妻への挽歌(総集編2)
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目次

■301:家族の絆(2008年6月29日)
今日は節子への報告です。
家族を失うと、遺された家族にはさまざまなストレスが生まれます。
このブログでは、私のことしか書いていませんが、わが家には同居している娘が2人とチビ太くんという犬がいます。
そうした私以外の家族にもそれぞれ大きなストレスはかかっています。
もっともチビ太はあんまり感じていないのかもしれません。
節子がいなくなってからも、特に大きな変化はありません。
動物のスピリチュアリティには大きな関心を持っていますが、チビ太にはどうもスピリチュアリティを感じません。
彼は、薄情な近代犬なのです。いやはや困ったものです。

節子がいなくなってから、一番、精神的にダウンしたのは私です。
それまでは一応、私たち夫婦が家族の中心でしたが、それは節子がいればこそでした。
その家族の中心がなくなってしまったのです。
節子のいない私は、いわゆる「腑抜け」のような存在になっていたはずです。
私がなんとか踏みとどまれたのは、同居していた娘たちのおかげです。
私は実に幸運だったのです。
娘たちに感謝しています。

しかし、私が支えられた分、逆に娘たちのストレスはさらに上乗せされたでしょう。
それはわかっていましたが、娘たちに甘えることにしました。
彼女らも、自分自身の問題もいろいろと抱えているはずですから、大変だったと思います。

最近、漸く、そうした状況を受け止められるようになってきました。
つい先日、3人で食事に行きましたが、節子のいない意味を改めて実感しました。
お互いに精一杯支え合いながら、私のように寂しさや悲しさをストレートに出せない性格なのです。
その分、内部に蓄積されるはずです。
それをもっと思いやらねばならないと改めて思いました。
このままだと、誰かが倒れかねないと思いました。
愛する人を失った人の思いは複雑で、たとえ親子といえども理解などできませんが、思いやることはできます。
大切なのは、理解できないことを認識した上で、何ができるかを考えることかもしれません。

そんな思いになりだしていた矢先、一昨日、わが家一番の頑張り屋の次女が倒れてしまいました。
積もり積もったストレスが引き起こしたことだったのでしょう。
幸いに長女が在宅でした。
おろおろする私とは別に、彼女がてきぱきと状況を仕切ってくれました。
そのおかげで、大事には至らず、次女も回復しつつあります。
今回は、長女の適切な行動に助けられました。

病院からの帰路、長女が、最近、ちょっとギスギスしていたね、と言いました。
節子がいなくなってから、家族はお互いのことを気遣いしあいすぎて、それが逆にお互いのストレスを高めあっていたのかもしれません。
長女もそれを感じていたのです。

節子がいなくなった後、私と節子が入れ替わっていたほうが娘たちには良かっただろうにと、何回も思いました。
しかし、それは無責任な逃避的発言だったのです。
現実をもっと見据えなければいけません。
最近は、「節子だったらどうしただろうか」と考えるようにしています。
しかし今はまだ、その度に節子との思い出が出てきてしまい、判断できなくなります。

次女が身体で表現してくれた事件のおかげで、ちょっと意識しあいすぎていた家族の関係が変りそうです。
今日は、静かに自宅で3人、過ごしています。

節子
娘たちは、本当によくしてくれますし、それぞれ少しずつですが、前進しています。
安心してください。
まあ、私もだいぶしっかりしてきました。はい。

■302:節子、ジャケットを買ってしまいました(2008年6月30日)
節子
娘たちが、私にジャケットやシャツを買うように勧めます。
今の着ているのはもう生地が擦れていると言うのです。
私は目が悪いので気にはならないのですが。
そしてついに彼らのおかげでジャケットを買ってしまいました。
節子からもいつももう少しちゃんとした服を買ったらと言われていました。
私にはその気は全くなかったので、節子の要請はほとんど受けませんでしたが、娘には断りきれません。
いずれにしろ節子が病気になって以来、衣服を購入したのは初めてです。
節子がいなくなってからわかったことですが、
肌着類などは、私の性格を見越してか、節子が私の一生分を買ってくれていました。

私の消費活動はいささか偏っており、お金を使うのはわずかな書籍代だけでした。
酒も煙草も、ゴルフもギャンブルもやりません。
お金のかかる趣味も全くありません。
衣食住のうち、衣服と食にはほとんどお金をかけません。
ファッションにもグルメにも全く関心はありません。
ですからお金がなくても生きていけるのです。

にもかかわらず、家族は私のことを無駄遣いが多いといいます。
確かに、レーザーディスクのプレイヤーを突然2台購入したり、断るはずのリゾートマンションを買ってしまったり、見もしない絵画全集や文学全集を注文してしまったり、以前はそんなこともありました。
お金があるとついつい無駄なものを買うため、最近はお金を持たないようにしていますので、衝動買いはなくなりました。
それに最近は書籍もあんまり購入しなくなりました。
そんなわけで、ともかくお金は使わないのです。

ですから真面目に働けばわが家は大金持ちになれたはずです。
節子と結婚する時、酒も煙草も飲まないのならお金がたまって仕方がないねと節子側の親戚の人からいわれました。
しかし、不思議なもので、入ったお金は自然と出て行くものです。
それに、いろいろあって、ほどほどのお金が入ったり入らなかったりする人生でした。
ですからお金持ちにはならず、わが家は幸せを維持できたのかもしれません。
節子もたぶんそれを歓迎していました。
節子もまたブランド品や貴金属などにはほとんど関心がなく、それにお金がたくさんあったら管理できないタイプでした。

会社を定年前に辞めた時、3000万円の退職金をもらいました。
そんな大金は手にしたこともなく、そのせいで数年後にはほぼ同額の借金に変っていました。
お金で不幸になることはありますが、たぶん幸せになることはないでしょう。
まあ、お金を持ったことのない者の偏見かもしれませんが。

また書かなくてもいいことを書いてしまいました。
節子に笑われそうですが、節子も私と同じく、言わなくてもいいことを言うタイプでした。

ジャケットを購入してからもう1か月以上たちましたが、まだカバーに入ったままです。
着るシーズンが終わってしまいました。
買わなくても良かったなという気もします。
それに、佐々木さんと約束した「本来無一物」指向と反します。
主体性がない人の生き方は矛盾だらけです。はい。

■303:ドラえもんだった節子(2008年7月1日)
節子
むすめたちとロールケーキをつくりました。
ケーキづくりは、節子が残してくれた文化の一つです。
先週末倒れてしまったジュンもだいぶ良くなりましたが、まだ完全ではなく、手があまり使えないので、私も参加したわけです。
節子もそうでしたが、みんな私に料理やケーキづくりを教えようとしますが、どうも私には不得手な世界です。

節子がいなくなってから、私も家事を少しずつ分担するようになりました。
そして家事の大変さを身体で感じています。
とりわけ料理が不得手です。
子どもたちが小さい頃、夏休みに節子が子どもたちと滋賀の生家に帰省する時は、いつも2〜3日分の食事を私に用意しておいてくれましたが、それが尽きると後はほぼ菓子類と果物だけで過ごしました。
節子が戻ってくる頃は、餓死寸前でした。
それくらい料理は嫌いでした。
私は絶対に単身赴任はできないと思っていましたし、もしそうなれば躊躇なく会社を辞めたでしょう。
だから節子がいくら勧めても男の料理教室には行きませんでした。

嫌いなのは料理だけではありませんでした。
それを知ってか、身の回りのことは節子が本当に良くやってくれました。
私がいつも気持ちよく仕事などに専念できたのは、節子のおかげですが、
そのありがたさがほんとうにわかってきたのは、つい最近です。
季節が変れば、クローゼットの中身は自然に替わっていましたし、出張の朝にはすべてがきとんと準備されていました。
なにか必要なものがあれば、節子に頼んでおけば、手に入りました。
家庭内でこうなったらいいなという思いをちょっと口にすると、数日後にはそうなっていました。
節子は私にとっては、ドラえもんのような存在だったのです。
そのドラえもんの節子がいなくなってしまいました。
もし娘たちがいなければ、間違いなく私は路頭に迷ったでしょう。

ところで、ケーキはとてもうまく出来上がりました。
むすめたちは、お母さんのよりよくできたといっていますが、
私には節子のケーキの足元にも及ばないような気がします。
節子のケーキは、結構失敗作が多かったのですが、私にはいつも「絶品」でした。
もう一度、節子のケーキが食べたいです。
節子
ケーキを作りに戻ってきませんか。
今度はまじめに手伝いますから。
そして、出来が悪いなど、決して言いませんから。

■304:おばけのQ太郎(2008年7月2日)
昨日、ドラえもんが出てきたので、今日はおばけのQ太郎です。
いまでは忘れられてしまったキャラクターですが、私はおばけのQ太郎が大好きでした。
そして、そのQ太郎が私と節子をつなげてくれる大きな役割を果たしてくれたのです。

節子と初めて奈良を歩いたことは書きました。
偶然に電車であって、誘ったら節子が付き合ってくれたのです。
まさか、それが縁で結婚するとは夢にも思っていませんでした。
実は当時、私には付き合っていた女性もいたのです。
結局、後日、その女性には振られてしまいました。
但し、ただ振られただけではなく、ドラマティックな物語があるのですが、挽歌にはあまり似つかわしくないので書くのはやめます。

ところで、前にも書いたように、節子との最初の奈良散策はとてもあたたかな楽しいものでした。
その途中で、たぶん私が、真っ白なタートルネックのセーターがほしいというような話をしたのです。
市販のもので気にいるものがなかったのです。
節子はその話を覚えていて、セーターを編んでくれる人を探してくれました。
そして編んでもらえることになりました。
そこで追加のお願いを節子にしたのです。
そのセーターに、私のデザインしたおばけのQ太郎を大きく刺繍してほしいと。
なにしろ当時、私はおばけのQ太郎が大好きだったのです。
嘘を絶対につかず、困っている人がいるとついつい余計なお世話をし、でも必ずしも感謝されるわけでもなく、逆に騙されることが多く、報われることがなく、その上、大雑把でいい加減な、おばけのQ太郎の性格は、私の理想だったのです。

節子は、だれかに刺繍を教わりながら、Q太郎を完成してくれました。
当時は、そうした大きなQ太郎の刺繍のあるセーターを大の大人が着て歩くのは結構勇気が必要でした。
私は、そのタートルネックのセーターの上に、私好みに仕立ててもらった紺のスーツを着て外出しました。
ボタンをしているとQ太郎が見えないように工夫していたのです。
そのQ太郎が、節子と私の距離をぐっと近づけてくれたのです。
もっとも、そのお礼に、Q太郎の投げ輪ゲームを節子に贈りましたが、節子は全く喜びませんでした。
しかしわたしはQ太郎のセーターがうれしくて、毎週着ていました。
残念ながら自転車で転んで紺のスーツを破ってしまってからは、外出用にはいささか恥ずかしくてそのセーターも内着になり、いつかタンスの奥にしまわれてしまいました。
そしてある日、気づいたら節子が廃棄してしまっていたのです。
ショックでしたが、私には宝物でも節子にはできの悪い刺繍の思い出でしかなかったのです。
探せば当時の写真がどこかにあるはずですが、Q太郎が空を飛んでいる姿なのです。

ちなみに娘が小さな頃、等身大のQ太郎がわが家には時々いました。
娘たちをQ太郎のような理想の子どもに育てたかったのです。
しかし、残念ながら子どもたちはQ太郎のようにはなりませんでした。
子育ては難しいものです。
いやきっと節子がQ太郎のようにはしたくなかったのでしょう。

そんなわけで、いまのわが家には、ドラえもんもQ太郎もいないのです。
あえていえば、私自身が少しだけ彼らに似ているかもしれません。
何しろ彼らは私の憧れのキャラクターなのです。
みんなが彼らのようになったら、世界中がほんとうに平和で豊かになるでしょう。

■305:自分の愚かさに腹が立ちます(2008年7月3日)
今日は10回目の月命日です。
最近、自分の愚かさに腹がたっています。
節子にいくら謝っても謝りきれません。

何回も書きましたが、私は節子が絶対に治ると思い込んでいたのです。
その「思い込み」が取り返しのつかない結果を引き起こしたのかもしれません。
そう思うといたたまれなくなります。

私も節子も友人に恵まれました。
沖縄から北海道まで、心あたたかな友人たちがいます。
節子が元気を回復したら、全国の友人知人を訪ねる旅に出ようと思っていました。
節子の再発が確実になるまで、節子は少しずつ元気になり、短い旅行は可能になっていました。
なぜその時に、全国を回る旅に出なかったのでしょうか。
節子に提案したのに、節子があまり積極的ではなかったような気もしますが、強く勧めたら、節子は賛成したかもしれません。
事実、節子は四国に行きたいと言ったこともありました。
あの時ならば、飛行機にも乗れたはずです。

もう少し元気になったら、などという馬鹿げた理由で、旅行を先延ばししていたことを心から後悔しています。
無理をしてでも行くべきでした。

先日、テレビで四万十市の番組がありました。
なぜ四万十市の宅老所えびすに行かなかったのか。
先日、広島の折口さんから電話がありました。
なぜ広島に行かなかったのか。原さんにも会えたのに。
新潟の金田さんからも電話がありました。
なぜ新潟に行かなかったのか。節子は一度も行ったことがなかったのに。
山形の友人とも電話で話していて突然に思いました。
山形にも結局、行けなかった。

何かあると、そこにいる友人知人の顔を思い出します。
節子に会わせたかった友人知人がたくさんいます。
みんなに会ったら、節子は元気をもらって治ったかもしれません。

やれることはやれる時にやっておくこと。
これは節子がよく言っていたことでした。
にもかかわらず、私は節子との旅を先に延ばしてしまっていたのです。
悔やんでも悔やみきれません。
絶対に治る、治ってからにしよう、などと考えていた自分に腹が立ちます。

みなさんは決してそんな馬鹿なことはされませんように。
やれることは、いますぐにでもやらなければいけません。
いますぐに、です。

■306:一気に咲いたハスの花(2008年7月4日)
10回目の月命日だった昨日の話です。
前日に敦賀にいる節子の姉から、家で咲いたハスの花が届きました。
以前も送ってもらっていましたが、咲かずにつぼみのまま終わってしまっていました。
ところが、今回は命日の朝に、ほぼすべてのつぼみが見事に開花しました。

お墓に持って行こうと思って、何本かの花を持ち上げたら、
とたんに花びらがわっと散りました。
節子の位牌から離れたくなかったのかもしれません。

そういえば、昨日、もう一つわっと開いた花があります。
庭のムクゲの花です。
ムクゲは生命力の強い木です。
私は花そのものよりも、まっすぐと元気で育つムクゲの木が好きですが、
節子はムクゲの花が好きでした。
そのムクゲが、昨日わっと咲いたのです。
命日を待っていたように。

昨日は風が強く、ちょっと高台にあるわが家は風当たりがかなり強かったです。
庭の献花台の前でしばらく本を読んでいたのですが、風が強くて10分しかもちませんでした。
節子が、本など読んでいないでちゃんと献花しなさいといっているようです。
やっぱり節子もいま流行の風になってしまったのでしょうか。
困ったものです。

以前は献花台の代わりに、花の手入れをしている節子がいました。
私が読書に退屈して(まあいつも10分程度でした)、
お茶でも飲もうよと、声をかけても節子は土いじりのほうが好きでした。
でも結局、節子は、いつも付き合ってくれただけではなく、
珈琲に合うケーキやお菓子をいつも用意してくれていました。

もう声をかける人もいません。
一人で飲む珈琲は苦いだけでした。
娘に頼んでまたケーキを作ってもらわなければいけません。

■307:遠離 Pavivitta(2008年7月5日)
日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ師の講話が評判のようです。
佐藤さんもぜひ読んでくださいと、若い友人が著書を持ってきてくれました。
「偉大なる人の思考」です。
偉大なる人とは、仏陀のことです。
スマナサーラ師は、スリランカの上座部仏教の僧侶で、上座部仏教の教義や瞑想を普及させる活動に取り組んでいます。
本を持ってきてくれた若い友人も、僧籍をもっているのですが、企業人に呼びかけて、最近、瞑想活動を始めたのです。

その本を読み出したのですが、第3章で止まってしまいました。
読む気がしなくなったのです。
というよりも、憤りを感じてしまったのです。
一時的な憤りかもしれないと2週間、頭を冷やして読み直しました。
怒りはなくなりましたが、やはり違和感があります。
そこで、この挽歌に書くことにしました。

第2章のタイトルは「遠離」(Pavivitta)です。
こう書かれています。
「遠離」とは「あれこれと束縛がない」という意味です。
関わりを持たないことなのです。
束縛がないことと関わりを持たないこととは違います。
華厳経にあるインドラの網に象徴されるように、あるいは空即是色・色即是空に示されているように、関わりこそが仏教の真髄だと私は思っていますので、違和感が拭えないのです。
般若心経に「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」とありますが、これはすべての妄想(顛倒夢想)を打ち破って悟りの境地に入る、というように、「遠離」とは自由になるという意味であって、関わりを持たないというのとは全く違います。関わりを持つとか持たないという段階では、まだ色即是空の境地にすら達していない、と私には思えます。

さらにスマナサーラ師はこう続けます。

子供がいるから楽しい。充実感があって、元気溌刺に生きていられる。だから幸福なのだ、と言えますね。そこで私は、「それはほんとにかわいそうなことですね」と言う。それは、子供に依存して楽しみを感じているからです。子供が自分に楽しみを与えているのです。その子供が亡くなったら、どれほど落ち込むことになるか、どれほど苦しむことか、知っていますか。自分の楽しみ、幸福を、子供に持っていかれるのです。かわいそうでしょう。

とても違和感がありますが、さらにまだまだ続きます。
きりがないのでやめますが、こういう言葉がなぜ共感されて受け入れられているのかに、違和感をもつわけです。
伴侶に関しても延べられていますが、私には全くなじめません。
その章の最後はこうです。

ポイントは、誰にも依存しないことです。人がいないと寂しいとは、決して思わないことです。人々がいると楽しいとも、決して思わないことです。人がいてもいなくても、こころには揺るぎない安らぎがあるのです。人に依存しないで、執着もしないで、人々を助けてあげるのです。仏教徒はたとえ一人で生活しても、孤独ではないのです。

私は、仏教徒を自認していますが、いささかの「ゆらぎ」を感じてしまいました。

私は妻に依存し、いまなお悲しんでいます。
煩悩の最中にいます。
しかし、決して、自分の楽しみ、幸福を、妻に持っていかれたとは思っていません。
むしろ、妻が与えてくれた「幸福」があればこそ、悲しみの中にも喜びがあります。
そして何よりも、妻はまだ私の暮らしの中にいます。
それこそが「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」であり、生きた安らぎではないかと思っています。
この本を持ってきてくれた若い僧と、また一度ゆっくりと話してみようと思います。

■308:突然の献花者(2008年7月6日)
昨日、わざわざ埼玉から米田さんという方が献花に来てくださいました。
ネット検索をしていて、私のブログの挽歌に出会ったそうです。
読み始めたら、どう表現していいかわからなかった自分の気持ちが書かれているような気がして、居ても立ってもいられなくなったのだそうです。
そして、娘さんに同行してもらってやってきてくださったのです。

米田さんは昨年10月にご主人を亡くされました。
節子と同じ病気でした。
私たち夫婦と同じように、お2人で音響機器の会社をやっていたのです。
アドバンスオーディオという会社です。
http://www.advance-audio.com/
ご主人が心をこめて製作した真空管アンプのオーディオキットは、その分野では有名のようです。
ネット上の「オーディオニュース」というサイトに、「米田英樹氏が逝去」という記事が掲載されていました。

米田家も、わが家と同じく、家族全員が絶対治ると最期まで確信していたそうです。
そして突然の、信じられない別れ。
米田さんも、おそらく私と同じような状況になってしまったでしょう。
誰に話してもわかってもらえない、でもこの気持ちはそとに出したい。
どう表現したらいいのか。

そんな時、私の挽歌に出会ったのです。
一昨日のことです。
そして娘さんに頼んで、私の挽歌をプリントアウトしてもらったのだそうです。
山のような厚さになってしまったそうです。
なにしろ300回を超えていますので、たぶん50万字以上です。
内容も内容ですので、勢いがないととても読めない分量です。
でも米田さんは私の挽歌を読んで気が少し晴れたそうです。
自分の気持ちを代弁してくれていると思ったそうです。
私は書くことで心を安定させ、米田さんは読むことで心を安定させるというわけです。

別れの様子も少しお聞きしました。
米田夫妻は私たちよりわずかばかり年下ですが、お子さんが3人、いるそうです。
それが支えで、もしいなかれば後を追ったかもしれないといいます。
しかしいまは、ご主人と一緒にやってきた会社(アドバンスオーディオ)を、少しでも長く維持し、ご主人が精魂込めて生み出した品々を一人でも多くの方々にお届けすることで、ご主人の命が未だ燃え尽きていないと信じたいと、応援してくださる方々に支えられながら、活動を続けていきたい心境だといいます。
オーディアマニアの方たちから早すぎる逝去を惜しまれた米田英樹さんが一生懸命育ててきた真空管アンプのオーディオ機器ですから、きっとやわらかなあったかい音で聴く人を包み込んでくれるのでしょう。
今もなお、たくさんの人たちが米田さんのやさしさに包まれていることでしょう。
そして米田家族の中では、いや、英樹さんを知っている方のあいだでは、いまなお英樹さんは生き続けているのです。
それがよくわかります。

庭の献花台に、庭のダリアを献花してもらいました。
私自身もあまり心の準備ができておらずに、突然の怒涛が押し寄せてきたような感じで、いささかの戸惑いもありましたが、帰り際に米田さんが「今日は来てよかった、気持ちがすっきりした」といってくれました。
挽歌も少しは誰かの役になっていることを知って、私もちょっとすっきりしました。

同じ立場にある人たちには、多くの言葉は要りません。
それに自分が発する言葉が決して誤解されない安心感があるので、素直に話せます。
だからきっとすっきりできるのです。
自分の素直な思いを素直に話しても素直に聴いてくれる人がいるということのありがたさを、改めて実感しました。
そういう人が周りに1人でもいれば、人はどんな苦境でも踏みとどまれます。
秋葉原事件を起こした加藤さんも、間違わずに済んだような気がします。

■309:完全に無防備な関係(2008年7月6日)
昨日、自分の素直な思いを素直に話しても素直に聴いてくれる人が、周りに1人でもいれば、人はどんな苦境でも踏みとどまれます、と書きました。
そう書きながら、節子の顔を思い浮かべていました。
節子が私にとって、生きる力を与えてくれたのは、そういうことだったのだと気づいたのです。
昨日も書きましたが、素直になれるということは、無防備になれるということです。
無防備でいられるということは、癒されるということでもあります。
節子は私にとっては、究極の安息を与えてくれる存在だったわけです。

すべての夫婦が、そういう関係にあるわけではないでしょう。
私たち夫婦も、最初からそうだったわけではありません。
いろいろな事件もありました。
しかし40年も一緒に生きていると、その絆は親子よりも強くなります。
とても運が良かったのは、私たちは2人とも最初からそれなりに「素直」でした。
そして、お互いに適度の依存志向があったのです。
いいかえれば、自立心が弱かったということです。

相手に対して、お互い、素直になり無防備になると、とても生きやすくなります。
しかし、さまざまな価値観と利害がうずまく世間では、素直にも無防備にもなりにくいのが現実です。
そうした世間での疲れを癒してくれるのが、夫婦であり家族でした。
最近はそうした「家庭」の役割は失われ、夫婦も家族も安息の場ではなくなってきているのかもしれません。
それどころか、夫婦や家族にまつわる事件が増えているようにも思います。
いまや夫婦や家族といえども、素直で無防備になっていないのかもしれません。

かけがえのない夫婦、かけがえのない家族。
その世界での事件に触れるたびに、完全に素直になり無防備になれた節子とめぐり合えたことに感謝します。
相手に素直になれ無防備になれるということが、愛するということなのかもしれません。

私たちは、完全に無防備な関係でした。大互いに。
2人でいる時の無重力世界のような居心地の良さをもう体験できないことが悲しいです。

■310:節子を守護する大日如来が生まれつつあります(2008年7月8日)
節子
節子の一周忌を目指して、大日如来に来てもらうことになりました。
私ではなく、娘のジュンの発願です。
わが家の仏壇にはまだ仏様がいませんので、節子の位牌が中心です。
落ち着いたら、ジュンが仏像をつくることになっていたのです。

10回目の月命日に当たる今月の3日に、大日如来像づくりが始まりました。
テラコッタの塑像です。
わが家は真言宗なので、大日如来。
印相は智拳印にしました。

節子と最初に奈良を歩いた時に、阿弥陀仏の九品来迎印を話題にしたのを思い出します。
初めてのデートの話題にはあまり相応しいとは思いませんが、なぜか節子はそれを真剣に聴いてくれました。
ちなみに、私たちのまわりには、なぜかいつも「ほとけたち」が居たような気がします。
いつかそのことも書こうと思います。

阿弥陀如来は信仰の程度によって、衆生を9つに分けます。
そして、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際、その人にふさわしい印を示すとされています。
節子の場合は、どの印で迎えに来たのでしょうか。
その時は、節子を呼び戻すのに夢中で、阿弥陀仏など全く思いもしませんでした。
もしかしたら、阿弥陀仏と節子の取り合いをしていたのかもしれません。
勝てなかったのが残念です。

それにしても、阿弥陀はなぜ人を分けるのか。
今では深く考えるでしょうが、節子に会ったころは、そんなことよりも仏像に関するわずかばかりの知識をきっと節子にひけらかすのに夢中だったのでしょう。
そのせいか、節子は私の「物知り」発言に幻惑され、その後、長く私は何でも知っていると思い込んでいました。
しかし、だんだんとそれが間違いであり、私が単なる「知ったかぶり」でしかないことに気づきました。
私の知識のいい加減さもばれてしまい、人生後半は、「はいはい、そうですか」と聞き流すようになりました。
ただ、私の思いから出てくることには、いつも真剣に耳を傾けてくれました。

仏像はいま乾燥中です。
ひびが入らなければいいのですが。
乾燥したら、焼成します。
開眼の日には私に目を入れさせてくれることになっています。

節子
もう少し待っていてください。
ジュン風の、ちょっと楽しい、しかし素直な仏が誕生します。

■311:節子さんがいないせいか家が小さくなりましたね(2008年7月9日)
節子
今日は川島さんご夫妻が献花に来てくださいました。
早くきたいと思っていてくださったようですが、人生はいろいろあります。
ご主人が1か月ほど入院されていたそうです。
もうお2人とも70を超えられました。
ご主人は昔気質の江戸っ子ですが、昔から粋なおとぼけジョークが好きなのです。
それが歳とともに、もっと自然になって、磨きがかかりました。
いささかプライバシーにも関わるので、書くのをやめますが、今日はもう大爆笑の事件が起こったのです。
きっと帰宅後も川島夫妻は笑い続けていたことでしょう。
ハンマーカンマーにも勝る、実におかしなやり取りが展開したのです。
具体的に書けないのがちょっと残念です。
人は素直に老いると、楽しい存在になることを改めて知りました。

奥さんは油絵をやられていますが、70歳を迎えてなお意欲的で、この度、自宅を改造してなんと16畳のアトリエをつくったのだそうです。
節子もちょっとだけ油絵をやっていましたが、川島さんの足元にも及びませんでした。
私も時々、節子と一緒に川島さんの展覧会を見に行ったことがあります。

ところで奥さんがわが家に入ってくるなりこう言うのです。
節子さんがいないせいか、何だか家が狭くなったようね。
意外な言葉です。
節子がいなくなった分だけ、少し寒々し、むしろ広くなったと思っていたのですが、川島さんのその言葉にハッとさせられました。
そうか狭くなってしまったのだ。
たしかにそういわれるとよくわかる気がします。

家は単なる物理的な空間ではありません。
そこに住む人と一緒に生きています。
節子がいることで、家の暖かさや華やかさがあり、それが空間の広がりをつくっていたのでしょう。
節子がいなくなったいま、わが家の空間も少し元気をなくし、萎縮しているのかもしれません。
目から鱗の発言でした。

もっと元気で華やかで、広々した家にしなければいけません。
せっかく、節子が選んだ場所に、節子の思いも入れて建てた家です。
節子を失望させないように、家が小さくならないようにしようと思いました。
どうすればいいのかは、まだわかりませんが。

帰り際に川島さんたちが言いました。
散歩で時々、お墓にも行かせてもらいます。
仲の良いお2人を見送りながら、私たちもきっとあんな夫婦になったのだろうなと思ったら、急に涙が出てしまいました。
節子
やっぱり節子に会いたいです。

■312:時々ふと、そばにいる気配を感じます(2008年7月10日)
節子
最近、また節子にとても会いたい気持ちが高まっています。
たぶん現世では会えるはずはないのですが、頭のどこかで、きっとまた会えるという確信のようなものが依然として残っています。
愛する人を失った人は、きっとみんな同じなのだろうと思います。
その確信があればこそ、愛する人がいない現世を生きていけるのかもしれません。

私よりも数年前に伴侶を見送った高崎のTYさんのメールをなぜか思い出しました。
節子を見送ってから何通かのメールをもらっていました。
読み直してみました。
いろいろなことに気づきました。
改めてメールを読んで、TYさんの心遣いの深さに気づかなかったことがたくさんあったことにも気づきました。
当時はきちんと受け止められていなかったのです。

TYさんは、夫の存在を実感できると書いていました。
誰もいないのに空気が動いたり、足音が聞こえます。
体調が悪いときはすごく嬉しくなります。
こうも書いています。
時々ふと、そばにいる気配を感じます。
良いことがあったときは、写真が微笑んでいます。
子どもたちにも見えるそうです。

最近、私もそう感じます。
時間の経過とともに、逆にそうした感じが強まっている気もします。
思いの強さが、そうさせているのかもしれません。

TYさんは、ご自身の体験を踏まえて、いろいろと私たち家族を気遣ってくださいました。
1年近くたって、そのことにやっと気づくとは恥ずかしい話ですが、そうした不義理をたくさんしているのでしょうね。

TYさんはこうも書いてきてくれていました。
佐藤さん
ゆっくりゆっくり歩いてください。
節子様が、いま佐藤さんにしていただきたい事を、メッセージを送ってこられると思います。
節子様との楽しかったこと、良かったことをお話して下さい。
ポジティブなお考えの持ち主に心配かけないように・・・・
心おきなく旅立たれるようにとお祈りしております。

そうやっていただろうか、いささか不安です。
TYさんからはお手紙も何回かもらっています。
そういえば、当時もらったいろんな人たちからの手紙もきちんと消化しないままになっているのかもしれません。
節子を見送ってからの半年は、「心ここにあらず」だったのかもしれません。
少しずつ当時の手紙やメールを読み直してみようかと思います。
きっと節子はそれを望んでいるでしょう。
節子はそれなりに義理を大切にする人でした。
ちゃんとやらないと怒られてしまいます。

ちなみに、いま気づいたのですが、節子の位牌壇のそばにTYさんの手づくりのテディベアがいます。
TYさん
ありがとうございました。
TYさんの少し後ろを追いかけながら、私も活動を回復させていくようにします。

■313:手づくりの万華鏡
(2008年7月11日)
昨日、TYさんのことを書きましたが、
節子の位牌壇のちかくに、TYさんのテディベアと並んで、万華鏡があります。
病床の節子が時々、のぞいていた万華鏡です。
これはたしか寿衣を縫う会の嶋本さんからのプレゼントです。
手づくりの万華鏡です。

節子の枕元にはたくさんの人たちからのエールの品々がありました。
元気になって、その一つひとつを「ありがとう」と言って返していくのが私たち2人の願いでした。
そうした品々が、もう返すこともできず、いまもなお私たちの周りにいます。
返さなくてもいいではないかと思うかもしれませんが、私たちは返却の旅をしたかったのです。

寿衣を縫う会の嶋本さんに私が出会えた時には、節子はすでに闘病中でした。
ですから私たちは「寿衣」の話を避けがちでした。
闘病中であれば、むしろきちんと受け止められたのではないかと思うかもしれませんが、元気な時であればこそ、「死」はこだわりなく語れるのです。
節子と私は、意識的に「死」に関する話は避けていた気がします。
いまとなっては、「逃げていた」と言われても否定できません。
それもまた私の中では融けることのない「悔いの念」です。

節子が逝った後、嶋本さんからは「般若心経」の本が送られてきました。
万華鏡と般若心経が、いまも節子を包んでいてくれています。

■314:初盆への準備(2008年7月12日)
節子
お盆の季節です。
帰省の準備は進んでいますか。

わが家は旧暦でお迎えすることになっていますので8月がお盆ですが、九州の蔵田さんから供物が届きました。
関東のほうは新暦だと思っていたようですが、そういう人は少なくありません。
私自身は、こうした行事にはこれまであまり関心がなく、考えてみると周りで亡くなった方がいても、その時だけで、その後のことへの気遣いがなかった自分を恥ずかしく思います。
いざ自分が当事者になって、そうした心遣いの文化がきちんと残っていることを知ると、これまでの無関心さを改めて反省させられます。

日本の文化とか、人のつながりの大切さを口にしながら、行動はそれについていっていないのです。
どこかで「わずらわしさ」から逃げたい気持ちがあるのです。
「煩わしさ」と「支え合い」とは、コインの裏表ですから、支え合いをいうのであれば、煩わしさを疎んじてはいけません。
どうも私自身の言動には矛盾があります。
これまでは、その「煩わしさ」をほぼすべて節子任せにしていました。
それで私自身は、のびのびと都合のいいことだけを話し、良いとこ取りをしていたわけです。
節子がいなくなって、いかに節子が私を支えていてくれたかがよくわかります。
改めて頭が下がります。

その節子がいなくなって、たとえばお寺へのお布施をどうしたらいいかなどもよくわかりません。
そのあたりの常識が、私にはかなり欠落しているのです。
節子の日記などを読めばきっと書いているでしょうが、まだ読む気にはなりません。
それで手っ取り早く今回はお寺からいろいろと教えてもらいましたが、私一人だと不安なので、娘に同行してもらいました。
基本を踏まえながら、私たち風に取り組むつもりです。

それにしても、加野さんも蔵田さんも、妻を亡くした私以上に、いろいろと考えてくれているのではないかと思うほどで、反省させられました。
私自身があんまり信頼されていないのかもしれません。
あいかわらず修さんは口だけだね、と笑っている節子の顔が目に浮かびます。
決して口だけではないのですが、私はどうも面倒なことは「まあ、いいか」と手抜きしてしまう傾向が強いのです。
いえ、それが「口だけ」ということですね。
それに、死者を悼む儀式を面倒だと思うことは間違いですね。
はい、反省します。

初盆は、わが家の家庭菜園で採れたナスとキュウリで牛と馬をつくります。
提灯はどうしようかまだ検討中ですが、どうも葬儀関係のお店で売っている提灯はわが家の気分には合いません。
たぶん節子もきっとそう思うでしょう。
家族みんなでわが家風のものをインテリアショップなどで探していますが、なかなか見つかりません。
お墓からの迎え火の提灯は、なんとヴェネチアンガラスのランプが採用されそうです。
仏壇の前の提灯は、まだ見つかりませんが、100円ショップで購入してきた提灯を素材にしてわが家風にデザインする計画もあります。
初盆はご住職も来るので、あんまり羽目を外せませんが、節子の意向も踏まえて、楽しい雰囲気を創りだしたいと思っています。

まあ、そんなわけで、初盆の準備もそれなりに進んでいますので、節子も安心してください。

■315:夢からのメッセージ(2008年7月13日)
節子と旅行をしている夢を見ました。
きれいな景色をみながら、
節子、また一緒に来ようね
と言いながら、
でも節子はもういないから無理だね
とお互いに屈託もなく話しているのです。

もういないのに、なぜ今は一緒に旅行に来ているのか。
とてもおかしな話なのですが、
それに気づいて、会話が途切れ、目が覚めてしまいました。
まあ、それだけの夢なのですが、
この夢に一体どんな意味があるのだろうかと考え出してしまい、それからもう眠れなくなりました。

節子がいる。
そしてその節子と、節子のいないことを話している。
実は、こうした奇妙な夢を時々見ます。
そして目が覚めるのです。
目覚めの時には、とても「あたたかな気持ち」を感じます。
しかし、いろいろと「論理的」に読み解こうとすると、頭がこんがらがってしまい、目が覚めます。
今朝もそんなわけで、5時すぎからパソコンに向かっています。
節子が、もう起きるの、もう少し寝ていたら、と言っているのを感じながら。
節子はいつもそう言っていました。
私が早起きだったからです。
節子が病気になって以来、私は早起きになりました。

フロイトの「夢判断」にはどうも違和感がありますが、私自身は夢には何かメッセージがあるのではないかと考えています。
節子が彼岸にいった後は、節子が何か託してきているのではないかという期待もあります。
でもいつも難解で、読み解けません。

節子を送った後、それまで夢で出てきた場所が出てこなくなったような気がします。
現実的な場所ではなく、夢の中に時々、出てきた場所です。
いま具体的に書こうと思ったのですが、なぜか思い出せません。
それと飛行機に乗る夢をよく見るようになりました。
実際に乗るところまでは行かず、飛行場に向かう夢ですが、行き着いたことはありません。
もう一つは迷子になる夢です。
それもいつも通っている場所なのにが、なぜかとんでもないところに出てしまうのです。
こう書いてくると、何かのメッセージを感じてしまうのもわかってもらえるかもしれません。

夢の中に私自身が何か「救い」を求めているのかもしれません。
しかし、節子が一生懸命に何かを伝えてきてくれているのかもしれません。
死別してもなお、心を通わせあうことは、私たちの約束でしたから。
その具体的な方法をきちんと話し合っておかなかったことが悔やまれてしかたありません。

今日はお墓に行って、節子に訊いてみることにします。

■316:墓前の花
(2008年7月14日)
昨日、お墓参りに行きましたが、最近は暑いため生花はすぐに枯れてしまいます。
それで鉢物にしようと思っていましたが、これも結構管理が難しそうです。
そこで人工の花を置くことにしました。
一昨日、上の娘のユカがいいものを見つけてきてくれたのです。
ちょっと見には生花と見間違います。
毎日、日光を浴びていると退色しないか心配ですが、まあ夏場なので仕方ありません。
それでも娘たちがいろいろ工夫してくれているようです。

わが家のお墓は、何の変哲もない普通の墓です。
菊の花が自生していますが、あんまり周囲を乱してはいけないので、そう勝手には草木は植えられません。
毎日来られるのであれば、お花畑にできるかもしれませんが、今の私にはとても無理です。

今のように樹木葬が広がらない20年ほど前に、樹木葬と里山保全をつなげられないかと考えた時があります。
節子も関心を持っていました。
その後、湯河原で、死後に向けて自分の桜の木を植える公園がありました。
樹木葬ではありませんでしたが、ちょっとそれにつながるような仕組みです。
2人で偶然、そこに出会ったのですが、なぜか2人とも乗り気にはなりませんでした。
あの時に申し込んでおかなくてよかったと思います。
もし申し込んでいたら、節子を湯河原に閉じ込めてしまうことになったかもしれません。

わが家の庭の樹のどれかを。私と節子の樹にしようと提案したことがありますが、これは家族みんな賛成ではありませんでした。
理由はいろいろありますが、昔のように子孫代々が同じ家に住む文化のもとではいいのですが、そうでない文化のもとでは問題が多すぎたのです。

お墓をどうするかは、私にも節子にも、大きな関心事でした。
しかし時間切れで、節子とゆっくり話し合って、私たち風の納得できる墓のかたちが創りだせなかったのはとても残念です。
節子が結局、私の両親の墓を選んだので、私もその墓に入ることにしています。
でも、どこかに私たちだけの別荘墓をつくろうと思っています。
それはきっと私たち2人だけの墓になるでしょうから、できた途端にだれにも知られずに忘れられることになるでしょう。

■317:節子の花の輪(2008年7月15日)
先日、突然献花に来てくださった米田さんに、庭に咲いていたヤマホロシとディモルホセカの苗木を持って帰ってもらいました。
いずれも節子の献花台のそばで咲いていたものです。

米田さんからメールが来ました。

戴いたお花のうち ヤマホロシが先に生き生きしてきました。
大きくなりましたら、お花の好きな知人の庭にも植えてもらい、奥様のお花の輪を広げさせていただきます。
奥様のお花、どんどん増やして広めて永遠に命をつないで行きます。
ありがとうございました。

米田さんがお住まいの東武動物公園の近くにも、節子の花が広がって行くと思うと、とてもうれしくなります。
米田さん
ありがとうございます。

献花に来てくださった方には、できるだけ何か花をさしあげるようにしています。
一番遠くはネパールのカトマンズのチューリップですが、他にもいろんなところできっと咲いてくれていることでしょう。
花を通して、節子がいろんなところに出かけていると思うと、とても心が和みます。

梅雨なのに、最近は夏日が続いています。
庭の草花が元気をなくさないように注意しなければいけません。
花に水をやる時には必ず節子と会話するようにしています。

■318:花よりやさしい節子(2008年7月16日)
昨日、花の輪のことを書きながら思い出したことがあります.
節子と会った頃、つまり昭和39年(1964年)ごろですが、「花よりやさしいマリア」で始まる歌がありました。
日本の歌ではありません。
それほど流行した歌ではないと思いますが、私は好きで時々歌っていました。
どんな歌だったのか、ネットでいろいろと調べてみましたが、出てきませんでした。

みんなに愛されているのに、まだそれに気づくことのない無邪気なおとめのことを歌った歌です、
歌詞はたしかこんなものでした。
花よりやさしいマリア
花よりきれいなマリア
でもそんなことなど気がつきもしないで、
あの街角、あるいている。
何ということのない歌です。
でも私にはとても気に入っていた歌なのです。
2行目と3行目の間に何か入ったような気もします。

節子はマリアと違って、「花よりはやさしく、花よりきれい」ではありませんでしたが、花が似合う人でした。
そして何よりも花が好きでした。
家の中でも、ちょっとした片隅に小さな花を一輪、飾っておくというのが好きでした。
そうした小さな気遣いが、私の大好きなことでした。
誰にも気づかれることのない気遣い。
それこそが節子と私の理想でした。
まあ、しかし全く気づかれないと少し残念に思うのも、私と節子の共通点でした。
節子は、花をうまく活かすのが好きでした。
いろんな思い出がありますが、思い出そうとすると涙が出てきますので、やめます。

私の節子の思い出は、節子のまわりにあった花のおかげでかなり美化されているかもしれません。
節子の思い出というよりも、節子の花の思い出というべきでしょうか。
いやもしかしたら、節子は枯れやすい花の妖精だったのかもしれません。
それを枯らしてしまった自分が、とても情けないです。

■319:世界中の花が節子のお墓(2008年7月17日)
花の話が続いたのですが、もう一度だけ、
先日書いたお墓の話と米田さんの「節子の花の輪」という言葉が、
どこかでつながるような気がしていたのですが、
昨日、節子の献花台を見ていて、ハッと気づきました。
そうか、節子が望んでいたのは、花を自分のお墓にすることだったのだと。

何回か書いたように、
花や鳥になって、チョコチョコ戻ってくる、と節子は書き残しました。
そして、家族は献花台をつくり、献花に来てくれた人にはできるだけ花をお渡ししました。
その花が咲いたといって、いろんな人が連絡をくれます。
庭に花が咲く度に節子のことを思い出します。
節子は花と一緒にいるのです。
風になりたいという人もいます。
しかし節子はきっと花になったのです。

世界中の花が節子のお墓(住処)。
そう考えればいいのだと思ったのです。
その節子のお墓はどんどん広がっている。
節子はまるでブラウン運動をしているように、
同時にさまざまなところに存在しているわけです。
そして、さまざまな節子に、私はいたるところで会えるわけです。
そう考えると何だか気持ちが落ち着きます。

花になって戻ってくる。
どの花が節子なのだろうか、などと考える必要はないのです。
すべての花が節子なのですから。

お墓のイメージが一変しました。
お墓とは「場所」ではなくて、「不滅の生命の場」なのかもしれません。

■320:節子がいなくてもいろんなことがあります(2008年7月18日)
節子
今日はうれしい報告です。
節子の姪のYさんが結婚します。
私たちの娘たちがまだ結婚もせずにいるのが気がかりではありますが、でもまあ姪が結婚するニュースは節子にもうれしいニュースでしょう。

節子がいなくなってから、まだ一度も節子の実家に行ったことがありません。
節子と一緒にではなく、独りで実家に行く勇気はまだ出ないのです。
思い出せば、節子の実家では実にいろいろなことがありました。
私たちの結婚そのものが、いささか常識外れでしたし、
若い頃は私自身が世間の常識に抗って生きていく姿勢が強かったので、
昔ながらの考えを大事にしている親戚との関係では節子も苦労したはずです。
幸いに、節子の両親はとても柔軟な発想の持ち主でしたから、私たちを応援してくれましたが、節子がどのくらい私をカバーしてくれていたかは、いかに脳天気の私でも感じていました。
そんな思い出がいっぱい詰まった節子の実家にはどうも気が重くて行く勇気が起きないのです。
在所の人は、みんなとても良い人たちですから、なおのこと気が重いです。

幸いに結婚式は郷里ではなく、大津の近江神宮で行われます。
ですから節子の郷里には行かなくていいのですが、近江神宮周辺もまた節子との思い出がある場所です。
もし時間があったら、節子と何回か行った三井寺によってこようと思います。
夕方、節子と聴いた三井寺の鐘の音は絶品でした。
そんなことを思い出すと、一人で行けるかどうか心配になりますが。

私は結婚式も法事も、あまり好きではありません。
儀式が基本的に不得手なのです。
今までは節子がいつも隣にいてくれたので、安心でしたが、今回は節子がいません。
おめでたい場なので、涙が出なければいいのですが。

■321:時の癒し(2008年7月19日)
「ブログの論調が変わってきているね、やはり時が変えてくれているんだね」と武田さんが電話してきました。
CWSコモンズに「国家論」を寄稿してくれている武田さんです。
彼はなぜかこのブログを読んでくれているのです。

このブログの文章の雰囲気は変わっているかもしれません。
しかし、時が癒してくれているとは全く思いません。
悲しさはある意味ではむしろ強まっていますし、節子への思いは募るばかりです。
でもたしかに涙はあまり出なくなりました。
節子のいない人生になれてきたのかもしれません。
そういうことが「時が癒す」という意味であれば、その通りかもしれません。
しかし、どうも「癒す」とか「忘れる」とかいうこととは違うように思います。
「癒す」とか「癒さない」とか、そういうことではないのです。

正確にいえば、世界が変わったのです。
節子がいる世界と節子がいない世界は、全くといっていいほど、異質です。
その世界に慣れてきたというわけです。
そして、どんなに慣れようとも、「寂しさ」や「悲しさ」は変わりようがありません。

間主観性という言葉があります。
複数の主観の共創によって世界は現出するという考え方です。
世界は個人の主観によって成立するのでも、客観的な事実によって成立するのでもなく、さまざまな人たちの主観の関わりの中に成立するという考えです。
まあ、かなり粗っぽい言い方ですが、実感できる考え方です。

この数十年、私にとっての世界に最も大きな影響を与えていたのは、自分自身を除けば、伴侶だった節子の主観でした。
私と節子の主観が、私の世界の基本的な核を構成していたわけです。
その節子の主観や存在がなくなったいま、私の世界は大きく変わったわけですが、その非連続な変化になかなか対応できずにいるのだろうと思います。
そのため、「寂しさ」や「悲しさ」はもちろんですが、「不安」や「居心地の悪さ」。あるいは価値観の揺らぎなどを感じているのです。

「癒す」というのは、「なおす」という意味ですが、今の私に必要なのは、「なおす」ことではなくて、「創る」ことなのかもしれません。
それに、「癒す」という言葉には、節子のことを忘れるというようなニュアンスを感じますので、どこかに「癒されたくない」という意識があるのです。
彼岸に行ってしまった節子も含めて、新しい間主観的な世界に、次第に慣れていくでしょうが、「寂しさ」や「悲しさ」はたぶん、彼岸で節子に再会するまでは消えることはないでしょう。
私の周りにも、10年たってもなお、癒されることなく、しかし元気に人生を楽しんでいる方がいます。

ブログの論調が変わってきているとすれば、きっと私も、新しい世界にだいぶ慣れてきたのでしょう。

■322:好きな人がいるとエコライフできるという話
(2008年7月20日)
最近のリサイクル運動に厳しい批判をしている武田邦彦さんの本を読んでいたら、

「リサイクルが始まる前には、ペットボトルの生産量は一年に15万トン程度でしたが、リサイクルが開始されると生産量は55万トンに増加しています。その55万トンは、ほとんど「再生したペットボトル」はなく、「石油から新しく作ったペットボトル」です」。

という文章に出会いました。
武田さんは、リサイクルよりも、もともとの生産量を減らさなければいけないと主張している人です。
言い換えれば、リサイクル論は生産拡大のための仕組みだというわけです。
私も同感で、20年前からリサイクル産業論には批判的な人間です。
論理的にどう考えても引き合いません。
それにリサイクル関連の法律を読めばすぐわかりますが、この法律は経済拡大を目指しているものですから、環境面ではどう考えても真面目に取り組む姿勢は感じられません。
議論の時から、私は経団連トップたちのエゴ(エコではなく)を感じています。
私もゴミの分別にはかなり真面目に取り組んでいますが、虚しい限りです。

それはともかく、その本を読んでいたら、こんな文章が出てきました。
「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる」。

そして武田さんはこう続けます。
「もし好きな人がいなければ電気街に行ってパソコンを山ほど買ってきて自宅で遊ぶしかない」。
ちょっと意味不明ですが、要するに好きな人がいれば何がなくても幸せになれるが、いなければ、物がなければ幸せになれない、ということでしょうか。

好きな人がいるかいないかで。時間の使い方や消費行動が変わってくる。
つまり、「好きな人の存在と物量消費量」は反比例するというわけです。
とても面白い話です。
時評編で改めてもう少し書いてみようと思います。

私の場合、武田さんの第1原則「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる」は極めて納得できます。
節子と一緒だと、どんなところでも楽しかったですから、高価なレストランなど必要ありませんでした。
私たちが高級レストランや高級ホテルに行ったことがないのは、きっと愛し合っていたからなのですね。
いえこれは冗談で、お金がなかったからだけの話です。

ところで、「好きな人がいないと物をたくさん買うことになる」という武田さんの第2原則はどうでしょうか。
孤独な女性が買物でストレスを発散するという報告もありますので、ある意味では当たっているのかもしれません。
しかし、私の場合は、どうも当てはまりません。
節子がいなくなって以来、物欲はさらに低下しました。
出張してもお土産を買う気も起こりませんし、ちょっと美味しそうな和菓子屋の前を通っても買おうという気にはなりません。
しかし、これはたぶん、愛する人と会えなくなったことの反動作用です。
節子がいない現在、どんなものがあろうと「夢のような2時間」は過ごせなくなってしまいました。
だからもう何も必要ないというわけです。

私はどうしたらいいのでしょうか。
好きな人と一緒にコーヒーも飲めないまま、しかし物を買って満足することもできず、なんだかとても中途半端な毎日になってしまっているのかもしれません。
1杯のコーヒーは10分ともたないので、今日は朝からもう4杯目のコーヒーです。
胃腸の調子があまりよくありませんが、手持ちぶたさで、家にいるとどうもコーヒーばかり飲んでいます。

■323:早く夏が終わりますように(2008年7月21日)
節子
今年も暑い夏になりそうです。
夏になる前から、もう暑いですから。
彼岸には「四季」はあるのでしょうか。

節子との夏の思い出はいろいろありますが、やはり、毎年、節子の実家に帰った時のことが一番思い出されます。
夏のお盆は節子の実家で過ごすことも多かったです。

郷里に帰ると節子は先ず言葉遣いが変りました。
滋賀弁というのがあるかどうかわかりませんが、大きな意味では関西弁なのでしょうか、ともかく言葉の表情が変るのです。
最初の頃は、なにかちょっと私から離れてしまうような気もしましたが、郷里に戻っていろんな人と気さくに話をする節子が、私は大好きでした。
毎年帰っていると私もそれなりにみんなに顔を覚えられましたが、1人で歩いていても声をかけられることもありました。
節子の両親の墓参りも、その後していないので、気になっているのですが、節子と一緒ではなく一人で節子の郷里を訪れる気にはなかなかなれないのです。
もちろん今年のお盆は自宅で節子を迎えます。

節子がいた時には、いくつかの夏の恒例行事もあったような気がしますが、なにも考えないまま、もう7月も下旬を迎えました。
私がいなくてもわかるようにノートにきちんと書いておいたからと、節子にいわれたことがあるような気もしますが、そのノートを開く気にはなれません。
そういうことを思い出すだけで、胸がこみあげてきてしまいます。

今年の夏は、何もしないままに終わってしまうのでしょう。
早く終わってほしいです。
私には、夏はとても辛い季節になってしまいました。

■324:兄に誘われて胃がん検診に行きました(2008年7月22日)
節子
今日は近くに住む兄に誘われて、胃がん検診に行きました。
行く気はなかったのですが、むりやり兄に連行されました。
娘たちのことを考えるのであれば、健康診断くらいには行けというのです。
節子の病気のことを思い出すようなことはできれば避けたいのですが、まあ、自分のわがままだけを貫くわけにはいきません。
節子がいる時は、節子が私のわがままを守ってくれましたが、
節子がいなくなると、あまりわがままもできなくなりました。

節子は本当に、私が生きたいように生きることを心から支援してくれました。
まあ、けっこう文句は言っていましたが。
もっとも私の「わがまま」はたいしたものではありませんでした。
ちょっとだけ「非常識」なだけのことかもしれません。
でもまあ、親戚づきあいではそれが結構重要な時もあります。
特に節子の親元のほうはそうしたことが大切だったかもしれません。
しかし、節子は私の「非常識さ」にはたぶん共感していたはずです。

今日は健康診断の話でした。
何を書いても節子のことが思い出されて、話がそちらに言ってしまいます。
検診後、兄と久しぶりに2人で食事をしました。
この歳になると、お互いにいつ別れが来るともかぎりません。
歳の順では私が一番遅くなるはずなのですが、
私よりももっと年下の節子が最初に逝ってしまったので、いささか予定が立てにくくなりました。
困ったものです。

私たち兄弟は会うと論争になるので、いつも節子が心配していましたが、今日も案の定、環境問題でもめてしまいました。
困ったものです。

午後は節子の友人の長沼さんが来てくれました。
今日はジュンの誕生日だったのです。
節子の代わりにケーキを持って来てくれました。
節子の話も出ていましたが、聴いていましたか?

■325:湯島のオフィスにまた節子が戻ってきますように(2008年7月23日)
湯島の私たちのオフィスも、必ず生花が飾られていましたが、
節子が行けなくなってからは生花ではない人工の花になりました。
オフィスのドアを開けた時の雰囲気が全く違います。
毎回、もう節子はいないのだと実感します。
だから湯島に行くのは、それなりに勇気が必要なのです。

最近、湯島に行く回数が減ったこともあって、ベランダの植物も元気がありません。
節子があまりいけなくなってからは、手入れの簡単なものだけにしていますが、それらも最近の酷暑のせいか元気がありません。
それに私はどうもこまめに掃除するタイプではないので、
最近は見た目もいささか汚くなっています。
これには節子も失望しているかもしれません。

室内の鉢物はもう全滅ですし、ベランダの鉢もいまや5つしかありません。
ですから手入れというほどのこともないのですが、問題は「思い」を向けているかどうかです。
節子は、いつもオフィスに来ると、最初に鉢の草花の手入れをしていました。
花への思いが私とは全く違うのです。

節子がいつ戻ってきてもいいように、少し草花の手入れをしようと思い直しました。
今日、枯れてしまっていた葉を整理しました。
節子が好きだったエキザカムの小鉢も机の上に置くことにしました。
オフィスの雰囲気が、ちょっとだけ変わりました。

そういえば、オフィスを開いた時は、観葉植物がいろいろとありました。
見事なブーゲンビリアが長いことその真ん中にあったのを今も覚えています。
私たちの寝室に湯島のオフィスを開いた時の写真が貼ってあります。
仲間たちから贈られたたくさんの花に囲まれて、
まん丸に太った節子とまだ疲れてしまっていない私が並んで撮った写真があります。
当時の湯島のオフィスは「気」に満ちていました。
実にさまざまな人たちが集まりました。
だから実にさまざまな人たちが集まってきました。
しかし、いまはその「気」が消えてしまっています。
節子には不満でしょうね。

また湯島に「いのち」を少しだけ戻そうと思います。
そうすれば、節子もまたきっと戻ってきてくれるでしょうから。

■326:エキザカム・バイオレットの節子(2008年7月24日)
節子
今年の夏も暑いです。
挽歌を書いている私の部屋にはクーラーはありません。
暑いと頭がまわりません。
暑さに負けるようでは、節子への私の思いも危ないですね。

今日は昨日オフィスに持っていったエキザカムのことを書きます。
節子は30年ほど前に、とても優雅なヨーロッパ旅行をしてきました。
ハウス食品の懸賞論文に入選したご褒美でした。
浜美枝さんと一緒の食文化の旅でした。
その時に、スイスで宿泊したホテルの出窓に、このエキザカムが咲いていたのだそうです。
私も、節子とは別に、ユングフラウには行きましたので、たぶん似たような風景を見ています。
私の場合はそれだけの話ですが、節子はその花をずっと覚えていたのです。
そして日本に帰ってきてから、その花を探し当てたのです。
今では花屋さんによく見かける花ですが、その時はまだめずらしかったのかもしれません。

もっとも本当にそうかどうかは危ないところがあります。
節子と一緒にトルコのベルガモンに行ったときに、遺跡の周りにきれいな赤い花が咲いていました。
そのタネをこっそりと持ってきて自宅の庭に蒔きました。
芽が出てきて、ベルガモンで見たままの花が咲いたので2人で大喜びしました。
当時、私はギリシアの会をやっていたのですが、そのメンバーにもおすそ分けしました。
ところが、その少し後に、近くを散歩していたら、なんとその花がいっぱい道の横に咲いているのです。
よくよく見たら、よくある花でした。
まあ、そんなこともありますから、節子の花の知識はさほど信頼はできません。

それはともかく、エキザカムはわが家ではそれ以来、よく見るようになりました。
事務所にまた花を置きたいと娘に話したら、娘が選んできたのがこのエキザカムでした。
お母さんが好きだった花だから、というので、改めて節子が好きだったことを知りました。

実は、この花と節子とは、私のイメージの中でも重なります。
エキザカムの花の紫色のセーターか服を節子は着ていました。
節子のファッションセンスは、ちょっと私のセンスには合いませんでしたが、時々、私の好きな服を着ることがありました。
その一つが、たしかこの色でした、
この小鉢を見ていると、節子の笑顔が浮かんできます。
娘が、この花を選んでくれたことに感謝しています。

■327:誰のために挽歌を書き続けるのか(2008年7月25日)
節子
この挽歌ブログを書きながら、いつも、節子のことを思い出しています。
自宅のパソコンの周りには3枚の節子の写真があります。
高尾山、木曽駒ケ岳の千畳敷カール、そして赤城山のつつじ平の写真です。
パソコンに向かって、その写真を見ると自然に書き出せることもあれば、何を書こうか思いつかずに時間を過ごすこともあります。
私にとっては、この挽歌を書くことが、今は会えなくなった節子と話し合う時間でもあるのです。

しかし、節子の写真の前で、節子と語り合うだけではなく、
なぜわざわざ書いて、しかもブログで公開しているのでしょうか。
書くことが思いつかない時には、「書くために書く」こともあります。
無理に題材を見つけてくるわけです。
そんな時には、ブログを書き続ける意味はあるのだろうかと思うこともあります。
それに、節子が読んでくれるわけではなく、誰のために書いているのか。

先日、コメントくださった上原さんが、こういうメールをくれました。
ある時 誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。  
自分ために泣くことのほうが多いことに気づかされました。
前向きに自分に残された時間を生きてゆくのが、ちゃんと生きてゆくのが、亡くなった夫は安心するのじゃないか・・・。

ただ無性に悲しくて、涙が出るだけなのですが、確かに時々、こうした思いにぶつかることがあります。
愛する人を亡くした者の気持ちは、日々、揺れ動くのです。
頭では、「亡くなった人のためでも、自分のためでもない」と私は断言できます。
この挽歌で何回も書いてきたように、私にとって意味があるのは、節子でも修でもなく、私たちなのです。
上原さんの涙も、その方と伴侶のお2人のための涙でしょう。
しかし、それは理屈でしかありません。
私も、いったい誰のために悲しんでいるのかと思うこともあります。
そしてそれがまた、いろいろと複雑な思いを引き起こし、涙を出させるのですが。

同じことはこの挽歌にも言えます。
誰のために書いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。
目の前で笑っている節子は、どう思っているのでしょうか。

■328:誰のために挽歌を書き続けるのか2(2008年7月26日)
昨日のつづきです。
実は、書いた後、どうもすっきりしないのです。

挽歌を書き続けるのは、節子のためでも私のためでもなく、私たちのためです。
ただ、この「私たちのため」と言うのがややこしい。
私と節子は、いまや切り離せない存在になっています。
私の半身は節子に持っていかれ、節子の半身が、私に残っている、という意味もありますが、それ以上に、私と節子の間にある「なにか」がとても大きくなってきているような気がするのです。
つまり、私と節子を取り巻くさまざまな「もの」や「こと」、そういうものすべてを含めて、今や「私たち」になってしまっているのです。
その「私たち」が、この挽歌を書かせているのかもしれません。

とまあ、そう考えていたのですが、
しかし、昨日、犬の散歩をしながら、
急に上原さんの言葉が気になりだしました。
「誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか」

節子のための涙なのか、自分のための涙なのか。
節子が不憫で哀しいのか、自分が不憫で悲しいのか。
節子は幸せではなかったのか、なぜ節子が不憫だと思うのか。
不憫なのは取り残された自分ではないか。
いや、やはりどんなに辛くても残されたもののほうが幸せなのではないのか。
考えれば、考えるほど分からなくなってきます。
ですから、私と節子は一体なのだと考えれば解決するのですが、
それって「言い訳」ではないかと思い出したのです。
上原さんが到達したことに、ようやく気づいたのです。

泣くと楽になります。
心が癒されるのです。
だとしたら、やはり自分のための涙なのです。
節子のためではありません。
節子はきっと私の泣き顔などは求めていないでしょう。
だんだんそんな気になってきました。
このことは、私の周りの人たちがこれまで私に言っていたことです。
元気を出さないと奥さんが悲しむよ。
私には腹立たしい言葉でしたが、それが正解かもしれないのです。
ちょっと私にはやりきれないことなのですが。

この挽歌は、私自身のためなのかもしれません。
でもきっと、節子はそれを喜んでくれるかもしれません。
節子は、私の最高の理解者でしたから。

■329:仕事の秘書としての節子(2008年7月27日)
先日、節子の友人の長沼さんが来たときに、このブログのことが話題になりました。
同席していた娘のジュンが(彼女はこの挽歌は読みません)、お父さんはお母さんをきっと美化しすぎているでしょうと発言しました。
いささかムッとしましたが、実はそれは正しいのです。
会えなくなると、その人は途端に美化されるか悪者になるかのどちらなのです。
いつかも書きましたが、節子の場合は、美化されました。
きっと節子が読んでも、「これ私のことかしら」と思うところがあるかもしれませんし、私も、節子が元気の時に読んだら「こんな女房だったらいいのになあ」と思うかもしれません。
そこが挽歌の挽歌たる所以なのです。はい。
今の私にとっては、節子の「あばた」は「えくぼ」であり、欠点も愛すべきところになってしまっているわけです。
誤解のありませんように。

しかし、その時も娘と長沼さんに弁解しましたが、嘘は全くないのです。
あえて言えば、私の「表現力」の巧みさなのです。はい。
いいところをちょっと増幅させ、欠点は表現を変えているわけです。
もし、それでも大して「魅力的な人には感じられない」というのであれば、節子はかなり愚妻ということですね。
いえ、その場合は、私の「表現力」のまずさのせいだと信じましょう。はい。

真実はたぶん、私にとっては魅力的でしたが、世間一般からすれば、よくある普通の人でした。
まあ、「中の中」というところでしょうか。
私がいればこそ、輝いたのです。
いや、節子が怒っていそうです。
「中の中」だった修を輝かせたのは、私なのよといっているかもしれません。
まあ、節子がいなければ、そうだったかもしれません。はい。

まあ、いずれにしろ、節子は、少なくとも私には魅力的な女性だったのですが、それを少しだけ着飾らせるのは許してもらえるでしょう。
それに、私の耳に入っている節子へのほめ言葉もないわけではないのです。
一緒に仕事をしていた時に、四国の経済団体の方から講演の依頼がありました。
窓口はすべて節子がやってくれました。
当日、講演会場で先方の担当の方にお会いしたら、「すばらしい秘書ですね」と絶賛されました。
実は妻なのです、と話したのですが、その方はとてもいい印象をもたれていたようで、とてもうれしかったです。
まさか節子がそんな風に思われたとは思いもしませんでしたので。
まあ、そんな話もいくつかあるのです。

もっとも、私にとっては、節子の秘書業務は最悪でしたが。
いつも喧嘩になっていましたから。
夫婦で仕事をするのは、結構難しいものです。
特に途中からは。
でも節子は、それを引き受けてくれました。
やはりいい女房だったのです。
節子、ありがとうね。

■330:花のように枯れていてはいけませんね(2008年7月28日)
敦賀にいる節子のお姉さんから花が届きました。
自宅の庭で咲いた花を時々送ってくれるのです。
最近は暑いので花もすぐ元気をなくします。
それで最近は控え目にしていましたが、今日はまた節子はたくさんの花に囲まれています。

今年の暑さは応えます。
花もそうですが、私もすぐに枯れそうになります。
どうも気力が持続せずにいます。

スタンピング平和展という活動に取り組んでいるアーティストの松本さんからメールをもらいました。

佐藤さん、これほど辛いことがあったのですから
(世の中で一番辛いことは、愛する人に先立たれたこと、と聞いています)
無気力になるのは当たり前です。
そのことに比べたらとても小さいことですが、
14年間住んだ名古屋を離れただけで、
私は体調を崩して、持ち直すのに半年も
かかりました。
他人からしたらどうということもないでしょうが、
仲の良かった友人たちと離れて13年働いた職場を離れることはとても辛かったです。
だから、佐藤さんの悲しみがどれだけ深いか想像できます。

でも、どうぞそのことのために、
佐藤さんが病気にならないでほしいと願っています。

悲しみは去らなくても気分転換はとても必要です。
(節子さんに代わるものはたとえなくても。。。)

松本さんは、今度、人身売買で保護された人たちのカウンセリングの仕事にも取り組まれるそうです。
ほかにも、笑いヨガもやりだしたとお聞きしました。
一時、ちょっと元気をなくしていた松本さんもどんどん活動を広げだしています。
私も、夏枯れになっていてはいけません。
少し元気を出しましょう。

節子さん
元気が出るように私に水をくれませんか。

■331:お別れサロンの早とちり(2008年7月29日)
節子
どうも世の中には「早とちり」の人がいて困ります。
まあ時々私の周りでは起こる話なのですが、今日はまあ公開しても誰の迷惑にもならないだろう話なので、節子への報告をかねて書きましょう。

朝、電話がありました。
また「あの武田さん」です。
節子がいなくなった後、私が後を追うのではないかと心配してくれた人です。
電話に出るなり、質問されました。
8月に急にサロンを開くことにしたというが、どうしてなのか。

どうしても何もなくて、ただ思いつきなのですが、理由を聞くのです。
ブログを読んでくれている人と会いたくなったからだといっても、しつこく畳み込んできます。
しかし少しして、納得したのですが、こんなことを言うのです。
私はてっきり、みんなへのお別れサロンかと思った。
そうやってみんなと少しずつ別れを行い、その後で、節子さんのところへ行くのかなと思った。
「早とちり」も度がすぎていると思いませんか。
困ったものです。

こういう「おかしな人」が、私の周りには多いので、節子もきっと心配していたことでしょう。
今のところ、私にはその気は皆無なのですが、「早とちり」した「親切な友人」に、いつか節子のところに送られてしまいそうな気がしてきました。

節子
武田さんのおかげで、意外と早く節子に会えるかもしれませんね。
これは喜ぶべきか悲しむべきか。
いやはや、友人はしっかりと選ばなければいけません。

ところで、節子は、そちらからこちらに来る予定はありませんか。
ぜひそのルートを見つけてください。
世の中には不可能なことはないのですから。
いや、そちらは「世の中」に入るのでしょうか。
暑さのせいで、私もいささかおかしくなりそうです。はい。

■332:節子、黒岩さんの講演を一人で聴きに行きました(2008年7月30日)
節子
黒岩比佐子さんの講演を聴きに行ってきました。
よみうりホールで開催されている、日本近代文学館主催の「夏の文学教室:東京をめぐる物語」の1セッションを黒岩さんが受け持ったのです。
テーマは、「1905年 戒厳令下の東京」です。
黒岩さんが最近関心を向けている日露戦争後の話です。

ちょっと早めに着いたのですが、なんと偶然にも入り口で黒岩さんとぱったり会いました。
講演前に余計なノイズを入れたくなかったので、一言挨拶しただけですが、あまりのタイミングのよさに驚きました。
会場は1100人の大会場ですが、参加者が多いのにも驚きました。

私の隣に、私たちよりも少しだけ若い夫婦が座りました。
それで気付いたのですが、夫婦で来ている人が少なくありませんでした。
不思議なことに、私たちよりも少し若い世代の夫婦が多かったような気がします。
シニアの方は、男性も女性もむしろシングルでした。
そして私も、その一人でした。
そんなことを考えていたら、急に節子のことを思い出しました。
なぜ隣に節子がいないのだろうか。
黒岩さんの講演中は、おかしな話ですが、隣に節子がいるような気がしていました。
しかし、黒岩さんの話が終わったら、急に何だか寂しくなってしまいました。
次のセッションも聞こうと思っていたのですが、急に会場を出たくなってしまいました。
外に出ると、すごい暑さでした。
何だかいつもと違う風景を感じて、急いで帰りました。
どうもまだ精神的安定感を得られずにいます。
節子
ともかく君の旅立ちは早すぎたよ。

黒岩さんの話はとてもわかりやすく面白く、節子にも聴かせたかったです。
黒岩さんは私たちが湯島でやっていたオープンサロンの常連でした。
どうしてあんなに次から次へと話が出てくるのだろうか、と節子はいつも感心していました。
たしかに黒岩さんの話はよどみなく出てきます。
ともかく頭の中にあふれるほどの情報、それも自分で確認した情報があるのです。

きっと大活躍する場が与えられる人だろうけど、あんなにがんばって心配だともいっていましたが、その節子がこんなに早く旅立ってしまうとは、私も黒岩さんも思ってもいませんでした。
今の黒岩さんの活躍ぶりを見たら、節子はきっと喜ぶでしょう。
その黒岩さんの講演を一緒に聴けないことが、とても残念でした。

■333:死者を送る涙の大海(2008年7月31日)
ギャラリー葬送博物館を主宰されている出口明子さんから久しぶりにメールが来ました。
出口さんと知り合ったのは8年ほど前、コムケアの集まりでした。
当時はまだ今ほどには「死」や「葬送」に正面から取り組むNPOは少なかったように思いますが、その活動の異色さに強い印象を受けました。
出口さんからのメールは、ある相談事だったのですが、その返信に節子を見送ったことを書きました。

その返信です。

 奥様が亡くなられたことは存じておりました。
 しかしその喪失感による心身のダメージが余りにも大きいことを漏れ伺っていて、あえて触れず、失礼をしました。
 奥様の魂はきっとお喜びだと思います。心と心でふれあって共鳴できることは死者にとって何よりの供養だと私は信じてます。

 今薔薇を育ててます。亡くなった人々の魂を慈しむおもいで、育ててます。
 死者がいつでも羽を休めるように。

 人が亡くなっても誰一人悲しまない、あえて言うと、喜んでいることが伝わってくる、こういう死は虚しいです。
 涙を多くの人が流し、それが大海となって、その涙の海を魂は船に揺られて、精霊の国に旅立つのではないでしょうか。
 どうか悲しみを閉じこめず、逝った人を慈しんで差し上げてください。

涙の海を渡っていく船。
涙をもっと流さないといけません。

今朝、節子がいつも今頃になると決まって果物を注文していたお店に電話しました。
いつもと違い、節子ではなく、私からだったので、奥さんはいかがですか、と訊かれました。
昨年、娘から節子の具合が悪いことを聞いていて、気にしていてくださったのです。
不覚にも胸がつまって、すぐに返事を返せませんでした。
久しぶりに電話の前で涙を出してしまいました。

私の知らないところで、いろんな人が私たちのことを覚えていてくれているのです。
感謝しなければいけません。
しかしこれは決して私たちだけではないでしょう。
声をかけてこないかもしれませんが、みんなお互いに気遣っているのです。
テレビで報道された秋葉原にもたくさんの人が献花に行きました。
「生命が粗末にされる時代」といわれますが、しっかりと生きている私たち庶民に限っていえば、そんなことは決してありません。
会ったこともない人の死にも涙する心情は、すべての人に宿っています。
死者を送る大海の水は、決して枯れることはないでしょう。

ところで、
出口さんのメールに「喪失感による心身のダメージが余りにも大きいことを漏れ伺って」とあったのが気になりました。
たしかに、心身のダメージは甚大です。
でも不思議なことに、元気でもあるのです。
このブログを読んでいてくださる方も、もしかしたら打ち萎れた私をイメージしているかもしれません。
もしそういう方がいたら、時評編の「ハンマーカンマー」をお読みください。
そこに出てくる私も、同じ私です。
人は、ダメージを受けた分、どこかで強くなるのかもしれません。

ギャラリー葬送博物館のサイトも見ていただければと思います。

■334:人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある(2008年8月1日)
節子
節子がいなくなってから、どうも思考が自分の世界に閉じこもる傾向が出てきてしまいました。
節子とのおかげで、悲しさとか寂しさ、痛みや辛さなどは、以前よりもわかってきたつもりなのですが、どうも自分だけが「不幸な状況」にいるという無意識の意識が抜けないようです。
頭と心身がずれてきているような気もします。
いろんな人と話していて、そうしたことに気づくことがあります。
昨日も、です。

久しく会っていない友人に電話しました。
あることで確認したいことがあったからです。
用件の話が終わった後、実は私のほうもいろいろありました、と言うのです。
その話をお聞きして、自分だけが悲劇の主人公のように思っている自分が少し恥ずかしくなりました。
と言っても、その思いは変えようはないのですが。

節子はいつも言っていました。
どんなに幸せそうに見える家族でも、それぞれの問題を抱えているものね。
人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある。
これが節子の哲学でした。
脳天気な私は、どんな不幸も幸せの裏側と思えばいい、などと言っていましたが、節子を見送った後、決して不幸と幸せはコインの裏表などではないと気づきました。
どう考えても、節子のいない私には二度と幸せは来ない、つまりコインは裏返せないと知ったのです。

しかし、節子がいっていたように、どんな家族にも悩みはあるのでしょう。
家族とはそういうものです。
家族とは重荷を背負いあう関係なのですから、当然そうなります。
家族を持たなければ重荷を背負いあわないですむから、悩みも少なくなるというわけでもありません。
そもそも人間は、重荷を背負いあうようになっているのです。
人は1人では生きていけませんから、友人や知人の悩みを必ず背負うことになるでしょう。
しかも自分の悩みをシェアしてくれる人が誰なのかまで悩まないといけませんから、悩みは加重されます。
悩みは、関係性の中で生まれるのです。
そして、家族は悩みを縮減するための仕組みだったのです。
家族がいなければ重荷は減るというのは、大きな誤解だろうと思います。
重荷が見えなくなるだけなのです。

いまその家族の仕組みが危機に瀕しています。
また挽歌の範疇を越えそうですね。
それに長くなりました。
またつづきを後日書きます。

■335:節子のいない花火大会(2008年8月2日)
節子
今日は手賀沼の花火大会でした。
自宅の目の前が花火会場なので、わが家からは花火を満喫できます。
水上花火も高いところから見下ろせますので、水面に映った全景を見ることができます。
しかし、考えてみると、節子とゆっくりとこの花火を満喫したことがなかったですね。
いつもお客様があったので、節子はばたばたしていたような記憶があります。
節子はいつも「おもてなしの人」でした。

初めて節子と一緒に花火を見たのは、滋賀県の瀬田川でした。
一緒に暮らし始めた年の夏だったと思いますが、瀬田川のすぐ近くに家を借りていましたので、2人で花火会場まで歩いて行った記憶があります。
熱海の花火にも行きました。
しかし、節子が一度行こうといっていた隅田川の花火は、結局、行かずじまいでした。

手賀沼の花火は目の前ですから、迫力があります。
音がともかく凄いのです。
まさに「腹に響く」のです。
犬のチャッピーは、それに耐えられないので、花火の日はいつも外泊です。
昨年のことは思い出したくないですが、自宅療養していた節子にはかなり身体に応えたはずです。
ベッドから隣家の屋根越しにわずかに見える花火を少しだけ見ましたが、辛そうでした。
お客様は何人か来てくれていましたが、私と節子は花火を見ることもありませんでした。
もうこれ以上、思い出したくありませんが。

今年はむすめの友人夫婦をはじめ10人ほどの人がやってきました。
私の友人は来なかったので、今年はゆっくりと花火を見られるはずでしたが、
節子がいないので、見る気にもなりません。
見ていても楽しくないのです。
何をするのも、いつも隣に節子がいたのが私のこれまでの人生でした。
たとえ1人だったとしても、帰宅したら節子と体験をシェアできました。
体験をシェアできる伴侶がいないいま、生きることの虚しさを痛感します。

花火が昨年のことをあまりに生々しく思い出させてしまったためか、今日はとても気持ちが沈んでしまっています。
花火がこんなにも悲しいものなのかと驚かされました。
同じ風景も、状況が違うと正反対に見えることがよくわかりました。

■336:11回目の月命日(2008年8月3日)
節子
11回目の月命日です。
昨日の花火大会に来てくれた人たちが花を持ってきてくれましたので、そのお裾分けをしようと娘たちとお墓に行きました。

夏の間は、造花と生花を組み合わせて、墓前に供えています。
造花は退色するといけないので注意していますが、今のところ生き生きとしてくれています。
生花も枯れてもドライフラワーになるような種類を選んでいますので、まあ、暑い割には墓前の花はきれいです。
節子にはきっと合格点をもらえるでしょう。

節子はいつも、わが家の献花台や位牌壇にいると思っているのですが、なぜか時々お墓に来ないと落ち着きません。
たぶんむすめたちもそうのようで、最近は誘わなくても一緒に来てくれます。
墓前で私は般若心経をあげます。
娘たちはあまりお経が好きではありません。
私も若い頃はそうでしたが、60数年も生きていると昔は全くの記号にしか感じられなかった経文の意味がそれとなくわかってきて、読経すると安堵します。

お墓の花は、わが家ではいわゆる仏花にこだわっていません。
むしろ仏花らしくない花を好んで供えています。
それを知ってか、昨日、娘の友人たちが持ってきてくれたお花も仏花ではなく、とてもあったかな暖色系の花の組み合わせでした。
赤い薔薇が入っていましたから、もしかしたらこのブログを読んでくれたのかもしれません。
もしそうであればうれしいことです。

今日は風がとても強いです。
うだるような暑さですが、風がとても心地よいです。
午後からは娘たちも出かけましたので、今は自宅で1人です。
パソコンに向かって、挽歌を書き出したので、なぜか急に涙が出てきました。
最近は、一人になってもそう簡単には涙が出なくなったはずなのですが。

不思議に思ったのですが、いま理由がわかりました。
何気なくかけていたCDから、さだまさしの「精霊流し」が流れていたのです。
あまりにも悲しい歌詞なので、節子がいなくなってからは聴いていなかった曲です。
この部屋にあるのは、複数のCDを自動セットしておくプレイヤーです。
先ほど、ジョージ・ウィルソンの「サマー」をセットしたのですが、なぜか前から入ったままになっていたCDが誤動作でかかってしまったようです。
あれあれ。今度は、さだましの「勇気を出して」です。
できすぎていますね。
節子のいたずらでしょうか。

■337:不死か愛か、不死も愛も、か(2008年8月4日)
節子
ちょっとまた「死」についての話です。

ジャン・ボードリヤールの「不可能な交換」という本を読んだ時に、まさに「目からうろこが落ちた話」です。
ボードリヤールは、こう呼びかけます。
生命は本来、不死の存在だったが、進化によって「死すべき存在」になったのだと考えてみよう。

つまり、生物の進化とは、単一の生命からある部分が「独立」し、種を構成し、個性を生み出すことだというのです。
いまでも「ウイルスのような不死の存在」はありますが、高度に進化した人間は、一人ひとりの生命が意識を持ち出したおかげで、個の死が発生したというわけです。
「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」。
「不死」は人間の古来からの夢と考えてきた私には、衝撃的な指摘です。
「死」は「個人としての主体性」を得るための代償だったのです。
しかし、そう考えてみれば、実にさまざまなことが納得できます。

節子を愛せたのは、節子という個人と私という個人が存在しているおかげです。
それらが一つの生命として繋がっていれば、私が愛する節子も、節子を愛する私も存在しないのです。
そこでは「愛」もなければ、「別れ」もない、そして「死」もないわけです。
死も不死もない連続した生命現象があるだけです。

生が死を伴うように、愛することには必ず別れがついています。
不死を手に入れれば、愛を手離さなければいけません。
いうまでもありませんが、「不死か節子か」と問われたら、私は節子、つまり愛を取ります。

さて問題はそこからです。
死を手に入れることによって、愛を手に入れた。
そこで「奇跡」が起こるのです。
生には死がつきまといますが、愛には「永遠の愛」という言葉があるように、死は必ずしもつきまとわないのです。
さらに、愛する人の死は、愛を永遠のものにすることを可能にします。
そこでは、「死」が「不死」に転ずるというわけです。

つまりこうです。
人間は、生を得るために死を呼び込んだが、愛によってふたたび不死を得たのです。
死は生物進化の成果ですが、さらにその先に愛があることで、物語は完結します。
ボードリヤールは、全く違った発想で不死を展望していますが、そこに近代西欧人の限界を感じます。

節子
死が私たちを分かったのではなく、死が私たちのつながりを完結させたのです。
だから、きっとまた会えるでしょう。
でも早く会いたいね。節っちゃん。

■338:人を幸せにする最高のものは理解者の存在(2008年8月5日)
節子の友人だった長沼さんから2回、聞かされた話です。
節子さんは、修さんの活動が自慢でしたよ。

私には自慢できるほどのことはないので、節子が何を自慢していたのかわかりませんが、
節子が私の生き方に共感していたことは間違いありません。
具体的にいえば「人を差別しない生き方」です。
それが十分にできているかどうかは不安ですが、少なくともそうありたいと思っています。

私と一緒に湯島で仕事をしていると、いろんな人に対する私の対応が見えてきます。
湯島のオフィスには、実にいろんな人がやってきました。
テレビや新聞で見る人も来ましたが、直接会うと、必ずといっていいくらい、人の本質は見えてきます。
節子もそれを感じたはずです。

あまりにいろいろな人が来て、私がいとも簡単に相談に乗って時間破産するのを見て、最初の頃は、節子からよく「あなたは利用されているだけよ」といわれました。
たしかにそういう面はありました。
時には不愉快な思いをすることもないわけではありません。
しかし、利用されてもその人に役立てるのであればいいじゃないか、と思っていました。
それに、人を利用する人にはそれなりの事情があるのです。
騙す人と騙される人と、どちらが不幸かといえば、間違いなく騙す人でしょう。
騙される人には、騙される余裕がありますが、騙す人にはその余裕さえないのです。
もちろん例外はあるでしょうが、そう思います。

節子も私と一緒に仕事をしているうちに、少しだけ私の考えに近づきました。
肩書きや世評がどれほどのものかも理解してきたように思います。
そうして、私の生き方を理解し、共感し、支えてくれるようになったのです。
私が騙されることにも、理解してくれるようになった気がします。

しかし考えてみると、そういう生き方は、実は私よりも節子のものだったのです。
私が節子から学んだ生き方かもしれません。
節子は、人を差別することなく、素直に生きていました。
いや、そうしたことは、女性の生き方なのかもしれません。
人を差別するのは、もしかしたら男性の文化かもしれません。
もっとも、最近はそうした女性(差別力を持った女性)も多くなってきましたが。

それはともかく、節子は私の良き理解者でした。
理解してくれる人がいることの安堵感はとても大きいです。
節子もまた、私という理解者を得て、安堵していたと思います。

最近、若者たちが起こす悲しい事件が多いですが、
もしまわりに1人でも自分のことを理解している人がいることを実感できたら、事件を起こさずにすんだのではないかと思われることが多いです。
私が実に幸せだったのは、私のことを心底理解してくれる節子が、いつもそばにいてくれたことです。
私のようにわがままに生きていると、その真意を理解してもらえないことは少なくありません。
私のことを中途半端に知っている人ほど、私を決め付けることが多いような気もします。
時に、その発言に悲しくなることもありますが、節子が私の真実を理解してくれていると思えば、どんな中傷も批判も超えられました。

その最高の理解者だった節子がいなくなったことが、私の行動の持続力や勢いを削いでいることに最近やっと気づきました。
人を幸せにする最高のものは、たぶん理解者の存在です。

■339:愛する人を失った人同士につながる心のパイプ(2008年8月6日)
節子
新潟からの帰りの新幹線です。
新潟水辺の会のみなさんと「信濃川にサケを遡上させるプロジェクト」について意見交換してきた帰りなのです。
いつか節子と一緒に新潟に来るという計画もついに実現しませんでしたが、独りでの新潟行きの新幹線は正直言ってとても寂しかったです。
でも新潟でいろいろの方にお会いし、元気をもらいました。
新潟水辺の会は以前も一度参加させてもらいましたが、とても元気なオープンプラットフォーム型NPOです。
代表の大熊孝さんのお人柄が出ているのでしょう。
今日は1日中、新潟に本拠を移した金田さんのお世話になりました。

サケ遡上プロジェクトの話は改めてCWSコモンズに書きますが、ここでは昔からの友人のSYさんのことを書きます。
私が新潟に来ることを知って、ともかく顔を見たいと会いに来てくれたのです。
実は私もとても会いたかった人です。
すべての予定を組んでくれた金田さんに無理を言って、SYさんとの時間を少しだけつくってもらったのです。

SYさんも最近、愛する家族との別れを体験したのです。
私と違って、一番の支えである伴侶ではありませんが、親と子の双方を亡くされたのです。
その上、ご自身も狭心症を体験されたのです。
「正直言って、どう生きたらいいかわからないという感じでした」とSYさんはいいます。
よくわかります。本当にわからなくなります。
私もそうでした。「どうしていいのかわからない」ほどに、意識が弛緩し、おろおろとうろたえていた時期があります。

そうした大変な状況の中で、SYさんは私のブログを読んでいてくださったのです。
そうしたSYさんの大変な状況に関して、私はおそらくその気になれば知りえる立場にいたはずです。
しかし、私にはSYさんのことまで思いを馳せる余裕がありませんでした。

先日、SYさんと電話をしました。
そうしたらSYさんが電話で、そうした話をとても自然に話しだしたのです。
その後、こんなメールをくれました。

「お電話で、すらすらお話できたので自分でもびっくりです」

会わないわけにはいかなかった理由がおわかりいただけたと思います。
愛する人を失った人は、お互いに不思議な心のパイプが通ずるのです。
そのことを、この半年、何回も経験しています。
心が通ずれば、言葉などどうでもいいのです。

節子
いまもSYさんの心が私の心につながっているのを感じます。
水辺の会のみなさんには、大変申し訳ないのですが、
SYさんと会えたことで、今日の新潟行きは私には忘れ難いものになりました。
今度、節子に会ったら、話したいことがたくさんあります。

■340:異邦人(2008年8月7日)
昨夜は暑くてあまり眠れませんでした。
今日も暑きなりそうです。

殺人の動機について問われて、「それは太陽のせいだ」と答えたムルソーを思い出します。
カミユの「異邦人」は、同じカミユの「ペスト」と並んで、私の生き方に大きな影響を与えた小説です。
「不条理」という言葉を知ったのも、カミユのおかげです。

ところで、いま気づいたのですが、私の読書傾向は節子と出会ってから一変したような気がします。
一番大きな変化は、小説を読まなくなりました。
節子と結婚してからは、カミユもカフカも読まなくなったような気がします。
結婚してからも読んでいたのは、光瀬龍の未来年代記くらいでしょうか。
それも次第に読まなくなり、結局、小説はほとんど読まなくなりました。
きっと読む必要がなくなったからでしょう。

この暑さに誘われたせいではないのですが、最近、なぜかカミユが読みたくなりました。
そういえば、カミユの「異邦人」は、「今日、ママンが死んだ」という有名な文章で始まります。
母親の葬儀に行ったムルソーが、そこで思わぬ事件に巻き込まれ、人生が一変していくのです。
手元に「異邦人」がないので、うろ覚えなのですが、母を失ったムルソーの複雑な気持ちは、誰にもわかってもらえません。
ムルソーの不条理な気持ちをだれもわかってくれないという不条理さ。
カミユはそこに「異邦人」をみるのです。

前にも書きましたが、節子がいなくなった世界では、私はまさに「異邦人」だったような気がします。
いや、いまもそうかもしれません。
時に「同邦の人」に会うことはありますが、やはりほとんどが異邦人に感じます。
つまり私自身が「異邦人」になったということです。
そして、異邦人になると、自分を囲んでいる世界の本質が見えてきます。
言葉の裏にある実体も不思議なほどに見えてきます。
もっともそれが真実なのかどうかは大いに疑問があります。
異邦人の目に映る世界は、いささかゆがんでいることは、自分でもよくわかります。

節子との別れは、もしかしたら「異邦人」を読んだ時に、もうわかっていたのではないか。
ふと、そんな気がしてきました。
これも「太陽のせい」かもしれません。
今日の暑さも、尋常ではありません。

■341:新盆お見舞いの朝顔の写真(2008年8月8日)
根本賢二さんから「新盆お見舞い」が届きました。
「新盆お見舞い」
私は、この言葉さえも知りませんでした。
実は根本さんも、つい先ほどまで知らなかったのだそうです。
手紙にこう書いてありました。

60歳に近い私は今まで恥ずかしながら“新盆お見舞い”と言う事を知りませんでした。
先日“某メルマガ”で知りました。
知った以上、“私の気持ち”だけはお伝えしたいと思いました。
奥様が、ことのほか「花」がお好きだったことを思い出しました。
私の部屋は、西からの陽射しが断わりもなく遠慮知らずにバッチリと入ってきます。
そこで、今年こそは「朝顔の棚でブロック」してやろうと思い、種を蒔きました。
まだ6分咲き程度で、「日よけ」にはなってくれませんが、これまで殺風景だった通路に、緑が生まれ花が咲き、「住まい」と言う感じが出てきました。
お隣のご主人は、「夜勤明けの朝に楽しみに見に来て『ああっ!綺麗に咲いた』と言っています。
「花のお好きだった奥様」が、こよなく「癒しを与えてくれる花」を「慈しむ方」だったのが、私にも強く伝わってきます。

その朝顔の写真を、もしかしたらその朝、咲いていたすべての朝顔の花をていねいに写真にとって送ってくれたのです。9枚ありました。
しかも額付です。
早速、節子に報告し、写真を供えさせてもらいました。
しゃれっ気のある根本さんの楽しい手紙も供えました。

■342:元気を送るか、悲しさを振りまくか(2008年8月9日)
昨日、根本さんのことを書きましたが、根本さんから教えられたことはたくさんあります。
あまり個人的な話を書くべきではないでしょうが、根本さんは実はたくさんの苦労を背負い込んでいるのです。
にもかかわらず、根本さんは明るいです。
昨日の挽歌を書いた後、そのことを少し考えてみました。
根本さんは苦労も多いのに明るさを伝えてくれる。
私は悲しさを振りまいているのではないか。

根本さんは以前、私よりもずっと落ち込んでいた時期がありました。
その時、私はささやかに元気づけさせてもらったことがありますが、
節子の件では、根本さんからたくさんの元気をもらっています。
考えてみると、最近はどうも私自身がまわりから元気を吸い取る存在になっているのではないか、そんな気がしてきました。

節子のことをとても心配してくれていた鈴木さんから暑中見舞いが届きました。
そこにこう書かれていました。
「どうことばをかけて良いのかわからないうちに1年たってしまいました」
きっと鈴木さんにも、私の悲しさの気分が届いているのでしょう。

静岡のHMさんに最近のことを少し報告しました。
そうしたらこんなメールをくれました。

お元気にお過ごしのご様子で、うれしく感じました。
やはり佐藤さんはお元気そうでないと困ります。
たいへんでしょうが、なんといっても周りの人に力や勇気を与えてくれる存在ですから・・

「周りの人に力や勇気を与えてくれる存在」
そういえば、少し前まではそういう生き方を目指していましたし、それなりにそれを実行してきたつもりです。
しかし、伴侶だった節子にさえも、力や勇気を与えてやれなかったという挫折感が、どこかで私の心身に沈殿してしまったのかもしれません。
私自身は今も元気ですし、やってきた人たちには元気を与えるようにしているつもりなのですが、たぶん相手の人にはそれが伝わらないのでしょうね。
自分に力や勇気を与えられずに、他者に与えられるはずがありませんから、それは当然のことでしょう。

HMさんや鈴木さんに今度会ったら、悲しみではなく勇気と力を振りかけたいと思います。
根本さんを見習わなければいけません。
それに、節子も私の大きな力と勇気を与えてくれているはずですから。

■343:金魚が死んだらどうなるか(2008年8月10日)
先週、ホームページのほうにも書いたのですが、
暑さのせいか、金魚が次々と死んでしまいました。
今年の暑さは金魚にもこたえたようです。
長年元気だったタナゴまでがほぼ全滅なのです。
わが家の庭の池は、私の還暦祝いに節子と娘たちが贈ってくれたものです。
節子は庭に穴を開けるのはよくないという考えを持っていましたし、娘は池の手入れが大変なのを知っていたため、みんな池は作りたくなかったのです。
しかし、私の還暦祝いに池をプレゼントしてくれました。
そういう池なのです。

その池の金魚やなぜか続けて死んでしまいました。
金魚が死んだらどうなるか。
金魚が泣いたら地球が揺れることを思い出しました。
挽歌56の「結婚前は毎日詩を贈っていました」で書きましたが、
私の気に入っている詩の一つが、
「金魚が泣いたら地球が揺れた」なのです。
この詩は、残念ながら世に出ませんでしたので、その詩を読んだのは節子だけでした。
節子は感動しませんでした。
残念ながら節子には詩というものがわからなかったのです。
困ったものです。
しかし、この題名を読んだだけで、笑ってしまったという「不届き者」も、
このブログの読者にもいますので、詩人にとっては生きにくい時代です。

金魚シリーズ第2作に挑戦してもいいのですが、今回はやめておきましょう。
あの「名作」を汚すわけにはいきません。
しかし金魚が死んだらどうなるか。
それは結構明確なのです。
私の池の一つ(今は2つあります)が壊されるのです。
生前、節子まで池は一つでいいんじゃないの、と不届きな発言をしていたので、池反対派の家族によって池の埋め立てが始まるのです。
それは何としても避けねばいけません。
自然は一度壊すともう元に戻りません。
まあわが家の池は、30分もあれば復元できますが、大切なのは「思想」です、
家族は誰も理解しませんが。
しかし、以前は、たとえ反対派であろうと節子は必ず最後は私の味方でしたが、その節子はいませんから、今度は勝ち目がないのです。

それで壊れていた水の循環を行うモーターを買うことにしました。
娘たちの反対の理由の一つは、私が手入れをしないからなのです。
自然は、人が適度に関わることによって、人との関係を良好にしていきます。
我が家の畑を見れば、それは一目瞭然です。

何を書いているのか、わからなくなってきました。
すみません。
要は、節子はいつでも最後は私の味方だったということです。
いや、そんなことを書くつもりではなかったはずですね。
困ったものです。
今日は久しぶりに涼しいです。
突然気温が変わると調子が狂います。

■344:大仏開眼(2008年8月11日)
わが家の大日如来に目をいれました。
大仏開眼、いや小仏開眼です。
素焼き段階はうまくいきましたので、
娘たちが、左右の目をそれぞれ入れ、私は第三の目を額に入れました。
写真を見てもらうとわかるのですが、開眼といえないほどの小さな目です。
ポンと点を書くだけですが、それなりに緊張しました。
なにしろ大日如来なのですから。
目を入れてから、仕上げの焼成です。
うまくいくといいのですが、明日にならないと窯は開けられません。
新盆には間に合いそうですが、
新盆に戻ってきた節子に見てもらい、節子が気に入れば、一周忌にこの仏に魂を入れてもらう予定です。
気に入らなければ、たぶんひびが入るか壊れるかするでしょう。

わが家の仏壇にはまだ正式の仏はいません。
タイのお土産屋で娘が買ってきた小さな仏像が鎮座していますが、それは仮のもので、今はまだ位牌が中心の位牌壇です。
一周忌を契機に、位牌壇を仏壇にしようと考えているわけです。

さて、わが家の大日如来はいかがでしょうか。
スペインタイルをやっている娘にとっても、テラコッタからの作成は初めてです。
仕上げはマヨリカ焼きですが、いつものタイルとは違うようで、初めての挑戦です。
ですから、明日、窯をあけたら割れている可能性もゼロではないそうです。
この写真だけが残る「幻の仏さま」になるかもしれません。
節子が気に入って、守ってくれるといいのですが。

■345:2年前の節子を思い出しました(2008年8月12日)
高須さん家族が献花に来てくれました。
高須さんは、私たち夫婦が仲人をさせてもらいました。
しかし、私も節子も、高須さんと以前から親交があったわけではありません。
仲人を頼まれた経緯は、私たちにも驚きの経緯でした。

ある人の紹介で、ある若者が私を訪ねてきました。
実は高須さんは、その人についてやってきたのです。
そして、私とその人とのやり取りを聴いて、帰っていきました。
それが最初の出会いです。
その場に節子がいたかどうか記憶がありません。

ところがです。
それからしばらくして、高須さんから電話がありました。
そして、突然に、結婚するので仲人をしてほしいというのです。
私もかなり主観的に生きていますが、この電話には度肝を抜かれました。
高須さんのことも相手のことも、全く知らないのですから。
ともかく一度会って、ということで、たぶん節子と2人で高須さんたちに会ったのです。
後のことは全く記憶にないのですが、結果的には仲人をさせてもらったわけです。
節子がいたらもう少し経緯を覚えているでしょうが、私は過去のことはほとんどすべて忘れてしまいますので、ただ仲人だった記憶しかありません。
高須さんとは、そういう人です。

その高須さんが子どもたちと一緒にやってきてくれました。
2人の子どもたちが、それぞれに小さな花輪を持ってきてくれましたので、献花台に供えさせてもらいました。
それぞれが選んだかわいい花束です。

高須さん夫妻は、とてもうれしい心遣いをしてきてくれました。
上の子どもに節子が昔、プレゼントした洋服を、下の子が着てきてくれたのです。
上の娘さんはもう小学校3年なのですが、2年前にやってきた時のことを覚えていました。
その時は、節子は調子がよくて、みんなでケーキをつくったのだそうです。
その日は朝、近くの手賀沼でトライアスロンがあり、そこに節子の主治医が参加していたので、節子が自分で旗をつくって家族みんなで応援に行った話もしていたそうです。
そういえば、そうでした。
その時の節子のことを、鮮明に覚えています。

それがわずか2年前。
私にとっては、世界戦争があったよりも大きな変化のあった2年でした。

■346:偏在する節子から遍在する節子へ(2008年8月13日)
今日は彼岸の入りです。
節子が久しぶりに帰省しました。
とまあ、これは世間一般的な表現です。
わが家では節子の本拠を、節子が大好きだったわが家においていますし、彼岸とわが家は通じていると考えていますので、いつも節子は自宅にいると信じています。
にもかかわらず毎週、お墓参りに行きます。
お墓参りに行く前に節子の位牌に、ちょっとお墓に行ってくると挨拶し、戻ったらまた花が枯れてたよなどと報告するわけです。
これはおかしいのではないかと娘はいっていましたが、今は誰も違和感なくそうしています。
3次元を超えた世界に移った節子は、いまや3次元的宇宙に遍在する存在になっていると考えれば、問題はまったくないわけです。

しかし、私が生きている3次元世界では、故人はお盆に彼岸から戻ってくることになっていますので、わが家もそれなりの仕方で、迎え火で先導しながら節子を帰宅させました。

3次元的宇宙に「遍在」する節子は、この数日はわが家に「偏在」しています。
「遍在」と「遍在」。同じ発音ですが、意味は全く違います。
節子の心身に偏在(偏って存在)していた節子の魂が、いまや心身を離れて宇宙に遍在(あまねく存在)するようになったわけですが、節子の心身に偏在していたからこそ、節子は私の愛の対象になれたわけです。
宇宙に遍在してしまったら、節子を愛しようもなく、ましてや独占などできるはずがありません。
困ったものです。

私が愛していたのは、節子の心身と魂でした。
それらは不可分の存在であり、魂があればこそ、心身が輝いていたのです。
そして心身があればこそ、魂が3次元世界で可視化でき、私と出会えたのです。
あんまりややこしく書いても退屈ですね。

心身を離れた節子は、いまや宇宙に遍在しているわけです。
もう私だけのものではないということです。
しかし1年に1回は、私だけのものになるために戻ってくるわけです。
どうせなら心身も一緒に戻ってきてほしいものですが、あまり欲を出すのはやめましょう。
これからの数日は、戻ってきた節子と一緒に、ゆっくりと過ごしたいと思います。

今日は節子の夢を見るでしょうか。

■347:若住職への如来像お披露目(2008年8月14日)
節子が戻ってきたからといって、何かが変わったわけではありませんが、いつもよりも何か節子を身近に感じます。
今朝は節子と一緒にコーヒーを飲みました。

今日は、昨日の話を書きます。
昨日、迎え火で節子を迎えて、挽歌を書き終えたら、お寺からこれから棚経に行っていいですかという電話が来ました。
今日は来ないだろうと気を抜いていたので、いささか慌てました。
出かけたばかりの娘に電話で至急戻るようにいい、ご住職を迎える準備をしました。
ジュンが位牌壇の周りをきちんとこしらえてくれていましたので、それはよかったのですが、座布団もお布施も、何も用意していなかったのです。
押入れから座布団を出したら、湿気くさいので30度以上の暑い日当たりで干しました。
一方、部屋はクーラーで急冷し、準備を整えました。
電話から20分後にお寺の自動車が到着です。
幸い、出かけていたむすめも間に合いました。
座布団は少し熱かったでしょうが、まあ湿気のにおいはありませんでした。

てんやわんやしている家族を見て、節子はどう思ったでしょうか。
やはり自分がいないとダメだなと思ったかもしれません。
お布施は袋がなかったので、郵便用の封筒に入れましたが、それがまたしわくちゃでした。
ちょっと間に合わなかったので、と断りましたが、まあ、普通はもう少し早くから用意しておくのでしょうね。
私はすべて直前でないと準備しないタイプなのです。
節子はそのことをいつも注意してくれていましたが、そういう節子もたぶんにそういうタイプでした。
他人の欠陥は、往々にして自分の欠陥であることが多いものです。

お布施には名前も書かず、くしゃくしゃのままでしたが、中身はきちんと入れました。
たぶん。
まあ、万一入れ忘れても、名前も書かなかったので、誰が入れ忘れたかはわからないでしょう。

来てくださったのは若住職でしたので、わが家の如来像を見てもらいました。
みんなで心を込めてつくってくださって、ありがとうございますといわれました。
その言葉に感心しました。
仏僧は、ほとけたちの世界から私たちのことをみてくれているのだと改めて気づきました。

午後、節子が大好きだった梨を分けてもらおうと近くのすぎの梨園に行きました。
もっと早く予約しておけばよかったのですが、今ちょうどお盆のため、個々に分けてもらえる梨はまだありませんでした。
ここでも直前まで動かない私の悪癖が災いしてしまいました。
それでも杉野さんは、奥さんに供えてくださいと少し分けてくださいました。
杉野さんの梨は、自然のままの梨なのです。
杉野さんの奥さんに、わが家の如来像の写真を見せてしまいました。
ちなみに、杉野さんからとてもいい話を聴きましたので、時評編に書かせてもらいます。

夕方、兄夫婦が来てくれましたので、2人にもご開帳です。
なかなか好評ですが、まあ無理やり見せているので、みんな「いいですね」としか言いようがないのでしょうね。

こうして少しずつわが家の如来像は認知されだしています。
まだしばらくは魂が入っていないのですが、この如来像もわが家の文化を吸収してくれていることでしょう。
一周忌の時までには、きっと表情が変わっているはずです。
そういえば、今日、来てくださった若住職とこの如来像はとても似ているような気がしました。

■348:節子の人生収支バランス(2008年8月15日)
私に対する節子の収支バランスはどうなっているでしょうか。
そんなことをふと考えました。

私が節子にしてあげたことはいくつかあります。
エジプトに一緒に行きました。
アブシンベルとピラミッドは、とても気に入ってくれましたが、遺跡はみんな同じだと言っていました。
ベトナム戦争の意味を教えました。
いささか反米的な方向で、節子の常識を変えさせたかもしれません。
そのせいか、私以上にラディカルになりました。
節子のやりたいことに関しては、すべて賛成し、応援しました。
節子を心底愛しました。

しかし、してあげられなかったこともたくさんあります。
カナダには連れて行けませんでした。
節子は私と違って、エジプトの遺跡よりも広大な自然が好きでした。
吉野家の牛丼を食べに連れて行くこともできませんでした。
節子は牛丼を食べたことがなく、行きたいといっていましたが、私は食べたことがあるので行きたくなかったのです。
一緒にスポーツをやりたいという希望には応えようとはしませんでした。
そして、なによりも節子を守ってやれませんでした。

収支は赤字でしょうか。
しかし、私が節子にしてあげたことで、一番大きなことが、まだあります。
節子を一人ぽっちにしなかったことです。
一人ぽっちに残される辛さを、節子に体験させないですんだということです。
私でもこれほど辛いのですから、節子にはきっと耐えられなかったでしょう。
私はそう思います。
このことで、節子の収支バランスは、間違いなく黒字です。
私は「良い夫」だったわけです。

でも娘たちは、全くそうは思っていません。
お父さんが先に行ったら、お母さんはますます幸せになったかもしれないよ。
本当に親のことがわかっていない娘たちです。
わかっていないのはあなたよ、という節子の声が聞こえるような気もしないではありませんが。
いやはや。
節子がわが家に偏在しているのも、あと1日です。

■349:節子がまた戻っていきました
(2008年8月16日)
節子が戻る日です。
まあ遍在する節子にとっては、あんまり意味があるとも思えませんが、わが家も送り火で節子を送りました。
4時過ぎにちょっと曇ってきたので、少し早いけれどもと思いながら送り火を焚いたのですが、お寺に行く途中、雨が降りそうになって来ました。
きっと節子を送り終わったら、雨がドッと降ってくるね、と娘たちと話しながらお寺に行ったのですが、まさにその通りになりました。
東風に乗って雨が急に降り出したのです。
節子を送るように、です。

まあ、こんなふうに、いろんな自然現象や人との付き合いを、節子につなげて解釈するといくらでも「物語」は創られるものです。

帰宅して、節子の位牌壇を元の形に戻していたら、近所の小野寺さんが来てくれました。
郷里に戻っていたと、節子が好きだった萩の月を持ってきてくれました。
帰宅していた節子には間に合いませんでしたが、ここにいる節子は喜んでいるでしょう。

そんなこんなで、節子の初盆も終わりました。
なんとなく気持ちが寂しいのは、節子が戻ってしまったからでしょうか。
ひとしきり強く降っていた雨が小降りになりました。
また明日から普通の生活が始まります。

■350:それぞれの初盆(2008年8月17日)
初盆が終わりました。
今年、初盆を迎えた人は私の周りにも少なくありませんが、それぞれどんな初盆だったのでしょうか。
愛する人とゆっくりと語り合えたでしょうか。
静かな時を過ごせたでしょうか。

私の場合は、娘たちがとても気遣ってくれました。
彼女たちも母親の初盆でしたが、私への気遣いを強く感じました。
こうした文化を育ててくれた節子に感謝しています。

思わぬ人が来てくださったことも驚きでした。
節子の友人たちも、節子の初盆に思いを馳せていてくれていたでしょう。
節子の初盆を体験するまで、私は新盆見舞いという言葉すら知りませんでした。
初盆といっても、いままでは「言葉」だけで終わってしまっていました。
しかし、今回、自分が当事者になって、日本の文化の優しさを、改めて知りました。
その文化は残念ながらもうほとんど忘れられてしまっているのかもしれません。
自分がその立場になって、初めて自らの不義理さを痛感します。
恥ずかしい限りです。

昨日、送り火でお墓に行きましたが、とてもにぎわっていました。
提灯とやかんを持った数組の三世代家族も見かけました。
わが家の菩提寺は以前住んでいたところのお寺なのですが、数年前に転居してきた現在の家の近くにも、昔からの立派なお寺があります。
この地域は、我孫子でも古いところですので、地域とお寺のつながりも深いようです。
迎え火、送り火に来る人が道をふさぐほどです。
昔見た風景を久しぶりに見た感じです。
こうした風景はこれからだんだん少なくなっていくのでしょうか。

日本の仏教は葬式仏教などといわれ、お寺と地域とのつながりはあまりありません。
しかし、地域とのつながりを切ったのは、日本人の信仰心の問題ではなく、核家族化のせいではないかと思います。
葬式仏教でもいいではないか、と思います。
ただその葬儀があまりにも形式的になってしまっているのが問題なのです。

節子のおかげで、改めて日本の葬儀文化のことを実感させてもらっています。
葬儀は、通夜と告別式だけではありません。
そこから始まる大きな流れの中で、私たちは愛する人のことを考えながら、自らの生き方を問い直す機会を得られるのです。
同時に、人のつながりを子どもたちにも伝えていけるのです。
私は、数年前まではそうしたことにむしろ無頓着でした。
節子からはいろいろと教えられましたが、むしろ節子任せでした。
この1年、たくさんの気づきをもらいながら、改めて葬儀の意味を考えさせられました。

この挽歌の読者にも初盆を迎えた方がいらっしゃいます。
まだ会ったこともない人もいます。
その人たちは、どんな初盆を過ごされただろうか、そんなことも気になります。
まだ会ったことのない人の初盆に、私が思いを馳せることができるように、死者への思いはすべての人の心に拡がっているはずです。

初盆は、私たち家族だけのものではありません。
節子を送った今朝の般若心経は、そんな思いでまだ会ったことのない人たちの顔も意識しながら、あげさせてもらいました。

今日は昨日までとは打って変わって、秋を感じるような涼しさです。

■351:物語のはじまり(2008年8月18日)
節子
あなたが彼岸に戻った翌日は、肌寒いほどのさびしい日になってしまいました。
明け方はさわやかさもあり、節子が「暑さ」を持っていてくれたのだと思っていましたが、どうもそうではなく、午後から雨になり、とても悲しい1日になりました。
前日までとのあまりの違いに、節子を思い出さずに入られませんでした。
あなたは、もっと長く自宅にいたかったのでしょうか。
そんなことはないですよね。
あなたはいつも自宅にいるのですから。
もちろん彼岸にも、ですが。

昨日は家族みんなが少し放心していたような気がします。
私はだらしなく夏風邪を引いてしまったようで、のどをやられてしまいました。
今月は、まだ施餓鬼会があり、一周忌もあります。
それが終わるまではしゃんとしていなくてはいけないのですが、まあ、私の場合は、しゃんとしたところで高が知れていますので、適度に風邪を引いているほうが私らしいかもしれません。

今日はまた、昨日とは打って変わってよい天気です。
暑くなりそうです。
それもまた節子につなげて解釈すると、いろいろな物語が創れます。
自然の動きや人の動きは、見事なほどに「物語」になることを、最近感じています。
もちろん、節子につながる物語です。
私の頭の中には、最近は節子のことしかないからでしょうが、どこかでみんな節子につながるのです。
人間はこうやって、自分の主観で世界を解釈し、物語を創っていくのだと、つくづく思います。

節子でさえそうですから、たとえばイエスやシッタルダの場合は、多くの人がたくさんの物語を創りだしていったことでしょう。
しかもそれらは共振しながら、大きな物語へと育っていた。
聖書も経典も、生まれるべくして生まれたことがよくわかります。
そしてそこに書かれていることのすべてが、ある人の小さな体験や思いから始まったのでしょう。
そう思うと、聖書や経典にも親しみを感じます。

■352:人が一番孤独でないのは、一人でいる時(2008年8月19日)
「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉があります。
大勢の集まりで突然に孤独感を味わった経験は、私にはよくあります。
特に節子がいなくなった後は、数人の友人たちの集まりでさえ、それを感ずることがあります。
前にも一度、書きましたが、突然に周囲の会話が遠くに聞こえだし、この人たちはいったい何を話しているのだろうという気分になってしまうのです。
まさに「異邦人」になった気分です。
周りの人たちが楽しそうであればあるほど、孤独感が高まります。
みなさんは、そういう経験はないでしょうか。

私は、とりわけ「さびしがりや」なのですが、一番、孤独でなかったのは、いうまでもなく節子と一緒の時でした。
節子はそれを知っていましたから、できるだけ私に付き合ってくれました。
私がいなくなったらどうするの、と節子はよく言っていましたが、節子の病気がわかって、それが現実味を帯びてからは、節子はそういわなくなりました。

「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉は、私には全く理解できない言葉でした。
いまはこの言葉の意味がよくわかります。
一人の時こそ、不思議なことに、節子と一緒にいるような気分になれるからです。
しかし、もしかしたら、それは節子を実感できるからだけではないようです。
現実に周りにいる人たちとの断絶感から解放されて、むしろ周りにあるさまざまな人とのつながりが確信できるからかもしれません。
周りの人たちが、私が望む理想形で、私の世界を豊かにしてくれる気がするのです。

インドラの網のように、ホロニックに世界はすべてつながっているとしたら、まわりに人がいるかどうかは瑣末な話です。
早稲田大学の片岡寛光さんは、「公共の哲学」の中でこう書いています。

大方の人間が本人的生活圏で孤独を感じずにすんでいるのは、それが「存在の大いなる連鎖」の中にあり、何時にでも生活圏を拡げ他者と出会い、交流し得るというかなり確実度の高い期待可能性を持っているからである。

本人的生活圏とは、自分だけの空間と言ってもいいでしょうか。
家族、近隣社会、職場仲間、友人たちなどといった、いわゆる親密空間の基本になる生活圏です。
私たちの生活空間は、個人が直接構成しているのではなく、個人を中心にした、さまざまな種類の「人のつながり空間」が幾重にも組み合わさりながら、拡がっています。
「存在の大いなる連鎖」という言い方もされますが、これのほうが「インドラの網」よりはわかりやすいかもしれません。
いずれにしろ、私たちは宇宙とつながっているのです。
だから一人になっても孤独感は出てきません。
しかし、その連鎖(つながり)を実感できていないと、一人になることは恐ろしいほどに孤独なのかもしれません。
私はいま、宇宙に遍在する節子といつも一緒なので、孤独感はありません。

愛する人を失った人が、私の周りにも何人かいます。
その人たちは、こうした「つながり」に気づいているでしょうか。
気づいているといいのですが。
お盆は、そうしたことに気づくためのものかもしれません。

■353:それでも私は元気です(2008年8月20日)
返事を出せずにいた暑中見舞いのハガキが机の上にずっとありました。
いつもそのハガキをみながら、でも何もできずにいました。
昨日、ようやくメールを出しました。
全く内容のない、単なる暑中見舞いありがとうメールでしたが。

そのハガキには、手書きで次の一文が書き添えてありました。
暑くなると父が亡くなった夏を思い出します。
それでも私は元気です。

「それでも私は元気です」
ジーンとくるのは私だけでしょうか。
彼女はまだシングルです。
親しいというわけでもないのですが、ある時に突然、悩みを打ち明けてきたことがあります。
的確なアドバイスができずに、ただ聞いてやることしか出来ませんでした。
とても個性的で、よい意味での現代っ子です。
いえ、もう「子」と言う年代ではありません。
悩みながら、自分の人生をしっかりと生きている人でもあります。
その彼女が、もう数年もたっているはずの父の死を克服できずにいるのです。
「それでも私は元気です」
いろんな受け止め方はあります。
私へのエールとも受け止められます。
彼女らしいエールではあります。

しかし、これは反語と受け止めるべきでしょう。
元気といっておかないと元気を維持できないのです。
そして、その元気の奥にある気持ちを伝えたいという気持ちを感じます。
実は私が、全くそうなのです。
元気であって、元気でない。
元気でなくて、元気である。
そういう複雑な心境なのです。

「それでも私は元気です」
毎日、この言葉に悩まされていたのですが、メールを送ってようやく解放されました。
人の元気の後ろにある、さまざまな悲しさや悩みを理解できる人間になりたいと思いますが、まだまだなれない自分にがっかりします。

■354:節子の文化(2008年8月21日)
節子
最近、わが家では「節子の文化」なる言葉がよく飛び交っています。
「それは節子の文化だ」とか「節子の文化に反するよ」というような使われ方においてです。
ところが、その評価が全く正反対になることがあります。
節子が聞いていたら、きっと異議申し立てをしそうな時も少なくないです。

たとえば食事のとき、食後の食器洗いを節約するために、私が同じ小皿に複数のものをとりながら「節子の文化だ」といったら、娘は「お母さんはそういう取り方を注意していたよ」というのです。
食器を洗う人のことを考えて無駄に食器は汚さないというのが節子の文化だと思っていましたが、娘によれば、味が混ざるので料理した人に失礼だと考えるのが節子の文化だったというのです。
そういえば、私はよく節子に注意されていました。
人間は、自分に都合のいい場面だけを覚えているのでしょうね。

家族の誰かが外出する時、玄関まで送るのも「節子の文化」だったので、今は私も在宅の時はそうしています。
包装紙や容器などを大切に保存するのも「節子の文化」でしたが、節子の残した包装紙などはこの1年でほぼ捨てられました。
娘たちの名誉のために言えば、ただ捨てたのではなく、きちんと選別して使うものと捨てるものを分けたのです。
あんまり選別せずにただ残しておくのが「節子の文化」だったわけです。

ちょっとした隙間に花を一輪飾るのも「節子の文化」でしたが、時々、それを枯らすのも「節子の文化」でした。
廃物利用に時々意欲的になるのも節子の文化でしたが、すぐ廃棄物になるような無駄なものを買うのも節子の文化でした。
腕時計をいつもしているのも節子の文化でしたが、時間感覚が乏しいのも節子の文化だったかもしれません。

こうやっていろいろと書き出してみると、実は節子の文化と私の文化はかなり似ています。
違うのは、私が腕時計が大嫌いだったことくらいでしょうか。
「似たもの夫婦」という言葉がありますが、私たちは似たもの夫婦でした。
きっとどちらかがどちらかを洗脳してしまったのでしょうね。
ですから今となっては、どれが「節子の文化」で、どれが「修の文化」か区別しにくいです。
しかし私は、都合のいい時だけ「これは節子の文化だ」といって娘たちを説得しています。
マア、彼女たちは「はいはい」と聞き流して、面従腹背を決め込みがちですが。

さて、節子の文化、私の文化は、娘たちにどの程度継承されるのでしょうか。
どうも全く継承されないような不安があります。
なにしろ娘たちは2人とも、まだ結婚していないのですから。
私たち夫婦は、彼女たちにとってはモデルにはならない存在だったわけです。
私たち夫婦の、これが最大の反省点でした。
娘たちには内緒ですが、だれかいい人はいないでしょうか。

■355:なくなりようのない喪失感(2008年8月22日)
「それでも私は元気です」(挽歌353)と書いてきたOMさんが、私のブログを読んでメールしてくれました。
彼女の了解を得て、その一部を、かなり長いですが、紹介させてもらいます(原文をちょっと変えたところもあります)。
私の気持ちを、私以上に的確に表現しているからです。
私が書いた文章と言ってもいいほど、同感できます。

ブログを読んで、不覚にも涙がこぼれました。
その現象に、自分でも驚いてしまいました。
佐藤さんが仰るように、自分はまだ「父の死を克服できずにいる」んだなぁと思いましたが、
でも私は、これは「克服する」ものではない、と前々から思ってもいます。

「大切な人を失う」ということによる喪失感は、決して埋まるものではないと思っています。
例えるなら、
植木鉢に咲いていた花や雑草を抜いたとき、そこにできる穴のようなもので、
新しい花を植えたり、その穴に土を加えれば、その鉢は満たされるのですが、
けれど、その鉢は決して前と同じではないのです。
また、その穴を埋めることなく放置しておいても、
長い時間が経てば、やがてそれは風雨にさらされて、どこに穴があったのかわからない状態になります。
一見その鉢は満たされたように見えますが、
でもやはり、かつてあった物がなくなったという質量の絶対的な減少が生じているわけです。
要するに、私が持っている喪失感は、決して無くなったりはしないのだと思っています。

私の母は、父が無くなってから3年ほど平穏な日常を失っていたように思いますが、
今ではどうやら穏やかな日常を取り戻しているように見えます。
でも、それは「取り戻した」とは言っても、もちろん以前の日常とは違います。
以前とは異なる日常を、彼女は新しく得ることができたということです。

悲しみを持っているということと、日常を生きるということは、共存できるものなのだと思います。
胸にどうしようもない喪失感を抱えたまま生きているのが、人間なのだと思います。

誰かの死、誰かの悲しみ、自分が生きること、自分が笑うこと
これらはすべて共存できるものだと思います。
うまく言えませんが、それぞれ相互につながっているものではあるけれど、
何かが無くなったからと言って、同時に消滅してしまうものでもない。
それらは、個々の事象として、そこにただあるだけです。

ドラマなどでよく「お父さんはあなたの心で生きている」なんて台詞がありますが、
これは以前、私は非常にくさい台詞だと思っていました。
いや、今でも「くさい」とは思いますし、これが正しいとも思いませんが。
でも、言いたいことは何となくわかるような気はしています。
常に父のことを考えているので、いなくなったという感じがしないのです。
まぁ、でも現実にはいないわけなんですが。
そのギャップが喪失感なのかもしれませんね。

全く同感です。
OMさんは最後にこう書いています。

「それでも私は元気です」は、
出過ぎていると思いながらも、私なりに佐藤さんを応援したつもりでした。

OMさん、ありがとう。
だから私も元気です。

■356:手づくりトマトのお供え(2008年8月23日)
節子
昨日のことの報告です。
直接、報告したので節子は知っているでしょうが、やはりの挽歌に残しておきたくなりました。

昨日は自宅にいたのですが、お昼前にチャイムがなりました。
出てみると、近くの高城さんの子どもたちでした。
5歳と1歳半くらいでしょうか。
小さな手にミニトマトが4つのっていました。
そして、これをおばちゃんにあげてくださいというのです。
下の子もなにやらむにゃむにゃと話しかけてくれます。
庭で作ったトマトが実ったので持ってきてくれたのです。
とても幸せな気持ちになりました。
少しだけ2人と話しました。
節子だったらもっと楽しく話したろうなと思いますが、
妹のバッグの中身まで、なぜか見せてくれました。
もちろん頼んだわけではありません。

お姉さんのほうは昨年も、節子の見舞いに来てくれました。
妹は節子のことはあまり覚えていないかもしれません。
でもこうやって彼女たちの世界に、節子が生きていることはとてもうれしいです。
「おばちゃんにあげて」という言葉は、涙が出るほどうれしいです。
子どもの言葉には嘘がありませんから。

まだ赤味が十分ではないミニトマトでしたが、
明日から家族旅行に行くと聞いていたので、その前にと思って収穫してくれたのでしょう。
うれしくて、すぐに節子に報告し、供えました。

節子
あなたのことはいろんな人が心にかけてくれています。
私も、そういう人になるように、心がけようと思います。

■357:施餓鬼供養(2008年8月24日)
今日は施餓鬼会でした。
わが家の菩提寺は、真言宗豊山派ですが、毎年8月24日が施餓鬼会と決まっています。
両親が亡くなってからは、兄にお墓を守ってもらっていますので、この10年近くは参加したことがなかったのですが、今年からは毎年参加するつもりです。

施餓鬼会と言っても、これまでは先祖代々の供養儀式程度にしか理解していなかったのですが、もう少しきちんと理解しようと思い、真言宗豊山派のサイトで調べてみました。
こう説明されています。

お釈迦さまの弟子の阿難尊者がある夜瞑想していると、飢えて鬼のようになってしまった精霊(餓鬼)が現れ、「お前の命はあと3日だ。3日後には餓鬼の仲間に引き入れる」と告げました。尊者はさっそくお釈迦さまに餓鬼に施しをする作法を授かり、食物を供え、ご真言を唱えて回向(えこう)したところ、たいそう長生きをしたということです。このことから、施餓鬼会は、春秋の彼岸やお盆と共に、大切な行事になりました。
私たちは、知らず知らずのうちに殺生をして毎日を過ごしています。それは、生き物のいのちをいただき食事をすることで、私たちは、つつがなく生きていくことができるということです。
私たちは、このことに感謝し、供養をつくすことによって三界萬霊(さんがいばんれい:この世のあらゆる精霊)や無縁仏への回向とし、また、この供養が巡って先祖に届くのです。

以前も本で調べて、あんまり意義を見出せなかったことを思い出しました。
しかし、まあ節子とつながれる場があるのであれば、何でも参加しようというのが今の気持ちです。
身勝手でいい加減な話ですが、まあそれが私なので仕方がありません。

新盆なので新盆燈明料としてお布施させてもらいました。
これで節子は、私亡き後も永代供養してもらえることになります。
施餓鬼供養は、12人ほどの僧侶で営まれました。
今年は日曜日だったこともあり、たくさんの人が集まりました。
供養終了後、卒塔婆をお墓に立てて、節子と両親に声をかけてきました。
終了後、お寺から新盆の掛け軸をもらいました。
こうやってだんだん節子は向こうの人になってしまうのでしょうか。

施餓鬼会は、どうもまだ私の心には響いてきません。
どこかで何かが違うのです。
まだまだ信仰心が不足しているようです。

■358:愛する人を見送る覚悟(2008年8月25日)
節子
あなたが大好きだった滋賀の勝っちゃんと美っちゃんから先週、電話をもらいました。
2人とも元気そうでした。よかったですね。

美っちゃんは、私のブログを読んでから、私に手紙も電話もできなくなったと話してくれました。
これは美っちゃんに限ったことではなく、そう思っている人は少なくないでしょう。
私のためと思って声をかけても、それを素直に受け取らずに、ついつい反発してしまう気持ちを私はこのブログで何回か書いていますから。
気を悪くした人も、決して少なくないでしょうね。
腫れ物にさわるようなものだったかもしれません。
たぶん実際に、私はしばらく腫れ物だったのでしょう。
いまは少し腫れはひきましたが、まだ完治していないかもしれません。
すみません。

個人情報侵害ですが、美っちゃんのお兄さんも、私と同じように昨年、奥さんを亡くされたそうです。
美っちゃんはこういいます。
女性のDNAには、親や夫、時には子どもですら見送るという覚悟が埋め込まれているように思いますが、男性にはそれがないのかもしれませんね。
こういう言い方をすると、誤解されそうですが、美っちゃんは実に繊細で感情豊かな女性です。
というよりも、良い意味で、伝統的な日本女性なのです。
これは節子から聞いていることですが。

今回の電話でも、涙ぐんで話しているのが伝わってきました。
その人から、「愛する人を見送る覚悟」という言葉を聞くと、奇妙に納得できてしまいました。
人はいつか「愛する人」を見送るものです。
考えてみると、私は節子と結婚して以来、節子に「見送られる」前提で人生を生きていました。
きっと節子も、私を見送る覚悟を持っていたはずです。
それができなかったことが、節子の最大の無念さだったような気がします。
そして、それをさせられなかったことが私の最大の無念さでもあります。
しかし、人を愛するということは、その人を見送る覚悟を持つということかもしれません。
そのことに気づかないまま、節子を愛し、節子を看取ったことを心から反省しています。
送る覚悟があれば、もう少し節子をやさしく送れたような気がします。
節子、ごめんなさい。悪かったね。

愛するとは送る覚悟を持つとわかっていれば、こんな挽歌など書かなくてすむかもしれません。
覚悟が不足していましたが、いまさらどうにもなりません。
「会うは別れの始まり」という言葉の重さに、今ようやく気づいた気がします。
困ったものです。
読者の方には、ぜひこんな後悔をさせたくありません。

■359:立ち直りのための3年間(2008年8月26日)
訪ねてきた友人に、「妻を亡くした男性は立ち直りに3年はかかるそうだ」と話したら、彼は黙り込んでしまいました。
どうしたのだろうかと心配していたら、少したってこう言うのです。
「私もそういえば3年くらいはダメだった」
思ってもいないリアクションです。

彼は奥さんと5年ほど前に離婚していたのです。
そのことは知っていたのですが、離婚のショックなどこれまで微塵も感じさせたことはありません。
滅多に会わないのですが、会った時にはいつも新しい仕事に取り組んでいて、忙しそうでした。
仕事が好きなあまり、奥さんよりも仕事を選んだのかと、そんな感じで彼のことを考えていました。
ですからその反応は、まさかの反応だったわけです。
彼のことを何も理解していなかったわけです。

もっとも彼の場合、4年目にはまた人を愛せるようになったというので、少し気が楽になりました。
ちなみに彼は私よりもかなり若いのです。
きっとそのうち新しい伴侶が見つかるでしょう。
そう思いたいほどの、これまで見たこともないような寂しそうな顔でした。

「愛する人を失う」には、2つの種類があります。
「愛」を失う場合と「人」を失う場合です。
両者では、失うものが違うように、残るものも違います。
私が失ったのは、愛する「人」でした。
彼が失ったのは(間違いかもしれませんが一般的には)、「愛」です。
愛し合う関係を失ったといってもいいでしょう。
失われた「愛」は取り戻せますが、失われた「人」は取り戻せません。

一方、私には「愛」は残りました。
節子への愛は、節子が不在になった以上、変わりようがないわけです。
つまり永遠の存在になったわけです。
しかし、彼の場合、残ったのは「人」です。
「人」は変化しますから、それに応じて、愛もまた変化するかもしれません。

愛する人と死別して1年たって思うことは、立ち直りという概念の無意味さです。
立ち直ることなく、きっとこのまま行くでしょう。
でも傍目からみれば、やはり3年くらいは「おかしく」見えるのかもしれませんね。
離婚した友人は、きっと新しい愛を得て、立ち直れるでしょう。
そう念じています。

■360:1年も一日も休まずメソメソしていたとは、節子さんも幸せ者(2008年8月27日)
挽歌164(「小さくて不要になったものを送ってください」)に出てきたYTさんからメールが来ました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/02/post_f8ed.html
久しぶりに送った私からの手紙が届いたようです。
こう書かれていました。

手紙が届きました。
形見に頂いたリンゴのオルゴール、いつも机の隅に置いていますが、久々にメロディーを聴いて、そのすぐ後に届いたので更に驚きました。

YTさんに私が送った「小さくて不要になったもの」は、節子のコレクションだったリンゴの置物の中から選んだ小さなオルゴールだったのです。
YTさんのお心遣いに合わせて、それを送らせてもらっていました。
そのオルゴールが、きっと私からの手紙(実際には節子からの手紙でもあったのですが)の届くことを伝えてくれたのです。
節子もたまには気がききます。

YTさんは、それに続けてこう書いています。

もう、1年経ちますか? 
その間、旦那は一日も休まずメソメソしていたとは、節子さんも幸せ者ですね。
ずっとそうしていてください。

メソメソなどしていないつもりですが、どうしてもそう感じさせるのでしょうね。
元気な私を彼に見せなければいけません。
秋になったら会いに行きましょう。
彼は大阪在住なので、ちょっと気は重いのですが。
私は東海道新幹線が、どうも好きになれないのです。
節子とあまりにも何回も乗りましたので。
あっ! やっぱりメソメソしていますかね。

■361:節子への執着心(2008年8月28日)
先日、偏在する節子と遍在する節子のことを書きました。
私にはとても納得できていることなのですが、体験者でない読者にわかってもらえたかどうか心配です。
特に遍在するという意味合いが実感できないかもしれません。
これは、物理学者のデビッド・ボームのホログラフィック宇宙モデル論に出てくる「暗在系」に関する論考に刺激された言い方です。
体験した人には、こんな説明は不要だと思いますが。

ボームは、宇宙は、目に見える世界としての「明在系」と目には見えない「暗在系」で構成されているといいます。
「暗在系」は、次元が異なるために人間には感知できませんが、そこでは時空間を超えて、あらゆる物が渾然一体となって畳み込まれているとされています。
時間も空間もありませんから、現世の次元で考えれば、すべてが「遍在」しているといえます。
ボームは「暗在系」こそが「明在系」を支える源であるといいます。
そして、この「暗在系」を「あの世」に重ねて考えている人は少なくありません。
たとえば、玄侑宗久さんや天外伺朗さんです。
たしかに、そう考えれば、あの世のことがわかったような気になります。
それに、華厳経のインドラの網や「一即一切 一切一即」にもつながっています。

ここでは、般若心経に絡めて少し書いてみます。
般若心経に出てくる「色即是空 空即是色」は、簡単にいえば、色(この世にあるもの)は、すべて縁起(空)から生じている一時的な形象であり、その縁起の世界には、この世のすべての存在が、時空間を超えてたたみ込まれているというような意味ではないかと思います。
「色」を明在系、「空」を暗在系と置き換えれば、見事にボームの理論に重なります。

空の世界は時空間を超えているため、時間も空間的な広がりもなく、したがって現存する色の世界の感覚でいえば、あらゆる存在があらゆる縁起と隣接しているわけです。
つまり、空の世界の節子は、この世のあらゆるところの向こうに、遍く、そして常に存在していることになります。
それが「遍在する節子」の意味なのです。
愛する人が、いつも自分と一緒にいると感じられるようになるのは、このためです。

「色即是空 空即是色」は、現世現物への執着を解き、空に囚われる絶望からも自由にしてくれる呪文。
仏教者は、そのように説くかもしれません。
執着もせず、絶望もせず、精神の安定を保つことの呪文。
しかし、般若心経を何度読んでも、私には、執着や絶望を捨てよとは聞こえてきません。
執着や絶望とともにあれ、と読めるのです。
正確に言えば、執着や絶望を超えよということです。
これは、節子がこの1年、私に教えてくれたことです。
いまの私はそういう生き方になっているように思います。

ここで終われば、私も少し悟ったように思われる気もするのですが、実は終わらないのです。
愛する人といつも一緒ならば、現世での再会に執着することなどないはずですが、残念ながら、私は今でも節子の写真に向かって、「会いたい」と話しかけています。
煩悩のなせる業か、今でも無性に節子に会いたいのです。
しかも、いつか会えるかもしれないという思いを捨てられずにいるのです。
執着以外の何物でもありません。

しかし、執着すればこそ、遍在している節子が存在化するのです。
誰かが思い続けている限りにおいて、節子はこの世界で生き続けられるのです。
執着とは「縁起」を起こす縁のひとつではないか、と私は最近考えるようになりました。
この執着が、いつか節子を顕現させるような、奇妙な感覚を拭えずにいるのです。
「色即是空 空即是色」の呪は、まだ私を「迷い」から救ってはくれません。

■362:夫婦の会話、親子の会話(2008年8月29日)
節子
節子がいなくなって、節子と会話する時間がほとんどなくなったので、最近は家庭内で話す時間が少なくなっています。
これって、結構ストレスになりますね。
それでも食事は娘たちと一緒ですし、親子の会話はあるのですが、
この頃、改めて感ずるのは、夫婦の世界と親子の世界の違いです。

夫婦の場合は、お互いに相手の世界を知ろうとすることから関係が始まり、2人で新しい世界を創りだしてきたわけですから、相手の体験は多少とも自分の世界のことなのです。
ですから、話すほうも聞くほうも、自分たちの世界と思えます。
しかし、どうも親子の場合は違います。
親は子どものことを知っていると思っていますし、子どもは親から離れることを目指しているからです。
子どもの体験は親にとっては自分の世界につながるのですが、子どもたちには親の世界のことはいつか消えていくものでしかありません。
時間軸がずれているというか、次元が違うというか、ともかく違うのです。
夫婦と親子の関係は、明らかに違います。
そこを勘違いして起こる不幸もきっとあることでしょう。

節子との会話は、何一つ気を使うことなく、素直に自然に話していましたが、わが娘とはいえ、娘にはそれなりの気遣いや配慮が必要です。
もちろん伴侶にも、最初は気遣いや配慮はありましたが、いつかそれは消えていきます。
親子の場合は、むしろ、気遣いや配慮が増えていくといってもいいかもしれません。

それにしても、私たちはよく会話しました。
まあ、喧嘩も含めてですが。
20年程前には夫婦の会話時間が少ないことが時々話題になりましたが、
私たちの会話時間は長く、顔を合わせればいつも話していました。
レストランで、隣の夫婦が会話なしで食事をしている風景は、私たちには全く理解できずに、それがまた私たちの話題になりました。
世界はすべて、私たちの会話のためにあったような感じでした。
その話し相手がいなくなってしまったことは、私には結構辛いことです。

私たち親子の会話も決して少なくはありません。
私が娘たちに好かれているかどうかはともかく、彼女たちはよく話しかけてくれますし、食事もほとんど一緒に話し合いながら食べています。
しかし、節子がいなくなってからは、話も少し途絶えがちです。
息子だったら、もっと話しやすいかもしれませんが、娘なので話題も少しずれています。
母親は、父と娘の話の媒介者であることを最近改めて感じます。
4人で話しながら食卓を囲んでいた時には、それが最高の幸せであることに気づいていませんでした。
今となっては、その愚かさを悔やんでいます。
人は本当に愚かです

■363:節子のやさしさと健気なさ(2008年8月30日)
節子
敦賀のお姉さんとお義兄さんが来てくれましたよ。
間もなく節子の一周忌なのですが、今回はお寺とも相談して、家族と節子の姉夫婦、それに私の兄夫婦だけで、法要をやらせてもらうことにしました。

節子は、私と結婚したために、滋賀の実家から遠い東京で生活をすることになりました。
そのため、節子はなかなか親孝行ができず、年に1〜2回しか実家に帰れずにいました。
節子の姉は、実家からそれほど遠くない福井の敦賀市に嫁ぎましたので、節子の分まで両親によくしてくれました。
それで節子は、姉夫婦にとても感謝していました。
そしていつかお返ししなければと、よく話していました。

しかし、まさか自分が姉よりも早く逝くとは思っていなかったでしょう。
節子が再発した後、私に幾度か涙ながらに話したことがあります。
自分は娘が2人いて、看病をしてもらえるのでとても幸せだが、姉は息子しかいないので何かあれば私が看病してやらなければいけない。
それができなくなりそうで、姉に申し訳ない、と。
節子は病気になってからも、いつも誰かのことを気遣っていました。
そのやさしさと健気さが、節子の魅力でした。

節子たちの姉妹は、とても仲がよく、お互い思いでした。
母親を亡くしてからは、節子は実家よりも敦賀の姉のほうに行くことのほうが多くなりました。
私もだいたい同行しました。
節子と私の最後の旅は、姉夫婦との芦原温泉への旅行でした。
これは姉が企画してくれたのです。
節子にとって、とても楽しい旅だったでしょう。
その時は節子はまだ元気でしたが、そこから戻ってから、急速に体調が悪化したのです。

あのときの節子の笑顔を、今でも時々思い出します。
きっと身体的には辛かったのでしょうが、私にはそれを見せませんでした。
思い出すだけで、節子のやさしさと健気なさに胸が熱くなります。
その健気さは、私には真似できませんが、やさしさだけは少しだけ節子にほめてもらえそうな気がします。

節子と一緒に人生を築き上げることができたことを、心からうれしく思っています。
本当に、やさしく健気な人でした。
ちょっと私に似て、性格の悪いところもありましたが。

■364:失敗続発の一周忌(2008年8月31日)
節子の一周忌の法要を菩提寺でとりおこないました。
この1年の私は、節子に明け暮れました。
いえ、これからの人生もそうかもしれません。

昨日書いたように、一周忌は家族と兄姉夫婦だけでやることにしました。
最初、葬儀もそんな形で静かにやるつもりだったのですが、結局はたくさんの人たちに来てもらいました。
そのおかげで、私も娘たちも、何とか元気を維持できたのだろうと思いますが、
そうそう甘えてばかりはいられません。
覚悟を決める意味でも、今回は家族だけでと考えたのですが、いかにも家族だけではさびしいので、節子の姉夫婦と私の兄夫婦には声をかけました。
みんなが来てくれると、悲しさを克服できますが、身内だけだと悲しさは増幅されます。
ご住職がお経をあげてくださっている間、節子のさまざまな笑顔が思い出されて、悲しさがこみ上げてきます。

菩提寺のご住職にお願いして、私たちがつくった大日如来に魂も入れてもらいました。
これでわが家にも守り本尊ができました。
節子も安堵したかもしれません。
節子は、私と違ってモダンでしたので、実家にあるような大きな仏壇や正統的な仏像はなくてもいいといっていました。
ですからジュンが手づくりした、この大日如来はきっと気にいっていると思います。
私もとても気にいっています。
本当にわが家らしい如来です。

供養が終わったあと、みんなで節子を偲んで会食しましたが、
私は、こういう場できちんと挨拶をするのが苦手で、いつも節子に叱られていましたが、
今回は生まれて初めて、親族相手にきちんと話をさせてもらいました。
節子の写真したのですが、卓上に出すのを忘れてポケットに入れたままでした。
やはり修はどこか抜けているわね、と節子は苦笑していたでしょう。
そういえば、お寺での供養後、お布施などを渡すのを忘れて帰りかけました。
兄に注意されて、それに気づき、慌ててご住職に挨拶に戻りました。
やはり節子のことで頭が一杯で、ミスばかりの1日でした。

親戚などの会食では、いつも場づくりは節子の役割でした。
その節子がいたらもっと盛り上がったろうなと思いますが、みんなの気遣いで楽しい2時間でした。
しかし、節子が果たしていた役割は、本当に大きかったのだと改めて思います。
ほんとうに、私には過ぎた女房でした。
私が、おかしな人生を送らずにすんだのは、間違いなく節子のおかげです。

戻ったら花かご会から花が届いていました。
近くの坪田さんも大きな花輪を届けてくれました。
節子はまた、たくさんの花に囲まれています。

ところで、よけいなことですが、お知らせです。
何人かの方から一周忌の法要にもお伺いしたいと連絡をいただいたのですが、今回はわがままを通させてもらい、内輪だけで行いました。
その代わりというのもなんですが、まさに一周忌にあたる9月3日とその前後の両日は自宅の献花台の前で、節子が大好きだった庭の花を愛でながら、日長1日、お茶でも飲みながらぼんやりしていようと思っています。
もし近くに来る機会があればお立ち寄りください。
珈琲だけのおもてなししかありませんが。

■365:仏の生みの親のジュンのこと(2008年9月1日)
昨日、魂を入れていただいた、わが家の大日如来は、むすめのジュンの作品ですが、彼女は人形が好きではありません。
そこに魂を感じるのか、子どもの頃から怖いと言っていました。

実はこんなことがありました。
同居していた私の父が病気になりました。
ジュンは、紙粘土で父の像をつくりました。
それをジュンは、父の誕生日にプレゼントしました。
とてもユーモラスに父の特徴をうまく捉えていて、それをもらった父はとてもうれしそうでした。
家族のみんなが、私のも創ってほしいと言い出すほどでした。
ところが、その人形を仕上げてから3ヵ月後、父は息を引き取りました。
父も胃がんで、実はもう医師の宣告期間をすぎていたのです。
もう20年以上前の話です。

ジュンは、それ以来、人形をつくるのをやめました。
私も人形をつくってくれないかと頼みましたが、つくってはくれませんでした。
人形をつくったことで、父が死んだのではないかという思いがどこかに生まれてしまっていたようです。
父の人形は、その後もわが家で母と一緒に過ごしていました。
父の人柄を見事に表現している、その人形を、私は大事にしたいと思っていました。
しかし、母が亡くなった時に、ジュンは父の人形も一緒に送ろうと言い出しました。
誰も反対しませんでした。
父と一緒に旅立てれば、母も心強いだろうと思いましたし、その時はそれが当然のように思ったからです。
しかし、きっとジュンの思いは少し違っていたのかもしれません。
子どもは、大人よりも彼岸に通じていますから。
その後、わが家からほとんど人形はなくなりました。

母の葬儀の時、その父の人形を菩提寺の住職も見ています。
それがよほど印象深かったのでしょう、節子の葬儀を終わって、住職にみんなで挨拶にいったら、最初に出てきた話題が、その人形の話でした。

節子の仏壇に合う仏様をみんなで探しました。
節子も含めて、家族みんなが納得できる仏様ですが、そんな仏はありませんでした。
そのうちに、ジュンが私がつくってもいいならつくるよ、と言い出しました。
そして生まれたのが、この大日如来なのです。

私にとっては、この如来像の後ろにたくさんの物語がついているのです。
そうした物語を思い出しながら、これから毎朝、拝んでいくつもりです。
私にとっては、ジュンは運慶よりも優れた仏師です。

■366:夜来香(いえらいしゃん)(2008年9月1日)
庭に夜来香があります。
もう咲き終わっていますが、今年の夏はよく咲きました。
香りがとても強い花です。

節子は我孫子の女性合唱団「道」に入らせてもらっていましたが、
そこで「夜来香(いえらいしゃん)」の歌を練習していたことがあります。
節子が生まれる1年前に中国で作曲された歌で、日本でも山口淑子(李香蘭)が歌って有名になりました。
夜になると香りを強く発します。

今朝、庭で娘から、この木はコーラスで習っていた時に節子が花屋さんで見つけて買ってきたのだと教えてもらいました。
昨年の夏、節子の病室の外で初めて咲いたのだそうです。
昨年は、あまり余裕がなく、はっきりとは覚えていませんが、
そういえば、あけた窓から香りが少し届いていたような気がします。
ベッドから見えるところに、ジュンが持ってきてくれていたのです。

そんな話をしながら、コーラスの誰かが来るかもしれないねなどと娘と話していました。
でももう1年も経つし、まさかこないだろうと思っていました。
ところが、です。
午後、来客がみんな帰ってだらっとしていたら、女声合唱団「道」のメンバーが献花に来てくれたのです。
しかも12人もの大勢です。
熟女がこれだけそろうといささか狼狽します。
いささかあわててしまいましたが、とてもうれしくて、
献花だけではなく、昨日、開眼供養してもらったばかりの大日如来をお引き合わせさせてもらいました。
大日如来も毎日、こんなにたくさんの人たちが拝んでくれるので、驚いているかもしれません。
いえ、不思議なことに、この大日如来がやってきてから、
いろんな人が来てくれますから、
これこそまさに大日如来のお心遣いかもしれません。
あるいは、夜来香の香りのおかげでしょうか。
みなさんにも夜来香の話をしました。

それにしても、みなさんが節子のことを気にしていてくださるのが、なによりもうれしいです。
節子からは、皆さんのお名前もお聞きしているのですが、
いつも大勢で来てくれるので、お名前と顔が結びつきません。
いつもうまく感謝の気持ちが伝えられずに、節子がきっと気にしているだろうなと思います。
節子は本当にやさしい仲間に恵まれていました。
うらやましいほどです。

道のみなさんは、鉢付きの赤いミニバラを中心にしたパケットを持ってきてくれました。
節子のことをよく知っていてくれているのだなと、それもまたうれしくなりました。
赤いバラは節子の好きな花ですし、鉢付きの生きた花が好きでした。
このミニバラは、きっとわが家の庭に根づくでしょう。

それにしても、どうしてみんな、こんなにやさしいのでしょうか。
歌を歌っているからでしょうか。

今日は2回も挽歌を書いてしまいました。
いつか1回、挽歌休刊日ができそうです。

■367:節子のことを思い出してくれる人たち(2008年9月2日)
節子
あなたはとても幸せな人ですね。
一周忌にあわせて、節子のことを思い出してくれている人がこんなにいるとは驚きです。
私だけで独占したい気もしますが、たくさんの人が節子を思い出してくれているのは、何だか少し誇らしい気もして、うれしいです。
人の絆は、時間の長さでも利害関係でもなく、心の響きあいで決まります。
私が会社を辞めた時に感じたことですが、改めてそのことを感じました。

昨日から、花がたくさん届きだしています。
節子の友人たちからです。
私の場合は届かないでしょうね。
男性と女性の違いかもしれないのですが、
みんな花にある思いを託してくれていることが私にさえ伝わってきます。

女性たちの絆は、私には見えない世界です。
こんなに届いてどうするのと私自身はちょっと不安ですが、
節子が花になって戻ってきているのかもしれません。
この3日間は、娘も含めてみんな自宅にいることにしましたが、
こんなに花が来るとは思っていなかったので、いささかてんやわんやです。

何人かの方に電話させてもらいました。
電話嫌いの私には結構つらい仕事なのです。
節子の友人の女性ですので、どう話していいかわからず、
相手もたぶん妻を亡くした傷心の男にどう対応すればいいか悩ましいのではないかという気もします。

でも電話で話すと必ずといっていいほど、節子へのライブな思いが伝わってきます。
男性とはどうも違うのです。
少なくとも私にはない情感を感じます。

うまくいえませんが、女性は生命的にみんなつながっているのかもしれません。
女性は生命の本流、男性は支流。そんなふうに思えてなりません。
節子との絆においては、私は誰よりも強いと思っていますが、
そうでないもっと大きな生命的な絆が女性たちにはあるのかもしれないと、
送られてきた花を見ながら思っています。

節子
君はどの花の中に隠れているのでしょうか。

■368:花で囲まれた節子にたくさんの友人が会いに来てくれました(2008年9月3日)
節子
今日は節子の命日です。
昨日までのこもりがちな天気が一変して、雲一つない快晴です。
30度を超す暑さですが、風があるのでさわやかでもあります。

節子の仏壇の周りは、またすっかり花に囲まれてしまいました。
あなたの好きなカサブランカや胡蝶蘭をはじめ、いろいろな花で埋め尽くされています。
こんなに花が集まるのは、やはり驚きです。
この花の中に入ると、1年前を思い出させられますが、できるだけ思い出さないようにしています。
いつも前を見ているのが、私たちの生き方でした。

今日もまたあなたが大好きだった人たちが来てくれました。
朝一番には会社時代の同僚だった木村俊子さん、そして花かご会のみなさん。
続いて長沼さん。午後にはヨーロッパ旅行の仲間が来ました。
なんで節子の友だちなのに、私が相手をしなければいけないのか、
この日くらいこの世に戻ってきて、みんなの相手をしろといいたいですが、どうもまだそれは無理のようです。
夕方、坂谷信雄さんも来てくれました。

今日、来てくださった方は13人です。
その一人ひとりが、節子の思い出を少しずつ持っていてくれます。
私が知らない節子の話も出ました。
なんだか今日は、たくさんの節子に会ったような気もします。
しかし疲れました。
この疲労感は何なのでしょうか。

この挽歌で、節子に報告したい話もあるのですが、
今日はちょっと頭が疲弊していて、書けそうもありません。
また日を改めて、書かせてもらいます。

ちなみに、大日如来像の評判はなかなか良かったです。
キスケもがんばっていました。

■369:勢至菩薩へのバトンタッチ(2008年9月4日)
一周忌から、節子に同行する菩薩が替わることを、一周忌供養の講話で知りました。
これまでは観音菩薩だったのが、一周忌からは勢至菩薩に担当が替わったのです。

私がむかし、衝撃を受けた三千院の阿弥陀堂の阿弥陀如来は、観音菩薩と勢至菩薩を伴っています。
三千院の阿弥陀堂は、昔は堂内に入れ、そこは船底天井のタイムマシンを思わせる空間でした。
当時は間違いなくタイムトリップできたはずです。
静かな動きのある空間で、阿弥陀三尊が動いているのを感じ、衝撃を受けたのです。
時間軸を仏教世界基準にすれば、1年や2年の時間は瞬時に過ぎません。
10年後にきたら、きっと変化を実感できると確信していました。

そして20年くらい経ってからまた訪ねました。
驚きました。
時間が逆行していたのです。
立ち上がりつつあった脇侍の両菩薩の腰が少し下がっているのです。
もうみんなを救うことを諦めたのでしょうか。
その気持ちが分かるような気もします。

脇侍のひとりが勢至菩薩です。
勢至菩薩は知恵をつかさどる菩薩と言われていますが、そのことに魅かれて、観音菩薩の次に好きな菩薩です。
仏教の知恵には、昔からとても魅力を感じています。
この勢至菩薩の真言は、「オン・サンザン・サンサク・ソワカ」だそうです。
この真言を唱えると、煩悩が消え、知恵が得られそうですが、煩悩を消そうなどとは思っていないので、私はこの真言は唱えません。
私が唱えているのは、節子がいつも唱えていた光明真言です。
節子は寝る前にいつも5回、光明真言を唱えていました。
普通よりも2回多いのですが、そこに節子の思いを私は感じていました。
そうしたちょっとした節子の仕草の意味が、私にはいたいほどよくわかりました。
でも何もしてあげられませんでした。

節子の人生における脇侍の勢至菩薩は。まちがいなく私でした。
その私が、実はあまり知恵がなかったのです。
知識はそれなりにありますが、知恵がないのです。
加えて常識が少し欠落していました。
節子がそれに気づいたのは、結婚して20年くらい経ってからでしょうか。
そこから私たち夫婦の主導権は、節子に移りました。
知識は知恵には勝てないのです。

私にもっと知恵があり、賢明であれば、もしかしたら節子はこんなに早く旅立たなくてもよかったかもしれません。
節子がある時、「知恵の有無が生死を決めるのね」とつぶやいたことがあります。
自分への反省のような口ぶりでしたが、私への不満だったかもしれません。
そんなようななんでもない一言や仕草を、時々思い出します。

これからは本物の勢至菩薩が節子の同行者です。
安心していいでしょう。
私に同行してくれる勢至菩薩は、これまで通り節子ですので、少し頼りないです。

■370:1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ(2008年9月5日)
「1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ。」

先日、15年ぶりに会った友人がこんなメールをくれました。
彼女も伴侶を4年前に亡くしています。
彼女に久しぶりに会った時には、そんな話は全くしなかったですし、お互いに15年前と同じように元気に話しあいました。
その後、メールが届いたのです。

ある薬局の薬剤師の女性が言ってました。
「3回忌過ぎるまでは……」
遺された連れ合いは、元気が出ないというか、前の状態に近づけないということなのでしょう。
3回忌といえば丸2年だけれど、わたしはもうすぐ丸4年です。
仕事がなかったら生きている意味がみつからなかったし、
今もその状態はあまり変わっていません。

そう書かれていました。
胸を突かれました。
彼女のその心の中を、私は全く見ようとしていませんでした。
彼女のこの数年の活動ぶりを漏れ聞いていましたが、その理由が少しわかったような気がします。
このメールに返事が出せないまま、1週間経ってしまいました。

「生きている意味がみつからない」
心に染みる言葉です。
彼女に返信する代わりに、このブログに書いておくことにしました。
それで少し気持ちが楽になります。

それにしても、「生きる」ということは一体何なのでしょうか。
この頃、またわからなくなりました。

■371:仏花にバラはダメなのか(2008年9月6日)
私は、いわゆる「仏花」があまり好きになれません。
今回の一周忌にもたくさんの花をいただいたのですが、一周忌ということもあり、仏花らしい花も少なくありませんでしたので、こんなことを言うと送ってくれた人に大変失礼になるかと思いますが、また書くことにします。
お許しください。

一周忌の供養に、お寺の本堂に供える花を娘に頼みました。
いつもお願いしている花屋さんが臨時休業だったので、違う花屋さんに行きました。
一周忌の花だといったら、まず相場は5000円ですといわれたそうです。
そして花もほとんど決まっているそうです。
娘は、それを無視して、バラを入れてくださいと頼んだのです。
節子が赤いバラが好きだったからです。
そうしたらお店の人は、仏花にはバラは入れられませんと言うのだそうです。
それで私に電話がかかってきました。
私は娘と同じく、バラを希望しました。
もしダメなら仏花としてではなくアレンジしてもらえばいいといったのです。
花屋さんも、お寺との関係で「非常識」のことはできないのでしょう。
いろいろと応酬があったようです。
どこのお寺かとも聞かれたようです。
幸いにわが家は、自分流を通すことをご住職も知っていますし、娘と若住職は小さい時からの知り合いでもあるのです。
それで娘は花屋さんの意見を押し切って、可愛い花束を完成させてくれました。
そこに義理の姉が持ってきてくれた、自分で育てた蓮のつぼみを入れました。
お寺の奥さんがとてもうまく活けてくれたので、5000円の相場以下でもわが家的な花束になりました。
もちろんお寺はバラがダメなどとは一切言いませんでした。

仏花にバラはつかわない。
節子の葬儀の時に、葬儀社ともめましたので、私もそれをよく知っています。
しかし、なぜ仏事にバラを使わないのか。
それが常識だという人もいますが、それこそ自分勝手な非常識だと思います。
トゲのないバラは最近仏事でも使うようになっているはずですが、トゲがあっても故人が好きなら使えるようにするべきです。
故人に合わせてこそ、供養に心が入ります。
葬儀社やお寺のためにやるわけではありません。

私より数年先に、伴侶を見送った竹澤さんは、葬儀の時、みなさんにバラをお渡ししたそうです。

夫の好きなウイーンの公園にあったピンクのト音記号を白の花の中に書きました。
お帰りに夫の好きだったバラを一本ずつラップして頂きお持ち帰り頂ました。
バラは葬儀には使用しないそうで葬儀屋さんから断られ、お花屋さんに頼んで。

法事というとなぜかみんな「仏花」イメージに拘束されがちです。
白と紫色が基調です。
しかしお寺は決して無彩色の世界ではありません。
暖色もふんだんに使った、暖かな賑やかな色の世界です。
有名なチベットの砂マンダラを思い出せば納得してもらえるでしょう。

法事の主役は故人と遺族です。
仏教関連の産業界が勝手に創りあげた「常識」に拘束されることはありません。
花屋さんも、献花や供花の意味を考えてほしいものです。

■372:しんじゃうまえ おうちのまえのおはなをありがとう(2008年9月7日)
一周忌に献花に来てくださった人のなかに、近所の6歳のかおりちゃんがいます。
私はその時、別の方と話していたのですが、後で仏壇の前に折り紙で折った犬の顔が置いてあり、そこにメッセージが書かれていました。
表題は、その一部です。
「おばちゃん しんじゃうまえ かおりのおうちのまえのおはなをありがとう」
なんかとてもリアルですね。
でも子どもの言葉だと素直に心のはいるのが不思議です。
節子が喜んで大笑いしながら、彼女に話している姿が目に浮かびます。

かおりちゃんの家の前の花の一部が枯れてしまいました。
花好きの節子は、そこに花を植えて、水をやっていたのです。
節子のよけいなお世話の一つです。
そういえば、節子は家からかなり離れたところの電柱のまわりにまで花を植えて水やりに行っていました。
今は娘がやっていますが、ともかく花とお世話が好きでした。
でもそのおかげで、今回もたくさんの人たちが来てくれました。

節子は、かおりちゃんの心の中に、花のおばちゃんとして生きつづけるでしょう。
私は、死んじゃうまえに何ができるでしょうか。
これは結構難しいことです。
花は、人と人をつなげる大きな力を持っていますね。

■373:倉敷市で語られた節子の名前(2008年9月8日)
節子
一周忌に来てくれた倉敷市の友澤さんからきいた話には驚きました。

先月、倉敷市で前我孫子市長の福嶋さんの講演会があり、友澤さんご夫妻は聴きに行ったのだそうです。
講演後、福嶋さんのところに挨拶に行き、節子のおかげで我孫子市にも縁ができ、昨年,我孫子に行ったと話したのだそうです。
そうしたら、福嶋さんが顔色を変えて、「節子さんは亡くなったのですか」と驚いたのだそうです。
驚いたのは友澤さんご夫妻のほうもで、まさか節子のことを市長が知っているとは思ってもいなかったのです。
それがうれしくて、今回、ぜひとも私に伝えたかったのだそうです。
私もその話にはいささか驚きを感じました。

節子は福嶋前市長とは何回か会っています。
民生委員をしていましたし、我孫子駅前の花壇整備の活動にも取り組んでいました。
でも福嶋さんが節子の名前を覚えていたとは驚きでした。

私も当初は福嶋さんを応援していました。
我孫子市で総合計画を策定する時には、福嶋さんが指名してくれて、私も審議委員になりました。
しかし、次第に福嶋さんの市政は私には違和感のあるものになっていきました。
3期目になってからはあまり良い関係ではありませんでした。
そして2年ほど前に関係は決裂してしまいました。
最後の話し合いに行く時、節子は私に興奮して喧嘩にならないようにと注意しました。
しかし、その注意を私は守ることができませんでした。
そのことを思い出しました。

そんなこともありましたので、この話に私はとても複雑な気持ちになりました。
節子の訃報に驚いて反応してくれた。
ただそれだけの話ですが、何だか急に福嶋さんに会いたい気持ちになりました。
人間は本当に勝手な生き物です。

しかしこの話には節子のメッセージが込められているのかもしれません。
節子は今もなお、私のことを心配してくれているような気がします。
ちょうど友澤さんからこの話を聞いた翌日、我孫子市のNPOの人たちから呼び出され話をしていたら、市議の人たちもやってきてくれました。
そろそろ戻って来いといわれた感じです。
これも節子の差し金でしょうか。

節子
今度福嶋さんに会ったら仲直りするようにします。

■374:「そうか君はもういないのか」の連鎖(2008年9月9日)
城山三郎さんの「そうか君はもういないのか」が、先日、NHKテレビで話題にされたせいか、関連記事へのアクセスが増えています。
このブログを読んで、早速、同書を買ったと言ってきた人もいますが、私自身はまだ購入もしていません。
なんだか読めないような気が、まだしているのです。

「そうか君はもういないのか」と言っていた城山三郎さんも、今はもういなくなりました。
今は、城山さんの娘さんがきっと、「そうかもう父はいないのか」と思っていることでしょう。
そうやって人の歴史は続いていく。
「そうか君はもういないのか」は人が生き続ける限り存在する、不滅の連鎖用語なのです。

「節子はもういないのか」と考える私も、いつかいなくなるでしょう。
その時、「修はもういないのか」と言ってくれる人がどれだけいるか。
そこにこそ、私の生きた証があるように思います。
自分が生きた証を残すために立派な作品を残す人もいますが、
私は、そうしたものには全く興味がありません。
それどころか、ついしばらく前までは、生きた証を残すことにはむしろ否定的でした。
証を残すために生きているような人は、私には理解を超える人でした。
しかし、節子がいなくなって、そうした考えが変わりだしました。
生きた証は、本人の思いとは全く関係なく、残ることを知りました。

大切なのは、どこに残るかです。
私が改めてとてもうれしく思ったのは、
「そうか節子はもういないのか」と思っている人が多いことです。
思いも知れない人が、花をもってきてくださったり、手紙をくださったりするのです。
そういう時には、節子は今も生きていると思えて、とてもうれしいです。

人の生きた証は、その人と触れた人の心の中に残ります。
そして、その人の生きた証として、次の人に伝わっていく。
いつか名前は消えていくでしょうが、それと同時にもっと大きな生の証となって、残っていく。
最近、そんな実感がもてるようになって来ました。
すべての人の生が、今の私の生を支えてくれているのです。
一条真也さんが、著書の「愛する人を亡くした人へ」でこう書いています。

現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、
はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きている。
わたしたちは個体としての生物ではなくひとつの生命として、過去も現在も未来も一緒に生きるわけです。

まさにそうだなと、改めて実感できました。

その証を伝えるのは、しかし、女性たちかもしれないという気も強くなっています。
それは、子どもを生むことのできる女性に埋め込まれた生命の伝承のシステムかもしれません。
城山さんは「そうかもう君はいないのか」と言っていたそうですし、私も毎日、そう思い続けています。
しかし、本当は、江藤淳さんのように、城山さんも後を追いたかったのではないかと思います。
少なくとも私はそうでした。
それができないから、半身を削がれたまま生きているわけですが。

■375:人生は終わったのに、悲しさは消えないです(2008年9月10日)
今成さんに会いました。
節子には話していませんでしたが、今成さんのパートナーは節子よりも1年先に亡くなりました。
節子と同じ病気でしたので、節子にはとても言えませんでした。
言えないだけではなく、そのことが受け入れられなかったのです。
ですから、それを知りながら今成さんには声をかけられずにいました。
声をかけたら、必ず節子にわかってしまうだろうという奇妙な確信があったのです。
ですから私の中では、そのことは「ないこと」だったのです。

にもかかわらず、今成さんは節子の葬儀に来てくれました。
節子の訃報は私の関係者には原則として伝えなかったのですが、この種の話はまわってしまうもののようです。
落ち着いたら連絡しようと思いながら、なぜか連絡できませんでした。

節子の命日に、今成さんからDVDが届きました。
今成さんの性格を考えると、これは意図されたことではなく、意味のある偶然です。
そのせいか不思議にも自然に会えるような気がしてきました。
DVDは、今成さんが製作した自主映画「おとうふ」です。
奥さんを亡くされた後、今成さんが打ち込んでいた映画だと聞いていました。

そして昨日、今成さんに会いました。
今成さんは、私と同じ意味で元気そうでした。
会うなり、「人生は終わりました」というのです。
私も全く同じ感覚でした。
私たちは、「一つの人生」を終わったのです。

思い出せば、今成さんとの出会いは不思議な出会いでした。
たしか節子には、その話をしたはずです。
今日は2時間半、今成さんと一緒でしたが、なぜかあの最初の出会いを思い出しました。
あの時もこうだったのではないかという気がしました。
もちろんそんなはずはないですが、今回も今成さんは自らの過去と現在と未来のすべてを語りました。
なぜか、彼岸で会っているような気がしました。

別れ際に今成さんがいいました。
「でも悲しさは消えないです」
本当にそうです。
伴侶を亡くした者同士、言葉を介さずとも通ずることがたくさんあります。
一つ肩の荷がおりました。

■376:愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめること(2008年9月11日)
一周忌の前後に、いろんな方からお手紙をもらいました。
その中に、節子に会ったことのなかった女性の方からの手紙がありました。
とても長い手紙でした。
節子に読んで聞かせたい文章が出てきました。
親馬鹿ならぬ夫馬鹿な行為として、引用をお許しください。

お会いした事は一度もございませんが、いつも頂戴していたお葉書のやさしい文章や達筆な文字に、私がファンにならない筈がありません。
お会いできなかった事は大きな悔いを残してしまったように思います。

節子は病気になってからは字がうまくかけないといつもぼやいていましたが、手紙を書くのが好きでした。
この女性は、私の友人の奥様です。
友人にお世話になった時に、私の代わりに節子がいつも礼状を書いてくれていたのです。
それがわが家の役割分担でした。
その方は、節子の手紙が気に入ってくださったのです。
節子は昨年の春以来、手紙が書けなくなり、その人からの手紙を読むほうにまわっていましたが、今回いただいた彼女からの手紙は節子に読ませたかったです。
ずっと節子の位牌の前に置いておきましたから、きっと読んだでしょうが。

いただいた花にこんなメッセージもありました。
「もう1年、節子さんの笑顔を思いだして」
娘の友人は、「お母様の優しさを思い出します」と書いてくれました。
いろいろな人が、いろいろな形で、節子を偲んでくれているのです。

先日、オフィスに久しぶりに来てくれた若い友人は、
私たち夫婦の関係について、とても興味があるようで、いろいろと質問されました。
彼はまだ夫婦暦は10年強なので、まだ10年早いよと応えましたが、夫婦暦40年にもなると、伴侶の喜怒哀楽はすべて自分と同値になるような気がします。
主体性の弱い私だけのことかもしれませんが。
若い友人は、どうしたらそうなるのか興味を持ったわけです。

このブログを読んで、奥さんに会いたかったという人が何人かいました。
手紙も何通かもらいました。
このブログではきっと節子のことが美化されているのでしょうね。
しかし、私の正直な気持ちは、これでもかなり抑え目に書いているのです。
まあ、娘とはかなり評価はわかれるのですが。

伴侶をほめてもらうことがこんなにうれしいことなんだと、最近改めて思います。
しかし、奥さんのことばかり考えていると奥さんが悲しむよと言う人もいます。
これはたぶん「禁句」です。
生きている人のことを思っての発言なのですが、愛する人を亡くした人は、自分よりも愛する人のことを大切に考えているのです。
ですから、そういってくれる人の思いやりは理解できますが、心は冷えてしまいます。

愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめることと、その思いに浸っていることを肯定してやることかもしれません。
まあ、人によって違うでしょうが、私の場合はそうです。
これは、当事者になって初めてわかることかもしれません。
人の心は本当に微妙で複雑です。

■377:「お元気そうな声を聞いて安心しました」(2008年9月12日)
節子
もう1週間前になりますが、浦和の伊東さんから電話がありました。
昨年、献花に来てくれた時に、たぶん私たち家族から「気」が抜けていたのを感じていたのかもしれません。
以来、ずっと心配していてくれたのです。
電話の最後に、「お元気そうな声を聞いて安心しました」といわれました。
最近、電話でよくいわれる言葉です。
前にも書いたのですが、私自身は感じてはいないのですが、どうも私の言葉の表情は変化しているようです。

伊藤さんは、ある宗教の信徒ですが、その宗教の故人を供養する場でいつも節子を供養してくれているようです。
そういえば、福岡の加野さんも篠栗の大日寺の施餓鬼会で節子を供養してくれたそうです。
いろんな人がいろんなところで、節子を供養してくれています。
うれしいことです。

私もそうした心をもっと高めたいと思っていますが、それはそう簡単なことではありません。
長年の生き方に裏打ちされてこそ、持続できるのです。
生まれながらのものとは思いたくありませんが、その要素もあるように思います。
多くの場合、人は言葉と心は一致しません。
言葉には人の心が現われますが、それは「言葉の内容」とは全く無縁です。
反対のことも少なくありません。
私自身、長い人生で言葉だけか心からの思いからかは、それなりにわかっていました。
しかし、心が弱くなっていると、言葉の奥の心が恐ろしいほどにわかります。
節子がいなくなって1年。そのことを強く感じます。
人に会うのがこわくなったのは、そのためです。
最近はかなり慣れてきましたが、それでも恐ろしいほど見えてしまうのです。
おそらく私と同じ状況にある人はみんな同じなのではないかと思います。

いじめられた子や弱い子が、そうした感受性を強めすぎ、戻れなくなってしまうのがわかるような気がします。
弱い魂には、真実が見えすぎるほど見えるのです。
私は、これまであまり見えませんでした。
病気になってからの節子にはそれがとても良く見えていたような気がします。
だから節子はやさしくなれたのだろうと思います。
節子の、私へのやさしさは言葉では表わせません。
そして、私にもやさしさを教えようとしたのです。
私がそれに気づいたのは、恥ずかしいことに、最近です。
正確にいえば、この挽歌を書き続けてきたおかげです。
それに気づくまでは、私は自分が「心やさしい人間」だと自負していたのです。
全く恥ずかしい話です。

それに気づいたから、私の声に元気が出てきたのかもしれません。
節子にちょっとほめてもらえるでしょうか。
ほめてもらえると、うれしいです。

■378:とても辛かった結婚式(2008年9月13日)
節子
昨日から滋賀に来ています。
今日は節子の姪の結婚式だったのですが、節子がいないので私にはうれしさも半減の結婚式でした。
節子がいなくなってから初めて会う人も少なくなかったのですが、できるだけ節子の話はしないようにしていました。
すれば涙が出てくるに違いありませんので。
先方も触れることがありませんでした。
気のせいでしょうが、なんだかとても落ち着かない気がしました。
もちろんがんばって笑顔をつくっていましたが。

結婚式の最後に、新郎新婦から両親への謝辞が述べられました。
それを聴いていて、節子にこの体験をさせてやれなかったことを心から悔やみました。
節子には母親の喜びを与えられなかったような気がしてきたのです。
まだ私たちの娘たちはいずれも結婚していないのです。
もちろんそれは娘たちの問題ではありますが、節子と私の責任も大きいでしょう。
しかし理由や責任はどうであれ、節子がこの機会をもてなかったことは悔やんでも悔やみきれません。

結婚式は大津の近江神宮でした。
ここも節子との思い出のあるところです。
大津の町も私たちの思い出の多い場所です。よく一緒に歩きました。
そんなこともいろいろと思い出してしまいました。

結婚式の終了後、敦賀にいる節子の姉夫婦の家で泊まらせてもらいました。
節子とよく泊めてもらったところです。
ここにも節子との思い出が、山のようにあります。
姉夫婦と話していると、節子がいないのが嘘のようです。

結婚式でおめでたい日だったにもかかわらず、私にはとても辛い1日でした。

■379:節子は本当に夫不幸な女房です(2008年9月14日)
節子
今日はあなたに報告したいことが山ほどあります。
おいおい書くとして、まずは節子の両親への報告の話です。

姉夫婦と一緒に節子の実家にあるお墓にお参りし、節子の両親に報告してきました。
節子と何回もお参りしたお墓です。
まさか私一人でお参りすることになろうとは思ってもいませんでした。
お墓の前に立った途端に、節子のすべての思い出が溢れ出てきて、涙をこらえ切れませんでした。
節子をまもってやれなかったことで、節子の両親との約束を守れませんでした。
ほぼすべての人の反対を押し切って、両親が結婚を許してくれたのは、私を信頼してくれたからです。
その信頼に応えることができなかった。
両親にわびる言葉が見つかりませんでした。

節子の実家にはあまりにたくさんの思い出があり、できればもう来たくないと思っています。
生々しい思い出がありすぎます。
節子と一緒でないと、とてもいたたまれません。
それに、道で人に会っても何と挨拶したらいいでしょうか。
みんなからは、「やさしい夫」と思われていました。
今はそれも地に堕ちました。
女房を守ってやれなかった「弱い夫」でしかなかったのですから。

節子の郷里では、節子はいつも私をかばってくれました。
全くの異邦人である私が、みんなに受け入れられたのは節子のおかげです。
節子がいればこそ、この在所での私の居場所もつくれたのです。
そしてそうした経験が、私の人生観にとても大きな影響を与えたことは間違いありません。
思い出すほどに、節子のやさしさが胸を突きます。

墓参りに前後して、いくつかのお寺と観音様のところにいきました。
節子と一緒にいった中でも、2人がとても好きな、そして思い出のあるところです。
その、どこにいっても節子の笑顔が感じられます。
そして寂しさが募ります。

何でお前はいないのか、
何で私一人なのか、
節子は本当に夫不幸な女房です。
悲しくて、寂しくて、恋しくて、愛しくて、仕方がありません。
やはり滋賀には来るべきではありませんでした。

■380:観音の慈悲(2008年9月15日)
節子
今日、自宅に戻ってきました。
昨日帰る予定だったのですが、敦賀の姉夫婦に引き止められてしまったのです。
私自身は節子がいる自宅に早く戻りたかったのですが、姉夫婦の気持ちを考えると帰れなくなりました。
妹をなくした姉にとっては、私がいることで節子のことを感じられるのかもしれません。
それで昨日は、節子の両親の墓に報告に行った後、姉夫婦と節子と一緒によくいっていた高月の観音に会いに行ってきました。

節子の実家は滋賀の高月町です。
高月町は「かんのんの里」として有名です。
井上靖が絶賛した渡岸寺の十一面観音があるばかりでなく、周辺に素晴らしい観音様がたくさんいます。
今回は渡岸寺と石道寺の十一面観音をお参りしました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/10/post_3ac0.html

ところがです。
2人の観音様のいずれもがなんだか以前と違うのです。
輝いていないというか、とても小さく見えるのです。
こんなに退屈な観音様だったとさえ一瞬思ってしまいました。
私の気が萎えているのかもしれません。
節子が観音の生気を持っていってしまったのかもしれません。
不謹慎ですが、とても失望してしまいました。

実は、私を節子に引き合わせてくれたのは、観音たちだという思いが、私にはずっとあります。
そして節子は何時のころか、私には観音のように感じられるようになりました。
観音が節子に乗り移り、その節子が逝ってしまった。
観音はもう私には無縁の存在になったのかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子との暮らしは、観音に恋した私に、観音が見させてくれた一夜の夢だったのかもしれません。
観音の慈悲とは何なのでしょうか。
それを確かめる方法が一つあります。
いつか確かめてみるつもりです。
また報告できるかもしれません。

■381:節子がいろいろなところに残している贈り物(2008年9月16日)
節子
敦賀で西福寺に行ってきました。
最後に節子と来た時には阿弥陀堂が改修中だったおかげで、足組みを使って屋根裏まで上らせてもらえました。
節子も初めての経験で喜んでいました。
homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#0717
ライトアップされた庭も幻想的でした。
節子も私も、改修が終えたらまた来ようといっていたのに、それが実現できませんでした。
とても無念で、でも敦賀に行ったら、ここだけはもう一度行こうと心に決めていました。

改修は終わっていました。
入り口に参拝者の記帳簿がありましたので、節子の名前を探しましたが、なぜか出てきません。
何回も見直したのですが、出てきません。
一度は諦めたのですが、絶対に署名したはずだと思い、もう一度調べてみました。
念のために前の年を調べてみたら、そこにありました。
2年続けてきていたのです。
最後の時は夜でしたので、記帳しなかったのです。

見慣れた節子の字で、私の名前も一緒に書かれていました。
その文字を見た途端に、不思議なあたたかさが心身を包むような気がしました。
久しぶりに節子に会えたようで、とてもうれしい瞬間でした。

私は寺社でも展覧会でも、名前を残すことに消極的ですが、節子は記帳が好きでした。
そしていつも私の名前も書き添えてくれました。
こういう事態を節子は想定していたのでしょうか。
節子が署名してくれていたおかげで、心があたたかくなりました。
これから節子と一緒に行ったところでは、いつも節子の名前を探してみようと思いました。
節子の名前に出会えると、きっとうれしくなるでしょうね。

たった1行の文字ですが、そこに節子の思い出が凝縮しているのです。
節子と一緒に行ったさまざまなところに、こういう形で私たちの名前が残っている。
そこに行けば、節子の肉筆の文字があり、その日のことが鮮明に思い出せるのです。
そう考えるとうれしくなります。
残されたものへのあたたかな贈り物です。
やはり生きた痕跡は、いろんなところに残した方がいいのかもそれません。

今度はどこで節子の名前に出会えるでしょうか。
私のことを、いつもいつも気遣ってくれていた、本当によい女房でした。

■382:2枚の絵手紙(2008年9月17日)
節子
あなたの絵手紙仲間から絵手紙が2枚届きました。
宛先は私になっていますが、間違いなくこの2枚の手紙は節子宛です。
おそらく彼女たちは節子をイメージしながら書いているはずです。
彼女たちの世界には、まだ節子は元気にいるのです。

2人とも滋賀に住んでいますから、これまでもあまり会うことはありませんでした。
毎年、3人で会うようになったのは数年前からです。
ちょうど子どもたちも独立し、時間が出来てくるにつれて、お互いに会う余裕が高まってくるのが、たぶん50代の後半くらいでしょうか。
これからは一緒に旅行もしようねと話していると、節子から聞いたことがあります。
しかし、そうしだした、まさにその時に、節子の病気が発見されてしまったのです。
そういえば、先週、敦賀に行った時、節子の姉も、これからはお互いに行き来し、一緒に旅行しようねと言っていたのに、ちょっとの間しかできなかったと涙ながらに話してくれました。

私がとても不憫に思うのは、これからそういう形で自分の時間をしっかりと楽しめる年齢になった頃に、節子が発病してしまったことです。
それまで、節子は私の勝手な生き方をほんとうによく支えてくれました。
私自身も、その生き方を変えて、夫婦で旅行などをもっとしようと思い出した矢先でもあったのです。

それでも節子は、病気になっても、いや病気になったからこそ、たくさんの友だちと交流を深めました。
その期間はそれほど長かったわけではありませんが、節子は誠実に真剣に付き合ったような気がします。
ですから節子が亡くなったいまも、花が届き手紙が届いているのです。
病気になってからの節子の生き方は見事でした。
私が節子に改めて惚れこんだのは、そのせいでもあります。
病気になってからの節子は、私には輝くような存在でした。

自分で言うのもなんですが、私もその節子の生き方に誠実に寄り添ったつもりです。
とても満点とはいえませんし、かなり節子に甘えていたとは思いますが、当時の私としてはそれなりにがんばりました。
節子の友人たちとも出来るだけ会いました。
ですから、節子の友人も、私宛に節子への手紙を出せるのではないかと思います。
いなくなってしまった節子の受け皿に、もしなれているとしたら、これほどうれしいことはありません。

節子の法事の節目にも、私は節子の友人たちに節子に代わってのつもりで手紙を書いています。
私の心の中では節子とはまだ一体です。
節子ならこうするだろうなというのが、私の行動の出発点です。
そんな私の気持ちが、もしかしたら少しは節子の友人にも伝わっているかもしれません。
そして、それがまた私に返ってきて、私の中にいる節子を元気にしてくれるわけです。

節子の友だちからの2枚の絵手紙。
節子がそうしていたように、節子の寝室の壁に貼っておこうと思います。
節子はいつも友だちの葉書を枕元にたくさん貼っていましたから。

■383:無意味なことを話せる存在(2008年9月18日)
節子
最近また、いろいろな人と会うことが多くなりました。
節子と同じで、私も友人にはとても恵まれていますし、知人もたくさんいます。
そういう人がいろいろと会いにきてくれます。
半分以上は、特に用事があるわけではありません。
一応、相談などと言っていますが、雑談で帰る人のほうが多いです。
これは昔からそうでした。
あの人は一体何のために来たのだろうかといぶかしく思うことも少なくありません。
長い人は3時間もいます。

おかげで、私は時間をもてあますことはありません。
たくさんのとても気持ちのいい人に囲まれていて、話し相手には事欠かないからです。

しかし、どんなにたくさんの話し相手がいても、その人たちには出来ないことがあります。
それは、私のすべての体験に私と同じように関心を持ってくれることです。
節子はそうでした。
伴侶とはおそらくそういうものでしょう。
そうしたことが意識的にではなく、自然にできてしまう関係が夫婦かもしれません。
お互いに、全生活を共有し、相手の体験に関心を持つ関係といってもいいでしょう。

もちろん夫婦とはいえ、別の人格を持つ2人が生活体験をすべて共有することなどできるはずはありません。
しかし、相手の全生活が自分の生活と繋がっていることを実感できれば、その体験に無関心ではなくなります。
損得や理屈で、関心事が選ばれることはありません。
そういう何でも関心を持ってもらえ、なんでも話し合える存在がいないことはさびしいものです。
伴侶を失って、このことが一番辛いことかもしれません。

小難しい言い方をしましたが、要するに、外で体験してきたことを話す相手がいなくなってしまったということです。

私はいま、2人の娘と同居しています。
2人とも私の話を聞いてくれますし、私にも話してくれます。
しかし、女房のようには関心を持ってくれませんし、私もすべてを話そうとは思いません。
彼女らにとっては全く別の世界の話なのですから。
節子だったら、とても喜んでくれるだろうし、悲しんだり怒ったりしてくれるだろう、と思うことも、彼女たちには関心の埒外のことが多いでしょう。
夫婦とは実に不思議な関係です。

-一切の理屈を超えて、何でも話せて、喜怒哀楽を自然と共有できる人がいることが、どれほど幸せなことであり、心安らぐことなのか。
伴侶がいることのありがたさを、もっと多くの人に知ってほしいです。

■384:花は人をつないでいきます(2008年9月19日)
節子の本拠地は、いまもなおわが家と考えていますが、やはりお墓も気になります。
それで毎週、日曜日に娘を誘ってお墓参りに行っています。
行く前に、節子の位牌に向かって、「これからお墓参りに行ってくる」と声をかけて出かけ、戻ったら報告します。
これは論理的ではありませんが、何しろ節子は彼岸に住んでいますので、現世の瑣末な論理など超えているのです。

先週は、節子の出身地の滋賀に行っていましたので、お墓には行けませんでした。
ところが、私に代わって、花かご会の皆さんがお墓参りに行ってくださったのだそうです。
それも花かご会が手入れしている我孫子駅前の花壇で咲いた花を持っていってくれたのです。
節子はとても喜んでいるでしょう。

花かご会の活動は、節子の支えであり誇りでした。
とてもやさしいメンバーに恵まれ、しかも提案者だったこともあり、みんなが節子を立ててくれていたのです。
とてもいい仲間で花かご会に行くと元気が出ると節子はいつも話していました。
そして病気が再発した後も、仕事場に出かけていくこともありました。
もちろん仕事には参加できませんでしたが、みんなに会って、節子はとても楽しそうでした。
花が好きな人は、みんな気持ちのよい、やさしい人です。

先週、私が留守の間に近くの岡村さん家族が庭のランタナの花を献花に来てくださいました。
ランタナは私の大好きな花です。
その前の週には、吉田さんが花を持ってきてくれました。
節子の花好きは、近所のみなさんも知ってくださっています。

花は人をつないでいきます。
節子はそのことをよく知っていました。
旅行中に、見ず知らずの家に、庭の花を見せてくださいととびこんだこともあります。
そこからは花の苗までもらってきました。
節子が元気だったら、その家をまた訪ねていたでしょうが、私一人ではとても行けそうもありません。

花でつながった人たちに、いまも節子はしっかりとつながっているようです。

■385:無念さの中での祈り(2008年9月20日)
暑い夏は病気を持つ人には辛い季節かもしれません。
昨年の夏は、節子にとっては大変な月でした。
思い出すだけでまだ動悸が高まり、頭が白くなります。

しばらく連絡がなかった若い友人からメールが来ました。
彼の友人が末期がんで亡くなったのだそうです。
まだ30代。小さい子どももいるそうです。
「これからという時に死ぬ無念さは計り知れません。
いろいろ自分のこれからについて真剣に考えねばと思いました。」
と書いてきました。
「無念さ」
まさに「無念さ」です。
死にあるのは、当事者にとってさえ「恐ろしさ」ではなく「無念さ」です。
節子と一緒にいて、そう感じました。

近くの方が相談に来ました。
お世話になっている人が肝臓がんなのですが、8月になって調子が悪くなったようでどうしたらいいかわからないと相談に来たのです。
彼女は相談相手が近くにはいないのです。
節子を見送る前であれば、治癒力を高めるためにこんなものがあるとか、こういうこともいいかもしれないなどと言ったかもしれません。
しかし、今の私にはとても言えません。
「奇跡を信じて祈るしかない」ことを知ってしまったからです。
何もできない無念さを噛みしめて、祈るしかない。
しかも、奇跡が起こることを強く信じて、です。

「無念さ」はいろいろありますが、死に発する「無念さ」は特別のものです。
悔しいとか残念さとはちょっと違うのです。
なにしろ復元しようのない現実への直面なのですから、文字通り「取り返しようのない喪失」であり、新しい世界への移行です。
これまでのあらゆるものが、一挙に崩れ去ります。
価値も価値観も、です。
つまりこれまで営々と築き上げてきた自分の世界が、一挙に失われるのです。
仏教での「無念さ」は、無心、夢想と同じく、囚われた心がないことです。
もちろんそれとも違いますが、どこかで少しつながっています。

人生は本当に無常です。
無念さの中で、私も祈らせてもらっています。

■386:彼岸に単身赴任している節子(2008年9月21日)
節子に会えなくなってから1年以上経ちます。
遠く離れてしまうと、仲が良い友人でも1年に会うか会わずの人もいます。
先週も40年ぶりに会った友人もいますし、先日は3年ぶりの人に2人会いました。
2〜3年会うことのない友人は少なくありません。
長いこと会わなくても、そうした友人との関係は変わりません。
それに会わなくとも、とりわけさびしい感情は生まれません。
だとしたら、1年会わなかったくらいで、節子との関係が変わるはずもありません。
節子はいま、彼岸に単身赴任していると思えば、なんでもないはずです。

とまあ、理屈でいえば、そういうことになるのですが、実際にはそうはなりません。
会っていなくても、その気になれば会えるのと、その気になっても会えないのとでは、全く違うのです。
実際に会っているかどうかではなく、会える可能性があるかどうかが大切なのです。
「会える」という保証があれば、会えなくてもさびしさは我慢できるでしょう。
しかし「会えない」ことが確実であれば、我慢などできようがありません。
我慢は「希望」がある場合にのみできることなのです。

「来世で会える」という信仰は、「希望」を与えてくれます。
希望があればこそ、見送った者への供養もできます。
希望があればこそ、前を向けます。
来世信仰は、人が生きていくために埋め込まれた最初の「意識」ではないかと思います。
以前書きましたが、人は「死」を獲得したおかげで、人格を獲得し、「愛」を得ました。
愛と死はセットのものですが、それはまた来世信仰ともセットと考えていいでしょう。

節子はいま、彼岸に単身赴任だと考えると気持ちはやわらぎます。
その発想をさらに進めれば、私が此岸(現世)に単身赴任しているともいえます。
しかも私の場合は、娘まで同行してくれたわけです。
「いつかまた会える」という確信が、いまの私に希望を与えてくれています。
きっと同じ立場のみなさんもそうですよね。
大浦さん、米田さん、上原さん、・・・・
きっといつか伴侶に会えますよ。
会えないはずがありません。

■387:胡蝶の夢その1
(2008年9月22日)
中国の古典の『荘子』に、荘子が見た夢の話があります。

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。

荘周とは荘子の本名です。
「蝶となった夢を見て目覚めたところ、自分が蝶の夢を見ていたのか、 あるいは蝶が今、夢を見ていて自分になっているのかわからなくなった」というような意味でしょうか。

夢の中で、節子に会うことが時々あります。
節子の身体を視覚的に確認できることは少ないのですが、気配は感じます。
電話で話すこともあれば、おかしな話ですが、彼岸の節子に会うこともあります。
夢の世界もまた、次元を超え、論理を超えています。
古今東西のSF小説でも、夢の世界と現実の世界が入れ替わる話はいくつかあります。
だれもが一度は願望することなのかもしれません。

この文章に続いて、こうあります。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。

荘周と胡蝶は別物ですが、荘子は、万物は一つなりという「万物斉同論」を説いています。
荘周と胡蝶も、つまるところは同じものが、姿を変えて「物化」しているだけです。
万物は一刻もとどまることなく生滅変化している。一切の事物に区別はなく、あるときは蝶となり、あるときは人となる。
いずれも、変移の一様相にすぎず、そうした変化を物化と呼ぶ、というわけです。
荘子にとっては、夢と現実の間にも本来的な区別はありません。

この論を進めれば、私も節子も、斉同なるものが一時的に物化しただけのことです。
その節子が失われることで、私の半分が失われ、半身削がれた状況になっているのです。
半分が抜けた物が存在するのであれば、万物斉同ではないではないかといわれそうですが、そうではありません。
以前書いたボームのホログラフィック宇宙モデル論を思い出せば、説明はつくのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/08/post_ccf1.html
それに、万物斉同の世界には量の概念や時間の概念がありませんから、半分も全部も同じことなのです。
その正しさを、私は自分の身体感覚で実感しています。

夢の中で節子に会って、そこから私の人生をやり直せるとしたら、どんなに幸せでしょうか。
そうしたことのできる、ホログラフィーはできないものでしょうか。
あと100年もしたらきっとできるでしょう。
それまで待てないのが残念です。

この項は明日に続きます。

■388:胡蝶の夢その2(2008年9月23日)
実は、荘子を思い出したのは、節子の夢を見たからではありません。
大学教授の友人が、私に生命論の試論のスケルトンを送ってきたのです。
そこに、「コトの世界」と「モノの世界」との関係が構造化されて論じられていたのですが、それを見ているうちに、思い出したのがなぜか「荘子」の胡蝶の夢だったのです。
その論文は未完ですが、ぜひ早く読ませてほしいと思っています。

それはともかく、昨日の続きです。
いつもの挽歌とは雰囲気が違いますが、この種のシリーズも結構あるのです。
ずっと読んでいてくださっている方はご存知でしょうが。

斉同なるものの一部が失われ、その失われたものを求めて宇宙を旅する。
そんなショートショートを昔書いたことがあります。
節子と会った頃です。
いまは大学の文学部の教授になっている友人に読んでもらった気がしますが、論評に値しない愚作だったようです。
と、ここまで書いて気づいたのですが、読んでもらった友人も、今回生命論の試論を送ってくれた友人も、何と今は同じ大学の教授です。
何と言う偶然でしょうか。

それはそれとして、その幻のショートショートは、節子も読まされたはずです。
しかし、あの名作「金魚が泣いたら地球が揺れた」と同じく、節子には完全に無視されたのを覚えています。
「なにこれ」と言う感じでした。
全く理解されなかったのです。
天才はいつも孤独です。いやはや。

しかし、今にして思えば、私がなぜ節子と結婚しなければいけなかったのかは、当時、私には明確にわかっていたのです。
自分では全く気づいてはいませんでしたが。
節子は、まさに私だったわけです。
荘子は覚の世界では人間に、夢の世界では胡蝶でしたが、私は同じ世界で節子と私を同時に体現していたわけです。
わかってもらえるでしょうか。
わかってはもらえないでしょうね。
何だか夢のような話ですものね。
しかし、私には何だかはっきりと見えてきたような気がします。

そういえば、節子の位牌の前には、昨年も今年も大きな胡蝶蘭が供えられています。
これも偶然でしょうか。
わけのわからない話に突き合わせてしまいました。
すみません。

■389:見えないものを見る心遣い(2008年9月24日)
このブログを読んでくださっている中に、私と同じように「愛する人」を見送った方がいます。
そのお一人の米田さんはブログにコメントくださいました。
そのなかに、私と同じように、「主人を褒めていただく事が何と嬉しい事か」と書いてきてくださいました。
「お褒めのお言葉は何より嬉しく励まされます。そして、本当に真面目に真剣に生きた主人は、やはり家族の誇りです」と書いています。
とてもよくわかります。
米田さんもそうでしょうが、自分をほめられること以上に、うれしく元気づけられます。

でも多くの人は、目の前の、愛する人を失った人に目を向けます。
それは当然のことです。
たぶん私もそうしてきたし、これからもきっとそうでしょう。
目の前にいる人を気遣うのは、自然の心の動きです。
それはとてもうれしいことです。

にもかかわらず、当事者になって気づいたのは、自分への心遣いよりも、愛する人への心遣いがこれほどにうれしいことなのだということです。
もちろん、ただ愛する人への形式的なほめ言葉は、心には入ってきません。
そこがまた微妙なのですが、目の前にいる私を意識せずに、節子のことに言及されることがうれしいのです。
私を通して、私の中にいる節子を感じてくれ、思ってくれていることが伝わってくるからです。

亡くなった人は戻ってこないのだから、などといわれると、この人は私とは違う世界の人だと感じます。
その人は、私のためを思い、元気づけようといってくださっているのですから、感謝しなければいけないのですが、どうもそうはなりません。
お互いに不幸なことなのですが。

こうした経験をして気づいたのは、見えないものを見ることこそが、心遣いなのだということです。
障害のある人は「かわいそうに」と同情されることを好まないとよくいわれます。
私も体験的に、それを実感していますが、どこか通ずるものを感じます。
ケアとは、見えることへの心遣いだけではなく、その奥にある見えないことを一緒に見ることなのかもしれません。
見えないものを見る心遣いに、もっと心がけようと思っています。

■390:見送るのも、見送られるのも同じなのですね(2008年9月25日)
このブログの読者の大浦さんも、娘の郁代さんを若くして見送っています。
その追悼の本を出版されました。
「あなたにあえてよかった」
北國新聞社出版社から2006年に出版されています。
私は贈ってもらったのですが、読めずにいました。
本の最初に郁代さんの遺書が載っています。
それを読むのが精一杯でした。
大浦さんからは、読めるときがきたら読んでくださいといわれていました。
まだ読めずにいますが、先日、少し読み出せました。
大浦さんからメールがきて、そこに郁代さんの婚約者への遺書の一部が書かれていました。
それを読んで、何だか節子が書いたような、いや私自身が書いたような不思議な気持ちがして、繰り返し繰り返し読みました。
涙が出て仕方がありませんでした。
一部だけ引用させてもらいます。

人よりは少し短めの人生だったけど、この世にまだ未練はたっぷりあるけど、でもとても充実したいい人生だったと思います。
私の意思を尊重し信頼してくれた両親のおかげで、これまで自分の道は自分で決めてこられたし、やりたいことがいろいろ出来たので、後悔は全く無いんだよ。

前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。
そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。
もしかしたら、愛する人と別れることになった人は、みんな同じ思いを持つのかもしれません。
そんな気がしました。
愛する人を見送るのも、見送られるのも、実は同じことなのです。
私の気持ちは節子の気持ちだったのです。
大浦さんのメールを何回も読んでいるうちに、そして大浦さんから贈ってもらった本を少し読んでいるうちに、そのことに気づきました。

きっと彼岸の節子も、いまの私と同じ気持ちでいるのかもしれません。
見送るのも、見送られるのも同じであるならば、見送られるほうが平安かもしれません。
そう考えたら少しだけ心の平安を感じられました。

ブログを書いていると、元気づけられることが少なくありません。
そして読んでくださっている人をささやかに元気づけていると思うと、うれしいです。

■391:曼珠沙華―とても辛かった幸せ(2008年9月26日)
節子
あなたの滋賀の友人から俳画の絵葉書がまた届きました。
無断で掲載してしまいます。
曼珠沙華の絵ですので。

先日から庭に曼珠沙華が咲いています。
この花は凝視できないくらい、たくさんの、しかも重い、節子の思い出があります。

曼珠沙華の球根は有毒です。
それがお墓の周辺に植えられた理由(お墓を動物から守る)だそうです。
そして、彼岸花といわれるように、秋の彼岸の頃に咲くのです。
曼珠沙華の球根をすって、うどん粉でこねて湿布するという民間療法があります。
腹水をなくす効果があるといわれています。
私たちも一度、漢方の薬局に頼んで仕入れてもらって、トライしてみました。
節子は一度でやめました。
あまりあっていなかったようです。
足の裏が炎症をおこしてしまったのです。
当時、私は毎日、節子の足裏をマッサージしていました。
私と節子の、辛いけれども、悲しいけれども、とても幸せな時間でもありました。

曼珠沙華の球根に限らず、わらをもつかむ気持ちで、私たちはいろんなことをやりました。
あまり効果はありませんでしたが、そして節子も私も、娘たちも、みんな辛かったですが、いろんなことに挑戦できるのは、今から考えると実に幸せだったのです。
奇跡のように小さくはありましたが、希望がありました。
なによりも、節子と世界を共有できました。

看病とは、実はとても幸せな時間なのです。
もちろん肉体的にも精神的にも、過酷なほど辛いです。
しかし、目的があり、希望があり、何よりも世界が共有できるのです。

介護疲れで起きる事件は少なくありません。
そうした報道に接した時には、私も節子も、お互いの気持ちがわかるねとよく話しました。
そうした事件には、被害者も加害者もないのです。
新聞やテレビでの解説には、私たちは同意できませんでした。
どんなに過酷でも、結果がどんなに悲惨でも、その瞬間は、2人とも幸せなのです。
誤解されそうですが、私はそう確信しています。

曼珠沙華療法をやめたので、球根がたくさん余りました。
昨年、節子を見送った後、それを庭に植えました。
毎年、節子と共有した、とても辛かった幸せを思い出そうと考えたのです。

庭の曼珠沙華が咲いたよと娘に教えてもらったのは、もうだいぶ前です。
でも今も曼珠沙華は咲いています。
その花を節子に供えようかどうか躊躇していたのですが、節子の親友からの曼珠沙華の俳画を供えることができて、その難問から解放されました。
友だちというのは、心が繋がっているんだと、改めて思いました。
勝っちゃん、ありがとう。

■392:大浦さんとのメールのやりとり(2008年9月27日)
挽歌390を読んだ大浦さんから、メールがきました。

郁代の気持ちに寄り添って頂いてうれしいです。
有り難うございます。
「前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。」
よくわかります。
節子さんと郁代は魂が似通っていたように、私には感じられてなりません。
「そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。」
私はここで立ち止まります。いつも私が胸に抱えている事だからです。「私が節子に伝えたかったこと」であり、「私が節子に伝えたこと」ではないからです。

お別れが近づくと、送られる人は遺される者に対し、精一杯の感謝を伝えます。
「私はしあわせだったよ。ありがとう!」と。
けれども、見送る者は感謝を伝えることが、苦しくて、できません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」と私は娘に言ってあげれませんでした。
別れを認める事が怖くて、できませんでした。
でも、娘はその言葉を一番言って欲しかったに違いありません。
毎日、そのことを思っています。そして、涙がとまりません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」が、わたしの「伝えたかったこと」でした。

私も似たような思いを時々持ちました。
最後にきちんと話さなかったことが悔やまれて仕方がなかった時期がありました。
ですから大浦さんの気持ちは痛いほどわかります。

こんなメールを送りました。

こう考えたらどうでしょうか。
誠実に対応していれば、伝えたかったことは伝わるものだ、と。
人の心は、言葉とは別に、そして言葉以上に、相手に伝わります。
郁代さんは、大浦さんの心身のすべてから、大浦さんが伝えたかったことを受け止めていたと思います。
そして、なぜその言葉がいえなかったのかもわかっていたでしょう。
私の体験を思い出せば、そんな気がします。

私の場合は、妻が病気になる前から、節子のおかげで幸せな人生になれたことを言葉でも伝えていたと思います。
意識はしていませんが、そう思っていたからです。
大浦さんもそうだったのではないですか。

節子が息を引き取る直前に、感謝の言葉をきちんと伝えればよかったと思ったことは何回もあります。
しかし、その時は、最後に「ありがとう」というのが精一杯でした。
別れが確実になるのは、最後の最後の一瞬です。
それまでは、大浦さんも書いているように、別れを認めるようなことは一切、できないのが現実です。
最後に冷静に、「いい人生をありがとう」といえるのは、送られるほうだけで、送るほうはそんなことをいえないのが、現実だと思います。
現実は、ドラマとは違うのです。
少なくとも私の場合は、そうでした。
もしまたやり直すことになったとしても、たぶん同じ対応になるでしょう。
そんな気がします。

私も、節子に言いたかったことが山のようにあります。
節子もたぶん山のようにあったことでしょう。
でもお互いにいえなかった。
いや言わなかった。
その気になれば、言えた時間はあったはずなのに。
でも話さなくても、愛する者同士は通じているように思います。

大浦さんからメールが来ました。

私の「伝えたかったこと」を書くことが出来てよかったです。
佐藤さんにならわかって頂けると思うと、気持ちが落ち着きました。
誰かに聞いて貰えるだけでよかったんだと気付きました。
そして、「伝えたかったこと」を書いたんだから、娘にも必ず伝わった、聞いてくれたと思えました。
佐藤さんのブログのおかげで、このような機会が与えられましたこと、感謝いたしております。

■393:世界は心の鏡(2008年9月28日)
最近はメソメソしていないね、と先日会った友人が言いました。
そんなことはありません。
最初からメソメソしていないし、今もメソメソしているのです。
つまり私の心情には何一つ変化はありません。
そのことは何回も書いてきました。
しかし、よそから見るとそう見えるのかもしれません。

見られる私が、どう見えているかは私にはわかりませんが、
私が見ている風景の変化は実感しています。
同じ風景のはずなのに、節子がいなくなってからは違って見えることが少なくありません。
最近の体験では、滋賀の観音様たちがみんな元気をなくして見えました。
わが家の近くの手賀沼公園の風景は、以前は元気を与えてくれた風景でしたが、最近は寂しさを感じさせます。
わが家の庭の花は心なし寂しそうです。
おしゃれなレストランを見ると目を背けたくなります。
さわやかな青空が心を弾ませなくなりました。
テレビの旅行番組には興味が全くなくなりました。
犬の散歩で近所を歩いてもあまり人の気配を感じなくなりました。
なにか気分が高まった新幹線も飛行機も、気が沈む空間になりました。
病院を直視できなくなりました。
なによりも「がん」という文字に強い拒否反応が出てしまいます。

節子と別れてから、世界の風景はまさに自分の心を映していることを知りました。
節子と一緒に見ていた時の上野と、最近の上野はちがいます。
いまはただただ雑多なだけです。
以前はいつも何か新しい発見がありました。
まさに風景の中に、自分が見えるような気がします。

人は、目で世界を見ているのではなく、心で世界を見ているのかもしれません。
首相になりたての福田さんと最近の福田さんは、私には全くの別人に見えます。

節子と私の関係は大きく3回、変わりました。
それに応じて、3人の節子がいるのかもしれません。
結婚する前の節子、結婚してからの節子、そして会えなくなってしまってからの節子。
一番かわいかったのは結婚する前の節子でした。
一番存在感が無いのは結婚してからの節子です。空気のようでした。
しかし、今の節子は、私には神のような存在です。
その、私に生きる意味を与えてくれていた節子の不在が、私にとっての世界の風景を変えてしまったとしても仕方がありません。

人は自分が見たいように世界を見る。
この頃、改めてそう感じています。
もしそうなら、私の見ている世界がまだ元気になっていないとしたら、私自身も間違いなく元気ではないのでしょう。
いつか抜け出せるのでしょうか。

みんなは、元気になってよかったねといってくれますが、それはきっとみんなの希望的な風景なのでしょう。
以前とは全く違った風景が、まだ私の周りを取り巻いています。
1年経ったのに、その風景は変わっていません。

■400:リーダーのいない家族工務店(2008年9月29日)
節子
久しぶりに家族工務店が復活しました。
家族3人で節子の位牌壇を置いている場所の改装工事をしたのです。
住宅のメンテナンスをお願いしている会社に見積もりしてもらったら6万円でした。
見積もりをとってくれた娘が、自分たちでやろうと言い出しました。
私も、節子がいたらきっと自分たちでやるだろうなと思いましたので、賛成しました。

節子は生活上のことは、できるだけ自分たちでやるという人でした。
つまり「百姓的生活」者です。
百姓は決して農業の専門家ではなく、生活のための百の姓(仕事)をする生き方です。
私の理想とする生き方ですが、私にはできなかった生き方でもありました。
節子はそれができる人でした。
節子と結婚して以来、私の生活はほとんどすべて節子に支えられだしたのは、そうした節子の百姓的生活志向によるところが大きいです。

私も一応、日曜大工が好きでしたが不器用なのです。
朝日新聞の連載漫画の「ののちゃん」のお父さんと同じで、私のつくる椅子はすぐ壊れ、棚は不安定なのです。
それに途中で飽きてしまって,やめることも少なくありませんでした.
家電製品は分解して、それで終わりなので、直ったためしがありません。
壊れていないものまでも壊すというのが家族の評価でした。

節子と結婚した当初は、私が修繕担当・工事担当でしたが、そんなわけで、ある段階から節子がリーダーになりました。
子どもたちが小さかった頃、節子がベランダのペンキ塗りをやろうと言い出しました。
4人での大仕事でした。
近所の人もきっと驚いたでしょう。
少し仕上げはムラなどがありましたが、うまくいきました。
室内の壁紙貼りも家族の仕事でした。
それが節子の文化で、わが家ではそうした家族工務店活動が盛んでした。
私の還暦祝いで庭に池をつくったのも、この家族工務店です。
下の娘が節子以上に器用なので、その文化を継承しました。
上の娘は私とほぼ同じ性格なので、途中でやめたくなるタイプですが、協力的です。

昨日の日曜日、急にその工務店が復活しました。
3人で近くのDIYのお店に行って材料を買ってきました。
改装工事といっても、石膏ボードで空間をふさぎ、そこに周辺に合わせて壁紙を貼るだけのことですが、目立つところなので綺麗に仕上げないといけません。
壁紙の貼り方は節子が娘に伝授していました。
「リフォームをプロの人に頼んだ時、お母さんはずっとそのやり方を見ていて覚えたんだよ。その人は仕事がしにくかったろうね」
と娘が教えてくれました。
しかし、そのおかげで壁紙貼りはプロ仕様になりました。

結局、材料費などの現金出費は2000円以下でした。
終わった後のケーキ台を含めても3000円。
節子が居たらケーキも作ったでしょうが。

節子の文化のおかげで、わが家は本当に現金出費が少ないのです。
それに百姓的生活は、私にはとても快適です。
疲れますが。

■410:マリーがよろこばないから(2008年9月30日)
節子
この半月、テレビで放映された映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズをDVDに録画して、3回も繰り返し観てしまいました。
最近、DVDで映画を観る時間が増えてしまいました。
映画館に一人で行く気はほとんどなくなってしまったのですが。

最近のアクション映画はどうも作り方が粗雑ですが、このシリーズはとてもよくできていて、何回観てもあきないのです。
観れば観るほど、ていねいなつくりに感心できます。

この映画で、気になるセリフとシーンがあります。
「マリーがよろこばないから」というボーンのセリフです。
口には出しませんが、目でそのセリフをいうシーンもあります。
マリーとは、主人公のボーンの恋人ですが、2作目の冒頭で殺害されます。
国家によって殺人マシンに改造されてしまったボーンは、常に生命を狙われており、自己防衛のために送られてくる刺客を殺さなければならないのですが、マリーはそれを好みません。
そんなことをやっていても、きりがないとボーンに言うのですが、その思いからの一瞬の迷いが結果的にマリーを守ってやれないことになるのです。
シリーズの2作目は、そこから物語が始まります。
ボーンは、マリーの言葉を守って、極力、人を殺すことはしなくなります。
たとえば、ボーンを利用した悪事のボスの一人を追い詰めて、彼が早く殺せという言葉に対して、ボーンが言うのが、この言葉です。
「マリーがよろこばないから、殺しはしない」。
洗脳と記憶喪失で人間をやめていたボーンが、人間を取り戻していくキーワードです。

ちょっと「くささ」のある、何ということのないセリフですが、この言葉が聞きたくて、私はこの映画のDVDを繰り返し観てしまっているのです。
自分ならそんなことができるだろうか。

しかし実際には、私もこういう言葉をよく使っています。
娘たちと話していて、たとえば「節子ならこうするだろうな」「節子ならそうはしない」というように、です。
言葉にはしませんが、何か迷った時には、節子だったらどうしろと言うだろうかと考えます。
節子の判断は、私にはこれまでもいつも頼りになりました。
私と違って、小賢しくなく、素直に考えられる人だったからです。
もっとも、その節子の意見と私の意見とが違った場合、節子が元気だったころは節子の意見に従わず、私の考えを優先させたことが多かったです。
ですからわが家には借金が残ってしまったり、新築したわが家に構造的な問題があったりしてしまっているのですが、私よりも節子の判断が正しいことの多いことは、節子がいなくなってようやく認められるようになりました。
正確」に言えば、そのことは前から知っていましたが、それを認めたくなかったのです。
今から思うと馬鹿げた話ですが、これは私の悪癖の一つでした。
自分が間違っていても、それを素直に認められなかったのです。

節子がいなくなってから、そうしたことはほぼなくなりました。
それ以上に、「節子がよろこばないことはしない」ということが原則になりました。
最近の私の行動規範は、節子に共感してもらえるかどうかです。

■396:習字の仲間が来てくれましたよ(2008年10月1日)
節子
あなたがいつも楽しみにしていた習字の仲間が節子に会いに来てくれました。
いまでも月に2回、習字を学びながら、楽しく談笑されているようです。
節子の話も時々出ているようですよ。

節子は、病気が再発した後も、身体がちょっと不自由になってからも、できるだけ練習日には出かけていました。
いつもとても楽しみにしていましたから。
皆さんにはちょっと迷惑だったのではないかと言う気もしますが、
みんなとても優しい人たちで、節子を明るく受け入れてくれていたのですね。
節子はいつもやさしい人たちにかこまれていましたね。

節子さんは、いつも前向きで、明るく、話していて楽しかった。
病気になっても、そして最後の最後まで、弱音を聞いたことがない。
それがみなさんの節子評でした。

思ったとおりでした。
節子は、自分の弱みは人には見せず、どんな時も明るく振舞うタイプでした。
たぶん驚くほどあっけらかんと、自分の窮状を明るく話していたのではないかと思います。
節子は、そういう人でした。
その明るさの奥にある誠実で真剣な思いを知っている私としては、胸が痛いほどでした。

先生の東さんが、それに節子さんの字はいつも元気があった、と言いました。
たしかに大きな字で、紙からはみ出しそうな勢いがありました。
節子さんはそういう性格なのよね、と東さんは言いましたが、発病してからの節子の気丈さと前向きの生き方は私も見直したほどでした。
苦境に立った時にこそ、その人の本性が見えてきますが、私はそのおかげで、節子に改めて惚れこんだのです。
そのおかげで、今もなお、悲しさから抜け出られないのです。
いやはや困ったものです。

一緒に旅行したり、食事に行ったりした話もしてくれました。
節子からも時々聞いていましたが、あれはこの人たちと行ったのかとか、いろんなことを思い出しました。
節子は気持ちのいい友だちと、私の知らない楽しい体験をいろいろしているのです。
とてもうれしいです。

帰り際に、先生の東さんが、やっとお参りできてよかったとポツリと言いました。
東さんも体調を崩したりして、大変だったようです。

東さんのご主人のお墓は、節子のお墓のすぐ近くです。
毎月、2回、お墓参りに行っているそうですが、毎回、節子のお墓にもお線香をあげてくださっているようです。
節子は気づいていますか。

■397:近所同士が支えあうような暮らし方(2008年10月2日)
節子が残してくれたことはたくさんあります。
その一つが、私たちが気持ちよく暮らせるような状況です。

節子が目指していたのは、近所同士が支えあうような暮らし方でした。
前に住んでいたところでは、しかしあまりうまくいきませんでした。
それでここに転居してきた時には、節子は今度こそ近隣で下町のように付き合える関係を育てたいといっていました。
しかし、その活動ができたのは転居してからわずかでした。
病気になってしまったからです。
病気が少し良くなった2年間も、節子は近所づきあいを試みました。
節子は、私と違って、機が熟すのを待つようにゆっくりと進める人でしたから、節子がやれたことは本当にわずかなことでした。
しかしそのおかげで、私たち残された家族もやさしい近所のみなさんに支えられています。
節子が望んでいた文化はちゃんと残っています。
節子にすごく感謝しています。

節子が見ていたのは、近所づきあいだけではありませんでした。
花かご会の活動の先に、節子はそうした活動の輪を市内各所に拡げていきたいと思っていました。
しかし、節子の感覚では、それはかなり先のことでした。
私がいろいろと意見をいっても、あなたのは頭だけで考えているからダメ、と拒否されました。
それでもいろいろと意見は聞いてくれました。

自らの足元から変えていく、これが節子の生き方でした。
どちらかと言うと、理念先行の私には歯がゆく退屈でしたが、次第に節子のやりかたに共感するようになって来ました。
私の生き方は、たぶんこの6年で大きく変わったはずです。
発病した節子が、しっかりと教えてくれたのです。
私は「いい生徒」ではありませんでしたが、節子は「いい先生」でした。
人の幸せは、気持ちよく過ごせる生活の場に尽きると思いますが、節子は私にそれを残していってくれました。
私がいま元気なのは、節子が残してくれた生活の場のおかげです。

■398:秋の箱根は、無性に悲しかったです(2008年10月3日)
20年以上続けている経営道フォーラムのコーディネーター役で、恒例の箱根合宿に来ました。
節子を見送ってから、4回目なのですが、毎回、できるだけ滞在時間を短くしています。
箱根には思い出が多すぎるので、結構辛いからです。
今回は強羅での合宿でしたが、宿泊しないことにしました。
節子は、せっかく行ったんだからゆっくり温泉につかってきたらいいのに、と言うでしょう。
いつもそうでしたから。
しかし、私にはそうした感覚がほぼ皆無なのです。
それは節子が元気だった時からそうでした。
節子と一緒であれば、どこにいても何をしていても充実しているのですが、節子がいないとどこにいても何をしても虚しいのです。
ですから節子のいない今となっては、人生はすべて虚しくなってしまっているわけです。

箱根の紅葉は、年によって全く違います。
節子が病気になってからも、10回以上来ていますが、2人が満足できる紅葉には最近出会えていません。
最後に芦ノ湖を船で渡った時の紅葉も、いまひとつでした。
紅葉の思い出は、むしろ他のところのほうがたくさんありますが、紅葉を見ると節子を思い出します。
いえ、自然の風景はすべて節子につながっているのです。
新緑の自然も、紅葉の自然も、すべてその中に節子を感じます。
とりわけ箱根の自然は節子そのものなのです。

今年の強羅の紅葉はきれいでした。
きれいでしたが、かなしい美しさでした。
節子がいたらきっと拾うだろうもみじ葉が道一面に散っていました。
1年近く前、まだ節子を送ったばかりの時に箱根に来た時には、そうした風景も目には入りませんでした。
不思議なほど、記憶に残っていません。
どうやってホテルまで来て、どうやって戻ったかの記憶も残っていません。
しかし今回は、紅葉の風景が残りました。
私の中の節子が、紅葉を楽しんだのかもしれませんが、私にとっては、ただただ寂しいだけでした。

紅葉が散るさまは、桜の花の散るのとはまた趣が違います。
散るさまに美しさのある桜と違い、落葉は寂しさをそそります。
桜とは反対に、なぜか節子が去っていくような姿が見えてしまうのです。
紅葉を楽しむ人たちの声が、とても遠くに聞こえました。

■399:節子を見送った後、初めて湯河原で朝を迎えました(2008年10月4日)
節子
昨日は湯河原で泊まりました。
4度目にしてやっと宿泊できました。

湯河原には私たち2人の仕事場があります。
当初は、私の仕事場として確保したのですが、現場志向の仕事に生き方を変えたので不要になってしまいました。
この2年、宿泊したことがありません。
箱根の合宿の後、毎回、ここによったのですが、節子との思い出が強すぎて、毎回、着いた途端に帰りたくなりました。

部屋の窓から見える山並みが、節子の好きな風景でした。
その一つに、勝手に湯河原富士と命名し、スケッチなどしていたのを思い出します。
昨日も書きましたが、節子は自然を遊ぶ人でした。
いつも自然の中に素直に入っていき、それを楽しむ人でした。

お風呂の浴槽の横に、節子が近くの浜辺から拾ってきた小さな石でつくったミニガーデンがあります。
節子はこういう、ちょっとした遊びが好きでした。
私も大好きなのですが、節子のはリアル志向で、私のはファンタジー志向でした。
私のは完成したためしはありませんが。

それにしても、節子のいない朝食は恐ろしいほど殺風景です。
節子がいれば、少なくともトーストに野菜サラダ、目玉焼きはあるのですが、そんなものはどうでもよく、ただただ話し相手の節子がいないのが殺風景なのです。
コーヒーだけでも節子がいれば、最高に幸せな朝食です。
節子の笑顔と話し声があれば、何もいらないのですが、そのいずれもありません。

しかし、きっと部屋のどこかに節子がいるだろうなと思いながら、節子に呼びかけながら、コーヒーを飲みました。
窓から見える「湯河原富士」がとてもきれいです。
見ているといろんなことが思い出されて、やはり涙が出てきます。
急いで帰ろうと思います。

■400:「今日、ママンが死んだ」(2008年10月5日)
「今日、ママンが死んだ」
カミユの作品「異邦人」の書き出しの言葉です。
挽歌340で、この言葉について書こうと思っていたのですが、書いているうちに話がそれてしまいました。
いや、書けなくなって、わざとそらしてしまったのですが。
一周忌も終わり、節子の両親への報告も終わり、少し気持ちが整理できてきましたので、改めて書きます。

「節子が死んだ」。
今も、私にはかなり勇気がいる言葉です。
この言葉を自分で使うことは、節子の死を認めることになるような気がして使えないのです。
今でもなお、節子の死を受け入れられない自分がいます。
おそらく愛する人を失った人は、同じような感覚を持っているでしょう。
愛する人が、愛している自分を置いて行くことなど、ありえないのです。
それこそ、まさに「不条理な話」。あってはならないことなのです。

「今日、ママンが死んだ」
その死を語れる人は幸せです。
しかし、死を語れない人もいる。

「異邦人」を読めば、たぶんわかるでしょうが、ムルソーは母親を愛していました。
だからこそ、「不条理な事件」を起こして、「不条理な死」を迎えるのですが、それを理解してくれているのは「太陽」だけだったのです。
その「不条理さ」が、静かに、しかし深く理解できます。
「今日、ママンが死んだ」
この言葉は、ムルソーの言葉ではなく、カミユの言葉でしかないのかもしれません。
いま手元の「異邦人」がないので、私の記憶違いかもしれません。

なぜムルソーの言葉ではないと思うかといえば、ムルソーが母を愛しているからです。
「交流しあう自他、両者を隔てる壁を相対化し、その間に横たわる距離を縮め、自分の中に他者を取り込み、他者の中に自分を見出すことのできる心の状態」(片岡寛光「公共の哲学」)こそが愛だとすれば、他者の死は自らの死でもあり、それは語りえないものだからです。
他者の死は体験でき語れても、自らの死は体験できずに語れないことはいうまでもありません。

「今日、ママンが死んだ」
昨日、湯河原に寄ったので、そこに置いていた「異邦人」を持ち帰りました。
もう一度、「異邦人」を読むことにしました。
今度は、節子と一緒に、です。
最近、なぜか節子に会った頃に読んだ本を読み直したくなっています。

■401:なぜ人は死者のために献花するのか(2008年10月6日)
節子
名古屋に転居した中村さんとコーラスグループのアルト仲間が、献花に来てくれました。
私もお会いしたかったのですが、用事が重なってしまい、娘たちに頼み、失礼しました。
節子は皆さんとゆっくり話しましたか。

帰宅したらきれいな花が節子を飾っていました。
いろいろな人が、節子を思い出してくれていることはとてもうれしいことです。
しかし、なぜ人は死者のために献花するのか。
夫を亡くした節子を元気づけるために、節子に花を持ってきてくれるのであればわかりますが、
節子の友人が今はもういない節子に献花しにきてくれる。
考えてみると不思議です。

死者が出た事件の現場に、関係ない人が献花に行く風景がよくテレビで映し出されます。
これも正直、私にはよくわからない風景です。
薄情だと思われそうですが、私にはそうした経験は一度もありません。

節子の一周忌の時には20を超える花が届きました。
そのほとんどは女性からのものでした。
これにも驚きました。
うれしさはありましたが、むしろ驚きの方が強かったです。
女性たちの絆の深さと死を悼む気持ちの表現の仕方を教えられました。

先史時代のネアンデルタール人のお墓に花が添えられていた形跡が残っていたという話を読んだことがあります。
死を悼む気持ちの現われとして、花を贈るのは人類の歴史と同じくらい長い風習なのかもしれません。
しかし、なぜ人は死者のために献花するのか。

節子の前に供えられた花を見ながら、その疑問が頭から離れなくなりました。
節子だったら、言うでしょう。
考え悩む問題ではないでしょ、だから文系の人は好きになれないのよ。
節子は、時に「考える人」になってしまう、私が好きではなかったのです。

しかし、
なぜ人は死者のために献花するのか。
もしかしたら、死者のためではなく、自らのためなのではないか。
いや女性たちは、ばらばらの存在にある男性とは違って、生命的につながっているのではないか。
考え出すと眠れなくなりそうです、

■402:主人にしか見せない私はもういない(2008年10月7日)
田淵さんという方から、
私もどうしても「死」という言葉を使えません。
今ちょっと姿を消してるだけのような気がしています。
というコメントが投稿されました。
よかったらコメントを読んでください。

お医者様からみれば、よくここまで・・・ということかもしれませんが、でも私達にとって別れは「唐突」の感はいなめません。

私たちにとっても、全くその通りでした。
ですからもちろん「別れの会話」などしていません。
それが悔やまれた時もありましたが、いまはむしろよかったと思っています。
会話は「言葉」だけではありませんし、別れを言葉で確認しなかったおかげで、今もなお節子と一緒にいられるからです。

「主人にしか見せない私はもういない」と書かれています。
私も「節子にしか見せない私はもういない」と気づきました。
多重人格というと大げさですが、人はたくさんの自分を持っています。
相手によって、少しずつ「人格」さえも変わります。
私は相手によって対応を変えないと自負していますが、節子にだけは違いました。
節子に対しては100%ありのままの自分をさらけ出していました。
節子は、その「わがままな私」を素直に受け入れてくれました。
それは同時に、「ありのままの節子」を私が受け入れることでもありました。
そうした節子の存在が、いや、私たちの関係が、私の安定剤だったのかもしれません。
私の中にあるゾーエとビオスは、そういう形で、それぞれに安定していたのです。

田淵さんは、こう書いています。
私自身もあの時点でも「終わったなあ」という気持ちがしています。
主人にしか見せない私はもういないということですから・・
半分がなくなったというよりほぼほとんどがないような頼りなさというのでしょうか。。。

たしかに、「終わった」のです。
半分ではなく、ほぼほとんどがないような頼りなさ、全くその通りです。
やはりゾーエがあってのビオスなのです。
節子が私の生命を輝かせてくれていたことに改めて気づきました。

みんな同じような体験をしている。
そう思うとなぜかホッとします。
田淵さん、ありがとうございました。

■403:「男は現象、女は存在」(2008年10月8日)
節子
多田富雄さんと鶴見和子さんの書簡のやり取りをまとめた「邂逅」(藤原出版)という本を読み直しました。
前に読んだ時とは全く違った印象を受けました。
今回はかなりていねいに読んだからかもしれません。
その本の中で、多田さんが「男は現象、女は存在」と書いています。
少し長いですが、少し簡略化して引用させてもらいます。

以前に中村桂子さんや養老孟司さんと、「私」という堅固で連続したものを感じているかという議論をしたことがあります。過去の自分が、同一性を持って現在の自分につながっているかどうかに、養老さんも私も自信がないといったのに対して、中村さんは安定した「自己」をいつも感じているとお答えになったのを思い出します。そのときは二人で「やはり女はすごい」と感じ入ったものです。男には根源的な「自己」に自信がもてないのです。近代的自我とか、自己の確立というような理屈ばかり考えている。まさに「男は現象、女は存在」です。

「男は現象、女は存在」。
動かない大地のような自己がある女性に対して、男性はふらふらと浮遊する頼りない存在ということでしょうか。
天動説の女性と地動説の男性、と言えるかもしれません。
若い頃は逆のようにも思っていましたが、最近は私もそんな気がしています。
男性は女性には勝てません。腹の座り方が違うのです。

多田さんは、こうも言います。

「自己」というものは堅固なものであり、すべての変化は自己言及的に行われる、というのは確かです。その自己は実存的なもので、変えることはできません。しかし、まったく別のものが生まれることもあります。というより、堅固な安定した「自己」ではなくて環境に新たに適応してあらたに生成した「自己」というものもあると考えた方がいいのではないかと考えたのです。

環境に新たに適応してあらたに生成した「自己」に移行しやすいのは、どちらでしょうか。
現象でしかない男性の方が移行しやすいはずです。
移ろいやすいのは女心ではなく、男性のような気がします。

多田さんは、さらに書いています。
日々変化している自己。昨日の「自己」と、今日の「自己」とは同じだという保証はない。でも、基本的には同じ行動様式を続けています。いかなる逆境にあっても前向きという行動様式は、遺伝的に決まったものでしょう。

私にはいずれもとても納得できる言葉です。
節子がいなくなった後、全く違った自分になったような気がしながら、
全く変わっていない自分もいるのです。
自己言及的に変化する自分と、それとは全く無縁に環境変化に合わせて創発される自分とが、私の中に並存しているのです。
そういう実感の中から、アイデンティティもまた階層的な概念だと思うようになりました。

こういうややこしい議論は、節子は好きではありませんでしたが、私は大好きなのです。
その2人がいつも楽しく話し合えたのは、今から思うと不思議です。
その秘密は、「男は現象、女は存在」にあったのかもしれません。
残念ながら議論で勝つのは、いつも節子でした。
言葉では私が言い負かすのですが、言葉は所詮言葉でしかありません。

それはともかく、遺伝的に決まった行動様式にそって、これからも前向きに進みたいと思います。
それが生命的に素直な生き方なのだと知って、安堵できました。

■404:節子と一緒に歩いていて出会った人たち(2008年10月9日)
昨日、養老孟司さんの名前が出ましたが、それで思い出したことがあります。

以前、東京駅前の丸ビルが新装された時、そういうことの好きな節子と一緒に、おのぼりさんのように見に行きました。
その時、養老孟司さんとすれちがいました。
節子はすぐに気付きましたが、私は言われて気付きました。
こういうことが時々ありました。
節子は、こういう点では、私よりも観察力というか注意力がありました。
そして時には声をかけてしまうすごさがありました。

箱根に2人で行った時に、箱根園でバスを待っていたら、日産自動車のゴーン社長が家族と一緒にいました。
節子は突然、声をかけて夫と一緒に写真を撮らせてくれと伝えたのです。
そして私を手招きして、ゴーンさんと並ばせて写真を撮りました。
私はいささか気が引けたこともあり、ゴーンさんにお礼を言う余裕もありませんでした。
もっとも節子はカメラ操作が不得手だったのと、その時のカメラの調子がよくなかったので、うまく撮れていませんでした。

鎌倉の建長寺では永六輔さんに会いました。
たくさんの人たちがいたので、その時は声をかけませんでしたが、節子は永さんのラジオ番組のファンでしたので声をかけたかったかもしれません。
湯島天神では東ちづるさんの撮影の現場に出会いました。
撮影中ですのでもちろん声をかけようもありませんでしたが、東さんも節子の好きな人でした。
不思議なのですが、自分が好きな人には出会うものなのでしょうか。

私は、東京で歩いていて、友人知人にぱったり会うことは時々あります。
しかし有名人には滅多に会いません。
興味が無いからかもしれません。
しかし節子と歩いていると、時々、有名人に会うことがありました。
節子は不思議な人でした。
単に有名人が好きなミーハーだったのかもしれませんが。

■405:生命の樹(2008年10月10日)
節子の仏壇を置いてある場所の改造については、前に書きました。
仏壇の上には何も置いてはいけないというので、棚をなくして下がり壁にしたのです。
しかし、その奥に実は小さな神棚をつけました。
伊勢神宮の親睦でつくったミニチュアの神棚です。
外からは全く見えません。

下がり壁には大きなお皿をかけました。
家族でトルコに旅行に行った時に、バザールで買った大皿です。
皿のモチーフは生命の樹です。
節子が気にいっていた皿の1枚です。

生命の樹といえば、ユダヤ教のカバラの秘義が象徴されているセフィロトの樹というのがあります。
広大な大宇宙(マクロコスモス)と人間という小宇宙(ミクロコスモス)を、時空を越えて繋ぎながら、生命の源泉とそこから生まれる万物の種子が宿る天空を表わした大きな樹です。
それがモチーフなのでしょうが、この大皿に樹は、花がたくさん広がっている生命の樹です。
バザールのお店で、節子と娘たちと土間に座り込んで交渉して買った10枚の皿の一部です。
きっと1枚100円か200円だったのではないかと思います。
トルコは楽しい旅でした。

生命の樹は、天に根を広げ、地に枝を伸ばしていく、上下がさかさまの樹です。
つまり、超越的な根源から宇宙を創りだしていく樹なのです。

節子は再発した後、生命力を宇宙から生命力を引き込むために、寝る前にいつも瞑想していました。
超越的な宇宙の根源から膨大なエネルギーを吸収し、自らの生命力を高めることを目指しました。
私も隣で節子と一緒に瞑想しました。
節子の瞑想は、実に形になっていました。
その姿は、私には座禅を組む如来のように見えました。
しかし残念ながら、生命の樹にはつながらなかったのかもしれません。
ベッドの上で、瞑想している節子の姿は今でも鮮明に思い出せます。
瞑想の時の節子の動きは、神々しいほどに美しかったのです。

皿の生命の樹は、しかし、さかさまの樹にはなっておらず、上に向かってたくさんの花が広がっています。
その樹の下に、節子の位牌があります。
宇宙に向けて、節子の生命が大きく広がっているようにも見えます。
いつか私も、その花の一つになっていくのでしょう。

毎朝、生命の樹の前で、すべてのいのちへの感謝を思っています。
節子と一緒に、です。

■406:手づくり散歩市(2008年10月11日)
節子
今日から我孫子手づくり散歩市です。
わが家のジュンの工房(タジュール デ ジュン)も会場になっています。
節子がいたら、きっと張り切って来客用のケーキを焼いていたことでしょう。
2年前を思い出します。
あの時は、すでに再発し、結構大変だったと思いますが、節子はケーキを作っておもてなしの手伝いをしていました。
節子はそういうことがとても好きでした。
それにジュンのスペインタイルの広がりを本当に楽しみにしていました。

節子がいなくなったので、私がコーヒーサービスを勝手に引き受けることにしました。
ところが、私のホームページにまで案内を書いたのですが、残念ながらコーヒーを出す機会に恵まれませんでした。
午前中は雨で誰も来ず、午後は晴れたのですが、何しろ会場からわが家は少し外れていますので、わざわざ立ち寄る人は少ないのです。
結局、3家族10人の人たちでしたが、何とそのうちの2家族は近所の人でした。
それでも一応イベント会場になっているので、誰かが留守をしていなければいけません。
私の役割はコーヒーのサービスでなく、留守番役になってしまいました。

節子が元気だった時の手づくり散歩市を思い出します。
最初の時はいろんな人が寄ってくれました。
なぜでしょうか。
もしかしたら節子は人を呼び寄せるオーラを持っていたのかもしれません。
そういえば、私たちが湯島のオフィスでやっていたオープンサロンも、
節子がいるといないとで人の集まり方が違っていたような気もします。

わが家はいつも家族単位で取り組む文化がありました。
娘たちはそれをあまり好みませんでしたが、それは文化だから仕方がありません。
節子がいなくなった今も、その文化は辛うじて残っています。
しかし、中心になって楽しくしてくれた節子がいないと、ちょっと寂しいです。

今日は来客が少なかったですが、節子もきっと参加してくれていたでしょう。
庭の献花台にも手を合わせてくれた人もいました。
明日は節子のオーラで、せめてコーヒーが出せる程度のお客様が来てくれるといいのですが。

何かがあると、節子のことを思い出します。
わが家の歴史のど真ん中にいたのは、やはり節子だったようです。

■407:節子のオーラが新しい出会いをつくってくれました(2008年10月12日)
節子
今日は秋晴の、とても気持ちのよい1日でした。
昨日に続いて、手づくり散歩市でした。
昨日と違い、何と9時過ぎに最初のお客様が現われました。
そして次々といろんな人がやってきました。
コーヒーもかなり飲んでもらいました。

コーラス仲間も4人来てくれました。
節子にもお参りしてくださったので、気がついたでしょうが。
ところで、節子も聴いていたかもしれませんが、うれしいニュースがありました。
節子がコーラスの発表会で使っていたドレスを、コーラスグループの人たちに使ってもらえたらと思ってお渡ししていたのですが、その一部をAさんが引き取ってくれたそうです。
そしてなんと、今度、海外のクルーズ旅行に出かける時のパーティーに使ってくれるというのです。
残念ながら節子にそうした正装が必要な場を体験させることができませんでしたし、クルーズにも連れて行くことができませんでしたが、まあドレスと一緒に節子もクルーズを楽しめることになりそうです。
節子、楽しんできてください。

他にも節子の知っている人が何人か来ましたが、節子はもちろん私も全く面識のない人もコーヒーを飲んでくれました。
その一人に高野山に住んでいるギタリストの方がいました。
話の流れの中で節子のことを話すことになったのですが、今度、改めて節子に歌を捧げに来てくれることになりました。
曲は「なだそうそう」です。
節子も好きでしたね。
いまその曲を聴きながら、このブログを書いていますが、節子と一緒に行った沖縄旅行を思い出して、やはり目が熱くなってしまいました。

今日はきっと節子のオーラがいろんな人を呼び寄せてくれたのでしょう。
ありがとうね、節子。
涙が出てきて、書き続けられなくなりました。
曲が悲しすぎますね。

■408:「節子教」信徒(2008年10月13日)
節子
この挽歌を読んでくださっている田淵さんが、また投稿してくれました。
田淵さんはご主人を亡くされたのです。
もともと田淵さんはカトリック系の学校で学んだそうですし、ご主人の実家は仏教徒だったそうです。
ところが、田淵さんは、現在は「主人教」の信徒になったのだそうです。
その気持ちがとてもよくわかります。

田淵さんはコメントにこう書いてきてくれました。

主人ならどうする?どうしたい?どうしたらいい?と。
何となく返事が返ってくるような気がします。
リビングに写真を飾ってますが、その表情も日によって違います。
私が語りかける時も違うのです。
気のせいでしょうか・・・私の思い込みでしょうか。

実は、私もそうなのです。
とすると、私はいまや「節子教」の信徒でしょうか。
そういえば、毎朝、節子の位牌と写真に向かって、お経をあげ、祈りを念じています。
位牌の隣の大日如来よりも、私の意識は写真に向いています。
困ったものです。
でも大日如来は寛容なはずですから、許してくれているでしょう。

田淵さんはこう書き加えています。

「主人教」を勝手に解釈しないように気をつけなきゃぁいけませんが。。。
心が救われるようで気に入ってます。

人間にとって、やはり一番自然なのは先祖崇拝なのかもしれませんが、
実は父母を見送った時にはこういう気持ちにはなりませんでした。
夫婦というのは不思議です。

■409:この頃、節子の夢をよくみます(2008年10月14日)
節子
節子のことで、1年前と今とで大きく変わったことが一つあります。
夢の中で節子によく会うようになったことです。
昨年は、せめて夢の中でいいからあなたに会いたいと思い続けていました。
しかし、あなたは夢の中にさえも出てきてくれませんでした。
写真を枕の下に入れて寝てもダメでした。
ところが1周忌をすぎたころから、毎日のように節子が夢に出てくるのです。
それはとてもうれしいことです。

夢の内容はいろいろです。
とても幸せなあたたかい夢もあれば、時には涙が出て目が覚める夢もあります。
目が覚めて、つい「ごめんね、節子」と声に出してしまうこともあります。
昨夜はそうでした。
週に1〜2回くらいは、夢で目覚めた後、目がさえてしまって、眠れなくなります。
昨年の今頃は、夢を見ないのにそうでしたから、最近は夜中に目が覚めてしまうことは少なくなったわけですが。

夢で目覚めるのは、いつも4時過ぎです。
そのまま起きるのには早すぎるので、1時間ほどいろいろと考え事をしてしまいます。
いろいろなことが思い出されるのですが、それらがすべて、節子を守ってやれなかった悔いにつながるのです。
この挽歌は、私自身の鎮魂歌でもあるわけですが、実は挽歌よりも懺悔を書いたほうがいいのではないかと思うこともあります。

夢の中の節子は、しかしそんな非難の目を私には向けることなく、いつものあたたかさで私をつつんでくれます。
しかし、夢の中では2人とも、節子は彼岸の人、私は此岸の人とわかっているのです。
目の前に節子がいるにもかかわらず、節子はもういないのだからというようなやり取りが行われるのです。
もういない相手を愛し合う関係。
それは私だけではなく、節子も全く同じなのです。
それはそれはとても不思議な世界です。

でも夢で会えるだけでも、私は元気が出てきます。
実は目覚めた時は覚えていても、すぐ内容は忘れてしまいます。
内容は忘れても、節子とあったことはしっかりと残るのです。
節子のあたたかさややさしさ、私への愛情も、しっかりと残ります。
でも内容はほとんど残りません。
毎朝、節子に灯明を点けて般若心経をあげる前に、節子の写真を見ながら、夢で会えてよかったねと声をかけます。
そして節子と共にある1日が始まるのです。

■410:夫婦とは不思議な存在(2008年10月15日)
挽歌409で、
この挽歌は、私自身の鎮魂歌でもあるわけですが、実は挽歌よりも懺悔を書いたほうがいいのではないかと思うこともあります。
と書きました。
頭の中にぼんやりとある思いを文字に書くと、意識が覚醒されるというか増強されるというか、考え方が変わってしまうことを、この挽歌を書いていて実感しています。
概念は言葉にして初めて実体化されることがよくわかります。
毎日、この挽歌を書き続けることで、私の節子観は大きく変わりましたし、自分観も変わりました。
もちろん節子との関係も変わりましたし、私の生き方も方向づけられて気がします。
言葉や文字の持つ力は実に大きいです。

409で何げなく文字にした「懺悔」と言う言葉が、その後、妙に私の意識にひっかかっています。

この挽歌には、やはり自分をよく書こうという意識が働いているはずです。
この挽歌を読むと、私がとてもやさしい良い夫のように思えるかもしれませんが、
実際は、ここに書かれているよりもずっとダメな夫だったのです。
節子はいつも私のことを完全に信頼していました。
私がいる時には、安心してわたしのすべてを任せていました。
病気に関してもそうでした。
にもかかわらず、私は肝心のところで気を許してしまったのです。
今から思えば、もっともっとやれること、やるべきだったことがたくさんありました。
それをやらなかった。
ダメというよりも、冷淡と言ったほうがいいかもしれません。
そのことを思うと、節子に申し訳ない気持ちで一杯になります。
そのことを、きちんと書いておかねばならないと思いました。
懺悔の言葉を懺悔しなければ、懺悔にならないというおかしな話なのですが。

愛する人を見送った人は、たぶんみんなそう思うのかもしれません。
自分はなんと「人でなし」なのだろうか。
そういう思いが時々胸にこみ上げてきます。
友人はお前はよくやったと言いますし、節子の友人たちは節子さんは幸せでしたよ、と言ってくれます。
でも、外からは私と節子の心の関係は見えるはずもないのですから、私には何の救いにもなりません。
節子に申し訳なくて、時々、涙をこらえられなくなるのです。
その悲しみの瞬間が、時々、やってきます。
しかし、奇妙な言い方ですが、その瞬間に私を慰めてくれるのは、節子その人なのです。

鎮魂歌も挽歌も、懺悔も、すべてが私のものでも、節子に対するものでもなく、私たちのものなのだと最近痛感しています。
一昨日も書きましたが、夫婦とは不思議なものです。
まさに2つにして一つの存在なのです。

ですから、外部から見ると、伴侶に対してとても冷酷に見えても、実際はそうではないのかもしれません。
本当に、夫婦とは不思議な存在です。

■411:黒岩さんの『編集者国木田独歩の時代』が受賞しました(2008年10月16日)
節子
今日はうれしいニュースです。
黒岩比佐子さんの『編集者国木田独歩の時代』が、今年度の角川財団学芸賞を受賞することになったそうです。
黒岩さんからその知らせが届きましたが、そこに
節子さんがこのことを知ったら、
どれほど喜んでいただけただろうか、と思っているところです。
と書いてありました。
私もそう思います。ちょっと胸が熱くなりました。

黒岩さんは私たちがやっていた湯島のオープンサロンの常連の一人でした。
そしていつもいろんな話題を提供してくれました。
節子はいつもそれに感心すると同時に、いつも忙しそうな黒岩さんのことを心配していました。
3人で食事をした時も、別れた後であのエネルギーはどこから出てくるのかしらと不思議がっていました。
黒岩さんはきっとどんどんと大きな世界に出ていく人ね、とその活躍ぶりをとても楽しみにしていました。

もっとも、節子は読書があまり好きではありませんでした。
何回も書いているように、節子は体育会系なのです。
節子が30分以上、本を読んでいる姿は記憶にありません。
実は、私も自宅ではそうなのです。
夫婦並んで読書するシーンは、わが家にはほとんどありませんでした。
どちらかが本を読んでいると、どちらかが口を出して、結局、話し合いになるのが、わが家でした。
一緒にゆっくりテレビを見ることもあまりありませんでした。
今から思うと私たちは何をしていたのでしょうか。
ともかく話すのが好きな夫婦だったことは間違いありません。

節子の位牌に向かって、黒岩さんの朗報を伝えました。
黒岩さんが、節子のことに言及してくれたことがとてもうれしいです。

節子
『編集者国木田独歩の時代』は黒岩さんの処女作「音のない記憶」と同じくらい、私には面白かったです。
黒岩さんの作品は、どれもこれも密度が高く、黒岩さんの思いがこもっていますが、この本は独歩の新しい側面を楽しませてくれました。
節子が元気だったら、また2人でお祝いに黒岩さんと食事でもできたのに、残念です。

■412:東尋坊の茂さんからメールが来ました(2008年10月17日)
節子
一昨年、一緒に東尋坊に行きました。
そこでお会いした茂さんや川越さんの活動がNHKで紹介されていました。
茂さんたちは、自殺の名所とさえ言われている東尋坊で、自殺予防の活動をしているのです。
茂さんたちのおかげで100人を超える人たちが自殺を思いとどまっているそうです。
すごくヒューマンな活動ですが、茂さんと川越さんの深い思いが活動を支えているのです。

茂さんも川越さんもお元気そうでした。
見ているうちに2年前のあのきれいな夕陽と美味しかったおろし餅のことが思い出され、茂さんにメールしました。
あの時はあまり時間がなくてゆっくりとお話できませんでしたが、私たちにはとても心に残る出会いでした。

翌日、茂さんから返信がありました。
前日まで、和歌山県白浜の三段壁に行っていたそうです。
ここも自殺の名所のひとつとされているところです。
いろいろな活動が行われているようですが、やはり地元観光協会の反対で活動はなかなか難しいようです。
茂さんは、こう書いています。

何故、あのように大勢の人が悩み事を持って集まって来ているのに知らん顔ができるのでしょうか・・・?
水際にこそサポートセンター、即ち、相談所を設ける必要があるのにと、この現象が不思議でなりません。
水際に相談所を設けて「悩み事」を聞いてあげるだけで多くの大切な命が助かるのに・・・と、残念でならないのと、もっともっと私たちが水際から世間に訴えていかなければならないと決意を新たにしたところです。

全く同感です。
何かやらないといけないと思い出しました。
少し考えてみようと思います。

茂さんは最後にこう書いてくれました。

佐藤さんも、奥様をお見送りされてさぞ寂しい日々を送っているかと拝察していますが、嘆いてばかりでは奥様も嘆きます。
佐藤様には永遠に奥様が傍に付いていてくれているのですから、奥様のお力をお借りして、共に元の元気を取り戻して欲しいと思います。

茂さんから言われると素直に心に入ります。
不思議です。

節子
ちょっと動き出しましょうか。応援してくれますね。

■413:もっと良い人生(2008年10月18日)
節子
もしあなたに会えなかったら、私の人生はどうなっていただろうかと考えることがあります。
もしかしたらもっと良い人生だったかもしれません。
節子も私と会わなかったら、もっと良い人生だったかもしれません。
お互いに、その可能性はかなり高いですね。
しかし「もっと良い人生」とは何かと問うことは、あまり意味がないかもしれません。

どの時代に生まれるかで、人生は大きく変わります。
そして、どの時代であろうと、辛い人生を送る人と楽な人生を送る人がいます。
時代の中での人生もまた、個人では選べない要素が大きいです。
与えられた状況を変えることはできますが、それも多くの場合、ほとんど運によって成否が決まります。
だとしたら、人生は、あらかじめ個人ごとに決まっているのかもしれません。
良いも悪いも、私の人生は一つしかないのです。
節子に偶然に会えたように見えて、それは偶然ではなかったのではないかもしれません。
その証拠の一つが、以前書いた、赤い糸を示唆する1枚の写真です、

良いか悪いかはともかく、私たちはそれなりにしっかりと2人を生きました。
別れがこんなにも早いと知っていたら、しっかりとは生きられなかったかもしれません。
先が見えないからこそ、人生は希望を持って生きられるのです。
私たちは、最後の最後まで、希望を持ち続けられました。

節子がいなくなった、この先はどうなるのでしょうか。
全く先は見えませんが、希望も持てません。
どうしてでしょうか。
もっと良い人生が、用意されているのかもしれません。
しかし、仮に最高の人生が待っているとしても、希望には結びつきません。
私の人生と私たちの人生とは違うものですから。
私は、私の人生よりも私たちの人生を生きてきたように思います。

いずれにしろはっきりしていることは、節子との人生は良い人生でした。
そしてこれからも私たちは、そして私は、良い人生を送られるでしょう。
人生は続いていますから、良い時期と悪い時期とに分けるべきではないでしょう。
それに、何が良いかは、人それぞれです。
私にとっては、今もなお十分に良い人生ですから、もっと良い人生は必要ありません。
希望がなくても、良い人生であれば生きていけるのかもしれません。

■414:「もくれんの涙」(2008年10月19日)
節子
宮内さんの「涙そうそう」と「もくれんの涙」はどうでしたか。

先週、手づくり散歩市でお会いした宮内俊郎さんがギターを持って、献花に来てくれました。
そして献花台の前で、私たち4人家族のために、「涙そうそう」と「もくれんの涙」を歌ってくれました。
宮内さんは本業とは別に、ギターを弾きながらイベントなどで歌っているそうです。
自称、「気持ちはプロのギタリスト--腕はビギナー」と言っていますが、歌に対する思いはなかなかのものとお見受けしました。
ヴィンテージもののギターで2曲、節子に捧げてくれました。

「涙そうそう」は、節子がとても好きな歌です。
宮内さんの歌を聞きながら、私も一緒に声を出して歌いたい気分でした。
この歌は、歌詞を意識するとどうしても涙が出るので、歌詞を意識せずに、宮内さんの歌を節子と一緒に楽しませてもらいました。
歌詞を気にしないと、全身で聴けるのです。

「もくれんの涙」は名前は知らなかったのですが、聴いたことのある曲でした。
うっかりして歌詞に耳を傾けてしまいました。

逢いたくて 逢いたくて
この胸のささやきが
あなたを探している
あなたを呼んでいる

「逢いたくて 逢いたくて」。
「涙そうそう」にも同じ歌詞が出てきます。

さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう
会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう

節子と別れて今日で413日目ですが、今でも毎朝、節子の位牌に向かって、
「会いたいね」
と呼びかけています。
時々、節子を探している自分に気づくことがあります。
時々、節子を呼んでいる自分に気づくことがあります。

それを知っているかのように、宮内さんは、この2曲を選んでくれました。
とても心温まる時間でした。

節子
あなたのおかげで、本当にいろんな人がやってきてくれます。
それに、節子が花好きだったことを知って、宮内さんは「ウィーンの薔薇」という珈琲を持ってきてくれました。
今日はもう遅いので、明朝、節子と一緒に飲みましょう。

■415:自分のことを気にしてくれている人がいる(2008年10月20日)
節子
昨日は宮内さんの他にも、もう一人、節子に献花に来てくれた人がいます。
岐阜の佐々木憲文さんです。
節子の好きな百合をどっさりと持ってきてくれました。
大日如来にも会ってもらいました。
佐々木さんはとてもお元気そうでした。

佐々木さんは節子のことをとても心配して、節子のためにいろんなアドバイスをしてくれ、また節子のためにいろいろとご尽力くださいました。
節子もとても感謝していましたが、その心遣いに私たちは報いることができませんでした。
今から思うと、私自身、反省することも多く、せっかくのアドバイスをもらいながら、節子を守れなかったことが大きな悔いになっています。
節子がいなくなってからも、佐々木さんは私を元気づけるために、これまでと同じように私たちに接してくれています。
感謝しています。

佐々木さんたちが主宰している共済研究会に、私も参加させてもらっていますが、佐々木さんが目指すものと私が目指すものはほとんど同じです。
人が支えあうことがいかに大切かは、節子と一緒に闘病生活を送り、そして節子との別れを体験した私には、とてもよくわかります。

支えあうとは、そんなに難しいことではありません。
一昨日もある集まりで、話題になったのですが、まわりの人のことをちょっとだけでも気にして暮らすことが支えあうということなのだと思います。
自分のことを気にしてくれている人がいる、ということを実感できるだけで、人は元気をもらえるものです。

節子は体調がかなり悪くなってしまってからも、いろんな人のことを気にしていました。
身近に接していたので、それがよくわかりました。
人は、弱くなればなるほど、支えあうことの意味がわかってくるようです。
少なくとも、私も節子もそうでした。
一度弱さを体験したからこそ、今、たくさんの人が気にしてくれていることが素直に受け入れられるのかもしれません。
そして私も、いろんな人のことを気にする余裕が出来てきたのかもしれません。

いろいろな人のことを気にしあえる文化、それが共済の文化ではないかと思います。
節子から教わったことをいつか佐々木さんと一緒に形にできればいいなと思っています。

節子
あなたとの体験は決して無駄にはしませんよ。

■416:節子の日記と虚空蔵(2008年10月21日)
私はすべての家事を節子任せにしていました。
家事はほとんどしたことがありません。
家事だけではありません。
自動車を買うのも、家を買うのも、主役は節子でした。
親戚づきあいや近所づきあいも、すべて節子の担当でした。
私は、そうした節子に寄生していただけかもしれません。
節子に言われて何かをやることもありましたが、
やりたいことがあれば節子にひと言いっておけば、やれるようになっていたのです。
もちろんいつも完璧ではなく、欠陥だらけではありましたが、
節子はいつも私が好きなように動けるように支えてくれていました。

仕事での出張や旅行も、節子がいつも準備していてくれました。
実は先日、滋賀に出かけたときも、自分で用意したため、とても不安でした。
案の定、いろいろと忘れ物がありました。

節子のおかげで、そうしたことからはほぼ完全に解放されていて、いつも快適な生活環境を享受させてもらっていたわけです。
そのため、節子がいなくなってからは困ることも少なくありません。
その一つが「お付き合い」です。
たとえば、法事の時のお布施はいくらだとか、冠婚葬祭の時にはどうしたらいいかなど、私は全くといっていいほど常識というものがありません。
とても困ってしまうわけですが、幸いにも節子は日記を書くのが好きでした。
日記を書いても読む人などいないよ、と私はよく言っていましたが、節子は書くのが好きでした。
節子が日記を書かなくなったのは、胃がんの手術をして以来です。
それでも時々書いていました。
それはもしかしたら、私たち家族のために資料を残すためだったのかもしれません。

先日、法事のお布施をどうしようか迷ったので、お寺に訊くのがいいと電話したのですが、お布施はその人の気持ちなのでいくらでもいいといわれました。
しかしまあそれなりの相場があるのではないかと思ったのですが、もしかしたら節子が日記に残しているかもしれないと、それまで開けたことのない節子の日記を開きました。
書いてありました。
そこで気付きました。
わが家のことでわからないことがあれば、節子の日記を見ればよいのだと。

宇宙には虚空蔵という、あらゆるものが記録されている情報蔵があるそうです。
空海は虚空蔵と通じたが故に、すべての情報を自分のものとしたという説もあります。
インドのサイババが話題になった時に、神智学のアカシックレコードも話題になりましたが、おそらく同じものでしょう。
以前書いたボームの理論では暗在系が、それにあたるかもしれません。

節子の日記を読みながら、この日記は私の人生のすべてにつながっている虚空蔵への入り口なのだと思いました。
もうこれで安心です。
日記に書かれている文字の奥に、膨大な情報があるのですから。

■417:ほどほどに忙しいのがいいのかもしれません(2008年10月22日)
節子がいなくなってから、時間がありあまるほどあるような生活をしています。
昨日も実はオフィスに行ったのですが、出かける時にむすめに、用事があるわけではないので行っても何もすることはないんだけれど、といったら、家にいても何もしないのだから行くだけでもいいんじゃない、と言われました。
いやはや。まあ、その通りなのですが。

ところがみんな、相変わらず忙しいのだろうねというのです。
私が「忙しい」という言葉が嫌いだったことは、節子はよく知っていました。
自分では忙しくしないように努めていましたが、いま思い出すと、その節子さえもが「忙しいのに悪いわね」というようになりました。
私が仕事などをすべて辞めて、自宅で過ごすようになってからです。
自分では、忙しくしないように努めていたつもりですが、きっと周りからみると忙しい生き方をしていたのでしょうね。

自分でもそうだったと思えるようになったのは、お恥ずかしいのですが、つい最近です。
節子は私を正していたのかもしれません。
ごめんね、節子
あなたの言葉の意味を理解できずにいたようです。
家にいてもなお、忙しくしていたのかもしれませんね。
節子から、パソコンに向かいすぎだといわれていたのを思い出すと慙愧の念に堪えません。
後悔、先に立たずです。
落ち込んでしまいます。

節子がいなくなってから、やっとその忙しさから抜け出られたのかもしれません。
でも周りの人は、まだ私が忙しいと思っているのです。
私自身の生き方のどこかに、きっと間違いがあったのでしょう。
「忙しい」とは「心を失う」ということです。
節子はそのことをよく知っていました。
私も知っていたつもりですが、どうも言行一致していなかったわけです。

忙しさから解放されて、しかも節子がいなくなったからでしょうか、最近は本当に時間がたっぷりあります。
そのおかげで、いろんなことが見えてきます。
見えすぎて、心が痛むことも少なくありません。
人間はほどほどに忙しいのがいいのかもしれない。
最近、そんな気がしてきました。

こんなことを書くと、そんなに時間があるのなら、約束していることを早くやってよと言われそうですが、それとこれとは別なのです。
やらなければいけないことが山ほどあっても、やる気がでるまで待つのが、「忙しくない生き方」なのです。
すみません。

■418:お互いに惚れたところ(2008年10月23日)
節子は私のどこに惚れたのでしょうか。
娘たちに言っていたことは2つあります。
「やさしさ」と「手の指」でした。

「やさしさ」は、ちょっと裏切られた思いがあったでしょう。
修はやさしいのだけれど、怒るとこわいから嫌いだ、と時々言っていました。
たしかに私はわがままなので、時々、機嫌が悪くなってしまうのです。
結婚して20年もするとお互いにすべてがわかってしまいますが、節子は私のことを「仏のおさむ」と「鬼のおさむ」の二重人格と見なしていました。
その「鬼のおさむ」と節子はよく喧嘩をしたものです。
年に数回ですが、怒りがこみ上げるととまらなくなることがあるのです。
節子もけっこう我を張る面がありましたので、喧嘩は結構盛り上がりました。
しかし30年も経つと、節子は私の扱い方を身につけてしまいました。
何を言っても「はいはい」と交わすようになったのです。
私がどんなに怒っていても、1時間もしないうちに謝るのを知ってしまったからです。
しかし、それでも節子は私の「やさしさ」にはずっと惚れていたはずです。

もうひとつは「手の指」でした。
節子はどちらかというと「面食い」でしたので、私の容貌には満足しておらず、辛うじて「手の指」に何とか惚れる部分を見つけていたのです。
娘たちには、お父さんの手の指は昔はとても素敵で、それに私は惚れたのよ、とよく話していました。
しかし、これは喜ぶべきかどうか微妙なところです。
指をほめられてもうれしくなるはずもなく、私はいささか不満でした。
それにスポーツマン好みの節子がそういうと、単に修は運動をしないので、きゃしゃな指をしているね、と皮肉られているようにも受け取れます。
しかし、節子がそういいながら、私の指を愛撫してくれるのは、まんざらでもありませんでした。
残念ながら、その手の指も歳とともにしなやかさも何もなくなってしまいました。
そして、昔の「素敵さ」を覚えてくれている人も今はなく、ただの老人の指になってしまいました。
いやはや残念なことではあります。

私は、節子の素直さとパッチリした目に惚れたのです。
結婚してみたら、意外と素直でないことがわかりましたが、私はポジティブシンキングの人ですので、次第に素直でないところに惚れるようになりました。
パッチリした目は病気になる前までは持続していました。
病気になってからは、目がどうもすっきりしないといっていましたが、それでも私には大好きな目でした。

まあそんなわけで、私たちは「手の指」と「ぱっちりした目」が、引き合った恋だったのです。
いやはや、つまらない話を書いてしまいました。

■419:チビ太が時々、無性に吠えるようになりました(2008年10月24日)
節子
最近、夜に庭を彷徨していないでしょうね。
ちょっと心配です。

1か月くらい前から、わが家のチビ太が、時々ですが、夜になると庭に向かって吠えるのです。
猫でもいるのかと外の庭を見るのですが、何もいません。
しかし、その何もない庭に向かって吠え続けます。
戸をあけて外に出してやっても、なぜか一方向を見続けて吠え続けるのです。
シャッターを閉じて、外が見えないようにしても、やはり同じ方向を向いて吠え続けます。
理由が分かりません。
考えられるのは、私たちには見えない何かが見えるのか、感じられるか、していることです。

節子、どこかにいるの、
と小さな声で呼びかけたこともありますが、返事は私には聞こえませんでした。
チビ太と一緒に外に出て、庭に座ってみたりしましたが、節子の気配はありません。
しかしチビ太はなきやみません。
しばらくして、落ち着くのですが、虚空に向かって吠えている時にはたしかに何かに反応しているように思います。
私たち家族には見えなくても、チビ太には節子が見えているのかもしれません。
もしそうならうらやましいことです。
私にも、そういう能力があるといいのですが。

もっともわが家の愛犬、チビ太くんももう13歳です。
人間いえば、かなりの高齢ですので、ぼけ始めたのかもしれません。
いずれにしろ、吠えやまないので近所迷惑ではないかと心配です。
いやはや、いろいろと苦労はあるものです。はい。

■420:なぜか写真が撮れなくなりました(2008年10月25日)
節子
先日、あなたがいなくなってからカメラを使ったのは3回だけです。
1回は西川さんが献花台でハーモニカを演奏してくれた時、
2回目は、やはり西川さんと福岡の武蔵寺に行った時、
そして3回目が、先日の宮内さんのライブです。

私は昔から写真を撮るのが好きでした。
家族の写真は山ほどあります。
節子にも娘たちにも、写真を撮りすぎるといわれていました。
私は撮るだけで整理はすべて節子の仕事でした。
私は今のところ、過去にはほとんど興味はないのですが、その一方で、いつか節子と一緒に過去を追体験したいと思っていました。
ですからその材料はたくさん残しておこうと思っていたのです。

しかし、節子がいなくなってから、その気持ちが全くなくなってしまいました。
同時に、写真を撮るという行為に全く興味を失ってしまいました。
写真を見ることも興味を失ってしまったのです。
節子が残してくれた数十冊のアルバムがありますが、見る気になれません。
むすめたちも、私以上に過去に興味がないようで、写真を見ることは滅多にありません。
さすがに今の段階では、節子の写真を焼却する気にはなりませんが、
この膨大な写真は、私がいなくなったらきっと焼却されるでしょう。

写真には興味を失いましたが、いつも節子の写真を1枚だけ持ち歩いています。
節子がいた時には、節子の写真を持ち歩いたことは一度もありませんが、今は必ず持ち歩いています。
自宅の各部屋に、節子の写真も置いています。
どこにいても、節子に会えるように、です。
私には、それは写真ではなく、節子そのものなのですが。

写真が撮れなくなった。
いつもはどこに行くにも小さなカメラを持参していましたが、今はそれさえしなくなりました。
なぜでしょうか。
写真に撮られると魂を抜かれてしまうと信じられていた時代があったといいます。
相変わらず脈絡はないのですが、それは真実なのかもしれないという思いがしてきました。
節子の写真を撮りすぎてしまったのかもしれません。
写真を百万枚集めても、節子にはなりません。
写真など撮らなければよかったと後悔します。
愛する人を失った人は、そんな気持ちにもなるものです。

節子
写真ではない節子にもう一度会いたいです。

■421:寝室にある節子の写真(2008年10月26日)
昨日、写真のことを書きましたが、私たちの寝室には私たちの写真が3枚壁に貼ってあります。
節子が飾っていたものを、そのままにしてあるのです。
ちなみに、私たちの寝室はまだそのままで、部屋の片隅にはいつも散らかっていた節子の鏡台がそのままあります。
節子のベッドも、今もそのまま残しています。
ある朝、目が覚めたら、そこに節子が寝ているという奇跡が起こるかもしれませんので。

壁に貼ってある写真は、たった3枚ですが、私たちの人生の歴史でもあります。
初めて出会った頃の節子と私の写真。
私が惚れてしまった、無垢な節子はぽちゃぽちゃと太った可愛い子でした。
私が会社を辞めて、2人で湯島にオフィスを開いた時に、たくさんの人から贈ってもらった花を背景にした2人の写真。
この時の節子は、夫を支えてがんばろうという、たくましさを感じさせます。
そのあたりから、私たちの関係は大きく変わりだしました。
節子が主導権を取り出したのです。
そして還暦の時に娘が撮ってくれた2人の写真。
節子はもう発病していましたが、しっかりした表情で前を向いています。
とびとびの3枚の写真ですが、その間にびっしりと詰まっている私たちの生活を思い出すには十分です。

節子は、きっといつもこの写真に見守られながら、眠りについていたのです。
眠れない夜に目が覚めて、この写真を見ていたのです。
そして、今は私がそうしています。
ベッドの位置だけ変えたのです。
節子がいつも眠っていたところに、私のベッドを移動させて、今、私はそこで眠っています。
ですから時々、節子に呼び起こされるのです。

■422:手賀沼エコマラソンの思い出(2008年10月27日)
節子
昨日は手賀沼のエコマラソンでした。
知人も何人か参加していますが、沿道への応援には行きませんでした。
家の窓からランナーが走っているのを見ましたが、それを見ているだけで3年前を思い出してしまいました。
挽歌に書くとなるとその時のことを思い出してしまうので、昨日は書かなかったのですが、1日遅れですが、書くことにしました。

3年前のエコマラソンに、節子の主治医の先生が出場しました。
節子は応援の旗をつくって、みんなで応援に行きました。
応援の旗。
節子はそういうのがとても好きでした。
あまりできばえは良くないのですが、そういうのを手づくりするのが好きでした。

3年前は、節子はだいぶ元気を回復してきていた時でした。
エコマラソンは出場者が6000人以上でしたので、沿道で見ていてもなかなか見つかりません。
諦めていたら、先生のほうが私たちを見つけて、声をかけてくれました。
応援のつもりが、応援されたのです。

そしてその翌年には先生がトライアスロンに出場するというので、またみんなで応援に行きました。
その時にはしっかりと先生を見つけて応援しました。
節子は疲れ気味でしたが、最後まで応援していました。
きっと自分を応援していたのです。
今になって、それがよくわかります。

主治医の先生はとてもいい先生でした。
しかし、人間はとても勝手なもので、病状が急変してしまうと、そして主治医が代わってしまうといろいろと複雑な気持ちを抱いてしまいます。

節子を見送った後、がんセンターにはいけなくなってしまいました。
近くに行くことはあるのですが、入れません。
先生にお礼に行こうと思いながら、まだ気持ちが整理できません。
医師と患者、そして患者の家族の関係はとても微妙です。

もし先生に会ったら、自分が冷静でいられなくなることは明らかです。
涙がとまらないでしょうし、何を口に出せばいいかわからないでしょう。

窓からランナーが走っているのを見て、もしかしたらこの中に先生もいるかもしれないと思うと、それだけで気持ちが揺らぎます。
いつになったら、先生に報告にいけるでしょうか。
今はまだ全くわかりません。

他にも、まだ報告に行けずにいる人がいます。
節子に怒られそうですが、まだ行けないのです。

■423:思わぬ人からの献花と言葉(2008年10月28日)
伴侶を見送ったのに、悲しさを押さえながら、社会的活動に取り組んでいる知人をみると、
どうしてあんなに強くなれるのだろうと、思ったことがあります。
しかし、そう思ったのは、私自身の鈍感さのせいだと気づかされることが少なくありません。
悲しさとがんばりは、社会的活動と個人的寂しさは、コインの裏表かもしれません。

思ってもみなかった人から花が届きました。
節子も会ったことのあるMJさんです。
お礼のメールを送ったら、こんなメールが来ました。

昔、大昔、夫に逝かれていささか早い母子家庭になりまして、長患いで居た夫を見送って、楽にはなったものの気持ちでしずんでいました私を佐藤さんは慰めてくださいました。
よく覚えているのです。

私には全く記憶のないことです。
MJさんに会ったのは15年ほど前でしょうか、新しい保育システムの研究会の委員になってもらったのがきっかけです。
MJさんは、すでに当時、子育て支援で新しいモデルを開発し、全国的にネットワークを拡げている時でした。
家族的な雰囲気の中でこそ子どもは育つという信念を強くお持ちでした。
ご自身でも、たくさんの子どもたちの里親になるなど、私にはスーパーウーマンに見える人でした。
最初にお会いした時から、信念の人であり、しかも行動の人でした。
ですから、「気持ちがしずんでいるMJさん」は、私の世界にはいませんでした。
いつも元気で、笑顔で夢を語り、行動し、世界を広げている人だったのです。

そのMJさんからの花とメール。
MJさんの心情に、私は全く気づいていなかったわけです。
メールを読んで、伴侶を見送ったMJさんの寂しさに、私はその時、気づいていたのかどうか、とても不安な気がしました。
「佐藤さんは慰めてくださいました」と書いてもらいましたが、きっとそれはMJさんが、善意に解釈してくれたのでしょう。
当時は、私は子育て問題にかなりのめりこんでいました。
子どもの育ち方が社会の未来を決めると思い込んでいたのです。
まだ頭で考えている時代でした。
ケアの何たるか、人との付き合い方の何たるか、を今ほどにも知らなかったはずです。
MJさんにどんな対応をしたか、冷や汗がでます。

節子がいなくなって、はじめて伴侶との別れの意味を知りました。
それまで私は、きっと伴侶を見送った友人知人たちの、本当の心情を理解できていなかったように思います。
そう思うと、たしかに反省すべきことが山ほどあります。
恥ずかしい限りです。

それにも関わらず、自分がその状況になってしまうと、周囲にあまりに多くのことを期待してしまいます。
私と同じように、みんな節子を悼んでほしいと過大な期待をしてしまうのです。
自分の身勝手さには、われながら嫌になることもあります。
その一方で、ちょっとした追悼の言葉が心に深く残ります。
私ももっと自らのケアマインド、共感する心を高めたいと思います。
節子にも喜んでもらえるように。

■424:ホモ・エスぺランサ(2008年10月31日)
人間はホモ・エスぺランサであると言ったのは、エーリッヒ・フロムです。
ホモ・エスぺランサ、「希望する人」というような意味でしょうか。
希望を持つとは、人間であることの根本条件である。
希望が失われたら、生命は事実上あるいは潜在的に終りを告げたことになる。
希望は生命の構造および人間精神の力学の本質的要素なのだ。(「希望の革命」)

希望がもてないと、この挽歌で書きましたが、「希望」という言葉は、いつもずっと心にあります。
希望がなくても生きていけるかもしれないと書きましたが、やはり人間はホモ・エスぺランサですね。
生きるということの中に、「希望」は内在していることに、最近気づきました。
「希望」という言葉が気になって、30年ぶりに書棚からフロムの「希望の革命」を取り出して読んでみました。
とても元気づけられたような気がします。

「希望の革命」は40年前に書かれた本ですが、昨今の日本社会のことを書いているのではないかと思わせるほど、示唆に富んでいます。
たとえばこんな記事もあります。

ますます多くを生産することを目指す経済社会は、人間をまさに機械のリズムや要求に支配される付属品に還元してしまう。人間は生産機械の歯車として、一個の物となり、人間であることをやめる。彼は作っていない時には消費している。

そして、フロムは「私たちは、すでにロボットのように行動する人たちを見ている」と書いています。
それから40年。
ロボットであることを強要される時代になってきたのかもしれません。
ロボットは、希望とは無縁に存在できます。

フロムは、
希望を持つということは一つの存在の状態である。
それは心の準備である。
はりつめているがまだ行動にあらわれていない能動性を備えた準備である。
と書いています。

フロムのメッセージを読み違えているかもしれませんが、
残された者に、大きな悲しさと寂しさを遺していくのは、先に逝った者の、大きな愛の贈り物なのかもしれません。
私の場合は、その愛のおかげで、挽歌を書き続けられているわけです。
そして、それがある意味で、私の生きる源泉にもなっているのです。
奇妙な言い方ですが、「大きな悲しさと寂しさ」を維持しつづけることの先に、どうも私の希望があるような気がしだしています。
「大きな悲しさと寂しさ」がなくなってしまったら、愛する節子が不在な世界に生きている意味は、それこそないのかもしれません。

「愛」を知った人は、いつも「希望」に包まれているのです。
「悲しさと寂しさ」は「希望」と同じものなのかもしれません。

■425:心理的なタブーをひとつ克服しました(2008年10月30日)
節子
思ってもいなっかたのですが、今日、国立がんセンター東病院の入り口に行くことになってしまいました。
国立がんセンター東病院は、節子と毎週のように通っていた病院です。
幸いに友人と一緒だったので、話し続けることで、あの日々のことを思い出さずにすみましたが、ドキドキしました。

ある研究会の関係で、今日、東葛テクノプラザを訪問しました。
友人に任せていたので、それがどこにあるか正確には知りませんでした。
ところがタクシーに乗ったら、なんとがんセンターのほうに行くのです。
そして目的地の東葛テクノプラザは、がんセンターのすぐ前だったのです。

東葛テクノプラザでは、実に面白い時間を過ごしました。
そして帰路にタクシーを呼ぼうと友人が言ったのですが、ついうっかり、すぐ前のがんセンターにタクシーはいつもいるよと言ってしまったのです。
それでがんセンターに行くことになってしまいました。
あれほど近寄りたくなかった場所だったのですが、口に出した手前、やはり車を呼ぼうとはいえなくなってしまいました。

こうやって、勝手に心の中に築いてしまっているタブーは破られていくのかもしれません。
自分だけの意志ではとてもまだ近寄れる心境にはありませんでした。

せっかく近くに来たのだからと友人たちには自宅に寄ってもらいました。
友人とは、井口さんと坪倉さんです。
井口さんご夫妻のことは節子も知っていて、いつかぜひご夫妻で我孫子にも来てほしいねと話していました。
残念ながら、それは実現しませんでしたが、それがちょっと気になっていました。
井口さんが来てくださったことで、少し気が軽くなりました。
節子の思いは、どんなことであろうと、できるだけ実現していきたいと思っています。

坪倉さんは節子には会ったことはありません。
しかし、私と節子との関係を訊かれたことがあります。
「私と節子との関係」というのもおかしな言い方ですが、坪倉さんの関心事は、夫婦の関係や家族のあり方のようでした。

「節子の家」に、2人に来てもらえたのがとてもうれしいです。
2人と話していて、この家は「節子の家」なんだという気がしてきました。
ここで話していると、どこかに節子がいるような気がして落ち着きます。

今日は、あれほど近寄り難かったがんセンターにも行けました。
そのちょっと心に残りそうだった体験も話をしているうちに消えた気がします。
いまは、ちょっとホッとしています。

■426:節子はどこにいるのでしょうか(2008年10月31日)
節子
昨夜も朝方に目が覚めてしまいました。
それからまた眠られなくなり、節子のことをいろいろと考えていました。

いつも最初に考えることは一緒です。
なぜ隣に節子はいないのだろうか、ということです。

節子が元気だった時も、病気になってからも、私は節子に、「節子がいなくなったら生きていけないから、私より先に逝くことはやめてね」と言っていました。
言葉だけではなく、私自身そう確信していました。
節子もたぶん、そう思っていたはずです。
だから病気になってからは、私の自立計画を考えてくれていました。
それを感じて、私はますます、節子がいなくなったら生きていけないかもしれないと考えるようになりました。
生きる意欲がなくなれば、人は死ぬものだという話を昔、読んだことがあります。
イヌイットの世界の話だったと思いますが、たぶん私もそれなりに自然に生きているつもりでしたから、そうなるような気がしていました。

そして、節子がいなくなりました。
にもかかわらず私は今もなお、ここにいる。
この事実が、最初はなかなか理解できませんでした。
理解できた今も、信じられずにいるのです。

「節子がいないと生きていけない」といった私の言葉は、嘘だったのでしょうか。
そう思うととてもやりきれない気持ちになります。
このブログでも何回か書きましたが、そうしたことに対して、一応、自分でも納得できる論理を見つけてはいるのですが、論理と感情は別の世界の話です。

「節子がいないと生きていけない」
もしこの言葉が嘘でなければ、きっとまだ節子はいるのです。
私が生きている限り、節子もまたいるわけです。
そう思わないと辻褄があいません。

では、その節子はどこにいるのでしょうか。
夜目が覚めて思うのは、いつもこの難問です。

■427:秋になると娘から言われること
(2008年11月1日)
節子
秋晴れの、いい天気です。
節子がいたら、きっと「紅葉を見に行こう」と言いだすでしょうね。
節子は本当に行動的な人でしたから。

むすめと日光の紅葉の話になりました。
日光といえば、思い出す話があります。
わが家の「貧しさ」を象徴する話なのですが。

私が還暦の時だったと思いますが、長女のユカがお祝いに日光の金谷ホテルに招待すると言ってくれました。
ところが、節子も私も、それを素直に受け入れずに、日光は行ったことがあるし、それに1泊何万円もする金谷ホテルでなくいてもいいよ、と反応してしまったのです。
わが家の旅行はいつも安いホテルや旅館で、せいぜい2万円どまりだったのです。
ユカは、たまにはもう少しいいホテルで、ゆっくりして来たらと勧めてくれたのですが、いわゆる「高級な」ということに、私たち夫婦は全くの価値を見出せないタイプでした。
育ちのせいでしょうか、節約家だからでしょうか、高いホテルに泊まると落ち着かないのです。
私自身は、過剰なサービスが好きではありませんし、もったいぶった料理などは大嫌いです。
気楽なカジュアルなホスピタリティが好みなのです。
節子もそうでした。
数時間を過ごす宿泊のために10万円を出すくらいならば、どこかに寄付をした方が気持ちがいいですし、その分、収入を減らした方が人生は豊かになるというのが私たちの考えでした。

むすめは、そうした私たちの生き方に異論があったわけです。
彼女にとっては、いつもと違った旅行を体験させたかったわけです。
私たちは、その娘の気持ちを素直に受け入れなかったわけです。
娘は、金谷ホテルでなければ招待しないと言い出し、結局、私たちは娘の好意を無にしてしまったのです。
今でも時々、その時のことを娘から言われますが、グーの音も出ません。

あの時、節子が反対しても、金谷ホテルに泊まるべきでした。
数年後、日帰りで節子と一緒にまた日光に行きました。
駅前で金谷ホテルのケーキを買って、娘へのお土産にしました。
しかし、そんなことでは許してもらえませんでしたが。

子どもたちからの贈り物は、それが何であろうと素直に受け取るべきです。
きっと節子もそう思っているでしょう。
でも私一人になってしまった今は、どちらの娘からも金谷ホテルプランは出てきません。
贈り物をもらえたのは、もしかしたら節子がいたおかげかもしれません。
幸福な時代だったのですね。はい。

■428:思い出の中の節子との世界は生きている(2008年11月2日)
昨日、娘のユカの関係のことを書きました。
間違っていると悪いので、ユカに読んでもらいましたが、
そのついでに他の記事も読んで、間違いを指摘してくれました。
それは、手賀沼マラソンに関わる記事です。

私には、節子がつくった旗をもって節子と一緒に応援にいった記憶があります。
その旗のイメージも鮮明に残っています。
ですから、そう書いたのですが、ユカはお母さんは一緒ではなかったというのです。
そういう記憶が定かでない場合、私には確認することがかなりできるのです。
私の生活のかなりの部分をホームページ(CWSコモンズ)で公開しているからです。
確認のために、その日の記事を読み直してみました。
たしかに節子は応援に行っていませんでした。
週間報告にはこう書いてありました。

応援バナーをつくると張り切っていた女房がどうしても応援できなくなくなってしまいました。
それで娘たちがかりだされました。

そういえば、娘たちと3人で応援に行ったことを思い出しました。
しかし、なぜ節子は応援に行けなかったのでしょうか。
体調が悪くなっていたのでしょうか。
もしそうであれば、たぶん私も応援には行かずに、節子と一緒にいたはずです。
それでまた娘に訊いてみました。
娘がいうには、たしかお母さんは友達と一緒に急に旅行に行ったというのです。
そういえば、そんな気もします。
節子は、誰かと旅行にいけるほどに元気になっていたのです。

それにしても、記憶というのはあやふやなものです。
ユカから指摘されるまで、私の思い出の中には節子が旗を振っているイメージまであったのです。
このブログに節子との思い出を時々書いていますが、それらは果たして正確なのだろうかと気になってきました。

節子と私との過去の世界は私の頭の中にしかありません。
その世界はたぶん私の思いで、少しずつ変化しているのでしょうね。
自分に都合よく無意識に変えているのかもしれません。
「思い出」というのは過去のものではなく、いま現在に存在するものですから、変化するのは当然です。
5年前のことを今日書いておいたものと、1年後に同じことを書いたものとは、微妙に変化しているはずです。

つまり、「思い出」は生きた存在であり、日々、変化しているのです。
過去の節子も私も、私の思い出の世界では変化している。
言い換えれば、思い出の中の節子は生きているといってもいいでしょう。

愛する子どもを失った親の気持ちが、少しだけわかったような気がしてきました。
同じように、私の中にも、私と一緒に歳をとっていく節子がいるわけです。
世界をシェアしながら、歳をとっていくことの喜びを感じられればいいのですが。
まだそこまでには至っていませんが、そんなことを少し理解できてきたような気がします。

■429:14回目の月命日(2008年11月3日)
今日は節子の14回目の月命日です。
14という数字は、日本ではあまり話題になる数字ではありませんが、聖書では「聖なる数字」といわれています。
いろいろと面白い意味があるようです。
仏教での「14」という数字の意味は知りませんが、四九日忌を七七日忌ともいうように、7が2つある14にはきっと何かの意味があるはずです。

ところで、いつも気になっているのが、「命日」という言葉です。
辞書で調べてみたら、室町時代から使われていたようです。
それ以前は「忌日」のほうが一般的だったようです。

人が死を迎えた日を「命日」と呼ぶ。
なぜ、「いのちの日」と呼ぶのでしょうか。
「浄土での生」に入っていくという意味をこめていると聞いたことがあります。
私にはなじめない説明でした。
しかし、最近、何となく「命日」という言葉の心がわかるようになってきました。
彼岸と此岸に離ればなれになっているもの同士が、いのちを通い合わせることができる日なのです。

昨年の今日は、福岡の西川さんが節子にハーモニカを演奏してくれました。
あれから1年がたったのです。
その西川さんは今日、きっと中国の杭州でハーモニカの演奏をしています。
CWSコモンズに書きましたが、「アジア太平洋ハーモニカフェスティバル」に参加しているのです。
今朝も西川さんからメールが届きましたが、西川さんのハーモニカは人の心をやさしくします。
生演奏ではないですが、西川さんが送ってくれたハーモニカのCDを献花台の前で節子と一緒に聴きました。

今日は早朝からちょっとした非日常体験をしたので、少し疲れていますが、もう少したったらみんなでお墓参りです。
節子も一緒に節子のお墓参りに行くという、何だかよくわからない話ですが、それがわが家の文化になってきています。

■430:吉祥蘭が咲きました(2008年11月4日)
節子
吉祥蘭が初めて花を咲かせました。
節子が数年前に、ジュンと一緒に柏に行った時、駅前にいた行商のおばあさんから買ってきたのだそうです。
節子はどんな花が咲くかも知らずに、おばあさんの勧めで買ったのだそうです。
ところが、その後、花は咲こうともせずにいたのです。
その花が咲いたのです。
節子かもしれません。

吉祥とは繁栄・幸運を意味し、その名前を持つ吉祥天は幸福や美の神とされています。
奈良の薬師寺の吉祥天女画像は有名ですが、薬師寺は私が仏像に興味を持った最初の像です。
中学の修学旅行で初めて薬師寺に行きましたが、金堂の薬師三尊の印象が強く残りました。
戦禍で薬師寺が炎上した時に、金箔が溶けて黒くなってしまったと説明を聞きましたが、その時、炎のなかで歩き出す如来と菩薩を想像したのです。
火花の音が聞こえるような感じでした。
その時から、遺跡や旧い寺院に立つと、人のざわめきが感じられるようになったのです。
それが、私が遺跡好きの理由です。
私が薬師寺の薬師三尊が好きなのは、それだけではありません。
薬師如来のふくよかな肉体が、心を包んでくれるような気がするのです。

節子と薬師寺に行ったのは、そう多くはないでしょう。
せいぜい2度か3度ですが、節子と結婚する前はよく行きました。
まだ薬師寺には東塔しかなかった時代です。
今は、私の好みのお寺ではなくなりました。

吉祥天女画像は、修正会の時に金堂の薬師三尊像のところに公開されると記憶していますが、残念ながら私がこの天女に会えたのは、東京国立博物館での「日本国宝展」でした。
大学1年の時でした。
その4年後に、節子に出会いました。

節子と出会ってからは、私にとっての吉祥天女は節子になりました。
ですから、それ以来、吉祥天女画像は私には興味のない存在になっていました。
そして、節子に会えなくなって1年、まるで節子が仕組んだように、節子が残していった、花の咲かなかった吉祥蘭が咲いたのです。

この吉祥天像は光明皇后がモデルとも言います。
私は毎朝、般若心経の後、光明真言を唱えています。
そのおかげで、節子への思いが届いたのかもしれません。

薬師寺の修正会では、この天女の前で、日頃の罪業を懺悔すると許されると聞いていました。
生前の懺悔をしろと、節子が言っているのかもしれません。
私は節子には隠し事はなかあったといいましたが、正直にいえば全くないわけでもありません。
しばらくは吉祥蘭を節子の写真の近くに置いて、懺悔でもしようかと思います。
どんな懺悔でも、節子は笑ってくれるでしょうから。

それにしても地味な蘭です。

■431:新しい出会い(2008年11月5日)
節子
このブログのおかげで、また新しい出会いがありました。
私とほぼ同世代の、大学教授のTYさんです。
有機合成を専門とされている理学博士ですが、つい先日、「コモンズ応援団」というタイトルで、メールを下さったのです。
そのメールから、もしかしたらと思っていたことがありました。

昨日、メールがありました。
そして湯島のオフィスに来てくれました。
初対面でしたが、お互いに旧知のように心を開いて話ができました。
どうしてでしょうか。

実はTYさんは3年近く前に、元気だった奥さんを突然に見送ったそうです。
肺がんだったそうで、発見から半年だったといいます。
この挽歌も読んでくださり、訪ねてきてくれたのです。
訪問の主旨はあくまでもCWSコモンズの主旨に共感してくれたからですが、TYさんの事情を聞かせてもらう前から、不思議な心安さがありました。
私だけではありません。
TYさんも後からこんなメールをくれました。

佐藤さんに長年の友人のような親しみと安心感を感じました。
奥様の節子様が橋渡しをしたのかもしれません。
懐かしい小金井の地にご招待しますのでお出でください。

TYさんは小金井市の貫井北町にお住まいです。
「小金井市貫井北町」。
節子と私が最初に東京で生活を始めた場所なのです。
懐かしいところです。

TYさんは伴侶を見送った後、同じ立場の人が書いた本や追悼集をたくさん読んだそうです。
自分だけではなく、みんなも同じなのだと思うことで少し気が鎮まったのでしょう。
私は、この挽歌を書くことで、気を鎮めています。
スタイルは違いますが、同じことなのでしょう。
そして私たちは会えたわけです。

お互いに同じ体験をしているだけに、相手に自分を感ずるような気もしました。
ですからきっと初対面なの心安さがあったのかもしれません。

帰宅後、節子に報告しました。
節子のおかげで、いろんな人とのつながりが広がっています。
寂しがっている私を気遣って、節子が配慮してくれているからかもしれませんね。
ありがとう、節子。

■432:心配りする人のいないさびしさ(2008年11月6日)
急に寒くなりました。
節子がいた頃は、寒くなるとタンスの中はいつの間にか衣替えされており、
知らないうちに寝具も替わっていました。
いまは自分でやらなければいけません。
そんな小さなことが、私には一番、身に応えます。
私が快適にできるように、節子はいろいろなところで心配りしてくれていたことがよくわかるからです。

私も、それなりに節子に対して心配りしていました。
節子が病気になってからはもちろんですが、
それ以前も節子をとても大切に思っていましたから、
節子への心配りは私には大事なことでした。
しかし、それが節子に喜んでもらえていたかどうかは、いささか疑問です。
今から思うと、心配りを超えて、親切の押し付けだったことも少なくないような気がします。
なんとなく前々から私はそう思ってはいたのですが、
私の勝手な「心配り」を迷惑そうな顔もせずに、節子は受け入れてくれていたのです。
ストライクゾーンの心配りは、私にはできなかったような気がします。
それが修らしいという、節子の言葉が聞こえるようです。

しかし、そうした「心配りする相手」がいないことのさびしさは、予想以上に大きいものです。
人を愛するとは、心配りの喜びを手に入れることかもしれません。
心配りされないさびしさよりも、心配りする人のいないことのさびしさが大きいことを、節子がいなくなって、初めて知りました。
節子がしてくれていた心配りに気づくたびに、なぜもっと節子への心配りをしなかったのか、悔やまれて仕方がありません。

伴侶である必要はありませんが、心配りしあう人がいることは、人生を幸せにします。
節子がいなくなって初めてそれがわかりました。
しかし、「心配りすること」は簡単ですが、「心配りしあうこと」は相手がいることですから、そう簡単ではありません。
そんなことさえも、節子がいなくなってやっと気づいたのです。

今度、心配りしあう生き方を話し合うようなサロンを始める予定です。
時評編のほうに近日中に案内を出す予定です。
よかったら参加してください。

■433:同棲しはじめた頃の話(2008年11月7日)
節子
こちらは急に寒くなりました。
あまりの寒さに、一昨日、こたつを出してしまいました。
こたつには、いろいろな思い出があります。

私たちはそれぞれの親の了解を得る前に、そして結婚式をする前に、同棲してしまいました。
一緒の暮らしのはじまりは、滋賀県の瀬田でした。
当時、私の貯金は8万円しかありませんでした。
節子はその数倍の貯金があったと記憶していますが、8万円では住む家を借りたらなくなってしまう金額でした。
親には話していませんでしたので、全部自分たちで切り盛りしなければいけません。
私はお金なんかなくてもどうにかなるという考えの持ち主で、実際には節子が苦労を背負い込んでいたのかもしれません。

住むところは2軒長屋の狭いところでした。
同棲しだしたのは、あまり記憶がないのですが、たぶん秋頃からでした。
寒くなってきたにもかかわらず、こたつだけが唯一の暖房器具でした。
暖房器具を買うお金がなかったのです。
テレビもありませんでした。
いや、何もなかったのです。
いつか書きましたが、年末にそれぞれの実家に戻り、親を説得することにしていました。
それまでの生活は、かぐや姫の「神田川」の世界でした。
隙間風が吹き込んでくるようなところで、隣の物音も聞こえてきました。
電気毛布もなかったので、夜はお互いに抱き合って身体を暖めあうようなこともありました。

お金はありませんでしたが、週末には2人で奈良や京都に行きました。
その頃の節子はとてもかわいくて、ローマの休日に出てくるヘップバーンのように私には見えていました。
人を恋すると相手が違って見えるものです。
たぶん、それが「愛」と「恋」との違いです。
これについてはまたいつか書きます。

冬を越したところで、会社の社宅に入れてもらえました。
そしてすぐに私が東京転勤になりました。
社宅には数か月しかいませんでしたので、ほとんど記憶はありません。

瀬田での生活が、私たちの原点でした。
箪笥もなく、ミカン箱の生活でした。
なにしろ突然の同棲でしたから、事件がなかったわけではありません。
テレビドラマの素材になるような話もありましたし、私の非常識さから節子に迷惑をかけたことも少なくありません。
それでもとても楽しかったです。

こたつの話が広がってしまいました。
こんな風に、ちょっとしたことから節子とのことが思い出されてしまうのです。
節子とまたこたつに一緒に入って、他愛無い話をしたいものですが、それはどうも無理なようです。
タイムマシンがほしいですね。

■434:筑紫哲也さんの訃報(2008年11月8日)
筑紫哲也さんの訃報をネットのニュースで知りました。
肺がんでした。

テレビで肺がんであることを自分で告白したことを、翌日のテレビで、節子と一緒にみたのを覚えています。
闘病中に、そういうニュースに出会うと、とても複雑な気持ちになります。
有名人が「がんになった」という話は、不謹慎ですが、少し安堵感を得られます。
「私だけではない」と思えることは、元気を与えてくれるのです。
そして一緒にがんばろうと思えるのです。

でもがんで亡くなった話はもちろんですが、闘病の様子を報道している番組は、見たくありませんでした。
節子は絶対と言っていいほど、見ませんでした。
見られなかったのでしょう。
私たちも、闘病中の節子には、誰の訃報であろうと、知らせませんでした。
私自身も、訃報には一切、耳を傾けませんでした。
耳に入ってきても、受け入れられないのです。
ですから、友人の伴侶の葬儀にも行けませんでした。
実に身勝手なのですが、そういう気持ちになってしまっていました。

節子は筑紫さんが好きでした。
ですから、筑紫さんの訃報は、私にもとてもショックです。
なんだかとても悲しいです。
がんで亡くなることの不条理さがやりきれないほどに悲しいです。
何か書かずにいられなくなってしまいましたので、書かせてもらいました。

筑紫哲也さんのご冥福を心からお祈りします。

■435:「なぜ自分の身に起こったのか」(2008年11月9日)
節子
今日はあなたのことを思い出して、辛い1日でした。

司法関係の本を読んでいたら、「犯罪被害者も、癌患者と同様に答えを欲しがっている」という文章が出てきました。
どうように欲しがっている答とは、「なぜ自分の身に起こったのか。それを防ぐために何ができたのだろうか」という疑問です。
著者は、「犯罪は、癌のように、(生活上の)秩序の感覚と価値観を覆してしまう」とも書いています。
全くその通りです。
ただ、私には「価値観」への思いが十分ではなかったのが悔やまれます。
私の価値観が根本から覆されたのは、節子を見送った後でした。
なんと鈍感なことでしょうか。
自分では生活を変え、考え方も変えたつもりでしたが、今から思えば中途半端でした。
それが悔やまれて悔やまれて仕方ないのです。

節子は、がんの手術をし、そこからの回復が他の人と違うことに気づいてから、人が変わったような気がします。
いささか身びいきに言えば、「聖人」になったようでした。
吉祥天のことを書きましたが、時々、そういう実感を持ったことも事実です。
節子の場合は、とてもいい方向に変わったように思います。

そして不思議なのですが、節子はその時から「なぜ自分の身に起こったのか」というようなことを一切、言わなくなりました。
むしろ、これが自分の定めなのだと淡々と語りながら、もう一度、誕生日を迎えられるとうれしいね、と話していました。
私たちは、そんな節子の気持ちをうまく受け止められずに、治るんだから大丈夫だよ、などと対応していましたが、節子はもう知っていたのかもしれません。
心が静まると、きっと先は見えてくるのでしょう。
今はそんな気がしています。

この本を読んだとき、私はすぐに、愛する者を失った人も同じだと思いました。
「なぜ自分の身に起こったのか。それを防ぐために何ができたのだろうか」という疑問は、たぶん、愛する人を失った人ならみんな思うことでしょう。
節子は、この難題をいとも簡単に克服したようですが、私はまだその呪縛に囚われたままです。
この問題から解放されない限り、私の精神は安定しないでしょうが、そのためにはもっともっと節子の世界を共有しなければいけないのだろうと思っています。
そう思ったら、いろいろなことがどっと思い出されてしまい、今日は沈んでいました。
明日は元気になるでしょう。

■436:真の癒しを得るための懺悔と赦し(2008年11月10日)
真の癒しを得るためには、懺悔と赦し(ゆるし)が必要だと、ある本に書かれていました。
そして、赦すとは、事件を忘れ、それを帳消しにし、苦しみのもとを簡単に解き放ってしまうことではなく、その事件の呪縛から自らを解放することだというのです。
最近の自分自身のことを考えると、とてもよくわかります。
しかし、それは、そう簡単なことではありません。
その本に、ある神学者が話したことが書いてありました。

満足のいく心境になるには、あらゆる好ましくないことを何もかも口から吐き出してしまうことです。
傍らに立つ牧師がこう言っている姿が見えます。
「もうすべてを打ち明けましたか、ほかにはないですか」と。
そして、しつかりと受けとめられる方法でそれを吐き出してしまえば、本当に新たな気持ちで自由に歩き出していけることに気がつきます。
ところが、私たちが嘆きもせず、神の御座に話を打ち明けなければ、残りの人生の中でずっとそのまま引きずって生きていかなければなりません。

私は仏教徒であり、キリスト教徒ではありませんから、キリスト教の意味での神とは無縁ですが、神という言葉を、日本の文化の中での神に置き換えれば、とても納得できます。
この人は、「痛みを感じることであり、その傷を表にさらした方がよい」と言っていますが、とても共感できます。

問題は、耳を傾けてくれる人がいるかどうかです。
相手がいなければ、思いをさらしだすことは難しいです。
私の場合は、読む人がいようがいまいが、このブログに書くことで思いをさらけ出しています。
この挽歌を書くことで、気を鎮められます。
しかしそれだけでは十分ではありません。
時々、周りの誰かに思いをぶちあけたくなりますが、多くの人はそれを聴くのを好みません。
当然のことです。
でも先日のTYさんのように、「話し合え、聴き合える」人が現われます。
それで私の場合は、辛うじて破綻を封じているわけです。

日本の文化における神は「自然」です。
自然に向かって、思い切り懺悔し赦しをえるのもいいですが、
迷惑がられるかもしれませんが、周りの人に、自分の思いを吐き出してしまうのも効果的です。
吐き出していると、いつかきっと、「話し合え、聴き合える」人が現われてくるように思うのです。

周りに「愛する人を失った人」がもしいたら、ぜひ話を聴いてやってください。
同情や助言は禁物です。
ただ聴いてやってください。牧師のように。
みんな聴いてほしいのですから。
話を聴くこと、それが「支え合う生き方」ではないかと思っています。

■437:この別れ話が冗談だよと笑ってほしい(2008年11月11日)
節子が好きな歌の一つが、五輪真弓の「恋人よ」でした。
節子が残していったCDを見つけました。
久しぶりに聴いてみました。
2人で聴きながら、2人で歌ったことを思い出しました。

恋人よ そばにいて
こごえる私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい

私も、いまの「別れ」が冗談であってほしいと思います。

節子に嫌われて別れたのであれば、どんなに気が楽でしょうか。
もしかしたら、いつか「あれは冗談だった」と戻ってきてくれるかもしれません。
でも節子は、もう戻ってきてはくれません。

この歌は、もちろん恋人を歌っていますが、恋人と伴侶とは大きく違います。
しかし、この歌を聴いているうちになんだか今の私の気持ちにも当てはまるような気がしてきました。

節子
あなたは、今もなお私の恋人なのかもしれません。

恋人よ そばにいて
こごえる私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい

節子
冗談であってほしいよね。

■438:「自分だけではない」という安心感(2008年11月12日)
このブログのおかげで、あるブログに出会いました。
4年ほど前に伴侶を亡くされた方のブログです。
ロビタさんの「往きつ戻りつの記」。
読ませてもらいました。
http://blog.zaq.ne.jp/backandforth/

淡々と語られていますが、その分、心に深く入ってきます。
伴侶のことを直接に語っている記事は少ないのですが、
日常のことを静かに語っている背後に、いつも伴侶の存在を感じさせられます。
私が同じような立場にあるからかもしれませんが、直接、語られる以上に心身に響いてきます。

私のブログと同じで、時に「時評」的な記事もありますが、
これも私と違い、静かに語られていますので、とても読みやすく説得力があります。
こうしたブログに出会うと、自分のブログの騒々しさにいささか恥じ入りますが、しかしこれもまた個性ですから仕方がありません。
節子もきっと、ロビタさんのブログのほうが好きだというでしょう。
読者としては私もそうなのです。
困ったものです。
私のブログもいつかこうなれるでしょうか。

ロビタさんのブログにとても共感できるのは、
日常生活の背後にいつも奥さんが寄り添っているのを感ずるからです。
私ととてもよく重なる風景もあります。

先日、会いに来てくださったTYさんが、
同じ立場の人の記録を読むと、「自分だけではない」とちょっと気が休まるというようなことを話されましたが、その気持ちがわかったような気がしました。
読めなかった本が、もしかしたら読み出せるかもしれません。

■439:思い出が充満している部屋に戻ってきました(2008年11月13日)
節子
こちらは急に寒くなりました。
凍えそうな日が続いています。
そのせいか、こたつのある和室にまたノートパソコンを持ち込みました。
そこでパソコンを使い出すと、床の間においてある節子の大きな写真が目に入ってきました。
その節子の写真の額の上に、節子がお気に入りだった帽子がかぶさっています。
そしてその前に、節子の話し相手だった「話す人形」が陣取っています。
床の間の掛け軸ははずされていて、節子が書いた色紙がかざってあります。
一瞬、時間が戻ったような気がしました。
そして、しばらく忘れていたこの部屋での体験が一挙に思い出されました。
この部屋は、節子を見送った部屋ですから。

写真を見ていると、今もって節子の不在が実感できません。
節子は私の不在を実感しているのでしょうか。
節子には私が見えているのでしょうか。
それをとても知りたいですが、今の私には知りようもありません。
まあまもなく私も節子と同じ彼岸に行きますので、それまでのお楽しみにしておきましょう。

この部屋には節子の思い出が充満しています。
あまり良い思い出ではないのですが、思い出は不思議なことに良いとか悪いとかを超えていくような気がします。
良いも悪いも含めて、思い出は私にはすべて大切なものになってきています。
節子との思い出は、もう増やすことができないからです。
そのせいか、すべての思い出はほとんど同価値になってきているのです。
とても不思議です。

これからますます寒くなると、この部屋で過ごす時間が増えそうです。
節子を思い出すことが増えそうですね。
節子から元気をもらえるといいのですが。

■440:心の平安を創りだす人(2008年11月14日)
節子
最近は、いやなことがあっても話す相手がいません。
そこで今日は、久しぶりに節子に愚痴を聴いてもらいたいと思います。

挽歌と並行して、このブログに時評を書いています。
先日、そこにいま話題になっている「田母神事件」のことを書きました。
4月にも書いたことがあるのですが、田母神論文が話題になりだした途端に、その記事へのアクセスが急増しました。
その関係で、以来、毎日1000件ほどのアクセスがあるようになりました。
コメントの投稿やメールも来るようになりました。
ほとんどが嫌がらせ的な内容です。
このブログではかなり主観や感情を露出していますから、そうなることは予想されていることですが、それでも時々めげてしまいます。
気持ちの平安が乱されてしまいます。

私が気分的な振れがかなり大きいことは、節子はよく知ってくれていました。
まあ40年も一緒に暮らしていると、相手の気持ちはわかってきます。
こういう話をしたら、こう反応してくるだろうなということがお互いにわかっています。
ですから逆に、わかっている節子の反応を期待して、愚痴を言うことができたわけです。
節子もまた、私の愚痴の後ろにある気持ちを察してくれ、それに反応してくれました。
それで私としては、心の平安が保たれたことが何回もあります。
節子は私の心の平安を創りだす人だったのです。

ところで、うれしい話も最近は多いのです。
コムケア活動を少しずつ再開しだしていますが、それを知っていろんな人がエールをくれます。
活動再開を待っていてくれた人がいるとは、とてもうれしいことです。
ほかにもちょっとうれしい話が最近は時々起こります。
しかし誰に話したらいいのでしょうか。
うれしいのは、たぶん私だけで、当然ながら娘たちはあんまりうれしがりません。
私の価値判断基準はかなり世間離れしているからかもしれませんが、そのうれしさを分かち合う人がいないのは、逆にさびしさが募ります。
この意味でも、節子は私の心の平安を創りだす人だったのです。
自分のことのように喜んでくれたからです。

その人がいないと、私の心の平安はなかなか得られないのです。
喜怒哀楽は、やはり分かち合う人がいて、完成することにやっと気づきました。

もしそうであれば、昨今の人のつながり方はやはりどこか間違っているような気がしますが、これは余計な蛇足ですね。
でもいつか、時評編で書きたいと思います。

■441:「肩の荷」をおろしていっていいのだろうか(2008年11月15日)
節子
ついに私も降圧剤をのむことにしました。
節子に勧められてから4年が経ちましたが。

今週初め、講演をしたのですが、なぜか息切れがするのです。
もしかしたらと思って、血圧を測ってみたら、なんと下が127、上が197でした。
以来、毎日測っていますが、下が100〜120、上が170〜190です。
調べてみたら、重症高血圧の領域です。
そういえば、最近、少し頭が重く、手足がしびれますが、これも高血圧のせいかもしれません。
血圧ぐらい自分の意志で下げると節子には豪語していましたが、ダメでした。
娘たちからも強く言われて、昨日、遠藤クリニックに行きました。

実は遠藤クリニックに行くのはとても辛いのです。
遠藤さんは節子のかかりつけのお医者さんでした。
節子のことはよく知っていて、その気丈さをいつもほめてくれていました。
節子が旅立ってから、何度か報告に行こうと思いましたが、行けませんでした。
診察が終わった後、実は、と言い出すと、先生はすぐにわかりました。
報告に来られなくてと謝ると、わかっていました、手の施しようがなかったからね、といいました。
そして、がんばったねと言ってくれました。
もちろん、節子ががんばったという意味です。

遠藤さんは、節子もよく知っているように、静かで寡黙な先生です。
遠藤さんに話せて、また少し肩の荷がおりた気がします。

しかし、こうやって、一つずつ「肩の荷」をおろしていっていいのだろうかと思うこともあります。
ずっとずっと、節子のことを「肩の荷」にしているほうがいいのではないかという気もしないでもありません。
複雑な気持ちです。

昨日から降圧剤を飲み始めました。
飲みだすのが遅すぎたかもしれません。
昨日出かけていたのですが、途中で気分が悪くなって、予定を繰り上げて帰ってきました。
今日もまたシンポジウムのコーディネーター役です。
途中でおかしくならないといいのですが。

■442:「ありがとう」と口に出す文化(2008年11月16日)
節子
私の1日は、節子の位牌壇に灯明を点け、般若心経をあげることから始まります。
般若心経は、実は時に一節が抜けます。
依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、 
無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
それは節子が最初に覚えた部分です。
なぜでしょうか。

まあそれはそれとして、般若心経をあげた後、いろいろの人を思い出しながら祈りを捧げます。
まだ会ったことのない人たちのことも、もちろん含まれますが、時にこれも「すべての人が幸せでありますように」などと手抜きの祈りの時もあります。

1日の終わりは、節子の写真を見て「今日もありがとう」と声をかけます。
これは節子がやってきていたことです。
節子は病気になってからいつも、寝る前に般若心経をあげて、最後にだれにともなく「ありがとう」と言っていました。

「ありがとう」は節子の文化でした。
それに対して、私は「悪いけど」と言って、誰かにものを頼む文化を持っていました。
会社時代に、部下だった人から、「悪いけど」は不要ですと言われてしまったことがありますし、私の上司から「佐藤君は若い社員にも丁寧だね」と少し嫌味を言われたこともあります。
節子も、私の「悪いけど」発言は好きではありませんでした。
悪いと思うなら頼むな、というのが節子の文化でしたから。

最近、私は節子から教えてもらった「ありがとう」をよく使っていることに気づきました。
寝る前に、「ありがとう」と言っているおかげかもしれません。
「ありがとう」という言葉を口に出すことの効用はとても大きいです。
もっともっと「ありがとう」を言い合える社会になればいいと思います。

ちなみに、私の「悪いけど」は、やってもらう前に「ありがとう」を言っているつもりなのですが、やはり後で言った方がいいようです。
節子
ありがとうね。

■443:節子がいなくなっても何も変わらない不思議
(2008年11月17日)
節子
節子がいなくなってからも、不思議なことに、世界は節子がいたときと同じように動いています。
駅まで行く途中にある畳屋の親子はいつも一緒に畳をつくっていますし、近くの手賀沼公園では家族連れが楽しそうに遊んでいます。
節子も知っている散歩コンビの2人ずれも今も変わらずハケの道を歩いていますし、スーパーのライフは相変わらずにぎわっています。
節子がいなくなった当初は、そのことがどうも納得できませんでした。
節子がいなくなったのに、何で世界の動きは変わらないのだ、とまあそんな非常識なことさえ考えました。

ひとりの個人がいなくなっても、たくさんの人の集まりである社会にとってはほとんど影響はありません。
家族を単位に考えると、たとえばわが家では4人家族の一人がいなくなるということは、1/4のメンバーがいなくなることですから、大きな変化が起きますが、社会の範囲を広げるほどにその影響度は低下し、ついには無視できるほどになるわけです。
もし普通の人の死のたびに、社会が揺らいでいたらそれこそ大変です。

そんなことは重々理解しているのですが、でもなんだか寂しい気もするのです。
私が死んでも、同じように社会は何も変わらないでしょう。
毎日歩いているまちの風景も変わらないでしょうし、ほとんどの人はそんなことなど知りもせずにいるでしょう。
以前、自分が死んだ後の未来のまちを歩いた(ような気がした)ことが2回ありますが、その時もまちの風景は全く同じでした。

私と世界は非対称なのです。
私にとっての世界は、私の死と同時になくなるでしょうが、世界にとっての私はいようがいまいが変わらないのです。
しかし、すべての人がそう思い出したら、社会は存在しなくなります。
ほとんど無視できる要素がたくさん集まると意味のあるものになる、その典型的なものが社会なのかもしれません。

しかし、華厳経のインドラの網やホロニックな世界観は、世界と個人は重なっていると語っています。
すべての個人が、世界を再帰的にかたちづくっているというのです。
いいかえれば、すべての「いのち」はつながっているということになります。
ですから誰か一人の死は、必ず世界に影響を与えます。
その意味でも、世界は時々刻々変化しているわけです。

節子がいた世界と節子のいなくなった世界とは、変化しているはずです。
どこが一体変化したのか。
それが見えないのが、やはりちょっと寂しい気がします。

■444:愛するものを失った人の世界(2008年7月18日)
昨日の話を、ちょっと視点を変えてもう一度書きます。
ずっと心の底にある問題なのです。

世界は生者のためにあることはいうまでもないでしょう。
この世界にあるあらゆるものが、生者の生をささえていることは間違いありません。
にもかかわらず、愛する人を失った者にとっては、それが必ずしも受け入れられないこともあるのです。
前に「花より団子」で少し書きましたが、外から見ると去っていったように見えても、遺された者にとっては、愛するものはいつまでも隣にいます。
そこでは生者も死者もないのです。

そこから話はややこしくなります。
つまりこうです。
愛する人を見送ったものにとって、愛する人は生き続けているのです。
ですから世界は生きている自分のためと言うよりも、依然として、自分の中に生きている愛する者のためにあるのです。
愛する者のいない世界と愛する者のいる世界という、2つの世界に生きているといってもいいかもしれません。
しかも、当事者にとっては、その2つの世界が同じ世界なのです。
そこがややこしい話なのです。

しかし考えてみると、世界は人によってかなり違っているはずです。
私たちは同じ世界に生きているように見えて、実はそれぞれの世界に生きているといっていいでしょう。
自分の世界があまりにも他の人たちの世界と違ってしまうと、さまざまな生きにくさが発生しますが、多くの場合は、あまり不都合を感じないはずです。
「異邦人」のムルソーのような人は、そう多くはいないはずですが、それでも時々、その不整合から事件を起こしたりしてしまうわけです。

みなさんの近くに、もし愛する人を亡くした人がいるとしたら、おそらくその人の世界とみなさんの世界は違うのです。
その人にとっては、いまなお愛する人と一緒に生きているのです。
少なくとも、私の場合はそうです。
そのことをわかってもらえると安堵できます。
愛する者を失った人は、いつもどこかに「異邦人」の感覚を持っているのです。
それをわかってもらえるととてもうれしいです。

■445:「救えなかった自分の責任」(2008年11月19日)
挽歌を読んでメールを下さった人がいます。
昨年、妹さんをがんで亡くされたSBさんです。
妹さんのお名前は「節子さん」。48歳の若さでした。
ずっと一緒に暮らしていたそうです。

11月16日付の妻への挽歌を読んで今まで躊躇していた気持ちが抑えきれずメールさせていただきました。
”肩の荷を降ろしてはいけない気持ち” 
まさにそうですよね。
佐藤さんもそうかもしれませんが 私も何回も後を追おうとしました。
妹を救えなかった自分の責任。
いろいろと代替療法もやったり、最後は丸山ワクチンもやりましたが、急変し永遠にあえないところに行ってしまいました。
自分の前に2度と現れないことになってしまいました。
まさに救えなかった自分の責任と思っています。

般若心経は空で唱えられるようになり、毎晩読経しています。
お墓も毎週休日には行っています。
だけどだからといって許されるものではない。

「救えなかった自分の責任」
SBさんの心境が痛いほどに伝わってきます。
いつまでメソメソしているのかと思うでしょうが、その自責の念からはなかなか自由にはなれないものです。
SBさんもずっと節子さんの闘病を支え続けてきたようです。
私の場合も、SBさんの場合も、それぞれの節子さんは許すどころか、感謝していると思うのですが、それを知っていながらも、「だからといって許されるものではない」という気持ちがいつもどこかにあるのです。
ほかの人にとっては、もう過去の話なのでしょうが、当事者にはいつまでたっても「現在の話」なのです。
時間感覚が、愛する人に関してだけは、止まってしまっているのです。

SBさんの節子さんは48歳、私の節子は62歳。
その年齢の違いが、自責の念に繋がっているのかもしれません。
SBさんにどう声をかければいいか考えつきません。
ただ同感するだけです。
それしかできない自分が歯がゆくもあり、哀しくもあります。
元気づけることなどできようがありません。
たぶんみんな同じでしょうね。

■446:「永訣の朝」(2008年11月20日)
昨日紹介したSBさんからまたメールをいただきました。
SBさんが妹さんをとても愛していたのがよくわかります。
宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出しました。
三好達治の「甃のうえ」と同じように、私が好きだった詩です。
それだけではありません。
節子が入っていたコーラスグループ「道」の昨年の発表会の曲目でもありました。
節子はもう歌う側ではなく、私と一緒に聴く側でした。
曲目として、実は私は不安感がありました。
もしかしたら節子もそうだったかもしれません。
節子と結婚した頃、私はこの詩を何回も節子の暗誦したのを覚えています。

「永訣の朝」はご存知の方も多いでしょう。
こんな始まり方です。

 けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
 みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
 (あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)は、賢治の妹が呼びかけているのです。
「雨雪をとってきてよ、賢治おにいちゃん」

そして、賢治は思います。

 ああ とし子
 死ぬといふ いまごろになって
 わたくしを いっしゃう あかるく するために
 こんな さっぱりした 雪のひとわんを
 おまへは わたくしに たのんだのだ
 ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
 わたくしも まっすぐに すすんでいくから

なぜこの詩が私は好きだったのでしょうか。
学生の頃から、なぜか時々暗誦していたのです。
涙が出て、これ以上書けませんが、節子もとし子のように、健気でした。
だから私もまっすぐに進んでいかねばならないのです。

節子は、妹のように可愛かったのです。
「道」の発表会が節子の最後の外出でした。
しかし不思議なことに、その時にたくさんの人たちに会えたのです。
すべてが不思議です。
だからますます哀しくてならないのです。
久しぶりに涙をあふれさせながら、この記事を書きました。

■447:箱根の紅葉(2008年11月21日)
また合宿で箱根小涌園ホテルです。
前回は日帰りしてしまいましたが、今回は宿泊することにしました。
今回は見事にいい天気でした。

箱根の紅葉は、年によって全く違います。
節子が病気になってからも、10回以上来ていますが、2人が満足できる紅葉にはあまり出会えませんでした。
最後に芦ノ湖を船で渡った時の紅葉も、いまひとつでした。
でもその1年前に小田原の大雄山に行った時の紅葉は見事でした。
紅葉狩りをしていた節子の姿がはっきりと思い出せます。
節子は、1枚の紅葉を効果的に活かす術を知っていました。
そういう分野では、とても創造力があったのです。
自然を楽しむあそび心がありました。
ですから、紅葉を見ると節子を思い出します。
いえ、自然の風景はすべて節子につながっているのです。
新緑の自然も、紅葉の自然も、すべてその中に節子を感じます。
とりわけ箱根の自然は節子そのものなのです。
節子は、新緑も紅葉も好きでした。

今年の箱根の紅葉はきれいです。
今日は真っ青な空なので、ひときわ栄えてみえます。
おそらく今日は見事な富士山が見えるでしょう。
でも箱根の上には行かずに帰ります。
まだ一人では行けそうもありません。

節子がいたらきっと拾うだろうもみじ葉が道に散っていました。
1年近く前、まだ節子を送ったばかりの時に箱根に来た時には、そうした風景も目には入りませんでした。
不思議なほど、記憶に残っていません。
どうやってホテルまで来て、どうやって戻ったかの記憶も残っていないのです。
しかし今回は、紅葉の風景が残りました。
私の中の節子が、紅葉を楽しんだのかもしれませんが、私にとっては、ただただ寂しいだけでした。

紅葉が散るさまは、桜の花の散るのとはまた趣が違います。
散るさまに美しさのある桜と違い、落葉は寂しさをそそります。
桜とは反対に、なぜか節子が去っていくような姿が見えてしまうのです。
紅葉を楽しむ人たちの声が、とても遠くに聞こえました。

まだ紅葉を楽しむ気分にはなれずにいます。
困ったものです。

■448:「社会のため」と「自然な暮らし」(2008年11月22日)
このブログの挽歌編に、こんなコメントをいただきました。

朝夕寒くなってきましたね。窓から見える桜の葉っぱが赤や黄色になってきれいです。拾ってきて主人の写真の前に飾りました。

昨日、このコメントを思い出して、箱根から紅葉した落ち葉を拾ってきました。
もう1泊する予定だったのですが、昨夜帰宅し、節子の位牌の前に報告し、供えました。

そこまではよかったのですが、今朝、起きて挨拶に行ったら、そのもみじ葉は無残にも丸まってしまっていました。
節子はいつも綺麗な落ち葉をいろんな場所にそっと置いたりしていたはずなのですが、どうしてこんなになってしまったのでしょうか。
娘に聞いたら、押し花にしてからでないとダメだよというのです。
常識が欠落している自分に、またまた出会ってしまった感じです。

それで落ち葉を少し水に浸して蘇生させ、きちんと処置した上で、また節子に供えようと思います。
こうした「常識」が、たぶん暮らしの常識なのでしょう。

私は節子に比べると、書籍に書いてあるような知識は数倍たくさん持っていました。
何を訊いても知らないことがないと節子が思っていた時もありました。
しかし、それがなんだというのでしょうか。
本当に大切な知識は、そんなことではない。
それに気づかせてくれたのは、節子です。
もっとも、私がそれに気づいたのは結婚して20年ほどたってからです。
いや、もしかしたら節子もそうだったかもしれません。

企業に勤めて、それも戦略スタッフとして仕事をしていた時には、落ち葉の保存策よりも商品開発や市場開拓に関する知識や地球環境に関する知識などのほうが重要だと思っていました。
新しい視点や概念を企業に取りこむことこそ、大切だと思っていた時期もあります。

しかし、もっと大切なのは、そうした知識を自らの暮らしにつなげていくことです。
理屈だけで生きていくことはできません。
環境問題を知っているだけでは意味がありませんし、環境負荷を与える行動をすべて禁じたら生きていけません。
そういうことを「心身的」に気づかせてくれたのが節子なのです。
そこから私の生き方は変わりだしたように思います。

私が「社会のため」などという言葉を使わなくなったのも、その頃からです。
自らの暮らしそのものが社会をつくっているということに気づけば、自分と社会を切り離すような「社会のため」や「社会貢献」などという発想はなくなります。
自分のために誠実に生きていれば、それが必ず社会のあり様を変えていきます。
そう考え出したのです。

節子は「社会のため」などとは決して言いませんでしたが、不正や不作為が嫌いでした。
自宅から離れた電信柱のまわりでさえ、花がなければ花を植え、水をやりに出かけていました。
近くの子どもが悪さをすれば注意しました。
しかし決して「社会のため」などとは思っておらず、それが節子にとっての「自然の暮らし」だったのです。

こんなことを書くと、節子がとても善人だったように聞こえるかもしれませんが、節子は時にあまり感心できないこともやってました。
ハイキングに行って、山道で実生の小さな樹の芽があるとこっそり抜いてしまったり、きれいな花の木の枝をこっそり持ち帰ったりしたこともあります。
そうした花木がわが家の庭にはいくつかあります。
「自然の暮らし」には、そうしたちょっと怒られそうなこともあるのです。
私は当初、やめたほうがいいと注意していましたが、そのうちにそれを手助けし、今誰も見ていないよ、などと監視役を引き受けるようになってしまいました。
まあ、自然の暮らしには、そうした「悪事」もあるのですが。

箱根から持ち帰った落ち葉は、水の中で復活しました。
問題はこれからですが、うまくいくでしょうか。
自然の暮らしは、時間と汗をかけなければいけません。
本を読んだり、誰かの話を聞いたら身につくわけではありません。
心身を動かすことで身についていくのです。
節子がいた時にもっともっとこうした暮らしをしておけばよかったと思えてなりません。

■449:「男前」に生きる(2008年11月23日)
節子
あるブログで、こんな文章に出会いました。

 「男前」という言葉があるが、一般的には「顔立ちが良い」とか「スタイルがいい」とか、見栄えを評した言葉と解釈されているが、俺の解釈は違う。
 「男が、男らしさを前面に押し出す」のが「男前」の意味だと受け止めている。
 男は、女より女々しいから殊更に「男前」を意識せざるを得ないのではないか?
 そして、「男前」を貫くため、自分を鼓舞するために「男の修行」とか、「義理と情け」などと言う言葉に酔うのかも知れない。
 男として産まれた限り、男を前面に押し出して生きる姿勢を貫く。
 それが「男前」の意味だと思う。
 人はどうか知らないが、少なくとも俺はそうだ。

とても共感しました。
特に共感できるのが、「男は、女より女々しいから」というところです。

これを書いた人(daxさん)は、5年前まで「現役ヤクザ」だったそうです。
私のホームページが、この人の目にとまって、daxさんは私にメールをくれました。そのおかげで、私はこの人のブログ(「手垢のついたメモ帳」)に出会いました。
私にはとても遠い世界の話のようでもあり、でもすぐ隣にあるような気もする世界の話です。
引き込まれるように読んでいるうちに、この文章に出会ったのです。
全く理由がわからないのですが、涙が出てきてしまいました。
daxさんが言うように、実に男は女々しいのです。

ブログによると、daxさんは「男前」な生き方をしています。
その生き方は、すさまじいほど「男前」です。
しかし、私は「男前」の生き方をせずに、地のままの生き方をしてきました。
人に笑われようと、自らに正直に生きることが、私の生き方です。
daxさんのような「男前」にはなれそうもありません。
節子がいない今は、なおさら、メソメソと嘆き悲しみ、気力を失っています。
しかし、daxさん的にいえば、「男らしく」メソメソしているわけですから、
これもある種の「男前」といえないこともありません。

しかし、なぜかdaxさんのブログには自分と共通のものを感じるのです。
もちろん言動は全くといっていいほど違います。
ブログには「指をつめる」話が出てきますが、そこを読んだときは「嘔吐」する気分になりました。
私は「血」を見ただけで、失神するほど、気が弱いのです。

にもかかわらず、なぜ共感するのか。
それは、daxさんがとても誠実に生きているのが伝わってくるからです。
私ももっと誠実に生きなければ、と改めて反省しました。

節子
あの茂さんのおかげで、また世界が広がりました。
私たちをつなげてくれたのは、東尋坊の茂さんのテレビ報道番組です。

■450:彼岸と此岸の2つの世界で生きていた人(2008年11月24日)
節子
こちらの世界は急に寒くなり、凍えそうです。
そちらはどうですか
彼岸と此岸とでは、状況は違うのでしょね。
でも、こちらからは全くわかりません。

しかし、その2つの世界を同時に生きていた人がいます。
18世紀の神学者スウェーデンボルグです。
彼は、30年近くにわたって、霊界と自然界(現実界)とを往来しながら、「霊界日記」を残しました。
彼が霊界に行けるようになったのは、57歳の時からだそうです。
その体験を踏まえて、彼は「死とは絶滅ではなく、生の連続であり、一つの状態から別の状態への移行にすぎない」と書いています。
人間はみな、自己同一性の意識と生前の記憶を失うことなく、古びた衣服を脱ぎ棄てるように肉体を脱ぎ棄て、肉体と類似した霊的身体を持ってよみがえるのだそうです。
スウェーデンボルグはこう書いています。

人間は死ぬと、自然界から霊界へ移ってゆく。
その際、地上の肉体は除いて、自分のすべて、つまり個人的な性質に属するすべてを霊界へ携えてゆく。
というのは、霊界、つまり死後の生活に入ると、この世の肉体に似た身体を持つからである。
この世の肉体と霊的な身体との間には、どんな違いもないように見える。
事実、霊界の人々はどんな違いも感じていないのだ。
ただ、彼らの身体は霊的であるため、地上的な要素から分離され清められている。

スウェーデンボルグによれば、霊界には空間も時間もないので、この世と違い、思ったことが瞬時に実現するのだそうです。その霊界での動きが、自然界、つまりこの世にも影響を与え、それに「照応」した動きが現実化するのだそうです。
「虫の知らせ」や「不可思議な現象」などは、そうしたことの結果といえます。

先日、メールを下さったSBさんがこう書いてきました。

佐藤さんは何で奥さんと一緒にいられる気持ちになれるのでしょうね。
(私は)妹と一緒にいる気は決してしません。

こう返事を書きました。

一緒にいると思うと精神的に安堵できます。
だから一緒にいることを信じられるようになりました。
論理的ではありませんが。
それに、妻のことはすべて知っているという自負がありますので。

もし彼岸があって、そこで節子が霊になっているとしたら(私はそう思っていますが)、そこで節子が何をしているかは、私には見えるような気がします。
なにしろ時空間概念のない世界ですから、「見える」というのは正確ではないですが、何を思っているかはすべてわかるような気がしています。
両界を往来できたスウェーデンボルグは、なぜ彼岸に移行してからは、往来をやめたのか、それを考えると、節子がいま何を思っているか、そしてどうあるかは、わかるような気もします。
つまり、節子は私と違って、この世においてもきっとまだ生きているのです。
それがスウェーデンボルグのメッセージではないかと思っています。

少し「危うい話」だったでしょうか。

■451:節子のことを思い出すことが最大の学びです(2008年11月25日)
以前、スマナサーラ師の本「偉大なる人の思考」の中に出てくる「遠離」のことに関する違和感を書きました。
その本は、僧籍を持つ若い知人から薦められたのですが、その違和感を彼にも伝えました。
彼は、私のためにわざわざその本を持ってきてくれたのですが、私が途中で違和感を持って読まずにいることを気にしていて、いつか話そうということになっていました。
先日、会いました。
とても素直な誠実な若者です。

スマナサーラ師は小乗仏教の立場から、
できるだけブッダの生の声を伝える活動をしているので、
大乗的な日本人には違和感があるかもしれません、と説明してくれました。
教団仏教の教えと個人ブッダの考えとは違っていたでしょう。
だからこの書は、仏教の書ではなく、ブッダの考えを説いた書なのです。

小乗仏教の立場の人が、なぜ多くの人に説教をし、瞑想を施すのか、これにも違和感はありますが、ブッダもまたそうしたわけですから、これは受け入れることにしました。
しかし、そもそも小乗と大乗を分ける考えには、昔から異論をもっていました。
知識人の小賢しい発想だからです。
現場の人にとっては、たぶん自らの救いと衆生の救いは不二のものです。
私の生き方そのものも、その理念の上に立っています。
それは節子も知っていました。
いえ、汗して誠実に生きている人には、小乗とか大乗とかは瑣末の話です。
みんなの幸せこそが自分の幸せなのです。

彼といろいろと話をしました。
スマナサーラ師の「慈悲の瞑想」の手ほどきも受けました。
慈悲とはなんでしょうか。
しかし、彼の誠実さにほだされて、余計な質問はやめました。
そして、もう一度、本を読むことにしました。
どんな書物からも、学ぶことはあるものです。

節子がいなくなってから、若い頃読んだ仏教関係の本や哲学の本を何冊か読み直しました。
最近出版された本も少し読みました。
しかし、どんな本よりも節子のことを思い出すことが、私にとっては最大の学びです。

ちなみに、瞑想ですが、
いろいろと瞑想や内観は勧められますが、いまやっているのは Wii Fit の座禅です。
修らしいね、と節子は思っているでしょう。
ともかく私は「型」がきらいなのですが、せつこはそれを一番よく知っていました。
節子は型にこだわることなく、私に人生を教えてくれました。
節子もまた、私から人生を学んだはずです。
節子も、私と結婚して、かなり型よりも実の人になったように思います。

■452:「今日書こう、明日書こうと思っているうちに」(2008年11月26日)
節子
私が戦中戦後、両親の親元の新潟の柏崎に疎開していたことは話しました。
いつか行ってみようと思いながら、結局、行かずじまいになってしまいました。
その柏崎に「疎開」していたおかげで、家族は全員無事でした。
東京に戻ってきたのは、昭和26年の春、私が小学4年になった時です。

私は記憶力があまりいいほうではないので、その頃の話はほとんど記憶にありません。
覚えているのは海水浴で溺れたことくらいでしょうか。
しかし、いまなお、年賀状のやりとりをしている友人がいます。
おそらく50年以上、会ったことはないのですが。
その友人から手紙が届きました。
昨年末、節子を見送ったことを知らせた返事でした。

もっと早くにお悔やみのお返事を差し上げなければならないところですが、今日書こう、明日書こうと思っているうちに、今年も残すところ40日あまりとなってしまい、意を決して書くことに致しました。

そして1年前の中越沖大地震のことや家族のことを書いてきてくれました。
年賀状では全く知らなかったことが書かれていました。

「今日書こう、明日書こうと思っているうちに」
とてもよくわかります。
私も、そうやって結局、「意を決する」ことができずに終わってしまったこともあります。
思いが深ければ深いほど、書けなくなるのです。
人のことなのに、その事実を認めずに忘れてしまいたくなるのです。

昨日も5年ぶりにある人に会いました。
彼も最近、節子のことを知ったのです。
開口一番、お悔やみを言われました。
そういう時には、実に明るく応えるようにしています。
そして話題を変えてしまいます。
話しだすとついつい涙ぐんでしまうからです。

友人は、家族のことを書いてきてくれました。
おぼろげながら記憶していますが、彼の母親は90歳で元気だそうです。
ところが奥さんは車椅子生活をされているようです。
人生はいろいろあります。
それぞれの人生を、それぞれに生きているわけです。
何が幸せで、何が不幸かは、考え方次第ですが、幸せや不幸などと無関係に、いまをしっかりと生きていくことが大切なのでしょう。
最近、私の頭の中から、「幸せ」とか「不幸」とかの言葉がなくなってきたような気がします。

久しぶりに、彼の顔を思い出しながら、少し長めの手紙を書きました。
彼に手紙を出すのは、それこそ50年ぶりです。

年賀状の季節になりましたが、今年も年賀状は出さないことに決めました。
世間の常識には反しますが、何を書けばいいかわからないからです。

■453:「メッセージ・イン・アボトル」(2008年11月27日)
こんなメールが来ました。

今日、私はもしかしたら、イトーヨーカドーで、佐藤さんとすれ違いましたでしょうか?
実はちょっと考え事をしながらぼおっと歩いていたのですが、
店を出て数秒して、脳裏に残った映像で、もしかしたら・・・と。</blockquote>実は1年に1〜2回しか行かないイトーヨーカドーに今日、数分立ち寄ったのです。
それもたぶん小走りで歩いていたはずです。

そして、こう続いています。

昨年、奥様についての悲しいお知らせを、グループメールで読ませていただき、
なんらか、お声かけをしなければ、と思いつつ、タイミングを逃しておりました。
実は、メールソフトの下書きフォルダに、その書きかけのメールを、しばらくいれっぱなしにしており、 少し書き換えてはまたしまったり。そしてそのうちさらにタイミングを逸し・・・

昨日、書いたことにつながっています。
これもまたシンクロニシティなので、勝手に書かせてもらうことにしました。

昨年書こうとしていたことでもあるのですが、
佐藤さんは、ケビン・コスナー主演の「メッセージ・イン・アボトル」という映画をご覧になったことがありますか?
亡くなった妻へのメッセージをボトルに入れて流す・・・という、それをめぐってのストーリーなのですが、
そのなかで、主人公が妻に語る言葉やその内容が、本当に心に響くのです。
こういうふうに相手を思うことができたら、思われることができたら、ほんとうに幸せだと、(特別なことではないんです。日常のなかの、ほんの小さな”気づき”なのです)そういうことに改めて気づかされる映画で、わたしは何度見てもしみじみ涙が出るのです。

昨年の夏、この映画を見てしばらくしたころに、奥様についてのお知らせが届きました。
そのときの私には、奥様の「いいことだけを日記に」の記事</a>からうかがえた、佐藤さんと奥様をつなぐ優しい思いが、この映画の主人公と妻のあいだにある優しさと重なりました。
とてもとても悲しいことですが、でも、きっと奥様は佐藤さんの優しい気持ちを十分に受けて、受け留めて、とても幸せだったのだろうなと、そんなふうに思っていました。

お伝えしようと思っていたのは、そのようなことです。

「メッセージ・イン・アボトル」は、1999年の映画です。
映画のことは私も知っていましたが、観てはいません。
私のジャンルではないのです。
あらすじをご存知の方もいるでしょうが、私には不得手な映画なのです。
しかし、「主人公が妻に語る言葉やその内容が、本当に心に響く」と書かれるとドキッとします。
おそらくこの挽歌は、それとは程遠いものだからです。

私は節子に心に響くような話をしたことがあるだろうか。
全く自信がありません、
なにしろプロポーズの言葉が、「結婚でもしてみない」だったのですから。
それに私の「愛の詩」は節子のお好みでもありませんでした。
この挽歌もあんまり挽歌になっていないのでしょうね。
きっと節子は、もう少し感動的に書いてよと笑っているでしょう。

でもメールを送ってくれた人が書いているように、節子は、私の「優しい気持ちを十分に受け留めて、とても幸せだった」と勝手に確信しています。
節子、そうだよね。

ところで、メールを送ってくれた人とは、実は一度しかお会いしていません。
人の縁とは不思議なものです。

■454:冬に向けて花壇が整備されました(2008年11月28日)
節子
我孫子駅南口前の花壇が冬に向けてきれいに整備されました。
先日、花かご会のみなさんが全員で作業されていました。
花壇で作業しているみなさんを見ていると、もしかしたら節子も混じってやっているのではないかなどと思ってしまいます。
いつも、花壇をどうデザインしようかと絵を描いていた節子を思い出します。

花かご会への差し入れのタイミングがなかなか合いませんでしたが、一昨日はうまくタイミングが合いました。
それでささやかな差し入れを届けました。
この日は14人全員が参加していました。
みんなとても楽しそうでした。
節子もこうやってみんなと楽しんでいたのだなと思いました。
もしかしたら、節子がどこかにいるかもしれない、という気がして、探しましたが、節子はいませんでした。
実は、もしかしたら紛れ込んでいるかもしれないと思い、差し入れには節子の分も入れておきました。
山田さんに渡したのですが、みんなに配ったら残らなかったかも知れません。
そうしたら節子がいたことになります。
でも、残ったかどうか聞くのはやめましょう。

わが家の庭の花も、ジュンががんばって冬バージョンに変えました。
この挽歌を読んでくださっている渡邊さんからもチューリップの球根をもらいましたので植えてもらいました。
昨年は、献花に来てくださった方々にチューリップの球根を差し上げていたのを思い出します。
ネパールのチューリップは、その後どうなったでしょうか。

こちらは冬にまっしぐらです。
節子がいない2回目の冬です。
しかし、昨年の冬の記憶はまったくありません。
何も思い出せないのです。
ですから私にとっては、節子のいない初めての冬のような気がします。
とてもとても不思議なのですが、節子がいなくなってからの時間は実感がないのです。
たぶんわかってもらえないでしょうが。

今年の冬の記憶は残るでしょうか。

■455:節子のパソコンが壊れたようです(2008年11月29日)
節子
久しぶりに節子のパソコンを開いてみました。
ところがどうもうまく動きません。
どうやらキーボードが壊れてしまったようです。

このパソコンには節子が受発信したメールが入っています。
メール以外は家庭用のパソコンに移したのですが、メール関係のデータの移し方がわかりません。
節子のメールなので、私にはアクセス権はないのですが、捨てられずにいます。

節子がパソコンに向かっていた姿を思い出します。
節子は基本的に、手書きの手紙派でしたが、メールも少しずつ増やしていました。
小学校の同級生が時折送ってくれる、故郷情報も楽しみにしていました。
節子はキーボード操作が得意ではなかったので、メールも結構時間がかかりました。
私は、思いついたままをそのまま冗長に書いて、読み直しもせずに発信してしまうタイプでしたが、節子は必ず読み返してから発信していました。
そういうことに関しては、几帳面さでした。
節子に言わせると、それが常識なのかもしれませんが。

節子がパソコンを覚えだした頃、私たちはよく喧嘩しました。
いくら教えても覚えが悪かったからです。
最後には、私には質問しなくなりました。
私はあまりいい先生ではなかったのです。
子どもたちからもよく言われますが、私は「教え方」が下手なのです。
パソコンに関しては、あんまりいい思い出はありません。

節子のパソコンには、日記も入っています。
キーボードの練習だといって、日記を書き出しました。
私のパソコンにファイルを移しましたが、読む気にはなれません。
いつか読める時が来るかもしれませんし、最後まで読めないかもしれません。
でも捨てる気にはなれません。
不思議なのですが、節子のものは、何一つ捨てたくないくせに、何一つ見たくも読みたくもないのです。
まだ節子の写真アルバムは開けずにいます。

ところで、メールの記録を他のパソコンに移管する方法をご存知の方がいたら教えてください。

■456:節子の話をちゃんと聴いていただろうか(2008年11月30日)
先日、とてもうれしいことがありました。
そこで娘たちにその話をしました。
聴き終わった娘たちは、「あっ、そう。よかったね」といっただけでした。
それで、「節子ならもっと感激して聴いてくれるよな」と苦情を呈したら、娘がこういうのです。
「お父さんはおばあちゃんの話をきちんと関心を持って聴いていた?」
そこでグッとつまってしまいました。
さらにこう突っ込んできます。
「お父さんはお母さんの話をきちんと聴いていた?」
そういわれると、自信がなくなります。
私は節子の話に関心を持って傾聴していたつもりですが、節子が友だちと旅行に行った時の話など、一緒になって追体験するほどの思いで聴いていただろうか。
そういえば、節子が話しているのをさえぎって、
それで結局、どうしたの? 君の話は長すぎるよ、
などと言っていたのを思い出してしまいました。

極めつけはこうです。
「お母さんも関心をもって聴いていたかもしれないけど、ただ聴いていただけだよ」
しかし、そんなことはありません。
節子は一緒に喜んでくれたり、怒ってくれたりしてくれました。
いつもとは言えませんが、たいていはそうでした。
いや、たいていではなくて、時には、だったでしょうか。
だんだん自信がなくなってきました。
自分のことを考えると、節子ももしかしたら、私の話を長々と聴かされて辟易していたのかもしれません。
子どもたちの観察眼は、多くの場合、正しいですから。
しかし、ただ聴いてくれていただけでも、私にはこの上ない幸せな時間でした。

私が仕事や付き合いで夜遅く帰ってきても、節子はいつも私の相手をしてくれました。
そして節子もまた、その日あったことを私に話してくれました。
私たちは、その日体験したことは必ず共有することにしていたのです。
意識的にそうしていたわけではありませんが、それが私たちの文化だったのです。
その文化が私をどんなに豊かにしてくれていたのか、最近よくわかってきました。

私がほとんどストレスを持たずに過ごしてこられたのは、この文化のおかげかもしれません。
しかしもしかしたら、節子はその分、私の分までストレスを背負い込んでしまっていたのかもしれません。
そんなことを思うと、節子がますます愛おしくなります。
あの笑顔にもう一度会いたいです。
最高の伴侶でした。

■457:節子が育てた家族のルール(2008年12月1日)
わが家の文化の話を時々書いていますが、こんなルールもあります。
今もなお守られているルールです。

誰かが外出する時、節子は必ず玄関まで見送りました。
私の場合は、時に玄関先まで見送ってくれました。
その文化を私は今もしっかりと守っています。
私が在宅で娘たちが先に外出する時には、それがたとえ近所のお店への買物であろうと、必ず私は玄関まで出て見送るようにしています。
節子の代役をつとめているだけなのですが。
私が外出する時には、むすめたちに「玄関まで見送るのが節子が残した文化だから」と、無理やり玄関まで見送ってもらうようにしています。
まあ、これは必ずとはいえないのですが。

誰かが帰宅するとみんなリビングに集まるのも節子が育てたわが家の文化です。
これはいまでもほぼ確実に守られています。
節子がいる時は、節子が中心になって話も弾みましたが、いまはなかなかそうならないのがちょっとさびしいですが、でもみんな顔を合わせます。

こうした家族のルールが、わが家にはいくつかあります。
そのほとんどは節子が育ててくれた文化です。
まさか私を置いて、自分が先に逝ってしまうことなど、節子は予想だにしていなかったでしょうが、その文化のおかげで、私はいまなお娘たちに支えられているわけです。

そんなわけで、外出する時にはいつも節子を思い出します。
節子は最高の伴侶でした。
感謝しています。

■458:お茶の時間(2008年12月2日)
わが家の文化のことを書きましたが、今はほとんどなくなった文化もあります。
一昨日の日曜日、庭のふじ棚の手入れをみんなでしました。
みんなと言っても、下の娘が中心で、あとの2人はその手伝いだけなのですが。
それが終わって、なんとなくみんなそれぞれの役割を終えて、食卓に集まりました。
おやつを食べながら、話をしていたのですが、なんとなく懐かしい気がしてきました。
そして、「そういえば節子がいた時にはお茶の時間があったな」と思い出しました。

節子は、庭の花の手入れなどが終わって一段落すると、家族みんなに「お茶でも飲まない」と大声で呼んでくれました。
それぞれ何かをしていた家族は、その声で食卓に集まりました。
節子が買ってきたおやつや手づくりのおやつが用意されていました。
節子は、家族のためにおやつを作るのが好きでした。
そしてみんなで談笑しあいました。
話の中心は節子でした。
特に何か話題提供するわけではないのですが、節子がいるだけで場が明るくなりました。

こうした「お茶の時間」は、残念ながら節子がいなくなった後、あまり体験することがなくなりました。
節子がいない「お茶の時間」は成り立たないのです。

今でも娘たちは出かけると、節子がそうであったように、ケーキなどを買ってきますので、食卓に集まることはありますが、それぞれに好みの「お茶」がバラバラですので、「お茶の時間」にはならないのです。
とても寂しいですが、もう「お茶の時間」は復活しそうもありません。
家族を喜ばせたがっていた節子が、もういないからです。

今日は節子の珈琲を供えました。
相変わらず美味しくないね、と笑っているでしょう。
500グラム500円のモカ珈琲ですから。

■459:罪悪感(2008年12月3日)
今年最後の月命日です。
月命日の日はいつも自宅で過ごすことにしていましたが、今日は、ある委員会に参加するため、午後、家をあけました。
午前中は在宅し、お墓にもお参りしたのですが、何だか少し気が落ちつきません。
節子の月命日に出かけたのは、今回で2回目です。

ある事が起きて、その事がどうしても受け入れられない場合、一番簡単な方法は、自らの罪悪感であがなうことです。
愛する者の死は、まさにそれに当たります。
おそらく事故や犯罪で愛する人を失った場合も、そうなのではないかと思います。
加害者をとがめたくなるのは当然でしょうが、とがめて何かが変わるわけではありません。
結局、自らを責めることになるような気がします。
愛する人を失った責任は自分にあると思うと、発想を完結させられるからです。
私の場合は、そうです。
節子を治せなかったのは私の責任ではないという考えを裏付ける理由はいくらでも見つけ出せます。
しかしそれを見つけたり考えたりするのはとても辛いので、考えないようにしていますが、ともかく心の奥に深い罪悪感があるのです。
何回か書いていますが、誰が何と言おうとその罪悪感は消せません。

いつもはお墓でも位牌でも、口に出るのは「節子、ありがとう」です。
でも月命日だけは、「ごめんね、節子」になります。
月命日は、私にとっては懺悔の日なのです。
ですから月命日には自宅で「懺悔の1日」を過ごすことにしているのです。
そしてそれ以外の日は、できるだけ罪悪感は封印しています。

その懺悔の日なのに、今日は出かけてしまいました。
こうして生活がまた元のようになっていってしまうのでしょうか。
昔の私なら、問題は懺悔の心であって、型ではないよ、というでしょう。
しかし最近は、型にも意味があるような気がしてきています。
節子も型よりも実の人でしたが、今はどうでしょうか。
やはり月命日は自宅で節子と一緒にいようと思いました。

委員会が終わって急いで帰宅したら、敦賀の義姉から節子への供物が届いていました。
今年最後の月命日だからといって、節子の好物を送ってくれました。
節子と一緒に、家族みんなで食べました。
こうして15回目の月命日は終わりました。
節子、ありがとう。

■460:年賀欠礼の報せ(2008年12月4日)
節子
年末になるといろいろな人から年賀欠礼のはがきが届きます。
だから年末は好きではありません。

節子を見送った昨年、私は年賀欠礼のハガキを出しませんでした。
事務的に報告する気分にはなれませんでした。

昨日、差出人に見覚えのない年賀欠礼状が届きました。
手書きの文章が添えられていました。
「大変お世話様になりましたこと、心より厚くお礼申し上げます」
ドキッとして、本文を読みました。

会社時代に付き合いのあった友人の奥さんからでした。
彼は私より2歳若く、65歳でした。
会社が違っていたのですが、あるテーマで彼と話したことが契機になって、ささやかな付き合いが始まりました。
そんなに親しかったわけでもありませんし、考え方もライフスタイルも全く違いました。
ただ共通点が一つだけありました。
自分でいうのもなんですが、うそが嫌いだという点です。

私が会社を辞めてからは、年賀状だけの付き合いになりました。
15年ほどたって、彼が突然部下を連れてやってきました。
名刺を見たら副社長でした。
仕事の接点を探しに来たのかもしれませんが、私の生き方を知って、仕事の話は一切せずに帰りました。
世界が違ってしまっていたのです。

しかし2年前、大阪の関係会社の社長になったとまた連絡がありました。
何となく会いたくなって、大阪にある会社を訪問しました。
彼自らが工場を案内してくれました。うれしそうでした。
彼が、奥さんはどうかと訊いたので、必ず治すよと答えました。
彼も、自分はこの会社を建て直したいと話してくれました。

昨年の今頃でしょうか、東京に来たのだがと携帯に留守電が入っていました。
私も彼の携帯に節子のことを話し、会いにいけないと伝言を残しました。
その後、連絡のないままになっていました。

長々と書きましたが、最後の留守電のやりとりが、実は奇妙に心に残っていました。
彼はなぜその後、電話をくれなかったのだろうかと思ったこともありました。
義理堅い彼のことだから、何か理由があるはずです。
そして、突然の訃報。
ハガキにはこう書いてありました。

主人は努力、信念、情熱の人でした。
そして、家族をいっぱい愛してくれました。

彼とどんな話をしたのか、今ではほとんど思い出せません。
私は家族の話をしましたが、彼からは聞いたことがありません。
古武士のようなタイプの彼は、無駄口をたたくことは一切ありませんでした。
しかし、彼が私を信頼してくれていたことだけは確信が持てます。
私も彼を信頼していました。
嘘をつかない人であり、信念のためには命も投げ出す人でした。

また一人、友を失いました。
しかしもし仮に、彼が私よりも長生きしたとしても、せいぜい会うのはあと1〜2回だったでしょう。
いや会うことはなかったかもしれません。

そう考えると、死とはなんだろうかと改めて考えたくなります。

節子
君も会ったことのある藤原さんです。
そちらで会ったらよろしく伝えてください。

■461:シンクロニシティと海士町(2008年12月5日)
節子
最近よくシンクロニシティを体験します。
3年前に自宅を火災で失った友人の話を娘としていたら、その友人から突然の電話で、やっと問題が解決し、建て直すので地鎮祭に来ないかといわれました。
先日大阪に行った時に会おうかと思いながらも連絡しなかった友人から、帰宅した翌日、なぜかラフランスが届きました。彼から贈ってもらう理由はないはずなのですが。
こうした、私の心のうちが伝わっているようなことが時々集中的に起こるのです。
最近またそういう状況が続いています。

驚異的なのは隠岐の海士町の話です。
どうも海士町から呼び寄せられているのです。
ホームページの方に書きましたが、細胞を生かしたまま生体を氷結させる技術を、私が住んでいる我孫子にあるアビーという企業が開発しました。
ある研究会でそれが話題になり、その研究所に取材に行きました。
自宅の近くだったので、私も同行しました。
その技術を活用してまちおこしをしているところがあると聞きました。
島根県隠岐の海士町だそうです。
その話を聞くまで、私は海士町の名前も知りませんでした。
その数日後、友人から海士町に転居するというメールが届きました。
学校と地域の融合教育研究会を立ち上げた宮崎さんです。
驚きました。
先週、大阪に行って住友生命社会福祉事業団に寄りました。
昨年から地域医療貢献奨励賞というのをスタートさせたそうです。
その第1回受賞の一人が、海士町の榊原医師でした。
こう続けて海士町関係の話が出てくると奇妙な気分になります。
そんな話を友人の宮部さんに話したら、海士町の人に先日会ってお茶を購入したというのです。
NPOだんだんさくらの家の「福来茶」です。
これはきっと海士町が私を呼んでいるに違いありません。
研究会の調査も兼ねて、海士町に行くことにしました。

実は15年ほど前の話ですが、花巻から呼ばれたことがあります。
今回と同じように、花巻の関する話が次々に飛び込んできました。
かなり不思議な話も含めてです。
もしかしたら私の前世の秘密が解き明かされるような話までありました。
しかも突然、花巻と縁もゆかりもないはずの友人が花巻に転居すると長電話をかけてきました。
その時もとても不思議な気持ちになりましたが、前世への関心はなかったため、花巻に行きませんでした。
いまはそれを少し悔いています。
その時、花巻に入っていれば、人生が変わっていたかもしれません。
節子との別れも避けられたかもしれないのです。

ユングは、さまざまな出来事の生起は因果律によってだけ起こるわけではないと考えました。
そうした「非因果的連関の原理」をシンクロニシティと名づけました。
日本語では「共時性」とか「意味ある偶然」などと訳されます。
必然的な偶然という言い方もあります。
集合的無意識の世界を想定したユングにとっては、すべてはつながっているのです。

物事の生起に関しては、因果律やシンクロニシティの他にも、縁起という捉え方もありますが、ボームのホログラフィモデルを使えば、それらは繋がってくるようにも思います。
明在系の世界の背後に、時空間のない暗在系の世界があると考えれば、偶然とか必然とかはもちろん、そもそも物事の生起さえもが意味を失います。
彼岸と此岸とを揺れ動いている最近の私にとっては、こうしたことが違和感なく腑に落ちてくるようになりました。
時には、節子の配慮かと思うことさえあります。

花巻の失敗は繰り返さないように、今回は海士町に行こうと思っています。

■462:これまでの活動の資料を捨てることにしました(2008年12月6日)
節子
漸く部屋の片づけを開始しました。
もっとも、節子のものにいく前に、まずは私の関係の片づけから始めました。
節子がいなくなってから、私自身の周辺の片付けさえもあまりやっていないのです。
時々取り組みましたが、いつも途中でやめてしまいました。
私の書類関係などは、節子が病気になって以来、あまり整理せずにいますから、かなりの量の書類が山積みになっています。
いつか取り組みたいと思って、準備のために集めていた資料や書籍も少なくありません。
しかし、今回は思い切ることにしました。
たぶんもう新しいテーマに取り組むことは難しいでしょう。
節子がいない今、新しいテーマに取り組む意味もありません。
全く論理的ではないのですが、そんな気もします。

私のこれまでの活動の多くは、情報面では節子とシェアできていました。
いろいろな取り組みについて、相談するでもなく話をする相手が節子だったからです。
節子は、私の仕事に関して、とても関心を持ってくれました。
そして、私とは全く違う側面から、そして次元から、アドバイスしてくれました。
それが私にどれほどの力を与えてくれたかは、計り知れません。
ですから仕事関係の資料を見ると、取り組んでいた頃の節子のことが思い出されるのです。

いずれも思いのあるものだけに、簡単には捨てる気にはなれません。
それで内容を見ながら捨てているのですが、いつもはその途中で捨てきれなくなります。
しかし今回は原則としてすべてを捨てる決意で取り組んでいます。

「無所有」の著者の法頂の最新作「すべてを捨てて去る」にこんな文章があります。

英語で私有を意味する private という言葉は「奪う」という意味のラテン語 privare に由来する

私有とは奪うことというのは、よくわかります。
他の人の利用を排除するわけですから。
しかし、結局は自分からも奪っていると、法頂はいうのです。
そして、「私たちが何かに強く執着するとき、それが自分自身を縛る鎖になることは経験を通して誰もが知っている」と書いています。

資料を捨てることは過去を捨てることかもしれません。
しかし、節子との思いは捨てないように、しっかりと心身に刻み込んでおこうと思っています。
「すべてを捨てる」には、まだほど遠いです。

■463:「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」〔挽歌編〕(2008年12月8日)
タイトルの言葉は、映画「ブレイブワン」の主人公、エリカ・ベインの言葉です。
彼女はラジオの「ストリート・ウォーカー」という番組でパーソナリティをしているのですが、映画の冒頭、彼女がその番組で語った言葉です。
その直後、彼女は夜のニューヨークを恋人と一緒に散歩中、暴漢たちに襲われ、恋人は生命を落とします。
彼女自身は奇跡的に生還するのですが、まあ、その後の展開はチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」のような話です。
要するに私的な復讐劇ですが、「狼よさらば」から始まるポール・カージーものに比べるとリアリティがあります。
この映画が公開された時のメッセージは、「許せますか?」でした。
これは、難しい問題です。

挽歌編ですので、ここではそういう話ではなく、タイトルの言葉に戻ります。
恋人を失ったエリカは、たぶんこの言葉の間違いに気づいたでしょう。
「愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」というのは、論理の世界です。
しかし、エリカがそうであったように、実際には、失うのは「一部」などではありません。

以前、私も「自らの半分」を失ったようだと書きましたが、それも不正確でした。
失うのは、自分の一部でも半分でもありません。
すべてです。
すべてが変わってしまう。
正確に言えば、失ったのは自分ではなく、周りの世界なのですが、
失った当初は、その違いに気づけません。
しかし両者は全く違うものです。
最近、やっとそれがわかってきました。

エリカの話に戻します。
事件後の番組で、彼女はこう語ります。

その衝撃はあまりに大きすぎて
何も感じられない。
自分の中の他人
その他人は同じ腕を
同じ脚を、同じ目をもつ

おそらく、「一部」ではなく「すべて」を失ったエリカは、犯人への復讐だけにすべてをかけていきます。
その新たな思いだけが彼女を存在させ続けるわけです。
そして、エリカはこう続けます。

かつての自分に問いかける
昔に戻れる?

「かつての自分」、そして「自分の中の他人」
この感覚もすごくよくわかります。
しかし、その2人を見ている、「もう一人の自分」もいるわけです。
愛する人を失った人は、こういう複雑な状況にいるわけです。
言い方を替えると、「自分」が壊れてしまっているのです。

「ブレイブワン」は、先週、テレビで放映されたので録画して観たのですが、
エリカの「語り」がとても気になって、その部分を何回も観てしまいました。
そこからさまざまなことを考えさせられました。
少し「ブレイブワン」シリーズを続けます。

■464:「私に言えるのはあなたが私の人生に必要だということ」(2008年12月8日)
「ブレイブワン」シリーズその2です。

今回は理屈っぽい話はやめて、映画の最後のエリカの語りを紹介します。

もう戻れない
昔の自分にも
あの場所にも
自分の中の見知らぬ他人
それが今の自分のすがた

私に言えるのは
あなたが私の人生に必要だということ
星が光を失っても
あなたが明るく輝き続ける

エリカは、新しい自分に出会いました。
エリカは復讐を成し遂げることで、前に進めたのだろうと思います。
しかし、復讐すべき相手が、自分だったらどうなるのか。
私はエリカとは違う状況にいますから、エリカのようにはいきません。
節子を失ったことを、誰かのせいにはできないのです。
不謹慎な言い方ですが、復讐できたエリカがうらやましくもあります。

それはともかく、事件を決着させた後も、エリカはこう言います。
私に言えるのは
あなたが私の人生に必要だということ

新しい自分にエリカが出会えたことに、実はいささかの違和感を持っていましたが、
最後にこの語りが出てきたので、とても救われた気持ちがしました。

新しい自分とは、過去と切り離された自分ではありません。
昨日書いたように、壊れてしまった自分がまた一つになって生まれた自分なのです。
そこに、愛する者がしっかりと組み込まれている。
そんな感じを、最近強く持てるようになりました。
手塚治虫が「火の鳥」で繰り返し描いたような、愛する者と一つになり、それがさらに広がっていくような感覚です。

先日、帰宅途中の夜空に「笑顔」を見つけました。
私には初めての光景で、目を疑いました。
三日月の上に、水星と火星が並んで輝いていて、笑顔のように見えました。
これまで見たことのなかった組み合わせでしたので、夢をみているような気がしました。
出かける前に、「ブレイブワン」のエリカの語りを繰り返し聴いていた日だったので、
節子が私に送ってくれたメッセージだと思いました。
つまり、私だけに見えたのだと思っていました。
しかし、夜のニュースで、誰にも見えて風景だったことを知りました。
ちょっとがっかりしましたが、そこに私と節子が見えたのは私だけでしょう。
節子のおかげで、見えない世界がいろいろと見えるようになってきています。

■465:「人は何かを失う度に、新しい何かを得る」(2008年12月9日)
また「ブレイブワン」シリーズです。
このシリーズは、ややこしいのと退屈なのが
欠点です。
しかも、私の素直な考えの変化の書きなぐりですので、論旨に乱れもあります。
お許しください。

エリカが得たのは、「新しい自分」だけではなかったでしょう。
「永遠のデイビッド」(デイビッドはエリカの愛する婚約者でした)も得たのです。
映画が終わって、それを感じました。
新しい人生の始まりと言ってもいいでしょう。

私は、抱きしめることのできる節子を失いました。
しかし、決して愛し合うことの終わらない「永遠の節子」を得ました。
それがどれほど「あたたかな気持ち」になれることか、たぶん体験した人でないとわからないでしょう。
もちろん、その「あたたかさ」は、涙を抑えきれないほどの「さびしさ」と同居しているのですが、時に訪れる至福の瞬間があるのです。
いつかそのことを言葉にできればいいのですが、まだ言葉にはできません。
体験したのもまだ2回だけです。

ところで、「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」というエリカの言葉は、
「愛する何か」と「愛する自分」が一体化していることを示唆しています。
つまり、「愛する何か」への変わることのない「愛」への気づきを起こします。
それは新しい気づきであり、新しい「愛」との出会いです。
そうであれば、「人は何かを失う度に、新しい何かを得る」といってもいいわけです。

人を支えているのは、やはり「愛」なのではないか。
昔からずっと頭だけで考えていた、その考えが、最近、実感できるようになりました。
愛の対象は「伴侶」とは限りません。
親の場合もあれば子どもの場合もある。
妹の場合もあれば、友人の場合もあるでしょう。
自分への愛もあるかもしれない。
いや、人に限った話ではありません。
なかには「お金」と言う人もいるかもしれません。
形のないものの場合もあるでしょう。
誇りや夢、あるいは信念。
愛の対象はさまざまです。

事件前のエリカは、「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」と考えていました。
「愛する人」を失った直後のエリカは、「自分を失ってしまった」と考えていたように思います。
私もまさにそうでした。
しかし、「愛する人」を失うことはあっても、「愛」を失うことはないのです。
「愛するもの」と「愛」とは、違うのです。
「愛」は、自分と愛する人との間にあるのです。
最近、ようやくそのことに気づきだしました。

時評編に書いたように、この映画は、観る人にエリカの行動を「許しますか」と問いかけていますが、私の関心は、「戻れますか」にあります。
その答えは、いまは明確です。
「戻れます」
そして、エリカは「戻った」のです。

人は、愛する何かを失うと全く別人になるのかもしれません。
しかし、その「愛」の深さに気づけば、人はまた戻れるのです。
しかも、愛する人と一体になって。
人を支えているのは「愛」なのです。

何回も言いますが、節子は私にとって最高の伴侶でした。
会えないことは、言い表せないほど、悲しいですが、
でも、「永遠の節子」を得たのですから、喜ばなければいけません。
節子、きみも彼岸で喜んでいてくれますか。

最近、少しは「男前」に生きようかと思い出しています。
まあ、daxさんのようにはいきませんが。

■466:心身から発するもの(2008年12月10日)
まだ「ブレイブワン」シリーズは続くのですが、今日は少し寄り道をします。

6日に日本構想学会の集まりがありました。
いろいろな分野と世代の集まる、議論の場です。
そこでの議論のいくつかは、CWSコモンズの週間報告に書きました。

そこで、1年ぶりに会ったメンバーたちから「佐藤さんが元気になってよかった」といわれました。
これも何回か書いていますが、そういわれるのは、1年前がかなりひどかったということです。
そんなにひどかった? と訊くと、そうだったといいます。
私の意識では、人に会った時は元気になっているはずですので、そう感ずるのは相手の気持ちがそう見えさせるのだろうと確信していました。
今もそう思っています。
しかしどうもそればかりではないようです。
きっと私の心身から発するものが違っていたのでしょう。

婚約者を殺害されたエリカは、元気そうに振舞いながらも、人の目線を気にしない時は、壊れた生命体を思わせるほどです。
婚約者の墓の前で、「また戻れるか、答えてよ」と問いかける時のエリカの姿は、とてもジョディー・フォスターの演技だとは思えないほど、生々しいです。
もしかしたら、1年前の私は、それに似た姿だったのかもしれません。

だとしたら、周りの人から元気を吸い取っていたのかもしれません。
これまでは、「元気になったね」という指摘に反発を感じていましたが、
素直にそれを受け入れることにしようと思い出しました。
外観は取り繕えても、心身から発する生命力はごまかしようがないのですね。
そうなると、やはり「半身を殺がれていた」というのは事実かもしれません。

ややこしくなりましたが、いずれにしろ、元気になってきていることを喜びたいと思います。
しかし、まわりから元気を吸い取る何かが、まだ私には付きまとっているのでしょうね。
いつになったら、「私の元気」が話題にならなくなるのでしょうか。
早くそうなるように、取り繕う元気ではない元気を高めていこうと思います。

■467:世界が変わったのか、自分が変わったのか(2008年12月11日)
ブレイブワンシリーズの初回(挽歌443)に、
失ったのは自分ではなく、周りの世界なのですが、当初は、その違いに気づけません。
しかし両者は全く違うものです。
と書きました。

変わったのは自分ではなく、周りの世界だということですが、これは考えてみれば当然のことです。
節子がいなくなった世界は、私にとってはそれまでとは全く違った世界であることはいうまでもありません。
いなくなってから気づいたことですが、私にとって世界の半分は節子だったといえるほど、節子の存在は大きかったのです。
しかし、エリカもそうでしたが、愛する者を失うと、自分の人生が音を出して壊れてしまうのです。
まさに「自分を失ってしまう」という感じです。
世界に関しては、いつか書きましたが、節子がいなくなったのに何で以前と同じように動いているのだと、むしろ変化しないことに怒りさえ感ずるのです。
まあ、自分勝手な話です。

ぞんなわけで、世界が変わったのにもかかわらず、自分が変わってしまった、自分の人生も終わってしまった、そんな気になってしまうのです。
意識し思考する自分さえがいないような奇妙な気持ちにさえなることもあります。

しかし少し立ち止まって考えれば、変わってしまった世界との付き合い方がわからずに、おろおろしている自分に気づくはずです。
変わったのは自分ではない、世界なのだと。
それでも悩ましい問題があります。
それにしても、愛するもの、私の場合は節子ですが、それがどこにいるのか、と考え出してしまうのです。
彼岸に行ってしまったということはわかっているのですが、2人で創りあげてきた世界の中に節子がいないはずがない、という奇妙な確信が心身のどこかに消えずにいます。
存在しない節子の存在を否定できない何かが、心のどこかに残っています。
つまり、世界は変わっていないと思い続けたいのです。
そうした心の帳尻をどこでつければいいのかは、悩ましい問題です。

こう書いてきて、今気づきました。
自分と世界を分けて考えているから、こうした悩ましい問題が生じるのかもしれません。
私の世界には、私が包括されています。
ですから、変化するもしないも、私と世界は同調しているはずですね。
変わったのは、私であり世界である。
そうであれば、私も世界も変わっていないともいえそうです。

ややこしくなってきましたが、何だかますます引きずり込まれそうです。
でもこれ以上、読者の方にお付き合いいただくのは気が引けます。
もう少しまとまったらまた書くことにし、「ブレイブワン」ものはもう終わりにします。

このブレイブワンシリーズでは、よくわからないことを長々と書いてきてしまいました。
すみません。
いろいろと考えさせられたのですが、消化不良なのです。
肝心のことが書けていないような気がするのですが、これ以上書くと読者がいなくなりそうなので、今回でやめます。
付き合ってくださった型には感謝しなければいけません。
ありがとうございました。

たぶん節子は付き合ってくれていないでしょう。
もっとシンプルに考えなさいと笑っている彼女の顔が目に浮かびます。

■468:「やっと来ることができた人」と「まだ来られない人」(2008年12月12日)
高崎のTYさんが友人と一緒に湯島に来てくれました。
会うなり、「やっと来ることができた」とTYさんは言いました。
TYさんは私よりも5歳上です。
そして私より3年ほど前に伴侶との別れを経験されました。

私が彼女と最初に出会ったのは、たぶん5年ほど前です。
ちょうど節子が手術をした少し後でした。
当時、TYさんも夫と一緒に闘病していたのです。
しかし、私は節子のことで頭がいっぱいで、たぶん彼女の状況をきちんと理解できないでいました。
しばらくして、彼女が主催したイベントに参加しました。
その直前に彼女が夫を見送ったことを知って驚きましたが、彼女はそのイベントを見事にやり遂げました。
その時の彼女の思いを、私は十分に理解することができていませんでした。
彼女の気持ちを知らされたのは、その数年後、節子を見送った時でした。
節子を見送った後、彼女からたくさんの元気付けをもらいましたが、
その言葉や文字の中に、彼女が体験し、今も抱えている悲しみや辛さに気が付いたのです。
「見た目」と「内部」は全く違うことを知りました。

TYさんを知ったのは、犯罪被害者にテディベアを送る彼女の活動計画に共感したのがきっかけです。
TYさんは、今もテディベアづくりをベースにさまざまなところに「元気」と「癒し」を送り込んでいます。
節子の病床にも、彼女が創ったデディベアがありました。

節子はTYさんには会ったことはありませんが、その活動は知っていました。
TYさんの書いた本も読んでいました。
読み終えた後、「すごい人ね」と一言、つぶやいたのを今も覚えています。

そのTYさんが、わざわざ高崎から新幹線で来てくれたのです。
帰り際に、彼女が言いました。
来ようと思っても来られなかった。
でももう大丈夫。
また来ます。

彼女は最愛の夫を看病し見送りました。
その衝撃は大きすぎて表情に出せないほどだったのです。
そして、最愛の妻を見送った私の姿が、ご自身のことと重なっていたのかもしれません。
だから高崎駅まで行けても、新幹線には乗れなかったのです。
とてもよくわかります。
私もしばらくの間、会いたいのに心身が拒絶して、会いにいけなかった人が少なくありませんでした。

愛する妹を見送ったSさんから、会社を辞めることにしたとメールが来ました。
良かったら会いに来ませんかと、メールしました。
TYさんに会った日、Sさんから「まだ会いに行けない」と返信が来ました。

愛する者を見送ってしまうと、心身がなかなかうまく動かなくなるのです・
なんでもないようなことが、時に大きな壁になって、自分の前に立ちふさがってしまうようことが、やはり私にもあります。
そうしたことを一つひとつ超えながら、前に進んでいかねばいけません。

帰宅したTYさんから、
「肩の荷を下ろされた安堵感がすごく伝わってきました」
というメールが届きました。

節子
私も前に進んでいるようです。

■469:フェリー甲板での衝動(2008年12月14日)
節子
島根県の隠岐の海士町に行ってきました。
いろんなことが海士町につながっていたので、行く気になったのです。
ある研究会のメンバーのTAさんと一緒に出かけました。
隠岐は遠いので、一人ではまだ行く元気は出てこなかったかもしれません。

朝、5時前に自宅を出ました。
米子空港から七類港に行き、そこからフェリーで3時間以上です。
TAさんが気遣ってくれて、特別室を予約してくれていたので、快適なベッドで横になっていたおかげで幸いに大事には至りませんでしたが、船酔い止めを飲んでいたにもかかわらず、少し危なかったです。

海士はとても刺激的でしたが、それ以上に、同行したTAさんとの会話が刺激的でした。なにしろ、早朝の羽田から始まって翌日東京で別れるまで、まる2日間、ずっと議論をし続けていました。
これほどロングランで、2人で議論したことはもしかしたら始めてかもしれません。
そのおかげ、2日間の旅行中、節子のことを思い出す空白の時間はあまりなかったのですが、2回ほど、少ししんみりと思い出すことがありました。

1回目は、後鳥羽上皇の住まい跡に立った時でした。
海士は後鳥羽上皇が流されたところなのです。
上皇の寂しさや孤独感が、なぜか節子のそれに感じられたのです。

もうひとつは、帰路のフェリーの甲板で、海を見下ろした時でした。
ある思いが全身を貫きました。
一緒にいたTAさんに、下の波を見ていると飛び込みたい衝動が出てくるね、と話しました。
若い彼は賛成してくれませんでしたが、飛び込みたくなるような衝動が足の下から全身を包み込んできたのです。
彼がいたおかげで、そしてその言葉を口に出せたおかげで、その瞬間的に湧き上がってきた衝動を抑えることができましたが、それは思ってもいないほどの衝動でした。
私の心身の中にある節子への思いは、実は何も変わっていないのだと気づきました。
生命体は本当に不思議な存在です。

フェリーはかなり大きいので、波間まで10メートルくらいありました。
かなり高速で走行していますので、波が泡立ちながら後ろに流れていく様子を見ていると、そこに吸い込まれそうな気分になってしまうのです。
人は簡単に死ねるのかもしれないと、ふと思ってしまいました。

帰宅すると東尋坊の茂さんからメールが来ていました。
派遣会社の「契約止め」により生活が苦しくなり、多くの人が東尋坊の岩場にたつため、その対応に四苦八苦しています。
そのことがすごくリアルに感じられます。

■470:生きている以上、良いこともあれば悪いこともある
(2008年12月15日)
節子
昨日、新潟のSYさんが会いに来てくれました。
この2年の間に息子さんとお父さんを続けて亡くされたのです。
先日、新潟でお会いした時に少しだけ「心の内」を見せてくれていましたが、元気そうに振舞っていました。
しかし、ずっとどこかに気になるものがありました。
年内にもう一度会いたいと思っていたのですが、幸いに東京に来る機会があってお会いできたのです。

いつものように、つまりお互いに何もなかったように、いろいろと話をしましたが、帰り際に「もう落ちついた?」という言葉を契機に、お互いに真情を吐露することになりました。
元気そうにしていても、みんなどこかに発散させたい気持ちがあるのです。
私は、気持ちを発散させることの大切さを知っていますので、だれかれとなく話してしまいますが、ふつうはそうはしないでしょう。
話してもわかってもらえるはずもないし、わかったという人に限って、勘違いされてしまうことを体験しているために、こういう話はなかなか話せないのです。
しかし、そもそも「わかるはずがない」のです。
愛する人を失った悲しみは、人によって全く違うでしょうから。
ですから、わかったなどといわれるとなおさら寂しくなることもあるのです。

SYさんがしみじみと言いました。
生きている以上、変化していくのだから、良いこともあれば悪いこともある。
みんなそれぞれにそういうことを背負っているんですよね。

たしかにそうです。
子どもたちがまだ幼く、何の屈託もなく、私たち夫婦も元気で、世界がどんどん広がっている頃が、たぶんわが家の幸せの頂点だったのかもしれません。
そのころは、そんな意識など全くなく、幸せは大きくなる一方という気がしていました。
しかし、いろいろな形で悪いことも並行して大きくなっていたのです。
それが「終わり」のある「個人の人生」でしょう。
悪いことがあるから良いことがあり、良いことがあるから悪いことがある、のです。
それはわかっているのですが、生活を共にする人の人生がからんでくると、そう簡単には割り切れないのです。
「個人の人生」ではなく、「夫婦の人生」「家族の人生」になっているからでしょうか。
自分の不幸や自分の死は耐えられても、愛する人のそれは耐え難いものがあるのです。

そんなことを短い会話のうちに、SYさんと共有できました。
短い時間でしたが、お互いに思いを吐露できて、とてもよかったです。
辛さは外に発散しなければいけません。

■471:「声がとても元気なのでうれしい」(2008年12月16日)
節子
九州の蔵田さんが、電子レンジで焼き芋ができる「小国紅さつまいも」を送ってきてくれました。
一つずつプラスチック包装されていて、それをレンジすると焼き芋になるのです。
いかにも蔵田さんらしいと思って電話をしたら、阿蘇の小国町で見つけた「あそび心」を送らせてもらった、というのです。
蔵田さんは人を喜ばすのが大好きな人ですから、その気持ちはよくわかります。
節子さんにも食べてもらってくださいね、といわれました。
節子が元気だったらとても喜ぶでしょう。
蔵田さんは、ともかく元気にならないとダメだよと、いつもメッセージをくれるのです。
この「さつまいもセット」も、私を楽しい気分にさせるために探してくれたのです。
うれしい話です。
蔵田さんとは、昔、仕事関係でお付き合いさせてもらったのですが、仕事が終わった後も、こうして心遣いしてくれることがうれしくてなりません。
節子も、蔵田さんの明るさが大好きでしたが、お互いに夫婦一緒にお会いする機会がなかったのが、本当に残念です。
「声がとても元気なのでうれしい」と、最後に言ってくれました。

福岡の加野さんからは唐津の干物が届きました。
電話させてもらうと、とてもお元気そうな声が返ってきました。
加野さんはもう80代なのですが、とてもお元気です。
私たちと交流のあった娘さんのことを忘れないでいてほしいと、毎年、干物を送ってくださるのです。
娘さんを見送らなければいけなかった加野さんの辛さはどれほどのものだったでしょうか。
私がそれを知ったのは、節子を見送った後のことです。
愛する人と別れる辛さは、体験してみないとわかりません。
娘さんを亡くされた加野さんは、私の辛さがわかっていたので、その後、何かと気遣ってくれるのです。
加野さんも、最後に「声がとても元気なのでうれしい」と言いました。
期せずにして、お2人から同じことを言われたのです。

実は私も、お2人の声がとても元気に感じました。
元気になると、ほかの人の元気も伝わってきます。
私も最近、みんなの元気を感じられるようになってきたようです。

■472:台湾の呉金倉さん(2008年12月17日)
節子
昨日、台湾の呉さんから電話がありました。
元気そうでした。
今年の初めに節子のことをメールで伝えたのですが、どう返信したらいいかわからずに、オフィスに電話したそうです。
しかし、オフィスの電話は最近外してしまっていたので、連絡がつかなかったようです。
私たち夫婦のことをよく知っているので、きっとどう対応していいかわからなくなってしまったのでしょう。
いかにも呉さんらしいです。
幸いに最近、昔の手紙が見つかり、そこにわが家の電話番号があったようです。
10年ほど前の手紙を読み直していますと電話の向こう側で言っていました。

もう15年ほど前になりますが、毎月、定期的に湯島のオフィスを開放し、留学生たちのたまり場に提供していました。
異国で友達もなく、一人でがんばっている若者たちの支えになれればと思って始めた活動でした。
その常連たちが、正月にわが家に来て、故国の料理を作ってくれたこともありました。
呉さんもやってきて、手料理を作ってくれました。
そうした活動も、節子がいなければ出来なかったことのひとつです。
節子はみんなから好かれていました。
3年くらい続けたでしょうか。
いま日本に残っている人もいますが、みんな忙しそうで、交流が途絶えてしまったのは残念です。

その集まりに、ほぼ毎回、来てくれていたのが呉さんです。
とてもおだやかで、やさしい若者でした。
その後、台湾に帰り、仕事を始めました。
私たちも会ったことのある人と結婚したのですが、突然、結婚式の招待状が届きました。
とても行きたかったのですが、ちょっと大きな集まりでの講演と重なっていたため、行けませんでした。
その後、節子の体調があまりよくなくなってしまい、呉さんからは毎年お誘いがあったのですが、結局、台湾訪問は実現しませんでした。
しかし、呉さんが来日した時に、一度だけわが家にも来てもらいましたので、節子も台湾で活躍しだしている呉さんとも会えました。

呉さんも、私の元気そうな声を聞いて安心したようです。
節子さんのためにも元気になって、また台湾にも来てくださいといわれました。
行きたいような、行きたくないような、複雑な気持ちです。
節子が元気だったら、故国に戻って活躍している若者たちのところを回れるはずだったのですが。

■473:雪絵ちゃんの願い(2008年12月18日)
節子
いつかこの挽歌に登場した郁代さんのお母さんの大浦さんが、山元加津子さんのことを教えてくれました。
山元加津子さんは、石川県加賀市の養護学校の先生です。
そこで出会った仲間たちのことをまとめた「本当のことだから」を、郁代さんは読んで励まされていたそうです。
その本が、「1/4の奇跡〜本当のことだから〜」という映画になり、いま各地で自主上映会が広がっているようです。
それに関しては、「たんぽぽの仲間達」に詳しく書いてあります。
来年の2月7日には、サントリーホールで講演会&コンサートも予定されています。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko/

山元加津子さんは各地で講演もされていますが、そこで聴いた話を大浦さんは一部、伝えてきてくれました。
そこに「雪絵ちゃんの話」が出てきます。
雪絵ちゃんは、多発性硬化症という病気で、熱が出ると、目が見えなくなり、手や足が動かしにくくなるという病気だったそうです。

雪絵ちゃんは口癖のように
「私は病気であることを後悔しないよ」と言っていたそうです。
山元さんが、「どうして?」と聞くと、
「だってね、病気になったからこそ気がつけたことがいっぱいあるよ。
もし病気でなかったらその素敵なことに気がつけなかったと思う。
私は、気がついている自分が好きだから病気でよかった」
と雪絵ちゃんは言ったそうです。

その雪絵ちゃんが書いた「ありがとう」という文章があります。

私決めていることがあるの。
この目が物をうつさなくなったら目に、
そしてこの足が動かなくなったら、足に
「ありがとう」って言おうって決めているの。
今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、
私を喜ばせてくれたんだもん。
いっぱいいろんな物素敵な物見せてくれた。
夜の道も暗いのにがんばってくれた。
足もそう。
私のために信じられないほど歩いてくれた。
一緒にいっぱいいろんなところへ行った。
私を一日でも長く、喜ばせようとして目も足もがんばってくれた。
なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき
「なんでよー」なんて言ってはあんまりだと思う。
今まで弱い弱い目、足が、どれだけ私を強く強くしてくれたか。
だからちゃんと「ありがとう」って言うの。
大好きな目、足だからこんなに弱いけど大好きだから
「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの。
たぶんだれよりもうーんと疲れていると思うので……。

「ありがとう。もういいよ。休もうね」
節子のことを思い出しました。
長くなるので、後半は明日にします。

■474:「よかった」「よかった」(2008年12月19日)
昨日に続けて、雪絵ちゃんの話です。

雪絵ちゃんは、どんな時も、「よかった」「よかった」と言うのだそうです。
山元さんはこう話しています。

たとえば、「私ね、今日、車ぶつけちゃったの」って言ったらね、雪絵ちゃんがね、「よかったね」って言うんです。それでね、私が「どうして?」って。
そのとき、私、車買ったばっかりのときだったのにね、バックしてね、自分の家の塀にばーんとぶつけちゃったんですね。本当にね、最初に運転をしたときだったから、雪絵ちゃんに「大ショック」って言ったら雪絵ちゃんが「よかったね」って。
「だって私、ぶつけちゃったんだよ」って言ったらね、雪絵ちゃんがね、
「かっこちゃんぴんぴんしてるじゃない。かっこちゃん、少しぶつけといた方がいいよ。そうしたら後ろ向いて、ちゃんとバックするようになるから」って。

「ありがとう」と「よかったね」。
自分の小賢しさと身勝手さが、これほどに思い知らされたことはそうありません。
こういう生き方は、私が目指してきた生き方です。
でも全くできていません。

「ありがとう」は、最近はかなり素直に思えるようになりました。
これは節子のおかげだと思っています。
節子は「ありがとう」の人でしたから。
でも「よかったね」は、まだ口だけのような気がします。
一応、「現実をベストと思う」のは、私の日頃の心がけでした。
かなり若い時からの基本姿勢でしたが、なかなかそう思えないことが多かったです。
そして、節子が居なくなってしまってからは、ますます「現実がベスト」など思えなくなってしまったのです。
節子が居ない今がベスト?
そんなバカな!

でも、雪絵ちゃんの話を知って、少し意識が変わりました。
もしかしたら、節子もまた、「よかったね」と言ってほしいかもしれません。
「よかった」と思わなければ、節子が救われないような気がしてきました。
節子はとても見事に生き抜きました。
だから悲しまないで、褒めてやらなければいけません。
節子
人を褒めることが、こんなに悲しいことだとは思ってもいませんでした。

節子、ありがとう
そして「よかったね」

雪絵ちゃんは、2003年12月26日に亡くなりました。
山本さんは、ホームページにこう書いています。

けれど、雪絵ちゃんは亡くなってなお生き続けるのだと思います。
私はこれからもずっと雪絵ちゃんのことをお話しして、文章にもしていきたいです。
そうすることで、雪絵ちゃんはもっとたくさんの方に出会っていくことができるでしょう。
たくさんの方が、雪絵ちゃんに出会えるでしょうから。

ぜひホームページを読んでください。

■475:みんな、どこか知らないところで気にしていてくれる人をもっている(2008年12月20日)
節子
思ってもいなかった人から節子へのお供えをいただきました。
もう1年以上たってしまって、といいながら。
その人たちは、節子には会ったことのない人たちです。
でも、ライフリンクのメンバーといえば節子には通じるでしょう。

ライフリンクは自殺予防対策を目指して活動しているNPOです。
その立ち上げに、ささやかに協力させてもらいました。
節子も応援しており、代表の清水さんがテレビに出るといつも私に教えてくれました。
節子は「生命」の大切さを知っていましたから、この活動への関心も大きかったのでしょう。

先日、そのコアメンバーであるFさんとNさんから一緒に食事をしたいと連絡がありました。
NPOの活動をしている人たちから相談を受けることは多いので、何か相談があるのかと思っていたのですが、何か準備する必要があるかと思って、直前になって、「お会いする目的は何ですか」とメールしました。
Fさんから意外な返事が来ました。

大変遅くなりましたが、奥様がお亡くなりになり、お参りにもあがらないままでしたので、供養の気持ちを表したく、2人で考えておりました。

節子の症状がかなり厳しくなってきた頃、NPO関係の活動からもすべて手を引こうと考えました。
若い仲間が、私の卒業式に当たるフォーラムを開いてくれました。
全国のコムケア仲間に声をかけました。
急だったので心配していたのですが、全国から仲間が集まってくれました。
そのフォーラムに、お2人はライフリンクとして参加してくださったのです。
お2人は、ライフリンクの活動がここまで来ていることを報告する意味で、参加してくれたのだそうです。
その時は、私には精神的な余裕がありませんでしたので、そんなこととは全く思ってもいませんでした。
でもそう考えると、もしかすると山口のSさんも福井の茂さんも、大阪のMさんも、みんなそういう思いで参加してくださったのかもしれません。

私が取り組んでいるコムケア活動の基本は、表情のある人のつながりです。
「表情のある人のつながり」の大切さを教えてくれたのは節子です。
節子を見送った後、そのつながりに、私はどのくらい支えられたでしょうか。
それにしても、そのフォーラムで立ち話でしかお話していないお2人から、まさか節子の供養のお気持ちをいただくとは思ってもいませんでした。
おそらく私が少しずつ元気になってきたことを知って、声をかけてくださったのでしょう。

Fさんは大学の教授ですが、看護師でもあり、自殺の問題に早い時期から取り組まれており、さまざまなことをきっと身近に体験されているのでしょう。
Nさんは、ご主人を見送ったのが契機になって、ずっとライフリンクの活動に関わっています。
ですからお2人とも、愛する人を見送ることの意味を深く実感されているのです。
初めてであるにもかかわらず、2時間以上も話をさせてもらいました。

節子
私たちが知らないところで、こうやって私たちのことを気遣ってくれている人たちがいるのです。
それにしても、1年以上、気遣っていてくれたことがとてもうれしいです。

節子
人のつながりって、こういうことなのでしょうね。
これはきっと私たちだけのことではありません。
だれもがみんな、どこか知らないところで気にしていてくれる人をもっているのです。
それに気づけば、自殺などなくなるのではないかと、お2人と別れた後、思いました。
それに気づかせてくれたお2人にはとても感謝しています。

■476:「書は散なり」(2008年12月21日)
節子
「空海の企て」(山折哲雄)を読みました。
空海というとちょっと距離感がありますが、弘法大師といえば、節子のなじみのある存在になります。
節子はいつも故郷に戻ると近くの「太子堂」に行って、弘法さんをお参りしていました。
時々、私もつき合わせてもらいました。
節子の位牌壇にも大日如来の隣にはちゃんと弘法さんをお祭りしています。

空海は不思議な人です。
宇宙の虚空蔵ともつながっていたという噂もありますが、真言密教による国家乗っ取りを図った策士だという見方もあります。
私がこの本を読み出したのは、空海の戦略という話を、早稲田大学の松原教授に聞かせてもらったからです。

この本を読んでいて、ハッとした言葉がありました。

「詩は身心の行李を書きて、当時の憤気(ふんき)をのぶ。」
「古今時異なりと云ふと錐も、人の憤りを写(そそ)ぐ、何ぞ志を言はざらむ。」

あんまりよくわかりませんが、何だか最近の私の気持ちそのままのような気がしたのです。
心のうちの怒りと悶えを解放すること、それが「憤りを写ぐ」ということであると著者の山折さんは書いています。
そして、文を書くことは、「憤気」の解放、つまりカタルシスだというのです。

「書は散なり」という言葉もあるそうです。
中国の後漢時代の文人の言葉だそうです。
空海はその言葉を引用し、「書の極意は心鬱結する感情を万物に投入放散し、性情のおもむくままにして、そののちに文に書きあらわすべし」というようなことを書いているようです。

私のこの挽歌は、単に「憤気の解放」「鬱結する感情の放散」に留まっているような気がします。
もっとしっかりとその「憤気」に身を任せ、「そののちに文にあらわす」ならば、もう少しきちんとした挽歌になるのかもしれません。
まだ「書くための挽歌」であり、書いているときの自分の解放感のためのものでしかないとしたら、読んでくださっているみなさんには申し訳ない気がします。
いつか「読んでもらえる挽歌」が書けるような気がしていましたが、実は最近その自信がなくなってきているのです。
その理由が、この本を読んで少しわかったような気がします。

私は、この挽歌を書いているおかげで、そしてその挽歌を読んでいてくださる人がいることを感じているおかげで、自らの気を鎮めていられるのです。
心の中にしっかりした志(目的)があれば、その文は「述志」になります。
空海と私が、全く違うのは、志の有無でしょう。

空海であれば、愛する人との別れにどう対処したでしょうか。
「散としての挽歌」を書いたでしょうか。
それとも「志としての挽歌」を書いたでしょうか。
もし後者であるとすれば、人を愛することにおいては、私は空海を上回れたかもしれません。
まあ、上だ下だなどということには空海は無頓着だったでしょうが。

■477:受け入れたくない事実(2008年12月21日)
460で書いた藤原さんの奥さんから手紙が来ました。
奥さんに私のことも少し話していたようです。
「佐藤様とご一緒に楽しく仕事をさせていただきましたこと、主人はいつもありがたいと申しておりました」
藤原さんがそう思っていてくれたのかと思った途端に涙が出てきました。
藤原さんが私と一緒に取り組んだ仕事は一つだけです。
私はまだ東レと言う会社に降り、彼はユニチカにいました。
もう一人東洋紡の人も加えて、3人で繊維産業の実態をマクロに捉える試みに取り組んだことがあるのです。
通常の仕事とは違い、ちょっと研究的な活動でしたので、企業の枠を超えて、楽しくやれたのかもしれませんが、その当時はそれぞれに危機感を持っていました。
しかし、その後、それぞれの企業も厳しい状況に向かい、そんなマクロ的な活動は難しくなってきました。
私は企業社会から脱落し、藤原さんは企業のトップの座に着きました。

企業のトップの座が、いかに孤独で厳しいものであるか、私には体験がありません。
責任感と正義感の強い藤原さんにとっては、それこそ生命を賭した仕事だったでしょう。
それは生zんに2回ほど会った時にも感じられました。

どうも肺をやられており、昨秋ごろから呼吸が苦しくなってきていたようです。
私のところに留守電が入ったのはその頃でした。
藤原さんは、たぶんそれを誰にも知らさなかったのでしょう。
そしてたぶん会社の経営改善に全力を投じていたのです。
そして夏に体調を崩してしまったのだそうです。

今は主人が亡くなったことを受け入れたくなく、何年経ようとも(受け入れることは)無理なようでございます。

と奥さんは手紙に書いています。
私もそうでしたが、頭ではわかっていても、受け入れられないのです。
1年3か月経た今もなお、私もそうです。

それにしても、なぜ男たちは生命を縮めてまで会社のために働くのでしょうか。
藤原さんは「任侠の人」でしたから、社員のために休めなかったのでしょう。
彼にとっては、会社の社員が家族と同じように大切だったのかもしれません。
藤原さんは、そういう人でした。
正義と義憤の人でした。

生命を捧げることができるほどの仕事が持てる人は幸せだと言った人がいます。
それはそうかもしれません。
しかし遺されたものが、仕事よりも、正義よりも、自分のために生きてほしいと思うのもまた当然です。

私にとって、生命を捧げるに値するのは節子と娘たちだけです。
おそらく藤原さんもそうだったはずです。
それなのにそうならなかったことが悲しくてなりません。
遺された者の思いは、おそらくみんな同じです。

■478:節子に話したいことが山のようにたまってしまいました(2008年12月23日)
節子
先週はとても話題が多い週になりました。
多すぎていささか疲れました。
以前であれば、節子と喜びを分かち合い、辛さを分かち合うことができました。
私が出合った話題や事件、あるいは課題や問題も、節子と話しながら、その取り組みを考えることもできました。
でも、それらを分かち合う節子はいません。
そのため、話題や思いや情報が、溢れ出てしまうほど私の心身にたまってきています。
どこかで吐き出したいのですが、たまる一方です。

かなりプライバシーに関わる問題もありますから、そう簡単に口外はできません。
隠し事のできない私としては、これが一番辛いです。
「王さまの馬はロバの耳」というお話がありましたが、最近、それをよく思い出します。

節子と私は完全に情報をシェアしていましたから、友人知人のどんな個人的な話も分かち合うことができました。
それがどれほど私の活動を広げてくれていたか、最近、改めて実感します。
私が同時並行に多様なプロジェクトに取り組めたのは、節子のおかげだったのです。
いわばパソコンの外付けハードのような役目を、節子は果たしてくれていたのかもしれません。

あまり親しくない知人のことであろうと、個人の事情を引き受けることは、それなりのエネルギーが必要です。
「いのちの電話」などで相談に乗っている人の強さは、私には驚嘆に値します。
節子がいるときには、しかし、たぶん私にもその強さがあったのかもしれません。
私に生きる意味を与えてくれる節子がいればこそ、今の私があるのですね。
でも、「いまの私」は、「以前の私」ではないのかもしれません。
どんな体験も分かち合う人がいればこそ、昇華されますが、自分の中に抱え込んでおくと身勝手に増殖してしまいます。
その先行きがいささか心配です。
あまりに抱え込んだ情報で、自分がパンクしなければいいのですが。

それにしても、節子がいなくなったというのに、
私の周りでは相変わらずさまざまな事件が続発しています。
少しは私の事情も考えてくれ、といいたいですが、そんなわけにはいきません。
しかも、悪いことには、節子がいなくなってから、私自身の感受性はむしろ高まってしまっています。
昔もそうでしたが、それ以上に涙がよく出ますし、怒りを感じます。
素直に対応していたら、たぶん身が持ちません。
泣きたい時には泣き、怒りたい時には怒ればいいのですが、それがまた感情を増幅させることも少なくありません。

たまってしまった、たくさんの話題や思いを、早く節子に直接話したいです。
でもそうしたたくさんの問題を前にすると、そう簡単に節子のところにも行けません。
海士町からの帰りに船の上から飛び降りたら、今頃は節子に話せていたかもしれませんが、節子はきっと喜ばないでしょうし、私自身の心残りはそれ以上のものでしょう。

早くこの世界も、平安な浄土になってほしいです。
そうなれば、きっと彼岸と此岸との往来も可能になるような気がします。

■479:「迷った時には行動する」(2008年12月24日)
昨日書いたように、節子に話したいことがどんどん増えている理由のひとつは、10月くらいから少しずつ活動の度合いを広げてからです。
節子がいた頃とはまだ大きく違いますが、それでもかなり飛び込んでくる情報に心身的に対応しだしています。
後押ししてくれる節子はもういませんし、落ち込んだ時や壁にぶつかった時に救ってくれる節子ももういません。
しかし、動き出したら、どんどん向こうから問題が飛びこんできます。
それに、不思議なほど、それらがつながっていくのです。
ですから動かざるを得なくなっていくのです。

しかし、行動は以前に比べるとたぶん重苦しくリズミカルではありません。
迷いもあり、後悔もあります。

先日、隠岐の海士町に行った話は書きましたが、大きな後悔があります。
海士の診療所の榊原所長に会ってこなかったことです。
会おうと思えば会えました。その診療所の前をタクシーで通ったのですから。
以前なら躊躇なく会いに立ち寄りました。
でもなぜか診療所の前を素通りしてしまいました。
タクシーの運転手さんに、よろしく伝えてくださいと、全く意味のない伝言を頼んだだけでした。

実は榊原さんとは友人でも知人でもありません。
榊原さんは私のことなど全く知りません。
私が知っているのは、榊原医師が地域医療でがんばっていて、第1回目の地域医療貢献賞の受賞者であることだけです。
その賞の事務局の人から、海士に行ったら会ってみたらといわれただけなのです。
海士に行く前は会いに行こうと思っていましたが、いざ行ってみたら、何だか気が重くなったのです。
なにを話せばいいのか、それにお土産も忘れてしまったのです。
それで迷った結果、結局立ち寄らなかったのです。
以前ならこんなことは絶対ありませんでした。

「迷った時には行動する」
これが節子の信条でした。
私の信条でもありました。
私たちの信条やルールはかなり共通していましたが、どちらから言い出したかはいまやわからないほど、私たちは夫婦の文化を一緒に創ってきたのです。
「迷った時には行動する」は、かなり強いわが家の文化でした。
その文化のおかげで、実はいろんな失敗も少なくなかったのですが、節子も私も気に入っていました。
夫婦で迷った時には、どちらかがそう言い出し、行動しました。

その信条が、この頃、どうもうまく作動しないのです。
節子の病気が再発してから、この言葉をお互いに口に出せなくなったのです。
迷うだけで行動できない自分に、最近時々出会います。

今回の海士町の件で、それに気付きました。
節子
迷った時に行動していれば、今頃、君に会えていたかもしれませんね。
これからはまた、「迷った時には行動する」生き方に戻そうと思います。

■480:節子のいないクリスマス(2008年12月25日)
節子
君がいたら、今日はにぎやかなクリスマスです。
節子はいつも、家族みんなにささやかなプレゼントを用意していてくれました。
「ささやか」でしたが、心はしっかりとこもっていました。
しかし、今年は節子のいないクリスマスでした。

前にも書きましたが、私にはあまり「贈りもの」という思想がありません。
手元にある物をだれかにもらってもらうのは大好きですが、プレゼントのために何かを買うという行為が不得手なのです。
私はそもそも「買物」行為が苦手なのです。
節子へのプレゼントまで、節子に頼んで買ってきてもらおうと思ってしまうため、結局、プレゼントにならないのです。
ですから、私は節子にあまりプレゼントした記憶がありません。
節子
もっと君にプレゼントをしておけばよかったです。

ところで昨年のクリスマスはどうだったのでしょうか。
昨年のブログを読み直してみました。
1年前のことは、ほとんど私の記憶にはないのです。
ブログによれば、わが家全体が沈んでおり、プレゼントのやりとりはなかったようです。
でも今年はちょっと違っていました。

今日は出かけており、帰宅したのは6時すぎでしたが、娘たちがわが家らしい食卓を用意していてくれました。
ジュンが手づくりのいちごケーキを、ユカがいつもよりちょっと豪華な手づくり料理を用意してくれていたのです。
3人でこじんまりと、節子を話題にしながら、久しぶりに笑いの多いディナーでした。
節子にもケーキを供えました。
2年前に戻ったようです。
それにしても、節子がいないのが、私にはまだとても不思議でなりません。
どこかにいるような気がしてなりません。

愛する人を亡くした人は、きっとみんなこんな風にして、クリスマスや正月を過ごしているのでしょうね。
理由は何であろうと、節子を思い出せるのであれば、こうした行事もいいものです。
これでわが家もみんな、元気で年も越せそうです。


■481:ロゴセラピーと「人生の意味」
(2008年12月26日)
先日、お会いした精神看護学教授の福山さんからメールが来ました。

私はヴィクトール・フランクルのロゴセラピー的な考え方が好きです。
人生の意味を見出している人は、苦悩にも耐えることができるというものです。
だから、その時、その時を、その辛い体験と向き合い、その体験に意味づけられるように、臨床看護の場では、病む患者さん、ご家族と、いつも一緒でした。
それは実は自分の課題でもあるんです。
そのようにして、人は人と真に出会い、生かされているように思えてなりません。

ロゴセラピーとは、対話を通して、その人の「人生の意味」に気づかせることで心の病を癒す心理療法のことだそうです。
私には初めての言葉でした。
創始者はヴィクトール・フランクル。
ナチスによって強制収容所に送られ、そこでの体験を『夜と霧』にまとめた精神分析家です。
学生の頃、読んで以来、その印象があまりに強くて、私には不得手な人です。
しかし、その『夜と霧』のテーマも、「希望」が根底に流れているといわれています。
彼を支えていたのが、きっとこのロゴセラピーの理念なのでしょう。
だからこそ、フランクルは過酷な収容所生活を生き抜けたわけです。

「人生の意味を見出している人は、苦悩にも耐えることができる」。
全く同感です。
そして、人生にはすべて「意味」がある、ということもわかっていたつもりです。
しかし、その確信が、節子との別れによって、もろくも瓦解してしまったこともまた、事実なのです。
もし1年前だったら、ロゴセラピーのことを知っても、たぶんどこかで拒絶反応が起きたでしょう。
しかし、いまは素直に納得できるのです。
1か月ほど前から、そうしたことを受容する素地ができてきたように思います。
まさにその時に、福山さんから声をかけてもらい、ロゴセラピーの話を教えてもらったのは、きっと意味のあることなのでしょう。
ちなみに、福山さんにお会いした翌日、初めてオフィスに来てくださった初対面の方から「生と死」についての話をお聞きしましたが、その人が話していたことが、まさにロゴセラピーの考え方でした。
その奇妙な符合にも意味を感じます。

12月になってから、「節子がいなくなった人生の意味」を積極的に考えることを促されているようなことが続いています。
これも決して偶然のことではないでしょう。
私にとっては、今もなお「節子のために生きている人生」であることには変わりはないのですが、最近、改めて節子のために何が出来るかを考える気力が生まれてきているような気がします。
ちょっと気が戻ってきているのでしょうか。

■482:「節子だったら怒るだろうな」(2008年12月27日)
娘たちとテレビを観ていて、よく出てくる言葉があります。
「節子だったら怒るだろうな」。

節子は生真面目な人でしたので、テレビ番組で食べ物を無駄にするようなシーンが許せませんでした。
パイの投げ合いさえも大嫌いでしたし、ビールを掛け合うシーンも好きではありませんでした。
ともかく食材や料理を粗末に扱うようなことがあると本気で怒り出すのです。

食材だけではありません。
節子はともかく「無駄」が嫌いだったのです。
たとえテレビ番組とはいえ。物を簡単に壊してしまうようなショーは節子の怒りをかっていました。
そのくせ、自分はけっこう賞味期限切れで食材を無駄にしていましたが。

不真面目なものも嫌いでした。
たけしの不真面目な、特に独りよがりな駄洒落のような言動は大嫌いでした。
たけし軍団のメンバーに対する、暴力的な仕打ちには本当に腹を立てていました。

相方の頭をたたいたりする行為も嫌いでしたし、
裸に近い格好で出てくるタレントも大嫌いでした。
それに意味のない行為や言葉も好きではありませんでした。
中国雑技団の曲芸でも、たとえば頭で跳び歩いたり、お腹の上に石を置いたりするのは、なんでそんな馬鹿なことをやるのかと怒っていました。
節子は、自分でも言っていましたが、真面目すぎて時代についていけていなかったのかもしれません。
もちろん私も同じなのですが。

ニュースキャスターに腹を立てていたこともあります。
久米宏の、最後にごまかしてしまうような笑いにしてしまうコメントが嫌いでしたし、はっきりものを言わないニュースキャスターも好きではありませんでした。
自分が単純だったせいもあり、複雑な物言いも好きではなかったようです。

ほかにもいろいろありますが、時々、テレビに向かって腹を立てていたわけです。
その姿を私たち家族は時々思い出すわけです。
いつの間にか、そうした節子の反応が、私のものにもなってしまっています。
上にあげたような事例は、一つの例外を除いて私も同じです。
例外は、「意味のない行為や言葉」です。
たとえば、「ハンマーカンマー」のようなものは、絶対に節子は理解しないでしょう。
まあ、私も理解しているわけではないのです。はい。

残念ながら、節子が怒るような場面は。相変わらずテレビでは多いです。
いえ、ますます多くなっているようです。
節子が元気だったら、と思うと、最近の私の社会への反応の鈍さを反省しなければいけません。
今年の年末は、心が平安になりそうもありません。
節子に救ってほしいほどです。

■483:「野菜便」(2008年12月28日)
節子
九州の蔵田さんから、手づくりの野菜便が届きました。
もう5回目の野菜便です。
毎年、どんどん見事になってきています。
節子に見せたいです。とても。

「野菜便」。
この言葉は節子の思い出なしでは語れない言葉です。
ですから蔵田さんからの野菜便を開いた時には、理由もなく目頭が熱くなりました。
実は、先週は節子の姉からも「野菜便」が届きました。

私たちにとっての「野菜便」のはじまりは、節子がある雑誌に投稿した小文でした。
その年に節子の母が亡くなり、それまで毎年届いていた手づくりの野菜が届かなくなったのです。
翌年、敦賀に嫁いでいた節子の姉から「野菜便」が届くようになりました。
そしてさらに、会社を辞めて九州に転居した蔵田さんからも「野菜便」が届きだしたのです。

蔵田さんは上場企業の部長でした。
定年後、会社をすっぱりと辞めて九州に転居され、そこで自然の中で悠々と暮らしだしたのです。
そして、農業も始め、その見事な収穫を毎年届けてくださるのです。
今でもなお「やんちゃ坊主」の雰囲気のある蔵田さんが、まさか農作業などしないだろうと思っていたのですが、その成果を見る限り、どうも半端ではないのめり込み方をしているようです。
品種も実に多様なのです。
昨日は、ユカとジュンががんばって野菜たっぷりの料理を作ってくれました。
ベジタリアンの私としては幸せ一杯でした。

蔵田さんは、節子のことも良く知っていてくださいました。
九州からわざわざ献花にも来てくださいました。
その時は、私はまだ憔悴していたのでしょう、とても心配してくださり、私を元気づけようといろいろとお気遣いいただいています。
実際、私自身、その時、蔵田さんと何の話をしたか思い出せないのです。
自分ではしっかりしているつもりでも、やはり以前の私はおかしかったのでしょうね。

節子
こんな感じで、いろんな人が応援してくれるので、私たちも元気で年を越せそうです。
来年は、みなさんにお返しできるようになりたいと思っています。

■484:年賀状はやめました(2008年12月29日)
節子
年賀状を書かなければいけないのですが、どうも書く気が起きません。
最近は年賀メールに切り替えているので、ハガキで出す人は100人くらいしかいないのですが、それが書けません。
昔は、私の年賀状のメッセージを楽しみにしていてくれた人もいたのですが、最近は年賀状もいささか定型的になりがちでした。

節子との共通の友人や親戚への年賀状は節子の担当でした。
節子も以前は手づくりの年賀状でいつも制作が大変でしたが、病気になってからは私たち夫婦の写真を使うようになりました。
それでも節子は一人ずつに、手書きの文章を書いていました。
時間はかかりましたが、それは節子のスタイルでした。
手紙を書きながら、節子はいつも相手の人のことを思い出しながら話題にしていました。

節子は私の年賀状の書き方には否定的でした。
たとえ年賀状でも、いや年に1回の年賀状であればこそ、心を込めて、書くプロセスを大事にすべきだというのが節子でした。
私にはとてもできませんでしたが、そういうスタイルにこだわっている節子が、私はとても好きでした。
何日もかかって年賀状を書いている節子の姿をもう見られないのがさびしいです。

年賀状に限りませんが、年末にいろいろと家事に取り組んでいた節子の姿がもうわが家には戻ってこないのかと思うと悲しいですが、今年は2人の娘がいろいろと計画しながら、節子の文化を継承しだしています。
彼女たちのおかげで、私は節子がいた時と同じように、年末でも楽をさせてもらっています。

どんなに忙しくても、年末に出版される塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読み上げるのも、数年続いた私の習慣でした。
しかし、「ローマ人の物語」も、一昨年の15巻で終わってしまったので、昨年はそれができませんでした。
出版されてもとても読む気にはなれなかったでしょうから、私にとってはよかったのですが、今年、その続巻「ローマ亡き後の地中海世界」が出版されたのです。
先週書店で見つけて、なんだか偶然とは思えずに、早速、翌日に読み終えました。
とても面白かったですが、そんな厚い本は来年にして年賀状を書いたら、と言っている節子を思い出します。

でもまあ一人で年賀状を書く気は起きないので、今回は年賀状はやめることにしました。
今の気分では、これからずっとやめようと思います。
年賀メールもかけないような気もしています。
節子がいない世界では、年が新たになる意味が、実感できないからです。

■485:遠来の友(2008年12月30日)
節子
思わぬ人が訪ねてきてくれました。
トヨタの梅原さんです。
節子もオープンサロンで、何回か会っているはずです。
梅原さんはいまヨーロッパに転勤しており、年末年始の休暇で久しぶりに帰国されたのだそうですが、その合間に立ち寄ってくれたのです。
ブログで節子のことを知り、気にしていてくれていたのです。
先日も福山さんと南部さんのことを書きましたが、まさかヨーロッパにいる梅原さんがブログを読んでいるとは思ってもいませんでした。
思わぬところで、私たちのことを気にかけてくださっている方がいることに改めて感謝しました。

ところで、今年もあと1日になりました。
昨年は、大晦日の朝に突然おかしくなりました。
その記録がホームページにも残っていませんが、書く気力もなかったのでしょう。
大晦日の朝にめまいと吐き気が襲ってきてしまったのです。
節子が呼んでいるのかとさえ思いましたが、娘たちがとても心配してくれました。
夕方になっても回復の兆しがなかったので、救急病院を3か所も回ってしまいました。
CTも撮りましたが原因がわからず、結局、投薬で様子を見ることになりました。
そのため今年の3が日は自宅で過ごしましたが、喪中だったこともあり、初詣にも行きませんでした。

結局、ストレスのせいだったようです。
伴侶を失った暮らしには、きっとどこかに大きな無理が生じているのです。
配偶者を亡くした高齢者の多くは2年で亡くなってしまうという話を聴いたこともありますし、3年間は要注意だといわれたこともあります。
おそらくこれは自分ではコントロールできない話なのでしょう。
40年も連れ添っていれば、生活はそれを前提に展開していますから、その片割れがいなくなってしまえば、生活が変調を来たすのは当然のことです。
自分では気づかなくても、心身的には大きな影響を受けているはずです。
そうしたストレスから解放されるのは、そう簡単ではないでしょう。

今年は私にとってはさまざまな思いのつまった年でした。
さほど意識しませんでしたが、ストレスも大きかったと思います。
しかし、いろいろな人たちに支えられながら、元気に年を越せそうです。
梅原さんも別れ際に、前とお変わりありませんね、と言ってくれました。
ブログを読んでいると、きっと今にも死にそうな私のイメージになるのでしょうね。
まあ、それもまた否定できない一面なのですが、今年はたぶん明日も元気に過ごせそうです。
1年間、支えてくださった皆様方に感謝しています。

■486:元気で年を越せそうです(2008年12月31日)
節子
今年も何とか家族みんな元気で年を越せそうです。
このブログではあまり書きませんでしたが、それなりの危機もありました。
しかし、年末に近づいてからはそのほとんどが良い方向に向かいだしました。

節子がいなくなってから、家族が背負い込んだものは決して少なくありませんでした。
私自身がもう少ししっかりしていれば、娘たちへの負担も軽減できたのでしょうが、肝心の私自身が一番気を沈めてしまい、前向きになれない日々が続きました。
そのおかげで、友人知人を失ったかもしれませんが、そのおかげで得た友人知人も少なくありませんでした。
娘たちへも大きな迷惑をかけましたが、娘たちにはありのままの私を見せるようにしました。
私にとっては節子の存在はあまりに大きく、節子への依存も強すぎたため自立できていませんでしたから、娘たちは大変だったと思います。
それが必ずしも良かったわけではありませんが、
ともかく自分の思いに素直に過ごしてきたおかげで、
少しは娘たちからの信頼を高められたかもしれません。

節子への挽歌は毎日、その時々の私自身の気持ちをそのまま書いています。
全く無意味な記事も少なくありませんが、時には書きながら涙を出したり、幸せを感じたり、自己反省したり、いろいろです。
パソコンの前にある節子の写真と話しながら書いていますので、
少なくとも1日に1回は節子との会話があるといってもいいでしょう。
1日も休むことなく、節子と話し合ってきたという実感はあります。

1年前に比べると記事のトーンがかなり変わっていると思います。
それがそのまま私の心情の変化なのですが、
心情の根底にある「懺悔の念」は変わりようもありません。
節子への愛しさは高まることはあっても薄れることはありません。
私にとっては、今も節子は最高の伴侶であり、最高の恋人でした。
抱けるものなら今ひとたび抱きしめたいと思います。
しかし、節子といつも一体になっているような気もするのです。
それはとても不思議な感覚です。

娘たちもまるで節子がいるように、今でも節子の名前が出ます。
節子は今もなお家族と共にいるような気がします。
そして今年もまたみんなで年越し蕎麦を食べて、新年を迎えます。
節子がいればどんなに幸せなことでしょう。
それはしかし、欲が深すぎるのかもしれません。
もう少しで今年も終わります。
ホッとしているのが、正直のところです。

■487:初日の出(2009年1月1日)
節子
昨年は見ることもなかった初日の出を、屋上から家族3人で見ました。
節子と一緒に、太陽の治癒力にすがって祈ったことを思い出しました。
屋上から眼前の手賀沼の先に、日の出が見えます。
節子は、手賀沼の湖面に映る太陽の光がとても好きでした。

初日の出と共に、みんなそれぞれに祈りました。
娘たちが何を祈ったかわかりませんが、私は何も祈りませんでした。
ただただ節子を思いました。
節子の笑顔を思い出すと、思考がいつも停止してしまうのです。
太陽よりも、節子の笑顔は明るく楽しかったです。

新しい年が始まりました。
昨夜は、娘たちががんばっておせち料理をつくっていました。
ユカがつくったお雑煮と一緒に、1年の始まりを祝いました。
わが家もまた、普通の家族に戻ってきたような気がします。
節子がいなくても、普通に戻れるのだというのは大きな発見ですが、うれしくもありさびしくもある、というのが正直な私の気持ちです。

今日はジュンは友人と初詣、ユカと私は近くの兄の家に行く予定です。
家族みんなでの初詣は、節子も一緒に3日になりそうです。

それにしても穏やかな年明けです。
真っ青な空、包み込むような陽光。
今年は2年前のことを思い出して、「希望の年」にしました。
生命を支えているのは「希望」と「信念」であることを、改めて確信したからです。

今年も平安でありますように。
愛する人と会えなくなった人たちに、大きな平安が降り注ぎますように。
すべての人たちの誠実な営為が実りをもたらしますように。

■488:「あなたが傍にいても私はあなたが恋しい」(2009年1月2日)
節子
今日は、「すべてを捨てて去る」(法頂)で紹介されている、韓国のリユー・シフアの詩の引用です。

水の中には
水だけがあるのではない
空には
その空だけがあるのではない
そして私の中には
私だけがいるのではない
私の中にいる方よ
私の中で私を揺り動かす方よ
水のように空のように私の深奥を流れ
密やかな私の夢と出会う方よ
あなたが傍にいても
私はあなたが恋しい

この詩を紹介している法頂は、こう書いています。
「あなたが傍にいてもあなたが恋しい」ほどの恋しい存在を胸に抱いてひたむきに生きる人は、生きる意味を掘り起こしながら花のように美しい生を享受できるだろう。
あなたが傍にいてもひたすら恋しいあなたを、君は胸に抱いているか?
そのような「あなた」を胸に抱いている人は人生に祝福を受けている。

私の人生は祝福されている。
恋しい節子は、私の中にいる。
そんな気もしないではありません。

今日は娘たちも外出したため、一人でゆっくりと節子のことを思いながら過ごしています。
節子が一緒だと思っていても、
実際に一人になると、やはり無性に節子が恋しく、悲しさが突き上げてきます。
なぜ節子が元気だった時に、こうしたゆっくりした時間を持たなかったのか。
節子が病気になってからは、どうだったろうか。
いろいろな思いが去来します。
夫婦という関係は本当に不思議です。
その不思議さを語り合う相手がいないのが、またさびしさを募らせます。

■489:年賀状がまだなじめません(2009年1月3日)
今年は年賀状を1枚も書きませんでした。
年賀メールもやめました。
喪はあけていたとはいえ、その気になれなかったからです。

年賀状が届きました。
読んでいて、やはり何となく心になじみません。
「お変わりなくご活躍のことと思います」
「今年も良い年になりますように」
「いかがお過ごしですか」
「新春のお慶び申し上げます」
ひがみっぽくなっているせいか、どうしても心に引っかかってしまうのです。
「あけましておめでとうございます」という文字までもが、何回も読んでいるうちに、気になりだす有様です。
なんとまあ、自分勝手なことかと思うのですが、それが正直な気持ちです。
私の気持ちはまだ、喪中なのでしょう。

喪中。
喪に服する期間は普通長くても1年とされています。
しかしどうも1年では足りません。
私の場合は、もうしばらくかかりそうです。
せっかくいただいた年賀状なのですが、素直に読めないのです。
私自身、そんなことなど全く考えもしないで、これまで年賀状を出していましたが、
愛する人を失った人の気持ちは、1年では元に戻れないのです。

節子が、前年にもらった年賀状を読み直しながら、1枚1枚、年賀状を書いていたことの意味が、少しわかった気がしました。

送ってくださった方には大変申し訳ないと思いますが、
お返事をしばらく書けそうもありません。
お許しください。

それにしても、年賀状って、いったい何なのでしょうか。
これを契機に、年賀状はもうやめようかと私は思い出しています。

■490:やはりどうも前とは違います
(2009年1月4日)
節子
昨年はお正月の感覚など持てませんでしたが、今年は一応、お飾りもつけ、おせちも食べて、初詣にも行き、年始にも行き、お客様も来てくれました。
一応、人並みにお正月なのです。
しかし、どうも感じが違います。
私だけではなく、見ているとむすめたちもちょっと違うお正月のようです。

昨日はむすめたちが付き合ってくれて、湯島のオフィスに車で行ってきました。
節子が元気だったころは、年明けに節子と一緒に湯島に行くのが恒例行事でした。
年末は忙しかったので、年初にオフィスの掃除に行ったのです。
それを知っているむすめたちが、今年は一緒に行ってくれたのです。
しかしやはり節子と行くのとは違って、何となく仕事に行くという感じなのです。
節子と一緒の時は、たとえ掃除のためでも、気持ちがとても楽しかったのですが。

今日はお客様がありました。
節子がいたらこれもまただいぶ状況は違ったでしょう。
話は盛り上がるのですが、盛り上がれば盛り上がるほど、どうも心がついていけないのです。
やはりどこか違います。
うっかりしてお土産を渡すのも忘れてしまいました。
節子ならばそんなことはありえないのですが。

子の神様に、むすめと一緒に初詣に行きました。
むすめが気をつかってくれて、付き合ってくれたのでしょうが、やはりどうも違うのです。
節子であれば、寄り道をし、甘酒を飲んで、無駄な足取りが多いのですが、むすめと2人だと最短コースです。
快晴だったので、子の神様の高台から富士山がよく見えましたが、これもどうもいつものように感激できませんでした。
帰りに近くの森谷さんに会って立ち話をしましたが、何かが違います。

形は同じなのに、どうもみんなどこか違うのです。
考えてみると、私の行動のほとんどすべてが、最近はすべて節子と一緒だったのです。
どこに行くのも、何をするのも、一緒でした。
だから同じことをしていても、どうもどこか違う気がするのでしょう。
しかし、これからずっとこうなのでしょうね。
しかもむすめたちが付き合ってくれるのも、そう長くは続かないでしょう。

今年のお正月は手持ち無沙汰なのも気になります。
もともと私たち夫婦はテレビはあまり見ませんでしたが、実感としてはテレビをゆっくり見る暇がないほど、お正月は何かをしていました。
しかし、節子がいなくなったいま、することがないのです。
これまで一体何をしていたのでしょうか。
それさえ思い出せません。
年賀状や年賀メールをやめたせいかもしれませんが、どうもそれだけではないような気がします。

そんなこんなで、静かで気持ちのいい年明けだったのですが、どうも手持ち無沙汰です。
節子
やはり君がいないと退屈ですね。
明日はオフィスに行こうと思います。
誰かがきっと来るでしょうから。
不意に節子がやってくることもないとはいえませんし。

■491:湯島で節子と話しています(2009年1月5日)
節子
今年は元日から良い天気が続いています。
今日、久しぶりにオフィスの近くの湯島天神に行きました。
節子がいなくなってから、初めてです。
今までどうしても行けませんでした。

お店も出てにぎわっていました。
節子と一緒に飲んだ甘酒屋さんも出ていました。
みんな楽しそうでした。
まだここにはお正月が残っています。

私たちのオフィスは湯島天神のすぐ近くです。
今日はそこで半日を過ごしています。
このオフィスは私たちの人生の再出発の場所です。
いろいろな思い出が、ここには込められています。
目の前の壁には藤田さんのリソグラフがかかっています。
節子はこの「萌える季節」が好きでした。
このオフィスを開いたのは、平成元年でした。
その春、私は会社を辞めて、節子と2人で新しい生き方を選びました。
働くでもなく遊ぶでもなく、時代のなかで自分たちの生き方を探しながら、一緒に人生を創っていくというのが、その時の私たちの思いでした。
オフィスを開いた1週間、100人を超える人たちが来てくれました。
それが私たちの、いや私の生き方を決めてしまったように思います。
節子が思っていたのとはちょっと違っていたかもしれません。
しかし、節子は時々、不満を口にしたとはいえ、私についてきてくれました。

考えてみると、私の生き方はたぶん非常識な生き方です。
節子が苦労したことはよくわかっていますが、節子もまた、そうした私に生き方にいつしか共感してくれるようになりました。
私が節子に一番感謝しているのは、そのことです。
そして、節子に一番すまないと思っていることもそのことです。
節子には、世間的な意味での優雅な暮らしを体験させてやれませんでした。
ブランド品はひとつもなく、高級レストランでの食事もなく、旅行も庶民的な旅館だけでした。
私が、そうしたものがすべて嫌いだからです。
しかし、女性である以上、節子はたまにはちょっとした「ぜいたく」を楽しみたかったかもしれません。
なぜかそうしたものに生理的に反発してしまう私と結婚したために、少なくとも私と一緒には、節子は贅沢を味わうことはありませんでした。
私たちは、いつかも書きましたが、6畳一間の「神田川」の生活から始まり、質素で贅沢とは無縁の暮らしを続けてきたのです。
但し、お金で苦労したことは、節子もなかったでしょう。
お金がなくても豊かな暮らしができる術を私たちは持っていたからです。
愛があればお金などいらないというのは、少なくとも私たちには真理でした。

何だかおかしな方向に文章が進んでいますね。
湯島のオフィスで、節子の好きだった「萌える季節」を見ていたら、ついつい昔を思い出してしまいました。
ここにはともかくたくさんの節子が息吹いているのです。

今日はホームページで湯島でのんびりしていることを書いたので、夕方までいる予定ですが、まだ誰も来ません。
ホームページだけに書いたので、みんな気がつかなかったのかもしれません。
まあ、だれも来なくても、節子と話せるので退屈はしませんが。
でも誰かに来てほしい気もします。

■492:節子もこの挽歌を読んでいるのでしょうか(2009年1月6日)
節子
昨日の東京は、午後から雲が出てきました、
その雲が3つの層からなっていて、しかも水平軸と垂直軸、連続と断片の組み合わせで、何かのメッセージを伝えたがっているような気がしました。
そして、そう思っているうちに垂直軸の断片の雲が消えてしまい、また太陽の光が戻ってきました。
そして雲が、「火の鳥」のような形になって、空一面に広がりだしました。
雲の形の変化は実に見事です。
まあ、何を言っているのかわかりにくいと思いますが、昨日の記事をアップした後、オフィスで体験したことなのです。
そして、その時、全く脈絡はないのですが、節子がいなくなった自分のことばかりを考えていたけれど、節子の立場に立ったら、どうなるのだろうかという思いが突然頭をよぎったのです。

修がいなくなった節子。
私と節子は対称形ですから、そういう節子もいるわけです
伴侶がいなくなって寂しがっているのは私だけではないことに、ようやく今、気づいたのです。
節子もまた、私に会えなくなって寂しがっているはずですね、たぶん。

そう思わせてくれたのは、実はこのブログの読者の方です。
伴侶がいなくなった寂しさを書いている私がいて、
伴侶がいなくなった寂しさを読んでいる人がいる。
だとしたら、節子もまた、このブログを読んでいるのではないか。

あんまり論理的ではありませんね。
しかし、節子は知っていますが、私は「論理」が語られる言説の論理は、「小さな論理」でしかないと昔から考えています。
私にとっては、小賢しい私たちの論理などは、宇宙の前には小さな論理でしかないのです。
彼岸と此岸がつながっていると考える発想からは、瑣末な論理です。
すみません、横道にそれすぎました。

私と会えなくなった節子は、このブログを読んでどう思っているでしょうか。
やはり私がいないとだめね、と思っているでしょうか。
もしそう思ったら、そろそろ戻ってきてください。
戻れないのであれば、せめて読んでいる合図を送ってくれませんか。
メッセージは明日の朝、我が家の位牌壇にお願いします。
節子さん
頼みましたよ。

■493:キスケの従者が汗をかいていました(2009年1月7日)
昨日の挽歌に節子にお願いを書いたのですが、
なんと節子を守っているキスケの従者がまた汗をかいていました。
節子が示した「お印」でしょうか。

「また」と書きましたが、実は今年初めにも一度起こったのです。
わが家の仏壇は、中心に手作りの大日如来がいますが、その横に節子を守っているキスケ3人組がいます。
汗をかいていたのは、キスケの両側の従者だったそうです。
ユカも確認していますので、間違いない事実です。
仏壇の中には水分を発散させるものはなかったそうですし、他のところには異常はなかったそうです。
なぜキスケの従者たちが汗をかいていたのか、謎でした。

ところがそれがまた今朝、起こったのです。
どう考えるべきでしょうか。

古今東西を問わず、世界にはたくさんの「奇跡」が伝えられています。
ルルドの奇跡もありますし、空海の奇跡もあります。
最近でもいろいろとありますが、奇跡とは「起こすもの」ではなく「感ずるもの」なのかもしれません。
同じ風景を見ても、ある思いを持った人にとっては、とても不思議な意味を持つ現象と受け止められるのです。
節子がいなくなってから、私はさまざまな「奇跡」を感じますが、たぶん他の人にとっては気づきもしなければ、気づいても無意味なことと思うでしょう。
まあそんなものです。
キスケの従者の汗も、普通なら見過ごします。
なにしろとても小さいですから、私には言われても、そうかなと思う程度です。

昨年、篠栗大日寺の庄崎良清さんのところに行った時に、加野さんが言った言葉を思い出します。
「佐藤さん、事実かどうかよりも、あなたがどう受けとるかが大切なのですよ」
私もそう思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_25c9.html
今日はとても雲の多い朝でしたが、
この挽歌を書き終えたとたんに、太陽が顔を出し、私の部屋はサッと明るくなりました。
それさえも節子のメッセージだと思えなくもありません。

私たちは、無数の「奇跡」がとりかこまれているのかもしれません。
それに気づくかどうか、それは自分自身の問題かもしれません。
そんな気がしてきました。

■494:海外からの便り(2009年1月8日)
節子
エジプトの中野ご夫妻から、恒例の年賀状が届きました。
今年の写真は、サン・アル・ハガルにあるラムセスU世神殿跡のレリーフでした。
サン・アル・ハガルには行ったことはありませんが、エジプトを満喫している中野ご夫妻がうらやましいです。
エジプトは魅力的です。

私が会社を辞めた時に、わがままを言って、家族でエジプトに旅行しました。
その時にガイドしてくださったのが、中野さんです。
それが縁で、ささやかなお付き合いが始まりました。
中野さんご夫妻はカイロにお住まいですが、毎年、日本に帰国されており、湯島のオフィスにも来てくださいました。
ご夫妻は、カイロを拠点にいろいろな活動もされているのです。
バレンボイムのDVDを教えてくださったのも、中野ご夫妻です。

エジプト旅行はたくさんの思い出があります。
ルクソールからカイロに向かう列車から見た、日の出の美しさは今でも覚えています。
いつかまた行きたいと思っていましたが、節子がいなくなったいま、果たせぬ夢になってしまいました。

中野さんからの手紙には、節子のことに関して、
「ご連絡をと思いながら、思うに任せず、ご連絡できませんでした」
と書いてありました。
そうですよね、
訃報が届いたらどう返事を書いていいか、悩みますよね。

同じ日に、マレーシアのチョンさんからメールが来ました。
昨年、電話で、節子のことを話した時、チョンさんは絶句してしまい、以来、連絡が途絶えていました。
奥様が亡くなってから、どんなふうに言葉をかけたらよいのか、ずっと悩んでいましたが、佐藤さんも昔のように一日も早く元気になれればと思います。
チョンさんは、この挽歌も少し読んでくれていますが、ようやく声をかけられる状況になったのかもしれません。

どんなふうに言葉をかけたらいいか。
その気持ちはよくわかります。
私もそうですが、意を決して声をかけた後に、あれでよかったのかな、などと悩んでしまうこともあります。

チョンさんは前に書いた呉さんと同じく、日本に来ていた頃、留学生サロンに来てくれた人です。
チャンさんの博識と明るさが、節子はとても好きでした。
いまはインドネシアで仕事をしています。

海外からのメールといえば、ジュネーブの矢野さんからも年始のメールをもらいました。
ブログを拝見していて、少しずつお元気になられているご様子で、
良かったーと思っているところです。

いろんなところで、私たちを支えてくれている人がいると思うだけで、元気が出てきます。
そろそろ私も、心遣いされる側ではなく、心遣いする側にまわらないといけません。
節子がいなくなってから、どうも心遣いされることに慣れきってしまっていますが、そろそろそこから抜け出ないといけません。

節子さん
後押ししてくれませんか。

■495:読書の冬(2009年1月9日)
節子
こちらは寒くなってきました。
今年の冬は暖かく、庭の花がいつまでも咲いていて、植え替えられないとジュンが言っていましたが、さすがに秋の花は咲き終えたようです。
庭から色目が少なくなり、少しさびしい気がします。

しかし快晴が続いています。
幸いにわが家のリビングは日当たりがよく午前中は暖かいので、自宅にいる時はそこで本を読んでいます。
自宅で読書をするという習慣は私にはあまりなかったのですが、昨年末から今年にかけてかなりの本を読みました。
こんなに集中して読書をしたのは、20年ぶりくらいでしょうか。
とても久しぶりです。
それに、それなりにハードな本です。
基礎情報学とか社会論とか経済学です。
かなり頭が固くなっていて、読書のスピードが我ながら落ちています。
しかし、ずっと考えてきて、この30年取り組み続けてきたことが間違いではなかったという確信を強められました。

塩野七生さんの地中海シリーズや山折さんの「空海の企て」のような、柔らかな本も何冊か読みました。
ところで、不思議なのですが、いずれもなんだか以前読んだような気がしてなりません。
もちろん再読した本も何冊かありますが、ほとんどは新たに読んだ本なのです。
でもなんとなく親しみがあり、自分で書いたのではないかと思ったりするほどです。
そのせいか、読書速度はかなり落ちていますが、素直に心に入ってくるのです。
空海が時空間を超えたすべての知識がつまった虚空蔵につながっていたという話がありますが、なんだかそんな気分もしなくもありません。
節子のおかげで、彼岸と繋がったせいでしょうか。

節子がいた時には、本で読んで気づいたことを節子によく話したものです。
節子に話すことで、読んだことが消化できましたが、いまは話す人もいません。
それがちょっとさびしいです。

もっともまだ読めない本が何冊かあります。
最近また話題になっている城山三郎さんの本もまだ読めません。
一時、読めそうになったのですが、やはりまたストップがかかっています。
この種の分野は、読むのではなく、書くのが私には向いているようです。

■496:「運命は事前には書き記されていない」(2009年1月10日)
「運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない。」
生物学者のジャック・モノーが「偶然と必然」のなかで書いている文章です。
私はどちらかというと、偶然を大切にして生きています。
節子もそうでした。
私たちの共通点は、「計画的」でないとともに、「既存のルール」に拘束されなかったことです。
「計画」を立てるのが好きでしたし、既存のルールも大事にはしたのですが、そのくせ、それらに拘束されるのは苦手でした。
うまく書けないのですが、わかってもらえるでしょうか。

以前、「赤い糸」のことを書きましたが、その一方で、そうした「定め」のようなものも受け容れられるのも、私たちの共通点でした。
節子は病気になってから、よく「これが私の定めなのね」と話していました。
いま思うと不思議なのですが、その言い方は淡々としていて、驚くほどでした。
おそらく私もまた同じ立場になったら、同じだったと思います。
にもかかわらず、私たちは2人ともどこかで「治る」と確信していました。
運命があるとしても、それはいくらでも書き換えられる。
そう思っていたのです。
反省すべきは、そう思っていながらも、それに向けての努力を怠っていたことです。

上記のモノーの言葉は、最近読んだ「偶然を生きる思想」の中で出会いました。
それで昔読んだモノーの「偶然と必然」をまた読み直したのです。
驚いたことに、その本の上記の文章にマーカーペンで印がついていたのです。
私は本を読む時に、印象に残ったところに線を引くのですが、その線が引かれていたということです。
35年前に本書を読んだ時にも、この文章にこだわっていたのです。

節子との偶然の出会いは、その後、必然的な出会いだったと思えるほどに、私たちの人生を変えました。
おそらくそう思えるまでには、20年以上の時間が必要だったように思います。
そして、2人ともが「必然的な出会いだった」と確信できたところで、またもや偶然の別れがもたらされたのです。
そこで混乱が生じます。
この別れは「必然的」なものだったのではないか、と。

しかし、モノーがいうように、運命は事前に書き記されてはいないのです。
だとしたら、節子との別れは、私たち自身が書き記したことなのかもしれません。
いつどこで、こんな展開が決まってしまったのか。
なぜ私たちはそれに気づかなかったのか。
偶然を大事にして生きるのであれば、もっと自覚的にならなければいけません。
そのことを改めて思い知らされました。

運命を自らが書き記していくことは辛いことです。

■497:幸せは失った時にしか気がつかない(2009年1月11日)
節子
寒さが厳しくなってきましたが、昨日からまた天気が回復し、青空が続いています。
今日は3連休の真ん中でしたが、どこにも行かず自宅に引きこもっていました。
娘が風邪でダウンしてしまったのと、私もちょっと風邪の予兆を感じているからです。
節子がいなくなってから、風邪を引かないように注意しています。
看病してくれる節子がいないのでは、風邪はひきたくありません。
それまでは年始の風邪は恒例行事だったのですが。

今朝は快晴で、気温は下がりましたが、ガラス越しの日差しのなかにいるととても快適でした。
最近の習慣で、午前中の1時間はそこで読書です。
今日は「山口組概論」を読みました。
読書の合間に何気なく外を眺めていたら、わずかに見える手賀沼の湖面が、日差しを受けてきらきらと輝いていました。
この風景は節子が好きだったのを思い出しました。
見ているとまぶしいほどで、とても心があたたかくなる風景です。

ところが、見ているうちにだんだんとさびしさが強くなってきてしまいました。
以前は元気をもらえた風景なのに、今では元気を吸い取られそうです。
節子がいなくなってから、同じ風景が全く正反対の意味になってきたことはたくさんなります。
本当に不思議です。
節子がいなくなっただけで、こんなにも世界は変わるものかと思うほどです。
世界は本当に自分の心の鏡です。

そういえば、3連休さえも意味が全く変わってしまいました。
昔は3連休ならば節子と一緒に必ず何か計画を立てました。
ところがいまは計画など全く立てる気になりません。
自宅で無為に過ごすことは、寂しさを感ずる時間が増えることでしかないのですが、無為にしか過ごせなくなったのです。

屋上に行って手賀沼の写真を撮りました。
残念ながら乱反射する情景は私の腕では写せませんでしたが、こんななんでもない風景さえもとても幸せな風景だったのだと改めて思いました。
私たちの周りにはきっとたくさんの「幸せな風景」があるのです。
しかし、その中にいるときにはそれに気づかない。

言い換えれば、「幸せは失った時にしか気がつかない」のかもしれません。
だとしたら、いまもなお私は幸せなのでしょう。
いつかまた、いまの毎日が幸せだったことに気づくのかもしれません。

今日はちょっと「哲学的な1日」をすごしました。
最近、私はかなり「哲学者」なのです。

■498:「幸せ」を共有することの難しさ(2009年1月12日)
節子の夢を見ました。
目覚めた時にはかなりはっきりと覚えていたのですが、いざ書こうとパソコンの前に座ったら思い出せないのです。
たしか2人で観劇をしていたような気がしますが、それがなぜか突然電車の席に変わり、まあいつものようにかなりシュールな夢でした。
しかし一緒にいることが、とても幸せに感じられる夢だったように思います。

私が一番幸せだったのは、やはり節子と一緒にいる時でした。
夫婦喧嘩をしている時でさえ、私は節子といるのが好きでした。
顔もみたくない、などということは、どんなに激しい喧嘩をしている時にもありませんでした。
もっとも、節子は必ずしもそうではなかったかもしれません。

それはともかく、昨日も書いたように、幸せの大きさは失った時にしか気がつかないものです。
愛する人と一緒に笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだりできることがどれほど幸せなことか。
しかしそれはあまりにも当たり前すぎて、その幸せとは違う幸せを目指しがちです。

節子が病気になってからよく口にしたのは、今日も昨日と同じに無事過ごせたという言葉でした、
節子はいつもそのことに感謝していました。
私は、節子がもっと元気になって病気を克服することばかり考えていたような気がします。
「元気になったら台湾に行こう」
「治ったら応援してくれたみんなのところを回ろう」
今の幸せではなく、明日の幸せしか視野になかったのです。
今をしっかりと生きようとしている節子には、もしかしたら「さびしい」話だったかもしれません。
今から考えると、私と節子とは「幸せ」を共有していなかったのです。
そう思うと節子が不憫でしかたがありません。

節子は私の性格をすべて知っていましたから、もしかしたら私の価値観に合わせてくれていたのかもしれません。
全く違った人格を持つ2人が、そもそも価値観を共有することなど出来るはずがありません。
どちらかが、大きな寛容さをもって、相手を包み込まないと、そうはならないでしょう。
私がその寛容さを持っているといつも思っていましたが、そうではなかったようです。
私は、節子にとってあまりいい伴侶ではなかったのかもしれません。

いま私が一番幸せなのは、夢の中で節子と一緒にいるときです。
いまは素直に節子に従いながら、その時々の幸せを受け容れるようにしています。
目覚めてしまうと、その内容が思い出せなくなってしまうのが残念ですが。

しかし考えてみると、節子と一緒に暮らした40年間も、昨日見た夢とどこが違うのでしょうか。
今の私には、いずれもが同じに感じられます。

■499:一緒に暮らすということは、学びあうこと(2009年1月13日)
プラトンは『饗宴』のなかで、愛についてこう語っているそうです。

愛の目的は、美しさではなく、美しさを生み出すことである。
生殖は命に限りあるものにとって不死を獲得する唯一の方法である。

ある本からの間接的な引用ですので、不正確かもしれませんが、考えさせられる言葉です。
その本(「生命をつなぐ進化の不思議」ちくま新書)の著者の内田亮子さんは、こう書いています。

これは、生物の命のつながりのことである。
さらに、生産には繁殖とは別に精神を介したものがあるとプラトンはいう。
これが知のつながりであり、これによっても人間は不死を獲得することができる。
「魂によって懐妊し出産することができるすばらしい詩人や発明家たちが存在する」と。
産み出された知は、脳を介して伝わっていく。

節子との40年の暮らしの中で、私たちがお互いから学んだものはたくさんあります。
もっとも、一緒に暮らすということは、学びあうことだと気づいたのは、私の場合はかなり遅くなってからです。
たぶん会社を辞めて、節子と一緒に湯島のオフィスを拠点に活動を拡散するようになってからです。
それまでに節子からたくさんのことを学んでいたことに気づかされたのです。

私は主に知識を節子に提供し、節子は私に生きることの意味を教えてくれました。
私は言葉で、節子は行動で、です。
しかし、次第に学びあうことから育てあうことに変化したように思います。
私も知識だけではなく、行動を主軸にするようになりました。
私たちの世界観や生活文化は、かなりシンクロナイズしていったように思います。
詩や発明にはつながりませんでしたが、私たちの文化はささやかながら娘たちに継承されていますし、私の周囲の人たちにも少しだけ伝わっているかもしれません。

会社を辞めてからの私の仕事のすべては、その意味で節子との共同作品です。
何気ない節子の一言が、私の創造力にどれほど刺激を与えてくれたことか。
何気ない節子の反応が、私にどれほどの勇気を与えてくれたことか。
そんななかから、要するに知的成果というのはすべて個人のものではないことにも気づかされました。
私が知的所有権という概念に反対するのは、そのせいです。
知的成果は個人が独占すべきことではありません。

プラトンがいうように、生命はつながっており、個別の生命を超えて考えれば死はきわめて個別の現象でしかありません。
生命のつながりの確信があれば、大仰に嘆き悲しむことではないのかもしれません。
それはわかっているのですが、にもかかわらず、やはりまだ煩悩から抜け出られずにいます。
「愛の目的は美しさを生み出すこと」
これも最近、何となく理解できるような気がしています。

■500:年賀状の返事(2009年1月14日)
節子
たくさんの方から年賀状をもらいました。
宛先にまだ「節子」があるものも3枚ありました。
私のほうの友人ですが、伝えていなかったようです。
この年賀状が正しくて、節子の不在は私たちの勘違いだったらどんなにいいでしょうか。
その人たちに伝えようかどうか、迷っています。

ところで、今年は年賀状を1枚も出しませんでしたし、年賀メールも出しませんでした。
世間的には喪はあけたのですが、どうしても賀状を書く気にはなれなかったのです。
しかし、黙っているのも失礼です。
思い切って、メールと手紙を書くことにしました。
あまり気分は乗りませんが、これから1週間かけて出していくつもりです。

こんなことをいうと笑われそうですが、おそらくこれからずっと年賀状は書けなくなるような気がしています。
心理的には、ずっと喪に服していたい気分なのです。
節子がいない今、たとえ何であれ、祝う気分にはなれないからです。
正確にいえば、「祝う気分」と同時に、節子と一緒にそれを味わえない「悲しい気分」が生じてしまい、結局、本心から祝えなくなってしまっているのです。
困ったものです。
付き合いにくい人間にならなければいいのですが。
そうならないように努力しなければいけません。

■501:「生き方」と「死に方」(2009年1月15日)
今日の読売新聞の記事です。

 がん患者の8割以上は、最後まで病気と闘うことを望みつつも、死を意識せずに普段通りに過ごしたいと考えていることが、東京大に よるアンケート調査で明らかになった。
 逆に、がん診療に当たる医師や看護師は、将来の病状の変化や余命を知って、死に備えることを重視する割合が多く、患者と医療関 係者の間で価値観のギャップがあることが浮き彫りになった。

節子のことで知人の医師に相談した時に、問題は「死に方」ですね、といわれたのはショックでした。
その医師は、統合医療研究会の中心人物だったこともあり、違った答を期待していたからです。
その後も医師に限らず、同じようなことを言われたこともありました。

日本の武士道でも「死に方」が問題にされますが、私には全く理解できない発想です。
人間は死に向かって生きているわけではありません。
生きているから死があるのです。
さもわかったように、「死に方が大切です」などという人を見ると、正直、私は蹴飛ばしたくなります。
生きようとしている人に対して、わかったようなことをいうな。
自分の生き方も少しは考えろ、といいたくなるわけです。

少し言葉がすぎたかもしれませんが、真剣に生きている人に、「死に方」などということが、どれほど残酷なことかわかってほしいものです。
「死に方」は、所詮は「生き方」の問題ですから、わざわざ言い換える必要はありません。
それに、生命はすべてつながっていると考える私にとっては、「死に方」は自分でどうこうできる問題ではありません。

こうしたことに関して書き出すと長くなってしまいますのでやめますが、節子は最後まで見事な生き方をしました。
節子は最後の最後まで、生き方を考え、生きることを放棄はしませんでした。
死への恐怖や不安は見事なほど、克服していました。
肩に力を入れて、そう思っていたわけではありません。
死から解放され、素直に、自然に、最後まで誠実に生きたのです。
弱音も愚痴も一切口にしませんでした。
告別式の挨拶で話したように、最後の1か月は凄絶な闘病生活でしたが、それはそれは見事な生き方でした。

それを「死に方」という人がいるかもしれませんが、断じてそうではありません。
心のある人であれば、決して死に方などという言葉は使わないでしょう。
一緒に体験しているとわかりますが、「生き方」なのです。
「死に方」で発想している医師には、生命への畏れが欠落しています。
病気は治せても、病人は治せないでしょう。
そういう人たちが、きっとイリイチの言う「病院社会」をつくってきたのです。
また言葉が激しくなりそうですね。
この件では、医師に言いたいことが山ほどあるので、どうしても感情的になってしまいます。
節子に怒られそうなのでやめましょう。

見事な生き方をした節子。
あまりに見事だったので、私は節子が死んだとは今でも思えないのです。
その節子に比べると、今の私の生き方はいささか弱々しいかもしれません。
しかし、私もまた、素直に、自然に、誠実に生きています。
でも誰もほめてくれません。
節子だけはきっと彼岸からエールを送ってくれているでしょう。

■502:「父ちゃんが逝って1か月がたちました」(2009年1月16日)
節子
高崎で「ゆいの家」の活動をされていた、コムケア仲間の高石さんから毎月送られてくる「風の大地」が届きました。
コムケア仲間からのニューズレターなどは最近あまりきちんと読んでいないのですが(読む余裕がなくなっていました)、今年からきちんと読んでいこうと思い、開いてみて驚きました。
「父ちゃんが逝って1か月がたちました」とあるのです。

高石さんのことは一度書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/06/post_fa5a.html
高石さんの夫もまた、節子の再発と同じ頃にがんが再発したのです。
しかし、時折届く高石さんの「風の大地」を通じて、危機を乗り越えて、回復し元気になったと思い込んでいたのです。
節子の訃報を伝えた時にも、几帳面にぎっしりと書き込んだ返信をもらいましたが、その時にも高石さんたちは危機を乗り越えたんだなと感じたことを覚えています。
ところが、思わぬ記事に出会ってしまいました。

高石さんのパートナーは、発病以来、しっかりとご自分でノートを書いていたそうです。
そのノートの一部を「風の大地」に引用されています。
そして、高石さんはこう書いています。

父ちゃんのノートの内容をたどりながら、「父ちゃんの死」に対して、きちんと向き合いたいと思います。

それに続いて、代替医療を信ずる高石さん、しかし医者から提案される抗がん剤治療に迷う夫、その2人のそれぞれの思いなどが語られています。
とても身につまされる話で、最後までは読めませんでした。
今回はいつもよりも、とても長い「風の大地」でした。

「父ちゃんが逝って1か月がたちました」
高石さんらしい言葉です。
夫婦の関係は実にさまざまです。
私たち夫婦と高石さん夫婦はかなり違っているのですが、高石さんがとても素直に気持ちを披瀝されているところは私と全く同じです。
愛する人との別れは、人をとても素直にするのかもしれません。

私は高石さんのパートナーには会ったことはありませんが、ご冥福をお祈りいたします。
高石さんからの「風の大地」を、これから読めるかどうか、ちょっと不安です。

■503:坂道をのぼりながら考えたこと(2009年1月17日)
節子
最近、坂道を登るのに息が切れてしまうようになりました。
老いを身体で実感できるようになってきたのです。
ポジティブシンキングを目指す私としては、身体の感受性が豊かになってきたと受け止めていますが、その坂道をのぼりながら思い出すのは節子のことです。

節子が病気になってから、2人で散歩などしていると、私には気づかないようななだらかな坂道でも、疲れるからもっとゆっくり歩いてよ、といったものです。
最初の頃は、こんな坂でそんなにもつらいの、と私は無情にも反応してしまったものです。
元気な時にはなかなか実感できないもので、ついつい急がせてしまっていたこともあるような気がします。

これは坂道だけではありません。
歩く速度じたいも昔と違ってゆっくりになりました。
いや生活すべてにおけるスピードが変わっていったのです。
私はそれを理解しても、なかなか身体的な反応にはつながらず、節子には申し訳ないことをしたと今でも思っています。
頭での理解と身体的な反応は時間のずれがあります。
しかし、一度身体に刷り込まれた時間リズムは定着し、節子のリズムが今の私のリズムになっているような気がします。
そして、坂道をのぼるときに、節子が教えてくれた生活リズムをいつも思い出すのです。

「人を愛するとは、その人間と一緒に年老いるのを受け容れることにほかならない」とアルベール・カミユは書いています。
私たちは一緒に暮らし始めた時に、そのことをかなり意識していました。
しかし、節子が私より早く旅立ってしまい、年老いた暮らしを共にできなくなってしまいました。
節子は、私に対してそのことを時々わびていました。
まさか関係が逆転するなどとは私たちは思ってもいなかったのです。
年老いて、2人の人生の苦楽を思い出しながら、語り合う。
それがある意味での私たちの人生の目標だったのです。
過去は、未来においてはじめて意味を持ってくる、と私は考えていました。
ですから、2人とも過去のことなどには無関心に生きてきました。
しかしもはや過去を語ることもなくなってしまったのです。
私たちの未来が消えてしまうと共に、過去もまた消えてしまったのです。

昨日、坂道をのぼりながら、少し息切れしている自分に気づきました。
その時にハッと気づきました。
病気になってからの節子は、その後の人生を凝縮させて生きていたのではないか。
私に年老いた自分を体験させてくれたのではないか。
そして私に年老いた時の生き方を教えてくれていたのではないか。

いささか馬鹿げた考えですが、そう思えてきたのです。
私たちが目指していた、年老いて寄り添いながら暮らす生き方を、節子は体験させてくれていたわけです。

「人を愛するとは、その人間と一緒に年老いるのを受け容れることにほかならない」
カミユの言葉の意味が、ようやくわかったような気がします。
節子、ありがとう。

■504:精一杯生きる(2009年1月18日)
挽歌501にお2人の方からメールとコメントをいただきました。
コメントしてくださったのは、田淵さんです。
一部を再録させてもらいます。全文はコメントをお読みください。

私も先日出した寒中見舞いに
「・・・・過酷な闘病でしたが主人は最期まで投げ出すことなくひたむきに生き抜きました。・・・・」
と書きました。

 そうですね。死ぬために生きているのではありません。

友人たちが慰めのために「ご主人はもういいと思われたときもあった筈だけど、あなたのために頑張られたのよ」と言ってもらっても違和感を感じたのは、私はやはり主人はもういいとは一度も思わなかったと確信しているからです。
生きたいと思っていたに違いありません。
真摯に生き抜きました。
そういう人間もいることを知ってほしいですよね

「そういう人間もいることを知ってほしいですよね」
というところに、田淵さんの思いが伝わってきます。

もう一人は、挽歌287で紹介した大浦さんです。
むすめさんを見送った大浦さんからも、(私も)そのことを伝えたくて、「あなたにあえてよかった」を書いたのだと思いだしました、とメールをもらいました。

郁代もまた、他に選ぶことが出来ない、逃げ場のない生を、最期まで精一杯生きようとしたのでした。

周りの人ができることは、精一杯生きようとしている人と共に生きることなのかもしれません。
最近、テレビに時々登場しますが、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さんが「本当はみんないきたいんや」と言っていたことを思い出します。

昨日、ある集まりで、「死」が話題になりました。
私にはかなり辛いテーマですが、今年は少し「死」に関するプロジェクトに関わることになりそうです。
自分で決めたことではなく、流れの中でそうなってきたのです。
これもきっと何かの必然性があるのでしょう。
しかし、「死」を語る時には、いつもこのことを忘れないようにしたいと思っています。

■505:「見かけは元気」(2009年1月19日)
節子
昨日、思わぬ人からの電話です。
先日電話をくれたマレーシアのチョンさんが日本に来たので会いたいというのです。
日本にくるかもしれないと言っていたので、もしかしたらとは思っていましたが、あまりに突然でした。
幸いに在宅だったので、自宅に来ないかと言ったのですが、仕事の関係で時間がとれないというのです。
それで上野まで会いに行きました。
全く変わっていませんでした。
そして、節子がいつも言っていたように、「陽気なチョンさん」ぶりも変わっていませんでした。

前にも書きましたが、アジアからの留学生の集まりの場を提供し、私たちとして何かできることを考えたいという思いで始めた留学生サロンは、あまりうまくいきませんでした。
最初の集まりで感じたのは、留学生たちの「疑いの目」でした。
日本人に対する不信感のようなものを感じました。
それはそうでしょう。
見ず知らずの人が急に声をかけてもどこか胡散臭い感じです。
実際にいろいろとひどい目に会った人もいるようでした。
みんな日本人に対して、あまり良い印象を持っていませんでした。
そういう場に、しかし節子がいることで雰囲気はかなり変わりました。
節子がいることで、安心感を与え雰囲気を和らげる場面は、留学生サロンに限らず、いろいろとありました。
私のさまざまな活動は、そういう意味でも節子に支えられていました。

当時、私はあまりにもたくさんのテーマに取り組みすぎており、留学生サロンもその一つでしかありませんでした。
問題に出合うとすぐに何かやりたくなってしまい、みんな中途半端に終わってしまう私の性格は今もあまり変わっていませんが、留学生サロンは節子はたぶんもう少し続けたかったのではないかと思います。
しかし同居していた私の母の介護や節子自身の体調不振が起こり、しかも、私が時間破産に陥ったりして、2年ほどで終わってしまいました。
その後も何人かの留学生はやってきてくれていました。
チョンさんはその一人でした。

チョンさんは会うなり、佐藤さん、元気になってください、と言いました。
元気だよと応えると、見かけは元気ですね、とすぐ反応しました。
「見かけは元気」
そうなのかもしれません。

チョンさんはいまインドネシアで仕事をしていますが、最近、40代の友人を病気で突然失ったのだそうです。
医療環境の遅れから、インドネシアで病気になると大変なのだそうです。
若い友人を失うことの辛さを、陽気なチョンさんは笑いながら話しましたが、きっとそれは「見かけ上の陽気さ」だったのでしょう。
彼自身、いろいろと不安や悩みを抱えています。
しかしそんなことは全く表情に出さずに、いつものように陽気に笑います。

奥さんは佐藤さんの同志だったのですよね、というようなことも言ってくれました。
昔の話をいろいろとしてくれました。
節子が元気だったころの話をしているうちに、私も元気をもらったような気がします。

別れ際にチョンがまた言いました。
「佐藤さん 元気になってくださいよ」
見かけ上の元気では、彼はどうも安心できないようです。
今度来日したらわが家にくることを約束して別れました。

■506:死にまつわる3つのプロジェクト(2009年1月20日)
17日に私が関わっているコムケア活動の新年交流会を開催しました。
各地でさまざまな活動に取り組んでいる人たちが集まってくれました。
節子の賛成もあって、私は本業の仕事をやめて、このコムケア活動にのめりこんだのですが、そのおかげで、私たちの人生は大きく変化してしまいました。
しかし、節子がいなくなった今、この仲間に大きく支えられているのです。

そこで「死」にまつわる話題がいくつか出ました。
挽歌504にも書きましたが、今年はどうも死に関するプロジェクトに引き寄せられています。

ひとつは、孤独死です。
今でも阪神大震災の被災者の方の中には仮設住宅倉逸されている方もあり、そこでの孤独死は少なくないのです。
その防止に取り組まれているのが松本さんが参加してくれたのですが、何とかして松本さんの構想を拡げていきたいと思っています。
もう一つは、新しい葬送文化に向けての活動です。
寿衣を縫う会の代表の嶋本さんがやはり参加してくれました。
嶋本さんは昨年、友人の葬儀に関わった体験から、もっと心を込めた葬儀を実現したいと思い立ったのです。
それで相談を受けたのですが、私も節子の時の体験から嶋本さんの問題意識に共感しました。
しかし、どうせなら「葬儀」ではなく、「葬送文化」を考えたいと思ったわけです。

サラリと書いていますが、実際にそうした議論をするのはかなりつらい話です。
写真などは、実は目を覆いたくなるほどです。
その辛さを気取られないようにしようとがんばったのですが、一度だけ、少し感情を出してしまいました。
まだまだ簡単には「死」を考えられない自分に気づかされました。

もう一つは「自殺」問題です。
東尋坊の茂さんから、ある構想に関して応援して欲しいと頼まれているのです。
茂さんからの頼みは断れません。
節子も会っていますし。

そんなわけで、今年は「死に関係するプロジェクト」に取り組むことになりそうですが、果たして大丈夫でしょうか。
いささかの心配はあるのですが、いずれも自分から呼び寄せたプロジェクトではなく、先鋒からやってきたプロジェクトです。
それに、これを乗り切れたならば、節子に近づけるかもしれないという思いもあるのです。

しかし、この記事を書いただけでも少し胸がドキドキしています。
気が小さいというか、だらしないというか、節子に笑われないようにしないといけません。
節子は、その先にいるのですから。

■507:エラン・ヴィタール(2009年1月21日)
昨日は「死」について書きましたので、気分を変えるために今日は「生」です。

「エラン・ヴィタール」
何だかとてもいい響きの言葉です。
フランスの哲学者ベルクソンは学生時代に挑戦しましたが、消化できませんでした。
しかし、その著作はいずれも魅力的です。
「エラン・ヴィタール」は、そのベルクソンの「創造的進化」に出てくる言葉です。
ベルクソンは、生命は自らの内に、自らを進化させる躍動的な力を秘めていると考えました
その躍動の源、「生の躍動」を「エラン・ヴィタール」と名づけたのです。

生命とは不断に変化するものです。
それも自分で変化する。
荒っぽく言えば、それが「創造的進化」というわけです。
ダーウィンが言うように、外部からの働きかけで淘汰され進化するのではなく、自らのエラン・ヴィタールで進化するのです。
そうやって絶えず躍動し続けているのが生命なのです。
ある視点で見ると、そこに「進化」と呼んだほうがいい躍動があるのでしょう。
しかし、「進化」などという発想は、進歩主義の枠の中での発想でしかありません。

前にも書いたように、生命は時空間を超えてつながっています。
そう考えれば、進化もまた、そうした「大きな生命体」の状況の一つでしかありません。
ダーウィンの進化論は私には全く無意味で退屈なのですが、エラン・ヴィタールの考え方は魅力があります。
それに響きがいいです。
そう思う人が多いのか、この言葉には時々出会いますが、私はその意味を充分に咀嚼できていません。
ですから勝手な使い方になっていると思います。

その勝手な使い方によれば、エラン・ヴィタールが、個々の人間を創りだすとも考えられるわけです。
つまり、大きな生命体を分節してしまうわけです。
それが私であり、節子であるわけです。
そう考えると、私と節子の40年は、2つのエラン・ヴィタールの躍動の一瞬だったのかもしれません。
そして、節子のなかに在ったエラン・ヴィタールの炎が、ある時に「進化」して、彼岸に飛躍した。
なんだかちょっとロマンティックではあります。
さて私の中に在る、エラン・ヴィタールの次の躍動はいつでしょうか。

死もまた生の躍動の一つの現われと考えれば、死生観は大きく変わります。
しかし、それにしてもやはり「死」と言う文字の侘しい呪縛からは離れられないのが現実です。

■508:自然の一部として、自然に生きる(2009年1月22日)
節子
小雨の降る寒い1日でした。
どんよりした空、そして身体を凍えさせるような寒さ、そのためかどうも元気が出てきません。
人の生命は自然とつながっていることがよくわかります。

節子が手術をしてから4年半。
私たちは寄り添いながら暮らしていましたが、節子を通して自然を強く感じるようになりました。
暑さ寒さ、空の雲の広がり、気温や風、そうした自然に人間の心身は素直に反応することを、節子から教えてもらったわけです。
もっとも当の本人である節子自身は、必ずしも自覚していませんでしたので、おそらく今の私自身も、そう敏感に自覚できているわけではないでしょう。
しかし、節子の変化の様子が思い出されて、それにむしろ影響されてしまっているのかもしれません。
そのせいか、自然と節子の思い出と私の気分がなんだかワンセットになってしまっているのです。
真っ青な快晴の空を見ると節子の元気な笑顔を思い出しますし、今日のような寒空を見ると首を縮めて暑いお茶をすすっている節子を思い出します。
そして、重苦しい雲の向こうに、ついつい節子を感じてしまいます。
そうしたイメージが私の行動に大きな影響を与えているのです。

先日、おいしいと評判の高いブランド品のコーヒーをもらいました。
早速いただいてみました。
私はいつものとそう違わないような気もしましたが、一緒に飲んだ、「ブランド」通の人は「やはり美味しい」と言ってくれました。
まあそれはともかく、私たちは「ブランド」などの情報によって、物事を判断しがちです。
今日もゴヤの「巨人」の画はどうやらゴヤの弟子の作品だという報道が新聞に出ていましたが、絵画にしても誰が描いたかによって私たちの印象は変わってしまいます。
知識のおかげで、私たちは芸術作品を素直に見られなくなってしまったと、スーザン・ソンダク(以前、Comfort isolatesのところで紹介しました)は嘆いていますが、同感です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/05/comfort_isolate_a2f5.html
私自身は、ブランドにも権威にも意識的にはとらわれない自信はある程度ありますが、最近の自然の受け止め方のことを考えると、どうも危うい気がしてきます。
自分の心身で世界をみることの難しさは、この頃、痛感します。

ところで、東洋の思想の根底にあるのは、生命は自然の一部だということです。
自然と人間とを対立させて考える西洋の思想とは全く違います。
しかし、西洋の思想にしても、たとえば聖書では、神様は土から人間を創ったとされていますから、本来は人間が自然の一部であると意識していたはずです。

自然の一部として、自然に生きる。
それが最近の私の理想なのですが、どうも小賢しい知識と無意味な私欲を吹っ切れずにいます。
節子がいた時は、そうしたことの無意味さを節子がその生き方において教えてくれていたのですが。

それにしても今日は寒いです。
あたためてくれる節子もいませんので、なおさらです。

■509:久しぶりに岡田クリニックに行きました(2009年1月23日)
節子
今朝は節子が迎えに来たのかもしれないと思いました。
起きて歩こうとしたら、めまいがして歩けないのです。
吐き気までしてきました。

実は節子がいなくなってから2回目です。
一昨年の大晦日に、同じような症状になりました。
どこも休みだったので、救急病院を回りましましたが、ストレスのせいではないかといわれて、4日ほど安静にしていたら治りました。
まあ、その体験があったので、そう心配ではなかったのですが、その時、後で病院できちんと検査するように言われていたのを思い出しました。
もちろん治った途端に、そんなことは忘れてしまっていました。
節子がいたら必ず検査に行かされていたでしょうが。

半日、ベッドで寝ていました。
その時思ったのは、こういうことがこれから増えていくのだろうなということです。
節子のいないことが、急に現実感を持って迫ってきました。
今は娘が同居していますからいいのですが、この先、どうなるのでしょうか。
もう一つ思ったことは、体調が悪くなったときの辛さのことです。
節子の辛さを、私はわかっていたのだろうかと、少し不安になりました。
いや、節子だけではなく、病気の人の辛さを理解できていただろうか。

半日寝ていたのに治らないので、岡田クリニックに行くことにしました。
岡田さんは、節子が最後までお世話になったお医者さんです。
毎週自宅に往診に来てもらっていましたが、単なる治療処置(cure)ではなく、ケアしてくれていました。
節子がもう少し早く岡田さんのお世話になっていたら、もしかしたら何かが変わっていたかもしれません。
その岡田さんに、私たち家族が元気になったことを知らせたいという気がしてきて、少し遠いのですが、岡田さんのところに行くことにしました。
岡田さんは、以前と同じく、患者さんたちと親しく話しながら、院内を動き回っていました。
結局、私のは疲れなどからくる内耳関係の機能障害でした。

岡田さんが、ホームページに奥さんのことを書かれていましたね、と言ってくれました。
この挽歌のことでしょうか。
読んでくれたのです。
帰り際に、覚えてくれていた看護師さんたちに「女房が呼んだのかと思いました」と話したら、「急がなくても奥さんはずっと待っていますよ」と言われました。
いやいや、もしかしたら待っていないかもしれませんね。

クリニックを出たら、なんだか急に普通に歩けるようになりました。
もしかしたら、節子が、岡田さんのところに報告にいかせたのかもしれないと思いました。

戻って少し休んだらパソコンまでやれるようになりました。
もっともいまもまだ胸のむかつきと心身の違和感は残ってはいますが。

■510:自我はたくさんの我の集合(2009年1月24日)
南方熊楠は、自我は「単我」ではなく、複数の我の集合であると書いています
最近は多重人格ということがかなり一般的にも認識されだしていますので、このことにはそう違和感を持つ人はいないでしょう。
「心のマルチ・ネットワーク」という考えもあります。
これはとてもわかりやすいです。
私流の表現をすれば、人の心の中にはたくさんの心がいて、状況にあわせてそのだれかが主役になるという考えです。
まさに、南方熊楠の表現そのものです。
実はこの構造は、ユングの集合無意識や唯識論の構造とフラクタル(相似形)と考えれば、とても合点がいきます。

アメリカの社会心理学者ジョージ・ハーパート・ミードは、自己(self)は、I(主我)とme(客我)から成っていると言っているそうです。
meとは、自己の中に取り入れられた他者です。
「自己の中の他者」って何だ、と思われるかもしれませんが、おそらく感覚的にわかってもらえると思います。
自分の心の中には、「見ている自分」と「見られている自分」がいますが、見られている自分の中には、自分でないような自分もいます。
しかし、いつの間にか、その「自分でない自分」が自分の主役になってしまうこともありえます。
生命はオートポイエーシスという「自己創成」のシステムだという考えがあり、私はその考えがとても気にいっているのですが、

私たちは、他の人と付き合うことで、自分を変えていきます。
いや変わっていくというべきかもしれません。
それが年を重ねるということであり、「成長」です。
しかし、他の人と付き合うということは、その人とつながる要素がなければいけません。
つまり、つきえる他者の分身は、すでに自らの中にいるということなのです。

長々とまた書いてしまいましたが、私の中にはたくさんの自分に混じって、最近、節子の姿が見えていることを書きたかったのです。
私の言動に対して、たくさんの「自分」が意見を言ってきます。
そのたくさんの「内なる声」との会話の中から、私は実際の言動を選んでいきます。
ところが最近、そこに「節子の声」が聞こえるのです。

そして、それによって、気づかなかった節子に出会うこともあります
今もなお、私の人生の伴侶は節子です。

■511:生命を支える生きがい(2009年1月25日)
「母が亡くなったら、後を追うように、父が4か月後に亡くなりました」
昨日、ある集まりで会った人から聞いた話です。
おそらくご両親は70代だったのだろうと思います。
たぶんとても幸せなご夫婦だったのでしょう。
そういう話は時々聞くのですが、いつも感ずるのは若干の羨望です。

私たちは愛し合っていることにおいては、それなりの自負がありました。
しかし、もしそうであれば、なぜ伴侶を失ってまでものめのめと生き続けられるのか。
時々、そう思うことがあります。
実は自分が伴侶を見送るという体験をする以前には、妻を見送った人が仕事をしている姿がどうにも理解できなかったのです。
自分ならきっと仕事などできなくなり、社会への関心も失ってしまうだろうと思っていたからです。

ところが節子を見送って1年半近く経ちますが、私もまた活動を再開しだしました。
幸か不幸か、私もまた伴侶のいない「半身を削がれた」人生に慣れてきているのかもしれません。
もっともまだ1年半弱ですので、これからどうなるかはわかりません。
私が部屋で静かにしていると、むすめが時々、「生きている?」と声をかけるのですが、彼女たちも少し気にしているのかもしれません。

伴侶を失うと、やはり「生きがい」が大きく失われることは事実です。
「生きがい」は、まさに生命の支えですから、生きる基盤が弱くなるといっていいかもしれません。
幸か不幸か私の場合は、2人の娘がまだシングルです。
ですから私の親としての使命が残っているわけです。
私がたぶん生き続けているのは、「ケアすべき娘たち」がいたからです。
しかし、いずれ彼女たちはいなくなります。

伴侶を失って、なお生きる定めならば、やはり「生きがい」の補強が必要なのでしょう。
だから活動を再開するという意識が作動しているのかもしれません。
生命は、それがたとえ自分の生命であっても、勝手に操作することはできません。
節子が、それをしっかりと示してくれました。

しかし、欲を言えば、節子も私も後10年生きて、一緒に人生を終わりたかったと思います。

■512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認(2009年1月26日)
昨日、「ケアすべき娘たち」がいると書きました。
「ケアしてくれる娘たち」と書くべきではないかと言う人がいるかもしれません。
この挽歌を読んだら、娘もそういうかもしれません。
しかし、ここは「ケアすべき娘たち」で正しいのです。

ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」という本があります。
この本のおかげで、私はケアという言葉の意味を深く考えるようになりました。
そして、コムケア活動に取り組む気になったのです。
その本に、こんな言葉が出てきます。

他の人々をケアすることを通して、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。

メイヤロフは、ケアの本質とは「生きることの意味」を確認することだといいます。
誰か(何か)をケアすることによって、人は自分の生の意味を、生きている実感を獲得する、というのです。
一時期、流行した「アイデンティティ」という言葉がありますが、アイデンティティもまた他人との関わりの中で成り立つ言葉です。
そのアイデンティティを確立するためには、ケアの対象になる誰か、もしくは何かが必要なのです。
自分一人でアイデンティティを確立することはできませんし、また自分一人で生きることもできません。
メイヤロフが書いているように、私たちは「ケアを通しての自己実現」できる存在なのです。
ケアは一方的な行為を意味するのではなく、双方的な関係を意味する行為なのです。

節子と一緒に、ある人をお見舞いに行った時に出合ったことですが、交通事故で意識がなくなったまま入院している孫のところに毎日やってきて世話をしているおばあさんがいました。
彼女にとっては、孫のケアが自分の生きる証であり、自分の生きがいなのだと、その時に節子と話したことを思い出します。

「ケアの対象を欠いた状態は、人生における最大の苦痛である」と言っている人もいますが、ケアするという行為は、それほどに人間にとって大切な行為なのです。
子どものいない夫婦が、ペットを飼う心理もこのことから説明できますし、ドメスティックバイオレンスもその視点で考えるとよく見えてきます。
先日、自分の子どもの点滴に腐敗水を混入した母親の事件がありましたが、周囲の関心を引くため子どもに意図的に危害を加える「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いがあると報道されていました。
まさにこれは「ケア願望」が引き起こした悲劇かもしれません。
人は誰かのためにケアするのでなく、自らのためにケアするのです。

私にとっては、その一番の対象が、節子でした。
節子は私にとって生きる意味を与えてくれる存在だったと何回か書きましたが、これがその一つの意味なのです。

ちなみに、昨日の挽歌にロビタさんがコメントをくれましたが、ロビタさんも同じ体験をされているようです。

■513:初対面の若者からのメール(2009年1月27日)
節子
今日は自画自賛の内容です。
節子がいたら、みっともないからやめなさいと、きっと削除させられそうです。
でもたまには自画自賛もさせてください。

先週、初めて会った若者からメールが来ました。
名刺に書いてある私のサイトから、この挽歌のブログを読んでくれたのです。
とてもうれしい内容のメールです。
無断で一部を引用させてもらいます。

私事で恐縮ですが、実は来月入籍します。
自分も佐藤さんと同じ年齢になっても、佐藤さんと同じような妻を大事にする気持ちでいたいと感じることができました。
本当にありがとうございます。

この挽歌が、そういうメッセージも発していることがわかり、とてもうれしいです。
悲嘆にくれた暗いメッセージばかりでは、社会的な価値がありません。
何か前向きの示唆が少しでも提供できれば、私としてはとてもうれしいです。
そうやって前向きの価値を読み取ってくださる読者には感謝しなければいけません。

この若者は、大きな志を持って活動しています。
時評編では、いつも社会に対して批判的な記事が多いですが、私の回りの若者たちの活動には「思い」を込めた活動に取り組む人も少なくありません。
「現場から遠くなるほど、人は不誠実になる」というのが、私の経験則の一つです。
私は、不誠実な生き方はしたくないので、現場の人とできるだけ繋がっていたいのです。

社会をおかしくしてきてしまったことに関しては、私たちの世代は大きな責任があります。
その反省の元に、そうした若者たちをささやかに応援したい、これが最近の私の生き方の基本です。
天下りや「渡り」を繰り返している同期の友人からみれば、無意味な生き方かもしれません。
しかし、21年前に会社を辞めた時に、そう決めたのです。
節子は何も言わずに賛成し、協力してくれました。

メールをくれた若者は、こう書いてきました。

次世代の子どもたちの心の成長に貢献したいと考えておりますので、
意味のある人生を送る豊かな心を持った若者を増やすためにもよろしくお願いいたします。

さて、私に何ができるでしょうか。
最近いささか疲労気味なので、少し気が重いのも事実です。

最後にこう書いてありました。

佐藤さんとお話ができて、ご縁があってブログを読ませていただいて、温かい気持ちになれましたことを本当に感謝しています。

私の長所は、こうした言葉を素直に真に受けて喜んでしまうことなのです。

悲嘆にくれている背後にある、温かい気持ち。
それを感じてもらえて、とてもうれしいです。
この挽歌も少しは役に立っているのです。

節子がいたら自慢できるのですが、その節子がいないのがやはりさびしいです。
せめてブログで自画自賛です。はい。

■514:無私:selflessness(2009年1月28日)
メイヤロフの「ケア観」を一昨日、書きましたが、メイヤロフのキーワードの一つに「無私」というのがあります。
「無私」と言うと、仏教用語かと思いがちですが、仏教の根本は「無我」にあります。
しかし、日本では「無我の思想」はあまり定着せずに、むしろ「無私」が目指されました。そのため、日本の仏教は「無私の仏教」だと言う人もいます。
たしかに、空海にしろ道元にしろ、滅私無私の心境を目指していました。
しかし、メイヤロフのいう「無私」はそれとは別の意味ですが、私にはとてもなじめます。

メイヤロフによれば、無私(selflessness)とは、「純粋に関心を持ったものに心ひかれること、すなわち、より自分自身に近づくことができる」ことだといいます。
そして、「このような無私の状態とは、最高の覚醒、自己と相手に対する豊かな感受性、そして自分独自の力を十分に活用することを意味する」というのです。

何かに夢中になった時のことを「我を忘れて」といいますが、その状態を「無私」と言っているように、私は受け止めています。
ケアの対象が自分以上に自分になる、自分と一体化する、そのひと(こと)のためであれば、自分のすべてを投げ出すことに何の抵抗もなくなる、自分の問題として考えるようになる、まあそんなところでしょうか。
私の中途半端な理解なので間違っているかもしれませんが、私自身はメイヤロフの「無私」をそう理解しています。
そして、常にそれを意識して生きているつもりです。

「相手の立場になって考える」という言葉もありますが、それとはたぶん「似て非なる」ものではないかと思います。
「相手の立場になって考える」のはあくまでも理性の次元です。
しかし、相手と同一化するのは理性や意思を超えた感性や心身の話なのです。
したがって、時に「理性」のレベルでは、その人(こと)のためにならないようなことをしてしまうことも起こりうるのです。

節子と私の関係は、メイヤロフのいう「無私」の関係でした。
夫婦や親子は、大体においてそうなのだろうと思いますが、それが行き過ぎるとまたおかしなことになります。
私たちも、決して理想的な「無私」関係であったわけではありません。
ですから、よく喧嘩もしましたし、行き違いもありました。
しかし、お互いに心は一つだという思いは強く持っていました。
もう少し時間が与えられれば、お互いに涅槃の心境に達せたのではないかと思えるほどです。

私たちは2人で一人だから、と節子はよく言っていました。
それは、多分に私が自立していないことへの皮肉でもあったのですが、お互いの「信頼関係」はだれにも負けなかったでしょう。
念のためにいえば、たぶん、節子は私が先に逝ったならば私と違って、もっとしっかりと自立した自分の生を実現したでしょう。
こんな挽歌に逃げ込むようなことはしなかったはずです。
女性と男性は、その生において、全く異質の存在だと私は思っています。

それはともかく、お互いに、完全に素直になれて、安心できる人がいることは、どんな苦難に直面しても大丈夫だと思うほど、心強いことです。
昨今、不安が世上に蔓延していますが、それは心を開けるパートナーがいないからです。
パートナーを得るには、まず自らが「無私」になることです。

「無私」になれるほどに愛した節子がいなくなって、
私も、これまであまり体験したことのない「不安」を感じることがあります。
節子がいなくなることで、無になっていた「私」が戻ってきたのかもしれません。

■515:ニーバーの祈り(2009年1月29日)
節子
なかなか節子のいない生活に慣れずにいますが、
昨夜、ニーバーの祈りの言葉を思い出しました。
最近、なぜか忘れていた言葉です。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

この言葉は私の人生訓の一つでした。
ですから、どんな時にでも私は楽観主義でいられたのです。
この知恵さえあれば、すべてのことが私の味方になるのです。
変えられることは、変える課題を与えてくれるという意味で、
変えられないことは、それを味方にしなければいけないという意味で、
すべて私に元気を与えてくれるものでした。

ただ常識が欠落しており、いささか独りよがりの傾向にある私は、それらを識別する知恵にはあまり恵まれていませんでした。
ですから、節子の病気を治せると思い込んでいました。
節子が私よりも先に逝ってしまうということは、私には決して受け入れられることではなかったのです。
知恵も、そして冷静さも無かったのです。

節子は、そのいずれをも持っていました。
自分のことなのに、いや、自分のことだからかもしれませんが、
ニーバーの祈りにある3つを持っていました。
勇気、冷静さ、そして知恵。
しかも、それを私に押し付けることなく、私にも思いを重ねてくれていたのです。

節子の仕草の一つひとつを、時々、思い出すことがあります。
そのたびに目頭が熱くなりますが、その私の誇りだった節子の笑い顔にもう会えないかと思うと、悲しくて悲しくて仕方がありません。
その「変えられないこと」を、私はまだ受け入れる冷静さをもてずにいるのです。

ニーバーの祈りは、節子がいなくなってから、私の世界からなくなっていました。
勇気も冷静さも、そして知恵も、無残にも飛散してしまっていたからです。
明日から、般若心経に代えて、時々、ニーバーの祈りを念ずるようにしようと思います。
今の現実を受け入れられるかどうかは、あまり自信はないのですが。

■516:人生は変わりながら続いていくもの(2009年1月30日)
節子
あなたがいなくなって、私の生活は大きく変わってしまいました。
私の生活において節子の存在は大きな比重を占めていたから、それは当然のことです。
節子がいなくなった空隙が、私の人生を大きく変えてしまっているわけです。

人生を変えてしまったのは、私だけではありません。
1か月ぶりに、以前、何回かメールをいただいたSBさんからメールが来ました。
SBさんは一緒に暮らしていた妹さんを亡くされたのです。
1か月前に会社を辞められ、今は以前弾いていたギターをまた弾きだしたのだそうです。
SBさんは挽歌512を読んでの感想を送ってきてくれたのです。

 きょうの挽歌読ませていただきました。
 その通りだと思います。
 ロビタさんも言っておられましたが、子供がいなかったら会社を辞めていた‥‥‥と。
 その通りで私は会社を辞めましたね。

 私も今ケアする相手が誰もいないので、きっとギターを始めたのだと思っています。
まぁ猫はうちにたくさんいて、ケアはしていますが‥‥‥。

 約1ヶ月たって、失業生活も落ち着いてきました。
すべてが自分の自由の時間になると、返って大変です。よほど自分がしっかりしないとメ チャクチャな生活になってしまいますね。
自分で自分をコントロールする。結構大変なことです。

しばらく連絡がなかったので気になっていましたが、文面から少し元気さを感じホッとしました。
もっともこうした文面の元気さはあまり当てにはなりません。
私自身のことで、それはよくわかっています。

この挽歌を読んで、連絡を下さった方は何人かいますが、その後、連絡のない方も少なくありません。
まあ当然といえば、当然です。
お互いに全く面識はなく、ただ同じような体験をしただけですし、それに同じような体験をした人と会うよりは、そうでない人に会ったほうが、たぶん気が晴れることでしょう。
同じ体験をした人に会うと、なぜか少しホッとする一方で、自分の体験を思い出してしまい、辛くなることもあるからです。
しかし、一度、接点を持った人のことは気になり続けるものです。
これは私だけの習癖かもしれませんが。

考えてみると、愛する人との別れが人生を変えるだけではありません。
愛する人との出会いもまた人生を変えますし、愛する人との暮らしによって人生が変わることもあります。
再発してからは、明日もまた今日のままでいたいと、節子は時々話していました。
私もどれほどそれを望んだことでしょう。
しかし、同じ状況を続けることはできません。
良くも悪くも、人の人生は変わりながら続いていくものなのです。

愛する人を失った後の人生の変化は、外に現れる以上に、当人には大きなものです。
それを実感しているがゆえに、余計なお世話ですが、同じような体験をした人たちのことが気になるのです。
これも不思議な感覚ですが、どこかでそうした人たちと人生をすでに分かち合っているからかもしれません。
ひとたびの関わりを持たせてもらった人たちの平安を祈ることで、私自身の平安が得られるのを感じます。

■517:地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいい(2009年1月31日)
いささか不謹慎なタイトルです。
昨日の挽歌を書いた後、心の中にずっと潜んでいた気持ちを解き放すことにしました。

節子が再発して以来、そして節子を見送った後、一度ならず、地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいと思ったことがあります。
さすがに最近はそういう思いはなくなりましたが、心のどこかに今なお、そうした気持ちがうずくまっているような不安がないわけではありません。

通り魔事件のような、とんでもない惨劇を起こしてしまう人がいます。
そういう報道に触れるたびに、自分にもその可能性は皆無ではないなといつも思います。
ゲーテは「自分がその犯人となることを想像できないような犯罪はない」と言っているそうですが、私も同感です。
人の心の中にはたくさんの悪魔もまた棲んでいるのでしょう。

節子との暮らしの終わりは、私にとっては世界の終わりのように感じたこともありました。
だからといって、地球とその世界を道連れにするのはどう考えてもおかしいのですが、このまますべての世界がなくなればどんなに安堵できることかという、不条理な妄想を描いてしまう心境になってしまうこともあったわけです。

人を愛することの恐ろしさが、そこにあります。
この挽歌は、基本的に愛を肯定的に考えています。
私自身の生き方が、愛を基本においているからです。
私にとっては、平和やまちづくりはもちろんですが、企業経営も愛が基本なのです。
私の頭の中では、愛がない世界も愛のない現実も成り立たないのです。
キリスト教では、愛を3つに分けています。
エロス、フィリア、アガペです。
どの次元で「愛」を考えるかが大切だと言う人もいますが、私にとっての「愛」は一つです。
私にとっては、愛は分析の対象にする概念ではないからです。

最近も無理心中の報道がありましたが、無理心中は愛の歪んだ現れではなく、「愛の不在」の現れです。
「愛」を支えているのは、「生きる喜び」です。
ですから、ある日突然に「愛」(の行き場)の不在に気づいた時に、人は不条理な誘惑に負けてしまうわけです。
「愛」の不在は「死」を誘ってしまうわけです。
すべての愛をある対象に注ぎ込んでしまうことの恐ろしさを認識しなければいけません。
私はどうも節子に愛を注ぎ込みすぎていたのかもしれません。
しかし、それにもかかわらず節子を救うほどの愛には達しませんでした。
地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいなどと思うようでは、「愛」を語る資格はなかったのかもしれません。
いろいろと考えることの多い最近です。

■518:魂の雫(2009年2月1日)
節子
書けずにいた年賀状の返事を、やっと昨日までに送り終わりました。
電子メールをされている方にはメールにさせてもらいました。
こういう形で返事を出すことには迷いもあったのですが、月を越える前にともかく出しておこうとふんぎってしまいました。
「迷ったら行動」というのが、私たちの文化でもありましたが、なかなかその気にはなれなかったのです。

しかしやはり行動するといろんなことがまた始まりだします。
最初に届いたのが、ライターのTYさんからです。

魂の雫にも似た、よいお便り、ありがとうございました。
直接、生の声で、現在の胸中を語っていただきたいと願っているですが、なかなか約束ができない状態にあります。
でも、必ず、どこかでお会いしたいと思っています。桜が咲く頃がいいですね。連絡します。
寒いですから、体に気をつけてくださいますように。 

実は、この返信が最初に届いたので、後の人への返事もできたのです。
人は励まされるとがんばれるものです。
私は、節子を励ましてきただろうか、やはり悔いが残ります。

「魂の雫」
ものを書くことをお仕事にされている方だけに、はじまりの一言で、心を開かれます。
TYさんには、私もしばらくお会いしていませんが、家族のテーマに深く思いをもっている方です。
「生の声で、現在の胸中を語る」ことはたぶん私にはできないでしょうが、やはり妻を失った人と会うのは何がしかの心の覚悟が必要なのでしょうね。
そういえば、私より10歳近く年上の方は、会うなり、奥さんを亡くされて佐藤さんは人が変わったのではないかと心配してましたよ、といいました。
その方とはある偶然でお会いする羽目になったのですが、その偶然の事故がなければ、まだお会いできていなかったかもしれません。
みんなきっと会うのが「不安」なのです。
私も、同じような体験があります。
私が変わってしまったかどうかは、私には判断のしようもありませんが、変わりもしたし、変わらないままでもあるし、というのが現実でしょうか。

北海道に転居した飯沼さんの返信にも心洗われました、
直接的な言及は全くありませんが、気持ちが深く伝わってきました。
 
佐藤さん
厳寒の夜はシーンという音が聞こえます。
で、全身を耳にして、その音を探る。
するとどうやら身体の深奥から聞こえてくる。
身体の深奥には音があるようです。
それは宇宙の音なのかもしれない。
そんなことを感じています。

日が伸びてきました。嬉しい限りです。
やっぱり、人間は光合成している動物、
そんなことを実感しています。
少しだけ怖いものがなくなってきました。
早い機会に、お会いしたいと思っています。

最後の1行がとても大きく心に残りました。
気楽にみなさんが(みなさんに、ではありません)会えるようになりたいと思いました。
この挽歌を書き続けている以上、無理なのでしょうか。
そんなことはないと思っているのですが、さてどうでしょうか。

■519:沢山想い出すことをプレゼントしてくれた連れ合い(2009年2月2日)
節子
数年前に伴侶を見送ったNKさんからもメールがきました。

昨日は、連れ合いと出会った記念日でした。
初めて会ったのは38年前でした。
彼がいたら、ご馳走を食べに出かけたかなとか、いいお酒を開けたかなと思ったりしました。

佐藤様にもいっぱい記念日があることと存じます。
私の場合、そんな日が来るたびにまた涙して、気持ちを洗って暮らすしかない……。
沢山想い出すことや楽しかった時間をプレゼントしてくれた連れ合いに改めて感謝することになります。

寒いですね。
どうぞどうぞお大切に。

最後の2行が心に迫ってきます。
本当に寒い冬です。

「いっぱいの記念日」
実は、私にはそれがあまり実感できないのです。
明後日は、節子の誕生日なのですが、私にはそうした「記念日」意識があまりないのです。
これは節子が元気だった時からです。
記念日を祝うという発想が、私にはあまりないような気もします。
もしかしたら、節子はそれが不満だったかもしれませんね。

節子は病気になってから、いつも言っていました。
いろいろの思い出を残しておきたい、と。
思い出は残りましたが、それがカレンダーの月日につながらないのが、私の欠点かもしれません。
そういう点でも、私はいささか常識が欠落していたのでしょう。

それに、NKさんのメールを読んで気づいたのですが、2人で何かを祝ったという記憶があまりないのです。
もちろん喜びを分かち合うのは、いつもでしたが、改まって祝膳を囲むとか、記念日につなげて旅行をするとかいうことがありませんでした。
思い出してみると、節子はそういうのが好きだったような気がします。

結婚式でさえ、私にはただ煩わしいだけで、やりたくなかったのです。
結局、節子の両親や親戚のために節子の実家のほうでやったのですが、そういう儀式やあらたまったことがとにかく嫌いだったのです。
今にして思えば、よくまあ節子はそれについてきてくれました。
でもきっと、節子の「女心」には不満だったのでしょうね.

記念日ではないですが、いまは毎月の月命日だけはしっかりと意識しています。
気づくのが遅すぎました。

■520:節子と過ごす月命日(2009年2月3日)
節子
昨日、「記念日」の話を書きましたが、今日は節子の17回目の月命日です。
そして明日は節子の誕生日。
意識すると、毎日が記念日ですね。

今日はまた節分です。
朝、娘から「今日は豆まきをやるの」と訊かれました。
実は今日はめずらしく私ひとりなのです。
いつもは自宅でスペインタイルをやっているジュンも出かけていますので、今日は一人でのんびりとしています。
月命日は原則として出かけないことにしているからです。

豆まきは一人でやるのはいささか寂しいので、迷っています。
節子は豆まきが好きでしたが、我が家には、鬼も福もいますので、あえて豆などまかなくてもいいでしょう。
それに今気づいたのですが、豆がありませんね。

豆がない。
私は、井上陽水の「傘がない」が好きでした。
傘がなくても行かなくちゃいけないところがある時は幸せです。
いまの私は、傘があろうと時間があろうと、行かなくちゃと思えるところがありません。
いや、行かなくちゃと思えるところは、一か所だけありますが、
そこは傘があろうと時間があろうと、私の意志では行けるところではありません。

先ほどまで、気持ちの良い日差しの中で、ぼんやりと外を見ていました。
気のせいか、彼岸まで見えるような、そんな幻覚さえ感じながら、です。
こんなに平安な時間を過ごせることに、感謝しなければいけません。
私がこのごろ、好きなのは、こうした「無為」の時間です。

しかし、お腹がへってきたので、気がついたのですが、昼食を食べなければいけません、
そういえば、今日は、娘たちもなぜか昼食の用意をしていってくれませんでした。
そろそろ自立したらということでしょうか。
どうも節子が心配していた通りになってきているのかもしれません。
節子との支えあいに浸っていたために、私の自立心は育たなかったのです。
何だか、一昨日時評編に引用した今田さんの言葉が思い出されます。
「支援によって被支援者を甘やかし、かえって本人のためにマイナスの結果をもたらす危険性を持つことに注意が必要である」
節子の優しさは、私をだめにしてしまったのですね、きっと。

仕方がないので、ポップコーンをつくることにしました。
これでお腹は満たせるでしょうか。
ところが、あいにく、コーヒーもないのです。
昨日の来客に最後のコーヒーを出してしまったのを思い出しました。
以前だと、「節子、コーヒーが無いぞ」といっておけば、魔法のように翌日にはコーヒーがあったのですが、そんなことももうなくなりました。

伴侶のいることの幸せ。
伴侶のいないことの寂しさ。
今日は、そんなことを思いながら、節子と時間を共有しようと思います。

■521:節子の誕生日(2009年2月4日)
節子
今日は節子の誕生日です。
あと何回、誕生日を迎えることができるだろうと、節子は一度だけ言ったことがあります。
62歳になる前の秋でした。

62歳の誕生日は、私たちにとってはとてもうれしい誕生日でした。
しかし、だからといって特別の記憶が残っているわけではありません。
矛盾しているのではないかといわれそうですが、まさかそれが節子と一緒に祝える最後の誕生日になるなどとは、誰一人考えていませんでした。
逆に、みんなそういう特別の誕生日にならないように、無意識に何もしなかったのかもしれません。

どう過ごしたのだろうかと私のホームページ(CWSコモンズ)を見てみました。
私のホームページには、私の生活のほとんどが記録されているのです。
だれもプレゼントも用意していない誕生日だったようです。
いつもは必ずユカが用意しているのですが、どうもそれもなかったようです。
節子は薄情な家族に囲まれていたと思われそうですね。
しかし、節子の友人は薄情ではなく、
滋賀の友人たちと近くの友人から、2つ、花が届きました。
家族がやったのは、一緒にケーキを食べることだけだったようです。

でも節子はとても幸せだったと思います。
なぜそう思うのかと問われると答えられませんが、間違いなくそう思います。
家族みんなから愛され、家族みんなといつものように、一緒に手づくりのケーキを食べられたからです。
節子はみんなが好きでした。
好きな人たちと一緒に、普段と同じ生活ができる。
それこそが節子の理想だったのです。

今となっては、その時、どんな会話がなされたのか思い出せません。
節子の日記(「いいことだけ日記」)を開けば、それが書いてあるかもしれませんが、節子がいなくなってから、私はその日記を開くことができません。
節子の残したものは、まだなかなか読み直す気にはなれません。

さて今日はどう過ごせばいいでしょうか。
まあ今日もいつものように、私らしく過ごそうと思います。

■522:ゆったりした時間(2009年2月5日)
友人知人から節子の話を聞くのは、とてもうれしいものです。
久しぶりにメールをくれた方が、メールの最後にこう書いてくれました。

一度コムケアのフォーラムでお目にかかりましたが、
ゆったりと包み込む雰囲気をお持ちの方だなという印象をもったことを記憶しております。

その時はまだ節子は病気の前だったのではないかと思いますが、その頃の時間軸も、「ゆったり」していたのかもしれません。
私の時間軸は、若い頃から少し常識から外れていました。
若い頃はパラレルワールドにあこがれていましたし、しかも時間は前後するものだという奇妙な意識がありました。
結婚した頃、節子はそのおかしな時間感覚に翻弄されたはずです。
しかし、常識的な時間感覚を持った節子と一緒に暮らす中で、私の時間感覚もかなり矯正されました。
時計的な時間感覚もかなり強くなりました。
この人の言葉を借りれば、節子に「ゆったりと包み込まれた」のかもしれません。

手術後の節子の時間は、さらにゆったりと流れるようになりました。
一緒に歩いていると、たくさんの人に追い抜かれました。
一緒に何かをやっていても、そんなに急がないでと、時々言われました。
しかし、そのおかげで、私に見える世界が少し変わりました。
後で気づいたのですが、それでも節子は私の時間軸に近づけようとしていた気がします。

会社時代に私の仕事を補佐してくれていた女性から手紙が来ました。

春の気配が強くなりましたね。
お宅の庭では奥様が丹精した花々が次々と咲いてくるでしょう。

と書いてありました。
節分が来ると、彼女は節子のことを思い出してくれるのだそうです。
節子はいまもみんなの思いの中にいることを思うと、とても気持ちが温かくなります。

庭の花が咲き出す季節も、もうそこまで来ています。
節子がいなくなってから、時間の足は速くなっているようです。
節子が急がしているのでしょうか。

■523:「どんな時も人生には意味がある」(2009年2月6日)
ユダヤ人であるが故に、ナチスによるアウシュビッツ収容所という極限の体験をした精神心理学者のフランクルは、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」と書いています。
彼のこうした考えが、アウシュビッツでの彼を支えたのでしょう。

節子
いろいろと活動を再開したのですが、どうもまだ何かが欠けている感じです。
それが何なのかはよくわかりませんが、やはり「生きている意味」がまだ見えていないからかもしれません。
もちろん「生きている意味」などわからなくても生きてはいけるのですが、そしていろいろと活動もできるのですが、どこかで充実感がないのです。
節子がいてもいなくても、大きな違いはないはずなのですが、どこかに虚しさがあるのです。
節子は私にとって生きる意味を与える存在だったと、書いたり言ったりしてきましたが、その意味は一体なんだったのでしょうか。
今はそれもわからなくなってきました。

フランクルは、「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである」と、著書の中で書いています。
フランクルのように、「私がなすべきこと、使命を実現していくのが人生だ」などとは思いたくないのですが、彼が提示している「態度価値」という考え方は、時々、頭に浮かびます。
「態度価値」とは、ウィキペディアによれば、「人間が運命を受け止める態度によって実現される価値」です。

人生にはさまざまな事件が山積みされています。
うれしい事件もあれば、悲しい辛い事件もあります。
すべての事件には、何がしかの自分の責任もありますが、自分の意志とは無関係に、向こうからやってくる事件も少なくありません。
そうした「与えられた幸運や試練」に対して、どういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生は変わってくるとフランクルは言います。
そして、どんな状況であろうとも、態度価値だけは存在する、というのです。
平たく言えば、どんな状況においても「希望」があるというわけです。

そう考えると、人生から意味が無くなることはありません。
「人生の意味」は、当人が気づくかどうかとは無縁に、当人のすぐ近くに存在しているわけです。
だから、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」とフランクルは言い切るのです。

頭では理解できますが、「人生の意味」を一人で見つけることに慣れていなかったせいか、どうもうまくいきません。
私を待っている「何か」や「誰か」の候補が、最近、周辺に山積みされだしました。
しかし、どれが私の人生に意味を与えてくれるものか、見極めがつきません。
春を感じるようになってきましたが、春が来る前に、それを見つけたいと思っています。

■524:準備なく発話できることの価値(2009年2月7日)
節子
人は話しながら考えるものだと、私は思っています。
心の中で考えている場合も、心の中にいるたくさんの「自分」が話し合っているように思いますが、最近、「発話」することの大切を感じています。

節子も知っているように、私は話をするのが大好きです。
沈思黙考ということが不得手なのです。
思いを口に出すことで、考えられ動けるようになるというタイプなのです。

最近どうも動きが悪いのは、節子との会話がなくなったからかもしれません。
いろんな人から相談があると、私は必ず節子に話しました。
私自身、何かをやろうと考えると、必ず節子に話しました。
いずれも相談というよりも、ただ話しただけといったほうがいいでしょう。
しかし、それを聞いた節子の反応は私の行動の方向性に大きな影響を与えました。
そしてそれに続く雑談的会話の中から、それにどう取り組めばいいのかの方策が自然と湧くように出てきたのです。
考えてみると、それが今は無いわけです。

私が山のような相談事に対応できてきたのは、もしかしたら節子への「発話」と「雑談」があったからかもしれません。
伴侶を亡くした方から、独り言が多くなったという話をよく聞きます。
私もそうです。
「発話」しても実際には返事はないのですが、発話すると返事が聞こえるのです。
私はそうです。
しかし、まあ日常生活のちょっとしたことであれば、それでいいのですが、ちょっと大きな話になると独り言も結構難しいです。
位牌に向かって語りかけることも、そう簡単ではありません。

無防備に、準備なく発話できる伴侶。
響きあうような夫婦の会話。
もしかしたら、それが私の生きるエネルギーの源だったのかもしれません。

失って初めてわかる「大切なもの」はたくさんあります。

■525:一番大切なのは「愛」(2009年2月8日)
節子
昨日、ボランティアフォーラムTOKYO 2009に行ってきました。
私が参加したのは、「それぞれのプライスレス」。
お金も大切だけれど、もっと大切なものがあるのではないかというワークショップです。
そこで参加者のみなさんが、話し合いながら何が大切かを議論して発表してくれました。
グループによって違いはありましたが、いずれのグループも「愛」が1位か2位でした。
私はゲストとして呼ばれていたのですが、同じゲストの姜咲知子さんも私も、「愛」が1位でした。
参加者の中には、契約社員やそれを切られた人も何人かいましたが、順位づけの議論はかなり白熱したようです。

「愛」と「お金」とどちらが大切かは比較しようのないことかもしれませんが、今の時代は、あまりに金銭信仰が広がっているのが残念です。
私の論理は極めて簡単です。
愛でお金は買えますが、お金で愛は買えませんから、愛のほうがお金よりも価値があるはずです。
こんな言い方をすると誤解されそうですが、節子と会えなくなった今、心底そう思います。

しかし、「愛」とはいかにも抽象的な言葉で多義的です。
愛の対象や愛し方によって、愛には「排除」の要素がありますから、愛の裏には憎しみや冷たさも同居しているのです。
「愛」が引き起こす悲劇も決して少なくありません。
その意味では、「愛」も「お金」も同質なのかもしれません。
まあこれは書き出すと長くなりますのでやめますが、「愛」とか「平和」という言葉の持つ両義性の落とし穴には気をつけなければいけません。

ワークショップを終えて、帰りの電車の中で、
私の人生にとって、何が一番大切だったかと聞かれたら、何と答えるだろうかと自問しました。
答は明確で、「節子」です。
「愛」でも「お金」でもなく、伴侶である節子です。
では、節子がいない今は、どうだろうか。
これは難問です。
いろいろと考えたあげく、やはりそれでも「節子」だなと思いました。
そして、私が息を引き取る時に、その節子に「ありがとう」と言えないことが急に悲しくなりました。
「愛」というのは楽しくもあり、悲しくもあるものです。

お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない、という人が少なくありません。
そうでしょうか。
これに関しては、時評編に少し書かせてもらいました。
今回は時評編と合わせて読んでもらえるとうれしいです。

■526:節子がいればこそ身軽に生きられた気がします(2009年2月9日)
今日もまた、挽歌編と時評編を絡み合わせながら書きます。

昨日、時評編に「妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまった」と書きました。
これはおそらく常識に反します。
家族がいればこそ、慎重にならざるを得ないというのが一般の考えです。
それが真実であることは確かですが、しかし1人よりも2人の方が行動しやすい場合もあります。
節子がいなくなって、私の行動力は間違いなく低下しました。
人は一人では生きていないことを、節子がいなくなってから痛感しています。

私は47歳で会社を辞めました。
次の仕事があったわけではありません。
生き方を変えたかった、ただそれだけです。
多分私一人であったら、決断できなかったように思います。
仕事は一人になってもできますが、生きる基盤である生活には私は全く自信がなかったからです。
辞める時、経済的な心配がなかったわけではありません。
しかし、節子と一緒に汗と知恵を出したら、生活費くらいはどうにかなるだろうと思っていました。
新聞配達を2人ですることも考えていました。

一人だとお金がないと不安ですが、不安を分かち合える人がいれば、お金はなくても立ち向かえるのではないかと思います。
現実を知らない甘い発想だといわれそうですが、いざとなれば「仕事がない」といわれる過疎地に行けば、稼ぐ仕事はなくても、生きる仕事はあるはずです。
いま都会では仕事がなくて、住まいまでなくて、困っている人が少なくありませんが、少し発想を変えれば、いろいろな生き方があるように思います。
やはり、発想が甘いでしょうか。

さて時評編的な話はこのくらいにして、挽歌編的話を書きます。

私が生き方を大きく変えたり、お金と無縁な仕事にのめりこんだりしてきたのは、節子の支えがあったからです。
楽観主義の私も、時に不安で眠れない夜もありましたが、その時は隣に節子がいるのが支えでした。
節子が何かをやってくれるわけでもないのですが、いざとなったら助けてくれるという安心感があったのです。
それに、何よりも、私の生き方を全面的に信頼してくれている人がいることはどれほど心強いことか。それは節子がいなくなった今、よくわかります。

伴侶とは、相手を拘束する存在ではなく、自由度を高める存在ではないかと思います。
少なくとも、節子は私にとって、そういう存在でした。
節子がいなくなったために、最近の私の心身はとても重い気がします。

■527:年賀状への返事は反省です(2009年2月10日)
節子
先月末に、年賀状の返事を書いたのですが、塚谷さんから丁重なお手紙とお線香が届きました。
私の手紙のせいで、よけいなお気遣いをさせたようで反省しました。
節子がいたら、ストップをかけるか、手紙の内容をもっと元気よいものに変えるか、いずれかだったでしょうね。
どうも節子のことになると自分しか見えなくなるようです。
自分だけが悲劇の主人公だという気分が、どこかに残っているのです。
恥ずかしい限りです。

塚谷さんは、東レ時代の先輩です。
といっても、東レ時代にはあまり接点はありませんでした。
私が東レを辞めて10年以上たった時、突然、湯島に来てくれました。
そして仕事を頼まれたのです。
当時、塚谷さんはある会社の社長でしたが、最後の仕事として会社の変革に取り組みたいというのです。
東レ時代、私は会社の企業文化変革活動に取り組ませてもらいました。
それが、私の人生を変え、もしかしたら節子の人生も変えました。
その活動を知っていて、塚谷さんは私のところに来てくれたのです。
塚谷さんは、湯島に来た時に、節子に会っています。
そのせいか、いつも会うたびに、奥さんによろしくと言ってくれました。
人間は単純なもので、仕事関係であろうとも、そうした人間的な一言が大きな動機づけになります。
塚谷さんの会社の仕事は塚谷さんの満足する結果になり、喜んでもらいました。

たまたまその仕事の窓口が、東レ出身者でしたが、私も節子も良く知っている人でした。
それで節子と一緒に京都に行く機会があったので、彼と3人で食事をしました。
節子とは30年以上ぶりの再開だったと思います。
塚谷さんのおかげでした。

塚谷さんは、今は会社を引退して、ご自身のことをまとめられた本を出版されるなど、ご自分の世界を悠々と楽しまれています。
奈良にお住まいですが、お寺も好きなので、充実した毎日なのでしょう。
その会社は京都の東寺の近くなのですが、京都駅から東寺を見ると、いつも塚谷さんを思い出します。

その塚谷さんから、お線香が届きました。
とても不思議なのですが、節子には一度しか会っていない人から節子の話を聞くことが時々あるのです。
一方、何回も会っているのに、節子の話が全く出てこない人もいます。
人の縁は、回数でも時間でもありません。
またまた自分中心の話ですが、節子の話がでるだけで、元気が出てくるのです。
恥ずかしいですが、それが現実なのです。

塚谷さんは、こう書いてきてくれました。
最愛の奥様とお別れになった貴兄のことを考えず無神経に賀状を出してしまいました。
申し訳ありません。

いやいや、謝るべきは私のほうですね。
私こそ、なんという無神経なことか。注意しなければいけません。

塚谷さんはこうも書いてきてくれました。
湯島の事務所でお会いしたことがありますが、本当に素晴らしい奥様でした。
これも恥ずかしいのですが、こういう節子への褒め言葉はすべて真に受けるようにしています。
たとえ事実に反していようともです。

塚谷さん
ありがとうございました。
心から感謝します。

■528:家族が減っていくさびしさ(2009年2月11日)
節子
今日は父の命日です。
私たちは途中から私の両親と同居していましたので、私たち家族にとっては父の葬儀は最初の家族を見送る体験でした。
父も自宅で看病していました。
まだ母も元気だったので、母が中心になって看病していましたが、節子もいろいろと大変だったと思います。
私は会社勤めをしており、しかもかなり忙しかったので、あんまり看病には参加していませんでした。

父を見送った後、私は会社を辞めました。
父の残された時間がそう長くないことを知りながら、会社の仕事の忙しさに時間を向けてしまい、ゆっくりと話す時間さえとらなかったことも、会社を辞めた理由の一つでした。
もっとも会社を辞めると、それ以上に忙しくなることに、その時はまだ気づいていませんでした。
父の葬儀は、とても寒い日でしたが、私が会社勤めをしていたこともあって、たくさんの人が見送りに来てくれました。

父の看病をしてくれていた母も、今はいません。
母の看病は節子がよくしてくれました。
当時、節子も体調はあまりよくなかったのですが、とてもよくしてくれました。
家族が減っていくことは寂しいことです。
しかし私には節子がいましたから、葬儀にも涙を流すことはありませんでした。

次は私ですから、もう家族を見送ることはないなと思っていたのですが、そうはなりませんでした。
思ってもいなかったことで、今でも納得できていないのです。
どこかで何かが間違っているとしか思えません。
家族が減ることの寂しさはとてつもなく大きいです。
伴侶がいなくなることは、さらにそのさびしさとは別のさびしさがあります。

こどもが結婚して家を出る場合は、同居家族は減りますが、家族が増える感じもあるでしょう。
しかし、彼岸への旅立ちはさびしさだけです。
それにどう立ち向かえばいいのか。
世代が継承されていく大家族制度が、もしかしたらその解決策かもしれません。

父を見送った日のように、今日もどんよりとした寒い日です。
節子は彼岸で父母に会っているでしょうか。
今日はとてもさびしい気分で、なかなか元気が出てきませんでした。

■529:元気が出たり出なかったり(2009年2月12日)
この挽歌には、私の精神的な不安定さが現われているのではないかと思います。
まさに元気になったり元気がなくなったりしています。
昨秋からかなり安定してきたと自分では認識しているのですが、どうもそう簡単ではないようです。
やはり3年は、いや5年はかかるのでしょうか。
しかし、5年もかかったらむしろそれが常態だということになるでしょうね。

ということを考えていて気づいたのですが、そもそも人間の精神状態は不安定なものなのだということです。
ちょっとしたことに一喜一憂するのは、なにも今に始まったことではなく、子どもの頃も、そして節子と一緒だった頃も、よくあった話です。
でもたぶん、その振れ具合は今とは違っていたような気がします。
それはきっとその振れを安定化させるスタビライザー(安定化装置)があったからです。
子どもの頃は親が、そしてその後は節子が、その役割を果たしていたのかもしれません。

そこから少し話は飛躍し、時評に近づくのですが、
そうしたスタビライザー役がだんだんなくなってきているのが現代の社会なのかもしれません。
そして逆に、安定させるスタビライザーに代わって、
むしろ増幅させるレバレッジ(てこ)が広がっているのかもしれません。
共同体的社会にはスタビライザーがいろいろと組み込まれていますが、
昨今のような金銭優先社会ではレバレッジが仕組まれているというわけです。
ですから、個人も社会も不安定になりやすい。
いささか発想を飛ばしすぎかもしれませんが、そんな気がしてきました。
一昔前までは社会の基本単位は家族でしたが、いまは個人かもしれません。
嫁姑問題でさえ、ある意味でのスタビライザー機能を果たしていたように思います。
自己責任とか自立などといわれると、私のような弱い人間は生きづらくなります。
しかも、いまやその弱さを支えてくれていた節子がいなくなってしまったのですから、社会のレバレッジ作用をもろに受けざるを得ないわけです。

さてスタビライザー役としての節子のことです。
いまから考えると、まさに節子は単純な私の言動をいつも安定させてくれていました。
過剰な喜びや自信には時に冷や水をかけてくれましたし、
不安や自信喪失にはそこから抜け出すきっかけを与えてくれました。
一人で考えているとどんどん思考が過剰になるのが人の弱さです。
なかなか中庸を得ることはできません。
伴侶がいるということは、そういうことだったのだと、最近痛感しています。
伴侶のおかげで、自らを相対化できたのです。
ソクラテスも、松下幸之助もそうだったのでしょう。

そんなわけで、もうしばらくは私の精神状態は不安定を続けそうです。
しかし均(なら)せば、結局は以前と同じなのでしょう。
そのことにも気づきました。
今日は独り言でした。

■530:今年も河津桜が咲きました(2009年2月12日)
庭の河津桜が一輪咲きました。
寒い日が続いていましたが、春もすぐそこまで来ているようです。
この桜は、節子と一緒に4年前に河津で買ってきたものです。
河津に行った時は、2月の下旬でしたが、寒い日でした。
昨年、咲いたのも下旬でしたから、今年は早く咲いたことになります。
今年は暖冬なのでしょう。

節子は桜がとても好きでした。
再発する前の年、節子と各地の桜を見てまわりました。
あれほど桜を見た年はありませんが、節子がいなくなってからは桜を見た記憶がありません。

節子がいなくなっても、わが家の花は次々と咲いていきます。
私がいなくなっても、そうでしょう。
そういえば、母が育てていたシンピジウムも咲いています。
ジュンが手入れをしてくれたおかげで、今年は去年よりも元気です。
愛でる人が多ければ多いほど、花は元気に咲いてくれます。

しかし、花は誰のために咲くのでもなく、自らのために咲いているのです。
だからこそ、花はすべての人を癒してくれます。
しかも花は毎年生き返ったように咲くのです。
まるで彼岸から此岸に戻ってくるように。
人間もそうやって季節と共に戻ってくることができればいいなあと思います。

節子は、花になってチョコチョコ戻ってくると言っていました。
この桜の一輪は節子なのでしょうか。
元気を出さなければいけません。

■531:私たちは「他愛のない」ことにあたたかくつつまれています(2009年2月14日)
節子
昨夜は春一番の強風が吹いていました。
うるさくて眠れないほどでした。
昨日咲いた河津桜は花を落としたかもしれないと心配しましたが、今朝もしっかりと咲いていました。
今日は初夏のような暖かさでしたが、気がついたらたくさんのつぼみが開花していました。この調子だと来週は満開です。

庭の花も次々と咲き出しました。
今日はディモルフォセカが咲きました。
これも例年より1か月くらい早いようです。
自然は本当に正直です。

春のような1日でしたが、今日は自宅でパソコンに向かっていました。
久しぶりに原稿を書いています。
久しぶりのせいか、なかなか進みません。
テーマは「事業創造への新しい発想」です。久しぶりに企業関係の文章を書きたくなったので、引き受けたのです。
2日で書き上げられると思っていたのに、今日、1日かけてやっと1/3しか書けませんでした。
それもどうも満足できる内容ではありません。
節子がいた頃は、途中で節子に読んで聞かせるとコメントをくれました。
「わかりやすい」とか「くどい」とか、そんな程度のコメントで、内容に関するコメントはあまりなかったのですが、節子に聞いてもらえると何だか安心して先に進めました。
それに書けなくなると、待っていたかのように、「お茶でも飲まない」と声をかけてくれました。

そんな他愛のないことが、実はとても大きな意味を持っていたのだと最近気づくことがよくあります。
私たちの生活は、こうした「他愛のない」ことであたたかくつつまれているのです。
それがなくなった時に、そのありがたさに気づくのです。
私たちはもっともっとそうした「他愛のないこと」に感謝しながら生きていかなければいけないと最近つくづく思いますが、それを娘たちにさえうまく伝えられずにいます。
でも私自身は、感謝の気持ちで生きることに慣れてきたように思います。
これも、節子のおかげかもしれません。
節子には感謝することが山のほうにあるのです。

■532:困った時の節子頼みはもうできません(2009年2月15日)
今日は節子と話す時間があまりありませんでした。
昨日書き出した原稿に難航しているためです。
ずっと書き続けているわけではないのですが、節子がいてもたぶん怒られそうなほど今日はパソコンに向かい続けていました。
その合間にメールも届きますし、今日はホームページ(CWSコモンズ)の更新日でもありました。
もちろん家事もありますし、家族との「付き合い」もあります。

それに今日はちょっとした「事件」が自宅の近くで起こりました。
誰かが騒いでいると思ったら、警察官と若者が激しく言い合っていました。
その話も面白いのですが、挽歌編にはなじみませんね。
そういう事件があると、物見高い私は野次馬になりたくなります。
まあ今回は、我が家からも見えたのですが、近くに何かあると昔はすぐにとんで行ったものです。
節子はそうした私には少しばかり批判的でしたが(火事や水害などの他人の不幸を見にいくのはよくないと節子は考えていました)、その節子もけっこう野次馬的でした。
まあ、そんなことを思い出しながら、自宅近くの「騒動」を見ていたわけです。
原稿が進まないわけです。

まあ、いろいろとあったわけですが、なぜか今日は、節子のことがうまく頭に浮かんでこないのです。
いつもは、さて節子と話そうかとパソコンに向かうと自然に書くことが出てくるのですが、今日は出てこないのです。
やっと私も節子から卒業できるのでしょうか。
まあ、そんなことはないでしょうね。

それにしても、以前は原稿書きなどで行き詰ると節子がその頭の壁をブレイクスルーしてくれたのです。
困った時の節子頼みは、もう出来なくなりました。
今日はもう原稿はやめて、夜はテレビで映画を観ることにしました。

内容のない挽歌ですみません。
ちょっと疲れてしまっています。困ったものです。

■533:一期一会(2009年2月16日)
節子
最近、「老い」を感ずることが多くなりました。
前にも書きましたが、家の近くのなだらかな坂で息が切れます。
それに以前のように気楽に動けずに、行動する前に少し考えてしまうようになりました。
にもかかわらず、最近また、いろいろなことを引き受けだしてしまっています。
それも勝手に申し出て引き受けてしまうこともあります。
節子がいたら、相変わらずねと笑うでしょう。

今日、坂を上りながら、果たして大丈夫だろうかと、ふと思ってしまいました。
いずれをとってもいい加減にできるようなテーマではありません。
まあ、私のことですから、かなりいい加減ではあるのですが、いつもそれなりの覚悟はするのです。
いざとなったら、それなりのがんばりをするのが、一応、私の文化なのです。
がんばっていると、必ず誰かが手を貸してくれます。

しかし、最近、時々、先のことを考えて不安になります。
先のことを考えるのは「老い」の始まりです。
先の時間が無限ではないということへの心配ですから。
若いころは、先のことなど考えずに、まっすぐ前を見て生きていました。
いえ、節子が病気になって、手術をするまでは、私には先しか見えませんでした。
それも無限の時間のある「先」です。
おかしな言い方ですが、「来世」までが私の視野にはありました。
今生で完結する必要などない、というのが私の意識でした。
友人は冗談だと思っているようですが、私にとっては確信でした。
ですから私の時間軸は、無限に近くゆっくりしていました。

しかし、節子の手術、そしてその後の一緒の生活。
それが私の意識を大きく変えました。
今この時点での時間の大切さが、実感としてわかってきました。
節子が好きだった「一期一会」です。
私には、それまでほとんど関心のない言葉でした。
いつでも、そしてまた、会えるではないか。人はすべてつながっているのだから。
人が会うなどということは瑣末なことでしかない、と私はどこかで思っていました。
そして、事実、不思議なことですが、会うべき人には会えました。
電車の中で、街の中で、そして会いたくなる頃に不思議にやってくる。

それなのに、この1年半、節子に会えなくなりました。
来世では会えるかもしれませんが、時々、無性に今生で会いたくなります。
でも会えない。
節子のように、一期一会を大事にしてこなかった罰を与えられているのでしょうか。。

先のことを考え出すと、人は動けなくなるものです。
最近、そのことを痛感しています。
黒沢明の「生きる」の主人公は全く正反対に、残された時間を知ったときから大きな仕事に取り組み成功させました。
その話が以前はとても納得できたのですが、最近は全く理解できなくなってしまいました。
なぜでしょうか。
節子ならきっとその答を教えてくれるでしょう。
節子は私の人生の先生でした、自分では何も話しませんでしたが、私には伝わってきました。
その先生がいない今、先が見えるととても不安になるのです。

老いのせいでしょうか。

■534:座卓の話(2009年2月17日)
昨日、近くの材木屋さんの前を通ったら材木置き場がきれいに整理され、何もなくなっていました。ご主人はご高齢ですから、廃業するのかもしれません。
この材木屋さんにも、節子の思い出がひとつあります。

わが家を新築した時、節子は自然木でできた素朴な座卓をリビングにほしがっていました。
座卓というと、たとえば屋久杉でできた加工された座卓などをイメージしますが、節子がほしがっていたのはそうではなくて、大きな自然の材木の1枚ものに、ただ素朴な脚がついたものでした。
節子は、私と一緒で、コテコテした人工的な装飾や細工は好きではないのです。
しかし平板な機能的なものも好きではなく(ここが私と少し違います)、自然が自然に作りこんだ個性的な表情が大好きでした。
お金を出せばそういうものも買えたのですが、新築当初、わが家にはお金がありませんでしたので、あまり高価なものは手が出ませんでした。
限られた予算ではいいものはなく、予算を超えてもほしくなるようなものには出合えませんでした。
私と節子の意見が少し違っていたことにも一因がありました。
希望する大きさが違っていたのです。
お互いの好みの違いを言い合うことも、私たち夫婦の楽しみの一つでした。

なかなか見つからないので、手づくり好きのわが家では、1万円の加工木板を買ってきて、ニスを塗って脚をつけて当座をしのぐことにしました。
そのうち、節子の病気が発見されてしまい、座卓どころではなくなりました。
もし私がもっと節子思いだったら、節子好みの座卓を探して節子にプレゼントしたでしょうが、私はそういうのが全く不得手なのです。

節子は少し元気を回復し、散歩を一人で出来るようになってから、その材木屋さんの入り口においてあった1枚板を見つけました。
それを使って座卓にしてもらったらどうかと思ったのでしょう。
ある時、私もそれに気づき見てみたら、そこに「予約済み」と書いてありました。
節子に1枚板を見つけたけれど、もう予約されていたよと話すと、その予約は私かもしれないというのです。
座卓にできるかどうかを木材屋のご主人と雑談したのだそうですが、きっと節子がほしそうだったのでご主人が予約として確保してくれていたのです。
もっとも節子にとっては、十分に満足できるものではなかったようで、結局、その板はわが家には来ませんでした。
ですから、わが家にはまだ座卓はなく、1万円の手づくりの退屈な座卓しかないのです。

そんなことを思い出したら、節子の希望をかなえてやらなかったことがまだまだいろいろとあることに気づきました。
しばらくそんな話を書こうかと思います。

■535:吉野家の牛丼(2009年2月18日)
昨日に続いて、節子の希望をかなえてやらなかったことシリーズの2回目です。

節子は吉野家の牛丼を食べたいといっていましたが、ついに食べることができませんでした。
1回ならず、何回か吉野家の牛丼を食べてみたいといっていましたので、本当に食べたかったにちがいありません。
食べたらたぶんいろいろ酷評しただろうと思いますが、
今となっては、一度、食べに行けばよかったと悔いています。

わが家はみんな「グルメ」ではありませんが、それなりに料理にはうるさいのです。
よく言えば、主張があるということでしょうか。
悪く言えば、感謝の気持ちが薄いのかもしれません。
特に、節子はうるさいタイプでした。
自分の料理の腕は棚に上げて、いろいろと論評が好きでした。
ですから、有名なお店に行っても、わが家の家族はほとんどの場合、満足しません。
まあ、あんまり高いお店に行ったことがないからかもしれませんが、グルメ評判のお店も見掛け倒しのことが多いというのがわが家族の共通の意見と言っていいかもしれません。
吉野家の牛丼を食べに行きたいなどと言うのでは、味覚も危ないものだなどと思われそうですが、まあそうかもしれません。
しかし、食材に関する味覚はそれなりにしっかりしていると、みんな自負しています。
もちろん私もです。
それもまた節子の影響です。

牛丼ではないのですが、節子はすき焼きが好きでした。
結婚する前に節子の実家に挨拶に行った日の夕食はすき焼きでした。
今でも覚えていますが、飲み物はビールに加えて、コーラが用意されていました。
当時、私がコーラ好きだったことを節子は実家に伝えていて、両親がわざわざ用意してくれていたのです。
たぶん節子の実家がコーラを買ったのは、それが最初で最後だったかもしれません。
節子は両親から、コーラは歯を溶かすから飲まさないようにいわれていたそうです。
そのせいかどうか、コーラばかり飲んでいた私は、その後、コーラをやめました。
おかげで、歯は今でも溶けていません。

何だか、また無意味なことを書いてしまっていますが、吉野家のことでわかるように、節子はその時々の話題は体験しようというタイプだったのです。
東京の八重洲のミレナリオにもつき合わされましたし、新装した丸ビルにもつき合わされました。
私も好奇心が旺盛だと思っていますが、節子のそれに比べれば、底が浅いです。
なにしろ私のは知的な好奇心で、節子にいわせれば、頭だけで実がないからです。
そういう、時に辛らつなアドバイスをしてくれる節子がいないのが、とてもさびしいです。
最近、読者をするようになりましたが、実際に話題の現場にいくことがなくなりました。
やはり節子は私の世界を大きく広げてくれていたのです。

吉野家の話が、意外なところに展開してしまいました。
最近、わが家ではすき焼きが少ないです。

■536:ロッキー山脈と三陸海岸(2009年2月19日)
節子とは何回か海外旅行に行きました。
しかし、行き先はいつも私の好みで決めましたので、地中海の遺跡周りばかりでした。
エジプト、ギリシア、トルコ、イラン。
残念ながらそこでストップでしたが。

節子は、遺跡周りはそんなに好きではありませんでした。
崩れ落ちた廃墟を見て、何が楽しいのという感じでした。
私には廃墟から歴史の声が聞こえてくるのですが、節子はみんな同じ茶色のレンガよ、というのです。
たしかに、そういわれるとそうかもしれません。

節子もそれなりに楽しんではいましたが、本当はカナディアンロッキーやナイアガラのような、壮大な自然が、節子の好みだったのです。
地中海をひとわたり回ったら今度は私が付き合うよ、と節子には言っていましたが、結局、付き合うことはできませんでした。

病気になってから、三陸海岸に行こうと節子が行ったことがありますが、その時、なぜか私は行く気がしませんでした。
もちろん節子の体調もあったのですが、その旅行は実現できませんでした。
私はまた行けると思っていたのですが、節子はもしかしたら今行かないともう行けないと予感していたのかもしれません。
なんであの時行ってくれなかったのと節子から後で言われました。
しかしその言葉は私への恨みではありません。
修にはいろんなところに連れて行ってもらったというのが、病気になってからの節子の口癖でした。
本当は、私が連れて行ったのではなく、節子が私を連れて行ってくれたのですが。

連れて行く、連れられて行く。
今から思うと、私たちにとっては、それは同じことでした。
しかし、節子がいなくなってから1年半、私はどこにも旅行しなくなってしまいました。
次の旅行は、もしかしたら節子のいる彼岸かもしれません。
彼岸に行ったら、今度こそ節子に付き合って、ロッキー山脈とナイアガラ、そして三陸海岸に行こうと思います。

■537:ハワイのキラウェア火山(2009年2月20日)
海外旅行の話が出たので、テーマを少しそれに移します。
あまり行けませんでしたが、節子は海外旅行が好きでした。
私たちが最初に海外に旅行したのはハワイでした。
しかし新婚旅行でも個人旅行でもありませんでした。
何しろ私たち夫婦はお金にはあまり縁がなかったので、個人で海外などという発想がなかったのです。
にもかかわらず、なぜハワイに夫婦そろって旅行できたのか。
これは以前書いたような気もしますが、懸賞論文のおかげなのです。
日経サイエンスという雑誌で、科学技術に関するエッセーの募集がありました。
半分冗談で、出してみないかと誘ったのです。
節子は新聞への投書が好きでしたので、2人でそれぞれ出そうということになりました。
私は当時それなりに科学技術には関心がありましたので、すぐに書き上げましたが、科学技術など全く無縁の節子は数日かけて書き上げました。
お互いに読みあって、コメントしましたが、
節子のは中学生の作文のようなので、まあ入選するはずがないと思っていました。

数日後、雑誌の編集部から会社に電話がありました。
私への入選の知らせです。
節子も応募していたことも忘れて、自慢の電話を節子に入れました。
なんと節子にも入選の電話があったというのです。
しかも私よりも早く。
ちなみに、事務局はまさか私たちが夫婦だとは気づかなかったのだそうです。

そのご褒美がハワイにキラウェア火山を見に行くツアーだったのです。
10人のツアーでした。
私たち夫婦は例外的な存在でした。
ほかはみんなそれぞれ専門を持ったエンジニアでしたから。
メンバーで一番若かったのが、まだ高校生だった茂木健一郎さんでした。
最年長だったのが、杉本泰治さんです。
杉本さんは、節子の訃報を聞いて、すぐさまわが家まで来てくれました。

キラウェア火山のボルケーノハウスで宿泊しましたが、その夜、同行の中村東大教授のレクチャーがありました。とても豊かな旅でした。
最終日に観光があり、ポリネシアンセンターに行ったら、そこでぱったりと私の大学の同級生家族に会ったという思い出もあります。

まあこれが節子との海外旅行の始まりでした。
その時の溶岩のかけら(たしか「ペレの涙」と言いました)が、どこかに残っているはずです。
いつかその時の記録をきちんと整理しようといいながら、どこかに詰め込んだままです。
そういう点は、私も節子も似ていました。

■538:エジプト家族旅行(2009年2月21日)
海外旅行編の2回目です。
私は47歳で会社を辞めました。
会社生活は面白かったのですが、会社のあり方にいささかの疑問を感じていたのです。
そして当時も私の生活信条だった「自分に正直に、自分らしい生き方」を目指して、辞めてしまいました。
ところが、早期退職制度が適用されたため、予想以上に退職金をもらえました。
わが家にはそれまで縁のなかったまとまったお金が入ってきました。
そこで決行されたのが、エジプト家族旅行です。
家族の迷惑など一切考えずに、私が決めてしまいました。
みんなとても迷惑したようで、後々まで娘からは非難され続けています。
無理やり会社を1週間以上休ませてしまったからです。

しかしエジプト旅行はいい旅でした。
そのガイド役がホームページ(CWSコモンズ)に時々出てくる中野正道さんです。
中野さんの案内はとても楽しいもので、遺跡には興味のない節子も楽しんでいました。
いつかもう一度エジプトに一緒に行こうという、節子との約束は実現できませんでしたが。

エジプト旅行で知り合った人に金沢の八田さんご夫妻がいました。
帰国後、節子と2人で金沢まで会いに行きました。
旅行で知り合った人との付き合いも、節子が好きなことの一つでした。
しかし、その八田さんたちももう彼岸に行ってしまいました。
節子と再会していることでしょう。

旅行中、娘たちが一緒だったにも関わらず、2回、夫婦喧嘩をしてしまいました。
その頃は、まだ私は自分本位のわがままな自信家だったのです。
私が今のように、少しだけ周りの世界が見えるようになったのは、会社を辞めてから節子と過ごす時間が増えたおかげです。

寝室にスフィンクスを後ろにして撮った家族の写真があります。
その頃の節子は、まだぽっちゃりと太っていました。
それにまだ幼ささえ残っています。
もしかしたら、節子が苦労しだしたのは、その後、つまり私が会社を辞めて自由気儘な生活に節子を引きずりこんでからかもしれません。
写真を見ていると、当時のことが思い出されてきます。
古代エジプトといえば、蘇生信仰の文化です。
オリシスのように、節子も蘇生してこないものでしょうか。

■539:「あなたのためのディナー」の日(2009年2月22日)
海外旅行編をもう一度だけ書きます。
節子は、私とは別にちょっと贅沢なヨーロッパ旅行をしたことがあります。
しかし、これもまた懸賞論文のおかげなのです。
ハワイの旅行がとても良かったのか、今度はハウス食品の懸賞論文に投稿したのです。
それもなぜか入選し、5人の入選者がヨーロッパの食文化旅行に招待されたのです。
入選者の他に、浜三枝さんが同行されました。
このときの入選者たちとは、その後もお付き合いがあり、節子の一周忌にもみんなでわが家まで来てくれました。
この挽歌にも何回か登場しています。

それを改めてまた書いたのは、その時の節子の作品が掲載された雑誌が出てきたからです。
「ミセス」の昭和58年11月号です。
ホームページの方に掲載しました。
よかったら読んでください。
次をクリックするとでてきます。
私も完成品をきちんと読むのは今回が初めてかもしれません。
わが家が一番賑やかだった頃の話です。
当時はたぶんまだ私は勤めていた会社の仕事にのめりこんでいて、終電車の送れて帰宅したりしていたこともあった頃です。
いろいろと思うことがありすぎて、何も書けませんが。
節子のあたたかさが思い出されて、感傷に浸ってしまいそうです。
節子への感謝の気持ちが改めて強くなりました。

その時の旅行で、節子が一番気に行ったところが、どうやらフィレンツェです。
残念ながら私はフィレンツェに行ったことがないのですが、節子はその後、フィレンツェの油絵を描きました。
それがわが家の玄関を今も飾っているのです。

■540:リモージュでの節子
(2009年2月23日)
昨日書いた雑誌「ミセス」には、論文の紹介に併せて、浜美枝さんの「ローマ、パリ、リモージュ、テーブルセッティング体験旅行」という記事が掲載されていました。
改めて読んでみました。
文中には、同行した受賞者の発言も紹介されていますが、浜さんらしく、全員を少しずつ登場させています。

節子の言葉は、あんまり知性を感じさせませんが、こんな内容です。
テーブルセッティングに用意されたキャンドルを見て、
「紺色のキャンドルなんて、ブルーの灯がともりそう」
また講習会の感想を言い合っている時に、「みんな雰囲気を楽しんでいるのね。ミラノの、フルコースで料理が24種類も出てきたレストランの食事が楽しかったこと、店中にユーモアがあふれて・・・」と同行の杉山さんと話しているのが紹介されています。
いずれもいかにも節子らしい発言です。
写真も何枚か掲載されています。
20年ほど前ですから、みんなまだ若いです。
朝市で、みんなが露店で買い物をしている写真もありました。
節子が、たぶん一番好きな時間だったでしょう。

浜さんの記事から想像するに、このツアーはかなり贅沢な旅行だったようです。
記事には、リモージュのレイノー家に招待されての昼食の様子が書かれていますが、そういえば、節子はレイノー家のご夫妻からのお土産といって、リモージュ焼きのお皿をもらってきたのを思い出しました。
わが家のどこかにあるはずです。とてもきれいな小皿でした。

この旅行は、節子にとっては非日常的な旅行だったのだろうと思います。
私たちは、個人的にはいつも質素な旅行でしたから。
その旅行の話をあまりシェアしなかったことは、いまさら後悔しても仕方がありませんが、夫婦といえども別々の体験の喜びはなかなかシェアできないものです。
むしろ一緒に旅行したみなさんのほうが、私よりもシェアしていることは間違いありません。
昨年の節子の一周期には、みなさんがわが家まで来てくれましたが、その気持ちが浜さんの文章を読んでいて、少しわかったような気がしました。

浜さんは、以前、箱根でレストランを開いていました。
節子は何回か友だちと行っていますが、私は残念ながら体験できませんでした。
一度、思い立って急に節子と箱根に行ったときに、レストランまでは行ったのですが、予約していなかったのでだめでした。
あの時、もし節子と食事をしていたら、もっともっとこのヨーロッパの旅の話を聞けたかもしれません。

夫婦は、お互いにすべてを知っているようで、知らないことがたくさんあるものです。
雑誌に載っている節子の写真をみながら、節子と喜怒哀楽を共有しだしたのは、もしかしたら私が会社を辞めてからだったかもしれないと思いました。

■541:白洲正子さんの十一面観音巡礼(2009年2月24日)
節子
一昨日のETV特集は「もう一度会いたかった 〜多田富雄、白洲正子の能を書く〜」でした。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html
うっかり忘れてしまっており、最後の30分ほどしか見られませんでした。
それでも、多田さんの思いは伝わってきましたし、いろいろと考えさせられることがありました。
番組中、とても印象になる「言葉」がありました。
それをテーマに、昨日、挽歌を書こうと思っていたのですが、朝、目が覚めて、さて書こうと思ったら、その「言葉」が出てこないのです。
それで、昨日は違う話を書いたのですが、今日になっても思い出せません。
どうも最近は、記憶が危うくなってきています。
もしかしたら、昨日番組を見ていた時に、私もまた幽界を漂っていたのかもしれません。
そんな感じもする30分でした。

番組の最後は、多田さんの新作能「花供養」のダイジェストでした。
昨年12月に白州正子没後10年の節目に、一夜限りで上演された「花供養」は、多田さんは、死者である白洲正子さんに「再会」したいという願いを込めた作品だそうです。

白洲正子さんの名前は、私にとっては、実は節子とつながっているのです。
学生時代から愛読していた雑誌のひとつが、「芸術新潮」でした。
白洲さんは同誌に「十一面観音巡礼」を連載していました。
実は、それにまつわる私の記憶がかなりおかしいのです。
私には、時間が乱気流しているような気がしてなりません。

以前も書きましたが、私は奈良の佐保路が好きでしたが、その起点が法華寺でした。
そこの十一面観音が、私が十一面観音を意識した最初ですが、そこに行ったきっかけは白洲さんの連載記事だったように記憶しています。
そして行き着いたのが渡岸寺の十一面観音。その近くで育った節子。

私が十一面観音に魅せられだしたのは、白州さんのこの連載でした。
白洲さんの文章を読んでいると、観音像ではなく、観音が生きている世界が伝わってきます。
一緒に巡礼した気分になれるのです。
しかもそこには時間や空間を超えた物語が詰まっています。
十一面観音の始まりを知ったのも、若狭のお水送りを知ったのも、この連載でした。

と、実はずっと思い込んでいました。
いえ、いまもそう確信しているのです。
佐保路を節子と歩いた時にも、その話をした記憶があります。
ところが、白洲さんが芸術新潮に「十一面観音巡礼」を連載していたのは、後に出版された本によると、1974年になっています。
私の記憶とちょうど10年、差があるのです。
このことに気づいたのは、節子がいなくなってからです。
ですから佐保路での会話は確認のしようがありません。
どうでもいいような話なのですが、私にとっては実に不思議な話で、もしかしたらそこだけ時間がひずんでいるのではないかと思えてなりません。

多田さんは「花供養」で白洲さんに「再会」したでしょう。
とてもうらやましいです。
私はどうしたら節子に「再会」できるでしょうか。
十一面観音巡礼と白洲正子さんが創りだす時空間のひずみがもう一度発生して、どこかでまた「生身」の節子と会えないものでしょうか。
今度、花屋さんで白椿を見つけたら、それをわが家の大日如来に供えて、時空間のひずみを念じてみようと思っています。
白洲正子さんは、白椿の精といわれているそうですので。

ちなみに、節子と出会ってから法華寺の十一面観音には一度しかお会いしていません。
節子と一緒に行ったはずですが、その記憶も全くありません。
これも私には不思議なことなのです。

■542:「死者を忘れてはいけない」(2009年2月25日)
節子
今年のアカデミー賞で、『おくりびと』が外国語映画賞を受賞しました。
またつい先日には、直木賞では『悼む人』の受賞が話題になりました。
この世界には造詣の深い佐久間さんから、お話をお聞きしていたのですが、まだ観る気にも読む気にもなれずにいます。
とりあげるつもりはなかったのですが、いまこの時期に、この2つの作品が、これほど話題になるのは、もしかしたら何かのメッセージがあるのではないかという気がちょっとしてきました。

『おくりびと』の映像の一部を最初に見たのも、今から思えば衝撃的な事件でした。
1年ほど前に、箱根の合宿に参加した時のことです。
箱根は節子との思い出が多すぎて、会場のホテルに行くのがやっとでした。
でも、長年引き受けている仕事でしたので、休むわけにはいかなかったのです、
部屋に入って、節子のことを思いながら、無意識にテレビをつけました。
そうしたら、まさに「納棺」の場面が飛び込んできたのです。
映画の話は知っていたので、すぐわかったのですが、あわてて切りましたが、私にとっては衝撃的な出来事でした。
そのことがあったため、『おくりびと』という言葉を聞いただけで、実は心がどきどきしてしまうようになってしまいました。

『悼む人』に関しては、佐久間さんがホームページに掲載している感想を送ってきてくれました。
それを読んで、読めそうだと思いました。
佐久間さんは、自分が常日頃から考え続けていることがこの小説に書かれていると書いています。
それは、「死者を忘れてはいけない」ということだそうです。
そうであれば、読めるどころか、読みたい気もします。
しかし、この小説もまだ読めていません。
本の装丁に大きな抵抗があり、アマゾンでも申し込めなかったのです。
装丁が悪いといっているのではありません。
なぜかすごくリアルな感じが伝わりすぎて、ドキドキしてくるのです。
この本は部屋には置けそうもありません。

そんなわけで、私はどうも世間の動きについていけずにいます。
佐久間さんには、まだだめですかと笑われそうですが、だめなのです。
しかし、「死者を忘れてはいけない」という言葉は、私の心にずっと残っています。
私にとって、節子は忘れようもありませんが、それは節子がいまでも私にとっては「死者」ではないからです。
でもその一方で、節子に関して、「死者は忘れられていく」という悲しさも感じます。
とても矛盾しているのですが、それが正直な私の気持ちなのです。
「愛するひと」との別れは、なかなか乗り超えられないのです。

この2つの作品が話題になっていることは、私へのエールなのでしょうか。

■543:「場所なき人々」(2009年2月26日)
伴侶を失うことの最大の辛さは、自らの拠り所の喪失かもしれません。
それは、とりもなおさず、自らの居場所に関わってきます。

最近、「場所なき人々」(displaced persons)が増えています。
世界的にいえば、いわゆる「難民」の増加ですが、国内でも増加の一途です。
一見、しっかりした居場所を持っているように見えても、それがとてももろいものであることが最近見えてきました。
大企業に属していても、いつ職場を追い出されるかわかりません。
職場を追い出されても、家庭があればそこに戻れましたが、そこからも追い出されることさえ起こっています。
こうした現象は、決して他人事でないことを最近痛感しています。

居場所とは必ずしも「物理的空間」を意味しません。
精神の拠り所もまた、居場所に深く関わっています。
場所を失った人にとっての最大の辛さは、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」(齋藤純一)なのです。

私にとっての「住み慣れた場所」は、わが家であり、そこを中心とした地域社会です。
幸いに、私はいまもその住居に娘たちと住んでいます。
これ以上の贅沢はいえたものではないでしょう。
私にとっては、とても暮らしやすく好きな住まいです。
しかし、節子がいなくなってから、そのお気に入りの住まいがどうも違うのです。
何かが欠けているのです。

最近、齋藤純一さんの「政治と複数性」という本を読みました。
「公共性」に関する本なのですが、私の生き方を振り返る意味でとても親しみの持てる本でした。
上述の、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」という言葉は、その本で出会った言葉です。
その箇所を読んだ時、私もまた「場所を剥奪された」のではないかと感じました。
それ以来、ずっと気になっています。

今日、友人がやってきました。
彼の高齢の義母が骨折し、生活が不自由になってしまったのだそうです。
そのため、子どもの誰かが同居して世話するか、施設に入れるかで、子どもたちが話し合っているという話が出ました。
話しながら、何となく「場所なき人々」の話を思い出しました。
人は、歳をとり、いつか「居場所」を失うのでしょうか。

節子は、最後まで「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすこと」ができました。
しかも、その住み慣れた場所の中心にいたのです。
私には、そのことがとてもうれしいです。
しかし、私自身には、それは果たせぬ夢になってしまいました。

愛する人のいない住み慣れた場所は、時に辛い場所にもなるのです。

■544:節子に言えば何とかなるだろう(2009年2月27日)
節子
山のように「やらなければならないこと」が溜まっています。
今日は、それをこなそうと外出をやめ、取り組みだそうとしたのですが、もう半日過ぎたのに、ほとんど「やるべきことの山」は減っていません。
何もやっていなかったわけではなく、一応、パソコンには向かっていたのですが、まあ「急がなくてもいい」「やらなくてもいい」ことばかりやっていたのです。
やらなければいけないことが増えるほどに、やらなくてもいいことに気が向いてしまうのは、私の性格です。
まあ言ってしまえば、「逃げるタイプ」なのでしょう。
もう間に合わないぞ、というくらいまで、自分を追い込まないと「やらなければいけない」ことに着手できないのです。
困ったものですが、この性格は直りません。

節子は、反対でした。
まず「やらなければいけないこと」からはじめ、それも「できる時にやってしまっておく」という姿勢でした。
もっとも、それは建前でしたので、私から見れば、必ずしもそうではないような気もしますが、節子はいつもそう言っていました。
「今日やれることは今日やる」節子と、「明日でもいいことは今日はやらない」私とは、そのライフスタイルはまったく違いましたが、まあそれぞれに自分側に引きづり込もうと相互に働きかけあっていました。
しかし、節子がいない今、私は目いっぱい、ぎりぎりまで延ばします。
度胸があれば平然と延ばすのでしょうが、気が小さいので、大丈夫かな、やらないとだめだなとストレスをためながら延ばしているわけです。

不思議なのですが、それをストレスと感じ出したのは、この1年です。
節子がいた頃は、ストレスにはなっていなかったのです。
たぶんいざとなったら「節子」に言えば何とかなると思っていたのです。
もちろん節子に「何とかできる」はずなどありません。
節子とはまったく無縁な仕事が多かったからです。
でも不思議なことに、そう思えるのが伴侶なのです。
さて、こんなことを書いているよりも、仕事をしなければいけません。

それにしてもやることがたくさんありすぎて、やる気が起きません。
節子がいたら、一緒にお茶など飲んで、やる気を出してもらえるのですが。

■545:愛と執着(2009年2月27日)
前にも書いたE.フロムは、「愛」と「執着」とは違うといいます。

フロムは、愛というものは、「人間のなかに潜むもやもやしたもの」であり、それがさまざまな形で表出すると考えます。
対象によって引き起こされるものではなく、自らから溢れ出るものだと考えるのです。
ですから人は、さまざまなものを愛することが出来ます。
たまたま現在の日本のような一夫一妻文化の中では、複数の異性とは夫婦になることはできませんが、それは「愛」の話ではなく「制度」の話です。
そうした考えからフロムは、「ただ一人にだけ向けられた愛が、排他的なものになってしまえば、それは愛ではなく、執着である」といいます。

挽歌を書き続けている私は、フロムからみると、愛ではなく執着ではないかと思われそうな気もします。
しかし、冒頭に書いたように、節子と私は決して「執着し合う関係」ではなく、正真正銘「愛し合う関係」でした。
それぞれの相手だけではなく、自らのなかにある「もやもやした愛」をさまざまなものに向けてきました。
浮気とかそんな話ではないことはわかってもらえると思いますが、相互に愛し合う関係が閉じられてしまうと、その関係は深まりもせず豊かにもなりません。
節子と私は、お互いにそのことをよく知っていました。

節子がいなくなった後、私はどうなったでしょうか。
私のなかにある「もやもやした愛」が、一番の行き場をなくして、他のところに向かったでしょうか。
そうはなっていないのです。
節子がいなくなってから、「もやもやした愛」の全体量とその動きが低下したような気がします。
あまり的確なたとえではないのですが、ドライアイスを水に入れると白い蒸気が容器から溢れるように盛り上がってきますが、その状況で、水の中のドライアイスがなくなってしまったような感じなのです。
なにか頼りなく、消えるような不安があります。
最近、持続力がないと何回か書きましたが、それはこういうことなのです。

もちろん、新たなものを愛することができないというわけではありません。
いまでも節子がいた頃と同じく、人を見ると愛したくなり、事物に接すると愛したくなります。
もっとも、私の愛とは、「この人、このことのために何かできることはないか」という程度のものなのですが、その思いがなかなか持続し、行動につながらなくなってきてしまったのです。

私の「愛」は、実は節子の「愛」とのつながりのなかで、「創発」されていたのではないか。
最近、そんな気がしてきました。
「半身を削がれる」ということは、そういうことなのかもしれません。
もしフロムのいう「もやもやした愛」が、人の生きる力の源泉であるとすれば、私のそれはかなりの部分、節子と一緒に彼岸に吸い込まれてしまったようです。
「もやもやした愛」がなくなってくると、人生はあまり面白いものではなくなってきます。
どうしたらこの流れを反転できるでしょうか。
まあ、そのうちきっと反転するでしょう。
もし私にまだ彼岸に行くまでの時間がかなりあれば、ですが。

■546:どこが間違っていたのだろうか(2009年3月1日)
久しぶりに真夜中に目が覚めて、眠れなくなりました。
以前はそれが毎日のように続きましたが、最近は月に1〜2回程度です。
しかし、時に突然ひとつの問いが頭にうかびます。
「どこが間違っていたのだろうか」
その問いを意識すると、それから頭が冴えてしまって眠れなくなります。
昨夜がそうでした。
目が覚めて、また寝ようとしたら、その問いかけに襲われてしまったのです。

節子をなぜ治してやれなかったのだろうか。
治すと約束していたではないか。
節子は、その私の約束を信じていたはずです。
しかし私は、その約束を果たすために全力を注がなかったのです。
注いでいれば、節子は治ったはずですから。
私の取り組みのどこかに「間違い」があったのです。
いやもしかしたら、発病の前に、私の「間違い」があったのかもしれません。
そう思って考え出すと、たくさんの分岐点に気づきます。
その時々の私の取り組み方は、今から思えば決して誠実ではなかったのです。
私としては、自分がそうなったら取り組むであろう以上のことはしたつもりですが、それはなんの慰めにもなりません。
私にとっては、私自身の不在よりも、節子の不在のほうが、辛いことなのですから、それは当然のことです。

「どこが間違っていたのだろうか」
この問いに対する答えは、山のようにあります。
その答の山が、私の平常心を崩し、後悔の念を引き起こします。
それに対しての言い訳は何の役にもたちません。
頭の中がどんどんと白くなり、広がっていくのを、ただじっと耐えることしか出来ません。

人生には誰しも間違いはあるでしょう。
しかし間違ってはいけないことを間違えてはいけません。
それを犯してしまった罪悪感は拭いようもありません。
ただシジフォスのように、繰り返し責め苦に耐えるだけなのです。

救いは、おそらく節子もまた、私と一緒に、その責め苦に耐えていることです。
だから私も耐えられるのですが。

■547:時間がたつと悲しみの感情は薄れるか(2009年3月2日)
昨日、「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」というタイトルで司法時評を書いたのですが、これを書いたときの気持ちは、むしろ挽歌編を書くときに気持ちでした。
そこにも書いたのですが、愛する人を失った場合、「時間が癒してくれる」などということは決してないのです。
節子を見送って明日で1年半ですが、節子に関していえば、時間さえ止まっているのです。
「時間が忘れさせてくれる」などという人さえいましたが、「忘れること」が一番に避けたいことであることなど、そういう人には思いもよらないことなのでしょう。
昨日、飯島愛さんの「お別れの会」の様子がテレビで放映されていましたが、そこで大竹しのぶさんが「今日はお別れの会となっているけれど、私はお別れなどしないから大丈夫だよ」というようなことを話していました。
まったくその通りなのです。
「言葉」はとても難しいです。

私も節子との別れを体験するまでは、「相手の立場に立って考え行動すること」が大事だとずっと思ってきました。
さまざまなNPO活動に関わらせてもらうときの、それが基本姿勢でした。
いつも、同じ目線で同じ世界で考えたいと思ってきました。
しかし、そんなことが出来ると思うことの傲慢さを、最近は痛感しています。
もちろん「相手の立場に立って考え行動すること」は重要なことですし、今もそういう姿勢を基本にしています。
しかし同時に、決して相手の深い思いにはたどりつけないことを意識しておくことに心がけられるようになりました。
そう思うことで、実は相手のことが今まで以上にわかるような気がしてきました。
同時に、私のことを気遣ってくれる人たちのこともわかるようになってきました。

正直に言えば、以前は、「時間が癒してくれる」などといわれると腹が立ちました。
当事者でもないのに、わかったようなことを言ってほしくないとついつい反発してしまったのです。
実は、そうして「反発」してしまうことこそ、相手と同じく、相手の気持ちや思いを無視していることだと1年ほどたって気がついたのです。
それに関しては、すでに挽歌のどこかで書いたつもりです。

妻を失ってホッとしている人もいるでしょうし、妻の後を追いたいと思っている人もいるでしょう。
まさに同じ現象に見えても、人によってその意味合いは全く別個のものです。
そうしたさまざまな人の思いを、自分の思いで受け止めてしまうことで、世界は見えなくなってしまうものだということを実感したのです。
個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
しかし、時間がたてば消えるような悲しみは、悲しみではないのです。
節子を失った悲しみは、私にとっては「初めての悲しみ」だったのだと、最近ようやく気づきました。
そして「悲しみ」を体験すると、人はやっと人の「悲しみ」もわかるものだと気づかされました。
できれば「悲しみ」など体験したくなかったのですが。

■548:個人の体験は他の人には理解できない(2009年3月3日)
昨日も書いたように、個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
おそらくこの挽歌を客観的に読むと、支離滅裂で、気持ちが乱高下しているように感じるでしょう。
私自身、言葉にしてしまうとちょっと違うなと思うこともあります。
できるだけ思いつくままに書くように心がけていますが、
書いているうちに、何を書こうとしたかったのかもわからなくなることもあります。

ところで、「個人の体験はきわめて個人的だ」と書いていて、気づいたことがあります。
節子の体験は節子のものであり、私にもわかっていなかったのではないかということです。
節子の悲しみ、節子のつらさ、節子の幸せ、節子のさびしさ、それは私にはわかりようのないものです。
しかし、なんとなくそれがわかっているような気になっていたのではないか。
そんな気がしてきたのです。
まあ、冷静に考えれば、当然のことなのですが。

他の人の立場になるという姿勢が一番問題なのは、自分の価値観で相手の思いを読み替えてしまうことです。
福祉の世界で、よく起きる悲劇がそこにあります。
とりわけ自己主張しにくい子供たちや高齢者、あるいは障害を持つ人たちは、意識的にせよ無意識にせよ、自らの思いを抑制する傾向があります。
そうした相手の思いを「わかった」ように思うことは、第三者的に見ているとわかるのですが、自分が当事者になってしまうと見えなくなりがちです。
節子との闘病生活の中で、私は節子からそのことをたくさん教えてもらっていたはずですが、それを自覚できたのは節子を見送ってから1年ほどたってからです。
今でも、思い上がっていた自分に、時々、気づいて、呆然とします。

私がこの挽歌を書き続けているのは自分のためなのです。
当初は、自分の鎮魂のためでしたが、最近は書かずにはいられないという贖罪の意識もあります。
こんな挽歌を書いていても、節子は喜ばないかもしれません。
その程度の自覚は私にもあるのですが、どこかに自分だけが節子のことを一番よく知っているという気持ちがあることも事実です。
それがなくなってしまうと、私の支えは瓦解し、この状況を続けられなくなるかもしれません。
まあ、そんなわけで、まだまだ挽歌は書き続けるつもりです。

今日もまた、何を書こうとしていたのかわからなくなりましたが、
要は、個人の体験は他の人には理解できない、ただひとつの体験だということを書きたかったのです。
私の体験と節子の体験も、またそれぞれに違っていたということを受け入れるのは、私にはかなりつらいことだったのですが。
節子が、どう思っていたか、最近少し気になりだしています。

■549:久しぶりに東尋坊の茂さんに会いました(2009年3月4日)
節子
東尋坊の茂さんと川越さんが湯島に来ました。
茂さんは最近、テレビなどで引っ張りだこなのですが、東尋坊で自殺防止のための見回り活動をしています。
茂さんの声かけで、たくさんの人が救われています。
昨今の経済状況の中で、茂さんはますます大忙しのようです。

その茂さんから昨年末に、こんな活動をしたいと思っていると「夢」が送られてきました。
普通なら、それで終わる話です。
この挽歌にも書いた記憶がありますが、節子と一緒の最後の遠出の旅は、福井と滋賀の旅でした。
足を伸ばして東尋坊に立ち寄った時に、茂さんにお会いしたのです。
そんなことがあったので、茂さんの夢は見過ごすわけにはいかないような気がしました。
それで、茂さんの夢を実現するための構想を起案し、関係者で会ってみることにしたのです。
茂さんと一緒に活動している川越さんやライフリンクで知り合った福山さんも一緒です。
南紀白浜で同じような活動に取り組んでいる藤藪さんも参加してくれました。
新しいプロジェクトがスタートできそうです。

私自身は、このプロジェクトに参加するつもりは全くなかったのですが、茂さんとメールや電話をしているうちに、なんとなく当事者の一人になってしまっていたのですが、その理由の一つは節子です。
茂さんと話していると、いつも隣に節子が居るような気がするのです。

節子と一緒に見た、東尋坊の美しさは、今もなお忘れられません。
私たちに「生きる力」を与えてくれたのです。
その夜は、芦原温泉に宿泊しましたが、体調が良くなかったにも関わらず、節子は温泉手形を使って隣のホテルの温泉にまで出かけました。
その時の、節子のことを思うと、やはり涙が出てきます。
隣のホテルの温泉に行こうと、節子が言い出したのです。
私よりも、同行した節子の姉夫婦よりも、節子は元気だったのです。
いや元気を装っていたのです。
そんな健気な節子が、私にはいつも誇りでした。

私が、節子に惚れ直したことは、発病以来、何度もありました。
私には、できすぎた女房でした。
死と闘っていた節子のことを思うと、当時、私には自殺するような人は許せませんでした。
しかし、いまは違います。
茂さんがいつも言うように、みんな生きつづけたいのです。
それを打ち破る理由がどこかにあるのです。
病気も恨めしいですが、人を自死に追いやる社会も恨めしいです。

茂さんの夢は実現されなければなりません。
いつかまた、その構想や動きはホームページ(CWSコモンズ)のほうで報告させてもらいます。
今回は、節子への報告です。

■550:大阪から浜口さんが献花に来てくれました(2009年3月5日)
節子
今日は大阪から浜口さんが、我孫子のわが家まで献花に来てくれました。
浜口さんには節子は会っていませんが、名前は知っていますね。
サイモントン療法を教えてくれた人です。
あれから間もなく2年です。

しかし人の縁とは不思議なものです。
おそらくオープンサロンで節子に何回も会っているにもかかわらず、一言も弔意を伝えてこない人がいる一方で、会ってもいないのにわざわざ自宅にまで献花に来てくれる人がいるのです。

私が会社を辞めた時もそうでした。
仕事だけで付き合っていた人は、会社を辞めた途端に疎遠になりました。
その一方で、たった15分しか立ち話しなかった人がオフィスを開いたときにやってきてくれました。
その時に、人間というものをかなり理解したように思いましたが、節子がいなくなってから、改めて人のやさしさやかなしさを知りました。
節子がいなくなった後、付き合いが途絶えた「私の友人」もいるのですが、それもとても不思議です。
付き合いが途絶えたとか、弔意が伝わってこなかったとかを問題にしているのではなく、その不思議さに気づいたということですので、誤解しないでください。
節子がいなくなったら途絶えてしまった付き合い、節子がいなくなったのに、節子がつなげてくれて始まった付き合い、人のつながりは本当に不思議です。

話がそれましたが、浜口さんはまだ20代の若者です。
好奇心が旺盛で、さまざまな知識が頭に充満しています。
それも単なる「知識」ではなく、実際の行動で体感している知識なのです。
話していると教えられることが少なくありません。
がん治療に関する話題も出ました。
節子は聴いていたでしょうか。

もう少し早く浜口さんに会っていたら、なにかが変わっていたかもしれません。
そう思うと気持ちが沈んでしまい、浜口さんと話すのが辛くなってきてしまいました。
がんの話になると、いまだに精神が揺れてしまいます。
困ったものです。

■551:記憶は脳と環境の相互作用(2009年3月6日)
節子
朝から雨です。
節子がいなくなってからのことですが、雨の日は胸が痛みます。
痛むというか、とても不安になるのです。
節子に抱きしめてほしい気がします。

そういえば、昨年、福岡の篠栗大日寺に行った時も雨でした。
今日の雨は、あの時を思い出させるような雨です。
あの日、祈祷師の庄崎さんが彼岸にいる節子との橋渡しをしてくれました。
その時の会話がボイスレコーダーに入ったままです。
娘たちに聴かせようと思って録音してきたのですが、なぜか1年近くたちますが、私自身が聴く気になれません。
娘たちも聴きたいとはいいません。
いまもそのレコーダーが目の前に転がっていますが、どうも気が向きません。

家の所々に、節子のものがまだあります。
娘が、時々、片付けようかというのですが、その気になれません。
片付けてしまうと、節子までいなくなってしまうような気がしているのかもしれません。
止まったままの時間の中にいつまでも居続けることは出来ないのかもしれませんが、居続けられるのかもしれないと最近思うようになりました。

ある場所への道順を言葉では説明できないのに、実際にそこにいくと自然に目的地に向かって行けてしまうということはよくあります。
記憶を誘ってくれるものがあれば思い出せなかったことも思い出せるということです。
認知症予防の一つの処方として回想法なるものもあります。
記憶の世界は奥が深く、無意識や前意識など、さまざまな層で構成されているようです。
そして、記憶というのは各人の脳の中で完結しているのではなく、脳と環境の相互作用の中にあるとも言われます。
生命体はすべて文節化されずにつながっているというゾーエの概念に重ねて言えば、記憶もまた本来は分節化されずにつながっているのかもしれません。
しかも時間軸を超えて、すべてが存在しているわけです。
空海の虚空蔵やシュタイナーのアカシックレコードは、そのことを示唆しているのかもしれません。
こんな言い方をすると、いささか非論理的に聞こえるかもしれませんが、三次元的な(あるいは時間軸もいれて四次元的といってもいいですが)感覚では形象化できない記憶が個人の脳の内部で完結していると考えるほうがおかしいでしょう。
脳は、脳外のものやこととふれることで実体化するのです。
だとしたら、節子のものをそのまま残しておくことの意味はあります。

雨や青空もそうです。
すべての環境が節子との記憶を想起させるのは、当然のことでしょう。
彼岸にいる節子ともまた、そうした環境を介して、つながっているのです。
雨を見ながら、ついついそんなことを考えてしまいました。

実はこの2週間、ちょっと時間破産しています。
そんなことを考えている余裕はないのですが、雨を見ていたら、そんなことを思い出してしまいました。
さて、また仕事に戻りましょう。
まあ節子と話すことに比べたら、取るに足らない仕事ではあるのですが。

■552:鎌倉五山のお線香(2009年3月7日)
節子
鎌倉の宮澤さんから、温古堂のお線香が送られてきました。

宮澤さんは私たちより一回り年上の3人組の仲間の一人でした。
そこに、なぜか私も入っていましたが、私以外は実に個性的な3人でした。

一人は大の飛行機好きの稲村さんです。
人力飛行機を実現したいという相談を受けたのが付き合いの始まりでした。
飛行機の夢を追いすぎてしまい、いささか失意の晩年でしたが、最後までお元気で自称万年青年を絵に描いたような人でした。
湯島にもよく来てくれましたので、節子も何回も会ったことがありましたね。
館山に転居された後、なかなか会う機会がないまま、ある日、息子さんから突然の訃報が届きました。
稲村さんの夢は叶えませんでしたが、ある意味では夢を追い続けた幸せな人でした。
稲村さんのおかげで、私もいろいろな体験をしました。
M資金(といっても今では知る人も少ないでしょうが)関係らしき人にも引き合わせられましたし、渋沢栄一さんのひ孫とも知り合いになりました。

もう一人は、これも昔の人ですが、森繁久弥さんのヨットの船長をやっていた鈴木さんです。
私が出会った頃は某銀行の調査部長でしたが、話が壮大で夢か幻かの話が多かった人です。
ある研究会でお会いしましたが、なぜか付き合いが始まってしまいました。
企業の枠を超えた人で、その後、外資系銀行の社長をやっていましたが、ともかく破天荒な人なので、なかなかついていけませんでした。

稲村さんを鈴木さんに紹介したお返しに、鈴木さんが紹介してくれたのが宮澤さんでした。
宮澤さんは私たちより一回り年上で、上場企業の社長でしたが、私が知り合った頃はもうほぼ引退されていました。
これまた常人の枠を超えた人で、大企業の社長をやっていたとは思えない、人間的な人でした。
2回ほど、正月に湯島に酒を持ち込んで、4人で新年会をやりました。
飲めない私は、3人の大言壮語を聞くだけでしたが。
残念ながら、そこで語られていた大構想はいずれも夢のままになってしまいました。
コムケアの集まりにも3人で応援に来てくれました。
私の知り合いの中では、もっとも時代をはみ出した人たちでした。

その宮澤さんから、思いもかけず線香が届きました。
鎌倉の温古堂が創業135周年を記念してつくった「鎌倉五山」です。
早速、節子に供えさせてもらいました。
ちょっとシナモンを感じさせる、今までにない香りでした。

これまでもいろいろな方からお線香をいただきましたが、香りは場所を思い出させます。
高野霊香は火をつけなくても高野山のイメージが広がります。
節子と一緒に宿坊で一泊し、真っ暗なお堂で市川覚峯さんに護摩をたいてもらった記憶が浮かんできます。
どなたから送ってもらったかわからなくなってしまったのですが、法隆寺の線香もあります。
法隆寺は、節子とは何回か行きましたが、もう一度行きたかったお寺です。

節子との最後の旅行になった東尋坊近くの吉崎坊で、たしか節子はお線香を買っていたはずです。
それもどこかにまだあるでしょう。
これまではどこのお線香かなど気にせずに供えていましたが、お線香もそれぞれに節子の思いがつながっていることに、今日、やっと気づきました。
鎌倉五山は、節子とは一度しか歩きませんでしたが、建長寺で永六輔さんを見かけた思い出があります。

久しぶりに電話でお話した宮澤さんはお元気そうでした。
「鈴木さんから、佐藤さん夫婦はとても仲が良いといつも聞かされていた。仲が良かったぶん、さびしさも大きいでしょうね」といわれました。
そうなのです。
地球の重さよりも大きいさびしさに今もつぶされそうです。

■553:「21世紀は真心の時代」(2009年3月8日)
節子
今日は群馬県の高崎市に行ってきました。
ぐんまNPO協議会で話をさせてもらったのです。
タイトルは「21世紀は真心の時代」です。
節子は覚えているでしょうが、1982年に書いた私の論文のタイトルです。
この論文が、私たちの生活が大きく変わっていく契機になりました。

1980年前後から日本の社会は大きく変質し始めたように思います。
とりわけ企業の文化は変わりだしました。
現在の社会の状況は、既にそのときに見え出していたように思います。
それを防ぐには「心をこめた対話」しかないというのが、この論文の趣旨でした。
今から読めば子供の作文でしかありませんが、私たちのその後の人生を変えたのです。

その考えを具現化するための、私の会社での取り組みは挫折しました。
その体験から、自分の生き方が問題なのだと気づかされました。
そして、節子と一緒に、心を大切にすることを目指して、生き方を変えたのです。
それからの節子と一緒の20年弱は、私にとっては幸せに満ちた時期でした。
2人で、湯島にオフィスを開き、たくさんの人がやって来てくれた時の興奮は、今でも覚えています。
節子も、とても張り切ってくれていました。
しかし、まさか、パートナーとしての節子との別れがこんなに早く来るとは思っていませんでした。

私の思いは、なかなか他の人にはわかってもらえませんでした。
理解できずともわかってくれたのは、いつも節子でした。
私自身でもうまく消化できないことまでも、節子は共感してくれました。
21世紀は真心の時代の主旨にも共感してくれました。
この論文は毎日新聞社の懸賞に入選したのですが、「真心の時代」などと何を宗教くさいことを言っているのか、と友人知人からは言われました。
昨今では「心の時代」は流行り言葉ですらありますが、1980年代初めには人気のない言葉だったのです。
しかし、節子は共感してくれました。
それが私の行動をいつも支えてくれました。

講演を終えた帰りの新幹線でそんなことを思い出しながら、この挽歌を書きました。
改めて節子には感謝しています。
いつも私を支えてくれる存在でした。

■554:「私らしい生き方」を支えていた「節子の存在」(2009年3月9日)
佐藤さんは、何でもポジティブに考えるので元気をもらえます。
昨日、久しぶりにお会いした人からそういわれました。

その言葉を聞いて、節子との別れだけはどうしてもポジティブに受け入れられない自分に、改めて気づきました。
以前ほど、後ろ向きに考えることはなくなりましたが、まだ前向きに考えることができません。
節子の不在を思い出すと、今でもとたんに気が沈んでしまうのです。
その時の私の周辺には、きっと重苦しい雰囲気が漂っているのでしょうね。
そのせいか、最近は私に会いに来る人も少なくなったような気もします。

3日前に、記憶は脳と環境の間にあるということを書きましたが、
節子の不在への思いを実感するのは、会う人の言動に触発されることが多いのです。
しかし、不思議なのですが、その人が節子の知り合いであるかどうかとか、会話や行動が節子につながっているかどうかとか、そういうこととは全く無関係なのです。
ある状況が、突然、節子の不在を実感させるのです。
そうなると、ブラックホールに引き込まれたようになってしまいます。
普段は、実のところ、不在を実感しているわけではなく、むしろ節子と一緒にいるような気がしているのです。

節子との別れは、私にたくさんのことを気づかせてくれました。
そう考えるのは、ポジティブ発想なのかもしれません。
しかし、その一方で、節子との別れによって、大きなダメッジを受けました。
その大きさが計りしれないのは、今なお時々、新しいダメッジに気づかされることがあるからです。
ですから、どうしてもポジティブには考えられません。

こう書いてきて、気づいたことがあります。
私らしい生き方ができたのは、節子がいたからであって、節子がいなくなると、私らしい生き方ができなくなるのではないかということです。
言い換えれば、私が物事をいつもポジティブに考えられたのは、節子がいたからだったのではないか。
いざとなったら一緒に取り組む同士がいれば、こわいものなどあるはずもありません。
だからいつでもポジティブになれたのです。

私が私らしく生きていくためには、節子の存在は不可欠なのです。
そんなわけで、今なお節子との別れは現実として受け入れられないでいるのです。
受け入れてしまうと、私らしい生き方ができなくなってしまいかねないからです。
つまり、「私らしい生き方」とは、実は「私たちらしい生き方」だったのです。
ですから、「節子の不在」そのものが存在しないのです。
したがって、ポジティブであるかどうかを超えてしまっているのです。

なんだかややこしい話になってしまいました。
読んでいる人には「たわごと」に聞こえるでしょうが、私にとっては、「目からうろこ」なのです。
私もだんだん「彼岸」が見えるようになってきているような気がします。

■555:東京の空にも節子がみえます(2009年3月10日)
節子
今日はあたたかな、そしておだやかな日です。
今日は何人かの友人が会いに来るので、湯島に来ました。
週に2,3回は湯島に行こうと思っているのですが、なかなかそうなりません。
何となくおっくうなのです。

今日は少し早めに来たのですが、穏やかな空をぼんやりと見ていると節子がいた時とどこがいったい違うのだろうかという気がしてきます。
私は湯島のオフィスから空を見るのがとても好きです。
子どもの頃から、空や雲を見るのが好きでしたが、会社に入ってから空を見る習慣がなくなってしまっていました。
東京の空をゆっくりと見るようになったのは、このオフィスで過ごすことが始まってからです。
東京の青空がとてもきれいで穏やかなのに気がついたのです。

もっとも、空の青さのすばらしさを思い出したのは、エジプト旅行でした。
エジプトの空の青さは、感動的でした。
きれいな空を見るといつも、私たちはエジプトの空の話になりました。

日本で見た一番印象に残っている空の青さは、節子と一緒に行った、千畳敷カールでした。
あの時は、節子はとても元気でした。
私のホームページにも掲載されていますが、あの時の空の青さは感動的でした。
あの時、もしかしたら節子の「いのち」は青空に吸い込まれてしまったのかもしれません。

学生の頃書いた私の詩に、こんなのがあります。
私の詩の中では最も短い作品です。

空の青さがあまりに深かったので、思わず死んでしまった

私はこの詩がとても気に入っていました。
節子に会うずっと前の詩ですが、この頃から「金魚が泣いたら地球が揺れた」的な作風だったようです。

湯島から見る夕陽もきれいでした。
そんなことを考えていると、そこに節子が居るような気がしてきます。
節子がいなくなって、いったい何が変わったのだろうか。
この頃、そんなことをよく考えるようになりました。
どこにでも、最近は節子が見えるような気がしてきています。

■556:節子は美化されているのではないか(2009年3月11日)
節子
むすめたちから、この挽歌の節子は「美化」されているのではないかといわれました。
おそらくそうでしょう。
節子自身も、たぶん「美化」されている自分を感じているかもしれません。

しかし、その一方で、不満な表現もあるでしょう。
修は、私の本当にいいところをちっとも理解していないわね、と思っているかもしれません。
それはまあ、お互い様なのです。

夜中に目が覚めると、必ずといっていいほど、節子のことをまず思い出します。
以前は、夜中に目が覚めると、隣に節子がいつもいました。
目が覚めて眠れない時は、わがままな私は必ずといっていいほど、節子を起こしました。
節子と一言二言話すだけで、気が静まってなぜか眠れたのです。
時には代わりに、起こされた節子のほうが眠れなくなってしまうこともありました。
私は、迷惑をかけあうのが夫婦なのだという考えなので、節子にも目が覚めたら起こしていいよといっていましたが、節子に起こされたことはありませんでした。
節子は一時、寝つきが悪かったことがありますが、一度眠るとよく眠る人でした。
その上、私と違って寝相がよく、寝た時とほぼ同じスタイルで朝を迎えるタイプでした。
私の寝相の悪さはかなりのもので、節子はいつも、よく動くわねといっていました。

話がまた全くそれてしまっていますが、昨夜、夜中に目覚めた時、なぜか娘たちから言われている「美化」の話を思い出しました。
本当に節子のことを美化しているのだろうか。
たしかに「良いところ」だけを書いており、あんまり悪いところは書いていません。
しかし、「良い悪い」は、人それぞれです。
それに、私の心の中に残っている節子の良いところは、とても言葉には書き表せないのです。
ですから、ここで書かれているのは、節子の良いところの一部でしかないともいえるのです。
いやいや、こう思うところが、すでに節子を美化しようとしているのでしょうね。

逃がした魚は大きい、という言葉があります。
失った妻はどうでしょうか。
悪い妻だったと思うようにすれば、きっと悲しみも半減するでしょう。
しかし、美化し続けていると、悲しみはますます高じていくでしょう。
思い切って、節子のだめさ加減を書いていくのもいいかもしれません。
さてどうすべきか。

一晩、だめな節子シリーズを書き出すかどうか考えてみます。

■557:若い友人からのメール(2009年3月12日)
今朝、2つのメールが届きました。
今日から、「だめ節子」シリーズをはじめようかと思っていたのですが、そのメールのことを書きたくなってしまいました。
予定変更です。

一人は、節子も会ったことのある、若いSTさんからです。
年賀状をもらったので、返信メールを出した、そのまた返信です。
私の生き方へのエールなので、いささか気恥ずかしいですが、一部を引用させてもらいます。

いただいたメールを拝見していて、奥様に対するとても大きな深い愛情を感じました。
思わず、自分自身の経験してきた恋愛と比較してしまい…。また、感じたことをどう表現してよいのか分からず、メールの返信が書けずにいました。
いま僕が感じることですが、修さんの生き方はとてもステキだと思います。

修さんの大きく暖かな愛情に包まれて、今尚奥様は存在し続けていらっしゃるように感じています。
修さんは『会えなくなってから、時間は止まってしまっているよう』だと、前回のメールでお話されていましたが、僕には奥様と共に歩まれているように感じてしまいます。
それは修さんのメールにあった『奥様のおかげで新しい出会いを得たり、生きる意味について思いを深められたりした』というお話から感じています。

例え肉体がこの世に存在していなくても、愛した伴侶の心の中にいつまでも存在し続けることができたなら、きっとすごく幸せだと僕は感じます。
僕も結婚を考える人を持ち、2人で人生を歩む時が来るとしたら、修さんのような生き方をできたらいいなって思っています。

長い引用ですみません。
最後の一文がとてもうれしかったのです。
共にお互いの心の中に「住み込み合う」関係、それが夫婦の意味ではないかと、私は思っています。
そうした伴侶を得たことの幸せと、そうした伴侶とのいささか早い別れを余儀なくされたことの寂しさを、改めて感じています。
STさん、ありがとうございました。

■558:幸福を呼び寄せる胡蝶蘭(2009年3月13日)
福山さんが、奥様が花になって戻ってくると書いてありましたから、と言って、胡蝶蘭を届けてくれました。

胡蝶蘭の花言葉は「幸福が飛んでくる」なのだそうです。
私のまわりは本当に良い人ばかりで、これ以上の幸福は望みうべきもありませんが、幸福はいくらあっても不都合はありません。
宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といいましたが、人の幸福と自分の幸福は別々のものではありません。
ですから幸福は大歓迎です。

節子は福山さんに会ったことはありません。
福山さんとのつながりは、東尋坊の茂さんつながりなのです。
まさか私自身が茂さんの活動に巻き込まれるとは思ってもいなかったのですが、節子と一緒に東尋坊に行ったのがたぶん契機になって、茂さんとのつながりがいろいろと多層的に生まれてきたのです。
その関係で、福山さんにもお願いして、新しいプロジェクトに取り組みだしました。
節子がいたら、事務的なバックアップをしてくれたでしょう。
節子は、いつかそういうことをしたいと思っていましたから。
コムケア活動を始めた時に、節子と一緒にいろいろなことができるだろうなと思っていましたが、残念ながらそれは実現できませんでした。
しかし、どこかで節子なら賛成するだろうなというプロジェクトを無意識のまま選んでコミットしだしているような気がします。

奥さんだと思って、愛でてくださいと福山さんは言ってくださったのですが、湯島には定期的に来ていないのでせっかくの胡蝶蘭が枯れてしまわないか心配なので、福山さんにお断りして、少ししたら自宅に持っていくことにしました。
湯島はマンションの一室なので、換気も悪く、生花はなかなか持続させられないのです。
花にも声をかける習慣は、私にもあるのですが、1週間も湯島に行かないこともあるので、花も孤独になってしまうのでしょう。
節子が通っていた頃は、室内もベランダも花が元気でしたが、いまはほとんどなくなってしまいました。
玄関の花も、いまは生花ではなく、造花です。
でも、この1週間は胡蝶蘭がいます。
もしよかったら、湯島に遊びに来てください。

■559:片づけが苦手の節子(2009年3月14日)
いよいよ、予告していた「だめ節子シリーズ」第一弾です。

節子は「片付け」が不得手でした。
と言うと怒られそうです。
本人はきっと片づけが好きで得意だと思っていたかもしれませんから。
実際、整理整頓の知恵を出すのは好きでした。
今もなお、節子が書いた「小見出し」などがいろんなところに残っています。
書類などを保管するクリアファイルに小見出しをつけるのも好きでした。
写真を整理して、コメントをつけながらアルバムを整理するのも好きでした。
旅行に行く時にバッグに荷物を詰め込むのも節子が得意でした。
私が勝手に詰め込むと怒られました。

しかし、どう考えても片づけがうまかったとは思えないのです。
なぜそう思うかと言うと、節子は「捨てる」のが下手だったからです。
まあよく言えば、「物を大切にする」のです。
本当にいろんなものを捨てずに残していました。
お菓子などもらうと箱はもちろんですが、包装紙まで丁寧に残していました。
物を捨てない割には、使いもしないの、これはいつかきっと役に立つと面白そうなものがあるとすぐ買ってきました。安いものばかりでしたが。

病気になってからは、持ち物整理に入りましたが、それを私が止めてしまいました。
整理するとなんだか先がないような気がするからです。
節子が病気になってからは、私がむしろ節子の物を買いだしました。
これを使い切るためにも元気にならなければいけないと節約家の節子に「圧力」をかけたのです。
小賢しい知恵ですが、まあ当事者になると、そんなものです。

まあ、そんなわけで、節子が逝った後にはたくさんのものが残されました。
かばんやポーチもたくさんありました。
それをあけると、必ず出てくるものがあります。
駅前でもらったポケットティッシュ、短い鉛筆(節子は鉛筆が好きでした)とメモ、小銭、そしてなぜかキャンディ。
関西人は、誰かに会うと「あめ」をあげると以前テレビでやっていましたが、関西人の節子らしく、いつもアメかチョコレートを持ち歩いていたようです。
もっとも彼女自身は、そうしたお菓子類をふだんはあまり食べない人でした。

節子が残していったもの片付けるのは大変です。
ですから今もほぼそのままです。
ということは、もしかしたら、片づけが下手なのは私のほうかもしれませんね。
しかしまあ、残されてしまったら最大の粗大ごみになりかねない夫(つまり私です)を片付けないうちに彼岸へと自分だけ旅立ってしまったのは許せません。
夫くらいきちんと片付けてから、自らの身を片付けてほしかったです。

なんだかわけのわからない話になってしまいました。
明日は、きちんとだめ節子第2弾を書くことにします。

■560:失敗するとso-soといって笑ってごまかす節子(2009年3月15日)
だめ節子シリーズその2です。

節子は私と同じで、さまざまな矛盾の塊でした。
慣習や定型的な前例に拘束されることなく、自分の判断を大事にする合理主義者でありながら、奇妙に慣習の形を気にする人でもありました。
どういう時に慣習を重視し、どういう時にそれを無視するか、あんまり私には基準が理解できませんでした。
節子自身もあんまり基準はなかったのかもしれません。

節子の実家の法事に行った時、挨拶の仕方にうるさくて、たとえば上座から挨拶したとか腰が浮きすぎだとか注意されたこともありました。
ですから、最初の頃は私もそれなりに緊張して、節子の実家での法事に出席しました。

ところがです。
次第に自分の判断を大事にする合理主義者へと、節子はどんどん変わってきました。
私の狭い付き合いからの感想ですが、女性はみんなそうのようですが。
それはともかく、節子は私以上に私になり、ついには私を追い越すほどの「形式からの自由主義者」になりました。

節子の実家の先祖の50周忌に出席した時のことです。
最近は田舎の法事も簡素化されてきたので、今回は平服でいいんじゃないかと節子が言い出しました。
しかも、今回は黒のネクタイもいらないよと言うのです。
法事に関しては、節子は私の先生ですから、ついつい私もその気になってっしまいました。
ところが親元についてみると、みんな正装で黒ネクタイなのです。
節子は実家の喪服があったので対応できましたが私はノーネクタイです。
さてどうするか。
私はいいとしても、節子に恥をかかせるわけにはいきません。
車で来ていた義兄に頼んで、ネクタイを買いに行き、何とか間に合わせることが出来ました。

なんだか、忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭のような話ですが、節子は慌てることなく、so-so などと意味不明な言葉で笑ってしまっていました。
小心者の私は慌てますが、能天気な節子はそういう時にはお腹をこじらせて笑いのです。
そういう時の節子は、実に魅力的なのですが、浅野内匠頭としては腹立たしくもあるのです。

そういえば、節子はよくso-soと言ってました。
辞書を引いてみたら、「良くも悪くもない、まあ、まずますの」というような意味のようですが、節子は「まあ、いいんじゃないの」というような意味に勝手に使っていたような気がします。
たしかラジオか何かで一度聴いて気にいったのでしょう。
それ以来、勝手に拡大解釈もしくは誤用して、愛用していました。
まあ、so-soですが。

「だめ節子」にさえ魅力を感じてしまうようでは、なかなか「だめ節子」シリーズは難しいですね。
困ったものです。

■561:ファッション感覚がずれていた節子(2009年3月16日)
だめ節子シリーズその3です。

節子のファッションセンスはいささかずれていました。
私は、基本的にシンプルなスタイルとわかりやすい色が好きですが、節子はちょっと昭和的なファッションが好きでした。
そのくせ、オップアートのような目がチカチカするようなものも好きでした。
最先端のブランドファッションには往々にしてその種のものもありますが、
私の稼ぎの関係で節子はブランド物などは縁がありませんでしたので、ただ単にちょっと風変わりなファッションが好みだっただけなのです。
節子がいなくなった後、クローゼットなどを見たら、まだ袖を通していないものも含めて、節子にとっては「ちょっとおしゃれな」、しかし私にとっては「ちょっと奇妙な」衣服がみつかりました。
たぶん私が嫌いなのを知って、私と一緒の時には着なかったのでしょう。
そのため私には見覚えもないものもありました。

ファッションセンスは個性的なものですから、どれが「おしゃれ」で、どれが「奇妙」かは一概に言えません。
それに私自身、おしゃれなどには一切興味がありません。
ですから、節子のファッション音痴は私の偏見だと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
わが家では節子の趣味の「悪さ」は合意された常識なのです。
今でもテレビで時々、昭和的な人が出てくると、誰からともなく節子みたいな服だという声が出てきます。
たしかに、そこに節子を感ずることもあります。

女性にとっては、おしゃれはとても大切なのでしょうが、私には全く理解できない世界です。
節子が新しい服を買ってきて私に見せても、またそんなおかしな服を買ってきたのかと、私はけちをつけることが多かったような気がします。
今となってはもはや後悔先に立たずです。
私がもっと誠意を持って応えていたら、節子のファッション感覚はもう少し良くなっていたのかもしれません。

とまあ、ここまで書いてきて、気がついたのですが、私のほうが先に逝って、節子が私の思い出を書いたら、きっと「ファッション感覚ゼロの修」と書くでしょうね。
修からファッションのことをとやかく言われたくないといわれるかもしれません。
節子からはいつも、もう少し身だしなみをきちんとしたらといわれ続けていました。
歳が歳なのだからもう少し良い物を身につけなさいというのが節子の口癖でした。
でも着る物にお金を使うくらいなら、稼ぐお金を減らしたいと思うのが私だったのです。

結局、ファッション感覚がずれていたのは私なのかもしれません。
「だめ節子」を書くのは難しいです。
いつも自分に戻ってきてしまいます。
まあ、夫婦なんていうのはそんなものなのでしょうか。

■562:「あばたもえくぼ」と「もの悲しい感情」(2009年3月17日)
「だめ節子」第4弾を書き出しました。
今回は、金銭感覚のなかった節子を書き出したのですが、どうも「だめ節子」にならないのです。
書いているうちに、金銭感覚がなかったことがとてもいいことだったような内容になってしまうのです。
「あばたもえくぼ」とはよく言ったものです。
だめな部分が、今となってはとても魅力的に見えてくるのです。
節子のすべてが魅力的に思えるのです。
だから、逆にここで書くことのすべてに、きっと「もの悲しい感情」が表れてくるのでしょうね。

先日、ある友人からこんなメールが来ました。

本当に偶然のクリックだったのですが、佐藤さんの妻への挽歌を読ませていただきました。
本当に、そばにいらっしゃるのだと思いました。
ただ、読んでいて、今までに抱いたことのないような複雑な、もの悲しい感情にみまわれ、最後まで読むことができませんでした。

彼女は節子にも何回か会っています。
葬儀にも来てくれました。

偶然にネット検索をしていて、私の挽歌に出会ったらどう思うでしょうか。
どの挽歌を読むかによって、印象はかなり違うかもしれませんが、時に「重苦しい雰囲気」を背負い込むことになるのでしょうね。
書いている私自身もそうなのです。
それで少し気分転換に「だめ節子」シリーズを書いてみようと思ったのですが、なかなかうまくいかないものです。

彼女は今日、湯島にやってきました。
いろいろと話しての帰り際に、またポツリと言いました。

挽歌を毎日書かれているのですね。
とてももの悲しい感情に見舞われて、読み続けられませんでした。

人を元気にするのが私の生き方なのですが、
この挽歌だけはそれと正反対のことをしているのかもしれません。
もっと読む人を元気にする挽歌にしなければいけませんね。
今日、彼女は私に会って少し元気になったようです。
よかったです。

■563:能天気夫婦(2009年3月18日)
節子
ジュンがお母さんは能天気だったね、と言っています。
もっとも「能天気」だと言っているジュンも、かなりの能天気ですから、あんまりどうということはないのですが。

最近、わが家ではユカが一番、まともなのではないかと思うことがよくあります。
わが家ではユカはいつも少数意見で、みんなから「変わっている」と思われていたのですが、もしかしたら「変わっている」のは他の3人だったのかも知れません。
今頃気づいたのか、とユカにまた怒られそうですが、節子がいないのでいまさら私も反省はできません。
困ったものです。

先日、ジュンと話していて、ジュンの能天気さは私の遺伝かなと話したら、お母さんも能天気だったよ、と言うのです。
節子が能天気?
私には、自分が好き勝手に生きてきたために、節子には多大な負担や苦労をかけただろうと言う罪悪感があるのです。
節子は私に愚痴をこぼしたことは一度もありません。
私の両親との同居も、私が知る限り、一度も愚痴をこぼしませんでした。
そのことに感謝していたわけですが、ジュンの考えでは、大変さなど感じていなかったのです。
つまり、単に私と同じく能天気だっただけなのです。
思い直すと、たしかに節子は能天気でした。

親が脳天気だったぶん、子どもたちは苦労しているようです。
私たちはあまり良い親ではなかったのです。
どうもそれは間違いない事実です。
娘たちには本当に申し訳ないと思っていますが、いまさらどうにもできません。
しかし、その責めを私だけが負うのはいささか不公平です。
恨めしい気がしないでもありません。

いま、むすめたちのことで苦労しています。
困ったものです。

■564:ひとつの財布(2009年3月19日)
節子
むすめたちと話していて、夫婦別財布が多いという話になりました。
私の周りにも、夫婦別財布の人は少なくありませんが、私には全く理解できない話です。
私たち夫婦は完全に「ひとつの財布」でした。
もっとも、節子は「夫に内緒のへそくり」に憧れがあったようで、へそくり口座をつくったことがありますが、私にまで自慢したので、すぐにばれてしまいましたが。

結婚以来、わが家には「家計」はひとつでした。
私の収入は、すべて節子のものでした。
節子の収入もまた、すべて節子のものでした。
ですから節子にとっては、「へそくり」は全く意味がなかったのです。

そんなわけで、私はお金から全く解放されていました。
お金が必要になれば、節子にいえばよかったのです。
家族で旅行に行っても食事をしても、お金の担当はすべて節子でした。
私は自分で支払ったことがありません。
これはいたって楽なことです。

それに、財布が一つになるということは、お互いの生活を夫婦で共有できるということです。
それがわずらわしいと言う人もいるかもしれませんが、徹底してしまうと楽になります。
相互の信頼関係も高まりますし、お互いの性格もよく見えるようになります。
ですから、夫婦が別々の財布を持つことが、私には全く理解できません。
もしこれを読んでいる方が結婚されていないのであれば、ぜひ「ひとつの財布」をお勧めします。
ちなみに、社会全体が「ひとつの財布」になれば、もっと楽になります。
その時にはお金はいらなくなるはずです。
私にとっては理想の社会です。
お金がなくなれば、格差も戦争もなくなるかもしれません。

お金を管理しなければならなくなった節子は大変だったのではないかと思うかもしれません。
大変ではなかったのです。
なぜなら節子は家計簿などつけることなく、簡単なルールで対処したからです。
ルールは2つ。
「出て行くものは出て行く」「なくなれば出なくなる」
それは私と共有していましたから、お金がなくなれば働くか節約すればいいわけです。
最近はいささか状況が厳しいですが、私たちの時代は、まじめに働けば、いかようにもやっていけました。
それに、節子も私も質素でしたし、2人とも普段はお金を使いませんでした。

私たち夫婦がこんなに仲良く信頼しあえる関係になったのは、そしていつも誠実に生きられたのは、「ひとつの財布」のおかげだったのかもしれません。

もっとも節子には一つだけ不満がありました。
私から「意外な贈り物」をもらえなかったことです。
私の節子へのプレゼントのやりかたは、何かほしいものがあるかと節子に訊いて、じゃあそれを買っておいてというだけでしたので、節子はプレゼントをもらった気にはなれず、いつも買わずに済ませてしまっていたことです。
今から思うと、「ひとつの財布」も欠点がありますね。
もしかしたら、節子は喜んでいなかったかもしれませんね。
気づくのが遅すぎました。
いやはや。

■565:花より節子(2009年3月20日)
節子
きみが好きだった花の季節がやってきました。
わが家の庭の花もにぎやかになってきました。
その狭い庭で、土作りや花の移植などをやっている節子がいないのがうそのようです。
節子が好きだったミモザも今年は元気に咲きましたし、パピルスも元気に育っています。
節子は、また花や鳥になってチョコチョコ戻ってくると書き残しましたが、どの花が節子なのか、探すのが大変です。

今日はお彼岸です。
彼岸に花見に行きたい気分ですが、此岸の花も今年はとても華やかです。
暖冬だったせいでしょうか。
花が咲き出すと不思議にこころもはなやぎます。
昨年はそんな気分にはなれませんでしたが、今年は少しだけ花を愛でる気分がでてきました。
それに、もしかしたら節子が戻ってきている花かもしれません。

いまでも節子の位牌は花に囲まれています。
花好きのジュンが毎日手入れしてくれているのです。
それに花がなくなりそうになると、不思議に誰かが花を届けてくれるのです。
「花になって戻ってくる」という節子の言葉が本当だと思えてしまうほどです。
いえ、疑っているわけではないのですが。

でも正直な気持ちとしては、たとえわが家の花がすべて枯れてしまってもいいから、節子に戻ってきてほしいです。
森山良子の歌に、「この広い野原いっぱい咲く花をひとつ残らずあなたにあげる」というのがありましたが、もし節子を返してくれるのであれば、私もそうしたい気分です。
世界中のすべての花よりも、たった一人の節子のほうが、私を元気にしてくれるでしょう。
世界から花がなくなっても、節子のほうがいいです。
みなさんにはご迷惑でしょうが。

どんなに庭の花が華やかでも、なにかが欠けている感じです。
節子がいてこその、わが家の花なのです。
節子が元気だった頃は、そんなことなど思ったこともなく、
カサブランカの花のほうが節子よりきれいだなと思ったりしていました。
しかしいまでは、どんな花も節子には勝てません。
節子の笑顔は、私には輝くように魅力的でした。

人間も多年草や木の花のように、季節が来るとまた華やかに戻ってくることができたらどんなにいいでしょうか。

■566:怯えの時代の自由(2009年3月21日)
内山節さんという人がいます。
まだ会ったことはないのですが、彼の書いたものにはほぼ100%共感していました。
その生き方もすばらしく、その実践にも敬意を感じていました。
直接の知り合いではないですが、私の周りにはなぜか内山さんと付き合いのある人が少なくありません。
たぶんいつかお会いできるだろうなと思っていた一人です。
人は会うべき人には、必ず会えることを、私は体験的に実感しています。

内山さんの最近の著作である「怯えの時代」を、若い友人が紹介してくれました。
先週届いていたのですが、昨夜、寝る前に本を開いてみました。
一瞬、心が凍りつきました。
こういう書き出しです。

2006年6月22日。妻が死んだ。ほんの5分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。

この挽歌に突然出会った人の気持ちが少しわかりました。
予期しない言葉は、人の心に深く突き刺さります。

そこから先へと読み進めたのですが、2頁読んだところで、読めなくなりました。
文章はこう続いています。

それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分だけのためにある。すべてのことは自分で決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。
それは現代人の自由と共通する。
喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。妻の死によってもたらされる現実に、私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。

どこか違うのです。
私が思っていた内山さんの世界と、どこかが違う。
そのため頭が混乱して、その先に読み進めなくなったのです。

朝起きて、読み直しましたが、やはり違和感が残ります。
内山さんらしい文章であり、その内容に異論があるわけではありません。
まだ2頁しか読んでいないので、この後、どのような話が展開されるのかわかりませんが、この2頁で、なんとなく内山さんは私とは違う世界の人だと感じてしまいました。
もしこれも「喪失」だとしたら、そこからどのような「自由」が現れてくるのでしょうか。

愛する人との別れは、人それぞれです。
内山さんの思いなど、私にはわかるはずもありません。
しかし、「また会おうね」「うん」という会話は、内山ご夫妻のすべてを語っているようにも思います。
とても静かであたたかで、それだけに深く長い愛を感じます。
しかし、どうしても「喪失」とか「自由」とかいう言葉に違和感を持つのです。

だからなんだと言われそうですが、このわずか数行の文章は、最近封印していた私の心情をまた開いてしまいそうです。

ちなみに、
妻を失った後の自由感。怯えることのない自分。
私にとっては、理解できない言葉です。
妻を失った怯えと自由の喪失。
これが私の体験感です。

■567:心地よい借金(2009年3月22日)
佐藤さん
前回会ったときより、ずっと元気になりましたね。

一昨日、大阪から会いに来てくださったMさんが、帰り際に行った言葉です。
みんなが私の元気を気にしてくれている。
そう思うと、いつまでもこの挽歌を書き続けていてはいけないという気もします。

Mさんと知り合ったのはたぶん1年ほど前ですから、私はおそらく失意のどん底にいたのかもしれません。
もっとも、その時、Mさんを連れてきてくださったIさんは、Mさんにそろそろ佐藤も元気になってきたので会いにいこうと言ったそうです。
Iさんも、私のことを気にしていてくれたのです。
こういう話を聞くたびに、感謝の気持ちでいっぱいになると共に、どうしてこんなに良い人ばかりなのに、社会は快適にならないのかが不思議です。

節子がいなくなった後、どれほど多くの人たちから元気をもらったことでしょう。
どれほど多くの人から声をかけてもらったことでしょう。
おかげで、人はみんなつながっていて、支えあっているのだということが確信できました。
「元気になったね」「おかげさまで」
この短いやりとりが、人の絆をどれほど強めることか。
それは体験したものでないとわかりません。

心から気遣ってくれた人のためであれば、いつかお返ししようと思うのは当然です。
人に気遣ってもらうということは、たくさんの「借金」を背負うのと同じような気がしますが、その借金は心地よい借金です。
たとえ今生で返せなくとも、来世で返す機会はあるだろうと思うと負担にもなりません。
それに、会ったことのない人も含めて、人はつながっていると思えると人生はとても生きやすくなります。

無理をして元気を装おうこともありません。
私の嘆きに辟易している人もいるでしょうが、嘆きはその人にもいつか降りかかるでしょう。その時には、私はその人の聞き役になれるはずです。
嘆きは聞き役がいてこそ、嘆き甲斐があるのです。

もしかしたら、嘆き役こそが最高の聞き役かもしれません。
みんな無理して元気を装おうのはやめましょう。
人はみんな多かれ少なかれ、嘆きの種を抱えています。
人の数だけ幸せも不幸もある、と節子と話したことを思い出しました。
嘆きながら聞いてやる、そんな関係がもっともっとひろがるといいと思っています。

■568:喪失と自由(2009年3月23日)
妻を失った怯えと自由の喪失。
一昨日の挽歌の最後に書いた、私の体験感です。

「喪失」に関しては、2度ほど書きました。
「対象喪失」では、愛する人との別れは喪失ではないと書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/05/post_f015.html
愛が終わることと愛する人と別れることは違います。
「なくなりようのない喪失感」では、
喪失と喪失感との違いについての友人の言葉を紹介しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/08/post_f6cf.html

内山さんは、「喪失の先に存在する自由」を問題にします。
そして、現代は「自由を得るために自由を喪失する必要がある」と、その本(「怯えの時代」)で議論を展開していきます。
自由を得るためには、自由を捨てなければいけない、というのです。
この言葉の意味はよくわかりますし、共感できます。
疑問のある方はぜひ同書をお読みください。

E.フロムは消極的自由がファシズムにつながっていることを「自由からの逃走」で示しました。
フロムが「自由への逃走」として評価した積極的自由も、結局は連帯を通して自由の制約につながるといわれます。
自由は、パラドックスを内在させた言葉です。

韓国の法頂師は、無一物になれば、すべてが自分の物になると言っています(ちょっと不正確な紹介ですが)。
所有の概念を捨てれば、すべてがみんなのものになることは自明のことです。
大気も地球も、個人が所有できないがゆえにみんなのものです。

所有と自由とは深くつながっています。
だとすれば、喪失と自由も深くつながっています。

内山さんの「怯えの時代」はわかりやすく現代社会の状況を整理してくれています。
私には異論はないのですが、なぜ最初の2頁に、一昨日の挽歌で紹介した文章を載せたのでしょうか。
おそらく、単に「載せたかった」だけでしょう。
その気持ちもわかるような気がします。
どこかで吐露したい。それが喪失した者の感情です。

内山さんは、妻を失って「自由」を得ましたが、
私は妻を失って、「自由」も失いました。
この2日間、なんとなくその違いを考えていたのですが(風邪でダウンしていたので時間がありました)、失ったり得たりするような「自由」は自由ではないと気がつきました。
それに、節子と出会い、節子を愛した、その時から、自由などなかったのかもしれません。
自由とは制約の同義語だというのが、この2日間の結論です。
全く無意味な2日間の思考だったかもしれません。
節子だったらきっと笑いとばしながら、でも感心してきいてくれるでしょうが。

■569:私の環境世界に意味を与えていた節子(2009年3月24日)
節子
風邪で少しダウンしていました。
いつものように、こじらせてしまい、3日ほど自宅で休養をとっていました。
考えるでもなく、考えないでもなく、ぼんやりとしている時間が多かったのです。
そして、ひとつ気づいたことがあります。
人生は、もともと退屈で平板なものなのではないのか。

節子がいなくなってから、私にとっての世界は一変しました。
日の出をみてもわくわくしないのです。
夕陽を見ても感傷的にならないのです。
テレビで景色の良い風景を見ても行きたいとも思いませんし、
上野で阿修羅展があると知っても、行こうと思わないのです。
日々の生活もなぜか平板です。
昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日がある。
そこには、なんの物語もなく、ただ時が平板に過ぎていく。

節子がいた頃は、全く違いました。
日の出には元気をもらい、夕陽からはドラマを感じました。
テレビで見た場所には節子と一緒に行きたくなり、
退屈な美術展でも節子に誘われれば、あるいは節子となら行く気になる。
今日は昨日よりも充実していて、明日にはわくわくする夢を感じました。

私の周りの世界は、節子がいようといまいと変わりません。
しかし、なぜこんなにも変わってしまったのか。
そこで気づいたのです。
世界は、もともと白いキャンバスであり、意味のない舞台なのだ。
そこに絵を描き、物語を育て、意味を与えるのは、愛なのではないか。
それがこの3日間の風邪の中での放浪の結論です。
なんだか夢多き中学生の妄想のような話ですね。

しかし、そう考えると、いろいろなことが私には理解できます。
私自身と節子と世界が、三位一体となって、物語を創っていたわけです。
何の変哲のない景色が、節子との関係の中で、意味のある舞台や素材になってくれわけです。
たとえ美味しくない料理でも、美味しくないねと言い合うことで、物語を豊かにしてくれます。
節子との関係において、世界は生き生きとしてくるわけです。
節子がいなければ、世界は全く無意味な存在なのです。

私はなぜか、いつのころからか記憶はないのですが、私の人生の意味を与えてくれているのは節子だと思うようになっていました。
友人知人にも、そういう話をしていましたし、節子にももちろんそう話していました。
その意味がようやくわかったのです。

私にとっての世界にいのちを与えてくれていた節子がいなくなった途端に、世界は再び灰色になってしまい、意味が失われてしまいました。
そのために最近どうも時間が平板で、変化が感じられないのかもしれません。

最近、少しずつ「愛」の意味がわかってきたような気がします。

■570:節子を通して、私は世界を愛していたのかもしれません(2009年3月25日)
昨日の続きです。

節子が、私の周りの世界に意味を与えてくれていたのだ、と昨日、書きました。
一般化すれば、人は愛するものによって、世界の意味を与えられるといっていいでしょう。
同じものでも、そこにちょっと意味がこめられると全く違ったものになります。

節子の闘病中に、隣りの高城さんの小さな子どもたちが、折り紙に母親でなければ読めない文字らしきもので、おばちゃんげんきになってね、と書いて、見舞いに来てくれました。
事情を知らない人にとっては、それは単なる紙くずでしかありません。
しかし、節子にとっては、涙が出るくらいうれしいものだったと思います。
その「紙くずのような折り紙」には、「愛」が込められています。

世界に意味を与えるのは、「愛」なのです。
それが時に、「憎しみ」になるかもしれませんが、「憎しみ」もまた「愛」から生まれたものなのです。
愛と憎しみはコインの裏表です。

「愛」が世界に「いのち」を吹き込んでくれる。
そして世界は、生き生きと意味を生み出していくのです。

「愛」は、具体的にいえば、「愛するもの」です。
私の場合は、それが「節子」でした。
人によっては、伴侶ではなく、子どもだったり、あるいは物だったり、記憶やビジョンだったりするかもしれません。
要するに「愛するもの」です。
「愛するもの」こそが、世界に意味を与え、人生をドラマのある喜びに変えてくれるのです。

言い換えれば、節子を通して、私は世界を愛していたといってもいいでしょうか。
節子がいなくなってしまったために、世界への愛が確信できなくなってしまっているのです。
そのため、世界から意味が消え、時間が平板になってしまったのかもしれません。

ここまで書くと、挽歌編ではなく時評編へと論調を変えたくなります。
というのは、昨今の社会の生き辛さは、「愛するもの」をもてなくなってきているからかもしれません。
なぜそうなったか。
それはそうしないと経済成長ができなかったからです。
話が難しくなりそうです。
この続きは、時評編に譲ります。

■571;挽歌を書くことの効用(2009年3月26日)
挽歌の読者からメールをもらいました。
私と同じく、数年前に愛する人との別れを体験した人です。

ここのところの佐藤さんの”妻への挽歌”は、また辛そうな表現がなされていますね。
風邪も召されたようで、そのへんも影響しているのかなぁと思ったりしているのですが。

きょうの思い(挽歌569)はまさに私の感じているところにピッタリでした。
何にも感動できないし、世界はまさに灰色です。

私の心情を吐露したところで、何の意味があるのか、と時々思うことがあります。
しかし、こうして同じような思いで彷徨している者がいることを知って、少しでも自分だけではないと思ってくれる人がいるだけでも書く意味があるかもしれません。
それに、こうしたメールには私自身がとても元気づけられます。

昨日、ある人に頼み事をしました。
頼んだ途端に、彼はいいですよ、と快諾してくれました。
私が関わっている、あるNPOの活動支援の話です。
私が頼んだ人は、まだ付き合いだしてから1年も経っていませんし、そんなに何回もあったわけではありません。
感激しました。
今日、早速彼に会いに行きました。
用件が終わった最後に、この挽歌の話になりました。
私の娘よりも若い彼に、私の心情がすべて読まれていることを知っていささか慌てました。
自分でもわかったのですが、赤面していたはずです。
「オープンすぎるほどオープンですね、でもそれを読んで、この人には血が通っていると思って、会いに行ったのです」
彼がそういいました。
そういえば、彼は湯島に来てくれたのです。

この挽歌は、私にも大きな効用を与えてくれているのです。
節子がいろんな人と引き合わせてくれているようで、とてもうれしいです。

最初に書いたメールは、こう続いていました。

「喪失の先に存在する自由」はよくわかりませんでした。
元々自由そのものがわかりません。
確かに行動は何も制限されなくなりましたが、これが自由だとしたら、私は自由は要りません。
色々な制限があってこそ、少しの自由が欲しくなるような気がします。
もっとも私はその少しの自由も欲しがっていなかったと思います。

「自由」とはなんだろうか。
実は私も昨年末から、このことが気になって、少し考えています。
E.フロムを読み直したりしたのもそのせいです。

その方は、最後にこう書いています。

お体をお大事に。
心には声を掛けようもないのですが、どうか穏やかにお過ごしください。

はい、お互い様です。

■572:春の眩しさは心を乱します(2009年3月27日)
昨日紹介したメールにこんな言葉もありました。

春が近づいてきましたね。
季節の変わり目はやっぱり心が辛くなるような気がします。

そういえば、先日、コメントを書いてくれた田淵さんも書いています。

サクラの開花も間近ですね。
春は周りが明るくなってきますので、それはそれで少し置いてきぼりの感があります。
サクラの花もまぶしすぎるかもしれません。

たしかに、春の眩しさは複雑な気持ちを起こさせます。
せっかく心はずむ春になっても、心はずまない自分の居心地の悪さ。
世界は自らの心の中にあることを思い知らされます。

先日、偶然にですが、テレビで放映されていた「フォーゴットン」のラスト部分を観てしまいました。
以前、観た映画なのですが、子供を失った親たちの記憶が消されるという話です。
愛する人を失った記憶がなくなるとどうなるのか。
これはこの映画のテーマではないのですが、テレビをつけた途端に出てきたのが、そういう会話のシーンでした。

悲しい記憶は消えたほうがいいのか。
いえ、その前に、記憶がなくなれば、人間は生まれ変われるのか。
またそんな意味のない思考の世界に引きずり込まれそうです。

悲しい記憶がなくなれば、悲しさがなくなる。
その映画では、息子を亡くした母親の記憶は結局、消せませんでした。
彼女は悲しい事故を信じずに、息子への愛を大事にし、結局、息子を取り戻します。
なかなかうまく説明できませんが(映画のネタを書いてしまうのはルール違反でしょうから)、母親は悲しさを消すことよりも悲しくても息子への愛を大事にしたのです。
「悲しさから抜け出ること」と「悲しくても愛を守ること」と、どちらを優先するかは、人それぞれです。
人というよりも、愛の関係によるのかもしれません。
私は、悲しさから抜け出るつもりは全くありません。
悲しさと喜びとは同じものだと思っているからです。

ところで、もし記憶がなくなれば生まれ変われるのであれば、
記憶が人間の実体ということになります。
そうであれば、節子の実体は記憶の中にいるわけです。
悲しいのは、さびしいのは、ただ実体としての節子と会話もできず、抱きしめることもできず、喧嘩もできないことだけです。
それ以外のことでは、節子は存在するわけです。
もしかしたら、いつか、映画のように、実体としての節子が戻ってくるかもしれません。
戻る前に、私がたぶん節子のところに行くことになるでしょうが。

春の眩しさは、心を乱します。

■573:話を聴いてくれる人の存在の大切さ(2009年3月28日)
節子
今日は報告です。
たまには元気さを書いておかないと読者に誤解されそうですので。

昨年末から活動がようやく持続的になってきました。
まだ仕事にまではたどりつけませんが、さまざまな相談事には対応できるようになってきました。
まだまだ私が役立たせてもらえることはあるようです。
節子と一緒だったころに比べれば勢いはありませんが、広がりは前と同じように出てきそうです。
個別テーマに深入りせずに、できるだけ多様な問題に、しかも多様な視点で関わっていくという、私のわがままな姿勢も回復できそうです。

ホームページのほうにも日曜日に書く予定ですが、5つほどのプロジェクトに取り組むことを決めました。
地元の我孫子ではプロジェクトT。
柔らかなメタNPOネットワークに向けて、しかし当面は秋のイベントに向けての取り組みです。
新しい出会いも広がっています。
節子がいたら一緒に出来たのにと、とても残念です。

節子も知っている東尋坊の茂さんたちと一緒に、全国の自殺多発地域で活動している人たちの柔らかなネットワークづくりにプロジェクトもスタートしました。
4月25日には、最初の公開フォーラムを開催します。
節子がいたら、これも一緒に事務局を引き受けられたプロジェクトです。

3つ目は、孤独死防止のテーマにつなげて、コミュニティ回復のプロジェクトです。
これはまだこれからですが、上のふたつがほぼ目処がついてきたので、少しきちんとコミットしていく予定です。
節子と長年取り組んできたオープンサロンは再開できずにいますが、少しスタイルを変えて、支え合いサロンをスタートさせようかと思っています。
これが4つ目ですが、これも何とか方向性が見えてきました。

5つ目は、まだ全く見えてこないのですが、子育て支援の分野です。
これが一番難題のようです。
10年前までは、この分野はそれなりに関わっていたのですが、時代は私が思っている方向に行きませんでした。
むしろ子育て分野は、少子化が話題になるにつれて市場経済化に向かっているように思います。
そこで私は興味を失ってしまいましたが、社会のすべての基本は子供をどう考えるかです。
スウェーデンの歴史が示唆に富んでいます。

こうしたプロジェクトに取り組むためには費用もかかりますし、何よりも生活のための収入が少し必要になりますので、おまけとして収入のあるプロジェクトにも取り組もうと思っています。
まあ、割ける時間があれば、ですが。

そんなわけで、毎日、めそめそしているわけではないのです。
節子がいたら、それぞれのプロジェクトの話がいろいろとできるのに、それができないのが最大のさびしさです。
できることは、まあこんな感じで挽歌やホームページに書くことくらいなのです。
人は話を聴いてくれる人がいるとやる気が高められるものだということを改めて実感しています。
持続力がなくなっていたのは、きっと話し相手の節子がいなくなったせいですね。
話を聴いてくれて、活動をシェアしてくれる人の存在は大きいです。
そうした存在を大切にする社会になってほしいと、心底思います。

今日は近況報告でした。

■574:フラメンコ〈2009年3月29日〉
節子
昨夜、テレビの世界遺産の番組でアンダルシアとフラメンコの話を見ました。
スペインは、ついに行くことのできなかった憧れの地のひとつです。
スペインほどさまざまな血が入り混じっているところはないのではないかと思っていたのですが、その番組も「血(知)の混じりあい」がテーマでした。

スペインには15年程前に行く計画を立てたのですが、私の両親の関係で直前に行けなくなってしまいました。
節子が望んでいて実現できなかったことのひとつがスペイン旅行でした。
節子が元気になったら最初に行こうと決めていました。

私と節子と違うことのひとつが、踊りに対する反応でした。
節子は音楽や自然に合わせて自然と身体が動きましたが、私はどうも身体が動かないのです。
簡単にいえば踊れないのです。
節子から一緒にダンスでもできれば楽しいのに、と何回かいわれましたが、私はダンスのようなものが全くだめなのです。
踊れないだけではありません。
踊りを見るのも全く興味がわかないのです。
ですから盆踊りもだめなのです、
節子は盆踊りなどが大好きでした。

踊りどころか私は太極拳も苦手です。
近くの手賀沼公園に散歩に行っていたころ、日曜日の朝、太極拳をやっている人たちがいました。
早速、節子はいっしょにやろうといい、私も誘ったのですが、私は1回目でこりてしまいました。
身体が動かないのです。

フラメンコを見ていて、そんなことを思い出しました。

そういえば、節子とフラメンコの発表会を見に行ったこともありました。
私の知人がフラメンコをやっていて、その発表会の招待状が送られてきたのです。
私は乗り気ではありませんでしたが、節子が行こうと言い出して、見に行きました。
そうした音楽芸術の場に誘うのはいつも節子でした。

身体は動きませんが、音には心を揺さぶられます。
私の心と身体は連動していないのかもしれません。
そう思うことが時々あります。

番組で流されたモロッコのアル・アンダルス音楽の演奏に感激しました。
望郷の音楽だそうです。それが見えて気がします。
番組の後半に、フラメンコのプロの家族パーティが延々と流されていました。
歌いあい、踊りあう家族。家族の絆。世代を超えた継承。
見ていて涙が出てきました。
最後にピアノフラメンコの演奏もありました。

身体は動きませんでしたが、心には深く響きました。

なぜ節子とスペインに行かなかったのだろうか。
悔やまれてしかたありません。
みなさんも、できる時に行動しておいてください。
節子も、いつもそう言っていたのですが。

■575:話し相手がいないと偏屈になりかねません(2009年3月30日)
活動がいろいろと広がっていくほど、節子がいない寂しさがつのります。
話を聴いてもらえないのと、相談に乗ってもらえないからです。
いろいろとやっている割には充実感がありません。
充実感がないと疲労感が強まります。
ふと、なんでこんなことをしているのだろう、と思ってしまうこともあるのです。

最近、時評編が「感情的すぎる」のも、もしかしたら聞き役がいないせいかもしれません。
以前は節子がいつもフィルター役でした。
私のいささか偏った考えを、節子はいつも正面から受け止めてくれました。
人は話しながら考えるものです。
ですから節子と話しながら、私の考えは熟成されていきました。
しかし昨今は熟成される前に、書き込んでしまいますから、後で読むと支離滅裂なことも少なくありません。
それだけならまだいいのですが、どうも一人で考えていると「偏屈」になってしまいます。
最近の時評は、自分でもいささか「偏屈」だと感じています。
注意しなければいけません。

もちろん話し相手がいないわけではありません。
娘たちもいますし、友人知人もよく訪ねてきてくれます。
私も家に引きこもっているわけではないので、人と話す機会はたくさんあります。
しかし、節子のいたころに比べれば、話す量は大幅に減っていますし、完全に無防備に思いを吐き出すことは激減しているでしょう。
私たちは、本当によく話し合いました。
お互いの心情は、心の奥底まで通じていたように思います。

ですから偏屈になりようがありませんでした。
もっとも2人共が「偏屈」になっていた恐れはありますが、まあそれでも自分の考えを相対化する場は多かったように思います。
それがなくなったいま、注意しなければいけません。

和室にある節子の大きな写真をみていると節子の声が聞こえてくるようです。

■576:幸福と不幸はいつも隣合わせ(2009年3月31日)
節子
3年前の今日は再開したオープンサロンの日でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#03314
元気を回復してきた節子も参加してくれて、久しぶりににぎやかなサロンになりました。
あの頃は、1年先のことなど思いもつかず、節子は元気に回復するとばかり思っていました。
そのためか、私には「大きな油断」があったのです。

「幸福の真っ只中」に「不幸のはじまり」があることに、私たちはなかなか気づきません。
それは、自分の幸福に目が行き過ぎて、まわりにある「不幸」に気づかなくなっていることと同じことなのかもしれません。
私たちは、それなりにまわりにも気遣っていたつもりですが、まだまだ不足していたのでしょう。
節子がいなくなり、一人になって、心細さが高まるにつれて、まわりのことはよく見えてきましたが、3年前にはまだ私にはあまり見えていなかったのかもしれません。

3年前のサロンのときの写真は節子が撮ったものです。
節子の目線を少し感じながら、あの時の節子の心情はどんなものだったのか、それさえももしかしたら私は見落としていたかもしれないと不安になります。
元気になりだした節子の前で、私は現実を「見たいようにしか見ていなかった」のかもしれません。
節子の撮った、この写真を見ていると、とても落ち込んでしまいます。
その一方で、元気だった節子の笑顔もはっきりと思い出します。

ところで、「幸福の真っ只中」に「不幸のはじまり」があるのであれば、「不幸の真っ只中」には「幸福のはじまり」があるのかもしれません。
いまの私は「不幸の真っ只中」にいるわけではありませんが、幸福と不幸はいつも隣合わせなのかもしれません。

宮沢賢治は「みんなが幸福にならないと自分も幸福にならない」といいました。
それは言い換えれば、「自分が幸福にならないとみんなも幸福にならない」ということです。
私はそう思って生きてきていましたが、最近どうも私のまわりに「自分の不幸」をばら撒いているのではないかという気がしないでもありません。

愛する節子を失った「不幸さ」を嘆きたくなる自分が、いつもどこかにいます。
その一方で、これだけ嘆き続けられるほどの愛を得ていることの「幸せさ」も感じます。
「不幸」を嘆くことは、まさに「幸せ」を発していることなのかもしれません。
今の私は、そうした「幸せと不幸せ」の両方を実感しています。

節子が参加していたオープンサロンは、もう二度と開かれることはありません。
節子がいなくなってから、何回かオープンサロンを試みてみましたが、どうしても「気」が起こってこないのです。
今日は、湯島で節子がいない集りを開きます。
3年前とはかなり違う趣きのサロンなのですが、節子も同行しているつもりで会に臨もうと思います。

■577:現実逃避したい気分(2009年4月1日)
節子
なにやらまた忙しくなってきました。
心身は相変わらず重いのですが、活動は始めると際限なく広がっていきます。
ますます「偏屈」に「怠惰」になっているのですが、人は多分そんな変化にはお構いなく、昔のイメージで私に働きかけてきます。
明らかに私の言葉は、その人の心には届いていません。
私がそうであるように、人は本当に「聴きたいこと」しか聴かないものです。
今の私の言葉は届かずに、すでに形成されている私が、その人の前にいるのです。
とても不思議な感覚ですが、昔の私と今の私と、両者を見ている私がいます。
これを「アイデンティティ・クライシス」というのでしょうか。

忙しいとは「心を失う」ことだそうです。
だから私は「忙しい」という言葉をあまり使わないようにしていましたが、最近はまさに「忙しい」のです。
時間はあっても心がないので、仕事ができないのです。
そんな状況に陥っています。
いつも「やるべき課題」をメモにして、手元においていますが、それがなかなか減りません。
その気になって誠実にこなせば、たぶん1日で終わるでしょう。
節子がいるときはそうでした。
どんな難しい課題でも1日徹夜すればできる。それが私の姿勢でした。
節子は、そんなに無理しなくても、もっとゆっくりしなさいよとよくいってくれました。
しかし寝食を忘れるほどに、熱中するのが私の悪癖でした。
私が寝食を忘れようと忘れまいと、世界は変わりなく動いていることはわかっていたのですが。
おかしな話ですが、節子が隣にいる幸せの中では、寝食を忘れるほどのエネルギーがもらえたのです。
仕事のしすぎだと、節子はいつも言っていましたが、それが私への不満のようには聞こえませんでした。
しかしもしかしたらあれは「不満」だったのかもしれません。
そう思い出してからは、もう寝食を忘れることはなくなりました。
なぜなら寝食こそが節子とともにある時間だからです。
気づくのがあまりに遅すぎました。

それに最近は、最初に「面倒くさいな」「億劫だな」という思いが頭に浮かびます。
昔は解けにくそうな「難題」こそが魅力的でした。
しかし、今はあえて難問に取り組むよりもできれば楽をして逃れたい、という気持ちが育っています。
もう節子はいないのだから、苦労することもない、と脈絡なく思ってしまうのです。

今日も朝からいろいろありました。
そのおかげで、やらなければいけないことに取り組めませんでした。
これから取り組むつもりですが、まずはその前に、やらなくてもいいことをやりたい気分です。
まあ、手はじめに挽歌を書きました。
さて、これから何をするかです。
リストには緊急課題が4つ挙げられていますが、まあ明日に延ばしても、何とかぎりぎり間に合うでしょう。
こうやって、ますます心を失う忙しさの世界に陥っていくわけです。

まずはコーヒーをいれることにします。
節子はいませんが、ケーキもありませんが、現実から逃げられます。
最近、私の好きなモカコーヒーがないのがいささか残念ですが。

■578:人生は流れるように過ごすのがいい(2009年4月2日)
節子
節子も良く知っているひげのマーケターのKYさんからメールが来ました。

私が好きだった3人のマーケターの一人ですが、みんなかなり「はめをはずした」存在でした。
一人は節子よりはやく逝ってしまいました。
突然死でした。
今でも彼の不在は信じられずにいます。

KYさんは、湯島のオープンの時に彼が輸入する手配をしたフランスの紅茶をどっさり持ってきました。
節子と紅茶を飲むたびに、彼の話が出ました。
なぜなら今度は美味しく紅茶を入れられる専用の紅茶ポットを持ってくるといいながら、持ってこなかったからです。
そのため、私たちは、一生紅茶を美味しく飲めることがなかったのです。

彼の人生はドラマティックでした。
ある時、自分の会社をたたんで、自己破産でもするかと電話してきたのです。
節子には話しませんでしたが。
愛すべき若者も、いまでは破天荒なおじさんになってしまっていますが。
彼からのメールです。

ブログは時折拝見し、佐藤さんが、少しずつ元気を取り戻している様子を感じています、という書き出しですが、まあ彼のことですから、この挽歌もかなり斜め読みでしょう。
いや本当は読んでいないのかもしれません。
彼のような破天荒なマーケターになると、読まずして内容がわかるのです。

メールはこう続いています。

仕事は楽しみながら、私生活は慎ましく、
会社運営は堅く・・・そして、これまでは考えたこともなかった
残る人生の設計も少しは考えながら、と思っています。

そんなことができるはずがありません。
本人もよくわかっていて、こう書いています。
もっとも、小生に人生設計・目標設定などという技があれば、
こんな感じの人生にはなっていないような気もするのですが・・・。

さて、私にもしくは私と節子には、人生設計とか目標などというのがあったでしょうか。
これに関しては即断できるのですが、私たちには2人とも、そういうものは全くなかったのです。
私も節子も「偶然を大事にする」生き方をしていました。
その「偶然」は決してただの偶然ではなく、大きな必然だと知っていたからです。
節子がいなくなった今も、私は「残る人生の設計」など、全く考えていないことに気づきました。
あのKYさんが人生設計を考えるのであれば、私も考えた方がいいかもしれませんが、おそらく彼は考えもしないでしょう。
人生は流れるように過ごすのがいいのです。

KYさんは最後にこう書いています。

ニート生活の時も何度か「佐藤さんの所に遊びに行って見るかなぁ」などと思っていましたので、
近い内にランチでも食べに寄らせて戴きたいと思います。

こういう友人が、私たちを支えてくれていたのです。

節子
あのひげの小難しいKYが来たら、何を話せばいいかねえ。

■579:景色は私たちの外部にではなく、私たちの心の中にある(2009年4月3日)
節子
また箱根に来ています。
いつものように、企業の経営幹部の人たちの合宿に参加しています。
あれほど好きだった箱根も、最近は何となく来るのが気が重いのです。
節子がいなくなってから何回も来ましたが、いつも洋次が終わるとそのまま帰っています。
今日も強羅ですが、芦ノ湖まで足をのばす気にはなりません。

桜が各地で開花しだしていますが、桜の花も含めて、そうした華やかなものを見ると、逆に気分が沈んでしまいます。
こうした状況からいつになったら抜け出せるのでしょうか。
これは多分に考え方次第です。
その気になれば、たぶん今にでも抜けられそうです。
私の人生を「悲劇仕立て」ではなく「喜劇仕立て」にすれば、きっと見えてくる風景の意味も違ってくるのでしょう。

人を元気にする風景が、人を沈ませる風景になる。
このことに気づくと、これまたいろいろなことが見えてきます。
日本には自殺多発現場といわれるところがあります。
いわゆる「自殺の名所」です。
東尋坊が有名です。
しかし、自殺を誘発する場所はまた、生命に元気を与える場所でもあります。
節子の再発が明らかになる直前に、私たちは東尋坊に一緒に行きました。
節子も私も、その美しさに元気をもらいました。
しかし、もしかしたら、今、私が一人で東尋坊に行ったらどうでしょうか。

景色は私たちの外部にあるのではなく、私たちの心の中にあるのです。
節子がいなくなってから、そのことを知りました。
ですから、もはや私には昔のような「観光」という概念がなくなってしまいました。

どんなに美しい風景も、節子がいない今、私には退屈な風景でしかありません。

蛇足ですが、「観光」ということの意味が最近やっとわかってきました。

■580:ソクラテスの妻(2009年4月4日)
節子
箱根の帰りにまた湯河原によりました。
節子がいなくなっても、湯河原の街は何も変わりがありません。
将来の住人を湯河原は一組失ってしまいましたが、そんなことなど街にとっては小さな事件なのでしょう。

窓から節子が好きだった山並みを見ながら、ソクラテスを思い出しました。
いささか唐突なのですが、こういう話です。
もし節子と会うことがなかったら私はどうなっていただろうか。
おそらくかなり違った人生になっていたでしょう。

節子がいなくなってから私は昔のような読書家になりました。
昔は毎月数十冊の本を読んでいました。
読むといっても流す程度のものもありますから、実際に読むのはせいぜい10冊くらいでしたが。
本だけではなく雑誌もかなり講読していました。
しかし、次第に雑誌は読まなくなり、本も読まなくなりました。
本ばかり読んでいる私を節子は好きではありませんでした。
だからというわけではないのですが、本を読むよりも節子と話したり、節子と行動することのほうが、刺激の多いことを学んだのです。

節子が見抜いたように、私は「文系」でした。
議論と思索が好きでした。
節子と旅行に行って、節子が風景に感激しているのに、隣で「この風景を見て、どういう意味があるのかなあ」と節子に言って、よく怒られました。
実は感激すると、ついついそういう思いが私には出てくるのです。
よくいえば、感動するのはなぜだろうかなどと論理思考が作動してしまうのです。
節子はせっかくの雰囲気が壊されると、時々は本気で怒りました。
私は迷惑で無粋な「哲学者」だったのです、
もし、節子がソクラテスの妻のように、私に厳しい「悪妻」だったら、きっと私はソクラテスのような哲学者になっていたかもしれません。

逆に節子が「賢妻」だったらどうだったでしょうか。
山内一豊のように、今ごろは社会的に成功して有名な資産家になっていたかもしれません。
しかし、いつか書いたように、節子はへそくりもできない人でしたから、資産家にならずにすみました。

悪妻でも賢妻でもなく、節子は何だったのでしょうか。
少なくとも「良妻」でもありませんでした。
良妻だったら、私を置いては逝かないでしょう。
中途半端に置いていかれてしまった私として、いまさら山内一豊にもソクラテスにもなれずに、困っています。
さて、余生をどうしましょうか。

■581:惨めなほど、ひがむこともあります(2009年4月5日)
一昨日から、箱根と湯河原に行っていました。
仕事の関係なのですが、季節柄、大勢の観光客でにぎわっていました。
中高年の夫婦も多く、それがとても心に残りました。
やはりどこかに羨望の念があります。
仕事とはいえ、一人であることになぜか「負い目」を感ずるほどでした。

子供の頃、片親だけの友人がいました。
当時は何も感じませんでしたが、なぜかこの頃、その友人のことを思い出します。
父を見送った後の母のことも思い出します。
私には当時、その意味がまったくわからなかったことがとても気になっています。

前にも一度書いたのですが、どこかで敗北感を持っている自分がいます。
人生の敗者のような感覚が時々首をもたげます。
こんなことを書くとまた友人は心配するでしょうが、たぶんこれは感受性の高まりであり、私にとっては歓迎すべきことなのです。
なぜなら、そうなってから見えてきたこと、気づいてきたことがたくさんあるからです。
もっとも、人生は気づくことが少ないほど「幸せ」なのかもしれません。
生きやすいのかも知れません。
しかし、幸せでなくとも、生きにくくとも、新しい体験と世界の深さを知ることは、人生を豊かにしてくれます。

テレビで、高齢者の健康をテーマにした番組があります。
その種の番組に拒否感が出てしまいます。
元気な老後を過ごすために健康に気をつけましょうなどという話が一番だめなのです。
自分が責められているようにさえ思ってしまいます。
惨めなほど、ひがみっぽくなっているのです。
節子は、私よりは格段に健康に注意していました。
にもかからず病気になってしまいました。
だとしたら、隣にいた私の責任なのでしょうか。
そう思うと節子への申し訳なさや自分の不甲斐なさが襲ってくれるのです。

「善意」や「幸せ」がこうして、感受性の高い人や特定の立場にある人をさいなむのです。
私自身、そうしたことをこれまでどれだけたくさんやってきたことでしょうか。
そう思うと自らの罪深さにおののきます。
時々そうした感情に襲われてしまうのです。

他者の幸せを見ることが自分の幸せに通ずる、と宮沢賢治はいいましたし、私もそう信じています。にもかかわらず、それに矛盾するような気持ちが時々起きてくるのはなぜでしょうか。
自分の卑しさを、時に呪いたくなります。

春なのに、ちょっと暗い話をしてしまいました。
節子
きみのいない桜の季節は、ただたださびしいだけです。

■582:幻の花ブログ(2009年4月6日)
幻のブログ「私の花日記」というのがありました。
節子が書き込むはずだったブログです。
枠組みができて、たしか2回ほど試験的に書きましたが、その直後に節子の再発が判明してしまいました。
そのためブログは実現しませんでした。
その材料のために、わが家の花の写真はかなり撮っていましたが、使われることはありませんでした。

わが家の庭にたくさんの「白雪姫」が咲いているのを娘から教えてもらいました。
節子の好きな花のひとつでした。

クレマチスの一種のようです。
我孫子駅南口前の花壇の片隅に、花かご会のみなさんに頼んで植えていただいた花です。
その花も咲いているかもしれません。

わが家の庭には、節子の思い出を背負った花がいろいろとあります。
花好きな節子は、そのひとつひとつに思い出がありました。
これは○○さんからわけてもらったもの、
これはどこそこで記念に買ってきたもの、
これは散歩中に見つけて、枝をもらってきて挿し木したもの、
これはあの時、実生の芽を見つけてもらってきてしまったもの、
などなど、です。
節子の心の中には、すべての花の思い出がつまっていました。
残念ながら節子がいなくなったいまは、その「いわく」がわからなくなってしまったものもあります。
しかし、私にはすべてが節子につながるものです。

花を見ていると、そこに節子がいるような気がします、と書きたいのですが、
いくら花を見ていても節子の姿が見えてきません。
欲張りすぎているのかもしれません。

■583:桜のお誘い(2009年4月7日)
節子
手賀沼沿いの道の桜が満開です。
わが家の庭の花も華やいできました。

節子がいなくても、花は毎年開花します。
私がいなくなっても、同じことでしょう。
本当に不思議です。
人とはいったい何なのでしょうか。
ソクラテスに成り損ねた私にとって、これは大きなテーマです。

風に散る桜の花と私たちは大きな自然にとっては同じ存在なのでしょうか。
散る花を、桜の樹は、あるいは隣に咲いている桜の花は、悲しんでいるのでしょうか。
自らの一部と考えているのであれば、そしてそれが時の「めぐり」だと考えていれば、悲しむこともなく受け容れられるのでしょうね。
発想の次元を変えれば、悲しみもまた喜びになるのかもしれません。

しばらくお会いしていない人からメールが来ました。

春がやってきました。その後、ご気分はいかがですか。
よろしければ、2〜3日中に、桜見物に出かけませんか。

節子がいなくなってから、桜をゆっくり見たことがありません。
さてどうしたものか。
花見を楽しめないままに、お誘いを受けていいものかどうか。
断るのも受けるのも失礼なのですが、お気持ちに感謝して、出かけることにしました。
桜の花が見られるといいのですが。

■584:花を見ない花見(2009年4月8日)
上野の桜を見に行きました。
ピクニック気分で来て下さいといわれたので、本心を気取られないようにしようと思ったのですが、残念ながら私は、心がそのまま顔や身体に出てしまうタイプなのです。
伝わってしまったかもしれません。

花見に誘ってくれたのは、武井さんです。
以前、挽歌で書いた「魂の雫」の手紙をくれた人です。
武井さんは節子には会ったことがないと思いますが、節子の病気を知って、四国のおいしいミニトマトを送ってきてくれました。
節子は、そのトマトを食べたときに、こんな美味しいミニトマトは初めて食べたといいました。
節子はお世辞を言わない人でしたから、本当に美味しかったのです。
そのことが今でもはっきりと覚えています。
そのトマトの礼状を受け取ったのをTYさんは覚えていました。

武井さんはルポライターです。
私のホームページでも2冊ほど紹介させてもらっていますが、テーマは家族や親子です。
いまも3年越しの作品を書いているところだそうで、来月からはいよいよその執筆にかかるのだそうです。
その作品に行き着くまでのお話をいろいろとお聞きしました。
そもそもの始まりは、中学1年生の時の、学校での事件だったようです。
人にはみんなドラマがあります。

武井さんとの接点は、何だか忘れてしまいましたが、彼女の取り組むファムケーションという活動に共感したのが契機だったと思います。
ファミリー・コミュニケーションの武井さんの造語です。
いま取り掛かっている本が完成したら、またその活動を再開するそうです。
家族と親子。
私がこれから取り組もうとしているプロジェクトのひとつとつながりそうです。

帰り際に武井さんが言いました。
3年とか5年とかみんなはいうけれど、10年はだめよ。
愛する人を失って立ち直るまでのことです。
武井さんは私が落ち込んで落ち込んで、死にそうになっているように思っていたようです。
涙を流さなかったのが不満そうでしたが、まあそれなりに元気なので安心したようです。
彼女は私よりも若いのですが、土佐の女なので親分肌なのです。

桜の花はあまり見ませんでしたが、満開の桜からの花吹雪がすごかったです。
花を見ない上野の花見も、無事終わりました。
上野は花見客でごったがえしていましたが。

■585:桜祭りに行けない人(2009年4月9日)
桜の花が伝えるメッセージはいろいろです。
ちょうど「お花見のお誘い」を受けた日に、挽歌の読者からもらったメールです。

今日は暖かかったですね。私の地元では昨日今日と桜祭りでした。
もちろん私は行きませんでしたが。
 
とてもよくわかります。
この方には、私はまだお会いしたことがないのですが、いつもいただくメールに書かれた思いが自分の思いのように感じられることが少なくありません。
今回のメールで初めて年齢を知りましたが、私よりも一回り若い方です。
愛する人を失って3年が経っているそうです。
その、いわば私の先輩がこう語っています。

自分の残された人生、たぶんずっとこのような感覚は消えないのでしょうね。
このような感覚とどう付き合っていくか、訓練する必要がありそうです。

「このような感覚」
体験した人でないとなかなかわからない「感覚」だと思いますが、それはなかなか消えないようです。
昨日お会いした武井さんは10年以上かかっています。
この方は、環境を変えようと会社まで辞めてしまいましたが、結局は同じでした。
「どうすごしても何もかわらない」
その言葉がよくわかります。

しかし、ここにきて新しい仕事に向かうことになったそうです。
新しい世界は「介護福祉」の世界です。
きっととても人間的な介護福祉士になることでしょう。
介護福祉士は、介護するだけでなく、自らもまた介護されるようなヴァルネラビリティ(弱さ)を持っていることが大切だろうと、私は思っています。

実は、この方が愛した人も「節子」という名前だったそうです。
不思議な縁です。
きっとそのうち、お会いできるでしょう。
同じ思いにある人が前に向かって進みだすことは、私にも元気をくれます。
私もみんなに元気を分かち合えるように、もっともっと前に進もうと思います。

■586:伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在(2009年4月10日)
昨日紹介したメールは、挽歌581「惨めなほど、ひがむこともあります」を読んでのメールだったのですが、同じ記事に、カモミールさんがコメントしてくださいました。
カモミールさんは、とても素直に、自分の気持ちを書いてくださっています。
カモミールさんのコメントをぜひ読んでみてください。
私は何回も何回も読ませてもらいました。

カモミールさんはこう書いています。

ひがむからか、ますますひねくれてくるのが自分でもわかります。
人の幸せを願う気持ちも勿論嘘でなく持っているのですが、身近な周囲に対しては素直に思えず、母もますます頑なにひがみっぽくなり・・・の悪循環です。

とてもリアルに感じます。
私も、そうではないとは言い切れません。
感謝と反感は並存するものです。

カモミールさんが書いているように、「悪循環」に陥ってしまうとそこから抜け出すのは難しいのです。
風景が変わってきてしまうからです。
そうした悪循環から抜け出すにはどうしたらいいでしょうか。
私にはまだその妙薬は見つかっていません。
ただ、そうした「思い」を溜め込まないほうがいいということです。
私は、この挽歌でそれを放出しています。

放出しなければいけないのですが、実際にはなかなか放出するところがないのも事実です。
なかなか話す気にはなれません。
それに、話す相手がいなくなったからこそ、実は悪循環に入り込んでしまったのですから。

伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在なのです。
その存在がなくなってしまうと、次第に心は閉じがちです。
私はそうならないように、この挽歌を書き続けているのかもしれません。
でもたまには、口を使って、声に出したい気もします。

声に出したい人が、もしいたら、湯島に遊びに来てください。
心を閉じてはいけません。

■587:伴侶が残してくれた目に見えないもの(2009年4月11日)
もう一度だけ、挽歌にメールをくださった方の話を書かせてもらいます。
挽歌583「桜のお誘い」に「ききょう」さんからコメントをもらいました。
全文はコメントを読んでください。
ききょうさんも、やはり、お花見はまだだめのようです。
「私も桜の花は楽しむどころか、ちょっと視界からはずしています」と書いています。

そして、ききょうさんはこうも書いています。

最近やっと気がついたのですよ、
夫が残してくれた目に見えないものがたくさんあるということを。

そうなのです。
先に逝く人は、ほんとうにたくさんのものを残していってくれるのです。
そして、それが残されたものにとっての大きな支えになるのです。
いささか大げさに聞こえるでしょうが、いまある私は、すべて節子が残したもので成り立っているのかもしれません。
それほど愛する人と一緒に生きた意味は大きなものなのです。
時間がたつほどに、その残してくれたものが見えてきます。
それが、いまの私を形づくってくれているのです。
そのことに気づくと、いまも節子と一緒だという、安堵感さえでてくるのです。

しかし、そのことと全く矛盾するのですが、
残していったものに気づけば気づくほど、寂しさが募るのです。
一緒にいるはずの節子の声が聞こえず、温もりが感じられない寂しさが、不安感を引き起こすことさえあるのです。
全く矛盾した話なのですが。

人は、他者との交流の中で、自らの人格を形成していきます。
ですから、どのような人と付き合ってきたかが、その人のアイデンティティに大きな影響を与え、人生を決めていくわけです。
一番交流の深かった伴侶のアイデンティティは、かなりシェアされているのかもしれません。
自分のなかに残っている節子に気づいて安堵し、いるはずの節子の不在に不安になる。
私もまだそんな毎日を過ごしています。
ですから、ききょうさんの書いていることが、とてもよくわかります。

■588:熊本でのコンサート(2009年4月12日)
節子
久しぶりに熊本に来ています。
熊本の仲間が企画してくれた集まりに参加させてもらったのです。
福岡のハーモニカの西川さんも来てくれました。

熊本には何回か来ていますが、最後にきたのは節子と一緒でした。
私は仕事で、たしか保育園関係の集りで講演させてもらったのですが、その時、節子も同行し、翌日、阿蘇山に行ったのです。
地獄温泉に宿泊しました。
道路沿いの川辺の露天風呂に入浴したのも思い出の一つです。

宿泊した朝、旅館の庭を掃除していた60歳くらいの男性と少し話をしました。
その人は生まれてずっとここで生活していて、熊本市にも下りたことがないと言うのです。旅館の庭掃除をするのが日課であり、ほぼすべての人生なのだそうです。
感動しました。
節子に、2人でこういう生き方をするのは最高だねと話したら、節子はあなたには無理でしょう、といわれました。
おそらく、節子にも無理だったでしょう。
人には、それぞれ自分に合った生き方があるものです。
しかし、だからこそ自分にはできない生き方に憧れるのかもしれません。

ところで、私たちはそれぞれ自分たちに合った生き方をしてきたでしょうか。
節子を、無理やり私の生き方に合わさせていたことはないでしょうか。
時々、思い出しては、少しだけ後悔することもあります。
どう考えても、私たちの生き方は、私寄りでした。
節子は、楽しんでくれたでしょうか。

今回の集まりは、コムケアフォーラム in 熊本ですが、第1部は持ち寄りコンサートでした。
元ツイストのメンバーだった作本さんが、みずからの人生を振り返って創ったという「フォー ユー」を熱唱してくれました。
なぜか涙が出ました。
なぜでしょうか。
音楽は不思議です。

西川さんのハーモニカは、いつものことながら心に沁みますが、今日は涙の世界に陥りそうだった私を、いつもとは逆に救いだしてくれました。
本当に音楽とは不思議なものです。

8歳から90歳まで、今日はいろんな人に会いました。
みんなとても幸せそうで、とてもいい集まりでしたが、それが私にはなぜか悲しさを呼び込んでしまいました。
思っても意味のないことですが、ここに節子がいたらと思わずにはいられませんでした。
いつまでたっても、節子から離れられない自分がいます。

■589:熊本城での節子の「浮気」(2009年4月13日)
昨日の集まりの会場は、熊本城のすぐ近くでした。
残念ながら城内には入れなかったのですが、宮田さんにぐるっと周りを案内してもらいました。

その時に、思い出したことがあります。
昨日、書いたとおり、熊本には節子と一緒に来たのですが、宿泊した翌日の午前中、私は仕事がありました。
その間、節子は一人で熊本城に行ったのです。
午後に節子と落ち合ったのですが、そこで節子がうれしそうに話したことを思い出しました。
熊本城で男性に声をかけられて珈琲を一緒に飲んできた、というのです。
節子にしてはめずらしい話なのです。
節子は、どんな話をしてきたのでしょうか。
たぶんその時、話を聞いたのでしょうが、いま覚えているのは、男性にお茶を誘われたのよ、と笑いながら話す節子の笑顔だけです。
今にして思えば、もっと真剣に話を聞けばよかったような気もします。
なにしろ節子にとっては、たぶん最初にして最後の体験だったでしょうから。

節子には「浮気」という言葉は、全く無縁でした。
しかし、その理由は、私を愛していたからではありません。
「男の人と付き合うのはめんどくさい」
それが、節子が私だけを相手にしていた理由です。
私と付き合うのはかなり「めんどうだった」ことの結果かもしれません。
カウンタカルチャーかぶれの若い頃の私との生活は、それなりに苦労したはずです。
今のような、きわめて「常識的な人間」になったのは、たぶんに節子のおかげなのです。

それにしても、熊本城で、見知らぬ男性と珈琲を飲んでいる節子。
全く想像できない情景です。

ちなみに、そんなことで、私と節子とは一緒に熊本城に行ったことはないのです。
今回、その気になれば熊本城内にも行けたのですが、止めました。
来世に、節子と一緒に行くことにしたのです。

■590:ナニワイバラ(浪花茨)の北斗七星〈2009年4月14日〉
節子
節子が好きだったナニワイバラが咲きだしました。
この花は、節子がジュンと近くを散歩中に、剪定していたお宅があって、その枝をもらってきて挿木したのだそうですが、今は大きくなっています。
成長が早く、いまはわが家の東側の壁面に広がっています。

先週末、熊本に出かける前に咲き出したのですが、昨日戻ってきたら、7つの花がちょうど北斗七星のように咲いていました。
ジュンが写真にとってくれました。

北斗七星に関しては、古今東西、さまざまな話があります。
しかし、そこに共通しているのは「死」と「絆」です。
目の悪い私は、とても大熊座やオリオン座の姿は見ることができませんが、
北斗七星は、とてもわかりやすいので、昔からいろいろと思いを馳せた星座です。
今でも、駅からの帰路、よく見かけることがあります。

その北斗七星が、わが家に出現したわけです。
節子のいたずらでしょうか。

そういえば、昨日、駅前の花壇の隅に咲いている白雪姫も見かけました。
節子の季節がやってきました。
いろんな花に乗って、節子が春を楽しんでいるのかもしれません。

■591:薄れるものでも乗り越えるものでもなく、深くなり、日常になる思い(2009年4月15日)
先日、お花見に誘っていただいた武井さんからメールが来ました。
武井さんはおそらくこの挽歌を読んでいないですから、こっそり引用します。

最愛の人を失って1年半のお気持ちはいかばかりかと拝察いたし、やっぱり佐藤さんはエライんだ、と改めて感激しました。
喪失感は、どんなに総明、賢明な人でも、太刀打ちできるものではなく、時間の中に心を委ねるしかありませんものね。
ただひとつ、失った場合に言えることは、愛する人がゆっくりと心奥に、新たに育まれ、最も好ましい姿で宿ってくれます。
そして、生ある限り、励まし、いたわり、和ませてくれ、「共に生きていける」、ということです。
「生きる」ということは、ある意味ではシンプルですが、ある意味では、とても深くて複雑、難解。
佐藤さんには、釈迦に説法ですが、しかし、改めて、言われてみると、案外、新鮮に思えるときがありますから、わたくしが教えてあげます(笑)。

はい
新鮮でした。
それに、他の人から言われると安堵します。

実はこのメールをいただいた同じ日に、挽歌の読者の田淵さんが同じ主旨のコメントをくれました。

多分こういう思いは薄れるものでもなく、乗り越えるものでもなく、
深くなり、それが日常になるのでしょうか。。。
最近は悲しみも自分の一部になりつつあり、とても主人を近くに感じます。

武井さんがいうように、まさに「時間の中に心を委ねる」ということでしょうね。
田渕さんのコメントを読みながら、武井さんもまた「愛する人を見送った」立場からのアドバイスなのだと、改めて気がつきました。
作家の想像力ではなく、体験の言葉なのです。

武井さんの人生は、それなりにお聞きはしていましたが、知っているのと感ずるのとでは全く違います。

田淵さんのコメントも、深いところで理解できたような気がします。
この頃、いろんな人からメールや電話をもらいます。
そうした言葉が、心に深くしみてきます。

■592:「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」(2009年4月16日)
節子
福岡の西川さんからもメールをもらいました。
先日の挽歌588を読んでの励ましメールです。

私は、「人は、自分が望むようにしか生きることができない」
又は、「人は、自分が望むように生きる」と思っています。
又は、結局それは「自分自身が望んだことなのだ」と。

私は、自分に合った生き方をすることで、
たくさんの人を巻き添えにし、辛い思いもさせたと思っています。
そのために、私自身も傷を負ったということも。

でも、やはり、それもこれも、それぞれが、
「自分が望んだこと」だったのだと思うのです。
そして、だからこそ、人は幸せになる可能性もあると…。

根っからこういう楽天家(?)だったわけではありませんが、
でもみんな、「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」と。

西川さんは、私が書いた
>節子を、無理やり私の生き方に合わさせていたことはないでしょうか。
>時々、思い出しては、少しだけ後悔することもあります。
>どう考えても、私たちの生き方は、私寄りでした。
>節子は、楽しんでくれたでしょうか。
という愚問に対して、
「楽しんでいたに決まっているでしょう」
と元気づけてくれたのです。
西川さんは、昨日の武井さんと違って、この挽歌を読んでくださっていますが、きっとよろよろしている私が心配なのでしょうね。
すみません。

節子もきっと、この西川さんの言葉に共感するでしょう。
「私たちの生き方は、私寄りでした」などと勝手に言わないでよ、と節子は笑っているかもしれません。

「人は、自分が望むように生きる」
節子はたしかに、自分をしっかりと生きました。
そして、人生を楽しんでいました。
「節子は、楽しんでくれたでしょうか」などと言うのは愚問ですね。
後悔などして損をしました。

節子が、周囲の反対を押し切って、私を人生の伴侶に選んだのは、
「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」なのでしょうね。
喜怒哀楽、すべては自分が引き寄せるものなのですよね。

とわかってはいるのですが、
節子はもっともっと人生を楽しめたはずなのに、それをかなえてやれなかったことの、罪の意識はどうしても消せません。
裏返せば、節子と一緒に人生をもっと楽しめたはずなのにという、自らの未練なのかもしれません。
私自身の自業自得なのでしょうね。

西川さん
せっかくのエールに、素直に反応できずにすみません。

■593:「愛こそすべて」の幻想(2009年4月17日)
節子
ヘーゲルの入門解説書「人間の未来」を読んでいたら、こんな文章に行き当たりました。

恋愛とは、絶対の一体化だという幻想的な情熱と、男女は結局別々の人間だという自覚との行ったり来たりであり、結局のところ、「愛こそすべて」という「幻想」は過酷な現実の前に挫折することになる。

ヘーゲルは、若者が求める人生の目標の一つとして「快楽と必然性」をあげているのですが、入門書の著者の竹井さんは、それを「恋愛のほんとう」と呼び換えて説明してくれています。
そして、こういうのです。

「恋愛のほんとう」が「自己意識の自由」に対してもつ優位は、それが自己関係ではなく「相互関係」をもち、しかもある場合は、これをつかめば他の一切を失ってもよいという生の絶対感情をもたらすほどの「ほんとう」として現れる点にある。

つまり、恋愛を通して、若者は自分の世界から抜け出し、自由を開いていくのです。
これは私にはとても納得できる話です。

しかし、「恋愛のほんとう」は、たいていは挫折する運命を持つ、とヘーゲルは続けます。

2人が恋愛の道行きの途上で見るのは厳しい現実(必然性)であり、ここには絶対的な「ほんとう」が存在しなかったことを知る。

恋愛は、自らの閉じられた世界を超えたとしても、所詮は二者間の承認関係でしかなく、社会的な普遍性の広がりを欠くからです。
こういうと難しいですが、要は、恋愛が創出する世界は自分の世界の延長でしかなく、価値観の複数性は体験できますが、多様性を体験できないために、結局は自分中心の世界に陥って破綻してしまうということでしょう。
これもとても納得できます。

そして、若者は「正義のほんとう」へと目標を変えていくとヘーゲルはいうのです。
それもまた挫折していくというのですが、この部分だけでヘーゲルの人間性と人生を推察すると、なにやら親しみさえ感じます。
もしかしたら、だからこそあれほど難解そうな哲学体系を打ち立てたのかもしれません。

自分の問題として考えると、ヘーゲル流に言うと、私はいまな迷える青年期から抜け出られないでいるのかもしれません。
私の場合は、こうです。
「恋愛のほんとう」に関しては、ヘーゲル(竹井さん)の言うとおり、「他の一切を失ってもよいという生の絶対感情」を体験しました。
その一方で、「でも結局別々の人間だ」という思いも何回も持ちました。
節子とは、こういう話を何回もしました。
節子も私とほぼ同じでした。
そして節子も私も挫折することはありませんでした。
心を開いた話し合いを重ねたからです。

では社会的な広がりにまで行かなかったかといえば、むしろ逆でした。
相手を愛する「恋愛のほんとう」が確信できれば、その対象は広がるのです。
いささか大げさに聞こえるかもしれませんが、私たちの愛の対象は、お互いを超えて広がって言ったように思います。
そういう視点から考えると、「正義」などは虚しい言葉です。

もしヘーゲルが、私にとっての節子のような存在に出会えたら、ヘーゲル哲学は違ったものになり、世界の歴史は変わっていたかもしれません。
ソクラテスも、そうでした。
伴侶の存在は大きいのです。

ヘーゲルは、どんな「恋愛」を体験したのでしょうか。
そう思いながら哲学を学ぶと、面白くなってくるかもしれません。

■594:節子、私は友人たちに守られています(2009年4月18日)
節子
最近、私も活動が持続性を持ち出しました。
それで、いくつかのプロジェクトにもコミットしはじめたのですが、
いずれも予想以上に広がりだしてしまっています。
そのため、最近は土日がすべて埋まってしまっています。
午前も午後も別の集まり、などという日もあります。
いささか活動しすぎではないかという気もしますが、やりだすとコミットしすぎる癖は直りません。
節子がいた頃は、節子との行事が最優先で、それを理由に活動をセイブできましたが、いまや頼まれたことを断る理由が全くなくなってしまったのです。
自分の行動を制約する条件がなくなってしまうと、自分で自分を管理できなくなってしまいます。
困ったものです。

山口の東さんがメールをくれました。

ホームページを拝見しますと、いろんなことに取り組まれている様子、嬉しいような、また無理をされるのではないかといった心配な気持ちとが輻輳します。
くれぐれも無理をされいなように(とても難しいことではありますが)、よろしくお願いします。

節子の代わりに、ちゃんとセイブしてくれる人がいるので安心です。
でもこんなメールもきました。
某テレビ局のKさんに、あるイベントの取材協力のお願いを送ったのですが、それへの返事です。

佐藤さんが元気になられて本当に良かったです。

Kさんにまで心配させていたのかと、いまさらながら気がつきました。
短い文章に込められたKさんの思いに胸が熱くなりました。
むかし、Kさんも関わったドキュメンタリー番組を見て感動した記憶があります。
そのことをなぜか思い出しました。

いろいろな人が、知らないところで気にしていてくれる。
それに気づかされる私はとても幸せですが、
いつかも書きましたが、それに気づかないことが多いのです。
そこで、ひそかに気にしているのでではなく、気遣っていることをむしろ伝えたルことが大切なのだと気づきました。

まあまた余計なお世話なのですが、
この数年、全く連絡がなくなってしまった人に声をかけることにしました。
これもまた節子が教えてくれたことかもしれません。
皆さんも、ぜひ気になっている人に声をかけてみてください。
それが広がれば、世界は平和になるかもしれません。
なにしろ世界中の人たちが、6〜7人の仲立ちを通して、みんな友だちなのだそうですから。

■595:節子が出した2枚のハガキ(2009年4月19日)
節子
岡山の友澤さんから、節子が2005年と2006年に出したハガキが送られてきました。
書類を整理していたら、出てきたのだそうです。
いずれも闘病中の手紙です。
闘病中の節子の生き方が目に浮かびます。

2004年5月の手紙には、こう書いています。

次の検査は6月です。
それまでの3か月は「行動の月」と決め、帰省や小旅行など多忙で充実した日々を過ごすことができました。先日は夫と初めての上高地へ行き、清らかな水と空気、残雪の穂高に感動できたことがとても嬉しく思います。
5月23日はミニコンサートで「万葉集」を歌います。
また皆さんとお会いできる事を祈っています。

翌年の5月は、検査が増えてきたこと、そしてその結果があまり良くないという内容で、いま読み直すと1年前とは違い、その先を少し予感させるような内容です。
でも節子はせいいっぱい元気に書いています。

2枚とも、節子らしく切手は花の切手です。
2枚のハガキを見ていると、節子の健気さとやさしさが伝わってきます。

上高地には節子とは2回行きましたが、宿泊したことはありませんでした。
3回目は宿泊の予定で、節子は宿泊するホテルも決めていました。
でも実現しませんでした。
私ももう訪れることはないでしょう。

久しぶりに節子のことを思い出して涙が出ました。
いつになっても悲しさは同じです。
節子も彼岸で涙しているでしょうか。

■596:この挽歌は誰が書いているのか(2009年4月20日)
この挽歌で紹介した「あなたにあえてよかった」の著者の大浦さんは、この挽歌を読んでくださっているのですが、時々、メールやコメントをくれます。
先日のメールの最後に、こんなことが書かれていました。

ところで「挽歌」は、間違いなく「作者は節子さん」だと私は思っています。
佐藤さんはお気づきになっていないでしょうが。

「共作」というのが普通なのですが、大浦さんは節子が書いていると言い切ります。
それは、大浦さんの体験からのようです。

「あなたにあえてよかった」も、
著者を「大浦郁代」にしたかったくらい、郁代が私を動かして書かせたのです。

納得しました。
しかし、私の場合は、たぶん節子が書いているのではないのです。
私が書いています。
ただ、何回も書いているように、私の半分は節子なのですから、まああまりこだわることもないのですが。

挽歌はもちろんですが、実は時評編のほうも、節子の思いがかなり強く出ているような気がします。
40年も生活を共にしていると、どちらが自分でどちらが節子か、あんまり区別がなくなってしまうのです。
それが、ある日、その伴侶がいなくなる。
信じられないことなのです。
まさに半身がそがれた気分。

人間は環境との相互関係の中で、考え行動しています。
その一番の支えだった伴侶が不在になると心身が動けなくなるのは当然のことです。
私はそうした環境の変化に慣れるまで1年はかかりました。
いや慣れるというよりも、心身が動けるようになるまで1年といったほうがいいでしょう。
しかも疲労感が大きいのです。

ところが不思議なのですが、挽歌を書いている時には疲労感がないのです。
パソコンに向かうと自然と指が動き出します。
だから大浦さんが言うように、「節子が書いている」といえないこともないのですが、そうではなく節子と会話しているような感じが戻ってきて自然と指が動きだすのです。

内容はいろいろですが、共通しているのは、話し手はいつも節子なのです。
大浦さん
もしかしたら、それが親子と夫婦の違いかもしれません。

■597:美野里町の牡丹(2009年4月21日)
節子
2006年5月4日に、美野里町の花木センターで買ってきた牡丹が咲きました。
なぜ日付がわかるといえば、この日のことが私のホームページの週間記録に掲載されているのです。
その日、家族で那珂湊のさかな市場に行き、その帰りに美野里町に寄ったのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0504

翌年の2007年、見事な花を4つ咲かせました。
節子はとても喜んでいました。
その翌年はなぜか花は3つしか咲きませんでした。
節子がいなくなったことへの弔意の現われだったのかもしれません。
そう話していたら、今年はなんと2つしか咲きません。

花の数と家族の数がそろっているとしたら、もしかしたら私が今年はいなくなるのかもしれません。
いえ、実はもう私はいないのかもしれません。
落語に自分が死んだことに気づかない粗忽者の話がありますし、映画「シックスセンス」もそうですが、自分が死んだことを確認する方法は実際にはありませんから、気づかずに過ごしていることがないとはいえません。

節子はどうだったのでしょうか。
自らの死を体験したのでしょうか。
体験するはずはありません。
なぜなら体験したのであれば、まだ生きているということですから。
人は自らの死は体験できないのです。

言うまでもありませんが、他者の死もまた私たちは体験できません。
だとしたら、死は存在していないことなのかもしれません。
存在していない死の問題を考えるのは難しい問題です。

節子が元気だったら、きっと今年も見事な花が4つ咲いたことでしょう。
花はきっと愛している人のために咲くのでしょうね。
今年2つになってしまったのは、私の「気」が牡丹に伝わらないほどに弱々しく沈んでしまっているからかもしれません。
牡丹はプライドの高い花ですから、悲しんでいるのなら節子に続けよと言っているような気もします。
牡丹の花を見ていると、いろんなメッセージが伝わってきます。

節子は、牡丹ほど美しくはありませんでしたが、牡丹もまた、節子ほど美しくはありません。
でも、花を通して節子の世界とつながれることは、せめてもの幸せです。
来年は、3つの花が咲くように、気を取り戻さないといけません。

■598:寄り添う2人(2009年4月22日)
節子
昨日の挽歌の牡丹の写真を見た人が、
「2つの牡丹、私には仲むつまじく寄り添う佐藤修さんと節子さんご夫婦のように映ります」
とメールしてきてくれました。
同じ風景も、いろいろに見えてくるのですね。
改めて今朝、2つの牡丹の花をゆっくりと見てみました。
ところがです。
2つの花がどうもそっぽを向きだしているのです。
今日の牡丹は、「仲むつまじく」寄り添っているようには見えません。
夫婦喧嘩している2人のようです。

私たちは、夫婦喧嘩においても自慢できるほど喧嘩をしました。
節子は「実家に帰ります〕とは言いませんでしたが、離婚しようと思ったこともあるそうです。
鈍感な私は、後で節子から教えてもらったのですが。
喧嘩はいつも、私が謝ることで終わりましたが、後半は節子が私をかわす知恵を身につけましたので、私が腹を立てるだけで献花にはなりませんでした。
節子が病気になってからも、もちろん喧嘩はしましたが、年に1度くらいでしょうか。
節子はどうせ修が反省して謝ってくるからと、相手にしないようになったわけです。
女はしたたかです。

今日の我孫子はとても快い春の日です。
25日にある集会をするので、自宅でその資料づくりなどをしていますが、あまりの快適さに庭の池の手入れをしようと思います。
小さな池なのですが、節子と娘たちが私の還暦の祝と称してつくってくれたのです。
そこに毎年沢蟹を話すのですが、残念ながら棲みついてくれません。
でも毎日、どこかにいないかと沢蟹を探しています。
そういう私を見て、節子が郷里の滋賀に帰った時に、私と一緒に沢蟹を捕獲に行ってくれたことを思い出します。
この池にも、節子の思い出が山のようにあるのです。

思い出は、うれしくもあり悲しくもあり、複雑なものです。

■599:遍在転生の死生観(2009年4月23日)
節子
今週の土曜日に、東尋坊の茂さんたちと「自殺ストップ!緊急集会」を開催します。
その準備でいささか最近疲れ気味なのですが、このプロジェクトへは節子の誘い(いざない)があるような気がしています。
いろいろとそう思う節があるのです。

私の性癖は、どんなことでも単に事務的には関われないことですが、今回もいろいろと考えることが多いのです。
それで精神的に疲れてしまうのですが、先日、茂さんから「ストレスチェック」のカードをもらいました。
ある部分を指で押していると変色するのですが、その変色度合いを見て、ストレス度がわかるのです。
それでやってみたら、なんと「要注意」を越して「ストレス有り」の段階でした。
たしかに最近疲労とストレスがたまっているようです。
ストレスはすべて節子に解消してもらっていた頃は、いつも元気だったのですが。

まあそんなわけで、今日は脳疲労もちょっと起こしています。
資料づくりの合間に節子のお墓参りに、いま行ってきたのですが、まだ頭がすっきりしません。
困ったものです。

それで今日の挽歌は、いささか難しい話です。
遍在転生論というのがあります。
この世界における過去・現在・未来を通じたありとあらゆる自己意識を持つ主体は、唯一の「私」が転生したものに他ならないのだ、という考え方です。
ユングの集合的無意識の考えに通じますし、いつか書いたような気もしますが、心のマルチネットワークの考えにも通じています。
いや、そういうものをつなげていくと、結局、この宇宙には「一人の私」しかいないということになるのです。

先日も、「死は存在しない」というようなことを書きましたが、遍在転生論の立場ではもちろん「死」などは瑣末な話です。
「生」そのものが一時のアワのようなものなのですから。
節子がいたら、この話を図解しながら私は得意気に話し、節子は真剣に聴いてくれているようで「またか」と受け流していることでしょう。

実は、節子がいなくなってから、遍在転生論も捨てたものではないなと思うこともあります。
しかし、真面目すぎるほど真面目に生きていた節子は、多分受け容れないでしょうね。
「死」は決して「瑣末なこと」ではないと怒るでしょう。
瑣末なことではないからこそ、瑣末なことなのだ、という私の論理は節子には受け容れられないでしょう。
受け容れられなくても、受け容れてくれた節子が、今こそ居て欲しいですが、それも適わぬことです。

何だか支離滅裂ですが、私の中では極めて論理的なのです。
わかってもらえないでしょうね。
超論的な節子なら、わかってもらえるのですが。

節子も知っていた清水由貴子さんが父上の墓前で自殺しました。
やりきれない話です。
「自殺」もテーマに関わっていく自信が、実はちょっと萎えています。
私には向いていないのかもしれません。
しかし動き出してしまいました。

節子に助けて欲しいです。
お墓に向かって、そう願ってきました。
清水さんのテレビを見ると、悲しさがこみ上げてきます。
どうも感情移入が大きすぎます。
やはり遍在転生している結果でしょうか。

やはり今日の挽歌は支離滅裂ですね。
すみません。

■600:真実に生きる(2009年4月24日)
節子
人生は実にさまざまです。
この数日、改めてそのことを実感しています。
毎日、さまざまなメールや電話がきます。
しかし、一番心が動揺するのは、「がん」にまつわる話です。

先週、友人からちょっと話があると言われました。
思いもかけず、「実は検査の結果、手術することになりました」というのです。
がんが発見されたのだそうです。
節子が闘病中に、毎朝、節子の回復を祈願してくれた人です。
なかなかまわりには公言できずに、私に話してくれたのです。
驚きました。
全く健康そのもので、私にもいろいろと健康法を伝授してくれていた人なのです。
ただただ聴くだけしかできません。
不用意な言葉は避けなければいけません。
なにしろ感受性がとがっているはずですから。
翌日、「話してよかった」とメールが来ました。
いま、毎朝、節子への挨拶の後、彼にために祈っています。

節子も知っている友人から、ちょっと症状が悪化している、という電話を受けたのは2週間ほど前でしょうか。
いつもは軽口を叩き合っている仲ですが、数日経ってから、その電話がとても気になりました。
しかしなぜか電話できずに、今日、やっと電話しました。
元気そうな声でホッとしましたが、また意外なことを聴いてしまいました。
人生は、まさにいろいろあります。

それとは別に、彼がこう言いました。
「佐藤さんは人が変わってしまった。もう心ここ(現世でしょうか)に在らずだよね」
とんでもない、そんなことはなく、何も変わっていないと言ったのですが、挽歌を読んでいるとそう感ずるのだそうです。
私にとっては、現世も来世も繋がっているのですから、「ここに在らず」などということは起こりえないですし、昨日も書いたように、けっこう、自己の遍在を実感しているのですが、挽歌の読み手にはそれは伝わらないようです。

人は、結局は変わりようがないのです。
そして、ある状況に置かれると、自分と周りが恐ろしいほどによく見えてきます。
そして、「関係性」が変わるのです。
節子と一緒にいて、そのことを強く実感しました。
人は真実に生きだすとまぶしいほどに輝きだします。

そういえば、今日、ある人を紹介したいというメールをもらいました。
「死」を間近に垣間見た人だそうです。
紹介した人はこう書いてきました。

○○さんのこと、私から佐藤さんにバトンを渡します。
彼によい「影響者」となって本物の世界へと導いてあげてください。

「本物の世界」とは何なのでしょうか。
彼女は、私が「本物の世界」に生きていると勘違いしているようですが、真実を生きたいという思いは、私にも最近少しずつ強まっています。
節子が教えてくれた生き方なのです。

人生はほんとうにいろいろです。