妻への挽歌(総集編3)
総集編1 総集編2 総集編4 総集編5 総集編6 総集編7 総集編8  総集編9
目次

■601:指の魅力(2009年4月25日)
動物行動学の竹内久美子さんの書いた「遺伝子が解く!男の指のひみつ」という本に、薬指の長い男性はよくモテると書いてあるそうです。
そのことを紹介している本に、女性はどうも男性の指に魅力を感ずるようだということが書いてありました。
女性にも持てるための本などという種類の本ではありません。
「雇用はなぜ壊れたのか」(ちくま新書)という本に出てくる話です。
それを読んで思い出したのが、節子のことでした。

節子は、私にそう惚れ込んでいたわけではありません。
節子が惚れたのは、前にも書きましたが、唯一、私の指だったのです。
残念ながら私の指の薬指は長いわけではありません。
そうきれいな指でもないのです。
しかし、なぜか節子は私の指が大好きだといつも言っていました。
まあ、それ以外ほめるところがなかったのかもしれませんが。
節子にほめてもらった、その私の指も、いまは単なる老人の指になってしまいました。
私が好きだった、節子の髪の毛を梳ることもなく、頼りない節子の手を引くこともできずに、ただ毎日、無為に過ごしているだけですから、指も老いるだけなのでしょう。

節子はやや冷え性でした。
ですから手足がいつも冷たかったような気がします。
私は逆で、いつも手足が火照る感じでした。
寒い冬には、私の手が節子の手を温め、熱い夏は節子の手が私の手を冷やしてくれました。いささかロマンチックな話ですが、それはそのまま私たちの関係でもありました。
単純に熱くなりがちで自分を忘れがちな私を、節子はクールになだめてくれました。
25年、私は会社に勤めましたが、辞めるといいだした時に、節子が言った言葉は、「よく25年ももったわね」でした。
たしかに、25年とは、われながらよく続きました。
それを支えてくれたのが、節子でした。

何の話でしたっけ?
指の話でしたね、すみません、
電車の中で、その指の話が出ている本を読んでいたのですが、
ふと指を見たら、老いているだけではなく、爪がとても伸びていました。
爪が伸びても、注意してくれる人がいないことはさびしいことです。
そう思ったら、本が読めなくなりました。
まあこんな話からも、節子のことを思い出すのです。

もう一度、きちんと指を手入れして、その魅力で節子を呼び寄せられないものでしょうか。
そう思いながら、爪の手入れをしました。
指に惚れた節子が、ひょっこり戻ってくるかもしれません。
何しろ節子は、私の指が大好きでしたから。

■602:元気であることへの期待(2009年4月26日)
昨日、ある集まりをやったのですが、節子の発病以来、全く会う機会のない友人が参加してくれました。
最後のオープンサロンの時に、節子に花束をくれた石本さんです。

開口一番、なんだ元気じゃないですか、というのです。
顔色もいいし、むしろ太ったようですね。

節子がいなくなった後、なぜか私に会いに来なくなった人たちがいます。
まあ用事がなければ会いに来なくて当然なのですが、もともと私のところに来る人は別に用事などない人が多いのです。
ではなぜこなくなったのでしょうか。
たぶん、「元気」ではない私には会いたくなかったのでしょう。
ですから、みんな私の「元気」に出会えてホッとするわけです。

しかし、こういわれると、なんだか元気なのを咎められているような気もします。
それに、私の内部にも、元気になったしまうことに対する罪悪感もあるのです。

伴侶や家族を亡くした時に、残されたものがどうあるべきか。
そんな「社会的期待」があるのかもしれません。
言い換えれば、私たちは、そうした「社会的めがね」を通して、人を見ていることが多いように思います。
それだけでなく、当事者もまた、そうした「社会的通念」の期待に応じてしまうように、無意識に反応してしまいがちなのです。
少し大げさな言い方をすれば、それが福祉問題を考える時の一番の障害になっているのです。

私はただ、心のなすがままに、自分を生きていますから、いつも元気です。
それがなかなかわかってもらえません。
元気ですが、悲しみ涙ぐみ、落ち込み、気力を失い、嘆き、呆然とし、混乱し、思いにふけり、我を忘れてしまうことは、あるのです。

節子
最近また活動がどんどん広がってしまってきました。
みんなは、「それでこそ佐藤さん」「以前の佐藤さんに戻ってきてうれしい」と言ってくれます。
でも私のことを一番よく知っているのは、いうまでもなく節子です。
節子はどう思っているでしょうか。
時々、そのことを思います。
世界中の人が喜ぼうとも、節子が喜ばなければ、私には全く意味がありません。
私がどうあろうと、私らしく生きていれば、節子は喜んでくれていることは、もちろん知っているのですが。

■603:床屋の井戸
(2009年4月27日)
「王様の耳はロバの耳」という話をご存知でしょうか。
子どもの頃、イソップ物語で読みましたが、最近はむしろ寺山修司のミュージカルの方が有名でしょう。
王様がロバの耳をしていることを知っているのに口止めされている床屋が、黙っていることに耐えかねて、井戸の奥に向かって「王様はロバの耳」と大声を出して叫ぶという話です。
まあ、その前後に面白い話があるわけですが、人間は誰にも言えないことを心に溜め込んでしまうことはできないのです。
ですから、誰かにその話を聴いてもらいたいわけです。
まあ、このブログは、私にとっての「床屋の井戸」のようなものですが、ここには書けないこともたくさんあります。
節子がいた40年間は、節子が私の愚痴から何まですべての聞き役になっていましたから、私はストレスがあまりたまらなかったのです。
しかし最近は、どうもストレスがたまります。

最近、どうも溜まりに溜まっているようで、昨日、実はついに爆発してしまいました。
いわゆる「八つ当たり」ですが、昨日、会った数十人の人たちにいささか恥を残してしまいました。
困ったものです。

それにしても、社会的な常識が欠落している人が多すぎます。
だいたいにおいて社会的に立派な肩書きを持っている人には、まともな常識を持っている人はあまりいません。
肩書きなど、名刺なども持たず、誠実に汗している人たちはこれまたほとんど例外なく常識をしっかりと身につけていますので、付き合っていて気持ちが和らぎます。
肩書きで生きている人は、誠実に生きなくても生きていけるのでしょう。
腹立たしいほどに常識がありません。

あまり書くと問題が起こりかねませんが、まともな挨拶もできない教育者や社会性などない社会活動家が、何と多いことか。
言葉だけ見事に対応しながら、約束を履行もしない人も嫌になるほど多いです。
こう書いてくると、待てよ、これは自分のことではないかとも思いますが、自分のことは棚にあげて、他人のことが気になります。
これがまた、名刺など持っている人の共通点なのですが。

いずれにしろ、不快なことが鬱積してしまっていたので、今日はいろいろと恥ずべき言動をしてしまいました。
もちろん発散してしまった相手と鬱積させた相手とは、必ずしも重なっていないのですが。

節子は、そうした私のダメさ加減やこらえ性のなさを知っていましたから、溜まっているとわかると抜いてくれましたし、また危ない時には、今日は冷静に話して来なさいよと注意してくれました。
まあそうした注意がいつも役に立つわけではないのですが、それで一見、「温厚で物分りのいい佐藤さん」が維持できることも少なくありませんでした。
その節子がいなくなった今、鬱積した思いはどこにはかせたらいいのでしょうか。
もしかしたら、伴侶の最大の役割は、床屋の井戸役なのかもしれません。

鬱積していたストレスを発散してしまった後味の悪さで、今日はストレスが倍増です。
不惑の年はもうとっくに過ぎていますが、人間はますます偏屈に偏狭になってきているような気もします。

節子の位牌を、私の「井戸」にしようかとも考えましたが、床屋の井戸は、その底から世界につながっているという落ちがあるので、やめておいた方がよさそうです。
なにしろ彼岸は、現世のすべてに繋がっているそうですので。

何かいい方法を見つけなければ、また誰かに八つ当たりしそうです。
節子
なにかいい知恵はないですか。

■604:「愛する人」と「愛」(2009年4月28日)
節子
「オーシャンズ11」という映画があります。
学生の頃観た「オーシャンとその11人の仲間」のリメイク版ですが、なかなか面白く、何回も観ているのですが、11人のグループがラスベガスのカジノの金庫から莫大なお金を盗むという話です。
その計画を立てた主人公の真の狙いは、実は別れた恋人をカジノのオーナーから取り戻すことなのですが、映画では見事にお金と元恋人の両方を手に入れます。
元恋人を取り戻すための策は、お金と「女」のどちらを選ぶかをカジノのオーナーに言わせ、それを元恋人に見せることです。
その本音を言わせるために、生命をかけた資金奪取計画を実行するわけです。

愛する人を失ったらどうするか。
妻を取り戻すために彼岸に行った神話は各地に残っています。
日本では、黄泉の国にイザナミを迎えに行ったイザナギの話がありますし、ギリシア神話には有名なオルフェウスの話があります。
いずれも、しかしあと一歩のところで、成功しない悲劇として語られています。
失ってしまった、愛する人を取り戻すのは難しい話です。

「オーシャンズ11」の主人公のダニーが取り戻したのは、「愛する人」ではなくて、実は「愛」でした。
この2つは混同されがちですが、少なくとも日本の少し前までの文化では別物でした。
最近、社会が壊れだしている一つの要因は、「愛する人(もの、こと)」と「愛」を混同していることかもしれないと、最近、思うようになりました。

「愛」を失っていないが故に、「愛する人」を取り戻したくなる。
これが1年前の私の気持ちでしたが、今は違います。
「愛」を失っていないのであれば、「愛する人」もまた失っていないのではないか。

映画「オーシャンズ11」を観ながら、こんなことを考える人はいないでしょうね。
まあ、人生の支えを失ってしまうと、思考の迷走に陥ってしまうものなのです。

■605:生あるものを所有することはできない(2009年4月29日)
昨日、イザナギやオルフェウスの話を書きました。
愛する人を取り戻すために、「死の国」に出向いた2人は、いずれも、あと一歩のところで、成功しなかったわけですが、成功しなかった理由は明確です。
自分を基準にして考えているからです。
彼岸と此岸はつながっているとはいえ、違う世界、異界です。
それを受け容れない限り、一緒にはなれません。

言い換えれば、愛する人を取り戻そうなどと思ってはいけないのです。
もし一緒になりたければ、愛する人のもとに行けばいいだけの話です。
しかし、人にはたとえ自らの生命であろうと、生命を人為的に終わらせることはできません。
それが「生を受けた者の責務」だろうと思います。
ですからこちらから彼岸に行くのはままならないのです。

最近、このブログに何回も書いているのですが、自殺のない社会づくりネットワークの設立準備会を立ち上げました。
こうして何かを立ち上げると、関連した話がいろいろと入ってきます。
気が重くなることもあれば、うれしくなることもあります。

節子が必死に生きようとしていた時期、私の友人から自殺するというメールが届きました。
少し前に生活相談を受け、節子のアドバイスである対応をしていた人からです。
正直に言えば、その時ほど腹立たしく思ったことはありません。
一生懸命に生きようと思っている私たちにとって、自らの命を自らで断ち切ろうなどと思うことは許されない行為です。
彼は、私たちのこと、節子の状況も知っていました。
だからなおのこと腹立たしい思いがしました。

節子が逝ってしまった後、彼からメールがきました。
彼は結局、みんなのアドバイスにしたがって、自己破産し再出発することにしたのです。
彼からのメールは、私たちの状況は知っていたけれど、それを考える余裕がなかったこと、そしていつか必ずお返しすると書かれていました。
彼もまた私たちと同じように、必死に生きようとしていたのだと、やっとわかりました。

生きるということの責務を果たすことは、そうやさしいことではありません。
最近、自殺を考えた人と話す機会が増えていますが、自殺は病死と同じだという気がしてきました。
私の「自殺観」は大きく変化しつつあります。

こうしたことも、節子との別れを体験したからこそ、わかってきたことかもしれません。
現世的な意味では、節子は取り戻せませんが、節子は今もなお私の中に生きています。
願わくば、早く彼岸に行って、お互いのその後のことをゆっくりと話し合いたいものです。


ところで、イザナギやオルフェウスの失敗は、自分を基準にして考えているからだと書きました。
もしそうであれば、彼らは生前もまた、自分を基準にしていたはずです。
つまり、イザナギにとってのイザナミ、オルフェウスにとってのユーリディスは、所詮は自分のものでしかなかったのです。
だからこそ、取り戻そうなと考えたのでしょう。
そこには「愛」はないのかもしれません。

イザナギやオルフェウスのような愚挙は起こしたくないものです。
生あるものは、たとえ自らであっても、所有することなどできないのですから。

■606:自分の心の供養が充分でない(2009年4月30日)
節子
この挽歌の読者にはいろんな人がいます。
節子が知らない人のほうが、むしろ最近は多いかもしれません。
節子と一緒にやっていたオープンサロンにも、実にさまざまな人たちがやってきましたが、もれに劣らずさまざまです。

その一人に、元やくざの dax さんがいます。
daxなどいうと可愛げもありますが、夜、突然目の前に現れたら、私も間違いなく身を縮めるほど迫力ある風貌をしています。
しかし、その笑顔は、誠実に生きてきた人でないと見せられない無邪気佐藤修が溢れています。
daxの名前の由縁を聞いていませんでしたが、彼のことですからいろいろと意味があるのでしょう。
Daxさんは博識ですが、インテリやくざではありません。
正真正銘の真正やくざです。
もっとも私はやくざとは付き合いがないので、勝手な解釈なのですが。

彼は、私のブログを読んで、時々、文字の間違いを知らせてくれます。
私は書いたものを読み直す習慣があまりないので、書き物に誤植が多いのです。
それがdaxさんは気に入らないのです。
余計なお世話でうるさいなあ、と思っていたら、彼からこう言われました。

自分で書いた文章は、自分の子どものようなものだから、責任を持たないといかん。

そういわれると返す言葉がありません。
彼は昔、中絶相談サイトを独自に創り、多くの女性の相談に乗っていたことがあるのです。
以来、彼に読まれそうなときには読み直すことにしています。
これも読み直して、完璧にしないといけませんね。

もっとも、先の言葉は、実はdaxさんもパートナーから言われたのです。
dax のブログ「手垢のついた日記」を読んでの注意らしいです。
このブログは面白いですので、お薦めです。

話が長くなりましたが、そのdaxさんが私の娘に書いてきたメールです。
なぜか彼はわが娘と波長が合うようです。
それに娘のスペインタイルのお客様になってくれているようです。

さて、肝心のメールですが、こういう内容です。

今日もブログの「文字間違い」と、「変換間違い」のチェックを入れましたが、大丈夫でした。いつも思うのですが、あれほどいつも「節子さん」の事を想うと言うことは、見方を変えれば、節子さんは今でも佐藤さんの中に生きている・・・、居なくなってはいない・・・と言うことだと思うのですが、佐藤さん自身の、自分の心の供養が充分でないのでしょうね。
供養とは、逝った人に向けながら実は自分の心を供養して、自分の心が整理できて始めて立ち上がる気力が湧くのだと思います。
「自分の中にいる大事な人の存在」に気付けば、佐藤さんの(陰り)の部分も払拭されるのではと、期待しつつ彼とのお付き合いをこれからも楽しみたいと思っています。

はい、そのとおりなのです。
この挽歌は、私自身の鎮魂歌であり、自分の供養なのです。
自分自身を逃げずに、正面から修羅場を生きてきた人の言葉は真実味があります。

しかし、daxさんから期待されても、なかなか私の「(陰り)の部分」はなくなりません。
期待にこたえないとどうなるか。
彼から「指のつめ方」を教えてもらいましたが、それだけは絶対にやりたくないですね。

■607:「時間がとまる」(2009年5月1日)
昨日は元やくざのdaxさんのことを書きましたが、ブログに書き上げた直後、世田谷一家殺人事件の特別捜査本部の刑事から電話がありました。
時評編にも書いてしまいましたが、今日は湯島に2人の刑事がやってきました。
湯島には、相変わらずいろんな人がやってきます。

事件の被害者である宮澤みきおさんは私の知人です。
ですから、事件のあった翌日の元旦、新聞社からも電話がありました。
節子は、宮澤さんとは面識はありませんでしたが、せっかくの元日の集まりの時に長電話があったので、この事件はわが家ではよく話題になりました。

宮澤さんのお父さんは時間が止まってしまっているんですよ、と刑事が言いました。
「時間がとまる」
その感覚はよくわかります。
家族のだれかがいなくなると、一瞬そこで時間は止まってしまうのです。
ましてや息子家族全員がいなくなってしまった隙間を埋めるためには、未来永劫、時間を止めたくなるのでしょう。
その気持ちがよくわかります。
不謹慎ですが、私は今も時々、私の時間だけではなく、宇宙の時間を止めたくなります。
いえ、もっと正直に言えば、宇宙を壊したくさえなることがあるのです。

昨日は、その後、ある集まりに出かけたのですが、そこでもまた「時間が止まってしまった人」に会いました。
娘さんを失ったのですが、3年たってもまだ動けずにいるようです。
みんなと話していて、彼のことがとても気になりました。
いささかの危険ささえ感じました。
時間を止めてしまったもの同士でなければ通じ合わない何かが作動してしまったのです。
彼と一度会うことにしました。
古い友人ですが、それほど親しくなく、2人で会ったことなど一度もありませんし、たぶん私とは生き方が正反対だった人です。
価値観が全く違っても、生き方が正反対であろうとも、愛する人、愛するものを失ってしまうと、人間は同じになってしまうのかもしれません。

節子が教えてくれたことはたくさんありますが、
最大のことは私の生き方をエンパワーしてくれたことかもしれません。
私の生き方は、いささか非常識でしたが、
その生き方をすべて受け容れ、一緒に歩き、元気づけてくれたのは節子でした。
隣に悩んでいる人がいたら声をかけることを当然だと支えてくれたのも節子でした。
もう節子には支えてもらえませんが、節子のおかげでそうした生き方を続けてこられたことを、ほんとうに幸せに思います。

■608:シルシフロラム(2009年5月2日)
節子
2005年の世界蘭展で、節子が買ってきていたシルシフロラムが咲きました。
シルシフロラムはもともとビルマ原産ですが、節子が買ってきたのは、タイの蘭園キーリー・オーキッズからのものでした。
節子は、東京ドームで毎年開かれる蘭展に行くチャンスがなかなかなかったのですが、この年は娘のジュンと行ってきたのです。
私はどうも同行できなかったようです。
いかにも節子らしく、蘭展のお店からもらってきた説明書などが、「洋ラン12ヶ月」という本に挟み込まれて残されていました。
そこに、手書きで「黄色、ふじのような花付き」と書いてありました。
まさにそんな感じで咲いています。
節子はメモをするのが好きな人でした。
いつもメモと鉛筆をバッグに入れて、忘れないうちに書き留めていました。
お店の人と話している節子の様子が目に浮かびます。

蘭は自宅で毎年花を咲かすのは難しいのですが、シルシフロラムは2回目の開花です。
わが家ではまだ、胡蝶蘭を咲かせたことはないのですが、デンドロビウムやシンピジウムの種類はよく咲いているようです。
私はどちらかといえば、日本の和名の花が好きだったのですが、最近はどうも和名の花よりもカタカナの名前の花が多くなってしまいました。
それに、昔は「てっせん」と呼んでいたのに、最近は「クレマチス」の名前が広がってしまうようなことも増えています。
花好きの人はカタカナが好きなのでしょうか。

たしかに和花と洋花とは雰囲気が違います。
最近の人には洋花が好まれるのもわかります。
しかし、私にとっては、日本の昔からの花のほうが子供の頃の風景がよみがえってきて、捨て難いものがあります。
近代主義者の節子と葉、そこが違っていました。

わが家の庭も、いまではほとんどが洋花です。
節子もどちらかといえば洋花が好きでしたので、節子の墓前の花はいつも洋花です。
法事も洋花中心なので花屋さんによってはあまりいい顔をされません。
幸いにわが家のお寺のご住職は、どんな花でも受け容れてくれるので、安心ですが。

例年より暖かいせいか、庭の花が次々と咲き出しました。
どの花に、節子は乗っかっているのでしょうか。

■609:時間とともに積み重なっていく辛さ(2009年5月3日)
節子
世間は大型連休の行楽シーズンですが、わが家は残念ながらどこにも行かずに、ひっそりと暮らしています。
別に、悲しみに打ちひしがれているわけではなく、なんとなく世間が華やかな時には、逆に気持ちが華やがないのです。
節子がいなくなってから今日で609日目、20回目の月命日ですが、気分は自分には素直になれても、世間にはなかなか素直になれません。
すねているわけでもないのですが、世の中に華やいだ気分が広がるのと反比例するように、なぜか気持ちが沈んでしまうのです。

気持ちは華やがないのですが、節子が育てていたわが家の庭の花は華やいでいます。
昨日も近くの人がやってきて、この庭にいると心が癒されますねと言ったそうですが、癒され半分、落ち込み半分というのが、偽らない私の心情です。

ある集まりで、私と同じように気を沈めている友人に久しぶりに会いました。
娘さんを3年前に亡くした話は以前から聞いていました。
みんなが楽しそうに話し合っている片隅で、彼は黙って座っていました。
声をかけようかと思いながらも、自分の話に気が向いてしまっているうちに、ふと気づいたら彼の姿がなくなっていました。
帰ったのかなと思っていたら、しばらくして戻ってきました。
ちょっと他の場所で時間をつぶしていたのだそうです。

はっと気づきました。
場の話が盛り上がるほどに、なにか自分の居場所がなくなってしまう、そういう経験を私も何回かしているではないかと。
にもかかわらず、なぜ彼のことをしっかりと気遣えなかったのか。
自分のことしか考えていない自分がいやになりました。
それ以上に、盛り上がってしまっている話し合いの中に違和感なく溶け込んでいた自分にもいささかの嫌悪感を持ちました。

彼の辛い体験は3年前です。
私は1年半前。
多くの人は、たぶん彼の方が立ち戻れているはずだと考えるでしょう。
しかし違うのです。
彼は辛い世界を3年間も生きている、私はまだその半分です。
そう考えれば、時間が忘れさせてくれるなどと言えないことがわかってもらえるでしょうか。
時間とともに消えていく辛さもあるでしょうが、時間とともに積み重なっていく辛さもあるのです。
愛する人を失うのも辛いですが、愛する人のいない人生を過ごすことも、辛いことです。

一度、彼と会ってみようと思いました。
私でも、何かできることがあるかもしれません。

■610:むすめたちの「孝行」(2009年5月4日)
節子
大型連休も残すところ2日ですが、娘たちのおかげで、節子がいたころを思い出す連休の恒例行事が終わりました。

まずは湯島のオフィスに自動車で行くことです。
5月の連休には、季節の模様替えをしに湯島に自動車で行くのが、私たち夫婦の恒例行事でした。
私は自動車の運転には不向きのようで家族から運転を禁じられてからもう10年以上ですが、節子は運転が好きでした。
それで湯島に行く時は、いつも節子の運転でしたが、混まないうちにと早朝に出かけることが多かったのです。
今日は上の娘が付き合ってくれました。
今日は、自宅から自転車を運び、オフィスからは昔の資料を持ち帰りました。
往復の自動車の中で娘と話しながら、節子のことを思い出していました。
この道を節子と通いだしてから20年以上往復していますが、いろんなところに節子の思い出があります。
節子がいないのが本当に不思議です。

下の娘とは、節子の開墾した節子農園を耕して、野菜の苗を植えました。
といっても、主役は娘で、私は節子のいた時と同じく、手伝い人でしかありません。
私も雑草を刈ったりしましたが、30分もやっていると疲れてしまいます。
また倒れるといけないからいいよと娘から言われてしまいましたが、この風景も節子がいた時と同じです。
私の雑草刈りは、かなりいい加減なので、仕上がりが中途半端なので、娘は気に入らないのです。
修はいい加減だからと、いつも節子は笑っていましたが、まあどうせすぐ雑草は生えてくるのですから、完璧にやることなどあまり意味がありません。
それに雑草だって一生懸命生きているのだからすべて抜くのはよくないなどと勝手な講釈をするために、節子にとっては良き手伝い人ではなかったのです。
節子なら笑ってかわしてくれますが、娘にはそんな会話は受け容れてもらえません。
私は1時間で家に帰りましたが、娘は暗くなるまで畑仕事をし、おかげで荒れ放題だった節子農園は畑らしくなりました。
一時はやめようかと言っていましたが、再開です。
節子がやりだしたことを辞めるのは、私にはできないことなのです。

かといって、私が中心でがんばるわけでもないので、娘たちからの私の評価は極めて低いのです。
お父さんは口だけだから、といわれますが、まあ事実だから仕方がありません。
でも嫌味を言いながらも、結局は私のためにいろいろとやってくれるのです。

夜、2人の娘たちがケーキをつくっています。
これも節子の文化でした。
明日の来客のためにがんばってくれているのです。

節子
あなたがいなくても、わが家の連休の恒例行事は続いています。
家族みんなで出かけたりする行事はなくなってしまいましたが。

■611:3人のミュージシャンの出前コンサート(2009年5月5日)
初夏のような昨日と違い、今日は雨です。
あいにくの天気だったのですが、我孫子に住んでいる3人のミュージシャンが、わが家に出前コンサートに来てくれました。
ギタリストの宮内さんの計らいです。
宮内さんは、私に少しゆっくりしろと気遣ってくれているのです。

宮内さんが手賀沼の近くで演奏していて、何となく知り合ったのがコカリナ奏者の鈴木さんと二胡奏者の中村さんです。
これまた不思議な組み合わせですが、それぞれの演奏に取り組むきっかけの話も、いずれも魅力的です。
それを書き出すとそれだけでまた長くなってしまいますので、それはまたホームページのほうに譲ります。
みなさん、とても気持ちのやさしい人で、しかも我孫子が大好きのようです。

鈴木さんは、宮内さんからこの挽歌のことを聞き、その夜、読み始めて気がついたら明け方になっていたそうです。
節子と同じがんセンターに通っていた友人を、見送ったばかりだったのだそうです。
もしかしたら、その方と私たちとは病院ですれ違っていたかもしれません。
そんなこともあって、まずは節子に線香をあげてくださいました。
そして、節子の位牌の前で、演奏をしてくれました。

私はコカリナも二胡も、直接、演奏を聴くのは初めてです。
今日はジュンが不在だったので、ユカと2人で、贅沢なコンサートを楽しませてもらいました。
聴きながら、節子がいたらどんなに喜ぶだろうかと思いました。
たぶん演奏に合わせて、歌いだしたかもしれません。
節子がいたら、きっとコンサートも開いたにちがいない、そんな気がします。

二胡もコカリナも、心にとても沁みる音色です。
お2人の人柄も伝わってきました。
宮内さんの「なだそうそう」も久しぶりに聴きました。
節子のおかげで、いろいろな人との出会いがまだ続いています。
節子、ありがとう。
あなたも聴いていましたか。

■612:この頃、ちょっと後悔することが多いのです(2009年5月6日)
有名人の葬儀の様子をテレビのニュースなどで目にすることがあります。
喪主を務めた残された人は健気にみんなに感謝の気持ちをいいます。
葬儀の時には、みんな不思議なほどに気が強まるのです。

そんな映像を見ると、私も節子を見送った日のことを思い出すことがあります。
告別式で挨拶などできるはずがないと思っていたのに、立ち上がって話し出したら、すらすらと言葉が出たのです。
そして話し終わった後も、何を話したのかしっかりと記憶されていました。
それを書き留めて、ホームページの挽歌の総集編に入れました。
一度だけ、読み直したことがありますが、その前の夜のことを思い出しました。
まるで他人事の映像のような感じでした。
リアリティが全くなかったのです。
不思議なほどに涙が出なかったのを思い出します。
それはそれは、不思議な体験でした。

娘たちには挨拶は一言だけにしようと言っていました。
彼女たちも、まさか私があんなにすらすらと話せるとは思ってもいなかったでしょう。
あまりにすらすら話せたので、参会者は私があまり悲しんでいないのではないかと思ったかもしれません。
事実、話している時には、笑顔とまではいかないにしても、明るい顔で話していたように思います。

挨拶に立ち上がった時に、一瞬、涙があふれそうになり、言葉が出ませんでした。
ところが、それを乗り越えたら、後は不思議なほど言葉が滑らかでした。
明らかに誰かによって話させられていたような気がします。
節子が話させてくれたのだと思います。
節子はそういう場では、しっかりと話さないといけないと思う人でしたから。

私はきちんとした集まりの時に、形式ばった話をするのが全く不得手でした。
節子はそのことをよく知っていました。
企業時代も全く権威のない上司だったでしょう。
家庭でもそうでした。
元日の朝、家族が集まって最初の食事をする時くらい、一家の主人として、ちゃんと挨拶をしなくてはいけないと、節子はいつもよく言っていました。
そういう場をつくり、はい、お父さん、始めてください、と言うのです。
私にそんなことが出来るはずがありません。
なにごとも「カジュアルに」が、私の生き方なのですから。
ですから、わが家ではみんなが一斉に「おめでとうございます」と言って、年が始まるのです。
節子はそれが不満でした。
こうして思い出すと、私に対する不満を、もしかしたら、節子はたくさんもっていたかもしれません。
来世でまたやり直すことになったら、もう少ししっかりした夫になろうと思います。
でも無理かもしれませんね。
来世では節子は私を選ばないかもしれませんから。
私は間違いなく、節子を選びますが。
今頃になって、悔やむことが思い出されます。
みなさんはそういうことのないように、伴侶を大事にしてください。

■613:私の生き方を2度変えさせた節子(2009年5月7日)
節子
先日お会いした方からメールがきました。

私の生き方を変えた友が3年前に亡くなりました。
大切な人がいなくなって
心に大きな穴があきました。
穴が大きすぎてやり場がなくて
目の前にあることに夢中になりました。
そして3年が過ぎ・・・
心の穴が塞がり灯りが灯るようになりました。
そんな時、自分の内に友の存在を感じて元気になります。

心に生じた「大きな穴」。
私の場合は、その穴の中に自らが落ちてしまった感じで、何かに夢中になることさえありませんでした。
最近、いろいろなことを始めましたが、やはり「夢中」にはなれません。
しかし、いろいろとやりだしたことは、もしかしたらこの方と同じかもしれません。

3年が過ぎて、ようやく灯りが見え出した。
もう少ししたら私にも灯りが見えてくるでしょうか。

私の生き方を変えた節子は、いなくなることで、私の生き方をまた変えました。
もちろん生き方が昔に戻ったということではなく、さらにその先に変わったのです。
節子は私の生き方を、前に前にと進めてくれたのです。

おそらく今日、メールを下さった方も、そうでしょう。
その、さらに新しい生き方を照らす灯りが見えてきたのかもしれません。
そして、自分のなかに存在する「友」と一緒にまた歩き出したのでしょう。
その感覚は、とてもよくわかるような気がします。

心に大きな穴ができると、人は思索家になるのです。
今まで気づかなかったような自分にも出会います。
そして、そのおかげで、それまでとは違った人たちとの出会いが起こってくる。
節子がいなくなって、私の周りの友だちの風景が少し変わってきたように思います。
もちろん変わることのない友人は少なくありませんが、会うことの多い人たちは一変したようにも思います。
決して私が意図してそうしているわけではないのですが。

私にもきっともうじき灯りが見えてくるのかもしれません。
どんな灯りなのでしょうか。

■614:何かしていないと心が落ち着きません(2009年5月8日)
初夏のようだった数日前とはうってかわって肌寒い日が続いています。
あまりけじめのない連休を過ごしていたせいか、ここに来てちょっと疲れが出てきてしまいました。
予定を変えて、今日は自宅で少し気を抜こうと思い、予定をすべてキャンセルしてしまいました。

考えてみると、節子がいなくなって以来、ゆっくりとした時間を過ごしたことがないような気がします。
何もしないでぼんやりしていたり、自宅でだらっとしていることはあるのですが、積極的な意味で「ゆっくりした」気分にはなれていないのです。
心を通い合わせた人と一緒にいることの意味はとても大きいのです。
これは、その人がいなくなってはじめてわかることかもしれません。

人は、所詮は一人で生まれてきて、一人で死んでいくという人がいます。
教団宗教には、洋の東西を問わず、そうした思想が色濃くあります。
仏教も同じです。
本質的に人間は孤独だというのです。
そう思えばこそ、煩悩から離脱できるというのですが、そうやって離脱することに何の意味があるのか。
仏教書を読んでいて、私が一番抵抗を感ずるのは、そうした「孤独観」です。

私は、人はいつも一人ではなく、みんなの中に生まれ、みんなと共に育ち、みんなとつながりながら死んでいく、と思っています。
煩悩があればこそ、人生は豊かになっていくのです。

2人で生きることは、生きるための問題を複雑化させます。
2人の主体性を調整するための努力も必要ですし、自分の主張を断念しなければいけないことも少なくないでしょう。
しかし、ひとたび、そうした生き方の良さを体験してしまうと、その煩わしさは煩わしさではなくなり、喜びに変わります。
そして、人は孤独ではないことを実感できるのではないかと思います。
節子は最後まで決して孤独ではありませんでした。
そうしたことが、なぜ仏教を初めとした宗教に理念化されなかったかはとても興味ある問題です。
しかも、最近はむしろそうした孤独観を強調した仏教が人気だということに、大きな違和感を持ってしまいます。

話が大きくなってしまいましたが、一緒に人生を歩んでいた節子と一緒に、つまり心を完全に開いたまま、だらっとしている時間が持てないことが、私の最近の疲労感の原因かもしれません。
だとしたら、これからずっと心やすまることがないということでしょうか。
それはちょっと辛いなと思いながら、いま朝から4杯目の珈琲を淹れました。
さて、次は何をしましょうか。
節子、あなたがいないと何かしていないと心が落ち着きません。
困ったものです。

■615:節子、書くことがなくなってしまいました(2009年5月9日)
節子
最近、いささか平板な生活をしているせいか、今日はパソコンの前に座ったのですが、書くことが思い浮かびません。
先ほどから、パソコンの前の節子の写真を眺めているのですが、この写真はあまりよくないなとか、闘病中なのにこの時の節子は明るかったな、などとどうでもいいことしか思いつきません。
まあ、そこから書き出すと書けるのでしょうが、なんだかあまり明るい話になりそうもないので、書く気が起きません。
今日は久しぶりに雨が上がり、気持ちのいい日になりましたので、明るい内容を書きたいという思いが強いのです。

娘たちに、何か書くことはないかといったら、そういう時はいつも節子に相談していたのにね、と皮肉られました。
そうなのです。
私は、仕事などで知恵が出なくなったリ、行き詰まったりした時は、いつも節子に相談していました。
相談したからといって節子が良い知恵を出してくれるわけでもないのですが、ちょっとした雑談や、時には感想が、壁にぶつかっていた私の発想を解き放ってくれました。
人は、話しながら考えるものだと、私はいつも思っていますが、とりわけ心開いて話す節子の存在は、私には自らの発想を引き出すためにはとても効果的だったのです。
節子は。私とは全く違った論理回路と基礎情報を持った人でしたから、ともすると袋小路に入りがちな私の発想を柔らかにしてくれました。
おかしな言い方ですが、私たちはお互いの思考回路をも、自分のものとしてシェアできていたように思います。
それに長年一緒に生活していると、相手の心情が自然と伝わってきて、的確なヒントをお互いに与えることができるようになります。
ですから、相談しなくても、ヒントになるような一言があることもあるのです。
壁にぶつかっていると、お茶でも飲まないと誘ってくれたのも、そうしたことの一つです。

そういえば、最近、自宅での発話数は節子のいた頃に比べると大幅に減っているように思います。
これはよくないことです。
幸いに娘たちが同居していますので、彼女たちと話すことは少なくないのですが、そうそう話が合うわけでもありません。
そういえば、彼女たちも自宅での会話数は少なくなっているはずです。
これはいささか問題ではあります。
少し考えなければいけません。

ところで、残されたのが私ではなく、節子だったらどうだったでしょうか。
わが家の家族の会話数は、私がいた時よりも増えるかもしれませんね。
そして節子にとって、今頃はもう、私は過去の人になっているかもしれません。
まあ、毎朝、お経はあげてくれるでしょうが。
節子の写真を見ていると、そんな気がしてなりません。
いやはや、やはり明るくない話になってしまいました。

■616:苦楽を共にしていれば相手の痛みはわかる
(2009年5月10日)
節子
滋賀や奈良など、関西にいるコムケア活動の仲間たちが「農業と福祉」をテーマにした集まりを企画しています。
その関係で、農業関係の本を読んでいるのですが、佐賀の山下惣二さんが、「百姓が時代を創る」という本の中でこう書いていました。

農家の亭主は女房にいちばんやさしい。
どうしてかというと、女房の苦労を毎日みているからですよ。
苦楽を共にしているから、相手の痛みがわかるのです。

私は47歳で勤務していた会社を辞めました。
その頃は、家のことはすべて節子に任せていました。
私たちは途中から両親と同居したのですが、まあ、とてもいい嫁姑の関係だったと思います。
節子は、私には一言も愚痴らしきことを話したことはありませんでした。
しかし、会社を辞めて在宅の時間が長くなると、節子の苦労が少しはわかってきました。
どんないい嫁姑関係でも、お互いそれぞれに苦労はあるものです。
私が節子のことを心から理解できたのは、会社を辞めて一緒の時間が多くなってからです。

私は勝手に会社を辞めてしまい、節子まで巻き込んで個人オフィスを開きました。
世間的な意味では仕事もせずに、共感したプロジェクトに時間を割いていましたので、収入は極めて不安定で、給料をもらえないことのほうが多かったかもしれません。
こんなに忙しいのになぜ収入がないの、と節子に言われたこともありますが、一緒に働いているうちに、節子は私の生き方を心から理解してくれました。

つまり、私が会社を辞めて、お互いに一緒にいる時間が増えたことで、私たちは深く理解し、支え合える関係になったといっていいでしょう。
「苦楽を共にしているから、相手のことがわかった」のです。

私にとっては、実に刺激的な20年でした。
しかし、不安定な収入のなかで、節子には世間的な贅沢は味わわせることはできませんでした。
おいしいお店にも連れて行ったこともなく、おしゃれな服も買ってやったこともありません。
もちろん宝飾品など無縁であり、旅行もいつも格安ツアーでした。
仕事ばかりしている私に、少しはゆっくりしたらと節子はよく言いましたが、それはもっと夫婦の時間を持とうよということだったかもしれません。

しかし苦楽だけは共にしましたから、お互いの本当のよさがよくわかりました。
お互いの悲しみや喜びも、一緒になって実感できるようになったのです。
ですから、私は妻へのやさしさにかけては、農家の人以上だと自負しています。
夫へのやさしさにかけては、節子もまた世界1でした。
会社を辞めて、私が一番良かったと思うのはこのことです。

しかし、お互いに本当に理解しあえたにもかかわらず、あまりにも早い別れでした。
節子は、私のために苦労し続けて、報われることもなく逝ってしまった、そんな気がします。
決してそうではなく、節子は私との「苦楽」を20年は楽しんだと確信はしているのですが、私よりも早く逝ってしまったことが、不憫でなりません。
私が先に逝けなかったことが、悔しくてならないのです。
この痛みを、節子はもちろん知っていましたが。

■617:弱音を少し(2009年5月11日)
節子
たぶん走り続けているといいのでしょうが、少し気を抜いてしまうと、どうも気が萎えてしまうようです。
4月はかなりいろいろなことに取り組んだのですが、連休後半から、また心身が重くなってしまいました。
どうも周期的なそううつ循環が生じているようです。
そういえば、昨年もそうでした。

もっとも、気分が落ち込むというわけでもないのです。
やらなければいけないことがわかっているのに、身体が動かないのです。
たとえば電話です。
一言だけの電話で終わる用件なのですが、電話をかける気にならないのです。
なぜなのでしょうか。
まだどうも精神的には不安定状態のようです。
こればかりは自分ではコントロールできません。

気が萎えた時、たとえばこの数日がそうなのですが、「人間嫌い」になります。
一番嫌悪感を持つのは、言うまでもありませんが、自分自身に、です。
自分が嫌になるのも、うつの典型的な症状でしょうが、それとはちょっと違う気もします。

私は自分の感性を基本にして生きています。
時評編を読んでいる方は感じているでしょうが、かなり世間的な標準からははずれています。
しかも物事をかなり断定的に捉えます。
私と反対の考え方に対する理解力も一応はあるつもりなので、実際には自分の考えを相対化はしているのですが、書いたり話したりする時には断定しないとわかりにくいと思っています。
そうした生き方は、自分では素直に生きていると思っていますが、実はどこかで力んでいるのでしょう。
ですから、気が萎えてくると、世の中の大勢に合わせたら楽だろうなと思ってしまうのです。
世間の常識に合わせて生きていれば、こんな苦労もしないだろうと思ってしまうわけです。
そういう自分が情けなくなります。

節子も「正義感」の強い人でした。
もっとも、その「正義」も、私と同じでかなり独りよがりでしたが、私よりも直感的でした。
知識や情報からの帰結ではなく、暮らしやいのちからの反応でした。
そこから気づかされることも多かったです。

私が大勢に流されてしまったら、節子は嘆くことでしょう。
動かない身体を動かして、今日は3人の人に電話しようと思います。
今週は毎日湯島に出かけることにします。
怠惰になりがちな私を諌めてくれる人はもういませんので、自分で自分を鼓舞しなければいけません。
なんでそんなことをしなければいけないのか、という思いは消えないのですが。

節子
1年前と似てきているのがいささか気になります。
節子がひっぱっているんじゃないでしょうね。

■618:バラがたくさん咲き出しました(2009年5月12日)
節子
庭のバラがいろいろと咲きだしました。
北斗七星のナニワイバラのことは前に書きましたが、わが家には10種類を超えるバラがあります。
バラが好きだった節子が、いろいろなところから集めてきたのです。
バラは挿木でも増えますので、節子が挿木していたバラもたくさんあります。
節子がいなくなった後も、バラの種類は増えています。

節子の弔問に来てくださった人たちにも一時、小さなミニバラの鉢を持って帰ってもらった時があります。
以前、あるお宅を訪問したら、そのバラが見事に咲いていました。
とてもうれしかったのを覚えています。
その小さなバラがとても気にいったので湯島のオフィスにも持っていきましたが、昨年はあまりオフィスに行かなかったので、結局、ダメにしてしまいました。
自宅にあったものが元気に咲き出しましたので、改めて持っていきました。
今度はだめにしないようにできるだけオフィスに行こうと思います。

節子とバラ園に行った記憶は何回もありますが、いつも少し開花時期に外れていて、感動的なバラ園には出会えた記憶がありません。
一度、まさにいいシーズンに節子と出かけた京成バラ園は、自動車で行ったのですが、自動車の中で夫婦喧嘩になってしまいました。
それで行き先を変えてしまい、今では思い出せないような小さな公園で持参のおにぎりを食べて帰ってきた記憶があります。

バラの原産地は、たしかイランでした。
イランには節子と一緒に旅行したことがあります。
シラーズのバラ園は有名ですが、残念ながらあまり感動はしませんでした。
節子もちょっと期待はずれだったと言っていたような気がします。
しかしシラーズの町はとてもきれいでした。

■619:見る人もいないたくさんのアルバム(2009年5月13日)
節子
昨日、イランのシラーズの写真を探そうと写真のアルバムを久しぶりに開きました。
たくさんの写真がアルバムにきちんと整理されていました。
私は写真を撮るのが好きでしたが、整理は全くしませんでした。
写真の整理は節子の仕事でした。

わが家にはたくさんのアルバムが残されています。
しかし、このアルバムはいったい誰が見るのでしょうか。
そう思うととても悲しい気持ちです。
私は過去にほとんど興味がないので、写真を見る文化はありません。
これは今に始まったことではないのですが、いまはなおのこと、節子の写真を見る元気もありません。
たぶんこれからもずっとそうでしょう。
娘たちも、私に似て写真にはあまり興味を持ちません。
私以上に過去に関心がないようにも思えます。

そう考えていくと、この膨大な写真は結局はゴミでしかないのです。
写真だけではありません。
ビデオ映像や思い出の記念品なども、そのほとんどはおそらく残された者には何の価値もないのでしょう。
何のために撮ってきたのでしょうか。
おそらくそれは老後の夫婦生活ためだったのです。
しかしそれはもう私たちにはなくなってしまいました。
ですからもはや意味のない存在なのです。

節子が残したものの一つに日記帳があります。
節子は日記が好きでしたので、子どもの頃からの日記がきちんと残されています。
まさに中学生の頃からの日記です。
私との出会いも日記に残されているでしょう。
節子は、子ども時代の日記も含めて、私にすべて公開していました。
不思議なほど、節子は私にはあけっぴろげでした。
おそらく私もまたそうだったからだと思います。

私に出会う前に、節子が好きだったボーイフレンドの話も日記には出てくるでしょうし、私の第一印象も日記に書かれているかもしれません。
節子はある時までは、記録大好き人間でしたので、いろんなことが記録されているはずです。
私と会うまでは几帳面だったようで、こづかい帳まで残っているのです。
私と結婚してからは、家計簿などつけたことがないのが不思議なのですが。
私のずぼらさが影響したのかもしれません。

まだまだ節子が残したものはいろいろあります。
さてどうしましょうか。
私が元気なうちに捨てなければいけないのでしょうが、今はまだ捨てる気にはなれません。
捨てられないでいるうちに、私がいなくなってしまうかもしれません。
そういえば、節子は病気になってから、身辺整理をしだしました。
それを私はやめてほしいと頼んでいましたが、節子の気持ちが最近よくわかるようになりました。

節子はいつも私よりも先を歩いていたのかもしれません。
私よりも年は下でしたが、私にとっては人生の先生でもありました。
残されたたくさんの写真や日記帳などを前にすると、そのことがよくわかります。
たぶん誰にもわかってはもらえないでしょうが。

■620:モダンな都市風景も好きだった節子(2009年5月14日)
節子
今日はユカと乃木坂の国立新美術館でやっている「ルーヴル美術館展」に行ってきました。
節子がいなくなってから、美術展からは足が遠のいていますが、時々ユカが誘ってくれます。

国立新美術館は節子もきっと楽しみにしていたところだったのでしょうね。
今日は美術館のカフェでランチをしたのですが、その時にユカが節子とここに一緒に来たことを話してくれました。
もっとも、その時はまだ完成しておらず、工事中だったので建物の外観だけ見たそうですね。
完成した時には、節子は再発してしまっており、もう来ることは適いませんでした。
でも、ユカに連れてきてもらったことがあるというので少しは心も安らぎます。

美術館のアウトドアのカフェからの風景は六本木ヒルズも見えるモダンな雰囲気です。
私と違い、節子はモダンな風景も好きでしたから、このカフェでゆっくりとお茶を飲ませたかったです。
節子は自然も好きでしたが、こうした都市風景にも憧れがあったような気がします。
もっともそこに緑や水がなければだめなのですが、ここのカフェには緑があって、落ち着きます。
ユカの話では、その時は神宮外苑の銀杏並木を見にいったのだそうですが、その後、六本木ヒルズにも行こうということになったようですね。
節子はとても行動的な人でしたから、その時の様子が想像できます。
その帰りに、乃木坂まで歩いて、国立新美術館の概観を見たのだそうです。

節子は意外とそういうところも好きでしたし、行動的でした。
私も、汐留とか新丸ビルとか、いろいろとつき合わされました。

いつぞや節子のお母さんと羽田空港に行った時に、途中でまだできたばかりの浜松町の駅からつながっている高層ビルの展望台に連れて行ったことがありました。
実はそのビルは確か東芝かどこかのビルで、節子が行ったのはその受付か社員食堂の階だったのではないかと思いますが、ともかく母親を見晴らしのいいところに連れて行きたいという一心で、勝手に入り込んでいってしまったようです。
景色を楽しんだ後で、節子は会社のオフィスだったことに気づいたようですが、まあ節子の面目約如たるものがあります。
そういう時に節子は、私が驚くほどに堂々としていました。
当時はまだ警備があまり厳しくなかったから良かったのでしょうが、今ならきっと怒られていたことでしょう。
会社の人に、何か案内までしてもらったようなことを話していたことを記憶しています。

節子は眺望が楽しめる場所なら誰にでも開放するのが当然だという、奇妙な常識を持っていたのです。
その「常識」を非常識と言うべきか、「見識」と言うべきか、わかりませんが、私にはとても大好きな考え方でした。
結局、わが家のど真ん中にいたのは節子だったのでしょうね。

今回のルーヴル美術館展のテーマは「子ども」や「家族」でした。
人々の生活の中心には、やはり女性がいるのだ、ということを改めて実感したのが、私の感想です。
節子ならどう思ったでしょうか。

■621: 80円のタケノコ(2009年5月15日)
昨日、タケノコを食べ過ぎてしまいました。

節子も知っているように、私はタケノコが大好きです。
最近は、私のタケノコ好きを知ってくれた節子の姉が毎年タケノコをどっさりと送ってきてくれます。
今年もどっさりと送ってくれましたので、お近くにもお裾分けしましたが、わが家もタケノコ三昧でした。
節子がいなくなっても、むすめたちがタケノコ料理を作ってくれるのです。
タケノコご飯、タケノコの煮物、タケノコスープ、焼きタケノコ、まあいろいろと工夫してくれます。
しかし3日も食べているとさすがに食べられなくなります。
タケノコは季節がとても短いので、タケノコ三昧の2日間はせいぜい3〜4回しか楽しめません。
今年はもうわが家の周辺のお店からはなくなりました。
ところが、12日に茨城に行っていた娘が、そこで80円のタケノコを買ってきてくれました。
もう終わりなので、小さくて硬いので安いのでしょうか。
それにしても80円とは、ちょっと安すぎます。
タケノコの価値が過小評価されているのは、いささか不満です。
豚の餌ではないのですから。

まあそれはともかく、私がしばらく自宅で食事をできないでいたので、そのタケノコを昨日、夕食に用意してくれました。
感謝しながら食べようとしたら、いやはや、とても硬いのです。
かなり育ってしまったタケノコのようで、まるで竹そのものを食べているようです。
しかし10日ぶりのタケノコですので、食べてしまいました。
食べながら、これが食べられるのであれば、成長した竹だって食べられるかもしれないとさえ思いました。

ところがです。
寝ようと思った頃になって、お腹の中で食べたタケノコが成長しているような感じで、お腹が張ってきてしまいました。
タケノコは食べすぎてはいけないと、節子が言っていたことを思い出しました。

80円のタケノコは食べてはいけません。
いえ、そうではなくて、やはり季節が終わったものを食べたいなどと思ってはいけないのです。
節子と食材に関していろいろと議論していたことを思いだします。

節子
節子の料理をもう一度食べたいですね。

■622:ばんまつり(2009年5月16日)
節子
玄関で、ばんまつりが咲いています。

「ばんまつり」のことは、一度書いたことがあるかもしれません。
この花には思い出があります。
節子と2人で季節はずれの湯河原の梅林に行った時だったと思うのですが、途中で庭のきれいなお宅がありました。
ちょっと待っててね、と言い残して、節子はその家に入っていってしまったのです。
なかなか出てこないので、仕方なく私も入っていくと、庭を見せてもらいながらその家の奥さんと話しこんでいます。
いやはや、節子の得意芸です。
ちょっと高台にあるので道路からは見えませんでしたが、立派な庭で、たくさんの花が咲いていました。

私も庭を見せてもらいました。
その奥さんからお土産にもらったのが、「ぼんまつり」の苗だったのです。
残念ながら、その後、そこにもう一度行くことはなく、お付き合いは発展しませんでしたが、節子がもし元気だったら、湯河原に行ったらきっとそこに立ち寄ったでしょう。
節子は、そうした出会いがとても好きだったからです。

ばんまつりはナス科の花ですが、咲いた時は明るい紫色(節子の好きな色でした)ですが、次第に白くなるのです。
バラもいいですが、私はどちらかというとこういう静かな花が好きです。
もっともこの花の原産地は南アメリカだそうですが。

この花が咲くと、湯河原での節子の生き生きした顔を思い出します。
節子は見ず知らずの家にも屈託なく入り込んでしまう、不思議な人でした。

■623:湯河原の幕山で出会った鈴木さん(2009年5月17日)
湯河原の梅園(幕山公園)といえば、もう一つ記憶に残る体験があります。
2004年4月9日のことです。
その頃は、節子もだいぶ元気を取り戻し、治るという確信が生まれだしていた頃です。
私のホームページ(CWSコモンズ)に記録(「豊かな生活2」)が残っていたので、日が特定できました。

その時はバスで出かけたのですが、バス停から公園まで30分ほど歩きます。
その時の記録を引用します。

途中で、道をゆっくり歩いている一人のお年寄りに出会いました。
私たちは、途中、道の横の小川に寄り道したりしていたので、
追いついたり抜かれたりの繰り返しをしているうちに、交流が始まりました。
目的地の幕山公園はシーズンオフのため、出店も無く少し寂しい雰囲気でした。
女房がおにぎりを持ってきていましたので、そのお年寄りに一緒に食べませんかと声をかけました。
女房はお年寄りに声をかけるのが好きなのです。
その方は鈴木さんといいます。
なんと間もなく90歳だそうです。
湯河原の駅の近くにお住まいです。
家族がみんな出かけたので、昔、来たことがある幕山公園に行きたくなって、歩いてきたそうです。
自宅を出たのが10時半頃、着いたのが1時過ぎ。
2時間半以上、歩いてきたのです。
失礼ながら、歩くのもやっとの感じなのですが。
おにぎりを食べながら、公園のベンチで1時間ほど話しました。
そのうちに昔の話をされだしました。

後はホームページのほうの記事をお読みください。
最後の部分だけをまた一部引用させてもらいます。

のどかな自然の中での1時間。
とてもいい時間を過ごさせてもらいました。
女房と鈴木さんは、実の親子のようでした。
女房に惚れ直した1時間でした。

この記事の文章を読んでいて、久しぶりに涙が出てしまいました。
節子はほんとうにやさしい人でした。
そして、私の生き方に、とても大きな影響を与えてくれました。
私が人生を踏み外さずにすんだのは、間違いなく節子のおかげです。

■624:最初の東京では高尾山でスイカを食べました(2009年5月18日)
節子
昨日、湯河原のことを書いたら、続いて高尾山のことを思い出してしまいました。
やはりCWSコモンズの活動記録に書かれていました。
2005年11月です
紅葉のまっさかりでした。
しばらくその見事な効用の前で撮った節子の写真が私のパソコンの画面になっていました。
頂上から見えた富士山を今でもはっきりと思い出します。
その頂上で、鍋をつくっている3人組に話しかけたのが縁で、その仲間に入ってコーヒーまでご馳走になってしまあったのですが、これもまた私一人ではとてもできない話です。
節子はいつもそうやって私たちの世界を広げていってくれました。
小さいですが、みんなで撮った写真もそこに掲載されています。

ところで高尾山といえば。もうひとつ思い出があります。
結婚する以前でしたが、節子と2人で私の両親の家に挨拶に来た時にも、翌日、高尾山に2人で出かけたのです。
はじめての2人の東京旅行が、なんで高尾山なのか不思議ですが、それが私たちのたぶん「好み」だったのだと思います。
今でも覚えていますが、高尾山の駅前でスイカを買って、それだけを持って山頂に行きました。
ナイフも持っていなかったので、そのスイカを手で割って2人で食べた記憶があります。
その写真もきっとどこかにあるのでしょうが、まだ2人とも20代でした。
その時の記憶は、私にはそれ以外、何もありませんが、今から考えてみると、それが私たちの生き方を示唆しているのかもしれません。

ホームページに記録されている、鍋をご馳走になった人たちですが、残念ながらその後の交流はありませんでした。
住所をお聞きせずに、メールアドレスしか交換しなかったのですが、私からは写真を送りましたが、その返事が来たのですが、それで終わってしまいました。
旅先で出会った人たちとの交流を、節子も私も大事にしていますが、なかなか続くことはありません。

みんな忙しいのかしらね、と節子は言っていました。
1回の出会いを発展させることは、そう簡単ではないのかもしれません。
でも私たちは、一度でも会えば、もう永遠の友だちのような気になるところが似ていました。
もっともっとみんなが出会いを大事にすれば、世界は楽しくなるのにね、と私たちはいつも話していました。
私たちが楽しい生活を送れたのは、いろいろなところで出会った、さまざまな人に支えられていたからだということを、私も節子も、よく知っていましたから。

■625:待っているのに手紙が来ない(2009年5月19日)
節子
旅先で会った人シリーズをちょっと続けたくなりました。
いろんな人たちに会いました。
今回は、節子を失望させた人たちの話です。

海外旅行で会った人から手紙が来ると期待していたのに、結局は来なかったことが何回かあります。
まず思い出すのが、トルコで会った若者たちでした。
イズミールだったでしょうか、夕方のホテルの近くを散歩していたら、日本語を学んでいるという学生たちのグループに会いました。
そこで例によって、節子との会話がはじまりました。
みんなで記念写真まで撮って、後で送るからと住所を聞きました。
みんなで手紙を書いて、写真もたくさんプリントして送ったのに、その後、音沙汰がありません。

イラクのペルセポリスでは、私が若者たちに捕まってしまいました。
先生が引率していたのですが、その先生からも何か訊かれたのです。
ペルセポリスは私のとても行きたかったところだったので、そんな相手をしたくなく、ゆっくり見物したかったのですが、いろいろと訊かれているうちに時間が集合時間になってしまいました。
慌てて、バスまで節子と走った記憶がありますが、そうまでして写真を送ったのに、その先生からは何の連絡もなしです。
届かなかったのでしょうか。

イランのダリウス大王の墓の近くでは、イラク人と日本人のカップルに会いました。
その人たちはまもなく日本に転居するといい、日本に行ったら連絡しますといっていたのですが、その後、連絡がありません。

こうして考えると、旅先での出会いが付き合いの始まりになるのはそう多くないのかもしれません。
娘たちは、旅先での出会いはそんなものだといいます。
でも私も節子も、そうした偶然の出会いからはじまる物語をいつも楽しみにしていました。
そのため、節子はいつもなにかお土産まで持っていっていましたが、それを渡したのを見たことはありません。

私は遺跡を観に、節子は人に会いに、地中海に行っていたのかもしれません。
まあここで書いた3組の人たちからは期待して待っていたのに結局手紙は届きませんでした。しかし、手紙を待っていたおかげで、その人たちとの記憶ははっきりと覚えています。
その一つひとつに、節子の楽しそうな笑い顔も重なっています。

さて、いまの話なのですが、私は節子からの手紙を待っています。
もしかしたら来るかもしれない、とそんな気がしてならないのです。
いつになっても来ない手紙を待つことには、少しだけ慣れていますし。

■626:海外旅行で知り合った人たち(2009年5月20日)
イラン旅行は、私と節子との最後の海外旅行でした。
ツアーで行ったのですが、同じツアーに小林さんと岡林さんという、私たちよりも一回り年上の女性2人組がいました。
とても元気なのです。
旅行期間中に、節子はそのお2人と仲良くなりました。
いろいろと話しているうちに、なんと岡林さんと私には共通の友人がいることがわかりました。
世界は狭いもので、そうしたことは時々起こります。

帰国後、ぜひまたお会いしたいというので、一緒に食事をすることになりました。
湯島の私のオフィスに来てもらい、近くのレストランで久しぶりに会食しました。
私も同席させてもらいました。
私が会社を辞めて、節子と二人三脚で仕事を始めてからは、一緒に行動できる時はできるだけ一緒にいようと言うことにしていたのです。
そうやって誰かに会う時、節子はいつもちょっとしたプレゼントを用意していました。
お金にすれば、それこそ高くても数百円のものだったように思いますが、そうした小さなプレゼントを用意するのが節子の文化でした。
その文化はなかなか私には真似できない文化です。
私が思うに、そんなものをもらったら結局は「ごみ」になるんじゃないかと思うようなものもありましたが、節子のその気持ちはとても私には魅力的でした。

エジプト旅行で知り合ってお付き合いが始まったのは、金沢に住む八田ご夫妻でした。
帰国後も交流が続き、私たちはわざわざ金沢まで八田さんに会いに行きました。
たぶんこれも節子が行こうと言い出したはずです。
八田さんご夫妻とお会いしたら、八田さんの奥さんが私たちに言いました。
暑いエジプトで遺跡を歩くのがとても疲れていた時に、佐藤さんたちからそれぞれ声をかけてもらったのがとてもうれしかったのです。
後で、ビデオで撮影したものを見ていたら、たまたま私が「暑いですけど大丈夫ですか」と八田さんの奥さんに声をかけているのが録音されていました。
きっと節子も、同じような声を別の場面でかけていたのでしょう。
八田さんたちからは、私たちがそれぞれ別々に、しかし同じように接したのが印象的だったようです。

その八田さんたちももう今はいません。
節子と彼岸で会っているでしょうか。

私と節子との海外旅行は回数は多くはありませんが、いずれにもとてもあったかい記憶があります。
遺跡周りの後は、節子の好きな自然まわりの予定でしたが、それが始まる前に、節子は一人で彼岸に旅立ってしまったのです。
向こうで、どんな人たちとの出会いを楽しんでいるのでしょうか。
ひとついえることは、節子は私がいればこそ、新しい出会いを楽しめたのだと思います。
一人の時の節子は、意外に消極的だったはずです。
なぜそうかといえば、私もそうだからです。
私たちは、2人でいる時と、別々に1人でいる時とでは、人格が違っていたような気がします。
2人でいると2人とも、心底、素直になれたのです。
もう私も、心底、素直になれることがなくなってしまったのかもしれません。

■627:星の王子さまとバラ(2009年5月21日)
バラと旅の話がつづきましたが、サン・テグジュペリの「星の王子さま」もいろいろな星を旅しながら最後に地球に着きました。
そのせいか、久しぶりに「星の王子さま」を読みたくなりました。
私の記憶におぼろげ残っている話が出てきました。

王子さまが自分の星を旅立って、7番目に着いたのが地球です。
そして最初に出会ったのがヘビでした。
次がたくさんのバラの花、3番目がキツネでした。
テグジュペリがこの本で言いたかったことは、ここでキツネが語っていることだと思いますが、その一部を少し編集して引用させてもらいます。
ちなみに、王子さまは、自分の星に残してきた1本のバラのことをとても大事に思っているのです。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」
「人間っていうものは、この大切なことを忘れてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。面倒みた相手には、いつまでも貴任があるんだ。守らなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね」

これだけ切り離して取り出すことはあまりフェアではないかもしれませんが、それぞれに含蓄を感じます。

「かんじんなことは目に見えない」。
いまの私たちが忘れていることです。
「目に見えないこと」の意味はとても広いのですが、その世界を私たちは小賢しい知識と科学で狭くしてしまっているように思います。
有識者といわれる人たちと現場で汗している人たちと、私はそのいずれにも友人知人がいますが、そのどちらが「かんじんなこと」に気づいているかは明らかです。

誰かや何かを大切に思う、つまり愛するのは、その対象のために時間を無駄にしたからだ、というのは、すごい発言です。
思い出すのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」ですが、メッセージ力の強さは、その比ではありません。
これは逆ではないのかという人もいるでしょうが、それこそが小賢しい近代の知なのです。

そして3つ目は、面倒をみた相手にはいつまでも貴任がある、ということです。
これも私たちが忘れていることの一つです。
この掟をこわしたのが、「お金」ではないかと、私は思っています。

私は、節子とたくさんの「無駄な時間」を過ごしました。
それに関してはかなりの自信があります。
ですから私は、節子を愛して結婚したのではなく、結婚したから愛したのです。
結婚でもしてみないという言葉でプロポーズしたことの、それが意味でもあるのです。

ところで、節子にこの言葉を伝えた時に、私はまだ「星の王子さま」を読んでいなかったような気がします。
ですから思うのです。
このキツネの言葉は真実ではないかと。

■628:会社の経理の仕事(2009年5月22日)
節子
株式会社コンセプトワークショップはまだ倒産せずに健在です。

といっても、この会社はこの4年ほど、ほとんど休業状態なのです。
最近の年間収入は事務所経費を賄うのがやっとの状況ですので、会社の解散も考えたのですが、借金もあり簡単には廃業できません。
それに、節子と一緒にやってきた会社ですので、私が元気な間は続けることにしました。
私の給料はこの3年間ゼロですが、3年前からは税理士へ支払う余裕もなくなったので、昨年から私が自分で決算書類を作成しています。
節子が元気だったころは、会社の経理は節子が窓口になって税理士に頼んでいましたので、私はそうしたことからは全く解放されていました。
お金のことを気にせずに、やりたいことだけをやるという幸せはなくなってしまいました。

節子も税理士もいなくなって、自分でやってみるとけっこう面倒です。
この面倒なことを節子に任せていたことを悔やんでいます。
節子も、決して向いているとはいえない種類の仕事でしたから。
昨日1日、1年分の経理処理をしていたのですが、途中で嫌になってしまい、まあだれもみないだろうし、どうせ赤字なのだから税務的にもそう正確でなくてもいいだろうとかなり手抜きをしてしまいました。
私は手抜きがうまいのです。
人生においてもかなりの手抜きで生きてきました。

しかし、節子は手を抜くのが不得手でした。
私から言えば要領が悪いのですが、手を抜けない節子が会社の経理の仕事をいつも負担に感じていたのを思い出します。
節子はそれが自分の仕事だと決めていました。
そこが節子の健気なところなのですが。

経理の仕事で、楽しいこともなかったわけではありません。
お金がなくなったけどどうしようか、という相談は実のところ楽しかったです。
足りないといってもたかが知れていますので、切実感はありませんでした。
何しろ2人だけの会社ですから、お金がなくなれば給料をもらわずに、不足分をどこかで稼いで充当すればいいだけの話です。
なにしろ私たちの会社は、仕事をすればするほど出費が増えて、収入は増えない傾向があったのです。
まあいつも質素に、小さく活動していましたから、不足してもせいぜい事務所の家賃を払えない程度の話です。
身の程に生きていれば、破局など起こらない、と私たちはいつも考えていました。
もっとも、そこまで来るには、それなりの苦労もあり、私の25年間の会社生活があったわけですが。

事務所家賃を払えずに、むすめたちの定期預金を解約させたこともあります。
しかし、家族とはそんなものでしょう。
それがわが家の文化でした。
でも、こうやってお金を気にせずに生きていけることはとても恵まれているのでしょう。
こうした状況を残していってくれた節子にとても感謝しています。

さて、肝心の会社の経理ですが、一瞬、黒字かと思ったのですが、やはり計算違いで、かなりの赤字でした。
今年度も1円ももらえませんでした。
本気でお金がもらえそうな仕事を探さなければいけなくなりそうですが、問題はそうした仕事をする時間があるかどうかです。
そうした相談をする相手の節子がいないのが、残念です。
2人だと楽しいことも、一人だと辛いことになるものです。

■629:花を見ながら思い出すこと(2009年5月23日)
節子
玄関のバラがみごとに咲いています。
節子は残念ながらこのバラをみることができませんでした。

節子のおかげで、わが家は今も花が絶えません。
花を見るたびに節子を思い出します。

湯島のオフィスのミニバラも元気ですが、元気をなくして枯れたかと思った昨年のミニバラも、一輪だけですが、黄色の花を咲かせてくれました。
それが、とても健気に見えて、節子を思いだせます。
そのミニバラを枯らせないためにも、最近は湯島に行かねばならなくなってきました。

そういえば、我孫子のサツキ展でもらったツツジも小さな花を咲かせています。
その花をくれたのは、茨城に住んでいる松崎さんという人です。
サツキ展の入り口で、みんなに小さなツツジを配っていたのですが、節子はその人からツツジの育て方をいろいろと訊いていたのです。
その人から家にはもっと大きなツツジがあるから見に来ないかと誘われていました。
一度、一緒に行こうといっていたのですが、節子の体調が悪くなったために実現できませんでした。

節子は土になじんだお年寄りと話すのが好きでした。
節子の母親も滋賀で農業を少しやっていたからです。
松崎さん(確かそういうお名前でした)の家に行って話をしたかったのでしょう。
行けませんでしたが、松崎さんのお名前は時々出てきましたので、私も覚えてしまったわけです。

節子と私の、人のつながりの育て方はちがっていましたが、世界も違っていました。
節子の付き合う人たちの世界は、みんな「生きている」香りがしました。
こんなことをいうと、私の友人たちには失礼になるかもしれませんが、私の友人知人の多くは、私と同じく、知で生きているような気がします。
節子は違いました。
良い意味でも悪い意味でも、心で感覚的に生きていましたし、自然とつながっていました。
ですから節子は私の知識に敬意を持ちながらも、そうした生き方をしようなどとは思ってもいませんでした。
理屈でいくら言い負かせても、真実は変わらないと、節子は時々私に言いましたが、私もそれを知っていました。
理屈は、弱いもの、自信のないものの、悲しい言い訳でしかありません。

節子は、花や土から多くのことを学んだのかもしれません。
書や人から学んだ私には、とても太刀打ちできるはずがなかったのだと、最近やっと気づきだしました。
節子が、やっと気づいたの、そのうちわかるだろうと思っていたけど、と言っているのが聞こえるような気がします。
節子は、知識もなく頭も悪いと自分でよく言っていましたが、私の人生の師の一人なのです。
その意味をわかってくれる人は少ないかもしれませんが、私には最高の師だったのです。
私の世界観や人生観は、節子が育ててくれたものなのです。
まあ、それなりの素地もあったと少しは自負してはいるのですが。はい。

■630:中途半端な楽しさは、悲しさも引き出します(2009年5月24日)
節子
今日はめずらしく家族3人でイタリアン・レストランに行きました。
むすめの友達がやっている、柏にあるイタリア田舎料理の「まがーり」です。
シェフの佐藤峰行さんは、23歳の時に料理人になることを決意して、イタリアに修業に行き、そこからまあいろいろとあって、2003年に「まがーり」を開店したのだそうです。
むすめから話は何回か聞いていたので、一度、みんなで食べに行くことにしていたのです。

「まがーり」では、毎月、イタリアの特定の地方の料理メニューにしているのですが、今月はアブルッツォ州でした。
と言っても、私は名前も知らなかったのですが、そこの料理では仔羊のミートソース和えがおいしいのだそうです。
肉が不得手で、しかもミートソースも不得手な私としては、残念でしたが、メインは魚にしてもらいました。
魚はヒラメでしたが、とても素直な仕上げでおいしくいただきました。
野菜の味付けも私の好みにぴったりでした。
田舎料理だからでしょうか、とても素朴で素直で、イタリアンのイメージがちょっと変わりました。

食事をしていて、思いだすのはやはり節子のことです。
節子がとても喜びそうなお店だったからです。
実にアットホームで、素朴で、いろんな意味で「すき」のあるお店なのです。
最近のレストランは、なにやらきれいすぎて退屈ですが、このお店には表情が感じられます。
それが、たぶん節子が気にいることなのです。
まあ、節子のことですから、いろいろと批判をし、改善点をあげることでしょう。
しかし、それこそが、会話を育てるお店なのです。

料理も間違いなく、節子好みです。
味付けがとても素直なのです。
おそらくシェフの人柄が出ているのでしょう。
人柄が感じられないような味は、節子も私も好きではありません。
デザートに手づくりケーキが出てきましたが、そば粉と卵白で作ってみたそうです。
これも美味しかったです。
ちょっと素朴に硬すぎる感じもしましたが、そこが田舎料理の良さかもしれません。
節子なら早速、レシピを訊いて家で作ったことでしょう。
そうした会話が弾みそうな雰囲気のレストランです。
久しぶりに3人でのイタリアンでしたが、節子がいたらもっともっと楽しい食事になったことは間違いありません。

わが家では、時々3人で外食するのですが、節子がいた4人の時と今の3人では、雰囲気が全く違います。
楽しさが全く違うといってもいいかもしれません。
そして、いつも必ず、節子のことが話題になります。
時に、私は涙が出そうになります。

家族にとって、やはり妻であり母親である人の存在は大きいです。
なにかある度にそう思います。
家族で最初に抜けるのは、やはり父親であるべきだと、今日も娘たちと話していて思いました。
妻のいない夫は抜け殻のようであり、母親のいない家族は空気の抜けかけたボールのようです。
食事は楽しかったのですが、節子のことを思い出したら、何だかとても悲しくなってしまいました。
中途半端な楽しさは、悲しさを引き出す役割を果たすものなのです。

■631:関係の自立(2009年5月25日)
節子
今日は、節子が嫌いで、私が好きな、いささか「ややこしい話」です。

今村仁司さんは、「貨幣とはなんだろうか」という本の中で、人間関係の媒介形式が崩壊した時にどういうことが起きるのか」について、アンドレ・ジイドの「贋金つくり」やゲーテの「親和力」を題材にして語っています。
私は、どちらも読んだことがないのですが、いずれにおいても、家族を軸にした物語が展開されているようです。
今村さんが人間関係の媒介形式と言っているのは、たとえば「夫婦」であり「親子」です。
節子と私は、節子が退出するまでは、真実そのものの夫婦でしたし、娘たちとの関係においても、間違いのない親子でした。
たとえばその夫婦関係や親子関係のなかに、ある意味での「裏切り」、夫婦でいえば浮気とか不倫、親子でいえば家出とか騙しあいが起こることを、今村さんは「媒介形式の崩壊」と呼ぶのですが、それによって「贋物の夫婦や親子」が生まれてくるわけです。
しかし、本物と贋物の違いは、さほど明確ではないように思います。

この本の主題は、貨幣とは何かであり、貨幣にはそもそも「本物と贋物」があるのかという問いかけがあるように思います。
私はお金はすべて「贋物」であると考えていますので、偽札に対してもさほど違和感がありません。
北朝鮮が国家で偽札をつくっているのと、米国が大枚のドルを世界に垂れ流しているのと、どこが違うのか、私にはほとんど理解できません。
ちなみに、私が村長を務めていた(務めている?)コモンズ村の通貨である「ジョンギ」は、みんなに偽札作りを推奨しています。

時評のような内容になってきてしまいましたが、今日は挽歌のつもりで書き出したのです。
でもまあ、たまには、どちらでもいいような記事があってもいいでしょう。
それがこのブログの特徴と言っているわけですから。

私と節子の夫婦関係という「媒介形式」は節子がいなくなった今も、まだ存続しています。
しかし、「関係」は存続していても、お互いが彼岸と此岸とに離ればなれになってしまい、会うことができなくなってしまった場合、どうなるのでしょうか。
今村さんの本はいささか難解なのですが、その本を読んでいるせいか、そうした「さらに難解な問題」を考えたくなってしまいました。
媒介すべき主体の一方がいなくなったのに「媒介関係」があるということは、媒介関係が自立しているということです。
私たちは、「関係」は、その両側に「要素」があってこそ成り立つと思いがちですが、「関係」があってこそ「要素」が意味を持つことは少なくありません。
もしそうなら、要素がなくても「関係」が存在することは十分考えられることなのです。

媒介としての貨幣を考えてみるとわかるのですが、最近では、貨幣は単なる媒介ではなく、それ自体が目的や主体になってきています。
「関係」が自立し、「意味の世界」が実体を影響しだしたのです。
それが、社会を壊しだしているわけですが、では人間関係の媒介関係の場合はどうでしょうか。
自立してしまった「関係」のもとで、夫婦を演じたり親子を演じたりしているような話もあるようですが、「関係」がそれぞれの生き方を壊してしまっている例も少なくありません。
いえ、「創造」と「破壊」は、コインの裏表でしかなく、同じものなのかもしれません。

話が拡散しそうですので、しぼりましょう。
全く無縁に育っていた私と節子が、ある時出会って、夫婦になった。
そこで私たちは、2人とも人生を一変させたわけです。
それまで存在しなかった「媒介形式」が生まれたからです。
今から考えると、私たちは2人とも、「夫婦」という新しい生き方に自らの、おそらくほとんどすべてを投げ入れました。
そこで、関係の「主役」になれたのです。

貨幣の本を読んでいて、こんなことを考える読者は私くらいかもしれません。
しかし、こうした話は、私の大好きな世界なのです。
長くなりそうなので、今回はこの辺でやめますが、いつか続けたいと思います。

■632:今日は挽歌が書けませんでした(2009年5月26日)
節子
今日は挽歌が書けませんでした。
といいながら、まあ書いているわけですが、夕方書こうと思っていたら、来客があり、話しているうちに時間がなくなってしまいました。
彼が帰った後に書き出したのですが、昨日の続きを書き出したら、かなりややこしい話になってしまいました。
疲労している今日の頭では、どうもうまくまとまりません。

違う話題を書こうと思ったのですが、眠くなってきてしまいました。
今日は実にいろいろなことがあったのです。
まあ、いずれもたいしたことではないのですが、変化に富んでいたのです。
変化は、昔は元気の素でしたが、最近は疲労の素になるようです。
いやはや困ったものです。

今週はまだいろんなことが予定されていますが、週末の5月30日は私の誕生日です。
67歳最後の1週間は、なぜかいろんなことが集中してしまったようです。
67歳のうちに決着をつけておけということなのでしょうか。

まあこうやって、何かを書いていると話題が浮かんでくるのではないかと思っていましたが、今日はただ眠いだけです。
そういえば、なぜ最近眠いのかを書けばよかったですね。
これはやはり節子にかなりの責任があるからです。
でもまあ、今日は眠ることにしましょう。
明日はまた、いろんな人が湯島に来ます。
なんの相談に来るのでしょうか。
また何かに巻き込まれなければいいのですが。

そういえば、最近、時評編も時々書けていません。
決して忙しいわけではないのですが、なぜか時評編はモチベーションが下がっています。
その上、気ぜわしさが最近、私を覆いだしています。
能力以上のことを約束してはいけませんね。
節子がいたらきっとセイブしてくれたのでしょうが。

■633:深い信頼関係があれば、生きるも死ぬも同じかもしれない(2009年5月27日)
節子
私たちは、お互いを信頼するという点では、一点の曇りもなかったですね。
まあお互いに頼りなさは感じていましたが、自らの生命ですら、相手の決断に託すことができるほどの、信頼関係があったといってもいいでしょう。

節子は、私に自らの生命のすべてを託しました。
それを、私ははっきりと実感していました。
だからこそ、それを守れなかった自分自身の不甲斐なさから、いまなお私は立ち直れないのですが、節子はそのことを微塵も後悔していないでしょう。
そのことには、自信があります。
立場が逆であったとしても、同じだったでしょう。
節子は私のために最善を尽くし、尽くしてもなお悔いを残したはずです。

人を、それも大人になってから初めて出会った他者を、これほど信頼できるということは、おそらく幸運としかいいようがありません。
私たちは、一度として、相手を裏切ることはありませんでした。
いや、そう言い切るのはわずかばかりの迷いがないわけではありませんが、節子も私も、相手に自らの生命をゆだねることにおいては、全くの躊躇がなかったと思います。
裏切られることはないという確信が、私たちには間違いなくあったのです。

人は他者を完全に信頼できるものだという体験があれば、生きるのはとても楽になります。
素直に自分を出すことにも躊躇がなくなります。
生きるためには、お金よりももっと効果的なものがあることも確信できます。
私の楽観主義も、節子の楽観主義も、お互いに伴侶を信頼できる関係をもてたからではないかと思います。
信頼する伴侶がいれば人は生きられる、と私は思っていました。

唐突にこんなことを書いたのは、理由があります。
今日、東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんから電話をもらいました。
電話で話していて、突然思い出したのが、茂さんがこの活動にのめりこんでいった契機になった不幸な事件です。
テレビや新聞などで時々取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょうが、茂さんの働きかけで、一度は死を思いとどまった仲の良いご夫婦が、その後、結局は死を選ばざるを得なかった話です。
いまでも茂さんは、その人たちからの最後の手紙を大事にとっています。
お互いに、心底、信頼しあっていたご夫婦がなぜ死ななければいけなかったのか。
以前から、そのことがずっと気になっていました。
今日、茂さんとの電話が終わった後、なぜか急にそのことが思い出されました。
そして、その疑問が氷解したのです。
心底信頼しあっていたからこそ、一緒の死を選んだのだ、と。
茂さんに話したら、そんなことはないといわれそうなので、内緒にしておこうと思いますが。

なぜそう思ったのか。
実は、昨日、書きかけてややこしくなってしまった記事は、「生きること」と「死ぬこと」とは同じことなのだという話なのです。
昨日も書きましたが、書いていてまとまらなくなっていたのです。
「生きること」と「死ぬこと」とが同じ、そんなはずはないからです。
でも、もしかしたらそれは正しいのかもしれません。
そんな気がしてきたのです。

もう少しまとまったらこの挽歌に書いてみたいと思います。
まだまだ未消化で、支離滅裂ですが、最近、生きることの意味が何となくわかってきたような気がしてきました。
死が近いのかもしれません。
節子が呼んでいるのでしょうか。

■634:私の周りの人間関係が変わってしまいました(2009年5月28日)
節子
最近、私のブログやホームページから、私の元気が少し感じられだしたようです。
それを読んだ人たちが、もう大丈夫と思うのか、会いに来てくれるのです。

節子がいなくなって、いろいろな変化が起こりましたが、予想していなかったのは、私の交友関係が変わってきたことです。
それも節子との共通の友人知人ということではありません。
節子とは関係のない、私の友人知人との関係が微妙に変わってきたということです。
人は、一人では生きていませんが、人のつながりというのは、広範囲に影響しあうものだということを実感させられました。

たとえばこういうことです。
伴侶を失った後、何となく疎遠になった友人知人がいます。
何かがあったわけではないのですが、お互いに何となく会う気がしなくなったのでしょう。
そこにはそれなりの理由があるのでしょうが、会わないことで人間関係は変化します。
逆に、伴侶との死別を意図的に意識することなく、以前と同じように付き合ってくれる人もいますが、私自身が変わっていますので、たとえその人が前と同じように振舞っても、これもまた人間関係に微妙な変化を起こさせるのです。
自らの「半身」が削がれただけではなく、自分を取り巻く世界のバランスが崩れてしまうのかもしれません。

私自身の生きる基準が変わってしまったことが、その大きな理由でしょうが、気がついてみたら世界は一変してしまっていました。
節子がいなくなった後に、出会った人や世界もありますが、それらはなにかとても白々しくて、まだリアリティがないというか、それ以前の世界とうまく整合しないのです。
まあ、こんな理屈っぽいことを考えるのは私くらいかもしれませんが、これはただ理屈っぽく書いただけであって、実際にはシンプルな、もっと生々しい実感があるのです。
おそらく私と同じような体験をされた方は、私同様に友人知人との関係が大きく変わってしまっているのではないかと思います。

非日常的なことが起こると、人の素顔が見えてきます。
おそらく節子を見送るという、非日常を体験した私の素顔は、多くの人に見えてしまったことでしょう。
私自身にも、私が意識していなかった自分の素顔がいろいろと見えてきました。
そこには、私自身があまり好きになれない自分もいます。
でもまあ、そんな私の素顔を見ながら、会いに来てくれる人がいるのは感謝しなければいけません。

節子がいたおかげで、私はたくさんの人たちとのつながりを育てることができました。
その多くは、節子がいなくても育ってきたつながりだと思っていましたが、そうではないことに最近気づきました。
人のつながりは、とても微妙です。
人は、一人では生きていないことを、最近改めて痛感しています。

■節子への挽歌635:節子の主治医だった先生からのメール(2009年5月29日)
節子
仕事で昨日から軽井沢に来ています。
とても快適なシーズンのはずですが、昨日から雨です。
それも冷たくて強い雨です。

子供たちが小さい頃、夏休みにはよく家族で長野には来ましたが、軽井沢に来たことはたぶんないですね。
思い出がないおかげで、軽井沢に来るのはあまり抵抗はないのです。
しかし新幹線に乗ると、いつもとなりに節子がいたらいいのにと今でもつい思ってしまいます。
節子とはたくさん一緒に旅行もしたような気もしますが、もっともっと旅をしておけばよかったと思います。
節子との旅は、いつも本当に楽しかったです。

最近、朝早く目が覚めます。
今朝も5時には目が覚めてしまいました。
いろいろと節子のことを思い出しながら、持ってきたモバイルでメールを開いてみました。
思ってもいなかった人からのメールが届いていました。
節子の手術をしてくださった先生からです。
メールを読ませてもらって、涙が止まらなくなりました。
節子は手術後、その先生にずっと診てもらっていましたが、再発後は内科の医師に主治医が変わったのです。
しかし、最後までずっとその外科医の先生は相談に乗ってくれていました。
その先生が、このブログを読んでくれていたのです。
思ってもいなかったことです。

今日は思い出のない軽井沢と節子の話を書こうと思っていたのですが、それどころではなくなりました。
1日、時間を置いて、明日、この話を少し書かせてもらおうと思います。
うまく書けるかどうか、全く自信はないのですが。
でも節子にはぜひとも知らせておきたい話です。
正直、今は少し気が動転しています。
今日の仕事はうまくいくかどうか心配です。

■636:医師と患者の関係の悩ましさ(2009年5月30日)
節子
私も68歳になりました。
そのことをどう節子に報告しようかと先週から思っていたのですが、今日は全く違う話を書きます。
昨日の話です。

節子の主治医だった先生からメールをもらいました。
何回も読んだのですが、先生の許可を得ずに掲載することにしました。
許可を得てないので匿名にさせてもらいます。

昨年の手賀沼エコマラソンの次の日に書かれた日記を先ほど見る機会を得ました。
正直動揺してしまいました。

佐藤さんが「がんセンターにはいけなくなってしまいました。
近くに行くことはあるのですが、入れません。」と書かれていた気持ちは非常によく分かる気がしたのです。
「医師と患者、そして患者の家族の関係はとても微妙です。」という事も含めてです。

今でこそ白状いたしますが、節子さんが亡くなられる少し前(正確には覚えていませんがおそらく1ヶ月くらい前だと思います)に、2人の娘を連れて佐藤さんの家の前まで行ったことがあります。
もちろん節子さんに会ってお話ししたいと思ったことと、うちの娘を節子さんに会わせたかったからです。
どうしてそのように思ったのかはうまく説明できませんが、とにかく娘と共に会いたかったのです。
いろいろとお菓子を作ってくださったこともありましたし、家で佐藤さん方の事は話ししていたこともありましたが、本当のところはうまく説明できません。
その時僕は車を止めて、呼び鈴を押すかどうかしばらく迷い、やめて帰りました。
子供にもどうして折角きたのに会わないの?と言われましたが
その時の僕はそのような判断をしました。

その数日前に僕の妻に、節子さんに会おうか迷っているのだけどと相談したところ、
彼女より「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」とアドバイスされました。
彼女の言葉が大きかったのは事実ですが、その後もあの時会っておけば、と何度か思ったのも事実です。

佐藤さん方と同じように、ずいぶん深く関わっていながら内科治療に移っていったある患者さんが今入院しています。
内科の主治医に状態がすぐれないことを夕方聞きました。
そのあと偶然、佐藤さんのホームページを久しぶりに見たのです。
今日は当直なのですが、先ほどその患者さんに会いに行きました。
もう意識はなく僕が来たことがわかってもらえたか自信がありませんが、
僕ははっきりと、僕が呼びかけたときにうなずいたと分かりました。
その患者さんがずっと僕に会いたがっていたと家族の方々に教えて頂きました。

今日僕がこのような行動をとることができたのは、佐藤さんのおかげです。
急にこんな事を言われて変だと思わないでください。
とても偶然なことなのですが、
もしあの文書を読むことがなかったら、
勇気が出なかったというのが正しい言い方なのかもわかりません。
そして2年前の8月には、その勇気が出せませんでした。

これについて、少し私の気持ちを書こうと思いましたが、やはり涙が出てきて書けません。
1日、間を置いたので大丈夫かと思っていたのですが、今読み直したら、また胸が痛くなりました。
明日か、明後日、つづきを書きます。たぶん。

■637:68歳と62歳(2009年5月31日)
節子
今日は昨日の続きではなく、別の話題を書きます。
昨夜、節子の夢を見ました。

昨日は私の68歳の誕生日でした。
昼間は「支え合いネットワーク」の交流会をやっていたのですが、夕方帰宅したら娘たちがお祝いの用意をしてくれていました。
私の好きなサザエと節子伝来の手づくりケーキが用意されていました。
プレゼントはないのかと督促したら、何と「肩たたき券」をくれました。
最近、私がかなりの肩こりになっているのをよく知っているのです。
いずれも、節子の文化を継承した、お金ではなく誠意のこもったお祝いです。
節子は、やさしい娘たちを残してくれました。
まあ、彼女たちがまだ家にいるのが問題ですが、今日はそんなことも忘れて、ただただうれしく思いました。
しかし、いつか書いたように、うれしい出来事は同時に、節子がいない寂しさを思いだせもするのです。
いささか浴が深すぎるかもしれません。

私は68歳になりましたが、節子は今なお私の中では62歳です。
節子とだんだん歳が離れていくような気がしないでもありません。
節子が彼岸へいってしまった時点で、節子は私にとっては永遠の存在になってしまいました。
もう歳はとらないのです。

人は不思議なもので、自分の年齢さえも相対的な目で考えます。
小学校の同級生と一緒にいると、相変わらずみんな小学生時代に気持ちになってしまいます。
節子と一緒だと、自分が年老いてきていることをあまり感じませんでした。
2人とも歳をとっているので、年齢の関係は変わらないからです。
時々、老いを感ずることはありましたが、普段は感じませんでした。
ところが、節子がいなくなった途端に、私の場合は、老いていく自分を認識できるようになりました。
娘たちとの関係も変わりました。
節子と一緒だった時は、私たち夫婦の子どもという位置づけは動きませんでしたが、節子がいなくなり一人になってしまってからは、娘に養われる老人という自覚が生まれてきました。
伴侶を亡くすと、人は一挙に歳をとってしまうのかもしれません。

その逆の話も時々聞きます。
若返る事例もあるようですが、いずれにしろ年齢感覚が変わってしまう気がします。
私の場合は、老いを強く意識するようになりました。

節子が祝ってくれる誕生日と娘たちが祝ってくれる誕生日とは、全く異質なような気がします。
こんなことをいうと娘たちには申し訳ないのですが、やはり妻に祝ってもらう場合は若さを感じますが、娘たちに祝ってもらうと何となく老いを感じてしまうわけです。
まあ、実際にはそれが正しい感覚なのですが、伴侶がいると「老い」さえも感じないですむということかもしれません。
「横断歩道、一緒に渡ればこわくない」という話と、どこかでつながっているかもしれません。

それにしても、娘たちはよくしてくれます。
すべては節子のおかげです。
娘たちや節子のやさしさに報いるためにも、老いを活かしていかなければいけません。
68歳らしい生き方は私にはできませんが、私らしい生き方で68歳を過ごそうと思います。
62歳の節子が応援してくれているはずですから。

ところで、冒頭に書いた、昨夜の節子の夢です。
節子はよく夢に出てきますが、いつもはさりげない形で日常的に出てきます。
昨日は違いました。
夢の中で、節子と久しぶりに唇を重ねました。
滅多にない夢です。
節子からの久しぶりのプレゼントです。

■638:なかなか枯れなかったバラの花(2009年6月1日)
節子
しばらく初夏を感じさせるような毎日だったのですが、この数日、一転して肌寒い日がつづいています。
天気が悪いとやはり気分がふさぎます。

もう3週間前の話ですが、ジュンが大きな赤いバラの鉢植えを買ってきました。
とても元気で見事な一輪だったのですが、次の花が元気にまた咲き出すように、切花にして節子の位牌壇に飾りました。

ところが、その一輪の花がなかなか枯れないのです。
おそらく2週間近く、元気に咲いていました。
節子の好きな真紅のバラです。
なぜこのバラは枯れないのだろうかとジュンが不思議がっていました。
大輪の花で小さな花びんに入れていたのでいつも倒れそうでした。
咲き盛りの時に切り取ったのに、10日ほど見事に咲き続いてくれました。
毎朝、節子に般若心経をあげながら、そのバラの花にも声をかけていたのです。

その咲き続けるバラの花のことを先週書こうと思っていたのですが、なぜか忘れてしまっていました。
今朝、位牌壇にそのバラの花がないことに気づきました。
私が軽井沢に出張した翌日、枯れてしまったのだそうです。
悪いことをしてしまいました。

植物も心を持っていて、声をかけていると長持ちすると言われます。
私もオフィスの花でそれを体験していますので、花にはできるだけ声をかけるようにしています。
もしかしたら、位牌の前のバラの花には、節子が毎日声をかけていたのかもしれません。

花は枯れてしまいましたが、花を切った元のバラの木は新芽が伸びだして、また2輪、花が咲くようです。
枯れてもまた新芽が育ち、花も戻ってくる植物がうらやましいです。

■639:花は彼岸と此岸をつなぐもの(2009年6月2日)
節子を見送った直後、弔問に来てくれた友人からメールが来ました。

一昨年、伺ったとき貰った鉢植えのミニ薔薇が今盛んに咲きだしていて、花好きだった奥さんのことも併せて思い起こさせます。

弔問に来てくださった方に、ともかく花や球根をお渡ししていたのですが、そのおかげで、こうしたうれしいメールや手紙が今もまだ届きます。
花の力は大きいですね。

最近、もしかしたら花は彼岸と此岸をつなぐものではないかという思いが強くなりました。
花を見ていると、向こうの世界を感じられるような気がするのです。
節子は、何であんなに花が好きだったのでしょうか。
病気になってから、特に花が好きになって、手入れに入れ込んでいたような気もします。

イラク北部の洞窟で発見されたネアンデルタール人の化石の近くに、数種類の花粉が発見されたことから、「ネアンデルタール人には死者に花を添える習慣があった」という説が広がったことがあります。
最近ではどうも否定されているようですが、私は今もなおそのことを信じています。
花には、不思議な魔力があるような気がしてなりません。
節子を送る時に、もっともっとたくさんの花を添えればよかったと、今頃気づきました。
節子が好きだったカサブランカやバラの花で、もっと賑やかにしてやればよかったですね。
花の精に取り囲まれて、節子はきっと喜んだでしょう。
花を見ていると、そんな思いが次々と浮かんできます。

わが家では、節子が好きだった、ガクアジサイの隅田の花火が咲きだしています。
アジサイも、なんとなく霊界に通じているような雰囲気があります。
節子がいなくなってから、アジサイの季節はちょっと私には不得手な季節になってしまいました。
悲しすぎるのです。
バラの季節とは全く違うのです。
花からのメッセージは、痛いほど心に突き刺さります。

■640:医療と私情(2009年6月3日)
これは、医療時評で取り上げるべき話なのですが、ことの成り行き上、挽歌として書くことにします。

先日、引用させてもらった節子の主治医だった先生からのメールに、「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」という言葉が出てきます。
私も同じような言葉を、このブログでもかいています。

節子と一緒に、病気と付き合いながら、次第にこの考え方は私の意識の中からは消えていきました。
いまでは、むしろ「医療とは私情に裏付けられるべきではないか」という思いさえあります。
この場合の「私情」とは、「利己的な気持ち」ではなく「公の立場を離れた表情のある人間的な感情」という意味です。
いいかえれば、医師という肩書きではなく、その根底にある人間の気持ちということです。
病気を診ずに患者を診るということは、そういうことなのだろうと考えるようになりました。

医療と医学、医術は違います。
医療の「療」とは、いうまでもなく「いやす」ということです。
「いやす」ためには、人間的な要素が不可欠です。
こう考えていくと、医師と患者の間に一番大切なのは、ある種の「私情」ではないかと思います。
薬よりも、医師の心のこもった一言が、患者を元気にするのです。

病院におけるコミュニケーションの問題に関心を持っている人が、私の周りには少なくありません。
コミュニケーションを「論理」の世界で考えるか、「感性」の世界で考えるかは、重要な視点だと思いますが、人間が生命をかけて出会っている病院においては、後者の次元におけるコミュニケーションこそが大切ではないかと思います。

ちなみに、メールを下さった節子の主治医の先生は、節子にも私にも、とても人間的に接してくれました。
私たちも、人間として自然に付き合ったつもりです。
節子が元気になったら、患者と医師としてではなく、家族づきあいもできたような気がします。
それが実現できなかったのが、節子にはとても残念だったでしょう。

先生からのメールは、節子には届いているでしょうか。
一応、位牌には報告しておきましたが。

■641:「命の保証はない」(2009年6月4日)
節子
Nさんの娘さんが先月脳卒中で倒れ、駆けつけたNさんは、医師から「命の保証はない」と言われたそうです。
幸いに娘さんは、医師も驚くほどの回復ぶりで、Nさんから安堵のメールが届きました。
そのメールの最後に、
「ごめんなさい。
一人では、抱えるのがきつくって…。」
と書かれていました。

私も、一人で抱えるのがきつくて、この挽歌を書き続けています。

私たちも、娘のことで医師から同じようなことを言われた経験があります。
ジュンがまだ誕生日が来なかった時に、急性肺炎になったのです。
かかりつけの医師から大丈夫だといわれて帰宅したのですが、節子がやはりおかしいと救急車を呼んだおかげで、最悪の事態を避けることができました。
医師よりも、母親の目が正しかったのです。
それでも休日だったため、緊急病院に内科の医師がいなくて、医師が来るまではまさに地獄のような時間でした。
ようやくやってきた医師からは手遅れで命は保証できないと言われました。
そして、後はこの子の生命力に期待するしかないと言われたのです。
酸素吸入してもらいながらも、次第に生命の灯が弱くなっていくのが、目の前で実感できるのです。
私たちにできたのは、祈ることだけでした。
3日ほどしてからでしょうか、奇跡的に回復に向かいだしました。
私たちの祈りが通じたのです。

Nさんからのメールを読んで、その時のことを思い出しました。
そして、最近、ちょっと気になっていることも思い出しました。
それは、その時に、医師の言葉ではなく、人間の生命力を信じようという奇妙な信念が生まれてしまっていたことです。
節子と病院通いしていた頃、私は医師よりも節子の生命力と私たちの祈りの力のほうを信じていたような気がします。
節子は治る、節子を治す、そういう思いがどこかで私の視野を狭くしていた可能性があります。
その結果、今から思えば、病気への対応も、誠実さに欠けていたような気がします。
もっともっと真剣に節子を守るための努力をするべきでした。

それにしても、「命の保証はできない」という言葉は聞きたくない言葉です。
医師も、たぶん発したくない言葉でしょうね。
保証などできないのは当然なのです。
生命力も、祈りも、医療と同じで、万能ではありません。
それを前提にして、みんなが誠実に取り組むようになれば、医療の世界も少し変わるかもしれないような気がします。

思い出すたびに、反省点が浮かんできて、少しやりきれない気持ちになってしまいます。

■642:パウサニアス・ジャパン(2009年6月5日)
節子
今日、湯島にパウサニアス・ジャパンの店網さんと庵さんがやってきました。
2人とも大学時代の友人ですが、私が抜けたのと前後して、パウサニアス・ジャパンに入会したのです。

パウサニアス・ジャパンは、古代ギリシアをテーマにした集まりですが、この発足にはささやかながら節子が関係していることを思い出しました。
ギリシアのスニオン岬に行った時に、そのしばらく前の火災で植生が乱れていました。
その時に節子がここに日本のサクラを移植したらいいのにね、と言ったのです。
帰国後、たしかギリシア大使館に節子は手紙を書いたはずです。
何らかの理由でそれが無理だという返事が来たような記憶がありますが、あんまり覚えていません。
しかし、その話を友人に話したら、それが回りまわって、ギリシアの会を創りたい人がいるので会ってくれないかとある人からいわれたのです。
それでお会いしたのが、吉田さんと金田さんでした。
吉田さんは高校時代からの古代ギリシアファンでした。
会の名前は決まっていました。
パウサニアス・ジャパンです。
パウサニアスは古代ギリシアにはよくある人名で、「ギリシア案内記」を書き残した人の名前もパウサニアスです。
数日後に湯島で発起人会を開催し、パウサニアス・ジャパンが発足、気がついたら私が事務局長になっていました。
節子の関心は花なので、古代ギリシアの遺跡に行っても、そこに咲いている花のほうが遺跡よりも興味がありました。
ですから節子はパウサニアス・ジャパンには入会しませんでした。
そのため、スニオン岬にサクラの花を移植する話は全く途絶えてしまいました。

パウサニアス・ジャパンは古代ギリシア研究に取り組む人を応援するパトロネージに取り組んでいますが、その最初の派遣フェローは、「イリアス」を古代ギリシア語で朗誦する明神さんでした。
明神さんは、一度、パウサニアスの集まりで、イリアスを朗誦してくれたことがあります。
たしかその時には節子も参加したような気がします。
不思議な時間でした。

節子が発病したために、私は事務局長を辞めさせてもらいましたが、この会にはいろいろと思いがあります。
私のさまざまな活動には、こんなわけでいつも節子がどこかでつながっています。

■643:朝顔のタネを蒔きました(2009年6月6日)
節子
今日は朝顔を蒔きました。
私の部屋の窓の下のプランターに、です。
この挽歌の読者でもある根本さんが、自分の部屋の窓の下に蒔いた朝顔のタネの残りを送ってきてくれたのです。
根本さんは、咲いた朝顔の写真をたくさん送ってきてくれたので、節子の位牌壇の横にずっとかざっていました。
気づいた人は、なぜ朝顔なのか不思議に思ったでしょうね。
季節が来たらタネを蒔くのを忘れないようにと、写真を置いていたのですが、ずっと置いておくと意識の世界から外れてしまい、存在すらも見えなくなるものです。
完全に、朝顔のことを忘れていました。

今朝、なぜか急に根本さんのことを思い出しました。
根本さんから、最近メールも手紙も全く来ないことに気づいたのです。
そして、朝顔のタネのことも思い出したのです。

2つのプランターにタネを蒔きました。
節子の応援もなく私一人で朝顔を咲かせられるでしょうか。
いささかの心配はありますが、まあがんばってみます。

そういえば、明日から我孫子はあやめまつりです。
節子がいたら、一緒に出かけたでしょうが、ここにも深い思い出があり、今年も結局は行けないでしょう。
今年は、植木祭りにもさつき祭りにも行きませんでした。
どうも私がいろいろと地域の行事に参加していたのは、節子のおかげだったようです。
節子がいなくなってから、我孫子の市内のさまざまなところには、足が遠のいてしまっています。

いま我孫子の友人知人たちと新しいネットワーク組織を立ち上げようとしており、明日もその集まりをするのですが、そうした動きの支えになっているのは、節子の思いかもしれません。
節子は、我孫子を花のたくさんある、みんなが気持ちよく暮らせるまちにしたいと、願っていました。
その一歩は、自分の家の周りに花を咲かせることでした。
朝顔の花が、私の花そだてデビューの第1歩です。

■644:亡き人を覚えていることが家族の役割
(2009年6月7日)
いつものように早朝に目が覚めました。
見るでもなくいつもの習慣で、寝室にあるテレビのスイッチを入れました。
節子がいなくなってから、テレビを寝室に持ち込み、眠れない時にかけています。
必ずしも見るわけではないのですが、人の声がすると落ち着くのです。

「こころの時代」で、中野東禅さんという方がお話されていました。
心に響くお話で、ついつい聴き入ってしまいました。

中野さんは、竜宝寺というお寺のご住職で、仏教の立場から死生学を究めてきた方だそうです。
私が聴き入ったのは、中野さんご本人が死の淵に立たされた経験を語ったことと、その後、奥さんを見送ったお話があったからです。
そのせいか、お話の一つひとつが、とても共感できました。
節子を見送って以来、頭で考えたような「死生学」といわれるものに、どうも距離をおきたくなっていたのですが、中野さんの死生学の本なら読めそうだと思いました。

中野さんが話したなかで、一番、心に響いたのが、
「亡き人を覚えていることが家族の役割」
という言葉です。
なんでもない言葉なのですが、私には心の奥底まで響きます。
私がこの挽歌を書き続けようと思ったのも、まさにそうした思いからです。
誰かが覚えている限り、その人は生きつづけている、という思いがあります。
私にとっては、節子は今もなお生き続けていてほしいのです。
それが私の生きる拠り所だからです。

私が節子のことを忘れないで毎日思い続けていることは、
実は自分が生き続けていく支えがほしいからでもありますが、
節子にもずっと生き続けてほしいからでもあります。
同時に、娘たちにも友人知人にも、節子のことを覚えていてほしいという気持ちがあります。
それが自分たち本位の勝手な思いであることはわかってはいるのですが、
ついつい過剰に期待してしまうのです。
ですから思わぬ人から節子の名前を聞くと内心とてもうれしくなります。

生きている証を残したいと思う人は少なくありません。
後世に残るような作品や仕事をしたいという人は私の周りにも少なくありません。
しかし、私にはそうしたことは全く興味のないことでした。
むしろ、自分が生きていたことの証を残すというような思いには否定的でした。
人は、その生命と共に、忘れられるのがいいという思いがありました。
しかし、節子を見送った後、そう思っていない自分に気づいたわけです。
節子を忘れたくないということは、私も忘れてほしくないということにつながっているからです。

「亡き人を覚えていることが家族の役割」
この言葉の意味はとても大きいです。
家族の代わりに、友人や仲間という言葉を置いてもいいでしょう。
人の支え合いは、現世だけの話ではなく、生死を超えてあるものだとようやく気づきました。
きっと彼岸の節子も、現世の私を忘れることなく、覚えていてくれるでしょう。
そう思うと、心がやすまります。

■645:死者の眼差しを引き継ぐ(2009年6月8日)
昨日の挽歌を読んで、娘さんを見送った大浦さんからメールが来ました。
大浦さんも、同じ思いで娘さんの本(「あなたにあえてよかった」)を書き上げたのです。
以前、大浦さんから、あの本は娘が私に書かせたのだと書いてきてくれたことがあります。
それはよくわかったのですが、私自身の挽歌は、節子ではなく私が書いていると私は思ったのですが、今から思うと大浦さんの思いのほうがどうも正しかったようです。
大浦さんは、私よりも長く、愛する人との別れを体験していますから、きっと私よりも真実が見えるのでしょう。

大浦さんは、私が書いた昨日の挽歌を「節子さんをそっくり郁代に置き換えて読ませて頂いてよろしいでしょうか」と書いてきました。
この気持ちもよくわかります。
私も誰かの文章を読んでいて、いつの間にか登場する人を節子や自分に置き換えて読んでいることがあります。
自分ではない人の書いたものに、自分に気持ちが素直になじんでしまうことがあるのです。
生死は、個々の人間の思いを越えて、広がっていることの現われかもしれません。

ところで、昨日紹介した中野東禅さんは、「死者の眼差しを引き継ぐ」ことが大切だとお話になりました。
節子がいなくなってから、私も節子の眼差しをいつも思っていました。
節子の眼差しを感ずるのではなく、節子が発していた眼差しを心身に取り込むということです。
友人や知人が来たときにも、「節子だったらどうもてなすだろうか」を意識しました。
それだけでなく、私のすべての生き方において、節子の眼差しを私の眼差しに重ねようと思っています。
おそらくこの4年ほどの間に、私の生き方は微妙に変わったはずです。
それはもしかしたら、この眼差しのおかげかもしれません。
眼差しが変わると世界の風景は変わってきます。
どう変ったのかと問われると、明確には答えられないのですが、間違いなく私の世界観や人生観、とりわけ人を見る目は変わりました。
もちろん自分ではっきりと説明できるほどの変わり方ではありませんが、眼差しに戻ってくる世界が微妙に変わっているような気がするのです。

考えてみると、これはなにも節子を見送ってから始まったことではありません。
節子と生活を共にすると決めた時に、そして節子との生活を育て上げる中で、私たちの眼差しはお互いに交差し合ってきたのです。
眼差しを重ねることこそが、愛なのかもしれません。

昨日、時評編で「友愛の社会」について書きました。
私が「愛」を抽象論ではなく、実践論にできたのは、節子のおかげかもしれません。

話が拡散してしまいましたが、
私は今でも「節子の眼差し」を意識しながら、行動しています。
しかし、節子がやりたかったであろうことには、まだ着手できていませんが。

■646:「人間は。夫婦に後悔がなければ死ねる」(2009年6月9日)
もう一度だけ、中野さんの話について書かせてください。
実はまだ中野さんの本は読んでいないので、テレビで聞いた話です。

中野さんはがんで死に直面したことがあります。
その時に、いろいろと考えたそうですが、一番の気になったのは奥さんのことだったそうです。
誤解されそうな言い方ですが、そこで中野さんの辿りついた結論を聞けば、その意味がわかってもらえると思います。
中野さんはこういいました。
「人間は夫婦に後悔がなければ死ねる」

この言葉は、とても共感できるのですが、同時にとてもそんなことなどありえないとも思いました。
私の場合で考えてみましょう。
とても後悔がないとはいえませんが、それでもたしかに節子と愛し合えてきたことを考えるといつ終わっても「悔い」は残らない人生で、たぶん静かに自らの死を迎え入れられたような気がします。
もちろんやり残したことはたくさんありますし、私にとっては節子と会えなくなることは寂しいことですが、たぶん辛いという気持ちはさほど起きないかもしれません。
節子はどうだったでしょうか。
私との関係には後悔はなかったように思いますから、その点に関しては心安らかだったかもしれませんが、私の節子への思い入れの深さを知っていましたので、自分がいなくなった後の私のことは気にしていました。
さらにいえば、まだ結婚していない娘たちへの心配は大きかったと思います。

中野さんは「夫婦」と言っていますが、ここは「家族」と言ってもいいでしょう。
たしかに「家族に後悔がなければ」、人は心安らかに人生を終えられるはずです。
このことの意味は、とても大きいような気がします。

中野さんは「亡き人を覚えているのは家族の役割」と言いましたが、それは、「家族に後悔がなければ人は死ねる」という言葉とセットになっています。

最近、家族が壊れだしているように思いますが、それは心安らかに人生を終えられなくなるということかもしれません。
終えられない人生は、おそらく始められない人生でもあります。
家族とは何なのか、節子のおかげで、その意味をいろいろと考えさせてもらっています。
今となっては、もうあまり意味のないことかもしれないのですが。

■647:「家族は自己を滅する場」(2009年6月10日)
節子
昨日、家族に言及したので、今日は家族にことを少し書いてみます。
節子がいなくなってから、わが家の家族にもいろいろなことがありましたが、節子のいた頃と基本的には同じです。
少しさびしさはありますが、それぞれにまあ元気です。
そして、今もなお、節子は私たちにとってはとても大きな存在です。

私たちの家族は、常識的に考えると少し変わった家族だったような気がします。
私にとっては理想的な家族環境でしたが、娘たちや節子にとっては、必ずしもそうではなかったかもしれません。
むすめたちには、ちょっと申し訳ない気がしており、最近は反省しています。
私の家族観が少し、いやかなりおかしいのかもしれません。

いささか右翼の福音主義者のスティーヴン・カーターという人は、「家族とはわれわれが自己を滅する場」だといっていますが、彼の思想的な立場はともかく、この言葉には私は納得できます。
もっとも、この言葉からいわゆるドメスティック・バイオレンスのような危険なにおいがしてこないわけでもありません。

彼とは違ってバランス感覚があると思われる市民社会論者のマイケル・エドワーズは、著書「市民社会とは何か」の中で、次のように書いています。

家族とは、もっとも深いレベルで、他者のための犠牲とケアといった特徴をもつ最初の「市民社会」であり、またそうあるべきだといっても差し支えないだろう。信頼、協力、その他のより明確な政治的態度は皆、家庭内でのさまざまな関係の中で形成される。

そして、彼は、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係を形成し育むことは、礼儀正しい社会の建設に不可欠である」とも書いています。
こうした考えは、私の考えとほぼ同じです。
しかし、人は成長する存在ですから、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係」を固定化させることはできません。
娘たちの愛情は親にではなく、外の他者に向かわなければいけないのですが、どうもわが家ではそうならず、今もって2人の娘は結婚もせずに自宅にいます。
だからといって、親をとりわけ愛しているわけではなく、うざったい存在という思いが、年々高まっているように感じます。
にもかかわらず、なぜ結婚もせずにいるのか。
これは私たちが一番気にしていていたことですが、こればかりは親といえども何ともしがたい問題です。
私たちは決してむすめたちを溺愛していたわけではなく、むしろ夫婦の関係が強すぎて、娘たちへの配慮が行き届かなかった面のほうが強いように思います。
もしわが家に問題があるとすれば、娘を溺愛したのではなく、私が節子を愛しすぎたことかもしれません。
もっとも娘たちに言わせると、彼らが子どもの頃は、私は子育てを、したがって家庭のことをすべて節子にまかせっきりだったという思いを持っています。
そんなことは全くないように思いますし、節子が元気だったころ、節子もそうした娘たちの印象を否定していたのですが、子どもの記憶は正しいことが多いので、たぶん彼女たちの言い分が正しいのでしょう。
つまり、私が良き夫になったのは、そして節子に深く惚れ込みだしたのは、私が会社を辞めてからなのかもしれません。
それ以後の私たち夫婦は、おそらく誰にも負けずに愛し合う夫婦になっていたように思います。
いつも一心同体で、そこでは、間違いなく私は「自己を滅して」いました。
そういう場に支えられていたが故に、いまの私の生き方が育ってきているような気がします。
最近は、社会そのものが、私にとっては自己を滅する場」になってきています。
こうした生き方を目指したいと、21年前に勤めていた会社を辞めた時に、みんなに手紙を書いたのですが、それが実現できてきているわけです。

私の今の生き方は、節子のおかげで実現できたのです。
最近、そのことが実感できるようになってきています。
節子に感謝しなければいけません。
その礼を、直接、言葉で節子に聞かせられないのがとても残念です。

節子、私の思いは届いていますか。

■648:世界に寄りかかって生きること(2009年6月11日)
某研究所の研究員から子育て主夫に転じた若い友人が、松田道雄さんの「われらいかに死すべきか」という本を読んで考えさせられたというメールをもらいました。
研究者から主夫への転身はたぶん刺激的でしょう。
世界政治や国際経済などは、子育てや生活現場で起こっていることに比べたら、知識さえあれば対応できる退屈な話でしかありませんから。

松田道雄さんとは懐かしい名前です。
節子が子育ての指南書として読んでいたのが、松田さんの「育児の百科」でした。
核家族の中で、節子は子育てには苦労したと思います。
普通は、家元に帰って最初の子どもは産むのでしょうが、私がそれに反対したので、節子はほぼ一人で娘を育てたのです。
頼りは、松田さんのこの本でしたが、読書が好きではなかった節子が果たして読んでいたかどうかは疑問です。
私も読んだ記憶があまりありません。
私たちの娘たちが普通に育たなかったのは、そのせいかもしれません。
いやはや困ったものです。

今回紹介された本を、私も読んでみました。
年齢のせいでしょうか、私にはあんまり新鮮ではありませんでした。
知的な世界で活躍してきた研究者にとっては、新鮮なのかもしれません。
しかし、人間も70年近く生きていると、生活世界の実相はだいたい見えてくるものです。
そうした実感が文字になっていると、逆にとても空虚に感じてしまいます。
同世代が書いた人生論などは読むものではありません。

共感できるところはたくさんありましたが、面白かったのは言葉の端々から見えてくる松田さんの人生でした。
こうした文章からは、その人の生き様と心情が見えてきます。
たぶん、この挽歌にも私の人生が露出されているのでしょう。

本書を読んで、松田さんは私とは違う世界の人のように感じました。
自殺の自由を認めていることに、それは象徴されています。
最後の章は「晩年について」ですが、そこにもこんな文章がでてきます。
「自分以外の人間によりかかって生きることを、なるべく少なくすることが第一である」
私とは正反対の意見です。

そのことを一番よく知っていたのは、節子でした。
だれかに寄りかかっていないと生きていけないのが、私の本性であることを節子は見抜いていました。
それが節子の大きな心残りだったのです。
しかし、節子がいなくなった今、私は生き続けられているのはなぜでしょうか。
気がついてみたら、私が寄りかかっていたのは節子ではなく、すべての人たち、すべての生命だったのです。
もしかしたら、節子がそう仕向けていたのかもしれません。
私を支えてくれる世界の入り口に、節子がいただけなのです。
いいかえれば、節子が私を世界につなげてくれていたのです。
いえ、過去形ではなく、今もなお節子は私を世界につなげてくれているように思います。
生命は個々に完結していないことを、節子は身をもって教えてくれたのです。
だから個人には、自殺をする権利などあるはずもないこともです。

松田さんとは全く違う世界を、私はどうも生きているようです。

■649:ルソーの不安(2009年6月12日)
節子
今日はルソーの話です。
画家のルソーではなく、ジャン・ジャック・ルソーです。
といっても、社会契約などといった話ではありません。
ルソーが言語や文字を恐れていたという話です。
なぜ恐れていたかといえば、文字や言語は、生きている現実の死せる残骸だからだというのです。
これは今村仁司さんの本からの、ちょっと不正確な受け売りなのですが。

ルソーは、『言語起源論』という著者の中で次のように述べているそうです。

「欲望が大きくなり、商売が複雑になり、理性が拡大するにつれて、言語は性格を変える。それは一層正確になるが、情熱を失う。それは感情を観念に置き換える。それはもう心では語らず、理性で語る。まさにそのゆえにアクセントは消え去り、分節化が広がる。言語は正確で明瞭になるが、それだけ長たらしく、重く、冷たくなる」

ルソーのこの指摘に、私は全面的に賛成します。
全くその通りです。
節子は私よりも強くこの考えに共感するでしょう。
私が節子から批判されてきたのは、まさにこのことに通じています。
節子はいつも言っていました。
「言葉では必ず修に言い負かされる」
この言葉が含意しているのは、言葉の世界では修が正しいが、現実の世界では私が正しい、
そして、言葉の世界では生きられないよ、と言うことです。
私たちが、共にそう思えるようになったのは、たぶんお互いが50歳代になってからでしょう。
もっとも、その後も私は「言葉の世界」で節子を言い負かしていましたが。

この挽歌に関しては、娘たちはフィクションが含まれているといいます。
私にはそうした意図は全くありませんが、文字はすべてフィクションなのです。
文字や言葉にしてしまうと、現実とは違う物語になってしまうのです。
そのことは書いている私自身が時々そう感じます。
節子はもっと素敵な人だったとか、もっとダメな人だったとか、そういう気がすることは多いのですが、どうしてもそれは文字にならないのです。
真実にどのくらい迫れるかは文章力の問題ですが、そういう話ではありません。
文字にしてしまうと、どこかで私の中に生きている現実と離れていってしまうということです。
文字が一人歩きするといってもいいでしょう。

そのことは話していても起こります。
節子のことを話していると、いつの間にか私の感覚と違った節子を語っていることに気づくことがあるのです。
後で後悔することもあります。
後悔するのなら話さなければいいのですが、その時はなぜか心の中の節子と言葉で語ってしまう節子とが、私の中ではそれぞれに生きているのです。

文字で書かれた節子、言葉で語られた節子、そして私の心身に今尚生きている節子。
それらは微妙にずれているのですが、どれが本当の節子なのか、判断はできません。
だからルソーは文字や言葉を恐れたのです。
自分の心身を離れて、思考は一人歩きしだすのです。

私は、しかしたくさんの節子に出会えることを選びます。
だから、文字や言葉を恐れることなく、不安など一切無く、この挽歌を書き続けているのです。
私の心身を離れて、一人歩きする節子が育っていったら、どんなにうれしいことでしょう。
その節子に、もしかしたらいつか会えるかもしれないと思っただけで、心がわくわくしてきます。
きっとルソーほど私は賢くないのでしょう。
まあ、あんまり賢いとは思えない節子とお似合いだったのですから。

■650:夫育てがうまかった節子(2009年6月13日)
節子
ようやく地元の我孫子での活動仲間の組織が実現しそうです。
節子がいたら、いろいろと一緒にできたはずなのですが、そのシナリオは全く違うものになってしまいそうです。

新しい組織の名前は「コモンズ手賀沼」です。
「コモンズ」は、この20年来、私が取り組んできたテーマです。
しかし、私がむりやりつけた名称ではなく、ほかの方が付けてくれた名前です。
時代は、まさに「コモンズ」が流行語にさえなりだしています。
もっとも、その言葉に期待する意味は人によってかなり違ってはいますが。

私の「コモンズ」発想を、たぶん最初に理解してくれたのも節子でした。
20年以上前に私が「真心の時代」などと言い出して、みんなからひんしゅくをかっていた時も、節子は一番の理解者でした。
そこに実体を与えてくれる上でも、節子は力強い同志でした。
私がなにか新しいことを始めようとする時、いつも節子に相談しました。
相談と言うよりも、節子に話すことで、私の考えが整理され、そして何だか実現できるような気になれるのでした。
そして、どんな小さなことでも、私の思いが実現すると、節子は私と一緒に喜んでくれました。
それが私には最大のモチベーションになりました。
だから、私は新しいことに取り組むのがとても楽しかったのです。
節子は、子育てはうまくなかったかもしれませんが、夫育てはうまかったのかもしれません。

節子がいなくなった今、そのモチベーションがなくなってしまいました。
そのせいか、最近は何をやっても充実感がありません。
それどころか、こんなことをやっていていいんだろうかなどと思ってしまうことさえあります。
私がやっていることは、世間的に見れば、いずれもとても小さなことです。
それに、自分から何かをやるという生き方は、もうだいぶ前にやめてしまいましたので、ほとんどは誰かの話を聞いて、余計なお世話をするのがせいぜいです。
それもたいしたことはできません。
私と話しているうちに、元気がなかった人がちょっと元気になるというようなことが、私の最大の喜びなのです。
節子は、そのことをよく知っていました。
そして私と同じように、それを喜んでくれました。

地元の我孫子の活動はこれからどう展開するかわかりませんが、節子がいたらいろいろと楽しいことができたはずです。
でも、私一人ではあまりやろうという気にはなれないのです。
組織がほぼ立ち上がったので、興味は急速に冷えだしてしまっています。
困ったものです。

地元での活動は、それ以外の活動とは全く違い、節子の不在を思い出させます。
どこかで、節子との接点が必ず出てくるからです。
それに、メンバーにご夫妻で参加してくださっている人もいます。
その人たちと話していると、どうしても節子のことを思い出してしまいます。

地元の活動は、やめればよかったと思うことさえあるのです。
続けられるでしょうか。
最近ちょっと不安になってきています。
節子には笑われそうですが、それが正直な最近の気持ちです。
節子がいればこその、私の地域活動だったのかもしれません。

■651:手持ち無沙汰の1日を過ごそうと思います(2009年6月14日)
節子
先週はちょっとばたばたしてしまいました。
来週もまたいろいろと予定が込んでいるのですが、今日はのんびりと1日を過ごそうかと思います。

節子がいなくなってからの1年は、何かをするでもなく、しないでもなくの1年でした。
私にはほとんど記憶のない1年です。
昨年末から活動を持続的に再開しましたが、精神的に軌道に乗ってきたのは4月くらいからでしょうか。
4月は少し活動をしすぎてしまいましたが。

節子がいなくなってから、私がやることといえば、自分の活動だけです。
ですから、実は時間はタップリあります。
短期的には「時間破産」状況に陥りますが、まあ間に合わなければ、明日にのばせばいいだけの話です。
時間の取立てはありませんし、それほど大きな約束はしていませんので、どうにでもなります。
せいぜいが、間に合わなければ一晩徹夜すればいいだけの話です。

私のホームページを読んだ人が、私はきっと「多忙」なのだろうなと考えてくれますが、実のところは時間はタップリあるのです。
節子と一緒に過ごす時間がなくなったのが、その理由です。
ということは、節子が一緒にいた頃には、節子との時間がいかに多かったかということでもあります。
月に数回は、節子と一緒に旅行などに出かけていましたし、節子と一緒にお茶を飲んだり、夫婦喧嘩をしたり、いろいろとありました。
それが全くなくなったいま、私の時間はタップリあるわけです。

手持ち無沙汰の時さえ、あるのです。
節子がいたら、そんな時には声をかけて必ずどこかに出かけました。
私の人生の時間には、暇や退屈さは皆無だったのです。
節子も、いつも動いている人でしたから、暇や退屈さとは無縁の人でした。
私たちは、いつも何かをしていました。

節子がいなくなってから、はじめて私は「手持ち無沙汰」を体験しました。
そんな時には、庭の花を見たり、空の雲を見たりすればいいと思うのですが、それさえができないのです。
なにか無性に空虚な時間の前にさらされているようで、その時にはたとえ何をやっても「手持ち無沙汰」感は消えません。
奇妙に不安で、罪悪感さえあります。

今日はどんよりした曇り空です。
考えてみれば、やるべきことは山のように積まれています。
でもまあ、今日はそれを忘れて、「手持ち無沙汰」を嘆きながら1日を過ごそうと思っています。
半身を削がれた者にとっては、暇さえも堪能できる時間ではありません。

■652:3人の人からの電話(2009年6月15日)
節子
昨日はのんびりしていたのですが、それが相手に伝わったかのように、何人かの人から電話をもらいました。
新潟のKさんは、先月、奥様が緊急入院され大変だったのですが、少し落ち着かれたようです。
Kさんは、佐藤さんの気持ちが少しわかったような気がします、と言っていましたが、伴侶に何かあると男性は予想以上におたおたしてしまうものです。
Kさんの場合は、しかし奥様は元気に向かっていますので、もう大丈夫でしょう。
夫婦には、時にはちょっとした難事が押し寄せてくるのがいいかもしれません。
そうすれば、お互いの大切さに気づくはずですから。

やはり節子がよく知っているTさんからも電話がありました。
Tさんもいろいろと身体に爆弾を抱えている状況なのですが、いまは元気です。
Tさんはこの挽歌を読んでくれていますが、
このブログを読むと、どうも私が貧乏のように思えるようで、私に会うと、お金に困ったら言ってくれといつもいうのです。
ありがたいお言葉ですが、実は私はお金には困っていないのです。
人生をきちんと生きてくれば、必要になればお金はどこかから回ってくるものなのです。
それが本当かどうか、節子は少し疑っていましたが、Tさんの言葉を聞かせたいものです。
Tさんには、私に回すお金があるんだったら、奥さんに指輪でも買ってやったらと逆提案しましたが、Tさんももっと奥さんを素直に大事にしなければいけません。
その気になっても、それができなくなった立場からすると、もっともっとみんな伴侶を大事にしなければいけません。

Nさんからの電話はちょっとした相談でした。
私に相談しても、答が出てくるとはNさんも思っていないでしょうが、まあ話をしているうちにいつもNさんは自分で答を見つけるのです。
その代わり時間は、それなりにかかります。
しかし、一番の相談相手は、いつも伴侶なのです。
友人ではありません。
そのことをいつか教えなければいけません。

電話ではないですが、Iさんからは久しぶりに彼が書いた文章が届きました。
久しくご無沙汰でしたが、活動は順調のようでうれしいです。
Iさんも、決して体調はよくないのです。
Iさんも仕事をほどほどに奥さんとの時間をもっと大事にすべきですが、大きなミッションに突き動かされているので、今は何を言っても聞き届けられないでしょう。
困ったものです。

とまあ、そんなこんなで、手持ち無沙汰ではない1日を過ごしました。
節子のお墓参りにも、ちゃんと庭の花を持って行ってきました。

今日はいろんな人が湯島にやってくるので、湯島で1日を過ごそうと思います。

■653:見送るよりも見送られる方になりたかった(2009年6月16日)
節子
画家のMさんからのメールです。
訃報でした。

先週大阪の叔母が亡くなりました。
脳溢血でしたが、同居家族がいなかったため、発見が2日後でした。
大阪の個展のときは常宿にさせていただき、とても仲良かったので、大変なショックでした。
人生はいつ終わりが来るかわからないから、なるべく悔いのないように周りの人と仲良くやりたいことはやるようにしようと思いました。

一人で死んでいった叔母を思うと、佐藤さんの奥様はお若かったとはいえ、ご家族に囲まれお幸せでした。

私の最後はどうだろうかと、ふと思いました。
はっきりわかっていることは、見送ってくれる人がもしいたとしても、その中に節子はいないことです。
節子がいなければ、たとえ世界中の人に囲まれていたとしても、幸せではありません。
運よく娘たちがいるかもしれませんが、私が見送ってもらいたいのは節子でした。
どんなに愛していようとも、娘たちには節子の代わりは果たせないのです。
それを思うと、少しだけ死が憂鬱になります。

しかし、ものは考えようです。
見送る側には節子はいませんが、迎えてくれる側には節子はいるかもしれません。
そう思うと、死はそれほど悪いものでもないような気がしてきます。
昨今の仏教の教えには反しますが、人は一人で生きているのではない、と私は思っています。
もしそうであれば、人は一人では死ねないのです。
いつも誰かに見守られているはずです。
いつも誰かと共にある、と言ってもいいかもしれません。

これは、私の場合は、節子を見送った後から大きくなってきた考え、いや、感覚です。
しかし、実際には、家族に見守られたいと思うのは、人の常です。
私の母は孫である私の娘が病床にたどりついた途端に息を引き取りました。
その経験から、人は自分の最後の時間を自分で決められるのだと知りました。
節子は、私たち3人が現実を受け容れられるまで、がんばって生き続けてくれました。
節子がどれほど家族思いだったか、よくわかります。

人生はいつ終わりが来るかわかりません。
しかし、本人にははっきりとわかるのかもしれません。
節子のことを思い出すと、そう思えてなりません。

節子が、家族に囲まれて幸せだったかどうか確信はありませんが、少なくとも私は節子をしっかりと見送れて幸せでした。
しかし、見送るよりも見送られる方になりたかったと、今でも心底思っています。

■654:パソコンを壊した節子、パソコンを直した節子(2009年6月17日)
節子
大事件です。
私が使っているメインのパソコンがフリーズしてしまいました。
最近、作成したデータはもしかしたら、救出不能です。
こういう時に限って、バックアップをこの半年近くしていなかったのです。
メーカーの人と電話で1時間以上話しながら、いろいろとトライし、メーカーの人がデータは諦めて修理に出してくださいとさじを投げたのですが。
幸いに大きな仕事には、いま取り組んでいないので、誰かに迷惑をかけることはありませんが、いささかショックではあります。

幸いにパソコンは複数台使っていますので、インターネットやメールは使えるのですが、すべてのデータを保管していたパソコンのダウンは被害甚大です。
そんなわけで今日は、その修復に追われ、挽歌どころではありません。
パソコンと私とどっちが大事なのと、節子に言われそうですね。

そういえば節子が元気だった時にも同じようなことがありました。
そして、そんな皮肉を言われたことがあったような気がします。
節子は、私がパソコンに向かう時間が多すぎるといつも嘆いていました。
もしかすると、今回のフリーズ事件は節子の呪いかもしれません。
外出から戻っても、パソコンは動こうとしないので、そんなことを思いながら、フリーズしたパソコンのキーボードを強くたたいてしまいました。
そうしたら、なんとパソコンが動き出したのです。
おかげで、データをすぐにメモリーで他のパソコンに移すことができました。
メール関係は救えないかもしれませんが、まあそれは仕方がありません。
パソコンはとても不安定で、使えそうもありませんが、リカバリー処理すれば大丈夫かもしれません。
ホッとしました。

節子に祈ったおかげでかもしれません。
節子の呪いだとか節子のおかげだとか、いかにも勝手な話ですが、
まあそんなわけで、今もって、私の喜怒哀楽には節子が影響しているのです。
神様、仏様、節子様なのです。

ありがとう、節子さん。

■655:ヘシコと栗むしきんつば(2009年6月18日)
節子
パソコンはやはり直りませんでした。
今年になってパソコンを2台ダメにしてしまいました。
くよくよしていても仕方がないので、今日はまったく別の話題です。

昨日、岐阜の佐々木さんがやってきました。
お土産に「栗むしきんつば」を持ってきてくれました。
私は苦手ですが、節子は好きでした。
今日は東尋坊の茂さんと川越さんが来たのですが、お土産が「へしこ」でした。
これまた、私は苦手ですが、節子は好きでした。

まあそれだけの話なのですが、私には苦手の、しかし節子の好物が、偶然にも続いたのです。
もちろんみなさん、節子を意識したわけでは全くありません。
まさに偶然なのです。

とても不思議なのは、節子がいた時に節子の好物をもらってもさほどうれしくありませんでした。
何しろ私はダメなのですから。
しかし、節子がいなくなってからは、私の好物をもらうよりも、節子の好物をもらったほうがなんだかうれしいのです。
食べられないので、結局はどこかに回ってしまうこともあるのですが、それでも一晩、節子の位牌の前が賑わうのがうれしいわけです。
愛する人を失った者は、そんなものなのです。

明日は少し落ち着けそうですので、ヘシコときんつばにチャレンジしてみましょうか。
節子のためにがんばってみます。
まあ、それ以上にパソコンの修復にがんばらないといけないのですが。

挽歌に穴をあけたくないので、今日もまた少し無理をして書きました。
メインのパソコンは壊れたままです。
おかげでいつもの倍の時間がかかります。
困ったものです。

■656:お医者さんの友達がいたらなあ(2009年6月19日)
節子
今日もパソコン修復に追われた1日でした。
この騒動は、あっけない幕切れになってしまいました。
この挽歌の読者でもある坂谷さんが、救いの手を差し伸べてくれたのです。
ホームページのほうに書くつもりですが、わざわざわが家まで来て直してくれたのです。
今日1日、部品を買いに走り回っていたのが全く無意味でした。
むすめたちにも迷惑をかけてしまいました。

ほとんど何も分からずに、壊れたパソコン(電気製品)を直そうとして分解してしまうのが、私のやりかたです。
こうしてこれまで壊してきたものは少なくありません。
今回もパソコンを分解してしまいました。
危なく壊すところでしたが、パソコンの構造をよく知っている坂谷さんは、そんな無駄なことはせずに、要所を押さえながら見事に修復したのです。

お医者さんの友達がいたらなあ、と節子が言っていたのを思い出しました。
私もそう思いました。
医師の知人はいますが、医師の友人はいなかったのです。

パソコンのことをよく知らずに、直そうとしてしまう私の行動と、
病気や医学のことをよく知らずに、直そうとした私の行動が、重なってしまいました。
そうしたら疲れがドッと出てきてしまったのです。
節子への不憫さが募ってしまい、いささか滅入ってしまいました。

パソコンが無事修復できて、一瞬、とても元気が出たのですが、
坂谷さんが帰ったら、元気がうせてしまいました。

節子
医者でなくてわるかったね。
来世では医師になって、同じ過ちは繰り返さないようにします。
でも私にはたぶん無理な職業でしょう。
なにしろ血を見ただけで動けなくなるほど気が弱いですから。
来世では、この性格は変わるのでしょうか。

■657:ヤマホロシ(2009年6月20日)
庭のヤマホロシがよく咲いています。
ヤマホロシについては、一度書いたことがあります

元気な花です。
節子も私も好きな花です。
そのヤマホロシがどんどん広がって、元気に咲いています。
この花は元気もよく挿木も簡単ですので、いろいろの方に差し上げました。
きっと今頃、いろんなところで咲いていることと思います。

ヤマホロシは、山を一面に覆ってしまうほどに元気なつる草ですが、花はとても静かでやさしいです。
節子が一時期、この花と同じ色調のニットシャツを着ていたせいか、この花を見ると何となく節子を思いだすのです。

ヤマホロシが満開になるのを待っていたように、今朝、ムクゲが咲きました。
これも私たちが好きな花です。
とても素直な花で、しかも1日しか咲いていません。
私は白いムクゲが好きでしたが、節子はピンクのムクゲが好きでした。
いま咲いているのは、節子がこだわっていたちょっとピンクのムクゲです。

花の色といえば、昨日、娘が節子に供えてくれたのが、アロエの花です。
節子がどこかでさんご色のアロエの花を見つけて、それと同じものを買ってきたのだそうですが、翌年、咲いたのはさんご色ではなく普通の色のアロエだったようです。
私はさんご色のアロエを見たことはりませんが、ヤマホロシやムクゲと違って、私好みではありません。

節子はいろいろなところから、いろいろな花を呼びよせてくれていました。
おかげで、私もその恩恵をたくさん受けています。

■658:両親の法事(2009年6月21日)
今日は私の両親の13回忌と23回忌でした。
私の両親は、いずれも節子が看病し、見送ってくれました。
両親との同居は、節子が申し出てくれたのです。
途中からの同居だったので、節子は苦労したのではないかと思いますが、節子は一言も愚痴をこぼしたことはありませんでした。
両親も、節子との関係はとてもよく、第三者が見たら節子の実の親のように感じたかもしれません。
むしろ私と両親の関係は、いささか「他人行儀」だったと節子も私たちの娘たちも感じていたようです。
おばあちゃんはお父さんに敬語を使っていたよ、と娘たちは今でも冷やかしますが、私も両親には、それなりの敬語を使っていました。

しかし、その反動でしょうか、私は自分の娘たちには友達付き合いを呼びかけたのです。
なぜそうした矛盾した行動をとったのか、自分でもわからないのですが、今から考えるととても不思議です。

両親は、私以上に、節子に心から感謝していました。
特に私の母親にとっては、節子は自慢の「嫁」だったのです。

両親と同居した時に、私が決めたことがあります。
それは、もし両親と節子の意見が分かれた時、私は無条件に節子の側に立つ、ということです。
幸いに大きな問題ではそういう状況は起こりませんでしたが、いつも節子の側で言動していたことだけは自信があります。
両親は少し不満だったかもしれませんが、そのおかげで、節子は誠心誠意、私の両親に尽くしてくれたのですから、結局は満足していたはずです。

節子は、自分から望んで、私の両親と同じ墓に入ることを希望しました。
ですから今日の供養にも、節子は向こう側で参加していたはずです。
ご住職のお経を聴いていて、それを感じました。
生前の節子は、法事ではこうしたことの不得手な私を支えてくれていたのです。
隣にいないのが嘘のようです。

今年は節子も3回忌です。
3回忌は、命日当日の9月3日にやろうと思います。
これまで法事は親族だけでお寺でやっていましたが、3回忌は気楽なかたちで、ホームパーティ的に楽しくやろうかと思い出しています。
まあ、節子ともう少し相談するつもりですが。

■659:「花よりきれいなマリア」(2009年6月22日)
一昨日、庭の花のことを書き:ましたが、節子のおかげで、わが家の庭にはいつも花が咲いています。
とてもきれいで、気持ちを和ませてくれるのですが、今日は「花よりきれいなマリア」の話です。

私が節子に出会ったのは1964年でした。
今から45年ほど前のことです。
当時、流行ってはいませんでしたが、時々ラジオから流れていた歌に「花よりきれいなマリア」という歌詞で始まる歌がありました。
たしか海外の歌で、しかし日本語に訳されて、日本人の歌手が歌っていました。
私が節子に恋をしだした頃の話です。

なぜか私はこの歌がとても好きでした。
当時は独身寮に入居していましたが、よく歌っていたような気がします。
今の私はカラオケが大の苦手ですが、子どもの頃はクラスを代表して、それなりにみんなの前でも歌ったこともあるのです。
大学時代にはコーラスグループにも入部したことがあります。
もっともいつもながらたぶん1か月くらいで辞めたと思いますが。
何事も続かないのが私の性格なのです。
ですから、この挽歌は例外中の例外です。
なにしろ節子に約束したのですから、やめるわけにはいきません。

さて「花よりきれいなマリア」です。
なぜか節子がいなくなってから、時々、歌っているのです。
もっとも、歌詞も曲も正確に思い出せません。
たしか、「花よりきれいなマリア 花よりやさしいマリア でもそんなことなど気がつきもせず 今日も街を歩いている」とまあ、そんな感じの歌なのですが。
最近、気になりだして、この歌に関する情報をネットで調べてみましたが、見つかりません。
読者の方で、この歌をご存知の方はいないでしょうか。
それがわかったからといって、どうということはないのですが、わからないとなると知りたくなるのは、人の常です。
ご存知の方がいたら教えてください。
コーヒーをご馳走します。

マリアはともかく、節子は花よりもきれいで、やさしいでしょうか。
幸いのことに、あまりきれいでない花もありますし、やさしくない花もありますから、この問いかけには誰であろうといかようにも答えられます。
要は、その人の主観の問題なのです。
いいかえれば、花はそれほど多様で多彩なのです。

女性も同じです。
たくさん女性がいるのに、なんで私にそんなに一途なの、と節子は時々、私に訊きました。
私にさえわからない難問ですが、人の関係とはとても深遠で、難解なものです。
なぜ、これほどに節子なのか。
節子よりもきれいでやさしい花がたくさんあるように、節子よりも魅力的な女性もたくさんいました。
他に好きになった女性がいなかったわけではありません。
しかし、私には、なぜか節子でした。

私には、「花よりきれいなマリア」と節子が重なっていたのです。
この歌は、本当に実在したのでしょうか。
節子がよく言っていました。
修は現実と夢の世界がつながっているので、どこまで信じていいかわからない、と。

■660:生きることと生きる意志(2009年6月23日)
カナダの極北に住むヘヤー・インディアンと一緒に生活をしたことのある文化人類学者の原ひろ子さんは、その著書「子どもの文化人類学」のなかで、その地域の病院の医師の言葉を紹介しています。

「ヘヤー・インディアソは、ちょっとしたことで、すぐ生きる意欲とか執着心とかを失ってしまいます。白人なら絶対死なないような軽度のやけどや肺炎でも、コロリといくんですからね」。

今から20年ほど前に読んだのですが、そのことがずっと気になっていました。
何の本で読んだのか思い出せなかったのですが、今日、その本を書棚から見つけて、この文章を探し当てました。
私は、「ヘヤー・インディアンは生きる意欲を失ったら、自ら生命の灯を消すことができる」と記憶していましたので、かなり意味合いは違いますが、生きるということは生きる意欲に支えられているという点ではつながっています。

この文章が気になりだしたのは、節子の闘病の最後の頃です。
もし、私や娘たちがいなかったら、節子はたぶん1か月早く旅立っていたはずです。
後から思うと、そのことがよくわかります。
もしかしたら、2年前の8月の節子は、彼岸と此岸を往来していたのかもしれません。
そのことに関しては、かなり心当たりがあるのです。

先日、テレビを見ていたら、生活保護を受けながら3人の子どもを育てている母子家庭の母親が出てきました。
彼女は、「もし子どもたちがいなければ生きてはいないだろう」というようなことを話していました。
言葉はちょっと違ったと思いますが、私にはそう聞こえました。
その言葉が、20年前に読んだ本のことを思い出させ、書棚を探し出したのです。

私も、もし2人の娘がいなかったら、ヘヤー・インディアンのように、きっと生命の灯が消えていたような気がします。
それができるかどうかには、あまり自信はありませんが、それもまた豊かな人生だったはずです。

68歳という年齢のせいでしょうか、節子との40年間がとても豊かだったせいでしょうか。あるいは今の社会に、そしてそこに生きている人たちに、心底辟易しているからでしょうか。
私自身は今生き続けることにはほとんど執着はありませんが、2人の娘のことを考えると、そう勝手に、自分の人生を止めるわけにもいきません。
彼らはまだ結婚していないので、親としての責務を果たしていないという思いがあります。
娘にとって、母親であればともかく、父親はあんまりプラスの存在価値はないような気もしますが、それでもいたほうが彼女たちも心強いだろうと思っているわけです。

節子が元気だったころ、人は何かのためではなく、誰かのために生きていると書いたことがあります。
私の拠り所だった節子がいなくなったのに、いまなお、いき続けている自分が、とても不思議に思えることがあるのです。
特に、今日のように、とてもさわやかな気持ちのいい日には。

■661:節子との対面が1日のはじまり(2009年6月24日)
先日、パソコンを修理してくれた坂谷さんがメールをくれました。

パソコンのデスクトップの奥様を拝見して、むしろ、私のためにご自宅に奥様が誘われたような気がしています。

私のパソコンの壁紙には、千畳敷カールに行った時の、節子の写真を使っているのです。
これが最後のハイキングでしたが、節子は元気に千畳敷カールを歩いて一巡したのです。
かなり体力は落ちていたと思いますが、とても元気に、歩きました。
空が見事な青さで、遠くに富士山まで見えたのです。
あの空の青さは、今でもはっきりと覚えています。

その日からちょうど1年目が、節子の命日になりました。
思ってもいなかったことでした。
あの時も、予兆はあったのですが、私はそれよりも目の前にいる節子の元気さしか見ていなかったのです。
人間は、自分に都合のいいものしか見ないものです。
つくづくそう思います。
もっと私に誠意があれば、そして賢さがあったならば、節子はパソコンにではなくて、隣の部屋に今でもいたかもしれません。
私も節子も、あまり賢くはなかったのです。

いつもパソコンを開けると、その時の節子が笑いかけてきます。
私は起きると先ず、パソコンを開き、メールチェックをします。
ですから、私の1日はその節子に話しかけることから始まります。

坂谷さんには、私のパソコン画面を見られてしまったわけです。
きっとパソコン周りにあった節子のほかの写真も見られたことでしょう。
私には、家族の写真をデスクに置く習慣はありませんでした。
節子がいなくなってからは、しかし、そういう文化が芽生えました。
枕元にも、デスクにも、笑顔の節子がいるようになりました。

節子は、決して私の愚かさをなじるようなことはしませんが、私自身は慙愧の念から抜けられません。

今日は雨です。
大雨のようなので、出かけるのをやめて、今日は自宅で仕事をすることにしました。

■662:愛する人を失うことで試される自分の人間性(2009年6月25日)
節子
昨日はいろんな人から電話がありました。
私が自宅にいるということが伝わったのでしょうか。
前にもこんなことがあったような気がします。

深刻な相談もありましたが、うれしい電話もありました。
Kさんからの電話で、心配していた大腸がんは内視鏡でうまく摘出できたという報告でした。
Kさんは節子のことも、そして私のこともとても気にしてくださっていた方です。
元気そのものだったKさんから、がんの話を聞いた時は驚きましたが、うまく摘出できてホッとしました。
退院してすぐ電話してきてくださったのです。
朗報は人を元気にしてくれます。
今日、Kさんに会うつもりですが、ほんとうによかったです。

Kさんは、節子が闘病中、ずっと祈っていてくださった方です。
そのお返しに、毎朝の節子への読経の後、Kさんの安寧を祈りました。
節子も祈ってくれていたでしょう。
自分がどんなに辛い時でも、節子は他者への思いやりを失わない人でした。
私が節子に惚れきっているのは、そうした節子を知っているからです。

Kさんの祈りには報えられませんでしたが、Kさんへの祈りは報われました。
感謝しなければいけません。

もっとも、祈りは、祈ることそれ自体が目的ですから、報われるとか報われないとか、ということはありません。
祈りはいつも報われているのです。
節子への、たくさんの人たちの祈りは、必ずや節子に伝わっているはずです。
節子は、そうしたたくさんの「祈り」に支えられて、彼岸へと旅立ったのです。

Kさんの節子への祈りが報われなかったという表現は撤回します。
Kさんだけではなく、たくさんの人たちが、それも思いもかけぬ人が、節子のために祈ってくれたことを私は知っています。
もちろん、すべての人が祈ってくれたわけでもありません。
不思議なことに、そうしたことは当事者になると、何となくわかるのです。
言い換えれば、言葉の後ろが見えてくるということです。
それは、とてもいやなことです。
被害妄想は、そういう形で始まっていくのでしょう。
そういう自己嫌悪に陥るようなことを何回か味わっています。

愛する人を失うことは、まさに自分の人間性が試されることでもあるのです。
それに耐えていくことは、それなりに辛いことでもあります。
そんなわけで、私は時々、落ち込んでしまうわけです。
困ったものです。

■663:自分らしい老い方(2009年6月26日)
節子
最近、元気が吸い取られてしまいそうな話がいろいろと耳に入ってきます。
そのうちの半分は、社会状況や本人の行動に原因を求められるのですが、半分は老いに関連しています。
人は「老い」と共に、さまざまな問題を抱え込んでいくことがよくわかります。
しかし、その老いをしっかりと自覚して人生設計を立てることは意外と難しいようです。
社会的に華やかに生きている人ほど、難しいのかもしれません。

人の生き方は、当然、歳とともに変化しますが、ある段階に到達して、それなりの生き方が実現すると、それがずっと持続していくような錯覚に陥りがちです。
だれも、自らの老いや衰えは認めたくないのです。
しかし、老いは例外なくやってきますし、それに伴って世間からの見方も変わっていきます。
自ずと生き方も仕事も変わらざるを得ません。
同じ仕事を続けていたいと思っても、それはよほどの場合以外は難しいでしょう。
いまなお現役を続けている森光子さんは、例外中の例外ですが、しかし、私には森さんのような生き方は、全く共感できません。

いずれにしろ、歳とともに、人は生き方を変えざるを得ないのです。
それを考えずに、これまでの延長で生きているといろいろと不都合が起こりかねません。
こんなことを書いたのは、今日、友人から、節子も知っている、私たちよりも年上のご夫妻が最近、いろいろと大変だという電話をもらったからです。
まさかそんなと思うような話ですが、冷静に考えると、むしろ当然とさえ思えます。

こういう電話は、今日に限ったことではありません。
実は最近よくこうした話が耳に入ってくるのです。
その都度、改めて自らの老いとともに、人の「老い方」の難しさを感じます。

老いは自分だけではなく、当然に周辺の老いも伴っています。
親の介護のために人生を変えた友人は何人かいますし、私のように伴侶を失って生き方が変わることもあります。
老いは、誰にもやってきますから、同じように生き続けることは無理なのです。
しかし、その当然のことを、人はなかなか気づきません。
私は、全くと言っていいほど、そんなことは考えていませんでした。
私の人生設計は、常に前に向かって進む、発展系だったのです。
今にして思えば、なんと馬鹿げた生き方だったでしょうか。

昨日と同じような生き方ができることが、どれほど幸せなことなのか、私は節子に教えてもらいましたが、同時に、それは決して続かない夢なのだということも教えられました。
しかし、そうしたことに気づかない人は、決して少なくありません。
そこから始まる不幸が、私の周りにも少なくないのです。

老いを意識しながら、自分らしい老い方ができれば、豊かな人生になるのでしょう。
節子と一緒なら、楽しい老い方ができたのでしょうが、一人になってしまった今は、賢い老い方しかできないのが、少し残念です。
賢い老い方ができるかどうかも、いささかの不安はありますが。

■664:人生の長さ(2009年6月27日)
昨日、ちょうど50歳を迎えた人が、こう言いました。

私の父母はいずれも50代でなくなりました。だから私も、ともかく50代を悔いのないように過ごすように、できること、やりたいことは、先に延ばさずにやろうと思います。

その言葉を聞いて、思い出したのが、マレーシァ出身のチョンさんの言葉です。

佐藤さん
マレーシァでは日本と違って平均寿命が短いんです。
だから日本人ほど人生はゆっくりできないのです。

そのチョンさんも、もう40代です。
今年の初めに日本に来た時に会ったことは書きましたが、この言葉を聴いたのは節子がまだ元気なころでした。
その時から、心にずっと引っかかっていた言葉です。

人の人生の長さには限りがあります。
しかし、それを意識して生きることは、なかなかできることではありません。
最近、私は少しだけ意識するようになりましたが、その意識と日々の行動は必ずしもつながっていません。
本当につながっていたら、今のような時間の使い方はしないでしょう。

そう思う一方で、意識していればこそ、今のような時間の使い方になっているのかもしれないとも思います。
限られた時間を、急いで生きるよりも、限られた時間を無限にゆっくりと生きるほうがいいような気もします。

節子が彼岸に行ったのは62歳でした。
若すぎる、と多くの人は言ってくれました。
節子も、もう少し此岸にいたいと思っていました。
もちろん、私にとってもあまりに早すぎて、その事実が理解できないほどでした。

しかし、考えようでは、人生は「時間の長さ」ではないのかもしれません。
適切な表現が思い浮かばないのですが、「生きた意味の深さ」と言ってもいいかもしれません。
短い人生で、大きなことを成し遂げた人もいますが、そういう意味ではありません。
あくまでも、その人にとっての「人生の意味」です。
人は必ず、ある意味をもって、この世に生まれてきます。
どんな人にも、どんな人生にも、意味があります。
その意味に気づかずに、生きている人が少なくないように思いますが、
節子はその意味を見つけていたような気がします。
なぜそう思うかというと、節子は厳しい闘病の時ですら、基本的にはとても肯定的に生きていたからです。
そして、「とてもいい人生だった」と言ってくれていたからです。

いまの人生を、肯定的に、素直に生きる。
私は、残念ながら、まだその心境には達せずにいますが、意識だけはそう思って生きています。
節子が教えてくれた、一番大きなことかもしれません。

■665:「ともに白髪のはえるまで」(2009年6月28日)
私たちは、いわゆる「職場結婚」でした。
職場の仲間たちが色紙を書いてくれました。
そこに、私と同年齢の山本さんが、「ともに白髪のはえるまで」と書いてくれました。
イラストまでついています。
それは、私たちの合い言葉になりましたが、私がいささか早く白髪になってしまったので、もしかしたら節子が勘違いして、もう目標は達成できたと思ってしまったのかもしれません。

昨日、人生の長さについて書いていて、この色紙を思い出しました。
もう45年ほども前のものなので、色紙の色が変色していますが、久しぶりのそれぞれのメッセージを読んでみました。
すでに亡くなってしまった人が3人もいますが、その一人ひとりにたくさんの思い出があります。
思い出は語り合える人がいれば楽しいでしょうが、一人ではいささかの辛さがあります。
健在の方とは幸いなことにすべて今もお付き合いがあります。
一人を除いてはみんな滋賀県にお住まいですので、会う機会は少ないのですが、みんな私たちの結婚を祝福してくれた仲間です。
節子がいたら、この人たちを訪ね歩く旅もできたでしょうが、残念です。

私は滋賀の工場で4年ほど過ごしました。
私にはすべてが新鮮で、そこでの体験が私の人生に与えた影響はとても大きいです。
労務関係の職場に配属されましたが、「おまえは思想的に問題がある」と言われて、お客様扱いされていたこともあります。
当時の私は少し「跳んでいました」ので、上司にとっては扱いにくくて頼りない存在だったでしょう。
多くの人に迷惑をかけましたし、お世話になりました。
当時の課長は、今でも私のことを「おさむちゃん」と呼びますが、きっと頼りない新人だったのです。

その「おさむちゃん」も、今では白髪の老人です。
しかし、その色紙を見ていると、当時のことが鮮明に思い出されます。
あの頃の私は、「頭」で生きていたのでしょう。
そんな時に出会ったのが、節子でした。
まさか私と節子が結婚するとは誰も思ってもいなかったでしょう。
節子は生真面目で、現実的な人でしたから、私には合うはずもなかったのです。
とらえどころのない私に、節子はきっと振りまわれ、気がついたら結婚していたのではないかと思います。

節子は幸せだっただろうか。
色紙を見ながら、そんなことを考えていたら、また涙が出てきてしまいました。
いつになっても、節子の呪縛から解放されません。
困ったものです。

■666:姿は見えないけれどサワガニがきっといるのです(2009年6月29日)
節子
私の還暦祝いに、家族みんなでつくってくれた小さなビオトープがなかなか言い雰囲気になってきました。
自然らしくなってきたという意味です。
私は、どちらかというと手入れされた庭よりも、自然のままの雰囲気が好きなのですが、今の状況はとても気にいっているのです。
とても小さな池がふたつあり、めだかや金魚、エビが棲息しています。
タナゴもいます。
一時、ゲンゴロウやミズスマシなどもやってきていましたが、最近は見かけません。
草が覆い茂ったせいかもしれません。
写真では単なる雑草の塊にしか見えないかもしれませんが、私にはとても思いのある空間です。

ここに、実はサワガニが棲息している可能性があります。
昨年秋に放したのですが、残念ながらその後、姿を見かけませんが、いまのうっそうとした雰囲気であれば、仮に棲息していたとしても、たぶん見つからないでしょう。
昨年までは石をどけたりして時々サワガニ探しをしていましたが、今年からやめました。
なぜならば、見つけるかどうかよりも、そこに私の好きなサワガニが棲んでいると思っていることのほうがいいと思い出したのです。
今年はまだサワガニを放してはいないのですが、夏にまたどこかで探してきたいと思っています。
節子がいたら付き合ってくれるのですが、現実主義者の娘たちには頼めませんし、一人で行くのは私のスタイルではないのです。
ショップで購入するのもいいのですが、最近、あまり見かけません。
まあショップには滅多に行かないのですが。

サワガニの姿は見えなくても、そこにいると思えばうれしくなる。
節子の姿は見えなくても、隣にいると思えば幸せになる。
こじつけのようですが、そんなことなのかもしれません。

さて、今日も節子が一緒だと思ってオフィスに出かけましょう。
今日は、3年以上会っていなかった人が2人、会いたいと言ってきたのです。
一人はビジネスの世界の人、一人はまちづくりの世界の人です。
長いこと音信がなかった人が、なぜか会いたいとこの頃、言ってくることが多いのです。
不思議です。

■667:夫婦が仲良しならば社会は平安になります。きっと(2009年6月30日)
節子
最近またちょっと自己嫌悪に陥っています。
相変わらず精神的に不安定なのかもしれません。
それにしても、毎日、どうしてこんなにいろんなことがあるのでしょうか。
自分ではあまり気づかないのですが、それがストレスになって溜まっていることが最近少しわかってきました。

私は、自分はストレスのたまらないタイプの人間だとずっと思いこんでいましたし、事実、あまりストレスを感じたことがなかったのですが、この頃、どうもだれかに「八つ当たり」している自分に気づくことがあるのです。
八つ当たりされた相手が、それに気づいていないことがほとんどだと思いますが、八つ当たりした後の自分がとても嫌になります。

今日もそうしたことがあり、今も何だか気分がすぐれません。
70歳になろうとしているのに、なんという「未熟さ」でしょうか。
恥ずかしい限りです。

私が、ストレスを溜めないですんだのは、間違いなく、節子のおかげです。
私は、心のすべてをいつも節子に開いていました。
いろんなことがあっても、自宅に帰って節子に話すと、すべてが解消されました。
だから、誰とでも、結構、深く付き合っても大丈夫だったのです。
人は、付き合いが深くなるにつれて、良い面ばかりではなく嫌な面も見えてきますし、それ以上に、お互いにわがままになって不満が発生しやすくなります。
しかし、わかってくれている人がいると思うと、どんな辛さにも屈辱にも不満にも耐えられます。
感情的な私が、人を嫌いにならないですんだのは、たぶん節子のおかげです。
そのことは、節子がいなくなってから、改めて痛感しています。

と言うことは、今では私が「人を嫌いになる」ことがあるように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
基本的に、私は人が好きなのです。
だから、ある人の嫌いな面が見えてしまうと辛くなります。
そのことを節子に話すと、それで嫌な気持ちが解消し、嫌いな面を忘れることができていたのです。
それができなくなると、つまりは「ストレス」となって、いつかどこかに発散させてしまうわけです。
そして自己嫌悪に陥ってしまうのです。
さらに、注意しないと、本当に人嫌いになってしまわないとも限りません。

仲のよい夫婦は、ストレスを解消しあいながら、他者と仲良く付き合っていくための「仕組み」なのかもしれません。
夫婦というものの社会的効用。
最近、改めてそんな視点で、昨今の社会を見るようになってきています。
節子が元気だったころに、こういうことに気づいていたら、と思うことが最近よくあるのです。

もし伴侶と仲の良くない読者がいたら、ぜひ思い直してください。
壊れてから、あるいは失ってから、いくら後悔しても、役に立ちません。
夫婦は仲良くないといけません。
仲が良ければ、どんな苦難も超えられるはずです。
それに、他者への八つ当たりなど、なくなるでしょう。
そして、人生は豊かになっていくでしょう。
私には、叶わぬ夢になってしまいましたが。

■668:ノウセンカツラの花が次から次へと咲きます(2009年7月1日)
節子
今日もちょっと元気が出ません。
困ったものです。
今日から7月です。
それもあって、この頃、元気が出ないのかもしれません。
私にはとても嫌な思い出のある季節の始まりです。

7月になると庭のノウセンカツラが咲き出します。
今年はもう1週間以上前から咲いていますが、この花も節子の好きな花でした。
ノウセンカツラが咲き出すと夏がもうすぐよ、と節子が言っていたと娘から聞きました。
節子は、梅雨の向こうの夏を見る人でした。

今、ノウセンカツラは満開です。
毎日、100輪以上の花が咲いて散っています。
蜜があるせいか、ムクドリが花にやってきて、そのために花が落ちてしまうのです。
地面に落ちた花には、アリが蜜に吸い寄せられて集まってきます。
ですから掃除も大変なのです。

わが家では、小さな藤棚と同じ場所をノウセンカツラがシェアしているのですが、集まってくるのはムクドリだけではありません。
ちょうどこの時期になると、その藤棚に鳩が巣を作ろうとするのです。
一度、その巣から卵が落ちて割れてしまったことがあります。
以来、鳩には申し訳ないのですが、巣をつくらせないようにしています。

鳥になって戻ってくると節子は言っていましたが、節子は鳩にはならないはずです。
と言うのは、私もですが、節子は鳩が好きではありませんでした。
ですから鳩(カラスもです)はわが家では歓迎されないのです。

それにしても、毎日、100輪も花を落として、なおも花が咲き続ける元気さには感心します。
しかもかなり長い期間、花が咲き続けるのです。
次々と花を咲かせる生命力はいったいどこから生まれてくるのでしょうか。
節子がノウセンカツラだったらよかったなあ、と思います。
そうであれば、節子は毎日のように生まれてきているわけです。
まあ、しかしそれもわずらわしい話です。
毎日枯れてしまった節子の面倒を見なければいけないのですから。

節子は、かけがえのない一輪だったからこそ、よかったのでしょうか。
でもちょっと散るのが早すぎました。

■669:スペインタイル工房開所5周年(2009年7月2日)
むすめのジュンのスペインタイル工房Taller de JUN(タジェール・デ・ジュンと読みます)が、わが家の庭に工房をオープンしてから5年目です。
http://homepage3.nifty.com/td-jun/
とても小さな工房ですが、開所した時には、節子はとても喜んでいました。
お客様があると必ず工房を案内していましたし、ジュンが地元の手づくり散歩市に参加することになった時には、ケーキを焼いてお客様に振舞ったりしていました。
タジェール・デ・ジュンには、もしかしたら節子はたくさんの夢を描いていたかもしれません。

その工房が5周年を迎えたわけです。
早いものです。
しかし、だれもそれに気づきませんでした。
今日、パソコンに向かって、さて何を書こうかと思って、たまたま5年前の今日のことをホームページで調べたら、工房のオープンが書かれていたのです。

節子
タジェール・デ・ジュンは順調に広がっています。
安心してください。
もっともジュンが自立できるほどではありません。
職人の世界はそもそも仕事の報酬の概念が違いますから、まあ経済的な自立はまだ遠い先の夢でしょう。
それでもくちコミやホームページで注文は途切れずに入っているようです。
先週はなんと結婚式の引き出物にしたいと100個近い大口注文があったようですが、それに対応できるかどうか検討中だそうです。
なにしろ手づくりですから、1枚の作品ができるまでに、かなりの日数がかかります。

職人の仕事は、工業時代の仕事とは全く違っています。
好きでなければやっていられないでしょう。
ジュンは、いつも深夜まで作業をしていますが、それでも楽しそうにやっています。
一番の理解者だった節子がいたら、ジュンももっとやりがいが高まるのでしょうが、私では節子の役割は果たせません。
それでも今日はなにか5周年のお祝いをしようと思います。

ちなみに、節子の献花台も仏壇の大日如来もタジェール・デ・ジュンの作品です。
私が彼岸にいったら、何をつくってもらえるでしょうか。

■670:三沢市の「花いっぱい新聞」(2009年7月3日)
節子
青森県三沢市の「みさわ花と緑の会」から「花いっぱい新聞」の創刊号が送られてきました。

CWSコモンズのサイトでは紹介したことがありますが、この活動が立ち上がるに関して、私はささやかに関わらせてもらいました。
節子が再発する半年ほど前に、三沢市の花いっぱい活動の相談を受けたのです。
当時、節子は奇跡的な快方に向かって元気になってきていたのと、住民主役の「花いっぱい活動」というテーマに魅かれて、アドバイザー役を引き受けました。
いつか節子と一緒に三沢にも行こうという思いもありました。

このプロジェクトに関しては、別項に簡単な報告がありますので、それを読んでいただくとして、なかなかいい展開をしたと思っています。
途中、節子に経過報告したり、取り組みのDVDを一緒に見たりして、アドバイスなどももらいました。
いつか、私たちの住んでいる我孫子でも、こうした活動ができればいいね、などと話したことを思い出します。
ところが、関わっている最中に節子が再発してしまったのです。
思ってもいなかったことで、結局、節子は三沢には行けませんでした

プロジェクトは何とか最後まで関わることができました。
住民たちが開催したフォーラムは大成功で、それが新しい動きの契機になったように思います。
その後、節子のこともあって、私の頭から三沢のこの運動は遠のいていました。
三沢市でも、市長の交替もあって、市役所の組織も変わりました。

節子を見送ってからしばらくして、思いだして、三沢市のホームページを開きましたが、以前掲載されていた住民主役のフォーラムの記事が削除されていました。
首長が替わったので姿勢も変わったのだろうなと、残念に思っていました。
私が知る限り、とてもいい活動だったからです。

ところが先週、三沢の花いっぱい活動を最初に提案した一人でもある齋藤さんからメールが来ました。
齋藤さんは、このブログを読んでいてくれて、実は時々、投稿もしてきてくれているのです。
齋藤さんのメールには、次のように書かれていました。

三沢では今年の事業として先生の提案なさった花苗販売を今年から始めました。
6月第一土曜に行った配布・販売には多くの方が花を買い求めにきてくれました。
今年から新聞も発行することになり、本日仕分け作業を終えてきました。
先生にもぜひ送りたいと思うのですが、届け先を教えていただけるでしょうか。
火付け役をしていただいた先生に感謝しています。

とてもうれしい話です。
そして、その新聞が届いたのです。
それによれば、三沢駅前にもミニダリアが植えられたようです。

このプロジェクトは、節子がいればこそのプロジェクトでした。
節子たちがやっていた我孫子の「花かご会」の話をいろいろと見聞していたことからの学びもありましたが、それ以上に、節子の「自分たちのまちに花を広げていきたい」という思いに共感していたことから、私自身も少し思いを入れ込めたのです。
そのプロジェクトが、順調に広がっていることが、とてもうれしいです。
なんだか、節子の思いが三沢市にも広がったような気さえしてきます。
節子にもちょっと自慢させてもらえるかもしれません。

節子と一緒に三沢に行けなかったのはとても残念ですが。
節子がいなくなってからは、うれしいニュースは、必ずといっていいほど、哀しさも引き起こします。

■671:道で声をかけられました(2009年7月4日)
節子
昨日、自宅からちょっと離れた道を歩いていたら、声をかけられました。
どなたか思いだせずに、お名前をお尋ねしたら、花かご会の黒武者さんでした。
黒武者さんというのは印象的なお名前なので、節子の話からも時々お聞きしていたお名前でした。
それに、何回かお会いしているのですが、いつもと違う状況だったので全く思い出せなかったのです。
とても失礼なことをしてしまいました。
私は男性の顔は覚えられるのですが、女性の顔を覚えるのが不得手なのです。

一昨日、三沢市の「花いっぱい新聞」のことを書きましたが、それを読みながら、ちょうど花かご会のことを思い出していたところです。
しかも、黒武者さんにお会いする直前にも、花かご会を思い出していたのです。
不思議なつながりでもあります。

最近立ち上げたLLPコモンズ手賀沼では、秋に開催される日本女子オープンゴルフ大会を我孫子の元気にどうつなげられるかを考えています。
そのため、昨日は会場を見ながら打ち合わせをしていたのです。
その帰りだったのですが、黒武者さんも、まさかそんなところで私に会うとは思ってもいなかったでしょう。

実は、ゴルフカントリーの隣の空地に雑草などを刈り取ったものが堆肥になって山積みされているのですが、それをどうやって処理するかというような話をその打ち合わせでしていたのです。
三沢でも同じような話があったことを思い出して、住民に知らせたら喜んで取りに来る人もいるのだろうなどとメンバーと話していたところなのです。
節子に相談したら、きっと良い知恵を出してくれただろうとも思っていました。
そんな話をしていた直後に、花かご会の人に会ったわけですが、なんだか単なる偶然とは思えません。
この偶然の重なりには、意味があるのでしょうか。

まあ、それはそれとして、
節子のおかげで、こうしていろんな人から声をかけてもらえるのです。
節子が、どこかで私を見守っているのかもしれません。
不思議なのですが、最近また、我孫子の人たちからいろいろと声がかかってきます。
もっと我孫子にいろと言うことでしょうか。

■672:「この世の無常を痛感します」(2009年7月5日)
節子
節子の幼馴染みの雨森さんから久しぶりにメールが来ました。
実名を出してしまいましたが、許してくれるでしょう。
雨森さんは最近、健康のためにウォーキングを始めたそうです。
そのルートは、節子と私も何回かあるいた道で、その途中に節子の親元の家があるのです。
それで、その周辺の写真を送ってくれたのです。
そういえば、雨森さんは節子が元気だったころも定期的に故郷通信として写真を送ってきてくれていました。
節子はそれを楽しみにしていました。

たしか雨森さんは小学校の時の同級生です。
雨森さんの話は、私も節子から何回か聞いていました。
長年お付き合いが途絶えていたのが、なぜかある時から交流がまた始まりました。
闘病していた節子にとっては、幼馴染からのメールはきっと元気付けられるものがあったのです。
ところが、とても残念なことに、雨森さんの奥様も、節子と同じように病気が発見されてしまいました。
節子には衝撃的だっただろうと思います。
自分のような悲しさは他の人には体験させたくないと、節子はいつも言っていました。
ですから節子はとても雨森さんの奥さんのことを心配していました。
そういうところが、節子の不思議なところです。
自分のほうが重症な時でも、節子は他者のことを思いやることができる人でした。
節子から私が学んだ生き方の一つです。

ある年から実家に帰った時に、雨森ご夫妻と私たちは会食をするようになりました。
もっと続けられればよかったのですが、それはそう長くは続きませんでした。
最後に一緒に食事をした時は、たぶん私たちが雨森さんたちにご馳走になったような気がします。
そのお返しは、できずに終わりました。

節子がいなくなってから、雨森さんは私の挽歌を読んでいてくれるようです。
それでこういうメールが来たのです。

お元気のようでなによりです。
なぜお元気かわかるかといいますと、節ちゃんの挽歌を拝読しているからです。
7月3日で670回 すごいことですね。
難しい文章になってくると斜め読みして、最後は必ず節ちゃんのことにつながっているので最後は読みます。

確かに時には、難しいというか、支離滅裂な挽歌もあります。
にもかかわらず、読んでくださっている方がいることに感謝しなければいけません。
そういえば、娘の友だちも読んでくれているそうです。
昨日、電話があったそうです。
「薄情者」の私の娘自身は読んではいませんが。

雨森さんのメールの続きです。

3年連続日誌を書いているのですが、日誌の間から小さな紙がぽろっと落ちたので開いてみると、朝日新聞のひとときの「いいことだけ日記に」の切り取りでした。
やはり修さんがよく書かれているように早すぎですね。

「この日記を書き終えて、いつか「無罪放免になったわ」と、お世話になった人たちに電話しようと頑張っている」

この世の無常を痛感します。

思わず涙が出てきてしまいました。
正直に言えば、とまらなくなってしまいました。
本当にこの世は無常です。
久しぶりに、節子がいないのが嘘のように思えてなりません。
今も隣室で節子が雨森さんにメールを書いているような気がしてなりません。
できるものなら、時間を3年前に戻してほしいものです。
そこで歴史が止まっていたら、どんなによかったことでしょうか。

ちなみに、このメールをもらったのは7月3日です。
書こうかどうか迷っているうちに、5日になってしまいました。
今日、気づいたのですが、7月3日は節子の22回目の月命日でした。
その月命日の日に、雨森さんの日記帳から、「いいことだけ日記に」の切り抜きが落ちたのです。
節子がそうしたに違いないという気がして、2日も経過していましたが、書くことにしました。

■673:太子(大師)堂(2009年7月6日)
節子
昨日は節子の友だちの雨森さんから写真が届いたことを書きましたが、その中に太子(大師)堂の写真がありました。
今日は、その太子(大師)堂のことを書きましょう。

太子堂は節子の生家のすぐ近くです。
この地域には太子信仰が根強くあり、これは住民たちがみんなで寄付を集めてつくったものです。
節子もささやかながら寄進させてもらい、太子堂内に名前が刻まれています。
こうやって民間信仰は昔から守られてきたのでしょう。
信仰の厚い人が、その太子堂をお守りしていて、いつも行くたびに少しずつ整備が進んでいました。
節子は、いつもその人の名前を言って、感謝していました。

節子と一緒に生家に戻った時には、私も必ず1回は節子に連れられて、その太子堂にお参りにいきました。
時にお参りにしてきている人に会うことがありましたが、節子は必ずその人に話しかけました。
小さな集落ですから、話していると必ず共通の知人が出てくるのです。
私にはとても新鮮な体験でした。

節子のお母さんは、節子以上に苦労した人ですが、夜、電話すると太子堂に行っていることが少なくありませんでした。
太子堂は、みんなのたまり場にもなっているのでしょうか。

節子の生家があるところは、何回か書いていますが、滋賀県の高月町というところです。
「観音の里」と言われていますが、素直な観音仏が周辺のお寺にたくさん居ます。
有名な渡岸寺の十一面観音もすぐ近くです。
しかし、行くたびごとに、なんとなくその雰囲気が変わってきているような気がします。
昔は大好きだった渡岸寺の十一面観音も、今では人(仏?)が変わったように私には感じます。
ホームページで以前書きましたが、とてもさびしそうなのです。

節子と結婚していなかったら、私にとっては、渡岸寺の十一面観音も結局は鑑賞の対象でしかなかったかもしれません。
しかし、地域の人たちがみんなで守っている様子やその人たちの日頃の生活、日常生活につながる信仰、自分たちのまちは自分たちで創ろうとしている姿勢、そうしたさまざまなことを少しだけ当事者的に考えられるようになったのです。
今から考えると、それが私の価値観や仕事観に大きな影響を与えたように思います。
不思議なのですが、しかし、影響を与えられたはずの私の考えは、節子に会うずっと前から、おそらく私が小学生の頃から、私の中にあったことも間違いありません。
本当の私が、節子によって守られた、というのが私の実感です。

太子堂の写真を見ていると、節子のあの笑みが見えてきます。
節子は、不思議な人でした。

■674:節子の友人たちが突然やってきてくれました(2009年7月7日)
節子
梅雨真っ只中なのに、今日は夏のような暑さです。

娘が小学校の頃、よくご一緒していた節子の友だちが3人、お花を持ってやってきてくれました。
お一人は私もよく存じ上げていますが、ほかのお2人はたぶん直接お話しするのは初めてです。
でも、お名前は節子からよく聞いていました。
私もそうですが、節子も自分の世界のことを私にみんな話していました。
ですから私たちは、友人知人も、それなりに知っているのです。

ただ今日はあまりに急だったので、対応にいささか慌ててしまいました。
天気が良かったので、庭の献花台の前の椅子でコーヒーを飲んでもらったのですが、どれほど引き止めていいものか、何の話をしたものか、いささかの戸惑いがありました。
こういう時には、節子がいないと本当に困ります。
私の友人知人の場合は、ある程度、私のことを知ってくれていますから、多分何をやっても失礼にはならないのですが(つまり私の非常識さはみんなよく知っていますので)、節子の友人たちにはそれが通じないでしょう。
失礼があっては、節子に申し訳がありません。

節子が逝ってしまってから間もなく2年です。
でもこうやって思いもかけない人がやってきてくれるのです。
節子はなんと幸せな人だろうと思います。
もし私ならどうでしょうか。
みなさん、来てくれますか。
まあ、あんまり来ないでしょうね。

献花台をつくって、よかったと思っています。
夏は花が持たないので、献花台には鉢物を置いていますが、

節子に関係したことが何かあると、その日は少しうれしいです。
不思議なもので、なにか節子と通ずるものを感ずるのです。

■675:聴き手のいない話の場があればなあと思います(2009年7月8日)
節子
私と同じように、奥さんを見送った同世代の知人がいます。
しばらく会っていなかったのですが、先日、ある集まりで偶然にお会いしました。
それで一度ゆっくり話をしようということになり、今日、お会いしました。
同じ状況の人と会うと何となく心安らぐのではないかという思いがどこかにあったのです。

いろいろと話しましたが、伴侶との別れにつながるような話には全くなりませんでした。
おかしな話ですが、これからの社会のあり方のような話で終始しました。
本音を吐露し合う、それなりの激論ではありましたが。

私たちは、お互いを知ったのは、お互いに伴侶を見送った後でした。
私は、その悲しさや寂しさを恥ずかしげもなく露出していますが、そのことを話題にするのは難しいのかもしれません。
いや、話題にしたがっているのは、私だけかもしれない、と思いました。

もうかなり前ですが、伴侶を失った人が2人、わざわざ新幹線でやってきました。
一人は以前からお付き合いのある方(私より先に伴侶を見送っていました)ですが、もう一人は最近夫を見送った、彼女の友人でした。
伴侶を亡くした人が3人集まってどんな話になるのだろうかと思っていましたが、最初の二言三言で、その話は終わりになりました。
少しだけ伴侶を見送ることにおいては先輩だった私としては、何か話したいという思いはあったのですが、両者をつないでくれた一番年長の人がきっと気をきかせて話題を変えたのです。

昨日、節子の友人が3人来てくれましたが、節子の話はほとんど出ませんでした。
私には少し残念でしたが、みんなきっとどう話していいのかわからなかったのかもしれません。
伴侶との別れのことを話すのは、それなりにいろいろと考えてしまうのでしょう。
しかし、みんなもっと大らかに悲しみ合い寂しがり、懐かしんだりしたら、いいと思います。
でもそれが難しいのでしょうね。

今朝、この挽歌に「私も個人的な「妻のメモリアルサイト」を作っています」というコメントが寄せられました。
伴侶への思いを書き続けている人は少なくありません。
話すのと書くのと、どこが違うのか。
少なくとも私の場合、誰かに読んでもらうために書いているのではありません。
ただ、書くために書いているのです。
もし書くのではなく、話す場があれば、書くよりも話すほうが私にはずっといいです。
しかし、その場合、話を聴いてもらいたいのではないのです。
ただ、話すために話したいだけなのです。
聴き手がいると、きっと素直には話せなくなるでしょう。

告別式の挨拶の時、私はたぶん節子に話していました。
だからすごく自然に、素直に話せたのです。
もし聴き手を意識したら、とてもあんな話はできなかったと、今も挽歌に再録した文章を読んで思います。
あの時は、とても不思議な気持ちだったのです。

やはり、節子への挽歌は、話すのではなくて書くのがいいと思いなおしました。
挽歌は、これからも書き続けようと思います。
読み手は、間違いなく節子なのだと、今日、改めて気がつきました。

■676:元気を運んでくれたコメント(2009年7月9日)
節子
このブログを読んで時々コメントを投稿してくださる maron さんという方がいます。
主に時評編にコメントを下さっています。
このブログは、挽歌と時評とが混在しています。
分けたほうがすっきりするのですが、それらを重ねるところに意味があると思っているため、同じブログに混在させています。
しかし、実際には時評と挽歌は読者が別のようです。
書き手と読み手の考えは、同じではありませんから、それは仕方がありません。
maron さんも、てっきり時評編の読者だとばかり思っていました。

ところが、そのmaron さんが今日、こんなコメントを投稿してくれたのです。

節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります。
しかし、会話は2言、3言で終わったと言う事は、それぞれ言葉にするにはあまりにも深い絆で表現が難しいのでは無いでしょうか。
節子様に話しかけられる挽歌だから純粋に表現できるのだと思います。
何時かの挽歌に節子様のお里の高月町の渡岸寺の11面観音像のことが書いてあり、とても懐かしく感じました。
何度かそのお寺にゆきました。私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。

この文章からmaron さんの実像がかなりイメージできました。
私のイメージしていたmaron さんとはかなり違うのです。
どこでどう間違ったのでしょうか。
実はmaron さんのブログも何回か読ませてもらっていたのですが、ブログを読めば、maron さんがどういう人かは伝わってきていたはずです。
しかし、なぜか今日までの私のmaron さんイメージは全く違うものでした。
人は、第一印象で相手のイメージを構築します。
そして、そのイメージにどうも呪縛されてしまっていたようです。

私が先入観を打ち破れたのは、今回の投稿の最後の文章です。
私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。

余呉湖が好きな人は、おそらく女性です。
それまでなぜかmaron さんが男性だとばかり思っていたのです。
思いなおして、過去のコメントやmaron さんのブログを読み直してみました。
今にして思えば、なぜ男性だと思ったのか不思議です。
maron さん、大変、失礼いたしました。

前置きが長くなってしまい、肝心のことが書けなくなりました。
今日は余呉湖のことを書こうと思ったのですが、明日にします。

ところで、maron さんは、「節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります」と書いてくださいました。
時々、挽歌を書き続けている自分に疑問を感ずることもあるのです。
いったいなぜ個人的な挽歌を公開のブログで書くのか。
公開であることで、無意識に粉飾する意図が入り込んでくるのではないか。
節子に向けての真実の思いを果たして吐露しているのか。
まあどうでもいいことなのですが、そうした思いが浮かぶことがあるのです。
もちろん答は明らかなのですが、ではなぜ公開するのか。

実はまさに昨日の挽歌を書いている時に、少し迷いがでてきていたのです。
それをmaron さんは感じてくれたのでしょうか。
このコメントを読んで、救われた気分です。

maron さんが書かれている「私達の心」という文字がとても気になるのですが。
maron さん、ありがとうございました。
パートナーはもうお元気になられましたか。
くれぐれもお大事にしてください。
夫婦は、かけがえのない、大切な関係です。

■677:余呉湖(2009年7月10日)
昨日の予告通り、余呉湖のことを書きます。
節子と人生を共にしようと決めた後、節子の両親に会いに行きました。
その時、義父が近くの賤ヶ岳を案内してくれました。
そこから余呉湖が見えました。
余呉湖といえば、羽衣伝説です。
私には、それだけの知識しかありませんでしたが、山に囲まれてひっそりとしている余呉の湖は、なぜかとても哀しく感じました。
そのせいか、節子の親元のすぐ近くにありながら、なぜかそこに行こうという思いにならずにいました。

節子の親元には私も一緒に毎年帰りましたが、余呉湖に行ったのは1度きりです。
もしかしたら最後に帰った時かもしれません。
その時の写真があるはずですが、なぜか見つかりません。
その時の余呉湖も、とても静かでさびしかったです。
私の記憶の中には、音が全くない余呉の海のイメージだけが浮かんできます。
いろいろなことを書き残している私のホームページも、なぜか「余呉湖」で検索しても何も出てこないのです。
本当に行ったことがあるのだろうかと思って、その時、同行してくれた節子の姉に電話してみました。
ところが義姉も覚えていないのです。

余呉湖は羽衣伝説の舞台です。
羽衣伝説というと一般には静岡県の三保の松原を思い出しますが、日本最古の羽衣伝説の舞台は余呉なのです。
しかも、余呉の羽衣伝説には菅原道真がからんでいます。
羽衣を盗まれた天女と人間の間に生まれたのが菅原道真だというのです。
それが何だと思われるでしょうが、私にはとても意味があることなのです。

道真を祀る天神様は、私には何かとても強い縁を感ずる存在です。
以前、大宰府の観世音寺のことを書きましたが、大宰府にはいうまでもなく天満宮があります。
大宰府から観世音寺、そして天満宮。
最初に訪れた時、はるかな昔、ここを歩いたという確信を持ちました。
観世音寺の諸仏を見ていると、心和みます。
節子と一緒に開いた私たちのオフィスは湯島天神のすぐ前です。
節子に奇跡を起こしかけてくれた加野さんは、天満宮のすぐ近くにお住まいです。
ますます、それが何だと言われそうですね。

余呉湖と金子みすずは関係があるでしょうか。
少しネットで調べましたが、つながりが見えません。
ところがなぜか、私には金子みすずと余呉湖がつながって記憶されているのです。
なぜなのかわかりませんが、節子と会った直後からそういう記憶が私の中にはあるのです。
おぼろげな記憶では、節子の生家の法事で地元の人から聴いたような気がします。
実はそれもあって、余呉湖は私には想像の中の存在にしていたかったのです。

天女、道真、金子みすず。そして静寂な水面。
それが私の余呉湖のイメージなのです。
その先にあるのは、いうまでもなく「死」です。
いつの頃からか、私のなかの余呉湖は彼岸の入り口になっているのです。
私にとっては、そこにいくともしかしたら節子に会えるかもしれない、そんな気もする神秘な場所なのです。

節子と一緒に余呉湖にいったのは、未来の話なのでしょうか。
彼岸から余呉湖を訪ねたのだとしたら、私の心に残っている風景はとても納得できるものです。

maron さん
おかしなことを書いてすみません。
他意はなく、余呉湖という文字を見た途端に、ワッとこうした思いが噴き出してきたのです。
脈絡がないのですが、今でも節子が元気なような気がして、昨日は落ち着けない1日でした。
ありがとうございました。

■678:今週はまたいろいろなことがありました(2009年7月11日)
節子
今週はまたいろいろなことがありました。
どうしてこんなにいろいろなことがあるのでしょうか。
いささか疲れます。
今日もある集まりの準備会で、本当はこんなことに参加しないで自宅でのんびりしていたいんだけれど、と言ってしまいました。
すかさずある人から、佐藤さんにはそんなことは絶対無理、と言われてしまいました。
たしかに無理かもしれません。
だれかの抱えている「問題」に余計なお世話をしたくなるのが、私の生き方なのですから。

節子が手術をするまでは、私は毎日、実にたくさんの人に会っていました。
しかも、そのうちの何人かは、初めてお会いする人でした。
多い時は毎日、4〜5組の人たちが、湯島にやってきました。
人が人を呼ぶという漢字で、仕事などする暇がないほどでした。
食事をする時間もなく、次々と入れ替わりに誰かが来るのです。
会っている時には元気なのですが、最後の人と別れた途端に、疲労が心身を襲ってきます。
自宅に帰りつくのがやっとだったこともありました。
節子は、なんでそこまでして、そんなに人に会ってばかりいるの、と不思議がっていました。
私自身、そういう思いがなかったわけではありませんが、そこから抜けられませんでした。

節子は、私のそうした生き方はあまり好きではありませんでした。
そこで、6年前に私は少し生き方を変えようと思ったのです。
疲労が溜まったせいか、私の体調があまりよくなかったのも、理由の一つでした。

さまざまな人が集まってくるオープンサロンが、私の生き方の象徴的な場でした。
オープンサロンをやめて、節子と一緒に、私たちの生き方を見直すことにしたのです。
最後のオープンサロン(2003年4月25日)を終えた後、私たちの生活は変わるはずでした。

ところが、その直後に予期しなかったことが起こりました。
私にではなく、節子に、がんが発見されたのです。

いまとなってはあまり思い出せないのですが、その後の私の生き方は、必ずしも節子が望んでいたものではなかったような気がします。
今だからそう思えるのですが、当時はもちろん、そんなことには気づきませんでした。
節子と一緒に困難を乗り来るために、仕事はやめて、在宅が基本になりました。
しかし、節子の奇跡的な回復につれて、私はまたいろんな人と会う時間が増えてしまっていたのです。
会う人たちは変わりました。
節子の協力も得ながら、その数年前に手がけだした、全国のさまざまなNPOに関わる活動がまた増えてきたのです。
節子の病気のおかげで、それまで以上に、人の痛みに引き寄せられるようになってしまったのです。
しかも、節子までもがそういう私の生き方に、今度は共感し、前以上に応援してくれだしたのです。

節子を見送った後、そうした自分の生き方に無性に腹が立ちました。
なぜ病気のなかにいた節子に、すべての時間を向けなかったのだろうか。
私にとっては、宇宙全体よりも節子のほうが大切だったのではなかったのか。
節子はかけがえのない存在だと口に出して言っていたのは何だったのか。
事実、伴侶を見送った知人から、活動などすべてやめて家にいろと言われたこともあったではないか。

しばらくは自宅から出られませんでした。
人に会うことに罪悪感さえ持ちました。
愛する人を失った後、隠棲する人の思いが少しわかりました。
でも、人が来ないとさびしくて仕方がないのです。

そして気がついてみたら、また昔のように、人に会う生活に戻ってきていたのです。
節子が元気だったころに比べれば少なくなりましたが、それでも毎週10人前後の人には会っているでしょう。

繰り返しますが、私は会いたくて会っているのではありません。
会わなければいけなくて会っているのでもありません。
成り行き上、会っているというのが、私の実感です。
その生活に戻ってしまったという感じです。
違うのは、昔はどんなに疲れても、家に帰れば節子が癒してくれました。
今は、癒してくれる人がいないということです。
癒してくれるのは、机の上にある節子の笑顔の写真だけです。
写真を見ていると、今でもそこに節子がいるような気がします。
いないのが嘘のようです。

■679:愛する人との出会いは、奇跡以外の何ものでもない(2009年7月12日)
また読者からあったかいコメントが届きました。
再録させてもらいます。

はじめてメールします。ずーとブログを読ませて頂いています。
私も5年前に夫を亡くしました。
片翼を失った鳥のように飛べなくなりました。
通り過ぎた道は、二度と振り返らないと強い決意で居ながら、ぺしゃんこで立ち上がれない時が時折りあるのです。
事業をたたみ、生活の場を変えました.そうしないと、生きてゆけなかったからです。
子ども達は自立していたので(両方の親も看取りました)一人暮らしをはじめました。

夫は寡黙な人でした。自分の思いを吐くのも余程のときでした。
妻への晩歌を詠ませて頂いて、男性が女性に抱く、静かで熱い想い、細やかな心配り、全編に流れている愛おしさ!
黙って泣きながら読んでいる読者が居ることを、ふと伝えたくなりました。
人を愛する苦しみ、哀しみ、喜び、愛しさ。月や太陽、花や,星に周期や又生まれる年度があるように人間の出会いにも、2500万年したら逢えるのだそうです。

愛する人との出会いが、奇跡以外の何ものでもないというのは、真実だと思います。
どうぞ頑張って書き続けてください。
迸る想いに、封印しながら明日に向かって生きてゆきたいと願っています。

何回も読ませてもらいました。
「愛する人との出会いは奇跡以外の何ものでもない」
朝からこのコメントを前に、何かを書こうと思いながら、結局、書けませんでした。
「奇跡」という言葉に、圧倒されてしまっているのです。
節子に会えたのは「奇跡」だったのだ、と思うと、とても腑に落ちるのです。
どう考えても論理的でないことがたくさんあるからです。
奇跡は悲しむよりも、感謝すべきですね。
なんだか節子が天使のように輝いて思いだされます。

井原さん
昨日は疲れが溜まって少しへこんでいましたが、またこのコメントに元気が出ました。
ありがとうございました。

■680:「心のリレーを実現するノート」(2009年7月13日)
冠婚葬祭事業に取り組んでいる株式会社サンレーの社長の佐久間さんからエンディングノートが送られてきました。
佐久間さんは、節子には会ったことはありませんが、闘病中の節子をとても気にしてくださっていました。
韓国に出張した時には、私が関心を持っていた灌燭寺(アンチョクサ)の弥勒仏にまで足を延ばし、そこで節子のためにお守りまで買ってきてくれました。
節子もとても感謝していました。

節子がいなくなってからも佐久間さんはいろいろと心配りをしてくれています。
節子がいなくなってから佐久間さんとは私もお会いしていないのですが、著書が送られてきたり、メールが来たりで、会っていない感じはあまりしません。
不思議に身近にいる感じなのです。

その佐久間さんが今回、自作のエンディングノートを送ってきたのです。
添えてあった手紙にはこう書かれていました。

このたび、究極のエンディングノートを作成いたしました。
エンディングノートとは、自分がどのような最期を迎えたいか、どのように旅立ちを見送ってほしいか‥‥それらを自分の言葉で綴ったものです。
高齢化社会の昨今、かなりのブームとなっており、各種のエンディングノートが刊行されて話題となっています。
しかし、遺産や財産のことなどを記すだけの無味乾燥なものがほとんどあり、そういったものを開くたびに、もっと記入される方が、そして遺された方々が、心ゆたかになれるようなエンディングノートを作ってみたいと思い続けてきました。また、そういったノートを作ってほしいという要望もたくさん寄せられました。
「HISTORY(歴史)」とは、「HIS(彼の)STORY(物語)」という意味です。
すべての人には、その生涯において紡いできた物語があり、歴史があります。
そして、それらは「思い出」と呼ばれます。
自らの思い出が、そのまま後に残された人たちの思い出になる。
そんな素敵な心のリレーを実現するノートになってくれることを願っています。

佐久間さんらしい思い入れです。
ただ残念ながら今の私には、あまり手に取る気にはなれません。
思い入れのあるエンディングノートを自作した知人がもう一人います。
寿衣を縫う会の嶋本さんです。
彼女からもいただいていますが、実はきちんと開けずにいるのです。

エンディングノートのことはまた改めて書こうと思いますが、その名前が私には好きになれません。
嶋本さんは、名前を「サクシードファイル」と替えました。
でも何かピンと来ません。
ところが、佐久間さんの手紙の中にとても心に響く言葉がありました。
「心のリレーを実現するノート」です。
こういう名前ならば、あるいはこういう行為であるならば、イメージは一変します。
そして気づきました。
この挽歌は、節子の心を、次の世代につなげるノートなのだと。

この続きはまた近いうちに書きます。

■681:エンディングという言葉(2009年7月14日)
昨日の続きです。

私が「エンディング」という言葉に出会ったのは、2003年8月です。
節子が胃の摘出手術をした1年後でした。
大阪のNPO大蓮寺・エンディングを考える市民の会の事務局長の田中さんから相談があるのでということで、名古屋でお会いしました。
ホームページに記録が残っていますが、私は「エンディング」という言葉にかなりの違和感がありました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#03872
言葉は、第三者と当事者では全く違った風景を生みだします。
そのことも田中さんに話しましたが、田中さんには伝わりませんでした。
エンディングノートという言葉を創りだしたのは、多分「つめたい心」の持ち主でしょう。
福祉の世界に少し関わって感ずるのは、そうした「つめたい心」で語る儲け主義者たちが少なくないことです。
哀しい話です。

その後、エンディングに関わる人たちに会うようになりました。
というよりも、すでに私の周りにはいろいろといたのですが、「エンディング」という言葉を意識したことで、そうした世界が見えてきたというべきかもしれません。
少し変わったところでは、コミュニティアートに取り組んでいる知人から、エンディングをテーマにしたイベントをやりたいと相談されたこともあります。
私自身の思いをぐっと押さえ込んで、協力することにしましたが、なぜかその後、音信が途絶えました。
私の本意が伝わってしまったのかもしれませんが、これも哀しい話です。
本意の奥には、さらなる本意があることは伝わらなかったのでしょう。

この挽歌を読んでくださっている方にはわかってもらえるかもしれませんが、エンディングという言葉は、愛しあう人の世界にはありません。
終わりのある愛などあるはずもないからです。
個体としての生命の終わりを克服するためにこそ、愛がある。
それが最近の私の心境です。

人は「死に向かって」生きているという人もいます。
私はやはり、人は「生」に向かって生きていると思いたいです。
生に向かって進み続け、そして次の生へと移っていく。
ですからエンディングなどないのです。

なにやら肩に力のはいった文章になってしまい、佐久間さんや嶋本さんが読んだら気を悪くしそうですね。
念のために言えば、私は佐久間さんや嶋本さんの本意を良く知っているつもりです。
お2人も、たぶん私の本意を知っていてくださいますので、安心して思いを書いてしまいました。
気を悪くされなければいいのですが。

■682:季節の移ろいに感動しなくなっています(2009年7月15日)
節子
梅雨があけて、今日はまさに夏到来です。
空の色が変わりました。

節子がいなくなってから、私はもちろんですが、わが家から「季節」の感覚がなくなっています。
時間が止まったわけではないのですが、季節を楽しむ気分が薄れてしまっているのです。
しかし、去年に比べれば、今年はだいぶ違います。
今年は、わが家にも「夏」がくるかもしれません。

節子は、季節の変わり目を感じさせる小さな工夫が好きでした。
室内のインテリアも、季節によって気づかないうちに替わっていました。
それに気づいて、季節の到来に気づいたこともありました。
その文化は、娘たちに今も引き継がれています。

夏が来たので、私の仕事部屋の窓のところに、朝顔のプランターを持ってきました。
この挽歌にも出てきたことのある根本さんが、昨年、自分の部屋の窓のところに蒔いたタネをお裾分けしてくれたので、根本さんの指示通り蒔いていたのです。
忘れていたため、ちょっと遅れましたが、順調に育っています。
わが家は、節子も私も、むすめたちも冷房が好きではないので、家族のゾーンである2階にはクーラーはないのです。
今年は、この朝顔が日除けになってくれるでしょう。
節子がいたら、気づかないうちに、やってくれたでしょうが、今年は自分で朝顔が伸びていけるように紐を張りました。
水やりを忘れないようにしなければいけません。

季節の移ろいを一緒に楽しむ人がいなくなってしまうと、季節の意味も大きく変わってしまうものです。
どんな夏になるのでしょうか。

■683:朝の畑仕事(2009年7月16日)
節子
朝早く起きたので、畑に行ってきました。
と言っても、最近は誰も手入れに行かないので雑草があふれかえっています。
今日は暑いので、早朝の30分だけ草刈をしました。
いつかのように、倒れると悪いので30分で止めました。

節子が元気だったころは時々節子と一緒に来ていましたが、私の取り組み方は節子には気にいらないものでした。
たとえば雑草刈りにしても、私はまずは大きなものを刈り取りましたが、節子は場所を限定して少しずつしっかりと雑草をなくしていきました。
私のやり方だと、やったかどうかもわかりませんし、第一、単に荒らした感じで終わった後の達成感がありません。
それに目標設定が曖昧になりますので、いつでもやめられるのです。
節子の場合は、最初にきちんと今日はこの区画と決めますので、途中ではやめられず、しかしやった後は達成感を味わえます。
下の娘が節子のやり方を継承し、上の娘がわたしのやり方を継承しています。
これは単に雑草刈りだけの話ではなく、生き方そのものにつながっています。

修はすぐに飽きてしまうのと、後片付けをしないので、手伝ってもらわない方がいい、と節子は言っていましたが、それはその人の性格なので仕方がありません。
どうせまた明日やるのならば、片付けることもないだろうというのが、私の文化でした。
これが、節子や下の娘には気にいらないのです。

さて、今朝は一人で畑に行きました。
最初からがんばると1日で終わるおそれがあるので、今日は30分で、しかも適当にやって戻ってきました。
その畑地はわが家から見下ろせる場所にあるのですが、戻ってきて上から見たら、何の変化も感じられませんでした。
それほど雑草が凄いのです。
まあ気分的にいろんなところを少し荒らしてきただけという感じです。
節子がいたら、きっと笑うでしょう。
私の30分の努力は報われていないのです。

しかしまあ、このやり方を少し続けましょう。
1週間続ければ、少しは地面が見えてくるかもしれません。

節子は、土いじりが好きでした。
この畑は宅地の空地ですので、土壌がよくありませんでした。
それを節子と下の娘が開拓し、土壌をよくしました。
節子は道沿いに花壇をつくって、散歩する人に楽しんでもらおうと考えていました。
畑ではじゃがいもをつくって、近くの子どもたちと一緒に芋ほりをして、カレーライスパーティをしようと思っていました。
そのためにがんばっていたのです。
そんなことを思い出したら、少し私もがんばろうと思い出しました。
もっとも、節子のやり方ではなく、私のやり方で、ですが。

■684:生きるということの意義(2009年7月17日)
maronさんからまたコメントをもらいましたが、その最後にこう書いてありました。

様々な人を失い、生きると言う事の意義も考えました。

節子との別れを体験するまで、私は「生きる」ことをしっかりと意識したことがありませんでした。
両親をはじめ、親しい人を何人も見送りましたし、親しい友人も見送りました。
私より若い友人の突然死も2回経験しましたし、自死した友人もいました。
衝撃的な別れもありますし、自分の人生を変えてしまう別れもあります。
しかし、私は人の死に関しては、かなり淡白でした。
たぶん人の死で心底泣いたことはありません。
同時に、生きることについても、淡白でした。
貪欲に生きようなどと思ったことはありません。
人の生き死には、定められているというような思いがどこかにあります。
ですから自分の生死に関しても、さほどこだわりはないのです。

とまあ、そんなふうに考えていたのですが、
節子に関しては、淡白どころではなく、取り乱すほどでした。
もちろん、心底、涙しました。
涙が枯れるという言葉がありますが、枯れることなどなく、いまもいつでも涙は出ます。

そうした体験の中で、私が生死に淡白でいられたのは、節子のおかげだったと気づいたのです。
すべての生死を、節子が引き取ってくれていたのです。
両親を見送った時、支えてくれたのは節子です。
節子がそばにいたからこそ、両親の死を私は冷静に受け止められました。
親しい友人の死は、節子に話すことで心を落ち着かせられました。
私の哀しさも喜びも、辛さも後悔も、すべて節子が引き取ってくれていたのです。

そういえば、節子と一緒に暮らすようになるまで、私はむしろ生死には敏感だったような気がします。
私は、気の弱い子どもでした。
戦後、わが家は新潟の父の実家に疎開していました。
食糧難の時代でしたが、当時、疎開先ではウサギを食料用に飼っていました。
そのウサギを殺すのを止めてくれと、私が泣きながら父に頼んだ話を母が節子や娘たちに話してしまったので、私の気の弱さはみんなの知るところになってしまいました。
家族でエジプトに行った時にも、鳩料理は私だけ辞退させてもらいました。
子どもの頃から、生命にはある種の畏れを感じていたのです。

そうした気弱な私が、生死に対して動じなくなったのは、間違いなく、節子と一緒になってからです。
なぜでしょうか。
私のすべての人生を節子に託すことで、そうした私の最も弱いところから抜け出られたのかもしれません。
以来、誰がいなくなろうと、私には節子がいたのです。
生きるとか死という問題から解放されれば、人は思い切りわがままになれます。
そして、本来ならば、このまま私は静かに生きることを終えられるはずでした。

節子がいなくなった今、生きることの哀しさや退屈さに、押しつぶされそうになることがあります。
幸いに娘たちがいますので、少しは緩和されますが、残念ながら節子と違って、私の生死を引き取ってもらうわけにはいきません。

maronさんが考える「生きるということの意義」とはどんなものでしょうか。
訊いてみたいようでもあり、みたくないようでもある、気になる言葉です。

■685:心の安定(2009年7月18日)
maronさんが早速、挽歌に呼応するようにコメントを投稿してくれました。
重複してしまいますが、とても共感できる文章なので、転載させてもらいます。

私はとても良い人々に恵まれて生きてきたのだと思います。
心の中で、頼り切って、何時も私のそばに居てくれるものだと思っていた人々との分かれ、会者定離の世と知りながら不条理と嘆きました。 
私が自由に良い人生を過ごせたのはその人々のお陰です。
故人が私にしてくれたように、私も人々に安心と笑顔を与えてあげられたらと思います。
今日も事故で脊椎を痛めた友人を見舞って帰ると直ぐ知人が待っていました。 
コーヒーを入れてお話をききました。
心の安定を失う人の多い世の中です。
私の身体が続き、心が萎えない限り、周りの人々の盾になりたいと思っています。
それは人生を知ること、自分の生の確認でもあると思っています。

なんだか私自身の文章を読んでいるような気がしました。
私もとても似たような生活をしています。

節子が隣にいた時には、私の心は常に安定していました。
しかし、節子がいなくなった途端にその安定を失いました。
心の安定を失うと、活動が持続できなくなります。
気が萎えてしまい、突然にすべてを止めたくなるのです。
いまでも心が揺らぐことはないわけではないのですが、活動は持続できるようになりましたし、maronさんのように人の相談にも乗れるようになりました。
私にとっては、唯一の頼り切れる存在だった節子がいなくなったままなのに、なぜ心が安定してきたのか。

maronさんのコメントを読んでいて、その答に気づきました。

私には、節子という、頼り切れる伴侶がいました。
しかし、本当に節子は頼りになったのでしょうか。
それはかなり疑問です。
にもかかわらず、節子がいるおかげで、私はいつも安心でした。
なぜでしょうか。
それは、私が節子に頼り切られる存在だったからです。
もちろん、節子と同じように、私も節子にとって本当に頼れる存在だったかどうかは疑問です。
しかし、私は頼り切られていたという確信がありました。
節子に何か問題が起これば、命を捨ててでも節子を守るだろうという確信です。
それは実際には実現できなかったのですが。

頼ると頼られるは、双方向的な関係なのです。
言い換えれば同値と言っても良いでしょう。
よく言われるように、ケアと同じ概念です。

私が最近、心の安定を得られだしたのは、頼られているという実感を回復したからなのです。
頼れる人が、一人でもいれば、心は安定します。
頼ってくる人が一人でもいれば、心が安定します。
そのことに、maronさんのコメントは気づかせてくれました。

文句を言わずに、明日もまた相談を受けに出かけて行くことにしましょう。
私のために、頼ってきてくれる人がいることの幸せを疎かにしてはいけません。

■686:家事で大忙しの1日でした(2009年7月19日)
節子
今日は疲れました。
私にしてはめずらしくいろいろと家事をしたのです。

朝5時過ぎに起きて、パソコンをチェックし、それから近くの「さとう農園」に雑草刈りに行きました。
ともかく雑草がすごく、手に負えないほどです。
畑とはとてもいえない状況です。
今日で3日目ですが、この作業はめずらしく怠惰な私一人でやっています。
節子が知ったら驚くことでしょう。

30分で切り上げて帰宅、まだ娘たちは寝ていましたので、庭で新聞を読みながらコーヒーを飲みました。
朝食を終えて、近くのお店に買物に行く娘に付き合いました。
飲料水が安いのでカートンで買うというので、運搬役です。

その後、娘たちが出かけましたので、一人で留守番でしたが、今日は久しぶりにちょっと難しい本を読みました。
今田高俊さんの「自己組織性と社会」です。
ちょっと「訳あって」読む羽目になったのですが、とても共感できます。
今田さんは、私に「リゾーム」概念を教えてくれた人です。
本は面白かったですが、頭は少し疲れました。

読み終えて、一休みしようと思っていたら、戻ってきた娘たちが、床のワックスがけを始めました。
参加しないわけにはいきません。
わが家では大きな家事は全員参加なのです。
これは、節子が残した文化です。
かなりのことを節子は家族みんなでやるのが好きでした。
自称「さとう工務店」です。
もちろん、節子が社長です。
ベランダのペンキ塗りから壁紙の張替え、節子の指示で全員が動くのです。
ベランダのペンキ塗りは大変でした。もう2度とやりたくないです。
今回は、その社長役の節子がいないのですが、節子の文化は破るわけにはいきません。
私は、せいぜいが家具の移動や下拭きくらいしかできませんが、久しぶりに汗をかきました。
終わったら、今度は庭の草花に水やりです。

というわけで、今日は早朝から夕方まで、身体も頭脳もそれなりに汗をかいた1日でした。
節子がいた時は、こういうことも実に楽しかったのですが、いない今は、ただ疲れるだけでした。
作業終了後の、ケーキもありませんでしたし。

それにしても、節子がいた時の家族みんなでの家事は、どうしてあんなに楽しかったのでしょうか。

■687:「月への送魂」(2009年7月20日)
節子
40年前の今日は、茨城に海水浴に一緒に行っていました。
どこだったか覚えていませんが、その時の節子の真っ白な水着姿ははっきりと覚えています。
節子は丸々と太っていて、とても魅力的でした。
つまり、まだ何の苦労もなく、私たちが若さを謳歌していた時代です。
2人とも、世間の何たるかなどは全く眼中になく、ともかく一緒に暮らす歓びや面白さを満喫していたように思います。
娘が生まれた1年後ですが、その時は娘を母に預けて、2人だけで行ったのです。
子どもたちと一緒に海水浴に行った記憶はたくさんありますが、節子と一緒に海に行った記憶はこれだけです。

なぜその日が、40年前の今日だとわかるかといえば、その日の夜、テレビでアポロの月面着陸の番組を見たからです。
今日は、人類が月面を歩いてから40年目です。
月に人が立つ、というのは、私にはあまり好ましいイメージではありません。
その日、節子とどんな話をしたのでしょうか。

私にとっての月のイメージは、「女性」と「死」です。
ギリシアやエジプトの神話では、月は「善き人たちの死後の住処」でもあります。
ですから、今も夜空の月を見ると節子を思い出します。
もしかしたら、節子はあそこにいるのかもしれません。

九州で冠婚葬祭の事業に取り組んでいる佐久間さん(一条真也さん)は、「月への送魂」を提唱し、実際にも行っています。
佐久間さんの「月」への想い入れはかなりのものです。
佐久間さんのサイトは、月への想いが全編を覆っています。
「月への送魂」について言及している「月を見よ、死を想え! 魂のエコロジーを取り戻せ!」はとても示唆に富んでいます。
http://www.ichijyo-shinya.com/monthly_page/monthly_0505.html

月を見ると、いつも節子を思い出すのは、もしかしたら佐久間さんの影響かもしれません。
「月への送魂」の話を聞いたのは、もう10年以上前だと思いますが、聞いた瞬間からすごく納得してしまっていたのです。

明後日は皆既日食です。
節子に出会う2年前に、私は皆既日食を体験しました。
そして節子がいなくなって2年目、また皆既日食です。

■688:「神と一緒に過ごす豊かな時間」(2009年7月21日)
節子
昨日、NHKテレビの特集番組で『神と人が出会う日〜京都・葵祭一千年の神事』を観ました。
この祭りに埋め込まれている「神を迎え、ともに遊び、供物をささげて敬意を表す」という大きな流れが描かれていました。
観ていて、私自身が最近何か大きな忘れ物をしている気分になりました。
そして、なぜかよくわからないのですが、節子のことを何回も思い出しました。

特に思い出した場面が2か所ありました。
まず、下賀茂神社の御陰祭で、森の中をみんなが歩く場面があったのですが、その時、森から精気を得るというようなナレーションがありました。
こうした場面をみると、いつも罪の意識に襲われます。
なぜ節子と一緒に、この道を歩かなかったのだろうかと。

もう一つは、宮司が警蹕(けいひつ)を発する場面です。
http://video.fc2.com/content/%E8%AD%A6%E8%B9%95%EF%BC%88%E3%81%91%E3%81%84%E3%81%B2%E3%81%A4%EF%BC%89/20090502P9bwFeGD/
警蹕(けいひつ)とは、辞書には「天皇の出入り、行幸、食事の時などに、人に注意を促し、また邪気を祓うために「おー」と唱えること」とありますが、番組で「言葉が生まれる前の発声」と説明していました。
You-Tubeで、実際にその声も聞けます。
その説明がとても納得できました。
その場面でなぜ節子のことを思い出したのかといえば、私と節子を今つなぐものもまた警蹕(けいひつ)なのではないかと思ったのです。
般若心経などよりも、光明真言よりも、警蹕のほうがいいのではないか。
そんな気がしたのです。

私は、言葉の有無が、人(此岸)と神(彼岸)を分けるものだと思っています。
もしそうであれば、そこをつなぐものは警蹕です。
神には小賢しい言葉は不要です。
人は、バベルの塔の神話が物語っているように、言葉を持ったが故に小賢しくなり、死を体験するようになったのです。

番組の最後に、とても心に残る字幕が画面に出ました。
「神様と一緒に過ごせた豊かな時代の記憶」
心に強く響きました。
この字幕をみて、ふと思いました。
節子は、私にとっての「神様」だったのかもしれない。

葵祭の神事の時間の流れは、ゆったりしています。
節子と一緒の時、私たちの時間の流れもゆったりしていました。
無意味のような時間が、一番充実していたのです。
節子は、私にとって生きる意味を与え、生き方を考えさせてくれる存在でした。
それは、いまもなおそうです。
「神と一緒に過ごす豊かな時間」
私がいま、欠いているのは、それなのかもしれません。

■689:「愛する人の死〜あなたはどう乗り越えますか?」(2009年7月22日)
節子
今朝のNHKテレビ生活ホットモーニングで、「愛する人の死〜あなたはどう乗り越えますか?」を放映していました。
私はこの種の番組にどうも違和感があり、いつもは見ないのですが、今回はついつい見てしまいました。
番組の中で話があったのですが、東京都の調査では、夫や妻を亡くした人の8割が、不眠や疲労・食欲不振など何らかの症状を訴えているそうです。
8割というのは驚きでした。
その症状の中に、「肩こり」というのが確かかなり高位に出ていました。
実は、私は節子がいなくなってから、尋常でない肩こりを体験しています。
今はだいぶよくなりましたが、夜中に目が覚めるほどの痛さを感ずることもあります。
もしかしたら、節子が肩に乗っているのではないかなどと冗談に思ったことがありますが、もしかしたら冗談ではなく事実なのかもしれません。
医者に行こうと思っているのですが、なぜか行く気にならないのです。
おかしな話ですが、直前になって、行くのをやめてしまっているのです。

番組の中で、生活の変化に伴うストレスの度合いが紹介されていました。
伴侶の死が最高でした。
それに比べて、親密な家族の死は、その三分の一だそうです。

番組では、伴侶との別れをさまざまなかたちで乗り越えてきている人たちの紹介がありました。
すべて納得できましたが、すべてが私とは違いました。
伴侶との関係が人それぞれであるように、その越え方もそれぞれなのでしょう。
しかし、何よりも言葉にしてしまうと、どこかに違和感が生まれるのです。

一番こたえるのが、友人知人からの言葉だという人もいました。
ゲストのペギー葉山さんも、そういっていましたが、善意の無神経な言葉ほど傷つけられることはありません。

実は、私は、「伴侶の死を乗り越える」という言葉にも、実はその「無神経さ」を感じます。
なぜ乗り越える必要があるのかと思うのです。
乗り越えるとは、そもそもどういうことなのか。
過去ばかり見ていないで、前に向かって進めということでしょうか。
前に進むためには、伴侶の死を乗り越えないといけないのでしょうか。
そんなことはありません。
私は、節子との別れを乗り越えるつもりなど全くありません。
乗り越えてしまった先の人生には、全く興味がないからです。

いささかひねくれていますが、それがこの番組を見ての私の感想でした。
登場していた人たちと、私は、やはり異質の世界にいるのかもしれません。

■690:生と死は対語ではありません(2009年7月23日)
節子

昼食を、10年ぶりに訪ねてきてくれた弁護士の友人とご一緒しました。
死刑制度の話になりました。
彼は死刑制度肯定の立場、私は否定の立場です。
彼に、死刑を執行する立場に立たされたら、私にはボタンが押せないので死刑制度に反対だ、といいました。
彼は押せると言いました。
ほんとうでしょうか。
彼はとても心やさしい人ですし、自分の人生を大切にしている人です。
もしかしたら、まだ大切な人を失ったことがないのかもしれないと思いました。
大切な人を失うことがないと、問題を論理で考えがちなのです。
しかし大切な人との別れを体験すると、論理など瑣末に感じます。
問題を極めて個別に考えられるようになるのです。

実は、今朝、自死遺族関係の組織の方から電話がありました。
「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」のホームページに関して、あることでお叱りを受けました。
明らかに非はこちらにあることがわかりました。
すぐに対応させてもらいましたが、その過程で当事者意識への配慮不足を強く感じました。
当事者の感受性に関しては、私も最近それなりにわかってきているつもりでしたが、問題がちょっと違うと見えなくなるのかもしれません。
心しなければいけません。

この2つは、たまたま同じ今日の出来事というだけで、関係のない話です。
しかし、このおかげで今日は改めて、死について少し考えさせられました。
自死、事故死、病死、死刑による死、それらは同じものなのかもしれません。
すべて「不条理」です。
なぜ節子は私よりも早く死に行き着いたのか。
それは私にとっての「条理」を超えています。
しかし、最初から組み込まれている生のサブシステムと考えれば納得できます。

と、考えてきて、生と死は次元の違う言葉(概念)であることに気づきました。
生と死はよく対で語られますが、この2つは対語ではないのです。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。

死は生の一局面なのです。
「死」を超えていき続ける「生」。
以前、「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」ということを書いたことがあります。
まさに、「死」とはもっとも進化した「生」の局面なのです。
だからなんだ、それで愛する人は戻ってくるのか、と言われそうですが、戻ってはこないのです。
なぜかといえば、行っていないのですから戻りようがない。

話がだんだんややこしくなってきました。
でも、死もまた生、と考えると、少し気がやすまります。

節子
君がいたら、もう少しこの考えを消化できるような気がしますが、いまの節子は返事をしないので、だんだん話が固まってきてしまい、発展できません。
ややこしくなってきたので、今日はこれでおしまいです。
はい。

■691:愛する人との別れは世界を一変させます(2009年7月24日)
節子
今日はちょっと重い話です。

昨日からあるトラブルに巻き込まれていたのですが、そのおかげで、ある人と知り合いになりました。
知り合いといっても、電話で何度か話しただけです。
その人、田中さんといいますが、田中さんは、数年前に息子さんを亡くされました。
過労死に近い話かもしれません。
それが契機になって、同じような立場の人たちの集まりを始めたのだそうです。
それが、藍の会(仙台自死遺族の会)です。
そして、さらに全国各地の自死遺族の集まりのつながりとして、全国自死遺族連絡会が生まれたのだそうです。

そのホームページを見てほしいといわれたので、見せてもらいました。
そこに、田中さんがお書きになった「息子への手紙を書いてから」という文章がありました。
そこに書かれている田中さんの思いは、私の思いにつながっていました。
もしよかったら、田中さんの文章を読んでください。
藍の会のホームページの項目の冊子「会いたい」に出ています。
http://ainokaisendai.web.fc2.com/
田中さんは、その文章の中で、「二度とあの頃の感覚ではなくなっています」と書いています。
世界は一変したのです、
私もそうです。

昨日も書きましたが、事情はどうであれ、愛する人との別れは世界を一変させます。
おそらく愛する人との出会いもまた、世界を一変させるのでしょうが、それとは全く異質な変わり方のような気がします。
田中さんの文章を繰り返し読みながら、いろいろと思うことがありました。

いつかきっとまた田中さんにも会うことがあるでしょう。

■692:人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない(2009年7月25日)
節子
今日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会でした。
今回はテーマなしで、気楽に話し合ったのですが、とても刺激的で本質的な話し合いになったような気がします。
いつものように多彩なメンバーでしたし。

初めて参加した「若い僧侶」(もっとも彼は今は全く違う仕事をしています)が、「なぜ死んではいけないのか」という根本的な問題提起をしたのです。
いろいろと意見が出ましたが、ある人が「人には幸せになる権利がある」と言われて、死んではいけないことに気がついたと話しました。
彼女は、自らもまた自殺を試みたことのある女性です。

その言葉に刺激されて、ついつい私も話してしまいました。
節子のことを、です。
一人の人が亡くなると、周りの人たちがどれほど不幸になることか。
人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない、だから死んではいけないのだと話してしまったのです。
話しおわった後、話さなければよかったと思いました。
話してしまうとなにか私の実感とは違うものになってしまうのです。

おそらく同じ体験をした人でなければ意味がわかってもらえないでしょう。
私は、コムケアの活動を通してさまざまな福祉活動に関わってきましたが、当事者と支援者との微妙な気持ちの違いが、このころとても強く感じるのです。
いわば、彼岸と此岸の違いですが、最近、私自身が彼岸に来ているのを実感します。
自らの弱さに気づいた時に初めて、人は強くなれるのかもしれません。

初対面の人もいる人たちの前で(節子を知っている人は一人しかいませんでした)、節子の話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれません。
もちろん妻を見送ったとしか話しませんでしたが、あやうくまた涙が出そうでした。
やはり人前で節子の話をするのはタブーにしなければいけません。

節子
私を不幸にさせないために、節子がどんなにがんばったか、よくわかっています。
生きるために、節子が壮絶な時間を過ごしてくれたことを私は決して忘れません。
それに、私を不幸にしてしまいましたが、それを数倍上回る幸せを節子は私に与えてくれましたので、相対的にいえば今も私は幸せです。
でも幸せでなくてもいいから、やはり節子がいたほうがいい、というのが本音ではありますが。

■693:怠惰でもないのですが時間破産です(2009年7月26日)
節子
今日はついに時間破産に陥ってしまいました。
なぜこんなにいろんなことをしなければいけないのだろうかと、つくづく思います。
節子がいつも、修さんは何でそんなに引き受けてきてしまうのと言っていたことを思い出します。
まあ自分の能力以上のことを引き受けてしまうのは私の昔からの悪い癖です。
節子や家族は、そのためにどれほど迷惑を受けたことでしょうか。
この頃、ようやくそのことを反省しだしていますが、最近、またそうした悪癖が出てきてしまっています。

と言っても、節子が元気だったころに比べれば、引き受けている量は桁違いに少ないだろうと思います。
要は私の処理能力が低下したのと、怠惰に過ごす時間が増えただけなのです。

今日はホームページの更新日でもありましたので、なんとか更新しました。
この2年、手抜きの更新になっていますが、更新だけは毎週やっています。
挽歌は毎日です。
さぼるわけにはいきません。
さて今日は何を書きましょうか。
もう少し待てばきっと書くことが浮かんできますが、実は今日中にまだやらなければいけないことがいくつかあります。
それで今日はここまでで挽歌にしてしまいましょう。

こうした状況になった時の私の状況を知っている節子は、許してくれるでしょう。
大変ね、といいながら、相変わらず要領が悪いわね、と笑っている節子の顔を思い出します。
困ったものです。

■694:惑うことなく、惑えた幸せ(2009年7月27日)
誰しも心の中には何人かの自分がいます。
心の中にある「思い」のネットワークが、バランスしながら、日々の言動を具現化しているのだろうと思いますが、そのバランスをとる要(かなめ)は多くの場合、自分の心の外にあります。
自己同一性とも訳される「アイデンティティ」という言葉がありますが、これも「社会のなかでのポジショニング」と考えられ、関係性の概念であることはいうまでもありません。
そこを勘違いしてしまうと、アイデンティティはわかりにくい概念になってしまいます。

私の場合、アイデンティティを具現化させる基準は「節子」でした。
節子との距離感や会話(価値観)のやりとりの中から、自分の言動を相対化させ、私の心身に内在する多様な価値観を構造化できていたように思います。
踏み外れるほどに大きく外側に揺れても、戻ってくる目印があったのです。
ですから私は思い切り自分の考えを飛躍させられました。
戻るところは、節子と共有できている世界でした。
節子が許容できる世界と言ってもいいでしょう。
道がなくなったら、そこに戻ってくればよかったのです。
ですから、惑うことなく、惑えたのです。

ところが、その節子がいなくなりました。
とても些細なことでも、自分だけでは判断に迷うことがあることに気づきました。
人生にはさまざまなことがあります。
一つひとつは些細なことなのですが、これまでずっと節子との話し合いの中で決めてきたために、「決める」と意識することもなかったのです。
それに、ただ「決める」だけでは終わりません。
決めたらそれに沿った行動をしなければいけません。
つまり行動が決めることと一致していたのです。
節子がいなくなったために、決めたら自分でやらなければいけません。
そのため決定を延期し、やるべき作業が溜まっていくわけです。
そしてある時、面倒だからもうやめようと言うことになってしまう。
そして自己嫌悪に陥り、滅入ってしまうのです。

日常の暮らしの中で、私たちは周りの人たちとたくさんの問題をシェアしています。
シェアしていればいるほど、私たちの暮らしは安定します。
しかしシェアしにくい問題もあります。
そうしたことが、これまで何気なく(無意識のまま)節子とシェアできていたことが、私の言動を安定させていたことに最近気づきました。
ということは、最近はそれができていないので、あんまり安定していないということです。

最近またどうも精神が安定しません。
これはどうも「暑さ」のせいではなさそうです。

■695:自分をさらけ出すことの効用(2009年7月28日)
節子
根本さんにもらった朝顔が部屋の窓のところまで伸びてきました。
そういえば最近根本さんから連絡がありません。
どうしたのでしょうか。
「便りがないのは元気な証拠」という言葉がありますが、実際には「便りがない」ことは心配の材料です。
元気だといいのですが。

インターネットの普及で、「便り」はコストも時間もかけずに送れるようになりました。
ですから、「便りがないのは元気な証拠」とは必ずしも言えなくなってきたように思います。

私の場合は、このブログやホームページで自らのライブな状況をさらしていますので、個別の便りはほとんどしなくなってしまいました。
自分をさらけ出しておくことで、気分的にはとても生きやすくなります。
いささか自分勝手な発想ですが、みんなが見ていてくれて、いざとなったら支えてくれるだろうと思えるからです。
実際に、そうしたことは時々起こります。
支えられていることを実感できることは、とても幸せなことです。

私の周りには、私と同じように自分の生活をブログに書いている人もいます。
そうした人に関しては、時々、そのブログを読むと状況がわかりますので、便りがなくとも安堵できます。
ということは、自分の生活をさらけ出すということは、周りの友人知人に安心させるという効用があるということになります。

私の大きなテーマは「支え合いの文化の回復」です。
節子はそのことをとても理解してくれていましたから、私が会社を勝手に辞めても、借金が増えても、いつも何も言わずに応援してくれていました。
病気になってからでさえも、修さんのやりたいことの邪魔をして悪いわね、と言うほどでした。
節子は、まさに身をもって私の支え合いづくりを支えてくれていたのです。
それが、私のモデルになっています。
つまり、自らを相手にさらけ出せば、自ずと支え合いの芽が育ちだすというわけです。

根本さんはどうしているでしょうか。
メールを出してみました。
そうしたら、他にも気になる人が出てきました。
今日は用事があって在宅なので時間があります。
たまにはこうやって、気になる人にメールすることも大事ですね。
そういえば、これも節子がよくやっていたことです。
節子はメールではなく、ハガキでしたが。

■696:オフィスとサロンの復活(2009年7月29日)
節子
思い切って湯島のオフィスを片付けだしました。
とりあえず電話を開通させたのですが、そこでストップしていました。
今日、何となく湯島で空の雲の流れを見ていたら、節子だったらきっともう動き出しているだろうなと突然思いました。
今日の雲の動きは、穏やかに、しかし速いのです。
それで複写機の修理を頼むことにしました。
メンテナンス会社の人が来て、複写機を持ち帰りました。
持ち帰った後のがらんとした様子を見ていたら、無性にさびしくなりました。
そういえば、こうしたがらんとした部屋を2人で掃除をして荷物を運び込んだのです。
急に掃除をする気が出てきました。
書類を整理しだしました、
山のような書類を捨てることにしました。

しかし一人でやっていると疲れます。
案の定、途中でダウンしました。
節子がいないと何をやっても続きません。
でもオフィスを復活させる気力が出てきました。

実は今日は「支えあいサロン」をやる予定です。
毎月やっているサロンの一つですが、久しぶりに節子の知っている、昔のオープンサロンの常連が何人か来ます。
昨日までは10人弱の申し込みでしたが、今日になって4人も申し込みがありました。
久しぶりに賑やかなサロンになりそうです。
節子がいたら花を活けてくれ、軽食を用意してくれるのでしょうが、花もなく、軽食も近くのコンビニで買ってきたものです。
節子は、サロンの時には上野から汗をかきながらいろんなものを買ってきてくれました。
そういえば、あの頃は会費もありませんでした。
初めてやってきた人が会費もなくてビールが飲み放題と言うのはおかしいといいました。
私たちはやはりどこかで常識を欠いていたのです。
しかし、提供できる人が提供するのは、理に適った行為です。
最近は貧しくなったので、500円、会費をもらうことにしました。
そのくせ、ビールはなくて、お茶とコーヒーです。
またあの人が来たらおかしいというでしょうか。
私のルールは、払える人が500円置いていくというルールなのですが、これもおかしいという人がいました。

節子と私の常識は、どうも世間の常識から少し外れていたのかもしれません。
一人になると、何だか自分が間違っているような不安に襲われます。
困ったものです。

■697:「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある」(2009年7月30日)
数日前に、「人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない、だから死んではいけない」ということを書きました。

その後、ある人から、「人を不幸にする権利はない」という表現に違和感があるとメールをもらいました。
節子との体験のなかから実感していた、そこに込めた私の思いをお伝えしましたが、そのやりとりの中で、この言葉の持つ「トゲ」に気づきました。
「人を不幸にする権利はない」という表現は、批判の要素を持っています。
ですから、感受性の高い人や当事者に近い人は、ドキッとさせられるのかもしれません。
捉えようによっては、節子を批判することにもなりかねないわけです。
私の先のブログをきちんと読んでもらえれば、そうした誤解は避けられるかもしれませんが、それは書き手の勝手な要望ないしは弁明でしかありません。

こうした間違いを、この挽歌でもこれまで何回も繰り返してきているのでしょう。
まだまだ配慮が足りません。
自分の勝手な「言葉の世界」に安住しているのかもしれません。

ところで、先の言葉ですが、トゲを抜くにはどうしたらいいか。
「人を不幸にする権利はない」ではなく、「人を幸福にする権利もある」というほうがいいですね。
ですから、こういう表現になります。
「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある、だから死んではいけない」。
ちょっとイメージが曖昧になって、意味不明になりそうですが、繰り返しこの言葉を声に出して読んでください。
きっと元気が出てきます。
そして、人は本来周りの人を幸せにしてくれる存在であることを思い出させてくれます。
生まれたての赤ちゃんがみんなを幸せにしてくれたように。

節子はいなくなってしまったけれど、今も死んではいないのです。
私や娘たちに、幸せを送り続けていてくれるのです。
節子が、私を幸せにするために、どんなにがんばったか、私にはよくわかっています。
私もがんばらなくてはいけません。

■698:任侠の世界の人との奇妙な一晩(2009年7月31日)
節子
今日は福井に来ています。
節子との最後の旅になった芦原温泉近くの六呂師高原温泉です。
昨日の時評編に書いたのですが、昨夜、このブログにも時々、登場する daxさん(daxさんと書くと何だか彼のイメージと違うので以下「さん」なしにします)の運転する自動車でやってきたのです。
この歳で、夜行の自動車はいささか辛いですが、daxと同行することにはちょっと魅力がありました。
それでdaxの誘いに乗ったわけです。

ところでなぜ福井に来たのか。
しかも任侠の世界の人だったdaxと同道したのか。
これは書き出すと長くなりますが、私たちをつなげたのは東尋坊の茂さんです。
今日と明日、一度は自殺を考えた人たちの集まりをここでやるのです。
私は当事者ではないのですが、会を企画した「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」の事務局を引き受けた関係で来ざるを得なくなり、しかも私が行かないと俺は行かないというわがままなdaxの誘いに屈してしまったために、こういうことになったわけです。

節子がいたら話したいことが山ほどあります。
節子ならきっと笑い転げるほど面白がるでしょう。
第一、ひ弱な私と迫力のある彼とが並んでいるだけでアンバランスです。
しかし、節子なら、そのアンバランスの向こうにある私たちの共通点をきっと見通したことでしょう。
まあ、daxはそんな人なのです。

久しぶりの高原ですが、あまり来たくなかった理由は、節子を思い出すからです。
daxにそんな弱みを見せるわけにはいきません。
彼の言葉を使えば、ここは「男前」を守らなければいけないのです。
しかしまあ、daxはお見通しでしょう。
なにしろさまざまな場を体験し、人生の機微を肌身で知っているひとですから。
まあ、daxからはいろいろな気づきをもらえます。

肝心の合宿の話はまたどこかで書くようにします。
これも実にたくさんのことを気づかせてくれました。
誠実に、しっかりと自分の人生を生きてきた人たちからは教えられることがたくさんあります。

■699:死と向き合う(2009年8月1日)
昨夜は六呂師高原温泉で泊まりました。
一度、死に向かいあった人たちの集まりは、最初は重い感じでの始まりでしたが、話しているうちにみんなの心も開けだしました。
心が開きだせば、むしろ絆は一挙に深まります。
それにしても、この2日間は気づくことの多い集まりでした。
頭での知の気づきではありません。
心身での生の気づきです。
テレビや新聞の取材関係者もかなり来たのですが、彼らも含めてすべて一緒に扱うことにしました。
こういう集まりもめずらしいでしょう。
しかし、みんな同じ人間なのですから、当然といえば当然です。
私の好きなスタイルです。

しかし、こうした大勢での集まりが苦手な人もいます。
会場に座っているだけでもストレスがかかるのです。
それに、参加者のリズムがそれぞれ大きく違います。
状況にあわせて、それこそ「カジュアル」に進行させなければいけません。
思いもしなかった事態も起こりましたが、そうしたことに慣れている人も何人かいましたので、結果的にはすべていい方向に向いたように思います。
またホームページや別のサイトでもう少し詳しく書くつもりですが、私には刺激的な2日間でした。

私は参加者の全員と話すことができました。
長く話した人もいますし、一言二言だけのやり取りだった人もいますが、それぞれに心に残る人たちばかりでした。
人生を誠実に生き、一度は死を試みた人の語りは、言葉の奥にたくさんの思いが詰まっています。
それが、私にも強く響きます。
節子のことがなかったら、その響きは頭にしか入ってこなかったかもしれません。
私も単なる一方的な「善意の支援者」になってしまったかもしれません。
しかし、節子のおかげで、一人ひとりの思いが痛いように伝わってきます。
涙にも冷静に対応できます。
そして遠慮せずに、軽口もたたける自分に気づきました。
人は一度、死に直面すると変わるものです。
そんなことをつくづくと思いました。

職人のHさんは、最初話もできませんでしたが、最後にはとてもたくさんのことを話してくれました。
彼にはまた数年後に会いたいと思いました。
料理人のTさんにはいつか料理を食べさせてもらう約束をしました。
Sさんは、自分の苦しさにもかかわらず、誰か同じような人がいたら応援したいと最後に言ってくれました。

たくさんの感動と喜びの2日間でした。
節子にじっくりと話を聴いてもらえないのが、とても残念です。
喜びと同時に、実は悲しさやさびしさも背負い込んできたのです。
一人でいいから、私にすべて任せていいと言ってくれる人がいてほしい、と言った人がいました。
その言葉は、心に深くしみこみました。
節子は、私のとっての、そういう人でしたから。

■700:「節っちゃんはきつかったね」(2009年8月2日)
福井に来た帰りに、敦賀にいる節子の姉夫婦の家に寄りました。
節子と一緒に、年に1〜2回は私もお世話になっていました。
西と東に別れていましたので、若い頃はなかなか会う機会も少なかったのですが、それぞれが子育ちから解放され、仕事からも解放されるにつれて、節子たち姉妹の交流は増えてきていました。
性格はかなり違うように思いますが、仲の良い姉妹でした。

和食のお店を予約していてくれたのですが、節子の気に入りそうなお店でした。
魚三昧でしたが、とても美味しい鯛の兜煮が出ました。
節子は金目鯛の煮物が大好きでしたが、私がそう思っていたら、やはりその話になりました。
みんな思うことは同じなのでしょう。

義兄が「節っちゃんはきつかったね」といいました。
姉が、「私にはとても言えないことを言ってくれていた」と同調しました。
知らない人が聴いたら、節子の悪口に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
節子は、自分の身内や関係者には遠慮せずに物言う人だったという意味です。
まあいつもは遠くにいるので、言えたという面もありましたが、節子は思ったことをわりとはっきりと言う人でした。
身内だけではありません。
たとえば、近所に悪さをする子供がいれば注意するということもありました。
もっとも誰にでも言えたわけではなく、私の関係の親戚や友人にはほとんど何も言いませんでした。
その理由は簡単で、私のほうが「きつかったから」です。
後で、節子から言いすぎだと怒られることはしばしばでした。

しかし、その一方で、相手の親族や友人には、逆にかなり寛容で受容的でした。
ですから、節子はわが両親からは「良い嫁」であり、私は節子の両親からは「良い婿」だったのです。
念のために言えば、「仮面」をかぶって装っていたのではありません。
身内に厳しいことと、他者に優しいこととは、同じコインの裏表です。
そして、そうした生き方が、とても生きやすい生き方であることを私たちはよく知っていました。

そうした点で、私たちは「似た者夫婦」だったわけです。
どちらかがどちらかに影響を与えたのではなく、最初からそうした性格でした。
鯛の兜煮を食べながら、そんなことを思っていました。

それにしても美味しい兜煮でした。
福井県のJR敦賀駅の商店街にある「建」というお店だったと思います。

節子が戻ってきたら、連れて行きたいと思います。

■701:小浜の妙楽寺の千手観音(2009年8月3日)
節子
昨日、福井の小浜に行きました。
鵜の瀬と羽賀寺に行きたかったのです。
いずれも、以前、節子と一緒に行ったところです。

小浜は、奈良までつづく「かんのんみち」の始まりのまちです。
東大寺の二月堂のお水取りには、ここからお水送りされるのです。
その時には遠敷川の鵜の瀬の水位が下がるのです。
その場所をもう一度見たくなったのです。
ところが、私の記憶にあった鵜の瀬の風景と全く違った風景がそこにありました。
私の記憶にある鵜の瀬は、瀬の中に小さな鳥居があるのですが、いくら探してもありません。
資料館にいた古老に訊いたのですが、この風景は変わっていないというのです。
その上、お水取りで水位が下がる話も知らないというのです。
なにやらパラレルワールドの鵜の瀬にきたような気分になってしまいました。

実はこうした体験は、節子がいなくなってから時々あるのです。
私の周りの世界は、もしかしたら異次元世界にスリップしたのかもしれません。

しかし羽賀寺は、記憶どおりの観音でした。
ここの十一面観音は小浜で一番の観音だと思いますが、お参りする人もおらず、在所の人が退屈そうに番をしていました。
お守りしていて気持ちは変わりますか、といかにも誤解されそうな質問をしたのですが、穏やかそうな表情の方でした。
誰もいない本堂で、仏たちと一緒にいるときっと自分がよく見えてくるのではないかと少しうらやましい気持ちがしました。

せっかく小浜まで来たので、まだ行ったことのない妙楽寺も訪ねてみました。
ここには24面の千手観音がいるのです。
写真では見ていましたが、実際にはお会いしたことがなかったのです。
壊れそうな、いや壊れかけた寂れた本堂でした。
案内する人もいなかったので、観音の前でしばらく休んでいました。
そのうちに、千手観音の顔が、どこか初めて会ったころの節子に似ていることに気づきました。
もちろん節子のほうがずっと美人なのですが、どことなく似ているのです。
そっと声をかけてみましたが返事はありませんでした。
そういえば、千手観音の前に見たこともないような文字が書かれていました。

朝、急に小浜に行きたくなったのですが、もしかしたらこの千手観音が呼んでくれたのかもしれません。
そして、お前のいる世界はもう変わったのだよと教えてくれたのかもしれません。
私はまだ「今生」にいるのでしょうか。

■702:今生に生きながら、なお彼岸にも生きる(2009年8月4日)
昨日、私はまだ「今生」にいるのでしょうか、と書きました。
これは決して冗談ではなく、かなり私のいまの感覚なのです。
自らの死に気づかなかった男の物語「シックスセンス」のようなことではありません。
そうではなくて、世界の意味が一変し、現実感がなくなってきたということです。
言葉や知識だけの人の言葉は奇妙に通り抜けていき、逆に誠実な生に向かっている人の言葉には不思議な重さを感じるのです。
これは、これまでとはかなり違った感覚なのです。

先週末の福井での合宿で、それを改めて強く意識しました。
身体の向こうに、その人たちの気配が見えるのです。
その気配は、おかしな話ですが、自分でもあるのです。
媒体となっている他者は、むしろ煩わしく、実は私の発話の対象は自分に向かっているような気になることもあります。
ですから、ある意味での独り言に近く、時に饒舌になり、時に寡黙になります。

今生への未練が実感できないことも、そうした感覚につながっています。
なにか血の通った生死ではなく、無彩色の生死感があるのです。
節子がいなくなって、私の生き方の根底で、なにか大きな変化があったような気がします。
言葉では説明できませんし、自分でもしっかりとは認識できませんが、私も含めて世界が変わったことは間違いありません。
いささか気取っていえば、「今生に生きながら、なお彼岸にも生きる」という感じです。

そういう世界では、いわゆる俗世の価値観は瑣末な話になります。
かつての楽しみや歓びは、いまではあまり意味のないものになり、自分を動機づけることもなくなりました。

こうした不思議な感覚の世界を、昔、どこかで見聞したような気がしていたのですが、今朝、それがなんだったか気づきました。
光瀬龍の「宇宙年代記シリーズ」の作品を流れる世界です。
私が最初に読んだのは、「墓碑銘2007年」でしたが、その不思議な世界にしばらくはまってしまっていたことがあります。
私が光瀬龍の世界から抜け出したのは、節子と一緒に暮らしだしてしばらくしてからです。
節子の世界は、光瀬龍の世界とは対極の、単純で明るい世界でした。

愛する人の存在は、世界を閉じてしまうのかもしれません。
閉じるのではなく、構造化してしまうのかもしれません。
いずれにしろ、世界を単純化し、見えやすく、明るくしてしまうのです。
その節子がいなくなって、また私の世界が混沌とし、彼岸とつながったのかもしれません。

しかし、彼岸とのつながりはさほど感じません。
たしかに節子との距離感はあまりないのですが、彼岸が見えるわけでもありません。
ですから、節子がいなくなった寂しさに、ただ心が萎えているだけのことかもしれません。
しかし、心は萎えても、その感受性は強まっています。
感受性が強いことは、生きにくいことです。
見えないものまで見えてくるのですから。

心が萎えると感受性が高まる、というのもおかしな話かもしれませんが、私の場合は間違いなくそんな気がします。
なにやらまた未消化のまま、わかりにくいことを書いてしまいました。
きちんと書こうと思うと1冊の本になりそうですが、きちんと書くほど、まだ見えているわけではありません。
ただ不思議な気配を感じてはいるのですが。

■703:3万年くらいなら飽きない自信、飽きさせない自信(2009年8月5日)
節子がいないせいか、暇なことが多いです。
正確にいえば、暇ではないのですが(やるべきことは山積みです)、なぜか実際には時間をもてあそぶことが多いのです。
忙しいのに暇が多い、ということはわかってもらえないかもしれませんが、今の私は実際にそうなのです。
そういえば、徒然草を書いた吉田兼好は結婚否定論者でした。
だからこそ、徒然なる時間が山のようにあったのでしょう。
暇な時間の不安をなくすには、何かを書くのが一番です。
そう考えると、この挽歌も、私にとっての徒然草ともいえそうです。

兼好法師は、「徒然草」190段にはこう書いています。

いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。
女のためも半空にこそならめ。
よそながらときどき通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬなからひともならめ。

現代語訳するとこうなります。

どんなにすばらしい女性でも、いつも一緒にいると、疎ましく、嫌になるだろう。
女性にとっても不安な状態だと思う。
お互い、別のところに住んでいて、時々会うようにしていれば、いつまでも縁が切れない仲になるだろう。

兼好法師の結婚観は私とは全く違います。
非日常の世界でこそ女性は魅力があり、「妻」として日常的な場の中に導き入れてはいけないというのです。
要するに、彼は日常の中に非日常を見つけられなかった、退屈な人だったのです。
日常と非日常は折り重なっていることに気づけば、彼も結婚したかもしれません。

一緒にいればこそ、相手の深い世界が見えてきますし、ふたりで全く新しい世界を創発させていくこともできます。
私は、節子といつも一緒にいて、疎ましいとか、嫌になったりしたとかいうことは一度もありません。
むしろ毎日が新鮮でした。
そういう気になったのは、一緒に暮らしだして20年ほど経ってからですが。
節子には時々話していましたが、節子と一緒であれば、3万年でも飽きることはなかったでしょう。
節子自身は、3万年までの自信はなかったようですが、私には3万年くらいなら節子を飽きさせない自信はありました。
この挽歌も3万年くらいであれば、書き続けられるでしょうが、飽きっぽい節子のことですから、読みはしないでしょう。
おそらく、もう飽きたとこの挽歌も読んでいないでしょう。
困ったものですが、それがまた節子の魅力でしたから、仕方がありません。

■704:田中さんの表札には象が描かれるようです(2009年8月6日)
節子
ネパールのチューリップの写真を送ってくれた田中雅子さんがやってきました。
CWSコモンズにカトマンズ便りを投稿してくれていた田中さんです。
パートナーの定松さんも帰国され、日本での生活に入ったそうです。
節子は、いつも田中さんの話を聴くたびに、小柄な田中さんのどこにそんなすごいエネルギーがあるのだろうと不思議がっていました。
田中さんに会う度に、そのことを思い出します。

田中さんは、今日は、娘のところにスペインタイルの注文の打ち合わせに来たのです、
日本に住むことになったので、表札をつくるのだそうです。
デザインには、なぜか象を入れるようです。

表札のデザインの打ち合わせが終わった後、いろいろと話を聞かせてもらいました。
田中さんは、いま、アジア女性資料センターに運営委員として関わっているようです。
そういえば、昨日、東京で「オンナ・ハケンの乱」というデモ活動があったのですが、そのデモにもアジア女性資料センターは賛同団体になっていました。
田中さんは、この15年ほど、海外で活動していましたので、日本のNPOやNGOとの交流は少なかったかもしれません。
そのせいで、いろいろとカルチャーギャップも感じているようです。
お話を聴いていて頷くことばかりでした。

私が田中さんの活動の姿勢に共感したのは、田中さんたちが出版した「続入門社会開発」を読んだからです。
地に足つけて生活者を基本に置いた発想は、舞台こそ違い、私が基本にしたことでした。
それに、節子と田中さんとは、全く別の舞台の人でしたが、私にはどこか通ずるものを感じていました。
だから節子は田中さんの活動に驚異を感じていたのかもしれません。
通じたところのない活動には、人は驚異を感じないものです。

さてさて田中さんが帰国した後、ネパールのチューリップはどうなるでしょうか。
元気で増えてくれるといいのですが。

■705:伴侶こそ人生の羅針盤(2009年8月7日)
節子
昨日、10年前に会社を辞めて起業したNさんといろいろ話しました。
節子を元気にするために、気が高まるエッセンシャルオイルをプレゼントしてくれたNさんです。
昨日は新しい事業展開の相談の予定だったのですが、予定していたもう一人の人が急に来られなくなったので、個人的な話になりました。

Nさんのお父さんは55歳で亡くなりました。
がんでした。
まだ20代前半だったNさんは、毎日のように入院先の築地のがんセンターに通ったそうです。
その体験がNさんの死生観を育て、人生の有限性を心に刻んだようです。
Nさんに会った最初から、うまく言い表せない不思議な雰囲気を感じていたのですが、その理由がわかったような気がしました。
Nさんは、今も毎月1回、静岡のあるお寺に行って、住職と話をしながら自分を見直す時間を持っているそうです。
寺で静かに座禅しているNさんの姿が目に浮かびます。

私は、仕事であろうと仕事でなかろうと、私の生活のすべてを節子に話していました。
節子もまた、すべてを私に話していました。
お互いに、話しながら自分の生き方や考え方を育ててきたのかもしれません。
Nさんは、それとは対照的に、奥さんには仕事の話は一切しないそうです。
しかし、時々、奥さんの何気ない一言やアドバイスが、自分の行動を軌道修正してくれると言います。
話すか話さないかの違いはありますが、その点では私とNさんは同じかもしれません。
伴侶が自分の行動の、ある意味での羅針盤の役割を果たしてくれているわけです。
それに一緒に暮らしていれば、話そうと話をしなかろうと、お互いに分かりあっているものです。
話がないほうが、むしろ心情が伝わっているということもあります。

話すことの効用は、もうひとつあります。
自分の心の不満や未練を放出する効用です。
日常的に放出していれば、心身にはよどみはできません。
日常生活の中で、みんな小さな不満や未練をかかえこみます。
一つひとつはとても小さく、意識することもないかもしれませんが、それを溜め込んでいるといつか大きな不満や悩みになりかねません。
そうならないために、日常的にそうした小さな不満や未練を口に出すことが大事です。
ほとんどのことは、誰かに聞いてもらえるだけで解消します。
いや、聞いてもらえなくても、口に出すだけでいいのです。
口に出せば、少なくともお天道様が聴いてくれるでしょうから。
Nさんは、時々、独り言をするといいます。
独り言するくらいなら奥さんに話をした方がいいと思いますが、それもまた人それぞれです。

Nさんが会社を辞めて10年間、起業家としてがんばってこられたのは、間違いなく奥さんのおかげです。
私もそうでした。
起業家としての生活と会社に雇われた生活とは、それこそ雲泥の差です。
サラリーマンは気楽な稼業といいますが、その気楽さの大きさは、辞めてみて初めてわかります。
昨今のサラリーマンは気楽ではないといわれますが、私には相変わらず気楽にみえます。
そういう人たちには、一人で仕事に取り組んでいる人たちの大変さはわからないでしょう。

私が節子にこれほど執着しているのは、もしかしたら会社を辞めて自分で企業経営をしていたからなのかもしれません。
節子は生活の伴侶でもあり、仕事の相談相手でもあったからです。
そしてなによりも、苦労を分かち合った仲間だったのです。
節子は、私には最高の友でした。

■706:いかにも節子らしい写真(2009年8月8日)
節子
仏壇に飾っている節子の写真を、病気以前の元気な節子の写真に変えようと思って、昔の写真を少し探してみました。
最近、やっと昔の写真を見られるようになったのです。
プリントアウトしたものではなく、パソコンの入っているものをスライドショーで見始めたのですが、1枚の写真に釘づけになってしまいました。
それは娘たちと伊香保の小さな湿原を歩いている写真です。
写真嫌いな娘たちは、なんとなくブスッとしているのですが、節子だけが木道の端の丸太の上に乗って、笑いながらバランスをとっている写真です。
いかにも節子らしい写真です。
これこそ私の心の中にいる節子です。
見ていると節子が話しかけてきそうです。
この写真をパソコンの壁紙にしました。
これから毎日この節子に会うことになります。

この旅行は節子が病気になってからですが、節子が元気を回復してきた時なのです。
家族みんなで、車で出かけましたが、節子も運転をしていました。
娘たちが写っているので躊躇したのですが、節子らしさが出ている写真なので、娘たちに無理を言って掲載させてもらいました。
この写真を見ていると、やはり、節子がこの世からいなくなっているとは信じがたいのです。

私がいまも気をしっかりと持っていられるのは、節子の死を受け容れていないからです。
いまなお節子は生きているという思いが、心のどこかにあるのです。
愛する人を失った人は、もしかしたら私と同じかもしれません。
愛する人がいない世界に、生きていられるはずがないと、みんなどこかで思っているのです。
つまり、自分が生きている以上、節子もまた生きていなければならないのです。
そういう思いがあればこそ、時々元気はなくなりますが、平静に生きていられるのです。
この感覚は、なかなかわかってはもらえないでしょうが。

今生と彼岸のいずれにも生きている感覚と、数日前に書きましたが、それはこんな気分なのです。

それにしても、写真の中に入り込めるならば、私もこの写真の中に入りたいです。
節子の笑い声が聞えてきそうです。

■707:楽しそうで、「希望」が見えます。(2009年8月9日)
昨日の写真を見た、お会いしたことのない読者の田淵さんからコメントをもらいました。
そのコメントの「楽しそうで、「希望」が見えます」という言葉に、涙がドッと出てきてしまいました。
田淵さんが書いてくださったように、節子はいつも私たちに「希望」を与え続けてくれていました。
しかも、それは決して偽りの演出ではなかったのです。
本人自身、その希望を確信し続けていたのです。
ほんとうは、希望を与えてやらなければいけないのは私のほうでした。
にもかかわらず、実際には私たちが節子から希望をもらっていたのです。
どんな時も、節子は明るく前向きでした。
そしてなによりも、やさしかったのです。

最後の長旅は、福井の芦原温泉でした。
姉夫婦との旅行でしたが、宿泊した旅館の温泉に行った後、となりの旅館の温泉にも行こうかという話になったのですが、その時も一番疲れているはずの節子が率先して行こうといいだしました。
愚かな私は、とてもうれしくなり、こんなに元気だったら必ず良くなると思ってしまったのです。
いつもそうでした。
節子は、決して私に心配させなかったのです。
いまから考えると看病されていたのは、私だったのです。
節子と話していると、いえ、一緒にいるだけで、希望が見えてくるのです。
だからこそ、私にとっては、節子は「生きる意味」だったのです。

写真を撮った伊香保温泉への旅行の頃には、節子はもう20キロ近く体重は減っていました。
お風呂に一緒に入ると、節子はこんなに痩せ細って可哀相だと言っていました。
思い切り抱き締めたくても、抱きしめたら壊れてしまいそうでした。
しかし、そんな痩せ細った節子も、心は決して痩せ細ることはありませんでした。
節子は、人生を誠実に、そして真剣に生きました。
それを一番良く知っているのは、私です。
だから涙が出て止まりません。

なぜ私ではなく、節子が選ばれたのか。
天を恨みたくなります。

■708:「愛のために自分を投げ出す」(2009年8月10日)
節子
昨日、むすめのユカのお薦めで、テレビで放映されていた「容疑者Xの献身」という映画を見ました。
むすめたちが2人とも、お父さん好みだというのです。
原作は東野圭吾です。
たしかに私好みの「探偵小説」風の作品で、謎解き気分で見ていましたが、やはり最後には節子のことと重なってしまいました。
まあ、何をやっても、どこかで節子の思い出と重なってしまうのは仕方がないことなのですが。

自殺願望を持つ主人公がちょっとしたことで生きる力を手に入れます。
そしてその「生きる意味」を与えてくれた母子のために自らの人生を投げ出すというのが、この映画のあらすじです。
そうした「愛のために自分を投げ出す」とことが、とても自然に心身に入ってきました。
それが、「愛」の本質でしょう。

小説(娘に借りて今日読みました)でも映画でも、最後は同じです。
留置所に連行される車に乗ろうとした主人公の前に、彼が人生を投げ出して守ってやった相手が現れてこういうのです。
「あたしたちだけが幸せになるなんて・・・そんなの無理です。あたしも償います。一緒に罰を受けます、あたしに出来ることはそれだけです。ごめんなさい」
「愛」によって完成するかに見えた完全犯罪は、見事に「愛」によって崩れてしまうのです。
なんという皮肉でしょうか。
これもまた「愛」の本質なのかもしれません。

これだけの説明だとおそらく物語が見えてこないでしょうね。
中途半端な説明ですみません。

小説では、その言葉の後にこう書かれています。

うおううおううおう――獣の咆哮のような叫び声を彼はあげた。絶望と混乱の入り交じった悲鳴でもあった。聞く者すべての心を揺さぶる響きがあった。

映画でも同じ終わり方です。
映画はとてもうまくできていましたが、この場面だけは少し違和感がありました。
以前書いた警蹕(けいひつ)のことを思い出したのですが、私の感覚とはちょっと違っていました。
しかし、それが「言葉が生まれる前の発声」であることは伝わってきました。

節子と一緒に暮らしていた数十年、私は小説をほとんど読まなくなりました。
実際の生活の方にこそ、ドラマがたくさんあったからかもしれません。
日本の作家の小説を読んだのは何年ぶりでしょうか。
ユカから東野圭吾の本を借りて読んでみようと思います。
小説の中に、節子がいるような気がしてきたからです。

■709:生きることが各人に課す課題を果たす義務(2009年8月11日)
ナチスの強制収容所を生き抜いたフランクルのことは、何回か書いたことがあります。
挽歌523では、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」という、彼の言葉を引用させてもらいました。

最近また、迷いや悩みを抱えた人たちがオフィスを訪ねてくるようになりました。
以前ほどではないですが、いろいろな問題を持った人が相談に来るのです。
どうしてみんなやってくるのでしょうか。
私と話したところで、何かが解決するわけでもありません。
そういえば、よく、節子にもそうした疑問を話したことがあります。
節子は、あなたがみんなに声をかけるからじゃないの、と言っていましたが、決してそんなことはありません。
声をかけることもありますが、ほとんどは先方から声をかけてくるのです。
なぜでしょうか。

フランクルは、その代表作「夜と霧」で、こう書いています。

生きるとはつまり、
生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

人はそれぞれに役割を持って生まれてくる。
その役割を果たすことが、生きる意味だ、とフランクルはいうのです。
いろいろな人が訪ねてきてくれる。
もしかしたら、それこそ私の役割かもしれません。

私は、節子こそが私の「生きる意味」だとずっと考えてきました。
もちろん今もそう思っています。
しかし、私にはもう一つ「生きる意味」があるのかもしれません。
そういえば、節子は、私が誰かに会うことをいつも応援してくれていました。
疲れて会いに行くのが気の進まない私を、でもその人は待っているんでしょと押してくれたこともありました。
そして、何人もの人に会って死ぬほど疲れて帰宅する私を包み込むようにして、元気を回復させてくれたのです。
私が、仕事もせずにそうやって人に会い続けていても、節子は何も言いませんでした。
貯金がなくなっても、欲しい物が買えなくても、節子は私の生き方を変えろといったことはありません。
私が、働くでも遊ぶでもなく、わがままに生きてこられたのは、そうした節子のおかげです。

最近、またいろんな人がやってくるようになったのは、私に気が戻りだしたからかもしれません。
節子の応援はなくなったかもしれませんが、これが私の役割だとしたら、やめるわけにいきません。

でも時には、節子にこの疲労感を癒してほしいと思います。
他者の問題をささやかであろうとも引き受けるのは、ほんとうに疲れます。

■710:誰にも平等に与えられているのは「愛する心」(2009年8月12日)
節子
今朝の明け方、「ただいま」という声で目が覚めました。
もちろん部屋には誰の姿もありませんし、娘たちの声ではありません。
残念ながら節子の声でもありませんでした。
夢を見たのでしょうが、夢の記憶はありません。
ただ「ただいま」という声で目が覚めたのです。
その声があまりにもはっきりしていたので、応えなくてはいけないような気がして、「おかえり」と声にだしてしまいました。
誰かが聞いているような気がして応えないわけにはいかなかったのですが、「おかえり」には返事はありませんでした。
気がついたら、また眠ってしまっていました。
そして今まで、そのことをすっかり忘れてしまっていました。

それだけの話なのですが、そして節子とはつながらない話なのですが、挽歌を書こうと思ってパソコンに向かったら、急にそのことが思い出されました。
あれはいったいなんだったのでしょうか。

「ただいま」という声は男性の声でした。
そして、寝ていた私を起こすほどにはっきりしていたのです。
だれだったのでしょうか。
そしてなぜ「ただいま」なのでしょうか。

節子がいつか帰ってくるかもしれないという気持ちは、私の心の中にいつもあります。
頭ではそんなことはありえないとわかりきっているのですが、心はそうではありません。
願望でもなく、ただそういう思いが間違いなく心の中にあるのです。
その思いが「ただいま」という声を発したのかもしれません。

人を待つ。
それは「希望」を持つということです。
昨日のフランクルではありませんが、ここでも論理を逆転させることができそうです。
「人は希望があるから生きつづけられる」と私はずっと思っていました。
しかし、生きるということは必然的に「希望」を生み出してくれるのかもしれません。
そういえば、以前、希望について少し書き出したまま、途中で終わっていたような気がします。
その時はまだ「希望」を希望していただけだったのでしょう。
だから、考えがまとまらず書き続けられなかったのです。
いまも考えがまとまっているわけではありません。
しかし、ようやくフランクルの思いが少しわかりだしたような気がします。

愛する人を失ったとしても、愛する人がまだいないとしても、人を愛する心さえあれば、希望はだれにも生まれるのです。
つまり「愛する人を待つ」という希望です。

どんな人にも平等に与えられているのは「時間」だという人がいますが、私はそんな言葉は信じません。
時間ほど不平等なものはないと思っています。
誰にも平等に与えられているのは「愛する心」ではないかと、最近、気づきました。
もしそうであれば、人はすべて「祝福」されている存在です。
「ただいま」は、祝福の気づきの声だったのかもしれません。

今日はなぜか篠栗の大日寺に行った時のような疲労感が続いていました。

■711:戻ってきていた節子(2009年8月13日)
今日はお盆、節子が彼岸から戻ってくる日です。
迎え火にお墓には家族みんなで行きたいと思っていたので、娘が出かける前に無理をいってみんなで出かけました。
お墓は自動車で5分程度のところにあります。
迎え火をたいて、無事、節子は戻ってきました。
こうして節子が自宅に戻ってきたわけですが、今朝まで自宅にいた節子はどうなっているのでしょうか。
どうもこのあたりがいつもややこしいのですが、まあ深く考えるのはやめましょう。

と、ここまで書いてきて、昨日の「ただいま」の意味に、いまやっと気づきました。
せっかちの節子は、一足早く、昨日の朝、戻ってきたのです。
そうに違いありません。
そう考えると納得できます。

最近、少し寝不足が続いています。
それで今日はちょっと昼寝をすることにしました。
で思い出したのが、節子は病気になってから時々昼寝をしていました。
節子は若い頃から昼寝のできない人でしたが、わが家で一か所だけ眠れる場所を見つけたのです。
それは1階の廊下です。
わが家で一番涼しいところです。
その廊下に座布団を敷いて寝ていました。
それを思い出して、私もそこで寝てみました。
実は私もなかなか昼寝のできないタイプです。
でも廊下に横になってみたら、自然と寝てしまいました。
ところがやはりまた突然に目が覚めてしまいました。
節子の夢を見たのです。
なぜか節子はまな板に乗せた野菜を包丁で切っていました。
後姿が見えたので、私は節子の後ろにいるわけです。
節子も一緒に昼寝しないか、と声をかけました。
料理などしている時間はないのだから、という思いがあったのです。
節子が私の気配に気づいて振り向こうとした時に目が覚めてしまいました。
その後、またその意味がわからずに、ぼんやりと廊下で寝転んでいました。
どうやら1時間ほど寝てしまっていたようです。
私にはめずらしいことでした。

少し疲れがなくなっていたので、挽歌でも書こうかとパソコンに向かって、迎え火のことを書き出した途端に、昨日の「ただいま」の言葉を思い出したのです。
なんということのないことなのですが、私にはすべてがつながっているような気がしてなりません。
今日は節子と一緒にゆっくりしようと思っています。
でもどうやって過ごしたらいいでしょう。
姿が見えない人と付き合うのは、あまりなれていないので、節子を満足させてやれないかもしれないのが不安です。

■712:「火の路」(2009年8月14日)
そういえば、12日の新聞にお父さんと同じな前と年齢の人がでていたよ、とユカが教えてくれました。
「佐藤修」という私の名前は、よくある名前で、私自身何回も「佐藤修さん」に出会っていますが、誰だろうと思って新聞を探して読んでみました。
朝日新聞の夕刊に連載されている「ニッポン人脈記」に出ていました。
建築家の佐藤修さんでした。
松本清張と縁があった方です。

松本清張は日本の古代史を材料にした作品も書いていますが、その一つに「火の路」というのがあります。
朝日の記事によれば、その作品を書く時に、清張は取材でイランに行ったそうですが、その時にガイドしたのが、当時テヘラン大学で建築を学んでいた佐藤修さんなのだそうです。
それだけの話なのですが、これを読んで2つの節子との共体験を思い出しました。

「火の路」は、飛鳥時代の日本は古代ペルシアにつながっていたと考える歴史研究家が、イランを訪ねる物語です。
奈良の飛鳥には、いまも酒船石や益田岩船など謎の石造物が残っています。
それが古代ペルシア文明やゾロアスター教につながっているという話です。
清張がイランに行ったのは、その材料集めだったのでしょう。

その作品はNHKによってテレビドラマ化され、何回か連続で放映されました。
私たちは当時、テレビドラマはほとんど見ませんでしたが、なぜかこの番組だけは節子と一緒に見た記憶があります。
そして、なぜかそれをはっきりと覚えているのです。

私は、飛鳥が大好きで、何回も行きました。
もしかしたら、節子と結婚することを決めてから最初に行ったのは、飛鳥寺だったかもしれません。
家族みんなでも行きました。
飛鳥にはいろいろな思い出があります。

私が飛鳥に魅かれるのは、蘇我氏がなぜか好きだからですが、同時に飛鳥に散在する意味ありげな石のせいかもしれません。
飛鳥大仏も私には石の塊に見えて仕方がありません。
あれはどうみても日本の仏像ではありません。

ちなみに、節子の生家は滋賀県の高月町ですが、家がある集落は物部といいます。
物部氏は蘇我氏に敵対する氏族として学校では習いましたが、お互いに仲の良い親族だったという見方もあります。
もちろん私はその説の信奉者です。

話を戻します。
節子は歴史にはあまり興味を示しませんでしたが、なぜか「火の路」は毎週、2人で見た記憶があるのです。
間違っているかもしれませんが、確か主役は栗原小巻でした。
どうでもいいような話ですが、この新聞記事がいろいろなことを思いださせてくれました。

もう一つの共体験はゾロアスター経に関連する話です。
長くなったので、明日にします。

■713:ゾロアスター教神殿廃墟(2009年8月15日)
昨日の続きです。
節子と最後に行った海外旅行はイランでした。
イランの町はどこも神秘的な美しさを感じさせました。
特にアラビアンナイトのような美しさを感じさせたのはイスファハンです。
そこにあるイマーム広場は世界遺産としても有名ですが、私たちが行ったゾロアスター教の神殿跡があるのは、その近くのアーテシュガーというところです。
松本清張が訪ねたのは、もっと有名なヤズドの沈黙の塔ですが、アーテシュガーはほとんど単なる泥の塊です。

ゾロアスター教のことを拝火教ともいいますが、火を祀ります。
二月堂のお水取りも、ゾロアスター教の影響があるといわれていますが、日本各地にはゾロアスターを思わせるお祭はいろいろとあります。
私も小さな時から,火の魅力には引き込まれるほうでした。
幸いに放火魔にはなりませんでしたが、焚き火が大好きでした。
ゾロアスター教には奇妙な親近感を感じていました。
飛鳥に始まる日本の古代世界にもゾロアスターを思わせる話はいろいろとあります。
松本清張は、まさにそのことを小説にしたわけですが、その世界は実に魅惑的です。

アーテシュガーの神殿は小高い山の上にありました。
頂上には、たぶんかつては葬儀の場所だった跡がありました。
つい100年ほど前までは鳥葬の場だったと聞きました。
いまはもう廃墟になっており、節子の嫌いな泥の塊でしかありません。
節子は頂上まで登ってくれました。
体調はその時も実はあまりよくなかったのですが。
しかしあんまり関心はなかったようで、頂上や鳥葬の場での写真は私だけが写っていました。
節子が感動したのは、間違いなくイマーム広場です。
しかし私は、さほど有名ではない、このゾロアスター教の神殿廃墟の泥の塊のほうに感動していたのです。

朝日新聞の記事を読んで、その時のことが鮮明に思い出されたのです。
イランの旅はいろいろな出会いも含めて、思い出が山のようにあるのです。
書き出したら1冊の本になりそうです。
テレビでイランのニュースを見ると、いつも節子を思い出します。

■714:「公式の節子」は彼岸に戻りました(2009年8月16日)
節子には目いっぱい在宅してもらい、夕方、送り火で節子を送りました。
まあ送らなくてもよかったのですが、一応、ルールは尊重しなければいけません。
送らないと誘拐行為になりかねませんし。

こうして節子の帰省も何事もなく終わりました。
節子の親戚は関東にはいないこともあって、節子が帰省していたにもかかわらず、わが家への来訪者も少なく、今年は私の兄夫婦だけでした。
私も兄弟が一人しかいないので、いささかさびしいお盆ではありました。
それに娘たちは同居しているのです。

節子の両親は滋賀の人です。
私の両親は新潟です。
フォッサマグナ(日本列島を東西に題する分断する中央地溝帯)をはさんで、日本は東と西に分かれていますが、私たちが結婚した頃、その両側の西日本人と東日本人が結婚する比率は約1割だと本で読んだ記憶があります。
東日本人と西日本人の気質の違いなども、まことしやかに語られていました。

節子は私からみれば関西人でしたが、どこかで脱西日本人的な指向がありました。
私が節子を知った時、節子は不思議と西日本人の感じがしなかったのです。
前にも書きましたが、たった1回の奈良散策で、幼馴染のような親しみを感じました。
不思議なほど素直にお互いの心が通じたのです。
節子と40年以上、暮らしていて、節子が西日本人だと感じたことはありません。
もっとも娘たちは、節子のことを関西人だと言っていますが。
まあ確かに、そうした面はあるのですが、私には節子のすべてがまったく違和感がありませんでした。
もしかしたら、私も西日本人なのかもしれません。

しかしまあ、これはすべて今から考えてのことです。
夫婦は生活を共にするにつれて、似てくるものです。
似ていない夫婦がいるとしたら、たぶん生活を共にしていないのでしょう。
同じ考え方をし、しかしお互いに本音で注意しあえる伴侶がどんなに大事な存在だったか、この頃、改めて実感しています。

さて、お盆で帰省していた「公式の節子」は彼岸に戻りましたが、わが家に留まっている「私的な節子」はまだ在宅です。
精霊棚は片付けて、またいつもの位牌壇に変えました。
何だかこの方が落ち着きます。

■715:彼岸に乗って帰る牛を食べてしまいました(2009年8月17日)
節子
お盆が終わったらすっかりと秋になってしまいました。
今年はセミが鳴きだすのが例年に比べるととても遅かったのですが、このところ急ににぎやかになり、夏ゼミと秋ゼミが一緒に鳴いています。

ところで、昨日、送り火をたいて節子を送り出しましたが、とんでもないことをしてしまいました。
もしかしたら節子はまだ彼岸に届いていないかもしれません。

とんでもないこととは、節子が乗って帰るための「牛」を食べてしまったのです。
食べた後に気づいてのですが。
こういうことです。
精霊棚にはキュウリの馬とナスの牛を供えます。
急いでやってこられるように来る時は馬ですが、帰りはゆっくりと戻ってもらうようにナスで作った牛が用意される訳です。
今年は、わらでつくった馬と牛を用意し、それと一緒に野菜かごにキュウリとナスも供えていました。
わが家の節約家の娘たちは、少ししわの入ったナスを私のために「浅漬け」にして、ちょっと遅目の私の夕食に出してくれたのです。
送り火が遅くなったので、送り火をたく前にどうもナスは浅漬けにされたようです。
節子伝来の「ものを無駄にしない」文化なので節子も許してくれるでしょう。
しかし、そのおかげで節子は歩いて帰ったのかもしれません。
まあ健康のために歩くことはいいことです。

もっとも精霊棚には、もう一つナスがありました。
節子の友人の滋賀の勝っちゃんからの絵手紙です。
お盆に合わせるように絵手紙を送ってくれました。
見事にナスが描かれていますので、このナスで戻ってくれたかもしれません。
まあそういうことにしましょう。
勝っちゃん、ありがとうございました。

■716:「新しき いのちの揺らす 浮巣かな」(2009年8月18日)
節子
奈良の塚谷さんからお手紙をもらいました。
最近は「俳句」を楽しまれているようです。
最近も、「NHK俳句」(NHK教育テレビ番組)でタイトルの作品が特選句に選ばれたそうです。
http://www.nhk.or.jp/tankahaiku/haiku_tokusen/index.html

「新しき いのちの揺らす 浮巣かな」
その光景が目に浮かびます。
「新しきいのち」という文字と「浮巣」とが、見事に重なって、自然界に充満している大きないのちの波動を感じさせてくれます。
明け方とも夕暮れ時とも感じられますが、なぜか私には夕暮れのイメージが浮かびました。
たぶん塚谷さんは明け方をイメージしているのだろうと思いますが。

塚谷さんには節子は2回ほど会っていますが、塚谷さんは節子のことをとても気に入ってくれてお会いする度に節子のことをほめてくれていました。
今日の手紙にもこう書いてあります。

湯島の事務所でお元気なお二人にお目にかかり、いろいろなお願いを申し上げた日が懐かしく思い出されます。

塚谷さんは、東レ時代の私の先輩です。
その塚谷さんが突然湯島の事務所に訪ねてきてくださいました。
当時、塚谷さんはある会社の社長でしたが、その会社を変えていきたいという相談でした。
私が東レ時代に、そうしたことに取り組んでいたのを塚谷さんは見ていてくださったのです。
それでわざわざオフィスまで来てくれました。
その時は、まだ節子が元気で、オフィスに来ていたのです。
その仕事(新創業運動と位置づけました)は引き受けさせてもらい、塚谷さんの強いリーダーシップで見事に成功しました。
私はほんとうにささやかなお手伝いをしただけですが、とても感謝してもらいました。
もう塚谷さんは、その会社を引退しましたが、経済環境の悪い現在もしっかりと利益を上げつづけているそうです。
塚谷さんの植え付けた文化が根づいているのでしょう。
会社経営は小手先の技術ではなく、思想です。

その塚谷さんからのうれしい便りでした。
「新しき いのちの揺らす 浮巣かな」
節子ならば、素直に感動するでしょう。
その節子に怒られそうですが、何回かこの句を読んでいるうちに、いまの私の暮らしは、浮巣くらしに似ているような気がしてきました。
私の浮巣も、揺らされ続けて、壊れそうです。
闇が迫っているというのに、どうしたらいいでしょうか。
そうやって、そのものが含意するところを読み解きたくなるのが私の悪癖なのです。
節子の嫌いな私の性癖です。
まあ塚谷さんにも怒られそうですね。
困ったものです。

でも今日は、とても気持ちのいい句に出会えてうれしいです。
もう一度、素直になって読んでみましょう。
「新しき いのちの揺らす 浮巣かな」
やはり朝まだきの葦の湖畔ですね。
そんな気がしてきました。
節子もきっと安心してくれるでしょう。

■717:「愛」の行き着く先は「平安」(2009年8月19日)
節子
先日、「パトリオット」という映画をテレビで観ました。
アメリカの独立戦争を背景に、「愛する家族を守るために立ち上がり、やがて愛国心に目覚めてゆく男の姿」を描いた、メル・ギブソン主演の、いかにもアメリカ的な映画です。
「 」で書いたのは、映画解説のサイトからの引用ですが、「愛国心」に関する私の感覚とはちょっと違うので括弧でくくりました。

私が印象的だったのは、人は家族を持つと変わる、というメッセージです。
主役のヒーロー(ベンジャミン・マーティン)が、息子から「なぜお父さんは変わったのか」と訊かれ、「お母さんのせいだ」と答えます。
マーティンは、かつては原住民に対する残虐な兵士であり、戦争のヒーローだったのですが、農民として平穏な暮らしをおくるようになり、独立戦争が起こっても、それにも参加せずにいました。
そうした父を息子たちは、不満に思っていたのです。

愛する人によって人は変わる。
人は大義のために生きるのではなく、愛のために生きるというメッセージにきこえました。
愛国心も「大義」ではなく「愛」なのですから。

同時にこの映画は、愛のために人はいかに残酷になれるかもメッセージしています。
その「愛」が対象を失った時、人はどうなるか。
愛する息子たちを殺された時、彼はまた残虐な戦士に戻ってしまうのです。

途中、何回か目頭が熱くなりました。
タイトルの「パトリオット」(愛国者)のメッセージよりも、そこに登場する「友情」にです。
友情こそ、もしかしたら「無私」の愛なのかもしれません。
「愛」には平安と残酷が重なっていますが、やはり行き着くところは平安なのです。
改めてそのことを気づかせてくれる映画です。
マーティンは最後に「平安」を手に入れます。
それはアメリカの独立ではなく、自らの独立です。

私の人生観や信条は、節子によって大きく方向づけられたように思います。
節子に影響を受けたというよりも、節子との関わりの中で育んできたのです。
おそらくそれは、節子も同じだったでしょう。
信条や価値観を、そして人生を、一緒になって育んでいく存在がどれほど大切なのか。
それを失ったいま、痛切に感じます。
あまりに節子を愛しすぎてしまったために、あまりに節子と同調してしまったために、一人で生きる力を弱めてしまったのかもしれません。

時に、残酷さが首をもたげる中で、その暴走を抑えてくれているのは、娘たちであり、友人たちです。
そして何よりも、節子への愛かもしれません。
愛がなければ「平安」など期待すべくもありません。
今回の選挙を、節子はどう思っているでしょうか。

■718:自分の年齢を映し出す鏡(2009年8月20日)
節子
節子がいなくなったために、自分の年齢をきちんと自覚できなくなっているのではないかという気がしてきました。
きっかけは若い友人からのメールです。

この数年会っていないKさんに、ある集まりへのお誘いのメールをしたのです。
そこに、今、地元で2つのグループの立ち上げに取り組んでいることを書きました。
そうしたら、Kさんはこう書いてきたのです。

いまだに活動の立ち上げに関わっているその意欲、感服です。

彼はたぶんまだ20代でしょう。
出会った時はたしか大学生でした。
私と同じ我孫子の住民です。
地元でのあるイベントに協力してもらったのがきっかけで知り合い、その後、平和を考える集まりに参加してもらったり、我孫子で立ち上げようとしていたまちづくり関係のネットワークに誘ったりしていました。
しかし節子の病気のこともあって、いずれの活動も中断せざるを得なくなり、その後、交流は途絶えていました。
Kさんは、いまは地元の小学校の先生です。
先生になることは聞いていましたが、なってからは会っていません。
それほどゆっくりと話したことはないのですが、なぜか何かあると思い出す若者です。

その若者から、「まだやってるのですか」といわれたのは、ちょっとショックでした。
私も68歳。
たしかに最近は疲れを感じますし、ともかく面倒なことはしたくなくなっているのです。
今も実は3つのプロジェクトの企画書を書かないといけないのですが、以前なら気楽にすぐ書けたのに、そもそも書こうという気にならずに、延ばし延ばしになっています。
久しぶりに雑誌の原稿も引き受けたのですが、いつもなら楽しみながらすぐ書けた原稿が、いまは書く気が出てこないのです。
いずれも年齢のせいでしょう。
もう引退したらということなのかもしれません。

しかし、そうしたことは起こっていますが、意識的には生き方を変えようなどという気にはなりません。
まだまだ新しいプロジェクト起こしに魅力を感じていますし、いろんなことに口を出したくなるのです。
つまり、10年前となんら意識面では変わっていないのです。
こうしたことが「老害」といわれることなのでしょうね。

節子がいれば、もうそんなプロジェクト起こしや社会活動などやめて、それこそ一緒に俳句を詠むとか、旅行に行くとか、草花の手入れをするとかの、歳相応の生き方に移れるのでしょうが、それができずにいるわけです。
言い換えれば、自分の年齢を映し出す鏡がなくなってしまったのです。
困ったものです。
さてどうしたものでしょうか。

■719:私と結婚しなければもっと幸せになれたのではないか(2009年8月21日)
節子
節子もよく知っているIさんに電話をしたら、出張で奥さんが出ました。
久しぶりに奥さんと話しました。
節子は奥さんには会っていませんが、手紙でのやりとりは何回かあったはずです。
私たちと同じく、とても仲のよいご夫妻です。
闘病中の私たちをいつも気遣ってくれていたご夫妻です。
ところが、この数年、奥さんの体調があまりよくないのです。
心配していたのですが、元気そうな声で安心しました。
が、電話の声では実は安心できません。
節子もそうでしたが、電話の声だけは元気になることもあるのです。

それはともかく、話しているうちに、彼女がこんなことをいいました。

こんな身体の弱い私と結婚しなければ、彼はもっと幸せになれたのではないか。

ドキッとしました。
節子も、そういうことを言ったことを思い出したからです。

良いこともあり、悪いこともあって、夫婦です。
そして苦楽を共にできることの幸せこそが、夫婦の喜びかもしれません。
夫婦になった以上、相手にどのような心配や負担をかけようとも、負い目に感ずることはありません。
それに、喜びを共にするのも、辛さや悲しみを共にするのも、もしかしたら同じことなのかもしれません。
節子との暮らしのなかで、そしていなくなった節子と暮らすなかで、そう考えるようになってきています。

共にするのは「喜び」であってほしいとみんな思うでしょうし、私もそう思いますが、それ以上に大切なのは、お互いにどれだけ深く相手と世界を共有できるかです。
節子の辛さや悲しみを私がどれほどシェアしたか、あまり自信はないのですが、節子の辛さや悲しさを少しでも分かち合えたことは、私には大きな支えです。
それに、辛さや悲しさをシェアしている時には、その相手に自らのすべてを向けています。
Iさんの奥さんが言うようなことなど思いつくこともないのです。
でもIさんの奥さんも節子もそう思ってしまうのです。
その言葉に対するIさんの反応は、どうも節子に対する私の反応と同じだったようです。

電話で話しながら、2人が元気だった時に出会えれば、きっといい友だちになれただろうなと思いました。
節子
そっちに行くのがやはり少し早すぎましたね。

■720:ボロボロの白い靴(2009年8月22日)
節子
夏の白い靴がもうボロボロになってしまいました。
なにしろ一足しかないのです。
どこに行くにもこの靴なのです。
肌着類は節子がたくさん買ってくれていましたが、靴までは気が行かなかったようです。
それで買い置きがなかったのです。

私は買物がどうも苦手です。
それを知っている娘たちがいろいろと買ってきてくれますが、白い靴だけは見つかりません。
なぜか私が好きなかたちの白い靴がないのです。
とんがっていたり、おしゃれすぎたり、装飾があったりして、どうも私的ではないのです。
こんな時にも節子は私にとことん付き合ってお店に行ってくれました。
節子に頼めば何でも手に入ったのです。

さて白い靴です。
あまりのボロボロさに、2人の娘が探し始めてくれました。
しかし見つかりません。
ファッショナブルとは思えない、実にシンプルな靴なのに、なぜかないのです。
今日も出かけるのですが、傷だらけでよれよれの靴を履いていかねばいけません。

このタイプの白い靴を私は学生の頃から愛用してきています。
価格はおそらく3000円か4000円程度の安い靴です。
節子は、靴はもっといいものを履けと言っていましたし、友人の靴職人はそんな靴を履いていたらダメだと怒りますが、その安い靴が好きなのだから仕方がありません。
トレッキング用の、それなりの靴も節子とおそろいで買ったのですが、夏のハイキングはいつもこの靴でした。
節子と一緒に、千畳敷カールを歩いたのもこの靴です。
ボロボロになってしまったわけです。
早い時は1〜2年で買い換えていましたが、節子の病気が悪化してからは靴など買いに行った記憶はありません。
ですからいま履いている白い靴は、もう3〜4年目かもしれません。
普通ならすでに廃棄処分されているような状態なのです。

長々書いてしまいましたが、今日は靴の話を書こうと思ったのではありません。
私のわがままに応えてくれる娘たちのやさしさを書きたかったのです。
この数週間、我孫子はもとより、柏まで足を延ばして、この種の靴が売っていそうなお店を軒並み探してくれたのです。
まさかと思うほど熱心で、節子が娘たちに乗り移ったのではないかと思いました。
なにかと親不孝な娘たちですが、節子の文化はしっかりと伝わっているようです。
白い靴がなかなか見つからないおかげで、そのことがよくわかりました。

さて今日もまたゴミ箱から拾ってきたような靴で、自殺のない社会づくりネットワークの交流会に参加してきます。
節子がいたら、みっともないから茶色か黒い靴を履いていけというかもしれませんね。

■721:イチジク(2009年8月23日)
福岡の蔵田さんがイチジクを送ってきてくれました。
節子が好きだったことを知って毎年送ってくださるのです。

節子がイチジクを好きになったのは、わが家の庭にあったイチジクを食べてからです。
お店で売っているイチジクは節子は食べませんでしたが、そのイチジクは食べるようになったのです。
前に書いたことがあるかもしれませんが、小ぶりですが甘さの強いイチジクです。
日本イチジクではないかと思いますが、よくわかりません。

転居した時も挿木をしましたが、なぜか新しい家の庭ではうまくなりませんでした。
なっても熟す前に鳥に食べられてしまいました。
節子は楽しみにしていましたが、結局、食べることはできませんでした。
節子を見送った年、なぜか一つだけが蜂にも鳥にも食べられずに収穫できました。
その一つを節子の位牌に供えたのをはっきりと覚えています。

ホームページに書いた記憶があったので、読み直してみました
読み直して驚きました。
淡々と、何もなかったように、書かれていたからです。
おそらくまだ私自身が現実を受け容れられずにいたのかもしれませんが、節子を見送った直後の文章とは信じがたいです。

悲しさは年とともに薄れていくといわれます。
しかしそんなことは決してありません。
むしろ年とともに深くなります。
外面ではたしかに悲しみを克服できたように見えるかもしれません。
しかし内面では、それと比例するように、悲しみや寂しさは深くなっていきます。
2年前の文章を読んで、改めてそんな気がします。

イチジクは日本の神話にはあまり出てきませんが、ヘレニズムの世界の神話では生と死に深く関わりながらよく出てきます。
キリスト教では再臨にもつながっていますし、古代エジプトでは生命の樹はイチジクにたとえられることが多かったといわれます。
イチジクを食べて、神のように復活するという話もあるようです。

蔵田さんからのイチジクは早速、節子に供えさせてもらいました。
そのイチジクを食べて、節子が復活してくれないものかと本気で念じました。
そんなことは絶対起きないといわれそうですが、そうした奇跡が起こるのではないかという思いが心のどこかにあるのです。
だれかを愛すると、人は論理的でない行動をしがちですが、愛する人を失うと論理的でない発想を受け容れてしまうものなのかもしれません。

庭のイチジクの樹は最近手入れもせずにいますが、節子に食べてもらうために久しぶりに手入れをしました。
ただ節子が鳥になって帰ってくるといっていたので、鳥のためにも提供しようと思います。

■722:詐欺師人生(2009年8月24日)
節子
青森の三沢で花いっぱい活動に取り組んでいるSさんからメールが来ました。
もしかしたら、今年、また三沢に行くかもしれないとメールしたことの返信です。

先生(一応、私は三沢のまちづくり活動のアドバイザーだったのです)がいらした頃とは会の活動も市の担当職員も変わっていますが、会員の方は活動に楽しみを見出しているように見えます。
先生にもまたいらしていただいて、詐欺師のように皆さんの気持ちに魔法をかけてください。(笑)

詐欺師。
そういえば、Sさんはたしか以前にも私を詐欺師のようだといいました。
いささかムッとしますが、もしかしたら、正しいかもしれません。
私の人生は詐欺師人生だった、と考えると、なんだか奇妙に納得できるような気もするのです。

まずは、世界で5番目に幸せにするといって節子と結婚しました。
節子はなぜ5番目なのと、時々、笑いながら私を問い詰めましたが、5番目というのは立証不能、つまり否定不能なのです。
しかし、今から考えると、5番目どころか、あんまり幸せにはしてやれなかったと思います。

ある人がとてもいい企画を持ってきました。
とても面白いから取り組んでみたらといったら、「佐藤さんには前にも乗せられて、その気になってしまったから注意しないといけない」と言われてしまいました。
まあ、人をその気にさせるのは、詐欺師の特性かもしれません。

谷和原村で城山公園での里山活動を始めた横田さんも、最初は仲間が集まらずに、「先生に騙されてしまった」と笑っていたことも思い出します。
いまは城山の里まつりも定着し、楽しくやっているようですが。

そう考えていくと、私に騙されたと思ったことのある人はかなりいるのかもしれません。
節子が私と結婚したのも、もしかしたら私のこうした詐欺師的な巧妙な口車に乗ってしまったからかもしれません。
節子が私と結婚すると知って、たぶん驚いた人は少なくなかったはずです。
そういえば、「修さんは口がうまいから」と、節子は時々行っていました。
私の本性を見抜いていたのかもしれません。

しかし、念のために言えば、私は詐欺師ではないのです。
その時は本当にそういう気になるのです。
嘘をいえないのが私の性格でもありますので、詐欺師には全く向いていないわけです。
もっとも、それこそが天性の詐欺師なのかもしれません。
自分さえも騙してしまうわけですから。
やはり詐欺師と考えた方が、いろいろと納得できることが多いですね。

何だかややこしくなりましたが、私は人を乗せるだけではなく、自分をも乗せてしまう傾向があるのです。
そして、やらなくてもいいことをいろいろと引き受けてきてしまうわけです。
なんでこんなことまでやらなければいけないのだろうと、思うことが最近少なくありません。
もしかしたら、この性格は節子と結婚したために身についたことかもしれません。
節子のほうが、むしろ詐欺師ではなかったのか。
私をその気にさせて、自分はさっさと現世を引退してしまう。
節子のほうが私よりも一枚上手の詐欺師かもしれません。
もしかしたら、今もどこかに隠れて、私の慌てぶりを見ているのかもしれません。
いやはや、油断はできません。

パソコンの前で、詐欺師の節子が笑っています。

■723:節子に寄り添っていなかった自責の念(2009年8月25日)
節子
昨日は久しぶりにちび太と散歩に行きました。
いつもは娘たちが行ってくれるのですが、今日は不在で、逆に私が在宅していたのです。

ちび太は昨日が誕生日です。
もう14才、人間でいえばたぶん私よりも年上に当たる老犬です。
最近、耳が遠くなっただけでなく、時々、ボケ現象が起こるほどです。
ですから散歩も以前のように遠出はしません。
せいぜい自宅周辺を10分ほど回るだけなのです。
それでも戻ってくる頃にはへとへとの感じで、よたよたしてしまいます。

わが家の近くはわずかばかりの坂道です。
元気な人には坂道などと気づかないほどのわずかな傾斜です。
しかし、そこに来たら、よたよたしていたちび太の歩き振りがさらに遅くなり、時々、立ち止まるのです。
そういえば・・・・

節子が再発し、散歩に行けなくなってからも、節子は少しでも歩こうと心がけていました。
そして、夜になってから、自宅の周辺をゆっくりと歩き回るのを日課にしていました。
私もできるだけそれに付き合いましたが、その歩き方は実にゆっくりでした。
歩くというよりも、少しずつ動きながら立っているという感じでした。
そのうちに、わずかばかりの傾斜のあるところには行かなくなりました。
下る時はいいのですが、登る時は辛いからだといいました。
ほんのわずかな坂なのです。
最初は私には理解できませんでした。
普通の人には気づかないような坂が、節子には辛かったのです。
ちび太の歩き振りを見て、その頃のことを思い出しました。
そして、あの時、私は節子と寄り添っていたのだろうかと反省しました。
おそらく無意識に、あるいは身体的に、節子を急がせていたことでしょう。
だから時に節子は、一人で歩いてくるから一緒に来なくていい、と言ったのです。

寄り添うように見せかけて、私は節子に寄り添っていなかったのです。
散歩だけではありません。
いろいろな場面で、私は節子に寄り添うのではなく、節子を私に寄り添わせていたのかもしれません。
急にそのことに気づきました。
なぜ節子に合わせて、ゆっくりと歩けなかったのか、
いや、なぜ節子に合わせて、ゆっくりと生きなかったのか。

この挽歌を読んでくれている読者は、私が節子にけなげに寄り添っていたように感じているかもしれません。
しかし、ほんとうは、私は節子に寄り添っていなかったのです。
思い当ることは山のようにあります。
悔やまれることが次々と思い出されます。
寄り添うどころか、おそらくは薄情な夫でしかなかったのです。

節子が病気になってからも、私は節子の思いなど理解することなく、元気に歩きすぎていたのではないか。
寄り添っていたと言い切る自信がありません。
節子はきっと不満だったでしょう。
いまさら遅いのですが、それが痛いほどわかります。

節子に対してさえ、それができなかった私には、他者に寄り添うなどと言うことはできようはずがありません。
節子
あなたに支えられて取り組んできた、コムケア活動への自信が揺らいでしまいました。
何のために私は、節子との時間まで削いで、コムケア活動にのめりこんでいたのでしょうか。
完全に間違っていますね。
自己嫌悪に陥ります。

昨夜は涙がとまりませんでした。
そして早朝に目が覚めてしまいました。
心がとても不安です。
今日はいろんな人に会うので元気を出したいのですが。

■724:「残念だったですね」(2009年8月26日)
節子
今日は節子を喜ばすニュースです。

いま日中友好活動に取り組んでいる知人がいます。
いろいろとお誘いや情報をもらいながら、この数年、南野返事も書けずにいました。
先週、その人からまたお手紙をもらいました。
メールで思い切って節子のことを伝えました。

その返信メールです。

こういう状況とは知りませんでした。
お悔やみ申し上げます。残念だったですね。
小生は、奥様を一度しか事務所で御見かけしませんでしたが、とても知性的で美しく、さぞや若い時は多くの男性から、憧れの眼で見つめられた方だろうと思っていました。

さてさて、これは事実にかなり反します。
節子は知性的ではなくて、さほど美しくもなくて、それに若い時に多くの男性にもてたわけでもありません。
まあどこにでもよくいる元気な女性の一人でした。
いくら贔屓目に見ても、この節子像は過剰粉飾です。
しかし、そうだとしても、こう書かれると何だかうれしくなってしまうものです。
たとえ嘘でも褒められると幸せな気分になります。

まあそれはいいのですが、
私がこのメールでグサッときたのは、「残念だったですね」という言葉です。
いままで気づかなかったのですが、「残念」という言葉は奥深い言葉だと気づきました。
心残り、無念さ、悔しさ。
いまの私の気分を見事に表わしてくれています。

吹っ切ろうとしても吹っ切れない「念」が残っているのです。
そしておそらく節子もまた、大きな「念」を残して逝ったのではないかという思いから解放されないのです。
念が残っているがゆえに、心身が軽くならないのです。
跳べない、次に移れない、疲れやすい、持続できない。
みんなもしかしたら「念」のせいです。
私がこんな状況なので、節子ももしかしたら成仏できずにいるかもしれません。

「残念」と同義語に「無念」という言葉があります。
無念は、念から解放されたことです。
にもかかわらず、なぜ同義語なのでしょうか。
「残った念」「無くした念」。
何を残し、何を失ったのか。
この謎解きは時間が少しかかりそうです。

■725:アップに堪えられない顔(2009年8月27日)
節子
久しぶりに雑誌に原稿を書きました。
たぶん節子がいなくなってから初めてです。
私もだいぶ元気になってきたのかもしれません。
以前はいつも原稿を書いた後、節子に読んでもらいました。
節子が読んで理解できれば、だれが読んでも大丈夫だろうというのが、その理由です。
節子からOKがでなければ、リライトしました。

今回は節子がいないので、いささか自信がなかったのですが、うっかり締切日を間違っていたので、推敲する間もなく先ほど送ってしまいました。
ところが編集者から、佐藤さんの写真も送ってください、と連絡があったのです。
はたと困りました。写真がないのです。
それで仕方なく、節子が元気だったころに一緒に撮った写真を探し出しました。
節子を見送った後、私は写真を撮らなくなったからです。

節子との写真はたくさんあります。
それを見ていて、気づいたことがあります。
節子はいつも笑っているのです。
本当に笑っている写真が多いのです。
もちろん病気になってからの写真です。

その一方で、私の写真は少ない上に、顔が大きく写っている写真がないのです。
もちろん写し手は節子です。
つまり節子は私の顔写真を撮っていないのです。
アップに堪えられないと思っていたのかもしれません。
たしかに、それは事実なのですが。
そのため原稿にあわせて掲載する私の顔写真はなかなか見つかりません。

実は4年前までは、時々、原稿を書いたり、講演をしたりしていました。
その時の顔写真は決まっていました。
近くのあけぼの山公園で節子が撮ってくれた写真です。
私のホームページに掲載されています。
それが気に入っていたのですが、この写真がいつの間にかなくなってしまいました。
それにこれは10年ほど前の写真なので、いささか現状と違います。

さてどうするか。
娘に撮りなおしてもらえばいいだけの話なのですが、節子が撮った私の写真と娘が撮った私の写真は明らかに違うのです。
娘にうまく写っていないというのですが、実物はこんなもんだよと言うのです。
困ったものです。
いまさら実物を変えることは難しいですし。
節子は私を贔屓目に見ていますから、写真もよく写るのです。
ほんとうですよ。
ところが、その節子が病気になってから撮った私の写真はみんな遠景です。
アップがないのです。
これはどういうことでしょうか。
節子から見放されていたのかもしれません。

さてさてどの写真を使いましょうか。
できれば写真なしでお願いできないか、頼んでみようと思います。
こういう時、節子がいたら名案を出してくれるのですが。

■726:家事の大変さと大切さ(2009年8月28日)
節子
秋になったと思っていたら、今日は夏の空です。
その暑さの中を、自転車でいろいろと回ってきました。
電話をとめられないための電話料の振込みやらお医者さんやらいろいろです。
妻に先立たれた独り暮らしに慣れなければいけません。

節子がいなくなった後、実感したのは、「家事」の大変さと大切さです。
最近の日本の社会は、「家事」をあまりに軽視してきました。
家事を「労働」に変え、市場化したと言い換えてもいいでしょう。

もう15年ほど前ですが、三菱電機が「楽しい家事がはじまった」というコピーで広告を展開したことがあります。
「家事」の大切さが見直される契機になるような気がして、同社の企画関係者の集まりで、これからの展開が楽しみですね、と話しましたが、全く反応がありませんでした。
外部代理店が作った単なるコピーだったのです。
彼らは、新しい物語を創りだして、社会を変えていこうなどとは考えていなかったのです。

日本ヒーブ協会の創立20周年記念の大会にも参加させてもらい、フォーラムの一つを担当させてもらいました。
ヒーブ(HEIB)はHome Economists In Businessの略で、企業と消費者のパイプ役を果たす役割を担う人たちです。
そこで愕然とする体験をしましたが、企業で働く女性たちのダメさ加減を思い知らされました。
彼女たちには「家事」の価値が全くわかっていないと思いました。

こんな話を偉そうに節子にしていたわけですが、節子がいなくなってから、私の考えは単に頭で考えていただけのことだと思い知らされました。
節子がまたねと聞き流していたのを、いまさらながら思いだします。
家事を全くといっていいほど節子に押し付けていた私が、偉そうにいうことではなかったのです。
節子の「家事」のおかげで、私は快適に暮らせ、仕事に全エネルギーを向けられていたわけです。
節子がそう思っていたかどうかはわかりませんが、私のすべての活動は節子あってのものだったのです。

家事は毎日同じことを繰り返すことです。
しかしちょっと手を抜くとどんどん手を抜きたくなります。
そうすると1か月たつと明らかに身の回りの環境が変わります。
逆に、家族のためにちょっとずつ心の込め方を変えていくと、これまた1か月たつと明らかに身の回りの環境が変わります。

毎日同じ繰り返しではないものもあります。
食事担当の娘は毎日何にしようか悩んでいます。
節子の文化で、わが家では出来合いのものはほとんど食卓に出ませんので、食事づくりは極めて創造的な仕事になります。

現在、私は娘たちと暮らしていますが、彼女たちも自分の生活がありますから、節子とはちがいます。
もちろん節子以上によくやってくれるところもありますが、自然と一緒に生活を育ててきた節子とは違います。
節子の頃はそれが当然と言う思いで全く気にしていませんでしたが、娘たちにはそれなりの遠慮も出てきますので、私も何らかの「家事」意識を持つことになってきたわけです。
そして、「家事」足るものの大変さと大切さを実感しているわけです。

節子の家事に対して、感謝の気持ちがかなり不足していたような気がします。
私のような男性たちが、もしかしたら社会をおかしくしたのかもしれません。

■727:花火と月(2009年8月29日)
今年は手賀沼の花火大会は中止だったのですが、その代わりに今日のかっぱ祭りのフィナーレにミニ花火大会がありました。
今回はお客さまを呼ぶほどのこともなかったのですが、近くの兄夫婦に声をかけて、一緒の食事をしながら花火も見ることにしました。
花火を見ながら、やはり節子の話が出てきました。
節子はいろいろなことを企画し、旅行にも行ったし、手賀沼の遊覧船にも乗ったし、というような話です。
たしかに節子の企画で、兄夫婦と一緒に旅行も何回か行きました。
節子がいなくなった途端に、私たちの付き合いも少し遠のいた感があります。

節子は、ともかくいろいろなことを企画し、声をかけてくれる人でした。
みんなを楽しませたり喜ばしたりするのが好きだったのです。
まあ時には行きたくもない旅行にも付きあわせられましたが、そうした場合でも、節子は決して飽きさせることはありませんでした。
私が節子に惚れきっていたからかもしれませんが、必ずしもそうではないように思います。
節子は、とてもホスピタリティに富んでいたのです。

手賀沼の花火は毎年1万数千発でしたが、今年は500発だと聞いていました。
500発も打ち上げられたかなとちょっと疑問ですが、水中花火もなく、退屈でした。
昨年は見る気力もなく、その前の年は節子と一緒に病室で音だけ聴いていました。
病身の節子には花火の音さえもきっとつらかったかもしれません。

節子も私も花火好きでした。
最初に一緒に暮らしだしたのは、滋賀の大津の瀬田川の近くです。
そこでの花火大会に2人で行ったような気もしますが、もしかしたら夢かもしれません。
私は本当に昔のことをあまり正確に覚えていないのです。
というか、夢と現実の区別がつきにくい人間なのです。
昔、節子の姉夫婦と一緒に4人でトンネル温泉に行ったことがあるのですが、私以外の3人はそんな記憶が全くないというのです。
そういうことが時々ありますので、瀬田の川原で花火を見た記憶もあやういものがあります。
確実なのは熱海の花火です。
これは家族全員が覚えていますし、たまたま熱海の会場で知人にも出会ったので、確かです。
しかし、今度はその記憶が私自身にあまりないのです。
花火は、かくのごとく人を惑わすものなのです。

まあ余計なことを書いてしまいましたが、花火会場が目の前だということが転居してきた大きな理由ですので、花火大会がなくなったのは残念な話なのです。
でもなぜか私の頭の中では、節子がいなくなったことと花火大会がなくなったこととがつながってならないのです。
節子がいなくなったのであれば、花火大会もなくなって当然だろうというわけです。
昨年の花火大会は、実は私にはかなり辛いものでした。

花火が終わった後の夜空に、上弦の月が寂しげに輝いています。
もしかしたらあそこに節子がいるかもしれない、そんな気にさせる美しい上弦の月です。
花火もいいですが、月もいい。
花火よりも、物言わぬ月のほうが、今の私には相応しい気がしてきました。

私の中でも、花火はもう終わった感じです。

■728:会社創立20周年(2009年8月30日)
8月30日。
私と節子には、とても思い出のある日です。
といっても、結婚記念日ではありません。
2人で始めた「株式会社コンセプトワークショップ」の創立日なのです。
今年はその21周年目です。
「コンセプトワークショップ」はこのブログのタイトルのCWSのことです。

25年間務めていた会社を辞めて、専業主婦だった節子と一緒に会社を創りました。
会社といっても、仕事をするわけでもなく、単なる活動拠点としての位置づけで、どういう会社にするかを試行するためのものでした。
オフィスを開いたのは、会社設立の2か月前ですが、オフィスを開くと案内を出したら、最初の1週間に100人を超す人たちが来てくれました。
それが、その後の私たちの生き方を決めてしまったように思います。
仕事もせずに、人と会い続けているうちに、人に会うのが仕事になってしまったのです。
おかしな会社です。
それでまあともかく会社をつくってしまったわけです。
私は楽しかったのですが、専業主婦だった節子には戸惑いばかりだったと思います。
ところが、そのおかしな会社が21年も持続しているのです。
これは節子のおかげだと思っています。

一時、節子はもう行きたくないと言い出しました。
それはそうでしょう。
いろんな人が次から次へと来て、それに付き合っていたら身が持たないからです。
でも節子は、結局は私のわがままに付き合ってくれました。
節子が「人を見る目」を育てたのは、たぶんそれが大きな一因です。
節子の人間観は確かなものになり、私にいろいろとアドバイスしてくれました。

節子がいなくなってから、オフィスを閉じようかとも思いましたが、
そこには節子と一緒に過ごした20年間の思い出が充満しています。
持続することにしました。
いまも、湯島のオフィスには節子の温もりが残っています。
会社はこの数年ほとんど売り上げはありませんが、存在価値はあるような気がします。
最近またいろんな人が来るようになりましたし、私の応援のために部屋を使って利用料を払ってくれる人まで出てきました。
お金をもらう仕事も久しぶりに再開しようかという気になりだしました。
節子と一緒に活動してきたコンセプトワークショップ(CWS)は私が動ける間は続けようかと思っています。

ちなみに、そのオフィスにドアには次の言葉が書かれています。
Pax intrantibus. Salus exeuntibus
「歩み入る人にやすらぎを、去りゆく人に幸せを」という、ドイツ ローテンブルク城の壁に書かれている有名な言葉です。
節子は幸せを得ているでしょうか。

■729:かまぼこの思い出(2009年8月31日)
奥様と一緒に食べていただこうと思い、萩にあります道の駅「萩しーまーと」へ行って物色した結果、佐藤さんのお口に合うかどうか分かりませんが、かまぼこをお送りしました。

山口の東さんからのかまぼこが送られてきました。

私たちは結婚式を挙げませんでした。
一緒に住もうと決めてから、夜行で出雲大社に向かいました。
出発前に駅前のお店で結婚指輪を買いました。
朝、出雲大社について、そこで一緒に暮らすことを2人で決めました。
それが私たちの始まりでした。
後日、節子の家族を説得できずに、節子の実家で結婚式を開きましたが、私たちにとって意味があったのは出雲大社前での朝の誓いでした。
その後、鳥取の砂丘に行きました。
そのたぶん途中の山陰本線の列車の中で、地元の高校生たちのグループが乗り込んできました。
みんなおいしそうにかまぼこを食べだしました。
あまりにおいしそうなので、「おいしそうだね」と思わず口に出してしまいました。
そうしたら一人が私たちにもかまぼこをくれたのです。
そして私たちもみんなと一緒にかまぼこを食べました。
実においしいかまぼこでした。
出雲大社から鳥取、そして大山のスキー場にまで迷い込んでしまったのですが、それが私たちの、いわば「新婚旅行」でした。
例によって何も覚えていないのですが、そのかまぼこの一件だけは良く覚えています。
代わりに何かお返ししようにも、なにしろ手ぶらで列車に乗ったので、お礼もできませんでした。
それがずっと気になっていたためです。
そのため、おいしい棒かまぼこに出会うと必ずこのことを思い出します。
私たちにかまぼこをくれた高校生たちにとても感謝しています。
その時、どんな話をしたかも全く覚えてはいないのですが。

節子との旅で、こうした出会いはいくつかありました。
節子と一緒だと、なぜかそうした「人の触れあい」が体験できるのです。

東さんからのかまぼこは、節子にも供えました。
節子も思いだしているでしょうか。

■730:ヘビの抜け殻(2009年9月1日)
庭の池の近くの草薮に1メートルくらいの長さのヘビの抜け殻が残っていました。
ジュンが、縁起がいいからとそれを節子の位牌壇の前に飾りました。
なぜ縁起がいいのかと聞いたら、節子から聴いた話だというのです。
小さい頃、節子と一緒に実家の近くのお宮さんでヘビの抜け殻を見つけたそうなのですが、「ヘビの抜け殻を財布に入れておくとお金が貯まる」と節子が話したのだそうです。
節子はヘビ嫌いでしたから、たぶんその時はその会話だけで終わったはずです。
もし節子が抜け殻を財布に入れておいてくれたら、私ももっと贅沢ができたかもしれません。

ちなみに、私は巳年、ヘビ年です。
そして、節子は酉年。
節子は、鳥を飲み込むヘビが嫌いだったはずです。
しかし、酉にも人や生き物を飲み込む意味があります。
私たちは、お互いに飲み込む合う関係だったのかもしれません。

それはともかく、そんなわけで、いま節子の位牌壇の前には蛇の抜け殻があります。
もしかしたら、これからわが家にはどんどんお金が溜まるかもしれません。
節子がいなくなったいま、お金などあっても何の意味もありませんが。

ヘビはお金を呼ぶだけではありません。
民俗学者の吉野裕子さんの本で、神とは「蛇(カ)の身(ミ)」に通ずると読んだのを覚えていますが、ヘビ信仰は世界各地に残っているようです。
見事に脱皮を繰り返すヘビは「再生」する永遠の生命を感じさせるからでしょう。
脱皮して、新しい身体を得るということは、すべての生命体の本質かもしれません。
キリスト教などではヘビが悪役で登場しますが、それは唯一神信仰を成立させるためだったという説もあります。
それほどヘビ信仰は原始信仰には広がっていたわけです。

明後日は節子の3回忌ですが、その直前にヘビの抜け殻が出現したのも、それなりの理由があるのかもしれません。

ところで脱皮したヘビはどこにいるのでしょうか。
狭い庭のどこかにいると思うとあまりいい気分はしません。
私も節子と同じく、ヘビが大嫌いなのです。
ヘビの抜け殻も、正直、あまり室内に置きたい気分ではないのですが、ジュンが節子の言葉を守って、一番いい場所に抜け殻を置いています。
まあ3回忌が終わるまでは仕方がありません。

■731:また節子が白い雰囲気に包まれだしました(2009年9月2日)
明日は節子の3回忌です。
節子の友人たちのいろんなグループからお花が届きだしました。
ユリが好きだった節子に合わせてくれたのか、どれもユリがたくさんです。
家中がまたユリの香りで充満しだしました。
昨年も思ったのですが、私の場合は、決してこんなに花は届かないでしょう。
やはり女性と男性とは違います。

会社時代の同僚だった「とっちゃん」も毎年来てくださるのですが、今回はなぜか愛媛特産のみかんジュースも持ってきてくれました。
そしてせっちゃんの見えるところに供えてほしいというのです。
その理由を少し聞かせてもらいましたが、節子はすぐにわかるだろうと思います。
問題はすべて解決したそうですよ。
私の知らないことも、まだいろいろとあるのですね。
私のことについて、節子がとっちゃんに話していたことも聞かせてもらいました。
いろいろと思い出すとまた心が苦しくなります。

近くに住む坂谷さんも花を持ってきてくれました。
昨日までご夫妻で箱根にいたそうです。
箱根や湯河原の話になると、これもまた心が辛くなります。
もう節子と箱根に行くことはないのですから。
節子は箱根がとても好きでした。

最後に、花かご会から大きな花かごが届きました。
花かご会がいつもお世話している我孫子駅前の花壇そのものが、私には花かご会からの節子への贈りもののようにいつも感じているのですが、こうして毎年、大きな花かごが届くとうれしさ半分、さびしさ半分です。

位牌壇の前がまた花で埋まりました。
胡蝶蘭とたくさんの白ユリが醸し出す「白い」雰囲気は、彼岸を感じさせます。
篠栗の庄崎さんが教えてくれましたが、節子は彼岸で白い花を育てているようです。
今日、いろんな人がいろんなところから届けてくれた花は、その花かもしれません。
しかし、位牌壇が白い世界になると、どうしても2年前を思い出してしまいます。

ジュンが「命日に花が届くのはどうしてだろう」とポツンと口に出しました。
どうしてでしょうか。

明日は節子の命日です。
2年目を迎えられてホッとしています。

■732:とても私たちらしい3回忌になりました(2009年9月3日)
今日は節子の3回忌です。
こうした法事は一般に命日よりも先行させるのが常識のようですが、まさに命日に当たる今日、3回忌を行うことにしました。
といっても、お寺でこじんまりと行ったのですが。
私はいつもの普段着で、つまりコットンパンツとTシャツで行きたかったのですが、みんなからそれだけは止めたほうがいいといわれて、仕方なく黒いスーツにしました。
節子は、私がTシャツで3回忌に臨んでも、きっと笑って喜んでくれたでしょう。
しかし、それを断行する勇気がなく、みんなのいうとおり、普通の3回忌になりました。

3回忌が始まる前に何人かの人がわが家に献花に来てくださいました。
本当はそういう人たちと一緒に、お茶でも飲みながら、節子を思いだすようなスタイルにしたかったのですが、やはりどこかでお寺で読経してもらわないと3回忌らしくないという思いが私の中にもまだあるのです。
節子なら私よりももっと思いきりよく、3回忌パーティにしたかもしれません。
節子は、そうした点では、私よりも決断力があったかもしれません。

午前中に来てくださったのは、横浜の野路さん、花かご会のみなさん、長沼さん、娘の友人のAさんです。
本当に節子は幸せ者だと、つくづく思います。
やはり節子には勝てそうもありません。
その話は改めてまた書かせてもらいます。

午後は宝蔵寺で3回忌をやってもらいました。
お墓に行ったら、すでに誰かが花を供えていてくださいました。
だれでしょうか。
思い当る人もいないわけではないのですが、誰かはわかりません。
でもそのお気持ちがとてもうれしくて、なんだか幸せになりました。

本堂での仏花にはバラとユリを使わせてもらいました。
節子の法事はいつも洋花中心なのです。
ジュンが花の担当ですが、バラは使えないという頭の固い花屋さんとうまく話し合って、いつもバラを入れさせてもらっています。

3回忌が終わった後、みなさんに自宅に来てもらい、ゆっくりと歓談させてもらいました。
その最中にも献花に来てくださる方がいて、私が思っていたスタイルにちょっと近づきました。
みなさんのおかげで、とても私たちらしい3回忌になったような気がします。

3回忌を過ぎると、節子の担当はいよいよ阿弥陀如来になるのだそうです。
節子の両親は阿弥陀信仰の浄土真宗です。
なんだかとてもホッとします。
節子は喜んでいるでしょう。
初めて節子にほめられた法事が実現できたような気がします。
2人の娘が、とてもがんばってくれたおかげです。

■733:「今も節子さんは私たちをつないでくれています」(2009年9月4日)
節子がヨーロッパ旅行に一緒に行ったグループがあります。
福岡、岡山、横浜とそれぞれみんな離れたところに住んでいますが、とても仲良しです。
誰かがそれぞれの近くに行くことがあると、集まれる人で会っていたようです。
私も一度、節子と福岡に行った時に、福岡と岡山の人が夫婦で集まってくれて、会食したことがあります。
みんなとても気持ちのやさしい人たちです。

昨年の命日にはみんなでわが家まで来てくれました。
そして今年もまた来ると言ってくださいました。
節子のことをみんなとても愛してくださっていたのです。
ところが、今年はそれぞれ伴侶に事故などあっておひとりしか来られなくなってしまいました。
私たちと同じ世代ですから、まあいろいろなことが起こるのです。
来られなくなった理由はいずれも伴侶の健康に関わっています。
幸いに、いずれも良い方向に向かっているようでホッとしました。
伴侶の健康は、自らの健康につながっています。
気をつけるべきは、自らの健康よりも伴侶の健康かもしれません。
その点、私はいずれをもおろそかにするという過ちをおかしました。
いくら悔いても悔いたりません。

命日の前日、3人から立派な花が届きました。
そのお礼の電話をそれぞれにさせてもらいました。
そうしたら、グループの中で一番の年長のTさんがこう話してくれました。

今年は節子さんの命日にみんなで会うことはできませんでしたが、節子さんのおかげでそれぞれと長電話できました。節子さんが私たちをつないでくれているのです。

とてもうれしいお話です。
節子はまだみなさんのなかでは生きているのです。

花を送ってくださったみなさんにお電話させてもらいましたが、そのそれぞれからとてもあたたかなエールをもらいました。
みなさんと話していて、節子がなぜみんなから愛されているのかが少しわかったような気がします。
そして、なぜ私が節子を愛しているかも、少しわかったような気がしてきました。

いなくなってからわかってきたことがたくさんあります。
伴侶とは、そんなものかもしれません。

■734:「お目にかかりそびれた奥様の御霊に」(2009年9月5日)
節子の命日に、「お目にかかりそびれた奥様の御霊に」というタイトルのメールが届きました。
15年ほど前からお付き合いのあるMさんからです。
Mさんは、たぶんその日が節子の命日であることを知らないはずです。

日ごろは、ご主人様にそれこそ、手取り足とりでお世話になっております。
有難うございます。
よきご指導を得て、今のような世の中を何とかおかげさまで元気に泳いでおります。
佐藤さんのお話では、奥様は絵描きさんでいらっしゃいました由、作品がきっと今日もこれからも生きて、佐藤さんを見守っておられるのでしょうね。
うらやましい限りのご夫婦です。
昨日、私よりも少しお若いご主人様が、私の先も短いことを教えてくださいました。
本当に我ながらぼんやりしたものです。
100まで生きようと思いつつね。
どうか安らかに、でも良い風を送ってくださいますようにお願いいたします。
そう遠くない未来にはお目にかかれることでしょう。

Mさんは、日本の子育て支援の市民活動の草分けの方です。
新しい保育システムと保育所を構想していた時にMさんの活動を知り、それ以来のお付き合いです。
節子はお会いしたことはないかもしれませんが、お名前は知っているはずです。
私が取り組んでいたことは、ほぼすべて節子は知っていましたから。

Mさんはいまも精力的に全国を飛び回っていますが、時々、相談にやってきてくださいます。
活動を始めたのは30年以上前ですから、日本のNPO活動の先駆者ですが、その大先輩に、私は会う度に手厳しいコメントを繰り返しています。
その活動の現代的意義を高く評価しているがゆえに、それがうまく発展していないことにいささかの不満があるからです。
悪貨が良貨を駆逐するのは、世の常かもしれませんが、だからと言って諦めていてはいけません。

今月初めにお会いした時にも、どうもかなりきついことを申し上げてしまったようです。
「私の先も短いことを教えてくださいました」
どんな言い方をしたのか、われながらいささか心配ですが、私と違って組織活動をされているMさんにとって、次の世代にどうバトンタッチしていくかは難しいテーマです。

いつかも書きましたが、自分の年齢を実感するのはとても難しいです。
私は、いまでも60代の人を見ると私よりもずっと年上に感じます。
私の年齢は、たぶん節子が病気になった頃の年齢でストップしています。
少なくとも、節子がいなくなってからは、自分の年齢を見る鏡がなくなってしまい、年齢感覚がなくなってしまったのです。
身体的な老化は日々実感するのですが、意識はそれに伴ないません。
昨日書いたように、伴侶が歳をとっていくことはよくわかりますが、自分のことはなかなか見えないものです。
自然と関わっていないと季節感がなくなってしまうように、一緒に歩く伴侶がいなくなると、年齢感がなくなってしまいます。
いいかえれば、先の短さが、頭ではわかっていても実感できなくなるのです。

Mさんはもしかしたら100歳までお元気かもしれません。
ですから、節子に会うのはまだだいぶ先かもしれません。
でもMさんは、どうして突然にこんなメールをくれたのでしょうか。
今度お会いした時に訊ねてみますが、Mさんは節子以上に、「天然」なのです。
「天然」の人には特殊のアンテナがあります。
何かを感じたのでしょうか。
まさか節子がMさんにメールしたのではないでしょうね。

■735:モネの睡蓮(2009年9月6日)
昨日の続きです。

Mさんのメールに「奥様は絵描きさん」とあります。
節子はもちろん「絵描き」ではなく、作品も数点しか残していません。
なぜMさんがこう書いたのか。
これには理由があります。

Mさんがフランスにいる娘さんのところに行ったお土産に、モネの絵のミニチュアアートを買ってきてくれたのですが、私が女房も絵を描いていたので、ほかの人の絵はいりません、というようなことを言ってしまったのです。
とても失礼な話ですね。
まあそういう非常識さが私にはどうもあるのですが、その時の私の言い方でMさんは節子が「絵描きさん」だと思われたのです。
いやはや節子に怒られそうです。

そのことを思い出して、お詫びのメールを書きました。
お詫びのメールもおかしいと娘から笑われましたが、考えてみるとたしかにおかしい。
どうも私も一部「天然」的なようです。
困ったものです。

Mさんもモネがとても好きで、フランスではモネの家も訪ねたそうです。
まあそれだけの話なのですが、実は3回忌に来てくださった節子の友人のNさんがモネの絵を持ってきてくれたのです。
節子が元気だったころ、よく一緒に美術展などに行っていた友人です。
最近、ある美術展に行ったら、なぜかモネの睡蓮のコピーがあったので、節子が好きだったのを思い出して買ってきてくださったそうです。
そういえば、節子はハンカチまでモネの絵だったと娘が教えてくれました。
私は、節子のことをよく知っているようで、知らないことがたくさんあります。
人は自分の関心でしか世界を観察していないからでしょう。

節子がいなくなった後の節子像は、私のそうした独りよがりの思い出から創りだされていますから、私にとっての理想像になっているかもしれません。
人の思い出は、その人に対する愛憎や好みによって大きく変わるのでしょう。
この挽歌の中の節子は、本当の節子ではない「創作節子」になっているかもしれません。
これは自分のことではないと節子に思われたら、問題がややこしくなりかねません。
さてさて注意しなければいけません

わが家の庭の小さな池にも、睡蓮が1本だけあります。
姉夫婦からもらったものですが、今年も2つ、花が咲きました。
節子は見ていたでしょうか。

■736:人を寄せ付けない悲しさのベール(2009年9月7日)
節子
昨日は満月でした。
友人知人と手賀沼で満月を見ながらの船上交流会をやりました。
私もいまの生活にかなり慣れてきたのかもしれません。
悔しいですが、時が悲しさを忘れさせているのでしょうか。
そんなことは決してないのですが。

その集まりに4年ほど会っていなかった若い友人を誘いました。
地元の活動に一度協力してもらって以来、またいつか彼と何かをやりたいと思いながら、節子の病気などで中断していたのです。
彼もその間、転職し、いまは地元の小学校の先生です。

交流会の後、メールが来ました。

修さんが元気に笑っている姿を拝見し、嬉しく思いました。

節子を見送った後の手紙やメールを読んだ人たちは、私が永遠の奈落に落ち込んでしまったと思っている人も少なくないようです。
以前はよく来てくれたのに、その後、ぱったりと来なくなった人もいます。
地獄の底に落ちた人とはどう接したらいいか悩ましいですし、第一、接したくない気分になることはよくわかります。
私の手紙やメールは、それほどの落ち込みを伝えていたようです。
修さんはどうなってしまうんだろうと思っていましたが、元気になってよかった。
その若者はそういっていました。
節子を見送ってからの1年、私の書いたものは生気を感じさせなかったかもしれません。

節子
最近はまた湯島のオフィスにもいろいろな人がやってくるようになりました。
節子を見送った後、もしかしたら人を寄せ付けない悲しさのベールが私の心身を覆っていたのかもしれません。
そのベールに包まれて、私は精神を安定させていられたのかもしれません。
そのベールにも気づかずに私の心の中に入り込んでくる人には、平安を乱されるような気分になったこともありますが、そういうことはそう多くはありませんでした。
しかし、そのベールは、覆われている私自身の気をも奪いかねないものだったような気がします。
自分では元気に笑っているようでも、外から見ると気が抜けた笑いだったのでしょう。

そのベールも少しずつ溶け出したようです。
笑いに気が出てきたようです。
だからきっといろんな人がまた集まりだしたのです。
節子のいない3年目も乗り越えられそうです。
もっともっと笑おうと思います。
たとえどんなに悲しくても。

■737:人は泣くことによって、悲しさの意味を変えられる(2009年9月8日)
昨日、笑いのことを少し書きました。
そこで思い出したのが、ジェームズ・ランゲ説です。
人は楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだという考えです。
一緒に暮らしだした頃、節子とよく話した話題の一つです。
節子がそのことを覚えていたかどうかはわかりません。
しかし病気になっても節子は笑うことをとても大事にしました。
私が話したジェームズ・ランゲ説は、節子の中にしっかりと実践されていたように思います。

さびしさや悲しさを吹っ切るには、笑うのが一番です。
しかし、さびしさや悲しさに身を任せたいときもあります。
人の前ではそういうことはあまりないのですが、一人でこの挽歌を書いたり、節子の思い出のあるものに接したりしている時に、突然、涙が出てくることがあります。
涙が出るのが先なのか、悲しくなるのが先なのかは、微妙です。
しかし、涙が出てくるとますます悲しくなることは間違いありません。
一人のときは、涙が出てくるのに任せます。
もっと泣きたいと思うと涙はいくらでも出てきます。
涙がある程度出ると、心がとても静まり、逆に悲しいけれどもとても穏やかな気持ちになれます。
節子となんとなく通じ合ったような幸せさがやってくるのです。

さてそこで最近気づいたのは、
「泣くことからもたらされる悲しさ」と「泣くことを引き起こす悲しさ」とは、別のものではないかと言うことです。
さらにいえば、「笑いが引き起こす悲しさ」もあるのです。

笑いでさびしさや悲しさを吹っ切ることができると書きましたが、これはあまり正確ではありません。
ただ封じ込めるだけかもしれません。
その反動は、かなり大きいからです。

こうしたことはなにも愛する人を失った時だけではないでしょう。
人はいつも「さびしさ」や「悲しさ」、そして「楽しさ」や「喜び」の中で生きています。
それらが合わさって「幸せ」になるのだろうと思います。
「さびしさ」や「悲しさ」のない「幸せ」はありえないような気がします。

愛する人を失った時、それがあまりに突然なので(どんなに予想されていても「突然」の断絶であることには違いはありません)、感情が麻痺してしまいます。
その事実を受け容れられずに、笑ったり騒いだりしたくなります。
不思議なほどに実感できないのです。
その事実を受け容れられるようになると、初めてさびしさや悲しさが襲ってきます。
しかし、同時に、笑いや喜びも戻ってくるような気がします。

「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」ではなく、
「人は泣くことによって、悲しさの意味を変えられる」
ということを、最近、実感しています。

なにやら突然飛躍した結論になってしまいましたが、この行間にはたくさんの私の思いがつまっています。

■738:自らの生命の先行きなど知らないほうがいい(2009年9月9日)
テレビを見ていたら、医師が患者に余命期間を知らせるかどうか悩んで、他の医師に相談する場面がありました。
相談された医師は、自分が患者だったらどう思うかと逆に質問します。
悩んでいた医師は、自分なら真実を知りたいと答えます。
そのやり取りしか、私は見なかったのですが、自分ならどうだろうかと考えました。
そして、少し後になってからですが、この質問は無意味ではないかと気づきました。

余命に関しては、以前、書いたことがあります。
その言葉の意味を私が正確に理解していないおそれはありますが、私にはとても受け入れがたい言葉です。

ところで私が無意味な質問だと思った理由は、そもそも「真実」などというのはありえないということです。
人間の生命力の不思議さを考えれば、それは所詮「ある医師の主観的な評価」でしかないでしょう。
それに、真実は立場によって違って見えるものです。
医師と当事者とは、おそらく違う真実を見ています。
自らの医学的見立てを真実と考えるところに、現代の医学の問題があるような気がします。

しかし、そこでいつものように、私はめげてしまいます。
私と節子が見ていた真実もまた違っていたことになぜ気がつかなかったのだろうか、と。

自らの生命の先を一番よく知っているのは、当事者ではないかと、私は節子のことを思い出すたびに反省させられます。
後から思えば、節子はおそらく医師以上に知っていた、いや感じていたと思います。
しかし、その一方で、私たち家族との関係では、それを封じ込めていた、そう思えてなりません。
私は、節子のことを本当は何一つ知らなかったのかもしれません。
そう思うたびにめげてしまうのです。

最初の質問に戻れば、自分の余命を知りたいと思う人が本当にいるでしょうか。
仮にいるとしても、それを素直に受け入れられる人がいるでしょうか。
もちろんたくさんいるという人もいるでしょう。
私も、節子とのことがなければ、そういうと思います。
節子も、最初はそういっていましたから、
しかし、実際にそういう状況になると、人はそう思わないのではないか、今ではそんな気がします。

節子は闘病の辛さの中で、2回だけ「もう死にたい」とメモに書きました。
2回が多いか少ないかは人によって受け取り方は違うでしょうが、そう書いている時でさえ、節子は決して死にたくなどはなかったのです。
希望も決して捨ててはいませんでした。
自らの生命の先行きは実感していても、決してそのことを知りたくはなかったはずです。
自信を持ってそういえます。

自らの生命の先行きなど知らないほうがいい。
私は今は確信をもってそう考えています。
節子もきっと、今なら賛成してくれるでしょう。

■739:節子の普段着がバッグになりました(2009年9月10日)
節子の友人の野路さんから3つのバッグが届きました.
節子が使っていたハンカチや普段着を材料に、野路さんが裂き織りでつくってくれたのです。
その出来栄えに驚きました。
野路さんはとても器用で、ご自分の着るものやバッグなどは手づくりなのです、
3回忌に来てくださった時も、和服を再生したおしゃれな服装で、バッグもビデオテープでつくったものでした。
以前から、野路さんは節子の使っていたものでバッグなどをつくらせてほしいと言ってくださっていたのですが、その話がまた出て、ハンカチや普段着をお渡ししたのです。

それから1週間もたたないのに、見事なバッグが3つも送られてきたのです。
娘たちには、それぞれ手提げかばん、私にはセカンドバッグです。
手提げかばんの内部にポケットがついていますが、それは節子の普段着のポケットがそのまま活かされています。
野路さんはこう書いてきてくれました。

バッグを作ってみました。
お洋服は裏地に使いました。
ポケットもそのまま付けたままで縫いました。
斜めについていますが、着られていたそのままの形の方が良いのでは、と勝手に作りました。
ご主人様のは、さすがに表には持っていかれないのでは、と思い、御旅行のバッグの中に小物入れに使っていただければと思い、セカンドバッグ風に作ってみました。

3つのバッグを見ていて、そういえば節子はいつも病院に行く時に、野路さんからもらった同じような雰囲気のバッグを抱えていたことを思い出しました。
節子にとっては、野路さんは特別な存在だったのです。
野路さんは、節子の少し前にやはり胃を摘出されていたのです。

この週末、節子の母の7回忌で滋賀に行く予定ですが、早速に使わせてもらおうと思います。
節子がちょっと戻ってきた感じで、久しぶりの一緒の旅になりそうです。
野路さんにとても感謝しています。

■740:人は悲しさや辛さを経験するほどに、世界を深めていく(2009年9月11日)
節子
今日、新潟のKさんが久しぶりに湯島に立ち寄ってくれました。
Kさんのことは節子もよく知っていますね。

Kさんは私よりも年上ですが、とても行動力のある方です。
出版社で仕事をされていましたが、退職後も環境問題や社会教育問題の分野で精力的に活動されています。
いまは親の介護の関係で生活の拠点を新潟に移していますが、東京にもよく出てこられていました。
ところが最近、奥様が体調を崩され、ある難病指定を受けることになりました。
奥様もとても行動的な方でしたが、いまは無理ができず、Kさんもあまり東京に出て来られなくなったのです。

話をした後、一緒に食事に行こうと思い、支度をしていたら、なんとKさんが使ったコップを洗いだしたのです。
驚きました。
私が持っているKさんのイメージには、そんな姿はなかったからです。

いまは食事づくりもしていますよ、とKさんは笑いながら言いました。
そういえば、Kさんは時々電話でこう言ってくれていました。
女房が倒れて、奥さんを亡くされた佐藤さんの気持ちが少しわかった、と。
Kさんは心優しい人ですから、もちろん節子が病気になった時からとても心配してくれ、私たちを気遣ってくれていました。
そのKさんが、そう言ってくれたのです。

人は悲しさや辛さを経験するほどに、世界を深めていく。
そんな気がします。
奥さんに代わって食事をつくり、後片づけをする。
Kさんは、すっかりとその世界を自らのものにしているようでした。

歳をとるにつれて、さまざまな悲しさや辛さを体験することが増えてきます。
もちろん若い時にも悲しさや辛さを体験しますが、その受け取り方は違うような気がします。
歳とともに、その悲しさや辛さが自分に重なってくる。
頭ではなく心身に響いてくる。
そしてその響きが、人をやさしくしていく。
自他の境界を越えて、すべてのものが、すべてのことが、いとおしくなっていく。
そんな気がしてなりません。

歳とともに、人の心身の中にある仏性が目覚めてくるのがわかります。
しかし、同時に、それとは全く対極にある魔性もまた目覚めてくる。
平安と羨望、その狭間を大きく振れている自分がいます。
平安を得るには、もう少し悲しさや辛さを体験しなければいけないのかもしれません。

■741:節子の母の7回忌(2009年9月12日)
節子
あなたのお母さんの幸江さんの7回忌で、滋賀に来ています。
節子がいないのが嘘のようです。
幸江さんが病気になった時に、節子も病気が発見され、なかなかお見舞いに行けませんでした。
節子はずっと遠く離れた関東に来ていましたので、母親が病気になったら実家に帰って親孝行したいと言っていました。
それなのに、自分が病気になってしまい、看病にいけなくなったことをとても嘆いていました。
節子が少し元気になった時に、家族みんなでお見舞いに行きました。
それからしばらくして幸江さんは旅立ちました。
節子には辛い体験でしたが、節子は健気に振舞っていました。

幸江さんは、節子以上にしっかりした人でした。
早く夫に死に別れ、苦労を重ねたはずです。
それでも自分をしっかりと生きた人でした。
私にも、山のようにたくさんの思い出があります。
節子がいなくなった今、もう語りあう相手はいなくなりましたが。

節子の実家は浄土真宗です。
ですから法事でもお経がとても長いのです。
しかし今回は1時間半ほどで終わりました。
ご住職も大病をされたのだそうです。
みんな歳をとっていくのです。
お経が終わった後、ご住職は「おばさん」の思い出を少し語ってくれました。
幸江さんは、ご住職の生まれた時から知っていますから、ご住職にとっては子どもの頃から頭の上がらない「おばさん」だったのです。
それもかなりきびしいおばさんだったのではないかと思います、
おばさんに叱られたり、喜んでもらったりと、住職は話されましたが、相手が住職であろうと誰であろうと、言うべきことはしっかりと言う人でした。
幸江さんは、とても「キャラクターの強い人」だったとみんなが話していました。
たしかにみんなにはそう映ったでしょう。
モダンな、都会的な発想をする人でした。
だからきっと私たちの結婚を親類の反対にもかかわらず許可してくれたのです。
私も、幸江さんには迷惑や心配をたくさんかけたのだろうと思います。
でも幸江さんは私が節子と結婚したことをいつも喜んでくれていました。
まあ、たぶん、ですが。

苦労した分だけ人は強くなりやさしくなるものです。
もっとも節子はそう苦労はしなかったにもかかわらず、幸江さんの血を継いでか、「言うべきことを言う」「きつい」人でした。
その性格は私と一緒に暮らす前からです。
私はそれにも少し惹かれていたのです。

そういえば、節子が帰省の度に顔を出していたお寺にも挨拶に行っていなかったことに気づきました。
お経が終わった後、住職ご夫妻に挨拶しました。
そのやりとりもいつか書けるかもしれません。
いいやりとりでした。

節子を見送った後、初めて会う人も少なくありませんでした。
みんなそれとなくいたわってくれました。
さりげないいたわり。
もしかしたら、法事とは死者のためではなく、生者のためのいたわりあいの場なのかもしれません。

節子は彼岸で幸江さんと楽しくやっているでしょうか。
こちらの法事も和気藹々と終わりました。

■742:鮒寿し(2009年9月13日)
滋賀から戻ってきたら、滋賀から「鮒寿し」と「鯖寿司」が届いていました。
今回は時間がなくて、立ち寄らなかったのですが、滋賀の魚助の松井さんからです。
松井さんは節子の遠縁で、しばらく付き合いが途切れていましたが、節子のことを知って、自己治癒力を高めるという鮒寿しを節子に送ってきてくれたのです。
今回はまだ鯖寿司の旬の季節ではないのですが、命日から遠くなってもということで送ってきてくれたのです。
松井さんの鯖寿司はとてもおいしくて、節子は大好きでしたが、胃を摘出したためにほんの一口しか食べられずにいたのを思い出します。
鮒寿しは節子も私もダメなのですが、松井さんは鮒寿しを食べやすくしようと努力してきましたので、松井さんの鮒寿しだけは大丈夫でした。
松井さんは「栄養と料理」の「食の達人」シリーズで取り上げられていますので、ファンも多いのです。
松井さんのブログもよかったら読んでやってください。

節子と結婚したおかげで、私は滋賀で豊かに暮らしている人たちの暮らしに少しだけ触れさせてもらいました。
もちろんそれは今も続いています。
そこには、都会とは全く違う生活文化があります。
時代と共に少しずつ変化してきていますが、まだまだしっかりと残っています。
そこにこそ「暮らしの原点」があると私は思いますが、そこにささやかに触れさせてもらったことが、私の人生を大きく変えました。
日本の基層文化への想像力を持てたのです。

節子は、私をそうした文化につないでくれた、良きつなぎ手でした。
節子ほど良い先生はいませんでした。
なによりも知識化せずに心身の中に感覚を保持していたので私も素直に理解できました。
私の教え方とは正反対です。
節子の文化を私が分けてもらえたのは、土が好きな点で、共通していたからかもしれません。

節子が好きな食材にもうひとつ「へしこ」がありました。
私はこれもダメでした。
私がダメだったので、節子もほとんど食べることがありませんでした。
ところが、節子がいなくなってから、皮肉なことにへしこをいただくことが増えました。
試しに食べてみました。
以前はダメだったのに、食べられました。
なぜでしょうか。

最近気づいたのですが、節子を見送った後、私の食生活が少し変わってきています。
気がつくと節子が食べていたものを食べているのです。
節子が私の心身に入り込んでいることは、どうも間違いないようです。
ちなみに、へしこも鮒寿しも作り手によって味が大きく違うようです。
一度で懲りないほうがいいかもしれません。
自分に合ったものがあるかもしれません。

■743:かかってこなかった電話(2009年9月14日)
節子
今日はちょっと緊張してオフィスに出てきました。
1時から2時の間に、私に電話がかかってくることになっていたからです。
電話の主は、どんな人か全くわかりません。
「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」の事務局としての私に、これまで何回かメールをくれた人ですが、電話で話したいといわれたのです。
これまでは短いメールばかりですので、どんな人か全くわかりませんが、何しろテーマが「自殺」なのでおろそかに対応はできません。
ただ最初の頃は、自殺の講座はありますかとかいうメールで、冷やかしメールではないかという感じでした。
自分のことは一切明かさずの短いメールですので、嫌がらせのメールと思ったこともあります。
メールをもらうたびに、心が重くなりました。

ネットの世界ではそうめずらしいことではありません。
さすがにこの「挽歌」ブログには嫌がらせメールは来ませんが(迷惑メールは来ます)、時評編には時々来ます。
メールをやり取りしているうちに、電話で話したいといってきました。
躊躇しましたが、結局、受けることにしました。
ただ私の個人電話ではなく、オフィスの電話を使うことにしました。
以前一度、真夜中にまでかかってくる経験をしたからです。
しかも、節子の看病中でした。
それを思い出して、今回は日時も指定し、オフィスの電話を連絡しました。
待っていましたが、電話がありません。
やはりいたずらかとがっかりしましたが、メールが届きました。
私が教えたオフィスの電話番号が間違っていたのです。
とんでもないことでした。
その人は、「都会の人はこうしてだますのですね、だから自殺したくなります」というようなことをメールで書いてきました。
どうも私には慎重さがありません。
節子からいつも注意されていたことですが。

お詫びして正しい電話番号を伝え、時間を指定しました。
不安があったので、私が教えた電話番号で間違いないかどうか、自分の携帯電話から電話してみました、
大丈夫でした。
そういう事情があったので、今日は緊張して出かけてきたのです。
20分前からスタンバイしていました。
ところがまた電話がないのです。

メールをチェックしてみました。
「体が悪いから、電話しないです。また宜しくお願いします」
こういうメールが入っていました。
肩から力が抜けました。

節子
昔もこうしたことは時々ありましたが、節子が支えてくれました。
しかし今は誰も支えてくれる人がいません。
ですからすごく疲れます。

私が福祉関係の世界に無防備に入り込めたのは、今から思うと節子の存在があったからです。
あまり論理的ではないのですが、この頃、つくづくそう思うのです。
人の人生に一人でかかわっていくことは大変なエネルギーが求められます。
私の背負っていた重荷を、いつも節子は分かちあっていてくれたのでしょう。
本当に苦労をかけてしまっていたのだろうなと、最近悔やまれてなりません。
私も節子も、それが当然のことだと思っていて、負担などとは思っていなかったのですが、一人になるとその負担の大きさがよくわかります。

電話は今度はいつかかってくるでしょうか。
今日はこの1件だけで、十分に疲れてしまいました。
困ったものです。

■744:メダカと沢蟹(2009年9月15日)
節子
湯島のオフィスにメダカを連れていきました。
バラはすべて枯れてしまい、花類は難しいので、今度は観葉植物の挿し木を持参しました。
もう一度、湯島を気持ちのいい空間にしたいと思っていますが、どうも私だけでは花は枯らしてしまいがちで、殺風景な状況を克服するのは難しいです。
やはり空間は、その住人によって変わるものです。
ベランダには、節子が残していった植物が5つ、まだ元気です。
というか、手をかけずに元気を維持できるものしか残らなかったということですが。

今日は、本郷のコムケアセンターのオフィスにも行きましたが、入り口に、節子が持っていった植木がいまも元気に残っていました。
あまり手入れをしないでも大丈夫なものを、節子は選んでくれたのです。
節子の思い出はコムケアセンターにまで残っています。

節子は生き物が好きでした。
節子が元気だった頃は、いつも、植物がベランダにも室内にもありました。
それだけで、私の気分は和みました。
節子がベランダで観葉植物の植え替えをやっていた姿を思い出します。
節子は土が好きだったのです。
私は、土いじりをしている節子が好きでした。

その節子がいなくなって、枯れるものは枯れてしまいました。
それでもわずかばかりの緑が残っているので、心がやすまります。

ところで、このメダカは敦賀のある人が育てていた日本メダカです。
それを先日、義兄にわざわざ自宅まで運んでもらったのですが、自宅で安定したのでオフィスで育てることにしました。
2匹です。
その動きを見ていると飽きることがありません。

私は自然の中の生き物が好きなのです。
生き物がいそうなところを見ると、探したくなるのです。
あまりほめられたことではないのですが、心身が動くのです。
そのことを節子はよく知っていてくれていました。
ですから還暦祝いは、わが家の狭い庭にビオトープをつくってくれたのです。
そのうえ、何度か沢蟹さがしにまで付き合ってくれました。
そんな女房はほかにいるでしょうか。
まあ、いるでしょうね。
しかし私の気持ちを理解してくれていたのは節子くらいでしょう。
ことほど左様に、節子は私のことをすべて知っていました。
だから節子といると心が和んだのです。

節子は、このメダカを見ているでしょうか。
そういえば、庭に放した沢蟹も、先日、石の下に潜んでいました。
これも節子がしっかりと敦賀の姉に伝えていてくれたので、敦賀の姉夫婦が捕まえてもって来てくれたのです。

私には越前ガニよりも、山の沢蟹がずっとうれしいのです。
庭に沢蟹がいる生活が実現できたのは、節子のおかげです。

■745:一人でいるよりも気楽な同伴者に恵まれたことの幸せ(2009年9月16日)
節子
最近の異常な疲労感はどこからくるのでしょうか。
心身的な疲労感というよりも、脳の疲労という感じで、考える力が萎えているのです。
もっと正確にいうと、考える気にさえならないのです。
昨日、一人で浴槽につかりながら、なぜだろうかと考えるでもなく考えていました。

先々週の節子の3回忌から疲労感を感じていますが、
無事3回忌を超えたことが原因なのでしょうか。
先週、節子の生家の法事に行って、疲労感がまた高まりました。
さまざまな思いがどっと心身を襲ってきたのが原因でしょうか。
そうしたこと以外に、あまり理由が思いつきません。

この2週間、節子の友人知人さらには親戚の人たちとたくさん話しました。
節子がいないのに、節子の分まで考え話さなければいけない。
会話するのは私ですが、考えているのは(頭の中で内話しているのは)節子と私の2人なのです。
つまり私は、外と内とで同時に話しているわけです。
しかもその間、彼岸の節子につながっているわけですが、彼岸につながるのはかなりのエネルギーが必要なのです。

一人で生きるよりも、同伴者がいることのほうが、疲れません。
この疲れは、節子がいないせいであることは間違いありません。
一人のほうが気楽で、自分のペースで生きられるから疲れないという人がいるかもしれませんが、同伴者のための苦労は疲れても、疲れがいのある疲れです。
それに同伴者とシェアできるのです。
少なくとも私の場合は、節子が隣にいる方が気楽でした。
一人でいるよりも気楽な同伴者に恵まれたことの幸せに感謝しなければいけません。

気楽に生きるための支えだった節子がいなくなったので、私の人生は疲れるものになったのかもしれません。
同伴者の節子がいなくても疲れない生き方。
早くそれを見つけなければいけません。

■746:節子がいなくなってから、帰宅時間は早くなりました(2009年9月17日)
昨日のことに少しつながるのですが、節子がいなくなってから、私の帰宅時間は早くなりました。
帰宅時間だけではなく、在宅時間が長くなったといってもいいでしょう。
考えてみると不思議なことです。

私を待っている節子がいればこそ、早く帰りたいと思うはずですが、実は逆なのです。
遅くなっても家には節子が待っていると思えばこそ、帰宅時間が遅くなっても大丈夫だったのだと、節子がいなくなってから気づきました。

私の小学校の時の同級生で、私よりも少し早く伴侶を見送った友人がいます。
私のことを知って電話をくれました。
彼女は、夫のいなくなった自宅にいるのが苦痛で、その後、外部でボランティア活動を始めたというのです。
当時私はほぼ自宅に引きこもっていましたが、それが彼女には理解できなかったようです。
男女の違いかもしれませんし、個人の違いかもしれません。
ただ私は、節子がいなくなってから、自宅にいる時間が圧倒的に増えました。
節子がいなくても、自宅にいるとなんとなく心がやすまるのです。

当初は、夜は自宅で過ごさないと不安でしたので、夜の集まりやお付き合いはほとんどお断りしたくらいです。
今も夜はできれば自宅で過ごしたい気分です。

待っている人がいないのに、早く自宅に帰りたくなる気分。
これは私自身にとっても不思議でした。
節子がいた頃に早く帰宅していなかった罪悪感の成せる業でしょうか。

今日は夜に集まりがありますので、帰宅は遅くなりますが、そんな時はとても気が重いのです。
いつになったらこうした気持ちから解放されるのでしょうか。

■747:節子は孤独だったのでしょうか(2009年9月18日)
節子
死や看病などの本を読んでいて、とても違和感を持つことがあるのですが、それは私の感受性の欠如かと思うことも少なくありません。
しかし、そう思えないこともまた、少なくないのです。

「希望のケア学」(渡辺俊之)という本を読みました。
そこにこんな文章が出てきました。

死には恐怖感がともないます。死にゆく人は計り知れない喪失感を抱えています。死は孤独です。死には痛みもともないます。死は恐ろしく、死は運命です。

節子もそうした喪失感や恐怖感を持っていたのでしょうか。

その文章に続いて著者はこう書いています。

死にゆく人をケアするのはたやすいことではありません。死にゆく人と、生き残る人のあいだには大きな溝があります。死にゆく人の心に近づこうと思っても、彼らには生き残る人へ向けた羨望や怒りが生じます。激しい恐怖や悲しみが彼らを圧倒しています。

節子のことを思い出すと、とてもこの文章はうなづけないのです。
私たち家族と節子のあいだに大きな溝はなかった。
節子は私たちに対して、決して羨望や怒りの念などなかった。
節子が恐怖を感じていたとは、私にはとうてい思えません。
私の思い上がりかもしれませんが、節子は決して「孤独」ではなかった。
私は節子を見送ることで、死に対する恐怖感を完全に払拭できたように思います。
節子は、私に「生き方」を教えてくれた。
その見事さが、見送った後の私の立ち直りを遅らせているのかもしれません。
その見事さを直接の言葉で褒めてやれないのが、ほんとうに残念です。

最後の最後まで、節子は私たちの家族の一人でした。
それも、必ずまた元気になる家族としてしか考えられなかったのです。
ケアとは、相手を自分の仲間として接することではないかと私は思っています。
溝などあれば、ケアしようがない。
自分の体験から発想するのは危険ですが、ケアに関する著作は、具体的な話になるとどうも違和感が生まれてくるのです。

節子は決して孤独ではなかった、ともかくそう思いたいのかもしれません。
節子
実際のところどうだったのでしょうか。
最近、その思いがしばしば頭をよぎります。

■748:Mourning(2009年9月19日)
対象喪失によって起こる一連の心理過程を「モーニング」というそうです。
morning(朝)ではなく、mourningと表記するのですが、辞書によれば「悲嘆」とか「喪中」とあります。
精神分析の世界では、悲嘆を克服していく過程をモーニングと呼ぶようです。
つまり「喪に服す」ことと言ってもいいでしょう。

昨日、引用した「希望のケア学」で読んだのですが、モーニングのあいだ、人はさまざまな悲しみや苦痛を体験し、やがて現実の受容にいたるのだそうです。
その期間は人によってさまざまだそうです。
モーニングのあいだ、「悲しみ」「さみしさ」「怒り」「落胆」といったマイナスの感情が波のように押し寄せてきて、失われた対象が何度も脳裏をよぎり、そのたびに苦痛が心を支配する、と書かれていました。
そして、現実を受容できるようになると、モーニングが終わる、つまり喪があけるというわけです。
納得できるようで、どこかに違和感があります。
私の場合は喪があけることなどないという思いがあるからです。
それに、現実は受け容れていながら受け容れていないのです。

その本の紹介では、モーニングには4つの段階があるのだそうです。
第1期はショックで頭が真っ白になってしまい感情がなくなってしまう状態。
第2期は必死になって失った対象を取り戻そうとする抗議の段階。そこでの感情は「怒り」だそうです。
第3期は絶望と抑うつの段階で、あきらめからの「悲しみ」「空しさ」「落胆」といったマイナスの感情が支配的になるのだそうです。
そして第4期は対象からの「離脱の段階」。新しい対象に興味がうつり、活力や陽性の感情が支配するようになり、「もう気持ちの整理がついた」「前向きに考えていこう」と思えるようになるのだそうです。
これらは必ずしも一直線ではなく、行ったり来たりしながら進行すると書かれていました。

これもそう言われればそんな気もします。
私も節子を送った直後は、現実を理解できずに異常に冷静でしたが、感情は希薄化していました。
しかし、その後、抗議の段階や絶望の段階の実感はありません。
この挽歌を読み直すと、もしかしたらそうした感情が読み取れるのかもしれませんが、怒りや落胆とはちょっと違うような気がします。
ましてや「離脱」など考えられません。
自分の気持ちを整理してみると、むしろ「混乱」「理解」「正当化」「同一化」といった4段階を感じます。
そして「同一化」により、心身の平安が得られるのです。

喪をあけなくとも「平安」は訪れます。
逆に言えば、「喪はあけることはない」のです。
「もう気持ちの整理がついた」「前向きに考えていこう」などというのは、私にとっては、なんら意味のあることではなく、目指すことでもありません。
そこがたぶん周りの人にはわかってもらえないような気がします。
一生喪に服していることこそ、心身の平安をもたらしてくれるのです。
きっとそういう人は少なくないでしょう。
そのことに気づいたら、とても生きやすくなったような気がします。

精神分析の本は退屈です。

■749:この週末、わが家の庭にコーヒーを飲みに来ませんか(2009年9月20日)
節子
気持ちのいい秋晴です。
予定されていた集まりが延期になったので、今日は在宅しています。
窓から空を見ていると、3年前の千畳敷カールの青空を思い出します。
今日の空はあまりきれいではありませんが、あの日の空はきれいでした。

こういう日は、いつも節子は庭で花の手入れをしていました。
狭い庭であればこそ、そこを活かす工夫をいろいろとしていたのです。
私は整然とした庭ではなく、多少ごちゃごちゃした庭が好きでした。
ともかく多様な草花や樹木が絡み合うように育っているのが好きなのです。
節子はむしろ整然としたスタイルが好きでした。
しかし、幸いなことに、わが家の庭は狭いので、結果的にはごちゃごちゃした庭になってしまっています。
それに節子は、植えるところもないの、どこかで気にいったものがあるとすぐ買ってきたりもらってきたりしてしまうのです。
節子は私以上に無計画で先のことを考えないタイプでした。
ですからわが家の庭花は種類だけは実に豊富なのです。
むすめのジュンの手入れのおかげで、それはいまも持続しています。
それが私にはとても気にいっています。

次の土日(26日、27日)は我孫子で恒例の手づくり散歩市があります。
今年もわが家の庭にある娘のスペインタイル工房が参加します。
体験教室もあります。
節子の意志を継いで、その日は私がコーヒーを入れる役です。
コーヒーは庭で飲んでいただく予定ですが、その近くに献花台もあります。
きっと節子も一緒に楽しんでくれるでしょう。
去年、このコーヒーを飲んでくれたMさんが演奏に来てくれるという話もあります。
スペインタイルに興味のない人でも歓迎です。
近くの手賀沼散策もまあ捨てたものでもありません。
もしお時間があれば、どうぞお立ち寄りください。
どなたでも大歓迎です。

■750:「人」とは「相互支援の形」(2009年9月21日)
節子
今年はシルバーウィークというのがあります。
秋の5連休です。
節子がいたら箱根に行っていたでしょう。
今年はむすめたちと行こうと話してはいましたが、誰も結局は具体的に動かず、そのうちにそれぞれいろいろと用事が入ってきてしまい、行けなくなってしまいました。
父親に付き合いたいと思うような娘はいるはずもありませんので、期待したのは私の甘えだったわけです。

節子がいなくなってから、私の行動力は大きく鈍ってきています。
いかに節子が私にとってのエンジンだったかがわかります。
伴侶がいなくなると、人の活動量は大きく変わりますが、その方向は増加もあれば減少もあるようです。
私の場合は、大きく減少しています。
一人になって身軽になる人も多いでしょうが、私はどうも心身が重くなりました。
これまでも何回かそう書いてきましたが、実際に重くなるのです。

概して女性よりも男性の方が行動量は「減少する」ようです。
「人」という文字は2本の棒が支えあっている形ですが、左が男性、右が女性と、よく言われます。
右の棒が左の棒を支えているわけですが、右の棒がなくなると左の棒はバタンと倒れて動かなくなるのに対し、左の棒がなくなると右の棒は抑えていたものがなくなり自由に伸びだすわけです。
そういわれると、そんな気もしてきます。

先日会った人からは、動きが鈍ったのは自立していなかったことの結果だよといわれました。
たしかにそうかもしれません。
しかし、私が言うのもなんですが、節子もあまり自立していませんでした。
節子も、私のようになかなか立ち直れずにいるでしょうか。
こればかりは何とも言えませんが、必ずしもそうとは思えません。
決して「自立」の問題ではないのです。

人という文字に戻れば、こうもいえます。
右の棒の支えがあればこそ、左の棒はしっかりと伸びられた。
左の棒の押さえがあればこそ、右の棒はしっかりと大地に根づくことができた。
つまり「人」とは「相互支援の形」なのです。

節子と私は相互支援の夫婦でした。
相互支援の関係になれた節子と出会えたことを、とても幸せに思っています。
節子がいなくなったいまも、生を続けなければいけないのはけっこう辛いことですが。

■751:世界の広さ(2009年9月22日)
昨日、挽歌を書いていて、思い出したことがあります。
ある女性の方が、「男の人は会社を辞めると意外と友人が少ないから」と言いました。
また、別の機会ですが、企業の経営幹部のみなさんと話していて、女性と男性の違いが話題になりました。
全員男性でしたが、「女性のほうが、世界が広い」というのです。
反対ではないのか、と異論を唱えましたが、だれも賛成しませんでした。

男性中心に動いている工業社会では、男性の方が行動範囲も人との接点の広がりも大きい。
したがって、男性の生活世界のほうが広く、視野も広い。
これがしばらく前までの常識だったような気がします。
いつから変わってしまったのでしょうか。
男性自らが、自分たちの世界の狭さを認め始めたのです。
これは私には大きな発見でした。
私もかなり時代から取り残されてしまってきたのかもしれません。

私は節子よりも世界は広く友人知人も多いと思っていました。
なにしろ年賀状は節子の10倍は届いていましたし、声をかければ集まってくれる友人も世代を超えて多かったからです。
節子でさえ、私の交流の範囲の広さには感心していました。
ところが、節子がいなくなってから、節子のほうが友人が多いことに気がついたのです。

年賀状が多ければ友人が多いわけではありません。
葬儀に来てくれる人が多ければ、友人が多いわけでもないでしょう。
私の葬儀にはたくさんの人が来てくれるかもしれませんが、3回忌に来る人はいないでしょう。
節子はたくさんの友人たちに囲まれていたことがよくわかります。
それはおそらく「世界の広さ」にもつながっています。

私は節子よりも「知識」や「情報」はたくさん持っていました。
しかしそうしたことは、世界の広さにつながっているでしょうか。
中途半端な知識があると、人はついつい「知ったかぶり」をします。
私は、まさにその典型で、家族からは評判がとても悪いのです。
「知識」や「情報」があると、本当の現場の世界との付き合いを阻害することもあります。
知っていると思っているが故に、現実が見えなくなってしまうのです。
私は時々、節子からそれとなく注意されました。
情報は現実を見えやすくもしますが、見えにくくもするのです。

知識や情報で世界をみるのではなく、自らの心身で世界を感ずる。
節子がいなくなってしまった今、そのことに心がけているのですが、話し合う節子の不在はやはり私の世界を狭くしてきているような気がします。
困ったものです。

■752:彼岸法要と「生命の連続」(2009年9月23日)
節子
彼岸のお中日です。
彼岸前にお墓の花をきれいにしておこうと思い、一昨日、お花を持っていったのですが、すでに周りのお墓はきれいになっていました。
最近はいつも出遅れます。

彼岸法要は、先祖を供養する日本独自の行事だそうです。
昨日、一条真也さんが新著「あらゆる本が面白く読める方法」を送ってきてくれましたが、それを読んでいたら、こんな文章が出てきました。

わたしは、あまり死ぬのが怖くありません。これは痩せ我慢でもなんでもありません。
わたしは、儒教の本を読んでから死ぬのが怖くなくなりました。

一条さんは、儒教の『孝』とは『生命の連続』ということであり、子どもや子孫を残すことによって、人は死ななくなるという思想だと書いています。
儒教に関しては、私も興味をもっていますが(最初の出会いは小学生の時に読んだ下村湖人の「論語物語」です)、生命の連続という視点で考えたことはありませんでした。
生命は個人で完結するものではなく、時空間を超えて遍在しているという私の生命観と一致しています。
節子とのつながりを感ずるのは、こうした生命観に支えられているのです。

「あらゆる本が面白く読める方法」というような本の中で、こんな文章に出会うとは思ってもいませんでした。
しかも出会ったのがお彼岸の中日。これも何かの縁かもしれません。
庭の彼岸花も、今年はあまり多くはありませんが、咲いています。

■753:閉じられた世界(2009年9月24日)
節子
最近ちょっとまた気が下がっています。
どうも生き生きした現場との接点がなくなってきており、充実感がないのです。
節子が持っていた現場感覚がとても懐かしいです。

気が萎えてくると、それが実によくわかります。
軽い「うつ」かもしれません。
しかし、こればかりはいくら自覚しても対応はできないのです。

原因はなんだろうかと考えました。
答は簡単でした。
心で話す時間が少なくなっているのです。
節子がいた頃は、いつも心で話をしていました。
頭で、ではありません。
その話の多くは、ライブな心身につながる生活情報であり現場情報でした。
その話し相手が自宅にいないのが一番の原因だろうと思います。
最近私が話している内容は、どちらかといえば、頭や知識の情報です。
おもしろいのですが、どこかに虚しさがあります。
その世界だけだと、とても疲れるのです。
憩いがないのかもしれません。

節子と話していた多くのことは、極めて個人的で感情的な世界の、それも無意味な話でした。
ただ思うがままに反応しあう世界。
しかし、そこは顔の見える人が織り成す世界でした。
それも、自分が生きている足元につながっている話です。
気候変動の話でも、八ッ場ダムの話でもありません。
いわゆる「茶飲み話」です。
最近どうもそれがないような気がしています。
そういえば節子は私のよく声をかけてくれました。
「修さん、お茶でも飲まない」
節子を通して開かれていた世界が、どうも最近閉じてしまっている。
節子とお茶を飲む時間が、私にとっては大きな意味を持っていたようです。

どうも何かのバランスが崩れてきている。
さてさてどうしたものでしょうか。

■754:私が先に逝ったら節子はどうしただろうか(2009年9月25日)
節子
昨夜、恒例の支え合いサロンを開きました。
支え合いながら暮らす生き方を取り戻したいという、コムケア活動の一環で、毎月やっているサロンです。
今回は、高崎市で「ゆいの家」を主催している高石さんをゲストにお呼びしました。
まさに私たちが目指している「結い」を掲げて活動されている人です。
その地道な活動に共感しています。

実は高石さんの伴侶も節子と同じくがんでした。
節子とほとんど同じような形で、がんと付き合い、同じように伴侶を残して先に旅立ってしまいました。
昨年12月のことです。
このことは、挽歌502:「父ちゃんが逝って1か月がたちました」で書きました。

高石さんを支えたのは、もしかしたら「ゆいの家」の活動だったのかもしれません。
久しぶりにお会いした高石さんは元気そうでした。
「父ちゃん」がいるときは、生活費の心配はすることなく社会活動ができたけれど、今度は少し自分で生活費を獲得しなければいけないというわけで、活動を少し見直そうとしています。
たしかに生活基盤がしっかりあっての活動と生活基盤を含めての活動では違ってきます。

私が先に逝ったら節子はどうしただろうかと、ふと思いました。
借金はもうそれほどありませんが、私がいなくなると収入はゼロ。
節子の年金は3万円程度でしたから、やってはいけません。
そう考えると女性たちの社会活動は男性の労働に支えられていることがよくわかります。
これはまたいつか時評編でしっかりと書きたいと思いますが、私が先に逝ったら、節子は路頭に迷ったかもしれないと一瞬思いました。
しかし、そんなことはないでしょうね。
女性の生活力は男性とは大違いですから。
でも、節子一人を残して先に行くとなったら、私としては、心配で心配で仕方がないでしょうね。
私のいない節子は、私には全く想像できないのです。
節子は本当に頼りない人でしたから。

と考えてきて、これはもしかしたら節子の思いだったのではないかと気づきました。
頼りない私を残して、先に逝った節子の不安が痛いほどよくわかります。
がんばらなければいけません。
女性の強さには勝てませんが、それなりにがんばって、節子を安心させなければいけません。
まあ安心はしないでしょうが。

■755:嵐のような日(2009年9月26日)
節子
今日は疲れた1日でした。
このブログでも書きましたが、今日は手づくり散歩市の1日目でした。
工房にもお客様がありましたが、それ以上に、思ってもいなかった人たちがやってきました。
節子が会ったことのない、初めての人が2人いました。
それも2人とも、並みの人ではない人です。

まずは daxさん(彼から実名は書くなと前に言われているのです)。
CWSコモンズのほうには時々登場しますが、任侠の人です。
まさかdaxさんが来るとは思ってもいませんでしたが、考えてみると予想すべきでした。
daxさんはこの挽歌を読んでいますし、それにコーヒーが好きなのです。
コーヒーを飲みに来ませんか、と書いたらやってくるでしょうね。
実際、daxさんは開口一番「コーヒーをのみに来たよ」と言って入ってきました。
ちょうど佐々木さんと話していたところでしたが、佐々木さんも実はdaxさんのブログまで読んでいましたので、面識はなくとも親しみをもっていました。
それに、佐々木さんとdaxさんは根本的なところで通ずるところがありますので、話は弾みました。
ただ、daxさんは話し出したらとまらないので、2時間以上、まるで彼の独演会でした。
疲労困憊です。
daxさんに節子を守っている大日如来をお引き合わせしました。
彼は僧籍も持っていますが、とてもいいとほめてくれました。
俺は不動明王に似ていると言われるんだとdaxさんは言いましたが、彼は地蔵菩薩の雰囲気です。
もちろん外観だけではなく、心身ともに地蔵菩薩なのです。
その愛すべき地蔵菩薩に拝んでもらって、とてもうれしい気分です。

みんなが帰って、今日は疲れたなあ、と娘たちと話していたら、電話がありました。
なんと福山さんからの電話で、いまわが家の近くにいるというのです。
いやはや、一難去ってまた一難、という気分ですね。
福山さんは、自殺のない社会づくりネットワーク準備会の事務局長をお願いしているのですが、これまた尋常の人ではないのです。
daxと同じで、話しだしたらとまりません。
福山さんのエネルギーの大きさは、台風を思わせるほどです。
娘たちも圧倒されていました。
真紅のバラとつくばブランドのバラを持ってきてくれました。
わが家の大日如来にも、そして献花台にもバラを供えてくれました。
きっと節子も驚いたことでしょう。
節子以上に、「天然」の人なのです。天然のタイプがちょっと違いますが。
福山さんはスペインタイルも気にいってくれ、工房を案内したら、そこから出てこないので、私は30分以上、手持ち無沙汰させられました。
それにしても福山さんの嵐にわが家は翻弄されてしまったわけです。

というわけで、今日は節子の知らない2人の人が節子にお参りしてくださったわけです。
節子も少し戸惑ったことでしょう。
でも安心してください。
もう一人お参りしてくれた、佐々木さんのような人との付き合いもあるのです。
いえ、その佐々木さんも考えてみると決して尋常な人ではないですね。
どうも私の周りには、尋常らしからぬ人が多いようです。
今日は本当に疲れました。

節子
まあこんなわけで、活動再開の余波は、わが家にまで届きだしています。

■756:「むすびびと」と「おくりびと」(2009年9月27日)
節子
一条真也さんが「むすびびと」という本を編者として出版しました。
人と人、一条さん的にいえば、魂と魂を結ぶ仕事をしている、いわゆるウェディングプランナーと呼ばれる人たちの体験した感動的なエピソードを集めた本です。
「むすびびと」は一条さんの造語ですが、一条さんは「結婚」も「結魂」と捉えており、「結魂論」という著書も書いています。
一条さんには節子は会ったことはありませんが、節子が闘病中に元気になるようにと韓国のお寺からお守りを送ってきてくれたこともあります。
節子は最後まで、そのお守りを大事にしていました。

一条さんは、映画で話題になった「おくりびと」に触発されて、きっとこの本を思い立ったのでしょう。
一条さんからは以前から「おくりびと」も薦められているのですが、まだとても観る気にはなれません。

一昨日、久しぶりに人と情報の研究所の北村さんが湯島に来てくれました。
たまたま先日、朝日ニュースターのテレビに出ていた私を見て、私が活動を再開したことを知って、やってきてくれたのです。
そこで、たまたま「おくりびと」の原作である「納棺夫日記」の著者の青木新門さんのことが話題になりました。
青木新門さんは北村さんのお知り合いなのです。
「むすびびと」を読んだ翌日だったので、なにかとても縁を感じてしまい、北村さんにも「むすびびと」の本を紹介させてもらいました。

「むすびびと」と「おくりびと」。
私は「おくりびと」も「納棺夫日記」も、その内容は知らないのですが、そういえば、一条さんの葬送論を読んでいないことに気づきました。
結婚を「結魂」と捉えた一条さんであれば、おそらく魂に関わる形で葬送を語ってくれそうです。
もう15年ほど昔になりますが、私が一条さんに興味を持ったのは、一条さんの対談集「魂をデザインする」という本だったことを思い出しました。
もしかしたら、いま読み直すと、全く違ったメッセージを読み出せるかもしれません。
この15年間で、おそらく私の感受性や生命観は変わっているはずです。
改めて読み直してみたくなりました。
いまはまだ「葬儀」という文字を見るだけで心が緊張してしまうのですが、一度挑戦してみようと思います。

節子を見送った意味、今の節子にとっての私の意味、など、いろいろと気づくことがあるかもしれません。
あるいは、抽象的な退屈な対談に感ずるようになっているかもしれません。
それを読んだ上で、いつかまた最新の一条さんの葬送論を聴きたいと思っています。

■757:死が感じてからの節子の生き方(2009年9月28日)
節子
今日は京都の宇治にある天ヶ瀬ダムに行ってきました。
自殺のない社会づくりネットワークの立ち上げのために、各地の、いわゆる自殺多発場所をみんなで手分けして回っていますが、ここはとても積極的な取り組みをしていると東尋坊の茂さんに聞いていましたので、ぜひ実際に見てみたいと思ったのです。
久しぶりの宇治です。
天ヶ瀬ダムは宇治平等院のすぐ近くです。
時間があったので平等院に寄ろうと思えば寄れたのですが、やはりどうも立ち寄る気が起きず、結局、寄りませんでした。
節子との思い出のあるところには、寄りたいのに寄れないのです。

ダムといえば、奥只見湖ダムに節子といったことを思い出します。
あの時も中国から日本に働きにきている若者たちのグループと仲良くなりました。
一緒に写真をとり、また東京に戻ったらオフィスに遊びに来るよと言うことになりました。
彼らのために何かできることがあるはずだと、私たちは思ったのです。
しかし、残念ながら、その後の交流は始まりませんでした。
まあこうしたことはよくありました。

旅先で出会った人との交流を楽しむのは節子の文化でした。
自然と話しかけて、そこに入っていくのです。
でもこれは、節子のもともとの文化ではありませんでしたし、私の文化でもなかったのです。
いつから、そういう文化が生まれたのか。
もしかしたら節子が病気になってからかもしれません。
思い出してみるとそんな気がします。
もちろんその前も、そういう傾向はなかったわけではないのですが、病気になり、一時回復に向かってからの節子は、人とのふれあいをいっそう大切にするようになりました。
出会った人に声をかけ、音信がなくなっていた人に手紙を出し、旧友とも会いに遠出をするようになりました。
旅先で会った人との一期一会も大切にしたのです。
病気を一時期、克服するかに見えた節子の生き方は見事なほどに積極的でした。
そして何よりも、人が好きになったような気がします。

節子は自らの生の証をできるだけ多くの人たちに刻み込んでおきたかったのかもしれません。
私の目線は節子だけに向けられていましたが、節子の目線はすべての人に向けられていたのです。
そのことに気づいていたら、もっともっと節子が喜んでくれるような場をつくれたのですが、私はいつも気がつくのが遅いのです。

節子の闘病時代は輝いていたのだ、そう思うと少し心がやすまります。

■758:もはや万策尽きました(2009年9月28日)
昨日は自殺防止で効果を挙げている天ヶ瀬ダムに行ってきましたが、なぜ人は自殺するのでしょうか。

節子が辛い闘病に入った頃、若い友人からメールが来ました。

もはや万策尽きました。
お借りしたお金も返せなくなりました。ごめんなさい。

嫌な予感がしました。
すぐにメールをしました。
電話は通じませんでしたから。

昨年秋、私たち夫婦は「希望」を失っていました。
医師からは極めて厳しい宣告を受けていたからです。
しかし、年末に、「希望」を持つことの大切さに気づきました。
そうはいってもなかなか意識は変えられませんでしたが、
希望を意識しだしてから3か月くらいたって、
漸くすこしずつ先を考える余裕が出来てきました。
そして、ともかく前に進みだすことが出来ました。
大きな問題は何一つ解決していませんが、
生き方は変わりましたし、覚悟も出来ました。
その結果、本当に少しずつですが、事態が好転しだしています。
いやそう思って、前に進み続けているというのが正直なところですが。
***さんとは事情が全く違うといわれそうですが、
そうではないかもしれません。

***さんの仕事探しに協力しようと思っていた矢先です。
万策尽きたということですが、
まだ早くはないですか。
いずれにしろ、私たちに比べれば、
***さんにはずっと大きな「希望」があるように思います。
万策尽きたと思い込まずに、ぜひ前に進んでいってほしいと思います。

返事が来ました。

朝の万策尽きたというメールは、お詫びのメールです。
その後、包丁で自殺するためだったので。
遺書も書きました。
しかし、地震と心臓で死にかけた人間には、まして借金を残したままの人間には、なかなか死ぬことが許されないらしいのです。
人間とは不思議なもので、刃物を強くあてても、
最後の一突きで、筋肉が硬化して押し戻すのです。

衝撃的なメールです。
しかし、このメールを読んで、大丈夫だなと思いました。

彼はその後、自己破産をして郷里に戻りました。
生活を立て直したら連絡をしてくれるそうです。
連絡を待ち望んでいます。
人は、死んではいけません。

明日また、続きを書きます。

■759:私はこんなに生きようとしているのに、何で死のうと思う人がいるのかしら(2009年9月30日)
昨日の続きです。

メールの送り手の***さんは、健康と経済面での困難さを抱えて、少し前に相談に来ました。
その話をしたら節子が、それはお金が必要だったのよ、と教えてくれました。
しかしお金を提供しても問題を先延ばしするだけだと節子に言ったら、理屈ではなく必要なのよ、というのです。
それでほんのわずかばかりのお金を彼の口座に振り込みました。
すぐ御礼のメールが来ました。
理由もなくお金を振り込んだ私は「罪の意識」を感じていたのですが、救われた気分がしました。
それからしばらくして、先のメールが来たのです。

その時は、節子の症状が急変した直後でした。
こんな時期にと、いささか怒りを感じましたが、本人はそれどころではなかったのでしょう。
節子にはとても言えませんでした。
以前、節子と自殺の話題が出たことがありましたが、その時に節子がぽつんと言ったことを思い出したからです。
私はこんなに生きようとしているのに、何で死のうと思う人がいるのかしら。
口調は静かでしたが、そこからは怒りのような思いが伝わってきました。
私も同感でした。
死に向かわされている人は、決して死のうなどとは思わないでしょう。

昨日、天ヶ瀬ダムにご一緒した東尋坊の茂さんは、これまで200人以上の自殺志願者を思いとどまらせていますが、その中には「余命何年」とか「難病」の人は一人もいなかったそうです。
新潟水俣病関係のシンポジウムに参加した金田さんから、新潟水俣病で苦しんでいる人たちに自殺した人は一人もいないそうだというお話もお聞きしました、

生きようという思いからは「死」は決して生まれません、
どんなに辛くても、死に向かっている人を支えているのは「生きることへの思い」です。
生きるのがどんなに辛くても、死とのつながりを感じていれば、決して死のうなどとは思わないはずです。
イラクでもアフガンでも、おそらく自殺は起こらないでしょう。

では「死のう」という思いはどこから生まれるのか。
実は、どこからも生まれないのではないのか。
「死」から最も遠いところにいる人だけが思いつくのではないかという気がします。
その人にとっては、「死」は現実概念ではないのかもしれません。
自殺してしまう人も、本当は「死のう」などとは思っていないのではないか。
そんな気がして仕方ありません。

10月24日に、自殺多発現場とされているところで自殺防止に取り組んでいる人たちを中心にした公開サミット会議を開催します。
よかったらご参加ください。
CWSコモンズのお知らせのコーナーに近々案内を出します。
開催準備のためのスタッフも不足しています。
手伝ってもらえる人がいたら、ご連絡ください。
とても助かります。

■760:掃除をしていないのが節子は気にいらないようです
(2009年10月1日)
節子の夢を見ました。
寝室の掃除をしてくれていました。
それも大掃除で、よくわからないのですが、寝室に水をまいてデッキブラシで大掃除です。

そういえば、節子がいなくなってから、寝室の掃除をあまりしていないのです。
ベッドはそのまま置いていますが、その上には私の衣服が乱雑に放置されがちです。
節子がはいていたスリッパもそのまま置かれています。
時々、入り口界隈だけ掃除機をかけますが、あまりていねいではありません。
ベッドだけは、娘がきちんとケアしてくれていますが、掃除機くらい自分でかけなければいけません。
節子が夢に出てきて、そう注意してくれたのかもしれません。

そういえば、湯島のオフィスもこの2年、2回しか掃除機をかけたことがありません。
集まりがあると、最近は節子がいないせいか、参加者がみんなで片付けてくれますので、散らかってはいないのですが、やはり節子に怒られそうです。

私の場合、伴侶がやってくれていたことの多くは、同居している娘たちがやってくれます。
ですから私の場合は、その後もなんの不自由もなく暮らせています。
しかし伴侶であればこそできたこともあります。
生活を共にしていることから感性も目線も同じくなり、見える世界が同じくなると、まさに「以心伝心」になるのです。
節子の掃除はあまりていねいとは言えませんでしたが、私の目線にはぴったりとあっていました。
とてもうれしくなるような隙間に、小さな花や小物が置かれていたりしていたからです。
私たちの空間は、私たち2人でつくっていたといっていいでしょう。
そしてそのことが一緒に生きる価値観を育てていたのかもしれません。

さて、節子の目線を思い出して、時間が寝室の掃除をしましょう。
湯島の掃除もしましょう。
掃除をしないと、また夢で節子と会えるかもしれませんが、夢の中で掃除の手伝いをさせられるのはあんまりうれしくありませんね。
せめて夢の中で会えるのであれば、もっと楽しい出会いにしたいものです。

さて今度はどんな夢を見るでしょうか。

■761:辛いことを乗り越えると強く明るくなるのかもしれません(2009年10月2日)
今日は熊谷の森林公園のホテル・ヘリテージに来ています。
企業の経営幹部の人たちの研究会の合宿に参加しています。
いつもは箱根なのですが、今回は場所が森林公園です。
箱根は節子のことを思い出すので辛いのですが、実はこのホテルも節子の思い出と無縁ではないのです。
一緒に来たことがあるわけではありません。

節子は闘病中に歩行が難しくなりました。
その時にある人の勧めで、官足法というのを教えてもらいました。
この挽歌でも以前書いたかもしれませんが、足裏マッサージです。
それをやってもらったら、小さな奇跡が起きたのです。
節子が歩けるようになりました。
それを教えてくれたのがこのホテルでマッサージをされていた岡山さんでした。
湯島に来てもらい、レクチャーを受けました。
そしてその足裏マッサージを、私が毎日していたのです。

節子がいなくなった後、岡山さんにはお会いしていません。
今回、もしかしたらお会いできるかもしれないと思ったのです。
残念ながら、岡山さんは今はここではなく池袋で仕事をされているそうです。
半分がっかりし、半分ホッとしました。
会いたいようで会いたくない、そういう人が少なからずいます。

岡山さんはいつも明るく、私たちに希望を与えてくれました。
ご自身もいろいろとご苦労のあったことをお聞きしていましたが、そんなことを微塵も見せなかった方でした。
人は辛いことを乗り越えると、強く明るくなるのかもしれません。
その明るさの底にある悲しさや辛さは拭い去ることはできないでしょうが、逆にそれがあるからこそ、強く明るくならなければいけないのかもしれません。
いまはそんな気がします。
私もきっと、そうなってきているのかもしれません。

昨日、ある集まりで、「佐藤さん、元気になりましたね」といわれました。
こういう言われ方は、あんまりうれしいものではありません。
でも素直に喜びましょう。
最近、そういう気持ちになってきました。

夜、温泉に入りました。
大きなお風呂場に私一人でした。
久しぶりにゆっくりとつかっていました。
もう旅行で温泉を楽しむことはないかもしれない、そんな気がしました。
節子は温泉が好きでした。
だから、もう行きたくないのかもしれません。
本当はまだ強くはなれていないのです。

■762:「空の青さの、あまりの深さに、思わず死んでしまった」(2009年10月3日)
節子
今日はとてもよい天気です。
ホテルから緑が遠くまで続いており、遠くには秩父連山の山並みがはっきりと見えています。
うるさいほどの鳥の声です。

節子も知っているように、私は空を見ているのが好きです。
湯島のオフィスから見る東京の空もなかなかよかったです。
「智恵子は東京に空が無い」とは、高村光太郎が書いた「あどけない話」の書き出しです。
智恵子にとっては、阿多多羅山の山の上の空が本当の空であり、たぶん、東京の空の向こうに阿多多羅の空を見ていたのでしょう。
実は、私もほぼ同じような感覚で、東京の空の向こうに、節子と一緒に見たエジプトの空を見ていました。
地球を覆っている空を見ていると、世界中の空が見えてくるのです。
千畳敷カールを歩いてからは、その空がエジプトの空に変わりました。

彼岸にもし、空があるのであれば、この空ともつながっているでしょう。
空に

学生の頃、書いた詩に
「空の青さの、あまりの深さに、思わず死んでしまった」
という1行詩があります。
かなり気にいっていた詩だったのですが、節子はなんの共感も持たなかったので、以来、忘れていました。
今日の空の青さはあんまり深くないので、この詩の気分にはならないのですが、なぜか数十年ぶりに思い出しました。
この頃の「死」は、どちらかといえば、「生」と同義語でした。
そんな気がします。

死んでもいいほどの生の躍動。
空は、人の心を揺さぶります。
この空の向こうはどこにつながっているのでしょうか。
彼岸でしょうか。未来でしょうか。

■763:「それをやったらどうなるの」(2009年10月4日)
節子
この2週間ほど、もしかしたら忙しさに落ち込んでしまっています。
「時間破産」は以前よく起こしていました。
しかし最近の「忙しさ」は、それとちょっと違うのです。
時間は決してないわけではないのです。
何が問題なのだろうかと昨夜考えてみたのですが、どうも問題を先延ばししているために、問題が自己増殖し、余裕がなくなり、思考する心がなくなっているのかもしれません。

私は子どもの頃、「探偵小説作家」になりたかった時期があります。
まだ推理小説などという言葉が生まれる前です。
子どもながらに「完全犯罪」を考えたりしていました。
幸いに思いつかなかったので、犯罪に手を染めることはありませんでしたが、問題を創ることと解くことが大好きなのです。
私は名刺に「コンセプトデザイナー」と書いているのですが、それは「問題をつくる」ことをミッションにするという意思表示なのです。
言い換えれば「謎解き屋」なのです。
めったにその意味を訊かれることはないのですが。

ですから、問題を立てて、それを解くという「思考」が大好きなのです。
ちなみに、問題をつくることと問題を解くことは、私には同じことなのです。
ところが最近、それが億劫になってきたのです。
なぜでしょうか。
もしかしたら、謎づくりと謎解きについて、話し合う相手がいないからかもしれません。
ホームズでいえば、ワトソンがいないのです。
謎づくりも謎解きも、私は話しながら進めるタイプなのです。

そういえば、節子との会話の中で、お互いに「それをやってどうなるの」というやりとりがよくあったように思います。
「それをやったらどうなるの」
「それをやることにどんな意味があるの」
そういわれると、問題の原点に返れるのです。
その問いかけがないのが最近のスランプの原因かもしれません。
的確な問題設定をすれば答は自然と見えてきますが、あいまいな問題設定をしてしまうと、ただただ疲れるだけになりかねません。
少し問題整理をしなければいけないのかもしれません。

発想次元の違う節子との雑談が、とてもしたいです。

■764:もっと生きることに誠実であってほしい(2009年10月5日)
節子
まだ若い政治家がまた生命を落としました。
いろいろな不祥事のため、今回の選挙で落選した中川昭一元外相(57歳)です。
死因不明と発表されていますが、本人が生命を大事にしていなかったのではないかという気が強くします。
節子が聞いたら怒るでしょう。
私もまたいささかの腹立たしさがあります。
事故であろうと病気であろうと、本人はもちろんですが、なぜ周りの人はもっとケアできなかったのか。

昨日、「自殺のない社会づくりネットワーク」準備会の集まりがあったのですが、それに出かける直前に知ったニュースでした。
中川さんの父親のこともあったので、最初に感じたのは「自殺」でしたが、それもあって、身体が震えそうなほどの、えも言われぬ寂しさを感じました。
最近少し疲れていたこともあったと思いますが、全身から気力が奪われる感じで、歩けないほどでした。
娘に駅まで自動車で送ってもらいましたが、事務所に着くのがやっとでした。
途中で同じ集まりに出る福山さんに会いましたが、彼女も私の疲労感を心配してくれたほどです。
外からもわかるほどだったようです。

直接会ったこともない中川さんの死が、なぜこれほどまでに私の心身に影響を与えたのでしょうか。
自分でもわかりません。
最近、さまざまな問題に囲まれて、心身が少し萎えていることは間違いないのですが。

みんななぜ生きることを大事にしないのか。
できるならば節子を追いかけたいと思う私でさえ、懸命に生きようとしています。
もっと生きることに誠実であってほしい。
最近、そう思うことが少なくないのです。

節子との別れを体験して以来、人の生死にかかわる事件や事故への感じ方が変わりました。
多くの場合、あまりに「安直な死」であることに哀しさを感じます。
この死で、どれだけ多くの人の人生が変わってしまうのだろうかと、ついつい思ってしまうのです。
死者よりも、残された人たちのことがすごく気になります。
この挽歌でも書いたことのある「インドラの網」や「生命の連続性」を感じ、自分自身の生命にまで届いてくる微かな風さえ感じます。
節子は、そうした「生命のつながり」を私に実感させてくれました。

私ももっと誠実に生きなければいけないと思いますが、それはけっこう疲れます。
しかし、節子は最後まで誠実に生きました。
節子を裏切ることはできません。
誠実に生きることを大切にする社会に戻ってほしいと、つくづく思います。

■765:今日は書きなぐりです(2009年10月6日)
節子
どうも最近時間管理ができていません。
過剰にいろいろな約束をしてしまったようで、ますます「心を失う」忙しさに陥ってしまいそうです。
返事ができないメールと手紙がたまってしまいました。
次の土日も約束がありますが、何だか気が重いです。
こういう時こそ、節子にいて欲しいですね。
いるだけで、何だか支えられていましたから。

今日は自殺が多いといわれる宮が瀬ダムに行ってきました。
同行した人から、ここは以前、若者たちに「心霊スポット」と言われていたと聞きました。
虹の大橋と言うのがあるのですが、たしかにその真ん中から下流を見ると、吸い込まれるような風景が開けています。
橋のたもとに、花が添えてありました。
その後、周辺の市町村の行政の人に集まってもらい、話し合いをさせてもらいました。
いろいろと考えさせられました。

帰路の電車で、今日は節子に何を書こうか考えていたのですが、疲れていたせいか寝込んでしまい、乗り過ごしてしまいました。
疲労が重なるとますます疲労する状況になっていきます。
自殺を思い立つ人も、もしかしたら同じなのでしょうね。
やり忘れてこと、やらねばならないこと、そんなことがどんどん積もっていく感じで、不安が募ります。
あまり良い状況ではないです。

霊感のある友人が、自殺のある場所めぐりでおかしなものを背負ってこないようにしろ、と心配してくれていましたが、もう十分に背負ってしまっているのかもしれません。
しかし、節子のおかげで、たぶんどんなに背負っても大丈夫でしょう。

最近の私は、彼岸も此岸も同じように感じますし、いずれもとってもあったかなのです。

集まってくるのは、しかし、重いものだけではありません。
昨日もNHKの人が突然やってきました。
若いディレクターでしたが、自殺に関する思いに通ずるものがありました。
今日も、思いをもって取り組もうとしている人に会いました。
若い僧とその友人が、私の活動を手伝ってくれるといってきました。
動き出すと、思いや人もあつまってくるのです。

節子
今日は書くことが思いつかなかったので、こんなことしか書けませんでした。
明日も早朝から出かけて、青木が原に行きます。
また書けないかもしれませんが、でも節子のことは忘れることはありません。
毎日、何回かは必ず心の中で節子に話しかけています。
聞えていますか。
いえ、聴いていますか。

■766:「死んだらあかん、死なせたらあかん」(2009年10月7日)
節子
昨日に続いて、東尋坊の茂さんたちと一緒に、自殺が多発する場所を回っていますが、今日は青木が原樹海に行きました。
ここではいま、山梨県の渡邊さんを中心にして、「自殺の場所」から「元気をもらう場所」に転換しようという取り組みを進めています。
私たちが取り組んでいる自殺のない社会づくりネットワークと方向は同じです、
渡邊さんには半年前にもお会いしましたが、順調に進んでいるようです。

ところで、東尋坊の茂さんがいつもいうのは、次のような言葉です。<blockquote>死んだらあかん、周りの人がどんなに辛い思いをするか。
死なせたらあかん、死に向かっている人を放っておくのは不作為の犯罪だ。</blockquote>実は、茂さんのこうした言葉は、節子を見送った直後の私には辛い言葉でした。
私と節子が責められている気さえしたからです。
しかし、その一方で、その言葉に込められた意味には心から共感できます。
節子を通して、人のいのちが、あるいは「生きていること」が、どんなに深くつながっているか、支え合っているか、それを毎日、実感させられています。

茂さんたちと話していて、なぜこの問題にこんなに関わってきているのだろうかと、ふと思いました。
節子のことがなければ、たぶん、これほどにはコミットしなかったでしょう。
節子との体験がなかったら、茂さんとの接点もこれほどまでにはならなかったでしょう。
節子が後から押しているのかもしれません。
しかし、時々、急に立ち止まりたくなることがあるのはなぜでしょうか。
人の生死に関わることの難しさを、いつも感じています。

こういう時こそ、節子の支えがほしいです。
節子は、時に考えすぎてしまって動けなくなってしまう私に、救いの手を差し伸べてくれましたから。

■767:荒ぶる心のバランサー(2009年10月9日)
節子
昨夜、茂さんたちと話していて遅くなったので、湯河原に泊まってしまいました。
青木が原の後、熱海の錦ヶ浦を見に来たのです。
ところが、台風のために電車が止まってしまい、閉じ込められてしまいました。
伊勢湾台風以来の強い台風のようです。

不謹慎ですが、私は台風が大好きです。
というか、自然の強い動きになぜか心が高揚するのです。
こういう話をするといつも節子に怒られました。
被害を受けた人の気持ちがわかっているの、というのです。
たしかにそうですが、心がうずくのはとめようもないのです。

近くの利根川の堤が決壊し、いつもは静かな田園風景が一面の水面になり、そのところどころに樹木が立ち上がっている風景には感動しました。
まさに不謹慎なのですが。
自然の威力によって秩序が破壊されることを、どこかで望んでいる魔性が、私の心の中にあるのです。
誰の心にも、そうした「荒ぶる心」や「破壊願望」はあるのだろうと思いますが、もしかしたら私の場合、それが少しだけ強いのかもしれません。
静かな空を見るのも好きですが、荒れ狂う空も好きなのです。
そこから聞こえてくる天の悲鳴にも心が動きます。

荒ぶる心、荒ぶる自然。
今日は午前中、風の吹きすさぶ音を聞きながら、荒ぶる自然に心をさらしていました。
無為に外を見ていたのです。
いろいろな思いが去来します。
そのせいか、なにかたまっていた心のわだかまりが消えたような気がします。

節子
時に夫婦喧嘩をしていたことの意味がなんとなくわかったような気がします。
あれが私たちの、いえ、私の心のバランサーだったのかもしれません。

晴れてきました。
新幹線も通常に戻ったようです。
東京に戻ることにしました。
節子と一緒だったら、もっとゆっくりできたのでしょうが。

■768:ストイックに見える生きる(2009年10月9日)
昨日はお昼近くからとてもいい天気になりました。
台風一過の中で、きっと富士山が素晴らしかったのではないかと思います。
湯河原にいたのですが、その秋晴のなかを東京に戻りました。
東京での約束は台風のために延期になっていたので、バスに乗れば1時間で富士山の絶景を見られたはずです。
そこまで行かなくとも、熱海のMOA美術館でもきっと素晴らしい景観を見られたでしょう。
そんな思いも頭をよぎりましたが、なんの迷いもなく、新幹線に乗って、まだ台風でダイヤが乱れている東京に戻りました。

帰路、なぜこうなってしまったのだろうかと思いました。
節子がいなくなったいま、「楽しさ」を味わうことへの拒否反応がどこかにあるのです。
ストイックになろうというつもりは皆無なのですが、正直、どんな時にも楽しめないのです。

もし私と節子の立場が反対だったらどうでしょう。
私は、節子が楽しんだり喜んだりしてくれることを心から望むはずです。
愛する人が喜んでいる姿は、思っただけでもうれしいものです。
おそらく節子もそうでしょう。
それはわかっているのですが、どうしても楽しむ気にはなれません。
おそらくそれは楽しめないからなのですが。

たとえば昨日、芦ノ湖まで行って富士山を見たとします。
感動するでしょうか。
間違いなくしないでしょう。
富士山の絶景が目の前にある、しかし感動できない自分に気づく。
その寂しさは、恐ろしいほどなのです。
みんなが楽しんでいる集まりで、時々、そうした落し穴に落ち込んでしまったときの惨めさは体験しないとわかってはもらえないでしょう。

愛する人と別れてしまったら、もう2度と心の底からのわらいは生まれないのでしょうか。
そんなはずはありません。
しかしなだしばらくは、節子の期待に反して、楽しみとは無縁の生活が続きそうです。
昨日に、あれほどの秋晴にさえ、私の心は揺れませんでしたので。
さていつになったら、この状況から抜け出せるでしょうか。

■769:「価値ある仕事」
(2009年10月10日)
節子
急に肌寒くなってきました。
クロゼットを開けると、いつもその季節に合った服が用意されていた頃は、そんなことなど何も考えませんでしたが、今は、さて何を着ようかと考えないといけません。

これはほん一例に過ぎませんが、私が好きな仕事に思い切り取り組めたのは、節子が私の生活基盤を整えていてくれていたからです。
いささか大仰な言い方になりますが、男性が思い切り働いて収入を得られるのは、家庭という生活基盤がしっかりしていればこそです。
女性の社会進出などと盛んに言われて、専業主婦という言葉へのマイナスイメージが高まったことがありますが、その風潮が社会をこんなに壊してしまったのではないかと思います。

もっとも、節子もまた外で働きたいといつも思っていましたし、実際に時々働いていました。
私の給料が安かったこともあったかもしれませんが、それだけではありません。
給料が安ければ、つつましやかに暮らす方法はいくらでもあります。
実際に節子は、その文化をわが家に育ててくれました。
節子が働いたのは、お金のためではなく、働くことが楽しかったからです。
人はパンのためだけに働くのではありません。
そのことを節子は私に教えてくれたのです。

働くことは、本来、楽しくなければいけない。
これは私の考えでもありました。
それに、価値のある仕事とは、生命につながることだとも思っていました。
会社で難しい企画書をつくるよりも、家族が楽しく暮らせる場づくり、つまり「家事」のほうが、ずっと価値のある仕事なのです。
会社でいえば、社長の仕事よりも、お茶を出す女性社員の仕事のほうが価値があると私は思っていましたが、その「価値ある仕事」は最近なくなってしまいました。
それが、会社がおかしくなってきた一番の理由だと、私は思っています。

節子とは、こういう話をよくしました。
そのせいか、節子は、私がお金のためではない働き方に移ろうとした時にも、一言も反対せずに支えてくれたのです。
そして、私が気持ちよく、働けるように、生活基盤を整えてくれていたのです。
節子がいなくなってから、どれほど節子が私の仕事や活動を支えていたか、痛感します。

季節の変わり目には、節子への感謝の念が強くなります。
節子が元気だった時に、なぜもっと気づかなかったのでしょうか。
私の仕事を節子はとても高く評価してくれていたことを、節子がいなくなってから、節子の友人から教えてもらいました。
私が、節子の仕事をとても高く評価していることは、どうしたら節子に伝えられるでしょうか。
直接、自分の言葉で伝えられないのがとても残念でなりません。

節子
節子がいないので、活動量が大幅に落ちてしまっているよ。
もう一度、戻ってきてくれないか。

■770:友人知人の世界も変わってきているような気がします(2009年10月11日)
節子
湯河原のことを書いたら、湯河原に関わりのある読者から、湯河原の珈琲屋さんなどの紹介も兼ねたメールをいただきました。
宇治の天ヶ瀬ダムのことを書いたら、これも2人の方からメールをいただきました。
挽歌を読んでいてくださる方がいるのはとてもうれしいことです。
会ったこともないのに節子のことを、私たちのことを、知っていてくれる人がいる。
人のつながりは、こうしてどんどんと広がっていくのでしょう。

挽歌を読んでくれている人は、お会いしたこともない人でもなぜか親近感を持ってしまいます。
私の心の奥底まで知っていてくれるような安心感があるのです。
自分のことを知っていてくれる人がいると、人は安心できるものです。
もしかしたら、この挽歌は、そうした私の悲鳴のようなものなのかもしれません。

ところで、最近、私が付き合っている人たちが大きく変わってしまっているような気がします。
なぜでしょうか。
節子のいない私は、以前とは違うのかもしれません。
だからきっと友人知人が変わってきているのでしょう。
自分では、何も変わっていないと思うのですが、先日も書いたように心から笑うこともなくなりましたし、もしかしたら「付き合いにくい存在」になっているのかもしれません。

それだけではありません。
確信は持てませんが、節子がいなくなってから、私の内部に「節子的な要素」が大きくなっているような気がするのです。
うまく意識化できませんが、自分の心の中で、何かが変わってきているように思います。
節子だったらこうするだろうなというような意識の反復が、根づいてしまったのかもしれません。
どうも「修的」な友人よりも「節子的」な友人が増えているように思えてなりません。
これは、しかし、思い過ごしかもしれません。

友人知人が変われば、当然のことながら、私もまた変わっていくはずです。
人は、周りの人との関係性の中でアイデンティティを育てていくからです。
そう考えていくと、変わったことがいろいろとあります。

人は伴侶によって人生を変えていきます。
同じように、伴侶がいなくなると、人生はさらに大きく変わります。
これからどう変わっていくのでしょうか。
もう少し流れに身をまかせたいと思っています。

■771:お墓参りは誰のため(2009年10月12日)
節子
適度に雲のある、さわやかな朝です。
久しぶりに、今日は出かけなければいけない用事が全くありません。
精神的にゆったりできそうです。
この数週間、心の余裕が少し損なわれていました。

節子がいた頃は、こんな日はどうしていたでしょうか。
もしかしたら、今日は筑波山にでも出かけていたかもしれません。
そういえば先週、お墓に行かなかったのでまずはお墓に行くことにしました。

毎週、お墓参りはしようと決めていたのですが、最近は隔週くらいになってしまいました。
まもなく月1回になってしまうのでしょうか。
最初思っていたのとは違い、だんだんと手を抜いていくようになりそうです。
毎朝の般若心経も、最近は時に簡略版になったり、光明真言で代替したりで、誠実さが欠けだしています。
まあこういうところに人間の本性が出てしまうのでしょうか。
節子は、私の本性をすべて知っていたでしょうから、こうなっても「やはりね」と笑っているだけでしょうが。

ところで、お墓参りは誰のためにするのでしょうか。
どうも節子のためではないようです。
自分のためです。
節子がいなくなった自分の心の穴を埋めるために、毎週行くことで心が静まっていたのです。
それが次第に、お墓参りに行かなくても耐えられるようになってきたのです。
そしていつかお彼岸やお盆だけになってしまうのかもしれません。
つまり、最初は「自分のため」だったのが、だんだんと「節子のため」になっていくわけです。

前に書きましたが、伴侶を失った悲しさは決して時は癒してくれないと思っていました。
最近、ちょっとその考えが揺らいでいます。
もちろん悲しさや寂しさは癒えることはありません。
それは未来永劫ないでしょう。
しかし、それにもかかわらず、心は立ち直っていきます。
そのことを「時が癒してくれる」と表現してもいいのかもしれません。
「時が癒してくれる」と言ってくれた方々に、むきになって、そんなことは絶対にありえません、と反発していた自分が、いささか恥ずかしいです。
素直に、そうですね、と気持ちよく受け容れておけばよかったです。
最近、ようやく、そういう心のゆとりができてきたように思います。
もちろん、心のどこかでは相変わらず反発している自分がいるのですが。

節子
これから娘たちと一緒に食事に行こうと思います。
誘ったらみんなめずらしくいいよというのです。
残念ながら、もちろん「私のために」しぶしぶ付き合うのでしょうが。

■772:自利利他円満(2009年10月13日)
仏教には「自利利他円満」という言葉があります。
昨日、お墓参りは誰のためかということを書いていて、思い出した言葉です。

自利利他円満。
この言葉にこそ、ブッダの教えの真髄があると、私は思っていますし、それこそが人が気持ちよく生きていく秘訣ではないかと思っています。
「自利(自分のため)」と「利他(人のため、社会のため)」は相反するもの、と考えている人も少なくないでしょうが、きちんと生きていれば、それらが通じていくことにつながります。
そして、それを前提にして行動すれば、必ず両者が通じていることに気づくはずです。
但し、若干の時間差がありますから、見えない人もいるかもしれません。
アダム・スミスの経済論で言われている「見えざる手による調和」の考えも、このことを根底にしていますし、わが国の商人道の真髄とも言われる「三方よしの経営」も、まさにこの考えに基づいています。
それは決して道徳の世界の話ではなく、経済や政治を含めた処世の理念でもあるのです。

ところで、私は発想する順番が大事だと思っています。
自利(自分のため)と利他(人のため、社会のため)との順番を間違うとおかしなことになりかねません。
この言葉の表現通り、最初にあるのは「自利」でなければいけません。
安直に「社会のため」などと自分でいう人は信頼できません。
社会貢献などという人や会社はもっと信頼できません。

私の信条と生き方は、利他の前に必ず自利があります。
自利は必ず利他につながっていることを確信しているからです。
もし利他につながっていない自利であれば、円満にはつながらず、結局、自利を壊してしまいます。
利他につながる自利を生きる。
これが私の長年の信条です。
このことを一番理解し、共感してくれていたのは節子です。
自利と利他の二元論で教え込まれてきた現代人には、言葉ではなかなか伝えにくいのですが、私のそうした生き方の結果を節子は心身で共有していたからこそ、同じ生き方を意識的にしてくれていたのです。
私にとって、節子はそういう意味での、信条における伴侶でもあったのです。

昨日の墓参りの話に戻れば、「自分のため」の墓参りには節子は喜んでくれるでしょう。
しかし、「節子のため」の墓参りであれば、もう来なくていいよといわれそうです。
事実、行かないことが「節子のため」になるのです。

節子という共感者がいなくなって、私の信条に揺らぎが出てきているのかもしれません。
胸を張って自利を追求する生き方を思い出さねばいけません。
最近少し姿勢が悪くなってしまっているような気がしてきました。
無理をして行動しているのではないか、だから疲れているのではないか。

自分を見直さなければいけません。

■773:メガロプシュキア(2009年10月14日)
節子
昨日、余計なことを書いてしまったので、今日は少し弁解です。
それも私好みの、そして節子が好きでない、小賢しい議論です。
よほど時間を持て余している人だけお読みください。

修は口数が多すぎて、言わなくてもいいことをいうのでみんなから誤解されるよと節子はいつも言っていました。
まあそれは、節子が最初は私を誤解していたということの告白であるわけですが、誤解した人と結婚し、結局、その人に共感したわけですから、節子が誤解していたのは、私ではなく自分だったことになります。
まあ、こういう私の詭弁的な論法が、節子は好きではなかったのですが、

さて昨日の弁解的補足です。
日本語の「矜持」は、アリストテレスのメガロプシュキア(魂の大いなること、高大なること)の訳語だそうです。
いずれも難しい言葉で、私は使ったことがありませんが、岩波新書の「政治の精神」を読んでいたら、そこに出てきました。
著者の佐々木さんはアリストテレスのメガロプシュキアについて、こう紹介しています。

矜持ある人とは、「自分のこと」から可能な限り距離をおいて、「大きなこと」への強烈なコミットメントによって(危険を恐れず、生命を惜しむことなく)大きな名誉という最高の外的な善を指針として生きる人である。

つまり、ここでは「自分のこと」と「大きなこと」とは対照的であるとされているわけです。
もしそうならば、私のように「自分のこと」から考えて行動している人は肩身が狭い気がします。
しかし、私は、「自分のこと」から考え出していかなければ、「大きなこと」にはつながらないと思っているのです。
言い換えれば、「自分のこと」から大きな距離があるような「大きなこと」は、私には存在しないのです。
存在しないことを語ることは、私には理解できないことなのです。
だからそうした人の言説は信じません。
アリストテレスであろうと、誰であろうと、口舌の徒としか私には感じないのです。
こうした頑固さもまた、節子は嫌いでした。

それに、私自身、自分に宿っている魂の大きさには、畏敬の念を持っています。
魂は私のものであって、私のものではないとも思っています。
魂を私することなど、とてもできません。
私の魂は節子の魂とつながっているだけではありません。
すべての生命に宿している魂につながっている。
それが私の発想の原点です。
ですから、私には「自分のこと」と「大きなこと」は対照的な存在ではなく、全く次元の違うことなのです。

なにやら挽歌には相応しくない内容ですね。
それに弁解にも全くなっていませんね。
むしろ私の独りよがりの偏狭さのダメ押しをしてしまったようです。
節子が言っていたように、口は禍の元。
でもまあ節子も、私と同じく口数が多い人でした。
その節子の声を耳から聞くことができないのが、やはり辛いですね。
幻聴でもいいのですが、もう一度、節子の声を聞きたいです。

■774:鰯の頭も、信心から(2009年10月15日)
節子
最近また不安に襲われてしまうことが増えてきました。
誰かに会っていても、気になりだすと、平静を保つのがやっとです。
夜に目が覚めると心配で眠れなくなります。
私の生き方は無計画で思いつき型でしたから、こういうことはよくありました。
たぶん多くの友人知人には思いも寄らないことでしょうが。

こういう時の特効薬は、節子のやさしさでした。
萎えそうになる私の心を元気にしてくれました。
私のおまじないは、「いざとなったら節子が解決してくれる」というものでした。
それは全く根拠のないおまじないでしたが、そう思うとなぜか心が落ち着きました。
どんな結果になっても、節子が私の思いや取り組みを知っていてくれるというのが、まあひとつの理由ではあったのですが。
自分を心底知っていて、無条件の信頼を置いてくれる人がいると、人をものすごく強くなれます。
私が、無謀な挑戦を気楽にやってきたのは、節子のおかげだったのです。
まあ、節子は、「ただそこにいた」だけなのですが。
つまり、「鰯の頭も、信心から」なのです。はい。

昨日も2人の人が湯島にやってきました。
それぞれ久しぶりに訪ねてきてくれたのですが、特に用事があるわけではありません。
湯島に来る人の多くは、ただ単に私と雑談をしにくるのです。
たまには用事のある人もいますが、用事はまあ口実であることも少なくありません。

いつもなら楽しく話せるのですが、話している途中に、心に突然心配事が襲ってきたのです。
10月24日に「自殺のない社会を目指した集まり」をやるのですが、その参加申込者が集まらないのです。
150人定員で、いま正式申し込みは10人程度です。
集まりの開催の責任者は私なのです。
これって、少し不安ですよね。
その上、その集まりの準備があんまりできていないのです。
少しどころかかなり「やばい」のではないだろうか。
久しぶりに友人と話していて、なぜかその不安が心に湧いてきたのです。
こんなに平和に世間話をしている時じゃないのではないか。
そう思いだすと心に不安が高まります。
それを相手に気取られないように、ますますゆったりしようとする。
まあ、私もかなり小心者の見栄っ張りなのかもしれません。
高まる不安、それを感じさせない努力、汗さえ出てくる、あまり心身によくありません。

こういう時には、帰宅して節子に声をかけてもらうと安心するのですが、その節子はもういません。
でも、帰宅して節子の位牌に祈願したら、少し落ち着きました。
そしてメールをチェックしたら、知人が3人で申し込んでくれていました。
早速の効用?です。
鰯の頭よりも、位牌のほうが効用がありそうです。

そんなわけで、みなさん、10月24日の集まりにお時間があれば、お越しください。
会のタイトルには「自殺」とありますが、要は、私たちの生き方や社会のあり方を考え直そうということを目指した集まりなのです。

挽歌の記事にしては相応しくないですね。
でもまあ、節子は許してくれるでしょう。
節子の影響もあって始めてしまったプロジェクトですので。

■775:「もう逝きたいんだよ」(2009年10月16日)
節子
節子も知っているKさんからメールが来ました。

一昨年に親父が他界しました。
健常者と言えるほどに元気ではありませんでしたが、入院している訳でもなく。
ただ、88歳ですから、足腰は弱くなり、循環器系に爆弾も抱えていたので、
クスリは常飲しなければならない状態でした。
小生の「歩かないと、どんどんダメになる」に従っていたのか、
老体にムチ打つようにして、毎日の散歩を欠かさなかった。
土日は小生がその散歩に毎回一緒していましたが、
逝去する半年ぐらい前から、親父は「もう逝きたいんだよ」と毎回のようにこぼしていました。
どんどん身体が弱くなっている自分を感じては居たのでしょうが、
その理由はどのようなものだったのか・・・。
そして突然の死。
死後まもなくして、何故か気になったので、
親父が毎月1ヵ月分のクスリを受け取っていた薬局に行き、
「最後に来たのはいつですか?」と尋ねると、一ヶ月半前の由。
「もしかして、半ば覚悟の自然死かぁ?」と思いました。
時折、思い起こしては忸怩たるものを覚えます。

Kさんには許可もなく、長々と引用してしまいました。
「親父」さんの気持ちが、とてもよくわかるような気がします。
そして、節子もそうだったのかもしれないと思いました。

節子はまだかなり元気な時から、自分のことは自分でよくわかるの、と言っていました。
私はその言葉をいつも真正面から否定していました。
今から考えると節子は私にもわかってほしかったのかもしれません。
しかし私は、自分の人生は自分で変えていくという考えの持ち主だったのです。
節子の人生も、一緒に変えられると確信していたのです。
その小賢しさ、思いあがりが、もしかしたら、節子にはさびしかったのかもしれません。

4年半の闘病生活の中で、一度だけ、節子は寂しそうな目で私を見たことがあります。
その表情が、今も忘れられません。
いつもはとてもやさしい目で、どんなに悲しそうでも、その底に私への信頼を感じさせましたが、その一瞬だけはそのやさしさは感じられなかったのです。
私は、思わず目をそらしてしまったのです。

たくさんの「やさしい目」よりも、そのたった1回だけの「さびしそうな目」が、いつも私の脳裏に焼きついています。
Kさんからのメールを見て、節子が私たちのためにがんばってくれていたことを、改めて確信しました。
そのことは感じてはいたのですが、信じたくはなかった。
何と身勝手だったことでしょう。
節子、気がつかずにほんとうにごめんなさい。

Kさんと同じく、あの目を思い出すと心が萎えてしまいます。

■776:なんでこんな生き方になってしまったのだろうか(2009年10月17日)
節子
私たちの生き方は、やはり時代をかなり先んじていたことをこの頃感じます。

最近、またいろいろな人が湯島に集まりだしました。
たとえば、KSさん。
これまでは企業関係の仕事が忙しかったけれど、最近は社会活動を始めたといって、取り組んでいる構想を話してくれました。
そしてこういうのです。
これはビジネスではなく、収益事業ではないのです、と。
KSさんは、これまでもとても社会的な活動をしていると考えていた私は、その言葉がとても不思議でした。
KSさんでさえ、これまでやっていた活動は収入のためだったのだろうかと。
そんなはずはありません。
KSさんは、私欲などほとんど感じさせない人なのです。
納得できる仕事をしていれば、収益事業であろうと社会事業であろうと区別などありません。
収益事業と社会事業は所詮は同じことであり、活動の報酬は金銭だけではないのです。
そう思うと人生はとても生きやすくなります。
おそらくKSさんは、収益活動と社会活動に違いがないことに間もなく気づくでしょう。

昨日、メールを紹介させてもらったKYさんはどうでしょうか。
久しぶりに企業の事業戦略論に関して議論したのですが、帰り際に彼が言いました。
佐藤さんはなんで「社会」に入り込んでしまっているのかな、と。
そういえば、私も彼と同じ企業コンサルティングの世界にいたのです。
それがなぜ今は、自殺問題だとか子育てだとかに関わってばかりいるのでしょうか。
修は忙しいのにお金は一向に入ってこないのね、と節子が笑いながら言っていたのを思い出します。
確かに、金銭は出る一方ですが、それ以上に入ってくるものは多かったのです。
もちろん金銭も入ってきます。
そういえば、昨日、この1年、会ったこともない友人がやってきて、会社の利益が上がったのでお礼だといってお金を置いていってくれました。
いったい何のお礼なのでしょうか、お世話した記憶はこの数年、ないのですが。
しかしまあ、くれるのだろうからもらってやらねばいけません。
金額の大小は問題ではありません。
私の生活はこういうみなさんのお布施で成り立っているのかもしれません。
布施を受けるのも、十分に「仕事」といっていいでしょう。

さてKYさんの言葉です。
なんで「社会」に入り込んでしまっているのか。
目線や心が違うのかな、と彼は言います。
そうではなく、ちょっとだけ先を生きているのだと言いたい気持ちです。
みんなもうじき、気づくでしょう。

それにしても、何でこんな生き方を過ごせるようになったのか。
言うまでもなく、良き伴侶のおかげです。
節子は私の生き方を、理解する前に受け容れ、共感し、一緒に生きてくれました。
節子がいなければ、私の生き方は違ったものになっていたでしょう。

もしかしたら、そのほうが良かったかもしれませんね。
節子に会ったのが「不幸のはじまり」かもしれません。
しかし、まあ「不幸」と「幸せ」は同じもののような気もします。

■777:重荷を背負い合う人のいないことの重荷(2009年10月18日)
節子
昨日は挽歌を書けませんでした。
書こうと思ったら朝に24日のイベントの関係者から呼び出しがあり、そのまま帰宅が夜になってしまいました。
いろいろあって疲れきってしまい、実はホームページのほうも更新できませんでした。
やはりどこかで生き方が間違いだしています。
節子がいる時と同じ生き方をしているつもりなのですが、バランスが崩れてきているのでしょうか。

バランスが崩れだすとどこまでも崩れだします。
今朝も出かける予定でしたが、約束していた人が突然の休暇で予定がキャンセルされました。
なんだか疲れてしまって、出かける元気を失いました。
まあそのおかげで、ホームページは簡単な更新ができました。

最近は節子の位牌に向かって、
「節子は苦労がなくていいね」
というのが口癖になってしまいました。
生きているとそれなりの苦労があります。
私の苦労などたいしたものではないでしょうが、まあそれでも本人にとっては結構の苦労です。

「重荷を背負い合って生きる」姿勢をみんなに呼びかけたのが、私が始めたコムケア活動でした。
最近は、その言葉をあまり使っていないのですが、重荷を背負い合うことの難しさは、節子がいなくなってから実感しだしています。
節子と一緒の時は、いつも背負い合っていたので、重荷の重さもまた絆を深めるものであり。なんの苦痛もありませんでした。
それに、お互いに、できれば相手の負担を軽くしようと自然と心身が動いていました。
しかし、そうした関係は普通にはかなり難しいようです。
できるだけ楽をしたいという気持ちが、最近は私の中にもかなり大きくなってきているような気もします。
一人で重荷を抱え込むことに、いささかの不安も生まれてきています。

人は一人では生きにくい。
そんな気がしていますが、これは私の世代までの話なのでしょうか。
わが家の娘たちは、まだ結婚していません。
はやく伴侶を見つけてほしいものです。
それが今の私の最大の重荷です。

■778:「節子に自慢したい」からがんばれた(2009年10月19日)
昨日、挽歌を書けなかったので、今日はもう一つ書くことにしました。
節子がいなくなってからの日数と挽歌のナンバーがずれることを避けたいからです。

しかし今日もまた時間に追われて、節子のことをゆっくりと思い出す間がありませんでした。
今日はほぼ終日、パソコンの前で作業をしていました。
がんばっているのに、効率はあまりあがっていないのです。

頭の中が乾いてきているような気がして、あくびばかり出る。
以前もこういう状況になったことが時々、あります。
そういう時は、節子を誘って筑波山なり、どこかの公園に出かけました。
そこで心身を新しくできたのですが、今ではもうそういうことができません。
さてさてどうしたものか。
こういう時こそ、節子のありがたさがよくわかります。
要するに、もう無理はできないということなのかもしれません。

それにしても、この1か月、何やら急にいろいろな話が舞い込んできます。
実際は、私の感受性の弱まりの中で、今までは気づかなかっただけかもしれませんが。

人が何かに取り組む時には、だれかに喜んでもらえるということが大きなモチベーションになります。
そういう人がいるかどうかが、取り組む活動の内容を決めていきます。
それがない場合には、おそらく「お金」が目標になるのでしょう。
逆に、喜んでもらいたい人の顔がはっきりと見える場合は、「お金」など無縁になります。
私の場合は、少なくともそうでした。
私が何かに取り組む時の基準は、「節子が感心してくれること、喜んでくれること」でした。

しかし、いま考えると、「節子が感心してくれること、喜んでくれること」を、私が正しく理解していたかどうかは不安です。
私には、どこかに「節子に自慢したい、ほめられたい」という思いがあり、結局は私本意の独りよがりだったのかもしれません。
節子にほめられることが、私にとっては最高の名誉だったのです。
こんなことを言うと、笑われそうですが、それが正直なところです。

その、私をほめてくれる人はもういません。
ですからどこかで何をやっても、醒めている自分がいるのです。
それが疲れる原因なのかもしれません。

夫婦とは、お互いに相手をおだてながらがんばらせて、その成果を一緒に享受する仕組みなのかもしれません。
伴侶がいなくなると、頑張りが出てきません。
でも時々、がんばってしまうのは、なぜでしょうか。
節子がまだどこかにいるからでしょうか。

■779:ゆっくりと歩くことを教えてくれた節子(2009年10月20日)
秋らしくなりました。
久しぶりに湯島で一人なので、ゆっくりと空を見ています。
雲がゆっくりと流れる空が好きなのです。

私の生き方はあまりゆっくりではありませんでした。
節子はいつももっとゆっくりと生きたらといっていました。
私自身は、それでもかなりゆったりと生きているつもりなのですが、節子から見るとまだまだ急ぎすぎだったのです。
食事もお風呂も早いのです。
その上、ビデオの映画まで早送りで見るほどでした。
私と会った人はご存知でしょうが、早口なのです。
講演ではよくもっとゆっくり話してくださいといわれました。

人はそれぞれに自分の時計をもっているような気がします。
私のはちょっと時間の進み方が早いのかもしれません。

節子が病気になってから、一緒に散歩をしました。
一時、元気が出てきた時には、一緒にハイキングもしました。
それ以前も早さが違っていたのですから、その違いはもっと大きくなっていました。
節子は私に合わせるのに大変だったかもしれません。
しかし、そのうち、私のほうが節子の速さに合わせるようになってきました。
いかにわがままの私でも、節子の状況が理解できるようになってきたのです。
そして節子と一緒に歩くようになって、私はたくさんのことに気づきました。
いや、気づいたはずでした。
もっとゆっくりと生きなくてはいけない。
そうしないと周りの風景も周りの人の表情も見えてこない。

ところが最近また、急いで歩いている自分に気づきます。
久しぶりに空の雲の流れを見ていて、そう思いました。
思ったら少し涙が出てきました。

もうすぐ人がやってきます。
涙はとめなければいけません。
空を見るのはやめましょう。

■780:冷静にうろたえ、うろたえながら冷静に(2009年10月21日)
節子

南田洋子さんがくも膜下出血で緊急入院しました。
夫である長門裕之さんの記者会見は見るのが辛かったのですが、見てしまいました。
長門さんのお気持ちが伝わってきます。
彼は冷静にうろたえ、うろたえながら冷静でした。
私もそうでした。

「もしも、洋子に何かあったら、次の日から俺はどうやって生きればいいのか、と。見当もつかない。」

長門さんには、まだ「何かあった」のではないのです。
その感覚も、全く同じでした。
だから冷静でいられる。
いえ、何かあっても冷静でいられるのです。
起こったことを信じられないから、実感できないからです。
実際には、未来永劫、起こらないのかもしれない。
起こってしまったら、どうやって生きればわからないから、起こったことなど信じたくないのです。

長門さんもたしか「不条理」という言葉を発していましたが、人の死は「不条理」です。
カミユの異邦人を思い出します。
不条理の渦中では、生きていくことさえもが無機質になってしまうのです。
世界から色彩が消えていく、そんな感じです。

昨夜、いろいろと考えさせられましたが、
もしかしたら、なくなるのは「個々の生命」ではなく「関係」なのではないかと思い至りました。
そう考えるといろいろとまた世界が違って見えてくるような気がします。
今日は、そのことを書くつもりでしたが、長門さんの顔が目の前を覆ってしまいました。

お2人の平安を祈ります。

■781:「生きている関係性」が止まってしまった(2009年10月22日)
長門さんの願いにもかかわらず南田洋子さんは旅立ちました。

昨日の続きです。
無くなったのは「何か」。
洋子さんの魂でも生命でもない、私はそんな気がします。
みんなの心の中に、そして長門さんの心身に、洋子さんの生命は今なお生きているはずです。
決して風になどなっていない、私はそう思います。

では「何が」無くなったのか。
「関係」です。
長門さんと洋子さんの、これまでの関係が無くなってしまった。

と書いてきて、ちょっと違うなという気がしてきました。
昨日は何か新しい気づきのような気がしたのですが、こうやって書いてみると違いますね。
私と節子との関係はなくなっていませんね。
私は今なお節子を愛しています。

まだうまく書けませんが、もう少し書いてみます。
書いているうちにまた見えてくるかもしれません。
書きながら考えるのが、この挽歌のスタイルなのです。

自分を支えていた人がいなくなる。
見ることも触ることも話すこともできない。
それは信じられないことなのですが、現実はそうなのです。

関係とは何でしょうか。
静止した関係であれば、たとえ伴侶がいなくなっても維持できるかもしれません。
しかし、関係とは常に変化するものです。
そうか、無くなったのは「生きている関係性」なのですね、きっと。
見たり触ったり話したりすることによって、絶えず変化する関係性。
その関係性の変化が、生きていることの喜怒哀楽を生み出してくれるのです。
それこそが生きている証。
それが無くなってしまったのです。

節子との関係が止まってしまった。
だからこそ、私自身が動けなくなった、
動けなくなれば、世界との関係が逆に大きく変わりだす。
自分では一生懸命動いているつもりですが、なんだか動いている実感が得られない理由がわかったような気がしました。

「生きている関係性」が止まってしまった。
それがもしかしたら、変化なのかもしれません。
もう少し考えてみたい気分ですが。

■782:「抜け出るべきか、留まるべきか、それが問題だ」(2009年10月23日)
昨日の続きをまた書きたくなりました。
昨日また考えてしまったからです。
節子がいなくなって、いったい何が変わったのだろうか、と。

そういえば、以前もこんなことを書いた気がしてきましたが、無くなったのは、「これまで育て上げてきた私の世界」だと気づきました。
その世界は、節子がいればこそ、意味を持っていた世界だったのです。
その世界が瓦解してしまった。
だからこそ自分の居場所がわからなくなった、どう行動していいかわからなくなった。
そんな気がします。

親子の場合は、おそらく子どもはある年齢以降は親の世界から離脱し新しい自分の世界を創ろうとしだします。
親との別れは辛いでしょうし、大きな影響を与えるでしょうが、むしろ新しい世界を生み出す力を与えてくれるかもしれません。
しかし夫婦の場合は、そうやって親から独立して築きあげてきた、まさにその世界の根底が崩れてしまうのです。
これまでのことはいったい何だったのだろうか。
これからどうしたらいいのか。
そこで多くの人はおろおろしてしまう。

これまで創りあげてきた世界の終焉。
しかし、次の世界を創る気力はない。
としたら、どうやって生きていけばいいのか。
もちろん生き続けることはできるでしょうが、生命の躍動感を感ずることは難しい。
なにしろ「創る」喜びをもてないのですから。
もしかしたら、今の私はそんな状況にいるのかもしれません。

ハムレットではないですが、
「抜け出るべきか、留まるべきか、それが問題だ」
です。

■783:「自殺多発現場での活動者サミット」が実現しました(2009年10月24日)
節子
久しぶりにちょっと大きなイベントを開催します。
「自殺多発現場での活動者サミット」です。
ちょっとタイトルが刺激的ですが、これにはいろいろな経緯があります。

すべては、節子と一緒に行った東尋坊で、茂さんに再開したことから始まりました。
あの時に、茂さんや川越さんに合わなければ、このプロジェクトに取り組む気にはならなかったでしょう。
あれは、節子との最後の旅行でした。

こんなことを書くと節子が「自殺」したように思われそうですが、全くその反対です。
私たちは、東尋坊の美しさに、生きる元気をもらったのです。
そして、自動車を降りたら、なぜかそこに偶然のようにいた茂さんと川越さん。
茂さんは私のことを覚えていました。
そこで食べたおろし餅のおいしさは、今でも覚えています。
胃を摘出して、あまり食べることができなかった節子も、おいしいといっていました。
しかし、残念ながら、東尋坊の旅行から帰ってきた後、節子の病状は一変したのです。

昨年、その茂さんからメールが来ました。
そこに茂さんの「夢」が書かれていました。
それを読んだら、急に茂さんの夢に加担したくなりました。
その時に思い浮かんだのが、東尋坊の断崖から海をのぞいていた節子の笑顔でした。
節子は、私よりも軽やかに岩場を歩いていました。
それが今でも忘れられません。
節子がいたら、きっと応援しなさいよ、と言ったでしょう。
生きようとがんばっていた節子は、茂さんの活動にとても共感していました。
それを思い出して、茂さんに、夢は実現しなければいけない、と連絡したのです。

そして始まったプロジェクトの、私が設定した目標が、今日、実現します。
それが、ここでも何回か書いてきた「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」のスタートであり、そのキックオフのために「自殺多発現場での活動者サミット」です。
100人を超す事前申し込みがありました。
テレビ取材も驚くほどたくさん申し込みがきました。
今日はNHKのニュースでも報道されるそうです。

このイベントが実現したのは、たくさんの私の仲間のおかげです。
昨夜も、みんな修さんを応援していますから、と数名の方からメールと電話が来ました。
私にいうこともなく、いろんな仲間たちが、この会の案内をたくさん発信してくれています。
私は、ほんとうにやさしい仲間に恵まれました。

節子がいなくなって、もう大きなイベントはやるまいと思っていましたが、気がついてみたら、節子の後押しでやってしまっていました。
しかも、勢いにのって、昔、構想していたイベントもやりたくなってきました。
元気が少し出てきたのかもしれません。

節子
いつもなら節子も一緒に来てくれるのですが、今日は一人で行ってきます。
みんながきっとうまくやってくれるでしょう。

■784:谷和原城山の谷津田(2009年10月25日)
節子
今日は茨城県の谷和原に行って、城山を考える会のみなさんと久しぶりに話してきました。

節子の元気が回復していた時に、2人で里山まつりに行った、あの城山です。
あの頃は節子が元気になってきた頃で、私たちはいつも2人で行動していました。
谷和原の里山づくり活動の始まりには、私も少し関わっていましたので、最初の里山まつりにぜひ来てくださいと誘われていたので、節子と一緒にでかけたのです。
秋晴のとても気持ちの良い日でした。
節子もとても楽しんでくれました。

そのお祭りは今ではすっかり定着しました。
毎回、代表の横田さんから、また来てくださいといわれるのですが、残念ながらその後は行けませんでした。
節子がいなくなってからも、毎回お誘いはあるのですが、とても行く気にはなれません。

今日はお祭りではありませんでしたが、久しぶりにその後の様子を見に行くことにしました。
城山はとてもいい谷津田と高台の農地の周辺に広がる里山なのです。
つくばエクスプレスが通ったので、この周辺もとても便利になりました。
都心から至近距離にある気持ちのいい谷津田です。
久しぶりに現地をまわらせてもらいましたが、以前とは全く違って、とてもきれいに整備されていました。
その気になればいろんなことが出来ます。
久しぶりに皆さんに会いましたが、みんながとても楽しんでいるのが伝わってきました。
会のみなさんにいろいろと提案させてもらいました。

節子ともう一度、ここに来たかったなと思います。
みんなと一緒に高台に上ったら、節子と一緒に来た時のちょっとはなやかな気分の情景が頭に浮かんできました。
そういえば、あの日はたくさんの野菜をお土産にもらいました。
今日はどっさりサツマイモをもらいました。
土佐金時で、会員の中島さん(もう70代後半です)が作った自信作です。
同じく会員の棟梁の飯泉さんからは、手づくりの木製のお蕎麦をゆでる時に使うものをもらいました。
節子がとても好きそうな料理道具です。
節子は木の料理道具が好きでした。

今日はとても寒い日でした。
ずっと外で話し合っていましたので、進退はすっかり冷えてしまいました。
しかし心はとてもあたたかくなりました。
節子もずっと一緒にいたような気分でした。
節子は寒くなかったですか。
風邪を引かなければいいのですが。

■785:久しぶりに節子とゆっくりと過ごしています(2009年10月26日)
節子
今日は久しぶりにゆったりした気分の時間を過ごしています。
この半年、取り組んでいた「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」をなんとかスタートさせることができました。
節子の顔を思い出しながら取り組んできたこのプロジェクトも、もう大丈夫でしょう。
後は、代表と事務局長に任せる予定です。
私はいないほうがいいでしょう。
なにしろ私の発想はいささか脱落していますから、真ん中にいるとこの活動は広がらない可能性が強いです。
人にはそれぞれの役割があるものです。
それに私は問題が見えてくると、もう退屈で仕方がないのです。
問題は創るのは面白いですが、解くのは退屈です。

節子も知っているように、私は新しいプロジェクトを起こすのは好きですが、それがうまくいけば、後は私の役割ではないと思うタイプです。
唯一の例外はコムケア活動ですが、これは本来、事務局長の存在を極力なくしていくという思想のもとにやっていますから、持続しています。
それにコムケア活動はほとんど私の日常行動と重なっていますから。
そのモデルは、節子と私の生き方だったのです。

今日は、これから2つの委員会があります。
介護保険の関係と企業の人材育成の関係です。
全く別のテーマですが、こうしたさまざまなテーマに関わるのが、もう一つの私の生き方です。
これも節子は理解してくれていましたが、私の世界の理解の枠組みはたぶん普通の分類基準ではないのです。
ですから介護と企業経営が私の内部では何の違和感もなくつながっています。

私と一緒にオフィスを始め、次から次へとやってくる人との話を横で聴いていた節子は、最初よく言っていました。
何で全く違うテーマをそんなに簡単に切り替えられるのだろう、と。
しかし、そのうちにそんなことは言わなくなりました。
そもそも家庭や家族の生活を切り盛りしている主婦の日常には、さまざまな種類の問題が無秩序に襲ってくるのです。
いえ、それが「生活」というものです。
そのことに気づけば、すべての話題や課題がすべてつながっていることに気がつくはずです。
専門家や企業の経営者の世界など、主婦の生活に比べたら単純な、それこそサルでもできる単純な世界です。
だからこそみんな難しい言葉を使って、話を難しくしているだけです。
自分をしっかり生きている人に比べたら、極めて単純な世界なのです。
そうした退屈な世界で生きていくように仕込んでいくのが学校教育なのかもしれません。
一番骨抜きできる仕組みを完成した有名大学卒業生が官僚や経営者になって、がんばってくれているので、私たちは、その気になれば豊かな生活ができるのです。
でもほとんどの人は、そうした生活を望まずに、苦労しているようにも思いますが。

いやはやとんでもないことを書いてしまいました。
久しぶりにゆったりして、節子と話しているような気分になってしまったのです。
節子とはこうした話をよくしました。
節子は、こうした私の「非常識」な発想と言動をいつも好意的に聞き流していましたが、きっとその意味を理解してくれていたと思います。
そうでなければ、私のわがままの生き方を評価はしてくれなかったはずです。
そうですよね、節子さん。
それが、私の人生に弾みをつけてくれたような気がします。

人は伴侶によって、生き方を変えるものです。
私は、節子と結婚することで、思い切り私らしい世界を生きることができたような気がします。

久しぶりに今日は湯島で2時間ほど、一人でぼんやりしながら、節子のことを思うでもなく思っていました。
節子ほどの女房はいなかった、とつくづく思います。
そのめぐり合わせに感謝しなければいけません。

■786:久しぶりに三沢(2009年10月27日)
節子
今日は青森県の三沢に来ています。
3年ぶりの東北です。
途中、東北の秋の風景がとても美しく、気持ちが和むと同時に、いつものことながら、節子がいたらどんなに喜ぶだろうという思いが次から次へと浮かんできました。

三沢に来たのは、ここで町を花でいっぱいにしようと活動している人たちに久しぶりに会いたかったからです。
三沢に関わりだしたのは、節子が元気になってきて、治る確信を持てた頃です。
花いっぱい活動のアドバイザーを頼まれたのですが、いつか節子と行きたいという思いで引き受けました。
節子は、我孫子で花かご会を結成し活動していましたので、節子の世界ともつながれるという思いもありました。

ところが関わりだしてからしばらくして、節子のがんが再発。
引き受けたのを後悔しましたが、それからも2回ほど寄せていただき、何とか住民たちの手づくりフォーラムが実現しました。
とても感動的な集まりでした。
私が三沢に来たのは、それが最後です。

この挽歌を書き出してからしばらくして、三沢での活動の中心になっていたSさんから、投稿がありました。
この挽歌を読んでくれていたのです。
そこからまたささやかなつながりが始まりました。
先日、花いっぱい活動の新聞ができたといって送ってきてくれました。

私は各地のまちづくり支援にも関わってきましたが、どこにもSさんのような人がいます。
一昨日の谷和原の横田さんも、その一つです。
私の仕事のやり方は、ともかく人と人の関係を生み出すことを基本にしています。
金銭的な契約には終わりはありますが、一度、生まれた人のつながりは決して消えることはありません。
「金の切れ目が縁のはじまり」
これが私の信条です。
お金は人を切り離しますが、お金がなければ、人はつながらざるを得ないのです。

元気になったら一緒に行くという節子との約束は実現できませんでした。
だからもう二度と来ることはないだろうと思っていたのですが、最近、無性に以前のことが思い出されて、ついに来てしまいました。
佐世保にも、北九州にも、山口にも、行きたい気分が高まってきました。
節子がいた頃の世界に、戻りたいという思いが、私のどこかに生まれてきているのかもしれません。

明日、三沢で花づくり活動に取り組んでいる人たちと会う予定です。

■787:愛する人を失った人は、すべての存在にやさしくなれる(2009年10月28日)
節子
昨日は青森県の三沢に泊まったのですが、朝早く目が覚めて、ホテルの部屋から外を見たら、朝日が出てきたところでした。
三沢には高層の建物があまりないので、日の出がよく見えるのです。

帰路の新幹線の中からはずっと夕陽が見えていました。
東北新幹線はしっかりと南北に直線ではしっているので、夕陽がずっと見えているのです。

日の出と夕陽。
節子と何度見たことでしょう。
そのせいか、太陽を見ているとなぜか節子を思い出します。

いえ、太陽だけではありません。
今日の三沢の空はとてもきれいな青さでした。
その空を見ていても、節子が見えてきます。

何を見ても節子を思いだす。
いまや節子はいたるところにあまねく存在しているのです。
だからこそ、全てのものがいとおしくなるのです。

愛する人を失った人は、ある時期を越えると、すべての存在にやさしくなれるような気がします。
すべての生命、すべての物に、愛する人の世界を感ずるのです。
節子を感じてしまうと、どんな物にも、いとおしさを感じます。
だから、だれにも、どんなものにも、やさしくなれるような気がします。
しかし、自分にだけはなかなかやさしくはなれません。

新幹線の中で、夕陽を見ながら、いろいろなことを考えていたのですが、帰宅してパソコンの前に座ったら、その時、書こうと思ったことが思い出せません。
思い出せたのは、節子のおかげで、世界がとてもいとおしく感じられるようになったということです。
日の出と夕陽のことを書くはずだったのに、あんまりつながらない話になりました。

しかし今回の三沢行きは、とても疲れました。
前のプロジェクトの担当者にも会いましたが、彼女から元気になられてよかったですね、といわれた時に、またいろいろと思い出してしまいました。
三沢と節子とのつながりは、何も無いのですが、私にはきっと切り離せない存在なのです。
たぶん、この疲れはそのせいに違いありません。
この疲労感には覚えがありますので。

■788:手抜き観音(2009年10月29日)
忙しさにかまけてお墓参りに行きそびれていました。
花が好きだった節子に、やはり毎週、花を届けなければいけません。
自宅の節子の位牌の前や庭の献花台にはいつも花がありますが、お墓はちょっと気を許すとすぐに枯れた花になってしまいます。
まあ節子のことだから、そんなことでは決して怒りはしないのですが、なんとなく自分自身、落ち着きません。

お墓でも般若心経をあげさせてもらうようになりました。
昔は誰かがそばにいたら、声を出せませんでしたが、今では声が出るようになりました。
何回も読経していると、その意味がわかってくるという人もいますが、そんなことはありません。
般若心経の解説書は昔何冊か読みましたが、その内容も忘れてしまい、今はなにやらわからない言葉の羅列でしかありません。
読書百遍、義自ずからあらわる、などと言うことは、私の場合には全くありません。
しかし不思議なことに、それを唱えていると、なんだか節子との心のパイプが通じているような気になるのです。

父を亡くした後、母は毎日、仏壇の前で読経していました。
私は一度も並んで読経したことはありませんでした。
今から考えると親不孝な息子でした。
私は子どもの頃から「権威」や「形式」に対して、素直になれないところがありました。
今から考えるとおかしな話ですが、当時はお経さえもが私には「権威」であり「形式」だったのです。
その私が、毎朝、読経するようになったのです。
節子はどう思っているでしょうか。

節子が教えてくれたことは山のようにたくさんあります。
節子は教えようなどとは全く思ってもいなかったでしょう。
ただただ私と一緒に素直に生きていた。
もしかしたら、般若心経の心は節子から学んでいるのかもしれません。

笑われそうですが、この頃、なぜか節子が観音様だったのではないかと思うことがあるのです。
私を救うために、西方浄土からやってきてくれた。
そしてもう後は大丈夫だと思って、また西方浄土に戻っていった。
そんな気がしないでもないのです。
もしそうだとしたら、ちょっと帰るのが早かったような気がします。
手抜き観音様です。
まあ、節子らしい観音ではありますが、ちゃんと見送る最後まで、仕事はきちんとやってもらわないと困ります。
まあ、節子らしい観音様というべきですが。

■789:不思議な生き方(2009年10月30日)
節子
小学校の同窓生から
「お前の生き方は不思議だ」
というメールが届きました。
たしかに最近、自分でも少し不思議な生き方をしているなと思うことがあります。
節子がいた頃は、そんなことを思ったこともありません。
しかし最近はやはりちょっとそう思うようになりました。

節子と最初に2人だけの時間を過ごしたのは、奈良の散策でした。
電車で偶然に会い、そこで2人で奈良に行こうと決めたのです。
あれがすべての始まりでした。

奈良での散策中、何を話したのか覚えていませんが、初めてだったのにとても話が弾みました。
おそらく私が次から次へと話をしたのでしょう。
節子は聴き上手だったわけです。
興福寺から春日大社を経て、東大寺に向かう道は、私には何回も通った、思いのある道でした。
その一つひとつを、おそらく知ったかぶって、面白おかしく話したのでしょう。
たぶん時空を超えた壮大な物語を基調にしたはずです。
当時、私はタイムパトロールもののSFにはまっていたような気がします。
節子は、その不思議な世界に、たぶん「魅了」されたのです。

「修さんの話はどこまで本当なのか、わからない」
これが帰りの電車の中での節子の言葉だったのを覚えています。
すべてが真実であり、全てが嘘である。
言葉は信ずればすべて真実であり、信じなければすべて嘘。
とまあ、おそらくこんな言葉を私は返したはずです。

理解できないものには、人は魅力を感じます。
おそらくそれが、節子が私と結婚してしまった理由です。

もう少し「賢い人」は、理解できないことを疑いだします。
そして「不安」を抱きだします。
そうなると結婚などできなくなるでしょう。

しかし幸か不幸か、節子はそれほど「賢くなかった」のです。
それに人を疑うなどということを知らない素直な子どもだったのです。
そして、幸いなことに、実は私もまた、あんまり「賢くなかった」のです。
賢い人は、相手を騙すことを思いつきますが、当時の私にはそんな「賢さ」はまだなかったのです。
そして、自分の言葉に、自分自身が騙されてしまっていたのです。

そんなわけで、今から考えると、とても「不思議な生き方の夫婦」がスタートしたのです。
節子がいる時には、その不思議な生活は完結していましたが、いなくなった今、その不思議さが自覚できるようになってきました。
やはり、私たちはちょっとおかしかったのです。

その「おかしさ」に、私自身いまなお魅了されているために、なかなかそこら抜け出られません。
この生き方でこれからもいくのでしょうが、相棒がいないまま続けられるのかどうか、最近ちょっと不安がないわけでもありません。
でもまあ、生き方を変えることはできないでしょうし、そのつもりもありません。
唯一の希望は、節子がふっと戻ってきてくれることです。
そう信ずれば、真実になるはずなのですが。

■790:昇る太陽と沈む太陽(2009年10月31日)
昨日、この挽歌を読んでくださっている方が訪ねてきてくれました。
初対面の方ですが、開口一番、「よろよろですね」といわれました。
自分ではいつもそんな意識はないのですが、やはり見える人にはそう見えるのでしょうか。

対照的なのですが、その人の前にやってきたのが、ベンチャー企業の若手経営者でした。
最近はどうも元気が出なくてね、と話したら、「部屋に入ってきた途端に佐藤さんのエネルギーを感じましたよ」と言いました。

よろよろの私、エネルギーを発している私。
同じ私なのに、外部から見える私はどうもさまざまなようです。

先日、日の出と夕陽のことを書きましたが、そのことを思い出しました。
昇る太陽を見ていると元気が出てきます。
しかし、沈む太陽を見ていると寂しく哀しい気分になってきます。
同じ太陽なのに、どうしてでしょうか。
同じ私も、その両面があるのでしょうか。

元気な朝日と寂しい夕陽があればこそ、太陽は太陽です。
昇りつづけてばかりいたら、太陽はどこか遠くに行ってしまいます。
時に元気に、時に哀しく。
元気と哀しさはセットのものなのだ、と最近、思うようになりました。
哀しさを知らない人にはたぶん元気はわからないのではないか。
元気を知らない人は、哀しさなど味わうことはないのではないか。
元気と哀しさは、幸福と不幸がそうであるように、隣り合わせているのです。

昨日は4組、6人の人が湯島に来てくれました。
昔に戻ったような気がしないでもありませんが、明らかに違うことがあります。
どうもうまく対応できないのです。
特に初対面の方には、うまく対応できません。
やはり、その人が見透かしたように、「よろよろ」なのかもしれません。
その方と別れた後、そんな気がしてきました。

でもまあ、沈んだ太陽もまた昇ってきます。
昇った太陽がまた沈むように。
よろよろ生きるのもいいかもしれません。

■791:「言葉」を大事にする人(2009年11月1日)
節子
久しぶりに九州の蔵田さんが訪ねてきてくれました。
定年になった時点で、会社をスパッと止めて生まれ故郷に戻り、晴耕雨読の生活に入った蔵田さんの生活は見事です。
蔵田さんとは仕事での出会いでしたが、なぜか仕事が終わった後も、ずっとお付き合いが続いています。

「信」という言葉は、「人」と「言」という文字でできています。
人の言葉は信頼できるものでなくてはいけません。
ところが最近は、「言葉」に真実のない人が多すぎます。
節子も私も、言葉を大事にする人が好きでした。
一度、口にしたことは守らなければいけません。
「言葉だけの人」は、どんなに着飾った言葉を使おうと本心は見えてきます。
そういう人とはあんまりお付き合いしたくない。
これは私たち夫婦の共通の価値観でした。

蔵田さんは、数少ない「言葉」を大事にする人でした。
言葉を大事にする人は、心も大事にします。
心と言葉がつながっているからです。

その蔵田さんが訪ねてきてくれました。
蔵田さんは、節子がいなくなった直後にも、また1年くらい経った頃にも、献花に来てくれました。
わざわざ九州から我孫子まで来てくださるのです。
蔵田さんは「信」の人だからです。
その「信」には応えなければいけません。
しかし、どう応えたらいいのか、まだわかりません。
ともかくは元気になって、蔵田さんを安心させることかもしれません。

生前、蔵田さんと節子とが会ったことはそう多くはありません。
おそらくゆっくりと話したこともないかもしれません。
しかし節子が病気になってから、蔵田さんは新鮮な野菜を送ってくれました。
節子にとっては、とてもあったかな存在だったのではないかと思います。
節子が元気になったら、きっと野菜作りで話が盛り上がったはずです。
いつか蔵田さんご夫妻を湯河原に招待したいと話していましたが、それも夢に終わってしまいました。

その蔵田さんも、もう70を超えました。
私と違って、おしゃれでダンディなのですが、歳とってますます磨きがかかってきました。
少しひげも生やして、ますますのダンディぶりです。
節子がいたら、修とは大違いね、と後で言われたかもしれません。
節子がいなくなって、私はますますおしゃれから遠のいてしまっています。
しかし、「信」だけは、蔵田さんと同じように大事にしていますので、安心してください。

■792:此岸での人生の終わり方(2009年11月2日)
節子
最近、なぜか「どうしてこんな生き方を続けているのだろうか」と思うことがあります。
時々、書いていますが、どうも最近の生き方は私らしくありません。
おそらく節子がいた頃の生き方に戻っているのでしょうが、なぜかそうした生き方は、今の自分の生き方ではないのではないかという気がしてきました。

昨日、蔵田さんと話していて、蔵田さんの生き方にとても共感しました。
友が寂しがっていたら遠方からでも何気なくやってくる。
近くに問題があれば、意見を言いに出かけていく。
きちんと話さないと伝わらないでしょうが、宮沢賢治の「雨にも負けず」を思わせる生き方です。
なぜそういう生き方にうつろうとしないのか。
そう思うことが増えてきました。
しかし、そこに生きつかないのです。

時評編に書きましたが、今日、「ガンジーの危険な平和憲法案」という本を読みました。
大きな衝撃を受けました。
最近共感してたネグリの「マルチチュード」よりもずっとラディカルです。
しかし、それはそれとして、とても心に響く文章に出会いました、
ガンジーが残した文章です。

この状況がよくならなかったら、私の心は叫び、神様に早く連れて行ってもらうように祈っています。

その祈りは、神様と彼の友人たちによって実現しました。
ガンジーは、近代国家としてしか独立できなかったインドに生きずにすんだのです。
神様はきちんと見ていてくれるのです。
おそらく私のことも見ていてくれるでしょう。
そんな気がします。

にもかかわらず、私はまだ現世に未練がましく関わろうとしている。
相変わらずの「小欲」。
いったい誰のためにやっているのでしょうか。
社会のためでも、友人知人のためでもないでしょう。
たしかに友人知人からは感謝されることもあります。
全く面識のない人から褒められることもあります。
でも私がやらなくても、きっと誰かがその役割を果たすはずです。
所詮は自分のためではないのか。
自分が生きるために生きる、というのはどう考えても納得できないトートロジーです。

ガンジーは、いつそうした人生をやめたのか。
それは「暗殺」された時ではないのではないか。
そう思った時に、ふと思い出したのです。
節子はいつ彼岸に入ったのだろうか。
これまでも何回か考えた問題です。
節子には、もう一つの命日があるように思えてなりません。

私も、此岸での人生の終わり方を、そろそろ考えなければいけないのではないか。
最近、そんなことを考えるようになりました。
少しだけですが、仏教の考えがわかりだしてきたような気がします。

■793:こころのホメオスタシス(2009年11月3日)
穏やかな秋日和です。
昨日から急に寒くなりましたが、太陽の光が、その寒気を穏やかにしてくれています。
2人の娘たちも出かけていますので、今日は一人でのんびりと過ごしています。
しかし、のんびりと過ごすことはそう簡単なことではありません。
節子がいると、のんびりと過ごすことも楽しいのですが、一人だとやはり退屈してしまうのです。
2人でセットの生き方から、まだ抜け出ていないのかもしれません。

もう2年2か月も、こうした生活、節子がいない生活が続いていますが、まだその実感はそう強くありません。
未だに、心のどこかに節子がいるような気がしているのです。
庭に出て行くと、節子が今も花の手入れをしているような気がしますし、買物に出かけていた節子が今にも帰ってくるような気さえするのです。
もうじき節子に会えるような気さえするのです。

これは私だけの思いなのでしょうか。

世界は自分の思うように見えてくる。
これは私の体験知です。
同じ世界を見ていても、その見え方は人によって違います。
なにやらSFの世界になりますが、世界は自分の頭脳が生みだしているのかもしれません。
そう考えると、節子が今なお存在しているということも、あながち否定できないことです。
こうした感覚は、理性では否定できますし、もちろん否定はしているのですが、にもかかわらず心のどこかにそうした思いがあるのです。
それがあればこそ、心身の平常が保たれているのかもしれません。
節子に向かって話すことも少なくありません。
これこそが、こころのホメオスタシスなのかもしれません。

一人になると、ますます節子が近くにいるような気がしてきます。
誰もいないから姿を見せてもいいよと、訳のわからないことを考えてしまいます。
伴侶とは、そういうものかもしれません。

いま2回の作業部屋でパソコンに向かっているのですが、何やら下で物音がしました。
もしかしたら、節子が戻ってきたのかもしれません。
もうじき、「お茶が入りましたよ」という声が聞えてくるかもしれません。
聞えなくてもおりていったほうがよさそうです。
目には見えなくても、きっと節子はお茶を飲みながら待っているでしょうから。

もし下に節子がいたら、そのまま死んでしまっても良いなと思います。
しかし、神様はそう簡単には私を死なせてはくれないようです。
ガンジーを見習わなければいけません。
もっと誠実に生きなければ、神様には愛でられないでしょうから。

■794:コモンズ空間(2009年11月4日)
節子
TYさんが湯島にやってきました。
あの、才色兼備の、しかし小生意気なTYさんももうじき50代になるそうです。
私たちも歳をとったはずです。
彼女が最初に湯島にやってきた時は、まだ20代の終わりごろでした。
ある人の紹介でやってきましたが、若いのにはっきりした物言いと、ちょっと危ない小生意気さが私の波長に合ったのか、長い付き合いが始まりました。

当時、彼女はある財団のプログラムオフィサーとして、とてもいい活動をしていましたが、その一方で、モダンバレーにも取り組んでいました。
今にも折れそうな細い身体で、なんでこんなに頑張れるのだろうと思うほどの頑張り屋でした。
節子も彼女のことはよく知っています。
彼女の招待を受けて、節子と2人でモダンバレーの発表会に行きました。
大変申し訳ないのですが、私には難解でした。
というよりも、私はバレーにはあまり興味が無いのです。

TYさんと出会ったのは、私たちが湯島のオフィスを開いた直後でした。
当時は、私も節子も、新しい人生をはじめたばかりでした。
彼女が持ち込んできたプロジェクトは、その後の私の生き方にも大きな影響を与えました。
半年振りにTYさんと話していて、いろいろと昔のことを思い出してしまいました。

湯島から始まった物語はいろいろあります。
湯島のオフィスは、もしかしたら、私と節子だけの空間ではないのではないか。
そんな気がしてきました。
TYさんにも、もしよかったらこの場所を使って研究会を始めたらと提案しました。
きっと節子も賛成してくれるでしょう。
このオフィスはがんばって持続させようと決めました。

私たちが目指していたコモンズ空間は、気づかないうちにもうできていたのかもしれません。
湯島に来ると、なんだかホッとして長居してしまうといってくれる人がいます。
TYさんも予定の時間を超えて今日も長居してしまいました。

■795:私の世界はしぼみだしていることに気づきました(2009年11月5日)
昨日、モダンバレーの発表会のことに言及しましたが、それを書いた後、思い出したことがあります。
フラメンコの発表会に行ったことです。

山形でフラメンコをやっている人が東京で発表会をやるのでといって招待券を送ってきました。
節子が行きたいというので、私は気が進まなかったのですが、行きました。
彼女はその後結婚して渡米しましたので、翌年は行かずにすみました。
私は、フラメンコもあまり興味が無いのです。

会社を辞めてから、さまざまな人たちとの付き合いが広がりましたので、いろいろな人からいろいろな案内が届きました。
正直に言えば、興味のあるものもあれば、腰が引けるものもありました。
でも2人のどちらかが行こうといえば、私たちは原則として2人で行きました。
会社を辞めて、もう一度、2人での生活を創りあげようと思っていたからです。
今から思えば、私が無理やり節子を誘ったほうが多かったかもしれません。

東京郊外の工場跡地を舞台にした前衛劇「リア王」の誘いを受けたことがあります。
湯島のサロンにやってきた前衛劇に取り組んでいた鈴木さんという演出家からの誘いでした。
これはもう全く訳がわからないだけではなく、一緒にいった娘は見ている途中で気持ちが悪くなってしまったほどでした。
真面目な節子にはいささか刺激が大きすぎたかもしれません。

ある新興宗教が主催した僧侶たちが後楽園ドームで読経するイベントなどがあります。
これは節子も喜ぶだろうと思いましたが、節子どころか私も退屈しました。
演出が全く悪かったのです。

節子も私も感動したのは、サントリーホールで聴いたベルリン・フィルの「運命」でした。

私は、どんなイベントも一人で参加できないタイプでした。
仮に行っても、途中で帰りたくなるのです。
そうした性格のため、節子は本当にいろんな集まりや催しに同行させられました。
今から考えると、もう少し節子好みのものに連れて行けばよかったと思います。
しかし、節子のおかげで、私は実にさまざまな場を体験できました。

節子がいなくなってから、イベントやコンサート、美術展に参加する機会が激減しています。
娘のユカが時々、私の好きな展示会に誘ってくれますが、一人ではまだとても行く気にはなれません。
私の世界は急速にしぼんでしまってきています。
まあ、それは自然の成り行きなのかもしれませんが。

■796:夫婦喧嘩では絶対に謝らなかった節子(2009年11月6日)
節子
夢をみました。
喧嘩をしている夢でした。

たまにしか夢にも出てこないのだから、喧嘩などしなくてもいいのですが、お互いに頑固に自分の考えを譲り合わないまま、喧嘩になっている夢でした。
目が覚めたら、何で喧嘩になったのか思い出せません、
思い出せるのは、自己主張を変えない節子の頑固さぶりです。
全くもって腹立たしい。
節子の性格は、彼岸に行っても変わっていないようです。
「馬鹿は死ななきゃなおらない」といわれますが、「頑固は死んでもなおらない」ようです。

節子は、時々、絶対に自分の間違いを認めないことがありました。
そうした時には、それこそテコでも動かないのです。
その頑固さは徹底していました。
それでよく喧嘩になりました。
まあ、いつもたいした問題などではないのですが、問題は何であれ、間違っているくせに相手が間違いを認めないほど腹の立つことはありません。

喧嘩が終わって謝るのは、いつも私でした。
間違っていないのに謝るのもおかしな話ですが、まあ冷静になると、間違っているかどうかさえ瑣末な話のことが多いのです。
でも、これも納得できない話で、時々、節子に「なんでいつも謝るのは私なんだ」と異議申し立てをしましたが、節子の態度は最後まで変わりませんでした。
夫婦喧嘩で節子が私に謝った記憶はあまりありません。

ということは、私のほうがいつも悪かったということになりかねませんが、そんなことはありません。
明らかに節子のほうが悪かったこともあったはずです。
しかし、今となってはもう証明しようもありませんが。

喧嘩では謝りませんでしたが、節子は病気になってからは何回も私に謝りました。
節子が一番私に謝ったのは、私を置いていくことでした。
「謝っている節子」の姿はよく思い出します。
謝らなくてもいいのに、節子は本当にすまなさそうに謝ってくれました。
謝るべきは、私のほうなのに、といつも思っていたのですが。

でも夫婦喧嘩ではどうして節子は謝らなかったのでしょうか。
節子は夫婦喧嘩が嫌いでしたが、私はもしかしたらけっこう好きだったのかもしれません。
今ではもう、位牌の前で節子に謝ることしかできません。
もう一度喧嘩をして、今度こそ節子に謝らせたいと思うのですが、夢の中ではなかなかうまくいきません。
夢の中ではなく、もう一度、喧嘩をしたいです。

■797:ラ・フランス(2009年11月7日)
節子
吉田俊樹さんからラ・フランスが送られてきました。
吉田さんとは、挽歌164で書かせてもらったYTさんです。
吉田さんは一つ送ると2つ送ってくるという、ポトラッチ型の人なので、どうしたものかと思っていますが、とりあえずお礼の電話をしました。
彼は不在で、奥様が電話に出ました。
初めてです。
「千葉の佐藤です」といってもすぐにはピンと来なかったのですが、会社の同期の、といったら、「佐藤修さんですね」とわかってもらえ、それに続けて「とても仲の良い夫婦」という言葉が出てきました。
私たちは吉田夫妻とは会ったことがありません。
でも、その吉田夫妻にまで「私たち夫婦の仲のよさ」は伝わっていたのです。
こんなうれしいことはありません。
ちなみに、なぜか吉田さんも私のことを昔から「修ちゃん」と呼ぶのです。

吉田さんは不思議な人です。
彼は修士でしたから、入社は同期ですが、年上です。
私がこれまで会った中でも、特別といっていいほど、変わった人です。
誤解されると悪いのですが、自分をしっかりと生きているという意味です。
私もそうなりたいと思っているのですが、吉田さんは私が会った時からそういう生き方でした。
小賢しさは皆無、純粋に素直で、宮沢賢治の「雨にもまけず」の人に似たところがあります。
もちろん「でくのぼう」ではありません。
優秀なエンジニアで、今も思いのままにお金とは無縁の社会活動をしています。
電話の時も、その関係で外出していたのです。

初めてであるにも関わらず、奥さんといろいろと話させてもらいました。
ラ・フランスなどたくさん送っても、すぐダメになるし、きっと迷惑だといっているのですが、故郷の山形を応援したいといって、いろんな人に送っているのです。もらってやってください。
ただのポトラッチではないですね。
吉田俊樹さんらしいです。
彼は米沢出身だったのです。

節子は吉田俊樹さんのことは知っています。
私たちと吉田さんとは関東と関西だったので、節子が元気だった頃は、一度も行き来がありませんでした。
しかし、にもかかわらず、吉田夫妻の間で、私たちの夫婦の仲のよさが語られている。
どうでもいいでしょうが、私にはとてもとてもうれしいことでした。

ちなみに、ラ・フランスとリンゴの置物を節子は一時期、コレクションしていました。
もちろん吉田さんは、そんなことなど知る由もありません。

節子の位牌に吉田さんからのラ・フランスを供えました。
節子は、ほんとうに幸せな人だとつくづく思います。
もちろん私もです。

■798:節子の寝顔ももうありません(2009年11月8日)
節子がいなくなっても、節子に話す時間はそう減ったわけではありません。
節子からの返事がありませんので、話し合いとまではいきませんが、節子に問いかけたり話したりすることは多いのです。

節子がいなくなってから、夜の眠りが浅くなりました。
2年以上経過するのに、まだもとに戻りません。
そして、明け方の4時か5時に目が覚めることがよくあります。
そこで1時間近く節子と話をするわけです。
もちろん声には出しませんし、話しているうちにまた眠ってしまうので、もしかしたらそれもまた夢かもしれません。
しかし、そういう時に話し合ったことを挽歌に再現しようと思っても、また眠ってしまうとなかなか思い出せません。

以前は、夜中に目を覚まして眠れなくなったら、いつも隣の節子を起こしていました。
節子と少し話しているとまた眠れるからです。
節子はも迷惑だったでしょうが、逆の場合は私を起こしていいよと言っていましたので、当然のこととして、私は節子を起こしてしまっていたわけです。
夫婦は苦楽を共にしなければいけないというのが、私の勝手なルールです。
まあ眠れないことが、共にすべき苦楽になるのかどうかは問題ですが。
しかし、いまはそうした苦楽を共にする節子がいません。
夜中に目が覚めるのは、結構、苦痛です。
昔は、芽が覚めて、隣の節子の寝顔を見るのが私はとても好きでした。
さほど美人ではないにしても、私には最高の寝顔だったのです。
すべての迷いや悩みが解決しました。
時には見とれていることもありました。

私たちは枕を並べて寝ていましたが、節子は隣で私が本を読んでいる間に眠るのが好きでした。
隣で私が本を読んでいると安心できるといっていました。
その頃は、いつも眠る前に本を読むのが私の習慣でした。
しかし、その習慣も今はもうなくなりました。

昨夜も1時間ほど、明け方に節子と話しました。
なんだかとても大事な話をしたような気がするのですが、半日、思い出そうと努力したのに思い出せません。
結局、寝顔のことを書いてしまいました。
困ったものです。

■799:脱余生考(2009年11月9日)
節子
また新しい週の始まりです。
今日もまた無事に過ごせた、と日々、感謝していた節子と違って、最近の私はかなり惰性的に生きています。
節子に叱られそうですが、日々の感謝の気持ちが薄れていることは間違いありません。
人間はほんとうに現金なもので、何ごともないとそれが当然のことだと思いがちです。

しかし、もしかしたら、私が惰性的なのは、そのためではないのかもしれません。
最近、改めて「余生」という言葉が気になりだしています。
余生。「余った生」。
余った生であればこそ、生きる真剣みが出てこないのかもしれません。

節子のいない今は「余生」だとして、では節子がいた時は、「目的を持った生」だったのか。
その「目的を持った生」が、節子を見送ることで終わってしまった。
そう考えていくと、結論はこうなります。
「私の生きる目的は節子を見送ることだった」。
心が萎えてしまうような結論ですが、どこかに論理的な間違いがあるでしょうか。

では節子の生は何だったのか。
それは、「私に見送らせること」だったということになります。
こう考えると、夫婦になるということは「相互に生きる目的を与えること」ということです。そして、必ず一方に「余生」が生じるわけです。

伴侶を失った後、仏門に入り、伴侶の供養に生涯を捧げる生き方もあります。
それは「余生」なのでしょうか。
「愛する人」を供養するというはっきりした目的がありますから、これは「余生」とは言い難いですね。
「余生」などではなく、最後まで誠実に、真実の生を送ることもできるわけです。
戦国武将の妻たちにとっては、それこそが一番の真実の生だったかもしれません。

供養は出家しなければできないわけではありません。
そうであれば、今のままでも、節子のために生きることが可能です。
「余生」などと思わずに、惰性に流されるのではなく、もっと意味ある生を生きなければいけません。
そんな気がしてきました。

これからは毎朝、元気に目覚められてことを感謝していこうと思います。
なにやら節子の考えそうな生き方になってきてしまいました。
もしかしたら、節子が憑依しているのかもしれません。

■800:レインボーブリッジの夜景を見ながら思ったこと(2009年11月10日)
節子
昨日、芝浦のホテルでのフォーラムに参加しました。
懐かしい面々が参加してくれました。
もう20年以上関わっている企業の経営幹部の人たちの集まりですが、みんなどんどん変化していきます。
こうした集まりにも、節子は時に付き合ってくれましたが、私とは違った視点で、そうした人たちの人物を感じ、私も節子を通して企業経営者を見る目を持たせてもらいました。
女性の目、生活者の目は、実に辛らつです。
子供の目と同じで、人の本質を見抜きます。
そこでは小賢しさなどは全く通用しないのです。

みんなに議論してもらっている間、東京湾が見えるロビーで、そんなことを思い出していました。
レインボーブリッジの夜景が、とてもきれいでした。

ふと思いました。
こういう夜景のきれいなレストランで、節子と食事をしたことがあっただろうか。
こうした場所に、節子を連れて行ったことはあっただろうか。

私は、こうした華やかというか、贅沢というか、そうした場所が不得手でした。
仕事の関係で、会社時代は時々、そうした場所にも行きましたが、まったくと言っていいほど、価値が見出せないのです。
貧乏症なのか貧乏そのものなのか、区別は付け難いですが、節子も私も、そうした場所への関心はありませんでした。
しかし、今から思えば、節子をそうした場所に連れて行かなかったことが悔やまれます。
このレインボーブリッジの夜景を見たら、節子はどんなに喜ぶでしょうか。
節子は私と違い、素直に喜ぶタイプでした。
私は、この夜景に一体なんの意味があるのか、などと憎まれ口をたたいてしまいがちでしたが。

節子は、つつましやかな日常の中に、ちょっとした「ハレ」の場面をつくるのが好きでした。
それを楽しんでいたのです。
お金などなくても、ハレの場はつくれます。
節子から学んだことはたくさんありますが、学んだだけではやはり実践はできません。
あれは節子の天性でした。

私は、いつか思い切り贅沢な体験を節子にさせてやろうと思っていました。
同窓会などで、名前も知らない豪華なお店で奥さんと一緒に食事をした話を同窓生から聞いたりすると、何だか「罪の意識」を感じてしまうことが時々あったからです。
しかし、それを実現させてくれないまま、節子は逝ってしまいました。
それがとても悔やまれます。
苦労ばかりかけて(節子は苦労などとは思っていなかったでしょうが)、節子に一度も贅沢な体験をさせてやれなかった。
夫としての不甲斐なさを反省しています。
節子が何と言おうと、一度くらいは連れていけばよかったです。

■801:「父の死を友人に話せませんでした」(2009年11月11日)
私が取り組んでいる「自殺のない社会づくりネットワーク」を知って、「自殺」に関する話を聞きたいと大学生の若者がやってきました。
卒論のための取材です。
もちろん初対面です。

実は2年前に父が病気で亡くなりました、と彼は話し出しました。
51歳だったそうです。
それが「生と死」への関心を高めた契機だったそうです。
自分は「自殺」など思ったこともありませんと彼はつづけました。
そういうやりとりで、すっかり心が開かれました。
私も同じ頃、女房を見送った、と話しました。
そうなると不思議なことなのですが、同じ世界の人になってしまえるのです。

「父が亡くなったことを友人にしばらく言えませんでした」。
それがなぜかは私にはもちろんわかりませんし、おそらく彼にもわかっていないでしょう。
もちろん「なぜ言えなかったのか、あるいは言わなかったのか」を、彼は説明してくれましたが、それは所詮は説明でしかありません。
私自身の体験から、その説明は嘘ではないですが、十分な理由でもないような気がします。
つまり本人もわからずに「言えなかった」のです。
私自身の体験から、そんな気がしてなりません。
それに、理由などわかる必要もありません。

大事な人を失うと「素直」でなくなるよね、と私は言いました。
彼は否定しませんでした。

彼の祖父母はまだ健在です。
息子が先に逝ってしまったことを祖父母はとても悲しんだようです。
その哀しさや辛さがわかります。
わずかに数歳しか年上でないにもかかわらず、自分より若い節子を見送ることはほんとうに思ってもいないことでした。
ましてや、子供が先に行ってしまうことの悲しさや辛さはいかばかりでしょうか。
最近、やっとそういうことにも私自身、思いを馳せることができるようになりました。
人はやはり年齢の順番に彼岸に旅立っていくのがいいです。
それはみんなある意味で覚悟ができているはずですから。

節子は62歳で彼岸に旅立ちました。
彼の父親は51歳。
あまりにも若いです。

彼のために何かできることはないか、考えてみましたが、思い当りません。
節子だったら何というでしょうか。

■802:我孫子は冬になりました(2009年11月12日)
節子
我孫子は冬になりました。
今日の空は間違いなく冬空です。
寒くなりました。

節子も知っているように、私は四季のすべてが好きでした。
夏には夏の、冬には冬の魅力があったからです。
節子もそうでした。

今日は自宅で過ごしています。
節子がいなくなったせいか、時々、息切れるのです。
時々、自宅でゆっくりしないと心身の整理がつかなくなってきたのです。
節子がいた頃はこんなことはまったくありませんでした。
思い切り走っていても、節子が私のペースメーカーの役割を果たしていてくれました。
それに時折、節子に埋没したくなったりして、立ち止まることができたのです。
今は、それがなくなりましたから、走り出すととまらないのです。
心配してくれる人もいますが、節子の声には耳を傾けられますが、ほかの人の声にはあまり聴く耳をもてません。
一般論だからです。
伴侶は、相手と生活を共にしながら、一般論ではない注意をしてくれるのです。
それができるのは、生活を共にし、世界を共にしていればこそです。

私は、一般論の嫌いな人間です。
一般論としての正論には無意識に心身が反発してしまうのです。
一言でいえば、「性格が悪い」のでしょう。
それは、このブログの時評編を読んでくださっている方には伝わっているかもしれません。
その性格は悪かろうと良かろうと、直しようがありません。

私たち夫婦は、お互いに相手のことを「性格が悪い」と指摘しあっていましたが、実はお互いに相手の性格にほれ込んでいたのです。
性格は見方によって、悪くも良くも見えるものです。

さて冬空です。
冬空を見ているとなぜかとても哀しくなります。
でも時々、雲の間から太陽がわずかばかり顔を出します。
雲が重く重なっている合間から一瞬、陽光がさす瞬間は心が動きます。
冬空も、見方によっては暗くも明るくも見えるものです。

しかし、こういう風景が節子はとても好きだったなと思い出したりすると、ますます哀しくなります。
困ったものです。
自宅でゆっくりしてしまうよりも、息切れても、やはり走り続けているのがいいのかもしれません。
まだ、自分の生き方のリズムがつかめません。

やはりちょっと出かけてこようと思います。
どこに行くか、それが問題ではありますが。

■803:「新しい時間」(2009年11月13日)
挽歌799に masa さんからこんなコメントをもらいました。

私も仏門に入る、出家をするという選択肢があるんだなあと思ったことがあります。
主人のことを偲んで、主人の霊が安らかであることを祈る日々・・・
それで十分だと思いました。今もほとんどそれに近い毎日です。

でも、先日主人の写真に向かって話している内容が「主人と共有していた時間とは違う新しい時間」だということに気がつき、そうなのか・・何も出来ないって思ってたけど「何かしら」が動いているんだなあと思いました。

この挽歌には、時々、コメントが投稿されるほか、直接、メールが来ることがあります。
時には直接会いに来てくれる方もいます。

masa さんは以前もコメントを下さった方ですが、まだお会いしたことはありません。
その人の顔が見えていると、文章の意味も読み解きやすいのですが、そうでないと文章を読み解くのはとても難しいです。

コメントの前半はいいとして、後半の「主人と共有していた時間とは違う新しい時間」という言葉が気になりました。
もちろんmasa さんのことではなく、私自身はどうだろうかということが気になったという意味です。
「節子と共有していた時間」と「今の時間」。
そんなこと、どうでもいいだろうと思われるでしょうが、愛する人を失った者にとってはそれなりに気になることなのです。
このコメントをもらってからもう4日ほど経過しますが、そのコメントに返事は書けずにいます。

masa さんはまた、「何かしらが動いている」と書いています。
これも気になった言葉です。
私も同感なのですが、それが何なのか、よくわかりません。
時間などいくらたっても、この気持ちは風化などしない、という確信は全く変わっていません。
節子への愛おしさや、その不在の哀しさは高まりこそすれ、弱まりはしません。
しかし、どこかで何かが変わっているような気が、たしかにするのです。
もしそうであれば、それが「新しい時間」なのでしょうか。

「新しい時間」はいうまでもなく「新しい世界」につながります。
「そんなはずはない」と思うのですが、「そうかもしれない」と思う気持ちもあります。
節子がいたら、この難問を解くヒントをくれるのでしょうが。

もう少し考えてみたいと思います。
まあ、愛する人を失うと、こんな問題についつい引き込まれてしまうのです。
困ったものです。

■804:「死は決して不幸な出来事ではない」(2009年11月14日)
節子
北九州市の佐久間さんが「涙は世界で一番小さな海」という本を書きました。
佐久間さんは、節子のことを心配してくれたばかりではなく、節子がいなくなった後の私のことも心配してくれている友人です。
この本に関しては、私のホームページ(CWSコモンズ)のブックのコーナーで紹介させてもらいましたが、その冒頭に、「その海は、もしかしたら世界で一番深い海」かもしれない、と書かせてもらいました。
これは、節子を送った後の、私の実感です。
その海の底は彼岸に届いているからです。

それに関しては別に書きたいと思いますが、今日の話題は、その涙の海の話ではありません。
ホームページにも書いたのですが、その本のなかで佐久間さんは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことがとても気になっていると書いています。
いわれて見ると、私も節子を見送るまでは、全く抵抗なく、そういう言葉を使っていました。

佐久間さんはこう書いています。

わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。
いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。
その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
(中略)
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間に将来必ず不幸になるからです。
死はけっして不幸な出来事ではありません。

「死はけっして不幸な出来事ではない」。
1年前までであれば、たぶん私は受け容れられなかったでしょう。
しかしいまは素直に心に入ってきます。

「死」が「不幸」という場合、その不幸は「死者の不幸」か、「残されたものの不幸」か、があります。
両者は必ずしも同じではありません。
それに、一方の不幸が他方の幸福という関係もないとは言えません。

節子を見送った当初、節子が不憫でした。
節子の不幸を感じたのです。
しかし次第に、不幸なのは自分ではないかと思うようになりました。
残されたものの惨めさは体験したものでなければわからないでしょう。
でもそのうちに、不幸さという感じはなくなってきました。
さびしさや哀しさはあるのですが、それはどうも「不幸」とは違うのです。
それに、節子や自分を不幸と思えば、ますます気分が沈んでしまいます。
別れてもなお、これほど愛しつづけられる伴侶を持てたことが、不幸のはずはありません。
その幸せが思っていたよりも少しだけ早く断ち切られたにしても、それを不服に思うのはぜいたくだと言うべきでしょう。

さらにいえば、最近、死というものへの不安やおそれが全くなくなっている自分にも気づきだしています。
「死はけっして不幸な出来事ではない」。
佐久間さんの言葉に、さまざまな思いが去来しました。
なぜか今日は涙は出ませんでしたが。

■805:涙は世界で一番深い海(2009年11月15日)
昨日、「涙は世界で一番小さな海」の本を話題にしましたが、今日はその「小さな海」の話です。
昨日も書いたように、私にはその海は小さいけれど、「世界で一番深い海」のように思います。
その海の底は彼岸に届いているから、と昨日は書きました。

小学校の3年の時の学芸会で、私は「泣いた赤鬼」の赤鬼の役をもらいました。
戦争のために新潟県柏崎市に疎開していたのですが、そこで3年まで過ごしましたが、その最後の思い出の一つです。
舞台で最後に赤鬼がモノローグする場面があります。
その時、私は本当に涙が出てきてしまいました。
見ると最前列のおばあさんも泣いていました。
自分が本当に泣いてしまったことがとても恥ずかしくて、それ以来、誰かの役を演ずることができなくなってしまいました。
人の口調を真似ることさえできなくなってしまったのです。

私の涙はよくでます。
節子の前で涙を出したことも少なくありません。
節子は私の涙のことを良く知っています。
もちろん私も節子の涙はたくさん見ています。

テレビを見ていて、私たちはよく涙しました。
最初はお互いに気づかれないように涙をさりげなく隠していましたが、次第にその涙も共有できるようになりました。
私たちの涙はつながったのです。
テレビを見ている私たちの涙を見て、娘たちはよくからかったものです。
たしかになんでこんな場面で涙が出るのか自分でもおかしいと思うこともありました。
その意味をわかってくれるのは、節子だけでした。
そしてその節子がいなくなりました。

節子がいなくなって涙はますます出るようになりました。
一人で節子の写真をみていると、ただそれだけで涙が出てくるのです。
いまもそうです。
涙でパソコンの画面がにじんでいます。

みっともないという思いも、私のどこかにまだあります。
女々しいと笑う人もいます。
思い切り泣けばいいといわれたこともあります。
しかし、思い切り泣きたくなどはないのです。
女々しいと笑われたくもありません。
みっともないことはしたくないという見栄もあります。
でも、涙はそんなこととは無縁に、出てくるのです。

なぜでしょうか。
以前書いたように、悲しくもないのに突然に涙が出てきて、その結果、悲しくなることもあるのです。
私がコントロールできるわけではないのです。
涙がどこから湧いてくるのか、私には見えないのです。
時々、これは彼岸から湧き出てくる節子の涙なのだと思うことがあります。
節子が私をつかって涙しているのだと感ずるのです。

アンデルセンは「涙は世界で一番小さな海」といったそうですが、私も涙の湧き出てくる海の深さや広さを感じます。
思い切り泣いたので涙が枯れたと思った人もいるでしょう。
しかし涙の海は枯れるほど浅くはないのです。
きっとその人はいまもまた涙していることでしょう。

枯れることのない泉。
それが涙なのかもしれません。

■806:やはり現実にはおろおろしてしまいます(2009年11月16日)
この数日、死についてえらそうなことを書いてきました。
昨日の挽歌を書き終えた時には、今度は「死への恐怖が全くなくなっています」というタイトルで書こうと思っていました。

ところが、その数時間後、電話がありました。
娘が出ましたが、訃報でした。
節子の見舞いにも来てくださったUさんが亡くなったのだそうです。
Uさんの実家(わが家の近くです)でUさんのお母さんの世話をしているお手伝いさんの小野寺さんが、泣きながら電話してきたのです。
小野寺さんは、その悲しい話をだれにも話す相手がいないため、ささやかに付き合いのあるわが家に電話してきたのです。

衝撃を受けました。
最近少し元気になってきて、自分で料理もつくれるようになったという話を聞いていたからです。
Uさんは我孫子ではなく、少し離れたところに住んでいます。
節子よりも少し後に、やはりがんが発見されました。
胃がんではなかったので食事もでき、見た感じは元気でしたが、かなり病巣は広がっていたのです。
節子が自宅でかなり病状を悪化させてしまってからも、一度、見舞いに来てくれました。
同じ病気なので、2人でがんばろうと誓い合っていた姿を思い出します。
節子が逝ってしまった後、庭に献花に来てくれましたが、その時は私が少しおかしくなっていて、どこのだれかがうまく思い出せずに、節子との別れ際の話をしてしまいました。
その頃、私は無性に誰かに節子のがんばりを話したかったのです。
後で娘から同じ闘病をしているUさんだと聞かされました。
とても後悔しました。
もっと元気が出る話をすればよかった、そう思ったのです。
言いかえれば、その頃のUさんは、とても元気だったのです。
でも聞きたくない話だったでしょう。

Uさんは節子より少し若いはずですから、節子と同じ長さの人生だったのかもしれません。
あの元気なUさんも、と思うと、心が痛みます。
むすめたちに、自分よりも年下の人の訃報はとてもつらいものだよ、と話しましたが、人はやはり年齢の順に旅立つのが心やすまります。

頭ではいろいろとわかっていても、実際に近くに人の死が起こると、やはり「おろおろ」してしまいます。
そして、なぜか宮沢賢治の「雨にもまけず」の一節を思い出しました。

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしは なりたい

おろおろと生きる。
もしかしたら、私は少し無理をして生きているのかもしれません。
もっと「おろおろ」していいのではないか。
そんな気が急にしてきました。

おかしな話ですが、涙がとまりません。
なぜでしょうか。

たぶん全く知り合いのいない我孫子にやってきた小野寺さんが、最初に心を開いて知り合ったのが節子だったと思います。
節子が元気だったらどうするでしょうか。
節子は本当にこころやさしい人でした。
その節子が、私に涙を出させているのかもしれません。
涙とは本当に不思議なものです。
魂そのものではないかという気さえします。

■807:「知っていること」と「わかること」(2009年11月17日)
小学校の同級生たちと久しぶりに会いました。
その一人は、私が節子を見送ったのと同じ頃、娘さんを見送りました。
そのために元気がなくなっていると彼と親しい仲間から聞いていました。
その話を聞いてからずっと気になっていました。
私は彼とはそう親しかったわけではありません。が、気になって一度電話をしてみました。
しかし、なんとなく迷惑そうな雰囲気を感じて、電話を切りました。
その気分もよくわかるような気がしたからです。

昨日、彼と話していて、私が妻を見送ったことに彼は気づいていないことを知りました。
間違いなく知っているはずなのですが、意識されていなかったというべきかもしれません。
かなり話してから、彼がぽつんといいました。
奥さんを亡くしたのか、と。
「知っていること」と「わかること」とは違うのだということを改めて気づかされました。
おそらく私も同じようなことをやっているのでしょう。
節子を見送ってから1年は、何かを「知った」としても、消化できずにいたことがたくさんあるはずです。
いろいろな「失礼」があったかもしれません。
しかし、愛する人を失った衝撃は、心身にそれほどの混乱を引き起こすのです。
知性では全く理解できないでしょうが、私の体験から、それは間違いないことです。

私と違って、彼は娘さんを亡くしました。
私が陥った混乱よりも大きかったようです。
奥さんがいるのだから、2人で取り組めるではないか、と私は思いますが、そう簡単なものではないのでしょう。
まだ混乱のさなかにいます。
それで彼と親しい仲間が、私と引き合わせたのかもしれません。
私の友人たちは、みんなお節介屋なのです。
もちろん彼らは私のこともとても気遣ってくれています。
それは痛いほどよくわかります。

彼と心が通じたのは、私が妻を見送ったことに彼が気づいた瞬間です。
そんな気がします。
彼の悩んでいる問題も少し理解できました。
それは他人事の問題ではなく、私の問題でもあります。
愛する人を失うと、人生は一変してしまいます。
その変化を過剰に感じてしまうのです。
最近、その理由が少しずつわかってきたような気もします。

少しずつこの挽歌でも書いてみようかと思い出しています。

節子
今日は冷たい雨の1日です。

■808:「価値をおく理由があるような生」(2009年11月18日)
しばらく「死」について書いてきたので、少し「生」について書きます。

新しい視点で厚生経済学に大きな影響を与えているインドの経済学者アマルティア・センは、自由とは、「本人が価値をおくような生、価値をおく理由があるような生を生きられる」こと、と言っています。
この捉え方は、従来の発想での「自由」とはまったく別のものです。
この定義に出会った時、私は感動したものです。
しかしよくよく考えてみると、これはとても意味深い定義です。
簡単にわかったような気になってはいけないと、だんだん気づいてきました。
難しいのは「価値」という言葉です。
「価値」という言葉は学生の頃から私を悩ましていた言葉なのです。
でも、今回はあまりこだわらずに、書くことにします。

節子がまだ元気だった頃、私は「人は何のために生きるか」ではなく「誰のために生きるか」が大切だと書いたことがあります。
当時、人生の意味を問われたら、私は躊躇なく即座に「節子がいるから」と答えたでしょう。
節子が、私の人生に意味を与えてくれていたからです。

言い方を変えれば、「節子が価値をおくような生」こそが、「私が価値をおく生」だったのです。
ですから、もし節子がいなくなったら、私はとても生きてはいけないと思っていました。
人生に意味づけしてくれていた節子がいなくなったのであれば、もう生きる意味もありません。
事実、節子がいなくなってから1年は、私はあまり「生の実感」がありませんでした。
節子がいない人生は、私にはとうてい価値があるとは思えなかったのです。
センの言葉を借りれば、私から自由は奪われ、翼を失った鳥のように、ただ生きていたのです。

いまはどうでしょうか。
私は自由でしょうか。
実は、とても自由な気分なのです。
節子がいなくなったからではありません。
節子が与えてくれた人生の意味は、いまなお健在だと思えるようになってきたからです。

センの自由の定義は、私の言葉で言いかえれば、「自分を素直に生きているかどうか」です。
私の「自由な生き方」に心底共感し、共有してくれていたのが節子です。
ですから私にはお金も名声も、評判も残すべきものも全く不要でした。
すべては節子がわかっていてくれたからです。

他の人は、なかなか私をわかってはくれません。
それはそうでしょう。
人は他者を決してわかりようがないのです。

節子はいまなお私の人生に意味を与え続けている。
最近そういう気がしてきたのです。
さらに、もしかしたら、私の生き方を、理解してもらえないまでも少しだけ共感してくれる人がではじめたということも感じ出しています。
今の生き方でいいんだよ、という他者の眼差しをこの頃、なんとなく実感するのです。

だから、節子がいない今も、私は自由に生きられるようになってきたのです。
もう少し、私自身が納得できる生をつづけられそうです。
節子からのエンパワーを、今も時々感じます。

■809:生命的世界の一体性と個体性(2009年11月19日)
人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。

これは、内山節さんの「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本に出てくる一節です。
内山さんは、半分を群馬の上野村で過ごす哲学者ですが、その生活の中からの生命観はとても共感できます。

内山さんは、生命というものを個体性によってとらえるのは近代西欧の発想だと言います。
日本の伝統的な村のなかで生きた人々には、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。
個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないか、と内山さんは言うのです。
私もそんな気がしていましたが、節子を見送った後、それは確信に変わりました。

内山さんはこう書いています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

木はその一本一本が個体性をもった生命である。だから木の誕生もあるし、木の死もある。しかしその木は、もう一方において、森という全体の生命のなかの木なのである。しかも森の木は、周囲の木を切られて一本にされてしまうと、多くの場合は個体的生命を維持することもむずかしくなるし、たとえ維持できたとしても木のかたちが変わってしまうほどに、大きな苦労を強いられる。
森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。

伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界のなかにいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。人間は結び合った生命世界のなかにいる、それと切り離すことのできない個体であった。

節子の後を追いたいという気持ちが、私に出てこなかったのは、生命は自分のものではないという強い確信があったからです。
そして最近、改めて思うのは、「結び合った生命世界のなか」に生きている限り、決して終わることはないということです。
こういう思いを持つと、死への恐怖は、不思議なほどに全くなくなります。

今から思い出すと不思議なのですが、節子を送った翌日、実はそういうことを実感したのです。
告別式での挨拶でも言及しましたが、葬儀に来てくださったみなさんたちの中に、節子を感じたのです。
そのことが、この挽歌を書く気になった理由でもあります。

その意味が、最近、やっと理解できました。
当時はそう感じていただけなのですが。

■810:「またひとつ、修との思い出ができた」(2009年11月20日)
また熊谷のヘリテージホテルに合宿できています。
ホテルの部屋から見える浅間や妙義の山波、ライトアップされた庭園。
節子はここには来たことはないのですが、窓から見ているとなぜか一緒に見ていたことがあるような気がしてきます。

「またひとつ、修との思い出ができた」
節子と一緒に旅行に行って、とても感動的な景色を見たり楽しい体験に出会うと、時々節子はそういいました。
その時はただ、そうだね、と答えていたのですが、最近その意味が少しわかってきた気がします。
節子はそうやって、私に自分を移していっていたのです。
もちろん同時に、私は節子に自分を移していたのでしょう。
生活を共にし、苦楽を共にするということは、そういうことなのだと、最近思えるようになったのです。

利己的な遺伝子という話があります。
生命体は遺伝子の乗り物でしかない、という考え方です。
遺伝子を魂と読み替えれば、節子の心身も私の心身も「乗り物」なのかもしれません。
私たちの魂はお互いに、乗り物をシェアしだしていたのです。
先に逝く魂は、そうして自らの一部をほかの乗り物に残していく。
そうやって、魂はつながっているのかもしれません。

個体を意識することによって、人間は「死」の観念を発見しましたが、
生命をそうしたつながりで捉えれば、死といい観念は、そもそも発生しないのです。
死がなければ生もないのかもしれません。
「永遠の生」という言葉はありますが、永遠であれば、それはあえて言葉などにする必要はないでしょう。
間違いなく、人は生まれ死んでいきます。
しかしそれは、頭の髪の毛が抜け落ちていくのと同じなのかもしれません。
そう考えると、生も死も、そう大きな違いはないのかもしれません。

それに、節子がいなくなったときに感じた、半身を削がれた感じも納得できます。
最近、気づいてみると節子と同じような言動をしている理由もうなづけます。
いま見ている山波を、節子と一緒に見ている気持ちも、まさに一緒に見ているからなのかもしれません。

なにを「たわごと」をと思うかもしれません。
しかし、そんな「たわごと」がとても実感できるのです。
節子の魂は今私の心身に一緒にいるとしたら、もしかしたら、今なお節子との共体験を重ねているのかもしれません。

先日、コメントくださったmasaさんが、私の戸惑いにアドバイスしてくれましたが、それも納得しながらも、こんな思いも強まっているのです。

■811:「意識を生みだすもの」(2009年11月21日)
昨日の魂の話の続きです。

ショーペンハウエルは、「死とともに意識はたしかに消滅してしまうのである。これに反して、それまで意識を生み出してきていたところのそのものは決して消滅することはない」と書いているそうです。
このことを自著『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』で紹介している内山節さんは、「「意識」と「意識を生みだすもの」という概念を設定することによって、この「意識を生みだすもの」に仮託するかたちで、人間の根源的な生命のあり様を語らせている」と書いています。

「意識を生みだすもの」。
鈴木大拙はそれを「霊性」といいましたが、それは一般的には「魂」とか「霊」という言葉に仮託されていると内山さんはいいます。
霊などというと何か怪しいもののように感じますが、それこそ私たちが陥っている「近代の罠」なのです。
見えるものしか見ない、見えるものにしか立脚しない生き方が、何をもたらしたかは、少し考えてみればわかることです。
星の王子さまも、「大切なものは目に見えない」と話しています。
私たちが生きている世界には、見えないもののほうが圧倒的に多いのです。
それに気づけば、自らの生き方もずっと豊かになるでしょう。
いま私たちに必要なのは、霊とか魂への気づきではないかと思います。

節子の声を感ずることがあります。
耳ではなく、身体で、です。
その声は、私の心身の内から聞こえてきます。
私の心身を突き抜けていくと、もしかたら魂に届き、そこに彼岸が広がっているのかもしれません。
彼岸はたくさんの魂の集合であり、それを通して、すべての生命体がつながっている。
時に辛いこともある、時に悲しいこともある、そして時には死ぬこともある。
しかし、それらはすべて生命現象のひとつでしかないのです、
そう考えると、生きることがとても平安になります。

現代人は霊性を軽視しすぎです。
科学主義による小賢しい知が、世界を覆っていますが、もっと大きな知を受け入れれば、もっと豊かな生に出会えるかもしれません。
節子は、私にそういうことを教えてくれているのかもしれません。

■812:「山川草木悉皆節子」(2009年11月22日)
「山川草木悉皆仏性」という言葉があります。
草木のみならず、山や川にも「魂」(霊性)があるというわけです。
これは日本独特の発想です。
生命体でない山にまで生命があるのです。

学生の頃読んで目からうろこがおちた小説があります。
ソ連のSF作家のアンソロジー短編集のなかの一編でした。
岩が主体的に動いている話です。
生命体の時間軸では認識できないほどの時間をかけて動いているという話だったと思います。
考えてみれば、もしかしたら地球もそうかもしれない。
私の常識はそこで吹っ飛んでしまったわけです。
その数十年後になって、地球は生きているというガイア仮説が出てきましたが、もうそのずっと前に岩が生きているという洗礼を受けていたので、私には退屈な仮説でしかありませんでした。

そのアンソロジーには、もう一つ今でも覚えている作品がありました。
地中を飛ぶ鳥の話です。
これも私には驚きでした。
鳥が空気中しか飛べないなどという馬鹿げた知識しか教えない学校教育に従順に染まっていた自分を反省させられました。
以来、近代科学の知には懐疑的なのです。
小さな科学の虜にはなりたくないからです。

理屈っぽいことを長々と書いてしまいました。
しかし不思議なことに、こういう話には節子はとても興味を持ちました。
私が得意になって話すので合わせてくれたのかもしれませんが、どこか直感的に受け容れてくれるところがありました。
節子はまだ、キツネにだまされる人がいた時代に育ったからかもしれません。
節子のお母さんは、まさにその世界に生きた人でした。
信心深い門徒でした。
節子は近代志向の人でしたが、やはりどこかにそうした育ちの世界を背負っていたのです。

魂や霊の世界は、私には論理の世界でした。
節子とは正反対の方向から入っていったのです。
節子はその世界を感じ、私はその世界を理解したかったのです。
ですからいうまでもありませんが、私のはにせものでした。
私には彼岸が見えなかったのです。
私が彼岸を実感しだしたのは、節子を見送ってからです。
左脳は右脳にはとうてい勝てません。

節子はいま、どこにいるのでしょうか。
「山川草木悉皆節子」
もしかしたら、あらゆるところに節子はいるのかもしれません。
私を見守るために。

■813:いくつになっても旅に出る理由がある(2009年11月23日)
節子
昨日、テレビで12月5日に公開される「カールじいさんの空飛ぶ家」の予告を見ました。
ディズニー映画です。
最初の画面に、「これは、あなたの物語」というコピーが出てきました。
そのコピーにひきこまれて、ついつい予告編を見てしまいました。
見ている途中でいやな予感がしたのですが、1分足らずの短い予告編でしたので躊躇しているうちに最後までいってしまいました。

予告編の途中にこんなコピーが出てきます、
「いくつになっても旅に出る理由がある」
その言葉がいやな予感をもたらしたのですが、まさに予感はあたってしまいました。

「旅に出る理由がある」
もうわかった方もいるでしょう。

今は78歳のじいさんになったカールには、愛する妻と結婚した時に約束したことがあったようです。
写真で見た「伝説の滝」に連れて行く約束です。
しかし、その約束を実現できないままに、妻を見送ってしまうことになったのです、
そこで、妻との記憶が充満している自分たちの家にたくさんの風船をつけて、家ごと空に旅立ったのです。
その旅の内容は予告編ではわかりませんでしたが、きっと愛する伴侶との旅だったことは十分に推測できます。
そして、おかしな言い方ですが、愛する妻に会いに行ったのです。

愛する妻が死にました。
だから私は旅に出ます。

節子は旅が好きでした。
節子と一緒に行く約束をしていたところがいくつかあります。
遠くもあれば近くもあります。
でも行けなかった。

カールじいさんと同じように、旅にでる理由は、私にもあるのです。
私が旅に出るのはいつでしょうか。
でも、いまはまだ、とても旅に出る気にはなれないのです。

■814:不生不滅(2009年11月24日)
生と死について少し書いてきましたが、最後に「不生不滅」ということについて、今の気持ちを書いておきたいと思います。

毎朝、節子に般若心経をあげています。
そこに出てくるのが
是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
です。
中村元さんの訳によれば、
この世において、存在物はすべて、実体のないことを特質としている。生じたと言えないものであり、滅したとも言えないものであり、汚れたとも言えず、汚れを離れたものでもない。減ることもなく、増すこともない。
つまり、すべては「空」だというわけです。

「空の世界」では二元論はなりたちません。
生も死も、垢も浄も、増も減も、ないのです。
「空の世界」からの写像でしかない現世のさまざまな現象の変化は、ほんの一時の幻像なのです。
ではその幻像の本体はどうなっているのか。
それは、今はまだ知る由はありませんが、知る必要もないのです。

不垢不浄や不増不減は現世の論理でもわかりやすいでしょう。
視点を替えれば、垢は浄に、浄は垢になります。
そう考えると、人はとてもやさしく、寛容になります。
有限の世界で考えると、不増不減もゼロサムゲームの中での見方の違いでしかありません。
法頂のような「無所有」な生き方をしている人には不増不減など当然のことでしょう。

しかし、不生不滅は実感的にはなかなか受け容れがたいところがあります。
執着しないでしようと思っても、やはり執着してしまいます。
増減や垢浄とはちがい、生死は非連続ですから、そう簡単には納得できないのです。
もっとも私自身は、最近、なんとなくその意味がわかってきました。
いえ、わかるというよりも、受け容れられるようになったというのが現実なのですが。
毎朝、般若心経をあげているおかげでしょうか。

「生死即涅槃」という言葉を最近知りました。
生死不二ではなく、生死と涅槃もまた不二だというのです。
ここでいう「生死」は、「不生不滅」とは反対の「煩悩に翻弄されている迷い」の意味です。
それが煩悩を超えた涅槃、覚りの世界とは不二、つまり二つであってしかも二つではないというのです。
生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない、というわけです。
これもなんとなく今の私の気持ちです。

生も死も、そんなにこだわることはありません。
しかし、その時々の生を、素直に自然に受け容れることにはこだわっていきたいと思います。節子との日々の関係が、これまで頭でしか理解できずにいた「不二」ということを実感させてくれたからかもしれません。
涅槃とはとてもいえませんが、それなりに平安な日々を過ごせるのは、そのおかげかもしれません。

■815:野菜便とケアの本質(2009年11月25日)
節子
敦賀からどっさりと野菜が届きました。

そこに節子が好きだった「へしこ」が入っていました。
わが家では節子以外は、「へしこ」のような珍味系の伝統食は苦手なのですが、私が義姉に頼んで送ってもらったのです。
私の中に移ってきた節子が、もしかしたら「へしこ」を食べたいと思っているかもしれないと思ったからです。
奇妙に思うでしょうが、まあそんな考えも生まれてくるのです。
娘に頼んで調理してもらいました。
娘たちはやはりだめでしたが、私は大丈夫でした。
やはり食生活にも変化が起きているのです。

野菜と一緒に、みかんもどっさり入っていました。
義姉の自宅の庭になっているみかんです。
自宅のみかんはすっぱいといって、ほとんど食べていなかった義姉に対して、節子がもったいないといって送ってもらうようになったのです。
いかにも節子らしい話ですが、不思議なもので、最初はすっぱかったみかんも次第に美味しくなりました。
今年のみかんは甘さもあって美味しいです。
みかんもやはり食べてもらう人のためにがんばるのでしょうか。
節子にも供えましたが、節子のおかげでみかんも成長したのです。
みかんほどではないですが、私も節子のおかげで成長していますので、みかんの気持ちはよくわかります。

野菜を送る文化は節子の母親からのものです。
最初の頃、合理主義者の節子は、送料のほうが高いので送らないでもいいよといっていましたが、そのうちに、送ってもらうことが親孝行なのだと気づきだしました。
節子は、それを「野菜便」と称していましたが、母を見送った後、その野菜便が途絶えたのです。
それをさびしく思っている節子に、今度は節子の姉が野菜便を再開してくれたわけです。

「コンラディのケアに関する9つのテーゼ」というのがあります。
その一つが、
「ケアには、思いやることと並んで思いやりを受けることが含まれる」
というものです。
多くの人は、思いやることをケアと考えていますが、思いやりを受けることのほうがケアの本質だろうと私は思っています。
だれでも思いやられるよりも思いやる方がいいに決まっているからです。

まあ、それはそれとして、こうした野菜便事件を通して、私と節子はケアの意味を学んできたのです。
人は一人で学ぶよりも、2人で学ぶほうが、身につくものです。

■816:「自分も死ぬんだと気づきました」(2009年11月26日)
節子
久しぶりに中西さんの六本木の新しいオフィスに行ってきました。
中西さんのオフィスはどこに移っても同じ雰囲気を維持していますので、とても懐かしいのです。
思えば、中西さんとの出会いが私の人生を変えてのかもしれません。

会うなりに、「今年、父母を見送って、初めて自分も死ぬんだと気づきましたよ」と切り出しました。
数年前、中西さんは死に直面するほどの交通事故にあいました。
しかしその時は「死」を一切意識しなかったそうです。
それが両親の死で、初めて自らの死を実感できたというのです。
とてもよくわかるような気がします。
状況は違いますが、私も節子を見送って、初めて「死」を実感しました。
「死」は、自らに関してではなく、愛する人のよって気づかされるのかもしれません。
もしそうであれば、節子は「死」を実感していなかったかもしれません。
そんな気もしないでもありません。
自分の死は生きている時には体験できませんから、実感もできないのかもしれません。
これに関しては、以前も書いたような気がします。

その中西さんが、残り時間でしっかりと残すべきものを残したい、と言うのです。
私からみれば、すでにたくさんの実績と成果を残しているのですが、
しかし残したいのは、たぶんそんなものではないのでしょう。
自らが活動してきたことから学び気づき、創りあげてきたものを、しっかりと後世に残しておきたいのでしょう。
中西さんの場合、その価値は十分にあります。
中西さんは一度たりともぶれずに、日本の企業に関わってきています。
だからこそ、残す価値があるのです。

いま4冊の本を並行して書いているそうです。
そして来週から、新しいビジネススクールを立ち上げるというのです。
その内容を聞いて、思い入れの深さを知りました。
尋常ではない気迫を感じます。
「自分も死ぬんだと気づきました」という言葉の意味がわかったような気がしました。

私も節子を見送って、自らの時間を考えました。
しかしその後の行動は中西さんと全く対極にあります。
残された時間は意識するまいと決めました。
つまり「自らの死」を意識しない生き方をしようと決めたのです。
そしてこれまで以上に、無目的に、わがままに、素直に生きようと決めたのです。
その結果、死との時間距離は無限になりました。
もしかしたら、私の場合は、もうすでに死んでいるのかもしれません。

いや、もしかしたら、と思います。
中西さんも同じかもしれない。
対極にあるように思えて、実は同じなのではないか。
いま、これを書きながら、ふとそんな気がしてきました。
「死」を知ると、みんな同じになるのかもしれません。
別れ際に感じた、あの奇妙なぬくもりは何だったのでしょうか。

節子
みんな歳をとってきています。

■817:京阪電鉄石坂線(2009年11月27日)
節子
滋賀県の大津でさまざまな地域活動に取り組んでいる福井美知子さんから2冊の本が届きました。
「おもわずありがとうといいたくなった大津のちょっとええ話」と「電車と青春+初恋」の2冊です。
いずれも福井さんが主宰していたグループの活動の成果です。
2冊の本が生まれた場は、いずれも京阪電車です。
といっても、ほとんどの人には聞いたこともない名前でしょう。
でも私たちにとっては、実に懐かしい名前です。

私たちが一緒に暮らし始めたのは、滋賀県大津市の石山です。
紫式部が源氏物語の構想を練ったという石山寺や壬申の乱の最後の決戦場となったとされている瀬田の唐橋が近くにあります。
とてもいいところです。
そこから京都に出るのに一番便利なのが京阪電車なのです。
石山寺から大津を通って、京都の三条まで出るのに、私たちはよくこの京阪電車を使いました。
節子と一緒に何回乗ったことでしょう。
いつも話に夢中で、外の景色はあまり記憶がありません。

2冊の本にはいずれも、その京阪電車の写真が最初に出てくるのです。
内容もさることながら、その写真を見ていると、節子とまだ一緒になる前のことを思い出しました。
当時、節子はまだ人を愛するなどということさえも知らない幼子だったような気がします。
まじめだけがとりえの節子に、私が惚れてしまったのが始まりでした。
しかもいささか普通でない惚れ方でした。
節子には大きな戸惑いがあったでしょう。
そして気がついたら同棲してしまっていた。
これが私たちの始まりだったのです。
今のような時代ではなく、しかも東京ではない、人の噂の強い地方での話です。
私たちはいったいどんなふうにみんなには写っていたのでしょうか。
いまから考えると汗が出てしまいます。

結婚して石山に住んでいたのは1年ちょっとでした。
最初は6畳と3畳の借家から始まり、家具も全くない生活でした。
私の貯金は8万円しかありませんでした。
私たちは最初からお金とは無縁な生活だったのです。
冬になっても暖房機もなく、2人で震え上がっていたこともあります。
しかし、その頃の生活は実に幸せで、思い出しただけでも心が温かくなります。
当時、節子は私には「ローマの休日」に出てくるヘップバーンよりも魅力がありました。
生活もおそらくあまり常識的ではなく、夢のような生活でした。
休みの日には、私の好きな奈良や京都を歩きました。

京阪電車の写真は、そんな昔の私たちのことを思い出させてくれました。
大津は私たちにとっては、思い出深い場所なのです。

その本にこんな文章がありました。
「買い物に行くと、いつも主人が重いほうの荷物を持ってくれます」
思わず書いた人の名前を見てしまいました。
50代の女性でした。
節子ではありませんでした。
ちょっと涙が出そうになってしまいました。

福井さん、ありがとうございました。

■818:遺族はすべて同じ(2009年11月28日)
節子
今日は湯島で「自殺のない社会づくりネットワーク」の交流会をやりました。
なんと19人の人たちが集まってくれました。
東尋坊の茂さんも、わざわざ来てくれました。

重いテーマだからこそ、明るく語りたいと私は思っていますが、明るく語ることは結構難しいのです。
私自身も時々重くなってしまいます。
節子とのことを思い出してしまうからです。

死を克服したつもりでも、いざ生々しい話が出てくると、後悔の世界に陥ってしまいます。
節子は自殺ではなく病死でしたが、残されたものにとっては、同じことなのです。
自死遺族だけが特別なのではない、と私は思います。
遺族はすべて同じです。

闘病中の節子にしてやれたことがたくさんありました。
なぜその時、気づかなかったのでしょうか。
みんなの話を聴いていていまさらながら、自分のだめさ加減を思い知らされるのです。
だからこの交流会には参加したくないのですが、逃げるわけにはいきません。
私に課せられた罰なのかもしれません。

できることなら、もう一度、節子と一緒に病魔に立ち向かいたい。
今度は、前のような間違いを犯すことはしない。
そう思っても、それは叶わぬ話です。
人生をやり直せないことが、無性に悔しいです。

今日はちょっと元気が戻ってきません。

■819:「お母さんがいたらなあ」(2009年11月29日)
節子
突然ですが、ジュンが結婚することになりました。

ジュンの後悔は、節子に孫の顔を見せられなかったことです。
節子を見送った後、ジュンはそれをとてもとても悔やんでいました。

私たちの娘たちは2人とも、結婚などとは無縁に過ごしていました。
それが私たちの最大の悩みだったのですが、節子が病気になった後、私たちの関心は娘にまでいかずに、私たちのことだけで精一杯になってしまったのです。
それをいいことに、娘たちは結婚もせずにわが家に居座ってしまっていたのです。
私たちは親としての責任を果たさなかったのです。
言い訳にもなりませんが、娘たちは私たちに似て、とてもわがままに自分の人生を過ごしていました。
まさに親は子どもの鏡です。
私たちが自分の親に対してとっていたのと同じ姿勢の娘たちに、私たちは何もいえなかったのです。
親としては失格でした。

節子を見送った後、それぞれが立ち直りだしてから、ジュンが結婚すると宣言しました。
その取り組み方が、実にまたジュンらしいので、私でさえいささかたじろぎましたが、ジュンは宣言を現実のものにしつつあります。
昔の私自身をみているような気がします。
しかも私たちと同じく、いわゆる結婚式はしないというのです。
時期までもそっくりです。
私たちは、親の強い要望で、結局、結婚式をしましたが、節子がいない今、どうしても結婚式をやれとは私には言えませんでした。

ジュンを見ていると、私たちもまたそれぞれの両親にはこういう風に思われていたのだろうなと思い当たります。
申し訳ないことをしてしまったという思いもあります。
自分がやっていることが、結局は自分にまわってくるのです。

ところで、ジュンは時々、「お母さんがいたら相談に乗ってもらえるのになあ」と言うのです。
私ではだめなのかと言うと、だめなのだそうです。
ジュンは、私への反発がいまなお強いのです。
これも私を見て育ったからですので、自業自得です。
しかし、ジュンの相談に対する節子の答は、私もジュンも知っているのです。
わが家では、誰が何を考え、どう答えるかは、ほぼみんな知っているのです。
にもかかわらず、ジュンは「お母さんがいたらなあ」と言います。
その気持ちが痛いほどよくわかります。

実は私もそう思っているのです。
「節子がいたらなあ」
時々、節子の位牌に向かってこう言っています。
「節子はいいよねえ。何の悩みもなく、彼岸で花の手入れをしていればいいのだから。節子がいないので大変だよ。親らしくしないといけないのだから」
私はどうも「親らしくする」ことができないのです。
最近つくづくそう思います。
節子には良い夫だったかもしれませんが、娘たちには良い親ではないのです。
まあ、それは節子も同じなのですが。


■820:節子はいったいなんだったのだろうか(2009年11月30日)
節子
最近また自己嫌悪に陥りだしています。
まだ精神が安定していないのかもしれません。

まえに「出家」のことを書きました。
私には出家の覚悟も気持ちもないのですが、コメントくださった読者の方と同じく、そんな気分で生きようという思いがあるにもかかわらず、いろいろな人から相談が持ち込まれると、ついついその気になって俗事に関わってしまうことに、なんともいえない「やりきれなさ」を感じることがあるのです。
節子よりも相談に応じることのほうを選んでしまう自分が、なにやら偽善者に思えてしまうといってもいいでしょう。
ほんとうは、節子よりも自分が大事なのではないか。

愛する人に先立たれ、なお生きている自分にも、いささかの嫌悪感があります。
嫌悪感というよりも、なにかそのことがとても奇妙なのです。
節子がいないと生きていけない、などといっていた自分は、いったい何だったのか。

そうした私のことを一番よく理解し、「それでいいのよ」といってくれるはずの節子がいないことで、そうした迷いは解消されることはありません。
節子以外の人から、「それでいいのだ」などと言われると、全く逆効果で、それこそ蹴飛ばしたくさえなるのですから、困ったものです。

節子はいったいなんだったのだろうか、と思うこともあります。
これもなかなかわかってもらえない「問い」だと思いますが、最近、時々そうしたことが気になりだしています。
節子と一緒に暮らしたことが、最近、奇妙に現実感をなくしてきていることもあります。
節子はいったいなんだったのか。
ほんとうに現実だったのだろうか。
親鸞が夢見た如来ではなかったのか。
私に生きる意味を与えてくれるために、私の前に現れた如来。
そんな気さえするのです。

しかし、節子と一緒に暮らした日々を思い出すと、反省だけが思い出されます。
そこに登場するのは、いつも嫌悪したくなるような自分です。
節子を幸せにできなかったという責めからは、どうあがいても抜け出せませんが、その落し穴に落ちてしまうと、なかなか立ち直れません。

特に今日のようにどんよりした日には、心が萎えてきます。
このまま世界が終わってしまえばいいのに、などと思ってしまい、ますます自己嫌悪に陥ってしまうのです。
人を愛するということは、もしかしたら、とても哀しいことなのかもしれません。

しかし、節子はいったい何だったのでしょうか。

■821:輪廻転生と招魂再生(2009年12月1日)
節子
今朝もいつものように、節子の位牌に水を供え、灯明をともし、般若心経をあげました。
般若心経をあげるとき、いつも迷うことがあります。
目線をどこに合わせるかです。
最上段にある大日如来、2段目にある位牌、3段目の遺影。

位牌にこそ節子がいると思いながらも、大体において、私は写真を見ながらのことが多いのです。
やはり笑顔を送ってくれる写真が私をひきつけます。
時々、大日如来にも目を合わせますが、私にとっては、大日如来よりも節子が大事であり、節子に語りかけたいのです。
ですから仏壇というよりも位牌壇というべきかもしれません。

仏は輪廻転生を守ってくれるのに対して、位牌は招魂再生の象徴です。
本来、それらは矛盾するはずですが、日本では自然に並存しています。
私も生命の連続性に共感していますが、同時に輪廻転生も信じています。
全く矛盾しているのですが、まあそこはあまりこだわらないようにしています。
ただ、節子には解脱して成仏してほしくはありません。
成仏するとしても、私が節子を成仏させ、一緒に解脱したいと思っています、
ですから、来世でもまた節子と出会えると思っているわけですが、そのくせ、現世にも呼び戻したいなどと思ってもいるわけです。
魂は彼岸ではなく、此岸にいるという儒教の思想も受け容れているのです。

招魂再生は儒教の教えです。
仏教では魂は彼岸に行き転生しますが、儒教では魂は此岸に残り憑依します、
転生する魂には「個」がありますが、招魂される魂は、連続体としての生命体の一部だと、私は考えています。
大きな生命体の「塊」のようなものであり、どこかでみんなつながっている。
儒教の思想を読んでいると、そんな気がします、
私が儒教に触れたのは下村湖人の「論語物語」でした、
その影響は、少なからず受けたはずですが、なぜか私の生き方の基軸は、親子軸ではなく夫婦軸でした。

生命の連続性を実感できる親子と違って、夫婦はその実感はなかなか得られないはずです。
その夫婦が、生命の連続性や一体性を感ずるのはなぜでしょうか。
生命は、私たちが思っている以上に、大きく壮大な連続体なのかもしれません。

■822:自責の念(2009年12月2日)
節子
昨日、湯島に藤原さんが来ました。
そういえば、先週も懐かしい人が来ました。
Fさんです。

Fさんからのメールです。

唐突ですが、湯島に伺うと必ず御令室様に会えるような気が致します。
お目にかかれない今になって、澄んで奥行きのあるお声がありありと記憶の中から聞こえてきたり、謹み深い微笑みがファーと浮かんできたり致します。
節子様にめぐりあった大勢の人たちも、私と同様に、
節子様から戴いた御恩を想うと、同じ体験をされておられるのだろうと想います・・・・
山ほどの感謝でいっぱいです。

Fさんらしい大仰な書き方ですが、どんなに大仰であろうと、また事実過誤であろうと、私にとってはうれしいことです。

湯島にはいろいろな人たちが集まっていました。
今はもういない人も少なくありませんが、とても不思議な空間でした。
Fさんはとても大変な時期に湯島に来てくださっていたのだと、先週話していて知りました。
Fさんは会社を辞めようかどうするか迷っていたのだそうです。
私に話したら、言うまでもありませんが、「辞めてもどうにかなりますよ」と言ったでしょう。
娘に言わせると、私はともかく無責任なのだそうです。
それもあながち否定はできません。

Fさんが節子にその迷いを話したら、節子は辞めないほうがいいと即座に答えたようです。
節子さんはきっと苦労していたのですよ、とFさんは言いました。
そうでしょうか。
いささか納得できかねますが、まあ、その可能性はないとは言えません。
私が会社を辞めずにいたら、節子はもっと楽をして、病気になどならなかったかもしれません。
最近は、私もかなり気弱で、すぐに反省する傾向があるのです。
「もし・・・だったら、節子は今も元気なのではないか」
そう思うことが多いのです。
自責の念です。

「湯島に伺うと必ず御令室様に会えるような気が致します」
とてもうれしい言葉です。
実は私も時々そんな気がします。

今日こそ会えるかもしれません。

■823:「あなたを忘れない」(2009年12月3日)
「生きた証」を残したい。
そう思っている人が私の周りには何人かいます。
もしかしたら、そういう思いは誰にもあるのかもしれません。

節子も私も、お互いに元気だった頃はそういう思いは浮かびませんでした。
特に私は、生きた証など残して何の意味があるのかと思っていました。
覚えたい人が覚えてくれていたら、それでいいではないか。
何かを残すための人生ではない。
それが私の生き方でした。

私の家族の記憶は、せいぜいが祖父母までですが、一緒に暮らしたことのない祖父母の記憶はほとんどありません。
父母のことははっきりと覚えていますし、今の生活につながっていることもありますが、父母から「自分のことを忘れないでほしい」といわれたこともありません。
父母は平凡な庶民でしたから、私や私の娘の人生とともに、父母の人生も終わるでしょう。
人のいのちや生活は、そうやって消えていく。
それでいいのではないかというのが私の考えです。

しかし、節子が病気になり、そして旅立ってしまってからは、その考えが少し変わりました。
この挽歌でも何回か書きましたが、節子のことを思い出す人が多いといいなと思うようになったのです。
誰かが思い出すことによって、節子は生き返ってくる。
そんな気がしだしたのです。

今は亡き作家の森瑶子さんは、みんなに「私のこと、覚えていてね」と言い遺したそうです。
もっとも、森さんは生前においても、別れ際に「何よりもかなしいのは忘れられた女。だから私のことを忘れないでね」とよく言っていたという話も、何かで読んだ記憶があります。

誰かに覚えてもらうことで、自らの人生は続けられる。
誰かに気にしてもらっているだけで、人生の意味が変わる。
そのことがわかりだしたのは、節子を見送ってからのことです。
しかし、少し理屈っぽくいえば、節子がいる世界こそ私が生きている世界だからなのです。
言い方を替えれば、私が生きていけるようにするために節子を思い出す人がいないといけないのです。

日本ドナー家族くらぶ代表の間澤さんとは最近お会いしていませんが、間澤ご夫妻は臓器提供した娘さんのことが忘れられないことを願っています。
それで、みんなに「あなたを忘れない」と言ってもらうビデオ作品をつくりました。
私も登場させてもらいましたが、その時にはまだ間澤さんのお気持ちをしっかり受け止められていませんでした。
今にして思えば、間澤さんのお気持ちがとてもよくわかります。

「あなたを忘れない」
この言動は、生命の連続性を支える鍵なのかもしれません。

■824:もやもやがたまっています(2009年12月4日)
節子
最近、やはり自分がかなり変わっているのではないかという気がしてきています。
人と話していても、根本的なところで通じ合えないのです。
発想が根本から違うようです。

昨日は5人の人たちが湯島のオフィスに来ましたが、そのうちの2人の人と話していて、奇妙に居心地の悪さを感じたのです。
一人は昔からの知り合い、一人はほぼ初対面の人です。
テーマはいずれも、「社会を変えたい」です。

一人は30歳で起業し、成功を収めた会社経営者です。
60歳になったら企業をやめて社会に役立つ生き方をしようと決めていたそうで、昨年からある勉強会に入り、準備を進めてきたそうです。
そこで、私のことを聞いたのです。
そして、最近、高収益をあげていた企業を社員に引き継いでもらい、これからは個人として、若い人を育てる社会活動をしたいのだといいます。
切り口も決まっています。
それで私のところにやってきてくれたのです。

もう一人は、昔からの知り合いです。
私とは違い、大きな構想で、社会変革に取り組んでいる人です。
新たにあることを起こしたいといって、相談にきました。

実はこういう話が多いのです。
私は資力はもちろん、力もありません。
その上、きわめて怠惰で、自分で共感できないことには全く心身が動かないタイプです。
しかし、なぜかいろんな人が話に来ます。
その理由は、私が社会のためにいろいろと活動をしている人と思われているからです。
たぶん、私のことをそういう風に紹介してくれている人がいるのです。
先日もある人から、外から見るとそう思われても仕方がないといわれました。
私は、単に社会から脱落しているだけなのですが。

このブログの時評編を読んでくれている人にはわかってもらえると思いますが、私は社会のために生きているわけではありません。
社会などという、実体のない概念のために生きるほど、私は器用ではありません。
私は、自分をしっかりと生きているだけです。
もっとも、挽歌を読んでくれている人は、社会どころか自分の伴侶のために人生を無駄にしているだけの人と思われているかもしれません。
まあ、それも正しいかもしれません。

しかし社会が病んでいるという気はしています。
その病んだ社会への私の取り組み方をきちんと理解し共感し、一緒に行動してくれていたのが節子です。

人を理解することは難しいです。
みんなに私の生き方をわかってもらおうなどということは無理な話なのでしょう。
しかし、みんなから誤解されていることは、あまり気持ちがいいものではありません。
節子がいた時は、節子が理解してくれていたので、だれからなんと思われようと気にもなりませんでした。
節子に話すだけで、すっきりできたのです。
でもいまは、すっきりしようがありません。
心身にたくさんの「もやもや」がたまりだしています。
困ったものです。

■825:後ろ髪引かれる気分(2009年12月5日)
節子
今日は新潟に出かけます。
私も縁のあるNPOが主催するシンポジウムに参加するためです。
信濃川にサケを遡上させようというのが、シンポジウムのテーマです。

最近、少しずつ遠出する機会が増えています。
節子が元気だった頃は、一人で遠出することに何の抵抗もなかったのですが、節子がいなくなってからは、なぜか気乗りがしなくなってしまいました。
これは不思議です。
節子がいればこそ、家に節子を残して出張したくない。
節子がいなくなったのだから、家をあけても気にならない。
論理的に考えると、そうなるはずですが、なぜか反対なのです。
まるで節子が自宅にいて、私に家にいてほしいと言っているような気がするのです。
前にも書きましたが、節子がいなくなってからの方が、帰宅時間も早くなりました。

彼岸には時空間がないのであれば、私がどこに行こうが節子は私と一緒のはずですが、どうもそういう気はしないのです。
節子は今も、わが家で私の帰りを待っている。
しかも、その節子を本当に実感しているのは今や私だけ。
その思いからどうしても解放されません。

新潟は私の両親の出身地です。
にもかかわらず、私は節子を一度も新潟に連れていきませんでした。
そのこともとても悔やまれます。
行く機会は何回かありましたが、私自身があまり行きたくなかったのです。
節子のことを気にいってくれていた叔母が小千谷にいますが、そこにも行けませんでした。
節子はもしかしたら行きたかったのかもしれません。
いろんな意味で、節子が逝くのは早すぎました。
やりのこしたことが多すぎます。

節子がいなくなってから、私の在宅時間は大幅に増えました。
なぜ節子が元気だった時に、こういう生活をしなかったのか。
本当に悔やまれます。
今ではもう、いくら在宅していても、節子と一緒に過ごせるわけではないのです。
しかしなぜか自宅にいると節子と一緒にいるような安堵感があるのです。
この感覚はいったい何なのでしょうか。

でも今日は、その節子を置いて新潟に出かけます。
いつものように、大きな声で「いってきます」と節子に言ってから出かけます。
節子は聞いているでしょうか。
見えない節子を残して出かけるのは、本当に寂しいです。

■826:節子の手紙(2009年12月6日)
新潟にいます。
昨夜の集まりは実に刺激的な集まりでした。
それはまたホームページか時評編に書こうと思いますが、夜、ホテルに戻ってモバイルでメールチェックをしたら、思いもかけず節子の昔の手紙のコピーが届いていました。

発信者はNさんです。
こういうメールです。

ところで、私は何時お迎えが来ても良い様にと思いまして「本棚」を整理していましたら
別紙の手紙が出てまいりました。(添付ファイル)
多分奥様からの手紙ではないかと?
何せ、手紙をスキャンさせた文章ですので、判りにくいかと思いますが。
「筆跡」を良く見ていただいて、もし、その様でしたらお返ししたいと思っております。

たしかに節子の文字でした。
節子が闘病中に書いた手紙でした。
文章も節子らしいものです。

その手紙を読んで、いろいろと当時のことが思い出されました。
Nさんの善意には感謝しながらも、心は揺らぎます。
昨日節子は自宅に残っていると書きましたが、どうやらやはり残っているのがいやで、こうやって後を追いかけてくるのかもしれません。
もしかしたら、節子は昨日の挽歌を読んだのかもしれません。
そんな気もします。

そういえば、昨夜、シンポジウムの後の懇親会で久しぶりにあった友人から、毎日ブログを読んでいますといわれました。
私のブログやホームページを読んでいる人は、私以上に私のことを知っていますから、いささか付き合いづらいのですが、節子ももしかしたらこの挽歌をよんでいるのかもしれません。

今日は白鳥を見に行きます。
金田さんがもうじき迎えに来ます。
いま7時過ぎです。
節子も一緒でしょうか。
風邪を引かなければいいのですが。
新潟は風が強く寒いです。

■827:2羽の白鳥(2009年12月7日)
節子
昨日は金田さんの案内で、早朝から新潟の瓢湖に出かけました。
湖面は5000羽の白鳥と数万の鴨で埋め尽くされていました。
白鳥が次々と飛び立つ光景は、ユーモラスであると同時に、元気が伝わってきます。
節子が一緒だったら、どんなに喜んだことでしょうか。

みんなグループを成して飛び立ちます。
家族なのでしょうか。
湖の上を旋回してから、田畑に向かって飛んでいきます。
日中は田畑にいて、夕方になるとまた戻ってくるのだそうです。

時々、2羽だけのグループがいます。
私が見たのはいずれもオオハクチョウでしたが、あるカップルの白鳥たちはなぜか何回も旋回していました。
何気なく見ていたのですが、もしかしたら私にアピールしていたのかもしれません。
写真はうまく撮れずに、遠くを飛んでいるところしか撮れませんでしたが、頭の上を飛んでいく光景は見応えがありました。

朝早かったのですが、事務所の人が特別に餌を分けてくれて、時間前に餌付けするのを許可してくれました。
節子はこういうのが好きだったなあと思い出しながら、餌をまきました。
鴨が重なるように集まってきました。
その光景は実にユーモラスです。
あんなたくさんの鴨の集団は始めてみました。

なんとなく離れがたく、寒い瓢湖に2時間近くもいました。
やはりここには実物の節子と一緒に来たかったです。

■828:友だちと伴侶(2009年12月8日)
二羽の白鳥を読んだ方からメールがきました。

寒い瓢湖に2時間も立ち尽くすというのは、同じ無量感を持てばこそ胸を締め付ける物があります。
此の頃の文面、読むほうも結構しんどいのです。
共感する想いがあればこそです。
お体おいとい下さい。

たしかに最近の挽歌はいささか重いですね。
まあ気分が少し沈んでいるためでしょう。
しかし決して暗く沈んだ生活を送っているわけではないのです。
今日は無理をして、明るい話を。

私は、節子が心配するほど女性にはもてるのです。
たとえば昨日は六本木の花畑牧場カフェで、福山さんに生キャラメルのメロンパンとコーヒーをご馳走になりました。
本当は昼食をご馳走してもらう予定でしたが、私がランチタイムがだめだったのでコーヒーになったのです。
今日のランチは名木さんのサンドウィッチでしたが、その後、小平さんに大岡山の珈琲館でおいしいココアをご馳走になりました。
名前が出てきた3人は、すべて女性です。
もっとも、実際は「おんな友だち」というより、いろんな活動を通して知り合った知人なのですが、知人にしては会う頻度が多いのです。
節子がいたら心配するでしょうか。
しないでしょうね。

節子はよく言っていました。
修もたまには浮気くらいしたらいいのに、と。
しかし残念ながら私には「浮気」という概念がないのです。
節子もそうでしたが、私たちはとても不器用で退屈な性格なのです。
そうした不器用な人から伴侶を取り上げるとは、神様も無情です。

まあそんなわけで、元気に明るく暮らしてはいるのです。
もちろん「おとこ友だち」はもっとずっと多いのです。
しかも、みんな私のことを元気づけようと親切にしてくれます。
おそらく私ほど恵まれた人は、そうはいないでしょう。
神様は「友だち」と「伴侶」の両方が私を取り囲んでいるに嫉妬したのでしょうか。
できることなら、全ての友だちよりも、たった一人の節子のほうを残してほしかったです。
1000人の友だちよりも、一人の節子のほうが、私を元気にしてくれるのですから。

今日の記事は、友だちには読ませたくないですね。
特に、名前の出てきた3人は読まないようにしてください。
はい。

■829:悲しみの先にも平安はあるのでしょうか(2009年12月9日)
「深い苦しみほどわれわれを気高くするものはない」
と言ったミュッセという人に興味を持って、ネットで少し調べてみました。

アルフレッド・ド・ミュッセ。
19世紀前半を生きた、フランスのロマン主義の作家でした。
ウィキペディアによれば、「その詩はうわべの抒情、表面的な憂愁に満ちていて、ロマン主義のもっとも軽薄な部分が出ていると言える」とあります。
あんまり評判は良くないようです。

少し訳し方の違う文章に出会いました。

「苦悩こそが人生の真の姿である。われわれの最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の追憶にほかならない。」

同じ文章の訳でしょうか。だいぶニュアンスは違います。

時評編で新潟水俣病に取り組んだ北野さんのことを書きましたが、北野さんの人生を決めたのはハンセン病の人との出会いでした。
ミュッセが言っているのは、他者の苦しみではなく自らの苦しみでしょうが、他者の苦しみを自らのものとする時ほど、苦しみの深さが続くことはありません。
自らの苦しみは時間と共に順応できますが、他者のそれは記憶の中で増幅される一方だからです。

節子の苦しさを時々思い出します。
本人ではないのですべてわかるわけではないのですが、だからこそ思い出すたびにその苦しさに私が的確に対応していたかどうか後悔するのです。
後悔は私自身の苦しみと悲しみに変わります。
とても不安な気持ちが全身を覆いだし、頭が混乱しだし、結局は突然夢から覚めたように一瞬にして思考放棄することで平安を回復します。
残るのは節子への懺悔の気持ちと節子を抱きしめたい気持ちです。

その苦しさから、私は気高さを得たでしょうか。
残念ながらまだとしかいえません。
深さが足りないのかもしれません。
ただ、視野の広がりは得られたような気がします。

苦しさや悲しさを体験すると、世界がよく見えるようになります。
人の心が見えてくるのです。
それがまた、別の苦しさや悲しさを生み出します。
人はそうやって気高くなっていくのでしょうか。
「気高い」とは「平安に」ということだろうと、私は考えているのですが。

苦しみの先に喜びと慰めがあるのであれば、苦しみには救いがあります。
悲しみの先にも喜びと慰めがあるのでしょうか。
せめて「平安」だけはあってほしいと思っています。

■830:かけがえのない節子がいなくなるはずがない(2009年12月10日)
わが家の自動車のトランクになぜか荷物がたくさん積まれています。
むすめたちが整理してくれました。
出てきたのは、カンパンの缶詰と水のボトルとラジオなど、非常時のセットでした。
もちろん用意していたのは節子です。
テレビで阪神大震災の被災者の人が、自動車に積んでいたおかげで家屋崩壊しても大丈夫だったと話していたのを訊いて、すぐに節子が自動車に積み込んだのだそうです。
娘のユカから教えてもらいました。
したがってもう3年以上前のものです。

節子は、こういうことにかけては動きが早かったのです。
テレビやラジオで共感する話を聞くと、すぐにそれを自分の生活やわが家に持ち込みました。
わが家の文化は、節子が持ち込んだものが多いのです。
もっとも、節子は私と同じですぐ忘れたり、宗旨替えをしたりしますので、まあ自動車の非常食セットも用意した後は忘れてしまっていたはずです。
案の定、ポータブルラジオは電池が切れていてなりませんでした。
まあいかにも節子らしいです。
しかし、そういうように抜けているところが、私はとても好きでした。
まああまりにも抜けていて、時に喧嘩になることもありましたが、喧嘩があればこそ愛し合えたのです。

娘たちがカンパンの缶詰を位牌に供えました。
親が親なら子どもも子どもです。

自動車のトランクには、温泉セットも入っていました。
ドライブの途中で温泉に入りたくなったらすぐに入れるようにということですが、これは2回ほど役立ったことがありました。
真鶴と大洗です。
その時のことがはっきりと思い出されます。

節子の使っていた家具の中などは実はまだあまり整理していないのです。
中から何が出てくるかわかりませんが、できることならそのまま保存しておきたいという気持ちが、私のどこかにあるのです。
ですから自動車の中も娘たちが整理するまでは放置していたわけです。

しかしこうやって何かを整理すると、必ず節子の痕跡が出てきます。
それが私には節子からのメッセージのように感じられます。
ちょっとした痕跡の中に、節子のすべてを感じるのです。
だからどうしてもまだ節子が此岸にいるような気がしてならないのです。

いまも隣の部屋にいるような気がしてなりません。
節子。私にとってはかけがえのない人でした。
その人がいなくなるはずがない。
今でも時折そう思います。

■831:人を愛することは辛いことを背負うこと(2009年12月11日)
節子
12月になり、我孫子駅前の花壇にイルミネーションがつきました。
その点滅を見るたびに、やはり節子を思い出します。
花かご会の人たちがいまも花壇の手入れをよくしてくれています。

わが家の周辺でもイルミネーションがつきだしました。
節子がいたら、わが家ももうきっとイルミネーションが点滅しているのでしょうが、今年はまだです。

節子はイルミネーションが好きでした。
闘病時でさえも、ユカの誘いで都心まででかけていました。
私は全く興味がないので付き合いませんでしたが、後悔しています。
付き合えるときには付き合っておかないと後で後悔する羽目になりかねません。
みなさんも伴侶や家族からの誘いにはできるだけ付き合うのがいいです。
付き合えなくなってからでは遅いです。

イルミネーションといえば、もう一つ後悔していることがあります。
たしか星の形をした電飾だったと思いますが、節子が買おうといったのに、その形がどうも好きになれずに、もっといいものを探そうといって買わなかったことがあります。
ところが「もっといいもの」は見つける前に、節子は逝ってしまいました。
節子がいなくなった後は、お店の電飾のコーナーに行くこともなくなりましたから、もっといいものがあるのかないのか、今もってわかりませんが、あの時、なぜ素直に買わなかったのだろうと悔やまれます。

こうしたちょっとした「後悔」が、いまも時々、心をチクチクさせます。
いつまでもだらしないといわれそうですが、私にとっては未来永劫つづくことでしょう。
そのチクチクが、節子を思い出させてくれるのですから、私には悪いことではありません。

節子がいなくなってから、わが家の「かがやき」は少し弱まっています。
年明けにはジュンも家を出ます。
近くなのと、わが家の庭にスペインタイルの工房があるので、毎日のように通ってくるでしょうが、また一つ「かがやき」が消えるような気がします。
幸いにユカが残ってくれていますので、私一人になるわけではないのですが、家族の数が減っていくのはさびしいものです。

もしかしたら、家族が減ることで、伴侶の絆は深まるのかもしれません。
外で見かける老夫婦を見て、いつもそう感じます。
みんなとても仲が良さそうです。
その理由が何となく最近わかってきたような気がします。
私にはもう寂しさを引き受けてくれる伴侶がいないと思うと、少し辛い気もします。
いや、何よりも辛いのは、娘の結婚を喜び合う伴侶がいないことかもしれません。

私たちは、仲の良い夫婦でした。
でも残念ながら、本当の仲の良さを味わうまでには至らなかったのかもしれません。
節子と一緒に過ごす縁側で日向ぼっこを体験できなかったのが、私の最高の不幸かもしれません。
人を愛することは、つらいことを背負うことなのかもしれません。

今日の空は、日本海地方の冬の空です。

■832:どうやら風邪をひいてしまったようです(2009年12月12日)
節子
どうやら風邪をひいてしまったようです。
一昨日から風邪モードに入っています。
インフルエンザでないことはたしかで、単にのどが少し痛いだけですが、どうも気力が出てきません。
昨日は高血圧の薬が無くなったのでクリニックに行ったので、その時に診察してもらおうと思っていたのですが、止めました。
風邪ごときで医師の世話になるのは、やはり私の性に合わないのです。
まあ要は単に医者嫌いなだけですが。

それでもなかなか治りません。
昨日は10時に寝て、久しぶりに8時間以上寝たのですが、調子が良くありません。
午後から地元の人たちとの集りがあるのですが、行くべきかどうか迷います。
以前は自分だけの判断でよかったのですが、最近は、風邪をうつしてはいけないというプレッシャーが強いですから、ますます躊躇します。

以前は風邪を引いても節子がそれなりの相手をしてくれましたから、退屈はしませんでした。
節子が隣で何か仕事をしているだけで幸せだったのです。
呼び寄せられた節子は、迷惑だったかもしれません。
あんまり隣にじっとはしていませんでしたから。

しかし今は風邪を引いたらやることがまったくありません。
一人でコタツにもぐっていますが、本を読む気にもDVDを観る気にもなりません。
コタツにパソコンを持ち込んではいますが、寝ながらパソコンを打つのは大変です。
キーボードを立てて打っていますが、首が疲れます。

私は基本的に風は3日間と決めています。
節子はいつも笑っていましたが、3日間はきちんと風邪をひきだらだらし、4日目はたとえ熱があろうと「風邪」は終わりにするのです。
この私の名案を理解してくれる人も、もういないと思うと残念です。
いろいろと思い出すと、どうも私の常識やライフスタイルはいささか変わっていたのかもしれません。
それにしっかりと伴走してくれていた節子に感謝しなければいけません。
私の人生は、節子がいればこそ、実現できたのかもしれません。

さて今回の風邪は12時で終わらせることにしました。
節子がいる時と違って、風邪をひいているメリットは期待できませんので。

■833:年賀状を書くのが好きだった節子(2009年12月13日)
節子
年末になるといろいろとしなければいけないことが出てきます。
節子が元気だった頃はすべて節子に任せていました。
節子に任していたら、無事に年が終わり、新年が来る。
そんな生活をしてきました、

今年も余すところ半月です。
年末には何をしなければいけないのか。
節子と違って、年中行事や季節の変化には無頓着なためにどうもうまく予定が組めません。
節子がいなくなってから、もう3回目の年越しなのですが。

節子がいたら、たぶん今頃は年賀状を1枚1枚考えながら書いていることでしょう。
節子が年賀状を書くテンポは、驚くほどゆっくりでした。
楽しみながら、思いを込めながら書いていました。
それを見て、ああ年末なのだと私も実感できました。
まあ内容はたいしたものではなく、これ1枚書くのにそんなに時間がかかったのといいたくなるようなスピードでした。
節子の年賀状書きは、その1年を振り返る時間だったのです。
私の生き方の速度と節子のそれとはかなり違っていたのです。
でもなぜかそれが混乱もせずに同伴できていたことは、今から考えると不思議です。

そうした風物詩的光景もわが家から少しずつなくなってきています。
そのため、ますます季節感覚もなくなってきているようです。

やらなければいけないことはそれなりにわかっているのですが、どうも身体が動きません。
いつもと同じように、無意味な週末を過ごしてしまっています。
風邪はどうやらよくなったようですが、なんだか心身の倦怠感が残っています。
これはしかし、風邪のせいではないようです。

私は節子がいなくなってから、年賀状は年が明けてから書くようになりました。
いただいた年賀状に、気が向いたら返事を書くという程度のわがままな態度です。
節子がいたら怒られそうです。

■834:節子もそろそろ転生の時期かもしれません(2009年12月14日)
超心理学や超物理学という分野があります、
「見えない世界」を研究対象にしています。
正確に言えば、今の私たちには見えない世界です。
人が見える世界は変化します。
新たに見えてくる世界もあれば、見えなくなってしまった世界もあります。

前世を記憶していた子供たちの話を集めた本があります。
その本によれば、前世を記憶しているのはだいたいにおいて5歳くらいまでだそうです。
それ以後は見えなくなってしまうそうです。
しかし時折、垣間見える瞬間があるのではないかと私は思っています。

超心理学では「あの世」の話や魂の転生の話が出てきます。
一説によれば、転生は魂が身体を離れてから3年以内に起こるそうです。
私は必ずしも信じているわけではないのですが、もしそれが事実だとしたら、節子もそろそろ転生の時期かもしれません。
前世を思い出すのがそこから5年とすると2015年ころが前世を覚えている節子との出会いのチャンスです。
そこで出会う確率は極めて低そうです。
もしみなさんの周りで、この挽歌に書かれている私と節子の挿話を思い出すようなことを話し出す子供がいたら教えてください。
まああまり特徴化された挿話がないので、見分けにくいでしょうが。

物理学の知見によれば、人が生を終えて、原子分解され、それが地球圏に遍在するには3年くらいかかるそうです。
これは昔読んだ記憶なので、いささか不確かですが、3年というのはなにやら意味がありそうです。

今日は突然におかしなことを書き出しましたが、今朝起きてリビングに行ったら、そこになぜか節子を感じたのです。
節子の魂はまだこの家にいると感じたのです。
にもかかわらず、昨日は娘たちも誘って墓参りに行ってしまいました。
節子もたぶん同行したでしょう。
ややこしいですが、節子の墓参りに行くときはなぜかいつも節子が同行している感じなのです。
論理的でも科学的でもないのですが、そんなことを考えていたら、昔、少し関心を持っていた超心理学、超物理学のことを思い出してしまったのです。
そうした研究によると、突然に観音像が出現することもあるのだそうです。
私も25年ほど前に、ある雑誌に、企業はパラサイコロジー(超心理学)にもっと真剣に取り組むべきではないかと寄稿したことがあります。
当時は興味本位でしか考えていませんでしたから、自分で体験できるほど、その世界は見えていませんでした。

しかし最近はちょっと違います。
「見えない世界」が比較的感じられるようになって来ました。
節子のおかげでしょうか。

■835:ジュンの伴侶が決まりました(2009年12月15日)
節子
今日は、とてもうれしい、しかしとてもさびしい日でした。
ジュンと結婚する相手が正式に挨拶にきたのです。
まあこれまでも何回も会っていますが、最終的に結婚を決めたというのです。
その青年(峰行さんといいます)は、柏でイタリアンのレストランをやっています。
といっても、どちらかといえば、趣味でレストランをやっているような好青年です。
経済的にはたぶんジュンは苦労するでしょう。

しかし、もともとわが家はお金とはあまり縁のない家庭です。
節子と私の文化は、お金からどれだけ自由になれるかでした。
手元にあるお金で生活するという生き方、それが私たちの基本でした。
娘たちは、子どもの頃、お小遣いが少なくて苦労したという話を後で聞きました。
子どもにお金はいらないだろうというのが私たちの考えでしたが、どうも世間は必ずしもそうではなかったようです。
娘たちは、わが家は貧乏なのだと子供心に思っていたそうです。
そのことを知って反省しましたが、そのおかげで娘たちもお金に無頓着な生き方になりました。

ジュンもまたお金がなくても豊かに生きている術を身につけました。
しかし、私の場合は、それでもそれなりに豊かな時代にすんでいましたから、何とかなりましたが、いまの社会の状況はかなり違います。
お金なしに生きていくのは難しいかもしれません。
それにレストランで生計を立てるのは、そう簡単でないことは私もよく知っています。
働く時間帯も、会社に勤めている人とは違います。
ジュンは、子どもの頃以上に経済的には苦労するかもしれません。
親としては、悩まないわけではありません。
しかし、もしかしたら、苦労するのはジュンではなく彼かもしれません。
なにしろジュンは「しっかり者」で、いささか個性的ですのですので。
人柄は、私に似ていますので、良いともいえますし、悪いともいえます。
節子と同じ苦労を、彼はさせられるかもしれません。

彼は私以上に、「天然」で楽観的なのです。
しかも、ジュンにいわせれば、私と違ってとてもやさしくて、決して怒らないのだそうです。
節子はきっと気にいったでしょう。
節子も天然でトンチンカンだったから、賛成したはずだとジュンも言います。
伴侶に大切なのは、お金よりも人柄です。
人柄で生活を守れるかと言われたら、いささか悩むところですが、もしかしたら彼のレストランが大流行するかもしれません。
なにしろすでに5年以上、いまのレストランを自分で経営し、固定客も少なくないようです。

ともかくジュンは結婚を決めました。
そしてなんと年が明けた元日の朝に入籍するのだそうです。
なんだか私たちと同じです。
節子がいたら、その類似に、どんなに笑い転げて喜ぶことか。
節子がとなりにいないのは、とてもさびしく辛いです。
娘が結婚することのさびしさは、まったくといってほどないのですが、一緒に喜ぶはずの節子がいないことがとてもさびしいです。

なんだか節子と一緒に、新居を持った頃のことが思い出されて、うれしさとさびしさが同居しています。
でもまあ、節子、ちょっと安心してください。
私ほどではないでしょうが、良い人です。
ジュンに言わせれば、私よりもずっと良い人です。

■836:私たちが結婚したころのこと(2009年12月16日)
昨日、娘の結婚のことを書きましたが、私たちの結婚ととてもよく似ています。
娘たちにきちんと話したことはありませんので、結果としての一致です。

私たちはたぶん年末に同棲しはじめました。
単に一緒に生活を始めたという意味です。
年末にそれぞれの親元に戻り、結婚の了解をとることにしていました。
それまでにある程度の話はしていたような気がしますが。
必ずしも積極的な賛成が得られず、しかし反対してもどうにもならないということで、幸いに勘当されることもなく事実として了承されました。
それで入籍したのです。
残念ながら元日には間に合わずに、まあ切りのよさで1月11日にしようと決めました。
11日に届けに行ったかどうかもわかりませんが、その頃の私は制度や届出なんてどうでもいいという考えでしたので、たぶん節子に一任していたはずです。
私は若い頃は、いま以上に世間に背を向け、世間的ルールに反発していました。
節子が、それに気づいたのは、たぶん結婚してかなりたってからだと思います。
しかし、節子もどちらかといえば、私に似たところがありました。
世間体を気にするようで、気にしないタイプでした。
どこかで心が通じ合うところがあったのです。
節子と話していると、とても居心地がよかったのはそのためです。

最初の新居は6畳と2畳と狭い台所だけでした。
いつか書きましたが、「神田川」の世界でした。
そこで4か月ほど暮らしましたが、入籍後しばらくして、会社の社宅に転居しました。
しかしそこも3か月ほどしか住みませんでした。
東京に転勤になったのです。

結婚した当時、私は8万円の貯金しかありませんでした。
旅行費用と1万円の結婚指輪、借家の賃料など払ったらもう残りません。
テレビも変えませんでした。
親からは一切の支援を拒否しました。
結局、私の数倍の貯金を持っていた節子のおかげで生活が持続できました。
その頃から、金銭面のことはすべて節子にお任せの原型が出来上がったのです。
節子の金銭感覚は、おそらく私よりもおかしかったですが、それはお金なしで家計を始めたせいかもしれません。
お金がなくてもどうにかなるという、いささか現実的ではない生き方が始まったのです。

娘たちの話も、私たちととてもよく似ています。
娘とはいえ、私のことではないので書くのはやめますが、彼らも世間体や社会的な常識にこだわることなく、自分たちの生活を始めようとしています。
結婚式もしませんし、特別の新婚旅行もないそうです。

娘にきちんとした結婚式をさせたいと思うのが多くの親の気持ちなのかもしれませんが、どうも私にはその気持ちが弱いのです。
やはり私は親としてはいささか適格性を欠いているのかもしれません。
娘の幸せを願う気持ちは、だれにも負けないと思う一方で、幸せはそれぞれによって違うものだという思いもとても強いのです。
人によっては、一見、不幸そうに見えることさえ幸せなこともあることを知っているからかもしれません。

娘の結婚に思うことは山のようにあります。
私たちがそうであったように、ともかく自分たちの物語を創りだしていくことが人生の最大の幸せだとしたら、幸せと不幸とは決して対立しないのです。
不幸のなかにも幸せはあるのです。

節子がいなくなっても、私たちの物語はまだ終わっていません。

■837:不幸のなかにも幸せはあるか(2009年12月17日)
昨日、最後に書いた一文が気に入りました。
「不幸のなかにも幸せはある」
今日はこれについて書くことにしようと思っていましたが、書けなくなりました。

昨夜は帰宅が遅かったのですが、メールを開いたら友人から衝撃的なメールが入っていました。
がんが見つかり入院していたというメールです。
最近、その人の写真を新聞で見て、ますます活躍しているなとうれしく思っていました。
節子にも報告しました。
節子もとても親しみを感じていた人でした。
節子がいたらどんなに喜ぶだろうと思いながら、節子に報告したのがつい2週間ほど前です。
年末には一度声をかけようと思っていた矢先のメールです。

彼女は意志の強い人ですので、状況を乗り切れるでしょうが、いまはどんな言葉も通じないでしょう。
節子がいたら、どういうでしょうか。
彼女なら大丈夫というでしょうか。

突然の不幸の到来。
そのなかには「幸せ」などあろうはずもありません。
ただただ「不幸一色」。
頭で考えることと現実とは、かくも大きく違うのです。
節子にがんが見つかった時に、誰かが「不幸のなかに幸せがある」などといったら、たぶん私はその人とは二度と付き合いたくないと思ったでしょう。
事実、それに類したことがあって、私はその後会えなくなった人がいます。

しかし、不幸な出来事が不幸だけだとしたら、それこそ救いがありません。
節子はどうだったのか。
手術をした後の節子のことを思い出します。
節子の不幸に、私は少しでも「幸せ」を与えられただろうか。
もしそれができたのであれば、メールを送ってくれた彼女にも何かできることがあるかもしれません。
しかし、その答が見えてきません。

節子
教えてくれませんか。
あなたが期待していたKさんです。
早く克服して、また仕事を始めてほしいです。
神の試練は、本当に不条理です。

■838:花かご会のみなさんがお墓参りまでしてくれました(2009年12月18日)
節子
昨日、自宅に花かご会の人たちが来てくれました。
私はオフィスに出かけていたため会えませんでしたが、節子はみんなと会ったことでしょう。
わが家に来てくれた後、みなさんはお墓まで行ってくれたそうです。
節子はほんとうにいい仲間に恵まれました。

節子が花かご会を呼びかけたのは、こちらに転居してきてからですから、病気になる1〜2年前ではないかと思います。
つまり、節子がみんなと一緒にがんばったのはそう長い時間ではないはずです。
しかもみんな、この活動を通じて初めて出会った人たちです。
病気になってからも、少し回復した時期には活動に参加していましたが、それも2年ほどでしょうか。
にもかかわらずみんな節子のことをほんとうに気遣ってくれましたし、節子がいなくなった後も、命日には必ずお花を届けてくれますし、お参りにも来てくれます。
そして少し離れたところにあるお墓にまで行ってくれるのです。

人のつながりとは不思議なものです。
長い時間付き合っていたにもかかわらず、突然に疎遠になり、関係が消えてしまうこともあります。
そうかと思えば、ほんの15分の立ち話しかしなかった人と心が通じ合うこともあるのです。

女性はみんなそうなのかもしれませんが、節子は気持ちの合う人を瞬時に見分けていたような気がします。
「見分ける」というのは正確ではないのですが、私と違って誰とでも付き合うわけではなく、しかし自分の世界の人とはすぐに仲間になる人でした。
まあ、娘たちが言うように、節子は「天然」で素直で、嘘が言えない人でしたから、付き合う相手も自然と決まっていたのでしょう。
節子と同じセンスをもった人たちです。

私がその一人に選ばれたことはとても光栄です。
節子は私を理解してくれていたわけです。
おかしな表現ですが、私はそれを誇りに思っているのです。
小賢しい理屈が大好きで、そういう世界に引かれがちな私が、辛うじて現場(真実)につながる生き方ができているのは、節子が伴侶だったおかげです。

もっとも節子は、私の理屈好きと小賢しさ、もっと悪く言えばずるさを知っていました。
修の賢いところは好きではないといわれたことがあります。
念のためにいえば、節子は当初は私の賢さに惚れていたのですが。
まあ、このあたりがややこしいところです。
賢さと愚かさは、コインの裏表なのです。
宮沢賢治はそのことを知っていたでしょうが、節子もたぶんそのことを感じていたのだろうと思います。

こう書いてくると、節子の友だちは賢くない人と言っているように受け取られそうですが、誤解のありませんように。
ほんとうの賢さは人柄に現れるといいたかったのです。
いやこれでもまた誤解されそうですね。
しかし少なくとも節子は「賢くない賢さ」を持っていたような気がします。
ますますややこしいですね。
すみません。

■839:オリオン(2009年12月19日)
節子
昨夜は帰宅が少し遅くなったのですが、駅から自宅までに間、星に見とれながら歩いていました。
私は視力があまりよくないのですが、オリオン座がきれいに見えました。
しかしいくら想像力をたくましくしても、決して、狩人オリオンの姿は見えてはきません。
古代ギリシア人はどうして夜空に具体的な物語を見つけられたのだろうかというのは、子どもの頃からの疑問でした。
昔はもっと星がよく見えたたからだという説明は、私には説得力をもちません。

もし夜空が地上での私たちの世界の鏡であるとすれば、世界から物語がなくなったからではないかと思います。
世界の物語はいまや退屈なものになってしまいました。
内山節さんが言うように、私たちはキツネとさえ話せなくなってしまったのです。
ましてや草花や山や川とはもっと話せなくなってしまっているでしょう。
もちろん霊魂や、過去や未来の人たちとも話せません。
そこに生まれるのは退屈な小さな物語です。
広大で深遠な夜空の舞台は必要ないでしょうし、その舞台を仰ぎ見るたくさんの人たちをつなげる話は望みうべきもないのです。

こんな話は挽歌にはふさわしくないですね。

オリオンは一般にはさそりに刺されて死んだといわれていますが、恋人のアルテミスに射られたという話もあります。
それを誘ったのはアルテミスの兄のアポロンだったともいわれます。
家族と恋人、古い家族と新しい家族。
これは時に悩ましい問題にさえなってしまいます。

私たちはその点では全く同じ家族観を持っていました。
一緒に暮らしだした、その瞬間から、新しい家族を創りだすという生き方です。
相談したわけではなく、それは私たちにとっては当然のことでした。
私たちはすべてゼロからはじめました。
頼るのは伴侶だけ。
どんなことがあっても、両親や家族には弱音をはかない。
それが私たちの起点でした。

私が嫉妬を感ずることがあるとすれば、節子の男友だちなどではなく、家族でした。
節子は、私もそうでしたが、家族をとても愛していました。
長年培ってきた家族への愛は、新しくできた伴侶との愛よりも深いものです。
しかし結婚するとは、その関係を超える愛がなければいけないと思っていました。
であればこそ、私は節子の愛を独占したかったわけです。
今から思えば、なんと勝手な話でしょうか。
しかし、私たちは不思議にも、お互いに自然とそれができたように思います。
夫婦の愛を基本にして、それぞれの両親家族への愛を再構築できたのです。

こういう書き方をすると、なんだかいやに理屈っぽいのですが、要するにそのおかげで、私たちには嫁姑関係はもとより、親戚付合いでの意見の食い違いはまったくなかったのです。
ですから、アポロンにそそのかされることもなく、節子は私を愛し、私は節子を愛することができたのです。

むりやりオリオンの話を広げてしまいました。
素直に言えば、昨日、夜道を歩きながら、このきれいな夜空を節子にも見せたいなと思っただけなのです。
長々とすみません。

■840:掃除嫌いのわけ(2009年12月20日)
節子
今日はとても暖かい青空です。
大掃除日和だと思い、私の部屋の掃除を始めました。
節子がいなくなってから、以前にも増して掃除をしなくなりました。
掃除は、何がしかの「過去」を捨てることですから。
しかし、私も思い切って捨てることを始めなければいけません。
残していくことは誰かの迷惑になりかねませんから。

掃除のもう一つの問題は、「過去」を思い出すことです。
ちょっとした「モノ」に、節子が見えてしまうこともあるわけです。
40年も生活を共にしていると、至るところに節子の痕跡が残っているのです。
その痕跡に出会うと掃除は一瞬止まってしまいます。

掃除には深い意味があるといわれています。
私もそれにとても共感しています。
私が子どもの頃は学校で掃除をよくさせられました。
会社に入っても、職場の掃除は自分たちでやっていました。
しかしいつの頃から、掃除は外部の業者がやるようになってきました。
学校は今どうなっているか知りませんが、一時期、やはり業者がやりだしました。
それではきっと社会はおかしくなると、当時から掃除嫌いの私でさえ思い、どこかに投書した記憶があります。
しかし生活の場の掃除までもが企業のビジネスになりました。
そんな社会がまともであり続けるわけはありません。

イエローハットの鍵山さんが「日本を美しくする会」を始める、そのもっと以前に、友人から声をかけられて同じ名前の会をつくりました。
続きませんでしたが、その後、鍵山さんと出会い、鍵山さんと一緒に箱根湯本の公衆トイレの掃除をやりました。
それを契機に、わが家のトイレ掃除は私がやると宣言しました。
節子も参加していたオープンサロンで公言したのですが、みんなから続くかなといわれました。
節子は黙って微笑んでいましたが、案の定、1年で挫折しました。
掃除にまつわる思い出もいろいろとあります。

掃除は自らの生き方を問い直すことだと、鍵山さんと話していて思ったことがあります。
そんなことを思い出しながら、掃除をしています。
いまはちょっと息抜きです。

■841:使われることのなかった竹筆(2009年12月21日)
一昨日、テレビでジミー大西がアフリカのポップアート、ティンガティンガを学びにいったドキュメント番組をやっていました。
ジミー大西の絵は心をわくわくさせるだけでなく、次元を超えた深みを感じます。
絵自体はとても単調で平板に見えるのですが、次元のない多次元を感ずるのです。
番組そのものは私好みではなかったのですが、登場する現地の人たちの明るさの魅力もあって、何となく見てしまいました。
それはまあ、それだけの話なのですが。

昨日、部屋の掃除をしたことを書きましたが、一本の竹筆が出てきました。
まだ使われていない竹筆です。
節子のものです。
使われることのなかった竹筆。
節子がこれを購入したのは、2006年6月2日です。
節子の運転で真鶴まで小旅行した時に買ったものです。
その時の経緯は、私のホームページの週間報告に書かれています。
その時のことを思うとあまりにたくさんのことが思い出され、また感傷の世界に引き込まれそうなので、記憶を封印しなければいけません。

見つかった竹筆は、その時出会った竹筆書芸の望月一幸さんから購入したものです。
竹の根を鉛筆のように削った筆で、墨をつけて書くのです。
それを「筆」といっていいのか気になりますが、望月さんは目の前で見事な「筆づかい」を見せてくれたのです。

節子は、しかし、その竹筆を一度も使おうとしませんでした。
新しいことにいつも前向きで、すぐに挑戦した節子にしてはめずらしいことです。
がんの再発が確認されたのは、それから3か月以上たってからです。
いままで気がつきませんでしたが、考えるほどに不思議です。
あんなに楽しそうに竹筆を選んでいたのに。

だんだんまた当日のことを思い出してきそうです。
これ以上書けそうもありません。
節子はほんとうに「罪つくり」の人です。
いなくなるのなら、全部持っていけ、といいたいです。

■842:節子がいない不安さ(2009年12月22日)
節子
ジュンの結婚相手の両親に会いに行ってきました。
こういうのが私は一番不得手です。
節子がいたらすべて節子の指導の元に行えるのですが、これからは私が考えなければいけません。
なにやら心許ない気がします。

私たちよりも少し年上ですが、とてもカジュアルでゆったりと生きている感じです。
どこかで私たちと通ずるところがあります。
節子がいたらきっと気が合ったでしょう。
返す返すも残念で仕方がありません。

たまたま結婚相手の姓が私たちと同じ「佐藤」ですので、ジュンの姓は変わりません。
新居はわが家のすぐ近くです。
先日、荷物を運ぶのを手伝いがてら、見てきましたが、明るくていいところです。
窓から富士山も見えるのです。
私たちの新婚当時に比べれば恵まれています。
テレビもありますし。

年内にはジュンは出ていきます。
ちょっと寂しくなりますが、節子がいなくなった寂しさに比べたら、どうということでもありません。
節子がいなくなった後は、どんな寂しさにも耐えられます。
いや、寂しさすらも感じなくなっているような気もします。

相手のご夫妻と話しているとやはり節子を思い出します。
やはりここにいるべきは私ではなく、節子ではないかと思えてなりません。
節子
きみがいなくて、とても残念です。
喜びをどうも実感できないのです。
これからどうやって付き合っていけばいいか、ちょっと不安です。

■843:自立できない不甲斐なさ(2009年12月23日)
節子
きみに相談したいことが山のようにあります。
それができないために、滞っていることが少なくありません。
沖縄の基地をどうするかとか、地球温暖化の対策をどうするかとか、そんな私にとっては「遠い向こう」の問題ではありません。
もっと身近な問題です。
まあ社会一般には「瑣末」な問題なのですが、私にとっては地球温暖化よりもはるかに重要な問題です。

最近、いろいろと身体的な障害が出てきています。
どうしたらいいか。
医者に行けばいいだけですが、医者嫌いな(単に待ち時間が嫌いなだけですが)私としては、節子の一押しがなければ行けません。
それに節子がいないいま、健康であることの意味があまり実感できません。
病気になった友人がいる、どうしたらいいでしょうか。
相手が男性であればそれなりに対処できますが、女性だったらどうしたらいいかわかりません。
毎日、気になりながら時間がたちます。
お世話になった人がいます。
何を贈ればいいでしょうか。
いや贈ることは失礼かもしれない。
贈ってしまうと倍のものが返ってきてしまう。
優柔不断な私は困ってしまうわけです。
そしてだらだらと時間がすぎます。

私の会社の経営や仕事に関する判断であれば、即座にできます。
論理で決められるからです。
しかし生活に関わることは、論理より情感の世界です。
これまでは、その種のことは、すべて節子に任せていたので決められないのです。
節子がいた頃は、「○○しといてよ」といえば、すべて終わっていたのです。
節子が考え相談してくれたのです。
私は「それでいいんじゃないの」と答えれば、すべて終わっていたのです。
それがそうはならなくなってきた。
いまさらながら、自分が生活において自立していないことがよくわかります。

修も自立しなければと、節子はよく言っていましたが、そもそも私には自立する気はありませんでした。
夫婦とは、それぞれが自立するのではなく支え合う存在ではないか、と思っていたのです。

そのくせ、仕事などになると。「コンヴィヴィアリティ」などと難しい言葉を出して、共生や支え合うためには、それぞれが自立しないといけないなどと言っていたのです。
コンヴィヴィアリティ。「自立共生」という意味の、イヴァン・イリイチの用語です。
知行合一を信条としているくせに、これまた矛盾です。
困ったものです。

さて積み残している懸案事項をどうするべきか。
もう数日延ばしましょう。
今日はとても良い天気ですから、悩むには相応しくありませんから。

■844:節子と一緒の沖縄旅行(2009年12月24日)
娘たちと沖縄に来ています。
節子がいなくなってからはじめての旅行です。
節子と一緒に沖縄に来たのはいつごろだったでしょうか。
病気になる前ですから、もう10年近く前かもしれません。

急に決めたため、空きのあったツアーに申し込んだのですが、出発がクリスマスイブの日になってしまいました。

今日はひめゆりの塔などを回りましたが、どこもみんな節子と一緒に回ったところでした。
夕食はコースを離れて、みんなで国際通りに行くことにしました。
節子だったらそうするだろうというのが、みんなの合意です。
ホテルからタクシーに乗って、運転手さんにどこか沖縄の家庭料理的なものを食べられるところをとお願いしました。
沖縄の人らしく、いろいろと考えてくれた上、今日はイブなのでどこも混んでいるからといって、国際通りから少し離れたところに連れて行ってくれたのが、「ふみや」でした。
ところがお客さんは一人しかおらず、あまりに空いていたので、いささか心配になりましたが、沖縄の人らしい夫婦でやっているお店でした。
正直に言えば、やはりいささか味が特殊で私には不向きでした。
それでも残してはいけないと思いがんばって食べましたが、そのおかげでみんなおなかが苦しくなるほどでした、
節子はこうしたことが好きでしたので、まあ仕方がありません。

おなかを減らすために、そこから国際通りまで歩くことにしました。
国際通りでは、節子好みの横道に入りました。
ハイビスカスとプルメリアの挿し木を見つめました。
節子なら買うだろうということで買いました。

とまあ、そんなこんなで、節子も同行したような旅が始まりました。

■845:娘たちがめずらしくお土産を買っています(2009年12月25日)
沖縄旅行2日目です。
安いツアー旅行なので、お土産屋さんによく立ち寄ります。
節子は旅行でお土産を買うのが好きでした。
娘たちからいつも冷やかされていました。
今回は、お土産買い好きの節子がいないので、お土産はそうは買わないだろうと思っていました。
ところがです。
思ってもいなかったのですが、娘たちが2人ともお土産を買いだしたのです。
あれほど批判的だったのに、節子と同じように、お店に寄るたびにお土産も買うのです。
おかげで大きなお土産袋までもらってしまいました。

まるで節子が乗り移っているようです。
変わっていないのは私だけです。
私はこれまでもお金も持たずに節子の決めた旅行にただ一緒についていっただけです。
財布はすべて節子でした。
いまは娘が財布を持っていますので、相変わらず私は娘たちに養ってもらっている感じです。

節子のおかげで、私は本当にお金と無縁に暮らし続けてこられたような気がします。
ユカのおかげで、その生き方を続けられています。

今日は雨の中の沖縄でした。
節子がいなくなったためでしょうか。
いつも旅行は天気に恵まれていたのですが。

明日も沖縄です。

■846:3日間の家族旅行は無事に終わりました(2009年12月26日)
久しぶりに娘たちと3人いっしょの生活を3日続けました。
同行した節子もきっと満足したことでしょう。
みんな平和に過ごしましたし。
節子が一緒の旅行だと、3日もいれば夫婦げんかも起こるのですが、娘たちとはそこまで。行きません
意識的には私は同じなのですが、どうしても節子にはわがままが出てしまうのでしょう。

実は旅行前、みんなへとへと状況だったので、急速のための旅行というつもりだったのですが、安いツアーだったためか内容がびっしりでした。
それに面倒なので、オプションもみんないれてしまっていたのです。
毎日、結構、ハードでした。
私は旅行の記憶があまり残らないタイプなのですが。初めてのところかなと思っていたところも、あるシーンで突然に節子ときたことが会ったと思いますことが何回かありました。
結論的にはたぶん2か所を除き、節子ときたところをなぞっていた感じです。
それに一昨日見つけたハイビスカスやプルメリアの木は、いたるところに売っていました。
困ったものです。

この旅の間に、3人の口から何回も「節子だったら・・・だろうな」という言葉が何回も出ました。
節子だったら・・・だというのは、わが家でもよく出てくる言葉なのですが、わが家の家族の中で旅行が一番好きだったのは節子でした。
しかし、体調をくずして以来、節子は遠出の旅行をあまり企画しなくなりました。
それに娘たちが大きくなるに連れ、家族旅行よりも夫婦旅行が中心になりました。
そのうちに節子が発病、遠出の旅行は難しくなりました。
もっと家族で旅行に行っておけばよかったと思いますが、人生の先はなかなか見えてこないものです。

みんなくたくたに疲れましたが、それでもそれなりに充実した節子好みの旅行になりました。
いま那覇空港です。
何しろ安いツアーなので、出発が夜8時なのです。
自宅に着くのは深夜になりそうです。
この数日は時評もサボってしまいました。

■847:風邪をひいてしまいました(2009年12月27日)
節子
風邪をひいてしまいました。

昨日、家に着いたのは深夜過ぎで、日付が変わっていました。
休養のつもりが、逆に疲労を溜め込む旅になってしまいました。
1時過ぎに寝たのですが、3時ごろ悪寒が襲ってきました。
身体が止まらないほどの悪寒です。
いささか尋常でない寒さです。
電気毛布を最強にしたのですが、効果がありません。
この寒さはいったい何なのでしょうか。
寒いだけではありません。
身体全体に、じっとしていられないほどの奇妙な違和感があるのです。
それに気のせいか、身体温度がどんどん奪われているような状況で、手足が冷たくなっていきます。
パジャマの上にセーターとジャンパーを着込んで、毛布とは別に足元に電気アンカも入れましたが、その熱で辛うじて体温が保たれて一感じです。
家族旅行も終わったので、いよいよ節子からのお召しなのかもしれません。
いわゆる幽体離脱ほどではないのですが、丸まっている自分の姿が見えるような気までしまた。

節子がいたら、なにを大げさにと笑うでしょうが、身体各部が不整合になる状況が私にはとても辛いのです。
数年に1回、こういうことがあります。
普通はその予兆を感じて、予防策を取るのですが、今回はあまりにも急でした。

暗闇で2時間ほど、身体を丸めて震えていたでしょうか。
そのうちようやく眠ることができたようで、目が覚めたら7時過ぎでした。
結局、風邪だったようで、体温を図ったら37.4度でした。
まあ何と言うことはない風邪なのでしょうか。
中途半端な体温にがっかりです。
まあしかし、そんなわけで、今日は1日寝ていることにします。

蛇足です。
私は時々自分が人工機械ではないかと思うことがあります。
左の胸のところに電源があります。
時々、身体に漏電しているような振動を感じます。
昔は自分がホボーグではないかと思ったことがあります。
どうも私の脳は人間的視点から考えると欠陥が多すぎるからです。

サイボーグは脳だけが人間、ホボーグは身体が人間です。
もしそうであれば、節子の脳を私の脳に同居させることもできたかもしれません。
こうした話は、SF(空想科学小説)の世界の話ですが、技術的にはかなりそうしたことが可能になってきました。
手塚治虫の「火の鳥」には、そうした話がよく出てきます。

風邪の話から思わぬほうへ話題が飛んでしまいましたが、これも熱のせいかもしれません。
明日は3組の人が湯島に来ます。
休むわけには行きませんが、今の状態ではいささか辛いです。
さてどうしましょうか。
ホボーグではなくサイボーグであれば、具合の悪い不整合な部位を取り替えて出かけることができるのですが。

■848:「私は死ぬのをやめました」(2009年12月28日)
ドキッとする文章に出会いました。
「私は死ぬのをやめました」
建築家の荒川修作さんが、もう50年前からよく言っている言葉だそうです。
そこに含まれているさまざまなメッセージにではなく、私は単にその言葉そのものにドキッとしました。

なぜドキッとしたのか。
それは、この言葉を節子が発していたような気がしたからです。
厳しい闘病生活のなかで、節子は2回、家族全員に向かって「もう逝きたい」というメッセージを出しました。
そのころは思うように話せずに、手元もノートにそう書いたのです。
みんなは、それは駄目だと元気づけたのですが、そのことがずっと心のどこかに引っかかっているのです。
しかし、節子はその後、そのメッセージを出すことはありませんでした。
闘病生活はますます厳しいものになっていったのですが。

後で考えると、節子はみんなに受け入れられなかったために、「死を超えた」のかもしれません。
「死後の生」を生きていたと言ってもいいでしょう。
そんな気がしていました。

「私は死ぬのをやめました」
この言葉に出会った時、なぜかすぐに節子のことを思い出しました。
そうか、節子はあの時、「死ぬのをやめた」のだと気づいたのです。
節子がいかに私たちを愛してくれていたか。
節子のやさしさが胸をしめつけます。
もちろん、節子は口に出してそういったわけではありません。
しかし、口に出さなくても伝わってくる言葉はあります。

死ぬのをやめた節子は、したがって、今も生きているわけです。
この言葉に出会ってから、いろいろと考えているのですが、どうも考えがまとまりません。
思いがうまく表現できないのです。

昨日、見知らぬ人からメールが来ました。

私は今年の8月、愛する人を自死によって亡くしました。

その人のブログを読ませてもらいました。
もしかしたら、「私は死ぬのをやめました」ということは、「私は生きるのをやめました」と同じ言葉なのかもしれないと、ふと思いました。
前にも書いたような気がしますは、「生」と「死」は決して対語ではありません。
次元の違う言葉です。
そして、「愛」は、その「生」と「死」を超えているのかもしれません。
上記の2つの言葉には、いずれにも深い「愛」を感じます。

「私は死ぬのをやめました」と節子に言いたかったですが、節子に先を越されてしまいました。
それがちょっと無念です。
私が言うべき言葉でしたから。

この言葉を言い出した荒川さんの意図とは全く違う解釈になっていて、申し訳ありません。
でもこの言葉がとても気にいってしまいました。
「私は死ぬのをやめました」
世界が広がる言葉です。

■849:最近、涙したことはありますか(2009年12月29日)
節子
今年もまた私は、たくさんの涙を流しました。
その多くは節子を思い出してのことですが、それだけではありません。
他者のために涙することも少なくありませんでした。
悲しくて涙が出るだけではありません。
感動して涙し、うれしくて涙し、涙に誘われて涙し、というように、涙はよく出るのです。

「笑いの効用」ということはよく言われますが、「涙の効用」もあります。
泣くことは癒しになるとか、泣くことで心身が清められるとか、いろいろ効用はあるようです。

みなさんは「笑うこと」と「泣くこと」とどちらが多いでしょうか。
私は節子のことでよく涙を出しますが、それでも笑うことの方が多いように思います。
しかし実際には「笑うこと」と「泣くこと」は同じことなのかもしれません。
いずれも「こころで生きている瞬間」だからです。
よく笑う人は、よく泣きます。
よく泣く人は、よく笑います。
節子も私も、よく笑いよく泣きました。
娘たちから笑われほど、私たちはよく泣きました。
節子がいなくなってからは、節子の分まで私は涙を出しました。

たくさんの涙を流した今年は、言い換えれば、たくさん笑った年でもあります。
しかし、笑いはなかなか文字にはなりません。
この挽歌にはどうも「笑っている私」よりも「泣いている私」が出てしまっていますが、私と会った人たちは、逆の印象を持つのではないかと思います。
笑いは外に向けて表現できますが、涙は内に向けての表現になりがちです。

節子がいなくなってから半年は、涙も笑いもあまり出ませんでした。
しかし、最近は涙も笑いもよく出ます。
節子がいなくても、節子と一緒に、泣き、笑うことができることをとてもうれしく思います。

■850:「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」の出発点(2009年12月30日)
今年は、生と死、あるいは愛について、いろいろと考える機会がありました。
これもすべて節子のおかげです。

「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」も立ち上がりました。
このネットワークの立ち上げに節子が深く関わっているとは誰も思ってもいないでしょう。
しかし節子がこのネットワークの推進者だったように私には思えます。

東尋坊で活動している茂さんからメールが届いたのが昨年の10月でした。
そして、私の中に自殺水際相談所ネットワーク構想が生まれたのが10月17日。
最初はコムケア活動として取り組むつもりでした。
ところが、12月になって、なぜか1回しか会ったことのない、ライフリンクの福山さんから食事を誘われました
伴侶を亡くした私を元気づけようと誘ってくれたのです。
それでメンバーがそろいました。
つなげてくれたのは、茂さんも福山さんも知らないでしょうが、節子だったのです。

実際に動き出したのは、年があけた今年の3月でした。
茂さんが東京に来る機会にみんなに湯島に来てもらいました
そして翌月に緊急集会を開催する決意をしたのですが、この後押しをしてくれたのも節子でした。
節子との最後の旅で、もし茂さんや川越さんに会わなかったならば、このネットワークは生まれていなかったと思います。
そしてこの1年、私は仕事を一切止めて、ネットワークの立ち上げに取り組みました。

そのネットワークも茂代表と福山事務局長のもとに推進体制が整い、活動は軌道に乗りつつあります。
そろそろ中心から抜ける予定ですが、自殺の問題は私にとっては今年の最大テーマだったのです。
私にはもっとも縁遠いところにあるテーマのはずなのですが。

ところが、今年もあますところ4日という一昨日、思わぬメールが届きました。
昨日の挽歌で触れましたが、愛する人を自死で失った人からの長いメールです。
なぜ「自死」なのか、そのメールを読んだ時、あまりの符牒の一致に身体が震えました。
考えすぎだと言われるかもしれませんが、物事には偶然はありえないと考える私にとっては、あまりに見事なメッセージの一致なのです。
その人は、愛する人の死の悲しみから抜け出すために、セルフカウンセリングに取り組んでいるようですが、それに関して、私に少し質問してきたのです。
そのやりとりはまた、私に生と死、そして愛について、新たなテーマをもたらしました。
自死の持つ新しい意味と言ってもいいでしょうか。
それにしても、天の意地悪さにはいつものことながら驚かされます。
今度は、何をさせるつもりでしょうか。
節子はまた加担しているのでしょうか。
いずれにしろ、現世を超えた大きな力が働いているような気がします。

それを感知したかのように、先ほど、東尋坊の茂さんから、ご自慢のお餅が届きました。
このお餅を食べてしまうとまた現世に引き戻されそうですが、ついつい食べてしまいました。
タブーを破って現世に戻れなかったイザナミを思い出します。

■851:3回目の年越し(2009年12月31日)
節子
今年もまもなく終わろうとしています。
この挽歌も最近は「日記」のような内容になってきてしまいましたが、少なくとも毎日1回は節子とパソコンを通して語り合うことができました。

今年の年末はユカと2人だけの、少し寂しい年越しです。
働き者のジュンが結婚したため、家の掃除も今年はかなり手抜きになりました。
なにしろ肝心の時に、私が風邪でダウンしてしまったからです。
ジュンは近くに住んでいるので、昨日はユカと2人でおせちなどの買出しに行ってくれましたし、今日も庭の工房にタイルを焼きに来ていましたので、さほどジュンが出ていった実感はないのですが。
午後、3人でお墓の掃除にも行きました。
まあこれが最後になるでしょうが。

私は、今年はいささか不確かな足取りでスタートしましたが、昨日書いた自殺の問題に関わらせてもらったおかげで、家にこもりがちな生活からは脱することができました。
ただ逆にさまざまな問題がまた集まりだしてきて、いささか心配ではあります。
私的にも問題はたくさんありますが、節子がいない今、一人で一つずつ解いていかなくてはいけません。
気の重さは拭えません。

節子がいなくなってから、今年が良い年だったかどうかの判断はできなくなってしまいましたが(つまり「良い年」という概念がなくなったのです)、少なくとも今年は「悪い年」ではなかったといえるでしょう。
今年の一番の変化はジュンの結婚です。
ジュンは決めたことは必ずやるという人ですが、決めるのが少し遅すぎました。
節子がいたら、全く違った展開になったかもしれませんが、なにしろ相談相手が私なので、ジュンも苦労しています。
でもまあ節子の心配の一つは解消したわけです。
来年はユカの結婚を目指さねばいけません。

挽歌を通しての節子への語りかけで、私の精神的安定感は回復してきた気もしますが、その一方で身体的安定感は老化によって次第に低下しています。
しかし、幸いに今年は何事もなく無事年を乗り越えられそうです。

しかし考えてみると年賀状も1枚も書いていませんし、年内にやろうと思っていたことが山のように残っています。
でもまあ間もなく今年も終わります。
用意ができていようといまいと、時間は経過します。
こうやってみんなやりたいことを残して人生を終わるのでしょうか。
そう考えると、やはり節子が言ったように、毎日を納得して生きることが大事ですね。
来年は私もそれをもっと心がけたいと思います。

挽歌を読んでくださった方、ありがとうございました。
ホームページのお知らせにも書きますが、1月5日の午後はたぶん湯島のオフィスにぼんやりしながらいる予定です。
気が向いたらお立ち寄りください。

■852:節子の友人からの年賀状(2010年1月1日)
節子
いつものように、とてものどかな暖かな年明けです。
節子と一緒に家族みんなでゆっくりと子の神神社に初詣した3年前を思い出します。
屋上でユカと2人で初日の出を見ましたが、雲のためのあまりきれいな日の出にはなりませんでした。

年賀状が届きました。
節子がいなくなってから、年賀状を出す習慣も変わってしまい、今年も1枚も出していませんが、年賀状を見ながら返事を書くつもりです。
節子は年賀状が好きでしたが、1年に1回の年賀状のよさもたしかにあります。

節子の友人からの年賀状も何通かあります。
もちろん私もよく存じ上げている人たちで、私宛なのですが、節子への年賀状のような気がして、読んでいると少し感傷的になります。
それを察しているかのように、友澤さんからの年賀状には次の一句が添えられていました。

ふっ切れし 夫君の心をまた揺らす 年賀を許し給んと捧ぐ

お心遣いはうれしいですが、私は決して「ふっ切れてはいない」のです。
ふっ切れようがないのです。

自分が「ふっ切れていない」と実感するのは、慶事の出会うときです。
結婚式が苦手なのはそのせいですし、年賀状も書く気になれないのも、そのせいです。
心の奥に、まだ喪に服している自分がいます。
いえ、喪に服したがっている自分というべきかもしれません。
人は自らを悲劇の中に置くことで、心の平安を得ることができるのです。
これは節子を見送った後、体験したことです。

今年もまた始まりました。
節子がいなくなってからは、暦が変わることの意味がほとんどなくなりました。
時間の進む速度が一変したのです。
昔は、年頭には思うこともあり、気持ちを一新できたのですが、いまはダラダラと時間だけが過ぎていきます。
でもまあせっかく新しい年になったのですから、気分を改めて、もっと前に進もうと思います。
今年は明るい挽歌を目指そうと思いますが、まああまり期待はできません。
それにあまり明るく書くと節子に怒られるかもしれません。
目の前にある節子の写真がそう言っているような気がします。

■853:墓石には一緒に名を刻んでいます(2010年1月2日)
節子
今日は私の友人からの年賀状の話です。
会社時代に一度、あるセミナーの受付で15分だけ立ち話をしただけのMさん(受付でした)はなぜか私には心のつながる雰囲気を持った人でした。
それで会社を辞めた事を伝える気になったのですが、湯島のオフィスのオープンの一週間にわざわざやってきてくれました。
あの一週間は、100人を超す人たちが湯島に来てくれたので、節子は顔も覚えていないでしょうが、Mさんの来訪は私にはとりわけ印象に残りました。
以来、なかなかお会いできませんが、どこかで気になっている人の一人です。
あまりに長くお会いしていないので、私も顔は忘れましたが、年賀状は毎年届きます。
その年賀状を読んで、ハッとしました、

今年もまだ淋しい新年をお迎えのことと拝察いたします。
小生の方は5月に妻の七回忌。
墓石には一緒に名を刻んであります。

Mさんは7年前に奥さんを見送っていたのです。
この年賀状を読むまでその認識がありませんでした。
お知らせをいただいていたのではないかと思いますが、なぜか記憶がありません。
7年前はまだ私もまだ年賀状を書いていたはずですが、どうして気づかなかったのか。
当時は1000通を越す年賀状を毎年書いていましたから、年賀欠礼の訃報も多く、ついつい見落としてしまったのかもしれません。
もしそうであれば恥ずべきことであり、Mさんのお気持ちを踏みにじったおそれがあります。
こうした非礼を私は重ねてきたのではないかと心配になります。

そういえば、数年前、Mさんからの年賀状に今度訪問したいと書かれており、心待ちしていたことがあります。
結局、Mさんは訪ねてきませんでした。
あの頃、奥さんとの別れがあったのかもしれません。
私がもう少し感度がよければ、Mさんの痛みを分かち合えたのかもしれません。
自分がその立場になって、初めてそうした感度を持つようではどうしようもありません。

そんなにたくさんの年賀状を書いてどうするの。
節子はいつもそう言っていました。
その意味をもっとしっかりと考えるべきでした。

Mさんは、墓石に一緒に名を刻んだそうです。
節子とふたりだけのお墓をつくればよかった、そんな気がしてきました。
Mさんに比べれば、私の節子への愛はまだまだだと思い知らされました。

今年はMさんにきっとお会いできるでしょう。
そんな気がしています。

■854:難しい1年、普通の1年(2010年1月3日)
今日はメールで新年の挨拶を送ってきてくれたSさんの話です。
Sさんは私よりも若いのですが、私と同じく愛する人を亡くされました。
私もそうですが、愛する人との別れは人生を大きく変えてしまいます。
Sさんは会社も辞め、いまは介護福祉士を目指して学んでいるところです。
まだお会いしたことはありません。
この挽歌が縁で、メールのお付き合いが始まったのです。

Sさんのメールも、ドキッとさせられる言葉がさりげなく書いてあります。

最近では、人生に自分で幕を引くのは無理だと思うようになりました。
自然にその時を待つしかないと思うようになりました。
そうすると、その間は何とか生きていかなければならないのですが、いまのところそのパワーは、普通の方と比べると半分あるかないか、といったところでしょうか。

さりげなく書かれていますが、Sさんのこの1年のことが伝わってくるような気がします。
愛する人を失った時の戸惑いと意志の崩壊。
幕が引けるならどんなにいいだろうかと思いたくなるほどの喪失感。
その一方での、いのちの意味の気づき。

Sさんはつづけます。

こんな人生になるなんて、夢にも思っていませんでしたね。
だけどなってしまったからには自分で何とかするしかないんですけどね。
また、難しい1年が始まります。

「難しい1年」
この言葉がとても腑に落ちます。
最後にこう書いてくれました。

良い、とういうか普通の1年を過ごされますように

それが、実はとても難しいのです。
Sさん、そうですよね。
今年はもしかしたら、Sさんともお会いできるかもしれません。

■855:「従容と死を受け入れる森」(2010年1月4日)
今日は久しぶりに挽歌編と時評編の統合版です。
昨日、テレビの「地球の目撃者SP風の大地へ南米チリ縦断3700キロ」を観ました。
写真家の桃井和馬さんの撮影紀行です。
世界最南端の町の話が出てきました。
ぶなの原生林が、人間が連れ込んだビーバーにかじられて大量に倒れている光景がありました。
それをみて、桃井さんが「従容と死を受け入れる森」というような表現をしました。
「従容と死を受け入れる」
その言葉が心に響きました。

先日、沖縄に行きました。
沖縄でも琉球松が松食い虫にやられて枯れていました。
その時にふと思ったのです。
松食い虫が松を枯らすと騒いでいるが、松に代わる植生が、それに代わるだけではないのか。
そのどこが悪いのだろうか、と。

地球温暖化に関して先日暴論を書きましたが、最近私は、環境対策こそが環境問題の真因ではないかと思い出したています。
昨今のエコブームにはやりきれなさを感じます。
どこかに「近代の落とし穴」を感じます。
これは環境問題に限った話ではなく、福祉も教育も、すべてに言えることですが。

さて、「従容と死を受け入れる森」に戻ります。
生命はつながっているという発想からすれば、一部の樹が枯れることは森が生きている証なのかもしれませんし、生きるための方策かもしれません。
最近、そんな気が強まっています。

節子は従容として死を受け入れたのだと思うようになってきました。
もちろん「生」を目指して、全力で抗うのと並行してです。
全力で生きようとすることと従容として死を受け容れることとは対極の姿勢ではないか、と私は最近まで考えていました。
しかし、桃井さんの発言を聞いて、それは決して矛盾しないことに気づきました。
誠実に、真摯に、全力で生きていれば、どんなことでも受け容れられる、そう思ったのです。

それは自らの生命の永遠性を確信したからかもしれません。
自らが愛されていること、いやそれ以上に、自らが愛していることを確信できたら、生死を超えられるのかもしれないとも思えるようになってきたのです。
書いていて、どこかに無理があるのは承知なのですが、にもかかわらず、節子も私も従容として死を受け止めていた一面があったと思い出したのです。
もちろん一方では、受け容れ難いという事実はあるのですが。

節子との出会いと別れは、私に多くのことを考えさせてくれます。
今年もきっと、節子と野思いは私の生きる指針になるでしょう。
そして私も時期が来たら、抗いながらも従容と死を迎えたい。
そう思えるようになってきました。

■856:うれしかった年賀状(2010年1月5日)
節子
年賀状や年賀メールのことを書きましたが、今回一番嬉しかった年賀状はOさんからのものです。
Oさんには節子はあまり会ったこともないし、名前も覚えていないかもしれません。
しかしすぐ思い出すでしょう。

節子がつらい闘病に入る直前の話です。
Oさんからドキッとするメールが届いたのです。

包丁をお腹に当てたのですが、どうしても刺さりません。
お腹の皮膚が反発してくるのです。

正確には記憶していませんが、そんな内容のメールでした。
若いOさんにはあまりにも過酷な状況に陥っていたのです。
都会でひとり暮しをしている若者は、ちょっとしたことで人生が一変します。
湯浅誠さんが「滑り台社会」と名付けたように、本当に落ち出したら止まらないのです。
そうしたことを感じていた私は、何か仕組みをつくりたかったのですが、その仕組みを一緒に創る余裕さえなくなっていることをこの数年実感しています。

メールをもらう少し前に彼から実は相談らしきものを受けたのです。
その時は、節子がかなり悪い状況で、私自身あまり余裕がなかったこともあり、彼の苦境をしっかりと受け止められていなかったのです。
それを諭してくれたのが節子でした。
でも少し遅すぎたのかもしれません。

そのメールを受けた時に、正直に言えば、私は無性に腹が立ちました。
真剣に生きようとしている節子を前に、あまりにも生命をもてあそんでいると思えたからです。
私たちにとって、「自殺」という行為はあってはならないことだったのです。
私はこんなに一生懸命生きようとしているのに、なぜ自殺する人がいるのだろう。
節子は、自殺の報道を見るたびに、そう言っていました。
私もそう思っていました。
誤解されそうですが、「自殺できる人」は恵まれているとさえ当時は思っていました。

ですから、Oさんからのメールにはいささかの腹立ちがあったのです。
しかし、節子を見送った後、自殺は本当は「生きよう」と思っての行為なのだと気づいたのです。
そしてOさんへの対応にいささかの反省の念を持ちはじめました。
もっとしっかりと支えることができたのではないか、と。
Oさんはその後、故郷に戻るという連絡を最後に、連絡が途絶えました。

そのOさんから久しぶりの年賀状が届いたのです。

諸々の整理も決着し、昨年やっと職を得ました。
本年中に必ずお返しに伺います。

お返しとありますが、返してもらうほどのことは何もしていないのです。
にもかかわらず彼はそう言ってくれています。
今年はOさんにもお会いできそうです。
ずっと気になっていたお詫びがようやくできそうです。

■857:愛とは近さの創出(2010年1月6日)
節子
最近の若い世代の研究者の著書にはとても触発されることが多いです。
高名な学者の著作はほとんど語りつくされた抜け殻が書き連ねられているだけですが、そうしたアカデミズムの殻を破った若い研究者の著作にはわくわくする視点を感じます。
残念ながら、私自身の消化能力が追いつけず、その本意をしっかりと心身に刻み込むよりも、先が読みたくなって、上滑りになることが少なくありません。
ですから読後、残るのはわくわく体験と短い文章だけです。
改めて読み直して、初めて少しだけ頭に入ります。

最近読んだ柳澤田美さん(南山大学准教授)の「イエスの<接近=ディスポジション>」で印象に残ったのは、「愛とは近さの創出」という言葉です。
柳澤さんはイエスの福音書などを題材にして、イエスの愛を語ります。
そして、イエスは誰に対しても尋常ではない「近さ」を感じさせることができた人間ではないかというのです。
とても納得できます。

私と節子との距離は尋常ではない近さにあったと自負しています。
私からの節子との距離はほぼゼロだったという自信はありますが、残念ながら節子の私への距離はゼロではなく一部には溝さえあったかもしれません。
人と人との距離は客観的にではなく主観的に存在しますから、どちらかで見るかで全く違ったものになります。
人と人の距離はトポロジカルであって、決して一つの尺度では測れないのです。
しかし、節子にとっても私との距離は、相対的にはおそらく無視できるほどのものだったと思います。
私が節子との愛に確信を持てるのは、相互の距離感の確信からです。

近さが愛を生むのか、愛が近さを生むのか。
柳澤さんはこう書いています。

「愛」とは、急激な「接近」とそれに伴われる情動である。
そして、「接近」された人は、自ら情動に動かされ、対象に「接近」するものへと変容する。
これには異論があります。
これは一つの場合でしかないと思うのです。

キリスト教の世界には3つの愛があります。
アガペ、フィロス、エロス。
私自身は愛を3つに分けることには違和感がありますが、それはともかく、いずれの愛にも「近づく愛」と「広がる愛」があるように思います。
二次元の愛と三次元の愛です。
もしそうであればトポロジカルな、位相を超えた愛があるかもしれません。

昨年の挽歌は、むしろ「生と死」が中心の視点だったような気がしますが、今年は少し「愛」について書こうと思います。

■858:喜びが喜びにならない不幸(2010年1月7日)
節子
友人がジュンの結婚を祝ってくれますが、そのたびに残念ながら気分は沈んでいきます。
ましてや、節子さんも喜んでいますよ、などといわれると、「どうしてそんなことがわかるのか」と言いたい気分にさえなります。
性格の悪さはなかなか直りません。

以前も書いたかもしれませんが、喜びが強ければ強いほど、なぜこの喜びを一緒に味わうはずの節子がいないのか、喜びを受けるべきは私ではなくむしろ節子だろうと思ってしまうのです。
節子がいない今となっては、どんな喜びも私にはほとんど意味がないのです。
なかなかわかってはもらえないでしょうが、この気持ちはどうしようもありません。
心身がそう反応してしまうのですから。

喜びを喜べないのであれば悲しみはどうでしょうか。
そこで気づいたのですが、喜びと悲しみは同じものなのです。
悲しみもまた以前のようには悲しめないのです。

昨日、節子の縁戚の訃報が届きました。
私もよく知っている人です。
節子がいたらきっとふたりで悲しめたでしょう。
不謹慎に聞こえそうですが、悲しみを共有できる人がいないと、悲しみさえ悲しめないのです。

喜怒哀楽を楽しむ感覚を失ってしまうことが、どういうことなのか、なかなかわかってはもらえないでしょう。
もちろん外部から見れば、喜怒哀楽はそれなりに表現しているつもりです。
これもまた心身が反応してしまうようになっているからです。
でもどこかで冷めた自分がいるのです。

こうした状況は私の特殊事情かもしれません。
娘の結婚を喜べない父親は、そして知人の訃報を悲しめない人間は薄情かもしれません。
しかし、心身がそう反応するのですから仕方がありません。

もちろん娘の結婚はうれしいですし、知人の訃報は悲しいです。
しかしどうも以前とは違うのです。
私は自らが決して薄情なはずがないと確信してはいるのですが、いささか悩ましい問題です。

■859:節子さんによろしくお伝えください(2010年1月8日)
節子
武田さんからの伝言です。
今日届いた彼からの年賀状の最後に書き添えられていました。

節子さんによろしくお伝えください。
「武田は元気です」と。

一応、伝えておきます。
事実、武田さんは元気ですが、まあ私と同じで、人生を浪費しています。
武田さんはサロンによく来ていましたが、なぜか私と意見が違う時などは節子と話していました。
そのせいか、私の味方は奥さんだけだったなどという「誤解」さえしているようです。
私たちたち夫婦を私以上に美化して評価してくれていたのが武田さんかもしれません。
私が節子をどのくらい愛していたかを理解していた一人です。
もちろん武田さんの理解よりも、実際には深いのですが、はい。

武田さんも死につながる病気の体験者であり、いまもなそうした病気を抱えています。
しかし、一度ふっ切れたためか、死に対しては実にあっけらかんとしています。
死神に嫌われたのかもしれないほどに、元気なのです。
そういえば、いま気づきましたが、それほどの大病にも関わらず、私はお見舞いをするのも忘れてしまっていました。
まあそれほど元気で、病気の気配など見せないのです。

その武田さんは、しかし節子にいろいろとアドバイスしてくれていました。
武田さんと節子とは文化が違いますから、節子がそれを受け入れられたかどうかわかりません。
たとえば、とても癒されると言って、本田美奈子のアヴェマリアのCDを持ってきてくれました。
節子は、少し悲しすぎると言ってあまり聴きませんでしたが、そうした武田さんの心遣いには深く感謝していました。

死に直面している人同士には奇妙な心のつながりが生まれるようです。
私とは違った節子が、武田さんには見えていたのかもしれません。
節子もまた、私が見ている武田さんとは違う武田さんが見えていたのかもしれません。

武田さんは今も時々電話をくれます。
昨日も長電話でした。
しかしもしかしたら、武田さんに見えている私は、もはやこの世に生きている人間ではないのかもしれません。
昨日も、佐藤さんはこの世の人ではないようだと言っていました。
もしかしたら、その武田さんの判断は正しいのかもしれません。

■860:修さんは私よりパソコンが好きなんですよ(2010年1月9日)
節子
今日もいい天気です。
手賀沼の湖面がきらきらととてもきれいです。
節子はこの光景がとても好きでした。

節子は琵琶湖のほとりで育ちました。
私と出会ったのも、琵琶湖のほとりの大津です。
琵琶湖にも、手賀沼にも、しかしさほどの思い出がありません。
手賀沼公園の近くを歩いていつも思うのは、この手賀沼を節子と一緒にゆっくりと楽しんだことの少なさです。

今から思えば、私はたぶん仕事が好きなあまり、節子が病気になるまで、あまり節子と一緒にゆったりした時間を過ごすことがなかったのかもしれません。
節子の病気が発見されてからは生き方をかなり変えたつもりですし、仕事もほとんどやめました。
それでも私の生き方は、仕事と生活とが重なっていましたから、誰かが相談したいといえば、それに応じていたのかもしれません。
他の人のことよりも私のことを心配してよ、などと節子は絶対に言いませんでした。
私が、誰よりも節子のことを心配していることを知っていたからです。
でも、今から考えれば、私の生き方はあまりよかったとはいえません。

自宅にいても、パソコンに向かっている時間が多かったのでしょう。
節子は誰かが来るといつもそのことを冗談のようにして話していました。
修さんは私よりパソコンが好きなんですよ、と。

もちろんそんなことはありません。
まさか節子がいなくなるなどとは微塵も思っていなかったのです。
ですから最後の最後まで、私は節子に甘えていたのかもしれません。
節子の入院中に見舞いに行っていて、本を読んでいて怒られたこともあります。
本など読まずに、節子の顔をずっと見ているべきだったのでしょうか。
私にとっては、病気であろうと何であろうと、節子が隣にいれば安心していられたのです。
こうして考えていくと、私はとても薄情な人間ではないのかという気さえしてきます。

なぜ、このきらきらと輝く湖面をみながら、節子と一緒にゆっくりとしたティータイムを持たなかったのか。
私の生き方は、やはりどこかで間違っていたように思います。
みなさんはくれぐれも、間違わないようにしてください。

■861:愛は人を強くします(2010年1月10日)
節子
昨夜、久しぶりに映画を観てしまいました。DVDですが。
おそらく節子と一緒には観たことがない映画です。
何しろ西部劇ですから。

私は西部劇が好きだったのですが、節子は全くだめでした。
節子は「殺し合い」の映像が好きではなかったので仕方がありません。
結婚前に何回か一緒に西部劇を見に行きましたが、節子は退屈していました。
こと映画に関しては、好みは全く違っていましたので、映画はあまり行きませんでした。

昨夜観た映画は「大いなる西部」です。
私が何回観てもあきない西部劇は4つありますが、そのひとつです
主演はグレゴリー・ペック。節子の好きなタイプです。
なぜ昨夜観たかと言うと、この挽歌に「愛」について書くことにしたので、この映画を思い出したのです。
西部劇で感動的な「愛」を描いている作品は、この映画しかないでしょう。
この映画は、広大な西部を背景に、大きな愛と憎悪が描かれています。
前にも書きましたが、愛と憎悪はコインの裏表です。

当時話題になったのは、グレゴリー・ペックとチャールトン・へストンの長い殴り合いのシーンです。
カメラを思い切り引いてのシーンですので、音もなければ顔もわからない殴り合いですが、それが逆に迫力を出しています。
念のためにいえば、この2人は決して憎みあってはいないのですが。
憎悪はその前の世代の間にありますが、それを愛が克服していくというのが、この映画のストーリです。
まさに暴力国家として始まったアメリカ社会が、ヒューマンさに気づいていく20世紀前半のアメリカの歴史をなぞっていたように思います。

宿敵関係にある2つの農場が、いまや全面戦争を始めようとしている、まさにその時、グレゴリー・ペック演ずるジム・マッケイは、一方の農場に人質にされてしまったジュリー(ジーン・シモンズ)を救いだすために単身、乗り込みます。
その行為によって、当事者同士にも、そして周囲の人たちにも、その愛が見えてくるのですが、自らの生命を賭した愛の行動は、若い頃、私が憧れた愛です。
愛には生命がかかっていなければ、美しくはなりません。
誠実に生きている人が少なくなった今の退屈な日本社会では無理でしょうが。

その愛は相手にだけ向けられているのではありません。
すべての人に向けられているのです。
すべての人に向けての愛が、たまたま1人の人にフォーカスされるだけの話です。
つまり相手は極端にいえば、誰でもいいのです。
だからこそ、愛は人を限りなく強くします。
エロスの愛でも、フィリスの愛でもなく、まさにアガペ。
言い換えれば、アガペこそが最高のエロスでもあるのです。
誰かを深く深く愛するということは、すべての人を広く広く愛することと同じことだと、この映画は教えてくれます。

この映画を観ていて、私の節子への愛の揺らぎなさを改めて確信しました。
私が愛していたのは節子だけではなく、節子が愛していたすべての世界なのです。
よくわからないでしょうね。
わからない人は是非「大いなる西部」を観てください。
主役ではないですが、パール・アイヴスが最高の演技をしています。
当時、彼にも私は惚れました。
深い憎悪は愛以上に魅力的です。

■862:「目指されるべきひとつの場所」(2010年1月11日)
吉本隆明は、死を「目指されるべきひとつの場所」と語っているそうです。

節子も知っている柴崎明さんが送ってきた「流砂」第2号に掲載されていた中村礼治さんの「死をめぐって」という小論で、このことを知りました。
中村さんは、死を「目指されるべきひとつの場所」というのは、「人は死ぬために生きている」ということと重なる言い方だと書いていますが、私は全く違うような気がします。

それはともかく、吉本隆明は死について次のように定義しているそうです。
中村さんの論文から引用させてもらいます。

私たちは生きている限り、必ず社会や家族の中で特定の位置を占め、その結果、自己や社会や家族について見ることができない部分、判断することができない部分を必然的に持つことになる。
これに対して、死はそうした「できない部分」の消滅を意味する。

難しい定義です。
そこで中村さんは、その定義を解説してくれます。
そしてこう言うのです。

生きるということは、自らの身体が限られて時間に、限られた場所を占め、限られて方向を向いているという、身も蓋もないほど「個別的」なことだ。
死はその「個別性」の否定であり、時間と空間による限定を脱して「普遍性」へ向かうことにほかならない。

普遍性。
捉えようのない不確かなもの。
しかし同時に、常にそこにある確かなもの。

このあたりまでは、私の体験からしても納得できるのですが、それに続いて中村さんは冷酷にもこう言い切るのです。

「普遍性」への移行はまた、限定された存在、欠如ある存在から、限定されない存在、完結した存在へと向かうことを意味する。
生者は欠如ある存在であるが故に、それを埋めるために他者を必要とする。
しかし、死後は完結した存在となり、もはや他者を必要としない。
残された生者は自分たちが必要とされなくなったことを悲しみ、時には恨みさえする。

死者は他者を必要としない!
そんな馬鹿な!
死者こそ他者を必要としているのではないか。
そう思いながらも、奇妙にうなずけてしまう気もするのが残念です。
しかし、節子はあまりに欠如だらけだったので、今もなお完結はしていないでしょう。
まだ私を必要としているはずです。

吉本隆明の死の定義に関しては、もう少しいろいろと書きたいのですが、新年そうそうからのテーマには重すぎるので、しばらくは忘れることにします。
生と死、そして愛は、深く重なり合っています。

■863:こたつにもぐりたいほど寒いです(2010年1月12日)
節子
昨日から震え上がるような寒さです。
地球は温暖化しているのではなく、寒冷化しているという指摘に、むしろ賛成したい気分になるほどです。
午前中、自宅のコタツで丸くなっています。
こういう寒い日は、節子があったかい甘酒やおしるこをつくってくれたものです。
節子がいる生活は、王侯貴族よりもずっと快適でした。
何もいわなくとも、私が何を考えているかお見通しで、それに適度に対応してくれていたからです。
そういう快適な暮らしの余韻は今も残っています。
娘たちが、その文化をわずかばかり継承しているからです。

もっとも節子はコタツがあまり好きではありませんでした。
コタツにはいると何もできないというのです。
節子はともかく動いているのが好きで、コタツにじっとしているのは不得手でした。
いつも何かしていないと落ち着かない人でした。
テレビでドラマや映画を観ていても、何もしないでただ観ているのは時間がもったいないといって、必ず何かをしはじめるのです。
だから長時間拘束される映画などは好きではなかったのです。

私はコタツが大好きでした。
ですから秋風が吹き出すとそろそろコタツを出そうよといっては、節子からまだ早いと駄目出しをいつももらっていました。
その駄目出しをする節子もいなくなったので、昨年も比較的早く和室にコタツを出しました。
和室には節子の写真と節子が書いた書が掲げられています。
ですからそこにいると、何か節子と一緒にいるようになって落ち着くのです。
節子のことを思い出すといささか感傷的になるので、この部屋ではできるだけ思い出さないようにしていますが、この部屋には節子の記憶が山のように詰まっています。
その記憶につつまれながら、コタツの幸せを感じています。
日本にはたくさんの豊かな文化があるのです。
コタツはともかく、節子はそれが大好きでした。
そんな節子が、私は大好きだったのですが。

■864:麻酔が嫌いだった節子(2010年1月13日)
節子
延ばし延ばしになっていたのですが、大嫌いな歯医者に行きました。
歯医者さんでは話もできなくなり、全くの拘束状態にしばし置かれるので私にはとても苦手なのです。

ところで歯医者といえば、節子の麻酔嫌いを思い出します。
最近の歯医者さんは痛みを感じさせないとするのか、いとも簡単に麻酔を使います。
私も節子も麻酔が嫌いです。
とりわけ節子は嫌いで、以前、通っていた歯医者さんは行くと必ず、奥さんは我慢強いですねと言っていました。
麻酔をかけようとした医師に、麻酔はかけないで良いですと言ったのだそうです。
その歯科医では語り草になっていました。
どちらかといえば私もそうですが、節子は大の麻酔嫌いだったのです。
もしかしたら「鈍かった」のかもしれませんが、たぶん我慢強かったのです。

歯医者だけではありません。
節子は実に我慢強く、弱音をはいたり、愚痴をこぼしたりすることがありませんでした。
それは見事と言うべきほどでした。
私とは対照的です。
私はちょっと熱が出ると、今にも死ぬように気弱になるのです。

歯医者に行くと、いつも節子の麻酔嫌い、我慢強さを思い出します。
私の記憶では、その節子が手術の時に弱音をはいたことが1回だけあります。
思い出すのも辛いのですが、2007年4月27日のことです。
その時は手術室に入る時の節子はいつもとは全く違っていました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#0427
その後、同じ手術を何回か受けざるを得なかったのですが、2度と弱音ははきませんでしたが。

節子はもう一度だけ弱音をはいたことがあります。
前に書きましたが、8月のある日、「もうがんばれない」といったのです。
しかし私たちのために、節子は2週間以上、がんばってくれました。
あんなに我慢強い人はいない、と私は思っています。
だから身勝手で、いささか小難しい私の良きパートナーになってもらえたのです。
私がいまあるのは、間違いなく節子のおかげです。
だから今でも頭があがらないのです。

■865:とんでもない失敗(2010年1月14日)
節子
今日はとんでもない失敗をしてしまいました。
講演の時間を1時間間違っていたのです。
聴き手であれば問題なかったのですが、話し手でした。

話すと長くなりますが、狐につままれた感じで頭が混乱したという話です。
講演会は9時半からでしたので、9時に会場に集合するようにと言われていました。
前日、8時前には自宅を出なければいけないと思っていました。
それが朝、目が覚めたら、集合時間を自宅を出る時間と勘違いしてしまっていました。
会場近くの大手町の駅に着いのが9時半、ちょっと早かったなと思いましたが、そこで何かおかしいなと気づいたのです。
まあ後から考えると単なる勘違いなのですが、その時は頭が混乱してしまい、状況が理解できなくなりました。
早目に着いたとばかり思っていたのに、1時間遅れてしまっていたのです。

慌てて携帯電話を調べました。
事務局から電話が入っていると思ったからです。
しかし受信記録がありません。
ますます頭が混乱してきました。
もう講演会は始まっているはずです。
なぜ電話が来ていないのだろうか、日を間違えたのだろうか。

しかし依頼状を見直しても14日の9時半からと書いてあります。
ともかく急いで会場に行こうと走ったのですが、会場だと思っていたところの様子がおかしいのです。
12月に下打ち合わせがあったのですが、そのビルになぜか行き着けないのです。
ビルの守衛さんがいたのでビルの名前を伝えたら、大通りの向こうだというのです。
そんなはずはありません。大通りのこちらのはずです。
申し訳なかったのですが、もう一度、ほかの人に訊きました。
また同じ答えです。
またまた頭が混乱しました。
東京の再開発がひどいとはいうものの1か月でそんなに変わるはずもありません。
もしかしたら異空間にワープしてしまったのかもしれないと、少々、本気で思い出しました。
そういえば歩いている人たちにも表情がありません。
ついに節子の世界に来てしまったか、というわけです。

しかし待てよと思い直し、依頼状をよく読んでみました。
なんと会場のビルは前回とは全く別のところだったのです。
いやはや、です。

じつはそれからもいろいろあって、結局、会場にたどりついたのは講演会が始まってから30分後でした。
みんな心配してくれていましたが、私の前に講演する人がいたので、なんとか間に合ったという次第です。
しかし、このとんでもない間違いで疲れきってしまいました。

長々とすみません。
読むほうも疲れてしまったかもしれません。
実はこの話題から、節子のとんでもない勘違いの話を書こうと思っていたのですが、もう十分長くなったので、節子の話は日を改めます。

一言だけ言っておけば、こうしたとんでもない思い違いは、結婚当初、わが夫婦にはよくあったのです。
だから私たちは、そうしたことがないようによく話し合う文化が育ったのかもしれません。
要するに、私たちは2人ともかなりいい加減な人間だったということかもしれません。
だから40年以上も仲良くやれたのでしょうか。
仲良く夫婦を続けるコツは、お互いのいい加減さがそろっていることかもしれません。
まさに私たちは、同じレベルだったような気がします。

今日は疲れてしまい、こんなことしか書けませんでした。
はい。

■866:青い空(2010年1月15日)
節子
昨日、福山さんからメールが来ました。
「青い空」というタイトルでした。
私が空が好きなのを知っているかどうかは不確かですが、私も、そして節子も、青い空が好きでした。
私たちが、空の青さを意識しだしたのは、エジプト旅行の時でした。
私は、それまで忘れていた、空の青さの深さを思い出しました。
いつか書いたような気がしますが、私は大学生の頃、自分が空の青さに吸い込まれるような気になったことがよくあります。
大学を卒業して以来、それを忘れていましたが、家族でエジプトに旅行した時に、それを思い出したのです。
以来、空を見る習慣が戻ってきました。
無為に空を見ていると見えない世界が見えてくるような気がして、心が落ち着きます。
そういえば、この1週間、空を見たことがありませんでした。
福山さんは、それを知っていたのでしょうか。

福山さんには節子は会ったことはありません。
節子がいなくなってからお会いしたのです。
その福山さんからのメールには智恵子抄の話が出てきて、その後に奥さんのことを思う佐藤さんの想いが思い出されました、と書かれていました。
そのときは、実は昨日書いたような状況だったので、読み流しましたが、今日、湯島に来て、暖かな陽射しの中で空を見ていたら、そのことを思い出しました。
今日の東京の空は深さのない青さです。

青さの向こうに、たぶん彼岸があると私は昔から思っています。
西方にあるのでも地底にあるのでもなく、彼岸は仰ぎみる空にあるのではないかと思っているわけです。
彼岸からは私たちがよく見えなければならないからです

ちょうどいま、その空を大きな鳥が飛んでいきました。
見ているとけっこう鳥が飛び交っています。
空の上から、節子も見ているでしょうか。

空の青さは見れば見るほど豊かです。

■867:従姉妹から長い手紙(2010年1月16日)
節子
私の従姉妹から長い手紙が届きました。
年賀状の返事を出しただけなのですが、そこにちょっとだけ触れていた節子のことから節子のイメージを膨らませてくださったようです。
その従姉妹とは節子はもちろんですが、私もほとんど付き合いがありませんでした。

そういえば、節子がいなくなってから、私はますます親戚づきあいを少なくしてきているような気がします。
私は友人との付き合いはそれなりに出来るのですが、親戚づきあいがあまり得手ではありません。
節子がいるとうまくいくのですが、私だけでは何をどう話したらいいのか、わからないのです。
私は話し好きで、湯島に誰かが来るといくらでも話せるのですが、いわゆる「世間話」ができないのです。
それに親戚の場合、往々にして昔話になりがちですが、その昔話が私にはとても不得手なのです。
全く興味もなければ、意味も感じられない。困ったものです。

ところがです。
節子がいるとなぜか昔話も世間話もできたのです。
節子がとなりにいるだけで、私の世界は変わったのです。
いや節子だけではないでしょう。
女性はみんな、そうしたことが得手なような気がします。
そして、女性は歳とともにさらに社交的になりますが、男性はむしろ偏屈になり引きこもりがちです。
私もそうならないようにしないといけません。
社会と私をつないでくれる節子はもういませんから、自分で自らを開いていかねばいけません。

さて長い手紙に返事を書かなければいけません。
節子がいたら、何を書いたらいいかなあと教えてもらえるのですが、今は自分一人で書かなくてはいけません。

親戚への電話も手紙も、いつも節子にすべて任せていたことの罰を受けているような気がします。
節子はきっと笑いながら心配していることでしょう。
いやはや困ったものです。

■868:遺族が癒される時(2010年1月17日)
阪神大震災から15年目です。
「震災障害者」という言葉がありますが、多くの人たちがまだ癒えることなく辛い思いを重ねているようです。

大阪大学の研究チームが、被災者一人ひとりの復興感を、地震発生からの時間経過を横軸にし、曲線で書き記してもらう「復興曲線」という手法を開発し、その曲線の形から被災者やその遺族が、心の状態をどう改善してきているかを調査しているそうです。
その一部が昨夜、NHKテレビで紹介されていました。
いろいろと考えさせられることがありました。

復興曲線は決して時間に伴って上向いてくるわけではありません。
人によってはむしろ低下傾向を続けているそうです。
「不幸は時が癒す」などということは、理屈の世界の話であって、当事者にとって時はただ一方向に進んでいるわけではないのです。

被災した夫婦が、困難な状況を克服するなかで、絆を強めるどころかその反対の方向に向かっている話も紹介されました。
とても悲しく、とても寂しいのですが、奥さんがぽつんと「むしろ絆が消えそうで・・・」と、それこそ消えるような声で話していたのが印象的です。

私の「復興曲線」はどうでしょうか。
上向いているのか、下降をつづけているのか。
外部から見れば、おそらく上向いているでしょう。
でも、心はそんなに単純ではないのです。
阪神大震災の被災者の人もそうでしょうが、当事者にとってはおそらくそれは終わることのない事件なのです。
もう15年たったというのは、観察者の発想です。
多くの被災者は今なお、震災の世界に生きている、そんな気がしてなりません。

私もいまなお、節子との世界は「過去」のことではなく、「いま」のことという感覚の中にいます。
ですから誰と話していても、どこかに違和感があるのです。

時間はもしかしたら、愛によって動いているのかもしれません。
つまり、愛の変化が時間を生みだすということです。
愛する人がいなくなってしまうと、時間の速度は一変してしまいます。
節子がいなくなってからの私の時間は、それまでと全く違ってしまっているように思います。
これまで使っていた時計は全く役に立ちません。

■868:遺族が癒される時(2010年1月17日)
阪神大震災から15年目です。
「震災障害者」という言葉がありますが、多くの人たちがまだ癒えることなく辛い思いを重ねているようです。

大阪大学の研究チームが、被災者一人ひとりの復興感を、地震発生からの時間経過を横軸にし、曲線で書き記してもらう「復興曲線」という手法を開発し、その曲線の形から被災者やその遺族が、心の状態をどう改善してきているかを調査しているそうです。
その一部が昨夜、NHKテレビで紹介されていました。
いろいろと考えさせられることがありました。

復興曲線は決して時間に伴って上向いてくるわけではありません。
人によってはむしろ低下傾向を続けているそうです。
「不幸は時が癒す」などということは、理屈の世界の話であって、当事者にとって時はただ一方向に進んでいるわけではないのです。

被災した夫婦が、困難な状況を克服するなかで、絆を強めるどころかその反対の方向に向かっている話も紹介されました。
とても悲しく、とても寂しいのですが、奥さんがぽつんと「むしろ絆が消えそうで・・・」と、それこそ消えるような声で話していたのが印象的です。

私の「復興曲線」はどうでしょうか。
上向いているのか、下降をつづけているのか。
外部から見れば、おそらく上向いているでしょう。
でも、心はそんなに単純ではないのです。
阪神大震災の被災者の人もそうでしょうが、当事者にとってはおそらくそれは終わることのない事件なのです。
もう15年たったというのは、観察者の発想です。
多くの被災者は今なお、震災の世界に生きている、そんな気がしてなりません。

私もいまなお、節子との世界は「過去」のことではなく、「いま」のことという感覚の中にいます。
ですから誰と話していても、どこかに違和感があるのです。

時間はもしかしたら、愛によって動いているのかもしれません。
つまり、愛の変化が時間を生みだすということです。
愛する人がいなくなってしまうと、時間の速度は一変してしまいます。
節子がいなくなってからの私の時間は、それまでと全く違ってしまっているように思います。
これまで使っていた時計は全く役に立ちません。

■869:セルフヘルプグループ(2010年1月18日)
昨日引用した番組で、同じような状況に陥った人たちとの出会いが、復興曲線の方向を反転させ、元気を回復してきた人の話も紹介されていました。
人を癒してくれるのはカウンセラーでも専門家でもなく、同じ境遇を体験している人なのかもしれません。
最近は、そうしたセルフヘルプグループの活動が広がっています。

節子が闘病生活を送っていた時、何人かの人から同じ状況にある人たちの集まりへのお誘いを受けました。
節子は参加しませんでした。
節子は同じ状況のある友人知人とは心を通わせあっていましたが、なぜかそうしたグループへの参加には一切関心を示しませんでした。

実は私もまったく同じなのです。
妻もしくは伴侶を亡くした人たちのグループがあることは、私も教えてもらいましたし、ネットでもその存在を知りました。
しかし参加する気にはなれません。

おそらく節子もそうだったと思うのですが、状況は同じでもそれぞれにまったく違っていることを何となく感じているからです。
セルフヘルプグループは、たしかに大きな効用があります。
私もコムケア活動でさまざまなグループにささやかに関わっていますので、その効用は少しはわかっているつもりです。
節子のがんが発見される以前にも、私はがん患者の人たちのグループをささやかに応援していたことがあります。
みんなとてもやさしいのですが、そうでない人との距離を感じました。
中に向かってどんどん強まる絆と外との断絶間の強まり。
そうしたことへの違和感が、私がコムケア活動にのめりこんでいった理由の一つでもあります。
そういう状況の中では、なかなか一緒に問題に取り組むのは難しい。
ですから、そうした状況を変えていきたかったのです。

ところが、自分が「当事者」になってしまうと、そうした断絶感が理解できるようになりました。
問題を共有する難しさを感じます。
わかってなどもらえないからです。
しかし、少し落ち着いてくると、わかってもらえないのは当然であり、それはなにもこうした特別の問題ではないことを思い出します。
人間がわかり合えるのは、わかり合えたと思えるだけの話です。

また長くなりました。
続きは明日書きます。

■870:人の生き方は、伴侶によって決まります(2010年1月19日)
時評編にcaring economicsのことを書いたのですが、書いているうちに節子のことを思い出しました。
私がこの生き方が続けられたのは、やはり節子と出会ったからでしょう。
節子の支えなしには、この生き方は続けられなかったような気がします。

人の生き方は、伴侶によって決まります。
人の生き方が伴侶を決めるのかもしれませんが、結婚した後にもお互いの生き方が変わることもあります。
どちらか一方の生き方に引き寄せられることもあるでしょうが、私の体験では、違った文化を持つ2人が結婚することによって新しい文化が創発されることが多いように思います。
私たち夫婦はお互いから多くのものを学び、それによって自らの生き方を少しずつ変えてきたように思います。
私たちのスタイルができたのは、たぶん結婚してから20年くらい経ってからのような気がします。

血のつながりのない人と人生を共にすることは、実に刺激的なことです。
結婚することによって初めて知りえることは少なくありません。
そんなことなら結婚しなければよかったと思うようなこともないとは限りません。
私たちもたぶんそうしたことがお互いにあったはずです。
しかし2人ともそう考えなかったのは、それも含めて、自らの生き方を新しく創っていこうという思いが、私にも節子にもあったからです。

結婚とはケアリングの関係を深めること、いまから考えると、そんな気がします。
私たちは、ケアしあいながら新しい人生を育ててきました。
ですから、その一方がいなくなることは、とても辛いことです。
ケアとは一方的な行為ではなく、双方向の関係性だからです。
ケアされる人もなく、ケアする相手もいない。
これが私の最近の一番の寂しさなのかもしれません。

caring economicsの本を読んでいて、節子のことをいろいろと思い出しました。

■871:花かご会の活動が始まりました(2010年1月20日)
節子
今日は花かご会の今年初めての活動日でした。
我孫子駅前の花壇で活動をしていました。
昨年末にわが家に花と手づくりカレンダーを持ってきてくださった時に、私は不在でしたので、そのお礼をかねて、年初の挨拶に行きました。

8人の人が今日は作業をしていました。
蛍光色のジャンパーを着て作業していましたが、この服を着て作業していた節子をついついそこに探してしまいます。
この習性は、おそらくいつになっても直らないでしょう。
このジャンパーを着て、自分でつくった花かご会の旗を持った写真が今も節子のベッドの横にはってあります。
メンバーが書いてくれた、それぞれのメッセージも、そのまま残っています。

最後にみんながお見舞いに来てくれた時、節子は今の自分を見せたくないと言って、会いませんでした。
その気持ちが、私にはとてもよくわかります。
会ったとしても、話は出来なかったでしょう。
その時は、私も節子も、この最悪の状況は必ず乗り切れると確信していたのです。
残念ながら、節子は結局、みんなに会えないまま、逝ってしまったのです。

しかし、私は今も会わなくて良かったと思います。
みんなには、元気で明るくて、笑っている節子を覚えてほしいからです。
節子も、そう思っているはずです。

我孫子駅の南口駅前の花壇を見るたびに、節子を思い出します。
そこを守っていてくださる花かご会の皆さんには感謝しています。

節子
節子がいた頃と、みんな何も変わらずに楽しそうに手入れをしていましたよ。
良い仲間ですね。

■872:それぞれの事情(2010年1月21日)
セルフヘルプグループの話の続きを書こうと思いながら、この2日間、うっかり別の話を書いてしまいました。
一昨日書こうと思ったテーマは2つあります。
「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」ということと、「同じ状況にあるようでも実はそれぞれに違うのではないか」ということです。
今日は、この後者の話を少し書きます。

この挽歌を読んでメールをしてきてくれる人がいます。
メールですから相手がどんな人か最初は分かりません。
しかし不思議なことに最初から問題を共有しているような気がして、他人とは思えません。
そういう人からのメールを読んでいると、私が書いているのではないかと思うこともあるのです。
逆にまったく正反対の気がすることもあります。
その中間は、これまではありませんでした。

直接会いに来てくださる人もいます。
面識のまったくない人が突然自宅にやってきたときには驚きましたが、私よりもまだ時間が経過していなかったので、少し前の自分を思いだしました。
ともかく「話したい」のです。
その人は1時間以上、見送った夫のことを話し続けて帰っていきました。
その気持ちがいたいほど伝わってきました。

わざわざ地方から来たのに、一言も「その話」をせずに帰っていった人もいます。
その人とは別の機会にまたお会いする機会がありましたが、その時も一切話はされませんでした。
それもまたわかるような気がします。

会いたいが、まだどうしても行けないという人もいます。
同じようにブログを書き始めた人もいます。
それぞれみんな少しずつ違うのです。
違うのですが、止まっているようで少しずつ動いていることが分かります。
私自身が動いているからそう感ずるのかもしれませんが、人は多分止まってはいられないのです。

そうした人たちがいまもこの挽歌を読んでいるかどうかはわかりません。
他者の独白を聴き続けることは楽なことではありません。
それでも読んでくださる人がいることに力づけられながら、私はこの挽歌を書いています。
私にとっては、このブログこそが見えないセルフヘルプグループ入り口なのかもしれません。
いつかみなさんとお会いできると良いのですが。

■873:わかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話(2010年1月22日)
昨日、書き残したテーマが、「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」ということです。
私と節子はお互いにわかりあえていたと思いますが、絶対に自信があるわけではありません。
節子は時々、修のことがわからなくなるといっていたからです。
しかし、逆にいえば、こういう言葉が出ることこそ、私たちがわかり合えていたことの証であると、私は思うのです。
わかり合えていなければこんな言葉は出てくるはずがないですから。

人はわかり合えるのだろうか。
これは、私の学生の頃の関心事でした。
当時、達した結論は、わかり合えるはずがない、ということでした。
以来、「ディスコミュニケーション」が私のテーマでした。
以来、「コミュニケーションとはディスコミュニケーションの受容」と考えています。
2つの異なる人格、もしくは意味体系が、わかり合えるなどということはありえない話だからです。
日本広報学会を立ち上げた時ですら、私はそう思っていましたので、コミュニケーション志向の強いメンバーとはまさにコミュニケーションが成立せずに、浮いていました。

いささか小難しい話になってしまいました。
こんな話は時評編で書くべきですね。
話を戻します。

人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話。
大切なのは、「わかり合えたと思える」かどうかです。
私が節子とわかり合えたと確信できたのは、会社を辞めると節子に話したときです。
節子は何一つ異論を唱えずに、賛成してくれました。
その時、節子は私を心から理解し、一緒に生きようと思っているのだと思ったのです。
私が深く節子にほれ込んだのは、その時からです。
自分を完全に理解し信頼してくれる人がいるほど幸せなことはありません。
だとしたら、私も節子を完全に理解し信頼しようと思ったのです。
いや思ったといいよりも、自然とそうなったのです。

節子と私が、お互いのことをすべてわかっていたわけではありません。
でもお互いに、お互いのことは、知らないことまで含めて、すべて自分のことと思えていたのです。
だから私たちは、わかり合えていたのです。

節子とのわかり合い度合いが深いが故に、私にとっては、セルフヘルプグループも、全く立場の違う人のグループも、同じなのです。
むしろセルフヘルプグループのメンバーの方に距離を感ずるような気がします。
わかってもらえるでしょうか。

■874:あなたは私の人生の一部(2010年1月23日)
昨日の挽歌に、いろはさんからコメントをもらいました。
それに触発されて、思い出した映画があります。
リチャード・ギア主演の法廷サスペンス「北京のふたり」です。
殺人の罪を着せられたアメリカ人男性ジャックと、古い因習を断ち切って彼の弁護を引き受ける中国人女性弁護士ユイリンとの心の交流を描いた映画ですが、いずれにも「愛する人」へのある「思い」があります。
この事件で、それぞれがその「思い」を断ち切り、人生を変えて行くという話です。
筋書きなどはネットをご覧ください。

いろはさんのコメントには直接つながらないように感ずるかもしれませんが、私の中ではつながっている話です。
今朝、その思い出した部分だけをDVDで観てみました。
少し長くなりそうですが、おつきあいください。

その最後の場面は、一人で帰国するジャックとユイリンとの空港での別れの場面です。
ジャックはユイリンに一緒にアメリカに行こうといいますが、ユイリンは断ります。
そしてこういうやりとりがあるのでウ。
少し長いすが、おつきあいください。

J:それじゃ、これでお別れ? 何もなかったように。
Y:いいえ、それは違うわ。 
  私の生き方は変わった。あなたが私を変えたのよ。
  あなたは私の人生の一部よ、ジャック。前の私とは違う。
J:僕もだ。
Y:私をあなたの人生の一部にして。どこにいても、
J:どこにいても。
J:さよなら
Y:さよなら

こう書いてしまうと味気がないですが、この場面は、あまりできのよくないこの映画の中ではまあまあの出来といっていいでしょう。

いろはさんは、コメントで「愛する人と別れても深く愛し続けている」ということに共感が得られると書いてくれていますが、一度愛した人への愛が続かないのであれば、それはたぶん愛していなかったからだろうと私は思っています。
もし愛していたら、その人はもう自分の人生の一部になってしまっている。
私がこのセリフだけをずっと覚えていたのは、そのことに共感したからです。

私もまた、節子によって大きく生き方を変えられたように思います。
そして節子もまた、そうだったはずです。
だからその生き方からは、決して抜けることはないのです。

■875:余命25年(2010年1月24日)
私の余命はあと25年間です。
永遠の生を得ることの辛さの話はいろいろありますが、まあ25年はそれほど長くはないので、そうつらいことではないでしょう。
あっという間の25年かもしれません。

私は一応93歳まで生きることになっています。
20年ほど前に、ある人(その人も霊能力のある方です)がわざわざ大阪まで行って確認してきてくれました。
その人は、だれと付き合うべきかどうかを決めるために大阪まで行ったのかもしれません。
私はそんなことは知りたくもなかったのですが、信じることにしました。
余命と同時に私のことをいろいろと評価してくれたのですが、それがとても良い評価だったからです。
私は素直なので、私にとって好都合のことは全て信じるタイプなのです。

当時、節子は笑って聞いていましたが、その時に私が確認すべきは自分のことではなく節子のことでした。
しかし、私の頭の中では、私の余命+2年が節子の余命と決めていました。
残念ながらそうはなりませんでした。
それまでの私は、自分で思ったことがほぼ実現してきましたので、まさかそれがはずれるなどとは思ってもいませんでした。
その頃から私の人生は斜陽化し、あまり良いことがありません。
私の「幸運」はすべて節子のおかげだったのかもしれません。
なんだか「夕鶴」のような話になってきましたね。

私の余命を占ってくれた人は、フーチを使ったようです。
余命がわかるフーチなるものがあると知って、それが無性に欲しくなり、無理を言って手に入れました。
むやみに使ってはいけないといわれたので、使わないまましまっています。
使い方の資料がなくなってしまったので、今となっては使えないのですが。
まさに宝の持ち腐れです。

しかし皮肉なものです。
節子のいない人生をあと25年続けるのは、それなりに努力がいるかもしれません。
この挽歌を書き続けるとして、何回になるでしょうか。
思っただけでも気が遠くなります。
やはり余命は知らないほうがいいですね。
短くても長くても、知って良いことはなにもありません。

不謹慎な記事ですみません。

■876:違いがあることと分かり合えること(2010年1月25日)
一昨日、自殺のない社会づくりネットワークの交流会がありました。
参加者の一人が、自殺を考える人と自殺家族の遺族とはまったく違う、という発言をしました。
その発言には思わずうなずいたものの、その違いとは何だろうということが気になりだしました。
この2日間、そのことを考えるでもなく考えていました。

私の基本的な信条は、違いがあればこそ分かり合えるというものです。
だからこそ「大きな福祉」という理念でこの10年近く活動してきたのです。
そして自分では体験もない、自殺や難病や障碍の大きい人たちとも関わってきたのです。
違いはあるが、その根底には通ずるものがある。
そこにこそ焦点を与えていかないと問題は見えてこないのではないか。
それが私の考えでした。

しかし、その発言をされた方は違いがあるが故に分かり合えないというニュアンスでした。
そしてその発言に私の心身は即座に共感したのです。
頭で考えていることと心身で考えていることがどうも違うのです。
この挽歌の多くは、頭ではなく心身に反応して書いています。
なにも考えずにパソコンに向い、前にある節子の写真を見ていると自然とパソコンに入力できるようになるのです。
パソコンに向かう前に、書くことが思い浮かぶこともありますが、その場合も思い浮かんだままをパソコンに打ち込んでいます。
ですから支離滅裂なものも内容がよくわからないものも少なくないはずです。
いろいろと頭で考えて書いたつもりのものも、翌日、もう少しきちんと整理して書けばよかったと思うことが少なくありません。
たとえば一昨日の「北京のふたり」に関して書いた挽歌などは、翌日読み直して、なんだこれはと思うほど、意味不明です。

ですからこの挽歌に書かれているのが、私の心身の反応と言って良いでしょう。
その内容は、やはり「私の気持ちなど誰にもわかるはずがない」という感じで貫かれています。
違いがあればこそ分かり合えるという、私の信条は明らかに私の心身の生の言動に一致していないのです。
恥ずかしながら、そのことにやっと今日、気づいたのです。

先日、「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」と書きました。
その言い方を使えば、時に人は、わかり合いたくないと思うことがあるのかもしれません。
私も、節子を見送った後、そういう気持ちになったことがありますし、いまでもどこかにそういう思いをもっています。
しかし、そういう思いは自らの孤立につながりかねません。
そこから抜け出ないといけないと言うのが、宮沢賢治のメッセージだったのではないか、と突然宮沢賢治が出てきてしまいましたが、そう思います。

この問題は、そう簡単ではなさそうです。
もう少し考えてみなければいけません。

自殺者と遺族の違いは、もちろんきちんと説明できますが、先に書いた「発言者」は、そんなことを言っているのではないことはいうまでもありません。
念のため。

■877:瑞光のような陽射し(2010年1月26日)
今日の空は私好みの底の抜けた青さでした。
それだけで幸せな1日なのですが、節子がいなくなってからは、「幸せ」を感じたことは一度もありません。
人生から「幸せ」がなくなってしまうことは、それなりに寂しいものですが、「幸せ」がなくなったところで生きていけないわけでもありません。
それに時々、幸せのようなあたたかな気持ちに包まれることもありますから、贅沢を言うのはやめましょう。
それに「幸せ」のない生活にも慣れてきました。

最近ちょっと奇妙に滅入ることが多かったのですが、この強い陽射しがそこから私を救い出してくれました。
陽射しを受けながら今日は読書をしていましたが、となりにチビ太が気持ちよさそうに寝ていました。
彼は私よりも生まれはだいぶ遅いのですが、もう15歳ですので、人間として考えるともう後期高齢者なのです。

遅く生まれて早く歳をとる。
節子も私より遅く生まれたのに、早く逝ってしまいました。
節子の時間は、おそらく私よりもゆっくり進んでいたはずです。
にもかかわらず、節子は私よりも先に逝ってしまった。
それがどう考えても理解しがたいのです。

節子の時間と私の時間は違っていたのかもしれません。
人間はみんな同じ時間軸で生きているように思いがちですが、そんなことはありません。
私は子どもの頃からそう思っていました。
それに自分自身においても、時間の速度が状況によって変化することを実感していましたし、時間が必ずしも一方向にむいているばかりではないことも感じていました。
子どもの頃、何かの本でヘリウムガスは双方向に流れるということを読んだ気がしますが、その時から時間もまたそうなんだと思っていたのです。
だからタイムマシンは実現できると、子どもの頃は確信していたのです。

まあそれはともかく、人はそれぞれに自分の時間をもっているのでしょう。
その時間を、異なる人が共有することはできないのかもしれません。
相手に合わせることはできても、どこかでずれていくのです。
節子の時間と共有できていた時の幸せな生き方は奇跡的な時間だったのかもしれません。
それを体験できたことに感謝しなければいけません。

今日の陽射しはなぜか瑞光のようにまぶしかったです。
明日からは元気がでそうです。

■878:最近節子が夢に出てこないわけ(2010年1月27日)
節子
最近、夢に節子が出てきません。
なぜだろうかと考えて、気づいたことがあります。
朝の読経がかなり手抜きになっていたことです。

以前はちゃんと位牌と写真と、時には大日如来を見ながら、般若心経をきちんと唱え、終わったら節子への感謝と私の周辺のちょっと問題にぶつかっている人の平安への祈りをしていました。
ところが最近、ちょっと手抜きで、般若心経を唱えながら、シャッターを開けたり新聞を取りにいったり、チビ太にえさをやったりしながら、まあ「ながら読経」をしているのです。
ながら読経だと時々言い間違えたり、とばしたりすることもあるのですが、まあ節子だからそんなことは気にしないだろうと適当にやっているわけです。
これが原因でしょうか。
しかし、毎朝、きちんと水を換え、明かりもつけてロウソクも点けるのです。
口だけで3日坊主の修にしてはよく続いているとむしろ節子は褒めているでしょう。
私自身もおどろいているほどですから。
ですから、これが原因ではありません。

お供えはどうでしょう。
調べてみたら、賞味期限切れのお菓子と家族みんなが食べないお菓子だけでした。
果物は何も供えていませんでした。
しかし、こんなことも節子は気にしないでしょう。
賞味期限切れなど節子はほとんど気にしませんでしたし、家族みんなが食べないとはいえ、そのお菓子は節子の好きなお店のわが家にはめずらしく高価なお菓子なのです。
まあちょっと長く供えすぎてはいますが。

そういえば、お墓参りも最近は隔週通いになり、それも時々忘れそうになっています。
それに、花代を節約して庭の花ですましてしまうこともあるのです。
しかし、これだってもし私と節子との立場が逆だったとしたら、たぶん、節子もそうなっていただろうなと思います。
こんなことで怒る節子ではありません。

となると、理由は何でしょうか。
夢に出てこられないほど、彼岸で忙しくなったのでしょうか。
まあ節子は、役にも立たない意味のないことでも、好きになると私のことなど放っておいてもやっていました。
それで喧嘩になったこともあるほどです。
またどうでもいいことに夢中になっているのかもしれません。
もしかしたら、朝の読経も聴いていないかもしれませんし、お墓も留守にしているかもしれません。

しかし節子も私と一緒で、飽きっぽかったので、もうじきまた夢に戻ってくるでしょう。
節子と私は、飽きっぽさと無駄なことに夢中になることに関しては、とても似ていましたから。

■879:辛さに身を任せるのが一番いいです(2010年1月28日)
節子
今日は3組の人たちがやってきました。
湯島は最近、にぎわっています。

帰宅したら、久しぶりにYOさんから封書が届いていました。
もう長いこと、年賀状の交換にとどまっています。
なんだろうかと怪訝に思いながら、封を開けました。
飛び込んできたのは、こんな書き出しです。

実は、昨年12月7日に、妻が70歳で、子供3人とその配偶者、8人の孫の一族15人を残して旅立ち、未だ気力が戻らず、ご挨拶が遅れました。昨日が49日でした。

以下に書かれていたのは、私も思い当たる、さまざまなことでした。
そしてこう書かれています。

しかし、妻に先立たれた夫にこんなに辛い思いが続くとは思いもよりませんでした。
妻を思い出すと涙が止まりません。今でも、妻の形見のハンカチを手元に置き、突然あふれ出る涙を拭っています。

最後にこう書き添えてありました。

2008年1月のお手紙に、どのようにお返事したらよいかわからず、しばらくご無沙汰しました。
今になると、貴兄のお気持ち、よくわかります。

今になるとよくわかる。
私もそうでした。
自分がその立場になるまで、伴侶を失った人の辛さがわからなかったのです。
もちろん自分ではわかっていたつもりでしたが、間違いなくわかっていませんでした。
頭で理解するのと当時者として心身で受け止めるのとでは、全く違うのです。

悲しみ続けていてはよくないという人がいます。
そんなことはないでしょう。
辛ければ、思い切りメソメソすればいい。
悲しければ、思い切り泣けばいい。
そう思います。

49日を過ぎると、涙はますます深くなる。
それに抗することなく、涙のままに悲しみを深めるのがいいと思います。
私もそうでした。
いまもなお、悲しみは広がり深まっています。
その先に、きっと節子がいると、私は確信しています。

YOさん
辛さに身を任せるのが一番いいです。
奥様も、きっとそれを望んでいます。
そんな気がしてなりません。

■880:オープンサロンを再開しました(2010年1月29日)
節子
湯島のオフィスで節子と一緒にやってきたオープンサロンを復活させました。
節子がいなくなったので、もうやめようと思っていましたが、スタイルを変えて、手間をかけないサロンにしました。
節子がいた時には節子が参加者のための軽食やおつまみなどを松坂屋などで買ってきてくれていました。
そんなことは私にはできないので、お茶とコーヒーしかないサロンです。

今月5日にそのプレサロンをやりましたが、直前にホームページに書いただけだったので参加者は2人だけでした。
それで今回は今週初めに10人に案内を出しました。
そのおかげで、懐かしいめんばーがやってきました。
初めての人も2人来ました。
おかげで以前のような賑やかなサロンになりました。
サロンの報告はホームページ(CWSコモンズ)に日曜日に書きます。

節子は最初、このサロンがとても嫌いでした。
男性たちの訳のわからない話をきくのは、生活主義者の節子には不得手でしたし、横から見ていて、たぶん「人間の持つ身勝手さ」を強く感じることが多かったのだと思います。
しかしそのうちに、その多様さにもなじんでくれましたし、男性たちの身勝手な言動にも理解を示すようになってきました。
サロン終了後、後片付けをして、2人で帰宅する車中で節子は私にいろんな感想を話してくれました。
そこから学ぶことはとても多かったのです。
参加者へのコメントは、とりもなおさず私へのコメントでもありました。
私の偏狭さや傲慢さを、節子は教えてくれました。
そのおかげで、私の人間を見る目は広がりを持てたのです。

サロンではいつも節子は裏方を務めていました。
その存在に気づいていた参加者は決して多くはなかったと思いますが、その数少ない。一人でもある石本さんが、今日、来てくださったのが、私にはとても嬉しかったです。
オープンサロンの最後の日に、石本さんは節子に花束を持ってきてくれました。
節子はそのことをいまも忘れてはいないでしょう。
もちろん私もはっきり覚えています。
石本さんの頼みなら、何でも引き受けなければいけないと今は思っています。
しかし以前一度断ってしまったことがあるのです。
それが今でも心に痛いです。

■881:石本さんのパジャマ(2010年1月30日)
昨日の続きを書きます。
石本さんの頼みを断ってしまった話です。

節子の病気が発見され、手術することになりました。
それを知った石本さんが、入院中のパジャマを作らせてほしいと言ってきたのです。
石本さんはそういうことがとても得意なのだそうです。
ともかく病院中で話題になるような楽しいパジャマを贈りたいというのです。
私たちはその申し出を受ける余裕がありませんでした。
派手のパジャマは着たくないという節子の思いもあって、せっかくの申し出を断ってしまったのです。
後で後悔しました。
もしかしたら石本さんのパジャマを着ていたら、節子は元気をもっともらえていたかもしれなかったからです。

その話は、その後、節子とも石本さんともしたことはありませんが、私自身はずっと気になっていることです。

ケアとは何だろうか、というような話を時々させてもらうことがあります。
ケアとは「お世話し合うこと」ですが、お世話の仕方は一方向ではありません。
世話されることと世話することは同じことなのだと思います。
石本さんからのせっかくの申し出を受け入れなかったことは、石本さんをケアできなかったことであり、とても非礼であるばかりか、人間性に欠けるとさえ思えます。
その反省を踏まえて、最近は誰かからの好意はすべて素直に受け入れることにしています。
しかも受け入れることが、その人をケアしていることなのだという思いを持ってです。

実はこうした発想を教えてもらったのも、節子からです。
節子は自らが辛く苦しく、希望を見失いがちな闘病生活の中でさえ、友人を気遣っていました。
最初は何と心やさしいことかと思いましたが、そうではなかったのです。
他者を思いやることこそが、自らを元気づけ、自らの生の支えになっていたのです。

他者の親切は、できるだけ受け入れなければいけません。
負担に感ずることなどありません。
人は必ず、その時がくれば誰かに同じようなことをする局面が巡ってくるからです。
巡ってきたら、惜しみなく他者への親切を行いましょう。
他者への親切は必ずまた自分に戻ってきます。
もしかしたら今生ではなく来世かもしれませんが。

■882:「なぜなんだ」(2010年1月31日)
節子
今日はとても残念な話です。
書こうかどうか迷ったのですが、書いておくことにします。

年明けに会うことになっていた友人たちがようやく湯島にやってきたので、一緒に食事をしていました。
いつもながらとても楽しい友人たちで、笑いの絶えない食事でした。
一人は節子もよく知っているFさんです。
ところがその途中で、ある話題につなげて、OJさんがこういったのです。
実は妻が急に亡くなってしまった。
思いもよらぬ一言でした。

まだ54歳の若さです。
階段から落ちて脳しんとうを起こし、その数日後に突然だったそうです。
返す言葉もなく、ただただ無念さを共有しようと思うだけでしたが、うまくいきません。
何か言わなければならないというという思いから出てきそうになる無意味な言葉を押さえるのが精一杯でした。

OJさんが言いました。
「なぜなんだ」という思いばかりが浮かんでくる。

そう、ほんとうにそうでした。
「なぜなんだ」「なぜなんだ」「なぜなんだ」「なぜなんだ」・・・・
その理由がわからないのです。
いえ、理由などどうでもいいのです。
ただ「なぜなんだ」と問い正したい気持ちが起こってくるだけなのです。
誰に問い正すでもなく、です。

OJさんは近親の家族だけで3日間かけて、見送ったそうです。
イベントになってしまいがちな、葬儀にはしたくなかったといいます。
そしてその後で、もう一度、奥様側を中心に告別式をしたのだそうです。
いかにもOJさんらしいです。

まだ「現実感」がないとOJさんは言います。
そうでしょう。
そんなことがあるはずがない、あるはずもないことをどうして信じられるでしょうか。
信じてしまったら、それが現実になってしまうかもしれない。
そんな奇妙な思いがきっとOJさんの頭の中を巡り巡っているのかもしれません。
私はそうでしたから。

OJさんはこういいました。
私にはもう「これ」しかないんです。
「これ」とは最近OJさんが取り組んでいる仕事です。
その仕事がうまくいけば、OJさんは奥さんと一緒の楽しい時間へと生活を移すつもりだったのです。
湯島に来たのは、その仕事の相談でした。
仕事にいささか興味を失っている私は、その仕事に関わらせてもらうかどうか迷っていたのですが、この一言で、私の気持ちは決まりました。
私がいまOJさんにできることは、退屈な言葉や気遣いをかけることではなく、OJさんの取り組んでいる仕事の成功に協力することだと。

一度もお会いしたことのないOJさんのパートナーのご冥福を心より祈念しました。
節子
そちらで出会ったら友だちになってください。
キルトづくりに取り組んでいた人だそうなので、きっとあなたとも相性が合うでしょう。
選んだ伴侶も、私と少し似たところがありますし。

■883:無縁社会(2010年2月1日)
節子
今日は雪が降るそうです。
空が寒々としています。
そのせいでもないでしょうが、とても深刻な相談が朝から寄せられてきて、ようやく元気が出そうになったのに、重い気分に襲われています。
人はどうして世界を見ようとしないのでしょうか。
私もそうなのかもしれませんが、自分の世界観で見える世界しか見えていないようです。
自分だけの世界で生きるのであれば、生きる意味はないようにも思うのですが。
それに、自分の世界だけで生きられるはずがありません。
そういう錯覚をつくりだしたのが、工業社会や情報社会なのかもしれません。

最近、NHKは「無縁社会」をテーマにした報道番組を繰り返し放映しています。
昨日は無縁死の特集でしたが、昨年は3万人を超える無縁死があったそうです。
3万人などとまたいつものように数で処理するのかと腹立たしくなりますが、そこからNHKは何をしようとしているのでしょうか。
まだ懲りないのでしょうか。
最近のテレビは問題提起だけで終わっていますから、問題を拡散するだけの役目しか果たしていません。
それは彼らもまた「無縁社会」の中を生きているからです。
とまあ、こんなことを書いていると挽歌ではなく時評になってしまいますね。

今日、書こうと思ったのは、そうした報道への怒りではありません。
その番組を見ていて、私は全く違ったことを考えていました。
縁とはなんだろうか。

前にも書きましたが、因縁、縁起は世界の創造原理です。
因縁は「存在の関係性」を表していますが、仏教によれば、すべての事象はそれ自体、孤立して存在するのではなく、相互に依存しあって存在しています。
色即是空の世界です。
縁起は「運動の関係性」で、私たちの生でいえば、自分の中にある「因」と世間の中にある「縁」の触発の結果、さまざまな人生が展開するわけです。
縁がないはずがないのです。
孤立死もまた縁によるものであり、無縁仏などはあり得ようはずがないのです。
神に支えられているキリスト教と違い、仏教では人は世界に支えられているのです。

なにやら小難しくなってしまいましたが、
昨日テレビを見ながら、いま欠けているのは「人のつながり」ではなく、「つながりを確信できない文化」ではないかと思ったのです
そして、当然のことながら、節子とのつながりを考えたわけです。

私と節子のつながりはどうでしょうか。
節子はもう現世にはいませんから、私が息を引き取る時には節子はいません。
しかし節子とのつながりを確信していたら、そこに居るかどうかは関係ないことかもしれません。

縁とは「あるもの」ではなく「確信するもの」。
昨日の無縁社会の番組を見ていて、それが私の感じたことです。
「無縁社会」などという言葉を、もっともらしく広げていってはいけないと思いました。

■884:伴侶の役割は暇を一緒に楽しむこと(2010年2月2日)
節子
佐藤さんは暇なのか忙しいのかわからないとみんなから言われます。
節子からもよく言われた言葉です。
無責任ですが、私自身もそう思っています。
ただ「忙しい」というよりも、正確には「時間不足」ですが。

私の実感は間違いなく「暇」なのです。
時間がポコポコと隙間だらけという感じがするのです。
実際にやることのない手持ちぶさたに陥ることも少なくありません。
ところがその一方で、時間がなくて困ることもあるのです。
仕事もしくは「やること」に繁閑があるということではありません。
いつもほぼ同じ状況で、暇と時間不足が同居しているのです。

今も目の前にメモがあり、そこにはやるべき課題が20項目くらい書かれています。
すでに締め切り(約束)を過ぎたものもありますし、締め切り間際のものもあります。
いずれも早くやらなければいけないので、カードにしっかりと書き込んでいるのです。
そうしたことにきちんと取り組んだら、暇などないはずです。
ですが、繰り返しますが、やるべきことをたくさん背負いながら暇をもてあそぶ、おかしな時間を私は生きています。

そうした課題に取り組むのが嫌なのではありません。
みんな自発的に引き受けた課題であり、お金をもらって引き受けた課題ではありません。
いずれも「義務」ではなく「権利」なのです。
それに、取り組めばそれぞれにみんな面白いし、充実感もあるのです。
でも取り組めない自分がいます。

暇と時間不足ですが、最近、その暇のほうの過ごし方がどうもうまくないのです。
変な言い方ですが、むかしは「暇」を楽しめたのに、最近は「暇」の時間を過ごすとなんだか損をした気分になるのです。
その理由は明らかです。
節子がいないからです。

伴侶の役割は、暇を一緒に楽しむことだったのだと、最近気づきました。
節子がいない今、暇の時間はもう不要なのかもしれません。
働き蜂のように、時間不足にならないように、「合目的的」に時間を過ごすべきでしょうか。
いえ、それがいやだから47歳で会社を辞めてしまったのですから、いまさら「合理的」な生活は無理でしょう。
節子がいない暇な時間をどう過ごすか。
さてさて悩ましい問題です。

■885:良い伴侶がいればこその良い仕事(2010年2月3日)
節子
今日は大阪で、「孤独死対策」に取り組んでいる松本さんに会いました。
松本さんは私のホームページ(CWSコモンズ)には度々登場しますが、その熱意に引き込まれて、何か出来ることがあるはずだと思って、お付き合いしていますが、なかなか役立つ方策が思いつきません。
それで時々、大阪や東京でお会いして、話し合いをしているわけです。

一昨日、無縁社会のことを報道しているNHKのことを書きましたが、無縁死はともかく、孤独死を防止するためにNHKができることはたくさんあるように思います。
無縁の生を生きている人もそうですが、多くの独居老人はテレビにつながっているからです。
そんな努力は何もせずに、ただただ観察者として無縁社会を物語化するマスコミに、私はとても腹を立てているのです。
語るよりも、何か実際にできること考えてほしいものです。
そんなこともあって、今回、大阪に来る機会があったので松本さんにお会いしたのです。

松本さんのライフワークは「生活の安全」を守ることです。
松本さんは、松下幸之助さんの奥様のむめのさんから絶大なる信頼を得ていた人です。
そしてまた、むめのさんからたくさんのことを学んできた方です。
松本さんがおそらく一銭のお金にもならない「孤独死対策活動」に取り組んでいるのは、そのためなのです。
残念ながら「現代風の事業感覚」が不足しているために、持ち出しの生活を続けているはずです。

松本さんは明らかに「亭主関白」です。
奥様には私は一度しか会っていませんが、とてもいい方で、この奥様がいればこそ、松本さんは自らの信念に基づいて、納得できる人生を送れているのだと納得しました。
松本さんは、実に良い伴侶を得たわけです。
もっとも奥さんにとって松本さんが良い伴侶だったかどうかはわかりません。はい。
これは、以前、お2人と話をした後で、私と節子のことに重ねながら、感じたことでした。
つまり、節子は私には良い伴侶でしたが、私が節子にとって良い伴侶だったかどうかは確信がもてないということです。
節子が元気で、お2人に会う機会があったなら、おそらく奥さんとは気が合っただろうと思います。

松本さんには応援してくれる伴侶がいる。
それがとてもうらやましく、まあ応援しなくてもいいかと思いたくもなりますが、松本さんと話していると、やはり何かしなくてはとも思います。
さて何ができるでしょうか。
節子に相談したらヒントが見つかるかもしれないのですが。

■886:東寺(2010年2月4日)
今日は節子の65歳の誕生日なのですが、大阪に出かけていました。
いま帰りの新幹線です。
節子がいなくなってからしばらくは、新幹線にも乗れなかったのですが、最近はあまり抵抗なく乗れるようになりました。

節子と最初に新幹線に乗ったのは結婚前でした。
今で言えば、婚前旅行でしたが、行き先は私の両親の家でした。
以来、何回新幹線に乗ったでしょうか。
しかし、東海道新幹線には「仕事」のイメージが強すぎて、あまり好きではありません。
会社時代は、多いときは週に何回か往復することさえありました。
私は新幹線に乗っている時間の使い方が下手でしたので、一人で新幹線に乗るのがいつも苦痛でした。

それに比べて、節子と一緒に乗る新幹線はとても楽しかったです。
節子はいつもおやつを用意していて、頃合よくそれを出してきましたし、話も途切れることがありませんでした。
今から考えるといったい何を話していたのでしょうか。
どうせたいした話ではないでしょうが、話は途切れることはありませんでした。
2人とも小食でしたから、一つのお弁当を2人で分け合って食べたことも少なくありません。
それもまた今となっては思い出の一つです。

京都に着きました。
左手に東寺が見えています。
実は、この東寺はいつか節子と行こうと思いながら行けなかったお寺の一つです。
もう行くことはないでしょうが、そこには空海の曼荼羅配置の須弥壇があるというので、行かずに終わったことがとても残念です。
まあいけばいいだけの話ですが、節子と行こうと思っていて行けなかったところには、行く気が起きてこないのです。
世界を変えてしまうような気がするからです。

話がそれました。
まもなく列車は大津を過ぎて、瀬田川を渡ります。
ここにも思い出が山のようにあります。
私たちがいっしょに暮らし始めた瀬田の神領の家の周辺が、新幹線から見えるのです。
あの頃が私たちの一番輝いていた時代だったのかもしれません。
奔放に、気ままに、少し社会から逸脱して、生きていました。
わずか1年ほどでしたが。

こんなように書き続けていったら、東京まで続けなければいけません。
でもこれから新幹線は琵琶湖沿いに走ります。
ここには思い出が多すぎで、この新幹線の速度では書くのが追いつきません。
それに書き出すと、もしかしたら寂しさがつのりかねません。
このあたりで、今日の挽歌はお終いにして、後は節子と一緒に車窓を楽しもうと思います。
いまは5時少し過ぎです。
自宅に帰ってからブログにアップします。

■887:「死別した人は未婚」(2010年2月5日)
節子
ある企業関係のアンケートに答えていたら、属性の所で「あなたは結婚していますか」という項目があり、そこに、「死別した人は未婚」と答えてくださいとありました。
ちょっと抵抗がありますね。
企業関係のアンケート調査では、伴侶がいるかどうかが問題なのでしょう。
個人の個別事情を消去して量(数)で考えるのが産業の発想です。
すべての人間は「消費者」として扱われるのです。

そんなわけで、私は最近「未婚者」というわけです。
なんだか奇妙な気もしますが、そもそもが「既婚・未婚」という言葉で人の属性を区分するところに問題がありそうです。

「結婚」は一時の体験でしかありません。
そこから始まる生き方は実にさまざまです。
結婚しても何も変わらない人もいれば、結婚によって人生が全く別のものになる人もいます。
「家制度」があり、社会の単位が「個人」ではなく「家」だった時代には、結婚に大きな意味がありました。
しかし昨今の日本の状況では、結婚はさほどの意味を持っていないのかもしれません。
節子と私にとっても、たぶん「結婚」は大きな意味を持っていなかったのです。
意味を持っていたのは、二人で新しい生き方を創りだすことでした。
今様の言い方をすれば、自立かもしれません。
それぞれの親の文化の中で生きてきた人生を、自分たちの人生に変えたのです。
それには「結婚」が不可欠だったわけではありません。
ただ私の場合は、結婚がその大きな契機になったということでしょうか。
あまり考えることなく、結婚を所与のものとして受け止めていた気がします。
それは節子においてもそうでした。
節子も私も、あまり「結婚」にはこだわっていなかったような気もします。
その結果、娘たちには申し訳ないのですが、おそらく「少し変わった家族」になってしまったのです。
娘たちはそれぞれ友だちから、わが家、とりわけ私のことを「少し変わっている」と言われていたようです。
そんなに接点はなかったはずですが、本質を見抜く子どもたちには、わが家の「おかしさ」が感じられていたのかもしれません。

私たちにとってはあまり「意味」を感じていない「結婚」でしたが、結婚した結果、実際には私たちの人生は一変してしまったのです。
結婚する前とした後の私は、ほぼ全く別の人間といえます。
節子がいなくなっても、そういう意味では、何ひとつ変化はありません。
今もなお私は、節子の伴侶であり、節子は私の伴侶なのです。
まあ少し困ることはあるのですが。

またなにやらわけのわからないことを書いてしまいました。

■888:別れのワイン(2010年2月6日)
節子
久しぶりに「刑事コロンボ」をテレビで観ました。
節子とも一緒に観たこともある「別れのワイン」です。
ワインをあまりに愛してしまったワイナリー経営者のエイドリアンの物語です。
エイドリアンを演ずるのは、一度見たら忘れられないドナルド・プリゼンス。
「大脱走」を観て以来、私は彼のファンです。

「別れのワイン」は「愛」がテーマです。
主役のエイドリアンが愛したのはただひとつ、ワインでした。
自分のワイナリーの前で、エイドリアンがこうコロンボに話す場面があります。
「全生涯を通じて、私が真に愛したのはここだけだった」。
皮肉なことに、そこが彼の犯罪を明らかにする場所になってしまうのですが。

ワインに対する異常なほどのエイドリアンの愛情はいたるところに出てきます。
愛したワインは大事にされなければいけないのです。
ワインを大事に扱わないことは、彼には許されないことです。
その彼の愛の強さが、コロンボにも伝わりますが、同時にそれが彼の犯罪を立証することになるのです。

ワインへの愛に比べたら、人の愛などエイドリアンにはわずらわしいだけです。
自分の犯罪を見抜いたコロンボに彼はこう言うのです。
「刑務所は結婚よりも自由かもしれない」
彼の犯罪を知った秘書が、エイドリアンを守るための嘘を言い、代わりに彼に結婚を求めたのです。
私なら刑務所よりも結婚を選びますが、エイドリアンが愛したのは美人の秘書ではなくワインだったのです。

犯罪に絡んで、エイドリアンはワイナリーの空調を2日だけ切ってしまいます。
不幸にもその間、とても暑い日があり、彼の大事なワインは無残にも暑気にさらされます。
それによって味が変わったとしても、それに気づく人はいないでしょう。
しかしワインをこよなく愛するエイドリアンには、その味の変化が許せません。
それに気づいたエイドリアンは、愛するワインを海に捨てに行きます。
愛するものとの別れの辛さ。
しかし愛するものがいない世界では、どこにいても同じなのかもしれません・

「別れのワイン」のストーリーは退屈ですが、エイドリアンとコロンボの会話がとても心に響きます。
最後のやりとりは、何回観てもあきません。
ワインについて勉強したコロンボにエイドリアンがいいます。
「よく勉強されましたな」
それを受けて、コロンボはいうのです。
「ありがとう。何よりもうれしいおほめのことばです」
そして2人は車の中で、コロンボが用意した「別れのワイン」を飲むのです。

愛はいつも別れと同席している。
そのことを、この映画は教えてくれるのです。

■889:「喜びとはより大なる完全性へ移行すること」(2010年2月7日)
「神に酔える無神論者」ともいわれたスピノザは、汎神論者でした。
汎神論と無神論は、結局は同じことです。
そのスピノザの関心は、自己の心身の能力を拡張することでした。
スピノザにとって、「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行すること」だったそうです。
逆に、人間の身体および精神の状態が限定されることを「悲しみ」と呼び、それを極力避けることを勧めたと言います。

以上は、最近読んだ竹沢尚一著「社会とは何か」(中公新書)からの受け売りです。
「完全性」ということが何を意味するか、この文章からだけだとわかりませんが、汎神論者にとってのそれは、存在そのものを素直に受け入れるはずですから、たぶん、すべての存在に完全性を見出していたはずです。
私はスピノザについてほとんど知識はありませんが、「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行すること」という考えには、すごく親しみを感じます。

もう一つ、心に響く言葉がありました。
「人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されている」というのです。
この文脈からいえば、「きわめて多くの部分」はまたそれぞれに「完全な存在」でなければいけません。
本書の著者の竹沢さんはこう言います。

スピノザには、個人が一個の身体のなかに閉じ込められているという発想は存在しない。人間の身体にしても精神にしても、多くの異なる個体から構成される一全体であり、それぞれの個体は外部からさまざまな仕方で刺激されつつも、全体として一貫した本性を保つことができるとかれは考えるのである。

そしてこう続けます。

もし人間が周囲の物から切り離されておらず、しかもたがいに影響しあう多くの個体から構成されているとすれば、なおのこと人間は他の人間から切り離されていないであろう。スピノザにとっては、人間が社会を組み立てるのは自然なことであり、しかもそれを通じて、各人はより大なる喜びを実現できるとする。「もし二人の人間が一致して力を合わせるなら、二人はともども、その単独である場合よりも一層多くをなしえ、したがってまたともども一層多くの権利を自然に対して持つ」(スピノザ「エチカ」)。

これはまさに、私の生き方の基本においている考え方です。
なぜ若い頃にズピノザに出会わなかったのでしょうか。
不勉強を反省しなければいけません。

節子がいなくなってからの「悲しさ」の正体がわかったような気がしてきました。
そして、今なぜ生き続けられているかも。

■890:お茶席での失態(2010年2月8日)
節子
昨日、京都で、伝統文化のテーマに取り組んでいる濱崎さんがやってきました。
濱崎さんのことは覚えているでしょうか。

もう10年近く前になりますが、まだ東大大学院の学生だった濱崎さんは、もう一人の友人と一緒に「伝統の知恵ネットワーク」をつくり活動していました。
その活動にささやかに関わらせてもらったのが、濱崎さんとの出会いでした。
その伝統の知恵ネットワークが中心になって、東大の駒場キャンパスで「伝統の知恵を拓く」という公開シンポジウムを開催しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubank1.htm#okimoto
そのプログラムの中に、沖縄の西表島の染織家の石垣昭子さんと京菓子「老松」の太田達さんの話し合いがあり、その司会を引き受けたのです。
節子も関心を持っていたので、2人で参加させてもらいました。
駒場キャンパスは私には思い出深いところです。

会場には小さなお茶席と和菓子づくり実演の場がつくられていました。
お茶席はちょっと高い席に作られていました。
つまりみんなの前でお茶を頂戴する仕組みです。
私はお茶の作法は全く知りません、
どちらかといえばむしろ反発を感じていたほどです。
ところが濱崎さんは、私たち2人を最初のお客様に選んだのです。
あまりに勧め方が鮮やかだったのか、断る暇もなく、私たちは壇上でお茶をいただくことになりました。
先ずは私からです。
濱崎さんは作法など気にせずに、ともかく楽しく味わってくださいといいました。
その言葉を「字義通り」受けて、私は個人流に味わってしまいました。
みんなの目線を受けながらです。
その後、濱崎さんが茶さじの説明をしてくれました。
どこにでもある耳掻きのような茶さじでしたので、ついつい手に取ってしまいました。

帰り道で節子に怒られました。
先ずはお茶の器の持ち方がひどかったといわれました。
茶さじをもった時にはひやひやしたと言うのです。
歴史のある高価なものだといわれました。
私には100円ショップで売っているものと変わりはなかったのですが。

まあこうしてお茶席では大きな恥をかいたのですが、その後も濱崎さんは私と付き合ってくれています。
そして節子の闘病中には、たぶん老松の太田さんの作品と思われる、節子が食べられそうな夏菓子を贈ってきてくれました。

節子
濱崎さんはいま、太田さんと一緒に「壮大な」プロジェクトに取り組み出そうとしています。
今度は前回のような恥をかかないようにして、私ができることで応援しようと思います。
節子がいたら、もっと心強かったのですが。

■891:女性は男たちの人生を変えてしまう(2010年2月9日)
一昨日、テレビで映画「トロイ」をやっていました。
最後の10分くらいを観ただけですが、いろいろと思い出しました。

古代史劇を私が好きになったのは、高校生のころ観た「トロイのヘレン」でした。
そのリメイクが制作されたというので、私としてはめずらしく一人で映画館に観に行きました。
その前に節子を「ロード オブ リング」などのCG作品に誘ったため、もともとあまり映画が好きでなかった節子の映画嫌いは決定的になってしまい、その種の映画には付き合いたくないといわれていたのです。
たしかにCGが入りだしてからの映画は、私にも退屈になってしまいました。
「トロイ」はホメロスの「イリアス」を下敷きにした作品ですが、陳腐な筋書きになってしまっていました。

節子とのトルコ旅行でトロイ遺跡に行きました。
私のイメージとは全く違っていましたし、不思議なことにあまり「気」を感じられませんでした。
遺跡に立つと、いつもはそこから声が聞こえてくるのですが、一切聞こえてきませんでした。
それに、私の想像していたトロイ遺跡に比べて、あまりに狭かったのです。
シュリーマンを疑いたくなるほどでした。
トロイに限れば、楽しんでいたのはむしろ節子でした。

まあそれはともかく、トロイ戦争もまた「愛の物語」です。
時はいまから3000年以上前の地中海。
当時の覇者はトロイでした。
そこに挑んだのがギリシアです。
そしてこのトロイ戦争を機に、地中海はギリシアの世界になっていくわけです。
ここまでは「史実」ですが、ホメロスの「イリアス」はそれを愛の物語にするのです。
「イリアス」によれば、トロイ戦争の直接の引き金はトロイの王子パリスとスパルタの王妃へレンが愛し合ってしまうことです。
しかし、その背後には神々の愛の争いが描かれています。
人の世界だけではなく、神の世界もまた、愛によって動いているのです。

節子はヘレンのような美女ではありませんでしたが、私にとってのヘレンでした。
パリスがそうであったように、私は節子に出会って人生が決まりました。
それは、やはりパリスの場合がそうであったように、神々によって定められていたのでしょか。
女性は男たちの人生を変えてしまうために神様がこの世に送った存在かもしれません。
節子は、その存在によって、そしてまた、その不在によって、私の人生を大きく変えてしまいました。
男とは、所詮は女性の付随物なのかもしれません。

■892:「夜がこんなに暗いとは」(2010年2月10日)
「愛」と映画の話になると、いくらでも書けますが、次第に話題が節子から遠のいてしまいそうです。
でも私にはすべてがつながっています。
今日は「アラモ」です。
ジョン・ウェイン監督・主演の大駄作の西部劇大作ですが、3か所だけ私の好きな場面があります。
一つは前に書きましたが、アラモの指揮をとるトラヴィスがサンタアナ軍に宣戦布告する場面です。
もっと感動的なのが、アラモの陥落が時間の問題になり、義勇軍たちはアラモから出て戦おうということになるのですが、そのことを一番主張してジム・ボウイが残って戦うというトラヴィスに同調する場面です。
言葉では書けませんが、ここは何回観てもあきません。
実に感動的で、この場面を見るために私は何回か映画館に足を運んだほどです。

残りの一つは「見せ場」ではないのですが、最初観た時から心に残った場面です。
ジム・ボウイが妻の死を知らせる手紙を受け取った後の、クロケット、そしてトラヴィスとのやりとりです。

「夜がこんなに暗いとは」
ジム・ボウイの言葉です。
なぜか学生の頃、この映画を観て以来、この言葉だけははっきりと覚えています。
もちろんその意味など、わかろうはずもありません。
ただただ心に残ったのです。

ところで、私の場合です。
節子がいなくなってから、夜が明るいのです。
前にも書きましたが、夜が不思議に明るく感ずるのです。
節子のせいだと思わざるを得ないほど明るいのです。
但し自宅にいるときだけです。
夜道ではそう感じたことはないのですが、自宅では夜もなぜか明るく感じます。
彼岸の節子が私の中に入ってきたために、夜の帳(とばり)が閉じなくなったのではないかというのが、私の受け止め方です。

この続きは長くなりそうなので、明日また書くことにします。

■893:黄泉と常世(2010年2月11日)
昨日の続きです。
彼岸の節子が私の中に入ってきたために、夜が明るく感じられると書きました。

彼岸は日本では「黄泉(ヨミ)の国」といわれていました。
古事記には黄泉の国のことが出てきますが、あまりイメージはよくありません。
しかし、「ヨミ」とは「ユメ」、つまり「夢」のことだという説もあります。
死が「夢の世界への移住」だと考えると、なんだかとても安堵できるかもしれません。
もっとも私の見る夢は、サスペンスやSFものが多いので、夢の中で安堵出来ることは少ないような気もしないでもありませんが。
私の夢は不思議な夢が多いのです。
彼岸に向かう列車の駅の夢も時々見ます。
それが実にライブなので、目覚めた時にその駅名が実際にないかどうか、ネットで調べたことさえあります。
銀河鉄道に乗ったこともあります。

「ヨミ」は「ヤミ(闇)」からきたのだという説もあります。
そうなると夜は彼岸への入り口です。
感じとれる人には、彼岸からの導きの光が感じられるかもしれません

「ヨミ」は「ヨモ」(四方)からきたという説もあるようです。
生活圏外を表わすという解釈だそうです。

彼岸につながる言葉には、もう一つ「常世(とこよ)」があります。
概念的には、このほうが彼岸に重なります。
常世は、永久に変わらない世界であり、そこには因果律も時間軸もないとされます。
移ろいやすい「現世」に対峙する世界です。
「常世」は「常夜」とも表記されます。
夜の状態でしかない世界であり、そこから、「常世」は死者の国や黄泉の国とも同一視されるわけですが、折口信夫は、「常世」こそ海の彼方、または海中にあるとされる理想郷だとしました。
それらは別に食い違っているわけでもなく、彼岸を理想郷と考え、夜(暗闇)を心の平安を与えるものと考えればいいだけの話です。

しかし私たち、現世を生きるものには「闇の光」を体感できないためか、「夜」の「闇」は不安を与えるものです。
なぜそうなのか、それを考えていくと、生と死に秘められた謎の一端が見えてくるような気がします。

この挽歌も、なんだか小難しくなってきていますが、彼岸が垣間見えたような気がしている私にはいささか書きたい気分のテーマではあるのです。
でも今回は、こんなところでやめておきます。

■894:「死」が表情を持ち出した(2010年2月12日)
節子
こちらはとても寒いです。
昨日は和室でコタツに入っていても、手がかじかむ感じでした。
父の命日だったので、お墓参りにいくつもりでしたが、あまりの寒さにやめました。
まあ薄情な息子です。
節子がいたら間違いなく行ったでしょうが、一人だとどうも怠惰さに負けてしまいます。

父の葬儀の日もとても寒い日でした。
父が亡くなったのは、昭和62年の2月11日。
13年前の今日が通夜でした。
とてもとても寒い日でした。

私たちは途中からの同居でしたが、節子は私の両親にとてもよくしてくれました。
実の息子の私よりも、両親は節子を信頼していたでしょうし、心安かったでしょう。
私はあまり良い息子ではありませんでした。
私の娘たちにもそう見えていたようです。
しかし私にとっては、自分よりも妻が両親に好かれていることはとてもうれしいことでした。

父を見送った時、私はどんな思いだったか、今では全く思い出せません。
高齢者の「死」に対しては、どちらかというと素直に受け入れられるタイプでした。
人は生まれ、生を営み、死んでいく。
そうした自然の流れに自らも身を任せていましたし、死に対する拒否感はありませんでした。
薄情なのかもしれませんが、今も心のどこかにそうした「冷淡さ」があるような気がします。
自己弁護的に少し良くいえば、「大きな生命」を感じているので、個々の死にはさほどの意味を感じていなかったのです。

しかし、父の死は私にいろんなことを教えてくれました。
人はつながりの中で生きていることを改めて実感したのも、そのひとつでした。
またこの頃から、私の節子への傾倒は強まったような気がします。
そしてその1年後に会社を辞める決意を固めました。

そうした私の「死」に対する感覚を変えたのは、身勝手なのですが、節子との別れです。
「死」と「別れ」は違うものかもしれませんが、節子を見送ってから、「死」の感じ方も変わったように思います。
「死」が表情を持ち出したと言ってもいいかもしれません。

節子は私の両親と何を話しているでしょうか。
まあだいたい想像はできますが。

■895:伴侶がいなくなることの戸惑い(2010年2月13日)
湯島のオフィスはいま、「自殺のない社会づくりネットワーク」の事務局になっています。
そのため、時々、知らない人から電話がかかってきます。
先日、電話に出た途端に押し殺すような女性の声が耳に入ってきました。
搾り出すような声で、同じ状況の人と話したい、というのです。
自死遺族の会のことをお伝えしました。
その方は電話されたでしょうか。
いつもこうした電話を受けた後は心が残ります。
いっそ、ここで相談対応をしたいという気にもなりますが、その自信はありません。
電話してくる人の気持ちが痛いほどよくわかり、引き込まれそうになりますから、相談者にはたぶん向いていないでしょう。

節子
伴侶を失うことの辛さは、その原因によらず、たぶん歩き方がわからなくなることです。
彼岸と此岸の違いはあっても、節子もそうだったかもしれません。
逝った者と逝かれた者とは、つねに相似的な関係ですから。

原因が何であろうと、またたとえ離婚などで相手が元気であろうと、伴侶との別れの辛さは変わらないのではないかという気がします。
但し、名実共に伴侶になっていた場合のことですが。

原因の所在がどちらにあろうと、意味を持っているのは「伴侶がいなくなった」という、その一事だけだからです。
しかし原因が「自殺」の場合は、突然すぎるために、歩けないどころが「じっとしていられなくなる」のかもしれません。
数人からの電話しか受けていませんが、そんな気がします。
にもかかわらず、最初の一声を聞いただけで、何か通ずるものを感じるのは不思議です。
時間がたつと余裕ができてくるためか、自分をカバーできますが、その直後は素直な反応がそのまま出てしまいます。
だから、声の表情の後ろが感じられるのです。
人の脆さ、人の哀しさ、人の優しさ。
それはたぶん体験した者のみが、改めて覚醒させられる、人間の本質かもしれません。
その心身が維持できる社会であれば、みんなどんなに幸せに過ごせることでしょうか。
それこそが、まさにユートピア。

そうした電話のたびに、私の心身は震えます。

■896:「アタラクシア」(2010年2月14日)
先日、スピノザのことを書きましたが、スピノザの哲学は「喜びの哲学」です。
彼のメッセージは、決してストイックではなく、むしろエピキュリアンを感じさせます。

エピキュリアンは、時に「快楽主義者」と訳されるために誤解されがちですが、エピキュリアンにとっての「快楽」は「心の平穏」です。
魂(心)の平穏を意味する「アタラクシア」こそが、エピキュリアンの目標でした。
元祖エピキュリアンの、古代アテネのエピキュロスは、感覚による瞬間的な快楽は後に苦をもたらす。真の快楽とは苦痛をもたらさない状態であり、魂の安らぎ(アタラクシア)がそれである、としたのです。

彼らにとっての最大の敵は「死」だったといいます。
「死」は、不安を与え、心を乱すものだったのです。
エピキュロスも、その例外ではなかったようです。
そこで彼は、「万物が原子で構成されている以上、死もその分解過程にすぎない」というという原子論的自然観を受け容れることで、死への不安を克服したといいます。

心がかき乱されることなく、穏やかさを保持するためには、どうしたらいいでしょうか。
世事から遠のくのがいいかもしれません。
事実、エピキュロスは、隠れて生きることを志向したようです。
つまり、ストア派以上にストイックな生活をしたわけです。

竹宮惠子さんのSF漫画に『地球へ…』という作品があります。
物語は1000年以上未来の惑星アタラクシアから始まります。
この作品では、「アタラクシア」はかつての地球の植民惑星の名前です。
『地球へ…』を読んだのは、もう30年近く前のことです。
女性漫画家のスペースSFの時空間感覚は男性作家のそれとは違い、極めて想像的です。
それが私には魅力的でした。
もっとも私が読めたのは竹宮さんと萩尾さんの作品だけでしたが。
私が「アタラクシア」という言葉を知ったのは、その作品でした。

アタラクシアでは、人の人生はコンピュータによって完全に管理されています。
つまり主体性のない家畜のような人生です。
そこにあるのは間違いなくアタラクシア、つまり「心の平穏」です。
その状況を脱するべく、一人の若者がたちあがります。
後はよくあるストーリーです。

立ち上がった若者には「心の平穏」はあるでしょうか。
『地球へ…』は、アタラクシアからテラに向かう物語なのです。
いいかえれば、「心の平穏」から「生きる喜び」へ、です。

節子を見送って以来、私はそのいずれをも目指せずにいます。
アタラクシアとテラの間に、何かがあるような気がしてはいるのですが。

■897:無明住地煩悩を超える(2010年2月15日)
勝鬘経に、「一切の煩悩は、皆無明住地を因とし、無明住地を縁とす」とあります。
住地とは、ある特定の対象に心を止めることです。
心を止める結果、それに束縛されて心身は自由を失います。
そのため、生きている世界が見えなくなってしまう。
つまり、そこから煩悩が始まります。
無明とは「明になし」、つまり迷いです。

江戸初期の沢庵禅師が武道の極意を語るのに、この言葉をつかったようです。
刀で立ち向かうとき、相手の切太刀見て、それに合わそうとすると、肝心の自分の太刀裁きができなくなってしまい、結局は相手に主導権を取られてしまうということです。
相手の動きに対応しようとすれば、決して主導権はとれません。

特定の「一事」にこだわらずに生きる。
これが私の目指す生き方の一つです。
それはとても難しいことで、なかなか実現できませんが、できるだけそうありたいと考えています。
そのために専門性もなければ、成果もあがらないというわけですが、自分としてはまあそれなりに納得できる生き方です。

ところが先日、改めてこの言葉に出会いました。
私にとっては全く別の次元だと思っていたのですが、私もまた「節子」に心を止めすぎて、世界が見えなくなっているのではないか、と思い出したのです。
結論を先に申し上げれば、決してそんなことはないのですが、無明住地煩悩とどこが違うのかを、自分なりに納得しておきたいと思い出したのです。

華厳経にインドラの網という話があります。
インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことで、現代風にいえば、ホロニックな世界観です。
それらを組み合わせると、こういう言い方ができます。
ある特定の対象に焦点を合わせると、そこから世界が見えてくる。

ここで重要なのは、「心を止める」のではなく「心を対象に入れ込む」ことです。
「入れ込む」ことの難しさは、私はこれまでも何回か失敗的に体験しています。
しかし、もしかしたら、今回は成功しそうな気もしています。
「節子」に心を入れ込んで、無明煩悩から抜け出ることができそうな、そんな気が最近しだしています。

■898:タッタ(2010年2月16日)
昨日は「心を対象に入れ込む」ということを書きました。
それこそが「住地解脱」への第一歩だと考え出したからです。
対象の向こうに広大無辺な彼岸が見えてくるかもしれません。
まだまだその心境には程遠いですが、そこで思い出したのが「タッタ」です。

タッタは、手塚治虫の作品「ブッダ」に登場してくる人物です。
タッタは手塚治虫が創りだした架空の人物ですが、この作品の方向づけをするほどの重要な役割を果たしています。
彼はインドではカーストからさえも外されたバリア(不可触賎民)の出で、人間というよりも動植物の中で育ったためか、子ども時代には動物に乗り移ることができました。
どんな動物とも顔を見合わせることで、相手の心の中に入り込めるのです。
私ももしかしたらできるのではないかと思い、わが家の犬のチビタに何回か試みましたが、成功しませんでした。
やはり人間の世界に長くいるために生命が閉ざされてしまっているのでしょう。
タッタも、成長するにつれて自分を自然と一体のものとみなすことができなくなり、その力を失ってしまいます。

このタッタの能力がナラダッタの悲劇を生み出します。
ナラダッタも架空の人物ですが、タッタの友の生命を救うために、タッタの能力をつかって動物を酷使し、殺生をしてしまいます。
そのため、師である聖人アシタは、ナラダッタを畜生道に追い落とし、一生をかけて罪を償わせるのです。
人間の視点から考えると、畜生道ですが、子どものタッタの視点に立てば、そこは豊かな理想郷かもしれません。
ナラダッタが、そこで自然の一部であることに気づくのであれば、畜生道とは理想郷にほかなりません。
仏教には大きな矛盾が至るところに込められていますが、それは後世の無妙な僧侶たちが余計な粉飾を付け加えたからだろうと思います。

タッタの話は、いろいろなことを考えさせてくれます。
人が成長するとは自然の存在であることを捨てることなのか。
天真爛漫で天使のような無垢の子どもが、なぜ小賢しい大人になっていかねばいけないのか。
人の一生とは、「解脱」とは全く逆のベクトルをもっているのではないか。

時評編で昨日書きましたが、今、エレン・ケイの「児童の世紀」を読み出しました。
解脱のヒント、社会変革のヒントは、「子ども」にあるのかもしれません。

挽歌のつもりが、なんだか違う方向の内容になってしまいました。
まあ節子は許してくれるでしょう。

■899:時間は愛の関数(2010年2月17日)
節子
先日、お餅をあられにしたものをユカが炒ってくれました。
それを食べていたら、突然、歯に衝撃が走りました。
何が起こったかわからなかったのですが、少しして歯が真っ二つに割れてのに気づきました。
歯医者さんにいって、処置してもらいながら、不幸は思いもかけずに突然やってくるものだと思いました。

節子との別れも、突然でした。
客観的には決して突然ではなく、予想されていたことでしょうし、医師にとっては突然どころか予想以上に延びていたかもしれません。
私たち家族も、そうしたことは知っていました。
しかし、にもかかわらず「突然」だったのです。
愛する人との別れまでの時間を、無限に長く設定してしまっていたのです。
そんなことはありえないからこそ、無限の時間になるのですが。

節子と一緒の時間は、驚くほど速く過ぎました。
愛する人との逢う瀬は、いつも短く感ずるものです。
現在も過去も、愛する人との時間の進み方は速いということになります。

こういうことです。
愛する人と共有する時間は、過去と現在は速く過ぎ、未来は無限にゆっくりしている。
愛は時間を変化させるのです。

また訳のわからないことをと節子に言われそうですが、時間は愛の関数なのかもしれません。
もしそうであれば、時間はコントロール可能なものになるからです。
愛が深ければ時間は短くなる。
時間を長くするには愛を押さえればいい。
愛のない時間は確かにゆっくりと進みます。

節子がいなくなってから、時間の経過があまり感じられないのは、愛が具現化されていないからかもしれません。
愛がゼロなら時間もゼロというわけです。

なんだか少し混乱してきました。
しかし、愛と時間の関係はもう少し考える価値がありそうです。
まあ、こういう話は節子の好みではなかったのですが、それでもよく話し相手にはなってくれました。
生活を長年共にしていると、夫婦は言葉以上のものをコミュニケーションしあえるようになります。
言葉は、その一部でしかありません。
言葉ではわけのわからない話をしていても、きちんと何かが共有でき、何かが生まれるのです。
コミュニケーションもまた、愛の関数なのかもしれません。

■900:雪化粧(2010年2月18日)
今日は雪です。
時評にも書きましたが、わずかな雪が積もるだけで世界の風景が一変します。
節子も私も雪が好きでした。
なんだかとてもわくわくするからです。
それに、雪の思い出もいろいろとありました。
節子が育った滋賀の湖北も、雪がよく降りました。

節子の父の葬儀も雪の降る寒い日でした。
節子の姉の結婚式も雪が降っていました。
湖北の文化になじんでいなかった私は、節子の言うままにそうしたいろいろな体験をさせてもらいました。
文化の豊かさを教えてもらったのも、いつも節子からでした。
節子はいつも私が恥をかかないように、気をつかってくれました。
ですから不案内な状況に置かれても、節子が近くにいる限り、私はいつもどおりの気楽さでいることができたのです。
私にとっては、節子は実に心強い伴侶でした。

あまり意識はしていませんでしたが、今になってはっきりわかるのですが、そうした体験の中から私の節子への過剰な信頼感が生まれていたのだろうと思います。
どんなことがあっても、節子がいれば大丈夫、だという信頼感です。

しかし現実の節子は、実は頼りない存在でした。
アドバイスだって、かなりいい加減だったのです。
でも不思議なことに、そんな頼りない2人が一緒になると双方共に自信が持てるのです。
人はやはり、その文字の通り、2人でセットなのかもしれません。

外の雪景色を見ていると、節子と歩いた大山や猪苗代や奥入瀬渓谷を思い出します。
しかし、なぜか細部が思いだせません。
みんな夢のような思い出で、本当にあったことかどうかさえ危ういような思い出です。
節子は、本当に実在したのだろうか。
そんな気さえしてしまいます。

彼岸も雪でしょうか。
寒がりだった節子を温めてやりたいと、心から思います。