妻への挽歌(総集編1)
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目次

2007年9月3日。
私にとってかけがえのない妻が息を引き取りました。
62歳でした。
私に「生きる意味」を与えてくれる人でした。
これからもそうでしょう。
わが家の近くに来る機会があれば、節子に会いにきてください。

佐藤 修


■告別式での挨拶(2007年9月5日)

ありがとうございました。
節子は、本当にたくさんの人に愛され、支えられていたのだということを改めて実感でき、うれしかったです。
挨拶をする気分では全くないのですが、昨日、今日とたくさんの人たちに来ていただきましたので、少しだけ節子のことをお話したいと思います。

節子の胃がんが発見されたのは4年ほど前でした。
スキルス性、進行性胃がんでした。しかも、手術が出来るかどうかのぎりぎりの段階でした。
幸いに手術は成功したのですが、リンパへの転移もかなりあり、非常に厳しい状況でした。
しかし、気丈夫な節子は、持ち前の明るさで、それを克服し、1年、2年と元気を取り戻してきました。
3か月ごとに検査を受けていたのですが、検査が無事だったことを知ると、必ず「次の検査まではがんのことは忘れて、生活を楽しもう」と言いました。
そして、見事にそれを実行したのです。1日1日を充実させ、楽しいものにする、それは実際にはかなり難しいことですが、それが彼女の生きる姿勢になりました。
そうした生き方から、私はたくさんのことを気づかせてもらいました。

このままいけば、もしかしたら乗り切れるかもしれないと思っていたのですが、3年目に入るころから少し不安な兆しがでてきました。
そして、昨年の10月、再発が確認されてしまったのです。
それももっとも恐れていた腹膜転移でした。
それまで少しずつ上を向いていた状況が、それ以来、反転してしまいました。
そして、さまざまな障害や問題が出始めました。
節子の闘病生活が始まったのです。

以来、実にさまざまなことがありました。
節子は、そうしたことにめげることなく、いつも前向きでしたが、7月に事態が急変しました。
胸とお腹に水がたまり出したのです。
呼吸が苦しくなり、食事もあまり食べられなくなってしまいました。
8月に入ると、歩くことが難しくなったので、24時間在宅看護体制に切り替えました。
定期的に医師と看護師に来てもらい、緊急避難的に点滴で栄養補給する生活になってしまいました。酸素吸入も必要でした。
行動的な節子にとっては、実に無念なことになってしまったのです。
呼吸の苦しさは、しかし改善されることなく、むしろだんだんと厳しくなってきました。身体全体で息をし続けなければならない節子を見ているのは実に辛いことでしたが、本人の辛さはその何十倍だったでしょう。過酷な闘病生活でした。
私たち家族は、節子が必ず治ると信じていました。
節子も、そう信じてくれました。ですから、その辛い闘病もみんなで立ち向かえたのです。

私たちの、そういう思いが通じたのか、8月の中ごろから「奇跡」が起こり出しました。
身体の各所にあった腫瘍が小さくなり消え始めたのです。
がんが治り出した! 節子も私たちも奇跡を信じました。苦しい闘病生活ももう少しだ。
しかし、その一方で、節子の呼吸の苦しさはとどまることなく、その蓄積が限界に達していることも間違いない事実でした。

いろいろな奇跡が起こりながらも、凄絶な闘病生活は続きました。
そして9月1日の夜、節子はぐっすりとねむることができました。
朝、娘が、昨夜はよく眠れたね、ときくと、「うん」とうなづいてくれました。
そして、私と娘とで節子の身体を拭いたのですが、なんとそれまであった「腹水」のふくらみが消えているのです。
奇跡が起こった! 私たちは喜びました。
私たちにとっては、この日は一番幸せな日になるはずでした。

ところが、その日の夕方、事態は全く予期しなかったほうに変わってしまったのです。
夕方、静かに寝ている節子が、寝ているのではなく昏睡状態に陥っているのに気がつきました。
あわてて医師と看護師に連絡し、診てもらいました。
医師の言葉は、私たちにとっては、信じられない言葉でした。
「体力の限界を超えてしまいました」

延命処置は節子の望むところではありませんでした。
私たちは、そのまま節子の生命力に任すことにしました。
医師たちが帰った後、家族3人で節子に呼びかけ続けました。
しかし午後11時を過ぎると、呼吸が少しずつ間隔をおきだしました。
みんなで、「まだ早いだろう。戻ってきてよ」と声をかけ続けました。
呼吸ができるように、1,2,3、とみんなで呼びかけると、それに合わせて、節子は口を大きく開けて息をしてくれました。
しかし、呼吸が元に戻ることはありませんでした。
一番大きな声で呼びかけていた、下の娘が、「お母さん、もういいよ、本当にがんばってくれて、ありがとう」と言い出しました。
私たちもそう思いました。
ありがとう、節子、本当にありがとう。
それがわかったように、節子は静かに息を引き取ったのです。

一番幸せな日になるはずだった、9月2日は私にとっては一番悲しい日になってしまったのです。
医師が来て、死亡が確認されたのは、3日の午前0時でした。

節子は、体力の限界を超えるまで辛さに耐えてくれたのです。
実は8月の下旬に入ったころから、もう限界、これ以上がんばれないと、気丈夫な節子が弱音を言い出しました。本当に辛そうでしたが、私たちは奇跡を信じすぎてしまっていました。そのため、節子に辛い闘いを強いてしまったのです。
最後まで、節子は私に尽くしてくれましたが、私は最後まで節子に無理を強いてしまったのです。
だめな夫でした。
節子、ごめんなさい。本当にすまなかった。

節子は、私にとってはかけがえのない人でした。
私の生きる意味を与えてくれるのが節子でした。
そのかけがえのない節子を失いたくないために、私は節子が治ると確信し、節子はそれに応えようとしてくれたのです。

節子が苦しくて、話ができなくなってから、いくつかのメッセージを残してくれました。
その一つは、こんな文章です。

 良い家族に恵まれて、とても幸せでした。ありがとう。
 なかないで。これからも花や鳥となって、チョコチョコもどってきます。


節子が家族に残してくれた、心からのエールです。
看病されていたのは、私たちだったのかもしれません。

花と鳥。
風でなくて良かったです。
私は、節子には風になってほしいとは思っていなかったからです。

節子は、花がとても好きでした。
わが家の小さな庭は、節子が植えた花が1年中、絶えることがありません。
そして、その庭の一角から手賀沼が見えます。
そこが節子のお気に入りの場所でした。
お通夜の日、節子と話して、そこに節子の献花台を作ることにしました。
戻ってくる節子の居場所です。
もしわが家の近くに来る機会がありましたら、ぜひお立ち寄りいただき、そこに小さな花を手向けてもらえればと思います。
花はわが家の庭から摘んでもらえればうれしいです。

我孫子駅の北口の花壇をいつもきれいにしている花かご会というグループがあります。
今日もみなさん来てくださっていますが、節子もそのメンバーの一人でした。
昨夜、その花かご会の方たちから、節子が植えたわが家の花を駅前花壇に株分けさせてほしいという、とてもうれしい申し出がありました。
我孫子駅前にも、節子の居場所ができました。

節子は、私にとっては、生きる意味を与えてくれる人でした。
ですから、いなくなったら、私はもう生きていけないと思っていました。
しかし、息を引き取った後も、節子は私たち家族と一緒に生き続けてくれているような気がします。
この2日間、たくさんの人に会い、節子ともたくさん話をしましたが、そんな気がしてなりません。
節子は、大好きだったわが家で、これからもずっと暮らし続けます。
49日までは、私も原則として、自宅にいるつもりです。
またぜひ遊びに来てやってください。

こんなにたくさんの人たちに愛されている節子は、とても幸せものです。
これからもずっと愛してやってください。
ありがとうございました。

■001:私にとって人生で一番悲しい日(2007年9月6日)
CWSコモンズに書いたように、信じがたく、残念なことですが、私にとってはかけがえのない妻が息を引き取りました。
気持ちが落ち着いたら書き込みを再開します。
医療も葬儀も悲しいことが多すぎました。
私の妻は「花や鳥」になりたいと言っていたので、最後にその話をさせてもらいましたが、
葬儀社に頼んだら、いま流行らしい風にさせられてしまいました。
さびしい時代だと思いました。

■005:静かな1日(2007年9月8日)
妻が息を引き取って、6日目です。
やっと少し落ち着きました。
今日は4人の人が節子に会いに来てくれました。
お通夜、告別式には、あまりご案内をしなかったにも関わらず、たくさんの人が来てくださいました。
当初は、こじんまりとした見送りを考えていましたが、ちょっと大きくなってしまいました。
しかし、形だけではなく、心のこもったものになったと思います。
節子はきっと合格点をつけてくれるでしょう。
自宅に来てくださって、お見送りしてくれた方も少なくありませんでした。
告別式でお話したことを思い出しながら、私のホームページに再録しました。
よかったら読んでください。
妻の葬儀でしたので、私の知人友人には原則として連絡はしませんでした。
そのため、後から知った人も少なくないと思います。
ご連絡差し上げられなかった方々には、深くお詫びいたします。
これは節子の強い希望でもありました。
告別式が終わり、少しずつ訃報が広がっているようです。
今朝も花が届きました。
このブログやCWSコモンズのホームページを見て、知ってくださった方からのご連絡もあります。
それで、このブログも少しずつ書き続けることにしました。
しばらくは個人的な日記になるかもしれませんが、お許しください。
自宅で呆けています。
何かしていないと、涙が途絶えないのです。
お近くにきたらお立ち寄りください。
何も手がつかず、虚脱していますが、できるだけ自宅にいるようにしています。
11日はちょっとでかけますが。

■006:突然の死(2007年9月10日)
愛する人の死は、いつも突然にきます。
私の妻は4年前に胃がんの手術をしましたが、以来、常に死を意識していました。
彼女も、私も、です。
しかし、私自身は、絶対に死から守ろうと思っていました。
妻もまた、絶対に元気になると前向きに考える人でした。
ですから、2人とも死については一切考えないようにしていました。
特に私の場合は、冷静に考えれば、死がすぐ近くに来ている、その時まで、妻が元気になることを確信していました。念ずれば奇跡は起こる。
その確信が消えたのは、妻が息を引き取る数分前です。

突然に愛する人を失う事故や事件の報道を耳にするたびに、その無念さを、いつも思っていました。
最後の会話もできず、両者にとって、どんなにか無念だったことか。
しかし、長い闘病生活を耐えて、息を引き取った女房との別れもまた、最後の会話をする間もない、突然の別れだったのです。
愛する人との別れは、いつも突然なのです。

妻が、おそらく死を意識したのは8月の中ごろです。
死など、毛頭思いもしない、能天気な私のために、彼女はそれを意識の底に抑えたまま、生きる努力をしてくれました。
生きることは自分のためではない、愛する人のためなのです。
彼女がまだかなり元気だったころに、私にそう語っていました。
妻は私には人生の師でした。
生き方において、私はたくさんのことを教えてもらいました。
私が教えたことも決して少なくありませんが、本質的なことでは教えられることが多かったです。

妻が残してくれたさまざまなものを、むすめたちと少しずつ整理しだしました。
彼女もまた、突然の死だったことがよくわかります。
彼女の性格からすれば、死を予感して、きちんと身支度したかったのかもしれません。
しかし、あえてそれをせずに、思い込みが強い私に合わせてくれました。
治してやるなどという、できもしない約束に辟易しながらも、それが実現するように、がんばってくれたのです。
そして、突然の死。
突然だから耐えられているのかもしれませんが、無念でなりません。

■007:妻に風になってほしくありません(2007年9月11日)
「千の風になって」は好きな歌の一つです。
闘病中の女房も好きでした。
しかし、私は死んだ後、風になりたいとは思っていません。
女房がどう思っていたかは残念ながら確認しませんでしたが、やはり風にはなりたくないと思っていたと思います。
なぜなら私たちは、輪廻転生を確信しているからです。
私は、来世でも今生の女房だった節子にプロポーズするつもりです。
もっともそれが受け入れられるかどうかは、残念ながら確実ではありません。
女房は生前、私の数回の提案に対して、「考えておく」としか言わなかったからです。

解脱という言葉があります。
仏教では解脱が目的ですが、私たちは解脱よりも輪廻転生を望んでいます。
解脱の前に、まだまだやり残したことが多いからです。

女房は息を引き取る少し前に、家族にこう書き残しました。
「花や鳥になってチョコチョコもどってくる」
その話を告別式の挨拶で、私から皆さんに紹介しました。
ところが、その直後、司会の人はなんと、
「千の風になって・・・」と語り出したのです。
この葬儀は失敗だったと、女房にとても申し訳なく思いました。
私が司会をすべきでした。
参列者のお一人は、メールでこう書いてきました。
式場の“担当者”が「千の風になって」と言ったときに、
私の神経の束を無遠慮にはじかれたような、強烈な違和感を感じました。
「喪主のご挨拶」で「花と鳥」とおっしゃったのに、「それでもプロか!」と、
身体が熱くなるような思いでした。
一人ならず、何人かの人が同じことを言ってきてくれました。

今回、やや気が動転していたせいか、葬儀を葬儀社の人に任せてしまいました、
途中、いろいろとトラブルもあり、少しは進め方を変えましたが、大人気ないという思いもあって、大筋は任せてしまったのです。
しかし、この言葉を聞いた時に、反省しました。
節子にとって、とても大切な場だったのにとんでもないことをしてしまった、と悔やみました。

千の風になるというのは、本人が言うべき言葉です。
本人以外の人が言うべき言葉ではありません。
ましてや、故人のことを全く知らない「担当者」が言うべきことではありません。

花や鳥になる、と、風になる、とは同じようなものではないかと思う人がいるかもしれません。
そんなことはありません。
もちろん「風」になりたい人もいるでしょう。
しかし、何になりたいかは、その人の人生に深くつながっているのです。
そんなこともわかっていない人に、葬儀の進行を任せたことが悔やまれてなりません。
葬儀は、やはり自分でしっかりと企画しないといけないですね。
葬儀関係の仕事をしている友人から、佐藤さんらしくない失敗ですね、といわれそうです。恥ずかしいかぎりです。
言うまでもなく、今回の失策の責任は、私にあります。
妻に謝りました。
これからもまだまだミスが続きそうです。

■008:欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。(2007年9月12日)
欽ちゃん球団が、野球の全日本クラブ選手権で優勝しました。
欽ちゃんがテレビで嬉しそうに話しているのを見て、また節子のことを思い出しました。

欽ちゃんは今年の24時間テレビのランナーになって、走りました。
最後は辛そうでしたが、完走を果たしました。
そのテレビを闘病中の節子は見ていましたが、その終わりごろにフッとつぶやきました。
「欽ちゃんは1日がんばればいい。でも私は毎日がんばらないといけない」。
そう言って、テレビから目を話しました。
その言葉は、私には忘れられません。

毎日がんばっている人がいます。
欽ちゃんは完走できましたが、節子は完走できずに息を引き取りました。
節子さんも完走できたんだと慰めてくれる人がいるでしょうが、完走できたかどうかは一緒に走っていた私にはよくわかります。
無念で辛いことですが、節子は完走できませんでした。
その事実は否定できません。
しかし、完走できなかったから努力が報われなかったというわけではありません。
努力やがんばりは、その行為自体によって報われていると私は思っています。
節子もそう思っているはずです。

節子は医師たちが驚くほどに気丈夫でした。
弱いところがある半面で、辛さに耐える人でした。
耐えながらも、弱音を吐くという素直さもありましたから、私は節子の弱さと強さをよく知っています。
にもかかわらず、いろいろと誤った判断をしてしまったことをいま悔いています。

欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。
節子の、その時の思いを思い出すたびに、涙がとまらなくなります。
そして、そういう人たちが、節子の他にもたくさんいることを思い出します。
節子の言葉には、そういう人たちへの思いが感じられました。
節子はいつも、いろいろな人への思いを忘れない人でした。

節子は毎日をほんとうに真剣に走り抜けました。
完走はできませんでしたが、その毎日が彼女と私の誇りでした。
毎日がんばっている皆さんがもしいたら、ぜひとも節子のようにがんばってほしいと思います。節子もそう思っているはずです。
そして仮に完走できなかったとしても、完走以上の大きなものを得ることができるように思います。

いまは何を見ても、何を聞いても、節子のやさしい顔が私の頭を覆ってしまいます。
ほんとうに、やさしくて強い人でした。

■009:安倍首相に節子のつめの垢をせんじて飲ませたかった(2007年9月13日)
安倍首相が突然辞任しました。
そのことで節子と話し合えないのがとても残念です。
と言うのは、節子は安倍首相に不安を持っていたからです。
節子の小泉さん嫌いは私の影響がかなりありましたが、安倍さんへの不信感は私の影響は全くありません。
節子は安倍首相の言動に生活を感じなかったのです。
テレビでの話し方に最初から違和感を持っていました。
それは理屈ではなく直感でした。

節子は人生において、一度だけ、選挙を棄権しました。
それが先の参議院選挙でした。
病気で歩けなかったので投票所に行けなかったのです。残念がっていました。
当日の朝まで迷っていたのですが、とても行けるような状況ではありませんでした。
しかし、選挙結果には満足しました。首相続投には不満でした。

節子は選挙には必ず行きました。
選択基準は、生活感覚でした。そして、その人の誠実さでした。
節子はともかく「生活者」だったので、着飾った言葉は嫌いでしたし、実体を感じられない難しい言葉は好きではありませんでした。
理解できない言葉にはだまされませんでした。
私の話も横文字が多すぎるといつも批判していました。
生活者は言葉ではだませないのです。

節子は、安倍首相には首相としてのイメージが感じられないといっていました。
なぜ同世代の女性たちが安倍さんを支持するのかいぶかっていました。
節子は、安倍さんを首相として認めていなかったのです。
そして、その節子の予想通り、安倍首相は無責任に使命を投げ出しました。
生活者の直感は真実を見抜くものです。

私自身は、今回の辞任は何の驚きもなく受け止めました。
ただ政治が崩壊しているだけの話です。
自民党議員とそれを支援していた国民の共演でしかありませんし、予想されていたことですから。驚いてあなたたちが演出したことでしょうといいたいです。

ただ、節子の闘病のがんばりに付き合ってきた私としては、こんな安直な生き方をしている人間を見るとただ悲しくなるだけです。
節子に比べると、安倍首相はとてつもなく可哀想な人なのかもしれません。
安倍首相に比べると、節子の人生は誠実で立派でした。

■010:なぜ謝らないのかと節子はいうでしょう(2007年9月14日)
節子は正義感の強い人でした。
彼女の信条は、嘘をつかない、迷惑をかけない、でした。
節子はまた、「非常識」な行為が嫌いでした。
私はけっこう「非常識な言動」が多い人でしたので、よく注意されました。
けんかになったことも少なくありません。
もっとも私の行う「非常識」と彼女が嫌いな「非常識」とは少しニュアンスが違いました。
彼女が許さなかったのは、並んでいる列を乱したり、電車の座席に座り方が悪かったり、道に吸殻やゴミを捨てたりすることでした。
私もそうした行為は許せない性格です。
もっと大きな問題もありました。

うまく書けないのですが、ともかく正義の人でした。
その矛先は政治家やタレントなどにも向けられていました。
食べ物を粗末にする番組にはいつも怒っていました。
パイの投げあいの場面を見ると本当に怒り出しました。
野球の優勝チームのビールの掛け合いなどは彼女の受け入れるところではありませんでした。
おかしな格好をして出てくるタレントも嫌いでした。
言葉遣いもうるさかったです。

間違ったことをしたのに謝らない人は大嫌いでした。
それもただ謝るのでは満足しませんでした。
私は思い込みが強い人間なので、よく間違いを犯しますが、間違いに気づいた途端に言動が豹変し、すぐに「ごめん」というタイプです。
しかし、節子は、そんな軽い謝り方はだめだといつも怒りました。
謝るなら心を込めろというのです。

安倍首相の記者会見を見ていた娘が、お母さんが見ていたら、安倍さんはどうして謝らないのだろうと言うねと言い出しました。
そういえば、朝青龍も謝らないですし、最近はみんな謝らなくなりました。
謝る文化が消えつつあるのでしょうか。

テレビの安倍さんをみながら、できもしないことを引き受けたらだめだよね、と娘たちと話していて、実は自分もその過ちをしてしまったことに気づきました。
節子を治すといいながら、治せなかったのです。

私はいま、毎日、節子に謝っています。
節子を守ってやれなかったことを心から悔やんでいます。
取り返しのつかない間違いでした。
一生謝り続けるつもりですが、まあ以前と同じく、軽い謝り方なので、節子は怒っているかもしれません。
ちなみに、謝るのは節子のためではなく、私のためなのです。
取り返しのつかない間違いも、すべて節子は許してくれるはずですから。
それも私たちのルールでした。

■011:慰めのことば(2007年9月15日)
妻がなくなって、いろいろな人から声をかけてもらいます。
「お気落としのありませんように」
「元気を出してくださいね」
「嘆いてばかりいることを節子さんは望んでいないよ」
「むすめさんたちのためにもしっかりしなければいけない」

ありがたいことです。
でも、私にはいずれも無理な話です。
気を落とすのは避けられませんし、
元気がなくなり、涙が出てくるのも仕方ありません。
しっかりなんかしていられません。
節子は私にとってはかけがえのない人だったのですから。
その節子と、もう話しあうこともできないし、抱き合うこともできないのですから。
元気を出せと言われても、無理なのです。
私を慰めてくれるのでしょうが、私が悲しくなるだけです。
それにむすめたちにも真実を知ってもらいたいです。
無理をするのは私らしくないことを彼女たちはよく知っています。
それに、嘘はつかない、隠し立てはしない、がわが家の文化です。

節子の闘病中も、いろいろと慰めの言葉をもらいましたが、慰めにならないことも少なくありませんでした。
しかし、せっかくの善意と思いやりを考えると、
さすがの私でもそんなことはいえません。

私たちは、こういう間違いを結構しているのかもしれません。
慰めの言葉は難しいものです。
当事者の気持ちを踏まえなければなりませんが、そんなことはできるはずがないからです。
できることがないという認識で、考えなければいけません。

「思い切り泣いたらいい」
「ゆっくり休んでください」
こういう言葉はどうでしょうか。
これもこれでまた、泣いてばかりいられるか、休んでばかりいられるか、という気になるのです。

要するに、悲しんでいるときには、どんな言葉も慰めにはならないということです。
人間は本当に身勝手なものです。
いえ、私の性格が悪いのかもしれません。

しかし、そういうたくさんの人たちの励ましが、今は声を出しては応えてくれない節子との会話のきっかけをつくってくれます。
そういう意味では、すべての言葉が励ましになっているのです。
どんな言葉でも、かけてもらえるとうれしいのです。
本当に人間は身勝手なものです。

今日はどんな言葉が届くでしょうか。
節子のおかげで、たくさんの人に気にかけてもらっていることを感謝しています。
私もだらしなく泣きながら、でも少しずつ新しい世界になじみ出しているのでしょう。

■012:なぜこんなに寂しいのでしょうか(2007年9月16日)
節子の二七日です。
伴侶がいないということの寂しさの大きさに驚いています。
同居している娘たちが、気をつかってくれますが、節子の姿が見えないことの空白感はたとえようがないほど大きいです。
悲しいとか辛いとかいう以上に、心が安定しないのです。
私たちはお互いに空気のような存在でしたから、いわば空気が薄くなってしまったような「酸欠」状態のような気もします。

以前から、節子は、私たちは寄り添いあいすぎているので、どちらかが欠けるとその後が怖いといっていました。
同感でしたが、まさか私が後に残るとは思ってもいませんでした。
それが節子の最大の心残りだったかもしれません。

節子は私のすべてを理解してくれていました。
良いところも悪いところも。
強いところも弱いところも。
清いところも卑しいところも。
正しいところもあざといところも。
ともかく節子は私のすべてを知り、受け入れてくれました。
それが私の生きる力の源泉になっていました。

自分のすべてを知っている人がいる。
そのおかげで、何が起こっても安心でした。
不安があろうと迷いがあろうと、すべて節子の笑顔が解消してくれました。
困ったことが起これば、それをシェアしてくれる人がいるということが、私が思いのまま生きてこられた理由です。

人が素直に生きることができるのは、自分を理解し、いつも見ていてくれる人がいるからです。
その人がいなくなったことが、きっと今の大きな寂しさの原因でしょう。
この寂しさは一生背負っていかねばいけません。
時間が癒すという人もいますが、節子でなければ癒せない寂しさです。

■013:白い花に囲まれた祭壇(2007年9月17日)
節子が息を引き取って、半月たちますが、今も毎日のように花が届きます。
節子が花好きだったことを知っている友人が花を持参してくれたり、送ったりしてくれるおかげです。
花が届くのはとてもうれしいのですが、「お供え」の花なので、みんな同じ雰囲気です。なかには近所の子どもが持ってきてくれた華やぐような花もありますが、それ以外は白い花が基調です。
華やかな花が届くのは場違いなのかもしれませんが、白い花ばかりに囲まれていると少し気分が沈みます。

葬儀の時に、節子は華やかな花で送られたいといっていました。
たくさんの生花を送ってもらえたのですが、今回は葬儀をお願いしたところの方針で、生花はすべて菊が基本でした。節子の希望を伝えましたが、だめでした。当日、その会社の社長にそのことを話したら、少しだけユリを増やしてくれました。
菊は長持ちしますが、ユリなどはあまり持ちません。
娘の朝最初の仕事は節子の周りに飾られている花の整理です。
いつも元気な花に囲まれているようにこまめに枯れかけた花を抜いていますが、これは結構大変です。
葬儀場ではとてもフォローできないでしょう。心がなければできません。

白は心を清める色ですが、ずっとその中にいると気分が白くなります。
これは冗談ではなく、心の表情がなくなっていくということです。
そして無性にさびしくなります。
これがこの2週間、白い花に囲まれて過ごしてきた私の実感です。
そろそろもっと華やかな花がほしくなり、庭の黄色の彼岸花を飾りました。
祭壇の表情が少し変わりました。

節子は花が好きでしたが、私は節子に花を贈ったことはありませんでした。
節子からもむすめたちからも、それをひやかされていました。
今日は生まれて初めて、花屋に花を買いに行きます。
いつも私のまわりに花を置いてくれていた節子への、初めての花の贈りものです。

■014:とても「危ない話」(2007年9月18日)
久しぶりに「危ない話」シリーズです。
今日は「とても」危ない話です。

CWSコモンズにも書きましたが、先週、二七日の前日に、節子の旅の様子が入ってきました。
節子は、たくさんの花に囲まれたところで、心和やかに過ごしているそうです。
そして家族に感謝してくれているそうです。
彼岸への旅は順調のようです。

そのことを教えてくれたのは、私たち夫婦の知人です。
その知人は、先に見送った彼岸にいる娘さんから今日聞いたそうで、急いで電話してきてくれたのです。

その人は節子のことを心から気遣ってくれて、最後まで奔走してくれた人です。
娘さんも、私たちはよく知っていますが、40代で、母親を残して先立ちました。
母一人娘一人だったので、母親の悲しみは大きかったでしょう。
しかし幸いにも彼女たち(母子)は、いずれも不思議な能力を持っています。
娘の死後も、ある人の助けを借りて、母子の会話が続いているのです。
今日、娘さんの話を聞きにいったら、節子と会ったことを話してくれたのだそうです。
たくさんの花に囲まれた明るい場所。
私は節子の祭壇の置かれた部屋で電話を聞いたのですが、まさにその部屋はお供えの花でいっぱいです。
節子はどこにいても花に囲まれているようです。
彼岸への旅に疲れて、戻ってきてほしいという気も、実は私のどこかにあるのですが、まあ節子が楽しく旅を続けているのであれば、それもまたいいでしょう。
それに節子のことですから、旅の途中でもきっとたくさんの友人をつくることでしょう。
いささかの嫉妬も感じますが、うれしいお知らせです。

ちなみに、葬儀が終わった後に花が届くのは嬉しいですが、一挙に届くのが問題です。
ですから、今度私が花を送ることになったら、葬儀から少し間をおいて送ろうと思います。
時間が少し立てば、白いお供え花でなくてもいいですし。
これも体験から気づいたことです。
節子が教えてくれたことかもしれません。

<危ない話>シリーズ
* 少し危ない話
* かなり危ない話
* もしかして危ない話

■015:般若心経(2007年9月19日)
私の1日の始まりは、妻の前で般若心経をあげることです。
節子ががんを再発して以来、寝る前に2人で唱えるようになった、にわか読経者ですが、妻を送った後は、毎朝一番に唱えています。
なかなか覚えられませんが、最近、ようやくほぼ暗誦できるようになりました。

節子が苦しくなっても最後まで一緒に声をだしていたのが、
依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
です。
なぜか節子はその文章が好きでした。
私が最初に覚えたのは、それに続く、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
です。
お互いに意味がわかってのことではありません。自然とそうなったのです。
今日、何とはなしに気になって、手元の「般若心経講義」という本で、その意味を調べてみました。
節子が唱和したところの大意は、
何物にも拘束されずに、囚われることなく、自由に生きることで、妄想からも解放され、不死の生命を得る、
というようなことらしいです。
私が最初に暗唱したところは、
すべての諸仏も般若の智恵により正しい覚りを得た、私たちもそうしなければならない、というような意味です。
このごろは頭がボーっとしていますので、正しく理解できているかどうかはわかりませんが。

節子と私の心に、最初に飛び込んできた、それぞれの経文は、それぞれにとてもぴったりのような気がしています。
やはり、私よりも節子のほうが、どうも先を進んでいたようです。

ところで、この話を市川覚峯さんに話しました。
市川さんは、「無?礙、無?礙故」は私へのメッセージだというのです。
そうかもしれません。
いまの私は、節子には好きになってもらえないでしょう。
過去を振り返りすぎで、些末なことにこだわりすぎていますから。

■016:死者は聖人になるものです(2007年9月20日)
このブログを読んでいると、節子が才色兼備のすばらしい女性のように思われるかもしれません。
しかし事実は全くそうではありません。
私にはすばらしい妻でしたが、一般的な基準からすれば、欠点も多く美人でもありませんでした。
節子は嘘がきらいでしたから、節子の欠点もきちんと書いておかないと後で会った時にまた怒られます。

そう思って、節子の欠点を思い出そうとしました。
節子が元気なときには、すぐにたくさん出てきたのですが、実に不思議なことに出てこないのです。
性格の悪いところもあり、お互いに性格の悪さを言い合ったこともあるのですが、それが思い出せないのです。
自分に都合のいいことだけしか覚えていないことも私には不満でしたが、考えてみると私自身もそうですから、ことさらあげつらうこともないでしょう。
思い出していくと、彼女の悪いところは、実は私自身の悪いところなのです。
人は自分の欠点を他人に見るものですが、夫婦の場合はまさに相似対照の関係にあるものです。ですから夫婦喧嘩は犬も食わないわけです。

節子は美人ではありませんでしたが、自分の顔が好きでした。
闘病中も、寝る前に鏡で自分の顔を見て、笑顔を作って自分をほめていました。
今日もがんばった、と。ベッドの横には、いつも手鏡がありました。
私は節子の顔がすごく好きでした。
息を引き取った時の節子は、まさに私が思っていた天使のようでした。
私が節子を美人だと心底思ったのは、そのときが初めてです。
もっとも天使が美人であるとは限りませんが。

今回は欠点を書く予定だったのに、またほめてしまっていますね。
困ったものです。
いまも節子の遺影を見ながら欠点を思い出そうとしているのですが、思い出すのは良いところばかりです。
どんな人も、死者になると聖人になるというのは本当のようです。

近くの人が、奥さんはこの地域の太陽のような人でした、と言ってくれました。
私たち家族にとっても、まさに太陽でした。
どんな欠点があろうと、すべてが私たちの力の源でした。
その節子の声がもう聞こえない。
節子と喧嘩もできません。愚痴もこぼせず、ほめてももらえない。
節子もきっとそう思っているでしょう。
早くまた、あの太陽のような節子に会って、冷え切った心身を温めてもらいたいです。

■017:一緒に旅行に行けなくなってごめんね(2007年9月21日)
昨年の今日、私たち夫婦は福井の芦原温泉で泊まっていました。
再発が確認される直前の旅行で、これが最後の温泉旅行になりました。
その時に、思いもかけず、東尋坊で自殺予防に取り組む茂さんと川越さんにお会いでき、とても思い出深い旅行になりました。
その旅行の帰り、若狭湾に面した河野で1時間近く夕日が沈んでいくのを見ました。
あんなに時間をかけて、夕日を2人で見たのは初めてでしたが、その時はまさか1年後には節子が向こうに旅立つとは思ってもいませんでした。

再発して、旅行に行けなくなってしまってから、節子はいつも、私に「一緒に旅行に行けなくなってごめん」と言っていました。
節子は、夫婦一緒でないと私が遠出の旅行に行かないことを知っていたのです。
友だちと一緒に旅行にでも行ってきたらとも勧めてくれましたが、私が絶対に行かないことも知っていました。

私はともかく節子と一緒でないと、何をしても、どこに行っても、楽しくないのです。
私が節子に惚れていたからではありません。
節子は私の分身であり、体験を共有していないと落ち着かないからなのです。
ですから本当は仕事でも一緒したかったのですが、そこまでのわがままはさすがに強要できず、話を聞いてもらうことで我慢しました。
節子は私の仕事を知っておかねばいけないので、とても苦労したはずです。
なにしろ私の「仕事」は、何がなんだか本人でさえあまり理解できないほど多種多様、いや混沌としていましたから。それに常識的ではないことが多かったです。
しかしいつも話を聞いてくれました。
理解は期待しませんでしたが、共感はいつも期待し、節子の共感が得られないことがあれば仕事もやめるようにしていました。

一緒に旅行には行けないけれど、こんなに一緒にいられるからいいじゃないかというと、節子はすまなさそうな顔をしました。
しかし私は本当にそう思っていました。
節子は私よりも旅行好きでしたから、無念さは節子のほうがずっと大きかったはずですが。

やっとゆっくり一緒の時間を過ごせる年齢になったのに、看病でしか一緒にいられなくてごめんなさいと何回も私に言ったのが思い出されます。
その節子が、私をおいて一人で旅立ってしまいました。
どんな思いだったでしょうか。
私がいなくても大丈夫だろうかと心配です。
なにしろ私たちは、いつも2人でひとりでしたから。

■018:どんな看護も悔いが残るものです(2007年9月22日)
節子は自宅で最後を迎えました。
献身的な看護だった、悔いなど残すことはない、奥様がうらやましいほどです、と多くの方々から慰められています。
たしかに私の娘たちはよくしてくれました。
とりわけジュンの言動は、親の私ですら頭がさがるほどのものでした。

しかし、私の看護は決して献身的も誠実でもなく、実に悔いが残るものです。
昨夜も5時に目が覚め、節子への対応のことを思い出してしまいました。
声に出して彼女に謝りました。
外部から見れば誠心誠意を込めたものに見えるかもしれません。
仕事も一切やめ、節子に寄り添い、最後の1か月はほとんど同じ部屋で暮らしました。
節子は、そんな家族を気遣って、逆に入院するというほどでした。
節子がいつも「家族に感謝感謝」と友人たちに言っていたと後で節子の友人たちから聞きました。
そうしたことを総合すると、まあ「献身的な看護」に見えるかもしれません。

しかし、実態は悔いばかりが残る看護でした。
なにしろ「治す」という約束も守れなかったのですから。
馬鹿もほどほどに、と言われても、返す言葉もないほどです。
しかもそのことを節子は多分知っていたのですから。
結局は、私が看護していたのではなく、私が看護されていたのです。
そのことを知れば、私の看護がいかに問題が多いものだったことがわかるでしょう。

思い出すだけで元気がなくなります。

しかし、私たちのことを深く理解してくれているだろう友人が、こう書いてきてくれました。

私は、奥様と佐藤さんの闘いに、
そしてお二人の娘さんと共に闘われた日々に、
心から敬意を表します。
あなた方は、見事な闘いぶりであったと…。
私も、奥様のようでありたい…、
そして、佐藤さんのようでありたいと、
心から想っています。

私の後悔と罪悪感は消えることはないでしょうが、この一言で、とても気がやすめられました。

いうまでもありませんが、節子は私の看護には、皮肉(節子は皮肉が好きでした)は言うでしょうが、100%満足しているでしょう。
満足していないのは、私なのです。
看護もまた双方向的な関係なのです。
節子の看護にしっかりと応えられなかった自分が悔やまれてなりません。
私の看護は決して合格点はとれません。一番の評価者は私です。

■019:いつになってもやめられません(2007年9月23日)
まさか挽歌をこんなに長く書き続けるとは思っていませんでした。
そもそもこのブログのテーマは社会の動きへの時評です。
しかもこの間、政治の世界は激変していますし、問題も多いです。
そんな時に、自分の世界に閉じこもって、いつまでも妻を語っていることに読者は辟易していることでしょう。
しかし、書き出すと次から次へと書きたいことが出てくるのです。
私が節子と見える形で話し合えるのはこの場だけだからです。
それに、読者からも毎日のように反応があるのです。
それでついつい調子に乗ってしまい、書き続けているわけです。
いっそのこと節子への挽歌のブログをつくろうかと思ったりもします。
節子のことなら、多分一生書き続けることができるでしょう。
しかし、それではせっかくの「時評ブログ」の意味がありません。
そろそろ時評に戻る必要がありますが、一挙には辛いので、少しずつ時評バージョンをふやして行く事にします。
うまく行けば、妻への挽歌とつなげられるかもしれません。

ブログを書き続けてきたのは、節子への思いを断ち切れないことが理由ですが、読者からの反応も大きな理由です。
たとえばこんなメールをもらいました。
佐藤さんがどんなに奥様を大切に思っていらしたか、
そしてその奥様がどんなに素敵な方であったか、
言葉のひとつひとつから痛いほど伝わってきて涙があふれました。
奥様とは直接面識がないのですが、
親しい人が亡くなったときのような深い悲しみを感じました。
機会がありましたら奥様にもご挨拶させていただきたいと思います。

私もある会で(たぶん)一度しか会ったことのない人です。
文中の、「奥様がどんなに素敵な方であったか」に関しては、前にも書いたように、私にとってだけの素敵さでしかないのですが、私がとても嬉しかったのは、「機会がありましたら奥様にもご挨拶させていただきたい」というところです。
この人にとっては、節子はまだ生きているのです。
挨拶したいと言ってくださっているのですから。
私は、息を引き取った節子がまだ私の近くで生きつづけていると思っているのですが、そう思っている人が一人でも増えれば、こんなうれしいことはありません。
そんなわけで、節子への挽歌はこれからも書き続けるつもりです。

■020:定型文の豪華な弔電はやめませんか(2007年9月24日)
今日はちょっと社会時評の内容も含めて、節子への挽歌です。

節子の葬儀に関して、たくさんの弔電が届きました。
送ってくださった方々には感謝していますが、私はこの弔電の送り方にかなりの異論をもっています。
弔電にではなく、弔電の送り方やスタイルに、です。

せっかく弔電を送ってくださった方には大変失礼なことになりますが、今回はあえて書いておこうと思います。
問題は、弔電の多くが定型文だということです。
そして、弔電の文章を包むカバーが立派過ぎることです。
中には漆塗りのものもあります。
この2つは、私が最も嫌う文化を象徴しています。
せっかく送ってくださった皆さん、本当に申し訳ありません。
みなさんのお心遣いには微塵も疑いを持っていませんが、この文化は早くなくしたいと思っているのです。
お許しください。

今回、自分の言葉で電文を書いてきてくれた方はほんの数人でした。
告別式ではそのうちの2つを読み上げてもらいました。
しかし、郵政公社は、どうして定型文などを用意しているのでしょうか。
それさえなければ送る人は少しの時間、相手に思いを馳せるはずです。
商品を選ぶようなやり方は、弔電にはふさわしくありません。
郵政公社のコストダウンには寄与するでしょうが、日本の文化を壊すものです。
死者への冒涜ではないかとすら私には思えます。

さらに腹立たしいのが、電文を包むものが年々立派になってきていることです。
その一方で、電文が書かれる肝心の用紙は年々粗雑になってきています。
発想が完全に間違っています。
メッセージは軽視し、包装を立派にするのは、金銭至上主義の象徴です。
しかも、明らかに資源の無駄遣いです。
私はそうした弔電は廃棄しますが、その時にとても悲しい気分になります。
それを知っているために、弔電をもらった時にとても悲しくなります。

包装の立派さで弔意の重さが決まるのでしょうか。
そんなはずはありませんが、それがまさに今の社会の文化を象徴しています。
私が一番嫌悪する文化です。

意外だったのは、こうしたことに批判的なはずの信頼する友人が、一番立派な包装の弔電を送ってきたことです。
彼は女房のことを深く心配し、いろいろと応援してくれた人ですから、思いを込めたのだと思いますが、彼がまさかそんな選択をするとは予想もしていませんでした。
私のことを良く知っている彼なら、一番質素な包装を選べたはずです。
しかし、豪華さの段階がある以上、そうなってしまうのかもしれません。
私も一番質素なスタイルで送るのには躊躇するかもしれません。
他人のことをとやかく言える立場ではありません。

弔電のカバーは格差をつけずに、すべて同じにすべきです。
弔電に経済的な格差をつけるのは、極端に言えば、生命を差別化することです。
郵政公社の、そうした卑しい商売主義は正すべきです。
しかし民営化で、この方向はますます進むかもしれません。
心卑しい人たちが経営者になっていますから。
彼らの前歴を見ればそう思わざるを得ません。

弔電は喪主宛に届きます。
これにも違和感があります。
弔辞などは死者宛に読み上げられますが、弔電はなぜ家族に当てられるのでしょうか。
葬儀は死者のためのものではなく、残された人たちのためのものからかもしれません。
そのことにも私は違和感を持っています。
喪主宛には手紙がいいでしょう。急ぐこともありません。

今回の葬儀は、節子を親しく知っている人だけに伝えたのですが、こういう情報は見事に伝わるものです。
節子に会ったことのない人まで弔電をくれました。
それはうれしいことですが、私にはいささかの違和感があります。
こんなことをいうと、せっかく弔電を送ってくれた人は怒り出すかもしれません。
すみません。
送ってくれた人への不満をいっているのではありません。
そういう形になってしまう文化や仕組みを問題にしているのです。

2人の方から手紙をもらいました。
ご自分の言葉で、私への弔意を書いてきてくれました。
私にはとてもうれしい手紙でした。
女房に読みか聞かせました。
とても心が和みました。

弔電の文化は、そろそろやめても良いように思います。
少なくとも私は定型文の弔電は打ちません。

■021:先が見える愚かさ、先が見えない愚かさ(2007年9月25日)
節子の死は主治医たちにはほとんど自明のことだったでしょう。
医学的知識を持っている医師たちには、先が見えていたのです。
先が見えていなかったのは、私と家族です。
医学的にはどうであろうと、節子は治るんだと確信していたのです。

医師に対する私の不満は、見えている先を絶対視して考えることでした。
生命体である人間は、それぞれ違う存在であり、医学の知見が絶対ではないはずです。
それにまだまだ生命体の不思議は解明されたわけではありません。
わずかばかりの知識で、判ったような気になっている医師は、私にとっては「愚かな」存在です。

先が見えるからといって、必ずしも的確な判断につながるわけではありません。
それは病気に限ったことではありません。
「先が見える愚かさ」に陥らないようにするのが、私の生き方でした。

しかし、愚かだったのは私のほうでした。
先を見ようとしなかったのです。
先が見えるが故に愚かな判断をすることは少なくありませんが、
先が見えないが故に愚かな判断をすることは、きっともっと多いでしょう。
先を見すえて、なおかつその「先のこと」に呪縛されない生き方をしなければいけません。
私もそう思っていたのですが、節子に関しては「先が見えない愚かさ」に陥ってしまっていました。
先を見すぎる医師への反発があったかもしれません。

そうした私の小賢しさは今回に限ったことではありません。
そうした私の言動を、節子はいつも笑いながら諭してくれました。
それなのに、私の、その小賢しさが、節子に必要以上の大変さを強要してしまったのです。
今回は諭すこともできずに、節子は耐えるのみでした。
私もまた、その間違いを許してもらう機会を失ってしまいました。

先が見えない愚かな人を伴侶に選んだ節子の不幸かもしれませんが、
その点では私たちは似たもの同志でした。
先を見るのではなく、先を創ろうとするのが、私たちの生き方でした。
そして残念ながら先を創れなかった。
無念です。

■022:危ういかもしれない話(2007年9月26日)
「危うい話」シリーズです。

長く死体と暮らしていたとか、愛する人を食べてしまったとか、猟奇事件といわれる事件が時々起こります。
そうした事件は、私にはただ「おぞましい」だけで、事件のことを知ることさえ生理的に受け付けませんでした。

節子が遺骨になってしまってから、私は毎日、その遺骨をベッドの横に置いて寝ています。私にとっては、なんでもない話ですが、たぶん他の人からは猟奇性を感ずるかもしれません。
節子がまだ荼毘にふされる前に、その安らかな死に顔に私は何回も触れました。
弔問客があると、顔を見て触ってやってくださいなどと言ったこともあります。
隣にいた娘が、注意してくれるまでは、それが「異常なお願い」である事に気づきませんでした。私には息を引き取った後も、荼毘にふされて遺骨になってしまった後も、すべてが生きていた時と同じ、愛する節子なのです。しかし、他の人にはそうではない事に気づかなかったのです。
それを一歩進めれば、世に言う「猟奇事件」になりかねないことだと、最近気づきました。
ようやく、そうした事件を起す人たちの気持ちがわかったのです。
私がもっと強く節子を愛していたら、荼毘になどふさずに、ずっと一緒にいたかもしれません。食べはしなかったでしょうが、類する行為はしたかもしれません。

今も節子の遺骨や遺影の前で一人で考えていると、世の中の「常識」などどうでもいい、ただ節子と一緒にいたいという思いに駆られます。
そうするといつも、「みっともないことだけはしないでね」といつも言っていた節子の声が聞こえてきます。
「そうだ、そうだ」といっている娘たちの顔も浮かびます。
その声が、猟奇事件を予防しているのかもしれません。

■023:夫婦が一緒に歩いているのを見ると嫉妬してしまいます(2007年9月27日)
昨日、娘と一緒にスーパーに行きました。
節子が元気だった頃は、節子とよく一緒に買い物に行ったものです。
見境なく商品をかごに入れる私に、節約家の節子はいつも困っていましたが、一緒に通っているうちに、私の方が節約家になりました。
そうしたら今度は品質や原産地をきちんと見るようにと指導されました。
節子から学んだことは少なくありません。
病気になってからは、あなたも一人で買い物できるようにならないといけない、とよく言われましたが、おかげで商品を選ぶポイントはだいぶ身につけました。

最近は夫婦で買い物をしている人が増えています。
そういう人たちを見ると、どうしても節子のことを思い出します。
なんで私の横には、節子でなくて娘なのだと思ってしまいます。
同じような世代の夫婦に出会うと、とても嫉妬してしまいます。
私たちも、そうありたかった、と思うのです。

私たちは本当に一緒で行動することが多かったです。
私がむしろ節子にくっついていたのかもしれませんが、そばに節子がいるだけで幸せでした。
もっとも節子は迷惑だったかもしれません。

一番、寂しくなるのは、旅行に行く夫婦を見かけた時です。
ついつい目をそらしてしまいます。
市川さんが、奥さんと一緒に、「同行2人」で、熊野古道に行きませんかと誘ってくれました。
奥さんと一緒。
そうか、節子はいつも私と一緒にいるんだった。
これからは嫉妬するのをやめようと、その時は思いました。
でもやはり仲のよさそうな夫婦を見るとうらやましさとさびしさにおそわれます。

■024:時に癒してほしくはありません(2007年9月28日)
また勝手なことを書きます。
悲しんでいる私を見て、「時が癒してくれますよ」と多くの人が言ってくれます。
そうかもしれません。
しかし、私自身は、「時になど癒してもらいたくない」と思っているのです。
時がたてば哀しさが消えるとは全く思っていませんし、なによりも、時に癒されたくなと思っているのです。
いいかえれば、この悲しさをずっと背負っていきたいと思っているのです。
慰めてくださる方々の思いやりには感謝していますし、そのことの正しさもわかってはいるのですが。
天邪鬼ですみません。
節子が知ったらまた始まったと苦笑いをすることでしょう。

現実はどうでしょうか。
実は日を経るにつれて、悲しさは大きくなってきています。
節子のいない生活に慣れることはあっても、悲しさや寂しさは小さくなることはありません。
むしろ節子のいないことを実感するたびに、悲しさは積み重なるのです。
辛さも日を経るたびに現実のものになってなってきます。

どうも私の場合は、時が癒してくれるのは無理そうです。
むしろ節子と別れたその瞬間の世界に永遠にいつづけたいというのが本音です。
時がたつほどに、節子との距離が遠のくようで不安でなりません。
時が癒してくれるような、そんな悲しさや寂しさであれば、私もそう辛くはないのですが。

■025:節子と抱き合えないことがまだ実感できません(2007年9月29日)
節子がいないさびしさに自然と涙が出ることが少なくないのですが、その一方で、未だに節子がいなくなったことが実感できないでいるのも事実です。
人間は受け入れたくない現実を認めたくないものなのでしょう。
朝起きて最初に口に出るのが「せつこ、おはよう」です。
日中も自然と節子に話しかけることも多いです。
時折、表現できないような不安感に包まれることがありますが、節子の顔を思い出すと、次第に収まります。
節子とまた会えるのではないかという思いがあるのです。
荼毘の現場にいましたから、そんなことはありえないことはもちろん知っていますが、にもかかわらず節子が突然ドアを開けて帰ってくるような気がしてなりません。

節子は私をおいて友人たちと3週間ほど旅行に出かけたことがあります。
まあ、そのときと同じような気が、どこかでしているのです。
節子とあまりに時間を重ねてきたおかげで、その不在に現実感を持てないのです。

旅行で留守にしているのと、違いはなんでしょうか。
節子の声が聴けないことです。電話がかかってこないのです。
しかし、一番の違いは、節子と抱擁しあえる日が二度とこないことです。

抱きしめることができず、抱きしめてもらえることができない。
いつでも抱擁しあえると思えば、抱擁しあう必要もないのですが、
それができないことを知ることは辛いことです。
その寂しさはどうしようもありません。

私が元気を失った時、節子はいつも私を抱きしめてくれました。
節子に抱かれていると、どんな不安も迷いもなくなりました。
こんなことをいうと笑われそうですが、私が自分の思うように生きられたのは、何が起ころうと最後に節子に抱いてもらって慰めてもらえたからです。
どんな失敗も、どんなに辛くて悲しいことも、節子は忘れさせてくれました。
そうであればこそ、私には怖いものなどなかったのです。
でも今は違います。
元気がなくなっても、回復させてくれる「魔法の力」は失われました。
元気をなくさないように、静かに生きなければいけません。
そんな人生は意味があるのでしょうか。

■026:修は女性のことを本当に知らないのね(2007年9月30日)
私は節子にほれ込んでいました。
最初からそうだったわけではありません。
節子への私のプロポーズの言葉は、「結婚でもしてみない」でした。
節子はなんと無責任なプロポーズだと思ったそうですが、不思議なことに当時の私のイメージからすると違和感がない言葉だったそうです。
誰でもよかったなどとはいいませんが、結婚とはそんなことだろうと思っていました。
私がプロポーズした時にも、節子には付き合っていた男性がいました。
しかし私にとってはそんなことはどうでもよく、プロポーズしたときにはただただ節子と一緒にいたかっただけです。
節子は私ほど私に惚れていたわけではありません。
惚れていたのは私です。
節子は押し切られて結婚してしまったのです。

その後、ずっと節子に惚れ続けていたわけでもありません。
まあいろいろとありましたし、節子は結婚を少しだけ後悔したこともありました。
親戚の反対を押し切っての結婚でしたから、私以外の人には言いませんでしたが。
私たちはどんな時も、お互いに正直でした。

私と節子が完全に世界をシェアしたのは、たぶん私が会社を辞めることを決めた頃です。
自分の納得できる生き方をするべきだと決めた私を、節子が何も言わずに全面的に支援してくれました。
2人で新しい世界を創りだそうと合意したのです。
専業主婦だった節子は苦労したはずです。
収入がなくなって、ただでさえ少なかった貯金がどんどんなくなっていくなかで、経済的にも不安が大きかっただろうと思います。
しかし、そんなことは一言も言いませんでした。
世間的な意味でのさまざまなものを捨てることに、節子は微塵も未練を持ちませんでしたし、私の身勝手な活動にも一言も異議を唱えませんでした。
退社した時に言ったのは、「25年間、家族のためにありがとう」という言葉でした。
以来、私にとって節子は「生きる意味」を与えてくれる人になりました。
そして私たちの人生は、まさに一つになったのです。
私たちほど信頼し合い、愛し合えた夫婦はないと自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

節子が一番だと言葉にする私に、節子はよく、修は女性を知らなすぎるねと笑っていました。もっとすばらしい女性がたくさんいるのに、と。
そうかもしれません。
しかし、私には、節子のなかに、すべての女性がいたのです。
ですから、私はすべての女性を知っていると自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

華厳の思想にある「一即多・多即一」のように、節子にはすべてがありました。
節子と話していると、世界が見えたのです。
そして自分自身も見えました。
節子は、私には鏡でもありました。

節子は私と一体でした。
ですから、節子がいなくなっても何も変わらないはずがなのですが、鏡に映る自分がいなくなってしまったことの意味はとても大きいです。
何も変わらないのに、何だかすべての存在感が急に希薄になってしまったのです。
いま、とても不思議な世界を、私は生きているような気がします。
時々、大きな不安が襲ってきます。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

■027:節子の皮肉や元気が出るユーモアが聞けません(2007年10月1日)
節子はまじめな堅物で、自分が面白さに欠けた人間であることを自覚していました。
その点では私も同じでした。
2人の価値観はほとんど重なっていました。
しかし、節子は私と違って、死にそうな時でさえ周りを元気にするユーモアセンスももっていました。
その点では、私よりもおしゃれでした。
呼吸が困難で、見ていても苦しそうな闘病生活の最後の頃、あまりの苦しさに「コンスタン」という精神安定剤を飲んでいたのですが、あまり効き目がありませんでした。
医師と看護師が深刻に処置している時に、節子は「コンスタンを飲んでいるのにコンスタントに呼吸できない」とつぶやきました。
医師と看護師は、その言葉がすぐには理解できませんでした。
そばにいた娘が、「ここは笑うところですよ」と笑いを促して、やっと気づいてもらいました。
そんなやり取りが時々ありました。
深刻な場が、それで和らぐことが少なくありませんでした。
そのために、私は節子の深刻な状況を少し楽観視し過ぎたのかもしれません。
節子は、私たちを「看護」してくれていたのです。

私はそうした節子のユーモアがいつも好きでした。
私が落ち込んでいる時に、節子はいつも私を元気にする「魔法の一言」をかけてくれました。
彼女の語彙は決して多くはありませんでしたが、的確な表現で人を元気にしてくれました。どんなに辛い時にも、です。
節子との会話は、夫婦喧嘩の時でさえ私には快いものでした。
できればもう一度、節子と夫婦喧嘩をしたいものです。
平和好きの彼女は喧嘩は好きではありませんでしたが。
来世に行くまで、もう節子のおしゃれな皮肉や心和むユーモアが聞けないことが残念でなりません。

■028:受け入れたくない現実を心身が拒否しているようです(2007年10月2日)
告別式の挨拶でお話したように、1か月前の今日は、私にとっては人生で一番うれしい日と悲しい日を味わった日でした。
その日と同じように6時に目が覚めました。
節子がこの日はゆっくりとねむれて、みんなで喜び合ったことを思い出しました。
そして、突然に、私がまだ節子の死を全く理解できているような気がしてきました。
節子が死んだ、ということが私にはまだわかっていないのではないか。
そんな気がしてきました。

この1か月、私は立ち上がれずに、節子の霊前で無為に過ごしています。
いろいろな人が弔問に来てくださいましたが、その時は少し元気が出るものの、少したつとまた無性にさびしくなり、みっともないほど立ち上がれずにいるのです。
私には節子の存在が大きすぎたようです。

あまりに存在が大きいがために、理解不能になっているのかもしれません。
理解してしまったら、私の生活が成り立たなくなる不安から、私の心身が節子の不在を受け入れずに、拒否しているのです。
節子がいないなどと言うことは、私にはありえないことであり、理解できないことなのです。
会えなくて話せなくて抱くこともできない寂しさは実感できます。
しかし節子がこの世にいないことが、本当に理解できていないのです。
これはとても不思議な感覚です。
娘もまた同じ状況にあるようです。

しかし、節子はいつもいません。
話しかけても返事もしません。
夜、寝返りをうっても、そこにいないのです。
「いないはずがない節子がいない」。
その矛盾をどう受け止めていいのか、わからないのです。
だから頭がすごく疲れます。
そして、そんなことを考えていると、恐ろしいほどの悲しみが全身を襲います。
もしかしたら、節子はもういないのかもしれない。
そう確信する一歩前で、いつも私は思考停止してしまいます。
そうしたことを続けながら、もう一つの解釈にたどりつきました。
それは、節子の死ではなく、私たち2人の死です。

長くなるので、この続きは明日書きます。
その考えだと最近の異様な疲労感の理由が納得できるのです。
いま節子の霊前で書いていますが、パソコンなどしないで、もっとここに座っていてよと、いっているような気がしますので。
1か月前も、もっと節子にずっと付き添っていればよかったです。
安心し過ぎてしまったことがとても悔いになっています。

■029:伴侶の死は自らの半分の死(2007年10月3日)
伴侶の死によって、私にとっては、2人でつくってきた私たちの世界の半分が失われました。
私が生きている世界の最も重要な要素は、私と節子でした。
その2人の心身の中に蓄積された記憶や体験が世界をつくっていました。
ですから、節子の死は、その半分が失われたことを意味します。
私の半分の死でもあるわけです。
もちろん節子の心身にあった記憶や情報は私の心身もシェアしています。
しかし、ホログラムがそうであるように、情報源の一部が失われると世界の全体像はそのままであっても全体に希薄になるのです。

これはとても不思議な感覚です。
一見、何も変わっていないように見えるのに、実際にはどことなくエネルギーやオーラが違うのです。
ですから普通に行動していても、ある瞬間に突然に力が抜けるというか、違和感が出てくるのです。まわりがぼんやりしてきます。

伴侶の死は自分の半分の死、ということは、いいかえれば伴侶の半分の生を意味します。
こう考えると、死とか生への考え方も変わってきます。
さらにいえば、そうした相関関係は、伴侶だけではなく、家族、仲間、社会へと広がっていきます。

華厳経にインドラの網という話が出てきます。
同じ題の宮沢賢治の小品もありますが、インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことです。
生命はそうしたインドラの網目だと私は思っていますが、個々の網目と網全体とはまさに一即多・多即一の関係にあり、網目に変化があれば網全体が変わり、そのためにまた網目も変わるというホロニックな構造にあるように思います。
この文章を読んでいる読者の変化が、回りまわって私にも影響を与えてくるというわけです。
その変化は、網目の距離によって増減するでしょうが、夫婦はほとんど同じように変化する不二の関係にあるのかもしれません。少なくとも私たち夫婦はそうでした。

自らが死んでも、伴侶の中に半分は生きている、と節子は気づいていたでしょうか。
いや、私自身が本当に確信できているのかどうか。
正直に言えば、まだ完全には確信できていないのかもしれません。
でも節子が私の中に生きていることは間違いありません。

■030:愛する人の死が受け入れられないということ(2007年10月4日)
節子の死を理解できていないことが、うまく伝わっていないかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子が息を引き取る前、私たち家族はずっと節子に呼びかけていました。
まだ早い、もどってきてよ、と。
しかし、節子は息を引き取りました。
そんなに生々しい臨終体験をしながらも、なぜか節子の死に現実感がないのです。
写真を見ていると、今日にでもまた、あの明るい節子が戻ってきそうな気がするのです。
それが実に現実感をもっているのです。

節子にはもう会えないと頭は知っていますが、
節子にまた会えると心身が動いてしまうのです。
おかしな言い方になりますが、
会えるはずの節子になぜ会えないのかというのが寂しさの根底にあるのです。
もう会えない人であればあきらめられますし、時が寂しさを癒してくれるかもしれません。
しかし、節子はまだ私たちには存在しているのです。
だから毎日話しかけ、相談をもちこんでいるのです。
家族を亡くした人が、その人の居室をそのままにしておく気持ちと同じです。

よく、節子さんはいつもあなたと一緒にいますよ、といわれます。
私もそう思いたいし、事実、そういう気もしています。
しかし、それ以上に、節子はまだこの世に存在しているという感覚が強くあるのです。
そうした思い込みが、悲しさのショックを緩和してくれているのかもしれませんが、どうもそれだけではないような気がします。
つまり、そこにもっと大きな生命のメッセージがあるように思います。
おそらく愛する人を失ったことのある人にはわかってもらえるかもしれません。

私のこれまでの知識や論理体系は破綻しそうです。
生き方が変わるはずです。

■031:愛は煩悩、愛は涅槃(2007年10月5日)
私は節子を愛しています。
過去形ではなく、現在も、です。未来も間違いなく、愛し続けています。

仏教では、愛は煩悩であり、執着の象徴です。
愛がある故に人は悩み悲しみ迷います。
今の私がそうかもしれません。

節子が息を引き取った数日後、愛する人を失ったことがこんなにも苦しいことなのかと思いました。
人を愛することなどやめればよかったと思うほどでした。
うっかり、娘にその気持ちを話してしまいました。
そうしたら娘から、でも愛することができたことの幸せもあったのだから、と言われました。その通りです。
人は本当に勝手なものです。反省しました。

いまは、愛する人を失った、という感覚はありません。
私にとっては、節子はまだ「愛する人」のままなのです。
愛の煩悩は捨てがたいですが、その一方で、煩悩を解き放してくれる愛もまたあるのです。

仏教では、自分をなくした絶対の愛を慈悲といっています。
しかし、私には慈悲という言葉はピンと来ません。明らかに違和感があります。
節子への愛が、煩悩を超えた絶対の愛であれば、きっと私の心もまた平安になるでしょう。
その愛は、もしかしたら、個人としての節子への愛ではなく、節子を通して得た普遍的な愛かもしれません。
私の涅槃は節子のなかに見えていたのかもしれません。

真言宗でよく読誦されるお経に、般若理趣経というのがあります。
松長有慶さんの入門書をまた読み始めました。
以前読んだ時とは全く違った印象で、スーッと心に入ってきます。
煩悩としての愛ではなく、涅槃としての愛が見つかるかもしれません。

■032:「一日の旅おもしろや萩の原」(2007年10月6日)
節子の習い事のひとつに習字がありました。
近くの東さんという先生のところに、月に2回、通っていました。
そこに行くことが、節子の大きな楽しみでもありました。
集まる人たちとの会話がとても楽しかったようです。
節子は本当にたくさんの良い友だちにいつも囲まれていました。

展示会にも出展させてもらっていましたが、その一つがいま、節子の霊前に置かれています。
花に埋もれていましたが、ちょっと花が少なくなったので目立つようになりました。
改めてじっくりと見せてもらいました。
節子のものは、今では何でもよく見えるのですが、節子らしい雰囲気を漂わせています。
「一日の旅おもしろや萩の原」
正岡子規の俳句です。
この俳句もまた、節子らしいものを選んだと思います。

節子はいろいろなことに挑戦する人でした。
わが家の玄関に飾っている油絵も節子の作品です。
いろいろのところに節子の作品が残っています。
いろいろなことに挑戦したということは、なにか一つのことに熱中しなかったということでもあります。
私と同じく、けっこう飽きっぽい面もありました。
でも私と違うのは、それぞれにまじめに取り組んだことです。
ですから作品がいろいろとあるのです。
そうした作品を見るたびに、寂しさを感じます。

作品を残すのも良し悪しです。

■033:やれるときにやっておきなさい(2007年10月7日)
「何でもやれる時に早目にやる」が節子の生き方でした。
何事も先延ばし、ぎりぎりにならないと動かない私の怠惰さが、節子は好きではありませんでした。
いつでもできることであればこそ、早くやるべきだというのが節子でした。
いつでもできるのであれば、急ぐことはないというのが私でした。
やるべきことから着手するのが節子でしたが、やらなくてもいいことから着手するのが私でした。
その2人が、よくもまあ40年以上も波長を合わせられたものです。

この頃、「やれるときにやっておきなさい」という節子の言葉がよく聞こえます。
私がこの1か月、何もせずに呆けているのが節子には気に入らないのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の部屋も2人の部屋もそのままです。
必要な手続きは娘がしてくれましたが、私は何も手をつける気になれません。
もし娘たちがいなかったら、霊前で餓死していたかもしれません。
考えようによっては、それも一つの理想ですが、節子には迷惑な話でしょう。

できるだけ先に延ばそうというのは時間がある時の発想かもしれません。
節子の死で、私自身も半分の死を体験し、節子の言葉の意味が少しわかってきました。
つまりは、周りの人に迷惑をかけるなということなのです。
まあすぐには無理ですが、少しずつ生き方を変えようと思います。
いや、こういう発想自体がすでに「やれるときにやる」ということに反していますね。

早速、動き出しましょう。
なにしろ「やるべきこと」で「やれること」は山ほどありますから。
これからは私も、先延ばしの人生ではない生き方に変えようと思います。

■034:渡岸寺の十一面観音(2007年10月8日)
今日から前向きに出直しの準備をしようと思っていました。
だめのようです。

最近、夢をよくみます。
いつも道に迷う夢です。
そこで友人に会うことがあるのですが、なぜか通り過ぎていきます。
節子の気配は、時に感じますが、姿は見えません。
節子がいなくなった不安が投影されているのかもしれません。

今日の目覚めは特に不安でした。
せっかくの決意が鈍ります。
節子の笑顔を思い出すのですが、いつもと違い、それが逆効果なのです。
節子を守れなかったのは、やはり私の責任だという思いがぬぐえません。
それは間違いない事実ですから、否定しようがありません。
しかも、節子と私は一体の存在でしたから、責任の半分は節子にあるわけです。
だからこそ、悲しさも大きいのです。
節子を守ってやれなかったことの悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
わかってたまるかという不遜な気分もあります。
ですから慰められるとなぜか腹立たしくなります。
むしろ誰かに責めてもらいたい気分です。
節子の死は、間違いなく私の誠意が不足していたからです。
だめな夫を選んだ節子の責任もありますが。
でもこれは謝ってすむ問題ではないのです。
やっとそれに気づきました。

こうした悲しさや怒りをどこに向ければいいのか。
医師へ怒りをぶつけることもできます。
そうした思いを持ったという人は少なくありません。
知人の医師は、医療訴訟におびえている医師が多いといっていました。
確かに今の医療界は、そうなってもおかしくありません。
人間が不在になりがちな仕組みになっているからです。

しかし、つまるところは、自らへの怒りなのです。
医師に怒りを向けたところで、問題は解決できないでしょう。
怒りと悲しみは同じものです。
渡岸寺の十一面観音の喜怒哀楽の11の顔が、それを示唆しています。
節子の霊前に、その写真がたまたまあります。
長沼さんが持ってきてくれたのです。
渡岸寺の十一面は慈悲よりも悪に重きを置いているといわれています。
暴悪大笑面が有名ですが、それがまたこの観音の慈悲のメッセージを強めています。
この地が浄土真宗の信仰の厚いところだからかもしれません。
どこかに親鸞を感じさせます。
不思議なのですが、渡岸寺の十一面観音は何回もお会いしたのですが、その憤怒の顔が思い出せません。なぜか大笑面しか思い出せません。憤怒の顔はなかったかもしれません。

供養がまだ不足しているようです。
今日は終日、節子とゆったりと過ごしたいと思います。
怒りが解ければいいのですが。

■035:所有と無所有はコインの表裏(2007年10月9日)
節子が残していったものがたくさんあります。
まだ1回も着たこともない衣類や日用品も少なくありません。
そうしたものをどうしたらいいでしょうか。
衣服に関しては、娘にリサイクルショップに持っていくようにとお店まで教えていたそうです。節子らしいです。
しかし、残されたものを整理することはかなりの気力が必要です。
まだその気にはなれず、整理は手つかずです。
遺産のために親族の骨肉の争いが起こることもありますが、遺産のみならず、何事も残すものは最小限にしておいたほうがいいのかもしれません。

これは節子の問題に限りません。
私自身も身の回りの整理をしなければと思い出しました。
とりわけ仕事関係の資料や書籍は残しすぎですし、生活用品も過剰に所有していることは明らかです。
これまでも何回か整理しようと試みたことはありますが、廃棄できませんでした。
しかし、今なら思い切って整理できそうです。

韓国の法頂師の「無所有」という本があります。
そこにこんな文章が出てきます。
何かを持つということは、一方では何かに囚われるということになる。
そのことに気づいた法頂は、こう心に決めたそうです。
その時から、私は1日に一つずつ自分をしばりつけている物を捨てていかなければならないと心に誓った。
物を所有するということは、物に所有されるというわけです。
主客の転倒、このことへの気づきが、私が会社を離脱した大きな理由でした。

19年前に、私は勤めていた会社を辞めました。
その時に、少しだけこうした思いを持っていました。
いろいろと捨てたつもりですが、いまなお物欲の世界に安住しています。

法頂は、さらにこうも書いています。
何も持たない時、初めてこの世のすべてを持つようになる。
これはとてもよくわかります。
私が理想と考えていることでもあります。
所有とは無所有であり、無所有とは所有である、というわけです。

節子と一緒であれば、無所有の世界に入りやすかったと思います。
すべてを捨てても、節子さえいれば大丈夫だったからです。
節子とそうした話を始めたのは4年半前です。
その直後に、節子の胃がんが発見されたのです。
そして節子がいなくなった。
私の人生設計は大きく狂ってしまったわけです。

しかし、今であれば、むしろすべてを捨てられそうです。
節子がいないのであれば、それ以外の何に未練があるでしょうか。
法頂さんを見習って、私も一つずつ捨てていこうと思います。
最後に残るのは何でしょうか。

ちなみに、この「無所有」という本はとても読みやすく、示唆に富んでいます。
みなさんにもお勧めします。
わがコモンズ書店を通して、アマゾンから購入できます。
ぜひどうぞ。

■036:私のライフスタイルを変えたのも節子です(2007年10月10日)
節子は私のライフスタイルにも大きな影響を与えました。
たとえば自動車。
私は学生の頃から自家用車反対論者でした。
自動車は基本的に公共交通システムに限定すべきだという意見でした。
ですから自分では運転免許もとらず、したがってわが家にはずっと自動車はありませんでした。
娘たちは子どもの頃、家に自動車がないので我が家は貧乏だと思っていたそうです。
そのおかげで、わが家の娘は今でもかなりの節約家です。

わが家に自動車を持ち込んだのは節子です。
当時、私は通勤に駅まで自転車を使っていたのですが、雨の日は大変でした。
その苦労をさせたくないという思いが、節子が運転免許をとろうと考えたきっかけだったそうです。
その話を聞いて、自動車文化反対論者の私も反対できませんでした。
節子が免許をとったら、娘たちもとりました。
それに伴い、わが家の行動範囲は一挙に変わりました。
世界が変わったのです。
そしていつの間にか、私が一番の利用者になったのです。
そして50歳近くになって、私も免許をとりました。
しかし、どうも運転は苦手で、事故もどきをよく起こしました。向いていないのです。それで運転をやめました。それからもう5年以上たちます。

運転ができなくなってしまった節子はもう一度、自動車を運転したいといって、かなり体調が悪くなった今春、私を駅まで自動車で送ってくれました。心配なので、横に娘が同乗しました。
節子はとてもうれしそうでした。
しかし、それが最後の運転になってしまいました。

何を書いても、最後は何だか悲しい話になってしまいます。
困ったものです。

■037:今のわが家も節子のおかげで実現しました(2007年10月11日)
現在、わが家は手賀沼が見える高台に建っています。
場所はとても恵まれています。
節子はとても気に入っていました。
この場所をさがし、ここにわが家を建てたのも節子のおかげです。
その経緯は、いかにも節子らしいのです。

数年前に、転居を決めました。
同居していた父母を見送った後、いろいろとあって、環境を変えたいと家族みんなが思い出したのです。
そんな時、節子が開発中のいまの場所を見つけたのです。
まだ開発途中で、売りにも出ていませんでした。
しかし、その場所が気にいった節子は、すぐに看板に書いてあった開発会社に電話したのです。見上げた行動力です。
ところが、その土地は建売住宅用に開発しているということでした。

そこで諦めないのが、節子なのです。
節子は建売ではなく土地だけほしいと頼んだのです。
めちゃくちゃな話ですが、驚くことに、節子の熱意が先方に通じたのです。
開発会社の人が自宅にやってきました。
そして、後日、全区画を土地売りにすると連絡がありました。
問題は価格です。
残念ながらわが家には十分なお金がありませんでした。
価格もわからずに働きかけていたわけです。
まあ予算などあまり考えずに動くのもわが夫婦の共通点です。
手持ち資金を超えていたので、一時は諦めかけましたが、節子が気に入った土地です。諦めるわけにはいきません。
後先考えずに購入を決意しました。
しかし、不思議なもので、結果的にはどうにかなってしまったのです。
経済的に考えて、なぜうまくいったのか、今もってわかりません。
娘たちからも全財産を提供してもらいましたが、それだけでは足りないはずだったのですが。

念のために言えば、節子は山内一豊の妻のような賢妻ではありませんでした。
節約家でしたが、金銭感覚はかなりいい加減でした。私よりもだめでした。
1円節約して、1000円無駄するタイプの、典型的な主婦でした。
家計簿などつけたことはなく、使ったものを記録しても意味がないという現実主義者?でもありました。
いや、怠惰だっただけかもしれませんが。

さて、自宅建設の話です。
節子も不思議がっていましたが、おかしなところから無理に借りることもなく、ともかく帳尻があったのです。

いずれにしろ、節子のおかげで私たちはいま、場所だけはとても良い所に住んでいます。
もっとも、住宅の設計は家族みんなで議論しすぎて疲れてしまった時に(わが家は完全に一人1票の家なのです)、私が勝手に構造を変えてしまったために、不満だらけの家になりました。
入居した日からリフォーム論議が出たほどですが、幸いにお金が払底していたので、さすがのわが家も動けませんでした。

また余計な事をかいてしまいました。
節子がいたら、検閲を受けて、ほとんどカットになりますね。
でも、節子はこのできの悪い家が大好きでした。
リフォーム計画ももっていましたが、それも含めて気に入っていたのです。
しかし、その家を十分に楽しむ間もなく、節子は逝ってしまいました。
節子には、もっとこの家を楽しんでほしかったです。
それが無念でなりません。

■038:ポジティブアクション(2007年10月12日)
「迷ったら実行する」。
これが節子の生き方でした。
ある意味ではいさぎよく、ある意味では投げやりなのが、節子でした。
もしかしたら、私との結婚も、こうした発想で決めたのかもしれません。
節子は本当は体育系が好きだったのですが、あいにく私は体育系ではありませんでした。
私自身も実は体育系が好きですし、自分が体育系と反対であるとは思っていませんが、節子にはどうも反体育系に思えたようです。
夫婦喧嘩になると、本当は体育系の人と結婚したかった、と節子はよく言っていました。
私がさっぱりしていないというのです。私にはいささか不満ではありますが、まあ節子がそう言うのであればそうなのでしょう。

私の友人が苦境に陥ったことがあります。
その時に、節子はその人に「ポジティブシンキング」で行きましょうと手紙を書きました。なぜ節子が書いたのか覚えていませんが、その人からは、そうしますと返事がきました。
もしかしたら、その人もこの記事を読んでくれているかもしれませんね。
Nさん、今もポジティブシンキングしてますか。
私はいまはちょっと中途半端になっていますが。

迷って実行して、失敗したこともあります。
今回の闘病に関してもあったかもしれません。
しかし、ポジティブシンキングして失敗したのであれば、悔いは残らないと節子は言っていました。
そこまでいってこそ、本当のポジティブシンキングです。

がんが発見されてから、ポジティブシンキングを貫くのは大変だったと思います。
しかし、節子は最後まで貫き通しました。見事でした。
今の私の、ナヨナヨシンキング状態をみて、やっぱり修は体育系ではないなあ、結婚したのは間違いだった、と思っているかもしれません。
今度会うときが心配です。

■039:献花台 Flowers for Life が完成しました(2007年10月13日)
節子の告別式でお話させてもらった「献花台」が完成しました。
ちょうど今日から我孫子市の手づくり散歩市が始まるのですが、わが家のジュンのタイル工房もその会場になります。
そこで、それに合わせて、献花台もオープンさせてもらうことにしました。
献花台の主旨は、私のホームページ(CWSコモンズ)に書きましたが、ちょっと長いですが、一部を引用します。

告別式では、ただただ節子への愛惜の思いで、節子への献花をイメージしていました。
しかし、自らに「献花」してもらうのは、節子の考えにはなじまないことに気づいたのです。
節子が望んでいるのは、みんなと一緒に花を愛(め)でることであり、花がみんなを幸せにしてくれることのはずです。
そこで、献花の対象を、節子ではなく、花そのものにしようと思います。
「花を献ずる」のではなく「花に献ずる」。
私たちの人生や生活、そして生命そのものに、元気や喜びを与えてくれる花に感謝しようというわけです。
花を愛でながら、花が大好きだった節子と一緒に、
花が咲きこぼれるような、気持ちの良い社会になるようにちょっとだけ思いを馳せる時間をつくる場にできればと思っています。
そのついでに、ちょっとだけ節子のことを思い出してもらえれば、うれしいですが。

またホームページのお知らせに、このことも載せました。
そこにはわが家の地図も掲載しましたので、12日、13日は、私も自宅にいますので、お近くの方はお立ち寄りください。
我孫子市の手づくり散歩市もぜひ、ぶらっとおまわりください。
手賀沼もそう捨てたものではありません。

節子は、昨年、この散歩市でタイル工房に来てくださった方にケーキでおもてなしをさせてもらいましたが、今年もそれをとても望んでいました。
節子が心残しだったことの一つが、そのことかもしれません。
その遺志を受けて、今年はジュンがケーキを焼きました。
展示の準備などで忙しい合間のケーキづくりだったので節子のケーキよりはほんの少しだけ出来が悪いかもしれませんが、節子の思いは十分に入っています。

ちなみに、献花台はとても小さいので、お花はわが家の庭の花を1本手折って供えていただければ結構です。
それに花に献ずる献花台ですので、できるだけ切花は少なくしたいと思います。
おそらくそれが節子の気持ちではないかと思います。
一番供えてほしいのは「花のような笑顔」です。
残念ながら私にはまだ無理なのですが。

■040:「7年前を思い出します」(2007年10月14日)
昨日、わざわざ遠くから献花しに来てくださった人がいます。
コムケアで接点のあった WithゆうのOさんです。
Withゆうは、「誕生死(流産、死産、新生児死亡)などで子供がお空にいる天使ママさん、天使パパさん」(WithゆうのHP)たちの会です。
http://withyou845.org/index.htm
「誕生死」という言葉もあまりなじみがないと思いますが、ぜひWithゆうのホームページを見てください。こういう活動もあるのです。
Oさんは、我孫子から電車で2時間はかかるところにお住みのはずですが、ブログを読んで、わざわざ来てくださったのです。
まさかOさんが来てくれるとは思っていませんでしたの、最初は誰なのか思い出せませんでした。失礼してしまいましたが、とてもうれしく思いました。
今日の2人目の献花者になってくれました。

「佐藤さんのブログを読んでいると、7年前のことを思い出します」
それが彼女が来てくれた理由です。
その一言で、お互いの「悲しさ」を瞬時に共感できたような気がしました。
そして、悲しさは決して時が癒さないことも。
彼女がわざわざ来てくれた気持ちも、その一言で理解できた気がしました。

意外な人がブログを読んでいてくれ、いろいろな思いを持ってくださっているのです。
そろそろやめたらという友人もいますが、「思いの尽きるまで書いてください」と投稿してくれた齋藤さんもいます。書いているので安心しているという人もいます。
節子への挽歌(この名称は余り適切ではないかもしれませんが)は、これからも続けるつもりです。適当にお付き合いください。

献花台の始まりの日に、こんなことが起こったことをとても感謝します。
今日はどんな人が来てくれるのでしょうか。
節子がまた新しい出会いを創ってくれるような気がしています。
やはり節子は、私にとっては最高の伴侶です。

■041:夫婦の立ち位置と世界の豊かさ(2007年10月15日)
なかなか節子が夢に出てこないので、2週間ほど前から節子のベッドで寝るようにしました。1週間ほどしてから夢をみるようになりました。

ところで、そこで寝起きしだしてから、部屋の風景がかなり違うことに気づきました。
たかが1メートル北側に動いただけなのですが、雰囲気が全く違うのです。
こうした違いが毎日続いているとおそらく意識の面で大きな影響を与えることになるはずです。
まあベッドの位置などはさほど大きな違いではないかもしれませんが、生活における「立ち位置」の違いの蓄積は大きな違いになることを改めて実感しました。
立ち位置によって、視界や風景が変わりますから、人の意識も変わります。

夫婦の立ち位置の違いは、最近ではかなり小さくなっているのかもしれませんが、わが家は明らかに違いました。
立ち位置の違いがあることが、そしてその違いを認識しあうことが、お互いを支えあい、理解しあう上で効果的だったと思います。
昨今の男女共同参画議論は、そのたち位置の視点をあいまいにしている点が私には不満です。
違いを認識することなく、共同などという概念は生まれようがないと思うからです。

これまでは節子の立ち位置からの世界も私の一部でした。
節子の視野と風景も、私の世界を構成していました。
すべてをシェアしていたわけではありませんが、かなりの部分はシェアしていたと思います。そういう感覚が、私たちにはかなり強くありました。
しかし、今はそれが失われ、私の世界はかなり単調になってしまいました。

これは単に伴侶を失った夫婦の場合だけに限りません。
組織が弱くなるのも、国家が弱くなるのも、同じことなのかもしれません。
節子の挽歌を書いているうちに、こうした大きな問題にもいろいろと気づきだしました。

さまざまな立ち位置を包摂する組織や社会。あるいは生き方。
これからはそうしたことが大切になっていくように思います。

寝る場所を替えてみて、気づいたことはたくさんあります。
ちょっと変えるだけで、世界は大きくなるものです。

■042:世界における立ち位置も変わっていました(2007年10月16日)
昨日、立ち位置のことを書きましたが、そのつづきです。
昨夜、娘たちと買い物に行きました。
娘たちが買い物をしている間、私は売り場の外のいすに座って待っていました。

いすで待っていると、しばらくして節子が姿を現してくれました。
しかし、もうその場面はないのです。
そんなことを考えながら、周辺を見渡しているうちに、見ている場所や印象が今までとは何か違っているような気がしてきました。
どこがどう違うのか説明できないのですが、奇妙に違うのです。
まわりの風景にリアリティを感じられず、自分がどこか違う世界にいるような気がするのです。
もしかしたら、節子の目で風景を見ているのかなと思いました。

私たちをおいて、世界は何もないように過ぎている。
私たちのさびしさなどは、きっと誰も気づいていない。
すぐ近くにこれほどの悲しさがあるのに、みんなとても幸せそうなのはなぜだろう。
宮沢賢治の、あの言葉「みんなが幸せにならないと自分も幸せになれない」を思い出したりしていました。
そして、気づきました。
私はこれまで、誰かの悲しさやさびしさを本当にわかっていたのだろうか、と。
いや、これまでではなく、今もわかっていないのではないか。

そう思い出したら、まわりの風景が一変してしまいました。
それぞれに、私と同じような「さびしさ」や「悲しさ」を背負っているのだろうなという気が、奇妙にリアリティをもって、わきおこってきたのです。
わかっていなかったのは、他の人たちではなく、自分だったのです。
すべての人たちがいとおしく思え、話しかけたくなる気持ちを感じました。

奇妙な言い方ですが、そこを歩いている人たちの向こう側が感じられるのです。
自分の居場所が少し落ち着いたような気がします。
節子の死によって、空間的な立ち位置ではなく、
もっと大きな位置変化、それこそ位相的な変化が起こっているようです。

しかし、身体はまだその変化についていけていないような気がします。
息苦しいほどの疲労感があります。
誰かと話していると、その疲労感は不思議に感じなくなるのですが。

■043:節子は手紙を書くのが好きでした(2007年10月16日)
節子は手紙を書くのが好きでした。
手紙をもらうのも好きでした。
私はかなり早い時期からワープロやパソコンで手紙を書くようになりましたが、節子は手書きでなければ手紙ではないといっていました。
年賀状のあて先も一枚ずつ手書きでないとだめでした。
今年は体調が悪かったので、不承不承、あて先だけはパソコンを使いましたが、毎年、丁寧に宛先を自筆していました。書きながら相手の顔を思い出すのだそうです。

節子の闘病中に、友人たちからたくさんの手紙をもらいました。
彼女の手紙仲間からのものです。
絵手紙もあれば、俳画もあれば、写真付もあります。
節子はそうした手紙にとても元気づけられていました。
寝室の壁には、そうした葉書や手紙がたくさん貼り出されていました。
その手紙や葉書を見ていると、節子の闘病のことが生き生きと思い出されます。

思い出す。
この「思い出すこと」は私にとってはとても複雑です。
思い出したい一方で、思い出したくないのです。
楽しかった思い出や良い思い出だけに浸ればいいとアドバイスしてくれた人もいますが、悲しい思い出だけが辛いわけではありません。
楽しい思い出こそ、実は涙がでるのです。
闘病中の節子と、いつかこの辛さも笑いながら話せるようになるよ、と何回も話していました。
私はそう信じていましたが、節子はきっとそう信じていると私に思わせていただけでしょう。
私に対して、自分のことはよくわかるの、ともいいました。
その時の節子の気持ちは、今は痛いほどわかります。

手紙好きな節子も、毎日会っている私には手紙を出す機会がありませんでした。
ただ一度だけ私に葉書が届きました。
湯河原に一緒に旅行に行っていた時、その旅行先から私のオフィス宛にこっそりと出していてくれたのです。手元の厚紙を切って作った葉書でした。
受け取った時には、またやられたとすごく嬉しくなりました。
一体、いつ書いたのでしょうか。
ほとんど一緒にいたはずなのですが、全く気づきませんでした。
節子はこうしたちょっと「お茶目」なことで、サプライズを起こすことが大好きでした。
そういう節子が私は大好きでした。
私にとっては、節子は私の人生を豊かにし幸せにしてくれる魔法使いだったのです。
その時の葉書は今も残しています。

手紙好きな節子が、彼岸から私に手紙をくれるのではないかと密かに期待しています。
笑われるでしょうが、本当に期待しているのです。
節子ならきっとその方法を考えてくれるでしょう。
節子は私には何でもできる魔法使いでもあるのです。

■044:「普通に暮らせることが一番の幸せ」(2007年10月17日)
節子の口癖のひとつは、「普通に暮らせることが一番の幸せ」でした。
私も相槌をうっていましたが、いま思えば、その意味を全く理解していませんでした。
その一事をもってしても、私の生き方の不誠実さがよくわかります。

「普通に暮らせること」とは何なのか。
これは難しい問題ですが、節子の言いたかったのは、昨日と同じように今日もすごせるという意味でした。このことは節子には大きな意味を持っていました。
台所に立てる時間が少なくなってきた頃、節子はとてもさびそうでした。
私はその寂しさをあまり深く思いやることができていなかったように思います。
また前のように食事をつくれるようになれるから、と言っていました。
元気付けるつもりだけではなく、本当に私はそう思っていました。
その時の節子のさびしさを理解しようとしていなかったのです。

明日は今日よりも良くなるようにと、私たちはついつい思いがちです。
でも大切なのは、昨日と同じように過ごせることが大事なのだと、ようやく私も気づきました。
宮沢賢治の「雨にも負けず」を読み直してみました。
不思議ですが、涙が止まりませんでした。
やっと賢治の気持ちが少しわかったような気がしました。

■045:死と別れ(2007年10月19日)
死と別れは全く違うものです、

節子は、死を恐れたことはありませんでした。
死にたくないとも言ったことがありません。
むしろ苦しい闘病生活の中で、早く死にたいというニュアンスの言葉は話していました。

節子が悲しがっていたのは、別れです。
私との別れ、娘たちとの別れ、友人との別れ、そして自分がやってきたこと、やりたかったこととの別れです。
がんの宣告を受けた時も、節子は死に対しては何の恐れも見せませんでした。
むしろ、人は必ず死を向かえるのだから、それは仕方がない、あなた(私のことです)こそ、そのことをしっかりと受け止めてよ、という感じでした。
しかし、その一方で、節子の無念さやさびしさは痛いほど伝わってきました。
そして悔しさも、
私たちは時々、悔しさで涙を流しました。

死がもたらす別れ。
それこそが、死を避けたいと思う最大の理由のような気がします。
もしそうであれば、生きるとは関係の中にこそ意味があります。
何回も書いてきていますが、生命は「つながり」です。
人と人、人と自然、人と文化などのつながりの中に。生命は息吹いています。
人と人の関係にこそ、生命の最大の価値があるわけです。
死は、それを断ち切ってしまうわけです。

余計なことを書けば、それゆえに、別れがプラスの価値に転じたと思う時、人は死を選ぶのかもしれません。
しかし、それは誤解です。
ある部分に限れば、別れがプラスになることもありえますが、全体の人生の中では絶対にプラスにはなりえません。
それは東尋坊で活動している茂さんからも教わりました。

私たちは、死に直面しないと、こうした関係の大切さを気づかないのかもしれません。
別れの驚くほど大きなさびしさに思いが至らないのかもしれません。
節子の、そのさびしさを私はどの程度共有できていたのでしょうか。
今にして思えば、私はだめな伴侶でした。
今頃、涙を流しても何の役にも立ちません。
だから辛いのです。

別れが来る前に、もっともっと関係を大切にしておけばよかった、と私はいま、つくづく思います。
気づくのが本当に遅すぎました。
節子との別れが実感できるようになるにつれて、そうした後悔が高まります。

私も、自分の死は全く怖くはありません。
死が悲しいのは別れが起こるからです。
娘たちのために、もう少し生きなければいけません。

■046:4人家族だったことで救われています(2007年10月20日)
昨日の続きです。
生きることの意味が「関係」の中にあるとすれば、関係をたくさん持っている人生は豊かです。
人間関係には、快いものも不快なものもありますが、快不快はコインの裏表です。
ですから多様な関係をもっていることは人生の豊かさに通じます。
もちろん、たった一つの関係でも、深く深く育てていけば、それもまた豊かさに通じます。

わが家はまだ2人の娘が自宅に同居しています。
私の両親はもう既に亡くなっていますので、今までは4人家族でした。
その一人だった節子がいなくなり、いまは3人家族です。
家族の1/4がいなくなったということは、生活のうえでは大きな変化です。
もし家族が10人もいたら、変化はもう少し小さかったかもしれません。
数の問題なのかと思うかもしれませんが、間違いなく数は大きな問題です。

もちろん、家族の数とは関係なく、伴侶は一人ですから、かけがえのない関係です。
しかし、私に妻が10人いたら、これほどの衝撃を受けないでしょう。
10人も妻がいれば、私にとって、その一人は「かけがえのない存在」にはならないはずです。
娘たちが結婚してわが家を出ていたらどうでしょうか。
妻と2人だけの家族の一方がいなくなったら、その衝撃は大きいです。
そうでなかったことを感謝しなければいけません。
節子との別れは辛いですが、今の私は娘たちに救われています。

最近は核家族化が進んでいます。
核家族になったために祖父母の死に居合わせることがなくなり、子どもたちが死を実感できなくなったともいわれています。
たしかにそうでしょう。
今では死は日常的なものではなく、頭で想像する時代です。
そのため、ひとたび、死が現実のものになると、そのショックを緩和する仕組みがなくなってきています。
とりわけ老夫婦だけの家族では伴侶の死は残された者の生命をも奪いかねません。

大家族から核家族になってまだ半世紀少しです。
その咎(とが)がいろいろな形で出始めていますが、まだまだ出てきそうです。
そろそろ核家族文化を見直すべきではないかと、思います。

■047:節子が彼岸に行ってしまいました(2007年10月21日)
七七日法要でした。
家族を中心に静かに見送りました。
菩提寺である真言宗のお寺に納めさせてもらいました。
私の両親と同じ墓です。
戒名は、慈花節操清大姉をもらいました。
ちなみに、節子は戒名は要らないといっていましたが、約束違反してしまいました。

節子はお墓も要らないといっていましたが、1年ほど前からやはりお墓に入りたいと言い出しました。
そして彼女が選んだのが、私の両親の墓でした。
きっと一人ではさびしかったのです。
私の両親は私たちと途中から同居していました。
途中からの同居だったので、節子は苦労したはずですが、とてもよくしてくれました。
両親は節子に深く感謝しているはずです。
私にはあまり感謝していないでしょうが。
私の親孝行は、節子と結婚したことだけでした。
節子も、修と結婚したことが私の親孝行の一つだったと言ってくれたこともがあります。
お互いの親にもとてもいい結婚相手だったのです。

節子が自宅を出て、彼岸に行ってしまったと思うととても寂しいですが、かといってこちらに引き止めていても困るのは節子です。
しかし、不覚にもまた泣いてしまいました。

法要の後、元気になったら一緒に行こう、と節子と約束していたレストランに行きました。
節子の親友だった人も来てくれたおかげで、涙なしの会食ができました。

それにしても、最近また、無性に涙が出るのです。
自分でも信じられないくらい涙が出ます。
涙が枯れるなどというのは本当でしょうか。

■048:節子のいない世界がまだ理解できません(2007年10月22日)
節子の親友が、節子と一緒に旅行に行った時の写真のCDをもってきてくれていたのですが、見る気になれずにいました。
昨日、CDを開いてみました。
元気な節子の写真が出てきました。
「あの節子」でした。
葬儀に使った写真は、節子の生き生きした表情を伝えていませんでした。
それがずっと気になっていました。
しかし、節子のほかの写真は見る気にもなれませんでした。
写真を見るとどうしようもなくさびしくなるのです。

49日の前日、義姉が1年前に一緒に行った時の写真を送ってきてくれました。
真っ青な日本海を背景に、節子が灯台の柵の上に座って笑っている写真です。
1年前はこんなに元気だったのです。
その写真も凝視できないままでしたが、改めて見直しました。
「あの顔」が、そこにもありました。

とてもあったかで、とてもやさしくて、でもどこかに少しばかり哀しさもあって、その笑顔を見ているだけで、私は幸せになれました。元気ももらえました。
写真をプリントアウトして、手帳にはさみました。
パソコンの壁紙にも貼り付けました。
これで毎日何回も、節子の笑顔に対面できます。

でも、写真をいくら見つめていても、元気が出てきません。
出てくるのは涙だけです。
これまで以上に涙が出るようになってしまいました。
なにをやっても裏目に出ます。

私にとって一番必要ないま、その笑顔に出会えないのが不思議でなりません。
節子がいない世界に生きている自分が、まだ理解できずにいます。

■049:花がまだ届き続いています(2007年10月23日)
花がまだ届き続いています。
ホームページやブログで、「節子は花が大好きだった」と書きすぎているためではないかと娘たちから注意されました。
節子は切花よりも土に生きている花が好きでしたから、切花に囲まれているよりも見えるところに自然に生えている花のほうが喜ぶよというわけです。
確かにそうです。
節子は切花よりも生きつづける花が好きでした。

それにしても、本当に驚くほど、花が届きます。
いつか書きましたが、少なくなると届くのです。
昨日は近所のご夫妻がとてもおしゃれな花を持ってきてくれました。
子どもがお世話になったのに病気のことを知らなくてすみませんでしたと、会うたびに言ってくれていた人です。
節子がどんな世話をしたのかよく知りませんが、こちらのほうが恐縮してしまいます。
節子の人柄なのでしょうか。子どもに本当に好かれた人でした。

今日は滋賀の親友たちから花が届きました。
私以上に長い付き合いの親友たちです。
女性のつながりの深さには感心します。

そんなわけで、小さな仏壇が花で埋まっているのです。

もう花は辞退したいなという気もしますが、そこでハッと気づきました。
節子は「花になってチョコチョコ戻ってくる」と言い残しました。
もしかしたら、こうして届いている花は節子なのではないかと思えだしたのです。
そういう意識で花を見ると、最近は供花といいながらも、あったかでホッとするような色合いの花が多くなっています。
もしかしたら、この花は節子なのかもしれません。
花に囲まれている節子ではなく、節子が私たちを囲んでいたのです。

でも、幸いにわが家の庭の花も元気になってきました。
もう送っていただかなくても、持ってきていただかなくても、わが家の庭の花で献花できます。節子もきっとわが家の庭の花になって戻ってきはじめるでしょう。

長いことありがとうございました。

■050:生きる意味(2007年10月24日)
ある人から、供養のために、33回忌まであなたは生きなくてはいけませんよといわれました。
その人は娘さんを亡くしていますが、その33回忌が107歳なのだそうです。
ですから大変だといっていましたが、「佐藤さんはまだ99歳だから大丈夫だ」といわれました。
残念ながら私は33回忌まで生きる勇気がありません。
33年も節子を一人にさせておくわけにはいきません。

亡くなった人の分まで生きなければといわれます。
もしかしたら、私も同じようなことをこれまで言っていたような気がします。
しかし、いま当事者になって初めてわかったのですが、そんな気にはまったくなれません。
さらにいえば、殉死の風習もまんざら悪いものではないというようなことも考えます。
風習にはそれぞれ意味があることを改めて思い知らされます。

私は殉死はもちろん、命をおろそかにすることはありませんが、あえて長生きもしたくありません。
しかし、節子がそうであったように、もし生きる意味があれば、つまり関係を絶つことを避けるべきであれば、凄絶な闘病も厭わないつもりです。

残念ながら、私はまだ、自分がこれから生きていく意味が見つかりません。
私にとっては、節子こそが「生きる意味」だったのです。
その節子がいなくなってしまった日から、私は何のために生きているかわからなくなってしまいました。
あえていえば、娘たちがまだ結婚していないので、彼女たちの家族の一員として生きていなければいけないということが当面の意味です。
彼女たちが、それぞれに独立していけば、私はまた「生きる意味」を失います。
「生きる意味」がなくなれば、人は自然に生きることを止められるようです。
イヌイットに関する文化人類学者の本で、そんなことを読んだ記憶があります。

もしかしたら、「節子の供養」がこれからの私の「生きる意味」かもしれません。
しかし、死者の供養のために生きるというのはどこかに矛盾がありそうです。
供養するくらいなら、早く自分も彼岸に行けばいい。
それが一番の供養ではないか。みなさん、そう思いませんか。

まあ、この問題はもう少し考えてみたいと思います。
この歳になって、まさか「生きる意味」を模索することになろうとは思ってもいませんでした。

■051:懺悔(2007年10月25日)
日数がたつほどに、節子がいなくなったことの辛さが高まってきます。
おそらく体験したことのある人たちからは、「時間がたつほど辛くなるからね」といわれていましたが、まさにその通りです。
きっと、このあたりで、後追いする人が出てくるのでしょうね。
それがよくわかります。

辛さが増してくると、自分を責めたくなります。
いろいろな見方はあるでしょうが、節子が死んでしまったという事実を考えれば、どんな言い訳も無意味です。
かけがえのない人を守れなかった責任は、すべて伴侶にあるでしょう。
だめな伴侶でした。
外部からは見えないことがたくさんあります。
それを懺悔したい気分です。
もっとも懺悔しても、誰にもわかってはもらえないかもしれません。
むしろ言葉にすると、真意が伝わらないような気もします。

いずれにしろ自己嫌悪に苛まれます。
涙を出せば、少し心が和みますが、これは自己満足かもしれません。
今頃涙を出すのであれば、なぜこうならないように尽力しなかったのか。
今から思えば、できることが山ほどありました。
それをやっていなかったのです。
節子に対して、誠実な対応をしていなかったことも山ほどあります。
節子は必ず治るという確信を持つことが、誠実さを失わせてしまっていた面もあります。
自分までもが、その言葉に振り回されて、現実をしっかりと見ようとしなかったのです。
自分のことしか考えていなかった自分が忌まわしく感じられます。

だめな夫だなと誰かに叱責されたい気持ちがある一方で、
もし実際に叱責されたら、やはり後を追いたくなるだろうなという不安もあります。
節子がいたら、止めてくれるでしょうが、残念ながらその節子がいないのです。
ですから、自分で自分を叱責するのが精一杯です。
この複雑な心境は、なかなかわかってもらえないでしょうが、きちんと残しておきたいと思って、書きました。

まわりに私のような立場の人がいたら、何もいわずに一緒に悲しんでやってください。
今、私がほしいのは、慈悲の慈ではなく、悲をシェアしてくれる人です。
ないものねだりなのはわかっているのですが。

■052:「いい出会い」(2007年10月26日)
先週、会った人にまだ立ち直れないのだと話したら、その人が、「いい出会いだったのですね」と言ってくれました。
「いい出会い」。
別れがそんなに辛いのは、いい出会いの証拠だというのです。
彼は何回か、その言葉を繰り返しました。
もう1週間たちますが、その言葉がずっと頭から離れません。
「いい出会い」。
そうか、私と節子の出会いは「いい出会い」だったのだ。
そう思うととても幸せになります。
ここでの「出会い」とは最初の出会いの意味ではないでしょう。
最初も最後もなく、時間や空間を超えての「出会い」を意味しているような気がします。
そう言ってくれたのは、ハイデッガーの研究者ですから、それに間違いありません。

節子と私の出会いは、本当に偶然でした。
そして、最初に一緒に歩いたのが奈良でしたが、その日はお互いにまだ恋人でもなかったのに、不思議なくらい「あったかな思い出」に包まれているのです。
そして40数年。

少なくとも、私の人生がこんなにも楽しかったのは、間違いなく節子のおかげです。
奈良での、あの1日が、「いい出会い」を象徴していたのかもしれません。

そんなに「いい出会い」だったのですから、今回の別れも、きっと「いい出会い」に包摂されているのでしょう。
そう思うと少しだけ心が安らぎます。

■053:「節子」が8回も出てきましたね(2007年10月27日)
「告別式の会葬の礼状には「節子さん」の名前が8回も出てきましたね」
節子の友人がそういいました。
一緒にいた娘が、会話の中にも「節子」がしょっちゅう出てくるんです、といいました。
そういわれると、そうですね。

このブログの記事でも「節子」は頻出しています。
節子が元気だった頃から、自宅では私は「節子」の名前を乱発していました。
何かあれば、すぐ「節子」でした。
本人がいた時はよかったのですが、いなくなった今も「節子」の名前ばかり呼んでいるので、娘たちにはかなり「うざったい」ようです。
もっとしっかりしてよ、と時に叱られています。

告別式のあいさつは、不思議なことに涙もださずに最後まで話せました。
あんな状況の中で、あれだけ話せるとは感心したと、皮肉ではなく、ある先輩から言われました。
あの時は本当に不思議でした。
しかし、それ以来、時間がたつほどにだめになってきています。
自宅で不安が高ずると、ついつい「節子」といってしまうのです。
そうすると少しだけ気持ちが静まります。
しかし、それを聞いている娘たちにはストレスがたまるようです。
気をつけなければいけません。

むすめが、気持ちが安定するハーブのサプリメントをくれました。
素直に飲んで見ました。
少し落ち着きましたが、「節子」というマジックワードほどには効き目はありません。
「節子」の丸薬はつくれないものでしょうか。

■054:「あれから40年」(2007年10月28日)
昨日、「そして40数年」と書きました。
そこで思い出したのが、「あれから40年」という、綾小路きみまろの言葉です。

闘病中に、笑いこそ免疫力を高めるということで、友人たちが綾小路きみまろのDVDやCDを送ってきてくれました。夫婦でそれをよく聴きました。
テレビでの放映も何回か観ました。
そこでよく出てくるのが、「あれから40年」でした。
結婚して40年もたつとこんなにも変化するという話を、綾小路きみまろは実に面白く話してくれるのです。
私たちはよく笑いました。
節子の免疫力向上には役立ったはずです。

ところで、私たちもまた結婚してから約40年です。
しかし、残念ながら綾小路きみまろの話とは全く違って、ほとんど40年前の気持ちと関係を維持していました。
いや、むしろ40年の関係が深みを育て、お互いへの思いは深くなっていたような気がします。
若い時のようなわくわくする気分はなくなっていたかもしませんが、一緒にいると幸せになる気分は強まりこそすれ弱まってはいませんでした。
まあ、多くの夫婦も本当はそうなのだと思います。
ちょっとした行き違いから、それに気づかないことが多いのかもしれませんが、別れがくれば必ずわかるはずです。
40年の歳月の重さは否定しようがありません。

熟年離婚が増えていますが、本当に残念な話です。
それではそれまでの自分の人生を否定することではないかと、私は思います。
夫婦の形はいろいろあります。
自分たちに合った夫婦の形が見つかれば、離婚などしなくていいはずです。
節子は彼岸へと行ってしまいましたが、私たちはもちろんまだ夫婦です。
しばらく会えないのが辛いですが、これもまた一つの夫婦の形だと思えばいいでしょう。
今日はちょっと理性的?な記事になりました。

■055:友人の死(2007年10月29日)
節子の死をこんなに悲しんでいますが、私は人の死を初めて体験したわけではありません。
両親の死も体験していますし、友の死も体験しています。
しかし、同居していた父母の死ですら、これほど引きずったことはありません。
親の死と妻の死は全く違います。

親しい友人の死も体験しました。
私のホームページには私よりも若い2人の死のことを書いた記憶があります。
加瀬さんと三浦さんです。
2人とも私は大好きでしたが、引きずりはしませんでした。
友の死は信じなければ信じないでも済まされるのです。
とりわけ三浦さんの死は今でも信じていないのです。

不思議といつまでも忘れられずに思い出す友人が一人だけいます。
東レ時代の友人の重久篤さんです。私の2年先輩です。
信頼しあっていた人ですが、もう10年ほど前に亡くなりました。
なぜだかわからないのですが、その重久さんのことをよく思い出します。
無性に会いたくなることがありました。

重久さんは節子とも顔見知りでした。
節子が娘たち2人と一緒に香港に旅行に行ったことがあります。
その計画を知った重久さんは、節子たちに親切にお薦めガイドを紙に書いてきてくれました。お薦めのレストランも書いてありました。
それでわが家族の中では重久さんは、とても親切でよい人の評価を確立したのです。

節子が亡くなった後にも、重久さんのことをなぜか思い出します。
彼岸で、2人は会っているでしょうか。
もしそうとわかっていたら、重久さんに伝言を頼めばよかったです。
最後に会いにいけずに残念だったと。
見舞いに行こうと電話しようと思っていた、まさにその日に、重久さんの訃報が届いたのです。
それがずっと気になっているのかもしれません。
重久さんの笑顔が忘れられません。
一緒に仕事をしたかった人でした。
節子ともいろいろとこれから一緒に活動をしたかったのですが、2人とももういません。

■056:結婚前は毎日詩を贈っていました(2007年10月30日)
毎日、節子への思いを書いていますが、私たちの始まりも同じだったのです。
節子と結婚することになってから、私は毎日、節子に1篇の詩を書いて贈っていました。
毎日、恋人から詩がとどく。
普通なら喜ぶはずですが、節子はそれほど喜びませんでした。

節子に会った頃、私が一番好きだったのは、三好達治の「甃のうえ」でした。
あわれ花びらながれ
おみなごに花びらながれ
おみなごしめやかに語らいあゆみ
うららかの跫(あし)音 空にながれ
おりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるおい
廂々に
風鐸のすがたしずかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ

夢のような風景です。
私が当時憧れていた風景の一つです。

こういう詩であれば、節子も喜んだかもしれません。
しかし、私が創る詩は、これとは全く違ったものでした。
たとえば、「金魚が泣いたら地球が揺れた」というような、いささかシュールな詩でしたので、それをもらった節子はわけがわからなかったのかもしれません。
なかにはわかりやすいコミカルなものもありましたが、いつも、「わけがわからない」とあんまり喜んでくれませんでした。
それで1か月くらいで止めたような気がします。
その詩集は今もどこかにあるはずですが、節子も私も読み直すことはありませんでした。
今にして思うと残念です。

節子の友人が、このブログを節子さんにも読ませたい、といいました。
いやいや、節子が読んだら、また言うでしょう。
読むのが大変だから、もっと短くしてよ。
そして、このブログも1か月で終わったでしょう。
終わらずに続いているのは、節子が読んでいないからなのです。

■057:死んだのは私ではないのか(2007年10月31日)
「シックス・センス」という映画を見た人はいるでしょうか。
恐ろしいほどに哀しい映画です。
自分が死んだことに気付かずに、愛する妻との関係を回復しようとする男の物語です。
最後に自分が死んでいることに気付き、素っ気ない対応に見えていた妻には自分が見えていなかったことがわかる結末は衝撃的でした。
この映画を観た時、恐ろしいほどの哀しさを感じました。
今にして思うと、節子との関係を予測していたからかもしれません。

先日、朝早く目覚めた時に、この映画のことが鮮明に思い出されました。
そして、もしかしたら、死んだのは節子ではなく私なのではないかと思いつきました。
もしそうであれば、どんなにか気が楽になるでしょう。
しかし、そう考えるのは難しいようです。

節子と私が違う世界に別れてしまったという事実が意味を持っているとすれば、私が死ぬのも節子が死ぬのも同じことです。
但し、娘たちにとっては全く違います。
子どもにとっての父親の存在は、母親とは全く違います。
子どもは親を超えていきますが、母親は超えてもなお、必要な存在のような気がします。

「シックス・センス」の場合は、自らの死に気付かなかったおかげで、生者の姿が見えました。
幸せなことです。但し、生者からは見えない存在になってしまいました。
その関係が正しければ、今回は節子が死んだことになります。
私にはどうしても節子の姿が見えないからです。
そして娘たちと私はコミュニケーションできるからです。

節子は時に勘違いし、粗忽なところがありましたから、もしかしたら自分が死んだことに気付いていない可能性はあります。
「シックス・センス」の主人公マルコム・クロウのように、私の隣で、その言動をみているのでしょうか。
そうあってほしいものですが、どうもこの数日の体験からして、その可能性も極めて少ないようです。

まあ、馬鹿げた話だと思うでしょうが、夜中に目覚めて、こんなことを真剣に考えているのです。
私の世界はいまや論理的ではなくなってしまっています。

■058:節約家夫婦(2007年11月1日)
今となっては悔いの残ることがたくさんあります。
たとえばそのひとつ。
2人で歩いていて、ちょっとおしゃれなお店に出会うと、2人ともちょっと入ろうかと迷うのですが、ほとんどの場合、ケーキでも買って帰って、自宅で娘たちと一緒に食べようとか、今度また娘たちと一緒に来ようとかいって、結局は入らないことが多かったのです。
夫婦ともに自宅が好きだったこともありますが、節約精神も大いに関係していました。
そのたびに娘たちは、私たちのことをケチンボだねと笑っていました。

私たちは2人とも本当にお金を使わない夫婦でした。
もっとも、その反面、とんでもない失敗で経済的に大きな損失をよくしたため、娘たちからは全く信頼されていませんでした。
実際に私の退職金の一部は無駄な買い物で見事に借金に変わってしまいました。
つまり、ケチンボの浪費家というわけです。
円天のようなものにはだまされませんが、買わなくてもいいものを買ったり、無駄なお金を払ったりすることもよくあり、私たち夫婦は娘たちからは「悪徳商人に最もだまされやすいタイプ」と思われています。
しかし、人に迷惑をかけなければ、だまされることも悪いことではありません。
それが私の考えです。
節子はそれには口では反対していましたが、実際は私よりも数多くだまされていたと思います。まあ、お互いにそう思っているだけですが。

そんなわけで、いつか行こうねと話していたおしゃれなお店の前を通ると、なんであの時に入らなかったのかと思って、また涙が出そうになります。
節約家夫婦の片割れとしては、複雑な気分です。

ちなみに、節子がいなくなった今、私は以前よりももっとお金を使わなくなりそうです。
ますます節約家になります。
無駄な浪費や出金もなくなるでしょう。
なにしろ私は生まれたからずっと、財布というものを持ったことがないのです。
お金がなくなると節子からもらっていました。
もうお金をくれる人がいなくなってしまったので、どうなるのでしょうか。
いささか心配です。

■059:なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした(2007年11月2日)
昨夜、Tさんからメールが来ました。

奥様の訃報を知ってから、なんどもメールをさせていただこうと思ったのですが、なかなか、書けませんでした。
以前、メールをさせていただいたときに、奥様からもメッセージを頂いていたのに、それがとても嬉しかったのに、なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした。
すいません。

「なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした」とあります。
私も節子が病気になって以来、「現実に向き合う勇気」を失っていたのかもしれません。
その結果、節子を救えなかったのではないかという罪の意識が消えません。
でも、実際にその場になるとそうなりがちです。
そうならなかった節子は強い人でした。
私にはとてもまねが出来ません。
このメールを読んで、節子の強さを思い出しました。
私よりも度胸のある、強い人でした。

Tさんは、以前、節子の「ひととき」の記事を読んでメールをくれた人です。
私たちの娘と同世代の女性です。

節子のおかげで、私もたくさんのことを学びましたが、今なお、いろいろな人からメールが届きます。
そのたびに、私にも新しい発見があります。
そして、どこかで誰かが、節子のことを知っていてくれると思うと、とても元気が出ます。
ご本人の了解を得ていないのですが、紹介させてもらいます。

実は、私も奥様と同じ病気です。
「まさか、30代の自分が?」と思いましたが、「まさか」ではありませんでした。
昨年の夏に手術をしまして、9月の中頃から仕事復帰しています。
医師からは「完全に治ったとは言えない」と言われていますが、今のところ、元気に毎日を過ごしています。

時折、くじけそうになることもありますが、
「前向きに、前向きに」と自分を励ましつつ、毎日を送っています。
病気になってつらいことも多いですが、発見したこともたくさんあります。
自分自身が少し成長できたように感じています。
人間、どんな状態になっても学ぶことはあるのだなぁと再発見しています。

でも、私はまだまだ気づいていませんでした。
夫の気持ちです。自分の気持ちを支えるに必死で、横で支えてくれた夫の気持ちをあまり考えていなかったように思います。
佐藤さんの投稿を読んで、あらためて夫もつらかったことに気づいたように思います。
(中略)
大事なのは「感謝」ですよね。
大事なことに気づかせていただいてありがとうございます。
「いいことだけ日記」ステキなアイディアですね。
奥様によろしくお伝え下さい。

このメールを読んで、節子が「自分もがんばらなくちゃ」と言ったことを思い出します。
そしてがんばってくれました。
本当にがんばってくれました。
Tさんに節子のエールが届くことを確信しています。
節子は、みんなの悪いものをみんな持っていくからと言っていましたから。

■060:西川さんがハーモニカを吹いてくれました(2007年11月3日)
今日は節子の月命日です。
節子と会えなくなってから、もう2か月もたってしまいました。
どこかで、でもまだきっと会えるという思いが残っているのが不思議です。

福岡の西川義夫さんが来てくれました。
再入院の前に自宅に見舞いに来てくださって、節子のためにハーモニカの演奏をしてくれた西川さんです。
西川さんは、この挽歌を読んでいてくれて、よくメールをくれます。
西川さんからのメールが、私をどんなに元気づけてくれたかわかりません。
こうした挽歌を書くことの無意味さは、書く本人が一番良く知っています。
しかし書き続けられたのは、西川さんを初めとした数人の方からのメールでした。
一人でも読んでいてくれる人の顔が見えれば書き続けられるものです。

西川さんは献花台の前で、2曲、ハーモニカを演奏してくれました。
「庭の千草」と「トロイカ」です。
トロイカは、愛する人を送る歌なのだそうです。
西川さんが、節子のためにこの2曲を選んでくれた気持ちがとてもうれしいです。
心のこもった演奏を聴いていたら涙が出てしまいましたが、不思議と2曲目には心が静まりました。
節子もきっと心和やかに聴いていたことでしょう。
ちょうど演奏が終わった時に、花かご会のみなさんが献花に来てくれました。
西川さんには無理をお願いして、もう1曲、演奏してもらいました。
2曲を厳選してきた西川さんには不本意だったと思いますが、
花かご会の皆さんにも聴いてもらって、多分節子はすごく喜んでいるはずです。
節子は、そういう人でした。
曲は「埴生の宿」でした。

節子が大喜びするだろうことが毎日起こっていますが、
一番喜んでいる節子がいないのがいつもとても不思議な気持ちです。
今日も西川さんと話していて、途中で節子のいないことに気づいてしまいました。
主役のおまえがいないでどうするの、と心の中で節子に話しかけました。
その途端に急に不安感が高まり元気がなくなりました。
西川さんには気づかれたかもしれません。いささか心配です。
西川さんが「ゆっくりもどればいい」と、(たぶん)言ってくれました。
ゆっくりと節子との新しい生活を育てていこうと改めて思いました。

しかし、本当にどうして節子はこんな大事な時に姿を現さないのでしょうか。
本気でそう考えている自分が、時に心配になります。

■061:世界で5番目に幸せにします(2007年11月4日)
節子からいつもからかわれていたことがあります。
結婚する時に、私が「結婚したら世界で5番目に幸せにする」と約束したことです。
私は生活信条として嘘はつかないことにしています。
「世界で1番」は無理だけど、5番目くらいなら何とかなるだろうと考えたわけです。
節子は、なんで「5番目」なのといつも笑っていました。
節子はたぶん、私がその約束を果たしたと思ってくれていたはずです。
時に「世界で1番幸せ」とも言ってくれました。
ちなみに私は節子のおかげで「世界で1番幸せ」になりました。
でも、それはお互いがいればこそであっての「5番目」であり「1番目」でした。

誰かから与えられる幸せはほどほどがいいです。
その幸せがずっと続けばいいのですが、その「誰か」がいなくなれば、その幸せはもろくも崩れてしまうからです。
最近まで、実は私はそう考えていました。
「世界で1番幸せな男」は、いまや「世界で1番不幸な男」になってしまった、と。

しかし、どうも違うようです。
「世界で1番幸せな男」は、「世界で1番幸せだった男」になってしまっただけの話です。いや、今もなお、「世界で1番幸せな男」なのかもしれません。

節子に向かって、毎日、こう話しています。
「節子のおかげで、幸せな人生だった」。
そういえば、節子も家族にそういう言葉を残してくれました。
「世界で一番幸せだったこと」が大切なことなのだと気づきました。
これからの人生は、そのおまけに過ぎません。
ですから、私はやはり「世界で1番幸せな男」なのです。

しかし、節子はどうでしょうか。
今でも「世界で5番目に幸せ」と思ってくれているでしょうか。

■062:最初の出会い(2007年11月5日)
節子と結婚することになったのは、いくつかの偶然の結果です。
当時、私は会社に入社したばかりでした。配属は滋賀の大津の工場でした。
毎週のように京都や奈良に出かけていました。とりわけ奈良が好きでした。
西ノ京や佐保路が大好きでしたし、東大寺も好きでした。
東大寺の三月堂の空間に座っているとなぜか時空を超えて生きている感じがしました。
その日も、一人で会社のある石山から電車に乗りました。
そこに、節子が友だちと乗っていました。
節子も友だちも、私と同じ会社の社員でしたので、面識はありましたが、それほど話をしたことはありませんでした。
2人とも、それぞれの親戚に遊びに行くところでした。

でまあ、気楽に誰か一緒に奈良に行かないかと誘ったのです。
節子はたまたま先方にはまだ連絡していなかったこともあって、その誘いに乗ってしまったのです。
それで2人で奈良に行くことになったのです。
これがその後を決めてしまったのです。

奈良は興福寺から東大寺の月並みのコースでした。
このコースは何度歩いても好きなコースでした。
そこで何を話したのか、結婚した後には2人とも思い出せなかったのですが、2人ともなにかとてもあったかなものを感じた1日だったことは間違いありません。
私が覚えているのは大仏殿の裏庭で1時間近く日向ぼっこしながら会話していた風景です。
初めての2人が一体何を話していたのでしょうか。
今となっては思い出せないのですが、節子は私の話がとても不思議な話で、どこまで信じていいのかどうかわからないので興味を持ったのだそうです。

それからいろいろありました。
たぶんこの調子で書いていったら1冊の本になるくらい、ドラマもありました。
そして、私は節子に夢中になってしまったのです。
節子は、しかし、私には夢中になりませんでした。
それでますます私が夢中になってしまったのかもしれません。

そのことが、その後もずっと尾を引きました。
私はいつも節子に言いました。
「私が節子を愛している、せめてその半分くらいでいいから、私を愛してほしい」
彼女の返事はいつも、
「考えておく」
でした。
それがもしかしたら、私が今なお、節子に夢中になっている理由かもしれません。

この挽歌は、愛したけれど愛されなかった男の、未練がましいプロポーズの続きなのかもしれません。
はい。

■063:節子の写真を見ることができません(2007年11月6日)
この4年間、節子の写真をたくさん撮りました。
旅行に行くたびにどっさりと写真を撮ってきました。
それ以前から、わが夫婦は写真が好きでした。
私は撮るだけでしたが、節子はそれをきちんと整理していました。
ですから、わが家にはたくさんの節子の写真があります。

一度、写真のことを書きました。
葬儀に遺影として使った写真よりも節子らしい写真があったと書きました。
しかし、その写真を毎日見ているうちに、やはりその写真も節子ではないような気がしてきました。
節子はもっとあったかでやさしかったと思えてなりません。
そこでもっといい写真を見つけようと、残っていた写真を見始めたのですが、
写真を見るほどに悲しくなり涙がとどめなく出てきました。

今年の正月には一緒に初詣にも行っています。
その節子がいないのです。
もう初詣にも一緒に行けません。
節子の好きだった箱根の写真も出てきました。
箱根には2人の思い出が山のようにあります。
最近はテレビで箱根が映ると無意識に目をそらしています。
ましてや箱根での節子の写真は見ることもできません。
写真を探すのは、やめました。
何時になったら写真を見られるようになるのでしょうか。
節子が残したたくさんのアルバム。
なぜ私たちはこんなに写真を撮ってきたのでしょうか。
写真よりも、心の中にもっとたくさん残しておくべきでした。

そういえば、節子がいなくなってから、写真を1枚も撮っていません。

■064:鳥と花、そして蝶(2007年11月7日)
節子は「鳥や花になってわが家にチョコチョコ戻ってくる」と書き残しました。
その文字を見ると、涙がとまりません。
思い出しただけでも、涙があふれてきます。
今も涙でキーボードが見えにくいです。

前にも引用した「無所有」の中にこんな文章が出てきます。
ある詩人の言葉であるが、「花と鳥と星は、この世で一番清潔な喜びを私たちに与えてくれる」というのである。だがその花は誰かのために咲くのではなく自らの喜びと生命の力で咲くのである。森の中の鳥は自分たちの何にもとらわれない自由な気持ちでさえずり、夜空の星も自分自身の中から出す光を私たちに投げかけるだけなのである。

この文章は、美しさとは内から染み出てくるものだということの説明として出てくるのですが、前に読んだ時には気にすることもなく読みすごし、全く記憶にも残っていませんでした。
しかし、昨日、読み直していてこの文章に出会った時にはなんだかうれしくなってしまいました。星こそ出てきませんが、花と鳥は節子が残した言葉です。
本に感動するというのは、この程度のことなのかもしれません。

それはともかく、節子の話に戻れば、普通なら「花と蝶」ではないかと思うのですが、なぜか節子は「花と鳥」といいました。
なぜでしょうか。

今度、献花台をつくった場所に、鳥たちのための餌台が前からあります。
節子が作ったのです。
そこに果物などを置いておくのですが、小さな鳥がそれをついばんでいる時に、カラスやハトがくると節子は小鳥たちのためによく追いやっていました。
その餌台に節子は来ようとしているのかもしれません。
それともう一つ、わが家の近くの樹木で鶯(うぐいす)がよく鳴いています。
特に今年は長いこと鶯が鳴いていました。
それが、節子に鳥を選ばせた理由かもしれません。

ところで、昨日、ある人から絵葉書が届きました。
奥様のご闘病を知り、祈りの気持ちを添わせていただいてから今日まで、佐藤さんご家族のお姿は、本当に暖かい美しいものでした。その思いが形になった素敵な献花台に私は小さな蝶を捧げます。
秋風とキチョウの写真でした。
献花台に供えさせてもらいました。

■065:なんで元気な時に今のような生活をしなかったのか(2007年11月8日)
私の生き方はやはり間違っていた、と最近つくづく思います。

節子が自宅療養するようになってから、私はすべての活動を中断し、自宅で節子と一緒に治療に取り組みました。
そして、節子が息を引き取った後、2か月間、ほとんど自宅で過ごしています。それも節子のことを思いながら、ぼんやりと過ごすことも多いのです。

なぜこうした生活を節子の状況がまだそう悪化しない時にやらなかったのか。
節子がいなくなってから、いくら節子のために時間を割いても意味がないではないかと悔やまれるのです。

節子が病気になってから私はほぼビジネスの仕事はやめました。
しかし、まちづくり支援やコムケア活動はビジネスとは違って無責任にやめることができないと理屈をつけて、継続していました。
もちろん活動量は激減しましたが、意識の上では残っていましたから、自宅にいてもパソコンなどでの対応を結構していました。
それに関係者から相談があると断れずに出かけてしまいました。
節子はもちろん出かけてもいいよと言ってくれていましたが、本当は在宅していてほしかったのかもしれません。

節子の病状が悪化した後、あるいは節子が亡くなった後は、みんなも私を気遣ってくれて相談もしてこなくなりました。
だから今のような生活ができるのかもしれませんが、たぶん、そうではなく要するに私自身の時間使用に対する優先順位のつけ方が変わったのだと思います。
イラクで何が起ころうと、私は今ではデモにも行きません。
地元の市議選がまもなくありますが、私は誰にも協力しません。
大切なテーマの集まりでも、よほどの理由がないと参加しません。
いま私にとって最優先事項は節子の関係なのです。
節子の献花台に来てくださる方がいたら、原則として自宅にいます。
私がいて意味があるのかと娘から言われても、私には意味があるのです。

生活において、何を優先するか。
私は常にそれを意識してきましたが、もしかしたら間違っていたのではないかと反省しています。
もっともっと節子のために時間を割くべきでした。

私のような間違いを、みなさんは犯さないようにしてください。
後悔しても何の役にも立ちませんので。

■066:私たち家族の節子への最後のプレゼントは「希望」でした(2007年11月9日)
節子を守れなかったのは私の責任であり、いまから思うと本当にたくさんの悔いが残ります。突き詰めて考えていくと、節子を殺したのは私かもしれないと思うほどです。
罪の意識で心身が震えてくることもありますが、その時には私たち家族が節子に贈った最後のプレゼントのことを思い出すようにしています。
節子はそれをしっかりと受け取ってくれたと私は確信しています。

そのプレゼントは「希望」です。
希望こそは生きる力であり、生きる意味だと思います。
私たち家族は、最後の最後まで、節子が元気になると確信していました。
それが裏目に出てしまったおそれは否定できませんし、それが私の最大の罪の意識の源泉でもあるのですが、その一方で、節子が最後まで回復する希望を持ち続けていたことを思うと大きな安堵の念が沸いてくるのです。
節子はどんなに辛くても、家族と一緒に生き続けるという希望を持ち続けてくれました。
私と娘が、奇跡が起こったからきっと治るよ、よかったね、と声をかけた時に、節子は確かに「うん」とうなづいたのです。
それは、節子が息を引き取る12時間前、意識が朦朧としだす直前でした。
最後まで節子は治ると信じていたのです。

節子が最後まで元気になる希望を持ち続けられたことを、私はとてもうれしく思います。
そしてその「希望」を贈ることができた私たち家族、それをとても素直に受け取ってくれた節子のいずれもが、私の誇りでもあります。
その誇りと喜びが、私の罪悪感を相殺してくれるので、私は何とか生き続けられているのです。

節子への最後のプレゼントは「希望」でした。
すべての希望を贈ってしまったためか、今の私の心の中には「希望」があまり見つかりませんが、節子の思い出がまたきっと私の希望を育てていってくれると思っています。

■067:節子の私へのプレゼントは娘たちです(2007年11月7日)
私からの節子への最後のプレゼントは「希望」でしたが、節子のプレゼントは何だったのでしょうか。
それは言うまでもなく、2人の娘です。
私が今も元気なのは、そして生きる気力を持続できているのは、娘たちのおかげです。

母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみも大きいでしょう。
しかし彼らは、それ以上に私の辛さや悲しみが大きいのを知ってくれています。
いろいろな人からも、妻の死は格別なのだからお父さんを大事にね、と耳打ちしてもらっているようです。
ですから私に対して、とても気遣いしてくれています。
口にはあまり出しはしませんが。

それに彼らは、私の生活力のなさを知っていますし、
私が節子なしに生きていけないことも知っていてくれます。
私がいかに節子を愛していたかも知っています。
だからいろいろと気遣ってくれるのです。

そんなわけで、彼女が残してくれた2人の娘が、
いまは私に、いろいろな意味で生きる力を与えてくれています。
幸か不幸か、2人とも未婚なのです。
きっと私が生きる力をしっかりと回復するまで、
私を支えるようにと節子が残していってくれたのでしょう。
節子の良い面も悪い面も、彼らはしっかりと受け継いでいます。

しかし、節子への甘えを娘たちへの甘えに切り替えるわけにはいきません。
彼女らが早く出て行けるように、私も自立しなければいけません。
そうしないと節子に怒られそうです。
彼女らを早く追い出すことが、私の生きる意味なのかもしれません。
それができたら、私は節子のところに行きやすくなります。
節子からのプレゼントは、もしかしたら「宿題」と言い換えたほうがいいかもしれません。
私にとっては、かなりの難問なのですが。


■068:「いつも前向きだったので、そんなに悪いとは思ってもいませんでした」
(2007年11月11日)
節子はいつも前向きでした。
辛さを家族以外の人にはあまり見せませんでした。
ですから、電話をかけてきた人は節子が病気であることさえ気づかなかったかもしれません。
辛そうにしているのに、電話に出ると声が変わるのです。
そして電話が終わると、休みたいと言いました。
人に会う前には鏡を見て、自らを鼓舞していました。
それも7月の中旬からは、できなくなってしまいましたが。

「いつも前向きだったので、そんなに悪いとは思ってもいませんでした」という方が少なくありません。
その話を聞くたびに、私自身もそう思い込んでいたのではないかという後悔が起こります。本当に節子は前向きでした。
その一事だけでも、私は節子を尊敬し、節子に感謝しています。
いつも前向きの節子と40年、一緒に暮らせたことは幸せでした。
その節子を裏切らないように、私も前向きに生きようと思っていますが、
前向きとは何なのか、と考えると、そう簡単な話ではありません。
早く節子に会うようにするのも、間違いなく「前向き」の一つですから。

■069:いたるところに節子がいます(2007年11月12日)
仏壇だけでは狭いと思い、主な部屋に節子の居場所をつくりました。
といっても、写真とちょっとした依代(よりしろ)をつくっただけですが。
そのためにどこにいっても節子がいる感じです。
ところがそれがまたなんとも奇妙な気分になります。
それぞれの節子が別人格を持ち出したのです。

部屋で仕事をしていて終わると「節子、今日はこれで終わりにするよ」と言って、下の仏壇の節子に「お休み」の挨拶をし、寝室に行って、節子戻ってきたよというようなことになるわけです。
なんだか急に、女房がたくさん出来たような気分です。
庭の献花台にも節子が宿っている気もします。
その上、お墓にも節子がいますし、実はポータブル節子もいるのです。
一夫多妻制になってしまいました。

それぞれの節子が喧嘩をしださないでしょうか。
いささか心配です。

書き方が少し不真面目に聞こえるかもしれませんが、それぞれが別人格化していくのを感じるのは事実です。
意識を集中しているとリアリティが生まれるものです。
しかし、これだけたくさんの節子がいるのに、さびしさは減じません。
返事がないからです。
いつか返事をしてくれるようになるでしょうか。
なるよと言ってくれる人もいるのですが。

■070:友からの節子への挽歌(2007年11月13日)
短歌同人誌「地上」が送られてきました。
もう88年目を迎えている同人誌です。
送ってきてくれたのは節子の友人で、倉敷在住の友澤さんです。
友澤さんは、この同人の一人です。
今号に友澤さんは「友の笑み」と題して、7首の歌を投稿してくれています。
そのなかから3首だけ紹介させてもらいます。

前向きにがんばってますと闘病の文に明るき友逝ってしまいぬ
友の笑みに笑み返したり明け方の夢枕に立つ節子さん ああ
空港で会いしかの日の笑顔のまんま友がはるばる永遠の別れに

節子はもう20年以上前ですが、友澤さんを含む4人の友だちとヨーロッパ食文化の旅に招待されたのです。
食文化に関するエッセーの募集に応募し、それが入選したのです。
とてもぜいたくな旅をしてきたようです。
一緒に行った人たちとはすっかり仲良しになり、闘病中もたくさんのエールをもらいました。
その人たちがお見舞いに来てくださった時、私は絶対に節子を治しますから、と約束してしまいました。
でも約束は守れませんでした。
申し訳ない気持ちでいっぱいです。

同人誌の7首を節子に読んで聴かせました。
いろいろな人が今でもなお、節子のことを思い出してくれている。
私にはこんなうれしいことはありません。
節子と一緒に、この喜びを味わえないのが辛くてなりませんが。

■071:私たち家族の節子への最後のプレゼントは「希望」でした(2007年11月14日)
節子を守れなかったのは私の責任であり、いまから思うと本当にたくさんの悔いが残ります。突き詰めて考えていくと、節子を殺したのは私かもしれないと思うほどです。
罪の意識で心身が震えてくることもありますが、その時には私たち家族が節子に贈った最後のプレゼントのことを思い出すようにしています。
節子はそれをしっかりと受け取ってくれたと私は確信しています。

そのプレゼントは「希望」です。
希望については、私のホームページ(CWSコモンズ)に何回か書きましたが、希望こそは生きる力であり、生きる意味だと思います。
私たち家族は、最後の最後まで、節子が元気になると確信していました。
それが裏目に出てしまったおそれは否定できませんし、それが私の最大の罪の意識の源泉でもあるのですが、その一方で、節子が最後まで回復する希望を持ち続けていたことを思うと大きな安堵の念が沸いてくるのです。
節子はどんなに辛くても、家族と一緒に生き続けるという希望を持ち続けてくれました。
私と娘が、奇跡が起こったからきっと治るよ、よかったね、と声をかけた時に、節子は確かに「うん」とうなづいたのです。
それは、節子が息を引き取る12時間前、意識が朦朧としだす直前でした。
最後まで節子は治ると信じていたのです。

節子が最後まで元気になる希望を持ち続けられたことを、私はとてもうれしく思います。
そしてその「希望」を贈ることができた私たち家族、それをとても素直に受け取ってくれた節子のいずれもが、私の誇りでもあります。
その誇りと喜びが、私の罪悪感を相殺してくれるので、私は何とか生き続けられているのです。

節子への最後のプレゼントは「希望」でした。
すべての希望を贈ってしまったためか、今の私の心の中には「希望」があまり見つかりませんが、節子の思い出がまたきっと私の希望を育てていってくれると思っています。

■072:節子の私へのプレゼントは娘たちです(2007年11月15日)
私からの節子への最後のプレゼントは「希望」でしたが、節子のプレゼントは何だったのでしょうか。
それは言うまでもなく、2人の娘です。
私が今も元気なのは、そして生きる気力を持続できているのは、娘たちのおかげです。

母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみも大きいでしょう。
しかし彼らは、それ以上に私の辛さや悲しみが大きいのを知ってくれています。
いろいろな人からも、妻の死は格別なのだからお父さんを大事にね、と耳打ちしてもらっているようです。
ですから私に対して、とても気遣いしてくれています。
口にはあまり出しはしませんが。

それに彼らは、私の生活力のなさを知っていますし、
私が節子なしに生きていけないことも知っていてくれます。
私がいかに節子を愛していたかも知っています。
だからいろいろと気遣ってくれるのです。

そんなわけで、彼女が残してくれた2人の娘が、
いまは私に、いろいろな意味で生きる力を与えてくれています。
幸か不幸か、2人とも未婚なのです。
きっと私が生きる力をしっかりと回復するまで、
私を支えるようにと節子が残していってくれたのでしょう。
節子の良い面も悪い面も、彼らはしっかりと受け継いでいます。

しかし、節子への甘えを娘たちへの甘えに切り替えるわけにはいきません。
彼女らが早く出て行けるように、私も自立しなければいけません。
そうしないと節子に怒られそうです。
彼女らを早く追い出すことが、私の生きる意味なのかもしれません。
それができたら、私は節子のところに行きやすくなります。
節子からのプレゼントは、もしかしたら「宿題」と言い換えたほうがいいかもしれません。
私にとっては、かなりの難問なのですが。

■073:人をつなげる発想は節子から学んだものでした(2007年11月16日)
昨日、節子の友人が3人、献花にきてくれました。
お話を聞いていて、気づいたのですが、私が「人をつなげること」に価値を見出し、その活動に取り組んでいるのは、どうやら節子の影響だったようです。

今日、来てくださった皆さんは、私たちが6年前まで住んでいた地域の人たちでした。
そのお一人が、こんな話をしてくれました。
節子が自治会の班長だった時(当番制だったそうです)、同じ班の人たちに声をかけて自宅で集まりをやったのだそうです。
それまでもなかったことであり、その後もないそうです。
その方は、それを覚えていてくださいました。

そういえば、隣の空地でサツマイモを育てて、カレーライスパーティもしたわね、ともう一人の人が言いました。
ともかく節子はそういうのが大好きでした。
子ども会の会長を引き受けた時には、オリエンテーリングをやったことも覚えています。私もスタッフとして使われましたので。

6年前に今のところに転居してからも、節子はそうしたことをやりたがっていました。
私が自治会長を引き受けた時、私は班の皆さんに声をかけて自宅で集まりを持ちましたが、これはどうやら節子の影響を受けていたのです。
私は自分の発案だと思っていましたが、節子が仕向けたことだったのです。
わけです。
節子はその時にはもう闘病中でしたので、自分が中心にはなれないことを知っていました。そういえば、その集まりの日もお菓子を用意してくれていて、終わった後にいろいろとアドバイスされたことを覚えています。
節子が中心になっていたら、きっと大きな輪になっていたでしょう。
私にはそれができませんでした。

節子は人をつなげる名人でした。
いや、つなげるのではなく、人と付き合う名人でした。
但し、素直に自分を生きている人でないと、節子は付き合いたがりませんでしたが。
そのあたりは、見事な直観力を持っていました。

今日、来た人たちも、実は節子つながりだったようです。
節子が入っていたコーラスグループにMさんが参加し、その縁でAさんも入会し、そのお2人が春の発表会にYさんを招待し、その時はもうコーラスグループを続けられずに聴く側になっていた節子が会場で久しぶりにYさんに会ったのだそうです。
それがきっかけになって、今日はその3人が来てくれたのです。

いろいろと私が知らない節子のことをいろいろな人から教えてもらいます。
教えてもらう度に、節子に惚れ直します。
来世で節子に会って、そうした報告を早くしたいものです。

■074:「とてちりてん」を観ていると節子を思い出します(2007年11月17日)
NHKの朝の連続ドラマ「とてちりてん」を観ていて、いつも節子を思い出します。
そして、ちょっとした場面で、涙が出てしまうのです。
妻を亡くした落語家が3年間、落語もせずに寝てばかりいる。
そのまわりで、主人公の家族たちのあたたかなつながりが展開されています。
家族の中心は主人公の母親です。
他にもさまざまな「つながり」が並行して、展開しています。
かなりコミカルな話なのですが、毎回のように私には涙があふれてきます。
人のつながりの哀しさ、喜び、あたたかさを感ずるからです。

以前だったら、そうは感じなかったと思いますが、いまはちょっとした仕草や言葉から、その奥にある世界が感じられ、それが私自身の世界につながってくるのです。
形はかなり違いますが、わが家にあった風景を見ているような気がすると同時に、妻を思って何もできずにいる落語家の気持ちが、まるで自分の気持ちのように感じられるのです。
こんなに鮮やかに生きられたらいいなあ、という羨望の念も少し感じます。
私には、そうした潔さがかけていることを自覚していますので、なおのこと無念さもあるのです。
第一、こんなブログを書き続けることも、未練がまし委小賢しさの現われです。
そう思うなら、そうしたらいいではないかとも思うのですが、そこまでふんぎれません。
未練がましく、社会との接点を持ち続けているわけです。
四六時中、妻を思って、寝てばかりいる落語家に敬意さえ感じます。
もしかしたら、節子も私にそうしてほしいと思っているかもしれません。

先週、久しぶりに知人に会いました。
私が、お話をさせてもらう場にわざわざ訪ねてきてくれたのです。
そして、鳩居堂のお線香などをもらいました。
10年以上もほとんどお会いしてもいなかった人です。
話をしていたら、実はその人のパートナーも闘病中なのだそうです。
だから私の気持ちがよくわかると言ってくれました。

当事者の感受性は研ぎ澄まされます。
他の人にはなんでもない言葉に過剰に反応してしまうと同時に、
普段ならなんでもない言動に心が揺さぶられるのです。

節子は、しかし、私以上に感受性を研ぎ澄ませていたのでしょう。
それにきちんと対応できなかったことが悔やまれます。

節子に対しては、最後まで鈍感で終わってしまいました。
節子がいなくなって、2か月以上たって、初めてその鈍感さに気づきました。
そうした間違いを、きっとたくさんしているのでしょうね。

自分の愚かさに気づくたびに、節子の賢さに気づきます。
人の聡明さは、知識や論理ではなく、感性や素直さなのかもしれません。
今となって、やっと節子のほうが、私よりも聡明だったことに気づきました。
まあ、知識や論理は私のほうが格段に上ですが、そんなことは生きる上では、瑣末なことでしかありません。

■075:言葉の優しさの大切さ(2007年11月18日)
昨日の続きのような話です。
節子が病気になってから、言葉に対して過剰に反応するようになりました。
当事者の節子は、私以上だったと思います。
そして節子がいなくなった後、私はさらに過剰に反発するようになりました。
今度は私が当事者になってしまったからです。

たとえば、そのひとつが、「節子さんは良い家族に囲まれて幸せでしたね」というような言葉です。
家族としてはとてもうれしい言葉です。
でもどこかに、「生き続けられなかった節子が幸せだったはずがない」という思いが浮かんできてしまうのです。
自分の性格の悪さ、言葉にひっかかってしまう狭量さを嫌悪したくなりますが、自然とそう思いが出てきてしまうのです。
「元気そうで良かった」と言われると、表面はそうでも元気ではないといいたくなり、「元気がないので心配だ」と言われると充分元気だと反発したくなり、「元気をだして」と言われると、出るわけないでしょうと言いたくなるのです。
だれも私の気持ちなどわかるはずがないし、わかってたまるかという気があるのです。その思いが、他の人の言葉を素直に聞けなくしているのでしょう。
そんなことで、もしかしたら失礼な対応をしてしまっているかもしれません。

しかし、このことはコミュニケーションやケアの問題を考えるための重要なヒントを含んでいるように思います。
まあ、そうやって物事を広げて考えてしまうのが、私の悪い性癖なのですが。

そうしたことを踏まえて考えるならば、闘病中の節子に対して、あるいは死を直前にした節子に対して、私の言葉はどうだったのかと反省しないわけにいきません。
節子は限界状況にあったと思いますが、私の言葉をどう受け止めていたでしょうか。
もちろん私たちは異身一心でしたから私への誤解はなかったと思いますが、もしかしたら私の言葉がさびしく響いていたかもしれません。
もう少し言葉を選べばよかったと反省しています。
でもまさかこんな形で別れが訪れるとは微塵も思っていなかったのです。

生きている以上、誰でもいつ別れが来るかもしれません。
言葉には注意したいと、改めて思い直しています。

皆さんは大丈夫ですか。
私のような辛い思いをしてほしくないと思います。

■76:駅前花壇の花がお墓に供えられていました(2007年11月19日)
昨日、節子のお墓に行ったら、駅前花壇に咲いていた花が飾られていました。
そういえば、先日、駅前花壇の模様替えがあったのです。
きっと花かご会のみなさんが節子に花を持ってきてくれたのでしょう。
お墓の場所もお話していなかったのに、みんなで探してくれたのでしょうか。
感激しました。
本当に節子の友人たちはやさしい人ばかりです。
わざわざお墓にまで花を持ってきてくださるとは節子は果報者です。

節子がお墓に入ってから、それまでは年に4〜5回しかお墓参りはしていなかったのですが、週に2回は行くようになりました。
しかし、花かご会の人がわざわざ来てくださることを考えると、私も週2回などといわずに、もっと来ないといけないと思いました。
自転車で15分くらいで来られるのですから。

墓には私の父母が入っていますが、節子は父母のお気に入りでした。
きっと私よりも節子のほうが気楽で信頼できたはずです。
ですから父母は喜んでいるはずです。
節子も自分で選んだ墓なので、きっとまた一緒に仲良くやっているでしょう。

昨日気づいたのですが、初めて墓前で涙が出ませんでした。
般若心経も無事間違えずにあげられました。
時間がたつと癒されるという言葉に私は反発していましたが、癒されてしまったのでしょうか。
いや、そんなことはありません。
さびしさは日を追うたびに高まりますし、いまもちょっとしたことで涙が出ます。
でも突然に涙が出てくることはなくなりました。
やはり癒されてきているのでしょうか。

癒されて元気が出てくることを節子は望んでいるかどうか。
望んでいるはずがないと私は確信しています。
節子も私ほどではありませんでしたが、さびしがりやでもありましたから。

■77:年賀欠礼のご挨拶を節子と連名で出しました(2007年11月20日)
年末が近づくと年賀欠礼のはがきが届きだします。
悲しいことに今年は私が送り手になってしまいました。

年賀欠礼の挨拶の手紙がみんな同じ文章で定型化されていることにいつも違和感を持っていました。
自分ではそうした定型文は使ったことがありません。
今回ももちろん「私たち仕様」で書くことにしました。
もっとも私の友人知人には出状しようかどうか迷っています。
まだ節子の訃報を知らない夫婦共通の知人に、私と節子の連名で出状させてもらいました。

今日はその手紙文を掲載させてもらいます。
手紙の実物はPDF形式ですが、私のホームページに載せています。
ちなみに、告別式の会葬礼状も49日法要の報告も、既定のものではなく、私たちならではの文章にしました。よかったら読んでください。
いずれも基本形です。相手によって少しずつ変えているものもあります。

いつか弔電について書きましたが、こうした手紙も自分の言葉で書くようにできないものでしょうか。
その文章を考える時間がとてもいい時間になるはずです。
私が先に逝ったとしても、節子はきっと自分の言葉で手紙を書いてくれたはずです。

こうした手紙のおかげで、いろいろな人から連絡をもらいます。
そして故人を思い出す時間が持てます。
それこそが供養ではないかと思います。
みなさんも、その時が来たら、ぜひとも自分の言葉で、自分のスタイルで、手紙を書くことをお薦めします。
大変ですが、そのおかげでたくさんの感激を体験できるはずです。

以下は今回の手紙文です。

<年賀欠礼のご挨拶>

今年も残すところ、あと1か月半になってしまいました。
平素のご無沙汰をお許しください。

今日はちょっと辛いお知らせのお手紙です。
親しくさせていただいた妻、節子が今年の9月に彼岸へと旅立ちました。
4年半ほど前に胃がんの手術をし、その後、順調に回復していたのですが、昨年10月に再発してしまいました。再発してからも前向きな闘病生活で、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないというところまでがんばったのですが、残念ながら体力の限界を超えてしまったのです。
私にとっては、生きる意味を与えてくれる、かけがえのない伴侶でした。
これほどのかなしさは体験したことはありませんし、またこれからもないでしょう。
伴侶の死は、まさに自らの死と同じような思いがします。

節子が逝ってからもう2か月以上経過しますが、今なお節子がいない世界が実感できずにいます。不思議な感覚です。
ブログで節子への挽歌を書いて気を鎮めていますが、時間がたつほどに寂しさはつのります。
告別式での挨拶をホームページに載せました。
読むのが辛い内容ですが、節子のがんばりを読んでもらえればうれしいです。

発病後の節子は見事な生き方をしました。
しかし、みなさんにお会いできずに逝ってしまうことが、とても残念だったと思います。
最後は家族に見守られ安らかに息を引き取りました。
最後の寝顔は、私がいうのもおかしいですが、とても美しくやさしい顔でした。
節子を守れなかった自分が本当に悔しいです。

訃報をお知らせもせずに申し訳ありませんでした。
またこんな手紙をお届けすることもお許しください。

我孫子のほうに来る機会があればお立ち寄りください。
庭に小さな献花台をつくりました。

これまでのたくさんのご厚情が、節子の人生をとても豊かにしてくださっていたことを、節子に代わって感謝申し上げます。
ありがとうございました。

みなさまも、どうぞご自愛くださいますように。

不一

佐藤修(佐藤節子)

■78:節子さんはきっと最後までがんばったのでしょうね(2007年11月21日)
私たち夫婦の共通の知人である岡林さんから電話がありました。
年賀欠礼の手紙が読んで、驚いて電話をしてきてくれました。
「奥さんはがんばりやだったから、きっと最後までがんばったのでしょうね」
泣きながらそう話してくれました。
岡林さんとの出会いは、私たちにとっては最後の海外旅行となったイランのツアーでした。今からもう10年ほど前でしょうか、しばらく中止されていたイランに旅行できるようになった最初のツアーに夫婦で参加したのです。岡林さんは海外旅行仲間の小林さんとご一緒でした。2人とも私たちよりもひとまわり歳が上でしたが、すごく元気な人たちで、毎年、3〜4回、海外旅行をしているベテランでした。
イランでの服装は女性の場合かなり厳しく、黒いベールで顔を含む全身を隠さなければいけませんでした。それで節子は、いろいろと工夫して独自の服をつくっていったのですが、それを岡林さんはなぜか細かく覚えていました。
10日ほどの旅立ったと思いますが、なぜかその2人と節子は気があって、帰国した後も食事をしたりしていたのです。
私も一度、ご一緒しましたが、熟年女性の行動的な元気さを教えてもらいました。
もし私が先に彼岸に行ったら、きっと節子は岡林さんのように元気な熟年シニアになっていたでしょう。
しかし、その岡林さんもこの数年はいろいろあって病院通いなのだそうです。
節子の歳をきいて、ちょっと絶句しました。そして代わってあげたかったといいました。
私も本当に代わってやりたかったです。

岡林さんが最初に言ったことばが、「がんばったでしょうね」でした。
節子はよほどがんばりやさんに見えたのでしょう。
いろいろとお話を聞かせてくれました。
節子にこそ聴かせたい電話の内容でした。
節子がいなくなってしまったいま、こうやって節子の友人知人と話しているのがとても奇妙な感じです。

節子は、本当にちょっとした出会いを大切にする人でした。
そうした出会いから始まったお付き合いの人たちがたくさんいます。
そうした出会いに私もいくつか居合わせました。
節子は見ず知らずの初めての人の心を開かす名人でした。
私の友人知人には決して見せない、彼女のそのやさしさは名人芸と思えるほどでした。
いつかまたそうした出会いの話を書きたいと思います。

■79:「誰に対しても心やさしい奥様でしたね」(2007年11月22日)
節子の訃報を知った私の友人から手紙が来ました。
「誰に対しても心やさしい奥様でしたね」
親バカならぬ、夫バカですが、とてもうれしい言葉です。

近くにお年寄りが2人で住んでいるお宅があります。
昔からのお宅なのですが、いわゆる独居老人だったのですが、いまはお手伝いさん的な人が一緒に住んでいます。
2人ともとてもいい人なのですが、最近やってきたお手伝いさん的な人は近隣とのお付き合いもあまりありませんでした。
おそらく最初に声をかけたのは節子だったのではないかと思います。
節子はいつもあの人はきっとまだ近くの「あけぼの公園」にいったことがないのではないか、「水の館」はどうだろう。私が元気になったら自動車で一緒に我孫子を案内してやりたいと話していました。
結局、それは適えられなかったのですが、節子はいつもそんな調子で、誰かを喜ばせることを考えていました。
私が節子にこれほどほれ込んでしまっているのは、私の人生において実にたくさんの喜びを与えてくれたからです。まあ、たいした喜びではなく、ちょっとした「やさしい心配り」なのですが。でもそれが今の時代には欠けていますから、もらった人はとても節子が好きになるのです。

自動車で我孫子を案内できなかった、その人が先日、献花に来てくれました。
節子がいたらどんなに喜んだでしょうか。
節子だったらそうしたであろうことをさせてもらいましたが、その人はとても喜んでくれました。
私はもう10年以上運転をしていないので、自動車での案内は出来ませんでしたが、節子の思いは少しだけ果たせた気がしています。
その後、夜道を歩いていたら、その方から声をかけられました。
私も少し節子の生き方に近づいたかなとうれしくなりました。
人の幸せは、本当にとても小さなところにあるようです。

■80:献花台に土の葉(2007年11月23日)
庄原の原さんが「献花にかえて、葉っぱの土笛を」と言って、2つの土笛を送ってきてくださいました。
夏と秋の柿の葉で作ったものだそうです。
青葉と紅葉が見事に再現されていて、見ているだけで安堵される土笛です。
早速、献花台の上に置かせてもらいました。

原さんは、節子の闘病中にも元気をつけるためにいろいろな作品を送ってくれました。
そんな原さんなのですが、私も節子も実はまだお会いしたことがないのです。
残念ながら節子は今生では会うことはかないませんでしたが、来世ではきっとお会いできるでしょう。
私は来年になったら、会いに行きたいと思っています。
節子が私一人を置いていってしまったので、来年はいろいろとやらなければいけないことが多くなりました。

原さんとのつながりは、同じ広島の折口さんの紹介です。
ところが、折口さんにもお会いしたことがないのです。
折口さんは私のホームページ(CWSコモンズ)に折口日記を掲載してくださっている方です。
それにしても、会ったこともない者同志がどこかで心をつないでいく広がりが私の周りにはいろいろとあります。
逆によく会っていても心がつながりにくい関係もないわけではありません。
今回のようなことを経験するとそれがよくわかります。
人のつながりは不思議なものです。
魂の波長がそうしたつながりを決めるのかもしれません。
私もたった一度だけしかお会いしていないのに、ずっと心に残っていた人もいます。
人のつながりの不思議さを、節子はたくさん教えてくれましたが、いなくなった後も感動させてくれることが少なくありません。

献花台の前で、土笛を吹いてみました。
先日の西川さんのハーモニカのようにはいきませんが、不器用な私の笛の音は節子にも届いたでしょう。
久しぶりにまた涙が止められなくなってしまいました。
久しぶりといっても、3日ほどなのですが。

■81:優柔不断さと思い切りの良さ(2007年11月24日)
節子が一緒に活動していた花かご会のみなさんが、我孫子駅前の花壇を整備してくれています。
季節の変わり目で、先週、全く新しくなりました。
その時、とった千日紅の花が節子のお墓に供えられた話は前に書きました。
そのお礼にメールをしたら、返事が返ってきたのですが、そこにこんな文章が書かれていました。

今夏の花はほとんどとってしまいました。
まだまだきれいに咲いている花もあるのですが、「公共の場にある花壇なので、季節ごとに思い切ってとってしまわないとね」と、節子さんとよく話したことを思い出します。

へえ、そんなことを話していたのかとちょっとうれしくなりました。
時々、私の知らない節子に会えるのです。

「思い切って」。
この言葉を節子がよく使っていたのを思い出しました。
節子はとても慎重で、むしろ優柔不断と思えることが多かったのですが、時には思い切って行動するタイプでもありました。
私が25年間勤めた会社を突然辞めると言い出した時にも、何も言わずに即座に受け入れました。
私の両親との同居が話題になった時にも、ほとんど間をおかずに自分から同居を買って出ました。私は少し躊躇していたのですが。
自分が胃がん宣告を受けた時にも、それまでと全く同じように行動していました。
箱根で日産自動車のゴーンさんがいるのを見つけたら、英語も話せないのに突然近寄って「夫と一緒に写真を撮らせてほしい」といって、私を呼んだ時は驚きました。
物をとても大事にするタイプなのですが、なぜか時々、スパッと捨ててしまうこともありました。
私と節子が結婚する契機になった節子の手づくりセーター(おばけのQ太朗が刺繍されていました)も、ある時に捨てられてしまいました。
何で捨てたのか、と異議を申し立てたのですが、そんなものをとっていても意味がないでしょうというのです。
私以上に過去に興味がなかったのかもしれません。
そのくせ、日記を書くのは好きでした。

むすめたちは、節子が私のような夫を選んだことこそ思い切りがいい(但し間違った選択だった)といつも言っていましたが、本当によくまあ、私のような人と結婚したものです。
なにしろ私の話を聞いた節子の両親は、あわててわざわざ京都まで会いにきました。
親戚はすべて反対だったのです。
でも結婚してしまいました。
もっとも事情は私も同じで、私も最初は家族は反対でした。

話がちょっとそれてしまいましたが、時々、思い切りのいいところのあった人でした。
もっとも、身の丈よりも大きな話は判断できなかったのではないかという見方もあるのですが。

■82:「さわやかな節子さん」(2007年11月25日)
節子は転居前、民生委員をさせてもらっていました。
私が大きな福祉を目指すコムケア活動に取り組むだいぶ前からです。
民生委員の現場の仕事は家族にも話せないといって、時に悩みながらも話してはくれないこともありました。
いろいろと生々しい現場に直面することもあり、そうした時には何となく状況が垣間見えたりはしましたが。
なかにはかなり大変な問題もあったように思います。
いろいろな人に声をかけ、解決に取り組もうとしたのに、なかなかうまくいかず悩んでいたこともありました。

その民生委員の仲間だったHさんとSさんが献花に来てくださいました。
転居した時に民生委員は辞めていましたので、もう6年もたっていますが、それ以来もいろいろとお付き合いがあり、節子と3人で旅行にも行っているそうです。
いろいろと節子との楽しい話を聞かせてくださいました。
そして2人の口から何回か出てきたのが、「節子さんはいつもさわやかでした」という言葉でした。
「さわやか」
私は意識したこともなかった言葉です。
またひとつ、私の節子のイメージが豊かになりました。
「さわやかな節子」
そういえば、たしかに結婚前の節子は「さわやかさ」がありました。
まあ表現を変えれば、単純で素直なだけ、ともいえるのですが。
嘘のつけない子でした。

節子さんは辛いだろう病気のことも、自分の身体のことも、とても明るくすべてを話してくれていました。すごい人だと思っていました、とも言ってくれました。
節子は今年になってから、腎臓から直接カテーテルで排尿するようになっていました。
最初はすごいいショックだったと思います。
外から見てもわかるのですから。
でもそれも持ち前のアイデアでおしゃれな手づくりポシェットでちょっと見ただけではわからないようにしてしまったのです。
それで外出もできるようになりました。

Hさんは習字の先生でもあるのですが、節子はそこに通っていました。
カテーテルをつけたままです。
そしてみんなとのおしゃべりのなかで、そんなことまであっけらかんと話していたのだそうです。
どんな辛いことも明るく話す。
自分の弱さも隠し立てせずに話す。
そうした節子をお2人は「さわやかな」と表現してくれたようです。

隠しだてをしないのは、私たちの文化でした。
隠しても必ずいつかはわかるものだと、私たちは知っていたからです。
そして隠す気持ちがあると、人との付き合いは楽しくなくなることも知っていました。
積極的に自らの弱みを開いていくというのは、私の生き方でしたが、節子はそれに共感してくれたのです。
そして、私以上にそうなりました。

外に向かっては、どんなことでも明るく話すのが節子の良いところでした。
時々、私には辛さや悲しさを話すこともありましたが、でも私を悲しませないために、いつも私よりも明るくしていました。
たしかに節子は「さわやかな人」でした。

やっと気づいた「さわやかな節子」。
しかし、そのさわやかな節子がもういないと思うと悲しくて仕方がありません。
この悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
「さわやかさ」の奥にある節子の思いを知っているだけに、悲しくて悲しくて仕方がありません。

■83:ストイックな秋、平和につながる生き方(2007年11月26日)
今年の秋は紅葉が美しかったのでしょうか。
私は一度も紅葉を見ませんでした。
紅葉が好きだった節子と一緒でなければ見ても悲しくなるだけだからです。
節子は紅葉とか桜が好きでしたから、紅葉はテレビですら見られないのです。
来年の春も桜を見る気にはならないでしょう。

節子がいなくなってから、私の生活はとてもストイックになりました。
私だけが楽しいことを体験することには何となく「罪の意識」を感ずるのです。
いや、「罪の意識」というよりは一緒に体験できない節子の不憫さが頭をよぎってしまうのです。それは同時に、愛する伴侶と世界を共有できないでいる自らの不憫さを味わいたくないからでもあります。
楽しいことが辛いことになるという、見事な価値転換が起こってしまうのです。
ですからできるだけ身を縮めて、ストイックな生き方に心がけているわけです。
それは決して残念なことでもなく、むしろそこにこそ節子と世界を共有しているという幸せを感じられるのです。
価値転換がここでも見事に働くわけです。

喪にふくすとは、こういうことかもしれません。
発想を膨らますのが好きな私としては、これこそが平和につながる生き方ではないかという気にまでなりそうです。
しかし、宮沢賢治がいうように、世界にあるたくさんの不幸を考えれば、ストイックに生きることこそ正しい生き方のようにも思います。

■84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」(2007年11月27日)
「佐藤さんたち夫婦は特別ですよ」。
そう言ってくださる人がいます。
通信教育のユーキャンの夫婦観に関する調査によれば、20代の夫婦観は「絆」に対して、60年代は「忍」だそうです。
しかし60代の私たちは、絆どころか異身一心でした。
忍だったらどんなによかったことでしょう。
先週お会いした初対面の人は、私の妻が亡くなって落ち込んでいることを知って、私を元気づけるためでしょうが、「自由を得たと思えばいいのですよ」といいました。
夫婦が忍の関係であれば、別れはうれしいことになるでしょうか。
決してそうはならないでしょう。

柳田邦男さんはこう書いています。
「家族同士には、他人とは異質の喜び、悲しみ、怒り、憎しみの感情がある。そのことは精神的ないのちを「共有」していることを示すことにほかならない」(「犠牲‐わが息子・脳死の11日」)。

「精神的ないのちの共有」。
共感できる言葉です。
まさに私たち家族は、いのちを共有しています。いや正確に言えば、娘たちが20歳を過ぎてそれぞれの人生を歩みだすにつれ、家族は夫婦に戻っていくように思いますが、少なくとも夫婦はたぶんよほどのことがない限り、たとえ離婚しようが別居であろうが、そうなのではないかと思います。もし夫婦が「生活の共有」であるならば、当然のことながら「いのちの共有」でもあるはずです。
ですから、私たちは決して特別ではないのです。
おそらくどんなに仲の悪い夫婦でも、伴侶を亡くしたら私と同じ状況になるだろうと思います。
伴侶とは、夫婦とは、そういうものではないかと思います。
そうでなければ、あえて夫婦になる必要はないからです。

「忍」と「絆」。
違うようで、もしかしたら同じことなのかもしれない。
そんな気がします。

もっとも最近の夫婦は、必ずしも「生活の共有」を意味しないのかもしれませんので、これからはどうなるかはわかりません。
しかし、やはり「生活の共有」「いのちの共有」に支えられた夫婦関係こそが、社会の基盤であり続けるべきではないかと思います。
家族関係や夫婦関係は、もっと真剣に考えなければいけない「社会問題」だと思います。

■85:事象としての死、経験としての死(2007年11月28日)
昨日、柳田邦男さんの言葉を引用しましたが、思い出したことを今日も書きます。
柳田さんは、「3人称の死」と「2人称の死」という言葉で、死を語っています。
簡単にいえば、医者は生物学的な生命という視点から3人称的に「患者の死」を考えるが、患者にとっては言うまでもなく「1人称の死」である。そのことを意識して、「精神的ないのち」の次元を重視した「2人称の死」として対応することが重要だというのです。

妻の死を体験したものとして、とても共感できる話です。
しかし、これは医者の問題だけではありません。
節子がいなくなってから、痛切に感ずるのは、
「事象としての死、経験としての死」ということです。
つまり当事者(夫婦、家族を含む)にとっての死とそれ以外の人にとっての死は全く違うものであるということです。

柳田邦男さん風にいうと、「いのちを共有」している人の死は生々しい自らの「経験」ですが、それ以外の人の死は、どんなに悲しくて寂しくても対象としての「事件」なのだということです。
こんなことを言うと、節子の死を悲しんでくれたたくさんの人の涙を裏切るようで申し訳ないのですが、お許しください。
節子の親友たちは、私以上に涙を出し、今でもとても悲しみ寂しがってくれています。そのお気持ちを軽く受け止めているわけではありません。
もしかしたら私以上に節子への追悼の気持ちは強いかもしれません。

でもたぶん私が感じている死とは全く違うのだろうと思います。
注意しないと誤解されそうなのですが、どちらがどうだといっているわけではありません。
いのちに軽重がないように、いのちへの思いも軽重はないでしょう。
でも、「事象としての死」と「体験としての死」は全く異質なものではないかと思います。
ですから、私の気持ちは絶対に他の人にはわからないということです。
そして、節子の死は決して時間の経過の中で風化もしませんし、時が癒してくれることはないでしょう。私が生きている限り、忘れることなどあるはずがないのです。
軽々に人の伴侶の死を語ることは戒めなければいけません。
それが体験者の正直な気持ちです。

少し時評にからめて付言すれば、
私たちはいま、あまりにすべてのことを「事象」の次元で捉えがちです。
たぶんそこからは未来は開けてこないような気がします。
このことはいつかまた「時評」のほうで書いてみたいと思います。

■86:「社会的弱者」のコンプレックス(2007年11月29日)
最近、少し「負い目」を感ずるようになってしまいました。
妻を死なせた夫は、人生における敗残者ではないかという強迫観念です。
人生の途中で生命を失った妻もまた、人生の敗北者だったのではないかという思いもあります。
こんなことを書くと、死者への冒涜ではないかと思う人もいるかもしれませんが、妻を失った夫の気持ちはそれほどに揺れ動くものなのです。
「冒涜」という意識は全くないのですが、夫婦で旅行を楽しんでいる話を見聞すると、自分ながら嫌になるのですが、そういう気持ちがどこかに生まれてくるのです。
その複雑な気持ちは、なかなかわかってはもらえないでしょうが、そのコンプレックス、劣等感が自分の言動に影響を与えてしまっていることに気づいて、それがまたコンプレックスになっていくのです。

そうした敗残者や敗北者の感覚は、行き過ぎかもしれませんが、少なくとも夫婦という形に欠陥が発生したわけで、夫婦単位で考えれば、私たち夫婦は大きな障碍を持った夫婦と言うことは否定できません。
最近の言葉を使えば、「社会的弱者」ということになります。

この1か月ほど、そうした意識がとても強くなっているのですが、そのおかげで、改めて「社会的弱者」の気持ちが今まで以上にわかるようになった気がします。
さすがに私には「可哀想に」という言葉は向けられませんが、僻(ひが)みかもしれませんが、そういう「まなざし」を感ずることはないわけではありません。
たしかに「可哀想」なのですが、そういう「まなざし」はさらに気分をへこませてしまいます。
おそらくハンディキャップをもっている人たちは、こういう「まなざし」の中におかれているのだろうなと改めて感じました。

暗い話になりましたが、一度書いておきたいと思っていた話です。
そしてこれは決して「暗い話」ではないのです。
そのことへの気づきや体験によって、実は私の世界は大きく広がったからです。
節子への愛や感謝の気持ちもさらに高まりましたし、節子とのつながりも太くなったのです。

節子、ぼくらはもしかしたら人生に負けたのかもしれないけれど、それによって大きなものを得たのかもしれないね。

でも、こんな「負い目」を感ずること自体、もしかしたら私自身が人生に負けてしまっているのかもしれません。

■87:真夜中に目が覚めます(2007年11月30日)
毎日ではないのですが、朝方5時頃に眼が覚めることが少なくありません。
頭が冴えて、いろいろなことを考えてしまいます。
もちろん節子のことです。
考えれば考えるほど、頭が冴えてきます。
闘病中のさまざまな情景をはっきりと思い出すこともあります。
時にはやりきれないほどに辛くなります。
楽しかった思い出を思い出すこともありますが、必ずといっていいほど、それはすぐに悲しさに転じます。もうそうした楽しさは私たちの前にはないことが、悲しさと寂しさを倍加させるのです。

声を出して節子と話すこともあります。
いくら声を出して呼んでも、節子の返事がないため、私が信じていた「輪廻転生」への疑問も生じそうです。
輪廻転生がないとすれば、私は生きる気力を完全に失いかねませんので、それはできるだけ考えないようにしています。

愛する人を失った人はみんなこうなのでしょうか。
それにしても、あまりにも辛い時間です。
節子がいた頃は、5時に眼が覚めるとベッドを離れて仕事をすることにしていました。
隣で寝ているとどうしても節子を起こしてしまうからです。
節子に気づかれないようにベッドを離れるのですが、いつも節子は「もう起きるの」と半分寝ながら声をかけてくれました。
しかし、節子のいない今はベッドを出る気にはなれません。
節子がいない世界で、やらなければならない急ぎのことなど何もないからです。

茫然自失しながら、節子と過ごす時間。
このブログに書いていることのほとんどすべてが、その時間に思いつくことです。
ブログに書くことができるので、私は自らの気を鎮めることができているのです。
そうでなければ、毎朝眼が覚めて考えることの罪の意識や後悔の念、あるいはこれから先の生きる力などの重さにへこたれて、朝、起き出せなくなってしまっているかもしれません。
きっと節子がこのブログを通して、私にいのちをあたえてくれているのでしょう。
節子は今もまだ、私を支えてくれているのです。
ありがとう、節子。
明日の朝はどんな話ができるかね。

■88:当事者の身勝手なわがまま
(2007年12月1日)
実にわがままなのですが、今の私はコンプレックスの塊なのかもしれません。

先日、犯罪被害者の方の話がテレビで紹介されていましたが、その方は娘さんを殺害され、そのことで奥さんが精神的に病んでしまった結果、自殺してしまったそうです。
その方が、妻は、娘を殺された後、外部からの連絡も少なくなり、孤立感を高めたようだ、というような話をされていました。
その言葉に私もハッとしました。

節子の葬儀の後、たくさんの人が弔問にきたり、電話をかけてきたりしてくれました。
今もなお、献花に来てくれる人がいます。
誰かが来てくれるということは、節子のことが忘れられていないということです。
とてもうれしいことです。

しかし、毎日誰かが来るわけではありません。
実に勝手なことなのですが、誰も来ないと見捨てられた気がするのです。
相手の人は、電話していいものかどうか、あるいはわざわざ献花にいって迷惑ではないか、などとむしろ遠慮しているケースもあります。
実際に、来るのはかなり勇気が必要だったといった方もいました。
来ることばかりが、節子のことを思っているわけではありません。
しかし、その方がどんなに思っていてくれていても、当事者にとっては実感できません。
ですから実際の活動が途切れると孤独感が生まれるのです。

病気で妻を亡くした私の場合ですらそうですから、犯罪被害者の場合はもっと深刻なはずです。
声をかけるほうも難しいでしょうし、家族の孤立感も大きいはずです。
その犯罪被害者の奥さんの気持ちがよくわかります。
わがままといわれるでしょうが、当事者はそんなものなのです。

みんなそれぞれに問題をかかえています。
ですからよその家族の不幸ばかりを気にしていることはできないことは当然です。
しかし、被害者にしろ遺族にしろ、当事者はどうしても自分の不幸を中心に考えてしまうのです。
その温度差がどうしても出てきます。
孤立感が高まりだすととまらなくなる恐れもあるのです。
最近は、そうしたことを避けるためのセルフヘルプグループも増えてきていますが、それだけではたぶん問題は解決しません。
これは当事者になって初めてわかることかもしれません。

しかし、当事者の「わがままさ」はこれにとまりません。
来ないと薄情なと思うのですが、来たら来たでまたわずらわしいのです。
みんなに気にしていてほしいけれど、気にしすぎてはほしくない。
実に身勝手なわがままさです。

以前も書きましたが、どう対処しようと当事者は満足できないのです。
困ったものです。
私の場合は、しかし理想的な対応をしてくれた人が何人かいます。
いつかその方法を書きたいと思いますが、まだ今は書くことを躊躇します。

できるだけたくさんの人に、節子のことを時々思い出してほしいと思っています。
すごく自分勝手な願いなのですが、節子のために私がしてやれる数少ないことの一つだからです。
当然の事ながら、私はほぼ四六時中、節子のことを思い続けています。
今の私には、それが生きる意味の一つなのです。

そして同時に、
坂出市の事件も、光市の事件も、
友人知人の逝ってしまった家族のことも、
今、辛い現実に立ち向かっている友人たちのことも、
節子への語りかけの中で思いを馳せ、節子と話すようにしています。
こうした思いを馳せていることの表現の仕方は、
節子が逝ってしまった後、友人知人から教えてもらったことです。

相手に伝わらないままで、思いと馳せ続けることこそ大事だとわかっているのですが、
自分のことになると、まだそれを実感したいという身勝手さを首をもたげます。
そんなわけで、頭と気持ちはなかなか一致しませんが、
当事者の身勝手なわがままさから早く抜け出したいと思っています。

■89:「もしもピアノが弾けたなら」(2007年12月2日)
11月3日に献花台の前で、西川さんが節子にハーモニカーを聴かせてくれてから、もう1か月たちました。
その西川さんから、その時に私と会話したことの返事が返ってきました。
西川さんは時空を越えて会話をする人なのだと気がつきました。
西川さんはこう書いてきました。
お庭で演奏させていただいたときに、佐藤さんが、
「表現できる人」、または「表現方法を持っている人」、または「表現する人」
「…はいいですね」と言われたのです。
そのとき、佐藤さんの言葉に何の反応もしなかったと思います。
演奏直後は、どっかに行っていた私の意識が現世(!)に戻ってくるのに
ちょっと時間がかかって、ぼお〜〜っとしているからなのと、
「あれ、佐藤さんも表現者なんだけどな…」と思ったからでした。

たぶん、私は「表現技術を持っている人」と言ったような気がします。
「もしもピアノが弾けたなら」という西田敏行の古い歌がありますが、その時思い出したのが、その歌だったからです。

もしもピアノが 弾けたなら
思いのすべてを 歌にして
君に伝えることだろう
雨の降る日は 雨のよに
風吹く夜には 風のように
晴れた朝には 晴れやかに

だけど僕には ピアノがない
君に聞かせる 腕もない
心はいつでも 半開き
伝える言葉が 残される

この歌詞の気持ちは、まさに私の気持ちでした。
詩や言葉や行動では伝えられない気持ちというものがあります。
音楽は、人の心から直接飛び出し、人の心に直接響きます。
私が「表現技術」といったのは、「楽器を演奏できる人」という思いでした。
しかし、西川さんが言うように、人はみな「表現者」です。
ピアノを弾けなくとも、心を響かせることはできたはずです。
ピアノが弾けないことを口実に、言い訳している自分に気づきました。

それにしても、西川さんの会話はまさにスローライフです。
対馬の村の対話もきっとそうだったのでしょうね。
見習わなければいけません。
節子の返事を急ぎすぎて期待している自分に気づきました。
来世で会う時に返事をしてもらえばいいのですね。
節子は必ず返事をしてくれるはずですから。

そういえば、仏教の時間感覚はとてもスローライフです。
弥勒が衆生を救いに来るのは、56億7千万年後なのですから。

■90:「節子、そろそろ戻ってきてもいいんじゃないの」(2007年12月3日)
今日は3回目の月命日です。
この3か月、ほぼ四六時中、節子のことを考えています。
誰かと会って話している時にも、会議をしている時にも、講演をしている時にも、フッと節子の顔が浮かぶのです。
これほど一人の人を思い続けていた経験は私にはありません。
若い頃に好きになった人、その中にはもちろん節子もいるのですが、これほど思い続けたことはありません。

思い続けているといろいろな情景が浮かんできますが、そこでの新しい気づきがたくさんあります。
節子との世界はどんどん広がり、思いがとまることがないのです。
なかには気づきたくないこともあります。
いやむしろ気づきたくないことのほうが多い時もありました。
そうした時期には、早く節子のところに行って慰めてもらいたいと思うほどでした。

いくら思い続けても、その思いが実体化することがないのが残念です。
「想念」を実体化してくれる「ソラリス」の世界に行けるのであれば、どんなにうれしいことでしょう。
「ソラリス」では、主人公クリスは亡くなった妻との再会を結局は拒否してしまうのですが、いまの私であれば、再現された節子との世界に埋没してしまうでしょう。
しかし、冷静に考えれば、私のいまの「想念」が創りだす節子と、実在した節子そのものとは別人であり、実体化した節子に埋没してしまうようなことがあれば、それは節子への裏切り行為でしかありません。
想念の実体化などを願うことなく、想念の世界で節子との世界を愉しみ悲しむのが節子への誠実さであることは間違いありません。
今日は、節子への思いを抱きながら、節子と一緒にゆっくりと過ごそうと思います。

しかし、節子の写真の前で、ついつい言葉が出てきてしまいます。
「節子、そろそろ戻ってきてもいいんじゃないの」
3か月たったのに、私はまだ自立できずにいるのです。
これでは節子もなかなか成仏できないかもしれません。
実は、こんな状況を知っているかのように、昨日、福岡の加野さんから電話があり、節子さんはちゃんとあなたの横に居るのだから、気をしっかり持つようにと言われました。
たしかにそんな気もするのですが、まだ未練がましくうろたえ続けているわけです。
困ったものです。

彼岸への1泊2日ツアーなどはないものでしょうか。

■91:居なくなってしまった節子への贈りものが届きます(2007年12月4日)
節子がいなくなってから、私は今まで以上に怠惰になりました。
年末になると節子はいつもお世話になっていた人たちに手紙を書いたり、お礼をしたりしていました。
しかし、私にはそういう気持ちがなかなか起きてきません。
義理を欠くことになるでしょうが、どうも気持ちが前に進まないのです。
節子に代わって贈る勇気が出てきません。
節子の不在を認めることになるからです。

もう居なくなってしまった節子への贈りものが届きます。
柿やリンゴが届き、ケーキやヨーグルトが届き、車えびが届きます。
その一つひとつが節子とどうつながっているかをよく知っているために、届くたびに涙が出ます。
そして、なぜ節子ではなくて、私が受け取らなくてはいけないのかと無念さが込み上げてきます。
送ってきてくださった方々への礼状も出せずにいます。
悲しくて書けないのです。
全くどうしようもないほどの不甲斐なさです。
人間の本質はこうしたところに現れます。
改めて我ながら、その駄目さ加減を思い知らされています。

最近は、罪の意識から敗北感、劣等感、自己嫌悪、失望感、孤立感など、ありとあらゆるマイナス感覚を一身に背負っています。
冬の寒さがそれを増幅させます。
私を温めてくれるはずの節子なしで、この冬を越すことができるでしょうか。

■92:葬儀は人生で最も重要な儀式(2007年12月5日)
3か月前の9月5日、節子の告別式でした。
節子は形式的なことにこだわるのが好きではなく、あまり仰々しい葬儀は好んでいませんでした。
しかし、節子の死があまりに突然だったので、私たち家族には考える間がありませんでした。
それで結局、世間的なスタイルに流されてしまったのですが、果たしてそれでよかったのかどうか、私の気持ちの中にはもやもやした気分がありました。
そんな時、安田喜憲さんの「一神教の闇」という本を読んでいたら、こんな主旨の文章に出会いました。

人がこの世での命を終えるときこそ、その人の人生の中でもっとも重要な瞬間なのではないか。その人生の重要な瞬間を全く簡素化してしまうようになってきている現代日本の世相は、どこか危ないものを含んでいる。(92頁)

そうだ、と思いました。
もやもやした気持ちをなくすことができました。
むしろ私の友人知人に知らせなかったことを少し後悔するほどです。

葬儀には予想を上回る人たちが来てくださいました。
葬儀社の人たちには100人以内にしますとお話し、訃報も節子の限られた友人たちにしか回しませんでした。
しかし、こうした情報は流れるものらしく、葬儀の日に斎場に行ってみると予想していなかった生花がたくさん届いていたのです。
その本数を知って、葬儀社の方は私が伝えていた予想人数を上回る人が来ると体制を組み替えていました。
実際に通夜には200人を超える人が来てくれました。
知るはずもない人まで来てくれました。
告別式に来てくださった方と合わせると300人近い人が来てくれたことになります。
しかも節子を知ってくださっている方がほとんどでしたので、節子も喜んでくれたと思います。
葬儀が終わった後も、遅れて訃報を知った方々がわが家まで来てくださいました。
こうして、節子の人生の最も重要な瞬間は多くの人たちに居合わせてもらえたのです。

私も、死後の葬儀はしたくないと思っていた一人です。
そろそろだなと「死期」を感じたら、節子に頼んで「お別れサロン」をやって、それで人生の幕を引き、その後は実質的に節子と2人だけの隠居にして数日で自らの意志で終わろうと考えていたのです。
人は自分の意志で死を迎えられると私は思っている人間です。
自殺という意味ではありません。念のため。
しかし、節子が先に行ってしまいましたので、その終わり方はもうできません。
どうしようかと思っていたのですが、安田さんの文章を読んで、葬儀をしてもらうことにしました。
できれば、生きているうちから少しずつ葬儀を始められればと思っています。
ただし、娘たちの負担にならないように、仕組みと資金はきちんと用意しておくつもりです。
一番大変なのは香典返しですので、それもしないですむようにしておこうと思います。

余計なことを書いてしまいましたが、結婚式よりも葬儀にこそ目を向けるべきですね。
これはもしかしたら、社会の行く末につながる話かもしれません。

節子はたくさんの人たちに送られて本当によかったです。
決して「幸せ」ではなかったですが(家族と別れることは幸せではありません)、寂しくはなかったでしょうから。
みなさんに本当に感謝しています。
ありがとうございました。

■93:家庭の中での私の位置づけにやっと気づきました(2007年12月6日)
節子がいなくなったことで、家族の中における私の位置づけが一変したような気がします。もちろんこれは私の主観的な感じですが。
わが家は4人家族でした。
家族の中心は私たち夫婦、そして未婚の娘たちが同居していました。
娘たちには早く結婚して自宅を出ていってほしいと言い続けていた私たちは、節子の発病で意識が変わりました。実に勝手なものです。節子はとても複雑な気持ちだったと思いますが、娘たちが家にいることに感謝していました。
まあ、このあたりのことは書き過ぎると娘たちからクレームがつくのでやめておきます。
問題は私のことです。

節子がいた頃は、夫婦が家の中心、「主」で、娘たちは「従」、もしくは同居人だったのです。
娘たちにとってこの家は、いわば出て行くまでの臨時の住処だったのです。
極端な表現をすれば、私たち夫婦が「置いてやっていた」と言ってもいいでしょう。
ところが、節子がいなくなったら、こうした関係は逆転してしまいました。
私は主なる位置を追われてしまい、娘たちに養ってもらう存在になってしまったのです。
つまり、出ていく(彼岸に旅立つ)まで置いてもらっている存在は私になってしまったわけです。
娘たちにとっては私が「同居人」です。

もちろんこの家は私名義です。
しかし、私的所有権発想にあまり共感できていない私としてはそんなことは全く意味のないことで、事実関係として「誰が主で誰が従か」が問題です。
現状は明らかに私が「従」なのです。
だからどうしたと言うことでもないですし、従だから虐待されたり軽視されたりしているわけでもありません。
大事にされていますが、事実関係としての位置づけは一変してしまったのです。

しかし、もしかしたら「一変」したのではなく、これが以前からの事実だったのかもしれません。
節子は私の顔をたててくれて、いつも私を主たる座に置いてくれましたが、当時から私は主たる節子の付属物でしかなかったのかもしれません。
いや、そうだったのだと最近ようやく気づきました。
私がいかに節子に依存して生きていたかを、改めて痛感しています。
どうやら娘たちは、そうしたことを前から知っていたようです。
知らなかったのは私だけだったのです。

みなさん方はどうですか。

■94:私のすべてが節子への贈り物(2007年12月7日)
贈り物の話です。
私は節子に指輪のプレゼントをしたことがないと以前書きましたが、
正確に言えば、一度だけあるのです。

私たちは結婚して一緒に暮らすことを決めた直後、結婚式は挙げずに、出雲大社の神前で2人だけで誓いを交わそうと決めました。
当時のスタイルとしては、まあ先端的でした。
それが何だといわれそうですが。
型にはまった結婚式は私の性分にはあいませんでした。
結局は後で結婚披露宴をする羽目になったのですが、今日のテーマはそのことではありません。
贈り物がテーマです。

出雲大社には京都から夜行で向かいました。
その列車の出る前に、京都駅前の大丸でダイヤの指輪を買いました。
お金がなかったのでとても小さな指輪しか買えませんでした。
それが私の節子への唯一の贈り物です。
娘たちは、私が妻に贈り物をしないといつも非難していました。
節子は、修はそういうのがだめなのよといつも笑っていました。

しかし、私が節子に贈り物をしなかったわけではないのです。
いや、むしろ誰よりもたくさんの贈り物をしたという自負があるのです。

実は私のすべてが節子への贈り物だったのです。
気障な言い方だと思われるでしょうが、節子はそれをわかっていました。
まあ、節子にはありがた迷惑な贈り物だったかもしれません。
捨てるに捨てられませんから。
ですが、私のすべては節子のものになったのです。
人を愛するとは、そういうことだと私は思っていました。
節子と結婚して、私の生活は一変しました。

もっとも節子は、私よりもやはり指輪や帽子のほうがいいといっていました。
そのたびに私は、好きな指輪を買っていいよ、と言いました。
たまには花束を贈ってほしい、とも言っていました。
私は好きな花束をあげるから買ってきてよ、と節子に頼みました。

そんなわけで、節子は普通の意味でのプレゼントを私からはもらっていないのです。
しかし、私は何でももらえる状況をプレゼントしたわけです。
まあ、「何でも」というのがミソですが、ほしいことがあれば努力するつもりでした。
もちろん「物」はそう考えていませんでした。
物は物でしかないからです。

さて、みなさんはどちらがいいでしょうか。
時々、何か素敵なものをプレゼントしてくれる伴侶がいいか。
かなえられることは何でもかなえてやるよという言葉をくれる伴侶がいいか。
私は後者が絶対にいいと思いますが、節子は前者だったのでしょうか。
今にして思えば、私の考えはちょっとおかしいですかね。

実はプロポーズの仕方も結婚式も、今から思うとやはりちょっとおかしかったかもしれません。
節子がよくついてきてくれたなと思います。
もしかしたらストレスをためていたのかもしれません。
でもそうしたなかで、節子のライフスタイルが育っていった面もあるように思います。
出会った頃の節子は、まじめすぎるほどまじめな人だったですから。

■95:「いい人」でもあり「いい女」でもありました(2007年12月8日)
節子は「いい人」でしたが、私にはそれ以上に「いい女」でした。
節子に「修は女を知らない」と言われていたように、どんな人が「いい女」なのか、私には見分ける力はありませんが、節子を思い出すたびに、「いい女だった」と言いたくなる気分なのです。
それに、「いい人」と言ってしまうと、なんだか軽くて、それこそ可もなく不可もなし、という感じですので、やはりここは、「いい女だった」と言いたくなるわけです。

立場が逆だったらどうでしょうか。
節子は私のことを「いい男だった」とは絶対に言わないでしょう。
そこが私と節子の違いかもしれません。
私は節子にとっては、きっと「いい人だった」で終わってしまうような気がします。

でも、「いい人だった」といわれるのは、あんまり名誉ではないですね。
そんな気がします。
ですから、私が節子のことを「いい女だった」と思っていることを、節子はきっと喜んでいるでしょう。
生前に、この言葉を聞かせておきたかったと思います。
「いい女房だ」とは何回も言いましたが。

「いい人」「いい女房」「いい女」
「いい人」「いい旦那」「いい男」
みなさんたちはいかがですか。

■96:節子は「私の女」でした(2007年12月8日)
「いい女だった」と言う話を書きましたが、もう少し書きます。
節子が「いい女」に育ったのは、実は私の働きかけが少なからずあったと自負しています。
誤解されないように付け加えますが、私を育てたのは間違いなく節子です。
節子と結婚していなかったら、私はかなり違った人間になっていたと思います。
同じように、節子もまた、違った人間になったはずです。
もちろん「素質」は、それぞれの固有のものでしょうが、私たちはお互いを育てあう関係でした。

これはなにも私たち夫婦に限ったことではないでしょう。
夫婦とはそういうものだと思います。
育ち方が良かったか悪かったかは何とも言えませんが、私たちはお互いに感謝しあっていました。
節子も私も、相手から実にたくさんのことを教えてもらったのです。
お互いに、とても出来の悪い生徒でしたが、まあ相互に合格点を出し合えるものでした。

「マイ フェア レディ」のイライザを例に出すまでもなく、人は愛する人によって変わります。
そして愛する人を変えていきます。
私たちが自らを変えられたのは、相手を愛していたからです。

もちろん長い人生ですから、いつもいつも夢中だったわけではありません。
時に愛が冷めた時期もありますが、それでもどんな時でも、お互いにかけがえのない存在だったことは間違いありません。
節子は私との離婚を考えたこともあるとよく話していましたが、気楽にそう言えるほど、私たちは仲が良かったのです。
いつもながら、好都合な解釈ですが。

ところで、節子の「出来上がり」はどうだったでしょうか。
私には「最高の女」でした。
たくさんの欠点も含めて、「最高の女」でした。
「完璧な女性」とか「素敵な女性」とかとは程遠い存在でしたので、
他の人からの評価は、とてもとてもだめでしょうね。
でも、繰り返しますが、私にとっては「最高」だったのです。
私にはそれで充分でした。
節子は私の女だったのですから。

「私の女」。問題発言ですね.
でも間違いなく節子は「私の女」でした。
私のための、まさにカスタムメイドの女性でした。
節子もきっと否定はしないでしょう。

私にとって、あんなにいい女房はいませんでした。
まあ、ほかには女房はいないので、当然なのですが。
節子はいつもそういって笑っていました。はい。

■97:節子は歌が好きでした(2007年12月9日)
節子は歌が好きでした。
でもちょっと音痴のところがあったような気がします。本人は認めませんでしたが。
それに高い音がきれいに出ませんでした。
でも歌がとても好きでした。
それで、我孫子の女性コーラスグループの「道」に参加させてもらっていました。
その発表会にはいつも私も聴きに行きました。
しかし、この1年、彼女は病気のために参加できませんでした。
そのグループの発表会が4月にありました。
節子と一緒に聴きに行きました。
久しぶりにみんなに出会えて、よほどうれしかったのでしょう、辛かったはずなのに、私が心配するほど元気そうにみんなと話し合っていました。
そこでいろいろな人にも出会えました。
それがおそらく最後の外出でした。
たくさんの友人たちに囲まれて、コンサートを最後まで聴けてよかったと思いますが、思い出すだけで涙が出てきます。

彼女も歌った発表会を録音したテープやCDがたくさん残されています。
どうしても聴く気になれません。
しかし捨てる気にもなれません。
捨てることも出来ず、見ることも出来ないもの。
そういうものがたくさん残されています。
私もいまのうちに身の回りのものを捨てていこうと思っていますが、なかなかそれも難しいものです。

■98:節子と世界とどちらを選ぶか(2007年12月9日)
もしメフィストテレスがやってきて、お前の魂をくれたら節子を戻してやると言われたら、私は喜んで魂をやるでしょう。
おまえの生命との交換はどうだといわれても、躊躇なく承諾します。
そういう取引では、せっかく節子が戻ってきても、私とは会えないかもしれませんが、それでも承諾します。
メフィストテレスが信頼できればですが。
もし信頼できるメフィストテレスをご存知の方がいたら、ぜひ紹介してください。
節子が取り戻せるのであれば、心を悪魔に売り渡すことなどたやすいことです。
妻と良心とどちらが大切か。もちろん私には妻です。
地球と節子とどちらを選ぶかと言われても、躊躇なく節子を選びます。
利己的ですみません。

私にとって一番大切なものは節子です。
しかし人によっては伴侶ではないかもしれません。
自分が一番大切なものを得るために、人はけっこう悪魔に魂を売っています。
最近もそうした人たちがテレビや新聞をにぎわしています。
そうした報道を見ていると、みんな本当に大切なものに気づいていないなとつくづく思います。
一番大切なのは、生活を共にしているパートナーです。

妻がいなくなって、その大切さに改めて気づきました。
よく言われるように「人」という文字は、寄り添っている形です。
人は一人では生きていかないということでしょうか。

ところで、私には独身の友人知人が少なからずいます。
そうした人たちの生き方に、改めて驚異を感じます。
私も学ばなければいけません。
良心を悪魔に売り飛ばさないためにも。

■99:赤い糸(2007年12月10日)
私と節子の出会いについては以前書きましたが、実はそれも予め決められていたことだったような気がします。
私たちは間違いなく「赤い糸」で結ばれていました。
その証拠にはなりませんが、1枚の写真があります。
実は私たちが結婚してかなり経過してから見つけた写真です。

節子と私は同じ職場にいました。
いわゆる職場結婚なのですが、50人くらいの職場で、係が違っていたため、以前書いた電車での出会いの前は、ほとんど話したこともありませんでした。
当時はまだ職場旅行というのがあって、50人全員で京都に旅行しました。
その時の写真です。
ちょっとぼけていますが、この写真を見つけたときには2人で驚きました。
なんと私たち2人が真ん中にいるのです。
前に並んでしゃがんでいるのが私と節子です。
いささか恥ずかしい写真ですが。
私はまだ入社して半年です。
周りにいる人たちは懐かしい顔ぶれなのですが、実は全員、私の係ではなく、節子の職場に近い人たちです。
どうしてここに私がいるのか不思議な組み合わせなのです。

この写真を見つけた時、節子は、やっぱり赤い糸で結ばれていたのね、ととても喜びました。私もなぜかすごくうれしい気持ちになりました。
私はとても緊張している感じですが、節子はさりげなく私の脚に手を置いています。
みんなが私たちカップルを祝っているような感じです。
しかし、この写真から1年ほどは私と節子との交流はなかったのです。
電車で出会ったのは、この写真のちょうど1年後なのです。

ちなみに、この写真には節子の親友も一人写っています。
節子のお見舞いにも、そしてお別れにも来てくれました。
勝っちゃん、この写真は知らなかったでしょう。

■100:百か日(2007年12月11日)
今日は節子が旅立ってから100日目です。
正式には、百か日法要を行うのですが、今回はお寺ではなく、自宅で節子を偲びました。
百か日は「卒哭忌」ともいうそうです。
「哭」は泣き叫ぶこと、「卒」は終わるという意味ですので、泣き明かしていた悲しみを卒業するという節目です。
しかし、そうプログラム通りに行くものではありません。
母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみなどほとんど意に介することなく、この100日間、自分の悲しさと寂しさを正直に出し続けてきました。
そのおかげで、その悲しさと寂しさを日常化することができました。
娘たちに心から感謝しています。
節子がいなくなってから、実はどう暮らしていこうかという相談も娘たちには全くしませんでした。
ただ一言、「家庭のことはすべて任せて、私は隠居する」と宣言しただけです。
娘たちは、今は何を言ってもだめだと思ったのか、素直に受け入れてくれました。
そろそろ、しかし私もこれからのことを考えなければいけませんし、節子が残していったものを整理しなければいけません。
どこかから借金証書や隠し財産が出てくる可能性は、わが家の場合は皆無ですが、すべてをそのままにしておくこともできません。
勇を鼓して、私も前に進まなければいけません。

しかし早いもので、もう100日です。
この調子だと私が節子のところに行ける日も、あっという間に来るかもしれません。
ですから、私自身の身の回りの整理もしておくことも考えなければいけません。
早くまた節子に会いたいと、心の底から思います。

■101:挽歌が書けるまで続けます(2007年12月12日)
「節子への挽歌」も、ついに100回を越えました。
一体いつまで続けるのかと思われている方もいると思います。
実は「節子への挽歌」が書けるまで続けたいと思っています。
これまでも何回か、挽歌を書こうと試みたのですが、どうもうまく書けません。
挽歌というものの難しさを知りました。

このブログを「節子への挽歌」と呼んでいますが、挽歌などといえるような代物ではありません。あえて言えば「鎮魂歌」です。
こうした雑文を書いていると、心が鎮まることは間違いありません。
節子のための鎮魂ではなく、私自身のための鎮魂かもしれませんが、私たちは一体だと私は思っていますから、私には矛盾ではないのです。
このブログを書き続けてきたおかげで、私自身は毎日、節子との時間をかなり共有できています。
しかし、こんな文章を節子が喜んでいるかどうかはわかりませんし、娘たちも長すぎて読んでもくれません。
ましてや家族でもないみなさまにとっては、ほとんど興味のない話でしょう。

しかし、いつか私が納得できる「節子への挽歌」が書けるまで、あるいは「節子への挽歌」を書かなくても私が納得できるようになるまで、このブログは続けようと考えています。
別のブログに移行することも考えたのですが、ビオスとゾーエについて書いたように、むしろ混在させことに意味を感じ出しています。
それでこのスタイルをもう少し続けようと思っています。
それに私にとっては、時評も挽歌も実は同じなのです。
時評を書いている時も節子への語りかけとして書いていますし、挽歌を書いている時には時代の風景の中で節子と語り合っているのです。

妻を失った人間の言葉を聞いても退屈なだけでしょうが、社会的弱者の心情という点で言えば、少しだけ普遍性を持つのではないかと思います。
それで、私としては周辺の人にはかなり失礼なことまで含めて真情を吐露しているのです。
その意味では挽歌もまた時評の要素を十分に持っていると思っています。
もちろんそうでない単なる駄目男の愚痴や嘆きも少なくないのですが。

そんなわけで、挽歌はまだ続けます。
なにしろ40年、一緒に暮らしてきた同志ですから、材料はなくなりません。
それに私が心から愛した女性なのです。
材料がなくなる時は、きっと私の人生もまた消える時です。

ただ次回からは、半分くらいを節子への語りのスタイルにしようと思います。
これまではそのスタイルがとれませんでした。
その理由もまたいつか書きますが。

■102:節子、お久しぶりです
(2007年12月13日)
節子、元気にしていますか。
こちらは寒い雨の日になりそうです。

節子と会えなくなってから、もう3か月半もたちます。
こんなに長く会わなかったのは2回目ですね。
1回目は、生まれてから出会うまでの、私にとっては22年間。
しかし、現世で出会ってからは一番長くても3週間でした。
3か月もあなたに会わずにいられるなんて、とても不思議です。

私の今の生活は、毎朝、あなたに「おはよう」と声をかけることから始まります。
何しろ節子はいまやわが家には5人もいるので、大変です。
みんなに「おはよう」と声をかけ、最後に仏壇の節子に向かって般若心経を唱えています。
あなたはきちんと聴いていてくれるでしょうか。
返事がないので、いつも不満です。
挨拶されたら挨拶するものです。
それで、時々、不満をぶつけていますが、いくら不満をぶつけても、以前のように夫婦喧嘩にならないのも残念です。

自宅にいるときは、今まではほとんど入ったことのなかった和室にいます。
その部屋が、あなたが最後までいた部屋だからです。
その部屋にいると、なぜか心が落ち着きます。
とても不思議です。
その部屋のコタツに入っているとあなたに見られているような気がするのです。

おやすみの挨拶も5人の節子にしていますが、最後はベッドの横にいるあなたの写真をしばらく見て、節子のあたたかさを感じるようにしています。
時に涙が出ることもありますが、できるだけ笑顔を心がけています。
病気になってから、あなたが寝る前に自分の顔を鏡で見ては微笑んでいたことを思い出します。

本当にまた会えるのでしょうか。
時々不安になりますが、必ずまた会えると信じています。
今日は、節子への久しぶりの手紙を書いたような気がします。
そういえば、結婚前もこうやって手紙を書いていたことがあるね。
その時は、いつも返事が届いていたけれど、今度も返事はもらえるのでしょうか。
いつまでも待っています。

■103:まさか節子が献花にきたのではないでしょうね(2007年12月14日)
節子 
今日は晴れそうです。
久しぶりに手紙を書きだしたら、書きたいことが山のように出てきました。
でも今日はそういう話ではなく、昨日起こった、とても不思議な話を書きます。

昨日は私も娘も自宅にいました。
午前中は来客でしたが、昼食を終えていつものようにリビングでくつろいでいました。
そこからは庭の献花台がよく見えます。
何事もなく、各自、部屋に戻ったのですが、用事ですぐにリビングに降りていったジュンが、大きな声で、だれかが献花していってくれていると叫ぶのです。
あわてて降りていくと、とてもおしゃれな花束が献花台の近くに供えてありました。
気づいたジュンはすぐに外に出て誰かいないか探したそうですが、見える範囲には誰もいませんでした。
リビングに誰もいなくなったのはわずか5分程度です。
それまでジュンがそこにいたそうですが、誰かが庭に入ってきた気配はなかったそうです。
それに庭が見えるところに、ちび太がいます。
ちび太は誰かの気配を感ずるとうるさいほど鳴く犬ですが、彼も全く気づかずに鳴きもしませんでした。
わが家の庭は、昼間は誰でも入ってこられるように鍵はしていません。
ですからそっと入ってきて、献花していくことは可能ですが、番犬役のちび太くんや注意深いジュンに気づかれずに、献花していくことはとても難しいことです。
普通なら庭の扉が開く音でちび太が鳴くはずです。
節子、これはどういうことでしょうか。

実は、今日、掲載予定で書いたあなた宛の手紙に、一昨日、こう書いたのです。

節子、もう一度でいいから誰もが体験できることを起こしてくれませんか。
たとえば、明日の朝、起きたら、献花台の上に庭の黄色い木の実を置いておくのはどうでしょうか。
節子を感じられる証がほしくて仕方がありません。

まさかそれを知っての節子の悪戯ではないでしょうね。
そういえば、何だか彼岸でこしらえた花束のようにも見えます。

ともかく不思議な、そしてうれしい事件でした。
もしかしたら、このブログや私のホームページを読んで下さっている方の献花かもしれません。
それで、ブログとホームページに書くことにしました。
もし献花してくださった方が、この記事を読まれたらメールをくれませんか。
そうしないと、節子に確かめるために、私が彼岸に行きたくなりかねませんので。
お願いします。

■104:「闘病で学んだことを伝えたい」(2007年12月15日)
節子 退屈にしていませんか。
あなたがいないと時間を持て余してしまいます。
やらなければいけないことは山ほどありますが、やりたいことがないのです。
やらなければいけないことでも、やりたくなければやらないのが、私の生き方でしたが、その傾向はますます強まっています。
節子がいない世界で、がんばる意味など何もないからです。
餓死しても節子のところに行けるのですから、今や何をしても私は幸せになれるわけです。

昨日、テレビで「スティーブ・マックィーンのすべて」というドキュメンタリーを観ました。
最初は、まさに若い頃を思い出して気楽に観ていたのですが、最後の10分くらいは、節子のことと重なってしまい、画面に引き込まれそうになりました。
マックィーンの言動が、節子の言動に重なってひびいてきたのです。
マックィーンは50歳で病死したのですが、最後は生きつづけようとがんばったようです。
「闘病で学んだことを伝えたい」とも思っていたといいます。
ほかにも思い当たることがいろいろとありましたが、ちょっと辛くて書く気がしません。
でもマックィーンと節子の共通点が見つかるとは思ってもいませんでした。

このドキュメンタリーを観る前に、Tさんから電話がありました。
Tさんはこのブログを読んでいてくれますが、本にしたらどうかと言ってきたのです。
このブログが本にならないことは書いている私が一番よく知っていますが、マックィーンの番組を見ていて、節子が生きている世界を創れるかもしれないと思いつきました。
その番組はすべてがマックィーンの家族や友人知人の発言で構成されています。
それ以外のナレーションは皆無です。
時にマックィーン自身の発言も出てきますが、いろいろな人の発言がひとつの人格を生み出しているのです。
おそらくそれは実在したマックィーンとは別の、もう一つのマックィーンの人格といっていいでしょう。
その人格はおそらく「不死」と考えていいでしょう。実体がないのですから。
彼は映画スターですから、映画の画面が挿入されており、映画の役柄での言動も、その人格づくりの大きな要素になっていますが、その点を除けば、誰にでもできることかもしれません。
そう考えていくと、このブログは、もしかしたら「佐藤節子の復活の場」にできるかもしれないと思いつきました。

またわけのわからないことを言い出した、と思われそうですね。
たしかに節子には時々わけのわからないことを言って苦労をかけてしまいました。
私はわけのわからないことがともかく好きなのです。
でも節子は、わけがわからなくても、結局は「やってみたら」と言ってくれました。
それが私の原動力になっていたのです。

私自身は「闘病で学んだこと」を節子に代わって書いていくことはできませんが、「節子と一緒に学んできたこと」を伝えることはできるかもしれません。
「いなくなった節子から学んだこと」も書いていけそうです。
また節子の友人知人からもらった手紙などに書かれている「思い出」をつないでいくこともできます。
そんなことを考えながら、このブログにも取り組もうかなと思いつきました。
このブログこそが、新しい私たちの生活の場になるわけです。

どうやればいいのか、またどうなるのか、まだ全くわかりませんが、節子もそちらからいろいろと情報を送り込んできてください。
これは私たち2人の世界を再構築していく壮大なプロジェクトになるかもしれません。
まあ、成功する確率は1000にひとつ、あるかないかですが。
失敗の確率が高いことほど、やりたがるのも私の性癖の一つですから。

でも何かわくわくしますね。
節子、わくわくしませんか。
久しぶりのコラボレーションです。

■105:定年になってからではなくて、今から始めるのがいいです(2007年12月16日)
節子 こちらは今日も晴れそうです。
そちらは晴れていますか。
いや、そちらにはそもそも晴とか雨とかあるのでしょうか。

1週間ほど前になりますが、あなたの友人のWさんから手紙が来ました。
その手紙を読んで涙がとまりませんでした。
仏前で読み上げようとしましたが、読めませんでした。
滋賀のAさんに訊いたら、Wさんは中学時代の同窓生だそうですね。
手紙を読んでいると、誠実な人柄が伝わってきます。

他にも、私は会ったことがない、あなたの友だちから手紙をもらっていますが、いずれにもなかなか返事が書けずにいます。
節子ならきっとすぐにでも書くのでしょうが。

Wさんも、この3年、いろいろなことがあったようです。
私は知りませんでしたが、Wさんは看護職なのですね。
そのWさんのお義母さんが節子とほぼ同じ時間に旅立ったのだそうです。
Wさんはお仕事をされていて、3年前に定年になったそうです。
Wさんの手紙です。
「器用に生きられない私は、ひとつのことにしか集中出来ず、定年までは仕事のみ。その間を縫って、楽しみごとをする余裕を持ちませんでした。仕事が楽しみでさえありました。
節ちゃんとは、いつか、ゆっくり、語り合いたいと思っていました。そのことは、私のこれからの人生の楽しみの大きなひとつでした。(しかし)3年前、定年になるや否や、実家の母の看取り、続いて、夫とその母の介護に明け暮れてきました」

この続きは生々しすぎて、とても書けませんが、考えてみると、私もきっとWさんと同じだったのかもしれませんね。
仕事が大好きでした。
その仕事に、あなたをつき合わせすぎてしまったかもしれません。
そんなこともあって、ちょっと一段落しようと2人で決めて、10年以上続けてきたオープンサロンをやめました。
その時、石本さんから花束をもらった写真がホームページに載っていますね。
あの時は、節子はとても元気で輝いていました。

そして、節子とのゆっくりした時間を楽しもうと思っていた矢先の発病。
これからの生き方を一緒に考えようと思っていたのに、事態は思わぬ方向に動き出してしまったのです。
人生は、そううまく行くものではないとつくづく思いました。
それまでは私の人生は、まさに絵に書いたように自分の思う通りだったのですが、それはすべて節子の支えがあればこそ、でした。

もし中高年の方がいたら、余計な一言を申し上げたいと思います。
伴侶と一緒にやりたいことがあれば、先に延ばさずに、いますぐとりかかるのがいいです。
節子、そうだよね。

Wさんは節子のことも書いてきています。
「節ちゃんの生き生きした表情、クリクリっとした目、声、そして、前向きな生き方が伝わってくる話しぶり。節ちゃんにもう会えない!と思うと、本当にさびしいです」
私と出合った頃の節子も、本当に「クリクリっとした目」でした。
目が無いほどに細い私が、節子を好きになったのは、もしかしたらあの目のせいだったかもしれません。
輝くような目でした。
あの目に会えるのはいつでしょうか。

■106:不思議な雨(2007年12月17日)
節子、そちらにも冬はあるのですか。
こちらは寒くなりました。
寒い冬でも半そででがんばっている近くのKさんからジュンが聞いてきた話です。

節子が自宅から斎場へと向かった日のことです。
「急に雨が降ってきたので外に干していた洗濯物を取り入れようと急いで外に出たら、斎場に向かう車が見えて、それで初めてお母さんが亡くなったことを知ったのよ。ところが車が通り過ぎてしまったら、嘘のように雨がやんでしまった」というのがKさんの話です。
それでKさんはお通夜に来てくださったのです。
「あの雨がお母さんのことを教えてくれた」とジュンに話してくれたそうです。
この雨のことは当日もいろんな人が話題にしました。
私にとっても本当に不思議な体験でした。

これに類した話はいくつかありますが、多くの人が共通して体験したという点では、この雨が一番です。
この雨は節子の涙だったのでしょうか。
もしそうであれば、滴(しずく)を残しておくべきでした。
とても残念です。

節子がいなくなってから、こうした不思議な現象はあまり起こりません。
いや考えようによっては、ないわけではありませんが、客観的に複数の人が共通体験した事象は起きていません。
当時はまだあなたは此岸にいたのに、今はもう彼岸に行ってしまったからでしょうか。
もう一度、あの雨を体験したいです。

節子、もう一度でいいから誰もが体験できることを起こしてくれませんか。
たとえば、明日の朝、起きたら、献花台の上に庭の黄色い木の実を置いておくのはどうでしょうか。
節子を感じられる証がほしくて仕方がありません。

とても会いたいです。

■107:コーラスの仲間が献花に来てくれました(2007年12月18日)
節子 こちらはますます寒くなりました。
そちらは暖かなのでしょうね。

昨日の報告です。
コーラス仲間のみなさんが献花に来てくれました。
節子が好きそうな寄せ植えをもってきてくれました。
天王台や青山台、久寺家など、いろんなところからのみなさんです。
今日が最後の練習日だったのだそうです。
今年の11月のコンサートには私は行きませんでしたが、もしかしたら節子は聴きに行っていたかもしれませんね。
なんだかそんな気もします。
今日は時間も遅かったので、おもてなしは出来ませんでしたが、また来てくれるそうです。

もう4か月目に入ったのに、本当に節子の周りには花が絶えません。
節子がみんなから愛されていたことがよくわかります。
節子を独占していたような気がしていましたが、
節子は私のものではなく、たくさんの人たちの大事な人だったのですね。

そういえば昨日、横浜のNさんからも手紙が来ました。
節子が好きだった梅干を今年も送ろうかどうか迷ったらしいのですが、結局、送ることにしたという手紙でした。
節子がいなくなっても変えられない気持ちがとてもうれしいです。
まあ、がんばって梅干を食べないといけませんが。

Nさんには、実は申し訳ないことをしてしまいました。
告別式の日に、Nさんが私に、
「節子さんがいなくなったので寂しくなりました」
と言ってくれたのですが、それを受けて、私が、
「Nさん、私はその10倍も100倍も寂しいんです」
と言ってしまったのです。
後から考えると、寂しさは比較できるものではないと反省しました。
しかし一度言葉にして出してしまうともう取り消せません。
一度、お詫びの手紙を書いたのですが、それもまた大仰だと思い、出すのを止めていましたが、どこかで書いておきたいと思っていました。ようやく書けました。

あなたの友人たちに失礼があってはいけないと思い、努力していますが、どうも私はそうした配慮が苦手で、節子がいたら怒られるだろうなと思うことも少なくありません。
あなたがいないと本当に大変なのです。
自立できていなかった頼りない夫を置いていった節子の責任ですよ。
いまからでも遅くないので、いやあれは冗談だったと言って、戻ってきてくれませんか。
地獄の沙汰も金次第と言われますが、もしお金でどうにかなるのであれば、新種の詐欺を考え出して調達するようにがんばります。
宝くじも買いましょう。
何とかして節子を復活させることはできないものでしょうか。
タイムマシンを持っている人がいたら貸してほしいです。

それはともかく、献花台をつくって良かったです。
いろんな人が来てくれるからです。
節子もきっと喜んでくれているでしょうね。


■108:「自らを振り返りつつ、多くを学ばせて頂いております」
(2007年12月19日)
節子
今日は私の友人のOさんからの手紙です。

このブログも、意外な方が読んでくれていることに時々驚かされますが、Oさんもその一人です。
手紙をもらうまでは、まさかブログを読んでいてくださるとは思ってもいませんでした。
仕事一図の誠実な方でしたが、定年後、奥さんと一緒に旅行するために、わざわざ自動車の運転免許を取ったという方です。
その一事を持ってしても、その人のお人柄がよくわかります。
そのOさんから「(ブログを)読んで胸が詰まり、気に掛けていながら、どうしてもこの一葉をしたためることが出来ずにいました」という手紙が来ました。
そして手紙の最後に、「私自身、自らを振り返りつつ、多くを学ばせて頂いております。ありがとうございます」と書いてありました。
私たちの生き方は、ちょっと変わっていて、結構ぶざまだったような気がしますが、それを書き残すことも、もしかしたら「ささやかな価値」があるのかもしれないと我田引水してしまいました。

感謝しなければいけないのは、わざわざこのブログを読んでくださる方がいるということです。
節子と私のことを思い出してくれる人がいる限り、私たち夫婦は生き続けていると言っていいでしょう。
節子と直接話せないのが残念だけれど、私たち夫婦の世界がまだまだ広がっているような気がして、とてもうれしいです。

それにしても、もっともっといろいろな人を、節子に会わせたかったです。
なんでこんなに早くあなたは旅立ってしまったのでしょうか。
とても無念です。

■109:節子の油絵はモナリザより価値があります(2007年11月20日)
節子 
今年の冬は、あなたがいないのでとても寒いです。

昨日、玄関に飾っていた油絵を君が好きだったフィレンツェの絵に代えました。
私はピエロの絵が好きですが、ジュンがあまり好きではないからです。
和室もまた節子の書に代えました。

節子が油絵を習っていたのはどのくらいだったでしょうか。
しかしあなたは本当にいろいろなことに挑戦しましたね。
私と同じで、長続きはしなかったけれど、いろいろなことを我が家に持ち込んできてくれました。
趣味だけではなく、習い事もあったし、仕事もありましたね。
ともかく行動派でした。

節子の絵の先生が描いた絵や、節子が気に入って買ってきた絵もありますが、そういう絵はわが家ではあまり飾られることはありません。
節子自身が結局は飽きてしまい、自分の絵に代えてしまうからです。
せっかく買った絵はどこかにしまわれてあまり日の目をみていません。
もったいない話です。

最後に節子が玄関に飾っていたのはコスモスの絵でした。
あまりうまいとはいえないのですが、飽きることはありません。
油絵を最近やりだした私の友人のAさんがそれを見て、なかなか良いよ、といってくれましたが、節子に聞かせたかったです。
そういえば、Aさんに残ったキャンパスをあげるようにいわれていましたね。
忘れてました。

家族の書いた絵は、飽きることがありません。
我が家にはいろいろなものが飾られていますが、いわゆる「お宝もの」は皆無です。
でもみんな、それぞれに誰かの思い出があるものばかりです。
家族がいればこその「たからもの」なのです。
節子と私がいなくなったら、娘たちにはほとんどが「がらくたもの」にしかならないでしょうね。
「物の価値」とはそういうものではないかと思っています。
ですから、私にはピカソやマネの絵の価値が全くわかりません。
困ったものです。
節子のピエロの絵とモナリザを交換してやるといっても、きっと断るでしょう。
但し、娘たちは喜んで交換するでしょうね。
これもまた困ったものです。

■110:節子は電車の掃除の仕事までしました(2007年11月21日)
節子
昨日、油絵のことを書きながら思い出したことがあります。

あなたはアルバイトも時々やっていましたが、その一つに電車車両の掃除の仕事がありましたね。
先日、テレビを見ていたら、「電車の掃除をすることが夢」という子どもの夢を実現してやるという番組がありました。
お母さんが見ていたら喜ぶだろうなと娘たちが言いました。
本当に節子に見せたかったです。

節子にとっては、趣味も習い事もアルバイトも、きっとみんな同じだったのでしょうね。
友人に誘われるとだいたいやりだしましたね。長続きはしませんでしたが。
その仕事は、近くの電車車庫に行って、みんなで車内掃除をするという仕事だったと思います。
いつもその様子を楽しそうに話していたのを思い出します。
そこで出会った人から桃屋の佃煮をもらってきたことも、なぜかはっきり覚えています。
今から考えると、私の収入が少なかったので働いていたのかもしれませんが、私はそんなことは一切考えたこともありませんでした。
桃屋の佃煮が家計を助けていたのかもしれませんね。

でも、楽しいから働く、それが節子の生き方でした。
働くのも遊ぶのもあなたには同じだったのだと思います。
それが私たち夫婦の共通の生き方でしたから。
しかも、そういう場で、あなたは必ず友だちをつくってきました。
あなたの新聞への投稿記事を読んで10年ぶりくらいに電話をくれた人もいましたが、その人は英会話の教室で何回か会っただけだそうですね。
その人は、なぜかあなたのことを覚えていて、新聞を見て電話をかけてくれたのですね。
節子は本当に不思議な人でした。

そのくせ、私の友人たちが集まる場では、そうした不思議な面はあまり見せませんでしたから、私自身もその節子パワーに気づいていなかったのかもしれません。
あなたの「気」のすごさを知ったのは、節子が病気になってからです。
今にして思うと、私の元気の源は節子から送られてくる「気」だったのですね。
その「気」は、今も送ってくれているのでしょうね。
でなければ私がこんなに元気になれるはずはないよね。

そちらでもたくさんの友だちができましたか。
相変わらず長続きしない挑戦をしていますか。
今度会ったらどんな話が聞けるか楽しみにしています。

■111:私は「理想の男性」だったのですね(2007年12月22日)
節子 あなたの笑顔が見られないのがとてもさびしいです。
そちらでも笑っていますか。
さびしくても悲しくても、笑わないとだめですよ。
私は、そうしています。一人でいる時にはちょっと涙が出てしまいますが。

今日は、節子にとって私が「理想の男性」だったという話です。
保谷でお近くだったNさんから手紙が来ました。
お互いに会おうといっていたのになかなか会えずに、節子も残念がっていたNさんです。
Nさんも無理をしてでも会えばよかったと悔やんでいました。
そのNさんの手紙にこんな文章がありました。

節子さんは素敵な笑顔で主人は理想の男性とよく言っていました。
なかなか言えることではないので、すばらしいご夫婦だなと思っておりました。

節子はいろいろな人に私のことや家族のことを話していたようですね。
私が会ったことのない人から、節子さんから話を聞いていましたという人が少なからずいるので驚きました。
それに節子は、多くの人に「家族にとても感謝している」と言っていたようですね。
だめな夫なのにほめてくれてうれしいです。
あなたはいつも私に、「あなたは家族のことをほめないわね」と注意していました。
私が家族にはとても厳しかったことが、あなたには少し不満だったのでしょうね。
でも私が本当に家族を愛していたのを一番知っていたのもあなたでした。
誰よりも、自分が愛されていることを知っていてくれました。

あなたにとって、実は私は「理想の男性」ではなかったことはよく知っています。
体育会系でもないし、あなたが好きなハンサムでもないし、自分勝手で時々「切れてしまう」こともあるし、第一、仕事ばかりしているのに収入はないし、頑固だし、その上、うっとうしいほどに自分(節子)を愛しているし、自動車の運転もしないし、まぁ書き出したらきりがないほど節子の嫌いなところがあったからね。
にもかかわらず、節子がNさんに私を「理想の男性」と言い切ってくれていたことを知ってうれしいです。
もっとも娘のジュンは、お母さんは見栄っ張りだったからそう言ってたんだよ、と言っています。
まあ、たぶんそれが真実でしょうが、
しかし、「理想の男性」とも思っていたことも事実ですよね。
そう確信しています。

言うまでもありませんが、節子は、私には正真正銘「理想の妻」でした。
まぁ、「理想」というのはちょっと視点を変えると「最悪」ともいえるのかもしれませんが。
ソクラテスの悪妻の話が有名ですが、「理想の妻」も「最悪の妻」も、同じことかもしれないとこの頃、ようやく気が付きましたが、でもまあ、私たちは「理想の夫婦」だったのかもしれません。
実はそう手紙で書いてきてくれた人が一人ならず何人かいるのです。
とてもとてもうれしいことです。

私の友人たちは、私のことをあんまりほめずに、大ばか者とか変わり者とかいう人が少なくないのですが、節子は友だちに恵まれていますね。
私はあんまり恵まれていないようです。
私の良さをわかってくれたのは節子だけかもしれません。
2人の娘も全くわかっていませんし。
困ったものです。

■112:一人でお風呂に入るのがとても辛いです(2007年12月23日)
最近、入浴するのが嫌いになりました。
浴室に一人でいるのが昔から好きではないのですが、節子がいなくなってから、さらに入浴時間はさびしさがつのる時間になってしまいました。

節子
私たちはいつもお風呂は一緒でしたね。
だから私も退屈しませんでした。
会社時代の仕事が忙しい時は、お風呂での会話が一番の会話でした。
私の帰りが遅くても、節子は待っていてくれて、お風呂のなかで私の話をいろいろと聞いてくれたし、自分の話をしてくれたのを今も思い出します。

思い出すと言えば、2人で最初に一緒にお風呂に入ったことも覚えています。
結婚前に私の両親に引き合わせるために東京に来る前日、京都の旅館で泊まった時でしたね。ちょっとスリルのある旅でした。
部屋続きのお風呂があり、そこに一緒に入ったような気がします。
あれは夢だったのでしょうか。
節子に確かめたい気もしますが、今となっては確かめようもありません。
結婚前に何回か旅行に行きましたが、一緒に入浴したのはたぶんその時だけでした。
もっとも一緒に入浴したにもかかわらず、その後は何もなかったのも不思議な話ではあります。
せいぜいが手をつないで寝たくらいでした。
一緒にいるだけで充分に幸せでした。

病気になってからも、いつも手をつないで寝ていましたが、今は手をつなぐこともかなわず、いつもさびしく寝ています。
お風呂も嫌いですが、寝るのも嫌いになりました。
さびしさを実感するからです。

お風呂とベッドでいつも思うのは、まだしばらく私はそちらには行けなさそうなので、節子に戻ってきてほしいということです。
何とかその方策はみつからないものか、そんなことを真剣に考えています。
馬鹿げていると自分でも思うのですが。
伴侶がいなくなってしまった男性は、そんなものなのです。

■113:今年のわが家の庭はちょっとさびしいです(2007年12月24日)
クリスマスイブです。
例年ならば一番楽しむのは節子なのに、今年は主役がいないのでさびしいです。
節子、そっちでのクリスマスはどうですか。
こちらよりも派手でしょうか。

今年のわが家の庭にはイルミネーションはありません。
節子が大好きで、いろいろと飾っていましたが、今年は玄関にあるだけで庭には一つもないのです。
喪に服しているからではありません。
むしろ節子を偲んで飾ろうかと話していたのですが、不思議なことに去年飾っていたイルミネーションが見事にみんな故障してしまい、うまく点灯しないのです。
直せば点いたのかもしれませんが、きっと節子がやめろと言っているのだと早合点して、みんな捨ててしまいました。その後、やはり点けようかということになり、買いに行きましたが、もう売り切れていました。高いのは残っていたらしいですが、そんな高いものは買わないでいいよと節子が言うだろうと勝手に解釈して、買ってこなかったようです。わが家の娘は2人とも節約家ですから。子ども時代に小遣いが少なかったからかもしれません。
そんなわけで、今年のわが家の庭はさびしいのです。

今日は昼間、娘たちに頼んで私のオフィスの掃除に行きました。
帰ってきてから、娘が手づくりケーキを作ってくれましたが、
いつも中心にいた節子がいないので、だれもプレゼントをもらえず、あげる気にもなれません。
こんなにさびしいクリスマスイブは、わが家では初めてです。
そういえばクリスマスソングも、今年のわが家では一度も聴いていませんね。

こういう貧しい家庭にはきっとサンタさんがプレゼントを届けてくれるでしょう。
明日の朝、目が覚めたら、隣で節子が寝ているかもしれません。
それくらいのプレゼントをしてくれたら、どうしても好きになれないキリスト教に改宗してもいいと思っています。
サンタさん
聞いていますか。

■114:「そうか、もう君はいないのか」(2007年12月25日)
城山三郎さんが先に逝った奥さんのことを書いた遺稿が本になるそうです。
その紹介が先日、朝日新聞に出ていました。
城山さんの奥さんもがんで亡くなったそうです。
その紹介記事の中に、とても心に響く言葉が二つありました。

(母が亡くなってからの父は)「半身を削がれたまま生きていた」。
娘さんの言葉です。
「半身を削がれたまま」。
実によくわかります。
私もまさにそういう状況です。
実際には「半身」どころではなく、ほぼすべてが削がれたといったほうが実感にあいます。
これまで育ててきた世界が、あるいは育ってきた世界が無くなってしまったという気持ちなのです。
そうした喪失感は自分でもわからないほどに、大きく深いのです。
妻がいない世界を生きていることが信じられないといってもいいでしょう。
にもかかわらず、半身を削がれたまま生きていけるのは、削がれた半身の記憶があるからです。
そして、その記憶が、「生きる力」を与えてくれるのです。
奇妙に聞こえるでしょうが、削がれた半身に支えられて生きていると言ってもいいかもしれません。
この言葉に出会った時に、まさに自分自身の生き方を指摘されたような気がしました。

もう一つは、遺稿の本の書名になる城山さん自身の言葉です。
「そうか、もう君はいないのか」。
この言葉で、城山さんの思いがいたいほど伝わってきます。

城山さんは今年3月に亡くなりました。
いまはきっと2人でなかよくやっているでしょう。
節子はまだ1人です。
彼女は「そうか、まだ修はいないのか」と言っているかもしれません。
城山さんがちょっとうらやましいです。

半身が削がれているせいか、この冬の寒さはとてもこたえます。

■115:言葉が見つかりません(2007年12月26日)
節子
先日、自宅建設の時にお世話になったKさんがカレンダーを持ってきてくれました。
節子のことを話しました。
沈黙があった後、何を話したらいいのかわかりません、と言いました。
Kさんらしい正直な反応です。
Kさんに限りませんが、手紙でもメールでも電話でも、節子のことを知っている人は一瞬たじろいでしまいます。
それがわかるので、私自身も話す時に「たじろぎ」ます。

節子も会ったことのある私の友人にも訃報のメールをしました。
あなたも知っているKさんからのメールはこうです。
社交ベタな小生に、
「お痩せになられましたね」と声を掛けてくれたことがあります。
にもかかわらず、私は無愛想に「そんなことも無いと思いますよ」と返答したように思います。
私の不器用さに手を差しのべてくれたに違いないのに、
と瞬時に気がつきながらもフォローの言葉も思い浮かばなかったあの時の自分を思い出しました。
彼岸の奥様に
「すんません。気持ちはあるんですが、無作法で。上手く社交が出来ないだけなんです。
実は、気持ちよく迎えて戴いたことが、とても嬉しいのですが、喜びの感情表現が何故か恥ずかしいのです」
と改めてお詫び申し上げます。
Kさんのことを節子といろいろと話したことを思い出します。
彼がこんなふうに考えていたとは思ってもいませんでしたね。

Mさんは覚えていますか。覚えていますよね。
Mさんからは、こんな褒め言葉です。
初対面の他人をもホッとさせる、何とも穏やかな雰囲気をお持ちの方でした。
爽やかな印象をお与えいただきましたことを、未だにはっきりと覚えています。

他にもいろんな人が温かな言葉を添えてきてくれています。
でもメールが届くのは、みんなしばらく時間がたってからです。
どう書いていいかわからないのですよ、きっと。

年が明けたら私の知人たちから年賀状がまた届くでしょう。
私がまだ知らせていない知人友人も少なくないからです。
その人たちにどう伝えたらよいか。
例年のような年始メールも出さないつもりです。
私のホームページには節子のことを書こうと思っていますが、どう書けばいいか、迷っています。

■116:「花より団子」「花よりこころ」(2007年12月27日)
今日は、節子への内緒話です。
節子に聞かれるときっと掲載禁止になると思いますので。

節子の供養に来てくださる方のなかには、「花より団子」といいながら、花ではなく供物として果物を持ってきてくださる方もいました。
花はいろんな方からもらっていたので、花より団子はありがたいことでした。
しかし、「花」と「団子」とは、その意味合いが全く違います。
いつかそのことを書きたいと思っていましたが、注意しないとせっかくのお心遣いを否定することになりかねないので、書くのを躊躇していました。
でも、このブログでは当事者の思いをできるだけ知ってもらったほうがいいと思い、書くことにしました。
失礼な発言があったらお許しください。
それに、これは私だけの考えかもしれません。

花より団子、という言葉には比較が入っています。
そのために、当事者はいささかの感情を持ってしまいます。
花も団子も供養の手段ではあるのですが、当事者には微妙に違うのです。
「花」は主に死者に向けられていますが、「団子」は主に遺族に向けられています。
愛する人を亡くした当事者にとっては、その違いは大きいのです。
遺族よりも死者への供養をしてほしいと思ってしまうのです。
なにしろ頭の中には死者のことしかないのですから。
花が聖なるメッセージの象徴であるとすれば、団子は俗なメッセージの象徴なのです。

死者が生前、とても好んでいたものであれば、意味合いは違ってきます。
むしろその場合は、団子も「花」的な要素を持ってくるということです。
つまり、供物として団子が悪いということではないのです。
「花より団子」という言葉があまり適切ではないということです。
もっと端的に言えば、「比較」を内包する言葉は、弔いや供養の場面では使うべき言葉ではないように思います。
今にして思うと、実は私自身使ってしまっていたこともあるのですが、反省しています。

理屈っぽい話ですみません。
しかし、気分が落ち込んでいる当事者にとっては、そうした小さな言葉づかい一つひとつが心にグサッとくることもあるのです。
しかも、それは必ずしも明確に伝わるわけではありません。
いわゆるサブリミナルに印象を残すのです。
こうした「異常な感受性」におそわれて、私自身、ほかの遺族の人と接しられなくなってしまいました。
同時に、誰かに会うのも恐ろしかったのです。
過剰に「見えてしまう」気がするからです。
最近、やっと少しずつ落ち着き出しました。

せっかくなので、さらに余計な一言を付け加えます。
大切なのは、花でも団子でもなく、こころです。
「花よりこころ」、ではなく、「花にこころ」というべきでしょうが。
花や団子を使わなくても、こころは表現できることを改めていろいろと学びました。
私自身は、そうした生き方を心がけてきたつもりなのですが、なかなかできていないことにも気づかされました。

素直な思いをお伝えしたくて、勝手なことを書いてしまいました。
他意はありません。
団子を届けてくださった方、気を悪くしないでください。
私も同じようなことをこれまでやってきたのだろうと思います。
またぜひ団子も持ってきてください。はい。

■117:2人で過ごす「無為」の時間(2007年12月28日)
今年の年末は、何もやる気がなく、手持ち無沙汰です。
節子がいた時は、どうしてあんなに忙しかったのでしょうか。
自分の生き方を、今になって反省しています。
節子に指摘されていた意味が漸くわかってきました。
大切なことからではなく、どうでもいいことから始める、あなたの生き方を変えないとだめよ。
やることが山積みのときでも、私は気が向くままに、好きなことから取り組むのが常でした。
忙しい忙しいと言っているのに、実際にはどうでもいいようなことをやっていて、寝る時間の直前になってからようやく明日までにやらなければいけないことに手をつけだすのが、私の習癖でした。
そのため、いつも節子は、やらなければいけない「大切なこと」からやらないとだめよ、と注意してくれていました。
私と節子とでは、「大切なこと」の意味が違っていたのです、
節子がいう「大切なこと」は、それをやらないと誰かに迷惑をかけることでした。
私にとっての「大切なこと」は、やっていて楽しいことでした。

ところが、節子がいなくなってから、やっていて楽しいことがなくなってしまったのです。
だから時間をもてあましているわけですが、しかし一方で、友人知人に頼まれていることはたくさんあるのです。
もちろん私が担当の家事もたくさんあります。
仕事も引き受けていますので、やらないと誰かに迷惑がかかることもあるでしょう。
しかし、楽しくないことには気が向きませんし、気が向かなければ仕事はできません。
勝手だといわれそうですが、私の仕事は「その気」にならないと成果をあげられないのです。
まぁ、節子に叱られた時にはいつもそういう「言い訳」をしていました。

不思議なのは、節子がいなくなった後、どんな仕事も楽しくなくなってしまったのです。
目的が見えなくなったからでしょうか。
節子がいようがいまいが、関係ないはずですが、ともかくやる意義が見出せないのです。

そんなわけで、節子が最後までいた和室で、節子の写真の前で無為に過ごしていることが少なくありません。
それが無駄なのか、意味のあることなのか、わかりませんが、少なくともその時間は、私たち夫婦の時間です。
そういう時間を持てることに感謝しています。
ただ、なぜ節子がいた時にもっとこういう時間を持たなかったのか、それが悔やまれてなりません。
空気と同じで、それがなくなって初めて大切さがわかることもるのです。
その時は、すでに遅いのですが。

「無為」の時間を過ごすこと。
宇宙の大きな流れからみれば、個人の一生はそれ自体「無為」といっていいでしょう。
いろいろとやっているようですが、結局は無為に等しいことでしかありません。
その無限の無為が重なって宇宙になっていくのでしょうが、逆にそういう視点から考えれば、無為とがんばりとの違いもないのかもしれません。
まぁ、節子の写真の前で、そんなことを考えているわけです。
困ったものです。

■118:「やはり、生きるしかないのです」(2007年12月29日)
節子
今日はちょっと辛い報告です。
辛い報告もたくさんあるのですが、しばらくはあなたには伝えないようにしようと思っていました。

あなたも知っているJ.M.Aさんからのメールです。
彼女も辛い病気と一緒に生きているようです。
しばらく連絡がなかったので、もう病気は回復したのかと思っていましたが、そうではなかったのです。
早くご返事を出したかったのですが、言葉が見つからず、書いては消し、書いては消し、やっと落ちつきメールを出すことが出来ました。
彼女の気持ちを思うと、今度は私も返事が書けなくなりそうです。
元気な手紙からは元気がもらえますが、かなしい手紙からは元気はもらえません。
あなたの訃報を知らせるべきではなかったと反省しました。
こういう人が何人かいました。
私の友人にはまだあなたの訃報はあまり知らせていませんが、あなたのことを知っている人50人くらいにしか知らせていないのですが、その返事の多くに悲しいニュースが書かれていました。
いままで私たちにはそうしたことが見えなかったのかもしれません。
どこの家庭にも、それぞれに悲しいことや辛いことがあるのだと改めて思い知らされました。
同時に、自分が少しでもその立場にならないと、そうしたことは見えてこないものなのだとも思いました。

Mさんはメールの冒頭にこう書いてきました。
やはり、生きるしかないのです。
元気で生きてください。
メールの最後にこう書いてくれました。
奥様の分まで長生きして下さいとは言いません。でも、元気でいて下さい。
いつも、健康をお祈りいたします。

節子
あなたは今はもう痛みや苦しさから解放されていますか。
あなたの辛さをきちんと受け止めていなかったのではないかと悔やんでいます。
昨夜も4時に目が覚めて、そのことを思い出したら、もう眠れなくなりました。
声に出して謝りましたが、聞こえましたか。

Mさんも、痛みに耐えているようです。こう書いています。
今年のクリスマスは、神様に「痛みを少し取って下さい」とお願いしました。
節子、あなたもそちらでMさんのために祈ってください。
Mさんだけではありません。
みんなの痛みや辛さが少しでも軽くなるように、一緒に祈りたいと思います。
朝の般若心経の後、1分間の黙祷を始めたいと思います。
この世には、あまりにもたくさんの痛みや悲しみ、辛さや不安があります。
それがこの頃、見えすぎてきてしまい、生きることの辛さを感じています。
節子が元気だったころの脳天気な修は、少しだけかも知れませんが、卒業しました。

それなりにがんばっているので、安心してください。

■119:写真の向こうの節子の息吹を感じられるような気がします(2007年12月30日)
節子 今年ももうじき終わりです。
そちらにもカレンダーはあるのでしょうか。
時間はどう流れているのでしょうか。

この頃、あなたの写真を見るだけで涙が出てきます。
どうしたことなのでしょうか。
自分でもわからないのですが、節子の笑顔の写真にこの頃、表情や変化を感じるのです。
写真なのに、その先に生きている節子を感じるのです。

あの世の世界は、私が今生きている三次元の世界ではなく、もっと高次元の世界という話を読んだことがありますが、もしそうだとすれば、この写真の向こうにあなたが生きている世界があるのかもしれません。
それが感じられるようになったからでしょうか、ともかく写真をみると自然に涙がこぼれてきます。

もうまもなく今年も終わろうとしています。
節子がいなくなってから、私にとっての世界は一変しました。
そして、それまで何となく見えてきたことがしっかりと見えてきたように思います。
とても温かな世界も見えてきましたが、とても寂しい世界も見えてきました。
生きるということの、惨めさと悲しさを改めて考えさせられています。
ともすれば厭世的になりがちです。

しかし、それにしてもこれまでの私の生き方は、いかにも寂しく冷たくて、近代的だったかを思い知らされています。
わがままで一人よがりだった。
その生き方が、節子のおかげで、温かなものに見えていただけだったのかもしれません。

節子、あなたも私同様、わがままでしたが、でもとても温かなものを持っていました。
それを思い出しながら、来年はもう少し温かい生き方を私もしようと思っています。

あなたは本当に私にとっての最高の先生でした。
すぐに後追いできないのがとても悲しいです。
あなたが早く迎えに来てくれることを願っています。
早くまた節子に抱きしめられたいです。
そして、抱きしめたいです。

■120:節子、とうとう今年は会えずじまいでしたね(2007年12月31日)
節子
今年も終わりです。
もうじき除夜の鐘が鳴り出すでしょう。

今年は私たち夫婦にとっては忘れられない年になりました。
しばらくの別れを余儀なくされてしまった不条理さをまだ受け入れられずにいますが、今もなお、節子と共に生きていることはかなり実感しだしています。
矛盾した言い方でしょうが、それが正直な気持ちなのです。

あなたと会えなくなってから、たくさんのことに気づきました。
毎晩、早朝に目が覚めます。
そして1時間くらい、あなたと静かに会話します。
時には自然に声が出ることもあります。
そこであなたからたくさんのことを学んでいます。
あなたが私に残してくれたことは、本当にたくさんあります。
ありがとう。感謝しています。

節子と結婚しなかったら、今の私とは全く違った私になっていたでしょう。
今の私は完全に節子によって育て上げられたといえるでしょう。
そしてその生活の基盤をつくったのもあなたです。
わが家の文化は、良いところも悪いところも、すべてが節子の作品です。
節子がいなくなって、あなたの存在の大きさを感じます。

節子がいなくなってから、私はずっとめそめそしています。
会う人たちは、予想に反して元気で明るいと安堵しますが、元気で明るく、めそめそしているわけです。
娘たちは2人とも私とは別のショックを受けていますが、若い分だけ対応も柔軟のようです。
心の底は私には見えませんが、彼らはとてもよくしてくれます。
これも間違いなく節子の文化のおかげです。
家庭の文化は、結局、女性が創るものだとつくづく思います。

この挽歌も120回になりました。
私にとっては、この挽歌を書くことが一つの支えでもあるのですが、うれしいことに(そして少し気恥ずかしいことに)読みつづけてくれる人がいるのです。
あなたのことを知っている人も多いですが、私たちとは面識のない人まで読んでくれています。

4か月たつのに、今も節子の周りには花が絶えません。
一昨日、ジュンの知り合いが、わざわざ富山からきれいなチューリップをたくさん持ってきてくれました。
彼はあなたの花好きのことを知らないだろうに、どうして花を持ってきてくれたのか不思議です。

明日から新年。
朝はいつものように、一緒に初日の出を見たいと思います。

節子
本当にありがとう。

また会えるのを楽しみにしています。
本当は今すぐにでも会って抱きしめたいのですが。

除夜の鐘が鳴り出しました。

■121:節子のいないお正月(2008年1月1日)
千葉はとても穏やかな年明けでした。
昨日からちょっと体調を壊したために、自宅で静かに過ごしています。
節子と一緒に暮らすようになってから2回目の、別れて過ごす正月です。

私たちは籍を入れる前に一緒に暮らし始めました。
12月に貸家をかりての「神田川的生活」を始めたのです。
そして正月は、それぞれの自宅に帰って、自分の親の許可をとってくることにしました。同棲を始めてから親に報告に行ったわけです。
節子は大反対でしたが、決めたら誰が何と言おうと決行するのが、当時の私の生き方でした。
きっと有無を言わさずに節子に押し付けたのでしょう。
当時、私は、思い切り自分流で生きていました。

結果は2人とも完全に失敗で、両方とも親の大反対を受けてしまいました。
反対されてもすでに既成事実(単に同棲だけでしたが)はできているので、イニシアティブは私たちにあります。
いつの時代も、行動が最高の計画です。
もし愛する人ができたら、考えることなく行動すべきです。
そして行動したら、最後まで責任を取るべきです。
それが「愛」だと、私は思っています。

で、少し時間はかかりましたが、両方とも私たちの結婚を認めることになったわけです。
そして結局、両方の両親とも、とても喜んでくれることになりました。
私たち夫婦にとっての最大の親孝行は、たぶんお互いに最高の伴侶を見つけたことだと思います。

親から反対されようと私たちはめげることなく、生き方は変えませんでした。
私はそれ以前からもそういう生き方でしたが、節子も意外とそうだったのです。
あまり表面には出しませんでしたが、強い自己主張のある女性でした。
まぁ頑固だったということなのですが。
しかし、親(親族みんな)の反対を押し切っての結婚だったので、節子はどんなことがあっても親元には愚痴をこぼすことはありませんでした。
節子は自分で決めたことは徹底して守るタイプでした。
その決意も完璧に行われましたので、私の欠点は節子の両親には全く伝わらずに封印されたわけです。
ですから私は理想の婿になれたのかもしれません。

私たちが、世間の常識の呪縛に縛られることなく、自分たちの夫婦スタイルを一緒に創りだす生き方になった原点が、この時にあります。
意気消沈して帰ってきた者「同士」が「同志」になったのです。
節子は泣きながら、結婚するが親不孝は絶対にしたくないといいました。
そうした節子を、私は絶対に守ろうと思いました。
そして神田川的生活が本当に始まったのです。

その時、私が持っていた貯金は8万円でした。
節子の貯金がそれより数倍多かったのは間違いありませんが、いくらだったか覚えていません。私のはあまりの少なさに記憶していますが。
そのため半年くらいは、まさに6畳一間に近い生活をしたわけです。
タンスもなく、ミカンの空き箱も利用しました。
その冬も寒かったです。
暖房器具もあまりなかったような気もします。
お互いに身体を暖めあうように一緒に寝ました。
しかし、いま思い出すと、その頃が一番楽しかったのかもしれません。

あれから40年以上がたちました。
当時に比べると夢のような大きな家とたくさんの家財に囲まれています。
しかし肝心の節子がいません。
人間にとって、何が一番大切か。
そのことを改めて思い知らされています。
家も家財も、節子がいなくなってしまった今は、私には無用の長物でしかありません。
そうしたものが多ければ多いほど悲しさはつのるのです。
そのことに、もっと早く気づくべきでした。

この40年はいったい何だったのか。
本当に夢幻のような気がします。
40回以上も新年を一緒に過ごしたことがどうも実感できません。
そして、なぜ今年は節子がいないのか。
別れていても、いつも一心同体なのだと思えるようになってきましたが、
それでも話し相手がいない元日はとてもさびしくて元気が出ません。

今年は元気なことから書き出そうと思っていましたが、体調不良のせいで結局また暗くなってしまいました。
娘がスターバックスの美味しい珈琲を買ってきてくれて、いれてくれました。
少し元気が出ましたが、節子がいないさびしさは埋まりようがありません。

■122:年末年始の彼岸旅行中なのかもしれません(2008年1月2日)
昨夜はたくさんの夢を見ました。
なぜか昔の友人たちがたくさん出てきました。
節子は出てきませんでした。
せめて夢で会いたいと思い続けていますが、なかなか会えません。
9月以降、夢で、節子の顔を見た記憶が一度もありません。
しかし、実はいつも何となく節子の気配を感ずるのです。
私の顔に出会えないように、節子の顔に出会えないのは、ずっと一緒にいるからかもしれません。

しかし昨夜の夢は違いました。
節子との別れを昔の友人たちに伝えているのです。
夢を見た直後に目が覚めました。
複数の夢を見ていたのを思い出しながら、
その夢からの気づきを今日のブログに書こうと思っていました。
ところが、それからまた眠ってしまいました。
そして起きたら、書こうと思っていたことが思い出せないのです。
夢の後に目が覚めて、啓示を受けたこともまた夢だったのでしょうか。

夢はどこかで彼岸とつながっていると、私はずっと思っています。
夢の世界に入ってしまえれば、もしかしたら節子の世界に行けるかも知れません。
むかし読んだSFに、夢と現実が逆転してしまう小説がありました。
現実の世界から徐々に夢の世界へと意識や時間や生活が移行していくという話です。
人は多次元の複数の世界に住んでいる。
死は、その次元の軸足を移行するだけである。
もしそうであれば、節子は私より一足先に次元旅行を楽しんでいるだけなのかもしれません。

節子
もしかしたら、私の心身の半分は、昨年末からあなたのところにいってしまっているのかもしれないね。
そういえば、体も何となく軽いし、ふらふらするし、第一、気力が出てこない。
めまいもそのせいかもしれませんね。
今年の年末年始は、私は彼岸旅行を楽しんでいるわけだ。
そう考えると奇妙に納得できますね。
そちらでの私は、節子と新年を楽しく迎えていますか。
3が日が過ぎたら、この世に送り返してくださいね。
それまでふらふらしています。

ちなみに、節子の旅立ちを知らない人たちから年賀状が届いたのが、昨夜の夢の原因だったのだろうと思います。
事実、夢で訃報を知らせたうちの2人は、昨日年賀状を受け取った古い友人でした。
しかし、そうした友人たちにあえて訃報を知らせる必要があるのかどうか。
節子のことを知っている人はともかく、それ以外の人には知らせる意味がないような気がしてきました。
年賀欠礼のお知らせは何のために行うのでしょうか。
せめて定型文での年賀欠礼の案内は考え直したほうがいいような気がします。

■123:愛することと愛されること(2008年1月2日)
節子
今日はジュネーブの矢野さんから手紙が来ました。
私のブログを読んで節子との別れを知ってくれたようです。
矢野さんには親父の葬儀の時にとてもお世話になりました。
覚えていますか。
私たちは、本当にいろいろな人たちにお世話になりながら、暮らしてきました。
そのお返しもきちんとしていかなければいけませんが、あなたがいなくなって、私ひとりでそれができるかどうかとても心配です。

矢野さんは、「こんなに愛されている奥様はお幸せだなと思いました」と書いてきてくれました。
そこで、メールでこう伝えました。
「こんなに愛する妻を持てたことが本当に幸せです」

愛されることと愛することとどちらが大切なのだろうか。
これは私の若い時の疑問の一つでした。
私の結論は、愛することにこそ意味がある、ということでした。
私は、学生の頃から、他動詞ではなく、自動詞が好きだったのです。

しかし、あなたに出会った時は、愛されることを求めていたかもしれません。
その少し前に私は見事に失恋していたからです。
失恋したのは私のせいです。
愛されることに意味を感じない人を愛し続けることは難しいことでしょうから。
その最初の恋人には、とても悪いことをしたと思っています。

あなたが最初から私を愛していたかどうかわかりませんが、交際を楽しんでいたことは間違いないでしょう。
公開しにくいものも含めて、スリルもドラマもありました。
毎回、ドキドキしたりワクワクしたりすることばかりでした。
なぜあれほど2人で会うことが楽しかったのでしょうか。
1人だとできないことが、2人だとなぜかお互いに補い合って、できてしまうのです。
不思議でした。
それで、もっとずっと一緒にいようと結婚でもしようかということになりました。
そしてきっと誰もまさかと思ううちに同棲してしまったのです。
あなたは、よくまあこんなに長く続いたねと時々言っていました。
あなたは長くは続かないと思っていたのでしょうか。

あなたと一緒になってから、愛されることと愛することは同じことだと気づきました。
いや、愛するということはすべてを許すことなのだと気づいたのです。
人の言動は常に多義的です。
相手を愛していれば、その人の言動はすべて「愛」の対象になるのです。
書き続けると、長くなりますので、今回はここでやめます。

私にとっての最愛の人は旅立ちましたが、いなくなったわけではありません。
節子は今なお、私の最愛の人であり、私のすべての「愛」の象徴です。
そしてたぶん、今なお、節子は私を愛してくれているでしょう。

矢野さんは、「お花の好きな奥様にアルプスのお花を見ていただけたら」と、アルプスの花のカレンダーを送ってきてくれました。

節子
あなたの周りの花の世界はまだまだ広がっていますよ。
あなたが花をとても愛していたからでしょう。
私もそれにお相伴させてもらっています。
ありがとう。

■124:オスカー・ピーターソンと幸せの水準(2008年1月4日)
1日に、40年前の話を書きましたが、その続きです。
それぞれが実家に帰って両親を説得した時の話です。
実家に帰って両親を説得する材料として、私はプロポーズの言葉をテープに録音しました。
節子はそれを両親に聴かせたのですが、東京の者はおかしなことをすると、それはむしろ逆効果になってしまい、心配したて節子の両親が私に会いに来ることになりました。
その話はまたいつか書きます。

そのテープにはバックミュージックを流しました。
曲はオスカー・ピーターソンのカナダ組曲。
オスカー・ピーターソンはカナダのジャズピアニストで、その代表作、カナダ組曲が、当時の私のお気に入りでした。

そのオスカー・ピーターソンも、昨年12月23日に亡くなりました。
彼の演奏は、聴く人を幸せにすると言われたものでした。
節子は、カナダに行きたいといつも言っていましたが、それはこの曲のサブリミナルな効果のせいだったかもしれません。
カナダ組曲はほんとうにカナダのおおらかさを感じさせてくれます。

久しぶりにカナダ組曲を聴きたくなりましたが、あいにく、手元にレコードがありません。
CDを入手することにしましたが、最近は貧乏なので近くの図書館から借りることにしました。
ところが貸出し中でした。
カナダ組曲ファンが我孫子にもいるのだと思ったら、幸せな気分になりました。

娘から聴いた話ですが、あるテレビタレントは幸せの水準が低く設定された育ちをしているので、何でも幸せに感じられるのだそうです。
最近の私もそうなりだしています。
価値観を変えると、人は本当に幸せになれますね。

■125:小林教授夫妻が心配して会いに来てくれました(2008年1月5日)
節子 昨日はオフィスに行きました。
このブログ(時評編)に4日の午後は湯島のオフィスにいますと書いたからです。
でもまあ、だれも来ないだろうと思っていたら、思いもかけない人が来ました。
あなたも知っている、そして「とても良いご夫婦ね」と言っていた、早大の小林教授ご夫妻です。
年末に私のホームページを読んで、あなたのことを知り、私のことが心配になったのだそうです。
小林さんの頭にまず浮かんだのが、江藤淳さんのこと。
江藤淳さんといえば、奥さんが亡くなった半年後に自らの生命を絶った方です。
テレビで、それを知った時には私も衝撃を受けました。
小林さんと江藤さんとは東工大時代の同僚だったのだそうです。

小林さんは、あなたも知っているように、数年前の大手術の後遺症で歩行もご不自由ですし、言語障害も残ってしまいました。
そのため、奥様がいつもご一緒で、一度、オープンサロンに来てくれた時のお2人のご様子は、実に心温まるものでした。今回もあの時と全く同じでした。話していて、何だか私の横に節子がいるような気が何回もしました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#07282
しかも小林さんは昨年末から体調が悪かったのだそうですが、今日はあたたかな好天だったので、奥様に頼んで一緒に来てくださったのです。
小林さんのお気持ちがとてもうれしくて、たくさんの元気をもらえました。

江藤さんのことは忘れていましたが、江藤さんの気持ちはよくわかります。
愛する伴侶がいない人生を続けていくためには、よほどの元気がなければいけません。
幸いに私はたくさんの人たちから元気をもらっていますので、たぶん(としかいえませんが)もう少しは大丈夫でしょう。
そういえば、今日、近くの中村ご夫妻にもお会いしました。
いつでもお茶を飲みに来てくださいといわれました。
節子と一緒にお茶を飲みに行きたかったなと思いますが、みんな本当に元気づけてくれます。
人を元気にするのは、やはり人なのです。
人のつながりがどんなに大事なものか、改めて痛感しています。
忙しさのあまり、人のつながりが軽んじられがちなことが、今の時代の元気を削いでいるのかもしれません。

小林さんや中村さんのような、仲の良いあたたかな夫婦と話していると、節子も隣に一緒にいるような気がして元気がもらえます。
私たちも、みんなに負けずに仲がよかったものね。
早くまた一緒になりたいです。
でも小林さんを心配させてはいけないので、もうしばらくは現世で元気を続けます。
あなたもそちらで元気でいてください。
必ず会いに行きますから。

■126:自分流の生き方と常識にあった生き方(2008年1月6日)
一昨日、オスカー・ピーターソンのことを書きましたが、
オスカー・ピーターソン絡みの話題はもう一つあるのです。

実は昨年の秋、節子のことを知った小学校の同窓生が、長い手紙をくれました。
そこに昔、私が送った結婚通知状の文章の断片が書かれていました。
私は過去のことにほとんど興味のない人間です。
節子も似たところがありました。
でも70歳を過ぎたら、縁側で2人で思い出話をしようという暗黙の了解がありました。
ですからそのための材料はお互いに意識的に残していました。
ですが、整理が悪いので、それらがどこにあるか分かりません。
以前書いた私の「詩集」もそうですが、私たちの「結婚通知状」もその一つです。
ちょっと探してみましたが、出てきませんでした。
それで、その時は書くのをやめていました。
そのうち出てくるだろうと思ったからです。

実は、その結婚通知にもオスカー・ピーターソンが出てくるのです。
どう書いたのか思い出せないのですが、書いたことは間違いありません。
でも、今日は、その手紙の内容のことではありません。
それはまた手紙が出てきたら書くことにします。
今日のメッセージは、結婚通知状も含めた、いろいろな通知文の話です。

私は、いつも「定型文」が苦手でした。
結婚通知も、思い切り、私のスタイルでした。
先日書いたように年賀欠礼も定型文ではありませんでしたし、私の退社報告も長々とわたくし的に書きました。
しかし、時には定型的なルールや常識に則ることが必要な時もあります。
実はそういう手紙は、節子の担当でした。
どうしても私が書かなければいけない時には、節子に聞きながら書いて添削してもらいました。冠婚葬祭などに行く時の挨拶も、節子に教えてもらっていました。
私が我流に挨拶すると、時に危ういからです。

もっとも節子もさほど常識があったわけではありませんが、まぁ私よりは少しだけ上でした。
全くの定型文ではなく、ちょっと心を入れた普通の文章が節子は得意でした。
そうした分野では、節子は私にとっては、まさに先生でした。
私は、基本的なところで判断を間違うことが多く、常識も欠落しています。
一種の発達障害かもしれません。単なる馬鹿なのかもしれません。
その私が何とかやってこられたのは、節子のおかげです。
その先生がもういないので、これから世間の付き合いができるかどうか、いささか心配です。
失礼なことが起こったら、どうかはっきりと言ってください。
節子がいないこれからは、すべての人が先生です。

■127:花より団子の続き(2008年1月7日)
「花より団子」に関して書いたところ、追記したように、私のことではないかと涙の電話がありました。
その記事を読んで、そんな風に受け止められていたのかと涙が出てきてしまったのだそうです。
反省しました。
私もこのブログで善意の人たちを傷つけていたわけです。
伴侶がなくなったので特別だと思っている自分がいることに気づきました。
そんな気は全く無く、むしろ「当事者」の気持ちの複雑さを伝えたかったのですが、心当たりのある人は不快になるでしょうね。
心から反省しました。
申し訳ありません。

その電話の主は、私たちの古い友人のKさんなのですが、彼女にとっては、実は「花より団子」は特別の意味を持っていた言葉だったのです。
節子と一緒に花を見に旅行した時に、どうも節子が言った言葉のようで、そこにはいろいろな思い出が込められていたのです。
いろいろと話を聞かせてもらいました。
Kさんには悪いことをしましたが、私の忘れていた節子を思い出させてくれました。

ところで、そのついでに、Kさんは私に、
昔、修さんに言われた言葉をもう一つ思い出したと言うのです。
会社の運動会の競技で一生懸命に走ってきたKさんに、何で笑いながら走っていたのと言ったのだそうです。
一生懸命にがんばっている顔を笑い顔と見間違えてしまったわけです。
私は不躾な発言をよくします。
思ったことを何も考えずに口にしてしまうのです。
悪気はありませんが、それこそが一番始末におえないのです。
節子はそれをいつも気にしていました。
あなたは、いつも軽い気持ちで発言して、みんなを傷つけている、もっと気をつけないとだめよと言うのです。
節子自身が、それに慣れるまでだいぶかかったのでしょう。
誰かと一緒に会った後、よく、節子に注意されたことをKさんからの電話で思い出しました。
気をつけなければいけません。
でも、そういうことをちゃんと言ってくれるのは伴侶しかいません。

ところで、「花より団子」ですが、当事者以外、つまり今回の場合は、伴侶を失った私以外の人にとっては、死者も遺族も同じなのではないかと気づきました。
そして、そう思ってもらえることこそが、当事者にとっては一番うれしいことではないかとも気づきました。
Kさんからの電話で、いろいろと考えての結論です。
理屈っぽいと思わないでください。
それに、あの時書いたように、「花よりこころ」であれば、花と団子の違いなど、瑣末な話なのです。
身勝手な解釈を反省しました。
自分の小賢しさがいやになります。

不快にさせてしまった方に深くお詫びいたします。

■128:60代は別れの始まりの世代ね(2008年1月8日)
夢に節子が出てきました。
はっきりと出てきたのは、初めてです。
笑顔で「60代は別れの始まりの世代ね」と言ったのです。
目が覚めても、なぜかその言葉がはっきりと残っています。節子の笑顔もです。
その言葉がいったい何を意味するのか、考え出したら頭が冴えてきてしまい、ねむれなくなってしまいました。

私たちの別れは決して特殊ではないので、元気を出しなさいということでしょうか。
実はこの1週間、私たちの共通の知人も含めて、何人かの訃報が入ってきました。
そのためちょっと元気をなくしてしまっている私に対する激励の言葉なのでしょうか。

人生はどこかで死に向かい出す意識が出てきます。
友人が、残された時間を意識するようになったので生き方を見直したいと言ってきましたが、その気持ちは良くわかります。
私が広がり基調の意識から収束意識に変わり出したのは60代を超えてからですが、それでもいつまでも続く人生という発想がどこかにあって、時間を効果的に使わなければなどと考えがちでした。
しかし、節子との別れは、見事に私の価値観を変えました。
残り時間の問題ではなく、方向性の問題だと気づかされました。

このブログを読んで、よくコメントを下さるNさんは、さまざまな活動をされていますが、こう書いています。

一つひとつ作り出すというよりは、
一つひとつ、終わらせていくという感じでしょうか。

Nさんの誠実で真摯な生き方が伝わってきます。
これは、私に欠けていることかもしれません。

これまでの暮らしを一つずつ終わらせていく生き方。
それは、これまでの自分との別れかもしれません。
「別れの始まり」とは、そういうことでしょうか。

父を送った時に、別れは出会いでもあるのだと思ったことがあります。
節子を送ってから、私の知らないたくさんの節子に出会いました。
節子とつながっている人たちとも出会いました。
「別れは出会い」。

60歳は還暦です。
暦が新しくなる、つまりは新しい人生の始まりです。
節子が健在であっても、私たちもまた古い私たちと別れて、新しい生き方に移ったでしょう。
「別れは始まり」なのかもしれません。
節子と一緒に、その新しい人生を生きたかったですが、なぜか私たちは彼岸と此岸に分かれてしまいました。
それもまた、新しい出会いなのだと節子は言っているのでしょうか。
「別れの始まりが、ちょっと急激に起こっただけよ」と節子は言っているのかもしれません。節子が言いそうなことです。

会えなくても、別れていても、私の心身には節子が充満しています。
その節子と一緒に創りだす、新しい私たちに出会えるのかもしれません。
この夢の続きを見たいものです。

■129:行動が節子に似てきました(2008年1月9日)
節子
夫が彼岸で節子さんに会っているかもしれないと、あなたも知っているSSさんがメールで書いてきました。
あなたの同級生だったAさんのパートナーも少し前にそちらに逝ったそうです。
でも、あなたは面識がないから見分けられないかもしれませんね。
私が逝ったら、きちんと出迎えに来てくださいね。

ところで、最近、気がついたことがあります。
私の生活行動の一部が、節子にかなり似てきたのです。
あまり具体的に書くのは、あなたのプライバシーに関わるのでやめますが、
時々、あれ、これって節子がやっていたのと同じではないかと思うことがあるのです。

夫婦は似てくるといわれますが、似ないこともありますね。
朝、私は冷たい水で顔を洗いますが、あなたは温水でないとだめでした。
廊下やトイレの埃が嫌いでしたが、私は気になりませんでした。
飲み物は一気に飲めずに、少しずつ飲んでいました。私は一気飲みでした。
包装紙は無駄にせずに残していましたが、私はそもそも開ける段階で破っていました。
テレビを観ていても、何もしないともったいないと、いつも「ながら族」でした。
テレビよりもラジオが好きで、よく聴いていました。
騒がしいタレントや服を脱いだタレントが嫌いで、出てくると嫌がりました。
たとえばこんなことが私とあなたの違いでした。ほんの一部ですが。

ところが最近の私は、なぜかあなたと同じになっているのです。
まぁ、いずれもたいしたことではないのですが、最近の私はどうも節子に引っ張られている気がします。
私の中にいる節子が、そうしているのでしょうか。
そういえば、最近、物忘れも多くなったし、なんだか頭も悪くなったような気がします。
いやはや困ったものです。
性格が悪くなってきたのも、私の中に節子が入ってきたからかもしれませんね。
いや、良くなっているのでしょうか。
いずれにしろ、変ってきているのはたしかです。

良いこともあります。
家事を少しするようになりました。
節子と同じように、うまく手を抜くことも含めてです。はい。
だんだん「節子化」しているのが心配です。

■130:寝室があったかくて、明るいのは節子のせいですか(2008年1月10日)
節子
相変わらず明け方に目が覚めてしまいます。
今までよりも就寝時間が早くなったからかもしれませんが、いつも5時頃から6時頃までは目が冴えてしまうのです。
そこで最近気づいたことがあります。

今年の冬は寒いのか暖かなのかわかりませんが、私の実感では寝室が例年よりあったかいのです。
節子がいなくなって、これまでよりは寒いはずなのですが、空気がとてもあたたかい気がします。
もしかしたら寝室に節子が充満しているのかもしれませんね。
節子、そうなのですか。
一人寝の寒さを感じないのです。とても不思議なのですが。

それに、昨夜気づいたのですが、日の出前なのに何となく部屋が明るい気がします。
いままでもそうだったのでしょうか。
LED発光の時計があるので、寝室はいつも真っ暗ではないのですが、今までもこんなに明るかったでしょうか。

枕もとに節子の写真がありますが、その暗闇の中で見ると美人に見えます。
あなたがちょうどいい明るさと空気のあたたかさをつくっているのかなと昨夜気がつきました。

節子がいなくなってからもう130日目なのですが(この挽歌のナンバーがその日数です)、まだあなたがいないことが実感できずにいます。
あなたはわが家のいたるところにまだいるような気がしてなりません。
未練がましいとか願望とかではなくて、そう実感するのです。

節子 ありがとう。
この冬は、風邪をひかずにすみそうです。
寒い冬になると思いこんでいましたが、決してそうはならないようです。

■131:幻の大寺 西大寺(2008年1月11日)
節子 今日は佐保路の話です。
JR東海のテレビCMの「いまふたたびの奈良」で、「幻の大寺」西大寺が取り上げられています。
西大寺は、私たちにとっても「幻の寺」です。

私たちの愛は、東大寺から始まりましたが、西大寺には辿り着けませんでした。
節子がもう少し元気になったらゆっくり奈良を回ろうと話していましたが、実現できず、結局、西大寺は幻に終わったのです。

私たちは滋賀で結婚し、大津に1年半いました。
休日のたびに京都や奈良に行きました。
あなたは京都派、私は奈良派でしたが、どちらにもたくさんの思い出が詰まっています。
私たちだけに通じる言葉もいくつかあります。
たとえば、飛鳥大仏といえば、私たちにはすぐ伝わる思い出があります。
みんなには内緒ですが。

私は当時、佐保路が大好きでした。
法華寺の十一面観音にほれ込んでいたのです。
その観音が、節子を招き寄せたような気がしています。
小浜から奈良に通ずる「かんのん道」の、ど真ん中に位置する観音の里「高月町」で育った節子に出会えたのですから。
今は舗装され歩きやすくなっているでしょうが、当時の佐保路はまだぬかることもあり、雨の日は大変でした。
佐保路の先に西大寺がありました。
しかし、私たちは西大寺に辿り着いたことはありませんでした。
たしか一番歩いた時でも秋篠寺が最後だったような気がします。

東京に転居してから、京都や飛鳥には行きましたし、奈良にも行きましたが、佐保路を歩くことはありませんでした。
ですから私たちは西大寺にはついに辿り着かなかったわけです。
ですから、テレビの「幻の大寺」というナレーションが、心に突き刺さってくるのです。
私たちにとっても、幻の寺なのです。それも永遠に。

もう一度、2人で佐保路を歩きたかったです。
私一人では、もう歩くことはないでしょう。
法華寺の観音にももう会うことはないでしょう。
あまりに思い出がありすぎます。
思い出すだけでも辛くなります。

■132:「納得できる花がやっと見つかりました」(2008年1月12日)
節子 また花が届き出し、あなたを囲い出しました。
節子は本当に花が好きなのですね。

岡山の友澤さんからの花にはこんな手紙が添えられていました。

寂しさに 空を仰げば 白梅の かたきつぼみに 浮かぶ湯河原

晩秋にお訪ねしました折は 旅先のこととて思うような花を見つけられず、心に秘めし花にてお参りさせていただきました。
節子様との、「あっ」と旅先で声をあげて喜んだ花があるのですが、季節的になかったのかもと、以来、花屋の店先に立つたび探しますが、私のイメージを組み合わせ、やっとお花をお送りできます。
節子様が愛されたお庭の片隅に植えていただければ幸いです。

同室の湖畔の宿に声上げし 花のイメージ 結び参らす

思いのこもった花ですね。
とてもさわやかで清楚な花です。
大事にしないといけませんね。
電話は苦手なので、手紙を書きますが、あなたと違って、手書きが不得手なので、パソコンで書いてしまいました。あなたならば、パソコンじゃ、心が伝わらないでしょうというでしょうが、心を込めて書いたので許してください。

しかし、「納得できる花」を探し続けてくれた友澤さんの気持ちには感激しました。
見習わなければいけません。
節子との別れ以来、ほんとうにたくさんのことに気づかされています。
あなたの友人たちに感謝しています。
これまでの私の生き方では気づかなかったことがたくさんあります。

■133:なぜこんなに退屈なのでしょうか(2008年1月13日)
節子 きれいな花を楽しんでいますか。

今日は愚痴をこぼします。
今日1日、全くやることがなくて、時間を持て余しました。
おそらくこれほどの退屈さは、生まれて初めてです。
節子がいる時には、何もやることがなくても、あなたの隣にいるだけで退屈はしませんでした。
いえ、あなたが傍にいなくても、空を見ているだけでも、蟻を見ているだけでも、池の水面を見ているだけでも、私は退屈などしない人間でした。

もっとも、これまではそんな時間などあるはずもなく、なぜかいろいろやることがありました。
若い頃から、いつも「やるべき課題」を紙にリストしていましたが、それが10以下になることはありませんでした。
そのなかには、ほとんど家事は入っていませんでしたし、ビジネスもあまり含まれていませんでした。
あなたは食事の時間も惜しむほどやることがあるのね、と節子がいつも皮肉っていたのを思い出します。
一体何をやっていたのでしょうか。
そして、節子がいなくなったら、そうしたものがなぜ無くなってしまったのでしょうか。
不思議です。全く理解できません。

それに、あなたがいなくなってから、何をやっても退屈なのです。
本を読んでも、テレビを観ても、音楽を聴いても、ともかく満たされないのです。
30分ほどはいいのですが、持続できないのです。
どうして節子は横にいないのだろうか、こんなことをしていて何の意味があるのだろうか、と思ってしまうわけです。

「節子との交流」が、私の生活の大きな部分だったのでしょうか。
たしかに、よく夫婦喧嘩もしましたし、政治や社会問題に関する論争もしました。
でもそれだってそんなに長い時間だったわけではありません。

私が退屈することなどあるはずがないと思っていました。
やりたいことは山ほどあるし、やらなければいけないことも山ほどある。
でも、いざやろうと思うと、途端にやる気が出ずに、先延ばしし、結局、やることがなくて、退屈になるのです。
今日は、退屈である事の辛さを生まれて初めて体験しました、
そんなわけで、1日、あなたの部屋のこたつでぼーっとしていました。
それに来客も一人もないのです。
寂しい1日でした。
節子がいかに私に幸せを与えてくれていたのか、よくわかります。

みなさん、伴侶はいるだけでいいのです。わがままを言ってはいけません。
喧嘩する相手がいなくなると、それはもう寂しいですよ。
娘と喧嘩しても、その寂しさは決して埋まりません。

■134:節子 新テロ特措法が成立してしまいました(2008年1月14日)
節子
今日は反省です。

テレビの報道特集番組で、新テロ特措法の話がよく取り上げられています。
腹立たしさを超えて、虚しさというか哀しさがこみ上げてきますが、昨夜ベッドに入ってから、7年前にテロ特措法反対のデモに節子と一緒に参加したのを思い出しました。
節子は初めてのデモでしたが、その後も、ピースウォークに一緒に参加しましたね。
節子は政治への関心は高かったですね。
私の影響だと思いますが、私よりも過激なところもありました。
きっと女性の勘なのでしょうね。

テロ特措法が成立したのは2001年でした。
私たちが参加したデモは市民団体主催でしたが、労働組合関係者が多くて、いささかうんざりしたのを覚えています。
その後、娘に誘われて2人で参加したピースウォークは明るくてホッとしました。
今でも我が家の玄関には、その時のバッジが置かれています。

ピースウォークで一緒に歩いた千葉大学の小林正弥さんは著書「非戦の哲学」で、「2001年のテロ特措法によって、日本政府はルビコンを渡り出した」と書いています。
全く同感です。
以来、小泉さんによって日本の国政は踏みにじられ、軍事国家への道を一直線です。
ささやかではありますが、そうした動きに抗議の声をあげたことは自己満足でしかないとしても心が少しやすまります。
あなたはどうだったでしょうか。

もしかしたら新テロ特措法は廃案になると期待していたのに、成立してしまいました。
節子はきっと怒っているでしょうね、
まあ、自民党も民主党も好戦的な人たちが多いですから、いずれにしろ9条憲法は危機にさらされ続けるでしょうが、ルビコンを渡った後の歴史を反転させることはできるのでしょうか。
小林さんたちは、がんばっています。
私はその活動から完全に脱落してしまいましたが、節子がいないいま、もうどうでもいいかという気になっていました。
正直に言えば、あなたがいなくなった直後、隕石が衝突して地球が破壊されてしまったらいいのにとさえ思ったことがあります。
それほど節子のいない世界は、私には哀しい世界で、いっそすべてなくなったら節子も浮かばれるだろうなと不条理でおぞましい考えさえ抱いたことがあります。
罪深い話です。

戦争に向けて日本はまた一歩進んでしまいましたが、諦めてはいけない。
諦めることは戦争に荷担することになるでしょう。
節子と一緒にデモに参加したことを思い出して、自分の退嬰的な考えを反省しました。
平和に向けてやれることはたくさんある。
昔書いた私のホームページの記事を読み直しました。
節子のおかげで、また活動に取り組むことができそうです。
ありがとう。

■135:やはり元気を与えてくれるには仕事なのでしょうか(2008年1月15日)
節子
M市で市会議員をやっているNKさんからメールが来ました。
彼女も4年前に伴侶を見送りました。
彼女の活躍ぶりは私のところにもいろいろと伝わってくるほどの活躍ぶりです。
その彼女がこう書いてきました。

私的には、つまらない日々です。
大笑いすることがなくなり、楽屋落ちの冗談を交わす相手がいない空しさはやりようがありません。

そうなのです、日々がつまらなくなり、心から笑うことがなくなり、楽屋落ちの冗談が交わせないのです。
あまり気がついていなかったのですが、まさに私も同じ感じですね。
彼女は4年前に伴侶と別れていますから、私はまだまだその「つまらなさ」が高まっていくのでしょうか。ちょっと気が重いですね。

彼女はこう続けています。
仕事に生かされているなとつくづく思います。
最近の彼女の潔い決断の背景には、「つまらなさ」からの脱出意識もあったのかもしれません。たぶん本人は意識していないでしょうが。

仕事が彼女にパワーを与えている。
私もそうなっていくのでしょうか。
江藤さんのシナリオでなければ、そうなのでしょうね。

人にとって「仕事」とは何なのか。
こういう視点から考えてみると、仕事の本質が見えてくるような気がします。

節子
私も仕事を再開します。
これまでと同じように、支援してください。

■136:仕事を再開しようと思います(2008年1月16日)
節子
そちらでは「仕事」ってあるのですか。
あなたのことだから、何もしないでいることなどできないでしょうから、きっと何かをやっているのでしょうね。
昨日のつづきの「仕事」の話です。

「仕事」って何なのでしょうか。
これは若い頃からの私のテーマの一つでした。
仕事は本来、ワクワクするものであり、苦労し甲斐のあるものでなければいけないと思っていました。
最近ようやく私にもなじめる仕事観(ディーセントワーク論)がでてきましたが、分業体制での作業は仕事とはいうべきではないというのが私の考えでした。
ですから、会社時代に仕事仲間に「やりたくない仕事ははっきり言ってほしい」と話していましたが、会社を辞めてからその女性がやってきて、あの言葉は辛かったと告白してくれました。
私には思ってもいないことでしたが、そうやっていろいろな人に私は苦労をかけてきたのでしょうね。
その最大の被害者が節子、あなただったかもしれません。

昨日のNKさんは、連れ合いを亡くした後、仕事に生かされていると書いてきました。
確かに仕事に取り組んでいると寂しさや虚しさを忘れられます。
私も、いろいろな人たちから活動を始めるのがいいとアドバイスされています。
大学教授だったNMさんも、「佐藤さんにとって、今の仕事は志ですから」と仕事の再開を促してきました。
コムケア仲間のAさんは、みんな待ってますよ、と言ってきます。
「あなたはそういう言葉に弱いから」と、節子が笑いながらいっていたことが思い出されますが、「おだて」に乗るのは私の「長所」なのです。

そんなわけで、仕事を再開します。
応援してくださいね。今まで通り。

■137:いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなる(2008年1月17日)
節子 寒い日が続いています。
そちらには寒さ暑さはありますか。
それともそうしたことからは解放されているのですか。

今日、電車の中で涙が出てしまいました。
「軍縮問題資料」という雑誌(節子も時々読んでいた雑誌です)の『ヒバクシャの「心の傷」は死ぬまで癒えない』という、被爆者の関千枝子さんの文章を読んだからです。
関さんは、あの日、病気で学校を休んだために生き残ったのですが、ずっと「生き残りは何をなすべきか」を考えつづけてきたそうです。
そして、被爆40年目に、総ての級友の記録をまとめた『広島第二県女二年西組』を出版したのです。
もう20年以上前の話です。
その本のことを中心に「心の傷」の話を書いています。

節子にもぜひ読んでほしい小文ですが、私が涙が出てしまったのは、次の文章でした。
不思議なことに自分のした「いいこと」は忘れてしまうようである。
悔いはいつまでもまといつき、フラッシュバッグしてまた帰ってくる。
それに続けて、親友だった友人に対する悔いが語られていますが、それが極めて生々しく、今の私の心情に深く突き刺さるのです。
関さんはこう書いています。
当事者でない人には、なぜこんなことに私がこだわるのか、分からないかもしれない。しかし、あの無残なありさまで死んだ被爆者に、大事な友でありながら何一つ役に立つことができなかった自分。悔いは深い。そして、この悔いは、月日がたつほど深くなる。薄れることがない。
そこで不覚にも耐えられずに涙をこぼしてしまったのです。

被爆者の心の傷と私の心の傷を一緒にしてしまうのは間違いかもしれません。
しかし、この小論を読んでいて、何やら自分のことのような気がしてしまい、涙が出てしまったのです。
節子は決して無残なありさまで死んでいったわけではありません。
しかし、私には「無残さ」が残ってきています。
自分の家で、家族に看取られて幸せでしたねと言ってくださる人がいますが(昨日も献花に来てくださったTさんがそうお話しされました)、日がたって私の脳裏で育っているのは、不条理な「無残さ」なのです。
そういってしまうと節子が浮かばれないような気がして、今も躊躇しながら書いているのですが、関さんが書いているように、いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなるのです。
この辛さは、たぶん当事者でないと分からないでしょう。
私はこれまで、被爆者や薬害肝炎患者や拉致家族のみなさんの「心の傷」を、全くといっていいほど理解できていなかったことに気づきました。

「心の傷」はやっかいなものです。
昨今の家族内の不幸な事件もまた、そうした心の傷とつながっているのかもしれません。
関さんの文章は涙だけではなく、私にたくさんの気づきも与えてくれました。
そうしたことを話し合えた節子がいないのが無性に寂しいです。
それで今日は、ブログに長々と書いてしまいました。
節子、話を聴いてくれてありがとう。

■138:愛する人ともう会えないなどとは思いたくないのです(2008年1月18日)
辛い話が続くのですが、今日は阪神大震災の話です。
もう13年も前の話ですが、被災者の方たちの時間はまだきっととまっていることでしょう。
昨日のNHKのニュースウォッチ9で、崩壊をまぬがれた酒屋さんが、被災者たちがお互いに元気づけあう場として酒場を開き、それが今も続いていると話を紹介していました。
そこに、自宅が崩壊し、隣室で寝ていた娘さんを亡くした田中武雄さんが出てきました。
そしてこう言ったのです。
家に電話して娘が迎えに来てくれたらうれしいよ。
この言葉って、本当に真実味があります。
もう13年もたっているのに、心底きっとそう思っているのです。
そしてそれが非合理だとかありえない話だとか、田中さんはきっと思っていないだろうなという気がしました。
その後、田中さんは「会いたいよ」と言って涙を拭きました。
田中さんの気持ちがものすごくよくわかります。
もしかしたら迎えに来てくれると本当に思ってしまうのですよね、田中さん。
そしてともかく会いたいのですよね。
もう会えないなどとは思いたくないのですよね。
田中さん、よくわかります。
そんな思いから早く抜け出ろよ、と言う人もいますが、
余計なお世話だと言いたいですよね。

田中さんはその酒場の常連です。
なぜ常連になったか。
そこで声をあげてみんなの前で泣いたのだそうです。
そして、そこにいた同世代の仲間が、ともかく抱きしめたのだそうです。
悲しみを分かち合えたのです。
そのことで、田中さんは立ち直れたのだと言います。
だれも元気を出せよなどとは言わなかったでしょう。
出るわけもないし、出す必要もないのです。
泣く時は泣けばいい、そんな簡単なことすらわからない人がなんと多いことか。
そのことにこそ傷つけられます。

人を慰められるなどと思ってはいけないなと改めて思いました。
それほど傲慢なことはないのです。
田中さんはとても良い仲間を持っているなと思いました。

ちなみに私も良い友人に恵まれています。
昨日もHさんが電話をくれました。
決して元気を出せよ、などとは言いませんでした。
電話で声を聞けてうれしかったといってくれました。
私もうれしかったです。

■139:竹内まりやの「人生の扉」(2008年1月19日)
論争相手の武田さんが、気が向いたら聴いてよ、といってCDを送ってきてくれました。
武田さんとの論争のテーマはいつも民主主義でしたが、それを知っている節子は、いつも同じようなことを話していてよく飽きないわね、と言っていました。
武田さんは、このブログを読んでいて、私を心配してくれて、時々電話をくれるのですが、以前と同じように、いつもまた民主主義論争になってしまうのです。

CDは竹内まりやでした。
竹内まりやは、私も一時とても好きでよく聴いていました。
武田さんは、最近話題の「人生の扉」の最後のフレーズがとても好きなのだそうです。
ご存知の方も少なくないと思いますが、今ならYOU TUBE でも聴けます。

TFさんが好きなフレーズは
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ
です。
残念ながら、私には全くピンときません。
私の人生の先に輝く何かがあるとはとても思えないのです。
しかし、「果て」ではなく、「長い旅路のなか」であれば、よくわかります。
人生には必ず輝く何かがあるものだというのは、私の昔からの確信の一つでもあります。
私の場合、それは何だったのか、そして何時だったのか。
それは「節子と新しい人生を始めた頃の2年間」でした。
私は組織から自由になり、退職金で好き勝手なことをしていました。
節子は貯金がどんどん減って、ボーナスもなく、不安を感じながらも、私と一緒に新しい世界を開くことにわくわくしていました。
それまで時々ずれることもあった、2人の人生観が重なったのです。
喜怒哀楽を共有する伴侶になれたのです。
この歌詞にある「輝く何か」とは違うものだと思いますが、私の人生の先が決まった2年間でした。節子の人生も、そこで決まってしまっていたのかもしれません。

そして、その後、私たちの人生は信じられないほどの速さで過ぎました。
「人生の扉」にはこういうフレーズがあります。

信じられない 速さで 時は 過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな 小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ


私は、このフレーズが心に深く入りました。
こんなに早く節子との別れがくると知っていたら、私も、「どんな小さなことも覚えていたい」と思ったでしょう。
私自身、あまりに生き急いだ気がしてなりません。
病気になってからの節子は、その私の生き方にはきっと不満だったはずです。
「いそがしいのにごめんね」と節子はよく言いました。
そのたびに、「いそがしくなんかないよ」と言っていましたが、節子には私の生き方は「忙しく」見えたのです。
いえ、実際に忙しかったのでしょう。心を失っていたわけです。

武田さんの好きなフレーズに続いて、英文の歌詞があります。
その最後は
But I still believe it's worth living
です。
まだその気分にはなれません。
武田さんは、そういう私の気分を察してくれているのでしょう。

久しぶりに竹内まりやを繰り返し聴きました。
人生は本当に哀しいですね。
価値があると信じなければ生きていけない人生とは一体何なのでしょうか。

■140:どうして愛夫家という言葉はないのでしょうか(2008年1月20日)
節子
威勢のいいべらんめえ調のNKさんを覚えていますか。
私の周りにいる人の中ではちょっと異色な人だったかもしれません。
そのNKさんも、公私共にいろいろドラマがありました。
年賀状をもらったので、節子のことを知らせました。
そうしたら1日かけて私のブログを読んでくれたようです。
佐藤さんのブログは一つずつが長いし、それに多すぎると言われてしまいました。
もちろんそれはいつものNKさんらしい言い方です。
本来的には、「こんなぐたぐたした文章など読んでられるか」というのがNさんらしいのですが、何時間もかけて読んでくれたのです。気が引けます。

NKさんの感想です。
佐藤さんがこんなに愛妻家とは思わなかった、人はこんなにも愛せるものなのだね、というのです。
同じ言葉は他の人からももらったことがありますが、Nさんからのお褒めの言葉は格別に嬉しいものでした。NKさんは決してお世辞は言わない人ですし、心の人なのです。
でも、なぜか「愛妻家」という言葉には違和感があるのです。

私は節子を愛していたのであって、妻を愛していたわけではありません。
たまたま妻が節子だったわけですが、妻としての節子ではなく、女性としての節子を愛していました。
ですから「愛妻家」と言われると、ちょっと違うような気がするのです。

なぜこんな理屈っぽいことをいうかというと、「愛妻家」という言葉はあるのに、どうして「愛夫家」という言葉はないのかが、気になっているからです。
ちなみに、「愛犬家」という言葉はあります。
妻や犬は愛の対象になるが、夫は愛の対象にはならないのです。
不思議だと思いませんか。

そこで思い出したのが、昔、読んだエーリッヒ・フロムの「生きるということ」です。
うろ覚えだったのですが、思っていた通りの文章が見つかりました。
愛が持つ様式において経験される時、それは自分の<愛する>対象を拘束し、閉じ込め、あるいは支配することの意味を含む。それは圧迫し、弱め、窒息させ、殺すことであって、生命を与えることではない。(72頁)

少しだけ補足すれば、フロムは、大切なのは「持つこと」ではなく「あること」だという主張の中で、こう書いています。
そして、彼は「持つこと」よりも「有ること」が大切だといっているのです。
では、あることにおいて愛とは何なのか、それに関してのフロムの主張は必ずしも明確ではありませんが、上記の反対を考えればいいでしょう。
対象を解放し、強め、生かすことです。しかし、それもまた余計なお世話であり、私の趣味には合いません。

「愛する」という言葉そして行為は、極めて両義的で悩ましい問題なのです。
これについては、少しずつ書いていければと思っています。

節子にとって私は一体何だったのでしょうか。
愛の対象だったのでしょうか。

■141:「独り生まれて独り死す、生死の道こそかなしけれ」
(2008年1月21日)
伴侶との別れを体験した人は私だけではありません。
しかし、私のように、おろおろとしつづけ、めそめそと挽歌などを書き続けている人は多くはないようです。
みんな哀しさを乗り越えて、しゃんとしてやっているのです。
えっ、この人も、と知るたびに自分の駄目さ加減が恥ずかしくなります。

ある研究会でご一緒したMさんが手紙をくれました。

じつは、私もかつて妻をガンでなくしました。
周囲の人達は時間が薬だとか、肉体は無くなつても、霊魂は不滅だと聞かされました。
当時はそんな馬鹿なことがと申しておりました。
時間が経つにつれ皆さんのおっしゃるとおりに考え方が変わりました。
いまは、亡くなった妻と常に一緒です。
若い内から仏の道の学習も少々かじらせていただきました。

生ぜしもひとりなり、 死するも独りなり
さすれば人と共に住するもひとりなり
添い果つべき人なきゆえなり (一遍上人語録)
さぞお寂しくいらっしゃることと存じますが、
どうかご自愛のほどをひとえに祈りあげます。

Mさんにお会いした時から、どこかで気になる人だったのですが、
もしかしたら、どこかでつながっていたのかもしれないと思いました。

一遍上人は遊行僧ですが、私はまだこの気分にはなれません。
ですが、どんなに愛し合っていても、同時に死ぬことはできない。人は、ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ存在なのだというのは、真実です。
残念ながら、私には、その覚悟ができていなかったばかりでなく、
いまなおそれが受け入れられないのです。
この思想の根底には、「本来無一物」という考えがあるわけですが、それを目指している私としては、Mさんがいうように、その道理を受け入れるべきなのでしょうね。

でも、もう少し時間がかかるかもしれません。
困ったものです。

■142:私の生き方を励ましてくれた人(2008年1月22日)
久しく会っていないにもかかわらず、そしてあまり交流がないにもかかわらず、時間が止まったように、付き合っていた時の関係を保持し続けている人がいます。
高校時代のMYさんが、その一人です。

私は都立西高の出身です。
同窓生のメーリングリストや集まりがあり、かなり活発に行動していますが、私自身はほとんど参加していません。
高校時代に限りませんが、過去への関心がほとんどないためです。
過去の自分、現在の自分と言ってもよいのですが、自分をいつも変えていこうというのが、私の基本的な生き方でした。
最近は変える気力が弱まり、惰性で生きがちですが、50代まではかなりドラスティックにその時々を捨ててきたつもりです。
それができたのは、節子という変わることのない拠り所があったからです。
変わることなく存在する確実なものがあれば、他のすべてがなくなっても怖くはありません。
節子がいればこそ、私には怖い物など一つもなかったのです。
会社を辞めたのも、価値観を変えたのも、節子がいればこそでした。
きっと大事なものも捨ててきてしまっているのでしょうが、私には節子がいればそれで十分だったのです。

節子と結婚した時に、それまでの日記をすべて廃棄し、友人の住所録まで捨ててしまいました。
今から思えばばかげていますが、その時は新しい世界を創り出すのだという意気ごみがあったのです。
全く違った人生を送ってきた2人が、新たに新しい人生を創りだすためには、できるだけ過去を軽くすることが大切だと考えていたわけです。
若い頃の私は、頭でしか考えない理想主義者だったのです。
今とは正反対です。まあ、今もその名残はあるでしょうが。

高校の友人で、節子が知っている人はおそらくいないでしょう。
つまり私たちにとっては、私の高校時代は存在しない時代なのです。
もっとも全くつながっていないわけではありません。
節子も名前だけは知っている人が3人いますが、その一人がMYさんです。

もらった年賀状への返信を読んでこう書いてきてくれました。
きっと君の話をよく聞いてくれて、君の生き方をはげましてくれる人だったのでしょう。
「生き方をはげましてくれる人」
そうか、節子は私の生き方をはげましてくれていたのだ。
とても納得できました。

この一言で、なぜか高校時代のことが突然思い起こされました。
MYさんとなぜこんなにも長く会うことがなかったのか。
急にたくさんの級友たちのことが思い出されました。
まるで、節子が級友たちを思い出させてくれたような気がします。
今年は少し、過去の世界にも出かけようかと思います。
節子の声は直接聞こえてきませんが、こうやって今も節子は私を励ましてくれているのですね。
ありがとう。節子。

■143:また挽歌が届きました(2008年1月23日)
節子
先日電話をくれたNKさんが挽歌を送ってきてくれました。
私が書けないでいるうちに、他の人がどんどん書いてくれますね。
プレッシャーですね。

Nさんは、「さとうせつこ」を頭にして、詠んでくれました。

さ:さわやかな笑顔で、友を、もてなし
と:東大寺から、ともに白髪が、生えるまで
う:嬉しさや、悲しみを、乗り越えて
せ:世界一の、伴侶として、母として、生き切った
つ:連れ添いし、四十一年、追想に、耽れば
こ:娘にも恵まれ、心豊かに、手賀沼に咲く、オンリーワンの、花となる

「手賀沼に咲くオンリーワンの花」
花好きの節子には、これほどの賛辞はありませんね。
もし節子が元気だったら、どう受け止めるでしょうか。
恥ずかしいから載せないでと言うでしょうが、紹介してしまいました。

NKさんは、柳澤桂子さんのベストセラー「生きて死ぬ智慧」の一節を書いてきてくれました。般若心経の解釈の一文です。

人間は粒子でできていて、宇宙の粒子と一続きになっている。
何の実体のない「空」になる智慧を身につければ、
永遠のいのちに目覚め、幸せに生きられる。

納得できますね。
問題は、私が幸せには今や興味を感じていないことです。
しかし、こうして友人たちが励ましてくれることこそ、幸せそのものなのでしょうね。
そういえば、TFさんも、佐藤さんは幸せなのをわかっていますか、と手紙に書いてきましたが、よくわかっています。
みなさんに心から感謝しているのです。
もちろん節子にも、ですよ。

■144:人は「老い、病み、死ぬ」もの(2008年1月24日)
節子、

熊野純彦さん(東大准教授)は、その著者の中でこういう主旨のことを書いています。

人間は、身体として生きているかぎり、さまざまな欠如をかかえている。
それなのに、なぜか、身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆくことを、忘れはててしまっているように思われる。

この意味が最近よくわかってきました。
書き出すときりが無いのですが、もし私に才能があれば大論文が書けそうな気がしています。
私たちが生かされている深遠の意図が読み解けそうな気がしてきているのです。
もちろん読み解けるわけもなく、それは幻想でしかないのですが、なにやらそうした生命や宇宙の神秘に近づけているような、奇妙な気がしています。
これも毎夜、節子と交信をしているおかげ、もしくは暗示かもしれません。

節子と異身同心で生きていた頃、私自身のいのちや思いの広がりは外に向かって開いていました。
節子の世界が、私の世界になった途端に、世界は無限に拡散し出します。
なぜなら節子は私との世界以外にもまた世界を持っており、私たちの世界の外延は無限に広がっていくからです。
ですから発想の方向はつねに発展だったのです。そこには無限ともいえる可能性、つまり希望がありました。
発達心理学の「人間は死ぬまで向上する」という言葉を、何の疑問もなく、言葉通りに信じていました。
歴史の進歩主義を否定しながら、個人においては生涯の進歩を信じていたわけです。
ですから私の生き方は、常に前にしか興味がなく、拡散的な楽天主義だったのです。

しかし、節子がいなくなって、私の半身が削がれてしまってからは、発想が反転してしまいました。
忘れていた「老い」や「身体の限界」、そしてもちろん自らの「死」になまなましく気づいてしまったのです。
私の拠り所だった、インドラの網から自分が突然放り出されたような気もします。
そして発想が、発展から収束へと反転してしまったのです。
さらに、節子を通して広がっていた世界の幕が閉ざされることで、私自身の世界もまた縮小基調に向かうような意識が強まっています。
そうなると、「不安」が生まれます。
節子がいなくなって初めて、私は「不安」に出会いました。
そして、「老い」とは不安なのだと知りました。
いや、不安こそが「老い」なのかもしれません。

節子にとても悪かったと反省していることがあります。
「身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆく」という、当然のことさえも、私には見えていなかったのではないかということです。
節子がそれを身体的に実感していたこと、そしてそれを私に伝えていたことも、今にして思えば、思い当たります。
しかし、節子と私が離れ離れになることなど、あるはずがないという手前勝手な思いのもとに、「絶対に治る」と確信し、私は「老い」も「不安」も見ないようにしていたのです。
しかし、人は「老い、病み、死ぬ」ものなのですね。
その現実は避けようもないのです。
「老い、病み、死ぬ」ことに、節子と一緒に立ち向かえないことが寂しいです。

続きはまた書きます。
この話はかなり長い話になりそうですから。

■145:節子は私の所有財産だったのか(2008年1月25日)
昨日の話を続けます。
先日、エーリッヒ・フロムの「生きるということ」に言及しました。
言葉の確認のつもりで書棚から引っ張り出したのですが、もう一度読み直したくり、読み出したらなにやら身につまされる話で、気分がちょっと沈み出してしまいました。
昨日の記事もその延長なのですが、自分がひどく自分勝手なのではないかという気がしてきました。
なぜそう思い出したか、その一端を今日は書きます。

フロムは、人が生きていく上で2つの基本的なライフスタイルがあるといいます。
財産や社会的地位や権力の所有にこだわる「持つ存在様式」(The Having Mode)と、自分の能力を能動的に発揮し、生きる喜びを大切にする「在る存在様式」(The Being Mode)です。
この本でフロムが警告しているのは、産業社会では「持つこと」が重視される結果、さまざまな問題が生じるばかりか、社会そのものが危機にさらされるということです。
私が以前読んだ時に受けたのはそのメッセージで、それに大きな影響を受けたのですが、今回読み直してみて、読み方の浅さに気づきました。
そして、次の文章が心にグサッと突き刺さってしまいました。

(「持つ存在様式」の人にとって)もし持っているものが失われるとしたら、その時の私は何者なのだろうか。挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在以外の何者でもない。

「挫折し、打ちしおれた、あわれむべき存在」。
まさにいまの私ではないか。
もしかしたら、私は節子を「所有」していたのではないか、と気づいたのです。

今の私の空しさは、愛する人と話せない寂しさではなく、大切な財産である妻を失った喪失感ではないのか。
私は妻や家族を、自分の所有財産と考えていることはなかったか。
フロムの問いかけに、残念ながら胸を張ってそんなことはないと言いきれません。
ですから、きっと一遍上人の「さすれば人と共に住するもひとりなり」という心境になれないのかもしれません。
「本来無一物」などの心境は、まだまだずっと先にありそうです。

何を辛気臭いことを考えているの、だから体育会系でない人は駄目なのよ、と節子に笑われそうですが、私にとっては、かなり大きな問題なのです。
困ったものです。

■146:湯島からの夕陽がとてもきれいです(2008年1月26日)
節子
久しぶりに湯島のオフィスで夕方、仕事をしています。
1年ぶりでしょうか。いや、4年ぶりかもしれません。
節子が病気になってから、湯島のオフィスで夕方まで一人で仕事をすることはほとんどなくなりましたから。

オフィスから夕焼けがきれいに見えます。
節子と何度、この夕陽を一緒に見たことでしょうか。
最近は高層ビルが増えたため、見えにくくはなっていますが、ビルの向こうの夕焼けは美しい。
その美しさは、節子がいた頃は何となく甘い感じのロマンを感じさせてくれましたが、いまは寂しさをつのらせます。
同じ風景が、見る人によって、その時々によって、大きく変わるものです。

節子との最後の遠出の旅になった東尋坊の夕陽、そしてその時お会いした、茂さんと川越さんの優しい笑顔を思い出します。
節子、あの2人は今も自殺予防のために活躍していますよ。
あの時の夕陽もすばらしかった。節子はとても喜んでいました。
私が茂さんたちに会えるなどとはあまり信じていなかったのかもしれませんが、とても感動的な出会いでした。
それもこれも、節子の応援で、全国のNPOを支援するコムケア活動をやっていたおかげです。
今もその仲間に、私は支えられています。
それに関しては、また書きましょう。
今日は夕陽の話です。

今日はめずらしく湯島のオフィスで仕事をしていますが、
言い換えれば、あなたがいない湯島で、やっと一人で過ごせるようになったということです。
誰かが来ている時には何ともないのですが、一人になると無性に節子のことが思い出されるのです。
このオフィスは節子と一緒に19年近く活動してきた空間です。
私たちの思い出がぎっしりと詰まっています。

壁に掛かっているリトグラフの「萌える季節」は、あなたが見つけてきてくれました。2人ともとても気に入っていました。それを見る度に、あなたの笑顔がその後ろに見えます。
あなたと一緒にいろいろな美術展にも行きました。
私はもう多分、美術展にも行くことはないでしょう。
あなたが隣にいないのであれば、行く意味がありません。

あなたの最後の仕事は、この部屋の改装でした。
その途中で、節子はオフィスには来られなくなってしまいました。
だから改装途中なのですが、そのままにしています。
あなたが自分で塗装するといって用意したペンキもそのままです。
いつかまた節子がふいに戻ってきて、仕上げてくれるかもしれませんから。

夕陽が沈んでしまいました。
夜は今も怖いです。
年甲斐もなくと笑われそうですが、本当に怖いです。

仕事の途中だったのですが、あなたへの挽歌を書きたくなってしまいました。

*これは昨日の6時前に書きましたが、ブログへのアップは1日遅れてしまいました。

■147:2人でハワイに行ったこと(2008年1月27日)
ちょっと重い話が続きましたので、少し軽い話を書きます。

節子と一緒に海外旅行に行ったのはハワイのキラウェア火山が最初でした。
と言っても、いわゆる観光旅行ではありません。
「サイエンス」と言う雑誌の懸賞論文に入選して招待されたのです。
その時の編集部の人から、節子へのお悔やみの手紙が来ました。
その人も、一緒にハワイに旅行したのです。

ハワイへの旅は私にとっても良い思い出になっています。
旅行への参加者を募集した際、名前を伏せて審査をしましたので、お2人に当選のお知らせをする時に、その住所を見て初めてお2人がご夫婦だったと知り驚いたのも懐かしい思い出です。

2人とも応募していたのですが、私は受賞の電話を会社で受けました。
まさか節子も入選するとは思ってもいませんでしたので、自慢してやろうと帰宅したら、節子から先に言われてしまったことを思い出します。

その旅は、とても刺激的で、夜、ホテルで同行の火山の専門家による講義もありました。みんなそれぞれの専門家で、専門性がないのは私たちだけでした。
その時ご一緒だった人たちとは、今も何人かお付き合いがあります。
一番若かったメンバーが、今売れっ子の茂木健一郎さんです。
節子はテレビで茂木さんを見る度に嬉しそうな顔をしていました。

節子が元気になったら、今度は家族でハワイにまた行こうと話していましたが、実現できませんでした。
「やれる時にやっておく」これは節子のモットーだったのですが、実現できなかったことがたくさんありすぎます。
みなさんも、もしやりたいことがあったら、早くやっておくことです。
「親孝行、したい時には親はない」というのは、伴侶にもまさにあてはまります。

■148:「賢明な人は生について考え、死については考えない」
(2008年1月28日)
「賢明な人は生について考え、死については考えない」
スピノザの言葉だそうです。
私が「賢明な人」だったことが証明されました。
しかし、最近、「死」のことを少し考え出しましたので、その「賢明さ」も危ないものになってきました。

私にとっては、「生」と「死」は全く別のものです。
死者は死を体験できず、死者は生を体験できません。
武士道では、死を意識して生きることが目指されますが、私には理解しがたいことです。
節子ががんになった時に、知り合いの医師から、「死に方の問題です」とアドバイスされた時には言葉が出ませんでした。
しかも彼は、統合医療の分野で活躍されている医師でした。
それ以来、統合医療にも関心を失いました。
その人は、その後、メールで何かできることはないかと言ってきてくださいました。
それに応えて相談のメールを出しましたが、なぜか音沙汰ありませんでした。
やはり彼は「生」には関心がなかったのかもしれません。
所詮、彼にとっての統合医療は「死の医学」だったのかもしれません。

「正法眼蔵」の公案に、「たき木はいとなる さらにかえりてたき木となるべきにあらず」というのがあります。
木は燃えて灰になる、しかし灰はもはや木にならず、そこにはつながりはない。
木と灰のつながりについては「前後際断せり」と切り捨てています。

生死もそうです。生きるものはいつか死にますが、死者は生き返りません。
しかも身体と違って、生命はある時点から完全にこの世からは見えなくなります。
いや生きている時にも、見えていたわけではありませんので、何も変わっていないのかもしれませんが、身体には戻ってきません。
死と生は、まさに際断された別物だと思います。

死を意識して生きるとは、いつ死んでも悔いのないように、その時々の生をしっかりと生きることでしょう。
しかし、死を前提にしなければしっかりできないような生き方は私の性には合いません。
節子は、がん宣告を受けてからは、1日1日を充実させることに心がけました。
節子のおかげで、私も日々の生き方の大切さを教えられました。
しかし、節子は決して「死」を意識していたわけではありません。
ともかく「生」を輝かせたかったのです。
私が接する限り、節子は最後まで「生きる」ことを目指して、毎日を充実させていました。
凄絶な最後の1か月さえも、ひたすら生を目指しました。
その姿を私は忘れることはないでしょう。
見事でした。

その頃、ある事件がありました。
私の知人が生活苦に陥っていました。
まだ若いのですが、いろいろな不幸が重なったのです。
長らく会っていなかったのですが、何となく会わないと行けないような気がして会いに行きました。
話を聞いてとても複雑な気持ちになりました。
中途半端な応援は躊躇したのですが、帰宅して節子に話したら、なぜ何もしてやらなかったのかと言われました。
節子は彼には会ったことがないはずです。
節子の勧めもあって極めてささやかな応援をしてしまいました。
その数日後、メールが来ました。
そこに自殺がほのめかされていました。
実に生々しい内容のメールでした。

必死に生きようとしている節子と共にある私としては、言い知れぬ憤りを感じました。
生きようとする人の辛さを知っていたら、自殺することなど公言することはできないはずです。
彼もまた死にたくて死のうとしているわけではありませんが、軽々しく「死」を口に出してほしくないと思ったのです。
その時に思い出したのが、冒頭のスピノザの言葉です。
出典もわからず、不正確かもしれません。ネットで調べましたが見当たりません。

また長くなってしまいました。
そのわりにいつも書きたかったところまで辿りつきません。
困ったものです。

ところで問題の彼は、その後、再出発を決意し、必ずいつか挨拶に来ると言ってくれています。

■149:声に出すことの大切さ(2008年1月29日)
時評のほうの記事に、何回か「言葉」の問題を書きました。
節子との別れ以来、言葉についていろいろと感ずることがありました。

節子がいなくなってからも、私はよく節子に話しかけています。
毎朝の祈り、寝るときの会話、真夜中の呼びかけ、1日に何度、あなたと話していることでしょうか。
節子、ちゃんと聴いていますか。
またか、と聞き流しているような気もしますが、まぁいいでしょう。

いずれも私は、声に出しています。
頭の中で話す内語と声に出す外語、さらには他の人に聴いてもらって反応してもらう会話、私はその3つは別のものだと思っています。
私は何かをやる時に、必ず声に出すことから始めます。
節子はそれをよく知ってくれていました。
節子がその言葉を聴いて反応してくれることで、私は行動へと向かえたことが少なくありません。
今は残念ながら反応はありませんが、声に出すことは続けています。

毎朝、般若心経をあげていますが、当然、声に出します。
私の母も、伴侶を亡くした後、毎日、般若心経をあげていました。
当時、私はあまり関心なく、一度も一緒にあげたことはありませんでしたが、節子をなくしてからやっと読経の意味が実感できました。
母への思いやりが足りなかったことを、今頃気づいているわけです。

声に出すこと、それだけでもとても精神が安定します。
独り言はかなり勇気が要りますが、読経は堂々とできますから、それだけで自らの心身を鎮める効果があります。
読経も供物も死者のためではなく、遺族のための仕組みかもしれません。
供養そのものが、そうかもしれません。
花より団子への私の考えは、間違っているかもしれません。
最近、そんな気もしてきました。

私の場合は、報告も節子の位牌や写真に向かって、声に出しています。
ですからわが家ではまだ、節子は実在しています。
節子の許可を得てから取り組むこともあります。
私にとっては、今もなお、節子が家族の大黒柱なのです。

声に出すことの意味はとても大きいです。
愛する人を亡くした人、別れてしまった人。
ぜひ声に出して話し合うことをお勧めします。
内語でではなく、外語で、つまり声に出して話すことで、意識はかなり変わります。

そうだよね、節子
もっとも家事に関しては、節子はいつもこう言っていました。
「あなたは口だけなのだから」

■150:「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」(2008年1月30日)
私を元気づけるために、さまざまな言葉をかけてもらってきました。
感謝しなければいけません。
しかし、何回か書いたように、悲しさや寂しさに打ちひしがれて人にはどんな言葉も逆効果になりがちですし、もし打ちひしがれない場合にはどんな言葉も心をすり抜けていきがちです。

しかし、自然に出てきた言葉であれば、逆にどんな言葉でも当事者の心に入ります。
感受性を高めている弱い人は、幼い子どもたちがそうであるように、また社会的弱者といわれる人たちの多くがそうであるように、言葉は表現ではなく、その心に反応するのです。
不遜な言い方かもしれませんが、私は節子との別れを体験して、初めて子どもたちやハンディキャップを持つ人の感受性が少しわかったような気がしています。

私が気になった言葉の一つに、
「亡くなった奥さんは喜ばないと思いますよ」
という言葉があります。
節子の気持ちは、夫である私のほうがわかっているという自負があるからか、私にはとても違和感のある言葉です。

40年以上、生活を共にしてきた私たち夫婦の間に、他の人が入り込める余地は皆無だと私は思っています。
間違っているかもしれませんが、そう思っています。
娘たちは、幸いにそのことをしっかりと認識しているようで、とても彼女たちに感謝しています。
彼女たちの声は、女房の声に近いのです。
そして私は、その声に違和感をもったことは一度もありません。
生活を共にするということは、きっとそういうことなのだろうと思います。
生活を共にする覚悟がないのであれば、結婚はすべきではありません。
男女の関係は、何も結婚だけではありませんから。

不条理に伴侶と別れるという状況に置かれて、「言葉」の意味がよくわかりました。
言葉が伝えることは、言葉で語られる内容ではなく、その言葉から見えてくる話し手の心です。
しかし哀しいかな、私たちはどうしても「言葉」の内容で発語し、受容しがちです。
そして自らの主観的な基準で、相手の心を解読し、反応してしまいます。
だから、相手の気持ちを忖度できずに、不快感さえ時に持ってしまうのです。
そうした時の自己嫌悪感もまた、大きいのですが、自然に感ずるのですから仕方がありません。
困ったものです。

ちなみに、私の今のすべての言動は、私の中に生きている節子との共創の結果なのです。
節子は今なお、私の内部で行き続けているのです。
節子が悲しむとしたら、おそらく私もまた悲しんでいるのです。

もしかしたらまた余計なことを書いてしまったかもしれません。
もう佐藤さんには声をかけられない、と思われてしまいそうですね。
すみません。
でも、声をかけてくださった方の思いは、しっかりと受けとめていますので、お許しください。

■151:新潟からチューリップが届きました(2008年1月31日)
節子
寒さは続いていますが、今日はとてもよい天気です。
私も少しずつですが、活動を再開しだしました。

今朝、新潟のKAさんからチューリップが届きました。
年末に富山の人が持ってきてくれたチューリップがなくなっていたところなので、節子のまわりがまた一段と華やかになりました。
昔は富山県が切花出荷量では日本1と聞いていましたが、最近は新潟市が球根も切花も出荷量日本一なのだそうです。
我が家の庭のチューリップは、最近、モグラに食べられてしまい、激減していますが、今年はチューリップの花に囲まれて、節子もきっとご機嫌でしょうね。

チューリップの花言葉は「愛」だそうです。
色によって、その愛もいろいろあるそうです。
贈られてきたのは、白、黄、桃色の3色です。
白は、「失われた愛」を意味するそうです。
次に黄色は、「正直・実らない恋」だそうです。
そして桃色、「愛の芽生え・誠実な愛」です。
占いもそうですが、こうした言葉は、当事者は自分なりに解釈して納得するものですが、私にもとても納得できるものでした。
「失われた、実らない」など否定的な言葉がありますが、それぞれに私なりの解釈ができるのです。
花言葉や占い言葉は、人を元気にするものです。

そういえば、一昨日、花かご会の人が、みんなで房総に花摘みに行ったお土産にストックを持ってきてくれました。
節子は本当に花に囲まれている人ですね。
どうしてこんなに花が絶えないのか、とても不思議な気がします。

でも正直にいえば、「花より団子」ではなく「花より節子」です。
だれか節子を贈ってきてくれないものでしょうか。
節子の細胞の一部を保存しておいて、クローン人間の技術ができた時に再生してもらうことを考えていなかったのを悔やんでいます。

■152:節子がいなくなってから変わったこと(2008年2月1日)
節子
まだあなたがいなくなったことの意味を理解できないまま、おろおろしています。
宮沢賢治の「雨にもまけず」に、「おろおろ」という言葉が出てきますが、その言葉が最近の私にはぴったりだなと思っています。
外からはまあそれなりにしっかりしてきたと見えるかもしれませんが、心情的にはまだ「おろおろ」しつづけています。
多分、娘たちはそれに気付いています。彼らはだませません。

ところで、節子がいなくなってから私にはいくつかの変化がありました。
今日はそのいくつかを報告します。

まず変わったのは、本を読むようになりました。
それもこれまでのように粗雑な読み方ではなく、時にはノートをとるほどしっかりと読んでいます。
読む本は、最近ちょっと気にいっているネグりなどの新刊もありますが、昔読んだ本の再読が多いです。
フロムやイリイチ、あるいは倫理学や正義論、自由論などの本です。
昔、あなたに得意になって講義?したことを思い出します。
しかし、今度は前に読んだ時とは違い、実感的に読めるような気がしています。
いつも、節子のこととのつながりを念頭に読んでいます。

なぜ読書時間が増えたか、それは節子との会話時間がなくなったことを埋めるためです。
ですから昔と違って、自宅で読書をしています。
あなたの写真の前で、です。

夜の就寝時間が早まったのも変化の一つです。
10時にベッドに入り、報道ステーションを見ます。
それが終わってから1時間ほど読書をします。それが最近の基本です。
節子がいた頃は、いつも遅かったのに不思議です。
隣に節子がいないのに、なぜか早くベッドに入りたくなるのです。
そういえば、帰宅時間も早くなりました。
節子がいないのだから、早く帰っても仕方がないということにはならないのです。
反対なのです。変な話ですが、今まで以上に、節子が待っているから早く帰ろうという気分になるのです。
自分でもなぜか分かりません。

パソコンに向かう時間は一時は減りましたが、また増えだしています。
ブログとホームページのために、1日、1時間近くは使っているかもしれません。
節子は私がパソコンに向かうのが好きではありませんでしたが、挽歌を書いている時は節子と話しているようなものなので許してくれるでしょうね。

食事の好き嫌いは言わなくなってきています。
娘たちが誠意を持ってつくってくれるものを、感謝しながら毎日食べています。
あなたには思い切りわがままでした。ごめんなさい。

他にも変わったことはいくつかあります。
しかし、節子への愛は、今も全く変わっていません。
昔も今も、節子を愛しています。
あなたも変わっていないといいのですが。

■153:生き急ぐ生き方への反省(2008年2月2日)
節子
あなたのことを思い出すたびに、今も胸が痛みます。
愛する人に会えない心の痛みは消えることがありません。

今日は、節子が書いた「1日の旅 おもしろや 萩の原」の額をみながら、コタツで越路吹雪と和田あき子を聞いていました。
今朝はとても早く目が覚めてしまったので、とても眠いのです。
越路吹雪のシャンソンの歌詞をこんなにゆっくり聴いたのは久しぶりです。
とても心に沁みてきます。

昨日、節子がいなくなってから変わったことを書きましたが、一番大きな変化に今気づきました。
眠気がとんで、目が覚めました。
変わったのは「生き方」です。
生き急ぐ生き方をやめたことです。
こんなにボーっとして自宅で越路吹雪を聴いたことが、この30年、あったでしょうか。
節子の体調が悪くなって、ベッドで横になっている時でさえ、お互いに何かしていたような気がします。
少なくとも、話をしていましたね。
話すことなど必要なく、ただ黙って2人一緒に越路吹雪を聴けばよかったのに、昔の家族のビデオを見たり、節子の足を揉んだり、いつも何かをしていたような気がします。
大切なのは、何もせずに、ただ並んでいることだったのだ、といま気づきました。

何かをしないといけないという強迫観念が、私たちにはきっとあったのでしょうね。
何もしないことの大切さを、私は頭ではわかっていたし、そうしようと心がけてきたはずなのに、一番大切な節子との最後の数か月、それを忘れてしまい、「治す」ことばかり考えていたような気がします。
それは私が一番避けたがっていた「明日のために生きる」生き方だったかもしれません。
節子は、明日よりも今日、と言っていました。
私もそれに賛成したはずなのに、実際には、今日よりも明日を考えていたのかもしれません。

その根底には、私の生き急いでいる生き方があったのでしょうね。
今やっとそれに気づきました。
最近、どうも身体が動かないのですが、それは私の身体がそうした生き方から抜け出ようとしているからかもしれません。

明日のために生きるのではなく、今をしっかりと生きること。
節子がそのことを私に気づかせてくれたのでしょうか。

シュバイツァーは、産業社会の中で、人々は自由を失い「過剰努力」をしていると指摘したそうですが、その意味が少しわかったような気がします。

節子、もう生き急ぐのはやめます。
ゆっくりと、あなたのように、毎日をしっかり生きるようにします。
ありがとう、節子。

■154:「誰かに褒められたいからがんばれる」(2008年2月3日)
NHK朝のドラマの「ちりとてちん」は、節子と一緒に見たかったドラマです。
前に一度書きましたが、心に響くことが多いのです。

先週はちょっと悲しい展開でしたが、私の心に特に残ったのはこんな言葉です。
主人公が師事している落語の師匠が、がんばって伝統工芸師の資格を取った職人やがんばって落語を続けてきた弟子などについて、「愛する人に褒めてもらいたかったからがんばれたのだ」というようなことを話すのです。
実はそれはまたその落語家自身のことでもあるのですが。

「愛する人に褒めてもらいたかったからがんばれた」
私もそうでした。
こんなことをいうと笑われそうですが、私にとっては節子に評価されることが、すべての行動の原動力でした。
節子に自慢したいがために、いろいろなことをやりました。
全く評価されなかったこともありますが、それもまた私には「ひとつの評価」だったのです。
世界中の人からの評価(そんな経験は全くありませんが)よりも、私には節子ひとりからの評価が大切でした。

これは私だけのことではないように思います。
どんな価値のあることを達成しても、身近な誰かに評価されなければ、虚しいのではないか。
そんな気がします。
偉業を達成した人が、まずは親に報告したい、というように、愛する人から褒められたいというのは、誰にも共通した気持ちではないでしょうか。

自分の活動を評価してくれる「愛する人」がいるかどうか。
それによって、人の行動は変わります。
たとえば、ヒトラーにもしもっと早い時気に愛する人が現れていたら、歴史は変わっていたでしょう。

では、愛する人がいなくなったらどうなるのか。
「ちりとてちん」の落語の師匠は、ひぐらしの鳴き声が、「カナカナ」ではなく「コワイコワイ」と聞こえるというのです。
彼は数年前に愛する妻を亡くしています。
「コワイコワイ」、生きるのがこわい、ということです。
私もそうです。
生きることの辛さ、怖さ、それをいま感じています。

来週の「ちりとてちん」は、生きるのがこわい、という師匠の話から始まります。
ちょっと見るのが辛そうです。

今日は節子の4回目の月命日です。

■155:鬼は内、福も内(2008年2月4日)
昨日は節分でした。
私にとって節分は2月4日と頭に刻みこまれています。
2月4日は節子の誕生日、そして節子は「節分」に生まれたので、節子と命名されたと思いこんでいるのです。

前に私たちの「結婚通知状」のことを少し書いたことがありますが、その結婚通知状に節分と節子の話を書いた記憶があります。
その通知状が見つからないのですが、たしか
結婚する節子は、節分の豆に追い出された鬼の涙のようにやさしい人です
というようなことを書いたような気がします。
これだけ読むと、何か節子が悲劇の人のようになりますが、
そうではなく、私の理想の女性像を無理やり重ねてしまったのです。

私は、鬼を追いやる風習に強い違和感がありました。
排除の発想が私には許せなかったのです。
鬼を追いやる側ではなく、追いやられる鬼の側になりたいと子供の頃からずっと思っていました。
そうした気持ちが、きっと「節分生まれの節子」に重なっていたのです。
節分に生まれたのであれば、やってきた「福」のほうだと考えるのが普通ですが、どうもその頃から私は斜に構える傾向があったようです。
どうも素直ではないですが、当時から私は自分の発想こそが本当の素直さだと確信していました。いまもそうですが。
困ったものです。

節子と結婚した時に、私が提案したことで採用されたことの一つが、節分には、
「鬼は内、福も内」
と言って豆を撒くことでした。
節子はしぶしぶ賛成してくれました。
もっとも節子は、たしか、
「福は内、鬼も内」
が良いと言ったような気がします。
節子はそれを新聞に投稿したことがあります。
節子は投稿が大好きで、いろんなところに投稿していました。
それは、朝日新聞の「ひととき」に掲載されました。
このブログを書くのに、その切抜きを探したのですが、やっと見つかりました。

その記事を読んで、私自身の思い違いに気づかされました。
節子はどうも私の意見に賛成していたわけではないようです。
切抜きをお読みいただければわかると思います。
左の写真をクリックすると大きくなります。
私の独善的な押し付けが、他にもいろいろとあったかもしれません。
気づかなかったのは、私だけだったのでしょうか。
節子に謝らなければいけませんね。

節子は、呼びこんでしまった鬼たちに連れて行かれてしまったのでしょうか。
寒い夜に、せっかくあたたかい家を提供していたのに、もしそうならば哀しい話です。
今からでもいいので、返してほしいです。
私と引き換えでもいいですから。

昨日の豆まきの私の掛け声は、「節は内」でした。
しかし今朝も節子には会えませんでした。

■156:2つの世界に生きる2人の私がいます(2008年2月5日)
節子がいなくなってから4か月もたったのに、まだ節子の不在が心身で理解できずにいます。頭では理解しているのですが。
この状況はなかなかわかってもらえないでしょう。
自分でも理解しがたいですから。

2つの世界に生きる私がいるのかもしれません。
節子のいない世界を生きる自分と節子がいる世界にとどまっている自分です。

後者の世界の私にとっては、時間が止まっています。
今も節子のベッドが置かれていた部屋でこれを書いていますが、顔をあげるとベッドの上で私に笑いかけている節子の笑顔が見えるのです。
もちろんベッドさえも今は無いのですが。
節子のいない世界には進みたくないという思いが、私をとどめているのでしょうか。

その一方で、時間は私の思いなどとは関係なく進んでいます。
笑われそうですが、節子がいないのにどうして世界はこれまでと同じように進んでいくのだろうかという馬鹿げた思いを持つことも少なくありません。
しかし、当然のことながら私の周りの世界の時間は今までと同じように進み、私の周りでもさまざまな事象が起こっています。
そうした節子がいない世界においても、実は私は節子の死をまだ受け入れられずにいるのです。
周囲の変化や時間の経過についていけずにいるわけです。
私の世界の中心だった節子がいない世界などあろうはずがないという気がどうしてもしてしまうのです。
身勝手なことで恥ずかしいですが。
しかし、そうした時間が動いている世界の中で生きていかないといけないという現実は否定できません。
その世界に完全に身を任せれば、楽な生き方ができるのかもしれません。
しかしそれは、節子への裏切りであるばかりでなく、節子の世界にとどまっている自分を抹殺することになります。
そんなことはできるはずがありません。

節子の世界に置いてきてしまった自分と新しい状況に付きあわなければいけない自分。
「時間が癒してくれる」どころか、実際には時間が2つの私を引き裂いてしまっているのです。
時間はどうして前にしか進まないのでしょうか。

■157:節子、あなたに供えるのを忘れてしまったよ(2008年2月6日)
これは昨日の「事件」です。

夢で久しぶりに節子とお寿司屋さんに入りました。
行ったことのないお店でしたが、節子が入ろうと言ったのです。
ところがお店に入ったら混んでいて、空席が無いのです。
というよりも、どの座席にも荷物が置いてあって、誰かが席をとっているのです。
それで座席を探しているうちに、目が覚めてしまいました。
おかげで、私たちはお寿司を食べられなかったわけです。

節子はお寿司が特に好きだったわけではありませんが、わが家ではそれぞれの誕生日はみんなで創りながら食べる手巻寿司パーティが定番でした。
だからお寿司にはそれなりの思い出があるのです。
もっとも節子は病気になってからは、あまり食べることができず、お店に行ってもせいぜい2〜3巻が限度でした。
ですから、きっとまた食べたいと思っているという気がしました。
そこで昨日はお寿司にしようと娘たちに提案しました。

雪で日曜日にお墓に行けなかったので、お墓参りをし、その帰りにスーパーでお寿司パックを買ってきました。
最近ちょっと貧乏なので、出前を節約してしまったわけです。
そして、みんなでお寿司を食べました。
問題はそこからです。

食べ終わってから、気が付いたのです。
あれ、節子にお供えしなかったね。
私が言い出したことなのに、節子に供えることを完全に忘れてしまったのです。
いつもは必ず残るのですが、今回は少な目に買ってきたせいか、みんな食べきってしまいました。
それで節子はまたもや食べられない結果になってしまいました。
私は食べられましたが。

私たちが食べているところを、節子はきっと笑いながら見ていたでしょうね。
その節子の笑い顔が目に浮かびます。
まぁ、わが家ではこうした事件はよくあったことなのです。
いつも責任は私にありましたが。

代わりに供えるものもないので、私が節子に謝ることで許してもらうことになりました。
薄情な家族ですが、まあこういう家族を育てたのは節子なので、自業自得というべきでしょう。はい。

今度はどんな夢を見るか、いささか気になりましたが、幸いに昨夜は節子の夢を見ませんでした。
もしかしたら他の人とお寿司を食べに行っていたのかもしれません。
そうだとすると、ちょっと不安ではありますね。
だんだん節子に嫌われそうで心配です。

■158:2つの元気さ(2008年2月7日)
今日は2つの元気の話です。
先週、広島のOさんから電話があり、元気そうな声で安心したと言われました。
このブログを読んでくださっている方は、私が全く元気を失っているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
元気がないのは事実ですが、元気なのも事実なのです。
私に会った人は、なんだブログに書いているのは創作か、と思うほどに元気に見えるかもしれません。
もちろん創作ではなく、むしろ現実よりも少しだけ明るく書いているつもりです。

しかし、誰かと会ったり、電話したりしている時には、以前の私とそう変わらない私になります。表情や声ではなく、気分が、です。

人には「変わる自分」と「変わらない自分」があります。
節子との別れで、そのことを改めて実感しています。
時評のほうで一度書きましたが、それは「ゾーエ」と「ビオス」の2つの私がいるからです
ゾーエとは「個人としての生の自分」、ビオスは「社会の一員としての自分」と言ってもいいでしょう。
もちろんそれらはつながっていますが。

ここから話がややこしくなるのですが、私の場合は、ゾーエにおいては元気を失い、ビオスにおいては元気なのです。
平たく言えば、人との付き合いにおいては元気になれるのですが、その根源における意識においては、気を削がれているわけです。
にもかかわらず、実は変わったのはビオスとしての自分であり、変わらないのはゾーエとしての自分なのです。
もっとややこしく言えば、気が削がれてしまったゾーエとしての自分が、無意識の世界において、此岸を超えて、すべてにつながりだしたという意味で、新たなる気を得ているのに対して、社会との接点にいるビオスの私は社会とうまく同調できずに気が出てこない面もあるのです。
節子とのつながりが強いのは、いうまでもなくゾーエの世界だからです。

でも、それと元気とは少し違っています。
唯識論の世界の話になってしまいそうなのでやめますが、要するに、私は元気であって元気でないわけですが、いずれにおいても違う意味で実は元気なのです。
ますますややこしくなってしまったでしょうか。

人はみんな2つの「元気」を持っている、それに気づいたのは最近です。
私はこれまで、さまざまな人の「元気」と付き合ってきましたが、その後にあるもう一つの「元気」への気遣いが足りなかったかもしれません。

いなくなった節子は、まだまだいろいろなことを気づかせてくれます。

■159:「それらはすべて瑣末なことですよ」(2008年2月8日)
節子
あなたも会ったことのあるYTさんも就職してもう2年がたちます。
最近連絡が無かったのですが、会いにきました。相談事があるというのです。
最近、元気がないようですね、とメールに書かれていました。
湯島で久しぶりに彼に会っていたら、突然の訪問客がありました。

ドアをあけるとこれまた久しぶりにTさんでした。
花を持ってきてくれたのです。
私もずっと気になっていたので話したかったのですが、YTさんの相談にのっていたため、花を受け取ることしかできませんでした。
しかし、その時のTさんの顔の表情が心に残りました。
帰宅すると、Tさんからメールが届いていました。
私信ですが、勝手に掲載させてもらいます。一部、変更していますが。

大変ご無沙汰いたしました。
今日は、近くにきたのでとりあえずお伺いしてみよう。
お留守なら明日でもとご連絡すればいいことだからと思い電話もかけず勝手にお伺いしてしまいました。

人生相談にのっていただいたのは、もう5、6年以上前のちょうど同じ頃だったなあと思い出しながら、久しぶりの湯島の急な坂を上がりました。
「それらはすべて瑣末なことですよ」というお言葉が今も強く印象に残っております。

数日前に偶然ホームページを見て、奥様の件を知りました。
佐藤さんの悲しみ、辛さ、空虚感と共に、変わることない奥様への強い想いや永遠に変わることのない愛情がひしひしと伝わって参りました。

かみさんにそのことを話しました。
共に若くないのでお互いに身体を大事にして、長生きをしよう・・・そんな話しになりました。
普段はケンカばかりしている仲の悪い?夫婦ですが、「おまえをもっと大事にしないといけないな・・・」などと普段は思っていても恥ずかしくて言いにくい言葉が何故か自然と出てまいりました。

一月の末に母の三回忌を終えて、父も母も仏壇の仲からいつも我々家族を見守ってくれている、素直にそういう気持ちに最近やっとなれたところです。
人の一生の儚さを母や父が教えてくれました。

佐藤さんに何かできることはないものかと考えましたが、ブログを読むほどに無力感におそわれました。

奥様が好きだったお花を持ってお伺いしよう、元気な姿を見せにいけば少しでも気分転換になってもらえるのではと。
そう勝手に思って本日は唐突にお伺いした次第です。
近くまでゆきましたら、またおじゃまさせていただきます。

何回も読みました。
Tさんは私を元気にしようとわざわざ来てくださったのです。
久しく会ってもいないのに、来てくださった思いがうれしくて、ついつい無断でブログにまで書いてしまいました。

出会いの場を創ってくれる節子に感謝しなければいけません。
ふと思い出したことがあります。
父の死の時、具体的には思い出せないのですが、人は死ぬことによって出会いの回復や新しい出会いを家族に残していくものだと感じたことがあります。
そのことを何かに書いた記憶があります。探してみようと言う気になりました。

ところで、Tさんのメールを見て、はっと気づきました。
もしかしたら、若いYTさんも私を元気付けに来たのでしょうか。

私は、新しい「結い」が社会に育つと良いなと思っています。
昨夜もそういう場づくりをしませんかという集まりをしてきたところです。
でも、そういう「結い」はもともと存在しているのです。
支えあっているのは自然界だけでもなく、人間界も同じなのだと、昨夜はすごく幸せな気持ちになれました。

Tさん
ありがとうございました。
私がいま思い煩っていることの多くは、「瑣末なこと」なのでしょうね。
忘れていた大事なことを思い出させてもらえたような気がします。
でももうしばらくは、その「瑣末なこと」から抜け出られそうもないのですが。
またゆっくりと遊びに来てください。

■160:結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれません(2008年2月9日)
節子
またNHK「ちりとてちん」の話です。

病床の師匠に、主人公が、大好きだった祖父を亡くした時のことを思い出して、もう二度とあんな思いをしたくない、大事な人が大好きな人が遠くへ行ってしまうのは嫌だと泣きながら話します。
師匠がいいます。
それがいやならお前が先に死ぬしかない、そうしたら俺が悲しい思いをすることになる、おれにそんな思いをさせたいのか。
表現はかなり違いますが、まあそういうことです。

節子を送った時、私も何回か師匠と同じことを考えました。
これほどの悲しさや辛さを節子に与えることがなくてよかったと思ったのです。
私がいなくなって、節子ひとりだったら、果たして耐えられたかどうか、私が節子に依存していたように、実は節子もまた私に依存していたからです。
節子はしっかりしている部分ととても頼りない部分がありました。
私たちは本当に似たもの夫婦だったのです。

しかし、ちりとてちんの場合と私たちの場合は、事情が全く違うのです。
師匠は死ぬのには順番があるといいますが、私たちはその順番が違っていたのです。
私は節子より4歳年上です。
私が先に逝くのが順番なのです。
その順番が守られなかったことが、ともかく悲しくて辛いのです。
ですから、もし私が先に逝っても、多分節子は私ほどの辛さは体験しなかったでしょう。
最近はそう考えるようになりました。
事実、節子は、私を見送れないことが一番の心残りだと話したこともあります。

ですから、ますます節子が不憫でなりません。
そして私自身もまた不憫でなりません。
別れを悲しんでくれる人がいないのですから。
娘は悲しんでくれるでしょうし、友人も悲しんでくれるでしょう。
しかし残念ながらそれは伴侶の悲しみとはたぶん全く違うでしょう。
私自身、同居していた両親を見送りましたが、悲しみの質が違うのです。
死を悼む気持ちは、それぞれ別々で、比較などすべきではないことはわかっていますが、伴侶の死は極めて異質なのです。
それも自分より若い伴侶の場合、恐ろしいほどに辛いものです。
まだ結婚されていない方は、ぜひとも年上の人と結婚することをお勧めします。
結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれない、そんな気さえ、最近しています。

ドラマの中で、師匠は、「お前より先に俺が死ぬのが道理。消えていく命を愛おしむ気持ちが、だんだん今生きている自分の命を愛おしむ気持ちに変わっていく。そうしたら、今よりもっともっと一生懸命に生きられる。もっと笑って生きられる」と主人公に言います。
この言葉は、残念ながらいまの私には全く共感できずにいます。
しかし、自分以外の人たちの命を愛おしむ気持ちは強くなってきています。
私の命は、他者の命によって支えられていることを強く実感し出しています。

■161:「あんないい人生はなかった」と思えるか(2008年2月10日)
コムケア活動を通して知り合った大阪のNさんが、もしよかったらと言って星野道夫さんの「旅する木」を薦めてくれました。
Nさんも、数年前に夫を見送っています。
いまは高齢社のためにとても誠実な活動をされています。

星野さんはアラスカを中心に活動していた写真家で、10年ほど前にクマに襲われて生命を落とした人です。
星野さんの友人の池澤夏樹さんが「解説」を書いています。
書かれた時期は、星野さんが亡くなってから3年目でした。

最近ぼくは星野の死を悼む気持ちがなくなった。彼がいてくれたらと思うことは少なくないが、しかしそれは生きているものの勝手な願いでしかない。本当は彼のために彼の死を悼む資格はぼくたちにはないのではないか。彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない。
(中略)
3年近くを振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼくは思えるようになった。

節子のことを、「あんないい人生はなかった」と私が思える日がくるでしょうか。
そうあってほしいと心から思いますが、今はとてもそういう気分にはなれません。
「彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない」という言葉にも共感するのですが、節子に関しては、私にだけはその資格があると思いたいです。

この本はエッセイ集なのですが、そのひとつに「歳月」という文章があります。
繰り返し読みました。
そこに、星野さんの幼馴染の親友が谷川岳で遭難して亡くなった時の話が出てきます。
そこにこんな話が出てきます。

遭難現場でTの母親と会った。変わり果てたTを見つめ、涙さえ見せなかった。そればかりか、「あの子のぶんまで生きてほしい」と、優しき微笑みながら言った。

見事な母親です。私とは全く正反対のような気もしますが、もしかしたら私と同じかもしれないとも思いました。私も、もしかしたらそうしたかもしれないという気もするのです。事実、節子がいなくなってからの数日は、実感がでてこないために、私自身もちょっと冷めた言動をしてしまったこともあります。
そういう体験があればこそ、このシーンがとても心に突き刺さるのです。

親友の死、息子の死。
いずれも「愛する者」の死にまつわる話です。
しかし、どうも私にはいずれもピンときません。
やはり伴侶の死は、親友や親、さらには子どもとも異質な気がします。
でもいつか、節子は少し早く旅立ったけれど、「あんないい人生はなかった」と思える日が来てほしいものです。

■162:「そうかもう君はいないのか」は誰に話しているのでしょう(2008年2月11日)
城山三郎さんの「そうかもう君はいないのか」が出版されましたが、私も今なお、同じような言葉を口に出すことが少なくありません。
でも城山三郎さんの本は購入する気になれずにいます。
昨年、新聞で記事を読んだ時には、雑誌に掲載されたというのですぐに書店に行きました。
その書店にはその雑誌はもうなくなっており、正直少しホッとしたことを覚えています。
読みたいようで、読みたくない、そんな気分でした。
いまはむしろ読む気力が萎えています。

本を読んでいないので、勝手な推測なのですが、城山さんはきっと亡き奥さんと毎日たくさん話をしていたのだと思います。
そして時折、返事が返ってこないのを訝しく思って、はっと気づくわけです。
「そうかもう君はいないのか」
私には実にリアルです。
その言葉もまた、亡き奥さんへの言葉なのです。

以下は城山さんの話ではなく、私の場合です。
私の場合は、「そうかもう節子はいないのか」と声に出した後で、むしろ節子への話をしだしてしまいます。
「そうかもう君はいないのか、でもちゃんと聴いていてくれるよね」という思いがあるからです。
つまり、「もう節子はいないのか」と言う言葉は、実は節子がいないことを信じていないことの自己確認の言葉なのです。
節子、君はいないけれど、今でも一緒だねということを声に出して確認することで、自分を鼓舞しているわけです。

私がいなくなった後、娘たちは「そうかお父さんはもういないのか」と口に出して言ってくれるでしょうか。
たぶん言ってはくれないでしょう。
それが親子と夫婦の違いではないかと私は思います。
愛情の多寡の問題ではなく、関係の違いです。

同居していない人にとっては、私と違う意味で、愛する人の死は実感できないものだと思います。
私も何人か経験があります。
今でも節子さんから電話がかかってくるような気がしてならない、と何人かの人から言われました。
HKさんは、携帯電話に電話してみようと思うのだが、もしかしたら「この電話は使われていません」と言われそうなのでやめているとメールしてきました。
「もしかしたら」ではなく、間違いなくそうなのですが、その気持ちがよくわかります。

私も含めて、たくさんの人の心の中に、まだ節子がいるのであれば、なくなったのは身体だけなのでしょうか。
とすれば、「そうかもう君はいないのか」という私の言葉に、「ここにいるのにまだ気づかないの」と節子は言っているかもしれませんね。

ところで、城山さんは奥さんに会えたでしょうか。
時々、そのことを考えてしまいます。

■163:節子の遺品(2008年2月12日)
節子
あなたが使っていた「老眼鏡」をいま私が使っています。
なかなか調子もいいです。

節子の日用品で、私が使えるものがないかなと思っていて、気がついたのが老眼鏡です。
節子は遠近両用のめがねを使っていましたが、私は遠近両用などという発想が潔くないので、好きではありませんでした。
でも、節子が残したもので、日常的に使えるのはこの眼鏡くらいなので、使わせてもらうようにしました。
自宅でしか使っていませんが、このブログの作成の時には、だいたい着用しています。今もそうです。
最初は少し違和感がありましたが、いまはとてもぴったりします。

眼鏡を通して、あなたが見ていた世界が見えてくるかもしれないなどと思ったりして、時々、かけたまま家の中を歩きます。

節子の遺品はどうしたらいいでしょうか。
昔は形見分けといった文化がありましたが、今の時代はそういう考えもけっこう難しいです。もらった人がどうして良いか迷うのではないかという気もするので、難しいものです。それにあなたの遺品は、私にとっては大きな価値がありますが、他の人にとってはどうということもないものばかりです。
ところがです。

北九州市のMMさんが、節子からもらったカップで、節子と毎朝、コーヒータイムを楽しんでいると手紙をくれました。
それにつづいて、滋賀のHKさんが、
「節ちゃんからもらったメガネケースはいつも一緒です」
とメールをくれました。
遺品とは違いますが、むしろこういう形で生前にいろんな人に何かをプレゼントしていくのがいいですね。
もし死後にも思い出してもらいたい人がいたら、その人が使ってくれるだろう物を元気なうちにプレゼントしておくのがいいなと気づきました。

節子
君からもらったものがなにかあるかなあ。

■164:小さくて不要になったものを送ってください(2008年2月13日)
昨日、節子の遺品を話題にしましたが、こんなとてもお洒落な体験をしました。
私も見習いたいと思いました。
本人の了解は得ていませんが、私はとても感激したので紹介させてもらいます。

49日が終わってから、YTさんから節子に花を供えてほしいとお花料が届きました。
こんな手紙がついていました。

仰々しい物ではなく、わずかなお花を何度も供えていただければ嬉しいな。私流の我侭ですが、お返しはしないで下さい。頂いても嬉しくありません。いつもそのようにお願いしているのですが、「どうしても」という方には、ご本人が使っておられた、例えば鉛筆の使いさし、或いは栞、その他なんでもよいが小さくて不要になったもの一つ送って下さい。思い出として保管します、と言うことにしています。

この手紙を読んだ時に涙が止まりませんでした。
YTさんは30年以上、いやもっと長く会っていないかもしれません。
私が20代初めに出会った人ですが、まさにYTさんらしい話です。

節子の使っていたものから何を選ぶか。
選ぶのに2か月かかりました。
そしてYTさんにとっては全く役に立たないものを選びました。
その間、私は節子とYTさんのことを時々思い出すことができました。
とてもいい時間をもらったわけです。

そしてYTさんからの花基金が、今もなお節子を囲んでいます。
とても大事に使わせてもらっています。

■165:貧相な生き方(2008年2月14日)
私の友人知人には、節子の訃報を知らせませんでした。
受け取った人の気持ちを考えると悩ましい問題ですし、かといって事務的に知らせるのは私の好むところではありません。
知らせないのであれば、それを貫くべきだったのですが、受け取った年賀状を見ていたら、急にみんなに節子のことを知らせたくなってしまいました。
まだ節子のことを知らない人がこんなにもいるのか、と思ってしまったわけです。
身勝手なものです。
なかには節子を知っている人もいましたし、私の悲しみへの同情を引きたいという邪念もあったかもしれません。
いやな性格としか言いようがありませんが、できるだけ自分の気持ちに素直に生きることが、私のライフスタイルなのです。

ところが、その知らせを受けたNさんから、私の身勝手さを恥じることになるメールが来ました。

まったく承知していませんでした。
人様のことに少しでも関心があれば、時にはブログを開くという行為に及ぶのでしょうが、そんな心のゆとりを欠いた日々を送っているわたしが、とても小さく思えます。

タイトルは「貧相な生き方」でした。
Nさんはとても誠実な方なのを私はよく知っています。
私よりご年配ですが、大学を引かれた後、NPOで活動しながら、後進のためにと積極的な著作活動にも取り組まれている方です。
「人様のことに少しでも関心」どころか、たくさんの関心を持って実践的に活動されている方です。
時間を惜しんで社会活動をされていますから、私のホームページを訪れる必要などあるはずもありません。
その人に、こんなことを書かせるとは言語道断です。
きっと私の手紙の文面に、ブログを読んでくださいという気持ちが現れていたのでしょう。
「貧相」だったのは、私のほうだったわけです。

このメールで、私が衝撃を受けたのは、自分の生き方がまさに、
「人様のことに少しでも関心があれば、時にはブログを開くという行為に及ぶのでしょうが、そんな心のゆとりを欠いた日々」であることに気づかされたからです。
私自身、ブログを書くことに毎日1時間近い時間をかけていますが、友人知人のサイトを見る時間はさほどありません。
何と貧相なことでしょう。反省しました。
せめてブログを書く時間と同じくらいの時間は、友人知人のブログを読むことにしようと思いました。
それがブログを書くものの義務かも知れません。
貧相な生き方をしていたら、節子に顔向けができなくなります。
Nさんからのメールで数日、落ち込んでしまっていました。

しかし、それにしても、人のつながりの輪を少し広げすぎてしまいました。
友人がそんなに多いと、付き合いが粗雑になるんじゃないの、と昔、ある友人から言われたことがあります。
節子と違って、私は人との付き合いが粗雑だったかもしれません。
きっと「強欲」だったのですね。
節子は決して粗雑な付き合い方はしていなかったようですね。
改めて感心しています。

■166:使われることのなかったトレッキングシューズ(2008年2月15日)
下駄箱の中に、まだ使ったことのないトレッキングシューズが2足あります。
節子のと私のです。
節子の手術後、元気になってきたので山歩きに挑戦しようということになり、まずはトレッキングシューズを買おうと私が言い出したのです。
節子は乗り気ではありませんでしたが、わざわざ車で靴の専門店に行って、2人で買ったのが、このシューズです。
千畳敷カールに行く時に、このシューズを履いていこうかといいましたが、ちょっと大げさではないかと言うことになり、いつものシューズで出かけました。
そんなわけで、結局、このシューズは一度も使われることがありませんでした。

節子は、あなたは使いもしない無駄な物を買うことが多いと、良く言っていました。
確かにその傾向はあったかもしれませんが、私にとってはいつも無駄な買い物ではありませんでした。
買った物が無駄になることはよくありましたが、買い物には必ず意味がありました。

特にこのトレッキングシューズはたとえ使われなかったとしても、無駄ではありませんでした。
十分に効用を発揮したと思っています。
私も節子も、それぞれに、元気になって山に行くんだという思いを相手に伝えることができたのです。
いつかこれを履いて山に行くという、私たちの思いの象徴でした。
ですから使われなかったとしても、全く無駄にはなりませんでした。
私たちを元気にさせてくれたのですから。

こうした物がいくつか残っています。
それらは、節子を元気づけ、私たちに希望を与えてくれました。
しかし、いまそれらが私に与えてくれるのは、元気ではなく、悲しさだけです。
でも処分する気にはなれません。使う気にもなれないのです。
節子が戻ってきて使うかもしれないなどという、不条理は思いさえ、時に持ってしまうのです。
未練がましい話なのですが。

■167:重荷を背負いあうのが夫婦(2008年2月16日)
『ヒデとロザンナ』のロザンナさんの次男が大麻所持で逮捕されました。
その謝罪会見のテレビをたまたま見たのですが、次の言葉にひきつけられました。
私はヒデ(亡き夫です)にも怒りを感じています。
彼は今も私たちと一緒にいると思っていますが、なぜ彼は止めてくれなかったのか、私が来世で会った時に、問い正したいです。
とまあ、こういうような発言をされました。
ヒデとロザンナ夫妻の哀しさに心が痛みました。
しかし、その言葉に、2人はいまも「重荷を背負い合って生きている」ことを感じました。

私も、今も節子が私と共にあると思っています。
時に辛いことを節子に話しかけます。
いるんだったら反応してほしいと思いますが、節子は返事をしてくれません。
しかし、現世の重荷をもう節子からは解放してやりたいという思いもあります。
もし私に重荷があるとすれば(実際にあるのですが)、それは私一人で背負っていこうと思っていました。
その考えをやめようかと思いだしました。

人には、それぞれそれなりの重荷があります。
そのなかには、一人でしか背負えないと思えるものもあります。
夫婦はまさに、そうした一人でしか背負えない重荷をシェアできる、あるいは少なくとも理解できる存在なのではないかと思います。
重荷を背負いあってきたと確信しているロザンナさんの気持ちがよくわかります。
私たちも、それぞれの重荷を背負いあってきました。
結婚する前後に、お互いにほとんどすべてを相手に開放しました。
節子が一人だけで背負っていた重荷はなかったはずです。
私にもありませんでした。
それが私たちの最大の幸せだったのです。

足立区で起こった父親による家族死傷事件はあまりに痛ましく、今でもあまり理解できない事件ですが、父親が重荷を背負い過ぎたのかもしれません。
重荷を分かち合える人がいる人は幸せです。

生きることのこわさが、最近、やっとわかってきました。
誠実に生きなければいけないと、この歳になって、改めて感じます。
彼岸で節子に会った時に、私が自慢できることは、きっとそれくらいでしょうから。

■168:生命を所有していた節子、身体を所有していた節子(2008年2月17日)
熊野純彦さんの「レヴィナス入門」を読んでいたら、こんな文章に出会いました。
レヴィナスはナチス政権下に生きたユダヤ人です。偶然にも生き残ったのですが。

「親しかっただれもかれもいなくなってしまってなお、世界はありうるのか。そうであるなら、世界の存在そのものが無意味ではないだろうか。(中略)
中心を喪失し、意味を剥落させた世界が、なおも存在する。存在し続けている。そのとき、たんに「ある」ことが、どこか底知れない恐怖となるのではないか」

難しい文章ですが、とても共感できます。
熊野さんの「差異と隔たり」(岩波書店)も並行して読んでいますが、奇妙に心惹かれるメッセージが多いのです。
節子との別れを体験する前であれば、熊野さんの本は単に理屈だけの本と受け止めたでしょうが、いまはとても素直に実感できます。

同じ本に、ヒトラードイツが滅んだ後の風景に関して、こんな記述があります。

「物理的に破壊された世界、砲弾によって挟まれた街並みはやがて修復される。修復された街並みは無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。世界内では「あらゆる涙が乾いてゆく」。空恐ろしいのは、そのことである」

気持ちが痛いほど伝わってきます。
人の死とはいったい何なのか。
節子を看取って以来、ずっとそのことを考えていますが、何もわかりません。
そもそも「死」という概念がおかしいのではないかという気さえしだしています。

大きな全生命系にとって、個人の死は私の毛髪が1本ぱらっと抜け落ちるのとそうかわらないのかもしれません。
そう遠くない先に、私もまた同じように抜け落ちてしまうのに、どうしてこうも空恐ろしいのか、不思議です。
死に対する恐ろしさは全くないのですが、いまここに「あること」が恐ろしいのです。

「差異と隔たり」に、
私は私の生命を所有する、というよりも、むしろ生命こそが私を所有している。
というような記述が出てきます。これは、手塚治虫の「火の鳥」は、まさにこういう発想に貫かれているように思いますが、そう考えるととても納得できることが多いです。

私が愛しているのは、生命を所有していた節子なのか、身体を所有していた節子なのか、どちらなのでしょうか。
私は節子の生命も身体も、共に深く愛していたことは間違いなく、それは不二なものだと思いますが、もう少し考えたい問題です。
この問題を考えて行くと、なんだか節子に会えるような気がしてならないからです。

今日はちょっと心の深遠を書いてしまいました。

■170:1年前は花畑に行きましたね(2008年2月19日)
節子
寒い中にも春を感ずるようになってきました。

昨年の今日は、家族で南房総にドライブ旅行に出かけた日です。
節子の好きな花いっぱいの南房総でした。
節子は歩行も辛かったと思いますが、好きな花を買ったり、イルカのショーを見たり、家族によくつきあってくれました。
来年も来ようと思っていたのに、私にとっては予想外の展開でした。
まさかこんなに早くあなたがいなくなってしまうとは誰も思ってもいませんでした。
節子がいつも笑顔で私たちに接してくれていたので、節子の本当の辛さをわかっていなかったと反省をしています。
鴨川シーワールドでは、車椅子を借りようかといいながら、結局歩かせた記憶もあります。
私には車椅子の節子がどうしてもイメージできず、きっとあなたに無理をさせてしまったのでしょうね。
でも、ゆっくりとみんなで歩いたあの時のことは、いまでもしっかりと覚えています。

とても残念でしたが、あれが家族での最後の旅行になってしまいました。
あの時の節子のことを思うと胸がつまります。
あの旅行の写真は、その後、見る気がしません。

テレビで南房総の花畑が出ると、今でも私は思わず目をそらしてしまいます。
あまりに節子の思い出が強いからです。
節子と一緒には、もうあの花畑には行けないと思うと胸が痛みます。
だらしない話ですが、また涙が出てきてしまいました。
どうしてこうも毎日涙がでてくるのでしょうか。
あなたには本当にもう会えないのでしょうか。
会いたくて仕方がありません。

いつもはそれなりに平常心を維持できるようになったのですが、こうしてあなたの具体的な姿を思い出すと嗚咽したくなるほど気持ちが高ぶるのです。
あなたをどれほど愛していたか、いまさらながら思い知らされています。
なんでこんなに愛してしまったのでしょうか。
困ったものです。

■171:腰が抜けるほど大笑いしていた節子(2008年2月20日)
娘たちとテレビを見ていると、お母さんはこう言うだろうね、とか、お母さんに見せたいね、と誰ともなくいうことが少なくありません。
節子も私も、そうテレビは見なかったと思いますが、体調がすぐれなくなってからは節子はテレビを見る時間が増えました。
なんでこんな馬鹿げた番組が多いのだろうと怒りながらも、その馬鹿げた番組が気にいることもありました。
笑うことが免疫力を高めるというので、私たちは笑える番組をできるだけ見ていましたが、気持ち良く笑える番組は、残念ながら今のテレビでは少ないようです。

テレビではありませんが、夫婦の会話や家族の会話で節子は笑うことが多かったように思います。
それもまさに腰を抜かさんばかりに大笑いし、私に支えられて転倒を避けると言うような場面も少なくありませんでした。
節子はおかしい話を聞くと、本当に「腹をかかえて笑い」立っていられなくなるのです。
私は、そんな節子が大好きでした。
節子の笑いの素の多くは、家族の話でした。
我が家の家族は、みんなちょっと常識はずれのところがあって、笑いのつぼも変っているのかもしれません。
いや正確に言えば、私と節子だけが、変っていたのかもしれません。

節子がいなくなってから、わが家では節子のような「底抜けの笑い」はなくなってしまったような気がします。
少なくとも私は、底抜けには笑えなくなりました。
にもかかわらず、笑うことがあるといつもなぜか節子の笑い顔を思い出します。
節子の泣き顔も魅力的でしたが、節子の笑い顔は本当に私には魅力的でした。
その笑い顔、泣き顔にもう出会えないのがまだ信じられません。
またわが家の、節子がいたころの笑い声が戻ってくるのでしょうか。
戻ってきてほしいと思いますが、無理かもしれませんね。

みなさんも、思い切り笑える時に笑っておくのがいいです。
泣ける時にも、です。
一人になると、笑うのも泣くのも、底が抜けなくなりますから。

■172:複雑な迷い(2008年2月21日)
節子
さびしくしていませんか。
いつものように大きな声で笑っていますか。

毎朝、あなたの前で般若心経を唱えていますが、あなたもそちらで唱えていますか。

般若心経の後、あなたの友人や私の友人たちの祈りもしていますが、最近、ちょっと迷いがでてきています。
というのは、あなたはもしかしたら、早くみんなにも来てほしいと思っているかもしれないという思いが、私の意識の底にあるような気がしてきたからです。
ですから、節子に、みんなの幸せを一緒に祈ろうねと言いながらも、節子が早くこっちにこない、と呼んでいるかもしれないという気が時々するのです。
それに、みんなまだこっち側で幸せになろうね、と私が祈ることは、節子のほうにはいかないでという願いですから、節子への裏切りではないかという気もしてきたのです。

なんとまあ、おかしなことを考えていることかと笑われそうですが、毎朝の節子の前での祈りの時には、そんなことがとてもリアルに感じられるのです。
もっとおかしなことをいえば、写真の節子の顔も毎日、表情が違うような気さえするのです。
気のせいか、最近、節子のしわが増えてきました。
単に写真が古くなっただけかもしれませんが、そう思わないところが愛する人を失った人間の気持ちなのです。
まあ、「論理的」でないのです。
しかし、人の「いのち」が生まれたり、消えたりすることそのものが、そもそも「論理的」ではないのですから、そんな気持ちが起こっても当然でしょう。

そんな複雑な思いを持ちながら、毎日、いろいろな人の名前を思い出しながら、それぞれの平安を祈っています。
しかし、人の「平安」って何なのでしょうか。
きっとそれは大きな意味での自然のなかで、流れるように生きることなのでしょう。
振り返ってみると、私は素直に生きてきたつもりが、むしろ流れに棹差し、平安を破るような生き方だったかもしれません。
そのことは、このブログの時評編を読むと一目瞭然です。
節子のおかげで、人の平安とは何かに気づき出しましたが、ちょっと遅かったかもしれません。
その気づきを褒めてくれる節子がいないのが、とても寂しいです。
褒めてもらえないと考えはなかなか現実につながらないのです。はい。

■173:やっと咲いたオンシジウム(2008年2月22日)
オンシジウム。ラン科の花です。
娘がオンシジウムが好きで、いろんなオンシジウムを集めているそうです。
ちょっと珍しく、節子も好きだったオンシジウムのひとつが節子が旅立った直後につぼみを持ちました。
例年よりかなり早いので、娘が節子の位牌の前にその鉢を供えてくれました。
「お母さんの好きだったオンシジウムが、今年はこんなに早くつぼみを持ったよ」。

ところがいつになっても咲きません。
ずっとつぼみのままなのです。
別の鉢の違う種類のオンシジウムはその間に咲いて散ってしまいました。
そのつぼみは年を越しました。
あんなに早くつぼみをつけたのにどうしてなのでしょうか。
この話を先週、娘から聞きました。
私は、わが家にそんなにいろいろなオンシジウムがあるとは知りませんでした。

節子のおかげで、同じ名前の花でも、いろいろ種類があることを知りました。
知っている名前が多いほど、その世界は豊かになります。
言葉の多さと世界の豊かさはつながっているね、と節子が言っていたことを思い出します。
節子は、知らない言葉に出会うと手帳に書く癖がありました。
そのくせ覚えないのですが、節子の、その真摯な姿勢にはいつも感心していました。
私の大好きな節子の一面です。

そのオンシジウムがやっと咲きました。
つぼみができてから何と5か月。
もしかしたら節子が宿っていたのではないかと思ってしまいます。
節子は、花や鳥になってチョコチョコ戻ってくると言っていました。

そういえば、オンシジウムのつぼみが和らぎ出した頃、朝にシャッターを開けて、節子の位牌の前のロウソクに火を点けていたら、ドンという音がしました。
驚いて窓のほうを見たら、飛んできた小さな鳥がガラスにぶつかったのです。幸いに鳥は元気に飛び去りました。

この2つのことは、たまたまの偶然かもしれません。
その日から、なぜか節子が夢に出てこなくなりました。
これもやはり偶然なのでしょうか。

■174:すきやきにとろろ昆布は合いません(2008年2月23日)
節子
あなたもよく知っているリンカーンクラブの武田さんに会いました。
武田さんと私が論争になると、あなたはいつも武田さんの味方でした。
そのせいでもないでしょうが、あなたが旅立った朝、武田さんはわが家に駆けつけてくれたのです。
その後も、私のことをとても心配してくれてちょいちょい電話してくれています。

このブログも読んでくれているのです。
人の書いたものなど読まない武田さんにしてはめずらしいことです。
その感想を聞いたら節子は武田さんらしいねと言うでしょう。
「佐藤さんがこんなにも奥さんを愛していたとは思わなかった」。

先日、お寿司のことを書いたブログを読んで同情してくれたのか、お昼をご馳走してくれると言うのです。
ご馳走してくれたのはなんとすき焼き。
しかもうなぎも食べろと言うのです。
どうやら私に体力をつけさせようとしているのです。
わが家が貧乏なのを心配してくれたようですが、わが家は決して貧乏ではなく、たまたま今は現金がないだけなのです。
いやこれも誤解を呼びそうですね。
正確に言えば、私自身が「お金から自由な生き方」を目指しているだけの話なのです。
困ったものです。
うなぎは辞退しましたが、すき焼きのお肉は美味しかったです。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、武田さんは私に会うなり、「気が弱まってるね」というのです。
わかる人にはわかるようです。
しかし、これは肉やうなぎを食べていないからではなく、半身を削がれてしまっているためなのです。はい。

武田さんは、節子も知っているように、臨死体験やら死への直面やら実にドラマティックな体験をしています。
いまも亡くなった友人の気配を感ずることがあるのだそうです。
もしかしたら、私の未来も見えているのかもしれません。
だからこんなに心配してくれているのかもしれません。

武田さんは「とろろ昆布」を持参しました。
そして何とすき焼きにそれを入れたのです。
好きなのかと訊いたら好きでないというのです。
そして、「あなたはとろろ昆布さえあれば他のおかずはいらないと奥さんが言っていたよ」と言うのです。
節子、そんなことを言いましたか。
たしかに私はとろろ昆布が好きですが、どんなとろろ昆布でもいいわけではないのです。
困ったものです。
しかし、武田さんがそういうので、仕方なく私も食べてみました。
まあまあでしたが、きっと武田さんも私も二度とすき焼きにはとろろ昆布は入れないでしょう。

でも、節子の言葉をきちんと覚えていてくれて、わざわざ持ってきてくれるなどということは私にはとても出来ない話です。
武田さんのやさしさに感激しました。

人と悲しさを共有する仕方、ケアする仕方を気づかせてもらいました。
武田さんの会話力は問題がありますが、人間とは何かへの理解は深いです。まあ本人は気づいていないでしょうが。
美味しいすき焼きをご馳走になったために、今回の武田評はちょっと甘いですね。
人にご馳走になってはいけないことがよくわかります。はい。

■175:久しぶりの危うい話(2008年2月24日)
久しぶりの「危うい話」シリーズです。

節子がまだ元気だった頃の、私の体験です。
私がこの世からいなくなった後のこの世を2回ほど歩いた記憶があります。
もしかしたら、夢かもしれないので、書くことをためらっていましたが、記憶が消えないうちに書いておくことにしました。

もう5年ほど前になります。
1回目は東京の湯島。私のオフィス近くの急な階段の上です。
一人の媼(おうな)と2人の童が、道端で遊んでいる風景に出会いました。
その時、なぜか周辺から現実感がなくなり、絵の中の風景のように見えたのです。
その3人の服装は、どうみても私が子どもの頃の時代のものでした。
声は聞こえませんでしたが、童(そういう表現がぴったりでした)たちはしゃがんだお媼(そういう表現がぴったりでした)の周りを回っていたような気がします。
私はそのまま通り過ぎたのですが、なぜかその風景が心に強く残りました。
あまりに昔風でしたし、現実感がなかったからです。
こう書いてしまうと何と言うことはない話なのですが、その時の感覚はとても不思議なものでした。

それから数週間して、ますます記憶が危ういのですが、大阪で同じ3人に出会ったのです。全く同じ服装でした。
しかし、その時は何も気にせずに、そのまま通り過ぎました。
そして数日たってから、そのことが急に思い出されました。
しかし、具体的な場所が思い出せないのです。
新大阪駅の近くだったような気がしますが、確かではありません。

なぜその時におかしいと思わなかったのでしょうか。
同じ服装の3人組が2か所にいるはずがないと、なぜ思わなかったのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、突然、あれは私が死んだ後の風景だったという思いが浮かんだのです。
なぜそう思ったのかわかりませんが、そんな気がしたのです。
むしろ前世の風景と思うのが普通でしょうが、私にはなぜか来世で見える風景に思えたのです。
節子に、死んだ後の風景を見たよと話しましたが、またおかしな話をしているくらいにしか受け止めてもらえませんでした。
私自身も、夢だったかもしれないと思い出していましたので、あまり深くは話しませんでした。
考え出すと、さまざまな不安が私の心によぎってくるからです。

しかし、その啓示は、思ってもいなかった形で、私の身に起こってしまいました。
節子が旅立ってしまったのです。
呼ばれていたのは、私だったはずなのに。

またあの3人に会ったら、今度は声を掛けてみようと思っていますが、まだ会えずにいます。
会うべき人には必ず会うものだ、と私はずっと思って生きていますので、もし会うべき人たちであれば、きっといつか会えるでしょう。

■176:黄色い花はビタミン効果があります(2008年2月25日)
節子
葬儀にも来てくれた若いOさんが、先週、湯島に花を持ってきてくれました。
黄色を基調としたかわいいフラワーアレンジメントです。
黄色はビタミン効果がありますから、節子さんに供えてくださいと言って、渡してくれました。
身体から自由になっても、やはりビタミンは必要なのでしょうか。

彼女はジュンと同い年です。
実家を遠く離れて、一人で仕事に取り組んでいます。
あなたがいなくなったとおろおろしている私とは大違いです。
節子がいなくなるまで気づかなかったのですが、
一人で生きている人たちのすごさに改めてこの頃、感心しています。

しかし、やはり一人だといろいろと心細いこともあるでしょう。
結婚すれば少なくとも一人ではなくなるのですが、それはそれでまた大変なのかもしれません。
気になるのは、最近の若い人たちが、私たちの娘たちもそうですが、結婚しようという意識を弱めていることです。
みんな強くなったのでしょうか。
きっと私たち世代の生き方が影響しているのでしょうね。
その意味では、私たち夫婦の生き方もあまり良くなかったのかもしれません。
なにしろ娘たちの結婚志向を育てられなかったわけですから。

結婚せずとも人生のパートナーを得ることは可能かもしれません。
しかし、節子を失って思うことは、やはり伴侶の存在の大きさです。
よく言われるように、「人」は2人で支えあって成り立ちます。
それが伴侶でなければいけないわけではないでしょうが、
私にはやはり伴侶とそれ以外のパートナーとは異質のように思います。
結婚している人たちが、その異質さに気づいているのかどうか疑問ですが。

ところで、どうやって娘たちに結婚願望を持たせたらいいのでしょうか。
あなたも気にしていたことですが、私にとっては最大の難問です。
節子がいないのでとても心細いです。
黄色い花から元気をもらわないといけません。

■177:黄色の花のエール(2008年2月26日)
節子
近くのTさんの家の人が、庭になったみかんをたくさん持ってきてくれました。
例年であればジャムにして、Tさんにも差し上げるのですが、節子がいない今年はジャム作りが出来ないかもしれません。
節子がせっかく育ててきた、近隣での物々交換の文化は引き継ぎたいと思うのですが、「手づくり加工」のプロセスが入らないと単なる物々交換になってしまい、あんまり意味がありません。
娘たちが節子の文化を継承はしてくれるでしょうが、節子がいないと、やはりいろいろな意味で残念なことが多いです。
あなたの見事さを改めて思い出しています。

ところで、みかんを持ってきてくれたのはOさんです。
Oさんからちょっとショッキングな話を聞きました。
嫁いで家を出ているTさんの娘さんの体調が、最近あまり良くないのだそうです。
あなたのお見舞いに来てくれたこともあるUさんです。
その話を聞いた娘たちが、花を贈って元気付けようと言い出しました。
何しろこのブログで「団子より花」と書いてしまった手前、私もやはりここは花を贈ろうと思ったわけです。
そこで一昨日、寒い強風の中を娘たちとちょっと遠くの岩田園まで花を買いに行きました。
あなたとよく出かけた花屋さんです。
節子が一緒でないのが嘘みたいな気がしました。

まだ季節的に早かったせいか、みんなの気にいる花がありませんでした。
そのためフラワーアレンジメントにしてもらうことにしました。
先日Oさんから教えてもらったように、元気を祈って、黄色を基調にしました。
娘たちが昨日、届けてくれました。

花を贈ろう、といって、寒い中を30分もかけて花を探してくれた娘たちがとても嬉しかったです。
節子にも花を買ってきました。
お墓にも献花台にも、写真の前にも花が満開です。
オンシジウムも良い香りを発しています。

■178:「ひとは過去についても祈ることがある」(2008年2月27日)
祈りは未来に向かっての行為でしょうか。
毎朝、節子の位牌の前で祈りながら、過去に向かって祈っている自分に気づくことがあります。
いまの私にとっては、むしろ祈りは過去へのものになっています。

祈りですから、ある希望を込めているわけですので、変わることのない過去への祈りは成り立たないいかもしれません。
しかし、あの時の節子が喜んでいてくれますようにとか、あの時の私の対応をゆるしてくれますようにとか、ついつい祈ってしまうのです。
節子に関して言えば、過去も現在も未来も、私のなかでは同じものになってしまっているのかもしれません。
そんな思いを持っている時に、こんな文章に出会いました。

ひとは過去についても祈ることがある。他者の死こそが、取り戻しようもなく、抹消不能で、決して現在に回収されることのない、真の「外傷」となるからである。外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い。祈りが切迫したものとなるのは、過去こそが過ぎ去らず、回復不能であること、過ぎ去ったものこそが打ち消し難いことを、ひとが思い知る時である。(「癒しの原理」石井誠士)

10年以上前に読んだ本ですが、先日、何となく書棚にあるのに気づき読み出しました。
この本を読んでいるうちに、実は精神的にかなり不安定になってしまいました。
あまりに自分の心情に重なってくるからです。
それに、やはりまだ「死」について書かれている本は読むのが辛いのです。
心のどこかに、節子の死を受け入れていない自分がいるのです。

過去こそが過ぎ去らず、回復不能であることという言葉は心を突きます。
過ぎ去る過去もあるでしょうが、伴侶の死、愛するものの死は決して過ぎ去ることはありません。
むしろその過去の事実が、心の中で育ちだすような気がします。
まさに「外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い」のですが、それだけではなく、その疼きが育ちだしてしまうのです。
もちろん育つのは悲しみだけではなく、喜びもあります。
節子と一緒に過ごした日々の楽しさが甦ることもあるのですが、しかし無残なことに、その喜びもまた確実に死によって突然閉ざされます。
人は誰も、そしていつも、死に向かってはいるものの、おそらく普段はそんなことは「意識的」には意識しないでしょう。
しかし、過去から始まる物語は、過去において完結してしまっているのです。
それに対処するには、祈りしかありません。

「ひとは過去についても祈ることがある」。
最近は、祈るという行為は過去に向けられているのかもしれないと思うようになりました。
未来はすでに過去において決められているのかもしれません。

■179:チューリップが芽を出しはじめました(2008年2月28日)
年末から2月まで、節子のまわりはたくさんのチューリップに囲まれていました。
今年は寒かったせいか、とても長く節子を飾っていてくれました。
節子が好きだった、近くのあけぼの公園もきっとチューリップが咲き出していることでしょう。
いつもなら節子と一緒に見に行くのですが、まだ行く気が出てきません。

昨年、節子のところに献花に来てくださった人たちに、最初の頃、チューリップの球根をさしあげていたのです(差し上げるのを忘れた人もいます。すみません)。
その球根が芽を出し始めたようです。
何人かの人から、チューリップが芽を出したと言われています。
わが家の庭にも同じものを植えていたので見てみたら、芽がでていました。
節子はチューリップになって、いろいろな人のところに戻ってくるかもしれません。

そういえば、昨年、南房総で節子が買ってきた花々も咲き出しそうです。
河津の桜もつぼみが和らいでいます。

節子、忙しくなりそうですね。
いろんなところに顔を出さないと駄目ですね。
私の夢にも出てきてくださいよ。

■180:過去こそ永遠に生き続けるもの(2008年2月29日)
先日、「ひとは過去についても祈ることがある」と書きました。
今朝、読み直してみて、私の気持ちがどうもうまく書けていないことに気づきました。
「過去から始まる物語は、過去において完結してしまっている」と言ってしまっては、クラインの壺のように、出口が見つからなくなります。
クラインの壺とは、内部と外部との境界のない空間です。
それはちょっと違うのです。
それで少し補足します。

大切なことは、「過去は過ぎ去ることがない」ということです。
とりわけ現在と断ち切られた過去は、変えようがありませんから、そのままの形で永遠に生き続けるのです。
時間が解決するというのは、多くの場合、問題解決のための方便でしかありません。
自分に関する過去の多くは、決して「風化」などしません。
みなさんもそういうことってありませんか。
過去において完結してしまっているにもかかわらず、むしろ心の中でどんどんと大きくなっていくのです。
そういう意味では、節子は私の中ではいまや「永遠のいのち」を得ています。
それこそ不死の命と言っていいでしょう。
失うことでこそ得られる命というものもあるのです。

私の心身のなかには、節子と一緒に創りだしてきた「過去」がたくさんあります。
ある言葉、ある体験、ある風景、そうしたちょっとした刺激が、そうした「過去」を生き生きと思い出させることがあります。
それは私と節子以外には、絶対にわかりませんし、起こりえない感覚です。
突然に幸せな気分になったり、突然に涙が出たりするわけです。

その感覚は、過去に引きこもると言うようなものではありません。
むしろ過去と言うよりも現在を創りだしてくれるのですから、生きているのです。
「私が過去に生きる」というのではなく、「私のなかで過去が生きている」とでも言っていいでしょう。
繰り返しますが、未来に向かって育っているという意味で「生きている」のです。
そのため、まるで2つの世界を生きているような感覚になることもあります。
みんなと合わせながら、自分にしか実感できない「もうひとつの世界」にいる自分に気づくのは、疲れます。

その「もう一つの世界」では、節子はまだ生きているわけです。
にもかかわらず、その節子に会えないという苛立ちを時々感ずるのです。
節子にはたぶん見えているのに、なぜ私からは見えないのか。
どう考えてもフェアではありません。不条理としかいえません。

またわけのわからないことを書いてしまいました。
でも私にはとても素直に実感できる感覚なのです。

■181:足がすくむ思い(2008年3月1日)
前から約束していた、ある集まりに参加しました。
池袋とは知っていましたが、どこでやるのかあまりきちんと理解していませんでした。
これが私の生き方で、直前にならないと頭が動き出さないのです。
節子は、私のそうした生き方をいつも心配していました。
そして注意を促してくれる存在でした。
でも今は、そうした注意をしてくれる人はいません。
子供じゃあるまいし、それくらい自分で責任を持てと起こられそうですが、そうした面では、私は思い切り節子に依存していたのです。困ったものです。自立できていなかったわけですが、それが私たちの生き方でもありました。

朝、会場の場所を確認しました。
池袋のメトロポリタンホテルでした。いやな気がしました。
池袋駅を降りた途端に足がすくみました。
このホテルの地下に、帯津良一さんのクリニックがあるのです。
そこに節子と一緒に通ったことを思い出しました。
その時、すでに節子は再発し、かなり病状は悪化していましたが、帯津さんに会って元気をもらいました。
それだけではありません。
池袋の思い出はそれだけではありません。
同じホテルで、官足法の岡山さんにお会いしたのです。
帯津さんも岡山さんも、節子にはとても良い出会いでした。
しかし、その時の節子の辛さと祈りを知っている私には、足がすくむほどの、何ともいえない胸の不安感が襲ってくるのです。
こういう体験を何度したことでしょうか。
節子との深い思い出のあるところに近づくと、節子の思いがどっと出てきてしまうのです。

約束していた集まりでは、無事、役割を果たしましたが、辛い体験でした。
予め場所などをきちんと確認する生き方でなくてよかったです。
もし事前に知っていたら生けなかったかもしれませんから。

節子
辛い思い出がありすぎます。
そうしたことを、弱音もはかずに乗り越えていた節子のことを思い出すたびに、あなたの見事さに気づかされます。
私にもできるでしょうか。

■182:河津桜が咲き出しました(2008年3月2日)
庭の桜が咲き出しました。
節子と一緒に河津に行った時に買ってきた桜です。
もう3年前になります。
あの時のあなたは、私よりも元気でした。
節子は治ると確信できていたころでした。
むしろ私を気遣ってくれていた節子のことを思うとまた心が痛みます。

今年は昨年よりも開花が半月ほど遅れました。
節子がいないせいでしょうか。
数日前から急にあたたかくなり、庭の花々も咲き出しました。
娘がとてもよく手入れをしてくれています。
庭で手入れをしている娘を見ると、その横に節子がいるような気がします。
あたたかな陽だまりのなかに、いつも節子がいましたから。

各地で桜が咲き出しますが、桜には節子の思い出が重なりすぎていますので、
今年は見に行けないかもしれません。
そんなことでどうするのか、といわれそうですが、
節子のいない春は、私には違う世界の春でしかありません。

今年の桜は、私にとっては、この河津桜1本になりそうです。

■183:喜びの中にある悲しみ、悲しみの中にある喜び(2008年3月3日)
むすめたちが、玄関とリビングに小さな雛人形を飾ってくれています。
節子がいなくなっても、その時々の季節を象徴する飾り立てをする文化は継承されています。
オフィスだけはちょっとさぼっていますので、季節感覚がなくなっていますが。

節子が行ってしまってから、今日で半年です。
まだ半年と言うべきでしょうか。
これほどの長さが、まだどれほど続くのか。ちょっとゾッとします。

この半年、悲しみは癒えたかといえば、全く癒えることはありません。
深まったわけではありませんが、心身にしっかりと定着してしまった感じです。
その悲しみが、私の心身の一部になってしまっています。
そのせいか、喜びが感じられなくなってしまったような気がします。
これはちょっと寂しいことです。

今もなお、写真の節子が呼びかけてくれるのではないかと思うことがあります。
誰もいないはずの階下で音がしたり、玄関に近づく足音を聞いたりして、あなたの姿を探すこともあります。
いつもあなたはいません。

それにしても節子がいないだけで、どうしてこんなにも世界の風景は変わってしまうのでしょうか。
なぜだろう、とよく考えるのですが、わかりません。
それ以上に、なぜこんなにも時間がありあまっているのかと思うことが多くなりました。
最近は10時に就寝し、何となくぼんやりと過ごしていることが多いのです。
節子がいた時に、どうしてこういう時間がつくれなかったのでしょうか。
いつもお互いに何かやっていましたね。

いまもやらなければならないことは少なくありません。
仕事も始めましたので、実は時間は足りないほどなのです。
でもやる気が起きない。
時間が無いのに、時間が余っている、そんな毎日です。
不安だけが高まっています。
困ったものです。

半年が過ごせたのなら、1年も大丈夫でしょう。
1年大丈夫なら、10年は大丈夫でしょう。
人はそうやって悲しみと共生していくのでしょう。
そして、きっといつか、その悲しみの裏にある喜びに気づくのでしょう。

節子との生活では、喜びの中にある悲しみと付きあってきたような気がします。
しかし、これからはどうも悲しみの中にある喜びと付きあうようにしないといけません。
人生観を大きく変えないといけません。

■184:長崎からの手紙(2008年3月4日)
節子
長崎県のNMさんから手紙が来ました。
あなたと同じ病気で、それも若い時だったので、いろいろと大変だったでしょうが、それを乗り越えて活躍しています。
本当によかったです。
NMさんはもう退職され、いまは第二の人生をいろいろと考えているようです。
最近はなかなか会う機会もなくなっていましたが、節子と一緒に長崎に行った時に、仲間を集めてくれて、しっぽく料理をご馳走してくれました。
節子も私も、はじめてのしっぽく料理で、その作法をしりませんでしたが、とてもおいしくて、またそこから見下ろす夜景がとてもきれいで、節子は時々、その話をしていたのを思い出します。

その時はたしかハウステンボスに泊まりました。
そこでいろいろな人にお世話になったような気がします。
私は過去のことはあまり覚えていられない人間なので、記憶が定かではないのですが、いろいろな人にお世話になったような気がします。
私たちは本当にいい人に囲まれていましたね。
感謝しなければいけません。

NMさんはこのブログも、友人に頼んでプリントしてもらい読んでくれたそうです。
ブログもいまや180回を越えてしまったので、読むのも大変です。
それに私の文章は冗長ですから、申し訳ない気がします。
プリントしてくれたのはMSさんですが、MSさんからもメールをもらっています。
みんな節子のことを思い出してくれているのです。

NMさんはこう書いてきてくれました、
「こんなに強い絆、愛とはと思い、時間が普通の人に比べてもっとかかると思いました」
こうした言葉は他の人からももらったことがありますが、たぶんNMさんが私の立場になったら同じことになると思います。
みんなまだ伴侶との絆の意味が見えていないだけです。
もちろんすべての人がそうだとはいえませんが、「普通の人」であれば、そして「普通の夫婦」であれば、きっと私たちと同じです。
思いを私のようにだらだらとブログで書き続けるかどうかは全く別の話です。
そうではなくて、夫婦や家族の絆の話です。
それがあまりに当然すぎるために、なかなか見えてこないのかもしれません。
しかし、40年も一緒に共に生きてきた夫婦の絆はとても太く強いはずです。
NMさんも、手紙の中で、
「わが家の関係を再認識いたしました」と書いていますが、もし伴侶と共に生きている読者の方がいたら、ぜひ夫婦の絆を改めて意識してほしいと思います。
それに気づけば、きっと大きな力が沸いてくるはずです。
それが社会を変えていくと、私は信じています。

余計なことを書いてしまいました。
社会の基本は「絆」だと私は思っています。

■185:詩を聴いているようでした(2008年3月5日)
節子
久しぶりにKYさんに会いました。

節子の葬儀の時にはご夫妻で来てくださいました。
あなたは気づいていましたか。
あの時はたくさんの人が来てくださったので、気がつかなかったかもしれませんね。

節子が再発する直前、KYさんのお宅にお邪魔して、ご主人が家庭菜園で収穫した新鮮で美味しい野菜をつかった料理をいただきました。
節子とご主人の話が野菜作り談義がとても盛り上がっていたのを思い出します。
農園も見せてもらい、お土産ももらってきました。
次はわが家でお返しをしたかったのに、実現できませんでした。

KYさんのご主人は、佐藤さんの(告別式の)挨拶は、まるで詩を聞いているようだった、と言っていたそうです。

「まるで詩を聞いているようだ」
実は、あの時、私もすごく不思議な気分だったのです。
話し出したら涙できっと話せなくなるから、挨拶は一言にしようと前日まで決めていました。みんなもそれがいいと言っていました。
ところが、その日の朝、節子からきちんと話をしてね、といわれたような気がしたのです。そして、献花台の話も思い付いたのです。
挨拶に立ち上がった時、こみ上げてくる思いで一瞬声が出なくなったのですが、その後、本当に不思議なのですが、流れるように口から言葉が出てきたのです。
そして予想以上に長く話してしまいました。
節子がそうさせてくれたとしか思えません。

もっと不思議なことがあります。
話したことを翌日、書きとめようと思いました。
そうしたら話したことがそのまま思い出せるのです。
そしてホームページにもほぼ再現できたと思っています。

私はこの種の挨拶がとても不得手な人間です。
それに世間的な付き合いの言葉をあまり知らないのです。
挨拶が必要な時には、いつも節子に相談していました。
節子はいつもひやひやしていたはずです。
終わると、いつも「よかったわよ」と言い、その後で必ず「でもあそこはこういうとよかった」と一言付け足すのです。
今回の挨拶はどうだったでしょうか。
節子の感想が聞けなかったのが、とても残念です。

■186:強い人同士の夫婦と弱い人同士の夫婦(2008年3月6日)
昨日の記事の続きを書きます。
長くなったので、2回に分けることにしました。今日は後編です。

KYさんが、私たち夫婦と佐藤夫婦とはどこが違うのかしら、と言いました。
ご主人が、「おれにはあんな挨拶は出来ない」といったのだそうです。
私は即座に、「強い者たち同士の夫婦」と「弱い者たち同士の夫婦」の違いだと思います、と答えました。
そんな言葉が出てくるとは、私自身思ってもいませんでしたが、自分の思ってもみなかった言葉が口から出ることはよくあることです。
最近、気のせいかそういうことが増えています。
ですから、その言葉は、私に向けての言葉でもあったわけです。

このブログを読んでくださっている方はもう感じているでしょうが、私は「弱い人間」です。
一人では生きていけずに、誰かが寄り添ってくれていないと倒れてしまいそうなのです。そして、節子もまたそういう人だったことは、私が保証します。
本当に頼りない弱い人でした。私よりは強かったですが。
しかも、いずれも自立しようとか依存を止めようとか全く思わなかったのです。
夫婦間においては、自尊心や自立心が全くなかったのです。困ったものです。

しかし、弱い者同士が一つになるとなぜか強くなるのです。
弱さをさらけだすことで、強くなれるのです。
KYご夫妻は、それぞれがしっかりした活動に取り組み、社会的な存在感もあります。
それにそれぞれが自立し、自分の世界をお持ちです。
理想的な夫婦と言っていいでしょう。
わが家とはかなり違います。

詩(のような言動)は弱さから生まれます。
決して強さからは生まれません。
詩は強い人には戯言でしかありません。
もしそうでないとすれば、強い人の弱い面に訴求しているのです。
言い換えれば、その時がくれば、その人からも詩が生まれます。

弱いと強いとはコインの裏表です。
どちらが体験されるかは分かりませんが、KYさんご夫妻も、きっと私の立場になったら、詩のようだと思う人がでてくるような、作品を共創するはずです。
その時にきっと、私の今の心境と言動を理解してくれるでしょう。

人は、強さと弱さを持っています。
そのどちらの面を表面に出して生きているかどうかによって、生き方は変わってきます。
伴侶の死に直面してもなお、強い生き方が出来る人もいるでしょうか。
そんな人はいるはずもない、と今の私には思えてなりません。

お互いに弱さを見せることで夫婦の絆は強まるように思います。
だれにでもお勧めというわけではありませんが、弱さを共有してしまうとすごく快適になるような気がします。

■187:「死は、人間にとって最高に善いものかもしれない」(2008年3月7日)
節子
死の体験はどうでしたか。
自らの死は体験できない以上、存在しないという論理がありますが、
実際に体験した節子からぜひ話を聞きたいと思います。
でも、聞けるようになった時は私自身も体験しているわけですから、あまり意味がありませんね。

死とは何なのでしょうか。
ソクラテスは毒を飲んで死ぬ前に、集まった仲間たちにこう言ったそうです。
「さあ、私たちが行く時が来た。私は死ぬために、君たちは生きるために。しかし、どちらが幸せかは、私たちの誰にも隠されている。ただ神を除いて」と。
節子は、どちらが幸せかの答がわかっているのですね。
節子の方が幸せであることを祈りたいです。
それは私にとっても幸せを保証してくれるわけですから。

節子がいなくなってから、死の対する考え方がだいぶ変わりました。
というよりも、これまで死については全くと言っていいほど真剣に考えたことがないことに気づいたのです。
ほとんどの人がきっとそうでしょうね。

プラトンの「ソクラテスの弁明」には、こんなソクラテスの言葉もでてきます。
「死を恐れるということは、智慧がないのにあると思っていることにほかなない。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからだ。死を知っている人はいない。ひょっとすると、死は、人間にとって、すべて善いもののうちの最大のものであるかもしれないのだが、彼らは、それを恐れている。それが最大の災禍であることをよく知っているかのように。しかし、これこそ、知らないのに知っていると思っている、無知というものにほかならないのではないだろうか」

「死は、人間にとって、すべて善いもののうちの最大のもの」
そうであれば、こんなに嬉しいことはありません。
すべての人にとって、それが保証されているのですから。

しかし、善いものであろうと、災禍であろうと、節子と一緒に体験できなかったことがとても悔しいです。

■188:残された者の償い(2008年3月8日)
節子
私の大学時代の友人のOSさんから手紙をもらいました。
彼は私が信頼する数少ない弁護士の一人です。
考えはもちろん違うと思いますが、誠実さがにじみ出ている人です。
大学卒業以来、久しく会っていませんでしたが、4年ほど前に再会しました、

その時の印象が、実は何ともいえないものでした。
一言でいえば、明るさと誠実さの奥に孤独な陰を感じたのです。
それは私自身が持っている陰が、素直な彼の心に反射しているのかもしれないと、その時は思いました。

彼のことは節子に話したことがありませんでした。
大学時代、私も彼とはほとんど付きあいがありませんでした。
しかしはっきりとその存在が心に残っている人でした。
彼の純粋さや誠実さは、話をしなくてもきっとまわりにオーラを放っていたのでしょう。

後日、彼から1冊の本が送られてきました。
私に関心のあるテーマの本でした。
彼のすさまじいほどの仕事振りが伝わってきました。
敬意を感じました。

そのOSさんから手紙が来たのです。
最近、彼から依頼のあったハンセン病関係の署名活動にささやかに協力した礼状でした。
しかし、そこに書かれていた内容は思ってもいないことでした。
涙が止まりませんでした。

私は丁度10年前に妻をガンでなくしました。
闘病生活は4年近いもので、大変な試練でした。
私は貴兄と違って、よい夫ではありませんでした。
発病と知ったときから精一杯のことをしたようにも思いますが、それで償いができたとは思いませんでした。
罪ほろぼしのつもりで、追悼文集をつくり、親しい方々に送らせていただきました。
そのときから私の人生観はかなり変わったように思っています。
今は一人暮らしです。
これからどう生きようかと毎日考えています。
どうも自分のことを書いてしまってすみません。

あの時の陰はやはり彼からのメッセージだったのだと思いました。
そしてその闘病時代に彼は社会的な使命を果たすための激務を果たしていたことを知りました。
「大変な試練」「償いができたとは思いません」
その言葉の意味を痛いほど感じました。
涙が止まらない理由がわかってもらえるでしょうか。
また涙が出てきてしまいました。
すみません。
この続きは、明日書きます。

■189:「これからどう生きようか」と考え続ける生活(2008年3月9日)
昨日の続きです。
一晩、間をおいたので今日は冷静に書けそうです。

OSさんは、「精一杯のことをしたようにも思いますが、それで償いができたとは思いません」と書いています。
私も全く同じ思いを持っています、
どんなにみんなによくやったねと言われようと、どこかに悔いと罪悪感が残る、それがおそらく愛する妻を見送った者の心境ではないかと思います。
ウツ状況になる人もいるようです。
私もその可能性はゼロではありませんでした。
娘たちが元気付けてくれたとはいうものの、
節子の友人たちや私の友人たちが心配してケアしてくれたにもかかわらず、
時に落ち込み、時に不安感にさいなまれ、時に「もうどうでもいいか」と思いたくなるのです。
人が嫌いになり、失望し、希望を失い、生きる意味を見失ってしまうのです。
いつもは「生きる意味」など考えたこともないのに、突然、生きる意味がない人生をどうやってこれから生き続けられるのだろうかなどと考えてしまうのです。
それを表現すれば、元気を出さないと奥さんが悲しむよなどといわれるので、ことさら元気を装ったりするわけです。
そして、そんな自分がまたいやになっていく。
そんな気持ちを一番理解してくれるはずの妻はいないのですから、解決しようのない問題なのです。
伴侶とは、理屈を超えて支え合っていた存在なのだと思い知らされる毎日です。

OSさんは10年たってもまだ、「これからどう生きようかと毎日考えています」といいます、
素直に心には入ってきます。
あるはずもない「これから」をどう生きようかと考えることの答はあるはずもない、と思いながら、私も毎日、そう考え続けています。

節子は発病以来。「いまをどう生きようか」と考える生活に変えました。
それから節子の考え方や言動が変わってきたように思います。
その生きる姿勢から、私はたくさんのことを教えてもらいました。
しかし、残念ながら、「これからどう生きるか」については、節子は教えてくれませんでした。
いろいろと示唆は与えてくれていましたが、2人とも別々に生きることなど想像もできなかったのです。

今、節子は彼岸でどんな生き方をしているのでしょうか。
どうしてもまだ、彼岸で「生きている」節子を思ってしまいます。

■190:「がん患者学」の柳原和子さんと会いましたか(2008年3月10日)
節子
ちょっと残念なニュースです。
CWSコモンズにも書いたのですが、「がん患者学」の著者の柳原和子さんが亡くなりました。
彼女からは、テレビを通してですが、たくさんの元気をもらいました。
節子が再発してからは、自分のことと重ねながら、その辛さをわかってやるように私にメールをくれましたが、そのなまなましさに、節子には伝えられませんでした。
著作での明晰な文章やテレビでの前向きな発言と、その弱々しい乱れた文章との格差におどろいたものですが、それは節子にも言えたのかもしれません。
あなたは決して弱音をはかなかった、そのすごさには本当に頭が下がります。
どこかで達観したのでしょうね。
そのことに気づいたのは、あなたを送った後でした。
毎日付き合っていたせいか、そうした変化に気づかなかった自分を恥ずかしく思います。

柳原さんからのメールを少しこのブログにも書いておこうかと思ったのですが、やめることにしました。
節子が読んだものは書く必要がありませんし、節子が読んでいないものは書き残すには辛すぎるからです。
読み直しだしたのですが、とても読み続けられなかったのが本当の理由なのですが。

訃報が届くたびに、あなたのことと重ねてしまいます。
節子との別れがあって以来、訃報の意味が一変しました。
その人の周りにあるさまざまな物語を、少しだけ思い巡らす気持ちが生まれました。
これまで私自身、多くの訃報を事実としてしか悲しんでいなかったような気がします。

彼岸で、節子が柳原さんに出会えているといいのですが。
私も此岸では柳原さんに会えませんでしたが、節子の方が先に彼女に会えそうですね。
もし会ったら、修は柳原さんとの約束を果たせないことを気にしていましたと伝えてください。
訃報を知ってからもう数日立ちますが、朝、あなたに祈るたびになぜか彼女の笑顔があなたと一緒に見えるのです。

ところで、此岸での訃報は彼岸のあなたにとっては朗報なのかもしれませんね。
そのあたりがややこしくて、最近少し混乱しています。

■191:なぜ追悼文をかきたくなるのか(2008年3月11日)
またOSさんの手紙の話です。

OSさんは「追悼文集」をつくったと書いていました。
私の知人たちの中に、同じように先立たれた妻の追悼文集を創った人は何人かいます。
私も文集ではないですが、こうやって毎日書き続けています。

なぜこうやって思い出を書き残したくなるのでしょうか。
自分がその立場になるまでは、私はそれが理解できませんでした。
しかし、自分がその立場になると、何らかのかたちで妻のことを書き残しておきたいという気持ちが自然と起こってきました。
告別式の日に、前日までみんなの前で挨拶などは絶対にするまいと思っていました。
節子とのことは誰かに話してもわかってもらえるはずがないし、話せばきれいごとになるか、あるいは事務的な紋切り型になるかしかないから、私の性には合わないと思っていたのです。
ところが告別式の前夜、節子の顔を見ているうちに、彼女がみんなにも話してほしいと言っているような気がしてきたのです。
そして、前にも書いたように、話し出したらつかえることもなく、言葉がすらすらと出てきたのです。書き残すことさえできたのです。
どう考えても、節子が私に語らせたとしか思えません。

追悼文もそうかもしれません。
この世との接点をなくした妻が、書かせているのかもしれません。
節子は日記が好きでしたので、自分が書けなくなったので、代わりに私に書かせているのかもしれません。
そしてたまたま私は書くことに全く抵抗のない人間だったのです。
これ
もそう仕向けられていたことなのかもしれません。

このブログもそうですが、追悼文は第三者にはほとんど無意味のものです。
例えばこのブログですが、毎日のように読んでくれている人が(きっと)いますが、その方は(きっと)節子か私の友人です。
しかし友人だからといって、読んで意味があるかは疑問です。
でももしかしたら、節子とちょっとだけ触れ合えるのかもしれません。
節子のことを知らない読者からもメールをもらいますが、もしかしたらその人たちはどこかで節子と接点がある人かもしれません。
どこか、と言う意味は、今生ではなく前世もしくは来世という意味です。
輪廻転生を信ずる者としては、これからもこのブログを書いていこうと思っています。
そしてお会いしたことのない読者がもしいたら、いつかお会いできるのを楽しみにしています。
お会いするのは来世かもしれませんが、

■192:ケアの本質は「共に生きる」こと(2008年3月12日)
節子
コムケア活動をまた再開することにしました。
コムケア活動は、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて活動している人たちを、ささやかに応援しながら、人のつながりを育てていこうという活動です。

コムケア活動は、私にとっての平和活動でもありました。
人のつながりが広がれば、争いなど起こるはずがないからです。
まあ、これは間違った認識かもしれないと最近思うことも増えていますが、でもきっとそうだと自分に言い聞かせています。

これまでも全くやめていたわけではありませんが、どうも気力がもう一つだったのです。
それにこの活動は、節子がいればこそ、あれほどのめりこめたのです。
4年目ころ、あまりにのめりこんでしまい、私自身、仕事が出来なくなり、時々、夜も眠れなくなった様子を見て、少し休んだらとも言ってくれましたが、私にはやめるにやめられなくなってしまっていました。
それを支えてくれたのが節子でした。
体調が悪いにも関わらず、コムケアのイベントには参加してくれました。
家族もみんなで手伝ってくれました。
それが私には大きな支えになっていました。
そんなわけで、あなたがいなくなった後、コムケアをどうしようか迷っていました。

そして再開することにしました。
メーリングリストにその旨、宣言したら、いろんな方からエールをもらいました。
エールだけではなく、各地でもコムケアフォーラムをやってくれるというのです。

コムケアはコミュニティケアの略ですが、私には深い意味があります。
重荷を背負いあう関係づくりという思いです。
他者と「共に生きる」生き方の回復です。
節子がいなくなって、「共に生きる」生き方の大切さを実感しています。
ケアの本質は、そこにあるように思います。
しかし、他者と「共に生きる」ことは難しいです。
節子と、それができたのは、とても特別のことのような気がしてきました。
あなたは、やはり私にとって特別の存在だったような気がします。

節子と40年、共に生きられたことを感謝しています。
ありがとう。
また来世でも、共に生きられることを願っています。

ところで、3月23日のコムケアフォーラム2008を東京で開催します。
誰でも歓迎です。
よかったらご参加ください。
案内は私のブログにあります。

■193:笑いと涙の2時間半(2008年3月13日)
節子
昨年の今日は、近くのホールにあなたと一緒に、ポニージャックスのコンサートを聴きに行きました。
私たち世代にあった楽しいコンサートで、会場と一緒に歌う「歌声喫茶」的なプログラムもあり、節子も私も一緒に歌いました。
節子は声は良いのですが、歌になるとある音域の声が出にくいため、声が時にかすれてしまうのですが、その時はなぜかすべての声がきれいに出ていました。節子も、最近、出にくかった音域がきれいに出るようになったと喜んでいましたね。
そのコンサートは、当時のホームページにも書いたように「笑いと涙の2時間半」でした。
私たちはとても楽しみました。
笑いは最高に免疫力と確信していた私たちは、できるだけ笑うことにつとめました。
あのコンサートが1年前だったことが信じられません。
あれから世界は激変し、全く違った世界になってしまったような気がします。
私たちにはまさにそうなのですが、しかし、私たち以外の人たちにとっては、ましてや自然界にとっては、世界はそれまでと全く同じように流れています。
そのことが、最初の頃、わたしにはとても理解できませんでした。
ですから周りに人たちにも、私たちと同じように世界の変化を感じてほしいとさえ期待してしまうという勘違いをしてしまいました。
何とまあ自己中心的な考え方でしょうか。
でもまあ、人間はそんな利己的な存在なのです。

節子
あの時は、あなたはとてもよく笑いました。
結婚前に京都で一緒に行ったコンサートにまけないくらい、楽しさを共有しました。
久しぶりに手をつなぎながらの2時間でした。
でもあの大笑いし、目を輝かしてくれる節子には会えないと思うとさびしいです。

節子とはいろいろなコンサートや演奏会に行きましたが、1年前のこのコンサートのことが一番強く思い出されます。

節子
そちらでもコンサートはありますか。

■194:「思い立ったらすぐやるのがいい」(2008年3月14日)
節子
北九州市の山下さんが来てくれました。
山下さんとの思い出はたくさんあります。
仕事でお付き合いが始まったのに、なぜか節子も一緒にお付き合いするようになりました。
2人で北九州市にうかがった時には、ご自身で市内をいろいろと案内してくれました。
北九州市の収入役になってからも、それまでと全く同じように、東京に来るといつもオフィスに寄ってくれました。
当時はオフィスに通っていた節子も何回かお会いしましたね。

山下さんは情熱的な行政マンでした。
私が一時期、各地の自治体の仕事をさせてもらっていたのは、そうした思いの強い人との出会いがいろいろとあったからです。
しかし、市町村合併の動きのように、地方分権の名目のなかで進む地方管理体制の強化によって、そうした思いのある人との出会いは少なくなってしまいました。

山下さんにお会いするのは久しぶりです。
山下さんご自身、体調を崩されてしまったとお聞きしていましたので、心配だったのですが、お元気そうで、相変わらず難題を背負って活躍されているようです。

伴侶を失った人と会って、話をするのはけっこう気の重いことなのでしょうね。
以前の私にはできなかったことかもしれません。
にもかかわらず、久しぶりの上京でご多用の中をわざわざ立ち寄ってくださったのです。

いつか山下夫妻を箱根に招待しようと話していたのに、それも実現できませんでした。
積み残した計画がたくさんありますね。
節子との共通の知人に会うと、積み残した計画のことを思い出すことが多いです。
思い立ったらすぐやるのがいい、と節子はいつも言っていましたが、全くその通りです。
いつできなくなるかわからないのですから。
やれなくなってから気づいても仕方がありません。
あなたにも謝らなければなりません。

4月に九州に行こうかなと考え出しました。
節子がいなくなってから、まだ一度も遠出していないのです。

■195:戻ってこないのは節子だけ(2008年3月15日)
節子
鶯(うぐいす)の鳴き声で、目が覚めました。

今年初めての鶯でした。
家の周りには幸いにまだ緑があるので、鳥のさえずりや鶯の鳴き声が心を和ませてくれます。
節子も鶯が好きでした。
今年は右の耳で聞いたとか左の耳で聴いたとか、いつも言っていました。
確か左耳だと幸せがくるのだそうですが、私はいつもどっちの耳で聴いたか識別できませんでした。
今年は残念ながら右でした。
でもまあ左耳でも聴きましたから、「よし」としましょう。

節子は、そういうことを大切にしていました。
その鶯が、今年も庭に戻ってきました。
戻ってこないのは、節子だけです。

庭の花もどんどん咲き出しました。
主を失って、少し元気をなくしていたような気がしていましたが、花は季節と共によみがえってくるのです。
よみがえってこないのは、節子だけです。

草木も元気に芽吹いてきました。
昨年枯れたパピルスも新しい芽を出しました。
花かご会のみなさんが植えてくださった、駅前花壇の「しらゆきひめ」も芽が出ていました。
季節がくれば、隠れていた草木のいのちは再び姿を現すのです。
姿を現さないのは、節子だけです。

どうして節子は戻ってこないのでしょうか。
不思議でなりません。

■196:土いじりが大好きだった節子(2008年3月16日)
節子が「開墾」した宅地農園の手入れがなかなか出来ずにいましたが、先週、むすめたちと耕し直し、畝をつくっておきました。
娘がジャガイモも植えました。
荒れ放題だった空地の畑もとてもきれいになりました。

昨年の今頃は、節子と一緒にこの畑の手入れをしていたのですね。
私のホームページに記事が書かれています(2007年3月15日)。

午前中は、久しぶりに女房と近くの農園に行って、畑に石灰をまいたり、雑草を取ったりしてきました。
女房はあまり体調がよくないのですが、よくないからこそ散歩に行くことが大切です。
土が好きな女房は、畑に行くと元気をもらえるのです。
距離にして200メートルもないくらいのところなのですが、女房はゆっくり歩くので、それでも結構かかるのです。

その頃は、節子はすでに辛かったのでしょうね。
本当に辛そうでしたが、歩くことに愚痴はこぼしませんでした。
あなたとゆっくり歩いた身体の記憶はいまもはっきりと残っています。

家から少し離れた所にある電信柱の下の土の部分にまで、節子は花を植えて、いつも水をやりにいっていました。
今は娘が節子の代わりに水やりや花の手入れをしています。
私はそんなとこまでやらなくてもいいのにと思っていましたが、体調が悪くなっても節子は時々水やりに行っていました。
花が好きだったのですね。
元気だったら、我孫子のまちを花でいっぱいにしてくれたかもしれません。

土いじりが大好きだった節子は、この空地の畑も好きでした。
節子がやりたかったことの一つは、この畑でつくった野菜で、近所の人たちとカレーパーティをすることでした。
あなたはそういうことが大好きでした。
とても残念なのですが、そのパーティは実現しませんでした。
節子がいない今、私にはやる自信がありません。
近所の子供たちに畑のジャガイモ掘りを誘うことくらいはできそうですが、子供たちを楽しませる自信がありません。
節子は子供たちと付き合うのがうまかったですね。
けっこう厳しくもありましたが。

小さな畑でとれる野菜を近所に配る文化は、娘たちが引き継いでいます。
一昨日も畑に残っていた大根とみかんを交換してきました。
そのみかんをまた、ちょうど来客があったのでおすそ分けできました。
その文化のおかげで、わらしべ長者のように、わが家はいつも豊かです。
お金がなくても豊かになれる生き方は、節子と一緒に創りあげた生き方でした。
でも、節子がいなくなったいま、その豊かさもなぜか寂しいです。
お金がなくても豊かにはなれますが、節子がいなければ豊かにはなれません。
私の持っているすべてと引き換えに、節子を戻してもらえるのであれば、すべてを投げ出したいです。

畑の整備をしながら、なんで節子はここにいないのだろうと寂しくて仕方ありませんでした。
でも畑はだいぶきれいになりました。
節子には合格点をもらえると思います。

■197:高知の宅老所から文旦が届きました(2008年3月17日)
節子
この頃、いろいろな人からまた手紙や電話が来ます。
その都度、節子に報告していますが、ちゃんと聞いてくれていますか。
聞き届けたら、何か確認の合図をしてもらえるとうれしいです。
一番簡単なのはろうそくの火を大きくゆらしてくれることです。
がんばって試みてください。

高知県の四万十市のNPO、高知介護の会の豊永美恵さんから文旦が届きました。
豊永さんとはコムケア活動で6年ほど前に知り合いました。
その地域に残っている幡多昔むかし祭りを復活させたいという思いを、ささやかに支援させてもらったのです。
お祭り当日、私も参加させてもらいました。
そこで宅老所「えびす」の高齢者の方々がつくった豆腐料理や伝統食のさわち料理をご馳走になりました。
まちづくりやコミュニティケアに対する考え方が大きく変わることになる体験をさせてもらったのです。

節子に話したら、手づくりケーキを贈ろうということになりました。
当時はまだ元気だった節子は張り切ってパウンドケーキなどを作り、送ったのです。
当時、その宅老所の事務局長だった豊永さんが、みんなとても喜んでくれたと電話をくれました。

幡多昔むかし祭りは今では地域行事として定着しました。
毎年、その季節になると豊永さんから、今年こそ奥さんと一緒に来てくださいと電話か手紙が届きました。
四国に行ったことがなかった節子は行きたいといっていましたが、私の時間が取れずにいつも実現しませんでした。
そしてそのうちに、節子が病気になってしまったのです。
後悔先に立たずです。

昨年、また豊永さんから手紙がきました。
節子のことを伝えました。
この数か月、こうした悲しい手紙を何通書いたでしょうか。
書くたびに、その手紙を受け取った人の困惑を考えて躊躇するのですが、結局はいつも送ってしまいます。
相手には迷惑だろうと思いながらも、節子のことを知ってほしいと思ってしまうわけです。
昨日もある人から、「その後、奥さんはいかがですか」とメールがきました。
まだまだ節子のことを知らない人が少なくないのです。
その人は、節子もよく知っていて、「明るいし、いつも気配りがある人ね」といっていた人です。
先週、北九州市から来てくださった山下さんもその一人です。
節子は本当にみんなの心の中に、少しでしょうが、思いを残しているようです。
伴侶の私としては、とてもうれしいです。

いつか元気が出てきたら、四万十市の宅老所「えびす」も訪ねたいと思う一方で、果たして一人で訪ねられるだろうかと不安です。
コムケア活動やまちづくり活動に取り組んできたおかげで、全国各地に友人知人がいますが、70歳になったら節子と2人で全国行脚をしたいと思っていました。
だからそれまではあまり行かないでいようと思っていたのです。
それが裏目になってしまいました。

節子
宅老所「えびす」の元気なおばあさんたちとそちらで会っているかもしれませんね。
コムケアの佐藤修の妻だといえば、喜んでくれる人もいるかもしれません。
目印は、ともかく元気で明るいおばあさんたちです。
いや、まだそちらには誰も行っていないかもしれませんね。
失言してしまいました。はい。

■198:ミラボー橋(2008年3月18日)
節子
本を整理していたら、アポリネール詩集が出てきました。
懐かしい本です。

シュールレアリスムという言葉(概念)の発案者、アポリネールは実にドラマティックな人生を送った詩人です。
モナリザ盗難事件の犯人に間違えられた事件が象徴しているように、彼のまわりにはきっと異常な空気が漂っていたのでしょう。
アポリネールの詩も、その生き方も、私にはなじみにくいものがあったのですが、それゆえにどこかで憧れを感じていました。

「ミラボー橋の下をセーヌは流れる」で始まるシャンソンの名曲「ミラボー橋」は彼の作品の一つです。
その一部を引用させてもらいます。

愛は流れ行く水のように去っていく
愛は人生は遅すぎるかのように
そして望みは無理であるかのように去っていく

夜が来て、鐘が鳴り
日々は去り、我は一人。

日々が去り、週が去って行くのに
時は去らず
愛は戻らない
ミラボー橋の下をセーヌは流れる

詩の全体は、たとえばここをクリックしてください。
http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-today/apollinaire.htm

この時、アポリネールは恋人だった画家のマリー・ローランサンと別れた直後でした。
別れた後も、アポリネールはローランサンことを忘れることができず、終生、彼女を慕い続けたそうです。
スペイン風邪のために38歳の若さで死んだアポリネールの枕元には、ローランサンが描いた「アポリネールと友人達」が架けられていたといいます。

この数十年、思い出しもしませんでしたが、堀口大學の訳の詩集が出てきたので、何気なく目を通していたら、あとがきに堀口大學の追悼詩がありました。
その一部引用させてもらいます。

・・・・
「それから1年たった
今日は1919年11月9日だ
そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す
お前を思うことは有難い
お前は涸れることのない詩の泉だ

お前は芽を出す種子だ
お前が死んでから1年たった
今日は1日お前を思い
お前の詩集「カリグラム」を読んで暮らそう

節子がいなくなってからまだ1年はたっていませんが、
今日は1日節子を思い、無為に過ごそうと思います。

■199:カトマンズのチューリップ(2008年3月19日)
節子
ネパールの田中雅子さんからうれしいメールが届きました。

昨年お宅にうかがった折にいただいた球根のチューリップが咲きました。
カトマンズも冬は結構冷え込むので、日本の球根でも大丈夫かなあと心配していましたが、2月末になって急に芽を出したと思ったら、まだ背丈が15センチほどなのに花が咲きました。
朝、慌ててとった写真なので、あとでよく見たら、花と葉っぱに砂がついていました。
水をやってから撮ればよかったのに、すみません。

ちょっとユーモラスなチューリップです。
そういえば、最初に出会った頃の節子は、このチューリップのように、まるまると太ったかわいい感じでしたね。
この微笑ましいチューリップを見て、思わず昔の節子を思い出しました。
節子の一部はチューリップの球根に乗って、ネパールにも届いているのでしょうか。
とてもうれしいです。

続けて田中さんはこう書いています。

カトマンズはこの時期、梅、ジャスミン、木蓮などが咲いています。
あと1ケ月もすると街路樹ジャガランタが薄紫の花をつけます。

ジャガランタという樹を知りませんでしたので、早速、ネットで調べてみました。
見事な樹花です。
http://blog.livedoor.jp/himact/archives/50744965.html
節子は、このジャガランタの花が見られるかもしれませんね。

わが家のチューリップはまだ芽が出たところです。
寒いカトマンズのほうが早く開花したのが不思議です。

田中さんは、私のホームページに「カトマンズ便り」を定期的に掲載してくださっています。
とても興味深い記事が多いです。
お読みいただければうれしいです。

■200:今年のお彼岸の中日は雨でした(2008年3月20日)
節子
今日はお彼岸の中日です。
お彼岸に仏様の供養をすると極楽浄土へ行けるそうですので、いつもは仏の供養ではなく、節子の供養なのですが、今日はきちんとお寺の本堂もお参りしてきました。
節子のお墓は、毎週、お参りしていますので、いつも花がきれいです。

午前中、さいたま市から節子の友人の伊東さんがお墓参りに来てくれました。
節子が伊東さんとどうして知りあったのか知らなかったのですが、吉祥寺時代に知り合ったのですね。
吉祥寺に私たちがいたのは4年ほどでしたが、私はかなり会社の仕事にのめっていた時代です。ですからあまり記憶が残っていません。
伊東さんのお名前は何回も聞いていましたが、お会いしたのは節子がいなくなってしまってからです。
昨年も一度、献花に来てくださいましたが、あの時は私自身にまだ余裕がなく、何を話したのかも覚えていません。
今回は少しゆっくりとお話させてもらいました。
お人柄がよくわかりました。
あなたは本当に友だちに愛されていたのですね。

午後は、茨城の谷和原から「城山を考える会」の横田さんと窪田さんが来てくれました。
横田さんは私の呼びかけを受けてくれて、「城山を考える会」を立ち上げてくださった方です。
最初に企画したイベントに、節子と一緒に出かけましたね。
あなたは蕎麦がとても気にいって蕎麦粉までもらってきました。
しかし、蕎麦うちはそう簡単ではなく、見栄えも味も全く違うものになってしまったのを覚えています。
節子のことを知って、線香をあげに来てくれたのです。
久しぶりにゆっくりと話をさせてもらいました。
節子が元気だったらまたイベントに一緒に参加できたのに、とても残念です。

一昨日までと違い、今日は寒い雨の日でした。
お彼岸は晴天が多いと言われているのに、どうして今年は寒い上に雨なのでしょうか。
お客様があったにもかかわらず、なんだか寂しい1日でした。
彼岸は「日顔(ひがん)」からきているという説もあるそうです。
太陽信仰にもつながっています。
太陽にお目にかかれないお彼岸は、とても寂しいです。

■201:挽歌1000回継続宣言(2008年3月21日)
節子
あなたへの挽歌も、もう200回になりました。
いつまで書くことになるのでしょうか。
一時は「時評編」よりも読者が多かったこともありますが、最近は時評のほうの読者が多く、この挽歌編はノイズになっているかもしれません。
そもそも時評と挽歌という、全く異質の記事が混在している、このブログはきっと読者には違和感があるでしょうね。
例えば、グーグルで「9.11事件の真実」や「カーボンデモクラシー」を検査すると1枚目にこのブログが出てきますが、そこに突然、挽歌が登場するわけですから、検索者は驚きます。
もっとも、それが縁でこの挽歌を読んでくれた人もいます。

前にも書きましたが、生きている個人の情緒的な思いの時評を意識していますので、私の時評は論理的でも客観的でもありません。
そうしたものには私自身全く興味のない人間です。
ゾーエとビオスの絡みあいにこそ、このブログの意味があるので、本当はいずれをも読んでほしいのですが、いずれの記事も長いので、読者はそうそう付きあってもいられないでしょう。
しかし、このスタイルをもう少し続けようと思います。

節子や私を知っている人のなかには、このブログの挽歌編をプリントアウトして読んでくれている人もいます。
プリントアウトも大変だと思うので、総集編をCWSコモンズのほうに掲載しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/banka1.htm
しかし、冗長に書きすぎたため分量が多くなって印刷費用がかかりそうです。
困ったものです。

そういえば、先日、千葉の根本さんが記事を読んでメールしてくれました。
「金魚が泣いたら地球が揺れた」という詩の話には「爆笑」したと書いてありました。
この詩はランボーやアポリネールの作品にも勝るとも劣らない私の自信作なのですが、節子に理解されなかったのは当然だと根本さんはいうのです。
いやはや、困ったものです。
今度、その詩を書いておいた詩集を探し出して全文を書くことにします。
そうしたら評価も変わるかもしれません。

根本さんに、この挽歌は少なくとも1000回は続くから付き合うのは大変ですよと返信しました。
根本さんのことですから、まじめに読み続けかねません。

生きる意味はなんだろうという問いにはまだ答は出ませんが、
とりあえず、この挽歌を書き続けることを私の「生きる意味」にすることにしました。
「節子のために生きる」という生き方は変えなくてすみます。
なんだかとても小さな人生になりそうな気がしますが、まあ、それもいいでしょう。

そんなわけで、今回は挽歌1000回継続宣言です。
節子、
したがってまだ3年くらいは、そちらに行けません。
待ち遠しくなったら、節子の方から現世に戻ってきてください。
いつでも歓迎です。

■202:白い鳥によく会うのです(2008年3月20日)
お彼岸に節子の墓参りに来てくださった、さいたま市の伊東さんが、涙ぐみながら、こう話してくれました。

最近よく白い鳥に会うのです。
節子さんは、鳥や花になって戻ってくると言っていたそうなので、もしかしたら節子さんなのかなと思っています。

そういえば、わが家の庭には最近あまり鳥が来ません。
花は咲きだしましたが、鳥はあまり来ないような気がします。
全国の友人たちのところを飛び回っているためなのだと、やっと合点できました。

庭の餌台には大きな鳥や小さな鳥がよく来ました。
果物をよく乗せていたのですが、大きな鳥が来ると小さな鳥は逃げていきます。
同じ種類の鳥でも、強い鳥と弱い鳥がよくわかります。
自然の生命界もまた厳しい競争社会なのかもしれません。
大きな鳥が餌台を占拠すると、節子はいつも追い払っていました。
小さな鳥に餌を食べさせたかったのです。
節子はいたって単純な人でしたから、大きいほうが強いといつも考える人でした。
しかし、大きな鳥が強いとはかぎりません。
それに、鳥よりも大きい節子が鳥を追いやるのは弱いものいじめです。
小賢しい私などは、そう考えるわけですが、単純な節子はいつも小さい鳥の味方でした。

節子はいつも弱いものが好きでした。
だから私のことが好きだったのです。
私の弱さを、節子は良く知っていました。
ですから私は、節子の前では弱い自分を思い切り素直に見せることができました。
節子も同じでした。
私たちは、お互いに自分の弱さを思い切り相手に公開していました。
弱さがつながると強さに転化します。
ですから私たちはきっと強い夫婦でした。
その強さをこれからも維持していけるでしょうか。

節子
鳥になって全国を飛び回っていないで、早くわが家に戻ってきてほしいです。

■203:人にはそれぞれ決められた生き方があるのかもしれません
(2008年3月23日)
節子
CWSコモンズに書きましたが、先週、北九州市の山下さんが来てくれました。
その時に思ったことを少し書きます。

山下さんはアルピニストでもあります。
山が好きなのです。
激務の合間をぬって、アルプスに時々出かけていました。
でも、いまはなかなか山にも行けないようです。
時間の関係もあるでしょうが、体調の関係もあるのでしょう。
山下さんはまた、ボランティア活動ももっと広げたいと思っていますが、周囲の事情がそれをなかなか許してくれないようです。

そんな話をしていて思ったのは、私は本当に自分の思うような自由な生き方をしているのだろうかということです。
意識的にはそうだと思っていますし、このブログでもそういう生き方をしていると何回か書いた気がします。
でも本当にそうなのだろうか。

とりわけこの10年の私の生き方は、周囲の人たちとの関係のなかで決まっていたような気がします。
最近、2度ほど生き方を変えようと思ったことがあります。
5年前にはすべての活動を一度白紙に戻そうと思いました。
自由に生きていたはずが、いつの間にかさまざまなつながりのなかで、意図せざる状況になっていたからです。
ほとんどの学会や団体、グループなどから脱会しました。
3年前には経済的な理由もあって、ちゃんと「ビジネス」をしようと考えました。
いずれの時も、節子の病気の関係で、そうはなりませんでした。
しかし、生き方は間違いなく変わりました。
節子のおかげだと感謝しています。
節子はきっと私の生き方の方向性を知っていたのでしょう。
自分では見えないことでも伴侶には見えることはたくさんあります。

コモンズのほうに書きましたが、人には、それぞれ決められた生き方があるのかもしれません。
気づいていないのは自分だけなのかもしれません。
最近、そんな気がしてなりません。

節子の人生は、もしかしたら私と出会う前に決まっていたのかもしれません。
伴侶である私が、なぜそれに気づかなかったのか。
節子を愛し過ぎてしまったからかもしれません。
あまりに自分と一体化してしまっていたのです。
もしかしたら節子はそれに気づいていたかもしれません。
一体化しすぎている私たちの関係を、時々、危惧していました。
そして私にもっと自立しろと言ってくれていました。
しかし、私には「私の生き方」ではなく、「私たちの生き方」しか考えられなかったのです。
最近、ある人から「佐藤さんは人には自立しろと言っているのに、自分は自立していないじゃないか」と指摘されましたが、全くその通りです。

いまさら自立する気は毛頭ありませんが、私の生き方はどう決められているのでしょうか。
節子は知っているのかもしれませんね。

■204:自分に感謝する生き方(2008年3月24日)
このブログを読んでくださっているAKさんから、先日書いた「笑いと涙の2時間半」の「あれから世界は激変し、全く違った世界になってしまったような気がします」を読んで、自分も同じような経験をしたというメールをもらいました。
AKさんは節子のことをとても心配して下さり、節子がとても感謝していた人です。
元気になってAKさんを訪ねることも私たちの目標の一つでした。
AKさんは、数年前に脳出血で身体に障害が残ってしまいました。
いまは職場に復帰されていますが、その時に、世界が変わってしまったのを感じられたようです。
変わってしまった世界で生きていくのは最初はかなりの戸惑いがあります。
周囲の善意が、時に気を滅入らせてしまうこともあります。
AKさんは最後に、「この世に生を受けた以上、どのような境遇に会おうとも、一生懸命生きていかざるを得ないのだという当たり前のことに思いを新たにしています」と書いていました。
そこでついつい余計なことを書いてしまいました。

「一生懸命生きていかざるを得ない」と思うのではなく、「一生懸命生きていくことを楽しむ」のがいいです。
いや、「生きていくことを楽しむ」ことこそが、「一生懸命生きる」ことなのではないかと最近思い出しています。
これは、女房から教えてもらったことです。

AKさんからはすぐにそうですね、とメールが来ました、
思いはたぶん一緒なのです。
節子は、病気になってから「生きる毎日」をとても大切にするようになりました。
「大切」という意味は、「楽しむ」ということでした。
寝る前にいつも、「今日も楽しく過ごせて、ありがとう」と言っていました。
私にではなく、たぶん自分にです。
自分に感謝する生き方。
発病してからの節子の生き方から教えてもらったことはたくさんありますが、このことが一番私に大きな影響を与えたかもしれません。
感謝する「自分」と感謝される「自分」。
そこに「いのち」の本質があるような気がしています。

■205:「同時代をただ生きているだけで価値ある実在」(2008年3月25日)
節子
先日、20年近く会っていない、元若い友人からメールが来ました。
CWSコモンズには書いたのですが、私のホームページを久しぶりに読んで、節子との別れのことも含めて、私の近況を知ってくれたのです。
彼に最後に会ったのは、オゾン戦争について取材に来た時かもしれません。
たぶんオープンサロンには来たことがないので、節子は会ったことがないかもしれませんが、私にはとても心に残る若者でした。
今はもちろんもう若者ではありませんが、たぶん若者の心を残しているはずです。
会いたい気分と会いたくない気分が半々です。

彼はこう書いてきてくれました。
私にとっては過分な「褒め言葉」です。

実際にはずっとお会いしていませんが、僕のほうは、そうでもないのです。
佐藤修さんは、僕が社会に出てからお会いした人たちの中では、最初に会ったときから、人生の先輩として、はじめて人として尊敬できる人だったからです。
以来、遠く離れていたり、ずっとお会いしていなかったりしても、
僕の想念の中では、幾度となくお会いしていて、お話していて、お世話になっているので、
いつでも同時代を生きている、ただ生きているだけで価値ある実在です。

「同時代を生きている、ただ生きているだけで価値ある実在」
よく読んでみると、これは褒め言葉ではないかもしれませんね。
「ただ生きている」ことに価値があるということは、今の時代には価値のある活動をしていない実在という意味でもありますから。
彼のことですから、それくらいのシニカルな含意は十分に込められているはずです。
いやはや。

しかし、実はこれはまさに私が理想としていた生き方なのです。
そして、私が節子に望んだ生き方でもありました。
節子もまた、私に同じことを思っていたはずです。
まさか外部から同じ言葉が送られるとは思ってもいませんでした。

夫婦とは、お互いにただいるだけで価値ある実在なのです。
その関係が、夫婦や家族だけではなく、まわりの人たちとの関係においても、そして無縁の人たちとの関係においても、広げられるならば、それほど幸せなことはないでしょう。
そんな夫婦を目指したいと、私たちはどこかで共有していました。
しかし、その一歩を踏み出す前に、節子は「生きていること」をやめてしまいました。
その衝撃がいかほどのものか、彼にはわかったのかもしれません。
空の青さへの私の思いを分かってくれた人ですから。

私にとって、「ただ生きているだけで価値ある実在」だった節子はもういません。
それどころか、節子以外のそういう人たちが、最近、次々といなくなっています。
その寂しさは大きいです。
でも一人とはいえ、同時代を生きていることを喜んでくれている人が、節子のほかにもいたことはうれしいことです。
祝福された気分になります。
節子、私も少しはだれかの役に立っているのかもしれません。

■206:初めての単身赴任(2008年3月26日)
昨日の続きを書きます。
昨日書いた友人からのメールで気づかされたことがあります。
「僕の想念の中では、幾度となくお会いしていて、お話していて、お世話になっている」という文章です。

私にもそういう人が少なからずいます。
あの人ならどう考えるだろうか、あの人はきっと喜んでくれるだろうな、あの人がもう少し前に進めといっている、というような「声」を聴くことがあります。
もう亡くなってしまった方もいますし、全く会う機会がなくなった方もいます。
その一人が節子なのだと、このメールを何回か読み直して気づきました。

彼が、20年も会うことなく、私と想念の中で会っているのであれば、そしてまた彼が私の想念の中で生きつづけているのであれば、節子もまた私の想念の中で生きつづけ、私と会い、話し、私をケアしてくれる存在であり続けられはずです。
私には単身赴任の経験はありませんが、単身赴任と考えればいいわけです。
彼女を抱きしめられない寂しさは残りますし、彼女をケアしてやれない哀しさは残りますが、それもまあほんの暫くの我慢かもしれません。
間違いなく来世では会えるのですから。

嬉しいこと、辛いことがあると、節子の位牌の前で報告し、今でも苦楽を共にしています。時に、なんでおまえはいなくなってしまったの、会いたいよ、と愚痴をこぼすこともありますが、節子の前で口に出すと気持ちが楽になります。
節子はいまや、
「生きていようといまいと価値のある実在」になっているのです。
そのことにやっと気づきました。

SYさん
ありがとう。
早く空を見に湯島に来てください。
もっともあなたの時間感覚は私と同じで、全く物理的な時間ではないので、私の「単身赴任」中には会えないかもしれませんが、まあそれもまたいいでしょう。

■207:駅前花壇の白雪姫も根づいたそうです(2008年3月27日)
節子
我孫子駅前の花壇の花がきれいです。
そう思っていたら、花かご会の山田さんからじゅんにメールが届きました。

駅前花壇のパンジーもこのところの暖かさで大きくひろがってきました。
今日は2週間ぶりの作業日で花がらを摘んだりしてきましたが、
そろそろ雑草が顔を出し始めたので、
これから雑草とりが大変だねとみんなと話しました。
頂いた白雪姫、秋明菊、あじさい どれも根がついたようで芽が出てきていて喜んでいます。  

作業のあと、みんなでお墓参りをさせていただきました。
お墓の前で例のごとくわいわいがやがや話していますから、
お母様もきっと相変わらずねーと笑ってらっしゃるだろうと思いながらも、さみしいですね。
誰もがきっとそう心の中で思っているのでしょうね。

みんなにまた会えてよかったね。
節子は本当にやさしい友だちに恵まれていますね。
うらやましいほどです。

花かご会のみなさんが移植してくれた、あなたが自宅で育てていた花も根づいたようです。
白雪姫はちょっと不安がありましたが、とてもうれしいです。
花かご会のみなさんがきっと心を込めて世話してくださったからです。
駅前に節子の花があることの幸せを感じます。

■208:サイモントン療法を教えてくれた濱口さん(2008年3月28日)
節子
私たちにサイモントン療法を教えてくれた濱口さんが訪ねてきてくれました。

ホームページで知り合った濱口さんからサイモントン療法を教えてもらったのは昨年の6月でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#0626
残念ながらワークショップには参加できませんでしたが、CDを使っての瞑想を毎日はじめました。
単純な私は、そのCDのナレーションに元気付けられましたが、今から思えば節子は複雑な気持ちだったかもしれません。

「あなたは物事を簡単に考えすぎる」と、私はいつも節子に指摘されていました。
たしかに私は物事を軽く考える傾向があり、失敗も少なくありません。
そのために、どれだけ節子には苦労をかけたでしょうか。

節子の病気に関しても、どこかで「簡単に考えていた」のかもしれません。
「節子は治る、絶対に治す」と、私は心底考えていたのですから。
「絶対に」などとはありえない言葉ですが、当時、私は本当にそう確信していました。
私のことをよく知っている節子は、その私に合わせて、もしかしたら思考停止していたのかもしれません。
そして、私にすべてを委ねていたことは間違いありません。
しかし私は節子を治してやれませんでした。
不甲斐ないパートナーでした。

話がそれてしまいましたが、サイモントン療法は私たちに元気を与えてくれました。
それに会ったこともない人からも応援されていることで、私たちはみんなに支えられているのだと勇気づけられました。
メールのやりとりだけでしたが、人の心は伝わるものです。
節子の訃報を知った時も、橋口さんはすぐに手紙をくれました。
ばたばたしていて、返事を書いたかどうかも定かではないですが、心のこもった手紙のことはしっかりと覚えています。
内容は覚えていませんが、濱口さんの心のあたたかさは心に深く残りました。

その濱口さんが東京に来るとメールをくれました。
初めての対面です。
なんと25歳の好青年、想像していたのとは全く違っていました。

節子の様子をいろいろと訊いてくれました。
久しぶりに話をさせてもらいました。
生前に訪ねればよかった、とポツンとつぶやいてくれました。
涙が出そうになるほどうれしかったです。
奥さんはきっと幸せにしていると思いますよ、と言ってくれました。
その言葉がとても素直に心に入りました。

初対面にも関わらず、実に気持ちのいい時間を過ごせました。
橋口さんに何かお返しできるといいのですが。

■209:見ることのなかった湯島の梅(2008年3月29日)
湯島のオフィスの近くの湯島天神の梅もそろそろ散り出していると思いますが、今年はとうとう見に行くことはありませんでした。
梅が咲き出してからは、とても行く勇気が出なかったのです。
節子と一緒に毎年立ち寄って、甘酒を飲んだり、猿芝居を見たり、たくさんの思い出があるからです。
節子を思い出すために行ったらどうかという考えもあるでしょうが、私はどうもそう考えられません。それこそ足がすくみ、不安感が胸を襲うのです。
だらしないねと笑われそうですが、それが正直な気持ちなのです。

一緒に行ったことのあるところに行きたいという気持ちはあるのです。
ただ行けないだけの話です。
行けば、きっと大丈夫なのでしょう。
でも行く気にはなかなかなれません。
いろいろなところに私を排除する結界ができているような気がします。
いえ、私が自らの周りに結界をつくっているのかもしれません。
最近、ちょっと防衛的になっている自分に気づいて寂しくなることがあります。
ベクトルを変えないといけないと思ってはいるのですが、まだ自信がでてきません。

来年は湯島の梅を見られるでしょうか。

■210:生命の意味は犠牲にある(2008年3月30日)
「荒れ野の40年」という感動的な演説で有名な、ドイツの政治家ワイツゼッカーは、「生命の意味は生活の存続にあると考えがちだが、むしろ生命の意味は犠牲にある」と言っています。

私たちは、自分のために生きているけれども、実は他者のために生きているのだというのです。
節子を見送った今、この言葉が自然に心に入ってきます。
節子は自分のためにではなく、私たちのために生きていたのであり、節子の生は私のためのものだったとさえ思えるのです。
節子が、私たちのために犠牲的な生を送っていたということではありません。
そうではなくて、私たちの喜びこそが節子の生きがいであり、私たちとの関係において、節子は生きる時間を得ていたという意味です。
ここでいう「私たち」とは、広がりのある言葉です。
節子の場合、その核には伴侶だった佐藤修という個人がいて、そのまわりに家族がいて、親戚友人がいて、隣人知人がいて、世界の人々がいて、さらに花や鳥がいて、宇宙があってというように、無限に広がっていくわけです。
しかもそれが、華厳経にあるようなインドラの網のように統合的につながっているわけです。

ワイツゼッカーがいうように、私たちは、他者のために死ぬことによって生き、他者の死によって生きているのです。
私たちの食事は、他者の生が私たちの食卓を可能にしてくれていますし、私たちの生に何がしかの意味があるとしたら、その意味を享受するのは他者でしかありません。

こう考えていくと、死者を弔い、死者を供養するのは、実は自分を弔い供養することなのかもしれません。
今日、いつものように、節子の墓の前で節子の笑顔を思い出していたら、「生命の意味は犠牲にある」というワイツゼッカーの言葉がなぜか頭に浮かんできました。
節子は私のために生き、去っていったのです。
その節子の生を無駄にしてはいけないと強く思いました。
そのためにも、節子のための私の生をこれからどう生きるべきか、きちんと考えようと思っています。
まだどう考えればいいか、全くわからないのですが、少なくとも善良に誠実に生きたいと思っています。
節子に再会した時に喜んでもらえるように。

■211:ボヘミヤの農夫の疑問「死があるとすれば、生とはいったい何か」
(2008年3月31日)
昨日の話に続いてしばらく「生と死」への思いを書きます。

今から600年前に書かれた「ボヘミヤの農夫」という本があります。
読んだことはありませんが、死生観などに言及した本を読んでいると出てくるので、記憶に残っていたのですが、気になってネットで調べてみたら、「死をめぐる自己決定について」という本の存在を知りました。
ちょっと興味がありますが、いまは読むエネルギーがありません。
もう少し元気になったら読んでみようと思います。

ところで、「ボヘミヤの農夫」は、人間が死と裁判して争うという話です。
妻を亡くしたクリスチャンの農夫が、神はなぜこのような死という惨いものを人間に課するのかとして、「死」を殺人罪で告訴するのです。
被告になった「死」は、自分は主であり、人間は主に服従しなければならないと抗弁します。

生が神の創造によるものであるならば、死もまた神自身の創造によるそれ自体意味のあることなのだというわけです。
そこには人間的な「救い」は見出せません。
逆に、次の疑問が生じます。
最初から否定されることが決まっている「生とはいったい何か」
生の終わりが不可避であり、いかなる生も結局無に帰するのであれば、生きること自体が意味のないことではないのか。

手塚治虫の死で私が残念だったのは、「火の鳥」が未完で終わってしまったことです。
宇宙史的な構想のもとに描かれた作品「火の鳥」の物語がどう顛末していくかに大きな関心を持っていたのですが、手塚治虫の死によって、その構想は永遠に消失してしまったのです。
彼の死は、同時に手塚治虫の膨大な知識と構想が無になった瞬間でもあったわけです。
彼が生み出した「構想」は一体なんだったのか。

そういうことを考えると、個人の生や営みなどは些細な挿話でしかないのです。
わずかばかりの挿話にどのような意味があるのか。
しかも、その挿話は必ず「死」に向かっているわけです。
人生において、苦労することの意味は何なのか、

しかし、死を意識してから、その時々を懸命に生きていた節子は、逆に死を意識しない生を生きていたのかもしれません。
まさに、般若心経がいう「無老死亦無老死盡」の境地だったのかもしれません。
些細な挿話を、誠実に善良に生きることにこそ、生の意味があるのかもしれません。
最近の事件と重ねながら、節子のことを思い出すと、奇妙に納得できることが多くなってきました。

ところで、ボヘミヤの農夫がキリスト教の信仰を捨てたかどうか、それについて知っている人がいたら教えてくれませんか。

■212:不死を願うことは死を呼び込むこと(2008年4月1日)
昨日の続きです。
節子は毎日を感謝しながら納得できるような生き方に心がけていました。

ブッダは「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て1日生きることの方が優れている」と言ったそうです(石井誠士「癒しの原理」)。
不死が無ければ、人生は、結局無に帰するのであり、不死であれば、1日も最も充実しているのだ、と著者の石井さんは言います。
確かに桜の花が1年中咲いていたら、感動は薄れるかもしれません。
以前、富士吉田市の市長と話していて、こんなに目の前に大きな富士山があると、毎日、元気が出ますね、といったら、当然の風景なので意識などしませんよ、といわれました。
地方に行って、すばらしい風景や文化に触れて感動することも多いですが、地元の人はそれが当然だと思っていますから、そう感動しているようには思わないこともあって、なんともったいないなどと思うこともあります。

節子は、いつも私の隣にいました。
朝起きればそこにいましたし、食事の時にはいつも隣にいました。
節子がいるのが、私にとっての日常風景だったのです。
節子と一緒にいることの幸せは、もちろん感じていましたが、
あまりに当然のことなので、その意味がわかっていなかったわけです。
いまは、ブッダの言葉の意味がよくわかります。

死が、生を輝かせてくれるのかもしれません。
花は枯れるからこそ、その輝きに感動させられるのかもしれません。
限られた時間であればこそ、私たちは思い切り輝けるのかもしれません。
だとしたら、不死を願うことは死を呼び込むことなのかもしれません。
「死」にはやはり大きな意味があるのです。
節子は、死をもって私に何をメッセージしたかったのでしょうか。
節子がいなくなってから、節子の本当の価値や私たちの関係がわかってきました。
来世ではきっと現世よりもいい関係を構築できるでしょう。

私は節子に、「節子と一緒だったら3万年一緒にいても飽きない」と時々話していました。
節子は必ずしも同意はしませんでした。
もう飽きかけていたのかもしれません。
もしかしたら、私に飽きてしまって来世に行ってしまったのかもしれません。
そうだとすると、来世でまたよりを戻すのは苦労かも知れません。
いやはや困ったものです。

■213:「死」との付き合い方こそが社会のあり方を決めていく(2008年4月2日)
もう一度だけ、「死」の話です。

毎日のように「死」が報道されています。
それも家族によってもたらされる死の事件が少なくありません。
かけがえのない伴侶を病気で失った私にとっては、なぜそんなことが起こるのか、不思議でなりません。
「死」以上に辛く悲しいことがあるのかもしれませんが、「死」を生きることの選択肢にしてほしくありません。
「死」を選択肢にした人は、「死」の後も生きていくと考えているのでしょうか。

「死にまつわる報道」の多さは驚くほどです。
事実だけではなく、ドラマや映画でも、最近は「死」が扱われることが多くなってきているように思います。
たしかに「死」は、ニュースにもなりやすいですし、ドラマにもしやすいでしょう。
しかし、昨今のように安直に扱われる風潮にはいやな気がします。
事件の報道の仕方も気になります。
「死」が対象化され、物語化されすぎているような気がします。
それがまた次の「死」を触発するのではないかと心配です。

かつては、「死」は日常的な体験の風景だったという人がいます。
それが、いまや「隔離された事件」になっているというのです。
「死」が「体験」ではなく、「知識」や「情報」になったわけです。
そのため、「死」の語り方が変ってしまったのかもしれません。

私は妻の死を体験する前に、同居していた両親を看取る体験をしています。
その死を日常的に乗り越えられたのは、妻のおかげです。
そして、節子の死を乗り越えられたのは、むすめたちのおかげです。
私にとって、「死」は決して「事件」ではなく、「日常」でした。
事件は忘れられ風化しますが、日常は決して忘れられることなく日常化します。
元気になりましたか、と時々、訊かれますが、この質問には戸惑います。

核家族化が進む中で、「死」との付き合い方は大きく変わってしまったような気がします。
社会が脆くなっている大きな原因の一つは、核家族化だと私は思っていますが、伴侶との死別を体験して、改めてそう思います。
「死」は「生」とは全く次元の違う話だと思いますが、「死」との付き合い方こそが社会のあり方を決めていくのかもしれません。
その基本にあるのは、家族のあり方です。

節子の死を体験してから、「死に対する報道」の受け取り方が変ったような気がします。

■214:友人から聞いた「危うい話」(2008年4月3日)
節子
リンカーンクラブの武田さんに会いました。
その武田さんが不思議な話をしてくれました。
以前にも2度ほど聞いたことがあるのですが、今回はなぜか心にすっと入りました。

たぶん昭和38年か39年の話です。
武田さんは、渋谷で私に会ったというのです。
2人とも学生の時代です。
そしていうまでもなく、武田さんと私はまだお互いに知りあってはいません。

私と武田さんが知り合ったのは、それから15年後です。
情報問題を考える会で一緒になったのですが、その時、武田さんは15年前に私に会っていたことを思い出したのだそうです。
私がその話を聞いたのはずっと後になってからです。

そんなことってあるでしょうか。
その頃、私が渋谷を歩いていた機会はそう多くないはずですが、月に数回は歩いていたはずです。
武田さんがいうには、井の頭線に向かうデッキだというのですが、渋谷にはいつも井の頭線で行っていました。
ですから武田さんとすれ違う可能性はゼロではありません。
しかし、知りもしない人の出会いが記憶に残ることはあるでしょうか。
そんなことがあるとすれば、武田さんとはなにか因縁があるのかもしれません。
そうだとすると、来世もまた武田さんとの付きあいがあるのでしょうか。
いやはや、困ったものです。

それはともかく、今回は、この話が妙に気になって仕方がないのです。
これは時間の乱れかもしれません。
時間は必ずしも一方向的に規則正しく流れているわけではないでしょう。
だとすれば、時間の破れのなかで、節子に会えるかもしれないのです。
先日書いた私が死後の現世に迷い込んだように、節子が迷い込んでくるかもしれませんし。

人の出会いとは、本当に不思議です。
最近、この世が奇妙に幻想的に感じられるようになりました。
私の削がれた半身に、彼岸の節子が入り込んできたせいでしょうか。
武田さんの「危うい話」が、私の「危うい話」になりそうです。
このあたりでやめておきます。

■215:「幸せ」は、その時には気づかないものなのかもしれません(2008年4月4日)
昨年の今頃、私の最も幸せな時間の一つは、節子の足裏マッサージでした。
毎日、2〜3回、官足法という足裏マッサージをしていたのです。
それまで歩行も困難だった節子が、専門家の岡山さんにマッサージをしてもらったら痛みが消えて歩けるようになりました。
私たちが奇跡を感じた最初の体験でした。
以来、岡山さんから教えてもらった方法で、私が毎日、節子の足をマッサージしました。
棒で気絶するくらい強く足裏をマッサージするので、節子も大変でした。
痛くても辛そうにせずに、笑顔でいなさいと岡山さんはいうので、落語や綾小路きみまろの漫談テープを聴きながら、気を紛らせていたものです。
午前中の場合は、毒蝮さんのラジオが定番でした。
そういえば、1日1回は、一昨日書いた濱口さんから教えてもらった瞑想のCDを聴きながらでした。
思い出してきたら、とても辛くなってきましたが、1年前は足裏マッサージが出来たのです。
今から思うと、とても幸せな毎日でした。
毎日2時間くらいを、足裏をマッサージしながら、節子との時間を共有していたのですから。

「幸せ」は、その時には気づかないものなのかもしれません。
後になって後悔しないように、今の幸せを大事にしたいものです。
節子と一緒にいた頃の「幸せ」は、あまりに日常的で幸せなどをあまり意識したことがなかったように思います。
節子が言っていたように、何もないことの幸せをもっと大事にし、感謝しておくべきでした。
みなさんも、ぜひ「今の幸せ」を大事にしてください。
余計なお世話ですみません。

■216:空き地の花壇に椅子を置こうかと思います(2008年4月5日)
節子
今日は報告です。
きっとあなたにも喜んでもらえると思います。

自宅近くの空き地で、節子は家庭農園に取り組んでいました。
その空地は、ハケの道に面しており、散歩で通る人も少なくありません。
道に面したところは花で一杯にしようと花壇にしました。
作業をしていると(私もたまにですが手伝いました)通る人から「ありがとう」と時々言われました。
昨年は農園主不在で手入れが出来ませんでしたので、花が雑草に負けてしまっていました。
今年は娘が中心になって、手間をかけずにすむ花を選んでいこうと考えています。

そこにベンチを置いたらどうだろうかと思いつきました。
道からかなり段差があるので簡単ではないのですが、ベンチを置いたら、散歩している人がちょっと休んでくれるかもしれません。
もっとも両側は民家なので、注意しないと迷惑をかけることになりますから、もう少し考えて見なければいけません。

こう考えた契機は、友人の木原孝久さんの「月刊住民流福祉」(この機関誌は私の愛読誌です)の2月号で「ちょこっとベンチ」の話を読んだことです。
主役は、社会活動などには興味のなかった長瀬さんの話です。
ボランティア活動をしていた奥さんが胃がんになり入院、退院した途端に今度は自分が急病で入院することになった長瀬さんが、入院中のベッドで真っ先に思い浮かんだのが、「この状態で、俺はどうしたら社会の役にたつだろうか」ということだったそうです。
そこで思いついたのは、「そうだ、家の前にベンチを置こう。うちの前の坂は、途中で休まないと上がれないくらいキツイから、ベンチを置いてあげたい。それで通る人に声をかけたいな」ということだったのです。
そこで退職した職人グループに依頼してベンチを作ってもらい、自宅前に設置したのだそうです。
ベンチはいろいろな人でにぎわい、人と話すのが好きな奥さんは自宅にいながらにして、いろいろな人と出会い、話せるようになったのです。
そして奥さんは、最後の最後まで生き生きと自分を生きられたそうです。

この記事を読んだ時、私はとても反省しました。
もっともっとやれることがあったのではないか。

節子
遅すぎたかもしれませんが、空地にベンチを置くことを考えたいと思います。
無理かもしれませんが、節子に「あなたは口だけなのだから」と言われないように、がんばってみます。
応援してください。

■217:節子がいなくなったのに、なぜ自宅に吸い寄せられるのか
(2008年4月6日)
節子、昨日、久しぶりに新幹線で大坂に行きました。
1年ぶりの遠出です。
とても不思議なのですが、節子がいなくなってから、どうしても遠出する気になれなかったのです。
それだけではありません。
なぜか自宅を離れるのも辛くて、原則として明るいうちに帰宅するようになりました。
自宅に帰っても節子はいないのですから、むしろ早く帰る理由はないのですが、節子がいた時よりも、なぜか足が自宅に向かうのです。遠出もそうです。
久しぶりの大坂なので、いろいろな人に会うために宿泊しようとも思ったのですが、その気にはなれませんでした。

なぜそういう気持ちになるのでしょうか。
帰宅しても、「おかえりなさい」という節子の声が聞けるわけではありませんし、その日のことをしっかりと聞いてくれる節子もいません。
むすめたちに話しても意味がないでしょうし、伝わりません。
40年かかって創り上げてきた2人の世界での以心伝心は、そこでは成り立たないからです。
にもかかわらず、自宅に帰らなければという意識が、心の心身に強く働きかけてくるのです。
まるで節子がわが家にいて、私を吸い寄せているような気がしてなりません。

しかし帰宅したからといって、何かが起こるわけではありません。
節子の位牌に灯をともして声をかけても、写真の中の節子は微動だにしないのです。
少し帰宅が遅くなって、一人の夕食になる時には、むすめが節子の写真を食卓に持ってきて、「お母さんに話しながら食べたら」といいますが、食卓の節子の反応はありません。

もっとも最近は、反応がなくてもいいではないかという気がしてきました。
最近知ったのですが、反応なく一緒に時空間を共有することを「共在」というのだそうです。
人類学者の木村大治さんの造語です。アフリカでのフィールドワークの興味ある調査結果を読ませてもらいました。
コミュニケーションの問題を考える上で実に示唆に飛んだ話のように感じます。
そう感ずるのは、私だけかもしれません。
最近、コミュニケーションに関する議論が私の周りでも多いのですが、私のコミュニケーションの捉え方はますます特殊化し、なかなか議論に入り込めなくなってきています。
節子とのコミュニケーションが、今の私にとっての最大の関心事だからかもしれません。

節子、いつになってもおまえから離れられません。
節子が心配していたとおりになっています。
困ったものです。

■218:みんなの心に生きつづけていることのうれしさ(2008年4月7日)
節子
友人から、その後、奥さんのお加減はいかがですかとメールがきました。
私の友人知人にしっかりと伝えていないこともあって、まだ知らない人もいるのです。
こういうメールが来ると、節子はいろんな人の心の中に今もなおいるのだなと思います。
その人に、節子との別れを伝えました。
返信が届きました。

まだ若かりし頃、佐藤さんのオフィスにうかがうと
いつもいらっしゃって、やさしく接していただいたことを思い出します。
一度ご焼香にうかがえればと思っております。

彼は今ではある有名な雑誌の編集長ですが、湯島に来てくれていた頃は湯島のオフィスを開いたころでした。
それまで専業主婦だった節子と一緒に湯島にオフィスを開き、仕事するでもなくしないでもない奇妙な生活を始めた頃でした。
実にさまざまな人がきました。
財界で活躍され、地方分権にも取り組まれた諸井虔さんがやってきて、節子と3人で2時間近く話をしたこともあります。
かとおもうと、社会からほぼ逸脱して生きている若者や老人もやってきましたし、大学教授や浪人の若者もやってきました。
私は社会の豊かさを実感させられ、以来、誰で喪に開かれたオープンサロンを始めました。
私には実に面白かったのですが、節子に退屈だったようで、一時は湯島に行くのが嫌いになっていました。
概念だけの言葉の世界は、節子にはあまり居心地が良くなかったのでしょう。
節子は土とふれあい、暮らしにつながる話が好きでしたから。
その種の話になると、ちょっとだけ話に参加してくれました。

でも、こうして当時、節子に出会った人が節子のことを覚えてくれていることは本当にうれしいです。
たくさんの人の心の中に、元気だった頃の節子がきっと今でも生きつづけているのです。
人はそうして、生きつづけていくのかもしれません。
いまも目の前に節子の笑顔の写真がありますが、私の心の中には笑顔も泣き顔も怒り顔も、みんな生きつづけています。

■219:愛する人を失った人にどう声をかけたらいいか(2008年4月8日)
愛する人を失った人に、どう声をかけたらいいでしょうか。
これは難しい問題です。
節子ならどうするでしょうか。

節子との別れの後、私には周りの人の気持ちを思いやる余裕もなく、自分の気持ちだけにしか気が向いていなかったことに、この頃やっと気づきだしました。
最近、気づいたのは、愛する人を失った人に声をかけることの難しさです。
節子との闘病を続けていた時期、愛する人を失った知人に声をかけることの難しさを体験していましたが、自分が当事者になってみると、そういうことをすっかり忘れてしまっていました。
きっと私の周りの人たちも、私にどう声をかけていいのか悩んでいたのかもしれません。

5日に大阪で行ったコムケアフォーラムで「おんなの目で大阪の街を創る会」の小山琴子さんに会いました。
会うなり、奥さんの時には何もできなくてすみません、と言われました。
その言い方に、小山さんがずっと気にしていてくれたことを実感しました。
節子は小山さんに会ったことはないかもしれませんが、コムケアの選考会で小山さんの発表を聴いていると思います。
小山さんは、大阪でとても実践的な活動に取り組まれています。
節子のことを話したことはないと思いますが、コムケアのメーリングリストで、節子の訃報を知ってくれていたのです。

私は会社を辞めてからまちづくりや市民活動にいろいろと関わってきました。
そのつながりの中では、ビジネスと違って、人間性や生活観が出てきます。
ですから私の後ろにいる節子が見えてしまうのかもしれません。
私の知らないところでいろいろな人が私たちのことを祈ってくれているのです。

東京のコムケアフォーラムに、節子も知っている乾さんや木村さんが参加してくれました。
忙しい中を、たぶん節子のことで私に一言話したくて来てくれたのです。
節子も知っているように、2人の性格は全く違いますが、その違いを象徴するようなスタイルで、私に一言言ってくれました。

訃報を知っていろいろな人が声をかけてくれましたが、声をかけられなかった人も少なくないようです。
やっと電話がかけられたといって、先週、新沢さんが電話をくれました。
新沢さんも節子には会っていないでしょうが、私より年上で、保育の世界の長老のお一人です。
その新沢さんにしてもすぐには電話がかけられなかったようです。

愛する人を失った人にどう声をかけたらいいか。
当事者になって、やっとその解が見つかりました。
愛する人を失った人の思いは、愛する人に向いています。
そのまなざしを共有することではないかと思います。
愛する人へのあたたかなまなざしを感じることができれば、どんな言葉でもうれしいのです。
逆に、そうしたまなざしが伝わってこないと、どんな言葉も空しく響きます。

言葉ではなく、まなざしとそれが向いている先なのだと、最近やっと気づきました。
愛する人を失った人たちに対して、私はそうしたまなざしを向けていただろうか。
大いに反省しなければいけません。

節子
あなたのおかげで、また少し人生が豊かになりました。

220:敦賀の桜(2008年4月9日)
節子
敦賀のお姉さんから庭の桜が送られてきました。
一昨年の今日、みんなで滋賀の多賀大社に行き、桜を見たのを思い出して、送ってくれたのです。
2年前の今頃は、少し不安はあったものの節子は元気で、各地の桜を見て回っていました。
三春にも行きましたし、どこかの夜桜も見に行きました。
私もかなり同行しましたが、あんなに桜を見た年はありませんでした。
どこの桜も見事でした。

桜に関する節子との思い出は、山のようにありますが、そのせいか、今年は桜を見るのが辛いです。
娘たちもそうなのでしょうか。今年はだれも桜を見にはいかなかったようです。

昨年もあまり桜を見に行った記憶はないのですが、それでも近くの桜は一緒に見ました。
自宅近くの手賀沼沿いの道には両側に桜が植えられています。
まだ若い樹が多いので、見事とはいえませんが、その下を2人で散歩して写真を撮りました。
その写真を一緒に見る機会がなかったのはとても寂しいです。
今もなお、私は節子の社員を見る気になれずにいます。

その道路の桜は先週満開でした。
ただおそらく手入れの仕方に問題があって、いささか見苦しい感じがします。
節子はいつも、行政の手入れの仕方に不満でした。
桜の樹の切り方が間違っていると残念がっていました。
道沿いのいささか無様な桜を見るたびに、節子のことを思い出します。

敦賀の桜は見えていますか。
お姉さんがぜひ節子に見てほしいとわざわざ宅急便で送ってくれたのです。
敦賀の桜も何回も見ましたね。
実に見事な桜が敦賀市内や周辺のいろいろなところにありました。
琵琶湖に桜を観に行ったこともありますね。

敦賀の桜を見ていたら、いろんな桜のことを思い出してしまいました。
だんだん辛くなってきました。
節子、せっかくの桜の季節なのに、なぜおまえはもどってこないのでしょうか。
また節子と一緒に桜を見に行きたいです。
そちらにも桜はあるのですか。
私も節子に宅急便で桜の花を送ってやりたいですが、送り方がわかりません。
誰か教えてくれる人はいないでしょうか。

■221:「少しずつ考えては立ち往生」(2008年4月10日)
先日のコムケアフォーラムでお会いした小峰さんが、このブログに投稿してきました。
その内容に驚きました。
ブログのコメントにご本人がお書きになっているので、実名で書かせてもらいますが、小峰さんは昨年12月に奥様を見送ったのです。
全く知りませんでした。

私が小峰さんのことを知ったのは、コムケア活動のメーリングリストです。
小峰さんの印象は、子育て支援をしている元気なお父さんという感じでした。
先日、フォーラムで初めてお会いしましたが、思っていた通りの人でした。
その時は、お互いにまさか伴侶を亡くした者同士ということなど思ってもいなかったわけですが、投稿にあるように小峰さんは、「妻の死について、少しずつ考えては立ち往生の中で、このサイトに巡り合いました」というわけです。
そして私もまた、小峰さんの事情を知ったわけです。

小峰さんの「少しずつ考えては立ち往生」という気持ちがよくわかります。
先日、亡くなった柳原和子さんがメールしてきてくれたように、女性以上に男性は「立ち往生」してしまうのです。
それはきっとそれまでの生き方に大きく影響しているでしょうが、考えもしていなかった事態に直面してしまうと立ち往生しかないのです。
それでも私の場合は、娘たちがもう大きくなっていましたので、自分の身の振り方だけを考えればいいのですが、まだ成人していない子どもたちがいる場合は、事情がまた違うのでしょう。
小峰さんにお会いしたいと一瞬思ったのですが、お会いして何かが変わるわけでもありません。

昨年、知り合ったある人がやはり私と同じ状況の人でした。
その人とある集まりでご一緒していますが、お互いにそれぞれの事情を知りながら、その話はしたことがありません。
少なくとも私の場合は、どう話したらいいかわからないからです。
にもかかわらず、その人の発言の後に、いつもその事情を重ねてしまいます。
言葉には出しませんが、お互いに多分、いつもある思いを共有しているのかもしれません。

同じ事情を抱えていると人には優しくなれるものだと、この頃、痛感しています。
逆に事情に無頓着な人には過剰に不快感を持ちがちです。困ったものです、
いずれにしろ自分のセンシティビティが高まっていることだけは間違いありません。
それが生き難さと生き易さを同時に与えてくれています。
そのせいか、いささか疲れやすくなりました。
最近、かなり疲れがたまってきているような気がします。

■222:湯島のオフィスはまだそのままです
(2008年4月11日)
節子
オープンサロンによく参加されていたFJさんが1年ぶりに湯島のオフィスにやってきました。
相談があるというので、私も湯島に出かけていきました。
最近はまた人に会うために湯島のオフィスに行くことが増えてきました。
節子の発病で中止していたサロンを、節子が少しずつ元気になってきたので再開した当初、FJさん一人しかこなかったことがありました。あれも、なにかの理由があったと思っていますが、その時、3人でいろいろと話したのを思い出します。
そのFJさんからメールが届きました。

湯島の事務所にお伺いいたしますと、たくさんのいろいろな思い出があふれて出てまいります。又そのときどきの心情がこみ上げてまいります。
不肖な私にとりましてもかけがえのない大事な場所でありますが、湯島での御礼室様に戴いた御恩を忘れられない人々は大勢おられます。湯島サロンでの帰り道で色々な人たちと、御礼室様のお心配りにいつも感謝の言葉を交わし乍ら帰ったことなど。わけ隔てなく接していただいた事など思い出すと際限なくあふれてまいります。湯島の事務所に
入ったとたんに思い出がこみ上げてまいりました。

FJさん特有の誇張がありますが、サロンに来てくださった方には、節子のほうが私よりは好かれていたのかもしれません。
私は時に嫌われても仕方がない発言もしましたし、中途半端な知識のひけらかしもしましたから、いやな人間に見られていたかもしれません。
節子からは時々注意されていたので、何とか許容限度内に収まってはいたと思いますが。

FJさんと同じく、私にも湯島のオフィスはさまざまな思い出があります。
閉じてもいいのですが、とても閉じる気にはなれませんでした。
この20年、節子と一緒に育ててきた空間だからです。
再発する直前に、節子は部屋をきれいにしようと言い出しました。
そして改装業者の人を手配し、先ず床のカーペットを貼り替えてくれました。
お金が無かったので壁紙は自分たちで貼り替え、ペンキ塗りもしようとしていました。
そうした作業をできるだけ自分たちでするのがわが家の文化でした。
しかし、その作業にはいる前に節子は再発してしまいました。
クーラーは私の責任で入れ替えましたが、私のいい加減な対応で設置場所を間違えてしまいました。
改装後、2回ほど、節子は湯島に行きましたが、修にまかせていたらこんな場所につけてしまうのだから、と嘆いていました。
その中途半端な場所に付いてしまったクーラーのまわりの無残な状況も含めて、湯島のオフィスは改装途中のままなのです。ペンキも置いてあります。
それに手を加える気持ちにはなれません。
節子が最後にここに来てくれた時のままです。
変わったのは、節子がいないことだけです。
とても悲しいですが、でもここで誰かに会っていると、いつもとなりに節子がいるような気がします。

節子
なんで改装を完成してくれなかったのですか。
もう一度、節子と一緒に壁紙はりをしたいです。
戻ってくるまで待ち続けます。ずっとずっと。

■223:節子、写真から出てきませんか(2008年4月12日)
節子
最近また、あなたのことが改めて愛しくて仕方がありません。
春が来たからでしょうか。

最近、私が自宅で一番落ちつくのは和室です。
和室でまだコタツにはいっているのですが、その正面に節子の大きな写真があるのです。
したがって、いつも節子から見られていると同時に、私も顔を上げると節子の笑顔が自然に入ってくるのです。
いまもそのコタツでパソコンをはじめたのですが、ふっと顔を上げたらあなたの笑顔に目が合いました。
その笑顔を見ていたら、不覚にもまた涙が出てきてしまいました。
あれほど愛していたのに、あれほど愛してくれていたのに、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
私には全く理解できないのです。
写真を見ていると涙が出てくるので、節子の笑顔がとてもきれいに見えてきます。
それに自分が愛した女性はきれいであってほしいと思いますので、実際以上にきれいに見えるようになるものなのです。
これは惚れた者の弱みですね。

節子の写真を見ていると飽きることがありません。
その写真の笑顔の後に、たくさんの物語があって、その一つひとつを思い出しているときりがありません。

節子
おまえに会いたいです。
おまえを抱きしめたいです。
おまえに抱きしめられたいです。
写真から出てきてほしいといつも念じるのですが、まだかなえられません。
私がそちらに行くしかないのでしょうか。
ほんとうにさびしいです。

■224:先に行くなんて「ずる〜い」よ(2008年4月13日)
節子
風邪を引いてしまいました。

節子も会ったことがあるSSさんからメールが来ました。
このブログを読んでしまったのです。
「実は佐藤さんのブログを拝読していると、色々な意味で複雑な気持ちになるのです」
SSさんは、そう書いています。
実は、SSさんも最近パートナーを見送ったのです。
節子はパートナーも知っていますね。不思議な人です。
湯島に2人で来たこともあるし、ともかく一度会ったら忘れられない人たちですから。

いろいろと書いてくれた最後に、こう書いてありました。

私の本音のひとつ、彼が先に行ってしまったことに対してはちょっと「ずる〜い」なんて思ってます。

実は私も節子に対して、時々、そう思うのです。
位牌の前に立って、声に出すこともありますから、節子には聞こえているかもしれません。
残されたものの悲しさや寂しさを、節子に体験させなくてすんだこともそうですが、俗世のわずらわしさから解放された節子が時にちょっとうらやましくなることもあるのです。
節子が先に行ってしまったので、私はいま悪戦苦闘です。
節子がいた時は、どんな悪戦苦闘も他の示唆や喜びにつながっていましたが、いまは単なる悪戦苦闘でしかありません。
苦楽を共にする人がいないということは辛いことです。
私の悪戦苦闘を、節子はきっとハラハラしながら見ているのでしょうね。

ところで、SSさんの母上も「節子」なのだそうです。
節子という名前に出会うと、それだけでもなぜか親しみを感じてしまいます。
今でも私は日に10回は「節子」の名前を口にしています。
今朝も、「節子、出てこいよ」と呼びかけましたが、聞こえましたか。

■225:4月は思い出の月(2008年4月14日)
節子
あなたの小学校時代の同級生の雨森さんからのメールです。
私信ですが、勝手に公開します(一部勝手に改ざん)。
こんな形で、私にきた手紙やメールは公開される可能性があります。
お許しください。

ご無沙汰しております。
『節子への挽歌』を読ませていただいております。
だから僕としてはご無沙汰しているような気はしないのですが、
悲しくなったり、ホッとしたり、幸せな気持ちになったり、
すごくなつかしくなったり、妻を大事にしなければと思ったり、
節ちゃんなんでそんなに早く逝ったのと残念さがこみ上げてきたりです。

僕はかなり前から3年連続日誌を書いています。
1ページに同じ日が3年ぶん書けるものですが、
既に書き終えた3年分の日誌と現在記入中の日誌を手元において書いています。 
書き終えた日誌の2005年4月11日曇り、  
この日の日誌の間からメモ紙がでてきました。
(写真で、そのメモを送ってくれました。懐かしい節子の字でした)

今日はお会い出来なくて残念でした。
奥様の一日も早いご回復をお祈りしています。
奥様に何か元気づけるものをと考えたのですが、
私の好きな作家の絵本を選びましたので 
どうぞ奥様にお読みいただけるとうれしいです。
また お二人にお目にかかれますことを楽しみにしています。
時節柄どうぞ ご自愛下さいませ。

丁度その日は奥さんの通院日で、雨森さんも一緒に病院にいっていたため、お留守でした。
それで、ご自宅の玄関に手紙と本を置いてきたのです。
私も一緒に行きましたので、はっきりと覚えています。
ちなみに、その時の本は星野富弘さんの「花の詩画集」です。
節子は星野さんの絵が好きでした。

雨森さんは続けて書いています。

そして、2006年4月8日の日記
7時30分拝観当番を終えて妻と西物部に迎えに行く。
そのまま北近江温泉にゆき和食を食べて2時間余り話す。
妻も同席する。やさしい旦那様で楽しくすごす。
4月は思い出の月です。

その日、私たちは雨森さんにご馳走になりました。
いろいろと思い出します。そう、私にも思い出の月です。
次は私たちがご馳走するはずでしたが、そうなったでしょうか。
記憶がありません。

節子も3年日記をつけていましたが、どう書いているか、どうもまだ読む気がしません。
節子が残した日記をどうしようか、悩んでいます。
読み出しても読み続けることはできないでしょう。

日記は読むより、書くほうが楽です。
でも雨森さんはこう書いてきてくれました。

1000回まできっと読ませてもらいますよ 節ちゃん

書き続けるエネルギーをもらいました。

■226:伴侶に先立たれた心の空白(2008年4月15日)
昨日、日記のことを書いた後、ちょっと節子の日記を開いてみました。
最近のは辛いので、20年以上前の日記です。
日記を開いたら、新聞記事が出てきました。
節子が好きだった「ひととき」の切抜きでした。
節子の投稿記事かなと思ってみたら、違いました。
表題にドキッとしました。
「夫に先立たれ心に空白」
46歳の主婦の投稿記事でした。

夫の遺影に線香をあげて、その穏やかな顔を見つめて一言二言話しかける。
反応のないのはわかりきったことなのだけれど、どうしようもないいら立ちを感じる。

1年の闘病の後、伴侶は逝ってしまったそうです。
伴侶を亡くして49日を迎えようとしている頃に書かれたものです。

長い歳月かかって築き上げた土台を根こそぎさらわれてしまいました。

そして最後はこう締めくくられています。

今後、はたして「幸せだなあ」としみじみ思える日が再び訪れることがあるでしょうか。

いまの私の思いと全く同じです。
伴侶に先立たれた時の思いは、いつも、そしてだれも同じなのかもしれません。
どこの方か全くわかりませんが、今は「幸せだなあ」と思うことのある日を送られていることを祈らずにはいられません。

それにしても、節子はなぜこの投稿記事を切り抜いて日記にはさんでいたのでしょうか。
当時は2人ともいたって元気で、どちらかが先立つなどということは話題にもなっていなかったはずなのですが。

■227:時間を持て余しています(2008年4月16日)
節子
最近の私は極めて健康的な生活を送っています。
朝、6時半に起きて、夜は10時に就寝。ベッドで報道ステーションを見ながら、11時には自然とテレビが切れて、私も寝ているという生活です。
これは私たちが目指した生活パターンでしたが、ほとんど実現したことがありませんでした。
なにやらお互いに忙しくて、就寝するのはいつも12時近くでした。
なぜお互いにあんなに忙しかったのでしょうか。
節子が再発してからはともかく、病気になってからも私はいつも何かをしていたように思います。節子も何かをしていましたが。
何をしていたのか全く思い出せません。

かなりの時間、パソコンに向かってたのは思い出せます。
節子からいつも怒られていましたから。
私のパソコンはメールの返事がほとんどでした。
いろんな人からいろんなメールが来ると、ついつい長メールをかいてしまっていました。
なぜこんなにメールが来るのかなと節子に言うと、あなたが出すからくるんじゃないのといつも言われてました。
そうだったかもしれません。
その証拠に最近はメールも少なくなりました。

それにしても、どうしてこんなに早く就寝できるのかわかりません。
不思議でなりません。
節子がいたころ、こんなにゆったりと過ごせたらよかったのにとつくづく思います。
節子も私も古館さんが好きでした。
感情的なのが私は好きでしたし、節子はあの歯切れのいいテンポが好きでした。
でもゆっくりと一緒に報道ステーションを見たことはあまりなかったですね。

最近は、本当に時間があまっています。
家事はむすめたちがよくしてくれます。
夜にはなにもする気が出てこなくなってしまったのです。
テレビもあまり見る気がしません。

半身を削がれるということは、こういうことなのかもしれません。

■228:ひまわり(2008年4月17日)
近くの中村さんが、ひまわりを持ってきてくれました。
道の駅で見つけたのだそうです。
節子と以前、ひまわりの花の話をしたのを思い出したのだそうです。

ひまわりといえば、昔、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した映画がありました。
思い出しただけでラストシーンのひまわりの光景とともに悲しさがこみ上げてきます。
ソフィア・ローレンとマストロヤンニが共演した映画は、みんな物悲しいものがありました。
ましてやこの映画の監督はヴィットリオ・デ・シーカです。
反戦映画なのですが、反戦以上に哀しい映画でした。

愛することの悲しさ、愛する人との別れの辛さ。
そして愛した人との再会の哀しさ。
不思議なのですが、この映画を節子と一緒にテレビで最初の画面だけみた記憶はあるのですが、最後までみた記憶がありません。
昔、映画館で一緒にみたかどうかも思い出せません。
私自身、きちんとみたかどうかすら記憶がないのです。
にもかかわらず、節子も私も、この映画のストーリーは知っていました。
ひまわりをみると、その話が出ていたからです。

わが家の近くにひまわり畑があります。
夏はひまわりで一杯になります。
毎年、節子と一緒にそこに行って数本のひまわりを買ってきて飾っていました。
今年も、もうその季節なのかと驚いたのですが、中村さんが持ってきてくれたのは温室育ちのひまわりでした。
節子がいなくなってから、どうも季節の感覚がなくなっています。
なにしろ、私にとっては太陽がなくなってしまったようなものなのですから。

映画「ひまわり」の筋はこうです、

戦争に行ったまま終戦になっても戻ってこない、愛するアントニオを待ち続けるジョバンナは、アントニオがソ連の極寒の雪原で倒れたという話を聞いて、ソ連に向かいます。
ジョバンナはソ連に着き、写真を頼りに探し回るのですが、苦労の末、一軒の家を紹介されます。
その家を訪れると、幸せそうな妻子の姿。
真実を知り傷心したジョバンナは、そのままイタリアへの帰国を決めるのですが、駅で汽車を待っていると、事情を知ったアントニオが現れるのです。
しかし、ジョバンナは何も言わずに汽車に飛び乗り、涙を流し去って行くという、お定まりのラストです。
こう書いてしまうと、味も素っ気もないですが、ネットにあらすじが出ていますので、それを読んでもらえば、感動してもらえます。
映画の音楽はヘンリー・マンシーニですので、映画をみれば必ず涙が出るでしょう。

ひまわりを持ってきてくれた中村さんは、こういいました。
歩く姿がとても寂しそうだったので来られませんでしたが、先日、お見かけしたら元気そうに歩いていました。だから今日、やっと献花に来られました。

節子
しばらく前まではよほど寂しそうに歩いていたようです。
今も寂しさは同じなのですが、歩き方が変わってきたのでしょうか。
もしかしたら、変わったのは中村さんなのではないかという気もします。
風景は、その人の気持ちで大きく変わるものであることを最近つくづく感じます。

■229:王興寺と法興寺(飛鳥寺)(2008年4月18日)
節子
飛鳥寺は私たちにとっては思い出深いところです。
まだ結婚する前だったでしょうか。
私にとっては、憧れの寺院に節子と一緒に行けたので、とても強い印象が残っています。
奈良を別にすれば、一緒に最初に行った寺院が、飛鳥寺だったかもしれません。

その飛鳥寺に絡んだ話題が最近新聞をにぎわせています。
飛鳥寺の原型ともいわれている韓国の王興寺遺跡の調査が進んでおり、年代的にみても同じ技術者たちが飛鳥寺を建立した可能性が高まっているというのです。
先日の朝日新聞にもよれば、王興寺とは文字通り、王が興した寺。「飛鳥寺の仏舎利も技術者も百済と倭の王権間の交流がもたらしたものだったはずだ。豪族の氏寺にとどまるものではないだろう」と國學院大学の鈴木靖民教授は話しています。
わくわくするような話です。
新聞にでていた王興寺の復元図は感動しました。

蘇我氏と物部氏が古代日本の中心者だと思っている私としては、とても想像力をとばせる話です。
ちなみに、飛鳥寺は当初、法興寺という名前でした。
王興寺と法興寺。
それを同じ集団が建立した。
古代の世界の広がりを感じます。

法興寺は元興寺とも呼んだそうですが、「がごうじ(元興寺)」は鬼を総称する言葉です。
蘇我氏が建立したと言われる元興寺は鬼を象徴しているわけですが、もうひとつの鬼のルーツが蘇我氏と対立したと日本書紀に書かれている物部氏です。「モノ」は古代では鬼のことです。物部氏の祖は神武天皇以前に大和に君臨していたニギハヤヒです。その系譜はスサノオにつながっています。日本最初の王朝は物部王朝だったという歴史学者もいます。
物部、蘇我、そして天皇家。
蘇我と物部は同族で、親密な関係だったと書いてある古書もあります。仏教問題で対立したなどというのは、藤原家の創作かもしれません。

節子に関係ない話を書いてしまいましたが、
節子がいたら、得々として我流の古代史を講義していたことでしょう。

ちなみに、節子の実家は滋賀県の物部です。
物部から来た鬼、それが節子に最初に会った時のイメージです。
「物」は鬼につながりますが、神にもつながります。

もう少し元気が出てきたら、一人で飛鳥寺に行ってみようと思います。
いつになったら行けるでしょうか。

■230:節子は湯河原で暮らしているのですか(2008年4月19日)
昨日から箱根で合宿をしていました。
予定より早く終わったので、帰りに湯河原に寄りました。
湯河原には、私の退職金で購入したマンションがあるのです。
わが家のバブル期の名残でもあるのですが、退職金が予定より多くもらえたので、それを頭金にして、投資にもなると勧められて購入しました。
しかし結果は投資どころか、バブル崩壊で頭金以上の借金が残りました。
管理費もバカにならないので、節子は早く売却しようと口では言っていましたが、ここが好きでした。
いろんな友人たちと時々来ていました。
ここは節子のお城でもあったのです。

年に2〜3回は私と2人で来ました。
ここに来ると必ず箱根に行きました。
私たちは箱根がとても好きでした。
老後はここに転居する計画もありました。
節子が先に逝ってしまったので、もう転居することはありません。

そろそろ湯河原の生活時間を増やそうかと思っていた矢先の発病でした。
人生は予定通りにはいきません。
そんなわけで、湯河原で節子と一緒にゆっくり過ごしたことがあまりないのです。
節子と一緒の湯河原の思い出といえば、
今は国会議員になっているツルネン・マルティさんの自宅で、奥さんの手づくり料理をご馳走になったことくらいでしょうか。
まだツルネンさんが落選続きで苦労していた頃です。
私たちもたくさんの夢があった時代です。
節子の夢もたくさんありました。

マンションの窓から節子の好きな湯河原富士(節子の勝手な命名です)がよく見えます。
それを見ていると台所から節子が出てきそうな気がします。
再発してから、節子はもう一度ここに来たかったのでしょうが、私がそれに気づいた時にはもう遅すぎました。

ここに来るのは、節子が逝ってから2回目です。
前回は来た途端に涙が出てきて、すぐに帰りました。
今日もやはり長居は出来ませんでした。
細かなところに節子が宿っているようで、どこを見ても涙が出てきます。
みなさんには笑われてしまうでしょうが、いろいろなものに、節子が見えてきてしまうのです。
一緒に走ろうといって購入した自転車も1回しか使えませんでした。
節子が飾ってくれた花もそのままです。
ベランダに節子が植えたサボテンがいつの間にか2鉢になって大きく育っていました。

実はいま、帰宅してからこのブログを書いているのですが、
書いていて気づいたのですが、たしか1鉢だったはずでした。
どうしたのでしょうか。
もう少ししっかりと確認すればよかったですが、たしか2鉢あったような気がしてきました。

もしかしたら、節子はいまここに住んでいるのでしょうか。
今日は無理をしてでも一泊してくればよかったです。
夜になったら節子が帰ってきたかもしれません。
節子はここが本当に好きだったのですから。

■231:家族を送るさびしさ(2008年4月20日)
節子
今でも時々、節子宛の手紙が届きます。
DMや雑誌などが多いのですが、時々、何かの集まりのお誘いがきます。
先週、「憲法を考える市民の集い」の案内が届きました。
節子がよく知っている人が世話人をされている関係で、きっと名簿にリストされていたのでしょう。
その方は、節子の葬儀にも来てくださいましたの、もちろん節子のことは知っています。

こうした手紙を受け取った時、遺族はどう感ずるかです
私はいささか常識的ではないので、あまり一般論にはならないかもしれませんが、決して悪い印象はありません。
私の場合は、むしろうれしい気がします。
なぜなら、節子の世界に触れることができるからです。

家族を亡くしたことのある人はきっと体験されていると思いますが、家族が一人いなくなるとそれ自体が寂しさをもたらしますが、それだけではありません。
その人が付き合っていた世界との縁が薄くなるのです。
その分、お客様も電話も減ります。
話題も減れば、家族生活の多様性も減少します。
その影響はけっこう大きいのです。
家族を失う寂しさとは、そういうことです。

私はこれまで3人の同居家族を見送りました。
昨今の核家族の風潮の中では多いほうでしょう。
同じ家族でも、同居しているかどうかで、その寂しさは全く違います。
それは体験してみないと決してわからないでしょう。
核家族化の問題は、そうした実感を社会からなくしてしまったことではないかと思います。
死が体験ではなく、情報になってしまったのです。

節子への手紙は、たとえDMであろうと私にはうれしいものです。
しかし、そういう手紙もだんだんなくなっていくのでしょう。
ますます寂しくなりそうです。

■232:「心はからだの外にある」(2008年4月21日)
先週、箱根に合宿に行っていました。
企業の経営幹部の研究会のアドバイザー役なのですが、議論していて、ギブソンのアフォーダンスの話になりました。
そこで以前読んだ「心はからだの外にある」という、河野哲也さんの本をみなさんに紹介したのですが、箱根からの帰路、その本の書名が気になりだしました。
「心はからだの外にある」。

河野さんは、「心は身体と環境の関係性に存する」というのです。
私の心は、環境と無関係に在るのではなく、私を取り巻く環境との関係において存在するというわけです。
すごく納得できる話です。
正確性には欠けますが、ここは思いつくまま気楽に書きます。

節子がいなくなって、半身が削がれただけではありません。
心が不安定になったのです。
確かに身体はここに在るのに、心はどこかに行ってしまったような気が、時々するのです。
「心ここにあらざるごとく」という言葉ありますが、まさにそんな感じで、自分の心がつかめなくなります。
そして冷ややかに自分を見ている自分(こころ)に気づくことがあるのです。

環境によって「心」は大きく変わります。
「気持ち」とか「考え」ではなく、「心」そのものがです。
節子がいなくなって、そのことを実感し続けていることに昨日、気づいたのです。
遺影に使った節子の写真を見ていると、心が安定します(他の写真は逆です)。
私の頃は、環境との間にあるとしても、その最大の環境は節子だったのです。
節子が遠くに行ってしまったために、私の心は自らの立ち位置を決められずにいるのかもしれません。
節子の写真の笑顔を見ていると、ちょうど中間に私たちの心が微笑んでいるような気がします。奇妙に実感できるのです。
私を見ているのは、写真の中の節子だけではなく、その写真と私の中間から眼差しが発せられているような気がしてなりません。
つまり、私自身が見られている感覚があるのです。

私の心を形成しているのは、しかし、節子だけではありません。
節子以外のあらゆる環境が、全体として私に働きかけ、私の心を実体化させてくれています。
環境によって揺れ動く私の心に大きな座標軸を与えてくれていた節子との距離感が代わってしまったことで、私の心はいまきっと不安定になっているのでしょう。
節子の心もまた同じように、いま私との距離感をつかめずに、不安定になっているのではないかと思います。

やっと気づいたの、修らしくないわね。
遺影写真の節子が、何だかそういって、笑ったような気がしました。
いや、笑ったのは私たちの心かもしれません。
私が気づかないところで、私たちの心は一体化してしまっているのかもしれない。
そんな気もします。

ギブソンや河野哲也さんの話とは全く違った話になってしまいました。
すみません。
これ以上書いていくと、危うい話になりかねません。
このあたりで中途半端に終わります。

■233:福岡でハーモニカの西川さんと一緒でした(2008年4月22日)
節子
福岡に来ています。
節子がいなくなった後、初めて飛行機に乗りました。
福岡は久しぶりですが、節子がお世話になった人がいますので、早く来ようと思っていましたが、なかなか来ることができませんでした。

今日はあのハーモニカの名手の西川義夫さんにお会いしました。
西川さんとの出会いとその後のお付き合いは人の縁の不思議さを感じさせます。
節子が西川さんと最初に会ったのは、再発してからでした。
節子の看病に専念するつもりで開催した最後のイベントに西川さんは福岡から参加してくれました。
そしてその翌日、わが家に節子を見舞ってくれ、真紅のバラとハーモニカで節子を元気づけてくれました。
節子はうれしそうでした。

節子が逝ってしまい、みんなで送った日も、西川さんは遠くから来てくれました。
まさか西川さんが来てくれるなどとは誰も思っていませんでした。
娘たちも感動しました。
そしてその後また、自宅まで来てくださり、献花台の前でハーモニカを演奏してくれました。
この時は、節子が計らったのか、花かご会の人も献花にきてくれ、西川さんに無理をお願いしてもう1曲演奏してもらいました。

その西川さんに会いに行かなくては、とずっと気になっていたのですが、なかなか遠出する気になれませんでした。
やっと心身が動けるようになったので、思い切って福岡にくることにしました。
西川さんには空港に着いてから夕方までずっと付き合ってもらいました。
帰宅したら報告したいことがたくさんあります。
しかし今回は、西川さんと時間を共有することに意味がありました。
いろいろと考えることも少なくありませんでした。

西川さんに会ったら、まず感謝の気持ちを伝えようと思っていたのですが、会った途端に忘れてしまいました。
ずっと一緒にいたのに、その気持ちを言葉にできませんでした。
不思議な話です。
別れる時になってやっと言えそうになりましたが、結局、言えませんでした。
でも何か一つ終わったという気がしました。
節子が納得してくれたかどうかはわかりませんが。

私が来ることを知って、西川さんは2日間、完全に時間を空けておいてくれたようです。
多用なはずの西川さんが、です。
人との関係は、本当に不思議です。
西川さんのハーモニカのCDをもらいました。
帰ったら一緒に聴きましょう。

■234:節子、加野さん母子にきちんと伝えましたよ(2008年4月23日)
福岡に来たもう一つの目的は加野さん母子に会うことでした。
加野さんは、節子に最後の大きな希望を与えてくれた人でした。
残念ながら、節子を守ることはできませんでしたが、奇跡を起こしてくれたのです。
加野さんのおかげで、節子が息を引き取る6時間前、私たちは奇跡を確信しました。
その確信の平安の中で、節子は眠るように息を引き取ってしまったのです。
それは本当に信じられない夢のような体験でした。
喜びの頂点から地獄の底に突き落とされたのです。
でも節子は幸せそうでした。

加野さんは大宰府で久留米絣のお店を開いています。伝統工芸としての絣の保存に尽力されています。
いつか節子と一緒にいつか行きたかったお店ですが、実現できませんでした。
節子は、加野さんからいただいたテーブルクロスやタペストリーがとても気に入っていました。

加野さんとの出会いは、加野さんの娘さんの寿恵さんの縁です。
寿恵さんが東京で一人暮らししている時に、私たちがささやかに相談に乗ったりしていたのです。
節子は寿恵さんの素直さがとても好きでしたが、数年前に若くして亡くなってしまいました。
私だけでお参りさせてもらいましたが、節子は気にしながらも行けませんでした。

加野さんは母一人子一人でした。
加野さんの辛さはいかばかりだったでしょうか。
節子と別れて、初めてその辛さを少し理解できたような気がします。
加野さん母子にきちんと報告しておかなければとずっと気になっていたのです。

加野さんのお母さんは、もうご高齢なのですが、お元気でした。
気丈な方なのですが、それ以上に不思議な方です。
私がお訪ねするといったら、早速、節子と話をするといいといってくれました。

以前書きましたが、加野さんは、篠栗町にある大日寺に霊能祈祷師のところで、寿恵さんと時々触れ合っているのです。
今日は祈祷所はお休みだったのですが、電話をしてくれてお伺いすることにしました。

そこでの体験は、正直言って、まだ消化できずにいます。
ただその1時間くらいの体験のせいか、私自身、これまで体験したことがなかったような全身の疲労感に襲われてしまいました。
少し整理して書くようにします。

■235:篠栗四国の霊能祈祷師の庄崎良清師(2008年4月24日)
福岡県篠栗町。
北部九州には霊能地帯と言われるところが少なくないですが、ここは小豆島四国、知多四国と並んで有名な霊場「篠栗四国」と言われています。
八十八ヶ所の札所がありますが、そのなかで特異な存在が二十八番大日寺です。
そこの霊能祈祷師の庄崎良清さんは有名で、相談に来る人が行列をなしているそうです。

そうした霊能祈祷師の話はこれまでも何回か聴きましたし、節子のことで相談に行こうかと思ったこともなかったわけではありません。
いずれも遠隔地だったのと、私以上に合理主義だった節子は元気だった頃はあまり乗り気でなかったのも事実でした。
その種の世界はどちらかといえば、私には親近感がありましたが、わが家族はどちらかと言えば無関心でした。

節子に奇跡が起こり出した時、実は加野さんが庄崎師にお願いして回復祈願をしてくれるはずでした。
しかし間に合いませんでした。
節子の回復祈願のために、お神酒と塩と供物が届きましたが、その時、まさに節子は旅立ったのです。
その後、その庄崎良清さんのことも私はすっかり忘れていました。
人間は勝手なもので、困っている時には何にでもすがりたくなりますが、終わってしまうとその反動がきます。
そうした人間の身勝手さを、私は今回自分自身に関して強く体験しています。
私自身の身勝手さには、我ながら呆れるほどです。

今回、加野さんを訪ねることにしたら、加野さんが節子の声を聴きに行こうと行ってくださった時、すぐに庄崎良清さんだと思いましたが、それほど乗り気にはなれませんでした。
それは霊能や祈祷を信じないからではありません。
むしろ私はそうしたものの存在を微塵も疑ってはいません。
だからこそ触れたくないという気がしています。
節子の声が聴けたらどんなに嬉しいかとも思いますが、
聴けばおそらく絶対に失望するだろうとも思っていました。
おかしく聞こえるかもしれませんが、私と節子のつながりは、霊能祈祷師と言えども割り込んでくる隙などないことを確信しているからです。

加野さんは、しかし有無を言わさずに私を篠栗に連れていきました。
大宰府からタクシーに乗ると雨が強くなりました。
30〜40分くらいかかったでしょうか、大日寺に着くと雨が強くなりました。
大日寺は山の上にあります。
いつもは早朝から相談に来る人が列を成しているのだそうですが、今日はお休みの日だったので庫裏のほうには一組の人たちがいるだけでした。

途中のタクシーの中で、加野さんから少しお話を聴きました。
庄崎良清師は女性でした。
しかもかつてはクリスチャンでした。
隠れキリシタンの伝統を引く福岡県の今成の出身だそうです。
1986年、啓示を得て得度し、その後、無人の寺になっていた大日寺を任されたのだそうです。
そのあたりのことは、「おみくじ」という本に詳しく書かれています。
今回いただいてきました。

もうひとつは、その寺がたくさんの花で囲まれていることでした。
ランが多いのですが、そのすべてを師ご自身が丹精を込めて毎年咲かせているのだそうです。

その二つの話をお聞きして、私の関心は急に高まりました。
タクシーをおりて、お寺にはいると雨がますます強くなりました。

長くなったので、続きは明日にします。

■236:節子の涙(2008年4月25日)
昨日(挽歌235)の続きです。

大日寺には閻魔堂があります。
たぶん庄崎師への寄進で新しく創ったものでしょう。
大きな、そして力強い閻魔大王です。
霊場に閻魔大王というのはめずらしいのではないかと思います。
そしてその周辺には所狭しと花が植えてあります。
たくさんのランが見事に咲いています。

加野さんの後を付いて相談にくる人の集まる場所に行くと、加野さんがどうぞお上がりくださいというのです。
そうかここはみんなのコモンズ空間なのだとわかりました。
こういう場所は初めてですので、私にはいささかの緊張感もありますが、加野さんは自分の家のように振るまっています。
そう言えば、以前、大分の国見町の大光寺に泊まった時もそうでした。
あの時は、しかしなぜか私だけがお寺の本堂の裏にある個室に一人でねむらされましたが、その夜中に異常な体験をしたのです。

そんなことを思い出しているうちに、庄崎師が顔を出しました。
どこにでもいるおばさんです。
普通の作務衣をきているので、お遍路さんと見分けがつかないはずですが、見た途端にわかりました。
不思議なあったかさを感じさせるのです。
私に向かって、「こういう世界もあるのですよ」と一言だけ声をかけました。
どういう意味でしょうか。
初めての人にはみんなに言うのでしょうか。
その言い方は、ご自身も不思議がっているような言い方でした。

大きなロウソクに節子の名前を書きました。
加野さんも娘の寿恵さんの名前を書きました。
今回は加野さんも節子のことを中心に祈祷してほしいと言ってくれました。
私は近況報告を頼むと共に、節子に言い残したことはないかを訊いてもらうことにしました。
全く予期していなかった突然のことだったので、私たち家族と節子は最後の会話ができなかったからです。

庄崎師はまず節子に報告をしてくれました。
その時です。
加野さんと私が名前を書いたロウソクが並んで立っていたのですが、私が書いたほうのロウソクが炎を大きくさせ揺らぎ出したのです。
庄崎師も、祈りをやめて、こういうことがあるのですよ、と驚いているのです。
きわめてカジュアルな祈祷師です。とても好感が持てました。

最後に言い残したことはないかという質問をしてくれました。
そしてその後、庄崎師の口から節子の言葉、そして加野さんの娘さんの言葉が出てきたのです。
声そのものが節子や寿恵さんの声に変わったのではありません。
声は透明感のある、むしろ抑揚の少ない、受け入れやすい声でした。
結論的に言えば、言い残したことはないと言うことでしたし、差しさわりがない内容なので庄崎師の創作だと言ってしまえばそれまでの話です。
しかし加野さんは何回か、庄崎師さんが知るはずのないことが言葉として出てきた経験をお持ちなのだそうです。
そういわれれば、初対面の私や節子に関しても当てはまる内容を、よどむことなく話すことにはやはり尋常でないものを感じさせられます。

そして、庄崎師が下を向きながら口伝えの話を終えて顔を上げた時、師が声を上げたのです。
私も加野さんも手を合わせて下を向いていたのですが、その声でロウソクを見ると、私のほうのロウソクだけが大きく右側にロウがたれていたのです。
たぶん一瞬に起こったことです。
私も時々ロウソクを見ていましたので。
供養の言葉を書いた場所をよけるようにロウが流れていました。
庄崎師は、それを何回も言いました。
私も不覚にも涙ぐんでしまいましたが、さらにそれに合わせるように、今度は燭台をはみ出す形で、その下にまでどっと一筋のロウが流れ出したのです。
しばらく3人でそれを見詰めていました。
節子の気配を感じたわけではないのですが、節子が示してくれた「しるし」だと思わないわけにはいきません。
これは奥さんの嬉し涙ですと、と庄崎さんは言ってくれました。

「こういう世界もあるのですよ」
改めて先ほどの庄崎師の言葉を思い出しました。

昨日よりも長くなってしまいました。
もう一度、続きを書きます。

■237:経験したことがないほどの疲労感(2008年4月26日)
また挽歌236の続きです。それも私の話です。

節子の涙を見た後、車で福岡の天神まで戻りました。
その途中、いろいろと加野さんとも話したのですが、どうも整理できません。
それほどの異常現象を体験したわけではありませんし、私の理解の範囲内のことだったのですが、どこかに奇妙な感覚が残ったのです。
タクシーの中で、加野さんが突然、飯田史彦さんの名前を言い出しました。
あの本で元気付けられましたと言うのです。
そういえば、加野さんに飯田さんの「生きがい」シリーズを送ったことがあったのです。
その言葉は、なんとなく私にその本をもう一度読み直したらどうかというように聞こえました。
今回はあまり書きませんでしたが、実は加野さんご自身がどこかに役行者を感じさせるところがある方なのです。
もう80歳を超えているのに、その身のこなし方は実に若いのです。
驚くような「危うい話」もあります。
石田梅岩にまつわる話まであるのですが、これは話題がはずれすぎますのでやめます。

ところで、私の心身に残った「奇妙な感覚」のことです。
それは加野さんと別れて3時間くらいした時に、突然やってきました。
心身から力が抜けだしたのです。
いや「力」というと正しくありません。
なにかもっと根源的な生命力のようなものです。
ともかくこれまで経験したことがないほどの倦怠感、疲労感が全身を襲ってきたのです。
あまりの辛さにすぐに寝たのですが、翌朝、起きてもまだ回復していませんでした。

ご祈祷の帰り際に庄崎師が若宮地黄卵を下さいました。
加野さんが私に持って帰れというのです。
東京まで持って帰るのは大変なので辞退したのですが、加野さんは一度決めたら後には引かないのです。
庄崎さんも加野さんも、私が死ぬほど疲れることを知っていたのでしょうか。
いささか勘繰りすぎですが、この疲れは何なのか不思議でなりません。
それからもう3日経ちましたので、今は回復しています。

■238:観世音寺の仏たち(2008年4月27日)
ここまで来たらもう少し福岡報告を続けます。
今日は祈祷所に行く前の話です。
CWSコモンズにも書きましたが、加野さん宅を訪問する前に、大宰府の近くにある観世音寺を訪ねました。
大宰府に来たら必ず立ち寄るようにしています。
ここの宝蔵の空間がなぜか引き寄せるのです。

今回は朝早く寄りましたので、30分ほど私一人でその空間を独占できました。
正面に巨大な3体の仏がいます。
真ん中は馬頭観音です。
見事な観音です。
−その両側にこれも大きな十一面観音と不空羂索観音が立っています。
いずれも5メートルの巨体ですが、それが並んで目の前にあるのです。
馬頭観音の前に座ると三方から10数体の仏たちに取り囲まれるようになります。
ここを訪れた方は絶対に忘れることはないでしょうが、すごい迫力の空間です。

ところがです。
いつもと違って、今回は仏たちが小さく感じるのです。
いつもはその経屋に入った途端にみんなの目線を感ずるのですが、今回はなぜか誰も私が入っていったのを無視するような気がしたのです。
前回はここで節子の快癒を祈りました。
もしかしたら、その願いを適えられなかったことで身を縮めていたのかもしれません。
しかしここには大日如来はいませんので、責任は大日如来でしょう。
ちなみに祈祷所は大日如来の大日寺です。

彼らと一緒の時間を過ごしていて気づいたのですが、立ったままの仏像は疲れないのだろうかと心配になりました。
真ん中の3体はいずれも立像です。
どうして立ったままの仏像をつくろうなどと思ったのでしょうか。
今までそんなことなど考えたこともなかったのですが、とても気になりだしました。

節子がいなくなってから、世界の風景がいろいろと変わりました。
仏の世界まで変わったのかと思いました。
まあ、節子と一緒だったら、そんな話を飽きることなくしているはずです。
でも今となっては、そんな話をする人もいなくなってしまいました。
それにしても、観世音寺の周辺はなぜか心和みます。
節子と一緒にこられなかったのが、本当に悔やまれます。

■239:人生の記録は、自分ではなく、まわりの人の心身に刻み込まれている(2008年4月28日)
節子
福岡の話をもう少し書きます。
今回、10人を超える人たちと出会い、話をしました。
偶然の出会いもあれば、予定した出会いもあります。
気になっている人は少なくないのですが、そのうちのお2人にはお会いできました。
GさんとSさんですが、いずれからも思ってもいなかった話が出てきました。
いつも元気で、笑顔を絶やさないお2人の後ろにも、たくさんのドラマがあることを知りました。

2人とも節子はたぶん会っていませんが、私から話を聞いているはずです。
そのGさんとSさんです。
Gさんは父上を昨年10月に見送りました。
節子と同じ病気でした。
Sさんはもう完治されていますが、やはり同じ病気の疑いで胃を全摘されています。
2人に会って何を話すというわけでもなかったのですが、いろいろと話が出てきました。

話しながら思いました。
笑顔の向こうにあるドラマが生死につながっているほど、笑顔は豊かになってくるのかもしれないと。

もう一つ思ったことがあります。
自分の人生の記録は、自分の心身にではなく、まわりの人の心身に刻み込まれているものだと。
お2人と話していて、私以上に過去の私のことを知っているようです。
冷や汗が出るような話をいくつか聞かされました。

私の人生を一番よく刻み込んでくれていた節子が先に逝ってしまったことは、私の記録と記憶の半分以上は現世からは消失したということです。
そして節子の記憶と記録は、私の心身の中にまだしっかりと残っています。
なにやら複雑な気分です。

■240:人を介さずに、自らの心身で節子の声を観ずるように、早くなりたい(2008年4月29日)
節子
福岡報告を書き続けてきましたが、もう1回書いて終わりにします。
しめくくりは、やはり祈祷所の話です。
大日寺の体験を反故にしかねないことを書きます。
このブログは私の気持ちを正直に書くことにしていますので、書かないわけにはいきません。

いまのところ私の霊能力は生起していません。
仏教では山川草木悉皆仏性といい、すべてのものに仏性があるといいますが、その仏性とは霊能力と言ってもいいでしょう。
それは顕在していなくとも、潜在していると思います。
なぜなら「在ること」そのものが不思議なことであり、それを説明するにはやはり論理を超えた拠り所が不可欠だからです。

私には、しかし霊能力を意識できることはありません。
不思議さにおののくことはあって、不思議さを創ることはできません。
節子さえも守れませんでした。
ですが、時々、天からのメッセージのようなものを感ずることはあります。
おそらくすべての人が体験していることでしょう。
私の場合、かなり「小賢しい知識」に心身を占拠されていますので、その体験の度合いは少ないかもしれませんが、震えるほどの閃きを感ずることもないわけではありません。

霊能世界や彼岸の存在、したがって輪廻転生に関しては確信しています。
疑うことがないわけではないですが、それは自分を含めて誰か人が介する時です。
ですから、そうした世界にはできるだけ近づきたくないのです。

今回、大日寺での体験は、そのタブーを破ってしまったわけです。
節子への思いの強さが、タブーを超えて、私を呼び寄せたのですから、それ自体霊の世界の存在を感じさせます。
そして、結果としては、節子の平安に触れ、私にはうれしいことでした。
加野さんと庄崎さんに感謝しています。

節子と私には、当然のことながら2人だけしか知らない事実がありますが、そんなことよりも大切な日常的な、無意識に発する言葉があります。
節子は私を「お父さん」とは呼びません。
そう呼ばれるのを、私が大嫌いなのを知っているからです。
必ず名前で呼びあうのが私たちのつながりでした。
庄崎師の口から出てきた節子の言葉には、「お父さん」という言葉がありました。
その言葉を聴いた時、私は混乱しました。
庄崎師の言葉を疑ったわけではありません。
だからこそ混乱したのです。

言葉とは何なのか。
言葉は縁起を起こしますが、言葉の後にあるものがメッセージを込めて言葉になると思っています。
「修さん」ではなく「お父さん」には、メッセージが込められているのではないか、それが私の混乱の原因です。
考えすぎだと思う人がほとんどでしょう。
そうかもしれません。

福岡から戻った日、ウィトゲンシュタインの研究者の方から、華厳に関するメールが届いていました。
事事無碍法界に関する難解な話です。
観世音寺に行ってきたと返事を書いたら、「音を観る」ことに関する返事が戻ってきました。
彼岸との交流、ウィトゲンシュタイン、言葉、事事無碍法界、そして「音を観る」。
あまりにも見事につながっています。

録音してきた「節子の声」は、まだ聴けずにいます。
人を介さずに、自らの心身で節子の声を観ずるように、早くなりたいです。

■241:閑話休題(2008年4月30日)
重い話が続きました。
節子が怒っているかもしれません。
節子は、私の理屈っぽい話が好きではなく、私が好きなのは体育会系のさっぱりした人なの、理屈をいう前に少し運動でもしたら、とよく言っていました。
それに対して、運動はいろいろとしているよ、というと、修のはどうせ社会運動でしょ、と笑われていました。
結婚したての頃は、私のいうことにいつも感心していたのに、40年もたつと、私のことはたいてい見透かしていて、ていよくあしらわれていたのです。
まさに綾小路きみまろの「あれから40年」です。

しかし負け惜しみではありませんが、節子の私への信頼感と愛情は深まりこそすれ、薄れはしていませんでした。決してこれは誤解ではありません。
相手の弱みや駄目さ加減がわかれば、相手を信頼することはできますし、嫌なことが明らかになれば愛情は積み重ねることが可能になります。
私たちの関係がそうでした。
あんなに頼りにならない女性はいませんでしたし、あんなに性格の悪い女性はいませんでしたが、だからこそ信頼でき、愛することができたのです。
節子もそうでした。
修を信頼していたのに、修は本当に頼りない、と何回いわれたでしょうか。
修の性格はどうも好きになれない、ともよく言われました。
でも節子は私を全面的に信頼し、すべてを愛してくれたのです。
離婚と絆の深化は、紙一重の差で分かれるのかもしれません。

今年のゴールデンウィークは、昨年に続き自宅で過ごすことになりそうです。
節子の好きだった湯河原に、明日から行こうと思っていたのですが、直前になっても心身が動き出しません。
きっと節子が止めているのでしょう。
自宅でゆっくりと、節子との毎日を思い出しながら、無為に過ごします。
節子が与えてくれている無為の毎日には、大きな意味があると思っています。

節子
ありがとう。
あなたはいつも私のことを心配してくれていました。
それを思うと、まぶたがいつも重くなります。

■242:閑話休題(2008年5月1日)
重い話が続きました。
節子が怒っているかもしれません。
節子は、私の理屈っぽい話が好きではなく、私が好きなのは体育会系のさっぱりした人なの、理屈をいう前に少し運動でもしたら、とよく言っていました。
それに対して、運動はいろいろとしているよ、というと、修のはどうせ社会運動でしょ、と笑われていました。
結婚したての頃は、私のいうことにいつも感心していたのに、40年もたつと、私のことはたいてい見透かしていて、ていよくあしらわれていたのです。
まさに綾小路きみまろの「あれから40年」です。

しかし負け惜しみではありませんが、節子の私への信頼感と愛情は深まりこそすれ、薄れはしていませんでした。これは決して誤解ではありません。
相手の弱みや駄目さ加減がわかれば、相手を信頼することはできますし、嫌なことが明らかになれば愛情は積み重ねることが可能になります。
私たちの関係がそうでした。
あんなに頼りにならない女性はいませんでしたし、あんなに性格の悪い女性はいませんでしたが、だからこそ信頼でき、愛することができたのです。
節子もそうでした。
修を信頼していたのに、修は本当に頼りない、と何回いわれたでしょうか。
修の性格はどうも好きになれない、ともよく言われました。
でも節子は私を全面的に信頼し、すべてを愛してくれたのです。
離婚と絆の深化は、紙一重の差で分かれるのかもしれません。

今年のゴールデンウィークは、昨年に続き自宅で過ごすことになりそうです。
節子の好きだった湯河原に、明日から行こうと思っていたのですが、直前になっても心身が動き出しません。
きっと節子が止めているのでしょう。
自宅でゆっくりと、節子との毎日を思い出しながら、無為に過ごします。
節子が与えてくれている無為の毎日には、大きな意味があると思っています。

節子
ありがとう。
あなたはいつも私のことを心配してくれていました。
それを思うと、まぶたがいつも重くなります。

■243:毎朝、なぜか明け方に目が覚めます(2008年5月2日)
節子
あなたがいなくなってから変ったことがあります。
毎晩、明け方の5時頃に目が覚めるのです。
それからしばらく眠れないのです。
いつも1時間くらい、いろいろと考え事です。
6時頃にはまた眠ってしまい起きるのは7時過ぎです。

どうして明け方に1時間、目が覚めるようになったのでしょうか。
目が覚めると、隣に節子がいるような錯覚を感ずることがあります。
そして、なぜ節子はいないのだろうかと考えてします。
枕元にある写真をみると、今でも節子がどこかにいるように感じてしまいます。
節子にまた会えるという確信のようなものが、今でも私の心身のどこかにあるのです。
節子の写真を見ていると、生身の節子が私を取り囲むような気もします。
これはきっと体験した人でないと理解できないことでしょう。
愛する人とは決して別れることはないのです。

明け方の目覚めは、節子が呼んでいるのでしょうか。
節子が私にいろいろなことを思わせているのでしょうか。

眠りへのつき方も変りました。
私たちは寝る前にベッドの中でいつも話をしていました。
寝る前の節子との話は、どんないやなことがあっても、すべてを忘れさせてくれる不思議な効果がありました。
時々は、喧嘩をして、無口のまま、お互いに寝ることはありましたが、その時でも隣に節子がいることは私の幸せでした。
話した後、私は本を読む習慣がありました。
まあせいぜい10分ほどなのですが、その明かりの中で節子は眠るのが好きでした。
明るくてごめんね、というと、節子は隣の修が見えるので安心して眠れると言いました。
時に節子が私よりも遅くまで起きていることがありましたが、私はそれが嫌いでした。
節子が起きていると眠れないのが、私でした。
それで喧嘩になったこともありました。
私たちはよく喧嘩もしました。
なぜか謝るのはいつも私でした。

最近は話す相手もなく、寝るのが寂しいです。
前と同じように、10分ほど本を読みます。
それから部屋のテレビを30分のタイマーをセットして消灯です。
テレビの音声を聞きながら、いつも30分以内に眠っています。
節子は、テレビよりもラジオが好きでした。
私もラジオにしようかと思いますが、まだ節子のラジオを使う気になれずにいます。
たくさんの思い出がありすぎて、スイッチをいれられません。

節子
また一緒に眠り、一緒に目を覚ませる日が来ることを信じています。

■244:ろうそくの炎に人間の魂が宿るのは本当ですよ(2008年5月3日)
篠栗の記事(挽歌236)を読んで、冠婚葬祭関係の会社社長でもある佐久間さんからメールが来ました。

ロウソクの炎に人間の魂が宿るのは本当ですよ。
日々の葬儀の中で、何度も経験しております。

炎は微妙なエネルギーに見事に反応することは、私も幾度か経験しています。
節子が逝った朝、すぐに駆けつけてくれた市川覚峯師の護摩炊きに2回、参加させてもらいました。
目の前で動く炎の中に、不動明や菩薩を認めることは出来ませんでしたが、生命力を持ったように躍動する炎にはメッセージを感じました。
高野山で断食行をしていた覚峯師の満行の日に、節子と一緒に宿坊を訪ねたことがあります。
翌朝、まだ真っ暗な早朝に、覚峯師は護摩を焚いてくれました。
その頃は、私自身まだ不動明王のパワーを受容するだけの備えがありませんでしたが、燃え上がる炎には感動したことを覚えています。
節子はその時、どう感じていたのでしょうか。

ろうそくの炎は、もっと純粋に揺らぐように思います。
私は日に3回は、節子の位牌の前で灯明を点けます。
もっとも5分間ろうそくや1分間ろうそくですので、わずかな炎しか上がりません。
いつか金居さんが和ろうそくを持ってきてくれましたが、和ろうそくの炎には観ずるものがあります。
今回、このメールをもらって久しぶりに和ろうそくをあげさせてもらいました。
今日は大きな変化はありませんでしたが、ろうそくの火を見ているととても不思議な感覚になります。
10年ほど前にイランで節子と一緒にゾロアスター教の遺跡に行ったことを思い出しました。
火は宗教の起源に大きく関係しているように思います。

わが家は小さな仏壇なので、和ろうそくはなかなか使えませんが、これからは月命日には大きなろうそくで灯明をあげることにします。
いつかきっと節子は反応してくれるでしょう。

■245:喜怒哀楽を共有できることの幸せ(2008年5月4日)
時々、あることが気になってしまうことがあります。
たとえば、今日気になったのは、節子は十分に笑いきっただろうか、ということです。

手をつないで歩いてくる若い夫婦に出会いました。
とても気持ちがほのぼのしてきます。
節子と手をつないで歩いた頃を思い出しました。
手をつないで歩ける時に、みんなもっともっと手をつないで歩いてほしいです。
言葉は聞き取れませんでしたが、2人が笑い出しました。
とても楽しそうでした。
それを見て、突然に「節子は十分に笑った人生だったのだろうか」と思いました。

私たち夫婦は、感情をお互いに出しあう夫婦でした。
できるだけ喜怒哀楽を共有したかったのです。
夫婦喧嘩もよくしましたが、私にはそれもまた「怒りの共有」の一時でした。

節子と喜びを共有したのは、医師から見放された娘が奇跡的に回復した時でした。
医師の誤診で急性肺炎への対処が遅れたのです。
私たちが、死に直面した最初の経験でした。
何日か病院に寝泊りしましたが、その時にもしかしたら節子は自らの生命を天に預けたのかもしれません。

節子と怒りを共有したのは何だったでしょうか。
あまり思い出せませんが、小さな怒りの共有はいろいろありました。
正義感の強い節子は、テレビを観ていても時々怒りを口にしました。
私よりも、ある意味でははげしかったです。

節子との哀しみの共有は、やはり節子の病気のことでした。
手術して3か月くらいは本当に哀しさを共有していました。
毎朝、2人で手をつないで散歩に行きました。
私たちの合言葉は、「感謝、勇気、大きな声」でした。

節子と共有した楽しさは、もちろん40年の人生でした。
2人でいることそのことだけで、私たちは楽しかったのです。
そう考えると、人生とはまさに喜怒哀楽の集積であり、喜怒哀楽の4つは結局は同じものであることがよくわかります。

ところで、節子は十分に笑うことが出来ただろうかという最初の話ですが、
残念ながら答はノーでしょう。
笑い残した人生だったかもしれません。
節子はもっともっと笑いたかったはずです。
私ももっともっと笑いたかった。
節子と笑いを共有したかったです。

みなさんも悔いのないように、伴侶と思い切り喜怒哀楽を分かち合ってください。
とりわけ笑いを。
笑うことにはコストもかからないし、エネルギーも不要です。
ただ笑えばいいのです。
笑えば楽しくなってきます。
しかし、笑いを分かち合う伴侶がいなければ、笑いも哀しくなります。
伴侶のいる方は、ぜひ一緒に笑ってください。
それがどんなに幸せなことなのか、気づいた時には遅いのですから。

■246:若草の節子(2008年5月5日)
節子
小学校の同級生の升田淑子さんが献花に来てくれました。

節子は升田さんには湯島のオープンサロンで会っていますね。
その時は、たしか3人ずれでした。
有機農業の金子友子さんと写真にのめっていた芳賀庸子さん、そして升田さんでした。
みんな個性的で、節子はそれぞれに感心していました。
私たちの小学校のクラスメイトは「ぽんゆう」というグループ活動をしていたので、今でもつながりは続いているのです。

真紅のバラを持ってきてくれました。
節子にとっては3回目の真紅のバラです。
一昨日、中村さんからもらった菖蒲も満開です。

升田さんは昭和女子大学の上代文学の先生です。
「若草の」という枕詞が話題になりました。
「若草の」は一般に妻の枕詞ですが、実際には自分の妻、とくに生活をともにしている妻には使われず、友人の妻や遠く離れたところにいる妻には使われるそうです。
「若草の」が妻の枕詞になったのは、「若草の柔らかく新鮮で、愛すべきものであることから」という説明もありますが(三省堂「大辞林」)、升田さんは「若」という文字がもつ動きのエネルギーや時間的感覚ではないかと説明してくれました。
私の知識不足であまり理解できなかったのですが、「若草の」にはどうも物語が随伴しているようです。
言葉に物語が随伴している。
それこそが「言霊の国」の言葉ですが、最近の日本語は退屈になってしまいました。

「若草の」が気になって、岩波の古語辞典で調べてみました。
初生の葉が多くは二葉であることが配偶の意味の「つま」にかかると書いてありました。
わかりやすいですが、退屈な説明です。

いまは彼岸にいる節子は、なぜか私には「若草の」というイメージがぴったりなのです。
節子が自分で選んだ遺影の写真は、若草色のセーターを着ています。
毎日それを見ているせいか、なぜか若草色のイメージを強く抱いていました。
みんなは「白い花に囲まれている」と言うのですが、私のイメージの彼岸は萌えるような若草色の草原です。

話がいささか支離滅裂ですが、升田さんから聞いた「若草の」の話が、この3週間、私が気になっていたことに決着をつけてくれたのです。
節子は、私にとってはずっと若草の節子だったのかもしれません。
共に暮らしながら、いつも萌えるような存在でした。
それに気づいたのは、節子を送ってからです。

若草の節子。
この言葉がとても気に入りました。
この枕詞の後ろにある物語を、もう少し知りたいと思っています。
いつかまた報告します。

■247:グリーフケア・ソング「また会えるから」(2008年5月6日)
CWSコモンズのブックのコーナーによく登場する佐久間庸和(一条真也)さんが、「また会えるから」というグリーフケア・ソングを作詞し、DVDにしました。
作曲は北九州市を代表するハートフル・ポップ・デュオのココペリです。
歌っているのもココペリです。
佐久間さんが経営している会社での葬儀で実際に上映して、好評を博しており、その商品化の要望も届いているそうです。
佐久間さんは、グリーフ・カルチャーの思想が広がってほしいと考えています。

佐久間さんには「愛する人を亡くした人へ」という著書もあります。
私のデスクの上にいつも乗っているのですが、まだどうしても読めずにいます。
このDVDも、なかなか観られずにいました。
佐久間さんは、手紙で、
「節子への挽歌」はずっと拝読しています。
気が向いたら一回観てみてください。
と書いてきてくれました。
それでついつい「この連休中にDVDは観て、本も読み出します」とメールしてしまったのです。
その連休も、今日が最後。
約束は守らなければいけません。

まずDVDを観ました。
感想は佐久間さんにメールさせてもらいましたが、こういうDVDが流れたら、葬儀の雰囲気は違ったものになるでしょう。
ただ喪主の経験、それも妻を送ったものとしては、迷うところです。
やはりどこかに違和感があります。

だから反対ということでは全くありません。
暗くなりがちな葬儀の雰囲気は変えたほうがいいと私は思っています。
喪主としても、参列者に感じてもらいたいことは、決して哀しさや寂しさだけではないのです。
葬儀に参加して気が疲れると思いますが、葬儀では家族は悲しい反面、同時に参列者には明るく振舞いたいのです。それは決して矛盾しません。
喪主自身の気持ちと参列者に感じてもらいたいと思う気持ちとは、実は全く違います。
論理的には極めて説明しにくいのですが、葬儀の場では「ハレ」と「ケ」が同席しているのです。
奈落の底に落とされたような絶望感がある一方で、愛する妻との最後の共演の場のようなハレの感覚がどこかにあるのです。

そのことは、実は葬儀の場だけではなく、その後も続いています。
その違いは、しかし、なかなか理解してはもらえません。
以前、私が元気そうに見えたり哀しそうに見えたりするのは、私の実体ではなく、観る人の心象ではないかと書いたことがありますが、おそらくそのいずれでもあるのでしょう。
これに関しては、また改めて書かせてもらおうと思いますが(これまでも断片的には書いてきたつもりですが)、今日はグリーフケアの話です。

グリーフケア。あるいはグリーフ・カルチャー。
いずれも、私には初めての言葉です。
グリーフとは、突然やってきた深い悲しみというような意味でしょうが、その打撃に耐えられずに崩れていく人は決して少なくないように思います。
私は幸いに娘たちや友人知人に支えられましたが、思ってもいない辛さや気持ちに見舞われたのも事実です。
悲しみの中で、人の真実も見えてくるような錯覚にも陥りがちですが、それは必ずしも真実ではなく、それこそ自らの心象風景でしかないのですが、その風景に振り回されることもあります。
グリーフに翻弄されてしまうわけですが、その際のケアはこれまた難しそうです。
私の体験から言えば、中途半端なケアは逆効果です。
心が入っていないケアはすぐにわかりますが、心を込めたケアでも素直に受け入れられないのが、グリーフ状況の特質かもしれません。
われながら自分勝手だなと思うほどに、感受性は微妙に意地悪くなるのです。
だからこそ、たぶん論理ではない、表情を持った個人ではないものが効果的なのかもしれません。

長くなってきました。
グリーフケアに関しては、佐久間さんの本を読んでから、また少し書いてみたいと思います。

■248:時評と挽歌、愛と怒り(2008年5月7日)
このブログには異質の2つの流れがあります。
時評と挽歌です。
私は毎日、この2つを書くようにしていますが、読む人はきっと混乱するでしょう。
時評と挽歌という、全く質の異なる文章がほぼ交互に出てくるからです。
しかし、時評と挽歌が混在していることを、このブログの特徴にしています。
その理由は以前、ゾーエとビオスという言葉を使って説明しました。

いつも読んでくださっているSKさんが思ってもいなかったコメントを送ってきてくれました。

佐藤さんの社会への怒りは、奥様への深い愛に基づいているのだということが、なんと
なく感じられるようになってきました。

SKさんは、私も節子も良く知っている人です。
このメールをもらって、少し考え込んでしまいました。
そこでSKさんにどういう意味ですかと訊いてしまいました。

SKさんから返事が来ました。

ダライラマは「愛と思いやりがあればこそ、私たちは社会的な不正に怒りを持つ」と言っておられます。奥様への愛が、奥様と共に不正な社会への怒りとして発露しているように思うのです。佐藤さんの生を支えているのは、奥様の愛であり、奥様への愛が、佐藤さんを支えているように思います。

私には過分な評価ですが、私が感じていたことを整理させてもらった気がしました。
時評と挽歌は、怒りと愛を分担していたのです。
実は時評編を書く時、いつも節子(妻)のことを思い出しながら書きます。
特に「怒り」の時には、彼女と共有していることを確認しながら書くことが多いです。
ここで書かれていることの多くは、私だけの怒りではなく、私以上に庶民だった節子の怒りでもあります。
節子は、いつも「修は怒りやすい」とたしなめていましたが、私は怒りがこみ上げてくるとなかなか止められないところがあります。
節子がいなくなったいま、節子の言葉を噛みしめるようにしています。
そのおかげで自制力が高まったねと娘たちからも言われるようになりましたが、それでも時々失敗します。
このブログでも失言は繰り返されていることでしょう。

怒りと愛は、たしかにコインの裏表です。
最近のジャーナリズムに、怒りがなくなったのは「愛」がなくなったからなのでしょうか。
この連休、私がやったことは辺見庸さんの著作を読みはじめたことだけです。
友人が、私のブログに書いてあるのと同じような文章が辺見さんの本に書かれている、まさか剽窃(もちろん私がです)しているんじゃないだろうねと電話してきたのが契機です。
読んだことのない他人の文章を剽窃するのは難しいでしょうが、文章の断片に触れていて、それが私の文章にでてくることはありえない話ではありません。
辺見さんの本は、これまで1冊しか読んでいなかったのですが、今回他の本を読み始めて、この人の凄さには圧倒されました。
あまりにも共感できる文章が多いのです。
残念ながらまだ私と同じ文章には出会っていませんが、辺見さんの文章で触発されたり、私の怒りが高まったりすることが実に多いのです。
まさにいま何かを書いたら、辺見さんの思いの剽窃になりそうです。

しかし、辺見さんの怒りは私のそれとは違い、説得力があります。愛の深さを感じます。
辺見さんは離婚しています。
にもかかわらず、どうしてこれほどの愛をもてるのでしょうか。
いささか無意味な疑問でしょうが、そう思わずにはいられません。

■249:カタカムナの「サヌキ」と「アワ」(2008年5月8日)
昨日、愛と怒りについて書きましたが、ちょうどその記事を書いた後、カタカムナに通じている椎原澄さんがやってきました。
カタカムナに関しては、CWSコモンズのほうで書こうと思いますが、かつて日本に存在したとされる超古代文明です。

椎原澄さんが「サヌキ」と「アワ」の話を持ち出しました。
これはカタカムナの世界ではキーコンセプトの一つなのです。
私がカタカムナに関心を持ち、本を読みかじったのは1980年前後だったと思いますので、もうかれこれ30年前です。
久しぶりに出会う言葉です。
これについて書き出すときりがありませんが、簡単に言うと、人のもつ本性として、「サヌキ」と「アワ」があり、「サヌキ」は直進的、攻撃的、能動的、論理的であり、「アワ」は総合的、受容的、受動的、感性的といった特徴があるというのです。
かなり不正確な説明ですが、サヌキとアワが組み合わさるととてもいい動きが出てきます。
ソニーの盛田さんと井深さん、ホンダの本田さんと藤澤さんの組み合わせは、まさにその好例です。
ただ、その組み合わせは上下関係や主従関係ではないのです。
そこがポイントです。
その組み方と関係性が、昨今はたぶんおかしくなってきているのです。
とまあ、そんな話をしたわけですが、実は椎原澄さんのパートナーは椎原正昭さんといい、けたたましいほどの個性的なサヌキ人でした。
節子と同じく、昨年、逝ってしまったのですが、椎原夫妻はカタカムナを初めとした、そうした世界に通じていました。

私は椎原夫妻がカタカムナに通じていることを知りながら、きちんと議論したことはありません。
この種の世界に通じている人は私の周りには少なからずいるのですが、先日書いたように、私自身はそうした人と話し合うのを意図的に避けてきたからです。
今日は、しかしついつい椎原澄さんの挑発に乗ってしまい、少しだけ議論してしまいました。
この種の話は議論すべきことではなく、観ずることなのです。
悔やんでいますが、終わったことは仕方がありません。

椎原さんは、私の本性は「アワ」だと考えているようです。
たしかに私と節子で言えば、節子がサヌキ性が強く、私はアワ性が強いように思います。

椎原さんと話したのは、カタカムナだけではありません。
怒りと愛の話題も出ました。
そのことを書くつもりが、サヌキとアワの話になってしまいました。

ちなみに、余計な話をすれば、
サヌキとアワは、四国の「讃岐」と「阿波」、千葉の「佐貫」と「安房」というように、各地の地名の組み合わせにも出現しています。
土地にはさまざまな磁力(地力)が埋もれています。
それはもしかしたら、未来の記憶なのかもしれません。

今日もまた「挽歌」らしからぬ内容になってしまいました。
サヌキ族の節子は、こういう非論理的な話はあんまり好きではありませんでした。
きっと来世は、私と節子は性別を逆転していることでしょう。
そうなれば現世よりも、もっと理想的な夫婦になれることは間違いありません。
節子が私を選べばの話ですが。

■250:心の叫び、生の気持ち(2008年5月9日)
ややこしい話が続いたので、今日から正常化させましょう。
節子の花基金の出発点になった吉田さんからメールが来ました。

久し振りに、貴君の「妻への挽歌」を時間をかけて読み、・・・と言っても、難しそうなのは飛ばし、女々しいところも適当にしてですが、最近は記憶が定かでなく始めから読み直したので、とにかく長い!・・・近況を知りました。

「難しそうなのは飛ばし、女々しいところも適当にしてですが、」というのはムッとしますが、まあ正直のところ、私でもそうするでしょう。
いや、私なら読まないかもしれません。
第一、こんなに長くて、内容もない記事をよくもまあ書き続けるものだと呆れている人も少なくないでしょう。
我ながら呆れているのですから。

でもこんなメールも来るのです。

挽歌には佐藤さんの心の叫びというか、生々しい気持ちがそのまま綴られているという価値があります。
そして、その心の叫び、生の気持ちに共感する方々がたくさんいるはずです。
それによって癒される方々がいるはずです。

だれかに少しでも平安を与えられるといいのですが、その反対のことをしているのかもしれないと思うこともないわけではありません。
でもいくら書いても書きたりないのです。
節子のことをきちんと書き残したいという気はさらさらないのですが、少しは節子のことを書いておこうという気もあります。しかしなかなかそこにたどり着かないのです。
困ったものです。
まだしばらくは、「とにかく長い」「生々しい気持ち」を叫び続けたいと思います。
きっと節子には届いていると思っています。

そうだよね、節子さん。

■251:対象喪失(2008年5月10日)
「対象喪失」という言葉があります。
「自己にとって重要な対象を失うこと」ですが、その最も大きなものは「愛する人を失うこと」でしょう。
愛する人を失った悲しみと絶望が、生きる力を弱め、病気を引き起こし、死を招くことは、医学的にも認められていることだそうです。
伴侶を亡くした人の死亡率は、死後半年間、40%以上高くなるという調査もありますし(54歳以上が対象)、もっと顕著な差を主張しているデータもあるようですが、いずれにしろ対象喪失すると生きる力が弱まるようです。
書物などによると、1年がどうも危険状況で、1年を越すと大丈夫のようです。
私の場合、まだ1年はたっていませんので、まだ危険領域にいるわけです。

愛する人を失うことがどれほど「生きる力」を低下させるかはよくわかります。
生きていることすら億劫になるのです。困ったものです。
私の場合、その気分からはまだ抜け出られずにいます。
娘たちがいなければ、深みにはまっていたかもしれませんが、彼らが私に力を与えてくれているので、まあ元気なのです。

愛する人を失うことが生きる力を失わせるということは、「愛する人」が生きる力を与えてくれているということでもあります。
このことは、「愛すること」が生きる力を与えてくれると言い換えてもいいでしょう。
生きる力の源泉は「愛すること」なのです。

ところで、「対象喪失」ですが、「喪失」とは何でしょうか。
存在しなくなるということでしょうか。
実は昨夜、そのことが気になりだしたのです。
私にとって愛する対象は「節子」です。
節子は現世からは旅立ちましたが、私の愛が終わったわけではありません。
私はまだ節子を愛していますし、今も毎日、位牌の前で、また会おうねと話しかけています。
そうであれば、私にとっては今なお、愛する人はいるわけで、対象喪失には当てはまらないことになります。
そう考えれば、生きる力が弱まることもないでしょう。

愛する人を失ったのではなく、愛する人に会えなくなっただけの話です。
愛することが生きる力の源泉なのであれば、会えなくなってもずっと愛し続けていけばいいのです。
やっとそのことに気づきました。
これで今日から、また私の生命力は強靭になりました。
たぶん、ですが。

■252:お守りとしての「節子」(2008年5月11日)
対象喪失に関係することをもう一度書きます。
対象喪失について、言葉の意味を確認しようとネットで調べていたら、あるサイトに次のような記事が出ていました。

対象喪失を受けとめることは難しい。合理主義を生みだしたデカルトでさえ、夭逝した娘のフランシーヌにそっくりの人形をこしらえてトランクに入れて持ち歩いたという(種村李弘『幻想のエロス』河出書房新社)。スウェーデンへの船旅の途中、デカルトが船室でまるで生きた娘を相手にするかのように人形に話しかけているのを覗き見た船長は恐怖から、留守中に人形をトランクごと懐中に投じてしまったという。

愛する人形を「喪失」したデカルトはどうしたのでしょうか。
興味があります。
実は私も節子の遺品を毎日肌身離さずに持ち歩いています。
時々、どこかに置いたまま忘れてしまうこともあって、探し回ることもありますが、小さなものなので、たいていはポケットかまたは首からかけています。
誰にも見せたことはありません。
デカルトと違って話しかけることはありませんが、念じることはあります。
念じると、その「節子」は私にエネルギーを送ってくれます。
まぁ要するに「お守り」なのです。

節子はいまや私にとっては「守護神」のような存在なのですが、
実は「愛する人」とは「守護神」なのかもしれません。
信仰とは神や仏を愛することです。
その愛の力が生きる力を与えてくれるわけです。

最近の社会の不幸は、そうした「愛する対象」が見つけられないことなのかもしれません。
不幸な事件が頻発していますが、そのほとんどの背景に「愛の不在」を感じます。
私が幸せだったのは、節子という愛する人に出会えたからです。

もしみなさんが、まだ愛する人にめぐり会えていないとしたら、早く見つけることをお勧めします。
愛する人を見つけるのは簡単なことです。
愛されるのとは違って、誰かを決めて愛すればいいわけですから。
不倫になるのは避けたほうがいいですが、そうでなければだれでもいいのです。
近くを彷徨している野良猫でもいいでしょう。
だれであろうと、愛していると愛されるものです。

みんながもっと気楽に愛する人を決めていけば、
きっと社会は平和で豊かなものになるはずです。

■253:「愛する人を亡くした人へ」(2008年5月12日)
長いこと、机の上に置かれていた一条真也さんの「愛する人を亡くした人へ」を読みました。
昨年の7月に発売された本ですので、1年近く、私の机の上に乗っていたわけです。
なかなか読めずにいましたが、漸く読む気になったのです。
せっかく一条さんから贈ってもらったのに、読めなかった一因は、書名でした。
「愛する人を亡くした人へ」と一括して語られることへの違和感でした。
愛する人との別れ方には深い表情がありますし、当事者にとっては聖域な世界ですから、外部からの言葉はすべて虚しく響くことが多いのです。
しかし、語られないと、さらに虚しく、そこはいろいろ複雑なところです。

読み始めた時には、違和感をもったらすぐ読むのをやめようと思っていました。
ところが、読み出してみたら、自然と読み進められ、結局、一気に読んでしまいました。
全く違和感がなかったわけではありませんが、読み終えた後、ホッとした気持ちが残りました。
一条さんの世界は、ある程度、理解していますので、文章の一つひとつの意味や位置づけも伝わってくることもあり、それで自然と受け入れられたのかもしれません。
本書の帯に、「さみしさ」という深い闇の中で月明かりに導かれているような温かさを感じました。と書かれていますが、言葉はともかく、そんな感じです。
穏やかに読めました。

ところで、本書の中で、一条さんは、
配偶者を亡くした人は、立ち直るに3年かかる。
と書いています。
一条さんの経験則でしょうから、間違いない話です。
どうやらまだ立ち直れる時期には達していないようです。
なにか奇妙にホッとしました。

■254:「配偶者を亡くした人は、現在を失う」(2008年5月13日)
昨日、読んだ「愛する人を亡くした人へ」のなかに、こんな文章が出てきます。

親を亡くした人は、過去を失う。
配偶者を亡くした人は、現在を失う。
子を亡くした人は、未来を失う。
グリーフ・カウンセラーのE・A・グロルマンの言葉だそうです。

人は何かを失うと、必ず何かを得ると私は思っています。
父を亡くした時に私が得たのは出会いの意味の気づきでしたし、
母を亡くした時には自分自身の身勝手さへの気づきでした。
あまり正確ではありませんが、グロルマンの言葉とは違い、大きな過去を背負い込んだような気分でした。
未だにそれから解放されていませんが、これに関しては一度書いたことがあります。

配偶者だった節子を亡くして、「現在を失った」という感覚は実にぴったり当てはまります。
自らの生が、突然断たれたような衝撃を受けました。
しかし、失ったのは現在だけではなく、過去も未来もです。
現在は、過去や未来の母体だからです。

では得たものは何か。
まだ言葉になりませんが、たくさんあります。
おそらくそれは、人によって違うでしょう。
あまり言葉にすべきではないかもしれません。
言葉にすると、どうしても違ったものになりそうな気がします。
しかしたくさんのものを得たような気がします。

節子が残していってくれたものに感謝しています。

■255:写真を見るとやはり涙が出てきて仕方がありません(2008年5月14日)
めそめそした記事はみっともない、やめたほうがいいよ、という節子の声が聞こえてくるのですが、今日はまためそめそした記事です。

節子の後を継いで、わが家の花係になった娘が、去年の庭の花の様子を見たいというので、私のパソコンに入っている写真を見ました。
花に囲まれて、日向ぼっこしている節子の笑顔の写真が出てきてしまいました。
庭の椅子に私と一緒に座っている写真です。
不覚にも涙をこらえることができませんでした。
この写真の直後に入院してしまったのです。
もうかなり辛かったでしょうに、そんなことなどは微塵も感じさせない笑顔です。
今ごろ涙を出すくらいなら、なんでこの時にもっと節子を大事にしなかったのだろうかと悔やまれて仕方がありません。
その数か月先に先に起ることなど考えもしていない2人の様子に、先の見えない自分自身の馬鹿さ加減を思い知らされるのです。
この時、節子は幸せだったでしょうか。
写真からはそうとしか見えません。
私自身も、とても幸せそうなのです。
愛する人と一緒にいることが、どれほど幸せなことなのか。
そう思います。

やはり節子の写真を見るのは、まだできそうもありません。
かといって、膨大な枚数の写真を捨てることもできません。
節子のことになると、どうしても身体が動かなくなってしまいます。
困ったものです。

節子
おまえの笑顔はほんとうに私の生き甲斐でした。
改めて、ありがとう。

■256:節子がいなくても花が咲く(2008年5月15日)
節子
庭の花がとてもきれいです。
昨年は少し元気がなかった花も元気を取り戻してきているようです。
気のせいか、節子がいた頃と何かが違うようにも思うのですが、節子が希望したように娘がきちんと手入れしています。
節子が植えた花や、好きだった花が咲くと、必ず教えてくれます。

先日、節子が時々、行っていた遠くの花屋まで娘と一緒に行ってきました。
どうしてこんな遠くの花屋まで来ていたのだろうかと思いましたが、花の種類が多く、めずらしい花があるからだとジュンが教えてくれました。
私は、ぺラルゴニウムを買ってきました。
節子はあまり好きではなかったようですが、今回見つけたのはきっと節子にも気に入ってもらえそうな品種でした。

今年はいろんな種類のバラもにぎわっています。
節子がいなくなってから、さらに3種類のバラが増えました。
節子が気に入ってくれるといいのですが、節子の花選びにはいつも誰かが一緒でしたので、節子の好みはきちんと家族に伝わっています。

庭にはたくさんの花や植木がありますが、その一つひとつにたくさんの思い出があります。
節子がいなくても花が咲く。
それがうれしくもあり、悲しくもあります。

■257:1年前のことを思い出すと気分が揺れ動きます(2008年5月16日)
節子
一度、気持ちを切り替えて活動を再開しようと決めましたが、なかなかうまくいきません。
活動は再開しているのですが、どうも1年前のことに引き戻されてしまうのです。
1年前の生活は、あまりにも生々しく私の心身に刻み込まれています。
思い出さないでしようと思っているのですが、必ずと言っていいほど毎日、節子を思い出してしまうことに出会います。
昨年の今ごろは、節子と完全に生活を共有していましたから当然といえば当然です。

目を外に向けようと思っても、どこにでも節子の姿が見えてしまいます。
本当に私たちは人生をシェアしていたことを痛感します。
娘たちは、親を超えて生きていけるのでしょうが、伴侶には難しいことです。
伴侶と死別して、10年近くたつのにまだ思い出して仕方がないという人の気持ちがよくわかります。

先日、献花に来てくれた升田さんが手紙をくれました。
「お家もお庭も心を込めて作られていて、節子さんはこのようなお方であったのだと、深く感じながら過ごしておりました。」
こう言ってもらえるととても安堵します。
確かに、今のわが家は節子が基本的な方向づけをしてくれたのですから。
しかし、初めてのお客様でさえ、そこに節子を感ずるのですから、私がどれほど深く感じてしまうかは推して知るべしです。
家には主婦の「いのち」がこもっています。
どこもかしこも、節子でいっぱいです。

これから数か月、昨年の記憶がよみがえってきそうでとても不安になります。
最近また、毎日、気分が揺れ動くようになってきてしまいました。
困ったものです。

■258:「あなたを忘れない!」(2008年5月17日)
節子
今日は「生命・きずなの日」です。
今年も記念祭が開催されます。
日本ドナー家族クラブの間澤さんから、今年も案内が届きました。
間澤さんは、娘さんを交通事故で失いましたが、生前の彼女の希望により6人の人たちに臓器提供した経験の持ち主です。
それが契機になって、日本ドナー家族クラブを結成しました。
私もそれにささやかに応援させてもらいましたが、「生命・きずなの日」も間澤さんたちの尽力で設定されました。
この記念祭のキーワードは毎回、「あなたを忘れない!」です。
このキーワードの意味は、節子と別れたいまになって、はじめてわかったような気もします。
愛する娘を見送った間澤ご夫妻の気持ちを、私がどれほど理解していたかに関しても、いささかの自信をなくしています。
間澤さんご夫妻とのおつきあいのなかで学んだことはたくさんありますが、私の理解はまだまだ浅かったと気づいたのは、節子との別れを体験してからです。

間澤さんとも、この2年お会いしていません。
節子のことは知っていると思いますが、まだ私には声をかけられないのだろうなと思います。
間澤夫妻も私とほぼ同世代ですから、その気持ちもよくわかります。
一度、お会いしたいと思いながらも、今年の記念祭には参加する気力が出てきません。

間澤さんは、娘さん(朝子さんといいます)の本をつくりました。
みんなに忘れないでいてほしいと思ったからです。
今日、開催されている記念祭も、間澤さんご夫妻にとって、朝子さんを忘れないでほしいという思いからはじめたのだろうと思います。
きっと記念祭で、お2人は朝子さんに向かって「あなたを忘れない!」と念じていると思います。

5月17日は毎年、「生命・きずなの日」です。
この日はいつも、私は間澤さんたちのことを思います。
節子は間澤さんとは会っていないかもしれませんが、つながっていることは間違いありません。
私たちはほんとうにたくさんの人たちから支えられていました。
その人たちにもっともっと節子を紹介したかった、それがほんとうに残念です。

■259:笑顔を取り戻さないといけませんね(2008年5月18日)
節子
昨日の続きです。

東尋坊の茂幸雄さんと川越みさ子さんがやっているNPOの会報が届きました。
だいぶ前にコムケアセンターに届いていたのですが、私があんまりオフィスに行かないので、受け取ったのは先週でした。
一昨年の秋、節子と最後の旅行をした時に、茂さんと川越さんにお会いしました。
まさか会えるなどとはきっと節子は思っていなかったでしょうし、私自身も会えるかもしれない程度の思いでした。
ところが、東尋坊について自動車を降りたら、なんと目の前に茂さんがいたのです。
あの時は驚きました。

あの旅は、いま思い出しても不思議な旅でした。
茂さんたちに会った翌日、夕陽を見ました。
あんなにきれいな夕陽は初めてでした。
1時間近く落日に輝く日本海を見ていました。
その1年後に、節子が逝ってしまうとは思いもしませんでした。
茂さんたちは、また元気になって2人で来てくださいとメールをくれましたが、残念ながらそれは無理になりました。

茂さんたちは、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいます。
死は、身近に体験した人でないとその意味がわからないのではないかと私は最近思い出しています。
身近というのは何だと言われると難しいですが、自分の問題として、だと言い換えてもいいでしょう。
私の場合、父母の死はまだ「身近」ではありませんでした。
自分の死と、あるいは生と重なっていたのは節子の死が初めてでした。
なにも伴侶の死が「身近」だというわけではありません。
人によって身近さの捉え方は違うでしょう。
自分の生き方を変えてしまうような死の体験は、そうあるものではありません。
しかし一度体験すると、生きることの意味に気づきます。
あらゆる存在の生と死が自分につながっているような気がするのです。
インドラネットの世界です。

茂さんと川越さんのやさしさや温かさは、死を身近に体験したことから生まれたのではないかと勝手に思っていますが、茂さんたちの笑顔は本当に会う人をホッとさせます。

先週、このブログの時評編で、死刑に関して書き続けましたが、書いているうちに茂さんの笑顔を思い出したら、論理を超えて死刑制度反対に戻ってしまいました。
人の生を元気付けるのは、笑顔かもしれません。
節子の笑顔には毎日会っていますが、私もできるだけまた笑顔を取り戻したいと思います。

■260:さとうファームのさやえんどう
(2008年5月19日)
節子
わが家の家庭農園のさやえんどうがたくさん取れました。
それで娘のジュンが、「さとうファームからのお届けです」とお隣さんたちに少々のお裾分けをしてきてくれました。
節子の文化はここにも残っています。
ひとつかみのさやえんどうなのですが、みんなとても喜んでくれます。

私は、お金を経由しない「物々交換」や「事々交換」の世界の中で生活したいとずっと思っていますが、その楽しさを教えてくれたのは節子でした。
節子には「百姓の精神」がありました。
自分たちの生活のことは自分たちでできるだけやろうという生き方でした。
子どもたちが小さいときには、「佐藤工務店」と言いたくなるくらい、家族みんなでインテリアやエクステリア工事に取り組みました。
壁紙張りやベランダのペンキ塗り、いろいろやりました。
私も不器用ながら、そうしたことが大好きでした。
私の製作した棚や椅子はすぐ壊れましたし、家電製品は直るものまでむしろ壊すことが多かったです。
その分、節子ががんばってくれました。
廃物活用は節子の大好きなことでした。

ところで、お金を使った交換はそこで終わりますが、お金を使わない交換はそこから始まります。
そこにこそ生活の面白さがあります。
経済の交換行為と生活の交換行為とは全く違うのです。
このことは、むしろ経済時評で項を改めて書こうと思いますが、
今日、節子に報告したかったのは、節子の好きな「お裾分け文化」が続いているということです。

ひとつかみのさやえんどうは、Mさんからすぐにとても美味しい和菓子になって戻ってきました。
節子にお供えしたお菓子は節子が残したお裾分け文化の現われです。
美味しかったですか。

ただMさんはお返しが好きな人なので、
中途半端なお裾分けはしないようにという節子のお達しがあったようですが、
今回は思い切り中途半端なお裾分けでした。
なにしろ本当にひとつかみのさやえんどうでしたから。

ちなみに、さやえんどうは娘と一緒に私も収穫してきました。
さとうファームは私たち百姓の弟子たちが何とか守っていますから、ご安心ください。

■261:笑みと涙がでてしまうお弁当(2008年5月20日)
節子
最近、娘のジュンがお弁当を作ってくれます。
そのお弁当を開くと節子の笑顔がどうしても頭に浮かびます。
実に「質素ながら心のこもったお弁当」なのです。
私は、昼食はあまり食べませんので、いつも小さなおにぎりが2つです。
それに小さなタッパーにおかずが加わるだけのお弁当です。
タッパーはとても小さいのですが、品数は多いのです。
しかもカラフルでなければいけません。
小さなタッパーなのですが、そこに節子は実にたくさんの料理を入れてくれました。
いずれも一口、いや一口以下のサイズです。
それがみごとに詰まっているのです。
果物やデザートまで入っています。
それを見ると、まるでおもちゃの世界のようで、自然に笑みが浮かんでくる楽しさがありました。
いつかあまりのおかしさについつい電話までしてしまったことがありましたね。
そのお弁当に、私はいつも節子の優しさと遊び心を感じていました。

このお弁当は、しかしコスト的にはほとんど無料に近かったと思います。
食べ残したほんのわずかな食材が効果的に豊かな雰囲気を作っていただけです。
船場吉兆の女将よりも、節子は食材を無駄にしない人でした。
食べられない草花がはいっていることもありました。
節子は、そうしたちょっとした「遊び心」が好きでした。

最近、娘がお弁当を作り出してくれましたが、全く節子の作り方と同じなのです。
いや、「遊び心」という点をのぞけば、節子を上回るかもしれません。
わが家の食費はますます節約できそうです。
節約家の節子の伝統はしっかりと継承されています。
収入がなくなっても、我が家は大丈夫そうです。
安心してください。

■262:節子が残した生活文化(2008年5月21日)
昨日、お弁当の話を書きましたが、節子が残した文化はそれだけではありません。
この頃、つくづく「節子の文化」がわが家にはいろいろと残っていることを実感しています。
節子が元気だった頃、もっともっと素直にその「文化」の価値を認めればよかったと少しだけ反省しています。

節子は片付けるのが下手でしたので、自分の机や鏡台はいつも雑然としていました。
あまりにも気になって、注意すると「あなたの部屋よりきれいですよ」と反論されました。
私のは「整然」と散らかっているだけで、決して「雑然」ではないので、この反論は半分は誤りで半分は正しいのですが、間違いなく節子のほうが片づけが不得手でした。
しかし、それにもかかわらずきれい好きなのです。
病気になってから、特にその傾向が強くなり、廊下などが汚れていると辛いだろうに自分で掃除機をかけるのです。
私は掃除を分担するといいながら、まあ適当でいいだろうといい加減にしか対応しませんでしたが、節子はきっと不満だっただろうなとこの頃とても後悔しています。
その罪滅ぼしに、最近はできるだけていねいに掃除をしていますが、娘からはまだまだダメだと怒られています。
しかし、節子のおかげで、いまもわが家はそれなりに整理整頓されてきれいです。
いえ、節子がいた頃よりも間違いなくきれいです。

掃除のことを書いてしまいましたが、ほかにも節子が残した文化だねと娘たちと話すことが少なくありません。
良いものもありますが、悪いものもあります。
しかし、私は良いとか悪いとか関係なく、節子が残した文化はみんな好きです。
そして気が付いてみると、自分がその文化(生活のスタイル)になっているのです。
節子がいた頃は、批判的だったものや理解できなかったものまで、いまや私の生活スタイルになってきています。
やはり私の中に、節子が入り込んできているのでしょうか。
最近、頭の働きが悪くなったのも、もしかしたそのせいかもしれません。
いやはや困ったものです。

■263:花かご会のみなさんが駅前を飾っていた花を節子に持ってきてくれました(2008年5月22日)
節子
我孫子駅南口前の花壇は、今年はとてもきれいです。
節子がいなくなっても、節子の仲間たちがみんな楽しみながら手入れしてくれています。
駅を通る時は私も見渡すようにしています。
どこかに節子がいるかもしれませんから。

昨日、花かご会のみなさんが植え替え作業を終えた後、どっさりと花を持ってきてくれました。
駅前を飾っていた花ですよと言って、みんなで献花台に供えてくださいました。
いつもいつも節子のことを思い出してくれていて、本当にうれしいですね。
あなたは気持ちのやさしい仲間にとても恵まれていますね。
今日は、私も自宅で仕事をしていたので、みなさんともお話できました。
わざわざ遠くから電車で通ってきている小池さんも来てくれました。
みんな本当に花が好きなのですね。
花かご会のホームページに最近の写真が少しだけ載っています。
http://www.voluntary.jp/weblog/myblog/517/1921883#1921883
だんだん見事になってきているように思います。
節子があれほど身を入れていた花壇ですから、いつか私も何らかのお役に立ちたいと思っています。

駅前花壇ほどではないですが、わが家の花も今年は昨年より元気です。
ジュンが毎日、心をこめて手入れしてくれているのです。
節子もきっとそちらから花に元気を送っていてくれているのでしょうね。
節子が植えてくれた玄関のバラも大きくなりました。
虫もつかず、とても新緑がきれいです。
今日も花かご会のみなさんが感心してくれていました。
節子がいたらとても喜んだでしょうね。

節子が残してくれた草花に囲まれていると、節子がいないのが嘘のようです。
庄崎さんによれば、節子も彼岸で花に囲まれながら、花の手入れをしているようですね。
彼岸の花は、こちらの花とは違いますか。
私も早く見てみたいと思っています。

節子の友だちに会うと、節子にとても会いたくなります。
節子の友だちがいるのに、どうして節子はいないのか。
節子にとても会いたいです。

■264:支えあう関係と縛りあう関係(2008年5月23日)
節子がいなくなって失意の中にあった時に、前からの約束で、あるフォーラムのモデレーターをやったのですが、その時、パネリストの一人から「佐藤さん、解放されたと思えばいいのですよ」といわれました。
まちづくりでは実績のある「生活人」だと思っていた人でしたが、その言葉には唖然としました。
彼は、善意を持って、私を元気づけるために言ってくれたのですが、そうした発想が出てくること自体が私には限りなく哀しかったのです。
もう二度とこの人には会うことはないなと思いました。
そういう風にして、私は節子がいなくなってから、何人かの友人知人と違う世界に住んでいることを思い知らされました。
節子がいなくなってから、別の別れを体験しているのです。
もちろん絶縁したという意味ではありません。
違う世界があることを知ったということです。
その反面で、新しい出会いもたくさんありましたから、結果的には世界は広がりました。

ところで、「解放」といわれたことがずっと気になっています。
人のつながりには2つの関係があります。
「支えあう関係」と「縛りあう関係」です。
「解放」という発想は、後者に立脚しています。
私たちはお互いに決して縛りあわずに、支えあってきました。
いや、そう思っていました。

つい先日、いつものように真夜中に目覚めて考えているうちに、この2つは同じなのだと気づきました。
あまりにも当然のことであり、今ごろ気づくのは遅いのですが、節子がいなくなってから私の独断の暴走を止めてくれる存在がいなくなったために、気づけませんでした。
節子は、私の思いを映し、正す、意思を持った鏡でした。

「支えあう」と「縛りあう」は同義語です。
私が取り組んでいる「コムケア活動」は、「重荷を背負いあおう」という精神を大事にしています。
私の生き方の根底には、少なくとも意識の世界では、いつもその考えを大事にしてきました。
にもかかわらず、愛する節子に関しては、そういう発想が完全に出てこなかったのです。
なぜでしょうか。
朝まで考えましたが、わかりませんでした。

「解放」
それはどういう意味をもっているのでしょうか。

■265:食べ残したバナナはどこにいったのか(2008年5月24日)
節子
ちょっと不思議な、でも全くナンセンスな話です。
よほど暇な人だけ読んでください。

最近、夜中におなかが減るので、枕元にバナナを置いています。
夜中に目が覚めることが多くなったせいかもしれません。

闘病中の節子も、枕元にバナナやヤクルトを置いていました。
一度に多くを飲食できないので、ヤクルトも2〜3回に分けて飲んでいました。
少量なので一気に飲めばいいのにと思っていましたが、最近、私もそうなってきました。
まるで節子のようだと思いながら、就寝前にヤクルトを半分飲んだりしています。
真夜中に目が覚めて眠れない時、何かを口にすると眠れることもあります。
行儀が悪く、褒められた話ではないのですが、節子と同じだなと思うとなぜか心が落ち着きます。

ところで、昨夜の話です。
2時過ぎに目が覚めてしまいました。
電気もつけずに手探りで枕元のバナナを半分に折って、寝ながら食べてしまいました。
そしていつの間にかまた寝てしまっていたのですが、朝起きて、残りのバナナを食べようとしたら、どこにもないのです。
食べたバナナの皮だけが残っていました。
食べかけのバナナがどこかに紛れていると困ると思い、布団をあげて探してみましたが、ありません。
無意識にバナナを全部食べたのかもしれないと思い、残っていたバナナの皮をつなげてみましたが、やはり一本にはなりません。
頭が混乱してしまいました。

みなさんならどう考えるでしょうか。
天才的な私は、すぐに解決できました。
そうか、節子が残りを食べてしまったのだ、と。
それで一件落着、のはずでしたが、
少しして気がつきました。
節子は皮まで食べてしまったのだろうか。

そこでもう一度、ベッドの周りを探してみましたが、やはりありません。
この謎を説明する方法は3つです。
(1)節子が皮まで食べてしまった。
(2)私が呆けてきて皮まで食べてしまった。
(3)最初からバナナは半分しかなかったことを私が忘れていた。
どれが一番合理的でしょうか。
私が呆けるはずがありませんから、正解は(1)なのです。
彼岸ではバナナは皮まで食べるようです。
食糧事情は彼岸もあまりよくないようです。
自給率も低いかもしれません。
それで今朝は、節子に食べるものをたくさん供えました。

いや、もしかすると、私が呆けはじめたのでしょうか。
そんな気もしますね。
いやはや困ったものです。

■266:伴侶がいなくなっても元気にがんばれる人と失意に埋もれる人(2008年5月25日)
節子
あの名木純子さんからメールが来ました。
チャイルドマインダーという仕組みを創りだし、ご自身もたくさんの里子と一緒に子育ち支援の分野の先鞭をつけてきた人です。
メールは、今回の四川省の大地震で発生した親を失った子どもたちのことでした。
そこに書かれていたのは、私にはとても思いもつかなかったことですが、同じ風景から見えてくるものの違いに気づかされました。
これに関しては、CWSコモンズに少し書きました。

伴侶を送った後、元気にがんばれる人と失意に埋もれる人とがいます。
私はどちらかといえば、後者です。
何をしても意志が持続できなくなってしまいました。
私の周りを見回すと、どうも男性は後者になりがちで、前者の生き方は女性に多いような気がしてきました。
偏見かもしれませんが、女性のほうがやはり主体性を持っているのです。
一言でいえば、自立しているのです。
私は若いころからそう思っていましたが、それを思い知らされたのは会社に入ってからです。
それに関しては、いつかまた書きたいですが、今日は伴侶と死別してからの生き方の話です。

愛する夫を見送ってからもなお活躍している女性は少なくありません。
すぐに思い出すだけでも、高崎の竹澤さん、大阪の永井さん、そして名木さん。
ほかにもまだ何人かの顔が浮かびます。
みんな私より少しだけ年上ですが、私の数倍も精力的に活動しています。
みんなに共通しているのは、多くの仲間に支えられていることです。
そしてたぶん、今なお愛する伴侶との一体感を強く持っていることです。
社会的な活動に取り組んでいることも共通しています。

こう書いてきて、いまふと気づいたのですが、
もしかしたら、持って行き場のない怒りを活動にぶつけているのかもしれません。
「元気にがんばれる人」と「失意に埋もれる人」とは、実は同じなのかもしれません。
「失意」はきっといつか「活動」に転換するのでしょう。
「解放」とは愛する伴侶からの解放ではなく、失意からの解放です。
たしかに3人の人たちのことを考えると、そんな気がしてきました。

私ももうじき「元気にがんばる人」になるのかもしれません。
それまでは引き続き「ぐずぐず」「おろおろ」していたいと思います。

■267:安達太良山(2008年5月26日)
節子
今日は福島に講演に行ってきました。
少しずつですが、仕事も再開できています。

講演会場まで行く途中、前方に安達太良山がみえます。
それを見ながらいつも思い出すのが智恵子にとっての「ほんとの空」です。
今日は天気がよく、安達太良山がよく見えました。

高村光太郎の「智恵子抄」は、純愛の作品として有名ですが、実際はそれ以上のものだったようです。
「光太郎の千恵子に対する愛は智恵子抄に表れた領域をはるかに越えて純化していった」とあるところに書かれていましたが、私がそのことに納得できるのは、光太郎の次の言葉です。
「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空だといふ」
残念ながら、今日の空はあまりきれいではありませんでしたが。

「智恵子抄」から私の好きなものを一部、引用します。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。

光太郎の気持ちがとてもよくわかるような気がします。

安達太良山から節子と一緒に、阿武隈川を見下ろしかったです。
節子の喜ぶ顔が目に浮かびます。
福島に通いだしてから、いつか節子と安達太良山に登ろうと思っていました。
もう安達太良山に登ることがないと思うと、哀しさが募ります。

■268:節子と一緒に車えびのフライを揚げましたね(2008年5月27日)
節子
あなたは山口県の東さんに会ったことがなかったのですね。
今日、初めて知りました。
我孫子まで献花に来てくれた東さんが、あなたの写真の前で、一度、お会いしたかったと言ってくださったからです。

節子は実にたくさんの人たちから支えられていました。
東さんも、節子にたくさんの元気を贈り続けてきてくれた一人です。
東さんからのお薦めのサプリメントを飲まずにいたら、ある時、ドサッと送ってきてくれました。
いろいろな人(私も含めて)からのお薦めを受けていたので、節子はそんなにたくさんサプリメントは飲めないと言っていましたが、それ以来、節子は東さんの送ってきてくれたものを飲むようになりました。

それだけではありません。
私は、料理は不得手で、したことがほとんどありません。
少しは料理もできるようにならなければと、節子は私に料理を教えようとしました。
節子は自分がいなくなっても私が困らないように、いろいろなことを教えようとしていました。
それをそのまま受け入れると、節子がいなくなってしまうようで、私は真面目には学ぼうとしませんでした。
そのことは今も後悔してはいませんが、もっと一緒にいろいろやればよかったとは思っています。
節子がまだ少しだけ料理ができる頃、東さんが活きた車えびを送ってきてくれました。
節子が私にエプロンを渡し、やり方を説明するから一緒に油で揚げようと言うのです。
私がエプロンをすると、めずらしいことだと、娘が写真を撮ってくれました。
それが私と節子との初めての、そして最後の料理ツーショットになりました。

そんなこともあって、私たち夫婦は、時々、東さんの話をしていましたから、てっきり東さんは節子と会ったことがあると思い込んでいたのです。
でも会ったことがなかったことを今日、初めて知りました。
にもかかわらず、東さんは本当に節子や私のことを応援してくれています。
ご自身も病気で身体が少し不自由になってしまったのに、わざわざ我孫子まで来てくださったのです。

東さんが帰った後、いろいろと昔のことを思い出しました。
私たちの人生は、ほんとうにたくさんの人たちに支えられているのです。
最近、自分のことしか見えなくなってきているのではないかと、反省しました。
節子
やはり私も自立しないといけませんね。
せっかくの遠来の友に、今日は何もおもてなしできなかったことを悔やんでいます。

■269:宮崎常久さんの献花(2008年5月28日)
節子
今日もまた、献花に来てくれた人の話です。

藤代の宮崎さんを覚えていますね。
あまりにも個性的なので、忘れようがないですよね。
オープンサロンにも何回か来てくれました。
10年ほど前に突然、会社を辞めてしまい、衆議院選挙に立候補しました。
全くの個人的立候補でした。
周りの人はみんな引き止めました。
市会議員ならともかく、突然の衆議院立候補。当選の可能性はゼロでした。

宮崎さんは、政治や社会に「憤り」を感じていたのです。
選挙事務所開きにはいろいろな人が集まりました。
みんな庶民でした。徹底した庶民でした。
そこで「宮崎さんの歌」を創ろうということになり、私が作詞し、井上さんと言う人が作曲することになりました。
今も手元にそのテープがあります。
選挙は予想通り落選しましたが、宮崎さんは終わった後も爽快な感じでした。
やるべきことをやった、という感じでした。

落選後、私のオフィスに1度だけやってきました。
その時、たしか烏瓜の実を持ってきてくれました。
なぜかその烏瓜がわが家の庭に芽を出したような記憶もあるのですが、あまり定かではありません。
節子は覚えているかもしれません。
なぜ烏瓜だったのか、他の人なら悩みますが、相手が宮崎さんでは悩むことなどありません。
それが宮崎さんだからです。
それ以来、散歩して烏瓜を見ると、宮崎さんを思い出して、節子と思い出話をしたものです。
不思議な人です。
年に2回、必ず手紙をくれます。
几帳面な人です。

一昨日、私は不在だったのですが、宮崎さんから電話がかかってきたそうです。
庭にきれいな花が咲いたので、それを持ってこれから献花にいくというのです。
電話に出た娘が、今日は父が不在だが、明日なら在宅だと伝えましたが、別に話すこともないからこれから行くといって、1時間後にやってきたそうです。
電車で30分くらいのところにお住まいです。
わが家の庭の献花台に自宅の庭の花を献花して、2分ほどで帰ったそうです。
不思議な人だね、と娘も驚いていましたが、実に不思議な人です。
福島から帰宅したら、宮崎さんの庭の花がきれいに飾られていました。
もしかしたら、庭にきれいな花が咲くまで献花を待っていてくれたのかもしれません。
宮崎さんのことですから、きっとそうにちがいないです。

節子
宮崎さんらしいやりかたです。
宮崎さんはパソコンなどやるタイプではないので、このブログは絶対に見ることはないでしょう。
でも節子には宮崎さんが来たことを伝えておきましょう。
なにしろ2分しか庭にいなかったそうですから、あなたも気づかなかったかもしれません。
私たちの周りには、本当にいろんな人がいましたね。

■270:時間の癒し(2008年5月29日)
一昨日、安達太良山のことを書きましたが、最後に「もう安達太良山に登ることがない」と書きました。
節子さんと一緒に登ったらいいのに、という人がいました。

節子がいなくなってから、私は娘たちにこう話したようです。
節子と一緒に行ったところは、もう二度と行きたくない。
そして、別の時に、こうも言ったそうです。
節子が行かなかったところには、一人では行かない。

要するに、もうどこにも行きたくないと言明したと娘が言います。
そのいずれもが私の正直な気持ちですが、しかしそれではどこにも行けないことになります。

節子と一緒に行こうと決めていたところがいくつかあります。
その一つが、安達太良山でしたが、ほかにもあります。
たとえば、山形の山寺です。
山形市にはよく通っていましたので、山寺に行くチャンスは何回もありましたが、ここはぜひとも節子と一緒に参拝したいと思っていたのでずっと避けていました。
節子がいなくなったいま、もう行くことはありませんので、今生ではついに行けずに終わるでしょう。
おそらく行けば、辛い思いをすることになるでしょう。
まあ、来世があるでしょうから、どうということはありません。

でも節子さんはあなたの心身に一体化していて、一緒に行きたいと思っているかもしれないという人がいます。
最近、そうかもしれないなと思うようになってきました。
これが「時間の癒し」でしょうか。
時間が癒すことなど絶対ないと断言していましたが、最近は少し揺らいでいます。

■271:節子のいない誕生日(2008年5月30日)
節子
私もとうとう67歳になりました。
私自身には誕生日を祝う文化はないのですが、今年は節子がいないせいか、逆に自分の誕生日を意識していました。
おかしな言い方ですが、これからは誕生日を迎えるごとに、節子の世界に近づけるわけですから、めでたい節目になるわけです。
かなり屈折した言い方に聞こえるでしょうが、それがとても素直な気持ちなのです。

今年の誕生日は、実は自宅でないところで迎えました。
箱根のホテルです。
といっても旅行ではなく仕事の関係の合宿です。
一人だけの誕生日です。
もしかしたら初めてかもしれません。
いつも節子が隣にいましたから。

人の誕生日を祝う発想はどこから生まれたのでしょうか。
わが家でも子どもたちが小さな時は、ケーキを作りプレゼントもしました。
その名残りは今も続いていますが、たぶん子どもたちが学校を卒業する頃までがみんなで祝う特別の日でした。
無事に1年を過ごし、自立に近づいたことを改めて確認しあう場だったように思います。
しかし子どもが大きくなれば、その意味は少なくとも私にはなくなってしまいました。
家族には悪いことをしたかもしれませんが、私にはそもそも誕生日を祝う文化がないのです。

今の私のように高齢者になった時の誕生祝はどういう意味があるのでしょうか。
元気で67歳を迎えられたことを祝うのでしょうか。
きっとそうなのでしょうが、私にはそういう文化が全くありません。
私の関心事は、前にしかないからです。
まもなく節子の世界にいけるかもしれない、それに1年近づいたことを祝うと考えれば、私にも誕生日は意味を持ってきます。
しかしそれはきわめて個人的な喜びであって、みんなで祝うのはふさわしくありません。

いささかふてくされた物言いですが、まあ一言でいえば、人生の節目も伴侶がいないと祝えないものだというだけの話かもしれません。
もし伴侶さえいたら、それこそどんな口実をつけても祝えるはずです。
私があんまり特定の日を祝う文化を持っていなかったことを節子はどう思っていたでしょうか。
いささか悔いを感じます。

節子と出会えて、彼女から最初にもらった誕生日のプレゼントは何だったのでしょうか。
私には全く思い出せません。
そもそも私にはプレゼントの文化もないのかもしれません。

私にとっての人生唯一のプレゼントは、節子への愛であり、節子からの愛でした。
先日、わが家に来てくれた東さんの言葉を思い出しました。
「40年間、これほど愛する人と一緒にいたのですから、佐藤さんは幸せですよ」
私には毎日が祝いの日だったのです。
さて、明日からまた1年、彼岸に向けてしっかりと生きなければいけません。

■272:節子は箱根が大好きでした(2008年5月31日)
節子
今朝は箱根での目覚めです。
節子は箱根がとても好きでした。
ここにはたくさんの思い出が詰まっています。
いろいろな人たちと来ましたし、私たち2人だけでも何回も来ました。

今回宿泊したのは強羅ですが、ここにはしかし、あまりいい思い出はありませんね。
桜の終わった殺風景な強羅公園や瑣末なことでの夫婦喧嘩で途中で出てしまった彫刻の森。
いずれもあんまり楽しい思い出ではありません。

節子がいなくなってから箱根に4回泊まりました。
いずれも仕事関係の合宿です。
私は合宿のアドバイザー役ですので、数時間付き合えばいいので、その気になれば箱根を楽しむ時間はとれるのですが、その気に全くなれません。
おそらくどこに行っても、あなたとのことを思い出してしまうからです。

実現できなかったこともいくつかあります。
駒ヶ岳から鎌倉古道まで歩いて下山するのも実現しませんでした。
箱根水族館にも私がいつも反対したために入館できませんでした。
ツツジの時期に山のホテルに泊まることもありませんでした。

ガラスの森が節子には一番思い出があるかもしれませんね。
私とは2回しか行きませんでしたが、いろいろな友人たちとあなたは行きました。
最後に若い頃の親友たちと行った時の話をいつも楽しそうにしていたのを思い出します。

節子はいろんな人を箱根に案内するのも好きでした。
でももう案内できなくなってしまった。
私も、節子のおかげで箱根はかなりいろいろなところに連れて行ってもらいました。
でももう案内してもらえなくなりました。
いつか娘たちともう一度だけ箱根に上ろうと思いますが、彼女たちが一緒でなければたぶんもう2度と箱根には行けないでしょう。

箱根の恩賜公園で、目の前の富士山を見ながら、節子が歌を詠んだことがあります。
節子はそういう遊び心がありました。
しかし私にはそういう遊び心が不足していました。
節子の歌は面白がりましたが、自分では歌を詠む気にはなりませんでした。
節子はまたスケッチもしましたし、落ち葉を拾ってはそれをいろんなところで効果的に活かしました。
あなたは私よりもずっと文化人でした。
私と違って、生まれながらの感性の文化人でした。
私は小賢しい頭だけの文化人だったのかもしれません。

節子との40年は、本当に豊かで楽しい40年でした。
波も風もありましたが、それこそが人生の豊かさなのでしょう。

今日は節子が大好きだった湯河原の部屋に泊まる予定です。
一人で泊まれるかどうか、まだ不安ですが。

■273:如来が来迎(2008年6月1日)
節子
昨日はやはり自宅に戻ってしまいました。
娘たちがケーキを用意して待っていてくれました。

今日はまた少しあなたを心配させるようなことを書きます。
あらかじめ断っておけば、至って元気なので心配はないのですが。

テレビで非日常的な風景が出ます。
たとえば、映画のシーンで、イパネマの海岸やアラビアの沙漠などが出てくるとなにかとても奇妙なリアリティを感ずるのです。
先日、テレビで放映されていた007シリーズの「ゴールデンアイ」を一人で観ていたのですが、夕陽を背景にしたキューバの海岸が出てきました。
その風景がとても非現実的に見えると同時に、そこにいま現在いるような現実感が生じたのです。
うまく説明できないのですが、過去でも未来でもなく、まさにいま節子と一緒にそこにいるような感覚、いや、むしろそこに「いない」という感覚でしょうか。
そこにいるのは、どうも「私」ではなく、私から出ていった「私」という感覚なのです。

最近、そうした感覚をよく体験します。
これは一体なんなのでしょうか。
何を言っているのか、伝わらないかもしれませんが、そのとき心にわいてくる感覚は独特な寂しさと甘さをもっているのです。
郷愁というような気持ちかもしれません。

テレビでの画像だけではありません。
たとえばわが家から見える手賀沼の風景にも、それを感ずることがあります。
節子がとても好きだったのが、対岸の光が水面に映った夜の手賀沼の風景です。
あるいは快晴の時に見せる湖面のさざなみのキラキラとするかがやきです。
それに気づくと、一瞬ですが、節子と一緒に見ているというような、不思議な感覚がよぎります。

これも先月に気づいたのですが、
福岡に行った時に、西川さんと福岡の空気はとても穏やかで温かいですね、と話したのですが、それと同じ雰囲気を私が住んでいる我孫子でも感ずるようになったのです。
それは「穏やかさ」でも「温かさ」でもなく、「懐かしさ」です。
福岡で感じたのは、まさに「懐かしさ」だったのです。
それと同じ空気が、いま我孫子市にも漂っています。
正確に言えば、私の周りに、です。

昨日も湯河原の部屋から、遠くの山を見ていて、フッとそんな気になりました。
いずれにしろ、これまで感じたことのないような不思議な気分です。
この懐かしさはいったい何なのでしょうか。
彼岸で暮らすとはこういう感じなのでしょうか。

おかしな話ですが、如来が来迎しているのではないかという思いが頭をかすめます。

■274:「世の中には、存在が否定されるべき人はいない」(2008年6月2日)
時々、なぜかある人のことを思い出して、気になることがあります。
そうすると、またなぜかその人から連絡などがあるのです。
いわゆるシンクロニシティ現象です。

先日、ある人と話して突然にNKさんのことを思い出しました。
最近、連絡がないけれど元気だろうか。
そう思っていたら、何とその翌日にメールが来たのです。
お元気そうで、うれしく思いましたが、返信したら長いメールが届きました。
NKさんはおそらくいま「苦境」にあるのでしょうが、そんなことは全く感じさせない、軽妙な文章で、読んでいて楽しくなりました。
苦境を体験した人は、みんな本当に優しいです。

そのメールの中に、私がブログで書いた辺見庸さんの言葉への言及がありました。
『世の中には、存在が否定されるべき人はいない』
NKさんはカトリックのクリスチャンです。
NKさんの好きな旧約聖書の「知恵の書」11章23説のことばを教えてくれました。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
  略
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みならないのに存在し
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるのだろうか。
  略
あなたはすべてをいとうしまれる

新約などしなかったらよかったのにと、クリスチャンでない私はつい思いたくなるような、感動的な言葉です。

NKさんのメールの最後にこう書いてくれました。

先生!お願いが有ります。
(NKさんは私のことをなぜか「先生」というのです)
Googleでも、何でも『笑いの効用』もしくは、『笑の効果』を検索して下さい。

あまりブログでさびしそうなことを書かないほうがいいようですね。
みんなを心配させてしまうのは、私の本意ではないのです。
NKさん、検索していくつかの記事も読みました。
私もよく笑っています。安心してください。
それに、節子も凄絶な闘病中も決して「笑い」や「遊び心」を失いませんでした。
その節子から、笑うことと泣くことをたくさん教えてもらっていますので。

■275:なぜ愛する妻と同じ人生を歩めないのか(2008年6月3日)
節子
私は生前、節子に「お前がいないと私は生きていけないよ」と話していました。
それは決してリップサービスではなく、本当に節子のいない人生が考えられなかったからです。
さだまさしの「関白宣言」の歌詞は、全くそのまま私の考えでした。
一部を引用させてもらいます。

子供が育って 歳をとったら 俺より先に 死んではいけない
例えばわずか 一日でもいい 俺より早く 逝ってはいけない
なんにも いらない 俺の手を 握り
涙の しずく 二つ以上 こぼせ
お前の お陰で いい人生 だったと
俺が 言うから 必ず 言うから
忘れて くれるな 俺の愛する 女は
愛する 女は 生涯 お前一人
忘れて くれるな 俺の愛する 女は
愛する 女は 生涯お前 ただ一人

ここで語られていることは、私が日頃、節子に言ってきたことです。
もちろん表現は違いますが、節子はそのことをわかってくれていました。
ですから、私は節子の無念さがよくわかるのです。
愛する男のたったひとつの願いをかなえてやれなかった節子の悔しさは、思うだけで心が痛みます。

節子は、息を引き取る数日前に、
修のお陰でいい人生だった、と言ってくれました。
私は、その時でさえ、節子は治ると確信していたのです。
ですから、その節この言葉を軽く聞き流してしまいました。
なんとだめな伴侶だったことか。
節子に平安を与えてやれなかったのですから。
先が全く見えていなかったのです。

節子がいなくなってから、今日で9か月。9回目の月命日です。
節子がいないのに元気に生きている自分がとても不思議です。
そして、節子に話していた「お前がいないと生きていけない」という思いは嘘だったのだろうかと考えてしまいます。
決してそれは嘘ではなかったのですが、自らの生死は自らで決めることができない以上、仕方がありません。
私の節子への愛情は、私が思っているほど強くはないのでしょうか。

むすめとお墓にお参りしました。
一昨日供えた花がまだ元気でしたが、今日は節子の好きなバラを持っていきました。
一昨年前まではいつも節子と2人で来ていました。
そのせいか、ついつい傍らに節子がいるようで、それがまた寂しさを募らせます。

「なぜ愛する妻と同じ人生を歩めないのか」
残された弱い関白亭主には、辛い仕打ちです。

■276:若者から心療内科を勧められました(2008年6月4日)
3日前に少しおかしなことを書いてしまいました。
時々、私も彼岸にいるのではないのか、と言うような気分がします。
彼岸に来たのは、節子ではなく私ではないのか。

実は最近あんまり精神的に安定しないんだよ、と先日、若い友人に話したら、彼が心配そうな顔をして、「心療内科に行ったほうがいいですよ」と言うのです。
心療内科。
まだ20代前半の彼から、そういう言葉が出てくるとは思っていませんでしたが、本当に心配してくれている顔なのです。
そこまではいっていないので大丈夫だよと、答えましたが、
先日のような文章を彼が読んだら、また勧めるでしょうね。
実は娘からも勧められたことがあります。

人間の精神はいつも安定しているわけではありません。
むしろ日々悩み揺れ動くものです。
それが増幅され、しばらく続くこともあるでしょう。
人生の伴侶を失ってしまえば、だれもがしばらくは精神的に不安定になるでしょう。
それに抗おうとすると、まさにおかしさが増幅します。

私の場合、生活の信条が“Take it easy”、つまり「気楽に行こうよ」ですから、基本的には大きな抗いはしませんが、自己主張も強いので意識しないままに抗っているのかもしれません。
ですから確信はもてませんが、揺れ動く心身に身を任せることもまた「刺激的な生き方」だと最近感じだしています。
心身の動きに身を任せると世間の動きも実に多彩に変化します。
視座が変るからでしょうか、他者の多様さが感じられるのです。

しかし、心身の動きに身を任せているために怠惰になっています。
人生において、これほど怠惰な生活をしていたことは、かつてありません。
節子はどう思っているでしょうか。

節子は私の生き方を先の先まで見透かしていました。
突然会社を辞めるといった時にも、何も言わずに「よく続いたね」といっただけでした。
今もきっと、今の生き方が修には必要なのよ、と言ってくれるはずです。
怠惰になった理由は、間違いなく、そういう「節子がいないため」です。
節子の指示があるまでもう少し怠惰を続けます。

やはり心療内科に行ったほうがいいですかね。
若者の直感は、いつも正しいですし。

■277:人間の心は必ず平静な状態に回復する(2008年6月5日)
アダム・スミスは「国富論」で有名ですが、その本の最後に私たちへのメッセージが書かれています。
それは極めて示唆的なのですが、私の今の心境に関わるものもあります。
そのひとつは、こういうものです。

「あらゆる永続的境遇において、それを変える見込みがない場合、人間の心は、長時間かかるにせよ、短時間しかかからないにせよ、自然で普通の平静な状態に戻る。人間の心は、繁栄の中にあっては、一定の時間の後に平静な状態に落ち着くし、逆境にあっても、一定の時間の後に平静な状態に回復する」

どんな逆境にあっても、それを変える見込みがない場合、人間の心は必ず平静な状態に回復する。

生命体に組み込まれているホメオスタシス機構からして、このことは当然のことと納得できますし、そうでなければ人は生き続けられないでしょう。
ラインホールド・ニーバーの祈りを思い出したくなるような気もしますし、ニーバーとは全く反対のことをいっているような気もします。
いずれにしろ、私には悩ましい文章です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/keieiron12.htm#07
受け入れられないような状況を受け入れてしまうほどの可塑性をもつ生命とは何なのか。
あるいは、そこまでして「生きること」を目的化した生き方でいいのか、という疑問がどうしても出てくるのです。

こう書いてしまうと、また小難しく小賢しいことを書き連ねるのではないと引いてしまわれそうですが、要は、節子がいないにもかかわらず、平静でいられることにどうしても罪の意識を拭えないのです。
なぜ愛する妻と同じ人生を歩まないのか。
なぜ「平静」に笑ったり泣いたりできるのか。
それは、愛する者を失った者にとっては、実はかなり寂しくも悩ましい疑問です。

そもそも節子が息を引き取った直後も、たぶん私は「平静」でした。
この挽歌に書かれているような「涙の場面」でも、とても平静です。
平静であればこそ、涙が出ます。
平静であればこそ、笑いが出るのと同じことです。
悲しみに浸り、悔いに苛まれ、失意に埋もれている自分を見ている、平静な自分がいます。
そして、さらにその2人を見ている自分もいます。
節子と別れてから、そういうことがとてもよく体感できるようになりました。
もしかしたら、節子の眼差しが新たに加わっているのかもしれません。
いや、逆に外からの節子の眼差しが実感できないために、その補償作用が働いているのかもしれません。
そういうことを怪しみながら、見据えようとする「平静さ」もあるのです。

最近、つくづく、人間というものの不思議さに驚いています。
スミスは「人間の心は必ず平静な状態に回復する」と書いていますが、耐えがたい状況を通過すると、人の平静さは変質するのかもしれません。

狂気の人もまた平静なのだと、この頃、なんとなく考えられるようになってきました。
これは学生時代からの課題だったのです。
正気の人と狂気の人とどこが違うのか、きっと見えている風景が違うのです。
だとしたら、今の私は少なからず正気ではないのかもしれません。
昔からずっとその(狂気の)素地はあったように思います。
節子はきっと、そうした私の狂気を愛してくれていました。
その狂気が、最近ますます深まっているような気がしています。

いやはや、やはり小難しく小賢しい文章になってしまいました。

■278:「楽しい気分」と「悲しい気分」のどちらに同調したいですか(2008年6月6日)
昨日、スミスの「国富論」の話を書きましたが、スミスは、もう1冊「「道徳感情論」を残しています。
いまそれを読んでいます。
読み出したのが5年前ですが、先月から再読しだしました。
その本は、次の文章で始まります。

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。

アダム・スミスは、人間は社会的存在であることを重視しています。

私たちは、他の人たちの感情や行動にただ関心を持つだけではなく、他人の喜びや悲しみ、怒りなどを自分の心の中に写し取り、自分ならどうだろうと考える能力を持っているとスミスは言います。
そして同時に、私たちは、自分の感情や行為が他の人たちから是認されたいと願っているとも言うのです。
この同感の能力と是認されたいという願望は、人類共通のものであり、人の生きる原動力につながっているというのが、アダム・スミスの思想の基盤です。
そこから「見えざる手」の論理や「分業の発想」が出てきます。
以上が、最近の私のアダム・スミス理解です。
大学で学んだのとは全く違っています。

これはまさに「ケア」の源泉であり、スミスの経済論には互恵の精神が強く感じられます。
昨今の経済は、アダム・スミスのビジョンとは正反対の方向に向かっています。
まあ、それはともかく。

愛する妻、節子を失ったことで悲嘆にくれ、生きる気力さえ萎えていた私に、多くの人がパワーを送ってくれました。
引用した文章には、人が生きていくためには「かれらの幸福」が必要だとあります。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せになれないと自分も幸せになれない」という言葉を思い出します。
しかし、そこには、「かれらの悲しみや不幸」については言及されていません。
幸福と不幸は違うのでしょうか。
他人の不幸は自分の幸福などという言葉もありますが、そういうレベルに話ではありません。

多くの人は、他の人の「幸せな楽しい気分」には同調したいでしょうが、「悲しい辛い気分」には近づきたくない、と多くの本に書かれています。
そうでしょうか。
もし近くに「悲しい辛い気分」の人がいたら、私は幸せを感じられるでしょうか。
決してそうではありません。
ミャンマーや四川の被災者たち、フィリピンやパレスチナの悲劇を知ってしまうと、自分の普通の生活さえもが罪の意識に覆われることはないでしょうか。
もし、「幸せな楽しい気分」に付き合うか、「悲しい辛い気分」に寄り添うか、といわれたら、どうでしょうか。

寄り添う勇気を持てるかどうか。
人の本性は、「悲しい辛い気分」に寄り添うことなのではないかと、最近感じています。
しかし、なぜそれができないのか、これまた「悩ましい課題」です。

■279:父を送ってからちょっと変りました(2008年6月7日)
昨日、久しぶりにNSさんが訪ねてきてくれました。
夢と情熱を持った青年起業家です。
節子も一度会っているかもしれません。
この2年、いろいろと苦労をしてきたようですが、ようやく少し落ち着いたからといって、節子に献花してほしいと来てくれたのです。
個人で事業していくことの大変さを知っていますので、そうした大変な状況の中にもかかわらず、節子のことを気にしていてくれたことがとてもうれしくて、ついつい節子の話をしてしまいました。
半身を削がれながら、その半身に節子が入ってきているような気がすると話したら、NSさんは、奥さんは一緒にいますよ、と即座に反応してきました。

実は、NSさんも数年前に父親を同じ病気で見送ったのだそうです。
それを契機に、スピリチュアリティの世界への共感を強めているようです。
そこから「生きがいの創造」の飯田史彦さんの話になりました。
NSさんは飯田さんの愛読者で、今年の初めに講演も聴きに行ったそうです。
まさか私が飯田さんと知り合いだとは思ってもいなかったようです。
そんなわけで、すこしばかりそれに関連した話になりました。
まさかこんな話になるとは思ってもいませんでした。
愛する人との死別は世界を変えますが、体験したものであればこそ、言葉を超えて通ずるものもあるようです。

私はNSさんのような志ある事業家ではありませんが、
節子と一緒になって、コンセプトワークショップという奇妙な会社を立ち上げ、苦労してCWSスタイルを創りあげた頃のことを思い出しました。
節子がいなければ、コンセプトワークショップは途中で普通の会社になっていたかもしれません。
収益など全く気にせずに20年継続できたのは奇跡としか思えませんが、節子にはいろいろと苦労をかけたような気がします。
いろいろな人の相談にはのりましたが、肝心の節子の相談にはのっていただろうか。
もう少し節子の希望を真剣に考えればよかったです。
NSさんが帰った後、ちょっとしんみりしてしまいました。

節子
今日はNSさんからの花を供えました。
節子の好きなマツムシソウとカンパニラやアスチルベを中心にアレンジしてもらいました。
マツムシソウは霧が峰などで、節子になんども教えてもらったことを思い出します。
この週末もちょっとにぎやかな雰囲気です。

■280:色即是空 空即是色のような心境(2008年6月8日)
高崎市で「ゆいの家」を主宰していた高石友江さんから手紙をもらいました。
毎月、「風の大地」というニューズレターを送ってきてくださるのですが、この1年、私宛のニューズレターや機関紙類はほとんど読まずにいました。
最近やっと私に届いているいろいろな書類に目を通すようになったのですが、「風の大地」に「お元気ですか」という高石さんのメモが書いてありました。
節子のことを知らせていなかったことに気づき、先週手紙を書いたのですが、その返事です。
実は高石さんの伴侶が節子と同じ病気で、その対応の仕方もとても似ていたのです。
そんなこともあって、気になっていましたが、高石さんのパートナーはこの春から職場復帰が出来たそうです。
本当にうれしい話です。
同じ病気と知ると、なんだか同士感覚が芽生えるものなのです。

高石さんは、私と違い、とても冷静です。
「主人は主人の人生だからと少々覚めた感じで対応していましたし、これでまた再発と言われても覚悟はしています。むしろ今こうして元気にいられることを日々感謝して生きたいとおもっています」

私とは対照的な関係の持ち方です。
夫婦の関係や愛し合い方の関係はいろいろありますから、どれがいいなどとは言えませんが、私たちの場合も高石さんたちのばあいも、自分たちに合った関係を大事にしているということだと思います。
しかし、たぶん私も高石さんも、伴侶の病気によって、自らの人生観や生き方を大きく深めていることは間違いありません。
高石さんはこういいます。
「主人の病気を通して、一層、今こうして生きていられるありがたさを感じるようになりました」
そして、最後に、
「自己探求をどんどんしていくと何か大きなものにつながって、色即是空 空即是色のような心境になっていきます」
と書いています。

全くその通りです。

■281:シェアすることの幸せ
(2008年6月9日)
節子の愛用していた手提げがあります。
節子の品物は、まだ当時の状況のままなのですが、そこに小さなアクセサリーがついているのに気づきました。
「同行二人」と書かれた小さなお遍路さんのマスコット人形です。
お見舞いに来てくれた人から節子がもらったもので、以来、ずっとその手提げにつけていたのです。
その手提げも、節子の友人が手づくりした裂き織のかばんです。
私の中では、節子にしっかりと繋がっている品物で、そこからたくさんの生活が思い出されます。

同行二人。
お遍路さんにとっての意味とは全く違いますが、人生もまた「同行2人」です。
人生を共にする人がいることの幸せは、いなくなった時に初めてわかります。
一人で生きることの気楽さや幸せもあるでしょう。
たしかに昨今のような社会においては、一人で生きていくことも可能ですし、何かに挑戦する時に単身のほうが思い切り跳べることもあるかもしれません。
伴侶がいることが、足かせになることもないとは言いません。
しかし、悲しみも喜びも、シェアできる人がいるかいないかで大きく変わります。
私のような弱い人間の場合、生きる力が全く変ってくるように思います。

DVのような関係もあり、同行2人がいつでも良いわけではないかもしれませんが、人がカップルを組むのは、単に子孫を残すためではないでしょう。
伴侶の不幸が自分にもつながってくるから、不幸になる確率が倍増する恐れはありますし、50%の確率で相手に先立たれる悲劇を背負うことになります。
しかし、実際に体験してみると、その悲劇もまた人生を豊かにしてくれるものなのかもしれません。
人生の幸せは、個別事件の幸せや不幸を超えているのです。

人生をシェアする相手と同居していなければいけないわけではありません。
事実、私はまだ節子と人生をシェアしていると思っています。
人生をシェアしている節子と直接話し合ったり、抱き合ったりすることが出来ないことの寂しさは残りますが、それでもシェアしている人がいないことのほうが寂しいかもしれません。

余計なお世話ですが、結婚はしないと決めている方はぜひ思い直してほしいものです。
また結婚しているにもかかわらず、シェアする世界を限定している方がいれば、ぜひともシェアしている世界をもっともっと深め広げてほしいものです。

もちろん、人生をシェアする相手は異性の結婚相手に限るわけではありません。
異性であろうと同性であろうと、人生はシェアできますし、相手の意向とは全く無関係に人生をシェアすることだってできるかもしれません。
お遍路さんの「同行二人」は、まさに巡礼だけでなく、私たちの人生を支えてくれる発想です。

シェアすると自分の分け前が減ってしまうものもありますが、
シェアすることで双方の分け前が大きくなるものも少なくありません。
シェアしあうことで幸せを大きくしてことが基本になる社会になっていけばいいなと、つくづく思っています。

■282:節子に会社の経理を押し付けていたことを反省しました(2008年6月10日)
節子
今日は税務署に行ってきました。

節子が元気だった時には、私たちの会社の経理はすべて節子がやってくれていました。
節子自身、数字には全く弱いし、経済感覚はどこか抜けていましたが、私が会社勤めを辞めて私たち2人の会社を立ち上げてからは、苦労して経理を担当してくれました。
仕上げは税理事務所にお願いしていましたが、可能な範囲で節子が整理してくれていました。
数字に弱い節子はとても苦労していました。
簿記を習いだしたもののすぐに通うのをやめました。
節子は、そういうところは私と全く同じで、嫌いなことには持続力が皆無でした。

簿記など全くわからない節子に、無理難題を押し付け、何か問題が起こればすべて節子のせいにしてしまっていた自分を今は反省しています。
その上、利益の出ない会社で無給に近かったですし、家賃も払えなくなって娘たちの定期預金を解約させて使い込んだこともありますから、まあいろいろと節子には苦労をかけたはずです。
いやだったはずなのに節子は最後までやってくれました。
ですから私たちの会社が奇跡的に20年続いたのは、節子がいればこそでした。
そのストレスが病気の一因にもなっていたはずですから、節子は私の身代わりだったのだという意識が、今もない私には拭えずにいます。

お金がなくなってしまったので、今回の税務申告は税理士に頼まずに私がやってみました。
1年分の現金出納簿も3日がかりで私が作成しました。
節子の苦労がよくわかりました。
収入はあまりなかったのですが、私自身の給与もほぼゼロにすることによって、会社の損益は何とか3万円の黒字に持っていけました。
昨年度だけは赤字にしたくなかったのです。
それで先月、税務署に申告に行きました。
ホッとしていたら、税務署から電話がかかってきました。
何だかドキッとしましたが、行ってみたら、単なる数字の転記ミスの修正でした。
でもこれからもやっていけそうです。

節子と一緒にやってきた会社(株式会社コンセプトワークショップ)は無くしたくないと思っています。
湯島のオフィスも閉鎖せずに持続させます。
なにしろ節子と一緒に創りあげてきた、私たちの作品なのですから。

今年度は私も少し給与をもらえるように、仕事も引き受けようと思っています。
節子も応援してください。

■283:「余計なお世話」は人の本質(2008年6月11日)
佐久間さんが、ご自身の著書の「愛する人を亡くした方へ」の内容をプロのナレーターに朗読してもらったCDを送ってきてくれました。
佐久間さんのいつもながらのきめ細かな心遣いには感謝しています。
いつか必ず聞こうと思っていますが、今はまだ聴けていません。

佐久間さんも時々、このブログを読んでいるので、慎重に書かないといけないのですが、こうした心遣いはとても難しいものです。
というか、微妙な要素をたくさん含んでいるのです。
自分が当事者になったことでわかったことは、グリーフケアの難しさです。
このブログでも以前書きましたが、悲しみにひしがれている人はいささか精神的に不安定なのと素直さを欠いていることがあるので、常識的な論理対応が出来ないことがあるのです。
このブログを読んでいる方は何度か感じているかと思いますが、私の反応は過剰であり、歪んでいることがあり、その上自分勝手なことが多いはずです。
それは自分でもわかっていますが、どうしようもないのです。

佐久間さんは、その分野のプロですから、決して押し付けがましくなく、しかもリスクをしっかりと引き受けながら、時には意図的に「余計なお世話」をしてきます。
佐久間さんにとって、それは何のメリットも無いはずですが、たぶん心身が自然と動くのでしょう。
これは実は私の生き方に繋がるところがあります。
私もかなり「余計なお世話」をするタイプですので、佐久間さんのことがわかるような気がします。
そうした「余計なお世話」は、人のいのちに埋め込まれているケアマインド、ホスピタリティスピリットなのではないかと思います。
そして、それこそがグリーフケアの真髄なのかもしれません。

西村ユミさんという方が書いた「交流する身体」という本があります。
先日、コムケアの橋本さんと話していて、その本を思い出しました。
いつかまた書こうと思いますが、人の身体は外部の身体と自然と呼応するように創られているようです。
「余計なお世話」は人の本質なのかもしれません。

そういえば、節子も「余計なお世話」が好きでしたね。
人生をシェアしあうということは、余計なお世話が余計ではなくなるということかもしれません。
何だか論点があいまいになってきましたが、佐久間さんを初めとした友人知人からの、無私で利他的な「余計なお世話」にいろいろと救われています。
節子と声を出し合って、そのことを感謝しあえないのが少しだけ寂しいです。

■284:節子の位牌は3人のキスケが守っています(2008年6月12日)
節子
篠栗の大日寺に連れて行ってくれた大宰府の加野さんから電話がありました。
その後もいろいろと心配してくれているのです。
今日も篠栗に行って護摩を焚いてもらってきたというお話でした。
節子は話しましたか。
今月の15日前後に何か大きな事件が起こるかもしれないが、護摩を炊いて不動明王に守ってくれるように頼んできたとのことでした。
自分たちだけ安全を確保しようという発想は私には全くありませんし、節子との別れ以上のものは私にはあるはずもないのですが、加野さんのお心遣いには感謝しなければいけません。
加野さんがどれほど娘の寿恵さんを愛していたかがよくわかります。
彼岸では、その寿恵さんと節子は一緒に花の手入れをしているのです。
2人のことをよく知っている私には、その光景が良く見えます。

加野さんは、東京のほうの新盆はいつなのか、どういうようにするのかと聞いてきました。
私の常識不足を知っているので、加野さんもきっと心配してくれているのでしょう。
そろそろ新盆の準備をしなければいけません。
基本を守りながら、できるだけ「わが家ライク」にやろうと思います。
基本さえ守れば何でもあり、が「わが家ライク」なのです。
これは節子と私が完全に合意していることで、基本に反するもの(非常識なもの)への拒否感も強いのです。
常識不足ですが、基本的なマナー違反には厳しいのがわが夫婦でした。
もっとも何が基本的マナーなのかは、いささか独り善がりではあるのですが。

わが家の仏壇(位牌壇)も「わが家ライク」です。
節子はきっと笑いながら認めてくれるはずですが、お寺のご住職が来る時にはちょっと片付けたほうがいいかもしれません。
位牌の前に小さな仏像がありますが、これはまだ仮のものです。
そのうちに、娘が心込めた本尊(大日如来像)を製作します。
その右にはルール通り弘法さんがいますが、左側にはなんと「おじゃるまる」のキスケ3人組が守護しています。
キスケといってもわからない人もいると思いますが、閻魔大王の仲間の子鬼なのです。
前世はヒヨコだったらしいです。

その下に真紅のバラのポプリがあります。
なぜこんなのがあるのだと娘に聞いたら、私が節子に供えたバラをポプリにしてくれたのだそうです。
実はその頃のことは、私の記憶から抜け落ちています。
ベネチアングラスのキャンドルもありますし、ミニサイズのご焼香セットもあります。
まあ、他にもいろいろあるのですが、まさにわが家向きの位牌壇なのです。
本格的な仏壇にはしたくないと言っていた節子にはたぶん気にいってもらっているはずです。
なぜか手を挙げたパンダまでいますが、これはきっと節子好みではないでしょう。
まあしかし、少しは均衡を破るようにしておかないと世界は退屈です。

話がどうも外れてしまいました。
書きたかったことはまた改めて書きます。

■285:Wii Fitブーム(2008年6月13日)
節子
最近のわが家のささやかなブームはなんと Wii Fit です。
ユカが買ってきたのですが、みんなすっかりはまってしまいました。
節子がいたら、どんなに喜ぶか、時々そう思います。

自分のキャラクターは画面で創るのですが、節子のキャラクターももちろん創りました。
限られた顔の構成要素の組み合わせでできるのですが、それぞれ特徴を抑えて、それなりに似たものができるものです。
節子はもっと美人だぞという私のアドバイスは無視され、実態により近いものになってしまいました。
節子が見たら、ちょっと不満かもしれません。
もっとも、私に至っては目は細い横棒1本だけですので、ぜいたくはいえません。

そのプログラムでは体力測定などありますが、最初にやった時には私の年齢は55歳相当でした。
画面の中の私が小躍りしてよろこんでいました。
気を良くしていたら、2回目の測定ではなんと75歳でした。
そして、その次は64歳と乱高下です。
一番ダメだったのはフラフープでした。全く続かないのです。
どうも運動神経はかなりダメなようです。
それを知ったら節子はまた手をたたいて喜ぶでしょうね。

しかし、この Wii Fit はよくできています。
節子もきっと好きになったことでしょう。
わが家族の運動不足は、これで少し解消されそうです。

根本さんが私に毎朝ラジオ体操をするように勧めてきました。
努力しますと返事しましたが、まだ実現していません。
そういえば以前、根本さんは何かよくわからない室内スポーツ器具を送ってきてくれたことがあるのを思い出しました。
せっかくの根本さんのプレゼントなのに1回も使わずにいました。
私は「体育会系」ではないので、どうもスポーツは苦手なのです。
それに継続することがなかなか出来ない人間なのです。
だから「文科会系」は嫌いなのという節子の声が聞こえてきます。
しかし、この Wii Fit は続けられそうです。
残念なのは、節子とゲームで競えあえないことです。
修もなかなかやるわね、と節子に言わせたかったものです。
反対の結果になる可能性も無いわけではありませんが。
とりわけ、フラフープはだめのようですが。はい。
しかし綱渡りはちょっとうまくなりました。

■286:目覚めの悪さ(2008年6月14日)
節子がいなくなってから、よく寝たなと思うような目覚めを体験することがなくなりました。
夜中に何回か目が覚めたり、明け方早く目が覚めたりすることが影響しているでしょうが、その分早く眠るようになりましたので、睡眠時間はそう変わってはいないはずです。
睡眠の深さもそう違っていないように思います。
しかし毎朝なぜかいつも寝不足感があるのです。

いつも横で寝ていた節子がいなくて、独りで寝ているせいかもしれません。
人は寝ているときも意識や生気を交換し合っているのかもしれません。
あるいは、朝、起きた時にいつも隣にいた節子がいないことが影響しているのかもしれません。
横に節子が寝ていたら何が違うのかといわれそうですが、気持ちが全く違うのです。
特に目覚めた時に、誰もいないベッドが隣にあることで、節子の不在を毎朝、体感させられるわけです。
それならば、ベッドを片付ければいいようにも思いますが、たぶんそれではもっと気が抜ける結果になるでしょう。

以前、人は「何のために生きる」というよりも「誰のために生きる」ものだと書きましたが、その「生きる目的」が五感で確かめられるかどうかで、生きる手応えは違ってきます。
それが起きる(生きる)モチベーションにつながり、寝不足感に繋がっているのかもしれません。
睡眠時間が少なくとも、「生きる張り」が強ければ、目覚めた途端に心身はシャキッとし、寝不足感などは生じようもありません。
そういう時は、眠っているのさえもったいない気がするものです。

最近つくづく感じるのですが、「忙しさ」と「時間」とは別物のようです。
それと「生きる時間」の感覚は、ソーシャル・キャピタルの人の「生命の意識密度」に関わっているようです。
私にまたわくわくするような目的が持てるようになれば、きっと寝不足感は解消されるでしょう。
朝の目覚めもきっとすっきりしてくるでしょう。

先日、秋葉原でとても不幸な事件が起きました。
通り魔事件を起こした人も、きっと「わくわくするような目的」をもてなかったのです。
前にも書きましたが、社会がとてもおかしくなってきているのは、「わくわくする目的」が見出せない人が増えているためなのかもしれません。
誤解を招きそうな言い方ですが、最近は事件を起こす人たちの絶望感が、ほんの少しですが、わかるような気がしてきました。

■287:励まされるのは「遺されるもの」(2008年6月15日)
本が送られてきました。
差出人は大浦静子さん。私と同世代です。
全く心当たりのない名前です。
住所を見たら金沢でした。
節子と一緒に金沢を歩いた時のことを思い出しました。
それだけで涙が出てしまいました。

本に手紙が添えられていました。
「突然お便り致しますことおゆるしください。
「節子への挽歌」を毎回読ませて頂いているのですが、いつのまにか節子様が亡くなった娘郁代に、佐藤様が私に置き換わっていて毎回涙があふれ出てしまいます」
そう書き出されていました。
胸がつかえました。最近、時々、体験することです。

大浦さんは3年前、娘さん(郁代さん)を節子と同じ病気で亡くしたのです。
郁代さんが最期まで読んでいた本「いきがいの創造」の著者、飯田史彦さんのことを知りたくてネット検索して、このブログに出会ったのだそうです。
飯田さんの導きかもしれません。

同封されていた本は「あなたにあえてよかった」。
「泣きながら綴った」追悼の本です、と大浦さんは書いています。
愛する人を失った時、何かしていないとどうしようもないのです。
大浦さんは、きっとこの本を創ることで、自らの魂を鎮めたのでしょう。
もちろん鎮めようはないのですが、そのお気持ちが痛いほどわかります。
本の最初のページに、「郁代がこの本を書かせてくれました」と書かれていますが、先立つ人は常に遺される人に最大限の心遣いをしてくれます。
節子もそうでしたが、それを思うだけで嗚咽したいほどの悲しみも感じます。
時に泣くことも元気をくれます。

このたった数文字の文章が、私には呪文のように響きます。
とても今は読めないと思いました。
でもきっと「節子はこの本を読ませてくれました」と大浦さんに手紙を書けるようになるでしょう。

手紙にはもう一つ心に沁みる文章がありました。

「34歳で亡くなった郁代は遺される家族、友人を最期まで励まし続けました」

愛する人に先立たれた当事者でなければたぶん書けない言葉です。
励まされるのは、実は「遺されるものたち」なのです。
「遺されるものたち」は、決して「先立つ人」を励ますことはできません。
ケアさえできず、実は「遺されるものたち」こそがケアされていることに気づかされます。

少し落ち着いたので、大浦さんのことを書き出したのですが、どうもまだ早すぎました。
節子のことと重なってしまい、続きが書けなくなりました。
涙でキーボードが打てなくなってしまったのです。
また近いうちに続きを書かせてもらいます。

■288:墓前にカサブランカが供えられていました(2008年6月16日)
節子
昨日、みんなでお墓に行きました。
最近は暑くなってきたので、花がすぐに枯れてしまいます。
枯れた花は節子が嫌うでしょうから、娘たちと鉢物にしようかと考えています。
昨日は、鉢物が用意できなかったので、庭の花を持っていきました。
節子が好きな花が、いま次々と咲き出しているのです。
先週供えた花は暑かったのでもう枯れてしまっているだろうと思って、お墓に着いたら、
供えた記憶のないカサブランカが見事に咲いていました。
まだ元気でしたので、きっと2〜3日前に誰かが来てくれたようです。
だれでしょうか。
節子は知っているでしょうね。

時々、こうして花が供えられていることがあります。
私ではありえないことですが、花好きの節子ならではの話です。
お墓は、私たちが前に住んでいた家の近くにあるのです。
いまは転居しましたので、自宅からは4キロほどのところですが、それでも自転車でいける距離です。
きっと前に住んでいた近くの方が献花してくださったのでしょう。
それも私たちが大好きなカサブランカです。
私も節子も、カサブランカの香りも雰囲気も、好きでした。

私は毎週、お墓参りに来て、般若心経を唱えています。
家を出る時に、節子の位牌に「これから墓参りに行ってくるよ」と声をかけ、帰ると報告します。
今日は、「カサブランカが供えられていた」と報告しました。
これって、ちょっと変な気もしますが、私にはとても自然なのです。

来週は、節子が気に入りそうな鉢花をもって行く予定です。
娘に選んでもらっています。
節子は活花よりも土に根ざした鉢花がすきでしたから。

■289:「立ち上がれない日々」(2008年6月17日)
大浦さんからの手紙を受け取った翌々日(6月14日)、このブログにコメントを書いてくださった方がいます。
上原みすずさんです。
読まれた方も入ると思いますが、こういうコメントです。

はじめまして 
節子様への想いがせつせつと伝わってきて私の想いと重なってつい書き込みをしてしまいました。
私も自分で心療内科へ行ってきましたが、時が解決をしてくれるのを待つしかないようです。
伴侶喪失より6年たっても立ち上がれない日々です。
佐藤様はきちんと生活してらして立派です。
私は知識も教養もないただのおばさんですが、又時々お邪魔さしてください。

また胸がつかえました。
上原さんも全く面識のない方です。
「立ち上がれない日々」
とてもよく実感できます。
友人知人にはわかってもらえませんが、ほんとうに「立ち上がれない」のです。
世界が一変し、その新しい世界で生きていくために少しずつ強くなっていく自分を感ずることはできるのですが、その反面で、節子のいないそんな世界では元気に生きたくはないという、ちょっとひねくれた自分がいるのです。
ですから、いろいろな意味において、立ち上がれないのです。

愛する人を失って「立ち上がれない日々」を送っている人が、たくさんいる。
節子との別れを体験する以前は、そうしたことは頭では知っていましたが、たぶん本当にはわかっていなかったのです。
いや、もしかして周りにいても気づかなかったのです。
たぶんいまの私の「立ち上がれない状況」は、外部からはほとんど見えないでしょう。
ということは、私もまた、そうした人たちの深い悲しみや寂しさに今でも気づいていないということです。
しかし、節子のおかげで、あるいはこのブログのおかげで、そうした人たちのことが少し見え出したように思います。
それだけでもきっと私の人生は豊かなものになるはずです。
これはきっと節子からの贈り物なのです。
節子から教えてもらったことはたくさんありますが、まだまだ気づいていないものがたくさんありそうです。
節子、ありがとう。

上原さんにも感謝します。
ありがとうございます。

■290:2つの知性と2つの意志をもった一つの魂(2008年6月18日)
今日はちょっと涙が出ない話題にします。

先日、時評編でとりあげた社会哲学者のプルードンは、「家族」を重視していたようです。
そのプルードンの言葉として、次のようなものに出会いました。
「結婚は異質な二要素の結合である。2つの知性と2つの意志をもった一つの魂である」
この文章は、鹿児島県立短大の斉藤悦則教授のサイトで見つけました。

この言葉に続いて、斉藤教授はこう解説しています。
こうしたあり方が人間に成長をもたらす。
愛と愛が、自由と自由が交換される関係の中で、人は他者の人生をも「わがもの」として生きる。
相手が醜くなったからとか衰えたからといって、相手をとりかえることなど、この関係から本来出てくるものではないのです。

素直にうなずけます。
節子との関係は、まさにそうでした。
私たちは当初、異質である面のほうが圧倒的に多かったのです。
それが40年かけて、一つの塊になったように思います。

排除ではなく、包摂の関係は、必ずお互いを豊かにします。
それは精神の世界の話だけでなく、物質的な世界においても当てはまります。
たった2人だけの、そしてたかだか40年の体験でしかありませんが、それを実感しています。
経済や社会の基本にプルードンの思想を置いたら、きっと歴史は違ったものになっただろうなと思います。
興味のある人は、ぜひ斉藤教授のサイトをご覧ください。
「プルードンと現代」も刺激的です。

今日はちょっと挽歌らしからぬ記事になりました。

■291:節子にメールが届いていました(2008年6月19日)
節子
久しぶりに節子のメールボックスを見ました。
なんとメールが届いていました。
昔、お近くだった村岡さんからです。
実は村岡さんがこのブログに投稿してくださったのでわかったのですが。

節子のメールアドレスは、いまもそのまま残しています。
解約する気にはなれないのです。
村岡さんからのメールは、よく見たら私宛になっていました。

「本日、河島様とご一緒にお墓参りをさせて戴きました。
暫し、節子さんと会話し、河島さんとは思い出話をしてきました。」

あのカサブランカは、このお2人が供えてくださったのです。
村岡さんに電話させてもらったら、こんなうれしい話をしてくれました。
「節子さんは、ご自分が病気で大変なのに、私のことをいつも心配してくれていました。
やさしい方でしたね。」
とてもうれしくて、涙が出そうになりました。
親ばかならぬ、「夫ばか」といわれそうですが、節子がほめられると、たとえそれが誤解であろうととてもうれしいのです。
いえいえ、節子がやさしかったのは、たぶん事実です。
元気を出して話していたら、
「ご主人は元気そうですね」と言われてしまいました。
まあ、元気なのですが、何だか節子に悪いような気がしてしまいました。

「あなたにあえてよかった」の大浦さんから、こんなメールが届きました。

娘が言った言葉が思いだされました。
「お母さん、病気をして良いこともあったよ。
弱い立場の人の気持ちがよくわかったわ」

節子もそうでした。そして私もそのお裾分けをしてもらいました。

ですから、節子は自分が病気で大変だったからこそ、みんなにやさしくなれたのです。
村岡さんの言葉に戻れば、「自分が大変なのに」ではなく、「自分が大変だからこそ」、村岡さんのことが気になったのです。
節子の身近にいて、そして節子と生活を共にしていて、節子ほどではないですが、私も少しやさしくなりました。
たぶん、ですが。

河島さんにもお電話しました。
ご主人が出ました。
なんとその後もご夫妻でお墓参りしてくれたのだそうです。
またまたうれしくて、感激してしまいました。
節子はほんとうにいい人たちに囲まれていたのです。
それで、もしかしたら神様に嫉妬されたのかもしれませんね。

■292:気楽に行こう、自然体で行こう1(2008年6月20日)
上原さんのコメントを読んで以来、「立ち上がれない日々」のことを考えていました。
この言葉は、たぶん私も何回か使った言葉ですし、私の実状を的確に表現しているのですが、なぜか気になりだしました。
上原さんのコメントにもう一つ「きちんと生活」という言葉があったのが、そう考えだすきっかけでした。
私は「きちんと生活」しているのだろうか。
いや、どうして「立ち上がろう」としているのだろうか。
節子がいないいま、「きちんと生活」とはどういう生活なのだろうか。
気になりだすと、疑問は次々と広がります。
これが私の悪癖のひとつです。
まあ、自分では気に入っている癖なのですが。
もっとも節子ならば、きっと「また問題を難しくしているわね」と一笑に付すでしょう。

コメントへの私の回答に、
立ち上がれなくてもいいのかもしれません。
最近はそう開き直っています。
と何気なく書いたのですが、そこに答があるかもしれないと気づきました。

以前に比べて私の生活スタイルは一変しています。
これがいまの「立ち上がり方」であり、「生活の仕方」なのだと考えれば、気が楽になります。
私の信条は、Take it easy(気楽に行こう、自然体で行こう)です。
それを忘れていたのではないかと気づいたわけです。

まあ、日によって、重く沈んだり、気楽に前向きになったり、このブログも不安定ですが、それこそが自然の生き方と考えればいいわけです。
愛する人、大切な人を失ったら、世界が変るのは当然です。
それまでのような生活はできなくなるのも当然です。
でも私たちは、きっと以前のような暮らしや元気に戻らなくてはと思うように仕組まれているのでしょう。
いわゆる生命体のホメオスタシス(恒常性維持機能)が、意識面でも作動しているのです。
ホメオスタシスは、「生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質」(ウィキペディア)で、それが、生物が生物である要件のひとつであるとされています。
つまりこれがないと生物は時々刻々変化する環境のなかでは存続できないのです。
しかし、このホメオスタシスが、意識体としての人間を逆に迷わせているのかもしれません。
その結果が、昨今のメンタルヘルス問題かもしれまいと思い出しました。

問題はどうも「挽歌編」を超えだしました。
続きは、「時評編」に書きます。

■293:気楽に行こう、自然体で行こう2(2008年6月21日)
昨日の時評編の続きです。
愛する人を失ったような、大きな環境変化を起こした人は、どう生きたらいいのか。

それ以前の「生き方」を忘れるのがいいかもしれません。
新しい環境の中での、新しい生き方を見つければいいと言うことです。
かつてのような意味で、「きちんと生活」する必要もなければ、無理して元気になる必要もないわけです。
「いつまでも悲しんでいないで、前向きに元気になっていかないと亡くなった妻も悲しむ」などと考える必要はありません。
悲しければ悲しむのがいいですし、元気が出なければ無理にだすこともない。
立ち上がれなければしゃがんでいたらいい。
それこそが「きちんとした生活」なのだと思えばいいのです。
そしてそれこそが、愛するものたち(自分も入ります)への鎮魂なのです。

これはもしかしたら、メンタルヘルス問題に通じています。
ちょっと変わった子が、発達障害などいうレッテルを貼られたり、とても素直に生きている子が知的障害と考えられたりしてしまうことのマイナスも考えなければいけません。
人の生き方は単一ではありません。
異質な事象を分類し、名前をつけるのも、近代社会の特徴ですが、それに縛られてしまっては本末転倒です。

なんだかまた時評編になってきてしまいました。
今回、書きたかったことは、環境が変化したら思い切り戸惑えばいい。
それは当然のことであり、以前の状況に戻ろうなどと思わなくてもいい。
そういうことです。
心療内科に行かなくてもいいのです。
精神が不安定で気が萎えていること。それこそがきっと正常なのでしょう。
伴侶を亡くして、おかしくならないほうがおかしいのです。
おかしくなっても、必ずいつか伴侶が治してくれるでしょう。
生前から、そうやってお互いに支え合ってきたのですから。

■294:愛する人の存在がこの世から消えてしまうのは耐えられません(2008年6月22日)
先日、「あなたにあえてよかった」の本を送ってきてくださった大浦さんは、このブログの98「節子と世界のどちらを選ぶか」を読んで「私の気持ちそっくりそのまま」と思われたそうです。

大浦さんに、
「本は、まだ読める状況にはありません。
少し読み出したら、不覚にも涙がとまらなくなり、やめました。
でも必ずいつか読ませてもらいます。
少し時間をください。」
とメールを書いたら、返事が来ました。

1周忌に合わせ本が出来上がったとき、
郁代の友人の多くから佐藤さんと同じ感想を頂いたのでした。
ですから、まだ日も浅い佐藤さんにお送りすること、本当はためらったのですが、
「節子の挽歌」を読ませて頂いているお礼にと思いました。
郁代は誰とでもすぐに仲良しになる子でしたから、
今ごろは節子さんと楽しく笑いあっているに違いありません。

友人の手紙を本に載せるということは、
「一人ひとりの了解を得る作業」が必要になります。
見知らぬ外国の方と連絡を取り合うのは、1年以内でないと無理だろうとの思いから、必死になって取り組んだわけです。
倒れそうになりながら・・・。

その状況がよくわかります。
CWSコモンズのほうに書かせてもらいましたが、
愛する人が真剣に生きていたことを一人でも多くの人に知ってほしい。
愛する人のことを思い出してくれる人がいてほしい。
愛する人を亡くした人はみんなそう思うのです。
大浦さんは、最近のメールでこう書いています。

多くの方に郁代の人生を知ってほしいですから。
郁代の存在がこの世から消えてしまうのは耐えられませんから。

まったくそうなのです。
愛する人がこの世から消えてしまうことなど、思いもできないのです。
私はいまなお、節子がこの世からいなくなったことを受け入れられずにいるのです。
たぶんこの感覚は、私が生きている以上、続くのだと思います。

■295:私にとっては存在しない日の記憶画像(2008年6月23日)
節子
昨日は田辺大さんが我孫子まで献花にきてくれました。
田辺さんは盲ろう者の働き場づくりに取り組んでいる社会起業家です。
節子とは話をしたことはないかもしれませんが、「手がたりの田辺さん」といえば、節子は思い出すでしょう。
時々、私たちの間でも話題になった人ですから。

節子のお通夜は、ちょうど田辺さんの活動がテレビかラジオで紹介される時間だったのではないかと記憶しています。
にもかかわらず田辺さんは来てくれました。
一言だけ話を交わしましたが、その時の様子を今でもなぜか鮮明に覚えています。
あの時は大勢の人にお会いしましたが、私自身、気が動転していたはずなのに、なぜかその日会った人たちの様子が映画の画面のようにはっきりと思い出されるのです。
しかも、不思議なのですが、それぞれが「その人らしく」動いているのです。

たとえば、某企業のIMさん。
まさか彼が来るとは思ってもいませんでしたが(伝えていませんでしたので)、告別式の日、IMさんが私を送ろうとしてウロウロしている風景が頭に焼き付いています。
IMさんとは一言も話していませんが。
我孫子に住むMさん、あるいはユニバーサルデザイン関係のNPOをやっているOさんもリアリティのないままに、その姿だけは鮮明に残っています。
2人ともなぜか所在なげにウロウロしているのです。
はしゃいでいるように見える友人知人の顔の映像も残っていますし、
その反対に、硬直して言葉を失っている友人の表情の残像もあります。
そしてそうした様々な姿に対応している自分の姿も、見えているのです。
はしゃいでいる人にははしゃぎながら、
硬直している人には硬直しながら、
ウロウロしている人にはウロウロしながら。
もっとも、それらが「実像」なのか、私が勝手に創造してしまった「虚像」なのか、必ずしも自信がありません。
節子と別れた日の記憶は、私にはとても不思議なことばかりなのです。
あの2日間は、私には本当は存在しない日なのかもしれません。

それはともかく、田辺さんはずっと気にしてくれていたのです。
今日、突然電話がかかってきて、これから行ってもいいかというのです。
雨の中を節子が好きそうな白い花を持ってやってきてくれました。
節子の話をするのがなぜか辛い気がして、節子の位牌の前で全く節子とは無縁の話をしてしまいました。

田辺さんを見送った後、節子のことを少し話せばよかったと後悔しました。
昨日はもう1人、節子が知っている若者も訪ねてきてくれました。
彼とも節子の話を全くしなかったことに、いま気づきました。

節子のことを話すのは、実は結構難しいのです。
何を話せばいいのでしょうか。
それに話しだすと止まらなくなるおそれもあります。
だから節子のことを話さないでもいいように、他のことを急いで話してしまうのかもしれません。
困ったものです。

■296:愛する人の死についての体験は他の人と共有できるか(2008年6月24日)
一昨日、せっかく献花に来てくださった田辺さんと節子のことを話さなかったことがちょっと気になりましたので、それに関することを今日は書きます。

伴侶を失った人は、伴侶の死についてどう話したらいいのか。
話されたほうは、どう対処したらいいか。
これは難しい問題です。

愛する人の死についての体験は、たぶん決して他の人とは共有できません。
なぜかといえば、愛する人との関係は特別だからです。
「愛する人」を喪失しただけではなく、その関係、つまり自らの生活の大きな部分が喪失してしまったのです。
愛する人を失った人にとって、それは個人の死ではなく、関係の死、それまでの人生の終わりでもあるのです。
そのことを、他の人と共有できることが出来るはずはありません。

わが家の場合、娘が2人いますが、娘たちもまた「愛する母親」を失いました。
節子を愛していたという点では、私と同じかもしれませんが、関係はそれぞれに違います。
ですから、私は決して、娘たちの気持ちを共有化できませんし、娘たちもまた私の気持ちを共有化できません。
それぞれ微妙に違うのです。
どちらが悲しみが大きいとか深いとかいう話ではありません。
質が違うのです。
大きなところではわかりあえ、支えあえますが、どこかで違いをそれぞれ実感しているように思います。
ですから家族同士でも、愛するものの死について話すのは必ずしも簡単ではありません。
私たち家族の中では、よく「節子」の名前は出ますし、節子の思い出は語られますが、お互いにあまり深入りはしないような気がします。
というよりも、できないのです。
深入りすると、思いの違いが見えてくるという不安もありますし、それぞれがせっかく再構築してきた平穏を崩してしまう可能性もあるからです。
何だか誤解されそうで、「冷たい家族だな」と思われそうな気がしてきましたが、私たち家族の中では今もなお、節子が生きていることは間違いない現実でもあればこその話かもしれません。

書こうと思っていたことと違う方向に話が進んでしまいました。
家族間の話ではなく、友人知人、あるいは節子を知らない人との「伴侶の死」もしくは「伴侶」の話をすることを書こうと思っていたのですが、書きながら考えるタイプなので、違う話になってしまいました。
日を改めます。

■297:伴侶の死の語り方(2008年6月25日)
最近、経験したことですが、初対面の同世代の男性と話していて、伴侶の話になりました。
いろいろと話しながら、結局は女房に頭があがらないし、女房が一番の支えですね、佐藤さんもそうでしょう、女房を大事にしないといけませんね、というようなことを言われました。
もちろん、その人は私が妻を亡くしたことなど全く知りません。
私は、そうですね、としか応えられませんでした。
そのため話の盛り上がりはちょっと砕けてしまいました。
実は最近妻を亡くして、などといえば、さらに話は冷えてしまったかもしれません。

妻の死を知っている人と会った時、ついつい節子の気丈な闘病振りを話してしまったことがあります。
まさに告別式のあいさつで話したようなことを話したのですが、その人はたぶん戸惑ったことでしょう。
節子を見送った後、私は見境なく、みんなに節子の話をしました。
「お父さんは詳しく話すけど、みんなは戸惑うよ」と娘によく注意されました。
節子のことを少し話し出すと、今でも途中で止まらなくなるのです。

何回か引用させてもらった「あなたにあえてよかった」の大浦さんが、こうメールしてきました。

「娘の悲しいできごとを、よく公開できますね」と言われたことがあります。
「甦るために私は死ぬのだ!」との郁代の声を確かに聞きながら本を書きました。
「郁代!あなたを決して死なせない!」との思いでした。
元気な時もそうでしたが、亡くなっても強い意思が伝わってくるのです。

大浦さんの場合は伴侶ではなく、娘さんでした。
ですからなおのこと大浦さんの思いは、私には共有できるはずはありませんが、この気持ちはとてもよくわかります。
共有してはもらえないとしても、話さずにはいられないのです。
大浦さんのお気持ちがよくわかります。

しかし、そうした話を聞かされた時、どう応えればいいでしょうか。
これは難問です。
もし聴く側にまわったら、私はたぶん応えられないだけでなく、引いてしまうかもしれません。
にもかかわらず、話す側の私は時に話してしまうわけです。
その気持ちの根底には、節子のことをもっと知ってほしいという気持ちがあるのです。
節子のことを知るはずのない初対面の人にさえ、節子のことを知ってほしいという、おかしな気持ちさえ出てくるのです。

愛する人を失った人は、やはりちょっとおかしくなっているのでしょうか。
でも愛する人を失うということは、おかしくなってもおかしくないくらいの、事件なのです。
失ってからでは遅いのです。
みなさんも、愛する人をしっかりと守ってやってください。
守れなかったことの挫折感は、たとえようもなく大きいです。

■298:「話しかける」ことは「聴きかける」こと(2008年6月26日)
愛する人を失った時の話し方シリーズ第3弾です。

今日は立場を逆転させて少し書いてみます。
伴侶を失った人に、どう話しかけたらいいのかという話です。
自分が話しかけられる立場になって、いろいろと感ずることがあります。

人によって話しかけ方は大きく違います。
先日、道でお会いした近くのTさんは、こう話してきました。
お元気になられましたか。
無理ですよね。
まだ信じられないですよね。
とても素直に受け入れら、ついついいろんなことを話してしまいました。

実は、このように素直に受け入れられることは意外と少ないのです。
伴侶を失った人は、もしかしたら被害者意識が強すぎるのかもしれません。
いじけている可能性もありますし、見栄を張りたがっていることもあります。
まあ簡単にいえば、奇妙に言葉に過剰反応しがちなのです。
どうもこれは私だけではないようです。

話したくなる状況をつくる、これが会話の基本ですが、
節子との別れによって、そのことを改めて強く思い知らされました。
「話しかける」ということは、もしかしたら「聴きかける」(そんな言葉はないでしょうが)と言うことなのかもしれません。

節子との、この5年間で、ケアとかコミュニケーションについてたくさんのことに気づかされ、学んだように思います。
節子が身をもって教えてくれたのです。
にもかかわらず、最近の私は、どう考えても話しすぎのようです。
それはどこかに「不安」があるからかもしれません。
「沈黙」と「饒舌」は、どうやらコインの表裏です。
そのことにも気づかされました。

ところで、今日のテーマ、「伴侶を失った人にどう話しかけたらいいか」ですが、
たぶん一番いいのは、全く意識しないことです。
これまで通り、いつも通り、が、たぶん「正解」です。
中途半端な気遣いは、きっと逆効果になるでしょう。
子どもたちは大人の不誠実さを見抜く感性を持っていますが、
伴侶を失った大人も、それに似た感性を回復しているような気がします。
相手の心が直接、伝わってくるのです。

ですから、会わないのが一番いいかもしれません。
過剰感性化している「伴侶を失った人」はまさに「さわらぬ神になんとやら」です。
でも、たぶん「伴侶を失った人」は意識とは反対に会いたがっているのです。
そこがややこしいところです。

以前と同じように接して、別れ際に「ちょっと変わったね」と無意味な会話(意味を与えてはいけません)をするのがいいかもしれません。
今回書いたことは、私だけの特殊事例かもしれませんね。
でもまあ悩ましい問題です。
今日は、「愛する人を失った人への話し方講座」でした。
全く役に立たない講座で、すみません。

■299:健康管理に少し気をつけるようになりました(2008年6月27日)
節子
最近、ブログやホームページに、あまり体調が良くないことを書いたせいか、いろんな人が心配してくれます。
節子もきっとそちらから見ていて、心配しているかもしれませんね。
しかし、早くこちらに来てよと思っているかもしれませんよね。
そのあたりをどう考えればいいか、いつも悩みます。

昨日書いたように根本さんはラジオ体操を勧めてきました。
近くに住む兄は一緒に健康診断に行こうと無理やり申込まされました。
MRさんは、それとなく「笑いヨガ」に参加しているのですが、一度来ませんかとメールをくれました。
若い友人たちから、身体には気をつけて下さいね、とよく言われます。
みんなとても心配してくれるのです。
その上、いつもは厳しいわが娘たちまでも、最近やけにやさしいのです。

身体状況は必ずしも良いわけではありません。
軽い手足のしびれが続いていますし、頭もあまりすっきりしないことが多いのです。
一時は血圧が高く、下が110前後になっていたこともあり、さすがにお医者さんに行こうと思ったのですが、そのうちにまた100以下に降りてきました。
先日書いたWii Fitで毎日トレーニングをしだしたので、最近は100以下に収まりだしました。
運動不足だったのかもしれません。

節子がいなくなってからの家族のストレスはかなり大きいのですが、最近はそれぞれがストレスを消化しだしています。
そして、お互いにストレスを高めあう局面から支え合いで削減する局面に入っています。
Wii Fit は、そうした環境をいい方向に加速してくれています。

Wii Fitで盛り上がっている家族の様子を節子が見ていてくれるといいなと、思うと同時に、ここに節子がいたら、もっと賑やかになるのにといつも思います。
3人ともどこかで節子を意識しながら、時々、節子の名前も飛び交っています。
節子がいたら、笑い転げて腸ねん転を起こすかもしれません。
それに節子がいたら、記録の最下位は必ずしも私が独占することにはならないでしょう。
体育会系好きのわりには、節子の運動神経もそれほどではありませんでしたから。

昨夜は久しぶりに家族3人で、時々みんなでいっていた近くのレストランで食事をしました。
節子がいた時ほど話が弾まなかったですが、
節子の名前は何回も出ていました。
何かとても奇妙な気持ちです。

■300:「別の世界の人」になった寂しさ(2008年6月28日)
今日は精神の健康の話です。
節子がいなくなってから、私の精神状況はかなり不安定です。
しかし、その不安定さは、たぶん友人が思っているのとは全く違うはずです。
どんなに親しい人でもこの寂しさはわかってもらえないだろうなと思う一方で、日常的な意味での寂しさはほかの人が思うほどのものではないような気がします。
つまり、当事者でないとわからない、不思議な寂しさです。

先日、夫婦づきあいしていた同世代夫妻のご主人から電話がありました。
一度お伺いしたいと思っているのだが、悲嘆にくれている佐藤さんに何を話せばいいのかわからなくて、今日まで連絡できなかった、というのです。
その気持ちはよくわかります。
きっと私も同じ立場だったらそうでしょう。
事実、今でも電話できない友人がいます。

この種の話はいろんな人からお聞きします。
会いに来てくれた人がほとんど例外なく言うのは、「佐藤さんが思ったより元気でよかった」という言葉です。
そう言ってもらえるのはとてもうれしいのですが、そんなに私は落ち込んでいると思われているのだろうかという、もうひとつの寂しさも感じます。
つまり、妻を亡くしたことで別の世界の人になってしまったというように思われているのかという気がするのです。

それが不満であるわけではありません。
実は自分自身も、「別の世界の人」になったと自覚しているのです。
そして、そのことが私の寂しさであり、その世界にまだなじんでいないための精神的不安定さなのです。
ちょっとややこしいですね。

ですから、こちらの世界で生きている場合は、さほど寂しくなく元気なのですが、突然、「別の世界」に意識が跳んでしまうことがあるのです。
そうなってしまうと、途端に息苦しくなるのです。
意識が一変し、それまで話していたことが遠くに行ってしまうのです。
なんで自分はここにいるのだろう、というような感覚が高まってきます。
そして現世の言葉と違った言語感覚になってしまうのです。
目の前で談笑している友人の声がどこか遠くに聞こえだすのです。
なぜか大きな疲労感も全身を襲ってきます。

こうなるのは時々なのですが、多くの人が集まる会や楽しい会食時になりやすいのです。
ですからできるだけパーティや同窓会には参加したくありません。
周りの友人たちが、どこか別の世界の人に見えてくるのは、とても寂しいものなのです。
そんなわけで、節子がいなくなってから、同窓会的なものには一度も出ていません。
小学校も大学も、会社も同好会も、ぜんぶ欠席です。
いつになったら参加できるようになるでしょうか。

■301:家族の絆(2008年6月29日)
今日は節子への報告です。
家族を失うと、遺された家族にはさまざまなストレスが生まれます。
このブログでは、私のことしか書いていませんが、わが家には同居している娘が2人とチビ太くんという犬がいます。
そうした私以外の家族にもそれぞれ大きなストレスはかかっています。
もっともチビ太はあんまり感じていないのかもしれません。
節子がいなくなってからも、特に大きな変化はありません。
動物のスピリチュアリティには大きな関心を持っていますが、チビ太にはどうもスピリチュアリティを感じません。
彼は、薄情な近代犬なのです。いやはや困ったものです。

節子がいなくなってから、一番、精神的にダウンしたのは私です。
それまでは一応、私たち夫婦が家族の中心でしたが、それは節子がいればこそでした。
その家族の中心がなくなってしまったのです。
節子のいない私は、いわゆる「腑抜け」のような存在になっていたはずです。
私がなんとか踏みとどまれたのは、同居していた娘たちのおかげです。
私は実に幸運だったのです。
娘たちに感謝しています。

しかし、私が支えられた分、逆に娘たちのストレスはさらに上乗せされたでしょう。
それはわかっていましたが、娘たちに甘えることにしました。
彼女らも、自分自身の問題もいろいろと抱えているはずですから、大変だったと思います。

最近、漸く、そうした状況を受け止められるようになってきました。
つい先日、3人で食事に行きましたが、節子のいない意味を改めて実感しました。
お互いに精一杯支え合いながら、私のように寂しさや悲しさをストレートに出せない性格なのです。
その分、内部に蓄積されるはずです。
それをもっと思いやらねばならないと改めて思いました。
このままだと、誰かが倒れかねないと思いました。
愛する人を失った人の思いは複雑で、たとえ親子といえども理解などできませんが、思いやることはできます。
大切なのは、理解できないことを認識した上で、何ができるかを考えることかもしれません。

そんな思いになりだしていた矢先、一昨日、わが家一番の頑張り屋の次女が倒れてしまいました。
積もり積もったストレスが引き起こしたことだったのでしょう。
幸いに長女が在宅でした。
おろおろする私とは別に、彼女がてきぱきと状況を仕切ってくれました。
そのおかげで、大事には至らず、次女も回復しつつあります。
今回は、長女の適切な行動に助けられました。

病院からの帰路、長女が、最近、ちょっとギスギスしていたね、と言いました。
節子がいなくなってから、家族はお互いのことを気遣いしあいすぎて、それが逆にお互いのストレスを高めあっていたのかもしれません。
長女もそれを感じていたのです。

節子がいなくなった後、私と節子が入れ替わっていたほうが娘たちには良かっただろうにと、何回も思いました。
しかし、それは無責任な逃避的発言だったのです。
現実をもっと見据えなければいけません。
最近は、「節子だったらどうしただろうか」と考えるようにしています。
しかし今はまだ、その度に節子との思い出が出てきてしまい、判断できなくなります。

次女が身体で表現してくれた事件のおかげで、ちょっと意識しあいすぎていた家族の関係が変りそうです。
今日は、静かに自宅で3人、過ごしています。

節子
娘たちは、本当によくしてくれますし、それぞれ少しずつですが、前進しています。
安心してください。
まあ、私もだいぶしっかりしてきました。はい。

■302:節子、ジャケットを買ってしまいました(2008年6月30日)
節子
娘たちが、私にジャケットやシャツを買うように勧めます。
今の着ているのはもう生地が擦れていると言うのです。
私は目が悪いので気にはならないのですが。
そしてついに彼らのおかげでジャケットを買ってしまいました。
節子からもいつももう少しちゃんとした服を買ったらと言われていました。
私にはその気は全くなかったので、節子の要請はほとんど受けませんでしたが、娘には断りきれません。
いずれにしろ節子が病気になって以来、衣服を購入したのは初めてです。
節子がいなくなってからわかったことですが、
肌着類などは、私の性格を見越してか、節子が私の一生分を買ってくれていました。

私の消費活動はいささか偏っており、お金を使うのはわずかな書籍代だけでした。
酒も煙草も、ゴルフもギャンブルもやりません。
お金のかかる趣味も全くありません。
衣食住のうち、衣服と食にはほとんどお金をかけません。
ファッションにもグルメにも全く関心はありません。
ですからお金がなくても生きていけるのです。

にもかかわらず、家族は私のことを無駄遣いが多いといいます。
確かに、レーザーディスクのプレイヤーを突然2台購入したり、断るはずのリゾートマンションを買ってしまったり、見もしない絵画全集や文学全集を注文してしまったり、以前はそんなこともありました。
お金があるとついつい無駄なものを買うため、最近はお金を持たないようにしていますので、衝動買いはなくなりました。
それに最近は書籍もあんまり購入しなくなりました。
そんなわけで、ともかくお金は使わないのです。

ですから真面目に働けばわが家は大金持ちになれたはずです。
節子と結婚する時、酒も煙草も飲まないのならお金がたまって仕方がないねと節子側の親戚の人からいわれました。
しかし、不思議なもので、入ったお金は自然と出て行くものです。
それに、いろいろあって、ほどほどのお金が入ったり入らなかったりする人生でした。
ですからお金持ちにはならず、わが家は幸せを維持できたのかもしれません。
節子もたぶんそれを歓迎していました。
節子もまたブランド品や貴金属などにはほとんど関心がなく、それにお金がたくさんあったら管理できないタイプでした。

会社を定年前に辞めた時、3000万円の退職金をもらいました。
そんな大金は手にしたこともなく、そのせいで数年後にはほぼ同額の借金に変っていました。
お金で不幸になることはありますが、たぶん幸せになることはないでしょう。
まあ、お金を持ったことのない者の偏見かもしれませんが。

また書かなくてもいいことを書いてしまいました。
節子に笑われそうですが、節子も私と同じく、言わなくてもいいことを言うタイプでした。

ジャケットを購入してからもう1か月以上たちましたが、まだカバーに入ったままです。
着るシーズンが終わってしまいました。
買わなくても良かったなという気もします。
それに、佐々木さんと約束した「本来無一物」指向と反します。
主体性がない人の生き方は矛盾だらけです。はい。

301以降は総集編2へ続きます。