妻への挽歌(総集編4)
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目次

■901:天上の音楽(2010年2月19日)
たとえばCDで音楽を聴いていると、突然に「落ちる」ことがあります。
音楽は突然に人を現実とは全く違う世界に引き込みます。
「情」の世界に入り込んでくるので、防備しようがありません。
突然に節子のことを思い出して、時間の流れが止まるのです。

普段はそうした世界に迷い込まないように、思い切り前を向かって進みます。
できるだけ寄り道はしない。
余計な情を起こさない。
ともかく「知の世界」と「論理の世界」を踏み外さないようにしています。
もちろん「情の世界」もたくさんありますが、その世界はいつも「対象としての情の世界」あるいは「知としての情の世界」です。
最近は、それを使い分けることができるようになってきました。

節子がいなくなってからの私の世界は、砂漠のような感じです。
それに気づいたのは1年以上経ってからです。
砂漠だから情がないわけではありません。
でもちょっとこれまでの緑の世界とは違うのです。
ただ一面の砂なので座標もないし、道もない。
寄り道しようにも寄り道できない。
ただ前に向かって、歩くしかない。
そんな感じです。

突然にまた、おかしなことを書き出したと思われそうですが、先ほど、ある音楽が心に深入りし過ぎてきてしまったのです。
それにしても、音楽はどうしてこうも心に響くのか。
驚くほどです。
「天上の音楽」という言葉がありますが、まさに天上界につながっているのかもしれません。
節子がいたころとは、その聴こえ方が全く違ってしまった。
そのつながりが、私にも感じられるようになったのかもしれません。
現世の歓びを感じさせるものから彼岸を感じさせるものへと変わったのです。

私の心の世界が広くなったからでしょうか。
感度が高まったからでしょうか。
とても懐かしく、とても哀しく、心を揺さぶります。
節子と一緒に聴いていたころは、全く違った音色だったはずなのですが。
アンドレ・ギャニオンのCDです。

■902:節子はいつも主役でした(2010年2月20日)
昨日、いささか奇妙な挽歌を書いてしまったのですが、真夜中に目が覚めて気づいたことがあります。
3年前、家族みんなで房総に旅行したのが今日だったのではないか、と。
ホームページで調べてみたら、やはりそうでした。
もしかしたら、昨夜の音楽からメッセージは節子からだったのかもしれません。

3年前の今頃は、家族はみんな精神的に少しダウンしていました。
そんななかで一番元気だったのは、おかしな話ですが、たぶん節子でした。
節子のすごさは、どんなときにも元気なことです。
私もややそうなのですが、これは私たち夫婦の特徴かもしれません。
2人ともかなり楽観的なのと先のことをあまり考えないタイプなのです。

当時、私もたぶん元気だったと思いますが、少し疲れていたかもしれません。
節子に比べたら、私はあんまり根性がなく、すぐ疲れるのです。

南房総では2月になれば、もう花が満開です。
それで南房総が選ばれたのですが、節子も花を満喫する旅になりました。
その旅で買ってきた花が今も咲いています。

節子はそのころはもうかなり身体が不自由でしたし、食事はあまり食べられませんでした。
それでも旅の主役はいつも節子でした。
どこにいってもはしゃいでくれました。
鴨川シーワールドではかなり辛そうでしたが、家族みんなと一緒に水族館も見て回りました。
食事も食べられないの、節子が主役でした。
ともかく節子は、わが家での行事ではいつも主役なのです。

その節子がいなくなって、わが家の行事も最近はいささかさびしいです。
いつも陽気で笑っていて、ちょっとお茶目な節子がいないと、世界はこんなにも変わってしまうものかと思います。

あの、夢のような南房総の旅から3年目。
あの時は、まさかそれが最後の家族旅行になるとはだれも思っていませんでした。
人を愛してしまうと、見えるものまで見えなくなってしまうのかもしれません。
でもたぶん、私とは違い、節子はそれが最後の旅だと知っていたのでしょう。
だからあれだけ明るく振舞ってくれたのです。

ほんとうに最高の女房でした。

■903:高次の世界への目に見えない入り口(2010年2月21日)
一昨日の音楽の話の続きを書きます。

ベートーベンは、「音楽は高次の知識の世界への目に見えない入り口である」と語っていたそうです(コリン・ウィルソン「アトランティスの遺産」)。
その言葉を紹介している、ウィルソンは、「高次の知識の世界」に挑んだことで有名ですが、彼は「高次の知識とは、魂の深みからわき出てくる知識、特定の「方法」に頼らずに得られる知識」だとしています。
人の心に直接入り込んでくるような知識です。
それは辞書や文献で調べられるものでも誰から教えられるものでもありません。
自らが直接に会得するものです。
「秘儀的」といわれるものがその典型的なものですが、「秘儀」などいう仰々しい言葉を持ち出す必要もなく、私たちの日常生活においてもしばしば体験するものです。
ただ多くの大人たちや近代教育に洗脳された人たちには、気づかれることは少ないかもしれません。

ウィルソンはまた、ベートーベンは、音楽が知識を表わしているということには何の疑いも持っていなかった、と書いています。
たしかにベートーベンの「田園」や「運命」を聞いていると、さまざまな物語が目の前に展開されると同時に、強いメッセージを感じます。

私が遺跡に感じるのも同じようなことです。
絵画や彫刻もそうかもしれません。
そうしたものとの出会いの中で、人は現世を超えたものと出会っているのかもしれません。
寺院や教会、神殿や神社はそうした出会いの場なのかもしれません。

しかし仕組みや媒体があっても、肝心の私たち一人ひとりに、そうした感受性や受容の姿勢がなければ、見えるものも見えなくなります。
単に「音楽的な感動」で終わってしまうかもしれません。
音楽が開いてくれた「彼岸への入り口」から、自らを超えた魂の世界を感じられるように、もっともっと心を研ぎ澄ませないといけません。
雑事の中で、なかなかそうはならないのですが。

■904:節子の生を継ぐ者(2010年2月22日)
節子
最近、「ケア」ということを改めて考え直しています。
この世界に導いてくれたのは節子ですが、節子との辛い体験は私にそれまでとは違ったケアの世界を広げてくれたように思います。

最近、読んだ「アクト・オブ・ケアリング」という本は、これまでの私の生き方を元気づけてくれる本でしたが、その本のことを数回、書きたいと思います。
いつも節子のことを思い出しながら読んでいました。
ちなみに、この本を読む気にさせてくれたのは最近出会った看護学の教授です。
その人は、まさにナーシングの象徴のような人で、不思議な人です。
なぜこの人が私の前に現れたのか、これも不思議な気がしています。

その本に、あるカトリック神学者の言葉が出てきます。

「信仰を持つものにとって、死は決して不条理な生の無意味な終焉を意味するわけではない。信仰を持つものにとって、この生の意味は決して純粋な内在性のうちに達成されるものではなく、常に超越的世界に向けて信仰者を導くものである。従って、死は決して最終的な崩壊ではなく、究極的な実現であり、望みのない不条理ではなく、生の意味の決定的な開示なのである」。

私はキリスト教には大きな違和感をもっていますが、この言葉は心に響きました。
「死は最終的な崩壊ではなく、究極的な実現であり、望みのない不条理ではなく、生の意味の決定的な開示である」。
難解なメッセージですが、何となく最近、私もそんな気がしてきていたからです。
しかし、この文章の主語である「信仰を持つもの」とは誰なのでしょうか。
例えば、節子なのか私なのか。
節子も私も、キリスト教ではありませんでしたが、信仰を持っていたといえると思います。
今日の時評にも書きましたが、私は日本人の多くは信仰心が厚いと思っています。

節子にとって、しかし死は「不条理」な出来事だったことは間違いありません。
節子にはやり残したことがあまりに多かったでしょう。
愛する家族や友人と会えなくなることも、さびしかったに違いありません。
にもかかわらず、私は節子が見事に生き抜いたことを最近少しだけ感じるようになれました。
そして私に、生きることの意味を改めてしっかりと気づかせてくれたのです。
しかし、その気づきについて話し合える伴侶が私にはいません。
おそらくその気づきは、長い時間をかけてケアしあってきた伴侶であればこそ話し合えることなのです。

「究極的な実現としての、そして生の意味の決定的な開示としての死」を分かち合える伴侶が、私にはいないことがとても残念です。
私にできることは、節子の生の意味をもっともっとしっかりと受け止めることななおかもしれません。
節子の生を継ぐ者は、娘たちではなく、私なのですから。
そしてたぶん節子の生を終わらせられるのも、私なのでしょう。

■905:愛は関わりつつ生きること(in-living)(2010年2月23日)
神学者トーマス・デュペイは、「愛はケアをすることである」と言っているそうです。
また、ケアすることは「関わりつつ生きること(in-living)」とも言っているそうです。
いずれも昨日、紹介した本「アクト・オブ・ケアリング」で知ったことです。
この二つをつなげるとこうなります。
「愛は関わりつつ生きること(in-living)」

in-living。
この言葉が示す意味はなんなのでしょうか。
ネットや辞書で調べましたが、わかりません。
相手の生に入り込むような感じでしょうか。
もしどなたかそのニュアンスをご存知の方がいたら教えてください。

生の大きなつながりを感じることが、私のケア(ケアリング)理解の基本です。
そうした意識があれば、あえてケアなどという言葉を使うまでもなく、気がつくと周りにあるすべてのものがいとおしく感じられます。
しかしそうした「愛」の広がりは、時に世界を平板に感じさせ、自分の存在を希薄にします。
愛が相対化されて、実感できなくなるのです。
そうした時には、無性にある一点を強く愛したくなり、時には愛されたくなります。
その相手が、節子でした。
そうした時、節子は何の説明もなく、全面的に受け入れてくれました。

私自身は昔から「愛されること」にはあまり関心はなかったのですが、自らが愛されていないと他者を愛することは難しいことも、節子から教えられました。
節子から強く愛されていればこそ、私は周りのすべての存在を愛することができていたのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の周辺への愛は、間違いなく萎えています。
愛が萎えると気力も弱まります。

私が今なお、さまざまなことに関わって生きているのは、節子の愛の余韻なのかもしれません。
節子とお互いに「関わりつつ生きた日々」が、いまの私の生を支えています。
強く愛された記憶は、そう簡単には消えません。
強く愛した記憶は、それ以上にいつまでも残るでしょうが。
「愛は関わりつつ生きること(in-living)」、私もそう思います。

■906:結婚詐欺にあった節子(2010年2月24日)
しつこくもまた、ケアの話です。

節子は滋賀の出身でした。私の両親は新潟です。
日本では、西日本人と東日本人の通婚率は1割程度だと言います。
おそらく文化が違うのです。
私と節子の育った環境はかなり違います。
とりわけ人のつながりが強く、信仰心の強い節子の故郷の文化は、東京とは違いました。
その東京の文化さえ、学生時代の私には古くさくて陳腐なものでした。
若い頃の私は、理屈だけの理想主義者でした。
まあ今様に言えば、つっぱっていたのです。中途半端に、ですが。

なぜその私が、節子に惚れてしまったのか。
大学卒業後、入社した会社での配属が滋賀でした。
そこでこれまで知らなかった「文化」に触れました。
理屈で生きてきた「跳ね上がった若者」は、たくさんのことに気づかされました。
そこから人生が変わったのかもしれません。
向上での4年間は、新しい発見の連続でした。
そのうちに、学生の頃から付き合っていた女性にも見事に振られました。
あんまり東京に戻らなかったからかもしれません。
そんな時、出会ったのが節子でした。

節子のどこが他の女性と違っていたのか、よくわかりませんが、たぶん私たちは「文化」の違いを直感的に理解しあいました。
そして、今から考えればですが、お互いに in-living な関係になったのです。
これもまたおかしな話ですが、当時、私はSF(空想科学小説)にはまっていました。
工場にあった企業内学校で産業心理学を教えさせてもらったのですが、そこで話していたのは超能力の話でした。
現実主義者の節子には、全く理解できない世界です。
しかし、その節子の世界の極にある私の世界に、節子は誠実に対応してくれました。

節子は、後になって「あの頃の修さんの話は、どこまで本当で、どこから嘘なのかわからなく、信じていいのかどうかわからない話ばかりだった」と言っていました。
しかし、同時に「私が嘘をつけない」こともすぐ実感してくれていたようです。
つまり私の話の、「嘘のような」話も含めてすべてを、そのまま素直に心で受け入れたのです。
つまり、私をケアしてくれたのです。
長々書きましたが、私が「ケア」を意識した最初は、節子の私への対応だったのです。

そして、理解できないままに、節子は私との同棲を始めてしまったわけです。
私は当時、形式的な結婚に反発して同棲にあこがれていたのです。
まあ、悪く言えば、節子は「結婚詐欺」にあったようなものでした。

ケアの話のつもりが、「昔話」になってしまっていますね。
実は今日の書き出しの時に考えていたのは、「アクト・オブ・ケアリング」に出てくる次の一文です。

ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている。

この文章で思い出したことを書きだしたのですが、なかなかそこまで行きません。
行きついたのは、「結婚詐欺」も「ケア」には勝てないという話です。
ケアは、メイヤロフも言っているように、人を成長させるのです。
長くなるので、続きは明日にまわします。

■907:ケアの意味を教えてくれた節子(2010年2月25日)
「ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている」。
昨日の挽歌の続きです。

付き合い出した頃、たぶん節子は私と結婚することなど思ってもいなかったと思います。
私もそうです。
それぞれに付き合っている人もいましたし。
私たちの付き合いの始まりは、そういうものではなかったのです。
とても無邪気で、ちょっとゲーム的で、節子の友人はきっと節子にあまり深入りしないようにと忠告していたはずです。
たしかに当時の私は、いささか危ない存在でした。

にもかかわらず、いつの間にか結婚することになってしまいました。
私のプロポーズの言葉は、「結婚でもしてみない」でした。
よくまあ、あの真面目すぎるほど真面目な、謹厳実直な節子が受けたものです。
そして、節子の両親宛のメッセージを吹きこんだテープを節子に渡しました。
BGMは、当時大好きだったオスカー・ピーターソンの「カナダ組曲」でした。
呆れてものが言えません。いやはや。
それを聴いた節子の両親は私に会いに飛んできました。
どこの馬の骨かしらないが、なんという「たぶらかし方」だと思ったとしても決しておかしくありません。
何しろ節子は、世間のことをほとんど知らない、清純で無垢な女の子だったのですから。
しかし、私もまた、世間のことを何も知らない無邪気な男の子でした。
慌てて飛んできた節子の両親は、なぜか私と会うと納得してしまいました。
人生は不思議なものです。

犯罪が成立するためには「犯意」が必要ですが、この詐欺行為事件には残念ながら「犯意」が不在でした。
なにしろ行為を仕掛けた当の本人が、一番、はまってしまったのですから。
そして、いつの間にか私は節子に、これ以上ないほどに惚れこんでしまったのです。
節子の私への惚れこみ方は、実はたいしたことはありませんでした。
いささか口惜しい話ではあるのですが、

今日もまた、昔話になってしまいました。
すみません。
実は次のようなことを言いたかったのです。

私は節子の全面的な「ケア」を受けることによって、成長したのです。
そして、私のケア・マインドもまた豊かになったのです。
「ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている」。
この言葉にとても共感できたのは、そういう昔話があったからなのです。

■908:愛されただけ愛せるようになる(2010年2月26日)
昨日の話を少し違った視点で続けさせてもらいます。

「人を愛することができるようになるためには、自分が愛されうる存在であると感じさせてもらわなければならない」。
ゲイリンという人の言葉です。

最近、テレビで「シャッフル」という映画を見ました。
もし1週間がシャッフルされて進行するとしたらどうなるか、という発想でつくられたサスペンス映画です。
夫が交通事故で死んだということを聞かされた女性が、それを契機に、曜日が入り乱れて、過去に戻ったり未来に行ったりする話です。
そのトリッキーな構成が面白いのですが、夫の浮気を止めさせたのは妻の愛であり、しかしその愛が逆に夫を交通事故に遭遇させるという、いささか考えさせられる話です。
妻の「ケア」の心が、夫を迷いから覚まさせるのです。
まあこういう映画を観ていても、どこかで「愛」とはなんなのだろうかと考えている自分に気づくことが最近多いのです。

ゲイリンは、愛するためには愛されることが必要だと言います。
子どもを愛して育てなければ、子どもからは愛されません。
それは子どもが、愛するという能力を育てられなかったからだというのです。
保育園の園長を長くやっていた新澤さんは、最初にお会いした時、子どもには「愛のシャワー」を浴びせないといけません、と言いました。
それが、私が保育に興味を持った理由でした。
その言葉を忘れたことはありません。

夫婦はどうでしょうか。
愛されるには愛することが必要だと思いがちです。
私の節子への愛が10だとすれば、節子の私への愛は、その半分の5だったような気がしていました。
しかし、ゲイリンの言葉を知って、私が節子を10も愛せたのは、節子が私を20も愛していたからかもしれないと思えるようになりました。
まあ、そもそも愛を数字で表すなどということは不謹慎なのですが、愛とはまさに双方向的に育ち合っていくものではないかということです。

この挽歌を今もなお書き続けられているのは、それだけの愛を節子から私がもらっていたということなのかもしれません。
節子は本当に私を深く愛していてくれたのだと、つくづく思います。

■909:河津桜が咲きました(2010年2月27日)
節子
今朝、気づいたのですが、わが家の河津桜がもう咲いています。
先週末見た時にはまだ咲く予兆はなかったのですが、今週はとても暖かでしたから、パッと咲いたようです。
例年よりかなり早いです。

この桜は、節子と一緒に5年前に河津から苗樹を買ってきたものです。
桜は満開でしたが、とても寒い日でした。

節子がいなくても桜の花は咲きます。
まあ当然なのですが、そんな時こそ、さびしさを感じます。
そういえば、節子が好きだったシュスランももうじき咲きそうです。
これから節子が好きだった花の季節になってきますが、私にとってはどんな百花繚乱の世界よりもたった一人節子のいる世界のほうが幸せでした。
花を見るたびに節子を思い出すのは、それなりに辛いものです。

■910:ジュンの結婚パーティ
(2010年2月28日)
節子
今日はジュンの結婚お披露目パーティでした。
会場は何と結婚相手の峰行さんのやっているお店です。
柏のイタリアン・レストランのエヴィーバです。

家族関係だけはちょっと早目にスタートでした。
ユカと2人で参加しました。
まあ最初の雰囲気は気楽なホームパーティの雰囲気です。
すべて手づくりなのです。
節子がいたら大喜びで、一緒に楽しんだことでしょう。
ともかく私(たち)好みのスタイルです。
それに、常連のお客様でも、通りすがりのお客様でも参加自由です。
これも実にいいです。
人を差別も区別もしない、これがわが夫婦の文化です。

なにしろ花嫁花婿が自ら料理をつくり、司会をし、会場を設営し、というスタイルですから、まあかなりの忙しさです。
その様子は、エヴィーバやジュンのスペインタイルのホームページで紹介されるかもしれませんし、節子も写真参加しましたので、様子はわかっているでしょう。
それにしても節子がいたらどんなにはしゃぐことでしょうか。
そんなカジュアルなパーティ(?)でした。
節子と一緒にやっていたオープンサロンを思いだしました。

そのうちに、三々五々、いろんな人たちがやってきました。
私の知った顔もいくつかありました。
ジュンは良い人たちに囲まれて、とても良い人生を送れそうです。
なによりいいのは、経済的にあまり余裕がないだろうということです。
人生においてお金に余裕がないことは、たぶんとても幸せなことです。
お金のないところに集まる人に悪い人はいませんし。

娘の結婚で涙を出す父親は多いようですが、涙などまったくでない気持ちのいいパーティでした。
こうしたスタイルにしてくれたことを感謝しなければいけませんが、2人は私のためにそうしてくれたわけではなく、それがジュンたちの文化だからです。
私たちの文化は、少しだけ継承されたのかもしれません。

節子
これで一安心です。
ジュンはきっと節子よりもいい伴侶を見つけたようですよ。

■911:追悼(2010年3月1日)
節子
今日は節子への挽歌を書くのを忘れてしまっていました。
まあ、時にはこういうこともあるのですが、いざ書こうと思ってパソコンを開いたのですが、書くことが頭に浮かびません。
さっきから写真の笑顔を見ているのですが、頭に何も浮かんでこないのです。
こんなことはめったにないのですが。

と、思って気が付いたのですが、今回は「911回」です。
911。つまり、9.11.
世界が変わった日と同じ数字です。

もしかしたら、節子は彼岸で追悼しているのかもしれません。
私も節子と一緒に追悼することにします。
では黙とう。

■912:愛する人を失うと、人は哲学者になるもの(2010年3月2日)
節子
先週初めは暖かだったのですが、また寒くなりました。
こうした天候の変化があると、それと節子の気持ちを重ね合わせてしまうようになっています。
一昨日、ジュンの結婚パーティに出かける時には、なんと雪がちらついていました。
きっと節子が降らせているのだなと思いました。
しかし、それにつづく2日間の寒々とした天候は、何を意味しているのでしょうか。
これはなかなか難しい問題です。
愛する人を失うと、人は哲学者になるものです。

節子が最後にわが家から出ていく時、それまで雨のそぶりさえなかったのに、まさに自動車が出発するのに合わせるように雨が降りました。
あれは、節子の涙であり、節子が存在し続けていることをみんなに伝えてくれたのだと思います。
そのことは挽歌106でも書きましたが、私にはとても不思議な体験でした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_8e0a.html
あれ以来、私は節子の霊魂を確かなものとして信ずるようになりました。
天候のむこうに、いつも節子を感じます。
愛する人を失うと、人はエコロジストにもなるものです。

それにしても今日は寒いです。
節子、もう少し暖かくしてくれませんか。
こんなに寒いと、明日の月命日にもお墓参りに行くのをやめますよ。

■913:お母さんは元気ですか(2010年3月3日)
節子
節子のことを覚えている人は多いですね。
それが嬉しくもあり哀しくもあります。

ユカが小学校の同窓会で久しぶりにMくんに会ったそうです。
Mくんは同じクラスの中では一番近くにすんでいた関係で、ユカが休んだ時に先生からの預かり物をわが家まで持ってきてくれる係だったのだそうです。
久しぶりに会ったMくんから、こう言われたそうです。
「プリントなどをもっていくと、いつも、ユカのお母さんが果物などをくれたのを覚えているよ、お母さんは元気か」

先日、昔住んでいたところの近くの人が、ある用事で手紙を送ってきてくれました。
そこにも節子のことがメモで言及されていました。
「ところで、お母さんは元気ですか」

節子
いろんな人が節子のことを覚えてくれています。
みんなの心の中では、いまもきっと節子は元気なのでしょう。
それが嬉しくて哀しいわけです。

ところで、節子
今は彼岸で元気にしていますか。
私は此岸で、元気にしています。
元気をなくして、早くそちらに行きたいのですが、人生はそう簡単ではないようです。

■914:節子らしい供花(2010年3月4日)
3月になったのに寒い日が続きます。
昨日はジュンの報告をしに、むすめたちと墓参りに行きました。
節子の好きなバラとフリージアを供えました。
バラの明るいピンクとフリージアの浅黄色で、まわりが一気に華やかになりました。
フリージアのフルーティな香りも、きっと節子に届いているでしょう。

節子のお墓に供える花は、洋花が多いのです。
節子が好きだったからです。
わが家に咲いている花をもっていくこともありますが、この季節は庭の花も多くはないので、花屋さんに頼むのですが、仏花というと菊が中心のさびしいものになりがちなので、供花などとはいわずに、いつも明るい花を選んでもらいます。
節子はバラが好きだったので、バラを選ぶことも多いのですが、昨日はそのバラが安くて、どっさり供えられました。

墓参りに行っていつも思うのは、墓地の雰囲気です。
最近できた墓地は、墓地公園というくらいに明るいものもありますが、墓石が並ぶ風景は気分を厳粛にすることはあっても、心を癒すことはありません。
子どものころは、むしろ墓地には恐怖感や嫌悪感さえありました。
節子が墓に入ってからは、私にはその感覚は全くなくなりましたが、それでも冷たさやさびしさ、哀しさは感じます。
墓地や墓石には、おそらく死や死者に対する生者のイメージが象徴されているのでしょう。
いや、もしかしたら、逆かもしれませんが、

もう15年以上前ですが、仕事でチューリッヒに行った時に、ガイドの人が郊外の墓地を案内してくれました。
一つひとつのお墓が、まさに死者の住んでいる家のようで、強烈な印象を受けました。
それぞれが実に個性的で、現世の生活ぶりをそのまま続けているような雰囲気があり、墓地全体が死者の集落であるような感じさえありました。
それに比べたら日本の墓地は静かです。
日本の墓石も個性が全くないわけではありませんが、そう大きなデザイン性があるわけではありません。
死者はみんな同じように扱われるのかもしれません。

節子が彼岸でも節子らしく過ごせるように、せめて供花だけは節子らしいものをあげたいと思います。
節子、満足していますか。

■915:箸ピーゲーム(2010年3月5日)
節子
今日は昨日までと一変して、春の陽射しです。
自然の変わり身の見事さは、いつもながら、ただただ驚くばかりです。

国際箸学会理事長の小宮山さんが、箸ピーゲームセットを送ってきてくれました。
先日、湯島に最近の話をしに来てくれたのですが、その時に話題になったので、私にもぜひやってみろというわけです。
小宮山さんがこの活動を始める時に、どういう形で展開するのがいいか相談に来たのですが、その直後、節子の具合が悪くなってしまったので、大会にも参加できずに、まだ入会もしていません。
しかし活動は順調に広がっているようで、とても嬉しいです。

小宮山さんは「気配りミラー」で有名なコミーの社長です。
最近もテレビの「夢の扉」で取り上げられていましたが、節子がいたらきっと喜んだでしょう。
テレビや新聞で小宮山さんを見ると、いつも私に教えてくれていました。
小宮山さんは、私たちのオープンサロンにも時々来ていましたので、節子も良く知っていたのです。
湯島にはいろんな人が来ましたので、節子もいろんな人に会っています。
最初はそれが節子には気が重かったようですが、小宮山さんのような気さくな会社社長に会うと、節子の持っていた先入観もなくなり、人はみんな同じなんだというようになり、最後のころは節子の世界も大きく変わっていたはずです。

小宮山さんはその後、巣鴨で自分のサロンを始めてしまいました。
そしてついに国際箸学会なる、楽しいサロンをスターとさせ、今は実に楽しんでいます。
楽しんでいるだけではありません。
箸で世界が変えられると思っているのです。

私は、箸使いがうまくありません。
節子にいつも注意されていました。
ですから節子がいたら、彼女は間違いなく箸学会に入り、箸づくりも楽しんだはずです。
私も一時期、節子に頼んで箸袋をつくって箸を持ち歩いていましたが、それもまあせいぜい1か月しか続きませんでした。

ところで、小宮山さんが送ってくれた「箸ピーゲーム」ですが、これは殻つきのピーナツを箸でつまんで動かす数を競うゲームです。
節子がいたら早速やって見るところですが、一人だとちょっとその気が起きません。

それで近々、湯島で箸ピーゲーム大会を企画しようと思います。
国際箸学会および箸ピーゲームについては、ぜひ国際箸学会のホームページをご覧下さい。
とても奥が深いことがわかります。

■916:節子がいたらなあ(2010年3月6日)
最近、自然と口から出てくる言葉があります。
「節子がいたらなあ」です。
なにしろ以前は何かあればすべて節子に言っておけばどうにかなったので(実際にはそうでない場合も少なくなかったのですが、気分的には節子に話すととりあえずはそのことを忘れることができました)、そうできないために、いろんなことがどんどんたまっていく感じです。

娘たちがよくしてくれるので、生活の不便は全くないのですが、やはり長年連れ添った節子とは対応の仕方が違います。
時には、そこまではやれないよ、などと言われてしまいます。
もちろん私の方にも少しは「遠慮」がありますから、ついつい、「節子がいたらなあ」と口に出てしまうわけです。

以心伝心という言葉がありますが、私たちはまさに以心伝心でした。
いや、おかしな言い方ですが、本人が思っている以上のことが相手に伝わり、思っている以上のことをお互いにしあっていたような気がします。
しかし、それも特に相手を気遣っての結果ではなく、自然とそうなるのです。
まさにこれこそが「ホスピタリティ」の真髄かもしれません。
気遣うことと気遣われることは同じものなのです。
そうした伴侶の存在があればこそ、私はなにひとつ心配することなく、気楽な人生を送れていたのです。
節子がいなくなって、初めてそうしたことがわかってきました。

最近、私の周りでも実にさまざまな問題が発生します。
どう対処していいか、悩むことも少なくありません。
節子がいたら、一緒になって、何かをすることができることも少なくありません。
でも私一人だとなかなか難しい。
節子がいなくなったのに、私はまだ節子に依存しているのかもしれません。
まだ「節子がいたらなあ」などと未練がましく口に出しているのですから。

節子一人では頼りにはならない存在でしたが、夫婦になると節子は、本当に頼りになる伴侶でした。
おそらく私もそうだったのかもしれません。
しかし、一人になってしまうと自立さえしていけなくなるのですから、困ったものです。

■917:また昔の節子の手紙が届きました(2010年3月7日)
節子
6年前にあなたが根本さんに出した手紙が根本さんから送られてきました。
たぶん私に元気を与えようと根本さんは送ってくれたのでしょうが、いささか複雑な気持ちです。
しかし根本さんのお気持ちはうれしく思います。

根本さんは、節子が元気のない時に、元気づける音楽CDや本などを送ってきてくれました。
彼自身もあまり体調はよくない上に、いろいろと難しい問題を抱えていたにもかかわらず、私たちのことをとても心配してくれていたのです。
困難や哀しさに合うほどに、人はやさしくなることを、根本さんからは教えてもらっています。

根本さんはいまもあまり体調はよくありません。
実は、手紙を投函したようなメールが届いたのが昨年なのですが、実際にわが家に届いたのは昨日でした。
まあそれが根本さんの時間軸なのです。
私にも少し似たところがあるので、私はすんなりと受け入れられます。

1年分の手紙でしたので、さまざまなことが書かれていました。
根本さんも苦境にめげずに、いつものように、前向きに明るく過ごされているようです。
その様子を手紙で読んで、とてもうれしく思います。
節子がいたらきっと笑いこけながら読んだことでしょう。

手紙が届くと同時にメールも来ました。

「手紙」には「言い訳タラタラ」です。
その中には、「先生」にお話ししていなかった品も入っております。
しかし、私「気になる事」があります。
「先生」の「挽歌」を読みますと「傷口」を逆なでしてしまうかも知れません。

根本さんは出会いの関係で私のことを「先生」(単に先生ではなく、カッコ付です)と呼ぶのですが、まあそれは仕方がありませんが、傷口を逆なでするかもしれないのが気になるのであれば送らなければいいのですが、そこが根本さんの根本さんらしいところなのです。
困ったものです、はい。

根本さん
逆なではしていませんのでご心配なく。

久しぶりに節子の手紙を読みました。
それと当時の節子の生活ぶりも思い出しました。
節子はこうやって、今なお、私の生活に深くつながっています。

根本さん
ありがとうございました。

■918:「最初の1行は神からくる」挽歌編(2010年3月8日)
「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」という言葉があるそうです。
だれの言葉かがどうもわかっていないようですが、とても印象に残る言葉です。
詩もそうでしょうが、文章はすべてそうなのではないかという気がします。
この挽歌もそうです。

パソコンに向かうとほとんどの場合、言葉がでてくるのです。
そしてそれに従って書いていく、それがこの挽歌のつくりかたです。
もっとも私は「神」には違和感があり、むしろ私風にいうと、
「最初の1行は外からくる。2行目からは自分が作る」
という感じですが。

私にとっての「外」は、最近では「節子」です。
節子の思いが私を動かしていると感ずることも少なくありません。
その「節子」はしかし、単なる媒体なのかもしれません。

こういうことです。
私は節子との絆によって、節子とつながっていました。
節子はまた、私以外のだれかと絆によってつながっていたでしょう。
両親や兄弟姉妹、仲の良い友人、その度合いは違っても、いろいろな人と心でつながっていたはずです。
そうした節子を通したたくさんの生命や思いが、節子を媒体にして私に働きかけてくるということです。

もちろん私には節子とは別の絆の媒体はありますが、いまは節子へのルートが圧倒的に大きくなっているが故に、節子を通してつながっている「外の世界」の影響が大きいのです。
パソコンの前に向かうと書く文章が浮かんでくる。
いまもどこかで節子とつながっている気がします。

もっとも何も浮かんでこないこともないわけではありません。
その時は、節子は何をしているのでしょうか。

今日は、時評編もこの話題を書くことにします。

■919:つかの間の自由(2010年3月9日)
昨日の時評編で、「私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います」と書きました。
今日の挽歌は、そのつづきです。

大きな生命現象の中で、わずかばかりの自由を楽しんでいるのが人生かもしれません。
その「わずかさ」は、考えようによっては「無限」なほどに大きいのですが、私たちが思っているほどの自由さはないようです。
それが証拠に、ある時、突然に不条理な生の剥奪があるからです。
わずかばかりの自由を、慎ましやかに過ごしていた節子から、それを奪うことはないと思いますが、それが定めなのでしょう。
代われるものなら代わりたいと思う事例は少なくありません。
しかし、こればかりは代わることができない。
人智のおよぶところではないのです。

私と節子との出会いがそうであるように、私と節子との別れもまた、定まっていたのでしょう。
それを知らなかったのは、私だけかもしれません。
もしかしたら節子はある時にそれを悟ったのかもしれません。

節子は手術後の半年間はよく泣きました。
しかし、ある時に自分で紙に3つの言葉を書き出しました。
感謝、勇気、大きな声。
節子にとっての最初の課題は「大きな声」でした。
その3文字が、実際に節子のものになるまでには、1か月以上はかかったでしょう。
しかし、次第に節子は変わりました。

いまから思えば、あのころ、節子は私との別れを知っていたのかもしれません。
私も、意識下の世界で知っていたのかもしれませんが、そんな不条理は、まだ現世だけで生きていた私には見えるはずもありません。

それから私たちは、つかの間のささやかな自由を生きました。
節子とはよくバス旅行に出かけました。
ハイキングにも行きましたが、節子は私の勝手なハードな行動にも付き合ってくれました。
しかし、その自由な2年間も、私にはたくさんの悔いが残ります。
もしそれが「つかの間の自由」だったのであれば、もっともっとやることがありました。
やり残したことの多さは、リストに書き出したら際限なく続くでしょう。
そうした「悔い」が、もしかしたら、いまなお私が節子に未練を感じ、愛を忘れられない理由かもしれません。
だとしたら、すべては仕組まれていたのかもしれません。

私がこれからどう生きるのか。
知っているのは、節子と神(天)だけなのかもしれません。
つかの間でしかない、わずかばかりの自由を、大切にして生きていきたいものです。
しかし、ほとんどの人は、もちろん今の私も含めてですが、自由が突然に終わることなど受け入れられずに生きているような気がします。
節子は、やはり尊敬に値する、そう思っています。

■920:「日々の生活はそれなりにすごせることが不思議です」(2010年3月10日)
先日、奥様を急に亡くされたOさんからメールが来ました。

雑事に追われ、あっという間に49日が過ぎました。
家内が日々光の速さで遠ざかっていくのが実感されます。
昔読んだチベット仏教の死者の書のイメージが実感されます。
しかし突然に思い出され なんともいえない現実に直面するにつけ、喪失感と痺れ感を感じますが、その頻度も少なくなることを期待しつつ日々をすごしています。

私たちより少し若いOさん夫妻の不条理な別れは、本当に突然だったそうです。
おそらくOさんは、まだ信じられずにいるでしょう。
そのくせ、「光の速さで遠ざかっていくのが実感される」という不思議な気持ち。
私もそうでした。
そうした矛盾する気持ちが、時間の流れを超えて、無秩序に往来する体験は、私も味わいましたし、いまもなお、完全にはそうした状況からは抜けられずにいます。

節子もそうでしたし、私もそうでしたが、
これからという時に、神様は突然に自由をもぎ取ってしまうのです。
不条理としか言いようがありません。
Oさん夫妻も、間違いなく、そう感じているはずです。

Oさんのご実家は八朔をつくっていて、毎年、Oさんは奥様と一緒に収穫していたそうです。
そのお話は、前に聞いたことがあります。
しかし、今年は奥様がいません。

今年は家内抜きでやりました。
日々の生活はそれなりにすごせることが不思議です。
当たり前ですが、これが現実ということと了解しています。
残されたものは今までどおりの生活を送るのみです。

Oさんの、深い思いがあふれています。
「これが現実」。
心に響きます。これほど響く言葉はありません。

Oさんが送ってきてくださった八朔はとても美味しく、涙が出ました。

■921:不条理さへの怒り(2010年3月11日)
昨日、Oさんの不条理について書きましたが、
節子よりも、Oさんの奥様よりも、若いKさんもまた、不条理に自由を奪われた一人です。
節子と同じく、検査で病気が発見されました。
それを知った時に、どう対処していいか、わかりませんでした。
節子がいたら適切な応対ができたでしょうか、節子のことがあればこそ、どうしていいかわからなかったのです。
声のかけようさえ思いつきませんでした。
できるのは、毎朝、節子と一緒に彼女の平安を祈るだけです。

彼女は自らのブログを書いています。
以前は毎日書いていましたが、病気になってからは断続的です。
読むのが苦しい内容もあれば、ホッとする内容もあります。

先日、意を決してメールしました。
すぐに返信がありました。
以前のKさんと同じです。

うれしいこともありますが、ほとんどは苦しいことが続いています。
がんとの闘病とはこういうことなのか、と改めて感じてしまいます。

文字の後ろにあるKさんの思いが伝わってきます。
それは私たちの思いでもありました。

私も節子さんのことをよく思い出しています。
がんで亡くなった友人たちのことも頭に浮かびます。
みんな、つらかったのだろうなと思うと、自然に涙が出てきます。
私も毎日、死というものと向き合うようになって、
ようやくがん患者の気持ちがわかるようになりました。
1日1日を大事に生きていこうと思います。

勝手に引用してしまいました。
このメールにも、どう応じていいか、わかりません。
共通の友人は、私が考えすぎだといいます。
でも節子との4年半を思い出すと、一言の言葉さえもが、世界を壊すことがあるのです。

今年はKさんにとっては輝かしい年になるはずでした。
不条理な定めに怒りを感じます。

■922:葬儀への不義理(2010年3月12日)
節子
訃報が届きました。
最後に会ったのは10年ほど前でしょうか。
かなり歳の離れた従兄弟の伴侶です。
今年になってから2人目の縁戚の訃報です。

不謹慎な言い方ですが、私は結婚式よりも葬儀のほうが好きでした。
なぜか安堵できるのです。
それに比べ、結婚式の、あの華やいだ雰囲気が、昔からどうも馴染めないのです。
根が暗いのかもしれません。
葬儀はなぜ落ち着くかというと、そこに真実や生命を感ずるからです。
見送る人に、みんな心を向けている雰囲気は、心が落ち着きます。
やはり、根が暗いですね。いやはや。
それに、葬儀では、久しぶりに会う人がいて、その人とゆっくり心を通わせ合えるのも心が和みます。
結婚式だと、なかなかそうはいきません。
それに結婚式での食事が私には苦手です。

それはともかく、葬儀で読経のなかでのその人との別れは、いろいろなことを考えるきっかけをもらえます。
ところが、節子を見送ってからは、葬儀に行くのがとても気が重くなりました。
なぜでしょうか。
あの日を思い出すからでしょうか。
節子の通夜、あの日は実に不思議な日でした。
私は、それまでとはまったく違った世界にいました。
もう2度と再現できないでしょう。
会堂の薄暗い広い部屋に、永遠の眠りに着いた節子と2人きりでした。
そこで節子は、私の心の奥底に話してきました。
そのおかげで、翌日の告別式で話ができたのです。
それにしても、あの時は、いま思い出しても、自分がこの世にいるとは思えないような不思議な時間でした。
そのことを思い出してしまいそうなのです。
身震いがします。
なぜか大原の勝林院の異形の仏を思い出します。
そんなわけで、不義理なのですが、葬儀にはまだ行けずにいます。
今回も、先約があったのを幸いに不義理をさせてもらうことにしました。
節子は怒っているかもしれません。

■923:まあるくなったカミソリの刃(2010年3月13日)
節子
名古屋に行っていました。
自殺を思い留まった人たちの自立を支援する活動をしている人たちの集まりを開催したのです。
おそらく今回の集まりも、これまであまりなかった集まりでしょう。
いつもながら、とても考えさせられます。
昨日は企業や行政の人たちの集まりに出ていましたが、世界がまったく違います。
飛び交う言葉がまったく違います。
私には今日の集まりのほうが居心地がいいです。
そこに人間があり、心があり、現場があるからです。
涙もあります。
お金はあまりありませんが。

10日の時評編で紹介した、初めて新幹線に乗るという群馬のホテルの社長と東京駅で待ち合わせました。
彼は1時間も前に心配で東京駅に着いていたようです。
新幹線に乗れなくても、豊かに生きていけますよ、と彼は言います。
まったくその通りです。
企業の世界と生活の世界の大きな差を感じます。
お金持ちの貧しい世界とお金のない豊かな世界です。

企業にいた頃の私を、「カミソリのように切れるビジネスマン」と書いてくれたライターがいます。
幸いにその本はあまり売れなかったので、誰の目にも止まらなかったでしょうが、そんな時代もあったのです。
その私が、ビジネスの世界から離脱し、生活の世界に移れたのは、節子のおかげです。
節子は、私のカミソリの刃をまあるくしてくれました。
そのおかげで、私の世界はとても豊かになり、生活の人になれたのです。

節子がいたら、最近の私の生き方をどう評価してくれるでしょうか。
まだまだ理屈が多くて、自分を出しすぎるというでしょうね。
節子が元気だった頃、私はいつも節子に注意されていましたから。
先生がいなくなったのが、とても残念でなりません。
注意してくれる人がいないのも残念ですが、なによりも、褒めてくれる人がいないのがさびしいです。

■924:私のための節子の生と死(2010年3月14日)
節子
節子の生は、私のためのものだったのではないかと思うことがよくあります。
だとしたら、節子の死もまた、私のためのはずです。
そう思うと、節子への感謝の気持ちと不憫さとで、胸が苦しくなります。
あまりにも身勝手な生き方をしていた自分への怒りもあります。
「節子のために生きている」などと言いながら、現実は正反対だったわけですから。

しかしもし、この命題が正しいとしたら、私と節子を入れ替えても成り立つはずです。
私の生は節子のためのものであり、私の死は節子のためのものである。
ですから、正反対だったなどと後悔しなくてもいいでしょう。
それに、私の生の基準は、節子のためにこそあったのは、間違いない事実です。
もっともそれが的確に行われていたかは、自信はありませんが。

この2つの、もしくは4つの命題は、節子がいなくなった今も成り立つはずです。
いまもなお、私は節子のために生き、いつか節子のために死ぬわけです。
節子がそうであったように。

節子がいなくなった「不幸」は、おそらく誰にもわかってもらえないでしょう。
わかってくれるのは、おそらく節子だけです。
だから節子は最後の最後までがんばってくれたのです。
そう思うといろいろのことが見えてくる気がします。

節子のいない社会を生きることは、かなりさびしいものです。
しかし、節子もまた同じように、私のいない世界に行ってしまいました。
節子の不幸、さびしさもいかばかりでしょうか。
それが私の不幸をさらに高めます。
もし節子が彼岸で幸せにしているのであれば、どんなに安堵できることでしょう。
しかし、そうしたことは絶対にありえないのです。
なぜなら私はいま、節子の不在だけでこれだけの寂しさと不幸を味わっているのですから、節子もそれと同じ状況にあるはずです。

だんだんややこしくなってきましたが、節子なら「はいはい」と言って聞き流すでしょうが、
しかし、私たちは、いつもシンメトリックな存在でした。
おそらく今もなお、そうでしょう。
対角線の向こうに節子がいつも見えているような気がします。

■925:止まってしまったトレッドミル(2010年3月15日)
昨日、節子がいなくなった「不幸」はおそらく誰にもわかってもらえない、と書きながら思い出した言葉があります。
「幸福のトレッドミル」です。

人の満足度(幸福感)は際限がないほどに深いという話です。
どんなに幸せで満足な状況になっても、人はすぐにその状況に慣れてしまい、欲望を強めて、さらなる満足を求めだすのです。
つまり、いつになっても幸福は実現されないわけです。
これを「幸福のトレッドミル」とか「欲望のトレッドミル」と言うそうです。
トレッドミルとは、ハツカネズミなどが回す踏み輪のことです。
昔は縁日などでよく見かけたものですが、最近はスポーツジムで人間がやっています。
この2~3世紀の経済が急成長したのは、「欲望のトレッドミル」を普及させたおかげですが、このことは時評編で書くことにします。

人は、幸福にすぐ慣れてしまう特性を持っていますが、不幸にも慣れる能力があるといいます。
人類が生き残っていくために進化の過程で獲得した能力だという人もいますが、たしかに状況に適応する能力が高ければ生き残っていく確率は高くなります。
人類の進化などという大きな話でなくても、私たちの「生きやすさ」にも直結しています。
不幸に落ち込んでいると人はますます不幸の下り坂を滑り落ちがちです。
これは「不幸のトレッドミル」と言ってもいいでしょう。
私たちが乗っているトレッドミルは、前後双方に向いているのです。
もっとも、幸福も不幸も、結局はその人の考え次第ですから、客観的に幸福や不幸を分けることはできません。
ですから、実は「前後」に見えるようでいて、それは同じ方向を向いているのかもしれません。
以前も書きましたが、幸福と不幸とは結局は同じものなのです。

私にとって、いまのところこうしたトレッドミルは止まっています。
節子がいなくなってから、不幸も幸福も根本から感じなくなってしまったために、私の足踏みが止まってしまったのです。

いろんな人から私は「幸せだね」と言われます。
自分でもそう思います。
それは、今日の時評編に書いた、「不失其所者久」の生き方ができているからです。
しかし、ありのままに生きてはいますが、節子がいなくなってから、私の世界から「不幸」や「幸福」が無くなってしまったのです。
不幸も幸福もない不幸。
それをわかってくれるのは、節子だけだろうと思います。

■926:不幸も幸福もない不幸(2010年3月16日)
節子がいなくなって、何が変わったのでしょうか。
最近、そう思うことが時々あります。
この数日、挽歌を書きながら、その答がやっとわかった気がします。
「不幸も幸福もなくなってしまったこと」
それがたぶん答です。
人生がとても平板になってしまったと言ってもいいでしょう。

人生の喜怒哀楽は、それを共にする人がいればこそ、意味を持ってきます。
人間の感情は、個人の中に起きるのではなく、他者との関係の中で起きるようです。
そして、その感情はだれかと分かち合うことで意味を与えられ、増幅されるのです。
節子がいなくなってから、そのことに気づきました。
感情を評価する基準がなくなってしまうと、喜怒哀楽さえもが生命を失います。
すべての感情が宙に浮いてしまい定まらないのです。
不幸と幸福のコインの裏表さえわからなくなるのです。

そればかりではありません。
幸福が不幸に、不幸が幸福に、いとも簡単に裏返ります。
かつてであれば幸福だった場面も、節子に体験させてやれないという思いが浮かんだ途端に気持ちは奈落へと落ち込みますし、不幸な場面も節子を悲しませないですんだと思えば、心が安らぐのです。
したがってすべては中和され、幸せもなければ不幸もない、単調な人生になりがちです。
それが、「不幸も幸福もなくなってしまった」ということなのですが、それがいかに「深い不幸」か。

さらにもう一つの不幸が重なります。
「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如し」と言われますが、禍福がなくなってしまうことで、暮らしをつなぐ縄がなくなってしまうのです。
時間軸というか、時間期待というか、そういうものが消え去ってしまうのです。
その退屈さは、いささかやりきれないほどです。

こんな「不幸」はたぶん誰にもわかってもらえないでしょう。
わかってもらえる人がいたら、とてもうれしいのですが。

■927:白いブーゲンビリアが咲いています(2010年3月17日)
節子
新潟の金田さんが今年もチューリップを送ってきてくれました。
今頃は花が少ないでしょうから、ということで、毎年送ってきてくれます。
金田さんも今年はいろいろと大変で、あの金田さんがと思えるほどの「弱音」も聞きました。
やはりみんな歳には勝てないようです。

金田さんのお心遣いに反して、節子のまわりもこの季節もなぜか花でいっぱいです。
不思議なほどに節子は花を呼び込みます。

冬だというのになぜかブーゲンビリアが咲きました。
ブーゲンビリアは、本来は5月頃から咲き出すのに、今年は異常です。
そのうえ、ピンクだったはずなのに、なぜか白くなっています。
そういえば、節子は彼岸で「白い花」の手入れをしていると症崎さんは話してくれました。
そのせいでしょうか。

房総に家族で行った最後の旅行の時に、節子が記念にといって買ったシュスランもようやく咲きました。
年初から咲きそうな感じになっていたのに、なかなか咲きませんでした。
来週には咲くでしょう。
とても地味な花なのよね、と言って、節子はこの花を買いました。
本当に地味な花です。

地味な花も、艶やかな花も、節子はみんな好きでした。
湯島のオフィスの白いシクラメンも元気に咲いています。
花を見るといつも節子を思い出します。

■928:人は強くもあり弱くもある(2010年3月18日)
節子
人は強くもあり弱くもある、そんなことを最近痛感しています。

昨日は数人の方が湯島に来たのですが、そのうちの、少なくともお2人は最近身内の大きな「不幸」に見舞われた人です。

お一人は、私と同じく伴侶を突然に亡くされました。
でも、そんなことは微塵も感じさせずに、そのことを知らなければ、だれも彼の心の奥底には気づかないでしょう。
事情を知っていればこそ、ちょっとした仕草に、奥底の思いを感じ取れるのですが、そこに触れることはたぶん彼の思いには沿わないでしょう。

その人のことをどれだけ知っているかで、同じ言動が全く違ってくることを、最近いろいろと体験しています。
以前、この挽歌でも、私の表情(元気そうか哀しそうか)はその人の思いの反映ではないかというようなことを書きましたが、立場を代えて、今はそう確信しています。

もう一人は、身内に大変なことがいろいろ立て続けに起こっている人です。
その人もまた、そうしたことを明るく話してくれるのですが、言葉の奥にある真意もまた伝わってきます。
これまでそうしたことを決して口にすることのなかった人であればこそ、その思いをますます強く感じます。
こういう時に人は死を考えるのでしょうか、と冗談めかして話す口調の奥にも、心の深遠を見る気がします。

私自身の状況が、そうしたことに少しばかり感度を高めているからかもしれませんが、そうした人と話すことが最近多いような気がします。
そして、その度に思うのが、人は強くもあり弱くもある、ということです。
同時に、強さも弱さも結局は同じなのだとも思います。

「人の言動は心の中の多様さを映し出す」とレオナルド・ダ・ヴィンチは言ったそうですが(かなり不正確ですが、主旨は合っていると思います)、そのことが最近少しわかるようになりました。
節子がいた頃は、そうしたことに全く無頓着で、節子の心の奥底などは感じようともしませんでした。
愚鈍で薄情な夫でした、
節子はどうだったでしょうか。
病気になってからの節子は、驚くほどに感受性を高めていましたから、私の心の奥底も見透かしていたことでしょう。
それに応えられなかった自分が、実に恥ずかしく惨めです。

■929:菩薩(2010年3月19日)
今朝、わが家のチビ太くん(老犬です)のなき声で5時半に起こされました。
時々、夜中に寝ぼけてなきだしたり、粗相をして呼びつけたりするのです。

階下に降りてみたら、粗相をしていました。
その後始末をして、またベッドに戻ったのですが、そこで何となくとても温かな気持ちにつつまれました。
チビ太のなき声で思い出せなかったのですが、夢の中で「節子」に会ったことを思い出したのです。
といっても、節子の形象が夢に出てきたのではありません。
なんとなく「節子」を感じさせるあたたかなエネルギーの塊が漠然と記憶に残っているのです。
そして、ともかく心がとても温かい気持ちになります。
こうした体験がこれまでも何回かありました。
まさに「至福の気分」に包まれるのです。

なぜそれを「節子」と思うのかというと、具体的にはいえないのですが、間違いなく節子の生命を感じるのです。
時に節子の「仕草」や「声」が感じられることもあります。
もっと言うと、節子と私が一体化した球体のようなものに包まれた感じなのです。
今回、球体と感じたのは、先日観た映画「地球が静止する日」の影響かもしれません。
いつもはもっと無形態な、雰囲気です。

今朝はそれについて、考えるでもなく考えてしまいました。
あれはすべての生命をつつみこむ生命場で、もしかしたら、節子もあの塊の中で至福の時間を過ごしているのではないか。
節子も、また最後はあの生命場につつまれるようにして、旅立ったのではないか。
まあ、いささかSF(空想科学小説)めいていますが、そんな気がしてきたのです。

そしてハッと気づきました。
これが親鸞の夢に出てきた菩薩なのだと。
まあ、朝から寝ぼけたことを書いてしまいましたが、今はそれを信じたい気分なのです。

節子は本当に「あたたかい存在」でした。

■930:どんなニュースの後ろにも節子がいます(2010年3月20日)
地下鉄サリン事件から今日で15年目。
大変不謹慎ですが、毎年この日になると思い出すのが、家族で行ったトルコ旅行です。
カッパドキアに向かうバスのなかで、その情報が入ってきました。
もしその時にトルコに旅行していなかったら、私も娘も被害に会う可能性がゼロではありませんでした。
そんな話をしたのを覚えています。

この旅行は家族4人で出かけたのですが、直前に娘と節子が体調を崩し、出発間際に娘が行きたくないと言いだしました。
自分も体調が悪かった節子が娘を説得してくれました。
迷ったら行動する、というのが節子の哲学でした。
いろいろと思い出のある、最後の家族海外旅行でした。
トルコは、おそらく節子が一番気にいったところだったと思います。

過去の大事件の報道は、それぞれの家庭の事件にもつながっています。
その時の自分たちの生活が、その事件と重なって思い出されます。
地下鉄サリン事件に巻き込まれた親戚や友人知人はいないこともあって、私の場合、地下鉄サリン事件はトルコ旅行での節子を思い出す契機なのです。

事件に限ったことではありません。
風が吹けば吹いたで(今日は今も強い風が吹いています)、節子に関わることを思い出しますし、桜の花を見るとまた節子を思い出します。
笑われそうですが、いつも、節子、節子なのです。
未練がましいわけではないのです。
なぜか自然と事あるたびに節子が出てくるだけの話なのです。
どんなニュースの後ろにも節子がいるのです。
そのために節子から離れられないのかもしれません。
どちらが因で、どちらが果なのかわかりませんが、私にはまだ、節子と世界がくっついてしまっています。

世界を共有していた伴侶がいなくなると、歴史の意味も変わってしまうようです。

■931:枕元のバナナ(2010年3月21日)
節子
昨日、私は出かけていたのですが、以前住んでいた近くのMさんが来てくれたそうです。
節子が好きだったといって、宝塚の炭酸せんべいを持ってきてくれました。
帰宅後、節子にお供えされていたお煎餅を、私もおすそ分けしてもらいました。
久しぶりの炭酸せんべいでした。
風月堂のゴーフルを思い出します。
そういえば、節子と結婚した頃、2人ともゴーフルが気にいっていた記憶があります。

節子は駄菓子があまり好きではありませんでした。
ですからわが家の娘たちは、あまり駄菓子を食べたことがありません。
そのために友だちと付き合ううえで、いささかの苦労をしたようです。
後でそれを知って私たちはちょっと反省させられました。
子どもには親にもわからない苦労もあるものなのです。

私は昔から駄菓子が大好きでしたが、節子はあまり間食をしない人で、駄菓子を買う習慣があまりありませんでした。
しかし、いくつかの好きなお菓子が、節子にもありました。
たとえば、そばぼうろうは節子の好物でした、
節子から教えてもらったのですが、私も今は大好きです。
そういう好きなものもありましたが、基本的に節子はお菓子の間食はほとんどしない人でした。
私とは大違いでした。

しかしなぜか風月堂のゴーフルと有明のハーバーを、一時期、よく一緒に食べた記憶があります。
誰だったか思い出せないのですが、当時、よくゴーフルを贈ってくれる人がいた気がします。
それできっと節子もゴーフルが好きになったのです。
宝塚の炭酸せんべいも、その流れで節子の好物になっていたのでしょう。

間食の習慣がない節子が、お菓子を食べだすようになったのは、胃の摘出をしてからです。
一気には食べられなくなり、いつも少しずつ食べるスタイルになってからです。
やっと私と同じ文化になりました。
そして節子はいつもバッグにお菓子を持ち歩く習慣ができたのです。
外出時だけではありません。
眠る時にも、必ず枕元にお菓子やバナナやヤクルトを置いておき、少しずつ食べるようになったのです。

節子がいなくなった今、そのスタイルを私が継承してしまっています。
なぜか真夜中にお腹が減って、枕元のバナナを一口食べるようになってしまっています。
あの頃の節子のスタイルそのものです。
節子が半分、私に乗り移っているからかもしれない、といつも暗闇で食べながら思います。

■932:念仏(2010年3月22日)
遅くなってしまいましたが、お彼岸のお墓参りに行きました。
昨日まで天候不順だったためか、お墓参りの人がたくさん来ていました。
墓地もまた昔は社交の場だったのだろうなと思います。
人は死んでなお、人と人とをつなげる存在なのです。

それにしても一昨日、昨日と、風がとても強く、一昨日の夜などは家が飛んでしまうのではないかと思うほどの強風でした。
彼岸の入り口が開いて、そこから此岸に風が吹き込んできているような感じでした。
その風が此岸の汚れをすべて吹き飛ばしてくれたように、今日は気持ちの良い日になりました。

ところで、つい最近知ったのですが、「念仏」とは「今の心に仏」と書きます。
先日、テレビの「こころの時代」で法然のことを語っていた町田宗鳳さんから気づかせてもらったことです。
念仏を唱えている時、心に仏が居る。
とても納得できます。

法然は、称名念仏で浄土に往生できるとする浄土宗の開祖です。
自らが念仏する声を、自身が聞くことによって、仏に願われている存在であると確認し、生きる力を得るとも言われます。
そうした「念仏のちから」を私が体験したのは、節子の実家での法事に参加してからです。
節子の実家は浄土真宗でした。
法然の弟子の親鸞が開祖で、結婚した頃、お寺のご住職が親鸞のある本を探していたのですが、たまたまその本を持っていたので差し上げたこともあります。
そんな話を知っている人はもう誰もいませんが。
当時、私も少しだけ親鸞に興味を持っていたのです。

節子の実家の法事に出て驚いたのは、みんなが一緒に長い経文を読経することでした。
まあ念仏とはちょっと違いますが、声に出すことの、そしてそれを聴くことの効用を体験したのです。
たしかに、その時、心に仏を感じます。
そして、その仏の向こうに、故人を、節子を感じるのです。
そこでは、仏と節子と私が一体になっています。

法然は、念仏によって浄土に往生できると言いましたが、私には念仏によって浄土を引き寄せられるような感じがします。
いずれにしろ、念仏、声明、読経は、愛する人を失った者へ大きな力を与えてくれます。
「今の心に仏」という文字の形を知って、そのことの意味がとても腑に落ちました。

■933:哲学するチビ太(2010年3月23日)
節子
最近寝不足です。
以前は節子のことを思い出して眠れないことが多かったのですが、最近はそうではなくて、わが家のチビ太くんのせいで、夜中に起こされたり、早朝に起こされるのです。
今朝も5時半に起こされました。
そのまま起きてしまったので、今ごろになってとても眠くて仕方ありません。
まあこんな状況が続いています。
みんなはきっと仕事で忙しくて疲れているのだろうなと思ってくれているでしょうが、実はチビ太のせいで疲れているのです。
困ったものです。

さて問題は、そのチビ太くんです。
もう15歳の老犬で、耳も悪く、目も悪いのですが(頭も性格もあんまりよくないので、いいところがありません)、ほとんど終日寝ていますが、突然に起き上がって吠え出すことがあるのです。
声をかけるとキョトンとしています。
たぶん夢をみるのでしょう。

それだけではありません。
時々、なぜかある方向を向いて吼え続けたり、あるいは沈黙を保ったまま一定方向を見据えて動かないのです。
その姿は哲学者、いや哲学犬です。
何を考え、何を見ているのでしょうか。
長年の付き合いなのに、残念ながらチビ太とはなかなかコミュニケーションが難しく、その心情は理解できません。

時々思うのですが、もしかしたら目線の先に節子を見ているのかもしれません。

節子がいなくなってからチビ太には大きな変化はありませんでした。
なんと薄情な犬だと思ったのですが、そう思うのは小賢しい私くらいで、実はチビ太もまたいろいろと思うことがあったのでしょう。
なにしろ頭の悪い犬ですから、すぐには状況を理解できなかったのかもしれませんが、間違いなくその意味は理解しているようです。
そして哲学しているのです。
それが最近わかってきました。

哲学しているチビ太をみると節子を思い出します。
節子は頭が悪かった上に、哲学もしませんでしたが、小賢しい私に比べれば、誠実に生きていました。
存在そのものが哲学だったのです。
その証拠に、チビ太くんにまで哲学されているのですから。
小賢しい生き方から早く抜け出なくてはいけません。
もっと念仏しなければいけません。

■934:セロトニン(2010年3月24日)
「自殺のない社会づくりネットワーク」では毎月、交流会をやっています。
先日の交流会で、自死遺族の人の「怒り」や「自責感」が話題になりました。
家族の自死を思いとどめさせられなかった悔いは、やり場のない「怒り」や「自責感」へとつながるのでしょうが、こうした話題はこの交流会でも時々でます。
しかし、そのたびに、私もまたあまり冷静ではいられなくなります。
節子は病気でしたが、それでも節子を守ってやれなかった自分への「怒り」や「自責感」は、とても大きく、今もなおそこから抜け出られません

がん治療の技術が進んだという報道を見るのもつらければ、がんは治るなどという文字を見ると、心が萎縮します。
節子を守れなかった自分がとがめられているような、そんな思いに落ちてしまうとしばらくは立てなくなってしまいます。

その思いを自由に発散させることが大切なのかもしれませんが、その一方で、その思いを語ることがまた自己弁護のような気がしてきて、口にした途端に自己嫌悪に落ちるのです。
この挽歌も、実は何回も書くのを止めて、3日目にしてやっと書き上げました。

ところで、他者の自責の念に出会うたびに、その過剰さを思うのですが、自分のことになると自責の念をどんどんと掘り下げたくなるのです。
こうして人は自らを責めて、奈落へと迷い込むのでしょうか。
それとも、責めていった先に、世界は開けていくのでしょうか。
感動の涙はセロトニンを創りだし、人を元気にすると言います。
自責の涙もセロトニンを生みだすのかもしれません。
もしそうであれば、過剰すぎるほどの自責に苛まれるのがいいのかもしれません。

今日は雨。
自責にはぴったりの日です。
雨は天の涙ですから。

■935:夫唱婦随にして婦唱夫随(2010年3月25日)
節子
早稲田の名誉教授の小林雅夫さんから「古代ローマのヒューマニズム」が贈られてきました。
小林さんと節子が会ったのは、2人とも病気を体験したからのことでした。
病気の後遺症で歩行も会話も不自由になった小林さんが、奥さんと一緒にオープンサロンに参加してくれたのです。
1回きりしか節子はお2人にはお会いしていませんが、とても強い印象を受けたようでした。
「夫唱婦随」などというと誤解されそうですが、良い意味でのそれを絵に描いたようなお2人でした。
わが家ほどではないかもしれませんが、小林ご夫妻もたぶん奥さんの方がしっかりしているようにお見かけしましたが、だからこそ「夫唱婦随」の見事さが感じられたのです。

夫婦は不思議なもので、外からの見え方と当事者同士の実態は往々にして逆転しています。
夫唱婦随とは同時に婦唱夫随でもありますから、実は唱随の主客は融通無碍に変化するというべきかもしれません。

節子にとっては、小林ご夫妻の関係は理想的に見えたようです。
私たちはまだそこまで行けずにいましたから。
もし節子が元気でいつづけてくれたなら、私たちも小林ご夫妻のようになれたかもしれません。
節子がいなくなってから、ご夫妻は湯島に訪ねてきてくれました。
とてもあったかいご夫妻です。

昨夜、本は一気に読ませてもらいました。
とても面白かったです。
ホームページのブックのコーナーに日曜日にアップします。

■936:節子のいないオープンサロン3回目(2010年3月26日)
節子
今日は節子がいない再開オープンサロン3回目です。
前回は武田さん一人の参加で、少しは再開したことを呼びかけなければと思ったのですが、それもこのサロンの趣旨に反するなと思い、やめました。
さて今日はどうなるでしょうか。

サロンもそうですが、湯島はだんだんまたいろんな人の集まりが増えてきました。
今日は午前中、熊本の宮田さんが来ました。
農業と福祉の実践者にして研究者です。
熊本といえば、節子と一緒に地獄温泉に行ったことを思い出します。
道路沿いの露天風呂で温泉に入ったのも思い出の一つです。
あの頃は、私もかなりさまざまなプロジェクトに関わっていて、時間破産を続けていましたので、ゆっくりとする間もなく、結構忙しい旅だったような気がします。
ですから行く前に予定を組んで、宿も決めての旅行でした。
でも、節子はそうした旅が好きではありませんでした。
行き当たりぱったりで、現地で宿を探すような旅が節子の好みでした。
そうした旅を満喫させられなかったことも、私の悔いの一つです。

その頃、時間破産を起こしてまで各地に出かけていましたので、今でもいろいろなところに友人がいます。
将来は、そうした友人知人のところを、節子の好みのスタイルで節子と一緒にゆっくりとまわろうなどと思っていたのですが、それもかなわぬ夢となりました。
時間ができたらなどと思ってはいけません。
できるときにやっておく、が節子の口癖でしたが、それに従わなかったことが悔やまれます。

いま電話でサロンに参加するという連絡がありました。
今日は少なくとも5人ほど集まりそうです。
いつもサロンの始まる前、今日は何人来てくれるかなと節子と話していたことを思い出します。

やはりサロンは一人ではなく、節子と一緒にやりたかったです。
そろそろ最初のお客様が来る時間です。

■937:奥さんにお供えしてください(2010年3月27日)
節子
昨日はオープンサロンでしたが、久しぶりの人が参加してくれました。
節子もよく知っている中村公平さんです。
特にサロンの案内をしているわけではないのですが、どうしてサロンの再開を知ってくれたのでしょうか
その質問には、答をはぐらかされてしまいましたが。

節子も知っているとおり、今頃は長野の八ヶ岳山麓で優雅に晴耕雨読人生を送っているはずなのですが、なぜかまだ東京にいるようです。
少し早目に来た中村さんは、これを奥さんにお供えしてくださいとお菓子を持ってきてくれました。
ずっと気にしていてくれたのです。
いかにも中村さんらしく、そのお気持ちがとてもうれしく感じました。
節子がいなくなってから、もう2年半も経つのに、今もなお節子のことを忘れないでいてくれる人がいることに感謝しなければいけません。
そういえば、やはり節子の知っている藤本さんも、最後の言葉のなかに、節子のことに言及してくれていました。
藤本さんはいつもながら、今回もどっさりとブドウだらけの名物ブドウパンを持ってきてくれました。

中村さんは5年ぶりの参加だとおっしゃっていました。
しばらく北九州市のタクシー会社の社長をされていたようですが、戻ってきてまた新しいプロジェクトに取り組み出そうとしています。
今回は中村さんや藤本さんのほかにも節子が知っている武田さん、それにこれも久しぶりに小山石さんと清水さんが参加しました。
ささえあいネットワークの福山さんも参加されましたので、武田さんも含めれば(この数年慶応の先生もやっています)大学の先生がなんと4人も集まったわけです。
これだけだと話が小難しくなりかねないのですが、幸いにもみんな大学の先生らしからぬカジュアルなタイプなのです。
それに今回は浜松から私のブログを読んで若い女性が参加してくれました。
彼女と福山さんのおかげで、ちょっと場がやわらかくなりました。

節子はいつも言っていました。
どうして男性たちは、小難しい話に熱中するのだろう、と。
それは、私がとりわけそうした話が好きなのを知っていた節子の、私への牽制球だったのかもしれません。

帰宅後、中村さんのお菓子を節子に供えさせてもらい、昔のようなサロンだったことを節子に報告させてもらいました。

■938:人は本来支え合う本性を持っている(2010年3月28日)
節子
一昨日のサロンで、人は本来支え合う本性を持っていると発言させてもらいました。
素直に生きていれば、それは当然のことのように私には思えます。
そういえば、そのサロンにも参加してくれたブログの読者が、ゾーエとビオスのことが最近、ようやくわかってきました、と言ってくれました。
着飾った頭や心を解き放てば、「生命の支え合う本性」が現れてきます。

私はそうした考えに、どちらかといえば「理屈」からたどりつきました。
節子に言わせれば、私は実践者ではなく理屈屋なのです。
こんなにたくさんの本を読まなければ、そんな簡単なこともわからないの、と節子には笑われますが、いろんな本を読んでその考えにたどりついたような気がします。
念のために言えば、自分の生き方の意味がわかってきたということで、本を読んだから生き方が変わったということではありません。
私の生き方は、学生の頃からたぶんほとんど変わっていません。

節子は本を読まない人でしたから、逆に生来のそうした生き方を失っていませんでした。
私たちは、本をたくさん読んだのとまったく読まなかったのとの違いはありますが、「人は本来支え合う本性を持っている」という確信は共有していました。

支え合う本性は、同時に普遍的な生命の痛みを感ずる身体性と深くつながっています。他者の喜怒哀楽は自然と伝わってくるものです。
その感度が強ければ、おのずと人の身体は、そして心は動きます。
私たちは、喜怒哀楽も心身の痛みも、深く共有していました。
しかし、それは決して2人だけの関係に内向するのでも呪縛されるのでもなく、むしろ外に向かって感度は広がっていたような気がします。

最近、その感度が私から消えてきているような気がします。
節子を見送った後は、その感度が極度に高まり、何を見ても涙が出ました。
しかし、最近、あまり涙が出なくなりました。
涙だけではなく、喜怒哀楽の感度が弱まっている気がします。
それに気づいたのはつい最近です。
どうも私の身体性は鈍くなっているのです。
喜怒哀楽が、奇妙に内部にとどまっているような気がします。
これは愛する人を失った喪失感の後遺症かもしれません。
最近、身体の動きが悪いのは、きっとそのせいです。

この週末、寒さのせいもありますが、あまり動けずにいました。
身体がとても重くて、そこから気が飛び出せずにいるような気分です。
支え合いの本性に影響しなければいいのですが。

■939:悲しみと一人で向き合うこと(2010年3月29日)
節子
この挽歌は、節と私自身に向けての独白なのですが、公開の形をとっているので、読者からメールが届くこともあります。
なかには私と同じように愛する人を見送った人もいます。
挽歌に対する読み方は、それぞれにまったく違いますので、私が戸惑うこともあれば、思いをつなげられることもあります。
先週も以前から時々メールをくださる方から、最近の記事に関してメールが届きました。
今日は、そのメールを節子にも聞かせたいと思い、紹介させてもらうことにしました。

いつも、挽歌を読ませて頂いています。
挽歌に書かれていることは、共感や発見、そして私の知らなかった世界の扉をノックしてくれるようなものもあり飽きることはありません。
彼を送って8ヶ月になりますが、私と同じ頃、佐藤さんはどんな心境でいらしたのかと、過去に遡って読ませて頂くこともあります。

最近、佐藤さんの挽歌で励まされたことがあります。
それは、この悲しみは、誰とも共有できない、ということです。
もし共有できる人がいるとしたら、それは旅立ってしまった愛するその人しかいないのだと思いました。
悲しみと一人で向き合うことは、何も特別なことではないのですね。
佐藤さんが、誰とも悼み合っていないのを感じるにつけ、
一人で向き合うことを、当り前に感じられるようになりました。

この人は私よりもずっと若い女性です。
彼女は、私が「誰とも悼み合っていない」と言います。
そう言われて、そのことに私自身初めて気づきました。
実は、心のどこかに「誰かとこの気持ちを共有したい」という意識があったのですが、このメールを読んで、私もまた吹っ切れたような気がします。
考えてみると、誰とも「悼み合えない」ほどの特別の人に出会えたことの幸せに感謝すべきかもしれません。
そしてもし、人の別れが避けられないものであるならば、心を込めて見送り、悼み続けることができることにもまた感謝すべきかもしれません。

読者からのメールに、私も励まされることもあるのです。
節子
この人が言うように、悼み合えるのは節子だけなのでしょうね。
あなたも私を悼んでいますか。

■940:特別の存在(2010年3月30日)
哲学者の鷲田清一さんは、周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う、というようなことを書いています。
私たちは、自らが誰かにとって特別な存在であると感じられる時に、生きがいを感ずるとも書いています。
とてもよくわかります。

自分にとって「特別の存在」の人は誰にもたぶんいるでしょう。
しかし自分が誰かにとって「特別の存在」であると確信を持てる人は多くはないかもしれません。
「特別」であるかどうかの評価は、前者の場合は自分でできますが、後者の場合は自分ではできないからです。

「特別の存在」は、しかし、個人に属する特質ではありません。
関係性の中から生まれるものです。
それぞれが、余人をもっては代えがたい存在となるような関係性を創り出すのが「特別の存在」という意味です。
ですからそれは対称性を持っており、相互に「特別な存在」なのです。

節子は、私にとっての「生きる意味」でしたが、言い換えれば、私たちはそれぞれに「特別の存在」でした。
私の存在は、節子にとって「意味」があることを私は日常的に実感できていました。
だから私は、いつも「生きる気力」に満ち満ちていて、元気でした。
その「気力」は、私の心を常に平安に保ってくれていました。
それが消えてしまったのです。
鷲田さんの言葉を借りれば、節子がいなくなったからさびしいのではなく、自分が「特別の存在」であることを確信させてくれる節子の不在が私は不安にさせているのかもしれません。
最近、えもいわれない不安を感ずることがあるのです。

「周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う」。
この言葉は、深く心に響きます。

■941:変わった者だけが気づく変化(2010年3月31日)
節子
今日は神様がお休みのようです。
パソコンの前に座ったのに、書くことが浮かびません。
まあ、こういう日もあります。

先週のサロンに参加してくれた中村さんが、またやってきました。
一昨日のことですが。
そしてこう言いました。
佐藤さんは変わってしまったのではないかと思っていたが、変わっていないので安心しした。

こういう言葉は、中村さんが初めてではなく、何人かの人から言われています。
みんな私がどう変わったと思うのでしょうか。
この挽歌を読んでいると、悲しみにうちひしがれて、取り付きようがないと思うのでしょうか。
そう思われても仕方がありません。
この挽歌は、読む場所にもよりますが、「節子、節子、とうんざりだ」と思う人もいるのです。

節子を見送ってから、私のオフィスに来る人も少し変わりました。
以前はよく来ていた人が来なくなったり、あまり来なかった人が来るようになったりです。
以前と同じように、相変わらずやってくる人もいますが、その後、まったく音沙汰のない人もいます。
もう私が別の世界にいってしまったと思われているのかもしれません。
しかし、中村さんが言われたように、たぶん何も変わっていないのです。
いや、こう言ったほうがいいかもしれません。
あまりに大きく変わったので、だれにもその変わり様はわからないのです。

変わったのに変わらない。
そんな状況なのです。
心配で会いに来られない人がいたら、ぜひ会いにきてください。
以前とまったく変わっていません。
変化にもし気づく人がいたら、きっとその人も変わったのでしょう。
変わった者だけが気づく変化、そういうものもあるのだろうと思います。

■942:節子からのメッセージ(2010年4月1日)
寝室で本を読んでいると、時々、ビシッとか、ガタッとか、音がすることがあります。
これまでも音がしていたのかもしれませんが、最近、それに気づきました。
わが家は木造ですから。木材が乾燥して音を発することはあります。
そう考えれば、なんでもないことなのですが、そのタイミングが実に見事なのです。
ベッドに入って本を読み出すと(私は昔から就寝前に本を読む習慣があります)、その音がするのです。
最近、3回ほど体験しました。

先週、挽歌を読んで訪ねてきた人に、今でも妻とつながっているような気がすると話したら、そんな体験をされたことはありますか、と訊かれました。
大日寺のロウソクの話や告別式の前夜の光の話をしました。
昨夜は、それを思い出して、もしかしたら節子が何かメッセージを送っているのかと思いつきました。
そうしたことは実証することはできませんから、そう思うかどうかの話です。
そう思うと、似たような体験はいろいろとあります。
幸運が訪れたら、これは節子のお陰だと思うこともできますし、雨が降れば節子が悲しんでいると思っても辻褄は合わせられます。

大日寺に行ったとき、真実かどうかよりも佐藤さんが信ずるかどうかが大切なんですよと、連行してくださった加野さんが言いましたが、その通りだと思います。
人は、自分が信じたいことを信ずるものです。
節子が音を鳴らしていると思えばいいだけの話で、それが事実かどうかは、まったく別の話なのです。
そう考えれば、節子は見えないだけの話で、いまも隣にいると考えることもできるわけです。

さて今日は節子からのメッセージは届くでしょうか。
もし節子がこの挽歌を読んでいるとしたら、今夜は10時半にピシッという音を出してもらえるとうれしいです。
さてどうなるでしょうか。

■943:写真の節子のシワが増えました(2010年4月2日)
今日もちょっと危うい話です。

最近、気づいたのですが、仏壇に置いている写真の節子が、以前よりもシワが増えてきています、
写真ですから変わるはずはないと思っていましたが、確かにそう見えます。
昔は、今よりもシワが少なく、もう少し美人だったような気がします。
写真のなかでも、人は歳をとるものなのです。

そんなバカな、と思うかもしれません。
スピルバーグの映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には、そんな場面がよく出てきましたが、現実にはそんなことがあるはずがないといわれそうですね。
でも、それが現代人の退屈なところです。
どうしてそんなことがないと断言できるのか。

デジカメの写真なので、パソコンで原画を見ることができますから、それを見たら最初からシワがあったかどうかわかるだろうというかもしれません。
しかし、その原画やデジカメの電子データのなかでも節子は歳をとっているかもしれません。
確かめようはないのです。

みなさんは、鏡に映っている自分の姿を見て、それが自分とちょっと違うことに気づいたことはありませんか。
私はよくありますが、それだって同じかどうか証明などできないでしょう。
鏡の中の自分が、勝手に動き出すことがあっても、私は決して驚きません。

思い込みを捨てると、世界は途端に自由に動き出します。
そこで生きるのはけっこう疲れますので、みんな思い込みを大事にしますが、時には捨てることもいいものです。
こういう話は、最初に節子と奈良を歩いた時から、よく話していました。
奈良や京都は、私にとっては時空を超えた磁場だったのです。
最初は戸惑っていた節子も、そのうちに慣れてきました。
まあ聞き流す術を身に付けただけかもしれませんが、でも節子は否定はしませんでした。
今頃は、私の話していたことが正しかったことを知って、さすが修さんと思っているかもしれません。
残念ながら、その反対であることもありえますが。

さて、写真の中の節子に戻りましょう。
シワのない写真に変えようかと思います。
その写真もまたシワが増えていくかもしれません。
もしそうならば、シワが増えるのにまかせましょう。
それがきっと、節子の望むことでしょうから。

■944:さくら(2010年4月3日)
東京はこの週末が桜の花が満開です。
ユカも友人とお花見に行きました。
私も何人かからお誘いを受けましたが、まだその気にはなれません。
昨年、ついつい断れずに花見に出かけてしまいましたが、さくらの花を見ることができませんでした。
友人は笑いますが、まあそんなものなのです。
なにしろ節子は桜が大好きでしたから、桜にまつわる思い出が多すぎるのです。

友人が近くの桜の見事な写真を送ってくれました。
プリントアウトして、節子にも供えました。
節子もきっと喜んでいるでしょう。
これもまた笑われそうですが、まあそんなものなのです。

節子がいた時に見た桜と、いなくなってからの桜が、こんなにも違うのは驚くばかりです。
以前は、私の心身を癒してくれていた桜が、いまは私の心身のエネルギーを吸い取ります。
桜を見ると、きれいだなと思う反面、心が痛みます。
早く桜の季節が終わればいいなどとさえ、思いがちです。
なかなかわかってはもらえないでしょうが、まあそんなものなのです。

景色は、人の心を変えてくれますが、
人の心が景色を変えてしまうこともあるのです。

■945:コムケアフォーラム(2010年4月4日)
節子
私が10年前から取り組んでいる、コムケアのフォーラムでした。
今年のテーマは「支え合いを形にする」でした。
とてもいいフォーラムになりました。
これも私を支えてくださる仲間のおかげです。

節子がいる時には、コムケア活動のイベントにはいつも節子も手伝い参加してくれていました。
特に100人を超えるような大きなイベントの時には、家族総出で応援してくれました。
だからこそ、飽きっぽい私がこの活動を継続できたのです。
コムケアをはじめた当初は、選考会やフォーラムが近づくと眠れない夜が続いたこともあります。
そんな時、節子はいつも、大丈夫、うまく行くわよ、と言ってくれました。
その一言が、私に元気を与えてくれました。
そのうちに、私自身がいつでも大丈夫だと思えるようになったような気がします。
最近の私の超楽観主義は、もしかしたら節子が私に植え込んだのかもしれません。

節子がいない今では、おそらく当時のような無謀な企画には踏み出せなかったでしょう。
コムケア活動に関しては、背中を押してくれたのは節子です。
しかし、そのコムケア活動で一時は超多忙になり、もしかしたらそれが節子への気遣いをおろそかにしていたのではないかと悔やむこともあります。
そのコムケアの仲間が、節子がいなくなってからの私に元気を与えてくれているのです。
コムケアと節子の思い出は、これもまた山のようにあるのです。

帰宅後、節子に今日の報告をしました。
ほら、うまくいったでしょう、と節子が笑っているような気がしました。

節子
ありがとう。

■946:悲しみの共有(2010年4月5日)
挽歌939にコメントをもらいました。
もう読んでくださった方もいるかもしれませんが、伴侶を亡くした悲しみは決して共有できないということに反応してくれたのです。
共感できないことを共有することで、私も少し救われます。

この方はこう書いています。

 この悲しみは いつまで続くのでしょうか。
 夫が逝ってから 265日たちますが 悲しみは益々深くなり 何をしても 終着点は 夫です。
 それでも 狂いもせず 日常を 現実を生きている自分が不思議でなりません。

そうなのです。
自分ながら、とても不思議な感覚です。
ある意味では「狂っている」のかもしれませんが、見た目はたぶん以前と変わらぬ生活でしょう。

 早くそばに行きたい もう一度会いたいと思うばかりです。

私も今でも毎朝、節子の写真にそう語りかけています。
でも、実際には、現実を今まで通りに(もちろん生の中身は違うのですが)生きています。

 強い人間だと思っていた自分が ほんとはこんなに弱い人間で 夫がいたから強く生きて来れたんだと今にして知りました。

「人」という文字は、ニ本の棒が支え合ってできています。
その意味の深さを知ってしまったことが、不幸なのか幸せなのか。
人の生はさまざまですが、私の場合は、一人で生きる人生ではなかったことは間違いありません。

と、こう書いてきて、もしかしたら、伴侶を亡くした悲しみは共有できるのかもしれないと、ふと思いました。
もしかしたら、そう思いたくない気持ちが私にも、この方にもあるのかもしれません。
そして、その思いがあればこそ、狂いもせずに生きていられるのかもしれません。

このコメントをもらってから、ずっと考えてきましたが、これが今現在の私の思いです。
山崎さん
もしかしたら、分かち合えるのかもしれません。
でも、それがなんだ、という気持ちもありますが。

■947:自分一人救われても意味がない節子(2010年4月6日)
強羅のホテルの合宿に参加しています。
企業の経営幹部の皆さんの研究活動のアドバイザー役なのです。
節子がいなくなってからも、この活動は続けています。
しかし箱根での合宿はやはり足が重いです。

今日は飲めない日本酒を飲んだので、いささか頭がくらくらしていますが、
こういう時でも挽歌は続けることにしています。
箱根のことを書こうと思ったら、挽歌へのコメントがまた来ていました。
時々、投稿してくれる「いろは」さんです。
実は、いろはさんは先日、湯島まで会いに来てくれたのです。

コメントは、「悲しみの共有」にです。
いろはさんのコメントもぜひお読みください。

そこに書かれていた、次の文章にまたハッと気づきました。

 佐藤さんも少しでも救われて欲しいという私の願いが、ほんのちょっぴりだけ叶ったような安堵感がありました。

なにがハッとしたか。
私を心配してくれている人がいる、ということです。
いろはさんには感謝しなければいけません。
でも、私はたぶん救われるまでもなく、十分に救われているのです。
しかし、私が救われることでいろはさんは安堵できるとしたら、やはり私は救われなければいけないのです。

最近、時評編で書いていますが、意味ある生のためにはサブシステンスとしての「支え合い」「関わり合い」が不可欠なのです。
そのことを、節子はみずからの生を通して、私に教えてくれたのです。
以前読んだ「サブシステンス」関係の本を、最近読んだら、何かスーッと心に入ってきたのです。

自分一人救われても意味がないのです。
同じ痛みを抱えた人に、心安らぐ瞬間が訪れることまで、分かち合いたいのです。

いろはさんの、その言葉に共感します。
そのためにこそ、私もまた救われなければいけないのです。
「救われる」ということ。
その意味を私はまだしっかりと理解していないようです。

■948:どこまでが私の脳なのか(2010年4月7日)
節子
最近、ソーシャルブレインズという言葉に、時々出会います。
やっと概念化されてきたかと思っていたのですが、私が思っていた(節子に話していた)概念とは全く違っていました。

昨日、箱根に行く途中で、「ソーシャルブレインズ入門」(藤井直敬著)という新書を読みました。
私の期待とは全く違う内容でしたが、とても面白かったです。

ところで、その本にこんな問いかけが出てきます。
「あなたの脳はどこまでがあなたなのでしょうか」

「ソーシャルブレインズ」は、「社会脳」と訳されますが、この本の著者の説明では、それはこんな話です。

世の中には、人の数だけ脳があります。
複数の脳がやりとりをすることで、人間関係や社会はなりたっています。
見方を変えれば、脳は、そのような、他者との関係や社会の中で、初めてその機能を理解できるものです。
「ソーシャルブレインズ」とは、そんな「人間関係や社会に組み込まれた状態の脳の機能」のことです。
「空気を読んだり、がまんしたり、人とつきあう」脳の機能です。

言い方を変えれば、私たちの脳は、たくさんの他者の脳に敏感に反応するというか、連動してというか、ともかくそれら(脳の集合)に適応して常に変わっていくというのです。
主体的などと思っていても、所詮は私たちの頭の中にある脳は、私たちを超えて他者の脳とつながっていると言うわけです。

この考えは、学生の頃からの私の考えに近いので、別に違和感はないのですが、著者の質問にはドキッとしました。

「あなたの脳はどこまでがあなたなのでしょうか?」

そうか、今もなお、節子の脳ともつながっているのか、と思ったのです。
こういうのを「牽強付会」というのでしょうか。

でも、そう思うと、いろんなことが解けてきます。
どんな新説も、今の私にはすべて節子とのつながりのかなで受け止めてしまうのです。
そのせいか、どんな新説も珍説も、すべてすんなりと心身に入ってくるのです。

■949:古代への関心がなくなってきました(2010年4月8日)
節子
新聞に「倭の正体」という本の広告が載っていました。
以前なら、倭などという文字を見ただけですぐに書店に注文していましたが、その気にもなりません。
そこで気づいたのですが、この頃、古代に対する関心が薄れてきています。
それと同時に、本を買わなくなってきました。
なんとしたことか。

関心が薄れたのいは、古代史だけでしょうか。
どうもそれだけではありません。
新しい知識を得ることに興味を失っているような気もしてきました。
「新しい知識を身につけて、それがいったいなんの意味があるのか」
そんな風に思っている自分がどこかにいるのです。

なんでもかんでも節子につなげるのは間違っているかもしれませんが、こういう気分になったのは節子がいなくなったためではないかという気がします。
節子がいなくなったために人生の有限性を実感してしまったのです。
以前は自分の人生には終わりはなく、いつまでも前に進んでいくような気になっていましたが、私の半分の人生が終わったいま、残りの半分が終わることも実感できるようになったのです。
そうなると新しい知識を得ても、それは知識で終わってしまいかねません。
それでは学ぶ意味もない。
知識は何らかの意味で活用(古代史であれば、その場所に行ったり自分の論理を創りあげたり)できてこそ、学ぶ意味があります。
でもその時間はもうありそうもありません。
少なくとも今は読まないけれどとりあえず買っておこうという本の買い方はなくなりました。
私がいなくなったら、娘たちは残された本を処分するのが大変でしょうし。

節子は、私と違って古代史にはあまり興味がありませんでした。
ギリシアに行っても、エジプトに行っても、私と違って、遺跡は観光の対象でしかありませんでした。
遺跡よりもカナダやアメリカの雄大な自然景観を観光に行きたがっていましたが、私の好みで遺跡ばかり付き合わせられていたのです。

節子がいなくなった今、どうして古代への関心が薄れてきているのでしょうか。
これもまた節子が半分乗り移っているためでしょうか。
いまならきっと地中海で歯なくて、カナダ旅行を優先させたでしょう。

なにやら少し不思議な気持ちがします。

■950:節子は海棠を見ているでしょうか(2010年4月9日)
節子
あなたが手賀沼公園の植木市で買ってきた庭の海棠(かいどう)が咲きだしました。
地植えしたので毎年成長しています。
桜も梅もきれいですが、それらに比べて海棠はなんとなく見る人に媚びるような強さがあります。
しかし、海棠の花言葉は「温和」だそうです、
少し違和感があります。
桜の美しさに比べ、海棠は少し品が落ちます。
海棠のもう一つの花言葉は「美人の眠り」だそうです。
これも、とても違和感があります。

海棠は中国で好まれた花のようです。
たしかに海棠の持つ雰囲気は、日本よりも中国につながっています。
中国の絵柄には、海棠のほうが似合いますし、中国の麗人には海棠の華やかさが似合っています。
節子の雰囲気とはちょっと違うような気もしますが、節子も私も海棠が好きでした。
でも鉢物は何回か枯らしてしまったような記憶があります。
それで近くの植木市で買ってきたのです。

わが家の近くにある手賀沼公園では、毎年、植木市がありにぎわいます。
節子が元気だった頃は、毎年、それにつき合わせられました。
私はどちらかと言えば、運搬役でした。
私の好きな花木と節子の好きな花木は、必ずしも同じではありませんでしたが、世話をするのは節子なので何を買うかは節子に決定権がありました。
私の好きな花木も選ぶようにしてくれましたが、いま残っているものを見ると、やはり節子好みのものが多いような気がします、

しかし節子が本当に好きだったのは、草花でした。
さびしそうに咲く山の野草も節子は好きでした。
もしかしたら、節子は草花の手入れが好きだったのかもしれません。
庭で土いじりをしている節子は、いつも楽しそうでした。
私がお茶をいれて、そろそろ止めておやつにしようよ、といっても、なかなか入ってきませんでした。
その節子がいない庭は、花がいくら咲いても、さびしいです。
花の世話が大好きだった節子は、いまも彼岸で花の世話をしているそうですが、たまにはわが家の庭にも戻ってきてほしいです。

海棠は咲きましたが、庭は相変わらず、さびしいままです。

■951:訃報(2010年4月10日)
節子
放送ジャーナリストのばばこういちさんの訃報が届きました。
昨年お会いして以来、あまり体調が良くないことは聞いていましたが、まさかそれほど悪いとは思っていませんでした。
とても残念です。

ばばさんは武田さんの紹介で知り合いました。
ばばさんもまたドラマティックな人生を送られた方です。
たしか1970年代だったと思いますが、テレビの「アフターヌーンショー」で、ばばさんは「なっとくいかないコーナー」というのをやっていました。
生活者にとって「納得がいかない」おかしな問題を取り上げて、それを解明し、正す番組でした。
節子はその番組のファンでした。
何しろ節子は「正義の人」でしたから、納得できないおかしなことには黙っていられないタイプの人でした。
だから、そうしたことを小気味よく正すばばさんが好きだったのです。
私がまだ、ばばさんと知り合う前の話です。

私がばばさんと知り合ったのは、会社時代に情報研究会をやっていた時です。
リンカーンクラブの武田さんの紹介だったと思いますが、以来のお付き合いです。
ばばさんも、節子とどこか似ているまじめな「正義の人」でした。
節子もばばさんには会っていますが、むしろ記憶に残っているのは、ばばさんの奥様です。
たしか日本橋丸善で開催されていた小林文次郎さんの手染め展を見に行った時でした。
小林さんは、私もお会いしたことがありますが、ばばさんご夫妻とお付き合いがあり、その展示会でばばさんの奥様と節子は会ったのです。
節子が再発してから一度だけ私はばばさんの司会しているテレビに出演しました。
テーマが病院だったため、断れなかったのです。
スタジオに来ていた奥様から、再発した節子を置いて、こんな番組に出ていていいのかと言われたのがとても印象に残っています。

節子の見送りにもばばさんは来てくれましたが、その時はまだ元気でした。
私よりも元気だったはずです。
そのばばさんが逝ってしまいました。

訃報を伝えてくれた武田さんが、こうしてだんだん抜けていくのだね、と言いました。
悲しいというよりも、それが自然なのだと、この頃思えるようになってきました。
思い切って、今回は葬儀に出かけようかと思います。

■952:つばき(2010年4月11日)
節子
気がつかなかったのですが、庭のつばきが大きな花を一輪だけつけていました。
葉っぱの影に咲いていたため、気がつかなかったのです。
いつもは複数の花が咲くのに、なぜか今年は大きな花が一つだけでした。

先日、ある人と歩いていたら、道沿いに咲いていた椿の花をちぎっていた人がいました。
一人の人は、なんとひどいことを口にしたのですが、もう一人の人があれは落花しそうな花をわざととっているのだと教えてくれました。
その人の地方では、椿のことを「首切り花」とも言うそうです。
その表現ははじめて聞きましたが、椿は花びらが散ることなく、花そのものが丸ごと落ちるため、首が落ちる様子を連想させ、病気の入お見舞いには使わないということは聞いていました。
それに「落椿」(おちつばき)という春の季語もあります。
椿の花は、どこか高貴で、凛としていて、私は大好きなのですが、花びらが枯れてきたり、無残に散乱した落椿は、できれば見たくない光景です。
それを知っているかのように、葉の陰でこっそりと咲いている椿は、いろいろ感じさせるものがありました。
迷いましたが、写真を撮ってしまいました。
盛りを過ぎた、老花の一輪です。
どうしても、節子に重なって見えてきます。

俳句では、落椿は春の季語です。
この一輪が落花したら、節子のいない3回目の春が始まります。

■953:インシデントの世界(2010年4月12日)
昨日、落椿は俳句の春の季語だということを書きました。
その椿がまだ落花せずに咲いているせいか、今日もまだ春とは遠い寒い日です。
その上、雨です。
とても哀しく、とても寒く、とてもさびしく、いささかの不安に心身が萎えるような日です。

俳句で思い出したのですが、ロラン・バルトという人がいました。
その著作は私には歯が立たず、読んだことはないのですが、その書名は魅惑的です。
たとえば、「零度のエクリチュール」「表徴の帝国」「偶景」、そして「記号の国」。
記号の国とは、日本です。

ある雑誌からの孫引きですが、バロンはこう書いているそうです(「談」87号)。

「偶発的な小さな出来事…、日常の些事、アクシデントよりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ」。

その言葉を紹介している今福龍太さんは、こう語っています。

ごく些細な出来事、ささやかな、取るに足らない出来事。そうした「インシデント」はそのまま消えるのではなく、そのまま人々の感情、真理、感覚の深いところにいつしか入り込み、作動し、働き続ける。

そこにあるのは、ゾーエに突き刺さるリアリティです。
今福さんはつづけてこう語っています。

たとえば、枝に残っていた枯れ葉がたまたま自分の見ている時にその最後の1枚が落ちて、ひらひらと螺旋を描きながら地面に落ちるという偶発的な出来事。これこそをインシデントと呼ぶわけです。自分に物理的な被害を及ぼすものでは全くない。にもかかわらず、交通事故よりもはるかに深く繊細なかたちで、私たちの心を射貫き、突き刺すような情動を生む可能性がある。

今福さんは、歴史が語るアクシデントと生活の中での主役であるインシデントを対照しているのです。

節子がいなくなってから、私もまた、アクシデントの世界ではなく、インシデントの世界で生きていることを強く実感するようになりました。

和室からわずかに見える庭の椿がいつ落花するのか。
それがとても気になってきてしまいました。

■954:生を突然に打ち切られる(2010年4月13日)
節子
相変わらず、人の死を伝える報道が毎日続いています。
ポーランドの大統領夫妻は飛行機事故で亡くなりました。
タイで取材していた日本のカメラマンがデモに巻き込まれて死亡しました。
なんで人は死ぬのでしょうか。

しかし、考えてみると、人の生は常に死と隣り合わせです。
なぜなら、死があればこそ生があるからです。
ポーランドの大統領夫妻は、まさか飛行機が墜落するとは思わなかったでしょうし、取材中の村本さんも銃撃のさなかにいたとしても、おそらく自らの死はあまり実感しなかったのではないかと思います。
死を実感した時には、もしかしたら死が不可避のものになってしまった時なのではないか、そんな気がします。
その現世における「一瞬」は、もしかしたら当事者には長い時間かもしれませんし、あるいは時間軸の流れを超えるものなのかもしれません。
時間軸を超えられるのならば、なぜ死を避けられないのか、それは避けられないがゆえに与えられたものだからです。

あまり思い出したくないので、叙述的には書く気にはなれませんが、そんな思いを節子を見送った後、何回ももちました。

私もこの次の瞬間に死に見舞われるかもしれませんが、おそらくその瞬間にいたるまで、そんなことなど微塵も考えないでしょう。
そんな気がしてなりません。

人は死ぬのではありません。
生を突然に打ち切られるのです。
彼岸に立てば、それはしかし、さまざまな事柄の一つでしかないのです。
打ち切られるのではなく、始まりかもしれません。
時間軸のない世界の事物の生成とはどんなものなのでしょうか。

ばばこういちさんの葬儀に行ってきました。
私にとっての葬儀の風景は、以前とは全く違ったものになってしまっていました。
永六輔さんたちが、また「お別れの会」を企画しているそうですが、私はお別れなどする気はないので参加はしないでしょう。
生者のためのお別れの会は、どうも好きになれません。

■955:私の言動の中にいる節子(2010年4月15日)
節子
うっかりして、昨日、挽歌を書くのを忘れてしまいました。
昨日は、朝から湯島に相談客が多く、帰宅も遅かったので疲れきって、お風呂に入ってすぐ寝てしまいました。
昨日は4人の相談でした。
相談に答えるよりも、勝手なことを話しているだけのような気もしますが。
しかし、アクティブに応えるようにしていますので、それなりに疲れます。
むかし横で聞いていた節子は、内容が全く違うのに、よく頭を切り替えられると感心してくれましたが、昨日も、アート、経営、医療、農業と問題はさまざまでした。

挽歌を忘れたとはいえ、節子を忘れていたわけではありません。
誰と話していても、時々、節子が出てきます。
というか、私の発想の中にすでに節子がいるのです。
人生の三分の二を一緒に暮らしていると、考えることにおける自分と伴侶との境界はあいまいになります。
それは家事や家族のことだけではありません。
仕事や社会活動の面でも、言動は融合され、共進化してきているように思います。
人の脳は開かれており、他者とつながっていることを実感します。
節子と私の思考は共有化され、そのどれが私本来のもので、どれが節子本来のものかさえ、いまではわかりません。
節子はいなくなりましたが、その脳はまだ私の中にいます。

私の発想はかなり柔軟だと思いますが、それは複数の視点で発想できるからです。
言動が自然と共有化される伴侶を持てたことが、いまの私の生を支えていることは間違いありません。

昨日のように、かなり専門的な話題になっても、そうした複数の視点は生きてきます。
ですから私はいまも「共働き」生活なのです。
「共働き」というと誤解されそうですので、これは改めて書くようにします。

挽歌は毎日1回と決めており、その番号が節子を見送ってからの日数ですので、今日は挽歌を2回書くことします。
そうしないと番号と日数がずれてしまいますので。

■956:共働き(2010年4月15日)
私の言葉遣いは少し常識からずれていることがあります。
言葉にはその人の文化が象徴されますから、私は自分の納得できる言葉の意味で語るようにしています。
これは学生時代からの生き方です。
ですから最初節子は戸惑ったはずです。
彼女が知っていた常識的な意味と私の言葉の意味とは、時に微妙にずれていたからです。
まあさりげなく付きあっている限りではあまり不都合は起きないのですが、生活を共にすると時に戸惑うこともあったかもしれません。
そのための夫婦喧嘩も決して少なくありませんでした。

昨日書いた「共働き」もそうした言葉の一つです。
もっとも最近は「共稼ぎ」などという言葉は、ほぼ死語に近いでしょうが。

私はずっと「共働き」でした。
節子が専業主婦だった頃から、私の意識は「共働き」でした。
一般的に、夫と妻が別々の仕事をもつ場合を「共働き」というと思いますが、私はそれを「別働き」と称していました。
もう30年前の話です。

会社で私は25年間勤めましたが、その間も私の意識は共働きでした。
私が仕事に打ち込めたのは節子のお陰であり、節子の支えがあればこそ、仕事に集中できました。
それに私の仕事はいろいろと考えたり、調査したり計画したりする仕事が多かったのですが、その時に節子の言動や考えがとても参考になりました。
いろいろな意味で共働きだったのです。
こういう言い方をすると「内助の功」(これはまさに死語でしょうが)を思い出すかもしれませんが、それとは全く違います。

もし夫婦が人生を共に歩んでいるとすれば、そのそれぞれの仕事もまた共に生み出しているものだと考えるべきでしょう。
人が1人でできることに比べて2人でできることは2倍ではありません。
私の感じでは5倍や10倍になります。
共働きとは、実は人の能力を活かし生活を豊かにする仕組みなのではないかと思います。
私の人生が豊かなのは、節子との共働きのおかげです。
そう今でも思っていますし、今もなおその共働き関係は続いているのです。

共働きは物理的な分業とは違います。
あえていえば、精神的な協業なのです。

だんだん挽歌ではなく時評っぽくなってきました。
この続きは時評編に譲りましょう。
今日の挽歌で書きたかったのは、今もなお私は節子とともに仕事に取り組んでいるということです。
節子の発想は、いまもなお私の判断の大きな部分を占めているような気がします。
そしていろいろな仕事ができるのは、間違いなく節子のおかげなのです。
節子と共にあることに感謝しています。

■957:「納得できる人生」の犠牲(2010年4月16日)
節子
昨日の時評編に書いたのですが、Nさんが定年で役所を辞めました。
その通知に書かれていた文章についつい感激してしまい、時評編に書いたのですが(「納得できる人生と常識的な人生」)、やはり挽歌編にも書きたくなりました。
昨夜、いろいろと考えているうちに私たちのことともかなり重なってきたからです。

Nさんはわが家にも来てくれたことがあるので、節子も会っていますし、節子と2人でその町に出かけた時にも、そこでもお会いしています。
最後に来てくれた時は、節子はあまり調子がよくなかった頃でしたが、とても長い自然薯を持ってきてくれましたね。

そのNさんが、昨日も書いたように「お蔭さまで納得できる形で公務員生活にピリオドを打つことができました」と書いてきてくれたのです。
節子が元気だったら、退職を祝って、一緒に食事でも誘いたい気分です。
お互いに共通の話題は山のようにありますから。

昨日も書きましたが、私もまた「納得できる人生」を選んで会社を辞めました。
その経緯は当時ある雑誌に頼まれて寄稿しましたが、おそらく私の気持ちを知っていたのは節子だけだったでしょう。
節子は理解するというよりも、私の思いに「共振」してくれました。
その後の私の生き方は、その節子との共振によって始まったのです。

しかし、もし私がそのまま会社に残っていたらどうだったか。
節子は苦労せずに、病気にもならなかったかもしれません。
高給取りのサラリーマンの奥さんとして、華やかな生活もできたかもしれません。
ちょっと贅沢なレストランで食事ができたかもしれません。
スーパーの安い洋服ではなくブランド品をたのしめたかもしれません。
私が辞めてしまったために、節子も娘たちも人生を変えてしまったかもしれないのです。
なにしろ収入が一時期、ゼロになったのですから。

私自身は「納得できる人生」を過ごすことができました。
誰からも指示されることなく、納得できない仕事は受けませんでしたし、仕事の進め方もいつも自分で決められましたから、これ以上の幸せはありませんでした。
しかし、節子や娘たちはどうだったか。
迷惑を受けたのかもしれません。
自分が納得できる人生を送ろうと思うと、周辺にはそれなりの迷惑をかけてしまうのは皮肉な話です。
だから人は妥協した「常識的な人生」を選びやすいのです。

それでも、常識的な人生を選ばなかった私に、節子は満足していたと思うのですが、
今となっては確かめようもありません。
Nさんの手紙を、節子と一緒に読みたかったと、つくづく思います。

■958:ペレの涙(2010年4月17日)
節子
朝起きたら隣家の屋根が雪で白くなっていました。
4月に雪。地球は温暖化ではなく寒冷化が進んでいるという説もあるのですが、いずれにしろ最近の気候は不安定です。
不安定なのは気候だけではありません。
アイスランドの氷河の火山が噴火し、その火山灰が欧州各地を覆い、主要空港の閉鎖や飛行禁止措置が出されています。
ちょっとした噴火でこれだけの影響を受けるのですから、やはり人間のやっていることの小ささを感じます。

火山といえば思い出すのがハワイのキラウェアです。
キラウェアについては以前も書きましたが、実は3日前になぜか「ペレの涙」を思い出したのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/02/post-cd30.html
挽歌を書こうと思いパソコンに向かった途端に思い出したのが、ペレの涙です。
でもその後に続く言葉が出てきませんでした。

ペレの涙はキラウェアの火口周辺に散在しているガラス状になった火山弾の破片です。
その名前がとても印象的で、私も節子もすぐに覚えました。

ペレは、炎や稲妻などを司る女神だそうです。
大地から生まれたペレは、美しいが負けず嫌いで気性の激しい女神です。
ポリネシアの神話によれば、火山を求めて、ハワイ諸島を渡り歩き、最終的にはハワイ島のキラウェア火山の火口に住んだそうです。
キラウェアの噴火は彼女の怒りで、溶岩はその一部だと言われています。
火山が噴火すると、ハワイの人は「ペレが怒っている」というそうです。

節子と一緒にキラウェアに行った時に、ペレの涙をこっそり拾ってきてしまいましたがそうすると祟りがあると言われています。
節子と切り離されたのは、ペレの怒りでしょうか。
そのペレの涙は、わが家のどこかにあるはずですが、節子との思い出のあるものにはいまだあまり手をつけたくないため、そのままです。
やはり悪いことをしてはいけません。

雪はまだ降っています。
今年の寒さは節子がいないせいではないかと一度思ったことがあるのですが、これは節子の涙でしょうか。

■959:置いていかれた人のさびしさ(2010年4月18日)
久しぶりに墓参りに行きまた。
3月末のお彼岸以来、さぼっていました。
ところがお墓にいったら、きれいなチューリップなどの花が供えられていました。
最近、私がこなかったので、節子が自分で花を供えたということも考えられないわけではありませんが…、いや、やはり考えられませんね。
どなたが来てくれたのでしょうか。

わが家ではお墓には基本的にいわゆる「仏花」は供えません。
洋花が多いのですが、ともかく明るい花を中心に選んでいます。
お墓に供花してくれた人もそれを知っているようで、真っ赤なチューリップとやさしい小さな花が中心でした。

いずれにしろ、こうしてわざわざ節子のお墓参りに来てくれる人がいるとは、節子は幸せです。
先日、ばばさんの葬儀で、友人の方が「私たちが思い出している限り、ばばさんは生きている」と話していました。
そのことを思い出しました。

節子は私にとっては「特別の人」であり、忘れようもありません。
しかし、節子以外にも時々思い出す友人がいます。
この歳になると見送った友人は決して少なくありませんが、不思議と思い出す人は決まっています。
私の場合は3人の友人をよく思い出します。
格別に親しかったわけではありませんが、その3人とは今生で一緒にやることが残っていたような気がするのです。
3人とも、まだ若かったのです。
そして、みんな突然に逝ってしまいました。

お墓に来てくれた人も、もしかしたら節子と何かをもっと一緒にやりたかった人かもしれません。
そういう人を置いて、先に逝ってしまう人は、本当に罪つくりです。

今日はお墓で節子に少し文句を言ってきました。
節子には罪はないのですが、やはり罪つくりの話です。
置いていかれた人のさびしさを節子はわかっているでしょうか。

■960:ネット世界で生きている節子(2010年4月19日)
節子
この挽歌を読んで湯島に会いに来てくれた人がいます。
節子よりもずっと若い女性ですが、私と同じく愛する人を見送ったのです。
その方がメールを送ってきてくれました。

挽歌を読んでいると、奥様は佐藤さんと一緒にいらっしゃるイメージなのです。
佐藤さんのお写真はプロフィールにありましたし、奥様のお写真も挽歌の中で拝見していますので、私にとっては、佐藤さんも奥様も同じ距離感だったのです。
失礼ながら「多分、奥様は私と似ているな」と、奥様の性格まで挽歌から伝わってきていて、私の中で「佐藤さん」という人が出来上がっているのと同じように、「節子さん」という人が出来上がっていました。

その方はネットの世界で、私たち夫婦と知り合ったわけです。
そしてそこには節子もいるのです。
不思議な気がしますが、私には何だかリアリティがあるのです。
続けてこう書いてくれました。

オフィスのドアを開けたとき、当然のことながら佐藤さんお一人なのですが、変な違和感がありました。
頭で、奥様がいらっしゃらないことを納得せざるを得ませんでした。

そして最後はこうです。

奥様がいらっしゃらないことを、この目で確かめてしまったにも関わらず、
相変わらず、挽歌を読むと佐藤さんと奥様はいっしょに存在しています。

挽歌を書き続けてきてほんとうによかったと思いました。
ネットの世界では、いまだ節子は私と一緒にいるのです。
少なくとも、そう信じている人が一人はいる。
とてもうれしいことです。
これからも毎日、節子と話しながら、この挽歌を書き続けないといけません。

ところで、このメールにはもうひとつのことが書いてありました。

(この挽歌の)最大の魅力は、自分自身への正直さです。
お会いする前も、お会いした後も、全く印象が変わらず、佐藤さんの正直さは確信へと変わりました。
これ程までにネットと現実とのずれがない方というのは珍しいのではないかと思うほどぴったりと一致していて驚いています。

ネットの世界には節子がいる。
現実の世界には節子がいない。
しかし、私には「ネットと現実とのずれがない」と言い切っています。
さてこれをどう受け止めるべきか。
悩ましい問題ですが、昨夜、解決しました。
現実にも節子はいるのです。
たぶん私にだけ見えないのでしょう。
映画「シックスセンス」を思い出しました。
節子はきっと私のすぐ近くにいるにちがいないのです。
ですから私は今もなお素直に安心して生きていけるのでしょう。

節子にきちんとした結婚指輪をあげなかったことがとても悔やまれます。

■961:逢びき(2010年4月20日)
この数日、いささかがんばりすぎたので、今日の午後は自宅でゆったりしていました。
本を読みながらCDを聴いていたのですが、たまたまそのなかに「逢びき」が入っていました。
ユカが、わが家の自動車のCDでよく聴いていた曲で、節子も私も好きな曲でした。
無性に日本語で、それが聴きたくなって、ユーチューブで探してみました。
金子由香利さんの「逢びき」が見つかりました。
よせばよかったのですが、聴いてしまいました。

やめられなくなって1時間以上繰り返して聴いてしまいました。

行き交う人の波にかこまれても
なぜかさびしくてやりきれない

まさに私の心情です。

どんな希望があるだろう ふたりには
わたしたちの未来にはなにもない

未来という世界がなくなったのは事実です。
私の中ではもう時間はとまっているのです。

いとしいひとよ、わたしには
あなたのいない世界は考えられない

その世界に生きていることに現実感が出てこないのは仕方がありません。
現実感のない生を、今私は生きているような気がします。
それはこの挽歌にコメントをくださった方にも共通しているかもしれません。
金子さんはこう歌います。

あなたのいない世界に帰れるなんて
私が死んでしまうことを意味するもの

それがとても共感できるので、いまの生はいったいなんなのかと悩ましいわけです。

まあ文字にしてしまうと退屈ですが、よかったらユーチューブで聴いてみてください

この曲は、人目をしのびながら逢びきを重ねる恋人たちの歌ですが、実に見事に私の心情に重なるのです。

愛する人がいるのに会えない、という点において同じのです。
違いは、次の一節です。

人目をしのびながら会うことには
もうこれ以上たえてはいけそうもない 

私からすれば、なんとぜいたくなことでしょうか。
久しぶりに涙がとまりませんでした。
このCDを手に入れるべきかどうか迷います。

■962:節子の味(2010年4月21日)
節子
最近、筍(たけのこ)三昧です。

今年最初の筍は、福岡の蔵田さんが送ってくれてのですが、私が筍好きなのを知って、敦賀の義兄がどっさりと送ってきてくれたのです。
あまりに多かったので少しおすそ分けしたのですが、またどっさりと届きました。
ユカがはんばって、いろいろとチャレンジしてくれています。
筍の煮物はもちろんですが、筍の生刺身、湯がいた筍刺身、焼き筍、筍のお吸い物、竹のもの中華風野菜炒め、筍ご飯など、もう毎日が筍尽くしで、さすがの筍好きの私もいささか飽きてきました。
しかしユカががんばっているので、食べないわけにはいきません。

ユカの筍の味付けはまだ節子とは違います。
筍にかぎりませんが、節子から娘になって、味付けは微妙に変わりました。
それは仕方がないことですが、時に節子の味付けが懐かしくなります。
もっともユカからどんな味だったのかと訊かれても答えることはできないでしょう。
自分でももうわからなくなってきていますから。
デモや張「節子の味」というのが、記憶のどこかにあるのです。

こうしたことはいろいろとあります。
娘たちはとてもよくしてくれますが、やはり節子とは違いますから、ついつい「節子だったら」などと口に出してしまいます。
娘たちももう慣れていますので、聞き流してくれますが、最近、娘たちもまた「節子がいたら」というのです。
もっともそれは節子を褒めているということばかりではありません。
節子がいたら違った方向に行くというような意味で使われることもあるのです。
まあ良い意味でも悪い意味でも、節子はわが家の文化を先導していましたから。
それこそが「節子の味」だったのです。

しかし、わが家の全体の雰囲気はまだ「節子の文化」を保っています。
まあ節子がいた時よりも良くなったものも悪くなったものもありますが、節子がまだ家の隅々にまで残っています。
だからこそ、私はおかしくもならずに、生きているのかもしれません。

■963:「で、何を言いたいの」(2010年4月22日)
むすめが、会話していて男性は「で、何を言いたいの」というのが駄目なのだとテレビで話題になっていたと話してくれました。
実はこれは、私が節子によく問いかけた言葉なのです。
そう言うと、節子はいつも怒りました。
結論ではなくて、その経過をきちんと話したいのよ、と。
しかし私は経過などどうでもよくて、結論を早く知りたいタイプなのです。

でも実は、今から考えるとこれはおかしな話です。
最近私が重要視しているのは、結果ではなく経過なのですから。
もしかしたらこれは節子の影響でしょうか。

女性と男性とは話し方のスキームというか、構造が違うのかもしれません。
あるいは、時間の流れ方が違うのかもしれません。
結婚してしばらくしてから、私たちは話し方でよく喧嘩をしました。
スキームや言葉の意味合いが違うために、会話が成り立たないことが少なくなかったからです。
まあ深く考えなければなんでもないのですが、結婚した以上、私は同じ世界を早く創りあげたかったから、私がかなりこだわったのです。
節子は苦労したはずです。
「○○さんから、佐藤さんのような難しいことを言う人と結婚するから苦労するのよ」と言われたわと節子から聞いたこともあります。
私は決して「難しいこと」にこだわったわけではありませんが、大学を卒業したての頃の私はそれなりに理屈っぽく、言葉の使い方こそが心を合わせる最も効果的な方法だと考えていたのです。
それはたぶん正しかったと思います。
時間はかかりましたが、私たちの世界はほぼ完全に重なったのです。

しかし、残念ながら、「で、何を言いたいの」論争はなくなりませんでした。
節子もかなり頑固で、自分の話し方のスキームを変えませんでしたから。
修は人の話を聴かない、と節子はいつも嘆いていました。
もう少しきちんと聴いていればよかったと思います。
私に対する不満は、いろいろとあっただろうなと、今頃になって反省しています。

もし節子がこの挽歌を読んでいたら、きっと「で、何を言いたいの」という記事が少なくないでしょうね。
これもまた、節子が私に乗り移ってしまったからかもしれません。
困ったものです。

■964:「花や鳥」(2010年4月23日)
節子
なかなか春が来ません。
まさか節子がいたずらしているのではないでしょうね。

春は来ませんが庭の花は次々と咲き出しています。
節子がいた頃に比べるといささか華やかさはありませんが。
そういえば、いま我孫子の駅前の花壇は花がたくさんです。
今年からチューリップも加わっていました。
それを見て、先日お墓に来てくれたのは、花かご会のみなさんだとわかりました。

花が咲き出したのに春は来ない。
レイチェル・カーソンは「沈黙の春」で、春が来たのに花が咲かない未来を警告しましたが、今年の春は私の心情を映し出しているような気がしないでもありません。
「沈黙の春」では、鳥のさえずりもないと書かれていましたが、最近は朝、鶯が元気にないています。
まさか節子ではないでしょうね。

節子は、花や鳥になって時々戻ってくると書き残しました。
なぜ「花や鳥」なのでしょうか。
人間になって戻ってきてほしいものです。
この頃、つくづくそう思います。
なぜ「花や鳥」なのだろう。
あるいは「千の風」なのだろう。
もし私ならば、そんなものに変わることなく、人のまま戻ってこようと思うはずです。

あの凄絶な闘病生活の中で、節子は来世に何を見たのでしょうか。
この頃、なぜかそんなことを考えるようになりました。
おそらく節子は、彼岸の自分を見ていたはずです。
確証はありませんが、確信はあります。
その節子が「花や鳥」というのであれば、そうなのでしょう。

植木市で節子が買ってきた庭のつつじが見事に咲いています。
華やかに、しかしどこかもの哀しげに。

■965:書庫から節子の結婚前の日記が出てきました(2010年4月24日)
節子
書類の整理を始めました。
これまで何度か挑戦して、その都度、途中で放棄していたのですが、万一何かあったら残されたものに迷惑がかかります。
それで転居以来、片付けたことのない小さな書庫の資料から整理を始めました。
実にいろいろなものが出てきました。
なんと私の大学の入学許可証なる書類まで出てきたのです。

私たちは結婚以来、数年の間はよく転居しました。
滋賀で結婚し、最初の家は自分たちで探した狭い借家でした。
滋賀県の瀬田町神領でした。
たしか半年で、大津市石山にある社宅に入れました。
入った途端に東京に転勤、小平市の回田のアパートに転居したら、すぐに小金井市の社宅に入れました。
そこからなぜか吉祥寺の社宅に移り、さらに保谷市の社宅へと、転々としていました。
たしか1年に2回転居したこともあります。
ですから引越しのために箱に詰めたものをそのまま次の転居先に送ったこともありました。
それにしてもなぜ何回も転居したのでしょうか。
今となっては理由をまったく思い出せませんが、私も節子も転居好きだったのです。

しかし転居しても荷物の整理をあまりしないのが、私の悪癖です。
段ボール箱につめたまま放置していたのですが、それを今の家に来た時に、これが終の棲家ということで、すべてを箱から出してしまったのです。
その整理が面倒で、すべてを小さな書庫の書棚に詰め込んでいました。
そしてこの10年、捜し物をしながらそれをかき回していたので、さまざまなものが見事に交じり合ってしまっているわけです。
節子と一緒にその整理をしたら、きっと楽しくなったでしょう。
何しろ思わぬものが出てくるのですから。

節子の若い頃の日記まで出てきました。
几帳面に普通のノートにびっしりと書いています。
私も初めて読む日記です。
まだ読む気にはなれませんが、偶然に開いた頁に、私に会う前に付き会っていた男友達からの手紙のことが書かれていました。
その人の名前は、節子から何回も聞いています。
節子はその人と結婚するつもりだったのです。
その人と結婚していたら、こんなに早く逝かなくてもよかったかもしれません。
過去を振り返って、「もしも」を考えても意味のないことですが、「もしもあの時に」と考えてしまうことが少なくありません。

そんなことを考え出していたためか、整理は一向に進みません。
山のような書類の前に途方にくれています。
この書類の山は、節子と重ねてきた人生の記録だと思うと虚しさに襲われます。

■966:「こんなつらい思いは、誰にも味わってほしくない」(2010年4月25日)
節子
節子のことをとても心配してくれていた黒岩さんの新しい本が6月に出版されるそうです。
『古書の森逍遥』です。
黒岩さんでなければ書けない本です。
黒岩さんのブログによれば、220冊の本を取り上げているようです。
そのすべてに、黒岩さんは心を通わせているはずです。
そんなことは黒岩さん以外にできるはずがありません。
黒岩さんほど、本が好きな人も少ないかもしれません。

その黒岩さんの先週のブログです。

自分が病気になると、他の人の健康がとても気にかかる。
(中略)
昨年の秋の出来事で、ほんのささいなことで人間は不幸のどん底に陥ってしまう、ということがわかってしまった。
もうこんなつらい思いは、誰にも味わってほしくない。

昨年の秋の出来事。
節子と同じく、突然に病気を宣告されたのです。
黒岩さんのブログを読むのは辛いですが、その文字の後ろに興福寺の阿修羅像が見えるような気がします。

「こんなつらい思いは、誰にも味わってほしくない」
節子もまったく同じ言葉を語っていました。
それを思い出しました。
黒岩さんにも味わってほしくない、と節子は思っていたでしょう。

『古書の森逍遥』はとてもいい装丁の本になりそうです。
不死身だった阿修羅のご加護を、毎朝、節子の前で祈っています。

■967:それぞれにみんな重荷を背負っている(2010年4月26日)
節子
昨日は大阪で、「ささえあいつながり交流会」をやってきました。
私がかかわっているコムケア活動と自殺のない社会づくりネットワークとを重ねる形で開催しましたが、中心になって企画運営してくれたメンバーのおかげで、25人の人が集まり、3時間という長い時間があっという間に過ぎました。
半分ほどは私にも初対面の人ですが、会場の空気のおかげでみんな自分を開いてくれました。
それを聴いていて、人はみんなそれぞれに重荷を背負っていることを改めて実感しました。
私が取り組んでいるコムケア活動は、重荷をできる範囲で背負い合おうという活動です。

身近な人が自殺した人の話、兄弟げんかして口も聞かなくしていた兄が事故死してしまった話、などなど、普通であればとても「重い話」がたくさんでてきましたが、どんな話を聞いても私は最近、そこに人生の豊かさを感じるようになってきました。
誤解されそうな言い方ですが、悲しさや辛さをもちろん前提にしての話です。

参加者の一人の方が、来週病院に行って診察を受けるのですが、それで私は精神病者といわれるかもしれませんと話してくれました。
精神病などと医師に診断されても、気にしないでいい、みんな同じようなものなのだからと、私は気楽に反応してしまいましたが、重いテーマをそんな形で明るく話し合うのが、支え合いサロンで私が心がけていることです。
これは節子との40年の人生で、学びあってきたことです。

ちなみに、その人は、隣の人の発言を聞いた後、「私には何をいっているのかさっぱりわからない」とも発言しました。
そういわれた人は驚いたことでしょうが、聴いていて「裸の王様」の寓話を思い出しました。
所詮、私たちはみんな「裸の王様」なのです。
これまた誤解されそうな言い方になりましたが、こういう「アクシデント」があるので、サロンはとても面白いのです。

多重債務と自殺の問題に関わっているご夫妻も参加されました。
なぜ関わっているか、そこにも背負った重荷がありました。
でも夫婦で活動されているのが、とてもうらやましかったです。
東京で出会った若者のお父さんまでもが参加してくれました。
「重荷」を背負い合っていくと、世界はどんどん広がっていきます。
そのうちに彼岸にもつながりがもっと深まっていくでしょう。

夜、帰宅すると、娘が、○○さんから電話があって「佐藤修さんが電話に出ないのが残念です」といわれたと伝えてくれました。
大阪で会った「精神病者」になるかもしれない人からでした。
彼女にはもしかしたら時空間意識の呪縛はないのかもしれません。
今まで大阪で会っていたのだから東京に電話しても私が電話に出るはずはないのですが、彼女はそうは考えなかったようです。
一笑に付すのが普通の対応でしょうが、最近、そうした「普通の発想」にいささかの疑念を抱きだしています。
私ももしかしたら、「精神病者」と診断されるかもしれません。
困ったものです。

それにしても昨日は、たくさんの「重荷」を感じて疲れました。
それをシェアしてくれる節子がいないので、最近は時々ダウンしてしまいます。
しかし「重荷の重さ」と「人生の豊かさ」は、もしかしたら比例しているのかもしれません。

■968:「死ぬことで、その人は永遠に生き続ける」(2010年4月27日)
久しぶりに金沢の大浦さんからメールが来ました、
いつもこの挽歌を読んでくださっているそうですが、そういう人がいるのを時々忘れてしまいます。
私はともかく「書く」ことしか考えられないので(時評編は少し読み手を意識しますが)、読み手が頭から抜け出てしまう傾向があるのです。
書くことで鎮魂できるタイプなのです。
ですから、私と同じような立場の人の挽歌を読むのが、正直、あまりできないのです。
自分で書く分にはいいのですが、ほかの人の記事は逆に生々しすぎて、心が揺らぎすぎてしまうのです。
ですから、この挽歌を読んでくださる同じ立場の人にはとても感謝しています。
勝手な言い方ですが、読んでもらえることで、私は現世につなぎとめられているのかもしれませんから。

大浦さんは娘さんを先に見送ったのですが、そのことは以前書かせてもらいました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/06/post_d876_1.html
いまもなお大浦さんは娘さんと一緒です。

佐藤さん
毎日ブログでお目にかかっている大浦郁代&母です。
佐藤さんが「挽歌」を続けられているので、止めるわけにいかず、私も続けています。
ということは佐藤さんが・・・いや、節子さんが書かせているのですから、
節子さんが「mikutyanの日記」を支えて下さっているのですね。
お礼をいわなくちゃあと常々思っていましたところ・・・・・なんと
佐藤さんのブロブのカウントナンバー399999(午後9時24分25秒?)をキャッチしました。
「mikuちゃんから thank you」 をプレゼントさせてくださいね。

写真が添えられていました。
そして最後にこう書かれていました。

最近であった言葉。
「死ぬことで、その人は永遠に生き続ける」

今の私にもとても素直に受け容れられる言葉です。
「mikutyanの日記」は、とても明るく、大浦郁代&母が生き生きと伝わってきます。
私の挽歌とは大違いですが、この挽歌もきっとそうなっていくでしょう。
そうなりたいとは、思ってはいるのですが。

■969:死への憧れ(2010年4月28日)
昨日の大浦さんと同じように、この挽歌を読んでくださっている方からメールが来ました。

隠さずに申し上げますが、佐藤さんの挽歌を読んでいると心配になるのです。
それは、以前、彼の日記を読み始めた時に感じた心配ととてもよく似ているのです。
言葉の端々に感じる死への憧れ。
人の強さと人の弱さは対極の離れた場所にあるのではなく、背中合わせだと感じています。
他人ではどうすることもできないものかもしれませんが、佐藤さんの危うさは何故か気に掛かるのです。

彼女は愛する人を自死で失いました。
文中に出てくる「彼の日記」とは、その愛する人の日記のことでしょう。
彼女には私が見えていないものが見えているのかもしれません。

しかし、私には「死への憧れ」はありません。
そもそも「憧れ」という概念がないのです。
Uさん,心配は無用です。
たしかに、節子に会えるのであれば、死にたいとも思います。
しかし、娘たちのことを考えるともう少しは生きていたいとも思います。
節子のための死、娘のための生。
つまり、私にとっては、もはや「生」も「死」も同値なのです。
その意味では、ある意味での「生」は終わっているのかもしれません。
躍動するような生きる喜びは、もはや無縁のものになりました。
ですから「憧れ」はないのです。
まあ、こんなことを書くと、Iさんは、ますます私の危うさを感ずるかもしれません。

弱さと強さは背中合わせどころか、同じものだと思っています。
それに倣って言えば、生も死も同じものかもしれません。
以前、胡蝶の夢のことを書きましたが、どちらが本当なのかと訊かれたら、いまの私もまた返答に窮します。

昨日の大浦さんの言葉は「死ぬことで、その人は永遠に生き続ける」でしたが、
人は永遠に生き続けるからこそ、その生の一部として、死があるのかもしれません。

と書いてきて、書けば書くほど、死への危うさをUさんに感じさせるような気がしてきました。
火のないところに煙は立たないというたとえもあります。
やはり危うさがあるのでしょうか。
少し生き方を見直してみましょう。はい。

■970:戻らない世界に戻っている(2010年4月29日)
節子
一条真也さんから「葬式は必要!」という本が送られてきました。
一条さんは私の状況を気遣って、この種の本は出版しても送っては来なかったのですが、先日の挽歌を読んで私がもう大丈夫だと知って、送ってきてくれるようになりました。
とはいえ、実はやはり「葬儀」そのものに関してはなかなか読めずにいたのですが、今回はすんなりと読めました。
それを入り口にして、これまで送ってきてくださった何冊かの本も読めました。
もう大丈夫でしょう。

今朝、テレビでJR西日本の福知山線事故で怪我をした乗客のその後を報道していました。
その人は、事故にあって以来、電車に乗れなくなったのだそうです。
しかし友人たちに支えられて5年ぶりに乗ったそうです。
印象的だったのは、車窓からの風景がまったく違っていたと語っていたことです。
それを見ていて、なぜか涙が出てきました。

先日、友人の葬儀に行きました。
そして昨日は葬儀の本を読みました。
福知山線事故の被害者の方とはまったく違うでしょうが、私もまたこうして少しずつ世界を戻しているのです。
しかし風景はまったく違ってしまったことも事実です。
戻らない世界に戻っている、そんな感じです。

いつまでも立ち止まっているなよと友人には思われているでしょう。
私の意識の中では、決して立ち止まってはいないのです。
時間が止まっただけなのです。
そして世界がちょっとだけ変わっただけなのです。
同じ風景なのに、見えるところが違ってきているのかもしれません。
でも、もう昔の風景は再び見えることはないでしょう。
節子とともに、その風景は永遠に消えました。
節子が持っていってしまったのです。
それに耐えなければいけません。
それはそれなりに辛いことなのです。

今日の我孫子は、春になるのを躊躇しているような、そんな天気です。

■971:話し手の思い(2010年4月30日)
節子とよく議論になったことがあります。
会話において大切なのは、話し手の「意図」か、受け手がその言葉から受け取った「意味」か、という問題です。
私は「意図」そのものにはほとんど価値を認めませんでした。
節子はいつもそれが不満でした。
それでよく夫婦喧嘩にもなりました。

会話に限りません。
行動もそうでした。
節子はよく、私がどういう思いでそうしたかも聞いてよといいましたが、私はそうしたことにはほとんど興味はなく、行動そのものがすべてでした。
言葉での説明には、必ず「嘘」がはいりますから、それを考慮しだすと話がややこしくなるからです。
もちろん日常会話では、そんなことは言いませんが、何か問題が起こった時の話です。

それに「意図」や「思い」がほんものであれば、必ずそれは第三者にも見えるものです。
見えないような「意図」や「思い」はたいしたものではありません。
しかしこうした私の考えは節子にはなかなか受け入れてもらえませんでした。
今から思うと、大人気ない話ですが、それで喧嘩になったりしたのです。

なぜこんなことを思い出したかと言うと、実は最近、いろんな人から私を気遣ってくれるメールや電話があるのです。
もしかしたら、この挽歌は私の思いとはちがって、読者を心配させるものがあるのではないかと、いささか気になりだしました。

案じています、とSさんはメールをくれました。
何を案じているのか、いささか気になります。
今日は電話でOさんが何気なく用事らしき電話をしてくれたのですが、佐藤さんの元気な声を聞けてよかったと言われました。
もしかしたら「用事」は口実かもしれません。
Sさんも心配してたが元気そうでよかったと言ってきました。
私はいつも元気なのですが、危ういシグナルをこの挽歌は発しているのかもしれません。

書き手の思いはなかなか伝わらないものです。
節子の「思い」や「意図」を、もっとしっかりと聴いておくべきでした。
もし節子がこの挽歌を読んでいたら、どう感じているでしょうか。

■972:ホモ・フューネラル(2010年5月1日)
節子
佐久間さんの「葬式は必要!」という本に、こんな文章が出てきました。

葬儀とは、愛する者を失い、不安に揺れ動く遺族の心に「かたち」を与えて、動揺を押さえ、悲しみを癒すこと。

昨日、オープンサロンで葬儀の話が出ました。
最近は葬儀をしない人が増えたとある人が話したからです。
しかしよく訊いてみると葬儀のスタイルが多様化した、あるいはそれぞれの納得できるスタイルになってきたということのようです。
私の体験から言っても、葬儀があればこそ、おそらく今の私がいます。
いろいろと悔いることはありますが、あの葬儀があればこそ、私の心が鎮まったことは間違いありません。

佐久間さんは、人間とはホモ・フューネラル、即ち「葬式をするヒト」と書いています。
とても納得できます。
佐久間さんのホームページには、ホモ・フューネラルに関する、こんな文章があります。

私は、人間の本質とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと確信します。
すでに10万年以上も前に旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、時にはそこに花を捧げていたといいます。
死者を特定の場所に葬る行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。
しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。つまり死はこの時点で、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な二つの価値を生み出したのです。
ヒトと人間は違います。ヒトは生物学上の種にすぎませんが、人間は社会的存在です。ある意味で、ヒトはその生涯を終え、自らの葬儀を多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができるのかもしれません。葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為なのです。
一条真也オフィシャルサイト

多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができる。
節子の旅立ちは賑やかでした。
この本の著者の佐久間さんからも生花を供えてもらいました。
節子の友人たちもたくさん来てくれました。
2年半経って、最近ようやくあの日のことが素直に思い出されて、弔う人たちの顔を思い出します。

■973:人は何を守るかによってどんな人か決まる(2010年5月2日)
節子
昨夜、寝る前に習慣になっている寝室のテレビのスイッチを入れたら、映画「ダ・ヴィンチ・コード」をやっていました。
ちょうど謎解きの最終場面で、ラングレーとソフィーがロスリン礼拝堂の地下室で話しあっているところでした。
ラングレーの言葉が耳に入ってきました。
「人は何を守るかによってどんな人か決まる」

心に響きました。
これは私へのメッセージに違いないと思いました。
書棚にあった原作の「ダ・ヴィンチ・コード」で、その言葉を探しましたが見つかりません。
それで今朝、ネットで調べたら、いろいろな人が「名言」として取り上げていました。
どうやら映画の中でしか使われていない言葉のようです。
たしかに終わり方は、映画と小説は違っています。
この映画は前に観ていますが、この言葉の記憶はありませんでした。
その時には私の心には響かなかったのでしょう。
でも今は、ふるえるほどに深く響きます。

私には「節子を守れなかった」という思いが深くあります。
決して守れなかったことではありません。
私にもう少し「守ろう」という意志があれば、節子は今も私の前で微笑んでいたでしょう。
私が守っていたのは、節子ではなく、私だったのかもしれません。
そして、節子は、自分よりも私を守っていたのかもしれません。
そう思うと、右脳は穏やかではありませんが、左脳は鎮まります。

私はいつもだれかに守られてきました。
子どもの頃から、そうした感じを持っていました。
誰かが守ってくれる、たぶん昔はみんなが持っていた感覚かもしれません。
その「誰か」は、特定の個人ではありません。
特定の個人の場合もありますが、その奥にいる「誰か」です。
私の感じでは「お天道様」がいちばんぴったりしますが。
あるいは「みんな」と言う言葉が合っているかもしれません。

私は「守られること」に甘んじすぎていたのかもしれません。
節子を守ろうなどと思いながらも、結局は節子に守られていた。
今もそうですが、そんな気がしてなりません。
私は「守る」よりも「守られる」存在として、この世に生を受けたような気がします。

私には守ろうとする「何か」がなかったのではないか。
そんな恥ずかしさを、最近、感じています。
自分に関しては守るものはないというのが、私の生き方ですが、実は私がみんなに、つまりお天道様に守られすぎていたおかげの、言葉遊びでしかないのかもしれません。

ちなみに、この挽歌の読者から、私は「自虐的」だといわれました。
今回の記事もそう感ずる人がいるかもしれません。
決してそうではないのです。
大きな生命に通ずれば、自虐などと言う概念は一切生じません。
いささか蛇足ながら。

「人は何を守るかによってどんな人か決まる」
時評編で、もう少し続けたいと思います。

■974:結界(2010年5月3日)
家の中で飼っていた黒めだかを庭の池に放しました。
昨年はなぜか池のひめだかが全滅してしまいました。
それでしばらく池に放すのを止めていましたが、もう大丈夫でしょう。
黒めだかの3匹を水がめに入れて、玄関の扉の外にも置きました。
これは節子の趣味です。

わが家には塀がありません。
玄関は道路に直接つながっています。
その結界を守るのが3匹の黒めだかなのです。
金魚だと周辺を散策している猫の餌食になることもありますが、めだかは小さいので大丈夫なのです。

結界を封じずに、何かを置く。
これもわが家の文化でした。
しかし残念ながら、今の家に転居して、そういう仕組みをいろいろとつくる前に節子は逝ってしまいました。

彼岸と此岸の結界。
節子より私が先に彼岸に行くと思っていたので、この家には節子と一緒に、その通路を仕組んでおきたかったのですが、それも間に合いませんでした。
でももしかしたら節子が思いを入れて造作していた庭のどこかに、その通路があるかもしれません。
小さな庭なので探すほどのこともないのですが、現世の私には見つけられそうもありません。
ふたりが元気だった時に、もっとしっかりと示し合わせておけばよかったと後悔しています。
彼岸と此岸は、必ずどこかでつながっているはずです。
節子はそれに気づいているでしょうか。
気づいているといいのですが。

■975:牡丹の花はなぜ折れたのか(2010年5月4日)
節子
今年も牡丹の花は2つしか咲きませんでした。
これについては昨年書きましたが、節子が元気だった時には4つの花が咲き、節子がいなくなった年の春には3つになり、昨年は2つになってしまったのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/04/post-5bbb.html
家族の数と合っているという話を娘たちとしていましたが、今年の花も2つでした。

ところがです。
その牡丹の花をひとつ折ってしまいました。

今日、突然にdaxがやってきたのです。
昨日、時評編に書いた、あのdaxです。
昨日の電話では少し心配しましたが、いつものように元気です。
それにしても突然です。
天気が良かったので、庭のテーブルで話すことにしたのですが、その準備をしていて、うっかり花が咲いている牡丹の枝を折ってしまったのです。
さてさてこれはなんの予兆でしょうか。
吉兆でしょうか、凶兆でしょうか。
来年はこの家には一人しかいないということでしょうか。

ちなみに、節子はdaxを知りません。
彼と知り合ったのは、節子がいなくなってからですから。
しかし節子に引き合わせたかったです。
節子だったらどう対応するかなと思うと想像がふくらみます。
私よりも話が合ったかもしれません。
daxの話は、実に節子好みのものが多いのです。
共通しているのは、小賢しくない人間的な「正義感」です。

折れた牡丹の花は節子に供えました。
節子が気にいって買ってきた牡丹ですので、たとえ折れても大事にしなければいけません。
もしかしたら、あれはシャイなdaxが自分では花を供えられないので、その思いが起こした必然的な偶然だったのかもしれません。
まあそう思うことにしましょう。
daxと私の会話も、節子は聞いていたかもしれませんね。

■976:困った時の節子頼み(2010年5月5日)
節子
今日はいささか疲労困憊していて、挽歌を書く気力がありません。
連休で遊びつかれたわけではありません。
連休にはあまり出かけることなく、自宅でゆったりしているのが、節子がいた頃からのわが家の文化でした。
今年も同じように、ゆったりと自宅で過ごしました。
にもかかわらず、疲労困憊しているのには理由があります。
連休前にやるべき約束をさぼっていて、連休に持ち越していた仕事を今日のお昼後から始めたのです。
それが実はかなり難物だとわかったのです。
しかも思っていたのと内容が違っていたのです。
頭を絞ってもいい構想が出てきません。
こういう時には節子と気分転換に近場に出かけるのが以前の打開策でしたが、気分転換しようにも一人ではなかなか難しいです。
困ったものです。

まあ気分転換に挽歌でも書こうと思って書き出したのですが、書くことが浮かんできません。
動機が不純なためでしょうか。
ますます頭が疲れます。完全に袋小路に入って煮詰まってしまいそうです。

私が根をつめて袋小路に入ってしまうと、節子はいつもその固まってしまった発想を解きほぐしてくれました。
内容的に相談に応じてくれるのではなく、頭を揉んでくれたのです。
それもちょっとだけでしたが、なぜかそれが効果をあったのです。
そして甘いお菓子を出してくれました。
お菓子がなければ作ってくれました。
娘も時々お菓子は作ってくれますが、頭は揉んではくれません。
それに残念ながら私の疲労をシェアできるのは節子だけなのです。

とまあ、そんな愚痴をこぼしても事態は改善されません。
今日はお風呂に入って寝ることにしましょう。
もしかしたら夢に節子が出てきて、明朝には発想が開けるかもしれません。
節子さん
頼みますよ。
何しろ締め切りはもう過ぎているのですから。
困った時の節子頼みに、かけるしかありません。

■977:木霊(2010年5月6日)
今日は7時ころに我孫子に戻りました。
駅から自宅までは歩いて10分ほどです。
途中に自性山興陽寺という曹洞宗のお寺があります。
そこに大きな樹が3本立っています。
夕暮れ時の白い曇り空を背景に、その樹木がいつもよりも黒々と大きく感じられました。
しかも、風がかなり強かったので、まるで生きているように動いているのです。
樹木に強い生命を感じたのは久しぶりでした。
たぶん節子がいなくなってから初めてです。

私が山が生きていることを確信したのは、10年ほど前に宮崎県綾町の照葉樹林を見た時です。
環境問題の調査に水俣を訪問した後、水俣市の環境課長だった吉本さんに案内してもらったのですが、その照葉樹林は衝撃でした。
樹林の前で30分ほど呆然としていたのを覚えています。
それから環境問題への考えが一変してしまいました。
端的に言えば、興味を失ったのです。
生きている山を見たら、ゴミの分別などはいかにも小賢しく思えてきたのです。

節子が病気になった時、私たちが祈ったのは、自然の強い生命力から大きなエネルギーをもらうことでした。
その時私が思い出したのが、もくもくと湧き出るような生命力を感じた綾町の照葉樹林でした。
それをイメージしながら、祈りました。
しかしその祈りは適えられませんでした。
以来、樹木の持っている強い生命力を感じたことはありません。
私の中では、樹木もまた死んでしまったのです。
樹木の強い生命に呼応する私自身の気が消えていたというべきかもしれません。

それが今日、久しぶりによみがえってきたのです。
しばらく見惚れていました。
風に応じて動いている樹木は、明らかに生きていました。
手と口も見えました。幻覚だったかもしれませんが。

帰宅して節子に報告しました。
その時に、もしかしたらあれは、木霊が彼岸に私を誘ったのかもしれないと思いました。
そういえば、私を招きこむような感じがありました。
通り過ぎてからも、気になって何回も後ろを振り返りました。
それにいま思えば、いつもそこを通っているのに、樹木の木霊をあれほどはっきりと感じたことはありませんでした。
全体が奇妙に白く、そのくせ樹木は緑が消えて黒かったのも不思議です。
まさに黒白の世界でした。

しかし、もしかしたら、逆に私にまた生命力がよみがえってきたのかもしれません。
以前のように、樹木と話ができるようになるかもしれません。
節子の実家のすぐ近くには、話ができる大きなけやきの樹がありました。
その樹の木霊のことは節子から教えてもらいました。

どちらにしろ、とても不思議な体験でした。

■978:辛い時期(2010年5月7日)
昨日、民医連の渡邉さんが湯島に来てくれました。
私がある資料を探していることを聞きつけて、わざわざ湯島まで届けてくれたのです。
最初、渡邉さんから電話をもらった時には思い出せなかったのですが、3年前にも湯島に来てくれたことがあります。
2007年の7月でした。
節子の状況が急変しだした頃です。

実はその頃の記憶があまりありません。
頭からその半年のことが抜けてしまっています。
渡邉さんのことも最初は思い出せませんでした。
当時はまだ湯島にも出ていたようですが、今から思うとなぜ自宅で節子と一緒にいなかったのかと不思議です。
しかしおそらく当時の私は、節子の回復を確信していたのです。
人は、あってほしくないことは見ないように、考えないようにします。
当時の私も、多分そうだったのでしょう。
事実を冷静に受け容れることなど、できるはずもありません。
おそらく当時の私は、現実の世界とそれを希望的に読み直した世界との狭間で、逃避していたのかもしれません。
誠実に生きていた節子に比べると、なんと卑劣なことか。
自分ながら嫌になります。

渡邉さんにお会いしたら、すぐに3年前のことが思い出されました。
私にはちょっと辛い時期でしたと渡邉さんにお話したら、そのようでしたという答が返ってきました。
渡邉さんはとてもあったかな雰囲気の方で、3年前を思い出しながらも、少し心が温まる思いがしました。

3年前が辛い時期だったのであれば、いまはどうか。
当時はいかに辛かろうと帰宅したら節子がいました。
しかし、昨日は帰宅しても節子はいませんでした。
そんなことを考えながら歩いていて、昨日書いた木霊に出会ったのです。
いうまでもありませんが、今の辛さに比べたら、3年前の辛さなどたいしたことではありません。
今のほうが辛いに決まっています。
何しろ節子がいないのですから。

しかし一般にはおそらく当時のほうが辛かったとみんな思うでしょう。
私自身も無意識の中でそう思っていました。
だから昨日、渡邉さんに「ちょっと辛い時期でした」と話したのです。
でも考えてみると、辛いのは今のほうです。
残された者の人生は、辛いものです。
ここから抜け出ることなどできようはずもない、そのことにやっと気づきました。
逃避的に生きてきた当然の報いです。

今日はなぜか朝から風が強いです。

■979:徒労(2010年5月8日)
昨夜、池袋のメトロポリタンホテルで講演をしてきました。
前にも書きましたが、このホテルには節子の2つの思い出があります。
いずれもここで奇跡が起こるのではないかと思った思い出です。
しかし奇跡は起こりませんでした。
そのため、足が遠のいていたのですが、今回は何と皮肉なことに講演会場がこのホテルでした。

このホテルの地下に、帯津良一さんのクリニックがありました。
節子とそこに最初に行って、帯津さんの話を聞いた時には希望が出てきました。
そしてホメオパシーも試してみました。
しかし今から考えると、そして当時を思い出すと、希望を持っていたのは、私と節子だけだったのです。
次元の違うところから見下ろされているような「みじめさ」を感じたのです。
徒労と知りながら、みんなは応援していたのかもしれないと、いささかの腹立たしさを感じもしました。
そのことに気づいて、しばらくの間はとてもやりきれない気分になっていたのですが、それは当然のことかもしれません。
しかし、それはあまりにいじけた「被害妄想」というべきでしょう。

病気に関わらず、現場の当事者には「徒労」という概念はありません。
ただ無心に取り組むだけです。
それは誠実な医師や看護師にもあてはまることかもしれません。
私自身、さまざまな現場にささやかに関わっていますが、徒労などという思いを現場の人に抱いたことは一度たりとありません。
むしろそうした「徒労」に見える活動から、新しい風は起こってきます。

先が見えてしまうことのむなしさを実感したのも、節子との闘病を通してです。
先は見るものではなく、創るもの。
これが私の生き方ですが、それが私たちを支えていました。

節子がいなくなって、私の時間は止まりました。
先に道のない、断崖絶壁の縁に立たされた感じです。
見るべき先がなくなっただけではなく、創るべき大地がなくなったのです。
砂上の楼閣すら創れない。
なにしろ先がなくなったのですから。
創るべき先がなくなってしまったら、どうしたらいいのか。
答はわかっています。
創れなくとも、創らなければなりません。
なかったら創ればいい。
徒労などと思ってはいけません。
先はやはり創らなければいけません。

わかってはいるのですが、まだその気力がでてきません。
「まだ」なのか「もう」なのかは、わかりませんが。
節子と一緒に、新しい先を創っていたころが思い出されてなりません。
あのころの人生は「輝いていた」にちがいありません。
どんなに「徒労」のように見えていたとしても。

■980:会う気になったのには必ず理由がある(2010年5月9日)
節子
今日は朝から悲しい知らせです。
節子も知っている佐藤泰弘さんの訃報が届きました。
久しぶりに気が動転してしまいました。
彼は42歳、実に気の良い若者でした。
今の仕事が忙しくて、なかなか会うこともないまま数年が過ぎてしまっていました。

彼と知り合ったのは、私が環境探偵団を立ち上げた時でした。
コムケア活動を立ち上げる時も一緒でした。
ふたりでコムケアのベースをつくりました。
その後、彼は望んでいた自然学校教育の世界に移りました。
専門学校の先生になったのです。
実に忙しそうでしたが、毎年カナダに生徒を連れて行くなどして楽しそうでした。
しかしあまりの忙しさが気になっていましたが、彼が落ち着いたら一緒に何かやりたいと思っていました。

今年になって、彼に会いたくなりました。
4月初めなら時間が取れそうだと言ってきました。
それで連絡を待っていたのですが、連絡がありませんでした。
気になってメールをしましたが、返事がなく、やはりまだ忙しいのかと思っていました。
そして今朝、彼の友人から突然の訃報。
大腸がんでした。
そんなことなどまったく知りませんでした。

佐藤泰弘さんには感謝したいことがたくさんあります。
いつかきちんとお返ししようと思っていたのですが、それも適わぬことになりました。
相手が若いとお返しはいつでもできると思いがちですが、そんなことはないことを思い知らされました。
それにしても、まだ信じられないでいます。
あの気の良い泰弘が先に逝くとは、神も仏もあるものかと言いたくなります。
自分よりも若い人を送るのは辛いことです。
それに、彼のお母さんのことを思うと、心が深くいたみます。
一度だけお会いしたことがありますが、それは泰弘さんの父、つまり彼女の伴侶の葬儀の時でした。

あまりにも突然の訃報。
人は会おうと思った時には無理をしてでも会っておかなければいけません。
会う気になったのには必ず理由があるのです。
彼と会えていたら、なにかが変わっていたかもしれません。

深く深く彼に追悼の意を捧げます。
あんなに気の良い若者はいませんでした。
あまりにも身近に感じてしまっていたので、付き合いが疎遠になっていたことを心から悔やんでいます。

■981:「またいっしょに何かやりたいんですけどね」(2010年5月10日)
昨日、書いた泰弘さんの友人(学校の同僚)のKさんからメールが来ました。
泰弘さんの紹介で、私もあったことのある人です。
いろいろなことがわかりました。
過労死だったのではないかと思います。
事情を知って、ますます無念さが高まりました。

Kさんはこう書いてきました。

ごくまれに彼と話す際に、よく修さんの話が出ていました。
「最近全然会えないんですよね」と。
「またいっしょに何かやりたいんですけどね」と。

私と同じ思いを持っていてくれたことが、うれしくもあり悲しくもあります。
なぜ2人とも同じ思いを持ちながら実現しなかったのか。
このメールを読んで、涙がどっとあふれました。
久しぶりに涙が止まりませんでした。

あまりに早すぎます、と彼も書いてきましたが、本当に早すぎます。
わかっていたらもっとやるべきことがありました。
悔しくて仕方がありません。
最後に電話で話したのはいつだったでしょうか。
なぜ気づかなかったのか。
2月に会おうといったら、2か月後まで時間が取れないといってきた時になぜ気づかなかったのか。
節子がいたら、もしかしたら気づかせてくれたかもしれません。
そういうことに関しては、私よりも直観力がありましたから。

節子も泰弘さんの素直さがとても気にいっていました。
そういえば、節子が好きだった私の友人はなぜか私よりも先に逝ってしまいます。
まさか節子が呼んでいるのではないと思いますが、思い出しただけでも4人の顔が目に浮かびます。

Kさんは最後に書いてくれました。

最後に修さんに見送られるのは彼も喜ぶのではないかと思います。

いまの私にできることはそれだけです。
それが悔しくてなりません。

■982:雨(2010年5月11日)
節子
今日はとても悲しい雨でした。
雨になると気分が沈みます。

今日は何もやる気がなくて、金子由香利のシャンソンを聴きながら、灰色の空をずっと見ていました。
それにしても、この人の歌はなんでこんなに心に響くのでしょうか。
静かな涙が、気づかないうちに出てきます。
何回聴いても飽きることがありません。
灰色の空も飽きることはありませんが。

夕方、先に逝ってしまった若い友人に会いに行きました。
行くのがとても辛かったのですが、
幸いに彼と同じ世代のふたりが一緒に行ってくれました。
自分よりも若い世代を見送るのと、同世代を見送るのとでは、辛さは違います。
いつもそう思います。

専門学校の先生をやっていたので、教え子たちがたくさん来ていました。
そのおかげで、私も気分がやわらぎました。
その一方で、3年半前を思い出しました。

好きな仕事で最後まで楽しそうだったとお母さんが話してくれました。
直前まで自覚症状がなかったようです。
虫垂がんでした。

最近少し元気が出てきたのですが、今日の雨がまたそれを流し去ってしまった気がします。

■983:「おとうさんだから安心できる」(2010年5月12日)
節子の旧姓は「片山」です。
ですから、節子は「片山」という名前に出会うといつもその人に関心をもちました。

鳥取県の知事だった片山喜博さんが、昨年、奥さんを見送ったことを先日初めて知りました。
記事のタイトルは「亡き妻の言葉に勇気」でした。
それに並んで「おとうさんだから安心できる」という書が掲載されていました。
そのふたつで、書かれていることはすべて伝わってくる気がしました、

片山さんと奥さんの最後の会話は、
「お父さん、ありがとう」
「ありがとう」
だったそうです。
とてもうらやましく感じました。
私と節子との最後の会話はなかったからです。
気づいた時には、節子は昏睡状況だったからです。
ですから、私たちの最後の会話はこうです。
「節子、ありがとう」
私からのその一言だけ。返事はありませんでした。

でも、片山さんが書いている「おとうさんだから安心できる」という言葉は、私も節子から何回も聞きました。
ついついそれを思い出して、胸が痛みます。

片山さんはこう話しています。

気の休まらない日々。看病の支えになったのは弘子さんの一言だった。
「おとうさんさんだから、安心できる」
入浴やトイレの世話は子どもたちに任せずもっぱら受け持った。
介護技術があるわけでもない自分に、いつもこう言ってほほ笑んでくれた。
飾り気のない言葉だが、41年間お互い愛を育んできたからこその愛情表現だった。

最後の文章に思わず涙が出ました。

弘子さんが残した言葉を追憶することで気づかないうちに勇気づけられている自分がいる。

■984:死者が残すもの(2010年5月13日)
節子
神に愛でられたものほど早く逝く、といいます。
それが本当だとすると、いまなお残っている者は、神には愛されていないことになります。
そう思いたくないので、この言葉には、生き方を問い直す効用があるかもしれません。
たしかに人の死は、自らの生き方を問い直す契機になります。
少なくとも私の生き方は変わりました。
それなりに神に喜ばれようとしています。

しかし、こうも言えます。
彼岸に旅立った人たちは「良い思い出」だけを残された者に置いていくのです。
残されたもののために、悪い思い出はすべて背負って旅立つのです。

節子から聞いた話だと思いますが、旅立つ人は、みんなの悪いものをすべて持っていってくれるのだそうです。
節子もそうだったのでしょう。
だから、節子がいなくなっても、家族みんなが何とか支えあって暮らせていられるのかもしれません。

しかし、何が良い思い出で、何が悪い思い出か。
少なくとも伴侶の場合は、良いも悪いもありません。
伴侶に限らず、愛する人との思い出には「良い」も「悪い」もないでしょう。
でもどこかで無意識のうちに美化されていることは否定できません。

この数日、そんなことをずっと考えています。
思い出は変化するものだということです。
過去は変わらないと人は言いますが、そんなことはありません。
過去もまた生きているのです。

誰かを見送ると、自分の世界が変わります。
世界が変わると気づかないうちに生き方も変わります。
それはいいのですが、同時に、それまでの自分への嫌悪感が生まれてくるのがやり切れません。
私が残された理由に気づかされるのです。
死者への弔いは、結局は自らのためなのです。
感謝しなければいけません。
これまで逝った多くの人たちに。

■985:永遠の寝顔(2010年5月14日)
節子
先日の通夜のことがまだ頭から離れずに、どこかおかしな時間を過ごしています。
彼の顔に重なって、節子の顔が頭から離れないのです。
こんなに引きずるのは、私にとってはめずらしいことです。
季節の変わり目も影響しているのかもしれません。

節子の永遠の寝顔はとてもきれいでした。
通夜の夜、だれもいない祭壇の前で、一人でずっと見続けていたのを思い出します。
がらんとした大きな葬儀場でしたが、そして悲しさはあったのでしょうが、不思議と心は安らぎました。
明日はもうお別れだねと、節子と話していて、献花台を思いついたことを思い出します。

節子の最後の化粧は、ユカとジュンとでしてくれました。
ユカに聞いたら、お母さんが好きだった紅い口紅をいつもと同じようにしっかりと塗ったと教えてくれました。
そのせいで、節子は最後まで生き生きとしていたのです。
生前よりも美しかったような気がします。

お別れに来た人に、節子と会ってやってくださいといいたくなるほど、節子はきれいでした。
しかし、今にして思えば、そう思っていたのは私だけだったのかもしれません。
惚れていると、まさに「あばたもえくぼ」です。
それは間違いありません。
一昨日の片山さんと同じく、私も節子が動けなくなるまで一緒に入浴しました。
節子は一人では入浴は無理でしたし、私たちはそれまでも一緒に入浴していたからです。
痩せ細った節子は鏡を見てはよくこんなになってしまってごめんね、と言いました。
しかし私には、痩せ細ろうとどうなろうと、節子は節子でした。
愛しさは高まりこそすれ、弱まることはありませんでした。
しかし抱きしめてしまえば骨が折れてしまうのは明らかでしたから、抱くこともできませんでしたが。

節子の笑顔が、今の私を支えてくれているのかもしれません。
節子は笑顔がとてもきれいだったのです。
私だけしか見ていないでしょうから、客観性はないのですが。
もうその笑顔に触れられないのがつらいです。

■986:家庭農園(2010年5月15日)
むすめたちと節子がよく行った、お花屋の岩田園に行きました。
家庭農園を再開することにしたのです。
その苗を買いに行きました。
節子がいなくなってからわが家の農園は荒れ放題です。
それを今年から再開しようと言いだしたのはジュンが結婚した相手の峰行さんです。
彼が目指しているのはハーブですが、どうせなら野菜も再開しようと思います。
もっとも節子のいない状況では、私に持続できるかどうかはわかりません。
仕事面では私が主役、生活面では節子が主役、というのが私たちの生き方だったのです。

前に書いたことがありますが、私は「サブシステンス」という概念が大好きです。
この言葉を知らない頃から私は「サブシステンス」、つまり生命の視点から物事の価値判断をするという思いがありました。
ですから会社時代も、経営計画策定よりも来客にお茶を出す仕事のほうに価値を見出していたのです。
この考えを私にしっかりと定着させてくれたのが節子でした。
理念でしか考えていなかった私を、それこそまさにサブシステンスな生き方に変えてくれたのです。

野菜づくりをやりたいと節子に言ったのは私ですが、実際にそれを可能にしてくれたのは節子です。
「修は口だけだから」といつも良いながら、節子は私がやりたいことを実現させてくれました。
家庭農園もその一つでした。
いまもなお「怠惰で飽きっぽい」性根はなおっていませんが、節子に笑われない程度にやってみようと思います。
今年のお盆には夏野菜を節子に供えようと思います。

■987:枯れてしまったさつき(2010年5月16日)
節子
ジュンが結婚したので、裏庭の花木の水やりの担当が私になりました。
時々忘れてしまうので、いくつが枯れてしまいました。
一番残念だったのは、節子が沖縄から買ってきたブーゲンビリアです。
さつき展で松崎さんからもらった盆栽のさつきも枯れてしまいました。

植物には声をかけながら水をやるといいのですが、我が家は家の周りにさまざまな植物があります。
地植えのものはいいのですが、鉢ものはちょっと手を抜くと元気をなくします。
とても正直なのです。
節子とちがって私の場合は、まだそれぞれの花木との付き合いが浅いので、水加減も必ずしもわかりません。
せっかくの蘭を水のやりすぎで根腐れさせてしまったものもあります。
花木を育てることの大変さが少しわかってきました。

枯れてしまったさつきには少しだけ思い出があります。
節子と一緒に近くでやっていたさつき展に行ったのですが、抽選でさつきをもらえたのです。
その育て主が茨城県の松崎さんといいます。
節子がとても喜んだのをみて、その松崎さんが一度自分の家に来たらもっと大きなさつきをあげるよと言ってくれました。
それでいつか一緒に松崎さんのところを訪問しようということにしていたのです。
節子は楽しみにしていました。
節子は農家の人と話すがとても好きでした。
不思議ですが、私の母も同じように土を扱う人と話すのが好きでした。

ところがその後、節子は病状が悪化して、結局行けずじまいに終わったのです。
枯らせてしまったさつきは、そういうさつきだったのです。
節子が松崎さんから教えてもらったように、針金で細工をしたままのさつきでした。
もっとていねいに水やりをしていたら枯らせることもなかったでしょう。

明日からもう少していねいに水をやろうと思います。
小さな鉢の一つひとつに、節子の思いがこもっているのです。
これ以上、枯らすわけにはいきません。
明日からは朝一番の仕事にしようと思います。
問題は何日つづくかですが。

■988:「まあそういうこともあるわよ」(2010年5月17日)
とてもさわやかな初夏のような1日でした。
空が久しぶりに青かったです。
しかし、このところどうも気分が晴れません。
不思議なもので、気分が沈んでいると、さらに気分が沈むような話がやってきます。
それだけではありません。
不快なことが周辺で多発します。
いつもならなんでもないことかもしれませんが、なぜか些細なことが気分を逆なでしたりしてしまうのです。
心がいじけているためかもしれません。
気持ち次第で、世界は明るくも暗くもなるものです。

気持ちを明るくしたいと思うのですが、どうも思うようにいきません。
冷ややかに自分を見ている自分を感じてしまうのです。
いささか危うい状況なのかもしれません。
困ったものです。

そんなわけで、最近は時評も書けずにいます。
挽歌もあまり書く気力が出てきません。
節子がいたらきっとこういうでしょう。
「まあそういうこともあるわよ」
その一言に、何回救われたことでしょうか。
節子にそういわれるとなぜか安心できました。

今日は早く眠ることにします。
まだちょっと早すぎますが。

■989:ふたりの自分(2010年5月18日)
節子
今日、湯島に来てくださった方が、用件が終わって雑談をしていたら、実は私も妻を一昨年亡くしましたと言われました。
まったく予想もしていなかったことだったのですが、おかしな話ですが、その一言で、その人への信頼関係が一挙にできあがってしまいました。
もちろん初対面の人です。

その方は17年間、連れ添ったそうです。
1年半、家から出られなかったそうです。
帰り際に、その1年半の気持ちは説明できませんよね、というと、誰にもわかってもらえないでしょうね、という答が返ってきました、
私もそうです。
元気がないとか落ち込むとか、悲しいとかさびしいとか、そういうこととはどこか違うのです。
そしておそらく、私とその人の場合も、それぞれに違うはずです。
伴侶との別れは、自らの人生の意味づけを変えてしまうようなところがあって、自分でもうまく理解できない時期があるのです。
誰かに分かってもらいたい気がする一方で、わかるはずがない、わかるなどとは言わせない、というような、いささかいじけた気持ちもあるのです。

私は今日で989日目です。
この挽歌の数字と節子がいなくなった日からの日数は同じです、
いまでは自宅から外出するのも抵抗はありませんし、他者の言葉にも素直に耳を傾けられますが、誰にもわかってもらえないと思いたい心境は変わっていないような気がします。

節子と一緒だったときの自分と、節子がいなくなってからの自分とは、私の場合、明らかに違います。
そして、いまは、そのふたりの自分が私の中に共生しています。
さらにややこしいのですが、実はもう一人の自分がいるような気もします。
最近はそんな複雑な自分を生きています。
心身は、魂の宿り場だということを実感できるようになってきました。

昨日は帰宅が遅くて疲れきってしまっていたので、ブログのアップが遅れてしまいました。

■990:久しぶりだね、節子(2010年5月19日)
久しぶりに節子の笑顔に出会いました。

人の発想や行動の展開は論理的ではありません。
相撲をみようとテレビをつけました。
そうしたら映画「奇術師フーディーニ」の最後の場面が出てきました。
すごく印象的な場面で、ついつい見てしまいました。
数分で映画は終わりましたので、最後の3分ほどを見ただけです。
筋も何もわかりませんが、主人公フーディーニが事故で死ぬ最後のニュースを映画館で付き合いのあった母娘が見ている画面でした。
それを見ていたら、急に節子の映像を見たくなりました。
いつか編集しようと思ってDVDハードに記録させたままになっている映像の一つを思い出しました。

それは私たちの最後の海外旅行の記録を一緒に行った人に送ったときの映像でした。
ビデオを持参した私たちに、同行した人がコピーを送って欲しいと頼んできたのです。
しかし、イランから帰ってきてからいろいろとありました。
それを書き出したら、大変なほど実にいろいろとです。
でもその合間に少しだけ編集して、3人の人たちに送らせてもらいました。
その時に私たち夫婦からのビデオレターを作成したのですが、そのメイキング映像があるのです。
久しぶりに見る節子は、疲れた顔をしながらもいつものように笑っていました。
何回か撮りなおしていますが、節子らしさが感じられます。
ビデオを届けたのは、みんな私たちよりもかなりお歳上の女性たちです。
そして3人とも伴侶に先立たれた人たちでした。
まさかその人たちよりも節子が先に逝ってしまうとは思いもよりませんでした。
その人たちも思ってもいなかったことでしょう。

「奇術師フーディーニ」の映画の一つのシーンから、なぜ節子の映像を見たくなったのか、つながりはよくわかりません。
それよりもなぜテレビをつけたら、その映画のチャネルだったのでしょうか。
最初のシーンは子どもが涙を出しているシーンでした。
それを見て映画のタイトルも知らないまま、霊を感じたのです。

人の発想や行動の展開は論理的ではありません。
きっと節子が私に会いたかったのでしょう。
その映画が終わった後、字幕が流れました。
そこにこう書かれていました。

フーディーニは死の直前、「死後の世界があるのなら、必ず連絡をする」と伝えた。

連絡があったのかどうかわかりませんが、ネットで調べたらどうもなかったようです。
でも節子は連絡してきました。
死後の世界は間違いなくあるのです。
その連絡に気づくかどうか。
それはどれだけ愛し合えたかにかかっているような気がします。
笑われそうですが、私には確信できます。
私は、節子をとても愛していますので。

■991:自慢できる相手の不在(2010年5月20日)
昨日、節子の笑顔にあったせいか、どうも現実に戻れません。
無性に節子の近くに行きたい気持ちを抑えながら、その一方で節子の励ましを感じながら、大して意味があるとも思えないことをしながら今日も1日を終えました。

さまざまな活動に関わらせてもらってきた関係で、毎日いろんな人からメールをもらいます。
そこには私への謝意も少なくありません。
私のおかげである出会いがあり、そこから新しい物語が始まったというようなうれしい報告もあります。
そういうメールが来ると、私も少しは意味のある存在なのだと思わないわけでもありません。
しかしそのことを「自慢」する相手は今もいません。

自慢したくてやっているわけではないのですが、「喜んでもらえたよ」と誰かに言いたくなることもあるのです。
お恥ずかしい話ですが、私の活動のモチベーションは、昔から節子に褒めてもらうことだけでした。
お金や名誉などは、私にはほとんど興味のないことです。
そういうものを持っている人ほど、私の世界からは遠い世界の人であることが多いこともよくわかっています。
私にとっての唯一の喜びは、自分を真に理解している人が一緒に喜んでくれることです。
喜ばなくてもいい、一緒に喜怒哀楽してくれることなのです。
その人はもういない。
それが私の人生を変えてしまいました。

最近、娘たちが私の話を聴いてくれるようになりました。
そしてわずかばかり喜怒哀楽を共にしてくれるようになった気がします。
しかし、やはり節子とはちがいます。
もうしばらくは、この孤独さを続けなければいけません。
目いっぱい見栄を張りながら、生きなければいけません。
本当は節子の世界で一緒にゆっくり休みたいです。
一人で生きることはそれなりに疲れます。

疲れた時には、素直に疲れる。
それが私たちの生き方でした。
ブログを読んでくださっているある人が、「元気になってよかった」とメールをくれました。
にもかかわらず、こんなことを書いてしまいました。
人生はなかなかうまくいきません。

■992:身辺整理(2010年5月21日)
節子
最近改めて不思議に思うことがあります。
節子がいなくなったのに世界はまったく同じように動いているということです。
言い換えれば、私がいなくなっても世界は今と同じように動いていくわけです。
にもかかわらず、その世界には、そのいなくなった人の痕跡が生々しくあるわけです。
そこに何か不思議さを感ずるわけです。
まあ、不思議さを感ずることなどないほど当たり前のことなのですが、昨夜、4時に目が覚めて、そんなことを考え出していたら眠れなくなりました。
何しろ私が寝ている部屋の風景は、節子がいた時とほとんど変わっていません。
クローゼットを開けると、節子の服がまだ並んでいますし、状差しには節子宛の手紙がまだそのまま残っています。

節子は、ある日、書類や写真を整理したいと言い出しました。
私は、整理は治ってから一緒にやろうといいました。
節子は少しだけ食い下がりましたが、結局は私に従ってくれました。
私たちはどんなに意見が違っても、最後はどちらかに任せる関係でした。
整理の問題は私の言い分が通りました。
節子はたぶん気になっていたでしょうが、身辺整理など始めたらそれこそ旅立ちの準備ができたなどと安堵してしまいかねません。
ですからそんなことは絶対にできなかったし、させたくなかったのです。
安心して旅立たせる方がいいという考えもあるでしょうが、私は最後の最後まで、やはり現世に未練を残し、最善を尽くしてほしかったのです。
残されるものの身勝手さといわれるかもしれませんが、その時は素直にそう思いました。
今もそれでよかったと思っています。
節子も、私のそうしたわがままさを許してくれているでしょう。

節子のものは、今もまだ家中にあります。
節子が明日戻ってきても、生活には不便はしませんし、3年前と同じように暮らせるでしょう。
でもそうなる可能性は、ゼロとは思っていませんが、限りなくゼロでしょう。

それはいいのですが、昨夜考えたのは、私がいなくなった後の世界はどうなるのだろうかと言うことです。
寝る人のいなくなった、この寝室は一体どうなるのか。
行き着いた結論は、節子と一緒でした。
身辺整理を始めることにしました。
残念ながら止めてくれる人は私にはもういません。

さてこれからしばらくは大仕事になりそうです。

■993:透き間の時(2010年5月22日)
節子
時間を持て余しています。
節子がいた頃は、何であんなに時間がなかったのだろうかと不思議に思うほどです。

今日もある人が「忙しそうですね」とメールをくれました。
よそから見ていると私は忙しいのかもしれません。
忙しいといわれるのはとても残念ですが、そう見えるのであれば、そうなのでしょう。
そうならないように努力してはいるのですが、
節子は知っていますが、私は「忙しい」といわれることを恥に思う人間です。
同時に、他者に対しては「忙しい」という言葉はできるだけ使わないようにしています。
「忙しい」とは「心を失うこと」だと昔ある人から言われたからです。
それ以来、集まりなどでの挨拶でも「ご多用のところ」と言っても、「お忙しいところ」とは言わないようにしてきました。

最近、時間を持て余していますが、実はこれは「忙しい」からです。
ひねくれた言い方になりますが、私にはとてもぴったりきます。
そして最近の私の状況は、まさに「忙しいが故に暇」なのです。

気になって「暇」という文字の意味を調べてみました。
「透き間の日」という意味だそうです。
ますます私の今の気分にぴったりです。
なにをやっても充実感がないわけが、これでわかりました。
今は「透き間の時」なのです。

世間的に言えば、やるべきことはそれなりに山積みなのです。
そのリストはいつも机のメモに書かれていますが、10項目を下回ることはありません。
約束の期限を切れたものもいくつかあります。
でも、やる気が起きないためにやれないのです。
そして「時間を持て余す」状況になるわけです。

もともと私にはその気がありました。
節子は「修は忙しいのか暇なのかわからない」とよく言っていました。
節子が「忙しい」と「暇」が同じことであることを理解してくれていたかどうかは、いささか疑問ですが、そのうちに慣れてくれました。

やるべきなのに、なぜやる気が起きないのか。
心が満たされていない、つまり「心がない」からです。
最近、そういう状況が増えています。
その理由がようやくわかりました。
私はいま、「透き間の時期」にいるのです。
無理をすることはありません。
誰かに大きな迷惑をかけない範囲で、暇の状況を受け容れていようと思います。

今日もとても暇で、退屈していました。
その一方で、机の上にある「課題リスト」をみると少し気が重くなります。
透き間の時間を生きるのも、それなりに疲れるものです。

■994:一人で生きるのは疲れますね(2010年5月24日)
節子
昨日は挽歌を書けませんでした。
朝も夕方も、そして夜も、書かなくてはと思ったのですが、どうもパソコンに向かえませんでした。
昨日は日曜だったのですが、朝から湯島に出かけていました。
午前中は先週会った若者が会いにきましたし、午後は私が主催する会がありました。
その前後にもいくつか用事がありましたが、時間がなかったわけでも、書きたくなかったわけでもありません。
なぜかめずらしくパソコンに向かいたくなかっただけなのです。

最近、どうも生活が整理できずにいます。
以前から私はさまざまな事柄に関わる習性があるので、生活が混沌としがちでした。
よく頭の切り替えができるわね、と節子は感心していましたが、その混沌さが私の活力の源泉でした。
それに、多様に見える、それらの事柄のなかに通ずるものを見つけられるのが私の取り得でもありました。

しかも迷った時には「逃げ込める母港」がありました。
それが「節子の世界」でした。
判断に迷った時には、節子と雑談的に話すと必ず先が見えてきました。
一人で考えていると袋小路に入りがちですが、節子と話していると必ず出先が見えたり、共通点や自分のやっていることに確信が持てたりしたのです。
節子がなにか気のきいたアドバイスをしてくれたわけではありません。
ただ素直に、しかし極めて人間的に、反応してくれたのです。
私の言動をシェアしてくれていたといっていいのかもしれません。
その意味、あるいは価値が、最近よくわかってきました。
私の世界が、これほど広げられたのは、あるいはさまざまな事柄に共振できたのは、私ではなく「私たち」になっていたからかもしれません。

その片割れがいなくなったいま、すべてを自分一人で背負わなければならないことに、最近いささかの疲れが出てきているのかもしれません。
どうもすっきりしないのです。
そのせいか、多様な事柄のつながりが見えなくなってきてしまっています。
疲れが溜まってきているのかもしれません。

それとパソコンに向かえなかったこととどうつながるのか。
よくわかりませんが、疲れてきていることは間違いありません。
こういう時にはゆっくり休むのがいいのですが、その「休み方」が思いつきません。
それに、あいにく今日は雨です。

今日は、私なりにゆっくりと休むことにします。
なにやら暗い文章になってしまいました。

■995:疲れながら生きるのもいい(2010年5月24日)
節子
今朝はちょっと「くらい」文章を書いてしまいました。
この数日かなりくらい文章が続いていました。
やはり心境は隠せないものです。

私は周囲にかなり共振するタイプですので、社会全体のくらさが私をそうさせている気もしないでもありません。
最近は重い話が多いです。
しかし、これも私の暗さが呼んでいるのかも知れません。
人の心は世界と同調し、世界は人の心に同調するからです。

だとしたら、元気になるのは難しいことではありません。
まずは心を明るくすればいいのです。
そうすれば流れは反転し、世界は輝きだすでしょう。
あるいは輝いている人に会えばいい。
そうすれば私の心も同調し心身は共振しはじめるでしょう。

昨日、ある集まりをやったのですが、その参加者の一人からこんな話を聞きました。
パニック状況に陥った人を回復させるのは、突然にまったく違った状況を創ることだと。
その話を思い出しました。
問題を解決する答は、実はまったく違うところにあるのかもしれません。

トム・クルーズの「ワルキューレ」を観ました。
ヒトラー暗殺計画の実話に基づいた映画です。
なぜか私には当時のドイツは今の日本の政治状況に重なって見えるのです。

いま元気が出てこないのは、節子がいないからではないのではないか。
もし節子がいても、たぶんこの状況に陥っているのではないか。
そんな気がしてきました。
やはり「憂鬱な社会」が私の心身を覆っているのです。
節子を逃げ場にしていた自分に気づきました。
勘違いしてはいけません。

社会に同化してしまったら、何も始まりません。
一人で生きるのも疲れますが、みんなで生きるのも疲れます。
でもまあ、「生きる」ということはそういうことなのでしょう。
トム・クルーズのような、孤高な生き方は私にはできそうもありません。
実にうらやましいですが。
節子がいたら、そんな生き方もしたくなったかもしれませんが、いまは疲れながら生きるのが私には合っているようです。

■996:「60歳のラブレター」(2010年5月25日)
節子
気分を変えて元気が出る話を書こうと思います。
無理とは思いつつも。

節子が残した本が何冊かあります。
私の読む本と節子の読む本は全く別でした。
ですから節子の書棚の本は私は1冊も読んでいません。
節子の書棚にある本は、なぜか「愛」にまつわる本が多いのです。
そう思ってみていたら、
「60歳のラブレター」と言う本が目につきました。
副題が「夫から妻へ、妻から夫へ」です。
そういえば、この本のことを節子が話していたのを覚えています。
いろいろな人から公募したラブレターを本にしたものです。

私は、その時には全く興味はありませんでした。
そもそもラブレターなるものには関心がないのです。
いまこうして毎日挽歌を書いているので、もしかしたら結婚前もラブレターを書いていたのではないかと思われるかもしれません。
しかし残念ながら、節子は私からラブレターをもらったことはないのです。
もっともある時期、毎日、節子のために詩を書いていたことがありますので、それをラブレターといえないこともないでしょう。
しかし、私と付き合い前は、極めて常識的で清純な節子は、ラブレターを欲しかったかもしれません。
「結婚でもしようか」などというプロポーズよりも、もっとロマンティックな言葉を求めていたかもしれません。

節子が残した本を見ながら、節子もラブレターがほしかったのかもしれないと思いました。
愛していたら、ラブレターなど不要だなどと思うのは、男の発想なのでしょう。
節子の闘病中に、私もラブレターを書けばよかったなと一瞬思いましたが、節子はどうせ笑い転げるだけだったでしょう。
私にはラブレターは似合いません。

そういう私も、昔一度だけラブレターを書いたことがあります。
残念ながらそれは私からのラブレターではなく、後輩から頼まれて書いた、彼のためのラブレターです。
会社時代に、後輩が私に書いて欲しいと頼んできました。
とても素直な若者だったので、心を込めて書きました。
しかしその恋は成就しませんでした。
彼が代筆を頼む人を間違ったことは間違いありません。
彼は2度と私には頼みませんでしたから。

もし私がラブレターを節子に書いていたら、節子と結婚することにならなかったかもしれません。
「60歳のラブレター」の本は、やはり読む気がしないので、そのままそっと節子の書棚に戻しておきました。

■997:「解けない問題」(2010年5月26日)
佐藤さん
もう気持ちは整理できましたか。
久しぶりにやってきたNさんがそう訊きました。
みんな気にしてくれているのです。
感謝しなければいけないのですが、整理などできるはずがないのです。
それに、どう整理したらいいのでしょうか。
世の中には「解けない問題」というのはほとんどないというのが私の考えですが、こればかりは解けない問いです。
いや「問い」以前のものでしょう。
少なくとも私には「解く」つもりは皆無ですし、なによりも整理するということの意味がわかりません。
しかしたぶん友人としては、そういう問いかけしかないのでしょう。

節子がいなくなってから付き合いがなくなった友人もいます。
なぜでしょうか。
私との付き合い方がわからなくなったのかもしれません。
その気持ちはとてもよくわかります。
事実私もそういうことがないわけではないからです。
それに何回かこの挽歌でも書きましたが、節子がいなくなってからの私はそれまでの私とは「似て非なるもの」かもしれません。
ですから、友人でなくなったとしても決しておかしな話ではありません。

前の佐藤さんと同じでホッとした、という言葉にも何回も出会いました。
同じであるはずがないのですが、同じだと思いたい気持ちもよくわかります。
まあこんなことを書いていると会いに来てくれる人がいなくなってしまいかねませんので、やめましょう。

ところで、世の中には解けない問題はほとんどないはずだと書きました。
そう言い切ったのは、どんな問題であれ、これが「正解」だと決めれば解けるからです。
つまり「問題」を設定すれば、同時に「回答」も見えてくるのです。
「解けない問題」とは「問題」として設定できないことなのです。

愛する人を亡くして、どんな「問題」が立てられるというのでしょうか。
彼が帰った後、いろいろと考えてみましたが、その言葉の意味がやはりわからないことに行き着きました。
「気持ちを整理する」ってどういうことなのでしょうか。
考えれば考えるほど頭が混乱し、ますます整理と反対の方に向かってしまいそうです。

■998:花の季節(2010年5月27日)
節子
今年もまた、ばんまつりの咲く季節です。
この頃はわが家の庭の花がいっせいに咲き出します。
玄関のバラもたくさん咲いていますし、庭のバラも次々と咲きだしています。
今年は胡蝶蘭も何とか咲き出しました。

いろいろと花は賑やかですが、やはり私には「ばんまつり」が一番心に入ってきます。
この花をくださった湯河原の人はいまもきっと花をたくさん咲かせていることでしょう。

敦賀の姉からもらったという、山アジサイも咲き出しました。
白い花ですが、次第に赤くなるのだそうです。

そういえば、家から100メートルも離れた電信柱の下の小さな空地にまで節子は花を植えに行っていましたが、そこも今では宿根花が毎年きれいに咲くようになって来ました。
時々、ジュンが手入れをしていますが、そこを通るたびに節子を思い出します。

花の季節は、うれしいようで寂しいです。

■999:新緑(2010年5月28日)
節子
昨日は朝の6時から夜の10時半までパソコンに向かう時間がほとんどなく、また挽歌を書き損ねました。
一昨日から軽井沢で仕事の関係での合宿だったのですが、朝、6時からプログラムがあり、しかも夕方からは湯島でのオープンサロンでした。
帰路の新幹線で挽歌を書こうと思ったのですが、疲れていたため座った途端に寝てしまいました。

それでも新緑の軽井沢を少し歩きました。
まぶしいほどの新緑でした。
節子とはよく新緑の野山を歩きました。
特に節子の体調が回復に向かっていた時期にはよく行きました。
すべては節子の段取りでした。
ですから節子がいなくなったいまは、もう出かけることはありません。
でもこうして時折、仕事などで新緑に出会うといつもそこに節子を感じます。
節子もこの新緑を楽しんでいるだろうなと思うわけです。

私たちにとっての新緑の時代は滋賀県の瀬田に住んでいた頃です。
1年ほどしか住んでいなかったと思いますが、瀬田の神領というところで私たちは暮らし始めました。
6畳一間の「神田川」的生活でしたが、私たちの心は新緑のように輝いていたことを今も鮮明に思い出します。
休日のたびに、奈良や京都を歩きました。
何にも拘束されずに、誰にも気兼ねすることなく、毎日がとても新鮮でした。
瀬田での生活を思い出す時に、いつもに浮かぶのが、住んでいた近くを2人で散歩した時の風景です。
なにもない野原を歩くだけで私たちは幸せでした。
菜の花に囲まれた節子の写真や野原で逆立ちしている私の写真が、探せば出てくるはずです。

その生活が変わったのは、しばらくして東京に転勤になったからです。
東京に転勤した後の私たちの生活は、なぜか今の私にはほとんど思い出せません。
仕事に埋没しだしたのかもしれません。

瀬田での生活がもう少し長く続いていたら、私たちの人生は一変していたかもしれません。
東京に節子を連れてきてしまったのは最大の痛恨事です。
節子は都会好きでしたが、都会には合わない人だったような気がします。

来世は、都会には絶対に住まないつもりです。
新緑に埋もれるような生活をしていたら、節子はきっと今もまだ元気で飛び跳ねていたでしょう。
いまさら後悔してもはじまらないのですが。

■1000:パッセンジャーズ(2010年5月29日)
節子
この挽歌もとうとう1000回目になりました。
と言うことは、節子が彼岸に旅立ってから、今日で1000日目ということです。
偶然ですが、今日は私の68歳最後の日でもあります。

ところで、これは「偶然」なのかどうかわからないのですが、「パッセンジャーズ」という映画を観ました。
テレビで放映されたものを録画していたのですが、今日、気分転換に観てしまいました。
内容を知らずに、です。
映画の紹介記事に心理サスペンスとあったので興味を持っていたのですが、私の映画の好みを知っている娘のユカが、あんまり勧めないのでちょっと気になっていたのです。
観おわって、ユカが私に勧めなかった理由がわかりました。
元気な時に観ないと「おちて」しまいそうです。
ユカに話したら、前に観るといった時には時期が悪いなと思ったそうです。

恐ろしいほど悲しい映画です。
昔、「シックスセンス」を観た時よりもショックでした。
あの時はまだ節子がいましたし。

涙がこらえられませんでした。
1000回目の挽歌は明るく書こうと思っていたのですが、まったく逆になりました。
よりによってなぜ今日、観る気になったのか。
これは「偶然」ではないような気がします。

映画のネタばらしはルール違反ですが、映画紹介のブログではないので許してもらいます。
この映画は、彼岸と此岸をつなぐ話です。
安心して彼岸に向かえるように、まさに49日、チベット密教でいえばバルドゥの間の物語なのです。

人のつながりさえあれば、ほかに何もなくても人は幸せになれます。
私が彼岸に旅立ったとしても、彼岸には節子をはじめ、たくさんの友人知人がいます。
もしかしたら此岸よりも多いかもしれません。
だとしたら、彼岸と此岸の違いはあっても、私は相変わらず「幸せ」です。
それで、この頃時々思うのですが、友だちや家族を彼岸に送ることは、自らが旅立つ準備なのかもしれません。

節子は十分に準備ができていたでしょうか。
さびしがっていないでしょうか。
なぜ一緒に行ってやれなかったのか、不憫に思えてなりません。
でもまあ、彼岸には時間軸がないですから結局は私も一緒にいるのでしょう。
そう思うとこの映画の悲しさも少し緩和されます。
書いていて少し落ち着きました。

しかしなぜ、今日、この映画を観る気になったのでしょうか。
「パッセンジャーズ」の映画と同じように、私もあの時に節子と一緒に旅立ったのかもしれません。
節子が、それを気づかせてくれたのかもしれません。
挽歌は1000回になりましたが、彼岸に旅立つまで書き続けることにしました。
節子はそれを望んでいるでしょう。
一緒に書き続けることを。

■1001:妻がなくても夫は老いる(2010年5月30日)
節子
私もとうとう69歳です。
せっかく69歳になったのに、65歳の節子がとなりにいないのが不思議です。
よく「親がなくても子は育つ」といいますが、「妻がなくても夫は老いる」ものなのです。
とはいうものの、もしかしたら本当は老いていないのかもしれません。

先日、ジュンからお母さんはいまいくつかなと訊かれました。
即座に「62歳だよ」と応えました。
節子の老いは、あの時に終わったと私は思っているからです。
63歳の節子も65歳の節子も、存在はしないのです。
節子は、63歳の誕生日を迎えたかったのに、実現できなかったのです。
だとしたらそんな節子がいるはずがありません。

私もまた、あの時に人生を終わってしまったのですから、その後の人生は止まっているかもしれません。
たしかに「時間感覚」や「時間の流れ」は変わりました。
ですから私もまた、67歳のままなのかもしれませんし、できればそう思いたいです。
節子との年齢関係は変えたくはないからです。

しかし、その一方で、身体的な老いは容赦なく進みます。
いろいろなところに問題が感じられます。
それに気づき、いたわってくれる伴侶もいないので、私自身も放置しがちです。
それに、朽ちるべき時に朽ちることこそ、自然な生き方です。
抗う理由はみつかりません。
しかし老いが加速し生きることに不都合が生じたら、ケアしてくれる伴侶もいません。
伴侶以外の人には迷惑を与えたくないという思いもあります。
これもまた「解けない問題」ですが、もう1年は先延ばししましょう。
60代最後の今年は、とりあえずこれまでの延長で、生きるでもなく死ぬでもなく、老いに抗うでもなく従うでもなく、素直に行きたいと思います。

老いは、節子に近づくことなのか、節子から遠のくことなのか、それもまた興味ある問題ではありますが、しばらくは棚上げしておこうと思います。

■1002:デジタルテレビがほしいです(2010年5月31日)
わが家のテレビはまだアナログです。
デジタルを買うかどうかは娘のユカに決定権があります。
節子がいなくなってから、わが家の家計はユカが担当しています。
まだ買わないのかと時々訊きますが、まだ買ってもらえません。

節子がいたら買っていたかなあ、とユカに訊きました。
そうしたら、即座にやはり買っていないよと答が返ってきました。
お母さんはテレビが好きではなかったからねえ、というのです。
たしかにそうでした。

節子はテレビといえば、NHKのドキュメンタリーは好きでしたが、ほかの番組はあまり興味を示しませんでした。
私があまりに勧めるので仕方なく付き合って映画やドラマを観たりしてくれましたが、そういう場合も何かをしながら観ていました。
基本的にテレビが好きではありませんでした。
それに、食べ物を無駄にするような番組には必ず怒り出しました。
古典的なパイをぶつけ合うような場面でさえ本気で怒っていました。
たけしが弟子たちに無茶をやらせる番組にも怒りました。
生真面目な人でしたから、下品な話はこれまた受け付けませんでした。
だからテレビが嫌いだったのです。
そんな番組が多すぎました。

その節子も病気が再発してからはテレビを見るようになりました。
「笑い」が免疫力を高めるというので、お笑い番組を見るように勧められたのです。
ところがです。
「今様のお笑いもの」は最後まで好きにはなりませんでした。
どこが面白いのかわからないというのです。
たしかに私もそう思うお笑い芸が少なくありませんが、それに加えて節子は、たとえば上半身裸のタレントがでてくるだけで、顔を背けました。
相手の頭をたたくのもダメでしたし、無意味なジェスチャーもだめでした。
ですからお笑いものを見ていても、時に怒り出すので、免疫力はあんまり高まらなかったかもしれません。

でもまあもし節子がいたら、私のためにデジタルテレビを買ってくれたでしょう。
節子は私の希望はすべてかなえてくれましたから。
ところが娘のユカは厳しくて、まだ買ってもらえません。
もう少し待てと言われて、1年が経っています。
それで私はネットの懸賞に応募しているのですが、なかなか当たりません。
困ったものです

■1003:「もう一人の節子」(2010年6月1日)
昨日のユカとの会話で、ユカはこんなことも言いました。
地デジのテレビも買ってなかったし、読売新聞にもなっていなかったよ。

それで今日は新聞の話です。
節子は「朝日新聞」のファンでした。
私は朝日でも読売でも、何でもいいのです。
最近は新聞を信頼できずにいますので。

わが家はずっと朝日新聞です。
ところが今年、私がネットにはまってしまい、ネットで申し込むと景品がもらえるという誘いに目がくらんで、読売新聞に切り替えてしまったのです。
景品といってもどうでもいいようなもので、その「モノ」には興味はなく、ただ「ネットで申し込むともらえる」という誘いについふらふらと申し込んでしまったのです。
それでいまわが家は読売新聞なのですが、ユカはそのことをやんわりと非難しているわけです。
実はユカも朝日新聞ファンで、読売新聞は読みにくいというのです。
まあ景品に釣られて私が半年予約してしまったのが悪かったのですが。

ところで、節子はなぜ朝日新聞ファンだったのか。
その理由は報道姿勢などといった話ではありません。
まあ節子の考えには朝日新聞が合っていたとは思いますが、節子の関心はそうではありません。
節子は、朝日新聞の「ひととき」欄が好きだったのです。
自分でも時々投稿し、何回かは掲載されています。
手術の日にも掲載され、それが節子大きな元気を与えたことは以前書きました。

節子は投稿や手紙を書くのが好きでした。
どこに行く時も必ず筆記用具と手帳は忘れませんでした。
電車の中でも何か思いつくと書いていました。
私と違って推敲するタイプでした。
まあ推敲したところで高が知れているのですが、節子は推敲するのは好きだったのです。
私もそうなのですが、節子は自分で書いたものを必ず私に読んで聞かせました。

お互いに書いたものを読んで感想をもらうということは、私たちの思いを共有化する上で大きな意味があったのかもしれないと、いま思い当たりました。
それに限りませんが、私たちは何でもお互いに共有することを大事にしていました。
なぜそうなったのか、不思議です。
私にとって、節子は「もう一人の自分」のような感じが、いつの頃からかしていたのです。

節子が残したファイルの中に、節子が投稿して新聞や雑誌に掲載された小論がいくつか残っています。
それを読むと、まるで私が書いたような錯覚に陥ります。
節子はきっと「もう一人の私」だったのです。
いや、私は「もう一人の節子」なのかもしれません。

なぜかこの頃、とても悲しいのです。
無性に節子に会いたくて仕方がありません。
そういえば先日、ユカが電車で前の席に座った人がお母さんに似ていたと言っていました。
娘たちもきっと会いたくなっているのでしょう。
節子は罪作りの大ばか者です。
今度会ったら思い切り怒ろうと思います。
でも、それはいつになるのでしょうか。

■1004:花の手入れ(2010年6月2日)
節子
玄関のバラが次々と咲き出しています。
しかし私の怠慢さで、枯れてしまった花もいくつかあります。
花の手入れもかなり大変です。
私の担当は室内と裏庭だけなのですが、まあ時々手を抜いてしまう癖があるのです。
植物は正直ですので、私の対応にとても素直に反応します。
心の込め方で花の咲き方は変わっていくのでしょうね。

節子は思い切り咲いた人生を過ごしたでしょうか。
私の心の込め方は正直中途半端だったなと思います。
もっともっと心を込めて、愛すればよかったと思います。
いなくなってからこんな挽歌をいくら書いても節子は輝いてくれません。
元気だった頃にもっとやれることがあったはずです。
それが何だったのかは思いつきませんが。

ところでもし、私が先に逝ったとしたら、節子はどうだったでしょうか。
修をもっと愛してやればよかったと後悔するでしょうか。
それはいささか疑問です。
節子は合理主義者でしたから、考えてもどうにもならないことは割り切ることのできる人でした。
それに私よりは潔い人でした。
ですからきっと「いなくなった修」よりも花が大事だと花三昧に明け暮れたかもしれません。
そういえば、元気な時も、私の相手よりも花を相手にしている時の方が幸せそうでしたから。

その節子に代わって、いま私が家の花の手入れをしているわけですが、その花の由来も娘に教えてもらわないとわからないものがたくさんあります。
枯らしてしまってから、しまったと思うような、節子の思い出の深い花もあるのです。
たぶん節子は心配しながら見ていることでしょう。
まさか節子の花の世話までさせられるとは思っていませんでした。

これは不幸なことなのでしょうか、それとも幸せなことなのでしょうか。
最近は、毎朝、水やりをするのが日課です。
節子がいた時にやっていれば、喜んでくれたでしょうに。

■1005:2倍楽しめた節子との旅(2010年6月3日)
節子
節子がいなくなったので、もう2度と海外には行くまいと決めていました。
それでパスポートの更新もせずにいたのですが、海外に出かけようと思いだし、今日、旅券を申請に行ってきました。
窓口で順番を待ちながら、期限切れの旅券を見たら、1997年の7月にイランに行く時に更新した旅券でした。
あれからもう13年経ちました。
長い間、海外には行っていないことに気づきました。

イランに出かける時も節子はあまり体調が良くなかったのですが、イランが観光客を受けいれることになったので、行ける時に行こうと思いきって出かけたのです。
それが私たちの最後の海外旅行になりました。
帰国後、同居していた私の母親の調子があまりよくなく、その介護から解放されたら、節子自身の病が発見されてしまったために、それ以来、海外には行けなくなりました。

イランの旅行は、たぶん私よりも節子が楽しんだように思います。
節子は、いつも旅行の現地の現実を楽しみました。
それに同行した人と仲良くなるのです。

私は現地に記憶されている歴史に圧倒されてしまい、いつも実際の現場をほとんど覚えられないのです。
それにエジプトと同じで、ペルシアはあまりに刺激が大きくて、消化できませんでした。
特にペルセポリスに立った時は、夢のようであまり現実感がありませんでした。
クセルクセスに接見する諸国の王のざわめきが聞えてくるようでした。

節子は歴史にはあまり興味はなく、遺跡はただの遺跡として楽しむのですが、私は中途半端に思いがあるために、あまりにうれしくて、見るべきところをきちんと見ないで後で後悔するタイプなのです。
しかしやはりペルセポリスは感激しました。
もっとも節子はさほど感激することもなく、むしろシラーズの美しさに感激していたようです。
同じ風景を見ても、私と節子の見る風景は違っていたようです。
でも相手が感激すれば、それだけでお互いにうれしくなったのも事実です。
ですから2人の旅行は、いつも2倍楽しめたのです。

まあそれはそれとして、今回は旅行ではありません。
韓国にいる佐々木さんがある集まりに来ないかと誘ってくれたのです。
まだ決めてはいないのですが、どうしようか迷っています。
最近気弱になっていて、一人で成田に行く気力が出ないのです。
節子と一緒ならあんなに楽しかった成田も、一人となると何かとても遠くに感じます。

まだ決断できずにいます。
困ったものです。

■1006:話し合い関係(2010年6月4日)
節子
また首相が変わってしまいました。
節子がいたらなんというでしょうか。
節子は「保守」でも「革新」でもなく、「わかる言葉」を話す人が好きでした。
「わかる」には「嘘をつかない」とか「一貫している」という意味も含まれていましたが、ともかく素直に聴ける言葉です。
そうなると、なぜか共産党の人の話が節子には合っていたように思います。
彼らの言葉は、素直に聴くととてもわかりやすいのです。

節子は、政治にそう関心があったわけではありませんが、大きな問題に関しては、私の知ったかぶった「解説」をよく聞いてくれました。
節子と話しながら、私も問題を整理できることが少なくありませんでした。
人は話しながら考えるものなのです。

ユカから、最近、お父さんはよく話すようになったね、といわれました。
私はまったく意識していなかったのですが、以前は節子に話していたことを娘たちに話すようになっているようです。
しかし、それは私だけの話ではありません。
ユカもジュンも、それぞれよく話すようになったような気がします。
節子がいた頃は、節子がいつもみんなの聴き役だったのです。
節子を中心にして、わが家の情報がまわっていたのです。
ユカの一言で、そのことに気づきました。
主婦の役割の大きさを改めて認識しました。

節子がいなくなったので、わが家の話し合い関係が一時期、停滞していたようですが、それが最近回復してきているようです。
新しい話し合い関係が整いだしたようです。
以前とはどうも少し違うようですが、まあこれになれなければいけません。

それにしても、節子ほど気の置けない話し相手はいませんでした。
私が話好きになったのは、節子のおかげかもしれません。

■1007:農園復活(2010年6月5日)
節子
久しぶりに下の農園に行ってきました。
節子がいなくなってから荒れていた家庭農園の雑草を抜き、耕しなおしました。
そしてキュウリとトマトとナスを植えました。
娘たちも手伝ってくれました。
というよりも、主役は彼女たちでしたが。

節子は土いじりが好きでした。
私も嫌いではないのですが、どうも続かないのです。
それにやり方が大雑把過ぎて、急いでやりすぎてすぐに疲れてダメになるのです。
節子はゆっくりと長く続けられました。
それにきちんと準備をしてからはじめました。
私は思いつきで準備もあまりせずに、ともかく適当にやるタイプでした。
私と節子は何をやるにも取り組み方は違っていました。
しかしなぜかうまくいきました。
お互いの違いを受け止めながら、それぞれお互いのやり方も大事にしていたからかもしれません。

農園の半分は花畑になっていました。
道沿いでしたので、道を散歩する人がいつもきれいですね、と作業をしていると声をかけてくれました。
ところが今は荒れ放題です。
主人を亡くすと土地もまた荒れていくのです。
もう野菜作りはやめようかと思ったこともあるのですが、ともかく節子が関わったところはできるだけそのまま持続したいと思っていました。
しかし、荒れ放題のままではみなさんにも迷惑がかかります。
今年は少しずつ整理し、迷惑がかからない程度にきれいにしていこうと思います。
まあ節子がやっていたほどにはならないですが。

家の周りの花木の手入れですら、十分でなく、どんどん枯れているのですから、いささか無謀な計画ですが、まあともかくやることしました。
そういえば、ちょうど今日、時評編で「できないことをやろうという姿勢」を書いたところです。
がんばって農園からの収穫をお裾分けすることを目指そうと思います。
さてさて、どうなりますか。
節子がいないと、どうも半人前もがんばれない自分に最近あきれています。

■1008:鬼門の地(2010年6月6日)
ある集まりがありました。
今朝出かける前まで会場を確認していなかったのですが、池袋の東京芸術劇場でした。
少し嫌な予感がしました。
池袋は苦手なのです。
前にも書きましたが、池袋は辛い思い出がいろいろとあるのです。

会が始まる前に打ち合わせを兼ねて食事をしました。
なぜか全身を疲労感が襲ってきました。
気が吸い取られていくような、奇妙な感じになりました。
食事をしながら、何だか以前もこんな風景があったなというような気がしてきました。

土地の記憶という言葉があります。
時にではありますが、地霊を感ずることがあります。
そこに立つと、ざわめきや息吹が感じられることがあるのです。
最初に感じたのは大宰府の観世音寺でした。
昔、ここを歩いた時のことが急に思い出されました。
昔というのは、たぶん平安時代だと思いますが。
確信は持てませんが、なぜかそう感じました。

今回はそういうのとは違いました。
ただ無性に疲れただけでした。
それに加えて、みんなの声がとても虚ろに響くのです。
現実感がどうも気迫なのです。
天井が高かったからでしょうか。

会が終わった後、懇親会に参加し、みんなと話しているうちに疲れが抜けた感じがしました。
しかし、そこにまた少し気の重くなるような電話が入ってきました。
やはり池袋は私には鬼門の地です。
疲れきって先ほど帰宅しました。

当分池袋には行きたくない気分です。
池袋には思い出したくない記憶があります。
克服したような気がしていたのですが、やはりダメなようです。
私の気が萎えているのでしょう。

■1009:「グッド ウィル、ハンティング/旅立ち」(2010年6月7日)
なにやら疲労感が残ってしまったので、今日は休んでしまいました。
ちょっと出かけていましたが、帰宅後、手持ち無沙汰に任せて、目の前にあったDVDを見てしまいました。
「グッド ウィル、ハンティング/旅立ち」です。
もう3回ほど観ているのですが、まったく記憶が残っていませんでした。
もちろんあらすじは知っているのですが、とても新鮮でした。
肝心のところを忘れていたのです。

「心を閉ざした天才青年が、似た境遇の心理学者との交流を通じて成長していく姿を、繊細なタッチで綴ったヒューマン・ドラマ」と解説にある映画です。
主人公の心を開くための心理学者のセラピーのやりとりが、この映画の核心なのですが、その心理学者は最愛の妻を亡くして人生を変えてしまっていたのです。
マット・デイモン演ずる主人公とロビン・ウィリアムス演ずる心理学者の会話が、こんなにも心に響くものだったのかと驚きました。
前に観た時の記憶がまったくないのです。

たとえばこんな会話です。
主人公が意地悪く心理学者に「再婚しないのか」と訊きます。
心理学者は「妻は死んだ」と答えます。
主人公は重ねて言葉を浴びせます。
「だから、再婚しないのか(再婚しても良いのではないかというニュアンスです)」
心理学者は「妻は死んだ」と繰り返します。
たぶん前にこの映画を観た時には、この会話のやりとりの意味はあまり理解できなかったのでしょう。
いまは痛いほどわかります。
伴侶を亡くした人にとって、「再婚」ほど心を逆なでする言葉はありません。

その会話には、実はもっと深いものが重なっています。
児童虐待を受けた主人公が心を開けずに、他者と関わることを拒否していることを心理学者が指摘するのを受けて、この会話がやりとりされています。
もちろん「妻は死んだ」、もう他者とは関わりたくない、というような短絡した話ではありませんが、心理学者と主人公の相似的な関係が、それぞれの問題の深さを示唆してくれるのです。
おかしな言い方ですが、心が閉じている者同志だからこそ、この映画の心理学者と主人公は心を開きあえたのです。
そのことの意味が、今では実によくわかります。
心を開くことと閉ざすことは、もしかしたら同じことなのかもしれません。

節子がいなくなって、私も他者との関わりを拒否したくなり、心を閉ざした時期があります。
今もまだそうかもしれません。
ですが、だからこそ、ある人には心が閉じたまま通ずることがあるのです。

この映画はまた、愛についても示唆的です。
それは「旅立ち」という日本語の題名にもつながっています。

最近、映画を観るとなぜか、心に響くセリフに出合います。
意識や状況が変わると、同じ映画も違った見え方がしてくるのかもしれません。
しかし今日はなぜよりによって「グッド ウィル、ハンティング」などを見てしまったのでしょうか。
旅立ちに向けてのエンパワーかもしれません。

■1010:生命のみずみずしさ(2010年6月8日)
最近、どうも自分自身の生命が乾いてきているような気がします。
もしかしたらそれが元気の出ない一因かもしれません。
このところ日課になった庭の花への水やりをしながら、そんなことを考えました。
生命もまた乾いてはいけないのかもしれません。
意図して「枯れた生」を生きようという人もいますが、枯れた生もまた、もしかしたら乾いてはいけないのかもしれません。

この挽歌の記事を書いていても、どうも1年前とは違うのです。
涙が枯れたとか、悲しみが癒されたとか、そういうとわかりやすいでしょうが、私としてはそういう感じとはちょっと違うのです。
今でも涙はすぐ出ますし、悲しみはむしろ深くなっています。
にもかかわらず、どこかで自分の生命のみずみずしさを感じなくなってきているのです。
そのせいか、書いている内容が我ながら退屈なのです。
だから分量が長くなります。
内容がある時には文章は短くなることを、私は経験上、感じています。

老いてもみずみずしい人はいます。
しかし、愛する人を失ってもなお、みずみずしく魅力的な人はいるでしょうか。
もしいたら、ぜひお会いしたいです。
どなたかご存知であれば教えてください。

人のみずみずしさは、「愛する人(もの)」からもらっているのかもしれません。
もしいまなお私が節子を愛しているのであれば、生命が乾いてくるはずがありません。
どこかで私の生命の回路がおかしくなってきているような気がします。
節子のためにも、いや節子のためにこそ、みずみずしさを取り戻さなければいけません。
どうしたらそれができるのでしょうか。

しかし、生命は本来「みずみずしい」ものです。
だとしたら、素直に生きれば、みずみずしさは戻ってくるでしょう。
まだまだ素直さが足りないのでしょうか。
もう十分すぎるほど素直に生きているつもりではあるのですが。

最近、こんなことを時々考えています。

■1011:彼岸の暮らしには苦労はありませんか(2010年6月9日)
節子
生きているといろんなことがあります。
面倒なことの嫌いな私としては、できるだけシンプルに生きたいと常々思っていますので、面倒なことはみんな節子に任せていました。
節子がいない今は、娘たちにゆだねています。
最近はユカがその役目をかなり担ってくれて、おかげで私は今も楽な生き方をしています。
しかし、そうはいってもいろいろあります。
生きていくことの煩わしさをよく感じます。

今朝も位牌に向かって、「節子はいいよねえ、こうしたことから解放されて」と声に出してしまったのですが、すかさずユカから、「向こうには八重子も粂治もいるので、節子も楽ではないかもしれない」と言われてしまいました。
八重子、粂治は私の両親です。
わが家の文化は、原則として名前で呼ぶのです。

私たちは結婚後、15年ほどしてから私の両親と同居しました。
節子も、私の母も、私とは正反対で、弱音を言わない人でした。
途中からの同居でしたが、とても「いい関係」だったと思います。
母にとっては自慢の嫁でしたし、節子にとっては賢い姑でした。
私の記憶では争いは一回もなかったと思います。
2人の間に入って苦労したことは一度もありません。
お互いの悪口も聞いたことがありません。

母を見送った後、節子は「良い嫁」になろうとしすぎていたかもしれないと言ったことがあります。
それで初めて、私は節子が苦労していたことを知りました。
節子はきっと私のために「良い嫁」を意識していたのかもしれません。
途中からの同居はそれなりに苦労があったのでしょう。
しかし、節子は、親不孝だった私の代わりに、私の両親に良くしてくれました。
深く感謝しています。

自分の先行きを確信した節子が、自分から私の両親と同じお墓に入りたいと言い出した時には驚きました。
私と一緒で、お墓はいらないといっていたのです。
お墓に閉じ込められるのは、私も節子も我慢できないイメージだったのです。
それなのに、私の両親と同じお墓に入りたいと言い出しました。
お墓を守ってくれている兄に頼んで、お墓に入れさせてもらいました。
ですから、私もそのお墓に入る決心をしました。
私もお墓には入らずに、散骨を希望していたのですが。

節子は今、彼岸でみんなと楽しくやっているでしょうか。
苦労していなければいいのですが。
節子は「良い嫁」だった以上に、「良い妻」でした。
最高に。

■1012:さまざまな人がまた湯島に来始めました(2010年6月10日)
節子
1年ぶりに田中雅子さんと会いました。
節子がいつも、そのがんばりぶりに感心していた田中さんです。
節子の闘病中は、田中さんはネパールにいましたので、たぶん節子が最後に会ったのは10年ほど前かもしれません。
今日はある会で話をしてもらったのですが、田中さんのこれまでの活動を改めて聞かせてもらいました。
とてもいいお話でした。

湯島のオフィスを始めた頃、来た人の写真を撮っていました。
先日、書類を整理していて、その写真が出てきました。
みんなとても若いのです。
私たちも若かったのです。
この人は誰だろうと思い出せない人もいます。
今から考えると本当にさまざまな人たちが湯島に来てくれました。
それまで専業主婦だった節子には、目の回る毎日だったかもしれません。
私以上に新鮮だったと思います。

もう足が遠のいてしまった人もいますが、時折、突然やってくる人もいます。
久しぶりにやってきた、そうした人たちに、今はもう私一人でしか対応できないのがとても残念です。

それにしても、みんなどんどん成長しています。
世界を広げているのです。
節子がいたらどんなに喜ぶことだろうと思うこともあります。
成長を止めているのは私たちだけかもしれません。
でも、止まっているからこそ、みんなの変化が実感できるのかもしれません。

やはりこの湯島の空間は、閉じるのはやめようと改めて思いました。
この空間のおかげで、私と節子の絆は深まったのかもしれません。
ここで旧知の人と話していると、時々、節子の名前も出ます。
田中さんの後にやってきた藤本さんは、今日もまた目頭を熱くしながら節子のことを語ってくれました。
ここには、本当にたくさんの思い出がつまっているのです。
節子のおかげで、この湯島の空間を維持できたことを感謝しています。

■1013:議論の相手(2010年6月11日)
節子
やはり議論の相手は節子がいいです。
というのは。

テレビでこんなニュースが流れました。
北京五輪陸上男子ハンマー投げで、室伏選手は上位選手がドーピング違反でメダルをはく奪されたために、銅メダルになっていたのですが、そのドーピング違反が否定されたため、5位になってしまった。

そのニュースを観て、なんで薬物を飲んで記録を伸ばすことが悪いのかと娘のユカに質問しました。
ドーピング薬物と牛肉とどこが違うのかという話です。
ドーピングが気になって、風邪薬も飲めないという話もありますが、どこかおかしくないでしょうか。
子どもの頃から、酒や煙草とLSDや大麻とどこが違うのか理解できませんでした。
その区別はどこでつけるのか。
たしかに心身を蝕むかもしれません。
ではそれと薬局でもらう薬とどこがちがうのか。
こうした疑問に私が納得できる形で答えてくれた人は今までいません。
答えるどころか、議論のテーマとしても成立しにくいのです。

私は自分で納得できないことがあるとすぐに近くにいる人に質問します。
その質問は、たとえば、「どうしてカラスは黒いのかなあ」とか「桜を見てどういう意味があるのかなあ」というようなものです。
節子は時々怒りましたが、まあよく話の相手をしてくれました。

今朝はその質問をユカにしました。
節子と同じような答が返ってきましたが、私が重ねて訊くので、相手をしていられないと言われてしまいました。
やはり議論の相手は節子がいいです。
節子ならもう少し付き合ってくれたでしょう。

それにしても、ドーピングしたくなるような競技のあり方にこそ、問題があることになぜみんな気がつかないのでしょうか。
黒いことがイメージを悪くしていることに、なぜカラスは気がつかないのか。

桜を見て感動する自分の生き方を改めて考える時間を持つことの大切さを、私たちは取り戻したいものです。
時には、桜を見ることの意味を考えるような人生を私は送りたいのです。
まあ節子は、そういう私の気持ちを理解してくれていたかどうかはわかりませんが、私の話には付き合ってくれました。
そのことがとても大きな意味を持っていたことに、最近気づきました。

ちなみに、もちろんドーピング薬物を飲むことには私は否定的です。
念のため。

■1014:火の花(2010年6月12日)
節子
今日は、節子が好きな花の話です。

プロテアという花はおそらく節子は知らないでしょう。
先週、テレビで世界遺産を観ていたら、出てきた花です。
その番組の説明ではこうです。

山火事で起きる炎の熱で、その花は初めて殻を開き、種子を大地に落とします。
しかもその種子は綿毛に包まれているので、風に乗って遠くまで飛来するそうです。
そして山火事で堆積された草木の灰を養分にして大きく育ち、大地に茂っていくのです。
火の鳥、ならぬ、火の花です。
全てを焼き尽くした後に、力強く生まれる生命を託されているわけです。
自然は、実にさまざまな役割を用意し、それを担う存在を生み出しています。

プロテアは、ギリシャ神話に登場する、自分の意志でその姿を自由に変えられる神プロテウスに由来するそうです。
私は、その番組を見ながら、ついつい「火の鳥」。そこからプロメテウスを想起してしまったのですが、調べてみたらプロテウスが由来でした。
プロテウスは海神ですので、何だかピンときません。
プロテアではなく、プロメテという名前だととてもすっきりするのですが。

まあそれはともかく、このプロメテは今日からワールドカップが始まる、南アフリカ共和国の国花なのだそうです。

山が燃え、そこから新しい花がまた芽生えていく。
生命の営みは、そういうふうに、滅びては蘇り、蘇っては滅びてきたのです。
滅びと蘇りは、コインの裏表でしかありません。

生命の営みはまた、生命のつながりを意味しています。
節子との別れは、節子との新しい出会いを意味しているのかもしれません。
過酷な条件を活かしていくプロメテの花を、どこかで見つけてきたくなりました。

節子
彼岸にはプロメテは咲いていますか。

■1015:エンタングルメント(2010年6月13日)
節子
ダン・ブラウンの「ロスト・シンボル」を読んでいたら、とても興味を引かれる言葉が出てきました。

エンタングルメントの考え方は古代の信仰の中核にあった。
法身、道、梵などだ。
実のところ、人類の最も古い霊的探求は、みずからがエンタングルメントのなかにあることを知り、万物との結びつきを感じることにあった。
人間は宇宙とひとつになること、一体化することをつねに求めてきた。

エンタングルメントとは「絡み合い」とか「もつれ合い」という意味です。
以前、情報処理の文章を読んでいて出会った言葉ですが、とても気になって、調べてみましたが、なかなかピンと来るものがなく、そのままになっていました。
ネットで調べると、たとえば、こんな説明が出てきます。

エンタングルメントとは,いわば2つの区別できる物理系が2つでひとつの状態を呈し得る性質をいう。一種の量子的な非局所性と考えてよい。

よく理解できないにもかかわらず、なんとなく実感できる説明です。
私の好きな「インドラの網」に通ずるものがあるので、私にとって大きな意味のある言葉だろうと思うのですが、どうも消化できずにいました。
その言葉に、まさかダン・ブラウンの小説で出会うとは思ってもいませんでした。
ダン・ブラウンは、話題になった「ダ・ヴィンチ・コード」の著者で、「ロスト・シンボル」は彼の最新作です。
娘がダン・ブラウンのファンなので、貸してもらって読んだのです。
とてもおもしろかったです。
「ロスト・シンボル」の中では、エンタングルメント理論について、次のようにとてもわかりやすく、しかもかなり断定的に書いています。

エンタングルメント理論は、すべての物質が密接に結びついていること、ひとつの網のなかでからみ合いの状態にあること、一種の宇宙的統一体をなしていることを、原子未満の世界の研究はすでに明らかにしている。

ちょっと断定しすぎているように思いますが、私もそう確信しています。

挽歌にしては、難しい話を書いてしまいましたが、昨日の「火の花」につながる話です。
手塚治虫の「火の鳥」は、まさにエンタングルメント理論をベースにしています。
たしか「宇宙生命」というような概念も出てきていたと思います。
とても共感できます。
宇宙が一つの生命であるとすれば、個々の人生は瑣末な話なのかもしれません。
そして「死ぬ」こともなく、したがって時間軸もないことになります。

最近どうもこうした話に触れることが多いです。
これは偶然なのか、それなりに意味があるのか。
これこそまさにエンタングルメント理論の正しさを示唆しているように思うのですが、節子を取り巻く物理系と私を取り巻く物理系は、いまもなお2つにして一つなのかもしれません。
いまでもついつい、節子はどこにいるのかなあと思うことがよくあります。
節子との絡み合いが、まだリアルに感じられるのです。

■1016:節子はどこにいるのか(2010年6月14日)
節子
いまでも節子はいったい「どこに」いるのだろうか、と思うことがあります。
ついつい娘たちにまで、声に出して言ってしまうこともあります。
節子が消えてなくなるわけはない、だとしたら、どこかにいなかれば辻褄があわない、そんな思いが今も自然と浮かんでくるのです。

彼岸に旅立っていった親しい人たちを思い出してみればすぐわかりますが、彼らは決していなくなったわけではありません。
生きている時もそうであったように、その親しさに応じた距離を保ちながら、それぞれの世界の中に生きています。
ですから、その寂しさはあまり意識せずに越えられます。
しかし、生をあまりに深く共にしてきた伴侶との距離は、どうも次元が違うような気がします。
その寂しさに越えるのは、簡単ではありません。
だからこそ、「どこ」にいるのだろうと思ってしまうのです。

「どこかにいる」という思いと「どこにいるのか」という思いは、似ているようで、まったく違います。
いいかえれば、「どこかにいるはずだ」と思って安心できるのと、安心できないのとの違いです。
その所在まで確かめたくなり、探しに行きたくなるのです。
その思いから、イザナミは黄泉の国に、オルフェウスは冥界にまで、探しに行ったのです。
しかし彼らの「思い」は、私には理解できません。
なぜなら「連れ戻そう」としたり、「逃げ帰ったり」していますから。
覚悟ができていません。

私なら、もし再会できたなら、そこに留まるでしょう。
なぜなら、今の私にとって、この現世には必ずしも「居場所」が見つからないからです。
節子がいなくなった現世は、なぜか落ち着かないのです。

節子は今、落ち着いた場所で平安でしょうか。

■1017:歳をとるとミスが増えます(2010年6月15日)
節子
最近、いろいろとミスつづきです。
娘たちは、わが家のちび太よりも危なくなってきていると言います。
ちび太は人間年齢だともう90歳前後だそうです。

今日、ちょっと必要があってATMにお金を下ろしにいきました。
娘も別件でATMに行ったのですが、隣同士で話をしながらそれぞれが振り込んだり引き出したりしたのです。
ところが、帰宅して娘と話しているうちに、引き出してきた現金がないことに気づきまATMに置いてきてしまったようです。
仕方がないので、取りに行くことにしました。
娘はもうないよと言うのですが、世間はそう悪い人ばかりではありません。
それに、そのお金がないとちょっと困るのです。

ATMに行ったら、さっきは誰もいなかったのに混んでいます。
もしかしたら私の置いてきたお金で騒ぎが起こっているのだろうかと期待しました。
しかし、まあただ単に混んでいただけでした。
しかし、先ほどの窓口をのぞいたら、ちょっと膨らんだ袋がありました。
ああやはり忘れていたのかと思いましたが、使っている人がいるので取るわけにも行きません。
順番を待って、その袋を触ってみたら、膨らんでいたのに中身はからでした。
ちょっとがっくりしました。
しかし、お金が必要だったので再度現金をおろしました。
そして、念のために通帳を見たら、なんと先ほどおろしたはずの記帳がありません。
つまり、おろしたつもりがおろしていなかったわけです。

ちょっと寄り道して帰宅したら、娘がどうしたと玄関に出てきました。
帰宅が遅いので交番に届けていたと思っていたそうです。
さっきはおろしたつもりが、おろされていなかったよと答えたら、冒頭のコメントが返ってきたのです。
ちび太より危うくなってきた、というわけです。

それだけの話なのですが、もしかしたら、本当はさっきもおろしたのに、忘れていったので、節子がまた入金していてくれたのかもしれません。
しかし、ちび太と比べられるのは少しプライドが傷つきます。
まあ、節子との比較だったら許せます。
節子はよくこんなミスをしていました。
しっかりしているようで、まったくしっかりしていない、それが節子でしたから。
私も節子に似てきたようです。
困ったものです。

■1018:韓国に行ってきます(2010年6月16日)
節子
韓国に行くことにしました。
しかしどうも億劫です。
第一、チケットを自分で買うなどということは初めてのことかもしれません。
そういえば、国内の航空チケットも最初は買い方がわかりませんでした。
会社時代は誰かがやってくれましたし、会社を辞めてからは節子に頼んでいましたから。
こうして「自活できないシニア男性」が生まれていくのでしょうね。

成田空港に一人で行くのも億劫です。
ユカに送ってくれないかと言ったら、我孫子駅までなら送ってもいいと言われました。

手続きをすれば携帯電話が韓国でも使えることを知りました。
私の面倒くさがりといい加減さを知っているので、これに関してはユカがやってくれました。
パスポートは無事取れました。
写真が大いに気にいらないですが、それが実際に私の顔だそうです。
でまあ、用意はできました。

実はこの挽歌で、韓国に行こうかどうか迷っていると書いたら、それを読んだ、あのdaxがジュンを通して、迷わずに行けと伝えてきました。
余計なお世話ですが、まあdaxの言う通りです。
迷ったら積極的なほうを選ぶのが、節子の文化でもありました。

というわけで、これから韓国です。
19日に帰国する予定ですが、それまでこのブログはお休みです。
モバイルも持参しますが、投稿できるかどうかわかりません。
一応、毎日、挽歌は書くつもりですが、アップは帰国後になると思います。

節子がいなくなってからの初めての長旅です。
なにか心にある不安が拭いきれません。
最近、飛行機がとても嫌いなのです。
節子がいたら、「安全保証カード」をつくってくれたでしょうが。

■1019:お守りカード(2010年6月16日)
いま成田空港です。
ちょっと早めに着いてしまい、手持ち無沙汰です。
それで、今日は2つ目の挽歌を書くことにしました。

朝、自宅を出る直前にユカから「お守りカード」をもらいました。
その直前に書いた挽歌で、節子がいないので今回は安全カードがもらえないと書きましたが、もらえたのです。
わが家の、お守りカード文化は娘たちにも継承されました。
カードには3人の名前があり、それぞれがメッセージを書いてくれています。
ジュンのパートナーの峯行さんも、留守中は大丈夫と心強く保証してくれています。
うれしいことです。
これで飛行機も落ちないでしょう。
私と同じ便に乗る人たちは幸運です。

カードには余計な文字もありました。
このカードを持っていると、お金も落とさないとあります。
昨日の騒動のせいで、私の信頼はすっかり落ちてしまっています。

わが家では、誰かが旅行に行く時には、必ずみんなの手書きの「お守りカード」が渡されたのです。
そのおかげで、旅行はいつも安全でした。
反省点は旅行に限ったことです。
人生における「お守りカード」を出すのをうっかり忘れてしまっていたのです。
節子と結婚した時に、節子の人生の安全を保証するカードを発行しておけば、もしかしたら、いまもなお節子は私の隣にいたかもしれません。

節子の彼岸への旅立ちの時はどうだったでしょうか。
お守りカードを書いたような気もしますし、忘れたような気もします。
でもいろんなお守りは入れました。
友人の奥さんが、四国88箇所すべてのお寺のお札も入れてくれました。
節子は安全に旅を終えたはずです。

お守りカードはいま、ポケットの中の手帳にはさんでいます。
この4日間、私を守ってくれるでしょう。
節子と育ててきた文化が、こうして今も私を支えてくれています。

そろそろ搭乗受付の時間です。
13年ぶりの海外旅行の始まりです。
心配して、韓国の佐々木さんが、昨夜も今朝も電話してきてくれました。
もう3時間もすれば会えるでしょう。
では出発です。

■1020:韓国は節子が好きになりそうな街です(2010年6月17日)節子
昨日は無事ソウルに着きました。
空港まで佐々木さんが迎えにきてくれていました。
ソウルは、日本の五月晴れを思わせるような、とてもさわやかな気候です。

佐々木さんにC渓川(チョンゲチェン)を案内してもらいました。
かつてはソウル市内に暗渠されていた清流が数年前に回復されたのです。
ソウルの都心にまた川が流れだしたのです。
東京が、いや日本がだめになったのは、東京日本橋の上に高速道路をつくって、川を殺してしまったからだとかたく信じている私としては、すばらしい快挙に思えます。
まあ実際にはいろいろとあるのでしょうが、都心に流れるべきは水であって、車ではありません。

その後、ともかく節子の好きそうな露店なども並ぶ小道を歩きました。
仁寺洞という、通りです。
古風なお店もあれば、モダンなおしゃれな店もある。とても楽しい通りです。
節子ならこの路を抜けるのにかなりの時間がかかったでしょう。
節子が好きそうな商品が並んでいるなと思うお店がたくさんありました。

その後で行った、家庭料理のお店も、昔の家屋と庭を生かした喫茶店で飲んだ、ちょっと変わった飲み物も、多分節子がいたらみんなとても喜んだでしょう。
節子は佐々木さんの奥さんと一度しか会っていないと思いますが、もし節子が今も元気だったら、きっと韓国ファンになったでしょう。
佐々木さんは夫婦そろって韓国が大好きなようです。

まずは遠くから、と考えて、エジプトやギリシアなどに、私たちは旅行しました。
節子がいたら、今頃は近くの韓国や台湾に旅行先が向いていたはずです。
佐々木さんたちともっと早くに出会えればと、その順番も変わっていたかもしれません。
そうしたら、もしかしたら・・・と、発想が広がるのです。
まあ、いつになっても未練が残ります。

しかし、節子が一緒だったら、どんなに喜んだことでしょう。
そんな思いの、ソウル1日目でした。

今日は佐々木さんたちのワークショップに参加させてもらいます。

■1021:韓国の伝統的な民家で泊まりました(2010年6月18日)
節子
ソウル2日目もいろいろの体験をさせてもらいました。
10時から6時までは、佐々木さんの奥さんのワークショップを傍聴させてもらいました。
とてもいいワークショップでした。
それはまたホームページのほうに書きますが、その後で体験した2つの話を報告します。
初日はホテルに泊まりましたが、2日目は佐々木さんの友人のお宅に泊めてもらいました。
伝統家屋保存地域になっている北村(ブッチョン)韓屋村にある民家です。
そこの一室をお借りしたのです。
伝統的な造りで、床も壁も紙を重ねて張り込み、表面を、床の場合はエゴマを塗りこみ、壁は海草を煮込んだもので塗装しています。
そこにお住まいの朴さんのこだわりの家なのです。
ちなみに、朴さんは「ハノク(韓国家屋)を愛する市民の会」の代表です。
その朴さんが、実際に住みながら、管理しているゲストハウスウリチブに宿泊させてもらったのです。
ウリチブとは「みんなの家」、コモンズハウスです。
朴さんとお話していたら、あまりにも私の考えに似ているので驚きました。
こういう古式の韓国伝統の民家で宿泊できるとは幸運です。
周辺には伝統的な家が並んでいて、風情があります。

ところで、昨夜はワールドカップで韓国とアルゼンチンの試合でした。
韓国も日本と一緒で、初戦で勝っているので、みんなの期待が高まっています。
ソウルの市庁舎前の広場に応援に行くことになりました。
朴さん一家はみんなすでにそれぞれに出かけています。
家で応援ではなく、仲間が集まっての応援が基本のようです。
佐々木さんご夫妻もどうやらかなりのサッカーファンのようです。
それで休むまもなく、朴さんも一緒に市庁舎前の広場にいくことになりました。
近づくにつれて、赤いTシャツの若者たちがどんどん増えていきました。
市庁舎前にたどり着いて驚きました。
すごい人です。
多いだけではありません。
すごい熱気が伝わってきます。
人の意識のエネルギーが集まると、場の力が出てくるという、最近、知った純粋知性科学の実証の場を体験できた気がします。
残念ながら韓国は負けてしまいましたが。

朴さんの家に行く前に、佐々木さんの家にも立ち寄りました。
窓から王城(景福宮)が見下ろせる最高の場所です。

というわけで、今日もまた佐々木さんにフルアテンドで案内してもらいました。
韓国ならではの夕食を楽しませてもらっている時に、佐々木さんの奥さんが、「奥さんもご一緒だったらよかったですね」と言ってくれました。
私もそう思っていました。
たぶん韓国は節子のお気に入りになったでしょう。
まあ、佐々木さんたちのおかげで、とても楽しいコースを体験させてもらっているからかもしれませんが。

■1022:心の呪縛がまた一つ解けました(2010年6月19日)
今日は帰国ですが、仁川空港で時間があるので韓国での最後の挽歌を書きます。
今回、韓国に出かけてきたおかげで、また一つ、私の心の呪縛が解けたような気がします。
今朝は3時すぎに目が覚めて、そのことを考え出したら、眠れなくなってしまいました。
自分でもよくわからないのですが、昨夜から少し自分の思考の流れが破れだしています。

今回の訪韓は、出発前日まで、やめたい気持ちと行きたい気持ちが、私の中でせめぎあっていました。
それを知ってか、佐々木さんは前日も当日も私にお電話をかけてきました。

節子がいなくなってから、私の発想の中から「・・・したい」という思考が消えてしまいました。
とりわけ、節子も喜ぶだろうなということには背を向けたくなるのです。
ですから海外旅行もすうするまいと決めていたのです。
にもかかわらず、なぜ今回来てしまったのでしょうか。

節子と一緒だった頃は、私の信条はポジティブアクションでした。
人に会うのも、新しいところに出かけるのも大好きでした。
出張すれば、朝早く起きてホテルの周りを散策し、気になる人がいたら自分から会いに行きました。
でも最近は違います。
できれば人に会いたくないし、遠くに出かけたくはない。
ですから誰かに会っても、ほんとは会いたくなんかないのですと憎まれ口をたたいていました。
何かをすることに、ある意味での罪悪感と負担感が伴っていたのです。
これはなかなかわかってはもらえないでしょう。

節子がいなくなってから、アクションはいつも受身になりました。
誘われたら断る気力がないので受けてしまう。そして後悔する。
その連続です。
「後悔」という概念は、節子がいなくなってから体験するようになった感覚です。

今回は、実は受身でもなく能動的でもなく、なんとなく韓国に来てしまったのです。
こんな言い方をすると4日間も私のために生活を犠牲にされた佐々木ご夫妻には顔向けできないのですが(すみません)、それが素直な私の気持ちです。
佐々木さんは無理に来いとは言いませんでした。
もしかしたら誘っていなかったのかもしれません。
それに、韓国に来なければいけない目的はあるようでなかったのです。
昨日、ワークショップに参加した韓国の人に、佐藤さんはなんのために韓国に来たのですか、と質問されて、私は答えられませんでした。
その言葉を、今朝の目覚めの後、自問しました。
答えは唯一つ。
来るべくして来たのです。
受身でもなく、能動的でもなかったのです。

この4日間で私の身を屈めさせていた、心身の呪縛が解けたような気がします。
まだ完全ではありません。
しかし、昨日の朝も散歩に出ようという気になりました。

何かが変わりだした。
そんな気がします。
諦めていたパルミラ遺跡にも行けるかもしれません。
すべては佐々木さんたちのおかげです。
いま気づきましたが、佐々木ご夫妻が娘のようにしている愛犬は、「パル」と「ミホ」といいます。
パルミホ。パルミラ。
実は、韓国に来るチケットを購入に行ったとき、理由もなく、そのツアーのパンフレットを持ち帰っています。
これは意味があるでしょうか。

■1023:幸せを感じさせる涙もあります(2010年6月20日)
節子
ソウルから帰ったら、節子の友だちの友澤さんからお手紙が届いていました。
そこにこんな一文がありました。

今月は思い出深い月です。
節子様との楽しかった旅の日々をなつかしく思い出しています。

私が不在だったので、娘が電話をしてくれていました。
そうしたら6月18日が友澤さんたちと節子がヨーロッパに旅行に出かけた日だったのだそうです。
私はまったく覚えていませんでしたが、こうして節子のことを時々に思い出してくれる人がいる。
節子は本当に幸せな人です。

その手紙や友澤さんからの電話の話を聞いて、また涙が出てしまいました。
昨日まで、とても仲の良い佐々木さん夫妻とずっと一緒だったからかもしれませんが、今日はとても涙が出ます。
心の呪縛がとれたことの、これが代償でしょうか。

今日は父の日、娘たちがわが家の文化にあった、それぞれのお祝いをくれました。
贈りものの文化は、私にはあまりないのですが、今年はなぜか胸にきます。
それにしても、なぜこんなに悲しいのか。
この挽歌を書いていたら、悲しさがさらに高まってきて、涙が止まらなくなってしまいました。
なぜでしょうか。

人生にも、梅雨の季節があるのかもしれません。
涙が出ること、悲しさがこみ上げてくることが、幸せを感じさせるような、そんな季節が。
節子に改めて感謝しています。
ありがとう。
また会えるのを心待ちしながら、涙を流し続けていこうと思います。

■1024:さまざまな愛し方(2010年6月22日)
節子
人の関係はとても難しいものです。
この頃感ずるのは「愛し方」は人によって違うということです。
愛し方が違うと、愛することが相手を傷つけることさえあります。

節子がいなくなってから、私が気づいたことの一つがそれでした。
私たちは比較的「愛し方」が似ていました。
だからきっとうまくいったのです。

そうはいっても、私たちに問題がなかったわけではありません。
私の「言葉」はかなりストレートすぎて、社会性がありません。
ですから人によっては傷つく場合が少なくありません。
節子もきっと慣れるまで大変だっただろうと思います。
それに発想も少し常識的ではありません。
今日も、娘に「薬物を飲んで何が悪いのかね」と質問して、たしなめられました。
暴力団が悪いのなら警察はなぜ悪くないのか、それもよく納得できていません。
私にはわからないことが多すぎるのですが、そんな質問はなかなか誰にでもできるわけではありません。
節子しかいませんでした。
娘に「節子はいつもちゃんと聴いてくれていたよ」といったら、お母さんはただ「また始まった」と聞き流していただけだよといわれました。
そんなはずはないのですが。

知人から、夫の精神的暴力のため子どもを連れて家を出るというメールが届きました。
驚きました。
仕事もNPO活動も順調そうで、そんな悩みは微塵も感じさせなかった人でした。
これもおそらく「愛し方」のずれなのではないかと思いました。

私がいても喧嘩をするご夫婦もいました。
仲が悪いわけではありません。
喧嘩できるほどに愛しているともいえますが、外からは誤解しがちです。

夫婦それぞれが別々に海外旅行している夫婦もいます。
折角なのになぜ一緒に行かないのか私には不思議ですが、彼らから見れば、なんで佐藤夫婦はいつも一緒に旅行に行くのかと言われるでしょう。

愛すればこそいつも一緒にいたいという「愛し方」もあるでしょうが、愛すればこそいつも一緒にいる必要もないという「愛し方」もあるでしょう。
と考えていくと、私はもしかしたら節子を愛していなかったのかもしれません。
ただただ「一緒にいたかった」のかも知れません。
たまには一人になりたいわ、と節子が言っていたのを聞いたような気がします。

節子はいま、一人でいることを楽しんでいるでしょうか。
まあ節子に限ってそんなことはないでしょう。
節子も私ほどではないにせよ、私と一緒にいるのが好きでしたから。

■1025:共感に共感できないことに共感(2010年6月23日)
節子
今日は私の好きな言い回しのタイトルです。
「共感に共感できないことに共感」

自殺のない社会づくりネットワークの交流会で、「共感」という言葉が話題になりました。
サロンなどでも「共感」が話題になることはしばしばあるのですが、いつも私は違和感を持ちながら話を聞いています。
ところが今回はある人が、「共感するといわれても、そんなことなどありえないと思う」という趣旨の発言をしたのです。
彼女は、自らも自殺体験があり、今はそこから脱け出して、むしろ自殺につながるような人たちの相談に乗っています。

彼女の発言を聞いて、思わず私もそれに賛成してしまいました。
いつも言いたい気分ではあるのですが、とても身勝手なような気がしていえなかったのです。
若い彼女には、そんな「余計な分別」はいらないほどの強烈な体験があり、私とはまったく発言の重みが違います。
もっとも、自殺体験と愛する妻を見送るのとどちらが「強烈な体験」かは、そう簡単には評価できません。
言うまでもありませんが、私にとっては、自らの死よりも、節子の死が、強烈です。
しかし、体験したことのない人はそうは思わないでしょう。
自分の死と他者の死の衝撃は、まちがいなく他者だと私は思っていますが、それはなかなか体験できないことです。

ところで、共感という言葉を素直に受け容れられないという彼女の発言に共感してしまうのは、どこかおかしさがあります。
私のこの発言も、彼女には受け容れてもらえなかったかもしれないと発言した直後に気づきましたが、私がとても共感したことも間違いない事実なのです。

他者の悲しみや辛さを共にすることは、本来出来ようはずがありません。
そのことはみんな知っています。
でもどこかで、共感してほしい、共感したいという気持ちもあるのです。
そこが人の心の悩ましさです。
「共感してほしいからこそ共感するなどと言ってほしくない」と思うのです。

悲しみや辛さが深いほど、人は「共感」という言葉を深く考えます。
共感されたくないほどに共感してほしい状況にある人には、「共感」という言葉は禁句です。

ややこしい話でした。
こういう話を、節子としたことがとてもなつかしいです。
ちなみに、私は、私のすべてをいつも節子に共感してほしがっていました。
私は、節子のすべてに共感していました。
ですから、共感できない節子の言動にも共感していたのです。

これくらいでやめないと、節子に怒られそうですね。
はい。

■1026:節子さんの時間(2010年6月24日)
倉敷の友澤さんが朝のラジオ体操のアナウンサーの声が節子さんにそっくりで、私たちは「節子さんの時間」と言っているのですと電話で話してくれました。
それで今週は毎朝、6時20分からラジオを聴いているのですが、節子らしき声には出会えません。
もしかしたら倉敷と千葉では違うアナウンサーが担当しているのかもしれません。
あるいは、友澤さんが聴いていた「節子の声」と私が聴いていた「節子の声」は違っていたのかもしれません。

人の印象はそれぞれかなり違います。
テレビに出ている人を見て、あの人はだれそれに似ているね、と言っても、娘たちから似ていないといわれることが時々あります。
人が見ている風景は、それぞれに違うのです。

娘は先日、電車の中で節子に似た人を見つけたと言いますが、残念ながら、私はまだ節子に似た人に出会ったことがありません。
もし会ったらどんな気持ちになるでしょうか。
しかし自信を持って言えますが、節子に似た人に会うことはないでしょう。
なぜならば、節子は私の世界の中ではかなりの変化をしているからです。
変化というよりも、世代によって成長してきた節子が、私の意識の中では融合されてしまっているのです。
しかも容貌と意識や魂までもが融合しています。
考えても見てください。
若い節子と病身の節子とが融合したらどうなるでしょうか。
それはおそらく百変化する「異形の節子」です。
つまり、「この世のもの」ではないのです。
しかし、私にとっては、そうした異形の節子も異形には見えないでしょう。
逆に言えば、表層的に容貌が似ていても、たぶん私には「似ている」とは思えないはずです。
無意識の世界において、私には節子の魂の奥の奥までがわかるのです。
ですから瞬時にして、どんな人であろうとも、節子ではない人は見分けられるでしょう。

そう思いながらも、しかし、今生で、もう一度、節子に会いたいとも思います。
せめて声だけでも。
そんなわけで、明日の朝も聴こえるはずのない節子の声を聴いてみようと思います。

■1027:「いまひとたびの逢ふこともがな」(2010年6月25日)
昨日の挽歌で「異形」という言葉を使いました。
そこで思い出したのが、光瀬龍の短編「いまひとたびの」です。
書棚を探して、読み直しました。

主人公は和泉式部。
平安の世を生きた、恋多き女性です。
藤原道長からは「浮かれ女」と言われたほど噂(魅力)の多い女性だったようです。
現世の男たちとの遊びに退屈し、部屋でうたた寝をしていた彼女の前に、突然、異形の者が現れます。
彼女は問います。
「東国か、さらに北にあるという俘囚の地の者か。なぜ、まぎれこんできたぞ。名は何というか」
男は答えます。
「あなたがたのことばになおせば、<北の魚座・14番星>とでもなりますかな。私の名はクイム89」

その後、話は予想もできない方向に展開します。
といっても短いのですが。
男は、部屋にあった貝合わせ遊びの貝殻を見て、恐怖におののき忽然と姿を消すのです。
式部はそれから長いことその男の訪れを待ち続けますが、再び現れることはありませんでした。
式部は、ある日、その思いを歌にしました。

あらざらん この世のそとの思ひ出に
いま ひとたびの逢ふこともがな

これは、「後拾遺集」にある和泉式部の歌です。
百人一首にもあるようです。
後拾遺集の詞書には、「心地例ならずはべりけるころ、人のもとにつかはしける」とあります。
つまり、病気で死の床に就いている時に、心残りを歌に託して男のもとに贈ったということのようです。

「あらざらむこの世のそと」とは、自分がいなくなってしまう現世の「そと」ですから、彼岸ということになります。
彼岸に旅立つ前に、もう一度、逢いたいというわけです。

この歌に出会った光瀬龍はまったくちがった解釈をします。
それが、この作品です。
時間軸を空間軸に転換します。
「あらざらむこの世のそと」は、想像もできない宇宙の果て(魚座)というわけです。
この短編を映像で見た記憶がありますが、テレビではなく私の夢だったかもしれません。
そこで見た異形の者は、シュメールの遺跡に出てくる形をしていたと記憶しています。
時空間を凝縮した節子の「異形さ」とは明らかに違うのですが、どこかで通ずるものを感じます。

和泉式部の不幸は、彼岸を見ることができなかったことかもしれません。
しかし、「いま ひとたびの逢ふこともがな」の思いは、痛いほどわかります。

■1028:黒岩さんのトークショー(2010年6月26日)
節子
黒岩さんのトークショーに参加しました。
会場はあふれるばかりの人でした。
節子の知っている人たちも何人かいました。

黒岩さんは、節子と一緒にやっていた湯島のオープンサロンの常連の一人でした。
いつも節子が、その話を楽しみにしていた一人でもありました。
その黒岩さんから衝撃的なメールが届いたのが、昨年の12月でした。
すい臓がんが発見されたのです。
まさに大きく飛躍する直前でした。
毎朝、節子の前で祈りました。

黒岩さんは自分のブログですべてを書いていますが、抗がん治療を受けながら執筆活動をしています。
それも中途半端ではない執筆活動です。
その黒岩さんの応援団もできました。
みんな黒岩さんの人柄と黒岩さんの作品(未来の作品も含めて)を愛しているのです。
だから自然と応援団が生まれたのです。

トークショーが始まる前に、楽屋に勝手に入ってしまいました。
病気が発見されて以来、初めてでしたが、まったく変わらずに笑みを満面に浮かべていました。
トークショーは岡崎武志さん(古本ライター)との対談形式でしたが、2時間があっという間だったほど面白い内容でした。
これまで知らなかった黒岩さんのことも知りました。

終わった後、黒岩さんのお母さんにお会いしました。
いろいろと伝わってくるものがありました。

節子と一緒だったらどんなによかっただろうかと思いました。
石本さんに同行を頼んでいたのですが、会場の入り口で藤本さんや藤原さんに会いました。
相変わらず、一人で何かに参加するのが不得手なのです。
黒岩さんへの花束も、石本さんに買ってきてもらいました。
やはり節子がいないと半人前なのです。

黒岩さんの「古書の森 逍遥」をもらいました。
帰りの電車でざっと読みました。
不覚にも涙が出てしまいました。
いろんなことを思い出してしまったのです。
なぜ、それを語り合う節子がいないのか、どうも現実を受け容れられないおかしな気分です。
トークショーは、間違いなく、節子と一緒に聴いていた気分でしたが。

■1029:さつきの奇跡(2010年6月27日)
節子
敦賀から蓮の花が届きました。
もうそんな季節なのです。
敦賀にいる節子の姉が、家の前で育てている蓮の花を夏には送ってくれるのです。
その第一便が届いたのです。

蓮に並んで、位牌の前にアジサイの鉢も置かれています。
アジサイも節子の好きな花でした。
どこかで珍しいアジサイを見つけると、頼んで一枝もらい、挿木をしました。
ですからいろんなアジサイがわが家にはあります。
最近、私がきちんと水やりをしていないので、枯れてしまったものもあるのですが。

庭木の水やりはけっこう大変です。
きちんと声をかけて、ていねいに水をやらないといけません。
ただ水をかければいいわけではないのです。
なにしろ家の周りのいろんなところに小さな鉢があるので、忘れてしまうのです。
気がつくと枯れてしまっていることも少なくありません。
それに、ランのように、水をやりすぎると根が腐って、ダメになってしまうものもあります。
とにかくややこしく、草花それぞれのことを知らなければいけません。
節子がいた頃は、草花にいやされていましたが、いまは草花に疲れさせられています。
困ったものです。

そういえば、先日、枯らしてしまった「さつき」ですが、もうダメだと思ったものの、節子への申し訳なさから諦めずに声をかけながら水をやっていたら、奇跡的に小さな芽が出てきたのです。
まだ何とも言えませんが、もしかしたら復活するかもしれません。
これは「私の愛の力」が起こした奇跡かもしれません。
もう少し、それが強ければ、節子にも奇跡が起こせたかもしれません。
自らの「愛の力」の弱さがうらめしいです。
「さつきの奇跡」よりも「せつこの奇跡」が起こって欲しかったです。

■1030:希望(2010年6月28日)
節子
この数日、友人知人と話していて、3回も「希望」が話題になりました。
昨日は湯島でサロンを開きましたが、今の社会で欠けているのは何だろうかという問いかけに「希望」と答えた人がいました。
その前の日は、喫茶店で出版社の編集者と話していたら、最近のキーワードは「希望」だといわれました。
さらにその前の日には、ある相談に来た人が「希望さえあればいまの辛さも乗り越えられるのですが、それが見えません」と言い出しました。

「希望」
今の私にはどうでしょうか。

2007年の年初の挨拶で、私は「今年は希望の年にします」と書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/nengajo2007.htm
その反響についてブログにも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/01/post_d3bc.html
しかし、その年に、節子は逝ってしまいました。
そして、「希望」もまた、私の世界から離れていきました。
あれから3年。

久しぶりに思い出して、岸洋子の「希望」を聴きました。
私には、希望さがしの旅はないなと思いました。
今の私にとって「希望」とは何なのか。
考える糸口さえ思いつきません。
どうやら、私には永遠に失われた「概念」なのかもしれません。

2007年に書いた文章を久しぶりに読みなおしました。
希望がないと生きていけないのではなく、
生きているのは希望があるからだ、
希望はいつの場合も、自らのなかにある。
残念ながら、またこの言葉を忘れていました。
でも私の中のどこに「希望」があるのでしょうか。
今のところ、やはり探す気にはなれません。

■1031:彼岸へのメール(2010年6月29日)
節子
この挽歌を読んでくださった方からメールが届きました。
そこにこんなことが書かれていました。

私は 夫を大腸がんで亡くしました。
周りの人たちも私自身も仲のよい夫婦だと思っていましたが、時間と共に、私は夫のどれだけの事を知っていたのか、また夫は私に対してどうなのかと、疑問が日々膨らんで行き、なくなった人からは答えは貰えないことは判っているのに、しつこく、ばかだなと思いながらも、夫のパソコンに毎日メイルを打っています。

実は、私も一度、同じことを思ったことがありました。
それもあって、節子のメールアドレスはまだ残しています。
節子用のパソコンの記録も抹消せずにいます。
一度誰かからメールが来ていないかチェックしたことがありますが、節子の友人から私宛のメールが届いていました。
慌てて、その人には返信しましたが、そういうこともありました。

最近、メールチェックをしていませんので、久しぶり確認してみました。
たくさんメールが届いていましたが、メーリングリストやPRメールばかりで、個人的なメールはありませんでした。
それではやはり寂しいので、私も節子にメールを書いてみました。
挽歌とはまた違って、2人だけの秘め事も含めて、自由に書ける世界があることに気づきました。

いまのインターネットはまだ彼岸には通じていないでしょうが、これだけ複雑に絡み合った回線が育ってくると、ある時、突然に位相の次元が飛躍し、彼岸との回路が開くこともあるかも知れません。
開いたことがわかるときっと回線は混雑するでしょうから、いまのうちにきちんと発信しておいた方がいいですね。

さて、今日の私のメールは節子に届いたでしょうか。
返信が来るかどうか楽しみです。
まあメールの中身はたいしたことではないのですが。
返事が届いたら報告します。

■1032:『なぜ、脳は神を創ったのか?』(2010年6月30日)
節子
昨日、節子にメールしましたが、もしかしたらそれが届いたのかもしれません。
今朝の明け方、久しぶりに節子が夢に出てきました。
ブルージーンズに緑のジャケットという、私が見たこともないような服装でしたが、節子に気づいた途端に、なんだか世界がとてもあったかくなってきて、その後のことは思い出せません。
あの夢は、夢だったのかもしれないと思うほどです???

節子との40年間は、どうだったでしょうか。
決して夢ではなく、さまざまな痕跡が今もなお私の周りにはあるのですが、
しかし、夢だと考えても、それはそれなりに納得できます。
いや、節子のいない世界を生きている今が、夢だと考えてもおかしくありません。
夢とは何か、いったい何なのか。

昨日、電車の車内広告に『なぜ、脳は神を創ったのか?』という本が紹介されていました。
そのタイトルがとても気になりました。
著者は苫米地英人さんです。
誰だったか忘れてしまいましたが、10年くらい前に、「友人がこんな本を書いたので読んでやってくれ」といって『洗脳原論』という本を持ってきてくれた人がいます。
その時は消化不良でしたが、その著者の名前は心に強く残りました。
その人が苫米地英人さんです。

気になって、帰宅してネットで調べてみました。
その本の紹介として、次のように書かれていました。

生まれつき脳に刻みこまれた「死への恐怖」のために、脳は自ら神を創り、さらには宗教、国家を創ってきた。
オウム真理教の脱洗脳でも有名な苫米地英人が「脳科学」と「宗教史」が証明した「幸福な生き方」を初めて解説!

読んでみようという気になりました。
いまさら「幸福な生き方」には関心がありませんが、「幸福だった生き方」には関心があるからです。
なぜ節子がいたころは、あんなに幸福だったのだろうか。
それはたぶんに「脳」に関係しているのではないかと最近思い出しているのです。

もし脳が神を創れるのであれば、節子を創るくらい簡単なのではないか。
節子を創れるのであれば、私だって創れるのではないか。
いうまでもなく、節子や私を創りだす脳は、私の頭の中にある脳ではありません。
まあ、そうした「脳」のほんの一部は私の頭の中にもあるでしょう。
インターネットの世界で言えば、小さなプロバイダーというところでしょうか。
節子と会えるのであれば、いかように「洗脳」してもらってもいいのですが、私のお粗末なプロバイダーがそれに耐ええるかどうか、それが問題です。

■1033:汗をかくのは良い人、知恵を使うのは悪い人(2010年7月1日)
節子
最近、わが家の補修工事で毎日のようにいろんな人が来てくれています。
今日は外壁の漆喰のメンテナンスの人たちが来てくれていました。
家の周り中に足場ができて、どこに居ようとわが家の中は丸見えになっていますので、落ち着きません。
その人たちへのお茶やおやつの用意もしなければいけません。
幸いにユカがいるので、すべて彼女に任せていますが、毎日、違う仕事の人が次々と、来るのでユカも大変です。

しかし、こういう手仕事をしている人たちは、みんなとても人柄がよくて、接していても気持ちがいいです。
汗をかく量に人の良さは比例し、知恵を使う量に人の悪さは比例する、というのは、私が60年の人生で発見した法則ですが、節子は私に会う前から、この法則は知っていたようです。

私はどちらかといえば、汗よりも知恵のほうが得意でした。
節子はよく私に言ったものです。
「知恵のある賢い人はこわい」
夫婦喧嘩はいつも私の勝ちでした。
にもかかわらず、謝るのはいつも私でしたが。
それこそが、汗と知恵の違いなのです。

節子は知恵が嫌いだったわけではありません。
何しろ私に惚れたのですから。
節子が嫌いだったのは、汗の伴わない、ただの知恵でした。
人間は不思議なもので、惚れた人が望んでいるように自分を変えていくものです。
そうして私は、「知恵離れ」をしました。
私が、善人になった一因は節子のおかげなのです。

節子がいたら、毎日きっと職人さんたちといろんな話をするだろうなと思います。
そして、家の補修や維持に関するたくさんの知恵を学ぶだろうなと思います。
節子は、汗の伴う知恵は大好きだったからです。
節子がそういう場をつくってくれたら、私もその場に入れるのですが、私とユカではまだ少し無理があります。
私は職人の皆さんと話したいと思いますが、節子は話したいなどとは思うことなく、ただただ話すのです。
そこが私との、知恵のある私との違いです。
もう少し節子と時間をともにできたら、そうした生き方を身につけられたかもしれません。

節子がいなくなって、私の世界の広がりの速度は少しおちてしまっていることがよくわかります。
それに、知恵に依存して、次第に悪人になっているような危惧もあります。
困ったものです。

■1034:共体験(2010年7月2日)
節子
DVDで「阿賀を生きる」という映画を観ました。
底流に新潟水俣病訴訟を置きながら、阿賀野川流域での暮らしを描いた映画です。
1992年の制作で、登場してくるのはお年寄りばかりですので、いまはもうほとんどいないでしょう。
人がいなくなっただけではなく、その人たちが営んでいた阿賀の暮らしもまたなくなったということです。
しかし、四半世紀前には、こういう暮らしがあったのだということがよくわかります。
節子と結婚したおかげで、私もささやかながら、そうした暮らしぶりを体験させてもらったことがあるので、映像の向こうまでが垣間見える気がしました。

節子の親元の滋賀県の高月も、まさにそうした暮らしぶりをきちんと残していた地方のひとつだったように思います。
そのおかげで、私の人生はとても豊かなものになりました。
書籍での知識だけの世界ではなく、生きた世界を生きることができたのです。
節子と結婚していなかったら、たぶんこんな豊かな人生は過ごせなかったような気がします。

節子と一緒にこの映画を観たら、どれほど会話が弾んだことでしょう。
そんなことを思いながら、文字や言葉では伝えられない「共体験」という言葉を思いつました。
ネットで調べたら、「共体験」という言葉は、すでにあるようです。
「意図的に体験を共にすることで相互理解を深め、関係を深めていく」というような意味で、使われている事例がありました。
しかし、私が思いついたのは、そういうことではありません。
節子との無意識な生活の共有の積み重ねが、一般には無意味に見えるような、人の仕草や言葉、情景が、とても生き生きした意味を引き出すことがあるということです。
いわゆる「2人だけにしかわからないこと」というものです。
言い方を替えると、過去の「共体験」が今の、さらには未来の世界を豊かにしてくれるということです。

病気になってからの節子の口癖がありました。
「また修との思い出が一つ増えた」
映画の中のお年寄りたちの何気ない言動に、なぜか節子の、その言葉を思い出しました。
節子と私が共体験できなかった、高齢者夫婦の暮らしぶりを、節子はきっと夢見ていたでしょう。
もちろん、私もそれをずっと夢見ていましたが。

■1035:「未完の生命」(2010年7月3日)
昨日、共体験について書きましたが、その後、こんなことを考えました。

「寝食を共にする」という言葉がありますが、夫婦は、まさに寝食を共にし続ける関係です。
それが40年も続けば、意識や感性が同一化するのは当然です。
顔かたちまでが似てくるという調査結果もあるそうです。
私たちも、お互いに影響を受け合って、次第に好みや考え方は似てきたように思います。

しかし、それは、お互いが相手の考えや好みに近づいたのではないように思います。
私も節子も、自分の好みが変わったわけではないからです。
ではなぜ「似てきた」のか。

いささか理屈っぽく言うと、共体験を重ねるたびに、新たな意識や感性が生まれ、それをそれぞれが自らの世界に付加してきたのではないかと思います。
つまり好みが変わったのではなく、好みが広がったのです。
広がることで、重なる部分が大きくなっていく、つまり「似てくる」わけです。

言い方を替えれば、共体験は、世界を広げていくわけです。
これは何も私たちだけのことではありません。
夫婦はそうやって自分たちの世界を広げていくのではないのか。
そしてその世界の中に、みずからの主張は融け込んでいき、飲み込まれていく。
さらに、そうして育ててきた世界は、次第に、同じように人が育んできた周りの世界と融けあいながら、大きな世界の中に徐々に沈んでいく。
それにつれて、個的存在としての生命は自然に大きな生命のなかに消えていく。
それが、個別の生命体の自然の一生なのかもしれません。
そこではおそらく「死」は「日常」なのです。

ところが、私たちは、その途中で、「未完の生命」を終えてしまった。
それを「幸い」ととるか「不幸」ととるかは、迷います。
なぜなら、「未完のプロジェクト」は未完なるが故に、終わっていないからです。
しかし、同時に、未完の世界は幻のように消えてしまったのです。
まだ周辺の世界に融けこむ前に、です。

営々として40年築き上げてきた、節子と私の世界がなくなってしまった。
人がいなくなるとは、世界がなくなるということでもあるわけです。
なくなった世界で、生きることのむなしさと辛さは、当事者でなければわからないでしょう。
残された片割れにとっては、生きることと死ぬこととは、ほとんど同じことなのです。
そんな中途半端な状況から、抜け出しながら、また引き戻されながら、行きつ戻りつしているのが、最近の私のような気がします。
最近、なぜか疲れるのですが、その理由はこうしたことにあるのかもしれません。

■1036:「水曜どうでしょう」(2010年7月4日)
節子
今はまっているテレビ番組があります。
ユカに教えてもらって先週から見出したのですが、実に面白いのです。
千葉テレビが、かなり前に北海道の地元テレビで放映されていた「水曜どうでしょう」を毎週土曜日に再放送しているのです。
今や全国的なタレントになった大泉洋さんが仲間と一緒に、まさに手づくりしている番組です。
見た感じ、制作費はほとんどかけていないようですが、これが実に面白いのです。
まったくのナンセンスの内容ですので、たぶん若い頃の節子にはまったく理解してもらえないでしょうが、晩年の節子(変な言い方ですが)ならばきっと一緒に笑い転げたでしょう。
実にばかばかしいのですが、ついつい見てしまうのです。

昨日は四国八十八か所お遍路周りのシリーズでした。
4泊5日ですべてを回るのですが、回ったお寺を紹介するわけでもありません。
ただ「巡るだけ」の番組なのです。
内容があまりにないので、紹介不能ですが、ともかく面白いのです。
繰り返しますが、若い頃の節子だったら、絶対に面白いとは言わずに3分で止めるでしょう。

さて問題は、その79番目の札所である金華山天皇寺で起こった事件です。
撮影したにもかかわらず映像が写っていなかったのです。
ちなみに、ここは崇徳天皇杜の神宮寺です。
崇徳天皇は怨霊伝説をもつ不遇の天皇ですから、ここでおかしなことが起こるのは不思議ではありません。
それに大泉さんたちがこの寺に着いたのは夜中の10時すぎです。
境内は素手の真っ暗なのです。
「やらせ」だと思うかもしれませんが、そうではないようです。
ほかにもいくつかの「怪奇現象」が起こっているのです。
冷静で真面目な節子なら、なんというでしょうか。
私はもちろん、すべてを信じました。

まあそれだけの話です。
挽歌もネタ切りだね、とユカにはバカにされますが、そうではありません。
こんな面白い番組を節子に教えてやらないわけにはいきません。
それに、四国遍路はいつか節子と歩くはずだったのです。
行けなかった八十八か所。
節子は一度、四国に行こうと言ったことがあります。
その時、私はなぜか行きたくなく、断ってしまいました。
いまさら後悔しても始まりませんが、節子の希望に沿わなかったことを思い出すと、どうしても滅入ってしまいます。

ちなみにどうでも言いことですが、「水曜どうでしょう」は「水曜ロードショー」のパロディでしょうか。
よほど暇ならぜひ観てください。

■1037:ジュンの花嫁姿(2010年7月5日)
節子
ジュン夫婦は私たちと同じように、結婚式を挙げませんでした。
その代わりに、お披露目パーティをやったのですが、やはり写真だけは撮ろうということになりました。
それで今日は、ヴィーナスフォートの写真館に両家の家族もそろっての写真撮影に行きました。
ヴィーナスフォートは、開店した頃、家族で来たことがあります。
あの日は、風が強く、モノレールのゆりかもめが止まってしまい、大変でした。
それを思い出しました。

私たちも写真だけは撮りたいという節子の希望で、写真を撮りましたが、その時のことをまったく覚えていません。
節子の両親や親戚の関係で、結局、結婚式はやらざるを得なくなったのですが、当時の私は、世間の常識からかなり外れた考えを持っていました。
今から考えると、節子はよくついてきたものだと思いますが、長い人生の中で、結局、私は節子に逆に影響されて、そうした理念先行の生き方を現実的なものへと変えてきたように思います。
おかげで、とてもカジュアルに、そして自然体に生きられるようになりました。
これは、節子のおかげです。

娘たちが、節子の写真を持ってきてくれました。
ですから写真には節子も入っています。
久しぶりに家族4人の写真を撮りました。
私のデジカメでも何枚か撮ってもらいましたので、もしかしたらそこに、もう一人の節子が写っているかもしれません。

娘の花嫁姿を見ると父親は感激するそうですが、私の場合はやはりまったく感激しませんでした。
やはりどこかおかしいのでしょうか。
しかし、節子にはやはり直接見せたかったと思いました。
なにしろジュンは、節子に見せられなかったのをとても悔やんでいましたので。
ジュンも、節子にどれほど見てもらいたかったか。
ジュンが不憫でなりませんが、節子もまた不憫でなりません。

でも、とてもいい写真が撮れました。

■1038:「愛は脳を活性化する」(2010年7月6日)
「愛は脳を活性化する」
これは脳科学者故松本元さんの本のタイトルです。
以前、「ソーシャルブレイン」のことを書いたことがありますが、人間の脳は個人の身体に閉じこもっているわけではありません。
世界に向けて開かれており、世界とのかかわりの中で生きているわけです。
身体が滅しても、脳は生きつづけていると私は思っています。
但し、その「脳」は個人的な存在ではないので、個人としてのまとまりを保持しているかどうかには確信が持てないのですが。

学生の頃、ハインラインの「人形づかい」というSF小説を読んで、いささかゾッとしていましたが、考えてみると、あれは未来小説ではなく、事実を語っていたとも考えられます。
そう思い出したのは、10年ほど前からです。
脳科学のことを学ぶほどに、その考えは強まっています。
1万年前の大昔、魚座から来た宇宙生命が、私たちの身体に埋め込んでいったのが「脳」かもしれない、と最近は思っています。
こんなことを書き出すと、挽歌ではなく時評になってしまいそうですが、ここでは「愛」について、少し書いてみることにします。

松元さんは、「愛は脳を活性化し、意欲を向上させて脳を育てる」と、その本で書いています。
脳の核には「愛」があるといってもいいでしょうか。
つまり、意識とは「愛」のまわりに育っていくものなのです。
愛は、別に夫婦である必要はありません。
親子でも兄弟姉妹でも、友人でも自然への愛でも、なんでもいい。
そんな気がします。
全ての始まりは「愛」なのです。

私はいささか、その「愛」を節子に集中させてしまった感があります。
意識的には、私は博愛主義的なのですが、現実には節子に吸い寄せられていたのかもしれません。
節子は、そのことをむしろ危惧していました。
しかし、その一方で、だからこそがんばらなくてはと思ってくれていたのです。
節子は、私を置いていくことがとても気がかりだったでしょう。

節子がいなあくなって、私の愛は向かう先を失いました。
もちろん今でも節子を愛していますが、やはり手応えのない愛に、時にむなしさを感じます。

愛する人を失うと、人の人生は変わります。
脳は萎縮し、意欲は後退し、疲労感が高まります。
行方を失った「愛」を、新しい次元に昇華できるのはいつでしょうか。
愛のベクトルを反転させなければいけないと思いながらも、なかなかそれができずにいます。
愛は脳を活性化しますが、萎縮させることもあるのです。

■1039:大雨の七夕(2010年7月7日)
節子
七夕です。
年に一度であれ、会うことのできる織姫と彦星は私にはとてもうらやましい存在です。
会えることが確実であれば、たとえ100万年でも待てるでしょう。
1年などというのは、ほんの一瞬なのです。
私などはもう3年近く、節子に会えていないのです。

もっとも今日は天気が悪く、おそらく天の川も荒れていることでしょう。
これもまた残酷な話です。

ちなみに、昨年の今日は、突然に節子の友人たちがやってきました。
一昨年は、7日は誰も来ませんでしたが、2日前に突然に挽歌の読者がやってきました。
そして、その前の年は、これも久しくお会いしていない吉田親子が節子を訪ねてきてくれました。
まだ節子は元気で、庭でお話をしていたのを覚えています。
こんな感じで、七夕前後にはわが家にもめずらしいお客様が来ることが続いていたのですが、今年はどなたもいらっしゃいませんでした。
それもそのはず、この数日、強い雨が突然に降ってくるのです。
天の川があふれているのかもしれないほどの大雨です。
東京でも昨日からところによっては大量の雨が降り、被害をもたらしています。
幸いにわが家の周辺はさほどの雨ではありませんが、星空どころか昼間から暗い空です。

どなたも来なかった代わりに、もしかしたら節子が夜中に訪ねてくるかもしれません。
さてさて。

■1040:夜中の胃痛(2010年7月8日)
節子
昨夜は大変でした。
夜中に胃が痛くなって、目が覚めました。
前にも何回かありましたので、心配はないのですが、痛くて眠れません。
こういう時、一人なのが一番困ります。
節子がいたら、夫婦は、それぞれの痛みを分かち合わなければいけないと無理やり起こすのですが、それができないので、一人で耐えなければいけません。
痛みはシェアすれば、それだけで消えることもありますが、一人で抱えていると増幅するという、おかしな性質を持っています。

昨夜は胃痛でしたので、心細さはありませんでしたが、
もっと大きな障害が生じたらどうでしょうか。
気弱な私としては耐えられるでしょうか。
夜の暗闇の中で一人、問題に対峙するのは、あまり楽しいことではありません。

私はいささか「夫婦で生きる」生き方に埋没してしまっていたようです。
したがって、どうも「一人で生きる」ことに、なかなか慣れないのです。
節子が最期まで心配していたのは、そのことでした。

結婚しても、お互いの世界をしっかり持って、それぞれに生きながら、2人でも生きている夫婦がいます。
そういう生き方が、私にはできませんでした。
それに、それを望みませんでした。
節子と私と、どちらが自分の独自の世界を持っていたかといえば、節子です。
節子は、私がいなくても、しっかりと一人で生きることのできる人でした。
その節子が先に生き、一人では頼りない私が残された。
どう考えても、理屈に合いません。

そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠れてしまいました。
そして、目覚めたら胃痛はおさまっていました。
節子が治してくれたのでしょうか。

昨日とは違い、今日はとてもさわやかな日です。
節子の好きなアジサイがきれいに咲きだしています。
梅雨の中休みのようです。

■1041:震えるほど怖い夢を見なくなりました(2010年7月9日)
節子
各地で集中豪雨のための土砂崩れや浸水などの水害が多発しています。
わが家も今、かなりの雨に見舞われています。
傾斜地にある造成地なので、集中豪雨に耐えられるかどうかは確実ではありません。
しかもちょうど自宅補修中なので、わが家の周りには足場が組まれ、ネットで包まれています。
その関係もあって、雨の音、風の音が、いつもに増して大きいです。

節子にはいつも叱られていましたが、台風が来るとどうしてもわくわくします。
自然が荒れる風景には、なぜか心揺さぶられます。
私の心の中にある、荒ぶる魂が共振するのです。
悪いことだと思いながらも、非日常的な風景を展開させている被災地の映像を見ると、心が高まります。
それは抑えようがありません。

青空に恵まれた穏やかな日は、大好きです。
しかし、今日のように、雨と風に揺さぶられるような不気味な日も、大好きです。
心が揺さぶられる気がします。
そして、なぜかこういう日には、節子を思い出します。
身を寄せ合って震えていた体験があるわけではないのですが、なぜかそんな、ありもしなかったことを「思い出す」のです。

晴れた日に思い出すことは、実際に体験したことです。
たとえば駒ケ岳千畳敷カール、たとえばハトシュトプト神殿。
いじれも見事な青空で、節子の笑顔も覚えています。

荒れた日に感ずるのは、実際には体験したことのない風景です。
いま感じられる、うっそうとした木々に囲まれた暗闇は、一体何なのでしょうか。
前世か来世に体験した風景なのでしょうか。
そして、こういう日には、とても不思議な夢を見ることが多かったのです。
時に怖くて震えてしまうような夢です。
節子がいなくなってから、そういう夢は見なくなりましたが、震えが止まらなくて、節子に抱きしめてもらったり、怖くてトイレに行けなくて節子を起こしたり、そんなことさえありました。
笑われそうですが、それほどリアリティがある夢だったのです。

節子がいなくなってからそういう夢を見ることがなくなりました。
なぜかはわかりません。
でも、今夜はどうでしょうか。
この数日、夢ばかり見ています。

■1042:最近夢をよくみます(2010年7月10日)
節子
昨夜はやはり夢をみました。
節子は出てきませんでしたが、奇妙な夢でした。
般若心経をあげていたら、途中で暗誦しているはずの経文が出てこなくなった夢です。
慌てて経本を開いたら、それが切り刻まれているのです。
そのうえ、何かが、早く次を唱えろと圧力をかけてくる。
しかし経文が出てこない。
まあそれだけの夢なのですが、どういう意味があるのでしょうか。

そして今朝、いつものように般若心経をあげていたら、夢と同じように、後半になってうまく言葉が出てこないのです。
まさかと思い、経本を開いたら、切り刻まれることもなく、きちんと書かれていました。
最初から、ちゃんと経本を見ながら、あげなおしました。

夢には意味があるとフロイトは言いました。
しかし現世の論理からは、読み解けないことが少なくありません。
もし生命がすべてつながっているとしたら、個人が眠っているかどうかなどは瑣末なことです。
意識を支えている無意識の世界、さらには集合的無意識の世界をつないでいる生命には、おそらく「眠り」というような概念はないでしょう。
いや、そこには「死」という概念すらないでしょう。
生と死を対極的に捉えるのは、個として生きている人間だけかもしれません。

時空間を超えた生命にとっては一瞬の泡のような個人として、夢からそうした世界を覗き見したところで何が見えるでしょうか。
夢判断は、所詮は小賢しい企てでしかないように思います。
にもかかわらず、夢は心を揺さぶります。
夢が、あまりに非日常なためかもしれません。

最近、夢をよく見ます。
そしてよく目が覚めます。
そのせいか、慢性的に眠いです。
昼と夜との境界がなくなっていきそうです。
彼岸と此岸の境界も、なくなっていくといいのですが。

■1043:節子が投票しただろう人に投票してきましたよ(2010年7月11日)
節子
今日は参議院議員選挙でした。

私たちは結婚以来、いつも一緒に投票に行きました。
節子はがんが再発した後も、投票に行きました。
節子はまじめな人でしたから、いつも立候補者の所信などをよく読んでいました。
投票所に向かう途中で、誰にしようかという話題が出ることもありましたが、基本的にそれぞれが自分で考え、投票が終わった後に公開するのが私たちのスタイルでした。
お互いが、なぜ誰に投票したかを知ることで、自らの考えを相対化できるのはとてもいいことだと思います。
そういう意味でも、節子がいなくなった影響は大きいです。
以前に増して、私は独善的になっているかもしれません。

人は話しながら考えます。
話すことが多ければ多いほど、人は考えを深められます。
もちろん一人で静かに熟考することも必要ですが、私はむしろ誰かと話しながら考えるタイプです。
ですから、節子と話すことが、私にとっては様々な意味で、世界を深めることでした。
その時間が、なくなってしまったのは、とても残念です。
選挙で誰に投票するかといった、具体的な判断を求められる時になると、そのことを実感します。

節子でなくても話す相手はいるだろうといわれそうですが、やはり違うのです。
一緒に暮らし苦楽を共にすることで、節子は、私にとっては、もう一人の私になっていたのです。
私はまた、もう一人の節子になっていたはずです。
そう考えると、節子がいなくなってから体験したいくつかのことが奇妙に納得できるのです。

節子がいたら、誰に投票したでしょうか。
そんなことも思いながら、投票してきましたが、たぶんいつものように、私たちが投票した人は当選しないでしょう。
私はもちろんそうですが、節子もまた、いわゆる「マジョリティ」には属さない人でした。
だからこそ、私と結婚したのでしょうが。
節子に出会えた幸運さを、この頃、改めて感じます。
だからこそ、節子との早い別れが辛くて、いつまでも信じられずにいるのです。

■1044:時間生産性の低さ(2010年7月12日)
節子
最近、生活にどうもメリハリがつけられません。
というか、時間の使い方がうまくいかないのです。
ですから、忙しいのか暇なのか、わからないのです。
時間を持て余しているくせに、やるべきことがどんどん山積みされているのです。
机には、やるべきことのための資料が、まさに山になっています。
手紙や電話をしなければいけないことも少なくありませんが、気のりがしないのです。
親戚関係や家庭管理の関係はすべて娘たちに頼んでいます。
しかし、時には自分でしなければいけないこともあります。
それがなぜかできないのです。

節子がいた時には、「節子、○○○をやっといてね」と、一言いうだけで、すべては解決でした。
実に楽でした。
以前も書きましたが、節子は私にとっては、ドラえもんのように、なんでもやってくれる存在でした。
もっとも、まさに「ドラえもん」と同じく、時々、とんでもない結果になってしまうこともありましたが、まあそんなことは瑣末なことです。
うまくいかなければ、文句をいえばいいだけでしたから。
しかし、今から思えば、節子には迷惑をかけてしまっていたのでしょうね。

以前は、時間の使い方がそれなりに上手だと自負していました。
人の数倍の時間の活かし方をしていると確信していました。
しかし最近の私は、その正反対で、時間の使い方が極めて下手なのです。
無駄がとても多くなりました。
なぜでしょうか。
何でもかんでも節子に関連づけるのは問題ですが、しかし時間の活かし方に関しては、間違いなく節子がいないためです。
どうも時間配分の基準がなくなってしまったのです。

それに、夫婦とは実に巧妙に役割分担できる存在なのだと、この頃、改めて思います。
夫婦がうまく支えあえば、一人で使うよりも、時間は数倍も効果的に使えるような気がします。
そう考えないと、最近の私の時間生産性の低さは理解できません。
今日もまた、無駄に時間を浪費してしまったようで、充実感がありません。
こういう生活がもうずっと続いているような気がします。

■1045:「私は、私と私の環境である」(2010年7月13日)
節子
私の暮らしの周りには、節子を思い出させるものがたくさんあります。
それらが、私の心の平安を支えてくれる一方で、節子への思いを意識化させることで、時に私の歩みをとどめさせることにもなります。
愛する人を失った人は、こうして前にも後にも進めなくなるのかもしれません。
できることなら、隠棲して、節子の供養に殉ずるのが一番の平安を得られるのでしょうが、今の時代はそうした選択肢をほとんど不可能にしているように思います。
もちろんそれは、私の生きる力の弱さにも拠るのですが。

時評編では時々書いていますが、最近、オルテガを思い出しています。
オルテガ・イ・ガセト。スペインの哲学者です。
オルテガには有名な言葉があります。
「私は、私と私の環境である」
ややこしい文章ですが、こう言い換えてもいいでしょう。
私は、自らが置かれている環境を舞台にした、私を主役にしたドラマである、と。
オルテガは、それを「生のプロジェクト」といいます。
私には、とてもしっくりくる表現です。
私はプロジェクト。私はドラマ。私は常に変化し続ける空なる物語。
この言葉に出会ったのは40年ほど前ですが、私の生き方にとても重なっているのを感じました。

「私の身体や精神」と「私を取り巻く具体的な環境」は、プロジェクトという視点で考えた場合の「私」にとっては同値なのです。
そして、プロジェクトで実現すべきことは、創造すべき「私」なのです。
相変わらずややこしいですが、さらにややこしいのは、この「私」(プロジェクトとしての私)には今や「節子」も含まれてしまっていることなのです。
人生を共にしようという思いで結婚した私にとっては、その時から節子は私に包摂されるべき存在でした。
言い方を換えれば、新しい「私」の出現です。
ドラマは第2幕に移ったのです。
ですから私はその段階で、それまでの自分を思い切りアウフヘーベンしたのです。

そして、いま第3幕、
前にも後にも進めないのであれば、幕を進めるしかありません。
改めてオルテガの「私は、私と私の環境である」という言葉を思い出しています。

■1046:交換記憶(2010年7月14日)
節子
ソウルで、ワールドカップのパブリックヴューに参加しましたが、その時に感じたのは、みんなが集まった空間に渦巻く、何といえない「熱気」でした。
その「熱気」が、自宅のテレビで一人で観戦している場合の数倍の興奮をもたらしてくれるのでしょう。

少し規模は小さいですが、結婚することも同じです。
結婚によって、伴侶を得、家族を得ることは、人に力を与えてくれます。
夫婦や家族の間では、感情や知識を共有しあう関係が成立します。
世界は広がるばかりではなく、ダイナミズムが激変するのです。
ヴァージニア大学の心理学者ダニエル・ウェグナーは、これを「交換記憶」(トランザクティヴ・メモリー)と呼んでいます。
心をつなぎあった人の間には「暗黙の連合記憶システム」が成立するというのです。
そうした連合記憶システムをもてれば、人の力は飛躍的に高まります。

ウェグナーは、この交換記憶を失うことが離婚をつらいものにしている原因の一つであるとも言っています。
彼はこう書いています。

「離婚によって気分が滅入り、認識力にも障害が出てきたと嘆いている人は、外部記憶システムが失われたことを別のかたちで表現しているのかもしれない」
「かつては共通の理解を得るために経験を語り合っていた。かつては相手の持つ大きな記憶の保存庫に入ることもできたのに、それもまた失われてしまった。交換記憶の喪失は自分の心の一部を喪失するように感じられる」

死別の場合も同じことが言えるでしょう。
最近、ようやくこの言葉の意味が実感できるようになってきました。
とりわけ私は、そうした「交換記憶」を重視し、そこに依存して生きてきました。
節子や家族に任せたことは、私の頭からは完全に無くすようにしてきたのです。
だから、実にさまざまなことに取り組めましたし、さまざまなことに触手を広げられました。
私の人生が豊かだったのは、そのおかげです。
しかし、この挽歌でも時々書いているようにどうもそうした動きが最近鈍っているのです。
世界がなにか虚ろで、立っているところが頼りないのは、そのせいかもしれません。
疲れやすいのも、きっとそのせいでしょう。

伴侶を失ったら、やはり隠棲すべきなのかもしれません。

■1047:結婚とは相互に自己開示する決断(2010年7月15日)
節子
ダニエル・ウェグナーの「交換記憶」の話をつづけます。

最近、改めて「夫婦とは何だろう」ということを考えるようになりました。
私の周りにも、さまざまな夫婦がいます。
人が、それぞれ違うように、夫婦もまたそれぞれ違います。
それに、夫婦の本当の関係は、外部からは見えてきません。
私たち夫婦もたぶん外から見えているのと実態はかなり違うのでしょう。
でも一つだけ、すべての夫婦に共通のことがあります。
それは、それぞれの生活が相互に影響しあっているということです。
あえて「共に生きている」とは言いませんが、縁のある生き方になっているということです。
しかし、その縁を、みんなどれほど意識しているのか。
そして、その縁をどれほど深めようとしているのか。
そこが気になっています。
私の体験では、縁は際限なく深められるのです。
その気になれば、ですが。

さて、ウェグナーの話です。
ウェグナーは、こう書いています。

「人間関係の発展は相互の自己開示の過程として理解されることが多いが、この過程を相互理解と受容としてとらえるのはむしろロマンチックであり、交換記憶のために必要な前段階としてとらえることも可能だろう」

結婚とは、相互に自己開示する決断です。
人にとっての最高のコミュニケーション手法は、自らの弱みを自己開示することだと私は考えていますが、自己のすべてを開示してしまったら、もうその相手と人生を共にするしかありません。
逆に言えば、もし人生を共にするのであれば、自らを徹底的に自己開示するのがいいのです。
もう後には引けませんし、その時点で世界が変わるはずです。
私は「自己開示型」の人間ですが、節子との結婚が、そのことの意味を気づかせてくれたのです。
そして、それが交換記憶の状況を生み出すことにも気づかせてくれました。
私が「交換記憶」なる概念を知ったのは、節子と結婚してから30年ほどたってからですが、その時にその概念をすぐ理解できたのは、節子と暮らしていたおかげです。

長くなりましたので、明日に続けます。

■1048:自己開示は新しい物語を起動させる(2010年7月16日)
一応、昨日の続きです。

私がとても幸せだったのは、節子にはなんでもすべて話せたことでした。
おそらく節子もまた、そうだったと思います。
私たちは不思議なほど、自分の世界を開示できたのです。
なぜでしょうか。
それはたぶん「相手を信頼できた」からです。
なぜ信頼できたか。
それは「相性」としかいえません。

いずれにしろ、私たちはすべてを開きました。
それぞれの両親が最初は反対だったのも、それを加速させてくれました。
だれも賛成してくれなければ、当事者である私たちが結束しなければなりません。

自己開示されるとどうなるか。
いやおうなく、その人の人生に巻き込まれます。
自己開示するとどうなるか。
同じように、その相手の人生に巻き込まれるのです。
自己開示してしまえば、相手はもはや自分の世界を知る人ですから無視はできません。
そこから何かが始まります。
自己開示とは、つまりは「新しい物語」のプロローグなのです。

自己開示によって生まれた交換記憶の世界に身を任せると、2人の世界は急速に重なってきます。
古い物語は過去のものとなり、新しい物語がお互いの世界を一つにしていきます。
価値観が次第に共有化されるのは当然です。
しかも、それは2人に留まらないのです。

交換記憶の概念に出会う前に出会ったのが、華厳経の「インドラの網」です。
これに関しては何回か書きました。
交換記憶につなげていえば、交換記憶の世界は無尽に広がっているということです。
そこにたどりつけば、世界は一挙に開けてきます。
空海のようなエネルギーがあれば「虚空蔵」の世界にも入り込めるのです。
そこではもはや彼岸も此岸もない。

しかし、そこにたどりつく前に、節子はいなくなったのです。
交換記憶で成り立っていた世界の瓦解。
放り出された私は、おろおろするしかないわけです。
そして、私は「空海」になりそこなってしまったわけです。
もう少し時間があれば、小空海くらいにはなれたかもしれないのに、なれたのはどうも虚空海のようです。
虚空海と虚空蔵ではまったく違います。

なんだかよくわからない話になってしまいました。
何を書こうとしていたのでしょうか。
困ったものです。
まさに虚空の海。

■1049:男は妻などもってはいけない、ことはありません(2010年7月17日)
吉田兼好は「間」の好きな人だったようです。
有名な「徒然草」も、要するに「つれづれなる」暮らしの間に楽しんだ書です。
ものもできるだけ持たないことを好んだようです。
私も一応、頭の中ではそれにあこがれていますが、なかなかそうはならず、わが家はものであふれています。
しかし、最初に失ったのが、最愛の妻になるとは、思ってもいませんでした。

間とは、距離を意味しますから、まさに人の生き方につながっています。
愛する人との距離も「間」にとっては重要です。
兼好の場合はこうでした。

妻(め)というものこそ、男(おのこ)の持つまじきものなれ。「いつも独り住み(ひとりずみ)にて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり(第190段)

男は妻などもってはいけないというのです。
なぜならば、

いかなる女なりとも、明暮(あけくれ)添い見んには、いと心づきなく、憎かりなん。

「間」がないと、どんなに愛する人でも飽きるだろうというのです。
よくいわれる「俗説」です。
しかし、そんなことはありません。
愛でれば愛でるほど好きになるものはあるのです。
人も同じです。
私は節子に飽きたことはありません。
そこからすべての世界が、それこそ虚空蔵さえもが、見えたからです。

これは、「間」を3次元で捉えるかどうかに関係しているように思います。
前に書いた和泉式部のように、3次元の世界を超えれば、たぶんまったく違ってくるでしょう。
そういう視点からは、妻を持とうが持つまいが、瑣末な話なのです。
それにこだわる兼好の、限界がそこにあります。
世界が狭いのです。
それは、「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて」という書き出しの文章に現れています。
兼好も、「間」にあこがれながら、結局は「間」がとれなかったのではないかと思います。

妻を持つかどうかは、人それぞれです。
しかし、「愛するもの(ひと)」を持つことは、誰にとっても大事なことではないかと思います。

■1050:消費者廃業(2010年7月18日)
節子
節子がいなくなってから、何かが欲しいということがほとんどなくなってしまいました。
考えてみると、この3年、何も買っていないように思います。
ともかく「欲しい」と思うことがなくなったのです。
娘に話したら、昔から書籍以外は自分では何も買わなかったでしょう、といわれてしまいました。
たしかにそうですが、それでも新しい電子機器が出ると急いで買ったり、フクロウの置物を見つけると購入したりしたものです。
それがいつの頃からか、モノを買うことがほとんどなくなったのですが、それでも節子がいる頃は、テレビで何か見ると、ついつい欲しくなって節子に「あれ買っておいてくれない」と言っていたものです。
節子は、時に聞き流していたと思いますが、それなりに買っておいてくれました。

今はそれもいえる人がなくなってしまいましたので、消費者であることをやめてしまったような気がします。
時々、着るものがなくなると、娘が一緒にお店に行って買ってくれます。

書籍もおそらく激減しています。
以前はいつか読もうというものも含めて大量に買っていましたが、最近は読む本しか買いませんから、せいぜい月に10冊程度です。
物欲がなくなったというよりも、モノの意味がなくなったような感じです。
モノを買ったり持ったりする意味が消えてしまったのです。

食べ物もそうです。
お洒落なレストランに行って、美味しい料理を楽しもうなどという気分もなくなりました。
コンサートも舞台も、行こうという気にはなりません。
もともとそういう嗜好は弱かったのですが、最近はほぼ皆無になりました。
意外なのは、かつてあれほど行きたがっていた古代世界の遺跡さえもが、いまやそれほど魅力的ではないのです。

これまで私にとって価値を持っていた、さまざまなものが、なぜか今や色あせてしまったのです。
もしかしたら、私もまた、すでに生命を終えてしまったのかもしれません。
そう考えると奇妙にすっきりすることがあります。
節子がいない人生は、本当に頼りなく、実体を実感できないのです。
ですから、欲しいものなどなくなります。
色即是空ということが、少しずつ実感できてくるような気がします。
空即是色には、まだ少し距離がありますが。

■1051:人の愚かさ(2010年7月19日)
節子
韓国に引っ越した佐々木さんが我孫子にきてくれましたので、エヴィーバ!でお昼をご一緒しました。
エヴィーバ!は、ジュンのパートナーのやっているイタリアンレストランです。
私たちの文化にとても親近性のあるお店です。
節子がいたら、きっと大のファンになったことでしょう。
残念ながら、節子はそのパスタを味わうチャンスがありませんでした。
とてもとても残念です。

佐々木さんはもうすっかりお元気です。
とてもうれしいことです。
節子の手術の後、佐々木さんはご夫妻で来てくれました。
そしていろいろとアドバイスしてくれました。
そのアドバイスを、私は十分に活かせなかったことは間違いありません。

私たちは、たくさんの人から気遣っていただきました。
しかし、事の最中には、なかなかそうしたアドバイスを活かせないものです。
私がもう少ししっかりしていたら、もっとアドバイスを活かせたのではないかと、ついつい思うこともあるのです。
アドバイスが活かせないのは、いうまでもなく、私自身の愚かさの故です。
人の愚かさは、体験してみないとなかなかわからないものなのです。
自分が思っている以上に、人は愚かな存在です。
自慢ではありませんが、節子のおかげで、私は自らの愚かさをかなり自覚できたように思います

愚かさに気づくのは、いつも遅すぎるものであることもわかってきました。
それはそうでしょう。
最初からわかっていたら、もう少し賢く対応できるはずです。
そうしたら、自らの愚かしさに気づくこともないかもしれない。
愚かさと賢さは、実は同じことなのかもしれません。
ですから、自らの愚かさを嘆くことはありません。
しかし、嘆きたくなることはあるものです。

それにしても今日は酷暑でした。
にもかかわらず、我孫子にまで足を延ばしてくれた佐々木さんには感謝です。
これもしかし、節子のおかげかもしれません。
人の縁は、とても不思議です。
節子のおかげで、その不思議さに気づかせてもらえています。

佐々木さんが、節子に菊花茶を供えてくれました。

■1052:地デジ対応のテレビがやってきました(2010年7月20日)
節子
一大事件です。
ついにわが家も地デジ化されてしまいました。
といっても、まだテレビが納入されただけですが。

先日、ユカと一緒にショッピングモールに買物に行ったついでに、ヤマダ電機に何気なく立ち寄りました。
そしてテレビのコーナーに立ち寄りました。
やはりデジタル画面はきれいだなと感心していたら、お店の人が寄ってきて、説明を始めました。
その人は、どことなく頼りなく、買わせようなどという気配はまったく感じさせません。
こちらも買う気はなかったのですが、少し話しているうちに、なぜかまだ早いと言っていた娘が買う気になってきました。
一番の理由は、その人の頼りなさでした。
幸いにお金も持っていなかったので買わずに帰宅しましたが、帰宅後、なぜか買うことになってしまいました。
それで翌日、そのお店に行ったら、その頼りない人は接客中でした。
そのお客さんがなかなか終わりません。
いつもなら買うのをやめて帰るのですが、何しろその人は頼りなさ気で、売ろうとしない人なのです。
売ろうとしないのなら、買わなければいけません。
売る気満々の別の人が説明に近づいてきましたが、気長に待つことにしました。
最初に井戸を掘った人を大事にするのは、私の信条です。
最近は、そうでない人が多いですが、だからこそ私はそれをかたくなに守っています。
節子の信条もそうでした。
それにしてもなかなか終わりません。
信条を守るのは大変なのです。

ようやく終わりました。
その頼りなさ気の人のお薦め品を買うことにしました。
そうしたら、私たちが何も言わないのに少し安くしてくれました。
とても気分のいい買物でした。

そのテレビが今日、届いたのです。
操作が実に簡単です。
と思っていじっていたら突然映らなくなってしまいました。
で、勝手にどんどんいじっていたら、だんだんおかしくなりました。
ユカに勝手にやるなと怒られましたが、まあ、こうやって私はこれまでいろいろと壊してきたわけです。

ユカが電話して修理に来てもらおうということになったのですが、さらにいじっていたら、直りました。
まだデジタル回線は通じていないので、アナログでみているのですが、今までよりも大きな画面です。
明日は仕事をやめて、ボーンシリーズを観なければいけません。
このシリーズはもう10回以上観ているので、物語はすべて記憶していますが、大きな画面で見るとまた違うでしょう。

節子にも、この大画面を見せてやりたかったです。
テレビ嫌いの節子も、この画面であれば、喜んだでしょう。
あんまり自信はありませんが。
でかい画面を一人で観ていると、ちょっとさびしいです。

■1053:メダカの訃報(2010年7月21日)
節子
ホームページ(CWSコモンズ)の週間記録に書きましたが、湯島のメダカが元気すぎて、水槽から飛び出て干上がってしまいました。
そのことを知った人が、何とメーリングリストで報告してくれました。
そのメダカは、来る人によっては話題になっていたのです。

それを知った人から、メールが届きました。
それも2人から。
なんとまあ、果報者のメダカでしょうか。

自宅の補修で、家の周りが足場とネットで囲まれていたため、この1か月、庭の花木への水遣りがおろそかになっていました。
狭い庭なので、足場づくりや作業などでもかなり草木が痛めつけられました。
その工事も昨日で終わりました。
それで久しぶりに庭の整理ができました。
しかし、この数日の異常といえるほどの暑さもあって、
無残にもかなりの花木が傷められ、枯れてしまっていました。
誕生日に娘からもらったパピルスは無残な姿になっていました。
しかし、以前書いた、さつきの若芽はがんばってくれていました。
数年かかるでしょうが、復活してくれそうです。

生命のたくましさは、感動的です。
そのたくましさは、しかし、愛する人がいればこそ、なのです。
その象徴がさつきでした。
普通であれば、すべての枝が枯れてしまった状況を見たら諦めるのが普通です。
しかし、そのさつきには節子の思い出がこもっていました。
だから何としても守りたかったのです。

さつきは守れました。
しかし節子は守れなかった。
一番弱いのは、やはり人間かもしれません。
なぜ人間は弱いのか、最近その理由が自分としてはとても納得できてきました。
そして、その弱さこそが、人の豊かさを生み出したのだと奇妙に納得できるようになってきました。

いま湯島のオフィスでは、子メダカが元気に泳ぎまわっています。
生命は世代を超えながら育っていきます。

■1054:誠実な生き方(2010年7月22日)
節子
最近知り合った若い女性からメールが来ました。
そこに、用件とは別にこんなことが書かれていました。

わたし自身、がんの前と後では価値観が大きく変わりました。
がんを通して、私にもいつか終わりがくることがあるんだということ、
それまでの間に自分が与えられた役割を果たして
みんなが待っている宇宙に還ることができれば、と思うようになりました。
(すこしは長期的に考えられるようになった、ということですね)

幸いに彼女のがんは早期発見で完治したのですが、生き方が変わったようです。
彼女に返信のメールを書きながら、私が節子から教えてもらったことを改めて思い出しました。
そこで、最近、節子が教えてくれた「誠実な生き方」を少し忘れていることに気づきました。
その反省も込めて、今日はその人への返信の一部を挽歌にしようと思います。

ご存知かもしれませんが、私は3年ほど前に妻をがんで見送りました。
私にとっては、生きる意味を与えてくれていた、かけがえのない人でした。
妻は発見が遅れたために、残念ながら奇跡は起こりませんでした。
妻から教えられたことは山のようにありますが、最大の教えは「誠実に生きること」でした。
私たちは、それまでも一応誠実に生きてきたつもりですが、その誠実さが変わったというべきかもしれません。
他者に誠実に、ではなく、自己に誠実に、と言うほうがいいかもしれません。

余命を感じた妻の生き方は、実に誠実で、1日1日、瞬間瞬間をていねいに大切に過ごしていました。
今から思えば、私はそれにあまり対応できていなかったように思いますが、妻は一言も不満を言いませんでした。
不満を言うくらいの暇があれば、もっと誠実に自らを生きたいと思っていたのでしょう。
誠実に生きるということは、他者に対してではなく、自らに対してなのだと、妻から教えられたのです。
自らに誠実に生きていると、もしかしたら「最後」は来ないのかもしれません。

最近、ちょっと自堕落な生き方になりだしているような気がしていますが、節子の教えを思い出して、また明日からは誠実に生きようと思います。

まだ私自身の役割はあるでしょうから。

■1055:暑さで融けそうです(2010年7月23日)
節子
尋常でない暑さです。
首都圏では気温が1度上がると、電力消費量が170万キロワット増加するそうです。
昨日、お会いした東電の人が教えてくれました。

こんな暑い時はあまり外出したくないのですが、最近なぜか外出が多いのです。
今日も約束があってでかけましたが、人身事故で電車が止まっていたため、電車が大混雑でした。
事務所には何とか約束前に到着しましたが(昨日は私の到着前に来客が到着し、オフィスに入れずにいたため、今日はかなり早目に出たおかげです)、着いた途端に疲れがドッとでてきました。
そういえば、昨夜はあまりの暑さに眠れなかったのです。
来客のお二人と一緒に食事に出ましたが、あまりの暑さにへこたれてしまいました。

それにしても連日の暑さは異常です。
その暑さのせいか、自宅の玄関の水槽のメダカも1匹、死んでしまいました。
私自身も熱中症にでもなると大変なので、明日は自宅で休むことにしました。

節子が闘病した夏も暑かったですが、今年はそれ以上かもしれません。
挽歌もなかなかかけないほどです。
この暑さから解放された節子がうらやましいほどです。

節子
そちらは涼しいでしょうね。
こちらに冷気を送り込んでくれませんか。

■1055:偶然と必然(2010年7月23日)
微視的な次元での偶然による擾乱が、巨視的な自然の選択を経て必然のものとなる。

こう書いたのは、1965年度ノーベル生理学医学賞を受賞したフランスの分子生物学者ジャック・モノーです。
最近、40年前に出た、モノーの「偶然と必然」を読み直しました。
当時、話題になった書物です。
ずっと心に残った本の1冊だったのですが、40年ぶりに読み直してみて、いったいどこに感動したのだろうかと不思議に思うほど退屈でした。
生物学の世界が、この間、大きく進歩したためかもしれません。

しかし、最初に読んだ時に印象に残った文章にマーカーでチェックされていたのですが、その文章のいくつかは、いまも心に響きました。
次の文章などは、節子との別れを体験したいまのほうが、むしろ心底に響きます。

宇宙のなかで起こりうるあらゆる出来事の中で、ある特定の出来事が生ずる先験的な確率はゼロに近い。ところが、宇宙は実在しており、その中で確率が(それが起こる以前には)ほとんどゼロであったある出来事も、たしかに起こるのである。

これはもちろん、生命の誕生、そして人類への進化について語っているのですが、私にとっては、節子との出会い、そして節子のいない世界で生きることが言及されているように感じます。
私と節子と出会う可能性など、あるはずもなかった。
にもかかわらず、私たちは出会いました。
その出会いは、私を残して節子が逝ってしまう出来事につながっていたのです。
出会いが偶然であれば、別れは必然です。
しかし、節子がいなくなってから、必然の出会いと偶然の別れのように思えるようになりました。

モノーは、こうも書いています。

運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない。

私がこの本を読んだのは1973年ですから、節子と結婚して5年ほどした頃です。
この文章にもマーカーが引かれていましたが、おそらく当時はこの文章の意味を私は理解していなかっただろうと思います。
もししっかりと理解していたら、節子との関係はもっと変わっていたはずです。
別れは回避できたはずです。

それも含めて、私たちは必然の中で多くの偶然を活かしきれなかった。
久しぶりに読んだ「偶然と必然」から得たことは、そうした反省でした。
この過ちを繰り返さないようにしなければいけません。

それにしても、私にとって、節子は偶然だったのか、必然だったのか。
何を読んでも、何を見ても、いきつく問題はいつも同じです。
答えはわかってはいるのですが、考え続けたい問題でもあるのです。

■1057:健気な朝顔(2010年7月26日)
節子
暑さが続いています。
昨日は挽歌を書き損なってしまいました。
でも、暑い中をお墓参りにも行きましたし、節子との縁は昨日もいろいろありました。

この時期は、私には辛い時期です。
暑さのためではありません。
悔いのためです。
悔いについて書くのはますます辛いので書きません。
今日は明るいニュースを書きます。

家の補修工事や異常の暑さ、それに加えて水やりの手抜きのために、今年はわが家の花は壊滅状態です。
とりわけ2階のベランダのプランター類は全滅で、あの根本さんの朝顔も跡形もないほどに枯れてしまっていました。
ところが、庭の整理をしていたら、思わぬところに朝顔が2本、花を咲かせているのを見つけたのです。
足場のためのネットや工事道具につぶされながらも、がんばっていたのです。
健気な朝顔です。
どんな苦境にも前向きの根本さんのようです。

そういえば、最近、根本さんから連絡がありません。
確認してみたら、根本さんのブログも更新されていません。
暑さでへこんでいないといいのですが。

■1058:若い節子と老いた節子の顔はなぜ一緒なのか(2010年7月27日)
節子
昨日、久しぶりに会った武井さんが15年ほど前の私の写真を持ってきました。
彼女が主催したシンポジウムで私が発言している時のものです。
あの頃はまだ、私もさまざまな場所でメッセージを発していました。
いろいろな人とも会いました。
その写真の時は、山谷えり子さんや羽仁進さんとご一緒でした。
羽仁さんの素朴さが心に残っていますが、ほかの事は完全に忘却のかなたです。
私はいったい何を語っていたのでしょうか。
記録が小冊子になっていますので、どこかにあるはずですが。

写真の話に戻します。
若い時の写真と老いた今の写真では、私の顔は明らかに違います。
しかし武井さんは変わっていないといいます。
そういえば、小学校の同窓生の顔を思い出す時、小学生の顔か今の顔か、どちらでしょうか。
いずれでもないような気がします。
皆さんも思い出してみてください。
思い出す顔には、若い時の顔も、今の顔も統合されています。
そんな気がします。

少なくとも私には、若い節子と老いた節子が、ひとつになって思い出されるのです。
私はいつも、写真と実物がかなり違って感じるのですが、その理由がここにあるのかもしれません。
人の記憶は実に不思議です。

■1059:湯島のオフィスを始めた頃の来客の写真(2010年7月27日)
一昨日、挽歌が抜けたので、日数調整のため、今日はもう一つ書きます。

昨夜、一緒だったもう一人は、節子もよく知っている編集者の藤原さんです。
実は、その藤原さんの20年近く前の写真が、偶然、昨日、出かける前に見つかったのです。
これもまた何という偶然でしょうか。

藤原さんだけではありません。
いろんな人の20年前の写真が出てきたのです。
湯島のオフィスをオープンしてから1年ほどの間、来訪した人の写真を全員撮っていたのです。
藤原さんの写真も、その一つです。
若い好青年の藤原さんが写っています。
当時、実にいろんな人たちがやってきましたが、その写真がたくさんあるのです。
こんな人もきたのかと、驚くような人もいます。
しかし湯島では、誰であろうとみんな同じ目線で話せるのが魅力でした。

その写真を見ていると、そこに一緒にいた節子のことも思い出します。
写真はみんなに返そうかと思いましたが、もうしばらくは残しておこうと思い直しました。
武井さんも、私の写真をくれませんでした。
佐藤さんに渡すとすぐ無くすでしょうというのです。
確かにそれは正しいですが、やはりもらっておけばよかったと思います。
若い頃の私の写真を、節子も見たいかもしれませんし。

そういえば、湯島をオープンした時の1週間の様子のビデオもあるはずです。
1週間に100人あまりの人が来てくれましたが、いつかそのビデオを見直そうといっていたのに、実現できませんでした。
今となっては、一人で見る気がしません。
私の人生は無駄が多いなと最近思っています。

■1060:佐藤さんは死をどう迎えるのですか?(2010年7月28日)
佐藤さんは死をどう迎えるのですか?

昨日、私よりも少し若いIMさんから突然訊ねられました。
一人住まいの高齢者の住まい方について話し合っていた時のことです。
IMさんは、私が信頼する人です。
節子は会っていないでしょうが、節子の葬儀にも来てくれました。
その時のIMさんの表情が、なぜかいまも心にはっきりと残っています。

私は、基本的に自宅で娘に看取られて、最後を迎えるつもりです、といったら、結局、娘さんに迷惑をかけるのですね、と言われてしまいました。
当然、と答えましたが、一緒にいた社会福祉士のOMさんからも、結局、妻や娘なんですよね、と言われてしまいました。

私は、生きるということは他者に迷惑をかけることであり、その意味での迷惑は恥じることもなければ避けることもない、と思っています。
ただ、その迷惑をしっかりと受け止めてもらうためには、日頃から、その人たちからの迷惑を気持ちよく受け止めておかねばならないと考えています。
それが、私が考える「支え合うつながり」であり、「重荷を背負い合う生き方」です。
人のつながりが切れたために、そして社会が壊れてきたために、人の死に方が問題になっているような気がします。
よく、生き方を考えるとは死に方を考えることだという人がいますが、発想が反対です。
しっかり生きていれば、死に方など考える必要はないのです。
節子を見送ってから、そのことに確信を持っています。
「死に方」を口にする医師の人間性を、私は認めることはできません。

佐藤さんは、ピンピンコロリを望んでいるのですね、とも言われました。
ピンピンコロリという言葉を口にする人も少なくありませんが、その言葉にはとても抵抗があります。
生命はそんなに軽いものではありません。
私はもっと誠実に生きるつもりです。
ピンピンコロリなど、口に出すのさえはばかれるほど、私は望んでいません。

生まれるのは自分で決断できませんでしたが、死の時期は自分で決めたいと思います。
自殺という意味ではありませんが、自分の生死は自らの意思でかなり管理できると思っているのです。

節子は誠実に生きました。
だから迷惑を受けたなどと私たち家族は誰も思ってはいません。
私も誠実に生きていますから、どんなに迷惑を与えようが、娘たちはきっと迷惑などとは思わないでしょう。
それくらいの自信がもてないとしたら、それはどこかで生き方が間違っているのです。

とまあ、私はそう考えていますが、娘たちはどう考えているでしょうか。
しかし、生きるということは、そういうことなのです。
そうした基本的なことがおろそかにされているような気がしてなりません。
もっと他者と迷惑をかけあいながら生きていく社会を回復したいものです。

■1061:確かめない方がいいこともあります(2010年7月29日)
節子
大宰府の加野さんから節子へとぶどうが贈られてきました。
それで昨日、電話してみたのですが、ご不在でした。
もしかしたら、娘さんに会いに行っているのかもしれないと思いました。
今朝、改めて電話してみました。
やはりそうでした。

加野さんの娘の寿恵さんは、節子よりちょっと早く彼岸に旅立ちました。
しかし、いまも毎月、加野さんは寿恵さんと話に行っているのです。
場所は、私も連れて行ってもらった篠栗の大日寺です。
そこでの話は以前書きました。

実はその時にポケットにしのばせていったレコーダーの録音をまだ聴いていません。
すぐ目の前のデスクに、そのレコーダーはあるのですが、聴く気になれないままに1年以上が経過しました。
電池がなくなって、もう消去されてしまっているかもしれません。

この種のことはこれまでも何回かありました。
世の中には、確かめたいようで確かめない方がいいこともあるのです。

前世の友人から手紙が届いたことは以前書きました。
そこに、花巻の小学校の校庭の隅にある小屋を訪ねると前世を思い出すはずですと書かれていました。
その話をある人に話したら、なぜすぐ行かないのかといわれました。
その人も、実はダライラマの生まれ変わりだと自称していましたが。
一度、訊ねようか思ったことがありますが、やはりやめました。
思い出したら、何が変わるのでしょうか。
それに、思い出さなかったら、その手紙の書き手への疑念が発生するかもしれません。
そんなことを思うこと自体、その人のことを信じていないのではないかと言われそうですが、信じていたら、確認に行く必要もありません。
要は、行くべき時が来たら自然と足が向くだろうということです。
自然に任せて生きるのが、いちばんいいのです。
それがすべてを信ずるということでもあります。

今回、加野さんからは節子の話は出ませんでしたが、元気そうな声で安心しました、奥さんが後押ししてくれているのですね、といわれました。
加野さんはたぶんもう80代半ばですが、お元気です。
おそらく彼岸からたくさんのエネルギーをもらっているのです。

今年はまた会いに行こうかと思います。

■1062:「萌える季節」が壁からなくなってしまいました(2010年7月30日)
節子
オフィスにかけてあった、藤田不美夫さんの版画「萌える季節」を先日うっかり壁から落としてしまい、額のガラスを割ってしまいました。

大きいので、そう簡単に持ち帰れずに、はずしたままになっています。
今日、オフィスで何となくぼんやりしていて、何か雰囲気が違うなと思って、放置していたことに気づきました。

この版画は、節子が気にいって買ってきてくれたものです。
私もとても好きで、壁にその額がかかっているだけでホッとした気分になるのです。

湯島のオフィスには他にもいくつかの小さなものがかかっていますが、そのひとつひとつに思い出があります。
ギリシア関係のものが2つあります。
ひとつはアテネのアクロポリスのスケッチです。
節子とアテネに行った時に買ってきたお土産品なのですが、私たちにはそれなりに愛着のあるものです。
もうひとつはエーゲ海のポロス島を描いたタペストリーです。
ギリシア愛好者でつくったパウサニアス・ジャパンのメンバーが旅行のお土産に買ってきてくれたものです。
ポロス島は私たちも行きましたが、いろんな思い出があります。

もう1枚、小さな額があります。
一時期日本でも人気が高まったことのあるオーストラリアのケン・ドーンのみにポスターです。
とてもユーモラスなもので、私たちの気に入っていたものです。

湯島をオープンした時、いろんな人からインテリをもらいましたが、結局、定着したのはこの4枚でした。
節子がいなくなってしまったので、もう変わることはないでしょう。

そういえば、もう1枚、あります。
ジュンが描いた「ノースモーク」ポスターです。
これを見たある人が、ぜひ自分のオフィスにもこのポスターを張りたいと注文してくれたこともあります。

湯島に一人でいると、それらの絵が話しかけてくるようです。
「萌える季節」をはやくガラスを入れて、掛けなおさなければいけません、
そんなことまで自分でやらなければいけなくなりました。
節子がいないと面倒なことが多いです。

■1063:伴侶を亡くして世界が変わったってどういう意味か(2010年7月31日)
弟と親を最近見送りましたが、私には何も変化がなかったです。
やはり人間は一人なのです。

昨日、やってきた初対面の人がそう話しました。
いま73歳の男性です。
名刺には「人間研究会」とあります。

私の場合は妻を亡くして、世界がまったく変わりました、と応えました。
そうしたら、どう変わったかと質問されました。
何しろ、その人の関心は「人間研究」ですから、抽象的な答では満足してもらえそうもありません。

どう変わったか。
変わったことは間違いないのですが、説明は難しい。
特に具体的な行動の変化と言われると、さらに難しい。
いろいろと説明しましたが、なかなか伝えられません。
夜、目が覚めるというような日常的な変化を話しても、わかってはもらえないでしょう。
物事の意味合いが変わってしまったなどというのは、さらに伝わらないでしょう。
何しろ相手は人間研究かですから、抽象的な説明では納得してもらえません。

それまでは楽しかったことが楽しくなくなった(つまり楽しいという感覚を失った)とか、モノがほしくなくなったとか、旅行に行く気がしなくなったとか、世界を広げようという気が無くなったとか、その人と2時間以上話しながら、何となくわかってもらえたような気がします。

妻がいなくなった時点で、時間が止まったような気がする、というようなことも話したと思いますが、それがもしかしたら、一番当たっているかもしれません。
時間が止まるということは、なにか新しいことができなくなるということでもあります。
世界を広げるということも、静止した時間の世界ではありえないことです。
かといって、過去を思い出すというようなことも起こりえないのです。
何しろ時間は一つになってしまったのですから。

やはりこんなことを他者に伝えることはできそうもありません。
しかし、もしかしたら、これこそが彼岸の時間なのだというような気もしています。
時間が止まると、「死」という概念がなくなるのも、最近感じていることです。

■1064:宝物と雑草(2010年8月1日)
節子
今日も暑い日でした。
今日はジュンも来ていたので、全員で庭の整理をしました。
節子がいた頃には時々あった風景です。
先月までの家の補修工事のおかげで、今年のわが家の庭は花がほとんどないのですが、少しずつ手入れをしながら回復させています。
枯れたと思っていたサツキに続いて、これも完全に枯れたと思っていた名前のわからない小さいな木にもよく見ないとわからないほどの若芽が出てきました。
パピルスも復活しだしています。
節子が大事にしていたバラのいくつかはダメかもしれませんが、復活しそうなバラも少なくありません。
地植えのバラが2種類、小さな花ですが、咲いているのに気づきました。
草木の手入れをしていると、節子の名前が飛び交います。
これは節子が好きだった花だとか、節子がどこそこで買ってきた花だとか、ともかくわが家の花の多くは、どこかで節子とつながっているのです。
節子は山野草も好きでしたので、いくつかあるのですが、その多くは私と一緒に行った箱根や長野で買ってきたもののはずです。
残念ながら私にはどれがどこで買ったものかはわかりませんが、それらの山野草を見ていると、節子が選んでいる風景を思い出します。
私は気にいったら気楽に買えばいいのにと思うのですが、節子はいつもとても慎重に厳選していました。
ですから、私が見たら雑草のようなものも、節子にはとても大切な宝物だったのです。
しかし、今やどれがどれかわからないまま、まさに雑草的な扱いになってしまっています、
まあ、宝物などというのはそんなものでしょう。
当事者にとっては大きな価値があっても、他者にはその価値は理解されないでしょう。
価値をわかってくれる人がいてこそ、はじめて宝物なのです。

「愛する人」も、そんなものなのかもしれません。
節子は私に出会えて幸せだったのです。
なにしろ、節子の価値を私ほど高く感じた人は、絶対にほかにはいないでしょう。
それだけは自信があります。
にもかかわらず、どうして「枯らして」しまったのか。
どこかに間違いがあるような気がしています。
それが、私の最大の悔いなのです。

■1065:男が見ている世界と女が見ている世界(2010年8月2日)
節子
節子がいなくなってから、私には休みという概念がなくなりました。
一昨日書いたように、時が止まったのですから当然といえば当然のことなのですが。
でも一応、先週は夏休みにしようと思っていたのですが、なぜか先週はいろんな人から連絡があり、暑いなかを毎日都心に出てきていました。
今週こそは自宅でのんびりしたいものですが、どうなるかわかりません。

今日は先週約束していたのに、私が別用で延期してもらった若者の相談のために、湯島に出てきました。
その若者との約束は夕方なのですが、まあやることもないのでお昼過ぎに湯島に来ました。
こういう時に限って、誰からも連絡はなく、暇で仕方がありません。
それで久しぶりに湯島の掃除を始めました。

節子がいた時には節子が掃除をしてくれていましたから、私には掃除という概念がありません。
そのため、節子が来なくなってから4年近く、湯島のオフィスは掃除をしていないということです。
時々、来てくれた人が見るに見かねて掃除をしてくれているかもしれませんが(NPOの関係者に鍵もお渡しして使ってもらっているのです)、大きな掃除はできないでしょう。
一応、私が管理責任者ですから。
でも、その私が管理をしていないのです。
まあこう書くと、かなり汚れているオフィスと思われるかもしれませんが、そう不快感はないのです。
でもそれは私だけかもしれません。
今日はそう反省して掃除を始めました。
しかし30分もやったら飽きてしまいました。
やはり掃除は節子に頼みたいですね。
私には向いていません。

ところで、節子がいなくなってから来客に変化がありました。
コーヒーやお茶を飲んだ後、以前は節子が片付けて食器を洗ってくれていましたが、最近はお客さんがその役割を果たしてくれるのです。
これは驚きでした。
それも思ってもいない人が率先してやってくれるのです。
正確に言うと、やる人とやらない人がいますが、まさかと思うような人がやってくれるのです。
それは驚くべき発見です。

しかし、さらに面白いのは、施設管理責任者?の視点からはさまざまな発見があるのです。
節子はきっとこういう観察や体験のなかで、私の友人知人を正確に理解していたのだと最近わかってきました。
男が見ている世界と女が見ている世界はどうやら全く違っているのかもしれません。
節子が私の中に入ってきたおかげで、2つの世界が見え出してきたような気がします。

■1066:泰山(2010年8月3日)
節子
この季節はどうも元気が出ません。
暑さのせいかと思っていましたが、どうも違うようです。
この季節は、私にはただ暑いだけではないのです。

今年の8月3日は節子の35回目の月命日でした。
月命日にはできるだけ在宅にしようとしているのですが、この日も在宅していました。
しかし、なぜか挽歌が書けませんでした。
節子を忘れていたわけではなく、思い出すほどに書けなくなることもあるのです。

実は挽歌だけではなく書けずにいたら、2年ぶりにある人から時評をやめるなというメールをもらいました。
実はそれに続いて、挽歌の読者からもメールをもらいました。
やはりまた書き続けようと思います。

3日の日はジュン夫婦が来ていました。
節子が元気だった頃植えた庭のミモザが伸びすぎたので切ることにしました。
それもバサッと途中から切ることにしたのです。
残念ながらミモザは途中から切るともう芽がでないようです。
それで躊躇していたのですが、最近、植物の生命力の凄さを体験し、やってみようという気になりました、
私の思いに応えてくれるかもしれません。
といっても大きな樹なので、まずは枝おろしです。
それでジュン夫婦にも手伝ってもらったのです。
そしてその後はみんなでいろいろと作業をしました。
節子がいた頃はよくあった風景です。
わが家は、なんでもみんなで作業する文化だったのです。
節子はいなくなりましたが、強力な新メンバーが参加してくれたので、作業はとても楽になりました。
ジュンのパートナーの峰行さんは、節子の文化にとても合うタイプなので、わが家の文化にも違和感なく融合しています。

終わった後、みんなで食事に行くことにしました。
選んだのは天王台にある泰山という庶民的な中華料理屋です。
節子のお気にいりのお店でした。
節子と一緒だった頃は、なぜか定席がありましたが、今回は全く別の席でした。
メンバーが変わると席も変わるものなのです。
しかし相変わらず節子の名前はよく飛び交いました。

節子の姿はどこに行っても今なお私には感じられるのです。
節子がいなくなってからの初めての泰山は、スタッフが変わっていましたが、味は同じでした。

■1067:佐藤工務店(2010年8月4日)
続けて書きます。
みんなで作業したのは枝おろしだけではありません。
屋上のウッドデッキの防水塗装もみんなでしたのです。
昔を思い出すなといったら、ユカがベランダの塗装もしたね、といいました。
そうです。
なんと無謀なことにベランダの塗装まで家族4人でしたことがあるのです。
内装を家族でやるうちはあっても、外装までやる家族は少ないでしょう。
しかし節子はそういうのが好きでしたので、時々わが家はにわか工務店になったのです。

ベランダのペンキ塗りはかなり大変です。
脚立に乗ってベランダの裏塗りまでするのですから、かなりの重労働ですし、服装もすべてペンキだらけになります。
それに外ですから近所や道を通る人たちにもよく見えるのです。
さすがにこれは、その後だれももう1度やろうとは言いませんでした。

これに象徴されるように、わが家は生活上のことは出来るだけ自分たちでやるという文化だったのです。
お金を使いませんので、経済成長には寄与しませんが、家族の絆の成長には寄与します。
最近の言葉を使えば、ソーシャル・キャピタルの成長には寄与してきたのです。

こうした暮らしの延長に、今のわが家があります。
わが家の基本をつくってくれたのは節子です。
日常のとても小さなことのなかに、節子を思い出すことも少なくありません。
私の思いをとてもよく育ててくれた節子のおかげで、私は今なお節子に守られながら気持ちよく暮らせていけているのかもしれません。
お金がなくても、いやもしかしたら、ないほど、豊かな暮らしが実現できる可能性があると確信を持ち出したのは、間違いなく節子との暮らしの実践から生まれたのです。
この数年ほとんど収入がないのに、おそらく豊かな暮らしができているのは、節子のおかげなのです。

節子は山内一豊の妻と違って才媛には遠い存在でしたが、私には最高の知恵袋だったのです。

■1068:心を失う季節(2010年8月5日)
時評編に書いたのですが、「忙しい」と「暇」とは同じことだと気づきました。
残念ながら、私はこの数週間、暇で忙しい状況に陥っていました。
そのためか、時評も挽歌もなかなか書けずにいました。

暇と忙しいがなぜ同じなのかと思う人もいるでしょうが、時評で書きましたが、いずれも「心がない状況」だからです。
私がこの数週間、特にこの数日、このブログを書けなかったのはおそらく「心が弱まっていた」からでしょう。
この季節、この暑さ、そして近くの手賀沼の花火大会。
そうしたことが私の心身を包み込むようにして、心を止めてしまっているのかもしれません。
トリガーは「花火大会」だったのかもしれません。

近くに住む挽歌の読者の方からメールが来ました。
彼女も昨年、夫を見送ったのです。
私はまだお目にかかったことはありません。

まもなく 手賀沼花火大会ですね 
毎夏 ご近所仲間と パーテイをしながら 花火を楽しみました 
昨年は中止で 内心ホッとしました 
私の気持を察して仲間たちは それぞれ行くところがあるから 花火パーテイは 今年もお休みね と気を遣ってくれました 
ありがたい仲間です

この文章を読んでハッと気がついたのです。
この季節は、私には心を失う季節なのだと。
暇で忙しかった理由がわかりました。
理由がわかれば、心は取り戻せます。
すべてではありませんが。

■1069:節子との思い出はいつも断章的に浮かんできます(2010年8月6日)
節子
久しぶりに市川智博さんが湯島に来ました。
節子もよく知っている市川覚峯さんの息子さんです。
節子と一緒に行った高野山で会った時にはまだ小学生でした。
節子は、それ以来、会っていませんが、とても素直な好青年に育っています。
彼と話しているうちに、節子といった高野山のことを思い出しました。

高野山で行を重ねてた市川覚峯さんが、21日の断食満行の日に私たちにぜひ来てほしいと連絡があったのです。
高野山の宿坊でとまり、翌朝早く、真っ暗なお堂で覚峯さんに護摩を焚いてもらいました。
あまりにも真っ暗で、お寺で泊まったことのなかった私にとっては怖いほどでした。

それから覚峯さんに案内してもらい、奥の院まで歩きました。
覚峯さんは、円の行者が天空を走り回ったように滑るように先導してくれました。
智博さんも一緒でした。
節子にもきっと心に残る体験だったでしょう。

節子の訃報を聞いた覚峯夫妻はすぐにわが家に来てくれ、枕経をあげてくれました。
しかし、覚峯さんに誰が訃報を伝えてくれたのでしょうか。
その日はそんなことを考える余裕もありませんでしたが、
今から思うと不思議なことがたくさんありました。

高野山に節子と行ったのは桜の時期だったような気がするのですが、なぜかあまり現実感がありません。
アルバムを見たら季節はわかるのでしょうが、高野山に限らず、節子との共通の体験は不思議なほどに現実感がなくなっていることが多いのです。
そのくせ、誰かに会ったり、何かに体験したりすると、断章的な思いでが浮かんでくるのです。

節子がいなくなってからの節子との思い出は、明らかに変化してきています。
バラバラになってしまっているように思います。
思い出を貫く時間軸がなくなってしまっているのかもしれません。
思い出すことはすべて断片的。
そのくせ、実に生々しく感傷的なのです。
そしていつも節子は笑いながら私に声をかけています。
声は感じられますが、内容は伝わってこないのも、不思議なのですが。
節子との思い出は、ほかの記憶とはまったく違っているような気がします。

■1070:手賀沼の花火(2010年8月7日)
手賀沼の花火でした。
節子との思い出が強烈過ぎて、花火好きの私もとても複雑な気持ちでこの季節を向かえます。

そもそも今の家に転居した理由の一つは、花火会場が目の前だったからです。
このことは前にも書きました、
闘病中の花火のことは思い出そうにも思い出せないほど、私には辛い日でした。
もちろん節子の辛さは、その比ではなかったのですが。

今年も私は誰にも声をかけませんでした。
しかし本当は人が来てくれたほうが心は落ち着くのです。
幸いに今年はジュンが結婚したので、義母とその娘、息子さんたちが来てくれました。
ジュンの連れ合いは仕事の関係で来られないのが残念ですが、来年はお店を閉めて来ると言ってくれています。
ユカの友だちも来てくれました。
私の兄夫婦も来てくれました。

来客がある時は張り切っておもてなしをする、それが節子の文化でした。
それは私の母の文化でもありました。
その文化はそれなりに伝わっていますので、昨日と今日は、私も娘たちと一緒に家の掃除から買い物まで分担しました。
もっとも最近、私は食べ物のおもてなしの文化にどうもなじめなくなってきてしまっているのです。
飽食の時代を生きるものとして、やはりその生き方に抗わなければいけないという、奇妙な思いが最近強くなっています。
だから湯島のオープンサロンも珈琲とクッキーだけにしてしまいましたし、参加者の持ち込みも歓迎しなくなっているのです。
つつましやかに飲食すれば、余った分は必ずどこかに回っていくはずです。
あまり論理的ではないのですが、まずはできるところから生き方を正していく、これも節子から学んだことです。

手賀沼花火は昨年は中止でしたので、2年ぶりでした。
来てくださった方たちはみんな喜んでくれました。

しかし、節子はいつもおもてなしに忙しく、ゆっくりとこの花火を見ることもなかったのではないか、そんなことを思うとやはり今年の花火も辛い花火ではありました。

いつか節子と2人だけで、お茶だけを飲みながら、屋上でゆっくりと花火を見たかったなあ、とつくづく思います。
今日はだれにも気づかれないように、節子の写真を屋上に置いておきました。
節子は花火を楽しんでくれたでしょうか。

■1071:生命には「愛」は不可欠(2010年8月8日)
節子
暑さのせいもあって、最近、花が少なくなっています。
今日は盛期を終えた胡蝶蘭とオレンジのユリだけです。
吉田さんからの花基金もあるので、花は欠かせないのですが、夏は難しいです。

庭の花も今年はとても少ないのです。
庭の献花台の周りも、少し寂しい感じです。
いつもは見事に咲き続けているノウセンカズラも、家の補修で枝が折れてしまい、ほとんど花をつけませんでした。
今日、娘に言われて気がついたのですが、挽歌でも書いたことのある夜香木も枯れてしまったかもしれません。
節子が悲しむ顔が思い出され、祈るような気持ちで水をやりました。
被害甚大ですが、これから秋に向けて少しずつ節子の庭を回復していければと思っています。

しかし、節子がいなくなってから、庭の花木ももしかしたら私と同じように元気を失ってしまっていたのかもしれません。
生命力を失えば、悪条件には勝てません。
水が不足しただけでも枯れてしまうのです。
生命には「愛」は不可欠です。
植物は動物以上に愛に敏感に反応するような気がします。
毎日手入れしていた節子がいなくなったことの影響が出ないはずがありません。

愛が不足していると、植物も人間も枯れやすくなります。
最近私が疲れやすいのは、節子の愛を実感できないからかもしれません。
元気になったり、生気を失ったり、相変わらず安定しない状況を漂っています。
大切なのは「愛される」ことではなく「愛する」ことだとわかってはいるのですが、愛する気力もなかなか出てこないのです。

節子は3年前の今頃、私の愛に満たされていたでしょうか。
愛が足りなかったのではないか、そう思うと心が痛くなります。
もっと私の愛が強ければ節子は彼岸にはいかなかったのではないか。
そう思うと動けなくなる自分がいます。

まずは庭の草花への愛からやり直そうと思います。

■1072:石と野草(2010年8月9日)
節子
ささえあいネットワーク事務局長の福山さんが上高地に行ってきたといって野沢菜漬けを持ってきてくれました。
そこにいくつかのおまけがついていました。
上高地の石と上高地の高山植物の本です。

節子は福山さんには会っていないでしょう。
にもかかわらず彼女は節子のことを知って、わが家まで献花に来てくれました。
節子とはかなり違うタイプでありながら、とても似ているところがあるのです。
たとえば、この上高地のおまけのお土産です。

わが家にも上高地の石と流木の破片があります。
高山植物の本もありますが、節子は野草が好きでした。
違法なのですが、時に道端の実生の花の芽をこっそり摘んでくることもありました。
こういう観光客が自然を荒らしていくわけですが、節子はその実生の芽を大切に育てましたから、ついつい私も見逃していました。
もっとも最近はきちんと販売しているところが多くなりましたから、違法行為をせずにすみました。
福山さんがそうした「違法行為」をしていたかどうかは定かではありませんが、おまけに持ってきたものがあまりに節子的なものだったので、笑ってしまいました。

石といえば、これもまた「違法」かもしれないのですが、私もまた同じような「盗み癖」がありました。
ペルーのパチャカマに行った時には遺跡の砂をこっそりともって来ましたし、エジプトやイラクに行った時も石の破片を持ち帰ってしまいました。
持ってきても整理するわけでもないので、今やもうほとんどはどこの石かわかりません。
節子はどんな遺跡に行っても、泥の塊だと言っていましたので、まったくその通りです。節子は遺跡の石や泥には興味を持ちませんでした。
節子の興味は、石そのものの形や色合いでした。
上高地であろうと湯河原の海岸であろうと、節子が選んだのは石そのものがもっている特徴でした。
ですから私とは思いはまったく違います。
その節子の石も今や庭などに散在してしまっています。
それについて話し合う相手がいなくなってしまったからです。

自然のものは、結局は自然に還っていく。
私も、そうやって自然に還っていくのでしょう。
そう思うと、心が安らぎます。

■1073:もっとましな夫、妻がいればよかったと思ったことはありますか?(2010年8月10日)
節子
昨日、ジュンが小学4年の時の日記を見つけてきました。
そこにはかなり「ひどい父親像」が書かれていました。
いやはや、困ったものです。
家の親は子どもとちっとも遊んでくれん、と書いてありました。
そんなはずはなかったのですが、そういう時期もあったのかもしれません。

ジュンの両親(つまり私たち夫婦です)に対するアンケート調査結果も出ていました。
そこにこんな質問がありました。

「もっとましな夫、妻がいればよかったと思ったことはありますか?」

困った子供です。
答は、私は「いいえ」なのですが、何と節子の答えは「はい」なのです。
いやはや、節子は私に不満だったようです。
困った女房です。
もっとも理想の夫の質問には、節子は二谷英明と私の名前を書いていますが。

この時はまだ私たち夫婦は40前後だったでしょうか。
当時の私はおそらくあまり良い夫でも良い父親でもなかったのかもしれません。
しかし、私の考えのせいで、わが家の親子は友達関係を目指していました。
その弊害が、実はいま出ているのかもしれません。
ともかく「親の権威」がまったくないのです。

日記を読んでいるとわが家の当時の雰囲気がよくわかります。
節子の笑い顔も見えてきます。
読んでいて、改めて節子は良い女房だったと思います。
私の生き方を、いささかの違和感を持ちながらも、支えてくれていたのです。
しかし良い母親だったかどうかは、私が良い父親だったかどうかと同じく、疑問はあります。
私たちはあまりに夫婦関係を軸にしすぎていたのかもしれません。

ジュンの日記を読んでいて、いろいろと心が痛くなりました。
この日記の頃で、時間が止まっていたら、と勝手な思いを持ってしまいます。
ちなみに、節子が残したたくさんの日記を、私はまだ開けずにいます。

■1074:複雑なひがみ(2010年8月11日)
この挽歌を読んでくださっているYHさんは、1年前に伴侶を見送りました。
まだお会いしたことはないのですが、時々いただくメールの言葉に感ずることも少なくありません。
先週いただいたメールにあった次の文章もその一つです。

平均寿命が延びたと聞くと 腹立たしく その怒りがそのまま自分自身に向かってきます。

実は私も同じような思いを感ずることがあります。
なんとまあひがみっぽくなったのだろうと、われながら思いますが、YHさんが書いているように、なぜか怒りさえ感ずるのです。
愛する妻に、平均寿命さえも全うさせられなかったのかという敗北感を、平均寿命が延びたと喜んでいる世相が逆なでしてくるのです。

まわりの人が幸せになれば自分も幸せになるだろう、というのが私の信条ですし、これまでは実際にそうでした。
誰かの笑顔を見れば楽しくなるように、幸せは必ずつながっています。
だとしたら、平均寿命が伸びることは喜ばしいことです。
そんなことはよくわかっているのですが、なぜか素直に喜べない自分がいる。

まさか私がそんなことを考えているなどと思っている人はいないでしょう。
でも恥ずかしいことに、そうなのです。

寿命の話に限らず、こうした「ひがみ」状況に陥ることが、時にあります。
敗者のひがみなのかもしれません。
平均寿命を全うしないからといって敗者とはいえない、そう思うことそのものが「ひがみ」だといわれそうですが、「敗北」は節子ではなく、守ってやれなかった私の敗北なのです。
そういう意識を持つことは、節子への冒涜かもしれないという気持ちもあるのですが、どうしてもその敗北感から抜け出られないのです。
敗北感があると世界はひねくれて見えてきます。
そしてますます自己嫌悪が強まり、気が滅入っていく。
深い深い穴の底にいるような気分です。

この曲がってしまった「ひがみ根性」を正さなければいけません。
しかしこれまた不条理なことに、それを正してくれることができるのは、節子以外にはいないでしょう。
つまり彼岸に行くまでは直らないのです。
バカは死ななきゃ直らない、という言葉がありましたが、まさに今の自分はそうなのかもしれません。

■1075:一番辛い時期が一番幸せなのかもしれません(2010年8月12日)
昨日、言及したYHさんのメールには。その文章の前にこう書かれていました。

佐藤さんが 一年経ったころが一番辛かったと書いていらっしゃいましたが その通りですね 同年齢の楽しそうなご夫婦を目にすると 思わず ぼーとたたずんでしまいます  

そうなのです。
ただただ動けなくなる、そんな気分になることがあるのです。
私の場合、それは羨望でも嫉妬でもなく、ただただ悔いと自らへの怒りなのです。
そして、なぜ節子がとなりにいないのか、そんな思いが心身を凍らせます。

私の経験でいえば、節子を見送ってからしばらくは、周辺の風景は見えませんでした。
見えてきたのは半年くらい経ってからです。
そして、「同年齢の楽しそうなご夫婦」の姿も目に入ってきだしたのです。
「一年経ったころが一番辛かった」というのは、そういう意味です。
自分を取り戻し、節子がいなくなった世界と向き合わねばならなくなったのです。

ところがです。
自己防衛の本能が働くのでしょうか、私の場合は、そうした風景が次第にまた見えなくなってきました。
となりにいる節子の姿はもちろんまだ見えてはきませんが、「楽しそうなご夫婦」が不思議と私の視野からは消えています。
なぜでしょうか。
理由はわかりませんし、うまく説明はできません。
仲のよさそうなご夫妻に出会うことはもちろんあります。
しかし、不思議とそこに視線や思いが止まることはないのです。
言い換えれば、「楽しそうなご夫婦」を見ている自分がいないのです。
これは「意志」の問題ではなく、「心身の現実」です。
人の心身は個人の意識を超えていることを、節子がいなくなってから度々実感します。

ところで、YHさんは1年目、私は3年目です。
たしかに、YHさんには「一年経ったころが一番辛かった」と書きましたが、残念ながら、3年経ってもやはり辛さはそうは変わりません。
YHさん すみません。
しかし、人は辛さにも慣れるものです。
慣れたくはない、と思ってはいますが、慣れてしまう。
それがまた辛いわけです。

もしかしたら、一番辛い時期が一番幸せなのかもしれません。
そんな気がしてなりません。

■1076:悲しみとの同化(2010年8月13日)
節子
25年前の昨日は日航ジャンボ機墜落事故が起きた日でした。
この事故は私たちにも衝撃的で、いつもこの季節になると節子と話題にしていたことを思い出します。
そのせいか記憶がいまでも実に生々しく、もう四半世紀も経つのかという気がします。
私でもそうですから、遺族のみなさんはいまなお癒えることのない悲しみのなかにいることでしょう。

遺族のみなさんの会の事務局長の美谷島邦子さんが、最近出版した「御巣鷹山と生きる」(新潮社)のなかに書いている文章が、昨日の読売新聞の「よみうり寸評」に紹介されていました。

「人は悲しみに向き合い、悲しみと同化して、亡くなった人とともに生きていく」

悲しみとの同化、心にすっと入ってくる言葉です。
悲しみが感じられないほどに悲しい私のいまの心境に通じていると思いました。
ところが少したって気づいたのですが、同化している主体は何なのでしょうか。
この文章からいえば、「人」になります。
人は悲しみに向き合い、そして人は悲しみに同化する、とわけです。
私のことで言えば、私が悲しみに同化するというわけです。
となると、私の存在そのものが「悲しみ」ということになります。
そう考えるとちょっと違うような気もしてきます。

美谷島さんに異を唱えようと言うのではありません。
この美谷島さんの気持ちはよく理解できるのです。
だからこそ、最初にこの文章を読んだ時には素直に共感したのです。
でもなぜか、その言葉が気になってしまい、余計なことを考え出してしまったのです。
そして、この文章の「悲しみ」を「愛する故人」と読みかえるとすっきりするなと気がついたのです。
「亡くなった人」も、その意味は「愛する故人」ですから、つまりはこうです。

「人は愛する故人に向き合い、愛する故人と同化して、愛する故人とともに生きていく」

私の場合で言えば、こうなります。
「亡き」は不要ですが、意味を明確にするために加えてみました。

「私は亡き節子に向き合い、亡き節子と同化して、亡き節子とともに生きていく」

つまりこういうことです。
愛する人を失った人にとっては、「悲しみ」と「愛する人」とは同じものなのです。
同化するのは、私である前に、愛する人と悲しみなのです。
愛する人が「悲しみ」をすべて背負って、その象徴になるのです。
ですから、愛する人を失う悲しさを体験してしまうと、もはやそれ以上の「悲しさ」はなくなってしまいます。
不謹慎な言い方ですが、地球が破滅しても悲しくはないのです。

しかし、人生において、「悲しさ」がなくなってしまうほど悲しいことはありません。
ですから、悲しみが自分と同化してしまうと言ってもいいのかもしれません。
自分も愛するものも悲しみも、全てが一体化してしまう。
こう考えると実に今の私の心境にぴったり会います。

このように、ちょっとした「言葉」に反応してしまうようになったのも、節子がいなくなってからです。
いつか書いたような気がしますが、愛する人を見送ると、人は哲学者になるのです。

■1077:2人の節子(2010年8月13日)
節子
今日、2つ目の挽歌です。
夢を見たことをやはり書いておきたくなったのです。
節子が出てきて、私を元気にしてくれた夢を。
もっともその夢の内容をはっきりと覚えているわけではありません。
目が覚めた時に、そう感じただけなのです。
夢の中にはたしか2人の節子がいたような気もしますが、そもそも夢は現世の小賢しい論理で考えるべきではありません。
時空間が異質なのですから、そのままに受け止めなければいけません。

目が覚めている時に出会う節子は、いつも私を悲しませますが、夢の中に出てくる節子は私を元気にしてくれます。
なぜでしょうか。
夢の中では、「死」さえもが「さばさば」と語られることを体験しています。

今日は「お盆の入り」です。
朝、娘と節子と一緒にお墓に行き、節子を連れてきました。
「節子も一緒に?」、わかりにくい表現ですね。
わが家では、節子はお墓は本籍地で、現住所はわが家の仏壇と決めていますので、お墓参りもいつも節子の位牌に声をかけて、一緒に行くようにしています。
常識的ではないのですが、これは私の文化なのです。
ですから今日も、節子も一緒に節子を迎えに行くというわけです。
迎え火を焚いて、もう一人の節子を迎え入れました。

そういえば昨年もお盆の入りに節子の夢を見たのを思い出しました。
節子が2人もいるので、まあ私がいなくてもいいかと思い、これから湯島に出かけます。
もしかしたら、湯島にも3人目の節子がいるかもしれませんし。
彼岸に行った人は、神出鬼没で付き合うのが疲れます。はい。

■1078:心があたたまる花束(2010年8月14日)
節子
隣のMさんが立派な花束を届けてくれました。
受け取った娘に、「お母様にはとてもお世話になったのでお供えしてください」と言ってくれたそうです。
Mさんは昨年も一昨年も、立派な花束を供花してくださいました。
そして、いつも、「とてもお世話になったので」と言ってくださるのです。
もう3回忌も終わったのに、今年も立派な花束です。

節子は転居して2年ほどで発病しました。
発病後はあまり近隣との直接のお付き合いはなくなりました。
ですからMさんとの付き合いは決して長くはありません。
その上、Mさんは娘の世代に近いですから、付き合いも深かったわけではありません。
にもかかわらずMさんは毎年供花してくださいます。
そして、そのたびに私の脳裏に浮かぶ風景があります。

以前一度書きましたが、転居したての頃、帰宅したらMさんの小さなお子さんがわが家でちょこんと座っていた記憶があります。
Mさんのところが留守で鍵がかかっていて、帰宅した彼女が家に入れなかったのでわが家で休んでもらっていたのだそうです。
節子は「よけいなお世話」が好きだったのです。
まあ、私が子どもの頃はそんな風景はいくらでもありましたから、節子にとっても私にとっても、なんでもないことだったのですが、Mさんにはもしかしたら、そうしたことがうれしかったのかもしれません。

いまも節子には時々、花束が届きます。
こんなことを書くととても失礼なのですが、どんな花束よりも、私にはこのMさんの花束がうれしいです。
節子の、とてもあたたかな生き方を思い出させてくれるからです。
それになぜか毎年、その花束は、節子の雰囲気を感じさせてくれるのです。
あたたかくて、そのくせ時に辛らつで、でもあまりかしこくなく、ミスが多くて、でもいつも笑っていた節子。
その節子を思い出せる花束を見ているとやはり涙が出てきます。

私の脳裏に浮かぶ「ちょこんと座っていた女の子」もいまはもう大きくなってしまいました。
明日はお盆です。

■1079:節子だけが帰宅したお盆(2010年8月15日)
節子がせっかく此岸にもどってきたのに、暑いお盆でした。

お盆はそもそもは餓鬼道に落ちて苦しむ母親を救うために始まったといわれますが、最近では7代前までの祖先への思いを表すものになってきています。
といってもわが家の盆棚には節子しか居場所がありません。
節子の両親は滋賀の実家に、私の両親は兄の家に戻っているからです。
13日に迎え火でわが家に迎えたのも節子だけです。

お盆だけではなく、私が子どもの頃までの日本の行事の多くには世代をつなぐ時間軸がありました。
正月に始まる節句も、その基本は「家族」でした。
それがいつの間にか、「個人」単位へと変わっていきます。
祭がイベントになってしまってきたように、家族行事もまたイベント的になってきてしまったのかもしれません。
そういう動きに私はむしろ加担してきたような気がしますが、歳のせいか最近は逆に違和感を持ち出しています。
人は勝手なものです。

私の場合、7代先を思って話し合おうにも話す題材も話す相手もいません。
両親が戻っている兄の家にも行きましたが、どうもそういう話にはなりません。
どこかで私は生き方を間違っていたと、今日は痛感しました。
若い頃の私は、古来の伝統に否定的で反発していました。
いまはそのことをとても悔やんでいますが、その生き方を正してくれる節子はもういません。
それがとても残念です。

お盆は自らの生き方を問い直すいい機会なのかもしれません。
節子とそういう話ができないのがとても残念です。
節子がもう少し長く居てくれたら、私の生き方はもう少しまともになっていたと思うのですが。

■1080:送り火の後のさびしさ(2010年8月16日)
お盆で帰宅していた節子をみんなでまた送りました。
ジュン夫妻も来てくれました。
ジュンのパートナーの峰行さんは、これまであまり法事などに出たことがないので、積極的にこうした行事に参加したいといってくれています。
節子と結婚した頃の私と少し似ています。
私も実際の仏事には疎かったのですが、節子の実家での法事で集まった人たちがみんなで読経するのを目の当たりにして、興味を引かれたのです。
そして、節子からいろいろと教わりました。
もっとも「書籍論」的には私のほうが詳しかったのですが、書籍上の知識が具体的な現実につながることで、お互いに学びあえたのです。

そんなこともあり、私も一応は少しだけ仏事への知識もあるのですが、そのわずかばかりの知識を少しずつ披瀝しているわけです。
もっとも私の流儀は、きわめて私的なのです。
仏壇やお墓の前でも手をたたきます。
節子は最初嫌がっていましたが、それが私の流儀であることを認めて、黙認してくれるようになりました。
ですから私が伝授するといささか危ういのですが、その危うさも含めて伝えるようにしています。

夕方、お寺に送り火に行ったのですが、いつもになく大勢の人がいたような気がします。
この文化はまだきちんと残っているなとうれしく思いました。

帰宅して精霊棚を片付けました。
なぜか急にさびしさが襲ってきました。
不思議です。
節子はやはりわが家に常在しているのではなく、彼岸にいるのでしょうか。
それにしても、このさびしさはいったい何なのか。
昨年までは体験したことのない気持ちです。
お盆時にはよく節子の実家に帰省していましたが、その頃の風景もなぜか思い出されるのです。
節子がいるうちに思い出さなかったのに、なぜ送り火の後にそれが思い出されるのでしょうか。
いなくなってようやくその大切さに気づくという愚かしさは、今も直っていないようです。

■1081:暑さ寒さも分かち合える(2010年8月17日)
節子
融けるほどの暑さといっても過言ではないほどの暑さです。
私たちの寝室には、節子も知っているように、クーラーはありません。
さすがに暑いので、昨夜は私の嫌いな扇風機を持ち込んでかけつづけていましたが、あまり効果はありません。
これほどの暑さを、私は体験したことがないような気がします。

寒さもそうですが、暑さも一人でしのぐのはつらいものです。
節子が一緒の時には、暑さも寒さも、それぞれに楽しい体験にすることもできました。
そのためか、こんな暑さは記憶がないのです。
一人住まいにはクーラーは必要かもしれません。

人生の苦楽は伴侶がいればこそ分かち合えるものだということが、こんなことからもわかります。
苦楽はともかく、暑さ寒さも分かち合えるのかと思う人がいるかもしれません。
私の体験では、分かち合えるのです。
寒さはともかく暑さもか、としつこく疑問に思う人がいるかもしれません。
私は確信を持ってそうだと言えます。
どうやって、という質問への答えは簡単です。
「暑くて眠れないよ」といえばいいだけなのです。
そして眠らなければいいのです。
「暑さ」を共有する人がいるだけで、人は暑さを克服できるのです。
嘘だと思ったら、試してみてください。
効果がなければ、それはみなさんの夫婦仲がよくないためでしょう。
暑さ対策よりも夫婦対策を考えたほうがいいでしょう。

残念ながら、今の私には暑さを分かち合う節子はいません。
どうしたものでしょうか。
部屋の外のベランダに水をまいてみました。
あんまり効果はなさそうです。

娘たちは、クーラーのある1階で寝たらと言います。
でもそれもまた億劫です。
ここはやはりどんなに暑くても、節子との寝室で眠ることにしましょう。
節子、もし暇だったら、暑気払いに、幽霊にでもなって出てきてくれませんか。
その冷気で寝室を冷やしてもらえるとうれしいです。

さて今夜は眠れるでしょうか。
いささか不安ではあります。

■1082:愛するとはどういうことか1(2010年8月18日)
節子
いまハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」をテーマにした講義が話題になっています。
ハーバード大学史上最多の履修者を出した講義だそうです。
今年の春にNHKのテレビでそれが放映されて多くの人が見たようです。
私は見落としましたが、幸いに今週再放送をしているため、毎日、見ています。

講義の内容それ自体は大学の講義ですから、そう示唆に富んでいるわけではありません。
むしろ退屈と言うべきかも知れません。
しかし、講義での教授と学生のやりとりは実に面白いのです。
節子がいたらきっと私と一緒にみたはずです。
そしてそこからいろいろと議論が始まったかもしれません。

今日、挽歌で取り上げたのは、そうしたことでも、またその内容に関することでもありません。
「愛する」ということの意味についてです。
今日の講義で語られた「愛」は、愛国心でした。
愛国心そのものは、悩ましいテーマですが、私は明快な考えを持っています。
それに関しては時評編で何回か書きました。
今回書こうと思ったことは、「愛とは求心的なものか、遠心的なものか」ということです。
そんなことがサンデルの講義で語られていたわけではありませんが、テレビを見ていて急にその問題が頭に浮かんできたのです。
求心・遠心というよりも、排他的か包摂的かといったほうがいいかもしれません。
何かを、あるいは誰かを愛することは、そのほかのものを排他することかどうかということです。
もしそうであれば、愛することは憎むことの反面ということにあります。
このテーマは、以前一度書こうとしてやめていました。
少しこの問題を考えてみようと思います。
暑さでいささか思考が途絶えていますので、少し脳を活性化しなければいけません、

■1083:家族が欠けると何かが変わります(2010年8月19日)
節子
新潟に来ています。
今日から2日間、信濃川のダムを見て回る予定です。
新潟水辺の会主催のイベントツアーなのですが、そのNPOの顧問をさせてもらっている関係で声をかけてもらいました。
自然をめぐるツアーにはまだ少し抵抗はあるのですが、そろそろそうした心境からも抜け出なければいけません。
今日は朝6時40分新潟駅集合なので、昨夜から新潟に来ています。
そんなわけで今朝は6時前に起床しました。

昨夜は上野を午後5時前の新幹線に乗ったのですが、乗る頃から空に雲が増えだしました。
沿線もずっと雲が多く、車窓からの風景がなぜかとてもさびしい感じでした。
こんなことを書くとまた感傷的だと笑われそうですが、実にしんみりしてしまいました。
やはり一人での新幹線は、いろんなことを思い出してしまい、元気が萎えます。
仕事の関係で新幹線にはよく乗りましたが、思い出すのはなぜか節子と乗った旅行のことです。
隣に節子がいないのが、やはり心に堪えます。

昨夜は新潟にいる友人と一緒でした。
その人も、私と同じように家族の別れを体験した人です。
家族が欠けることは心に深く残ります。
それは理屈ではありません。
意識の世界でさえないのかもしれません。
ともかく何かが変わるのです。
そのことを体験すると同じような体験をした人のことが無性に気になるのです。
そんなわけで、ずっと彼のことが気になっていたのですが、久しぶりにゆっくり話ができました。
とても元気でした。
おかげで私も元気をもらえた気がします。
美味しいお寿司までご馳走になってしまいました。 

そろそろ出発です。
自然を歩くと節子のことをいろいろ思い出すでしょう。
それが少し不安ですが、まあ歩いていれば元気が出てくるでしょう。

■1084:挽歌を書けない日(2010年8月21日)
節子
昨日は時間がなくて挽歌が書けませんでした。
今日は時間があったのですが挽歌が書けませんでした。
2日つづけて抜けるのは避けたいので、書いておこうと思います。

昨日と一昨日、長野をバスで回りました。
節子と行ったバスツアーで見た風景と重なる風景を何回も見ました。
それがどうも挽歌を書く気力を萎えさせてしまったようです。

挽歌を書くことで、思いを発散させ、気を鎮めることが出来ます。
それが、私がこの挽歌を書き続けている一番の理由です。
しかし、書き出すといろいろなことが頭に浮かんできて、とまらなくなることがあります。
時に抜けられないほどの奈落へと引き込まれることもあるのです。
自分の不甲斐なさ、自分の愚かさ、自分の身勝手さが、身の置き所もないほどに重く圧しかかってくるのです。
たぶん経験したことのある人はわかってもらえるでしょう。

それを節子が望んでいない事は百も承知です。
しかしだからこそ、節子がいとおしく、自らに嫌悪を感じます。
そうした状況にはいるとおそろしいほどに気は萎えていきます。

昨日までの2日間は観光旅行ではなく、NPOが主催した真面目な視察旅行でした。
暑い中をハードなスケジュールをこなしてきたのです。
しかし長野をバスで回ると節子との思い出がどうしてもでてくるのです。
それが無意識に心身に積み重なったのでしょうか。
最後には夕陽まで出てきました。
きれいな夕陽だとみんなが声に出していました。
私には夕陽はまだタブーです。

挽歌を書き出したら崩れそうなほど、今朝は気が弱まっていました。
それが挽歌を書こうという気になれなかった理由です。
まあこういう日もあるのです。
1日を過ごして、少し気は鎮まりました。
挽歌を書いて気が鎮まる日もあれば、書かないで気が鎮まる日もある。
人は理屈では動かないものです。

明日は元気に目覚めたいと思います。

■1085:人はお互いに心配しあう存在(2010年8月22日)
節子
北九州市の松尾さんから久しぶりに電話がありました。
私が仕事を再開したことを知って喜んでくださいました。
どうやらいろいろな人に心配をかけているようです。

松尾さんは節子の仲良しの一人です。
以前一緒にヨーロッパ旅行に行った4人組の一人なのです。
みんな全国に散らばっているのですが、とても仲が良く、家族単位でお付き合いさせてもらっていました。

その松尾さんから、仕事が再開できてよかったですね、といわれました。
節子がいなくなってからの私は、どうも皆さんにとって心配な存在だったのかもしれません。
昨年、テレビのニュースでも私を見て、元気そうだったので安心したとも言ってくれました。
自分では気がつきませんが、こうしてみんなに心配されているのです。

これは決して私だけのことではありません。
人はお互いに心配しあう存在なのです。
そのことに気づけば、「無縁社会」などという言葉を使う気にはならないはずです。
無縁社会は私たちが勝手につくりあげた幻想でしかありません。
しかし、言葉は逆に現実を育ててしまいかねません。
この頃、改めてそう感じます。

節子は松尾さんに、「修さんはナスが大好きなんです」と言っていたそうで、
ナスを見るとそれを思い出すと、松尾さんは電話で話してくれました。
たしかに私はナスとキュウリが大好きなのです。
ナスとキュウリはお盆の時に節子が使う乗り物でもありますが、この季節はわが家の食卓には欠かせないものです。
今日もユカが、ナスの煮浸しとナスのお味噌汁を作ってくれました。
残念ながら食べるのは、今では私だけなのですが。
しかし、ナスが好きなことまで節子は話していたのですね。
私は節子のことを友人知人にはあまり話していませんが、どうやら節子はいろんな人に私の話をしているようです。
困ったものです。
でもそのおかげで、節子の世界と私の世界は今もなお、さまざまにつながっているのかもしれません。
私の知らない節子の話を聞くことは、とてもうれしいことで、元気が出てきます。

■1086:第三の他者(2010年8月23日)
節子
最近、思考力が弱まっているのは暑さのせいだけではないのかもしれません。

「私は他人を通してしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」

これはパウロ・フレイレの言葉です。
フレイレは「変革」を目指す人には知れ渡った人のようですが、私は恥ずかしいことに今年になるまで意識したことのなかった人です。
読み出したのは、つい最近です。
その主張にあまりに強く共感できるので驚いています。

フレイレは、人は他者との対話を通して主体を形成していくというのです。
これは、もちろん私の考えでもあります。
人は話すことによって考え、話すことによって自らを育てていきます。
私が話し合いの場としてのサロンが好きなのは、こうした考えを確信しているからです。

「他者」には3つの他者があるように思います。
一般的な意味での他者、つまり自分以外の存在が第一の他者です。
もう一つは、自らの中にいる他者としての自分です。
そして、最近、もう一つの他者がいることに気づきました。
それは、他者であって他者でなく、自らであって自らでない存在です。
そういう人は、すべての人にいるわけではありません。
私もこれまでの人生において、そういう存在がいたのはおそらく20年弱でしょう。
いうまでもなく、それは節子ですが、節子が私にとっての「第三の他者」になったのは、たぶん私たちが40代後半になってからです。

私たちは「対話する夫婦」でした。
よく話しました。
もちろん喧嘩もしましたし、学びあいもしました。
しかし、フレイレがいうように、それぞれの相手を通して考え、相手を通して行動するようになったのは2人とも40代後半になってからです。

その相手がいなくなったことは、私の思考の世界を貧しいものにしてしまったような気がします。
最近そのことに気づきました。
娘たちとの対話も、もしかしたら貧困化しているのかもしれません。
おそらく娘たちはそれを感じているでしょう。
伴侶を失ってしまうことで失うものはたくさんあるようです。
世界は間違いなく狭くなってきています。
それに抗うことはできません。
ただただ慣れるだけです。

■1087:未発のドラマ(2010年8月24日)
節子
最近、若い世代の人たちに会う機会が増えています。
若いといっても20代から30代と幅はあるのですが、この歳になると30〜40代はみんな同じように感じます。
若い世代に会っていると昔の私を思い出します。
彼らが私と同じだということではありません。
むしろまったく反対で、私がしたくてもできなかったこと、さらには思いもしなかったことに取り組んでいる姿を見ながら、とてもまぶしく思うのです。
そういう若者たちと話していると、私自身の生き方がとても「小市民的」に感じて、恥じ入りたくなるのです。
そこで、「もしも」と考えるわけです。
もしも20代に節子と会わなかったらどうだっただろうか、と。

人間とはドラマだ、と語ったのはオルテガです。
学生の頃の私は、ドラマや物語に憧れていました。
さまざまな物語を考えました。
完全犯罪の物語を考えたこともあります。
もちろん実行はしませんでしたが。

節子に会っても、ドラマ志向はありました。
ドラマは登場人物のキャラクターで変わってくるものです。
節子は私のドラマの主役になってしまいました。
そして私のドラマはホームドラマになってしまったのです。
もし節子がソクラテスの妻のような人であれば、私は哲学者になれたかもしれません。
山之内一豊の妻のような人であれば社会的に成功したかもしれません。
しかし節子は、そのいずれでもありませんでした。
ですから私のドラマは平和なホームドラマになったのです。
それは間違いなく節子に会ったせいです。
節子とつくりあげた家庭は、あまりに居心地が良すぎたのです。

ホームドラマの多くは、ハッピーエンドです。
しかし私のホームドラマはハッピーエンドにはなりませんでした。
主役がいなくなるという、とんでもない事態が生じてしまったからです。
戸惑ったのは私だけではありません。
娘たちも戸惑いました。

「お母さんがいたらなあ」というむすめの嘆きを聞くのが一番辛いです。
しかし、実は私も「節子がいたらなあ」と嘆きたいのです。
節子がいたら、ドラマの第3幕に取り組むはずだったのです。
そのために仕事に区切りを付けたのですが、その時に節子の胃がんが発見されたのです。
ドラマの第3幕は少しだけホームドラマから広がるはずでした。
しかしそのドラマは「未完のドラマ」ではなく「未発のドラマ」になってしまいました。
節子と2人で準備したドラマは、節子と共に見送ってしまったのです。

さて節子のいないドラマをこれからどう続ければいいでしょうか。
今はまだ「幕間」です。
このまま終わるかもしれませんが。

■1088:見えない存在(2010年8月25日)
節子
相変わらずの暑さです。
そんななかを久しぶりに福岡のNさんが湯島に訪ねてきてくれました。
最後にお会いしてから間違いなく10年以上は経過しています。
そのNさんから突然連絡があったのは一月くらい前でした。

Nさんはスピリチュアルな感受性の強い方です。
といっても、実はある大手企業の社員だったのが社内起業制度を生かして、ご自分で起業したビジネスマンでもあります。

Nさんは入ってくるなり、私のブログを読んで、家族のあり方を考える契機になったと言ってくれました。
そしてご自身の姉妹の話を聞かせてくれました。
Nさんも、人のいのちと深く関わっているのです。
とても通ずるところがありました。

Nさんと霊界をつなげているのは「クモ」だそうです。
お姉さんの回復を13仏に祈っていたら、阿弥陀と観音と勢至のまさにその3体の前に3匹のクモが下りてきて、とまっていたというのです。
以来、何かとクモがメッセージをくれるのだそうです。
私たちの世界に張り出してきているのを感じるとNさんはいいます。
主語のない言葉ですが、とてもよくわかります。
世界は決して見えるものだけではないのです。

その、言葉にならない「何か」に私たちはあたたかく包まれているのです。
しかし、それはなかなか実感できません。
実感できれば、不安など消え去ってしまい平安になるのですが、小賢しさを身につけた私たちはなかなかそう確信できないのです。
それに、おかしな言い方になりますが、その「あたたかさ」は時に残酷なほどの試練を与えてもくれるのです。

久しぶりに会ったNさんとは心が通ずることがありました。
もしかしたら節子が呼び寄せてくれたのかもしれません。
最近、何か不思議なことがよく起こります。

■1089:チビ太と霊界(2010年8月26日)
最近、わが家のチビ太が夜鳴きをします。
昨夜は特にすごく、下りていったら荒い呼吸をしながら外のほうを見て吠えているのです、
まるで何かが見えているようだと、ユカはいいます。
チビ太には霊界が見えているのかもしれない、時々、そんな気がします。
そばにいると鳴き止むのですが、離れるとまた鳴きだします。
そんなわけで、この数日、睡眠不足です。
ひどいときは1時間以上つき合わされます。

犬は人間と比較すると、聴力も嗅覚も桁違いに優れています。
予兆能力もあると言う人もいます。
わが家のチビ太は先週16歳(人間年齢では90歳前後かもしれません)になったので、かなりその種の能力は落ちてきていると思いますが、時々、不思議な動作をするのです。

ギリシア神話やエジプト神話では、犬は冥界の象徴とされています。
エジプトのピラミッドの壁画によく出てくるアヌビスは死者の導師とも言われます。
犬は霊界とどこかつながっています。
わが家のチビ太も、霊界や彼岸とつながっていないともいえません。

実は節子を見送った後、悲しそうにしているチビ太を見たことがありません。
何と薄情な犬だと私としてはいささか腹が立ちましたが、もしかしたらチビ太にとっては、彼岸も此岸も見えていて、今でも節子を感じられるのかもしれないのです。
渋谷のハチ公にとっては、実は最後まで飼い主と一緒だったのかもしれません。
前にそんなことを思ったこともあるのですが、最近のチビ太の動作を見ていると、どうも彼は此岸だけで生きているのではないのではないかという気にもなります。

夜吠え出して、一点を見据えて身体を震わせているチビ太をみると、その向こうに彼岸があって、節子がいるような気もします。
まあしかし、夜突然吠え出して起こさないでほしいと思います。
最近は寝不足続きで、機嫌が悪いのです。
今週お会いした人には結構八つ当たりしているかもしれません。
それはチビ太のせいなのです。

■1090:庭に鳥の巣を発見しました(2010年8月27日)
花や鳥になってちょいちょい戻ってくる。
節子はそう書きました。
その頃は、節子はあまり話せない状況だったのです。
震える手でノートに書いて、家族に見せたのです。
私たちにとっては、とても辛い思い出の一つです。

庭の木の枝に鳥の巣ができているのをユカが見つけました。
小さな木なのですが、少し伸び過ぎたので切ろうかと思っていた矢先の発見です。
すでにヒナが孵っており、親鳥がやってくるとくちばしだけが見えます。
写真を撮ろうとしてもなかなか成功しません。
また撮れたら掲載します。

この鳥は節子でしょうか。
子連れでやってきたのが節子だとするといささかの問題が発生しますが、まあそれは大目に見ましょう。
庭の木、それも節子が好きだった山もみじの枝に鳥が巣を作ったのです。
まだ何の鳥か見極められていませんが、小さな鳥です。

節子が鳥になってと書いた時には、なぜ「鳥」なのか、私には不思議でした。
花や蝶と言ってほしかったのですが、なぜか鳥でした。
節子は大きな鳥は好きではありませんでした。
庭に小さな餌付け台があり、冬にはそこに果物などを置くのですが、大きな鳥がやってくると節子はむしろ追い払っていました。
スズメなどの小さな鳥が節子は好きでしたが、小さな鳥は大きな鳥に追われることが多かったからです。
節子はいつもスズメなどの小さな鳥を応援していました。
節子は私と同じく、弱いものを自分の仲間と思うタイプでした。
自らも弱い存在だったからですが、同時に弱さの価値も感じていたからです。
鳥も花も、もちろん人も、「強い人」より「弱い人」が好きでした。
もっとも「強い」と「弱い」は、往々にして外観とは正反対のことが多いのですが、そんなことは詮索することなく、ただ小さくて弱々しく見えるだけで、節子は素直に仲間になれたのです。
そうした節子の不思議な一面から私はさまざまなことを学びました。

ヒナが巣から飛び立つのはいつでしょうか。
それまではしばらく、節子かもしれない鳥たちに毎日会えるかもしれません。
もうじき節子の3年目の命日です。
今年は自宅でゆっくりと過ごすつもりです。
節子かもしれない鳥たちとともに。

■1091:とてもうらやましい来客(2010年8月28日)
節子
昨日、とてもうらやましいお客様が来ました。
会社時代の同僚の増山さんが久しぶりに湯島に来てくれたのです。
節子も会ったことがあるはずですが、増山さんとは職場や仕事が一緒だったことはないのですが、なぜかお付き合いが続いています。
人の付き合いは本当に不思議なものです。

増山さんは私よりも年上ですが、今は大阪にお住まいです。
今回は東京に4日ほど滞在なのだそうです。
奥様もご一緒だそうで、いまはそれぞれに人に会っていて、私に会った後、落ち合うのだそうです。

私がうらやましく思ったのは、この4日間の増山ご夫妻の過ごし方です。
それぞれがこれまでお付き合いのあった人たちに会ってまわっているのだそうです。
2人の共通の知人にはお2人でお会いになっているようです。
ですから私のところにも別に用事があったわけではありません。
2時間ほどお話して、ところで今回は何か用事があったのですかと聞いたら、そのことを教えてくれました。
私は会社時代の友人として選ばれたようです。
実に光栄です。同じ職場でもなかったですし、年下でもあるのですが。
いかにも増山さんらしいと思いました。

そのことを聴いた時に、増山さんは別れに来たのだろうかと一瞬思ってしまったのですが、奥さんもご一緒だと聴いてどっとうらやましさが高まりました。
夫婦の人生を確認しながら、時には別々に、時には一緒に、此れまでに心に残った人と歓談の時間を過ごす、なんと贅沢な旅でしょう。
私も、節子とそんな旅をしたかったと思います。

実は節子が病気になってから、節子は昔の友だちに会いに行きだしました。
私もそれに同行させてもらいました。
みんなとてもあたたかく節子を迎えてくれましたし、みんなそこからまた新しい付き合いが始まるだろうと思っていたはずです。
節子と同世代の友人たちは、みんな子どもたちも独立させ、生活を楽しむ時期に入っていた頃だからです。
そしていろいろな付き合いが始まりだしました。
しかしそれは長くは続きませんでした。
おそらく節子に会った友人たちはやせたとはいえ元気そうな節子を見て、思ってもいなかった人が少なくないでしょう。
節子はあまりにも早く逝ってしまったのです。

増山さんの話を聞きながら、なぜあの時に、もっとたくさんの人のところに節子と一緒に行かなかったのだろうかと後悔しました。
私は、人生の前にしか興味のない人間でした。
だから節子の思いをきちんと理解できなかったのかもしれません。
良い夫だと思っていましたが、どうもできの悪い夫だったようです。
彼岸に行ったら、この埋め合わせをしなければいけません。

■1092:ホメオパシー(2010年8月29日)
節子
ホメオパシーには科学的な根拠はなく荒唐無稽な民間療法だから使わないように、と日本学術会議が談話を発表し、日本医師会がそれに賛同したという報道が物議を起こしています。
私も、いささかの怒りを感じて、昨日の時評で取り上げましたら、たくさんの人がアクセスしてくれました。
やはり関心は高いのです。

節子も帯津良一さんの指導の下にホメオパシーを受けていました。
残念ながら節子には効果を発揮してくれませんでしたが、少しでも望みがあれば、試してみようと思う気持ちはがんを患った人であればわかってもらえると思います。
でも残念ながら、日本の医療制度に組み込まれたもの以外は、「民間医療」として医師の多くは関心さえ持たないのが現実です。
患者は医師に相談さえできないのです。
今の医師の多くは、病人を治そうと真剣に考えていないことがよくわかります。
こんな言い方をすると怒られそうですが、もし真剣に考えていれば、相談くらいは乗ってほしいですし、もう少し勉強してもいいでしょう。

念のために言えば、節子の主治医の一人は理解を示してくれ、帯津クリニックに通うことを認めてくれましたが、もう一人は相談しようとするだけで不快な顔をしました。
彼女(女性の医師でした)には患者の気持ちなど微塵もわからないのでしょう。
それで病人を治療できるはずがありません。
医師としては失格だと私は思いますが、こういう医師が多分出世していくのです。
まあ医師にはとてもお世話になりましたので、批判は止めたいですが、言いたいことは山のようにあります。
私さえそうだったのですから、節子はそれ以上だったでしょう。
それを思うと辛くなります。

ホメオパシーは具体的にはとても小さな丸薬を定期的に飲むだけなのですが、その丸薬はすべて自然に存在するものを希釈してつくったものです。
毎晩、節子がそれを飲むのを私は手伝うだけでした。
とても小さなもので、しかも直接触ってはいけないので、けっこう面倒だったのです。
そのとても小さな丸薬に、私たちはたくさんの祈りを込めました。
当事者以外の人にとっては、「いわしの頭も信心から」と思えるかもしれませんが、その信心こそが私たちの支えだったのです。
でも人間は小賢しい頭を持っていますから、時に疑ってしまうわけです。
私もそうでした。
最後まで私も確信を確実なものにできませんでした。
それも今はとても後悔しています。

科学的な根拠がないからと言って否定する発想は、たぶん自己否定の発想でしょう。
科学的な根拠などと言うのは実にもろいものです。
いまの抗がん剤にも科学的な根拠があるとは思えません。
科学的なデータや説明資料はありますが、治癒との関係で言えば、あくまでも「確率」の話です。
それもほとんどが「推論」をベースにしています。
人間の心身はそれぞれに個別ですし、全てが開明されているわけではないからです。
今の科学は、所詮は「小さな科学」でしかないのです。
日本学術会議のおごりには、節子を見送ったものとしても、怒りを感じます。

節子はどう思っているでしょうか。

■1093:「愛される生き方」か、「愛する生き方」か(2010年8月30日)
「愛されるものが愛するものを動かす」と言ったのはアリストテレスだそうです。
私は学生の頃からこの言葉には否定的です。
この発想では「愛」がいかにも矮小なものに感じられるからです。

久しぶりに、ある本で、この言葉に出会いました。
そしてその同じ本に「神は、愛されることはあっても、愛することはない」というプラトンの言葉を知りました。
この2つの言葉はさまざまな示唆に富んでいますので、もう少しきちんと書きたいと思いますが、今日は「愛されること」と「愛すること」の関係です。

節子に会った頃、節子に「私は愛されることには全く興味がない、私にとって意味のあるのは愛することだ」と、いかにも気障っぽいことを言ったのを思い出します。
まあよく言ったものだと思いますが、この考えは大学生の頃から今日まで持ち続けています。
私の生き方は、前にどこかで書きましたが、「自動詞」が基軸なのです。
つまり「わがまま」と言ってもいいでしょう。
これは、自信のない弱さの現われかもしれません。
他動詞で生きることは、関係性の中で生きることですが、自動詞で生きることは自分でほどほどに完結できるのです。
たとえば、愛されるという他動詞の不安定さに比べて、愛するという自動詞は自分が主役になれますから、安定させやすいのです。

これは理屈の話であって、現実は必ずしもそうでないことは、30代以降、いろいろと体験しています。
そして「関係性」を主軸に生きるようになったのが30年ほど前からです。
しかし、「愛される」と「愛する」だったら、今でも後者を重視する生き方をしています。

ところで、私がどのくらい節子を愛していたかはわかりますが、節子が私をどのくらい愛していたかはわかりません。
正直に言えば、もう少し愛してほしいなと思ったことは何回かあります。
時に節子は「つれなかった」からです。
私が「もう少し愛してほしいね」というと、節子はいつも笑いながら、「考えておくわ」と応えました。

上記の2つの言葉が出てきた本は里見実さんの「『被抑圧者の教育学』を読む」ですが、その本で里見さんはこう書いています。

私たちの社会で非常に重要視されるのは「愛される能力」であって、「愛する能力」ではありません。能力があったり、美しかったりすると、その人は「愛される」。ある人なり、モノなり、観念なりが備えているメリットが、愛という作用を誘発する、つまり、愛は愛の対象の価値に由来するもの、それによって発生するものである、と考えるのが、私たちの通常の「愛」の観念なのではないでしょうか。

そして、この場合の愛は「所有」への欲求と密接に結びついているというのです。
これは、私が考える「愛」ではありません。
おそらく里見さんが考えている「愛」でもないでしょう。

「愛される生き方」をしたいのか、「愛する生き方」をしたいのかで、人の人生は変わります。
平安な一生を望むのであれば、「愛される生き方」がいいでしょう。
しかし、納得した生き方をしたいのなら「愛する生き方」です。
その場合、愛する相手が突然にいなくなるとどうなるか。
それはまた改めて書くことにします。

■1094:時間の記憶(2010年8月31日)
節子
この1週間は私にはあまりに重い1週間です。
昨年はこんなではなかったのではないかという気もしますが、それを確かめる気にはなりません。
人には「場所の記憶」とともに、「時間の記憶」もあるようです。
この季節になると心身が動かなくなるといえば大げさですか、そんな気がします。
節子は暑い中をがんばりました。
家族のために、私のために。

5年前までの私の「夏の思い出」はまぶしい太陽の下で節子と一緒に泳いだ海でした。
その「記憶」は、今も私の頭の中にしっかりと残っています。
さまざまな小さなことまで思い出されます。
しかしその記憶はどこか白々しくもあります。
心が動かないのです。

その一方で、暑さの夏にもかかわらず、「寒々とした暗い夜」が心に浮かびます。
音だけの花火、寒いほどの暑さ、声のない静寂、汗を拭く節子。
そして、そこに居るのは、節子に寄り添えていない自分なのです。
なぜもっと節子を抱きしめてやらなかったのか。
なぜ治るなどと確信していたのか。
それを思い出すだけで、心身が動かなくなるのです。
この季節は、私にはとても辛い時期なのです。

意識しているわけではありません。
この季節になると自然と心が穏やかではなくなるのです。
不安、後悔、恥辱、怒り、悲しさ、さまざまなマイナス感情が心身を揺さぶります。
8月末になると、自然とそうした感情が高まってきます。

場所の記憶は避けることができます。
そこに行かなければ思い出さずにすむからです。
しかし、時間はそうはいきません。
どこにいようと、その時間はやってきます。
季節は、そのためにあるのかもしれないと思うほどです。

節子を見送った季節は、私の心身に深く深く刻まれています。
この季節を乗り越えることもまた、節子に再会できる試練の一つなのかもしれません。

■1095:人生の起承転結(2010年9月1日)
節子
制作映像に関わっている小澤さんとゆっくり話しました。
小澤さんとは数か月前にコミュニケーションをテーマにした集まりで知り合いました。
私たちをつなげたのは、ナラティブ、物語です。
私はコミュニケーションとは物語づくりだと考えていますが、小澤さんのライフワークもどうやら「ナラティブ」につながっているようです。
みんなと一緒の集まりではなかなかゆっくり話せないので、今日は2人でお話させてもらいました。
テーマはもちろん「物語」です。

節子がいたら証言してくれるでしょうが、私は「物語」が好きです。
学生の頃から物語的な生き方を志向していました。
というとなにやら「つくられた人生」というような誤解を受けそうですが、そうではなく、自然に生きている自分を意識しながら生きてきたということです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/07/post-3ede.html
オルテガの「私は、私と私の環境である」という言葉を以前書いたことがありますが、まさにその生き方が学生の頃からの私の生き方でした。
つまり「2人の私」がいるのです。

環境を含めた私はプロデューサーです。
その私は、人生にも起承転結が必要だと思っており、47歳の時に私の物語を「転」じたつもりでした。
その転じ方はそれなりにドラマティックで友人たちからは驚かれたほどですが、実はそれは私の人生にとっての「転」ではなかったのです。
それよりももっと大きな「転」が起こったからです。
節子との別れです。
伴侶を失うことは、それまで営々と築き上げてきた物語を一変させます。
自分で考えた小賢しい「転」とは違い、まさにそれは「2人の私」のいずれをも変質させる「転」でした。
そこから私の人生はまったく操作不能になり、改めて理性の小賢しさを思い知らされました。

今日、小澤さんと話していて、やっとそのことに気づきました。
そして、私にはまだ「結」の物語が残されていることにも気づきました。
昨日までは、いまは起承転結の結を生きていると思っていましたが、実際には「転」の時期だったのです。

人生の転機は、自分ではつくれないのです。
与えられるから転機なのです。
私の物語を、どう「結」するべきか、これは節子が残してくれた、私の「生きる意味」かもしれません。
もうしばらく「私の物語」は終わらないようです。
結の生き方を考え出さなければいけないようです。

■1096:巣立ちと老衰(2010年9月2日)
節子
今日は「巣立ち」と「老衰」に出会いました。

昨夜はめずらしくチビ太が鳴きませんでした。
ほめてやろうと6時半に起きて、チビ太のところにいったら、寝床を近くで座っていました。
ところが声をかけても動きません。
腰を抜かした感じで動けない様子なのです。
この数日かなりおかしくなってきているので、不安がよぎりました。
節子の命日に合わせて、彼も後追いするのかなどとよからぬことさえ頭をよぎりました。
後で聞いたら、娘も同じことを考えたそうです。
人間にしたらもう90歳を超えた老犬です。
いつどうなってもおかしくはないのです。
なかなか回復しないので、夕方、お医者さんに連れて行きました。
点滴をしてもらい薬を飲んだら少し回復しましたが、元気はありません。
もしかしたら熱中症ではないかといわれたそうです。
わが家はあまりクーラーをかけないのですが、人間は大丈夫でも老犬はだめのようです。
あの元気なチビ太も老いてしまったものです。

わが家の庭の木に巣をつくっていたヒヨドリのヒナが夕方、巣立ちました。
夕方帰宅したら、娘がちょうどそれを見つけたところでした。
1羽が飛びたったと思ったら、隣家の壁にぶつかって落っこちてしまいました。
まだうまく飛べないようです。
しかしゆっくりですが、みんなうまく飛び立っていきました。
実にうれしい風景でした。

巣立ちと老衰。
同じ日に、「生命」をこれほど生々しく実感できたのは、決して偶然ではないでしょう。

巣立ったヒナたちの写真を載せますが、老衰状況のチビ太くんの写真は、彼の名誉のために載せるのはやめましょう。
ただの熱中症だといいのですが、タイミングが合いすぎるのが不安です。

明日は節子の3回目の命日です。

■1097:3回目の命日(2010年9月3日)
節子
3回目の命日はずっと自宅で過ごしました。
いろいろな人が来てくれたこともあって、お墓には行けませんでした。

この日は、毎年、節子は花で囲まれます。
ユリとバラが好きなことを知っている人が多く、わが家はこの時期、ユリとバラのにおいが充満します。
それにしても節子は花に恵まれた人ですね。
私にはこんなことは絶対に起こらないでしょう。
いつもそう思いながら、花を見ています。

3回目の命日は思わぬ訪問客もありました。
先日から書いているヒヨドリです。
巣立ったヒヨドリが2羽、ずっと窓の外の木にとまっていました。
鳥になって帰ってきた節子なのかどうか、悩ましい問題ですが、まあこれは吉兆と考えましょう。

思わぬ訪問客といえば、夕方、宮部さんと小山石さんが、仕事の合間をぬって来てくれました。
節子は小山石さんのことは覚えているでしょう。
湯島をオープンした時に、小山石さんはたくさんの種類の紅茶を持ってきてくれました。
その印象が強くて、節子は小山石さんのことを時々話していましたから。

それにしても、命日を覚えてくれていることには感謝しなければいけません。
私などは自分の両親の命日さえ忘れることがあります。
親しい友の命日も忘れてしまっています。
節子の命日だけを覚えている自分の身勝手さが恥ずかしいですが、そうだからこそ、この日を覚えていてくださる人への驚きがあるのです。
「記念日」という発想がまったくない私が、唯一、意識し始めた日が今日でしたが、果たしていつまで覚えていられるでしょうか。

とても平安で、のんびりした、無為な命日でした。
お経は、私の般若心経だけです。
今朝まで意識不明に近かったチビ太も少し元気になりました。
たくさんの花がエネルギーを与えてくれたのかもしれません。
私は例によって、異常に疲れた気がします。
節子との距離を短くすると、いつもなぜか異常な疲れが残るのです。

4回目の命日、つまり来年の命日は旅に出てみるのもいいかもしれないと思っています。

■1098:静座整心(2010年9月4日)
「静座整心」という色紙を掛け、香を焚き、般若心経をあげさせていただきました。
かってお経をあげているうちに、向こうからお経が聞こえてくるようになる、という話を聞きました。

節子
韓国にお住まいの佐々木さんからのメールです。
私たちのために祈ってくださったのです。
佐々木さんご夫妻は、節子の回復のために一方ならぬお心遣いをしてくださいました。
それに報えられなかったのが無念でなりません。
今もなおたくさんの心配りをしてくださっています。
佐々木さんばかりではありません。
たくさんの人たちが私たちのために時間を費やしてくれています。
それを思うと、私たちもまた、誰かのために時間を費やす元気が出てきます。
人のつながりとは、そういうことなのでしょう。
こうした関係が広がれば、世界は平安になるでしょう。
残念ながら、今の世界は支え合い、祈り合う関係はなかなか広がりません。

今日は湯島で、自殺のない社会づくりネットワークの交流会をやっていました。
20人近い人が集まり、久しぶりに湯島は熱気にあふれました。
東尋坊から茂さんも来てくれました。
みんなの話を聞きながら、みんなが望んでいるのに、どうして「支え合い、祈り合う関係」は広がらないのだろうかと思いました。

ところで、佐々木さんのメールです。
お経をあげていると向こうからお経が聞えてくる。
なるほど、そうなのだと思いました。
お経は彼岸に届き、そこで響いて返ってくる。
最近、それを忘れていました。

実は「静座整心」という心構えは、私の生き方からかなり遠いのです。
香を焚き、般若心経をあげるのは、佐々木さんと一緒なのですが、私の場合、静座整心ではないのです。
あえていえば、動座跳心とでもいえましょうか。
動きながら、さまざまなものに心身を向けながらの読経なのです。
節子が「修らしいね」と思っているだろうなと、いつも思いながら読経しています。
わが家の仏壇は、置かれている位置が高いため、立ったままお経をあげることもあって、静座整心には程遠いのです。

でも時にはやはり静座整心しないと彼岸からの響きは感じられませんね。
佐々木さんのメールを読んで、そう思いました。
明日は節子の声に耳を傾けようと思います。

■1099:節子が不在でも、節子の話が出ると元気が出てきます(2010年9月5日)
節子
チビ太が昨日容態を急変させ、緊急入院してしまいました。
症状が節子とあまりにも似ていたので、悪夢の再来かと思ったのですが、みんなの祈りが通じたのか、あるいは節子が守ってくれたのか、最悪の状況は脱しました。
ICUから一般病棟に移って、意識も戻りました。
明日には退院できそうです。

チビ太が1日いないだけでも、何かが抜けたような気がします。
家族が欠けることの意味はやはり大きいです。

今日は近い親戚で、節子を偲びながらの会食をしました。
節子も聴いていたでしょうか。
いつもはうるさいチビ太がいないせいか、ゆっくりと話せました。
しかしやはり節子がいないとどうもしっくりしません。

節子の話題もいろいろと出ました。
節子がたとえ不在でも、節子の話が出ると少しは元気が出てきます。
そしてつくづく節子は良い伴侶だったと思います。
節子と暮らしを共にできたことを感謝しています。
私には、あまりにも短かったですが。

■1100:黒ストッキングと黒ネクタイ(2010年9月6日)
節子
昨日、みんなと話していて話題になった話の一つです。
節子がいた頃からよく話題になった話です。

小学校の入学式にジュンは黒いストッキングをはいていったそうです。
ジュンはいやがったそうですが、節子が入学式には黒いストッキングだと断言したのだそうです。
節子は、多くの場合は何でもありなのですが、時にかたくなに自分の考えを曲げないことがありました。
これはその一つです。
自己主張の強い子だったジュンも、節子に押し切られたようで、しぶしぶ黒いストッキングをしていったそうです。
ところが、いざ学校に行ってみると黒いストッキングはジュンだけだったそうです。
ジュンは感受性のとても強い子なので、とても恥ずかしかったといつも笑いながら話します。
節子がいたら、節子が一番大笑いするのですが。
正式な儀式にはそれ相応の服装をしなければいいけない、という、礼を重んじる人と思うかもしれません。
とんでもない。

節子の実家で法事がありました。
私はフォーマルウェアが嫌いでできるだけカジュアルにすごしたいと思っている人間ですが、郷に入らば郷に従えで、節子の実家の法事の服装はすべて節子の指示通りにしていました。
ところが、その法事はみんな気楽に集まるので黒いネクタイなどしないでいいし、ましてや黒いスーツも必要ないと言うのです。
そうかなと少し不安だったのですが、節子の指示に従ってカジュアルな服装で行きました。
ところがです。
法事に集まってくる人たちはみんな黒装束で黒ネクタイなのです。
嘘だろうと、まさに忠臣蔵の浅野匠守の心境になったのですが、この時も節子は当時仕込んだ“so-so”(まあいいじゃないのというような意味だそうです)という言葉を使いながら笑ってしまっていました。
節子の「婿」として恥はかけないと同席していた義兄に頼んで開店を待って自動車で少し離れたお店にネクタイを買いに行きました。
何とか購入することができました。
節子はごめんね、とは言っていましたが、まあ節子にとってはso-soだったのでしょう。

つまり、黒ストッキングも黒ネクタイも、単に節子がいい加減だっただけの話なのです。
でもまあ、そのいい加減さのおかげで、節子は今なお楽しい話題を提供してくれるのです。
それにしても、節子は楽しい人でした。
まあ私にとっては、ですが。

■1101:人が一人欠けると社会は変わっていく(2010年9月7日)
節子
節子の命日の前後に、節子の友人何人かと直接、あるいは電話で、話す機会がありました。
節子がいなくなってからの恒例行事です。
元気そうになりましたね、という人もいれば、相変わらず泣いているのでしょうと冗談を言う人もいます。
でもみんなこの時期になると節子のことを思い出してくれるのです。
感謝しなければいけません。

節子の友人たちもみんなそれぞれに高齢になってきました。
ですからいろんなことがあります。
訃報もないわけではありません。
伴侶が病気になって、という話もあります。
そういう話がこれからますます増えていくのでしょう。

みんなから一様に言われるのは、きちんと健康診断を受けてくださいよということです。
私はあんまり健康診断が好きではありません。
日本の病院そのものがそうですが、健康診断に行くと自分が家畜のような気がしてとてもいやなのです。
はい、バリウムを飲んで、息を大きく吸って、はいて、・・・。
これが私にはとても苦痛です。

節子が元気だった頃は、それでも節子のために健康でいなければという気がありましたから、いやいやながら健康診断に行きましたが、今はその気も消えてしまいました。
それに、健康診断で悪いところが見つかったとして、だからどうだとも思います。
早期発見なら対処できるといいますが、病気を治したところで、余生にそれほど意味があるわけではありません。
なにしろもう節子はいないのですから。

今回、とても気になっていることがあります。
いつもなら来てくれるか電話をしてくるはずの人から連絡がないのです。
私の友人ではなく、節子の友人ですから、こちらから電話するのもはばかります。
でもこうやって人のつながりは消えていくのかなと思うこともあります。
人が一人欠けると社会は変わっていくものであることがよくわかります。
自分では意識しなくても、老いは確実に生活を変えていくようです。

■1102:人を心から愛したことのご褒美(2010年9月8日)
先日、息子さんを亡くした友人に会いました。
葬儀の時、一番辛いのは喪主の挨拶だという話になりました。
話すほうも聴く方も、辛い時間です。

彼はとても話せないと思っていたというのです。
息子を見送る辛さを考えるとその状況はよくわかります。
ところがその瞬間になったら、なぜか話したくなって、自分でも信じられないくらい、いろいろ話してしまったというのです。
なぜ話す気になったのか、そしてなぜ話せたのか。

前にこの挽歌に書きましたが、私もまったく同じ体験をしました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/03/post_3784.html
娘たちにもとても話せないので挨拶は「ありがとう」の一言にすると話していました。
娘たちもそれがいいと言っていたのです。
ところがその段になって、来てくださった人たちに向かう形で立ち上がったら、話さなければと思ったのです。
話し出す最初の一言は胸につかえましたが、話し出したら言葉が堰を切ったようにでてくるのです。
涙もなく、元気に話せました。
まるで節子が乗り移ったようでした。
そして、不謹慎にも不思議な高揚感があったのです。
しかも、後でパソコンに向かったら、その時話した言葉が自然と浮かんできて、文字にできたのです。

その体験が私には実はどうもしっくりこずに、奇妙な罪悪感さえあったのですが、同じような体験をした友人に出会えて、安堵しました。

この数日、節子の命日だったこともあり、節子のことを話す機会が何回かありました。
節子のことを話すと、今でも時に涙をこらえられなくなるのですが、同時にまた、不思議な高揚感を得られることがあります。
特に、節子のことをまったく知らない人に節子の話をする時に、その高揚感がやってくるのです。
初対面にもかかわらず亡き妻の話をするのはいささか異常ですし、聴く方も迷惑な話だろうと思いますが、なぜかそういう機会が時々あるのです。
節子はいまなお、私に力を与えてくれる存在なのです。
人を心から愛したことの、これはご褒美かもしれません。
お金では絶対に買えないものなのです。

■1103:「家族はいいもの」(2010年9月9日)
「男はつらいよ」で有名な映画監督山田洋次さんが、数日前の朝日新聞のインタビュー記事で、「『家族がいいもの』というのはしょせん幻想、という気もする」と話していました。
家族をテーマにしたさまざまな映画をつくってきている山田監督の言葉だけに大きなショックを受けました。
救いは、「気もする」であって、「気がする」ではないところですが。

山田監督も言うように、1970年代頃から「家族の崩壊」は話題になっていました。
しかし、それを防ぐ動きはなかったように思います。
私はこの20年、まちづくりやNPOにかかわっていますが、私の体験では「家族」が肯定的にテーマとして語られだしたのは5年ほど前からのような気がします。
その頃から、「家族のあり方」をきちんと考えなければという動きが出てきたような気がします。
ただ実際には、家族のあり方が変わったようには思えません。

わが家は家族としてあまりしっかりはしていません。
「あったかい家族」と言われていますが、家族としてはあまり模範にはなりません。
娘たちは小さな時から、わが家は少し変わっていると思っていたようです。
しかも子育てもあまり褒めたものではありません。
その責任は私と節子にあります。
子どもよりも伴侶、というと正しくはありませんが、わが家族の軸は間違いなく夫婦でした。
それは当然だという人もいるでしょうが、娘たちをしっかりと育てるという視点が少なかったかもしれません。
その何よりの証拠は、いまも孫がいないことです。
孫のすばらしさは友人たちからよく聞かされます。
その話を聞く度に、なぜか節子に謝りたくなります。
私の理由で孫がいないわけではないのですが、節子に孫を抱かせてやれなかったことが、取り返しのつかない悔いとして残っています。

それはともかく、私は家族がすべての基本のように思います。
家族はいいものなのです。
私がいまこうして何とか元気でいられるのは、節子を含めた家族のおかげです。
軽々に「家族はいいものではないかもしれない」などといってほしくありません。
「家族的なもの」も含めて、家族はいいものです。
誤解されないといいのですが、狭い意味での血縁家族に限った話ではありません。
人は支え合いながら生きているとしたら、その原点が家族にあることを忘れてはいけません。

なんだか時評編に近い内容になってしまいましたが、節子との関係においてでしか、私は家族のあり方を考えられないので、挽歌編に書かせてもらいました。
とても「わたし的」な家族に支えられていることを感謝しています。

■1104:心ここにあらずの2週間(2010年9月10日)
節子
入院騒ぎをしていたチビ太が少しずつ元気になってきました。
まだ通院ですが、少しずつ立ち上がれるようになりました。
退院直後は、チビ太の寝起きしているところにユカと私が交代で寝ていました。
節子を看病した3年前のことを思い出さないわけではありません。

それにしても、チビ太と節子の症状はとても似ていました。
犬に似ていたというと節子は気を悪くするかもしれませんが、忠犬息子が節子をなぞっていたといえば、印象は変わるでしょうか。
まあそれはともかく、3年目の、まさにその日に、チビ太は節子を再現したとしか思えないのです。
霊界とつながっているといわれる犬であればこそのことだったかもしれません。
位牌を囲むたくさんの花々。
命日に供えられたいろんな供物。
その前で、チビ太が節子を再現している。
こんな書き方をすると不謹慎に聞こえるでしょうが、私には霊界との交流の行事だったようにも感じられます。
しかも、外ではヒヨドリの巣立ちまで重なったのです。

3回目の命日を前後した2週間は、気のせいか、時間が速く過ぎました。
命日を過ぎてから、今日でもう1週間です。
この1週間はほとんど何もしなかった感じです。
実際には10人以上の人とお会いしていますが、頭がうまく作動していなかったような気がします。
何を話したのか思い出せないのです。

暑さも少し変わってきました。
新しい季節がはじまります。
4年目は、少し違った歩みをすることになるかもしれません。
この2週間は、その通過期間だったのかもしれません。

■1105:「こういう人の関わり」(2010年9月11日)
節子
時評編で書きましたが、一昨日、福岡のNさんからメールをいただきました。
Nさんは、節子の見舞いにわが家まで来てくれましたし、お別れのためにもわざわざやってきてくれました。
節子や私をいつも元気づけてくれる存在です。
そのNさんのメールを読んでいて、なぜか急に涙が出てきたことを、昨日時評編のブログに書きましたが、その後、いろいろな思いが浮かんできました。
うまく書けるかどうかわかりませんが、挽歌でも何か書いておきたくなりました。
節子と共有したいと思ったのです。

Nさんは、ブログに引用したメールの後、またメールをくれました。

私が体調を崩した時に、その地域の母ちゃん達(ばあちゃん達になりましたけど)は、
「ハーモニカの練習を始めたい」と言い始めたのです。
どうすれば私が元気になるだろうかと、
自分達ができることのあれこれを、実に具体的に差し出してきます。
こういう人の関わりの中にいたい…と、私はその地域に戻ります。

Nさんはハーモニカの名手です。
節子にもハーモニカを演奏してくれました。
まあここまで書いてしまうと、Nさんが誰かわかってしまいますね。
西川さんです。

西川さんの体験と同じ体験を私もしました。
節子が逝ってしまった後、私の心身が凍えて動けなくなっていた頃です。
いろんな友人知人がやってきて、いろいろと相談を持ちかけました。
相談に乗る気分にはなれなく、たぶんいい加減に対応していたのだろうと思います。
しかしそれを繰り返しているうちに、いつの間にか私はその気になってしまっていたのです。
昨春から活動を再開できたのは、そうしたことのおかげかもしれません。
私もまた、西川さんと同じように、そういう人の関わりのなかにいたいと思っています。
節子と会えなくなって、とても寂しく辛いのですが、そうした人との関わりが私を支えてくれているのです。
その人たちを裏切ることはできません。
それに、支えると支えられるは切りはなしなどできませんから、私だけの問題ではないのです。
これが「こういう人の関わり」の意味だろうと思います。

西川さんのメールを読んでいて、改めて周りの人たちへの感謝の気持ちで一杯です。

■1106:涙のない人生にはしたくありません(2010年9月12日)
一昨日の時評編に、届いたメールを読んで涙が出た話を書きました。
説明不足で、読んだ人には意味がわからなかったかもしれません。
しかし、その最後に書いた次の2行が、私の意識に大きな影響を与えています。
自分が書いた文章に影響されるというのはおかしく聞こえるかもしれませんが、実はそれこそがフレイレの識字教育活動の大きな意味なのです。
それについては、また時評編で書きたいと思います。

さて私が書いた2行です。
人が生きていくことと涙はつながっています。
涙のない人生にはしたくありません。
この2行は自然と出てきた言葉です。
でも書いてみると、すごく納得でき、しかも今の私の生き方がとても肯定できる気がしてきたのです。

節子
涙のある人生は、やはりとても豊かなのです。

最近、ますます私は涙もろくなっています。
節子がいなくなった頃のように、突然に理由もなく涙がこぼれだすことはなくなりましたが、ちょっとしたことに涙が出そうになります。

もっとも、節子も私も、もともと涙もろく、テレビなど見ていても、お互いにすぐ涙が出てくるタイプでした。
どちらかといえば、私よりも節子が涙もろかったでしょうか。
節子が私のことで涙を流した記憶がないのが、いささか残念ですが、涙もろい節子が、私は大好きでした。
涙をこぼす節子は実にセクシーでした。

節子を見送った後、私はたくさんの涙を流しました。
でも最近の涙は、それとはちょっと違うのです。
とても小さなこと、とても個人的なこと、そうしたちょっとしたことで、心身が揺さぶられるのです。
その意味を読み取ることができるようになったからかもしれません。
生きていることに、少しだけ余裕ができてきたからかもしれません。

生きていると、涙は出てくるものです。
悲しくても、うれしくても、苦しくても、楽しくても。
涙する生を生きられていることをうれしく思います。

■1107:癒しの渇望に覆われた人生(2010年9月13日)
節子
先日巣立ったヒヨドリたちは最近いなくなってしまいました。
やはりあれは節子だったのでしょうか。
ヒヨドリと同じ時期に意識不明になったチビ太は元気になって、また吠え出しました。
節子の命日に前後した、わが家の騒動も終わってしまいました。
騒動はあると大変ですが、なくなってしまうとさびしくもあります。

最近、節子をなぜかとても身近に感じます。
節子ともう会えないという実感が、いまだもってないことも、改めて実感しています。
不思議というか、これこそが生命の自己防衛機制なのでしょうか。
写真を見ていると、今にも節子が飛び出してくるのではないかと思えるほどです。
生活を共にしていたということは、そういうことなのでしょう。

親しい先輩を少し前に見送った若い女性から、
「時が癒すということはないと思っています」
というメールが来ました。
癒すのは決して「時」などではありません。
私は最近、もし私が癒されているとしたら、癒してくれているのは節子なのだと思えるようになってきました。
しかし、これはいささか微妙な話で、癒すとはなんだろうかという問題にもつながります。
節子の写真を見ながら涙を出すことが、もしかしたら癒しかもしれません。
つまり、悲しさや寂しさの渦中に自らを置くことが癒しなのです。
「癒し」そのものが、癒しと言うわけです。

癒しの渇望に覆われた人生。
それも一人では背負い難いほどの大きな癒しへの渇望。
もしかしたら、それこそが節子の私への贈り物だったのかもしれません。
だとしたら、簡単に癒されるわけにはいきません。
癒されない人生も、また豊かなものなのです。
最近、そんな心境になっています。

■1108:行動の人だった節子(2010年9月14日)
節子
パウサニアス・ジャパンの金田さんから電話がありました。
節子の、スニオン岬に桜を植えたらどうかという話を初めて知ったと話してくれました。
懐かしい話です。
単細胞な節子の思いつき発想のおかげで、私は金田さんと知り合いになり、パウサニアス・ジャパンにも関われたのです。
人との出会いは不思議なものです。

節子のおかげで、お付き合いが始まった人も少なくありません。
滋賀県でMOH運動に取り組んでいる新江州会長の森さんも、そのおひとりです。
節子の同級生が、森さんの会社に勤めていたのですが、その人から、うちの社長がこんな本を書いたと森さんの著書をおくってくれたのが縁になりました。

節子がいてくれたら、もっといろんな意味でつながれたのにと思う人もいます。
節子がいなくなって、次第にお付き合いがなくなってしまった人もいます。
節子がいるかどうかは、私の交遊世界に大きく影響を与えているようです。
それは当然のことでしょう。

節子がいなくなってから、どうも私の世界は単調になりがちです。
意外な飛躍が最近あまりありません。
やはり節子の世界と私の世界は、違っていたのです。
スニオン岬の桜の話を思い出しながら、そんな気がしてきました。

節子は一生懸命に、ギリシア観光協会に手紙を書いていました。
節子は、行動の人でしたから。
私は、怠惰の人ですが、最近、ますます怠惰になってきています。

■1109:ビジネス再開(2010年9月15日)
節子
そろそろ動き出すことにしました。
今日も朝早くに出かけて、ちょっと遠くの企業に出かけていました。
久しぶりに工場見学もしました。

多くの人とは反対ですが、そろそろお金をもらう仕事を始めようと思い出したのです。
節子も知っている某社の社長に、その旨メールに書いたら、次のような返信が来ました。

70にしてそろそろ収入になる仕事ですか。大いにしてください。
私は未だビジネスだけでも大変です。

この人はもう70歳ですが、私が深く敬愛する経営者です。
人はほどほどに食べられればいい、という人生観をもち、とても理念的な企業経営の傍ら、楽しい社会活動をしています。
彼にとっての仕事は、もしかしたら今ではその社会活動かもしれません。

私は47歳で会社を辞めました。
その時点で、「仕事」の概念を変えました。
仕事とは自分がやりたいことでなければいけないと決めたのです。
その結果、お金をもらえることもありますが、逆にお金がかかることもあります。
その姿勢で22年過ごしてきました。
そんな生き方を続けられるのは奇跡だと何人かの人にいわれました。
たしかに幸運に恵まれました。
私の定義による仕事をしていても、何とか会社を持続できたのですから。
しかし、その生き方を続けられたのは、節子の支えのおかげです。
そのことはよくわかっています。

ところが、その節子がいなくなってから、「やりたいこと」がなくなってしまいました。
その上、この数年、会社から給料を1円ももらっていないので(それで会社は倒産せずにいるのですが)、さすがにちょっと窮屈になってきました。
それに、最近、ちょっと緊張感のあるビジネスの世界に郷愁を感じだしたのです。
それで企業対象のビジネスを再開することにしたのです。
節子がいたら、なんというでしょうか。

しかしながら、今日1日、企業の経営者と話していて、やはり私自身の発想が大きくずれてきてしまっているなと少し弱気になりました。
時々、仕事を否定するような発言をしてしまうのです。
2つの脳がせめぎあっているようなのです。
そのせいか、思った以上に疲れました。
それに、体力がついていくかどうか心配です。
でもその一方で、しばらく眠っていた何かが動き出しているような気もします。
さてさてどうなりますか。
節子は笑わないでしょうが、孔子に笑われそうです。

■1110:弱みと信頼関係(2010年9月16日)
節子
昨夜は朝から来客続きで、夜までパソコンに向かう時間がありませんでした。
帰宅後、挽歌を書こうと思ったのですが、昼間の話題がかなり重い話が多かったこともあり、パソコンに向かう気がせず、早く寝てしまいました。
それで挽歌はお休みしてしまいました。

といっても、節子を意識した時間がなかったわけではありません。
私がアドバイザーとして関わっている企業の経営幹部の人たちのグループとのミーティングの後、みんなで食事に行ったのですが、いろんな話で盛り上がった後、突然に、Sさんが「Fさんが涙が出てしまったというので、私も読みました」というのです。
何の話かと思ったら、この挽歌のことでした。
私のホームページにリンクされていますので、挽歌を読む人もいるわけです。
この挽歌には、私の生活やら本性が露出されていますので、それを読むとどう感ずるでしょうか。
こんな人に仕事を頼んで大丈夫かと不安になるかもしれません。
正式のミーティングでの私の発言への信頼感が薄れるかもしれません。
自らをさらけだすことのマイナスは少なくないかもしれません。

しかしおそらくプラスもあります。
昨日の昼間のミーティングでも話題にしたのですが、コミュニケーションの出発点は自らの弱みを見せることです。
弱みを見せる、言い換えれば自らの人間性を露出し共有することで、相互に信頼関係が生まれることもあるのです。
しかも、弱みを見せてしまった後は、自らを着飾ることは無意味になります。
そうなると実に生きやすい環境が育ってくるのです。
それを好まない人も、もちろんいます。
そういう人からは見下されるかもしれません。
しかし、それは自らに弱みがあるのですから、甘んじて受け入れなければいけません。
それに、そういう人とはもともと人間的な関係は構築できないので、見下されたところでなんの不都合もありません。
そもそも見下されているのですから(見下すと見上げるは同じことだと思っています)。

人生を豊かにするとは何なのか。
弱みを共有できる人のつながりをどのくらい持てるかではないかと思います。
節子は私の弱みをすべて知っていました。
だからこそ、私は節子を信頼し、節子もまた私を信頼していたわけです。

ビジネス(極めて論理的な世界といえるでしょう)を再開したいま、この挽歌はかなり私には気恥ずかしい部分ではあります。
しかし、その弱みを隠さずにできるビジネスもあるでしょう。
それに、ビジネスそれ自体が、論理一辺倒の世界からそろそろ変わっていくべき時期ではないかとも思っています。

今日はいささか理屈っぽい挽歌になってしまいました。

■1111:一人で老いることのさびしさ(2010年9月17日)
節子
チビ太は、甲状腺ホルモンが過剰に出て、自らの老いに気づかずに過剰に元気である可能性があるそうです。
そうすると何が不都合かと言うと、気力が体力を上回るので、体力的には無理が蓄積するのだそうです。
そして突然、破綻するわけです。

チビ太がそうであるかどうかは、まだ確実ではないのですが、この話は私自身の話でもありそうです。
佐藤さんは若いですね、と言われることがあります。
確かに、気分的には私は「老い」はあまり感じません。
そしてついついがんばってしまって、身体的な疲労にどっと襲われることがあります。

もし節子がいたらどうでしょうか。
たぶんもう少し自分の老いを日常的に実感できるはずです。
しかし、老いを気づかせてくれる人がいなくなったいま、なかなか自分の老いには気づきません。
もしかしたら私も甲状腺ホルモンが過剰に出ている病気かもしれません。
いや、場合によっては、痴呆が進み、自分の歳を勘違いしている可能性もあります。
なにしろだれも諭してくれないのですから。

まあいずれにしろ、人はなかなか自らの老いに気づきません。
豊かに老いた夫婦には憧れがありますが、孤独の老いは認めたくもありません。
ですから、ますます自分の老いには気づかないわけです。

でも、自らの老いに気づかないことは幸せなことなのかどうか。
幸せそうに寝ているくせに、時々起き上がって来客に吠えるチビ太を見ていると、そこに自分がいるような気がしてなりません。
節子がいたら、こんなことにはならなかったのでしょうが。

一人で老いるよりも、やはり夫婦で老いたかったと、つくづく思います。

■1112:すずめが落ちた(2010年9月18日)
昨夜、帰宅したら、節子の位牌壇の横のガラス戸の外に、すずめが落ちていました。
留守中にガラス戸にぶつかって、死んでしまったのです。

私が好きだったフォークコーラスグループに、シャデラックスがあります。
昭和40年代に活躍したグループですが、メッセージ性のある歌を歌っていました。
彼らの歌を聴いていると涙が出てくることが多いのですが、そのなかに「すずめが落ちた」という歌があります。
今、手元にレコードがないので、タイトルは違うかもしれませんが、たしかこんな出だしでした。

すずめが落ちた、空の上から。
すずめは空を飛ぶものなのに。

ここまでは歌えるのですが、その先の歌詞が思い出せません。
この歌を思い出しました。
この歌は大気汚染への警告をメッセージした歌でした。

これまでも2回ほど鳥がぶつかったことがあります。
ガラス戸にシールでも貼ればいいのですが、それではちょっとイメージが壊れるので、植木鉢や壁へのつる草を延ばしました。
そのおかげか、最近事故はなかったのですが、久しぶりの被害者です。

このすずめはどうしてぶつかったのでしょうか。
しかも、もっとぶつかりやすいところではなく、位牌壇の近くのガラスに。
それもだれもいない留守中に。

空を飛び回っていたのに、突然にガラスにぶつかってしまったすずめ。
もっともっと飛び回りたかったでしょう。
節子も、もっともっと現世を飛びまわりたかったことでしょう。
すずめの悔しさが伝わってくるようです。
でもすずめは、とても穏やかな表情で、きれいに倒れていました。

娘たちと庭に葬りました。
シャデラックスの、この曲を探して聴きたくなりました。

■1113:パラレルワールド(2010年9月19日)
節子
お彼岸です。
暑さ寒さも彼岸まで、といいますが、風が変わってきました。
まだ暑さは残っているようですが、我が家の界隈は間違いなく秋です。

秋は秋でまた、節子を思い出すことが山のようにあります。
いつになっても、どこにいても、節子から逃れることはなさそうです。

先日、ちょっと辛いことのあった友人が私に言いました。
一人でいるといろいろと思い出して辛くなるのだが、人と会っていると気が紛れる、と。
その気持ちはわかる気もしますが、正面から辛さに向き合う生き方もあります。
私は、「気を紛らす」ことを好まないタイプですので、いつも節子を思い浮かべながら、辛さと同行しています。
そういう生き方をしていると、絶え間なく節子のことを思い出すのです。
つまりパラレルワールドを生きているようなものです。
大変そうに聞えるでしょうが、慣れてくれば意外とそれが生きやすいのです。
好きなほうに心身をシフトできるからです。

今日読んだ佐久間さんの「ご先祖さまとのつきあい方」という本に、「古来日本では、子どもというものはまだ霊魂が安定せず「この世」と「あの世」のはざ間にたゆたうような存在であると考えられてきた」と書かれていました。
前世を記憶している子どもたちの報告もたくさんあるように、子どもたちが彼岸と此岸を行き交えることは確実のような気がします。

そして、老人もまたその2つの世を行き交うことができるような気がします。
私も、そろそろその年齢になったと考えてもいいでしょう。
事実、私には「死の恐怖」は皆無です。
もし此岸から彼岸への旅が「死」であるならば、こわいはずがありません。
私は旅に出かける時に、旅先のことを調べないタイプですが、彼岸に限っていえば、節子もいることなので、もう少し彼岸のことが知りたい気はします。

明日はお彼岸のお中日。
注意していれば、きっと彼岸のことがわかるヒントが得られるでしょう。
もしかしたら、昨日のすずめもヒントなのかもしれません。
明日もまた何かの啓示があるでしょうか。

■1114:抜け殻のような人生(2010年9月20日)
節子
今日からお盆の入りです。
お墓もにぎわっていました。

テレビを見ていたら、三連休だったことに気づきました。
節子がいなくなってからは、連休という概念は私からはまったくなくなりました。
ともかく毎日が休みなのです。
といっても、自宅で休んでいるというわけではありません。
土日も含めて出かけることは多いですが、気分的にはどうも「休み」という感覚が強いのです。
正確に言えば、「人生を休んでいる」という感じです。

今日も大相撲をテレビで見ながら、節子がいた頃はこんなゆったりした時間が取れただろうかと思っていました。
いつも何かをやらなければという、いささか追い立てられるような生き方をしていたような気もします。
そういう生き方が好きだったのです。
節子はいつもそんな私を、もっとゆっくりしたらと言いながら、
でも修には趣味がないから仕事が楽しいのよね、と笑っていました。

趣味がないといわれるととても心外なのですが、特定のことに集中することが私には出来ません。
ですから趣味がないといわれれば、そうかもしれません。
それに、いろんな人が持ち込んでくる課題は、一種の謎解きの面白さがありました。
だから次々と目移りしながら、いろんなことに関わってきました。

そんな生き方をなかなか変えられずに、節子とのゆっくりした時間もなかなかとれませんでした。
節子とゆっくりとするのは、節子が病気になってからです。
なんとまあ貧しい生き方をしていたことか。
節子がいなければ、本当に貧しい生き方でした。
その貧しさを救ってくれていたのが、節子だったのです。
節子は、私の生活にさまざまな豊かさを与えてくれたのです。

その節子がいなくなった。
自分の人生の貧しさがよく見えてきました。
節子がいればこその、私の人生だったのです。

人生を休みたくなるのも仕方がありません。
この虚しさから抜け出る日は来るのでしょうか。
節子のいない人生が、抜け殻のような気がすることが少なくありません。
こんな気分になったのは、お彼岸のせいなのでしょうか。

■1115:他者への祈り(2010年9月21日)
節子
昨夜、泰弘さんの夢を見ました。
4か月前に突然逝ってしまった若者です。
それもかなりいろいろと話し合った夢でした。
話の内容は、例によってもう思い出せませんが、2人でなにやら困難にぶつかって対策を講じていたような気がします。
節子の姿は、微塵もありませんでした。

最近、夢をよくみます。
それもなにかとても重い内容で、目が覚めた時にドシっと重さが残っているような夢です。
目覚めた時には内容も覚えていますが、すぐに忘れます。
記録しておけば、なにかがわかるかもしれませんが、そんな事をするタイプではありません。
それでも、ずっと明白に残るシーンはあります。
たとえば「人民大衆駅」からドッと乗客が降りてくる風景は今もリアルに残っています。あまりにリアルなので、人民大衆駅というのがどこかにあったのではないかとネットで調べたものです。
もちろんありませんでした。
もっと不気味だったのは彼岸と此岸との乗換駅の光景です。
これはとても不気味な構造の駅で、注意していないと彼岸行きのホームに迷い込んでしまうのです。
もっとも、それは「彼岸行き」ではなく、「地獄行き」の感じでしたが。

まあそんなことはどうでもいいのですが、最近、節子の位牌壇(仏壇)に向かって、節子以外の人たちの安寧を祈念していなかったことに気づきました。
泰弘さんは、それを教えに夢に出てきてくれたのでしょうか。
それに気づいたのは、実はつい先ほどです。

いまも闘病している友人たちへの祈りも含めて、明日からはもっと真剣に祈るようにします。
しかし、最近は祈っても祈ってもなお祈りきれないほどに、さまざまな問題が周りで起こっています。

節子
私に祈りのちからを与えてくれませんか。

■1156:無防備な生き方への贈り物(2010年9月22日)
節子
私たちは、いつもとても「善良な人」に取り囲まれていました。
そういうなかで暮らしていると、世の中には「悪い人」はいるはずもないと思いがちです。
おそらく振り込め詐欺にだまされてしまう人たちは、そうした世界の中で幸せに暮らしているのでしょう。
そういう人は、詐欺にあったからといってさほど嘆かないのかもしれません。
詐欺をする人たちも、きっと困っていたのだと思って許してしまうかもしれません。
誰も好き好んで、人をだますわけがありません。
もしそういう人がいたとしたら、そういう人を生み出す社会に問題があるのです。
そう思うかもしれません。

私たち夫婦は、いつも娘たちからは「だまされやすい人」とみなされていました。
娘たちからみれば、きっと無防備な親だったのでしょう。
しかし、だまさなければいけなくなるよりは、だまされるほうがいいに決まっています。
それが私たち夫婦の共通認識でした。
その認識があればこそ、だまされたことはないのです。
実に幸せなことでした。

私たちが無防備になれたのは、お互いを完全に信頼できていたからです。
信頼できる人がいれば、誰でも無防備になれるでしょう。
なにかあったら、その人が守ってくれるからです。

節子がいなくなったいまも、私は相変わらず無防備に生きています。
そのおかげでしょうか、いまも「善良な人たち」に囲まれています。
今日もそういう人たちが相談にやってきました。
そとからみたら、けっこう大変な相談事項なのですが、なぜかそんな気がしません。
善良な人たちは、宮沢賢治のようにみんな「おろおろ」しながら生きています。
私も、そうです。
でも、みんなとてもあったかいのです。

節子がいなくなっても、私が何とか生きていられるのは、そうした「おろおろ」している善良な人たちのおかげです。
節子と一緒に40年かかって創りあげてきた、無防備な生き方のおかげです。
感謝しなければいけません。

■1117:雨のお彼岸(2010年9月23日)
お彼岸は雨です。
朝、突然に雨が降り出しました。
突然の雨は、いつも節子を思い出させます。

節子が葬儀場に向かってわが家を出たとき、突然に雨が降ったのです
それも車で走っているほんのわずかな時間だけでした。

今朝はなぜか断続的な雨です。
単なる自然現象と思えば、それだけの話ですが、そう思えないのです。
灰色の空を見ていると、どうしても彼岸にいる節子の顔を思い出します。
雨にもしっかりと節子からのメッセージを感じます。
今日はちょっとさびしい1日になりそうです。

昨日、ナラティブサロンというのを立ち上げました。
そこで生と死の話題も出ました。
沖縄出身の若い女性が、沖縄では自然や家族に囲まれている沖縄では、死は別に不幸なことではなく、自然にまわってくるものだと受け容れられているというような話をしてくれました。
個人が「切り離された存在」ではなく、先祖や友人、さらには自然とつながっているのです。
その実感が持てれば、死はなんでもないことなのかもしれません。

今日は彼岸のお中日。
そのせいか、節子とのつながりを深く感じます。
私も最近、少しずつですが、自然や彼岸とのつながりを回復しだしてきているような気がします。
佐久間さんが最近出版した「ご先祖さまとのつきあい方」に書いているように、「死なないための方法」を獲得し、不死を手に入れたのかもしれません。

■1118:茶髪事件の再発(2010年9月24日)
節子
また茶髪事件が起きました。

私はほぼ完全な白髪です。
ところが、時々、魔がさしたように黒くしようと思い立ちます。
思い立つとやってしまうのが私の軽薄さなのですが、洗髪前に塗ると次第に髪が黒くなるという商品を買ってきました。
ところがそれを使うと頭がフワーとしてきて、何ともいえない不快感が生ずるのです。
何回かやったのですが、やめてしまいました。
ところが先月のオープンサロンに、その道の専門家が参加していて、その種の話になりました。
市販のほとんどの毛染め商品は安全性に問題がかなりあるというのです。
ちょうど体験していたので、そのことがよくわかりました。
もっとも、その人は佐藤さんはもう歳だから発がん性があっても大丈夫だというのです。
ひどい人ですが、まあそれも道理があります。

しかし使っていて気分が悪くなるのはよくありません。
それでその人に頼んで安全性の高いその会社の商品(まだ市販されていません)をもらって使うことにしました。
たしかに頭は何ともなく、不快感はありません。
ところがです。
使用して2日目に白髪が茶髪になったのです。
あまりにも見事な茶髪。
翌日、人に会う約束があったので、即効性のあるヘアカラーで黒くしました。
やはり頭がフワーとしましたが、見事に黒くなってしまいました。

昔、同じ経験をしたことを思い出しました。
茶髪事件です。

あの時は、節子は笑い転げていましたが、人の不幸を見て笑うとは節子もあんまり良い性格ではありませんでした。
今回もきっと節子は「相変わらず懲りないわね」と笑っていることでしょう。

人はどうしてこうも同じことを繰り返すのでしょうか。
私だけなのでしょうか。
困ったものです。

ちなみに、もらったヘアクリームは使い方をきちんと聴いていなかったための私のミスでした。
きちんと使うことによって、茶色から黒くなるのだそうです。
今日から使用再開です。
まもなく私は黒髪になるでしょう。
でもみんなが黒いよりも白い方がいいというのです。
そういえば節子もそういっていました。
黒くなった髪はどうしたら白くできるのか。
さてさて人生には悩みが絶えません。

■1119:からみあったつながり(2010年9月25日)
節子
昨日、突然に北九州の佐久間さんが湯島に来ました。
久しぶりです。
節子は佐久間さんには会う機会はありませんでしたが、佐久間さんが韓国に行った時に、
灌燭寺の魔除けの数珠とお守り札を送ってもらったのです
灌燭寺の弥勒仏は私好みですが、節子にはいささか違和感があったかもしれません。
しかし、節子は最期まで数珠を枕元においていました。
その佐久間さんです。

佐久間さんが湯島に突然やってくる気になったのは、これも奇妙なつながりなのですが、黒岩比佐子さんの本です。
東京に来ていた佐久間さんが書店で黒岩さんの「古書の森逍遥」を見つけて、それで私を思い出しで電話してきたのです。
実はその時、私は大学生たちと湯島で会っていました。
そして「死生観」が話題になり、佐久間さんの話をしていたのです。
まさにシンクロニシティです。

しかも、もう一つのつながりがあります。
灌燭寺の弥勒仏は、黒岩さんが編集を手伝った五木寛之さんの「仏教への旅 朝鮮半島編」で私は知ったのです。
その本は、黒岩さんが送ってきてくれました。
そしてその弥勒を見て、それに興味を抱いたのですが、それを知ってくれた佐久間さんが訪韓した時に灌燭寺に寄って数珠とお守りを贈ってきてくれたのです。

いろいろなことが、このようにつながっています。
折角ですので、大学生たちと佐久間さんもお引き合わせしました。
人のつながりを実感できれば、人は孤独にはなりません。
そして、佐久間さんとも話したのですが、「死」の捉え方が一変します。
まちがっても「無縁社会」などということを口にすることもないでしょう。

人は、そもそも「有縁」の存在です。
たとえ節子のように、彼岸に旅たった人であろうと、その縁が切れているわけではありません。
その縁を実感できれば、死に頭を悩ますことはなくなるのです。

しかし、佐久間さんにもお話しましたが、だからといって、節子がいなくなったかなしさから解放されるわけではないのですが。

ちなみに、佐久間さんもご自分のブログに、このシンクロニシティを書いています。
佐久間さんのブログは、世界が広いので面白いです。

■1120:死が不幸なことなのか(2010年9月26日)
お盆の明けは雨も上がり、いい天気になりました。
庭の彼岸花も賑やかに咲き出しています。

彼岸だったせいか、このところ、湯島に来る人たちと「死」が話題になることが3回ほどありました。
最初はナラティブサロンでした。
前に書いたように、沖縄出身の神里さんが、「沖縄では死は別に不幸なことではなく、自然にまわってくるものだと受け容れられている」というような話をしてくれました。
「死は不幸なことではない」と言っている佐久間さんのことを思い出して、「身内に不幸があった」と言うような表現をしますか、と訊いたところ、彼女は沖縄では聞いた記憶がないというのです。
その会話を聞いていた、岐阜出身の小澤さんも、岐阜でもそういう言い方はしていなかった、東京に来てからそういう表現に触れた」と話してくれました。
別の機会にそれを思い出して、長野出身の人に聴いたら、長野ではそういう表現があるそうです。
まあ3人だけから聞いた話なので、どこまで一般化できるかはわかりませんが、小澤さんはそういう表現は都市の言葉、あるいは都市化の影響で生まれた言葉ではないかと言うのです。
そういわれると奇妙に納得できる気がします。

群馬で半分を暮らしている哲学者の内山さんは1960年代頃から日本人はキツネと話せなくなったという主旨の本を書いています。
これも実に納得できます。
幸いに私は、その前に子ども時代を過ごしていたので、辛うじてキツネと話す世界に馴染んでいました。

キツネに限りませんが、人間以外の動物たちにとって、死は決して不幸なことではないでしょう。
なによりも「死」という概念がないように思います。
もちろん死に直面した仲間や子どもたちを救おうとする動物の行為はあります。
しかしそれは、死を防ぐのではなく、生を全うさせようとしているというべきでしょう。

死を意識できる人間にとって、たとえば幼い子どもを見送ることはたしかに「不幸」です。
しかし、それは生命を断絶することの不幸であって、死一般ではないでしょう。
このあたりは、もう少しきちんと整理しなければいけませんが、死そのものを「不幸」と一括して表現してしまうことにはやはり違和感があります。

一昨日、佐久間さんと会って、この話を少ししましたが、もう少しきちんとすればよかったと思います。
死が不幸なことなのかどうか、これは私たちの生き方そのものにつながる問題です。

今年も彼岸が終わりました。

■1121:お腹が出てきた理由(2010年9月27日)
節子
なんだか急に寒くなりました。
先週まではあんなに扱ったのに、今日はこたつがほしいほどです。
彼岸は、いつも快適なのでしょうね。

この頃、急にいろんな頼まれごとがつづき、なにやら時間があるようでありません。
それに伴い、いろいろと事件が起こっています。
しかしそれを話す相手がいません。
まあ人に話してもたいした意味もなく聴いてもらえない話が多いですが、逆に人には話せないような個人的な話もあります。
そうしたことが溜まっていくと、私としては誰かに話したくなるのです。
私は決して寡黙な人間ではなく、どちらかというと、言わなくてもいいことまで言ってしまう軽薄な人間なのです。
節子にはいつも注意されていました。
もっとも節子も同じで、私からすれば言わなくてもいい話を口にしていました。
そんな夫婦でしたから、私たちはよく話しました。
内容のない話がほとんどだったかもしれません。
まあ、しかしよく話しました。
しかも、意味のない話をしているうちに、意味のない夫婦喧嘩になったことも少なくありません。
夫婦喧嘩した日は会話は激減しましたが、私としては話す相手がいないのは辛いので、いつもすぐ謝りました。
節子が最初に謝ったことはありません。
寡黙を保持する忍耐力は、私にはほぼ皆無なのです。
話の少ない夫婦は、私には理解できないのです。
そもそも夫婦というのは、ほとんど意味のない話でも楽しく話せる関係なのかもしれないと、私は思っています。

最近、家庭での私の会話数はかなり減りました。
娘たちは、節子と違って、意味のない私の話をそうそう聴いてはくれません。
私もそうそう話す気にはなれません。
そのせいか、最近、私はお腹が出てきました。
娘たちは運動不足のせいだと言いますが、私は会話が少なくなったせいだと確信しています。
節子がいなくなった影響は、こんなところにも出てきているのです。

■1122:樹木や雲と話す人(2010年9月28日)
奄美大島出身の西さんが最近、湯島にまたよく来ます。
最初に会った経緯をあまり思い出せないのですが、10年ほどお会いしていなかったのに、2か月ほど前にやってきたのです。
今日もやってきました。

人のつながりは、本当に不思議です。
西さんに最初に会ったのは、彼が開発したナレッジ・サーバーというITシステムの話でした。
西さんの情熱に惹かれて、何回か説明会を企画しましたが、あまりお役には立てませんでした。
しかし、西さんのことはずっと気になっていました。
彼の発する魂のオーラを感じたからです。
彼が奄美の出身だと知ったのは、今回、改めて再開してからです。
やはりそうだったのかと思いました。

西さんは、自然と会話できる人です。
いまでも樹木や雲と話しているはずです。
そういう人がだんだんいなくなってきました。
西さんは彼岸ともつながっているかもしれません。
西さんの話を聴きながら、そんな気がしてきました。

節子は西さんとは会っていません。
会っていませんが、西さんには節子が見えるのかもしれません。
2か月前に久しぶりに湯島に来た西さんと、たしか節子の話をしたような気がします。
何を話したか思い出せませんが、そこに節子がいたような気がします。
西さんもまた、西さんの彼岸の話をしたような気がします。
お互いに、心の底が見えたような、再会でした。

今日、西さんの向こうに一瞬、彼岸が見えたような気がしたのは、気のせいでしょうか。
西さんは、ほんとうに今生の人なのでしょうか。
彼岸の人かもしれないなという気もしました。

節子
湯島のオフィスに、また気が戻ってきたようです。
湯島にいると、いろんな人がやってきてくれます。
本当に不思議な空間です。

■1123:地の人と触れ合うのが好きだった節子(2010年9月29日)
節子
今日は、節子がいたらきっと喜ぶだろうなと思う人が来ました。
杉田ローレンさんです。
和紙の大ファンで、ボストンで紙の輸入をやっているのだそうです。
日本人と結婚したので、今は日本とアメリカの往復だそうです。
日本の自宅は、わが家のすぐ近くだそうです。
場所を聞いたら、ほんとうにすぐそばです。

ローレンさんを連れてきたのは、小宮山理子さんです。
彼女は、以前、NPO関係の機関誌の記事のために私を取材に来てくれて以来の付き合いです。

節子は、日本人よりも外国の人が好きでした。
節子の論理や発想は、私が感ずる限りでは、あんまり日本人的ではありませんでした。
自分の知らない世界に直接触れるのが好きだったのです。
勉強嫌いでしたから、本などで勉強することはまったくありませんでしたが、どこに行っても、そこの地の人と触れ合うのが好きだったのです。
言葉などわからなくても、誰にでも話しかけるというか、声をかけるのです。
その無邪気さは、私には魅力でした。
私とは対照的だったのです。

ローレンさんは和紙に惚れこんでいるようでした。
節子も和紙や日本の繊維生地が好きでした。
ローレンさんのような専門知識は全くありませんでしたが、たぶん話は合ったでしょう。
節子がいたらきっと喜ぶだろうなと思いながら、話していました。

小宮山さんも節子は会ったことはありませんが、思わぬところで共通の知り合いがいました。
長野で地域づくりに取り組んでいる安江さん親子です。
安江さんが長野でクラインガルテンに取り組みたいので現地を見に来てくれと頼まれて、節子と一緒に行ったことがあります。
小宮山さんたちも現地に行ったようです。

人はさまざまなところでつながっているものです。
小宮山さんが節子にお線香をあげてくれました。

■1124:気遣うことに意味がある(2010年9月30日)
節子
岡山の友澤さんと久しぶりに電話で話しました。
友澤さんはもう20年以上前に、節子と一緒に海外旅行に行った仲間です。
その時一緒に行った人たちのグループはとても仲が良く、その後は家族ぐるみのお付き合いになっています。
節子がいなくなってからも、2回もみなさんでわが家にまで花を供えに来てくれました。

しかし、みんなそれぞれに歳をとっていきます。
病気になったりして、次第に電話でもそんな話が増えてきています。
今年はお一人からちょっと連絡がないのがずっと気になっています。
節子がいたら、すぐに電話をするのでしょうが、わざわざ電話するのもどうかなと思いながら気になっています。

節子の友人だけではありません。
私の友人にしても、最近は連絡がないなと時々気づく人がいます。
よほど親しければ電話しますが、何やら電話するのもちょっと大仰かなとも思い、そのうち忘れてしまうのですが、だんだんそういう人が増えてきました。
私自身が歳をとっているのだから仕方がありません。

私が気にしているように、もしかしたら相手も私のことを気にしているかもしれません。
心に思い出す人がいたとして、その人に「最近どうしていますか」などと手紙を書くのも、この歳になると無粋なのかもしれないという気もします。
そもそも気にしているなどと伝えること自体が、よけいなことなのかもしれません。
相手が知ろうが知るまいが、気になったら気にすればいいだけの話なのです。

つまり実際にその人に、心配していたよ、などという必要はないのです。
心配することに意味があるのであって、心配していたことを伝えることに意味があるわけではないからです。

節子に対する思いもそうかもしれません。
節子に会えなくても、節子に伝わらなくても、こうやって節子への思いを書き続けることに意味があるのです。
そう思うと、少し気分が軽くなります。
それでも時々、こうして私が毎日書いているのを節子は知ってくれているだろうかと思うこともあるのです。

■1125:生活の芯(2010年10月1日)
節子
今日は朝の6時過ぎに家を出ました。
こんなに早く家を出るのは久しぶりです。
熊谷の合宿会場に朝一番で着くためです。
本当はゆっくりしたかったのですが、いろいろと用事が重なって、こんなハードな行動になってしまいました。
思い出せば、節子が元気だった頃は、こんな生活が多く、私は飛び回っていた感じです。
節子が病気になってからは、そうした生活はやめましたが、節子がいなくなってからは、さらにそうした生活ではなくなりました。
時間をもてあますほど、ゆっくりした生活になったのです。

しかし最近また、さまざまな活動に関わりだしています。
以前ほどではありませんが、一見、つながりのない話題の間を行き交いだしています。
人にたくさん会います。
私が何をしているのか理解できない人も少なくないようです。
外から見たらまったくランダムに生きているように見えるかもしれません、

しかし、そうしたさまざまな分野の活動も、私の中ではしっかりとつながっていました。
つないでくれていたのは、節子との時間だったのです。
つまり「自分たちの生活の視点」です。
私たちは、さまざまな問題に絡まりながら生きています。
生活の視点で見ると、一見無関係に見える話がつながってくるのです。

私が、問題から発想せずに、生活から発想する視点をもてたのは、節子がいたおかげだと思っています。
私自身の生き方を、つねに具体的に、体験的に、感じられたからです。
それにどんなテーマも、節子と話し合いながら生活の視点で反芻できたのです。

しかし、節子がいないいま、どうも自分の生活が見えなくなってきました。
相変わらずさまざまな分野には関わりたいのですが、どうも問題に埋没してしまい、生活が拡散しそうです。
しっかりと生きるためには、生活の芯がないといけないことを痛感します。

■1126:人によって時間の進み方は違います(2010年10月2日)
節子
久しぶりにチビ太の散歩に行きました。
歳のせいであまり散歩もできず最近は庭を歩いたり、家の前だけで済ませたりしていますが、今日はめずらしく通りに出て、自分から坂を下りだしたのです。
もっとも時々よろけるので、ゆっくりと注意しながらの散歩です。
お医者さんも、奇跡的な回復だと言っているそうです。

チビ太とゆっくり散歩しながら、節子との散歩を思い出しました。
節子との散歩も、ゆっくりでした。
ゆっくり歩くことの大切さを、最近また忘れてしまっているのに気づきました。
しかし相手の時間に合わせて歩かないと相手は理解できないことだけは、しっかりと覚えています。
これも節子から教えてもらったことですが、時間は人によって、状況によって、まったく違うのです。
時計の進む速度は同じように見えますが、たぶん違っているのです。
にもかかわらず、時計を見るとみんなの時計が同じ時間を指しているのか、とても不思議です。

それに、時間はだれにでも平等に与えられてはいるということはありません。
自分の時間、相手の時間、その違いをきちんと知ることが大切です。
象の時間とねずみの時間が違うように、人もそれぞれ違う時間を生きているのです。

チビ太と歩いていて、そんなことも思い出しました。
たまにはチビ太の散歩もしなければいけません。

■1127:中村一明先生(2010年10月3日)
節子
昨日から我孫子の手づくり散歩市です。
節子がいた頃と同じく、わが家もその会場の一部です。
節子がいたらケーキを焼いたりするのでしょうが、今年はジュンのパートナーの峰行さんの手づくりのヴィスコッティと珈琲です。

今日は先日やってきた杉田ローレンさんが連れ合いと一緒にやってきました。
杉田精司さん。惑星が専門の東大の教授です。
惑星とは、夢があります。いろいろなお話を聴きました。
地震と火山の話が出たので、中村一明さんと一緒に、ハワイのキラウェア火山に行ったことを思い出しました。
杉田さんも中村さんのことをご存知でした。
中村さんも東大の教授でしたが、一緒にハワイに行った数年後に、若くして亡くなってしまいました。

前にも書いたと思いますが、中村さんが同行してくれたこのツアーはとても面白い旅でした。
キラウェア火山のボルケーノハウスで、中村教授が参加者に火山とプレートテクトニクスの講義をしてくれた風景を、今もはっきりと覚えています。
その分野にはほとんど知識のない節子も、しっかりと理解できたと思いますが、なによりも中村さんの優しい人柄が印象に残っています。
ボルケーノハウスの暖炉の前でのゆったりした時間も、とてもあたたかい思い出です。

それが私と節子が一緒に行った初めての海外旅行でした。
とてもいい旅行でしたが、それはたぶん中村さんのお人柄が影響しています。
高名な大学教授でありながら、とても気さくに私たちに接してくれました。
一緒に行ったメンバーで、一番、知識も理解力もなかったのが節子だったと思いますが、なんでもない主婦の節子にも中村さんは気さくに声をかけていてくれました。
帰国後、中村さんがテレビに出ると、節子はいつも大きな声で私を呼んだものです。
その中村さんが若くして亡くなってしまった。
人の一生はわからないものです。
中村さんが亡くなられてから25年ほど経ちますが、中村さんの顔は今でも時々思い出します。
節子と私の、共通の思い出の一つだからでしょうか。

■1128:苦楽を共にする(2010年10月4日)
節子
最近は疲れることが多くなりました。
いろんな相談を受けて重荷を背負っても、それをシェアする節子がいないからかもしれません。
帰宅して、節子に話をするだけで、気分が軽くなっていたのを思い出します。
いまは重い荷物を背負ったまま、寝なければいけません。
いろいろと思いながら眠れないこともあります。
眠れないからと言って、起こして話を聴いてもらう節子も今はいません。

苦楽を共にする、とは良い言葉です。
しかし苦楽を共にする相手がいなくなると、人生は狂いだします。
それに私の場合、いささか苦楽を共にしすぎていたかもしれません。
節子がよくいっていたように、自立できていなかったわけです。
困ったものです。

節子がいない今は、苦楽は私の人生から消えてしまったような気もします。
苦も楽も、すべては重い荷物でしかないといってもいいかもしれません。

■1129:「もう一度、みんなの食事をつくりたい」(2010年10月5日)
節子がいなくなってから台所に立つことが増えました。
と言っても、料理を作るわけではありません。
私はそうしたことがまったく不得手で、今は娘たちに依存しています。
しかし食器洗いとかをすることは増えました。
一応、食器の自動洗浄機はあるのですが、節子はきちんと手で洗うのが好きだったので、わが家では普段は使わないのです。
その文化は、今も続いています。

台所に立つと思い出す言葉があります。
「もう一度、みんなの食事をつくりたい」
料理をつくれないほどに節子の病状が進展した頃、節子がよく言っていた言葉です。

再発してからも節子は台所に立っていました。
節子はさほど料理好きだったわけではありません。
病気になってからは、なにかと家族に依存する面がでてきたのですが、そうしたなかで家族のために何かをしたいという思いが強まっていったのです。
それができないことは、節子にとってはとても腹立たしかったことでした。
そばにいて、節子のその思いはいたいほど伝わってきました。

最後の1か月の闘病生活は、思い出したくないほどに節子も家族も共に辛いものでしたが、わが家には悲壮感はあまりありませんでした。
それは節子の家族への思いの深さのおかげかもしれません。
今から考えると、ケアされていたのは節子ではなく私だったのかもしれません。

節子が台所に立たなくなってから3年数か月が経ちました。
今日は食器を洗いながら、涙がとまりませんでした。
節子の言葉を思い出してしまったからです。
いつかまた、私のために節子が料理してくれることを確信しています。
まあ節子の料理は、さほどおいしくはないので、味は期待していませんが。

■1130:正倉院(2010年10月6日)
正倉院は、光明皇后が、夫の聖武天皇の七七忌に、天皇の遺品を収納するためにつくったといわれます。
遺品に併せて、たくさんの薬物も収納されているというところに感ずるところがあったのですが、昨夜のテレビで、光明皇后が夫の遺品を見るのが辛かったと記録に残していることを知りました。
遺品を見ると涙が出てくる。

私と節子の物語は、東大寺の庭から始まりました。
電車であって、そのまま一緒に奈良に行き、東大寺の裏庭で他愛のない話をしたのが、付き合いだすきっかけでした。
そのすぐ近くに、正倉院がありました。

節子の遺品は、わが家にはまだたくさんあります。
衣服もあれば装飾品もありますし、茶碗もまだ残しています。
40年近く書き続けた日記も節子の書棚に並んでいます。
なにか必要があって、時に節子の遺品の中を探すことがありますが、その度に私にも思い出のあるものが出てきます。
ですから節子の遺品は、私にはまだ禁断の山なのです。

捨てられないが、触れるのも辛すぎる。
そんな気がしていますので、昨夜、テレビで光明皇后の残した文章を知って、正倉院の意味が始めて理解できました。
光明皇后の行跡の意味も改めて理解できたような気がします。

光明皇后が東大寺に並んで総国分尼寺として建立したのが佐保路にある法華寺です。
私の十一面観音像めぐりは法華寺から始まりました。
法華寺の十一面観音は魅力的だと聴いていたからですが、どこかに違和感がありました。
節子に会う前に数回訪れましたが、やはり違和感は拭えませんでした。
ただ法華寺の雰囲気はとてもよかったので、節子と一緒にも行きました。
節子もあまりピンと来なかったようです。
その後、節子と一緒に行った渡岸寺の十一面観音には一目惚れしました。
渡岸寺は節子の親元の滋賀県高月町にあります。

私と節子をつなげたのが十一面観音だというわけではないのですが、なにかいろいろな因縁がからみあっていると思いたい気もします。
愛する人の遺品には、複雑な思いが重なってきます。
お金があったら私も正倉院を創りたいです。
いや本当は、捨てずにすべてを彼岸に送りたい気分なのですが。

■1131:人は悲しみに出会うたびに優しくなる(2010年10月7日)
人は悲しみに出会うたびに優しくなれます。
悲しみに出会わなくても優しい人もいるかもしれませんが、そういう人も、悲しみに出会うことでさらに優しくなれます。

しかし、悲しみがすぐに優しさを与えてくれるわけではありません。
人は、それぞれに悲しみを抱いているものです。
あまりに深い悲しみに襲われると、そうした当然のことが見えなくなるのです。
自らの悲しみが、底のない深みへと向かいだす。
その過程では人は優しくなどなれません。
むしろ意地悪になり、卑しくなりかねません。
奈落へと落とされた自らの命運を呪いたくさえなるのです。
私がまさにそうでした。

しかし、周りが見え出すと、心は反転します。
そして優しくなれることに、ようやく気がつくのです。
それは、自らが無数の優しさに包まれていることを感ずるからではありません。
むしろ無数の悲しさが世界を覆っていることに思いが至るからです。
愛する人を失ったのは自分だけではないのです。

優しくなるとどうなるか。
私の体験からいえば、「生きやすく」なります。
その一つの理由は、悲しみの閾値が広がるからです。
悲しみを体験すると、それを超える悲しさでなければ、乗り越えやすくなります。
さらに、自らの悲しさを通して、他者の悲しさがよくわかるようになります。
そして、悲しみこそが生きることの豊かさなのだと気づくのです。

悲しみに気づくことなく歳を重ねていく人もいるかもしれません。
しかし、自らをしっかりと生きていたら、悲しみのない人生などありえないでしょう。
悲しみがあればこそ楽しさがある、悲しみがあればこそ幸せがある。
負け惜しみに聞えるかもしれませんが、今の私の素直な気持ちです。
人は悲しみを重ねることで、優しくなっていく。
そんな気がします。

これは「可能性」の話です。
悲しみに出会って優しくならない人もいるでしょう。
しかし私は、節子と別れたことで、優しくなれたと思います。
その証拠に、涙を流すことが増えています。
涙と悲しさは関係ないといわれればそれまでですが、涙が出ると、とても優しい気分になれるのです。

私の涙の源泉は、いまはすべて節子です。

■1132:別れの悲しさ(2010年10月8日)
昨日の挽歌を書いてから、別れの悲しさには2つあるような気がしてきました。
意図的な別れと意図せざる別れです。
あるいは、人との別れと思いとの別れです。

私にとっては、伴侶との別れほど深い悲しみはありませんが、別れなくてもいいのに自らの判断で別れる人もいます。
そういう人は、伴侶との別れといっても、私の場合とはまったく違うでしょう。
その人の別れの悲しさは、もしかしたら「その人の愛の思い」との別れかもしれません。
私には、愛する人(物や自然でも同じなのですが)への愛が終わるということが理解できませんが、愛が憎しみに変わる話は古今東西たくさん語られていますから、そういうこともあるのでしょう。

節子との別れを知ったある人は、私に「自由になってよかったと思ったらどうですか」といいました。
それなりに注目されている社会活動をしている人です。
私自身がまだ十分に立ち直れていない時だったので、心の傷は深く、今も忘れられません。
しかし、自由を損なうような愛があるとは、私には思えません。
愛する人がいればこそ、自由を謳歌できるというのが、私の考えであり、体験です。

意図に反して自由を束縛されるような愛であれば、それとの別れも考えられます。
しかし、それを「愛」というかどうかは私にはわかりません。

私にとって、節子との別れは意図せざるものでした。
だから奈落に落ち込むほどの哀しさに襲われたのです。
しかしその一方で、思いとの別れは起きませんでした。
節子への愛は、未来永劫変わらないでしょう。
それが私の悲しみを反転させたといってもいいかもしれません。

意図して「思い」と別れた人は、「人」との別れも同時に起こります。
それはあまりにもむごいことで、優しさに気づけないかもしれません。

こう考えてくると、私の悲しみなど、取り立てて言うほどのこともないかもしれません、
にもかかわらず、なぜこれほどに、いまも節子に会いたいと思うのでしょうか。
思いと人は、やはり切り離せない存在なのです。
それについて書き出すと、また際限なく続きそうです。

■1133:冬の時代(2010年10月9日)
節子
黒岩比佐子さんから最新著作の「パンとペン」が送られてきました。
まずは節子に報告させてもらいました。
今夜は節子の前においておくので、必ず読んでください。

黒岩さんが堺利彦のことを書くという話は前にお聴きしていました。
しかし、なぜ堺利彦なのかは教えてくれませんでした。
本書の帯に書かれた「あとがき」からの抜粋でわかりました。

堺利彦が幸徳秋水と共に日露戦争に反対して設立した平民社のことは、これまでに多くの歴史書が取り上げている。一方、堺が社会主義運動の「冬の時代」を耐え抜くために設立した売文社は、ほとんど無視されているに等しい。だが、私は「売文社」という語の強烈なインパクトに惹きつけられた。

黒岩さんらしい「はじまり」です。
黒岩さんのことですから、膨大な資料と格闘しながらの著作活動だったと思います。
それを彷彿させる重量感のある本になっています。
黒岩さんのこだわりも、さまざまなところで感じられます。

しかし、本書を書き上げる直前に、黒岩さんは突然、膵臓がんを宣告されたのです。
その知らせを受けた時には、私は応えようがありませんでした。
何も話せない、何も書けない、まさに金縛りの状況に陥ってしまいました。
黒岩さんを元気づける方法が思いつかなかったのです。
黒岩さんからどう思われてしまったかわかりませんが、ともかく反応できなかったのです。
その後も、共通の友人からお見舞いに行こうと誘われましたが、行けませんでした。
節子がいたら、2人ですぐにでも跳んで行ったでしょう。
しかし、節子のいない今は、とても行けません。
友人は、私の考えすぎだと言いますが、ともかく行けなかったのです。

先日、黒岩さんのトークショーに行き、楽屋で黒岩さんに会いました。
とても元気そうで、あの気丈な黒岩さんがいました。

黒岩さんは節子をよく知っています。
節子の見舞いにも、節子との別れにも、節子への献花にも来てくださっています。
節子は黒岩さんの活躍をとても楽しみにしていましたし、その頑張り屋さんぶりにもいつも感心していました。
ですから、本は先ず節子に報告し、読んでもらうことにしたのです。

黒岩さんは、自らの病気のことをブログに書いています。
ぜひお読みください。
本書のあとがきには、こう書いています。

はたして最後まで書けるだろうか、という不安と闘いながら、なんとかここまでたどりついた。死というものに現実に直面したことで、「冬の時代」の社会主義者たちの命がけの闘いが初めて実感できた気がする。いまは、全力を出し切ったという清々しい気持ちでいっぱいだ。

私の「冬の時代」はまだ続きそうだが、どんなに苦しいときでも、堺利彦のようにいつもユーモアを忘れず、楽天囚人ならぬ「楽天患者」として生きることで、きっと乗り越えていけるだろうと信じている。

黒岩さんならそうできるだろうと、私も心底思います。
黒岩さんには、まだまだ書いてほしいです。
本書も、堺利彦に関する黒岩さんの思いの、おそらく一部でしょう。
まだまだ書きたいことが山のようにある。
書いてほしいことが山のようにある。

毎朝、節子と一緒に、黒岩さんの活躍を祈っています。
阿修羅像を思い出しながら。

■1134:阿修羅(2010年10月10日)
阿修羅は「命を与えるもの」という意味のサンスクリット語を語源とする、仏教の守護神です。
高校生の頃、東京国立博物館で帝釈天の像を見て、私はかなり惚れこんだのですが、帝釈天と戦うイメージが強いことから阿修羅には興味がありませんでした。
それを一変させたのは、萩尾望都の漫画「百億の昼と千億の夜」です。
そこに登場する阿修羅は、興福寺の修羅像そのものでした。
以来、その阿修羅像が私の中に完全に定着し、帝釈天は退屈な存在になってしまいました。

阿修羅の世界は、仏教では、「常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界」とされているようです。
まさに修羅場です。

今日、黒岩比佐子さんから送られてきた「パンとペン」を読みました。
素晴らしい作品です。
その紹介は、私のホームページに載せました。

読みながら、常に思い出していたのが、なぜか阿修羅です。
堺利彦の評伝である「パンとペン」にはもちろん阿修羅は出てきません。
しかし、なぜか時空を超えた宇宙を飛び回っている阿修羅が、読んでいる私の頭と心の中を飛び回るのです。
読み終わって気づいたのですが、興福寺の阿修羅は黒岩さんに似ています。
やさしさと怒りを秘め備えた穏やかな顔。

阿修羅は「命を与えるもの」です。
「命を与えられるもの」ではないのです。
しかし、自らに「命を与えるもの」でもあるのです。
「百億の昼と千億の夜」に出てくる阿修羅は不死身でした。

黒岩さんの今回の本は、間違いなく歴史に残るでしょう。
この本にも、黒岩さんは命を与えました。
それ以上に、本書に出てくるたくさんの人たちにも命を与えました。
阿修羅です。

そう思いながら、節子もまた阿修羅だったと、気づきました。

■1135:意味のない1日(2010年10月11日)
節子
誰かに会っているといいのですが、2日も続いて誰かに会う予定のない日ができてしまうと気分がダウンしてしまうことが最近わかってきました。
そのくせ、誰かに会うのはなんとなく億劫な気もするのですから、奇妙な話です。

この連休は集まりなどの予定もなく、2日間、在宅でした。
昨日はめずらしく読書三昧でしたが、今日はすることがありません。
「しなければいけないこと」はあるのですが、暇な時には、そんなことはしたくありません。
節子もよく知っているように、私は「しなければいけないこと」は、「しなければいけなくなるまで」放っておくタイプなのです。
節子にはいつも注意されていましたが、その生き方は直りません。
それで今日も、何かをするでもなく、しないでもなく、1日を過ごしてしまいました。
こうした日は、夕方になると実に虚しくなります。
今日は意味のない1日だったと思えてきます。
節子がいた頃には、意味のない日など1日たりともなかったのに。

節子がいなくなってから、どうも時間をうまく使うことができなくなってしまったようです。
まだまだ立ち直れていないのかもしれません。
困ったものです。

■1136:まだ髪の毛が黒くなりません(2010年10月12日)
節子
最近また頭の調子があまりよくありません。
降圧剤をきちんと飲んでいないせいかもしれません。
最近は半錠ずつしか飲んでいないのです。

今日、2か月ぶりに遠藤医師のところに行きました。
また薬がなくなったの、と顔を見るなり言われました。
前回も、薬がなくなってから10日目に行ったからです。
今回は半錠ずつ飲んでいたので、薬はまだ残っていましたが。

まあ、それはいいとして、血圧を測定しながら、遠藤さんは私の髪の毛をチラチラ見ているのです。
そのせいか、今日は左手と右手を交互に3回も測定されてしまいました。
つまり遠藤さんは、私の頭の状況を左右から見たと言うわけです。
遠藤さんは私の髪の毛が茶色に染まっているのに気づいたに違いありません。

実はまだ私の髪の毛は茶髪系です。
白髪染めをくれた人は、使っていると黒くなるというのですが、なかなか黒くなりません。
よくいえば、栗毛色なのですが。
口の悪い娘は、犬みたいだと言いますが、そう言われると本人としても、いささか気になります。
染め始めなければよかったなと思わないこともないのですが、もはや後には引けません。
それにこれを提供してくれた人が、とても良い人たちで、彼らの期待にも応えなければいけません。
もっとも、その人たちも先日会ったら「茶色ですね」と言っていました。
しかし、遣い続けると黒くなるのだそうです。
友人の言葉は信じなければいけません。
しかしまあ、彼らも笑いながらそう言っていたのがちょっとひっかかりますが。

でいま気づいたのですが、頭の調子が悪いのは血圧のせいではなくて、この白髪染めのせいかもしれません。
事実、今日、遠藤さんの血圧測定は正常でした。
にもかかわらず、遠藤さんはなぜ3回も測定しなおしたのでしょうか。

人は疑い出すときりがありません。
堺さんが言うように、人の言葉は信じなければいけないのです。
でも先行きがちょっと不安ではありますが。

■1137:訃報(2010年10月13日)
節子
訃報が相次いで届きます。
しかし、なかなか反応できずにいます。
訃報もまた、一人で受け止めるのはそれなりに辛いものがあります。
それに、この歳になるといつ自分が訃報の主役になるかもわかりません。
他者の訃報は自らの訃報に重なって感じられます。

新聞に掲載される訃報記事はよく読まれる記事の一つだといわれていました。
最近はどうでしょうか。
たしかに有名人の追悼記事などはよく読まれるでしょうし、テレビで故人を偲ぶ番組も視聴率は高いと思われます。
人の死は、それだけ大きな意味があるということでしょう。
人の死は自らの生を改めて実感させる意味があるのかもしれません。

自らがいなくなった後、自分のことをみんながどう話すのかは予想もつきません。
節子は、私がこうして毎日節子のことを語っているとは思ってもいなかったでしょう。
私自身、思いもしませんでした。
しかし、こうして毎日書き続けていると、節子とのつながりが続いているような気がします。
逆に言えば、書くのをやめた途端に、節子との絆が切れてしまうような気がしてきています。
だからもはやこの挽歌はやめられなくなっているのです。

久しく会っていない人の訃報が届くことがあります。
一瞬にしろ、その人の冥福を祈ります。
それは同時に、その人との関係が、それこそ走馬灯のように頭に浮かんできます。
ある意味では、その人との絆を、そこで確認することになります。
久しく会っておらず、おそらくこれからも会うことのない人の場合は、その人が現世にいようが彼岸にいようが、現実的には何の変化もありません。

人が彼岸に行くとはどういうことなのか。
最近、訃報が届くたびに、そんなことを思います。
不思議に悲しい感情が浮かぶことはあまりなくなってしまいました。

■1138:紅葉の思い出(2010年10月14日)
節子
紅葉の季節になりました。
節子の病状が少し回復してから、各地の紅葉狩りに節子と一緒に出かけました。
そのせいか、節子がいなくなってからは紅葉も見たくなくなっていました。
紅葉時の箱根に行った時には、下を向いて歩いたほどです。

しかし3年して、ようやく紅葉への抵抗もなくなってきました。
「時間が癒すことがない」と言いきっていましたが、時間が癒すこともあるのですね。
もっとも、これを「癒し」と言うべきかどうかは少し迷いますが。

紅葉といえば、思い出すのは節子と行った京都高尾の神護寺です。
いつのときだったか思い出せませんが、実に見事な紅葉でした。
節子がまだ病気になる前でした。

高雄には、高雄、槇尾、栂尾の三尾と呼ばれる紅葉の名所があります。
節子と結婚した頃、よく京都や奈良を歩きましたが、京都で私が好きだったのは、この三尾です。
そのコースの一番奥のほうには、たしか北山杉の森が見えていたような気がします。
初めてみた北山杉の風景に感激したのを覚えています。
そこから節子と2人で高雄まで歩いた記憶があります。
私たちは、よく歩きました。
歩きながらよく話しました。

私も節子も、一番好きだったのは栂尾の高山寺でした。
その大きな石畳をはっきりと覚えていますが、最後に2人で三尾を訪ねたときは秋だったせいか、ともかく神護寺の鮮やかな紅葉の印象が強く残っています。
その高山寺にも神護寺にも、2度と行くことはないでしょう。
行けば辛くなることはわかりきっています。

節子と一緒に行った最後の紅葉は、もしかしたら東京の高尾山かもしれません。
私のパソコンの画面は、その写真になっています。
実は高尾山は結婚する前に節子と一緒に行った最初の東京の山でもあるのです。

今年は思い切って、むすめたちと高尾山に行こうかと思い出しています。
別に紅葉が見たいわけではないのですが、私がシェアしている節子の思い出を娘たちにも伝えておきたくなったからです。
今年の紅葉はとてもきれいなそうですし。
もちろん、節子の美しさには勝てないでしょうが。

■1139:宇宙人説(2010年10月15日)
節子
髪の毛が黒くならないのでその商品をくれた藤本さんに本当に黒くなるのかと質問したら、普通は黒くなる、黒くならない佐藤さんは普通の人間ではないのではないか、と言われてしまいました。
ともかく他の人の場合は、黒くなるのだそうです。
私が普通の人でないとはどういうことでしょうか。
宇宙人とでもいうのでしょうか。
私からすれば、そう言う藤本さんこそ、普通の人ではない不思議な人ですが。

そういえば以前、鈴木章弘さんが佐藤さんはUFOに誘拐されたことがあるはずなので、その時の話を聴きたいと何回も言われたことがあります。
私にはUFOに誘拐された記憶はないのですが、何回も言われていると人はその気になってしまうもので、そうかなと思ったこともないわけではありません。
しかし、私からすれば、そう話している鈴木さんこそ、宇宙から来たような気がします。
最初に会った時の鈴木さんは、若い仙人のようでした。
その後、4か月もインドのアシュラムに行っていましたが、実はインドではなく故郷の星にもどっていたのかもしれません。
藤本さんと同じく、これまた不思議な人です。

とまあ、こう考えていくと、私の周りには不思議な人が少なくありません。
一説によると、すでに地球にはかなりの数の宇宙人が住んでいるそうです。
私は一応、その説を否定できずにいますが、藤本さんも鈴木さんも宇宙人に違いありません。

しかし、お2人が宇宙人だとすると、私が宇宙人でない証拠もありません。
自分のことを一番知らないのは自分だと言います。
藤本さんと鈴木さんが、自分が宇宙人だと気づいていないように、私も気づいていないのかもしれません。
2人は、なんとなく直感的に私に同じ仲間のにおいを嗅ぎ取っているのかもしれません。
そうであれば、3人とも宇宙人と言うわけです。
そして私の茶髪は黒くならないことになります。

節子は国際結婚どころが宇宙人と結婚していたわけです。
苦労したはずです。

ところで、藤本さんも鈴木さんも節子のことをとても心配してくれていました。
ちなみに2人とも、とてもスピリチュアリティの豊かな人なのです。
節子が病気中、鈴木さんはよくクッキーを送ってきてくれました。
節子が一時ちょっと回復しサロンを再開した時、藤本さんはよく参加してくれました。
節子が逝ってしまった後、藤本さんは大きな花束を贈ってくれました。
鈴木さんは、しかし、節子が逝ってしまった後はなかなか会いにきてくれません。
なぜでしょうか。
手紙はよく届くのですが。
鈴木さんに会わなければいけません。

■1140:天真(2010年10月16日)
節子
今日、黒岩さんの講演会に行ってきました。
体調の悪さを微塵も見せることなく、2時間の講演を見事に終えました。
内容のある、そして黒岩さんならではの、とても良い講演でした。
黒岩さんには見えない場所に座ろうと思っていたのですが、藤本さんが黒岩さんの正面の席を取ってくれていたので、黒岩さんがよく見える席でした。
話を聴きながら、さまざまな思いが頭をめぐりました。

幸徳秋水と菅野すがとが内縁関係になった時の話題がでたところで、堺利彦の妻の為子の話が出ました。
「パンとペン」の中で、私の印象に残ったところの一つでした。
黒岩さんは、講演ではそこはサラリと話しましたが、本の中で私の心に残ったのは「天真」という言葉です。

菅野すがとの関係で幸徳秋水は仲間たちから激怒されます。
しかし、当時、獄中にいた堺は妻にこう頼むのです。
「幸徳の心労はよく分かるが、あなたから「天真」を返しておくれ」

為子は、その言葉に関して、こう書いています。
「私たち二人の結婚に際して、多くの反対者の中から「天真にやれ」と励ましてくれた幸徳氏へ、そのままの言葉を私から返せ、といふのであつた」

黒岩さんはこう書いています。
堺は秋水の気持ちを思いやり、自分が再婚したときに受けた批判も思い出して為子にこういったのだろう。他人はいいたいことをいうが、偽りのない天然自然のままでやれ、と秋水を励ましたのだ。

節子と私の結婚も、実は周りからはいろいろと噂されました。
突然の結婚、しかも結婚式さえ挙げずに同棲生活となれば、当時はまだなにかと指差される時代でもありました。
ものすごい大恋愛という噂もあれば、いささか誹謗にも感じかねない噂もありました。
そもそも最初はそれぞれの両親からもあまり歓迎されていなかったのです。
しかし節子の両親は私と会ってすぐに、私の両親も節子に会ってすぐに、意を翻して喜んでくれました。
私たちは二人とも「天真」だったからです。
しかし、節子は親戚の人たちからはかなり厳しい批判を受けたようです。
私たちの「天真さ」が、そうした批判も解きほぐし、私の評価がまあそれなりのものになるまでには、それなりの時間がかかったはずです。
その間、節子はもしかしたら辛い思いをしたかもしれませんが、まあ節子も「天真」でしたので、あんまり辛くなかったかもしれません。
パンとペンを読んで、「天真」と言う言葉に出会った時には、その頃のことを思い出したのです。

黒岩さんは気のせいか最後に少し涙ぐみました。
それと同調するように、私も突然に涙が出てしまいました。
黒岩さんの涙はたぶん講演を成し遂げた歓びの涙だったと思います。
それほど素晴らしい講演だったのです。
私の涙は、節子に聴かせてやれなかった無念の涙でもありました。
あれほど黒岩さんの活躍を楽しみにしていた節子がいないことが無念でした。

講演が終わった後、ジュンがつくったマリアのタイルを黒岩さんに差し上げました。
マリアが黒岩さんを守護してくれるように祈りました。
阿修羅とマリアの相性がいいといいのですが。

■1141:三川内焼(2010年10月17日)
節子といつか行きたかった場所のひとつが、長崎の三川内です。

今朝、早く目が覚めてしまいました。
テレビをつけたら、その三川内町の紹介番組が放映されていました。
先週見た「こんなステキなにっぽん」三川内町の再放送でした。
長崎県佐世保市の三川内町は白磁器の三川内焼の町です。
隣にある有田焼よりも、歴史は古いはずです。
白い磁肌に青い顔料一色で色付けするのが三川内焼の特徴です。
「唐子」の絵柄が有名ですが、見ているとほのぼのするデザインです。
番組は、そこで伝統の技を受け継ぐ家族を中心に三川内焼きを紹介していました。
先週も見たのですが、もう一度見てしまいました。

私が三川内焼の窯元たちと一緒に、陶芸の里構想に取り組んだのは、会社を辞めてから2年経った頃です。
どういう縁か思い出せませんが、佐世保市の職員から、その陶芸の里構想を手伝って欲しいといわれたのです。
何回も通い、窯元たちと話し合いました。
その時の思い出が、テレビを見ていて次第に蘇ってきたのです。

テレビでは当時、よく話し合った中里勝歳さんと里見晴敏さんが登場していました。
お2人とも息子さんに技を継承しつつあり、幸せそうな落ち着いた表情になっていました。
いまの三川内焼がどういう状況かも、お2人の表情から伝わってきました。

節子は陶器が好きでした。
いつか三川内にも行きたいと思いながらも、それは60歳を過ぎてからの旅にしようと思っていました。
一時期、まちづくりに関わらせてもらっていたので、沖縄から青森まで、私には友人知人がそれなりにおり、そうした人たちを訪ねる旅ができればと考えていたのです。
しかし、今から思えば、実に身勝手な考えでした。
人生はそんなに思い通りには行かないのです。
節子はいつも、行ける時に行くのがいいと言っていましたが、その言葉に従っていれば、私たちの人生も変わっていたかも知れません。

テレビを見ながら、懐かしい思い出と共に、そうした悔いがわいてきてしまいました。
何を見ても、何をしても、節子が必ず登場します。
困ったものです。

その時に平戸松山窯の中里さんからいただいた、唐子模様の珈琲カップで、今日は節子に珈琲を供えようと思います。

■1142:がんになりたいわけではないのですが(2010年10月18日)
書こうか書くまいか迷ったのですが、書くことにしました。
親切な行為も受け取り方によっては素直に受け取ってもらえないことがあるという話です。
素直に受け止めなかったのは、実は私なのですが。

ある人がメールで、「がんにならないために」という講演録を送ってきてくれました。
私があまり健康診断に行かないことを気遣ってのことなのだろうと思います。
しかし、私はこの講演録を読むことはありません。
というよりも、正直に言えば、この人の無神経さに少し苛立ったほどです。
親切に送ってきてくれたのに、何という身勝手さだと思われるかもしれません。
しかし、そういうこともあるのです。

愛する妻を見送ってしまった者として、私はがんになるのを避けたいという気持ちはほぼ皆無なのです。
このあたりはなかなか微妙なのでわかってはもらえないかもしれませんが、がんになることが悪いとすれば、がんになった節子の立場がないような気がしてならないのです。
ひがみ根性といわれれば、それまでの話なのですが。

この挽歌を読んでいてくださる方から、メールが届きました。
お会いしたことありませんが、夫をがんで見送った方です。
その方には、がんを完治された先輩がいるそうですが、ご主人の闘病中は、完治された人がいるということが支えになっていたそうです。
ところが、私と同じく、その方も伴侶を見送ることになってしまったのです。
先日、その先輩の方のところに行かれたそうですが、こんなメールを送ってきてくれました。

帰りの車中で 何が私たちは間違っていたのかと もうなん百回も 自問したことが頭をもたげ 涙 ぼろぼろでした。

「私たちは何を間違ってしまったのか」
私も繰り返し自問したことです。
いくら自問したところで、答があるはずもありません。
しかし、今でも「がんを治す」とか「がんの予防」とかいう文字を見ると必ずそれを思い出します。
だから私はがんを予防しようなどとは思いません。
あまり論理的ではないと思われるでしょうが、それが素直な私の今の気持ちなのです。
もちろんだからといって、がんになりたいわけではありません。
私以外の人にはがんになってもらいたくないとも思っています。
しかし私に限っていえば、がんになった節子を否定するような気がして、自らはがんの予防は一切する気はないのです。
どこか偏屈で矛盾しているような気もするのですが、正直な気持ちなので仕方ありません。

■1143:飛鳥大仏の前での秘め事(2010年10月19日)
節子
今年は平城京遷都1300年なので、奈良や飛鳥がよくテレビで取り上げられます。
奈良も飛鳥も、節子との思い出がたくさんあるので、あまり見ないようにしていますが、時々、ついつい見てしまいます。
先日は、飛鳥寺の紹介番組を見てしまいました。

飛鳥は、私の好きなところでした。
ですから節子と付き合うようになって、かなり早い時期に飛鳥寺にも行った記憶があります。
飛鳥大仏の前で、私は蘇我氏の話を得々としたものです。
飛鳥も好きなら、蘇我氏も物部氏も私は好きでした。
ちなみに私には蘇我氏も物部氏もなぜか同族に思えていました。
蘇我王朝の前には物部王朝があったというのが、当時の私の考えでした。
古代史に関する本を読み漁っての、勝手な仮説でしたが、自分の仮説を立てて古代史を読むととても面白いのです。
しかし、誰かに話したくても、そんな素人の思いつきは誰も聴いてはくれません。
幸いに節子は歴史音痴でしたので、私の説を何の疑いもなく素直に聴いてくれました。
私も、いい加減な説を得意になって話せたわけです。
そんなわけで、節子の古代史の知識は、かなりおかしなものになっていたはずです。

実は飛鳥大仏の前で私がしたことは、飛鳥の歴史を語っただけではありません。
当時はまだ観光客も少なく、大仏の鎮座する堂宇には私と節子だけしかいませんでした。
それでついつい大仏の前で節子を抱きしめることを思いついたのです。
日本最古の大仏の前で、節子との愛を表現するのは最高のアイデアだと思ったからです。
ところが、節子は、仏様の前でそんな不謹慎なことはできないと拒否するのです。
節子はそういう人であり、私は逆にそういう人でした。

節子は、いつまでもこの時のことを思い出しては、笑いながら私の不信心をからかいました。
飛鳥大仏を見ると、いつもそのことを思い出します。

こんな話をできる唯一の相手の節子もいなくなってしまいました。
二人の秘め事(?)を挽歌で書いてしまったので節子はきっと怒っていることでしょう。
あの時、拒否された、せめてもの腹いせです。
彼岸に行って、同じような状況になったら、今度は私が拒否しようと思います。
そういう場面が巡ってくるといいのですが。

■1144:「佐藤さんもお元気で」(2010年10月20日)
節子
今日、半田さんが学生たちと一緒に湯島に来てくれました。
いろいろと楽しい話をした後、帰り際に半田さんが言いました。
「佐藤さんもお元気で」

節子が胃の摘出手術をした後のことだったと思いますが、私もいない間に、そして節子が寝ている間に、病室のベッドの枕元にお見舞いが置かれていたことがあります。
半田さんが見舞いに来てくれていたのです。
再発して自宅療養を始めた頃に、やはり突然に半田さんから「いま我孫子です」という電話があり、お見舞いに来てくれました。
実は、節子が病気になってからのことは、私の記憶の中ではかなり曖昧になっています。
ですから、上記の2つのことは記憶違いかもしれませんが、半田さんが2回にわたってお見舞いに来てくれたのは、たぶん間違いない事実です。
半田さんは不思議な人です。

半田さんとは、彼が大学院の学生だった頃からのお付き合いです。
当時から実に不思議な存在でした。
その半田さんが、帰り際に、「佐藤さんもお元気で」と言ったのです。
まあ、なんでもない別れ際の挨拶だったのかもしれませんが、半田さんから言われると、これから久しくまた会えなくなるのかもしれないという気がしないでもありません。

実は、そう言われた時に、私が元気でなくなることを見越した言葉だと感じたのです。
なぜ自分でそう思ったかはわかりませんが、その時は、「ああそうなんだ」という気がしたのです。
他の人が言っても何とも思わなかったかもしれませんが、半田さんが言うと奇妙に気になります。

半田さんにはまた会うことがあるのでしょうか。
お互いに何もなければいいのですが。

■1145:死後の平等観(2010年10月21日)
哲学者の内山節さんは、日本では死後、誰もが成仏すると考えられていたと言います。
悪いことをしていると地獄に堕ちる、というのは、私たちが現世で悪いことをしないための戒めであって、実際にはだれもが成仏するというのです。
成仏とは、悟りを得ることですから、煩悩を解脱してすべてから救われるということです。
キリスト教では、神に裁かれて天国か地獄にいくことになりますし、インド仏教にしても、そう簡単には救われません。
しかし、日本では誰も彼も救われて成仏するのです。

この死後の平等観こそが、日本社会の根底にあると、内山さんは言うのです。
私流に解釈すれば、死後の平等観はすべての存在をつなげるものです。
つまり死後の世界からみれば、すべての人もまた平等であり、一見、幸不幸に見えるようで、それは一時の現われでしかないというわけです。
さらにいえば、山川草木すべてがつながっていると考えられます。
さらにさらにいえば、生命は非生命的存在にも生命があるということです。

論理が飛躍しすぎて、何を言っているのかわからないかもしれませんが、死後の世界では誰も彼も、あるいは何もかもが、同じ仏になれるということです。
ここで「仏」を「自然」に置き換えてみればどうでしょう。
そうすれば、素直に受けいれられるはずです。
日本の仏教の真髄がそこにあるような気がします。

今日は、寒々とした日です。
あまりの寒さに、コタツを出そうと思ったほどですが、娘に「まだ早い」と怒られました。
そういえば、節子がいた頃も、毎年、このようなやりとりがありました。
私はコタツが大好きなのです。

寒さを我慢して、机で窓の外の灰色の空を見ていたら、なぜか内山さんの死後の平等観のことを思い出しました。
あまりにもおかしくなった現世よりも、彼岸の方が楽しいだろうなと、ふと思ったりする、寂しい1日でした。

■1147:挽歌は元気を引き起こすもの(2010年10月23日)
昨日、挽歌の読者から、「佐藤さんの元気の無いブログを読んでいると、酷く落ち込みます」というメールが来ました。
その方も私と同じで伴侶を亡くされたのです。
「佐藤さんの哀しみも、私の哀しみです」とも書いてきています。

この挽歌が、もしだれかを落ち込ませているとしたら、それは私の本意ではありません。
私がそうであるように、この挽歌は人に元気を与えるものでありたいと思っています。
内容が内容ですから、哀しいものや寂しいものがあるかもしれません。
しかし、書き手の私は、その哀しさや寂しさを書きながら、元気を得ています。
哀しさや辛さ、寂しさや悔しさは、決して元気を否定するものではありません。
こう考えるのは、私だけなのかもしれませんが、嬉し涙と哀し涙があるように、嬉し元気と哀し元気もあるような気がします。

「元気が出てこない」と書くことも少なくないのですが、実はその時でさえ、書くことによって元気をもらえます。
「元気がない」と言葉にすることで、元気が得られるというのは、普通は逆だと思われるかもしれません。
よく言われるように、言葉が漠然とした空気を意識化することは事実です。
しかし、状況の意識化は時に逆の効果をもたらします。

節子がいた頃、私はよく「大変だ」「不安だ」などと口に出しました。
自分の限界を超えるほどのたくさんの「重荷」を背負ったことは少なくなかったのです。
しかし、口に出すだけで、大変さは大変でなくなり、不安は解消されたのです。
ちょうど、忙しいと言うと、暇なことへの不安が解消されるのと同じです。
私の体験では、「忙しい」と言う人はみんな暇です。

「元気がない」という言葉は、本当に元気がない時には、絶対に出てこない言葉です。
悲しいとか寂しいとかいう言葉もそうです。
その言葉を発すると、同情してくれる人が出てくるかもしれない。
そうなると少しだけ安堵する。
それが私の体験であり、私の生き方です。

素直に自らの気持ちを言動で現すと、人生はとても生きやすくなります。
節子がいなくなってもなお、私が崩れずにいられるのは、この生き方のおかげかもしれません。

繰り返しますが、この挽歌が、もしだれかを落ち込ませているとしたら、それは私の本意ではありません。
挽歌はたぶん生きるものへの元気を与えるものなのです。
もちろん挽歌が贈られている詩者にも、ですが。

■1148:「連絡を控えるうちに月日が経ってしまいました」
(2010年10月24日)
奥様を亡くされた当初は、お慰めのしようもないほどに落胆されているご様子が伺えましたので、連絡を控えるうちに月日が経ってしまいました。

お元気を取り戻されていらっしゃるようで、安心いたしました。
恐らく肉体の一部をもぎとられるような、いや自分がいなくなる方がマシだと思うほどの苦しみの中で、さまざまなことをお考えになられたことでしょう。

それでも、佐藤さんの周りには佐藤さんを頼りに集うお仲間がいらっしゃることを知っておりましたので、きっとまたお仕事を元気に牽引される日がやってくると信じておりました。

友人から、ある集まりの案内がまわってきました。
プログラムを見たら、懐かしい名前がありました。
そういえば、最近、ご無沙汰してしまっていたなと思い、彼女にメールしました。
すぐ返信が戻ってきました。
それがこの文章です。

節子を見送った翌年、私は友人知人に年賀欠礼挨拶の手紙やメールを送りました。
もしかしたら、取り付く島もないような「落胆ぶり」を伝えてしまったのかもしれません。
たしかに私自身あの頃は、自らを閉ざしていたような気もします。
周りが見えなくなっていましたし、頭が混乱し続けていました。
娘たちとさえも、うまく付き合えなくなっていました。
そんな状況でしたので、どんな親切な申し出も素直に受け容れられなかったように思います。

「連絡を控えるうちに月日が経ってしまった」人がほかにもいるかもしれません。
なぜその後、連絡がないのだろうという人が今も何人かいますが、それは私への心遣いかもしれません。
彼女からのメールは、それを改めて気づかせてくれました。

彼女が言うように、私は私を支えてくれるたくさんの仲間に恵まれています。
その人たちが、私を閉じがちな世界から引き出してくれました。
ゆっくりと、ゆっくりと、です。
そして、最近は、またいろんな人との交流が戻りだしています。

彼女はとても痛みのわかる人です。
久しぶりに会えるのがとても楽しみです。
話だけではなく、彼女がプロデュースした映画も観みせてもらえるそうです。

■1149:節子、黒岩さんが再入院しました(2010年10月25日)
節子
先日、講演を聴きに行った黒岩さんが明日からまた入院です

その黒岩さんがブログに書いています。

激励のお言葉はうれしいものの、あまり「頑張れ、頑張れ」と言われると、自分としてはここまで精一杯やってきたのに、まだこれ以上頑張らなければいけないのか、と無力感にとらわれることがあります。あまりこの言葉を強調しないでいただければ幸いです。

節子
とてもよくわかりますね。
しかし、あの黒岩さんがこう書くとは、よほど堪(こた)えていたのです。

先日の講演で気になったことがありました。
講演を終わった後、主催者の方が、質問はないですかと会場に訊きました。
講演者の状況を知っている人なら、早く休んでくださいというべきではないかと私は大きな違和感を持ちました。
会場の人は黒岩さんの状況を知っているので手を上げませんでしたが、主催者の繰り返しの呼びかけで、ある人が手を上げて発言しました。
私も聴いたことのある社会的な活動をしている人です。
しかし、その人はその活動のことを得々と語りだしてとまることがないのです。
何と言う見識のない人だろうと驚きました。
人を思いやることのできない人に人権活動や文化保存活動ができるのだろうかとさえ思いました。
とても良い講演のあとだっただけにとても不快な気持ちになりました。

しかしがっかりしたのはそれだけではありません。
講演が終わった後、多くの人が黒岩さんのところに話に行きました。
私も前の席だったので、すぐに声をかけましたが、二言だけでした。
ところが、みんな長いのです。
行列ができてしまい、なかなか終わらないのです。
黒岩さんはていねいに、そして一見、楽しそうに対応していました。
それを見ていて、節子がコーラスの発表会に行った時のことが蘇りました。

節子もメンバーだったコーラスグループの発表会がありました。
ぜひ聴きに行きたいというので、疲れたら途中で帰ろうという約束で出かけました。
ところが会場でいろんな人に出会いました。
半年振りのそうした場でしたので、いろんな人が話しかけてくれたのです。
めずらしい人にも会いました。
節子は楽しそうに話していましたが、その奥で疲労が高じているのはよくわかりました。
でも節子は帰ろうとせず、終了後も、昔の仲間とロビーで話し続けていました。
もうそろそろ帰ろうと引きずりだすように会場を後にしましたが、外に出た途端に節子はドッと疲れを感じたようでした。
一緒に来てくださった方が驚くほどでした。
車に乗るのもやっとでした。

そうした経験があるので、黒岩さんのことが気になっていましたが、やはりダウンしたようです。
みんなと「元気に」話したいという気持ちと体調を不安視する気持ちの相克の中で、どちらを優先するかは難しい問題です。
あの時、節子をコンサートに連れて行ったことは決して後悔していませんが、もう帰ろうと声をかけたことがよかったことなのかどうか、答はありません。
しかし、「がんばりすぎている」黒岩さんのブログを読むと、事務局の人にもう休んでもらったらどうでしょうと声をかけなかったことを悔やんでいます。
節子ならどうしたでしょうか。

■1150:無情の世界の有情(2010年10月26日)
節子
寒さを感ずるようになってきました。
夏もまた良し、冬もまた良し、というのが私たちでしたが、いまはその「良し」という気分が起こってきません。
強がりを言っていますが、やはり私の心は萎えてきているのかもしれません。

節子がいなくなってから、時間感覚が大きく変わりましたが、季節感も失われてしまいました。
夏は暑いし、冬は寒いのは、もちろん実感できますが、季節を楽しむという感覚がなくなったわけです。
節子は、季節を楽しむ名人でした。
そのお相伴にあずかることもなくなってしまいました。

いまは、季節の変化は気温の変化だけになってしまった気がします。
困ったものです。
でもまあ、無理にそこから抜け出ることもないでしょう。
そのうちきっと、季節が戻ってくるでしょう。
戻ってこなければ、それもまた「良し」です。
無情の世界の有情を楽しむのも、悪いことではありません。

■1151:くりくりたいやき(2010年10月27日)
節子
我孫子駅前の花壇の整備を花かご会のみなさんがやっていました。
それで思いついて、「くりくりたいやき」を差し入れてきました。
「くりくりたいやき」は、ちかくの手づくりお饅頭屋さんが最近売り出した、栗の入った季節限定の鯛焼きです。
先日、食べてみたら美味しかったのです。
それで焼きたてのくりくりたいやきを届けてきました。
皆さん喜んでくれました。
もちろん節子にも供えました。

花かご会はその後もしっかりと活動を続けており、11月3日には市のイベントでも、代表の山田さんがパネルディスカッションでお話しする予定です。
新しい人も参加してきているようですが、ともかく人間的なあたたかなつながりが、花かご会の一番の財産のようです。
みんなのリズムで、ゆっくり進んでいるのがとてもいいです。
節子も、その仲間だったことで、私も少しだけ仲間意識を持っています。
もっとも花壇整備の活動には参加してはいないのですが。
もし節子がいたら、今頃は私も入会させてもらっていたかもしれません。

いつも我孫子駅を通るたびに、節子を思いだせるのは、うれしいことです。
節子は、この活動が大好きでしたから。

■1152:take it easy(2010年10月28日)
先日、節子も知っている小山石さんから言われました。
「佐藤さんはうまくいかなくても明るいね」と。
以前取り組んだプロジェクトの結果について、うまくいったけれど評判はよくなかったよと話したことへの感想です。
他者がどう評価しようが、自分が納得できる結果であれば、私はいつもうれしいのです。
そうした生き方に対して、小山石さんは、自分なら評判が悪いとへこむというのです。
まあ、かなりのところ、言葉のあやですが、小山石さんはともかく、私は他者の評判はさほど気になりません。
誰かの評判を気にせずに、自分の人生をしっかりと生きていれば、人生は気楽になってきます。
そして、ますます「自分を生きる」ことがやりやすくなるのです。

この挽歌からのイメージの私は暗そうですが、会った人の多くは、なんだ元気で明るいじゃないかと思うようです。
気楽に沈み、気楽に落ち込み、気楽に楽しむ。
それが外部からは明るく見えるのかもしれません。

私の信条は、take it easy。気楽に行こうよ、なのです。
その信条であればこそ、こうして恥ずかしげもなく挽歌で心情を吐露しているわけです。
吐露してしまえば、どんな思いも負担にはなりません。

しかし、この挽歌を読んでしまったら、私に仕事を頼もうなどと誰が思うでしょうか。
私の権威など、どこかに吹っ飛んでしまうでしょう。
あまり仕事が成り立たないのは、このブログのせいかもしれません。
仕事をしようと思えば、この挽歌も時評もやめたほうがいいかもしれません。
しかし、それは私の生き方にはそぐいません。

幸いに娘たちがあまり読んでいないのが救いですが、まあ娘は私のダメさ加減はすでによく知っていますので、読んでも読み流すだけでしょうが。

■1153:物語を生きる(2010年10月29日)
「人は物語をもとに考えるよう創られている」
ノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフ教授の著書「アニマル・スピリット」に出てくる言葉です。
「人間の動機の相当部分は、自分の人生の物語を生きることから生じている。それは自分が自分に言い聞かせる物語であり、それが動機の枠組みとなるわけだ」とも書いています。

私は「物語」という言葉が大好きです。
子どもの頃から、自分の物語をしっかりと生きたいと思っていました。
節子と結婚してからは、節子との物語を一緒につくろうと思っていました。
私たちの生活は、まさに物語を育てていくものでした。
そしていつか、その2人の物語を、縁側の日なたのなかで、2人でゆっくりと思い出しながら何回も何回も語り合いたいと思っていたのです。
今の家には、そのための小さな縁側もつくりました。
しかし、その縁側で日向ぼっこすることは、私には永遠にないでしょう。
物語を語り合うこともないでしょう。
封じ込められた物語には、それなりに面白い話もあるのですが、相棒がいなければ語ることさえ難しいものです。

最近、ある集まりが契機になって、また「物語」を意識するようになりました。
物語を意味する「ナラティブサロン」という集まりも始めました。
人にはそれぞれに物語があります。
その物語をつないでいくこと、あるいは関わりあうことが、もしかしたら人の幸せや平和につながっていくかもしれないと思い出したのです。

近代の物語は、しかし他者の語りによる物語でした。
しかしこれからは自らが語り手にならなければいけません。
語り手になって語りだすことが、精神療法の世界では大きな効用を持っていることも議論され出していますが、語ることの効用は療法以上に積極的な意味を持っています。
私自身、この挽歌で自らの物語を語ることで内部に引きこもらずにすんだ体験をしていますので、その効用の大きさは身を持って実感しています。

節子なしで、私の物語をどう完結させるか、それは難題です。
でもまあ、このまま今の物語を進めていくと、きっと起承転結の結が見えてくるのかもしれません。
果たしてどんな「結」なのでしょうか。

■1154:先もなければ過去もないタイムポケット(2010年10月30日)
節子
挽歌を書こうとパソコンに向かったのですが、書き出しの言葉が出てきません。
そう思っていたら、電話がかかってきました。
福井にいる節子のお姉さんからです。
まあ特に用事ではなく、テレビを見ていたら千葉のほうは台風がすごいようなので電話したということでした。
房総半島の南端の館山はだいぶ荒れているようですが、我孫子は静かです。

節子たちは仲の良い姉妹でした。
お互いに生活に余裕も出てきて、これから一緒に旅行などしようと話していた矢先に、節子は病間に襲われたのです。
もし人生の先行きが見えていたら、もっと早い時期から姉妹で一緒に旅行などできたのに、人生はなかなかうまくいきません。

しかし、人生が豊かに成り得るのは、たぶん先が見えないからです。
先のことは全く決めずに辞めましたから、何が起こるかさえわかりませんでした。
しかし、その時は「白紙のキャンパス」に絵を描くような、わくわくした感じをもてました。
時代がまだ、希望に満ちた時代だったのかもしれません。

会社を辞める時、これからはお金から解放されようと決めたのです。
先が見えなくなって収入がゼロになったのに(失業保険ももらいませんでした)、なにかわくわくしたのです。
不思議なことに、その高揚感は、節子にも移ってしまいました。
そのせいか、結婚した頃の気分に戻った感じがして、何をやっても新鮮でした。
先が見えなかったので、どんなことに出会うか、2人して毎日わくわくしたものです。
実に楽しい失業生活でした。

もちろん今も先は見えません。
節子がいなくなって、先の見えなさは高まったはずです。
しかし、いまはわくわくしません。
なぜでしょうか。

「先」は、実は見るものではなく、創るものだったのです。
会社を辞めた時、先が見えなかったのではなく、先を創ることが可能になったから、わくわくしたのです。
いまは、「先」を創ることができなくなってしまった。
なぜそう思うのかわかりませんが、そんな気がします。

人は先を創れなくなると過去に逃げるのかもしれません。
しかし、いまの私には「過去」こそ見たくない世界です。
先もなければ過去もない。
次元のはざまに開いた、タイムポケットに落ち込んだような気がします。

■1155:先が見える幸せ、先が見えない幸せ(2010年10月31日)
節子の病気が再発した年のわが家の標語は「希望」でした。

昨日、先は見るものではなく創るものと書いた後で思い出したことがあります。
希望学に取り組んでいる玄田有史さんが、書いていた言葉です。
先が全く見えてこないと希望が持てないが、先が見えすぎると希望は失われる。
たしかそんな言葉でした。
実際の意識調査の結果、たどりついたことだったと思います。

言い方を変えれば、「先が見える幸せ」と「先が見えない幸せ」があるということです。
いつか「余命○○年」という言葉について書いたことがありますが、人によっては「余命期間」がわかったほうがいいと言う人もいるでしょう。
そのほうが、充実した時間を過ごせるとも考えられるからです。
しかし私はその考えには賛成できません。
人智をいくら尽くしても、余命期間などわかるはずがない、それが生命だと思うからです。
勝手に決めることは生命への冒涜に感じます。

人は必ず死を迎えます。
その意味では、だれもが先が見えているわけです。
しかし、それがいつ来るのかわからないのが生命です。
それを知って、どうしようというのか。

手塚治虫の「ブッダ」には、自らの死期が見えるアッサジという人物が出てきます。
彼は、その死に方までが見えるのです。
彼の場合は、野獣に食べられる死に方でした。
しかし、死ぬ前日でさえ彼の日常生活は全く変わりません。
なぜならば、彼にとっての「死」は大きな意味での「生」の一部でしかないからです。

つまり、死と生の壁を越してしまえば、つまり「大きな生」に気づけば、余命という概念は無意味になるのかもしれません。
いまその時をしっかりと生きる。
それが「生の意味」なのです。

問題は、先が見えるか見えないかではありません。
今が見えるか見えないかです。
昨日の挽歌を書きながら、気づいたことです。
挽歌を書き続けていると、いろいろなことが見えてきます。
節子のおかげだと感謝しています。

■1156:「2012」(2010年11月1日)
節子
映画「2012」を観ました。
この映画は、マヤの予言として有名な2012年の地球崩壊をテーマにした映画です。
地球崩壊の到来を知った各国政府は大洪水を乗り来るための現代版ノアの方舟を秘密裏に製造するのですが、そこに誰が乗るのかというのがテーマです。

方舟には限られた人数しか乗れません。
そういう状況になった時に、私なら乗ることを望むだろうか。
実は子どもの頃、同じような映画がありました。
「地球最後の日」という映画でしたが、その時も同じことを考えたのを思い出します。
私の考えは、極めて限られた人数であれば、乗ることを望まないだろうというものです。
みなさんはどうでしょうか。

映画の中では、いろいろな人が出てきます。
ある人は、巨大津波に飲み込まれる寸前に、これで亡き妻のところに行けると言います。
各国の政府のトップの中にも、国民と共に残るという決断をする人もいます。
お金を出して宇宙船に乗ろうとする人もいます。
映画の主人公役の人は家族を乗せようとするのですが、おそらく私も節子も、そういうことは考えずに、残された時間を静かに家族一緒に過ごす道を選ぶでしょう。

節子がいなくなった後、実に恐ろしい話ですが、私は世界が突如無くなればいいと何回も思ったものです。
マヤでもノストラダムスでもいいから予言が当たればいいとさえ思いました。
もちろん今はそんな考えは全くありませんが、当時は節子だけを送ってしまったということが敗北感として心を覆っていたのです。

いまは、人とは個別の存在ではなく、みんなつながっているという感覚が強まっています。
ですから、地球崩壊という現実の中で意図的に生き残ることへの関心は皆無です。
念のためにいえば、誰かが生き残り、種を存続させる話とは全く別の次元の話です。

脳疲労の割には深い問題を考えてしまいました。

少しずつですが、私にも「生きること」の意味がわかりだしてきたような気がします。
わかった頃にはきっと「生きること」をやめることになるのでしょうか。
節子は、もしかしたら最後の1か月で、こうしたことを直感していたのかもしれません。
なぜかそんな気がしてなりません。
その1か月、なぜもっと節子と会話しなかったのか悔やまれて仕方がありません。
節子は言葉がなかなか出なくなってはいましたが、言葉を使わなくても話せたはずです。
いまさら悔やんでも仕方ありませんが、悔やまれて仕方ないのです。

■1157:昨日と同じ暮らしができる幸せ(2010年11月2日)
節子
昨日の時評編にテレビの「小さな村の物語」のことを書きました。
私の好きな番組で比較的よく見るのですが、登場する主役は多くの場合、私たちと同世代の夫婦です。
誠実に生きてきて、ようやく生活にゆとりができてきたという話も少なくありません。
おそらくこのような番組でもなければ、遠い日本の私の目になどに入ることもない、何でもない日常の暮らしをしている人たちです。
その暮らし振りは、昨日も明日も、おそらく同じような繰り返しなのでしょう。
そして年に何回か、ちょっとはれやかな非日常を体験する。
おそらく節子が望んでいた暮らし振りです。

今日もまた平安に過ごせた。
節子はいつも寝る前にそう言いました。
昨日と同じ暮らしが今日もできたことが幸せなんだと節子はいつも言いました。
変化を求める生き方の好きな私には、なかなかそれが理解できませんでした。
理解できた時は、もしかしたらすでに遅かったのかもしれません。

「小さな村の物語」を観ている時は、いつも隣に節子がいるような気がします。
節子と一緒に観られたら、どんなに幸せなことか。
いつもそう思いますが、その思いのせいか、いつも節子が一緒のような気分になります。
修とは違うねとか、節子と違うね、とかお互いに相手をからかいながら、きっと幸せな気持ちで観ているだろうという気がするのです。

それにしても、この番組に出てくる老夫婦はみんなとても表情が豊かです。
どうしてでしょうか。
たぶん愛する伴侶との暮らしをしっかりと積み重ねてきたからでしょう。

しかし不思議と、この番組に登場する人たちには嫉妬心を感じません。
イタリアの話だからかもしれません。

■1158:正しく素直な言葉が持つトゲ(2010年11月3日)
虫歯を放置していたら、数日前から痛くなってきました。
昨日から痛みは激しくなり、食事も難しくなりました。
歯医者に行けばいいだけの話ですが、億劫です。
娘は風邪と違って虫歯は時間がたてば治るものではないといいますが、どうも気が乗りません。
まあ来週になったら行くことにしますが、どうも健康に気をつけようという気がどこかで薄れているのです。

テレビで、高齢者用の栄養剤の広告で、「健康が一番大事」などという言葉を聞くと心が痛みます。
健康を大事にして長生きしている人はうらやましいですが、これみよがしに健康が大事などといわれるとどうしても敗北感に襲われます。
「健康が一番大事」という言葉が、まさか人を傷つけるとは誰も思わないかもしれませんが、私のような人もいないとは限りません。
ひがみっぽくなっているのでしょうが、言葉は人を元気づけもすれば、傷つけもします。

しかし、これは他人事ではありません。
私も気がつかないままに、多くの人を傷つけてきているのでしょう。
節子は、いつも、修の言葉は素直すぎてきつい、と言っていました。
節子は慣れているからいいのですが、節子以外の人と私が話していたのを聞いていての感想です。
「健康が一番大事」と同じく、正しく素直な言葉ほど、人によっては傷つくのかもしれません。

私の言葉遣いを注意してくれる節子はもういません。
そのせいか、今週もいろいろ行き違いがあって、知人と何回かもめてしまいました。
私にしては極めてめずらしいことなのですが、やはり最近、対話能力が落ちているのかもしれません。
節子の写真を見ながら、自省するしかありません。

■1159:愛とは物語である(2010年11月4日)
心理学者のロバート・スターンバーグは、「愛とは物語である」と書いています。
成功した結婚では夫婦が共通の物語を作るのだと言うのです。
お互いに、共有された記憶の連鎖をもとに物語を紡いでいく。
その物語づくりを繰り返すことで、お互いへの配慮や安心感、相手に対する信頼感を高め、育てていく。
私にはとても納得できる話です。
まさに、私たちはそうでした。

全く違ったところで育ち、考えも生活スタイルも違う2人が、違いを活かしながら、新しい物語を創出していくことは、実に刺激的で創造的なことです。
そして、それこそが「歴史」なのです。
どちらかがどちらかに合わせるのでは、物語は退屈なものになるでしょう。
お互いの文化を尊重しながら、しかし時には激烈な夫婦喧嘩をしながらも、共通の物語を創りだすことが、私の結婚観でした。
節子は、最初は戸惑いながらも、私の考えに共感してくれました。
私たちが創りだした物語の読者は、しかし、お互いでしかありません。
できれば娘たちにゆっくりと語りたかったのですが、一番の語り部である節子がいなくなってしまった今は、語りようもありません。
しかし、その何がしかは娘たちに伝わっているはずです。

読者のいない未完の物語。
いささかの残念さはあるのですが、それもまた「物語」なのかもしれません。
物語は、いつもか完結するわけではないのです。

明日は、自殺のない社会に向けての公開フォーラムを開催します。
予想よりも多くの人たちが集まってくれそうです。
きっとまたたくさんの物語に触れることができるでしょう。

物語に触れるたびに、私は感じます。
物語とは愛である、と。
どんな物語も、その根底には「愛」があります。
つまり、人間とは、あるいは生命とは、「愛」の現象なのです。
だからこそ、スターンバーグがいうように、「愛とは物語」でなければいけないのです。

明日は、最後に何を話しましょうか。

■1160:運命(2010年11月5日)
「運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない」
分子生物学者のジャック・モノーが 書いた「偶然と必然」に出てくる言葉です。
人智の次元で考えれば、モノーが書いているように、結果でしか説明できないのだろうと思います。
敢えて、人智の次元と断ったのは、私たちが実感できる事象のほとんどすべてはモノーの言う通りだとしても、それを超える「何か」があると、私は感じているからです。
その「何か」による「定め」からは、何人たりとも自由ではありえないと考えたいのです。

こう強く考えるようになったのは、節子との別れを体験してからです。
それは、そう考えると心が少し安らぐからです。
もし運命が自らの手で決められるのであれば、あまりにも自分たちが惨めになります。
そして、なぜ「そんな運命」をつくりだしたのかと、自らを責め続けることになってしまいます。
実際に、愛する人を失った人の中には、そうやって自らを責めている人は少なくないかもしれません。
しかし、大きな定めには個人は抗し難いものだと考えれば、心は安堵できます。
自分で思うだけでは安堵しにくいのですが、誰かが、しかも多くの人が信頼する人がそう言ってくれれば、心安らげます。
これが「宗教」の始まりなのかもしれません。

しかし科学者のモノーは、冷たく「運命は事前には書き記されていない」と言い放ちます。
若い頃は、この言葉に元気をもらいました。
しかし今では、どうも宗教に帰依したくなります。
運命を切り開くよりも、運命に従ったほうが、本当に自分を生きられるのかもしれない。

今日、自殺のない社会にむけた公開フォーラムを開催しました。
いろいろな人に出会いました。
いろいろな話を聴きました。
そして、ふとこんなことを考えました。

節子は、大きな運命に従って自分をしっかりと生きた。
そう思うと心が安堵します。

■1161:決して裏切られることのない希望(2010年11月6日)
節子
昨日、高野山大学でも教鞭をとっている僧侶の方と話しました。
その方が、希望を持つから裏切られるのですと言いました。

ハッと気づきました。
そういえば、仏教では、まず希望=欲望を捨てて、無になれと言います。
キリスト教は希望を説きますが、仏教は希望を説きません。
希望を持てばこそ、裏切られ、また煩悩に振り回されるというのです。
たしかに、節子は絶対に治るという希望は、無残にも打ち砕かれました。
では、その希望は無理なものだったのでしょうか。
そんなことはありません。
その希望が実現する可能性はもちろんあったはずです。
だからこそ希望だったのです。

希望と欲望を等号でつなげるところに間違いがあるのかもしれません。
しかし、たとえば私の若い友人は、希望を持って仏教界に入ったにもかかわらず、その世界が金銭で埋もれている状況に接して失望してしまいました。
仏教界に身を置き社会を正したいという彼の希望は決して欲望ではありません。
欲望ではない希望であっても、やはり裏切られると悩みます。
これは煩悩でしょうか。

そこで行き着いたのが、「決して裏切られることのない希望」です。
私のような「非科学的な」人間は、今でもまだ節子との再会の可能性はゼロではないと確信しています。
だれが絶対ないといえるでしょうか。
科学が不可能だと決めつけていたにも関わらず可能になったことはいくらでもあります。
ですから、私は節子との再会の希望を捨てることはありません。
そして、その希望は私が捨てない限り裏切られることはないでしょう。
実現しない可能性が圧倒的に高いことはもちろん私も認識しています。

決して裏切られることのない希望を持つと、人は強くなります。
それもまたひとつの解脱かもしれません。
しかし、決して裏切られることのない希望は、決して実現されることのない希望なのかもしれません。
希望とは、なんと悩ましいものなのでしょうか。

■1162:祈りとは、ふたつの世をつなぐもの(2010年11月7日)
節子
今日は小倉美恵子さんがプロデュースした映画「うつし世の静寂(しじま)に」を観にいってきました。
久しぶりに小倉さんともお会いしました。
お元気そうでした。

この映画は、小倉さんが住んでいる川崎市の土橋の地域に、いまも残っている講や神事などのドキュメンタリーです。
川崎という、まさに都会のど真ん中に、いまなおこうした講がしっかりと営まれていることに驚きを感じました。
たくさんの示唆と問題提起を含んだ映画です。
この映画のことは、時評編でまた紹介したいと思います。

映画には、その地域に長く住んでいる人たちの暮らしがていねいに描かれていました。
その風景が、節子の出身地である、滋賀県の高月で私自身が体験した風景にどこか似ているような気がしました。
似ているといっても、講や神事のことではありません。
なんとなく雰囲気が似ているということなのです。
おそらく40年ほど前までは、こうした風景が日本全国にあったのでしょう。
子ども時代も東京だった私には、残念ながらそうした体験はありませんが、
なぜかとても深い懐かしさを感じながら観ていました。
節子が子どもの頃を思い出して、私にたくさんのことを教えてくれていたのかもしれません。

それはそれとして、「うつし世の静寂(しじま)に」とは、実に心に響く言葉です。
パンフレットには、こう書かれていました。

うつし世は「現世」、
常世は「来世」。
ふたつの世を「素朴な祈り」で
つないできた暮らしが
今、静かに語りかける。

祈りとは、ふたつの世をつなぐもの。
1時間半の映画を、節子と一緒に堪能したような気分です。

この映画は11月19日まで渋谷のユーロスペースで、その後12月3日まで横浜のシネマ・ジャック&ペティで上映しています。

■1163:常世の一つの姿が「うつし世」(2010年11月8日)
節子
黒岩さんの状況がよくありません。
ますます祈らなければいけませんが、祈る時にいつも頭に思うことがあります。

私は此岸、小倉さんの言葉を使えば「うつし世」で祈っています。
節子は彼岸、「常世」で祈っています。
その祈りは、果たしてどういう意味を持っているかです。
つまらないことを気にすると笑われそうですが、とても気になるのです。
節子と一緒に祈ることは、彼岸への道をつくることではないかという気がするのです。

しかし先祖に向かって、子どもたちを温かく見守ってくださいねという祈りもありますから、彼岸の節子も、現世での黒岩さんの元気を願ってくれているはずです。
そう思う一方で、どこか割り切れないものがあるのです。
こんなことを考えているようでは、祈りにはならないかもしれません。
しかし、祈りながら2人の顔が出てくると、迷いが生じます。

そうした時に、昨日の映画で、祈りは彼岸と此岸のつなぎ目にあることを知りました。
そこで気づいたのは、彼岸と此岸はつながっているということです。
だからこそ死者への祈りが成立するのです。

なにやら最近ややこしい話が多いかもしれませんが、私の彼岸観はかなり変わってきました。
彼岸と此岸は別のものではなく、此岸は彼岸に組み込まれているような気がしてきたのです。
こう置き換えるとわかりやすくなるかもしれません。
常世の一つの姿が「うつし世」なのだと。

黒岩さんの平安を深く祈ります。
節子も祈っているでしょう。
その辛さを、節子はよく知っていますから。

■1164:寒い冬がまたやってきました(2010年11月9日)
節子
あまりお付き合いのない従姉から、つれあいを亡くした訃報が届きました。
80歳だったそうです。
従姉からの手紙には、
今思えば、修様の御心情よーくわかります。
愛する人の死はとても悲しゅう存じます。
と書かれていました。
この従姉は、節子の訃報を知った後、長い手紙をくれました。
その時、返信できたかどうかも、今は定かではありません。
当時、私は腑抜けのようにただただ悲しみの渦中にありましたから。

こんなことを言うと不謹慎ですが、訃報のはがきを読んだ時に、80歳まで一緒の人生を送れたことをとてもうらやましく思いました。
62歳で別れなければいけなかった節子のことを思いだしたのです。
でも、悲しみは年齢なのではないでしょうね。
いやむしろ、一緒に過ごした年月が長ければ長いほど、悲しさは大きいのかもしれません。
いや、これもまた不謹慎ですね。
悲しみは、一緒に過ごした年月とも無縁でしょう。
ともかく悲しいだけなのです。

また年賀欠礼の葉書が届きだす季節です。
その葉書を出せなかった、あの辛い冬を思い出します。
とてもとても寒くて暗い冬でした。

今年の冬は、青空を見上げることができるようになりました。
でも節子がいないために、今年もまた寒さはひとしおでしょう。
節子の温もりがとてもほしいです。

■1165:生きるというのは遺されること(2010年11月10日)
父親を見送ったという方からのメールに、
「生きるというのは遺されることなのだと感じずにはいられないこの頃です」
と書かれていました。

私の場合には、まさにその通りなのですが、私よりかなり若い人においても、遺されるという気持ちが生まれるのだと知りました。
おそらくこれもまた、日本的な死生観につながっているのかもしれません。

節子を見送った時に、私は自らの半身が削がれたような気がしました。
言い方を換えれば、半身が遺された感じともいえます。
当時、節子がいなくなったにもかかわらず、なぜ私は生きなければいけないのか、という素朴な思いがどこかにありました。
残ったのではなく、遺されたのだと思えば、こんな思いは出てこなかったかもしれません。
遺された生は、私のものだけではなく、私たちのものだったのです。
そのことに気づいたのはかなり時間がたってからです。

個々の生命ではなく、生命のつながりによって構成されている「大きな生命」という生命観に立てば、「死」という概念はなくなります。
身体的な節子はいなくなったとしても、私のなかに節子はまだ生きています。
誰かが思い出している間は、個としての生命も存続していると考えていいでしょう。

父母を見送った時には、私はそんなことは考えませんでした。
しかし、時々、ふっと父母の生命を近くに実感することがあります。
父母の生命が、私の心身の中に間違いなく遺されているのです。
しかしそのことを意識したことはありませんでした。
あまりにも当然のことだったからかもしれません。

血縁のない節子との関係は、父母とはちょっと違いました。
しかも年齢的には節子は私よりも年下で、本来は私が見送られるべきだったのです。
節子が先に逝くなどということは、私には思いもしないことであり、ありえないことだったのです。
そのせいか、遺された事実をうまく受容できなかったのだろうと思いますが、素直に考えれば、生きるということは遺されることという表現はすんなりきます。

そして同時に、遺されるとは生きることなのだということもすんなりと受容できるようになってきました。

遺された心身を大事に生きなければいけないのかもしれません。
残念ながら、まだその気にはなれずにいます。
困ったものです。

■1166:ふたつの物語(2010年11月11日)
節子
この挽歌では、節子がいなくなってからの「おろおろした自分」を素直に書いています。
おろおろどころか、いつまでも立ち直れずに、くよくよと繰言を述べているので、お前にはがっかりだよという人もいるでしょう。
仕事を頼みたくても、この人は大丈夫だろうかと思って頼む気にはならないでしょう。
最近は寄りつかなくなった人もいます。
しかし、これが私の実態ですから、隠しようもありません。

先日、自殺関連のフォーラムを開催しました。
参加者から、後日、間接的に聞いた自死遺族の方の話が心に残ります。
詳しくはお聴きしていませんが、その方は、家族の自死後も近隣の人たちに対して、何ごともなかったように凛として生きているそうです。
しかし、それは表面的なことで、がんばっている自分を演じているのです。
だから、同じ境遇の遺族の方たちと会をつくっています。
そこでは本当に自分をさらけだせるのだそうです。
彼女にとっては、そういう場だけが素直に自分を生きられる場なのかもしれません。
なぜそうなったかといえば、やはり最初にがんばってしまったからです。
家族の死にもめげずにがんばっている健気な人、彼女はその物語を生きているのです。
それが悪いわけではありません。
人によっては、そうした「物語」があればこそ、生きていられる人もいるからです。

私は全く別の生き方をしています。
節子を見送って、立ち続けられないほどに「おろおろ」「なよなよ」「くよくよ」してしまい、それを隠す余裕さえなかったのです。
最初にそうした「ダメさ加減を」を露呈してしまえば、途中から見栄を張ることなどできません。
それまでの私の「物語」は音を立てて崩れてしまい、私は新しい物語を創りださなければならなくなったのです。
私にとっては、まさにそれが「ナラティブ・セラピー」になっているわけです。

物語を演ずるか、物語を物語るか、ふたつの生き方があります。
私の性格もあるのかもしれませんが、後者の生き方がとても楽なような気がします。
その、がんばっている遺族の方に、おろおろする生き方を勧めたい気もしますが、それこそきっと余計なお世話なのでしょうね。
でもとても気になります。
物語を演じていると、いつか疲れるのではないかと心配です。

■1167:彼岸との「つながり感」(2010年11月12日)
節子
気持ちのいい秋晴です。
空を見ていると、その青さの向こうに、彼岸が開けているのではないかという気にさせられます。
不思議なのですが、青空の日は明るいつながりを、雨の日は悲しいつながりを感じます。
もちろん「彼岸とのつながり」のことですが。

映画『うつし世の静寂に』をプロデュースした小倉さんが、挽歌を読んで、
「(そのなかに)人が本当に「見えないもの」を信じ、「つながりあう」ためのヒントが秘められているように思われます」
と書いてきてくれました。

見えないものと見えるものと、どちらが信じられるのか、これは人によって違うでしょうが、私はどちらかといえば後者です。
仏教的かもしれませんが、形あるものは崩れやすく、形のないものは崩れることがないからです。
もっとも形のないものをどう見るかは難しい問題です。
形のないものは範囲がなく、その見方によっては如何様にも変化します。
しかし、色即是空の感覚を持てば、見えるかどうかは瑣末なことになっていきます。

大切なのは「つながり感」なのかもしれません。
それが持てれば、心は平安になります。
こころを平安にしたのであれば、信ずるかどうかなどで迷ってはいけません。
すべてを信ずるだけでいいのです。

この頃思うのは、そうした「つながり感」をどれほど持てるかが大切だということです。
孤独とか孤立していると思う人は、疑い深いのかもしれません。
疑い深くなるには、それなりの理由があるのでしょうが、疑いだしたら疑いは際限なく膨らむものです。
節子のおかげで、私はそうした「つながり感」を育てることができました。
悲しく寂しくとも、心が平安になれるのはそのおかげです。

しかし、挽歌の世界を離れて、時評の世界になると心の平安は崩れます。
まだまだ未練がましく生きているのかもしれません。
挽歌と時評は時々クロスしますが、なかなか融合できません。

■1168:伴侶の存在の意味(2010年11月13日)
節子
昨年、活動を再開して以来、さまざまな新しい出会いがありました。
さまざまな新しい活動、さまざまな新しい事件、いろいろありました。
時にワクワクするような話もあり、時に悲しい話もありました。
しかし、どうも以前と何かが違うような気がしてなりません。
世界が「平板」になってきているような気がするのです。
その理由に、最近少し気づきだしています。

伴侶の存在の意味は、もしかしたら世界を立体的に見るためなのかもしれません。
人間は2つの目を持っているおかげで、世界が立体的に見えるといわれます。
しかし最近話題の3D映画でわかるように、立体的に見えるのは目がふたつあるからではありません。
対象もまた立体的な仕組みでなければいけません。
これまでの映画は2つの目でみても必ずしも立体的には見えません。

節子がいた時、私は4つの目で世界を見ていたような気がします。
伴侶の存在は、世界を広げ深めてくれます。
私が見えない世界を、節子は見えるようにしてくれていました。
そのことを、最近強く感じます。
節子がいなくなったために、目が2つになってしまい、世界が平板に感じられるようになってきたのです。

もちろん目だけの話ではありません。
正確に言えば、伴侶である節子の心身は私の心身の一部になっていたのです。
だから喜びも悲しみも、世界の意味も、節子がいなくなってからは全く違うものになってしまったのかもしれません。
節子がいなくなってからしばらくは、この世界がとても居心地が悪く、自分の立脚点がとても不安定だったのは、そのせいだったのかもしれません。

世界が平板になるとどうなるか。
表情が感じられなくなるのです。
あるいは一元的な見え方がしてくるのです。

このことは、最近の世相とどこかでつながっているような気がします。
人にはやはり伴侶(配偶者である必要はありませんが)が必要なのです。
そうしないと、世界はモノカラーの平板な世界になってしまいがちです。

■1169:朝早い電話(2010年11月14日)
節子
朝早い電話は好きではありません。
いつもドキッとします。

しばらく会っていない従兄がいます。
なぜか先週思い出し、私も少し落ち着いたので久しぶりに会ってみようかと思い出していました。
電話は、その従兄からでした。
「息子が亡くなった」
思ってもいなかった電話でした。
息子さんは40代半ばです。
脳梗塞だったようです。

親にとって子どもを見送るほど辛いことはないでしょう。
伴侶を失うのとはまた違った悲しみでしょう。
私には想像もできません。
しかし、どんなに悲しくても、辛くても、生きていかなければいけません。
生まれてきたのですから。

今日、自殺未遂サバイバーと名刺にまで書いている吉田銀一郎さんが、湯島で開催したネットワーク・ささえあいの交流会に来てくれました。
死のうと思っていた頃、妹さんから「なぜ生まれてきたと思う?」と問いかけられたのが契機になって、すべてをカミングアウトして、いまは元気に活動しています。
生まれてきたからには、生きなければいけません。

子どもを見送ったり、妻を見送ったりする人生であれば、生まれたくはなかったと思いたくもなりますが、それまでの間、子どもや妻からもらったたくさんの幸せを考えると、たとえどんな人生であろうと、生まれてきてよかったと思えるはずです。
幸せがあればこそ、不幸があるのです。

前にも一度書きましたが、幸せも不幸も、もしかしたら同じものなのかもしれません。
しかし、子どもを見送った従兄夫妻のことを考えると心が痛みます。
その痛みは、節子を見送った体験があればこそのものです。
その体験のない人にはわかるはずもないと、今も私は思います。
それは、愛する者を見送ったことのない人には絶対にわからない痛みなのです。

吉田銀一郎さんとは会った途端に心が通い合ったような気がしました。
今日、彼と話していて、その理由がわかりました。

人は生きなければいけません。どんな状況においても。

■1170:今日は瞑想です(2010年11月15日)
節子
最近は連日、いろんなことがあります。
元気がでる話もないわけではありませんが、辛い話が多いのです。
節子がいないせいか、そうした話に応える気力は弱まっているようです。
辛い話は書くことによって克服されることもありますが、封じ込めたい話もあるものです。

今日は節子の写真を見ながら、慰めてもらうことにします。
節子の写真を見ていると、心が少しあったかくなるのです。
昔は涙が出たのに、不思議なものです。
もちろん悲しさや寂しさには何の変化もありませんが、最近は節子の写真が元気をくれます。

■1171:プログは多くの人へのプレゼントです!(2010年11月16日)
節子
愛する人と会えなくなると、人は多かれ少なかれおかしくなります。
私も節子を見送ってからの1年は、間違いなくおかしかったのです。
今思い出しても、おかしな自分を思い出します。
心が壊れていたのかもしれません。
今もおかしいかもしれませんが、それはそれなりに安定しているように思います。

この挽歌の読者のIさんも、私と同じく伴侶を見送りました。
この挽歌を読んで訪ねてきてくれましたが、たぶん私も彼女も心が壊れていた状況だったかもしれません。
私は彼女の言葉にかなり反発し、お互いにあまり良い出会いではなかったともいます。
そのIさんから、これまであまりなかったような素直なメールが来ました。

ここしばらく鬱状態でした。
何もする気がせず、人とも会わず死んだも同然でした。
〔人はどんな状況においても、生きなければいけません、生まれてきたのだから〕

シンプルだけどドキッとさせる言葉です。
長いこと、浴槽に浸かっていました。
熱いミルクテイをつくりました。
生きている、生きている。・・・・・・・・どのような意味があるのでしょうか?

難しい事は言わずに、人に喜んでもらえる物作りの世界にもどります。
佐藤さん   有難う。

口の悪いIさんからこんなメールが来るとは思ってもいませんでした。
このメールのタイトルは、「プログは多くの人へのプレゼントです!」。
お互いの心が少しずつ平安に向かっていることを感じます。

人の心は、実に実に微妙です。
読者に平安をプレゼントする挽歌を書きたいと思っていますが、なかなかうまくはいきません。
でもまあ、今回はIさんからほめられたので、少し成長しているのかもしれません。
Iさんが元気になっていくと、もっとうれしいのですが。

■1172:追悼(2010年11月17日)
節子
黒岩さんが逝ってしまいました。
聖路加に転院して3日目でした。
阿修羅を守ってくれるはずのマリアの祈りも届かなかったようです。
覚悟していたこととはいえ、あまりの早さに訃報に接した時には呆然としました。
付き添っていてくれている人から、転院後、「りんごもスプーン3杯食べてくれました」とメールが来たばかりでしたのに。
人の死は、かくも突然にやってくるのです。

節子のことがどうしても重なって、どうも現実感が持てません。
現実と思いたくないという思考が働いているようです。
しかし、これは間違いのない事実です。
節子の時の何とも言えない悔しさを思い出します。

節子
もうじき黒岩さんに会えますね。
黒岩さんからたくさんの話を聴いてください。
節子がよく言っていたように、話しだしたら止まらない人ですら。

今日はほんとうに寒い1日でした。
心身が冷えてしまっています。

■1173:生命の価値(2010年11月18日)
節子
黒岩さんの訃報が新聞に載ったこともあって、いろいろな人から電話やメールが来ます。
節子がいなくなってからまったく音信不通だった人からまでメールをもらいました。
なにやら複雑な気分です。
人の死は、やはりちょっと尋常でない状況を生みだすのでしょう。
そこにこそ、生命の大きな価値があるのかもしれません。

もう25年ほど前になりますが、父を見送った時の葬儀で久しく会っていなかった遠戚の人に会いました。
父の葬儀でもなければ会うこともなかったかもしれません。
人は最後に、残されたもののために、さまざまな出会いを作ってくれるのです。
母を見送った時も、節子を見送った時も、同じ体験をしました。
電話をかけてきてくれた一人の人は、黒岩さんの講演会で昔一緒に仕事をした人に出会えた、黒岩さんが引き合わせてくれたんですね、と話してくれました。
そういう出会いもあります。
人との別れは、人との出会いとセットになっているのです。
これも生命の価値かもしれません。

出会いはなにも新しい他者、懐かしい他者との出会いだけではありません。
もう一人の自分との出会い、あるいは忘れていた自分との出会い。
さらには、見えていなかった友人知人の新しい側面との出会いもあります。
そして世界は変わっていくのです。

黒岩さんの訃報を知って1日がたちました。
少しだけ受け入れられるようになってきました。

今日はこれから親戚の若者の葬儀です。
黒岩さんの葬儀と完全に重なってしまいました。
黒岩さんとの別れは、明日にさせてもらいます。
明日は節子と一緒にお別れに行く予定です。
節子と一緒に行動できる、これも生命の価値の一つかもしれません。
おかしな言い方ですが、生命に関わる時には生死はあまり関係ないのかもしれません。

■1174:「じゃあ、またあした!」(2010年11月19日)
節子
やはりまだ葬儀への出席は辛いものがありました。
人は立ち直れたようでも、ある風景で元の世界に戻ってしまうのかもしれません。
連日だったこともあるかもしれませんが、次第にあの日のことが浮かび上がってきて、しかもなぜかそれを語りたくなってしまうのです。
そして語ったことを悔いてしまう。
まだまだ自分が不安定な世界に浮いていることに気づかされました。

今日は黒岩さんの告別式でした。
黒岩さんの友人の宮崎さんが、弔辞の最後に大きな声でこう言いました。
「じゃあ、またあした!」
その言葉を聞いて、頭ではとても共感できる一方で、心身が少し震えました。
その「あした」はいつになったらやってくるのだろうか、と。

毎晩、節子の位牌壇の灯明を消す時に、私も「節っちゃん、またあしたね」と言っています。
そういいながら、実はどこかで、もしかしたら明日は節子に会えるかもしれないと思っているのです。
その「あした」がいつ来るのだろうと、時々思うのです。
そう思うことが、心身に平安を与えてくれるのかもしれません。

黒岩さんと節子と3人で食事をしたことを思い出します。
黒岩さんは新しい人生を踏み出そうとしている時でした。
たくさんの夢を語ってくれました。
当時はまさか、こんなことになろうとはみんな思ってもいませんでした。
これからは、こうやってゆっくり私たちと食事をするのも難しくなるかもしれないわね、と節子が黒岩さんに笑いながら話していたのを思い出します。

節子が逝った後、黒岩さんはわが家に献花に来てくれました
その時も、まさか黒岩さんが私を追い越していくとは思ってもいませんでした。
私ももう少し「あした」に向かって人生を急いだほうがいいのでしょうか。

■1175:痛みを体験したからこその健康的な生活(2010年11月20日)
節子
あなたも会ったことのある経営雑誌編集長のIさんからメールが来ました。

大変ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか。
最近「医療問題」とりわけ「在宅医療」「地域医療」に興味を抱き始めました。
まだ、「何となく重要」程度の問題意識なので、まったくの門外漢です。
そういう意味で、まだまっさらでして、ならば佐藤さんにお目にかかって
いろいろな視点をうかがえればと存じます。
できれば、遅ればせながら奥様のご焼香を上げにうかがえればと思っております。

実はこの9月、人生初めての入院をしまして(2週間ほどですが)、
今月の25日まで休職しております。その後も、慣らし運転ですので、
いまは少し「金持ち」ならぬ「時間持ち」です。

Iさんは寝る時間も削るほどの仕事好きでした。
そのIさんが「時間持ち」。
よほどのことがあったのでしょう。

そう思っていたら、またメールが来ました。

実は、脳梗塞を患いました。
しかし、かなり奇跡的に軽度で、2週間で退院し、後遺症はほとんどない状況に回復しました。
ご指摘のように、天の摂理なのか、はたまた「見えざる偉大なる力」による警告なのか、わかりませんが、いまは健康的な生活をしています。

痛みの感覚は、痛みを持ったことがないと実感できません。
痛みは自らが感ずることで、意味を持ち出します。
頭で考える他者の「痛み」は、当事者の「痛み」とは似て非なるものでしょう。
「痛み」は決してわかりあえないような気がします。

Iさんはなぜ医療に関心を持ち、3年もたつのにわが家まで焼香に来てくれるのでしょうか。
20年来の付き合いなのですが、その心までは推し量れません。
しかし、死を感じた体験を経たIさんの、「いまは健康的な生活をしています」という言葉に込められた思いは伝わってきます。
痛みを経ればこそ、開けてくる健康の世界があるように思います。

■1176:みかんとゆず(2010年11月21日)
節子
畑に植えていた、みかんとゆずが実をたくさんつけました。
最近はほとんど畑に行っておらず、手入れもしていないので、雑草が畑一面を覆っているのですが、奥のほうに植えていたみかんとゆずがたくさん生っているのに昨日気づきました。

みかんの樹は、節子と一緒に茨城の植木屋さんに行った時に買ってきたものです。
植えた場所が悪かったのか、あまり大きくならず、節子がいるうちは、ほとんど実をつけてくれませんでした。
隣にはゆずがありますが、これもユカと一緒に節子が買ってきたはずだとジュンが教えてくれました。
樹はさほど大きくなっていないのですが、みかんは35個、ゆずは22個、生っていました。
見事な収穫です。

節子が病気になり、節子がいなくなってから、不思議なことにいずれの樹も大きくならず、実もつけませんでした。
それが今年は、大きくはなってはいないものの、果実をたくさんつけてくれたのです。
2本の樹も、喪があけたのかもしれません。

みかんとゆずは早速節子に供えました。
もっとも食べてみたらとてもすっぱくて、節子だったら食べられなかったでしょう。
節子はすっぱさに弱い人でした。
このみかんも、小さく切って、庭にある鳥たちの餌台に毎朝乗せたでしょう。
節子がいないので、すっぱさを我慢して家族で食べることにしました。
節子を思い出しながら。

■1177:娘たちの同窓生の記憶に残っている節子(2010年11月22日)
節子
年末のせいか、娘たちの同窓会が最近多いようです。
ところで、ユカもジュンも、同窓会に行くと友だちがいつも節子を話題にしてくれるのだそうです。
節子は娘たちの友だちの中にも鮮明に残っているようです。

小学生時代、ユカが休んだ時には近くのMくんが学級便りなどをわが家まで持ってきてくれる役だったそうです。
そのMくんは同窓会で必ずと言っていいほど、節子の話をしてくれるそうです。
ユカのお母さんは、いつも必ずお菓子をくれたんだ。
お菓子のせいで、節子の印象はとてもよいようです。

ジュンの友だちのSくんの話はこうです。
やはり小学生時代、みんなで遊びに来た時、節子が紅茶を出して、ミルクでもレモンでもお好きなほうをどうぞと両方を出したのだそうです。
Sくんは紅茶を飲むのは初めてで、なんだか大人になったような気分だったそうですが、初めてのことでもありミルクかレモンかは判断できず、欲張って両方入れてしまったそうです。
その結果、両者は分離してしまっておいしくなかったようです。
そこで無闇に欲張ってはいけないことを学んだというのです。
小学生に紅茶を出すのもいかがなものかという気もしますが、まあそれもまたいかにも節子らしい話です。

まあ、こんな話がいろいろあるわけです。
私だけではなく、いろんな人が節子のことを覚えてくれていて、話題にしてくれる。
残されたものにとっては、これほど嬉しいことはないのです。
覚えていてくれる人がいるかぎり、人は生きつづけているといってもいいでしょう。

節子はほんとうに愛すべき人でした。
その笑顔に会えないのがとてもさびしいです。

■1178:葬儀は種としての人の存在を支えている仕組み(2010年11月23日)
節子
またスランプです。
先週、2人の葬儀に参列して以来、気が抜かれたような気がしてなりません。

葬儀に行って感ずることがありました。
喪主の思いを、たくさんの参列者はわかっているのだろうか、ということです。
私も参列者ですので、その「わかっているだろうか」の対象者になるわけですが、喪主の気持ちなどわかりようもありません。
それを意識してしまうと、お悔やみの言葉さえ出てこなくなりがちです。

私が喪主だった節子の葬儀の時には、そんなことは考えもしませんでした。
現実を理解できないままに、喪主の役割を演じていたような気がします。
そのことを思い出すと、喪主自身も、自分の気持ちや思いにまだ気づいていないといってもいいのかもしれません。
だから葬儀にも出られるのです。
いま思うと、葬儀の2日間をよく無事に過ごせたものだと思います。
今では思い出すことさえ苦痛です。
あの時の私は、尋常ではなかったと思います。

しかし尋常でなかったからこそ、節子との別れを超えられたのかもしれません。
もし私に娘がいなかったら、私は生きる気力を失い、結果的に節子の後を追うことになったでしょう。
そうならなかったことが、私にとってよかったことかどうかはわかりませんが、愛する人を失った人が自らの生を絶つようになったら、種としての人の歴史は危機に直面するでしょう。
人のつながりは「愛のつながり」でもありますから、それが「死の連鎖」を起こしかねないことになります。
つまり「個別の死」は、個別の問題として切り離さないといけないのです。
そう考えると、葬儀とは逝ったものから残されたものを引き離す場なのかもしれません。

節子を見送った時に、たくさんの人が見送りに来てくれました。
しかし、あれは節子を見送ることによって、その世界に引きずり込まれようとしている私を現世に踏みとどまらせるためだったのです。
もちろん参列者がそんなことを意識していたわけではないでしょうが、葬儀の意味はそこにあることに気づきました。

私がいまここにいるのは、葬儀のおかげです。
そして私がいまここにいることで、死の連鎖が起こらずに、人類の歴史が続いていくわけです。
連続していた生命が切り離されて「個別の生」になった「種としての人」が、その当初より(ネアンデルタール人の頃より)、葬儀を営んできたことの意味がやっとわかった気がします。
葬儀は、種としての人の存在を支えている仕組みだったのです。

■1179:節子の電話(2010年11月24日)
節子
DHB誌編集長の岩崎さんがお焼香に来てくれました。
岩崎さんとは最近はあまりお会いしていませんが、ダイヤモンド社がまだ虎ノ門にあったころはよく湯島にも来ていました。
あのころは湯島に行くといつも奥さんがいたし、電話をかけるといつも奥さんが電話に出られましたね、と懐かしそうに話してくれました。
たしかにそういう時代がありました。
当時の湯島は、いろいろな人が出入りしていました。
先週見送ったドキュメンタリー作家の黒岩さんもその一人でした。

節子は決して電話の受け方がうまかったわけではありませんが、ほめられたことがあります。
四国経済連合会から頼まれて講演に行ったことがあるのですが、そこの事務局長が、私の顔を見るなり、佐藤さんの秘書の方の電話応対は素晴らしいですねとほめてくださったのです。
その方からの電話には、私が不在で節子が出たのですが、その受け答えがとても印象的だったようです。
秘書ではなくて、女房ですと話したら、とても恐縮していましたが、夫としては何だかとてもうれしかったのを覚えています。
節子がどういう受け答えをしたかわかりませんが、その方はとても気に入ってくださったようでした。

私は電話の受け答えがとても下手です。
というか、電話があまり好きではないのです。
湯島で一緒に仕事をしていた時、私の電話を聴いていた節子からよく注意されました。
上からものを言いすぎるというのです。
私にはその気はまったくないのですが、そう聞えるというのです。
電話だけではありません。
来客が帰ると、先ほどの修の対応は相手に失礼だとよく叱られました。
椅子の座り方も注意されていました。
私は椅子にふんぞり返る癖があるのです。
別に偉ぶっているわけではないのですが、そのほうが身体が楽なのです。
しかしそれが節子には気に入らなかったのです。

岩崎さんは4時間も話していきました。
10年ほど前によくやっていた刺激的な話し合いのことをちょっと思い出しました。
節子が聞いていたら、また後でいろいろと注意されたことでしょう。

岩崎さんがなぜ湯島ではなく、わざわざ遠い我孫子まで来てくれたのか。
それも脳梗塞がまだ完全には直りきっていない状況の中で。
それはよくわかりませんが、3年たったいま、わざわざ我孫子まで来てくださる方がいるとは、節子も私も果報者です。
いえ、これも節子のおかげなのでしょう。
節子がいなければ、岩崎さんも我孫子までは来なかったでしょうから。
節子に感謝しなければいけません。

■節子への挽歌1180:スモールワールド(2010年11月25日)
節子
この挽歌を読んでくれている方から思いもかけないメールが来ました。
その方は私とはまったく面識がなく、偶然にもこの挽歌を見つけ、読んでくださっているのです。
私と同じく、伴侶を見送った方なのですが、先日、友人と食事をご一緒したそうです。
そこでいろいろと話しているうちに、なんとその友人が私の娘のジュンと知り合いであることがわかったのです。
おそらくスペインタイルの話題が出たのでしょう。
この挽歌にも、スペインタイルをやっているジュンは時々登場していますので、この挽歌の読者の方もジュンのことを知っていたわけです。
もちろん面識はないのですが。
その方もメールに書いてきましたが、まさに「It’s small world」です。

スモールワールドの理論はご存知の方も多いと思いますが、世界中の人は6〜8人くらいの人を介してみんなつながっているという話です。
アフリカのキリマンジャロのふもとに住んでいる人と、私ともたぶん知り合いを辿っていくと8人目くらいにつながるはずです。
ましてや日本国内であれば、6人も辿ればつながるでしょうし、同じ市内に住んでいるのであれば、すぐにつながってしまうはずです。
ですから、この話は意外なことでもなんでもないのですが、やはり実際に起こると驚きますね。

世界はみんなつながっているのです。
時評編で何回か「無縁社会批判」を書きましたが、人はだれもがたくさんの縁に包まれながら生きているのです。
そしてしっかりとつながっているのです。

このスモールワールドの話を節子と話したことがあります。
もう20年以上前にテレビで実際に網走の漁村の身寄りのないお年寄りと東京の杉並区のある会社員とが何人の人を介してつながっているかの実験を放映しました。
たしか7人か7人でつながりました。
そのときにはとても驚いた記憶があります。
人はつながっている、その時に強く感じたことです。

アフリカのキリマンジャロの人と8人でつながるのであれば、彼岸の節子とは何人でつながるでしょうか。
彼岸も含めてスモールワールドであってほしいものです。
此岸と彼岸はほんとうにつながっていないのでしょうか。
どこかにつながる穴があいているかもしれません。
どなたかご存知だったら教えてください。
私なら、決してイザナギやオルフェのような失敗はしません。

■1181:選挙応援の思い出(2010年11月26日)
節子
この数日、また時間破産になり、昨日は挽歌が書けませんでした。
明日はがんばって2編書こうと思いますが、明日も何かとばたばたしそうです。
実はいま来年の1月に予定されている地元の我孫子市市長選に立候補を決意した40歳の坂巻さんを応援したくなってしまったのです。
今日も昼と夕方、坂巻さんの事務所に行く予定です。

節子がいたら、節子もきっと一緒に応援活動に参加したでしょう。
私よりも役に立ったはずです。
私が呼びかけられる人数に比べたら、節子はずっと多かったでしょうから。

私たちは必ずと言っていいほど、選挙は一緒に行きました。
私はいつも誰に投票するかを公言していましたが、節子は投票所を出てくるまでは誰に投票するかを言いませんでした。
投票を終わってから訊くと教えてくれましたが、私とは違った人への投票が半分くらいでした。
私よりも「革新的」でした。
ただし若干、外見に影響されるところがありました。
節子はどちらかといえば、「面食い」だったのです。
自分が面食いだと気づいたのは、私と結婚した後でしたから、ときどき、なんで修と結婚したんだろうと悔しがっていました。
私と結婚した頃は、まだ「初心すぎるほど初心」で、結婚の意味さえわかっていなかったのです。
まあ、それは私もほぼ同じだったので、決して私がたぶらかしたわけではないのです。

もう10年以上前ですが、私たちがやっていたオープンサロンに良くやってきていた人が、突然、衆議院銀選挙に立候補するといって会社を辞めてしまいました。
茨城県の人でしたが、その事務所開きに節子と一緒に行きました。
突然の立候補、しかも国会議員。当選の可能性はほぼゼロでしたが、彼はともかく立候補したかったのです。
ともかく明るい選挙にしたいと思い、彼の歌を作ることを提案し、私が作詞し、別の友人が作曲しました。
節子はあんまり賛成ではありませんでした。
残念ながら落選してしまいました。

こうして書いてくると、ほかにも選挙にまつわる話を思い出しました。
もちろん節子と一緒の体験です。
思い出すと私たちは実にいろんなことを一緒にやってきたものだと感心します。
私は思いつくとすぐに動き出すのですが、いつも節子を道連れにしていたのです。
節子は私に振り回されていたのかもしれません。
もちろん私も節子の活動にささやかに参加したことはありますが、節子がそれを望んでいたかどうかは、今にして思うとよくわかりません。

節子は私に振り回されて疲れてしまったのかもしれません。
やはり悪いのは私なのでしょう。
いつも結論はそこに行きます。
自虐的な世界から抜けるのはどうも無理のようです。

■1182:挽歌をさぼってしまいました(2010年11月30日)
節子
少しご無沙汰してしまいました。
この数日、挽歌も時評も書けずにいました。
時間がなかったわけではありませんし、節子のことを忘れたわけでもありません。
なぜか「すべてのことが面倒くさくなったしまった」というのが正直のところです。
何もしていなかったわけではなく、いろんな人に会ったり、集まりに参加したりはしていました。
しかしどうも「自発力」が出てきません。

いろんなことに関わりすぎているために「疲れ」かもしれません。
最近は「重い話」が少なくありませんでした。
まだ解決していないことも少なくありません。
いや取り組めないでいる問題も少なくないのです。
夢にまで見ることもあるのです。
節子がいたら、その半分を背負いあってくれたでしょう。

この数日、気になりながら、挽歌を書こうという気が起きなかったのは、それもまたきっとそれなりの理由があるのでしょう。
ようやく書く気になってきました。
今日は一気にたくさん書いてしまいましょう。
いろいろと約束している用事も多い1日なのですが。

■1183:最高の親孝行(2010年11月30日)
節子
挽歌はさぼっていましたが、昨日、娘たちとお墓参りに行きました。
お墓の横に植えていた菊が満開でした。

節子の墓地にあるお寺は昔の城址にあります。
本堂の前からは我孫子の町の一部が展望できます。
その町を見下ろしながら、節子と一緒に両親の墓参りを来たことを思い出します。
このお寺には私の両親もお世話になっています。
節子が元気だった頃は、毎年元日に必ず家族でこのお寺にお参りに来ていました。
除夜の鐘をつきに、みんなで来たこともあります。
思い出もそれなりにあるお寺なのです。
高台にあることもあって、お寺の雰囲気は明るいのですが、明るいのは高台だけが理由ではないでしょう。

私は以前、墓地に「怖さ」を感じていました。
特に20年ほど前に、スイスの墓地を訪れた時には彼岸に引きずりこまれそうな恐怖感さえ持ちました。
しかし不思議なことに、節子が埋葬されてからは、墓地への恐怖感は一切なくなったのです。
人の意識はこれほど変わるものなのかと思ったほどです。
最近の霊園は公園のような設計にさえなっていますが、節子のお墓のある墓地は昔からある墓石だけが並んだ墓地です。
しかし、ご住職たちがいつもきれいにしてくれているおかげで、いつ行っても気持ちよくお墓参りさせてもらえます。
節子も居心地が良いでしょう。

お墓には私の両親も入っています。
いつも「節子また来たよ」と声をかけると、娘たちが「粂治も八重子もいるよ」と言います。
わが家では名前で呼ぶ文化なので、おじいちゃん、おばあちゃんとは言わないのです。
それで慌てて、2人の名前も付け加えます。

私は両親にとって、あまり良い孝行息子ではなかったかもしれません。
しかし、両親がとても気にいっていた節子を、私から両親に預けたことが最高の親孝行と言えるでしょう。
あまり親孝行ではなかった私の代わりに、節子はきっと彼岸でも私の両親を幸せにしていてくれるでしょう。
感謝しなければいけません。

■1184:般若心経が口から出てこない(2010年11月30日)
節子
毎朝、節子の前で般若心経を唱えていますので、般若心経はしっかりと暗誦できるようになっていると思っていました。
ところが、先日、親戚のお葬式に参列させてもらい、みんなで般若心経を唱えることになりました。
予め経文はみんなに配られたのですが、部数も不足していたようですので、私は大丈夫ですと受け取りませんでした。
そして、いよいよ読経が始まりました。
毎日暗誦している者としては、元気よく唱え始めたのですが、すぐに言葉が出てこなくなったのです。
いつもよりもとてもゆっくりしたテンポだったからだろうと思いました。
いつも私があげている速度に比べると3分の1くらいの速さでした。
間が長いために調子が狂い、次の言葉が出てこなくなってしまったのです。
みんなは経文を読みながらですので、スムーズに読経しているのに、私はいささかうろたえてしまい、隣の人の経文をカンニングしながら、やっと何とかしのげましたが、そんなことをしていたので心の入れようがありませんでした。
実に恥ずかしい話です。

翌日、節子の位牌の前で、その時のことを思い出して、ゆっくりと般若心経を唱えてみました。
昨日とは違って、うまく言葉が出てきました。
となると、昨日、言葉が出てこなかったのはスピードのせいではなかったのです。

では何のせいだったのでしょうか。
そこでまたつまらない推論になってしまうのですが、私の般若心経は節子との競演なのかもしれないということです。
位牌の前だけではありません。
お墓の前でもきちんと唱えられるのです。
しかし節子がいない場合には言葉が出てこない。
まだまだ精進が足りません。

読経は不思議なものです。
彼岸とつながる呪文かもしれません。
そして頭から出てくるのではなく、心から出てくるような気もします。
私の場合は、まだ頭でしか暗誦していないのかもしれません。
節子はきっと私の未熟さを見透かしているでしょう。
私と違って、節子は直感的に真実を見る目を持っていましたので。
どんなに着飾っても、私の小賢しさは節子にはいつも見抜かれていました。
いまもきっとそうでしょう。
お経はもっと心を込めてゆっくりと唱えなければだめよ、と笑っている節子が目に浮かびます。

■1185:ギンモクセイ(2010年12月1日)
節子
玄関のギンモクセイが花をつけ出しました。
目立たない花なので気がつきませんでしたが、娘から教えてもらいました。

このギンモクセイは転居前の家の玄関にあったものだそうです。
私はそもそもギンモクセイという花を知らなかったのですが、娘が良い香りがしているね、と言ったので、玄関にキンモクセイなどあったかなと質問したら、ギンモクセイだったのです。
もっとも節子はギンモクセイがあまり好きではなかったようですね。
節子も花の好き嫌いがありましたから、好きでない花は目立たないところに置かれていました。
私自身はそうした差別待遇は好きではありませんでしたが、わが家の花の管理者は節子でしたから仕方がありません。
玄関が目立たないわけではありませんが、玄関の死角に置かれていました。
私はヒイラギかと思っていましたが、よく見ると違うものでした。

ギンモクセイの花言葉は「初恋」とか「気を引く」ということだそうです。
いかにも地味に咲いているギンモクセイには少し意外な花言葉ですが、ネットで調べたら「ギンモクセイ」という歌まであることを知りました。
歌詞を読んだら、初恋ではなく、心変わりした人を恋する歌でした。
歌詞の一部が心に突き刺さりました。

声が聞きたくなったって
喜ぶ顔が見たくたって
もう帰ってこないのに笑顔だけ
悲しいくらい浮かぶの

急に節子と最初に会ったころのことを思い出しました。
わが家の花は、もしかしたら彼岸に行った節子とつながっているのかもしれません。
気のせいか、ギンモクセイの向こうに節子の笑顔が見えたような気がしました。

■1186:「夜がこんなに暗いとは」(2010年12月1日)
最近、また真夜中によく目が覚めます。
以前も書きましたが、真夜中なのになぜか明るいのです。
遮光カーテンをきちんと閉めていないのが理由なのかもしれませんが、節子がいなくなってから、なぜか夜の暗さを感じなくなったのです。

私は真っ暗でないと眠れないタイプでした。
一方、結婚した頃の節子は少し明るくないと眠れなかったのです。
私は就寝前にほんの少しだけですが読書をする癖がありました。
節子の横で私が本を読んでいると、その灯りの中で節子は安心して眠れると言いました。
眠っている節子の横で本を読むのが、私も好きでした。
そんな、とても幸せな時間も、もう体験することはありません。
眠る前に本を読む習慣も、最近はなくなってきました。

節子と結婚してから、真っ暗でなくとも私も眠れるようになりました。
となりに節子がいることが、その理由だったと思います。
最近はむしろある程度明るい方が安心して眠れるようになっています。
やはりこのことからも、節子が私の心身に入り込んでいるような気もします。

昨夜、夜中に目が覚めて、思い出したことがあります。
ジョン・ウェインが監督・主演した「アラモ」という映画があります。
そこに時々思い出す場面があります。
R・ウィドマーク扮するジム・ボウイが妻の死を知らせる手紙を読む場面です。
そこでボウイはこう言います。
「夜がこんなに暗いとは」
大学の頃、その映画を観て以来、ずっと気になっている言葉です。
愛する人を失った時、人は暗闇に投げ込まれる。
とまあ、そんな受け取り方をしていたのです。

ところが節子がいなくなって感じたのは、夜の明るさです。
ボウイと違って、私の思いは「夜がこんなに明るいとは」なのです。
たいしたことではないような気もするのですが、私にはとても気になることなのです。

笑われそうですが、ちょっと「黄泉(闇)の国」に近づいたのかもしれない。
そんな気がしてならないのです。
ちなみに私はいつも寝室のドアを開けて寝ているのですが、もしかしたら夜になると彼岸につながるのかもしれません。

■1187:無彩色の喪中はがき(2010年12月2日)
年賀欠礼の喪中はがきが届きます。
はがきの文面は事務的なものが多いのですが、この1枚1枚のそれぞれに、さまざまな物語があるのだなとこの頃、よく思います。

私は事務的な喪中はがきを出したことがありません。
いつも自分の文章で、その小さな物語を書いていました。
それを読んだ人から返事をもらったこともあります。
父を見送った時のハガキは、同じ体験をした人を少しだけ元気づけました。
そしてその人からの手紙がまた、私を少し元気づけてくれました。

節子を見送った年の年末には、節子と連名でお手紙を出しました
いまその文面を読み直してみると、いささかの気恥ずかしさもありますが、その時の私の正直な気持ちだったことは間違いありません。

この数年、私は年賀メールを基本にしたため、年賀状は出してもせいぜいが100通くらいです。
それが定着したせいか、年賀欠礼のハガキも今年は少なくなりました。
薄墨の暗いイメージの喪中ハガキは、どうも好きになれません。
故人への思いを感じさせるには、あまりに感情抑制的です。
何枚かのはがきを見ながら、そしてその奥にある物語への思いを馳せながら、そんな気がしてきました。
死への物語は、確かに悲しくさびしいですが、決して無彩色の世界ではないのです。

喪中のお正月は、それでなくとも寂しいものです。
年賀はともかく、はがきをいただいた方には、年明けに思いを込めた手紙を書こうと思います。
もし身近な人を見送った方が近くにいたら、ぜひ思いを込めたお手紙やメールを出すことを考えてもらえると、私もうれしいです。

余計なお世話ですみません。

■1188:未来の思い出(2010年12月3日)
節子
昨日から今日まで軽井沢で合宿でした。
幸いに軽井沢には節子と一緒の思い出が少ないのですが、逆にそのことで節子を思い出すことも多いのです。
節子は病気になってから、ふたりの思い出をできるだけたくさんつくりたいといっていましたが、思い出があまり好きでない私は、あまり積極的には対応していなかったかもしれません。
わざわざ作らなくても、私たちの思い出は山のようにあるのですから。
このあたりも、今から思えば、私は節子の気持ちを十分には察していなかったのです。
身勝手な伴侶としかいいようがありません。
節子はそれを許してくれるでしょうが、不憫さを感じます。

それはそれとして、軽井沢には一緒に来たことがないのに、なぜ節子を思い出すかです。
節子がもし元気だったら、間違いなく2人でここに来たでしょう。
そう思うからです。
軽井沢だからではありません。
観光地に行くと、必ずといっていいほど、そういう思いがわいてきます。
そして、そこに節子を感じてしまうのです。
感じのいいレストランがあると、節子だったらこの店を選ぶだろうとか、小物雑貨のおしゃれなお店があれば節子に待たされるだろうなとか、ついつい思ってしまうのです。
私が好きそうなお店があれば、節子も誘って入るだろうなとも思いますが、一人では入る気は起きません。
節子がいないのに、そんな身勝手さは許されませんし、一人で入っても楽しくもありません。

だから観光地やおしゃれなお店があるようなところには行きたくないのです。
そこに現実ではない「思い出」を見てしまうからです。
節子は、過去の思い出だけではなく、未来の思い出までも残していったのです。
どこに行っても、節子との思い出があるのです。
実現されるはずもない「思い出」が。

季節はずれの軽井沢は、人の姿もまばらでした。

■1189:痛みのなかに身をおくこと(2010年12月4日)
「患者が痛みのなかに身をおくことを覚えれば、痛みとの関係は劇的に変わる。痛みを受け入れることで意識が変わり、『痛み』ではなく、ただの感覚となって、不快であっても、それに囚われ、追い出そうとするのではなく、意識のなかで、ありのままに受け入れられるようになるからだ。たいてい、治そうとしなくても、時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」。

アメリカの医師で瞑想家のカバット・ジンの言葉です。
私の生き方や考え方にとてもなじむ発想でした。
しかし、節子を見送ってから、この言葉をなぜか忘れていました。
それほどの余裕がなかったからかもしれませんが、「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということに抗っていたのかもしれません。
しかし、最近また、この言葉を思い出しました。

節子を見送ってから、私はふたつに分かれているような気がします。
節子を失って嘆き悲しんでいる私と、その私を見て悲しんでいる私です。
いずれも悲しんではいるのですが、かなり違う悲しみです。
前者においては悲しみがまさに生きることのすべてですが、後者においては悲しみはただただ悲しいだけの話です。
これでは違いが分かりにくいと思いますが、繰り返せば、前者は悲しむことで心身が満たされるのですが、後者は不安だけが残ります。
自分でもよくわかっていないので、説明がうまくできませんが、2人の私がいることだけは確信できます。

しかしその2人の私が、最近、合体してきているような気がします。
それがもしかしたら、カバット・ジンがいう「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということかもしれません。

今日もさわやかな秋晴です。
青い空を見ているといろんなことを思い出します。
学生の頃から青い空を見ていると、私はそこに吸い込まれそうな気がします。
空を見ていると、何もかが瑣末に感ずるのです。
そして、何も変わっていないのではないかとつい思います。
階下で節子が洗濯物を干しているような、そんな気がしてなりません。

私も元気に、その節子に声をかけて、今日の集まりに出かけましょう。
またたくさんの人に会える1日になりそうです。

■1190:安楽死(2010年12月5日)
節子
まだまだ精神が安定していないようです。
困ったものです。
ドストエフスキーの「罪と罰」をテーマにした話し合いの場に参加しました。
そこで、安楽死が少し話題になりました。
それが主題ではなかったのですが、学生たちが「罪と罰」を読んで、そこからいろいろな問題提起をしてくれたのです。
その前のセッション(テーマはソクラテスがなぜ法に従って死を選んだのかでした)で発言しすぎたので、発言を抑えていたのですが、安楽死の話がでたために、それが引き金になって発言してしまいました。
「罪と罰」の主人公は、誰の役にも立っていない金貸しの老婆を殺すのですが、その「誰の役にも立っていない」という言葉にも引っかかりを感じていました。
それでついついマイクを取ってしまったのです。
そして話し出したら急に感情がこみ上げてきて、過剰反応してしまったのです。
節子の、あの壮絶な闘病のことを思い出したのです。
節子もまた本当はその苦しみから抜け出たかったに違いありません。
それらしいことをほのめかしたこともありますが、どんなに苦しかろうと節子は死を望んではいませんでした。
自分のためにではありません。家族のため、私のためにです。
自分のためであれば、死を選ぶのは簡単なのです。

安楽死など絶対に認められないのです。
それに、誰の役にも立っていない人など、いるはずがありません。
勢い余ってまたNHKの「無縁社会批判」までしてしまいました。
話し終わった後に、いささか恥ずかしい気がしたほどです。
何を話しているかわからなくなってしまったからです。
私のことを知っている数名の人はともかく、ほとんどの人は私とは初対面でしたから、驚いたかもしれません。
学生たちは、おろおろしている大人の姿を見て失望したかもしれません。
私は間違いなく、おろおろしていたのです。

脳梗塞で生死の境界をさまよったことのある平田さんが隣にいました。
私の感情的な発言とは違って、彼は自分の体験を語りました。
そして、彼もまた安楽死をきっぱりと否定しました。
私と違って、実に説得力がありました。
これまで以上に平田さんが好きになりました。
同時に、これまで以上に自分が嫌いになりました。

節子
どうもまだ、精神が安定していないようです。
ちょっとしたことで暴発してしまいかねません。

■1191:銀ちゃんの魂(2010年12月6日)
節子
最近、久しぶりの時間破産でブログを書く時間がなかなかありません。
パソコンに向かっても、山ほどたまっている宿題をしなければいけません。
肝心のお金をもらえる仕事も始めましたが、それをやる時間もありません。
節子が元気だった頃の状況に戻ってしまいました。
節子は、そうした私を見て、何で頼まれてもいないことを引き受けてきてしまうのといつも言っていましたが、困っている人を見たら、なぜか引き受けてしまうのです。
そして、「やるべきこと」からではなく「やりたいこと」から取り組むのも。私の小分です。
節子はいつも注意してくれていましたが、性分だから仕方がありません。
最近あまり体調がよくないのですが、昨夜も今朝もパソコンに向かって、作業をし続けていました。
そろそろ出かける時間なので、その前に挽歌だけ書いておきます。

昨日、自殺未遂サバイバーの銀ちゃんに会いました。
私が声をかけて湯島に来てもらったのです。
銀ちゃんといっても、若者ではなく72歳の男性です。
吉田銀一郎さんと言います。
実にドラマティックな人生を過ごしてきました。
自らの会社を成功させ、その成功の中で過労のためにうつになり、自殺を試み、生還し、離婚し、その体験から学んだことを社会に訴えていきたいと活動しています。
しかし、その活動の仕方があまりに素直すぎて、なかなか耳を傾けてもらえないでいるのです。
そういう人と出会ったら、耳を傾けないわけにはいかないでしょう。
本当に「自殺」の問題を解決したいのであれば、そこから始めなければいけません。

このテーマは本来は「時評」の話題ですが、挽歌にあえて書いたのは、話している時に銀ちゃんが涙を出したのです。
涙を誘ったのは、私が口にした「魂」という言葉です。
銀ちゃんの体験談のほとんどは、家族の話でした。
彼を支えているのは、なかなか会うこともままならないとはいえ、家族がいるということです。
しかし、自殺者の遺族がどれほどの辛さを経験するか、彼は身をもってそれを思い知らされます。
もしそれがわかっていたら、彼は自殺しなかったかもしれません。
家族のために自らの生命を絶つのか、家族のために自らの生命を維持するのか。
理屈では校舎に決まっていますが、現実にはなかなか難しい話です。
そうした話の底に、銀ちゃんの魂の遍歴を垣間見たのです。

銀ちゃんの話を聴きながら、ずっと節子のことを考えていました。
どこがどうつながるのか、まだよくわからないのですが、なぜか今回も節子の導きを感じました。
銀ちゃんの魂に、少し付きあうことにしました。
すぐに後悔することはわかりきっていますが、性分だから仕方ありません。
節子はきっと、修はかわっていないね、と笑っているでしょう。
こうして私の時間破産は収拾がつかなくなっていくのです。

■1192:消したい記憶(2010年12月7日)
節子
節子の葬儀にどなたが来てくれたのかどうか、覚えていない自分に気がつきました。
気づかせてくれたのは、ホスピタルアートの活動に取り組んでいる高橋雅子さんです。

高橋さんから一昨年の年末、毎年の活動報告のお手紙をもらいました。
そこにご両親を見送ったことが手書きで書かれていました。

 昨年より、末期がんの父の介護が中心の生活でしたが、その父が亡くなり、続いて1か月後に母が心筋梗塞で急死してしまいました。

淡々とした短い文章ですが、そこに高橋さんの深い思いをなぜか感じました。
返事を書かなければ、と思いながら、どうしても書けませんでした。
妻を見送ったことを書いてしまうような気がしたからです。
書いて悪い理由はないのですが、なぜか書いてはいけないような気がしたのです。
彼女は私が妻を見送ったことを知らないだろうと思いこんでもいたのです。
高橋さんからの手紙はいつも机の上に置いたままでした。
しかし返事を書けないまま、1年が過ぎ、2年が過ぎようとしていた時、彼女がメーリングリストである案内を送ってきてくれました。
元気にご活躍されているようでした。
そのメールを見て、ようやく高橋さんにメールを書きました。

昨日、返信が来ました。

佐藤さんの奥さまのご葬儀に伺った際、
佐藤さんが話してくださった奥さまとの最後の日々のお話。
お花が大好きでいらした奥さまのお話。
そして「妻は私の生きる意味でした」というお言葉。
本当にいたたまれない気持ちで失礼してきたことを覚えています。
このあと、佐藤さんは一体どうされてしまうのだろう?と
不安にさえもなりました。
でも反面、これほどの深い愛情で結ばれたご夫婦というのは
何としあわせなのだろうか?とも思いました。

高橋さんは葬儀に来てくださっていたのです。
そして私の話まで聴いていた。
驚きました。
あわてて3年前の葬儀の名簿を見てみました。
たしかに高橋さんのお名前がありました。
いえ、高橋さんだけではありません。
私の記憶にない、いろいろな名前が出てきました。
なぜか私の記憶からすっぽりと抜けていたのです。
その理由がよくわからず、この2日間、頭が混乱していました。

今日、ある会のことを友人たちと話していたのですが、それがあったのが5年前だと友人たちはいうのです。
私には3年前くらいに感じていましたが、言われてみるとたしかに5年前でした。
その会からあるプロジェクトが始まっているのですが、節子を見送った前後の1年が私の頭の中から抜けているような時間感覚になっているのです。
5年前の話は3年前に感ずるわけです。

私の記憶の中で、時間の組み替えや記憶の消去が進んでいるのかもしれません。
まだなんとなく頭がすっきりせずに、不思議な気がしています。

■1193:意識は世界の投影(2010年12月8日)
昨日の続きです。
昨日、挽歌を書いた後、少しずつ記憶を取り戻してきました。

節子の訃報は私の友人知人には限られた範囲でしか伝えませんでした。
節子は親しい人だけでのささやかな葬儀を望んでいたからです。
それに節子の友人であればともかく、私の友人に流すことは思いもつかなかったのです。
ところが葬儀の手伝いをお願いした友人があるメーリングリストに流してくれたのです。
そのメーリングリストの読者が来てくださっていたのです。
この名簿は私自身が作成したのですが、改めて名簿を見ると、私の友人知人もいろいろな人が来てくださっています。
いまさら何を言っているのかと言われそうで、お恥ずかしい限りです。

どうして知ったのかと思うような人もいます。
私が伝えなければ知らないだろう人もいます。
もしかしたら、私が連絡したのでしょうか。
そんなはずはありません。
今度会ったら、どうして知ったのか訊いてみようと思います。
名簿を見ていると、何だかとても奇妙な気になります。

お通夜の時、私は来てくださった方にしっかりと挨拶したくて、焼香を終わって退室するところに前向きに席をつくってもらい、娘たちと並んで座りました。
節子の友人は、私よりも娘のほうがよく知っていたので、娘に節子との関係を耳打ちしてもらっていました。
今から思えば、その中にたしかに私の友人たちがいたことを思い出しました。
ところがそうした記憶にどうもリアリティがないのです。
あの時、私はそこにいたのだろうかという気さえするのです。

節子を見送って、ただただおろおろしていただけではないのか。
お通夜が終わって、何人かの幼馴染たちと笑いながら冗談を言いあったことも思い出しました。
しかし、なぜそんなことができたのでしょうか。
それに、なぜ彼らはそこに来ていたのでしょうか。
近々会いますので、気いてみたいと思いますが、どうも不思議な感じです。
そういえば、居場所もなく歩いていた人もいました。
なぜ私は声をかけなかったのか。
いずれも、それが事実だったのかどうかわかりませんが、いろんなことが断片的に思い出されます。
そういえば、告別式の挨拶も異常でした。
なぜあんなに言葉がすらすら出てきたのでしょうか。

妻を見送っておろおろしている私がいる。
しかし同時に、しっかりと喪主を務めている私がいる。
そうした風景が、なにか他人事のように思い出されます。
そこにいるはずもない節子さえ、いるような記憶さえあります。

世界は、その人の意識の投影だといったのは、認知心理学社会のロッシュです。
私は、それに加えて、意識は世界の投影だと思っています。
あの2日間、私はもしかしたら彼岸に少し吸い込まれていたのかもしれません。
そしておそらく今もなお、その意識の延長上に私の世界はあるのかもしれません。

■1194:挽歌が取り持つ縁(2010年12月9日)
節子
節子への語りかけの、この挽歌にも読者がいます。
その読者同士が金沢でお会いになったそうです。
mikutyanの日記の大浦静子さんとハートフル・ブログの一条真也さんです。
お2人とも、コムケアセンターの挽歌にも何回か登場しています。

大浦さんは今日のブログでこう書いています。

出会いは奇跡
郁ちゃん、不思議なことが起こりました。 
一条真也のハートフル・ブログが縁で一昨日初めて知り合った一条真也さんと、もう出会えるなんて夢のようです

郁ちゃんというのは、大浦さんのお嬢さんです。
とても哀しいことに、大浦さんは数年前に郁ちゃんを見送ったのです。

一条さんと大浦さん、それぞれからメールをいただきました。
なにやら不思議な気持ちです。

大浦さんはこう書いてきました.

毎日ブログ拝見していますよ。
忙しそうなので、声もかけられないほどです!
一条さんが、今回のこと佐藤さんにお話したとおっしゃっていました。
一昨日初めてメールして、きょうはお会いできたのですから驚きです。
節子さんと郁代の仕掛けたるや、おそるべし!(笑)。
今度は一条さんと三人でお会いできたらいいですね。

最近、あまりにいろんなことを引き受けてしまい、時間破産に陥っています。
節子が元気だった頃はよくあることでしたが、節子を見送ってからはめずらしい状況です。
ですから挽歌や時評もなかなか書けずにいるのですが、私が書かなくとも、どこかで新しい物語が始まっているのです。

ちなみに、今日もまた2つのことを引き受けてしまいました。
ますますの時間破産です。
節子がいたらストップをかけてくれるのでしょうが、ここまできたら、本当に破産になるまでいってしまってもいいかなと言う気分なのです。
困ったものです。

■1195:この3年に何かありましたか(2010年12月10日)
節子
この数週間、歯が痛くて食事がなかなかできませんでした。
餓死してはいけないので、歯医者さんに行きました。
歯医者さんにまずは手当てをしてもらい、その後、改めて歯や歯茎の状況を調べてもらいました。
検査担当の方が代わったのですが、その人がなにやらつぶやきながら、ていねいに検査をしてくれました。
この歯医者さんはともかくていねいで基本から治癒してくれるのです。

検査を終わった後、カメラ映像を見せながら、その方がいいました。
3年前の状態とあまりにも違うのですが、この間、なにかありましたか。
最近、歯はきちんと磨いていますか。
検査中、首をかしげていた理由がわかりました。
たしかに写真を見ると3年前の状況と違います。
せっかく3年前に基本をしっかりとつくったのに、といわれました。

3年前のチェックの日付を見たら、2007年6月でした。
私の人生が一変する3か月前です。
心は必ず身体にも現れることがよくわかります。

なぜこうなったのかの理由はわかります、と答えました。
歯磨きもちゃんとしていないことも白状しました。
検査表をみたら、「赤点」でした。
困ったものです。

節子は再発する前に、友人の知り合いの歯医者さんに通って全部治していました。
闘病生活が始まったころ、歯を全部治しておいてよかったわと言っていました。
その言葉がとても心に残っています。
その治療した歯を使いきれなかったことがとても不憫でなりません。
実は、その思い出があるので、私は歯医者さんに行くのが辛いのです。

私自身は、それほど長生きをする予定もないのですが、今回、歯が痛いといかに大変かがわかりました。
それでこれからは少しきちんと歯磨きをしようと思います。
実は節子がいなくなってから、歯磨きは思い切り手を抜いています。
歯磨きだけではありません。
自分ではあまり意識はしていないのですが、生き続ける意欲が大きく低下しているのかもしれません。

歯の痛みはほぼなくなりました。
ようやく食事ができそうです。

■1196:物とは無縁の生(2010年12月11日)
節子
クリスマス商戦もはじまり、世の中は少し賑わいでいるような気がします。
不景気といいながらも、テレビは消費をあおっています。
我孫子ではなかなか実感できませんが、たまに都心を歩くと、なにやら華やかな感じです。

先日、有楽町を歩きながら、そういえば、この数年、これといった買物をしたことがないことに気づきました。
もちろん毎日の食材や日常着などは娘と一緒に買物に行くことはありますが、必需品ではないものに関しては、もう4年以上、買物をしていない気がします。
それは当然といえば当然のことで、私は一人で買物に行くことはこれまで皆無だったのです。
いつも節子と一緒でした。
それに、買物に行っても外食をしても、お金を払うのはいつも節子でしたから、私には財布は不要だったのです。
お金を出してくれる節子がいない今、買物ができないのは当然のことなのです。

しかし、買物をしない理由はそれだけではありません。
物欲というほど大げさではありませんが、何かが欲しいということがほとんどなくなったのです。
物への興味がなくなったのです。
収集していたフクロウの置物も、以前は節子に反対されても買っていましたが、いまは収集の意欲もありません。
魅力的なフクロウを見ても、欲しいという気がしないのです。

物だけではありません。
旅行も興味を失い、外食は全く興味なく、観劇やコンサートも誘われても行く気が起きません。
欲がなくなったわけではありませんが、心身が動かないのです。

彼岸が近づいているということと関係しているのかもしれません。
物質的な財産は彼岸へは持ち込めません。
体験はおそらく彼岸では無意味でしょう。
ですから今の私にはいずれも意味がないのです。
財産も体験も、節子がいたからこそ、私には意味がありました。
これは理屈ではありません。
なぜそうなのかは、自分でもわかりません。
しかし、間違いなく、それが実感なのです。

これが行き過ぎると、「生きること」さえ意味を失うのかもしれません。
しかし、生きることには、俗世的な意味とは別の次元で、深い意味があります。
最近は、このことがとてもよくわかってきました。

物とは無縁の生。
まだ十分に言葉では語れませんが、いつか書けるかもしれません。

■1197:解けない難問(2010年12月12日)
節子
最近、余裕がなくなってきました。
節子がいたらSOSを出していたでしょう。
自分の能力を超えて、いろんなことに関わりすぎています。
そのためゆっくりする時間がないのです。

昨日、心身が動かないと書きました。
心身が動かないのになんでそんなにいろんなことを引き受けて、時間破産になっているのか、奇妙に思う人もいるでしょう。
しかし、それは矛盾してはいないのです。
心身が動かないからこそ、何かをやっていないと全く動けなくなりそうなのです。
何かをやっている時には、たしかに心身は動くのです。
でも動かないものがある。
魂です。

昨日、毎月やっている、ささえあいの交流会を行いました。
自殺未遂サバイバーを自称する吉田銀一郎さんが参加されました。
彼は自殺から立ち直った後、自らの使命感に突き動かされて、いろいろ活動をはじめました。
辛い中から、吉田さんは自らの魂にぶつかったのが立ち直りの契機だったようです。
そして動き出したのですが、魂の呪縛からまだ抜けられずにいるように思います。
それを少しずつ解きほぐしていかないといけない、などと私は偉そうに吉田さんを諭します。
ところが自らはどうでしょう。
明らかに吉田さん以上に魂が止まっている。
そんな気がします。
やはり自分のことが一番見えていないのです。

しかし最近は少し動きすぎかもしれません。
節子の残した庭の花木をゆっくりと見る余裕もないのですから。
時間の余裕ではありません。精神の余裕です。
誰かの問題に関わっていると気が休まるのですが、その問題から放れるとどさっと虚しさが押し寄せてきます。
この虚しさは一体なんなのでしょうか。

節子がいたら、いとも簡単に解いてくれるでしょう。
いつもそうでしたから。
しかし皮肉なことに、今回はその虚しさの源が節子の不在なのです。
それをどう解けばいいのか。
まさに解けない難問です。

■1198:私の仕事好きが節子は不満でした(2010年12月13日)
最近、仕事に追われています。
仕事といっても、頼まれての仕事ではなく、ほとんどが自分から買って出た仕事です。
節子がいたら、相変わらず仕事ばかりね、と笑われそうです。
節子は休日までもパソコンに向かって「仕事」をしている私が好きではなかったのです。
修さんには趣味がないの、とよく言っていました。
その言葉は私には心外でしたが、そういわれればそうかもしれません。
ともかく私はひとつのことに集中できないタイプです。
そういう意味では、趣味といえるようなものは何一つありません。

私は仕事が好きですが、特定の仕事にずっと取り組んでいることは苦手です。
次々と新しい課題がないと、すぐに飽きてしまうのです。
ですから、いつも複数の活動に取り組んでいます。
それも10種類くらい並行させていないと退屈するのです。
特定のテーマに立ち止まることができない性格なのです。

その私が、なぜ節子をずっと愛し続けられたのかは不思議な話です。
節子もそれをいつも不思議がっていました。
たしかに不思議です。
しかも、節子がいなくなっても、移れないのです。
節子にそれほどの魅力があったのでしょうか。
あるはずもありません。
なぜなのか。

要するに私が面倒くさがりだったからかもしれません。
人生を共にすることは、そんなに簡単にできることではないからです。
愛していたというよりも、他に選択肢がなかったからかもしれません。
節子はこの説明には喜ばないかもしれませんが、きっと納得はするでしょう。

それにしても、なぜこんなに時間がなくなってしまったのでしょうか。
余計な問題を引き込みすぎてしまいました。
節子の顔を思い出しながら、ばたばたしています。

■1199:柳原和子さんに何かあったのでしょうか(2010年12月14日)
この挽歌へのアクセスが今日はなぜかとても多いのです。
驚いて調べてみたら、「柳原和子」で検索してアクセスしている人が多いのです。
柳原さんに関して、今日、何かあったのでしょうか。

柳原さんにはとても思い出があります。
私は面識がないのですが、このブログが縁で、柳原さんからメールをもらい、柳原さんのライターではない心の揺れに触れさせてもらったのです。
節子のがんが発見される前から、柳原さんの「がん患者学」には共感を持っていました。
そして節子のがんが発見されてからは、それがさらに痛いほどにわかるような気がしてきました。
テレビで時々見る柳原さんは、いつも元気で強く見えました。
一緒にテレビを観ていた節子は、柳原さんの強さに、自分とは違う人だわ、と言っていました。
たしかに、私もそう感じていました。
でも個人的にもらうメールは、節子よりも弱々しく、さびしそうでした。
節子もそれを読んで親しみを感じたようでした。
もし節子が元気になったら、いつか柳原さんともお会いできそうだと思っていましたが、2人ともいなくなってしまいました。

柳原さんの訃報を知ったのは、節子が逝ってから半年ちかくたってからでした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/03/post_8cfb.html
その頃は、私自身がまだ生を実感できずにいた頃です。
柳原さんから頼まれたことがありますが、それに取り組む気力はありません。
これからも取り組むことはないでしょう。

それに、柳原さんの「がん患者学」は結局、最後まで読めませんでした。
柳原さんがまだ元気だった頃、何回も読み出すのだがいつも途中で読めなくなります、とメールしたら、柳原さんから、そうですよね、読めませんよね、と返事がありました。
その言葉に、改めて柳原さんの哀しさを感じた記憶があります。

ところで、今日は柳原さんがなにか話題になったのでしょうか。
まさか現世に戻ってきたのではないでしょうね。
柳原さんが戻ってきたのであれば、節子も戻ってくるかもしれません。
そうであればうれしいのですが。

■1200:節子がいない不幸(2010年12月15日)
節子
今日は我孫子駅前の花壇を育てている花かご会の今年最後の作業日でした。
そこで、今度、市長選に立候補した坂巻さんをみんなに紹介したくて、一緒に挨拶に行きました。
坂巻さんは園芸学部出身で、花を活かしたまちづくりにも関心をお持ちなのです。
みんなとてもあたたかく迎えてくれました。
これも節子のおかげかもしれません。

花かご会に紹介する前に、自治会のみなさんにも応援してもらおうと、みなさんのご自宅を一軒一軒まわりました。
節子がいたらもっとうまく引き回せたでしょうが、それでもまあこの地区は近所づきあいもあるので、なんとかお引き回しできました。
それでもなんで私が坂巻さんをお連れしたのかちょっと戸惑われたかもしれません。
節子がいたらもっと効果的だったでしょうね。

夫婦には、それぞれの役割分担があるような気がします。
男女共同参画だとかジェンダー問題とか、いろいろな議論がありますが、私自身は夫婦の役割分担に大きな価値を感じます。
もちろん役割を固定させる必要はなく、夫婦によっては反対の役割分担関係になってもいいと思いますが、異性での役割分担で小さな社会をつくりだすという夫婦あるいは家族の仕組みは人が発明した最大の知恵のような気がします。
いまもよく、節子がいたらいいのにと思うことはよくあります。
近隣で付き合うにも、地域活動するにも、あるいは社会活動をするにも、一人だといろいろとハンディを感じます。

もちろん、単身の暮らしで活動している人もいるわけです。
そうした人に対しては、私のこうした考えは甘えかもしれません。
しかし、節子と一緒の生活と、いなくなって一人での生活を比べてみると、両者はいろんな意味で全くといっていいほど違います。
効果も効率も、2人単位での生活が抜群にいいのです。
でもこれは私たちの場合だけかもしれません。

夫婦が相互に力を削ぎ合っているような場合もないわけではないでしょう。
私たちには、とても考えられないのですが、そういう夫婦もあるようです。
そう考えていくと、私たちは実に幸せな夫婦だったのです。
しかし、それはいざ片方がいなくなった時には、実に不幸な夫婦になってしまうわけです。

神様は実に公平なのです。
大きな幸せは大きな不幸できちんとバランスするようにしているのですから。