えていないかもしれませんが。
佐々木さん夫妻は親身になって心配してくれ、節子はとても感謝していました。
今から思うと、本当にたくさんの人が節子や私たちを気遣ってくれました。
にもかかわらず、節子を守ってやれなかったことはいくら悔いても悔いたりません。
しかし、それも定めだったと思うしかありません。

そのパルよりも年上の、わが家のチビ太は最近なぜか元気です。
今日も庭につながるドアを開けておいたら、段差を超えて庭に出ていました。
しかし、この頃は寝ている時間が多くなりました。
寝ているチビ太でも、いなくなると寂しくなるのでしょうね。
生命のつながりは、不思議なものです。

明後日、佐々木さんにお会いします。
なんと声をかけたらいいか、節子に教えてほしいです。

■1654:世の中の綺麗事に「いらっ」ときたりする(2012年3月15日)
節子
今日は挽歌を3つも書いてしまいました。
それでもまだ追いつけません。
節子はいつも、仕事は溜めてはいけないと言っていましたが、まさにその通りです。

先週、子供の頃に、親を自殺で亡くされた方とパネルディスカッションでご一緒させてもらいました。
どんな話をするかをメールで相談しあったのですが、その人は他の人と違って、素直に気持ちを伝えてきてくれました。
すべて私にはすんなりと心身に入ってくるものでした。
たとえばこんな感じです。
彼女は、いまは自死遺族の方たちの相談にも応じているのです。

私は、世の中の綺麗事に「いらっ」ときたりするんですね。
それが自死でなくても、死別があったご家族に「元気そうで良かった」と声をかける人。
それを温かい、親切と思う世間・・・
「不幸な家と思ったの?笑わないと思ったの?これだけを見て元気そうねと言うの?」そう感じてしまうという死別体験の方。
そんな風に思う自分をとても嫌だ、辛いと、相談される方は言います。
思っちゃえ!それでいい!!と私は思います。

まったく、実に全く、同感です。
思っちゃえ!それでいい!! 蹴飛ばしてしまえ!!! と私も思います。

その人にパネリストになっていただいた集まりのテーマは「自死を語り合える社会に」でした。
その人は、こう言いました。

かわいそうと思われるのはしんどいですね。人から下に置かれたように思います。
そんな目線を受けるのをわかっていて語るのは勇気がいることです。
そうなのか、そういうことがあったんですねとただ事実を淡々と受け止めてくれる場所が必要ですよね。
妙に親切にしたり、特別扱いしたりしない関わりがいるなあと思っています。

私の場合、節子を失ったのは「自死」ではなく「病死」でした。
でも気持ちはこの人と全く同じでした。
同じすぎて、鼓の集まりでは、私はこの思いを深堀りできせんでした。

しかし、この人のおかげで、
そうか、「いらっ」としていいんだと改めて確信できました。
そんなわけで、もし私が「いらっ」としても、許してください。

■1655:思いは言葉によって深くなっていく(2012年3月17日)
最近、自死遺族の人や愛する人を亡くした人と話をする機会が増えています。
以前はなかなかお話しできなかったのですが、最近は素直に話せるようになってきました。
話をしながら、時に涙を浮かべる人がいます。
そうなると必ず私も涙が出ます。
お互いに話し出す時にはなんともないのですが、思いは言葉によって深くなっていくのです。

節子
別れを語ることは別れを思い出すことです。
そして、別れを聴くこともまた、別れを思い出すことです。
話の内容はさまざまですが、聴いているうちに、相手の話が私の内部では奇妙に節子の話にすり替わってしまうのです。
事情は違っても、別れの旋律は同じなのかもしれません。
むしろ事情が似通っていると、素直に聴けなくなることもありますから、別れそのものに心身が反応するのかもしれません。
それがどんな別れであろうとも、です。

別れを体験した人と話していると、ついつい自分の話もしたくなることがあります。
いまもなお私のどこかには、節子との別れを話したいという衝動が残っているようです。
いや別れではなく、節子のことを話したいだけかもしれません。
時間と共に、節子のことを話す機会は少なくなっているからです。

悲しみは時が癒すとよくいいますが、癒されるのは悲しみの当事者ではなく、その人と付き合う人たちなのかもしれません。
言い換えれば、ただ単に忘れることなのかもしれません。
しかし、悲しみの当事者には忘れるなどということは起こりません。

周りの人が話題にしなくなることによって、当事者も思い出すこと機会が少なくなる事は否定できません。
言葉によって、思いを新たにしたり、深めたりすることがなくなってくる。
しかし、それで当事者の悲しみが癒されるわけではありません。
意識の底に、どんどんと沈んでいっても、ある時に突然にマグマのように噴出してきます。

悲しみの当事者としては、癒されることへの抵抗は強くあります。
つまり癒されたくなどないのです。
悲しみは悲しみとして大事にしていきたい。
そう思います。

しかし悲しみで心身が動かなくなることは、最近はなくなりました。
それを喜ぶべきかどうか。
そもそも節子は、それを喜んでいるでしょうか。
喜んでいるはずがない、と私は思っています。

別れの悲しみや辛さは、大きな財産なのかもしれません。
その大事な財産を失わないように、やはり私は、ずっと悲しみを言葉にしていきたいと思います。

■1656:一人称自動詞の生き方(2012年3月18日)
節子
杉本泰治さんが夕食会に誘ってくれました。
杉本さんは私たちよりもひとまわり年上ですが、お元気に社会の問題に取り組んでいます。
節子の訃報を聞いて、真っ先にわが家まで駆けつけてくれたのも杉本さんでした。
その時の「奥さんは同志でした」という言葉が、私には最高の弔辞でした。
杉本さんほど誠実な方は、そうはいないでしょう。
もし節子が元気だったら、と思うととても残念です。

杉本さんが誘ってくれたのは、技術倫理に取り組んでいる技術士のみなさんです。
北海道大学で技術倫理の普及にご尽力されている名誉教授の佐伯さんが上京する機会に、杉本さんが一緒にそうした活動をしている人を集めてくれ、私も呼んでくれたのです。
美味しい夕食までご馳走になりながら、4時間ほどの歓談を楽しませてもらいました。

みんなそれぞれに実績のある活動をされている方ですので、話も社会全体の話題になります。
それにみんな専門を持ったプロフェッションです。
話を聴きながら、ついつい余計なことを話してしまいました。
私は「一人称自動詞で語る生き方」をしているので、社会のためという発想がないのです、と。
ところが、その言葉をみんながとても好意的に受け止めてくれました。
受け止めただけではなく、早速にその視点をそれぞれが取り込んでくれたのです。

「一人称自動詞で語る生き方」。
この生き方を私がしっかりと身に付けられたのは、たぶん節子のおかげです。
うまく説明はできませんが、節子と一緒に生きたおかげで、私は頭で生きる生き方から、心身で生きる生き方を自然に身につけたように思います。
とても不思議なのですが、私の突拍子のない考えも節子は拒否せずに聴いてくれましたが、その一方で、修は頭が良いので理屈が達者だと、やんわりと私をいなすことも多かったのです。
頭が良い、と言うのは、もちろん批判的な意味です。
節子は、たぶん一度として、私に対して褒める意味で「頭が良い」とは言いませんでした。
節子にきちんと聴いてもらうには、あるいは共感してもらうには、一人称自動詞で語らなければいけなかったのです。

「一人称自動詞の生き方」の一つの結果は、私が会社を辞めたことでした。
一人称自動詞で語るためには、これまでの組織は居心地のいい場所ではありません。
最近はようやく、一人称自動詞でも居場所のある組織のかたちが少しずつわかってきました。
そして今は、そうした組織を自らで育てながら、生きています。
これももしかしたら節子が残していってくれたのかもしれません。
そうした生き方は、節子とやっていたオープンサロンが生みの親のような気がします。
理屈だけで生きていた、小生意気で小賢しい私の生き方を変えてくれた節子には感謝しなければいけません。

■1657:首大仏(2012年3月19日)
節子
お彼岸だと言うのに、なかなかお墓参りにも行けずにいました。
明日も一日中、用事で湯島に行かなければいけないので、今日、時間の合間を見つけて、お墓に行ってきました。
最近は寒いせいもあって、前回供えた花がまだ残っていましたが、お彼岸らしく賑やかにしてきました。

ところが事件が発生していました。
墓石の前に置いていた小さなお地蔵さんが見当たらないのです。
どこかに散歩しているのかと思って、周りを探したら、割れてしまった上半身が見つかりました。
下半分は見つかりませんでした。
なにやら縁起がよくありません。
地震のせいでしょうか。

処置に困ったので、上半身を墓石の周りの石のなかに置くことにしました。
石の中を注意してみると、お地蔵さんの首だけが出ているという構図です。
なんだか不気味だねと娘が言いました。

そういえば、湯河原に首だけの大仏があります。
節子と一緒に、千歳川を散策していて出会ったのですが、地面から首だけ出しているのに驚きました。
福泉寺の首大仏です。
大きさは2メートルぐらいで、その異形さもあって迫力があります。
福泉寺は、実際には湯河原ではなく、千歳川をはさんで対岸の熱海市にあるのですが、まあ湯河原の一部のような立地です。

観光案内などには、日本的でない表情から南方系の流れと説明されていますが、私たちが最初に出会った時に、私も節子も思い出したのは、飛鳥寺の大仏でした。
飛鳥大仏は、節子と私がまだ一緒に暮らしだす前に訪れたのですが、そこでのいろいろな思い出があるのです。
当時はまだ飛鳥もさほど観光化されておらず、素朴な雰囲気が残っていました。
その数年後にも2回ほど行きましたが、行くたびに様子が変わっていました。

その後、韓国の不思議な表情の弥勒菩薩の写真を見たときにも、この首大仏を思い出しました。
一度見ただけで、それほど印象に残る大仏です。

節子のお墓の石に埋もれているのは、大仏でも弥勒仏でもない、庶民的なミニ地蔵ですが、これを機会にミニ仏像を墓石の周りに気づかれないように配置するのもいいかなと思いつきました。
そういうことは、あまり節子は好まないのですが、まあいいでしょう。
機会があったら小さな仏像を集めてこようと思います。

節子
おはぎもユカが供えてくれています。
最近はスーパーで買ってきたおはぎのようですが。

■1658:報告(2012年3月24日)
節子
少しご無沙汰してしまいました。
この数日、少しゆっくりする時間がありませんでした。
今日からまたきちんと書くようにします。

今日は先ず報告です。
近くのTさんのおばあさんが亡くなりました。
96歳でしたが(私は100歳を超えていたと思っていたのですが)、凛とした方でした。
私は一度も話したことはありませんが、節子も娘も、それぞれにお話ししたことがあります。
お手伝いさんとお2人で大きな家に住まわれていますが、高台のわが家からはそのお庭が見下ろせます。
時々、庭に出ている姿をお見かけしました。
住み込みのお手伝いのOさんは、時々、わが家にも来てくれました。
節子が元気だったら、Oさんはもっとわが家に呼んであげたでしょう。
Oさんは、東北の出身で、我孫子には知り合いはいませんので、相談相手もいませんでした。
わが娘たちが、その相談相手で、私も相談を受けたことがあります。
節子がいたら、その度に思いました。
節子は、そういう相談を受けるのが得手でした。
節子は、そういう人だったのです。
強い人が嫌いで、立場の弱い人が好きでした。
目線の高い人が一番嫌いでした。
節子から学んだことはたくさんあります。

3日前に娘がOさんに会ったら、おばあさんは元気だと言っていたそうですから、突然のことだったようです。
Tさんは、数年前に娘さんを亡くされています。
節子の見舞いにも来てくださいましたが、彼女もがんでした。
おばあさんが亡くなって、Oさんはどうされるのか。

そういえば、近くのTさんも最近転居しました。
少しずつ、わが家の周りも変化してきています。
まもなく私もいなくなるでしょう。
何かとても不思議な気がします。

■1659:人はみんなそれぞれに特別です(2012年3月24日)
前の挽歌で、節子から学んだことを書きましたが、実は別の学びの話を、昨日開催したフォーラムで最後に話させてもらいました。
それをここにも少し書いておこうと思います。

昨日のフォーラムは、フォワードに語ってもらうフォーラムでした。
前にも書きましたが、「フォワード」は、「自らあるいは身近に自殺に追い込まれるような体験をした人」を「前に向かって進みだす」と言う思いを込めて命名した言葉です。
4人のフォワードのみなさんが会場に向かって、きちんと顔を出して、語ってもらう、あまり例を見ない集まりだったと思います。
50人ほどの人が集まってくれました。
自死で伴侶を亡くされた方の話は、まさに私自身の思いを聴くようでした。

参加者で話をした後、最後に私も少しだけ自分の話をさせてもらいました。
こんな話です。

私は、4年ほど前に妻を病気で見送りました。
私が後を追うのではないかと友人たちが、心配してくれたほど、私自身もしばらくは心身が動かない状況でした。
4年半経った今も、昔の自分ではないのをはっきりと感じます。
その体験からたくさんのことを学びました。
たとえば、自分の悲しさや辛さは他者にはわかってもらえないけれど、
他者の悲しさや辛さを少しだけでも背負い合うことで、
自分の気持ちも少しだけ軽くなるということです。
悲しさや辛さのおかげで、みんなとつながれることも知りました。

自殺と病死とは違うと思う人もいるかもしれませんが、通ずるものもあります。
家族のようにしていたペットの愛犬を亡くした友人がいます。
彼から、愛犬を亡くして、佐藤さんの悲しみや辛さがわかったと言われました。
そういわれた時には正直、いやな気持ちでした。
妻と犬を同じにしてほしくありませんでした。
しかし、少しして、私の間違いに気づきました。
愛するものを失った時の思いはみんな同じなのだと。
人は自分だけが特別であると思いがちです。
しかし、人はみんなそれぞれに特別なのです。

みんなそれぞれに重荷を背負っている。
しかし、その重荷は外からは見えません。
みんな自分の辛さをわかってもらいたいと思いますが、
それに比べると、他者の辛さをわかろうとする気持ちは弱いのかもしれません。
しかし、わかることから始めなければ、わかってはもらえない。
それも、学んだことの一つです。

終わった後、若い人から心に響いたと言ってもらいました。

■1660:アーレントとハイデガー(2012年3月27日)
節子
挽歌がどうも書けません。
挽歌だけではなく、時評編も最近は書けずにいます。
この2か月、いささか遊びのない時間を過ごしてきているからかもしれませんが、パソコンに向かう気がしなくなってきているのです。
その代わりに本を読むようになりました。
昔もそうでしたが、仕事が忙しい時ほど、本が読みたくなるのです。

一昨日から、ハンナ・アーレントの「アウグスティヌスの愛の概念」を読んでいます。
アーレントの本は苦手なのですが、どこか魅かれるところがあります。
実はあんまり理解できないのですが、気になる言葉によく出会います。
しかしよりによって、キリスト教嫌いの私が、なぜ「アウグスティヌスの愛」に興味をもったのかは自分でもわかりません。
気がついたら図書館から借りてきた本の中に混ざっていたのです。
覚えていないのですが、どうも予約していたようです。
これもなにかの理由があると思いながら、読み出しました。
間違いであろうと、流れには素直に乗るのが私の最近の生き方です。
節子には驚きでしょうが。

しかし、やはり途中で投げ出したくなりました。
それで最後の訳者の解説を読んで終わりにしようと思いました。
ところがそこに意外なことが書かれていたのです。
アーレントは大学で会った途端に恩師のハイデガーに恋をしたようです。
ハイデガーとアーレントが恋愛関係にあったということを私は知りませんでしたが、それを知って、アーレントへのイメージが変わりました。
これまではただただ彼女の論理的なメッセージに共感していただけだったのですが。

この本の訳者はこう書いています。

アーレントは、ハイデガーとの恋愛関係を、アウグスティヌスの言語世界の用語を使用することによって、「欲求」としての「愛」、「欲望」として把握し、「欲望」の一時性と自己中心性、無際限性と空虚性、またそれにもかかわらず現世に生きる人間にとってのその切実さと魅惑について、内省的に確認しようとしているかのごとくである。

そして訳者は、本書は若きアーレントのみずみずしいオデュッセイア(魂の彷徨)を表現していると見るべきではなかろうか、と書いています。
本書はアーレントが20代の時に書いた博士論文なのです。
そして、本書はまさにアーレントの出発の書であり、「彼女の思想的生涯を一貫して規定していくことになる」と訳者は言っています。
最後まできちんと読もうと思い直しました。

■1661:アモールとカリタス(2012年3月27日)
今日はアウグスティヌスが述べている2つの「愛」の話です。
アウグスティヌスは古代ギリシアの神学者で、近代ヨーロッパの思想的潮流にも大きな影響を与えた人です。

アウグスティヌスは、「愛とは欲求のごときものである」と定義しています。
「至福」を求める人間にとって、「欲求」にはあらかじめそれが追求する「善きもの」が前提とされています。
そこで、アウグスティヌスは、「愛」とは、人間が自らの「善きもの」を確保する可能性にほかならない、と言うのです。
しかし、この「愛」は「恐れ」に転化すると、アウグスティヌスは言います。
なぜなら、得たものはいつか失われるからです。

「善きもの」の特徴は、それがわれわれに所有されていないという点にある。
われわれがそれを所有するならば、その時に「欲求」はやむ。
そして、獲得したものを失う危険がある場合には、「所有への欲求」は、「失うことへの恐れ」へと転化してしまう。

愛、あるいは欲求を成就してしまえば、途端に「失うことへの恐れ」が生まれ、そこで「愛の至福」は終焉するわけです。
アーレントも、その終焉を体験したのでしょうか。
そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。

アーレントはともかく、アウグスティヌスは、そうした終焉する「地上の愛」は現世に固執する誤った「愛」(アモール)としての「欲望」だと切り捨てます。
そして、終わることのない至福を得るには、神と永遠を追求する正しい「愛」としての「愛」(カリタス)に目覚めなければならないというのです。
こうした「神への愛」こそが「至福」をもたらすというキリスト教的発想には違和感がありますし、節子との別れを体験する前の私だったら、興味さえもたないでしょう。
しかし、いまは違います。
奇妙に心に響くのです。

「愛」、つまり「至福」が「恐れ」に転化することは、まさに私が体験したことです。
しかし、同時に、終わることのない「至福」もまた、節子との別れから学んだことです。
アーレントは、「地上の愛」の中に「神への愛」を見つけているようにも思いますが、私もまた、失われることのない「地上の愛」を確信しています。
人を愛さずして神を愛せるか。
「世界への愛」(アモール)と「神への愛」(カリタス)の選択を迫るキリスト教は、やはり私には馴染めません。

■1662:ランダム・ハーツ(2012年3月27日)
「愛」についてのシリーズをもう一つ。
アウグスティヌスの愛の話を書いているうちに、思い出した映画があります。
「ランダム・ハーツ」、シドニー・ポラックの作品です。
古い映画ですが、私はつい最近テレビで観ました。
映画としてはあんまり面白くないのですが、奇妙に心に引っかかっている映画です。

愛し信じていた妻を突然飛行機事故で亡くした夫が、妻が不倫の相手と一緒に飛行機に乗っていたことを知り、その相手の男性の妻と一緒に真相を追っていくという話です。
伴侶に裏切られ、しかも死なれてしまった男女が、揺れる心の中でお互いに愛を感じていくという、いささかやりきれない大人のラブ・ストーリーです。
主演はハリソン・フォードですが、相手役のクリスティン・スコット・トーマスが実に魅力的です。

妻の不倫が発覚したにもかかわらず、ハリソン・フォード演ずるダッチは妻への愛から抜けられません。
同じく、スコット・トーマス演ずるケイもまた、夫への愛を捨てられません。
だから、ランダム・ハーツなのです。

愛する人が「不倫」をしていたら、愛は憎しみに変わる、とアウグスティヌスは書いています。
だから、愛は恐れに変わるというのです。
しかしそれは本当でしょうか。
私は、そうは思いません。
アウグスティヌスは、たぶん人を愛したことがないのでしょう。
裏切られたら憎しみに変わるような愛は、愛ではありません。
それこそまさに,アウグスティヌスがいう「欲望としての愛」でしかありません。
そこでは、「愛すること」と「愛されること」とが混同されています。

愛は、決して裏切られることはありません。
何かを期待などしないからです。
私は、節子を愛していましたが、節子が私を愛していたかどうかは確信がもてません。
半分冗談で、もう少し愛してもいいのではないかと私は何回か節子に言ったことはありますが、節子はそれにうなずいたことは一度もありませんでした。
今となっては確認のしようはありませんが、愛とは確認すべきものでもないでしょう。

私には「地上の愛」も「神の愛」もなく、愛はただ一つ、愛なのです。
誰かを本気で愛すれば、だれをも愛せるようになれます。
愛とは、そういうものだと、私は思っています。

■1663:愛は此岸と彼岸をつなぐもの(2012年3月27日)
アウグスティヌスの愛を語りながら、アーレントは「愛は此岸と彼岸をつなぐものだ」と書いています。

前の挽歌で、「愛すること」と「愛されること」について書きましたが、アーレントは「愛する者」は「愛されるもの」に帰属しているといいます。
これは、私にはとても納得できる表現です。
しかし、アウグスティヌスは、「愛する者」は「愛されるもの」を欲求し、所有しようとすると考えているようにも感じられます。
私にはとても違和感がありますが、多くの人はそう思っているかもしれません。
だから「欲望としての愛」という表現に、違和感を持たないのかもしれません。

こう考えていくと、アウグスティヌスやアーレントの「愛」の議論は一面的でしかないことに気づきます。
地上の愛と神への愛の違いは、実は帰属関係の方向性でしかないのです。
愛するものに帰属すると考えるか、愛されるものに帰属すると考えるか。
言い換えれば、自分に帰属するか、自分が帰属されるか、です。
もっとわかりやすく言えば、自分を捨てられるか捨てられないかです。
アウグスティヌスの言う「神への愛」は、自分を捨てる愛です。

アーレントは「神への愛は「永遠」への帰属性を与える」と言います。
「人間は、自らは永遠ではないが、永遠そのものである神を愛し、また自らの内にあって、決して奪い去られることなき存在として神を愛するのである」と言うのです。
つまり、それによって、人は神の一部になるわけです。
さらにこう書いています。
「人間は神を見いだすことによって、自らに欠けているもの、まさに自らがそうでないもの、つまり、永遠なるものを見いだすのである」

「神」という言葉が気にいりませんが、私が最近感じていることと見事に重なっています。
アーレントの別の表現のほうが、私にはもっとぴったりします。
「永遠を望むこと、それは愛するということである」
アウグスティヌスも、「永遠と絶対的未来を追求する正しい愛を、「カリタス」と呼びました。
アウグスティヌスにおいて神とは、「恐れに転化しない安定した未来」あるいは「永遠の平安」と言ってもいいでしょう。

アーレントはこうも書いています。

「個々の人間は誰しも、たしかに孤立した状態で生きるが、「愛」によってたえずこうした孤立の状態を克服しようとする。その場合、「欲望」は人間をこの世界の住民となすのであり、また「愛」は人間を絶対的未来に生きさせ、そうすることによってかの世界(彼岸世界)の住民となすのである。」

愛は此岸と彼岸をつなぐものなのです。
さらに、アーレントは書いています。
「人間とは、その人が追い求めるものにはかならない。」
神を媒介にせずとも、彼岸に通ずる道はあるのです。

どこまでがアウグスティヌスで、どこからがアーレントの言なのか、少し混乱しているかもしれませんが、違和感のあるキリスト教の「愛」の概念に、少しだけなじみが出てきた気がします。
もっともこういう議論は、節子の好むところではありません。
節子なら言うでしょう。
愛は語るものではなく、感ずるものだと。
節子は私に対して、「愛している」と自発的に発言したことはありませんでした。
そういうことに関しては、節子は頑固だったのです。

今日は挽歌を4つも書きましたが、まだまだ追いつけません。

■1664:節子が書きこんだ文字(2012年3月28日)
節子
1週間くらい前から、鶯が鳴きだしました。
我が家の周りにはまだ緑が残っているので、転居してきた頃、鶯の声で目が覚めて節子と話題にしたことを思い出します。
しかし節子がいなくなってからは、鶯の声もただたださびしいだけです。

庭に節子が植えた河津桜も数日前から咲き出しています。
しかし鑑賞する人もいないので、これもまた寂しそうです。

春は毎年同じようにやってきます。
しかし同じ春も、節子がいなくなってからの私には全く違う表情です。
華やかのようで寂しくて、あったかいようで悲しいのです。

節子が好きだった、近くの菜の花畑もそろそろ満開です。
節子と一緒なら立ち寄るのですが、節子がいなければ、立ち寄る気にもなりません。
世界は、気持ちによって、まったく違うものになってきます。

近くの手賀沼公園も、少しずつ春めいてきていますが、節子がいなくなってから、私は踏み入ったことがありません。
湖畔に浮かんでいるボートを見ると、節子が一度乗りたいねと言っていたのを思い出します。
すべての風景に、節子が書きこんだ文字があるのです。

春になると、お花見の誘いがあります。
それをどう断るかが、いつも大変です。
せっかく誘ってくれるのですが、まだお花見に行く気にはなれません。
最近ようやく娘たちとは行けるような気がしてきましたが、それがせいぜいです。
どこかで心身が動きません。

そうはいっても、もう節子を送ってから5回目の春です。
今年は、どこかに桜を見にいこうとは思っています。
節子
どこがいいですか?
節子の文字が書かれていないところがいいか、それとも思い切りかかれているところがいいか、迷います。

■1665:「愛には喜びと苦痛がある」(2012年3月28日)
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、「愛は生の燃え上りであり、そのなかには喜びと苦痛がある」と言っています。
昨日、「愛」について書きましたので、今日もまた「愛」の話も書いておこうと思います。
「愛」は考えれば考えるほど、奥の深い概念です。

これもキャンベルが紹介している話ですが、ペルシア神話には昔、神と悪魔は一心同体だったという話があるそうです。
おそらくこれは全世界に共通した神話でしょう。
日本でも神と鬼は同義語でした。
突然とっぴなことを言いますが、「愛」は神と悪魔の淵源なのではないかと思います。

喜びがあればこそ苦しさがあり、苦しさがあればこそ喜びがある。
愛は、それを増幅させます。
そして生きていることを実感させてくれます。
キャンベルが言うように、愛があればこそ、人生は燃え上がります。
節子がいた頃の私の生は燃え上がっていたのですが、いまは消えてしまいそうな人生です。
退屈で、無意味で、忙しくて、暇で暇で、無駄な人生だと自分でもわかります。
喜びも苦しさも、ほどほどにしかないのです。
語る価値のない毎日。節子がいた頃とは、まったく違うのです。
この感覚は、体験した人でなければわかってもらえないでしょう。

燃え尽きたのではないのに、燃え上がらない人生を生きるのは、それなりに難しいのも事実です。
自分でも、どう生きたらいいのか、よくわからない。
節子がいないので、相談もできません。

神と悪魔が一体だったころ、そこにあったのは何でしょうか。
正義と悪は、そこにあったのか。喜びと苦痛はそこにあったのか。
たぶんなかったのでしょう。
そこにあったのは、無感覚と退屈だったに違いありません。
最近の私が、まさにそんな心境なのです。

「愛」は考えれば考えるほど、わからなくなります。
節子を抱きしめられれば、こんなにややこしく考えることもないのですが。

■1666:訃報を聞くとなぜか心が沈みます(2012年4月1日)
挽歌が書けなくなりました。また4日ほど書けずにいます。
どうしたことでしょうか。
先ほど、意を決してパソコンに向かい、書き出そうとしたら、友人から父を見送ったというメールが届きました。
友人は50歳くらいですから、そのお父上は私よりもかなり年上でしょう。
私はもちろんその方にはお会いしたこともありませんが、ちょっと気になっていたのです。
友人からほんの少しだけその親子関係を聞いていたからです。
父上の話をした時に、彼は涙ぐんだのです。
深く愛し合っていたのだろうなと感じました。
愛し合えばこそ、うまくいかないこともある。
そんな余計な推測までさせられる仕草でした。
なぜかまた力が抜けてしまい、挽歌を書こうという気が失せてしまいました。

このごろは、ともかく「気」が弱くなっています。
人の死が悲しいわけではありません。
にもかかわらず訃報を聞くとなぜか心が沈むのです。
特に今日は、友人のことを思うと哀しいです。
とても哀しい。
私の心身から何かが抜けていく、そんな気がしてなりません。

挽歌を書くのは明日にします。
明日と明後日で、思い切りたくさんの挽歌を書こうと思います。
挽歌を書いていないのが、もしかしたら、私の「気」が不安定になっている理由かもしれません。
でも今日はとても書く気にはなれません。
祈りたい気分です。

■1667:「永遠に続くと思っていた時間がなくなった」(2012年4月2日)
「永遠に続くと思っていた時間がなくなった」。
先日開催した「自殺のない社会に向けて何ができるか」をテーマにしたフォーラムのパネリストをお願いしたKさんの言葉です。
このフォーラムで最後に私が話したことは前に書きましたが、この言葉はまさに私の思いでもありました。

Kさんは10年ほど前に伴侶を自殺で亡くされました。
その体験を語ってくれたのですが、そのなかで、夫との死別によって、永遠に続くと思っていた時間がなくなったと話されたのです。

「永遠に続くと思っていた時間」、たしかに私もそう思っていました。
医師からは「時間の問題」と言われていても、その言葉は心に入らず、明日もあるように思いつづけていました。
最後の最後まで、私は節子との時間は永遠に続くと思っていたことは間違いありません。
その時間が、終わってしまったことを、ある時に突然気づいて愕然とする。
でもそれが理解できないのです。
いまもまだ理解しきれていない自分がいます。
しかし、節子と一緒にやろうと思っていたことがもう出来ないことに出会うと、その事実を思い知らされます。
そしてそのたびに、「永遠に続くと思っていた時間」を前提に、私は生きてきていたことに気づきます。

愛する人との時間に限りませんが、人はみな「別れ」を意識せずに人と付き合っています。
明日もまた今日のようにあるだろうと、どこかで思っています。
そう思わないと、生きにくいからかもしれません。

相手との時間だけけではありません。
自分の時間もいつかは終わると思えば、生き方は変わるでしょう。
時々、そう考えて、身辺整理をしようと思うことがあります。
しかし、それは続きません。
残された時間では読めるはずもない書籍を買い込み、いつか整理しようと思っている膨大な写真や記録を保存し、明日も今日のようにある時間を前提に生活設計を考える生き方に、すぐ戻ってしまうのです。

「ずっと続くと思っていた家族と一緒にある時間がなくなってしまった」と話してくれたKさんは、だから、家族に限らず、その後は、誰かと一緒にいる時間を出来るだけ大切にされるようになったとい言います。
私も、最近意識しないままに、そうなっているような気もします。
一緒にいる時間を大事にしたら、もしかしたら、その時間は永遠に続くかもしれない。
そう思いたいですが、節子がいない現実の寂しさの前には、それは時として気休めにしかなりません。

時間はなぜ止まってくれないのでしょうか。

■1668:2人だからこそ意味のあった物たち(2012年4月2日)
先日、この挽歌にいただいたpattiさんからのコメントを読み直しました。

私も彼のいない人生を続けることに意味を感じることはできません。
私の唯一最大の望みは彼と同じ土に還ることだけ。そして、彼の魂と再会することだけ。

物もずいぶん整理しました。
そう、執着はほとんどなくなりました。
2人だからこそ意味のあった物たち・・・。
その物たちがとてもさびしそうに見えます。

最初に読んだ時には、前のほうの文章に心が向いていましたが、何回か読むうちに、後のほうの言葉に気づきました。
「2人だからこそ意味のあった物たち・・・。」
そうです。
わが家にもそうしたものがたくさんあります。
わが家もまさにそのひとつです。
節子がとても愛していた家だったのに、節子はその家とは十分に付き合えなかった。
そんな気がします。
現在のわが家は、節子が土地を見つけ開発業者に売ってほしいと話をし、手に入れた土地に建っています。
家の間取りも、家族みんなで話し合い、それゆえにこそ、中途半端な家になりましたが、だからこそ家族みんなの思いが盛り込まれているのです。
その家で、節子は最後を過ごしましたが、転居してまもなく発病してしまいましたから、十分に住まいきったとはいえません。

節子はそこにたくさんの物を未整理のまま残しました。
病気が後戻りできないことを知った節子は、整理したいと私に頼みましたが、私は整理してほしくなかったので、止めてほしいと頼みました。
節子は、私の気持ちを察して、二度と言いませんでした。
ですから整理されないままの状差しのなかには、節子宛の手紙も、今もまだそのままにあります。
それを見ると時間は止まっているようですが、時間は止まったのではなく、終わっただけなのです。
pattiさんが書いているように、その物たちがとてもさびしそうに見える時もあります。
そして見ている自分もさびしさに引き込まれそうになります。
しかし、それを整理する気には、まだなれません。

pattiさんは、最後に、「仲代達矢の「赤秋」を見ました。佐藤さんはご覧になりましたか?」と書いていました。
節子がいたら、一緒に見られるのですが、私一人ではとても見る勇気はありません。
節子が私に一体化しているのであれば、pattiさんのように観ることができるはずですが、なぜか観る気が起きません。
この違いはどこにあるのだろう、と時々思います。

■1669:般若心経扇子(2012年4月2日)
節子
Fさんから般若心経扇と呼ばれている京扇子をもらいました。
お会いした時に、京都のお土産なので家に帰ってから開けてくださいと謎めいた言葉と共にもらったのですが、帰宅して開けたら扇子でした。
節子の実家での法事では、扇子が必需品でしたので、私も節子から渡されていましたが、その扇子も最近は使ったことがありません。
それで、その扇子もケースに入ったままお蔵入りするところでした。
ところが、Fさんからメールが来ました。
たぶん私が開けても見ないだろうことを感知していたのかもしれません。

あの扇子は、ご覧になったと思いますが般若心経扇です。
群青色の地に散りばめられた金色文字は、夜空に輝く「星」のように見えたのです。
暗唱されていると思いますが、時々開いてこころ穏やかにお経をよんでください。

それを読んで、扇子を開いてみました。
http://www.ohnishitune.com/index.php?option=com_content&view=article&id=439:
紺地の扇面の表には般若波羅蜜多心経が、裏には延命十句観音経が書かれていました。
延命十句観音経は「観音経」のエッセンスをまとめたものといわれ、般若心経よりもずっと短いのです。
節子の訃報を聞いて、すぐにわが家に来て下さり、枕経をあげてくださった市川さんの奥さんから、お守り用にと般若心経と観音経をいただいたのですが、観音経までは手が出ませんでした。
しかし十句観音経であれば、毎朝声明できそうです。
観音信仰は、このお経によって広まったとも聞いています。

Fさんは、しかしなぜ私にこの扇子をくださったのでしょうか。
Fさんからまたメールが来ました。

フォーラムのラストの佐藤さんのお話は、わたしは全く予想していませんでしたので、
私にとってはこころ揺さぶられる思いでした。
そのときの感情を振り返って見ました。
佐藤さんが語られるその思いがすーっと入ってきたのです。
そうしたら、全身が、こころが、凍結したようになったのです。
不思議な反応だったことは、今でも身体に余韻が残っているようです。

それできっとこの扇子を贈ってくださったのです。
さて明日から十句観音経もあげるようにしましょう。
なにしろ十句ですから、短いのです。

観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 

■1670:人間の本性の蘇生(2012年4月3日)
節子
数年前に話題になった「災害ユートピア」という本には、昨年の東日本大震災のような大惨事が起こると、その直後に「見ず知らずの人たちの間にさえも、お互いに深く気遣い合う社会」が、つかの間とはいえ、発生する事例がたくさん紹介されています。
その理由のひとつは、生きる上での課題が単純化されるからだろうと思います。

その本にこんな文章があります。

セラピーの分野では、災害の帰結として、例外なくトラウマが語られる。それは、耐えがたいほどもろい人間性や、自らは行動せず、誰かが何かしてくれるのを待つといった、典型的な被災者像を暗示している。災害映画やマスコミも、災害に遭遇した一般市民を、ヒステリックで卑劣な姿に描き続けている。

「災害ユートピア」という本の著者は、それがいかにばかげた「つくりごと」であるかをたくさんの事例で示してくれます。
そして、そうした状況のなかでは、セラピストの言葉などはほとんど役に立たず、そうした世界では被災者のみならず、そこに接した人たちもまた素直になるがゆえに、「人間の本性」が蘇生し、つかの間のユートピアが生まれるというのです。

私はとても共感できました。
共感できた理由は、節子との別れを経験したからだろうと思います。
節子を失った時、私にはすべてのものが意味を失い、価値を失ったような気がしました。
愛する人を失った時に、おそらく多くの人はそう感ずるでしょう。
その喪失感を埋めてくれるものなど、何もないのです。
つまりすべてのものは、価値を失ってしまうわけです。
できる事はただ一つ、自らに素直になるだけです。

素直になると、まさに「人間の本性」に気づきます。
素直に悲しみを発現させ、素直に怒りも出せるようになります。
悲しみや怒りだけではありません。
慈しみの心もまた、素直に蘇ってきます。
同じように隣に悲しむ人がいたら、気になりだします。
それも決して上からの気持ちではなく、悲しみを分かち合おうという自然の気持ちからです。
社会に生きる生き方ではなく、生命に素直に生きる生き方になるのです。
そうすると、周りの人たちの見え方が変わってきます。
きれいごとを話している人たちの、悲しさも伝わってきます。

最初はそれが生きにくさにもなっていきますが、そのうちに生きやすさに転じます。
そしてみんなそれぞれに「重荷」を背負っていることにも気づきます。
大災害の直後、みんなその重荷をおろして、素直になるのでしょう。
しかしすぐにまた背負ってしまうわけです。

幸いに私は、節子との別れで、重荷を二度と背負わずにすむようになりました。
人は、本来、生きやすい存在なのです。
エデンの園の話に、最近、とても共感できるような気がしてきています。

■1671:人間は死ぬ瞬間、何を見るのだろう(2012年4月3日)
節子
この挽歌にも、いろんな人がコメントをくれます。
それで元気づけられることも少なくありません。

最近、ぶーちゃんと称する人から時々コメントをもらいます。
一昨年。伴侶を亡くされ、以来、「気分が高揚することなど一度もない人生を送っているといいます。
「妻が一緒にいてくれた頃は、あんなに日々が充実していたんですが、妻を亡くして、遺された人生、楽しいこと、嬉しいこととは無縁だろうと思っていま」と書いていますが、私も同じような気がしています。
しかし、そんなぶーちゃんにも、楽しみにしていることが一つだけあるというのです。
「それは、僕が死ぬ瞬間です。きっと笑顔で死んでいけると思っています」
ようやく生き地獄から解放されるからですが、それだけではありません。

ぶーちゃんはこう書いています。

妻は亡くなる前日の真夜中、最期の言葉を遺してくれました。
「みんな、みんな一緒」。妻はこん睡状態の中で、そんな言葉を口にしていました。
その時の妻のとても安らかな笑顔は今でも忘れられません。
あの時、妻は何を見ていたのだろう。人間は死ぬ瞬間、何を見るのだろう。
とても気になっています。

節子はどうだったろうか、
確かに節子も平安な表情をしていました。
残念ながら私は気が動転していたのか、あんまり覚えていないのです。
たださほど悲しいとは思っていなかったような気がします。
そんな感情は通り越していました。
それに、節子が息を引き取ってからの数時間は、ほとんど記憶がありません。
節子と約束したことも果たせずに終わってしまいました。
私の腕の中で息を引き取ったわけでもありません。
その瞬間、そしてその直後、私は何をしていたのでしょうか。
悔いが残ります。

しかし節子も安らかな表情だったような気がします。
節子は何を見ていたのだろうか。
私も気になります。

しばらくして、節子は彼岸で白い花に囲まれて、幸せそうにしていると大日寺の庄崎さんから教えてもらいました。
しかし、幸せのはずがありません。
なぜなら彼岸には私がいないのですから。
私も彼岸に行くのが楽しみです。
まあ節子が待っているとは限りませんが。

■1672:思いつきの人生(2012年4月3日)
節子
今日は強い台風並みの低気圧ですごい雨風です。
一昨日から今日は何となく大地震が起こるような気がして、予定を変えて一日在宅するようにしていましたので、その雨風に巻き込まれることなく、テレビで各地の被害状況を見ています。
そういえば、3.11の東日本大地震の時も在宅でした。
幸運と言うべきでしょうか。

わが家のある我孫子も強風に襲われています。
今回はきちんと事前の備えをしていますので、大丈夫です。
さらに大地震に備えて、ガラスの大きな花瓶も一応、安全な場所に下ろしておきました。
地震の気配はないので、もしかしたら1〜2日延びたのかも知れません。
地震の予想ははずれたかもしれません。
困ったものです。

ところで、節子はよく知っていますが、こうした雨風の日はなぜか心身が動き出し、利根川を見に行きたくなります。
テレビwクォ見ていたら、急にまた利根川に行きたくなりました。
自動車運転はアクセスとブレーキを間違えて以来、この10年ほどやめていますので、やはり在宅だったユカに頼みましたが、言下に断られました。
思わず「節子だったら行ってくれるのになあ」と言ったら、「節子も行かないよ」と言われてしまいました。
その上、思いつきはやめてくれないと怒られてしまいました。
いやはや困ったものです。

娘たちによく言われますし、最近は友人たちからさえ言われますが、私はほぼ「思いつき」で行動を決めています。
人間の考えることなど、たかが知れていますので、むしろ私は「思いつき」を大事にしているのです。
それでわが家の家族は振り回されて、私の評判は悪いのですが、節子は私の思いつきによく付き合ってくれました。
私が「思いつき」でこの歳までうまく生きてこられたのは、そういう節子の受容力のおかげかもしれません。
節子は拒否することもありましたが、完全に無視するのではなく、私の思いつきをうまく取り込んだ代替案を出してくれたのです。
私の「思いつき」は、結局は思いつきですから、すぐに変わりうるのです。
節子はそれをある時から知ったのです。
そうした阿吽の呼吸というか、気づかずに騙されるとか、夫婦というのはそういう関係がうまく形成される関係なのかもしれません。

節子に接していた時と同じように、娘たちには今も「思いつき」で対応しているのですが、いつもはっきりと否定されてしまいます。
節子だったら、否定しないのになあ、と不満を言うと、節子も否定しますと断定されてしまいます。
私の節子像と娘たちの節子像はどうもかなり違っているようです。
しかし、節子を正確に把握しているのは、間違いなく私です。
「節子だったらどうするか」はわかりながら、不承不承、娘たちの言葉に従っていますが、思いつき人生を改める気はまったくありません。
節子との思いつき人生は、実に楽しく、幸せでした。
それに節子もそれなりに思いつき人生でしたから。

雨が窓を強く打ち出しました。
少しこわいほどです。

■1673:孤立と退屈と豊穣の中を生きる(2012年4月3日)
節子
今日は一気呵成に挽歌の遅れを取り戻しましょう。
なにしろ安全を祈りたくなるほどのすごい雨風ですので、挽歌を書いているのが一番落ち着くでしょうし。

先に引用した「災害ユートピア」からもう一度引用します。

最も深い感情や、個人の存在の核につながる感情、人の最も強い感覚や能力を呼び覚ます感情は、死の床や戦争や緊急事態にあってさえも豊かでありえる。反対に、幸せであると決めつけられる状況は、しばしば単なる探さからの隔絶や、もしくは快適な状態の中で倦怠や不安から隔絶されている状態にすぎないのだ。

最近の私の心境からは、とても納得できる表現です。
この文章のすぐ後に、「大きな喪失は通常、私たちをコミュニティから孤立させる」という文章も出てきます。
たしかにこれもその通りで、節子を見送った直後、私は社会との接点を失って、おろおろしていたのを覚えています。
その当時ほどではありませんが、いまもまだ時々、強烈な孤立感に襲われることがあります。

コミュニティからの孤立と生きる豊かさとはどうつながるでしょうか。
あるいは、「生きる意味の見いだせない退屈な人生」とどうつながるのか。
これらは一見矛盾するようですが、私の中では全く矛盾しないのです。
孤立を感じるかと思えば、つながりの豊穣を感じ、
退屈で価値がないと思いながらも、生きることの深い意味を思うのです。
かけがえのないものを喪失すると同時に、かけがえのないものを得たような気もします。
言い換えれば、感情が研ぎ澄まされて、それらがすべて感じられるようになってしまっているのかもしれません。
だからそれらが奇妙に並存し、矛盾すら感じない。
とても不思議な世界に生きているわけです。
大きな喪失は、人を哲学者にすることは間違いないようです。

また風が激しくなりました。
家全体が揺れるほどです。
なにしろ節子が選んだわが家の立地は高台のはずれで、しかも風の道に当たっています。
風のうなりも恐ろしいほどですが、家全体が揺れるのはあまり居心地の良いものではありません。
節子がいないのも、心細さのひとつかもしれません。
早く風がおさまってほしいです。

■1674:亜空間(2012年4月4日)
節子
またぶーちゃんからコメントが届きました。
読者からのコメントをもらうと、そこにまるで自分がいるようなことが少なくありません。
人の思いを掘り下げていくと、みんな同じところに行き着くのではないかと思うほどです。

全文はコメント記事をお読みください。
そこに、こんな文章が出てきます(一部省略しての引用です)。

(妻の発病までは)「いつまでもこの幸せな時間が続く」と考えていました。
妻の癌が発覚してからは、「今、ここ」がすべてと感じるようになりました。
妻が亡くなった後、「今、ここ」を大切にしようという感覚は消え去りました。

私もそういわれて見ると、まったくと言っていいほど同じです。
ぶーちゃんは、「時間が過去から未来へと続く「直線」として感じられていたのが、妻の癌発覚と同時に、時間が「点」として感じられるようになったと言えばいいでしょうか」と書いています。
その「点としての時間」も、妻との別れで見えなくなってしまった。
まさに時間の存在しない「亜空間」に漂っている感じなのです。

もっとも、いつもいつもそう感じて生きているわけではありません。
現実に、さまざまなことがあり、それにも対応しなければいけません。
しかしその「亜空間」感覚は、いつも心身のどこかにあるのです。
そして突然に、現実が単なる喧騒にしか感じられなくなり、どうしていま自分はこんなところでこんなことをしているのだと、自責の念にかられることもあるのです。
それは、突然にやってきます。そして不安が心身を襲うのです。
そうなるのは、なぜか華やかで喜ばしい日であることが多いのです。

昨夜の強風のせいか、今朝は実に気持ちのいい朝です。
空も、やわらかで、仰ぎ見ていると心やすまります。
思わず、生きている喜びを感じそうになるのですが、その一歩手前で、なぜか心が萎えてしまう。
心の底から、その喜びや生の実感を解放できない自分がいます。
ぶーちゃんも同じかもしれません。
こういう日には、逆に自責の念や違和感が襲ってくることが多いのです。
なんとまあ皮肉なことか。

春が来ましたが、なかなか私の心身には春が来ません。

■1675:希望(2012年4月4日)
節子
最近、ちょっと重い話が続いたかもしれません。
たしかに少し気分が萎えています。
春になっても、私には春が来ないと今朝、この挽歌に書いたのは素直な気持ちでした。

久しぶりに湯島のオフィスに来ました。
1冊の絵本が届いていました。
「きぼうのかんづめ」です。
そういえば、先日、テレビでも報道されていました。
石巻市の木の屋石巻水産の松友さんが送ってきてくれたのです。

木の屋石巻水産は東日本大震災の津波に襲われ、工場は跡形も無く流されてしまいました。
テレビで巨大な缶詰が横倒しになっている風景を見た人もいるでしょうが、あれが同社のシンボルでした。
会社はもう解散かという話まであったそうですが、奇跡的に在庫していた缶詰がたくさん工場の瓦礫の中から見つかりました。
そこからドラマが始まります。
ご存知の方も多いでしょう。
その話は「希望の缶詰」として有名になりました。

そのファンたちが、絵本づくりのプロジェクトを立ち上げました。
http://kibouno-canzume.benice.co.jp/?page_id=24
そのプロジェクトの呼びかけにこう書いてあります。
 津波に流されずに
 残ったものがあった。
 それは、希望だった。
そして、絵本が完成しました。
同社もいま、会社再建に向けて動き出しています。

私は昨年、パネルディスカッションで同社社長の木村さんに会いました。
実に魅力的な人でした。
そのご縁で、松友さんとも知り合え、絵本が届いたのです。
絵本は、木の屋石巻水産の缶詰ファンがみんなでつくり上げた本です。
絵本づくりのプロジェクトのサイトに、こう書いてありました。

悲しみをシェアすれば、半分になる。
希望をシェアすれば、倍になる。

節子と一緒に迎えた最後の年は「希望の年」にしたかった。
そのことを思い出しました。
ちょっと前を向こうかなと思い直しました。
そうしたら少し向けそうな気がしてきました。
今日の空はとてもきれいです。

■1676:演じている自分(2012年4月5日)
節子
先日開催した「自殺のない社会に向けてなのができるか」のフォーラムのテープ起こしをしていました。
当日の参加者の発言によくでてくるのが、「演じている自分」の話です。
みんなの期待を裏切らないように、頼りになる夫、強い父親を演じていて、そこから抜けられなくなってしまっていたという話です。
そういう話をテープで改めて聴きながら、私たちにはそういうのが全くなかったなと思いました。
最初から私たちは、お互いを素直に見せ合っていましたので、建前と実体の区別がなかったのです。
頼りにならない、わがままでいい加減なお互いを見せ合っていたような気がします。
それでも節子は、私を信頼していましたし、私も節子を信頼していました。
あえていえば、私よりも節子のほうが見栄っ張りだったような気がします。

というのは、節子が後悔していたことが一つありました。
私たちは途中から、私の両親と同居したのですが、節子は「良い嫁」になろうとしていたことを、両親を見送ってから話してくれました。
私から見れば、あんまりそんなようには見えませんでしたが、そうだったようです。
たしかに節子は私の両親からは、私以上に好かれていました。

私にとって、節子は別に「良い妻」だったわけでもありません。
欠陥だらけの妻でした。
にもかかわらず、節子は私には最高の妻でした。
それは、節子はいつも「地」で接してくれたからです。
それで、私も素直に自分そのもので付き合えたのです。
だからまあ、夫婦喧嘩も多かったのですが。

私は、すぐに感情が顔に出ますから、演ずることのできない人間です。
そればかりか、自分でない役柄を演ずることができないのです。
節子もそうでした。
だから私たちには溝は全くなく、悲しみも希望もシェアできたのです。
しかし、シェアしていた相手がいなくなってしまったらどうなるのか。
悲しみは倍になり、希望は半分になってしまったのでしょうか。
たぶんそうはなっていません。
昨日、挽歌を書いてから少し考えてみたのですが、
悲しみも希望もなくなったというのが結論です。

悲しみも希望もなくなるとどうなるのか。
答はすぐそこにありそうな気がしますが、もう少し考えてみなくてはいけません。

■1677:カフェサロンの文化(2012年4月5日)
節子
昨日、湯島で原発事故と技術者倫理をテーマにした真剣な話し合いの場を持ちました。
節子のよく知っている杉本さんが中心です。
話が激論になる前に、杉本さんが黒岩比佐子さんの話をしだしました。
他のメンバーは、黒岩さんがまさか湯島のサロンの常連だったなどとは知らなかったのですが、みんな黒岩さんの「パンとペン」を読んでいて、絶賛していました。
他人事ながらうれしい話です。
黒岩さんはそちらに早々と言ってしまったので、節子とそっちで会っているかもしれませんね。

昨日の集まりは、最近の原発事故後の技術者の対応がずっと気になっていたので、志強く活動している実践者でもある技術者のみなさんに声をかけさせてもらいました。
専門家たちはお互いに遠慮をしあうので、なかなかカジュアルな横のつながりの場は生まれにくいのです。
みんな超多忙な人たちですから声をかけるのは迷惑かなと思っていたのですが、皆さんからも喜ばれました。
こういうカフェサロンの文化を節子と一緒にやってきたことが、今の私には大きな力になっています。
節子にもお礼を言わなければいけません。

昨日、終わって帰りの電車の中で、昔やったキラウエア火山ツアーのOB会のカフェサロンを思い出しました。
あの時も、コアメンバーは杉本さんでした。
あの時は節子も元気でしたが、今から思うととても楽しい集まりでした。
その集まりからも、茂木健一郎さんが大活躍です。

そういえば、やはり節子もよく知っている田中弥生さんも最近大活躍です。
今度、日本NPO学会の会長になったという連絡が来ました。
田中さんも、節子が感心していた若い女性の一人でした。

湯島で、節子と一緒に会った人たちが、いろんなところで活躍しています。
そういう人の活躍ぶりを見るととてもうれしいですが、必ず節子と一緒に会った時のことを思い出すから不思議です。

昨年、少しカフェサロンをやりすぎて、ちょっとダウン気味でしたが、そろそろまた再開しようと思います。
なにしろいろんな人が美味しいコーヒーを持ってきてくれるのです。
みなさんもよかったら珈琲を飲みに来てください。
今はモカ、キリマンジャロ、マンダリンがあります。
もっとも珈琲メーカーと水(水道水です)のせいで、美味しさが十分引き出せないかもしれませんが。

■1678:やっと追いつきました(2012年4月6日)
節子
やっと追いつきました。
この挽歌の番号は、2007年9月3日からの経過日数です。
その日は、節子が旅立った日です。
1週間ほどたって、毎日、挽歌を書き続けようと思い立ったのですが、今年に入ってから、書けない日が増えてきました。
そういう時は、数日以内に複数の挽歌を書いて、数字を合わせるようにしてきたのですが、最近かなりのずれが生じていました。
ようやく数字を合わせることができました。
今日は、節子を見送ってから1678日目なのです。
追いつけてホッとしています。

この挽歌は、読まれるために書いているわけではありません。
自分のために書いているのです。
だからこういうことが私にはとても大事なことなのです。
しかし、今日も思わぬ人からのコメントがありましたが、だれが読んでくださっているのかわかりません。
知らない人ならともかく、知っている人に読まれるのは、けっこう恥ずかしいものです。
すべてを公開していると言いながらも、私もそれなりに見栄もありますから、後で読むと書かなければよかったということもあります。
しかし、書いている時には、不思議と素直な気持ちになるのです。
まあ一種の自己浄化であり、懺悔であり、自己弁護です。
挽歌と言うよりは、自らも含めての鎮魂歌なのです。
書くことで気を鎮め、書くことで前を向ける。そんな感じです。

読んで下さっている人はわかると思いますが、気持ちはまだ大きく乱高下しています。
しかし、節子はもう現実にはいないという事実をかなり受け止められるようになってきています。
まだそんな状況なのと言われそうですが、そんなものなのです。
喪失感は、時間がたつことで高まることさえあるのです。
でも、挽歌を書かなくても、精神の安定を維持できるようになってきました。
ですから、毎日書くよりも節子に話しかけたくなった時に書くほうが内容的には良いものになるでしょう。
しかし、内容がなくても、やはり毎日書くことを続けようと思います。
ますます「読む挽歌」ではなく「書く挽歌」になりそうです。

20数年前に、ある占い師が私を93歳まで生きると占ってくれたそうです。
あるプロジェクトを私と一緒にやりたいと思った人が、私のことを知るためにわざわざ京都まで行って、有名な占い師の方に占ってもらったのだそうです。
まあ否定する理由もないので、私はそれを信じています。
だから節子にも90までは元気でいてねと頼んでいたのです。
しかし、残念ながら節子は先に逝ってしまったのです。

ちなみに、この挽歌を93歳まで書き続けるとすると、番号は10000に近づきます。
あと8000以上書くことになります。
いやはや大変ですね。
節子はそんなことも考えずに、逝ってしまいました。
困ったものです。

明日から毎日書くようにしたいと思います。
追いつけてよかったです。

■1679:マリア・テレジアの後悔(2012年4月7日)
節子
節子はシェーンブルン宮殿には行ったことがあるでしょうか。
私は仕事でヨーロッパに行った時に一緒に行った先輩と一緒に少しだけ立ち寄りました。
私には全くと言っていいほど興味のないところでしたので、あんまり印象に残っていません。

今朝、録画していたハプスブルグ家のマリア・テレジアのドキュメントを観ていたら、シェーンブルンが出てきました。
マリア・テレジアが思いを込めて改装し、自らもとても愛した宮殿です。
私の記憶には、見事な外観しか残っていませんが。
節子は2週間ほど、友人たちとヨーロッパ旅行に行っていますが、考えてみるとその時の話をほとんど聴いていません。
ですから節子がシェーンブルンに行ったかどうかさえ、記憶にありません。
私たちは話していたようで話していなかったのかもしれないと、ふと思いました。

マリア・テレジアが夫のフランツ・シュテファンと深く愛し合っていたのは有名な話ですが、ドキュメント番組の中でもそれが紹介されていました。
夫の死後、彼女はあれほど好きだったシェーンブルンには行くこともなく、ウィーンの宮殿で生涯、喪服で過ごしたといいます。
夫と死別した後の最初の結婚記念日も宮殿の寝室で一人喪服で過ごしたそうです。
そして友人に手紙でこう書いています。

私は、この記念すべき日をどこにも行くことなく、部屋で一人で過ごし、過ぎ去った幸せを思い浮かべています。
そして、その幸せをあまりに大切にしなかったと思いながら後悔しています。

テレジアにしても、そうだったのでしょうか。
幸せは失ってから気づくものかもしれません。
彼女はこの日に、自分の衣装もすべて周りの人にあげたようです。
そしてこう書きつづっています。

私がまだ持っていなくて待ち望んでいるのは、私のひつぎです。

テレジアは、その後、大きく変わったようです。
そして15年後に亡くなりました。63歳でした。
テレジアも、愛する夫と話していたようで話していなかったことを悔やんでいたのかもしれません。

話せなくなってからでは間に合いません。
もし話す相手がいるのであれば、悔いを残さないようにしてください。
話せば、変わることも多いですし。

■1680:着る服がなくて困ります(2012年4月8日)
節子
季節の変わり目で困ることは着る服がないことです。
なにしろ節子がいなくなってから、衣服を買いに行かなくなったため、着る服がないのです。
時々、娘のユカに付き合ってもらうのですが、気にいる服がないのです。
それで買わずに終わってしまい、結局、自宅に帰ってクローゼットなどを探して、昔のものを探してすませることが多いのです。

先週、暖かくなったり寒くなったりで困ったので、また娘に頼んで付き合ってもらいました。
なにしろお金も私はあまり持っていないので、娘の同行が不可欠なのです。
近くのイトーヨーカ堂に行きました。
ごった返していました。
それだけでもう「戦意」を打ち砕かれた感じです。
靴屋さんがありましたので、まず靴を買おうと思いました。
そういえば、靴も最近買っていません。
それで白っぽい靴がほしいと娘に言って一緒に探しました。
春ですから、茶色はもう終わりにしたかったからです。
しかし、娘から白い靴なんかないよと言われてしまったとおり、ありませんでした。
グレイもないのです。
なんでないのでしょうか。

靴はやめてジャケットを探すことにしました。
しかしどうもぴたっとするのがないのです。
ではパンツにしようと思い、パンツ売り場に行きました。
私はノータックでストレートでないとダメなのです。
コットンのチノパンツしかありません。
どうもぴったりしません。いささか細すぎるか太すぎるかのいずれかなのです。
なぜ私好みの衣服はないのでしょうか。
娘に言わせると時代が変ったのだというのです。
だからスーパーにはないと言うわけです。
困ったものです。

そんなわけでまた何も買わずに帰ってきました。
しかたなく自宅のクローゼットを探して数年前のチノパンツを3本見つけました。
今年はこれで我慢しましょう。
ジャケットはないので、オープンシャツかセーターで我慢しましょう。

節子は、歳をとったら歳相応のちゃんとした服を着てほしいといつも言っていましたが、私はどうもそれができません。
スーパーの安いカジュアルで十分なので、節子はいつも嘆いていました。
まあ、そういう節子も同じように、スーパーの安いカジュアルでしたが。
私は身だしなみや食事には、ほとんどお金をかけないのですが、節子がいなくなってから、ますますその傾向が強まりました。
そういえば、最近は書籍もあまり買わなくなりました。
高価な本は図書館で借りるようになりましたので、書籍代もほとんどかからなくなり、せいぜい月に1万円前後です。
お酒も飲まず、煙草はすわない。お金の使い道がありません。
まあお金もないので、ちゃんとバランスしているのですが。

さて明日は何を着ていきましょうか。
節子がいなくなってから、それが悩みの一つになりました。
困ったものです。
彼岸では衣服はどうしているのでしょうか。
ファッションやグルメなどという世界から、早く卒業したいものです。

■1681:私たちの住まい(2012年4月9日)
節子
昨日は衣服の話でしたので、今日は住まいの話です。
近くのTさんが転居したことは前にも書きましたが、まだその家が売れずに空き家になっています。
買い手が付かない理由の一つは、たぶん間取りの関係でしょう。
Tさんの住宅は、Tさんの息子さんの設計ですが、外観も間取りも自分たちのライフスタイルに合わせて設計されているのです。
家族のライフスタイルは、それぞれに違いますから、あまりカスタムメイドになっている場合、別の家族には合わない場合が多いでしょう。

実はわが家にも同じことが言えます。
かなりの部分、個性化されていますので、たぶん他の人には住みづらいでしょう。
たとえば私のための空間は、狭い書庫と狭い仕事場に分かれていますので、私以外の人には使い勝手は良くないと思います。
若い友人を部屋に案内したら、なんでこんな狭い書斎にしたのですかと驚かれました。

わが家の設計は、家族全員が関わりました。
みんなわがままなので、設計を頼んでいた人も途中から意見を言わなくなりました。
ともかくみんな自己主張が強いのです。
それもみんなそれぞれにバラバラなのです。
困ったものです。
出来上がった家は、反省点だらけですが、だからこそ「使い込んでいけば」きっと家族と一体になった住まいになっていくと私は思っていました。
私の「住まい観」は住人と一緒に育つものだったのです。

ところが転居して間もなく、節子のがんが発見され、家を使い込む余裕がなくなりました。
節子は家も庭も立地も、気にいっていましたが、新居を十分に楽しむところまではいかなかったでしょう。
節子にとっては「未完の家」だったに違いありません。
それでも、この家に住むための基本形は節子がつくってくれました。

しかし家族構成が変わると不都合がいろいろと生じだします。
それに、この家に組み込んだつもりの「仕掛け」も、もう無意味になってしまいました。
というよりも、最近思うのは、この家をつくる時には家族が変化するという発想が全くなかったことの不思議です。
そのあたりが、私の常識のなさというか、単細胞で視野が狭いというか、早く言ってしまえばバカそのものなのですが、どうして当時は家族がそのままずっと続くと思っていたのでしょうか。
もし節子がいなくなることを知っていたら、こんな家にはしませんでした。

しかし、その家で節子は最後を過ごしました。
節子の最後をあたたかく包み込んでいたのも、この家です。
だからこの家は私には宝物なのですが、私たち家族以外の人には、間取りの悪い家だと感じるかもしれません。
伴侶もそうですが、住まいも、まさに当事者に対してだけ輝いているのかもしれません。

■1682:人生は冒険(2012年4月10日)
前にも一度、言及したことのある、アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談集(「オープン・ライフ」)の最後でこう語っています。

人生は冒険なんです。
年を取ってくればくるほど、人生は益々冒険的になってくるんです。
これは間違いない! 

人生は冒険?
学生の頃、私もそういうように考えていました。
訳者の馬場悠子さんは、その対談集のあとがきの中で、キャンベルの思想を簡潔にまとめてくれています。

人生とは常に前人未到の道を行く冒険であって、他の誰かが歩いた道をたどっていれば荒れ地人生になってしまう。社会に適応しながら内面の充実を得るのは困難だが、「至福に従う」生き方が必ず扉を開いてくれる。自分で設けた限界が「悪魔」である。直面したくない現実を押し込めるとそれが怪物と化すのだから、認識して場を与えればいい。
(中略)
一人一人の人生を神話に見立てれば、困難な状況に陥った時に持てる力を振り絞って挑戦に応える勇敢な英雄の姿にも自分を重ね合わせることができる。「英雄的に生きるというのは、実は個人的な冒険をすること」なのだから。

とても共感できます。
「英雄的に生きる」という表現も、私の趣味に合います。

「オープン・ライフ」はジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」を知った時に、併せて購入していたのですが、邦題が「ジョーゼフ・キャンベルが言うには愛ある結婚は冒険である」だったので、あんまり読む気にはならず積んでおいたのですが、今日、何気なく開いたら、内容は全く違うものでした。
ひどい書名にしたものです。
今日は別の本を読んでいたのですが(これも神話の本です)、明日に出張ですので、新幹線の中で読んでみようと思います。

それはそれとして、
「人生は年をとるほどに益々冒険的になってくる」という言葉に、昔を思い出しました。
その生き方はどこに行ってしまったのか。
節子に持ち去られてしまったのか。
最近の私の生き方は、「荒れ地人生」になっていないか。
キャンベルがいうように、冒険を忘れなければ「至福に従う」生き方が必ず扉を開いてくれるのではないか。
節子がいないのは残念ですが、もう一度、冒険を始めるか。
キャンベルの、この言葉を見て、そんなことを考えました。

ちなみに、節子がいた頃は、いつも実に楽しい冒険でした。

■1683:別れの悲しみと不在の寂しさ(2012年4月11日)
節子
今朝も早く目が覚めてしまいました。
最近、どうもまた夜中に目が覚めるようになってきています。
春だからでしょうか。

節子がいなくなってから4年半以上経ったせいか、別れの悲しさはあまり感じなくなっているのですが、逆に不在の寂しさは強まっているような気がします。
それらは一緒くたにしがちですが、かなり違うような気がします。
節子のことを思い出し、考えることが、一番の供養だと思っているので、
朝早く目が覚めると、まあ、そんな他愛のないことを考えてしまうのです。
以前なら、そんなことを隣に寝ている節子に話しかけるのですが、今は話す相手もいないので、挽歌に書いているわけです。

時がもし癒すことができるとしたら、それは別れの悲しみです。
しかし、不在の寂しさは、時が経つほどに強まります。
それはいまなお日々新たに発生するからです。
昨日会った人は、桜の季節はとてもいやだといっていました。
きっと夫婦で楽しんだお花見を思い出すからでしょう。
私もまだお花見には行けません。
不在を感ずると、別れの悲しみさえ思い出しかねません。
別れの悲しみと不在の寂しさは、つながってもいるようです。

その一方で、時々、この挽歌にも書いていますが、節子が近くにいるような、あるいは私の心身にも入り込んでいるような感覚はあります。
別れの悲しみや不在の寂しさをどうにかして緩和しようという、精神の防衛機制の働きかもしれませんが、それは確かに感じます。
しかし、だからといって、不在の寂しさが薄らぐわけでもありません。
むしろ不在の寂しさと同行2人の気分は、比例しているのかもしれません。
このあたりがややこしくて、一筋縄ではいかないのです。
論理的な矛盾はあるのですが、当事者としてはすんなりと受け容れられます。

不在の寂しさは再会への期待を高めます。
先日、この挽歌にコメントを寄せてくださった方が、
「たった一つの望みは、一日も早く逝くこと。妻と再会すること」
と書いていましたが、私も再会を楽しみにしています。

■1684:人の後悔(欲望)は際限がない(2012年4月12日)
節子
昨日から仕事で軽井沢にきています。今朝は気持ちの良い朝です。
しかし寝不足で眠いです。
軽井沢には節子と一緒に来たことはありませんが、子どもが小さい頃には何回か夏休みに中軽井沢のほうで過ごしたことがあるはずです。
私自身はあまり記憶力に恵まれていないので、思いだせませんが、山奥のロッジに滞在したこともありました。
みんなであまり道もない山のなかを歩いて、大変な目にあったこともありました。

私は過去のことには興味がないためか、旅行の記憶などをあまり思い出せないのです。
特にどこに行ったかという地名などは、ほとんど思い出せません。
節子の日記を読めばきちんと書かれているのでしょうが、まあいまは読む気にはなれませんただいくつかのシーンは映像的に鮮明に浮かんできます。
不思議なことにみんな静止画像です。
たぶん私の脳の構造にかなりの問題があるのではないかと思います。
空間的にも、時間的にも、どうも普通とは違うのです。
昨日の次に今日があるとか、今日の次に明日がくるとか、昔からそれがあまり納得できていないのです。
そんな感じでしたから、私と付き合い出した頃、節子は混乱したでしょう。
いやそれで魅了されたのかもしれません。
しかし節子と一緒に暮らしているうちに、私の時空間感覚はかなり普通に近づきました。
節子の発想では、今日の次に必ず明日があるのです。
もっとも節子が病気になってからは、少し変わったと思います。

節子と一緒に過ごしていたようで、過ごしていなかった。
最近そんな気がすることがあります。
時間がたくさんあると思うと、その使い方はルーズになります。
なぜ節子と一緒に軽井沢に来なかったのでしょうか。

節子と一緒に行ったことのないところに行くと、必ずそう思います。
そして、節子と一緒に行ったところに行くと、なぜもっとゆっくりここで過ごさなかったのだろうと思います。
人の後悔(欲望)は際限のないものだと、つくづく思います。

■1685:新車に変わったのですが(2012年4月13日)
節子
わが家に新車がきました。
節子がいなくなってから、わが家の自動車はあまり乗る人もいなくなったのですが、もう10年近く乗っているので、エコカーにすることになったのです。
私は、自動車はもちろんですが、何かを買うことにはほとんど興味がないので、すべては節子任せでした。
節子がいなくなったいまは、娘のユカの仕事です。
私はほとんど相談にも乗っていないのですが、今日、新車が届きました。
そして節子が愛用していた、節子との思い出もたくさんつまったこれまでの自動車は引き取られてしまいました。

今朝、今日、新しい自動車が来る日だよとユカに言われました。
思いもしなかったのですが、それを聞いて、急にさびしくなってしまいました。
さびしいというか、むしろ悲しいような大きな不安感が心臓の辺りに浮かんできたのです。
どうしたことでしょうか。
もうディーラーの人が持ち去ってしまいましたが、胸の痛みは消えません。
なにやら節子とのつながりがまた一つ消えてしまったような気もします。
たかが自動車なのに、何ということでしょうか。

夫婦で一緒に育ててきた生活が変わることは、予想以上に心痛むことであり、さびしさに襲われます。
そんな経験はこれまでも何回かしてきていますが、今回の不安感は、これまでなかったことです。
思ってもいなかったことです。
まだ心は平安になれません。

そして、節子と4年間、あの車で病院に通っていたことを思い出しました。
最後の家族旅行も、あの車でした。
あの車は、まさに節子そのものだった気もします。
節子は、運転が好きでした。
もう一度、運転がしたいといって、最後の家族旅行ではちょっとだけ自分で運転もしました。
その車が、もういない。
おかしな話ですが、涙が出てきてしまいました。

胸の不安感は、なかなかなおりません。
節子が悲しんでいるのでしょうか。
新車にしなければよかったね、節子。
節子の運転の思い出が、昨日のことのように目に浮かんできます。
これもとても不思議なのですが。

でもこうして、だんだんと世界は変わってくのでしょう。
そして私もいなくなる。
そう思うと少しだけ心が落ち着きます。

■1686:桜
(2012年4月14日)
節子
せっかくの桜が雨で散ってしまいましたが、わが家から見える山桜は例年のように見事です。
節子にも見えているでしょうか。
節子が病気になってから、私は節子と一緒に、一生分の桜を見に行きました。
弘前にも行きました。
節子は桜が好きでした。

一昨日、ユカと一緒に、ちょっとだけ近くのあけぼの山公園の桜を見にいきました。
節子がいた頃は、毎年、家族でお花見に行ったところです。
盛りは過ぎていましたが、まだまだきれいで、夕方でしたが、花見客もいました。
この公園にも山のように思い出がありますが、帰り際に日本庭園の入り口の駐車場を通り過ぎたときに、ここの桜が節子と最後に見た桜だったことを思い出しました。
あの時、節子はたぶんそれを感じていたのでしょう。
言葉が思い出せませんが、そんなことを感じさせる会話をしたような気がします。

わが家には鉢植えですが、2本の桜があります。
河津の桜としだれ桜です。
節子がいなくなって、手入れが不十分のためか、あまり元気がありません。
今年から少し庭の手入れをきちんとやることにしました。
来年は2本の桜も元気に咲かせようと思います。

桜は毎年、春になると咲いてくれます。
節子ではなく、桜に恋をすればよかったと、つくづく思います。

■1687:「生きにくい生き方」(2012年4月15日)
節子
今日からフォワードカフェを始めました。
フォワードについては一度書きましたが、自殺を考えるほどに落ち込んだ人を元気づける意味も込めて、命名しました。
しかし、その後、その意味を広く捉えることにしました。
つまり、私自身も「フォワード」です。

7人の人が集まりました。
意外だったのは、そのうちの2人は40前後のバリバリのビジネスマンです。
私のフェイスブックの案内を見て、参加してくれたのです。

湯島のカフェサロンでの話は基本的に、その場限りのルールですので、あまり書けませんが、社会のあり方が実に具体的、体験的に語られました。
みんなとても「生きにくく」生きているというような話です。
そしてみんな自分を追い詰めていくわけです。
もっと素直に、自己主張して生きればいいのですが、それができないのが「大人」であり、「社会人」なのです。
そしてその状況が、子ども世界にも浸透しつつあります。
みんなどうして、そんなに「生きにくい生き方」を選ぶのか理解できませんが、そうした大きな流れから抜け出られないものでしょうか。

私は47歳で会社を辞めましたが、それができたのは、節子のおかげです。
「生きにくい生き方」から抜けようとした時に、節子は私に言いました。
「よくこれほど長くもったね」と。
会社時代も、私はかなり自由に生きていましたが、節子から見れば、私が自由に生きているようには見えなかったのかもしれません。
会社を辞めた後、節子は私のわがままな生き方を支えてくれました。
そして私は、自分が生きたいように生きることにしたのです。
節子も、私と一緒に、生きたいように生きるはずでした。
しかしまずは私の生き方を支えてくれ、そろそろ節子主役の生き方にしようと思っていた矢先に「がん」が発見されてしまったのです。

生きたくても生きていられなかった節子のことを考えると、とても複雑な気分です。
いまは節子の思いも含めて、「私たちが生きたいように生きること」を大切にしたいと思っています。
今の私の生き方は、節子がいてもきっとそうするだろうなという生き方に心がけています。
もう私だけの人生ではないからです。

節子
今の私の生き方はずれていないでしょうね。
時々少し不安になることがあります。
でもまあ、変えようがないのですが。
困ったものです。

■1688:生活のリズム(2012年4月17日)
節子
この頃、時間の進み方が速くなってしまったようで、気が付くと、挽歌が書けずに一日が終わってしまいます。
せっかく追いついたのに、また挽歌がたまってしまいました。
挽歌はともかく、時評編のほうはこの数日また書けずにいます。
要は生活のリズムが乱れているということでしょう。

私のホームページを偶然に見つけて、以来、ずっと読んで下さっている人がいます。
その人は湯島に会いにきてくれ、以来、サロンなどにもよく顔を出してくださいます。
その人は、私のホームページの週間報告を読んで、「ルーチン」がないことに興味を持ってくれたのです。
たしかに私の生活はパターンがなく、毎日変化しています。

昨日、ある集まりのために新宿に行っていましたが、6時過ぎに次の用事のため山手線で東京に向かいました。
ちょうど退社時間のため電車は超満員でした。
久しぶりの満員電車でした。
満員電車の中で、昔は毎日、こうやって会社に通っていたのに、と思いました。
しかし今は、毎日やることは自分で作っていかないといけません。
自宅を出るのも出ないのも、何時に出るのも何時に帰るのも、自分で決めなければいけません。
自分で決められるという言い方もできますが、権利は責任と裏腹です。

ルーチンに乗ることは思考の縮減に役立ち、生きるには楽になります。
人間は考える葦、とパスカルは言ったようですが、本当は「考えたくない」人が多いように思います。
日日是新や悠々自適は、思ったほど楽な生き方ではないでしょう。
しかし、だからこそ面白い。一度始めたらなかなか抜けられなくなるのです。
ホームレスの生活と一緒かもしれません。
ただ現代という時代の中では、「ホームレス」では生きぬくいでしょうが。

ルーチンに乗らない生活の場合、一番の問題は落し穴に陥ってしまうことです。
外部からの規制が弱いですから、何もしなくともいいわけです。
何もしないでもいられるということの魅力も、これまた大きいのです。
注意しないと日日是旧や汲々呪縛になってしまいかねません。

大切なのは、そうならないための「ゆるやかな刺激」です。
伴侶の存在は、そんなものかもしれません。
呪縛しあうのではなく、刺激しあう関係。
夫婦とはそんなものかもしれません。

ルーチンのない生活がうまくまわっていたのは、節子がいたおかげだと思います。
節子がいた頃には、生活にリズムがあった。
それがなくなっているのが、最近の疲れの原因ではないかと、気づきました。
生活のリズムをどうやってもう一度つくればいいか、かなりの難問です。

■1689:写経と読経(2012年4月17日)
節子
私の知り合いの西さんは毎朝写経をされています。
それももう10年以上続けています。
たぶん節子は西さんには会ったことがないと思いますが、最初に湯島に来たのはもう10年以上前だったと思います。
その出会いで、私は強い印象を受けました。
スピリチュアリティを強く感じたのです。
たぶん西さんも、何か感ずるところがあったのでしょう。
長い空白期間もありましたが、最近また湯島に時々来てくださいます。
その間、お互いにいろんなことがありました。

その西さんが毎朝写経をされているお話を先月お聞きしました。
節子は時に写経をしていましたが、私はしたことがありません。
どこかのお寺に行った時にも、節子が写経している間、私は庭を見ていたほどです。
どうも写経という行為に心が向かないのです。

そういえば、読経もそうでした。
節子が病気になる前には、読経も出来ませんでした。
特に理由はないのですが、心が動かなかったのです。
心が動かないことはなかなかできないのが私の性分です。
困ったものですが、仕方がありません。

節子を見送ってから朝の読経は欠かしたことがないと思っていましたが、欠かしてしていたことに最近気づきました。
出張の時です。
西さんの話を聞いてから、たとえ自宅にいなくても般若心経を唱えようと思ったのですが、そう簡単ではありません。
先月、軽井沢でホテルに泊まりましたが、忘れてしまいました。
習慣化することも必要ですが、前に書いたように、私は「習慣化」が不得手なのです。
しかし、今度から出張の時にも節子の写真を持参して、朝のお勤めを守りたいと思います。
そういえば、節子は「お勤め」という言葉をよく使っていました。

節子も私と同じで、若い頃には写経には無関心でした。
いつの頃から、写経をしようという気になったのでしょうか。
人には「そうした時期」があるのでしょう。
私もたぶん、そのうちに写経をしたくなるかもしれません。
しかし今はまだ、写経するよりも心の中で読経しながら仏たちの顔を見たり、庭を見たりしているのが好きです。
読経も写経も、節子との回路を開く時間なのでしょうが、それがまだ私には実感できずにいます。
時期が来たら、私も写経を始めてみようと思います。

■1690:セザンヌ展(2012年4月18日)
節子
六本木の国立美術館でセザンヌ展をやっています。
めずらしいセザンヌがたくさん展示されているようです。
節子がいたら見に行ったかもしれませんが、私は絵画には興味がないので行くつもりもありません。
節子がいた時には、美術展にも時々付き合わせられましたが、いなくなってからは行かなくなりました。
ですから、セザンヌ展をやっていることさえ知りませんでした。

昨夜、テレビのぶらぶら美術館で、そのセザンヌ展を紹介していました。
ユカがこの番組のファンなので、私も時々、見ています。
節子が大好きになりそうな番組です。
この番組を見ていると、いつも節子が一緒に見ているような気もします。
セザンヌには私は興味がありませんが、番組はとても面白かったです。

番組を見ながら、ユカと話したのですが、節子が病気になる頃から、東京の風景は大きく変わってきたように思います。
私にとってはあまり好きな変わり方ではありませんが、節子にはもしかしたら好きかもしれません。
変わった東京を楽しませてやりたかったねとユカに話したら、でもお母さんは六本木ヒルズにも行ったし、丸の内の新しいビルにも行ったし、というのです。
そういえば、私よりも新しい東京を知っているかもしれません。
節子は療養中にもかかわらず、新しい街が出来ると出かけていました。
娘たちも私も、付き合わされていました。
節子は、そういうことではとてもアクティブだったのです。

その節子がいなくなってから、私は東京を歩く機会が減ってしまいました。
時々、娘に連れられて出かけますが、一人では行ったことがありません。
いや一度だけ、密教美術展に行きましたが、それだけです。
私の世界は狭くなってしまっています。

しかし思い出してみると、結婚したての頃は逆でした。
学生の頃、私は美術展や彫刻展に一人でよく行っていました。
いつの頃からか興味を失ってしまいましたが、若い頃はそれなりに好きでした。
節子と東京に転居して最初に行ったのは、今でもはっきり覚えていますが、池袋西武のセゾン美術館でやっていたカンディンスキー展でした。
そこに、傘を貼り付けたような作品が出展されていました。
節子はそれがとても気にいったのです。
私たちの間ではよく話題になりました。
そしていつの間にか、節子は私よりも美術好きになったのです。
そして私を誘うようになったのです。

節子がいたおかげで、私の世界はそれなりにバランスが取れていました。
最近は、どうもそれが偏っています。
少し行動スタイルを変えないといけません。
来週から、もう少し東京を歩いてみようかと思っています。

■1691:殉死(2012年4月19日)
節子
庭のジュンベリーが白い花を咲かせています。
ジュンベリーは、家から一番良く見える庭の隅にありますが、ここに何を植えるかはいろいろとありました。
転居時には植木屋さんから勧められて立派な紅葉を植えたのですが、ユカが気に入らないというので、違う樹を植えようということになりました。
わが家はともかくみんなの合意で物事が決まるので、合意を取るのが大変なのです。
かなり大きな紅葉だったのですが、家族全員で植え替えたのですが、さらにその場所に反対者が出て、もう一度、別の場所に植え替えたら枯れてしまいました。
悪いことをしてしまいました。

次に植えたのがアズキナシでした。
これはたぶん節子が好きだったのでしょう。
私の好みではありませんでした。
アズキナシは元気に育ち、毎年きれいな花を咲かせていましたが、アブラムシが好きな樹なので、その樹の下が汚れてしまい、これも植え替えようと言うことになりました。

候補になったのは、エゴノキでした。
植木屋さんを探したのですが、あまり良いエゴノキが見つからずに、断念しました。
それ以外にもいくつかの候補があったのですが、何を植えるかで意見がまとまらず、極めて安直にジュンベリーで落ちついてしまいました。
なにやらその場所には相応しくないのですが、みんな議論疲れで、娘の名前と同じ、ジュンベリーになってしまったのです。
これもわが家によくあるパターンでした。
議論が盛り上がる割には最終的な決定はかなりいい加減なのです。

ジュンベリーは小さな木で、花も地味です。
存在感もあまりありません。
その実を鳥が好んで食べるのが、唯一の長所でしょうか。

節子がいた頃は、そんな感じで、わが家の庭の花木も家族と一緒に暮らしている感じでしたが、今はどことなくさびしく、ひっそりと咲いています。
半分くらいは枯れてしまったかもしれません。
まあ手入れ不足なのですが、これは一種の殉死ということにすると誰も傷つきません。
ですからそういうことにしておきましょう。

殉死した枯れ木や花の鉢がたくさんあります。
いかにもそれがだらしないので、整理しようと思います。
それにしても、節子はたくさんの花木をよくまあ育てていたものです。
暇だったのでしょうか。
いや、好きだったのでしょうね。

今年から少し私も花木の手入れをしようと思います。
できるでしょうか。いささかの心配はありますね。

■1693:至福の人生(2012年4月21日)
節子
前にも引用したことがある、ジョーゼフ・キャンベルは、
「心の底で自分を捉えるもの、自分の人生だと感じられるもの、それが至福であり、それに従えば扉は開く」と書いています。
お金で得た幸せは、お金がなくなれば消えてしまうが、至福は決して消えることがないとも書いています。

至福は消えることがないのか。
私は若い頃からずっと素直に自分を生きてきました。
キャンベルが言う「心の底で自分を捉えるもの」に従って生きようとしてきました。
ある意味では、大人になりそこない、社会からはみ出したりしながら、それでもなんとか、その生き方を大切にしてきました。
節子が、よく続いたわね、と言ったように、会社生活も25年間も続けました。
社長と大論争したり、辞表を書けと2回も言われたりしながらも、妥協することなく、自分を貫いてきました。
その後、急に辞めたくなった時には、辞表を撤回するように言われましたが、撤回せずにそれも貫きました。
ですからキャンベル風にいえば、至福の人生を送ってきたわけです。
ジェインズ風にいえば、時折心にひびく神の声のままに生きてきたとも言えます。
お金も地位もまったくないのに、私の毎日は至福の日々だったのです。

それがいつのまにか、節子こそ自分の人生だと感ずるようになってしまいました。
私の生きる意味を、節子が与えてくれる。
つまり、依存型の人生に変わっていたわけです。
自分の人生を節子にゆだねてしまった。
そのために、節子がいなくなった途端に、「自分の人生」を感ずることができなくなりました。
そして「至福の人生」は消えてしまった。

どこで、なにを間違えたのでしょうか。
節子は、私への試練だったのか。
節子のあったかい笑顔を思いながら、いまは果たして至福なのかどうか、迷います。

今日、ユカから、お母さんがいなくなってもお父さんの生活は何も変わっていない、もっと自立しなければと、怒られました。
そういえば、節子もそんなことを言っていました。
まあ節子もユカも、私がそんな生き方が出来ないことはよく知っているのでしょうが。

キャンベルの言っていることは正しいのかもしれません。
そんな気もします。
もしかしたら、今もなお、私は至福の人生のなかにいるのかもしれません
至福の人生も、それなりに寂しく悲しいものなのかもしれません。

■1694:自責の念(2012年4月22日)
節子
今日は寒いので何もやる気が出ずに、あったかいリビングで録画していたテレビ連続ドラマ「推定有罪」をみてしまいました。
最終回は今夜放映なのですが、これまでの4回分をまとめてみました。

テーマは「冤罪」ですが、冤罪に関わるさまざまな立場の人、冤罪当事者と家族、事件の被害者遺族、警察、裁判所、弁護士、報道関係者などの生活や思いが絡み合った社会派人間ドラマです。
そこに政治まで絡ませ、さらに犯罪被害者支援法案の話まで出てきます。

ストーリーも面白いのですが、私の心に響いたのは、犯罪被害者の家族の「自責の念」です。
もし自分がこうしていたら家族の犯罪被害を避けられたかもしれないと語る場面を見ていて、先日のフォーラムで話した「自責の念」を思い出しました。
やり場のない怒りや悲しみの持っていき場は、やはり常に自分なのです。
いやたぶん、やり場があったとしても、やはり自分を責めることが多いでしょう。
そんな気がします。

自責の念は、しかし自らを責めることではないのかもしれません。
怒りや悲しみを、自らで引き受けることで、被害者と一体化することかもしれません。
このドラマを見ていて、そんな気がしてきました。
つまり、「自責の念」とは自らを浄化し安堵させる行為なのです。

私の場合、節子を治せなかったのは、私の責任だと思うことで、問題を「私たちの問題」にできるような気がします。
うまく説明できませんが、私たちの人生は私たちが決めたのだと思えると、なぜか少し安堵できるのです。
もちろん、その一方で、胸が痛くなり、時に頭のなかが白くなってしまうほどに、自責の念が後悔や自己嫌悪につながることもあります。
その時には、全身を大きな不安感が襲ってきます。
病死でさえそうですから、事故や犯罪被害の場合は、自責の念のもたらす不安感は安堵を吹っ飛ばすほどの大きさでしょう。
でも、他者を責めるよりも、その不安感に耐えたほうが、たぶん安堵できるでしょう。
自責の念は、怒りや憎悪にではなく、赦しにつながるからです。
他者を責めたり憎んだりすることからは、安堵は生まれないでしょう。
そんな気がします。

ドラマで自責の念を語るシーンを見ていて、涙が出ました。
そして、自責の念をもっと大事にしようと思いました。
ドラマをみていても、いつも節子をも出だしてしまうのはなぜでしょうか。

さて今夜は最終回です。
どういう結末になるのでしょうか。

■1695:「とても寒い」(2012年4月23日)
節子
ハプスブルグ家の最後の皇帝フランツ・ヨーゼフの悲劇的な人生は、有名な話です。
おそらく彼は誠実な人物だったと思いますが、それゆえにか、あまりに哀しい人生でした。
意見の違いから愛する弟はメキシコの皇帝になって革命軍に殺され、たった一人の息子は自殺をしました。
しかし一番哀しいのは、毎日、手紙を書いていたという妻エリザベーテとの物語です。

エリザベーテとの結婚は、母の反対を押し切ってのものでした。
ヨーゼフとエリザベーテは深く愛し合っていました。
しかし母との確執のなかで、エリザベーテは旅行に明け暮れ、執務に追われるヨーゼフとの一緒の時間はあまりありませんでした。
ヨーゼフにとっては、毎日、旅先にいるエリザベーテに手紙を書く時間だけが、おそらく至福の時間だったのでしょう。
ヨーゼフは、毎日のように手紙を書いていたそうです。
その手紙が残っていますが、その文面には権力者とはまったく別の顔が見えます。

たとえば、こんな手紙があります。

私の愛する人
いま起きたばかりの短い時間に、この手紙を書く時間をつくることにした。
あなたに愛していると言いたいから。
あなたの顔が見たい。
身体に気をつけるという約束を忘れないで、たくさん遊んでおいで。
悲しい思いにならないように、いい旅ができるように。

こんな手紙もあります。

いとしいあなたへ
さびしくここに座っている。
シェーンブルンにいるあなたのことを考えている。
とても寒い。
暖房がついていても寒い。

「とても寒い」
心身に突き刺さるような気がします。

今日も寒い一日です。

■1696:十句観音経(2012年4月24日)
節子
十句観音経を毎朝声明しようと決めましたが、最初はなかなか続かずに、習慣化したのは最近です。
たった10句なのになかなか覚えられませんでした。
そもそも覚えようなどという姿勢が間違っているのでしょう。
ともかく声にしていれば、おのずと口から出るようになるものです。
どうもまだ、「覚えよう」という発想から抜けられません。

十句観音経はとても短く、要旨は次のようなものらしいです。
「朝夕に観世音を念じ、無我の心からすべての念を起こすようにすれば、自らの内にある仏性が目覚め、平安がやってくる」
まさにこれは「自己暗示」です。

昨日、言霊に魅せられているお2人の人が湯島に来ました。
言霊思想は日本だけのものではありませんが、お経はまさに言霊の世界です。

ところで、お経をあげる時には大日如来ではなく、節子の写真を見ながらのことが多いです。
そうすると、観世音と節子とが重なってきます。
十句観音経にある「朝念観世音 暮念観世音」の観世音は、まさに節子につながってくるわけです。
そして、「念念従心起 念念不離心」、念ずるほどに節子を想い起こし、節子と心離れずに同行できるようになるわけです。

ところが、今日、韓国の佐々木さんからメールがきました。
昨日は、佐々木さんが娘のように可愛がっていた愛犬パルの四十九日だったのです。
法要に来てくださった僧侶の方から、「パルが転生するためには、離してあげないといけない。彼岸でまた会えるようにするためにも必要である」と諭されたそうです。
佐々木さんがいたら、いろいろと話したい気もします。
離さずして離す。
その心境は、他者には分ち合い難いような気もします。

■1697:2つの時計(2012年4月25日)
節子
今日は福知山線脱線事故の7年目でした。
事故を風化させてはいけないという発言を、テレビで何回も聞きました。
同じような事故を繰り返さないためにも、風化させてはいけないでしょうが、事故の被害者やその遺族は、なぜ風化させたくないのでしょうか。
テレビを見ながら、そんなことを考えていました。

事故の被害にあった人の関係者は、事故を忘れたいと思う一方、忘れられたくないと思うのでしょう。
そのアンビバレントな気持ちは、よくわかります。
事故の一瞬前で、時間が止まってくれたら、と、みんなそう思っているのではないか。
そんな気がします。
いや当事者にとっては、実際に時間は止まっているのです。
時間と共に癒されるとか、忘れられるとかいうことは、たぶんないでしょう。
当事者が自らの思いを「風化」させることなどあるはずがありません。
しかし、一方で社会は事件を風化させていきます。
社会にはたくさんの事故や事件がありますから、それをすべてとどめておくことなどできませんから、それは当然のことです。
当事者の時間と社会の時間は、こうしてずれていく。
当事者が「風化させたくない」というのは、その時間のずれを少しでも小さくしたいからかもしれません。
第三者が語る「風化させてはならない」という言葉とは、たぶんまったく違うのです。

事故が話題になれば、その時間に戻れるのです。
それは当事者にとっては、辛いことであるとともに、安堵できることでもあります。

風化させたくないと語る被害者家族の発言を聞いていて、どこか私の心情につながるものを感じていました。
こうした思いを抱いている人は、多いのでしょう。
そういう人たちは、たぶん「2つの時計」を持っているのです。
いつになったら、その2つの時計の時刻を合わせられるのか。
これからずっと2つの時計を持ち続けるのか。
これは、生き方につながってもいるのです。

■1698:運命の贈りもの(2012年4月26日)
節子
ナチスの強制収容所を生きぬいた精神科医ヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を読み直しました。
先日の日曜日の朝の「こころの時代」で話題になっていたからです。
番組は最後の5分ほどしか見られなかったので、再放送を見るつもりですが、まずは本を読み直してみました。
そこに、療養先で偶然にも自らの死期を知ってしまった人の書いた手紙の話が出てきました。
その人は友人に当ててこう書いています。

意識して死に赴いていくというのは、運命の贈りものにちがいないと考えました。
いまや運命は、私にも、意識して死に赴いていくことを許したのです。

そして彼は、それ以前と同じように毎日数学を勉強し、音楽を聴き、最後を迎えたようです。
フランクルは、病気も死も、贈り物と考えることができると書いていますが、その実例として、この手紙を紹介しています。

節子も、これと同じようなことを話してくれたことがあります。
もちろん、病気になってよかったとは言いませんでしたが、病気になったことに関して、恨み言は一切言いませんでした。
そこから得たものへの感謝は、口にしたことがあります。
その一方で、節子は「死への恐れ」を口にしたこともありませんでした。
家族を悲しませるようなことも、一切言いませんでした。
それはそれは、見事なほどでした。

その体験があるので、フランクルが紹介している、この手紙を読んだ時に、素直に心に入りました。
しかし、その「運命の贈り物」を、私は冷静には受け止められませんでした。
おろおろし、不安定になり、無気力になり、嘆き悲しみました。
いまなお、人生にイエスなどという気にはなれません。

それにしても、節子はなぜあれほどに心安らかで、平常心でいられたのか。
たぶん、ほんとうにたぶんですが、私の愛を確信していたからでしょう。
そう思うと、私は少し心が静まります。
愛する人に見守られているということは、そういうことなのではないかと思います。
修らしい勝手な解釈ね、と節子が笑いそうですが、まじめにそう思っています。

とてもとても辛いのですが、私にはそういう状況はありません。
旅立ちは、早い者勝ちです。
まだまだフランクルの書は、私には救いにはなりません。

■1699:三春の滝桜(2012年4月27日)
節子
福島の「三春滝桜」がいま満開のようです。
きれいな夜景がテレビで放映されていました。
節子の病気が小康状態になった年に、各地の桜を見て回りましたが、三春にも行きました。
いつだったかなと私のホームページで探したのですが、なぜかどこにも見つかりません。
写真もあったのにと写真も探しましたが、出てきません。
なんだかキツネにつままれたような気がします。
それで、昨日、この挽歌を書きだしたのですが、途中でストップしてしまっていました。
今朝も少し探しましたが出てきません。
困ったものです。

ところで、網膜には盲点があるというのは有名な話です。
しかし、その盲点は脳の働きで埋められて、私たちの視界には欠落部分は発生しません。
それと同じように、私たちの記憶もまた、欠落部分をうまくつなぎ合わせて、一つの物語として「想起」させてくれるのだそうです。
ですから思い出とは、脳による創作ともいえるわけです。

三春の桜は創作なのか。
そんなことはありません。
兄夫婦と一緒に行ったので、間違いありません。
にもかかわらず私のパソコンの中には見つからないのです。
なにしろ私は、最近はすべての記録をパソコンに入れてしまっているのです。
写真もプリントアウトせずにデータだけがパソコンにあります。
節子は、プリントアウトしない写真は写真と認めませんでしたので、たぶんどこかに三春の桜の写真もあるでしょう。
節子はアルバム整理が好きでしたから。
しかし、私はアルバムではなくパソコンの画面で映像を見るのが好きなのです。
というよりも、最近はともかくすべてをパソコンに収納するようになっています。
私のすべての記録がつまった、私のお墓をつくろうという思いなのです。
言い方を変えると、私のパソコンはいまや私以上に私のことを知っているのです。
しかも、そのパソコンはきちんと管理していけば、決して死なないのです。
娘たちにとっては、私のことはすべてパソコンにあるというわけです。
しかも縁を切りたくなったら、簡単にすべてを消去できるのです。
これって、なんだかとても魅力的な気がします。

もし仮に、もう少し早くパソコンのレベルが今程度になっていれば、節子のすべてをそこに移して、不死の節子を生み出せたかもしれません。
そして、技術の発展によって、その不死の節子が蘇ったかもしれません。
そんなことを時々思います。

話がずれてしまいましたが、なぜ、三春の桜の写真や記録がないのか。
もしかしたら、三春には行っておらずに、兄夫婦のことも私の脳の創作物かもしれません。
いや、そもそも節子は実在したのだろうか。
いやはや、寝不足のせいか、今日は頭が混乱します。

■1700:庭でのカフェ(2012年4月28日)
節子
リビングに下りていったら、娘たちが2人で庭の花の植え替えをしていました。
むかしよく見た風景です。
残念ながら節子はいませんが。
それで、私も少しだけ手伝いました。

庭に出てみると、いろんな花が咲いていました。
昨年思いきってかなり剪定した藤棚の藤も咲いていました。
最近なにかと雑用に追われ、さらにいささかの心配事に巻き込まれてしまっており、あまり庭に出て花を見る余裕がなかったのです。
節子が好きだったシラユキヒメも、山野草も、咲いていました。

娘たちから節子と花の話もいろいろと聞きました。
ハナミズキがちょっと対になる感じで植えられているのですが、その横に小さな赤いハナミズキが咲いていました。
娘によると、節子は白と赤のハナミズキを対にして植えたかったのだそうです。
ところが娘たちが「赤いハナミズキは好きでない」と言い張ったために、2本とも白になったのだそうです。
赤いハナミズキは、植木鉢に入ったものですが、これは節子がどこかからもらってきたものだそうです。
その赤いハナミズキだけが咲いています。

もう一つ節子が好きだったデルモホセカが、今年はとても元気です。
この花も挿木でどんどん増えますので、わが家からいろんなところにもらってもらった花の一つです。

タネから育てたレバノン杉も大きくなってきました。
もうこれ以上は大きくしたくないのですが、娘たちからはあまり歓迎されていません。
私の好きなランタナは、今年はかなり悲惨です。

作業の途中でみんなで庭で珈琲を飲みました。
実に久しぶりの風景です。
節子がいた頃は、時々、こういう風景がありました。

節子がいなくなってから5回目の春です。
少し何かが変わりだしているのかもしれません。

暗くなってしまい、写真が撮れないので、明日にでも写真を追加しようと思います。

■1701:読書三昧(2012年4月30日)
節子
大型連休だそうです。
私にとっては、世間からのノイズから少しだけ隔離されて、一人で過ごす時間がとれる少しだけ贅沢な時間です。
今年はめずらしく読書三昧です。
5月の連休に読書三昧などとは、私にとってはたぶん初めての体験です。
読み出したのは、「ユーザーイリュージョン 意識という幻想」という500頁を超える厚い本です。
先日、やはり同じように分厚い「神々の沈黙」という本を読んだのですが、その本で知った本です。
いずれも、人類の意識を扱った壮大な本なのです。
節子との別れがなかったら、もしかしたら2冊とも読まなかったかもしれません。

本といえば、私のとっては大いに悔いになっていることがあります。
ネグリの「マルチチュード」という本です。
この本に出会ったのが、節子が病気療養中です。
あまりに面白いので、節子の病床の横で読みふけってしまっていました。
節子には少し寂しかったかもしれないと、今にして思うと後悔の念が生じます。
しかし、節子と話すのを忘れて、読みふけっていたことが何回あります。
私でさえ思い当るほどですから、節子はもしかしたら怒っていたかもしれません。
でも、その時には、まさか節子が逝ってしまうとは思ってもいなかったのです。
あまりの愚かさと身勝手さに、このことは思い出すたびに胸が痛みます。

今回の「ユーザーイリュージョン」は、どんなことなど考えずに、読みふけれますが、昨日は挽歌を書き忘れました。
懲りずに同じことをやってしまっています。
節子はきっと笑っていることでしょう。
修は夢中になると寝食を忘れるから仕方がないと諦めているでしょう。
しかし、節子がいなくなった今、寝食を忘れることはまったくなくなりました。
しかし、この本は面白いです。
ただかなり難解でなかなか読み勧めません。
その上、今回はきちんとノートをとりながら読んでいるのです。
正直に言えば、ノートを取らないと頭に入っていかないのです。
困ったものです。

ところで本書のどこが面白いのか。
それは、人間には自由意思などないのではないか、ただ「神」にしたがって生きているだけではないのか、というところです。
節子がいなくなってから、子どもの頃から思考停止してきたことを考えるようになってきていますが、その答があるような気がしているからです。
もう少し消化できたら、きっと挽歌で書けることがたくさんあるような気がします。

■1702:タケノコ三昧(2012年4月30日)
三昧といえば、いまもう一つの三昧があります。
この季節は毎年なのですが、タケノコ三昧です。

私はタケノコ料理が大好きです。
ところが今年は福島の原発事故による放射線汚染で、周辺のタケノコがほぼすべて出荷停止になってしまいました。
そのため、わが家の食卓にはタケノコ料理が並ばないでいたのです。
今年はあんまり食べられないかなと思っていました。
ところが連休の直前に、福井にいる節子の姉からどっさりとタケノコが送られてきました。
いつもならおすそ分けするところなのですが、今年は半分以上をわが家で独占してしまいました。
それでこの数日、毎日、タケノコ料理です。
今日はタケノコの煮物とタケノコご飯とタケノコのスープです。
節子が元気だった頃、いろんなタケノコメニューをやってくれたおかげで、いまも娘たちがそれを引き継いでくれているのです。
わけのわからないタケノコカレーなどと言うのもありました。

ユカが、お母さんがせっかく料理を教えてくれたのだから、自分で少しは料理したらといいますが、やはり料理してもらったものを食べるのが私の性にあっています。
さて、明日はどんなタケノコ料理でしょうか。

■1703:神を超える(2012年5月1日)
節子
先週の日曜日、NHK「こころの時代」で、山田邦男さんがヴィクトール・フランクルを語っていましたが、録画していたものを見ました。
山田邦男さんはフランクルの多くの著作を日本語に訳されている方です。
先日、読み直した「それでも人生にイエスと言う」も山田さんの翻訳です。

いうまでもなく、フランクルはナチスの強制収容所を生き抜いた精神科医師です。
山田さんは最初にフランクルに会った時に、それまでの緊張感がスーっとほどけ、心が開いたと話されていました。
フランクルには、たぶん、体験からの大きな生命のパワーが宿っていたのでしょう。
私もそんな人になりたいものです。

フランクルが、「人は人生の意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに応えなくてはいけない」と言っているのは有名な話です。
しかし今回、私の心に響いたのは、フランクルは一神教を超えていたという山田さんの言葉です。
私は、一神教がまったくなじめないため、キリスト教が好きになれないのですが、どうも神を超えた存在にフランクルは行き着いているようです。

実はこの3日間、デンマークの科学ジャーナリストの書いた「ユーザーイリュージョン」という本を読んでいました。
読んでいる途中に、思い出して録画していた「こころの時代」を見たのですが、あまりにもつながっているメッセージを受けて、まさにシンクロニシティを感じました。
先日読んだ「神々の沈黙」もそうですが、この本も神を超えています。

今日はちょっと疲れているので、追々また書いていくつもりですが、生命の深さを改めて感じました。
それにしても、実に刺激的な壮大な仮説の本ですが、私が子どもの頃から考え、従ってきたことに実に符合するのです。
節子がいたら、私の話していたことがまんざら独りよがりの仮説ではないことを自慢できたというような内容でした。
それにしても500頁を超える大著を集中して読んだため、ちょっと目が疲れた上に興奮気味です。
こういう時には、いつも節子に無理やり聴かせたものでした。
まあ私が興奮して話しても、節子は聴いているようであんまり聴いてはいませんでしたが。
しかし、話し相手の節子がいないことが、読書にまでもこんなに影響するとは、思ってもいませんでした。

節子の存在の大きさを、改めて感じます。

■1704:観点の転回(2012年5月2日)
節子
昨日書いた「こころの時代」で山田邦男さんがフランクルの観点の転回の話を紹介していました。
私も以前、まったく同じことをこの挽歌に書きましたので、大きくうなづけました。
山田さんは概略、こう話されました。

ある老人がフランクルのクリニックに来て「妻に先立たれてその悲しみから立ち直れない」と訴えるのです。
その話をフランクルはじっと聞いていてこういうんです。
「もしあなた自身が亡くなって、あなたが今なめているその苦しみを奥さんが今味わっているとするならば、あなたはそれでもいいですか?」
その老人は、「妻は悲しむだろう。とてもそういうことはさせたくない」といいます。
「そうでしょう。そうだとすればあなたは、奥さんを苦しみから救っているんですよ」
それでその老人は、深くうなづいて立ち去ったと・・・こういうことを言っています。
フランクルは、そこで自分が苦しむということに意味があるのだというのです。

山田さんは、こうやって「観点の転回」を行うと世界は全く違って見えてくる、悲しみも辛さも違ってくるというのです。
よくわかります。
私もそうやって、自らを納得させたこともありますし、そういう思いは今もあります。
しかし、全くその通りなのですが、山田さんもフランクルも、肝心なことを語っていません。
その老人は、立ち直れたのかどうか。
そこに「当事者」と「観察者」の視点の違いがあります。

老人はフランクの話に納得したでしょう。
私も納得できましたから。
しかし、それがどうしたというのでしょう。
問題の所在を見間違えてはいけません。

観点の回転はとても大切ですが、変えられない観点もあるのです。

実は、この文章は書いたものの、どこかすっきりしないところがあって、昨日は公開せずにいました。
読み直して、書き直そうと思っていましたが、うまく書き直せそうもありません。
ですから、このままアップしてしまいます。
念のために言えば、私はフランクルを非難しているのではありません。
彼も十分に「当事者」でしたから。いや私以上に当事者を過ごしてきたはずですから。
しかし、当事者といっても、それは自分だけの当事者なのです。
それを忘れてはいけません。
フランクルの言葉のどこに違和感があるのか、少しわかってきました。
いつか書けるかもしれません。

■1705:去ってほしくない苦痛(2012年5月3日)
節子
もう一つ、山田さんが話されたことを書いておきましょう。

今度は西田幾多郎の話です。

西田幾多郎は、若い頃、幼い娘を突然亡くします。
昨日まで歌ったり踊ったりしていた幼子が今日、白骨になって帰ってくると、これはどうしたことだろう。
西田幾多郎も嘆き悲しみ、苦しみます。
それを見た友人たちが、「いくら嘆いたって死んだ者はかえってこない」と慰めます。
そうしたことに関して、西田幾多郎はこう書いているのだそうです。
「せめて自分が生きている一生の間だけでも亡くなった子供のことを思い続けてやりたい。それが残された者の使命である」と。

あの西田幾多郎がと思って、調べてみました。
「我が子の死」と題されて『西田幾多郎随筆集』に掲載されている有名な文章でした。
長いですが、引用させてもらいます。

若きも老いたるも死ぬるは人生の常である。
死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。
しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい。
飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという。
しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、
一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、
何か記念を残してやりたい、
せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
(中略)
折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である。
死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう。
しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。

「親はこの苦痛の去ることを欲せぬ」
去ってほしくない苦痛というのもあるのです。

■1706:“sublime” 崇高なるもの(2012年5月4日)
節子
先日、読んだ「ユーザイリュージョン」の最後の章は「崇高なるもの」と題されていました。
500頁を超える膨大な論考を経た結果、著者が行き着いたのは「崇高なるもの」という概念でした。
それこそが、「人間であることのすばらしさの極みにかかわる価値」だ、と著者のトール・ノーレットランダーシュは言うのです。

「崇高な」の原語は“sublime”です。訳語としては、「荘厳な」というのもあります。
でもなんだかいずれもピンときません。
ノーレットランダーシュは、「意識が人を十分に信頼し、生命を、その自由な流れに任せるような状況や妙技」を“sublime”と言っているからです。
もっともこの文章は、主語が「意識」になっている、少しわかりにくいでしょう。
この本の副題は「意識という幻想」です。
ややこしいのですが、著者は、意識で構成されている〈私〉と意識以外のものも含む〈自分〉とを区別しているのです。
そしてこう書いています。

前意識の人間は〈自分〉でしかないのに対し、意識を持つ人間は、自分は〈私〉でしかないと信じている。人間は〈自分〉しかない段階から、見たところでは〈私〉しかない段階へと移行してきた。〈自分〉の段階では、行動は神々の声に支配されていたが、〈私〉の段階では、意識が自らすべてを支配していると考えている。

前にも書きましたが、意識の誕生をとりあげているジュリアン・ジェインズは、「神々の沈黙」で、人間が意識を持ち出したのはせいぜい3000年ほど前だと言っています。
とんでもない話のように思えるかもしれませんが、この2冊の本を読むと、もうそれは確実なことのように思えてしまいます。
節子がいなくなってからのことを考えると、私にはそのことがとても納得できますし、まさに今、この2冊の本に出会えたのには意味があるとも思っています。
もしかしたら、節子がこの2冊の本を勧めてくれたのかもしれません。

さて問題は“sublime”、崇高なるもの、「生命を、その自由な流れに任せるような状況」です。
ノーレットランダーシュは、それについてもう少し書いています。

人との交わりのコンテクストでも、私たちは他人の目に自分がどう映るかを気にしないでくつろぎ、相手のために、そしてその相手とともに、いられる状況を探し求める。そうすることで、会話の中やベッドの上、はたまたキッチンで、自分をすべてさらけ出すことができる。
互いの存在に臆することなく、ありのままに生きるという状態にあるときは、私たちは崇高な一体感を経験できる。

私と節子は、この意味でお互いに「ありのままに生きる」関係でした。
2人でいる時の、あの安堵感、充実感、至福感は、まさにsublime だったような気がします。
その時間がいま失われてしまったのかもしれません。
私は今も、すべてをさらけだす生き方を志向していますが、それが実現できたのは、節子に対してだけでした。
それが失われたことの空虚さは、やはり埋め合わすことはできません。
少しは近代人として、生きる努力をすべきかもしれません。

■1707:自立しない宣言(2012年5月5日)
節子
また福井の義姉からどっさりのタケノコが送られてきました。
節子がいなくなっても、私の好物が引き続き届きます。
ありがたいことです。
そのどっさりのタケノコを、娘たちが調理してくれるので、私は相変わらずタケノコ三昧です。

しかし、娘からはもう少し自立したらと盛んに言われます。
しかし私が自立できるわけがありませんので、自立しない宣言をしました。
なんでこの歳になって自立しなければいけないのか。

こういう私の生き方は、たぶんに節子に原因があります。
私たちは、分野分野によって、お互いに依存しきってしまう関係でした。
人には得手不得手がありますから、それを活かしあったほうが、それぞれの人生も関係も良いものになると思っていたのです。
今にして思えば、それは間違っていました。
もし私が先に逝ったら、節子は私以上に苦労したでしょう。
節子は私以上に自立していなかったからです。
つまり、私たちはお互いそれぞれに自立できていない、だめな夫婦だったのです。

しかし不思議なもので、その自立していない2人が組み合わさると、実に自立してしまうのです。
それに、自立していない相手を見ると、自分の自立できないでいる部分は棚に上げて、相手にとっての自分の存在価値を実感できるのです。
ややこしいですが、実は役立つというのは双方向の関係概念です。
誰かに役立っていると思うことほど幸せなことはありませんが、それが可能になるのは、役立てる人がいなければいけません。
つまり、役立つことに価値があるということは、実は役立たせてやることにも同じほどの価値があるのです。
役立つということは相手がなければ成り立ちませんから、当然のことです。

だから私は自立をやめて、娘たちが私に役立てるように、相変わらずだめの生き方をしようと思ったわけです。
節子が聞いたらどう思うでしょうか。
また言いくるめられたと怒るでしょう。
節子はいつも私に言いくるめられていましたが、だからと言って節子の行動が変わることはありませんでした。
これもまた双方向の関係概念だったのかもしれません。
節子が言いくるめられたという時には、だいたいにおいて私の話を聞き流していたからなのです。
そんなおかしな会話をする相手がいなくなったのが、無性にさびしいです。

■1708:不幸なのか幸せなのかは瑣末な話(2012年5月6日)
長い連休が終わりました。
今年の連休は。不幸なバス事故からはじまり、最後は北関東地域での竜巻騒ぎでした。
使者を伴う人災で始まり、使者を伴う天災で終わりました。
私はこの9日間、意味のあることは何もせずに、無駄に時間を過ごしていました。
節子がいなくなってからの5月の連休は、いつもこんな感じで過ごしているような気がします。
「楽しもう」とか「どこかに行こう」という気はまったく起きないのです。
不思議といえば不思議です。
禁欲的になったといえるかもしれませんが、なにか楽しいとか美味しいとか、そういった気分を味わうことへの意欲が完全と言っていいほどに消え去っているのです。

世間が華やかになることへの抵抗はありません。
世間が賑やかに、楽しい状況になることはむしろうれしいことです。
「やっかみ気分」はなくなっています。
一時は、そうした気分がまったくなかったわけでもありません。
しかし、いまは明るい話を聞けばうれしくなります。
むしろ世の中の暗い話や悲しい話は聞きたくありません。

こういう状況になって感じるのは、世間は他者の不幸の話を好んでいるのではないかということです。
ともかくテレビや新聞で報道されるのは、悲しい話が多いのです。
そういう話は、私はもう聞きたくありません。
事故であろうと事件であろうと、なんでこうも詳しく報道するのかと思うことが少なくありません。
特に被害者が涙ながらに語るシーンは、見たくもありません。
あとでとても後悔するのではないかという危惧もあります。

気のせいか、今年の連休の間の報道は、あまり明るくありませんでした。
昨年もそうでした。
3.11やバスの事故のせいかもしれませんが、もしかしたらそれだけではないのかもしれません。
社会全体が、あるいは多くの人たちが、疲れているからでしょうか。
他者の不幸を知りたがっているのでしょうか。
他者の不幸を知りたい人は、たぶん自らも不幸なのでしょう。

しかし本当の不幸を体験すると、人は幸せになれるものです。
不幸と幸せは、ほんとうにコインの裏表です。
最近つくづくそう思います。
自分が不幸なのか幸せなのか、まったくわからなくなってきました。
そもそもそんなことは瑣末なことなのではないかと思うようになってきているのです。

■1709:エヴィーバ(2012年5月7日)
節子
今日はユカとジュンと3人でエヴィーバに行きました。
ジュンのパートナーの峰行がやっているイタリアンレストランです。
夕食に3人で行くのは初めてです。
私がタケノコ好きなのを知って、タケノコイタリアンにしてくれたのです。
前菜もメインもみんなタケノコ入りです。

まず前菜はホタルイカとタケノコのマリネです。
ユカがホタルイカが好きですが、私のためにタケノコも入れてくれました。
タケノコとたらの芽とズッキーニの花のフリットは、みんなとても美味しかったです。
バーニャカウダにもタケノコをいれてもらいましたが、これまでは苦手だったバーニャカウダがとても美味しく、ついでに私はセロリも追加するほどでした。
バーニャカウダは、魚の臭みが苦手なのですが、エヴィーバのは大丈夫です。
メインディッシュは私の好物の干し鱈のパスタです。
エヴィーバのパスタはみんな手打ちですが、今夜は8種類が用意されていました。
私は娘たちのお薦めで、オレキエッテにしました。
私は、オレキエッテという名前も知りませんでしたが。
適度の歯応えで、とても美味しかったです。
ユカはホタルイカの入りのイカスミパスタでしたが、それにもタケノコを入れてもらい、私も少しシェアしました。
もう一つ、フィレンツェ風のトリッパを娘たちは頼みましたが、私には無理だろうと言っていましたが、食べたら実に美味しいので、私も堪能させてもらいました。
牛の内臓だそうです。
最後はイチゴのラビオリ。お店の野澤さんがイチゴを特別にタップリ入れてくれました。
そして最後のデザートはなにやら聞きなれない名前でしたが、要はシャーベットのようなものでした。
濃厚なイチゴ味で、初めての触感でした。
連休明けの月曜だったのでお客様も少なく、料理の話を聞きながら堪能させてもらいました。
エヴィーバのイタリアンは、味がさわやかでとても美味しいのです。

返す返すも残念なのは、節子がいないことです。
節子がいたらどんなに楽しんだことでしょう。
節子が大好きになりそうなお店ですし、メニューなのです。
それが残念で残念でなりません。

節子の分まで食べてしまったせいか、帰宅したら急にお腹が満腹になって苦しいくらいです。
間違いなく、節子も、私の口を借りて食べていましたね。
そうでなければ、こんなに苦しくなるはずがありません。
エヴィーバにいた時には、もっと食べられそうだったのに、不思議です。

■1710:武田さんの心配(2012年5月8日)
節子
武田さんから電話がかかってきました。
私は今、あるちょっとした問題に関わっているのですが、それを心配しての電話です。
私はいま、知人の事業家の事業再生の相談に乗っているのですが、私が巻き込まれて、自宅も手放し、路頭に迷うのではないかと武田さんはすごく心配しています。
実は、先日、私自身も少し心配になって眠れなくなったことがあるのですが、その話をうっかり武田さんにしてしまったのです。
なにしろ私は隠すということができない単細胞で、ついつい言わなくていいことが口から出てしまうのです。
その時の私の様子が、これまでになかったような深刻さを漂わせていたそうです。
今まであんな佐藤さんは見たことがないと、武田さんは言うのです。

心配させて悪いことをしてしまいました。
持つべきものは友だちだと思い一瞬感謝の念をいだきましたが、その後の武田さんの言葉でその念は消え去りました。
奥さん、つまり節子のことですが、節子の押さえがあったのでまあ大丈夫だったけど、佐藤さんは馬鹿だから、それがなくなった今、何をするかわからないというのです。
まあ私はあんまり賢くはないのですが、こう正面から当然のように馬鹿といわれるとは困ったものです。
まるで節子よりも私のほうが馬鹿みたいではないですか。
まあしかし、武田さんも馬鹿なので、許すことにしましょう。
馬鹿のよさは馬鹿だけが知っているものですから。

まあそんなことはどうでもいいのですが、武田さんから見ると、私は節子のおかげで道を外していなかったようなのです。
その節子がいなくなったので、武田さんは心配してくれているのです。
やはり感謝しなければいけません。

伴侶を亡くして、投げやりになったり、無分別の行動をとったりしてしまう人もいるようです。
しかし私は伴侶がいる時から、けっこう無分別だったからその心配はありません。
武田さんは保証人になると大変だというのですが、それは娘からも言われています。
私はお金は持っていませんが、不幸にしてわが家の所有名義は私になっているのです。
武田さんはそれを心配しているのです。
節子名義にしておくべきでした。
資産家は辛いものです。いやはや。

しかし、それにしても、武田さんはいつも節子の肩を持ちます。
私在っての節子だったことをいつか思い知らさなければいけません。
しかし、その前に今の事業再生の課題を乗り越えないといけません。
さてさてうまくいくでしょうか。
私を信頼してお金を提供してくれた人のために、がんばらなくてはいけません。
うまくいけば、私の会社の借金も返せるかもしれませんが、うまくいかない場合は、さてどうするか。
それが問題です。
人生はなかなかうまくいきません。だから人生なのですが。

■1711:私にとって一番大事なのは家族です(2012年5月9日)
節子
名古屋に本社がある企業の社長が湯島に来てくれました。
今年の初めに社長だった兄が急逝したため、社長になってしまったのです。
たぶん本人の意図ではなかったと思います。
前の社長も湯島に何回か来ていますが、2人の生き方はかなり違います。
社長の大変さをそれなりに知っていますので、まあ気分転換にでも立ち寄ったらとはなしていたのですが、昨夜、わざわざ横浜の出張のついでに立ち寄ってくれたのです。
2時間ほどいろいろと話しました。

最後にポツンと言いました。
私にとって一番大事なのは家族です、と。
その話し方が、心に響きました。
彼の人柄が出ています。
私も何人かの社長と接点はありましたが、これまで「人間」を感じた人はそう多くはありません。
まあ10人いるかいないかです。
いうまでもなく私が付き合うのは「社長」ではなく「人間」ですので、付き合いはそう多くはないのです。

家族がすべてではないですが、人は一人では生きてはいけません。
家族や友人に支えられて生きています。
昨今は、そうした家族や友人がなんだか功利主義的な関係になってきているような気もしますが、大企業の社長からぽつんと「私にとって一番大事なのは家族です」という言葉が出てくると、何やら無性にうれしくなります。
言うまでもなく、彼は友人も大事にしているでしょう。

私もまた、「私にとって一番大事なのは家族」と言い切ってきましたし、自分の意識の上では、そう行動もしてきました。
節子がいる時には、その家族の象徴が節子でしたが、節子がいなくなってそれが少し見えなくなってきていました。
彼の言葉を聞いて、いろいろと思うことがありました。

社長は明日また東京に来るそうです。
しかし今夜は名古屋に帰るといいます。
なぜなら家族と食事を一緒にしたいからだそうです。
彼がますます好きになりました。

節子がいる時に、彼と出会えればよかったと、つくづく思います。

■1712:重荷を背負い合う(2012年5月10日)
節子
最近どうも疲れが抜けません。
それに肩こりがすごいのです。
いささか悩ましい重荷を抱えているせいかもしれません。
重荷にうなされて夜中に目が覚めることもあります。
目が覚めると心配が高まって眠れなくなります。
節子がいた頃は、こんなことはありませんでした。
重荷は、一人で背負っていると疲れます。

もっとも、節子がいた頃も重荷から自由だったわけではありません。
そもそも節子の病気自体が、私たちにはとても重い問題でした。
医師から覚悟してくださいと言われても、覚悟する気にはなれませんでしたが、私にも節子にも、とても重い荷物だったことは間違いありません。
夜中に心配で目が覚めたことも少なくありません。
しかし、それでも隣に伴侶が寝ているだけで、安堵できました。
どうしても不安が収まらない時には、相手を起こして一言二言話せば安堵できたのです。
重荷を背負い合う相手がいれば、重荷も重荷になりません。

しかし、一人だとちょっとした重荷にも心が暗くなることもあります。
「だいじょう」と言ってくれる人がいないと、心配は増幅してしまうのです。
今から思うと、私たちが楽観的でいられたのは、お互いに「だいじょう」と言い合ってきたからかもしれません。
その一言があるかないかで、状況は全く変わってしまうのです。

重荷を背負い合う関係を社会に復活しようという話は、コムケア活動を始めた時に行きついた発想です。
その集まりでは、いつもその話をさせてもらいました。
ある人は、その言葉に感激したと言いながらも、でもやはり他者の重荷を背負うのはちょっと腰が引けてしまうと、後で耳元でささやいてくれました。
その話も節子にしたことがありますが、重荷を背負うことに関しては、節子ときちんと話したことはありませんでした。
でも節子は、いつも私の重荷をシェアしてくれましたし、私も節子の重荷をシェアしてきたと思います。

節子がいなくなって重荷は軽くなったのか。
そんなことはありません。
ますます重くなってきています。
最近は半端ではなく肩が凝ります。
節子がいたら揉んでもらうのですが、やはり娘には頼みにくいです。
不思議なものです。

重荷を背負い合う生き方は、そろそろ私には無理なのかもしれません。
最近、そんな気がしてなりません。

■1713:安らかだが退屈な日々(2012年5月11日)
節子
この挽歌に時々投稿してくれる人が、最近の投稿で「死は安らぎ」だと書いてきてくれました。
その方も伴侶を亡くされましたが、「妻のいない現世から解放されて、彼岸で妻に会える」からと書いています。
死が安らぎだと思えることは、たぶん今の生も安らぎだといえるように思います。
その人は、その前のコメントで、
「自分を愛してくれる人が傍にいる。それだけで、人は死の恐怖をも忘れ去ることができるのかもしれませんね」
と書いていますが、死を安らぎだと思えることは、間違いなく今もなお「愛する人が傍にいる」ということでしょう。
問題は、それがなかなか「実感」できないことです。

実感できないことは、しかし、悪いだけではありません。
節子が元気だった頃、私たちはよく夫婦喧嘩をしました。
夫婦が決裂してしまうような危機もなかったわけではありません。
現実に毎日一緒にいれば、いいことだけではありません。
煩わしいこともあれば、安らげないこともある。
それは当然と言っていいでしょう。
どんなに愛し合っていても、ちょっとしたことで壊れてしまうこともあります。
もっと言えば、愛し合っていても終わってしまうことだってないとはいえません。

しかし、実際に隣に節子がいないいまは、もう愛が壊れることなどないのです。
節子の欠点が新たに発見されることもないですし、節子に嫌われることもない。
つまり、節子との関係は、もう変化しようもない。壊れようがないのです。
という意味で、安らかな生が確保されているのです。

もっとも、安らかさがいいわけではありません。
いつ嫌われるかもしれず、いつ嫌いになるかもしれない、そんな生のほうが魅力的ではあります。
そうした緊張感や刺激がないのが、どうも最近の私の気力が出ない原因かもしれないな、と思い出しています。
人生がますます退屈に感じられるこの頃です。

■1714:常紅樹(2012年5月12日)
節子
庭のモミジが陽光を受けてきれいに輝いていました。
このモミジは春も夏も秋も、いつも紅葉です。
名前を忘れてしまいましたが、節子は好きでした。

この写真をフェイスブックに掲載したら、宮内さんがこんな書き込みをしてくれました。

常緑樹ならぬ常紅樹ですね
そのような呼び方があるかどうかはわかりませんが。
樹木を見るたび、会ったことがないのに節子さんのことを考えます。

宮内さんは、節子がいなくなってから知り合ったのですが、献花台の前でギターを弾いてくれました。
節子に会っていない人にも思い出してもらえる。
節子は幸せ者ですね。

このモミジを上から見るとこんな感じです。

宮内さんは、先日、我孫子駅の花壇の写真をフェイスブックに載せてくれました。
節子の仲間たちが手入れしているのを知っていてくださるのです。
うれしいことです。

ちなみに、わが家の庭の花木はかなりだめにしてしまいましたが、節子が好きだった花が次々と咲き出しています。
節子が活躍している風景が目に浮かびます。

■1715:手巻き寿司文化(2012年5月13日)
節子
今日は母の日でした。
娘がバラとカーネーションの花を供えていました。
まあ今年の母の日はそれだけでした。

夕食は娘たちと3人で手巻き寿司パーティでした。
母の日だからではありません。
ジュン夫婦が明日からイタリア旅行なのです。
峰行のお母さんたちも一緒です。
それで今日は、わが家だけですが、ささやかな壮行会でした。
わが家では、こういう時には手巻き寿司パーティというのが、節子がつくった文化です。
その文化がいまも残っているのです。
ジュンのパートナーはイタリアンレストランをやっているので、ジュンは夕食をわが家で食べることが多いのですが、今日もそんなわけで、3人での手巻き寿司でした。

もっとも節子の時代の手巻き寿司とはだいぶ違います。
節子は張り切って、回転式の手巻き寿司セットをテーブルの上に置き、ネタも豊富でしたが、最近は節約家のユカの仕切りなので、いささかネタに不満があります。
それにネタの種類がちょっと違うのです。
なんだかよくわかりませんが、今日はアボガドまでありました。

わが家の手巻き寿司の文化はいつから始まったのでしょうか。
私の両親と同居しだした頃からでしょうか。
私の両親は、むしろチラシ寿司文化でしたが、節子はそこに手巻き寿司を持ち込んだのです。

手巻き寿司を食べながら、ジュンが言いました。
節子がいたら一緒にイタリアに行くというだろうなと言うのです。
ユカは行かないだろうと言いました。
私は、もし私が一緒に行くといえば、行くだろうと言いました。
やはり家族それぞれの節子像は、微妙に違うようです。

さてどれが正解でしょうか。
もちろん私のが正解であることは間違いありません。
節子は私と行動を共にすることを最優先していましたから。
いや、そうでもなかったかな。
もしかしたらジュンが正解かもしれません。
節子は、意外と私よりも優先していたことがいろいろとありました。
それに、彼岸にも一人で旅立ってしまいましたし。
でもまあ、きっと今は、後悔していることでしょう。
彼岸への旅は、私を置いていくべきではありませんでした。
方向音痴の節子は苦労していることでしょう。
困ったものです。

■1716:初夏を感ずるのに気が起きません(2012年5月14日)
節子
時に初夏を感じさせる、気持ちのいい季節になりました。
こうした時期になると、節子は必ずどこかに出かける計画を立ててくれました。
あの頃が懐かしいです。

今日は代官山にある友人のオフィスに行きました。
代官山にオフィスを持っている友人は他にも2人いるのですが、そのすぐ近くを通っても立ち寄る気になれません。
これは、節子を見送ってから私に起こった変化の一つです。
以前は、どこかに行ったら、必ずといっていいほど、近くの友人のところには顔を出したくなりました。
いまは全く正反対になってしまったのです。

昨日、ジュンからイタリアのお土産で欲しいものはあるかと訊かれました。
何にもないよ、と応えました。
節子のいる頃だったら、たとえば、ふくろうの置物とかベスビオス火山の溶岩とか、何か欲しいものが浮かんだはずです。
しかし今では、ふくろうのコレクションにも興味がなくなりました。
心は、もしかしたらもう、彼岸に行っているのかもしれません。

スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いた鈴木さんから、昨日、手紙が来ました。
発作的にまたハガキが書きたくなったので、と書いてありました。
そして、巡礼した時の資料を処分しました、ともありました。
鈴木さんは、私よりずっと若いのですが、できるだけ物を持たない、聖者のような暮らしをしています。
20年ほど前に鈴木さんに会ったときから、それは一貫している彼の生き方です。
節子の闘病中には、時々、美味しいお菓子を節子に贈ってきてくれました。
節子は、しかし直接お礼を言う機会を得ることはできませんでした。

鈴木さんは、何を支えに生きているのだろうか。
急に鈴木さんに会いたくなりました。

■1717:粗雑な生き方(2012年5月15日)
節子
オフィスの黒めだかが全滅してしまいました。
とても残念です。
この数日、あまりオフィスに行かなかったのと、行ってもめだかに声をかけなかったからかもしれません。
だいぶ水が汚れていたので、水槽を掃除しようと思いながら、先延ばしにしていたのが失敗でした。
そういえば、せっかく冬を越したミニシクラメンも枯らせてしまいました。
いずれもとても元気だったので、ついつい気を抜いてしまいました。
生きているものとは、やはりていねいに付き合わないといけません。
とても反省しています。

最近、どうも生き方が粗雑になってきているような気がします。
節子がいたらきっと注意するでしょうが、いろんな意味で「粗雑」なのです。
もしいま、私が突然に生をやめたら、迷惑を受ける人は少なくないでしょう。
一日一日を大事に生きることを、節子から学んだと書いておきながら、最近の生き方はいささか「投げやり」になっています。
身体の不調が起こっても、まあいいかと思います。
今日やろうと思っていたことができなくても、まあいいかと思ってしまう。
気になることがあっても、ついつい見ない振りをしてしまう。
節子が一番怒りそうな生き方になってきています。

黒めだかの死は、もしかしたら、それを諭してくれているのかもしれません。
そういえば、最近はよくないことが頻発していますが、これももしかしたら私の生き方への警告かもしれません。
いまここに生きているものと誠実に付き合わずして、
いまここには生きていないものと誠実に付き合えるはずがありません。

実は、そのことを最近強く意識しすぎてしまっているために、なんだかとても生きにくくなっているのです。
気は、沈みだすとどんどん沈む一方です。
どこかで反転しないといけません。
愛する人を失った人は、どうやって気を反転させているのでしょうか。
私にも体験があるはずですが、そうもそれが思い出せません。

武田さんがいうように、もしかしたらちょっと危ういのかもしれません。
挽歌が書けなくなってきているのは、要注意ですね。
雨の日は、特に気が沈んでしまいます。

■1718:「去年マリエンバードで」(2012年5月16日)
「去年マリエンバードで」という映画をテレビで観ました。
私が大学生の頃に話題になった映画です。
芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにしたものですが、その作り方が大きな話題を呼びました。
4つのシナリをつくり、それぞれを撮影し、その4作品を編集して一つの作品にするという手法です。
『藪の中』は、黒澤明によって『羅生門』という映画になっていますが、それに触発されて、アラン・レネ監督がつくった映画です。
アラン・レネは、アウシュヴィッツ収容所を描いた『夜と霧』で注目された監督です。
私は一時、映画評論家になりたいと思ったことがあり、大学3年の頃は映画館に通い詰めていました。
当時、ヨーロッパの映画もかなり観ましたが、「去年マリエンバードで」は一度しか観ていないのに、一番印象に残っている映画の一つです。

その映画を、半世紀ぶりに観たわけです。
ストーリーはあんまり意味もないのですが、こんな感じです。
主人公の男Xは女Aと再会します。
Xは去年マリエンバートで会ったとAに語りかけるのですが、Aは記憶していません。
しかし、AはXの話を聞くうちに、おぼろげな記憶が浮かんできます。
そして、Aの夫であるMは、「去年マリエンバートで」実際に何が起こったのか知っているのです。
そして最後にXとAは去っていくのです。
まあ、わけのわからない紹介ですが、そんな映画なのです。

そこでは、実は彼岸と此岸が融合しています。
時間軸も複雑に絡み合っている。
さらにいえば、3人の思考が、別々に絡み合いながら、一つの世界を創りあげているのです。
私の理解では、Aは死者です。
映画の中では、MがAを銃で撃つ場面がフラッシュされています。
しかし、Aはすでにその前に生を失っていたかもしれません。
当時のフランス映画のテーマの一つだった「死ぬほどの退屈さ」に覆われていたのです。
ですから、Aは夫に撃たれることで彼岸に蘇ったのです。
彼岸で蘇った死者が見えるXも死者と言えます。
Xもまた、彼岸に生きているわけです。
そして、そのXが見えるMも死者ということになる。
つまり、これは死者の織り成す鎮魂歌なのです。

なにやらややこしい話を書いてしまいましたが、愛とか死とかをいろいろと考えていた若い頃を思い出しました。
あの頃は、ミケランジェロ・アントニオーニとかイングマール・ ベルイマンにはまっていました。
そこに節子が現れた。
そして人生が変わったのです。
シンプルな人生に、です。
節子に感謝しなければいけません。

■1719:久しぶりの挽歌(2012年5月25日)
節子
最近、気が極度に弱っているのを感じます。
思い当る理由はあるのですが、まあ以前の私であれば、そうたいした問題でもありません。
節子にはよく言いましたが、「それがどう転ぼうと、太陽は回っているから大丈夫だよ」と言えたでしょう。
今も、頭ではそう思えるのですが、どうも心身がついてきません。
不安感で覆われ、何かとても寒くなるような気がするのです。
人の温かさが、ほしいです。
こんなことは、これまで経験したこともありません。
節子がいなくなって今日で1727日ですが、その間のいろんな不安感が鬱積してしまっているのかもしれません。

ある友人は、数日前にあるメーリングリストへの私の投稿を読んで、心遣いのメールをくれました。

いつも前向きで好奇心旺盛なのでネガティブになる発言は 今日の金環日食と同じくらいビックリします。
でも、佐藤さんもやはり人間だった と思いましたので安心しました。

この人は、私以上に前向きで好奇心旺盛の人ですが、私の気配を感じたのでしょう。
私は表情はもちろんですが、文章でさえも自分を隠せない性質のようです。

いま調べたら、挽歌は16日に書いて以来、書いていません。
こんなことも初めてです。
これまでは書けなくてもせいぜい2日でした。
それに時評編も書いていません。
挽歌の読者はもしかしたら、心配してくださっている人もいるかもしれません。
すみません。
むしろそれが気になってしまっていたのですが、しかし書けない時は書けないものです。

挽歌を書かなかった間に、アウシュビッツを体験した神経科医のフランクルの「人間とは何か」を、最新版の翻訳で読みました。
フランクルの思いが、とても素直に心に入ってきました。
特に、愛や死に関する記述にはまったく違和感なく、素直に心を開けました。
しかし、同時に、フランクルの言葉に共振しすぎて、沈んでしまいがちになってしまっていました。

極めて俗世間的な難題にもぶつかっていました。
気が弱くなっていたからでしょうが、人への不信感に悩まされていました。
世の中には悪い人などいないのだという、節子も聞き飽きていただろう、私の信念が少し揺らぐほどでした。
それがまた自己嫌悪を呼び起こし、ますます気を削いでいたのです。

まだそうした状況から抜け出たわけではありません。
不安感が心身を覆っている状況もさほど改善されてはいませんが、だからこそ挽歌を書き出そうと思いなおしました。
さて、1週間かけて、挽回しましょう。
節子に向かって、何かを書いていれば、きっと気が戻ってくるでしょう。
止まっていると、ますます心身が冷えていきそうです。
今日も寒い日になりましたが、私のせいでしょうか。
そうかもしれない、そんな気さえするほど、寒いです。

■1720:逆さ虹(2012年5月18日)
節子
気分を変えて動き出すはずが、なかなかそう簡単ではありません。
しかし、挽歌の読者からは、
挽歌の更新がないので心配していました。

もしかして、奥さまの後を追われてしまったのではないかなどと考えてしまいました。

とコメントまでもらいました。
これではいけないと思いながらも、なかなか気が乗ってきません。

お昼ごろ、娘から電話があり、めずらしい虹が出ているというのです。
急いで外に出てみましたが、場所の違いからかあんまりはっきりはしません。
しかしたしかに奇妙な虹です。
娘の友人が撮った写真を掲載させてもらいます。

「逆さ虹」と言って、時々、各地で目撃されているようですが、イギリスのある宇宙物理学者が「60年間生きてきたが、初めて見た」とコメントしているほど、めずらしいのだそうです。
それに見る角度によって、位置も変わってくるそうです。
ネットによれば、見ることができた人は非常に運がいいとのことです。
私もまあ、運がよかったのでしょうか。

この数週間、どうもあんまり運に恵まれませんでした。
みずからの気が萎えていると、運は寄り付いてくれません。
気分的にはなかなかマイナススパイラルから抜け出られずにいます。

実際に人は、生きる気を失うと死んでしまうことは、いろんな人が報告しています。
意図的にではなくても、結果的に節子の後を追うようになっては節子に合わす顔もありません。
節子には、あれほど「大変な生」を続けさせておきながら、自分が生を投げてはいけません。
そんなことをしたら、節子に追いかえさせられそうです。

逆さ虹も見たことですから、気を起こして、挽歌も書きましょう。

■1721:精神のカ動性(2012年5月26日)
節子
最近、どうして気が萎えているのかわからなかったのですが、フランクルの「人間とは何か」を読んでいたら、こんな文章が出てきました。

人間は、ある一定の、健全で、適度な緊張を必要としている、と私は考えるのである。大切なことは、どんな代価を払っても恒常性(ホメオスタシス)を維持させることではなく、精神のカ動性なのである。

私にとって、節子は「健全で適度な緊張感」を与えてくれる存在だったのです。

節子を見送ってからは、精神のカ動性を意識的に封じ込めてきているような気がします。
意識的に、というのは必ずしも正しくないかもしれません。
生命現象が意識よりも勝っているといったほうがいいでしょう。
つまり、今の私は、意識は萎えているのに、生命は決して萎えていないのです。
生命の感受性は高まり、視界は広がり、意識の世界を超えて、生命が動き出している。
存在しない節子までも実感できるほどに、生命は過敏になっています。
その一方で、意識は呪縛されたようにひたすら「その時点」にとどまろうとしています。
「意識を放棄した意識」、そんな感じさえします。

節子がいなくなってから、ある意味で、意識は弛緩しっぱなしです。
何かを成そうという気は後退し、流れに随うという生き方に変わってきています。
何かを成すほどの意欲が生まれない。
まあ平たくいえば、「もうどうでもいいか」というような気分なのです。
生命のホメオスタシスに心身をゆだねて、怠惰に生きている、そんな状況にあります。
適度な緊張感のないままに、精神の力動性は作動せず、どこかで精神が萎えだしている。
そして、その隙間をぬって過度な緊張感が入り込んできて、いっそう気を萎えさせている、そんな状況なのです。

私だけではないと思うのですが、愛する人がいなくなると、人生は弛緩します。
どうでもよくなってしまう。
と同時に、健全でもなく適度でもない緊張感に襲われます。
緊張と弛緩は矛盾すると思う人もいるでしょうが、私の場合は、その両者が間違いなく共存しています。
つまり、精神、あるいは気が、大きく触れているのです。
その理由も、フランクルは書いています。

愛はよく言われるように盲目にするものではなく、視力を強めるものであり、価値を洞察させるものである。

生命現象も、意識現象も、愛によって増幅させられます。
しかし、その「愛」の対象が実感できなくなると、意識は混乱してしまう。
異常な疲労感は、そうした中で発生するのかもしれません。

フランクルの本から気づいたことはたくさんあります。
あまりに多すぎて、うまく書けませんが、少し書き続けてみようと思います。

■1722:随流去(2012年5月27日)
フランクルの話を書こうと思っていたのですが、昨日の挽歌を書いていて、「随流去」という言葉を思い出しました。
ちょうど、1週間前に、テレビの「こころの時代」で聞いた言葉です。
回りの流れに身を任せて、しかし思うがままに生きていくというのが、私の理想なのですが、そうしたことにつながっている言葉なので、心に残っていました。

随流去。
流れに従って去る、という言葉ですが、これは大梅禅師の言葉として伝えられています。
大梅禅師は、長い期間、山に篭って行をされていたことで有名な唐の時代の高僧です。
杖になる木を探しに山に入ったある修行僧が、路に迷ってしまいます。
そして、たまたまたどりついた大梅禅師の庵で、「山を抜け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか」と訊いたところ、大梅禅師は「随流去」と応えたという話です。

「流れに随って去(ゆ)きなさい」、大梅禅師は川に沿って行けば山を抜け出られることを教えてくれたのです。
川の水は低いほうに流れていきますから、その流れに沿って歩いていけば里に導かれるというわけです。
この言葉には、自分の判断ではなく、大きな真理に従って歩いて行けばいい、という意味が込められています。
真理は、川の流れのように、どんな状況にも揺らぐことなく、ぶれることなく低きに向かって流れていきます。
壁にぶつかっても、必ず進路を見つけ出していくのです。

これは、私が目指している生き方そのものです。
十分に出来ているとは思いませんが、私ができるだけ直感を大事にしているのは、生命には真理が宿っていると思っているからです。

もちろん、流れに随っていくことは、流れに流されることは違います。
心を安らかにして思いを発すれば、流れの本流が見えてくるものです。

なぜこんなことを書こうと思ったかといえば、最近、どうも大きな流れではない、小さな流れに惑わされがちだからです。
節子がいなくなったのも、大きな流れから見れば、きちんとした意味を持っているのでしょう。
右往左往してはいけない。
そのことを、節子は私に教えていってくれたはずです。
節子がいなくなった今も、大きな流れは滔々と流れているのです。
随流去。
流れに随うならば、最近の不安感は消えていくような気がしてきました。
節子の生き方を思い出さなければいけません。

■1723:愛は死よりも強い(2012年5月27日)
節子
フランクルは「人間とは何か」でこう書いています。

人間が本当に愛しているかぎり、その愛において、自分の心が実際に相手の精神的人格の一回性と唯一性に向けられているということは、それを体験している人間にはそのまま実感されることである。

いまは、それがよくわかります。
しかしそこから話は少しややこしくなります。

愛は志向的行為なのである。愛が志向するのは他者の相在であり、それは、究極的に現存在から独立している。つまり、それは「存在」には依存しない「本質」であり、そのかぎり存在を超越しているのである。
こうしてのみ、愛が愛される人間の死をも超えて持続するということが理解されうるのであり、ここから初めて、愛が死よりも、すなわち愛される人間の存在の無化よりも「強い」ということが理解されるのである。

なにやらわかったようでわからないのですが、ただなんとなく頷ける気もします。
続けて書かれていることを読むと、もう少し納得できるかもしれません・

愛される人間の現存在は死によって無化されるとしても、その相在は死によっても無くなることはない。その人の無比の本質は、すべての真に本質的なものと同じく、時間を超えたものであり、そのかぎり過ぎ去ることのないものである。
愛は、愛される者の身体性をほとんど問題とせず、そのために愛はその人の死を越えて持続し、自分自身の死まで存続するのである。実際に愛している者にとって、愛される者の死を現実に捉えることは決してできない。それは、その人が自分自身の死を「捉える」ことができないのと同様である。

私がとても共感できたのは、「実際に愛している者にとって、愛される者の死を現実に捉えることは決してできない」というところです。
まさに、いまの私がそうなのです。
どうもまだ節子がいないという現実感がありません。
笑われそうですが、毎朝、節子に般若心経をあげながら、どこかからひょっこり節子が出てくるような気がしてならないのです。
フランクルは、「愛はその人の死を越えて持続し、自分自身の死まで存続する」とも言っています。
愛は死によって断ち切られることはないのです。

では、愛とは何か。
愛とは実は生きることではないかと、最近思うようになってきました。
愛がなくなってしまう時、人の生は終わるのです。
だとしたら、節子の生はまだ終わってはいません。
私の生を、今も支えてくれているのです。
少なくとも、節子がいなかったら、私の生はいまとはまったく違ったものになったでしょう。
だとしたら、節子と一緒に育ててきた、この生を、もっと大事にしなければいけません。
フランクルは、そう言っているような気がします。
生き方を少し考え直さなければいけません。
共に相在する節子に怒られそうです。

■1724:箱根と湯河原(2012年5月27日)
節子
先週、1年ぶりに湯河原に寄ってきました。
宿泊しようと思っていたのですが、やはり一人で過ごすには辛すぎました。
湯河原は、私たちの終の棲家になるはずでした。
その計画はもう夢のまた夢になってしまいました。

湯河原に寄ったのは、前日に箱根で合宿だったからです。
ホテルの宿泊客のご夫婦が山のホテルの話をしていました。
きっと今頃はつつじが満開でしょう。
節子が元気だった頃に、2人で行ったことを思い出します。
その時は食事だけでしたが、泊まりに行く計画はついに実現できませんでした。
あれほど通った箱根ですら、やり残したことが山のようにあります。
ともかく節子の旅立ちは早すぎました。

小涌園でバスを待っていたら、ガラスの森美術館行きのバスが来ました。
箱根ガラスの森美術館も、節子は大好きでした。
私も2回ほど付き合いましたが、節子は友だちとも行っているはずです。
次に来たバスは湿生花園行き。
ここも節子がごひいきのところでした。
それにしても今回はなぜかバスを待っている間に、節子を思いださせるバスが立て続けに来ました。
これも何かの意味があるのでしょうか。

箱根は仕事の関係で、いまも毎年、強羅か小涌園で宿泊していますが、節子がいなくなってからは一度も芦ノ湖まであがったことはありません。
今回は時間があったので、その気になれば芦ノ湖経由で湯河原に行けたのですが、やはりまだその気にはなれません。
節子とは毎年数回行っていましたが、もうかなり様子も変わってしまっているでしょう。

そういえば、湯河原もだいぶ変わりました。
こうやって風景はどんどん変わっていきますが、私の心象風景は節子がいた頃のままにとどまっています。
私たちが記憶している箱根や湯河原は、過去のものになってしまっていくのでしょう。
そして私たち自身もまた、過去に埋もれていく。

節子
彼岸からの箱根や湯河原の風景はどんな感じですか。
私が見る箱根や湯河原は、節子がいないせいか、もの悲しくさびしいです。

■1725:あらゆる存在は関係存在(2012年5月28日)
昨日の挽歌に出てきた「相在」と言う言葉が少しわかりにくかったかもしれません。
その前のフランクルの文章を紹介しなかったからです。
その文章も、とても共感できる言葉です。

一つの存在者は他の存在者と関係づけられることによってはじめて、両者は本質的に存在しうるのである。
それぞれ互いに他の存在者であるものとしての存在者間の関係が、ある意味で存在者に先行している。
存在は他在である。
言い換えれば、存在は閑係としての他在であり、本来ただ関係なので「ある」。
つまり、あらゆる存在は関係存在である。

存在は閑係としての他在であり、本来あるのはただ関係だけ。つまりそれが「相在」ということです。
まるで仏教の経典を読んでいるようです。
そして、それは私の考えと重なっています。
人は一人では存在できずに、誰かがいるから存在しうるのです。
さびしがりやだった私の、それは小さい頃からの考えでもありました。
私は、孤独でいることも好きでしたが、それはこうした考えがあればこそです。
孤独でいることで、すべての人やすべての自然、あるいはすべての存在とつながりあえるからです。
しかし、節子と20年ほど一緒に暮らした頃から、少しずつ私は変わってきました。
すべての存在との関わりの結節点であるべき私の中に、節子が入り込んできたのです。
世界が変わり、私が変わりました。
いまの私は、節子との関係の中で生まれたのです。
一度、変わると、人はもう元には戻れません。
前に進むしかない。
そして、節子のいない私は、いまやもう存在さえできないわけです。

おかしな話ですが、節子が彼岸に旅立っても、私たちの関係は此岸にそのまま残っています。
では、もし私が彼岸に旅立ったらどうなるのか。
もしかしたら、それでも私たちの関係は此岸に残り続けるのかもしれません。

私は遺跡が大好きです。
遺跡に立つとそこで生活を営んでいた人たちの声が聞えてくるような気がするからです。
そしてとても懐かしい気持ちになれるのです。
遺跡を訪れても、私に残るのは風景ではなく、そうした雰囲気なのです。

此岸では見えない地球の風景があるのではないのか。
そんなことを節子と話したこともありますが、節子は今それを見ているのかもしれません。
「愛が愛される人間の死をも超えて持続する」(フランクル)ということは、関係は決して消えることがないからなのです。
何しろ関係を変えたくても、もうその相手が見えなくなっているのですから、此岸からは変えようがないのです。
だから、愛は永遠なのです。
今の私には、終わらせる術がないわけです。
困ったものですが、これは素直に受けいれねばいけません。

■1726:誕生日の意味(2012年5月29日)
節子
私も明日で71歳です。
信じられないような年齢です。
まさかこの歳まで自分が生きているとは思ってもいませんでした。
しかし気分的にはまだ学生の頃とそう変わってはいないのです。
節子がもし元気だったら、まだまだ青春を謳歌している気分でしょう。
節子がいなくなってから、私の時間軸はどうも狂い続けています。
5年前でストップしているようであり、はるかな時間を過ごしたようであり、自分の歳もわかりにくくなっています。
ただ、節子は62歳で止まってしまったので、私の年齢感覚もそれに大きく影響されているのは間違いありません。

人の年齢感覚は不思議です、
小学生時代の友人たちといると、みんなその時に気分に戻ってしまいます。
まさに人との関係性のなかに、年齢があるのです。
そして自分を基準に人の年齢を感じてしまいます。
私は今でも60代の人を見ると、私よりも年上に感じます。
客観的には私のほうがずっと年上なのですが、どうしても年上に感じてしまうのです。
自分の姿は自分では見られません。
鏡で見ることはありますが、鏡の中の自分をまじまじと見ることはそうはありませんし、なによりも私の場合、鏡の中の自分よりも私の意識の中の自分のほうが自分だと思っています。

節子と日々暮らしていたら、それ相応に「老い」を感じられるかもしれませんが、節子がいないいまは、むしろ「老い」を感じられないような気がします。
だからこそ、逆に心身のギャップから過剰な疲労を背負い込んでしまうのかもしれません。

ジュン夫婦が今日は一日はやい私の誕生日を祝ってくれました。
ナポリ土産のパスタで海鮮料理を作ってくれました。
とても美味しかったです。
節子がいたらどんなに喜んだことでしょう。

料理はとても美味しかったのですが、いまはもう、私には誕生日はほとんど意味のないものになってしまいました。
誕生日は、やはり子供たちにではなく、愛する妻に祝ってほしい記念日です。
妻と共に人生を重ねることには意味がありますが、一人で人生を重ねていくことの意味は、残念ながらあまり実感できないからです。
ちょっとひねくれてしまっているのかもしれませんが。

■1727:「不幸な」愛というものは存在しない(2012年5月30日)
節子
「愛は、どんな場合でも、愛する者を豊かにせざるをえない」とフランクルは書いています。
とても共感できます。
「悲恋」という言葉はありますが、「悲愛」という言葉はありません。
本来的に、恋は他動詞であり、愛は自動詞だからだと思います。

フランクルはこう書いています。

「不幸な」愛というものは存在しない。
というのは、私は本当に愛しているか、本当には愛していないかのどちらかであるが、もし私が本当に愛している場合には、それが報われるか否かにかかわらず、私は豊かにされていると感じるのであり、また私が本当に愛してはいない場合には、私は他の人間の人格を本当に「思っている」のではなく、その人格を離れて、その人が「持っている」単なる身体的なものや(心理的な)性格特性を見ているにすぎない。
この場合は私はそもそも愛する人間ではないのである。

誰かを愛すると、その人の価値が見えるようになり、それは自らを豊かにしてくれる、ともフランクルは書いています。
今となって思えば、私の生き方が(私にとって)とても豊かになったのは、節子を愛する事ができたおかげだと思います。
たしかに私には、節子の身体的なものや心理的なものも大きな価値を持っていますが、それも含めて、節子を愛したということそのものが、私の人生の意味を深めてくれたように思うのです。

思った以上に早い終わりは、悲しさもありますが、フランクルが言うように、だからと言って、「不幸」とはいえません。
それに、節子との一緒の暮らしは終わりましたが、愛が終わったわけではない。
私は今もなお、節子を愛していますし、節子もたぶん私を愛しているでしょう。
そう思えば、悲しむことはないわけです。
悲しいのは、ただただ節子と話したり抱きあったりできないだけの話です。
でもそれもまた、節子を愛したことで与えられた私の人生の意味の一つなのです。

むかし読んだフランクルと今度読んだフランクルとはかなり印象が違います。
フランクルは最後の最後まで原稿を書き直していたといいますから、内容も少し変わっているのかもしれませんが、私の意識が大きく変わっているのでしょう。
「不幸な」愛というものは存在しない。
実に共感できる言葉です。
いまの状況を嘆きたい気持ちはもちろん強いですが、一方で、いまの幸せをきちんと認識しないといけません。

愛する人を失った人たちにも、この豊かな気持ちを分かち合いたい気もします。

■1728:愛は魔法(2012年5月30日)
節子
フランクルの本の話をもう少し続けます。
節子のことを考えながら、この本(「人間とは何か」)を読んでいたからです。

愛は、それだけで人を幸せにする「恩恵」であるが、それだけではない。
愛は魔法でもある、とフランクはいうのです。
そういわれると、たしかにそうです。
フランクルは、こうつづけます。

愛する者にとって世界は魔法をかけられ、愛によって世界に価値が加えられるのである。
愛する人間は、愛によって、価値の豊かさに対する人間的な共感性を高める。
宇宙全体は一層広く深い価値を有するものになり、愛する者のみが見ることのできる価値の光の中に輝くのである。
なぜなら、愛はよく言われるように盲目にするものではなく、視力を強めるものであり、価値を洞察させるものであるからである。

誰かを、あるいは何かを、愛すると、世界は一変する。
愛によって、世界は輝きだす。
それまでなんでもなかったものが意味を持ち出す。
価値を持ち出すのです。
すべての時間が至福の時間になり、永遠に続くような気になります。
それは、私が体験したことでもあります。
まさに、愛は魔法です。

問題は、その魔法が解けてしまった時です。
愛はなくなったわけではないのですから、魔法は解けてはいないはずですが、あれほど輝いていた世界が、無表情で退屈な世界に一変してしまいます。
輝きの幻覚は、節子との思い出と共に、時々浮かんではきますが、以前とは違った世界がそこにある。
これはどうしたことでしょう。
あきらかに矛盾があります。
愛が永遠であるならば、魔法もまた永遠でなければいけない。
にもかかわらず、世界の輝きは消え失せてしまいました。
まるで、その輝きは、愛する者によって引き起こされていたかのように。
その輝きを支えていた存在がいなくなったために、輝きがとまったかのように。
まるで、世界の輝きは節子と共に、彼岸に行ってしまったようです。
残されたのは、生きる価値がないとさえ思いたくなるような、退屈な無表情な世界です。
もう魔法は戻ってこないのでしょうか。

フランクルは、「愛によって、価値の豊かさに対する人間的な共感性が高まる」と書いています。
とても納得できますし、私も実感しています。
価値の豊かさは、以前よりも間違いなくよく感じられますし、その感覚は節子がいなくなってむしろさらに高まったように思います。
にもかかわらず、世界は輝きを失ってしまった。

この矛盾が、まだなかなか解けません。
実は何となく答はすぐそこにあるような気がしているのですが、うまく説明できません。
たぶん、私はまだ、愛の魔法にかかっているのでしょう。
時間が少したったら、またフランクルを読み直してみようと思います。

■1729:玄関のバラ(2012年5月30日)
節子
玄関のバラが咲き続けています。
フェイスブックに掲載したら、たくさんの人からきれいですねと言われました。
ある人は「節子さんのバラが見事ですね」と書いてきてくれました。
そういえば、これも先日、我孫子駅前の花壇の写真をフェイスブックに載せたら、ある人が「節子さんが手入れしていた花壇ですね」と書き込んでくれました。
お2人とも、節子とは会ったこともなく、私もそれほど節子の話をしたこともないのですが、なぜか節子と結び付けてくれました。
どうやら私自身は意識していなくても、伝わるものなのかもしれません。

玄関のバラは元気ですが、庭のバラはかなりだめにしてしまったかもしれません。
それでも数種類のバラがいまも咲いています。
時々、娘たちが節子にも供えてくれていますので、節子も知っているでしょうが。
しかし、庭の花の手入れは結構大変ですね。
枯れさせてしまった花を見ると、明日からはきちんと手入れをしようと思うのですが、どうも永続きしません。
困ったものです。
もっと誠実にならなければいけませんね。

■1730:お祝いのメール(2012年6月1日)
節子
節子がいた頃はまだ話題にもならなかった、フェイスブックというのがあります。
1年前から私も始めました。
ブログとメールとホームページを合わせたようなもので、とても面白く、弱い紐帯やスモールトーク関係を育てていく仕組みとしては効果的です。
私も500人を超える人と、いまやりとりしていますが、フェイスブックでは自らのプロフィールを公開するのが基本です。
それで私の誕生日も公開されているわけですが、そのおかげで、誕生日になると沢山の人から「誕生日のお祝い」が書き込まれます。
そんなわけで、今年は150人を超える人たちから「誕生日おめでとう」メールが届きました。

そのなかには、私との出会いでちょっとだけ生き方が変わったと書いてきてくれた人たちが何人かいました。
文面では、「良い方向」への変化だと思いますが、それを読みながら、節子の人生はどうだっただろうかと思いました。
出会わなかったらどうなったかまったくわかりませんので、比較のしようもありませんが、私と会わなかったら、もしかしたら節子はいまも元気で、生を楽しんでいるかもしれません。
そんな気がしてならないのですが、しかし、同時に、節子がもし私に会わなかったら、その人生は退屈だっただろうなという思いもあります。
私と会ったおかげで、そして一緒に暮らしたおかげで、節子はたぶん「普通とはちょっと違った人生」を楽しめたのではないかと思います。
そのなかには、「余計な苦労」も、「不愉快なこと」も、そして「早すぎる死」も含まれています。
それにしても、「よくもった」ものです。

私が25年間務めた会社を辞めるといった時に、節子は引き止めるどころか、「今までよくもったね」と言いました。
お互いに、よくもったものです。
いろいろと問題がなかったわけではありません。
しかし少なくとも私たちは、私たちらしい生き方ができたように思います。
節子にしてやれなかったことはたくさんありますが、少なくとも、私たちの人生は退屈ではありませんでした。

71歳になってしまいました。
佐藤さんの心は30代、と書いてきてくれた人もいますが、心は成長していなくても、身体はかなりぼろぼろです。
もう10年は元気でいてくださいと書いてきてくれた人もいますが、長くてもあと5年ほどにしたいと思います。
うまくいくといいのですが。

たくさんの人たちからお祝いのメールは来ましたが、節子から来ないのが、やはりさびしいですね。

■1731:「輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない」(2012年6月1日)
節子
またフランクルです。
しかし、今度はフランクルの言葉ではありません。

フランクルは、「一本の松明が消えたとしても、それが輝いたということには意味がある」と書き、それに続いて、オーストリアの詩人ヴィルトガンスの言葉を紹介しています。
「輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない」という言葉です。
そして、フランクルは言います。
われわれは、それが燃え尽きること、「最後まで」燃えることに耐えなければならない、と。

一本の松明とは何か、これもいろいろな思いが広がりますが、今日はヴィルトガンスの言葉について書きたいと思います。
「輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない」。
ここで、「燃える」とは苦悩することを意味している、とフランクルは説明しています。
つまり、輝きには苦悩が共存している。

ものにはすべて表と裏があります。
あるいは時間的には盛衰がある。
表がなければ裏はありませんし、盛がなければ衰もない。
もちろんその反対、たとえば、衰がなければ盛もない、とも言えるわけです。

節子との幸せな生活や関係が、もしずっと続いていたらどうだったか。
もちろんそうであったら、どんなにかよかったことでしょう。
しかし、輝くものはいつか燃え尽き、輝かなくなるのかもしれません。
私と節子に限っては、そんなことはないという自信はありますが、しかし、不変であることは、生きていること、輝いていることとは両立しないようにも思います。
苦悩のない幸せはないのです。
あるいは、幸せが大きければ大きいほど、そこには大きな苦悩が秘められているわけです。
こうしたことは、前にもこの挽歌で書いたような気がしますが、それをひっくり返したらどうなるか。

節子との別れがあればこそ、節子の大切さ、節子の価値が見えてきたのかもしれません。
節子との別れで奈落の底に落とされたからこそ、節子との出会いの幸せや節子との暮らしの豊穣さがわかったのかもしれません。
苦悩が大きければ大きいほど、節子との生活の価値の大きさが実感でき、愛もまた大きく感じられる。
苦悩の大きさが、私たちの生の輝きの大きさを確信させてくれているともいえるわけです。
そして、それは言い換えれば、いまの幸せを確かなものにしてくれる。
つまり、苦悩は同時に幸せであり、輝きなのです。
それに気づけば、素直にいまの悲しさやさびしさを受け容れられます。

そしてフランクルです。
「一本の松明が消えたとしても、それが輝いたということには意味がある」。
少なくとも、私たちは一時とはいえ、輝いていました。
ですから徹底的に燃え尽きるまで、耐えなければいけません。
耐えることこそが、節子への愛の証だからです。
物語はまだ終わっていないのです。

フランクルは、多くのことに気づかせてくれ、私を支えてくれています。

■1732:どうして人それぞれに寿命があるのか(2012年6月2日)
節子
3月に、自殺を考えた人や自殺未遂された方などに語ってもらう「フォワードフォーラム」というのを開催しました。
そこで語り手の一人になった吉田さんは、ご子息を34歳で亡くされています。
吉田さんは、そのことに触れた時に、「人それぞれに寿命があるのでそれは仕方がないことですが」と話されました。
その言葉がとても印象的で、頭から離れないでいます。
人それぞれに寿命がある。
その言葉は、私には心を落ち着かせる言葉なのですが、その一方で、でもほんとにそうなのだろうかと思うのです。
もし本当ならば、節子の寿命はどうして62歳だったのだろうかと、食い下がりたくもなります。
そして、私の寿命はいつまでなのか、とも思います。

先週、新潟の金田さんが湯島に来ましたが、金田さんのお母さんはもうじき103歳だそうです。
100歳を超えて、なお元気な方もいる。
30代にして、人生を終える人もいる。
どうして人には、それぞれの寿命があるのでしょうか。

若い時には、寿命などということはまったく意識していませんでした。
しかし、今となって考えると、私と節子が共に寿命を全うすることなど、ありえないことは明らかです。
寿命を共にできない2人が幸せな夫婦になるということは、「不幸」を取り込むことなのです。
なにをつまらないことを書いているのかと怒られそうですが、そうした「別れ」もまた、幸せの一要素なのかもしれないという気がしてきました。
個人としての寿命のばらつきがあればこそ、さまざまな体験が生まれて、「大きな生命」は輝いていく。
そしてそれがまた、個人としての生命にフィードバックされていく。
もしかしたら、このあたりについては、華厳経に書かれているのかもしれません。
いずれにしろ、寿命があればこそ、人生は輝いていくことは間違いありません。
だとした、愛する者の寿命が自分よりも先に訪れることにも、なにか大きな意味があるはずです。
さてさて、まだ難題です。

ところで、昨今の健康ブームは、寿命に抗うということなのでしょうか。
あるいは寿命を全うするということなのか。
節子がまだ元気だったら、私たちも健康ブームに参加していたでしょう。
少なくとも、節子は間違いなくそうでしょう。

しかし寿命が定まっているのであれば、それに素直に従うのがいいと私は今はもちろんですが、ずっと思い続けています。
節子がいないので、健康管理をしなくてもいいのがうれしいです。

■1733:時間の変質(2012年6月3日)
節子
昔は季節の変わり目が大好きでした。
夏は夏で、冬は冬で、ともかく新しい季節が来ることに何となくワクワクしたものです。
しかし最近は、そうした季節の変わり目はワクワクするよりも、なにやらさびしさを感ずるようになっています。
一緒に迎える人がいないからかもしれません。
それに、季節が変わったからと言って、何かが始まるわけでもない。

誕生日もそうですが、いろいろな記念日も、一緒に迎える人がいないと記念日の意味もありません。
そうなると時間とか季節とかいうものの意味が薄れてしまいかねません。
とても平板な流れの中で、人生は退屈になってしまいかねません。
別にそう望んでいるわけでもないのですが、時間の流れは節子がいた頃とはまったく違います。

今日はまる一日家にいました。
時間はたっぷりあったので、いろいろとしようと思っていたのですが、結局、何もせずに一日が終わってしまいました。
夕方、お墓に行ってきましたが、それ以外は一体何をしていたのだろうかと思うほどです。
朝、やろうと思っていた事は何一つ手付かずでした。
節子がいなくなってから、こんな日が増えました。
何かやらなければいけないことがないと、ただただ無意味に過ごしてしまう。
夕方になって、ホームページを更新する日だと思い出して、あわてて作業しましたが、挽歌は書けませんでした。
寝る前になって、挽歌を書こうと思っても、そういう時には挽歌も書けません。
こうやって無理やり書いている有様です。

時間は同じように過ぎていくのですが、節子がいた頃といなくなってからでは、時間というものがまったく違ってしまったような気がします。
もう2度と、以前のようには戻らないのでしょうか。
節子はきっと何かとても大切な時間の要素を持っていってしまったのでしょう。
しかしまあ、もともとは節子と一緒に育ててきた時間感覚ですから、仕方がありません。

■1734:布施人生(2012年6月4日)
節子
昨日、元上場企業の社長だったYさんが湯島に来ました。
ある集まりで、私が少しだけ話したことに関心を持ってくださり、歓談したいとその集まりの事務局の方と一緒に来てくれました。
私は初対面だとばかり思っていたのですが、以前、湯島のオープンサロンにも来てくれたそうです。
その時は奥様もご一緒でしたと、Yさんは開口一番お話されました。
一度お会いした人はできるだけ心に刻み付けているようにしていますが、大変な失礼をしてしまいました。
最近、こうしたことが時々起こります。

Yさんは、さらに続けました。
とても不思議な集まりで、しかも奥さんがご一緒だったので、どうしてご一緒に参加されているのですかと訊いたら、「愛のためでしょうか」と応えられましたよ、とおっしゃるのです。
思わず女房がそう言ったのですか、と言ってしまいました。
まあたぶん、冗談だったのだろうとは思いますが。

節子はオープンサロンが最初は好きではありませんでした。
飲物や軽食を用意するのも大変でしたし、議論の内容も節子の関心事ではないことが多かったからです。
いやがる節子を説得して、わけのわからない集まりを10年以上も続けていたのです。
当初は飲み放題でビールもふんだんに用意していました。
私は下戸ですが、節子はビールすら飲めませんでした。
にもかかわらず、ビールを出すのも節子には最初は抵抗があったでしょう。
参加費もとらずに、どうしてビール飲み放題なのかと、参加者に言われたこともあります。
しかしこれは私にとっては、コモンズの確認だったのです。
そのうち、こっそりとビール券を置いていったり、お金を置いていったりする人が現れだしました。
持ち込みも多くなり、一時は机に乗り切らないほどの食べ物が集まりました。
そうしたことが、私のその後の生き方や今の価値観に大きな影響を与えています。
コモンズの悲劇ではなく、コモンズの幸せが現実なのだと確信できたのです。
節子も大きな影響を受けたと思います。
オープンサロンは、私たちを育ててくれた場でもあるのです。

Yさんは私に、佐藤さんはお布施人生ですね、と言いました。
お布施は他者のためではなく、自らのためのものですから、と答えさせてもらいましたが、私がそうした生き方を続けられたのは節子のおかげだったなとつくづく思います。

最近は、オープンサロンも会費制にしてしまいました。
そのくせ、飲物もお菓子もよく出し忘れます。
節子がいたらどういうでしょうか。

いまは私がお布施をもらうようになってきました。
毎月のように、誰かが珈琲を持ってきてくれます。
私好みのものは、私が自宅に持ってかえって飲んでしまうこともあります。
今朝も、湯島で飲んで美味しかったので、こっそり自宅に持ち帰ったモカマタリを飲んでいます。
予想よりも利益が出たからと、ある中小企業の社長がお金を入金してくれたので、昨年の私の会社は黒字になりました。
サロンの常連だった人は、私以上に私のことを心配してくれています。
しばらくはまだ湯島を閉じなくてすみそうです。
喜ぶべきかどうかは、少し迷うところではありますが。

■1735:「見せてしまったら崩れてしまうかもしれない」(2012年6月5日)
節子
一度しかお会いしたことのない方からコメントに寄せられました。
2年ほど前に伴侶を見送った方です。
コメントから少し引用させてもらいます。

この2年間無我夢中でした。
ふっと心に穴が開いたように孤独と向き合うことが多くなりました。
でも誰にもそんな顔はみせません。。。
どうしてかわからないけど、見せてしまったら崩れてしまうのではないかって?怖いからかもしれません(苦笑)

「見せてしまったら崩れてしまうかもしれない。」
この言葉が気になっていました。
何が崩れるのだろうか。
崩れたらどうなるのだろうか。

実は私は節子を見送った後、見事に崩れました。
今も崩れているのかもしれません。
節子がいる時から崩れていたような生き方でしたから、外見にはそう変わっていなかったかもしれませんが、娘たちには見えていたでしょう。
私はいつも、自分に素直に生きることを大切にしてきました。
それでも、しかし、「誰にもそんな顔」があったことは否定できません。
当時はわかりませんでしたが、今になると逆にそれがよくわかる。

節子を見送って間もなく、友人のTさんがと友人と一緒に群馬から来ました。
いずれも最近伴侶を亡くされた人です。
Tさんは私よりも少しだけ年上でしたが、節子が逝く少し前に夫を亡くされました。
その直後に私は高崎のあるイベントで彼女に会いました。
彼女が主催したイベントでした。
後で知ったのですが、その時には夫を見送った様子など微塵も見せませんでした。
彼女は、ともかく凛とした人でした。
彼女の書いた本を節子は読んで、その生き方を敬服していました。
2人は残念ながら、会う機会はありませんでしたが。

しばらくしてTさんが友人と一緒に湯島を訪れたいと言ってきました。
そして友人は最近伴侶を亡くし、傷心していると書いてありました。
3人の伴侶を亡くした傷心者の、ちょっと不安な集まりになる予定でした。
私も、Tさんであれば、心が開けるかもしれないと思っていました。
30分ほど話して、さあこれからもっと本音が出てくるかなと思っていたら、Tさんがいつものきっぱりした口調で言いました。
はい、これで悲しい話は終わり、別の話をしましょう。
意外でしたが、いかにもTさんらしいと思いました。
そして、NPO関係の相談になりました。
ともかくさまざまな社会的な活動をされている人なのです。

ところでコメントを送ってくれたSさんはこう続けています。

いつも忙しくしています。
でもこないだ足を怪我して一日中家にいたら淋しさに占領されてしまってなかなか元気になれなくています。
夫のいない淋しさを埋めようと思ったらしく柴犬を飼ってしまいました。
息子がいても愛犬がいても人は一人なのだと思うことが多くなりました。

忙しくないと崩れそうになるのかもしれません。
時間ができてしまうと、孤独を感じてしまうのかもしれません。
そんなことは、つまり人は孤独であることは決してないのですが、私も時にそう思ってしまいます。
もう5年近く経つのですが。

■1736:「久しぶり・・・ではありません」(2012年6月5日)
節子
金沢の大浦さんから久しぶりにメールが届きました。
題は「久しぶり・・・ではありません」でした。

大浦さんのことは前にも何回か書かせてもらいました。
たとえば挽歌1194「挽歌が取り持つ縁」で、私と大浦さんとの縁の始まりを書きました。
大浦さんは、お嬢さんの郁代さんを見送られ、その後、ずっと「mikuちゃんの日記」を書き続けています。
そこに今日は「郁ちゃんの輪」と題して、一条さんと私との3人の輪の話を書かれています。

今回のきっかけは、一条真也さんのブログです。
一条さんの新著「礼を求めて」に、私と大浦さんのことがでてきているのです。
私は、久しぶりにmikuちゃんの日記を読ませてもらいました。
そうしたら大浦さんからメールが届いたのです。
そのメールのタイトルが、「久しぶり・・・ではありません」でした。

久しぶり・・・ではありません
毎日読ませていただいていますから。
佐藤さんが続けていられるので、私もやめるわけにはいかないのであります。
佐藤さんはやっぱり「布施人生」です!
佐藤さんへのレター、続きはこちら↓
 http://d.hatena.ne.jp/mikutyan/20120605/1338861305

私も、このブログをやめるわけにはいかなくなってきました。
いやはや大変です。

ちなみに、今回の縁を作ってくださった一条さんのブログもお時間が許せばお読みください。

■1737:自らの虚無感からのロゴセラピー(2012年6月5日)
節子
まだ節子後日数と挽歌の番号がずれていますので、今日はもう一つ書きましょう。
ロゴセラピーの話です。

この挽歌でも何回か書きましたが、フランクルが始めた精神療法はロゴセラピーです。
私は数年前に知ったばかりですが、フランクルのロゴセラピーが書かれている「人間とは何か」を読んだのは先月になってからです。
そこでいろいろなことを気づかせてもらいました。
そのことをフェイスブックに書いたら、なんと近くにロゴセラピストの勉強をされている友人がいたのです。
それも企業経営のコンサルティングの分野で活躍されている田口さんです。
おどろきました。
私は、自らもその一人ですが、昨今の経営コンサルタントがあまり信頼できずにいます。
しかし、ロゴセラピーを学んでいる人が、こんなに身近にいることに自分の不明さを恥じました。

その田口さんが、湯島に来てくれました。
いろいろと話しました。
とてもうれしい話が多かったです。
田口さんがロゴセラピーに関心を持った経緯は、虚無感からだったそうです。
その虚無感は、今の時代であれば、ほとんどの人が持ってもおかしくないでしょう。
でも田口さんは、それを契機に学びだしたのです。
これからの企業経営にとって、たくさんの示唆がそこには秘められているはずです。
すでに田口さんは、ロゴマネジメントに関しても著作を進めているようです。

経営コンサルタントの多くは、カウンセリングやコーチングの資格をとっています。
私は、そうした動きにはかなり冷ややかです。
資格や技法の問題で、カウンセリングやナラティブセラピーが中途半端に利用されることへの危惧があるからです。
田口さんが自らの虚無感から学びだしたという話にとても共感がもてました。
フランクルがそうであるように、自分の問題から出発しなければ、技法や観念に陥りかねません。
そういうブームは、それこそ虚しいです。
しかしそうしたブームに多くの人は流される。
それが私にはやりきれません。

田口さんと話していて、私もまた企業の経営コンサルタントをやりたい気分になってきました。
田口さんは、今の大企業の病理を深く理解しているはずですが、それでも大企業への期待や信頼を揺るがせてはいませんでした。
自らがしっかりしていれば、風景はきっと違って見えてくるのです。
病んでいるのは、大企業ではなく、私なのかもしれません。

挽歌にはあんまり相応しい内容にはなりませんでしたが、フランクル関連で挽歌の中に入れさせてもらいました。

■1738:既生瑜、何生亮(2012年6月7日)
節子
どうも最近、心身ともに調子がよくありません。
今日は、またちょっと挽歌らしからぬ内容です。

テレビの連続ドラマ「三国志」を最近観ているのですが、このドラマは映画「レッドクリフ」とはかなり違います。
レッドクリフでは悪役だった魏の曹操が好意的に描かれていて、私にはかなり安心して観ていられます。
ちょうどいまは、呉の名将といわれた周瑜と蜀の諸葛孔明の確執が中心に物語が展開されています。
周瑜と孔明はライバル関係にあり、孔明への怒りが周瑜の命を縮めるという設定になっていますが、史実においても、そうしたことが伝えられているようです。
周瑜は遠征途中に36歳で急逝するのですが、その臨終の際、「諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死」(ウィキペディア)したといいます。
テレビドラマでも、諸葛孔明への怒りで周瑜が吐血する場面が何回か出てきます。
もし周瑜が「既生瑜、即生亮」と考えれば、歴史の流れは変わったかもしれません。
「天はこの世に周瑜を生んだからこそ、諸葛亮も生んだ」のです。

挽歌と無縁のことを書いてしまいましたが、少しつなげましょう。
周瑜の妻は小喬という、これも有名な人でした。
2人はお互いに深く愛し合っていました。
しかし、このドラマの中で、2人は諸葛孔明をめぐって、争います。
周瑜が孔明を暗殺しようとした時に、小喬がそれを妨げるのです。
その理由は、孔明がかつて周瑜を助けたことがあるからです。
周瑜を愛していればこそ、小喬は周瑜が孔子を殺めるのを妨げたのです。

愛は複雑です。
周瑜の悲劇は愛が小さかったことではないかと、私はその連続ドラマを観ながら、よく思います。
そして、節子の愛を思います。
節子と同じ時代に生まれたことを感謝します。

それと同じように、同じ時代に生まれた人たちをみんな愛することができれば、どんなに平安に浸れることでしょう。
残念ながら、しかし、最近、この時代に生まれたことにどうも感謝できません。
愛せない人があまりに多く、同じ時代に生きていることにさえ、不快感を感ずるほどです。
私の調子が、あまりよくないのは、そのせいかもしれません。
愛が小さいせいか、腹立たしいことが多すぎるのです。
吐血はしませんが、時々、嘔吐したくなります。

それを癒してくれる節子が、もういない。
心身の調子はなかなかよくなりません。
そんなわけで、最近は時評編もあまり書けないでいます。

■1739:苦楽を共にすることこそ人生の喜び(2012年6月7日)
節子
いま、ある起業経営者の相談に乗っています。
その人は、10年以上前に会社を辞めて起業したのですが、いまは少し苦境にあります。
余計なお世話と思いながらも、こうした苦境には奥様も巻き込んだほうがいいのではないかと話してしまいました。

私たちが、一体感を強めたのは、たぶん私が会社を辞めてからだと思います。
それまでも節子は私を支えてくれましたが、私は仕事、節子は家庭という風に、生活の舞台は別々でした。
経済的にも、節子はあまり苦労しなかったでしょう。
毎月きちんと給料が銀行口座に振り込まれていたからです。
まあ、よくある「普通の幸せそうな夫婦」でしか、ありませんでした。

しかし、私が会社を辞めてからは状況が変わりました。
そして、私がつくった会社の事務的な仕事を、節子は無給で始めたのです。
そして私と一緒に苦労する羽目になりました。
念のために言えば、節子がそれを嫌っていたわけではありません。
会社をオープンした週には、なんと100人を超える人たちがお祝いに来てくれましたが、節子にとってはあまり会ったことのないような人たちばかりでしたから、新鮮だったでしょう。
それに、私の世界を知るという意味でも面白かったに違いありません。
その後も、節子は、私との仕事を楽しんでくれましたし、そのおかげで私たちの信頼関係も愛情も強まったように思います。
ただ、会社の経理の仕事だけはいつも嫌そうにやっていました。
しかし、私は嫌な仕事はすべて節子に任せて、自分のやりたいことだけができたわけです。

会社をやっていると、時には難問にも出会いますが、それも2人で克服してきました。
一緒に難題に立ち向かえば、否応なく、関係は深まります。
たぶん私が会社を辞めずにいたら、私たちは挽歌を書き続けるほどの関係にはならなかったかもしれません。
そんな思いもあって、昨日は、友人の事業家に、余計なお世話の話をさせてもらったのです。

今となってはよくわかりますが、楽しいことももちろんですが、辛いこと、悲しいことのほうが、人の関係を豊かにしてくれます。
「不幸」もまた「幸せ」なのだと、最近はつくづく思えるようになってきました。
苦楽を共にすることこそ、人生の喜びでしょう。
にもかかわらず、その喜びを無駄にしている人たちが、とても多いように思えてなりません。
「共にする相手」がいなくなってからでは、遅すぎるのです。
愛する人には、ぜひ、楽だけではなく、苦も、分けてあげてください。
余計なお世話ではありますが、そう思います。

■1740:家族に約束したかった未来イメージ(2012年6月8日)
節子
人生はいろいろあります。
さまざまな話が毎日のように届きます。

節子も知っているKさんから、今朝、明るい話が届きました。
よかったと思っていたら、夕方、追伸が入りました。
私が「うれしいね」というお祝いのメールを出したことが、気になったようです。

お伝えすべきか逡巡しましたが、
お世話になって説明なしというのも道義に反するような気もしますので。

と前置きして、今朝の話の奥の話を伝えてきました。
最後の一文は、こうでした。

家族に約束したかった未来イメージではないので、いささか悔しくはあります。

勝手に喜んでお祝いのメールを送ったことを反省しました。
人生はいろいろあるのです。

Kさんのメールを読んでいて、「家族に約束したかった未来イメージ」という表現が気になりました。
そういえば、しばらく前に会ったHさんも、同じようなことを話していました。
そうしたイメージが壊れてしまうのが恐かった、とHさんは言っていました。
みんな、そうしたイメージを持っている。
でもそれができなくなってしまうこともある。

私もその一人です。
節子がいたら、いまとはまったく違う生活になっていたでしょう。
娘たちも、時々、そう言います。
しかし、それはどうにもならない。
節子がいなくなってから、もう未来のイメージは私にはまったく持てなくなりました。
未来が実感できないと言ってもいい。
未来を想像できる人は、生きている人です。
愛する伴侶を失うと、生きている実感が持ちにくくなってしまうのです。

KさんもHさんも、いろいろと大変な課題を抱えているようです。
しかし、彼らには伴侶がいます。
新しい未来のイメージがもうじき見つかるでしょう。
いや、未来のイメージを育てていくことこそが、生きていくということなのです。
私には、それがない。
ちょっとだけさびしい気がします。
いつかまた、生きられるようになるかもしれませんが、いまはまだこの状況にとどまっているしかありません。

■1741:湯島のランタナ(2012年6月9日)
節子
昨日、湯島のランタナを大きな鉢に植え替えました。
節子が湯島に行っていた頃は、ベランダの植物の手入れもよく行き届いていましたが、最近は植え替えなどもしていないので、大きな鉢の植物も元気がありません。
あまりに荒れていたので、一つの鉢を私の好きなランタナにしてしまいました。
ランタナだとあまり手入れも必要ないでしょう。
幸いに節子が使っていた道具がまだ残っていたので、植え替えは出来ましたが、節子と違って、極めていい加減な植え替えですので、うまく根づいてくれるといいのですが。

一時期、シクラメンやミニバラやいろいろ小鉢を増やしましたが、単純な観葉植物以外は、やはりだめにしてしまいました。
植物はやはり定期的に声をかけてやらないといけません。

湯島のメダカも全滅してしまいました。
長いこと元気だった黒メダカに続いて、新たに買ってきた白メダカも全滅です。
空中を泳いでいた、ヘリウムガスを入れた魚も、えさのヘリウムガスがなかなか買いにいけずに、いまは棚の上でしぼんでいます。

節子は湯島には行けなくなるかもしれないと感じ出した頃から、ベランダの花も減らして、あまり手間がかからないものにしておいてくれました。
室内の改装も始めてくれていましたが、残念ながら、これは途中で、節子が湯島に来られなくなってしまいました。
ですから、湯島の室内の改装は実は途中のままなのです。
まあ、そんな生々しい記憶が、湯島には残っています。
玄関の造花も、節子が最後にセットしてくれたままです。
節子がいた頃は、造花ではなく生き花でしたが、いまは季節と無関係にバラなどの造花が置かれています。

いまの湯島のオフィスを節子が見たら、さぞかし嘆くことでしょう。
でもまた少しずつがんばって、きれいにしていければと思っています。
それにしても、私はそうしたことがとても苦手なのがよくわかります。
ずっと節子に依存してきてしまったためでしょうか。
時には、彼岸から湯島の掃除に来てほしいものです。

湯島はもう少しそのままにしておこうと思います。

■1742:三年之愛(2012年6月10日)
論語に「三年之喪」という話があります。
当時は親を亡くした時には3年の喪に服したそうです。
その前提には、子供は父母から「三年之愛」を受けて育ってきたのだから、「三年之喪」は当然だとされていたようです。
ところが、ある時、親を失った弟子の一人が、孔子に問います。
3年間、喪に服さないといけないのか、と。
そこで孔子はその弟子に応えます。
「もしお前が、旨いものを食べたら美味しくて、良い服を着たら気持ちが良くて、それで何ともないのなら、3年の喪に服さなくて良い」と。
これは、最近読んだ安冨歩さんの解釈です。

安冨さんは、こう書いています。
もし本当に「三年之愛」を与えられていたら、何を食べても美味しくないだろう。音楽を聞いても楽しくないだろう。良い服など着る気もしないだろう。家にいても落ち着かないだろう。1年経って命日が来れば、また悲しみが新たになるだろう。2年経ったら少しは落ち着くかもしれない。そうすればそろそろ悲しみが治まってくるかもしれない。
安冨さんは、人情に逆らうことを強要するのは儒家の思想に反すると考えています。
私にはとても納得できる解釈です。

喪に服するのは、強要されるべきルールではありません。
むしろそうすることが、生き方を楽にしてくれるという意味で、支えてくれる仕組みなのです。
何を食べても美味しくない、何をしても楽しくない、気分転換などする気にもなれない。
それは、自然の心情なのです。
その期間は、人によってさまざまでしょう。
3年より短い人もいれば、長い人もいる。
そんな日は1日もない人もいれば、終わりがない人もいる。
人それぞれであって、それをとやかくいう話ではありません。
伴侶を見送った翌日に再婚する人がいても、咎められるべきではないでしょう。
その一方で、いつまでたっても、人生がたのしめない人がいても、おかしくなりません。

しかし、私が安冨さんの本を読んで、気になったのは、もしすべての親が、本当に子どもに「三年之愛」を与える社会であったとしたら、素晴らしい社会になるだろうと安冨さんがしみじみと書いていることです。
そのことには、異論はありませんが、万一、「三年之愛」を受けることができなかったとしても、「三年之愛」を誰かに与えることはできるのではないだろうかということです。
人は、愛されることで愛することを学んでいくのでしょうか。
必ずしもそうではなく、愛することで愛されることを学んでいくこともある。

安冨さんの本を読んで、私と節子はどっちがどっちだったのだろうかと考えてしまいました。
いまこれほど挽歌が書けるのは、節子から「三年之愛」を受けていたからなのでしょうか。
いつか安冨さんとお話したいと思います。

■1743:久しぶりのあやめまつり
(2012年6月11日)
節子
手賀沼のあやめまつりのあやめを見てきました。
あまり行く気はなかったのですが、今年で終わりになるそうです。
節子と毎年行っていましたので、もう一度見ておこうと思って、行ってきたのです。
久しぶりでしたが、前よりもあやめは増えていました。
月曜でしたが、人も多く、賑わっていました。
紫色のあやめがきれいでした。

節子が元気だった頃は、時々、散歩でも来ましたし、自転車でも何回も来ました。
一緒に行ったユカが、あやめ園の入り口のアジサイを見て、このアジサイのどれかが節子の好みで、花が終わった後に、小枝をもらってわが家に挿木にしたがっていたと教えてくれました。
節子はどこかで気にいった花木を見つけると、挿木用の小枝をもらったり、タネをもらったりして、わが家の狭い庭に移植していました。
前にも書きましたが、湯河原では道に面した家の庭がきれいだったので、その家に庭を見せてもらい、ついでに花を分けてもらったことさえあります。
いま、その花がわが家の玄関で咲いています。
そんなわけで、わが家の庭の花木には、いろいろと節子の思い出がかさなっているのです。
ちなみに、あやめ園のアジサイは、挿木をもらってきたかどうか、だれも記憶がありません。

帰宅後、花を買いに行くことにしました。
自宅用の花のほかに。湯島のオフィスに、紫色のアゲラダムを買ってきました。
いわゆるカッコウアザミです。
私は紫の花がすきなのですが、手入れが面倒なのはすぐにだめにしていまいます。
アゲラダムは比較的手入れが簡単なので、秋までもたせたいと思います。
この花は、節子が大好きで、前の家に住んでいたころ、門から玄関までの通路沿いに、この花が並んでいました。
買った後に、娘に言われて、それを思い出しました。

ちなみに、アゲラダムの名前の由来は、「老いを知らない」というギリシア語らしいです。
花言葉は「楽しい日々」だそうです。
そうなるといいのですが、

■1744:節子、また歯が抜けました(2012年6月13日)
節子
挿し歯が抜けてしまいました。
気力が萎えてくると、どこもかしこも萎えてくるようです。
困ったものです。

今回抜けた歯は、これで3回目です。
前歯ではないのですが、口をあけると見える場所の歯です。
歯がないと、実にこっけいに見えるようです。
最初の時には、たしか自宅でした。
抜けるたびにエピソードがありますが、最初の記憶は、ともかく節子も娘たちも、笑い転げていたことです。
節子は、お腹を捩じらせて、涙を流して笑っていました。
全く失礼な話です。
自分の顔は見えませんから、何がそんなにおかしいのかわかりませんでしたが、鏡を見て、私も笑ってしまいました。
歯が1本抜けただけで、こんなに笑えるということは、実に平和で幸せな証拠です。
確か、家族がみんなで写真に残そうと写真を撮っていました。
注意しないと、その写真を私の遺影に使われかねません、
困ったものです。

2回目は出張中に起こりました。
あるところで講演し、その後、みんなと会食する予定でした。
何とか講演はうまくいきましたが、終了後の会食の時に、突然抜けてしまいました。
家族に笑われたことを思い出して、雰囲気を壊すまいと、こっそりトイレにたって、抜けた歯を無理やり挿して戻りました。
注意して食事をしましたが、ついつい話し出すと不注意になってしまい、また抜けてしまいました。
周囲に気づかれないようにするのは大変です。
またトイレ。
そしてその後は、余り話さず食べずに、聞き役に回りました。
今から思えば、まあみんな気付いていたかもしれません。
もしかしたら、笑うのを我慢していたのかもしれません。
悪いことをしました。

それからしばらく安泰でしたが、最近なんとなく不安を感じていました。
案の定、先日、持ちこたえられずに抜けてしまいました。
かかりつけの歯医者さんに応急手当をしてもらいましたが、そろそろ限界ですねといわれました。
私はこの歯医者さんを全面的に信頼しているので、そういわれたら仕方がありません。
またしばらく歯医者さん通いです。

今回、歯が抜けたまま過ごしたのはほぼ1日だけです。
歯が1本ないだけですが、大きな違和感があるものです。
歯医者さんに、1本ないだけで全体の感覚が一変しますね、と話したら、そうでしょうといわれました。
この歯医者さんはていねいで、私は先もそうないので、治療も適当でいいとお話しているのですが、実にていねいなのです。
ミクロン単位の精密作業なのです。
まあ、そのていねいさのおかげで、私は今、快適な生活ができているのでしょう。

人間の心身は、実に精巧なことがよくわかります。
歯が1本ないだけで、これだけの違和感です。
節子がいない生活の違和感が、どれだけ大きいか、推して知るべしです。
喪失体験は、そう簡単には戻らないのです。

■1745:パルミュラ(2012年6月14日)
節子
私の遺跡好きを知って、近くのSさんが、昔、NHKで放映されていた「未来への遺産」のDVDセットをプレゼントしてくれました。
とても懐かしい番組です。
私はこの番組で、パルミュラを知りました。
私が今一番訪ねたい場所が、パルミュラなのです。
それで早速、そのDVDのパルミュラの部分を観ました。

昔の映像なので、画質はあまりよくありませんし、テンポも実にのんびりしています。
しかし、それがかえって心を和ませてくれました。
今と当時では入手できる観光地情報が質的に全く違っているのがよくわかります。
もしかしたら、いまはテレビ画像が高質ので、現地に行ってもさほど感動しないのかもしれないと思うほどです。

昔は、こうした画像を見せて、エジプトに行こうと節子を誘っていたわけです。
節子は、遺跡なんて、泥の塊でしょうと冷たかった理由が少しわかったような気がしました。
たしかに、この映像だと泥の塊でしかありません。
あれほど焦がれたパルミュラも、あんまり魅力的には感じませんでした。

その一方で、その映像の前後に出てきたハトシェプスト神殿やルクソール神殿が実に魅力的に見えました。
ここは節子と一緒に歩いたことがあるからです。
映像の向こうにある現実の質感が得られるからです。
ちなみに、節子は泥の塊といっていた神殿に実際に立った時には感激していましたし、それ以来、泥の塊とは言わなくなりました。
何しろ節子はリアリストなのです。

体験すると、すべての現実が質感を持ち出します。
伴侶を亡くしてみないと、その喪失体験の質感は実感できないでしょう。
それは伴侶との別れに限りません。
相手の立場になって考えられても、相手と同じ質感を共有することはできません。
節子との別れで、私が学んだ最大の気づきです。

しかし、なぜ私は、古代の遺跡に行く前から、その質感を実感できていたのでしょうか。
そしてなぜ、今はそれが実感できなくなったのか。
それが不思議です。

■1746:相談するということ(2012年6月16日)
節子
最近、ようやく「相談」の意味がわかってきました。
相談するということにおいて、解決策を得ることは、どうやら副産物に過ぎないことのようです。

私のところに、いまもいろんな人が「相談」に来ます。
時に一緒に解決策を考えることもありますが、多くの場合、解決策は相談に来る人のなかにはもうすでにあるのです。
そして私と話しているうちに、決意するだけのことなのです。
そもそも、「相談」を思いついた時に、その答もまた思いついているのです。

時に解決策が確信できなかったり、受け容れ難かったりする人もいます。
その場合は、その答(重荷)をシェアしてくれる人を探しに来るのです。
出来る範囲で、時には出来る範囲を少し超えてしまって、重荷をシェアするのは私の信条です。
時々、予想以上の重荷を背負ってしまい、私自身も厳しい状況になります。
しかし、そういうことを繰り返し行ってきたのが、私の人生だったのかもしれません。
むしろ、それを楽しんできた気もします。

ところが、最近、そうではなくなってきています。
楽しくないし、つぶれてしまいそうになるのです。
最近も、いくつかのシェアした重荷がうまくいかなくて、時に眠れません。
今朝も4時過ぎに目が覚めてしまいました。

どこが違ってきたのだろうかと考えました。
答は明確です。
節子がいなくなったこと。
つまり、私の重荷をシェアし、苦労を一緒に楽しんでくれる人の不在です。

悲しみや辛いことは分かち合えば、楽になるといいます。
人生を分かち合うことができれば、楽になるどころか、楽しくなる。
そして、喜怒哀楽のすべてが、生きる豊かさになっていく。
そう考えると、やはり、「人生を分かち合う」存在が、生きるためには不可欠のようです。
しかし、伴侶はいつかいなくなります。
もしかしたら、失われることのない永遠の「人生を分かち合う」存在こそが、宗教における神なのかもしれません。
そして、信仰とは、重荷をシェアしてくれる存在の創造なのかもしれません。

こんなことを書いても、まだ気分は不安に苛まれていますが、それもまた人生ですから、素直に受け容れなければいけません。
節子が乗り越えた不安は、こんなものではなかったのですから。
とりあえず、節子に拝んで、救いを頼みましょう。

■1747:玉里の古民家(2012年6月14日)
節子
茨城県の霞ヶ浦に玉里という集落があります。
そこの古民家で、今日、住民たちが手打ちし、かまゆでした、お蕎麦を食べてきました。
近くの美野里町の住民の集まりに行った帰りに、みんなに誘われたのです。
古民家にはなつかしい囲炉裏やかまどがありました。
おそばは美味しかったです。
節子との思い出が2つ、浮かんできました。

会場の古民家に行って、むかしこんな雰囲気のところに来たことがあるなという記憶がよみがえりました。
もう20年近く前になるかもしれませんが、茨城県の「耳の会」の収穫祭に節子と一緒に行ったことがあります。
耳の会では土壌菌を使った農業や畜産に取り組んでいました。
EM菌が話題になるずっと前の話です。
友人が取り組んでいた関係で、その成果を祝う収穫祭に誘われたのです。
節子を誘って、参加しました。
その活動の中心になっていたのが、最後の農民運動家と言われている市村一衛さんでした。
市村さんは玉里の近くの鉾田町(玉里の近くです)のお住まいになっていて、そこで塾をやっていました。
囲炉裏を囲んで、私たちも市村さんから話を聞きました。
その後、みんなで野外パーティでした。
私たちには、とても新鮮な体験でした。
しかし、当時は、その体験を発展させることができませんでした。
もう少し私が関心を持てば、節子の人生は変わっていたかもしれません。

今日、古民家の会場に着いた時、なぜかそのことが突然頭に浮かんできたのです。
もしかしたら、ここで収穫祭をやったのではないかと思ったほどです。
そして、当時の光景が浮かんできました。
庭の先に、節子が笑っているような気配さえ感じました。
しかし、落ち着いたら、明らかに違う感じでした。
節子が喜びそうな古民家でしたが。

あの収穫祭は楽しい記憶の一つです。

■1748:蕎麦団子(2012年6月16日)
挽歌1748の続きです。
玉里のおそばを食べながら思い出したことがあります。
同じ茨城の谷和原村城山の里まつりに節子と一緒に行った時のことです。
その時のことは、私のホームページに書いています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#1120

そこに、こんな文章が残っています。

蕎麦打ちに女房ははまっていました。
私と違い行動派の彼女はそば切りの手ほどきを受けていましたが、これでまた我が家のメニューが増えそうです。

思い出したのは、その後日談です。
当日、お土産に蕎麦粉をもらいました。
数日後、それで蕎麦を打ち、蕎麦を作ろうということになりました。
ところがです。
出来上がったのは、蕎麦というよりも蕎麦団子でした。
見ていた時には簡単そうでしたが、やってみると難しいのです。
以来、わが家では蕎麦うちは2度と行われませんでした。
つまり、わが家のメニューは増えなかったのです。
節子はわりと器用だったともいますが、蕎麦だけはだめだったようです。

ちなみに、城山の里まつりに節子と一緒に行ったのは、節子の手術後です。
私は、地方によく出かけていましたが、基本的には一人で行っていました。
しかし、節子が病気になってからは、できるだけ節子と同行しました。
節子が元気な時にこそ、そうすべきでした。
でもその頃は、お互いになかなかそんなことには気づきませんでした。

節子が胃の摘出手術をし、一時、回復の兆しを見せていた時が、私たちが一番行動を共にしていた時期です。
その時期には、さまざまな記憶が凝縮されていますが、普段はあまり思い出しません。
意識的に蓋をしているようにさえ思います。
その理由も、実はそれなりに思い当るのですが、いつかまた書こうと思います。
しかし、何かがきっかけになって、記憶がよみがえってくると、どっと記憶があふれてきます。
意識や記憶は、とても不思議です。

■1749:電動草刈り機(2012年6月19日)
節子
電動草刈り機を買いました。
とても自力では、家庭農園の維持は無理だからです。
節子のように、継続的に世話をする人がいないと、あっという間に雑草が生い茂ります。
それでまあネットで購入したわけです。
しかし、きちんとしたものではなく、一番安いものを買ってしまいました。
最近わが家はお金があまりなくなっているからです。

ところが送られてきた電動草刈り機を見て、少し不安になりました。
プラスティック製で、使ってしまったらすぐに壊れてしまいそうです。
節子がいたら、どうせ買うならちゃんとしたものを買わないといけないというでしょう。
使うと壊れそうな電動草刈り機だったので、使うのをやめていました。
それを今日、急に使いたくなりました。

今日は、台風が日本列島を直撃しています。
しかし、午前中、わが家の周辺は晴れていました。
出かける前に一汗かこうと思い立ったのです。
なにやら身体を動かさないとやりきれないような、そんな気分もあったからです。
やってみました。
何とか使えましたが、どうも頼りないのです。
鎌でやったほうが早そうです。
しかし、小さいとはいえ、家庭農園は大変です。
節子がやっていたことの大変さは、いなくなってからよくわかります。

午後から雨が降り出しました。
いまは風も強く、各地での被害も出ているようです。
いつもなら台風の風の音を聞くと元気が出るのですが、最近どうも元気が出ません。
挽歌もなかなかコンスタントに書き続けられません。
パソコンに向かうのが、どうもおっくうになってきてしまいました。
困ったものです。

■1750:もうひとつの心情(2012年6月19日)
節子
前の日曜日に、フォワードカフェというのをやりました。
そこに数年前に伴侶を自殺で亡くされたKさんが参加してくれました。
Kさんは長らく、そのことをあまり話していなかったのですが、今春開催したフォワードフォーラムで自らの話をみんなの前でカミングアウトしてくれたのです。
Kさんは、みんなに向かって話したことで、自分も変わってきたと話してくれました、
会を企画し主催したものとしては、とてもうれしい言葉でした。
そうしたことが目的の一つだったからです。

私自身はどうでしょうか。
私の場合は、最初から完全にオープンでした。
事実がオープンだったという意味ではなく、私の心情がオープンだったということです。
いつまで悲しんでいるのと言われたことさえありますが、くよくよしメソメソしていました。
呆れてしまったのか、私の前からいなくなってしまった友人知人もいます。
伴侶を亡くすとこんなにもだめになるかと思われても仕方がないほど、私は壊れていました。
たぶん娘たちも、頼りのない父親だと思ったことでしょう。
まあそれ以前から、そう思っていたかもしれませんが。
ともかくがたがたでした。
どうやって生きていたのかさ、思い出せません。
そして最初から、この挽歌がそうであるように、心情を隠し立てなく書いてきました。

Kさんは、心情をカミングアウトすることで、次の段階に進みだせたようです。
私の場合は、どうしたらいいでしょうか。
節子を見送ったあとも、節目なくだらだら生きてきているような気がしてきました。
3周忌で、普通は一節目つけられるのかもしれませんが、そんなことはありませんでした。
いまもなお、喪中の気持ちから抜けられません。

私の場合、毎日、挽歌を書いているうちに、自分の気持ちが見えてきたような気がします。
ですから、長年、心情を心に秘めていた人は、それを語りだすことで、たぶん心情の奥にあるもうひとつの心情が見えてくるような気がします。
それが、人を変えさせるのかもしれません。
としたら、私も、連続的なのであまり自覚できないのですが、この4年でかなり変わってきているのでしょう。
しかし、節子から解放される方向ではなく、ますます呪縛されるような報告を向いているのが、いささか気になります。

平たくいえば、こういうことです。
この頃、なぜかますます罪の意識や悔いの気持ちが強まってきているのです。
たぶん、そうしたことは、この挽歌ではなかなか書けないからかもしれません。
書くことと話すこととは、違うのかもしれません。
いつかどこかで、そうした罪の気持ちを静かに語れる時がくるといいのですが。
理想の聴き手は、節子ですから、それは彼岸でしか実現できないのかもしれませんが。

■1751:哀しいこともまた、喜び。(2012年6月20日)
ある本からの孫引きです。

バイロン卿はこう言ったそうです。
「人生の最大の目的は感覚にある。たとえ痛みのなかであろうと、私たちが存在するのを感じることだ」。
哲学者のトマス・ネーゲルはこう語っているそうです。
「人間の経験に加わると、人生が良くなるような要因と、悪くなるような要因がある。しかし、その両方を取り去った場合、あとに残るのは単なる中立的なものではない。残るのはあくまでポジティブなものなのだ。」

最近、こうした言葉を受け容れられるようになってきました。
少し前までは、理解さえできませんでしたが。

この2つの言葉を引用しているのは、私と同世代の心理学者 ニコラス・ハンフリーです。彼は「ソウルダスト」と題した最近の著書で、こう書いています。

多くの生物は、「そこに存在すること」を好むように進化してきた。

「そこに存在すること」を好むとは、意識を持つということです。
意識がなければ、「そこに存在すること」にも気づきません。
「そこに存在すること」に気づくには、快感も痛みも有効です。
ネーゲルは、そのことを語っています。

では、なぜ多くの生物は、「そこに存在すること」を好むように進化してきたのか。
それは、それが楽しいからです。
楽しいという言葉が適切でなければ、「生きやすくなる」からです。
そこに意識の目覚め、あるいは自己の始まりがあり、それこそが生きる動きを作動させる。
そして、自然淘汰の試練に残ってきたのです。
それこそが、エラン・ヴィタールです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-a6fe.html
生の躍動、生きる証。

節子を見送った痛みや悲しみは、エラン・ヴィタールにつながっている。
これまで、そう考えたことはありませんでした。
しかし、ハンフリーの本を読んで、何となく納得できるような気がしてきました。
それは大きな発見です。

節子は、いつもポジティブ・シンキングの人でした。
哀しいこともまた、喜び。
そう思えば、少しだけ世界は広くなるような気がします。

■1752:心理的ゾンビ(2012年6月20日)
ハンフリーの「ソウルダスト」のことを続けます。
ハンフリーは、意識こそが人間の生の意味を変えたといいながら、生物は、しかし、意識など持たなくても生きていけると書いています。

オークの木やミミズ、蝶に生きる意志があるなどとは誰も思わない。これらの生き物は、必要に応じて、あらかじめプログラムされている多種多様な生命維持の仕方に従って本能的に行動する。人間もたいていの時間はそうしている。

たしかにその通りです。
意識を持たないまま生きている存在を、ハンフリーは「心理的ゾンビ」と呼んでいます。
ゾンビは「動く屍」ですから、あまり適切な表現とは思いませんが、彼は、意識のある生と意識のない生の区別に関心があるわけではなく、意識そのものの正体に関心があるのです。
彼の結論は、意識こそが世界を輝かせているということであり、世界は私たちの意識が創りあげた幻想であるとさえいうのですが、それはまた書き出すと長くなるのでやめましょう。
それにちょっと私には理解しかねる部分もありますし。

それはともかく、ハンフリーは、生きているから意識があるのではなく、意識があるから生きている主体、自己が生まれると言います。
昨今は、あまりに「生きていない人」が多いと、私はつくづく感じていますから、この考えにはとても共感できます。
こう考えることによって、生きるという概念が動き出すといってもいいでしょう。

最近、私も「意識」に関心を持って何冊かの本を読んでいます。
新しい気づきはたくさんあります。
本を読みながら、自分の生き方につなげて考えるようにしていますが、この本を読んで、ハッと気づいたことがあります。
もしかしたら、私も心理的ゾンビになっているのではないか。
たしかに、節子がいなくなってから、私の生きる意欲は萎えてしまい、好奇心は後退し、先行きを考える発想がなくなり、ただ淡々と時間を消化しているような気もします。
生きることに躍動感はなく、死ぬことにさえ、生々しい関心はありません。
これは、まさに私が嫌悪しているゾンビ的な生き方ではないか。
ゾンビになってしまっては、節子を愛することさえできなくなるでしょう。

意識次第で、世界は一変する。
それがハンフリーの主張です。
本当に一変するかどうか。
問題は、その一歩をどう踏み出すかです。

■1753:人間はやれることしかやれないのだから(2012年6月20日)
前の記事と大きく矛盾することを書きます。
実はほぼこの2つの記事は続けて書いています。
私の中に、2つの矛盾する気持ちがあるからです。

この挽歌を読んでくださっている人には伝わっているかもしれませんが、この1か月ほど、私はあまり精神的に安定していません。
書いていることも、たぶん矛盾だらけで意味も不明瞭だと思いますが、それが正直な現状です。
しかし、そうした中でも、何かしなければいけないとか、誰かに頼まれたことは応えなければいけないとか、きちんと意味のある人生を送らなければいけないとか、そんなことに呪縛されているのです。
私はかなりわがままに生きていますし、周りにもやりたくないことはやらないと明言してきています。
しかし、その言動とは裏腹に、どこかに「お天道様に顔向けできるように」「節子を裏切らないように」という、奇妙な規範意識が無意識にいつも働いているのです。
昔からそうですが、予定を書いた手帳が白いとなぜか罪悪感が生まれるのです。
そのくせ、自分では、そういう生き方はやめなければいけないと思っている。

時々、心身が動けなくなるほど疲労感に襲われることもあります。
節子がいた頃は、節子がそれを癒してくれました。
しかい、いまはそれもありません。
一人で、背負い続けなければいけない。
私のようなひ弱な人間には、それなりに辛いことです。

別に肉体的に疲労するわけではありません。
たいした悩みを背負い込むわけでもない。
しかし、なぜか疲れてしまい、にもかかわらず、やらなくてもいいことを引き受けてしまう。
これは性分なのか、節子がいなくなった心の空白を埋めるためのものなのか、最近少しわからなくなってきてしまいました。
それに、やったところで、喜んでくれる人がいるわけでもありませんし、何かをもらえるわけでもなく、社会が変わるわけでもない。
しかも、昔のような充実感や達成感は全く得られません。
それがなぜかはわからないのですが。
すべてを投げ出したい気になることもある。

最近、少し無理をしているのかもしれません。
そんな気がしてきています。
人間はやれることしかやれないのだから、無理は厳禁です、というのが私の口癖です。
しかし、いつの間にか自分にだけは、そうなっていないのです。
誰も言ってくれないからです。
それは当然です。その役割を果たす節子がいないのですから。
だとしたら、自分で自分に言うしかない。
「人間はやれることしかやれないのだから、無理は厳禁」。
明日は約束していた集まりも、約束していた用事も、すべてキャンセルすることにしました。
それで誰かが迷惑を被っても、しかたがありません。
明日は晴れるといいのですが。

■1754:すべて棚上げして(2012年6月21日)
節子
今日の予定をすべてキャンセルしてしまいました。
なんだか急にすべてが無駄なような、虚無感に襲われてしまったのです。
抱えている問題も、今日はすべて棚上げです。
なんだか、最近の日本の政治と同じですが、1日だけでも、すべてから自分を解放し、何も考えないことにしました。
節子がいたら、きっと私に、そうアドバイスしたでしょう。
それでも午前中は電話などがかかってきたので、携帯電話も切りました。

午前中は、雑草の生い茂っている家庭農園に行って、草狩りをしてきました。
今日は誰の手伝いもなく、私一人です。
30分もすると、もうへとへとです。
この農園、といっても単なる空地ですが、50坪くらいあります。
30分やっても、きれいにできるのはほんの一部。先が思いやられます。
しかし、まあ気持ちの良い汗をかきました。
シャワーを浴びて、さて今度は何をやるか。
ついつい気になっている宿題のことを考えがちですが、今日はすべて棚上げです。

それで思い出しました。
以前も、仕事などで行きづまると、節子を誘ってどこかに出かけました。
時には、私の状況を察してか、節子が誘ってくれることも少なくありませんでした。
出かけた先では、日常から開放され、節子との世界に浸りました。
それが私の元気の素でした。
そうした気分転換がないまま、最近は生活が単調になっているのが問題なのかもしれません。

しかし、必ずしも同じ生活の繰り返しが悪いわけでもなさそうです。
先ほど、テレビを見ていたら、長年ずっと厚焼き玉子のお店をやっている人が紹介されていました。
奥さんと2人でお店をやっていたそうです。
ところが今春、奥さんが亡くなってしまい、今は一人でお店をやっています。
毎日、ただただ卵焼きづくりです。
一人で丹精込めた厚焼き玉子を毎日つくっている。
それを見ていて、ああ、この人はいまも奥さんと一緒なんだと思いました。

家庭農園で草取りをしていると、どこかで節子とつながっている気がします。
抱えすぎている問題をもっともっと棚上げして、節子との時間をとらなければいけません。
幸いに、この挽歌も、ようやく、今日で、番号が正常化しました。
今日は、節子を送ってから1754日目です。

明日からは、きちんとまた毎日書いていこうと思います。
ところで、今日はこれから何をしましょうか。
節子がもしいたら、何をしたでしょうか。

■1755:「よかったわね」(2012年6月22日)
節子
今日は、成田に行ってきました。
若者の自立支援に取り組んでいる人たちと話し合うためです。
仕事ではありません。
そこに関わりだした人が、一度、来てほしいとメールしてきたからです。
私が行くことを知って、所長がみんなを集めてくれていました。
突然の訪問で迷惑だったかもしれませんが、少しは役に立ったかもしれません。

宮沢賢治の「雨にもまけず」とは違って、
私は、雨にも風にも負けながら、生きていますが、
賢治と同じように、
東に困っている人がいれば、行って、困らなくても良いよといい、
西に寂しがっている人がいれば、行って、寂しがらなくても良いよといい、
というような生き方をしたいと思っています。

「みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず くにもされず
そういうものに わたしはなりたい」
というのは、私にとってはまさに理想です。
最近、かなりそうした状況になってきているような気もしますが、まだまだ私欲と自我が強く、デクノボーと呼ばれることに幸せを感ずるところまでにはいけずにいます。
時に、自らの賢さや過去のことを顕示したくなるのです。
そうした自分が、時にいやになります。

人は、生涯に自らを理解してくれる人に、一人でも会えれば、幸せと言うべきでしょう。
自分を知っている人がいれば、人は安堵できます。
いくら有名になり、みんなに知られたところで、たぶんその幸せはやってこないように思います。
知ってくれている人は、一人でいいのです。

一人でも、自分をわかってくれているという確信があれば、小賢しい顕示欲などは生まれないでしょう。
節子がいた頃は、だれかに誤解されたりしても、あまり気にもなりませんでした。
時に、そうした気持ちが生まれそうになっても、節子がその邪念を吸い取ってくれました。
つまり、私の「自慢話」を聞き流してくれたのです。

今日、出会った人たちとは、たぶんわずかばかりでしょうが、心触れ合った気がします。
きっと何かが動き出すでしょう。
でも、帰ってきて、今日の話をする相手がいないのが、とてもさびしい。
節子がいたら、私の話をだまって聞いてくれたでしょう。
そして、私が話し終わると、最後に笑いながら言ったでしょう。
「よかったわね」と。
その一言が、もう聞けないのが、さびしいです。

■1756:死に急ぐことなかれ(2012年6月23日)
節子
私と同じように、伴侶に先立たれた1人の人から、この挽歌にコメントをもらいました。
私の挽歌が、そういう文章を引き出しているのかもしれませんが、お2人共に同じような言葉が書かれています。

「出来るだけ早く私も旅立ちたい。」
「残る人生が一日でも早く終わりを遂げること。僕の望みはただそれだけです。」

おそらく愛する人を見送った人の、これは偽らざる気持ちなのではないかと思います。
少なくとも、私の場合もそうです。

こうした気持ちが生まれてくることは、もしかしたら、とても幸せなことかもしれません。
しかし、同時に、だからこそ、生きることを大切にしたいと思う気持ちも生まれます。
でなければ、あれほど生きつづけようとした節子を裏切るような気がするのです。
それに、今の私は、すでにその生の一部は節子になっています。
節子の分まで生きるなどということは思いもしませんが、節子と共に、この生を大切にしないわけにはいきません。
節子と一緒に人生を終えることができなかったことの意味も大切にしたいとも思います。
死への恐れも生への執着もありませんが、生には、節子がそうであったように、誠実にありたいのです。

ぶーちゃん
Pattiさん
死に急ぐのはやめましょう。
彼岸には、時がないといいます。
急ぐことに意味はないのです。
お2人よりも、わずかに長く生きている私も、お2人と同じような時期もありました。
しかし、そこを越えてきたのは、節子への愛からでした。
人を愛するとは、自らを愛することでなければいけません。
4年近く思い続けてきて、そういうことにも少しずつ気づいてきました。

先立ってしまった、愛する人のために、できることはたくさんある。
最近、そんな気もしています。
それに、私がいなくなったら、節子を毎日思い出す人がいなくなり、節子の痕跡は消えていってしまいます。
位牌に灯明を立てる人もいなくなり、お盆にも現世に戻ってこられなくなる。
私と一緒になったはずの、節子の片割れも、もう少し現世を楽しみたいと思っているかもしれません。
節子だったら、こんなことをしただろうことも、しなくてはいけません。
私の生は、節子のものでもあるからです。

よかったら、湯島に一度、来ませんか。

■1757:「問題はいかに生きるかです」(2012年6月24日)
節子
節子の病気が発見された時に、知り合いのお2人の医師に相談しようと思いました。
しかし、相談しかけて、途中で止めました。
なぜならいずれからも、私が最も聞きたくない言葉が発せられたからです。
信頼していただけに、とてもショックでした。
以来、医師を心からは信頼できずにいます。

その言葉は、「死に方の問題です」という言葉です。
病気になった人や家族は、生き方に関心があるのです。
誰も死に方なんか聞いていない。
その言葉を聞いた時には、頭が白くなりました。
私は「生き方」を訊いているのに、彼らは「死」を前提に話している。
医師として、あるまじき姿勢だと、私は思いました。

その人と付き合いを再開するまでにはかなりの時間が必要でした。
お一人とはもう縁はなくなりました。
念のために言えば、彼らは誠実に対応してくれたのでしょう。
彼らには、死が見えていたのです。
しかし、それでは患者の生を躍動などさせられません。
私には「死の商人」としか思えない。
当時は、そこまで思いました。
医師は、病気を治すのではなく、人を生かすことを目指してほしいものです。

思うことあって、久しぶりにスーザン・ソンタグのエッセイを読みました。
アメリカの作家で、村上春樹が受賞したエルサレム賞も受賞しています。
彼女も、癌を患いながらの活動でしたが、数年前に亡くなりました。
その考えには、私にはついていけないところも少なくありませんが、エッセイなどを読むとハッと気づかされることが多いのです。
生き方において行きづまったら読みたくなる作家の一人です。

そのソンタグが、こう語っていました。
大江健三郎との往復書簡の中に出てくる文章です。
今回初めて気づきました。

「私たちがいずれ死ぬことは確実です。問題はいかに生きるかです。」

生き方を考えている人と死に方を考えている人がいる。
節子は、最後まで前者でした。
私も、そうありたいと思っています。

■1758:節子のありがたみ(2012年6月25日)
節子
私の一番の苦手は買い物です。
コンビニくらいでは買い物もできますが、スーパーやデパートはどうも苦手です。
これは節子のせいです。
節子がいる時には、いつも節子が買い物をしていました。
私が商品を選ぶこともありましたが、買うのはいつも節子でした。
外食の支払もすべて節子でした。
そのため、私は財布を持つ必要がありませんでした。
というか、私は財布をもつことが嫌いでした。
お金が好きになれなかったからです。
最近は、カードや電子マネーができたので、お金がなくても買い物ができるので、前よりは抵抗が少なくなりましたが、できることなら買い物はしたくないです。

節子がいなくなってから、買い物がどうも困ります。
私は、ほとんど、物を買わないのですが(書籍だけは別ですが、これはネットで買えるので抵抗がありません)、それでも時に必要な物も出てきます。
そういう時には娘に頼みますが、問題は衣服や靴です。
これは好みやサイズもありますので、頼むわけにもいきません。
それで、いまは頼み込んで同行してもらい、商品を選んで、買うのは娘に頼みます。

もう一つだめなのが、クリーニング店です。
娘は、クリーニング店くらいは自分で行くようにと言いますが、これも苦手です。
行ったことがありません。
なんで行けないのか、と娘には言われますが、人にはそれぞれ苦手なことがあるものです。

節子と一緒の時には、それぞれ得手不得手を認め合い、補っていました。
得手を活かし、不得手を補ってもらうのは、とても気持ちのいいものです。
人は、他者に何かをしてもらいたいと思いながら、同時に、他者に何かをしてあげたいと、深く思っています。
「してもらうこと」と「してやること」と、どちらがうれしいかと言えば、たぶん、後者です。
しかし、もっとうれしいのは、両者が重なることでしょう。
「してやること」が「してもらいこと」に重なる。
それが、伴侶たる者同士の関係です。
そこでは、「してやる」とか「してもらう」ということさえ、無意味になります。
夫婦とは、実に不思議な存在でした。

私のために娘のできることはたくさんあります。
いまは食事もつくってもらっています。
問題は、娘のために私ができることがあまりないことです。
夫婦と親子は、やはりまったく違います。
親子には、それぞれの人生があります。
しかし、夫婦の場合、それぞれの人生が、2人の人生でもあるのです。
そうでない夫婦も少なくないでしょうが、私たちはそうでした。
だからこそ、今の私の苦労や寂しさがあるのかもしれません。

娘は、お母さんが言っていたように、もっと自立しておけばよかったね、と言います。
しかし、私は思います。
自立してなくてよかった。節子のありがたさがますますわかってくるから、と。

節子
あなたがいなくても、まあ、なんとか娘たちのおかげでやっています。
時々、「節子だったらなあ」と言って、ひんしゅくをかっていますが。

■1759:兄との箱根旅行(2012年6月28日)
節子
また2日間、挽歌を書けませんでした。
実は、兄と一緒に箱根に行っていました。
学生時代以来の兄との旅行でした。
兄とは仲が悪いわけではないのですが、考え方や生き方が、かなり違うのです。
それで会うと必ずと言っていいほど、言い争いになってしまうのです。
節子がいた頃は、お互い、夫婦連れで旅行にも行きましたが、節子がいつも緩衝材になってくれていました。

まあお互いに、そう先のある歳でもないので、一緒に箱根にでも行こうと誘ったのです。
箱根であれば、お互いによく行っているところなので、観光する必要もありません。
それに、節子がいなくなってからは、私自身は一人では箱根には登れなくなっているのです。
急な思いつきの誘いでしたが、兄は予定を変更してくれて付き合ってくれました。
私と違って、兄はそういうタイプなのです。

3回ほど、言い争いになりかけましたが、まあまあ平和な時間を過ごせました。
節子がもし一緒だったら、何回かひやひやしたでしょうが、最後は握手まで求められましたから、兄も喜んでくれたと思います。
私も久しぶりにのんびりすると共に、鬱積していたことを吐き出させてもらいました。
考えてみると、最近は、そうしたことを吐き出す相手がいませんでした。

梅雨の真っ只中なのに、天気に恵まれました。
節子が好きだった箱根の恩賜公園でも休んできました。
富士山はあまり見えませんでしたが、ここで節子と一緒に見た富士山は今でも鮮明に覚えています。

節子は箱根が大好きでした。
何回、付き合わされたことでしょうか。
もう付き合わされることがないと思うと、とてもさびしいです。

■1760:自分を見直す旅(2012年6月28日)
湯河原に宿泊して、兄との旅行の2日目は、小田原の大雄山最乗寺に行きました。
ここも節子のお気に入りでした。
最後に来たのは再発する前の年の秋だったでしょうか。
節子の姉夫婦と一緒でした。
大雄山はかなり参道の坂を登っていかなくてはいけないのですが、節子はよく頑張りました。
ただ堂内では、もう階段はあまり登れなかったのを覚えています。
あの時もたぶん、節子は姉夫婦を案内したかったのでしょう。
節子は、ともかく思い出をたくさん残していきたかったのです。

思い出を託せる人がいる人は幸せです。
私には、そういう人はいるでしょうか。
私がいなくなった後に、思い出してほしい人です。
娘たちは思い出してくれるでしょうが、やはり親子とは別に、そうした人がいるかどうかは大きな違いです。

節子の父は、60代で亡くなりました。
そのお葬式はまだ伝統的なスタイルが残されていました。
当時の葬儀は3日がかりで、親戚やら在所の人やらが50人ほど連日、お酒を飲んでいました。
下戸の私は、お酒をどう交わすかで苦労しました。
それに、向こうは余所者の私を知っていても、私は誰が誰やらほとんど知らないのです。
宴席は基本的に男性だけでしたので、節子に紹介してもらうこともできませんでした。
ただただひたすらお酒を勧められるだけでした。

まだ土葬で、お墓まで親族がお棺を担いでいくのです。
先導役は孫の役目で、確か娘のユカが白装束でつとめました。
私は担ぎ手の一人だったと記憶していますが、その時に、途中の大きな樹のかげで、一人で目立たないように手を合わせている男性がいました。
とても気になって、後で節子に、あの人は誰なのかと訊きました。
隣の村の人で、あまりみんなとは付き合いがなかったけれど、節子のお父さんがいろいろと親切にしてやっていたのだそうです。
理由は忘れましたが、正式の宴席には顔を出せなかったようです。

私の葬儀にも、そうして、だれにも気づかれずに、樹の陰から手を合わせて見送ってくれる人がいるといいなと、その時、思ったのを思い出しました。
そういうところにこそ、人の生き方が現れるものです。

それでまた思い出しました。
節子の葬儀の時の弔問記帳簿に、私の全く知らない人が記帳してくれていました。
たしか松戸から来てくれていました。
誰だろうと少し調べてみましたが、わかりませんでした。
その時も、実は節子のお父さんの時にことを思い出しました。
もう少しきちんと調べればよかったと悔やまれますが、当時は、むしろ調べるべきではないとなぜか思ってしまっていました。

葬儀の時にこそ、その人の人生が見えてくるとよく言います。
節子の葬儀は、とてもいい葬儀でした。
さて私の場合はどうでしょうか。
誰にも気づかれることなく、ひっそりと見送ってくれる人が一人でもいるとうれしいです。
そのためには、もう少しきちんと生きなければいけません。
最近少し自堕落になってきているのを反省しなければいけません。

今回の兄との旅は、自分を見直す旅でもありました。

■1761:世界から生々しさが後退しつつあるような(2012年6月28日)
節子
一昨日、湯河原の温泉街を少しだけ歩きました。
道は拡幅されて、歩道も整備され歩きやすくなりましたが、人通りは少なく、お店もかなりの割合でシャッターが閉まっていました。
バス停で街の人とお煎餅屋さんのご主人らしき人と20分ほど話しました。
閉まっている店が多いですね、というと、道がきれいになるにつれて、お店が閉まりだしたと教えてくれました。
たしかにそのようです。
それに少し歩いた感じでは、以前のような、親しみを持ってちょっと入ってみようかというお店もあまりありません。
節子とは時々、ここを歩きましたが、節子がいないせいかもしれませんが、なんだか違う街のようでした。

私の気のせいだとは思うのですが、節子がいなくなってから、東京も含めて、どこもかしこも、なんだかとてもモダンになってきたような気がしてなりません。
私の意識が変わったのかもしれません。
人間らしさや良い意味での猥雑さが消えつつあるように感じます。

節子は、どちらかと言うと、私よりはモダンが好きでした。
丸の内界隈が変わったり、六本木が変わったりすると、出かけていくようなタイプでした。
そのくせ一方では、自然の中の古民家も好きでした。
要はいい加減だったのですが、自分に素直だったとも言えます。
知識による先入観がなかったのです。
知識がなかったというと節子は怒るでしょうが、まあそんな感じもあります。
節子は、素直に、「良い」と感じたら好きになり、感じなかったら好きにはなりませんでした。
小賢しい理屈を振り回す私とは違っていました。
ただ惜しむらくは、そもそもの趣味があまりよくなかったことです。
節子が好むファッションは、私にはいささか奇妙な感じのものが多かったです。
これ以上書くと節子に怒られそうですね。

私は、最近のとてもモダンで、そのくせ装飾的な空間が好きではありません。
何かとても疲れるのです。
しかし、そういう空間に行くと、節子だったら喜ぶだろうなと思うことがよくあります。
テレビもデジタル化されて、画面がとてもきれいになりました。
節子はそうしたきれいなテレビ画面を見ることがありませんでした。
節子のいた頃には、わが家には大型テレビもありませんでしたし。
テレビで、実物よりも鮮やかとさえ思える観光地のドキュメンタリーを見るたびに、節子に見せてやりたいと思います。

世界はどんどん「きれい」になってきています。
私にはだんだん「ヴァーチャル」になってきているようにも思います。
世界から、生々しさが後退しつつあるように思うのです。
これは、私の生命力が弱まっていることの現われかもしれません。
現実空間とヴァーチャル空間がなんだか近づいているような気もします。
私が、ヴァーチャル空間に吸い寄せられているのかもしれません。
たしかにいまのところ、現実世界に私を引き止めておく力はありません。

2日間、自然の中で日常を離れてのんびりしていたのに、残念ながらあまり生気は蘇ってきていないようです。
それは当然でしょうね。
やはり1週間くらい、一人で山ごもりしないといけないのかもしれません。

■1762:けだるい昼下がり(2012年6月29日)
節子
今日も夏のような暑い日になりました。
梅雨なのに、雨が降りません。
久しぶりに湯島のオフィスに来たら、植物がみんな元気ありません。

部屋を閉め切ってしまっていたせいかもしれません。
私はいつもベランダ側のドアを少しだけ開けておくのですが、最近いろんな人が使うので、閉める人も多いのでしょう。
しかし、密閉空間になると生き物は生きていけません。

湯島には盗まれて困るようなものは何もありませんから、むしろ開けっ放しにしたいところですが、そうもいきません。
植物はベランダに出せばいいのですが、夏の日照りは強いので、それもできません。
やはりこまめに来て、声をかけるのが一番です。
これはけっこう面倒なのです。

今日は午後、2組の来客がありました。
いずれも節子も知っている、以前のサロンの常連です。
湯島に来る人たちは、節子がいた頃とは一変していますが、時々、昔の人もやってきます。

いつもは、来客と来客の間まで埋めてしまうのですが、最近はできるだけ間をとるようにしています。
その間、ボーっとしていることが多いです。
今日も先ほどから、しばらく東京の空を見ていました。
空の向こうに彼岸があるのでしょうか。
空を見ていると、何となくそんな気がしてきます。
そういえば、以前も節子と一緒にこんな時間をどこかで過ごしたことがあったような気がします。
たぶん北茨城の海でした。
アポロが月面着陸した翌日でした。
暑い日でした。

夏のようなけだるい昼下がり。
あの時は、波の音が聞こえていました。
今日も耳を澄ますと、波の音が聞こえてきます。

今日、やってきたFさんは、佐藤さんはあの世とこの世を行き来しているからと言っていました。
もしかしたら、そうなのかもしれません。

次の来客までまだ1時間近くあるでしょう。
この挽歌をアップしたら、もう少し波の音を聞いていようと思います。

■1763:福島に行ってきました(2012年7月1日)
節子
福島の被曝地域に行ってきました。
つい先ごろまで立ち入り禁止区域だった南相馬の小高地区を通り、原発から10キロ県内にある浪江の入り口まで行きました。
バス車内の放射線量は3マイクロシーベルトを超えました。
年間にすると30ミリ近くです。
被曝地域で活動している農業者や漁業者などとも交流できました。
いろいろと感ずることがたくさんありました。
話を聴いていて、何回か涙が出そうでした。
節子がいなくなってから、私はますます涙もろくなっています。
それにしても、みんなとても誠実に生きています。
そういう人たちの話を聞いていると、都会の人たちがいやになるほどです。
初めて会った時の節子を思い出します。
節子は、私と結婚したために、かなり人が悪くなったと思いますが、私は逆にその分、人が良くなったような気がします。
人生を共有していると、すべてを分かち合うようになるものです。
良いものも悪いものも。

久しぶりのバスツアーでした。
節子と一緒に行った観光ツアーとは趣はだいぶ違いましたが、それでもなにやらあの頃のことを思い出させるものがありました。
出会った人たちとの話からもですが、いろいろと考えさせられる2日間でした。

しかし、どんなに大変であろうとも、夫婦が一緒になって、その困難に立ち向かえる人はうらやましくも思いました。
原発事故の被災者に、もし救いがあるとすれば、それだけかもしれません。
こんなことを言うと、とても不謹慎ですが、夫婦で頑張っている漁業者の高橋さんを見ていて、そう思いました。
そんなホッとするような、あたたかさにも触れることができました。

それにしても、山ほど、宿題をもらってきてしまったような気がします。
一人で対応できるでしょうか。

■1764:飯舘村の人和み地蔵さん(2012年7月2日)
節子
福島の飯舘村は、とてもきれいな農村風景だったはずです。
それが被曝により計画避難地域になってしまい、水田も畑も荒れていました。

飯舘村は以前から「までい」な村づくりに取り組んでいました。
「までい」とは「真手」と書きます。
手間暇惜します、時間をかけて、ていねいに、と言うような意味です。
私は以前、福島に仕事で通っていた頃、その言葉を教えてもらいました。
以来、一度は行ってみようと思っていたところです。
しかし、行けませんでした。
節子が発病し、逝ってしまい、私自身もどこかに行こうという気持ちが砕け散ってしまっていたのです。

原発事故の後、その飯舘村の名前をテレビや新聞でよく見かけるようになりました。
村民もばらばらになり、飯舘村はもうなくなったと思っていました。
その飯舘村に、今回、立ち寄れたばかりか、村づくりの中心だったいいたてクリニックのある場所にも寄ってきました。
そこにぽつんと、人和み地蔵さんがありました。
二体が寄り添った、めずらしいお地蔵さんでした。

そこで、飯舘村でがんばっている「かーちゃんの力・プロジェクト」代表の渡邊とみ子さんの話を聞きました。
カーちゃんの力でつくった料理も、前日、楽しませてもらいました。
山菜を使った美味しい料理でした。
渡邊とみ子さんは、バスの中でもずっと話してくれました。
原発事故の後、何があったか、生き方がどう変わったか。
話している間、ずっと笑顔でしたが、その奥に涙を感じさせられました。
そして、最後に聴いていた男性たちみんなに問いかけました。
かーちゃんがこんな風に頑張りだしたら、みなさんはどうされますか、と。

だれもうまく応えられませんでした。
渡邊さんは、うちの人は応援してくれています、と言いました。
ちょっと拍子抜けする言葉でしたが、その言葉の奥に深い意味を感じました。
かーちゃんの力は、どこから湧いてくるのか。

人和み地蔵さんを見ているうちに、節子の「までい」な生き方、を思い出しました。
節子は、とりわけ病気になってから、一日一日を、とてもていねいに生きていました。
私は、どちらかといえば、粗雑な生き方をしているのですが、節子のおかげで当時は少しだけ「までい」な生き方になっていたように思います。
恥ずかしながら、節子がいなくなった今は、以前よりも生き方が粗雑になっています。
困ったものです。
改めなければいけません。

■1765:あの頃はデモにも行けました(2012年7月3日)
節子
昨年、福島で原発事故があったにもかかわらず、止まっていた原発が再稼動しだしました。
それに反対するデモが各地で行われています。
最近は、昔と違って、そういうデモの風景もマスコミが取り上げるようになっています。
節子がいたら、何と言うでしょうか。

2001年10月、テロ対策特別措置法制定と自衛隊法改正等に反対するデモに、節子と一緒に参加しました。
市民が中心のデモだからと友人から聞いていたので、節子を誘ったのです。
節子にとっては、初めてのデモ体験でした。
ところが、出かけてみると、参加者のほとんどが労組関係者でした。
私を誘った友人は、その雰囲気に馴染めずに帰ってしまったと後でしりました。
私たちは、議員会館前で、大声でシュプレヒコールしたり、もみくちゃになって歩いたりしました。
初めてのデモ参加にしては、楽しくない、疲労感の残るデモだっただろうと思います。
しかし節子は初めての体験なので、それなりに楽しんだようでした。
それに、日本でも反戦に向けてのデモが行われていることを知ったことも、節子には新鮮だったようです。
なにしろ当時は、そうした報道はまったくと言っていいほどありませんでした。
それにいまと違って、情報もなかなかまわってはきませんでした。

節子は、翌日の新聞にデモの報道があると思っていました。
しかし、各紙とも全く取り上げていませんでした。
それで節子も、新聞報道の偏りを確信したようです。
その後、団体中心のデモには参加しませんでしたが、ピースウォークなどには節子も参加しました。

もしいま節子がいたら、反原発デモにも節子は出かけていくでしょう。
節子は、単細胞でしたが、常識に反することには敏感でした。
私は、最近、デモには参加できずにいますが、節子がいたら誘われていたかもしれません。
あるいは、理屈ばっかり言ってないで行ってきたら、などと言われていたでしょう。
節子は、理屈だけの人も好きではなかったのです。
私も時々、理屈が勝つと「修は頭が良いから」と最大の侮辱の言葉を浴びせられていました。

映像で、デモの様子を見ながら、そんなことを思い出していました。
節子
彼岸にはデモはないのですか。

■1766:また間があきました(2012年7月4日)
節子
またしばらく挽歌が書けずにいました。
せっかく追いついたと思ったのに、6日もたまってしまいました。
困ったものです。

それにしても、最近、いろいろな難事が多すぎます。
節子がいたらシェアしてもらえますが、いまは私が一手に引き受けなければいけません。
しかし、そんな言い訳は挽歌にはふさわしくありません。

最近痛感するのは、私がいかに節子に依存していたかと言うことです。
生活面でもそうですが、意識面でもそうでした。
だから、節子がいなくなってからの生活が壊れてしまったのも仕方ありません。
人はいつかは、一人になる。
夫婦があまりに一体になることは、必ずしも良い面だけではありません。

伴侶を亡くして、私のように、だめになってしまう人ばかりではないようです。
最近も、それを知りました。
それがいいことかどうかは、わかりませんが。

挽歌を書けないのは、特に理由があるわけではありません。
しかし、書く気が起きないということは、それなりの意味があるのでしょう。
もしかしたら、おかしな言い方ですが、節子がいないことが、挽歌が書けない理由かもしれません。
挽歌が書けるのは、ここに節子がいるからなのです。
その節子が、最近ちょっと不在気味でした。

ところが、昨夜、久しぶりに節子が夢に出てきました。
どこかを旅している夢でした。
すっかり忘れていましたが、いま思い出しました。
もしかしたら、そろそろ書きだしたらということかもしれません。

■1767:炎天下の開墾作業(2012年7月10日)
節子
相変わらず挽歌はまだ書けていませんが、書く気はかなり出てきています。

今日は午前中、それもかなり日が昇ってから、畑の草刈に行きました。
農園の写真を見た友人から、農作業というよりも開墾作業だねと言われるほど、わが家の畑は荒れ放題です。
雨のため、しばらく行けなかったので、時間の合間を見て、出かけました。
ところが今日は、梅雨も明けていないのに、まさに夏日でした。
熱中症になってはいけないので、きちんとスポーツ飲料も持参しました。

節子がいたら、一緒に言ってくれるのになと、娘に話したら、節子がいたら、こんな炎天下に行くのはやめろと言うよと言われました。
たしかにそうかもしれません。
しかし、思いついたら決意を変えないことを知っている節子だったら、たぶんいろいろ言いながら、一緒に言ってくれたでしょう。
それが娘と節子の違いなのです。

さすがに炎天下での作業はきびしく、なんと30分でダウンしてしまいました。
無理をしてはいけないので、30分で帰ったのですが、娘からはバカにされました。
しかし、30分とはいえ、炎天下での作業は、気分を変えてくれました。
なんとなく吹っ切れた気がします。

さて、また動き出しましょう。
私にとっては、毎年、この時期は精神的にダウンしがちなのですが、今年は何とかそれを乗り越えようと思います。
そういえば、昨日、テレビで誰かが話していました。
生きているのであれば、真剣に生きなければいけないと。
新藤監督でしたでしょうか。
最近、真剣さが欠けているかもしれません。

炎天下であれば、なおのこと、真剣に生きなければいけません。
悪い同時代人たちの風潮に馴染まないようにしなければいけません。
節子がいた頃のように、誰にも理解されなくても自分を生き抜かなければいけません。
そう自分に言い聞かせました。

節子
もう大丈夫です。

■1768:強さと脆さは紙一重(2012年7月11日)
節子
先日、わが家の周辺の放射線量を測定してもらいました。
やはりかなり高い数値でした。
庭の放射線量は年間ベースでは2.5ミリシーベルトを超えています。
先日行ってきた福島大学構内よりも高い数値なのです。
節子だったらどうするでしょうか。
私の場合は、何もしませんが。

知人が、今年は放射線のせいか、庭の梅がとても大きくなったと言ってきました。
いろいろのところで変化が起きているようです。
そういえば、わが家の庭のハイビスカスは、今年は成長がよく、大きな花を咲かせています。
その一方で、昨年植え替えた、ミモザが大きくなりません。
気のせいかもしれませんが、今年は大きなミミズによく出会います。
いずれも放射線の影響かどうかはわかりませんが、レーチェル・カーソンの「沈黙の春」にはなっていませんが、例年とはちょっと違った様子がいろいろと感じられます。
節子がいたら、わが家の庭や農地の変化をもっと教えてもらえるでしょう。
ちょっと残念です。

自然は、しかし実に変化します。
その一方で、変化しないところもある。
感動的なのは、枯れてしまったと諦めていた木や多年草が思わぬ復活をしてくれることです。
生命の強さと脆さを感ずることは少なくありません。
強さと脆さは、本当に紙一重なのです。

生きるということは、この強さと脆さのあいだを往来することなのでしょうか。

■1769:「掛け持ち」(2012年7月13日)
節子
井伏鱒二の小説に「掛け持ち」という短編があります。
この作品は映画化もされているので、ご存知の方も多いと思います。
旅館で働く、うだつのあがらない番頭の喜十さんが主人公です。
喜十さんは甲府の旅館で働いていますが、出来が悪いため、お客様の少ない季節はずれには一時解雇されてしまうのです。
そこで、仕方なく、その時期は季節が反対の伊豆の旅館で働くという「掛け持ち」をしているのですが、なんとその伊豆の旅館ではみんなから信頼されて支配人格にまで出世してしまいます。
つまり、人は置かれた状況や付き合う仲間によって、まったく別人になってしまう、という話です。

自分を素直に出せてのびのびと振る舞える環境もあれば、周りの人との相性が合わずになぜか萎縮してしまい、何をやっても失敗してしまうというような体験は、誰にもあるのではないかと思います。
私も、よく体験しました。

過去形で書いてしまいましたが、私の場合、節子と一緒に暮らしているうちに、いつでものびのびと素直になることができるようになりました。
そうなるまでには、やはり20年以上はかかりましたが、20年ほど前からは、ほとんどいつも素直に言動できるようになった気がします。
そのために、頼りなさやだらしなさも見えてきてしまったと思いますが、その分、相手が誰であろうと同じように振舞えるようになったのです。
どうしてそうなったのか、説明は出来ませんが、ともかく節子といると素直に生きられたのです。
そして、それが次第に身に付きだしました。
もしかしたら、すべてをさらけだした私を、節子がいつも無条件に受け容れてくれたからかもしれません。
資格とかお金とか、名誉とか見栄とか、過去のこととかには、ほとんどと言っていいほどこだわりもなくなりました。

ところが、節子がいなくなってしまった。
もし、「人は置かれた状況や付き合う仲間によって、まったく別人になってしまう」のであれば、私もまた、これまでとは違う人間になってしまいかねません。
しかしそんなことはなく、ますます節子と一緒に暮らしていた時の自分を強めているように思います。

自分を素直に生きだすと、さらに大きな気づきが得られます。
「掛け持ち」の話につなげていえば、みんなから怒られてばかりいるうだつの上がらない番頭も、みんなから信頼され評価されるしっかりものの番頭も、同じに思えるようになりました。
「人は置かれた状況や付き合う仲間によって、まったく別人になってしまう」のではなく、むしろ素直な自分のさまざまな側面を気づいていく。
そして、自分に一番合った生き方を選べるようになる。
いまは、そんな気がしています。
うだつがあがらないのと出来が良いのとは、実は同じことなのかもしれません。
一見、矛盾する両者をつなげるのが「愛」なのです。
「あばたもエクボ」とは、よく言ったものです。

最初に書こうと思っていたことと、なんだか違う結論になってしまった気がしますが、まあ仕方ありません。
実は、書き出した時には、節子がいなくなって私の生活は一変した、ということを書くはずでしたが、一変はしていなかったことに気づいてしまいました。
いささか頭が混乱していますが、まあとりあえず書いたのでアップしてしまいましょう。

■1770:他人の代役では問にあわない存在(2012年7月14日)
ジェイン・ジェイコブズは、その著書「アメリカ大都市の生と死」の中で、こう書いています。
都市というのは、単に建物や施設だけではなく、人がつくりだす有機体だという話の中で、出てくる文章です。

実際の人間というものはユニークな存在である。彼らは生涯の何年かというものを他のユニークな人間と有意義な関係を続けることに投じており、彼らは決して他人の代役で問にあわせるわけにはいかないのである。

「アメリカ大都市の生と死」は、若い頃、熟読したはずですが、こんな文章が載っていたとはまったく記憶に残っていませんでした。
たぶん当時は心に残ることもなく読み流していたのでしょう。
最近、読んだある本に、この文章が引用されていたので、改めて書棚から取り出して、その前後を読み直してみました。
たしかに、この指摘はジェイコブスの都市論を支える重要な要素です。
しかし、今の私にはまったく違った意味で、この文章は心に響きます。

私の人生の半分以上を、私は節子と共にしてきました。
節子は、一般的に言えば、どこにでもいる平凡な人間でした。
しかし、ジェイコブスの言葉を借りれば、私にとっては、「有意義な関係」を続けてきた「ユニークな人間」と言えるでしょう。
そして、節子がいたからこそ、私もまた「ユニークな存在」になったのです。
そして、まさに「決して他人の代役で問にあわせるわけにはいかない」存在になってしまったのです。

ジェイコブスは、この文章を都市論で語っていますが、人生論として考えても、とても納得できる文章です。
「ユニークな存在による有意義な関係」が、都市に意味を与えるように、それはまた、人生にも意味を与えるのです。

では、その存在がなくなったらどうなるか。
都市であれば廃墟に向かいだすか、違う「関係」が新しい都市を生み出すでしょう。
人生の場合も同じでしょうか。
同じだとしたら、廃人になるか別人になるかです。
廃人にも別人にもなりたくない場合はどうしたらいいでしょうか。
ジェイコブスは、ほかの著作でなにか語っているでしょうか。

久しぶりにまた、ジェイコブスを読んでみようと思います。

■1771:青い空(2012年7月14日)
節子
夏が楽しかったのは、いつの頃までだったでしょうか。
昔は、夏が近づいてくるだけで、なにか元気が出てきたものでした。
しかし、いまは夏がきてもわくわくすることはありません。
夏が来ても、節子がいないからです。

私は、あまり思い出に浸るタイプでもなく、思い出を大事にするタイプでもありません。
過去にはあまり興味はなく、いつもこれから起こる新しいことに目が行くタイプです。
過去に縛られだしたのは、節子がいなくなってからです。
それは仕方がありません。
私にとって一番大切な節子との時間は、いまではもう「過去」にしかないからです。
ですから、節子がいない今は、時間感覚が一変してしまったのです。
過去も、現在も、未来も、私の中ではどこか重なり合ってきています。
生きる基準だった、節子が止まってしまったからかもしれません。
これも実に不思議な感覚なのです。
たぶん愛する人を失った多くの人が経験していることでしょう。
時間感覚が変わってしまう。
時々、自分の年齢さえもわからなくなってしまうのです。

ところで、今年の夏は、昨年までとちょっと違うような気もします。
あまり気が沈まないのです。
昨年までは、暑くなればなるほどに、心が冷えるような気がしていました。
節子の過酷な闘病生活が思い出されて、心身を覆ってしまうからです。
それを思い出すと、わが家の風景さえもが変わってしまうのです。
現実に見える風景と心身が感ずる風景が違ってくるのです。
だから、夏が好きにはなれませんでした。

今年はちょっと違うのです。
節子がいないのです。
節子を忘れたわけではありません。
現に昨夜も、節子の夢を見ました。
しかし、昼間はあまり出てきません。
思い出しはしますが、出てこない。

節子がいなくなった後、複数の人から、時が癒してくれますよ、と言われて強く反発したものです。
時間が癒せるはずはないと怒りさえ感じました。
しかし、もしかしたら時間が気持ちを変えてしまうのかもしれません。
もちろん「癒し」とは違います。
節子がいない寂しさや悲しさは、何ひとつ変わることはありません。
しかし涙はあまり出なくなりました。
心身が動けなくなることもなくなった。
それは間違いありません。
そのことを喜ぶべきか嘆くべきか、いささか複雑な気持ちです。
私の「生気」が萎えてきているせいかもしれません。

また、ただただ暑い夏がやってきました。
唯一、うれしいのは、青い空を見られることです。
節子も私も、暑い日の青い空が好きでした。
いつかそこが私たちの住処になるのだと感じていたからかもしれません。

■1772:親孝行(2012年7月16日)
昨日は私の母の命日でした。
母は節子がお気に入りでした。
逆に、母は私が苦手でした。
私は、親の期待などは意に介さない、わがままな息子だったのです。
節子との結婚も、両親にはそれこそ青天の霹靂だったでしょう。
なにをするかわからない息子、というのが、特に母親の思いだったかもしれません。
にもかかわらず、ある事情で、私たちが私の両親と同居することになりました。
父母がその選択を選び、節子もそれを引き受けました。

父も母も、そんなわけで節子が最後の世話をしてくれました。
両親共に、胃がんで亡くなりました。
父は自宅で、母は近くの病院で亡くなりましたが、2人とも最後までかなりしっかりしていましたので、介護の大変さは、それほどではなかったかもしれません。
しかし、節子は、私が思っている以上に大変だったのかもしれません。
母を見送った後、「ちょっと良い嫁を演じすぎようとしていたかな」と私に話すことがありましたから。
私からみる限り、それほど「演じていた」ようには見えませんでしたが、本人がそういうのであれば、それは事実なのでしょう。

節子は、私の両親への不満は一度も言った事はありません。
私の両親も、節子への不満を言ったことはなく、むしろ息子の私よりも信頼していたはずです。
私は、極めて常識だった両親にはたぶん理解できない息子だったでしょう。

娘たちは、そうした私と両親との関係を素直に観察しています。
彼女たちにとっては、私はあまり「親孝行」には見えていないようです。
もちろん実際にはそんなことはありません。
後悔する事は山のようにありますが、私は胸を張って、自分はそれでも親孝行だと言うことができます。
一番の親孝行は、節子と結婚したことなのです。

節子も、私とは違う意味で、親不孝になりかねない生き方をしていました。
親元を離れて、遠くに嫁いでしまったからです。
しかし、その節子も、自分の一番の親孝行は修と結婚したことだと言うようになりました。
節子の父親は、私たちが結婚して数年後に亡くなってしまったのですが、私のことをそれなりに気にいってくれていましたし、母親も私のことを「良い人だ」と思っていてくれたようです。
そんなわけで、私たちは、結婚した相手のおかげで、それぞれ親孝行できたわけです。

娘のユカが、今日はおばあちゃんの命日だと教えてくれました。
昨日はお祭で、歯か参りにいけませんでしたが。今日、墓参りに行ってきました。
節子も、自分で選んで、私の両親と同じ墓にいます。

■1773:挽歌を書いていないので心身の調子が悪い(2012年7月23日)
節子
挽歌をしばらく休んでいます。
最近どうもやりきれないほどに無力感が強いのです。
というよりも、世界の果てまでがちょっと見えてきてしまったような気もするのです。
世界が見えてくると、無力感が高まります。
かなり傲慢に聞こえるでしょうが、みんなには見えていない世界が見えているような気がします。
以前は、その世界をみんなに伝えようと思いましたが、最近はその不可能さを感じています。
周りの人たちが見ている世界と私の見ている世界は、あまりにも違いすぎるのです。
話してもまったくと言っていいほど伝わっていないことに時々気づくようになりました。
唯一の共有者の節子はもういません。
それがともかくさびしいです。

節子への朝のお勤めも、最近はいささか手抜きです。
今日は般若心経と十句観音経をあげましたが、時々、今日は眠いので省略となっています。
私の性分を知っている節子は、決して怒らないでしょうし、笑っていることでしょう。

今日から挽歌を書こうと時々思いますが、結局、書かずに寝てしまいます。
困ったものです。
ブログもあまり書いていないので、友人からどうかしたのかと電話をもらいました。
ブログを読んでいない人は、相変わらずいろいろやっているのでしょうと手紙や電話をくれます。
そのすべてが、その通りで、その通りでない。

無力感が高まっているからと言って、おかしくなっているわけではありません。
今日も畑仕事をしてきましたし、頭も使って、アグリケアネットワーク(仮称ですが)構想を起案し、一緒にやろうと言っている若者に送りました。
身体も頭も使っています。
でも、挽歌を書かないでもう1週間ほどたってしまった。
それが今度は気分を重くしてしまっています。

挽歌を書いていないので心身の調子が悪いのでしょう。
心身の調子が悪いから挽歌を書いていないのではありません。
ましてや、時間がないためではありません。
すべての起点は、挽歌を書いていないことなのでしょう。
明日からまたパソコンに向かいましょう。
そうしないと、ますます生活が破れていきそうです。

■1774:出不精(2012年7月24日)
節子
先週、銀座のギャラリー・オカベに、最近知り合った篠崎正喜さんの個展を見にいきました。
篠崎さんは、私の顔を見るなり、出不精の佐藤さんは絶対に来ないと思っていたと喜んでくれました。

出不精?
そうか、最近、私は出不精になっているのだと悟りました。
そういえば確かにそうです。

以前、私はそれなりにフットワークはよく、かなりいろんなところを出歩いていました。
会社時代は日中は出歩いてばかりいて、オフィスにあまりいないため、ボスからお前は何をしているのかわからないといわれたこともあります。
ところが、気づいてみると、最近は本当に出不精になっています。
遠出はもちろんですが、都内ですら、最近は自発的に出かけることはなくなりました。
音楽界も展覧会もパタッと行かなくなりました。
音楽界も展覧会も、一人で行くのが好きでなかったので、必ず節子を誘いました。
節子はどんなものも、基本的には断りませんでした。
その代わり、私も節子の誘いには基本的に断らないようにしていました。
ですから、節子が元気だった頃は、よく行きました。
それが今はまったくないのです。

先日も東京国立博物館に行きたいと思ったのですが、なんとなく行けずにいたら、何で行きたいと思ったのかさえも忘れてしまいました。
それほど出不精になってしまっているのです。
ですから今回は久しぶりのギャラリーでした。

これではいけないと思い、届いている案内を見直しました。
たしか2枚ほど、個展の案内が来ていたはずです。
ところが見当たりません。
出不精どころか、折角送ってくれた案内さえ見る気もなくなっているのです。
困ったものです。

少し生き方を変えましょう。
出不精などと思われないように、少し歩かないといけません。
そう思って、先週は少し出歩いてみました。
25年ぶりの人にも会いに行きました。
出歩くと、やはり世界が広がります。

ところで、篠崎さんの個展ですが、節子が一緒だったら喜んだでしょう。
とても楽しい作品ばかりでした。
しかし、なんで篠崎さんの個展に行く気になったのでしょうか。
不思議です。

■1775:昼寝の場所(2012年7月25日)
節子
暑い夏です。
今朝は少し早く起きて、畑に行く予定だったのですが、朝からかなりの暑さと湿度だったのでやめてしまいました。
熱中症予防のせいか、今日は外出を控えるようにと防災放送まで流れています、
素直にそれに従い、出かける予定もやめて、今日は在宅です。

チビ太も熟睡しています。
わが家は、家族のためにクーラーをつけることはほとんどなく、暑がりの犬のためにしか使いません。
節子がいた頃からそうでした。
人は育った環境に大きく影響されますので、娘たちもあまりクーラーを使いません。
では暑い時にはどうするか。
昼寝なのです。

わが家の昼寝の最高の場所は1階の廊下です。
わが家の廊下は家の真ん中にありますが、風の道になっています。
ですからとても涼しいのです。
実は、この場所は節子が見つけて、元気な時には愛用していました。
もっとも節子は昼寝のできないタイプでしたので、横になって休んでいるだけでしたが。
節子がいなくなってから、私も時々利用していますが、実に涼しいのです。
私もあまり昼寝のできないタイプです。
廊下で横になっていると、節子の寝姿を思い出します。

家族個人の部屋には、クーラーさえ設置していません。
扇風機もあまり使いません。
節子は、扇風機も好きではなかったのです。
暑い夏は、暑さを楽しむ。
これは私の生き方でしたが、節子が病気になってからは、暑い夏はただただ暑いだけの季節になってしまっていました。

さて庭に打ち水をしましょう。
少し涼しくなるでしょう。

■1776:歳を重ねるほど妻の存在のありがたみがわかります(2012年7月25日)
節子
節子の友人の野路さんから快気祝いが届きました。
野路さんは1年前に階段から落下し、複雑骨折をしただけでなく、頭を強く打って記憶まで一部なくされてしまったのです。
いまもなおリハビリに通われているようですが、記憶はまだ回復していないご様子です。
ご家族からのお手紙が同封されていました。

野路さんは、節子にとっては特別の人でした。
一緒に海外旅行に行った友人ですが、節子よりも数年先に、節子と同じ胃がんになってしまったのです。
野路さんの場合は、しかし、病気を乗り越えました。
節子にとって、野路さんは目標でした。
野路さんと同じように自分も頑張ろうと思っていたのです。
野路さんも、そういう節子を応援してくれていました。

節子が逝ってしまってから、まもなく5年です。
私の中では、世界は止まっていますが、当然ながら。5年も経つといろいろとあります。
節子の友人たちとの付き合いは、私はほとんどありませんが、時々、耳に入ってくることもあります。
節子だったら、どう対処するだろうか。
そう思いながらも、何もできずにいます。
お付き合いに関することは、すべて節子に任せてしまっていたからです。
しかし、こうしたことはこれから増えていくことでしょう。
若い頃とは違ったお付き合いがいろいろと増えそうです。
私は、どうもそういうのが不得手なのです。
お付き合いを一切やめて、山にでも入りたい気分もありますが、人が大好きな私としては、それは無理でしょう。

節子の存在のありがたさは、歳を重ねるごとに高まっています。
先に逝くとは、本当にずるい。
つくづくそう思います。
女性のみなさん、夫より先に旅立つのはやめましょう。

■1777:猛暑日(2012年7月27日)
節子
今日も猛暑日です。
「猛暑日」などという言葉は、節子は聞いたことがないでしょう。
予報用語としてつくられたのは2007年だそうですが、よく耳にするようになったのは今年からです。
35度以上の日を猛暑日と言うのだそうです。

節子がいなくなって以来、世界は大きく変わってきています。
まあ私の世界の見方が変わっただけなのかもしれませんが、かなり変質してきているような気がします。
都心はどんどん壊れだして廃墟化しつつありますし、人々の生き方は惰性的になってきています。
世界の経済はもう息絶え絶えですし、政治に至っては茶番劇の繰り返しです。
みんなオリンピックにうつつを抜かし、贋物のグルメがはびこっています。
まさに、荒廃期のローマ、パンとサーカスの時代です。

とまあ、こう書くといかにも大仰ですが、ある意味では、節子は良い時代を生きていたのかもしれません。
そんな気もする一方で、しかし、節子はもしかしたら、こうした「荒廃した時代」が好きだったかもしれないとも思います。
新しい丸の内も六本木も、私と違って、節子は好きだったかもしれませんね。

しかし、最近の猛暑続きはさすがの節子も好きにはなれないでしょう。
それほど暑い。
しかし、こうした暑さが好きだった時代も、私たちにはありました。
暑い暑いといいながら、首に手ぬぐいを巻いて、庭仕事をしていた節子が見えるような気がします。
節子がいたら、どんな猛暑日もきっと楽しめたでしょう。
一人だと、ただただ暑いだけで、やり切れません。

今日はこれから湯島に向かいます。
我が家にはないクーラーがあるので、熱中症にならずにすみますし。

■1778:暑さの中での思考は、人を不幸にするのかもしれません(2012年7月29日)
節子
地獄の蓋が開いているのではないかと思うほど、毎日、暑いです。
子の暑さを、以前のように楽しまなければと一度は思ったのですが、なかなかそうもいきません。
最近、友人たちから「高齢なのだから無理をするな」というメッセージが多くなりました。
身近に、節子のように、自分を相対化する存在がいなくなると、自分が歳を重ねていることを、ついつい忘れてしまうのです。

友人の忠告を聞いて、最近はスポーツドリンクを飲むようにしています。
しかしこれが全くおいしくありません。
美味しくないものを飲むのは、私の文化には合わないのですが、節子がいない今は、少しは自分の健康にも気をつけなければ行けません。
以前は具合が悪くなれば、節子がケアしてくれましたが、いまは誰かに迷惑を書けることになりかねないからです。

暑いと何もやる気がおきません。
何もやらないといろんなことを考えます。
いろんなことを考えると、私の場合、最近は後悔の念が出てきます。
節子のことに関しても、後悔の念がたくさん出てきます。
私自身、あまり良い伴侶ではなかったのではないかとさえ、思うこともあります。
暑さの中での思考は、人を不幸にするのかもしれません。

今日も暑い日になりそうです。

■1779:福二の願望(2012年7月29日)
「遠野物語」を読んだのはもう数十年前です。
それもかなりいい加減にしか読んでいないので、あまり記憶には残っていません。
20年ほど前に、遠野の人と会う機会があり、もう一度読もうと思ったこともあるのですが、残念ながら交流は続かずに、そのままになってしまっていました。

今朝、録画していたNHKの「日本人は何を考えてきたか」第7集の「魂のゆくえをみつけて」を見ました。
柳田國夫が、今回の主役でした。
当然、遠野物語が紹介され、当然に、有名な第99話が取り上げられていました。
99話は、ご存知の方も多いでしょうが、「津波で流された妻の幽霊」の話です。

遠野から山田町の田の浜に婿入りした福二は、大津波で妻も子も失いました。
1年が経った夏の初めの月夜のこと。
真夜中に用足しに起きて外に出た福二は、霧が立ち込める中で2人の男女に会います。
近寄ると、女はまさしく亡くなった妻。
名を呼ぶと、振り返り、にこっと笑いました。
連れの男は同じく大津波で死んだ者で、昔互いに深く心を通わせた仲だった人です。
今は夫婦でいると言うのです。
その後、2人は足早に立ち去り見えなくなってしまいました。
気がついたら夜が明けていた、という話です。
そして、福二は,この事の後、長らく煩ったそうです。

福二は実在の人で、その孫に当たる方がいまも田の浜に住んでいます。
昨年の津波で母親が被害に合い、今もまだ見つかっていません。
その方は、「亡くなったとはいいたくない、いなくなったのだと思っている」と話していました。
その気持ちがすごく伝わってきました。

番組では、赤坂憲夫さんと重松清さんが、その話をめぐって話されていました。
なぜ福二は、話さなければ誰にもわからなかった、その話を柳田にしたのか。
お2人は、話すことが、救いと赦しをもたしたのではないかといいます。
その後の、長い煩いも、福二にとっては一種の癒しであり鎮魂だったのかもしれません。
とても考えさせられました。
もしかして、挽歌を書き続けている私も、いま、長い煩いの中にいるのかもしれません。

福二の妻は、彼岸で幸せになっていました。
節子はどうでしょうか。
どんな形であれ、幸せになっていれば、うれしいことです。

福二は亡くなった妻を深く愛していた。だから幸せになってほしかったのです。
どうしたら幸せになれるか、1年かかって福二が得た答が、たぶんこの話だったのだろうと思います。
幽霊は、いつも願望が生み出すのだろうと思います。
赤坂さんは、その番組で、被災地では幽霊の話が沢山聞かれると話されていました。
被災地には、今、きっと沢山の願望があふれているのではないか、そんな気がします。

■1780:今日も暑いなかサロンでした(2012年7月29日)
節子
今日も暑い日でした。
4月から毎月やっているフォワードカフェの日でしたので、暑い中を湯島に出かけました。
暑いから誰も来ないかもしれないと思っていたのですが、4人の人が参加してくれました。
最近は、平均すれば毎週2回ほど、サロンをやっています。
いささか疲れますが、やると決めたので休むわけにもいきません。
それに、最近はテーマを決めたサロンの要請もあります。
8月にも2つほど、新しいテーマサロンがスタートします。
節子がいたら、いい加減にしたらとストップをかけるでしょうが、今のところ、私の行動を止める人はいません。
だれかがこういうサロンをやりたいと言ってくると、ついついその気になってしまうのです。困ったものです。

今日は、もともとは「自殺を身近に体験した人たちのためのサロン」でしたが、なぜかあまり「自殺」には縁のなさそうな人が集まりました。
お一人だけ、東尋坊で自殺防止の見回り活動をしている茂さんたちの活動の支援者が来てくれました。
それで今日はまったく違った話題のサロンになってしまいました。

湯島に来る人に限りませんが、気楽に話せるホッとする場がほしいと言う人は多いです。
しかし、そういう場を用意すると、思っているほど人は来ません。
あの言葉は嘘だったのかと思いたくなることもあります。
しかし、そうではなくて、私の場の設計が悪いのでしょう。

今日も暑い中を出る時、誰から頼まれたわけでもないのに、何でわざわざ出かけていくのだろうかと自問自答してしまいました。
節子がいた頃も、私は同じ疑問を持つことがあり、よく節子に訊いたものです。
「なんでサロンをやってるんだろうか」と。
自分のやっていることの理由は、実はわかっているようでわからないことが多いものです。
私は素直なので、自分のやっている事の理由がわからない時には、節子に訊くようにしていました。
節子からまともな回答が戻ってきた記憶はありませんが。
まあ考えてみると、おかしな質問ですので、それも仕方がありません。
節子は、私のほうが訊きたいわと笑いながら応え、しかし応援してくれました。
節子の応援があったからこそ、この活動が私の生活に定着してしまったのです。
いわば、責任の半分は節子にありますが、いまは応援さえしてくれません、
無責任このうえない。

サロンが終わった後、8月は暑いのでこのサロンはお休みにしましょうかといったら、みんなあっさりと賛成してくれました。
もしかしたらみんなもサロンなどないほうがよいのかもしれません。
私がやるので、仕方なく付き合っているのかもしれません。
節子もそうだったのでしょうか。
わがままな私に付き合ってくれるみんなに感謝しなければいけません。
それにしても、今日も暑い1日でした。

■1781:幽霊とグリーフケア(2012年7月30日)
節子
昨日の挽歌に幽霊のことを書いたら、早速、九州の佐久間さんからメールが来ました。
佐久間さんは、節子の病気治癒を韓国の灌燭寺の弥勒菩薩に祈ってきてくれた人です。
節子も、そのお守りを大事にしていました。

その佐久間さんが、「わたしは、「幽霊」という考え方そのものが「グリーフケア」であったと思っています」と書いてきました。
確かにそういわれるとその通りです。
幽霊にケアされた人は少なくないでしょう。
グリーフケアは、佐久間さんの専門とする領域の一つです。

佐久間さんは、最近、「幽霊」のことばかり考えているといいます。
そのあたりは、佐久間さんのサイトに詳しく書かれています。
http://homepage2.nifty.com/moon21/shinsletter.html 
また、これから毎日、幽霊についてのブログ記事をアップする予定だとも書いています。
最初の記事は昨日書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20120729/1343487665 
なんという偶然でしょうか。

佐久間さんが幽霊について語ることにはとても自然に感じます。
佐久間さんのテーマだからです。
しかしこれまでさまざまなところで言及していた「佐久間さんの幽霊論」を改めてまとめられるとはうれしいことです。

ところで、幽霊がグリーフケアだと言うのは、実に共感できます。
しかも、その意味は、とても深いように思います。
誰にとってのグリーフケアか。
当然、残された者にとってのグリーフケアでしょうが、それだけではありません。
逝ってしまった者にとっても、社会にとっても、です。
昨日のNHKテレビの大河ドラマ「平清盛」では、崇徳上皇の怨霊が登場していましたが、怨霊もまたさまざまな意味での「大きなグリーフケア」を果たしています。
そう考えると、歴史に残っている怨霊の物語はとてもよく理解できます。
社会がケアされる仕組みが怨霊の物語です。
そこに流れているのは、「救いと赦し」です。
決して「呪いや怒り」に、その意味があるのではないと私は思っています。
間違っているかもしれませんが、このあたりは、たぶん佐久間さんが明らかにしてくれるでしょう。

グリーフケアは、愛する人を失った大きな悲しみに対するケアのようです。
私も一度、ワークショップに参加したことがあり、たしかにある意味でのケアを体験しました。
自分自身の心身の癒しも感じましたが、それ以上に感じたのは、その場の空気のあったかさでした。
グリーフケアのワークショップに参加した人たちが醸し出す、なんともいえない、あったかな「救いと赦し」の雰囲気。
それが不思議な世界と関係性を生み出していたような気がします。

昨今の社会状況を見ていると、社会そのものが癒されるべき状況にあるような気がします。
確かに、私自身、ケアされたい気分はあります。
しかし、節子がいたら、節子にケアされてしまって見えなくなってしまっていたかもしれない社会の問題が、否応無く見えてきてしまうと、ケアされるべき対象は決して自分ではないと気づいてしまいます。

これ以上書くと時評編の記事になりかねませんが、幽霊の時代がまた蘇っているような気が。私も最近しています。

節子も、たまには幽霊になって戻ってきたらどうですか。
私には見えていないだけですかね。

■1782:「人間は他界を考え夢見る動物」(2012年7月30日)
「人間は他界を考え夢見る動物」。
こう語っているのは、民俗学者の谷川健一です。

幽霊のことを書いていたら、これにも触れたくなりました。
ここで「他界」というのは、次元の違う世界のことを指しているのだろうと思います。
簡単に言えば、此岸に対する彼岸であり、現世に対する来世です。
よく3次元の世界の住人には、4次元以上の高次の世界は見えないといわれますが、それを「考え夢見る」ことができるのが人間です。

考えることができるものは実現する、ということもよく言われます。
いささか短絡的ですが、考えることができるものは必ず存在すると言ってもいいでしょう。
かくして、私は来世も彼岸も実在すると考えているのです。
私のこの説明に、多くの友人は笑います。
論理的ではないというのです。
しかし、実在しないものを指す言葉があるほうこそ、私には論理的ではありません。
実在を証明できないものは実在を信じないという人もいます。
しかし、そういう人が信じる根拠にしている「証明」は、私には極めて脆いものにしか思えません。
そもそも「実在するものの実在」を証明するとはどういうことでしょう。
証明しそこなったら、それは実在しないとでもいうのでしょうか。
証明の有無に関わらず、実在するものは実在するのです。
同じように、実在しないものを実在しないと証明することは不可能です。
なにしろ実在しないのですから。

では、来世や彼岸はどうか。
来世や彼岸が実在しないことを証明するのは不可能ですし、実在することも証明できない。
だとしたら、決めるしかありません。
私は実在すると決めています。
谷川健一の言葉の意味は、私には「人間は、他界の実在を信じ、他界とともにある動物」ということだろうと思います。

なにやら小難しい屁理屈を書いたような気もしますが、もし他界の実在を考えることができるのが人間なのであれば、彼岸や来世があると考えるのが素直でしょう。
かくして私は、来世や彼岸を確信しているわけです。

他界を感ずる能力を得たのが人間ならば、それを活かさなければいけません。
残念ながら、私の場合、まだその能力が未熟なために、他界との往来はできませんが、そこにいる節子が、時に透けて感じられるくらいはできるような気がします。
それこそが幽霊なのかもしれません。
人間が小賢しさを持たなかった昔は、往来も出来たようですが。いまは往来はなかなか出来ません。
まもなく自由に往来できる時が来るかもしれませんが、どちらが幸せかはわかりません。
かつて往来可能な時代に、彼岸に行った人はみんな不幸になっているのは、なぜなのでしょうか。
そこには、深い意味が必ずあるはずです。

■1783:高齢者の自覚(2012年7月31日)
節子
最近、ようやく自分が歳をとってきていることを実感できるようになりました。
自分の意識における年齢と他者から見える年齢とは、大きな違いがあるのでしょうが、自分ではなかなかそれに気づきません。
しかも私の場合、節子が病気になる前の時点で、たぶん時が止まっているのです。
自らの年齢を実感する伴侶の不在は、たぶん人の年齢感覚を狂わせます。
私はいまなお10年前を生きているのかもしれません。
最近、そのことをようやく実感できるようになってきました。

それは、いささかさびしいことでもあります。
それに、最近考えている人生設計は、根本から見直さなければいけません。
あと10年がんばってください、などという知人の言葉に惑わされてはいけません。
これから仕事を再開だ、などと思ってもいけません。
人生設計を見直す必要がありそうです。

そう思ったのは、実は今朝のことです。
内容の記憶はないのですが、夢の中で暗示されたような気がします。
朝、目覚めてすぐに頭に浮かんだのが、そろそろ隠棲しようかということでした。
そういえば、「最近、誰も仕事を頼んでこない」ことにも気づきました。
この数年、緊張感を持って責任ある仕事で汗をかいたことがありません。
いろいろな相談は来ますが、仕事には本格的には巻き込まれません。
たぶんもうその年齢を超えているのでしょう。
自分では気づいていませんが、他者から見れば当然のことなのかもしれません。

まだ、わくわくするような難題を解く仕事がしたいという思いはあります。
誰にも負けない問題形成力と問題解決力には、いまなお自信はあります。
ただ本気でそこにすべてを投げ込むだけの勇気はなくなっているかもしれません。
その先の夢が描けないからかもしれません。
それに体力的にも無理がきかない。
これは致命的です。

もう新たな仕事起こしなどという発想は捨てて、しずかに人生の安寧を目指すのがいいかもしれません。
節子
どう思いますか。
そろそろ潮時でしょうか。

■1784:虚勢の効用(2012年7月31日)
節子
久しぶりに武田さんのところに行ってきました。
武田さんの弟さんには、節子は会ったことがないと思いますが、2か月ほど前に、奥さんが急逝されたのです。
武田さんから、そのことを聞いたので、ともかく武田兄弟に会いたくなったのです。
いや、会わないといけないような気がしました。
奥さんを亡くした友人がいたら、会うだけでもささやかな支えにはなるだろうと思ったのです。
仕事が終わる頃を見計らって、お伺いしました。
お2人の仕事場を訪ねるのも本当に久しぶりです。

お話をお聞きしたら、まさに急逝だったようです。
朝、起きたら、奥さんが部屋の隅でうずくまっていたので、声をかけたら亡くなっていたのだそうです。
癌だったようですが、あまり詳しくは訊けませんでした。
どう話したらいいか、やはりわからない。
第一、話すことがいいのかどうかさえわからない。
自分の時はどうだったかと思い出すと、如何なる言葉も受け付けられませんでしたし。

まさに「思ってもいない突然の別れ」です。
どんなに「悔い」が残ったことでしょう。
いや、それ以前に、亡くなったという事実そのものが、受け容れがたかったことでしょう。
たぶん今もなお、理解できずにいるような気がします。
これからが大変だろうと、他人事ながら思います。

仕事があるので気が紛れるが、仕事がなかったらおかしくなったかもしれないと話されましたが、それがよくわかります。
仕事は、いまも忙しそうです。
それが支えになっているのかもしれません。
しかし、いつもなら感ずるだろう彼からのオーラは伝わってきませんでした。
人の心身の状況は、言葉とは別にきちんと伝わってくるものです。

生活の一部を構成していた伴侶がいなくなると、人は戸惑います。
その戸惑いを受け容れたくなくて、人は虚勢さえはることもある。
それは無意識なのですが、そのおかげで、みんなは「大丈夫だ」と思います。
しかし、本当は大丈夫ではないのですが、不思議なもので、周りがみんな大丈夫だと思うとなんだか自分も大丈夫なような気になっていく、

考えてみると、私も素直に自分をさらけ出していたと言いながら、その実、結構虚勢も張っていたことに思い当ります。
いえ、今もまだ、もしかしたら虚勢を張っているのかもしれません。

■1785:畑が復活しだしました(2012年8月1日)
節子
今日も夕方、畑に行ってきました。
節子がいたら楽しい畑仕事も、私一人ではただただ重労働でしかありません。
空いている宅地を活用したわが家の家庭菜園は、半分は通る人を意識した花畑で、半分はわが家の食材のための野菜畑でした。
節子がやっていた頃は、ピーナッツまで植えたりしていました。
節子は奇妙なところで挑戦的でした。
最初は土壌が悪いために、出来は良くありませんでしたが、年々少しずつ良くなってきました。
ようやく畑らしくなった時に、節子が病気になり、わが家の畑は荒れだしました。
それでも節子がいた頃は、何とかその指示で、野菜も少しは収穫できました。
節子がいなくなると共に、わが家の農園も荒れだしました。
もうやめようかと娘たちが言い出しましたが、私はその気になれず放置していました。
そしてようやくまたやろうと思った矢先の放射線汚染。
さらに畑は放置され、今年の春には笹で覆われてしまいました。

その荒れ放題の節子の農園をいま少しずつまた畑に戻そうと頑張っているのです。
春から何回か雑草取りに出かけていますが、少し間をあけると元の木阿弥です。
雑草や笹の成長力は本当に驚異的です。
やってもやっても何も変わらない。
それで諦めかけていましたが、また再開しました。
熱中症になりかねないので、無理をするなと娘は言いますが、私の性格は、熱中症の危険性があればこそ、やりたくなるのです。

節子と一緒にやっていた時も、節子は涼しくなってからやればよいのに、あなたは思いついたらやりだす、といつも注意していました。
その上、私のやり方にはいつもだめだしでした。
思いつきで、めちゃくちゃに頑張って、しかしすぐに飽きて終わってしまうからです。
私のやった後は、ただただ雑然としてしまっているというのです。
節子のやり方は違いました。
小さな部分でもいいので、ともかく少しずつをていねいに完成させていくのです。
私の好むところではありません。

しかし、最近、私も節子のやり方に変えました。
ただ雑然とやっていては、何も変わらないからです。
最後の仕上げをする節子がいないので、節子の分までやらなければいけなくなったというべきでしょうか。
そうしたら荒れ放題の笹藪が、少しずつ畑に戻りだしたのです。

節子と私の、物事の処理の仕方はいつも対照的でした。
思いつきでいい加減な私のやり方を、いつも節子は嘆いていました。
しかし、節子は、私のやり方を受け容れてもいました。
諦めてのことだったのかもしれませんが、そこが節子の実に良いところです。
今から考えると、どうも節子のほうが私を包み込んでいたようです。
今度会ったら謝らないといけません。
節子のおかげで、わが家の農園が復活しそうです。
復活したら、「節子農園」と名付けましょう。

■1786:今日は頑張りました(2012年8月2日)
節子
此岸は連日暑さが続いています。
彼岸は、暑さも寒さもないのでしょうね。
挽歌を毎日、書くことにしたのですが、今日はいささか暑い中をちょっと無理してしまったので、眠くて仕方がありません。
節子がいたら、挽歌なんて書かないで早く寝たらと言うでしょう。

ではお言葉に甘えてそうさせてもらいましょう。
おやすみなさい。

■1787:生活感覚(2012年8月3日)
節子
今日は朝からセミがうるさいほどです。
最近は、朝起きて、まずは庭の花に水をやります。
少しずつですが、生活が正常化してきています。
何を持って「正常化」というかは難しいですが、身のまわりの生活環境に気が向き出したといっていいかもしれません。
何をいまさらと言われそうですが、一度壊れてしまった生活感覚はなかなか戻らないのです。
節子が中心になって育て上げてきた、わが家での生活リズムや生活文化は、節子がいなくなっても変わりません。
食器棚の食器の置き方も、掃除の仕方も、衣服のしまい方も、庭の花木の植え方も、です。
「良い悪い」は別にして、節子が敷いた路線はいまも基本的には続いています。
主婦というのは、やはり偉大な存在でした。
それを維持していた節子がいなくなってしまったのですから、まあいろんな不都合は起こってきます。
「手が不足」しているわけですから、当然と言えば当然です。

庭の植木鉢のかなりは枯らしてしまいました。
娘たちが整理してくれてはいますが、それよりも、何となく枯れていくのもいいかと、最近は思うようになりました。
自然は、そうして朽ちていくのが一番です。
最近はそんな心境になっていますので、節子が大事にしていた花が枯れてしまっても、そう慌てなくなりました。
間もなく私自身が枯れていくわけですから、慌てることもありません。

もしかしたら、私自身が「素直に枯れていく」ことを忘れているのかもしれません。
昨日、湯島にやってきた人から、私の父は同い年ですにしては、佐藤さんはお若いですね、と言われました。
つまり私自身に自覚がないということです。
たしかに年甲斐もなく、おかしな話に巻き込まれてしまったりしています。
落語に死んだことを忘れてしまった人の話があったような気がしますが、私もその類の人間かもしれません。
困ったものです。

もっと歳相応にならなければいけません。
自宅に庵でもつくり、そこで来客の話を聴くでもなく聴かないでもなく、という塾でもやったほうが良いかもしれません。
しかし、いまはまだ20数年前からやっている、さまざまな人の駆け込み寺である湯島のオフィスで、いろんな人に会っています。
今日も会ったことのない若者が2人やってきます。
さてさて、どんな話でしょうか。
以前と違い、横で、聴くでもなく聴かないでもなく、座っていた節子がいないので、私一人で対応しなければ行けないのが寂しいですが。

■1788:「妻は死んだ」(2012年8月6日)
節子
昨日、途中からですが、テレビで、映画「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」を観ました。
ちょっとした時間の合間に、たまたまチャンネルを合わせたらやっていたのです。
マット・デイモン主演の15年ほど前の作品ですが、何回観ても気持ちの良い映画です。
ちょうど、マット・デイモン演ずる主役のウィル・ハンティングが、カウンセラーを受けているシーンでした。
カウンセラーのドクターショーン役はロビン・ウィリアムス。なかなかの俳優です。

ショーンは、少し前に最愛の妻を失っています。
そこで患者であるウィルが、再婚したらどうかと言います。
ショーンはこう応えます。
「妻は死んだ」
ウィルは重ねて言います。
「だから再婚したら」
ショーンは繰り返します。
「妻は死んだ」

以前見た時にも、ちょっとこのシーンには考えさせられましたが、今回は強烈に心身が震えました。
「妻は死んだ」
その言葉の「妻」は書くときっと大文字なのでしょう。

その画面の前に、たしか絵が出てきます。
海に船で乗り出す絵だったと思います。
実はこの絵は、節子が習っていた絵の先生から購入した絵を思い出せる絵でした。
節子は、先生への義理で買ったものの、実はその絵が好きではありませんでした。
たしかわが家では数日しか飾られていませんでしたから。
その絵のことも気になっていました。

また今度,テレビでやるでしょうから,改めて最初から見てみようと思います。
なぜか娘のユカがこの映画を私に勧めてくれるのです。
私好みの映画だと、ユカは思っているようです。
まぜでしょうか。
もう一度見たら、その理由もわかるかもしれません。

■1789:黒崎茶豆(2012年8月6日)
節子
また新潟のお盆時期になりました。
それに合わせるように、新潟の金田さんが黒崎茶豆を送ってきてくれました。
節子がいたらどんなに喜ぶことでしょうか。
それにしても、みんないろんなものを送ってきてくれます。
私は節子と違って、人に贈り物を送るのがとても苦手なのですが、なぜかみんな贈ってきてくれます。
節子がいたらお礼の手紙も書くのでしょうが、私の場合は、電話で終わりです。
電話も忘れることがあるのです。
節子はきっと嘆いていることでしょう。

節子は豆類が大好きでしたが、実は私は豆類が苦手なのです。
ところが不思議なもので、節子がいなくなってしまってから、なぜか枝豆が好きになったのです。
ズンダ豆も黒崎茶豆も好きになったのです。
妻と結婚して食生活が変わると言うことはあるでしょうが、妻がいなくなって食生活が変わると言うのは、理屈に合いません。
しかし、そういうこともあるのです。

節子がいなくなってから、わが家のパントリーから保存用のいろんな豆が出てきました。
一部は私にも見覚えがありましたが、旅行先で買ってきた豆です。
長瀞のお店で、節子がいろいろと買っていたのを覚えています。
長野か山梨でも買っていました。
私は買い物が嫌いですが、節子は好きでした。
めずらしい豆を見ると節子は買いたくなるのでしょう。
しかし、調理されることなく、豆だけが残されてしまっていました。
あの豆はどうしたのでしょうか。
わが家の娘たちは、食べ物は無駄にしないタイプなので、たぶん節子に代わって調理されたと思います。
しかし食べた記憶がありません。

節子は、調理が好きでした。
病気が進行して台所に立てなくなってからも、1品でも作りたいとがんばっていましたし、家族のために調理できないことをとても悲しんでいました。
節子は、決して調理が上手とはいえませんでしたが、私は節子の料理が好きでした。
時に苦手のものもありましたが。
しかし、苦手のものも含めて、もう節子の料理は食べられないのです。

ところで、黒崎茶豆はあまりにも美味しく、節子に供えるのを忘れてしまい、娘と一緒にみんな食べてしまいました。
困ったものです。
また明日も茹でてもらい、明日こそ、節子に供えましょう。
金田さんは、それを見越したように、どっさり送ってきてくれましたから。

■1790:セミの羽化(2012年8月7日)
節子
朝起きると、わが家の小さな庭にセミの抜け殻が見つかる時期になりました。
10日ほど前から、セミが賑やかになってきています。

一昨日の午後、庭の芝生を歩いているセミの幼虫に出会いました。
しかも1匹はアリに囲まれて転がっていました。
何とか救出して、アリを振りほどきましたが、すでに前足が変形していました。
セミの幼虫はとてもやわらかく、触っただけで変形して羽化できなくなります。
もう1匹は幸いに無事でしたので、庭の木にくっつけました。

子どもの頃、夜に公園などに出かけていって、穴から出てきたセミの幼虫を探した記憶がありますが、羽化の様子がしっかり見た記憶はそう多くはありません。
しかし、それは実に神秘的で、感動的でした。
節子も、子どもの頃、よく幼虫探しに行ったそうです。
セミの穴に水をいれて、浮かび上がらせ、幼虫をだめにしてしまったことを後悔していたと娘から聞きました。
たぶん私も同じ話を聞いたことがあるのでしょうが、すっかりと忘れてしまっていました。
ただ夏休みに家族で節子の生家に行った時、みんなでお寺の境内に幼虫探しに行った記憶があります。
その時に節子は話したのでしょう。

ところで、一昨日の幼虫は、1匹はみごとに羽化しました。
羽化するまでの経過は、時間がかかりましたが、実に神秘的です。
その途中の姿は、天使のように見えました。
1匹は残念ながら羽化できませんでした。
しかし、なぜかこの日は、夜にもまた幼虫が出てきて、幼虫ラッシュでした。
翌朝、その幼虫も抜け殻を残していました。

人は「羽化」するのでしょうか。
魂は飛び立つのでしょうか。
そうであればいい、と思います。

今朝もミンミンゼミが大きな鳴き声を響かせています。
節子には聞こえているでしょうか。
今日も暑くなりそうです。

■1791:セミ(2012年8月7日)
節子
セミの話です。
そういえば、ギリシア神話では「黄金のセミ」はアポロの持ち物でした。
言うまでもなく、アポロは太陽神ですが、夜明けとともに泣き出すセミがアポロと結び付くのは納得できます。
しかし、セミは不思議な生き物です。
私は昔から、セミが不思議でした。
セミには水分が感じられないからです。
生きていても死んでいても、いつも「カラカラ状態」です。
私にとっては、もっとも生物的でない生き物がセミでした。
そのセミが、唯一、瑞々しく輝くのが羽化の途中なのです。

セミは、不死や復活、さらには永遠の若さや幸福を象徴すると同時に、現世のはかなさや移ろいやすさの象徴でもあります。
見方によって全く違った存在になりえる存在なのです。
しかし考えようによっては、それらはすべて同じことかもしれません。
最近はそんな気さえするようになってきました。
節子がいたら絶対にそんな思いは生まれないでしょうが。

死んだ生物で、ほぼなんのためらいもなく触れるのはセミくらいかもしれません。
生命を超えた、不思議な生物です。
もしかしたら、此岸と彼岸を往来しているのかもしれません。
お盆に近づくと、セミが賑やかになってくるのも、そのためでしょうか。
節子の生家での夏の法事にでた時には、家の近くの大きな樹のセミが実に賑やかでした。
最近も、夏のお施餓鬼でお寺に行くと、これまたセミの大合唱です。
まるでセミたちが読経しているようでもあります。

今年もまたお盆が近づきました。
節子の位牌の前にも精霊棚ができました。
節子がいなくなってから5回目のお盆が来ます。

■1792:久しぶりの上野公園(2012年8月8日)
節子
今日は午後から時間ができたので、久しぶりに湯島天神から不忍池を抜けて上野公園を歩きました。
節子がいた時には、時々、歩いた道です。
節子がいなくなってからは、年に一度あるかないかですが。

湯島天神にも行かなくなりました。
オフィスの帰りに、よく2人でお参りしましたが、いまは足が向きません。
しかし今日はちゃんと正殿にお参りして、不忍池に向かいました。
不忍池は、いまハスの時期です、
まだ花は少なかったですが、池はハスの葉で覆われていました。

上野公園は夏休みなので、暑さにもかかわらず混んでいました。
木陰で座ってお弁当を食べているカップルがいました。
昔の私たちのようでした。
せっかく近くに、精養軒や伊豆栄があるのに、そこには行かずに、上野駅構内でおにぎりやお弁当を買って、ベンチで食べるのが、私たちは好きでした。
そう思って意識すると、多くの幸せそうなカップルが目に付きました。

考えてみると、そんなことを思いながら、上野公園を歩くのは、節子がいなくなってから初めてかもしれません。
私もだいぶしっかりしてきたのかもしれません。
一人で、上野公園を自然に歩くことができるようになったのですから。

■1793:骨董市(2012年8月8日)
節子
不忍池の横の通りで、夏まつり恒例の骨董市が開かれていました。
骨董市に出会わすのはたぶん6年ぶりです。
節子がいた頃は、この骨董市を見て歩いたものです。
残念ながらここで出品されているものは、あまりわが家の好みではないで、「市」好きの節子もあまり買った記憶がありませんが、買う物が有ろうが無かろうが、お店を見るのが節子は好きでした。

路地の骨董市ではありませんが、湯島から上野、あるいは御徒町に出る狭い通りにも、ちょっと面白い陶器や漆器、和紙などのお店がいくつかありました。
節子と歩いていると、よくそうお店に連れ込まれました。
一度入るとなかなか出てこないのが節子でした。
そういう体験も、いまはもう遠い昔の話です。

「市」といえば、やはり一番の思い出はルクソールの市場でした。
最初の家族海外旅行で行ったエジプトの市場はどこも面白かったですが、ルクソールの雑然とした市場は刺激的でした。
ミシンで衣服を縫っている人がいるかと思えば、生き物をさばいている人がいる。
実に不思議な空間でした。
もしかしたら、節子の市場好きは、あれ以来かもしれません。

今日は、節子がいなかったので、お店に目をやることもなく、そそくさと通り過ぎてしまいました。
もしかしたら、節子がいなくなってから、私の人生も、寄り道もなく、無駄もなく、ただそそくさと急ぎ足で歩いているだけかもしれません。
途中でそう思って、引き返して写真を撮りました。

節子は私の人生に、たくさんのものを付加してくれていたのです。
それが最近よくわかってきました。
節子がいない人生は、やはり味気なく面白くありません。
節子がいたら、それこそすべてのものが輝いていたのです。

■1794:形の奥にある意味の世界(2012年8月9日)
節子
昨日は思い立って東京国立博物館に行ったのです。
それで上野公園も歩いたのですが、上野は美術館も多いところです。
私と違って、節子は美術展が好きでしたから、元気な時にはよく付き合わされました。
私が上野通いをしていたのは、小学生から大学生の時代までで、それ以降はあまり行かなくなっていました。
むしろ節子に引っ張られていくことのほうが多かったでしょう。

私がよく遊びに行っていた、国立博物館と科学博物館はかなり変わってしまいましたが、大学時代に良く通っていた西洋美術館は昔のままです。
大学生の頃、そこでみたイタリア現代彫刻の強烈な印象が思い出されます。
形の奥にある意味の世界。
大学生の頃は、そうした思いに魅了されていました。
節子と会った頃は、まだそうした余韻が残っていましたから、節子にもたぶん得意気にそんな話をひけらかしたのではないかと思います。
偶然にもある日、京都行きの電車の中で会った節子と奈良に行ったのが、私たちの最初のデートでしたが、たぶんその時も、私はきっと仏像を前にそんな話をし続けたのではないかと思います。
節子には、初めての強烈な体験だったでしょう。
刺激が強すぎたかも知れません。
訳が変わらずに呆れるか怒るかして、帰ってしまってもおかしくないはずですが、節子にはとても居心地が良かったのかもしれません。
今となっては、確認のしようがありませんが、何となくそう思います。

話に夢中になって、奈良駅に着く頃には暗くなっていました。
お腹が減ったねと言って、たしか入ったのがラーメン屋さんのような気がします。
私たちの付き合いは最初からそんな気取りのない関係でした。
それも少し不思議です。

ところで昨日の国立博物館で、秋篠寺の十一面観音像に会いました。
こんなところに保管されていたとは知りませんでした。
もし知っていたら、節子と見に来たはずです。
節子も私も、十一面観音が好きですし、秋篠寺の葉写真でしかみた事がなかったからです。
とてもやさしい観音でした。
その向こうに、節子を感じました。

現実に見える風景の向こうに見えるもの。
それがもしかしたら、人の世界の広さかもしれません。

■1795:花かご会も10周年(2012年8月9日)
節子
昨日8月8日は、「花かご会」の創立の日だったのですね。
花かご会の山田さんから、メールが届きました。
今年で10周年だそうですね。

昨日は、駅前花壇の作業を終えたあと、みんなで食事会をしたそうです。
「10年が経ったとは信じられないような感じだね」とみんなで話していたと山田さんは書いてきました。
10年と口で言うのは簡単ですが、10年間、駅前花壇をずっときれいに維持してきたことには、私も拍手を送りたいです。
山田さんは続けてこう書いてきてくれました。

節子さんもきっと喜んでくださっているだろうと思いながら、みんなでお墓にお参りさせていただきました。

花かご会の人たちは、いまも時々、節子のお墓参りに行ってくれています。
みんな心やさしく、気持ちのいい人ばかりなのです。
節子はほんとうにいい人たちにかこまれていました。
そういえば、節子が書道を習っていた東さんも、伴侶のお墓参りに行くたびに節子のお墓にも立ち寄ってくれています。
伴侶としては、そのことがやはりとてもうれしいです。

節子のことを、こうして今も思い出して、お墓にまでいってくれる人がいる。
うれしいような、悲しいような、とても複雑な気持ちです。

まもなくお盆。
節子が帰ってきます。

■1796:訃報続き(2012年8月10日)
節子
同世代の友人の訃報続きです。
70歳を超えれば、それが普通なのかもしれません。
しかし、その人とのこれまでのことが、頭をかけめぐります。
と同時に、その先に、伴侶を失った人のことへの思いが生まれます。
私の体験から言えば、先に逝く人は幸せかもしれません。
愛する人に悼まれながら、しずかに旅立てるからです。
しかし残された人はどうでしょう。
悲しさとさびしさを背負い続けなければいけません。
しかし、そういう考えは、あまりに身勝手かもしれません。

いささか薄情なのかもしれませんが、同世代の訃報は驚きこそすれ、悲しさはありません。
妻の死をこれほど悲しみ、そこから抜け出られないでいるのに、訃報には悲しまなくなった。
歳のせいかもしれませんが、死への思いが変わったからかもしれません。
どうせまた会えるではないかという気もしますし、いまでもさほど会っていないではないかという気もします。
訃報を聞いても、何も変化はないのです。
訃報を知らなければ、何も変わらないでしょう。
事実、最近では、さほど親しくなく、もう10年以上会っていない人の訃報は、忘れてしまいます。
そして、時に、あの人はまだ生きていたかなあ、訃報をもらったとうな気もするなあ、とわからなくなってしまうことさえあるのです。
不謹慎と言えば不謹慎、不誠実と言えば不誠実。困ったものですが、それもまた事実です。

お別れの会や告別式など、最近はどうもあまり行きたくなくなりました。
10年ほど前までは、私は結婚式よりも告別式のほうが出席しやすかったのですが、最近は逆になっています。
お葬式にはあまり行きたくない。
その人の死を意識したくないからかもしれません。
できるならば、私の友人知人はみんな私よりも長生きでいてほしいです。
たとえ私よりも20歳も年上でも、です。

訃報続きは、気を沈めます。

■1797:死んでいるのに、生きている(2012年8月10日)
節子
手賀沼の花火大会は今年も中止です。
その代わり、近くの満天の湯が、恒例の花火を今年も上げました。
30分ほどのミニ花火大会です。
だれかを呼ぶほどのこともない地味な花火大会ですが、ユカと一緒に屋上で少し見ました。
娘と2人ではまったく盛り上がりません。
むしろなにか寂しさが募ります。
昔は、わが家にも大勢の人が花火を見に来て、節子はその接待で自分ではあまり見られなかったほどだったなあなどと思い出したりしてしまうのです。
いつまでメソメソしていると言われそうですが、別にメソメソしているわけではなく、まあそういう気持ちが自然とわいてきてしまうのです。
それをメソメソと言うのかもしれませんね。

わが家をここに決めたのは節子でした。
花火が見える場所だったからです。
その節子は、花火を堪能する間もなく病に襲われてしまいました。
最後の年は、花火大会の日も私と節子は花火の音しか聞えない部屋で過ごしました。
花火を見に来ている人たちは、節子の辛さをどれほど知っていたでしょうか。
庭や屋上で楽しんでいました。
そういう人たちにも、節子は辛さをあまり見せませんでした。
知っていたのは私と娘たちだけでした。
思い出すだけで、複雑な気持ちになってしまいますので、思い出すのをやめましょう。

あれ以来、私は花火があまり好きではありません。
昔は大好きでした。あの音がたまらなかった。
今も音は好きですが、花火を見ていて、ふと思うのです。
なんでこんなものが、あんなに楽しかったのだろうか、と。
花火だけではありません。
そう思うことが、たくさんあります。

まだ心が死んでいるのかもしれません。
死んだのは節子ではなく、私だったのかもしれない、などという気さえします。
死んでいるのに、生きている。

訃報つづきの影響で、心がどうも沈んでいます。
花火も心を元気づけるどころか、さらに沈ませてしまったのかもしれません。
やはりまだメソメソしてるようですね。

■1798:危うく熱中症?(2012年8月10日)
節子
今日はあやうく熱中症で倒れるところでした。
朝、畑に草刈りにいったのですが、出かける前にいろいろとやる事があって、少し出遅れてしまいました。
涼しかったので大丈夫だと思ったのですが、そのうちに日が照りだしました。
そこで止めればよかったのですが、雑草の刈り取りは成果が目に見えるので、どうしてももう少しやりたくなってしまうものなのです。
ついつい夢中になってしまい、30分を超えてしまったのに気づきませんでした。
水筒を持参して水分は補給していたのですが、急に立ちくらみを感じました。
これはあぶない。
節子と一緒にやっていた頃にも、同じような事がありましたが、今日は私一人での作業です。
畑で休んでいたらよかったのですが、一人なので帰宅することにしました。
自宅まではすぐなのですが、自転車で坂を上らないといけないのです。
節子とよく散歩した道です。

その上り坂を、病気の進行と共に、節子は上れなくなりました。
20メートルほどの坂道なのに、5分以上はかかったでしょうか。
ほんのわずかの傾斜でも、節子には堪えたのです。
私も、いつもは自転車ですいすい登れる坂ですが、今日はかなりしんどかったです。
節子のことを思い出しました。
体調によって、環境は全く違ってくるのです。

ようやく自宅について、家の中に倒れこみました。
気持ちが悪くなり、あげそうになりました。
だから無理をするなと言ったでしょうと娘から怒られました。
辺りが白く感じられ、これは危ういと思いましたが、冷たい水を飲み、横になっていたら、幸いに少しずつ落ち着きだしました。
でも30分ほど寝ていたでしょうか、
いやはや大変でした。

娘には内緒ですが、実はこういうリスクのあるのが私は大好きなのです。
だから熱中症のリスクがあればこそ、畑仕事に出たくなるのです。
節子はこういう私の性格をよく知っていました。
しかも私の天邪鬼さも知っていましたから、止めずにむしろそそのかしました。
そのやりとりがないのも少しもの足りませんが。

夕方、懲りずにまた畑に行ってきました。
娘は止めましたが、止められるとますます行きたくなるわけです。
でもまあ、節子なら迷惑をかけてもいいですが、娘にはあまり迷惑をかけられません。
そう思って、夕方は30分ほどで作業を切り上げ、帰宅しました。
しかし畑の草刈りは重労働なのです。
普通の人は、いい汗をかいた後はビールでしょうが、私は下戸なので、ビールは飲めません。
それでアイスクリームを食べようとしましたが、アイスクリームは1日一つと娘に決められています。
節子と違って、娘は厳しいのです。困ったものです。

節子ならごまかせますが、娘はごまかせません。
やはり節子がいないと困ることが多いのです。
アイスクリームさえ食べられない。
娘に節子だったらなあと言ったら、節子でもだめと言うよと言われてしまいました。
節子
そうでしょうか。
そんなことはないよね。
節子は何でも私の希望をかなえてくれましたから。
その節子がいないのが、やはり最近、無性にさびしいです。

■1799:お人好し(2012年8月11日)
節子
今日は土曜日なのですが、急に相談に乗ってほしいという連絡があり、湯島に行ってきました。
それでまたお昼を食べそこなってしまいました。

私が会社を辞めて、わが家の貯金がどんどんなくなって、さすがの節子も心配しだしたことがあります。
そして私に言いました。
どうしてこんなに働いているのにお金が入ってこないの、と。
しかし、しばらくして、そういう発言をしなくなりました。
そしてお金を使わない生活に切り替えてくれました。
いまの政府の人たちに見習ってほしいものです。
お金はなければないで、どうにかなるものです。
まあ時にどうにもならずに借金せざるを得なくなることもありますが、それでも真面目に生きていればどうにかなるものです。

最近、娘が私に言います。
少しはお金をもらえる仕事をしたら、と。
しかし娘も本気でそう言っているわけではありません。
私の性格を知って、多分もう諦めているでしょう。

いろんな人が相談に来ます。
私がなにか出来るわけではありませんが、なぜか来るのです。
そしてうまくいきだすと来なくなります。
一度くらいお礼に来ても良さそうなものをと、節子は時々言ってました。
私もそう思うこともありましたが、今はそうは思いません。
なぜなら、私は相談にきても何の役にも立っていないからです。
問題の解決は、要するに当人にしかできないことなのです。
そのことがよくわかってきたのは、やはり節子のことをいろいろと考えているうちに気づいたのです。

私は、何か困ったことや悩みが発生したら、必ず節子に相談しました。
そして、その問題は必ず解決しました。
節子が何かをしてくれたわけではありません。
しかし、節子に話すことで、なぜか問題は解決に向かうのです。
そこにいるだけでいい存在。それが節子でした。

私のところに相談に来る人も、もしかしたら同じなのかもしれません。
だとしたら、どんなに忙しくても、相談には乗らなければなりません。
相談に乗ることが価値あることだからです。
問題は、私の相談に乗ってくれる人がいないことです。
お腹をすかせての帰路、私だけが割りを食っているのではないかと、ふと思いました。
最近少しひがみっぽくなっているのです。
そして、「修さんはお人好しだから」と笑っていた節子を思い出しました。
私は決して「お人好し」ではないのですが、ちょっと納得できない金もします。
今朝は畑仕事もせずに、寝不足のなかを、なんで出かけてしまったのでしょうか。
もしかしたら、節子がいた頃もこうして、節子との時間は二の次だったのではないかとちょっと心配になってきました。
いまさら遅いことですが。

■1800:ささやかな日常の営みこそ輝いていた(2012年8月11日)
先日の「骨董市」を読んだ方がメールをくださいました。
1年ほど前に伴侶を見送った方です。

最後の数行の節子さんを彼に置きかえて読んだ途端、声を上げて泣いてしまいまいた。
彼との生活は本当に輝いていました。ささやかな日常の営みこそ輝いていたと言えます。
彼も多くのものを私に付加してくれました。多少なりとも彼もそう思ってくれていると信じたい・・・。
私は一生独身を予想していただけに、出会いの時からこの幸福の奇跡に畏れるほど感謝していました。
もちろん、ぶつかり合いもありました。それも含めてです。

「ささやかな日常の営みこそ輝いていた」。
私も、この思いが、日を追うごとに強くなってきています。
節子は、私よりもずっと早くに、そのことに気づいていたことは間違いありません。
しかし、おそらくこの方もそうかもしれませんが、その「ささやかな日常の営み」をもう2度と体験できないのです。
節子は、それを知っていた。
だから、一日一日を大切にしていました。
にもかかわらず、私は、今から思えば、節子との最後の時間を粗雑に過ごしてしまっていたのです。
いつかまた2人で旅行にも行けると、最後の最後まで信じていたのです。
そういう私を、節子はどう思っていたことでしょう。

節子がいなくなったいま、残念ながら、「ささやかな日常の営み」は輝いてはいません。
どこが違うのでしょうか。
たしかに節子はいませんが、「日常の営み」としては、さほどの変化はないのです。
でも何をしても、決して輝くことはありません。

日常が一変してしまったのです。
やっていることは同じでも、意味合いは全く変わってしまった。
たった一人の存在が、これほどまでに大きな変化を与えるものかと、不思議に思います。
節子は、どこにでもいる平凡な女性でしかなかったのに。
節子のどこにそんなパワーがあったのだろうと、時々思うのです。
「愛」とは、枯れ木に花を咲かせるものなのでしょう。
その「愛」が消えるか、熟してしまう前に、別れを体験することは、やはり悲劇です。
輝いている「ささやかな日常の営み」を失ってしまうことは、やはりどう考えても、不条理としかいえません。
幸せは不幸と、まさに裏表なのです。
できるものなら、もう一度ひっくり返したいものです。

■1801:身勝手さの反省(2012年8月11日)
もう一度、読者からのメールを引用させてもらいます。
ハッとさせられる文章があったからです。
それは、次の文章です。

通勤や買い物で夫婦、家族の何気ない会話を耳にすると、以前の自分たちを思い出して切なくなります。
私たちがそうしていた時、今の私のような思いで聞いていた人もいたかもしれません。
ああ、人生とは!と叫びたくなります。

人は本当に自分勝手です。
たしかに、そう言われると、私も、あるいは私たちも、身勝手に行動していたことに改めて気づかされます。
そうした事は、実は最近、私も自らで体験しています。

女房と美味しい食事を食べに行ったという、ただそれだけの友人の言葉がグサッと心に突き刺さります。
この夏は夫婦で海外旅行に行ってきた、とうれしそうな報告を聞くと、複雑な気分になる。
長野の別荘で夫婦でのんびりやっています、という連絡には、素直には喜べない。
実にまあ、性格の悪い人間になってしまったと自分でも思いますが、どうしようもないのです。

そして、思い返せば、節子が元気だった頃、相手のことなどまったく意識することなく、私もきっと無邪気に、こんな発言をしていたのかもしれません。
妻は私の生きる意味です、という発言も、聞く人によってはさぞかし耳障りだったことでしょう。
節子との一緒の暮らしを、無邪気にはしゃいでいたことを恥じなければいけません。
もしかしたら、それを嫉妬した神様が、節子を奪ってしまったのかもしれません。

挽歌に寄せられるコメントやメールで、気づかされることはたくさんあります。
時に安堵したり、時に後悔させられたり、時に迷ったり、時に心配したりしながら、狭くなりそうな自分の世界を広げています。
書き手の中に、自分を見つけたり節子を感じたりすることもあります。
なによりも、節子を思い出させてくれるのが、私には一番の喜びです。

コメントやメールをくださる方々に、いつも感謝しています。

■1802:お盆の花(2012年8月12日)
節子
明日からお盆です。
近くのMさんが、夕方、お盆に供えてくださいと立派な花のアレンジメントを持ってきてくれました。
Mさんの母上も、節子とほぼ同じ時に亡くなったのです。
Mさんとはここに転居してきてからのお付き合いです。
さほどお付き合いがあったわけではありません。
転居後、2年ほどで節子が発病してしまったからです。
その、ほんのわずかな期間の節子とのお付き合いに、Mさんはいまも毎年、立派なお花をお盆に届けてくれるのです。
そのお気持ちが、とてもうれしいです。
私にとっての最大の喜びは、節子を思い出させてくれることなのです。
しかし、それはそう簡単なことではありません。

私も娘と一緒に花を買いに行きました。
夕方になってしまっていたので、もうほとんど売れてしまっていました。
残っていたのは、いかにも「仏花」というものばかりです。
それは、私の、そして節子の、好みではありません。
ユリを探しましたが、いいものが見つかりません。
バラがあったので、それにしようとしたのですが、娘がいかにもそれはお盆らしくないと言われてしまいました。
確かにそんな気もしますし、バラとしても、もう一つ元気がないバラでした。
娘は私と違って、良識派、つまりあまり逸脱を好みません。
結局、意見がまとまらず、明日の朝、もう一度買いにくることになりました。
花ひとつとっても意見が分かれてしまう。
それがわが家の文化なのです。
困ったものです。
父親の権威など微塵もないのです。

Mさんからのお花は、仏花ではなく、いつも「奥様のイメージ」で、とアレンジしてもらってきてくれています。
私たちよりもずっと誠意があり、節子もそちらのほうが気に入るだろうことは間違いありません。
だとしたら、ユリはやめて、庭の花を供えることにしようと思います。
手入れ不足で、庭の花がちょっとさびしいのが残念ですが、まあ節子は喜ぶでしょう。

明日から節子が戻ってきます。

■1803:そこがいいところだよ(2012年8月12日)
節子がいつも怒っていた言葉があります。
「そこがいいところだよ」という言葉です。
何か私に不都合があって、節子に注意された時に、私がよく使っていた言葉です。

人は欠陥だらけです。
だからこそ面白い。
そう思って生きていますので、その「欠陥」を節子から指摘された場合、私はそう対応していました。
欠陥があるのは人間らしくていいというわけです。
そのくせ、節子の欠陥に関しては、私はよく注意しました。
まあ、それも私の欠陥のひとつだったわけです。はい。
節子も、「そこが私のいいところよ」と応えればいいのですが、節子は真面目ですから、そう応えられずに反論か言い訳をしがちでした。
そうなると、話はどんどんややこしくなるのです。
そして夫婦喧嘩。

「そこがいいところだよ」という私の言葉は、私のお気に入りの言葉の一つでした。
節子はその意味を理解していましたが、私の身勝手さだと怒ってもいました。
と言っても、それが私の欠陥だとわかっていたので、諦めていましたが。
いつも笑いながら怒っていました。
いや、怒りながら笑っていたと言うべきでしょうか。

最近、その言葉を使う機会が少なくなりました。
時々、娘には使いますが、節子と違って、あんまり張り合いがないのです。
「はいはい」と、軽くいなされてしまうからです。

しかし、最近、自分の欠陥を認識することが増えてきました。
「そこがいいところだ」などと気楽に言えないような欠陥が、です。
歳を重ねて自らのことがようやくわかってきたのか、それとも賢明になってきたのかわかりませんが、自分がかなりの「欠陥人間」であって、面白がってばかりもいられないと言うような気になってきたのです。
なぜそんな気になってきたのか。
それに今日、気づいたのです。
私の欠陥を補ってくれ、それを価値反転させてくれた節子がいなくなったからです。

伴侶は、それぞれの欠陥を補い合う関係ではなく、欠陥を価値反転させ、長所にしてしまう関係なのではないか。
そのことに気づいたのです。
その伴侶がいない今、同じような言動を続けていてはいけないのです。
欠陥が欠陥として振りまかれてしまうからです。
遅まきながら、少し生き方を自重しようと思います。
まあ、ほとんど無理でしょうが、少しくらいなら自重できるでしょう。
節子がいなくなったのだから、少しは常識的な意味での賢さを習得しなければいけません。
私にはとても不得手なことなのですが。

■1804:一足先の節子(2012年8月13日)
魂とはなんだろうか、と思うことがあります。
魂に関する本は何冊か読みましたが、みんなそれぞれに納得できます。
しかし、にもかかわらず、魂とはなんだろうと思うことがあるのです。

前にも書いたことがありますが、夢で節子の存在を感ずることがあります。
姿や形があるわけではなく、目覚めた時になにかとても至福を感ずることがあるのです。
それを節子と決めることはできませんが、間違いなく節子とつながっています。

今朝の明け方、わが家の老犬、チビ太の鳴き声で起こされました。
まあ毎晩のことですが、ほぼ寝たきりになってしまったチビ太は、なにかあると吠えて家族を呼びつけるのです。
今朝は、「運悪く」私のほうが娘よりも先に気づいて目覚めました。
その時に、その「至福感」を感じたのです。
そこに、とどまりたくて起きがたかったのですが、チビ太が吠え続けるので仕方なく起きました。
どうもチビ太は水が飲みたかったようです。
少し世話をしてベッドに戻りました。
そして少し前の「至福感」を思い出しました。
思い出しただけで、心があったかくなってきます。
しかし夢の具体的な内容はまったく思い出せません。
大勢の人たちに対して、私が話しかけているような気がしますが、はっきりしません。
そこに「節子的な何か」が存在していたのです。
最近、それは「節子の魂」ではないのかと思うようになりました。

それはまだ夢でしか、しかとは体験してはいませんが、夢でない現実の場でも、似たような体験があったような気がしてきました。
それが思い出せそうで思い出せないまま、またいつの間にか寝てしまいました。
そして1時間ほど前にまたチビ太に起こされてしまいました。
いやはやわがままな老犬様です、

どこかで節子の魂が、私の周辺にまだ存在していて、私を守ってくれているのかもしれません。
あるいは、お盆の迎え火を待っていられなくて、一足先に私のところに来たのかもしれません。
チビ太に邪魔されなければ、節子との時間をもう少し持てたかもしれません。
まったくチビ太には困ったものです。

今日からお盆です。
早くお墓に迎えに行くことにしました。
チビ太も私を起こした後は、静かに寝ています。
蹴飛ばしたいくらい何もなかったような顔をして寝ています。

■1805:5回目の迎え火(2012年8月13日)
節子
節子が逝ってから5回目のお盆です。
今年のお盆もとても暑いです。
お墓で迎え火をし、節子だけを自宅に連れてきました。
最初の年は、朝早くにお坊さんがお経をあげに来てくださったので、万一と思い、今年も朝早くお墓に行きました。
お墓の掃除をし、般若心経をあげ、迎え火を焚いて節子を呼び出し、その火を灯明につけて自宅に戻りました。
大掃除をして、誰が来ても大丈夫のように準備しました。

墓には、節子のほか、私の父母が入っています。
節子は彼岸でも義父母と同居です。
これは節子が決めたことですが、うまくやっているでしょうか。
そんなわけで、お盆は年に一度の節子の実家帰りなのです。
父母は、兄の家に帰りますので、お盆の間は別々なのです。

節子がわが家に着いた頃から、急に南風が激しくなりました。
まるで台風の時のようです。
とてもいい天気なのに、奇妙に風が強く、庭の道具が飛ばされるほどです。
節子が喜んでいるのでしょうか。
或いは久しぶりに戻ったわが家の庭の花が枯れてしまっているのに怒ったのでしょうか。
そんなふうに、いろんなことを節子につなげて考えるのもまた、愛する者を見送ったものの特権です。

夕方には節子も一緒に、兄の家に戻ってきている父母に挨拶に行きます。
節子はせっかく帰ってきたのに忙しいです。

■1806:幸せは2度と戻ってこない(2012年8月13日)
節子
オリンピックが終わりました。
私は、オリンピックにはほとんど関心がありません。
最近のオリンピックは完全なお金まみれのショーになっています。
節子だったら何と言うでしょうか。
私は、この世の末世を感じました。

テレビを見ながら、思い出したことがあります。
20世紀初頭のウォーンで、ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」が流行ったという話です、
「美しき青きドナウ」に歌詞をつけて、当時のウィーン子は歌ったそうです。

ウィーン子よ 陽気にやろうぜ
まあ見回してごらん
またたく明かりを見てごらん
ほら カーニバルじゃないか
だから時代なんか気にするな

休まずに踊れ
刹那を上手に利用しろ
幸せは2度と戻ってこない
今日手に入ったものならばさっさと使ってしまえ
時の経つのは早いもの
喜びのバラはあせるもの
されば踊れよ さあ踊れ

ウィーンはハプスブルグ家の本拠地です。
しかし、当時はハプスブルグ家の落日といわれるほどの不況でした
社会が大きく変わる中で、ウィーンの人たちはみんな大切なものを失い、希望を見出せずにいたのでしょう。
ただただ踊るしかなかったのです。

歌詞の中に、「幸せは2度と戻ってこない」とあります。
これは、幸せだった人たちの言葉です。
しかし、踊る人の中には、幸せでなかった人もいたでしょう。
そうした人たちは、刹那を上手に利用して幸せをつかめと踊っていたでしょう。
幸せを失う人がいる時には、必ず幸せを得る人がいるものです。
そして、幸せだった人たちも実はもうひとつの幸せを求めて踊っていたのです。
だからこの歌の真意は、そして踊りの動機は、幸せを求めたものだったのだろうと思います。
そもそも「幸せは2度と戻ってこない」という言葉の真意は、もう一度幸せになりたいということでしょう。
私の頭の中では、オリンピックに大騒ぎしている人たちが、ウィーン子に見えて仕方がありません。

本当の幸せは、そんなに簡単なものではありません。
私は、失ってもまた戻ってくるような幸せには興味はありません。
2度とないほどの幸せを持てたことにこそ、幸せを感じたいからです。
それを得るには、しっかりと自分を生きることです。
自分をしっかりと生きていれば、失うことのない幸せは手に入ります。

オリンピック会場の大仰な聖火台よりも、わが家の精霊棚の小さな灯明のほうが、私には輝いて見えています。
節子としっかりと生きてきたことを、その小さな灯明は知っているでしょう。
小さく揺らいでいる灯明を見ていると、その向こうに節子を感じます。
節子がせっかく戻ってきているのに、話し合えないのがいささか残念ですが。

■1807:節子と話せないさびしさ(2012年8月14日)
なんの映画か思い出せないのですが、たしか若者と老人との会話にこんなのがありました。

「死んだら話せなくなるよ」
「でもじきにまた話せるよ」

どういう状況だったか思い出せないのですが、言うまでもなく、若者(子どもだったような気がしますがしますが)の問いかけに対する老人の返事です。

そうか話せなくなったことが節子との関係の変化なのだと、その時、納得しました。
そしてなぜかその会話が心に残ったのです。
死んだら話せなくなる。
それこそが、死別の唯一の意味かもしれません。
小学生みたいなことを言うね、と笑われそうですが、これはかなり深い意味を持っているような気もします。

先日、続けて訃報をもらった2人の友人たちは、この数年、会ったことはもちろん電話をしたこともありません。
しかし、その気になれば、電話をかけて話すことができました。
考えてみれば、日常的には今と同じです。
ですから時に、訃報をもらったことさえ忘れて、いまもなお元気でいると勘違いするようなことも起こるのです。
告別式に参列したにもかかわらず、それを忘れてしまっていたこともあります。
ましてや今回のように、葬儀にでも出ていないとたぶん私の意識の中では大きな変化は起こらないのかもしれません。
訃報を聞いたときにはショックでしたが、日常はなにも変わらない。

しかし、もう電話はできないのです。
お一人とは、会うたびに小気味よいやりとりをしていた人です。
私よりひとつだけ年上でしたが、私を「修ちゃん」と敬意を込めて馬鹿にしていました。
彼がある組織のトップだった時に出会ったのですが、社会から離脱する一方の私を愛してくれていたはずです。
もう一人もある会社の社長でした。
そういう社会の主流を歩いている人たちとは、最初は仕事での出会いとしても、仕事は継続せず、しかし付き合いが続くという関係が多いのです。
私にとっては、社長であろうと理事長であろうと、みんな同じ人間で、社長とか理事長とかいうポジションには全く興味はありませんが、そうしたものから完全に自由になれる人は決して多くはありません。
だから私に興味や好感を持ってくれることもあるわけです。
ちなみに、節子は私のそうした生き方の故に、私を全面的に信頼してくれたのですが、私がそうした生き方に全面的に自らを任せられたのは、間違いなく節子のおかげなのです。

死んでしまったら、いずれからも話が出来なくなることは事実です。
しかし、「でもじきにまた話せるよ」という言葉もまた、また事実だろうと思います。
はやく節子の声を聞きたいものです。
娘の携帯電話やビデオテープに残っている節子の映像や音声を聞くと、あまりにライブなので驚きますが、やはり節子の声は生で聞きたいものです。
馬鹿げた話ですが、時々、火葬にしたのを後悔することがあります。

お盆でわが家に帰ってきているはずなのに、節子の声が聞えずに、さびしいです。

■1808:美術展に行かなくなりました(2012年8月14日)
節子
東京都美術館が改装されました。
節子とはよく行きましたが、最近は行かなくなりました。
広いので、私には苦手の美術館でした。

節子と最後に行ったのは、今もはっきり覚えていますが、6年前のペルシア文明展でした。
節子は闘病中でしたが、だいぶ元気になっていました。
数年前に2人でイランに旅行し、ペルセポリスにも行っていましたので、歴史に疎い節子にも関心があったのです。
たぶん私が誘ったのだと思います。めずらしいことです。
会場のミュージアムショップで、偶然にも節子の友人たちに出会い、節子は友人たちに合流し、私は一人で湯島の事務所に行ったのを覚えています。
私は絵画展が好きではないので、いつも絵画展は、節子は私ではなく、その友人たちと出かけていたのです。
しかしペルシア文明展ということで、私と2人で行くことになったのでしょう。
それが、私と節子が一緒に行った都美術館の最後でした。
その2か月後に、節子は再発。
医師からは覚悟してくださいと言われました。

その都美術館が改装されて、この4月に再開されました。
今日、娘が毎週見ている「ぶらぶら美術館」を付き合って観ていました。
都美術館ではいま「マウリッツハイス美術館展」をやっているのですが、その紹介でした。
今回の目玉は、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」だそうです。
そういえば、先日、上野を歩いた時に看板が出ていました。
私自身は、フェルメールには関心はないのですが、凄い人気のようで会場も混雑しているようです。
娘は10年ほど前にオランダのマウリッツハイス美術館に行ったそうですが、その時には無造作に飾られている小さな作品といった感じだったそうです。
当時はむしろレンブランドだったのでしょうか。

節子は、レンブランドは好きでしたが、フェルメールはどうでしょうか。
あまり好みではないような気がしますが、「真珠の耳飾りの少女」は気にいるかもしれません。
最近この絵をよく目にするせいでしょうか、私も昔ほど嫌いではなくなりました。
それにこの少女のトルコ風の衣装はいいです。

最近、東京は美術展が盛んです。
私にはほとんど興味はありませんが、節子がいたらさぞ喜ぶことでしょう。
付き合わされていたかもしれません。
節子と結婚した頃は、私のほうが誘い役でしたが、いつから節子が誘い役になったのでしょうか。
その節子がいないので、最近は美術展に行かずにいます。
美術展は疲れるので、それはまあ私には楽なことです。
が、さびしさもないわけではありません。

■1809:親孝行(2012年8月15日)
節子
この数日、挽歌を書きまくってきました。
ようやく追いつきました。
今日は節子が旅立ってから、1809日目です。
奇しくも終戦記念日。

私は第二次世界大戦が始まる年(1941年)に生まれ、節子は終わる年(1945年)に生まれました。
節子と一緒に暮らしだしてからずっとそのことに何か意味があるような気がしていました。
これに関しては、節子と話したことはありませんが、もちろん節子も知っていました。

朝、少し涼しかったので、畑作業をしました。
私たちの両親の共通点は、働き者だったことです。
それぞれの子ども(私と節子)から見ても、4人とも一生懸命に生きていました。
両親が汗をかいている姿を、私も節子も覚えています。
それに比べて、私も節子も汗をかくことが少なかったような気がします。
しかし、こうして畑仕事をするとなんだか両親への孝行をしているような気がしてきます。
あんまり論理的ではないのですが、そう感じます。

畑仕事をしている両親を、私も節子も、子どもながらに覚えています。
いずれの両親も、農家の出身ではないため、農業は不得手でした。
それに、あまり器用なタイプではなく、不器用に生きていました。
それもまた、子どもながらに私たちは感じていました。
戦争が、それぞれの人生を大きく変えてしまったのです。
しかし、そのおかげで私たちは出会えたのです。
戦争前に生まれた私と、終戦前に生まれた節子が。

その両親に、十分な親孝行ができなかったのが、私たちの悔いのひとつです。
しかし、親孝行などというのは所詮、自分の満足感の問題なのかもしれません。
両親は満足していたかもしれません。
それは夫婦の間でも言えることですが。

私の両親は、私の兄のところにいま戻っているはずです。
娘と一緒に、これからお参りに行く予定です。
節子も一緒に行きますか。

■1810:送り火(2012年8月16日)
節子
彼岸からの実家帰りも今日で終わりです。
ゆっくり休めたでしょうか。
私はゆっくりしたかったのですが、何かと用事が多く、その上、予定外の急用で2度も湯島に引っ張り出されました。
しかしそれでも、一応は「私たち的な4日間」だったと思います。
なにが「私たち的」かは説明できませんが、気分的にはそう思います。

今日も、午前中、緊急の相談が発生して湯島に行きましたが、お昼は娘たちと食事をする予定だったので急いで戻りました。
節子がいたら、手づくりでジュン夫妻に家庭料理をご馳走するでしょうが、いつも世話になっているユカへのねぎらいも兼ねて、今日は鰻屋さんに行きました。
初めてのお店でしたが、評判に違わず美味しかったです。
節子は匂いだけだったと思いますが、いかがでしたか。

夕方、みんなでお墓に行って、送り火をしました。
お墓はごった返していました。
この風景は、いつみても良い風景です。
わが家では、家の精霊棚の灯明の火を提灯にうつし、それをお墓に持っていき、その火で墓前で送り火を燃やします。
そうやって、節子を送り出すわけです。
ところが、墓前で送り火を焚いているところが見当たりません。
なんだかわが家だけ間違っているような気がしてきました。
それになかなか火が燃えずに、苦労しました。
まあ何をやっても、どこか間が抜けているのがわが家の文化なのです。

節子を送り出した後、ジュン夫妻に手伝ってもらって、畑仕事をしました。
最近はこれをやらないとなんだか落ち着かないのです。

こうして毎年1回の短い夏休みが終わりました。

■1811:美野里町の思い出(2012年8月17日)
節子
今日は茨城県の美野里町(現在は小美玉市)に行ってきました。
住民たちの本づくりの活動のアドバイザー役です。

10年ほど前まで、私は住民主役のまちづくり活動に関心を持っていました。
そのひとつが美野里町でした。
文化センターをつくるというプロジェクトに関わったのです。
それが縁で、美野里町には10年近く関わらせてもらいました。
文化センターのオープン時のこけら落としには、節子と一緒に招待されました。

美野里町には花木センターというのがあります。
節子と大洗に行った帰りに寄りました。
節子好みの花がたくさん販売されていました。
たしかあの時はシャクヤクを買ったように思います。
そのシャクヤクは今も元気かどうか心配ですが、少なくとも数年は見事な花を咲かせていました。
節子は、その花木センターがお気に入りでしたが、残念ながら病気のために、その時が最初にして最後になってしまいました。

節子の葬儀の時には、美野里町からもわざわざ多くの人が来てくれました。
その一人が、その文化センターの山口館長です。
山口さんは、もともとは花づくりが本業とお聞きしていますが、住民主役の文化センターのために館長として巻き込まれてしまったのです。
昨年、山口さんが湯島にやってきました。
そして、この文化センターの活動を本にするプロジェクトのアドバイザー役を頼まれたのです。
断るわけにはいきません。

今日、山口さんにわが家の家庭農園を花畑にするためのアドバイスをもらいました。
妻が花が好きだったのでと言うと、奥さんの葬儀にも花がたくさんありましたね、と言われました。
それで、山口さんがわざわざ葬儀に来てくださったのを、改めて思い出したのです。
当時は、実は誰が来たかどうか、あまり覚えていないのです。
節子の友人を中心にしていたので、私の友人知人関係にはあまり伝えなかったのですが、どうして美野里町まで伝わったのでしょうか。
あの頃は私もまだ、きちんと社会につながっていたのでしょうか。

私が美野里町に通いだしたのは、「美しい野の里」という当時の町名に惹かれたからです。
その感覚は、節子の感覚です。
いつか節子とゆっくり来たいとも考えていました。
美しい田園風景も魅力的でした。
しかし、節子とゆっくりと訪れる機会はありませんでした。
節子が元気だったら、こことはもっと違う形での付き合い方があったかもしれません。
そう思う場所が、美野里町のほかにもいくつかあります。
それができなくなってしまったことが、とても残念です。

今日は住民のお一人から、手造りの味噌をどっさりもらいました。
前回は野菜、今回はお味噌。
仕事の報酬は、こういう誠意に満ちたものが最高です。

■1812:花も暑そうです(2012年8月18日)
節子
暑さ続きで、節子に供えている花がすぐに枯れてしまいます。
冷房をかけていればもう少し長持ちするのでしょうが、わが家は滅多に冷房をかけません。
これは、節子の文化でもあったので仕方ありません。

お盆に献花してもらった花も、今はもう枯れてしまい、今日はわずかにユリを中心とした花びんがひとつだけです。
いつもはもう少し花が賑わっていたような気もしますが、今年は例年よりもかなり暑そうです。

庭の花も今年はいつもより元気がないような気がします。
節子がいた頃には賑やかだったユリは、モグラに球根を食べられて、ほぼ全滅です。
今朝、白ユリが咲いていましたが、1本だけではちょっとさびしいです。
マンジュシャゲももう満開のはずですが、咲き出していません。
バラは、私が水やりをさぼったためにかなり枯らしてしまいました。
節子がいたら、わが家の庭はもっと華やかなのかもしれませんが、今年の夏の暑さは草花にもかなり影響を与えているように思います。

どんなに暑い日も、節子は夕方になると帽子をかぶって庭の草花の手入れをしていました。
その姿は今もはっきりと思い出されます。
あんまり無理をしないでお茶でも飲まないか、と声をかけたことがとても懐かしいです。
いまは声をかける人もいなければ、声をかけてくれる人もいません。
仕方がないので、先ほど、珈琲を淹れてきました。
朝から3倍目の珈琲です。
一人で飲む珈琲もいいですが、毎日一人だと少しさびしいです。

■1813:手賀沼トライアスロンと伊藤先生のこと(2012年8月19日)
節子
今日は6時前に起こされました。
外で何か大きな声が聞こえるのです。
起きて窓を開けてみてわかったのですが、今日は手賀沼のトライアスロン大会だったのです。
会場がわが家から近いので、そこでのマイクの音が風に乗って聞えてきていたのです。
それにしても朝早くからです。
8時スターと言うので、屋上から見ていましたが、遠く過ぎたのかうまく見えませんでした。

手賀沼でトライアスロンが始まったのは2006年。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0827
節子の再発の年です。
応援に行った翌月に節子は再発したのです。
応援に行った大会には、節子の主治医だった伊藤医師が参加され、私は節子と一緒に会場に応援に行きました。
その翌年、節子は逝ってしまいました。
以来、トライアスロンには行ったことがありません。
伊藤さんは参加されていたでしょうか。
屋上から会場のほうを見ながら、ユカと伊藤さんのことを話しました。
ユカから教えてもらったのですが、伊藤さんはユカと同じ歳だそうです。
私は、人の年齢を全く読み取れないばかりか、ほとんど意識もできないタイプなのですが、今日、ユカから聞いて、改めて伊藤さんのことを思い出しました。

節子を見送って数年後に、伊藤さんからメールが来ました。
しかしその時にはまだお会いする勇気がありませんでした。
いまならどうでしょうか。
自問しましたが、まだその勇気が出てきません。
節子だったらどうでしょうか。
たぶん会えているでしょう。
節子は、私よりもずっと強い人だったなと思います。

その節子がなぜ私よりも早く逝ってしまったのか。
その辛さの中で生きつづけるのは、トライアスロンに負けないほど過酷なレースです。

■1814:節子のいたずらでしょうか(2012年8月20日)
オフィスのあるビルのオーナーの綱島さんに久しぶりに会いました。
7年ぶりくらいでしょうか。
といっても、特に綱島さんと親しかったわけではありません。
窓口は別の人でしたし、ゆっくりお話したのは7年ほど前の一度だけです。
節子が病気になった、私が代わりに綱島さんに会いに行った時です。
綱島さんも私を覚えていました。
人の付き合いは決して、会う頻度ではないのです。

綱島さんが、佐藤さんはどうしているか心配してましたと言ってくれました。
そして、何人かの人から佐藤さんと連絡がつかないのだが、と訊かれたことがあったとも教えてくれました。
たしかに一時期、お金がなくなったのとオフィスに出てこなくなったので、電話も解約していました。
オフィスに訪ねてきても、鍵はかかっていましたし、電話は不通になっていましたから、夜逃げか蒸発かと思った人がいてもおかしくはありません。

綱島さんの父上は書家でした。
毎年、お正月にはその大きな書が本社ビルの入り口に掲げられていました。
毎年、節子とそれを見ては感心していました。
その父上も昨年、亡くなれたそうです。

今日はまた帰り道で、近くのローソンのオーナーから声をかけられました。
なぜかこの方は道で私に会うといつも丁寧に挨拶をしてくれるのです。
最初は不思議だったのですが、たぶん私たちが湯島にオフィスを開いたのと同じ頃にローソンを開店したのでしょう。
そしてその頃、節子はいつもオフィスに来る途中、そこで買い物をしていたので、時々、節子と一緒にいた私のことも覚えてくれていたのだと思います。

そんなわけで、今日はなぜかオフィスの近くのお2人の方に声をかけられました。
いずれもある偶然から会うタイミングになったのです。
もしかしたら、これも節子のいたずらかもしれません。
考えてみると、2人とも実に不思議なタイミングで、普段はいない場所に私を待っているように存在していたのです。
そして声をかけてきたのです。
これはとても偶然とは思えません。
なんだか節子がいた頃に戻ったような、なにやらあったかい空気に触れたような気がします。

■1815:トンボ(2012年8月21日)
節子
玄関でかげろうのような大きなトンボを見ました。
それで、トンボの話を書きます。

昨日、オフィスからの帰り道で、近くのローソンのオーナーに話しかけられました。
これは昨日の挽歌でも書きました。
彼女は袋を持っていましたが、それを私に見せながら、お店にトンボが入ってきたので、捕まえてこれから逃がしに行くのと言いました。
虫かごで飼ってもいいけれど、それだとすぐに死んじゃうので、緑のあるところに放してやらないとね、というわけです。
顔見知りとはいえ、急にこう話しかけられると戸惑いますよね。

で、トンボの話です。
私は子どもの頃から、トンボは不思議な生き物だと思っていました。
大きな目玉以外はぐしゃぐしゃで、現実感がないのです。
オニヤンマやギンヤンマを捕まえた時には、カブトムシよりもうれしかったです。
それにトンボの顔は見ていて飽きません。
どうみてもこの世の生き物には見えません。
トンボの英語名は dragon-fly です。
オニヤンマには、まさにドラゴンを感じます。

トンボは、死者の魂を象徴しているとも言われます。
死者の魂は、トンボになって飛んでいる。
秋に赤とんぼが群を成して乱舞しているのをみると、そう感ずることがあります。
海外では、不死や再生も象徴しているようです。
セミもそうですが、トンボもまた、彼岸と此岸を往来しているというイメージがあります。
そういえば、地球の生物の先祖は宇宙を越えて飛んできたトンボだという説もありました。
ともかくトンボは、現世を超えた生き物なのです。

最近、気のせいか、トンボが少ないです。
赤とんぼの季節はもう少し先ですが、年々、わが家の周りを飛ぶトンボは少なくなっています。
オニヤンマには最近、久しく出会っていません

ところで、今日、玄関で見たトンボは何だったのでしょうか。
かげろうのような、大きな黒いトンボだったような気がします。
その時にはあまり意識せずに、何となく視野を横切っていくのを感じただけで、きちんとは見ていませんでした。
あれは本当にトンボだったのだろうか。
夜になって、気になりだしました。
昨日のトンボも、今日のトンボも、彼岸から飛んできたのかもしれません。

■1816:「美香と一緒に帰ります」(2012年8月22日)
節子
また紛争地域で取材中だったジャーナリストが殺害されました。
そのことに関しては、今日の時評編で話題にしました。
銃弾に倒れたのはフリージャーナリストの山本美香さんです。

山本さんは、ジャパンプレス代表の佐藤和孝さんと一緒に、内戦状態のシリアを取材していました。
その最後の映像が今日、テレビで放映されました。
通りを歩く子ども連れの家族の風景が、「かわいい」という山本さんの声と一緒に映し出されていました。
近くの銃撃の音に、アパートのベランダに立つ女性や子どもの姿もありました。
そして、「人に向かってやみくもに撃っている」「あれほどの空爆が続いているのに、人が生活しています」といった山本さんの肉声も残されていました。
その直後、4発の銃声と共に、画面が乱れて終わりました。
山本さんが倒れた瞬間だったかもしれません。

取材に同行して、すぐ近くにいた佐藤和孝さんは、銃撃を受け咄嗟に身をかわしましたが、数メートル前にいた山本さんを見失いました。
そして病院に収容されて、すでに息を引き取っていた彼女に会うことになってしまったのです。

佐藤和孝さんは、今日、テレビでその時の様子などのインタビューに答えていました。
インタビュアーが最後に質問しました。
これからも取材を続けるのですか。と。
佐藤和孝さんは、すぐ答えました。
これまでも一緒に取材に来て、一緒に帰っていました。
今回も美香と一緒に帰ります。
涙が止まりませんでした。私の涙ですが。

佐藤和孝さんのインタビューは昨日から何回か聞きました。
山本美香さんは、佐藤和孝さんの伴侶だったように思います。
信頼し、愛し合っているパートナーという意味です。
実際に、佐藤和孝さんはある質問に答えて、山本美香さんを「最愛の人」と呼んでいました。
2人がどういう関係にあったのかどうか、私は知る由もありませんが、かけがえのないパートナーだったのです。

先の質問に対して、佐藤和孝さんはジャーナリストとして、「山本さんの意志を継いで真実を伝えるために取材を続ける」と答えるかもしれないと、私はその時、思いました。
しかし、彼はそんなことなど微塵も思いつかなかったのでしょう。
彼の誠実さが伝わってきました。
なぜか、山本美香さんは幸せだったのだろうなと思いました。

山本美香さんのご冥福を祈るとともに、佐藤和孝さんの平安を祈ります。

■1817:うだるような暑い日(2012年8月23日)
節子
今日は在宅でした。
溜まってきているデスクワークを自宅で片付けようと思っていたのですが、まさにうだるような暑さでした。
わが家にはめずらしく、クーラーを入れましたが、暑さのせいか、思考力が落ちている感じで、仕事どころではありませんでした。
結局、だらだらと怠惰に過ごしてしまいました。
いまようやく涼しくなってきたので、パソコン(ここにはクーラーはありません)に向かったのですが、今日1日、何をしたのか思い出せません。
それほど怠惰に過ごしたわけです。

それにしても今年は暑い日が続きます。
暑いと本も読む気になりませんし、何かを考える気にもなりません。
テレビさえ見る気にもならない。
こういう日は、やはりどこかに出かけるのがいいですが、節子がいなくなってからは、そういうことはなくなりました。
逃げ場は「怠惰」しかないのです。

しかし、何もしなくとも、時間は経つものです。
そして暑さも山をこえ、涼しさが戻ってきます。
窓から入ってくる風が、とても快いのです。
その快さから、ようやく動き出したくなりました。
しかし、どうも頭を使う仕事はまだ無理そうです。
少し早い時間ですが、最近、毎日のようにやっている畑仕事に行くことにしました。
といっても、雑草を抜く作業です。
2週間続けて、ようやく畑を覆っていた笹を刈り取りました。
これからいよいよ鍬で土を耕しだします。

最近、こうして何も考えずに、草刈りをし、土を耕す仕事が気にいっています。
隣に節子がいないのがとても残念ですが、節子がいた頃に、この心境になっていたら、私の人生はもう少し平安なものになっていたような気がします。

さてそろそろ出かけましょう。
水筒を持って、長靴をはいて、鍬をかついで。

■1818:生きるのも死ぬのも大変(2012年8月29日)
節子
たまりにたまった約束事の締め切りが限界に近づいたため、この4日間、また挽歌をサボってしまいました。
毎日きちんと書くというのは節子にならできるでしょうが、気分のムラのある私にはやはり無理があるのかもしれません。
困ったものです。
しかし逆に言えば、そうした本来の私にやっと戻ってきたともいえるかもしれません。
まあ、ものは言い様です。

節子はよく知っていますが、私は締め切りぎりぎりにならないと動き出せないタイプです。
火事場どろぼう的に出てくる能力で、何とか仕事をこなすと言うことかもしれません。
ぎりぎりにならないと頭が回りださないのです。
仕事だけではなく、新幹線も会議もぎりぎり間に合うかどうかという時間に出発するのが大好きです。
節子はいつも余裕を持って出かけるタイプでしたので、よくもめました。
しかし、言うまでもありませんが、余裕を持って出かけたほうが良いに決まっています。
それが出来なのが私なのだから始末が悪いです。

飛行機にわずかの差で乗り遅れ、約束した市長に会うことが出来なかったこともありますし、結婚式の立会人を頼まれていたのに、危うく遅刻しそうになったこともあります。
会社時代、新幹線はベルがなっている時に滑り込むこともよくありました。
この性格だけは節子にも直せませんでした。

災害時のための非常食や道具などを用意周到したがるのが節子でした。
私はそうしたものの用意には全く関心がありません。
災害が起きたら、それにしたがって苦労するのが自然だからです。
東北の大地震の後、節子の文化を引き継いでいる娘から、非常持ち出しリュックを渡されて、ここに大事なものを入れておくようにと言われましたが、まだ空っぽです。
いやそれ以前に、そのリュックはどこかに行って、いまは見当たりません。
困ったものです。

しかし、そろそろ考え方を変えなければいけません。
節子がいれば、非常持ち出し袋も非常食も不要ですが、節子がいない今は、少し考え直さなければいけません。
しかし、私の性格はどうも直りそうもない。
ですから、次の大きな地震や事故が起きる前に彼岸に旅立つほうが良さそうです。
その準備をしたほうがよさそうです。
でもそれも節子がいないとうまくできそうもありません。

自立していない人間は、生きるのも死ぬのも、大変です。
困ったものです。

■1819:自らをさらけ出せる相手(2012年8月24日)
節子
節子がいなくなってから付き合いが始まった一人に、元任侠の人だったKさんがいます。
元任侠というと語弊がありますが、今もなお彼は心情的には任侠に生きています。
もちろんいわゆる組織からは離れています。
わが家にも2度ほど来たことがあり、娘たちもよく知っています。
そのドラマティックな人生はテレビでも何度か放映されました。
いまは福祉関係の仕事をしていますが、最近連絡がありませんでした。

そのKさんから夕方電話がありました。
新橋に飲みに行こうというのです。
あいにく今日は夕方から湯島で集まりが予定されていますので誘いは受けられなかったのですが、なんでまた私を誘うのかと訊いてみました。
最近ちょっと信条に反することをしてしまったので、それをさらけ出せる相手と飲みたかったというのです。
それで電話で長々と話しました。

その信条に反することというのは、極めて個人的なことでした。
彼が気にするほどのことではなく、私から見れば彼の信条から大きく逸脱しているわけでもありません。
しかし彼としてはどうもすっきりしないようです。
Kさんはともかくまじめすぎて、自分に厳しすぎるのです。
まあその件は、ほどほどの解決をしたのですが、Kさんと話しながら気づいたことがあります。
自分をさらけ出すことのできる人がいるかどうかは、極めて大事なことだということです。
私は、かなり自分のことを公開していますし、弱みや悩みも含めて隠し事はしないように心がけています。
しかし、そうはいっても私のすべてをさらけ出しているわけではありません。
娘に言わせると、この挽歌もかなり「都合よく化粧されている」そうです。
それには必ずしも納得できませんが、嘘はないとしても、あえて書かないことはたしかにあります。
書かないというよりも、書けないといったほうが適切かもしれません。
それに、思ったことをそのまま書けば、誤解されたりすることもあります。

自分をすべてさらけ出すということはかなり勇気が必要です。
相手に対する絶対的な信頼関係がないとできません。
信頼関係だけでもありません。
私の場合、娘たちにもすべてはさらけ出せないかもしれません。
しかし、実に不思議なのですが、いま思うと節子にはすべてをさらけ出していました。
Kさんと話していて、それに気づきました。
私が思い切り自らを生きてこられたのは、節子がいればこそだったのかもしれません。
そして、私が自らをかなりさらけ出す生き方ができるようになったのも、節子のおかげかもしれません。
節子は、地の私をすべて無条件で受け容れてくれていました。
それが私には大きな支えになっていました。

自らをさらけ出すのは、もしかしたら血のつながりがない相手のほうがいいかもしれません。
親子や兄弟姉妹は、それなりに甘えや張り合う意識があって、ややこしいからです。
そう考えていくと、自らをさらけ出せる相手を得ることの大切さがわかります。

節子がいなくなったために、もしかしたら、私の中にもさらけ出していないものが鬱積しているのかもしれません。
最近どうもあんまり調子がよくないのはそのせいかもしれません。
任侠の人との電話は、話していることとは違った、いろんなことを気づかせてくれました。
さてさてどうするか。

■1820:ユリの季節(2012年8月29日)
節子
今は岐阜にいる佐々木憲文さんが節子に大きなユリの花束を持ってきてくれました。
節子が好きだったカサブランカもどっさりありました。
節子にお線香をあげながら、佐々木さんは以前、家族みんなでわが家の来たことを話されました。
家族とは、奥さんの典子さんと娘のパルとミホです。娘は佐々木さんたちの大好きな愛犬です。
その時はすでに節子は再発し、あまり動けませんでした。

佐々木さんたちは韓国が好きで、数年前に韓国に転居しました。
節子がいたら、佐々木さんのところに押しかけたかもしれません。
節子は、韓国には行った事がありませんでしたから。

佐々木さんが可愛がっていたパルが韓国で亡くなってしまいました。
悲しみに浸る佐々木ご夫妻のために、韓国の友人知人が盛大な葬儀をやってくれたようです。
そんなところに、佐々木ご夫妻のお人柄がうかがえます。
さらに佐々木さんの奥さんの母上が病に倒れ、ご夫妻は郷里の岐阜に戻ってきていました。
悲しいことに佐々木さんのお母さんも先月、旅立ちました。
四十九日法事に向けて、今は毎週、法事を重ねているそうですが、そんな合間にわざわざ出てきてくれたのです。

佐々木さんとの会話は、しかし、いつもと同じようでした。
私自身の体験から、それがいちばんいいように思えたからです。
佐々木さんとの話題は、いつもだいたい決まっています。
しかし何となくいつものように、自然に話が進まない気がしました。
それもまた自然のことなのでしょう。

佐々木さんは大きなユリの花束を抱えてやってきてくれました。
わが家も、ユリはできるだけ供えるようにしていますが、それに重なって、位牌の前はまた白いユリの世界になりだしました。
9月3日は節子の命日です。
この時期は、わが家はユリの香りで包まれるのです。
ユリの香りは大好きなのですが、白いユリを見ているとなぜか悲しくなってきます。
深く深く悲しくなります。ただ意味もなく、です。

節子は今も彼岸で白い花の手入れをしているでしょうか。
そう教えてくれた大日寺の庄崎さんの言葉も思い出されます。
ユリはやはり、この世の花ではありませんね。

■1821:草取りの効用(2012年8月29日)
節子
この3週間、かなり暑い中をがんばって畑の草取りを続けました。
草取りといっても、一面の笹やぶ状態でしたから、大変でした。
飽きっぽい私としては、節子には信じられないほどの継続でした。
しかし、それには訳があるのです。
1週間くらい続けた段階で、その面白さがわかってきたのです。
早く草刈りに行きたいと思うほどになりました。
なぜでしょうか。

昨日、京都で伝統文化のプロデューサーとして活動している、連RENの濱崎加奈子さんが2年ぶりに湯島に来ました。
http://www.ren-produce.com/index.html
濱崎さんとは、彼女が東大の大学院生だったころからの付き合いですが、彼女たちが2002年に東大で開催した「伝統文化からコミュニティケアを考える:耳で食べる・時を着る」のイベントに節子と一緒に参加しましたので、節子も直接会っていますね。
まあその時には、節子には大変な恥を書かせてしまい、後で怒られましたが。
私はそのイベントのシンポジウムの司会をする予定で参加したのですが、私たちを目ざとく見つけた濱崎さんが、お茶の接待をやるから演台に上がってといわれたのです。
お茶などやったこともなく、私は伝統の作法を壊したがっていることを濱崎さんはしらなかったのです。
そして皆さんの前に作られたお茶席で、私たちは濱崎さんの最初の接待を受けました。
それで私はめちゃめちゃな作法でお茶を味わい、挙句の果てに由緒ありそうな茶さじをいじくりまわしました。
隣で節子は、私がその茶さじを折ってしまうのではないかとはらはらしていました。
しかし、濱崎さんは全く動じないのです。
作法壊しさえ受け容れるのが作法だといわんばかりに、私を優雅にあしらったのです。
以来、私は作法を重んずるようになりましたが、その時には後で節子に厳しく怒られたのです。

また余計なことを書いてしまいましたが、その只者ではない濱崎さんが少し動じて、わざわざ相談に来たのです。
濱崎さんはいま、江戸中期の京都を代表する儒者・皆川淇園が1806年に創立した学問所「弘道館」の跡地に現代の弘道館を再興しようという活動に取り組んでいます。
http://kodo-kan.com/
この話は、もしかしたら前にこの挽歌でも書きましたね。
全くもって無謀なプロジェクトですが、魅力的ではあります。
その関係で、最近は、その素晴らしい庭園の草むしりをしているのだそうです。
ところが、草むしりをしていると実に心が和やかになり、満たされると言うのです。
性格の悪い人には草むしりが効果的だとさえ言うのです。
ささやかながら畑の草取りを3週間続けた私も全くの同感で話が合ってしまいました。
節子がいたら、話はもっと盛り上がったでしょう。
それで、企業人向けの草取りツアーを企画したらどうだろうかという話になりました。
たまたま今日、大企業の経営幹部の人たちが湯島に来たので、この話を紹介したら、まんざらでもなさそうでした。

さて本題です。
そういえば、庭の花の世話や畑仕事をした後の節子は、いつもいい顔をしていました。
しかし、草取りかなりやっていたのに、節子はさほど性格がよかったとは思えません。
ということは、節子のもともとの性格はかなり悪かったということになります。
いまから思えば、私たちが仲良し夫婦になってきたのは、節子が花づくりや畑仕事をしはじめてからのような気もします。

性格の悪い伴侶に苦労しているみなさん。
相手に草取り作業を勧めましょう。
きっと効果がありますよ。

■1822:野路さんからの快気祝い(2012年8月30日)
節子
野路さんから「快気祝い」が届きました。
前に書いたように、階段から転落し、1年経ちますが、まだリハビリ途中です。
頭を打ったために、さまざまな障害が残ってしまったようです。
完全な快気と言うわけではありませんが、1年経ったので、節目にしたいと思われたのでしょう。
電話をさせてもらいましたが、やはり野路さん本人はまだ言語障害があるため電話は無理のようです。
それでご主人の徂さんとお話しました。

もう日常的な行動はできるようになり、散歩などにも行けるそうですが、しかし目を離せないので、徂さんはほぼ付きっ切りのようです。
記憶もなかなか戻ってこないのだそうです。
節子が元気だったら、駆けつけて記憶の呼び戻しに少しは役にたちでしょうが、私にはそれは出来ません。

私は野路さんには何回かお会いしていますが、徂さんには一度も会った事がありません。
節子は野路夫妻と一緒に旅行にも行っていますので、たぶん仕事ばかりしていた私は、誘われたのかもしれませんが、一度もご一緒したことはありません。
ただ節子からはいろいろと話をお聞きしていますので、なんとなく親しみを感じていました。
徂さんも、そう感じていたかもしれません。
電話でのお話でしたが、少しだけお互いの心が通じ合うような気がしました。
これも節子のおかげです。
いつかきっとお会いすることがあるでしょう。
でもいまは、徂さんにはそんな余裕はないと思います。

徂さんは毎日2時間ほど野路さんと一緒に散歩に行っているようです。
その話を聴きながら、節子との散歩のことも思い出しました。
闘病中の伴侶との散歩は、普通の散歩とは違います。
リズムが違うからです。
そして、自分が見えてくる時間です。
相手の大切さや相手への愛おしさ以上に、自分の身勝手さに気づき、事故嫌悪に陥ってしまいやすいのです。
少なくとも私はそうでした。
節子が、回復してくれたら、私は良い夫になれたかもしれません。
そんなことを思いました。

私が節子から聞いていた徂さんは、すでに十分に良い夫だったようですが、ますます良い夫婦になっていくでしょう。
少し羨ましい気がするのは、仕方がありません。
野路さんがはやく記憶を回復し、言語も回復することを祈っています。

■1823:日本いちじく(2012年8月30日)
節子
福岡の蔵田さんが、日本いちじくをどっさりと送ってくれました。
蔵田さんは、人に何かを贈るのが大好きなのです。
いろんなものが次から次へと送られてきます。
私は、それを素直にいただいています。

いちじくの事は、前に書いた事があるでしょうか。
挽歌を5年近く書いていると、たぶん同じ話題が重なることも少なくないかもしれません。

節子はいちじくが嫌いでした。
ところが、転居前の家の庭に、兄からもらったいちじくの木を植えました。
そのいちじくを食べてから、節子はいちじくが大好きになりました。
ただし、わが家の庭になるいちじくだけが、です。
日本いちじくでした。
転居して、その木を庭に挿木しました。
木は大きくなったのですが、なぜか実が熟しません。
場所が悪かったのかと、植え替えました。
やはりだめでした。
わが家の畑にまで植えてみましたが、木は大きくなっても実が熟さないのです。
節子が闘病中に、いちじくを食べさせたくてがんばりましたが、なぜかわが家のいちじくは美味しい実をつけませんでした。

そんなわけで、日本いちじくには複雑な思いがあります。
先日も娘がおいしそうないちじくを見つけて買ってきました。
節子に供えながら、食べてみましたが、見栄えはいいのですが、美味しくありません。
やはり、いちじくは日本いちじくです。

その日本いちじくが、どっさりと送られてきたのです。
やはり美味しいです。
節子にも早速、供えさせてもらいました。

福岡の蔵田さんに電話しました。
蔵田さんは、なんと畑仕事中だったようです。
これからねぎを植えるのだそうです。
東京の大企業を定年でスパッと辞めて、郷里に帰って畑仕事。
いまは自然に恵まれ、奥様と一緒に晴耕雨読の豊かな暮らしぶりなのでしょう。
節子と一緒に、そういう暮らしをしたかった、と改めて思います。

ところで、わが家の日本いちじくが実を熟させなくなってしまったのは、転居してからです。
考えてみると、転居してから、わが家には辛いことがいろいろと起こり出しました。
ここの地霊を怒らせてしまったのでしょうか。

畑に植えたいちじくが昨年、雑草に覆われて枯れてしまいました。
もう諦めていましたが、最近、周りの雑草を刈り取ったら、その下から若木が芽生えだしていました。
今度は、いちじくを熟させてくれるような気がしました。
節子の身代わりかもしれません。

■1824:後悔がほとんどです(2012年8月31日)
友人が奥様を亡くされました。
それも実に突然に、です。
まもなく3か月が経ちます。
その頃から、そろそろ辛くなったことを思い出して、メールをさせてもらいました。
そのKTさんからメールが来ました。

いざ居なくなると生前のいいところばかりが思い出されます。
突然のあの時からまる3カ月経ちました。
仰るように、ここにきて何かと考えることが突然湧いてきます。
後悔がそのほとんどですが・・・・・。
この先の残りの人生を如何様に生きたらいいのかまだ分かっておりません。

いなくなってわかることが、どれほど多いことか。
私よりも若く、いまは仕事で気をまぎらわせているとはいえ、いやおうなく考えさせられていることでしょう。
痛いほど、それがわかります。

私はまもなく妻を見送ってから5年が経ちます。
にもかかわらず、いまだに伴侶を亡くしたことの意味がわからなくなることがあります。
実感できずに、頭が混乱してしまうという意味です。
朝起きて、雑事をしていても、なんでこんなことをやっているのだろうかと思うのです。
これは節子の仕事だろう、というわけです。
節子の仕事を自分がやっている意味がわからなくなる。
5年経っても、まだ新しい世界に馴染めていないのです。

ましてや3か月。頭が整理できるわけがありません。
心身のバランスも取れないはずです。
でもこれは人によって違うかもしれません。
同じ3か月前に伴侶を亡くしたもう一人の友人は、
仕事と時の経過のおかげで落ち着きを取り戻してきました。
今は大地に還った家内を時に偲ぶばかりです。
と書いてきました。
まだ返事を書けずにいます。

暑い夏が過ぎると秋。
秋もまた、愛する人を送った者には思いを深めさせる季節です。
今年の8月は、私は宙を浮いたようにすごしましたが、かなり自分を取り戻してきました。
少しずつ現実に対峙できるようになってきた気がします。
後悔の世界からも、だいぶ自由になってきました。

■1825:臨死体験談(2012年8月31日)
節子
今日は、恒例のオープンサロンでした。
節子がいる時とは違って、男性が多くなり、また人数も少なくなりましたが、その代わり、話の密度は濃くなっているかもしれません。
今回は節子の知っている人半分と知らない人半分でした。
メンバーも変化してきています。

節子もよく知っている中村公平さんはいま、八ヶ岳山麓で家族3人で暮らしています。
まだ東京に家があるので、時々戻ってきますが、そのついでにサロンにも参加してくれます。
テレビや新聞から解放されて、自然の中で豊かに暮らしているようです。
今日は、自分でつくったかぼちゃをお土産に持ってきてくれました。

いつものように、話題は広がりましたが、最後に臨死体験したお2人から生々しいお話がありました。
一人は、節子のいた頃のサロンにも時に参加してくれていた平田さんです。
交通事故と脳梗塞で2回、死を身近に体験しています。
その時の話をしてくれました。
交通事故の時は幽体離脱の体験でした。
脳梗塞の時は1週間ほど意識が戻らず、臨死体験の意識もなかったようです。
ところが意識が戻ってから、ある夢を見たそうです。
ベッドの横に亡くなった2人の祖母が表れ、平田さんもベッドから落ちそうになったそうです。
その先に道路があって、いろんな人が右から左に向かって歩いている。
そこに小学生の時に死んでしまった友人の顔が見えたそうです。
そちらにどんどん引っ張られそうになっていた時、病室の隣のベッドの人が、布団が落ちそうですよと声をかけてくれたおかげで、目が覚めたのだそうです。
少しして、この夢は初めてではなく、意識がなかった時にも体験したことだったと気づいたそうです。
小学校時代の友人は、平田さんにとっての初めての死の体験だったのです。

鷹取さんも体験を話してくれました。
アメリカで友人の運転する車に乗っていた時に、カーブで直進してくるコンボにぶつけられたのだそうです。
助手席に乗っていた鷹取さんは大声で悲鳴を上げたらしく、その声で運転していた友人はブレーキではなくアクセルを踏んだおかげで、わずかの差で2人は助かりました。
乗っていた自動車の後半分は跡形もなく破壊されていたそうです。
自動車の衝突音がする前に、鷹取さんの頭の中に、過去の思い出のシーンがデジタル的にフラッシュバックしてきたと言います。
そして死んだと思ったそうですが、後ろを振り返って車の半分がないのを助かったことに気づいたそうです。
鷹取さんの場合は、臨死体験と言うよりも、死の予知がもたらした死の体験だったと言えるでしょう。
死が、まさに時間の流れを乱すものであることを示唆してくれます。

多くの人が、幸せそうな表情で死を迎えるとよく言われます。
自分の懐かしい人生の思い出に包まれるからでしょうか。
たしかに、節子も穏やかな表情でした。
そして、時間さえをもコントロールしているような気がしました。

あの時、節子は何を見ていたのでしょうか。

■1826:ブルームーン(2012年9月1日)
節子
真夜中の2時に、チビ太の鳴き声で起こされました。
最近は少しおさまりましたが、夜啼きは相変わらず続いています。
目が覚めて気づいたのは、寝室がいつもより明るいのです。
私は、寝室のドアも窓のカーテンも開けて寝ています。
昔は光があると眠れなかったのですが、いまは光が少しあるほうが落ち着くようになりました。

その窓の外が異様に明るいのに気づきました。
それで今夜はブルームーンだったことを思い出しました。
娘から教えてもらっていたのですが、同じ月に満月が2回ある時、2回目の満月を「ブルームーン」と呼ぶのだそうです。
そして、「ブルームーン」を見ると幸せになれるという言い伝えがあるとも聞いていました。

節子がいなくなってから、私には「幸せ」は無縁なものになりました。
幸せ願望もまったくなくなりました。
ですから、娘から教えてもらっても、昨夜はブルームーンを見る気にもなりませんでした。
しかし、異様な明るさについつい起き上がって窓のところに行って、月を眺めました。
見事な満月が輝いていました。
しばらく見とれていました。
映画「ET」の、満月の前を自転車が走る光景を思い出しました。
久しぶりに、ゆっくりと月を見ました。
いや、もしかしたら、これほど見とれたのは、生まれて始めたかもしれません。

階下で鳴いているチビ太はまた眠りだしていました。
ベッドに入って、さて寝ようと思ったら、突然、轟音が聞こえてきました。
最初は何かわからなかったのですが、開けっ放しの窓から大きな飛行機が見えました。
近くの自衛隊の飛行機でしょう。
時計を見ると深夜の2時40分。
こんな時間に飛行しているのだと驚きましたが、さらに空想が膨らみました。
ブルームーンと大きな飛行機。
そして眠気が吹っ飛んでしまい、頭が冴えてきてしまいました。
おかげで、昨夜は真夜中に2時間も起きていました。
しかし、その途中で気づいたのですが、1時間前のあの異様な明るさはなくなっていました。
朝、娘に昨夜のブルームーンはいつもより格段に明るかったねと話したら、いつもと同じだったよ、と言われてしまいました。
あれは幻覚だったのでしょうか。
それとも、節子のいたずらだったでしょうか。

間もなく節子の5回目の命日です。

■1827:お似合いのふたり(2012年9月1日)
節子
滋賀の田村さんと福岡さんから、今年も花が届きました。
この時期は暑さで生花だとすぐにだめになるので、毎年、鉢物を届けてくれます。
今年は真っ白なデンファレです。
なぜか節子への花は白いものが多いのです。

電話をしたら、お2人ともお元気そうでした。
せっちゃんの話題で、今も時々、「かっちゃん」と会っていると「みっちゃん」が話してくれました。
2人は同じ滋賀県ですが、かなり離れているのです。
節子は病気になってからは、滋賀に戻ると彼女たちに会っていました。
私も2度ほど付き合いましたが、3人はとても仲良しでした。
3人ともまったくといっていいほど、邪気のない人で、話しているのを横で聞いていても、楽しそうでした。
心を開ける友だちは良いものですが、5年経ってもまだ花を送ってくれる友だちがいることは幸せなことです。
お2人は節子が発病してからも、心配してわが家にも来てくれました。
来てくれたことは確実なのですが、実は節子の発病後以来の記憶が、私の場合、すべてあまりはっきりしていないのです。
最近、そのことに改めて気づきだしています。
我ながらしっかりしだしてきたと最近は思えるようになって来ましたが、そうなるとこれまでの数年間のことがとても気になりだします。
たぶんたくさんの人たちに、失礼を重ねてきているのでしょう。
まあそれも仕方ありません。

ところで、デンドロビウムはわが家には一時期、たくさんあったような記憶があります。
私の母も節子も好きだったのかもしれません。
残念ながら節子がいなくなってからは、わが家の花はかなり「絶滅」してしまいました。
水のやり具合が難しいランの多くも、節子亡き後はほぼだめにしてしまいました。
最近漸く娘の手入れのおかげで、胡蝶蘭が復活してきていますが、デンドロビウムもデンファレも見当たらなくなっていました。
今回のデンファレは大事に育てようと思います。

花についていたカードには、デンファレの花言葉として、「お似合いのふたり」とありました。
私たちは、実のところ、最初はだれもが「お似合いのふたり」とは思ってくれませんでした。
若い頃の私はいま以上に変わっていて、私にお似合いの相手などいなかったかもしれません。
節子の親戚筋はみんな反対だったでしょう。
私の両親は、一度決めたら変えることのない私の性格を知っていましたから、諦めていました。
節子も、私との結婚は間違っていたかもしれないと思ったこともあったそうですが、でもまあ結果的には「お似合いのふたり」になってしまいました。
結婚とはそんなものだと、今は思っています。
ただ、「お似合いのふたり」も、彼岸と此岸に別れ別れになってしまうと辛いものがあります。
そんなことを思いながら、白いデンファレを見ていると、早く彼岸に行かないといけないのかなとふと思ったりします。
まさか、この2人は、節子と示し合わせて、そういう思いでデンファレを送ってきたのではないでしょうね。
まあ、しかしそれも含めて、うれしいことです。
明日は、1日早い墓参りに行くつもりです。

■1828:5回目の命日(2012年9月3日)
節子
今日は5回目の命日です。
いろいろな方からメールももらいました。
自分の命日でもないのに、伴侶の命日なのに、メールをもらうのも少し不思議な気がします。
命日は、遺された遺族のためにあるのだということを、改めて実感しました。

今朝、家族みんなでお墓参りに行きました。
いつものように私が般若心経を唱えたのですが、なぜかスムーズに出てきません。
いつもはちゃんと自然に口から出るのですが、今日はかなりいい加減な般若心経でした。

遠くのSさんからは、
「今日は節子奥様の祥月命日。遠方ではありますが、香を焚きご冥福をお祈りいたします。お訪ねした時の写真を立て、節子奥様から頂いた手紙も飾りました」
とメールが来ました。
そういえば、先日、献花に来てくださった時に、写真の話がでましたが、その写真を見せてもらえばよかったです。
たぶんSさんは、お持ちになっていただろうと思います。
まだまだ私に精神は落ち着いていないようです。

近くのSさんは、
「佐藤家の大切な時を静かに過ごされるようお祈り申し上げます」
と書いてきてくれました。

その中間くらいの距離のところのFさんは
「今日は、奥様の命日ですね。お参りには伺えませんが、鳩居堂のお線香「か津ら」をあげてお参りさせていただきます。奥様と穏やかな語らいの時でありますように」
と書いてきてくれました。

夕方、画家のSさんから残暑見舞いが届きました。
それで昨年の命日のことを思い出しました。
昨年の命日には、Sさんから長いメールをもらったのです。

偶然ですが、僧籍を持つ友人からも電話がきました。
なぜか私にお布施をくれるのだそうです。
節子が息を引き取った時にご夫婦でとんできて、枕経をあげてくれた人です。
節子もよく知っている人です。
お坊さんにお布施を差し出したことはありますが、お坊さんからお布施をもらうのもめずらしいかもしれません。
しかし、よりによって、どうして今日、電話してきたのでしょうか。
これも節子の導きかもしれません。

いろいろな人に心にかけてもらって、感謝しなければいけません。
そのおかげで、今日も静かに過ごせました。

昨日までは、位牌壇の前は真っ白でした。
さすがに白すぎたので、昨日、わずかに淡い色の花も活けてもらいましたが、ユリとランの白さに負けていました。
今日は、カラフルな花を娘の友だちが持ってきてくれたので、雰囲気が少し変わりました。
やはり白すぎると元気が出ないですが、華やかになると元気が出ます。
それにしても、娘の友だちまで覚えてくれているとは、節子も果報者です。

節子がいなくなってからの6年目が始まりました。
今年はもう少ししっかりしようと思い出しています。
節子はもう、戻ってはこないでしょうから。

■1829:目覚めの彼岸(2012年9月4日)
節子
昨日が5回目の命日であることをフェイスブックに書いたら、たくさんの人が反応してくれました。
そのなかに、節子もよく知っている乾さんの書き込みもありました。
乾さんは、石垣りんさんの詩の一節を思い出したと書いています。
その一節とは、三木卓さんが追悼文で取り上げた有名な次の一節です。

死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で、死は私たちに近づく。

乾さんは、つづけてこう書いてくれました。

佐藤さんの場合は記憶が薄れていってはいないのでしょうが、命日が遺された者のためにあるのはまったくその通りだと思います。

乾さんの心遣いにもかかわらず、私の場合もまた「記憶は薄れていって」いるというのが正しいです。
薄れているのではなく、変質しているというほうが適切かもしれません。
そしてそれは、同時に、自らの死に同調させているともいえます。

石垣さんの、この一節は、実は戦没者たちへの弔辞の中で書き残した言葉の一節です。
その弔辞の最後はこう書かれています。

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。

八月十五日。
眠っているのは私たち。   
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。 

乾さんのおかげで、久しぶりにこの文章を思い出して、読み直してみました。
最後の5行が、なぜかこれまでとは全く違う意味合いを持っているように感じました。

節子
彼岸とは、目覚めの世界なのでしょうか。
最近の此岸は、生気がなく退屈で、たしかに眠っているような世界になっています。
もしかしたら、それは私が眠っているからかもしれません。
節子のいない世界でも、大きな息を吸わなければいけないのかもしれません。
この5年間、大きな息も吸わず、先も見ず、ただただ立ち止まっていたような気がします。

どうしたら目が覚めるでしょうか。
それ以前に、目を覚ましたほうがいいのでしょうか。
生は、彼岸にあるのか、此岸にあるのか、これは悩ましい問題です。

■1830:意識と心身のずれ(2012年9月5日)
節子
命日の後は毎年そうなのですが、なんとなく厭世観が強まります。
意識的にはむしろ、自分を奮い立たせようとするのですが、意識と心身は同調しません。
そのずれに、逆に疲れが出てくるのが、この季節です。
夏の疲れもあるのでしょうが、意識と心身のずれが一番大きな季節で、私には苦手です。

人の意識と心身は、それぞれ勝手に動きます。
その上、意識はひとつではありません。
節子がいた頃は、自然とそのバランスが取れていました。
自分の人生を左右する大きな事柄に出会うと、それが壊れてしまいます。
そうした状況で、心身と意識の双方と付き合うのは、いささか辛いものがあります。

私の場合、歳をとるにつれて、心身の動きに任せるようになってきています。
若い頃は、自分の「意識」を大事にしていましたが、最近は、意識などは瑣末なものと思えるようになってきました。
しかし、「意識」はまだまだ健在で、時に心身を邪魔します。
特に、他者と話している時などは、ついつい「意識」に従ってしまいます。

私は人と話すのが大好きです。
しかし、大好きなのに、多くの場合、ひどく疲れるのです。
なぜこんなに疲れるのか、と節子にも話したことがありますが、その疲れはたぶん「意識」と「心身」のずれから来るのです。
さらにいえば、私の心身は、実はあまり人に会いたくはないのかもしれません。
にもかかわらず、人に会って話をしたいという「意識」がある。
いつの頃からか、その「意識」が私を主導しだし、いまや乗っ取られたような気もします。

厭世観に関しても、最近、ある気づきがありました。
「厭世」という時の「世」は、いうまでもなく此岸です。
その此岸に、最近、人がいなくなってきたという気がしてなりません。
私が変わったのではなく、「世」が変わってしまった。
はっきりといえば、私にとって、此岸は今や「幽界」に近いのです。

心身で感ずる「世」と意識で感ずる「世」は違います。
「好きだけれど嫌い」という、矛盾した思いを持つことは、誰にもあることでしょう。
それこそが、心身と意識のずれだと思いますが、そのずれがバランスしてくれるまで、もうしばらく私の行動量は減少し続けそうです。
一見するといろいろと動いているようで、実は動いていない。
それがまた大きなストレスにもなっています。

ちょっと言い訳的な挽歌になってしまいましたが、実は節子に救ってほしいという祈りの挽歌でもあるのです。
SOSを受け止めてくれる人がいないのは、とても辛いことです。
たぶん、私だけではないのでしょうが。

■1831:共生き(2012年9月6日)
節子
ちょっと思うことが会って、DVDに録画していた「日本人は何を考えてきたのか」の第7回「魂のゆくえを見つめて」をもう一度、見ました。
これで3回目です。
そのなかに、先の東北大震災時、最後まで防災無線で町民に避難を呼びかけ続けていた南三陸町職員のいた防災対策庁舎が出てきます。
そこにつくられていた死者を弔う献花台のまえで、作家の重松清さんと東北学の赤坂憲雄さんが、語り合っていると、一人の住民が自転車でお参りにきます。
その人は、礼拝した後、そこに供えてあった缶コーヒーを飲んで、拍手をしたのです。
あっけに取られたように、それを見ていた重松さんは、凄い宗教的なものを感じたと言い、赤坂さんも「飲みましたよね」と驚きを隠しませんでした。
そのシーンを、今朝、急に思い出したのです。

その風景を巡って、お2人は話すのですが、そこに「死者と共に生きる」という言葉が出てきます。
浄土宗でいう「共生き」です。
一時期、「共生」という言葉が流行りましたが、何やら軽い感じで、私はむしろこれまでも「共生き」という言葉のほうが好きでした。
20年ほど前にある地域のまちづくり計画にかかわった時にも、「共生き」を基本しましたが、たぶん「共生」としか受け取られなかったのかもしれません。

私の勝手な解釈ですが、共生は共時的な生活概念であるのに対して、共生きは通時的な生命概念ではないかと思っています。
何となくそう思い続けていたのですが、このシーンにこそ、その本質的なメッセージがあるのではないかと思い立ったのです。
そして、今の私はまさに「共生き」を理解しうるのではないかと思ったのです。

この番組は、柳田国男や折口信夫をテーマにした番組でしたから、まさに「魂」が語られています。
しかしそういう語りよりも、この住民の行動は鮮やかに、魂の本質を語ってくれたような気がします。
私は、そのメッセージをきちんと受け止めていませんでした。
それに今朝、気づいたのです。

向こうにいる死者に祈るのではない。
死者と共にあることこそ大事なのだ。
重松さんの言葉にそう思いました。
改めて、節子と共にあることを思い出しました。
最近は、それがおろそかになってきています。

昨今の日本社会は、死者と共にある生き方が失われつつあります。
いやもうほとんどすべて失われてしまったかもしれません。
そうした風潮に流されることなく、共生きを大事にしようと思います。
位牌壇へのお供えの仕方を変えなければいけません。

■1832:不幸ではなく、祝うべきような死(2012年9月7日)
節子
昨日、供え物を死者と共に飲み、柏手を打った人のことを書きました。
柏手は神道の作法で、墓前では手を打ちません。
しかし私は、以前からお寺の仏を前にして、柏手を打っていました。
最初は節子に注意されましたが、長年のうちに、節子もそれに馴染んでしまいました。
仏前の法事では、柏手は打ちませんが。
しかし、3日の命日にも、墓前でわが家の家族はみんな柏手をしました。

神道では、左手は火としての霊、右手は水としての身を意味すると言います。
左は火足(ひたり)、右は水極(みぎ)というわけです。
柏手は、霊に身を託す象徴的仕草といえます。

ある人から「天地明察」という小説が面白いと聞きました。
それで読もうと思い、その本を頼んでいたのですが、一昨日、届きました。
落ち着いたら読むつもりでしたは、昨日の朝、少し時間があったので読み出してしまいました。
そうしたら実に面白く、止められなくなりました
予定を変えて、昨日読み終えてしまいました。

江戸時代の天文暦学者の渋川春海の話です。
この小説「天地明察」は、映画化され間もなく公開されるそうで、しばらくはブームになるでしょう。

柏手の話は、「天地明察」にも出てきます。
春海は神道家でもあったからです。
こんな文章も出てきます。

神道は、ゆるやかに、かつ絶対的に人生を肯定している。
死すらも「神になる」などと言って否定しない。

節子もまた、神になっている。
死は決して終わりではなく、始まりだという神道の考えは、心を和らげてくれます。

「天地明察」は筋書きがおもしろいのですが、主人公が関わる算術や囲碁に関する話もとても興味深いものがあります。
登場人物はたぶんすべて実在の人物ですが、それがまた面白い。
水戸光圀や江戸幕府重臣たちの人物像も、それぞれに表情豊かに書かれています。
しかし、私の心に一番残ったのは、筋書きの面白さでも博学的な情報ではなく、最後の4行でした。
実にうらやましく、恥ずかしながら、涙が出たほどです。
主人公の春海は後妻のえんと、2人にはゆかりの深い神社を訪ねたという話の後に、その4行が書かれ、小説は終わっています。

それから数日後の10月6日。
春海と後妻、ともに同じ日に没した。
残された家人たちは、最期まで仲むつまじい夫婦であった、まったくお二人らしいことだと、まるで不幸ではなく、祝うべきことでもあったかのように話している。

世界には、幸せな人もいるものです。

■1833:ジョンのように愛していたか(2012年9月8日)
「スリーデイズ」という映画があります。
2010年のアメリカ映画ですが、フランス映画『すべて彼女のために』のリメイク作品です。
原題は「The Next Three Days」。
The Last Three Years そしてThe Last Three の話を踏まえての、3日間の話です。
http://threedays.gaga.ne.jp/

愛する妻子と幸せな毎日を過ごしていた大学教授のジョンの妻が、突然に殺人容疑で逮捕されてしまいます。
それから3年。ジョンは息子を育てながら、妻の無実を証明するため奔走しますが、裁判で妻は有罪が確定します。
絶望した妻は、獄中で自殺未遂を起こします。
ジョンは「彼女の人生と家族の幸せを取り戻す」と決意します。
そのためには、自分の人生はすべて捨ててもいい。
それからの3か月、彼は、危険にあいながら、さらには法を犯しながら、綿密な脱獄準備を用意していきます。
しかし、突然、妻は長期刑務所に移送されることになります。
移送までの3日間が、脱獄の最後のチャンス。
脱獄計画を嗅ぎつけた警察はジョンの周囲にも捜査の手を伸ばしだします。
そして・・・、という話です。

映画を観ながら共感できたのは、人を愛するということは無条件に信ずることだということです。
私は、愛するとは信ずることだと思っています。

ジョンは妻に「本当に人を殺したのか」と一度も訊きません。
妻もまた「私は殺していない」と一度も言いません。
無条件の信頼関係です。
その愛には圧倒されます。
私に果たしてできるだろうかと思いますが、それができなければ愛とはいえません。
愛は常に無条件でなければいけません。

この映画は、節子と一緒に観たかったと思います。
節子は、たぶん、私を無条件に信じていました。
もちろん私もそうです。
愛しているもの同士には、質問はなくてもいい。
そう気づいたら、とても楽になりました。
なぜなら、節子になぜ問わなかったのかと思う質問が、山のようにあるからです。
それを思い出すたびに、自責の念に苛まれます。
しかし、そう思うこと自体が、節子を悲しませることになるのかもしれないと気づいたのです。

この映画は、偶然に最近テレビで観たのですが、観て以来、頭の中で反芻しています。
実は、ほかにもたくさんのことを考えさせられた映画でした。
悲しくて、苦しくて、でも、どこかに救いがある。そんな映画でした。


■1834:家族会議
(2012年9月9日)
節子
節子を見送って5年。
ようやくわが家族も、みんな落ち着きだしたように思います。
私もそうですが、やはり家族の一員がいなくなってしまうと、その修復には5年くらいは必要なのでしょう。
もちろん落ち着きだしたといっても、みんなそれぞれに大きなダメッジを受けたままであることはいうまでもありません。
私もそうですが、娘たちもそれぞれに大きなダメッジと人生の変更を余儀なくされています。

昨夜、結婚した娘も含めて、家族会議になりました。
ちょっと問題が起こったからです。
節子に救いを求めたいほどの、大変な会議でした。
みんなそれぞれにストレスを溜め込んでいたのです。
でもそのおかげで、それぞれのダメッジへの理解が、お互いに少しだけ深まりました。

家族会議は、わが家の文化の一つです。
何か問題があると、みんなで話し合うのです。
節子がいなくなってからも、その文化は辛うじて続いています。

わが家の家族会議は、時に修羅場になります。
みんなが平等に話し合います。
価値観はそれぞれかなり違います。
また、父親だからといって、私が特別の立場を得られるわけではありません。
私も真剣勝負です。
そして、多くの場合、娘たちのほうに理があることが多いのです。
それがわかるだけ、私のほうが、まだ娘たちよりもリード力があるということですが。
しかし、娘たちの辛らつな指摘には、気づかされることが多いです。

昨夜の家族会議も、私には衝撃的でしたが、今日は間違いなく、昨日の家族会議以前よりも、みんな晴れ晴れしていました。
たぶん私も含めて、全員、昨夜はあまり眠れなかったのではないかと思いますが。

この文化を創ってくれた節子には感謝しなければいけません。
娘にとって、失うのが父親か母親かでは全く違うでしょう。
最近、そのことを痛感しています。
家族にとって大切なのは母親なのです。
経済的には父親のほうが大きな役割を担っていることが多いのかもしれませんが、生活面では父親の役割などほとんどないようにさえ思います。
節子がいなくなって以来、私自身、節子の不在を何も埋められないことに気づかされています。
男性は、まさに女性に寄生する存在なのかもしれません。

昨夜の娘たちとの話し合いで、節子の看病を果たして私は十分にしたのだろうかという思いがまた頭によぎりだしました。
娘からそう指摘されたわけではありません。
しかし、娘たちの受けたショックの話を聞いていると、自信が崩れてしまいます。
母親を失うよりも妻を失うほうが重大事だと、私は勝手に思いすぎていたことにも、気づかされました。
もちろん今でも、実はそう思って入るのですが。

節子がいない家族会議は、私にはこたえます。
今朝のお祈りに、思わず、「節子、助けてほしいよ」と声に出してしまいました。
でもまあ、今日は、2人の娘たちに大いに助けられて、元気が戻ってきました。
節子のおかげかもしれません。
ありがとう、節子。

■1835:「頭の中は宇宙」(2012年9月10日)
節子
小美玉市の文化センター「みの〜れ」もオープンしてから間もなく10年を迎えます。
それを記念して、みの〜れに関わってきた住民たちが本をつくりたいと昨年、湯島にやってきました。
1年かかりましたが、その原稿ができました。
その最後の編集会議をみの〜れでやってきました。

みの〜れのこけら落としは、住民ミュージカル劇団による「田んぼの神様」でした。
私は、みの〜れの企画段階から関わっていた関係で、節子と一緒に招待してもらいました。
しかし、開館後はあまり付き合いがなくなっていました。
というか、みの〜れに関していえば、仕事での関わりではなく、何となくボランタリーに関わってしまっていたの、仕事にはしたくなかったのです。
しかし、その関係で、その後、総合計画や都市計画、さらには住民発議のまちづくり組織条例などの仕事を私の納得できる形で自由にやらせてもらいました。
住民たちと一緒に、型破りの都市計画マスタープランも作ってしまいました。
その関係で、住民のみなさんともそれなりのつながりがあるのです。

節子の葬儀には、みの〜れがある美野里町からたくさんの人が来てくれました。
みの〜れの館長も来てくれました。
ですから、昨年、その館長の山口さんが、10年経ったので、その成果を本にしたいと言ってきた時には、正直、お断りしたかったのですが、断れませんでした。
節子のことで心をかけてくれた人には、どんなことも引き受けるというのが、私の基本姿勢なのです。

しかし、その本づくりはなかなか進みませんでした。
ほんとに作る気があるんですか、などと手弁当で毎週集まっている住民たちにまで憎まれ口をたたいてきました。
しかし、締め切り近くなって、みんなものすごく頑張ってくれました。
私を見返してやりたいという気持ちもあったそうですが、まさに私が見返されたような素晴らしい原稿に仕上がってきました。
関わらせてもらってよかったと思いました。

本は11月3日に発売されますが、たぶん「まちづくり編集会議」というタイトルになるでしょう。
その本の最後に、編集委員のメンバー紹介がありますが、そこに私の名前も入れてくれました。
その原稿をもらって見てみたら、「彼の頭の中は宇宙」と書かれていました。
よくわかんない表現ですが、私に翻弄されたという意味合いがこもっています。

それを読んで、節子だったらきっと大笑いしながら納得するだろうと思いました。
節子は、その「頭の中が宇宙」の私に翻弄されながら、喜怒哀楽の大きな人生を過ごしてきたからです。
最初は魅了され、しかし混乱し、結婚は続かないと思い、ちょっとだけ離婚も考え、しかしそのうちその宇宙にのみこまれ、無重力感を楽しみ、最後には「良い人生だった」と思えるようになった。
たぶん、それが節子の、私との人生でした。

しかし、その大笑いする節子はもういません。
そのため、私の宇宙も、歪みだしているかもしれません。
でも、楽しい本づくりでした。
まだ原稿が完成した段階ですので、これからが大変なのですが、もう大丈夫、良い本になりましたといったら、昨日はみんな喜んでくれました。
11月3日が楽しみです。

■1836:看病失格(2012年9月12日)
節子
今年の夏は暑かったせいか、体調を崩したお年寄りが多かったようです。

今日、街中で突然に声をかけられました。
最初はすぐに思い出せなかったのですが、以前、まちづくり関係でご一緒したOさんでした。
Oさんは、私よりも若い女性ですが、仕事人生で、結婚せずに仕事三昧だっ地域活動をしたいといって、私たちの仲間になったのです。
しかし、そのグループの活動が最近停滞していて、あまり会う機会がなくなっていたのです。

久しぶりですね、というと、暑さのために母が倒れて危篤状況になってしまったのよ、と言うのです。
そして、話しだしました。
幸いに母上は危機を乗り越えたそうですが、認知症が進み、大変のようです。
いまは毎日、この暑さの中を、入院している遠くの病院まで通っているようです。
汗が噴き出すほどの様子を見て、お母さんも大事だけど、自分が倒れないようにしないとね、と言いましたが、実は最初、声をかけられた時に、すぐOさんだと気づかなかったのは、この1か月ほどの大変さのせいかもしれないと思いました。

Oさんの顔が変わっていたわけではありません。
しかし人は、顔だけで人を識別はしません。
似顔絵の難しさがよく話題になりますが、意外と顔は見ていないものです。
なんとなく全体の雰囲気が、以前のOさんとは違っていたのです。

雰囲気と言えば、昨日、新潟から会いに来てくれたKさんも、いつもと雰囲気が違いました。
どこがどう違うとは説明できないのですが、明らかにいつものKさんではありませんでした。
部屋にはいってきた途端にそれを感じました。
そして、別れ際に、その理由がわかりました。
Kさんが、心の内にある心配事をポロっと口にしたのです。

人はみな、重荷を背負って生きています。
その重荷が、もしかしたら人の雰囲気を変えていくのかもしれません。
昨日のKさん、今日のOさん、いずれも重荷を口にできる人がいなかったのかもしれません。
その重荷を何の遠慮もなく打ち明けられる人がいるかどうか。
私には、5年前まで節子がいました。
ですから私はどんな時にもストレスを溜めることはなかったのです。
しかし、そのストレスはもしかしたら節子が背負っていたのかもしれません。
そして逝ってしまった。
そうだとしたら、なんと罪深いことでしょうか。

Kさんの重荷も、Oさんの重荷も、私にはあまり関わりのない重荷です。
しかし、一度、それを聞いてしまうと、なぜか頭から払い除けることはできません。
だからと言って、何をすることができるわけでもありません。
にもかかわらず、何となく疲労感を感じます。
それに気づいたら、さぞかし節子は私のために重荷を背負わされていたのだろうなと気づかされました。
ややこしい話ですが、節子の発病後に抱え込んだ私の重荷は、実は私ではなく節子が背負っていたのです。

私は結局、節子を看病していなかったのかもしれません。
先日、娘と話していて、感じたこともそのせいかもしれません。

もう一度、節子を看病できるのであれば、今度は間違わないようにしなければいけません。
来世もまた、私が節子を見送るのかもしれません。
なんだかそんな気がしてきました。
私が見送ってもらえるのは、どうやら来世の次の來々世のようです。

■1837:家族の文化(2012年9月13日)
節子
敦賀から新米が届きました。
敦賀には節子の姉が嫁いでいて、わが家のお米はいつもそこから送ってもらっています。
お米と一緒に野菜も届きます。

節子がいたら、今でも毎年、敦賀には行くのでしょうが、最近は久しく行っていません。
敦賀には、黒メダカもいれば、沢蟹もいます。
ですから以前は、敦賀に行くたびに、近くの川に行って、沢蟹をつかまえて、わが家の庭に放していました。
しかし、庭での放し飼いは難しく、定着していません。
ある朝、庭に行ったら、沢蟹が歩いている、などという光景をいつも夢見ていますが、実現していません。
私のこの希望を、本気で理解してくれていたのも節子です。

節子たち姉妹は、とても仲良しでした。
性格はかなり違っているようにも思いますが、それが逆にうまくかみ合っていたようです。
私にも性格の違う兄がいますが、なかなかかみ合わずに反発してしまいがちです。
仲が悪いわけではありませんが、会うとよく言い合いになります。
血のつながりのある関係は、ある意味で悩ましいものです。

血のつながりなどまったくない、私と節子が、なぜかみ合ったのかも不思議です。
性格もかなり違っていたはずですし、何よりも文化が違いました。
しかし、その違いがむしろ新しい文化を創りだしたのです。

最近娘たちから、わが家の文化(生活ルール)は、友達の家とかなり違っていたとよく言われます。
そのため娘たちは、苦労したようで、私たちに反発していたこともあるようです。
しかし、その内容を聞きながら、私はそうしたわが家の文化に満足しています。
その文化を守ってくれた節子には、やはり感謝しなければいけません。
いま私が、娘たちに支えられているのは、そのおかげなのですから。

日本の家族の文化が壊れてきているのが、とても残念です。
福祉の社会化などという名前で、福祉が市場化されているように、家族もまた市場化されてきています。
自殺や孤立死が話題になっていますが、それはたぶん私たちの生き方が必然的に生み出してきたことです。
たぶん今とられているさまざまな方策は、役には立たないでしょう。
そんな気がします。
でもやらなければいけないのが悩ましいです。
15日は自殺のない社会づくりネットワークの交流会をやりますが、いつも出てくるのは「家族」の話なのです。
いまさら何を、と思うことも少なくはないのですが。

■1838:感謝の形(2012年9月14日)
節子
節子がいなくなってからも、私が不自由なく暮らせているのは娘たちのおかげです。
その感謝の気持ちが伝わっているかなあ、と今日、ユカに話したら、お父さんは感謝の気持ちを形にしないよねと指摘されました。
そして、お母さんに感謝の気持ちを形で示したことはないでしょう、と言われてしまいました。
たしかにそういわれると自信がありません。
「ありがとう」という言葉は、節子にも娘たちにもよく使っていると思いますが、やはりもっと形にすればよかったと思います。

前にも書きましたが、私は贈り物が不得手です。
節子は、私から贈り物をもらった記憶はほとんどないでしょう。
私が節子にあげたプレゼントで、思いだせるのは一つだけです。
それも結婚前で、風邪を引いて会社を休んでいた節子に、節子の友だちに頼んで、犬のぬいぐるみを持っていってもらったのです。
何で犬のぬいぐるみか、理由が思い出せませんが、記憶にあるのはそれだけです。
たぶん節子は、私からのプレゼントは諦めていたでしょう。

節子は私と違って贈り物の文化を持っていました。
私が最初に節子からもらったのは、おばけのQ太郎の刺繍入りの手編みのセーターでした。
そのセーターをもらったお礼に何かを返礼した記憶もありません。
もらったセーターをよく着ることが、私の返礼の感覚なのです。

感謝の気持ちを形にするのは贈り物だけではない、と娘は言います。
贈り物以外で、なにか形にしたことはあったでしょうか。
あるといえばありますが、ないといえばない。
娘は、「贈り物」には「意外性」がなければいけないと考えています。
いわゆる「サプライズ!」でしょうか。
たとえば普段行くことのない高級レストランでの食事や高級ホテルでの宿泊です。
残念ながら、そういう経験は一度もありません。
節子に「サプライズ」をプレゼントしたことがなかったとは、実に悔いが残ります。
いまもテレビなどでちょっと贅沢な旅館やレストランを見ると、心が痛みます。
節子には、一度たりとも「贅沢」を体験させてやらなかったのです。

節子は、そんなことを望んではいませんでした。
それは間違いありません。
しかし、だからこそ、そうしたことが「サプライズ」になるわけです。
そして、それこそが「感謝の形」なのかもしれません。

節子は、たぶん私と結婚したことで、サプライズの連続だったと思いますが、私の感謝の気持ちを、時に「サプライズ」の形にして贈られることを望んでいたでしょう。
それに気づくのが遅すぎました。
もっとも、節子は今もなお、そのことに気づいていないかもしれませんが。

■1839:中学時代の写真(2012年9月16日)
節子
先日、中学校の同窓会がありました。
私は参加できなかったのですが、その時に参加者に配布されたDVDが送られてきました。
中学校時代の写真をうまく編集してくれていました。
懐かしい自分の顔にも出会いました。
節子がもし見たら吹き出すでしょう。
丸い眼鏡をかけた、いかにも勉強好きな顔をしていました。
まあそれは仕方がないのです、なぜかみんなと違う帽子をかぶっている写真が多いのです。
だからすぐわかります。
中学校時代からちょっと変わっていたのかもしれません

中学1年の時に、私は大森から吉祥寺に転校しました。
だから中学時代の友だちは2年強の付き合いでした。
そのせいか、名前が思い出せない顔が多いのです。
DVDには、中学校の校歌も入れられていましたが、校歌も思い出せませんでした。
私は勉強が大好きでしたが、学校はあまり好きではなかったのです。
それでもそのDVDを見ているうちにいろいろなことを思い出してきました。
先生のこともです。
先生ともいろいろな思い出があります。
同窓会に参加したら、もっともっといろいろと思い出すことでしょう。

節子がいなくなってから、私は写真のアルバムをきちんと見たことがありません。
思い出すということが、あまり好きではないからです。
これも不思議なもので、もし節子と一緒であれば、アルバムやビデオを見ることが楽しいはずです。
そのために、私たちはたくさんの写真やビデオを撮っていました。
しかし、節子がいない今は、そうした思い出に触れたいとは全く思わないのです。

中学校時代の写真や昔話は、節子との人生が始まる前のことです。
にもかかわらず、それも含めて、過去への興味を失ってしまっています。
しかし考えてみると、過去だけではありません。
未来への興味も、最近は全くと言っていいほど、ないのです。
時間が止まったなかを、今は何となく存在している。
そんな気がしてなりません。

中学校時代の同級生の顔を見たら、会いに行きたくなるかなと実は少し思っていましたが、まったくそういう気が起きないのが不思議です。
どうもまだ私の心身は立ち止まっているようです。
声をかけてくれる同級生には、ほんとうに申し訳ない気がしますが。

■1840:岡山のぶどう(2012年9月16日)
節子
岡山の友澤さんからぶどうが届きました。
友澤さんご夫妻も、お元気そうです。
電話をしようかと思ったのですが、手紙を書くことにしました。

節子の友だちから、今も贈り物が届けられます。
5年経ってもまだ節子を思い出していてくれることはうれしいことです。
でも私は、実はお礼の電話も手紙も苦手なのです。

節子がいた時には、誰かから贈り物をもらっても、いつも節子に礼状を書いてくれないかと頼みました。
節子は、私と違って、パソコンでは手紙は書きませんでした。
パソコンの手紙は手紙ではないといつも言っていました。
その上、ていねいに下書きまでして、私に読み聞かせ、これでいいかと念を押してから清書していました。
そういうところは、節子は実にていねいでした。
節子は、手紙を書くのも好きだったのです。

節子がいなくなった後、数人の人が、節子が送った手紙を送り返してきてくれました。
私への心遣いです。
しかし、これはけっこう辛いものがあるのです。
私が初めて見る手紙もありましたが、節子はいつも手紙を出す時に、私にも見せてくれていたので、だいたいにおいて内容には見覚えがありました。
過去を思い出すのは、うれしいだけではないのです。

岡山の友澤さんは、節子がヨーロッパに一緒に旅行した仲間です。
私も何回かお会いしましたし、節子のお見舞いや献花に、わが家にも2回ほどご夫妻で来てくれました。
私たちよりも年長で、節子はとてもよくしてもらっていました。
5年前、友澤さんは、闘病中の節子に岡山の美味しい巨峰ぶどうを食べさせたくて頼んでいたのに、節子はそれが届く前に逝ってしまったのです。
以来、毎年、友澤さんはぶどうを送ってきてくれます。

今年のぶどうは、いつもよりも大房でした。
天候の加減でしょうか、今年の果物はみんな大きいです。
節子に供えさせてもらいました。
小食の節子は、一粒でもう満腹になるそうです。
私たちも、明日はお相伴させてもらいます。
果物は朝。
これも節子の文化でした。

■1841:長寿への不安(2012年9月17日)
節子
今日は敬老の日です。
節子は、敬老の日に祝ってもらうことなく、逝ってしまいましたが、私はその歳になってしまいました。
もっとも、だからといって、娘たちからも友人たちからも敬われてはいないのですが。

先日の新聞報道では、日本では100歳を超えた人が5万人を超えたそうです。
高齢になっても元気な人が、幸せなのかどうか、私にはわかりませんが、少なくとも2人そろってお元気な夫婦を見ると、なんとなく自分も幸せな気になります。
しかし、一人で長寿を迎えた場合はどうでしょうか。

私には、死への恐怖感はあまりありません。
本などで「だれもが死への恐怖を抱いている」というような文章に出会うと、とても違和感があります。
そもそも「死」は実感できませんから、恐怖感を持ちようもないのです。
死と直面したはずの節子も、死への恐怖はなかったように思います。
もちろん「生きつづけたい」という思いは強くありましたし、「次の誕生日は迎えられるかなあ」とさびしそうに私に言ったことはありますが、たぶん「恐怖」というようなものではなかったように思います。
少なくとも、私はそう思いたいです。

ところで私ですが、死への恐怖はないのですが、長寿への恐怖はあります。
節子が先に逝ってしまったことで、すでに長生きの恐ろしさをすでに実感していますが、節子がいないまま、これからあと何年生きつづけるかと思うととても不安になります。
いまは娘たちがよくしてくれますし、友人たちにも恵まれています。
しかし、最近は彼岸に旅立つ友人も少なくありません。
私より若い人たちも少なくありません。

この頃、時々、私だけが取り残されるのではないかとふと思うことがあるのです。
それほど恐ろしいことはありません。
願わくば、私自身は長寿でないことを祈ります。
もうすでに長寿だと言われそうですが、兄よりは先に逝くわけにはいきません。
私が恐れている恐怖を、他者に与えることはできないからです。
長寿者がテレビで報道されるたびに、私は思います。
本当に幸せなのだろうかと。

敬老の日は残酷な祭日です。
老人を敬う気のない人がきっと考案したのでしょう。

■1842:5年前の節子と今の節子(2012年9月17日)
今日また娘のユカから言われました。
お父さんの節子像は、どんどん変わっていると。
一言で言えば、自分に都合の良いように節子像を変えてきていると言うのです。

たとえば、あることで娘と意見が異なってしまう場合があります。
その時に、私は、節子だったら私に賛成するだろうな、と言ってしまいます。
事実、そう思っているからです。
しかし、ユカは、お母さんだったら自分に賛成すると言うのです。
そういわれて、考えてみると、娘の言うほうが正しいような気がします。

結婚した当時、節子と私は考え方が大きく違っていました。
一緒に暮らすうちに、お互いに歩み寄り、考え方が似てきました。
毎日一緒に、しかも仲良く暮らしていれば、それは当然のことでしょう。
考えも仕草も、嗜好も感性も、次第に重なってくるのです。

しかし、節子がいなくなってからも、私たちはさらに考えを重ねてきているわけです。
つまり、節子は私の心や脳の中では、いまだ成長を続けているのです。
ですから、ユカが言うのも正しいでしょうが、私もまた正しいわけです。
5年前の節子といまの節子は違うのです。
娘たちは5年前の節子と付き会っていますが、私は今の節子と付き合っているわけです。
今日、そのことに気づきました。
それに気づいたら、なんだかちょっと心が和らぎました。

節子も私も、まだまだ成長できそうです。
時間軸を取り戻せるかもしれません。

■1843:記憶があるのに記録がない(2012年9月18日)
節子
テレビで琵琶湖湖西線を走る番組をやっていました。
何気なく見ていたら、懐かしい風景がたくさん出てきました。
そのうちに、堅田の浮御堂がでてきました。
節子と一緒に行ったのはいつだったでしょうか。
節子はもう発病していましたが、その時は元気でした。
2人で浮御堂から懐かしい琵琶湖の対岸を見ていたことを思い出します。
対岸は、私たちが出会った大津なのです。

いつ行ったかを思い出したくて、私のホームページの週間記録を探しました。
ところがいろいろと検索しても出てこないのです。
写真を撮ったことを思い出して、パソコンに取り組んでいる写真アルバムを探してみました。
やはり出てきません。
夢だったのでしょうか。
そんなはずはありません。

実は、こういうことが前にも一度ありました。
節子と一緒に行ったはずなのに、そして記録も残し写真もあるはずなのに、見つからないのです。
もしかしたら、私の記憶が間違っているのでしょうか。
それとも、節子が一緒に持ち去ってしまったのでしょうか。
浮御堂にはたしか観音菩薩が祀られ、そのまわりに千体の小さな菩薩が囲んでいた記憶がありますが、これも記憶違いかもしれません。
そんなことを考えていたら、たしかあの時に、浮御堂で何かとても大切なことを話していたような気がしてきました。
しかし、それも思い出せそうで思い出せません。

湖西線は近江塩津で北陸線に接続し、テレビの番組はそこから敦賀へと向かっていました。
敦賀駅は節子と毎年何回かは利用していました。
この数年、行ってはいませんが、当時のままでした。
懐かしい風景です。
この駅にもいろいろな思い出があります。
もちろん敦賀のまちには、山のような思い出があります。
いやあるはずです。
しかし、節子がいないせいか、なかなか思い出せません。

思い出があるのに、記録がない。
思い出があるはずなのに、思い出せない。
何かとても不思議な気持ちです。

ところで、いま思い出したことがあります。
そういえば、今朝の明け方、節子の夢を見ました。
今日はそのことを書くつもりだったのです。
すっかり忘れていました。
でも、その夢を見たのは今朝でしたでしょうか。
記憶というのは実にあいまいで、危ういものです。
いや現実そのものも、そうなのかもしれません。

■1844:夢に節子が出てきました(2012年9月19日)
昨日、節子の夢を見たと最後に書きました。
今日はそのことを書きます。

最近、よく夢を見ます。
正確に言えば、夢を見ながら起きることが多いということです。
しかし、実は節子が出てくることは少ないのです。
どういう夢が多いかといえば、私が何かを伝えたくて話している夢が多いのです。
目覚めた時に、我ながらすごい発見だと思うこともありますが、しかしなぜか10分も経つと忘れてしまいます。

そんな夢が続いていたのですが、昨日の明け方、夢に突然に節子が出てきたのです。
場所は我孫子駅の階段です。
階段を登っているとしたから節子が呼び止めたのです。
そして登ってきた。
そこからがとてもめずらしい夢だったのです。

節子の夢は、以前よく見ました。
しかし、前にも書いたかもしれませんが、夢に出てくる節子の姿ははっきりしていないことがほとんどです。
姿かたちがないにもかかわらず、はっきりと節子を感ずるのです。
ところが昨日の夢は、姿どころか、着ている服装まではっきりとしていました。
見覚えのない青色と緑を基調としたレース状のサマーセーターでした。
こういうことは私の体験ではめずらしいのです。
私の夢はほとんどの場合、モノクロなのです。
顔もよく見えました。
「あの節子」でした。
しかも声さえ聞えました。
「携帯をなくして連絡がつかなかったの、ごめんなさい」というような内容だったと思います。
ところが、実に残念なことに、そこでわが家のチビ太の鳴き声で目が覚めてしまったのです。
それであわてて階下に降りて、チビ太の世話をしているうちに、夢のことをすっかり忘れてしまい、夜になって思い出したというわけです。

まるで死んだことを忘れているように、屈託の無い、とても明るい節子でした。
連絡せずにごめんね、という気持ちが伝わってきて、なんだかとても救われた気分になったような気がします。
前後のない、たったワンカットだけの夢だったのですが、いま思い出しても、なんとなく幸せになるようなワンカットでした。
ですから、昨夜、挽歌を書いてから、今夜もぜひあの夢の続きを見ることができるようにと念じて、眠りにつきました。
しかし、昨夜見た夢は、どこかで若い人たちに向けて、何かを訴えている夢でした。
節子は出てきませんでした。
念じ方が不足していたのでしょうか。

それにしても、なんであんなに元気で屈託のない節子だったのでしょうか、
今もまだ、その姿が目にはっきりと浮かびます。
夢とは、本当に不思議です。

■1845:マントラの効用(2012年9月20日)
節子
最近ちょっと朝の勤めをおろそかにしています。
般若心経をぜんぶ唱えるのではなく、最後のエッセンスの
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
だけですませてしまうわけです。
「ぎゃていぎゃていはらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」
と読みます。
実はこの正確な意味は必ずしもわかっていないようですが、一応、次のような意味とされています。
「煩悩の此岸を去って,完全に彼岸に到達せし者よ。悟りあれ,幸あれかし」
つまり、死者に対しては悟りを得たねと讃え、此岸にいる自らには、悟りの彼岸に近づけと諭しているわけです。

これは、いわゆる「真言」、マントラですが、この真言は宗派を超えています。
言葉は魂に暗示をかけますが、毎日、このマントラを唱えていると、いつしか自らも彼岸に近づいたような気になります。
もし唱えたことのない人がいたら、ぜひ試してください。
1か月も毎朝、唱えていると、どこか不思議なあったかさに包まれるかもしれません。

キリスト教の場合は「アーメン」が、ナチズムの場合は「ハイルヒトラー」がマントラです。
アーメンとハイルヒトラーを並べると不謹慎と思われそうですが、だれもが組織行動を取ろうとする時には、こうしたマントラが支えになります。

私には、もう一つ、マントラがあります。
それは言うまでもなく、「節子」です。
挽歌を書こうとパソコンの前に座り、まずなにも考えずに「節子」と入力します。
そうすると不思議と書くことが浮かんできます。

話がそれてしまいましたが、毎朝の勤めを簡略版にしてしまっているためか、時々、全文を唱えようと思うとつかえてしまうことがあるようになってしまいました。
お勤めは、毎日きちんとしなければいけません。
そうしないとマントラの効用も消えてしまいかねません。
明日からまた、きちんと般若心経を唱えることにしましょう。
それは、生活のリズムの崩れを正すことにもなるでしょうから。

■1846:節子のいない外食(2012年9月21日)
節子
最近わが家の近くに回転寿司が増えています。
しかも100円回転寿司なのです。
今週もすぐ近くに「はま寿司」が開店しました。
娘たちが今日はみんないたので、行ってみました。
開店間際のためか、賑わっていました。

わが家はみんな小食なので、回転寿司に行ってもあまり食べられません。
あまりに少ないとお店に申し訳ないので、それなりにがんばるのですが、100円寿司だとがんばっても3人で2000円にも達しないことも少なくありません。
あまりに少ないとちょっと気が引けてしまいます。

しかし、節子が病気になった後は、もっと大変でした。
胃を摘出してしまった節子は、お寿司に限らず1食分はとても食べられません。
節子はよくテイクアウトさせてもらっていました。
食べられない節子が、それでも新しいお店を探してきては、家族を連れて行ってくれました。
そのころのことが、とても懐かしく、その思い出を感じたいが故に、私は娘たちとの外食を最近増やしています。
節子はいませんが、なんだか節子を感じるのです。

まだまだ節子離れできないでいます。
なんで、でしょうか。
困ったものです。
最近、それが不思議でなりません。
節子の呪縛はいつ解けるのでしょうか。

明日は秋の彼岸の中日。
お墓参りに行くつもりです。

■1847:急に肌寒くなりました(2012年9月22日)
昨日はお彼岸の中日だったのでお墓参りに行きました。
お墓はにぎわっていました。
気のせいかもしれませんが、昨年から年々にぎわっているような気がします。
時間帯によるのかもしれませんが。

その一方で、節子も知っている、わが家のお墓の隣にいつも来ていたおばあさんは、この数年、出会うことがなくなりました。
お墓は新しくなっていないので、最近は出歩けなくなっているのかもしれません。
近くにある、節子の友人だった東さんのお墓は、いまもいつも新しい花が供えられています。
東さんはお墓参りに来た時には、節子のお墓にも立ち寄ってくれていると言っていましたので、私もお墓の花を枯らさないようにしないといけませんが、夏は熱いので2日しかもちません。
それで造花にしていましたが、そろそろ生花でも大丈夫そうです。
そうなると、毎週行かないといけません。

実は毎週お墓参りに行くと決めていたのですが、最近は隔週になってしまっています。
困ったものですが、まあ、そこは融通無碍な節子は、気にもしていないでしょう。

お墓参りに行って、節子は家の位牌壇にいるのに、なぜわざわざここに来るのだろうかと思うこともあります。
実は私はお墓参りに行く時には、節子の位牌壇に、さて一緒に墓参りに行こうかと呼びかけたりしているのです。
考えてみるとおかしな話ですが、何やらそれが一番すっきりするのです。

彼岸を過ぎたら、急に肌寒くなりました。
昨日はお墓から帰ってから、疲れがどっとでてしまい、テレビばかり見ていました。
気温の急激な変化のせいかもしれません。
そのせいか、わが家のチビ太くんもくしゃみをしだしたので、お医者さんに行きました。
心配ないそうですが、彼はもう17歳。人間年齢では100歳を超えたそうです。
最近は寝たきりで、介護が大変です。

節子
此岸での生活は変化がありすぎて、疲れます。
あなたがうらやましい。

■1848:意味の反転(2012年9月23日)
節子
季節の変わり目は、やはり少しだけ感傷的になります。
節子がいた頃には、季節の変わり目はむしろ生活の節目になって、前に進む契機になっていましたが、いまは逆に進む力を吸い込むような落し穴のような気がします。
なぜか「気が起きない」のです。

節子がいた時といなくなってからでは、物事の意味が反転したことはたくさんあります。
前であれば、幸せな気分になった事が、いまは心に寒い風を呼び込むことさえあります。
意味や価値を共有する人がいないだけで、こんなにも世界の風景は違うのかと、自分ながら不思議なのですが、それが事実なのだから仕方がありません。

秋は、節子の好きな季節でした。
紅葉狩りに、よく付き合わされました。
最後の年には、伊香保で見事な紅葉を見たような気がします。
素晴らしい日本海の落日を見たのも、秋でした。
しかしもはや、紅葉も落日も、美味しい果物も、私を幸せにはしません。
秋は、ただただ、さびしい季節になってしまいました。
節子が好きだった季節を、一緒に楽しめないことはさびしいことです。
自分ひとりでは、楽しめないのです。
美しい風景を見れば見るほど、さびしくなる。
これは何回も体験したことです。

美しい風景を見て、涙が流れるようになったのは、節子がいなくなってからです。
感動が涙につながりやすくなったのも、節子のせいかもしれません。
ようやく精神的に安定したかなと、最近、思い出していたのですが、秋の到来は、その自信を見事に打ち砕いてくれました。

人を愛するということは、実に哀しく、実に悩ましい。
執着と煩悩から、抜け出せずにいる自分が、時にいやになります。
節子のことがなければ、私はかなり解脱していると思えるようになってきているのですが、愛への執着はなかなか超えられません。

■1849:生きるとは自らを愛すること(2012年9月24日)
節子
この歳になって、いささか気恥ずかしいですが、今日は「愛」の話です。

人はみな自分を愛しています。
それが「生命の本質」だからです。
もし自らを愛していない生命がいたら、決してその生命は持続できないでしょう。
生きるとは自らを愛すること、と言ってもいいでしょう。

誰かを愛するということは、愛する対象を自分から誰かに移すことではないかと、最近思えるようになりました。
自分への愛を残しているような愛もあるでしょうが、人を愛するということは、愛する対象が変わることなのではないかと思います。
言い換えれば、自らを無にすることです。
あるいは愛する対象に自らを委ねることです。

委ねてしまうとどうなるか。
自分がなくなってしまうわけです。
では、自分がないのに、他者を愛することができるのか。
愛する主体がなくなれば、愛するという行為もなくなるのではないか。
そこが悩ましいところなのですが、最近、その答が見つかりました。
自分がなくなるのではなく、自分が愛する対象と一体化してしまうのです。
そう考えると、すっきりします。
自らを愛するという生命の本質に合致するからです。
ですから、愛するとは自らを他者に合体させると言うことになります。

自らと他者との境界がなくなって、大きな意味で同一の存在になる。
もしそれが愛であれば、愛こそが人生を平安にし、世界を平和にしてくれるでしょう。
それは、不死にもつながります。

愛した存在がなくなったらどうなるか。
これも考えやすくなります。
愛の存在は、実はなくならないのです。
他者である妻を愛することができれば、ほかの他者も愛することができるはずです。
それは特定の存在に執着する愛ではありません。
生命を、さらには存在を、すべてそのまま受け容れ、自らとの境界をなくすことです。

執着する愛から、執着から解放された愛へ。
昨日、NHKの「こころの時代」で、鈴木大拙さんの話が取り上げられていました。
それを見ながら、行き着いたのが、その番組とはあまり関係ないのですが、この考えでした。
これまでどうも退屈だった大拙さんの話が、突然に理解できたような気になってきました。
改めて読み直してみようと思います。

■1850:走りすぎたり、止まりすぎたり(2012年9月25日)
節子
動かないと動けなくなります。
意思と行動とどちらが先かについては、面白いテーマですが、最近の研究の成果は、どうも意思より先に行動があると言われてきています。
体験的に私も、そう思います。

このところ、山のように課題が積みあがっています。
そういえば、半年前もこんな状況だったような気もします。
そしてやりすぎて、ダウンしてしまったような気もします。
しかし、やらないと課題はどんどん積もりあがっていきます。
そこで、ようやく動こうと思い出しました。
もちろん動きたくはありません。
静かに涅槃の境地を漂いたいですが、課題を捨てられない限り、それは無理です。
そこで、思い切って、連絡をとらなければいけない人たちに連絡を取り出しました。
取り出すと動かざるを得なくなります。
大阪に行く約束までしてしまいました。
動き出すと不思議なもので、動き出せるようになるばかりか、動きたくなるものなのです。
そして動き出しすぎて、ダウンしてしまう。

節子を見送ってから、実はこの繰り返しです。
走りすぎになったり、止まりすぎになったりしてしまうのです。
要するに、生活のリズムが維持できないわけです。
伴侶を失った人の多くは、たぶん同じ体験をしていることでしょう。

でもまあようやくまた動き出せるようになりました。
動き出すと、これも不思議なのですが、まるでそれを知っていたかのように、交流が途絶えていた人から連絡が入りだします。
そうしたことを何回か体験すると、すべての生命は共鳴しているのではないかとついつい思ってしまいます。

今年の秋のお彼岸も終わりました。

■1851:書く自分と読む自分をつなぐ者(2012年9月26日)
節子
今日、電車に乗っていたら、向かいの席に老夫婦が座っていました。
奥さんのほうが、ひっきりなしに夫に向かって話しています。
夫はほとんど話しません。
話の内容はさりげない日常会話です。
次の駅はどこかとか、だれそれはどうだったとか、断片的な話なのですが、ともかく途切れることはなく、私が降りるまでずっと話をしていました。
私は反対側の席でしたが、その途切れることのない一方的な会話に、感激していました。
そうか、人は相手の相槌がなくても話し続けられるものだと思ったのです。
しかし、それはよほどの自信がなければ持続できないかもしれません。
相手が返事をしなくても相手が聴いてくれているという自信です。

電車を降りてから、気がつきました。
この挽歌も同じようなものではないか、と。
節子に語っていますが、いまだかつて、節子からの明確な返事も相槌もありません。
にもかかわらず、私は書き続けています。

特定の人との関係において意味があるのは、会話ではなく、話すことなのかもしれません。
読んでもらうことではなく、書くことかもしれません。
そう考えた時、この挽歌は誰に向かって書いているのだろうかと改めて思いました。
そう考えると、またさらに考えてく視点が開けていきます。
書く自分と読む自分。
書かせる自分と読ませる自分。
そこに、実は節子の影があるのです。

秋になると、人は哲学的になるものです。
ようやく秋が始まりそうです。

■1852:社会との不整合と不安感(2012年9月27日)
節子
またある人が寄付をしてくれました。
最近はほとんど仕事をしていないのですが、時々、こうやって私の活動に寄付をしてくれる人がいます。
感謝しなければいけません。
それが大きな支えになっています。
いずれも、節子と一緒に活動していた頃からの知り合いで、節子も知っている人たちです。
私たちの生き方が受け容れられているようで、元気が出ます。

その一人の方が電話をくれたので、寄付してもらうのはうれしいが、何か私のできることはないですかと質問したら、言下に「ない」と言われてしまいました。
私も経営コンサルタントなので、会社経営の役には立てるはずなのですが。

しかし、その一方で、私の言動が原因で、友人を失っていることもあります。
昨日書いた、官僚批判を読んだ人が昨夜メールをくれました。
その人も官僚なので、気分を害したのでしょう。
たしかに気分を害されてもおかしくない文章を書いたのですから、その非難は甘んじて受けなければいけません。
返事は書きましたが、不快さは元には戻せずに、せっかくのつながりが切れてしまうかもしれません。
こうしたことが時に起きます。
節子がいた頃は、他者を批判する文章を書く時にはチェックしてもらいましたが、それがなくなると暴走しがちです。
困ったものです。

こういうことが起きると、身を縮めたくなるのですが、それはやはり私の生き方ではありません。
体制との不整合は、私の生き方のせいなのです。
それをうまく調整したり、私の精神の安定を保ってくれたりしていた節子がいなくなると、その不整合のひずみを解消できないままでいます。
それが私の最近の不安感の原因かもしれません。

伴侶を失った場合、社会から引退するのが正しい生き方だと思うことが時々あります。
これに関しては、明日、少し書いてみたいと思います。
書けたら、ですが。

■1853:私にとっての「仕事」(2012年9月28日)
節子
一昨日、パオスの中西さんと食事をしました。
中西さんは、節子も知っていますが、日本のCIプランナーの草分けにして、第一人者です。
私が会社を辞めたのも、中西さんとの出会いが一因になっています。
節子は、そのこともよく知っていますね。

それはともかく、中西さんはいまも能動的に仕事に取り組んでいます。
しかも、その仕事の質にはこだわり続けています。
中西さんの生き方は、私とはかなり違いますが、共感できるところが少なくありません。
私の生き方も、中西さんはよく知ってくれています。
ですから、仕事を一緒にするわけでもないのに、時々、声をかけてくれます。

一昨日は食事をご一緒したのですが、その時に、中西さんがめずらしいことを言いました。
仕事を続けていられることは幸せかもしれないね、というのです。
同窓会などに出て、そう感じたそうです。
たしかに、仕事から離れると今までの輝きがなくなってしまう人は少なくありません。
しかし、仕事にしがみついている人も問題がないわけではありません。
もう引退したほうがいいと思う人は少なくありません。

中西さんは、仕事をすることと生きることが、重なっている人です。
私もそう考えているので、それがよくわかります。
ちなみに、私にとっての「仕事」は、「生きること」とほぼ同義です。
節子も誤解していた時期がありますが、仕事が生きることではなく、生きることが仕事なのです。
もちろんワーカーホリックではありません。
仕事はお金とも無縁です。
中西さんも、たぶんそういう生き方をしてきているはずです。
その中西さんが、仕事を続けていられることは幸せかもしれないと言うのは、私には意外でした。
あまりに「普通」だからです。

別れた後、その言葉が少し気になりました。
なぜ中西さんは、突然、私に電話をかけてきたのでしょうか。
中西さんは私よりも年上です。

昨日の挽歌に、「伴侶を失った場合、社会から引退するのが正しい生き方だと思うことが時々あります」と書いたら、プーちゃんから「僕もまったく同感です」というコメントが届きました。
さて、悩ましい問題です。
そういいながらも、今日もまた2人の人から呼び出されて、湯島に来ています。
これは「仕事」でしょうか。
そのおひとりが、いま帰りました。

■1854:「寂しがり屋さん」(2012年9月30日)
節子
昨年の6月、「ぷーちゃん」という人が、この挽歌にコメントを投稿してくれました。

昨年の6月27日、最愛の妻を癌で亡くしました。享年43歳でした。同棲していた頃を含めると20年間の共同生活でした。(中略)
どこに住んでいるときも、妻と僕は土日のたびに散歩ばかりしていました。
旅行にもよく行きましたが、旅先でも散歩ばかりしていました。
二人で散歩した距離はどれほどになるでしょう。ちょっと想像がつきません。

いつも挽歌を読ませていただいています。
時には涙を流しながら。

最愛の妻を喪って、僕は壊れてしまったようです。
毎晩、仕事から帰ると、泣きながら酒を飲みます。
(中略)
いまはただ、一日でも早く妻のもとに逝けることだけを望んでいます。

それから時々、コメントをくれるようになりました。
そのぷーちゃん(今はプーちゃんに改称)がブログを始めました。
タイトルは「いつか迎えに来てくれる日まで」です。
昨日、読ませてもらいました。
最初の記事の書き出しは、こうです。

平成22年6月27日、俺のたった一人の家族、最愛のかみさんが亡くなった。
かみさんの名前は「容子」という。
4年間の同棲生活と16年間の結婚生活、合わせて20年間の共同生活だった。
俺とかみさんとの間には、子どもはいなかった。

読んだ途端に、さまざまな思いが湧き上がってきました。
昨日の記事の最後の3行はあまりにも実感できました。
節子と重なってしまいました。

かみさんは俺に抱き締められながら言った。「寂しがり屋さん」。
そしてもう一言。
「私は幸せだよ」、かみさんはそう言った。

それで昨日は自分の挽歌を書けませんでした。

■1855:名前の霊力(2012年9月30日)
節子
実は昨日、挽歌を書けなかった理由はもう一つあります。

小畑万理さんが企画編集した本を送ってきてくれました。
「地域・施設で死を看取るとき」(明石書店)です。
この本は、小畑さんの深い思い入れがあって実現した本です。
その企画の段階で、私のことも事例として取材させてほしいと言われたのです。
これに関しては前に書いたような気もします。
私には「死を看取る」という意識がまったくなかったので、あまり適切な事例とは思いませんでしたが、小畑さんの思いの深さが伝わってきたので、協力させてもらうことにしたのです。
そして、その本が出来上がり、私のところにも届いたのです。
とても清楚な装丁で、内容もとてもしっかりした書籍に仕上がっていました。
私の話を素材にした物語も取り上げてくれていました。
それを読み出して、思い出しました。
出帆の前に原稿を読ませていただき、ひとつだけ注文したことを。

事実をベースにして編集してくださっていますので、私は仮名で登場しています。
それはいいのですが、どうも読んでいて、落ち着かないので、節子の名前だけは変えないでほしいとお願いしたのです。
私の名前は仮名に変わっています。
ですから、別の名前の人が、節子の夫になっている。
読み出して、それがとても奇妙な感じなのです。

ライターの方がとてもうまくまとめてくださっていますので、内容に違和感があるわけではありません。
むしろ私の不十分な話をとてもうまくまとめてくれています。
にもかかわらず、節子の相手は「修」でない人なのが、とても奇妙に感じるのです。

小畑さんは、こう書いてきました。

奥様の聞き取りをさせていただきながら、
佐藤さんのお気持ちを十分にまとめられなかったような気がします。
それについても、申し訳なく思うばかりです。


そんなことはありません。
私の気持ちは的確に受け止めてもらい、的確に表現してもらっています。
でも、だからこそ、なにやら奇妙な気がするのです。
名前の持つ霊力のようなものを、改めて感じました。

まだその本は、私の部分も含めて、読み終えてはいません。
ちょっと勇気が必要なような気がしています。
どうも私はまだ、現実から逃げているようです。

■1856:慣れることができないこと(2012年10月1日)
「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」と日記に書いたエティ・ヒレスムは、ナチスによるユダヤ人虐殺の犠牲者の一人です。
エティは1943年にアウシュヴィッツで虐殺されますが、戦後、その手紙と日記が出版されて大きな反響を呼びました。
エティは、自らが置かれた過酷な状況の中にあっても、加害者への憎しみの代わりに神への愛を書き残しています。
その日記を読んだウルリッヒ・ベックは、「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」と書いています(「〈私〉だけの神」)。

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」という文章は、実は昨今の日本の政治状況のなかで思い出したのですが、正確の表現を確認するために原文を探しているうちに、ベックのこの文章に出会ったのです。
時評編を書くつもりが、急遽、挽歌編を書くことにしました。

「エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた」。
エティにとって日記を書く時間は、神と一緒に過ごす時間だったのでしょう。
そして、神とつながっているということが、彼女に生きる意味を与えたのでしょう。
生きる意味が確信できれば、人は恨みや愚痴は言いません。
加害者を恨むことも、自らの境遇を嘆きことも必要ないからです。
エティは、自らの生きる意味を確信し、しっかりと自らを生きることができたのです。

エティが神と共にあるように、私も挽歌を書いている時は、節子と共にある時間です。
書く前後の時間も含めて、毎日30分ほどのこの時間は、私にはとても意味のある時間です。
いわば「写経」のような時間なのです。
しかし、残念ながら、いまだに「生きる意味」を見出せずにいます。

ところで、エティが書いた文章です。
「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」。
この文章は、気になる文章です。
時評編ではこのことをベースに現在の私たちの生き方を問い質そうと思っていましたが、挽歌編で自分の問題として書いているうちに、ちょっと考えが変わってしまいました。

たしかに、節子のいない風景に、私はいま、かなり慣れてきているような気もします。
そして、感ずることはむしろ強まっています。
しかし、よく考えてみれば、「慣れている」のではなく、「追いやられている」というのが正確な表現のような気がしてきました。

人にはやはり、「慣れることができること」と「慣れることができないこと」があるようです。

■1857:フクロウと目が合いました(2012年10月2日)
節子
今日は土浦の陶器屋さんで、面白いフクロウを見つけました。
なにげなく立ち寄った土浦の街中のお店の店先に並んでいたのです。
お店には、ほかにも面白い陶器や陶芸品が並んでいました。
節子が好きそうなお店です。

ところがお店には誰もいません。
声をかけても出てきません。
土浦には、まだそんな文化が残っています。
ますます気に入りました。
かなり大きな声で何回か声をかけたら、ようやく人が出てきました。
このフクロウは、和田国夫さんが、清田(だったでしょうか)の土を使って創ったんですよ、この表情でいいですか、と訊かれました。
たしかに店内には他のフクロウもいましたが、店先のフクロウに目が合ったのですから、それ以外に気持ちが移ることはありません。

節子はよく知っていますが、私は以前、フクロウの置物を集めていました。
節子も協力してくれていました。
しかし、節子が病気になってから、なぜか集める気がなくなりました。
理由はわかりませんが、ともかくすべてのことが一度、終わったのです。
フクロウ集めも例外ではありませんでした。

しかし、今日、なぜかフクロウに目が合ってしまった。
実は、今日は娘に付き合ってもらって、土浦に行ってきました。
特に土浦に意味があったわけではありません。
ましてや土浦の街を歩くとは思ってもいませんでした。
節子が好きそうな街並みだなと娘に言ったら、節子の好みではないよ、と言われてしまいました。
街歩きの後、郊外の魚市場で海鮮丼を食べました。
豪快な盛り付けで、とても新鮮で美味しかったのですが、私は完食できませんでした。
この店は節子好みだね、というと娘も同感してくれました。

久しぶりに車で遠出しました。
フクロウとも目が合いました。

■1858:説子と節子(2012年10月3日)
節子
昨日、福岡の説子さんから電話がありました。
権藤説子さんです。
小宮山さんが福岡に行くというので、紹介したのです。
続いて小宮山さんからも電話がありました。
とても楽しい出合いだったようです。

お2人がとても打ち解けた関係になった一つの理由は「説子」という名前だったそうです。
小宮山さんのお姉さんの名前が、同じ「説子」だったのです。
そのおかげで、ちょっとおかしい展開になり、権藤さんが笑い転げながら私に電話してきたわけです。
まあそれだけの話なのですが、名前には奇妙な力があるようです。

「説子」と「節子」は音としては同じです。
しかし文字にするとイメージがかなり変わってきます。
話し言葉では同じでも、文字の世界では全く違った印象が残ります。
こういうことはたくさんあります。

そういえば、数日前に、この挽歌を偶然に見つけた「中野節子」さんという方がコメントを書き込んでくれました。
「偶然なのか必然なのか…。私の名前は、中野節子と申します」と。
その人は、ブログで、エジプトの中野さんの記事まで読んでくれて、「縁」を感じてくれたのです。

名前は大きな意味を持っています。
私は今も、娘たちから名前に関しては叱られています。
それなりの思いをもって、命名したのですが、まあ少し反省しています。
節子がいたら、応援演説をしてくれるのでしょうが。

■1859:「元とは違う元の姿」(2012年10月4日)
節子
昨日から軽井沢で合宿でした。
久しぶりに山城経営研究所の風早さんとゆっくり話しました。
帰りの新幹線をご一緒したのです。
風早さんと最初に出会ったのはもう20年ほど前です。
当時、風早さんは某大企業の役員か部長だったと思いますが、いまは研究所で活動されています。
その風早さんが、佐藤さんは変わらないですね、と言ってくれました。
しかし風早さんは、私が大きく変わっていた時期のこともよく知っています。
節子を見送ってからの数年間ですが、あの頃は生気がないと感じていたでしょう。
私のことを心配してくださっていたかもしれません。
それほど一時期の私は、我ながらにも「無残」でした。

今回は、風早さんは、もう昔の佐藤さんですね、と言ってくれました。
たしかに、そうかもしれません。
壊れてしまったものは元には戻りませんが、外見的には、そして意識的には、自分でもそう思います。
でもまあ正確に言えば、「元とは違う元の姿」です。
しかも、そう思えるようになったのは、この数か月です。

ただ無意識の世界にいる自分は、全く違う存在といってもいいかもしれません。
それは決して元に戻らないばかりでなく、時間とともにさらに深まっていきます。
ですから、いつその意識化の私が顔を出すかもしれないという不安はあります。
しかし、「もう昔の佐藤さん」という言葉は、よけいな気遣いをしないで、前のように付き合えるということかもしれません。
そうであるならば、その期待を裏切らないようにしないといけません。

節子の闘病中、風早さんは毎日、快癒を祈ってくれていました。
口で言うのは簡単ですが、そんなことはそうそうできる話ではありません。
そして、節子を見送った後も、いつも私を気遣ってくれています。
風早さんのように、きちんと言葉にしてくれる人は、そう多くはありません。
風早さんと話していると、いつも必ずといっていいほど、節子を見送った後の私の話が出ます。
人によっては、あまりうれしくないのですが、風早さんの口から出ると、なにやらとてもうれしい気がします。
これもとても不思議な話です。
人は、無意識のうちに、言葉に含まれている思いを見分けるものなのでしょう。

風早さんは、20年前の自己主張の強い私と節子に先立たれ沈んでいる私と今の私をすべて見ています。
自分では気づいていない変化が、風早さんには見えているかもしれません。

また一度、ゆっくり話したいと風早さんは別れ際に言いました。
私がどう変化しているかを、一度、お聞きするのもいいかもしれません。
節子との別れは、私の交友関係にも大きな影響を与えているのです。

■1860:心から悲しめることの幸せ(2012年10月5日)
さだまさしさんの「いのちの理由」という曲があります。
法然上人800年大遠忌を記念してつくられた曲だそうです。
法然は浄土宗の開祖で、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、みんな平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた人です。

さだまさしさんは、この曲の作詞のために、法然上人の資料を読み込んだそうですが、そこから生まれてきた言葉が「幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ」というフレーズだったそうです。
この曲はできたのは、2010年ですから、節子は現世では聴いたことはありません。
しかし、節子に聴いてほしい曲です。
いや、節子と一緒に聴きたい曲です。
一人で聴いていると、どうしても涙が出てきてしまいます。
それに、少しだけ納得できないのです。
曲はとても好きなのですが、歌詞に少しひっかかるのです。

最後の歌詞は心に沁みてきます。
 私が生まれてきたわけは
 愛しいあなたに出会うため。
 私が生まれてきたわけは
 愛しいあなたを護るため。

私が生まれてきたわけは節子に出会うためだったと言うことには躊躇はありません。
しかし私には節子を護れなかったという悔いが、いまも大きく覆いかぶさってきます。
だからこの曲は、実はあまり素直には聴けないのです。

それに、こんな歌詞もついています
 春くれば 花自ずから咲くように
 秋くれば 葉は自ずから散るように
 幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ
 悲しみの花の後から 喜びの実が実るように
しかし、悲しみの後に喜びが来るはずはありません。
悲しみの後ろにあるのは、ただただ悲しみだけなのです。
だからといって、幸せではないということではないのです。

心から悲しめることの幸せが、最近少しわかってきました。

■1861:幸せな時には哀しさにあこがれます(2012年10月7日)
節子
昨日は「いのちの理由」のことを書きましたが、節子も私も、さだまさしのグレープの曲が好きでした。
湯河原に行くと、いつもグレープのCDをかけました。
先日、湯河原に行った時に、2枚のCDを持ち帰りました。
その1枚が「グレープ ザ・ベスト」でした。
久しぶりに聴いてみました。
それで気がついたのですが、なぜかみんな「悲しい歌」ばかりです。
「精霊流し」「縁切寺」「無縁坂」・・・。

若い時には、哀しさにあこがれます。
幸せな時にも、哀しさにあこがれます。
しかし、それにしても、哀しい歌です。
こんな哀しい歌を、私たちはどんな思いで聴いていたのでしょうか。
不思議です。
もしかしたら、節子は好きではなかったのかもしれない。
CDを聴きながら、ふとそんな気がしました。

そういえば、節子は、五輪真弓の「恋人よ」も好きでした。
節子はコーラスグループに入っていたにもかかわらず、音域は狭く、「恋人よ」は歌うのに向いていないと思いますが、よく歌っていました。
この歌も、決して明るくはありません。
ちなみに、歌に関しては、節子よりも私のほうが上手だと思いますが、節子は私の歌声が大好きでした。
私が歌うのを聴きたいと言われたこともありました。
しかし、それに応えたことはあまりありません。
いまなら何時間でも歌い聴かせてやるのですが。

幸せな時には哀しさにあこがれますが、哀しい時には何にあこがれるでしょうか。
少なくとも私の場合は、決して「幸せ」ではありません。
しかし、哀しさでもありません。
久しぶりに聴いた「グレープ ザ・ベスト」は、ただただ心を沈ませるだけでした。

なぜこんな歌を聴いていたのか。不思議でさえあります。
別れを予感していたのでしょうか。
そうかもしれないと思うと、心がさらに沈んできます。

■1862:「あなたといるだけで 幸せがある」(2012年10月7日)
節子
もう一度、歌の話を書きます。
湯河原から持ち帰ったもう一枚のCDは、荒木一郎の初期の作品のCDです。

私たちが一緒に暮らしはじめた時に、2人が一番気にいっていたのは、荒木一郎でした。
たしか京都の新京極のレコード屋さんで何気なく手にとって買ったLPです。
2人とも、それまで全く知らない歌手でした。
しかし、最初に出てくる「ギリシアの唄」が、2人ともすごく好きになりました。
いま聴いてみると、なんであんなに気にいったのだろうかと不思議ですが、当時はお気に入りでした。
いつかギリシアに行こうという思いがそれぞれに生まれていたと思います。
節子とギリシアに行ったのは、それから30年以上経ってからでしょうか。
節子もギリシアは気にいったようでした。

荒木一郎には「あなたといるだけで」という曲があります。
これまではあまり気にならなかったのですが、今回は思わず聴き直してしまいました。
その詞に惹かれたのです。

あなたといるだけで 幸せがある
 あなたのまなざしが わたしのそばに
 あなたがそっと 見つめている時
 わたしの心に 虹が輝く
 ふくらんだ太陽が 明日に消えても
 わたしは悲しくない 明日があるのなら
 あなたといるだけで 幸せがある
あなたの言葉に 夢を見るでしょう

まさにそうでした。
あなたといるだけで 幸せがある
まさにそうでした。
明日に意味を与えてくれた節子は、どこに行ってしまったのでしょうか。

娘たちと一緒にお墓参りに行きました。
お墓参りはいつも節子と一緒だったのに、最近は娘たちとしか行けません。
それがいつもとても奇妙な感じです。

■1863:小鳥が死んでいました(2012年10月9日)
節子
今朝、リビングのガラス戸の外に小鳥が死んでいました。
昨日、留守にしていた間にガラスにぶつかってしまったのでしょう。

わが家は高台にあり、リビングの大きなガラス戸の前方の空間が広がっているので、時々、鳥がぶつかるのです。
大きな鳥であれば、大丈夫ですが、小さな鳥が思い切りぶつかり、うちどころが悪いとこうなってしまいます。
これで2回目でしょうか。
すぐに気づけば、手当てもできますが、昨日は気づきませんでした。
とてもきれいなメジロでした。
庭のサザンカの樹の下に深く穴を掘って弔いました。
節子が好きだった丸い石を乗せ、一輪の花を添えました。

ちなみに、このメジロは節子ではないでしょうね、
節子は、なぜか「鳥(や花)になってちょいちょい戻ってくるから」と言っていたのを思い出しました。
そういえば、昨日留守にしたのは、節子のお墓参りでした。
先日の月命日に墓参りに行くのをさぼっていたので、催促に来たのでしょうか。
鳥がぶつかったところは、まさに節子の位牌壇のすぐ横なのです。
それにしても、鳥を犠牲にしてはいけません。
しかしガラス戸は空を自由に飛び舞う鳥には迷惑なものでしょう。
悪いことをしてしまいました。

メジロの墓標に手を合わせながら、ネアンデルタール人が死者に花を添えていた話を思い出しました。
花は、死者との交流に不思議な効力を発揮します。
花を通して、心が彼岸に通ずるのです。
いままで無意識に節子に花を供えていましたが、そのことにハッと気づきました。

■1864:暮らしはじえまらケンカをしていたようです(2012年10月9日)
節子と一緒に暮らし始めた時の「2人で自由に書き込んだ日記」が出てきました。
読み直してみると、我ながら気恥ずかしい。
それを公開するなどというのはもっと気恥ずかしい。
万一、娘がもし読んだら、それこそ気恥ずかしいどころではない。
迷うところですが、一部、書いてしまいます。
まあ読みたくもないでしょうが。

書き出しは、1967年1月22日になっていいます。
私たちは出雲大社の前で2人だけの結婚儀式だったのです。
つまりこの日が私たちの結婚記念日なのです。
ほんとは1月11日にしたかったのですが、私が休めなかったのです。
それで22日なのですが、どうせなら2月22日にすべきでしたね。

私の書いたところだけ書き出します。

かわいい指にダイヤのリングをはめた時、ぼくは約束した。
おまえをずっとずっと愛しつづけると。
そして、世界で一番幸せな女にすると。
そう出雲の神々に約束した。

「若気の至り」としか言い様がありません。
それはそれとして、そこから次に私が書いているのが2カ月後なのです。

まあ、世の中ってのは、いろいろだと思う。
この2か月間の変転に、つくづくと感じた。

この2か月の間に何があったのでしょうか。
節子なら覚えているかもしれませんが、私には全く何も思いつきません。
しかしまあ、あまりに唐突で常識的でなかったので、いろいろとあったのでしょう。
つづけての文章が、これまたひどいものです。

ハネムーンはたのしかった。
大社前でのリングのセレモニーが結婚式ってのも冴えていたと思うが、
ハネムーンの初日にカメラがこわれちゃうのも、やはり冴えていたと思う。
しかし、さらに、よくよく考えてみると、カメラは前々からこわれれいたんだから、なお冴えている。

わけのわからない文章ですが、これが当時の私だったのでしょう。
当時、シュールな生き方は、私の好みでした。
しかし、どこが冴えているのか、まったく理解できない、
節子も苦労したことでしょう。
その日記の続きに、節子がそれらしきこと、つまりちょっと苦労しただろうことが書かれています。

まあ、昔から私は、わけのわからないことを書いていたようです。
よくまあ、節子はついてきたものです。
よほどの変わり者としかいいようがない。

ちなみに、この「2人の日記」は、1年で終わっています。
最後の書き込みは節子でした。

1年がアッという間に経った。
この間、ケンカもよくした、よく笑った。よく泣いた。
しかし、この頃のケンカはなかなかキビシイ。
来年もまた、泣き笑いの1年が来ますように。

どうも私たちは、最初の年からきびしいケンカをしていたようです。
私には覚えがまったくないのですが。
人間の記憶など、いい加減なものですね。

■1865:まあるい石からの思い出(2012年10月10日)
節子は「まあるい石」が好きでした。
完全な球ではなく、なんとなく丸っこい石という意味です。
海岸に行くと時々拾っていました。
そのまあるい石が、わが家のところどころに置いてあります。
先日、メジロの墓標に使ったのは、その石です。

まあ、これはコレクションというほどのものではありませんが、コレクションというのも当人以外の人にとっては単なるごみでしかないのかもしれません。
前に書いたように、私はフクロウの置物を集めていて、それこそわが家のいろんなところに置きたかったのですが、家族の評判はよくありませんでした。
節子でさえ、あまり賛成はしませんでした。
私が死んでしまったら、このフクロウたちは処分されるのでしょうか。
中にはベネチアングラスの面白いのもあるのですが、まあ関心のない人にとっては邪魔なだけでしょうね。
コレクションと言うのは、多くの場合、まあそんなものです。

幸いに私たちはあまり物に執着しない夫婦でした。
思いついたように集めだしますが、すぐに止めてしまう傾向が2人ともありました。
節子は一時、洋ナシとリンゴの置物を集めていましたが、これは実に短かったです。
多分わが家にもせいぜい20くらいしか残っていないでしょう。
神社仏閣のご朱印を集めていたようですが、これもさほどマジメではなく、集めている割にはいつもご朱印帳を忘れていってました。
先日もある本を開いたら、京都三千院のご朱印がはさまれたままでした。
まあ、こんなふうに、節子はいい加減だったのです。
そういう点では、私とどっこいどっこいだったでしょう。
もしかしたら私が節子に影響を与えてしまったのかもしれませんが。

さて、まあるい石です。
よく拾いに行ったのは、湯河原の千歳川河口です。
何のために拾っているのか知らなかったのですが、ある時に浴室にスーパーミニ石庭ができていました。
こういうのは、節子の得意芸のひとつでした。
もうその石庭は跡形もありませんが。

わが家の庭にも、そうしたちょっとした仕掛けがもっとあってもいいのですが、節子はその余裕もないまま、病気になり、逝ってしまいました。

節子は、私にとって、実に楽しい人だったのです。
その節子がいなくなり、楽しいインテリアの登場も少なくなりました。
まあるい石は、ただのまあるい石に戻ってしまっているのです。

■1866:鳥の頭の酉年生まれ(2012年10月11日)
節子は何年生まれだったっけ、と娘に聞きました。
私はそういうのはすぐ忘れてしまうのです。
記憶しようという意志がほとんどないのです。
いや思い出そうという意志も弱いのです。
知っている人に訊けばいいことは覚える必要がないというのが、私の生き方です。
困ったものですが、これは直りません。
そのくせ、どうでもいいことは覚えている。
まあ人間はみんなそうでしょうが、私の場合、ちょっと覚えている領域が普通とかなりずれているのです。
節子もそうでした。

娘が「鳥の頭の節子は酉年でしょう」と教えてくれました。
そういえば、この会話はこれまでも何回か繰り返されています。

「鳥の頭」とは、物忘れの激しいこと、あるいは、記憶力の弱いことのたとえです。
「三歩で 忘れる鳥頭」と言うそうです。
私は実はあまり知らなかったのですが、節子がそういっていたのでしょう。
たしかに節子は「鳥の頭」の要素がありました。
しかし、かく言う私も、実は「鳥の頭」かもしれません。
ともかくよく忘れるのです。
それは必ずしも歳のせいではないのです。
子どもの頃からです。
学業はそれなりに良かったので、誰もそれを信じませんが、実に記憶力が悪いのです。
だから節子とはうまくいったのかもしれません。

記憶力が悪いので、お互いに相手に「○○を覚えておいてね」と言い合っていたのですが、それができなくなってしまっています。
娘に代役を頼もうと、「○○を覚えておいてね」と頼んでも、そんなことは自分で覚えておいてね、と言われておしまいです。
もしかしたら、娘も「鳥の頭」かもしれませんね。
しかし、それにしても母親を「鳥の頭の節子」などというのはなんと言う親不孝者でしょうか。
困ったものだ。

ちなみに私は、巳年生まれです。
へびの頭も鳥の頭とそう違わないのです。
せめてネズミかサルの頭くらいは欲しいような気もしますが、しかし「三歩で 忘れる鳥頭」というのは、実にいいのです。
なによりも生きやすい。
しかし、節子がいなくなったことだけは、5年も経つのに忘れられません。
困ったものです。

■1867:今年も手づくり散歩市です(2012年10月13日)
今日は地元我孫子市で手づくり散歩市が開かれています。
娘のタイル工房が会場のひとつになっているので、そこに来た人に珈琲サービスをしようと、これに合わせてわが家の庭でカフェを開店しています。
まあお客さんは少ないのですが、私はそこに終日ボヤっと座っているわけです。

節子はこういうのが大好きでした。
そもそもこのサービスを始めたのは節子でしたから、始めの頃は節子が頑張ってパウンドケーキなどを焼いていました。
最初の頃は、ほとんどは家族で食べていましたが。

今日もちょうどお昼時に来たお客様がいました。
今年はケーキを用意していなかったので(ビスコッティは用意していました)、困ったなと思っていたら、ユカがアップルパイを焼いて持ってきてくれました。
節子の文化が根づいているようで、とてもうれしかったです。

節子がいたら、さぞかし頑張っていろんな人を呼び込むことでしょうね。
そしてわが家にとっても楽しいイベントになるはずですが、私だけではちょっと無理がありそうです。
明日はユカもいないので、どうしようかと思っています。

■1868:葉牡丹(2012年10月13日)
昨日、挽歌を書かなかったので、今日はもう一つ書きます。
手づくり散歩市のカフェに、花かご会の山田さんが来てくれました。
娘たちも交えて、花かご会の話をいろいろとお聞きしました。
前にも書きましたが、花かご会も今年で10周年だそうです。

メンバーにもいろいろと変化があったようです。
10年も経てば、当然でしょうが。
花かご会は、我孫子駅南口の花壇の整備をするために生まれたグループです。
とても良い人たちの集まりで、節子は最後の最後まで花かご会のことを話していました。
節子にとっては、とても思いの深いグループなのです。

山田さんから今年の冬は葉牡丹が植えられるかもしれないとお聞きしました。
節子がいた事は、時々、冬は葉牡丹だったこともありましたが、そういえば最近はあまり見かけませんでした。
山田さんが、佐藤さんは葉牡丹が好きでしたよね、と言いましたが、まさにそうなのです。
節子はなぜか葉牡丹が好きでした。
わが家では、節子以外は葉牡丹が好きではありませんでした、
私は花壇に植えるべき花ではないのではないかとさえ思っています。
それで、節子がいなくなってから、わが家では次第に葉牡丹は姿を消して、最近は見かけません。
どうも花かご会も同じだったようです。
幸いにも節子と同じように、葉牡丹が好きなメンバーもいるようで、時々、葉牡丹にしようという提案もあるそうですが、毎回却下されていたようです。
ところが今年は、その人たちがいつも却下されると嘆いたようで、今年は久々に復活するらしいです。
節子、良かったですね。
今年の駅前花壇に葉牡丹が復活するのですから。

しかし、なんで節子は葉牡丹が好きなのでしょうか。
私はどうも好きになれません。
こればっかしは、節子の希望には応じかねますね。
わが家には今年の冬も葉牡丹は復活しません。

■1869:幸せを振りまいてくれている人(2012年10月15日)
節子
昨日も手づくり散歩市のカフェを開きました。
雨が降りそうな天気で、しかも午後になったら急に寒くなったのですが、それでもめずらしい人が何人か来てくれました。
私と同世代の人も何人かいました。
最初に来てくれたのが節子もよく知っている安藤さんです。
会社に一緒に入社した同期生ですが、昨年、フランスのモンサンミシェルを目前にダウンしてしまい、以来、長旅は出来なくなってしまったようです。
今年になって、同期生は4人亡くなっています。
そういえば、昨日来てくださった足代さんも、謡の先生が練習日の翌日に倒れてしまい、ショックだったと話されていました。
まあそんな話が、この年になると多いのです。

しかし、今日はそんな話を吹っ飛ばすような、明るく元気なご夫妻がやってきてくれました。
お近くの住む山内ご夫妻です。
私が山内さんと知り合ったのは昨年ですが、もう80歳を超えられているそうですが、とてもお元気そうです。
いまも農業協同組合新聞の論説委員としてご活躍ですが、ともかくお元気そうです。
ご一緒にこられた奥様は、さらに元気で、ご自宅で料理教室を週3回も開かれている上に、さまざまな活動をされているようです。
笑顔が絶えないお2人を見ていると、どうしても節子を思い出してしまいます。
こういう老夫婦になりたかったです。
まあ今となっては、叶わぬ夢ですが、山内さんたちを見ていると、それだけでなんだか幸せな気分になってきます。
それでついつい写真を撮らせてくださいと頼んでしまいました。
その写真をここに載せたかったのですが、考えてみると許可をもらっていませんでした。
しかし、実に心があたたまるお2人の笑顔です。
掲載できないのが残念です。

昨日、カフェに来られなかった人に、山内さんが来たよと伝えたら、
「私も、山内さんって素敵な方だなあって、いつも感じています」とメールが来ました。
周りに幸せを振りまいてくれている人って、いるものなのです。
節子はいなくなってしまいましたが、私一人でもそんな存在になれるといいなと思っています。
節子がいたら間違いなくなれたと思いますが、一人だとやはりちょっと不安があります。
少し努力しないといけないかもしれません。

■1870:「生を看取る」(2012年10月15日)
節子
前に少しだけ言及した、小畑さんの「地域・施設で死を看取るとき」の本を読み終えました。
私も取材を受けて、私たちのことが材料になった「物語」も出てきます。
先日送ってもらったものの、実はなかなか読もうという気が起きませんでした。
それで1週間以上、放置していたのですが、昨日読み出したら、とても素直に読み進められ、結局、読み終えてしまいました。
本の感想はホームページに掲載しました。

この本の企画段階で、小畑さんから協力を頼まれましたが、「死を看取る」という言葉にどうしても抵抗があって、自分では書けませんでした。
それで最初はお断りしましたが、それに対して、小畑さんから次のようなメールをいただきました。

いろいろご負担おかけして申し訳ありませんでした。
奥様への挽歌も拝見し、
ご逝去の間際まで、奥様がいかに生きるかに心を砕かれたこと、
そして、今でも、佐藤さんの中で奥様が生き続けておられることがよくわかりまし
た。

小畑さんは諦めなかったのです。
そして結局、私は取材を受けることにしたのです。
もしかしたら、小畑さんは私の心を開いてやろうと思っていたのかもしれません。

本の紹介文にも書きましたが、この本を読みながら、この本は「死を看取る」というよりも、「生を看取る」がテーマではないかと思いました。
つまり、「死を看取る」とは「生を看取る」ことなのです。
小畑さん、あるいは研究者や支援者は「死を看取る」発想かもしれませんが、当事者は「生を看取る」発想なのです。
私は、節子に対して、「死を看取る」などと考えたことは一度たりともありません。
しかし「生を看取る」という発想は、あったような気がします。

小畑さんはまた、老いの否定する最近の社会風潮に懸念を表しています。
とても共感できます。
私の世代になると老いを実感できますし、死も身近で日常的に起こります。
しかし老いは決して悪いことではなく、死もまた自然に受け容れられる日常現象です。
わざわざ「看取る」などと構えなくても、それらしい関係は日常的に存在しています。
だからこそ、さりげなく「生を看取る」、言い方を換えれば、「共に生を重ねる」ことが大事になってきます。
しかし、それは体験者であればこその気づきであり、思いです。
ちなみに、本書の副題は「いのちと死に向き合う支援」となっています。
これも私は単に「いのちに向き合う支援」でいいと思いますが、死を体験したことのない人には、死はとても重いのでしょう。
しかし、死は体験してみれば、実体のない概念でしかありません。
老いも死も、体験しないと理解できない概念です。
ちなみに、私はまだ生きていますが、臨死体験ではなく、死そのものを体験したと実感しています。

■1871:畑に草抜きに行きましょうか(2012年10月16日)
節子
秋晴れの良い天気です。
今日は湯島のオフィスに出かける予定だったのですが、予定を変えてもらい、休むことにしました。
節子がいたら、紅葉狩りに行こうということになるのですが、それもできません。
節子がいない紅葉は、ただたださびしいだけでしょうから。
それで、最近やっていなかった畑仕事をしようと思います。
せっかくきれいになった家庭農園も、しばらく手を抜いていたら、また草が一面に茂ってしまいました。
自然のいのちの強さは、本当に素晴らしい。
人のいのちも、本当はそうなのでしょう。
文化や文明が、いのちを弱いものにしてしまったのでしょう。
だから悪いというわけでは、もちろんありませんが。

最近は自然と遊ぶことが少なくなりました。
わが家の狭い庭にも、たくさんの自然はあります。
しかし自然をきちんと世話していかないと、自然は人との交流を拒絶してきます。
その意味では、自然も人も同じかもしれません。
節子が元気だった頃は、私の守備範囲は池の周辺だけでした。
節子は、池は嫌いでした。
庭に穴を掘るのが好きではなく、転居前の家では、私のお気に入りの池を埋めてしまったほどです。
当時、私の両親の病気など、いろいろと凶事が重なり、節子は池のせいだと思ったのです。
だから転居後は、池を造るはずではなかったのですが、私の還暦祝いに家族で池を造ろうということになり、節子も一緒に造った池なのです。
その池が節子を奪ったのではないと思ったこともあります。
人は、時に思わぬ想像力を働かせるものです。

その池は、いまは草薮に隠れそうなほどになっています。
節子がいた頃は水が流れたりしていましたが、いまはその仕掛けも壊れてしまっています。
ですから荒れ放題なのですが、実は私はそれがまた好きなのです。
しかし、荒れた池には付き合いにくさがあります。
語りかけようがないのです。
数年前には、大きなガマ蛙が池の中の土管の中にいました。
その時はさすがに驚き、ガマ蛙をつかまえて近くの手賀沼にまで放しに行きました。
節子がいなくなってからは、それもさぼっています。
最近はどんな生き物が棲んでいるでしょうか。

池はともかく、庭は節子の世界でした。
節子がいなくなってしまった庭は、年々、荒れ果て、花木は少なくなってしまっています。
表情が少なくなり、人を受け容れるよりも、拒否しているような気もします。
節子が戻ってきたら、さぞかし嘆くことでしょう。

しかし、今日は庭ではなく、畑の草取りにでかけましょう。
紅葉狩りから草取りへと、私の生活も変わってしまったものです。

■1872:母の腕のなかで息をひきとりました(2012年10月17日)
節子
実はずっと約束を果たせなかったことを悔いていることがあります。
思い出しただけで、涙が出てきてしまうのですが、思い切って書くことにします。
その約束とは、どちらが先でも、最後は相手の胸に抱かれていよう、ということです。

お名前を出して怒られるかもしれませんが、知人からメールが来ました。

父が95歳で他界しました。
最後は、病院に入院することもなく、自宅で、母の腕のなかで息をひきとりました。

「父」というのは小宮山量平さんです。
私はお会いしたことはないのですが、お会いしたかった方です。
亡くなった後、NHKの「こころの時代」で、前に放映された小宮山量平さんの番組を再放送されていましたが、改めてそれを観て、お会いしなかったことをとても残念に思いました。
ご存知の方もいると思いますが、編集者として作家として最後の最後までご自分をしっかりと生きた方です。
90歳を過ぎてから長編小説を書き出したというのが、私が最初に興味を持った理由です。
灰谷健次郎さんを世に出した人としても有名です。

数年前に知り合った方が、小宮山さんの娘さんでした。
彼女から小宮山量平さんのことをお聞きして、これはとんでもない人だと思い、少し調べてみたのです。世の中には、すごい人もいるものです。
その小宮山量平さんが今年の4月に亡くなられたのです。
95歳だったそうです。
そして、最後は妻の腕の中だったというのです。
ネットで知ったのですが、最後の言葉は、「ありがとう、ありがとう。おもしろかったね」だったそうです。
私もそう言いたかった言葉です。

小宮山量平さんは、葬儀はするな、戒名もいらないという遺言を書いていたそうです。
もちろん訃報が新聞などに出てしまったために、そうもいかず、大勢の方がお別れに来てくれたそうですが。

小宮山量平さんももちろんですが、奥様も幸せだったことでしょう。
私は約束を守らずに、節子はベッドの中で、家族みんなに手を握られながら、最後を迎えました。
それが良かったかどうかはわかりません。
ただその時は、約束のことなど思い出しようもありませんでした。
節子が逝ってしまってからの数時間、いや数日は、夢遊病者のように、ただただ流されていたのです。

それにしてもなぜ抱いてやらなかったのか。
悔やまれて仕方がありません。
だから涙が出てしまうのです。

■1873:和室離れへの挑戦(2012年10月18日)
節子
急に寒くなりました。
コタツが欲しいほどです。
節子がいたら、コタツを出してもらっていたような気がします。
しかし、今年はコタツなしでがんばってみようと思います。
というのは、コタツは和室に立てるわけですが、和室でコタツに入ってしまうと、もう節子の世界に引き込まれてしまうからです。
和室にはまだ、節子の記憶が満ち満ちています。
別にものがあるわけではありません。
名残があるのです。

たとえば縁側の障子の上の天窓のガラスに枯葉が貼り付けてあります。
これは節子が貼ったものです。
和室に寝ていた節子の往診に来てくれた看護士さんがとても気に入ったようで、医師の先生に、指差して注意を喚起していたのを今でも思い出します。
そういうちょっとした工夫が、節子の好みだったのです。
私の好みでもありました。

和室の床の間には節子の書をかかっています。
本来は季節ごとに変えるのですが、節子がいなくなってからは、誰も替えようとしません。
かかっているのは「一日の旅おもしろや萩の原」。
ちょうど今の季節には合っています。

その書の下には、節子の遺影写真がそのまま残っています。
もっとおしゃれな額に入れ替えようと時々思うのですが、なぜかまだその気になれません。
人の気持ちはなかなか思うようにはいきません。
たとえ自分であっても、です。

節子はカレンダーが好きな人でした。
すべての部屋にカレンダーをかけていましたが、今もその名残で、和室にもカレンダーがかかっています。
しかしだれもめくらないので、いつも数か月前のカレンダーになっています。
来年はカレンダーもやめましょう。
節子がいなくなってから、カレンダーは家の中からかなりなくなってしまいました。
私にはもうカレンダーはいらないのです。

和室の縁側のまん前が池です。
本来は今頃、縁側で池を見ながら何もない老後をすごしているのが私の理想でした。
その夢は完全に消え果てました。

和室離れができるかどうか、いささかの不安はあります。

■1874:荷物が重くてふらふらです(2012年10月19日)
昨日とは打って変わっての穏やかな日和です。
今日も湯島に来ています。

最近、次から次へと「気の重くなること」が連発しています。
お祓いをしたいほどです。
それでなくとも、最近はいささか気弱になっているのですが、かなり心身にこたえます。
一番の辛さは、その気持ちを吐き出すところがないことです。
まあこのブログを書くことぐらいが、最近の気分転換の場でしょうか。
そう思うと、いささか惨めな気分にもなります。

節子がいなくなってから、どこかで他者を拒絶するようなところがあります。
意識的にも行動的にもむしろ逆なのですが、時々、他者を拒絶している自分に気づくのです。
他者とのつながりを拒絶しながら、しかし他者とのつながりを広げ深めていく。
この「意識と無意識のずれ」は、自分ではどうしようもありません。
昔はこんなことはなかったように思いますが、ある意味でのアイデンティティ・クライシスです。

二重人格とか心の多重構造などの話には私も学ばせてもらってはいますが、自らの中にあるさまざまな自分を統合するのが、最近は難しくなってきました。
以前は、むしろそれを楽しんでいました。
いまは楽しむ余裕はなくなってきているのかもしれません。
あるいは、以前はそうした矛盾も「節子」という他者の存在で相対化され、統合されていたのかもしれません。
いまはそれがなくなりました。

長年、伴侶と支え合いながら生きてくると、一人になるとなかなかまっすぐに歩けません。
最近はどうも生きづらい毎日を生きています。
なかなか自立できません。
節子が心配したとおりになっているようです。
困ったものですが。

■1875:写真は忘れ去るための記録(2012年10月20日)
節子
美術評論家のジョン・バージャーの「見るということ」というエッセイ集を読んでいたら、スーザン・ソンタグの写真論に関するエッセイがありました。
ソンタグの写真論もバージャーの写真論もとても興味深いものがあります。
しかし、読んでいるうちに、机の前においてある節子の写真がとても気になりだしました。
節子がいた時といなくなってからとでは、私の写真との関係は一変しました。

昔は私も写真が大好きでした。
学生の頃は、自宅で現像までしていた時もあります。
どこにいくにも小さなカメラ(オリンパスペン)を携行し、撮っていました。
ですから家族の写真も、節子の写真もたくさんあります。

バージャーは、写真は忘れ去るための記録だと言います。
もう少しきちんとした文脈で引用しないといけませんが、まあ挽歌だから許してください。
最近の私には実にぴったり来る説明です。
バージャーはこう言うのです。

光景は一瞬の期待を永遠の現在に変える。記憶の必然性や魅力は失われる。記憶がなくなると、意味や判断の連続性もまた失われてしまう。カメラは記憶の重荷から私たちを解放するのである。

写真を撮影した時の「必然性や魅力」は、おそらく写真からは再現できないのです。
しかし、もしそこに写真を撮った時の人(たち)がいれば、その時の「現実」が再現されます。
つまり、忘れられた記憶を引き出すことができるのです。
言い換えれば、写真は撮影者と被写者とが一緒になって体験を再現するメディアです。
節子がいなくなってから、私は残された膨大なアルバムをほとんど見たことがありません。
その理由は明らかです。
一人で見ることによって、記憶が変質しかねないからです。

節子がいなくなってから、写真そのものを撮ることもなくなりました。
撮るとしても、人のいない風景や生物です。
そもそも以前は常に携行していたカメラを持ち歩かなくなりました。
なぜ写真を撮らなくなったのか。
答えは簡単です。
忘れ去るべき体験もなくなり、忘れ去る必要もなくなったからです。
節子がいなくなってからの時間は、内容のない時間になってしまっています。
私には、写真はいらなくなりました。

パソコンの前にある1枚の節子の写真は、私の心をなごませます。
しかしアルバムの膨大な写真は、私の心をなごませることはないでしょう。
たくさんのアルバムを見る気になる時が来るでしょうか。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
節子と過ごした時間は、思い出したくもあり、思い出したくもない。
自分ながらに、まだうまく整理できないでいます。

■1876:最後の1枚を燃やしてしまう勇気(2012年10月21日)
節子
今日も写真の話です。
私がもう10回以上見た映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズがあります。
その第2作目で、隠棲していた主人公のジェイソン・ボーンは愛する伴侶を殺害されます。
そしてまた「闘いの生活」へと戻っていくのですが、その時に愛する人との思い出の品々を燃やします。写真も、です。
しかし1枚だけ燃やさずに残すのです。
ところが、その1枚の写真も最後に燃やしてしまいます。

まあなんでもないシーンなのですが、私は最初観た時からこの最後のシーンが気になって仕方ありません。
なぜ写真を残し、なぜ燃やしたのか。
この映画の監督は、ディテールのとてもこだわっています。
ですから必ず深い意味があるのです。
いくらでも意味は見つけられますが、私の関心は、自分ならどうするか、です。
最後の1枚を燃やしてしまう勇気があるかどうか。

いまはまだ、最初の1枚も燃やせないでいます。
もちろん写真だけではありません。
私にとっては大きな意味を持っていても、私以外の人、たとえ娘たちであろうと、何の意味もない節子の遺品がまだたくさんあります。
節子の引き出しや書類棚などは、まだ5年前のままです。
再発を知ってしばらくして、節子は身辺整理をしたいといいました。
私は、それだけはやめてほしいと頼みました。
いまから思えば、間違った判断だったかもしれません。
節子は遺影の写真も選びたいといいました。
それも止めてもらいましたが、節子はいつの間にか何枚かの写真を選んでいました。
それもとても後悔しています。
もっと一緒になって、探せばよかった。そんな気もします。

節子が選んだ写真は、必ずしも私の好みではありません。
でもいまは、その写真が、「1枚の写真」になりかねません。
それは節子一人の写真です。
葬儀の写真に使われたのですが、いま考えると、私と一緒にとった写真にすべきでした。
葬儀の遺影だから本人だけの写真でなければいけないと思い込みがちですが、私と2人の写真を使うべきでした。
節子の葬儀は、私の葬儀でもあったのですから。
しかし、それに気づいたのはつい最近です。
私の葬儀には、節子と一緒の写真を使ってもらおうと思います。

ところで、私はまだしばらくは節子の写真を燃やせないような気がします。
その自信がまだないのです。
節子のすべてを心身に取り込んだ自信が。

■1877:「私だけの神」(2012年10月23日)
節子
毎日挽歌を書くことが守れないでいます。
節子を見送ってから3年間は、少なくともこんなことはなかったと思います。
それが最近は、ちょっとばたばたしてしまうと挽歌を書けずに、まあ今日はいいかと寝てしまうわけです。
まあ「気持ち的には無理をしない」という私の信条を、節子はよく知っていますから、節子はなんとも思わないでしょうが、私的にはちょっとは気になっています。

時間があるとかないとかは、ほとんど関係はありません。
時間がない時ほど、節子に語りかけたくなります。
時間がある時には、逆になんとなく節子と一緒にいる気がして、挽歌はさぼってしまうのです。
節子は実に不思議な存在です。

先日、エティ・ヒレスムのことを書きました。
エティには、彼女だけの神様がいました。
それをベックは「私だけの神」と呼びました。
絶望的な状況にあってもなお、エティが元気だったのは、事業武運小美玉市神様がいたからです。
最近、ソローの市民的不服従を読み直しました。
そこに底流している考えも同じように感じました。
自らをしっかり生き抜くには、自分の神様が必要なのかもしれません。
最近そのことを強く実感するようになりました。
節子との対話は、私のひとつの拠り所になっているのかもしれません。

今日は、あとできちんとした挽歌を書こうと思います。

■1878:年寄りの冷や水(2012年10月23日)
節子
節子がいなくなってから、つながりができた人も少なくありませんが、その一人の神崎さんから電話がありました。
先日、相談があったことの結果報告です。
相談した以上、結果報告をしておかないと思って、と、まあ私には全く興味のない報告をしてくれました。

神崎さんはとても律儀なのです。
というのも、神崎さんは長年、任侠の世界にいた人なのです。
神崎さんとの出会いも、まんざら節子と無関係でもないのですが、まあそれはそれとして、節子がいなくなってから出会った人の一人です。
裏表がない直情径行の人であり、素直に付き合える人です。
神崎さんも、私には多分心を開いてくれています。
どこか、実に共通しているところがあるのです。
まあ一言で言えば、お互いに「バカ」なのかもしれません。

神崎さんは、自分の報告が終わった後、「いまは何をやってんや」と訊いてきました。
最近の私の状況の一部を少し話しました。
そしてちょっと疲れているんだと話したら、「年寄りの冷や水」になるぞと言われてしまいました。
その上、「いい歳をして娘たちに心配をかけるな」と諭されてしまいました。
神崎さんは、わが家にも2回ほど来ていて、娘たちのことも知っているのです。
「いい歳、いい歳とうるさいね」と言うと、わしくらいしか本音で佐藤さんに注意してくれる人はいないだろう、と言われてしまいました。
まあ、一応、神崎さんには、「そんなことはない。みんなから言われているよ」と答えたのですが、考えてみると、たしかに「いい歳をして」と、私をたしなめた人はいません。
むしろ「高齢なのにがんばっている」と言われて、ちょっといい気になってしまっているのかもしれません
そもそも自分でも「いい歳」などと思ってはいないのです。
実に困ったものです。

もし節子がいたら、最近の生き方は、「いい歳をして」となだめられかもしれません。
いろんなことに取り組みすぎですね。
それに最近はとんでもない重荷まで背負ってしまい、心やすまることもありません。
疲れやすくなっているのは、「いい歳」の自覚がなかったからかもしれません。
まあたまには神崎さんのアドバイスも聞かなければいけません。
そして、少し生活を見直そうかとも思います。
神崎さんは、毎日、お気に入りの喫茶店で珈琲とケーキを堪能しているのです。
それくらいの余裕を持たねばいけません。
また一度、神崎さんに珈琲をご馳走になりに行きましょう。
そして、「神崎さんもいい歳をしてまだそんなことやってるの」とバカにしてやらないといけません。

それにしても、まさか節子亡き後に、神崎さんのような人から注意されるとは思ってもいませんでした。
いやはや実に困ったものです。

■1879:魚沼の新米(2012年10月24日)
節子
毎年、この季節になるといろんな人が新米を送ってきてくれます。
感謝しなければいけません。
今日は新潟の金田さんから魚沼の新米が届きました。
早速、電話をしたら、まずは節子さんに供えてくださいといわれました。
ますますうれしい話です。
明日にでも供えさせてもらいましょう。

金田さんは節子のことをよく知ってくれています。
会う度に節子の名前が出ます。
金田さんは、私よりも年長で、しかもそう体調が良いわけではありません。
しかし東京にもよく出かけてきますし、精力的にさまざまな活動に取り組んでいます。
節子がいたら、たぶん私もそうしているだろうなと思うことがあります。
伴侶の支えの有無が、行動力に大きく影響するような気がするのです。

節子が元気な時には、いつでも共有の時間が取れると思い、それを疎かにしていたことは否定できません。
いなくなって、初めてそれに気づいても、もう遅いのです。
おそらく多くの人が、こうした間違いをおかしていることでしょう。
教えてやりたい気がしますが、たぶんこれは体験してみないとわからないのです。

金田さんも、この数年、奥様の体調があまりよくないようです。
以前はバレーボールをやったりしていた、とても元気な方でしたが、金田さんのお話ではあまりご無理はできないようです。
それで、金田さんに会う度に、活動もほどほどにして、できるだけ在宅するのがいいとお話しするのですが、相変わらずいろんな活動をされていて、その報告やら相談の電話があるのです。
人の性格は、なかなかなおらないのがよくわかります。

節子と一緒に、新潟に伺えなかったのが、とても残念です。
伴侶がいなくなると、行動が広がる人と狭まる人がいますが、私は間違いなく後者です。
節子の霊が肩に覆いかぶさったのではないかと思うほど、最近はフットワークが悪くなってしまっています。
今月も大阪に用事があるのですが、どんどん日程を遅らせてしまっています。
実に困ったものです。

■1880:真夜中に目覚めさせるのは節子かもしれません(2012年10月25日)
節子
最近寝不足が続いています。
わが家の老犬チビ太のせいもあるのですが、それだけではありません。
なぜか真夜中に目が覚めてしまうのです。
目が覚めると、いろんなことを考え出してしまいます。
そうすると今抱えているいろんな心配事が襲ってきて、眠られなくなってしまいます。
そこでついつい枕もとのリモコンを使って、テレビをかけてしまうのです。
といっても、深夜ですので、見るべき番組があるわけでもありません。
無意味にテレビをかけながら、その音声を聞いていると何となく落ち着くのです。
しかしそれで眠れるわけでもありません。
そんなわけで、寝不足が続いています。

節子のことを思い出すこともあります。
今は涙は出ませんが、節子の名前を呼びたくなることはあります。

節子は、隣のベッドで私が本を読んでいるのが好きでした。
私が隣で本を読んでいると安心して眠れるといっていました。
病気になってからの話です。
安心して眠っている節子の隣で、本を読むのは、私も好きでした。

節子が病気になってから、私たちは一緒にいる時間が増えました。
再発してからは、いつも一緒でした。
いまから思えば、悔いが残りますが、その一緒の時間がずっと続くとなぜか思っていました。
現実をしっかりと見ることを、無意識に避けていたのでしょう。
その時間が長く続くはずがないことは、節子は知っていたかもしれません。
しかし、そんな会話は私が好まないことも節子は知っていました。
本を読んでいる私の横で、節子はもしかしたら、起きていたのかもしれません。
いまとなっては、もう確かめようもありません。

節子がいなくなってから、私たちの寝室はいつも扉が開け放たれています。
閉めたことはありません。
最初は、節子が戻ってくるかもしれないと思っていたからです。
遮光カーテンも少しだけ開けていますので、寝室はかなり明るいのです。
節子は少し明るい寝室が好きでした。

ところで、最近、私の見る夢が変わったような気がします。
おだやかな夢ばかりです。
節子が出てくるわけではありませんが、前にも書いたように、どこかに節子を感じさせる夢なのです。
節子が寝ている私を守ってくれているのかもしれません。
それに気づくように、時々、真夜中に私を目覚めさせるのかもしれません。
でも寝不足にさせてほしくはありません。
節子
今夜は起こさないでくれますか。
かなり寝不足がたまっていますので。

■1881:オープンサロンまでの30分(2012年10月26日)
節子
今日はオープンサロンです。
節子と一緒に始めたオープンサロンも、節子がいなくなってからは、だんだんとさびしくなってきました。
私があまりやる気がないという雰囲気が伝わっているのかもしれません。
それに声も掛けなくなったので、知っている人も少なくなったかもしれません。

節子がいなくなった後、いろんな人からぜひまた再開してといわれていたのに、そういう人に限って、なかなか顔を出しません。
もちろん悪気があるわけではなく、以前参加してくれていた若い人はますます忙しくなり、若くない人は会社を辞めたりしている人も多いからです。
節子がいた頃は、時に20人を超える参加者で部屋に入りきれなかったりしましたし、テレビの取材まであったこともありました。
しかし、いまは常連メンバー中心になってしまい、毎回、同じような話が繰り返されているような気もします。
そうなった一番の理由は、私の意識なのでしょう。
節子と一緒に始めたサロンなので、一人でホスト役をつとめるのは何かさびしいのです。
なかなか元気が出てこない。

節子とやっていた時は、みんなが集まりだす30分前には、節子が用意を終えていました。
当時は軽食や飲み物も用意されていました。
節子はいつも出社途中で買い物をし、大変そうでした。
早く準備ができ、私も時間がある時には、節子と2人で窓の外の夕日を見ながら、今日は誰が来るだろうかなどとよく話していました。
その時間は、いつもとても不思議な時間でした。
東京の夕闇は、そのときもとても寂しく哀しかったのですが、節子がいなくなってからはさらに寂しく哀しく感じます。

今日は、1時間も前から湯島に一人でいます。
用事が早く終わりすぎてしまったのですが、昔のように音楽を聴きながら、昔とは違って一人で珈琲を飲んでいます。
音楽は節子がいたときと同じ曲です。
おかしな言い方ですが、湯島のオフィスでは仕事する気にはなれないのです。

やることもないので、あの頃と何が変わっただろうかと部屋を見回しました、
節子が好きだったリソグラフの額がなくなっているほかは、何も変わっていません。
額は地震で落ちてしまい、ガラスが割れてしまったの、外しているのです。
節子がいたら、ガラスを入れ替えてもらうお願いをするのですが、怠惰な私は、まださぼっているのです。
節子が懸念したように、私には自活力が欠けているのです。

もう一つ違いに気づきました。
大きな珈琲メーカーが机の上にありました。
以前は来客に合わせて、節子が珈琲を淹れてくれましたが、いまは10人用の珈琲メーカーで一挙に淹れてしまうのです。
そういえば、日本茶は面倒なので点てなくなってしまいました。
だんだんこの湯島の空間も、味気なくなってきているのかもしれません。
それがオープンサロンの参加者が少なくなってきた理由かもしれません。

もうじき、最初の参加者が来る頃です。
さて味気ない10人用の珈琲メーカーで珈琲を淹れましょう。
誰が来てくれるでしょうか。
最近、珈琲が余ってしまうのですが、今日は余らないといいのですが。

■1882:思いつきのままの生き方(2012年10月27日)
節子
最近、娘のユカから、私の思いつきのままの生き方を批判されています。
お父さんの思いつきに振り回されてお母さんは苦労しただろうなと言うのです。
まあ考えてみると、そんな気もします。
私の生き方は、かなり「思いつき」を大事にしているからです。

ユカからまた今日そう言われたのは、テレビで高尾山の紅葉がでてきたので、高尾山に行こうと誘ったからですが、外部からの情報にすぐ影響されてしまうのです。
食べ物もそうで、テレビでみるとつい娘に明日はこの食事にしてほしいと頼むわけです。
しかし、明日になるともうそれを忘れていますので、その頼みは無視してもらってもいいのですが、まじめな娘はそれを実現させてくれるのです。
ところがその時には、私の関心は次に移っていますので、さほど喜ばないというわけです。
実に困ったものなのです。
思い付きを、ついつい口に出してしまうことが問題なのですが、
しかし、それが私の性分だから仕方がありません。

節子は、しかし私のそうした性向を学んでいて、まあうまくかわしていましたから、そう苦労はしていなかったでしょう。
それに節子はそもそも忘れっぽかったので、私とはまあお似合いだったわけです。
しかし娘はたまったものではないでしょう。
親子と夫婦とでは、やはり対応は変わらざるを得ないですし。
最近はほどほどに扱われていますが、それでも私の「思いつき」の多さには辟易しているようです。
申し訳ないと、時々思いますが、まあ人の性格はそう簡単には直りません。

節子には、何も考えずに話せましたが、娘にはそうもいきません。
今日は、もう一人の娘のジュンからも私の気楽な発言を注意されました。
いやはや困ったものです。
娘たちは、節子よりも数段しっかりしていますので、歯が立ちません。

■1883:節子は映画があまり好きではありませんでした(2012年10月28日)
先日、一緒に暮らしだした時の夫婦の日記らしきものを見つけて、読んだことを書きましたが、そのなかに2人で「プロフェッショナル」という映画を観たという記事がありました。
これは西部劇ですが、勧善懲悪型西部劇から、ちょっとややこしい西部劇への過渡期の作品ですので、私の好みでもありません。
もちろん節子の好みであるはずもなく、おそらく京都にでも行ったついでに、また思いつきで映画館に入ったのでしょう。

ところが、部屋を掃除していたら、なんとその映画のDVDが出てきました。
それで、これも何かの意味があるのだろうと、昨日、観てしまいました。
まあ何の意味も発見できませんでしたが。

私は学生時代、西部劇の映画が大好きでした。
それでおそらく節子はそれにつき合わされたのでしょうが、節子は人がばたばた死んでしまう西部劇や時代劇は好きではありませんでした。
したがって、まあ一緒にそういう映画を観たのは、結婚した直後だけだったでしょう。
節子は、その日記にただ1行、「プロフェッショナル」の映画を観たとしか書いていませんでしたので、感想も何もなかったのでしょう。
そもそも節子は映画そのものも好きではなかったような気がします。
考えてみると、一緒に映画に行った記憶があまりありません。

私は一時期、映画評論家になりたいと思ったほど、映画館通いしていた時期もあります。
趣味は違っていたのです。
節子は映画よりも、美術展やコンサートが好きでした。
そしてそれよりも、自然が好きでした。
おそらく節子が私の映画に付き合ったのは、結婚後、数年は別として、年に数回でしかありません。
私は一人で映画を観に行くのは好きではないので、どうしても観たい映画は節子を誘いましたが、私もだんだん映画館に行かなくなってしまいました。

ところで映画「プロフェッショナル」ですが、もっと節子向きの映画を誘えばよかったと反省しました。
そういえば、「大いなる西部」も節子と一緒に観た記憶がありますが、あの映画で節子はグレゴリー・ペックのファンになりました。
こうやって思い出していくと、結婚当初はかなり映画館にも通っていたような気もしてきました。
人の記憶は、ほんとうにいい加減です。

■1884:死者をうらやむ気持ち(2012年10月29日)
『苦海浄土 わが水俣病』を書いた石牟礼道子さんが、「3・11と私」(藤原書店)という本に、「花を奉る」という文章を書いています。
その冒頭の詩が心を打ちますが、その1節が、私にはどうしても節子と重なってしまいます。

花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり 
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う

津波を受けた人への思いを節子に重ねてしまう身勝手さには、とても気が引けるのですが、心にその情景が浮かんでしまうと、もう二度と消すことは出来ません。
花はやはり、彼岸への入り口なのです。
節子は、また花になってちょいちょい戻ってくると読みにくい字で書き残してくれました。

それはともかく、石牟礼さんが、それに続いて書いている文章も、考えさせられるものでした。

あの大震災の中、体一本残った多くの人びとが言われた。「自分が生きていて、死者たちに申し訳ない」と。極限的な災難に遭われて、なおひとのことに思いを致し、心配しておられる。尊い心根である。

たしかにそれは「尊い心根」でしょうが、その気持ちは実に自然な感情の発露なのではないかとも思います。
こんなことを言うと、実も蓋もないかもしれませんが、愛する人を見送った人は、たぶん誰もそう思うのです。
もしかしたら、「なんで私ではなかったのだろうか」というのは、本当は逝ってしまった人への羨望なのかもしれません。
それほど愛する人を見送ることは心辛く、心さびしいものなのです。
実は、心配しているのは、送った人ではなく、残された自分なのかもしれないのです。
こうした心境は、微妙で自分でも整理できないのですが、「死者に申し訳ない」と思う気持ちのどこかに、死者をうらやむ気持ちが隠されているようにも思います。

私は、時々、位牌の前で、節子はいいよね、とつい口に出してしまいます。
残された者の辛さと寂しさは、節子にはわかりようはないでしょう。
よく「死者の分まで生きなければ」と言う人がいますが、私にはまったく受け容れられない言葉です。
石牟礼さんのメッセージは、いつも心に沁みますが、なぜか今回は、この文章に引っかかってしまいました。
お恥ずかしいことながら、1週間以上、考えてしまっていました。

■1885:なぜ歳とともに時間は速く進むのか(2012年10月30日)
節子
大発見です。

昨夜、また夜中に目が覚めてしまい、いろんなことを考えているうちに、
歳をとると時間の進み方が速くなってしまうのはなぜだろうかという問題に行き着きました。
そこで大発見をしたのです。

歳をとると人生の残り時間は理論的には少なくなります。
ということは、人生における時間の意味が変わってくるということです。
たとえば、私の余生が10年だとし、娘の余生が40年だとします。
そうすると、今の時点で、1年は、私のすべての持ち時間の1/10ということになります。
ところが娘にとっては、1/40ということになります。
つまり、娘よりも私のほうの時間の進み方は4倍になるわけです。

たとえば浴槽の水を抜く様子を思い出してください。
浴槽の栓を抜いても最初はなかなか水量は減っていきませんが、水が少なくなると見る見るうちに水が減っていくように感じます。
似たようなことはいろいろとあります。

つまり、意識している自らの残りの人生時間(それが正しいとは限りません)が短くなればなるほど、時間意識が高まり、その進み方が速く感ずるということです。
そのため高齢になればなるほど、時間は速く進むように感ずるのです。
なかなか論理的で、おそらく数式で書けばもっと「もっともらしく」なるでしょう。

それがどうしたといわれそうですが、節子は私と違って、次の誕生日は迎えられないかもしれないと意識していました。
だとしたら、その時間の進み方は私たちとは全く違っていたということに気づいたのです。
しかし、その違いに、節子も私も気がついてはいなかった。
いえ、むしろ私たちは、時間の感覚については逆に捉えていました。
たとえば、節子と散歩に行くと、節子の歩く速度は私の1/10以下でした。
だから節子のほうが、時間がゆっくりと進んでいると思っていました。
しかしそれは反対だったのです。
10メートルの坂を登るのに節子は2分、私は10秒とします。
さてどちらの時間が速く進んでいるでしょうか。
いうまでもなく、節子です。
わかってもらえたでしょうか。

だから、それがどうしたというのだと、また言われそうですね。
しかし、なんだかとても大発見のような気がしませんか。
そう思いませんか。
思わない?
やはりこれは体験しないとわからないのかもしれません。

節子がいなくなってから、私の時間感覚はもうぐちゃぐちゃなのです。

■1886:米原での心の揺らぎ(2012年10月30日)
今日は仕事の関係で大阪に向かっています。
いま米原を発車したところです。5分ほどの停車でしたが、何やら心が穏やかではありません。
名古屋までずっと資料を読んだり、iPadを見たりしていて、車窓からの眺めをあまり見ていませんでしたが、岐阜羽島辺りから目が離せなくなりました。
そして米原駅。
しばらく停車ですが、上りのホームがよく見えます。
そして突然の胸騒ぎ。

この光景にはたくさんの見覚えがあるのです。
節子の実家は米原から北陸本線で少し行った高月です。
ですから私たちは毎年、数回はこの米原駅で乗り換えていました。
山のような思い出があります。
そのせいでしょうか。
ともかく心が穏やかではありません。

ここまで書いて、次の京都まで車窓からの風景にみとれていました。
とても懐かしく、とても哀しい気分でした。
米原から京都までの風景は、私が会社に入ってから4年ほどを過ごした場所であり、節子との暮らしを始めた場所でもあるのです。

節子がいなくなってからこんなにしっかりと景色を見たことはありません。
節子がいなくなってから、もう5年。
久しぶりに見た湖南の風景は大きく変わっていましたが、湖北や湖東の風景は以前と同じような気がします。

京都に着きました。
また心がゆらぎます。

■1887:濱崎さんと太田さんのおもてなし(2012年11月1日)
節子
昨日、京都の弘道館に立ち寄ってきました。
ここは江戸中期の儒者・皆川淇園が1806年に創立した学問所です。
長らく放置されていましたが、3年ほど前にそこにマンション計画が出てきたため、保存運動が起こりました。
その中心になったのが、節子も会ったことのある濱崎加奈子さんと太田達さんです。
そして私募債を発行して、なんとかマンション計画は阻止したのですが、資金的にも人的にも、大変な苦労をしているようです。
先日、濱崎さんが湯島に来てくれて、その後の経緯を話してくれました。

残念ながら私は淇園のことを知りませんでしたし、京都の文化にはなじみもなく、何をしていいかわからないのですが、何かしなければいけないと思ったのです。

節子がいなくなってから、私の中にひとつの新しいルールのようなものが生まれてきています。
意識的につくったルールではなく、自然と動く心の流れとで言ったほうがいいでしょう。
それは、節子のことを気にしてくださった人には、なにかをしたいという無意識な心の動きです。
心がそう動いたとしても何かが出来るわけではありません。
しかしいま振り返ってみると、そうした心の動きを感じます。

節子が病気で大変だった頃、濱崎さんから美味しそうな冷菓が届きました。
間違いなく太田さんがつくったものだと思いました。
太田さんは有識菓子御調進所「老松」のご主人でもあるのです。
さりげない、そうした気遣いは、深く心に残ります。
以来、実は太田さんにはお会いしていませんでしたが、忘れたことはありません。

昨日は、自分になにか出来ることはあるかを考えるために、濱崎さんにお願いして、弘道館を見せてもらいにいったのですが、庭などを見せてもらっていたら、太田さんが手づくりのお菓子をもって現れたのです。
思ってもいなかったことなので、少し慌ててしまいました。
濱崎さんが点ててくださったお茶と一緒に、弘道館の貴人用の茶室でいただきました。

太田さんとは何年振りでしょうか。
しかもゆっくりとお話しするのは初めてです。
しかし話し出してすぐに心が開けてくるのを感じました。
思いのほぼすべてが、とても共感できるのです。
話は途切れることなく、すっかり長居してしまいました。

お暇する時になって、初めてあの冷菓のことを思い出しまた。
そしてずっと気になっていたお礼の言葉を言うことができました。
そうしたら、太田さんから「文章を読ませてもらいました」と言われました。
どの文章だろうか、といささか冷や汗をかきました。
今は全く記憶がないのですが、もしかしたらお礼の手紙を書いていたのかもしれません。

弘道館の庭は、とても親しみが持て、心なごむ庭でした。
私は2時頃にお伺いしたのですが、門から玄関まで打ち水されていて、とてもすがすがしいおもてなしでした。
お茶の飲み方も知らない私でも感激したのですから、節子が一緒だったら、どんなに感激したことでしょう。
お土産にまた、太田さんのお菓子をいただきました。
節子に供えさせてもらいました。

さて私になにかできることはあるでしょうか。
節子
知恵と力をくれませんか。

■1888:フォワードな生き方(2012年11月2日)
節子
先日、大阪で自死遺族のネットワークを立ち上げたOさんとお会いしました。
3年前に東京で開催した自殺のない社会づくりネットワークの公開フォーラムに参加したのが契機になった関係で、そのネットワークにささやかに関わらせてもらっています。
最初はちょっと頼りなかったネットワークも順調に育ってきていますが、同時に、Oさんも会うごとにとても強くなってきているように思います。

そのOさんから、私が使っている「フォワード」という言葉が気になっていると指摘されました。
彼女の仲間でもあるSさんも、それが気になっているらしく、私に会ったら訊いておいてほしいといわれたそうです。
その気持ちはよくわかります。

フォワードとは、最初は自殺企図者や自殺未遂者を表わす言葉として考え出しました。
「自殺」という言葉を使いたくなかったので、呼び方を代えようと思い、自殺防止活動をしている人たちが「ゲートキーパー」と呼ばれていたことにつなげて、「フォワード」と命名しました。
そして、フォワードの人たちを中心にしたフォーラムを今春開催し、その後、毎月、湯島でフォワードカフェを開いています。
しかし、そうした活動を始めてから、意識がかなり変わりました。
いまはフォワードを、自殺に限らずに、「ちょっとつまづいてしまったけれど、それを乗り越えて、前に向かって進みたいと思っている人」と捉えています。
OさんやSさんは、その「前に向かって進みたいと思っている」という点に違和感をお持ちなのだろうと思います。
前になんて進めないし、進みたくない、という気持ちのあることを佐藤さんは知っていますか、と問われているのかもしれません。

言葉の問題は、実に難しい。
Oさんからは、毎回、言葉の指摘を受けます。
Oさんは子どもの頃、父親の自死を体験しているのです。
人は、自らの体験や境遇を踏まえて、言葉を理解します。
私もまた、節子を見送った後、言葉の意味が大きく変わったのを体験しています。

私自身も、前になんか進みたくないと今でも少し思っているところがあります。
節子を見送ってから、ある意味では私の時間は止まっていますから、そもそも前に進むという概念さえなくなっているのかもしれません。
しかし、そうはいっても、「フォワード」という言葉は気にいっています。
私の素直な気持ちで命名した言葉であり、決して観察的な他人事ではなく、私自身に重ねながら考え出した言葉だと、最近は思えるようになってきました。

お2人に、今春の「フォワードフォーラム」で話したことを改めて伝えました。
そこでお話したのは、次のような話です。

最後にフォワードについて一言補足しておきたいと思います。
フォワードという名前には「前に向かって進む」という思いを込めていますが、実際には前に進めない時もある。何が何でも前に進むというのではなく、立ち止まること、あるいは時には後向きになることがあってもいい。
でもそれも含めて、前に進んでいく人と一緒に、ゆっくりとゆっくりと自分も前に進んでいきたいと思います。そのためにも、安心して話し合える場、安心して自分をさらけだせる仲間がもっともっと増えていくといいなと思います。

その報告書を改めて読み直してみると、フォワードの意味はもっと広いような気がしてきます。
みんなと一緒に生きることを大切にしたいというような意味と言っていいでしょうか。
無理をして前に進もうという意味ではなく、前に進んでいる周りの人を認めよう、一人だけで自分の世界に引きこもりつづけるのはやめよう、というような意味でもあります。

OさんとSさんへのメールの最後に、次のような文章を付け加えました。

私はそもそも「素直に生きること」が「フォワードな生き方」だと思っているのです。
自分に素直になるといってもいいかもしれません。
素直になれば、とても生きやすい、そして気がついてみると前に少しだけ動き出している。
それが、妻を亡くしてからの、私の5年間でした。

節子がいなくなっても、私は素直に生きられるようになっているような気がします。

■1889:自分を癒す力は自分の中に備わっている(2012年11月3日)
節子
昨日書いたOさんから、「自死遺族のためのワークショップ2011年度作品集」をもらいました。
自死遺族の人たちを対象とした、コラージュづくりのワークショップの報告書です。
その「はじめに」にディレクターの林かずこさんが次のように書いています。

コラージュが教えてくれた一番衝撃的なこと。
それは、私たちの無意識(潜在意識)は自覚していようといまいと、「生きよう」としていることを、「それでも生きていく」ことを伝えてくれていました。
これには本当に驚きました。
顕在意識では「辛い」「苦しい」「死にたい」「消え去りたい」と思っているのに、無意識は「生きよう」「それでも生きていく」と伝えてくるのです。
現実はとても過酷なのに、無意識は常に生きる道、生きる方法を探っているかのようでした。
この無意識からのメッセージに人間の持ついのちの力、生きようとするパワーを目の当たりにしたようであり、自分の中にいる自分からのメッセージのようでもあり、光を見つけた思いでした。
安田先生の仰った「自分を癒す力は自分の中に備わっているんです」という言葉がとても印象的で、勇気を頂きました。

私の体験からも実感できる話です。
もっとも、「生きたい」という時の「生きる」意味は、人によって大きく違います。
しかし、「癒す力」があればこそ「生きる」ことが可能になるはずですから、「癒す力」と「生きる力」とはたぶん同じものであり、それが自分の中にあることもまた、間違いなく事実です。
ただおそらくそれは、意識の世界の話ではなく、無意識な世界の話のように思います。
だから、実際に体験した人の言葉であれば素直に聴けますが、もっともらしく諭されたりすると拒絶したくなります。

いずれにしろ、自らのことを一番知らないのは、自らの意識かもしれません。
そして、自らのことを一番知っているのは、たぶん自らのいのちです。
私は、できるだけ、みずからの「いのち」に素直に生きようとしています。
そのため時に間違いを犯しますし、身近な人に迷惑をかけることもある。
しかし、にもかかわらず、笑いは絶えません。
涙が出てきても、少しすれば、また笑えます。

私のフォワードな生き方は、いのちへの素直さのおかげだろうと思っています。

■1890:一本のお線香(2012年11月4日)
節子
今日、お墓参りにいったら、節子の書道の先生だった東さんに会いました。
東さんもご主人をかなり前に亡くされていて、そのお墓が節子のお墓のすぐ近くにあるのです。
東さんも、今でも毎月2回、お墓参りに行かれています。
そして、ご主人のお墓をお参りした後、必ず節子のお墓にお線香を一本あげていってくれるのです。
もう4年以上、それが続いています。
いつもは朝早いのだそうですが、今日はとてもあたたかだったので、お昼過ぎに散歩をかねてお墓参りに来たのだそうです。
お墓でお会いするのは初めてでした。
とてもお元気そうでした。

節子が東さんのところに書道を習いに行きだしたのは、いつからだったでしょうか。
書道を習うというよりも、ともかくいつも楽しそうでした。
4人ほどの小さな仲間だったようですが、みんなとても楽しい人で、病気が再発してからも、調子の良い時にはでかけていました。
いつもお菓子を持ち寄っていたようですが、病気になってからはあんまり食べられないとお土産に持ち帰っていました。
節子は、いろいろな人に支えられていたのです。
病気になっても、再発してかなり辛くなってからも、そうした仲間たちの集まりには、できるだけ節子は参加していました。
私と一緒にいるよりも、友だちと一緒にいるほうが楽しいのかと冗談を言ったこともあるほどです。
そして、節子は、その人たちに今もなお支えられているのです。
人の生き方は、死んだ後にはっきりと見えてくるものかもしれません。

東さんが毎回、節子のお墓に寄ってくださるのは、やはり伴侶を亡くされた体験からではないかと思います。
伴侶を亡くす体験で、死に対する考えを変えた人は少なくないでしょう。
私も、その一人です。
死者とのつながりを、実感できるようになるのです。
去るものは日々に疎し、という言葉がありますが、決して、そうはならないのです。
東さんの世界には、まだ節子がいるのです。
とてもうれしいことです。

いまもわが家の和室には、節子が東さんの指導で書いた書の作品がかけられています。

■1891:歯ぎしり(2012年11月5日)
節子
相変わらず難題から解放されず、真夜中に眠れなくなることがあります。
節子が隣で寝ていた頃は、こんなことは絶対にありませんでした。
もし心配事で目が覚めても、節子を起こして、話を聞いてもらえば、心が静まったからです。今は、それもかなわず、ただただ目が冴えてくるのに耐えなければいけません。

先週、歯医者さんから、人はみんな寝ている時に歯ぎしりしていると教えてもらいました。
私の上下の歯の咬み合せが、最近ずれてきている気がしてきたので、訊ねてみたのです。
そうしたら、それは歯ぎしりのせいで、歯ぎしりの原因はストレスだといわれました。
起きている時のストレスを、人は寝ている時に調整するのだそうですが、それがどうも歯ぎしりを起こしているわけです。
夜中に目が覚めるのも、たぶんストレスのせいでしょう。
歯ぎしりだけでは解消できないほどのストレスなのでしょうか。
たしかに、心当たることはあります。

しかし、私には歯ぎしりの意識がまったくありません。
長年、一緒に寝ていた節子から歯ぎしりしていたことなど聞いたこともありません。
ほんとうに寝ている時に歯ぎしりしているのかとても気になりだしました。
節子がいたら、お互いにどんな歯ぎしりをしているのか、確かめ合うことができたと思うと少し残念です。
私は、好奇心はそれなりに強いほうで、なにかが気になると究明したくなるのです。
歯ぎしりは、残念ながら違う方法で確かめなければいけません。

生きている以上、ストレスのない人はいないでしょう。
その解消法はいろいろあるでしょう。
就寝中の歯ぎしりも、正しい生命現象なのでしょう。

節子がいなくなって以来、私のストレス度合いは高まったかどうかはわかりません、
しかし、間違いなく言えることは、ストレスを解消する手立ては大きく失われたということです。
いまは就寝中の歯ぎしりぐらいしかないのかもしれません。
何かを楽しむという志向もほとんどなくなりました。
いや、楽しもうと思っても、正直、楽しめないのです。

にもかかわらず、体調は節子がいなくなってからのほうがいいかもしれません。
私の体調の悪いところを、まるで節子が持っていってくれたような気さえします。
節子はそういう人でしたし。
しかし、ストレスだけは持っていってくれなかったようです。
むしろ山のように置いていったのかもしれません。

■1892:心身のよどみ(2012年11月6日)
節子
今日は雨です。
最近どうも調子が良くありません。
具体的にどこがどうと言うわけではないのですが、世界がよどんで感ずるのです。
どうもこの1年、生活が粗雑になってきていることも実感しているのですが、そのせいかもしれません。
節子がいなくなって以来、生活に対する投げやりの気分がどこかにあるのです。
そんな生き方は、私の信条に大きく反するのですが、心身がそうなっているので仕方がありません。
時折、とても前向きになって、その気になるのですが、そして行動も起こすのですが、少しすると、そのこと自体がとても空虚な活動のように思えてしまうのです。
そうなると心身が止まってしまうのです。
世界がよどんでいるのではなく、私自身の心身がよどんでいるのでしょう。

そのせいか時間はあっても心身が動かず、毎週日曜日に更新しているホームページの更新ができませんでした。
ちょっと就寝時間を遅らせばできることなのですが、それができなかったのです。
そうしたら月曜日に2人の人から、どうかしたのか、心配している、という早速にメールが届いたのです。
毎週、几帳面に読んでくれている人がいることに感謝すると共に、やはりよどんでいるのは私自身なのだと気がつきました。

よどみは、正さなければいけません。
つい最近も、同じことをやったような気がします。
心身を正すために、何かをやったような気がするのですが、今はそれも思い出せません。
6年目にして、このありさま。時間は癒してなどくれないのです。

今日は近くのあやめ園に、あやめをもらいに行く予定でした。
手賀沼沿いのあやめ園が閉園になるのです。
節子と何回も通ったところです。
節子がいたら、そうしただろうからです。
でもあいにくの雨模様。止めてしまいました。
節子もたぶんそうしたでしょう。たぶん、ですが。

世俗の雑事によどみがちな心身を休ませるために、今日はこれからめずらしく、本でも読もうと思います。
あまりにも分厚いので、読めずにいた「光圀伝」です。
それにしてもこの本は分厚いです。700頁以上ある。
節子がいたら、本などは読まずにすむのですが。

外は雨です。
雨も好きですが、心身がよどんでいる時には青空がほしいです。

■1893:生と死は裏表であって、後先ではない(2012年11月7日)
節子
昨日は1日がかりで冲方丁の「光圀伝」を読みました。
あまりにも分厚い本なので途中で少しだれてしまいましたが、夜中までかかって読み終えました。
「光圀伝」は、愛と義と生がテーマです。
まあそう思うのは、私だけかもしれませんが、この小説は2つの死の話から始まります。
それが中途半端でなく、強烈なエピソードなのです。
極めて映像的で、今も頭からイメージが消えないほどです。

最初の死は、光圀自身が自ら愛する部下を「義」のために殺す死です。
2番目の死は、光圀の父が、やはり愛する芸人を斬首し、その愛を形にする死です。
いずれの場合も、殺される人はそれを十分に予感して、光圀やその父の前に出てくるのです。
出てこない選択は十分にあるにもかかわらず、です。
つまり「生きるための死」とさえも言えるかもしれません。
実に哀しく、実に恐ろしい話です。
節子にはとても受け容れ難い話でしょう。
私も、嘔吐したくなるほどの酷い話です。
以前なら、こんな話は心には残らなかったかもしれません。

しかし、本書を読み終えて感ずるのは、ある安堵感です。
死は決して醜くはなく、哀しくもなく、分かち合えるものかもしれないという、不思議な感情です。
とてもあったかな並行線が敷かれていることもありますが、それだけではありません。
死が、愛と義とを踏まえて語られているからです。
意味があれば、どんな死も報われます。

そもそも人に「死」という概念が生まれたのは、いつのことなのでしょうか。
もしかしたら、それは過渡的な一時の現象かもしれないという気もします。
もう少ししたら、死という概念がなくなるかもしれません。
個体の生が、大きな生に組み込まれていくということなのですが。
そして大きな生は、終わりようがありません。

愛する人の死を体験した人がすべてそうだと思えませんが、
少なくとも私の場合は、死の意味が一変しました。
私の一部が死に、節子の一部が生きている。
そういう感覚の中では、死と生とは同時に存在する裏表であって、後先ではないのです。

またいささか不消化のことを書いてしまいました。
「光圀伝」のメッセージはなんなのだろうかと、今日、1日考えていたのですが、それがわかりません。
しかし、出だしの2つの死のエピソードは、心に深くひっかかってしまっています。
だからともかく何かを書いておきたかったのです。
どこかで節子につながっているような気がしたからです。
それが何かはまだわかりませんが。
節子に、またわけのわからないことを書いてるわね、と言われそうです。
困ったものです。

■1894:逃避行(2012年11月11日)
節子
ちょっと疲れがたまってきてしまいました。
身体的な疲れでも精神的な疲れでもなく、なにかよくわからないのですが、何かが切れそうな疲れです。
こんな書き方をすると、心配されそうですが、心配は全く不要です。
こういうことは、前にも何回かありました。
節子がいた頃は、節子がそれを修復してくれましたし、節子だけではだめな時には、東大寺の二月堂で瞑想したりしていました。
それができなくて、ちょっと不安定になっていました。
それで2日間の逃避行を行いました。
2日間というのが、いかにも地味ですが。
湯河原で電話やネットを遮断していました。
自転車でサイクリングしたり、渓谷を散策したり、まあそれなりに自然に馴染んだ2日間でした。

帰宅後の2日間も基本的にパソコンから離れて過ごしました。
テレビのニュースもあまり見ませんでした。
昨今のニュースは、いささか尋常ではないことが多すぎるからです。

しかし4日間の休息にもかかわらず、なかなか疲れは抜けません。
それにどうも最近、人間嫌いから抜け出せないのです。
意識と心身が、どうも同調しないのです。
困ったものです。
約束事も含めて、課題リストが山積みですので、明日から少しずつ解消していく予定ですが、
挽歌もまたたまってしまいました。
せめて挽歌だけでも追いついておこうと思います。
続けざまに3つアップします。

■1895:また訃報です(2012年11月11日)
節子
昨夜、訃報が届きました。
節子の叔父さんの中川さんです。
節子にとっては、いろんな思い出がある人です。
節子がいたら一緒に滋賀までお別れに行くのですが、今回は弔電で許してもらいました。
滋賀にいる節子の血筋の親戚も、ほとんどがもう代替わりです。
だんだんと縁はうすくなっていくのでしょうね。

節子と私の結婚は、最初は両親も含めて、最初はあまり賛成されなかった結婚でした。
中川さんは節子の生家の本家だったので、とりわけ東京の人との結婚にはあまり賛成ではありませんでした 
それに私は結婚式もしないと言っていたからです。
結局、節子の親戚を中心にした結婚披露宴はやることになりましたが、当時の私にはあまり本意ではありませんでした。
幸いに、節子の両親はとても理解のある人たちで、私の生き方の味方になってくれましたが、本家や親戚との関係でかなり苦労したはずです。
節子も、私と同じく、両親の反対を押し切っても自分をつらぬくところがありましたが、それもあって節子自体も親戚づきあいは苦労したのだろうと思います。
しかし、私には一言も愚痴をこぼしたことはありませんでした。

その中川叔父が亡くなりました。
一足早く彼岸に旅立った節子と間もなく再会でしょう。
さてどんな再会をするでしょうか。

■1896:時間が経つほど辛くなることもあります(2012年11月11日)
節子
節子には話していないですが、昨年の3月、東北で大きな地震が起こり、それによって大津波が三陸の沿岸を襲いました。
たくさんの人が、そのためにいのちを落としました。
今日は、その東日本大震災から1年8か月目です。
被災地ではいろいろな集まりがあったようです。

私の体験から言えば、愛する人を亡くした人たちにとっては、悲しさやさびしさがますますつのる時期です。
体験したことのない人は、1年半以上経てば、悲しみやさびしさ、辛さが少しは軽くなっていると思うかもしれません。
そんなことはありません。
深まりこそすれ、軽くなどなりません。
しかし、いつまでも悲しみを表わすのをよしとしない人も多いでしょう。
いつまで悲しみに浸っているのかと、言われそうな気がするからです。
それに、悲しみに浸っていると、ますます辛くなるということもあります。
だからと言って、見栄を張って、もう大丈夫などと言うのも、辛いものがあります。
そんな複雑な時期なのですが、テレビでの報道を見ていると、なにか辛い気がします。
テレビのカメラを向けられたら、私も元気そうに笑うでしょう。
自らの心を素直に表現することなど、そう簡単に出来ることではありません。
そういう人たちの表情をついつい深読みしてしまう自分に時々気づきます。
だから、そういうニュースや番組を見るのが好きではありません。

私の場合、ただ妻を亡くしただけなのに、時間は癒してくれません。
娘たちがいるにもかかわらず、です。
家族を一挙に失った人の悲しみはいかばかりでしょうか。

節子を見送って5年以上経つのに、まだこんな状態です。
節子
今年もまた、寒い冬が来ました。
心身をあたためてくれる節子がいない冬の寒さはこたえます。
東北はもっと寒いでしょう。
彼岸はあったかいのでしょうか。

■1897:おだて役と押さえ役(2012年11月12日)
節子
人生は勢いで動いているものだということを、この頃、痛感します。
一度立ち止まってしまうとなかなか動き出せないのです。

節子がいた頃は、あまり先のことを考えずに動いていました。
動いていると何とかなるものです。
それに私が動けなくなっても、節子が動いていると、それにつられて私も動いてしまう。
そんな関係でもありました。

でもいまは違います。
一度止まってしまうと、もうずっと動けなくなりかねません。
最近の状況がそうなのです。
それではいけないと思い、大阪に出張したり、友人からまた課題を引き受けたりしてみたものの、その効果はすぐに消えてしまいます。
そして残るのは新しい約束です。
先週も、福島のある施設の人と電話であることを約束してしまったのですが、それがどうしても動き出せずにいるのです。
無理やり動こうとすれば、どこかでひずみが出てしまう。
それで逃避行してみても、事態は一向に変わらない。
袋小路です。

一人で生きていくということはこういうことなのかもしれません。
夫婦はお互いに相手に助けを期待しながら、動いてしまう。
動き出せば、助けがなくても勢いがついてくる。
勢いがついてくれば、どんどん面白くなっていく。
私がいろいろと挑戦できたのは、節子の存在が大きかったのかもしれません。
まあにわかには信じられない気もしますが、間違いないでしょう。

人生にはおだて役と押さえ役が必要です。
伴侶の役割は、その両方かもしれません。
私がいまほしいのは、そうした「おだて役と押さえ役」です。
写真の節子では、それが十分にはできません。

「おだて役」も「押さえ役」もいない人生は、疲れます。

■1898:私が先に旅立ったらどうだったか(2012年11月12日)
節子
ふと考えました。

もし私が先に彼岸に旅立っていたら、どうだったろうか、と。
これまでずっと、そのほうがよかったのにと思っていました。
しかし、もしかしたらそうではないのではないかと思ったのです。
毎朝目覚めた時の気持ちに、節子は耐えられるだろうか。
そう思ったのです。

先日、ある人から、ご主人を亡くした女性の知人が、むしろ元気になったというお話を聞かされました。
よく耳にする話ですが、節子はどうだったろうかと思うと、いささか微妙です。
私はあまり自立していませんが、節子もまたあまり自立していませんでした。
私たちはお互いにあまり自立していたとは言い難い。
ですから節子もまた私がいないとだめかもしれません。
娘たちは、この意見には賛成しないかもしれませんが、節子は間違いなく賛成するでしょう。
今朝、突然にそう思ったのです。

いずれにしろ、一人残された者の辛さは、実際にそうなってみないとわかりません。
耐えられないからこそ、元気を装い、再婚したりするのかもしれません。
でも節子は、間違いなく再婚はしないでしょう。
そう思います。
では元気を装えるかどうか。
たぶん少しは元気になれるでしょうが、心の中に大きな穴が出来ることは間違いありません。

そう考えると、節子が先でよかったのかもしれません。
そう考えたところで、何かが変わるわけでもありませんが、今朝、ふとそんなことを考えました。

■1899:マレイシアもエジプトも行けませんでしたね(2012年11月14日)
節子
相変わらずいろんな人から連絡がありますが、今日はうれしい人からメールが来ました。
マレイシアのチョンさんからです。
今月末に日本に来るそうです。
元気そうでした。

節子と一緒に、いろんなことをやってきましたが、その頃、出会った人からの連絡はことさらうれしいものがあります。
もし節子が元気だったら、マレイシアにもインドネシアにも行けたのに、それが少しだけ残念です。
節子はいつもチョンさんの博識ぶりに驚いていました。
もう結婚したでしょうか。

エジプトの中野さんからも手紙が来ました。
エジプト観光も復活の兆しが出てきているようです。
節子が元気だったら、間違いなくエジプトにも行けたでしょう。
これも実に残念でなりません。

不思議なもので、節子がいた頃は、テレビで観光地の番組を見ると無性に行きたくなることが少なくありませんでした。
しかし、いまはどんな素晴らしい観光地を見ても、行きたい気分がまったく起きません。
いかなくてもテレビでいいじゃないかと思ってしまったりするのです。
この違いはいったい何なのでしょうか。
節子がいた頃、なんであんなに遺跡に行きたかったのだろうかと、それがむしろ不思議です。
一昨年、パスポートを取得しましたが、もう使わないような気がしてきています。

まあ残す旅行は彼岸への旅だけでしょうか。
それも一人ではあんまり気乗りがしませんが。
節子との旅は、いつもとても楽しかったです。
旅先でもよく喧嘩はしましたが。

■1900:小春日和(2012年11月15日)
節子
今日は気持ちの良い小春日和です。
縁側で節子とゆったりお茶でも飲んでいたくなるような日ですが、縁側で小春日和を楽しむことは残念ながら私の人生からはもうなくなりました。
近くの公園を散歩することもなくなりましたが、自然を楽しむ気持ちがなくなってしまったのかもしれません。
先日、渓谷を歩きましたが、ただただ歩いているだけでした。
1回だけ、沢蟹探しをしましたが。

自然だけではありません。
節子がいなくなってから、人も嫌いになってきているような気がします。
にもかかわらず、他者の問題についつい関わっていこうとする性格は変わりません。
そのせいか、最近は、自然の中にいるよりも人の中にいることが多くなっています。
それが不調の原因かもしれません。
昔は、人と自然がバランスしていました。
節子は自然が好きでしたから。

わが家から辛うじて見える手賀沼の湖面が、節子は好きでした。
特に小春日和のなかで湖面がきらきらと輝いているのを見ると幸せな気分になるのです。
その湖面をゆっくりと見る時間は、しかし節子には多くはありませんでした。
転居してから間もなく、節子は発病してしまったからです。
それを思うと、湖面のきらきらした反射光も悲しさを呼び起こします。
そのせいか、私はあまり見なくなりました。

しかし、そうは言っても、小春日和は気持ちを明るくさせてくれます。
最近、あまり良いことが起こらずに、気の重くなる話が多いのですが、流れが変わるかもしれないなとつい期待したくなります。
そんな気がするほど、気持ちのよい小春日和です。
今日はまたいろんなことが予定されている1日ですが、
この朝の、気持ちよさをできるだけ大事に過ごそうと思います。
節子の贈り物かもしれませんので。

■1901:「純と愛」(2012年11月15日)
節子
NHKの朝ドラは、いま「純と愛」というのをやっています。
主人公の一人である愛は、人の本性が見えてしまうので、人の顔がまともに見られない。
もう一人の主人公の純は、裏表がないので、その愛も安心して付き合えるという設定です。
純ほどではないでしょうが、私もまあ、表情と本性がかなり同じはずですので、愛に付き合ってもらえるかもしれません。
表情と本性が同じだということは、単純で何も考えていないということかもしれませんので、あまり自慢にはなりません。
むしろみんなに迷惑をかけることが多いとも言えます。
事実、その朝ドラでは、純が周りに迷惑をかけ続けています。
しかも純の言動は粗野なので、ドラマとはいえ、朝から見ていて気持ちのいいものではなく、むしろ私にとっては、不愉快なタイプです。
ですから、この朝ドラは好きではありませんが、これまでの習慣でつい見てしまいます。

表情の奥に本性を見るというのは、私から言えば、「性格の悪さ」以外の何者でもありません。
自らの心の汚れや狡さが写っているだけでしかないように思います。
もし本当に愛が純粋であるならば、すべての本性が清らかに見えるでしょう。
人をだましたことのない人は、そもそも「だます」ということが理解できないはずです。
まあドラマですから、そんな詮索は無用なのですが、

ちなみに、私は人の本性がまったく見えません。
みんな同じに、あえて言えば、「良い人」に見えるのです。
そういう自分が、私は気にいっています。
節子も気にいってくれていました。
節子も、私と同じで、裏表が使い分けられない人でした。
だから私は節子が気にいっていました。
そしてお互いに、付き合いやすかったのだと思います。

娘たちからは、私たちは「だまされやすい」といつも笑われていました。
実際に、ある意味では「だまされた」こともあるかもしれません。
しかしこれも考えようで、だまされるのは決して悪いことだけではないのです。
それを「良し」とするか「悪し」とするかだけの問題かもしれません。
それに、当事者と観察者では、その意味もまったく違うでしょう。
良し悪しは、コインの裏表でしかありません。

もしかしたら、私たち夫婦は、お互いに騙され続けているのかもしれません。
かけがえのない人、そう思い込んでいるだけかもしれません。
しかし、そう思えることにこそ、意味があるのかもしれません。
相手を完全に信頼できるという体験は、たぶんそう簡単ではありません。
最近、つくづくとそう思います。

■1902:湯島天神の菊花展(2012年11月16日)
節子
少し時間が出来たので、近くの湯島天神に立ち寄ってみました。
いま菊花展をやっているのです。
オフィスのすぐ近くにあるのですが、節子がいなくなってから湯島天神に寄るのは2回目です。
思った以上にたくさんの人でした。
みごとな作品が並んでいました。

サルの芸が人を集めていました。
そういえば、節子と一緒に時々、見たこともありました。
人の数は以前よりもずっと増えていましたが、風景は以前とまったく同じでした。

菊の花は、あまり好きではありません。

■1903:病気観(2012年11月19日)
節子
久しぶりに風邪をひいてしまったようです。
それが理由ではありませんが、2日ほどまた挽歌を書きませんでした。
一昨日、久しぶりに若手の起業者たちのパーティに参加しました。
節子がいなくなってから基本的にはそうした集まりには参加していないので、久しぶりでした。
途中で抜け出したのですが、外はひどい雨風で、びっしょりと濡れてしまいました。
それがよくなかったのかもしれません。

昨日はゆっくりと休みましたので、何とかひどくならずにすみそうです。
大事をとって、今日は約束をひとつ後回しにして、いままで自宅で休んでいました。

体調がよくないと、いろいろと考えることもあります。
人はいつも元気であるよりも、時に体調を崩し、自らの弱さに思いをめぐらすのは大きな意味がありそうです。
宗教哲学者の安藤泰至さんが、あるインタビューで次のように話しています。

 人の「心」も、鬱的な症状なんてない方がいいし、妄想はない方がいい。不安だって、ない方がいいのかもしれない。なら、取ってしまえ、ということももちろんありますが、仮に取ることができたとして、取ってしまえばその人は健康かというと、果たしてそうでしょうか。

人は、さまざまな面があって豊かになれる。
私もそう思います。
だから私は病気も健康のうちと考えていました。
風邪をひくといつも節子に話していました。
これから3日間は風邪菌に私の身体を提供するので3日間は風邪でいると。
そして4日目には、もう風邪はやめたと宣言していました。
節子はいつも笑っていましたが、節子の病気観は私と違っていました。
そして病気が節子を奪ってしまいました。
以来、わたしの病気観も変わりました。
健康的に付き合える病気もあれば、そうでない病気もある。
いまは病気が好きではありません。
病原菌に身体を提供するのは止めました。
だからしばらく風邪を引かなかったのです。

これから出かけますが、風邪がこじれないことを祈りたいです。
いつも3日では風邪は治っておらず、こじらせて大変になったこともあるからです。
今週は少し用事を埋め込みすぎました。
こういう時に限って、体調が崩れます。
こまったものです。

■1904:隣にポカンと穴が開く(2012年11月19日)
もう一度、安藤さんのインタビュー記事からの引用です。

昨日隣にいた人が、今日はいない。そこにポカンと穴が開くのはごく当然のことでしょう。「物理的にいなくなること=死」をどう受け止めていくかによって、死者とのかかわりが生まれ、死者に対するリアリティや死者との経験、儀式や作法といったことが生まれてくる。物理的にいなくなったからといって、それですべてが終わって、無になってしまうような、そういうこと自体が現実にはあり得ないということなんです。

今日は夜の集まりがあるので、湯島に来ています。
暗くなってきました。
一人でこの時間を過ごすのが、私はとても苦痛なので、だいたいぎりぎりになるまで用事をいれているのですが、1時間ほど時間の穴ができてしまいました。
その穴ということで、安藤さんのこの言葉を思い出したのです。

昨日隣にいた人が、今日はいない。
そこにポカンと穴が開く。

この感覚は、たぶん体験した方はよくわかるでしょう。
何とかそこをうめたくなる。
そうすると、見事にうまるのです。
穴が開くことは、受け容れられないのです。
今まで隣にいた人が無になるなどということには、まったくリアリティがないのです。
にもかかわらず、そこには「存在するべき存在」がない。
だから混乱してしまいます。
しかし生命の維持機能でしょうか、存在しない人が実感できるようになってくるのです。
それで何とか持ちこたえられます。
たしかに隣にはいないけれど、どこかにいる。
それが彼岸です。
こうして人は自らを彼岸に近づけていく。
そし此岸を生きられるようになっていきます。

ところが、そのあるはずもない穴が見えてしまうことがある。
夜の帳がおりてくる、夕方こそが、その時です。
夕闇はそれを感じさせてしまうのです。
まさに彼岸と此岸がつながって、一人では耐え難いほどさびしい時間です。
夕方は、外を見たくないのですが、今日はうっかり見てしまいました。
一度見ると、そこから逃れられなくなるのです。

■1905:一人で珈琲(2012年11月20日)
節子
風邪は悪化を踏みとどまっています。
昨夜の集まりは早く終わるようにしてもらいました。
今日も午前中は休んでいました。
用事であれば延期もできますが、誰が参加するかわからないオープンな集まりはやめるわけにはいきません。
それで今日もまた夕方目指して湯島に来ています。
風邪のせいか、頭がんぼんやりしていて、思考力があまりありません。
こういうときには電話もかかってきません。
また私の嫌いな静寂の夕方の時間です。
最近こういう時間が多い気がします。

次の来客までまだ1時間ほどあります。
彼が来たら珈琲を淹れようと思っていましたが、一人で飲むことにしました。
湯島の喫茶店もさびれてきました。
一時は入りきれないほどのこともありましたが、最近は10人も集まれば多いほうです。
おそらく私自身に「気」がないからでしょう。

湯島のオフィスは、しかし平成元年に開いたままです。
ほとんど変わっていません。
節子の好きだったリソグラフの額がはずされている以外は当時のままです。

節子がいるときも、こんなことは何回もありました。
しかし、サロンの始まる時間が近づくと、食べ物を買い込んできた節子がドアをあけました。
いつも御徒町の松坂屋で買出しをしてきてくれたのです。
そして花を活け、軽食の準備をし、今日は誰が来るだろうなどとよく話したものです。

それにしても、10年以上、よくサロンを続けました。
会費はとらないのかといわれたこともありますが、だれでも歓待する場にしたかったのと、お金から自由になりたかったのです。
節子にはとても苦労をかけましたが、そのおかげが今の私を支えてくれています。
たくさんの人たちが、いまも私を支えてくれています。

珈琲を一人で飲んでいると、いまにも玄関のドアが開きそうです。
今日は荷物が重かったと言って、倒れこみそうになって入ってくる節子が思い出されます。
時にみんなが来る前にといって、ケーキを食べることもありました。
でもそうした喜びは、もう二度とこないのでしょう。

今日のサロンは直前の欠席者が多くて、あんまり集まりそうもありません。
風邪をこじらせないように、早く終わるようにしましょう。
サロンの前に、来客が一人来ますが、お布施をもってきてくれるようです。
多くの人に支えられて、湯島のサロンはまだ続いています。

■1906:今日は着こなせない背広で出勤です(2012年11月22日)
節子
先週、メーカーズシャツ鎌倉の会長の貞末さんとお話しました。
パネルディスカッションのパネリストをお願いした関係です。
一緒に食事をしましたが、共通の友人もいて、話は弾みました。
しかし、そこでグサッと来る言葉を言われました。
日本の男性は洋服を着こなしていない。第一、自分で服も買いに行かないのですから。

貞末さんは先月、ニューヨークにお店を出展したばかりです。
本場で勝負しているのです。

実は私も衣服を自分で買いに行くのが苦手です。
節子がいた頃は、いつも節子に一緒に行ってもらいました。
スーツやジャケットは私が選ぶのですが、貞末さんにはだらしないと一喝されるでしょう。

私の好みは実にシンプルなのです。
しかし最近は、私好みのシンプルな商品は少ないのです。
節子はいつも私に付き合ってくれていましたが、なかなか私の気にいるものがないので、あんまり付き合いたくなかったかもしれません。
最近は娘に頼んで付き合ってもらっていますが、結局、気にいるものがなくて、買わないことが多いので、呆れています。
私が時代遅れになったのかと思いますが、本当に気にいる服がないのです。
それで、気にいったものがあるとまとめて購入しますが、これまた困ったもので、好みが変わってしまうことがあるのです。
昔は大好きだったジーパンも最近はなぜかはく気もしません。
一時はコットンパンツやコーデュロイパンツが気にいっていましたが、最近はあんまり気にいっていません。
同じものが数本もあるので、しかたなく着用していますが、すっきりしません。

もっと困っているのが上着です。
ジャケットが好きでないのですが、それに代わるものがない。
何を着ていいかわからないことが多いのです。
貞末さんが言うように、着こなすどころの話ではなく、それ以前の段階なのです。
困ったものです。

今日はこれから企業関係者の集まりに出かけます。
こういう時には、背広ですので、とても楽です。
それに25年間、会社生活をしてきたせいか、背広を着ると落ち着くのです。
しかし最近は背広でない生活が多くなっていますし、背広も実はこの数年、つくっていないのです。ネクタイさえ買っていません。
そのいささか古い背広とネクタイを身につけて、今日は仕事です。
そういえば、節子は私の背広姿が一番いいといっていました。
私がおしゃれでないのを、よく知っていたのです。
まあ、そういう節子もおしゃれではなかったのですが。

■1907:富有柿(2012年11月21日)
節子
岐阜の佐々木さんから富有柿がどっさり届きました。
「節子さんがやはり富有柿が美味しい」と話していたことを思い出しますと書いてきてくれました。
節子は富有柿が好きでした。
早速、節子に供えました。

私は、むしろ渋抜きをしたやわらかな富士柿が大好きです。
しかし、節子は渋みがどうしても残るといって、富士柿よりも富有柿だと言っていました。
ちょうど、昨日、娘がお店で富士柿を見つけて買ってきてくれましたので、節子の位牌の前にはいま2つの柿が供えられています。
さて節子はどちらが好みでしょうか。
彼岸に行っても、やはり富有柿ですか。

佐々木さんが可愛がっていた愛犬ミホは干し柿が好きだったそうです。

ミホも柿が大好きでした。一番好きなのは干し柿だったので、渋柿を20個ばかり求め、皮を剥き糸で縛って軒に吊して干柿作りに挑戦しています。

佐々木さんの愛犬ぶりが目に浮かびますが、さて私は佐々木さんほどに節子に何かしているだろうかと思わないわけにはいきません。
節子へのお供えはいつもかなり安直で、自分で丹精込めてつくったものはありません。
まあ節子もあまり私には期待していないかもしれませんが、少しは佐々木さんを見習わなくてはいけません。
挽歌もいいけれど、たまにはきちんと供え物もしてほしいと思っているかもしれません。
そう思って考えると、何をすればいいか、なかなか思いつきません。
困ったものです。
さて少し考えて見ましょう。

■1908:胃腸炎になってしまいました(2012年11月30日)
節子
時評編に書いたように、突然の胃腸炎になってしまいました。
最初は軽く考えていましたが、思っていた以上に大変でした。
どうやら疲労が積もっていたようです。

私はおなかを壊すことはほとんどありませんでした。
何を食べても大丈夫だとまではいわないまでも、節子にはうらやましがられていました。
ですから今回のような腹痛は初めての体験です。
腹痛も下痢も大変だと娘たちに言ったら、体験してこなかったのはお父さんくらいだよといわれてしまいました。
もっとも、この数日、腹痛と下痢に悩まされている間に、少しだけ思い出しましたが、私も腹痛や下痢を体験したことがなかったわけではありません。
しかし、これほどまでひどい状況は初めてです。

発症後、4日目の今日になってようやく少し気が戻ってきました。
といっても、食欲はいまもまったくなく、心身の違和感は依然として大きいです。
微熱もまだ時にあります。
下痢状況はほとんど治っていません。
節子の辛さをほんの少しだけ追体験しているような気がします。
実に、ほんの、ほんの、一部ですが。
人は体験しないとわからないものだと、いつもながらまた思い知らされています。

挽歌もたまってしまいました。
これだけたまってしまうと、回復が難しいです。
体調の回復とともに、急がずにゆっくりと追いついていこうと思います。
まずは早く体調を戻したいです。

■1909:久しぶりのチョンさん(2012年11月30日)
節子
胃腸炎になる前ですが、マレイシアのチョンさんがやってきました。
節子がよく知っている「物知りチョンさん」です。
節子と一緒にやっていた留学生サロンの常連でしたが、いまはインドネシアで仕事をしています。
そのチョンさんももう40代半ば。いよいよ独立する方向でがんばっています。
何か応援できることがあればいいのですが、なかなか応援できずにいます。

節子を見送った後、一度、チョンさんと会いましたが、その時の私はかなりひどかったようです。
それでチョンさんは心配してくれていたようですが、今回は安心してくれました。
私自身は何も変わっていないのですが、よそから見ればやはり変わっているのでしょう。
私としてはいささかの違和感はありますが、それもまた否定できない事実ではあります。

そのチョンさんももうインドネシアで10年以上活動しています。
マレイシアはもちろんインドネシアにもぜひ来てくださいといわれました。
もし節子がいたら、すぐにでも行きたいところですが、まだ一人では行く気にはなれません。
それが残念でなりません。

チョンさんと話していると横に節子がいるような気がします。
チョンさんたちがわが家にやってきて、それぞれの国の料理を作ってくれたこともありました。
チョンさんはとても元気そうでした。
節子に会わせたかったです。

■1910:胃腸炎のなかで考えたこと(2012年12月2日)
節子
2日間の完全療養で、胃腸炎はほぼ回復しました。
まだ食欲は戻らず、心身の違和感は残っていますが、かなり正常化してきました。
しかし1週間ほど、なにもしない怠惰な生活をしていたせいか、怠惰さは直りません。
まあこれも自然の流れに任せましょう。
今日は湯島に出かける予定です。
フォワードカフェがあるからです。
今の私は、まさに参加適格者でしょう。
前に進もうかどうしようかと迷っている状況ですし。

もっともこの1週間、何もしていなかったわけではありません。
挽歌は書きませんでしたが、書く以上にいろいろなことを考えていました。
節子も同じように、話せず書けずの時には、いろいろと考えていたことでしょう。
人は、話せない時、書けない時のほうが、よく考えているのです。
それにも思いは至りました。
人はやはり、その立場にならないとなかなかわからないものです。
しかし、同じ立場になど、実はなれるはずもありません。

節子は私たちに話したいこと、書き残したいことがたくさんあったでしょう。
でも話も書くこともできなかった。
その思いを私はきちんと受け止めていたでしょうか。
その答えは間違いなくノーです。
私は、それを受け止めずにいたのです。
いくら悔いても悔い足りないほどの悔いがこみ上げます。

しかし、節子はそれを非難していたでしょうか。
悲しんでいたでしょうか。
いささかの迷いはありますが、この答えもノーです。
節子は私を全面的に信頼していました。
私も同じです。
ありのままの存在で、お互いに十分に満足していました。
人を信ずることの気持ちのよさを、私たちは感じていたと思います。

胃腸炎で心身の違和感を持ちながら、改めてそんなことを考えていました。
人を信ずることができる幸せを感じています。
節子はそれを教えてくれました。
人は信じなければいけません。
最近ちょっと挫けそうになっていましたが。

■1911:節子、働いていないね(2012年12月3日)
節子
最近わが家では節子の評判がよくありません。
なにしろ最近のわが家は良いことがありません。
それで、娘のジュンが線香をあげながら、節子、働いてないね、と言ってます。
節子、聞こえていますか?

わが家では家族同士は名前で呼び合うようにするのが私の方針でしたが、節子はこれに反対でした。
娘たちに親を名前で呼ばせるのはおかしいというのです。
私は、「お父さん」などという味気のない普通名詞で呼ばれるのは好みではありませんでした。
しかし節子は、娘が外で私のことを「おさむ(さん)」と呼ぶのはおかしいというのです。
どこがおかしいのか、私にはよくわかりませんが、夫婦で折り合いがつかなかったことの一つです。
ちなみに、娘たちは、両親の希望を半々ずつ受け入れているので、時に名前で呼ぶこともあるのです。

最近のわが家の不幸を書くのはいささか不謹慎なのでやめますが、ともかく凶事が続いています。
残された家族を守る責務を、節子は果たしていないのではないかというわけです。
困った時の神頼みではありませんが、節子はいまやわが家の守護神ですから、わが家で起こる不幸はすべて節子の責任になるわけです。
いやはや困ったものです。
節子、まじめに働いて、家族を守るようにしないといけませんよ。
もうこれ以上、凶事がつづくと、家族全滅ですぞ。

まあしかし、私の胃腸炎も順調に回復していますので、最悪の状況は脱しそうです。
ようやく節子が働き出したのでしょうか。
これからどんどん良いことが起こることを期待していますよ。
節子
頼みますよ。
これ以上の重荷はもう背負い込みたくないのですが。

■1912:病院での節子との時間(2012年12月4日)
節子
今日もまたほぼ病院にいました。
先週もそうでしたが、わが家では火曜日は病院の日になってしまった感があります。
今日は、私は患者ではなく付き添いです。
病院は今月開院した近くの名戸ヶ谷あびこ病院です。
とても雰囲気のいい明るい病院です。
新しいので清潔感もあり、スタッフの動きもきびきびと、まだ緊張感がありました。
受付時間を少し過ぎて病院に着いたのですが、親切に対応してくれました。

そういえば、あの頃は節子と2人でよく病院で過ごしました。
ともかく待ち時間が長く、長い時には2時間以上も待ったことがあります。
けだるさと哀愁があふれたガン病棟の待合室での時間は、あまり体験したくないことですが、しかし、今となってはなんとも言いようのない、不思議な幸せな時間だったかもしれないと思えるようになってきました。
隣に節子がいたからという意味ではありません。
時間だけではなく、思いを共にする幸せです。
心がひとつになっていたことはいうまでもありません。
私たちだけではありません。
そこには、不安と悲しみと同時に、何となく平安な静寂もまたあったような気がします。
患者同士の、あたたかな思いやりや心配りもありました。
それに明らかに、時間の進み方が違っていました。

少し前までは思い出すことさえおぞましい感じだったのが、今はあったかささえ感ずるのはなぜでしょうか。
人の思い出は時間とともに変化するようです。
久しぶりに病院で半日を過ごしましたが、なにやら6年前のことをいろいろと思い出してしまいました。
私にとって、病院はまた安堵できる場になってきたようです。

■1913:野菜スープをつくりました(2012年12月4日)
節子
家事は結構大変で、高度な仕事だということを実感しています。
ユカがダウンしてしまったので、私が家事をやる必要が発生しているのです。
しかしそれがなかなか難しい。
ユカは、お母さんから学んでいなかったのかと嘆いています。

娘たちがまだ小さな頃、夏休みに節子たちが滋賀に帰省し、私だけが1週間ほど残ることがありました。
節子は工夫して留守中の食事の用意をしておいてくれましたが、1週間の終わりごろには食べるものがなくなり、みんなが戻ってくれる頃には、私は餓死寸前でした。
自分で料理するくらいなら空腹を我慢したほうがいいというのが、当時の私のスタイルでした。
だから家事はすべて節子に任せていました。
だからといって、亭主関白ではありません。
ごみを出せといえば、出しに行きますし、お風呂を洗えといわれれば洗うのは厭いません。
でも自発的にやるのが不得手なのです。
先日、テレビで指示待ちの亭主の話を取り上げていましたが、娘はそれを見て、お父さんみたいだと大笑いしていましたが、それを否定できずにいました。

それでまあ、最近少しずつ反省して、家事に取り組みだそうと思っているのです。
洗濯機の使い方はやっと覚えました。
ただし、洗濯したものをせっかく干しても、干し方がわるいと娘に注意されます。
そのうえ、乾いた洗濯を取り入れても、たたみ方が悪いというのです。
親は褒めて育てるものだと言うと、娘は子どもの頃褒められなかったと反撃します。
困ったものです。
干し方やたたみ方など、どうでもいいと思うのですが、ユカは特に几帳面なので妥協してもらえません。
私の記憶では、節子はそんなに几帳面でなかったはずですが、なんで娘は几帳面になってしまったのでしょうか。
反面教師かもしれません。

調理に関しては、節子は私に教えようとしていました。
エプロンまで買ってくれました。
私も2度ほど、その気になりましたが、続けられませんでした。
不幸にして、娘が2人いると、何もしなくてもやってもらえるという甘えがぬぐえないのです。
これまた困ったものです。

私ほど、家事の面で楽をしている人はそうはいないでしょう。
それに感謝するとともに、その生き方を直す必要を感じ出しています。
それで今日は、ユカのために野菜スープをつくったのです。
おいしく作れました。
これから少しは調理もやろうかと、今は思っています。
明日になると気変わりするかもしれませんが。

しかし私が40年、毎日、快適に暮らせたのは節子のおかげだったことを改めて感謝しています。
家事を担当する主婦の存在は大きいです。
それをおろそかにし、主婦への感謝の気持ちを忘れた社会は壊れていくような気がします。
今度、節子に会ったらお礼を言わないといけません。

■1914:花のある生活(2012年12月5日)
節子
庭の色違いのハイビスカスが3色とも咲いています。
白と赤と黄色です。
節子がいなくなってから、毎年、花の数が減っていますが、節子が3色集めたハイビスカスは元気に咲きました。
最近は私も娘たちも、なかなか時間が取れずに、庭の手入れは出来ずにいましたから、こうして元気に花を咲かせてくれるととてもうれしいです。
毎年、枯らしていたランタナは地植えにしたおかげで、まだ元気で咲いています。

私は子どもの頃は昆虫学者になりたいという思いもあったくらい、生物が好きでした。
花もいいですが、それ以上にそこに集まる昆虫や微生物が好きでした。
「花のある生活」と「生き物がいる生活」は微妙に違います。
しかし、花があれば生物は集まってきます。

花のある生活を支えてくれていたのは節子です。
湯島のオフィスには植木や生花をできるだけ置いてもらっていました。
節子はベランダの植栽の手入れをしてくれていましたし、玄関の花も生花でした。
病気になってからは、玄関の花は造花になり、ベランダの植栽はほとんどが枯れてしまいました。
私の手入れの問題もありますが、湯島にいく機会が減ったことも一因です。
なんとか生きた植物や動物と思って、いろいろと工夫はしているのですが、節子がいなくなってからは湯島では花もメダカもなかなか元気に育ってくれません。

わが家の庭の植物も、池の中の魚たちも、どうも元気ではありません。
やはりなにかが違うのでしょう。
そういえば、節子がいた頃は私の自宅の仕事場にも寝室にも、植物がありましたが、いまはありません。
だんだん殺風景になってきています。

節子は「花になって戻ってくる」と言っていました。
これでは戻ってこられません。
もっとまわりに花をたくさん育てなければいけません。
最近、どうも元気が出てこないのは、そのせいかもしれません。
体調が回復したら、部屋の花を買いに行こうと思います。

■1915:人は比較する生き物(2012年12月6日)
節子
経済学者のアダム・スミスは、人間に関しても深い洞察を重ねている人ですが、そのスミスが、人間の悲惨は、みずからの状態と他者の状態との問の差異を過大に評価することから生じる、と言っています。
人は「比較する生き物」なのです。

愛する人を失うと、「これ以上の不幸はない」と思う人は少なくないでしょう。
これ以上ないとは比較できないほどのことですが、スミスに言わせれば、極限の過大評価ということになるでしょう。
これ以上の不幸はないのですから、なんでもありの思いが襲ってきかねません。
いわゆる「絶望」と言うことです。
ですから、後追いや自暴自棄に向かう危険性をはらんでいます。
しかし、その絶望は、同時に生ずる、「愛する人をこれ以上失いたくない」という思いで、自らを守ってくれる力にもなるのですが、これはまた改めて書くことにします。
今日は「比較」の話です。

不幸なのは自分だけではない、同じ状況にある人はほかにもいる、と実感できると少し痛みはやわらぎます。
スミスの言葉を借りれば、「差異の過大評価」が少し修正されるわけです。
こうした場を与えてくれるのが、グリーフケアの場かもしれません。
だが、それで何かが変わるわけではありません。
つまり「過大評価」は是正されても、愛する人の不在は依然として続きます。
残念ながら、私にはグリーフケアの効用はほとんどありません。
私も、「比較する生き物」である以上、悲惨さは緩和されてもいいはずなのですが、なぜでしょうか。

本来、人の体験は、極めて個人的なものであり、比較はできないはずです。
私の場合は、比較すること自体に拒否反応が起こるのです。
これは我ながら不思議なのですが、どうしても自分を特別だと思いたいわけです。
スミスの指摘は、とても納得できるのですが、私自身はまだ被害妄想の世界から抜け出られずにいるのです。
頭での思考と心身の思いはなかなか一致しません。
いつここから抜け出られるか、自分でもわかりません。

■1916:軽井沢はもう雪です(2012年12月6日)
節子
今日は軽井沢で企業の人たちと合宿です。
そろそろこの活動もやめようかと思っていますが、そう思いながらもまだ続けています。
今朝は雪が3センチほど積もったそうです。
このホテルには毎年、何回か来ていますが、考えてみると節子と一緒に軽井沢に来たことはありませんでしたね。
節子とはいろいろなところに行きましたが、なんで来なかったのだろうかと思うところも少なくありません。
軽井沢も、その一つです。

まだ娘たちが子どもの頃、奥軽井沢や中軽井沢で夏を過ごした記憶がありますが、あんまり記憶が定かではありません。
私は自分の人生に関する記憶が実に希薄なのです。
真剣に生きていなかったわけではないのですが、過ぎたことにはほとんど興味がないのです。
節子との思い出も、例外ではありません。
しかもわずかの思い出も、あまりリアリティがないのです。
節子との思い出は、私にはみんな夢のようです。

そんなことを考えていたら、なんだか節子と一緒に軽井沢に来たことがあるような気がしてきました。
駅前の蕎麦屋さんで蕎麦を食べたような気もします。
人の記憶など、実にあいまいですね。

節子は私とは反対で、思い出をしっかりと残すタイプでした。
私たちは、その点でも役割分担していたのです。
だから以前のことを思い出す必要があれば、節子に訊けばよかったのです。
私にとって節子は記憶バンクの一つでもあったのです。
節子だったら、私たちが一緒に軽井沢に来たかどうかを覚えているでしょう。

私の過去の記憶が曖昧なのは、昔からだったような気もしますが、もしかしたら、節子がいなくなってからのことかもしれません。
そんな気もします。
脳がそうしてくれているのかもしれません。
節子との思い出があまり明確すぎるとその思い出から抜け出せなくなるからかもしれません。

いずれにしろ、人の記憶は不思議です。
明日は今日よりももっと寒くなるそうです。

■1917:もしかしたらまた胃腸炎?(2012年12月8日)
節子
昨日また腹痛の予兆があり、大事をとってゆっくりと過ごしています。
先の胃腸炎は、ウィルス性かと思っていましたが、もしかしたら神経性かもしれません。
いろいろと心当たることもあるのです。
昨日、軽井沢から戻ってきて、パソコンを開いて、ある情報に触れた途端に軽い腹痛がやってきたのです。
そういえば、26日もそうでした。

この半年、私にはまったく相応しくない問題にコミットしてしまったのが、いささか人生を狂わせてしまっているのです。
もし節子がいたら、たぶんこの問題をシェアしてくれたでしょうから、胃腸炎は起こらなかったかもしれません。
いや、あるいは節子が胃腸炎を起こしていたかもしれません。
そう考えてハッと気づきました。
もしかしたら、私のわがままな生活のために、節子が病気になったというのはまんざら根拠がないわけではないな、と。
私の悩みや心配を、節子はもしかしたらすべて引き受けていたのかもしれません。
だから私はこうまで楽観主義でいられたのかもしれません。

もちろん私も心配で眠れないという体験はありました。
そういう時、節子に八つ当たりしたり、節子に救いを求めたり、そんなことをしていたような記憶もあります。
節子は、どんな問題であろうと、私の問題はシェアしてくれていました。
もちろん私も節子の問題はすべてシェアしていました。
困った時には相手が解決してくれるだろうと私たちはお互いに確信していたのです。
だから2人とも同じだと思っていましたが、その受け取り方は違っていたかもしれません。
節子は、よく「修は口だけだから」と嘆いていたのを思い出します。
私にとっては、それはいささか不満な評価ではありますが。

きっと節子のほうが、大変さを多く引き受けていたのです。
だから病気になってしまった。
悩みをシェアするといっても、必ずしも半々のシェアではないのです。
なぜそれに気づかなかったのか。
そういえば、節子はこんな言葉も時々言っていました。
「だれもが修と同じではないのだから」と。
私は、自らにもそれなりに厳しいですが、他者への要求や期待も大きかったのです。
そのくせ他者からの要求や期待には必ずしもきちんと対応できていませんでした。
今でこそかなり寛容になっていますが、むかしはかなり要求の強いタイプだったのです。
それを正してくれたのも節子ですが、それと引き換えに、節子は病気になったのかもしれません。

胃腸炎の予兆で休んでいたのですが、逆にますます胃腸が痛み出すような気がします。
ビオへルミンを飲みました。

■1918:「花びらは散っても 花は散らない」(2012年12月8日)
節子
タイトルの「花びらは散っても 花は散らない」は、今日、知った言葉です。
東京新聞に載っていた竹内整一さんのエッセイで知りました。
浄土真宗の僧侶で、仏教思想家の金子大栄さんの言葉だそうです。
この言葉だけではちょっとわかりにくいもですが、それに続く「形は滅びても人は死なぬ」という言葉を読むと、その意味がよくわかります。
竹内さんは、『この言葉は、「あらゆるものは実体なく移りゆくが、そのことを悟れば、それらはそのままに実在である」という、仏教の「色即是空 空即是色」という考え方にもつながる』と書いています。
いまの私には、とても納得できる言葉です。

さらに、竹内さんはこう続けています。

 「散らない花」とは、生者の側が死者に働きかけるだけではなく、死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働きによって花開くものとして考えられている。

「死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働き」。
なにやらオカルトのように感じる人もいるかもしれませんが、愛する人を見送った人は、多かれ少なかれ、そうしたことを体験しているのではないかと思います。
節子を忘れない人がいる限り、節子は生きているという実感に関しては、これまでも何回か書いてきました。
そしてだからこそ、私はこの挽歌を書き続けているわけですが、生者からではなく死者からもまた生者に働きかけてくるというのは、これまであまり意識していませんでしたが、たしかにその通りです。
節子はなにかと私たち家族に働きかけてくるのです。
とりわけ、私の行動にはかなり関わってきます。
そしてそのたびに、私は節子を意識し、節子の存在を感ずるのです。
竹内さんは、同じエッセイで、「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という、ジャンケレヴィツチの言葉も紹介していますが、生きていたという事実だけではなく、いまなお生きていて、生者の人生に影響を与えてくるのです。
まさに「花びらは散っても 花は散らない」。いまなお節子は私とともに生きている。
この感覚は、思念的でもあり現実的でもあるのです。

金子さんの文章をもう少し引用します。

 花びらは散っても 花は散らない
 形は滅びても人は死なぬ
 永遠は現在の深みにありて未来にかがやき
 常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる 
 その永遠の光を感ずるものはただ念仏である

毎朝の短い念仏は、節子が彼岸にいると同時に、此岸でも生きている証を確認する時間でもあります。
花びらが散らない花はありません。
しかし、花びらが散ってもなお、花であると気づけば、花は散ることはないのです。

■1919:悲しみから抜け出るのは「不人情」(2012年12月9日)
竹内整一さんの新聞記事に、西田幾多郎の話が紹介されていました。
それで思い出して、西田幾多郎の「思索と体験」の「『国文学史講話』の序」を読み直しました。
すっかり忘れていましたが、何回も読み直しました。
愛娘を亡くした西田幾多郎の思いが、こう語られています。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我、一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。

あの西田幾多郎もそうだったのだ、いや、西田幾多郎だからこそそうだったのだろうなと思ったら、わけもないのに少しうれしくなりました。
娘と妻の違いはありますが、「忘れたくない」と思うのが当然だと確信できたからです。
悲しみから抜け出るのは「不人情」だと思っていた私の気持ちがなんだか肯定されたような気がしたのです。
まわりの「薄情な友人知人」に読ませたいものです。

西田幾多郎といえば、『善の研究』で有名な哲学者であり、私にはなかなか消化し難い気がして、この数十年、きちんと読んだこともないのですが、なんだか今なら読めそうな気がしてきました。
書棚のどこかにあるだろう『善の研究』を探して、改めて読んでみようと思います。
ちなみに、彼がこの小論を書いたのは明治40年だそうです。
いまから100年近く前のことです。
人の情は変わらない、ということも確認できて、とても気が休まりました。

■1920:運命は外から働くばかりでなく内からも働く(2012年12月10日)
西田幾多郎の話をもう一度。
昨日の挽歌で引用した原典の「『国文学史講話』の序」の中には、こんな文章も出てきます。
ちょっと長い引用ですが、とても含蓄のあるものです。

いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。
運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議のカが支配しているようである。後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大のカに帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。

まさに私には自分のことを言われているような気がします。
もっとも、後悔から懺悔に代わっても、心の重荷は卸した気分にはなりませんが。
「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」という文章で、少しだけ気が楽になるのですが、すぐその後で、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、一転、奈落の底に落とされたような気がしてしまいます。

最初の文章は、私にも実感できますし、それにすがりたい気持ちもあります。
節子が私より先に逝ったのは理由があるのだと思うと、少し重荷が軽くなります。
その理由も、いろいろと思いつくのです。
しかし、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、まさにその通りなので、なんだか自分が責められているようで救いにはなりません。
西田幾多郎にとっては、後悔と懺悔とは大きく違うのでしょうが、いまの私には違いがわかりません。
むしろ自己の力を過信したが故に、節子を失ってしまったとさえ考えてしまいます。
それでまた「いじいじ」してしまうわけです。
困ったものです。

それはそれとして、問題は「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」ということです。
自らの判断もまた、大きな定めのなかで行われているというような意味でしょうが、過信もまた定めだったのです。
それに「過信」しなければたぶん乗り切れなかったでしょう。
それは、私の定めであり、節子の定めでもあったのです。
そしてさらにいえば、いまこうして「いじいじ」としていることもまた、定めなのでしょう。

こう考えていくと大きな気づきに到達します。
すべての定めは、自らの心の中の煩悩から生まれているのではないかということです。
そして、色即是空にたどりつくわけです。
西田幾多郎は、「何事も運命と諦めるより外はない」と書いています。
ここで「諦める」とは、いうまでもなく「明らかにする」ことでしょうが、だからといって煩悩が消えるわけではありません。
ただいえることは、いじいじすることにも意味があるということです。
定めには素直に従わなければいけません。

■1921:悲しみから歌が生まれる(2012年12月11日)
節子
本居宣長は、歌は悲しみから生まれたと書いているそうです。
こんな内容のようです。

どうにも「かなしみ」にたえがたいとき、人は思わず、声を上げて「ああ、かなしい、かなしい」と言うものだ。
とどめようと思ってもとどめがたく溢れでてきてしまう。
そのほころび出た言葉は、自然と長く延びていき、あるかたちをそなえたものになっていく。つまり、それが歌である。

なんとなく納得できます。
それに考えてみると、たしかに歌は「悲しさ」を基調としているものが圧倒的に多いです。
しかし、最近は歌以外にも悲しさを表現する手段はたくさんあります。
たとえば、このブログのように、書くこともその一つです。

なぜ私が、この挽歌を書き続けるかと言えば、もって行き場のない悲しさの溜まり場をつくっているのかもしれません。
たしかに、挽歌を書き続けていることで、悲しさが今もなお、「いきいき」としているような気がします。
悲しさを忘れるために歌うのではないように、悲しさを忘れるために書いているのではありません。
書くことによって、悲しさが生きつづけるように、挽歌を書いているのです。

最近、そのことがとてもよくわかってきました。

■1922:いのちの優しさ(2012年12月12日)
節子
節子を見送って以来、たぶん、私は前よりもずっと生きることに素直になったと思います。
言い方を換えると、優しくなったような気がしています。
なんとなくそう思っていたのですが、作家の高史明さんの、次のような文章に出会いました。
最近、引用が多いのですが、また少し長い引用をさせてもらいます。

「優しさ」とは、「いのちの優しさ」である。「いのち」とは、それぞれの「いのち」であると同時に、地球上に「いのち」が発生して以来何億年もの間、「いのち」が「いのち」を生んで流れて来た「大きないのち」の現われでもある。そうした「大きないのち」に支えられた「いのち」の力・働きが「優しさ」なのであり、生き物であるかぎり、当然、人間にもそれはもともと与えられている」。

以前も頭ではこういうことはわりと納得できていましたが、節子を見送った後、こうしたことが心身に素直に入ってくるようになったのです。
言い換えると、大きないのちにつながっている自分を意識できるようになってきたのです。
そうなると、自然と優しくなっていきます。

高さんは、いのちはもともと優しいのだといいます。
それがとてもよくわかります。
赤ちゃんの笑顔が優しいように、だれもがみな、素直に生きていれば、優しいのです。
その優しいいのちを、人はなぜか素直に生きようとしない。
そのことが、節子を見送った後、とてもよくわかります。

節子がまだ此岸にいた頃、私たちはお互いにとても素直でした。
そして優しかった。
節子の前では、私はほぼ完全に素直になれ、節子もまた私の前ではほぼ完全に素直になっていたはずです。
その居心地のよさが、私の生き方に大きな影響を与えました。
居心地がいいから優しくなれる、そして優しくなれるから居心地がいい。
実はそれは同じことなのです。
そして、素直に生きていていいんだと確信をもてるようになったのです。
その「居心地が最高によかった世界」はなくなりましたが、その確信は、いまも私の生き方の基調になっています。
いや、その確信のもとに生きることが、節子とのつながりを強め続けてくれるのです。

私のいののちを支えていてくれる「大きないのち」が、いまもなお節子のいのちとつながっていると思うだけで、とても安堵できます。
そして、だからこそ優しくなれるのです。
愛する人を見送った人はみな、間違いなく優しいのです。
しかしなぜ社会は、そうはならないのか。
不思議であり、悲しくもあります。

■1923:挽歌のご褒美(2012年12月13日)
節子
見覚えのないTさんという人からメールが届きました。
怪訝に思いながら開いてみました。

前略 佐藤さま。突然のメールをお許しください。
「節子へ」というブログを書いていらっしゃいますか。
間違っていたら申し訳ありません。

どうやらこの挽歌を読んでくださった方のようです。
それだけでうれしい気分になるのもおかしな話ですが、正直なところ、節子のことをまた一人、知ってくれた人がいると思うと、何やらうれしくなってしまうのです。
ところが、読んでさらにうれしくなりました。
Tさんは、私が毎週かかさずに見ている「小さな村の物語イタリア」という番組のプロデューサーだったのです。
もう忘れていたのですが、昨年のはじめに、この挽歌でこの番組に触れたことがあったのです。
Tさんのメールは、その記事をある小冊子への寄稿文に引用してもいいかという内容でした。
もちろんお断りする理由はなく、むしろとてもうれしい話です。

Tさんはその寄稿する文章の原稿も添付してくださいました。
まだその小冊子は発行されていませんので、ここに引用することはできませんが、そこにとてもうれしい文章が書いてあったのです。

私の挽歌を読んでくださったTさんは、制作スタッフのみなさんに私の挽歌の記事を送ってくれ、こう付け加えてくださったというのです。
「このひとのために番組を作ろう!」と。
そんなこととは、夢にも知らず、私は毎回、その番組を見ていたわけです、

Tさんは、こうつづけて書いてくれています。

その編集方針はいまだに変わらない。
見えない相手だが、心は見える。
そこにそっと明かりをともすことができれば、それが私たちの仕事だ。

その明かりは間違いなく私に灯っています。
いまではテーマソングが頭から離れなくなっていますし。

挽歌を書き続けていると、思ってもいなかったこんな素敵なご褒美をもらえるものなのです。
最近どうも挽歌が書けなくなってきていたのですが、ちょっとまた元気が出てきました。

Tさん
ありがとうございました。
来週からもっと思いを入れて、番組を楽しませてもらいます。
また涙が出そうですが。

■1924:泣くより笑うほうがいいですか(2012年12月13日)
節子
今日はTさんから元気をもらったので、もうひとつ書きます。
なにしろまただいぶタイトルの数字がずれてきてしまっていますので。

綱島梁川という思想家は、「悲哀はそれ自らが一半の救なり」と言ったそうです。
柳田邦男さんも、著書の中で、「悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源となるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる」と書いています。

「悲哀は一半の救なり」などとは少し前までは考えてもいませんでした。
しかし、いまはそれがよくわかります。
涙した後のすがすがしさやあたたかさは、私も何回も経験しています。

涙は決して、不幸なものではありません。
それはただ自らの素直な思いや感情の表現でしかありません。
涙が出るのは悲しい時だけではありません。
うれしい時も、怒った時も、楽しい時も、涙は出ます。
喜怒哀楽の表現なのです。
男は人前で涙を見せてはならないと言われますが、号泣はむしろ好意的に受け止められます。
涙は、人が有する豊かな感情の表れなのです。
だとしたら、人はどんどん泣くのがいい。
涙をふんだんに流すのがいい、と私は最近思います。
泣くのも笑うのも、同じことなのです。

そうは言っても、泣くよりも笑うほうがいいと多くの人は思うでしょう。
私も、つい最近まではそうでした。
それに、笑うことは生命の免疫力を高めるとも言われます。
そうであれば、泣くより笑うことがいいでしょう。

でも、泣くことの効用も大きいように思います。
泣くこともまた、生命の免疫力を高めるのではないか、私は最近、そんな気がします。
むしろ、笑うよりも泣くほうが、心身を浄化し、豊かにしてくれるかもしれません。

涙の効用は、ことのほか大きいのです。
悲しかったら泣きましょう。
それも、堂々と泣きましょう。
涙をこらえることなどせず、大河のように涙しましょう。
泣いていると、心が安らぎ、心身があったかくなってきます。
その効用も、節子が教えてくれました。

■1925:家事見習い(2012年12月14日)
節子
最近ようやく少しだけ食事づくりをするようになりました。
娘のユカがダウンしてしまったので、やむを得ずなのですが。
しかも、お母さんから何を教えてもらっていたのと、怒られながらです。
しかし、まあ魚も焼けるようになりましたし、おでんもつくりました。
もっとも昨日はブロッコリーを茹でるために木っ端微塵に切り刻んでしまいました。
その上、小さな茎ももったいないからと思って茹でたら、そこは硬くて食べられないといわれました。
つくった手前、無理して食べましたが、やはり筋が残りました。
困ったものです。

洗濯も始めました。
洗濯機なので簡単だろうと思いきや、いろいろややこしくて、何回も質問するため、ユカは自分でやったほうが楽だとさえ言っていましたが、ようやくほぼマスターしました。
しかし、干しても、干し方が悪いので乾かないと怒られます。
まったく娘たちはやさしくありません。私に似て、性格がよくありません。
困ったものです。

手のかかる長男のチビ太は、最近は少しだけおとなしくなりました。
しかしそれは、元気がなくなったというべきかもしれません。
まだ食欲はありますし、意識はしっかりしているのですが、ほとんど寝ていて、お腹がすいたり用を足したくなると、鳴いて呼びつけます。
それも真夜中が多いのです。そのため私は熟睡できません。
眠い時に呼びつけられると蹴飛ばしたくなりますが、我慢しています。
これまた困ったものです。

しかし娘が2人いて、一人は同居、一人も近くに住んでいるので、とても助かっています。
それにジュンの伴侶の峰行は、節子がいたら、まるで修のようだというくらい性格が良く、私に負けずに単細胞なので、楽をさせてもらっています。

それにしても、いわゆる家事というのは、面倒なものです。
それに「心」をきちんと入れないとうまくいきません。
自分でやってみて、それがほんとによくわかります。
それを40年以上、しっかりと続けてきてくれた節子には感謝です。
しかし、私としては、私が旅立つまでずっと節子にやってほしかったです。
食器を洗いながら、いつもそう思います。

■1926:ユカの入院(2012年12月15日)
節子
ユカが入院しました。
肺炎をこじらせてしまいました。
ユカは節子の悪いところを引き継いでしまい、呼吸器系が弱いのです。
その上、中途半端に頑張ってしまい、最後はダウンしてしまうパターンが多いのです。
困ったものですが、血筋は仕方がありません。

昨日は熊谷に行っていたのですが、夕方、ジュンから電話があり、入院することになったよと連絡があったので、急いで帰宅しました。
まあ私がいても何の役にも立ちませんが、こういう時には母親と父親の違いを思い知らされます。

幸いにジュンが近くに住んでいるので、私自身の生活にはあまり支障はないのですが、みんなに迷惑をかけることになります。
考えてみると、私がわが家で一人で過ごすのはもしかしたら初めてかもしれません。
前にもあったような気もしますが、思い出せません。
一人だと、何もやる気が起きません。
夕食はジュンが用意してくれ、一緒に食べましたが、お風呂は面倒なのでやめてしまいました。
一人だとじっくり本でも読めるはずですが、そんな気は起きません。
テレビも一人では観る気も起きないものです。
改めて娘たちの存在に感謝しています。

節子がいなくなってから、しばらくは病院とは縁がなかったのですが、最近どうも縁が戻ってきてしまいました。
入院病棟に行くとやはり、少し辛いものがあります。

今夜はまたひどく寒い夜になりそうです。
部屋にはエアコンがないので、この挽歌も震えながら書きました。

■1927:一人の朝食(2012年12月16日)
節子
今日は久しぶりに一人で朝食をしました。
ユカが入院しているのと、チビ太は、相変わらず熟睡していますので。
私は一人で食事をするのがあまり好きではありません。
昼食などは一人だとつい食べ忘れます。
それで節子は昔はお弁当を作ってくれました。
お弁当だと一人ではないような気がするからです。

今日はとても良い天気です。
太陽がまぶしいです。
洗濯までしてしまいました。
もっとも干す時に庭に1枚落としてしまいましたので、やり直しもありましたが。

天気が良いと気分も明るくなります。
そらからいろんなものがやってくるような気がします。
それに昨日とは大違いで、とてもあったかです。
ここしばらくどうも気が沈みがちで、電話もできずにいましたが、気になっていた数人の人たちに電話をさせてもらいました。
みんな同世代の人ですが、それぞれにやはりいろんなことに見舞われています。
人生もこの歳になると、そうシンプルではありません。
喜怒哀楽の波にさらされているのです。
それを豊かな人生と思えればいいのですが、実際にその立場に置かれるとそうも思えないものです。

気持ちは晴れてきていますが、どうもまだ仕事にまでは気が向きません。
今日は、ここしばらくずっと放置していた家の方付けを少しやってみようかと思います。
たぶんすぐに止めたくなりそうですが、がんばってみます。
家事というのは、やはり「誰かがいて」こそできるものですね。
私一人だと、まあ、このままでいいか、食事もお風呂も省略でいいかと思いがちです。
実に困ったものですが。

■1928:生きたという事実(2012年12月16日)
節子
今日はとてもあったかく、良い天気です。
午前中は自宅で一人で過ごしています。
昔はこうした日は、節子は必ず庭仕事でした。

いつも隣にいた人がいないと、なんだかそこに穴が開いたようで、気分が落ち着きません。
人間は、そうした穴に何かを当て込んで、穴を感じなくさせるものですが、時間がアッつと逆にその穴が感じられるようになるのです。
これは普通の体験とは違うかもしれません。

「物理的にいなくなること=死」をどう受け止めていくかによって、死者とのかかわりが生まれ、死者に対するリアリティや死者との経験、儀式や作法といったことが生まれてくる、と何かの本に書かれていたのを思い出します。
物理的な不在と心理的な存在は、なぜか両立します。
物理的にいなくなっても、時にその存在を以前よりも強く感ずることもあるのです。
こういう、晴れた小春日和には、節子の存在を強く感じます。
それに今日は、娘も不在ですから、ますます強く感ずるのかもしれません。

死で、すべてが終わるわけではありません。
物質としての身体はなくなっても、その人の生が、なくなってしまうわけではありません。
前に引用したジャンケレヴィツチの「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という指摘は、とても納得できます。

今朝、何気なく書棚を見たら、桑子敏雄さんの「気相の哲学」が目に止まりました。
10年以上前に読み出して、見事に挫折している本です。
目に止まったのも何かの縁と、読み出してみました。
20分で、また挫折です。
朱子学を唱えた朱熹たちの思想を踏まえての新しい哲学の書なのですが、やはり難解です。
でも気になるので、少し時間をかけて再挑戦することにしました。
その最初のところにこんな文章があったからです。
実は、ここで挫折して、読むのをやめたのですが。

朱熹は死後の存在を否定していますが、死が魂・魄という気の分離であるとするなら、死は何らかのエネルギー状態にあった気の転移であると理解することができるでしょう。とすれば、魂・魄の分離がエネルギーそのものの喪失であるとは考えにくいでしょう。親しかった死者を悼んで涙を流すなど、死んだ者が時折わたしたちの心の作用を引き起こすとすれば、そこには何らかの死者のエネルギー状態がその時点で存在すると考えられるのではないでしょうか。

ここまでの文章が難解で、まだ咀嚼できずにいます。
しかし、なんとなく「大きないのち」を読み解く、ひとつのヒントがありそうです。
少しがんばって読んでみようと思います。

■1929:花かご会のカレンダー(2012年12月16日)
節子
花かご会の山田さんが、来年のカレンダーを持ってきてくれました。
我孫子駅南口の花壇の写真を使ったカレンダーを毎年つくっているのです。
先週、湯島に行く時に、花壇で作業をしているのを見かけたのですが、時間がなくて声をかけられませんでした。
今年はもう1度くらい作業日があるかと思っていたら、それが今年最後の作業日だったのだそうです。
ついに差し入れが出来ませんでした。
気にはなっていたのですが。
山田さんが、節子の好きな花キャベツを植えたと話してくれました。

カレンダーは毎年変化しています。
今年は花の写真がさらに大きくなりました。
節子がいたら、喜んでいろんな人に送りたくなるかもしれません。

それにしても、突然に節子の友達がやってくると、時々どう対応していいか迷います。
節子がいたら、ちゃんとお土産も渡すのでしょうが、それも忘れてしまいました。
どうも女性を相手にするのは不得手です。
困ったものです。

それにしても、今年ももう終わりです。
あっという間の1年でしたが、今年はあまり「いいこと」がありませんでした。
ということは、たぶん生活が正常化してきているのでしょう。
ものは考えようで、最近は病気になるのも健康の証拠と思えるようになってきています。

花かご会のカレンダーを節子にお供えしました。
最近、節子の位牌の前は、いろいろとにぎやかです。
節子は果報者です。

■1930:節子がいたら選挙結果をどう思うでしょうか(2012年12月16日)
節子
どうにもやりきれない気分です。
この気分を分かち合う人がいないのがつらいです。

何がやりきれないかといえば、今日の衆議院選挙の結果です。
午後8時に結果報道が始まりましたが、自民党のとんでもないほどの圧勝です。
まあ結果は最初からわかっていました。
実体のない政党に成り果てていた民主党と自民党の対立構図をマスコミが作り出していたからです。
民主党の議員も、その幻想から抜け出せませんでした。
政治に対してほとんど時間を割かないほとんどの日本国民は、最初から答のわかっている対立構図を押し付けられて、こちらがだめならあちら、あちらがだめならこちらというふうに、今回も振り回されていたのです。
まあそれはそれとして、しかし、実にやりきれない気分です。
節子がいたらさぞ嘆くでしょう。
いや節子なら、私のこのやりきれなさを受け止めてくれるでしょう。

私たちは、選挙の時にはよく話し合いましたが、節子は私よりも「生活的」でしたので、ある意味でラディカルでした。
必ずしも同じ政党や立候補者を支持していたわけではありませんでしたが、わが家は昔から必ず家族全員で投票に行くことになっていました。
以前は今ほど事前投票が簡単ではありませんでしたので、投票日はなによりも投票に行くことが優先されていました。
これは娘たちにも厳しく課せられていました。

それへの反発か、娘たちは誰に投票したかは公開しませんでしたが、わが家の家族が投票した立候補者が当選することはあまり多くなかったように思います。
少なくとも私と節子の支持者は落選することが多かったような気がします。
その点で、わが家はいささか社会の主流からは外れていたのかもしれません。
しかし、節子も私も、それなりにしっかりとした意見があったという自負はあります。

政治に関しても、節子とはよく話し合いました。
結婚した当時からそうでした。
結婚した頃、節子は政治に対する知識があまりありませんでした。
それでいささか知ったかぶりの私はさまざまな政党の主張や政策課題の話を節子にレクチャーしたものです。
節子はとても興味を持って、ノートまでしながら私の話を聞きました。
ですから節子の政治的価値観の形成には私が大きく影響しています。
しかし節子との話し合いの中で、理論中心の私の政治的価値観もまた大きく影響を受けました。
ですから、私たちは政治に関する話題も日常的にかなりできていたように思います。
もちろん生活用語で、です。
節子に、「マルチチュード」などと言っても相手にされませんので。
そうした日常的な政治の会話ができないことが残念です。

この選挙結果を見たら、節子はなんと言うでしょうか。
ぜひ聞いてみたいものです。
私の、このやりきれない気分が、私の独りよがりかどうかもきっと評価してくれるでしょう。
それにしても、やりきれない気分です。
テレビを蹴飛ばしたくなりましたので、テレビを見るのをやめました。

■1931:「気にしてくれる個人」の存在(2012年12月17日)
節子
今年の初めに放映されたETV特集『花を奉る 石牟礼道子の世界』を観ました。
録画していたのですが、なかなか観る気になれませんでした。
石牟礼道子さんの「苦界浄土」を最初に読んだ時の衝撃は忘れられません。
節子と一緒に水俣に行く機会はつくれませんでしたが、いつか行って見たいところのひとつでした。

2つの言葉が気になりました。
「悩んだほうがいい」と「気にしてくれる人がいると幸せ」という言葉です。
とても共感できるからです。

悩みのない人生がいいと言う人が多いかもしれません。
しかし私は最近、むしろ悩みこそが豊かさの証ではないかと思うようになってきました。
最近、私は悩みが増え続けています。
節子がいた頃は、悩みはすべて節子に預けてしまっていたのかもしれません。
あるいは節子と一緒だったので、悩みが悩みとして意識されていなかったのかもしれません。
悩みは、シェアすると悩みではなくなることがあるからです。
しかし、節子がいなくなってからしばらくして、さまざまな悩みが襲ってきました。
よく節子の位牌に向かって、節子は悩みがなくていいね、と話しかけていたものです。
しかし最近は、そうした悩みもまた、人生を豊かにしてくれるもののような気がしてきました。
ですから、石牟礼さんの「悩んだほうがいい」という言葉が、腑に落ちたのです。

水俣病に苦しむ人たちはまだ大勢います。
石牟礼さんは、施設で生活している水俣病を背負った人たちに会いに行きます。
彼らもまた、石牟礼さんを覚えていてくれましたが、その後、石牟礼さんがしみじみと、「社会からの目だけではなく、気にしてくれる個人がいると幸せ」だというのです。
大切なのは、気にしてくれる個人がいること。
石牟礼さんは、気にしている個人として、生きつづけているわけです。
事情は違いますが、そのことがいかに大切かを私は最近痛感します。
生きている人においてもそうでしょうが、死者もまた同じです。
あるいは、死者と共にある者にとっても、とても大切なのです。
私もまた、「気にしてくれる個人」である生き方を大切にしています。

石牟礼さんは、多くの人が悩みから逃げ、誰かを気にする余裕もなくなってきている現代の風潮を憂いているのです。
そのことの大切さを、私もようやくわかってきたところなので、石牟礼さんの言葉はとても心を動かされました。

花を奉るように、石牟礼さんはゆっくりと生きています。
その生き方が、輝いて感じました。

■1932:烈しい悲しみ(2012年12月17日)
節子
節子が、死を恐れていたという記憶がまったくないのは、考えてみると不思議なことです。
節子が悲しんだのは、私たちとの別れでした。
だから「恐れ」の感覚はなく、「悲しさ」の感覚だったのです。
節子は、死に対して、実に淡々としていました。

「死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去ることができない」というようなことを、小林秀雄は、本居宣長の死の「かなしみ」を論ずる中で、書いているそうです。
しかし、「烈しい悲しみ」を持つのは生者よりも死者と言うべきでしょう。
なぜなら、死者はすべての生者との別れをしなければいけないからです。
しかも、死者は誰ともその悲しみをシェアできないのです。

小林秀雄の視点は、死者にではなく、生者にしかありません。
死者の視点に立てば、「生者は、死者に烈しい悲しみを与えなければ、死者をこの世から旅立たせられない」ということになるでしょうか。
しかし、この文章は、明らかに間違っています。
死者を悲しませることなく旅立たせることができるからです。
たくさんの人に看取られながら、天寿を全うする場合はそのひとつです。
だとしたら、「死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない」というのも、また間違いかもしれません。
むしろ、そうした思いの呪縛から解き放たれることが、死者にも遺される生者にも大切なのかもしれません。
たしかに、愛する人を見送った後に襲ってくる烈しい悲しみはあります。
しかし、それは、遺された生者を救うためかもしれません。
悲しみの中で、死者を思い続けられる力を育てられるからです。
そして、その悲しみこそが、死者とのつながりを守ってくれるのです。
烈しい悲しみに曝された後、そのことに気づきます。

人の感情は、実にすばらしく仕組まれています。
悲しみもまた幸せに通じています。
烈しい悲しみは、人の世界を豊かにしてくれるものでもあります。

最近、死の豊かさが、少しわかってきたような気がします。
すべての人が、「死」においてつながっていることも。

■1933:やる気ボタン(2012年12月18日)
節子
昨日も3人の人が湯島に来ました。
そのうちのお2人は、それぞれ新潟、青森から東京に来たついでに寄ってくれたのです。
もう一人は、韓国からの留学生の金さんです。
金さんは10分でもいいからと言うので、なにごとかと思っていたら、クリスマスのプレゼントでした。
私の好きなモカ珈琲を持ってきてくれたのです。

年末になるといろんな人が会いに来てくれます。うれしい限りです。
でもなぜわざわざ湯島に寄ってくれるのでしょうか。
私を気遣ってのことかもしれませんが、どうもそればかりではないのです。
それで、いささかの自慢話を書くことにしました。

金さんから以前、メールをもらったことがあります。
そこにこんなことが書かれていたのです。

佐藤さんとの会話で自分もやる気も出てきたのですが、佐々木お父さんも佐藤さんとお会いする度にやる気ボタンを押されるそうですね。

佐々木お父さんというのは、金さんの「日本のお父さん」の、この挽歌にも時々登場する佐々木さんです。
ところで、金さんは「やる気ボタン」と書いてくれました。
私と会うと、やる気ボタンが押される。
これは、私がずっと目指している生き方です。

昨年でしょうか、ネットワークささえあいの事務局長の福山さんから、「佐藤さんは人と会っている時、何を考えていますか」と突然に訊かれたことがあります。
即座に、答が自然と出ました。
「この人のために何ができるか、を考えています」と。

これが私の生き方でしたが、節子を見送った後しばらく、それを忘れていたことがありました。
そんな余裕がなくなっていたというよりも、どこにもっていけばいいかわからない、怒りのようなもので私の心身があふれていたのです。
そこから漸くまた抜け出せたのです。
金さんのメールを読んで、それに気づきました。

しかし問題は、最近、自分の「やる気ボタン」を押してくれる人がいないことでした。
そのせいか、先日、金さんと佐々木さんがやってきた時に、ついつい弱音をはいてしまったようです。
もしかしたら、それを心配して金さんはエールを送ってくれたのかもしれません。

同封されていたクリスマスカードに、こんなことが書かれていました。

佐藤さんがなさっている仕事はすぐには結果が出なくても当然なものなので、元気を出してください。来年もエネルギッシュな佐藤さんに会い、刺激を受けるのを楽しみにしております。

私も、どうやら「やる気ボタン」を押す立場から、押される立場へと移る時期に来たようです。
しかし来年は、もっと自らの元気を取り戻さなければいけません。
節子がいなくても、それができるようにならないといけません。

■1934:「すばらしく豊かな時間」(2012年12月18日)
節子
先月、節子の友だちの野路さんからリンゴが送られてきました。
すぐにお礼の電話をしたかったのですが、あいにく胃腸炎でダウンしていて、電話をしないままになっていました。
その後、何回か電話したのですが、ご不在でした。
野路さんは前にも書きましたが、いまリハビリ中で、たぶん夫婦で散歩に行っているか病院かなと思いながらも、うまくタイミングが合わずに、今日になってしまいました。
幸いに今日、電話したら、つながりました。
しかし、野路さんご本人ではなくて、娘さんでした。
野路さんご夫妻は、やはり散歩に出かけていました。

野路さんの記憶もすこしずつ回復されているようです。
とてもうれしい限りです。
娘さんと話しながら、ゆっくりと散歩している、幸せそうな野路夫妻の様子が目に浮かんできました。
私も病気になった節子と一緒によく散歩しましたが、その歩きのテンポは想像もしていなかったほどの「ゆっくりさ」でした。
最初はついつい私だけ足を速めがちでしたが、節子のリズムに合わせるようになると、そのゆっくりした歩調が、実に快くなってきました。
それはとても不思議な時間でした。
たくさんの人が私たちを追い越していく。
時間がまったく違うのです。もちろん風景も。
あの快感は、なんだったのでしょうか。
しかしおそらくもう二度と味わうことはないでしょう、
そんなことを思い出していました。

野路さんの娘さんは、野路さんのことに触れたこの挽歌を前に見つけて、読ませてもらったと話してくれました。
どの記事でしょうか。でも目にとめてもらってうれしいです。

野路さんご夫妻は、きっとすばらしく豊かな時間を過ごされているのでしょう。
そう思います。

人はみんな、「すばらしく豊かな時間」に恵まれています。
それに気づくかどうか、それが人生を豊かにするかどうかの分かれ目かもしれません。
節子と、ゆっくりと散歩した、あの時も、「すばらしく豊かな時間」だったのです。
そして、節子を見送ってから、毎日、挽歌を書ける今も、「すばらしく豊かな時間」なのです。
私も、「すばらしく豊かな時間」をもっと楽しまなければいけません。
しかし、なかなかそう思えないのは、なぜでしょうか。
人の欲深さは、際限がありません。

■1935:悪がきどもとの忘年会(2012年12月19日)
節子
今年も忘年会の季節ですが、なかなかまだ参加する気になりません。
どこかで無意識に、忘年会のお誘いを断れるように、なにかと用事をいれてしまっているようで、今のところまだ一度も忘年会には参加していません。
それに私があまり忘年会を好まなくなっているのを知ってか、お誘いも減っています。
しかし、今日は忘年会です。
私の都合に合わせて日程を決められてしまったので、参加しないわけには行きません。
しかし、その後、幸か不幸か、用事ができてしまったのです。
さて悩むところです。
用事をとるか、忘年会をとるか。
で、最初に決めた忘年会を選択することにしてしまいました。
それでもう一つの集まりは年明けにしてもらいました。

忘年会といっても、小学校時代の悪がきの集まりです。
私はあんまり付き合いたくない連中ですが、なぜか付き合ってしまいます。
みんなも、修などとは付き合いたくないといっているくせに、やってきます。
まあ幼馴染などというのは、そんなものなのでしょう。
それに会っても面白いことなどありません。
私は、過去の話と病気の話が嫌いなのです。
孫もいないので、孫の話も参加できません。
では何を話すのか。
話すことなど、ないわけです。
だから忘年会は嫌いです。

今日集まるメンバーはみんな節子も知っています。
サロンにも何回か来ていますし、そこで勝手な私の昔話もしているはずです。

今日は私のことを思いやって、湯島にまで来てくれての忘年会です。
私は下戸ですが、彼らはみんな酒豪ですので、飲みだすと荒れかねません。
以前、やはり近くの懐石料理屋さんに行ったのですが、あまりに大騒ぎするので、そのお店にはその後行きづらくなったほどです。
まあみんなが集まると、小学校時代に戻ってしまった気分になって、とんでもないことになるわけです。
まともなのは私だけです。
というか、みんなそれぞれにそう思っていますので、始末が悪いのです。

さて、そろそろ行きましょう。
よほど暇なのか、その一人は始まる1時間前なのに、もう着いたので早く来いと電話がかかってきました。
早く来ないと酔っ払って、どうなるかわからないというのです。
ほんとに蹴飛ばしてやりたい気分です。

節子
まだこの悪がき連中と縁が切れないでいます。
困ったものです。
友達は選ばないといけません。
彼らとの付き合いは、現世だけにしたいものです。

■1936:あったかい関係(2012年12月20日)
節子
入院していたユカが退院しました。
私につづいてユカ、そしてもしかしたら、その次はチビ太かもしれません。
最近どうも元気がありません。
お医者さんからは2年前に、引導を渡されてはいるのですが。
心配の種は尽きません。

昨日の忘年会でもいろいろと心配事が交わされました。
まあ、この歳になると、心配事がないのがおかしいわけですが、それぞれに言葉にはなかなかできない心配事があるようです。
もっとも、心配事があることは決して悪いばかりではありません。
それが一種の緊張感と表情を人生に与えてくれるからです。
それに心配事は、言葉にした途端に、自分のものとは違うものになりかねません。
そのせいもあって、なんとなく分かり合いながら、なんとなく気遣いながら、深くはお互いに突っ込まない、あいまいなやりとりが続きます。
もっとも、表面上の言葉のやり取りは、子ども時代さながらに激しいのですが、そこにはあったかい空気が流れています。
幼馴染の場とは、とても不思議な場です。
言葉にしなくても相通ずるところがあります。
それは夫婦の間の空気と、少し似ているかもしれません。

ここにくるとなんだか落ち着いて安心する、と別の忘年会を止めてまで、やってきた一人が言いました。
すかさず、じゃ、いつもは安心せずに緊張しているのか、と憎まれ口が出てきます。
もう一人が、別に普段は付き合っていないのに、年に1度会わないと「胸の痞え」がとれないと言いました。
あんまり付き合いたくない関係だもんな、とこれも憎まれ口。
「胸の痞え」ってなんなのか、よくわかりませんが、彼は毎年、そういうのです。
それに、彼は盛んに「おれたちは付き合いなどしていないし」と口に出します。
たしかにみんな「付き合っている」という感覚はありません。

普段はそこにいなくても、どこかにいるから安心だというわけです。
さてそこで、ついつい節子もそうだなと思うわけです。
節子は今は普段は私の隣にはいませんが、だからと言って、いなくなったという感覚はありません。
普段会えなくてもいいという、幼馴染の感覚で言えば、同じことかもしれません。

人は、一度、誰かを愛すると、そして人生を深くシェアすると、それが永久に続くのかもしれません。
隣にいなくてもさびしくないとは言いませんが、隣にいるかどうかは、もしかしたら大事なことではないのかもしれません。
もちろん隣にいまもいて欲しいですが。

■1937:べったり夫婦(2012年12月21日)
節子
東京新聞のコラムに、白洲夫妻のことに言及したコラムがありました。
白洲夫妻はべったりした関係ではなく、それぞれが自由に生きていたというようなことが書かれていました。
たしかに、白洲正子さんも白洲次郎さんも、それぞれの世界をしっかりと生きた人でした。

それを読んで、私たち夫婦は「べったりした関係」だっただろうかと考えました。
この挽歌を読んでいる人には、たぶん「べったり夫婦」とうつっているかもしれません。
私自身、そう思っている風があります。
しかし果たしてそうだったかどうか。

私たちは、お互いの生き方を尊重し、基本的には干渉しあうことはありませんでした。
もちろん相手の行動に意見を言うことは多かったのですが、「干渉」とはお互いに意識していなかったと思います。
節子の行動に関して、私が反対したこともないわけではありません。
それは、危険性を感じた場合ですが、だからといって、節子が予定を変えたことはありませんでした。
節子は友人と旅行に行ったり、好きな習いごとをしたりしていました。
むしろ私のほうが、一人で、あるいは友人と旅行に行くことは少なかったのですが、それは私の個人的好みの問題です。
私は、そもそも旅行が好きではないのです。
しかし、その点では外部から「女房べったり」とも見えたかもしれません。
節子でさえ、時にそう言っていました。
あなたももう少し他の人と旅行にでも行ったら、と。
女性との付き合いに関しても、節子は、私だけではなく、たまには誰かと付き合ったらと言うほどでした。
もっともそれは、私が決してそんなことをしないだろうと思っていたからかもしれません、

それでも節子が発病してからは、間違いなく「べったり夫婦」になりました。
一緒に過ごした時間が多かったというよりも、意識において、完全に「べったり」だったのは間違いありません。
その4年半は、2人だけの世界に生きているといってもよかったかもしれません。
節子が幼馴染みや友人たちと会う時にも、私は同行しました。
そのおかげで、節子のことを私はさらによく知ることができましたし、もし節子が元気でいつづけられていたら、家族付き合いも続いたかもしれません。

病気になる前の私たちは、実はそれほど「べったり夫婦」ではなかったように思います。
少なくとも、結婚した当時の私の夫婦観は、それぞれの世界をしっかり持った関係でした。
節子はむしろそれに戸惑っていました。
しかし、いつの間にか、その夫婦観は変わってしまいました。
次第に私は、節子にべったりと依存するスタイルになってしまったのです。
逆に、節子は自立する方向に変わりました。
なぜそうなってしまったのか。
女性にはやはり勝てません。
節子にすっかり飼育されてしまったのでしょうか。
いやはや困ったものです。

■1938:年末と言う気がしません(2012年12月22日)
節子
今年も残すところ数日になりました。
ユカが入院したこともあって、今年は年越しの準備が手付かずになっています。
庭の植木の刈り込みもやる予定でしたが、ユカの入院を口実に年明けのばしてしまいました。
大掃除も手抜きになりそうです。
それはともかく、年末という感じがまったくないのです。
困ったものです。

節子もジュンもいた頃の年末年始は、いつもにぎやかでした。
両親がいた頃はもっとにぎやかで、私も買い物にまで借り出されたものです。
年末年始は、私にとっても家事に引きずりださえる忙しい時でした。
しかし、両親がいなくなり、節子がいなくなり、そしてジュンがいなくなるにつれて、年末年始もさほど変わったことはなくなってきました。
おせち料理も簡単になり、来客は少なくなり、家族の人数とともに年末年始もとくにハレの日ではなくなってきています。
いささかさびしい気もしますが、それもまた人生の当然の流れなのでしょう。

最近は年末年始に、読書さえできるようになりました。
節子がいるころには考えられないことです。
しかし、今年はあんまり読書する気分になりそうもありません。
なんとなくそんな気がします。

節子がいなくなってからの6回目の年越えですが、年末のせわしなさもなければ、年の終わりの感激も起きてきません。
年を越えるということの意味がなくなってしまったのかかもしれません。
それが少しさびしい気がします。

■1939:彼岸と此岸を往来できる人(2012年12月23日)
節子
年末になるといろんな人から電話が来ます。
節子の知っている人が少なくありませんが、一番元気なのは大宰府の加野さんです。
もう80歳を超えているはずですが、実に元気です。
手作りの久留米絣を残すのが自分の使命だから、まだ死ぬわけにはいかないといっています。
ともかくエネルギッシュです。
この数年、お会いできずにいますが、以前書いたように、大日寺の庄崎さんを介して、もしかしたら節子とは毎月話をしているかもしれません。

今日のNHKの大河ドラマ「平清盛」には、死ぬ前後に清盛が西行に乗り移り、遺された者たちに働きかけをする場面がたくさん出てきました。
彼岸と此岸の往来は、最近でこそ難しくなりましたが、清盛の時代にはまだそう難しいことではなかったのかもしれません。
いまもまだ、庄崎さんのように、彼岸と此岸を往来できる人がいても不思議ではありません。そんな気がします。

もしかしたら、加野さんもそういう人かもしれません。
加野さんから江戸時代の石田梅岩の夢を見た話を聞いたことがあります。
その夢で石田梅岩のことを知り、本を読み、いまは京都で暮らしているその子孫の方にお会いに言ったそうです。
加野さんは、そういう不思議な方です。
節子も知っている加野さんの娘さんも不思議な人でした。
私が大宰府の加野さんのお宅をはじめて訪ねたのは、その娘さんの不思議な夢の話が縁でした。
その時は、節子はすでに発病していた時で、私一人で行きました。
いま思えば、無理をしてでも、節子と一緒に行けばよかったと思います。
もしかしたら、流れが変わったかもしれません。
しかし、その時には、すでに加野さんの娘さんは彼岸に旅立ってしまっていました。

加野さんの娘さんが亡くなる少し前から、福岡に戻った加野さんとのお付き合いが途絶えてしまっていました。
どういう契機でか思い出せませんが、なぜか加野さんのところを訪問しようと思ったわけです。
その前後のことが錯綜していて、なぜか思い出せません。
私のホームページには毎週、私の活動記録が掲載されています。
それを読んでみたのですが、なぜか私の記憶とは時間軸がかなり違っているのです。

しかし、いずれにろ、大宰府の駅前で花を買って、加野さんの家にお伺いしたことはたしかです。
なにしろ、私の人生において、花輪を買ったのは、この時が最初であり最後です。
手配は娘がしておいてくれたのですが。
そして、それ以来、またお付き合いが始まりました。
加野さんは、節子の病気のことを知り、その後、いろいろと心配りをしてくれましたが、もう少し早く私が状況を正確に伝えていれば、奇跡が起こったかもしれません。
しかし、その時には、そんなことは頭に一切浮かばなかったのです。
そして、まさか、加野さんが彼岸と此岸を往来できる人だとは思ってもいなかったのです。
それに気づかなかったのもまた、定めです。

来年は、福岡に行こうと思います。
加野さんの活動の主舞台が彼岸に移ってしまっては、困りますので。

■1940:景色の変化(2012年12月24日)
節子
家の窓から近くの斜面林の大きな木々が見えます。
風にゆっくりとそよぐ木々の間を、鳥が時々飛び回っています。
まだ4時を少しまわったばかりなのに、陽を受けて、とても心があたたかくなるような、きれいな色を見せています。
しかも、その色合いが刻々と変化していきます。
音もなく静かで、その色合いの移り変わりにしばし見とれていました。
こんなにゆっくりと、その一群の木々を見ていたのは久しぶりです。
いま4時半近くですが、急に夕映えの暖色系は後退し、全体が黒く沈みだしました、
その変化は急速です。
見ているだけで、心身が冷えていきそうです。

わが家は高台なので、リビングからも周辺の景色が少し見えます。
いつもはあまり気にしていないのですが、今日は少し時間をもてあまして、リビングで見るでもなく外の景色を見ていたのです。
隣の大きな屋敷の主人が亡くなったために、来年は、その大きな家の庭に何軒かの家が建つかもしれません。
ですから、この風景も、そのうちに見えなくなるかもしれません。
そう思うと、何かしみじみとその夕映えの風景を心に刻みたくなったのですが、夕陽がかげったせいか、なにやら冷え冷えとした風景に変わってしまいました。

普段はあまり意識していませんが、わが家から見える景色もいろいろとあります。
しかし、景色とは何でしょうか。
そこにあるものでしょうか、それとも見る人が創りだすものでしょうか。
おそらく見る人によって創りだされるものでしょう。
そして見る人によって、景色はまったく違ったように見えてくるのです。
いまもリビングでパソコンにこの文章を打ち込みながら、横を見ると30分ほど前まで見ていた風景と同じ風景が見えていますが、その景色はまったく違います。
心が冷えるような。とてもさびしく悲しい景色が、そこにあります。

たとえそこにあったとしても、意識しなければないのと同じです。
そして意識によって、その意味は変わります。
伴侶はどうでしょうか。
伴侶は「空気のような存在」と言う人がいます。
私も、そうした感覚を節子に持っていました。
その意味合いは、人によって違うでしょうが、私の場合は「かけがえのない不可欠の存在」という意味も含意していました。
もしそうなら、節子がいなくなったら、もう生きつづけられないのではないかと思ったこともあります。
しかし、節子を見送ってから5年以上経ちますが、私はまだ生きています。
つまり、節子はまだ存在しているのです。
見えないだけかもしれません。
景色がそうであるように、節子もまた、いまなお私の隣にいるのかもしれません。
見る人が景色を創りだすように、節子もまた、私が創りださなければいけないのです。

外はもうどんよりと、そして寒々としてきました。
こうして夜の帳が全てを消し去ってしまいますが、朝になればまた、景色は生き生きと輝きだします。
節子もそうだといいのですが。
いや、節子もそうなのかもしれません。

■1941:マジックワード(2012年12月25日)
節子
先日、野路さんのご主人から電話がありました。
野路さんが散歩に出かけていると聞いて、ついつい節子との散歩のことを思い出したと言ったら、思い出させてしまいすみませんでした、と言われました。
思い出させることは、謝ることではないのですが、こうしたやりとりは時々あります。
愛する人を見送った人にとっての、最高の喜びは「思い出すこと」なのです。
当事者でなければ、なかなか気づかないかもしれませんが。
いや、当事者もさまざまなかもしれません。
しかし、私にとっては、節子を思いださせられることはうれしいことです。
忘れることこそ、悲しいことなのです。

そうはいっても、5年もたつと節子の話題はそうは出てきません。
家族の中では、いまでも毎日のように節子の名前は出てきますが、家の外で「節子」の話になることは、まずありません。
それは当然のことでしょう。
それぞれに自分たちの世界があり、そこにはたぶん、その人にとっての「節子」が存在しているでしょうが、私がそれを話題にすることはないからです。
思い出すのは、家族の役割なのです。
その役割は、節子の場合はかなり守られています。
まあ時に、節子としては怒りたくなるような名前の出し方もありますが。
節子の名前は、わが家では何かをする時、あるいはしない時の「口実」に使われることが多いのです。

今日はクリスマス。
節子だったらケーキを作るだろうなと娘に言ったら、ケーキを作ってくれました。
わが家では、「節子」は、一種のマジックワードなのです。
「死せる孔明生ける中達を走らす」とまではいきませんが。

■1942:悲嘆の癒し(2012年12月26日)
節子
今日の寒さはまた格別です。
寒くなると、なぜか節子を思い出します。

死別によって遺された者の動揺や衝撃は、時間の経過とともに静まっていくが、悲しみや寂しさは、むしろ月日とともに、深く澱んで、折にふれては浮かび上がり、消えることはない、と竹内整一さんは書いています。
静まっていくが、消えることはないのです。
最近、改めてそう思います。
まもなく、6回目の新年を迎えようとしているのに、心身の寒さは一向に戻りません。

根源的な意味での「悲嘆の癒し」とは、悲しみを消すのでなく、むしろ悲しみを土壌にして、新しい「生きていく自分」をつくる仕事である、と、柳田邦男さんは『「死の医学」への日記』に書いています。
この種の本は、節子が病気になってからは読めずにいましたが、最近、漸く、読む気力が出てきました。
「遺された者にとって、死が辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕されるのだ」という、同じく柳田邦男さんの言葉も、最近は素直に心に響くようになってきました。
私も、少しずつですが、「悲嘆の癒し」を受けて、心が耕されてきているようです。
人の思いの向こう側も、最近は少し見えるような気がします。
それが生きやすいかどうかはわかりませんが、やさしさは高まっているように思います。
節子がいた頃よりも、もしかしたら「良い人」になってきているかもしれません。
悲嘆は、最初は自分だけの悲嘆ですが、深く沈むにつれて、他者の悲嘆も引き受けていきます。
他者の悲嘆を引き受けることで、自らの悲嘆を相対化していく。
グリーフケアは、そうした「悲嘆の癒し」なのかもしれません。
そして、やさしくなれます。
心は平安になっていきます。
しかし、寒さだけはやわらぎません。

今日もまた、あまりに寒く、まだ「新しく生きていく自分」の芽を出せずにいます。
寒さに凍えなければいいのですが。
それにしても、6回目の冬は寒すぎますね。

■1943:繕いのあるセーター(2012年12月27日)
節子
娘たちが節子のクローゼットの整理をしてくれました。
私が、これまでしないように頼んでいたのだそうです。
きちんと言葉で言ったつもりはないのですが、なんとなく娘たちはそう感じていたようです。
今日、ある事がきっかけで、娘たちに整理を頼んだら、そういわれました。

いろんなものが出てきました。
一度も着たことのない服もあったようです。
バッグもたくさん出てきました。
ブランド物はひとつもないので、商品価値はありませんが、友人からもらった手づくりのバッグや節子が作ったバッグもありました。
衣服の中に一つ、私にも見覚えのあるセーターがありました。
レトロ好きのジュンが、いかにも昭和の感じがするといって、自分で着ようかと思い、良く調べたら、いくつか虫食いがあり、それを繕っているのに気がついたというのです。
それこそ昭和レトロだよと勧めましたが、ジュンはちょっとまだ躊躇しています。

このセーターは、私たちが結婚したてのころ、節子が来ていた記憶があります。
節子のファッションセンスは、私には少し問題ありという感じでしたが、このセーターはシンプルなので私好みでした。
それにしても、節子は物持ちがよかったというか、捨てる文化がなかったのか、洋服もバッグもたくさんありました。
困ったものです。
衣服の多くは廃棄し、一部はキロ単位で引き取ってくれる古着屋さんに持っていくそうです。

寝室には、まだ節子のベッドがありますし、節子の鏡台や手紙好きの節子の状差しは、まだそのままなので、部屋の雰囲気はあまり変わってはいませんが、こうして少しずつ節子の残したものが消えていきます。
そして、まもなく、同じように私の残した物もなくなっていくのでしょう。
しかし、夫婦と親子は違います。
私の物は、できるだけ残さないように、生前処分に取りかからなければいけません。
来年は、それが私の最大の課題です。

さて今日はまた昨日よりも寒いです。

■1944:聖地を歩くこと(2012年12月28日)
節子
闘病中の節子に洋菓子を送ってきてくれていた鈴木さんが湯島に来ました。
鈴木さんは、インドのアシュラムで修業したこともある、ちょっと現世離れした人です。
サンチャゴ巡礼もしてきました。
サンチャゴといえば、私たちは歩いたことはありませんが、ちょっと節子にも思い出のある巡礼路です。

鈴木さんはいまはある雑誌の副編集長です。
最初は、あの仙人のような鈴木さんがと思っていましたが、もう10年以上続いています。
その間、休暇をとって3年ほどでサンチャゴを踏破したのです。

その鈴木さんに、仕事をやめたらどうするのかと質問しました。
いささか失礼な質問ですが、私には興味のあることなのです。
鈴木さんの答は「歩きたい」でした。
鈴木さんは世界各国を歩いていますが、2つの歩きが心に残っているそうです。
サンチャゴ巡礼路とネパールでのトレッキングです。
いずれの場合も、聖なるものとの交流を感じたようです。
聖なるものとっても、その道や自然環境だけではないようです。
世界各国から集まってくる多様な人が持ち寄ってくる「聖なるもの」に、鈴木さんは魅了されたようです。
聖地は、さまざまな魂が時空を超えて集まるからこそ、聖地なのです。
鈴木さんの感覚がよくわかります。

歩いてどうするの、とあえて愚問をぶつけました。
答は聞くまでもありません。
何かのために歩くのではありません。
歩くことに意味がある。歩くだけでいいのです。
私が思っていた通りの答が鈴木さんから帰ってきました。

私はサンチャゴ巡礼路も四国の巡礼路も歩きたいとは思っていません。
節子が病気になった時には、節子が元気になったら一緒に歩こうと思っていましたが、今はその気はまったくありません。
今の私には、いまここが「聖地」なのです。
正確に言えば、いまここを「聖地」と思えるということです。
あるいは、これまで歩いてきたところが、「聖地」に感じられるのです。
もちろん、いわゆる聖地に立つと、心が大きないのちにつながる感じはします。
時を経た仏像の前で手を合わせると、聖地の入り口を感じます。
しかし、節子のおかげで、いまはどこでも聖地とのつながりを感じられるようになってきました。
大仰に言えば、今の私は、巡礼路を歩いているような気が、時にします。
鈴木さんと話していて、改めてそのことを実感しました。
でも一度くらいは、節子と聖なる巡礼路を歩きたかったと思います。

■1945:大日如来のすす落とし(2012年12月29日)
節子
今日はジュンにも来てもらっての大掃除です。
その一環で、節子を守ってくれている大日如来のすす落としをしました。
如来の右側にはキスケ3兄弟が、右側には月光菩薩がいます。
この月光菩薩は、私が好きだった東大寺三月堂の月光菩薩のレプリカです。
大日如来は、スペインタイルをやっている娘のジュンがつくりましたが、眼は家族3人で入れて、お世話になっている宝蔵院のご住職に魂を入れてもらいました。
私は、在宅している時には毎朝、この仏様の前で般若心経を唱えさせてもらっていますので、そのあげ方を見ていてたぶん私の本性を見透かしていることと思います。

今年も余すところ2日になりました。
今年はわが家にも、私にも、いろいろと難事がありましたが、この柔和な大日如来のお加護に支えられて、みんな元気に年を越せそうです。
冬を越せるかどうか危ぶまれていたチビ太も、お医者さんが薬を2か月分も出してくれましたので、もうしばらく大丈夫のようです。
最近は寝たきりチビ太のストレッチ体操もやっていますが、幸せそうです。
来年も大日如来のお加護を念じています。

■1946:「みずから」と「おのずから」の「あわい」(2012年12月30日)
節子
東尋坊の茂さんと川越さんから、美味しいお餅が送られてきました。
今年後半はお会いする機会がなかったのですが、東尋坊で自殺防止の活動を続けています。
茂さんたちとのこんなに深く付き合うことになるとは思ってもいませんでしたが、それは節子も一緒に食べた東尋坊での美味しいお餅が始まりだったのです。
その美味しいお餅が届きました。

東尋坊で、茂さんたちと出会ったのは、節子が旅立つちょうど1年前でした。
なぜ東尋坊に行ったのか、そしてなぜ思いがけずに茂さんたちと出会ったのか。
考えてみると、そういう不思議なことはたくさんあります。
日本人は「みずから」と「おのずから」の間を生きていると、竹内整一さんは言っていますが、私の人生もそのとおりでした。
東尋坊に行ったのも、そして車を降りたその前に茂さんたちが偶然にいたのも、「みずから」と「おのずから」の「あわい」の結果でしょう。
節子がいなくなった空隙をうめるように、この活動に誘い込まれました。

「みずから」と「おのずから」の「あわい」。
人生を振り返れば、そうしたことがたくさんあります。
節子との最初の出会いも、そのひとつですし、結婚もそのひとつです。
そうであるならば、節子との別れも、そうかもしれません。

まさか節子がいない世界に、これほど生きるとは思ってもいませんでしたが、それもまたそうかもしれない。
天は慈愛に満ちていると同時に、非情でもあります。

節子
今年もユカが花を生けてくれました。
昨年と違って、今年はかなり抑え目ですが、ユリをたくさんいれてくれました。
大掃除はまだすんでいませんが、ジュンも手伝いに来てくれています。
大掃除のたびに、節子の残したものが、少しずつ消えていきますが、ゆっくりと消えていくので名残惜しさを味わえるようになって来ました。

「みずから」と「おのずから」の「あわい」のなかで、私の世界も動いています。

■1947:今年も何とか年を越せます(2012年12月31日)
節子
今年も終わりです
今年は散々な年でした。
でもどうにかみんな元気で年越しです。
先ほど、ジュンたちがきて、みんなで年越し蕎麦を食べました。
病み上がりのユカも、この3日間、がんばって大掃除でした。
お墓参りもみんなで行ってきました。
娘たちが、お煮しめとおなますをどっさり作ってくれました。
節子の残した文化はまあ続いています。
大晦日はテレビなど見る時間もないのが、わが家の文化でしたが、その文化も続いています。

今年は、私自身もいろいろとありましたが、さまざまな気づきのあった年でもあります。
節子から学んだことは実に多いです。
それにしても、節子のいない世界に、こんなに長く留まることになろうとは思ってもいませんでした。
節子のいない大晦日は、とてもさびしいです。

■1948:みんなの幸福(2013年1月1日)
節子
今年も初日の出は雲が多くて、すっきりしませんでした。
気のせいか、節子がいなくなってから、こういうことが増えた気がします。
今日は家族みんなで子の神様に初詣しました。
年々、賑わってきていますが、幸せそうな表情があふれていて、初詣の場にいるだけで幸せになります。

昨年、ある本で宮沢賢治の「薤露青」という詩を知りました。
この詩は、下書されたのち、全文を消しゴムで抹消されたものだったのが、後で研究者の手により判読され詩集などに収められたものだそうです。
「薤露青」とは難しい文字ですが、「薤」は「にら」です。
薤(にら)の葉についた露の青さということですが、人の世のはかないことや、人の死を悲しむ涙のことを指すのだそうです。
そして、「薤露」には「挽歌」の意味もあるそうです。

賢治は、妹のトシをとても愛していました。
その病状を歌った「永訣の朝」は、私も節子も、とても好きな詩でした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/11/post-aaab.html
トシを見送った後、賢治はいくつかの挽歌を書いていますが、これもそのひとつです。
トシの死から賢治はなかなか立ち直れないのですが、すべての人の幸せを願っていたのに、自分の愛する妹の死を悲しむ自分に悩みます。
こんな詩も残しています。

あいつがいなくなってからのあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます(青森挽歌)

そして、「薤露青」ではこういうのです。

 あゝ いとしくおもふものが
 そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
 なんといふいゝことだらう……

個別トシへの執着が、「みんなの幸福」へと深められたのです。
このフレーズの最後の1節に関しては、「ほんとうのさいわいはひとびとにくる」という異論もあるそうです。
ホームページにも書きましたが、この賢治の気持ちが、「銀河鉄道の夜」へと深まっていくわけです。
そして、「あらゆるひとのいちばんの幸福」さがしの農民生活運動へとのめりこんでいき、あの有名な真理に到達します。
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
節子を見送る前の私が、自らの生き方の基本に置いていた言葉です。
しかし最近、この言葉を忘れがちになっていました。
節子がいなくなって、「幸福」という言葉が、私にはまぶしすぎて、語れなくなったからです。

先日、この詩に出会って、この数年の私の迷いがとてもすっきりしました。
賢治がトシを愛したのは、みんなを愛していたからなのです。
トシを愛していたからこそ、みんなを愛し、その幸福を願えたのです。
私の、節子への愛は、私を呪縛しているのではなく、私がみんなを愛し、その幸福を願う思いの源泉なのだと、改めて実感しました。

今年からまた、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という言葉を、肝に銘じて、生きていこうと思います。
それが、節子を愛し続けることなのですから。

賢治が呪縛から抜け出たように、私も漸く跳べそうです。

■1949:愛が死を超える(2013年1月2日)
年末起こったあることで、映画「マトリックス」を急に観たくなりました。
私が記憶している世界は、果たして現実なのだろうかと改めて思ったからです。
年末年始の用事の合間をみて、3部作を見ました。
前回観た時にはまったくそういう印象はなかったのですが、これは愛の物語でした。
最後に残るのは、「生命とは愛」というメッセージです。

ネオとトリニティは、この映画の3人の主役のうちの2人です。
2人は愛し合っていますが、前回見た時には、私にはあまり関心のない要素でした。
しかし、この物語の基調は、愛だったのです。
愛が奇跡を起こし、愛が論理を破るというわけです。
もっと具体的に言えば、愛が死を超えるということです。
映画の中では、愛が死者を蘇らせます。
トリニティがネオを、ネオがトリニティを、です。
あまりにも陳腐なシーンなので、これまでは印象にも残らなかったのです。
しかし、今回はそのメッセージがなぜか心に響きました。
生命は死を超えているというメッセージなのです。
それは、「大きな生命」につながります。
世界全体が生きているオートポイエーシスなシステム。
そして、生命の「愛」こそが、そのシステムのアノマリー(変則要素)。
とてもわかりやすい話です。

アノマリーから世界をみると、世界は一変します。
いのちは「生まれてから死ぬ」と、一般には思い込まれています。
これは時間とは不可逆的な流れだという前提に立った発想です。
しかし、愛はその制約を受けることはありません。
愛に包まれた彼岸においても、時間の流れは融通無碍だとされています。
いや、時間も空間も一点に凝縮されているのが彼岸です。
彼岸は、時空間を失った「大きな生命」でもあります。
そうした「大きな生命」には、時間の前後はありません。
そこには生も死もない。
そのことは以前からうすうす感じていたのですが、「マトリックス」を観て、改めて納得しました。
愛は、個別の生死を超えているのです。
それがわかると平安が戻ってきます。
さびしさは変わりませんが。

死者を蘇られせることはさほど難しいことではないのです。
深く深く愛すればいい。
あらゆるものを、すべて深く愛すればいい。
まさに昨日書いた宮沢賢治がたどりついた世界です。
この映画を観たくなったのも、もしかしたらマトリックスが仕かけたのかもしれません。
それにしても、映画マトリックスにはノイズが多すぎます。
節子にはまったく不向きな映画です。
しかし、画面の向こうにずっと節子を感じながら観ていました。

■1950:死の中にも生がある(2013年1月3日)
節子
昨日、挽歌を書きながら思い出した文章があります。
吉田兼好の「徒然草」の第155段です。

 春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来たるにはあらず。
春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月(かみなづき)は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下より兆しつはるに耐へずして落つるなり。
迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ち取るついではなはだ速し。
生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。
四季はなほ定まれるついであり。
死期(しご)はついでを待たず。
死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる。
沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。
(現代語訳)
 四季の移り変わりにおいても、春が終わって後、夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。春はやがて夏の気配を促し、夏にはすでに秋が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、十月は小春日和で、草も青くなり梅もつぼみをつける。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて芽ぐむのではない。下から芽が突き上げるのに耐え切れなくて落ちるのだ。次の変化を迎える気が下に準備しているために、交替する順序がとても速いのだ。生・老・病・死が次々にやってくるのも、この四季の移り変わり以上に速い。四季には決まった順序がある。しかし、人の死ぬ時期は順序を待たない。死は必ずしも前からやってくるとは限らず、あらかじめ背後に迫っている。人は皆、死があることを知りながら、それほど急であるとは思っていない、しかし、死は思いがけずにやってくる。ちょうど、沖の干潟ははるかに遠いのに、急に磯から潮が満ちてくるようなものだ。

死もまた、時間を超えています。
しかし、今日、書きたいのはそのことではありません。
実は時間は重なっているということです。
徒然草のこの文章を竹内整一さんはこう読み解いてくれます。

春が終わって夏が来るのではない。夏が終わって秋が来るのではない。夏の中には、すでに秋の気というものがあって、それがだんだんと広がって、いつの間にか秋になる。
兼好は、このように季節の移りゆきを観察した後、人間の生き死に、生老病死も同じだと言っています。

つまり、「生が終わって死が始まるのではなく、生の中にすでに死が始まっている」というわけです。
これを「死の中にも生がある」と読むこともできるでしょう。
愛と生と死は、どうも同じものの一面なのかもしれません。
愛がなければ、生も死も単なる物理現象にとどまるかもしれません。
今年も、挽歌を書き続けようと思います。

■1951:今朝の日の出は見事でした(2013年1月4日)
節子
毎年、元日にお墓参りに行くのですが、今年は4日になってしまいました。
大晦日に供えた花がまだ元気でした。

今年の三が日は寒かったですが、快晴のおだやかな3日間でした。
元日の朝の初日の出は雲の上からでしたが、2日と今日は見事な日の出でした。
4日間、毎日、日の出を見ていました。
初日の出はホームページに載せたので、ここでは今日の日の出の写真を掲載します。

年賀状も届きましたが、まだほとんど読んでいません。
今夜から読み出して、明日、返事を書こうと思います。
年賀状は、節子がいなくなってからは、年が明けてから書くことにしました。
メールをやっている人には、メールでの返信です。
そのかわり、一通一通に個人宛の文章を書くようにします。
節子は、私のパソコンで打ち出す年賀状には心がこもっていないと言っていました。
宛先は手書きで書かないとだめだとも言っていました。
たしかにそのとおりです。
最近それがわかるようになりました。

ホームページに、新年のあいさつや近況報告を書き込みました。
明日から日常に戻る予定です。
節子がいないお正月は、何をしても充実感がありませんでした。

■1952:福袋の思い出(2013年1月5日)
節子
今朝早くユカに頼んで車で湯島に行ってきました。
節子がいる時には、これは私たちの最初の共同作業でした。
湯島のオフィスの掃除と荷物の片付けです。
その役を今年はユカが引き受けてくれました。

節子のときは、朝食もせずに湯島に行き、そこでトーストと珈琲の朝食でした。
節子はなんでも楽しいイベントにしてしまいました。
我孫子から湯島までは1時間ほどですが、渋滞に巻き込まれたり、道を間違ったり、いろんな思い出があります。
道沿いの風景も、20年もたつと変わってしまっていますが、そこかしこに記憶が残っています。

自動車で行かずに、電車で行ったこともあります。
先日、福袋について批判的なことを書きましたが、私たちも一度だけ福袋を買ってしまったことがあります。
上野で降りて、そこから湯島に行く途中、上野松坂屋の前に長い行列が出来ていました。
何ですかと並んでいる人に訊くと、福袋を買う行列だというのです。
まったく福袋には関心がなかったのですが、なぜかその時は、2人とも「その気」になってしまいました。
行列はすでに動き出していたので、その最後について、初めてで最後の福袋を買ってしまいました。
それも2人が、一つずつです。
1万円でしたが、なにやら大きな布袋に入っていたのを覚えています。
中身は何だったのか記憶にありませんが、今も娘から笑われてしまっています。
私たちは、いつもは偉そうなことを言っているわりには、現場に居合わせてしまうと、その流れや雰囲気に乗りやすいタイプなのです。
中身はたぶんゴミとして処分されたのですが、袋だけはなぜか今も残っています。
節子にとっては、並んで福袋を買うという行為が楽しかったのかもしれません。
私も初めての体験で、新鮮でした。
まさに、それこそが「福袋」なのでしょう。
その年に、私たちに福がきたかどうかは、これまた記憶がありません。

湯島のオフィスに久しぶりに行った娘は、その散らかりように驚いていました。
それはそうでしょう。
考えてみると、節子がいなくなってから、掃除らしい掃除をしたことがないのです。
スリッパも季節はずれのスリッパだと怒られました。
節子がもし彼岸から見ていたら、さぞかし嘆いていることでしょう。
しかし、このオフィスも間もなく25年目です。
椅子もテーブルも、ちょっと傷んできました。
25年でこのオフィスは終了する予定だったのですが、いまはいろんな人たちに開放してしまったので、勝手には閉鎖しにくくなってしまいました。
椅子の破れを繕いながら、もう少しこのままで我慢しようと思いますが、せめて掃除だけはもう少しきちんとやろうと思います。
節子がいないと、何かと大変です。

■1953:色即是空 空即是色の6日間(2013年1月6日)
節子
今日、届いていた年賀状を読みました。
そして、メールをやっている人には全員に返事を送りました。
そうしたら、それにまた返事が来て、今日はほぼ1日、それにかかりきりでした。
メールをやっていない方への返事は、明日になりそうです。

年賀はがきではわからないやりとりがメールだとできます。
それが、私は気にいっています。
メールが始まって、年賀状の文化はかなり変質したように思います。
節子には反対されそうですが、私はやはり何よりもライブなのがいいです。

この挽歌の以前の読者からも初めて年賀状が届きました。
ホームページの読者からも届きました。
そうした新しいつながりを生み出してくれる面があります。
節子の友人知人からも年賀状をもらいました。
私も面識のある人たちですが、少し不思議な気もします。

しかし、気がついたら今日は日曜日です。
日曜日はホームページ(CWSコモンズ)を更新日です。
それができていないのに、いま気づきました。
それにしても、年が明けてから今日まで一瞬のような速さでした。
何もしないままに、日曜日が来てしまった気がします。
これも何かの意味があるのかもしれません。

年明けに、宮沢賢治を読んでいましたが、今日は久しぶりに、般若心経を読みました。
新井満さんの自由訳も、合わせて読みました。
少しずつですが、般若心経に感覚的になじみができてきました。
もう少し心が澄んでくれば、彼岸の節子へも年賀状が出せるかもしれません。
いや、その前に、節子からの年賀状を受け取れるかもしれません。

この6日間は、魂を飛ばしていたような、そんな空白感があります。
色即是空 空即是色を実感していたともいえます。
明日から現世の今年をスタートさせます。

■1954:天地に包まれたあたたかさ(2013年1月7日)
節子
10年以上前に途中で挫折していた、桑子敏雄さんの「気相の哲学」を読み直しています。
小説ならば1日に500頁くらいは一気に読めるのですが、この本はなんと50頁読むのに3日もかかっています。
それでもよく理解できないのです。
しかし、とても共感できる文章に、時々、出会います。
たとえば、こんな文章です。

すべての生命は、さまざまなエネルギー状態にある気によって構成されており、これは人間でも他の生命でも同一であるということができるでしょう。どのような生命も孤立し閉じた系ではなく、環境と気の交換を、つまりエネルギーと物質の交換を行ないながらその恒常性を維持しているのです。

ここで「環境」という言葉は、朱子の言葉では「天地四時」という表現になっています。
略して、ただ「天地」と表現されることもありますが、私はこの言葉がずっと気になっていて、それで今回も読み直すことにしたのです。
「天地」は、一言で言えば、時空的な自然環境をも含めた世界です。
「自然環境をも含めた」と書きましたが、物理的な意味での自然環境にとどまらず、むしろその中心には、価値や意味が込められた機能的時空間なのです。
環境そのものが「生きている」といってもいいでしょうか。
さらに言えば、人間、つまり私も含められているのが、「天地」です。
オルテガは、「私は、私と私の環境である」と言いましたが、それにつながっています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/07/post-3ede.html

人は生きているのではなく、生かされているのだ、と仏教ではよく言われます。
この表現は、納得できるのですが、どこかに違和感があります。
本来は、「共に生きている」という「共生き」というのが、正しいのかもしれません。
「生かされている」と言ってしまうと、「生かしている誰か」と「生かされている自分」とが、切り離されてしまうからです。
これは、大きな生命という考え方には反する。西欧近代の発想です。

一昨日、この挽歌にコメントがありました。
以前書いた挽歌の中に「共生き」という言葉が出ていたのですが、それに関する照会でした。
改めて「共生き」についても、少し考え直してみようと思い出しています。

今年も、「天地四時」に包まれた、あたたかな生き方に、素直に随おうと思います。
よやく年賀状の返事を書き終えました。
節子がうるさく言っていたように、宛先も手書きにしましたが、寒くて手がこごえていて、うまく書けない上に、漢字を忘れていて、書き違えたものもあります。
書き違えもまた意味があると、そのまま出してしまいましたが。
5日間、時間を超えていたのですが、その後は時間に追われています。

■1955:とても良い天気です(2013年1月13日)
節子
また挽歌がたまってしまいました。
たまっているのは挽歌だけではなく、さまざまなものがたまっています。
どうも生活のリズムが戻ってきません。
決して時間がないわけではありませんし、気持ちがないわけでもありません。
しかし「やろう」という気が起きてこないのです。
精神的に病んでいるのかもしれません。
あるいは、そういう時期なのかもしれません。

いま世間は三連休です。
私には無縁のことですが、三連休のおかげで、昨日から何もせずに在宅できています。
いまも日差しの入ってくるリビングルームのテーブルの上に、古いデスクトップのパソコンを置いて、この挽歌を書き出しました。
来客が来たら大変ですが、この三連休はたぶん世間から遮断されて生活できるでしょう。

目の前に娘が正月用にと活けてくれた松入りの花があります。
大きなゆりがたくさん咲いています。
見ていると、どことなく節子が活けた花と感じが似ています。
もう10日以上たちますが、元気です。

いまは私一人ですが、とても静かで、この静かさには心休まります。
雲一つない快晴で、強い日差しを見ていると元気が出てきそうな気もします。
しかし、元気の隣にはさびしさや悲しさがあることを、この頃、強く実感していますので、その日差しの中に出て行く気にはなりません。

今日は少したまっている挽歌を書くことにしようと思います。
節子がいたら、まさに外出日なのですが。

■1956:生意の蔵(2013年1月13日)
節子
以前、読み出して途中で挫折していた「気相の哲学」を昨日、読み終えました。
難解でしたが、ノートをとりながらゆっくり読みましたので、少しは理解できたと思います。
朱子学を踏まえた、西洋近代の発想とは違う哲学で、共感できることが多かったです。

その本で、「生意の蔵」という言葉を知りました。
朱子学では、四季の変化による生命の四相という秩序を重視します。
つまり時間とは、いのちが発生し、成長開花し、結実し、保存するという生命の四相による秩序なのです。
その時間秩序に随って生きていくことが大切だというのです。
なぜなら、私たちの心身は、空気や水というものを通して環境と循環的につながっており、生命の四相は環境の循環秩序に呼応しながら、それ自体も時間的に循環しているからです
そうした四相の時間的秩序において、春は「生意の生」、夏は「生意の長」、秋は「生意の成」、冬は「生意の蔵」ともいわれているそうです。
いのちは、春に生まれ、夏に成長し、秋に成熟する。
そして、冬にはその成熟したいのちを、次のいのちにつなげていくために、しっかりと蔵するというわけです。
植物を考えてみれば、わかりやすいですが、動物においても、そして人間においても、納得できる話です。
私たちは、無機質な時間の世界を生きているのではなく、それぞれに意味のある秩序化された時間の世界を生きているのです。
そうした時に随って生きることが、大切なのです。

冬は「生意の蔵」。
自然の流れにできるだけ身を任せて生きるようにしている私にとっては、なにやら安堵できる言葉です。
冬は身をこごめて、思いや活動を熟成させる時期だと考えると、最近の怠惰さも、なにやら意味あるもののように感じます。
怠惰になるのも、意味があるのです。
春になったら、溜め込んだいのちは、おのずと勢いを得て、育ちだすだろうと思えばいいのです。

これは1年の四季だけの話ではありません。
人の一生にもまた、当然、同じことが言えるでしょう。
人生にはいつか冬が来る。
大きな意味では、一生そのものが春夏秋冬に分けられるのでしょうが、人の一生には、春夏秋冬の循環が繰り返しやってくるとも考えられます。
いまは、いろんな意味で、私は冬なのだと考えると心が安堵します。

さてもう少し冬篭りを続けましょう。
無理をして歩き出すことはありません。
ゆっくりとゆっくりと、冬篭りに浸りながら、そのまま春が来なくても、それもまた天地によって定められたことなのでしょう。
そう考えるととても生きやすくなります。

朱子学などいうのは、私には全く縁のない知恵だと思っていましたが、陰陽五行説も含めて、少し意識が変わりました。

■1957:彼岸との距離(2013年1月13日)
節子
気相の哲学の話をもう一回書きます。
気相の哲学の根底にあるのは、世界を構成しているのは「気」であるという考えです。
人間の心身を創りだすのも「気」です。

陰陽五行説では、宇宙の根本物質は気であるとされますが、気はつねに動いていて、それによって凝縮・凝固という相転移が現われ、それが世界の物質を構成しているとされます。
相転移は、水と氷と水蒸気のように、熱によって、全く別の物質相に変化するということです。
気は液体にも固体にもなるのです。
魂も気から構成されているとされます。
つまり、すべてのものが気によって作り出されているわけです。
しかも、その気は、世界を自由に動き回ります。
呼吸を通して、すべての生命は世界につながっています。
ある意味では、「気」こそが「大きな生命」と言ってもいいでしょう。

桑子さんは「気相の哲学」のなかで、「心のはたらきは、世界を構成する気の一部が集合し、なかでも精妙なはたらきをもつ魂と魄が合流して身体を統率するときに生じるのです」と書いています。
死は、魂と魄が分離によって説明されます。
魂と魄の合流も分離も気の働きの結果です。

私たちは呼吸することで生きていますが、呼吸とは「心身と世界との間での気の循環的交換」と言ってもいいでしょう。
その循環が途絶えてしまうと、魂と魄は分離してしまいます。
あるいは魂と魄が分離してしまうと、気の循環は滞ってしまいます。
こうして、個々人の心身は世界とダイナミックにつながった存在なのです。
生きるとは、そうしたダイナミックな交流活動なのです。

長々と小難しいことを書いてしまいましたが、要するに個人の生命は決して孤立した存在ではないということです。
そして同時に、人の死は何かがなくなることではなく、気の循環の中に心身を戻していくということになるのです。
朱子学では死後の魂の存在は認めないようですが、気相の哲学の発想では、死もまた気の循環の一つの過程なのです。
そして、なによりも重要なのは、気を通してすべてのいのちは時空間を超えてつながっているということです。
彼岸とは、そうした気の大きな流れのことなのかもしれません。
だとしたら、彼岸と此岸とは折り重なっている構造なのです。
それがどうしたと言われそうですが、彼岸とつながっている世界に生きていることを実感すると、心がとてもやすまるのです。

そして、気を通して、すべてのいのちがつながっていることに気づけば、「他の生命とともに生きているという知覚による喜びの感情」が生まれると桑子さんは書いています。
本書を読んで、少しだけ、節子に近づいたような気がします。

■1958:雪景色になりました(2013年1月14日)
節子
初雪です。
お昼前から雪が降り出し、あっという間に10センチを超す積雪となり、夜になってようやく降り止みました。
家から見える外の風景も、いつもとは一変しました。
昔なら大喜びでしたが、歳のせいか、あるいは節子がいないせいか、心がわくわくしませんでした。
節子も、雪が好きでした。

雪景色はさまざまなものを覆い隠してくれて、世界を浄土のようにしてくれます。
景色だけではありません。
静寂さももたらしてくれます。
今夜はいつもになく静かです。

彼岸もこうなのかもしれませんね。

■1959:「悲しみ」と「怒り」(2013年1月14日)
節子
最近少し怒りっぽくなっています。
といっても誰かを怒るとかそういうことではなくて、社会や時代への怒りといったほうがいいでしょう。
厭世観が強まり、気力が出てこないのは、そうした「怒り」のせいのような気がします。
わけもなく、時々、「怒り」が湧いてくるのです。

「からだとこころ」のレッスンで有名な演出家の竹内敏晴さんのエッセイに、こんな文章があります(少し前後の文脈が伝わるように変えてしまっています)。

その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。
そんなことはあり得るはずがない。
その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。
「悲しい」ということは、「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか。
だが消えぬ。
それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。
だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。
いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。
それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ<からだ>が受け入れていく。
そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。
だから、受身になり現実を否定する斗いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。

私の場合、今なお、現実を受け入れられない状況が続いています。
むしろ、悲しみよりも怒りのほうが強まってきているような気がします。
もう6年目なのに、自分ではかなり柔軟な発想ができる自負もあるのですが、そして、怒りよりも悲しみの世界に移りたいのですが、どうしてもまだ、現実を拒否している自分から抜け出られずにいます。
今日の雪景色の中にも、ついつい節子を見てしまうのです。
共通体験した景色の中にいると、時間が戻ってしまいそうです。

■1960:「ことばが沈黙する時、からだが語り始める」(2013年1月14日)
節子
今日はもう一つ挽歌を書くことにします。
雪景色を見たせいか、今日は心身が彼岸を向いています。

精神病理学者のビンスワンガーは、「ことばが沈黙する時、からだが語り始める」と言っているそうです。
これはとてもよくわかる言葉です。
言葉で語れる喜怒哀楽は、日常生活にあふれています。
しかし時に、言葉が出てこないような喜怒哀楽もやってきます。
そういう時にも、言葉が発せられることはありますが、それは、からだに語らせることを避けるためかもしれません。
そのことばは、内容のない型式的なことば、あえていえば、嘘が多いはずです。
ことばは嘘をつけますが、からだは嘘をつきません。
ですから、からだが語りだすのは、自分にとっても脅威になりかねないからです。

「ことば」と「からだ」。
どちらが雄弁でしょうか。
ことばは多弁になれても、雄弁にはなれないかもしれません。
もしそうであれば、寡黙の人ほど雄弁なのかもしれません。
説得力をもつのは、ことばの語りではなく、からだの語りです。
それは、言葉を発する当事者にも、当てはまることかもしれません。
人が言葉を発するのは、相手に対してだけではありません。
多くの場合、言葉は自らにも向けられています。

挽歌が書けるということは、私自身がまだ、節子を失ったことに正面から向かい合っていないのかもしれません。
ビンスワンガーのテーゼにしたがえば、挽歌をやめた時に、私のからだが語りだすのかもしれません。
そんなことを考え出すと、挽歌を書くことにいささかの躊躇が生まれてくるのです。
節子が望んでいるのは、ことばとしての挽歌ではなく、からだとしての挽歌なのでしょうか。

最近どうも、挽歌が理屈っぽくなってきています。
思考がどんどん内向しているのです。
しかし、そのおかげで、私には生きることの意味や世界の意味が、少しずつ見えてきているような気がしています。
そして、その先に節子がいるような気がしてきています。
節子が私をそうした方向に導いているのかもしれません。

■1961:とてもあったかな寒さ(2013年1月15日)
節子
寒い日が続いています。
節子のあたたかさがほしいと思いますが、望みうべきもありません。
節子がいないと、心の奥まで冷え込んできます。
どうしてこんなに寒いのかと思うほどです。
節子がいた頃は、寒い冬も、寒いが故に好きでした。
しかしいまはただただ冬は寒いだけです。

節子と同棲しはじめたのは、いつだったでしょうか。
12月だったような気がします。
私は過去への関心があまりないので、記憶があまり残っていないのですが、最初に同棲を始めた狭い借家の部屋は、ともかく寒かったことを記憶しています。
突然の同棲でしたので、家具などもありませんでした。
コタツはあったでしょうか。
私にはあまり記憶がありませんが、その寒さが私たちの幸せでもありました。
節子がいたら覚えているでしょうが、私はそういう記憶がとんでもなく欠落してしまうタイプなのです。
しかし、どんなに寒くても節子がいれば、寒さもまたあたたかさになったのです。

当時は、何もない同棲生活だったのですが、お互いの笑顔や笑い声や、ちょっとお茶目ないたずらや思いやりなど、喜怒哀楽にあふれた、とてもあったかな毎日でした。
とてもあったかな寒さ。
そんな「あったかな寒さ」に、もう包まれることはないのが、少しさびしいです。

■1962:人生は実にさまざまです(2013年1月17日)
節子
最近、いろいろな電話相談を受けています。
それでまた2日間、挽歌が書けませんでした。
相談を受けても的確な解決策をアドバイスできるわけでもありません。
しかし、私と話しながら、自分の考えを整理することができるとすれば、私も少しは役立っています。
同時に、そうした相談の電話で話しながら、私自身もいろいろと考えることができます。

昨夜の電話は、自死遺族の方からでした。
自ら自死遺族を中心としたネットワークを立ち上げて、活動している人ですが、最初の立ち上げにささやかに関わらせてもらったこともあって、考えたいことがあると連絡してくるのです。

今日も自殺者の数が3万人を下回ったというような報道がされていますが、最近は自殺問題も社会の問題として取り組まれだしています。
行政面でもさまざまな仕組みや制度が整備されだしています。
しかし、制度が整備されればされるほど、当事者にとっては、悩みも生まれてきます。
制度と実態とのずれを感ずるのです。
昨夜の電話でも、とても誠実に対応してくれるのだが、やはりなかなか当事者の思いはわかってもらえないという言葉も出ました。
当事者の立場に立ってとは、言葉ではいえますが、実際にはほぼありえないことです。
私は、当事者の立場にはなれないということをいつも自覚しながら、付き合うようにしています。
これは、節子との別れを体験してから、心底、そう思ったからです。
愛する人を喪った人の気持ちなど、わかりようがないのです。
人によって、それぞれまったく違うでしょうし、第一、実は「わかってほしくなどない」という思いが心身の奥底にあるのです。
しかし、人の気持ちは複雑で、「わかってほしくなどない」という思いと同時に、「わかってほしい」という気持ちもあるのです。

昨日の電話の相手も、もしかしたら同じように思っているかもしれません。
いろいろな問題の相談に乗っていると、すべてが自分の問題のように思うこともあります。
だからとても疲れますし、時に逃げ出したくなります。
節子がいたら、私の相談に乗ってくれるのですが、それができないので、時にへこたれて、動けなくなることもあるのです。
そんなわけで、この2日間、挽歌は書けませんでした。

節子
人生は実にさまざまです。

■1963:価値観の喪失(2013年1月17日)
節子
今日もまた電話相談がありました。
若者自立支援に取り組んでいる知人からです。
それにしても、どうしてこうも問題が多いのでしょうか。
テレビなどで報道される事件など見ていると、社会が壊れだしているとしか思えません。

そういえば昨年末、マヤ暦の地球終末予言が話題になりました。
最終戦争を意味するハルマゲドン論が盛んに言われて時期もありました。
不謹慎なのですが、そうした地球破滅予言は、時に魅力的です。
節子を見送った直後、すべてが滅んでしまえばいいという「悪魔的」な願いを持ったこともありますが、そういう悪魔性が人には埋め込まれているようです。

今年になってから少し朱子学に関心を持って、何冊か本を読んだのですが、そこに儒教の四書のひとつ「中庸」に出てくるこんな文章を紹介しています。
「喜怒哀楽の未だ発していないのを中という」。
この文章をあげながら、朱子は、喜怒哀楽の未だ発していない状況では、善悪という概念はない、というのです。
愛する人を喪うと、人は思い切り、喜怒哀楽のシャワーを浴びせられます。
そして、天使にも悪魔にもなれるようになるのかもしれません。

ところで、この文章に出会って、こんなことを考えました。
「喜怒哀楽のシャワーを浴びると人は中になる」。
ここで「中」とは、善悪を超えてしまうという意味です。
たしかにあまりの喪失体験をしてしまうと、価値観も喪失してしまうような気がします。

■1964:鎮魂の祈り(2013年1月17日)
節子
阪神大震災から18年目です。
鎮魂の祈りを見ていて思うのは、やはり時間は人を癒すことはないのだろうなということです。
だからこそ、鎮魂の祈りという形で、制度化し儀式化しないとやりきれないのかもしれません。
それが「鎮魂」ということだといわれそうですが、鎮魂は一人では完結しないということです。
そして鎮魂の輪はむしろ広がっていきます。
祈っている人の思いは、画面を通してでも伝わってきます。

鎮魂の場では、自然に涙が流せます。
鎮魂の場では、自然に悲しみを言葉にできます。
そして、鎮魂の場では、鎮魂の祈りが開かれていく。
つまりうちに戻ってこないのです。
そして祈りとして大きく育っていくような気になれます。

節子は家族に看取られたとはいえ、一人で旅立ちました。
心細かったかもしれません。
みんなの鎮魂の祈り。
見ていて、少し羨ましさを感じてしまいましたが、そうではなくて、この鎮魂の場に節子も私も当事者としているのだと言う、あまりに当然のことに気づきました。
鎮魂は、すべての人のためにあるのです。

これまで阪神大震災にしろ、御巣鷹山にしろ、原爆の日にしろ、誰かのために祈ることはあっても、いささか他人事だったのではないかと、反省しました。
鎮魂の祈りは、すべての人にとって同じ意味を持っているのだと、やっと気づいやのです。
魂は、すべてつながっているのです。
なぜこれまでそれに気づかなかったのか。
なんという愚かさでしょうか。

阪神大震災は大きな事件でしたが、鎮魂の祈りは毎日、どこかで誰かによって行われています。
それらは、多分みんな深いところで同調しているのでしょう。
朝の祈りは、節子のためだけではないことを思い知らされました。

竹筒に入ったロウソクの火のゆらぎが、大日寺のロウソクを思い出させてくれました。

■1965:節子は料理作りが好きでした(2013年1月18日)
節子
昨日、湯島で技術カフェというのをやっていました。
技術をテーマに毎月やっているサロンです。
昨日は原発事故による汚染に対して、技術者としてやること、できることがあるのではないかという話で持ちきりでした。
実際に何をやるかも決まりました。

それはそれとして、その話に移る前に、料理の話になりました。
参加者は全員男性だったのですが、結構料理をやっているのに驚きました。
私と同世代の寺田さんは、チャーハンの作り方を教えてくれました。
フライパンをひっくり返すのが重いので、最近は2人分が限界だそうです。
リアリティがあります。
そういう話になると思い出すのが、私に料理を教えようとしてくれた節子のことです。
娘が証拠写真まで撮っていますが、その教育の成果はまったく役立っていませんので、ユカからあきれられています。
どうも料理するのは気がすすみません。
実は食事をすることさえも、あまり気がすすまないことなのです。
ですから「食事をゆっくりと楽しむ」という文化があまりなく、食べるのが早すぎると節子はいつも嘆いていました。
たしかにあっという間に食べてしまうのです。
作った人にとっては、張り合いがないでしょう。
今も娘のユカが時々、そう言います。

節子は料理が好きでした。
料理が上手なわけではなかったのですが、病状が悪化して、だんだん食事作りができなくなっていくのをとても残念がっていて、また家族のためにゆっくり食事作りをしたいと、よく言っていました。
かなり症状が悪化してからも、一品だけでも作りたいと台所に立つこともありました。
その頃は、自分はもうあまり食べられなくなっていましたが。

節子に料理を教えてもらっている写真は、たぶん私のホームページのどこかに掲載されているでしょう。
その頃、節子が買ってくれた私専用のエプロンはどこにいってしまったのでしょうか。
そういえば最近見たことがありません。
節子に怒られそうです。困ったものです。はい。

■1966:朋友の訃報(2013年1月20日)
節子
小学校時代、一番良く一緒に遊んだ2人の友人がいます。
バタとノザと言います。
節子はノザには何回か会っていますが、バタにはあったことがありません。
ノザもバタも、私の母親も良く知っています。
2人とも天性のお人好しで、しかもシンプルな自然人でした。
子どもの頃はお互いによくそれぞれの家で遊んでいたからです。
しかし、大学卒業後はあまり交流がなくなりました。
あまりに親しいと会わなくてもいつも会っているような気がして、しかしそのうち疎遠になってしまう、そんな関係でした。
しかしどこかで深くつながっている縁を感じあっていたように思います。

バタは有名な日本画家の孫でした。
その家は大邸宅でしたが、今は区に寄付されて公開されています。
そこの庭の一角のジャングルのようなところでよく遊んだものですが、当時はまだおじいさんもご存命で、作画に取り組んでいる姿をお見かけしたこともあります。
そのバタの訃報が届きました。
昨年、同窓会の幹事をしてくれていましたが、私は参加しませんでした。
電話では話しましたが。元気そうでした。
最近会っていないので、会いに行こうかと思っていたところでした。
訃報とは思ってもいませんでした。
どうも実感が持てません。

実はもう一人のノザは、数年前に亡くなっています。
ノザは声楽家の息子でした。
節子と一緒にやっていた湯島のオープンサロンに時々来ていました。
節子が発病し、私自身が社会との接点を疎かにしてしまっていた頃、ノザは急逝してしまいました。
葬儀に行く気力が起きませんでした。
いつかお参りに行こうと思いながら、行っていません。
お墓参りをしなければ、まだノザが元気でいる世界が続くからです。
バタの葬儀にも、もしかしたら行けないかもしれません。
いままでもほとんど会うことはありませんでしたから、葬儀に行かなければ、バタもまだ私の世界では生き続けていることになります。
そう思うと、ますます行かないほうがいいような気がします。

ノザもバタも、お互いにもう少し老いてから、子ども時代に戻っての付き合いが再開されるはずでした。
しかし2人とも、それを待たずに逝ってしまいました。
薄情な友です。
静かに冥福を祈りました。
最近は、気が萎えることが多すぎます。
私への迎えも近づいているのかもしれません。
現世でやるべきことは、少し急いだほうがいいようです。

■1967:覚悟がないと観られない番組もあります(2013年1月20日)
節子
前にも書いたことがありますが、「小さな村の物語 イタリア」というテレビ番組があります。
放映時間の関係で、なかなか観られないのですが、毎回、録画して残しています。
今日、最新のものを見ました。
タイトル通り、イタリアの小さな村で暮らすさまざまな人の人生の物語が毎回語られます。
私のお気に入りの番組なのですが、実は観る時には、それなりの覚悟が必要なのです。
なぜかというと、必ず節子を思い出してしまうからです。

そこで語られているのは、華やかなドラマではありません。
しかし深い人生の意味が伝わってくる、真実の物語なのです。
だから、どうしても節子のことを思い出してしまうのです。
そして、節子がいたらこう言うだろうなとか、節子がいたら私たちの生き方をこう変えるだろうなというようなことが頭に浮かんできます。
それは結構辛いことでもあるのです。
だから覚悟がいるのです。

さまざまな人が登場しますが、共通しているメッセージがあります。
人のあたたかさや生きることの幸せさです。
毎回、生きることの喜びや豊かさが感動的に語られます。
その人の人生を背負った言葉なので、たとえ聞いたことのある言葉でも、時に涙が出てくることも少なくありません。

138話の主人公の一人は村で雑貨店をやっている65歳のエンマ・ジュランディンさんでした。
交通事故で孫を喪いそうになったとき、村人たちの祈りで、孫は奇跡的に元気になりました。
以来、彼女は生き方が変わったといいます。
人は、死を身近に体験すると人生観が変わります。
彼女は孫を喪いませんでしたから、私とは違うはずです。
しかしジュランディンさんの話は、私の心にも響きました。

もう一人の主人公は木材会社をやっているアルド・パインさん。
家族みんなでの豊かな食卓を前に、アルデさんは「昔はスープだけだった」と子供たちに話します。
アルデさんは18歳のときに、両親になぜわが家は貧しいのかと反抗したそうです。
その時、両親は「これ以上、何が必要だ」と応えたそうです。
その言葉を今も忘れないと、アルデさんは語ります。

子供たちと遊ぶアルデさん。
孫を送り出すジュランディンさん。
2人とも、となりには伴侶もいます。
とても幸せそうで、豊かそうです。
観ていて、私までもがあったかくなります。
でも、何かが欠けている。
だから、この番組は覚悟がなければ見られないのです。
でも不思議なことに、節子の世界にもつながっているような気がして、観ないわけにはいかないのです。

■1968:みんなが支えてくれます(2013年1月22日)
節子
いささか袋小路です。
問題を抱え込みすぎることに気づきました。
節子がいた頃は、節子が最終的な相談相手でした。
正確に言えば、お互いに相談し合い、問題を完全にシェアできる存在でした。
ところが、今はそれがなくなっています。
最近は、そのせいか、娘たちにさえ、それとなく「愚痴」を発していますが、相談相手にはなりえません。
同じ次元で生活を共にしていないと、問題を本当にシェアすることはできません。
最近の疲れは、もしかしたらはけ口がないために、気が澱んでしまっているのかもしれません。

そこで、今朝、思いつく友人に相談に乗ってくれないかというメールをしました。
最近しばらく会っていませんが、いま私が抱えている問題の体験者でもあります。
彼も忙しいだろうなと思いながらのメールでした。

ところがメールを送ってすぐに電話がかかってきました。
いま北海道なのだそうです。
何か役立つことがあれば、という電話でした。
北海道から戻ったらすぐに会うことにしました。
もっと早く電話すればよかったと思いました。

いま、自殺のない社会づくりネットワークの活動に取り組んでいますが、そこで相談に来た人に、周りの人にもっと助けを求めるといいですよ、などとアドバイスすることがあります。
事実、そんなに自分だけで抱え込まなければいいのに、と思うことはよくあります。
にもかかわらず、まさに、私自身がそうした落とし穴に落ち込んでいたわけです。
自分のことは本当に見えなくなるものです。

少し楽になりました。
問題が解決したわけではありませんし、むしろ問題はさらに悪化するかもしれません。
しかし、友人がこんなに親身で受け止めてくれるということがとてもうれしくなりました。
節子はもういませんが、相談に乗ってくれる人はたくさんいることに気づきました。
口の悪い友人は、私のことを、最近は躁うつ病だからと揶揄しますが、問題を一人で考えているのはけっこう辛いものです。
問題の渦中に閉じ込められると精神的にもおかしくなります。
でも北海道からすぐに電話して来てくれた若い友人のおかげで、その誤りに気づきました。
ちなみに、今日はもう一人、さほど付き合いが深くない若者も、わざわざ湯島にアドバイスに来てくれました。

節子
あなたがいなくても、みんなが支えてくれるようです。
昨日書いたアルドの言葉ではないのですが、「これ以上、何が必要だ」です。
節子がいないせいにしてはいけません。
でもまあ、節子がいたら、もっと元気になるでしょうが。

■1969:「姉さんのいない人生は寂しすぎるわ・・・」(2013年1月29日)
節子
またしばらく挽歌をご無沙汰してしまいました。
挽歌だけではなく、時評編のブログもしばらく書けずにいました。
体調が悪かったわけでも、時間がなかったわけでもありません。
ただただ書かなかっただけです。
書こうという気が起きなかったのです。

数日前に、何気なくテレビをつけたら、前に見たような映画をやっていました。
「パッセンジャーズ」でした。
こんな映画です。

セラピストのクレアは、飛行機事故で奇跡的に生き残った5人の乗客の、トラウマ的なストレスを治療する役割を突然命じられる。彼女は生存者たちの記憶から浮かび上がる数々の謎を解き明かそうとする。だが、患者たちは自分たちの記憶と航空会社の公式説明の食い違いに悩み、自分たちの記憶も曖昧になってくる。やがて、事故の核心に近づくたびに患者たちが次々と失踪しはじめ、彼女の周辺でも不可解なことが続発し始める。(goo映画から引用)

私が見たのは最後の20分くらいですが、前に見たことを思い出して、結局最後まで見てしまいました。
観ていない人にネタばらしになってしまいますが、この映画は死者たちの物語なのです。
今の私にはとても素直に受け入れられ内容です。

娘に話したら、前にも挽歌に書いていたでしょうと言われました。
それで調べてみたら、たしかに書いていました。
挽歌1000です。
そこに、私が彼岸に旅立つまで挽歌を書きつづけるだろうと書いていました。
挽歌を再開しようと思いました。
思ってから数日がたってしまいましたが。

最後のシーンが衝撃的です。
亡くなったクレアの遺品整理に来た姉のエマが机の上に残された妹のカードを見つけるのです。
そこに書いてあったのは、「姉さんのいない人生は寂しすぎるわ・・・」。
最後しか見ていないので、姉妹になにがあったのかわかりませんが、その言葉は強烈です。
お姉さんのいない人生は寂しすぎる。
節子のいない人生は寂しすぎる。

私がこの数日、挽歌も時評も書けなかったのは、そのせいだったことに気づきました。
最近、無性に寂しい。
何をやっていても、心身が満たされません。
人に会うのが何か億劫で、その寂しさはますます強くなる。
寂しすぎる人生は、思考力も行動力も、すべて奪ってしまいます。
それを気づかせるように、節子がこの映画を観るように仕組んだのかもしれません。

とても皮肉なのですが、寂しすぎる世界に投げ出されるのは、クレアではなくエマなのです。
とても不思議な映画です。

この映画を観てから、また人に声をかけ、会いだしました。
寂しさに浸るのをやめました。
うまくいくといいのですが。

■1970:「ちょっと猫背になってますよ」(2013年1月29日)
節子
人は誰もいろんな事情を抱えています。
そして、それぞれの事情は、当人以外はなかなかわかりません。

挽歌を書かなかった、この1週間、いろいろな人のいろいろな思いとささやかに付き合いました。
とても重い話が多く、それだけでも動けなくなるほどのものです。
その話をここに書くわけにはいきませんが、たとえば1時間を越える電話の相談は終わった途端にどさっと疲れが襲ってきます。
彼女は、私以上の苦労の中で、健気に前に向かって進もうとしています。
しかし、あまりに問題が違うために、ちょっとした言葉遣いで、受け取り方がずれてしまいますから、お互いに慎重にしなければいけません。
電話の向こうからも、疲れが伝わってきます。

節子もよく知っている人の夫婦関係の話は、私たちとはあまりに違うので、戸惑います。
節子がいたら、夫婦一緒に食事でもできるのですが、それはもうかないません。
なぜ長年連れ添った夫婦が、豊かな夫婦生活を過ごせないのか、残念です。
そうした事例は必ずしも少なくありません。
伴侶をなくした私にとっては、そうした関係にある人の気がしれません。
なぜもっとお互いに大事にしないのか、なぜそれがわからないのかと残念です。
他人事ながら、気が重くなります。

さまざまな人の生き方に、私はどうしても無縁ではいられないのかもしれません。
巻き込まれてしまいがちなのです。
しかし、他者の人生に関わるのは、一人では辛すぎます。
その重荷を背負い込んでも、それを一緒に担いでくれる人がいないと、もらった疲れは私の中でますます重くもなっていきます。
そして自らも疲れてへこんでしまうこともあるのです。
節子がいたら、逆に重荷が私たちを元気にしてくれることだってあったような気がします。

この1週間、考えてみると、少し重荷を背負い込みすぎたかもしれません。
明るい話もなければ身が持ちません。
明るい話はどこかにないでしょうか。
明日から少し気分を変えましょう。

整体に通っていますが、そこで「佐藤さん、ちょっと猫背になってますよ」と言われてしまいました。
背筋を伸ばさなければいけません。
重荷を背負ってばかりいては、背負いきれなくなってしまいます。
明日は少し長目にマッサージしてもらいましょう。
猫背は正さなければいけません。

■1971:八方ふさがり(2013年2月2日)
節子
八方ふさがりです。
節子がいないからではありません。
これはどうやら今年の私の定めのようです。

数日前に、新聞の挟み込みのチラシに、茨城県の大杉神社の厄払い案内が入っていました。
大杉神社というのは知らなかったのですが、厄払いの詳しい表が出ていました。
そこに、「平成25年八方除・星除をする年回り表」というのがありました。
それによると、私は今年、「八方ふさがり」の年回りなのだそうです。
さらに悪いことに、娘のユカも同じく「八方ふさがり」。
なるほどそうだったのかと、奇妙に納得してしまいました。
しかもしかも、その下の「大凶星」の欄を見ると、なんと次女のジュンが、その年回り。
いやはや今年のわが家は絶望的です。

たしかに、最近の私は八方ふさがりなのですが、この年回り表を見て、ますます心身が凍り付いてしまいました。
年明け後、凶事が降ってくるのは、そのせいなのでしょう。
歴史のある暦のご宣託は素直に信じなければいけません。

節子がいる時であれば、こうした定めも跳ね返す元気が出ました。
凶事は乗り越える楽しみがある、などと強気になっていたはずです。
しかし、最近、気が萎えているせいか、その定めに素直に従おうかと思っています。
八方ふさがりならば、すべての凶事を素直に受け止めて、ただただ耐えればいいわけですし。

それにしても、なんでこうも次々と厄介ごとや不幸が訪れてくるのでしょうか。
神も仏もないとは、このことです。
もっとも、娘たちは、私が誘い込んだことだと言います。
たしかに、自分のためにではなく、他者のために善意を振りまきすぎてしまったためなのです。
分を超えてしまったのでしょう。
楽観主義の私も、さすがに滅入ってしまっています。
節子の応援がほしいです。
精神的に崩れないようにしなければいけません。
凶事は、心身の隙をついてきます。
今年は節分の豆まきをやめようかと思います。
何しろわが家の節分は、節子がいた頃から、「鬼は内、福も内」でした。
ちょっといまは、その余裕がありません。

今日はねむれるといいのですが。

■1972:八方ふさがりではありますが、大丈夫です(2013年2月3日)
節子
昨日の記事のせいか、早速、ある人から心配のメールが届きました。
何かできることがあれば言ってくださいと書いてありました。
このブログの記事を読んでいると、私がかなり酷い状況にいるように思われるのでしょう。
事実、「酷い状況」にいるのですが、しかし、だからと言って、再起不能と言うわけでもありません。
節子との別れということを体験したことに比べれば、どんな問題も瑣末なことにも思えるのです。
実は、そうした意識が、今回の窮状を生み出した原因でもあるのですが。

まあ、いわば詐欺事件にあったような話なので、娘たちからも呆れられています。
オレオレ詐欺に騙される人がいることを不思議に思っていましたが、自分もその一人だったわけです。
実にお恥ずかしい話です。
まあ、私にはそれなりの理由はあるのですが、たぶん節子以外の人には理解してもらえないでしょう。
私には、金銭が絡む話はそもそもが瑣末な話なのです。

しかし、瑣末なことと思っても、意識と心身はそううまくは整合しません。
よく言われるように、意識と心身は別物です。
その不整合が私の心身のバランスを、いまなお壊し続けます。
特に、夜が辛いのです。夜中に目が覚めるからです。
節子がいたら、こんなことにはならなかったでしょうし、救い出してもくれたでしょう。

愛する人を失うと、人は哲学者になれます。
人生や世界の真実も、その気になれば、見えてきます。
そうなると、意識は大きく変わります。
これは私の体験から学んだことです。
しかし、世界が見えて幸せになれるとは限りません。
意識は変わっても、心身がそれについてこないからです。
それもまた、私の体験から学んだことです。

とまあ、そんなわけで、八方ふさがりではありますが、大丈夫です。
ご心配は不要です。
それに、節子はたぶん心配などしていないでしょう。

年末に、私を心配して会いにきてくれた人が、会ったら元気そうなので安心したと言っていました。
その通りなのです。
でもまあ、外見と内心とは、必ずしも同じではないのですが、人に会うと元気になるのは間違いありません。
今週から少しまた人に会いだしましょう。
先週もその予定でしたが、途中で挫折していました。

■1973:節子は何歳になったのでしょうか(2013年2月4日)
節子
今日は節子の誕生日です。
夕方からは雨に向かいそうですが、いまは春のようないい天気です。
午前中は在宅なので、陽ざしを浴びながらゆっくりしています。
娘も外出しているので、私一人です。
外の景色を見ながら、いろいろと節子のことを思い出していました。
昨日は、3人からのいささか深刻な相談を受けていて、疲れきったのですが、それを察してくれたのか、チビ太も明け方までなかずにいてくれました。

節子は、節分の日に生まれたので節子です。
だから節子は友だちにも誕生日を覚えてもらいやすく、電話や手紙が届いていました。

陽ざしの中にいると春のようにぽかぽかしてきます。
身体があたたまると心もぽかぽかしてきます。
わずかに見える手賀沼の湖面の輝きも、心を豊かにしてくれます。
八方ふさがりにいるとは思えないほどの和やかな時間です。
電話がありました。
昨日相談に乗っていた一人の人からの電話でした。
今日、最大の危機はどうやら乗り越えられたようです。
その危機は、私にとっても大きな危機でした。

何とか前に進み出せるかもしれません。
陽ざしの中で、節子と会話したおかげで、新真に余裕が出てきました。
陽ざしのありがたさをつくづく感じます。

節子が亡くなってからもう6回目の誕生日ですから、節子ももう70歳に近づいてきました。
しかし、私の中では、節子は今も62歳です。
したがって私もまだ66歳に気分です。
節子が歳をとるのをやめたのであれば、私の歳も止まったと考えるのが好都合です。
そこで私たちの時間は止まったのです。

闘病時の節子にとっては、誕生日を迎えることがひとつの目標でした。
そして、その目標は4回達成できました。
しかし、そこで時間が終わりました。
以来、私には誕生日は決してうれしいものではなくなりました。
迎えられなかった人に、私の視点は移ったからです。
しかし、そうはいっても今日は私にも特別な日であることには変わりはありません。
節子が迎えられなかった63回目の誕生日に戻って、今日は節子とかなり話し合いました。

節子と話すと、やはり心が安定します。

■1974:すきやき(2013年2月4日)
節子
昨夜はすき焼きでした。
娘たちも一緒に、すき焼きをつつきました。

すき焼きにはいくつかの思い出があります。
結婚する前に、節子の両親の家に行った時に、すき焼きをご馳走になったのです。
そこには、お酒と同時に、コカコーラも用意されていました。
節子が、修さんはコーラが好きだと伝えていたからです。
節子の両親は、コーラは身体に良くないと言ったそうですが、お酒とコーラではいうまでもなくコーラが身体には良くないでしょう。
お酒よりもコーラを思考する私を、節子の両親はどう思ったでしょうか。

節子の両親は、私をすき焼きで歓待してくれました。
それを今でも覚えています。
それ以後も、すき焼きとコーラは、節子の実家に帰るたびに繰り返されました。
しかし残念ながら、私はすき焼きはあまり好きではないのです。
好きなのは、美味しい漬物とお味噌汁と、美味しい白米です。
節子の母親がつける漬物はとても美味しかったですが、残念ながら、それはお客さんに出すものではなかったのです。
本当は、すき焼きではなく漬物を食べたかったのですが、漬物を十分に食べられるようになったのは、私のことを両親がよく知ってからです。

節子は、私の食生活に合わせてくれました。
それでも時々、すき焼きでした。
節子がいなくなってから、娘たちは私に合わせて、すき焼きよりもさっぱりした鍋をする事が多くなりました。
それが、昨夜はすき焼きでした。
節子の誕生日を意識して、ユカが準備したのかもしれません。
久しぶりにすき焼きは美味しかったです。

すき焼きを食べながら、娘たちと節子の話をしました。
節子の分を、仏壇に供えるのを忘れてしまっていましたが、まあにおいは届いたでしょう。
その後、3粒だけのミニ豆まきをしました。
豆まきが好きだった節子には申し訳ないのですが、わが家の節分の豆まきは年々地味になってきています。

■1975:生きていくうえでの支え(2013年2月4日)
節子
昨日は少し重い日でした。
3つの相談を受けてしまったからです。
私自身、いささか気が萎えている状況だったのですが、私よりも気の重い人がいるのであれば、受けなければいけません。

その一人と話していて、「生きていくうえでの支え」の必要性を話題にしました。
それがやや揺らいでいるように感じたので、あえてその方向に持っていったのです。
彼は、即座に「家族です」と答えました。
少し安堵しましたが、同時に、少し距離も感じました。
なぜなら、彼には「家族のため」という意識が感じられたからです。
「だれかのため」というのは、私にとっては、言葉だけの世界に思えるのです。

これまでも何回か書いたように、節子は、私にとっての「生きる意味」でした。
それは、節子のために生きると言うこととは違います。
共に生きることが、私にとっての生きることだったのです。
節子が生きることが、私の生きることであり、私が生きることが節子が生きることだったのです。
なにやらわかりにくい説明ですが、たとえばこう書けば伝わるでしょうか。
私は、ささやかな社会活動をしていますが、それは「社会のため」ではありません。
私が生きていくために、それが必要だと思うからです。
社会は私の外部にあるわけではありません。
私は社会であり、社会は私です。
私がいなければ社会は意味がなく、社会がなければ私は生きていないはずです。
「ホロニック」という概念がありますが、まさに私と社会はホロニカルな関係です。
だから私が変われば社会が変わり、社会が変われば私も変わるわけです。
節子と私もまた、そういう関係でしたから、喜怒哀楽もほぼ共有していました。
1人にして2人、2人にして1人。
2つの人生にして一つの人生、一つの人生にして2つの人生。
それがたぶん「人」という文字の形象の意味するところかもしれません。

生きていく支えは、そういう意味では、自分の中にあるともいえます。
言い換えれば、共に生きている人がいるかどうかです。
「ため」の存在ではなく「共」の存在です。
すべての苦楽をシェアできるかどうか、そこがポイントかもしれません。
私たちがそういう意味の関係になれたのは、やはり私が会社を辞めて、苦楽を共にしだしてからです。

生きる支えは、自分の外部にあるのではなく、自らの内部にある。
それをどう伝えるか、これは難題です。
体験すればわかるのですが、体験するためには、その関係がなければできないという、矛盾があるのです。
しかし、支えがあれば、どんな苦しさも超えられるような気がします。
それを彼にまだ伝えられないのが残念です。

■1976:大きな人生(2013年2月4日)
節子
テレビ番組「小さな村の物語イタリア」のプロデューサーの田口さんのエッセイが掲載された日伊協会の機関誌が送られてきました。
前に書きましたが、田口さんが、この挽歌の一部を引用してくださったのです。
改めてそのエッセイを読んでみて、前回は読みすごしてしまった、田口さんの一番のメッセージに気づきました。

いま生きているのは、親がいたからこそ・・・・
記憶の中の言葉やイメージが、人生を重ねると明瞭に浮かび上がってくる。
若い時には気づかないものだ。

田口さんのエッセイのタイトルは「小さな村の大きな人生」です。
大きな人生。
田口さんの思いが伝わってきます。
個人の人生は小さくとも、人は大きな人生を紡いでいるのです。
それは、この番組を観ているとよくわかります。
そして、最近の私たちの生き方は間違っているのではないかと思わせられるのです。
心に深くしみこんでくるような番組です。

ところで、田口さんは、この文章に続いて、「話は変わるかもしれないが、番組を放送した後は、反響が気になる」と書いた上で、この挽歌を紹介してくれているのです。
このつながりが、私にはとてもうれしく思えました。

私の場合、今はまだ親よりも節子の言葉やイメージが浮かび上がってくるのです。
親から子どもへと、時間を紡いでいく物語ではありません。
でも、田口さんは、それもまた「大きな人生」だと受け止めてくれたような気がして、とてもうれしいのです。
私もまた、大きな人生を生きていると思えば、元気が出てきます。
そして最近は、私自身、そう思えるようになってきたのです。
自分の人生は自分だけのものではないのです。

田口さんは、最後にこう書いてくれました。

見えない相手だが、心は見える。
そこにそっと明かりをともすことができれば、それが私たちの仕事なのだ。

私の心には、間違いなく明かりがともされています。
そして、私にも田口さんの心が見えるような気がします。
いつかお会いできる時がくるかもしれません。
なにしろ私たちはみんな、大きな人生を生きているのですから。

■1977:人は本来、癒しあう関係で、生きている(2013年3月5日)
節子
挽歌の読者のSさんからメールが来ました。
愛する人を失ってから、もう6年が経つそうです。
時々、メールをくださるのですが、しばらくなかったので気になっていました。
元気さが、少し感じられる内容でした。

最初は本当に苦しい日々の中生きていましたが、さすがに6年も過ぎると、相変わらず淋しい気持ちは毎日ですが、一人で暮らすことに慣れてきました。
佐藤様が羨ましいのは、身内(娘様)がいられることです。私は本当にたった一人で、何があっても誰も助けてはくれません。その代わり誰も文句を言う人もいないので、全て自分の責任の中で生きています。

今回はちょっとうれしい報告もありました。
Sさんは、悲しみから会社を辞めてしまっていたようですが、いまは高齢者福祉施設でお仕事をされているというのです。
ビジネスの世界から介護の世界へと大きく転身されたわけですが、愛する人との別れによって、人の生き方は変わります。
いろいろとご苦労はあったと思いますが、仕事にも慣れ、最近、責任あるポジションまで任されたそうです。
他人事ながら、とてもうれしいです。

さらにうれしいことが書かれていました。
介護と言う仕事へのSさんの姿勢です。

私の介護に対する考えは、入居者にできるだけ長生きしてもらうのではなく、残された時間を毎日穏やかに、明るく楽しく暮らして行ってもらうというものです。
そのためには、フロアの職員にストレスがたまるものではいけないので、フロアの職員ものびのびと毎日を暮らせるように雰囲気を作っていきたいと思っています。

とても共感できます。
人によって考えは違うでしょうが、私もSさんに共感します。
愛する人を失うと、生きることの意味も変わるのです。

Sさんは、つづけてこう書いています。

利用者はいろいろな方がいますが、だいたいは伴侶を亡くし家族から離れ淋しい思いで暮らしています。そこに寄り添うといっても難しいですが、そこを目指し毎日通っています。若い介護職には本当にその気持ちを理解するのは難しいものですが。
毎日の中では、逆に利用者に癒してもらっている感が強いです。それで私の気持ちが安定しているのかもしれません

感激しました。
自らを癒してもらえればこそ、人は他者を癒してもやれるのです。
私がもし気が萎えているとすれば、それは誰かの気を癒すことを最近怠っているからでしょう。
そのことに気づきました。

Sさんには、決して「たったひとりではない」と返事を書きました。
癒してくれる人がいるのですから、一人であるはずがありません。
人は本来、癒しあう関係で、生きているのです。

■1978:外は雪です(2013年2月5日)
節子
また雪です。寒いです。
その上、ちょっと体調まで崩してしまいました。
今年はコタツをたてずに冬を超えようと思っているのですが、コタツに入りたい気分です。
午後から出かける予定ですが、今日は午前中、外出をやめて家で安静にしていました。
外はみぞれですが、風も強く、寒々さが伝わってきます。

もし節子がいたら、どんな暮らしになっているかなとふと考えてしまいました。
今とはかなり違う生き方になっているはずです。
考えてみると、生き方を変えようと思って、私が1年間、仕事を辞めるという時に、節子の胃がんが発見されてしまったのです。
人生はいかにも皮肉です。
私の身体の状況が悪かったのに、その私はなんともなく、節子が病魔にとらわれてしまったのです。
最後のオープンサロンの時の節子からは、そんなことは思いもしませんでした。

節子がなんともなかったら、私たちの第3のステージはどんなものになっていたでしょうか。
おそらく慎ましやかに、静かに、あまり世俗には関わることなく、しかし世俗との縁を深めながら、ゆっくりと暮らしていたはずです。
もしかしたら、湯河原に転居していたかもしれません。
地中海地方への安価なツアーにも参加していたでしょう。
今日のような寒い日は、コタツでみかんを食べながら、意味もない四方山話をしていたでしょう。

雪はまだ降っています。
さてそろそろ出かけますか。
ちょっと気が重いですが。

■1979:自分は何者か(2013年2月7日)
節子
昨日、ある人から言われました。
佐藤さんを友人に紹介しようと思ったのですが、どう紹介したらいいか、困りました。
同席していた2人の人も、そうだとうなずきました。
私も、うなずいてしまいました。
私はいったいどういう自己紹介をしたらいいのか、自分でも戸惑うことがあります。
私は、自己紹介がとても苦手なのです。
もしかしたら、確たる実体がない、亡霊のような存在なのかもしれません。

たぶん私は社会から少しずれて生きているのだろうと思います。
学生の頃から、なんとなくそれは自分でも感じていました。
自分の生きる基準はかなり意識していましたが、自分を固定したくない思いも強かったのです。
社会の大きな流れには、いつもどこかで反発していました。
そのためか、なかなか普通の社会には溶け込めないのです。
酒も飲まず、ゴルフもせず、カラオケも嫌いで、世間的な意味での人付き合いも苦手です。
にもかかわらず、気がついてみたら、たくさんの友人たちに支えられていたのですから、人生はわからないものです。
「自分は何者か」などという問いは、答えのない問いなのでしょう。
自己紹介は、その時の気分でしか行えませんが、なんとなく便利な自己紹介をみんな考えてしまうわけです。
しかし、世間に通用する肩書きや職業が、その人を語っているわけではありません。

定年後の人生を取材していた、ある雑誌の編集者から、定年後を考えるって、単にお金や健康について心配することではなく、「自分と向き合うこと」なんですね、と手紙がきました。
私が取材を受けたわけではないのですが、取材の前にちょっと相談を受けていたからです。
手紙の最後に、「佐藤さんはとっくにご存知のことかもしれませんが」と書いてありました。
「自分に向き合い」ことも、多くの人は、避けて生きているように思います。

自分を一番知らないのは自分だ、とも言われますが、そうなのかもしれません。
しかも、一番知っているように思っているから、とてもやっかいです。
しかし、生活を共にし、心を開いた伴侶がいれば、自分はかなり見えてきます。
自分を相対化できるからです。
3次元の世界に生きている私たちは、3つの視座があれば、かなり全体が見えてくるのです。
私は、節子のおかげで、自分と言うものがつかめたような気がします。
もっとも、それは節子と結婚して、20年以上たってからです。
そして、節子のおかげで、ますます自分になり、自分を生きることができるようになったように思います。
節子もまた、たぶんにそうだったような気がします。
その節子がいなくなってしまうと、時に自分が見えなくなってしまいます。
最近また、自分とはなんだろうと、揺れることがあります。
注意しないとまた自分の世界に引き込まれそうです。

■1980:惜しまれることなく愛しまれる人の幸せ(2013年2月8日)
節子
最近、市川團十郎さんが亡くなりました。
66歳でした。
訃報や葬儀に関するニュースをテレビで見るのは、私は好きではありません。
「お別れ会」は、そのもの自体が好きではありませんから、テレビも見ません。
ちなみに、親しい友人であろうと、「お別れ会」には参加しません。
なにやらはしゃいでいるようで、違和感があるのです。

しかし、時々、ニュースで死者を悼む人の話を見聞することがあります。
時々、気になる言葉があります。
「惜しい人を亡くした」「もったいない」というような言葉です。
「惜しくない人」がいるのかというのは「ひがみ」でしょうが、「もったいない」という言葉には昔から抵抗がありました。
もったいないと思う対象は何なのでしょうか。
これはひがみではなく、「もったいない」と思われることへの「同情」です。
これもしかし、「ひがみ」かもしれません。

團十郎のように、存在感があり、社会の大きな一角を占めているような人になると、その喪失はたくさんの人に影響を与えます。
ですから多くの人が「惜しい」と思い、社会そのものにも大きな損失を与えることは間違いありません。
でも、「もったいない」という言葉には、どこか違和感を持ちます。

新聞やテレビで、有名人の訃報が報じられるたびに、私はむしろ、その人の身近な人の悲しみを思います。
愛する人を愛(お)しむことと社会の中で大きな役割を担っていた人を惜しむことは、全く別の話です。
惜しまれることなく愛しまれる人の幸せもあるのかもしれません。
「もったいない」人にはなれなかった人のひがみかもしれませんが。

愛する人を喪う体験をすると、人は言葉に敏感になるのかもしれません。

■1981:そろそろ桜の季節です(2013年2月8日)
節子
早咲きの河津桜が咲き出したというニュースが聞かれるようになってきました。
今日もまだ寒いですが、春が近づいてきているのを感じます。
庭の草花も芽吹きだしています。
房総半島は、もう花でいっぱいかもしれません。

節子がいなくなってからいくつかの変化がありますが、自然とのふれあいが激減したこともその一つです。
この数年、お花見にも行かず、秋の紅葉もほとんど無縁ですごしてきました。
わが家の庭の花木も、いささか手入れ不足で元気をなくしてしまっています。
今年は少し、こうした状況を変えようかと思います。

節子との出会いは、桜の季節でした。
まさか節子と結婚するとは思ってもいませんでしたし、まさか節子が私よりも先に逝ってしまうとは思ってもいませんでした。
人生は思いもかけぬように展開するものです。
思いがけない展開をしない花がうらやましいです。

節子は桜が好きでした。
発病後、一時よくなった時、ともかく桜の花見につき合わされました。
節約家の節子が安いツアーに申し込んだせいで、まだ花が咲いていない弘前公園にも行きました。
その年の開花が遅れていたためですが、開花が遅れても、花は必ず咲きます。
花がほとんど終わったところに行ったこともありますが、花は季節が巡ってくれば、また咲きます。
桜のように、季節がくれば、また開花するようないのちがうらやましいです。
せめて人生を2回繰り返せたら、と思います。
1回だけの人生は、私のように思慮の浅い人間には後悔だらけです。
節子への接し方も、今にして思えば、あまりにも粗雑でした。
節子への約束も果たせないまま、節子との別れがやってきてしまいました。
せめてもう一度だけ、人生を繰り返せるのであれば、たった1日だけでもいいのですが、最高の過ごし方ができるでしょう。

そう思えるのは、二度と人生を繰り返せないからなのかもしれません。
しかし、まだ人生を共にしている人たちが、その人生を大事にしていないのをみると、無性に腹が立ってきます。
それがたとえテレビのドラマや映画であってもです。

伴侶がいるのであれば、何をおいても、今年の春は、桜を一緒に見に行くことをお勧めします。
桜が教えてくれることは、たくさんあります。

■1982:湯島の資料整理はなぜか心が冷えてしまいます(2013年2月8日)
節子
最近、湯島をいろいろなグループに開放してきましたが、オフィスとして使用するところも出てきました。
それで私の資料を整理しだしています。
もうかなり整理したのですが、やはり20年も同じところを事務所にしていると、知らず知らずのうちにさまざまな資料がたまってSSっしまうものです。
今日は3時間ほど一人になる時間ができたので、かなり整理を進めました、
なかには節子ともシェアしてきたものもあります。
そういうものが出てくると一瞬、動きが止まります。

湯島のオフィスを開いてからしばらくの間、訪問客の人の写真を撮って、ノートに一言書いてもらっていました。
それも出てきましたが、懐かしい人がたくさんいます。
もう亡くなった方もいます。
この人は誰だろうと思い出せない人もいます。
それにしても、あの頃は節子も私も生き生きとしていました。
新しい生き方への出発でしたから。

しかし、私たちの生き方は、だれにも伝わらなかったのかもしれません。
いまでは大企業になってしまった企業を起こしつつあった人が、私のことを知ってやってきてくれたことがあります。
私を誘いに来てくれたのです。
その人は2時間ほど話して、私がもうビジネスの世界には戻らないことを知って、二度と来ませんでした。
私が考えるビジネスとその人が考えるビジネスは、全く違っていたのです。
昨年も、ある著名な経営学者の方が、私の友人3人ほどから私のことを聞いて、湯島に来てくれました。
2時間ほど話しましたが、一度、一緒に飲みましょうと言ってくれましたが、その後、連絡もなく1年が過ぎています。
そういう感度のいい人もいましたが、多くの人はたぶん私の生き方を理解してはくれなかったと思います。
それでなんとなく付き合ってくれていたのです。
しかし、考えの違いは次第に関係を疎遠にします。
あんなによく通ってきていたのに、最近は全く連絡のない人も少なくありません。
でもそうした人たちに支えられて、私の世界は豊かな世界になっていたのです。
世間から中途半端に脱落した生き方は、退屈はしません。
しかも節子が付き合ってくれていたから、私には申し分ない生活でした。
佐藤さんはどうやって暮らしているのか、とよく質問されましたが、今から考えると実に豊かな暮らしでした。
お金で苦労したことは、私自身は一度もありませんでしたし。
よくまあ好き勝手にいろんなことに取り組めたものだと思います。
節子や娘たちには、苦労をかけたのかもしれません。

まあそんなことを思い出してしまう資料がいろいろと出てきました。
節子がいたら、きっと話が盛り上がったのでしょうが、一人で整理していると寂しくなるだけです。
そろそろ誰かが夜の集まりにやってきそうです。
こういう時間も、節子とは何回も体験した時間です。
何だか心が冷えてきました。
困ったものです。

■1983:50本のチューリップ(2013年2月9日)
節子
チューリップが50本、届きました。
新潟の金田さんが、節子にと毎年送ってくださるのです。
早速、節子に供えさせてもらいました。
最近は、わが家の庭のチューリップはモグラに食べられてしまい、ほぼ全滅なのです。
代わりに、毎年、金田さんが送ってきてくれるのです。
供えた後、玄関にも飾り、一部をおすそ分けしました。
明日はお墓にも持っていこうと思います。

節子
あなたはほんとに幸せ者です。

■1984:天王台の緬倶楽部(2013年2月10日)
節子
天王台の緬倶楽部というラーメン屋さんに娘たちと一緒に行きました。
ユカが、ネットで美味しいラーメン屋さんを見つけたというので、みんなで出かけたのです。
7時過ぎに着いたのですが、今日はお客様が多かったようで、私たちが最後の客になりました。
もうスープがなくなったのだそうです。
私たちが入った直後に、本日閉店のカードがドアにぶら下げられました。
カウンター式のカフェのようなお店で、かかっている音楽もジャズなのです。
おだやかそうなご夫婦でやっている、とても清潔感のあるお店です。

メニューは5種類の緬だけです。
店主にお勧めを訊ねたら、どれもお勧めですといわれました。
まあそうでしょう。
しかし、それにつづけて、塩ラーメンと光緬が美味しいですよ、といわれました。
光緬は、3人で一つでいいでしょうとも言われました。
いずれも一番安いメニューで、400円と300円です。
お勧めにしたがって、私は塩ラーメン、そして3人で光緬をひとつ頼みました。

緬もお店の一角に製麺機がありました。
毎朝、それで製麺しているそうです。
腰のある、味のある細緬です。
スープは海産物の香りがしましたが、さっぱりしているくせに豊かな味がしました。
美味しさのあまり、私には滅多にないことですが、スープも完全に飲み干しました。
とても美味しく、味にはうるさい娘たちも大満足でした。

ご主人は私よりも若いですが、お店を開いて9年目だそうです。
聞きそびれてしまいましたが、もしかしたら勤務先を早期退職しての開店かなという気がしました。
なにやらラーメン屋さんらしからぬ雰囲気が感じられたからです。
8時には閉店で、夫婦2人で、ゆっくりと楽しんでいるような感じでした。
節子がいたら、きっとうらやましがったことでしょう。
とても感じの良いご夫婦でした。

天王台には節子が好きだった泰山という中華料理店がありました。
このお店もとても人気でしたが、もっと賑やかな柏に、昨年、転居してしまいました。
しかし、節子は、そのお店よりも今日の緬倶楽部が気にいったでしょう。
なによりも夫婦2人でやっているのがいいし、節子好みの、清潔感のあるお店なのです。

自分たちのお店を持って、お客様に毎日喜んでもらえる料理を出す。
こんな幸せなことはないでしょう。
節子とは、こんな生活をしたかったと思いました。
なかよく一緒に仕事をしている夫婦を見ると、とてもうれしいです。
私たちには、もういくら望んでも出来ないことですので。

3人で料金は1800円でした。
あのご夫婦は、きっとお客様の笑顔を最大の喜びにしているのでしょう。
そういう生き方を、節子としたかったです。
月1回のオープンサロンを、毎日開催の喫茶店へともっていけなかったのが、とても残念です。

■1985:3日連続で節子の夢を見ました(2013年2月12日)
節子
最近、よく節子の夢を見ます。
しかし、あんまりいい夢ではありません。
私が節子に無理難題を出し、節子が困っているような夢が多いのです。
もう3日続いているのですが、もしかしたらこれが私の実態だったのかもしれないと、いささか気が重いです。
たしかに、私はわがままに節子にいろんなことを頼みましたし、節子はそれをいつも引き受けてくれました。
しかし夢のなかの節子は、私の頼みを引き受けずに、私がそれを怒っているのです。
これが節子の実態だったのでしょうか。
そうに違いありません。
悪いことをしていました。
いまさら気がついても遅いですが。

それにしても、節子はわがままな私によく付き合ってくれました。
感謝しなければいけません。
最近は、私は娘には無視されがちです。
私の反応がいささか非常識なことが多いので、会話にならないことが少なくないのです。
節子はまあ適当に流していましたが、まあよく付き合ってくれました。

夢は不思議なもので、目覚めた時には内容を覚えているのですが、30分もたつともう内容が思い出せないのです。
したがってどういう無理難題やわがままな頼みを節子にしたのか、思いだせませんが、節子は私の頼みを厳として拒否し、私が怒っている構図なのです。
それにしても、3日連続して同じような夢を見るのはなぜでしょうか。
生き方を改めるようにと言う、節子からのメッセージでしょうか。

今日は、もっといい夢を見たいものです。

■1986:自分に無理難題を課するのも好きなのです(2013年2月13日)
節子
一度、生活のリズムを壊してしまうと、なかなか戻れません。
どうもどこかが狂ってしまったようで、何事もうまくいきません。
しかし動き出せばどうにかなるだろうという楽観主義は正しいようです。

3月2日に、ちょっと集まりをやることにしました。
私の好きなラウンドテーブルセッションです。
テーマは「自殺に追い込まれるような状況を生み出す社会をどうしたら変えていけるか」。
これを思い立ったのは、今年に入ってからすぐです。
東尋坊で長年自殺防止活動に取り組んでいる茂さんからのメールがきっかけです。
茂さんは、「今まで偏った発言をしてきたように思い反省しています」と書いてきたのです。
茂さんの活動実績は余人をもっては成し難いと尊敬していますが、その茂さんが「反省」と言うのが、とても気になったのです。
それで茂さんを囲んでさまざまな立場の人が本音で話し合える場を持とうと思ったのです。
ところがなかなか動けませんでした。
忙しいからでも、気が進まないからでもないのです。
理由もなく、動き出せなかったのです。
動かないとますます動けなくなるものです。

これではいけないと先週、仲間に呼びかけました。
3人の人が集まってくれました。
相変わらず無茶な計画だと、私をよく知っている2人の人が言いました。
それで、不本意ながら小規模なミニセッションにすることになり、会場を確保し、今日、呼びかけようとしたのです。
ちょうどその時、茂さんから、最近話題になっている記録映画「自殺者1万人を救う戦い」のDVDを見てほしいと連絡がありました。
それで考えを変えました。
茂さんと話して、その映画製作者のレネ・ダイグナンさんを呼ぼうということになったのです。
そうなると参加者も増えそうです。
急遽、大きな会場を探す羽目になりましたが、私の大好きな展開です。
多くの人が日程的に無理だという話が、ともかく好きなのです。
有無を言わずに動き出さねばいけません。

節子
これで八方ふさがり状況から抜け出せるかもしれません。
それにしても開催まであと2週間ちょっと。会場も決まっていません。
ほんとに大丈夫でしょうか。
でもまあ、やってしまおうと案内を2つのメーリングリストに流してしまいました。
もう後には引けません。

私らしさが少し戻ってきました。
さてどうなりますことか。

■1987:魚助の鯖一本寿し(2013年2月14日)
節子
節子の遠縁の塩津の魚助の松井さんのお母さんが今年の初めに亡くなりました。
長いことをお会いしていませんが、節子と一度だけご自宅を訪問したことがあります。

今日、香典のお返しと一緒に、鯖一本寿しが届きました。
松井さんの息子さんは、いま塩津で鮒寿しと鯖寿しをつくっているのです。
鮒寿しはわが家では苦手ですが、松井さんのつくる鯖寿しはとてもおいしいのです。
それを知っているので、たぶん鯖寿しを送ってくれたのでしょう。

松井さんとの付き合いが始まったのは、節子が亡くなってからです。
不思議なものですが、節子が亡くなってからしばらくして息子さんがわが家にやってきたのです。
節子の亡くなったことを誰かに聞いて知ったのだそうです。
実は、息子さんとはそれまで全く付き合いはありませんでした。
にもかかわらず、なぜか弔問にわざわざやってきてくれたのです。
そのことはたぶんこの挽歌に書いたはずです。

松井さんはいまは奥琵琶湖のほとりの塩津で、お店を開いています。
かなりのロマンティストで、いろいろと夢を持っています。
滋賀に行ったときには、時にお会いして、その夢の話も聞きましたが、最近は私があまり滋賀には行けなくなってしまい、ご無沙汰してしまっていました。
魚助の鮒寿しは評判も高く、ファンも多いです。
わが家では、節子だけが鮒寿しが食べられましたが、後は全員不得手です。

ここまで書いて、少し記憶があいまいなことに気づきました。
もしかしたら、節子は生前に松井さんの鮒寿しを食べたかもしれません。
そんな気がしてきました。
挽歌を読み直せば、事実がわかるでしょうが、まあ曖昧なままにしておくのもいいでしょう。
もしかしたら、節子に食べさせたかったという思いが、私の記憶をつくりかえているのかもしれません。
あるいは、食べられなかったとことへの無念さを味わいたくて、私の記憶が動いているのかもしれません。
最近、こうしたことを時々、体験しています。
過去はいくらでも変えられると何かの本で読みましたが、まさにそのとおりなのです。

しかし、節子と一緒に奥琵琶湖の魚助で、美味しい料理を食べることは、もうできません。
変えられないのは、過去ではなくて、現在なのです。

節子
なんだかとても悲しいです。

■1988:「与えられんがために、われ与う」(2013年2月15日)
マックス・ウェーバーは「宗教心理学」のなかで、祈りの本質は、神への礼拝ではなく、神に願いをかなえてもらうための呪文であり、神への強制だと書いています。
宗教以前の呪術は、それを物語っています。
神にお供え物をする見返りに、現世的利益を期待するわけです。
ウェーバーは、それを「神に贈与することによって神を強制する行為」と言うのです。
でも、そうでしょうか。

私はできるだけ素直に生きることを目指しています。
ですから、小賢しい駆け引きや目的目当ての行為は、意識的にはできるだけ避ける生き方をしているつもりです。
いいかえれば、「与えられんがために、われ与う」という姿勢は、私にはあまり好ましいこととは思えないわけです。
むしろ、何も期待することのない無償の行為をできるだけ増やしていきたいと思っています。
そういう生き方をすれば、期待を裏切られることはもちろん、騙されることも怒りを感ずることも起こらないはずです。
そうであれば、それこそ平安な生を手に入れられるというわけです。
そうは思ってはいますが、現実はなかなかそうもいきません。

しかし、正面から「与えられんがために、われ与う」といわれると、ちょっと違和感があります。
私は毎朝、仏壇の節子に声をかけながら、大日如来にも祈りをあげています。
時に頼みごともします。
だから、私も仏に強制しているのかもしれません。
しかし、なかなかかなえてはもらえませんが、祈りごとをするだけで、実は十分に与えられているのかもしれません。
仏の前での祈りは、なぜか心を和めてくれるからです。
こう考えると、実は「与うこと」と「与えられること」は同じことのような気がします。
マックス・ウェーバーは、もしかしたら神に祈ったことがないのではないかと思います。

祈るという行為は、形ではありません。
時に心身からにじみ出てくるのです。
たしかに、時に「宝くじを当ててください」などと仏に頼むこともありますが、それはたぶん「祈り」ではありません。
仏へのお供えも決して贈与ではなく、今様に言えば、シェアです。
祈りとはシェアすること。
これが最近の私の思いです。
「与える」とは、実はシェアすることだと気づくと、世界はまた変わってみえてくるのです。
これも節子から教えてもらったことと言ってもいいでしょう。

ちなみに、
「与えることで与えられる」。
ウェーバーの言葉をそう読み直せば、とても共感できる言葉になります。

■1989:なるようになる(2013年2月18日)
節子
どうも最近時間がなくて困っています。
毎週日曜日にはホームページを更新していますが、最近それも滞り気味です。
ブログもここ数日、時評編は書けていません。
一番心配なのは、3月2日に開催することを決めた集まりの告知や準備がほとんどできていないことです。
会場は今日、やっと決まりましたが。
テレビ局からの問い合わせもあるのですが、まあそんな状況です。
普通の神経だと胃が痛くなりますが、まあなるようになると開き直っているせいか、今のところは大丈夫です。

昨日、地元のある集まりに出かけたら、佐藤さんはこの頃、自転車を飛ばして走り回っていますね、とある人に言われました。
私はその人に会った覚えはあまりないのですが、脇目もふらずに自転車をこいでいるのでしょう。
困ったものです。

今年のNHKの大河ドラマの「八重の桜」に関連して、「ならぬものはならぬ」という言葉がよく紹介されていますが、この言葉は裏を返せば、「なるものはなる」、つまり「なるようになる」ということでしょう。
この歳になると、どうせなら会津人のように肩に力を入れることなく、「なるものはなる」「なるようになる」という裏面を信条にしたい気がします。
しかし現実はそれほどあまくなく、そうしたいい加減な生き方をしていると手ひどい目に合うこともあります。
もっとも、どんな手ひどい状況に見舞われても、「ならぬものはならぬ」ですから、結局は「なるようになる」わけです。

時間がないと言いながらも、最近また読書にはまっています。
昨夜は4時半に目が覚めてしまったのですが、そこから枕元においてあった、柄谷行人さんの「哲学の誕生」を読んでしまいました。
ギリシアよりイオニアに注目しているので、とてもうれしく、トルコ旅行を思い出しながら、読んでしまいました。
たぶんいい加減に生きているので、時間破産になっているのでしょう。
困ったものですが、節子がいないと時間をどう使っていいかわからなくなるのです。
組織からも自由、伴侶からも自由だと、時間の使い方が下手になります。
さてさてどう立て直すか。
もう1か月以上、こんな状況が続いています。

■1990:完成することのないプロジェクト(2013年2月19日)
節子
ユカから最近のお父さんの姿を節子が見たらなんというだろうといわれてしまいました。
どうやら最近の私には緊張感がないようです。
だらだらしていると言うことです。
節子がいるときに、緊張感などあったとは思いませんが、確かに最近の生活ぶりは「ズボラ」と言われても仕方がありません。
節子が知っている私とは、ちょっと違うかもしれません。
言い訳的にいえば、何をやっても張り合いが出てこないのです。
困ったものです。

伴侶を亡くすということ、家族を亡くすということは、たぶんこういうことなのでしょう。
自分がどんどんと壊れていくような、そんな気もします。
節子と一緒だったころは、何かを創りあげていくという高揚感がいつもどこかにありましたが、いまはそういうものが感じられません。
だからといって、何がどう変わったかというわけでもないのです。
しかしそういう状況が長く続くと、自分の中で何かが壊れていっていることを感じないわけにはいきません。
一緒に暮らしていると言うことは、そういうことなのでしょう。
支えあって、一緒に創り上げてきた人生であれば、その片割れがいなくなってしまえば、それは完成することのないプロジェクトになってしまい、その先は実にむなしい作業にしかなりようがないのです。
これまでの人生さえもが、何か否定されたような気分になることさえあります。

またなにやら暗い話を書いてしまいましたが、最近、どうも生きるリズムが取り戻せません。
しかも、その理由がよくつかめない。

10年以上にわたり、毎週日曜日に私は必ずホームページを更新してきました。
どんなに忙しくても、出張していようとも、必ずそれだけは守ってきました。
それは自分の生き方を確認するという意味を持っていました。
そして私がいなくなった後、節子がそれを読むだろうと思っていました。
だから几帳面に守っていたわけです。
しかし、どうもそれができなくなっています。
一昨日の更新をやっと先ほど終えたところです。
しかも最近の更新はほんの一部で、ミニ更新としかいえません。
そんな状況が1年以上続いています。
そもそもホームページを更新することさえ、あんまり意義を感じられなくなっているのです。
読者などいないのですから、更新など苦労してすることもないと思ってしまいます。
私の心の中で何かが変わってきていることは間違いありません。

それにしても、完成することのないプロジェクトを生きることは、それなりにつらいものだと、最近思えて仕方がありません。

■1991:夫唱婦随(2013年2月22日)
節子
久しぶりにビレッジハウスの山本さんがやってきました。
山本さんはご夫婦で設計デザインの会社をやっています。
お2人が設計された結婚式場は、ブームを引き起こしたり、映画の舞台になったりすることが多かったです。
山本さんが設計した360度に視界が開ける屋上のチャペルやプロヴァンス風の屋上庭園には節子ともども招待されましたし、
二宮のバリ風レストランにも招待されて、ご馳走になった記憶があります。
山本ご夫妻には節子もお会いしていますが、とりわけ秀太郎さんは一時期、湯島のオープンサロンの常連でもありました。
今はご自分がサロンを主催されています。

山本夫妻は、実に対照的な夫婦なのです。
いささかパターン化していえば、楽観主義の妻と悲観主義の夫と言ってもいいでしょうか。
その2人の結婚の話も実にドラマティックなのですが、まあそれは私が書く話でもないでしょう。

山本さんが、もう何年ですか、と訊いてきました。
もう6年目ですと言うと、もう6年目ですかと言いました。
まあそれだけの話なのですが、それだけいろいろなことが共有できるのです。
精神がしっかりするまで5年以上はかかりましたと言ったら、佐藤夫妻は私たちと違って夫唱婦随だからと山本さんが言いました、
実は山本夫妻も、夫唱婦随なのです。
山本さんは、もしかしたら婦唱夫随だと思っているかもしれませんが、そうではないのです。
それに、山本さんは実に奥様思いなのです。
それが実によくわかるのです。
みんな意外と自覚していませんが、片方を失うと、たぶん多くの人がそれに気づくのではないかと思います。

もっとも、どっちが「唱」でどっちが「随」かは、瑣末なことです。
夫婦とは「唱」も「随」もないのです。
夫婦を40年もやったものとしては、そう思います。

しかし、片割れがいなくなると、「唱」も「随」もできなくなります。
それが一番さびしいのです。
このさびしさは、そうなってみないとわかりません。
さびしいというよりも、むなしいものです。

またなかなか挽歌も時評も書けずにいます。
どこか最近、自分が腑抜けになってきた感じです。
困ったものです。

■1992:最大の支え(2013年2月23日)
節子
最近、週に2回ほど近くの整体院に通っています。
特にどこが悪いというわけではないのですが、何気なく立ち寄ったのが縁で、よく通うようになったのです。
その院長は、まだ20代ですが、とてもがんばっています。
毎日、6時間弱の睡眠時間で、ともかく今は限界まで頑張っているのだそうです。
始発に家を出て、終電で帰る毎日だそうです。
なぜそんなに頑張れるのか。
いつか夫婦で独立すると言う目標があるからです。
奥さんも同じ整体師のようです。
目標を持って、夫婦で頑張る。
私には理想的な生き方です。
もう自分ではできない生き方ですが。
だから応援したいと思います。

一昨日、レネ・ダイグナンさんというアイルランドの人に会いました。
41歳ですから、もう若者とはいえないかもしれませんが、私から見れば、若者です。
彼はあるきっかけで、日本の自殺者の多さを知りました。
そこから20代の若い友人と2人で、仕事の合間を使って、3年かけて記録映画を制作しました。
「自殺者1万人を救う戦い」という作品です。
私も見せてもらいました。
そして、3月に開催予定の集まりにレネさんに来てもらうことにしました。
その打ち合わせもあって、お会いしたのですが、彼の思いに共感して、2時間も話し込んでしまいました。
3年間はかなりハードだったようで、「妻はまた映画を作るなら離婚すると言っています。そう言ったとき笑っていなかったので、きっと冗談ではないんでしょう」とあるインタビューに答えています。
100人近い関係者のインタビューをした作品を2人で制作したのですから、まあ当然でしょう。
いまレネさんのところには、講演の依頼や上映の話がたくさん来ています。
しかし彼の一番の関心は、この映画を効果的に生かしながら、日本の現状を変えていくということです。
その誠実さと真摯さにとても感動しました。
奥さんの言葉は言葉として、レネさんが3年間がんばれたのは、奥さんの支えがあればこそのことだったと確信します。
夫婦の支えあうスタイルは、それぞれに違います。

私が、25年間勤めた会社を辞めて、全く違う生き方をはじめた時に、節子は何も言わずに全面的にただただ応援してくれました。
私が、たぶん普通の人たちとは全くといっていいほど違う人生に移れたのは、節子のおかげです。
2人の若者と話していて、25年前のことを思い出してしまいました。
最大の支えとは、相手を全面的に信頼することかもしれません。

■1993:4回目の視界異常(2013年2月23日)
節子
事件です。
今日の午後、突然視界がおかしくなりました。
視界の左側にゆらゆらとらせん状に動く渦巻きが現れて消えなくなったのです。
2年おきくらいに起こる症状です。
最初に起こったのは、節子と節子の姉夫婦との福井での旅行中でした。
節子との最後の遠出旅行でした。
どこだったかあまり覚えていないのですが、買い物にお土産店に入った節子たちを外で待っている時に、それが起こりました。
目まいほどではないのですが、視界がおかしくなり、焦点が合わなくなったのです。
節子たちが戻ってくるころには、おさまっていましたので、節子にはちょっと目がおかしくなったとしか話しませんでしたが、その時はそれだけで終わりました。

2回目は2年目です。出張で出かけていた先でのことです。
この時は正常に戻るまで1時間ほどかかりました。
さすがにこの時は、翌日、病院に行き、MRIを撮りました。
大きな異常は見つかりませんでした。
その1年後にまた自宅で同じ状況が起こりましたが、横になっていたらおさまりました。
そして、今日、4回目が起こったのです。
目の使いすぎかもしれません。
今回も30分ほどで正常化しましたが、あまり気持ちのいいものではありません。

今日はたまっていたパソコン仕事があったのですが、目を使うのをやめることにしました。
この挽歌を書いたら、今日はお風呂に入って、ゆっくり休もうと思います。
最近、生活のリズムも崩れていますし、ストレスも山のようにたまっていますし、寝不足ですし、おかしくなっても、それこそおかしくありません。

節子がいないと、自宅ではパソコンとにらめっこばかしです。
つまりは、節子のせいなのです。
節子がいる時には、パソコンに向かいすぎていると、節子が注意してくれて、パソコンから引き離してくれましたが、もうそれもなくなりました。
むしろ挽歌のために、節子が私をパソコンに誘います。
困ったものです。
どうにかしなければいけません。

■1994:楽なものからやってはいけない(2013年2月24日)
節子
今日も大事をとって自宅にいました。
しかしやることが山のようです。
さてどうするか。

私は「楽なこと、やりたいことから始める」のが流儀です。
しかし、節子は「やるべきことから始める」流儀でした。
もう一つ違う流儀がありました。
「今日できることは今日やる」と「明日でもいいことは今日はやらない」です。
前者は節子、後者は私です。
もちろん望ましいのは節子流でしょうが、私はどうも不得手です。
それでいつも節子に注意されたり、呆れられたりしていました。
いまとなっては懐かしい思い出です。

節子がいなくなってから、私の流儀はさらに進化しました。
「今日しなければいけないことも明日にのばす」です。
実に困ったものですが、まあ、それでも太陽は出てきますから、大丈夫なのです。
そうしてどんどん自堕落になってしまってきたわけです。
その咎は、当然ながら自らであがなわなければいけません。
それが昨今の私の生活の混乱なのです。

そんなわけで、今日も楽なものから始めましたが、幸いなことに約束事はほぼ完了しました。
しかし、問題はあまりパソコンを続けられないことです。
やはり少し長くやるとおかしくなりそうな気配がします。

明日ももう少し大事をとらなければいけません。
困ったものです。はい。

■1995:自らと寄り添う生き方(2013年2月27日)
節子
寄り添う人がいるということの大切さを、最近改めて痛感しています。
人は一人で生きていくには弱すぎる存在なのかもしれません。
一人だとどうもバランスがとりにくい。
これは自立していない私だけの事情かもしれませんが、周りを見ていても、そう感ずることは少なくありません。

もちろん、寄り添う人は伴侶とは限りません。
私の場合は、たまたまそれが伴侶である節子だっただけの話です。

福祉の世界では、寄り添うことの大切さが盛んに言われます。
「情緒的一体感の共有」とも言われていますが、そういうことは簡単なことではありません。
とりわけ最近の風潮は、忙しさのあまり、そうしたことさえもがテクニックやスキルの問題として捉えられがちです。
「寄り添いの大切さ」を口にする福祉関係者は多いですが、それを実践している人は、そう多くないように思います。
むしろ、なんでもない日常生活でこそ、寄り添いは実践されています。

「寄り添う」というとき、本当に大切なのは、相手との接し方ではなくて、自らの生き方なのです。
自分が、ある意味での当事者になると、そのことがいたいほどわかります。
他者と寄り添うためには、まずは自らと寄り添わなければいけません。
「自らと寄り添う」とはおかしな表現ですが、自らに素直になり、自らとしっかりと向かい合うと言うことです。
これはできているようで、意外とできていないものです。

節子がいたころは(いなくなった今もその延長ですが)、節子に向き合うことで私は自らに向かい合っていました。
別にそう意識していたわけではありませんが、そうでした。
だからある意味で、自らを相対化でき、生きるバランスがとれていたのです。
それがいまは難しい。
「人」という文字は、支え合う形になっていますが、その支え合いの意味はとても深いような気がします。

最近、あまり挽歌が書けていませんが、それがもしかしたら私の生き方のバランスを崩しているのかもしれません。
もう少しきちんと自分自身に立ち向かわないといけません。
そのためにも挽歌はきちんと続けないといけません。
挽歌を書き続けると、元気が出てくるかもしれません。
自分が見えてきますから。

■1996:夢からの暗示(2013年2月27日)
節子
相変わらず最近、よく夢を見ます。
一時期ほど、節子は登場しませんが、いつも懐かしい人が順番に登場します。
なにやら迎えが来る前にいろいろな人が登場するような気がしないでもないですが、ある事情があって、少なくともあと3年は、私は此岸にとどまることにしています。

それにしても、毎晩、よくいろんな夢が見られます。
もっとも、ほとんどの場合、うまくいく夢ではありません。
まぜか思い通りに行かずに、課題を残すことが多いのです。
「夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現している。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだわかっていない」とフロイトは書いていますが、まさにその通りです。

もっとも、どんな夢を見たかは、おどろくほど完全に忘れてしまいます。
目覚めた直後には鮮明な記憶があるのですが、30分も立つときれいに忘れてしまいます。
記憶しておこうと意識しておくと意外と記憶は残りますが、そうでないとそれこそ二度と思い出せなくなります。
記憶のあるうちに記録をしておけばいいのですが、そんなことは私の性には合いません。
しかし、これもまた不思議なのですが、明確な記憶はないのに、なんとなく懐かしい人が出てきて、懐かしい場面の再現だったりという、漠然とした記憶は残っています。
また数回にわたって登場する人もいます。
その人は、私の面識のない人なのですが、数年にわたってみているので、何か知っている人なのではないかと思えるほどです。
最近夢に出てきませんが、昔は、よく登場する3つの廃寺がありました。
その一つには、三千院の阿弥陀如のような仏があり、いつもすぐ横で拝めましたし。最後(なぜか13番目のお寺という意識がありますが)の廃寺にはとてもやさしい五重塔が残っていました。
この塔は、いつも見えるわけではなく、日によって現れる不思議な塔でした。
この夢をよく見たのは、節子がいるときでした。
節子がいなくなってからは、一度も見ていません。
夢の世界も、節子がいなくなってからは間違いなく変わりました。

節子がいなくなった後、彼岸につながっている鉄道の夢を2回見ました。
一つは、ハリー・ポッターのように、ある駅に重なって「見えないホーム」がありましたし、もう一つは駅名まではっきりとした駅の入り口にたくさんの人が乗り込んでいる夢でした。
目が覚めてからパソコンで、その駅の名前を検索しましたが、見つからなかったことを覚えています。
その種の夢は、その後は見ていません。

なんだかおかしな話を書いてしまいましたが、夢は何を示唆しているのでしょうか。
最近は夢でうなされることもなくなりましたが、輝くような夢も見なくなりました。
それに、最近は節子もはっきりとした姿では夢に現れません。
私もまた、夢を見たいという意識が薄れてきました。
見たい夢がないせいか、最近はわけのわからない夢が押し寄せているのかもしれません。

夢は不思議な存在です。
人の生のバランスもとってくれますし。

■1997:記憶の共同体(2013年2月27日)
節子
J・S・ミルは、150年前に出版した『代議制統治論』のなかで、「記憶の共同体」という言葉を使っています。
「国民性(nationality)」に関連して述べている文章があります。

「人類のある一部分が、共通の諸共感によってお互いにひとまとまりとなり、その共感は、他のどんな人々とのあいだにも存在しないようなものであれば、彼らは一つの国民を形成するといってよいだろう。」

そして、人々をつなげる最も強い要素として、ミルはこう書いています。

「全てのうちでもっとも強力なのは、国民の歴史を有することと、その結果として記憶の共同体をなしていること、すなわち、過去の同じ出来事にかんする、集団として誇りと屈辱、喜びと悔恨を持つということである。」

あえて、挽歌にまでミルを持ち出すこともないのですが、この「記憶の共同体」という言葉はとても気にいっています。
夫婦や家族は、まさに「記憶の共同体」だからです。
その記憶は、写真や文字で残されることもありますが、そのほとんどはそれぞれの心身の中に埋め込まれ、あるいは関係性の中に蓄積されているのです。
節子が元気だったころ、私は写真やビデオをとるのが好きでしたが、いなくなってからはまったくといっていいほど、撮らなくなりました。
そればかりではなく、撮りためたビデオや写真への関心もすっかりなくなってしまいました。
記録されたものは、実際には瑣末なものかもしれません。

愛する家族を亡くした人が、その人が使っていた部屋を片付けもせずにそのままにしているのは、まさに「記憶の共同体」を壊したくないからです。
私もまた同じように、節子の生活のにおいがするところは、あまり変えたくないと思っています。
私は、いまなお節子との「記憶の共同体」に生きているからかもしれません。

「記憶の共同体」は時間をかけて育ってくるものです。
無理につくろうとしても、つくれるものではありません。
節子は病気になってから、よく、「またひとつ修との思い出ができた、家族との思い出ができた」と話していましたが、そんな思い出よりも、たわいのない日常の思い出のほうが、「記憶の共同体」には重要なのです。
でもまあ、そういう時の節子の気持ちはよくわかります。
節子は、そういいながら、限られた毎日をとても大事にしていたのですから。
それに十分に応えていなかったことは、いくら後悔しても後悔が残ります。
しかし、節子との「記憶の共同体」はいまなおしっかりと残っています。
その共同体に、今も支えられているのです。

どんなに仲たがいしている夫婦であろうと、かならず「記憶の共同体」はお互いを支えています。
願わくば、多くの夫婦がそれに気づいてくれるといいなと思います。
一度つくった夫婦の絆を壊してはほしくありません。
手に入れたくとも手に入れられない人も存在していることを忘れないでほしいです。

■1998:ルクソール(2013年2月28日)
節子
エジプトのルクソールで観光用熱気球が炎上して墜落すという事故が起きました。
日本人4人を含む19人が死亡したといいます。

事故はとても痛ましく残念ですが、ルクソールの上空からの風景は見事でしょう。
王家の谷も2つの大神殿も上から見ないと全貌はつかめません。
危険を承知で熱気球に乗りたくなる人の気持ちはよくわかります。
できることなら、私も上からルクソールを見てみたいです。

わが家の最初の家族旅行はエジプトでした。
私が会社を辞めて、時間が取れるようになったので、家族に提案してエジプトを選びましたが、節子はなんでエジプトなの?という感じでした。
私と違って、節子にとっては遺跡は泥の塊でしかなかったのです。
実際にエジプトに行ってから、節子はエジプト好きになりましたが、本当は遺跡よりは自然や都市が節子の好みだったのです。

ルクソールでの思い出はいろいろありますが、たしかホテルで夫婦喧嘩をしてしまったような気がします。
それで自由時間にルクソールの市場に出かけたのですが、たしか節子は別行動でした。
そのため、ルクソールの市場でのお土産はありません。
ルクソールの神殿は実に私好みでした。
その反面、王家の谷の印象はほとんどありません。
話題のツタンカーメンの墓は閉じられていましたし、どこの墓に入ったかさえ覚えていません。
まあ観光で見たものは意外と忘れますが、夫婦喧嘩はなかなか忘れません。
困ったものです。

ルクソール神殿は、遺跡は泥の塊だと言っていた節子にも感動的だったようです。
以来、私たちの海外旅行は、ギリシア、トルコ、イランと、古代遺跡ばかりだったのですが、節子は反対せずにいつも喜んでいました。
もし節子が元気だったら、もう一度、エジプトには行ったはずです。
ルクソールにはたくさんの遺跡がありますから、今度は夫婦喧嘩などせずに、ゆっくりと滞在したかったものです。
そのルクソールに、もう行くことがないと思うと、とても残念です。


■1999:「いい人」
(2013年2月28日)
節子
自分で言うのは何ですが、しかし節子は賛成してくれるでしょうが、私は「いい人」です。
私と付き合う人は、多くの場合、不幸にではなく幸せになるはずです。
なぜなら、私は誰かと付き合う時は必ず、この人のために何ができるだろうかと考えるからです。
まあ、これは私の勝手な推察で、これまでに湯島に来た人の中で、3人の人が怒って帰ったことがありますので、私の勘違いかもしれません。

前にも書きましたが、湯島の私のオフィスのドアには開所の時から、「Pax intrantibus, Salus exeuntibus.」と書かれています。
有名な言葉なのでご存知の方も多いでしょうが、「訪れる人に安らぎを、去り行く人に幸せを」という意味のラテン語です。
これは私の目指すことですが、その一方で、私の信条は、自らに素直に、なのです。
ですから時にちょっとしたことで気分を逆撫でされると感情的に反発してしまうことがあるのです。
それで怒って帰ってしまうわけですが、帰るくらいですから、かなり怒っているでしょうね。「安らぎ」とは無縁です。実に困ったものです。

でも、そうした不幸にめぐり合わない限り、私はいつもやってきた人に何かできることはないかと考えます。
ずっと一緒に暮らしていた節子なら、それを証言してくれるでしょう。
だから、私は「いい人」なのです。

しかし、それは何も私に限った話ではないでしょう。
人は素直に生きていれば、本来、みんな「いい人」なのです。
アダム・スミスは主著「道徳感情論」を、次のような文章で書き出しています。

人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい、ということ以外になんら得るところがないばあいでも、それらの人達の幸福が自分自身にとってなくてならないもののように感じさせる何らかの原理が存在することはあきらかである」
 (新訳も出ていますが、この書き出し部分に限っては旧訳のほうがわかりやすいです)

スミスは、こうした認識に基づき、レッセ・フェールや見えざる手を肯定したのです。
だが残念ながら、肝心の経済学者は、あまりに利己的な人種だったために、おかしな経済学がはびこっているような気がします。

「いい人」で生きることは、本来、とても生きやすいはずです。
しかし、昨今の社会状況は、必ずしもそうではないのかもしれません。
「いい人」が挫折してしまう事例は、私の周りでも少なくありません。
かく言う私も、最近いささか生きづらさを感じ出しています。

「他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい」とスミスは書いています。
まさにその通りなのですが、最近は他人の幸福よりも他人の不幸の話ばかりが耳目に入ってきます。
そればかりか、私の身近な周辺さえも、不幸が増えています。
そんななかにいると、私もだんだん「わるい人」になりそうです。
「いい人」である私を支えてくれていた節子がいないのが、最近少し不安になっています。

ちなみに、節子は、ほどほどに「いい人」でした。
私のことを、少し「行きすぎだ」と言っていましたから。
でも、私から見ると、やはり節子のほうが、私よりも「いい人」のような気がします。
その模範の人がいないのも、不安です。

■2000:2000回を迎えました(2013年3月1日)
節子
とうとう3月になってしまいました。
それに、この挽歌の番号も2000になりました。
実は、節子を見送ってから、今日で「2007」日目ですので、本来は挽歌も2007になっていなければいけません。
最近どうも挽歌を毎日きちんと書くことができずに、ずれが生じてしまっているのです。
3月に入る前に頑張って追いつこうと思っていたのですが、だめでした。

最近、私はかなりひどい状況にあります。
昨夜はあまり眠れませんでした。
疲れすぎやら、心配事やら、挙句の果てにはわが家のチビ太くんの介護やらで、極度の寝不足です。
その上、明日は急に決めてしまった集まりが表参道であります。
何とか目標の人数は集まりましたが、肝心の内容の検討がこれからです。
しかし、話し手も聴き手もすばらしい人が多いので、まあうまくいくでしょう。
あんまり準備すると逆にうまく行かなくなることも体験的に学んでいます。

明日の集まりは、時評編には書いていますが、「自殺の問題にどう取り組むか」という公開フォーラムです。
最初は小規模なラウンドテーブルセッションを考えていましたが、映画を上映することになり、会場を変えて、50人ほどの集まりにしました。
急に変えたので、人集めしなければならず、関心を持ってもらいそうな友人知人にメールしました。
直前だったので、多くの人はすでに予定が入っていてだめだったのですが、節子がいなくなってから交流が途絶えていた人からの思わぬ返信もありました。

気の重くなる返信もありましたが、気が晴れる返信もありました。
数年とはいえ、やはりさまざまなことが起こるのです。
節子もよく知っている人からも返信がありました。
そうした久しぶりの人からの返信を読んでいると、節子がいたころのことが思い出されます。
そして、節子がいなくなってしまった、この5年半が、何かあっという間の時間だったような気もします。

しかし、節子がいなくなってから、もう2007日たったわけです。
それが長いのか短いのか、なんともいえませんが、私にはほとんど空白の時間でしかありません。
この挽歌は、それが空白ではなかったことを示してくれるのかもしれません。
あまり内容がある挽歌だとは思いませんが、書き続けてきてよかったとつくづく思います。
この挽歌がなかったら、もしかしたら、私はこの5年半を思い出せないかもしれないからです。

明日の集まりが終われば、少しは余裕ができるでしょう。
早く追いついて、また毎日、静かに書き続けるようにしたいと思います。