妻への挽歌(総集編7)
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目次


■2001:「いい人」(2013年3月2日)
節子
自分で言うのは何ですが、しかし節子は賛成してくれるでしょうが、私は「いい人」です。
私と付き合う人は、多くの場合、不幸にではなく幸せになるはずです。
なぜなら、私は誰かと付き合う時は必ず、この人のために何ができるだろうかと考えるからです。
まあ、これは私の勝手な推察で、これまでに湯島に来た人の中で、3人の人が怒って帰ったことがありますので、私の勘違いかもしれません。

前にも書きましたが、湯島の私のオフィスのドアには開所の時から、「Pax intrantibus, Salus exeuntibus.」と書かれています。
有名な言葉なのでご存知の方も多いでしょうが、「訪れる人に安らぎを、去り行く人に幸せを」という意味のラテン語です。
これは私の目指すことですが、その一方で、私の信条は、自らに素直に、なのです。
ですから時にちょっとしたことで気分を逆撫でされると感情的に反発してしまうことがあるのです。
それで怒って帰ってしまうわけですが、帰るくらいですから、かなり怒っているでしょうね。「安らぎ」とは無縁です。実に困ったものです。

でも、そうした不幸にめぐり合わない限り、私はいつもやってきた人に何かできることはないかと考えます。
ずっと一緒に暮らしていた節子なら、それを証言してくれるでしょう。
だから、私は「いい人」なのです。

しかし、それは何も私に限った話ではないでしょう。
人は素直に生きていれば、本来、みんな「いい人」なのです。
アダム・スミスは主著「道徳感情論」を、次のような文章で書き出しています。

人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい、ということ以外になんら得るところがないばあいでも、それらの人達の幸福が自分自身にとってなくてならないもののように感じさせる何らかの原理が存在することはあきらかである」
 (新訳も出ていますが、この書き出し部分に限っては旧訳のほうがわかりやすいです)

スミスは、こうした認識に基づき、レッセ・フェールや見えざる手を肯定したのです。
だが残念ながら、肝心の経済学者は、あまりに利己的な人種だったために、おかしな経済学がはびこっているような気がします。

「いい人」で生きることは、本来、とても生きやすいはずです。
しかし、昨今の社会状況は、必ずしもそうではないのかもしれません。
「いい人」が挫折してしまう事例は、私の周りでも少なくありません。
かく言う私も、最近いささか生きづらさを感じ出しています。

「他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい」とスミスは書いています。
まさにその通りなのですが、最近は他人の幸福よりも他人の不幸の話ばかりが耳目に入ってきます。
そればかりか、私の身近な周辺さえも、不幸が増えています。
そんななかにいると、私もだんだん「わるい人」になりそうです。
「いい人」である私を支えてくれていた節子がいないのが、最近少し不安になっています。

ちなみに、節子は、ほどほどに「いい人」でした。
私のことを、少し「行きすぎだ」と言っていましたから。
でも、私から見ると、やはり節子のほうが、私よりも「いい人」のような気がします。
その模範の人がいないのも、不安です。

■2002:公開フォーラムの奇跡(2013年3月4日)
節子
2日に開催した公開フォーラムは55人も集まり、盛会になりました。
やろうと思ってから、3週間しか時間がなかったのに、まさに奇跡です。
誰も信じてはくれないでしょうが、正確には20日間しかなかったのです。
実際にはもっとみじかいというべきかもしれません。
案内のちらしができたのは開催日の5日前なのです。
自分でも驚いています。
終わった後の打ち上げにも、20人近い人が参加してくれ、それもなかなか終わらない感じでした。
東尋坊の茂さんも川越さんも、とても喜んでいました。
思い返せば、この活動の出発点は節子と一緒に、東尋坊の茂さんたちのところで、美味しいお餅をご馳走になったことかもしれません。
茂さんたちと会う時には、いつも節子が一緒です。

今回はもう一人、アイルランド人のレネさんが、全面的に協力してくれました。
レネさんも、実行委員会のメンバーだねと言ったほど、彼は一緒に汗を書いてくれました。
私が彼と会ったのは、開催日の10日前です。
レネさんも、こんなに短い時間がこんな集まりができたことに驚いていました。
レネさんの創った映画の最後に、衝撃的なレネさんの独白があります。
彼も隣人を亡くしているのです。
その独白が、私がレネさんに心につながった理由です。

人は、死に触れるとやさしくなれるような気がします。
しかし、なかには死に触れて、世界を閉ざす人もいないわけではありません。
いずれにしろ、親しい人の死は、人生に大きな影響を与えます。

愛もそうです。
誰かを深く愛すると、すべてのものを愛することができるようになります。
人だけではありません。
自然も人が作った物も、すべてです。
しかし、愛することで、世界を閉ざす人もいるようです。
愛も死も、同じものなのかもしれません。
いずれも関係性の問題ですから。

2日は、懐かしい人がたくさん来てくれました。
そういう人が、みんなで奇跡を起こしてくれたのです。
レネさんの隣人も、節子も、みんながきっと応援してくれたのでしょう。
そう考えたくなるほど、あまりにもうまくいきました。

ポケットに、小節子をもっていったおかげかもしれません。
節子 ありがとう。

■2003:「妻は私を信頼していますから」(2013年3月4日)
節子
一昨日の集まりに、少し変わった人が参加してくれました。
アメリカ人のベロさんです。
昨年までカリフォルニア州に住んでいたそうです。
ところが、ある日、シャワーを浴びていたら、突然、「日本に行け」という天の声が聞こえてきたのです。
日本に行く理由に関してのお告げはなかったようですが、その後、日本のことを調べていて、日本の自殺の多さを知ったといいます。
そして、これこそが自分が日本に行く理由だとひらめき、家族ともども、昨年の8月に日本に移住し、6年間で、日本の自殺問題を改善しようとしているのだそうです。
この話をどう受け止めるかは、人それぞれでしょう。
節子なら、どうだったでしょうか。
私は、もちろん、すべてを信じます。
本人がそう言っているのですから、疑う理由などありません。

しかし、ちょっと気になって、ベロさんに質問しました。
奥さんは、よく一緒についてきましたね、と。
そうしたら、ベロさんは言いました。
妻は私のことを全面的に信頼していますから、と。

ベロさんは、たぶん、マレー系です。
白人ではありません。
天とつながっている南アジアのご出身でしょう。
奥さんも、そうに違いありません。

人にとって、なにが幸せかといえば、全面的に信頼できる人がいることだろうと思います。
もし私が「冤罪」に問われても、節子は完全に私を信じてくれたでしょう。
伴侶とは、そういうものです。
なにしろ人生のかなりの部分を重ね合わせて生きるわけですから、そうでなければやっていけないはずです。

しかし、残念ながら、そうではない夫婦は少なくありません。
苦楽を共にしないで、なにが夫婦だと、私は思いますが、まあ、夫婦といってもいろいろあるのでしょう。

ベロさんの「妻は全面的に私を信頼している」という言葉が、私にはとても気持ちよく響きました。
私も、誰かに同じような言葉を発したいと思います。
しかし、それがもう、かなわないことになってしまいました。
ベロさんが、とてもうらやましかったのです。

■2004:ちょっと落ち着きません(2013年3月5日)
節子
今日は明らかに精神状態がよくありません。
午前中に、初めて湯島にやってきた人の相談にのっていたのですが、どうも反発してしまいます。
Pax intrantibus, Salus exeuntibus.には程遠いです。
自分が少しいらいらしているのが、よくわかります。
午後から3つの集まりがあるのですが、そのうちの2つがいささか心を悩ましています。
それが影響しているのでしょうか。
困ったものです。
まあ、その後に予定されている最後の集まりでは、きっと心がやすまるでしょうが、それまで持つでしょうか。
少し心配です。

人の心はいつも安定しているわけではありません。
時に荒ぶり、時に沈み込み、時に黙します。
それを受け止めてくれる存在があればいいのですが、うまく受け止めてもらえないと、さらに深みにはまります。
そして、関係のない誰かに当たってしまう。
この半年、どうも私はそうした状況にあるようです。
思い切った気分転換が必要かもしれません。

考えてみると、節子がいなくなってから、私の生活はとても単調になっています。
節子がいつも心配していたように、忘我の時間を過ごせる趣味があるわけでもありません。
もっと悪いことに、中途半端に退屈しないほどの課題をいつも抱えています。
声をかければ、喜んで会ってくれる友人も少なくありません。
娘たちが、生活面を支えてくれています。
これ以上、何が必要だという状況にあるのです。
だからどうしても単調になりやすいのです。
節子は、それをいつも心配していました。

何かを急にやりたくなって、それをなんとかやり遂げてしまうと、いつもそこでむなしくなります。
自分を追い立てるように、無理な課題を立ててしまうからかもしれません。
達成すると疲れきってしまうわけです。
そうならないように、完結型にではなく、宿題がたくさん発生する仕組みにしているのですが、それが裏目に出ることもあります。
そうした私の性癖を、節子は知っていました。
だから、そこから生まれるいらいらは何でも引き受けてくれたわけです。

心底、私を知っている人が隣にいると、なぜか安心です。
その人がいないのであれば、ここは少し気分転換に自然の中にひたるのがいいかもしれません、
来週は予定を入れるのはやめましょう。

■2005:「喪が明けた」のかもしれません(2013年3月6日)
節子
春の気配が強くなってきました。
花の季節です。

庭の水仙が満開ですが、今年は寒かったせいか、河津桜もまだつぼみがありません。
鉢植えにしているので、水やりが不足していたかもしれません。
今年は庭の植木もかなりの打撃です。

先週はかなり根を詰めていたせいか、昨夜、少し体調不良を感じました。
今日は予定を変えさせてもらって在宅しましたが、うっかりとリビングで転寝をしてしまい、症状は悪化し、のどが痛いです。
困ったものです。

2日にやった集まりの反響がいまもあります。
当日、会場まで来たのに、遅れたため、みんな側になって話し合っていたので参加せずに帰ってしまった友人からのメールもありました。
この友人は、節子も知っている某大学の教授ですが、節子を見送った後、連絡が途絶えていました。
当日は、全員での話しあいの進行役だったので、彼が来たことにまったく気づきませんでした。
とても残念なことをしてしまいました。

そういえば、当日、久しぶりに参加してくれたある人は、私に会うなり、「どうやって生きているの」と訊いてきました。
どういう意味かわかりませんが、節子と一緒に、私も死んでしまったと思っている人もいるようです。
もちろん生物的な死ではなく、社会的な死ですが。
彼らにとって、私はまだ「喪中」だったのかもしれません。

伴侶を失った人と付き合うのは、おそらくあまり気乗りがしないことでしょう。
特に、伴侶を深く愛していることを知っている場合は、声のかけようもありません。
私なら、会うことさえも気が重いです。
しかし、そろそろ、そうした「喪が明けた」のかもしれません。
もう5年以上たちますから。

今年の8月に、節子の7回忌をすることを、今日、お寺さんに頼みました。
今回もこじんまりとやろうと思います。

■2006:冬支度(2013年3月6日)
節子
前項に書いたO教授からメールが来ました。

私も昨年9月に酔っ払って帰る最中、家内が見ている目の前で昏倒。
約10秒間あの世の手前に行きました。
そろそろ、冬支度を開始しようと思いました。

冬支度。
私たちの老後のイメージは、春でした。
陽射しのある縁側でのゆっくりした時間です。
Oさんは哲学者でもあるので、表現が豊かです。
冬支度というのも、納得できます。
冬支度して、春の縁側を待つ、というわけです。
今の私には「春の縁側」がないのですが、やはり冬支度は必要かもしれません。

Oさんとは出会ってからもう30年ほどでしょうか。
さほど深い付き合いはなかったのですが、彼が転職したのを契機に、時々、オフィスに来てくれました。
人の付き合いは、決して、長さでも深さではなく、相性なのかもしれません。
いや、相性と言うよりも、心身の波長でしょうか。
Oさんは、たぶん私の生き方に同調してくれたのです。
私が時に乱調して、自分の世界をはみ出そうとした時、彼はやめたほうがいいとやんわりと私に言いました。
全くその通りで、止めればよかったのですが、つい少しコミットしてしまい、見事に知人に利用されてしまった結果になってしまいました。
まあよくあることなので、私にはどうということはないのですが、Oさんはたぶんしんぱいしてくれていたのでしょう。

その先に来る春の陽射しを思い描くことのない冬支度は、どうも気が乗りませんが、節子に会うには、それもまた必要かもしれません。
久しく会っていないOさんに会いたくなりました。

■2007:家族のドキュメンタリーは観られません(2013年3月7日)
節子
3月11日が近づいたため、テレビでは一昨年の大震災にまつわる記録報道が増えています。
そこで話題になるのが、家族の絆や家族の支え合いの話です。
こうした番組を観るのは、とても辛いので、私は意識的にはほとんど観ませんが、どうしても目に入ってきます。
別れの悲しい話もあれば、一緒になって元気になっていく話もあります。
テレビのチャンネルを変えながら、どうしてみんなこういう番組が好きなのだろうと、思います。
取材されている当事者たちは、どんな気持ちなのだろうかと思うこともあります。

喜びも悲しさもシェアするほうがいい、とよく言われますし、私も体験上、そう思います。
しかし、これだけテレビや新聞で取り上げられるところを見ると、どうもそれだけの話ではなさそうです。
もしかしたら、視聴者や読者もまた、他者の悲しさや喜びを積極的にシェアしたがっているのではないかと、気づきました。

人は生来、喜怒哀楽をシェアする生き物なのかもしれません。
歌い、怒り、悲しみ、笑うこと。
そこでは、家族とか縁者とかは無縁なのかもしれません。
もちろん自分とつながりが深いほど、悲しさや喜びは大きいでしょう。
しかし、必ずしも、そうとはいえないような気もします。
まったく知らない人の悲しみに出会っても、自然と涙が出てくることもあれば、つながりの深い縁者でも、涙が出ないこともある。
そこには、その人とのつながりに深さとは別の基準があるような気がします。

他者の悲しさに出会って涙すると、心が洗われるような気になります。
そして、必ずといっていいのですが、その涙は、自分の悲しみにつながっているのです。
他者を悲しみながら、自分を悲しんでいる。
他者を悲しみながら、節子を悲しんでいる。
だからきっと、涙が心を明るくしてくれるのです。

そう思っていても、なかなか東北の家族の話はテレビでは観られないのです。

■2008:平凡で平安な生活(2013年3月8日)
節子
人生はいろいろありますが、私たちなどは実に平凡です。
バブルもなければ、どん底もなく、まあ、平安な人生でしょう。
妻に先立たれるという、夫としては、思ってもいない状況になったものの、平凡な人生であることは間違いありません。
たぶん、結婚した当時から今まで、慎ましやかに、生きてきています。
年収で考えると、1:5くらいの乱高下がありますが、なぜか生活水準はあまり変わっていません。
家族でエジプト旅行に行ったのは、唯一の贅沢かもしれませんが、まあたいした贅沢でもないでしょう。
25年も会社でがんばったのですから。

お金は使うものだと考えていますので、貯金はありませんが、なぜか自宅は持ち家で、ローンもありません。
まあ節子がやりくりしたのかもしれませんが、節子も私とさほど違わないほどの経済感覚の持ち主でした。
お金に依存することなく、質素に暮らしてきたことが、平安な理由かもしれません。
不思議なことに、お金が必要な時には、なぜかそこにあるのです。
まあたいした額ではないからかもしれませんが。

今付き合っている知人は、かなり乱高下の人生です。
一時は外車を乗り回し、贅沢をしていたようですが、今はその反対にあります。
彼と長電話をしました。
生活がかなり逼迫していて、自己破産してもおかしくないのです。
数年前に離婚もしました。
何とか彼の生活を立ち直らせたいと思って1年付き合ってきましたが、私もそろそろ限界に来ています。
それで、ついつい厳しい物言いになってしまいました。

たぶんかつては優雅な生活だったのでしょう。
私と会ったのは、もう10年ほど前ですから、当時は私のような地味な生活ではなかったのでしょう。
しかし、いまはどうでしょうか。

人生は、波風のあるドラマティックなほうが面白いかもしれません。
しかし、波風など全くない、地味な平凡な暮らしのほうが、豊かといえるかもしれません。
彼の人生は、お金に負けてしまったのかもしれません。
お金は魔物です。
何とかして、彼を立ち直らせたいと思っていますが、最近は私がつぶれそうです。
彼を元気付けたいのですが、萎えさせているかもしれません。

人生は平安なほうがいい。
つくづくそう思います。
節子がいなくなっても、なんとかこうして、地味で平安な人生が送れるのは、たぶん節子のおかげです。

■2009:2人で渡ればこわくない(2013年3月9日)
節子
また風邪をこじらせたようです。
困ったものです。
気持ちが萎えだすと、免疫力が低下し、風邪菌の活躍が盛んになるのでしょう。
まあ、仕方がないことではあります。

最近、気の萎えることが少なくありません。
問題は、萎えても、それを修復するすべがないことです。
だれかに元気付けてもらいたいのですが、最近はどうも、だれもみな気が萎えているようで、人に会うとますます気が萎えることのほうが多いのです。
原因は、私の中にあるはずですので、どこかでそれを反転させなければいけません。

先日、この挽歌で気分を変えようと書いたら、早速、それを読んだSさんから温泉に入りに来ませんか、とメールが来ました。
娘は、行ってきたらいいというのですが、そのメールが届いた直後にまた、問題発生です。
それを放置して、出かけるわけにもいきません。
しかし、そうした中途半端さがよくないのでしょう。

節子がいなくなって一人になると、自分勝手に行動できますから、行動しやすいはずです。
しかし現実はそうではないのです。
なにか気になることがあると、動きにくくなります。
節子と一緒であれば、まあ、そんなことは瑣末なことだ、といえるのですが、それができない。
いわゆる「みんなで渡ればこわくない」の心理が、たとえ2人であっても働くようです。
そうやって、節子がいた時には、いろいろと無茶をしてきました。
結果がどうでしょうと、2人だと受け止められます。
どんなにめげるような結果になっても、それもまた人生と開き直れるのです。
しかし、一人になると、その軽やかさは確実になくなります。
一人で考えてしまうと、そうそう無茶もできなくなります。
人生はますます退屈になる。
そのくせ、時に、とんでもない誤りをおかすことになるわけです。

一人身は必ずしも軽やかさにつながるものではありません。
私の場合は、多分、節子がいなくなってから、動きがとても悪くなったような気がします。
不安や失敗を、分かち合える伴侶の存在は大切です。
最近、つくづくそう思います。

■2010:臨床宗教師(2013年3月10日)
節子
今日も穏やかで、あたたかな日です。ところがどうも風邪が治りません。
今日も大事をとって在宅です。

明日で東日本大震災から2年です。
その関係で、さまざまなイベントが各地で行われていますが、残念ながらどれにも参加できずにいます。
2年前に、たくさんのいのちが失われました。

今朝の「こころの時代」に、通大寺住職の金田諦応さんが出ていました。そして、昨年9月に亡くなられた医師の岡部健さんの生前の活動が少しだけ紹介されていました。
金田さんと岡部さんとは、昨年、少しだけ立ち話をさせてもらったことがあります。
その当時は、岡部さんのことをあまり知らなかったのですが、その後で、岡部さんの生き方や活動のことを知りました。
ちょうどその日は、私自身が今日と同じように風邪気味で、お2人とお話しする機会があったにもかかわらず、参加せずに帰宅してしまったのです。
今にして思えば、とても残念なことをしてしまったという気がします。

岡部さんは医師ですが、白衣など着ることのない、実に個性的な医師だったようです。
3.11大震災の後、以前から交流があった曹洞宗僧侶の金田さんと一緒に、被災地でカフェ・デ・モンクという活動を開始しました。
私は、その話をお2人からお聞きしたのです。
これに関しては以前、書いたことがあります。
そういう活動を通して、岡部さんは「臨床宗教師」という構想を育て、東北大学にその講座ができました。
そして今は、そこから数名の臨床宗教師が生まれだしています。

今朝のテレビでは、見覚えのある普段着の岡部さんが、今際の患者の横で、「あの世ってどんなかなあ」とあっけらかんと語っている様子が映し出されていました。
あの世って、医療に世界にはないんですよ、それは宗教の世界だ、だから死を迎える患者には、あの世を語れる臨床宗教師が必要なんです、というようなことをお話になっていました。
これは岡部さんの深い思いですが、金田さんにその思いを託されたのだそうです。
岡部さんは肺がんの専門医で、2000人以上のがん患者を看取ったそうですが、ご自身もがんだったのです。
私がお会いした時には、もうご自身はそれを知っていたはずです。

日本人はなぜか「宗教嫌い」の人が多いのですが、私にとっては、宗教心は人間らしく生きるための不可欠な要素だと思います。
教団とは無縁です。
岡部さんの臨床宗教師も、教団や宗派を超えたものです。
キリスト教でもイスラム教でも仏教でもいい。
教団に属さなくてもいいのだろうと思います。
死を体験すると、そうしたことの意味がわかります。

「あの世ってどんなかなあ」と患者と話す岡部さんの姿に、何かとても大きなものを感じました。

■2011:「人間とは大きな命に繋がっているもんなんだ」(2013年3月10日)
岡部さんのことをもう一度書きます。
岡部さんの言葉で、とても印象的な言葉があるからです。

「亘理荒浜の被災地に立った時に感じたのは「合理的にものを考えられる場所も、空間も、時間もない、まるで空襲で爆撃を受けた様な状況」だった。そこに自分の身を曝したら、「ああ、人間と言うのは大きな存在にぶら下がって生きているんだな。個人が集合すると人間になるんじゃないんだ。実は逆なんじゃないか」と思った。
この想いは考えて得たものではない。ふっと湧いてきた。「あそうか!」と体にストンと落ちてきた。あの場では、物を考えるはずの自我そのものが破綻していた。破綻した時に何が人間の心を支えられたのか、と言ったら、人間とは大きな命に繋がっているもんなんだ。俺が死ぬなんて事は、本当にちっぽけな事なんだ、という様な事が、リアルな感覚として自らの中から湧き出てきた。」(東北大学実践宗教額寄附講座ニュースレター第2号から引用)

「人間とは大きな命に繋がっているもんなんだ」。
岡部さんは、たくさんの看取りとあまりの荒廃の中での衝撃の中で、そのことがストンと心身に入ってきたといいます。
これまでも何回か書いてきましたが、大きな命の一部であると思えば、生きやすくなる。
死ぬことの意味も変わってくる。
いささか大仰に言えば、不死感を得られるのです。
心が支えられたと岡部さんは言います。

岡部さんの最後の日々は、息子さんによれば、それはそれは穏やかで日常的だったようです。
もしかしたら、岡部さんは「大きな命」を通して、あの世と往来していたのかもしれません。
できるならば、私も早く、そうなりたいと思っています。

■2012:人はただ「存在する」だけでだれかの役に立っている(2013年3月12日)
節子
昨日、体験した地下鉄でのちょっとした事件のことを今日の時評編に書きました。
そこに、ある人の言葉を引用させてもらいました。
重ねて、ここでも書かせてもらいます。

隣席の女性は、佐藤さんの存在に救われたでしょうね。
誰かの力になるとは色々な形があると思う今日この頃です。

時評編を読んでもらえば、その意味がわかっていると思いますが、人はただ「存在する」だけでだれかの役に立っているのだということが、最近、よくわかってきました。
この挽歌ではよく書いていますが、「大きないのち」という視点で考えると、それは当然のことでしょう。
「大きないのち」にとっては、無駄な存在などないのです。
そこに気づけば、人は孤立などしないのです。
そこに気づけば、だれもに感謝の気持ちを持てるようになるでしょう。
それに気づけば、人は生きる自信をもてるようになるでしょう。
しかし、悲しいことに、多くの人はそれに気づかない。
そして、ある人が亡くなると、それに気づくのです。
誰かがいなくなることの、心の隙間は、そうならなければ気づけないのです。

人間はなんと鈍感なおろかな存在なのか。
最近、自らの愚鈍さを改めて思い知らされます。
もちろん、それは決して悪いだけとではありません。
愚鈍さの効用というものも、この歳になると少しわかるような気がします。

■2013:庭が無残になりました(2013年3月12日)
節子
春が来ました。
しかし残念ながら、わが家の河津桜は、今年は咲きませんでした。
これは完全に私の責任です。
河津桜は鉢植えにしているのですが、冬には家の裏に置いているため、水が不足していたのです。
そのせいで、つぼみが育たず、最初から葉桜になってしまいました。
それにしてもつぼみが一つもないのです。
桜だけではありません。
せっかく地植えにしたランタナも、今年の冬の厳しさでだめになったかもしれません。
節子の時代の花や木も大打撃です。
庭は無残な状況です。
やはり生き物は、心と手をかけないといけませんね。
節子がどれほど手入れをしていたかがよくわかります。
節子が大切にしていた、山野草も無残です。
まあ、しかしこれも仕方がありません。
節子がいなくなっても、何も変化がなければ、むしろ節子も悲しむでしょう。
変わればこそ、節子が生きていた証を感じられるからです。

しかし、いささか無残すぎます。
もう少しあったかくなったら、庭の手入れを始めようと思います。
毎年そう思いながら、いつも失敗していますが。

■2014:花かご会のみなさんが風の中で作業していました(2013年3月14日)
節子
昨日はすごい強風で、常磐線が運転を中止するほどでした。
その強風のなかを、花かご会の人たちが我孫子駅前花壇の手入れをしていました。
先日、友人さんからもらった幕張で来週開催されるフラワー&ガーデニングショーのチケットを届けました。
節子がいたら、率先して呼びかけるだろうと思ったからです。
みんな喜んでくれました。
花かご会のメンバーもだんだん歳を重ねてきていますが、こんなに風の強い日も頑張っているのに頭が下がります。
こうした地道な地元の活動が、私には欠けています。

それは、節子と私の生き方の違いでもありました。
私が節子に感謝していたことは、節子のおかげで、自分の生き方を相対化しやすかったことです。
それに、節子は素直に私の生き方の気になることを素直に指摘してくれました。
節子と2人で湯島にいると、一人だけではないたくさんの気づきもありました。
節子への対応を見ていると、初めて来た人も、その人柄がよくわかることもあります。
その人の、私への接し方も、相対化できるわけです。
そこで学んだことはたくさんあります。

花かご会のみなさんと知り合ったのも、節子のおかげです。
節子のおかげで、間違いなく、私の世界は広がったのです。
その私の最近の世界はどうでしょうか。
広がっているでしょうか。
それが少し心配です。

■2015:昼寝のおかげで元気になりました(2013年3月16日)
節子
風邪が治るようで治らない状況を相変わらず続けています。
昨日は、湯島で人と会っていたのですが、2人目の人の途中でなぜか急につらくなってきて、帰宅後、発熱してしまいました。
体力がなくなっていることがよくわかります。
挽歌も書く元気がなく、すぐに寝てしまいました。
今朝もあまり調子がよくなかったのですが、午後、久しぶりに昼寝をしました。
めずらしく2時間ほど快適な眠りを得ました。
おかげで何かすっきりして、風邪が治った気分です。

節子は、昼寝のできない人でした。
明るいと眠れないのです。
私は交通機関だと昼間でもよく眠れますが、なぜか自宅のベッドでは昼間はなかなか眠れません。
しかし、今日は疲労がたまっていたせいか、よく眠れました。
久しぶりに眠ったという爽快感がありました。
なにしろ毎朝、老犬のチビ太の鳴き声に起こされているものですから。

それにしても、今回はなかなか風邪が治りません。
たいした状況ではないのですが、なんとなく不調で、時々、微熱が出ます。
のどの痛みはなくなりましたが、良くなったかと思うとまたダウンする。
そんな連続なのです。
まあ娘に聞くと、最近はいつもそうだよというのですが、なにかすっきりしません。
その一因は、生活にメリハリがつけられないことかもしれません。
最近の私の生き方は、ともかくだらだらしています。
節子がいたころとは大違いです。

昼寝をして元気が出たような気分になって、いろいろやっていたら、夕方になって、またちょっとつらくなってきてしまいました。

生活態度をきちんと注意してくれる人がいないとだめなのかもしれません。
節子が最後まで心配していたように、どうも私は自立できていないようです。
実に困ったものです。

■2016:レネさんからの質問(2013年3月16日)
「自殺者1万人を救う戦い」を制作したレネさんをNHKが取材していますが、レネさんからメールが来ました。
家庭での生活ぶりも取材したいと言ってきたそうです。
レネさんはちょっと戸惑っているようで、メールで私に質問してきました。

Do you think my wife would agree to filming in my house?

なんとも答えようがないのですが、それで思い出したことがあります。
25年前、私が会社を辞めた時ですが、友人のマスコミ関係者に、私が会社を辞めた後、どうなっていくかを追跡したら面白いのではないだろうかと話したのです。
当時はまだ今ほど、転職は多くありませんでしたし、私の場合は転職というよりも会社を辞めた後のことを何も決めていなかったので、面白いと思ったのです。
大企業の安定した生き方を止めてしまったら、どうなるか。
我ながら興味のあるテーマでした。
ところが、彼からのオファーは、家族を巻き込んでの追跡取材はどうかということでした。
彼の関心は、家族がどうなっていくかだったのです。

家族に相談したら、総反対でした。
会社を辞めることには異を唱えなかった節子も反対。
当時の節子にとっては、家庭の情景を外部に見せるなどということは、全くありえない話だったのです。
娘たちにいたっては、それ以上で、冗談はお父さんだけにしてよ、というわけです。
それで断らせてもらったのですが、友人からは腰がすわっていないと後々まで言われてしまいました。

あの時、もし、節子を説得して取材を受けていたらどうなっていたでしょうか。
間違いなく、家族の人生は変わっていたでしょう。
節子は病気になっていなかったかもしれません。
まあ、しかし、歴史に「もし」がないように、人生にも「もし」はないのです。

カメラこそ入っていませんが、この挽歌は私の人生を思い切り公開しています。
節子がいたら、こうはなっていなかったかもしれません。
娘からはなんでもかでも書くのは止めてよ、と言われています。
しかし、隠し立てするような人生を、私は送りたくはないのです。
でもまあ、あまり暴露すると節子もきっと怒るでしょう。
ほどほどにしないといけません。

■2017:どっさりのあさり(2013年3月16日)
節子
九州の蔵田さんから恒例の春の便りです。
蔵田さんが近くの海で採取したあさりをどっさり送ってきてくれたのです。
自然のあさりなので、いつもとても立派なのです。
それでも年々、とりにくくなっているようですが、あさり好きの私のために、蔵田さんはたぶん自分のところの分も残さずに、私に送ってきてくれたような気がします。
蔵田さんは、そういう人なのです。
私は、いま、ペイ・フォワード方式でDVDを広げる活動をはじめましたが、蔵田さんもまた、ペイ・フォワードな生き方をしてきているように思います。
そういう人は、私の周りには少なからずいます。

早速に蔵田さんに電話しました。
お元気そうでした。
それにしても、といつも思います。
なんとまあ私たちは心あたたかな人たちに囲まれていることか。
にもかかわらず、なぜに節子は先に逝ってしまったのか。
このあたたかな思いやりを私だけで受けてしまうのが、私はいつもとても無念なのです。
でもまあ、私がこんなに元気なのは、そうしたたくさんの人からのあたたかな思いやりのおかげなのでしょう。

蔵田さんが電話の向こうで、あさりをたくさん食べると風邪なんか治りますよ、と言ってくれました。
さて、明日は、あさりのフルコースです。
きっと元気になるでしょう。

あさりは早速にお裾分けさせてもらいました。

■2018:人が多いほど幸せになれる(2013年3月19日)
節子
今朝、食事をしながら、テレビの「世界ふれあい街歩き」を見ていました。
ローマの下町編でしたが、普通のレストランで2人のお年寄りがカンツォーネを歌っている場面がありました。
即興だと思いますが、最近ローマには観光客が多くなり、迷惑がっている人もいるが、私はうれしい。人が多いほど、幸せになれるから、と歌っていました。
とてもいい声でしたが、この言葉のほうに感ずるものがありました。

人が多いほど幸せになれる。
たぶん、正しくは違った表現だったと思いますが、その言葉が私には残りました。
たくさんの人に出会えるうれしさ、たくさんの人と話し合える喜び。
そういえば、最近、そういう体験が少なくなりました。
もしそういう機会が巡ってきても、それに背を向けることが多くなりました。

最近、人と出会う機会も少なくなりました。
以前なら毎週、10人を超す新しい出会いがありましたが、最近は新しい出会いはさほどありません。
湯島で人に会う機会も、以前ほど多くはありませんし、しかも最近は友人知人が多くなりました。
私自身が少し人嫌いになっていることもありますが、わざわざ誰かに合いに出かけていくこともほぼなくなりました。
もしかしたら、それが最近の私の気力の低下につながっているのかもしれません。

人は、悲しい事件やさびしい事件が起こると、なぜか内に閉じこもりたがります。
少なくとも、私の場合はそうでした。
外に出て行こうとしても出て行けない。
出て行けたとしても素直になれない。
そして、ますます気が萎えてくる。
幸せとは程遠い構図ですが、幸せから逃避しようという無意識の志向があるのかもしれません。
それはそれで仕方がないのですが、そういう生き方がつづくと、そこから抜け出ようと思ってもなかなか抜けられなくなるのです。

でも、やはり、「人が多いほど楽しい」ことは間違いありません。
春になりました。
そろそろ街に出るのもいいかもしれません。

■2019:節子の遊び心(2013年3月19日)
節子
娘たちと4人で、お彼岸のお墓参りに行ってきました。
順の連れ合いの峰行も、今日はお店がお休みなので、一緒です。

最近は、月に1回くらいしかお墓に行かなくなってしまいました。
毎週行こうと決意していたのですが、寒いとついついさぼってしまいます。
まあ節子もそうしたことに「理解」の深い人でしたから、許してくれるでしょう。

お墓では、いつも私が般若心経をあげさせてもらいます。
供花は、花屋さんで買ったものに、必ずわが家の庭の花を添えることにしています。
今は水仙が満開ですので、水仙を持っていきました。
こうしたことは、節子の文化です。
それが娘たちにきちんと伝わっていくことをうれしく思います。

わが家のお墓には、よくみるとおかしなものが存在します、
お墓のまわりに敷いてある砂利をよく見ると、お地蔵さんの上半身が見つかるでしょう。
以前は全身の地蔵菩薩で、お墓に乗っていたのですが、強風時に下に落ちて割れてしまったのです。
さてどうするか。
わが家の文化では、簡単には廃棄しません。
半分に割れた上半身のお地蔵さんを、さりげなく砂利石のなかに埋め込むことにしたわけです。
知らない人が気づくとぎょっとするかもしれません。
なにしろお地蔵さんが土中から生えてきているのですから。

こういうなんでもない仕掛けが、わが家の文化でした。
思いもしないところにフクロウの置物があったり、浴槽に入って目の前に小さな枯山水の庭のようなものがあったり、部屋のガラスや障子に枯れ葉が付いていたり、そんなマイクロインテリアが節子は好きでした。
私も、それが気に入っていました。
とても、です。

しかし、節子がいなくなってからは、そうした無意味なインテリアは次第になくなってきました。
今となっては、節子のそうした遊びがとても懐かしく思い出されます。
私の生活を豊かにしてくれていた節子に、いまさらながら感謝です。

さてお墓の半地蔵ですが、まあ気づく人はいないでしょう。
それはいいとしても、お墓の掃除をしてくれている人に、ごみと間違われなければいいのですが。

ちなみに、お寺では観音菩薩や如来がいいですが、お墓ではやはりお地蔵さんです。
お地蔵さんには、親しみを感じます。

■2020:「とてもいい人生だった」(2013年3月20日)
節子
昨日書いた、テレビの「世界ふれあい街歩き」で心に残った言葉があります。
6歳の時に釘で大理石に文字を刻む遊びをしたのがきっかけになって、以来72年間、大理石に文字を刻む仕事をしている人の言葉です。
その人は80歳近くなる今も、自分の小さなお店で仕事を続けています。
そして、「遊びが仕事になって、とてもいい人生だった」と話していました。
ちょうどお昼時でしたが、仲間らしい3人ほどの人と一緒に食事をしていました。
毎日、この風景が続いているのでしょう。
とても幸せそうな風景です。
私も、会社を辞めて、節子と一緒に活動し始めて以来、遊びと仕事が重なりました。
とてもいい人生が始まったのです。
節子はどうだったでしょうか。

節子は、病状が悪化し話せなくなってしまってからのある日、私に鉛筆と紙を求め、そこに「とてもいい人生だった」と書いたことがあります。
当時の私は、節子との別れをまったく受け入れることができずに、そうした遺言的な節子の言動を受け入れることができませんでした。
いまになって思えば、節子のそうしたメッセージを、きちんと受け止められずに、聞き流す感じになっていたかもしれません。
当時の私には、「過去形」で人生を語ることはできなかったし、受け入れがたかったのです。
しかし、節子には先が見えていたのでしょう。
だから過去形で語れたのです。
「いい人生です」とは言えなかった。
その時になぜ、私は「いまも、これからもいい人生だよ」と応えられなかったのか。
悔やまれてなりません。
その時のことは、思い出すだけで、胸が詰まります。
涙も出てきてしまいます。
そして、今なお、深い罪の意識に襲われます。
過去形で語る節子と現在形でしか語れなかった自分との溝に気づくと、私は本当に節子と一緒に生きていたのだろうかという思いも出てきます。
だからその時のことは、あまり思い出したくないのです。
節子が書き残した、その時のメモを見る勇気も、まだ出てきません。
逃げているのかもしれない。
そんな気もしますが、いつかきっと素直に見られるようになるでしょう。
もしその前に、私が逝くことになったら、娘に頼んで一緒に送ってもらおうと思います。

「とてもいい人生だった」。
残念ながら、いまはまだ、そう言えない自分がいます。
たぶん、本当は、とても「いい人生」なのでしょう。
節子に感謝しなければいけません。
ありがとう、節子。

■2021:自然も単純に循環はしていない(2013年3月20日)
節子
各地で桜が咲き出しました。
残念ながら、今年のわが家の2本の桜は全滅です。

節子は桜が好きでした。
ギリシアのスニオン岬に行った時にも、ここに桜を植えたらどうだろうと言っていました。
ギリシア大使館に手紙を書いたような気もします。

春になると桜が咲く。
毎年繰り返される、そんななんでもないこともうらやましく思うようになりました。
毎年、生を繰り返す植物は、今の私にはとてもうらやましい存在です。
春が来て、桜が咲いても、一緒に見に行く人もいない。
私にとっては、桜の意味が全く変わってしまったのです。
そして、それまでの四季をめぐる循環的な暮らしが、何か先に向かって一直線に進む直線的な暮らしになってしまったのです。
最初は、悲しみが繰り返される循環的な暮らしだと思っていましたが、どうもそうではない。
戻ることのない、一方向に進むだけになったのです。
時間感覚が大きく変わってしまったのです。

これはもしかしたら、伴侶を失ったからだけではなく、年齢のせいなのかもしれません。
しかし、節子との別れが、それを意識化させたことは間違いありません。
一見、繰り返されるように思えて、もしかしたら来年はこないかもしれない。
節子との別れを体験したことで、それが実感できるようになったのです。
伴侶との一緒の暮らしは、永遠と続くわけではない。
そして、自らの人生もまた、永遠に続くわけではない。
そのことは、頭ではわかっていても、心身は循環に慣れてしまっていたのです。
朝が来れば日が昇り、春が来れば桜が咲く。
いつも隣に節子はいる。
しかし、その太陽も桜も、同じではないのです。
そして、節子のように、もしかしたらいなくなるかもしれない。

レーチェル・カーソンは「沈黙の春」で、循環が断ち切られる恐怖を予告してくれました。
しかし、それを頭ではなく心身で受け止めて、生き方を変えた人はほとんどいないでしょう。
エコロジストを自称していた私も、そう生き方が変わったわけではありません。
いつの間にかわが家も自家用車を買い、洗剤を使うようになってしまいました。

しかし、伴侶を失うと、考えが変わります。
今日と同じ明日が来るという確信が消え去ります。
だから今日を大事にし、明日を大事にしなければいけないと思えるようになるのです。
それを強烈に教えてくれたのが節子です。
闘病の時も、そしていなくなってからも。

妻の死と地球環境をつなげるには、いかにも牽強付会のように感ずるかもしれません。
しかし、時間感覚が変わると、世界は違ってみえてきます。
自然は、循環などしていないのです。
たとえそう見えたとしても、

■2022:勘違いを質す人の不在(2013年3月21日)
節子
人はよく勘違いするものです。
それを質してくれる人がいないせいか、最近、勘違いの連続です。
たとえば、先週から記録映画「自殺者1万人を救う戦い」のDVDを広げる活動を始めました。
呼びかけた途端にワッと連絡が来ましたので喜んだのですが、1週間したら、パタッと止まってしまいました。
1週間で用意した130枚がなくなるかも知れないと思っていたのに、実際にはまだ40枚も残っています。
1時間も自殺をテーマにした映画をみるというのは、かなりの壁があるようです。
そんなことは素直に考えたらすぐわかることです。
しかし、その渦中に入ってしまうと、その感覚がなくなってしまいます。

一昨日、放射線汚染に関する集まりをやりました。
10人の参加者がありましたが、これもわっと集まるのではないかと思っていました。
しかし、いろいろと呼びかけて10人です。
この集まりは3回目ですが、生々しい話を聞けるのに、なぜみんな集まらないのだろうと思ってしまいます。
そう思うのは企画者の勘違いなのですが、一人で取り組んでいると、自分の行動を相対化できないことが多いのです。

この3年間、私も活動を再開してきましたが、そうした勘違いが少なくありません。
そして厭世観や人嫌いに陥ってしまうわけです。

人は、いなくなってから、その存在の意味がわかるものなのかもしれません。
いる時に考えている意味は、まああんまり本質的なものではないようです。
節子のありがたさは、いた時といなくなってからとでは違います。
価値は、不在になってから生まれてくるのかもしれません。
改めて、節子と一緒に暮らした40年が、私の人生だったのだと思います。
節子はいなくなりましたが、それでもまだ、時に私の行動や考えを質してくれています。
ただ私がそれに気づくのが、いつも少し遅すぎるのですが。
困ったものです。

■2023:キルリアン効果(2013年3月21日)
節子
前の挽歌を書いていて思いだしたのが「キルリアン効果」です。
記憶が少しあいまいだったので、帰宅後、昔読んだ本を探し出して、キルリアン効果のところを読み直しました。
記憶していた内容と少し違っていました。
記憶とはかくも改竄されるものなのだと思いしらされました。

対象物に高周波・高電圧を掛けて発生させたコロナ放電による発光現象を撮影した写真のことをキルリアン写真といいます。
1930年代にロシアの電子工学技術者のキルリアンが開発したものです。
私の記憶では、これは生命活動による発光現象で、生命が失われても残像効果がしばらく残ることを証明したと記憶していました。
たとえば、植物の葉をキルリアン写真の装置に乗せて写真を撮り、その後、葉を取り出して、その半分を切除して、もう一度、撮影すると、切除された葉の部分のところにも発光が撮影されるのです。
あるいは、事故で右手を失った人のキルリアン写真には、右手もぼんやりと写っている。
そこにあるべき、あるいは存在した生命が、取り除かれてもしばらくは存在した証しを残すというのです。
生命の存在の証しがしばらくは残る。
私が記憶していた「キルリアン効果」はそういうものだったのですが、見つけた本にはあまりそうした記述がありません。
私の記憶違いか、あるいは別の本で読んだのかもしれませんが、それらしき本は見つかりません。

でもまあ細かな詮索はやめましょう。
大きな意味での人間の記憶は正しいというのが私の考えなのです。

先の挽歌につなげて書けば、こういうことです。
節子は彼岸に旅立ってしまったものの、その存在の証しは、いまなお此岸に存在するのではないかということです。
前の挽歌で書いたように、いなくなった節子が、いまなお私の行動や考えに影響を与えているということは、キルリアン効果と関係しているのではないか。
そう思ったのです。

身体は多くの人の五感で確認できる物理的存在ですが、生命は今の科学では存在を確実には追跡しきれていません。
ですから、五感では確認できなくとも、存在を否定しなければいけない理由はないのです。
さらに、もしキルリアン効果があるのであれば、節子の写真を撮れるかもしれないのです。
もちろん写真に撮ったところで意味はありませんし、撮りたいとも思いませんが、彼岸とのつながりを確認できるかもしれない。

その後、キルリアン写真はどうなったのか。
ちょっと気になりだしました。
すっかり忘れていましたが、少し調べてみたいと思います。

■2024:長寿信仰(2013年3月21日)
挽歌2010で、岡部医師のことを紹介しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/03/post-cb1c.html
その岡部さんの遺言としての聞き取りをまとめた「看取り先生の遺言」を読みました。
この種の本を読んだのは、節子を見送ってからは初めてです。
これまで「読む勇気」がなかったのです。
昨年、岡部さんとお会いした時には、すでに岡部さんは死を間近に確信していたのです。
実は、私は、その時に岡部さんに死相を感じていました。
でもたぶん、それは私の勘違いだろうと思っていました。
岡部さんのお話には、そんなことを微塵も感じさせないものがありましたし、講演の後、立ち話をした時も、その強い社会へのまなざしを強く感じたからです。
死を意識した人とは、とても思えませんでした。
しかし、その時には、もうこの遺言の聞き取り作業が進んでいたのです。
そのことを知って、読もうと思ったのです。

がんにことに関する詳しい部分は、さすがに冷静には読めませんでしたが、いくつか心やすらぐところがありました。
その一つが、「長寿信仰」への岡部さんの言葉です。 

がんになって思うのだが、長寿信仰は患者さんを非常に苦しめるということだ。長生きがいいなんて誰が決めたのだろう。世界の長寿国になったことがなぜいいのだろう。日本人はいつからこれほどまで長寿を信仰するようになったんだろう。
人間、60を過ぎたら、あきらかに生命体としての生存意義が終わっているのだ。ひと昔前なら、それ以上の長生きははかない夢に過ぎなかっただろう。それが医療の進歩によって可能性が出てきたため、いつの間にか目標に置き換わってしまったのである。
人間はほどほどでいいのだ。運がよければ長生きしている人もいる、くらいでいいではないか。60歳まで生きたんだからよかったな、で旅立たせでくれてもいいだろう。

岡部さんは62歳で亡くなりました。
奇しくも節子も同じ62歳。
この岡部さんの文章を読むまで、私は節子があまりにも早く逝ってしまったと思っていました。
それが、私の心をいつも苛むのです。
でも岡部さんは、「60歳まで生きたんだからよかったな、で旅立たせでくれてもいいだろう」と言うのです。
少し気が楽になりました。
もちろん、私にとっては、早すぎたという思いは変わりませんが、でもどこかにほっとする、
少し救われた気持ちが生まれました。

長寿信仰に、私もすっかりと浸かっていました。
長生きするに超したことはありませんが、長ければ良いわけでもない。
私自身も、長生きしようなどという執着はなかったのに、いつの間にか長生きが良いことだという思いになっていました。
大切なのは「長さ」ではなく「自分らしい人生」です。
節子は、節子らしい人生を生きたことは間違いないような気がします。

この本は、遺言などと書かれていますが、岡部さんの生き生きした人生が伝わってきます。
なぜ昨年お会いした時に、もっとゆっくりと話さなかったのか、改めてそれが悔やまれます。
恥じ入るばかりです。

■2025:最後に話したい人(2013年3月23日)
節子
昨日、社会教育的な映画制作をしている斎藤さんがやってきました。
前に菊井さんと一緒に湯島に来たことがあるのですが、今回は映画制作の話でやってきました。
いろいろとお話をお聞きしていると、共通の友人知人が見つかりました。
人間は、長い人生を送っているとつながりが生まれることがよくわかります。

それはそれとして、いま、その会社で「看取り」関係の映画を制作中とのことです。
「看取り」は社会の大きな問題になっていくでしょう。
しかし、実際に看取りをした人は、そう多くはないかもしれません。
私は父母と妻の3人を看取りました。
娘たちも同じです。
そういう意味で、私も娘も、死への恐怖や偏見は少ないと思いますが、最近の二世代家族化や病院死の増加の中で、死を実感する機会がない人も多いでしょう。

その看取りに関して、斎藤さんが面白い体験を話してくれました。
あるお寺で、死を迎える最後に、もし3人の人と話すことができるとしたら、誰にどの順序で呼びたいかというワークショップをやったことがあるそうです。
人によって、全く違っていたといいます。
節子は、どうだったでしょうか。
実際には、節子は私と娘2人に看取られましたが、もし自分で選択するとしたらどうだったか。
間違いなく、その3人だったでしょう。
もし一人だったら、それはもちろん私でしょう。
その確信はあります。
私の場合も全く同じです。

しかし、伴侶は必ずしも選ばれないかもしれません。
先日、紹介した岡部医師は、家族ではなく、カール・ベッカーを選びました。
彼岸に旅立つ5日前の、岡部さんとベッカーさんの短い対談は「看取り先生の遺言」(文芸春秋社)に収録されていますが、実にさわやかで、示唆に富んでいます。
その対談のそばに、奥様がいたのではないかと思いますが、伴侶や家族は生活共同者ですから、むしろ選ばれないのかもしれません。
伴侶を選ぶようでは、まだまだ一心同体にはなっていなかったのではないかという気もします。
にもかかわらず、私は最後にはまた節子と話したいと思います。
それは、まだまだ節子と話したいことがたくさんあったからです。
私たちは、お互いにかなり話し合った夫婦だと思いますが、話せば話すほど話したいことは増えていくものです。

とても残念なのは、節子がきちんと話ができるときに、ゆっくりと話す時間を持たなかったことです。
私もそうですが、娘たちもそうです。
節子がもし、私たちに何かを言い残すとしたら、何を言い残したでしょうか。
そのことが、時々、ちょっと気になることがあります。

■2026:お迎え(2013年3月23日)
節子
前の挽歌でも書きましたが、最近、何回か紹介している岡部健医師の聞き取りを本にした「看取り先生の遺言」を読みました。
そこに出てくる話題のひとつが「お迎え」です。
彼岸からのお迎えということですが、私が子どものころは、高齢者がよく「そろそろお迎えがくる」とあっけらかんと話していたものです。
そうした発言には、むしろ「お迎え」を待ちのぞむといった姿勢がありました。
お迎え文化があれば、死は決して怖いものでもありませんし、終わりでもないのです。
そうした「お迎え文化」は、最近ではなくなったようです。

岡部さんはこう書いています。

お迎えは、ナチュラル・ダイイング・プロセス(自然死の過程)の、臨終に近づく過程で人間に起こる生理的現象ではないだろうか。
昭和30年代の高度経済成長期から以降、コミュニティがなくなり、伝承性が断ち切られ、病院で死ぬことが普通になると、「お迎え」なんて開いたことのない人が圧倒的多数になってしまった。すると、「実はおじいちゃんにお迎えが…」といった日常の中で交わされてきた言葉が、非合理的でいかがわしいものとして隠されるようになる。

しかし、遺族を対象にしたある調査では、4割以上の人が「お迎え」があったと認めているそうです。
岡部さんは、「お迎えをベースに、まず生の死を見つめること」が大切だと話しています。

節子の実母と私の実母とは、死に対してはかなり対照的でした。
節子の母(浄土真宗)は、そろそろお迎えが来るとかお迎えが来る前にとか、死に関してあっけらかんと話していました。
それに対して、私の母(曹洞宗)は、胃がんになってからでさえも、一度も「死」や「お迎え」の話を自分からはしませんでした。
そのためか、死を軽く語ることが不謹慎な雰囲気でした。
この違いは、節子とはよく話題にしたものです。

ところが、節子が病気になってからは、節子からはお迎えの話はまったく出てきませんでした。
私からも、「お迎え」という言葉は出てきませんでした。
あまりに「死」が身近すぎていたからかもしれませんが、死に関してもあまり話し合った記憶がないのです。
病気が見つかる前までは、よく話していたのですが。

「お迎え」に関して地道な調査に取り組まれているのが、カール・ベッカーさんだそうです。
お迎えに対する考え方が同じだったがゆえに、岡部医師とベッカーさんは交流を始め、岡部さんは旅立つ前に話す人として、ベッカーさんを選んだのだそうです。

お2人の対談は、さりげないものですが、強烈なメッセージ性を持っています。
生と死に対する、これほどの対談を私は読んだことがありません。
ベッカーさんが岡部さんに「まだそういう気配(お迎え)はないでしょうか」と訊くとp壁さんは笑いながら「もうちょっとだな」と応えます。
ベッカーさんは、「ちょっと聞いてみただけ。急がれなくていいから(笑)」と言葉を急いで重ねますが、このやり取りが、死を直前にした人とのやりとりなのです。
なんと平安なことか。

対談の6日後に、岡部健医師は息を引き取ります。
その半年前に、私は岡部さんと立ち話をする機会をもらいながら、そういう話をまったくしらずに、機会を活かせずに終わってしまいました。
でもその時の、「絆とみんないうが、それがいやで捨ててきたくせに」と吐き出すように話した岡部さんの言葉が、ずっと心身に刺さっています。
以来、私は「絆」という言葉を使うのを止めています。
それが私にとっての、唯一の岡部さんとのつながりです。

■2027:なぜ節子は幽霊になって戻ってこないのでしょうか(2013年3月23日)
節子
挽歌がたまっているので、岡部さんの「看取り先生の遺言」からの話を続けます。
今度は「幽霊」の話です。

東日本大震災の後、被災地では幽霊を見た人がたくさんいるそうです。
しかも、これまでは幽霊の存在など信じていなかったような人もたくさん幽霊に出会っているのだそうです。
岡部さんは、こう書いています。

今、被災地では幽霊がたくさん出ている。見た人はいっぱいいるのに、医者には言わないのである。もっとも、へたに言えば、異常でもないのに精神異常にされかねないから、言わないのだと思う。今回はあまりにも多すぎるから医療界にも伝わっている。

そうしたことに、被災者が何を感じ、何を欲して.いるかということの本質が出ているのではないかと岡部さんは言います。

幽霊は、この世とあの世をつなぐ媒体の一つです。
科学で合理化された今の時代は、そうした幽霊には居場所はなくなってしまいました。
「合理性というバリアを張っていた近代的都市の枠組みが、あの震災と津波で一瞬にして壊れてしまった」。
そして、それまで「合理の世界」から追い出されていた幽霊が、戻ってきたのではないか、と岡部さんは言います。
とても共感できますし、近代合理主義に辟易している私としては、幽霊に頑張ってもらいたいという思いもします。
幽霊の問題に関しての岡部さんの指摘はとても示唆に富むものですが、もしご関心があれば、ぜひ本を読んでみてください。

ところで、幽霊の「生きる意味」はなんでしょうか。
おかしな設問ですが、人に生きる意味が大切なのであれば、幽霊にもまた「出てくる(生きる)意味」があるはずです。
そして、その意味とは、幽霊に出会った人にとってのものか、幽霊となって出てきた人にとってのものか。
これは意味深い設問です。
こう表現を変えてもいいでしょう。
幽霊を求めているのは誰か、と。

岡部さんは、幽霊を見たという事実から始めなければ、被災者のケアにはならないと話しています。
だとすると、幽霊を求めているのは「見た人」であり、見た人にとって幽霊が必要だったのです。
しかし、俗説では、幽霊は成仏できない魂の現われと言われます。
岡部さんも、あるところで、お経を唱えるだけで幽霊は出なくなるというようなことも話しています。
だとすれば、幽霊を求めているのは幽霊の本体かもしれません。
しかし、たぶんそのいずれでもないでしょう。
幽霊は、残されたものと逝ってしまったものとの相互関係の中から生まれてくるのだろうと思います。
つまり、関係性を修復するためのものではないかと私は思っています。
世の中には「幽霊学」というのもあるそうですので、そうした研究の中で、もうこんなことは明らかになっているのかもしれません。

節子を見送った後、私は節子の幽霊に会えていません。
節子の幽霊が出てこないのは、私にも節子にも、幽霊が必要ないからとも言えるわけです。
あるいは、彼岸の節子と此岸の私の関係性は政情であり、修復は不要なのだといえます。

それは喜ぶべきかどうか。
夢の中の節子は、身体を持っていない場合が多いので(節子を実感する雰囲気の場合が多いのです)、たとえ足のない幽霊でもいいですから、節子に会いたいと思っています。

節子はもう私たちに伝えたいことはすべて伝えているのでしょうか。
節子はかなりアバウトの人だったので、もういいかと思っているのかもしれません。
しかし一度くらい出てきてもいいでしょう。
一度も出てこないとは、困ったものです。

■2028:あの世の存在(2013年3月24日)
節子
作家の遠藤周作さんが「あの世」に関心を持っていたことは有名な話ですが、「看取り先生の遺言」にも紹介されていますが、グリーフケアで有名な高木慶子さんに「宗教家が、はっきりあの世があると言ってくれないからいけないんだ」と言ったという話が紹介されています。
岡部さんは、もし「あの世があると信じられるなら、日本人はおおむね死に際して不安感が強く出ない」だろうと考えていたようです。
たしかに、あの世の存在を確信していたら、死は転居でしかありません。
不安もあるでしょうが、期待もある。

最近は会っていませんが、「生きがいの創造」で有名になった飯田史彦さんによれば、来世もまた、同じクルーで人生が構成されるそうです。
飯田さんと私は前世で岩木山に登った仲のようですが、残念なのは、その記憶が必ずしも残らないようなのです。
彼には残っていても、私には残っていない。
来世で、節子に会っても、節子が私を忘れていることは、たぶんにあります。
まあ、私が忘れていることも同じようにありますが。

しかし、来世とあの世とは同じでしょうか。
たぶんまったく違うものでしょう。
「あの世」には一方向に流れる時間はなく、従って「前世」とか「来世」という概念はないはずです。
前世も来世も、そして現世も、織りたたむようにしてあるのが「あの世」なのです。
つまり、現世は「あの世」に包括されるわけです。
だから、いまも節子はここにいる。
そう思えば、遠藤さんが言うように、死への恐怖は少なくなるでしょう。
死は、この世を卒業して、大きな世界に行くことになります。
まさに旅立ちなのです。

なぜ「あの世」の存在が非合理な世界に閉じ込められているのか、私には理解できません。
「この世」があるのであれば、その外側に「あの世」が存在することは否定しようのないことだと私は思います。
もちろん、その存在は確認しようがない。
しかし、「この世」という概念は、必然的に「あの世」を想定しているように思えます。
だからといって、この世からいなくなることがそのままあの世に移ることではありません。

しかし、「この世」を此岸とし、「あの世」を彼岸とすれば、旅立ちの先は彼岸になります。
多くの臨死体験者が語るイメージも、水平をイメージする川と船です。
「岸」という言葉がイメージを実体化させたのか、体験が「岸」という言葉に帰結したのか。
たぶん後者ではないかと、私は思います。
黄泉の国やハディスの冥界は、地下というイメージがありますが、それは三次元でしか考えられなかった「知識人」が考えたからでしょう。
次元にこだわらなければ、空間からも自由になれます。
知識は、時に世界を狭めます。
私は「あの世」の存在を確信しています。

■2029:拝み屋さん(2013年3月24日)
節子
昨日から時間の合間を見つけては、挽歌を書いています。
遅れを挽回して、「節子暦」に番号を合わせたいと思っているからです。
しかし、書き続けていると話題は似てきます。
今日もまた、「看取り先生の遺言」につながる話です。
この本に、とても興味のある話が出てきます。

東北には、お坊さんとは別に拝み屋さんという女性がいる。「仏おろし」を職業とする人たちである。恐山のイタコや沖縄のユタがよく知られているが、ご先祖の魂を降ろしてきて話をする、いわばシヤーマンたちである。
人が亡くなると、拝み屋さんが亡くなった人の魂を降ろしてきて、その場で死者とコミュニケーションをとる。遺族がどんなに悲嘆を抱えていても、その瞬間にグリーフケアは終わってしまうのである。

お盆にお寺さんにお経をあげてもらった後、こっそり拝み屋さんにご先祖様を降ろしてもらうこともあるそうです。
これは東北や沖縄にかぎった話ではありません。
たまたま東北や沖縄には、長い歴史の中で培われていた文化が残りやすかっただけの話です。
私の知り合いの福岡の加野さんは、いまも定期的に「拝み屋さん」のところに行って、娘さんとの交流を続けています。
私も、加野さんに誘われて一度、拝み屋さんに頼んで、節子の魂を降ろしてもらったことがあります。
その時、レコーダーを持っていって録音したのですが、結局、その録音は聞いていません。
もう記録は消えてしまったかもしれません。
そのレコーダーそのものを使わなくなってしまってからもうかなりたちますので。

「拝み屋さん」は彼岸と此岸を往来できる人です。
私の周辺でも、拝み屋さんの話をすると笑う人は少なくありません。
私自身もまじめに話すことを躊躇してしまう気持ちがあります。
しかし、私自身は素直に拝み屋さんのことは受け入れています。
理解できないことを疑うのは、知識人の悪い癖です。
理解できないことあればこそ、真剣に受け止めなければいけません。
節子は、付き合いだしてから、私のあまりに「非常識」な話を半信半疑ながら受け入れてくれました。
節子には、安心して、素直に何でも話せました。
節子は、私以上に、「知識の人」ではありませんでしたから。
現実を受け入れるのは、知識によってではなく現実によってでなければいけません。

節子とは、しかし、「拝み屋さん」の話はしたことがありません。
「拝み屋さん」を通しての節子との交流を、節子は同受け止めたでしょうか。
やはり修の言っていた通りだと思ったかどうか。
少なくとも、彼岸に関しては、節子のほうが詳しくなっているでしょう。

■2030:河津桜を節子に供えました(2013年3月24日)
節子
ようやく「節子暦」に挽歌のナンバーが追いつきました。
今日は、節子が彼岸に行ってから2030日目です。
その2030年目の今日は、本来であれば、例年よりもかなり早目の桜の満開日ですが、とても寒い日になりました。
しかも、私自身もあまり調子がよくありません。
お花見どころではないのです。

最近、体調が優れないことをこのブログやフェイスブックで書いているせいか、心配してくれる人がいます。
先日も岐阜の佐々木さんがこれを飲むと元気になるといって高麗人参の錠剤を持ってきてくれました。
私のことを知っている佐々木さんは、ちゃんと飲まないのであれば持って帰るというので、飲まなければいけません。
翌日から毎朝きちんと飲んでいます。
それでも元気が出てきません。
困ったものです。

さてそんな状況で迎えた2030日目。
わが家の桜の花も全滅なので、節子にも供えてやれないなと思っていたら、敦賀の節子のお姉さんから河津桜が届きました。
河津桜を見に行ったのは、敦賀の姉夫婦と一緒でした。
そこでそれぞれ河津桜を同じお店で購入しました。
ですから、わが家と敦賀の河津桜は兄弟桜のようなものです。
今年は手入れが悪かったため、わが家の桜は咲きませんでしたが、敦賀の河津桜は大きく育って満開のようです。
梅切らぬ馬鹿、桜切る馬鹿と言われていますが、節子のために桜を切って送ってくれたのです。
仲の良い姉妹でした。

今年の私のお花見は、この河津桜だけになりそうです。

■2031:最後に行きたいところ(2013年3月25日)
節子
今日は桜冷えの寒い日でした。
春はそう簡単には来てくれないようです。

湯島の様々なサロンによく参加してくれていた菊井さんがしばらく顔を見せないなと少し気になっていましたが、先週、メールが来ました。

実は、暮れからガンで入院、年越しました。
昨年目標の一つであった、ポーランドはアウシュビッツを訪ねることができたの
は良かったのですが、7月に消化器の変調があり、検査を繰り返す中で、直腸ガンに侵されていることがわかりました。
いまは放射線治療や抗がん剤の副作用が残っていて、体力回復を待っている毎日です。
いずれ、再会し、お話できる日を楽しみにしています。

そういえば、最後に会ったのが、アウシュビッツに行ってきた後でした。
その時は時間がなくて、お話をお聞きできませんでした。
なぜ菊井さんがアウシュビッツに行きたかったのかも含めて、きちんとお話を聞きたいと思っていたことを思い出しました。
思い出しながら、人は最後にどこに行きたがるだろうと思って、ある後悔をまた思い出してしまいました。
節子が最後に行きたいといっていたのは、湯河原だったのです。
元気になったら行こうと話しているうちに、節子の病状が急変し、行く機会を失してしまいました。
そのことを思いだすと、いつも胸が痛みます。
あの時は、行こうと思えば行けたのです。
無理をしてでも、連れて行くべきだったと思いますが、当時は家族みんなが節子は治ると思い込んでいたのです。

最後の家族旅行は房総の花畑でした。
この時の節子はもう歩くのも辛かったのですが、節子は楽しんでくれました。
でも本当はあの時も湯河原と箱根に行きたかったのかもしれません。
節子は箱根が大好きでしたから。

私が最後に行きたいところはどこでしょうか。
まったく思いつきません。
節子がいなくなってからは、どこにも行きたいと思わなくなったのです。
いまの私にとって、行きたいところはただ一つ。
節子のところです。
菊井さんには怒られそうですが。

菊井さんが元気に湯島に顔を出すのを心待ちしています。

■2032:大阪での空白時間(2013年3月26日)
節子
大阪に来ています。
最近は大阪に来る機会も減りました。一人旅が好きでないこともありますが、特に東海道新幹線が苦手なのです。
以前は大阪に来ると目一杯予定をいれてたくさんの人に会いましたが、最近はその元気もありません。
今回も迷っているうちに、午後に空白の2時間ができてしまいました。
さてどうするか。
四天王寺にでも行こうかと思って、気がついたのですが、もしかしたら節子と一緒に大阪に来たことがないかもしれません。
私は一時期は毎週のように大阪に通っていましたが、考えてみると仕事以外で大阪に来た記憶がありません。
ですから、たぶん節子と一緒にきたことはないでしょう。
いつも一緒に行動していたようで、あんまりしていなかったのではないかという気がしてきました。

仕事で大阪に来ていたころ、時間ができると電話してよく会っていた友人も、何人かはもう鬼籍に入りました。
そうでなくとも、会社を引退してからはなかなか会うのも難しくなりました。
今日も実は一昨日、友人にメールして、この2時間に会う予定だったのですが、その友人から昨日電話があり、約束した場所に来たのにどうしたのかというのです。
彼の早とちりで、1日間違っていたのです。
まあお互いに歳のせいか、こんなこともあります。

アイパッドでメールを確認したりFacebookを見ていたり、こんな記事を書いていたら、四天王寺に行く時間がなくなりました。
昔と違って行動量が半減しています。
それにまだあんまり体調がよくなく、どうもゆっくりしていたほうがよさそうです。
さてどうするか。

■2033:伴侶を亡くされた方からのメールに気づきました(2013年3月27日)
節子
フェイスブックには思わぬ落し穴がありました。
せっかく送ってくれたメッセージが隔離されることがあるのです。
たまたまそのことを知って、調べてみたら、いくつかの私宛のメッセージが気づかないまま放置されていました。
そのひとつに、面識のないOGさんという方からのメッセージがありました。
一昨年の秋に受信していました。
こんな文面です。

何かを検索していて、佐藤さんのブログに至ったと思います。かなり読ませていただきましたが、ボリュームに圧倒されました。特に奥様に関する記述は、私の経験に極めて近いものがあり感動しました。私はS22年生れですが、妻は丁度3年前の10月に50歳で生涯を閉じました。奥様との関わり、病状などあまりに共通点が多く絶句した次第です。

このメッセージに気づかずに1年以上経過してしまっていたのです。
結果的には無視したことになってしまっていたわけです。
大変申し訳ないことをしてしまいました。
もし気づいたら、すぐにメールしたはずです。

50歳とは、節子よりも一回り早く旅立ったわけです。
節子以上に心残りであり、私以上に戸惑いは大きいでしょう。
1年も無視してしまう結果になったことを深く反省しました。
すぐにメールを出すとともに、フェイスブックでの友だちリクエストを出しました。
幸いに、すぐに戻ってきました。
いつかお会いですることもあるでしょう。

フェイスブックに限りませんが、ネットで自らをさらけだしていると、見ず知らずの人からのアクセスがあります。
その時にどう対応するかは、あまり思慮深くない私でも、少しは考えます。
しかし、伴侶を失った人への対応は、とても苦手です。
思いが入りすぎてしまうからです。
その一方で、みんな、私と違ってしっかりしているなと思うことが多いです。
私はもう6年目なのに、まだ同じところを彷徨しているような気がします。
涙が出ることは少なくなりましたが、まだ現実を受け容れられずにいます。
この挽歌に示されるように、なかなか自立できずにいるのです。
前が向けていないのかもしれません。

OGさんはどうでしょうか。
奥様を亡くされた方が湯島に来たことはありますが、なぜかうまくお互いに心を開けなかったのか、付き合いはなかなか続きません。
早くお会いしたいようで、したくないような、ちょっと複雑です。

■2034:社会からの健全な脱落ぶり(2013年3月28日)
節子
一昨日、大阪でいずみホールの支配人の篠原さんにお会いしました。
いずみホールは住友生命ご自慢のコンサートホールで、以前からお話はいろいろとお聞きしていました。
節子が元気だったら、一度は行きたかったところですが、残念ながらお話をお聞きしたころには、節子は既に体調を崩していました。
ですからまだ行ったことはありません。
今回も、ぜひ一度、来てくださいといわれましたが、たぶんお伺いすることはないでしょう。

コンサートは、私よりも節子が好きでした。
節子と出会ったころは、むしろ私のほうが好きでしたが、いつの間にか節子のほうがアートフルな生活になってしまいました。
私は、次第に仕事人間になり(いわゆる「仕事人間」ではありませんでしたが)、音楽会も美術展も足が遠のきました。
学生のころは毎週のように通っていた博物館や美術館も、節子の誘いがなければ行かなくなってしまいました。
会社を辞めてから、節子と行動をともにしようと思って、節子の誘いにはできるだけ同行しましたが、昔のような感動は覚えなくなりました。
結婚して変わったことは、他にもいろいろとありますが、これもその一つです。

一度だけ私から節子を誘ったことがあります。
たしかベルリン交響楽団がサントリーホールで「運命」を演奏した時でした。
感動的な演奏でした。
その時に、偶然に演奏の合間に、知り合いの牛窪一牛さんご夫妻に会いました。
お2人も聴きにこられていたのです。
牛窪さんとは仕事で数回会っただけでしたが、それとは別に、日本経営品質賞のもとになったマルコム・ボリドリッジ賞を通じて、気持ちの上でつながりがありました。
ボリドリッジ賞の論文を、「ハーバード・ビジネス・レビュー」で最初に翻訳紹介させてもらったのは私ですが、日本経営品質賞の導入に取り組んでいた牛窪さんは、私がボリドリッジ賞には「価値議論」が欠けていると批判的だったのを知っていてくれたのです。
私は、当時から安直な経営の制度化には違和感があり、そうした動きからはいつも脱落していました。
いまもなお脱落しつづけていますが。

話もどんどんおかしな方向に脱落していますね。
さらに脱落すると、その時、牛窪さんから、いつか経営品質賞に関してお話したいと言われました。
しかし、その後、牛窪さんに会うことはありませんでした。
牛窪さんが急逝されたのです。
私には衝撃的でした。
たぶんボルドリッジ賞に関して、議論ができるただ一人の人と思っていましたから。
牛窪さんの訃報を聞いてから、ボルドリッジ賞にも日本経営品質賞にも、私は全く関心を失いました。
こうやって、私は社会から脱落し、節子の世界へと落ち込んでいったわけです。

篠原さんや他のみなさんと一緒に、ちょっと贅沢なホテルでのランチを食べながら、昔はこういう世界に生きていたんだなととても懐かしい思いがしてしまいました。
懐かしさを感ずるほど、私は健全に社会から脱落し続けているようです。
節子がいなくても、なんとか脱落し続けられるようです。
節子もきっと安心していることでしょう。

来世では、いずみホールに節子と一緒に行きたいと思います。
篠原さんが支配人でいてくれるといいのですが。

■2035:自分の魂の復活(2013年3月29日)
節子
少し前に幽霊の話を書きましたが、昨夜、夜中に目が覚めた時に、突然、宮沢賢治のことを思い出しました。
宮沢賢治も幽霊に出会っているのです。
それも一度ならずです。
最愛の妹のトシ子の幽霊(この表現は適切ではないと思いますが)に会ったことも友人に何回か語っています。

幽霊ではありませんが、「荒城の月」の作詞者として有名な土井晩翠夫妻も、2人の子どもを亡くした後、当時有名だった小林寿子という霊媒師を介して、子どもたちと何回も話し合っています。
最初は懐疑的だった奥様も、こう話したとある本(「あの世はあった」)に書かれています。

小林夫人の御身体を拝借して出て来た霊は、私共の愛する娘と息子に毛頭相違ありませんでした。この時の思いは千万無量、到底筆舌にはつくすことが出来ません。今はこの世にない最愛の二児が霊界に生きていて、小林夫人の御身体を拝借すれば、何時でも話が出来るという事実を知った時の驚喜は無上無限、全く自分達夫婦の魂の復活でした。

改めてこの本を読み直して気になったのは、「何時でも話が出来るという事実を知った時の驚喜は無上無限、全く自分達夫婦の魂の復活でした」というところです。
子どもたちの復活ではなく、自らの魂の復活です。
死者に支えられて生きる魂。
死者と生者は、そこではクロスしています。

大宰府の加野さんのことを思い出しました。
加野さんも娘さんを亡くされた後、大日寺の庄崎師を通して毎月のように娘さんと会話しています。もうご高齢なのに、今もなお、魂のオーラを感ずるのは、そのせいかもしれません。

賢治はトシ子の身体を目にしています。
自分の部屋にまで招きいれたという話も残っています。
土井夫妻は、おそらく姿は見ていないでしょう。
現れ方は違いますが、私にはいずれも自らの心身の中に今もいる「愛する人」との出会いであり、会話なのだろうと思います。
生を支えているのは、長い歴史に残っている多くの死者なのです。
幽霊とか霊媒師というと、なにやら胡散臭さを感ずる人が多いでしょうが、実際に体験した人にとっては、そんなことはどうでもいいでしょう。
現に体験し、魂の復活さえできたのであれば、ただただそれを受け入れればいいだけの話です。

宮沢賢治の、不思議な物語が、なぜ今も人気なのか。
それはたぶん「絵空事」ではないからです。
心身を素直に開放すれば、世界の見え方は違ってきます。
賢治が生きていたのは、そういう世界だったのではないかと思います。
賢治もまた、トシ子とともに、彼岸と此岸を超えてしまった生き方をしていたのかもしれません。

■2036:過去を語ることの大切さ(2013年3月31日)
節子
昨夜、「小さな村の物語 イタリア」の143回目をテレビで観ました。
その内容に関しては時評編にも書きましたが、それを観ながら、私たち夫婦にはほんとうに「生活」があったのだろうかとちょっと心配になってしまいました。
今から考えると、私たちはゆっくりしていたようで、あまりゆっくりしていなかったような気がします。
確かに2人で話し合う時間は多かったですし、一緒に旅行にもよくいきました。
しかし、このテレビに出てくる夫婦を観ているとどこか違うのです。
それは毎回感ずることでもありました。
いったい何が違うのか。

今日、時評編を書きながら、違いが少しわかったような気がしました。
それは、私たちはあまり「過去を語りあう時間」がなかったことです。
私たちの話は、いつも、過去ではなく未来であり、少なくとも現在でした。
過去はいつかゆっくりと振り返り楽しめる時が来る。
節子も私も、そう思っていたのです。
そのための写真もビデオも、そして思い出もたくさん残していました。

しかし節子が逝ってしまったために、私たちには過去を語る時間がなくなってしまったのです。
2人で懐かしむためにあったであろう、さまざまな苦労やつらさ、喜びや楽しさ、そういうものがすべて無意味になってしまったのです。
語り合う節子がいなくなれば、写真もビデオも、思い出も、すべて無意味な存在であるばかりか、そこに「いのち」を与えることもできません。
写真もビデオも、見る気にもなれません。
不思議なことです。

「生きる意味」を問い続けたフランクルは、「過去」こそが大事だといっています。

過去というのはすべてのことを永遠にしまっていく金庫なのです、とフランクルは言います。

過去は、その人の人生を豊かにするかけがえのない財産というわけです。
しかし、節子がいない今となっては、そのかけがえのない財産も、「宝の持ち腐れ」かもしれません。

私たちの「生活」はあったのかという、最初の問いに戻れば、生活とは、そうした大事にためてきた「過去という財産」を楽しむことなのではないかと、この番組を見ながら、いつも思うのです。
前だけ向いて進むというのが、私の生き方でしたが、そろそろ後ろを向きたいと思った時に、その相方がいないことの寂しさを改めてこの番組を観ながら感じます。
私には、これからも前を向いた生き方しか、できないのかもしれません。

■2037:痛みの中で痛みを痛む(2013年3月31日)
最近、あまり体調がよくない状況が続いていましたが、だいぶ復調してきました。
もう大丈夫でしょう。
いろんな人にお気遣いのメールをいただきました。
私のように、何でも書いてしまうと、いろんな人に余計なお気遣いをさせてしまうのですが、そのおかげで、私自身は大きな元気をもらってしまっているわけです。
わがままな、身勝手な性格です。

大阪大学大学院准教授の篠原雅武の『全−生活論 転形期の公共空間』という本があります。
篠原さんは、「痛みが生じるのは、私たちの生きている状況が脆くて、壊れやすくなっているからで、壊れそうなところに「生じる」のが「痛み」なのです」といいます。
最近の私の体調不良は、身体的な不調もありますが、たぶんに「痛み」に通ずるものです。
友人知人の痛みを勝手に引き受けてしまったり、政治状況や経済状況に心身が不整合を起こしたり、あるいは自らの卑しさに気づいて心身が萎えたりしているわけです。
とりわけこの1年は、社会の住みにくさを実感して、それが体調にもつながっているように思います。

篠原さんは、こう書いています。

「痛み」は個人的なものであり、その原因を自己責任で除去すべきものと言ってしまうと、そういった個人を超えた要因が隠蔽されてしまうのではないでしょうか。ですから、「痛み」はただ個人的なものではなく、私たちをとりまきながらも自立している領域の失調、歪みのせいで生じさせられる実在性をもつものと考えた方がいいのではないかと思います。
そう考えるならば、目の前にいる他者が顔を歪ませてうずくまっている時や、諸々の事件報道(イジメや虐待)を目にした時、自分の「痛み」ではなくても、つまりはその当事者ではなくても、想像力によって、他者の「痛み」を感知し、それを生じさせている世の歪み、失調を考えることができるようになるかもしれません。

篠原さんとは思考の順序が正反対なのですが、私もそう思います。
私の場合は、節子との別れの体験のなかで、他者の痛みをそれなりに心身全体で感知できるようになりました。
それは言葉では説明できないものですが、伝わってくるのです。
その感受性が広がっていくと、社会の壊れや失調、歪みが生み出す痛みが心身に入りやすくなってきます。
そしてそれに同調して、気が萎えていると心身が不安定になり、体調を狂わせてしまうわけです。

そこから抜けでる力を与えてくれるのは、これもまた、社会のようです。
スパイラルが少しだけですが、上向きました。
節子は、いつもスパイラルを上向きにさせてくれる存在でしたが、いまはたくさんの友人知人のやさしさが、その役割を果たしてくれているようです。
今日も4人の人から届いたさりげないメールが、私の意識を少し変えさせてくれたような気がします。
痛みも社会から来るように、前に進む力も、社会からやってくるようです。

人は社会に支えられて生きている。
つくづくそう思います。

■2038:悼みと痛み(2013年4月1日)
時評編で「痛み」について書いたので、挽歌編では「悼み」について書くことにします。
「悼み」と「痛み」は深くつながっているからです。
痛みを伴わない悼みはありません。

旅立った人を悼むことは、痛みを引き受けることです。
しかし、同時に、痛みを解き放してくれるのもまた、悼むことの働きでしょう。
「痛み」と「悼み」は、深くつながっています。

「悼む」とは、もともと、自分の体や心が「痛む」ということ、人の死に接して自分の心が「痛み」、それを嘆き悲しむということだそうです。
『新字源』によれば、「悼」は、「心と卓(ぬけでる意)とから成り、気がぬけ落ちたような悲しみの意を表す」と説明されています。
身が切られるような悲しみは、まさに現実に痛みを引き起こします。
しかし、「悼む」ことで「悼み」を軽くなることもあります。
「痛み」は自らに向いていますが、死者を「悼む」ことで、その向きを反転させることができるからです。
痛みは、悼むことによって、外に出て行くのです。
これが、私の体験から見えてきたことです。

「痛み」は「社会的な断絶」によって引き起こされる痛みや苦悩だと、ジャーナリストの粥川準二さんが言っています。
愛する人との別れは、まさに「社会的な断絶」を起こす要因のひとつです。
節子がいなくなったことで、私はそのことを強く体験しました。
底のないほどの孤立感に襲われ、世界から現実感が消えてしまったのです。
一時期は、娘たちさえも、幻のように感じました。
感情が消え去り、思考の秩序は乱れ、自分から心が抜け出ていくような、そんな状況にしばらくは陥っていたように思います。
リアリティを感じない世界に生きているのは、とても不思議な感覚でした。

その「痛み」から立ち戻れずに、自らの生命や生活を絶つ人がいるのもよくわかります。
ここでいう「痛み」は、心が痛むといったようなものに限りません。
実際に身体が痛むこともあるのです。
しかし、悼むことによって、そこから抜け出ることもできる。
「悼む」という営みは、「痛み」において死者に出会うということだと、以前、この挽歌でも紹介した「花びらは散る 花は散らない」の著者の竹内整一さんは書いています。
西田幾多郎は、それによって生き直せました。

こう考えていくと、実は「愛」という関係は、一方の死によっては終わらないことに気づきます。
むしろ、「いたみ」を通して、愛は深まることもある。
その「愛」は、もはやそれぞれの「愛」ではなく、それぞれをつなぐ「愛」です。
「悼み」を通して、「痛み」を分かち合うことで生きつづける愛。
それは必ずしも「現世」の愛ではないのですが、人の生を支える力は十分に持っているような気がします。

悼まなくなった時に痛みは消え去り、愛も終わるのかもしれません。
愛の終わりもまた、愛の成せる奇跡のひとつではないかと、最近思うようになってきました。
そこに見えてくるのは、やはり「大きないのち」です。

■2039:「節子がやったんじゃないの」(2013年4月2日)
節子
とてもいい言葉を見つけました。
わが家で何か不都合なことが起こり、その責任が問題になることがあります。
たとえば、今朝、牛乳の紙パックのゴミ処理の仕方が悪い、誰がこんな捨て方をしたのかと娘が怒っていました。
まあ私しかいないのですが、私はこう答えました。
「節子がやったんじゃないの」。

この言葉は実にいい言葉です。
責任回避と目くじらをたてることはありません。
節子も家族の役に立っていると喜んでいるでしょう。
家族は、節子と一緒にいる気持ちになれます。
それにこれからは、何が起こっても、節子がすべて引き受けてくれるわけですから、平和が維持できます。

実はこれはわが家の文化でもありました。
あらかじめ「だれのせいか」を決めておけば、とても楽なのです。
そもそも「事の良し悪し」は、立場によって違ってきます。
ですから話し合ってもなかなか決着はつきません。
しかし、「良し悪し」を引き受ける人を決めておけば言い争いにはならないのです。
とまあ、そのはずでしたが、なぜか私たちの夫婦喧嘩はなくなることはありませんでした。
何か不都合が起こってその責任がわからない場合、すべて節子のせいにするというのは、わかりやくしていいルールだと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。
これだけ聞くといかにも私の身勝手さだと思われるかもしれません。
そうではないのです。
基本は私が悪いという前提がその前にあるのです。
どうですか。いいルールでしょう。
問題は、このルールを節子が納得していなかったことです。
困ったものです。
しかし今はもう節子の反対はありません。
ようやくこのルールのよさが行かせる時が来ました。

節子はいまも家族の役に立っています。
ありがたいことです。はい。

■2040:ツルネンさんからの手紙(2013年4月3日)
節子
国会議員のツルネン・マルテイさんから「国政報告」が届きました。
ツルネンさんは、フィンランド生まれですが、日本初の青い目の国会議員として話題になった人です。
最近はまったくのご無沙汰だったのですが、今度の選挙が厳しいので、たぶん私にまで送ってきたのでしょう。
私とのつながりは、民主主義を考えるリンカーンクラブを通してです。
当時、私は事務局長で、ツルネンさんは会員でした。

ツルネンさんが国会議員に立候補する時に、彼から電話がありました。
当時、ツルネンさんは神奈川県の湯河原町の町会議員でした。
私は、終の棲家を湯河原にしようかという思いで、湯河原にマンションを購入したころでした。
それもあって、節子と一緒に、湯河原にあるツルネンさんの自宅を訪れました。
奥さんの手づくり料理で歓待してくれました。
そこで、ツルネンさんから選挙に出るので事務局長を引き受けてもらえないかという申し出がありました。
ツルネンさんが取り組んでいた地域活動などに、私もささやかに応援していたことから、私に打診してきたのでしょう。
残念ながら、私は当時(今もですが)、そうしたことにまったく興味がありませんでしたので、丁重にお断りしました。
その後、私よりも適任だと思われる、しっかりした事務局長が見つかりましたので、私が引き受けるよりもツルネンさんにはよかったでしょう。

ツルネンさんは、その後、苦労を重ねましたが、当選し、国会議員になりました。
ツルネンさんとは、その後、会う機会はあまりなくなりました。
国会議員になった知人は数名いますが、議員になった途端に疎遠になるのは、たぶん私の性癖のなせるところでしょう。

しかし、テレビなどにツルネンさんが出てくると、私も節子もなんとなく親しみを覚えました。
ツルネン家でご夫妻に歓待されて記憶がどこかに残っているからかもしれません。
その後、節子と一緒に湯河原に行った時に、ツルネンさんのところに行こうかと話したことはありますが、国会議員になってしまってからは、どこか敷居の高さを感じ、実現しませんでした。

もし節子がいて、この手紙を読んだら、ツルネン家に立ち寄ろうという気になるだろうなと思います。
ツルネンさんはとても気さくな人で、とても誠実で質実な人なのです。
久しぶりに彼に会ってみたい気もしますが、節子と一緒でないと、ちょっと腰が重いです。
節子と一緒だと、どこにでも行けたのですが、一人だとなかなかその気になれません。
なぜでしょうか。

■2041:藤原さんのコーヒー(2013年4月4日)
節子
藤原さんが美味しいコーヒーをどっさり持ってきてくれました。
藤原さんの持ってきてくれるコーヒーはとても美味しいのです。
昔、湯島でコーヒーを飲んでくれた人たちが、最近は逆にいろんなコーヒーを持ってきてくれます。
私自身は最近は近くのスーパーの大安売りで購入するコーヒーが気に入っているのですが、それとは別にみんなが持ってきてくれるので、毎日、コーヒーは4.5杯も飲んでいます。
いまは特にいろんなのが集まっています。
インドネシアのトラジャコーヒー、ベトナムコーヒー、スリランカのコーヒー、イタリアの苦いコーヒーもあります。
今日藤原さんが持ってきてくれたのは、ブルーマウンテンのブレンドです。
先日はモカマタリもありましたし、マンデリンもまだ豆が残っています。
豆を挽いてコーヒーを淹れてくれる人が、最近は湯島に来ないのでそのままです。
一度飲んでみたいと思いながら、まだ飲めていないのが、ペルシアのコーヒーです。
どなたか是非いつか持ってきてください。

こう書くと、いかにも私はコーヒー通のように聞えますが、そうではありません。
昔は、それなりに味にこったことはありますが、いまは先ほど書いた近くのスーパーの安いコーヒーで満足しています。
そのため、娘は、お父さんはほんとうにコーヒーが好きなのか、と疑っています。
好きならもっとこだわったらと言うのですが、正直、その安いコーヒーはおいしいのです。
しかし、藤原さんのコーヒーには負けます。
それで半分は自宅に持ち帰ってしまいました。

節子と一緒につくった私たちの会社の定款には、事業目的として「喫茶店の経営」が書かれています。
いつかは節子と一緒に喫茶店を開きたかったのです。
私の目指す喫茶店は、お客様として来てくれた人が、私にコーヒーを入れてくれるという喫茶店です。
私の役目は、お客様が淹れたコーヒーを一緒に飲む役目なのです。
そんな喫茶店があったらいいと思いませんか。

もし節子がいたら、そろそろそんな喫茶店を開くことを考える時期です。
たぶん開店したとしても、お客様はあんまりこないでしょうから(なにしろ美味しいコーヒー豆持参で、コーヒーを私のために淹れて、しかもお金を払わなければいけません)、いつも節子と2人でお客様を待ちながら、節子がコーヒーを私のために淹れ、私が節子のために日本茶を淹れることになったはずです。
まさに花見酒ですが、そんな老後の生活を楽しめなくなってしまったのが、とても残念です。

さて寝る前に、藤原さんのコーヒーをいただきましょう。
今日、湯島で藤原さんに淹れたトラジャコーヒーはちょっと淹れ方がわるくて美味しくなかったので、口直しです。
私は寝る前にコーヒーを飲んでも大丈夫なのです。
トイレに起きるので、節子がいた頃は、飲まないようにしていましたが、いまは歳のせいで、コーヒーを飲まなくてもトイレに起きるので、問題ありません。
でもちょっと薄めにしておきましょうか。
考えてみると、今日、6杯目ですね。

■2042:なぜか天気が荒れるとわくわくします(2013年4月6日)
節子
昨日から箱根に来ています。
いつもの企業の人たちとの合宿です。
もう25年くらい続いている仕事です。
湯島でも何回も会っているので、わざわざ箱根の合宿にまで付き合わなくてもいいのですが、一応、私が参加すると安心なのかもしれません。
しかし、今日の午後から天気が荒れ模様になるようです。
それで合宿を早目に切り上げることになりました。
私は、湯河原に立ち寄ってツルネンさんに声をかけてみようかと思っていますが、ツルネンさんが自宅にいるかどうかもわかりません。
どうしようか迷っています。

ところで私は天気が荒れるとなぜか心がわくわくします。
節子からはいつも不謹慎だと呆れられていましたし、娘からは台風で川を見に行って事故に会うようなことはするなと注意されています。
しかし、なぜか心がわくわくする。
それはどうしようもありません。
節子がいなくなっても、これは直っていないようです。

さてどうするか。
節子がいなくなってから、ますます安全思考がなくなってきました。
箱根は、しかし陽が出てきて、とても穏やかです。

■2043:「行動するかどうか迷った時には行動する」(2013年4月6日)
節子
今日は結局、湯河原に立ち寄らずに帰宅しました。
箱根は、旅行客でいっぱいでした。
桜は終わっていましたが、新緑がきれいでした。
見慣れた風景が最近ようやく目にきちんと入って来るようになりました。

箱根は合宿だったのですが、ある人がフッサールの話を持ち出しました。
フッサールは、「私」と「あなた」がもともとあるのではなく、お互いの関係のなかで「私」も「あなた」も事後的に構成されてくると考えました。
人は人との関係において人になるという話です。
「あなた」と「私」が別々にいるのではなく、あなたと私がいるから、「あなた」と「私」がいるという話です。
言い換えれば、人は人との関係において、別の人になるということです。
たしかに、節子がいた時の私といなくなってからの私は、明らかに違います。
どう違うのかはなかなか言葉にはできませんが、行動が違っているはずです。
主観的には意識が違っています。
何を見ても、それまでとは違って見えています。

節子がいたら、少なくとも今日は帰らなかったでしょう。
「行動するかどうか迷った時には行動する」というのが節子の考えでした。
これはとても便利なルールです。
人生において迷うことは多いのですが、このルールを身につけると迷うことが少なくなります。
しかし、今回はこのルールを破ってしまいました。
それで気づいたのですが、ここで「迷う」とは「意見が違った時」の意味だったのです。

私たちは、意見の違うことが少なくありませんでした。
たぶん最初の頃は、私のほうが主導的だったので、節子は私に無理やり同意させられていた傾向があります。
「無理やり」というのは正確ではなく、最初、節子は私のことをいつも正しい判断をすると過信していたのです。
しかし、次第にその間違いに気づきましたが、一度できたルールはそう簡単には変わりません。
それで生まれたのがこのルールだったのかもしれません。

2人だと、まあどんなことになっても、支え合えばどうにかなります。
事実、ある時、とんでもない即断をしたことがありましたが、なんとかいい方向で乗り切れたのです。
だからこのルールは極めて合理的です。
しかし、一人だとそう簡単ではありません。

現に私は、つい最近も、迷わずに行動して、いささか一人では重過ぎる荷物を背負ってしまいました。
ですから、このルールは節子がいた時のルールだったのです。
今はきちんと迷わなければいけません。

こうして、節子がいなくなった「新しい私」がまた生まれて来るのでしょうか。
フッサールの言っていることとは、あんまり関係のない話になってしまいました。
でもちょっとはつながっていますよね。

■2044:ファッションライフとは程遠い生活(2013年4月7日)
節子
春が来たら、何を着ていいか、わからなくなりました。
季節の変わり目は、いつも困ります。

節子がいなくなってから、衣料を買いに行かなくなったので、着るものがないのです。
ユカが時々、買いに行こうと言ってくれるのですが、どうも衣服売り場で探すのが面倒です。
もともとおしゃれでないにもかかわらず、着るものへのこだわりがあるのです。
一言で言えば、主張していない衣服が好みです。
ですから、キャラクターやロゴの入っているものはだめですし、ましてやブランド物などは問題外です。
無地で、デザイン的にも主張がなく、私でも着られるものです。
そういうものが、意外と少ないのです。
その上、わが家の経済状況と支出優先度からいって、価格水準もかなり低いのです。
ですから、娘も一緒に買いに行くのを好みません。
節子だったら、厭わずに付いてきてくれて、私が飽きた頃にむりやり買ってくれるのですが、娘にはそこまでの要求はできません。
それに、節子がいなくなってからは、せいぜい行くのがイトーヨーカ堂かユニクロなのです。
ユニクロはシンプルでいいので、時にフィットするとまとめて色違いを数着購入してもらいますが、そのおかげで毎日同じ種類のものを着る羽目になります。
たまには違うものをと言われても、それしかないのです。
それに朝、何を着ようかと考える必要もありません。
何を着るか、選ぶのが楽しみだという人もいるでしょうが、選択は少ないにこしたことはありません。
それが私の、今の生き方なのです。

歳をとるとどんどん汚らしくなるのだから少しは身だしなみや着るものに注意しろと娘は言います。
しかし、私にはそれがまったくできないのです。

ネクタイは、この2年、2本しか使っていません。
娘が、毎回同じではだめだと言って、先日クローゼットを探したら、ネクタイがたくさん出てきました。
娘が誕生日に苦労して選んだ高価なネクタイも埋もれていましたので、娘は嘆いていました。
しかし、やはりネクタイは2本もあれば十分です。
そのネクタイは、1本が5000円で、1本が500円だったと思いますが、いまや私には区別がつきません。
実は、そのことが気にいっているのです。

わが家のチビ太くんのデザインのネクタイも出てきました。
昔は、いろんなネクタイを使っていたようです。
私の生き方もかなり変わってきているようです。

娘からは、穴のあきそうな靴下は自分で捨てろといわれていますが、もう一度くらいはけるなあと思って捨てないうちに穴が開いてしまっています。
それで娘に怒られますが、節子がいた頃はどうしていたのでしょうか。

食事をつくってくれている娘が、時々、何がいいかと訊いてきます。
なんでもいいよというと怒られます。
衣服も食事も、選択などしないですむ生活がしたいです。
節子がいなくなってから、ますます「選択」に興味を失ってきています。

■2045:「ありのままにある」生き方(2013年4月8日)
節子
「ありのままにある」ということが、私の信条のひとつです。
しかし、それは簡単そうで難しい。
しかも、「ありのままにある」ことを志向した途端に、それは遠いものになってしまいます。

私が、最も「ありのままにある」ことができたのは、節子と一緒だった時でしょう。
節子と一緒に暮らしたおかげで、「ありのままにある」生き方を体験できました。
そして、それがいかに快適なものかも知りました。
ありのままにあれば、のびのびと、大らかに、楽しくなります。
そのために、何回かの「大失敗」もしましたが、それもまた前向きに考えられるようになりました。
「不幸」もまた「幸せ」のうちであることも知りました。

しかし、節子と別れてからは、同じ「ありのままにある」生き方も、大きく変質しました。
内向きになりがちで、時に沈みがちでした。
沈んでしまうと心身が動かなくなる。
そうなると、動かないでいることが「ありのままにある」ことになりかねません。
いや、最近、そう思うようになっていました。

今日、西田幾多郎の「善の研究」に書かれている文章に久しぶりに出会いました。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。

前にこの言葉に出会った時、「客観的自然と一致する」とは「ありのままにある」ことだろうと考えたことを思い出しました。
いまの私の「ありのままにある」とは明らかに違います。
今の私の「ありのまま」は、いわば「小なる自己のまま」かもしれません。
だから苦痛も多く、時に沈んでしまう。
それは、決して、客観的自然と一致する「ありのままにある」ではありません。
どこかで、「ありのまま」をはきちがえてしまっているようです。

節子がいた頃のような、大きな「ありのままにある」生き方には戻れないかもしれませんが、「小なる自己を以て自己となす」ことはやめようと思います。

今日は釈迦の誕生日の花祭り。
朝、お墓参りに行ってきました。

■2046:若竹煮(2013年4月9日)
節子
昨日、墓参りの途中で久しぶりに昔、節子が時々行っていた八百屋さんに寄りました。
すっかり様子は変わっていましたが、転居前には私も時々同行していたお店です。
そこで、福岡産の筍を見つけました。
今年もまた筍の季節になりました。
早速購入して下ごしらえをしてもらい、今日、夕食に若竹煮をつくってもらいました。
私の大好物です。

それにしても、季節がまわってくるのは本当に早いです。
この調子だと、節子に会えるのも、そう遠い先ではないでしょう。

しばらくは、筍三昧の季節です。
そして、すぐに夏が来て、秋が来る。
しかし、節子のいない春も夏も秋も、そして冬も、あまり季節感はないのです。
節子がいなくなってから、世界はどうも単調になってしまっています。
お花見も行きたいと思わなくなっています。

でも若竹煮は美味しいです。
それを食べていると、節子を思い出すからです。
ユカが、最近は節子と同じような料理を作り出してくれています。
ユカは奇妙な料理が得意ですが、私好みの節子料理もつくるようになりました。
家族みんなでつついた節子料理を思い出します。

節子を思い出すから避けたいことと節子を思い出すからうれしいこととがあります。
たとえばお花見は前者ですが、若竹煮は後者です。
この違いはなんなのでしょうか。

そういえば、今年初めての若竹煮を節子に供えるのを忘れていました。
わが家には、あまり食事を位牌に供える文化がないのです。
でもまあ、節子の写真が食卓にはありますので、それで良しとしましょう。
こういうことでは、節子も私と同じく「適当」なので、まあ笑って、賛成してくれているでしょう。

■2047:「小なる自己」からの脱出(2013年4月10日)
節子
ようやく生活のリズムが回復してきました。
この2か月ほど、かなり世間から脱落してしまい、いささかすねていた感じがありますが、少しずつまた素直になりだしています。
一時は、かなりの人嫌いになりそうでしたが、一昨日、この挽歌に書いた西田幾多郎の言葉を思い出したおかげで、すっきりできました。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。

どうやら最近の私は「小なる自己を以て自己となす」状況にあったような気がします。
節子がいたらもっと早く気づいたのでしょうが、私一人だとなかなか自分の状況を相対化できないのです。
他者に期待するからこそ、失望してしまうのですが、そもそも他者への期待は「小なる自己」の成せるところなのです。
節子がいた時には、節子によく話していた言葉なのに、すっかりと忘れてしまっていました。

不思議なもので、自分がすねていると、ますます世間の風は冷たくなります。
そして自分では気づかないうちに、内向化し、世間をますます狭くしてしまう。
そうならないように、動き出せばいいのですが、外に向かって動くためのエネルギーが出てこなかったのです。
沈む気を払い、進む気を呼び込まないといけません。
そのきっかけを与えてくれる節子はもういませんから、自分で気を反転させねばいけません。

西田幾多郎の言葉は、3日かかって、私の気を戻してくれました。
気になっていた友人に電話をしました。
取り組みだす気になれなかった仕事の関係の呼びかけを始めました。
報告すべき人への報告をメールしました。
そうしたら、みんなからすぐに返事が来ました。
前に動き出せば、追い風が吹いてくる。
みんなが気を送ってくれるのです。

節子
明日からは、きっと前に向かっていい風が吹いてきそうです。
最近、般若心経も省略形が多かったのですが、明日からはきちんと全部を唱えることにします。

■2048:未来の他者の存在(2013年4月11日)
節子
昨日、時評編に書いたものを今日の挽歌にします。
書いているうちに、少し挽歌的になったからです。
しかし、書き変えずに、タイトルだけ少し変えてそのまま挽歌にします。

社会学者の大澤真幸さんの、次の言葉はとても心に響きます。

僕らは震災が起きたとき、さまざまな差異を超えて人々が連帯する可能性を直感できた。
でも、それはやはり、今一緒に存在しているからなんです。
まだ存在していない他者と連帯できるか。
声を上げることができない未来の他者を念頭に置いた社会が、人間にとって可能かどうかを、僕らは突き付けられている。

大澤さんは、もちろん、未来の他者を意識した社会は実現可能だと考えています。
そして、なによりも、そうしなければ、この社会は破綻するのではないかと言っているように思います。
しかし、大澤さんは、未来の他者は不在の他者でもあると言います。
不在の他者のために、実際の生活を変えることができるかどうか。
これは難しい問題だと大澤さんは言います。
しかし、そんなことはありません。
少し前までの日本の社会では、存在することのない未来の他者や過去の他者を意識した生活が普通だったのです。
それが壊れたのは、たかだかこの50年でしょう。

私がそういうことを強く実感するのは、5年ほど前に妻をなくしたからです。
この記事は、時評にするか挽歌にするか迷って時評にすることにしましたが、少しだけ妻のことを書きます。
妻を亡くしてから、ずっとこのブログで挽歌を書き続けていますが、そのおかげで、生と死、あるいは彼岸と此岸のことをいろいろと思いめぐらすことがふえています。
そうした中で、人は、いまはいない人に支えられて生きていることを強く実感できるようになってきたのです。
「いま、ここ」にはいない人たちによって、私たちの生活は支えられている。
私が子どもの頃までは、その「いま、ここにはいない人」は、お天道様とかご先祖様とか、あるいは7代先の子孫たちとかいう言葉で表現されていました。
その言葉は、今も私の生活を支え、あるいは規制しています。
「いま、ここにいる人」がいなくても、悪いことや恥ずべきことはできないのです。
規制と支援は、コインの裏表です。

伴侶を亡くして自ら生命を絶った人もいますが、相手を心底、愛し信じていたら、たぶんそうはしないでしょう。
「いま、ここ」からはいなくなったとしても、その存在を実感できるからです。
まあ、私の場合は、そういう心境になるまでに5年近くかかりましたが。

挽歌ではなく、時評なので、話を戻しましょう。
大澤さんの「未来の他者を意識した社会」は、たとえば未来世代のために環境や資源の浪費はやめよう、世界を壊すのはやめようということを意味させているでしょう。
しかし、そのことは同時に、未来の他者の存在こそが、「いま、ここ」での私たちの生活を質してくれることによって、私たちを豊かにしてくれているのです。
私たちが、未来の他者を意識するのではなく、未来の他者が私たちを意識していると言ってもいいかもしれません。
これは、ロゴセラピストのフランクルの「私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに意味を問うているのだ」というのと構図が同じです。

ちょっと時評と挽歌の中間的な記事になってしまったばかりでなく、話がいささか大きく広がっていきそうです。
短絡的にまとめてしまうと、未来の他者のためではなく、未来の他者のおかげで、私たちの豊かさが「いま、ここ」にあることを書きたかったのです。
そう考えると、生き方を少し変えられるような気がします。
私が、そうであるように、です。
挽歌を書き続けているおかげで、私の意識は大きく変わってきています。
未来の他者とのつながりも実感できるほどになっています。
いや、未来と言うよりも、時間を超えた他者というべきでしょうか。
やはり書いているうちに、だんだん挽歌に引き寄せられそうで寸。
挽歌編にも再録してしまいましょう。
もう少し発展させられるかもしれません。

■番外編:時評と挽歌をつなぐもの(2013年4月11日)
昨日と今朝、時評と挽歌に同じ記事を掲載しました。
このブログは、時評編と挽歌編から構成される、いささか奇妙なブログです。
私にとっては、そのことはとても意味があるのですが、まあかなり内容の違うものが混在しています。
しかし、両者が重なることもあります。
それは「生き方」に関するものです。

時評編には「生き方の話」というカテゴリーがあります。
私は、一人称自動詞で語ることを大切にしていますので、自分の生き方を起点にして書いているつもりです。
一方、挽歌のほうは、思い切り私の生き方につながっています。
妻を偲ぶのが挽歌でしょうが、5年も続けていると、その内容はかなり変質してきています。
妻を見送ってから、生きる意味や生き方について考えることが多くなり、挽歌もまた生き方への気づきのような内容になってきています。

昨日今日と時評と挽歌に書いた記事のキーワードは「未来の他者」です。
これは大澤真幸さんの言葉ですが、まさに生き方に関わるものです。
生き方というよりも、生きている世界といってもいいでしょう。
その世界が、どのくらい「いま、ここ」という現実の生きる場を超えられるかが、大切なのだろうと思います。
みんなの世界が大きくなれば、つまらない小競り合いや対立はなくなっていきます。

たとえば、ごみの焼却場を巡って日野市と小金井市がもめています。
小金井市の生活ごみの焼却を日野市に頼んだことが問題になっています。
他の自治体のごみまでなんで引き受けるのかという話です。
しかし、日野市と小金井市が合併したらどうなるのでしょうか。

年金を巡って世代間戦争などという話もあります。
時間的にも空間的にも切り分けられると対立が発生します。
ご先祖様と子孫たちというように、自らとのつながりが確信できれば、その対立は緩和されるでしょう。

いまの時代の不幸は、地域社会の空間的な横のつながりも、家庭を軸にした時間軸での縦のつながりも、希薄になってきていることです。
希薄というよりも、むしろつながりが切られている。
つながりを切ることで、産業は拡大し、統治もしやすくなるからです。
しかし、人は個人で生きているわけではない。
横にも縦にもつながって、支えあうのが人間です。
その原点が失われてしまってきているわけです。
それが自殺を多発させ、精神障害を起こし、格差を拡大しているわけです。
もし顔の見える付き合いをしていたら、年収1億円と200万円の格差など起こりようがありません。
たとえ生じても、1億円の人は200万円の人に支援をしたくなるでしょう。
それにお互いに知り合ったら、どちらが豊かで幸せかは一概には言えなくなるでしょう。
しかし、そんなことをしていたら、経済は成長できず、オリンピックで金メダルも取れなくなる。
経済成長に価値をおかず、金メダルなどにも価値を感じない私のような人は、例外でしょうから、それではみんな喜ばないのでしょう。
だから、世界を広げるなどというのは、あんまり共感を得られないのです。

「未来の他者」は二重の意味で、私とは切り離されています。
現在ではなく、しかも到来が不確実な「未来」とどこかよそよそしい感じのする「他者」という、2つの要素が距離感を広げてしまっています。
「未来の他者」のことを考えていくと、そんなことにも気づいていきます。
そして「彼岸の他者」ということにまで思いが行きます。
「彼岸」と「未来」は、どちらが身近でしょうか。

未来を語る時評と彼岸を語る挽歌とは、こうして私のなかではつながっていうるのです。
しかし、読んでくださっている人には、そんなつながりは実感できないでしょうね。
ただ、いずれもの根底に「大きな愛」があることを感じてもらえるとうれしいです。
口汚くののしっているような時評の記事でさえ、書いているときの私には、愛が書くことへのモチベーションになっているのです。
それに、今の私には、「未来」も「他者」も、そして「彼岸」さえも、「いま。ここ」とつながっているのです。

そんなわけで、もうしばらく、このスタイルを続けようと思います。

■2049:「15年前に妻を見送ってからずっと外食だよ」(2013年4月12日)
節子
昨日、湯島に大学時代の友人の大川さんがやってきました。
社会的に大活躍している弁護士です。
大阪に帰るというので、食事をしました。

私のホームページに、彼の著書を何冊か紹介をしていますが、産業廃棄物問題、司法改革、医療過誤訴訟と、およそ収入にはならないような活動に取り組んできています。
卒業後、交流が途絶えていて、再会したのは6年ほど前です。
彼は日弁連の事務総長として、多忙だった頃です。
2人だけでゆっくり話したのは初めてです。

私への最初の質問は、食事はどうしているのか、でした。
同居の娘が作ってくれていると答えたら、彼は「私はずっと外食だ」と言いました。
私は知らなかったのですが、彼は15年ほど前に奥様を白血病で亡くされていました。
それから彼はずっと外食なのだそうです。

15年間、外食。
なぜか私は感激しました。
私は娘から、たまには料理をしたらと言われていますが、なやまずにその申し出は拒否しようと思いました。
自分で調理するのは、やはり私らしくありません。
ぶれてはいけません。
外食もまた私らしくないのが問題ですが、まあ調理のほうが、より私らしくないということにしました。

大川さんとは久しぶりにゆっくりといろいろなことを話しました。
私の弁護士嫌いが少し緩和されました。
彼の法律事務所のメンバーは、それぞれに社会的活動をしているようです。
今度、大阪に行ったらぜひ訪問しようと思います。

昨日は、ほかにも農業と食文化に新しい風を起こそうとして生き方を変えようとしている人とすでに農業に取り組んでいる若者とをお引き合わせしました。
わくわくするような話が飛び交いました。
一昨日、一念発起して、少し前向きに動き出した途端に、世界が変わりだした気がします。

自分が動けば、世界も動き出します。
また少し前に進めそうです。

■2050:長い目覚め(2013年4月13日)
節子
ここしばらく夜中にしっかりと目覚めることはなくなっていたのですが、昨夜は2時前に目が覚めてしまいました。
昨日少し気になることが発生し、予感はしていたのですが、予感するとだいたいそれが実現します。
目覚めた時に、長い目覚めになりそうだと思ったために、まさにそうなってしまい、2時間以上、目覚めていました。

真夜中に目が覚めてしまうと考えることしかできません。
そのためますます頭が冴えていきます。
そのうちに、ある本のタイトルを思い出しました。
「夢よりも深い覚醒へ」
大澤真幸さんの岩波新書ですが、最近、大澤さんとエコノミストの水野さんの対談の本を読んでいたせいかもしれません。
同書の副題は「3・11後の哲学」です。
3・11という破局的な悲劇を体験したことを踏まえて、圧倒的な破局を内に秘めた社会のあり方を、大澤さんは思考しています。
ちなみに、「夢よりも深い覚醒」は大澤さんの師でもある見田宗介さんの言葉だそうです。
大澤さんは、その本のあとがきにこう書いています。

3・11の出来事は、われわれの日常の現実を切り裂く(悪)夢のように体験された。その夢から現実へと覚醒するのではなく、夢により深く内在するようにして覚醒しなくてはならない。

比較するのはいささか気後れするのですが、節子との別れは、私にとっては「圧倒的な破局」であり、「常態的な破局」でした。
現実というよりも、まさに「覚めてほしい夢」といった感じです。
そうであるならば、個人においてもまた、「夢よりも深い覚醒」があるのではないかと、奇妙に「覚醒」という言葉が迫ってきたのです。

節子を見送った後、たしかにいろいろな「気づき」があり、生き方も変わりました。
何よりも変わったのは、世界の風景です。
よく言えば「時空的に広がり」、悪く言えば「色彩がなくなった」のです。
しかし、果たして、本当の意味で生き方が変わったのかどうか。
それはなんともいえません。反省すべきことはたくさんあります。
大澤さんの本を読んだのはもう1年以上前ですが、もう一度、読み直してみようと思います。
まあ、次元が違うので、つながらないかもしれませんが、私の生き方からすればつながっているはずです。

それはともかく、今日は寝不足で、頭がふらふらします。
天気がいいので、荒れ放題にしていた庭の池の掃除をしようと思っていましたが、水をすべてかき出したところで、腰が痛くなって放棄しました。
掃除といいながら、その前段階の、思い切り散らかした段階で、掃除を止めてしまうことは、私のよくやることなのです。
節子はその後片付けをしてくれましたが、もう後片付けをやってくれる節子はいません。
どうやら、私の生き方は、あんまり変わっていないようです。
まあ後片付けは明日にしましょう。
腰を痛めてはいけません。
身心の声には素直になりましょう。
覚醒も大事ですが、素直さも大事です。

■2051:節子がいないと怠惰になります(2013年4月15日)
節子
昨日は若い友人がやっている農場を見にいきました。
農業に関しては、節子と結婚したおかげで、ある意味での親近感がもて、また学びもできました。
もしいまも節子がいたら、きっと一緒にできることはいろいろとあったでしょう。
最近、改めて、節子がいたら一緒に取り組めるのにというプロジェクトが増えているような気がします。
一緒に、というよりも、いろいろとアドバイスをもらえるのにといったほうが正しいかもしれません。
わが家の家庭農園も、節子がいればこそ、でした。

家庭農園も草が広がりだしていますが、まだ作業を始めていません。
一人だとどうも行く気になれません。
そろそろ手入れを始めないと、また昨年のように、草刈りで1年が過ぎてしまいます。
そうならないように、と、畑に蒔く花の種子も買ってきたのですが、すぐ近くとはいえ、出かけるのがおっくうなのです。

これは何も農作業に限ったことではありません。
私の場合、一人だとどうしても怠惰な方向に行ってしまいます。
節子に依存した暮らしを40年も続けてきたせいかもしれません。
節子はいつも付き合ってくれましたし、時には私を追い立てました。
その節子がいないと、今日はやめて明日にしようと、ついつい思ってしまうわけです。

人は一人では怠惰になるものです。

■2052:「わかりあえない」とわかった時に、はじめて「わかりあえる」(2013年4月16日)
節子
昨日、湯島に「うつ」を治した人が2人、来てくれました。
ある人の紹介ですが、お2人とも初対面の方です。
おひとりは「うつ」になって3か月入院、そこであることに気づいて回復し、その時の体験を本にされました。
その本を読んで、元気づけられたのがもう一人の人です。
このブログでも紹介したレネさんの紹介で、私はお2人を知りました。
お2人とも、自らが「うつ」だったことを公言しているので、お名前を出してもいいでしょう。
濱田さんと斎藤さんです。

濱田さんが言いました。
「専門家」はいろんなことを言うけれど、当事者にとっては「わかってないね」という事が多い。
斎藤さんが大きく頷きました。
私も、そうだそうだと思いました。

私は、「うつ」という診断をもらったことはありませんが、「うつ状況」はたぶん体験しています。
節子を見送った後にも、そんな状況はあったような気もします。
そんな時に、誰かが私のことを心配して声をかけてくれても、素直には心に入らないばかりか、逆に反発を感ずることのほうが多かった気がします。
お気遣いはわかるけれど、逆効果ですよ」と言いたくなることも少なくありませんでした。

福祉の世界にこの10年以上、ささやかに関わってきて、思うことは、人はそれぞれにまったく違うということです。
にもかかわらず、多くの人は杓子定規に考えがちです。
当事者体験がなければ、それは当然のことかもしれませんが、「相手の立場にはなれずに、相手のことをわかることなどできない」という認識が必要だと思うようになっています。
ましてや、相手のためになにかしてやろうなどという発想は捨てなければいけません。
その人との関係において自分には何ができるか、を考えるようにしています。
このふたつは似ていますが、私にとっては全く正反対のものです。
視点が相手という客体にあるのではなく、自分という主体にあるからです。

ややこしい話になってしまいましたが、濱田さんと斎藤さんと話していて、人がわかりあうということの難しさを改めて考えました。
もしかしたら、「わかりあえない」とわかった時に、はじめて「わかりあえる」のかもしれません。
そして、そういう意味で「わかりあえる」と、相手と自分の境界がなくなり、「つくりあう」ことによって、わかろうとしなくてもわかりあえる関係になっていくのです。
ますますややこしくなってしまいました。
でもきっと、わかってもらえる人にはわかってもらえるでしょう。

■2053:言語行為論(2013年4月17日)
節子
一昨日湯島に来た濱田さんの話から、もうひとつ、印象的だったことがあります。
それは、うつ病の人に「がんばれ」というのはよくないといわれているが、あれは間違いです、と濱田さんが言い切ったことです。
当事者が言うのですから、これは否定しようがありません。
私も共感します。
専門家や医師やカウンセラーの言葉は、一般論でしかありませんから、正しい時もあれば正しくない時もある。
にもかかわらず、専門家は「正しい」という姿勢で、上から目線でものを言います。
そもそも、人が生きることに関しての「専門家」などは、本人以外にいるはずもないのですが。

言語行為論という知の分野があります。
一言で言えば、人が話すことで何を行為しているかを考える議論です。
たとえば、「今度の日曜日は用事がある?」と誰かにいう時、別にその人に用事があるかどうかに関心があるわけではありません。
その言葉が意味することは、今度の日曜日に用事がなければ、何かを頼むとか何かに誘うとかということです。
つまり「話した言葉の内容」と「話すという行為の意味」とは、別なのです。
そうしたことを踏まえると、大切なのは、「がんばれ」という言葉ではなく、その言葉を通しての行為なのです。
つまり、ある時には「がんばれ」が効果を持ち、ある時には「がんばれ」が逆効果を持つわけです。

愛する人を失って、悲しみの奈落へと落とされている人にとって、実は「言葉」よりも「行為」が鋭く響いてきます。
「時間が癒す」とか「奥様が望んでいませんよ」などと言う言葉は、ただただ白々しいのです。
しかし、なかには同じ言葉でも、違った行為の意味が伝わってくることがあります。
いいかえれば、そういう時期には、感覚が鋭くなっているので、言葉の奥にある心を実感できるのです。
恐ろしいことですが、その人の本性までが見えてきます。
それは決して幸せなことではありません。
注意しないとどんどん性格が悪くなり、人嫌いにもなりかねません。
事実、私がそうでした。
しかし、逆に人に優しくなり、寛容にもなれます。

これも、節子との別れで学んだことです。
言葉と行為が一致する関係にあった節子がいなくなったことは、私には大きな空白ができたような気がします。
節子との会話が、とても懐かしいです。
もうあんな心身に響きあう会話はできないのでしょうか。

■2054:だましあうことを喜び合える関係(2013年4月18日)
節子
先日、宮部さんにも話したのですが、どうも私はみんなにだまされているのではないかと言う気がしてきています。
節子がいつも冗談で私に言っていたことですが、まんざらこれは冗談ではないのかもしれません。
まあ、だからと言って、だまされていることが悪いわけではありません。
だまされるのも、大切なことですから。
しかし、最近は節子がいないせいか、精神的な余裕がなくなってきたようで、だまされるのも大切なことだなどと開き直ってばかりもいられなくなってきました。
心に余裕がなくなったということでしょうが、時にむなしくなることもあります。
だまされることを一緒に喜べる人がいないからです。

夫婦は、もしかしたら「だましあうことを喜び合える関係」なのかもしれない、と最近、思えるようになってきました。
そして、人生において、「だまし・だまされる」ことは、結構大事なことなのではないかとも思い出しました。
所詮、この世は「だましあい」で成り立っているのかもしれません。
こういう風に考えてしまうのは、少し疲れているからかもしれません。

夫婦は「だましあうことを喜び合える関係」と言いましたが、お互いに相手をだましているだけではありません。
自らをもだまし、関係をもだましている。
しかし、それがお互いにとても心地よく、安堵できるのです。
だから、「だます」という言葉ではなく、「信頼」という言葉のほうが適切かもしれません。
「だます」と「信頼」は正反対だろうと思うかもしれませんが、この言葉はほとんど同義語のような気もします。
「だます」とは「信頼」の上に成り立ち、また「だます」とは「信頼」を勝ち取ることだからです。
ラブソングで、よく「一生だましていてほしかった」というフレーズが使われますが、まさに「だまし」と「信頼」は辞書的な意味においては正反対でも、人生においては「同義」なのかもしれません。

しかし、信頼してだましてもらえる節子や、信頼してだませる節子がいないために、どうも最近は、私の中で、「だます」ということが悪いイメージになってきているように思います。
それでは世界は狭くなるかもしれません。
ちょっと残念です。

■2055:起は時節到来なり(2013年4月19日)
節子
久しぶりに國分さんに会いました。
國分さんが最初に湯島に来た時には、たしか南ア帰りで、次は渡米する時でした。
そのため、回数的にはあまり交流はありませんでしたが、かなり印象的な出会いでした。
節子も私も、どこか強く心に残ることがありました。

渡米後は交流がなくなりました。
そして、その間に節子は発病しました。
発病して3年目、その國分さんが渡米後にくれた手紙がなぜか出てきました。
節子が、國分さんはその後、どうしているかなと話したので、ネットで探してみました。
最近はネット検索という便利なものがあるので、社会的な活動をしている人はネットで見つけやすいのです。
そして國分さんと連絡が取れ、湯島で節子と私と國分さんとで会いました。
その半年後に、節子の胃がんは再発してしまったのです。
以来、また交流が途絶えていました。

その國分さんが湯島に来ました。
もう少し基盤がしっかりしてから報告に来ようと思っていたそうですが、國分さんの方向はかなり明確になっているようです。
スピリチュアルなものも、また解き放たれてきているようです。
話す事が山のようにあったからでしょう。
3時間があっという間でした。

國分さんは、今は、マッサージセラピストとして活動しています。
もう10年早かったら、節子も元気になったかもしれません。
最近、そんなことを思うことがたくさんあります。
時代がもう少し早く進んでいたら、節子の人生も変わっていたかもしれません。
しかし、それこそが貧しい発想なのでしょう。
道元禅師がいうように、「起は時節到来なり」なのです。

節子
遅まきながら、道元の入門書を読み出しました。
以前と違って、なぜかすんなりと心身に入っていきます。

■2056:死への距離感(2013年4月20日)
節子
鈴木さんがまた読み直しているというので、ついつい影響を受けて、遠藤誠さんの『道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門』の第6巻を読んでみました。
遠藤さんの絶筆になった本で、最後の最後まで、淡々と書いています。
まさに途中で、ぷつんと切れている感じです。
絶筆後は、遠藤さんの師といわれる紀野一義さんが、遠藤さんの遺言を受けて、補筆しています。

通読して、死に直面している人のすごさを感じました。
紀野さんという人も死に直面した体験を持つ人ですが、死に対する距離感が明らかに違うのです。
というよりも、第6巻を書いている頃の遠藤さんは、もしかしたら、すでに彼岸と此岸を往来しているようにさえ感じます。
つまり、すでに死を克服しているわけです。
遠藤さんにあっては、すでに「死」が死んでいる。
そんな気がしました。

そして、なぜか節子を思い出しました。
節子は、たぶん息を引き取る、少なくとも半月前には、死を超えていた。
彼岸に行っていたのです。
それを私は全く気づかなかった。
どうしようもない愚か者です。
節子よりは賢いと自負していましたが、とんでもなく愚かだったのです。
死を超えると、人はやさしく穏やかになる、
彼岸とは、人のいのちをやさしくしてくれる、何かを持っているのでしょう。
それがわかれば、安堵して死を超えられます、
いや、生を超えるというべきでしょうか。
私は、それに気づかなかったのです。

節子は、たぶん、道元などは読まないでしょう。
節子が元気だったら、私もまた、道元は読まなかったでしょう。
でも今回は、2日で読んでしまいました。
面白かったので、遠藤さんの残りの全巻も読むことにしました。
彼岸に行ったら、節子にお説教できそうです。
まあ、節子はそんなお説教など聴いてはくれないでしょうが。

■2057:精神安定剤の節子(2013年4月25日)
節子
何かとばたばたしていて、また挽歌がたまってしまいました。
挽歌がたまるということは、生活のリズムが乱れていると言うことでもあります。
たしかにかなり乱れています。
それに、最近は気分がいささか不安定です。
歳を重ねることで、精神的な安定考えられるのではないかと思っていたのですが、どうもそうではなく、むしろ感情の起伏や気持ちの高揚感の上下振動は激しくなっているようです。
おそらくこれは、節子がいないことと無縁ではなさそうです。

自分を律するという言葉がありますが、これはかなり難しいことです。
私にはできそうもありません。
もともと「わがまま」でしたが、節子がいた時以上に、「わがまま」になっています。
しかし、実際にはそう簡単には「わがまま」にならないため、精神が安定しないわけです。
考えてみると、節子は私にとって、精神安定剤だったのかもしれません。

生活リズムが回復したと思った矢先から、また壊れていく。
実に困ったものです。
節子がいた頃は、どんなに「わがまま」にしても、基本的には「わがまま」に事が進んでいたのですが。

明日からまた挽歌を書き出します。

■2058:愛する人がいると人間は弱くなる(2013年4月27日)
節子
タイトルの言葉は、イギリスのテレビドラマ「シャーロック」で、たしかホームズがワトソンに言った言葉です。
まあ、よくある言葉なので、別にシャーロックを引き合いに出すこともないのですが、昨年、このドラマを観てから、ずっとひっかかっていたのです。

説明するまでもありませんが、愛する人がいるとその人を守らねばなりませんので、その分だけ弱くなるというわけです、
しかしそうでしょうか。
むしろ愛する人がいると人間は強くなるのではないかとも言えます。
この場合も、愛する人を守るために強くなるというわけです。
こう考えると、強くなることと弱くなることとは同じなのかもしれません。

私自身のことでいえば、節子がいなくなってから、ある意味では弱くなり、ある意味では強くなったような気がします。
節子との別れということに比べればそれ以上の悲しみや辛さはありません。
そういう意味では、何が起こっても、それ以上の悪いことは起こりようもありません。
それに物事への執着もなくなりましたので、恐れることなど何もないのです。
だからどんなことも驚かないのです。

その一方で、何をやっても「張り合い」がなくなってしまいました。
だから、「何かをやろう」という強い思いが出てきませんし、「やりとげよう」というような強い執着心は生まれてきません。
さらに言えば、「生き抜こう」などという気も起きませんし、自分を守ろうなどという気も起きないのです。
ですから、ある意味では弱々しくなっています。

しかし、いずれの場合も「人生を投げている」という意味では同じなのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の人生の意味はまったく変わってしまいました。
居場所のない、実に宙ぶらりんの感じなのです。

そんなわけで、いまは弱くて強い人生を生きているわけです。
どうも生きにくい人生になってしまいました。
困ったものです。

■2059:もう一人の佐藤修さん(2013年4月29日)
節子
東尋坊の茂さんから、よもぎ餅が届きました。
仲間でついたのだそうです。
私にまで送ってもらえるとはうれしい話です。
ところが、それに関連して、いかにも茂さんらしいことが起こったのです。

今朝、メールが届きました。

昨日、シェルターの住人と共に、よもぎ摘みをして、よもぎ餅をつくりました。
佐藤さんの住所録が手元になかったため、NTT案内で「我孫子市の佐藤修」さんの住所をお聞きして発送してしまいました。
ところが、只今間違って送られてきたと「我孫子の別の佐藤修さん」から電話連絡が入りました。
お手数なことを言いますが、取りに行ってくれませんか?   

外出先で、このメールを受けたのですが、帰宅後、先方の佐藤修さんに電話してお伺いいたしました。
自宅から車で30分近くかかるところでした。
不案内のところでしたが、最近はカーナビがあるので、すぐにわかりました。
表札に「佐藤修」とあります。
何かとても奇妙な感じです。
チャイムを押すと、しばらくして、玄関までお2人で出てきてくれました。

お2人とも笑顔いっぱいの、とても柔和なお年寄りでした。
私よりもかなり高齢な老夫婦でした。
とても閑静なところで、いつもはきっとお穏やかなお2人だけの暮らしを楽しんでいるのでしょう。
もしかしたら、今日はちょっとした事件だったのかもしれません。

節子がもしいたら、そこで荷物を開いて、よもぎ餅をおすそ分けし、あるいは上がりこんでお茶でもご馳走になったかもしれません。
まあ、そんなことも受けてくれそうな、気持ちの良さそうな老夫婦でした。
節子は、そういうことが何となく自然にできる人でした。
ほんとは、私もそういうのが好きなのですが、なかなか私だけではできません。
お2人と少しお話をさせてもらうのがせいぜいでした。

久しぶりに「佐藤修」さんにお会いしました。
以前は2年に1人くらい、同姓同名の佐藤修さんに出会っていました。
そういえば、20年ほど前には、佐藤修さんと食事をしたこともありました。
とても不思議な感じでした。
ちなみに、奥様の名前は、慶子さんで、節子ではありませんでした。

帰宅して、よもぎ餅を節子に供えました。
節子は、よもぎ餅が好きでした。

■2060:大掃除(2013年4月29日)
節子
少し生活周りを整理することにしました。
これまでも何回か試みていますが、いつも挫折しています。
今回は、娘たちも一緒にやってくれていますので、大丈夫でしょう。

先ず庭ですが、娘たちが整理に取り組みだしました。
節子がいた頃と違って、なかなか手入れが行き届かずに、花木にはかなりのダメッジを与えてしまいっていたのです。
節子が大事にしていた山野草も、いまや生き絶え絶えです。
私が担当の水やりをさぼっていたためです。
毎年たくさんの花を咲かせてくれていて、この挽歌にも何回か登場した「ナニワイバラ」も、節子が植えていた鉢のバラが育ってきていますので、地植えのほうは引退してもらうことになりました。
大きくなりすぎたので、トゲがあぶないからです。
一番、大きな木では、ナツメを切ることにしました。
もう幹が3メートルほどにのびてしまったので、切るのが大変ですが、大きくなりすぎてしまいました。
ジュンの工房のところのオレンジの木も、レバノン杉の1本も切ることにしました。
かなり雰囲気が変わるでしょう。

挽歌にも登場したヤマホロシも残念ながら枯れてしまいました。
ヤマホロシは挿木が簡単なので、枯れてしまったヤマホロシからもたくさんの分家ヤマホロシが広がっています。
節子が元気だった頃も、節子がいなくなってからも、挿木用にたくさんの枝分けをいろんな人にさせてもらいました。

玄関周りの花もだいぶ整理しました。
こうやって節子がいた頃の風景は、少しずつ変わっていっているわけです。

室内はまだそうは変わっていません。
まずは私の関係のところを今度こそ本当に整理しだしました。
資料の山などは選別していると廃棄できなくなるので、中身もあまりみることなくまとめて廃棄することにしました。
まだ書籍だけ未練が残りますが、まずは雑誌や資料の山を消化してからです。

連休前半は何かと用事がありましたが、明日から思い切り身辺を整理していこうと思います。
しかし、一番の大仕事は節子が残した菜園です。
手入れに行きそびれていたら、また草だらけになってしまっています。
連休後半は、草取りと種まきです。
節子がいないので一人でやらなければいけません。
気が重いです。

■2061:もしかしたら「うつ」?(2013年4月30日)
節子
先日、うつ病を体験し、その体験を踏まえて「うつな人ほど成功する」と言う本を書いた浜田幸一さんが湯島に来ました。
その時にいただいた、その本を昨夜読みました。
そこに書かれている「うつの兆し」にあげられている項目が、この数日の私の状況にかなり重なるのです。
もしかしたら、今の私は、ちょっと「危ない状況」にあるのかもしれません。

どんな項目が当てはまるかというと、
物忘れが多くなる
集中力がなくなる
活字が読めなくなる
身だしなみに無頓着になる
眠れなくなる
涙もろくなる
身体が思うように動かない
微熱が続く
肩が凝る
頭が思い、頭がボーっとする
感情の起伏が激しくなる

浜田さんがあげている18項目中、なんと12項目も該当します。
以前からのものもありますが、実はこの数日、本を読む気が起きないばかりか、友人への簡単なメールさえ、出すのがおっくうなのです。
感情も最近かなり不安定です、
明日は、ある人と人を引き合わせるために、自分の用事をキャンセルして、代官山まで出かける約束をしてしまったのですが、なんでそんな約束をしてしまったのかと後悔しています。
節子がいたら、なんでそこまでやるのと言うかもしれません。
たしかにそうです。
私としてはペイフォワード精神なのですが、どこかでまだ「やってやる」という気持ちが残っているのでしょう。
自分のほうの用事を犠牲にして、逆に身近な人に迷惑をかけてしまったことが悔やまれます。
こうした、判断と感情が過剰に触れることが、最近多いのです。

特に、この数日、いささかの異常さを感じます。
今日は肩凝りもありましたし、まあ、いろいろと当てはまることが多いのです。
いささか危険なのかもしれません。

それにしても、節子がいなくなってからもう時期6年も経とうとしているのに、今頃になって、こうなるとは困ったものです。
注意しないといけません。

■2062:空白の時間を埋めるもの(2013年4月30日)
節子
三浦さんからメールが届きました。
節子もよく知っている、オープンサロンの常連だった三浦さんです。
節子を見送った前後の数年は、私にとって夢うつつな時期なのですが、三浦さんに関することも実はあまり記憶がありません。
ただ生活環境が大きく変わったようで、年賀状以外は連絡が途絶えていました。
こんな感じで、つながりが途絶えてしまった人もいますが、その責任はたぶん私にあるのでしょう。
ともかく、私自身が現実にうまく適応できていませんでしたから。

三浦さんは、難病を抱えていました。
にもかかわらず、湯島のサロンにも、またコムケアのフォーラムなどにも、よく足を運んでくれました。
現在は息子さん夫婦とご一緒に暮らしているそうで、生活も落ち着いているようです。
それで、また湯島の集まりにも参加するというメールが届いたのです。
とてもうれしい話です。

オープンサロンの常連との付き合いも最近は途絶えがちです。
サロンと言うのは、ある種の華やいだ雰囲気がないと持続できません。
その意味では、ホストの気が漲っていないといけないのですが、最近の私はそんな状況ではありません。
それに節子がいた頃は、それなりの場づくりをしてくれていましたが、いまは私がただコーヒーを淹れるだけです。
それもだんだん面倒になってきました。
困ったものです。

三浦さんが、またサロンに参加してくれるとすれば、流れが少し変わるかもしれません。
昔の常連にもまた案内を出そうかと思います。
久しぶりに三浦さんにお会いできそうで、うれしいです。
この8年ほどの記憶の空白が、少し埋まりだすかもしれません。

節子
昔のオープンサロンを懐かしがってくれる人は少なくありません。
節子には苦労をかけましたが、少しは役に立っていたのかもしれません。
それ以上に、節子がいなくなった後の私に元気を与えてくれる支えにもなっています。
節子と一緒に10年以上もつづけていて、本当によかったです。
私の生き方を大きく変えたのも、サロンのおかげです。
もっとも、先日のサロンに来てくれた藤原さんからは、私のペイフォワードな生き方を見直したほうがいいと言われました。
さてどうしますか。

今日は、これから出かけます。
いささか迷いながらですが。

■2063:私が生き生きと生きてこられた一番の理由(2013年4月30日)
節子
今日はいささかややこしい話を2件、こなしてきました。
私自身には負担だけの案件なのですが、まあそれで喜んでもらえる人がいるのですから、よしとしなければいけません。
お一人からは、最近、小布施にいってきたお土産だと市村さんのところのお酒をもらいました。
私はお酒を飲まないのですが、もらうことも親切のひとつですので、もらってきました。
しかし、話そのものは、あまり前向きの話ではなかったので、疲れました。
そういえば、最近は、何かを創りだすということが少なくなってきてしまいました。
それが疲れの一因かもしれません。

今日は代官山に行っていたのですが、代官山にはおしゃれなレストランやカフェがたくさんあります。
私には縁遠い世界です。
私自身は、仕事をしていた頃は、そうしたお店でご馳走になることはありましたが、最近はほとんどありません。
節子と一緒に行ったことも、若い頃はともかく、私が生き方を変えてからはまずありませんでした。
そうしたお店の前を通ると、ちょっと悔やむ気持ちが起こることがあります。
私自身は、そうしたお店に全くと言っていいほど、興味がありません。
節子も、さほど興味があったとは思えません。
だからと言って、節子が、そういうお店に行きたくなかったわけではないでしょう。
そう思うと、少し罪の意識が生まれるのです。

誰かのための時間とお金を、自分たちに振り向けていたら、私たちはもう少し贅沢な暮らしができたかもしれません。
しかし、それは私の生き方ではありませんでした。

私が、節子と一緒にいて、ともかく安堵できたのは、私の少し変わった考え方を、丸ごとすべて受けいれてくれていたからです。
私は、世間の常識からかなり脱落していると思いますが、節子はむしろそれを応援してくれていました。
人生において、自分のことを心底、理解し共感してくれている人がいるということが、どれほど幸せなことなのか。
そのことが、私が生き生きと生きてこられた、一番の理由だろうと思います。
いまもなお、その幸せの余韻は強く残っています。

■2064:花畑作りに着手(2013年5月1日)
節子
重い腰を上げて、わが家の家庭菜園の手入れに行きました。
一人ではどうしても行く気が起きずに、娘たちにも応援を頼みました。
このままだと、また昨年のように、草と笹が全面を覆ってしまい、野菜どころか花畑にもなりません。
しかし、土の仕事は、この歳になるとこたえます。
娘たちの応援を得て、ようやく一部の草を刈り取り、耕し、花のタネを蒔きました。
芽が出てくるといいのですが。
この調子で、少しずつ花畑にしていけば、夏にはきっときれいな花畑になるでしょう。
しかし、節子がいないことを考えれば、「この調子」が続く保証はありません。
いささかの心配はありますが。

農作業の手ほどきは、
節子から受けました。
節子はうまかったわけではありませんが、好きだったのです。
転居前も、わが家の隣の宅地が売れずに空いていたため、そこを借りて、野菜を作って、近くの子どもたちと芋ほりをしたり、カレーパーティをやったりした記憶があります。
転居後の畑も宅地なので、ひどい土壌でした。
それをやっと農作物が作れる土づくりに成功し、そろそろ近所の子どもたちと芋ほりしながらのパーティだと楽しみにしていたところで、節子は病気になってしまいました。
節子がいたら、この近隣の付き合い方も、もう少し変わったかもしれません。
今も近隣関係はとてもいいのですが、もっと深まったはずです。
それが出来なかったのが、とても残念です。

今年の夏からは、節子の位牌壇に、わが家の花畑の花を供えられるかもしれません。
そうできるように、がんばりたいと思います。
節子がいたら、楽しい作業になるのですが、一人だと、がんばらないと続きません。
困ったものです。

■2065:一度だけのかなしい顔(2013年5月1日)
イギリスのテレビドラマの「シャーロック」の第2シーズンの3作品をまとめてみました。
先日、思い出して、この挽歌にホームズの言葉を書いたのですが、そのせいか、また観たくなってしまったのです。
今日は、家庭農園の草取りをした後、死にそうなほど疲れたので、3作品を通してみてしまいました。
このドラマは、放映されていた時にも観たのですが、私好みのテンポです。
それにこのドラマに出てくるホームズは、実に私好みなのです。
ともかく性格が悪く、支離滅裂で、私が、なれるものならそうなりたい、理想のタイプです。

このドラマは、コナン・ドイルの原作をしっかりと踏まえて、それを現代に置き換えた、新しい物語に仕上げているのですが、原作を見事に活かしています。
第2シーズン最後の作品は、シャーロック・ホームズ最後の事件のライヘンバッハの滝を踏まえた作品です。
原作と違って、あるいは同じく、ホームズはビルの屋上から飛び降りて死ぬことで終わっています。
ホームズの作品を読んだことのある人なら、当然、わかるように、もちろんホームズは死にません。
しかし、少なくとも死ぬほどの苦汁を味わうわけです。

ところで、私が今回、気になったのは、その事件の途中で出てくるシーンです。
ホームズの数少ない仲間のモーリーが、ホームズに言うのです。
人前では明るい顔をしているが、私は(あなたの)かなしい顔を見た、と。
モーリーの父は、まさに死を意識した時に、そういう「かなしい顔」をしたのだそうです。
モーリーは、ホームズが死を意識していることを知って、自分に何かできる事がないかを遠まわしに伝えたのです。
前に見た時には、このセリフは私の心を通り抜けていたようです。
しかし、今回はぐさっと突き刺さりました。

節子はどんなに苦しくなっても辛くても、明るく振る舞ってくれました。
しかし、あまり思い出したくないのですが、一度だけ、私の顔を「かなしい顔」をして見ていたことがありました。
もうあまり言葉を発しられないほど、病状が悪化していた時でした。
視線を感じて、ベッドの節子を見ると、かなしい顔で私を見ていたのです。
その時、私はどう節子に対応したのか、まったく記憶がないのですが、その顔のことを、節子を見送ってしばらくしてから、時々、思い出します。
あれは、幻だったのだろうかと思いたい気分も強いのですが、おそらく実際にあったことだと思います。
その顔にたえられずに、私はしばらくその記憶に蓋をしてしまっていたのです。
その顔を思い出すたびに、節子になんと応えたのだろうと思い出そうとするのですが、なにも思い出せません。
私は、節子をなぐさめたのでしょうか。
笑いながら、元気を出そうよ、と肩を抱きしめたのでしょうか。
何をしたかが、まったく思い出せない。
ただただ「かなしい顔」の節子が、そこにいるのです。
あの時は、たぶん節子はもう彼岸との往来を始めていたころです。

ホームズは、第3シーズンで戻ってくるでしょう。
しかし、節子は戻ってこない。
私がホームズほど、頭脳明晰ならば、取り戻せたのかもしれません。
節子の、「かなしい顔」に応えられなかった自分が情けなく、怒りさえ感じます。

■2066:義姉の入院(2013年5月1日)
節子
節子のお姉さんが入院です。
26日に手術しましたが、術後は順調に回復しています。
しかし1か月ほどの入院になりそうで、義兄は大変です。
私と同じく、自炊が苦手な人のはずですから。
節子がいたら、しばらくは敦賀で手伝いができるのですが、私ではまったく役にはたちません。
今日、ユカに頼んで、レトルト加工食品類を山のように送ってもらいました。
これはユカのアイデアです。
もっとも近所の人たちが、毎日のようにおかずを届けてくれているようです。
地方には、まだそうした文化が残っています。
それに節子以上に義姉は世話好きですから、こういう時にはみんなが支えてくれるのでしょう。
それが一番の財産です。

今の世代は違いますが、私たちの世代は、まだ家庭内での夫婦の役割分担がかなり明確でした。
夫は外で働き、妻は家を支える、という感じです。
そういう生活をしてきたので、料理が一番苦手です。
義姉も、多分、入院する自分よりも、家に残る夫のほうが心配なことでしょう。

節子も、彼岸に旅立つ自分よりも、此岸に残る私のことが心配だったはずです。
そんなことを思い出しました。
夫婦とは、自分をさておいて、相手のことを気遣うものなのです。
親子もそうでしょう。
そして、それは「人間の本性」なのではないかと、この頃、感じます。
伴侶や家族に限らず、最近は気になる人が多くなりました。
騙されてもなお、気になってしまうのは、なぜなのでしょうか。
生きている人は、みんあ幸せになってほしいと思います。

節子がいたら、どう言うでしょうか。
いや、彼岸の節子は、今の私をどう見ているのでしょうか。
きっと、笑いながら、修らしいといっているでしょう。
節子を失望させないように、そういう生き方を守っていきたいと思います。

■2067:相変わらずの時間感覚のだめさ加減(2013年5月2日)
節子
今日はとんでもなく忙しい日になってしまい、お墓参りも行けずに終わってしまいました。
忙しくなったのは、あることをするために必要な時間を予測し間違えたからです。
2時間もあれば終わるはずの用事が、なんととんでもない誤算で、仕方なくユカにも応援を頼んだのですが、それでも4時間以上かかってしまいました。
実はまだ終わっていないので、私の予測の甘さがとんでもないことが良くわかります。
おかげで、ほかの予定していたことがほとんどできませんでした。
午前中に、畑に行っておいたのでよかったですが。

実は、こうしたことはよくあったことで、節子は何回も体験していたでしょう。
私は、物事を極度に簡単に考える傾向があり、いつも失敗するのです。
1時間で出来ると予測していたのに、1日かかったりしたりするわけです。
私の時間感覚は、とんでもなくずれているのです。
その上、自分を時間的に追い込んでいく習癖があります。
時間を追い込んでいくと、予想以上に効率が上がり、早くできるからです。
それに、それまではのんびりできるのですから、2種類の時間を楽しめることになります。
ですから、締め切りには間に合いそうもないところまで、取りかからずに、もう無理かもしれないというところまで引き伸ばしてしまうのです。
その余波を受けて、節子はかなり迷惑を受けていたはずです。
久しぶりに、今日はそうした私のだめさ加減を体験しました。

この連休で生活を立て直そうと思っているのですが、いささか心配になってきました。
さて、気を引き締めて、明日は頑張りましょう。
しかし、急に明日は湯島に行かなければいけなくなりました。
2人の人から、会いたいという連絡が来たのです。
迷ったのですが、今朝、お2人に会う約束をしてしまいました。
もちろん別々の用事です。
さてどんな用件でしょうか。
それでまた連休の後半がすっ飛んでしまうかもしれません。

まだ今日の予定は終わっていないのですが、今日の完成は諦めて、眠ることにしました。
明日になれば、間違いなく太陽は上がってきますし、まあ予定がずれたところで、どこかでうまく調整できるでしょう。
しかし、それにしても、私の時間感覚は、どうにかならないものでしょうか。
娘にも悪いことをしてしまいました。

さて眠りましょう。

■2068:憲法を読みました(2013年5月3日)
節子
連休のさなかに、湯島に来ています。
午後から2組の来客があるのですが、午前中から来ていました。
休日なので、とても静かで、空気もいつもとは違います。
以前もこんな感じの時があったなという気がしますが、いつだったか思い出せません。
しかし、静かです。

今日は、憲法記念日です。
それで、日本国憲法を先ほど読み直しました。
日本国憲法は、武田文彦さんが、「赤ペンをもって憲法を読もう」という本を書いていますが、条文はとても粗雑です。
武田さんでなくとも、添削したくなります。
章によって、まとめ役が違ったようで、全体の編集も十分にされているとは思えません。
気になる表現もたくさんあります。
しかし、そうした表層的なことはともかく、その精神はやはり感動的です。
私は、この憲法のもとで人生を過ごせることに、幸せと誇りを感じます。
国民であるならば、年に少なくとも1回は、憲法の全文を読むべきだと思いますが、平和運動をしている人でさえ、きちんと読んでいないのではないかと思うこともあります。
そんな人たちの護憲運動や平和運動には、加担できずにいます。

しかしいま、その憲法が変えられようとしています。
これは由々しきことだと思いますが、多くの国民は無関心です。
無関心どころか、憲法を変えてしまおうとする自民党を、前回の選挙では大勝させてしまいました。
そんな人たちと共に生きていることに、悲しみと怒りを感じます。

今年は、自民党の憲法改正草案も読んでみました。
読むのさえもおぞましかったのですが、変えられてからでは遅すぎます。
気になる条文は読んではいたのですが、全文の通読は初めてです。
やはり恐ろしい悪意を感じます。
自民党の前回の選挙スローガンに明示されていたように、彼らは日本を取り戻そうとしているのがよくわかります。
「日本を取り戻す」という、あのスローガンの主語は、国民ではなく、安倍さんたちです。
節子が、いたらどう思うでしょうか。
生活感覚での正義感が強かった節子と一緒に、デモに出かけられないのが残念です。

まだ一人で、デモに参加する気力が戻ってきていません。
困ったものです。

■2069:農作物栽培を再開します(2013年5月3日)
節子
節子が耕した家庭菜園に、今年は野菜も育てることにしました。
来客が来るまでやることがなかったので、いろいろと考えているうちに、また余計なことを決めてしまいました。

節子の計画通り、道路に面したところは花畑にし、後ろのところは野菜畑に戻そうと思います。
数日前から少しずつ作業を始めたばかりなので、まだ確実とはいえませんが、気が変わらないうちに、夕方、帰宅したら苗を買いに行こうと思います。
いや、その前に墓参りに行ったほうがいいですね。
今日は、節子の月命日ですから。

節子がいなくなってしばらくは、毎月3日は自宅で節子を偲んでいました。
しかし、最近はあまり意識しなくなってしまいました。
薄情者と言われそうですが、まあ、人間はそんなものです。
立場が逆になっていても、たぶん節子も私と同じでしょう。
最近は、月命日であることも忘れて、墓参りも忘れてしまうほどです。
これは喜ぶべきことか悲しむべきことか。
3日に限らず、毎日が命日だとも言えますし、もう5年も経ったのだから喪が明けたともいえます。
どちらにしましょうか。

家庭菜園の話でした。
節子だったら、何を植えるでしょうか。
トマトときゅうりとなすと、まあ今年はそんなところからはじめようと思います。
気になるのは、放射線汚染ですが、まだ線量計を買えずにいます。
お金はあっても困りますが、なくても困ることもありますね。
困ったものです。

■2070:見ず知らずの韓国人からのメッセージ(2013年5月4日)
節子
昨日、韓国の金孝東さんという人から、突然のメールがきました。
長いですが、一部を編集して紹介します。
金さんも、それを望んでいるようですので。
ちなみに、金さんは日本語ができないようで、ハングルで書いたものを自動翻訳をつかって日本語に置き換えています。
それをさらに私が少し修正していますので、もしかしたら誤読があるかもしれません。

あなたの記事をインターネットで、節子への挽歌1948「みんなの幸福」に出会い、あなたを知りました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/01/post-42ea.html
この記事に深く共感しました。
他の記事も読んで、あなたに手紙を送る勇気を得ることができました。
私は韓国で、自然音楽を人々に伝える活動をしています。
その活動に取り組んでいる理由は、宮沢賢治のように、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と思っているからです。

私は日本人を深く愛しています。
韓国と日本は、歴史的に非常に密接であるだけでなく、昔は同じ民族でした。
そのため、日本人の将来についても、とても心配しています。
もし大地震が来たら、日本人たちは新しい生活の場所を見つける必要があります。
日本人を最も助けられる国は韓国です。
歴史的に日本と韓国は、良好な関係がなかったが、
今から準備をしたら、韓国人は日本人と一緒に生きていくことができます。
そのため、私は日本人と韓国人が一緒に生きていくための準備をしようとします。

何も起こらなければ、それが一番です。
ただ、韓国人と日本人が仲良くできるように心配するだけですから。
それだけで良いのです。
しかし、そうでない場合は、私たちは、未来を準備する必要があります。
私は今、これを一緒に心配する日本人を知っていません。
このような私の意味を理解して、日本の友達を作りたいと思います。
そして、一緒に、日本人と韓国人が家族のように過ごすことができるように考えていきたいと思います。
あなたは、私のこの心を理解してくれると思います。
あなたの応答を待ちましょう。

金さんがどんな人かは知りません。
年齢も分かりません。
しかし、節子の縁で知り合った以上は、返信しないわけにはいきません。
早速、返信しました。

さて、これからどう展開するか。
この挽歌から始まった交流は数名いますが、外国人ははじめてです。
お会いするのが、楽しみです。

■2071:野菜の苗を買ってきました(2013年5月4日)
節子
畑の整地は少しずつですが、順調に進んでいます。
間もなく「節子花畑」が再開できそうです。
今年は、野菜も復活させることにしました。
今日、苗を買ってきました。
ミニトマト、なす、きゅうり、唐辛子、ピーマン、モロヘイヤなど、比較的簡単なものにしました。
土中物は放射線による土壌汚染もあるので、やめました。
ただ、毎日、畑まで行くのは怠惰な私には確信が持てないので、一部は自宅でプランター栽培することにしました。
花畑には、お墓に持っていける花も植える予定です。
これでわが家の家計も少しは節約できるでしょう。

花は何を蒔くかですが、とりあえず家に残っていた種をすべて蒔いてしまおうと思います。
なかには節子が採っておいた、何のタネだかわからないのもあります。
古いために発芽しないかもしれませんが、何の花が出てくるか楽しみです。
節子は、鳥や花になって戻ってくると言っていましたから、きちんと花になって戻ってきてくださいよ。
私は、鳥があまり好きではないので、花のほうがいいです。
そういえば、今日も畑に小さな鳥が来ていましたが、あれは節子ではないでしょうね。

庭の花も咲き出しました。
今日はわが家の庭の片隅にあるジュンの工房にお客様があったのですが、花がきれいだと喜んで、写真を撮っていってくださったそうです。
節子がいた頃と比べると、かなり見劣りはしますが、いろんなバラが咲き出しましたし、まあ気持ちのいい庭になってきました。
ただ、見えにくいところの花はだいぶ枯らしてしまいました。
一番悪いことをしたのは、節子が大事にしていたヒャクヤクが見事な花を咲かせていたのに、見えないところに置いていたため、誰も気づかないうちに、花びらが落ちてしまっていたことです。
まあ、来年はそういうことのないように注意しましょう。
まだ私が元気であればの話ですが。

そんなわけで、少しずつ。わが家の花も元気になってきました。
だめになってしまったヤマホロシとランタナも、また花屋さんから買ってくる予定です。
そうそうもうひとつ。
昨年、枯れてしまったいちじくの木のあとに、若い芽が1本、育っていました。
これは大事にして復活させたいと思います。
節子は、日本いちじくが大好きだったので、来年はお供えできるように頑張りましょう。

■2072:「皆んなしんどいんだよ。気づいてないか、言わないだけだよ」(2013年5月6日)
節子
あっという間に、連休が終わってしまいました。
溜まっていた仕事を整理し、乱れている生活のリズムを整えようと思っていましたが、結果は逆で、益々生活のリズムは崩れ、予定していた宿題は半分もできませんでした。
困ったものです。

半分以上は自宅にいたのですが、テレビで自動車の渋滞の風景をみるとうらやましさを感じました。
昔は、私たちにもそんな体験がありました。
いまではもう遠い過去の話になってしまいました。
テレビの風景が、だんだん自分とは無縁なものになっていくのは、少しさびしいものです。

最近は、世間の話題にもどうも距離を感じます。
どんどん社会から脱落しているのがよくわかります。
こうしてだんだん人は彼岸に近づくのでしょう。

しかし、そんなことばかりもいっていられません。
見知らぬ韓国の金さんからだけではなく、いろんな人がまだ私に連絡してきてくれます。
関西の知人から、こんなメールも来ました。

4月の地震から、体調も崩しました。
課題の解決に失敗したこともあり、先へ進む希望を求めながらこの連休を過ごしています。
佐藤さんが、3月のお電話で、「××さん、皆んなしんどいんだよ。気づいてないか、言わないだけだよ」と、おっしゃった言葉を思い出して、元気になりたくて、このメールを書くことにさせてもらいました。

ああ、そんなことを言ったなと思い出しました。
当時、彼女はある問題に直面していて、夜遅く、長電話をしてきていました。
私もかなり滅入っていた時期だったので、どの程度、役立ったかはわかりませんが、当時の問題は無事乗り越えました。
しかし、その問題は、私からすれば、そう難しい問題とは思えませんでした。
しかし、彼女にとっては、大変な問題だったのでしょう。
最近、漸く、そういうことが、私にもわかるようになりました。
彼女は小さい頃、お父さんを自死で亡くしています。
それを知ってから、精神的にダウンしてしまい、たぶん動けなくなったのです。
たまたま4年前に、私たちが主催した自殺防止をテーマにしたフォーラムに参加し、それを契機に動き出したのです。
私は、彼女からたくさんのことを学ばせてもらいました。

実は、私も今年になってから、あまり元気ではないのです。
最近少しはよくなって入るのですが、気が満ちてはきません。
中途半端な元気さは、逆に辛いものがあります。

そんな時に、このメールです。
「皆んなしんどいんだよ。気づいてないか、言わないだけだよ」。
このメッセージは、いまの私を元気づけます。
自分が発した言葉は、いつか自分に返ってきます。

さて、明日から少し気を引き締めて・・・ などとは思わずに、しんどさを大事にしながら、ゆっくりと行こうと思います。
長いようで短い連休でした。

■2073:「話す相手」がいなければ「話す自分」もいなくなる(2013年5月6日)
節子
時々、この挽歌への読者が増えることがあります。
この挽歌は、誰かに読んでもらうというよりも、自らが語るというためのものですから、読者のことをほとんど意識していないので、普段は読者はそういません。
ところが、一昨日、急に読者が増えました。
時評編と挽歌編があるのですが、読者が増えるのは多くの場合、時評編です。
先日、「グラディオ作戦」が話題になったようで(私は気づきませんでしたが〉、一日2000件を超えるアクセスが続きました。
今回はそれほどではないのですが、調べてきたら、どうも野田風雪さんのおかげです。
「挽歌1527:「話す相手がいないこと」の意味」へのアクセスが増えていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/11/post-715d.html
半年ほど前の挽歌です。
読み直してみました。
挽歌を読み直すことはあまりないのですが、半年前の自分に会ったような気がして、少し新鮮でした。

伴侶を見送った後、「話す相手」がいなくなることの辛さについて、野田風雪さんが語った話から、「話す相手がいない」とはどういうことかという私の思いを書いたものです。
読み直して気づいたのは、いないのは「話す相手」ではなく「話す自分」かもしれないということです。
相手がいなければ、自分もいないというわけです。
伴侶を亡くすと、自分が見えなくなる。
自分がどこかに行ってしまったような感じになるのです。
おかしな言い方ですが、節子がいた時の私といなくなってからの私が、別人になってしまうような気分で、現状の私を見ている、以前の私が時々、出てくるのです。
まさに「アイデンティティ・クライシス」。
私の場合、その2つの私が一緒になるまで5年ほどかかった気がします。
完全に一つになったわけではなく、いまも2つの私が存在してはしますが、最近は矛盾なくつながっている気がします。
一時は、お互いがお互いに「冷やか」だったような気もします。

なんだか禅問答のように聞えるかもしれませんが、なにかとても重要なことが含意されているようにも思えます。
たとえば、「話す」という行為の本質にも関わっているような気もしますし、昨今の人のつながりが弱まっている状況にもつながっているような気もします。
考え出すと際限がなくなりそうです。

いうまでもなく、「話す」という行為の意味は、「話し合う」ということでしょう。
独り言のように、声を発するということではないでしょう。
相手の反応があればこその「話す」です。
風雪さんが「辛い」と言うのは、相手の反応がないと話せないということでしょうが、その「反応」は、伴侶の場合は特別だということです。
その気持ちは、私も体験しているので、よくわかります。
しかし、辛いのは、「話す相手」ではなく、「話す自分」がいないからかもしれません。
私は、最近ようやく、その「自分」に出会いました。
節子を見送ってからしばらく、自分が混乱していて、自分にさえその居場所が分からなかったのですが、やっとまた自分に戻れたのです。
ますます禅問答になりそうです。

半年前の挽歌を読んだだけで、自分の変化が少し感じます。
最初の頃の挽歌を読むと、まったく別の私に出会うかもしれません。
読もうかどうか、迷います。
さてさて、どうするか。

■2074:節子がいた頃の風景(2013年5月8日)
節子
家庭菜園の整備がかなり整い、いよいよ野菜も植えました。
とりあえずミニトマト、なす、きゅうりなどです。
昨年、時間をかけて生い茂っていた草や笹を刈り取っていたので、今年は思った以上に作業が早く進みました。

花の種は、まだ芽がでてきませんが、少しだけ「荒れ地」が「畑」らしくなってきました。
まだ肝心の道沿いの斜面が荒れていますが、しばらく放置していた間に、見も知らぬ木が大きく育っています。
それを切るのも忍びないのですが、切ってしまいました。

切るといえば、道沿いの5本のヒバの木が大きくなってしまっていました。
そのうちの2本は昨年枝をすべてはらっていたんで、枯れましたが、残りの3本は元気です。
それで切るのをやめて、小さくすることにしました。
これから時間の合間を見つけて、道沿いをきれいにし、花を植えていく予定です。

この畑の前の道は、「はけの道」と言って、白樺派文人も、たぶん散歩した道です。
今はその面影は少なくなっていますが、散歩する人は結構います。
節子がちゃんと花畑をつくっていたころは、通る人からも「きれいですね」といわれていました。
節子の病気が治り、元気になったら、ここに長いすを置いて、散歩している人のお休みの場を提供する計画でしたが、それは実現しませんでした。
私一人では、ちょっとその勇気が出てきません。

斜面の草狩りをしていると、生い茂った草の下から、いろんなものが出てきます。
節子は、整地する前の宅地に散在していた、いろんな廃物や石ころやコンクリートのかけらなどを活用して、段々畑に利用していましたが、そうしたものも荒れているところでは、単なる廃物にしか見えません。
お金をかけずに、花畑をつくるのは、それなりの工夫が必要ですが、節子はそうした点にかけては、まあまあでした。
私は、思いはありますが、どうも苦手です。

農園復活と同時に、自宅の庭でもプランター菜園を復活させることにしました。
朝食のサニーレタスのタネを蒔きました。
芽がでるといいのですが。

まあこんな感じで、節子がいなくなってから、風景が変わってきている中でも、
少しずつですが、節子がいた頃の風景も戻ってきています。

しかし、野菜や花と付き合うのは、結構大変です。
私のように、飽きっぽい性格だと、ついつい手を抜きたくなります。
私は、自分自身の「生存のための基本的な活動」さえも、できれば手を抜きたいと思っている人間です。
しかし、自分はいいのですが、わが家の老犬チビ太くんの介護と同じで、植物のように素直な生命との付き合いは、手を抜けません。
土と付き合うのは、やはり生きる上で、大きな学びがあることを感じます。

■2075:パーティへの招待状(2013年5月9日)
節子
小宮山さんからパーティへの招待状が届きました。
コミー株式会社が創立40周年を迎えたのだそうです。
コミーは、小宮山さんの会社ですが、とても個性的な会社で、テレビなどでも時々取り上げられています。
小宮山さんは、湯島のサロンにも一時期、常連になっていたので、節子もよく知っていますが、小宮山さん自身もとても個性的で、とても社長とは思えないキャラクターです。

その案内状に、こう書いてあります。

コミーは今年4月で設立40周年、おかげさまでストレスもなく、マイペースで仕事をすることができました。ありがとうございました。

ストレスもなく、社長を40年もやってこられたというのはすごい話です。
私も、一応、株式会社コンセプトワークショップの社長ですが、会社といっても社員もいませんし、いわゆる仕事も持ち込まれたものだけを引き受けていますので、普通の意味での会社とは言えません。
利益はほとんど出たことはなく、この10年ほどは給与ももらったことがありません。
ですから、ストレスはたまらないのですが、今から考えると、この会社を手伝っていた節子には、いろいろとストレスがたまっていたのだろうと思います。
経理もすべて節子任せでしたし、お金の管理もすべて節子でした。
事務所の賃借料が払えなければ、家計から充当しなければいけません。
最初の頃は、サロンもストレスだったようです。

しかし、その分、私はストレスフリーでした。
会社時代とは大違いでした。
やりたいことをやりたいようにやればいいのですから。

しかし、小宮山さんの会社は、世界を市場にしてビジネスをしている会社です。
社員は20人ほどですが、一人会社の私とは全く違います。
にもかかわらず、ストレスフリーで40年。
これは小宮山さんのお人柄でしょう。

その小宮山さんが、昨日は湯島に来ていました。
何の用事だったのかよくわかりませんが、2時間半も話していきました。
私は小宮山さんとは付き合いがありますが、コミーの会社とは付き合いがないので、パーティはちょっと場違いなのではとお伝えしましたが、小宮山さんは、まあいろんな人も来るからとかわされてしまいました。
さてどうしましょうか。

節子なら、行ってきなさいよと言うでしょうが、どうも最近、華やかな場への参加に気乗りがしないのです。
いや、これは最近ではありません。
節子がいた頃も、華やかな場は不得手でした。
ですから、よく節子を誘ったものです。
しかし、節子も好きではなく、あんまり付き合ってはくれませんでした。
私たちには、どうも華やかな場は相応しくないようです。

■2076:難事件発生!(2013年5月10日)
節子
事件発生です。まあ、たいした事件ではないのですが、昨日発生した事件です。
ジュンの連れ合いの峰行がやっているイタリアンレストランに、予約客が2組あったのですが、いずれも直前に人数が増えてしまい、合わせるとお店の集客能力を超えてしまいました。
そのため、一方のお客様には謝罪の上、お断りをしようとしたのですが、いずれからもお店が気にいっているので、場所は変えたくないといわれたそうです。
それで事情を話し、お互いに窮屈になるが、席数を増やすので、それでもいいかと相談したそうです。
双方ともそれでいいと言ってくれたそうです。
よほどお店を気に入ってくれているのでしょう。

問題は、どうやって席数を増やすかです。
それが「事件」です。

朝、峰行から、そういう事情なので、テーブルと椅子を借りたいという電話がかかってきました。
さてさて、こういう問題が起こると、何だかわくわくしてきます。
わが家に使えるテーブルや椅子が果たしてあるかどうか。
そのまま使えるテーブルはありません。
わが家の食卓のテーブルは、節子の好みで、円形なのです。
仕事に使っているサブテーブルが何とか使えそうですが、レストランにはちょっとという感じです。
さてさてそうするか。
しかし、これは実に楽しい難問です。
娘たちと一緒に、知恵を出しあって、何とか解決策が見つかりました。
使えそうなテーブルやいすを娘たちが自動車でお店に運んでいきました。
私も行きたかったのですが、自動車に乗るスペースがなくて、乗せてもらえませんでした。
しかし、娘たちも何だか楽しそうでした。
お店の場所を借りている大家さんも、どうやら協力してくれたようで、今朝、解決できそうだという連絡が来ました。

節子がいた頃を思い出しました。
わが家では何か難問ができると、家族全員で解決に取り組む文化がありました。
お金で解決できるような場合も、原則としてお金には依存しないのが、節子がいた頃のわが家の文化でした。
デッキのペンキ塗りも室内の壁紙張りも、みんな家族全員が動員されました。
デッキのペンキ塗りは、これは大変でしたので、もう2度とやらないで住むように新しい家はアルミにしました。

しかし、こうした家族みんなで取り組むことは実に楽しいのです。
特に節子は、それが好きでした。
もし節子がいたら、今回も大喜びで、いろいろとやったことでしょう。
どさくさにまぎれて、テーブルクロスまで勝手に作ったかもしれません。
家族に難問が押し寄せてくると、節子はとてもがんばるタイプでした。
もちろん楽しみながらです。
私も、同じように、それを楽しむタイプでした。
その文化は、幸いにまだ残っています。
家族みんなで汗を流す。これほど楽しいことはありません。
節子は参加できずに残念がっていることでしょう。

そんなわけで、今夜はジュンもお店に手伝いに行くそうです。
節子がいたら、もちろん何をおいても行ったことでしょう。

元気だった頃の節子の笑い声が聞こえてくるようです。

■2077:最近、寛容さがなくなってきました(2013年5月11日)
節子
最近、かなり性格が悪くなってきました。
それにストレスもたまってきています。
この挽歌を通して、ささやかに発散させることにします。

昨日も2人の人から、電話がありました。
考えようによっては、身勝手な依頼の電話なのです。
こちらから何か連絡しても、ほとんど反応はないのですが、頼みごとだけはよくしてきます。
出来る範囲では、対応しているつもりですが、その後、何か報告があるわけでもありません。
ペイフォワードな生き方をしている以上は、気持ちよく受けなければいけません。
しかし、そうしたことが重なるとあまり気分がいいものではありません。
それで、昨日は一人の人にはちょっと冷たく対応してしまいました。
電話を切ってから、少し自己嫌悪に陥りました。

まあ、その2人に限ったことではありません。
頼んできたので準備をしていると、その後、全く音沙汰ない人もいます。
もっとひどい話もあります。
時間と金銭をかなり負担させられたこともあります。
世間的な常識からしても、外れている大人が多すぎます。
わが家の娘だったら、そんな人と付き合うなと言うでしょう。
そういう大人が、最近は多すぎるのです。

なぜでしょうか。
みんな忙しすぎて余裕がないのかもしれません。
私だって、同じようなことをしているかもしれないので、基本的には大らかに対応したいのですが、何回も繰り返されると、いささかムッとしてしまいます。
我ながら器量が小さいと思うのですが、どうも最近、そういうことが気になるのです。

その一方で、私とは比べようもないほど、気遣いがあり、ペイフォワード的な人も多いのです。
そういう人がいる一方で、その正反対の人がいる。
だからこそ、ストレスがたまるのかもしれません。
そういう人は、見事に要領がいいのも気分がよくない理由のひとつです。
楽しくない人とは付き合わないほうがいい、おまえはだれとでも付き合いすぎだ、とむかし、友人の片岡さんに言われましたが、当時のほうが、私はだれにも寛容でした。
騙されても騙すよりはいい、と思っていましたし、それがそう苦にはならなかったのです。
しかし、どうも最近、そうではなくなってきました。
気になりだすと、それこそ、些細なことまで気になりだします。

人生は限られているのだから、付き合う人を絞り込むのがいいのかもしれません。
しかし、もし付き合って楽しい人とだけ付き合っていたら、それで人生は楽しく豊かになるのか。
必ずしもそうではないでしょう。
これは、節子と暮らしてきて、気づいたことのひとつです。
だから私の生き方はこれからも変えるつもりはありませんが、しかし、節子がいないせいか、そうした些細なことがストレスになってきています。
節子がいたら、違った視点で、そうした人の「良い点」を見つけ、私の側の「悪い点」を指摘してくれるでしょう。
少なくとも、私が愚痴ると、そういう人とも付き合うのが修でしょうと笑いながら元気づけてくれたでしょう。
でも今は、一人で、グチグチと考えてしまうわけです。
明らかに、性格が悪くなっています。
困ったものです。

挽歌を汚すようなことを書いてしまいましたが、まあ、これもまた私なので、仕方がありません。
少しだけ、ストレスが発散できたような、逆にストレスが高まったような、おかしな気持ちです。
明日、読み直したら、削除したくなるかもしれないので、読み直すのはやめましょう。

■2078:クラインの壺(2013年5月12日)
節子
季節の変わり目のせいかもしれませんが、どうも精神が安定しません。
どこかに、「不安感」があるのです。
半年ほど前から、ようやく精神的には元に戻ったように思っているのですが、正常化すると、節子の不在もが現実のものとなってリアリティを感ずるようになり、それが逆に精神的な不安感を高めるのです。
なんだか、内部と外部のない、クラインの壺のような精神構造にあります。
精神的に安定化したからこそ、不安定になる、というわけです。

伴侶との死別は、やはり残酷なものです。
日常が一変しますから、その現実を直視できません。
どこかで現実を素直に受け容れない自分がいて、どこかで無理をしているのです。
しかし、私の場合は5年ほど経ったところで、周りから霧が晴れていくような、そんな感じで、世界が変わってきたのです。
判断力も戻ってきたように思います。
節子がいない世界で生きることに、決して慣れたわけではありませんが、理解できるようになったように思います。
朝、起きて、節子に向かって、ありがとう、ごめんね、と言った後で、節子は大ばか者で薄情者だとついつい悪口を言うことも少なくなりました。
言わなくても大丈夫になってきたということです。
それまでは、ともかく問題が理解できずに、困惑の矛先を節子に向けざるを得なかったのです。

安定しているのか不安なのかよくわからない奇妙な精神状態は、もう3か月ほど続いています。
まだ出口は見つかりません。
出口があるのかどうか、それもわからない。
だから精神的には、とても奇妙な感じなのです。
1年前までの、不安感や孤独感とはまったく違います。
何か不思議な不安感と安泰感が交互に浮かび上がってきて、気持ちを上下させるのです。

要注意かもしれません。
過剰にさまざまな問題を背負い込んでしまっているのが一因なのか、逆にそれは結果なのか、それさえもわかりません。
気分を変えることが必要だろうとはわかっているのですが、それが出来ないこともわかっているのです。
なにしろクラインの壺は、内部も外部もないですから、じっとしているのがいいでしょう。
しかし、70歳を超えて、こんな状況とは、困ったものです。
節子が、私の心の半分を持っていってしまったせいでしょう。

いま気づきましたが、クラインの壺は割れるのでしょうか。
外部も内部もない壺は割れるとどうなるのか。
まあ、こんなことを考え出すようでは、やはり要注意ですね。
困ったものです。

■2079:久しぶりの背広(2013年5月13日)
節子
今日は久しぶりに背広を着ます。
節子のがんが見つかってから、背広を着る機会が激減しました。
基本的にビジネスは止めたからです。
節子を見送った後も、背広はあまり着なくなりました。
もう10年近く、背広も作っていませんから、古い背広しかありません。
最近は背広を着る機会は月に1〜2回です。

節子は、私の背広姿が好きでした。
というよりも、私はカジュアルウェアが似合わないのです。
自分の気分的には、背広やネクタイは嫌いで、カジュアルが好きなのです。
しかし、その思いとは別に、背広を着るとなんだか落ち着く気もします。
私もやはり、ほんとうは規律服従型の人間なのかもしれません。

背広姿の佐藤さんのほうがいいと、最初に私に言ったのは、今は大学教授の半田さんです。
最近はこれも大学教授の福山さんが、佐藤さんは背広が似合うと言いました。
いずれも、要するに私のカジュアルウェアが似合わないと言っているわけです。
娘は、極めて辛らつで、お父さんはカジュアルが似合わないよねとよくいいます。
まあ、確かにそうなのですが。
第一、おしゃれなカジュアルウェアは持っていないのです。

今日は椿山荘で、企業関係者を対象にしたフォーラムです。
ですから一応、背広を着ることにしました。
ネクタイもして、少ししゃんとして出かけます。
さて、今頃のシーズンにあった背広はあるでしょうか。
虫に食われていないといいのですが。

■2080:脳梗塞が進行しているのかもしれません(2013年5月14日)
節子
昨日は公開フォーラムで話をさせてもらう機会があったのですが、思っていることがうまく表現できないことが何回かありました。
最初に話をしだした時に、いつもと少し違うような気がしたのですが、最後までうまく話せなかったのです。
最近の睡眠不足のせいかもしれませんが、脳梗塞が進行しているのかもしれません。
一度、病院に行ったほうがよさそうです。

最近、あまりにいろいろな情報が入ってきたのと、人との付き合いに少し疲れてきていることも影響しているかもしれません。
しかし、人間は勝手なもので、人との付き合いを遮断したいという思いの一方で、人との付き合いをもっと広げ深めたいとも思っているのです。
しかし、どうやらかなりのストレスがたまっていることも間違いありません。
以前はストレスとはほとんど無縁だったのに、どうも困ったものです。

原因は、特にこれというものはないのですが、最近はあらゆるものに違和感を覚えます。
そのこと自体が、病んでいる証拠かもしれませんが、無意識の中で、心身に「怒り」が充満している気もします。
「怒り」は、たぶん病んでいることの現れでしょう。
心身が、平安でない結果です。

いずれにしろ、一度、病院に行ってみようと思います。
今日は在宅で休養をとったのですが、まだどこかに身体的な違和感が残っています。
要注意です。

■2081:62歳は早すぎました(2013年5月14日)
節子
節子もよく知っているKさんから電話がありました。
いつもとは違う、沈んだ声でした。
数日前に母上が亡くなったのだそうです。
105歳で、前日まで話をされていたそうです。
普通考えれば、幸せな大往生です。
しかし、それはあくまでも、一般論であって、当事者は全く違うのです。

こういう電話に、なんと応えるべきか。
節子を見送って以来、私は応えられなくなっています。
気を落さずに、とか、ご自分も大事に、とか、月並みの言葉は出てきません。
ただただ、話を聞くことしかできません。

20分ほど話して、Kさんの声も明るくなってきました。
少しホッとしました。
佐藤さんに話して、少し元気になったと言ってくれました。
またいつでも電話してくださいと伝えました。

105歳の母親でさえ、辛いのです。
62歳の妻を見送った時に、その思いを伝える人がいなかったことを思い出しました。
私の体験では、その悲しみや辛さを話す人を見つけるのは、そう簡単ではありません。
というよりも、そんなことさえ、思いつきもしませんでした。
誰かに話せば話すほどに、心が乱れたのです。
どんな慰めも、違和感を持ちました。
心が、きっとおかしくなっていたのです。
Kさんと話していて、節子を見送った時のことを、また思い出しそうになりました。
何とか封じ込めましたが、思い出した途端に、また時間が戻りそうな気がします。
いまは、どうも心が弱くなっているからです。

Kさんのお母様のご冥福を祈って、節子の前で手を合わせました。
節子は62歳でした。
長寿の人の話を聞くと、改めて悲しさが募ります。
位牌に書かれた62歳の文字が、心に突き刺さってきます。

■2082:「生きる」ということは「他者とともにある」ということ(2013年5月15日)
節子
時々、おかしなことを考えます。
先ほど、ふと考えたのは、もし世界に私だけ残ったら、どんな感じだろうということです。
もし一人だけ生存した場合、それは生きているとはいえないのではないかというのが、少し考えて行きついた結論です。
一人では、生きている意味が全くありません。
人間は、言葉によって人間になったという人がいます。
聖書にも「はじめに言葉ありき」とあります。
一人になっても、独り言は言えるかもしれませんが、聞く相手がいなければ、言葉は意味を持たない。
それに、一人だと、自分が生きていることさえも確認できないでしょう。
「生きる」ということは、「他者とともにある」ということなのです。

まあ、そんなことはどうでもいいと思われるかもしれませんし、節子なら、また修の悪いくせが始まったと言うかもしれえません。
しかし、これはなにやら深い意味がありそうな気がします。

もう10年以上前のハリウッド映画に「ピースメーカー」という作品がありました。
ロシアの核兵器がテロリストにより奪われ、それを取り返す米軍人と原子力科学者の活躍を描いた作品です。
奪ったのは、ボスニアに介入した国連軍によって、妻と娘を殺害されたボスニアの外交官で、彼はニューヨークに核爆弾を持ち込むという話です。
タイトルの「ピースメーカー」は、核爆弾を取り戻した主人公たちのことですが、それだけではなく、ピースメーカーはまたビースを壊す人でもあることが含意されています。
外交官がなぜそうした行動に出たか。
妻と娘が国連軍の無差別攻撃で殺害されたからですが、ボスニアやチェチェンなどを題材にした映画に共通する、重い悲しさが、見た後もずっと残る映画です。
ジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンが演ずる「ピースメーカー」よりも、ボスニアの外交官が国連平和維持軍を「ピースキーパー」(平和を気取る偽善者という意味合い)と告発するメッセージが心に残る映画です。
私はこの映画を1年ほど前にテレビで観たのですが、外交官が殺された妻と娘の前で号泣する場面が忘れられず、時々、思い出してしまうのです。
一人では、生きている意味が全くない、という思いは、そのシーンにも影響されています。

今日、書きたかったことは、実は、愛する者たちの死別において、生と死は同値だということです。
とすれば、ことさら「死」を嘆き悲しむことはないのです。
嘆き悲しむべきは、「別れ」であって、「死」でも「生き残ったこと」でもない。
舌足らずで、何を言っているのか伝わらないと思いますが、今日は、ふとそんなことを思ったのです。

東日本大震災の被災者遺族の報道を見るたびに、いつも思うのです。
残された人ほど辛く悲しいのに、なぜか罪悪感が拭えない。
そんな思いを、自分に重ねながら、いつも無意識に何か救いを求めている。
だからこんなことを、思ってしまったのでしょう。
まだやはり、克服できていない自分がいます。

■2083:バラ園(2013年5月16日)
節子
バラが咲き出しました。
大きくなりすぎた「ナニワイバラ」はほとんど刈り取ってしまいましたが、いろんなところのさまざまなバラが少しずつ咲き出したのです。
先日、娘が谷津の京成バラ園に行きましたが、そこで確認したら、わが家のナニワイバラは東アジア原産のものだったそうです。
節子は知っていたでしょうか。

ところで、私たちは、バラ園にはあまり恵まれていませんでした。
すごいと思ったバラ園には出くわせていないのです。
だからバラ園にはあまり華やかな思い出はありません。
娘たちがよかったという京成バラ園にも、節子と一緒に行こうとしたことがあります。
ところが車で行ったため、渋滞で行きつけませんでした。
理由は全く思い出せませんが、渋滞の最中に夫婦喧嘩になり、結局、バラ園に行くのはやめてしまい、近くの名前も知らない寂れた公園のベンチで、2人でふてくされあって仲直りしたような気がします。
私たちは、ともかくよく言い合いました。
いわゆる「犬も食わない夫婦喧嘩」ですが、なんであんなに言い争ったのでしょうか。
まあ、お互いに関心を持ち合いすぎたのかもしれません。
喧嘩も仲良しのうち、といえるようなことがほとんどでした。
「ほとんど」であっても、「すべて」ではないところが、ミソですが。

期待はずれだったバラ園は、イランのエラム庭園でした。
期待はずれの理由は、シーズンが終わった後だったからです。
エラム庭園は「薔薇の都」と言われるシラーズにあります。
エラムとは、ペルシャ語で「楽園」を意味するそうですが、とても美しいところで、残っている宮殿の建物も見事でした。
全体がまさに「楽園」的な雰囲気でしたが、残念ながら肝心のバラは、盛りが終わった後で、いささか無残でした。
イランは、私たち夫婦の最後の海外旅行でした。

その後、国内のバラ園にも行く機会がありましたが、なぜかどこも盛りを過ぎた時期でした。
シーズン外れに行く私たちが悪いのですが、まあ私たちは、バラ園にはどうも縁がなかったようです。

しかし節子はバラが好きでした。
一番好きだったのは真紅のバラでしょう。
20年以上前のことですが、私の友人が、節子に真紅のバラ束をプレゼントしてくれました。
私より若い男性ですが、節子はその後、その人がお気に入りになりました。
あの人は良い人だし、ハンサムだと知的だとほめていました。
まあ私は節子に花のプレゼントなどしたことがありませんので、それへのあてつけだったかもしれません。
幸か不幸か、その友人は忙しくてあまりやってくることはなかったので、それ以上の話に進展しなかったのですが、以来、わが家も湯島もバラが、それも真紅のバラが活けられることが増えたような気もします。
ちなみに、私も真紅のバラは大好きです。

わが家のバラは、節子がいなくなってから、一時期、手入れ不足で枯れてしまったものもありますが、それでもいまも10種類以上のバラがあります。
私はどれがどれだか忘れましたが、娘はそれぞれのバラの由緒を知っていて、これは節子がどこそこで買ってきたとか、だれそれから貰ったとか教えてくれます。
まあ聞いてもすぐ忘れてしまいますが。
イランではバラの種は買わなかったのでしょうか。
今となっては、確認のしようもありません、

バラが咲き出すともう夏です。

■2084:サロンの前のつかの間(2013年5月17日)
節子
夏のように暑いです。
今週は3つのサロンですが、今日はその中日で、協同組合がテーマです。
ところが、今日になって、なんと5人の方から参加できなくなったとの連絡がありました。
せっかく話題提供を私が敬愛している田中文章さんにお願いしていたのに、少し焦っています。
そういえば、前にもこんなことがあったような気がします。

節子とやっていたオープンサロンは、完全にオープンで、その日のその時になるまで、誰が来るのか、何人来るのか、全く予想もつきませんでした。
節子ががんばって、軽食などを用意していても参加者が少ないこともあれば、席が足りないほどに大勢が来ることもあります。
時間が来るまで、よく節子と、夫婦でお店をやっていたら毎日こんな感じで不安だろうね、と話したものです。
実は、それはたぶん、不安であるとともに、楽しみかもしれません。
人生は変化があったほうが、豊かなものです。

私が特にそうですが、先が見えないことの面白さは、会社を辞めてから身につけました。
若いころは、計画を立てるのが大好きでしたが、会社を辞めてからは、むしろ大きな流れに流されながら、その都度にやってくる状況を楽しむことを覚えました。
節子は、私以上に、そうした生き方が好きでした。
私はどこかに、計画を大事にする習癖が残っていたので、たぶん節子は不満だったでしょう。

ただ、25年間勤めた会社を辞める時には、まったく計画を立てていませんでした。
何しろ何が起こるかわからないので、下手の計画を立てたら、せっかくの新しい生き方ができなくなるからです。
いまから考えると、私も無謀ならば、節子も無謀でした。
3年の間に、人生は一変しました。
それができたのは、節子がどこかで支えてくれたからです。
その人生がよかったかどうかはわかりません。
もしかしたら、そうした生き方が、節子を早く旅立たせたことにつながっていたかもしれません。

もしいま節子が元気だったら、やはり喫茶店を開きたいですね。
そして、今日は本当にお客さんが来るのだろうかと、2人で心配しながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいたかったです。
ビルの合間に沈んでいく太陽をみながら、本当は誰も来なければいいのになと、どこかでお互いに思いながら、サロンにやってくる人たちを待っていた、あの時間は、実にあったかな、そして奇妙に幸せな時間でした。
もう体験できないのが、さびしいです。

いま一人、申し込んでいないが参加してもいいかと連絡がありました。
うれしい連絡です。
こういうことがあるので、やはりサロンはやめられません。
そろそろコーヒーの準備をしましょうか。

■2085:大きな悲しみ・大きな喜び(2013年5月18日)
節子
今日もサロンでした。
13人も集まり、昔のオープンサロンの賑わしさを思い出しました。

それはそれとして、今日のテーマは「うつ」でした。
「うつな人ほど成功できる」の本を書いた、浜田幸一さんに来てもらったのです。
浜田さんはご自身の体験を、実に明るく、面白く、豊かに話してくれました。
節子がいたら、たぶん抱腹絶倒したでしょう。
テーマが「うつ」なのに不謹慎だといわれそうですが、重いテーマほど明るく語らなければいけません。

浜田さんは、うつから抜け出る上で、一番効果的だったのは、「うつ友」と話し合うことだったと話してくれました。
最近は、うつに限らず、セルヘルプグループというのが広がっています。
グリーフケアでも、立場を同じくする人たちが、お互いに話し合うことで、呪縛から抜けられることも多いようです。
私も、少しだけ体験しています。

そんな話をしながら、気づいたのですが、人はみんな友だちと思えれば、もっとみんな元気になっていくだろうなということです。
グリーフケアにしても、お互いの悲しみを分かち合えれば、だれもがみんな友だちです。
しかし、ほとんどの人は、自らの悲しみや病いが、自分だけのものだと思いがちです。
この悲しさは同じ体験をした人でなければわかってもらえないと思ってしまうのです。
私もそうでしたし、いまもたぶんにそう思っています。
しかし、人はみんな、大きな悲しさと喜びの上に生きています。
もしそうであれば、だれもがみんな分かち合えるはずなのです。

私はこの10年、「大きな福祉」という考えで、みんなが快く暮らせる社会を目指して、生き方を問い質すようにしています。
しかし、その「大きな福祉」の根底には、「大きな悲しみ」「大きな喜び」があります。
そのことに、ようやく気づきだしました。

どんなに幸せそうに見えても、悲しみからは自由ではなく、どんなに悲しそうに見えても、喜びから自由ではないのです。
どんなにたくさんの友だちがいても、寂しさから自由でなく、どんなに孤独に見えても、縁からは自由になれない。
それに気づけば、だれとでも心を通わせあえるのではないのか。

「大きな悲しみ」「大きな喜び」
そのふたつを、節子から教えてもらったような気がします。

節子
おまえは、やはり私にとっては、先生です。
節子がいた時には、私が節子の先生だったのに、いつのまにか関係が逆転してしまった。
そんな気がします。

今日はとても節子が恋しいです。
なぜでしょうか。
「大きな悲しみ」「大きな喜び」という言葉に気づいたからかもしれません。
節子に話したいことが、山のようにあります。
夢で逢えるといいのですが。

■2086:陶器市(2013年5月19日)
節子
娘たちと柏の葉公園の陶器市に行きました。
節子がいる時には付き合わなかったのに、なぜ今回、付き合ったのかわかりませんが、なんとなくついていってしまいました。
柏の葉公園は、節子が手術をし、良く通い続けた、国立がんセンター東病院のすぐ近くです。
節子と一緒に行ったこともありますが、まだ整備途中で、さびれた感じでしたが、今はしっかりと整備され、しかもいろんなイベントも行われ、賑わっていました。
陶器市の後、節子と行ったこともあるバラ園にも立ち寄りましたが、今回はとても見事にさまざまなバラが咲いていました。

節子は、陶器が好きでした。
陶器屋さんにも何回か付き合わされたこともあります。
元気だったら、長崎の三川内にもいつか行きたかったのですが、結局、行かずじまいになってしまいました。

柏の葉公園の陶器市もたくさんのお店が並んでいました。
明らかに、節子が好きだろうなと思う陶器もありました。
私が集めていたフクロウの置物もありました。
節子と一緒だったら、間違いなく私も買ったでしょう。
しかし、なぜか節子がいなくなってからは、そうしたものを買う気が全くと言っていいほど萎えてしまいました。
娘たちは、それぞれに何かを買っていましたが、私は何一つ買いませんでした。

帰りに、節子がよく通っていた岩田園というお花屋さんに寄りました。
娘たちが、わが家の庭の花を買うためです。
この岩田園には、節子とよく来ました。
いまも、年に何回か、節子宛に案内のハガキが届いています。

私は、今年の冬の寒さでだめにしてしまった、ランタナとヤマホロシを購入しました。
オフィスに胡蝶蘭がほしいところですが、まだちょっと高いのでやめました。
代わりに、節子が好きなバラを買いました。
これもちょっと節約して、カサブランカをやめて、オリエンタルリリーにしました。
カサブランカの香りには及びませんが、まあこの香りも好きです。

久しぶりに、節子と一緒に歩いたコースを娘たちとまわってきた感じです。
ゆっくりしたせいで、体調は少し良くなりましたが、どことなくまだ気力が出てきません。
困ったものです。

■2087:「私はこんなに生きたいと思っているのに、人生を大事にしない人がいるなんて」(2013年5月25日)
節子
またしばらく挽歌をご無沙汰してしまいました。
ちょっと気を抜くとすぐ溜まってしまいます。
最近は時間にまた追われがちです。

時間に追われるということは、ある意味で暇だからです。
というか、生活に目標やシナリオがなく、ただ時間に流されているからです。
つまり時間をきちんと管理する必要性がないので、結果的に時間に追われてしまうのです。
だから「暇なのに忙しい」というような状況になってしまっているわけです。
こういう状況に陥るとなかなか抜け出せません。
いまや私は、誰にも遠慮することなく、自由気ままに生きていても、だれも注意しないからです。
それに現世の生にはさして未練もなく、魅力もありませんから、まあどうなっても気にすることもないわけです。
正直のところ、心のどこかに、人生を投げ出した気持ちがあるようにさえ思います。
実に困ったものです。
節子が知ったら、どういうでしょうか。

「私はこんなに生きたいと思っているのに、人生を大事にしない人がいるなんて」。
節子の言葉です。
がんの転移が見つかり、再入院して戻ってきてからの節子の言葉です。
私の知人が、自殺をしたいとメールしてきたことを知っての言葉でした。
いま、その言葉を急に思い出しました。
まるで彼岸から節子が送り込んできたように、いまハッと思い出しました。
いや節子が怒っているのかもしれませんね。

困ったものだなどと言っていないで、人生を立て直さないといけません。
節子に怒られないように、もう少し人生を大事にしないといけません。
そうしましょう。はい。

■2088:パートナーがいるということは人生を明るくします(2013年5月25日)
節子
反省して、今日はもう一つ書きます。
反省と共に、節子への繰言でもあるのですが。

タイトルの「パートナーがいるということは人生を明るくします」というのは、インタビューに応えて、ジェームズ・ワトソンが話した言葉です。
ジェームズ・ワトソンとは、DNAの二重螺旋構造に気づいたワトソンです。
そのインタビューの内容にとって、この発言はいわばジョークのような位置づけの発言なのですが、私には一番心に響いた言葉でした。
DNAの二重螺旋構造の発見者は「ワトソン=クリック」と言われるように、ワトソンの研究のパートナーはフランシス・クリックです。
彼らは、まさにDNAと同じように、二重螺旋関係のような存在だったのでしょう。
ですから、この言葉のパートナーはクリックのことかもしれませんが、もしかしたら奥さんのことだったかもしれません。
ワトソンは、それとは別のインタビューで、「科学者になってからも含めて、私がやってきたことは全て、きれいな女性に会いたいという一心からです」と話していたこともあります。
パートナーは、一人であるとは限りません。
さまざまな局面で、人はパートナーを見つけることができるからです。

私の場合は、しかし、どうもそうではなかったのです。
あまりに節子とのパートナーシップが強かったためか、考えてみると、それらしき存在が見当たらないのです。
節子に、いささかのめりこみすぎてしまっていたようです。
だからそこから抜け出られない。
生前、節子が一番心配していた通りになってしまっています。

人生のパートナーだった節子がいなくなったいま、私の人生は明るさを失いました。
明るくない人生は、時に道に迷い、時に動けなくなる。
早々とパートナーの責任を果たさずに旅立ってしまった節子には、言いたいことが山ほどあります。
時々、挽歌が書けなくなるのも、もともとは節子のせいなのです。

明るくない人生を歩き続けるのは、それなりに疲れるものなのです。
せめて気持ちだけは明るくしていたいと思います。

■2089:楽あれば苦(2013年5月26日)
節子
今日も畑仕事をしました。
昨年よりはうまくいっていますが、やはりかなり大変です。
時々、娘たちが手伝ってくれますが、私一人の作業が多いです。
しかし、なかなか花壇はできません。
タネを蒔きましたが、芽があまり出てきません。

それにしても、節子はよくまあ、花壇と畑をつくったものです。
何しろ宅地ですから、いま以上に大変だったはずです。
そこを廃物利用でロックガーデンもどきにし、花を植えたのですから。
生い茂った草の中から、柵や置石がでてくることがありますが、節子の工夫のあとが伝わってきます。

人には得手不得手があります。
野菜作りや花壇作りは節子の分野でした。
その分野では、私は単なる手伝い人でしかありませんでした。
私たちは、かなり役割分担がうまくいった組み合わせだったと思います。

田中美津さんの「いのちの女たちへ」という本を読みました。
田中さんといえば、1970年代のウーマンリブ運動の中心にいた一人です。
かなり強烈な本ですが、最近読んで刺激を受けた「全生活 転形期の公共空間」という本に引用されていた田中さんの言葉に感動して、田中さん自らが書いた本を読みたくなったのです。
いまこそ田中さんのメッセージは意味を持っていると思ったからです。

田中さんは、「女は母として、妻として生きよと強いる」社会に異議申し立てをしたのですが、それは同時に、男たちの解放に繋がるメッセージでした。
そのメッセージには共感できますが、田中さんの本を読んでいて、私たちの夫婦関係は、いささか例外なのではないかという気が少ししてきました。
私たちは、ジグゾーパズルの隣り合ったピースのように、違和感なくより添えた関係だったからです。
しかし、この本を読んで、もしかしたら、節子は私に無理やりあわせていたのではないかという疑念が浮かんできました。
全く違った環境で育った2人が、そんなにしっくり行くはずはないのではないか。

私たちは、いずれも自己主張はそれなりに強かったのですが、いわゆる昇進志向はお互いに全くありませんでした。
「男は常に強くあらねばならない己れに合わせて、より強く、より早く走ることを己れに課していく」と、田中さんは書いていますが、私にはそういう意識は皆無でした。
節子もまた、私にそんなことは全く期待もしていませんでした。
会社を辞めることを節子に話した時に、それを実感しました。
節子は節子で、その時に私の生き方を確信してくれたのだろうと思います。
私たちは、お互いを解放し、自らもまた解放した生き方をしていたと思います。
田中さんの本を読んで、刺激は受けましたが、田中さんたちの生き方が、とても古めかしく、自由でないなとも感じました。
私たちは、たぶん近代の先のポストモダンの、その先を生きていたような気がします。

私たちは、ただただ一緒にいるだけで満足だったのです。
改めて、節子との人生は良い人生だったと思います。
その償いを、いましているような気がします。
楽あれば苦ありは、避けがたい自然の理ですから。

■2090:忘却力の欠如(2013年5月27日)
節子
季節の変わり目は何を着たらいいか迷います。
もしかしたら去年、私は生きていなかったのではないかと思うほど、着るものがありません。
去年の今頃は何を着ていたのでしょうか。
それで、ユカに、もしかしたら去年はまだ私は存在しなかったのではないかと質問したら、いやそのことは誰も体験することだと言われてしまいました。
季節の変わり目は、誰もが何を来たらいいか、悩むのだそうです。

人の記憶はいい加減なものです。
昨年の事が思い出せないばかりではなく、最近は、つい1週間前のことさえ思い出せないことが増えてきました。
しかし、これは私だけの話ではありません。
たとえば、2年前の原発事故のことも、今や多くの人は忘れてしまったようです。
日本はまたもや原発推進国家になってしまいました。
私は原発反対ですが、それは2年前の事故のせいではありません。
1970年代に東海村の原発を見せてもらって以来の反対派です。
ですから原発反対ではありますが、2年前の深刻な事故の記憶はかなり弱まっています。
ほんとうに、人はいい加減なものです。

たぶんそうしないと生きていけないからでしょう。
忘れるということがあればこそ、人は生きながらえていけます。
原発事故では難しいと言うのであれば、大津波で考えてみましょう。
100年に1回の津波のことを忘れたほうが、たぶん生きやすいはずです。
忘れることは、能力でもあるのでしょう。
記憶力に対して、忘却力とでも言っていいでしょうか。
記憶力と忘却力は、対立するものではありません。

節子への思いを忘れることができれば、もっと生きやすくなるかもしれません。
そんな気もしますが、そうではないかもしれません。
というのは、大津波のことを忘れて生きれば、生きやすくはなりますが、それは同時に、大きな危険に無防備になるということだからです。
津波や原発事故と、伴侶との別れは、あんまり関係のない話ではないのかと言われそうですね。
深くつながっているような気がして、書き出したのですが、なんだか私もそんな気がしてきました。
でも、何かどこかでつながっているような気もします。
節子のことになると、なぜか私の忘却力が低下するのです。
いやそうではなくて、実は忘却力によって、新しい節子との物語が創出されているのかもしれません。
つまり思い出すこともまた、忘れることのおかげかもしれないのです。

そういえば、昔の有名なラジオドラマ「君の名は」は、「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という、有名なナレーションで始まっていました。
忘却とは、忘れられないということなのかもしれません。
なんだか話がこんがらがってきましたので、やめましょう。

■2091:ユリの香り(2013年5月28日)
節子
先日買ってきたオリエンタルリリーの大輪はまだがんばって香りを部屋中に振りまいています。
この香りが好きなのは、節子よりも私かもしれません。
ユリの香りは、虫採りに夢中になって飛び回っていた子どもの頃を思い出させる香りなのです。
しかし、その香りが、なぜか節子の記憶ともつながっています。
もちろん子ども時代には、全く別の世界に住んでいたのに、なぜでしょうか。

大日寺で、庄崎さんが彼岸の節子の話をしてくれました。
白い花に囲まれて、その花の手入れをしていると教えてくれたのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_2f7d.html
そのイメージは、すぐに浮かびました。
庭や畑で花の手入れをしている節子の姿は、いまもよく思い出します。
旅先で、きれいな庭があると見せてもらうなどという体験もありました。
その時にもらってきた「ばんまつり」は、今も玄関で花を咲かせています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/05/post-5bee.html
節子と草花とはいつもつながっているのです。

私たちの共通点は、もしかしたら自然とのつながりだったのかもしれません。
そのせいで、ユリの香りも節子につながるのでしょうか。
香りは、いつになっても忘れないものです。

■2192:恩賜公園に来ています(2013年5月29日)
節子
箱根の恩賜公園に来ています。
時間が早いのでだれもいません。
小湧園の箱根ホテルで合宿をしていたのですが、急に富士山をみたくなって、ホテルを抜け出して箱根に上がって来たのですが、残念ながら富士山は見えませんでした。
それでもせっかくなので、節子が好きだった恩賜公園に来てみたのです。

少し休んで戻るつもりですが、ウグイスや鳥の声が賑やかですが、人の気配はありません。
花もきれいです。
手入れもよく行き届いていて、ここはほんとに居心地がいいです。
いろんな思い出もつまっているところです。

雷がなりだしました。
そろそろ帰りましょう。

■2093:存在するものには、必ず意味がある(2013年5月29日)
節子
箱根から下りる道すがら、一人の老人が傘を持って、ただ歩いていました。
とても不遜な話ですが、ふと、この人はなんで歩いているのだろうと思いました。
歩いているのが不審だったわけではありません。
誤解されそうですが、正確には「なんで生きているのだろうか」と感じたのです。
およそ「生気」が感じられないのです。
私自身に重ねて考えていたことは間違いありません。
おそらく外部から見たら、私もあんな感じで歩いていたのだろうなと思ったのです。
同時に、しかしあの人がもし死んでしまったら世界が変わり、私の人生も変わるのだろうかとも思いました。
挽歌を書いていると、人は哲学的になるものです。

大きな「いのち」を生きていると言うのが、私の最近の実感です。
私のいのちは、私のものであって、私のものではない。
この考えが、最近、奇妙に実感できるのです。
「大きないのち」の一部である私の命が消えたら、「大きないのち」が変化するのは当然であり、だとしたらその一部である、すべての人の人生もまた変わると考えていいでしょう。

「人は人生の意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに応えなくてはいけない」とアウシュビッツを生き抜いたフランクルは言いました。
問われているのは、「大きないのちを生きているか」ということかもしれません。
人は風土と共に生きていると喝破した「銃・病原菌・鐵」の著者の進化生物学者のジャレド・ダイアモンドは、人生というのは、岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するだけのことであって、「人生の意味」というものを問うことには何の意味も見出せない、と言っています。
人生は意味というものは持ち合わせていない、というわけです。
いささかムッとしますが、意味を問うなどという小賢しさとは無縁なのが人生かもしれません。

しかし、生きることには深い意味がある。
そのお年寄りの姿を追いながら、なぜか強くそう思いました。
そもそも「生きる意味」を問う主体は、個人ではないのです。
「大きないのち」なのです。
小賢しいのは、むしろジャレド・ダイアモンドかもしれません。
存在するものに、たとえば岩や炭素原子に、意味がないなどとはいえないでしょう。
存在するものには、必ず意味がある。

それにしても、あの人は、なぜ歩いていたのでしょうか。
むかし湯河原で会った鈴木さんのことを思い出しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/05/post-79e7.html
いやもしかしたら、あれは鈴木さんだったかもしれません。
そういえば歩き方が似ていました。
私が、その人を見たのは、バスの中からでしたが、私の視野に彼が入ってきたのにも、そしてちょうどその時、バスが信号で止まったのも、たぶん意味があるのでしょう。

世の中には、意味の読み取れないことが多すぎます。

■2094:誕生日嫌い(2013年5月30日)
節子
また誕生日が来ました。
フェイスブックでは、何やらたくさんの人たちが「お誕生日おめでとう」と書き込んでくれています。
フェイスブックには、誕生日が出てくるので、誕生日おめでとうの書き込みが広がっているのです。
私も、ついつい毎日のように、誕生日おめでとうの書き込みを書いてしまいます。

しかし、です。
いつも思うのですが、なんで誕生日はおめでたいのでしょうか。
昔から私自身、それが不思議でした。
こういう「常識的に当然なこと」を「なぜかな」と思うのが、私の性癖なのですが、節子はそうした疑問を何度も聞かされています。
よくまあ付き合ってくれたものです。
節子が、時には呆れながら、それでも付き合ってくれたおかげで、私は今ない、そうした疑問を問い続ける生き方ができています。
娘たちは、最近相手にしてくれませんが。

私も子どもの頃は、お誕生会などいって友だちに祝ってもらったりしましたし、娘たちの誕生日はそれなりに祝いました。
それは、1年間、無事に育ってくれてよかったという、喜びとお祝いの気持ちがあったからです。
しかし、大人になると、誕生日? だからどうした、という気分なのです。
私だけのことでしょうか。

節子は、まったく違いました。
次の誕生日を迎えられるだろうか、というのが、切実な思いだったからです。
それを一緒に体験しましたから、誕生日を迎える喜びもわからないことはありません。
しかし、今の私には誕生日を祝う気持ちは皆無です。
節子の思いが、62回目を境に断ち切られてしまったからです。
そのせいで、誕生日嫌いになったのかもしれません。
いや、間違いなくそうでしょう。
書いていて、やっとわかりました。
「誕生日」が嫌いな理由が。

フェイスブックでは、誕生日のケーキや晩餐の写真がよく書き込まれます。
正直、実にうらやましい。
ケーキやご馳走がうらやましいのではなく、祝いあう伴侶がいることがうらやましい。
娘たちは祝ってくれますが、やはり伴侶がいなければ、ただただ永らえているだけの悲しさから解き放たれないのです。
だから祝う気にはなれないのです。

お誕生日おめでとう、と言ってきてくれた人たちには、感謝の返事を書きますが、何か少し白々しさも感じます。
かなりひねくれているわけです。

節子がいた頃、なぜもっときちんと誕生日を祝い合わなかったのだろうかとも思います。
私は、そういうことがなかなかできない人間だったのです。
「なぜ誕生日をいわなければいけないの」と節子に言っていたような気もします。
いまとなっては、悔やまれます。
常識には素直に従っていたほうがいいのかもしれません。

■2095:馬鹿仲間(2013年5月30日)
節子
節子は面識がないのですが、節子が逝ってしまって、しばらくして、任侠の世界に長らくいた人と出会いました。
それも半端でなく、しっかりとつとめあげてきた人です。
その人のことは以前書いたような気がしますが、一応、本名ではなく、daxと呼んでおきましょう。
私が苦境に立ったら、助けに来てくれるか、蹴とばしに来てくれるか、いずれかでしょうが、最近、電話がかかってきませんでした。

そのdaxから久しぶりに電話がかかってきました。
佐藤さんとは関係ない話だけど、愚痴を聴いてほしいというのです。
任侠の世界での愚痴であれば、少し魅力がありますが、いまはもう退屈なかたぎの世界の人ですので、どうせ退屈な話でしょうから、あんまり聴きたくはなかったので、またにしてよ、と言ったのですが、久しぶりなので、なんとなく話しこんでしまいました。
愚痴の内容はどうでもいいのですが、最後に、こんなことをわかってもらえるのは佐藤さんくらいだからと言われてしまいました。
どういう意味かと思ったら、最近はオレたちのような馬鹿は絶滅危惧種になったなと言うのです。
オレたち? つまり、私も彼と同じ馬鹿人間というわけです。
馬鹿から馬鹿と言われるほど馬鹿げたことはありませんが、daxと一緒の馬鹿にされるのは、いささかの抵抗はあります。
せめて佐藤さんはオレよりも馬鹿だからなと言ってほしかったです。
彼も任侠の世界から離れて10年近く経つので、やきがまわってきたのかもしれません。
先輩(私のほうが年上です)は立てなければいけません。

夕方、娘からdaxから電話があって、お父さんは今日、誕生日なので電話したといっていたというのです。
ちなみに、娘たちも時々、daxからの長電話を受けているのです。
娘によれば、いまdaxはとても忙しそうです。
そのなかを電話してきてくれたわけです。
娘に、誕生日おめでとうなどではなく、さりげなく声をかけるのが、オレの流儀だといったそうです。
そうか、あれは誕生日祝いの電話だったのかと気づきました。
しかし、言わずもがなの一言で、まあ、このあたりがまだ修業が足りません。

電話よりも、宮本珈琲の珈琲とケーキを送って来いと言いたいところですが、まあそんなものより、馬鹿仲間でよかったなというdaxの気持ちのほうがうれしいです。

daxは、この挽歌編は多分読んでいないでしょうが、読まれると少し困りますね。
何しろ彼は、私と同じ馬鹿なので、ほんとに珈琲が送られてくるかもしれません。
以前そういえば、山のような餡子が送られてきたことがあります。
その量がよくわからずに、馬鹿な私はうっかりと受け取ってしまったのです。
その年は、お汁粉ばかり飲んでいました。
馬鹿同士が付き合うと、いいことはありません。
困ったものです。

■2096:人生は、ともかくいろいろとあるものです(2013年6月1日)
節子
6月になってしまいました。
梅雨入りしたのに、この2日間はとても良い天気でした。
ただ私自身は、いろいろあって、その快適さを味わうことはできませんでした。
人生は、ともかくいろいろとあるものです。
いろいろとあることを、何でも話せる人がいると、またその意味合いは変わってくるのでしょうが、今の私には、ありすぎるのは辛いものです。
時につぶされそうになります。

最近、読んだ2冊の本に同じようなことが書かれていました。
差異から価値が生まれる。
異質の混在から発展が生まれる。
いずれも、やや異端の経済学者の本です。

私の人生は、私とは全く異質の要素を持った節子と共にすることで、面白く、また価値のあるものになったと思います。
価値とは何かというと難しいですが、少なくとも金銭的なものや社会的なものではなく、ただ私には価値あるものとしかいえませんが。
しかし、それが娘たちにとっては、あまり価値があるとも面白いとも思われずに、ただ迷惑だったのかもしれないと、今日もまた思い知らされました。
節子は、どうだったのでしょうか。
節子だけは私と全く同じ思いを持っていると確信していますが、時にいささか不安になることもあります。

私と結婚していなければ、今も元気で、楽しく生きているかもしれません。
そう思う時が、私には一番辛い時です。

人生、いろいろないと退屈ですが、いろいろとありすぎると辛くもあります。

■2097:ヤマホロシもナツメもまた芽を出しました(2013年6月2日)
節子
庭の物置の掃除をしました。
節子が保管していたものが山のように出てきました。
節子がいたら、有効に活用されるかもしれませんが、残った家族にはあんまり必要とは思えないものがほとんどで、思い切り処分しました。
まあこうやって、人の痕跡は消えていくわけです。
それにしても、節子はいろんなものを溜め込んでいました。

いま迷っているのが、桜の樹です。
河津桜は残しますが、もう一本、桜の鉢があり、これが大きくなってきてしまいました。
さてさてどうするか。
そういえば、これも鉢植えのレバノン杉も対応に困っています。

ところで、先日、全滅したと書いたヤマホロシは、新しい若木を買ってきたので、植えようと思ったら、なんと小さな芽が復活してきていました。
さすが山を滅ぼすほど強いといわれるヤマホロシだけのことはあります。
生命は、こうやって痕跡ではなく、生命を残していくわけです。

そういえば、重きって根本から伐採したナツメも、切り株から芽が出てきています。
節子も、どこから芽を出さないものでしょうか。

■2098:ネクタイ(2013年6月3日)
節子
ジュン夫婦が誕生日祝いを持ってきてくれました。
私が、最近は2本のネクタイを交互に使っているといっていたのを、聞いていたようです。
それで、それぞれが1本ずつネクタイを選んだのだそうです。
うれしいことです。

しかし、最近はネクタイをする機会は極度に少なくなっています。
それでついつい、「ありがとう」と言った後、でもする時がないよ、と言ってしまいました。
せっかくの好意に対して、実に失礼な話です。
こういうところが、私の欠点です。
よく言えば素直すぎ、悪く言えば、不躾なのです。

ところでネクタイですが、クローゼットにたくさんのネクタイが眠っています。
いろんな人たちからもらったネクタイも少なくありませんが、どうもそうしたネクタイは使う気になりません。
なにか、贈ってくれた人に首根っこを押さえられるような気がするからです。
そんなわけで今は2本のネクタイを交互に使っているのです。
以前どこかに書きましたが、1本は500円、1本は5000円です。
5000円は節子と一緒に買ったネクタイですが、500円も節子につながっています。

節子が家族みんなを誘って、東京ミレナリオに行った時だったと思いますから、いまからもう10年ほど前です。
すごい混雑で、歩くのが大変な状況でした。
なぜか私だけ先に進んでしまい、出口から出たところで、家族を待っている状況になりました。
いつになっても家族が来ません。
ふと前を見ると、お店の店頭で2本1000円のネクタイが売っていました。
やることがなかったので、それを買ってしまいました。
私が一人でネクタイを買ったのは、もしかしたら、それが初めて最後かもしれません。
そんなわけで、2本のネクタイの1本に選んだのです。
どこかに節子の記憶もあるからです。

あの頃は、節子は元気でした。
その年に完成した丸の内オアゾで家族の忘年会の食事をしようと言い出したのも節子でした。
東京の再開発は、節子は好きだったのです。
私は逆に嫌いでした。
どんどん居心地の悪い人工空間になっていくことに抵抗がありました。
節子がいなくなってから、そうしたところには行く機会は減りました。
どうして節子は、そういうところが好きだったのでしょうか。

ちなみに、節子からネクタイのプレゼントをもらったことはなかったような気がします。

■2099:今日は予定をすべてキャンセルしました(2013年6月4日)
中国の宋代の儒学者、朱子は、気という物質的な次元で人間と世界とを連続的に説明しようとする発想に基づき、環境と身体の相関のうちに人間存在の根幹をみると考えました。
これは、私には「大きないのち」の発想に繋がる考えのように思います。
これに関しては、以前も書いたような気がします。

最近、どうも気が滅入る状況が続いています。
環境を変えないといけません。
しかし、気が滅入っている時には、なかなか環境を変えようという気も起きてきません。
流れに流されて、ますます気が滅入っていきかねません。

幸いにこの3日間、梅雨の合間の良い天気が続いています。
いろいろと環境を変える段取りをしていますが、今日は思い切って、日常を離れて、まったく別の1日にすることにしました。
幸いに、先月末の誕生日に体調を崩していた上の娘が、誕生日プレゼントに1日、好きなところに自動車で連れてってやるという提案がありました。
私は自動車免許を持ってはいるのですが、あまり運転適性がないため、運転をやめてから10年を超えてしまいました。
最近は全く運転をしていないのです。

気というのは不思議なもので、それだけで少し気が動きます。
予定をすべてキャンセルし、今日は気ままに過ごすことにしました。
朝にはまず畑に水やりに行ってきました。
ナスは少し水やりをさぼると元気をなくします。
実に正直で、親近感を持ちます。

昨日も、畑で生い茂りだした野草と奮闘しました。
ちゃんとした農地ではないところですので、ともかく野草が元気なのです。
もう少し農地らしくなると、たぶん野草も遠慮してくれるのでしょうが、いまはまだ自分たちがこの土地の主役だと思っています。
まさに朱子が言うように、生命は環境と一体です。
そうした中で、身をこごめて鎌で草刈りをしていると、もろに土ほこりがのどに入ってきます。
この辺りは放射線汚染がかなり高いので、おそらく私も内部被曝しているでしょう。
畑作業をやった後は、必ずのどがおかしくなります。
そしていまや恒常化しています。
しかし、環境と共に生きるのは生命の必然です。
それを防ごうとなどは思いません。

ところで、最近私が滅入らせている環境は、いろいろあります。
しかし、一番大きいのは、やはり節子の不在です。
6年近くたってと思われそうですが、それを実感できてきたのは、実は半年程前なのです。
それまでは現実として受け容れられないところもあり、したがって逆にその意味が理解できなかったのです。

愛する人の死への悲しみは、時が癒してくれると、よくいわれますが、たしかに癒してくれる面もありますが、逆に時と共に真実味を増してくることもあるのです。
もしみなさんの周りに、そういう人がいたら、ぜひこのこともちょっと思い出してください。

■2100:八方ふさがりは打開できるでしょうか(2013年6月4日)
節子
茨城県の大杉神社に行ってきました。
前に書きましたが、その神社の厄払い表を見たら、私も娘のユカも今年は「八方ふさがり」の年なのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/02/post-2270.html
たしかに、これまでの数か月を見ると、まさに「八方ふさがり」です。
それで、ユカが付き合うよと言ってくれたので、2人でその大杉神社に行くことにしました。
車で1時間ほどです。

なんとなく商業主義の神社を予想していましたが、思ったよりも由緒ある神社でした。
それに儒教や韓国を思わせるものも多く、あまりこれまで体験したことのない神社でした。
もちろん商業主義ににおいもありました。
とりわけ違和感があったのは、本殿前に厄年を表示している2本の柱上の大看板でした。
写真の左側に見えるものです。
節子だったら顔を背けるでしょう。
しかしまあ、八方ふさがりを打開したいと思っている私たちは、素直に作法通りのお参りをしました。
お払いはしてもらわずに、お守りで済ませてしまいました。
さてその結果はどうなるでしょうか。

前の記事に書きましたが、今日は予定を変えての1日でした。
帰路にどこかに寄ろうかと思いましたが、その途中には見事になにもないのです。
唯一あったのは、阿見のアウトレットです。
私にはまったく無縁の施設ですが、シャツでも買ったらと寄ってくれました。
しかし、やはり私にはこうしたところは不得手です。

娘が、そういえば、お母さんも買い物が好きではなかったねと言いました。
お洒落にも美容にも、お母さんはあんまり関心がなかったねと言うのです。
ああ、そうだったのかと思いました。
私は、それさえも気づかないほどに、お洒落や美容には無関心でした。
それでもか、あるいは、そのせいか、はわかりませんが、私には節子が魅力的でした。
節子がよく、「どうして私がいいの」と言っていたのを思い出します。
まあ、私にはだれでもよかったのかもしれません。
伴侶とは、そんなものなのだろうと思います。

ところで、帰宅した途端に、2人ともダウンしてしまいました。
熱中症かもしれません。アウトレットは、ともかく暑かったですから。
八方ふさがりの厄払いに行って、ダウンしてしまうとは、先行き不安ですね。
やはり神社でのお払いをしてもらわなかったのが災いしたのかもしれません。
神様にはケチってはいけません。

■2101:さらにふさがる一方です(2013年6月5日)
節子
昨日、八方ふさがりの厄払いに大杉神社に行ってきましたが、なぜかさらに事態は悪化し、八方どころか16方ふさがりになってきてしまいました。
一体どうなっているのでしょうか。
もしかして、節子が悪さをしているのではないでしょうか。
そういえば、最近、お墓参りも月に1回になってしまったし、朝の般若心経も時々、中抜きになっているし、それを怒っているのかもしれませんね。
このままいくと、さらにふさがってしまい、窒息死しかねませんから、まあ節子には早く会えるかもしれません。
しかし、もう少し此岸に用事があるのです。

昨日に続き、今日もまた、何もせずに在宅でした。
畑に1時間ほど行ってきましたが、まさにシジフォスのように、野草を刈っても後からどんどんでてきてしまい、また昨年の二の舞になりそうです。
先日植えた野菜はまあ元気なのですが、花の種子は完全に野草に負けてしまっているのです。
また熱中症になるといけないので早々に引き上げてきましたが、がんばりが持続できません。
畑までうまくいかないのです。

実は調子が悪いのは、私だけではないのです。
娘たちも、さらに挙句の果てにジュンの連れ合いまで、体調がよくないのです。
しかも、先月入院した節子の姉もリハビリが遅れていて、退院できずにいます。
私の周辺は、もうめちゃめちゃってわけです。
これってどう考えても、意味がありそうです。
厄払いではなく、もっと自らの生き方を正さないとだめそうです。
でも何をどう正せばよいかわからないので困ります。

しかしめげていても仕方がありません。
流れを反転させなければいけません。
明日は、予定通りの行動をしようと思います。
ともかくこんな状況だと、挽歌も書けなくなりそうです。
少しは内容のあるものを書きたいと思いますが、パソコンに向かっても、書くことが出てこないのです。
いったいどうなっているのでしょうか。
困ったものです。

■2102:世界は意識が創り出すもの(2013年6月6日)
節子
今日から気分を変えようと思います。
世界は意識が創り出すものでもありますから。
これまでもそういう体験は何回もしてきています。

早朝に起きて、庭の花に水をやってきました。
さすがに畑にまでは行く気にはなれませんでしたが、後で行こうと思います。
まずは自分から。
節子が元気だった頃、よくそう話し合っていたものです。

意識が萎えると身体まで不調になります。
それを跳ね返さないといけません。

昨日、テレビで80歳の平幹二郎さんが、舞台を休みたいと思うことがあるが、1階休むとたぶんずっと休みたくなるのだろう、と話していました。
全くその通りで、最近、私は舞台を降りることを覚えだしてしまっています。
今日から、もう少し前向きに。

今日も暑くなりそうです。

■2103:佐世保からの電話(2013年6月6日)
今日は湯島に行きました。
行けば、それなりの面白いことが起こります。
後半はまあいささか深刻な話だったのですが、来客の合間に少し魅力的なことが起こりました。
佐世保の三浦さんという方から電話があったのです。
いまからもう15年以上前になりますが、佐世保の三川内(みかわち)の焼き物の若手窯元たちと一緒に、2年ほどプロジェクトを組んだのです。
その時の報告書が見たいというのです。

三浦さんは、当時、どこかで私と会ったことがあるそうです。
一度お会いした人のことは、基本的には何らかの形で記憶にとどめているのですが、どうしても思い出せません。
まあそれはそれとして、三浦さんは今度また三川内を元気にするプロジェクトを起こすようです。
これは応援しなければいけません。
電話だったので詳しいお話はまだ聞けていませんが、何かできることがあればと思います。
もしかしたら久しぶりに佐世保に行けるかもしれません。
三川内もまた、節子といつか行こうとして、行けなかったところのひとつです。
佐世保に行った時には、三川内よりもハウステンボスを選んでしまったからです。
選択を間違ってしまいました。
節子の好みは、間違いなく三川内だったでしょう。
当時の若手窯元たちも、いまでは大作家になっています。

明日もまた、新しい出会いが予定されています。
明後日も、です。
少しずつ、また前に進めそうです。
重いものを引きずりながらではありますが。

■2104:久しぶりのお弁当(2013年6月7日)
節子
風早さんが湯島に来てくれました。
風早さんはある研究所の役員ですが、節子の病気のとき、毎朝、回復祈願してくれた人です。
そして、節子を見送った後、ご自身もがんが発見されました。
風早さんは私より少しだけ若いのですが、思いの深い方なのです。

話がいろいろ広がり、お昼を過ぎたので、食事に行きましょうかと誘ったら、実はお弁当を作って持ってきたと言うのです。
ご自身の手づくり弁当です。
風早さんは毎朝、5時に置き、朝食を作りながら、ご自分と奥様のお弁当を作るのだそうです。
今日は、それを一つ、余分に作ってきてくださったのです。
佐藤さんは、最近手づくりお弁当は食べていないでしょうから、と言って、心のこもったお弁当を出してくれました。
実に見事なお弁当です。
さまざまな食材を使った、カラフルで美味しいお弁当でした。
風早さんが言うように、久しぶりのお弁当でした。

話をしているうちに、風早さんはいま、私たちが昔住んでいた保谷に住んでいることがわかりました。
しかも私たちが住んでいたところを時々通っているほどの近さだそうです。
それでまた一挙に話が弾んでしまいました。

さらに話は広がりました。
風早さんは岡山のご出身ですが、ご実家が数年前に不審火で焼失してしまったのだそうです。250年ほど前に建てられた由緒ある建物だったようですが、聞き漏らしましたが、当時は誰も住んでいなかったのかもしれません。
風早さんの夢は、仕事を得たら、そこに隠居し、晴耕雨読しながら、その建物をみんなに開放していくことだったと言います。
その夢が無残にも消えてしまったわけです。
風早さんの人生は変わってしまったわけです。

人生は何があるかわかりません。
節子がいなくなって、私の夢も消えました。
風早さんは、思い出がつまった家をなくしてしまい、夢も失ってしまった。
話しながら、そうか人はみんなそれぞれに大切なものをなくしながら生きているのだと思いました。
その大切さは、比べようもありません。

しかし、風早さんの夢は回復可能です。
岡山は遠いですが、風早さんにはその夢をぜひ実現して欲しいと思いました。
なにか出来ることがあればいいのですが。

でも私の夢は回復しようがありません。
そんなことを考えながら、ちょっとうれしく、ちょっと悲しさもある、久しぶりにお弁当をご馳走になったわけです。

■2105:「スパイ大作戦」(2013年6月7日)
先日、何もやる気が起きずに、ぼんやりとテレビを見ていたら、衛星放送で昔の「スパイ大作戦」を放映していました。
節子はテレビドラマがあまり好きではありませんでしたが、なぜかこの番組だけは、2人で見ていた記憶があります。
そのことを思い出して、ついつい見てしまいましたが、全く面白くありません。
なぜ当時は、面白いと感じたのでしょうか。

それにしても、あまりにテンポが遅く、仕掛けもお粗末で、迫力もありません。
おそらく昨今の作品に私の目や感覚がならされてしまっているのでしょう。
このドラマを映画化したトム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」は4作も出来ていますが、こちらはあまりに馬鹿げていて、リアリティがないのですが、どうも私の感覚はむしろ最近の作品がデフォルトになっているのでしょう。
見ていて物足りなく、早送りしたい気分でした。

しかし、ちょっと視点を変えると、昔のほうが人間らしさや気分のよさを感じます。
節子は、西部劇や戦争映画は嫌いでした。
人をむやみやたらに殺傷する場面が、節子の好みではなかったのです。
たしかにそういう視点で見ると、ドラマ「スパイ大作戦」は人を殺傷する場面はありません。
それに比べて、最近のドラマや映画は、人が物のように殺傷されます。
節子なら拒否反応を示すでしょう。
節子は人の殺傷はもちろん、物を粗末にする場面さえも嫌っていました。
「スパイ大作戦」を何となく見ながら、そんなことも思い出しました。

節子は、ある意味では「良い時代」を生きたのです。
その前も、そしてこれからも、たぶん節子が生きた時代に比べれば、人間が粗末に扱われる時代かもしれません。
それを体験しないですんだことは、せめてもの慰めです。

それにしても「スパイ大作戦」は退屈です。
昔あんなに好きだったことが今となっては理解できません。
人の感覚は変わるものです。

■2106:場違いなコミーのパーティ(2013年6月8日)
節子
小宮山さんの会社のコミー40周年記念の集まりに参加してきました。
仕事の面では全くと言って良いほど、無縁なので、私は場違いではないかと辞退しましたが(それにそういう場が最近どうも苦手なのです)、小宮山さんがともかく来てほしがっている感じだったので、参加させてもらいました。
ほとんど私の知らない人たちでしたが、参加者名簿を見たら、もう30年以上会ったことがないのに毎年年賀状をくれる弁護士の青木さんの名前が出ていました。
いつも気になっていたのですが、こんなところでお会いできるとは思いませんでした。
しかし、もうお会いしたのが大昔なので、お互いに顔さえ思い出せません。

前半は会社の過去と未来を紹介する正式なイベントでした。
小宮山さんから会社の話を断片的には聞いていましたが、改めてコミーという会社の良さを実感しました。
ビジネスに関わっている人たちがいろいろと思い出話を披露していました。
しかし、私はコミーのビジネスとは無縁なので、やはり場違いだったなと思いながら聞いていました。

後半は立食形式の交流会でした。
知り合いがいないなあと思っていたら、佐藤さんですか、と声をかけられました。
たぶん15年ほど前に一度お会いした溝井でした。
知り合いのいないパーティで声をかけられるとホッとします。
青木さんにもお会いできました。

知り合いがいないと書きましたが、コミーの社員のみなさんは、ビジネスでの接点がないにもかかわらず、私のことを知っていてくれました。
小宮山さんが「しゅうさん」の話をよくするのですよ、と専務の小山さんが教えてくれました。
どんな話がなされているのか少し心配ですが、そうこうしていたら、司会の人が突然、私を指名して話をしろというのです。
最も相応しくない話し手だと思ったのですが、敬愛する小宮山さんのご指名とあれば、話さないわけにはいきません。

話の最後に、小宮山さんとの付き合いは楽しいのだけれど、迷惑していることが一つあると言って、「箸ピーゲーム」の話をしました。
ピーナツを箸で移動させるゲームが箸ピーゲームで、小宮山さんは私に会うたびに、その普及に尽力してほしいというのです。

話を終わって降壇したら、国際箸学会の理事の2人が跳んできました。
怒られるかなと思ったら、反対で、よくぞ言ってくれたというのです。
どうも箸ピーゲームで迷惑を受けているのは私だけではないようです。
それを知ったら、なぜか逆に応援しようと言う気になりました。
みんなに反対されている人には協力しなければいけません。

こういう集まりに出ると、必ず何か宿題を背負い込んでしまいます。
だから嫌いなのです。

でも小宮山さんは幸せな人です。
素直な人は、みんな幸せなのです。
節子が元気だったら、2人でやってきた会社のコンセプトワークショップも25周年交流会を開きたいと思っていました。
もしやるとしたら、今年がその年だったのです。
そんなこともちょっと思い出しました。

■2107:「観自在」、「自らのあり方を観よ」(2013年6月9日)
節子
奈良の薬師寺の僧侶たちが、東北の被災地での写経活動に取り組んでいます。
その活動をテレビで観ました。
被災者たちを前にして、何を語るべきか、それぞれが悩みながら、自らを問い質しながら、言動を深めている様子が感動的でした。
いろいろと考えることが多かったのですが、特に2つのも自我心に残りました。
「覚悟」と「観自在」です。
ずれも、「自ら」ということが含まれている言葉です。

説法師の大谷さんという僧侶が、写経の前に「観自在」の意味を話しました。
「観自在」、つまり「自らのあり方を観よ」。
写経行為は、自らと向き合うことだというわけです。

昨年から少しずつ広がりだしている、「魂の脱植民地化」という言葉(概念)があります。
私の目指す生き方につながっているので、以前から関心を持っていました。
概念そのものの内容は、決して目新しいものではありませんが、「魂の脱植民地化」と言われるとなにやら事の本質が暴かれるようで説得力があります。
それはそれとして、その概念を言い出した深尾葉子さんの本に、次のような文章があります。

自分が何を感じているのか、心の中が、どんなつくりになっているのか、自分の心の中を覗き込むことは、ひょっとすると他人の心の中を知るよりも難しいのかもしれない。(「「魂の脱植民地化とは何か」」。

昨日、テレビで大谷さんの話を聞いて、なぜかこの文章を思い出しました。
深尾さんの本を探し出し、その文章を探しました。
そのままにしておくと、どうも気分がすっきりしないのです。
しかし、本の中から文章を探すのは結構大変です。
気になりながら、今もって見つけられていない文章が2つあります。
一つは20年以上、探していますが。
幸いに今回はすぐ見つかりました。

深尾さんは、こうも書いていました。

自分自身が頭で考える「自己像」と、自分の身体反応がつくりあげる自己は必ずしも一致するものではなく、頭でつくりあげた「思い込み」が、身体に著しい負荷をかけたり、逆に身体は必ずしも思い通りに動くわけではない、という当たり前のことに直面する。自分の中で常に沸き起こる不調和のような感覚は、自分自身の魂と身体、心と体、あるいは身体のそれぞれの部位の乖離によるものではないかと感じ始めていた。それは、アイデンティティといったレベルの不一致ではなく、一種の特異な統合失調とでもいえる状態である。

最近の私の状況がとても納得できる気がしてきました。
同時に、まだまだ自らの見詰め方が不足しているとも思いました。
呪縛から自由でいるつもりでも、まだまだ私の魂は呪縛されているようです。
もっと自らの生き方や在り方を見詰め、魂を解き放ちたいと思います。

■2108:覚悟(2013年6月10日)
節子
昨日、薬師寺の大谷さんの話を書きましたが、もう一つ印象的だったのが、「覚悟」ということです。
人に説法する時には、覚悟がなければいけないということです。
私の勝手な解釈では、相手と共にあることを覚悟するということです。

最近読んだ本に、「魂の脱植民地化とは何か」という、とても共感できた本があります。
そのなかに、「憑依」の危険性を書いている部分がありました。
この本で言う「憑依」とは、「魂が他者の魂の動きをなぞって、わかったつもりになること」というような意味です。
平たく言えば、相手の立場になって考えるということです。
著者の深尾さんは、それはとても危険なことだというのです。
他者の魂になって言動するなどできるはずがありません。
そもそも人は、自らの魂とさえ断絶していると、深尾さんは書いています。
これに関しては、また別に書きたいですが、ともかく他者の魂と共にあろうと思うことは危険であり、覚悟が必要なのです。

覚悟は、観自在の結果、自ら、つまり「われ(吾)」を悟ることです。
問題は、その「吾」とはなにか、です。
私の思いでは、それは「大きないのち」の吾です。
そこには、小さな自分は消え去り、相手と共にある自分がいる。
自分と相手とは、不二の関係にある。
それが覚悟ではないかと思います。
それは簡単なことではありません。
しかし、愛する人を亡くした人は、自然とそれができるようになるのかもしれません。
特に、一人だけではなく、今回の大震災の津波に被災された人たちのように、たくさんの人たちが一緒に、そういう体験をした場合、自然と覚悟が生まれてくる。
そんな気がします。

私に覚悟が芽生えたのは、5年も経ってからです。
でもまだ、節子と共にあることだけで、精一杯の気がします。
どこかで、節子をえこひいきしている自分が覚悟をゆるがせているのです。

■2109:重い荷物を背負う先にあるもの(2013年6月11日)
節子
この数日、いろんな人からメールをもらいます。
それぞれに自らが重い荷物を背負った人たちです。
その人たちからのメールを読みながら、みんなそれぞれに問題を抱えているのだということがよくわかります。

伴侶を亡くされた人は、こう書いてきました。

人は何かあるごとに間口を開き許容量は増して行くのかも知れませんが、動物的な感(勘?)で危険を察知しながら進んで行くのかも知れません。
どんなに忙しくても私は自分がおちている時は奥多摩の方へ出かけます。
それは、私が子どもの頃山の中腹にある寺院で育ったため、山の中の自然と同化できるのだと思います。

またある人は、こう言います。

 立ち止まらないといけないと思っていますが、立ち止まるともう動けなくなるような気がして、それがこわいのです。

体調を悪くして、2か月ほどダウンしている人からは、なんと逆になぐさめのメールが来ました。

ご様子いかがですか。
どうぞ、心身を休まれるときは、ゆっくりと休養されますように。

問題を抱えている人ほど、他者の問題も見えるのでしょう。
私も、最近、周辺の人たちの問題がよく見えるような気がします。
それだけ私自身が問題を抱えているということかもしれません。

韓国の法頂さんが、その著書の中で、無所有になれば、すべてのものが自分のものになるというようなことを書いていましたが、他者の問題をシェアすれば、自分の問題もシェアしてもらえるのかもしれません。
重い荷物を背負う先には、きっと開けた世界があるのでしょう。
重い荷物は、やはりしっかりと背負っていかねばいけません。
最近ちょっと疲れだしていますが、私だけではなく、みんなそれぞれに重い荷物を背負っているのですから。

■2110:タイミングがよすぎる2回の電話(2013年6月12日)
節子
新潟のKさんは1か月ほど前に13年間、看病されていたご母様を亡くされました。
105歳ですから、大往生だったのですが、看病期間が長かったせいか、Kさんの落ち込みは大きかったようです。
亡くなった直後にお電話をいただきましたが、その話しぶりから悲しみの大きさが伝わってきました。

それから3週間ほど経ってから、Kさんに手紙を書いていました。
Kさんは達筆な方で、いつもていねいなお手紙をくれるので、私もパソコンをやめて慣れない手書きの手紙を書いていたのです。
その時、Kさんから電話がかかってきました。
あまりのタイミングの良さに驚いたものでした。

そして今日。
1か月ほど経ってKさんはどうしているかなという思いが浮かびました。
節子を見送った後のことを思い出しました。
電話はとても微妙で、うれしいと同時にわずらわしいものでした。
Kさんはどちらだろうと思いながら、結局、電話しました。
あいにくご不在。元気な証拠かなと安堵しました。
そうしたら、先ほど、Kさんから電話がありました。
やはりまだ抜け出せていないようです。
いろいろと話した後で、私が電話したので電話したのですかと質問したところ、私が電話した事は知りませんでした。
またまた偶然の一致です。
悲しさはどこかでつながっているのかもしれません。

Kさんがポツンと言いました。
母親でもこんなだから、奥さんを見送った佐藤さんはもっと大変だったのでしょうね、と。
大きな違いは、悲しさを分かち合える人がいるかどうかです。
Kさんの悲しさや辛さに耳を傾けるだけでも、少しはKさんの支えになっているのかもしれません。

関東は梅雨らしい日です。
雨の合間の鳥たちの鳴き声がうるさいほどです。

■2111:「でも、それでいいんだよ」(2013年6月13日)
節子
昨日の朝日新聞に、「がん患者学」を残した柳原和子さんの闘病を間近で献身的に支え続けた工藤玲子さんのインタビュー記事が乗っていました。
「がん」という文字があるだけで、拒否反応が出てくるのですが、柳原さんという名前に魅かれて読んでしまいました。
いや読むことができたというべきでしょうか。

柳原和子さんに関しては、節子の闘病中と見送った後に少しだけ接点がありました。
柳原さんの生き方は、大きな支えにもなっていました。


工藤さんが語っていることは、すべて素直に心に入ってきました。
「がん」と言う文字があるのに、こんなに心穏やかに読めたのは初めてです。

最後に工藤さんはこう語っています。

柳原さんには人を丸ごと大きく巻き込んでしまう不思議な吸引力があり、最期までお付き合いしました。泣いたり、わめいたり、はしゃいだり、喜んだり、引きこもったり。人間は強くないし、病を抱えるとさらに弱さが出てしまう。でも、それでいいんだよ、と、柳原さんに教えてもらった気がします。

私が節子から学んだことが、すべて語られていました。
節子もきっと、私の不十分な看病と見送った後の無残な生き方に対して、「でも、それでいいんだよ」と言ってくれているような気がしました。
駆動さんの言葉を読んで、少し心が安堵した気がします。

「でも、それでいいんだよ」
そうだよね、節子。

■2112:思いつきで生きている(2013年6月14日)
節子
最近、ユカからお父さんは思いつきで生きているから迷惑を受けるとよく言われます。
たしかにそう言われれば、その通りです。
おそらく節子も、そうした私の生き方で迷惑を受けていたことでしょう。
しかし、節子がいなくなってから、ますますその傾向は強くなっています。
節子がいた頃は、それでも計画を立てる文化が残っていましたから、その計画が「思いつき」を押さえてくれていたのかもしれません。
しかし、節子がいなくなってから、私の時間は流れなくなってしまいました。
時間が流れなければ、計画は無意味です。
ですから、計画は一切やめてしまいました。
そのため、ますます思いつきの人生になってしまっているのです。

私が思いつきで生きていると思っている人は少ないでしょう。
多くの人は、人を先入観や世間の尺度で理解しがちです。
節子が知っているように、私はそうした世間の常識からはかなり逸脱しています。
そもそも「言語体系」や「価値基準」がまったくと言っていいほど違うのです。
私自身が、それに気づいたのは、節子を見送った後ですが、自分でもなかなか気づかなかったほどですから、世間の第三者にはなかなか伝わらないでしょう。
最近、私の話していることや行動は、たぶんほとんどが伝わっていないなと思うことがよくあります。
それは実にやりきれないことなのですが、最近はまあそれでいいかと思えるようになってきました。
まあ完全とはいわないまでも、私のことをわかっていた節子がいなくなったことは、私には大打撃でした。
家族とはいえ、娘たちにもあんまりわかってもらえていないようです。
娘たちにとっては、頼りにならないだめな父親でしかないのでしょう。
まあ、それはそれで正しい理解なのですが、少しさびしい気もします。

この挽歌も、思いつきから始まっていますが、思いつきも悪いものではありません。
ただ周りの人は迷惑を受けるようです。
しかし一言弁解すれば、思いつきとは天の啓示に従うということでもあるのです。
正しく生きていれば、思いつきもまた、正しいのです。
その結果が大変なことになったとしても、それはそれできっと正しいのです。

娘には悪いですが、これからも思いつきで生きていこうと思います。

■2113:小綬鶏(コジュケイ)(2013年6月16日)
節子
節子に何回か献花にも来てくれた坂谷さんが、誘ってくれたので、近くの船戸の森の中にある小綬鶏(コジュケイ)で珈琲をいただいてきました。
節子が好きだったカフェですが、ついに2人で行く機会はありませんでした。
節子が元気だった頃に一度だけ行きましたが、あいにくお休みで入れませんでした。
このカフェの隣には、旧武者小路実篤邸があります。
手賀沼を見下ろす台地の端という絶好の場所です。
それに隣接するカフェ小綬鶏は、まさに隠れ家カフェで、この時期は新緑に包まれて、まるで軽井沢か箱根のような雰囲気です。

節子が好きで、一緒に行こうといっていた理由がよくわかりました。
なぜ節子の誘いをしっかりと受けなかったのだろうかと後悔しました。

私たちよりも高齢な老夫婦がお店をやっています。
日曜の午後だったせいか、お客様も多かったです。
ちょうど雨上がりの後で、しかも太陽が少し顔を出してきたこともあって、心がやすまりました。

坂谷さんも、この近くに住んでいます。
いつも私のことを気にしてくれていて、この挽歌も、読んでくれているかもしれません。
あまりに居心地がよかったので、2時間も過ごさせてもらいました。

最近、なにかと心乱れることが多いのですが、久しぶりにゆっくりしました。
半年前よりも元気そうですね、と坂谷さんに言われました。
坂谷さんも元気そうで、いつものように、いろいろな話をしてくれました。

美味しい珈琲でした。

■2114:突然の訃報(2013年6月17日)
節子
電話での突然の訃報ほど、頭が混乱することはありません。

電話に出ると、佐藤修さんのお宅ですかと女性からでした。
セールスかなと一瞬思ったのですが、「ご無沙汰しています。野原の家内です」という言葉に、心が凍りました。
そういえば、最近、野原さんから連絡がないのが少し気になっていたのです。
すぐに、訃報だと感じました。
残念ながら、その予感通りでした。
4年前にがんを患い、抗がん治療などしながら仕事を続けていたのだそうです。
まったく知りませんでした。
この4年間、会っていなかったのでしょうか。
いやそんなことはないような気がします。
それで私のホームページで調べてみました。
私のホームページには、私の活動記録が載っていますので、この10年の私の活動記録はほとんどわかるのです。

調べてみたら、3年前の5月に会っています。
はっきりとは覚えていませんが、たしか、急に野原さんから電話があり、会いたいといって湯島に来たのです。
しかし、がんの話は全くなく、いつものように、これから取り組む話を語っていきました。
ホームページには、こう書いてありました。

野原さんは相変わらず関心を飛ばしていますので、
各地の地域整備に関わったり環境問題に関わったりしているようです。

この文章から、野原さんがもしかしたら、急いでいたのかもしれないと思いました。
さらに、その記録によれば、私がお昼をご馳走になっています。
これは普通はありえないことです。
湯島での食事の場合、ある事情のある2人を除いて、基本的には私がご馳走することにしています。
にもかかわらず、野原さんがご馳走してくれています。
もしかしたら、野原さんはこれが最後だったと知っていたのでしょうか。
あるいは、その日は、私にがんのことを話しに来たのでしょうか。
今となっては、確かめようがありません。

野原さんは私が東レにいた頃からの付き合いですが、異色のマーケターでした。
私が東レを辞めてしばらくして、野原さんも勤めていた会社をやめて起業したのです。
常人にはなかなか理解し難いところがありましたが、いつも、突然湯島にやってきて、話をして帰っていったのです。
考えは同じようで違っていて、よく論争もしました。

節子が発病した時、野原さんはとても気にかけてくれました。
その野原さんが、がんになり、しかし私には何も話してくれなかったのはなぜでしょうか。
3年前に湯島で話した時に、もしかしたら注意して聞いていたら、何かのシグナルを出していたのかもしれません。

電話でお話を聞きながら、頭が白くなってしまい、何を話したか覚えていません。
もう一度、野原さんには会っておきたかった。
とても残念です。

■2115:パソコンよりも節子と付き合うべきでした(2013年6月24日)
節子
またしばらく挽歌を書かずにしました。
欠かしたことのなかったホームページの更新も先週は忘れてしまっていました。
あいかわらずこの間、いろんなことがありましたが、どうも最近、パソコンに向かう気が薄れてきていました。
節子がいる時に、こうなれば節子には喜んでもらえたでしょう。
節子は、私がパソコンに向かうのが好きではありませんでした。
パソコンで手紙を書くのも嘆いていました。
旅行にまでパソコンを持参していることも気にいらないでいました。
まあ諦めてもいましたが。

パソコンなどとは向き合わずに、もっと節子と向き合う時間を増やすべきでした。
いまにして思えば、悔いが残りますが、当時はせつことはまだまだたくさんの時間があるからと思っていました。
しかし、その時間はある日、突然になくなってしまうのです。

発病後、節子は一日一日を大事に生きることに専念しました。
私も、そうするように、それなりに努力しましたが、それはそう簡単なことではありません。
その生き方は、残念ながら私の身にはつきませんでした。
節子がいなくなったいま、「一日一日を大事に生きること」を忘れたわけではありませんが、それと真逆な生き方をしているかもしれません。
いまここで人生が終わっても良い、と思ってはいますが、それは単に人生観が変わっただけであって、生き方が変わったのではありません。
節子からの学びは習得できずにいます。
節子は彼岸で諦めているかもしれません。

この2日。節子の夢を見ました。
なぜか節子は私よりも颯爽としていました。
内容は思い出せませんが、私を諭していたような気がします。
いまの私は頼りないのでしょうか。
それも少し納得できます。

なにやらまた厭世観が高まっています。
困ったものです。

溜まってしまった挽歌を少しまとめて書くようにします。
時評も書けずにいますので、それも書きましょう。
今日はなにやら陰鬱な天気です。

■2116:両親の法要(2013年6月24日)
節子
昨日、私の両親の13回忌と27回忌の法要でした。
節子は今、私の両親と同じお墓には言っていますが、おそらく両親にとっては、実に2人の息子たちよりも、節子のほうがお気に入りだったでしょう。
節子は途中からの同居でしたが、私の両親にはとてもよくしてくれました。
私が果たした唯一の親孝行は、節子だったかもしれません。

節子も私も、固定した墓はつくらないでいようと話していました。
しかし、節子は死を実感したと思われる、ある日、突然に私の両親の墓に入ると言い出したのです。
意外でしたが、あまり深く考えずに行動するのが、私たち夫婦で、私もそれに合意し、いまは墓を守ってくれている兄に話して、了解を得ました。
しかし、いま考えると、私もその墓に入るということです。
私は、できれば大地にまいてほしかったのですが、それができなくなりました。
いささか軽薄だったとも思いますが、人はその時に考えることが正しいのだと言う、あんまり根拠のない信条を持っている私としては、まあ仕方がありません。

法要はお寺でやりました。
父の葬儀の時には、まだ子どもだったご住職の息子さんが、いまは後を継がれて法要をしてくださいます。
毎回、読経も説法も上達しているのが、よくわかります。
今回は、塔婆とお焼香の説明をみんなにわかりやすくしてくれました。

法要後、兄の家族たちと一緒に、食事をしました。
ここに節子がいないのが、やはり大きな違和感です。
とても奇妙な感覚なのです。
やはりまだ私も正常化していないのかもしれません。

8月には節子の7回忌です。
供花にはバラも入れましょう。

■2117:8年ぶりの三浦さん(2013年6月24日)
節子
一昨日、湯島でフォワードカフェを開催しました。
ちょっとつまづいたけど、前を向いて生きようとしている人たちが、気楽に心を開けるカフェサロンです。
上から目線ではなく、みんな同じ目線で話し合うサロンです。
こうしたカフェサロンをやっていると、人の目線がよくわかります。
節子と一緒に長年。サロンの場をつくってきたおかげかもしれません。

そのサロンに、節子もよく知っている三浦さんが来てくれました。
三浦さんは、かつてのオープンサロンの常連でした。
三浦さんの話によれば、お会いするのは8年ぶりだそうです。
以来の記憶は、私には全く残っていません。

8年前と言うと、私は社会との接点をほとんど切った時期です。
ですから記憶にないのですが、その後、三浦さんは持病の難病が悪化し、入院し、一度は危うかったようです。
それが奇跡的に3回にわたる大手術が成功し、いまはもうこうして湯島まで来られるようになったわけです。

三浦さんがどういう症状で、今はどうされているのかも、正直に言えば、今日、お会いするまでわからなかったのです。
お見舞いにも行かず、いまもどういう状況か訊くのも気が引けていました。
三浦さんには大変失礼なことをしてしまったわけで、ずっと気になっていたのです。
その三浦さんから、湯島のサロンに行くという連絡があった時は、少しホッとしました。

久しぶりの三浦さんは、お元気そうでした。
いろいろとお話もお聞きできました。
思っていた以上に大変だったようです。
人生観も大きく変わったと三浦さんご自身も話されました。
生命を危うくするような体験をしてから、志に生きるとか、何かを残したいというような肩に力が入った生き方ではなく、自然に生きることの大切さが良くわかったと話されました。
しかし、三浦さんの誠実さや謙虚さは、以前からのことです。

久しぶりに三浦さんにお会いできて、とても元気をもらいました。
誠実な人からは、いつも元気をもらえます。
節子にも報告しました。
別れ際に、いつも笑顔の奥さんがいましたね、と話してくれました。
三浦さんは、これからも湯島に来てくれるそうです。

■2118:生きているものとの付き合いは疲れます(2013年6月25日)
節子
わが家の畑から、収穫がありました。
ナスときゅうりとピーマンとトマトです。
もっとも最近は梅雨のため、あまり畑に行かなかったため、周辺の草が生い茂り、ナスもトマトもひどい状況になっています。
畑を維持するのは、やはり大変です。
なにしろ、野菜はもちろんですが、畑そのものが生きているからです。
生きているものと付き合いのは、手を抜くとすぐに跳ね返ってきます。

生きるということは、いうまでもなく、無数の生命と付き合うことです。
わずかとはいえ、野菜を育てているとそれが実感できます。
私たちの社会がおかしくなっているのは、やはりいのちある多くのものとの関係をおろそかにしているからかもしれません。

さて、今の節子は「いのちあるもの」でしょうか。
節子とのつながりを、最近、いささか手を抜いているためか、先日の法要で真言を唱えるところで間違ってしまいました。
隣で聞いていた娘から指摘されてしまいました。
困ったものです。
手を抜くとそのとがを受ける。
やはり節子は「生きているもの」なのかもしれません。

■2119:視野が乱れます(2013年6月25日)
節子
前の挽歌を書いていたら、急にまた視野がおかしくなってきました。
時々起こる現象ですが、無理をせずに、休んでいました。
飲み忘れていた降圧剤も飲みました。
だいぶ直りましたが、本調子ではありません。
これももしかしたら、パソコンはまだ止めておけという、節子からのメッセージでしょうか。

今回で7回目くらいですね。
明日、調子が戻らなかったら、病院に行こうと思います。

節子がいると、こういう症状になっても、なにかと心強いのですが、
節子がいないといささか心配です。
最近の生活のリズムが乱れていることのせいでしょうか。

今日は早く寝ましょう。
ところが最近は、なぜか夢ばかり見るのです。
しかもかなりのサスペンスアクションものなのです。
ハードな役が多いので疲れます。
節子はいつも私を救ったり導いたりする役で登場します。
もしかしたら節子のプロデュースでしょうか。
昨日は断崖からロープで降りる途中でロープが切れてしまったりして、大変でした。
明日からまた、朝の般若心経は手抜きせずにお勤めします。

■2120:「私はほんとうの私になっていく」(2013年6月25日)
節子
昨日からのめまいはとまりましたが、まだ気分がすっきりしません。
少し頭痛も残っています。
大事をとって、今日の予定もすべてキャンセルさせてもらいました。
天気がよくなったら病院に行こうと思っていましたが、今日は雨でしたので、止めました。
あんまり論理的ではありませんが、気分は大事にしなければいけません。

時間があったので、だいぶ前から机に積んでいた「認知症のスピリチュアルケア」を読みました。
自らの認知症をカミングアウトした、オーストラリアのクリステイーン・ブライデンさんのケアパートナーのエリザベス・マッキンレーさんたちがまとめたスピリチュアルケアの本です。
そこに、クリステイーンさんの心の変化が紹介されていました。

認知症であることを告げられたクリステイーンさんは、自分が自分でなくなっていくことを一番不安に思っていましたが(彼女の最初の本の題名は「私は誰になっていくの?」)、次第に変わっていったそうです。
10年後の書かれた2冊目の本には、「私はほんとうの私になっていく」という表現がでてきます。
クリステイーンさんはこう書いています。

私は自分を理解する旅について何年間もふり返って考えてきました。今ではよりはっきりと,私は誰で,誰になっていき,死ぬとき誰になっていくのかがわかります。思い返せば,それは驚くべき自己発見,変化,成長の旅でした。私にとって認知症は,スピリチェアルな自己への旅でした。私は認知症とダンスを踊るようにつきあいながら,病気の変化に対応し,自分の欲求を表現し,しだいにゆっくりになっていく認知症のダンスの音楽に合わせる方法を学びました。

「スピリチュアルな自己への旅」。
これは実に興味深いことです。

スピリチュアリティの捉え方はさまざまでしょうが、エリザベス・マッキンレーさんは、「スピリチュアリティとは,一人ひとりの存在の核となる部分に位置し,生きることに意味を与える,極めて重要な領域である。それは宗教を信仰することによってのみつくられるものではなく,もっと広い,たとえば神との関係性のようなものとして理解されるもの」と定義しています。
つまり、自らを取り巻く世界との関係性の中で見えてくる自分と言ってもいいでしょう。
魂を覆っている衣装を脱ぎ捨てた時に、それは見えてくる。
クリステイーンさんは、それに出会ったのかもしれません。

めまいと関係のない話を書いてしまいましたが、私にはどこかつながっているのです。
昨日は、目の焦点があわない不快さを体験していましたが、その時に見える風景はいつもと違います。
認知症というのも、見える日常の風景が変わってくるのかもしれません。
そして、その時に、もしかしたら「スピリチュアルな自己」が垣間見えるかも知れない。
たかだか1日程度のめまいでは無理でしょうが、節子は認知症ではなかったけれど、たぶん8月には「スピリチュアルな自己」が見えていたのだろうなとも思いました。
少なくとも、節子は「私はほんとうの私になっていく」ことを体験したはずです。
人は「ほんとうの自分」になって、彼岸に旅立つのではないか。
そんな気がして、なぜか少し安堵しました。

■2121:此岸で供養か、節子に会いに彼岸行きか(2013年6月26日)
節子
大宰府の加野さんから、またイオン水が届きました。
私が最近少し元気がないのを心配して送ってくれたのです。
節子の元気な時に、この水のことを知っていたらと思うと残念です。
節子に、奇跡が起こりかけたのも、加野さんが送ってくれた薬水でした。
水は不思議な力を持っています。

加野さんには節子も会っていますが、大宰府には節子は行っていません。
節子が元気だったら、大宰府の加野さんのお店にも行けました。
節子が好きそうな久留米絣のお店です。
私も加野さんから久留米絣のドレスシャツをもらいましたが、腕を通したことがありません。
節子は暖簾をもらって、寝室のドア代わりに使っていたような気がします。
あの暖簾はどこにいったのでしょうか。

わが家のインテリアは、節子好みでいろいろと季節ごとに変わっていました。
そういえば、寝室の壁の飾りなどは、節子がいなくなってから何も変わっていません。
寝室だけでなく、廊下や階段の装飾品もほぼ節子時代のままです。
それぞれにささやかな思い出があるのですが、その思い出も私がいなくなれば、消えてなくなるでしょう。
虚しいといえば、虚しいことです。

加野さんは、娘さんに先立たれました。
娘さんは、節子も私もよく知っています。
娘さんは大きな夢を持ちながら、実現できないまま母親よりも先に逝ってしまいました。
加野さんの悲しみはどれほどだったでしょうか。

私が、加野さんの娘さんの死を知ったのは、節子を見送った後でした。
大宰府のご自宅にお花を持ってうかがったら、加野さんはこう言いました。
娘の供養をしなければいけないので、死ねないのです、と。
それから加野さんは、健康に留意し、イオン水も飲んで、今は以前よりも元気です。
とても80代とは思えません。
娘の供養をすることが、加野さんの生きる意味であり、元気の源なのです。

私はまだそこまでいけていません。
此岸で供養するよりも、彼岸で節子と一緒にいたいと思ったりしています。
覚悟ができていないのです。
さていただいた水を飲むべきかどうか。
飲むと、彼岸が遠のきます。
正直、迷います。

■2122:そうだ、湯島をきれいにしよう(2013年6月27日)
昨日とはうってかわった初夏のような日です。
久しぶりの青空が気持ちいいです。
私も、久しぶりに湯島に出てきました。

3.11の地震で壁から落ちて、ガラスが粉々になっていた藤田さんの版画を壁に掛け直しました。
まあ節子がいたら、もっと早く修復していたのでしょうが、ガラスをやめて透明なアクリル板にしてもらうところまではできていたのですが、どうも壁に掛ける気にならなかったのです。
ソファーの上に置きっぱなしになっていた版画を壁に掛けました。
今まで何もなかった白壁に緑が戻ってきて、やはり安堵します。

湯島のオフィスは改装し、雰囲気も変える予定でした。
節子儀出だし、手配をし始めました。
しかし、床のカーペットを替えたところで、節子はダウンしてしまいました。
その後、付け替えたクーラーは私のミスで違った場所に付けてしまい、応急処置で穴の開いた壁を厚紙で覆っていますが、それもまだそのままです。
節子なら気に入らずに、何らかの方策を講ずるでしょうが、私の場合は、「まあいいか」とそのままです。

今日は予定よりも少し早めに湯島に来ましたので、ちょっとのんびりしています。
しかし、また朝に飲むはずの降圧剤を飲まずに来てしまったせいか、なにやら頭の後ろがうっとうしいです。
先日のめまいも、高血圧が影響しているのかもしれません。
まあ、そんなこんなで、節子がいなくなってからは、自らも、また周辺の環境も、手入れ不足で荒れがちです。
困ったものですが、仕方ありません。

湯島のメダカは全滅してしまっていますが、明日は自宅から白めだかを3匹湯島に転居させようと思います。
ベランダのランタナは、冬を越しましたが、まだ花が咲きません。
なにが気に入らないのでしょうか。
たぶん私の声のかけ方が不満なのでしょう。
私も、気持ちを入れ直して、少しまた真面目に生きようかと思います。

そう思ったのは、先ほど、地下鉄の駅を降りて、外に出たら、青空が見えてからです。
青空は、人を元気にしてくれます。
節子と一緒に見たエジプトの青空や千畳敷カールの青空が、生き生きとよみがえります。
彼岸には、青空はあるのでしょうか。

みなさんも、湯島にお越しください。
節子がいたころほどではないですが、また快適な空間にするように心がけますので。

■2123:愚者であることを引き受ける時期(2013年6月30日)
節子
また挽歌が数日かけませんでした。
人生はいろいろとあるものです。
少しありすぎるような気もしますが、まあ仕方がありません。
この歳になってわかってきたことは、すべてが因縁の故であり、いわば因果応報ということです。
いま起こっていることは、因と縁の結果であり、それこそ仏教的に言えば、空なのですから、いま悩んでも仕方がありません。
ことはすでに遠い昔に始まっていますから、いまはただそれを素直に受け入れ、引き受けなければいけません。
一見、因が思いつかないこともあります。
成り行き上、いつの間にか関わってしまった問題もあります。
しかし、その成り行きこそが、因であり縁なのでしょう。
最近はそう思えるようになりました。

しかし、それにしても、自分のことは見えていなかったものです。
もう少し自分はまともな存在だろうと思っていましたが、情けないほどに過ちが多いのです。

時評編で、数日前に愚者としての科学者オッペンハイマーの話を紹介しましたが、私自身、オッペンハイマーに引けを取らないほどの愚者であることを最近は毎日のように実感させられます。
有名人よりは、少しはましではないかという思いが以前は強かったのですが、必ずしもそうではないようです。

愚者は、必ずしも悪いわけではありません。
愚者でなければできないことも多いからです。
愚者であることは、人間の証かもしれません。
しかし、オッペンハイマーがそうであったように、ある時期に、愚者としての行為の結果が自分にも見えてくるようになります。
原爆の父と言われるオッペンハイマーは、広島と長崎の惨状を見て、自らがいかに愚かだったかを思い知らされます。
自らを愚かだと知ることで、人はようやく愚者であることをやめられます。
そして、その後は、愚者だったことの償いをすることになるわけです。
しかし、多くの人は、オッペンハイマーと違って、その後も、もうひとつの愚者の世界に入りかねません。
せめてそうならないように、心がけようと思います。

愚者であった償いを受けるのは、それなりに辛いことです。
最近、いささか疲れてきていますが、それに耐えなければいけません。
なかなか伝わりにくいと思いますが、一人で引き受けるにはいささか荷が重いです。
できるならば、愚者であることを続けたいものです。

■2124:弔問はやはりきびしいです(2013年7月1日)
節子
野原さんのご自宅に行って、野原さんの霊前に線香をあげさせてもらってきました。
奥様から野原さんのことをお聞きしました。
野原さんらしい、思っていた通りの旅立ちでした。
息を引き取る直前まで、仕事をしていたようです。
心残りはあったでしょうが、とても充実した人生だったことでしょう。

私の知らない話もいろいろとお聞きしました。
それにしても、野原さんとはなぜ知り合ったのでしょうか。
昨日まで思い出せなかったのですが、いろいろとお話して思い出しました。
野原さんがあるリサーチ会社にいた時に、私がそこのプロジェクトに関わったのが契機でした。
しかし、仕事はご一緒したことがありません。
だから、なぜ付き合いが始まったのか、やはりわからないままです。

野原さんの会社には、少しだけ関わったことがあります。
しかし、実は野原さんとは仕事上の付き合いはほとんどないのです。
にもかかわらず、なぜか野原さんは時々湯島に来て、話をして帰りました。
考えてみると、それも不思議な話です。
発病後、4年間、10回を上回る入退院を繰り返したそうです。
しかも病気を公表せずに、仕事を続けたのです。
これもまた野原さんらしい。

しかし、残されたほうは大変です。
私ですら大変だったのですから、野原さんの場合は、それを数倍上回るでしょう。
先に逝った方がいいですよね、とつい口に出してしまいました。
奥様も、即座にそうですよ、と応えました。
早く逝くのは、本当にずるいの一言です。

闘病や手術、残された時間の夫婦での過ごし方、いろいろと話がでましたが、やはりどうしてもまた私も思い出してしまいます、
そして、やはりいつもの後悔が首をもたげます。
節子にもっとやってやるべきことがあったと。
なぜ最後の最後まで、節子が治ると確信していたのでしょうか。
治ったら節子と一緒に、と思っていた、自らの能天気さに、いつものことながら、腹が立ちます。

帰宅後、節子に報告した後、異常に疲れを感じました。

■2125:寄生的人生だったかもしれません(2013年7月2日)
節子
久しぶりに大阪に向かっています。
いま名古屋を過ぎたところです。
間もなく米原。思いのつまった駅ですが、最近は通過だけです。
節子のお姉さんが敦賀にいて、ちょうど先週、退院したところなので、お見舞いに寄ろうかと思ってもいましたが、逆に迷惑をかけそうなので、今回は止めまた。
節子の7回忌を8月に行う予定ですが、治っているといいのですが。

最近は新幹線に乗る機会もすっかり減りました。
会社にいたころは、毎週のように東京と大阪を往き来していたこともありますが、今は年に数回です。
新幹線に乗っていつも思うのは、日本の緑の多さです。
東海道新幹線でさえそうですので、他の新幹線はもっとそう感じます。
こんなに緑が多いのに、みんななぜ首都圏に集まるのでしょうか。
この歳になると、緑の中で暮らしたいと思います。
しかし、私のように生活力のない者は、やりたくてもできそうもありません。
節子がいなくなって、終の住処まで変わってしまいました。

男性と女性とは、私には別の生物のように感じています。
生活力が全く違います。
男性は、女性に寄生していないと生きていけないのではないかと、私は思うのですが、これは私だけのことかもしれません。
寄生的に生きていると、宿主がいなくなるともうやっていけません。

いま同居している娘が、私にもう少し生活面で自立できるようにしたらと時々いいますが、いまさら自立することもないでしょう。
寄生者は宿主と一緒に滅びるのが自然です。

ちなみに、わが家の老犬のチビ太くんは、いまは寝たきりで、私たちが介護しなければ、食事も排泄もできません。
もし飼い犬でなければ死んでいるでしょう。
そのチビ太の世話をしながら、私ももしかしたらチビ太と同じく、もう死んでいてもおかしくないなと時々思います。

自然に生きるとは自然に死ぬことでもあります。
チビ太はいま幸せでしょうか。
いろいろと思うことが多いです。

もうじき大阪です。

■2126:挽歌がかけなかった2週間(2013年7月14日)
挽歌を2週間近く休んでしまいました。
いくつかの事件が重なり、どうしても書けなくなってしまっていました。
挽歌を書くことで気持ちが平安になることが多いのですが、書くことで沈んでしまいそうになることもあるのです。
実は、この2週間ほど、改めて自分の生き方を反省し、悔いていました。
悔いたところで、何かが変わるわけではありませんが、悔いなければいけない時もあるのです。

昨日、節子の友達の雨森さんからメールが来ました。
節子のお姉さんが親元のお寺の観音様に毎年、お参りに行くのですが、今年も行ったようで、そこでみんなと話し合ったようです。
メールにはこうかいてありました。

しばらく唐川の仲間たちとも、下のテントで楽しく雑談をしました。
節子さんの挽歌が続いている事も話題になりました。
又機会あれば、途中下車して下さいね。

雨森さんは、この挽歌にも前に登場しているはずですが、節子の幼友達の間でも、挽歌を話題にしてくれているのです。

同じく昨日、もう一つメールが届きました。

佐藤修さま
毎日ブログを楽しみに読ませて頂いているので、佐藤さんのお名前がすらすらと出てきました(^_^.)
夫が自殺で亡くなった1年半前に初めて連絡をさせて頂いた、さいたま市に住んでいる・・・と申します。

まだお会いしたこともない人ですが、読んでくれているのだと知りました。
2週間近くも書いていないので、もしかしたら心配してくれているのかもしれません。
そして、今日、広島の人が電話してきました。
私の声を聞きたかったというのです。

まだ正直、挽歌を書きたくなる気分は出てきていないのですが、だからこそ書いたほうがいいような気がしてきました。
明日から、挽歌を再開します。

■2127:赤後寺観音(2013年7月15日)
節子
昨日も書きましたが、節子の幼馴染の雨森さんのメールを改めて引用します。

今年もわが集落(唐川)の赤後寺(しゃくごじ)観音の千日会法要が無事終わりました。
余りの暑さに、例年より少し参拝客が少なかったようです。
小生も例年のように接待などに顔を出していました。
挽歌2125でお書きのお姉さまが、今年もお参り下さいました。
膝の手術をなさったとのことで、観音様の石段がきついので下から拝んでおくとの事で残念でしたが、御志納もちゃんとあげて頂きました。有難いことです。
遠くから足が痛いのに、小生なら止めにしている事でしょうに。
しばらく唐川の仲間たちとも、下のテントで楽しく雑談をしました。節子さんの挽歌が続いている事も話題になりました。
又機会あれば、途中下車して下さいね。

赤後寺観音と言っても知らない人が多いと思いますが、滋賀県の湖北の高月町(いまは長浜市になっています)にあるお寺にある観音像です。
http://www11.tok2.com/home/awa/200706oumi/oumi04/oumi04.htm
高月町は、節子の生家のあるところで、前にも書きましたが、観音を本尊にしているお寺が多いのです。
それで、高月町は「観音の里」と称しています。
一番有名なのは、渡岸寺の十一面観音です。
この観音はとても端正な顔をして、私が最初に会った時には大きなオーラを発していました。
残念ながら最近は、会う度に元気がなくなり、最後に見た時には、私にはオーラよりも悲哀を感じました。
見世物になってしまっていたのです。

それに比べると、赤後寺の観音は、まだ集落の人たちに篤く守られています。
私が最初に行った時には、まだ秘仏とされていましたが、いまはお願いすれば拝ませてもらえます。
毎年、7月10日の千日会法要には遠くからもおまいりに来るのだそうです。
雨森さんたちは、そのお接待にあたっていたのです。

私も以前、節子と2人で拝ませてもらったことが2回ほどあります。
一体は千手観音でしたが、渡岸寺の観音とはまったく表情が違うのです。
ちなみに、この周辺の観音たちは、ほとんどが集落の人たちに守られていますので、すぐ目の前で拝めます。
雨森さんが書いているように、節子の生家のある周辺の集落は、どこもとても信仰が篤く、暮らしが仏たちと共にあるのです。
その距離感がとても好きでしたが、最近は、渡岸寺のように陳列されてしまうスタイルになってきています。それがとても残念です。
しかし、赤後寺のある唐川は、まだしっかりとその文化が残っているのです。
私は、そこになかなか入れない異邦人のような存在ですが、節子が一緒だと、自然にその文化が伝わってきて、とても心地よかったのです。
しかし、節子がいない今となっては、どうも素直には足が向きません。

節子と一緒に、もう一度、赤後寺や渡岸寺の観音たちに会いに行きたかったです。

■2128:出雲大社(2013年7月15日)
節子
ユカが出雲大社に行ってきました。
今年は60年ぶりに遷宮の年なので混んでいるだろうと思っていましたが、案の定、人でいっぱいだったようです。

出雲大社に2人で行ったのは、もう何年前でしょうか。
私たちの生活は、そこから始まりました。
冬の夜、2人で京都駅から夜行列車で出雲に向かいました。
早朝に出雲に着き、そこから大社に向かい、本殿前で指輪を節子の指にはめて、それが私たちの結婚式でした。
もっとも、それには異議を唱える人もいたため、後で節子の実家で披露宴をする羽目になったり、他にもいろいろとありましたが、それが私たちの出発点でした。
そんな始まりだったので、節子はいろいろと苦労したでしょう。
いまから思えば、私のわがままさのとばっちりは、みんな節子にいっていたのでしょう。

実はほとんど出雲大社のことを覚えていません。
それがいつだったかも記憶がないのです。
節子はきちんと日記を付ける人でしたから、残されている節子の日記を調べたら書いているでしょうが、まあそれを読み直す気には、まだなれません。
過去の事を読んだところで、過去が蘇るわけでもありません。
私には、過去はもうどうでもいい話です。

記憶に残っているのは、むしろ日御碕神社と経島のウミネコです。
なぜか出雲大社そのものの記憶はほとんどないのです。
もし節子がいたら、ユカとの会話で何かを思い出したかもしれません。
昔のことを語り合う伴侶がいなくなったことで、私の記憶も半分どころか大部分が消えてしまったようです。

ユカから出雲大社の話を聞きながら、そんなことに気づきました。
ところで、本当に私たちは一緒に出雲に行ったのでしょうか。
確かに日御碕神社近くの海岸での写真は残っていますが、肝心の出雲大社の写真がないのです。
そういえば、過去の写真が消えていく映画がありました。
節子が残したたくさんのアルバムの写真はどうなっているでしょうか。
まだ見る気が起きませんが、もしかしたら永遠に見ることなく、終わるのかもしれません。
一人で見ても、リアリティは感じられないでしょうから。

■2129:お天道様が見ている(2013年7月16日)
節子
挽歌をまた書けるようになったのはいろいろな人からのメールや電話です。
見えなくとも、人はさまざまなものに支えられているのです。

まだお会いしたことのない人からのメールです。
その人は、「佐藤修さん」と書き出しています。

毎日ブログを楽しみに読ませて頂いているので、佐藤さんのお名前がすらすらと出てきました(^_^.)。
夫が自殺で亡くなった1年半前に初めて連絡をさせて頂いた、さいたま市に住んでいる・・・と申します。
その節はお電話口で「おつらいですね。」と優しい言葉を掛けて頂いて、泣かないようにするのが精いっぱいであまりお話も出来なかった様に覚えています。

実は、私もその時に、どう応えたのか記憶がありません。
「おつらいですね」とは、いかにも月並みですが、突然の時には、お互いにまあ月並みなことしか交わせないものです。
大切なのは、言葉ではなく、言葉の奥の思いなのでしょうが、電話ではそれが伝わるとは限りません。

湯島のオフィスは、自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいの事務所にもなっています。
それで時折、その種の相談の電話もあります。
相手の勢いに、引きずり込まれたこともありますし、心身が萎縮することもあります。
その方の電話の時も、私は少し引いていたかもしれません。
なぜなら、そういう電話は慣れていないので、どうしてもまだ、構えてしまうのです。
構えてしまっては、相談になど乗れません。
面と向かってならばともかく、電話相談は私には向いていません。
その時も、何を話したか、記憶がないのです。
相手を傷つけたかもしれません。
その後、一度だけメールがあったきりで、音信が途絶えたので、気にはなっていたのです。
愛する人を失った人は、どんな小さなことでも傷つけられるものなのです。

その方からの、久しぶりの突然のメール。
こう書かれていました。勝手に引用させてもらってすみません。

屈折する気持ちを抑えて「私が幸せになれば、亡くなった夫も幸せだろう」と良い事だけを考えて、毎日明るく生活しています。

この言葉の奥にある思いは、伝わってきます。
私も、同じような言葉を発したことがあるからです。

この方は、最後にこう書いてくれました。

佐藤さん、体調は如何ですか?
ご無理をせず、でも近々、またフォワードカフェをやって下さいね。
必ず、参加しますから。
佐藤さんにお会いしたいです。

今月は、フォワードカフェをさぼってしまいました。
お天道様が見ていると、昔の人はよく言いました。
しかし、それは今も同じなのです。
気になっていたことが、ひとつ氷解して、ホッとしました。
そして、やはりまた書き出そうと思ったのです。

■2130:自らの不誠実さへの慙愧の念(2013年7月16日)
お天道様が見ている話の、その2です。
昨日、この挽歌にコメントが寄せられました。
まったく知らない人からのコメントです。
コメントを再掲させてもらいます。

一昨年の暮れに父を亡くし、その後節子さんへの挽歌を読ませていただいています。
ほぼ毎日PCを開くとたくさんある中のどれかを読んでいます。
このところ更新がなかったので、どうかなさったのかと勝手に思っていました。
おとといは、「小さな村の物語」を見ながら、その時も佐藤さんはみているかな?と思ってました。
今日更新があったので、ついメールしてしまいました。
これからも、節子さんへの挽歌を楽しみにしています。

毎日書かれていた挽歌が書かれていないと、どうかしたのかと思われるのは当然です。
もちろん「どうかした」のですが、それを書かないのも、読んで下さっている人には失礼なことかもしれません。
「書く」のが目的の挽歌であっても、私だけの都合で勝手にやめてはいけません。
それは、私の生き方に反します。
節子はそのことをよく知っていました。
一度、口に出したことは守らなければいけません。
毎日書くといったのであれば、書かなければいけない。

今月になって、挽歌が書けなくなったのは、もちろん理由があります。
節子の看病への後悔、節子との一緒の暮らしへの反省、そうしたことが山のように心身に降り注いできたのです。
慙愧の念が降り注ぐようになったのは、今月に入ってからの、知人友人との話と体験からです。
自分の生き方の不誠実さを思い知らされたのです。
私がもう少し誠実だったら、節子は治ったかもしれない。
いや、発病さえしなかったのではないか。
そうした思いが、また私の心身を落としてしまったのです。
それで、挽歌が書けなくなりました。
書くことで、不誠実さを糊塗するような気がしだしたのです。
「おととい」の「小さな村の物語」も見ませんでした。
あの番組に出てくる人は、みんなとても誠実に生きているからです。
自己嫌悪に襲われるのです。

愛する人を失った人は、どんな小さなことにでも傷つけられる。
そして、どんな小さなことでも、時に動けなくなる。
でもそれに甘んじるのも、誠実ではないかもしれません。
私に欠落していたのは「誠実さ」かもしれません。
節子がいたからこそ、私が誠実に見えていたのかもしれません。
最近、娘から、そのことを気づかされています。

話が少しそれてしまいましたが、大石さん、心配をかけてすみませんでした。
今度また書けなくなったら、その旨を予告することにします。
予告なしに挽歌の更新が暫くなくなったら、それは「突然死」ですね。
ちなみに、あと3年は「突然死」できない理由があるので、大丈夫でしょう。
何しろ、お天道様はちゃんと見てくれているでしょうし。

■2131:苦労の重さに苦労しています(2013年7月19日)
節子
人生には苦労はつきものですが、最近はなぜか苦労が押し寄せてきます。
まあこれまであまり苦労を苦労してこなかったからかもしれません。
節子がいた頃は、私にとって一番苦手の苦労は、すべて節子の担当でしたし。
人生において引き受けなければいけない苦労が一定量であるならば、もっと若い時に引き受けるべきでした。

しかし、ものは考えようで、苦労も豊かさのひとつと思えばいいだけの話かもしれません。
事実、それは全く根拠のないことではありません。
何もすることのない退屈な人生よりも、苦労が多い人生のほうが、退屈ではないでしょう。
これはかなりの負け惜しみ的な強がりかもしれませんが。

苦労が多いと、時間が経つのがなぜか早いです。
ちょっと気を抜くと、すぐに挽歌を書き忘れます。
挽歌を書くことで生活にリズムをつけようと思ってはいるのですが、それはそう簡単ではありません。
暇なのですが、こまごまと時間をとられることが増えているのです。

しかし、なぜか最近、挽歌に反応してくれる人が集中しています。
昨日は、初めて私の挽歌を読んだ友人が、間違ってメーリングリストにそのことを書き込んでしまいました。
メーリングリストの場合、一挙に全員に届いてしまうので、私も冷や汗をかいてしまいました。
この挽歌は、あまりに素直に自分の感情を開け放していますので、あまり読まれたくないと思う人もいないわけではありません。
しかし、その反面、思いもかけなかった人が読んでいるのを知ると、その人との距離感が急になくなってしまうような気もします。
人との関係は不思議なものです。

ところで、人生の苦労ですが、苦労を一緒に背負い込むと、これもまた距離感が変わります。
節子とは40年以上にわたり、苦労を背負いあいました。
どちらかといえば、節子のほうに背負わせすぎていたかもしれません。
節子は不満を言いませんでしたが、今にして思うと、私がいいとこ取りしすぎたような気もします。
でもまあ、苦労を共に背負ったおかげで、私たちの距離感はなくなりました。
苦労も2人で背負えば、苦労どころか楽しくさえなるものです。

しかし、苦労を共にすることが、必ずしもいつも「良い方向」にいくとは限りません。
注意しないと人嫌いにもなりかねない、苦労のシェアの仕方もあるのです。
最近は、ちょっと苦労の重さに苦労しています。
節子に少しシェアしてほしいです。

■2132:最近私はいったい何をしているのだろうか(2013年7月19日)
節子
最近、自分が何をやっているんだろうかと思うことが少なくありません。
何かに「流されている」ようで、無意味な活動ばかりやっているような気がするのです。
今日もサロンで湯島に来ていますが、みんな迷惑しているのではないかという気が時々します。
私が声をかけるので、しかたなく参加している可能性がゼロではないのです。
私は私で、サロン疲れをしています。
どこか、何かが、間違っているように思います。
もしかしたら、気をまぎらすために、動いているだけかもしれません。
そうだとしたら問題です。

節子がいなくなってから、私も以前ほど、能天気ではなくなり、いささか哲学的になりました。
生と死についても、それなりに考えてきました。
色即是空、空即是色も、まあ少しだけですが、実感できるようになりました。
しかし、世界がそれなりに見えてくると、生きることが退屈になってきます。
そして、時々、自分はいったい何をしているのだろうかと思うわけです。
自らのやっていることに疑問や迷いが出てくることほど、辛いことはありません。
心身がずれてくるのです。

生活が単調だからではないかとアドバイスしてくれる人がいます。
たしかにそうです。
しかし、そもそも節子がいない世界は単調なのです。
おそらく愛する人や愛する事物を失った人には、わかってもらえるでしょうが、なぜか世界が単調になってしまうのです。
そしてそこから抜け出られなくなるのです。

実は抜け出る方法は簡単なのです。
しかし、それができません。
困ったものです。
その方法とは、ただただ抜け出ればいいだけなのです。

湯島のオフィスに丸い水槽に入った白メダカがいます。
今日は時間があるので、それをしばらく見つめていました。
彼らはこの水槽から跳び出そうと思えば、跳び出せます。
これまでも2匹のメダカが跳び出しました。
その結果は、しかし、干乾しになるのです。
メダカにとって、それがいいことなのかどうかはわかりませんが、現状を抜け出る方法は簡単なのです。

外は夏のような暑さです。
学生のころ観た、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニの映画がなぜか思い出されます。
節子に会った頃、私が気に入っていたのが彼の監督作品でした。

■2133:ほんのわずかなものとほんのわずかなこと(2013年7月21日)
節子
人が幸せであるためには、ほんのわずかなものとほんのわずかなことがあればいいのですが、皮肉なことに、そのことに気づくのは、それを失った時なのです。
ということは、人は本来、幸せなのだということかもしれません。
生きていることが幸せなのです。
しかし、ある時、あまり意識していなかった「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」が失われてしまうと、幸せの世界から追い出されてしまうわけです。

「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」。
私の場合は、何の華やかさもない節子との日常の暮らしでした。
それが失われてからは、私には幸せはなくなってしまいました。

一昨年の東日本大震災や原発事故で、なんでもない日常の暮らしを失ってしまった人たちは、たぶん、幸せとは縁遠い世界に追いやられたと思いますが、同時に、それまでの幸せにも気づいたことでしょう。
幸せとは、気づいた時には、もうないのです。
実に皮肉な話です。
被災者のみなさんが、一番欲しいのは、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」でしょう。
でもそれは、もう手には入りません。

「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」と書きましたが、実は「わずかな」ではないのです。
その「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、常にあるからから「わずか」な存在になっていますが、自分を包み込むほどに、時空間を超えて、存在しています。
たとえば「空気」や「水」がそうです。
意識しないですむほどに、その「わずかなものやこと」は、日常の暮らしに充満しているのです。
充満しているが故に、その大切さに気づかない、
そんな「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」は、私の場合、節子以外にもきっとあるのでしょう。
でも、節子がそうであったように、それもまたなくなってみないと、わからないわけです。

節子は発病後、一日一日を大事に生きていました。
今日も良い一日だった、明日も今日のようにありますように、と寝る前に祈っていました。
節子は、「ほんのわずかなものとほんのわずかなこと」の大切さを知っていたのです。
だから、私よりも幸せだったのかもしれません。
それに、節子には私がいましたし。
節子は最後まで幸せだった。
そう思うと、少し心がやすまります。
しかし、私はこれからずっと不幸せなのかと思うと、心はやすまりません。

幸せについて考えることはほとんど意味はありませんが、時々、ふと、考えてしまいます。

■2134:節子との政治論議が懐かしい(2013年7月21日)
節子
今日は参議院選挙の投票日です。
結婚以来、選挙には必ず一緒に投票に行きました。
意見が分かれることは多かったですが、基本的なところでは同じでした。
今回もし節子がいたら、たぶん私と同じ人に投票したでしょう。
節子は、選挙には私よりも誠実でした。
候補者の主張をよく読んで、誰に投票するかを考えていました。
投票に行かない人がいると怒っていました。

しかし、最近は投票に行かない人が増えてきました。
今回の投票率は予想通り、かなり低くなりそうです.
節子と一緒に投票に行っていた頃は、投票所で並んだこともありましたが、今日は閑散としていました。
だんだん投票に行かない人が増えているのかもしれません。
さびしいことです。

節子の関係で、いまも選挙になると手紙が届きます。
昨年まで、節子の名前で届くこともありました。
節子が亡くなったことを伝えて名前を削除してもらいましたので、今年は届きませんでした。
ちょっとさびしい気もします。

政治の論点に関して、節子とよく話し合ったものです。
節子は、特に主張があるわけではありませんでしたが、生活者視点でした。
節子と話すことによって、いろんな気づきをもらったこともあります。
節子との政治論議が、とても懐かしいです。
娘たちとは、そういう話はなかなか出来ません。

今日の選挙結果で、また私は元気をなくしそうです。

■2135:退屈さの中でこそ大切なものが見えてくる(2013年7月22日)
節子
昨日の選挙結果にはやはり気が萎えてしまいました。
そうなるだろうと思いながらも、いつも選挙には期待してしまいます。
そして毎回、がっかりしてしまう。
この繰り返しです。

時評編に書いたのですが、昨日、「小さな村の物語」のなかで印象に残った言葉があります。
「生きていれば退屈なことが多い。でも、退屈なことを続けていると、大切なことも見えてくる」という言葉です。
これは一昨日に挽歌に書いたことにつながっています。

女性は、「退屈さ」を生き抜くのがうまいように思います。
いや、そもそも「退屈」という概念がないのかもしれません。
昨日と同じ家事を行いながら、「大切なもの」を感じている。
女性の生き方は、そんなような気がします。
少なくとも節子はそうでした。
節子が「退屈」という言葉を使った記憶がありません。

一方、男性は「退屈」な繰り返しを嫌う傾向があるように思います。
少なくとも私はそういう傾向があります。
良くなろうと悪くなろうと、ともかく「変化」が好きなのです。
そんな生き方をしていれば、「大切なもの」など見えてはこない。
しかし、絶えず動いていると「大切なもの」が見えてくるだろうと期待するわけです。
そして、逆に「大切なもの」を失ってしまうのです。

私が、変化よりも継続が大事だと思うようになったのはいつからでしょうか。
たぶん節子と一緒に、会社を起こして、時間を共にする事が飛躍的に増えてからです。
節子の人生も、私の人生も、変わりました。
そして、いつの間にか、節子と一緒だと退屈を感ずることがなくなったのです。
実は、繰り返しの中にこそ、変化があるからです。
節子との暮らしは、それに気づかせてくれました。
大仰に言えば、生き方が変わったのです。

退屈さの中でこそ、大切なものが見えてくる。
本当にそう思います。

■2136:「人は死ぬと無になってしまう」のか(2013年7月22日)
節子
先日、この挽歌にコメントを下さった方から、メールが届きました。

大切な人を亡くした人は、その存在を感じている人がいると思うのに、
私は、その存在を感じずに、「人は死ぬと無になってしまう」と考えてしまっています。

前後を切り離しての引用ですので、その方の思いを正確には引用していませんが、私自身は、「人は死ぬと無になってしまう」とは思っていません。

今日、テレビで「地球千年紀行」とい+う番組を見ました。
毎月1回放映されている番組で、東大名誉教授の月尾さんが、世界の先住民族たちの文化や暮らしを紹介してくれる番組です。
今日は、インドネシアのトラジャ族の話でした。
おそらく数千年前にトラジャ族は船に乗って日本にもやってきて、原日本人の文化にも影響を与えただろうと思うほど、親しみのもてる人たちです。
それはそれとして、トラジャ族の葬儀は盛大です。
彼らは、人の死を病にかかった肉体から自由になって、旅立つことだと考えています。
だから、葬儀は旅立ちの儀式です。
つまり、人は死んではいないのです。

最近、老化により、肉体の制約を感ずることがあります。
疲れやすく無理がきかない。
そうした自分の肉体を、いまいましく思う自分といたわろうとする自分がいます。
そういう状況では、自分の肉体は、いわば自分のものであって、自分のものでないのです。
肉体とは別の自分が、まちがいなくいます。
だとしたら、肉体が死んでも、自分がいてもおかしくない。
そういう思いが、最近特に強まっています。

たしかに、肉体がないと自分を表現することができません。
しかし、表現しないからといって、思いがないわけではない。
肉体がないからと言って、自分がいないとは言い切れない。
少なくとも、肉体が自分のすべてだと思っている人はいないでしょう。
自分が望まないのに、肉体が動き出すことを体験されたことはないでしょうか。
肉体と自分とは、別の存在なのです。

とても粗雑な説明ですが、最近そういう思いが強いのです。
「死ぬ」とは、要するに肉体が機能不全を起こし、生体であることを維持できなくなるだけの話です。
つまり、肉体が死ぬのであって、人が死ぬのではない。
トラジャ族の人たちが考えているように、肉体の死は、人としての次に段階に移ることかもしれません。
もしそうなら、死は誕生にもつながっていきます。
なにやらややこしい話ですが、最近、そんな風に思えるようになってきました。
死は誕生なのだと。

ところで、メールをくださった方が、「愛した人の存在が感じられない」というのは、愛する人が自らの中にいるからではないかと思います。
宿っていた肉体がなくなったら、あなたならどこに行きますか。
私なら、愛する人の肉体に、とりあえずははいりこみたい。
つまり、あまりに身近すぎて、実感できないのです。
しかし、そのうち、感じられるようになるでしょう。
私が、そうでしたから。

■2137:食事と睡眠が好きではありません(2013年7月23日)
節子
最近、寝不足が続いています。
暑さのせいでは、たぶん、ありません。
だからといって、ほかに確たる理由があるわけではありません。
なぜか真夜中に目が覚めるのです。
そしていろいろと考えごとが浮かんできます。
考えるのもわずらわしいので、寝室のテレビをかけます。
テレビを見るわけではありません。
何となく音がするのが落ち着くのです。
そしてそのまま、寝るでもなく寝ないでもなく、朝を迎えます。
まあ寝ているのでしょうが、どうもすっきりしないのです。
人間、寝ないですめばどんなに幸せだろうと思うことがよくあります。
私は、寝ることが好きではないのです。

寝ることだけではありません。
食事も、私には面倒くさい時間です。
人間、食べずにすめばどんなに楽でしょうか。

というわけで、人にとっての楽しみが、私には面倒くさいことなのです。
こうなったのはいつからでしょうか。
節子がいなくなってからでしょうか。
節子がいなくなってからそうした傾向が強くなったのは間違いありませんが、必ずしもそうではないのです。

私の食事時間が短いのは、節子には不満でした。
珈琲を飲む時間はゆっくりですが、食事時間はなぜかすぐ終わってしまう。
今も、ユカが、折角時間をかけて食事を作っても、お父さんは10分で食べ終わってしまうからなあ、と嘆いています。
まあ10分は大げさですが、それでも20分もあれば、食事は終わってしまうのです。
それで、まだ食事を食べている節子に、ちょっと仕事をしてきていいかなあ、と言って食卓を立ってしまうことも多かったようです。
節子は、そうした、食事よりも仕事が好きな私が好きではなかったと思います。
仕事ばかりだからと、嘆いていました。

しかし、私は仕事ばかりしていたわけではないのです。
仕事を休んで、節子と一緒に旅行したり美術展に行ったりもしました。
それに、食事の時に、話をしなかったわけでもありません。
わが家の食事は、いつも話が飛び交っていましたから。
でもふだんの私の食事時間は、いつも短かったようです。

食事は、生活や文化の基本です。
それを20〜30分で終わらせてしまっていたのは反省しなければいけません。
今頃になって、節子に悪かったなあと気がつきました。

ちなみに、娘がいなくて、一人だけで食事をする時には、10分もかかりません。
どうも私の生活は、貧しいようです。
ただし、朝食だけは少しだけ時間をゆっくり取っていますが。

彼岸にいる節子には、食事も睡眠も必要ないのでしょう。
実にうらやましい。

■2138:死の疑似体験ワークショップ(2013年7月24日)
節子
本で知ったのですが、死の疑似体験ワークショップというのがあります。
死生学を専門にされている関西学院大学の藤井美和教授がやっているそうです。
そのワークショップの一つに、自分にとって一番大切なものは何かを考えていくプログラムがあります。

進め方はこうです。
まず、参加者に、「形のある大切なもの」「大切な活動」「大切な人」「形のない大切なもの」の4つの領域から自分にとっての大切なものを3つずつ選んで、12枚の紙に書いてもらうことから始めます。
そして、若くしてがんで亡くなった学生の手記を読みながら、あるステージごとに、その学生の立場になって、何をあきらめるのかを決めて、その紙を捨てていくのだそうです。
入院した時に3枚、手術する時に3枚、病気ががんであるとわかった時、にまた3枚と捨てていくわけです。
多くの場合、まず、形あるものから消えていくそうです。
最後に残るのは、形のないもの、たとえば「愛」です。

最初、このワークショップのことを知った時には、正直、違和感がありました。
「死の疑似体験」という表現にも抵抗がありました。
理由は自分でもよくわかりませんが、ともかく違和感がありました。
死とは、何か「大切なもの」を捨てなければいけないものなのかというのも、私のイメージとは違います。
それに、そんなプロセスを通さなくても、私には最後に残るものは明白だからです。

節子はどうだったでしょうか。
節子ではないので確実とはいえませんが、そもそも「選択」などはしなかったと思います。
すべてが大切だった。
節子にとっては、節子が生きてきた人生すべてが、同じように大切だったでしょう。
死を前にしたら、おそらくすべてのものの価値は同じくなるのではないかと思います。
いや、別に死を前にしなくも、人にとって大切なのはひとつには絞り込めません。
にもかかわらず、私たちは「何か」に執着し呪縛されます。
それが金銭のこともあれば世間からの評判のこともあれば、愛する特定の人であることもあります。
藤井さんのワークショップは、そのことに気づかせてくれるかもしれません。
その意味では、大きな意味があります。
私には違和感はありますが、そのワークショップ自体の効用はよくわかります。

節子の最後の1か月は、厳しいものでした。
ですから節子とゆっくりと話すこともできませんでした。
この厳しさを乗り越えたら、また話せるという思いが私にはありました。
節子も私も、娘たちも、一生懸命に生きました。
何が大切かなどは考えることなく、ただただ節子が元気になることがみんなの唯一の思いでした。
そんな体験があるので、このワークショップに違和感があるのです。

また、あの悪夢のような暑い夏がやってきます。
私にとって、一番大切なものは、節子との暮らしです。
それを守れなかったことの無念さは、この時期、特に大きくなってきます。
暑さがこたえます。

■2138:時機純熟の真教(2013年7月25日)
節子
節子の生家は浄土真宗でした。
法事の時に、よく親鸞の話が出てきました。

親鸞は、浄土真宗は「時機純熟の真教」だと言っているそうです。
然るべき時が来たら、世界が見えてくるということでしょうか。
私の解釈では、彼岸も含めて、古今東西の世界が見えてくるということです。
大きな生命が見えているといってもいいかもしれません。
まあこれは、勝手な私の解釈です。

親鸞はまた、迷いの中に真実を見る人だったようです。
空海とは違います。
空海が彼岸の人なら、親鸞は此岸の人です。
節子の生家は、滋賀県の高月町というところですが、この周辺には、親鸞と空海の振興が篤いようです。

節子がいなくなって6年近くになりますが、最近、彼岸が少し見えてくるような気がしています。
見える、と言うよりも、感ずると言ったほうが適切かもしれません。

如来とは、「如」が「来る」、つまり、本来の真実の姿(如)に「帰る」ということでもあるそうです。
信仰を重ね、時が来れば、如来となる。
実に納得できる話です。
素直な心で考えると、仏教の説話や教えにはうなづくことが多いのです。

毎朝、時には省略版ですが、大日如来を拝みながら、般若心経をあげています。
そのおかげかもしれません。
最近、なにか世界のすべてを感じられるような気がすることがあるのです。
世界が見えると、少し安堵します。
祈りは心を和ませます。

■2139:最期を看取るから(2013年7月25日)
先日、テレビで映画「ワイアット・アープ」を放映していました。
ワイアット・アープといえば、実在した保安官で、西部劇のスターの一人です。
特に有名なのが、「OK牧場の決闘」ですが、学生の頃、この映画が好きで、ある一場面だけを見るために何回も映画館に通いました。
当時の西部劇は、実に単純で、わかりやすかったのですが、節子はその頃の西部劇も好きではありませんでした。
人を殺す映画はいや、というのが、その理由でした。

「ワイアット・アープ」はケビン・コスナー主演で、全体に暗い映画で、私は一度見たら十分だと思っていましたが、なんとなく懐かしくて見てしまいました。
西部劇の好きな人はすぐに気づきますが、この映画は「OK牧場の決闘」を少しだけ取り込んでいます。
そういう視点で見るとおもしろいのですが、映画そのものは、全く面白くありません。

それはともかく、一か所だけ、心に響く言葉がありました。
ワイアットが求婚される場面です。
私は求婚したことはありますが、求婚されたことがありません。
しかし、この言葉で求婚されたら、すぐに受けてしまうだろうなと思いました。
その言葉は、「私があなたの最期を看取るから」というものです。
この言葉は、すごく大きな力を持っています。
最高の贈り物は、「最期を看取る」ことだと、最近、ようやくわかってきました。
私は、その最高の贈り物を節子にあげたわけです。
私の看病や心遣いは、不十分だったかもしれません。
最近、そう思えてならないのですが、しかしまあ、「最期を看取る」という最高の贈り物をしたのだから、節子は許してくれるでしょう。

愛する妻を病気で亡くしたワイアットは、もう2度と結婚しまいと思っていたのですが、この言葉で再婚してしまうのです。
そして、最期を看取られて、人生を終わるのです。

ところで、この言葉で再婚することには、問題があります。
それは、最期を看取られるのではなく、また「最期を看取る」羽目になるかもしれないということです
それを思うと、この言葉には要注意です。
ワイアットはうまくいきましたが、だれもがうまくいくわけではありません。
だまされてはいけません。
まあ、だます人はいないでしょうが。

■2140:面倒くさいことが多すぎます(2013年7月26日)
節子
今日も暑いです。
節子がいなくなってから、やらなければいけない仕事がいくつか増えました。
その一つが、銀行通いです。
通帳の印鑑がわからなくなったり、通帳がいっぱいになったり、残高が不足したり、振込やらいろいろあります。
カードのパスワードを間違えて、再発行してもらいにも行きました。
しかし、銀行は面倒です

今日は、新しい銀行口座を開設に行きました。
私の口座ではなく、私が関わっている会社の口座をもう一つ開くことにしたのです。
前にも一度行ったのですが、書類が不足していました。
実に面倒です。
ただし、銀行の人たちはみんな働き者で、親切です。

面倒なのは銀行だけではありません。
生活のためにはさまざまな手続きが必要ですが、それらがすべて面倒です。
どうしてこんなに面倒な仕組みを作ってしまったのでしょうか。
しかし、そうした面倒な仕組みをみんな受け入れているのも不思議です。
私のように、老人性痴呆が進行しだしたものには、手続きのための資料を読んでもよくわかりません。

資料だけではありません。
昨日は、ネット接続の料金が安くなりますよと電話がありました。
説明を聞いてもわからないので、それでいったいいくら安くなるのですかと質問したら、毎月5500円くらいになりますと言われました。
質問の答えにはなっていません。
今はいくら払っているのでしょうか。
それもわからないので、判断ができません。

私は、以前はクレジットカードの仕組みが理解できませんでした。
それで長く使用しなかったのですが、一度、使ってみたらとても便利です。
一番気に入ったのは、お金を持ち歩かないですべてお金なしでいいのです。
お金を落とす心配も、お金を忘れる心配もありません。
第一、お金などなくても不便をしないのですから、私の目指す生き方に重なります。
それで気にいって、一時は加入のお誘いがあるとみんな入ってしまいました。
その結果、今は自分が何を払っているかさえわかりません。
整理したいのですが、それもまた面倒くさい。

以前であれば、「節子、やっておいてくれない」の一言で済んでいました。
そのころ、節子がこんなに苦労しているとは思いませんでした。
でもまあ、節子でさえやりこなせていたのですから、世の中の人はみんなうまくやっているのでしょう。
尊敬します。
それにしても、自分のだめさ加減にいやになります。
すべてカード決済にして、支払いは政府がしてくれるようにならないものでしょうか。

たぶん今もそうしている人はいるのでしょうね。
そういう人になりたかったです。
宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくる、おろおろ生きる人もいいですが、そういう人もいい。
銀行で待たされている間に、そう思いました。
銀行は涼しくていいです。
我が家よりずっと涼しい。なぜでしょうか。

■2141:変わったようで変わらない生き方(2013年7月27日)
節子
昨日のオープンサロンは、節子もよく知っている人たちが集まりました。
最近の政治状況の話から、社会のあり方や私たちの生き方へと話題が広がりました。
みんな私の生き方を知っている人たちですので、話は具体的になります。

サロンの最初に来たのは、一番古い付き合いの武田さんですが、私の顔を見た途端、疲れてますね、と心配してくれました。
たしかにこの数日、寝不足もあって、目があかないほどに疲れています。
武田さんは、重ねて、奥さんがいなくなって、佐藤さんはもう死んだようなものだよね、といつものように憎まれ口です。
まあしかし、いずれも事実だから仕方ありません。
たしかに節子がいなくなってから、私の生き方は、ある意味では「死んだような生き方」になっているかもしれません。
それに、節子がいた頃と違って、疲れを蓄積してしまう生き方にもなっていることは否定できません。
「死んだような生き方」と「疲れの蓄積」は、つながっています。
「生きていれば」、疲れはどこかで解消されるからです。

いずれにしろ、私の生き方は、大きく変わったはずです。
にもかかわらず、私の生き方における考え方は、節子がいた時と変わっていません。
私の生き方の話を聞いた大島さんが、20年前から聞いていますよ、と言ってくれたのは、その証になるでしょう。
いうまでもなく、武田さんは、私の生き方を、相変わらず馬鹿だなといつも言いますし。
ということは、私の生き方は、変わっていないのです。

変わったようで変わらない生き方。
私の生き方の何が変わり、何が変わっていないのか。
少し考えてみたいと思います。

■2142:供花(2013年7月28日)
節子
最近、暑いこともあって、お墓参りをさぼっていましたが、今日は久しぶりに行ってきました。
夏の間は、生花はすぐに枯れて腐ってしまうので、造花にしています。
今年の造花は、娘たちが時間をかけて選んできた組み合わせです。
素材は100円ショップのものなので、材料費は1000円にも届きませんが、まあかなり思いを込めて、みんなで選んだ花の組み合わせなので、節子も気にいってくれるでしょう。
節子も、こういうことが好きでしたが、うれしいことに娘たちも、まけずに好きなのです。

わが家の位牌に具える花も、夏はなかなか長持ちしません。
いろんな方からお花代をもらったので、以前は供花基金として別勘定にしていたのですが、ついつい私が使い込んでしまい、最近は独立基金がなくなってしまいました。
それで、わが家や畑の花を供えることもあるのですが、この季節は、供花になるような花がなかなか育ちません。

わが家は、基本的に「仏花」を好みません。
節子もそうでした。
葬儀の時にも、仏花をやめて、バラとユリにしたかったのですが、実現できなかったことは前にも書きました。
いまは法要の時は、できるだけ仏花らしくないものにしています。

節子の実家もそうでしたが、農家には必ず仏壇用の花畑があります。
仏壇に花を供えることを通して、生活にも花が取り入れられてきたわけです。
祖先を祀る事は、実は花とふれあい、自然を祀ることでもあったのです。
このことに気づかされたのは、節子と結婚し、節子の実家で過ごすことを通してです。
花を供えるという行為は、生活に大きな影響を与え、人の心にも大きな影響を与えてきたように思います。

しかし、その習慣や文化は、40年ほど前からなくなりだしました。
それが、最近の社会の姿に大きな影響を与えているような気がします。
花のある生活は、社会のあり方を変えていくはずです。

最近、暑いこともあってすぐ枯れてしまうので、仏壇の花も小さなものになってしまいがちでしたが、やはり供花はきちんとしなければいけないと思いなおしました。
仏壇に供えられるような花も、畑で作り出そうと思います。
節子に供える花は、実は遺されたものにこそ、供えられているのですから。

■2143:経験したことのない大雨(2013年7月29日)
節子
雨です。
今日は湯島に来ていますが、家を出る直前ににわかに空が真っ黒になり、大粒の前が降ってきました。
最近増えているシャワーのような短時間の雨ですが、それが各地に被害を与えています。
気象庁は「経験したことのない大雨」と警告していました。

わが家は傾斜地の造成地の上に建っています。
ですから、こうした大雨に襲われたら、どうなるかわかりません。
事実、そうした被害を受けているところがテレビで時々映されます。
とんでもないところが水流で大きく崩され、土砂に埋まってしまう状況をテレビで見ることは最近は少なくありません。
いつわが家に起こっても不思議ではないのですが、自分の身に実際に起きないとなかなか自分の問題とは思えないものです。
だから「想定」もしないのです。

経験したことのないことを経験するのは、ある意味で善悪を超えています。
何しろ経験したことがないので、評価できないからです。
しかし多くの場合、それはできれば「経験したくないこと」であることが多いでしょう。
大雨の場合はそうしたものの一つです。
だから「経験したことのない」とは「経験したくない」と同義語であることが多いでしょう。その警告を耳にしたら、多くの人は避けたいと本能的に思うでしょう。
その意味では、効果のある表現です。

伴侶との死別も、多くの場合は「経験したことのないこと」です。
私の場合もそうでした。
だからどう対処していいかわかりません。
いや「理解できない」のです。
そのことに比べれば、たとえどんな大雨であろうと「経験」の延長で考えられます。
原発事故の時も、当事者たちは盛んに「想定外」という言葉を使っていました。
しかし、原発事故に関して言えば、想定外などという言葉は誠実ではありません。
想定したくなかっただけなのです。
自然災害もそうかもしれません。

伴侶の死はどうでしょうか。
たしかに「経験したことがないこと」ですが、「想定外」ではありえません。
想定しなかったのは、要するに、想定したくなかったからです。
経験したことのない大雨も伴侶との死別も、要するに経験したくないことなのです。
しかし、両者はまったく違います。
前者は経験せずにすませることもありますが、後者は避けられないことです。
後者を経験せずにすませることはできないものでしょうか。
それをもっと早く考えていくべきでした。

経験したことのないほどの大雨の被害も大きいですが、経験したことのない伴侶の死も、なかなか立ち直れないほどに大きいものです。

■2144:人生の一部(2013年7月30日)
「北京のふたり」という映画があります。
リチャード・ギア主演のかなり前の映画ですが、最近、テレビで放映されていました。
番組表でしか見ていないので、記憶違いかもしれませんが、最後のシーンが印象的だったので覚えています。

ストーリーは、殺人容疑をかけられた無実のアメリカ人を中国の女性弁護士が救う話です。
最初、弁護士は被告の無実を信じていなかったのですが、いろいろとあって、被告も弁護士も、その生き方を変えていくのです。
結局は無実が証明されるのですが、その過程で2人は深く愛し合うようになります。
主人公は一緒にアメリカに行こうと女性弁護士を誘います。
弁護士は、まだ国のためにやるべきことがあると、その申し出を断るのですが、主人公は、何もなかったようにこれから生きていくのかと問います。
それに対して、彼女は、たしかこんなことを言うのです。

そうではない、私は変わった。
あなたと一緒に裁判に立ち向かうことで、私の生き方は変わった。
あなたが、私の人生を変えたのだ。
だから、これからはもう、あなたは私の人生の一部だ。
地球の裏側に、自分の家族がいることを忘れないでほしい。

かなり不正確かもしれません。
なにしろ映画を見たのは10年以上前ですので。
表現はかなり違うかもしれませんが、あなたは私の人生の一部になったというところは、たぶん間違いないはずです。

私は、節子と暮らしを共にすることで、間違いなく人生を大きく変えました。
それは誰と暮らしても一緒だろうと思いますが、私には大きな意味がある変わり方でした。
節子は、私を変えようとはしなかったからです。
不遜ながら、私は節子を変えようとしました。
結果はどうだったか。
私は変わり、節子は変わらなかった、ということです。
このことが、私にはとても大きな気づきをもたらしてくれました。

だから、節子が私の人生の一部になってしまったことは間違いなく実感できるのです。
先日、リビングで本を読んでいた時、節子が部屋に入ってくるような気がしました。
今も節子の気配を、いろんなところで感じます。
節子が此岸にいないことは、わかっています。
でも時々、そこに節子を感ずる。
節子が人生の一部になっているからでしょう。

北京の2人は、地球の裏表ですが、私たちは彼岸と此岸です。
どちらが遠いのか、それは考え方次第です。

■2145:ホイヘンスの発見(2013年7月31日)
節子
2つの振り子を近接して置いておくと、いつのまにかその触れ方が同じになってしまうのだそうです。
今から350年も前に、そのことに気づいたのはオランダの科学者クリスチャン・ホイヘンスです。
彼はこの現象を「同調化」と呼びました。
実は時計の振り子だけではなく、同じような現象はいろいろあります。
私がこのことを知ったのは、光ファイバーのことを調べていた時です。
光にも同じような現象が起こるのです。

さらに生命体にも「同調化」は起こります。
医療の世界では、この原理をつかった療法も広がっています。
人の心身も、自然と同調化するようにできているのです。

夫婦や家族は、多くの場合、隣り合って生きていますので、当然のことながら同調しやすでしょう。
夫婦は似てくると言われるのは、その証です。

ホイヘンスの発見によれば、同調した振り子の振れ具合は、いずれかの振り子に合わせるのではなく、相互が歩み寄って新しい振りを創りだすのだそうです。
まあこのあたりの記述は、私もきちんと調べて書いているのではないので、不正確かもしれません。
しかし、どちらかに合わせるのではなく、一緒になって新しいリズムを創りだすことで、とても安定したリズムになるというようなことを、何かで読んだ気がします。
節子と私の関係を考えれば、これは実にうなづける話です。

私たち夫婦のライフスタイルは、当初はかなり違っていました。
家族や夫婦に関して、かくあるべしという理想をもっていた私は、最初はその理想を節子に働きかけたと思います。
しかし、幸か不幸か、節子はそれを器用にこなす賢妻でもなければ、それを無視する悪妻でもありませんでした。
まあ要するに、私の理想を深く理解しない愚妻だったわけです。
節子に失礼ではないかと思われるかもしれませんが、私にとって「愚か」ということは必ずしも否定的な意味ではないことを、節子は知ってくれていますので、いいでしょう。
そもそも、自分の理想を他者に押し付けられると思うことも、明らかに愚者の発想です。
私たちは、愚妻愚夫の夫婦だったわけです。
そしてその関係の中から、新しい私たちスタイルが生まれてきたのです。
まるでホイヘンスの家の振り子時計のように、気がついたら、同調していたわけです。

隣にあった振り子時計が外されてしまったら、残された時計はどうなるか。
ホイヘンスは、その実験はしたのでしょうか。
もっとも、その実験結果は知りたくはありません。
なぜなら、「止まる」のを待つだけの話だからです。

■2146:「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(2013年8月1日)
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉です。
なぜ沈黙しなければいけないのか。
それは、語りえないからです。
この言葉に出会ったのは、もう大昔のことですが、当時、もう一つ好きな言葉がありました。
「語りえるものはすべて存在する」
この言葉が誰のものだったかは、思い出せません。
アーサー・クラークだったでしょうか。

最近、思っているのは、いずれでもありません。
「語りえぬものについてこそ、語りつづけなければならない」
この挽歌を書いていて、あるいは時評編を書いていて、そう思うのです。
語りえぬことも、思い描くことはできます。

いま思い出したのですが、アーサー・クラークが言ったのは先ほどの言葉ではなく、もしかしたら、「思い描けるものは必ずいつか実現する」だったかもしれません。
時間感覚をゆるやかにすると、実現するとは存在することと言ってもいいでしょう。

語りえぬものは、なぜ語りつづけなければいけないのか。
それは、語りえないからです。
語りえないが故に、語り続け、いつか語れるようになったら、もはや語ることもない。
こう書くとわかりやすくなります。
ヴィトゲンシュタインのメッセージとは離れてしまうかもしれませんが、まあたかだか挽歌なので、それは許してもらいましょう。
しかし、ヴィトゲンシュタインには彼岸についてももっと語ってほしかったものです。
思考を深めていくと、必ずそこに彼岸が現れだしてきます。
言語学者としては、「言語」で語れないことを語れないといったのかもしれませんが、人が語るのは決して「言語」だけではありません。
言語には、それこそ「言語」にならないものがたくさん合体されているのです。
そして、沈黙こそが最高の雄弁であることがあるように、沈黙しても語れることはたくさんあります。

最初はまったく違うことを書こうと思っていたのですが、なにやらヴィトゲンシュタイン的になってしまいました。
最初は、語りえぬものの向こうに見えるものがあるというような話を書くつもりでしたが、書いているうちに矛先が変わってしまいました。
だからこそ、語りえぬものを語り続けることが大切なのです。
新しい世界との出会いがあるかもしれないからです。

■2147:今朝、チビ太が死んだ(2013年8月7日)
今朝、チビ太が死にました。
異邦人ムルソーのママンが死んだ日と同じく、暑い日になりました。
午前中、息をしなくなったチビ太の横で過ごしました。
もう2年前にお医者さんからは宣告されていましたので、2年間、がんばったねという思いはありますが、悲しみはありません。
しかし、悲しみはないのですが、言葉にはならない疲労感が全身を覆ってしまったような感じです。
見る限り、昨日と全く同じように、チビ太は横たわっています。
違いは、声をかけても反応しないことです。

チビ太が寝たきりになってから、もう1年ほどは経つでしょう。
この半年は、身動きもほとんどできなくなっていました。
いつもただただ寝ているだけで、排泄や飲食を定期的にさせてやるだけでした。
だから見た感じは、いまもそう変わりません。

1週間ほど前から、調子が悪くなり、食事もなかなかできなくなりました。
幸いなことに痛みなどを訴えることはありませんでしたが、衰弱してきているのがよくわかりました。
まもなく18歳の誕生日だったのですが、そこまでいけるかどうかが、家族みんなの思いでした。
残念ながら行けませんでした。

昨夜、帰宅した時には、息の音が強くなっていましたが、まあもう少し大丈夫だろうと思いました。
今朝、下にいった娘が、様子がおかしいと声をかけてきました。
それで私も急いで降りていきました。
それから少しして、チビ太は息を引き取りました。
私がちょっと2階に上がった合間でした。

娘は、チビ太は、みんなに会うまで頑張ったのだといいました。
そういえば、これまで見送った両親も節子も、みんなそうでした。
最後の時間は、自分で決められるのかもしれません。

ますます夏は嫌いな季節になるなあ、と娘が言いました。
チビ太がいなくなって、明日からどうなるでしょうか。
ムルソーではないですが、夏はそれでなくとも、人をおかしくします。

■2148:チビ太も頑張ってくれました(2013年8月7日)
節子
チビ太が息を引き取った時に、すぐに頭に浮かんだ言葉が、「チビ太が死んだ」です。
そして、カミユの小説「異邦人」を思い出したのです。
それが前の挽歌の書き出しなのですが、知らない人にはなにがなんだかわかりませんね。
まあ、この挽歌には、そういうところが少なくありませんが。
ちなみに、カミユの小説である「異邦人」と「ペスト」は、私にとってはさまざまなことを考えるきっかけを与えてくれた本です。
節子と出合ったころは、おそらくその影響を強く受けていたはずです。
私の信条は、その時も今も、自らに誠実であることです。
「異邦人」の主人公ムルソーと「ペスト」の主人公リウーは、全く別の意味ですが、誠実な生き方をしています。

チビ太の死で、なぜこんなことを思い出したのでしょうか。
その脈絡は、私にもまだわかりませんが、きっとどこかでつながっているのでしょう。

チビ太は近くの動物霊園で火葬してもらいました。
娘たちも一緒でした。
小さな犬でしたが、遺骨はしっかりと残っていました。
骨壷が、節子の時とほぼ同じ大きさなのには驚きました。
いや、そんなはずはないですね。
たぶん私の思い違いでしょう。

骨壷を節子の位牌壇に置きました。
しかし、チビ太が骨壷の中にいる気はまったくしません。
むしろ部屋のどこかにいるような気がします。
節子が遺骨になって帰ってきた時も、こんな感じだったのでしょうか。
魂は、やはり肉体の死とともに肉体から解放され、新しい生を生きているに違いありません。
やはりそういう気がしてなりません。

それにしても、チビ太も暑さにもめけずに頑張ってくれました。
私たちを癒してくれた18年間に感謝します。
しかし、こうやって次々と愛するものたちは去っていってしまうのでしょう。
その意味が、最近わかってきたような気がします。

今日はすべての用事をキャンセルしたのですが、お風呂にも入りたくないほど疲れました。
愛するものとの別れは、心身を異常に消耗させるのです。
チビ太はまだ節子のところには行っていないでしょうが、節子にはおそらくもう見えているでしょう。
明日から毎朝、チビ太にも祈りをささげましょう。

■2149:チビ太がいない(2013年8月8日)
節子
今日も、朝、チビ太が気になっては役目が覚めました。
そして、ああ、そうだ、今日はチビ太はいないのだと気づきました。
いつもチビ太が寝ているリビングにいったら、やはりそこにはチビ太はいませんでした。
当然にことなのですが、やはり実際に体験しないと実感できないのです。
チビ太のいない、いつもとはちがったリビングに行って、急に胸が締め付けられるような悲しみを覚えました。
昨日はあまり感じなかったのですが。
こうして、だんだんと別れの実感が高まってくるのでしょう。

人の意識と表情は必ずしも一致していません。
昨日、火葬場から戻った時に、娘から言われました。
お父さんも「目を真っ赤にしていたね」と。
私の意識では、そんなことはまったくなく、あまり感情を感じていなかったのですが、身体には素直に出るものかもしれません。
それが心に入りこんでくるまでには、時間がかかるのです。

チビ太がいないので、食事や排泄などの世話が不要になりました。
結構それが大変でしたが、同時にそれはまた、自らが癒される時間でもあったわけです。
その時間がなくなってしまいました。
楽になったのは事実ですが、代わりに失うものもあるようです。

この挽歌を読んだ方が、早速、メールをくださっていました。

チビ太くんは佐藤さんと一緒に暮らせてきっと幸せだったでしょう。
天寿を全うしたのだと思います。

この方も、15年ほど前に、子どものように育てていたラブラドールを亡くされたそうです。

一緒に暮らしていた「いのち」の死は、時間をかけて、心に入り込んできます。
今年は、また例年よりも辛い夏になりそうです。

■2150:自体満足(2013年8月9日)
節子
異常に暑い夏です。
まるで地獄の火が地球にまで飛び出てきているようです。
そうであってもおかしくないほど、いまの地球は乱れているのかもしれません。

親鸞に関する本を少し読み出しました。
学生の頃読んだきりで、以来、親鸞にはほとんど興味がありませんでした。
節子の実家のお寺さんのご住職が、法事の時に、親鸞に関する本が入手できていないという話をしたので、ちょうど持っていた親鸞の本を贈呈して以来、親鸞の本は1冊もなくなりました。
もう50年近く前の話です。
なぜかそのことが強く記憶に残っています。

「自体満足」という言葉があるそうです。
親鸞は「その身に満足せしむるなり」と説明しています。
「その身に」ということは自分自身として、ああ、よかった、これでいいんだ、と思うことです。
たとえどんな人生でも、良い人生だったと思うことです。

とまあ、こんな説明ではいかにも粗雑ですが、要は、他者と人と比較するのではなく、自らは自らだと思うことです。いや、ますます粗雑な説明ですね。

一昨日、わが家の愛犬チビ太が息を引き取りました。
この1年ほどは、もしかしたら延命行為を私たちはしていたかもしれません。
自らでは食事もできず排泄もできないのですから、もし野生に生きていたら、生きてはいけなかったでしょう。
ですから、寝たきりチビ太をみていて、彼は幸せなのだろうかと考えたことは何回かあります。
しかし、その一方で、犬には「死」という概念もなく、死への不安もないのだろうとも思っていました。
ただ、いま置かれている状況に素直に従っている、と考えると、それこそ親鸞のいう「自体満足」なのかなと思ったりしていました。

チビ太がいなくなって、その「自体満足」の意味をもっと知りたくなりました。
ネットで少し調べてみましたが,私が知っている以上のことは見つかりませんでした。
それで、少し親鸞の本を読んでみようと思ったわけです。

「自体満足」は、最近の私の心境です。
心の平安も、未来への希望も、もはや望みうべきもありません。
ましてや、満足など得られるはずもない。
だからこそ、「自体満足」なのです。
これが、もしかしたら親鸞の生き方なのかもしれません。
中途半端に親鸞の入門書を読んで、そんな気がしてきています。
かなり勝手な解釈だろうなとは、自覚していますが。

■2151:幸せは不幸と隣りあわせ(2013年8月11日)
節子
異常な暑さで、我孫子もついに39度を超えました。
わが家は1階にしかエアコンがないので、2階の書斎や寝室はもう壁まで熱くなっています。
燃え出してもおかしくありません。

チビ太のかかりつけの病院から供花が届きました。
ひまわりとキキョウとゆりを中心にした立派な供花です。
節子の供花がいささか見劣りするなと思っていたら、隣の宮川さんが、節子に立派な花束を届けてくれました。
これで、ようやくバランスが取れました。
宮川さんの供花も、いつもオレンジ系のあたたかみのある花束です。
まるでわが家の好みを知っていてくれるようです。

宮川さんは、毎年、花を届けてくれますが、いつも奥様にはとてもお世話になって、と言います。
子どもさんを預かったりしたことくらいしか心当たりがないのですが、それがよほど心に残ったのでしょうか。
それにしても、7年も経つのに、毎年、忘れずに花を届けてくれる人がいるとは、節子は本当に幸せものだと思います。

こういうのは、もしかしたらその人の持っているものなのかもしれません。
先週、福岡の杉尾さんという方に電話しました。
西日本新聞の論説主幹をされていた方ですが、もう30年近いお付き合いです。
節子は会ったことがありません。
8月に友人が福岡に行くので、紹介させてもらったのですが、私は妻の法事で同行できないと話すと、杉尾さんは、もう7回忌くらいかと言うのです。
まさに7回忌。
まあなんでもない話ですが、杉尾さんがすぐに7回忌と言ったのに驚きました。
まさか杉尾さんがそんなことを言うとは思ってもいませんでした。
もう大丈夫かと重ねて言われました。
杉尾さんも覚えてくれたのかとうれしくなりました。
そんな些細なことで、うれしくなれるものなのですが、それはとても幸せなことでもあります。
幸せは不幸と隣りあわせなのです。

お盆が近づいて、また少しずつ仏壇まわりも華やかになってきました。
地獄の蓋が開きだしたので、こんなに暑いのでしょうか。

■2152:チビ太の鳴き声を聞きました(2013年8月11日)
節子
チビ太がいなくなった翌日起こった話です。
チビ太は、最後はずっとリビングに置いたベッドで寝ていました。
いまは、その場所はガランとしています。
午前9時過ぎでしょうか、私はそのそばの椅子に座って本を読んでいました。
これはチビ太がいる時からの日課です。」
寝たきりになった上に、チビ太は自分では食事も排泄もできないので、様子を見ながら、ケアしないといけないのです。
それに寂しいのか、時々、吠え出します。
そのときは身体を少しなでてやるとおさまります。
それで食事を与えた後、30分ほど、彼の隣で本を読んでいたわけです。

チビ太はいなくなりましたが、何となくその延長で、いつものように椅子に座って本を読んでいました。
その時、突然に、チビ太の声が聞こえたのです。
いつもとは違った、何か特別のことを訴えたい時の「キャン」という声です。
思わず、「どうしたチャッピー(これがチビ太の正しい名前です)」と声を出してしまいました。
そして、いつもチビ太がいたところを見ましたが、もちろんそこにチビ太がいるわけもありません。
チビ太はもういないのです。
しかし、はっきりと「キャン」聞こえたのです。

意識が、あるはずもないものを実体化することはよくあります。
ないのに、なんとなくあるような気がすることも時々あります。
実体化まではいきませんが、気配はよくあります。

魂があるのは人間だけだと何かで読んだ気がしますが、そんなことはありません。
それは経験的に知っています。
さらに言えば、生命以外に物にも魂はあるようにさえ思います。
なぜなら、すべては私の意識から生まれているものだと思うからです。

その時以来、もうチビ太の声を聞いたことはありません。
チビ太は順調に彼岸への旅を進んでいるようです。

■2153:「いまここ」を大切に生きる(2013年8月12日)
節子
節子の実家は浄土真宗ですが、浄土真宗とはもともとは「浄土を真の宗(よりどころ)として生きる」人たちという意味なのだそうです。
私はこのことをつい最近知りました。
浄土を拠りどころにして生きるとは、とても共感できる生き方です。

浄土とは何かに関しても、さまざまな考えがありますが、私は「いまここ」が浄土だと考えています。
なぜなら、私の心身に居る「仏」を信じているからです。
仏がいる「いまここ」を浄土と思わないことは、私の中に居る仏性をおろそかにすることです。
こういう解釈は、節子だったら長年の会話を踏まえて理解してくれるでしょうが、あまり一般的な捉え方ではないでしょう。
しかし、「いまここ」を素直に生きることが、浄土真宗だとしたら、それもまた素直に受け容れられます。

節子がいなくなってから、私はますます思いつくままに生きられるようになってきました。
いや、思いつくままにしか、生きられなくなったというのが適切かもしれません。
そして、素直になると、とても生きやすくなることも学びました。

「いまここ」を大切に生きる。
これは死を意識してからの、節子の生き方でした。
まさに、浄土真宗徒。
私は、最近ようやくその意味を体得できたような気がします。
「いまここ」を大切に生きるとは、何かのために生きるのではなく、まさに「いまここ」を素直に生きることなのです。

明日は「迎え火」です。
ユカが準備をしてくれました。
明日から4日間、節子の位牌は仏壇の大日如来から解放されます。
今年は、チビ太も一緒です。

■2154:6回目の迎え火(2013年8月13日)
節子
今日は、お墓で6回目の迎え火を焚きました。
暑いので、般若心経は中抜きで我慢してもらいました。
娘夫婦も含めて、お墓にお参りし、節子と一緒に帰宅しました。

お盆の時は、仏壇は閉めて、その前に精霊棚をつくります。
今年は、そこに節子の位牌とチビ太の遺骨を置きました。
チビ太はまだ旅立ちの途中ですので、位牌はできていません。
その前で、みんなで食事をしました。
うっかりして、節子に供えるのを忘れました。
薄情な家族です。

峰行が、まだチビ太の匂いが残っていますね、といいました。
2年以上も寝たきりでしたので、匂いが部屋に染み付いているのかもしれません。
しかし、匂いではなく気配かもしれません。
そこに「いるもの」がいないと、やはり不思議な気がするもので、なにかを感知するのです。

暑さもあって、今日はなぜかひどく疲れました。
昨年までは、お盆で節子が戻ってきたという思いで元気になったのですが、6回目ともなると感ずることもなくなってしまいました。
それに、いつも節子はわが家に居るような気がしているのに、お盆だからといって、迎え火をして、もうひとりの節子を呼び込んでしまうのも、考えてみると、理屈に合いません。
いまわが家にいる節子は、いったい誰なのでしょうか。
さて、この問題はどう解決すればいいか。
疲れた頭で考えるには、いささか難解すぎる問題です。

■2155:チビ太に鳩居堂!(2013年8月14日)
愛犬家の佐々木さんからていねいなお手紙が届きました。
書き出しは、「チビ太君の他界を心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます」とありました。
和紙に筆できちんと書いたお手紙でした。
佐々木さんは、いつも手書きの手紙なのです。
そして、鳩居堂のお線香が添えられていました。

佐々木さんは昨年、愛犬を見送っています。
その悲しみは大きく、四十九日までていねいに法要を重ねられました。
だから私のことも心配してくれているのです。
ありがたいことです。

チビ太にとっては、今年は新盆なのです。
節子への祈りで、どうもチビ太への祈りは、二の次になりそうですが、明日の朝は鳩居堂のお線香をきちんとあげて、般若心経もきちんとあげましょう。

朝起きて、チビ太がいないことに慣れてきました。
しかし、声だけは今もかけています。
人の行動は、そうすぐには変わらないものです。

佐々木さんは、チビ太はもう節子に甘えているでしょう、と書いてくれました。
節子のところに、チビ太はもう行きましたか。
咬まれないように注意してください。

■2156:バラが枯れた(2013年8月15日)
節子
毎朝、庭の花への水やりがようやく日課として定着してきました。
これをおろそかにしていたので、節子が大事にしていた花をかなり枯らせてしまったわけです。
しかし、この水やりは結構大変なのです。
それが最近わかってきました。
ただ水を撒けばいいというわけではないのです。
節子はよくまあ、枯らさずにいたものです。

今年は特に暑さもあって、かなりの花をだめにしました。
最近、水をやっていて、転居前の家から持ってきたバラが枯れているのに気づきました。
その後、いくら水をやっても芽が戻ってきません。
だめにしたバラは何本もありますが、これはちょっと残念なことをしました。
節子と一番長く一緒に暮らしたのは、転居前の家でした。
良いことも悪いことも含めて、その家での記憶は山のようにあります。
そこから持ってきたバラが枯れてしまったのです。

昔、「バラが咲いた」という歌がありました。
後半の歌詞はこうでした。

バラが散った バラが散った いつの間にか
ぼくの庭は前のように 淋しくなった
ぼくの庭のバラは散ってしまったけれど
淋しかった僕の心に バラが咲いた
バラよバラよ 心のバラ
いつまでも ここで咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた 僕の心に
いつまでも散らない まっかなバラが

残念ながら、この歌のようにはなりませんでした。
バラは散ったのではなく、枯れてしまった。
しかもバラはただただ枯れただけで、私の心には何も咲きはしなかったのです。。
人生は歌のようにはなりません。

バラを枯らしてから、気がついたのは、花や木の一つひとつの表情を見ていなかったからです。
ただ水を撒けばいいのではありません。
相手を見て、それに応じて水をやる。
そういえば、節子はそんなことを私にも話していました。
もちろん「花への水やリ」の話ではありません。
人との付き合い方の話です。
私は、すべての人が同じように見えてしまうのですが、それが節子には心配だったようです。

■2157:介護を家族に期待するか(2013年8月15日)
節子
大学でも福祉を教えながら福祉関係のNPO活動もされている小畑さんが先日、久しぶりに湯島に来ました。
昨年、地域での看取りをテーマにした本も出版されました。
その本には私と節子のことも登場します。
小畑さんは、看取りに関してもっと関心を持ってほしいと「みとり塾」などの活動もされています。

最近の活動を話してくれた後、突然に質問されました。
「佐藤さんも介護が必要になったら娘さんに期待する考えの人ですか」と。
私にとっては、実はこの質問はあまり意味がないのですが、「そうあるべきだとは思っていないが、娘が面倒を見てくれると思っている」と答えました。
家族が面倒を見るべきだという発想は、私にはないのですが、逆に「見るだろう」と確信しているのです。
誤解されそうですが、言い換えれば、見るのが普通であるような生き方をするということでもあるのです。
それは同時に、私の介護で娘の人生がおかしくなるようなことは避けるという意味でもあります。
これはわかってもらうのが一苦労ですが、若い頃からの私の家族観です。

ところがです。
帰宅して、娘にその話をしたら、私は介護はしないよと言われてしまいました。
いやはや、娘の育て方が悪かった。
困ったものです。
でもまあ、いざとなったら、娘は介護し、私は介護させないようにするでしょう。
それに、節子がいない今となっては、誰かに介護してもらう生き方は避けなければいけません。
妻に介護してもらうのは幸せですが、娘に介護してもらうのは、たぶん幸せではないでしょう。
介護されずに、人生を終わるために、生き方を少し考えなければいけません。
これはけっこう難問かもしれません。
しかし解くのが面白い問題でもあるような気がします。

■2158:6回目の送り火(2013年8月15日)
節子
今日は送り火です。
今年のお盆はなにやら落ち着かないお盆で、お盆らしきことはあまりしませんでした。
まあ普段きちんとやっているので、あるいは普段もいい加減なので、節子は気にもしないでしょう。

迎え火は、なんとなく喜びがあります。
しかし、送り火は寂しさがあります。
にもかかわらず、みんな送り火をします。
せっかく自宅に迎えながら、帰してしまう。
なぜでしょうか。

フェイスブックに、「送り火をしないとどうなるか」と質問を投げかけたら、いろんなコメントがきました。
それらを読みながら、改めて、お盆というのは、問題を日常から外してしまう仕組みであると同時に、日常生活の矛盾や問題を調整する仕組みでもあると気づきました。
まさに「生活の知恵」です。
迎えたり送ったりするのは、先祖の霊でしょうか。
そこにも深い意味がありそうです。
しかし、そんな風に考えるのは、小賢しさの現われかもしれません。
節子なら、お盆にはちゃんと迎え火をたき、送り火をたけばいいというでしょう。
節子には、小賢しさがありませんでしたから、私でさえ、時に反省させられました。

節子がいた頃は、いつも一緒に迎え火をたき送り火をたき、お盆はしっかりとお供えもしました。
だからいまも、何となく、一緒に迎え火をたき送り火をたいている感じですから、話はややこしいのです。
お墓参りに行くときも、仏壇の位牌に向かって、一緒に行こうと呼びかけているのですから。

節子がいなくなってからは、両親の位牌を兄に託したこともあり、わが家に戻ってくるのは節子だけです。
節子はいつもわが家にいると私は思っていますので、お盆だからといって、特別の気がしないのです。
にもかかわらず、お墓に行き、精霊棚を整える。
人の行動は矛盾だらけです。

■2159:今年のお盆は休みにはなりませんでした(2013年8月16日)
節子
今年のお盆は、世上の雑事に翻弄されて、しっくりと節子と時間をシェアする事ができませんでした。
人を信頼することは簡単なことではありません。
改めてそれを痛感した1週間でした。
完全に信頼しあえる関係を節子と構築できたことは実に稀有なことだったのかもしれません。
しかし、そのおかげで、私は、人を信頼しすぎるようになってしまったのかもしれません。
それは悪いことではないのですが、いささか疲れます。

今日も午後からずっと「信頼したかった人」からのメールを待っていましたが、見事に裏切られました。
この1週間の努力はあまり報われませんでした。
こういう時には、だれかに愚痴をこぼしたいですが、節子以外には聞いてもらえそうもありません。
困ったものです。

お寺に送り火に行って、戻ってきたら、その人からのメールが届いていました。
そのメールが、もう1時間早かったら、状況はかなり変わっていたでしょう。
今となっては、その人を支援しようにも支援できなくなってしまいました。
とても嫌な気分が残ってしまいました。
こういうことが世の中には少なくないのでしょう。

ともかく最近は、いろんな人に振り回されます。
振り回されるのは、私に軸がないからです。
そのため、最近は自分嫌いの度合いが強まっています。
自分をもっとしっかり持たなければいけません。
しかし、自分をしっかりと持つためには、基準が不可欠です。
前にも書きましたが、一人では立脚点を安定させられないのです。
今年のお盆は、ともかく疲れるお盆でした。

■2160:暑さのなかの秋(2013年8月16日)
節子
暑い中にも秋を感ずるようになりました。
相変わらず気が戻ってきません。
やはりチビ太がいなくなったせいかもしれません。
いわゆるペットロス現象は起きていないのですが、意識の奥で何かを受けているのかもしれませ。
となりにいた「いのち」がいなくなることの意味はやはり大きいようです。
それに、なぜか節子を見送った時のことも、思い出されてしまいます。

暑さのせいで、供花もすぐ枯れてしまいます。
この時期は、やはり活花は難しいです。
華やかだった位牌檀もこじんまりとしてしまいました。
そんなことも、何か寂しさを募らせます。

もしかしたら、秋を感ずるのも、心境のせいかもしれません。
お盆が終わると、秋。なのかもしれません。

■2161:いないと何をしていいかわからない(2013年8月18日)
節子
横浜の野路さんから土屋農園の桃が届きました。
今日は日曜日だったのですが、私は湯島に行っていました。
朝の10時から午後6時半まで、ロングランの打ち合わせでした。
テーマはかなり深刻なもので、いささか疲れましたが、なんとか大方の合意ができました。
疲れきって帰宅したら、桃が届いていました。
私は川中島の桃が大好きなので、食べたかったのですが、果物は夜食べてはいけないという節子の言葉を思い出して我慢しました。

野路さんに電話しました。
といっても節子の友だちの野路さんではなく、旦那さんのほうです。
節子の友だちの野路さんは数年前に階段から転落し、それがきっかけになって、記憶喪失になってしまい、そして認知症になってしまったのです。
リハビリと認知症、そのケアは大変です。
電話の向こうの野路さんは、私以上に疲れているようでした。

今日は娘さんがしばらく預かってくれるというので、野路さんはお一人でした。
つまり、節子の友だちの野路さんは、留守だったということです。
そしてこう話されました。
妻と一緒だととても大変ですが、いないと何をやっていいかわかりません。
とてもよくわかります。
介護がどんなに辛くても、介護する相手がいなくなると楽になったと思う一方で、落ち着かないのです。
でも、と、野路さんは付け加えました。
いるだけで幸せだと思わないとだめですね。
その通り、いるだけでどれほど幸せなことか。

土屋農園は小布施にあるそうですが、とても誠実な農園だそうです。
野路さんが、そこで食べる完熟の桃は最高です。いつか佐藤さんと一緒に行きたいですねと言ってくれました。

実は、私は野路さんの奥様には何回も会っていますが、夫の野路さんには会ったことがないのです。
ただ、節子からは話はよく聞いていました。
これも節子がつくってくれた縁なのです。

■2162:「音のない記憶」写真展(2013年8月3日)
節子
今日から「音のない記憶」写真展がアートガレー神楽坂で開催です。
タイトルは「ろうあの写真家・井上孝治と評伝作家・黒岩比佐子の世界」です。
いろいろな友人が開催に関わっています。
節子がいたら、すぐにも行ったでしょうが、どうも足が向きません。

黒岩さんが亡くなってからまもなく3年です。
節子の供花にわが家まで来てくれた時には、まさかがんになるとは思ってもいませんでした。
黒岩さんから、がんが発見されたとメールが来た時には驚きました。
それからの黒岩さんの生き方は、壮絶としか言いようがありません。

黒岩さんは、湯島のオープンサロンの常連でした。
いつか手の届かない人になってほしいね、と節子は期待していました。
もちろん黒岩さんは、どんなに有名になっても、手が届かなくなることのない人でした。
その黒岩さんも、逝ってしまいました。

音のない記憶写真展のポスターには、井上さんの写真が使われています。
この写真は、本の表紙を飾った写真です。
最初にその写真を見た時、氷をなめている子どもが私のような気がしました。
私の子どもの頃には、こんな風景はよくありました。

「音のない記憶」が出版されたのは、これもサロンの常連の藤原雅夫さんの尽力のおかげです。
ですから黒岩さんは、湯島のサロンをとても大事にしてくれていました。
であれば、黒岩さんの追悼サロンくらい、やればよかったのですが、なぜかその気が起こりませんでした。

今回の写真展の主催団体の一つは、「語り継ぐ黒岩比佐子の会」です。
最初、私もこの会にたぶん関わる立場にいたように思います。
しかしなぜか違和感があって、活動には全く反応しませんでした。
語り継ぐほどの距離感がつくれないからです。
黒岩さんは、私たちには評伝作家でもなんでもなく、ただ口角泡を立ててしゃべりだしたらとまらない人でした。
「語り継ぐ黒岩比佐子の会」の話があった時に、なぜか無性に腹立たしかった記憶があります。
いまはそんな気は起こりません。
黒岩さんの最後の作品になった「パンとペン」は傑作です。

節子は彼岸で黒岩さんと会っているでしょうか。

■2163:世界はたくさんの挽歌から構成されている(2013年8月20日)
節子
エジプトの騒ぎが続いています。
軍部によるデモ隊排除で1000人近い人たちが殺害されています。
実に痛ましい話です。
カイロ在住の中野さんの奥さんが、「何とも言えない脱力感に苛まれております」とメールしてきましたが、お気持ちはよくわかります、

エジプトに限りませんが、毎日、世界各地でたくさんの死者を伴う事件の報道があります。
数の多さに驚いてしまいますが、その数だけ、私が体験した悲しさと寂しさがあるわけです。
そのことを考えると、死者の数がまったく違ったものに見えてきます。
しかも、たとえばエジプトの場合で言えば、その死を追悼するゆっくりした時間さえ持たないかもしれません。
死を悼むはずの人も、一緒に亡くなったかもしれません。
こうして毎日挽歌をかけることの幸せを感謝しなければいけません。
人の幸せは、いつも相対的なものですし、不幸と幸せはつながっているものです。

死者○○人という報道を見るたびに、その数だけの挽歌があることを思えるようになりました。
世界は、たくさんの挽歌から構成されているのかもしれません。
もしそうなら、死への挽歌とともに、死への怒りを集めなければいけないのかもしれません。

■2164:幸せな生き方(2013年8月21日)
節子
昨日、久しぶりに田中弥生さんが湯島に来ました。
1年半ぶりかもしれません。
田中さんは、最近は活動範囲を広げて、政府関係の委員になったり、日本NPO学会の会長になったり、主体的なNPOの評価活動をしたり、大活躍です。
それでまあ、私も最近はあまりコンタクトしていなかったのです。

最近の私の状況を知って、田中さんから「節子さんがいなくなってから、佐藤さんはタガが外れたのではないですか」と言われました。
私が、だれの相談にも乗りすぎて、コミットしすぎるというわけです。
まあ、たしかのその傾向は否定できません。
どこかで、人生を投げているところが自分でも感じます。

田中さんは、私が会社を辞めた後の人生に少なからず影響を与えてくれた人です。
私がNPOや保育の世界に関わりだしたのは、田中さんのおかげです。
彼女には感謝していますが、私は体制から離脱して生きる道を選び、田中さんは体制に正面からぶつかる道を選んでいますので、田中さんと活動を一緒にすることはありません。
しかし、田中さんは、私の取り組んでいるコムケア活動にはいつも協力してくれています。

最初、会った時には、田中さんは仕事とバレエを両立させようと頑張っていました。
節子と一緒に、田中さんのバレエを見に行ったこともあります。
残念ながら私には全く興味はなかったのですが。
その頃の田中さんは、いささか挑発的な小悪魔といった感じもありましたが、今はさまざまな分野で実績も上げている活動家の一人です。

多くの場合、社会での居場所が安定すると、退屈になってしまいます。
昨日、うれしかったのは、田中さんが退屈になっていなかったことです。
そして、迷い悩んでいることです。
いや、むしろどんどんラディカルになっています。
それもソフィストケートされてきているのです。

今朝、フェイスブックを開いたら、田中さんが、私に会ったことを書き込んでいました。
その最後に、次の一文がありました。

知り合って25年以上が経ちますが、幸せな生き方とはどのようなものなのか、無言で教えてくださっているように思えます。

幸せといえば幸せ、不幸といえば、不幸、なのですが、まあこういってくれる人があるということは、幸せなのでしょう。

■2165:やはりちょっとタガが外れているかもしれません(2013年8月21日)
節子
昨日、田中さんに指摘されたように、少し立ち止まって考えてみると、やはり「タガ」が外れてしまっているのかもしれません。
たしかに、いろんなことを安直に引き受けて、結果的には中途半端な対応になっているものも少なくありません。
しかもテーマも多様で、スタイルもさまざまです。
どう考えても一人でさばききれるはずがありません。
にもかかわらず、やりたくなってしまうのは、無責任としか言いようがありません。
実に困ったものです。

ただ、節子がいなくなってから、私には時間がすべて平坦になってしまいました。
メリハリもなく、ただただ目の前にある課題を処理し、特に趣味に埋没したり、節子と未来や過去や愛を語ったり、旅行に出かけたりする時間はまったくなくなったわけです。
対価をしっかりともらってやるような仕事は、節子がいなくなってからはしていませんので、どうしてもやらなければいけない仕事もないわけです。
だから、時間はありあまっているわけですが、絶対にやらなければいけないという緊張感がないので、だらだらと時間を使ってしまっているわけです。
そしてちょっと気を抜くと、予定通りにならないわけです。
でもそれでも、「まあいいか」と思ってしまうわけで、結果的に無責任になってしまうわけです。
実に困ったものですが、肝心の本人は、それもまた「まあいいか」と考えてしまうので、さらに困ったものなのです。
しかも、抱えている問題は、そう簡単ではなく、中には真夜中に目が覚めて眠れなくなるようなものもあります。
相談に答えるために、さすがの私も緊張してしまうような、繊細の問題も時にはあるのです。

そして、時々、脳疲労状態を起こし、何もしたくなることがあります。
実は今がその状態です。

若老師の鈴木さんからメールが届いていました。

たいへんなことが多そうなのに、
佐藤さんはどうもそれを楽しんでいるかのようです。
そうですよね〜?

そうでもあり、そうでもない。
今日は本当に疲れました。出だしはよかったのですが。
今は、このまま彼岸に旅立ちたいくらいです。

■2166:来週七回忌の予定です(2013年8月22日)
節子
今年は節子が逝ってからまる6年になり、七回忌の年に当たります。
七回忌は親族中心に、お寺で静かに行おうと思います。

久しぶりに、わが家への泊り客があるので、大掃除しなければいけません。
来客用の部屋は、いまや物置に近くなっていたからです。
そのうえ、最近は備品の故障が続いています。
普段つかっていないエアコンは大丈夫でしょうか。

娘のユカに準備や仕切りを頼みましたが、何しろこういうことは、以前はすべて節子がやってくれていましたから、私には苦手です。
その肝心の節子がいないので、娘には大迷惑をかけることになってしまっています。
三回忌もやったはずですが、その頃は、みんなまだみんな惰性で動いていたようなところがあり、あまり記憶がありません。
自分の法要くらいは、自分で戻ってきてやってほしいものです。
節子は、まあかなりいい加減とはいえ、記録を残す文化の人でしたから、何をどうしたかをメモしていたはずです。
残念ながらその文化は、いまのわが家にはあまり残っていません。

お寺だけはかなり前から連絡していましたが、法要後の会食の場を予約しておくのを忘れていて、先週、連絡したら、まさかの満席でした。
幸いに、別の場所が予約できてホッとしましたが、やはりきちんと前もって準備しなくてはいけません。

法要は早いほうがいいというので、みんなの都合を考えて、命日の1週間前にしたのですが、いま考えると命日の当日でもよかったと反省しています。
物事を深く考えずに決めてしまい、準備もおろそかにしてしまう習癖は、どうもまったく変わっていないようです。
しかし、それでもこれまで大きな問題も起きてこなかったですから、それでもいいだろうと思っていたら、娘から、まわりの人がみんな迷惑を受けているだけだといわれました。
そして、思いつきでいい加減に生きるのをやめてほしいと注文を付けられてしまいました。
この歳になると、親子の力関係も逆転していますから、反論できません。
素直に掃除を手伝ったりしていますが、お父さんに頼むと逆に問題を増やしてしまうよ、と怒られています。
まあたしかに、昨日もカーテンの上げ下げするチェーンを壊したり、いろいろありました。
お母さんはなんでもっとお父さんの生活力を高めておかなかったのだろうと、ユカは嘆いています。
すべての責任は、どうも節子にあるらしいですよ。

今日は少しダウン気味なので、休むことにしましたが、掃除要員で酷使されそうです。

■2167:「いま居ません」(2013年8月22日)
節子
今日は久しぶりに遠藤クリニックに行ってきました。
最近、高血圧の薬ももらうだけで、診察はしてもらわないようにしていました。
今日、久しぶりにうかがったのは、別に体調が悪かったからではありません。
しかし、行った以上は診察になるのは当然で、血圧を測られてしまいました。
今度は上が高すぎるようです。
まあ、上が高いのは少し運動すればすぐ下がりますから、といつもの調子でした。
心配はないでしょう。

その後、郵便局によりました。
いろんな会への会費の振込みです。
郵便局は実に平和な空間です。銀行とは全く違います。
節子がいなくなってから、郵便局や銀行に自分で行く機会が増えました。

まあ、そんな感じで、今日はちょっとそれなりに働きました。
ユカに言わせれば、働いたうちには入りませんが。
幸いに今日は少し涼しかったので助かりました。

節子がいなくなって、増えた仕事は他にもあります。
そのひとつが来客対応です。
一人で家にいると、いろんな人がやってきます。
そのかわし方が難しいのです。
粘られてとりたくもない新聞を取ったこともあります。
こうしてみると、主婦の仕事は結構大変なのです。

先日、チャイムがなって、ドアフォンに出たら、八百屋ですが、野菜はいりませんかと言う声でした。
出ると多分買うことになりますので、思わず「いま居ません」と答えてしまいました。
そうしたら、なんと相手は「ああそうですか」とすぐに引き下がりました。
よく考えてみると、これはおかしな会話です。
いま居ないとすると、そう言っている人はどうなるのか。
要するに、男性は家には居場所がないのです。
これからは、この返事が一番いいなと思いました。
「いま居ない」
もしかしたら、ほんとに私はもう居ないのかもしれませんね。

今日は、かなり休息がとれました。
掃除には少し狩り出されましたが。

■2168:思いを馳せることの大切さ(2013年8月23日)
節子
3日ほど湯島に来なかったので、テーブルの上の白メダカのことが気になっていたのですが、元気でホッとしました。
夏は、日よけのカーテンをおろしておかないと水槽の水が熱くなり、酸欠もしてしまう恐れがあります。
水草もなかなかうまく育ちません。
しかし、白メダカは元気でした。

ベランダや室内の植物も何とか元気です。
ランタナは大きな鉢に移したので、1週間は水をやらなくても大丈夫です。
しかし、植物もメダカも、ちょっと気を抜くと突然、ダウンしてしまいます。
いのとあるものは、決して気を許せません。
自分だけは大丈夫だと誰もが思いがちですが、もちろん自分も同じです。
でもそれがなかなか実感できないのです。
少なくとも私はそうです。

暑さのせいもあるでしょうが、今年は少し心配な話もいろいろと届きます。
しかし、みんなに共通して言えるのは、自分が大変なのに、他者を思いやる姿勢です。
それが、いのちの本質かもしれません。
自らのいのちは、他者とのつながりのなかでこそ実感できますから、それは当然と言えば、当然なのですが。
相手を慮ることこそ、自らを大切にすることなのかもしれません。

そして、だれかに気づかってもらうことが、元気のもとなのかもしれません。
私が、なんとか元気なのは、いろんな人から声をかけてもらっているからかもしれません。
正しく言えば、いろんな人と声を「掛け合っている」からかもしれません。
いのちのつながりを感じられることが元気を支えてくれているわけです。

テーブルの上のメダカが元気なのは、もしかしたら湯島に来なかったけれど、自宅で私が心配していたのをメダカが感じてくれていたから、頑張れたのかもしれません。
あまり論理的ではありませんが、そう思うことにしましょう。

会えなくても、無限ともいえる遠くにいるとしても、思いを馳せることの大切さを感じます。
ちょっと気になるのは、愛する人を喪って、自分の世界に閉じこもってしまう人がいることです。
そういう人の、世界の扉を開く力が、私にあるといいのですが。

■2169:その年代にふさわしい出来事(2013年8月23日)
節子
この頃、心身ともに疲労がちなのは、年齢のせいかもしれません。

私よりも少し若い大学教授に研究会でお話をしてくれないかと電話しました。
そうしたら、「最近ちょっと疲れてしまい休みたいので、少し先にしてくれないか」といわれました。
先日、お会いした時にも、その疲れが伝わってきていましたので、すぐに引き下がりました。
その方の疲れは、決して暑さのためではないのです。
あえていえば、時代のせいです。
大学教授にはめずらしく、社会の流れに棹差して誠実に社会問題に取り組んでいる方ですが、無力感に襲われているようです。
若い時には、そんなことはなかったのですが、この歳になると、私でさえ、そうした無力感はしばしば体験します。
勝手にやってよと投げ出したい時もよくあります。
思い入れが深いだけに、虚しさに襲われると、異常なほどに疲れを感ずるものです。
だから、この教授のお気持ちが痛いほどわかるような気がします。

もう一人は、私より一回り若い女性ジャーナリストからのメールです。

昨今、自分のことではありませんが、わが身に多少関係のあること、というのでしょうか、周辺に認知症、病気、破産、死亡などの、不幸や悲劇が次々と起こっています。
そのたびに、時間を取られ、振り回されるような状況に陥るのですが、60歳も超えると、その年代にふさわしい出来事に遭遇するのだと、気をとり直し、様々な出来事を興味深く観察しながら関わっている始末。
明日も、小田原でお葬式があります。

こちらもよくわかります。
「その年代にふさわしい出来事」。
それに素直に従って生きなければいけませんね。
少し無理をしているのかもしれません。

今日も疲れきった1日でした。

■2170:人恋しさと死との距離(2013年8月24日)
節子
今日は湯島でフォワードカフェをやりました。
テーマは、子どものいじめ問題でしたが、その報告は時評編にまわすとして、ここでの報告は菊井さんが参加したということです。
菊井さんは、湯島のサロンのファンで、いろいろと参加してくれましたが、昨年、大腸がんが発見され、大変でした。
まだ手術もできず、その前段階ですが、病院から昨年、メールを貰いました。
菊井さんには大変申し訳ないのですが、節子を見送った後、病院への見舞いができなくなりました。
とりわけ「がん」となると生理的に拒否反応が出るのです。

菊井さんは、節子も知っていると思いますが、私よりも年上で、シニア支援にかなり関わってきた人です。
まさかこの暑さのなか、菊井さんがやってくるとは思ってもいませんでしたので、とてもうれしかったです。
かなり動きはゆっくりになりましたが、あの菊井さんでした。
菊井さんがポツンと話しました。
人が恋しくなって、出てきました、と。

私たちの年齢になると、たぶん死へのこだわりはあまりないでしょうが、人に会いたくなるかどうかは私にはわかりません。
というのも、節子は限定された数少ない人を除けば、あまり人と会いたがりませんでした。
痩せてしまった姿を見せたくなかったのでしょうか。
それもあるでしょうが、それだけではないような気がしています。

もう一人、会社時代の私の先輩が、やはり体調を崩した時に、私がお見舞いに行こうと思ったら、もう少し待ってほしいといわれました。
なかなか許可が出ないので、ともかく行こうと思って、連絡をしようと思ってた、まさにその時に訃報が届きました。
もう一度、会いたかった人です。
そういえば、最近なくなった野原さんも、私には連絡してきませんでした。

なにやら菊井さんには、失礼な書き方になっているかもしれませんが、人に会いたいと思うのは、死と縁遠いところにいることを、心身が知っているからかもしれません。

私の場合は、どうでしょうか。
最近、あまり人に会いたいと思うことがありません。
会っても、思っていたほどには感激しないのです。
これは、節子を見送った後から、ずっとです。
もしかしたら、死が近くにあることを、心身が知っているのかもしれません。

さてさて、どうなりますか。
今日もまた、疲れました。
昨夜も深夜に目が覚めて、本を読んでしまっていたので、寝不足なのです。

■2171:かっぱまつりは賑わってきましたが(2013年8月25日)
節子
昨日は我孫子のかっぱまつりでした。
湯島から帰ってきたら、駅前の大通りが交通規制されていて、道の真ん中に屋台が並んでいました。
年々、賑やかになっていきます。
今年から、いわゆる「ゆるキャラ」も登場しています。

節子がいなくなってから、地域イベントに参加することもなくなってきましたが、正直に言えば、そうした賑わいも、どこか遠い世界のようにも感じられます。
生活の伴侶を亡くすということは、生活を支えている地域とのつながりさえも変えてしまうものです。
あの日以来、私を取り巻く時間も空間も、なにかリアリティのない、無機質なものに変わってしまったような気がします。

娘たちが大きくなってからは、地元のお祭りにも、節子と一緒に行った記憶がありません。
なぜもっと節子と地元での生活をきちんとしなかったでしょうか。
いや、もしかしたら、そうした記憶がすべて消えてしまったのかもしれません。
そんな気もします。
お祭りには楽しい記憶よりも、悲しい記憶が多く、それが記憶を封じているのかもしれません。
なぜかお祭のことを思い出そうとすると涙が出てくるのです。

屋台で賑わう道を歩いていたら、近くの寺田太郎さんに会いました。
そういえば、寺田さんに会うのは久しぶりです。
元気ですか、と寺田さんは声をかけてきました。
私が元気なく歩いていたのかもしれません。
昨日は元気がなかったのです。
そして我孫子駅に着いた途端に、なぜかとても感傷的になってしまっていたのです。

今日もお祭りですが、朝、起きたら雨でした。
今日もまた、あまり元気が出ません。
湯島での集まりがあるのですが、今日はうまく乗り切れるでしょうか。

■2172:懺悔(2013年8月26日)
節子
今週は節子の七回忌の週なのですが、そのせいかどうか、節子に救いを求めたいくらいの心理状況になっています。
この数日、娘たちといろいろと話していますが、どうも私は夫として、父親として、欠陥だらけです。
それがいよいよはっきりしてきました。
節子とは、かなり良いカップルだったとしても、社会的な意味では、そこから出られなかったのかもしれません。
よく言えば、節子を愛しすぎたともいえますし、悪く言えば、自己中心主義だったともいえます。
この歳になって、しかも節子がいなくなってから、それに気づかされるのは、かなり辛いことです。
ひとりで、その気づきに対処しなければいけないからです。

節子の七回忌を前に、こんな状況になるとは思ってもいませんでしたが、そういう生き方を節子が気づかせてくれたのかもしれません。
なんとなく感じてはいたのですが、昨日、娘と話し合って、見事なほどに問題が明確になりました。
もっとも節子もまた、私とほぼ同罪です。
私たちはあまりに一体化しすぎていたようです。
ここは反省し、悔い改めるしかできません。

節子の七回忌法要を、私の生き方を見直す機会にできればと思います。
気持ちを静めるために、節子にも一緒に考えてほしいと思います。
どうやら私たちは、大人になれていなかったのかもしれません。

■2173:節子の雰囲気を久しぶりに感じました(2013年8月26日)
節子
明日の七回忌法要のため、敦賀の姉夫婦が来てくれました。
3年ぶりです。
ジュンにも来てもらい、節子の話もしながら、みんなで食事をしました。

わが家のお米は、いつも敦賀から送ってもらっています。
そのお米を炊いての、普通の食事でしたが、いつも食べているのよりも美味しいといってくれました。
久しぶりに節子のいるわが家で食べたおかげでしょう。
ここに節子がいれば、どんなにか良かったことか。
やはり節子と私とで、逝くべき順序が逆だったと改めて思います。
それに、節子は姉よりも先に逝ってしまいました。
それも逆です。
節子は、実に素直でないのです。

なんだか今日は、節子がいた頃のわが家の雰囲気になっていました。
節子は、親としては、私と同じく、失格でしたが、家族の一員としては、私には最高でした。
節子がいるだけで、あったかくなる。
節子がいるだけで、安心できる。
私にとっては、そんな存在でした。
そして、いなくなってもなお、どこかの雰囲気を感じさせてくれる存在です。

今朝は、とても落ち込んでいたのですが、心がかなり和んでいます。
明日の七回忌は、気持ちよく迎えられそうです。
ほとんどすべてを娘たちに頼んでいるのですが。

■2174:雨と風(2013年8月27日)
節子
節子が逝ってから、まもなくまる6年です。
その1週間前に七回忌を行うことにしました。
法要は、お世話になっている宝蔵寺にお願いしています。
昨日は、節子の姉夫婦が福井の敦賀から来てくれました。
姉夫婦はとても暑がりで、わが家とは違って、夏は冷房がないとだめなのです。
今回も普段使っていない、エアコンの試運転までしていましたが、昨日はとても涼しい日になりました。
冷房は不要でした。

昨夜、夜中に目が覚めたら、雨が降っていました。
私の記憶違いかもしれませんが、昨夜見た天気予報では、雨が降るとは書いていませんでしたので、最初は夢かと思いました。
しかし気になって、起きて窓際に行って見たら、やはり雨でした。
七回忌を前に少し感傷的になっているせいか、節子がわが家から出棺する時の雨を思い出しました。
とても不思議な雨でした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_8e0a.html
もしかしたら、また節子の雨かと、思ってしまいました。
笑われそうな話ですが、愛する人を失った人は、まあそんなふうに考えてしまうのです。
すべては意味があると。

朝、起きたら雨はあがっていました。
位牌壇に般若心経をあげていたら、少し太陽が出てきました。
そしてとてもさわやかな朝になりました。
なんだか、節子の心境を伝えてきてくれているようで、また少し心がさわぎました。

わが家は、風の道に当たっていて、いつもは風を感じやすいのに、今日は風もなく静かです。
節子は風になってはいないので、これもとても嬉しいです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/09/post_9816.html
今日の七回忌は、心静かに迎えられそうです。

■2175:七回忌(2013年8月27日)
節子の七回忌でした。
お寺の本堂でご住職にお経をあげてもらいました。
節子もよく知っている若いご住職です。
それが終わって、お墓でも卒塔婆を建ててお経をあげてもらいました。
姉夫婦は浄土真宗ですので、真言宗とはかなり流儀が違います。
浄土真宗には卒塔婆はありません。

お寺も、最近はいろいろと変化してきていますが、わが家がお世話になっている宝蔵寺は、とても誠実なお寺です。
ここにお世話になったことを感謝しています。
このお寺に、私の両親のお墓をお願いする時には、節子が話をしてくれました。
娘のジュンとお寺の娘さんとが同級生だった縁で、地域のお墓なのに受け容れてもらったのです。
まさか、そのお墓に自分が入るとは、当時は私も節子も考えていなかったのですが、なぜか節子は自分からそこに入ると言い出したのです。
そのため私もここにいつか移住です。
普通のお墓には入りたくなかったのですが、節子が決めた以上は仕方ありません。

供養のあと、みんなで食事をし、自宅にきてもらって、節子の前で談笑しました。
滅多に会う機会のないメンバーです。
節子のおかげで、楽しい談笑の時間が持てました。
今回は、引継ぎを兼ねて、娘にほぼ全てを頼みましたが、それでも異様なほどの疲労感があります。
なぜでしょうか。

私の担当に関しては、かなりの失敗がありました。
お寺の本堂での供養が終わった後、お墓でのお参りをするのですが、うっかり「お墓お参りセット」を持参するのを忘れてしまいました。
慌てて、お寺さんに頼んで、お線香をもらいました。
自宅での談笑が終わり、それぞれがお帰りになる時に、お土産を渡すのも忘れてしまいました。
これは、私がよくやることです。
娘に頼んでお土産を買ってもらったのに、渡すのを忘れてしまったことは、これまでも何回もあります。
どうも私には「お土産をあげる」という文化が欠落しているのです。
「物をもらう文化」はけっこうあるのですが、「物を差し上げる文化」が弱いのです。
実に困ったものです。

次回の法事は13回忌。6年先です。
その前に、私の葬儀があるかもしれません。
さらに6年は、けっこう遠い先ですから。

それにしても、今日は、彼岸にエネルギーを取られたのではないか思うほど、疲れました。
眠くて仕方がありません。

■2176:焼香の回数(2013年8月28日)
節子
最近、娘たちから、お父さんはあまりにも常識がないのではないかと言われています。
娘から言われなくても、そんなことはよく知っています。
しかし大切なことは、「常識がないこと」ではなく「常識がないことを知っていること」です。
私は自分が常識がないことを知っていますので、問題はないのです。
それに、知らないことがあれば、質問すればいいだけです。
知らないことを知ることが大切なのです。
というような小理屈に、節子は40年も付き合ってきたわけです。
長年、そういわれていると、そんな気になるもので、節子もそう思うようになっていました。
知らないことは質問すればいい。

法要では、ご住職がいつも始まる前に話をしてくれます。
途中、挙手して質問したくなることがいつもあるのですが、さすがに法要の法話ともなるとやや控え目になってしまいます。
我慢することが多いのですが、今回もまた質問してしまいました。
お焼香は何回したらいいでしょうか。
節子がいたら笑い出すような質問です。
答えはわかっています。
何回でも心の思うままに、が私的には正解であることを節子は知っているからです。
私の質問は、答えを求めているのではないことを、節子は知っていました。
答えを求めない質問をなぜするのか。

私の意図は、参列者のみなさんに、ちょっと考えるきっかけを持ってもらいたかったのです。
ただ焼香するだけでなく、その意味をちょっと考える。
こうしたことが最近は少なくなっているのです。
答えは、それぞれが考えればいいのです。
みんな考えるのではなく、だれかが考えて得た知識を知っているだけなのです。
そうした生き方が、社会をおかしくしてきたように思います。

ご住職の回答は、とてもわかりやすかったです。
要は何回でもいいというのです。
心を込めた1回でも、仏法僧に対する3回でも、時間があれば、何回でも、と説明してくれました。
回数だけではなく、焼香の意味も話してくれました。

ちなみに、私も少し考えることがありました。
毎朝、お線香をあげるのですが、そのあげ方を変えることにしました。
私もまだ少し前に向かって進んでいるようです。

■2177:一瞬の蜘蛛(2013年8月28日)
節子
いま、パソコンでこの前の挽歌の文章を書いていたのですが、それをアップしようとして、キーボードをクリックした時、突然画面に1センチほどの蜘蛛が現れました。
あれっと思ってよく見ようとしたら、それが一瞬にして消えてしまいました。
パソコンの画面の周辺は、ちょっとちらかっているのですが、少し探しましたが、見つかりません。
しかし、間違いなく、蜘蛛でした。
どうして私の部屋に蜘蛛がいたのでしょうか。
最近見たことがありません。

蜘蛛は、古今東西にわたり、さまざまな意味を与えられる象徴的な生き物です。
文学作品でも、よく使われます。
悪い意味もあれば良い意味もあります。
ともかく蜘蛛は、ちょっと異質な存在で、どこかに異質な世界とのつながりを感じさせる生き物です。
私は昔から、蜘蛛は彼岸と此岸とを往来しているような気がしていました。
子どもの頃は、大きな蜘蛛の巣に出会うと、その向こうに、異次元の彼岸が開けているように感じてました。

キリスト教でも、蜘蛛は天と地をつなぐものとして、キリストの昇天につなげて考えているようです。
その一方で、悪をなすものは蜘蛛の巣を折るという言葉もありますが。

その蜘蛛が現れ、一瞬にして消えたのです。
決して見違えではありません。
もっとも、蜘蛛はとても俊敏な生き物ですから、一瞬にしてかなりの距離を跳躍します。
だから、単に私の気配を感じて、飛び去ったのかもしれません。
しかし、それにしてはあまりに見事に瞬時に消えたのです。

T.S.エリオットは、蜘蛛がお墓に巣を張りめぐらすことから、人の心を慰める忘却を表わすと書いているそうです。
大きな蜘蛛が、生き物に巣を絡ませて、彼岸に誘う場面はホラー映画などにも出てきますが、視点をかえれば、此岸の苦難を、やわらかな蜘蛛の巣で包み込んで、穏やかな彼岸へと招き入れているのかもしれません。
愛する者を見送った人にとっては、黄泉の国もまた、平和な彼岸に通じていますし、死そのものが怖いなどという発想はありません。
私だけのことかもしれませんが。

あの蜘蛛は、どこから来て、どこへ行ったのか。
注意してパソコンの周りを見ながら、この挽歌をゆっくりと書いていたのですが、蜘蛛は二度と姿を表しません。

■2178:節子も一緒に食事でした(2013年8月28日)
節子
七回忌が終わった途端に、いろいろと事件が起こります。
まあしかし、それはそれとして、今日は姉夫婦と一緒に、ジュンの連れ合いの峰行がやっているイタリアンレストラン「エヴィーバ」でシュフお任せのご馳走をみんなで楽しませてもらうことにしました。
エヴィーバのイタリアンはとてもおいしく、またお店の雰囲気が快適なのです。
みんなそれぞれ好みのパスタを頼みました。
シェフ泣かせの注文の仕方ですが、お互いにそれを少しずつシェアしながら、楽しませてもらいました。
お肉もお魚も美味しかったですが、特に、新鮮な野菜のバーニャ・カウダが好評でした。
夜のメニューなのですが、特別に用意してくれたのです。

節子がいたら、どんなに喜ぶことでしょう。
エヴィーバで食事をするたびに、そう思います。
もしいたら、節子がどうしているかが、私にははっきりとイメージできます。
それくらい、節子にぴったりと合ったお店です。

義姉が、携帯電話で料理の写真を撮っていました。
節ちゃんにも食べてもらおうと写真を撮っていたのだそうです。
義姉の携帯電話の待ち受け画面は節子になっていることを知りました。
仲の良い姉妹でした。
妹が先に逝ってしまう悲しみを姉も背負い続けているのです。

私も、ポケットに小節子を連れて行きました。
節子も、イタリアンを楽しんでくれたでしょうか。

■2179:すぎのさんの梨(2013年8月28日)
節子
すぎのファームに義姉夫婦と行ってきました。
すぎのファームの梨は、節子が大好きでした。
節子が最後に食べた果物も、たぶん杉野さんの幸水でした。

節子が大好きだったので、お世話になった人たちにその梨を送っていました。
節子がいなくなってからは、私がそれを引き継いでいます。
敦賀の義姉夫婦にも送っているのですが、あの美味しい梨をお土産にしたいというので、すぎのファームに出かけました。

夕方だったのですが、杉野さん家族は全員で梨の選別や発送の作業をしていました。
節子が元気だった頃、私も時々一緒に来たのですが、そのご縁で、杉野さんとはいろいろな接点もできました。
昨年、立ち上げたアグリケア フェラインにも杉野さんは参加してくださっています。
これも節子のおかげです。

杉野さんのところの梨は、評判がいいので、道の駅などではすぐ売れてしまいます。
今日からお店に出しましたという情報をフェイスブックで読んで、今年も道の駅にとんで行ったのですが、もう売り切れていました。
最近は収穫も増えているので、道の駅でも購入できることが多いのですが、やはりすぎのファームの作業所に行くのが一番です。
お土産とは別に、わが家にも分けてもらいました。
今年は天候のせいで、この時期はもう豊水になっていました。
とても大きな豊水です。

帰ろうとしたら、杉野さんの奥さんが、追いかけてきて、大きな幸水をくれました。
私が幸水が好きなのを知っているのかもしれません。
節子のいた頃から、直接杉野さんのところに行くと、いつもおまけをくれるのです。
だから逆になにか行きづらいのですが、そうは言いながらも、おまけをもらうとなんとなく豊かな気持ちになります。
このおまけも、きっと節子のおかげでしょう。
いずれにしろ、すぎのファームに行くと、いつも隣に節子がいるような気がします。

節子が亡くなった翌年、お世話になった人たちに、この梨を送らせてもらったのですが、その時に手紙を入れさせてもらいました。
奥さんが、読ませてもらってもいいですかというので、奥さんにもお渡ししたような気がします。
その手紙を読んだ奥さんは、私の節子への思いを知っていてくれているでしょう。

杉野さんの梨を食べると、必ず節子を思いだします。
節子は、杉野さんの梨が大好きだったのです。

■2180:問題多発の夏(2013年8月29日)
節子
昨日から調子が悪かったのですが、どうも風邪をひいてしまったようです。
最近少し無理がたたっているようです。
今度の週末はたぶん休めるのですが、それまでなんとか持たせなければいけません。

それにしても、今年の夏は問題多発でした。
こんな夏は初めてです。
しかもその内容は、家族の問題も含めて多岐にわたり、いずれも私の生き方にまで及びかねない問題でした。
いずれも何とかいい方向に向かっていますが、気は許せません。

問題があるのは、人生において適度な刺激になるので、決して悪いことではありません。
しかし、休む間もなく、次々と問題が起きてくると、その刺激を楽しむ余裕がなくなります。
しかも、いまは分かち合う節子もいません。

昔からそうですが、私は困ったら誰かが助けてくれるという思いがどこかにあります。
一緒に暮らしているうちに、節子もたぶんそうした発想が身についていたと思います。
だから、節子は比較的心安らかに闘病生活を過ごせたと思います。
きっと修がなんとかしてくれる。
節子は、そう思っていました。
結果的に、私が「なんとかしてやれたかどうか」は私にはわかりませんが、節子はたぶん結果には満足しているでしょう。

誰かが助けてくれるという思いは、実は、将来の話ではありません。
「いまここ」での話なのです。
今日、風邪をひいたのも、実は救いのひとつかもしれません。
だれかが助けてくれているからこそ、いま風邪をひいたのかもしれません。
そう思うと、人生は実に生きやすくなります。

今夏の多事難題は、すべて私を助けてくれているだれかの思いやりなのでしょう。
それはわかっているのですが、それにしても少し負担が多すぎませんかと苦情を言いたいです。

今日は、けっこうハードな1日になりそうです。
風邪なのに休めません。

■2181:記憶は書き換えられるものです(2013年8月29日)
節子
昨日のみんなの話は聴いていたでしょうか。
昨日は、自宅の節子の位牌壇の前で、節子の義姉夫婦と娘たちと夕食をゆっくりととりました。
節子の話でもちきりでした。
節子のがんが発見された時からの話をみんなにきちんとするのは、もしかしたら初めてかもしれません。
節子が聴いているとしたら、ほんの少しだけ、節子が知らなかったことがあったかもしれません。

節子が発病した少し後に、節子の母にもがんが発見されました。
節子は手術からの回復がなかなか進まずに、見舞いにもいけず、また自分の病気のことも話せずに、辛かっただろうと思います。
少し回復し、長旅もできるようになって、娘と一緒に帰郷しました。
理由は思い出せませんが、私ともう一人の娘は同行できずに、後で行くことにしていたのですが、節子が見舞って帰宅してすぐに、お母さんの訃報が届きました。

私の記憶では、家族4人でお母さんを見舞いに行ったとばかり思っていましたが、そうではありませんでした。
家族全員で行ったのは、節子の発病の前だったかもしれません。
ことほど左様に、過去の記憶はいい加減です。
自分に都合の良いように、記憶は書き換えられるのです。
みんなで話していて、それぞれの記憶違いがたくさん出てきました。
節子に関する私の記憶も、たぶんかなり書き換えられているのでしょう。

しかし、昨夜の話し合いながらの長い夕食は、一番の七回忌になりました。
節子もきっと喜んでいるでしょう。
もしかしたら、みんなの記憶違いにイライラしていたかもしれませんが。

節子は、いつまでも思い出してくれる人が多くて、幸せな人です。
人の生き方は、いなくなってからこそ、見えてくるものです。
私も節子を見習わなければいけません。
しかし、こればっかりは、思い通りに行かない話です。
やはり、その人の持っている定めなのかもしれません。
それに、早く逝った人の特権かもしれません。

節子は、実に罪つくりな人です。

■2182:姉夫婦の幸せな生き方(2013年8月29日)
節子
敦賀の姉夫婦が帰りました。
わが家での4日間は、姉夫婦にとっては窮屈な4日間だったかもしれません。
生活のリズムも違っているでしょう。
それに、節子がいるといないとでは、だいぶ違うでしょう。

姉夫婦はとても仲が良いのです。
もしかしたら、私と節子以上に仲良しです。
それに、実に豊かな暮らしをしています。
節子がいつも、2人の生き方を羨むほどでした。

誤解があるといけませんが、豊かだというのは経済的な意味ではありません。
そうではなく、時間とお金の使い方が、とても豊かなのです。
むしろ、お金がないだけ、豊かだといってもいいでしょう。
お金は人生を貧しくしがちです。

農業を営んでいますが、儲けようなどという気は全くありません。
夫婦とも、とても気がいいので、いろんな役割もまわってくるようです。
姉の生家のある集落のお寺の改修費用が足りなくなったと言われて、寄付の奉加帳がまわってきた時も、依頼された金額を上回るお布施をしています。
節子だったら、たぶん言われた通りの金額にしていたでしょう。

だからと言って、お金があるわけではなく、金銭的には決して豊かではないと思います。
しかし、ともかくお金は「使うもの」と考えているようです。
それに、だれかに何をしてやることが大好きなのです。
時間さえできれば、2人でドライブで遠出します。
そのくせ仕事をしないわけではありません。
ともかくいつでも身体を動かして何かをしています。
今回も、わが家に宿泊していましたが、朝起きてみると、庭の草むしりをしたりしているのです。
ともかく「働き者」なのです。

もちろんブランド物など買いません。
食べものも、ともかく出てきたものは何でも感謝しながらおいしそうに食べるのです。
だれかが何かを食べたいというと、自分たちでは食べもしないで、その人にご馳走します。
以前、私が蟹がほしいと言ったら、正規のタグの付いた高価な越前蟹を送ってくれました。
自分たちは、タグがついている蟹など食べたことがないそうです。
ちなみに、私が蟹がほしいと言ったのは、食べる蟹ではなく、池に放し飼いするサワガニだったのですが。

ともかく仲良しで、お金は貯金などせずに、人生を楽しんだり、周りの人のために使うのです。
まさに、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の人のような生き方なのです。

節子は、いつも、姉夫婦は人生を楽しんでいるね、と言っていました。
私も、心底、そう思います。
節子と私の生き方も、少し似ているところもありますが、義姉夫婦に比べれば、かなり貧しく、打算的なところがあることは、間違いありません。

その幸せな夫婦から、いろんなことを学びました。
節子がいなくなっても、付き合いがつづいているのがとてもうれしいです。
これも、節子のおかげです。

■2183:似たもの姉妹(2013年8月30日)
節子
姉夫婦は、在宅中に庭の整理をしてくれましたが、義兄が「節ちゃんもうちのと同じだね」と話してくれました。
何が同じかと言うと、植木鉢のことです。
ともかく、裏にはたくさんの植木鉢があります。
節子がいなくなってから、そのほとんどを枯らしてしまいましたが、植木鉢だけはまだだいぶ残っています。

節子は、花屋さんに行くたびに、花を買ってきました。
小さな庭に植えるところがないにもかかわらず、買ってくるのです。
それも処分価格の枯れかかったような花が多く、それを元気にするのです。
そうした鉢がたくさんたまり、季節が終わると家の裏に次の季節まで移されます。
節子がいなくなった後、そのままになってしまい、水やりも忘れがちだったので、ほとんどが全滅してしまったわけです。

義兄が「同じだね」と言ったのは、ともかく花が好きで、小さな鉢が多いと言うことです。
そういえば、昔、箱根に一緒に行ったことがあります。
駒ケ岳のケーブルを降りたところで、花を売っていました。
2人ともそれに引っかかってしまい、鉢を買ってきたのを覚えています。
その鉢は、もうどれかわからなくなっていますが。

そうして節子が集めた、草花の小さな鉢も、もうだいぶ減りました。
庭の片隅の山野草コーナーは、見る影もありません。
最初は大事にしていたのですが、どんどん枯らしてしまいました。
節子には、一つひとつが思い出の山野草だったのでしょうが、私にはその思い出が共有できておらず、しかもどんどん忘れてしまったために、思い入れが低かったのでしょう。

節子の残したものは、大切にしたいと思ってはいるのですが、それを実行するのは難しいものです。
もし、立場が替わって、私が先にいなくなったら、節子はたぶん私の本は処分してしまうでしょう。
私には愛着のある書籍も、節子には単なる1冊の本でしかないからです。
だから、それはまあ、仕方がないことなのです。
節子も、笑いながら諦めているでしょう。

でもまあ、これからはもう少し大事にしようと思います。
せっかく義姉が少し整頓してくれたのですから。

これから水やりです。
昨夜、ゆっくり寝たら、風邪はだいぶよくなりました。

■2184:送られ人(2013年8月30日)
節子
今年の夏は、節子の夏でした。
お盆から始まり、七回忌、そして来週は節子の命日です。
わが家では、節子行事が山積みでした。
送られ人は幸せです。

七回忌に来てくれた人全員で、お墓で写真を撮りました。
その後、ついつい「次回は私はいないかもしれないし」と言ってしまいました。
年齢的には私が若い方なのですが、伴侶を見送ったのは私だけです。
これはかなり影響するでしょう。
伴侶がいれば、お互いに元気づけあいながら、長生きしやすいはずです。
伴侶を失った人の余命について、男性は特に短いという話を、聞いた記憶があります。
私も、そろそろ「送られ人」の適齢期に近づいているかもしれません。

「送る人」と「送られる人」。
自分で体験するまでは、送られる人のほうが不幸だという気がしていましたが、いまは反対だと思っています。
節子と私を比べたら、私のほうが不幸でしょう。
死は決して不幸なことではないと、友人の一条真也さんは書いていますが、死が周りの人を不幸にすることは否定できません。
その不幸が、どれほどのものであるかは、体験しないとわかりません。
しかも、それは人によって違うでしょう。
死が、周りの人を幸せにすることもあるでしょう。
ですから、こうした話は、一般論で語るべきことではないのです。

いずれにしろ、私はいつか「送られ人」になるでしょう。
その時に、できれば周りを不幸にしたくないと思います。
「送る人」と「送られる人」も、不幸にならない旅立ちとは、どんなものでしょうか。
少し考えてみようと思います。

節子は、いろんな課題を与えてくれます。

■2185:「家族といえども多分わからないだろう」(2013年8月30日)
挽歌を読んでくださった方から、こんなメールが来ました。

私もまだ 子供達とは話す機会はありません 
家族なのにとも 家族だからとも思います 
そして夫への思いは私だけのもので家族といえども 多分わからないだろうと悟りました 

人の思いは、まさに人それぞれです。
しかし、人間は身勝手で、自分が思うことは他の人も思うだろうと考えがちです。
しかし、そんなことはまったくありません。

節子を見送った私の気持ちは、娘といえども、わからないでしょう。
しかし、それは同時に、母親を失った娘たちの気持ちが、私にはわからないのと同じです。
節子を見送った後、お互いにそうした認識が薄く、わが家の家族も気分的に少し溝ができた時もあったような気がします。
いまでは、それぞれの思いが違うことに気づいていますが、時折、勘違いしてしまうこともあります。

一緒に住んでいた家族でもそうですから、家族以外の人とは、思いを共有することなどできるはずもありません。
喪失のショックが大きいと、視界が狭くなり、そういうことに気づかず、ますます狭い自分の世界に落ち込んでしまうこともあります。
私が、そうした底なし沼から抜け出したのは、たぶん5年ほど経ってからです。

そこから抜け出すと、今度はいろんな人の思いが、なんとなくわかってくるような気がします。
そこで、人は、一段とやさしくなれるような気がします。
視界も広がります。

愛する人との別れは、たくさんのことを気づかせてくれます。
まもなく7回目の命日がきます。

■2186:癒せない疲れ(2013年8月31日)
節子
昨日は恒例のオープンサロンでした。
サロンは、湯島にオフィスを開いて以来の文化です。
節子がいた頃のサロンは、本当に賑わっていました。
サロンに託した私の思いは必ずしも実現はできませんでしたが、まあ喜んでくれる人もいたので、私たちには満足でした。
そのサロンを、少し休もうと宣言して、最後のサロンを開催した直後に、節子の胃がんが発見されたのです。

そんなこともありますから、サロンにはいろんな思いがつまっているのですが、テーマも鳴く、案内もない、このオープンサロンの参加者は、節子の時代からの参加者が多いのです。
今回も、初参加の一人を除き、全員が節子もよく知っているメンバーです。

常連だった三浦さんが、私がいろんなことをやりすぎていることを心配してくれました。
三浦さんも大病をされてご自身の経験から、私を気遣ってくれています。
サロンの前に、もうひとつの集まりをやっていたのですが、その時にも参加者の一人から、少し痩せたのではないかと言われました。
たぶん、昨日は疲れきって元気のない表情をしていたのでしょう。
この3週間は、休む間もない3週間でした。
昨夜、帰宅した途端に椅子にどかっと座ってしまい、しばらく起き上がれませんでした。
幸いに、風邪だと思っていた症状は回復しました。
風邪ではなく、疲労が溜まっていたのかもしれません。

人生は、苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、ですが、一人で歩き続けるのは疲れます。
節子がいなくなってから、どうも疲れを癒す方法がわからなくなってきてしまっています。
困ったものです。

■2187:家事の大切さと大変さ(2013年8月31日)
節子
この家に転居してきてから、もう13年です。
転居にあわせて買い換えた家電製品が、次々と壊れだしてきました。
お風呂が最近具合がわるく、湯沸し設備を替えることにしました。
ガスコンロは、なかなか点火しないので、これも替えなければいけません。
冷蔵庫、炊飯器などなど、次々と調子が悪くなりだしています。
先日は、カーテンが動かなくなりましたが、特注のカーテンだったため、メーカーの人に来てもらいましたが、なおりませんでした。
娘がそういうことをすべて対応してくれているのですが、快適な生活を維持していくための「家事」の大切さと大変さを、改めて感じています。
節子が元気だった頃は、すべて節子がそうしたことをやってくれていたわけです。
まあ、かなり手抜きだったような気もしますが、ともかく私はそうした「家事」に一切煩わされることなく、「仕事」ができていたわけです。
家事は、会社の仕事に比べれば、とても創造的で生命的です。
ビジネスや政治は、いまや機械でもロボットでも、たぶんマニュアル通りに動ける専門家や知識人にもできますが、家事はそうはいきません。
こういう発想は、以前からの私の持論です。
会社時代に、女性社員のお茶汲み仕事こそが会社の中で一番大事だとチームの女性に話して、冗談だと思われてしまいましたが、私は心底、そう思っています。

そういう思いでしたから、家事をこなす節子には頭があがらなかったわけです。
まあ、こういう言い方をするので、節子からも冗談だと思われていたように思いますが、私は家事をする節子に感謝していたのです。

あれ、書いているうちに、違う話になってきましたね。
今日は、生活用具が次々と壊れだしている話だったのです。
それによって、節子仕様が徐々に娘仕様に変わっていこうとしているという話です。
こうしてだんだん住まいの表情も変わっていくのでしょうね。
節子のものが、だんだんと消えていく。
ちょっと寂しいような気もします。

■2188:今年の8月は2007年の再来(2013年8月31日)
節子
今日で8月も終わりです。
あっという間の8月でした。

それにしても、暑い夏でした。
節子が闘病していた6年前の2007年の夏も、とても暑かった。
テレビでも、よく2007年以来の暑さだと報じられていました。

あの夏が、もう少し涼しかったなら、節子は夏を超えることができたかもしれない。
夏を超えれば、奇跡が起こったかもしれない。
今でも、時々、そんなことを考えることがあります。

その一方で、あの暑い夏を家族4人で懸命に乗り越えようとしていたことが、なんだか現実には思えないこともあるのです。
頭に浮かぶ風景は、見事なほど、うすぐらい部屋の風景なのです。
あの年の8月は、私も家から出なかったのかもしれませんが、断片的にはともかく、みんながどうやってあの夏をすごしていたのか思いだせません。
思い出すことを、なにかが封印しているのでしょう。
2007年の8月は、私の人生では、空白に近い、あっという間の8月だったのです。

しかし、実際には、実に長い8月だったはずです。
ていねいに思い出せば、密度の高い8月だったでしょう。
にもかかわらず、思い出だしたくない、何かがある。
そこに、不誠実で利己主義の自分を見つけることが怖いのかもしれません。
だから、あっという間の8月にしておきたいのかもしれません。

今年の夏も、なぜかあっという間でした。
暑かったのも、その一因ですが、それだけではありません。
節子がいなくなってから、ある人から言われたように、「たが」がはずれたように、さまざまな問題にコミットしてしまっています。
自分を追いつめたくなる無意識の意識が働いているのかもしれないと、自分で思うこともあります。
その重荷につぶされそうになったり、人間不信に陥りそうになったり、寝不足で疲労蓄積したり、いやそれ以上に、世間の人たちの無明さを呪いたくなったり、そんななかで、逃避したくなることが増えているのです。
辛すぎる現実からは逃げたくなる。
だから今年の夏は、あっという間だったのです。

2007年の夏もあっという間だった。
逃げたかったのです。いや逃げているのです。
だからきっと2007年も今年も、暑かったのです。
今夏の暑さは、地球温暖化のせいではなく、たぶん節子のせいなのです。
6年前を思い出せ!
きっと節子がそう言っているのです。
今年の暑さを、私はそんなふうに受け止めています。

今年の8月は、私にとっては、2007年の再来だったのです。

■2189:生活のリズム(2013年9月1日)
節子
節子がいた頃は、ホームページの更新とオープンサロンの開催だけは、どんなことがあっても守っていました。
毎月最後の金曜日のサロンは、九州に数日出張していた時にも、サロンにだけ戻って、また九州に行くということもありましたし、毎週日曜日のホームページ更新は夜なべしてでもやっていました。
ところが、最近は、いずれも確実にやってはいません。
3か月ほど前には、オープンサロンを休んだのですが、ホームページに告知したり来そうな人にはメールしたりしたのですが、当日、2人の人が湯島に行ったそうです。
しかもそのうちの一人は北九州の人でした。
わざわざ寄ってくれたのに、申し訳ないことをして、以来、サロンは絶対にやろうと思いなおしました。

ホームページの更新は、最近はかなりルーズになりました。
時間がないこともありますが、忘れてしまうこともあるのです。
要するに生活にリズムがないためでしょう。

節子がいなくなってから、生活のリズムが崩れました。
そして、いつの間にか、リズムのない単調な生活になってしまったような気がします。
リズムがなくとも生活はできるのです。
しかし、リズムがないと、時間がうまく使えません。
暇なのに忙しくなったり、気づかないうちに時間が過ぎていたり、いろいろあります。

今日、2週間ぶりにホームページを更新しました。
と言っても、週間報告だけの追加です。
節子がいなくなってからは、ホームページをきちんと更新した事がありません。
ただただ日記代わりに書き加えているようなものです。
私にとって、ホームページの意味もあまりなくなりました。
ホームページを閉じてもいいのですが、そういう節子がいた時にやっていたことを止めることはあまりしたくはありません。
要するに、何かを決断したくないわけです。
そうして、何となくだらだらと生きつづけるというわけです。
そういう生き方ですから、生活にリズムが生まれようもないのです。

こうした生き方から抜け出せるのでしょうか。
節子の7回目の命日を、私自身の生き方を見直す機会にしようかとも思っていましたが、どうもそうはならないようです。
もう少しだらだら生きていこうという気がしています。

■2190:阿しゅく如来(2013年9月2日)
節子
先日の七回忌の時に、みんなそれぞれにお塔婆をあげさせてもらいました。
お塔婆にはいろいろと文字が表記されますが、この世界を構成する5大要素(空・風・火・水・地)が一番上に書かれています。
そして、その次に、その時の法要を導く如来の名前が書かれます。
3回忌の時は、阿弥陀如来でした。
観音から勢至へ、そして阿弥陀へとバトンタッチされてきています。

七回忌にはどの如来かとご住職に質問しませんでしたが、お経の中に「阿?如来」の名前が出てきていましたので、たぶん阿?でしょう。
「阿しゅく如来(あしゅくにょらい)」はあまリなじみのない如来ですが、寺院では時々、そのお姿に触れることがあります。

節子の生家の高月町には「阿閉」という地区があります。
おそらく「阿部氏」につながる地名でしょうが、歴史的にはちょっと気になる名称です。
高月周辺には、そうした歴史的な好奇心を引き起こす地名がいろいろとあります。
いつか節子とゆっくり歩きたいと思っていましたが、かなわぬこととなってしまいました。
実は、節子の母の生家がある唐川という地域も魅惑的です。
その集落に祀られている赤後寺のある山を最初に見た時に、これは古墳だと即座に思いました。

阿?如来は密教における金剛界五仏のひとつで、金剛界曼荼羅では大日如来の東に居ます。
阿?は「揺るぎない」という意味だそうですが、金剛界五仏のなかでもその悟りは堅固で、いかなる煩悩にも屈しないとされています。
七回忌を導くのが、阿しゅく如来であるということは、遺族もそろそろ過去への執着から自由になれということかもしれません。

まあこれは勝手な解釈ですが、七回忌を意識しだした頃から、漸く少しだけ心身の整理ができてきたように思います。
私も少しずつ、悟りだしているのでしょうか。
それとも、疲れ果てて、まあいいかという気になっているのでしょうか。
いずれにしろ、私もこれからは阿?を見習おうと思います。

■2191:季節はずれのアジサイとフジ(2013年9月2日)
節子
先週、七回忌の法要をしましたが、その前日、庭の花に水をやっていて、季節はずれの花が咲いているのに気づきました。
ひとつはフジです。
なぜか3つだけ、花が咲いていました。
もう一つは、節子がお気に入りのガクアジサイの「すみだの花火」です。
節子は、ガクアジサイが好きで、これもどこからから買ってきたものです。
今年もたしか春にも咲いていましたが、いままた咲き出したのです。

節子は、時時、花になって戻ってくるといっていましたので、七回忌なので戻ってきたのかもしれません。
今日、思い出して、フジの花を見に行ったら、もう花はなくなっていました。
写真に撮らなかったのが残念です。
せっかくなら、命日までいてほしかったです。
「すみだの花火」はまだ咲いています。
ちょうど隣にあるサルスベリの花が満開ですので、節子は見とれているのかもしれません。
フジは葉っぱが茂っているので、うっとうしかったのかもしれません。

命日を過ぎると、また花の季節です。

■2192:生きた証を残したいという煩悩(2013年9月2日)
節子
昨日、テレビで画家の前田青邨のことが紹介されていました。
彼は、自分のことは忘れられて、作品だけが残ればいい、と言っていたそうです。
しかも、できれば自分の作品をすべて集めて燃やしたいとも言っていたそうです。
ぼやっとテレビを見ていたので、かなりいい加減な記憶なので間違っているかもしれません。
しかし、とても共感できます。

存在したことを忘れられる生き方。
しかし、どこかにその痕跡が残っている生き方。
おそらくほとんどすべての人が、そうやって生きてきています。
しかし、前田さんの場合は、その作品が、すでに「前田青邨の作品」になってしまっていますから、彼自身のことも詮索されながら歴史の中に記録されてしまいます。
だから前田さんは、すべての作品を燃やしたかったのでしょう。
前田さんの場合、作品が残れば、必ず個人の名も残るからです。
名もない人が残した絵や壁画は作品だけが残ります。
前田さんが望んでいたのは、たぶんそういう作品の残り方だったのでしょう。

節子はいくつかの作品を残しています。
家族以外はほとんど見たこともない作品で、いつかは廃棄されるでしょう。
家族がいなくなった後に、もし作品だけが残っても、それは一体誰が書いたものかわからなくなるでしょう。

生きた証を残したいという人が少なくありません。
その感覚が、私にはよくわからないのですが、生きた証は、その時々に関わりのある人の心身にこそ、残されます。
そして、その人とともに消えていく。
私には、それで十分です。
そういう考えからすれば、こんな形で挽歌をネットにアップしていることはおかしな話です。
どこかに私の考えに間違いがあります。
何かに執着している自分がいます。

明日は節子の7回目の命日です。

■2193:7回目の命日(2013年9月3日)
節子が旅立ってから、2193日が経ちました。
今日は、7回目の命日です。
挽歌のナンバーと旅立ってからの日数を合わせるために、この数日、挽歌を毎日複数書き込んで、今日やっと、両者を合わせることができました。
そんなことはどうでもいい話なのですが、私にはそれなりに意味があることなのです。

朝、娘と一緒にお墓参りに行きました。
七回忌の法要は、今年は1週間前に行いましたが、一応、お墓参りだけはしないと気分が落ち着きません。

お昼頃に佐々木さんとヌリさんがわが家に来てくれました。
ヌリさんは、節子の好きなカサブランカの大きな花束を抱えてきてくれました。
佐々木さんは、昨年も来てくれましたが、ヌリさんも今年は一緒に来てくれたのです。
早速、佐々木さんに頼んで、般若心経をあげてもらいました。
実は、佐々木さんの奥さんの実家が臨済宗のお寺なのですが、先日、そこにお邪魔した時、佐々木さんが木魚をたたきながら、般若心経をあげてくれました。
その時の般若心経が、私があげるのと違って、豊かな表情があったのです。
まったく別のお経のようにさえ聞こえたものですから、佐々木さんにお願いして、あげてもらいました。
私のとは違って、やはり美しいです。

ヌリさんは、完全ベジタリアンなので、近くの湖庵にお蕎麦を食べに行きました。
娘のユカとヌリさんが、いずれも食事は左利き、文字は右手で書くと言う事が判明しました。
お蕎麦は、北海道のお蕎麦でしたが、佐々木さんが美味しいと喜んでくれました。

節子の命日にわざわざ来てくださったのに、あまりおもてなしできませんでしたが、いろんなお話ができてよかったです。

滋賀の節子の友人たちからは、今年も胡蝶蘭が届きました。
節子を見送ってから、毎年、送ってきてくれるのです。
節子は喜んでいることでしょう。
先日、送ってもらった阿部さんからのユリを中心とした生花もまだ残っていて、またしばらくは節子の位牌の前は花の香りで満ちています。
特に、カサブランカの匂いが家中に広がりそうです。

いろんな人へ電話もしました。
今年も、それなりに節子を思い出した命日になりました。
ありがとうございました。

■2194:まったりした空間(2013年9月4日)
節子
節子のいない世界での7年目が始まりました。
今日は、少し気を引き締めて湯島に行きました。
田中弥生さんが相談したいことがあるというのですが、その相談事が、ちょっと私の興味を引くテーマだったのです。
一言でいうと、ちょっとおかしいことを体制に抗って「正す」という話です。
これは黙ってはいられません。
どうせ応援する人はそうはいないでしょうから、応援しないわけには行きません。
そう思って出かけました。
それに、負け戦は大好きなのです。

夕方は、さらに難しい問題の話し合いを予定していましたが、その準備は田中さんと話し合った後に準備しようと思っていました。
いずれにしろ、今日は、かなり緊張した1日になる予定でした。

ところがです。
とんでもなく、おかしな1日になってしまいました。
田中さんの相談は面白かったのですが、聞いているうちに、「抗う」よりも「いなす」ほうがいいと思ったのです。
相手が強くなければ、抗う意味はありません。
それで少し力が抜けてしまいました。
そんな話をしていたら、だんだん話が広がってしまい、終わらなくなったのです。

そこに、電話があり、共済研究会の佐々木憲文さんが近くにいるが寄ってもいいかというのです。
良い機会なので、2人を引き合わせることにしたのですが、思った以上に2人の話が弾んでしまい、これまたいつになっても終わりません。
そんなところに、今度は国際箸学会理事長の小宮山さんがやってきました。
先週、九州に箸ピーゲームの普及活動に行ってきた報告をしにきたのです。
折角なので、箸ピーゲームを田中さんにやってもらおうということにしたのですが、予想に反して、田中さんが箸ピーゲームに乗ってしまったのです。

かくして誰も帰らずに、みんなで4時半まで、実に「まったりした」時間を過ごしてしまったのです。
4時半には、ちょっと緊迫した話題の相談だったのですが、その人は、やってきたら、なにやらよくわからない雰囲気になっていたので、たぶん戸惑ったでしょう。
私も、気が抜けたのと、いまさらきついこともいえなくなってしまいました。
まあ、その話は何とかうまく時間内におさまりましたが、私の頭はかなり疲れてしまいました。

田中さんと佐々木さんと小宮山さん。
私のとっても、想定外の組み合わせです。
しかも、あの田中さんが箸ピーゲームをやるとは。
たぶん節子も驚くでしょう。

節子
7男目のスタートは、奇妙な1日になりました。
でも今日はまたそれぞれ4人に4つの約束をしてしまいました。
みんな、もっとのんびりやれと言いながら、なぜか宿題を置いていくのです。
困ったものです。

■2195:また花が届きました(2013年9月5日)
節子
ユカの友だちが今年もまた花を供えにきてくれました。
うれしいことです。

娘たちの友だちにとって、私たち夫婦は、それなりに印象的な存在だったようです。
子どもの頃、わが家に遊びに来た時に、私も節子も顔を出したからでしょう。
当時、娘たちにとっては、どうも迷惑なことだったようですが。
少し変わった親を持ったという感じが、娘たちには残っているのです。
しかし、その関係もあって、ユカやジュンの友だちも、私たち夫婦を知ってくれています。

今となって考えると、私も節子も親としてはあまり良い親ではありませんでした。
特に私は、親子というよりも友だちという関係を目指していましたので、娘たちにはさぞかし迷惑だったことでしょう。
大人になる前の子どもにとって、親は友だちなどにはなりえません
自分と親の関係を考えれば、それはすぐに分かることですが、当時の私はそれにさえ気づかずにいたのです。
そして、たぶん節子もまた、私のその考えに影響されてしまっていたのです。
いまさら反省しても仕方ありませんが、私にとっての大きな後悔のひとつです。

もう7回目の命日なのに、いくつ花が届いたでしょうか。
友人から、隣人から、娘の友人から、私の友人から。
とても不思議な気がします。
おそらく私の場合には、花などは届かないでしょう。
たぶん命日さえ、覚えていてもらえないでしょう。

節子の誕生日は節分の日です。
だから覚えやすくて、節子の友人からよくお祝いの手紙が届いていました。
節っちゃんの誕生日は節分だから覚えやすい、と言われていたのです。
そのくせ節子は友人の誕生日を忘れてしまうことが多かったような気がします。

人にはそれぞれ定めがあるような気がします。
節子は友人よりも私よりも早く旅立ちました。
それも定めなら、誕生日や命日を覚えてもらえるのも定めかもしれません。
やはり節子は、幸せな人なのです。
唯一の不幸は、もしかしたら私と会ったことかもしれません。
ユカがよく言います。
なんでお母さんはお父さんを選んでしまったのかなあ、と。

■2196:「ちょっと動揺しています」(2013年9月6日)
節子
友人からまた衝撃的な連絡が届きました。
私たちより一回り若い人ですが、がんの宣告を受けたそうです。
医療分野の人ですが、その報告の最後に、「ちょっと動揺しています」と書かれていました。

最近、こういうメールが時々来ます。
私よりも年上の方からのものだと、なんでもなく読めます。
がんの宣告だとしても、とくに驚くことはありません。
私自身、70歳を超えてからは、がんだと言われても、だからなんだと開き直れる気がします。
だから、同世代より上の世代の人に関しては、だから何なのという気がどこかにあります。
こう書くと冷酷なように思われるかもしれませんが、そうではありません。
がんも含めて、病気を患いながら老いていくのは自然の姿です。
70歳を超えれば、なにがあっても驚くことはないでしょう。
それにもう十分生きてきたのですから。
節子は62歳でしたが、それに比べれば、まあ満足してもいいでしょう。
それに、老いることを嘆くような生き方を、私はしたくありません。
健全な老いにとっては、歳相応な病もまた健全の証なのです。

しかし、私よりも一まわり以上も年下の人ががん宣告を受けるのは、衝撃的です。
そういう連絡をもらうと、なんと返信したらいいかわからなくなるのです。
そこで少し躊躇し、1日、間を置くこともあります。
黒岩比佐子さんの時には、1日どころではありませんでした。
相手が何か反応を待っていることはわかるのですが、言葉にならないのです。
「私もちょっと動揺しています」と言うのが、正直な反応ですが、そうも書けません。
慰めの言葉などは、もちろん思いもできません。
かといって、慰めないわけにもいきません。

節子が、がん宣告を受けた時の私の反応はどうだったでしょうか。
たぶん節子と一緒に動揺していただけでしょう。

最近は、「ちょっと動揺」することが増えています。
自分の病は泰然としていられても、自分よりも若い人の病には、やはり動揺してしまいます。
困ったものです。

■2197:彼岸花が咲き出しました(2013年9月7日)
節子
節子の命日を過ぎたら、急に涼しくなりました。
命日とは無関係でしょうが、ことほど左様に、いろんなものの理由付けをしてしまうのが、人の常です。
そう考えると、なぜか納得できるのです。

庭の曼珠沙華が咲きそうです。
今年は雨が少なかったので、芽が出ないかもと思っていましたが、元気です。
そもそもわが家には曼珠沙華はありませんでした。
根茎が有毒ですので、あまり気楽に庭には植えられません。
にもかかわらず、なぜ庭にあるかといえば、これもまた節子に関わっているのです。
曼珠沙華の鱗茎は、有毒であるとともに、ある薬用性を持っています。
それで節子の闘病中に、漢方の薬局に頼んで手に入れたのです。
しかし、節子には合いませんでした。
それで土に戻したのです。
ですから、節子が旅立った翌年から、わが家の庭に曼珠沙華が咲き出したのです。

曼珠沙華は彼岸花ともいいます。
昔は墓地の周辺によく咲いていました。
それは土葬された死者を守るためだったと思います。
そして、名前も彼岸花と言われるようになったのでしょう。
曼珠沙華を食べたら「彼岸(死)」しかない、ということからの命名という説もあります。
この花の名前は不思議なほど、いろいろと呼び方があるようです。

「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」という花は、法華経などにも「天上の花」として登場しますが、仏教での曼珠沙華は「白くやわらかな花」で、彼岸花とは別のものだそうです。
つまり、いわゆる曼珠沙華と仏教で言う曼珠沙華とは別の花だということになります。
しかし、彼岸につながっているという点では同じです。

曼珠沙華は、日本では、異名の多い花のひとつです。
「死人花(しびとばな)」「地獄花」「幽霊花」などと言う地方もあるようです。
不吉であると忌み嫌われるところもあれば、めでたい兆しとされるところもあるといいます。
とても不思議な花なのです。
たしかに、この花を見ていると、思いは彼岸や天上にまで行きそうな感じがします。

彼岸花が咲きだす季節になりました。
私には、心身が金縛りに合いやすい季節が終わって、少しホッとしています。
9月は、節子も自由になった月なのです。

■2198:相思花(2013年9月8日)
節子
昨日、彼岸花のことを書きましたが、もう一度、彼岸花の話です。

彼岸花は、まず花が咲き、花が終わると葉が出てきます。
ですから、花と葉が別々なのです。
そのため、彼岸花の花は、自らの葉を見ることがなく、葉は花を見ることがないのです。
こういう花を相思花と言うのだそうです。
「花と葉が同時に出ることはない」というところから「葉見ず花見ず」とも言われるそうです。

節子が旅立った年に公開された映画に「22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語」という大林宣彦監督の作品があります。
Lycoris(リコリス)というのは、彼岸花の学名です。
ギリシャ神話の女神、海の精の一人の名前からとられたものだそうです。
この映画は、悲恋物語だそうですが、私は観ていません。
しかし、「葉見ず花見ず」からどのような物語かはなんとなく伝わってきます。

彼岸花にとって、花も葉も不可欠な存在です。
冬を越した球根がまず花を咲かせます。
その花が散ると、今度は葉が茂りだします。
その葉は冬になっても枯れることなく光合成して、球根に栄養を蓄えます。
春になると葉が枯れて、秋になると球根が花を咲かせるのです。
お互いを見ることのできない花と葉であるがゆえに、人はそこに「葉は花を思い、花は葉を思う」というような感情移入をしてしまうのです。

私が気になっているのは、花の役割です。
花がタネを生み出して、彼岸花を増やしていくのではないようです。
何のために花はあるのか。
そして見ることのない花のために、葉は冬まで越して働くわけです。
その関係がちょっと気になるわけです。

ちなみに、彼岸花の花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」。
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
いずれも、いまの私にどこかでつながっているような気もします。

しかし、彼岸花の花も葉も、それぞれに会うことはありません。
彼岸花は、とても悲しい花なのです。
だから自らの球根に、烈しい毒を蓄えてしまっているかもしれません。

■2199:退歩(2013年9月9日)
節子
今日はさわやかな秋晴です。
雲の形が実にいいです。
暗雲と言われるような不安を起こす雲もあれば、今日のように、心を和ませ元気づける雲もあります。

昨日、滋賀にいる節子の友人から電話がありました。
花を送ってくれた人たちです。
元気そうでした。
節子は、とても良い友だちだったと、今も言ってくれています。
先に逝ってしまう人が、「良い友だち」のはずはありませんが、まあそこは素直に受け止めましょう。

7回目の命日を超えて、私も少し心身の整理ができてきたのかもしれません。
いや、そう思いたくなってきたというのが正しいでしょう。

先週、テレビの「こころの時代」で、東洋思想研究家の境野勝悟さんの話を聴きました。
そこに、道元の「退歩」という言葉が出てきました。
私の認識とは少し違っていたので、改めて、少しだけ調べてみました。
道元は、「須らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して本来の面目(めんもく)現前せん」と書いています。
テレビでは、境野さんは、そのことを様々な切り口から説いてくれています。
改めて、納得できました。

ある意味で、節子がいなくなってからの私の姿勢は、退歩と進歩の往復ですが、少なくともこの挽歌を書く時には、「退歩」に心がけています。
退くことによって見えてくるものはたくさんなるからです。

境野さんはまた、学ぶことは自らを忘れることだ、とも言っていました。
あんまり正確な引用ではないのですが、私にはそう聞こえました。
退歩も進歩も、自らを忘れることかもしれません。

今日の気持ちの良い、さわやかな青空は、いろんなことを忘れさせてくれます。
私も、節子も、青空が好きでした。

■2200:宝くじを買わないと人生を全うできない感じです(2013年9月10日)
節子
昨日は、いささか深刻なビジネスミーティングを2つ行いました。
いずれも、お金が絡んでいます。
私には不得手なミーティングです。
私がお金をもらえる話なら、まあさして深刻でもないのですが、いずれも逆で、私が資金的な支援をするかどうかというミーティングです。
幸か不幸か、私には資金がないのですが、要は私が保証するかどうかというのが、深刻さにつながっているわけです。
友人や娘からは自宅を抵当にしていてはいけないとか、連帯保証人になってはいけないなどと言われていますから、それだけは最近は避けていますが、目の前に困っている人がいたら、何とかしないといけません。
どうも相手はそういう私の性格がわかっているようで、次々と相談をしてくるのです。
そのことを知っている人からは、佐藤さんは甘く見られていると言われていますが、甘く見られていることは別にどうということはありません。
しかし、だまされることが繰り返されると、やはりがっかりします。
人間不信になるからです。
同じ過ちはもうしないぞと思うのですが、相手が変わるとついついまた、相手を信じたくなります。
これは、一種の病気かもしれません。

加えて、昨夜、2人の知人から、係争の話し合いをするので立会いをしてくれないかと、それぞれからメールが来ました。
実は、こういうことも初めてではありません。
これまでも何回かあります。
係争の中身はいつも「金銭問題」です。
私を通して知り合った人同士なので、同席しないわけにもいきません。
しかし、お互いに私の知らないところで、一緒に事業を起こし、失敗して争うと私のところに相談に来る。その神経が私にはよくわかりません。
調停役をやって解決したら、お礼くらい言ってもらっても良いと思うのですが、係争の調停はいずれにも不満を残しますので、いずれからも感謝されることはありません。
そのため、せめて交通費くらい払ってほしいと、卑しい気持ちにさえなりますので、あんまりやりたくはありません。
しかし、頼まれると断れないのが、私の性格なのです。
これは性格と言うよりも、私の生き方かもしれません。
生き方であれば仕方ありません。

そういうことを行って、自己嫌悪に陥っていると、節子はいつも「それが修さんなんだから」といささか諦めながら笑いとばしてくれていました。
その笑顔に救われてきましたが、最近は救いがありません。
娘たちは、死ぬ前に借金をきちんと返しておいてね、とにべもありません。
やはり宝くじを買わないと人生を全うできない感じです。

節子
宝くじが当たるように祈ってくれませんか。

■2201:「知識は、不幸にすることもある」(2013年9月11日)
がんの疑いがあって精密検査中の医療関係の友人から、メールが来ました。

夫に言われた言葉があります。
「知識は、不幸にすることもあるんだよ」と。

医療関係者は、病気のことを知っていると思っていますので、先のことを過剰に考えてしまうのかもしれません。
「知識は、不幸にすることもある」ということは、とても共感できます。
これは、病気に限ったことではありませんが、難病やがんなどの場合には、特に当てはまるかもしれません。
罹病した人や家族は、知識を集めようとします。
問題は、どこまで知ろうとするかです。
知れば知るほど、いいということでもないのです。
人によって違うでしょうが、私の場合は、もう少し知ろうとするべきだったという思いが抜けません。
その悔いが、私を時々、追い詰めます。

知ることによって、不幸になることがある。
実は、私にもそんな思いがあり、私は途中で逃げてしまったのです。
だから改めてその言葉に出会うと、共感する一方で、心が痛みます。

実に不思議なのですが、節子は私以上に淡々としていました。
節子は、手術後の数か月は落ち込んでいましたが、そこから抜け出た後は、いつも明るく、その時々をともかく大切に生きていました。
私には、愚痴ひとつこぼしませんでした。
私たちは、あまり先を見ようとしていなかったのです。
それは「逃避」だったのかもしれませんが、私にはそうは思えません。
節子が旅立つまでの数年間は、ある意味では、とても幸せだったかもしれません。

この言葉を読んで、そんなことを思い出しました。

■2202:自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手(2013年9月12日)
節子
今日は、たぶんとても仲の良いご夫妻にお会いしました。
ご夫妻で会社をやっています。
ビジネスの話で、しかも初対面だったのですが、とても気持ちのいいご夫妻で、初対面にもかかわらず、昔からの知り合いのような気分になってしまいました。
と同時に、節子と一緒に仕事をしていた時のことを、少し思い出しました。

古代ローマの賢人といわれたキケロは、こう言っているそうです。

「世界で最も強い満足感をもたらす経験とは、地球上のあらゆる題材について、自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手をもつことである」

ビジネスの話もしながら、お2人に昼食をご馳走になってしまったのですが、その時にふと思い出したのが、このキケロの言葉です。

キケロはたぶん、志を同じくする友というような意味で語っていると思いますが、私にとっては、いうまでもなくそれは節子でした。
節子に対しては、もう一人の自分と話し合うような自由さと素直さを持てました。
あらゆる題材について、私は節子に話しました。
節子にはまったく理解できないような話題も含めてです。
節子は、たとえ理解できなくとも、あるいは興味を持たなくても、きちんと聴いてくれました。
すべて賛成してくれたわけではありません。
きちんと理解してくれたわけでもありません。
しかし、どんなにわからない話でも、また自らに関係のない私の個人的な話でも、話せば聴いてくれたのです。
節子がどう思おうと、私は一切気にせずに話せました。

人は、話しながら考えます。
無意味なことも含めて、節子と話すことで、私は考える世界を広げることができたような気がします。
そして、「話すこと」の大切さと楽しさを学んだのです。

私が、誰かと話すのが好きになったのは、たぶん、気がねなく自由奔放に話せる節子という相手に恵まれたからです。
今日、仲の良いご夫妻と話をしながら、それに気づきました。
そんなこともあって、初対面にもかかわらず、私はいささか冗長になってしまったようです。

キケロがいう幸せが、もう体験できないことが、少し残念ですが、その体験ができたことに、改めて感謝した気がしています。
節子は、ほんとうに最高の話し相手でした。
節子にとって、私が最高の話し相手だったかどうかは、あまり自信がないのですが。

■2203:ちょっと哲学者(2013年9月13日)
節子
今日も湯島でしたが、予定が少し変わって、1時間半、無為の時間がとれました。
予定していた人が来られなくなったおかげです。
で、何もせずに、なんとなくオフィスでぼーっとしていたのですが、お昼を食べるのを忘れていたことに気づきました。
その人と一緒に食事をする予定だったのです。
お昼を忘れるとは、実に困ったことです。
まあこれからのミーティングに備えて、冷蔵庫にあったサプリメントを飲みました。
これで5時までは大丈夫でしょう。

節子がいた頃も、私はよく昼食を食べるのを忘れました。
忘れなくとも、一人で昼食を食べにお店に行くのが不得手でした。
それで、「まあいいか」とお昼を抜くことが多かったので、節子はお弁当をつくってくれるようになりました。
私には、一人で食事をするのが、とにかく嫌いなのです。
いや、そもそも食事をすることもあまり好きではありません。
食事をする必要がなければ、どんなにいいかと思います。

ところで、1時間、何をしていたかと言えば、なんとなくだらだらとネットを見たりもしていましたが、植え木に水をやったり、テーブルの上のメダカを見ていたりしました。
メダカは2匹が元気にしていますが、水草がなかなかうまく定着できずにいます。
メダカの動きをみていると退屈はしません。
実に楽しそうに泳いでいます。
節子がいた頃は、もしかしたら、私たちもこのメダカのようだったのかもしれません。
メダカは、何も考えずに、ただただ楽しんでいるのでしょう。
人間も、メダカのように楽しく生きられるだろうに、どうしてみんな苦労するのでしょうか。
節子がいなくなってから、生きることの意味をいろいろと考えたりもしましたが、メダカの境地にまでも、まだ届けていないようです。

メダカを見ていると、ちょっと哲学者になれそうです。

■2204:節子を思い出す夏(2013年9月14日)
節子
岡山の友澤さんからぶどうが届きました。
同封されていた手紙に、「節子様を思い出す夏でした」と書かれていました。
あの年も、今年のように暑かったのです。

今年は天候不順で、友澤さんの地元の北房のぶどうはダメだったそうで、今年は違う産地のぶどうが届きました。
そういえば、あの年もぶどうの成熟が遅れていて、友澤さんの思いもむなしく、節子に食べさせてやれなかったのです。
節子が旅立ってから、ぶどうが届いたのを覚えています。
その意味でも、今年は「あの年」と同じです。

今日もまた暑くなってしまいました。
節子が思い出されたくて、悪さをしているのでしょうか。
困ったものです。

■2205:老いること(2013年9月15日)
節子
岡山の友澤さんと電話で話しました。
今年で80歳だそうです。
節子の友だちの松尾さんもあまり調子がよくないようで、最長老の友澤さんが一番お元気のようですが、それでも最近は少し耳が遠くなってきたそうです。
みんなそれぞれに老いているわけです。
老いることの面白さを、節子は味わうことがなかったですが、節子だったらたぶん楽しい老い方をしたような気がします。
私はどうも老い方がわからずに、まだこれまでの生き方を大きく変えられずにいます。
節子と一緒だったら、それなりに老いることを楽しめたのでしょうが。

時に、友人からも歳よりも若く見えると言われます。
つまりきちんと老いていないのです。
友人は、たぶん元気づける「ほめ言葉」で言ってくれているのですが、やはりきちんと老いることに失敗していると言うことでもあります。
節子が62歳で老いることをやめてしまったように、私ももしかしたら、その時点で老いる事ができなくなったのかもしれません。
これはとても不幸なことのような気がします。

人は伴侶や家族との関係性のなかで老いていけるのだと思いますが、私にはそのいずれにおいても、老いる条件がないのです。
あまり口には出せませんが、不幸といえば不幸です。
実際に、友人からは不幸だねと言われてしまったこともあります。
まあ面と向かって言われると、結構辛いものですが、事実だから仕方がありません。

いろんな意味で、私の世界では時計は止まったままです。
もしいま節子が彼岸から里帰りして来たら、この6年間、何をやっていたのと笑われそうです。
どうしたら老いに向かえるか、そろそろ考え出さないといけません。

■2206:京都まで水浸しにした台風(2013年9月16日)
節子
昨日と今日、台風が日本列島を縦断しました。
滋賀と福井と京都は大雨で、多くの河川が氾濫しました。
驚いたことに、桂川までが氾濫し、嵐山の渡月橋も一時は橋の上まで水が来ていました。
川岸にも水が溢れ出し、おそらく天龍寺にも水が入り込んだことでしょう。
このあたりは、よく行きました。
節子と行った、最後の京都旅行の時にも天龍寺に立ち寄った気がします。

節子と付き合いだした頃は、西芳寺もまだ予約なしに気軽に行けたので、その帰りにも嵐山によったりしました。
予約制になってからは、西芳寺には行きませんでしたが、代わりに天龍寺には立ち寄るようになりました。
そのせいか、お寺としては私の好みではないのですが、天龍寺にはなにか親近感があります。
その天龍寺に水が入ったかもしれないと思うと、いささか気になって、今日はテレビをよく見ていました。

滋賀の大津の県庁前も水であふれていました。
そのあたりも、節子とはよく歩いたところです。
と思っていたら、小浜までが水であふれたり、山崩れしたりしていました。
小浜は私が好きなところです。
テレビ映像からはよくわかりませんでしたが、私たちが歩いたところもかなり被害を受けていることでしょう。

今回に限りませんが、テレビを見ているといろんなところの風景映像が出てきます。
そこに、節子との思い出があると、目が釘付けになります。
見ている風景の意味が変わってしまうのです。
多くの場合、なぜかあたたかな気持ちにさえなるのです。
不思議と言えば、不思議です。

しかし、そうした風景も、どんどん変わっていきます。
昨年行った奈良の薬師寺にはもう、節子を感ずる風景はありませんでした。

自然の力はすさまじいものです。
渡月橋や天龍寺は、変わってしまうのでしょうか。
変わらないといいのですが。

今回の台風は、我孫子はそうたいしたことはなく、わが家には被害はありませんでした。
被害を受けたみなさんの生活が、早く元に戻りますように祈りたいと思います。

■2207:一念三千(2013年9月17日)
節子
テレビの名刹古寺という番組で、大原の三千院を取り上げていました。
私の好きなお寺で、節子とも何回か、行きました。
特に秋に歩いた、京都の三尾は心に残っています。
寂光院の石畳が私たちは好きでした。
神護寺の紅葉もきれいでした。
川沿いで食事をしたような気もします。

三千院では、数年前に「悪魔」に出会ったことがあるのですが、その話を節子にしても信じてはもらえませんでした。
節子だけではなく、誰も信じてくれませんでしたが、広島の折口さんだけは信じてくれました。
そのことを思い出して、私のホームページを調べてみました。
そうしたら、その後、もう一度、三千院に行っていることを思い出しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#42

2004年の4月でした。
節子が、元気になってきた頃です。
これが、節子と一緒の、最後の三千院だったのです。
この年は、ともかく節子と一緒に、いろんなところに行きました。
三千院は、節子の姉夫婦と4人で行きました。
なんとなく覚えてはいるのですが、なぜか現実感が戻ってきません。

節子は、その頃、私との思い出をたくさん残そうと私をよく誘いました。
ところが、どうも私にはその思い出があまりきちんと残っていないのです。
節子ががん宣告を受けてから、私は仕事をやめ、活動も大幅に減らしました。
節子との時間はかなりたくさんあったはずですし、節子との一緒の時間を大切にしようと言う気持ちも強かったはずです。
しかし、なぜかその4年半の事は、すべて現実感のない記憶になっています。
とても鮮明に思い出す風景もあるのですが、それがつながらないのと、どこでのことかもあまり思い出せないのです。
せっかくがんばって、思い出を残していってくれた節子には申し訳ありません。
もしかしたら、その4年半は、節子が私たちを先導していたのです。
付いていくだけだと、記憶は残らないものです。
ケアしていたのは、私ではなく、節子だったわけです。

三千院は、「一念三千」という言葉からとったそうです。
一念三千。
天台宗の基本的な教説の一つですが、私たち一人ひとりの日常の一瞬一瞬のかすかな心の動きに,宇宙の一切のすがたが完全にそなわっているということだそうです。
宇宙の一切のすがたが「三千」と表現されています。

この挽歌を書く時、いつも、パソコンに向かって、節子を念じます。
そうするとなぜか書き出せるのですが、時に書いていても、論旨不明の支離滅裂な内容だなと思うことがあります。
それでもアップしてしまうのは、書いたことには何か意味があるのだろうと思うからです。
もちろんチャネラーの手による天からのメッセージではないのですが、まあ、その時々の私の思いですから、そこには私のすべてが入っているわけです。

一念三千。
なんだか好きな言葉になりました。

■2208:また祈りが増えました(2013年9月18日)
節子
2人の友人ががんで手術をします。
お2人とも湯島のサロンによく来ている人です。
知らない人がまだ多いかもしれません。
こういう知らせを受けると、ただ祈るだけしかありません。
毎朝の節子への祈りに合わせて、祈らせてもらっています。

節子の時も、節子のことを知って、毎朝祈ってくれていた人がいます。
それを知ってとてもうれしくなりました。
お見舞いの花よりも、お見舞いの言葉よりも、祈ってもらうことはうれしいことです。

祈ると言っても、私の場合は、ただその人の顔を思い出すだけです。
人の顔が思い浮かべば、当然、祈りが生まれるからです。
過剰な言葉は不要です。
ただ思い出せば、祈りは天に届くでしょう。
しかし、届いたからといって、何かが変わるわけではないかもしれません。
私は、節子との別れで、それを知りました。
あれほど祈ったのに、奇跡は起こらずに、節子は逝ってしまいました。
だからといって、祈りが無駄だったとは思いません。
祈りは、祈ることにこそ、意味がある。
今はそう思えるようになりました。

世の中には、祈ってほしい人は少なくないでしょう。
私だって、祈ってほしいです。
山のように重荷を背負っていますから。
だからそのぶん、他者を思って、祈るのです。
自分が幸せになりますように、などというのは、私の祈りにはありません。
おそらく多くの人もそうでしょう。
みんな他者のために祈るのです。
そのことも、節子が逝ってしまってから、実感できたことです。

周りの人たちが、みんな幸せなほど、自分が幸せなことはありません。
周りに問題を抱えている人がいるほど、辛いことはない。
奈落の底を経験すると、それがよくわかります。

■2209:パスカルには賛同できません(2013年9月19日)
パスカルは「パンセ」のなかで、こう書いています。

だれかをその美しさのゆえに愛している者は、その人を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。
〈中略〉
人は、ある人の魂の実体を、そのなかにどんな性質があろうともかまわずに、抽象的に愛するだろうか。そんなことはできないし、また正しくもない。だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

私は、パスカルのこの主張には全く賛成できません。
たぶんパスカルは、人を愛したことのない、不幸な人だったとしか思えないのです。
人を愛するのは、「美しさ」や「優しさ」などではありません。
愛することには、理由などはありえないのです。
ただ純粋に、愛してしまったということです。
これは定めとしかいいようがありません。
あるいは事故といってもいいかもしれません。
ただそれでは納得できないので、理由をいろいろと考え出すのです。

このことは、愛が冷めた時のことを考えれば納得できるでしょう。
愛が冷めるのもまた、理由などないのです。
それまで好きだったことまでもが嫌いになってしまうことはよくあります。
つまり、それもまた、定めであり事故なのです。

パスカルは、愛を小賢しく分析するべきではありませんでした。
愛に関する本は、いまもたくさん出ています。
私は読んだことがありませんが、たぶん人を愛したことのない人たちが、そうした本を書くのでしょう。

今日、ある本を読んでいて、引用したパスカルの言葉を知ったのですが、違和感を持ったので、書いてしまいました。
私が節子を愛したのは、定めか事故かのいずれでしょう。
一応、私は定めだと思っていますが、事故だったのかもしれません。
節子が私より早く旅立ったのも、定めか事故だったのでしょう。
それに抗えなかったのが、実に無念です。
変えなければいけない定めや避けなければいけない事故もあるからです。
パスカルのように、小賢しい説明はしたくはありません。

■2210:節子も聞いていましたか(2013年9月20日)
節子
昨日、國分さんが湯島に来ました。
ある問題で、ある人との係争問題を話し合いたいので、私に立ち会ってほしいといってきたからです。
なぜ私が立ち会うのか、よくわからなかったのですが、その相手からも立会いを頼まれたので、不承不承、立ち会いました。
私は単に聞き役でいいのですね、と確認したら、そうですと國分さんが明言しました。

最初に國分さんが話し出しました。
そこに節子のことまで出てきました。
ようやく國分さんの意図がわかりました。

國分さんとの出会いは、もうかなり前です。
アフリカから戻り、アメリカに行く前だったでしょうか。
節子の体調のことも知り、アメリカに発つ前にたしか植物エキスからできた何かをもらったような気がします。
それを使うと元気になるというものでした。
國分さんは、そういう分野に強い興味を持っている方でした。

その後、アメリカにわたり、ニューヨーク州政府認定マッサージ・ セラピストになり、今は日米で活動しています。
節子は病気になってから、渡米前に國分さんからもらった手紙を見つけ、会いたいと言い出したことがあります。
その時には、國分さんは確か帰国していて、会ったような気もしますが、あまり明確に覚えていません。
おそらくこの挽歌のどこかに書いてあるでしょうが、時々、書くように、この10年ほどの私の記憶はとても曖昧になっているのです。
特に節子に関連した記憶は、そうなのです。

國分さんの話は、私たちへの報告のような気がして聞いていました。
意識して國分さんがそうしていたわけではないと思いますが、何となくそう感じたのです。
ちなみに、肝心の話し合いの論点は、話し合うどころか、最後に國分さんが相手の言い分をすべてあっさりと一方的に飲んでしまいました。
だから私など同席する必要がなかったのです。
でもきっと國分さんは、私たちに同席してほしかったのでしょう。
彼女はとても霊性の強い人なのです。
彼女の思いは、たぶん、私は全て受け止められたと思います。
話し合いが終わった後、思わず、國分さんに「変わっていないね」と言ってしまいました。

節子
國分さんはますます元気です。
節子のことを覚えていてくれたのが、私にはとてもうれしかったです。

■2211:すべてのさいわいをかけて、まっすぐにすすむ(2013年9月21日)
節子
今日は、宮沢賢治の命日です。
賢治が旅立ってから80年目です。

30年ほど前に前世で一緒だったという人が私を訪ねてきました。
どうも私は花巻高校に縁があったようです。
となると、私は前世で賢治とすれ違っていたかもしれません。
その人から、ある場所を教えられ、そこに行けば前世を思い出すといわれました。
だいぶ考えたのですが、そこには行きませんでした。
前世を思い出すことは、少し不謹慎な気がしたからです。
しかし、いまはちょっと後悔しています。

賢治の残した「永訣の朝」は、この挽歌でも何回か書きましたが、学生の頃からともかく心に響いた詩でした。
合間にはいる
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
という言葉が、なぜか一度読んで以来、心から消えません。
その響きは、以前、どこかで聞いたような気がします。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」

雨にもまけずは、実はあんまり好きな詩ではなかったのですが、会社を辞める頃から、私の生き方の信条になりました。
世界のみんなが幸せにならないと自分も幸せにはならないという、賢治のメッセージは、歳を重ねるに連れて、とても実感できるようになりました。
そんなわけで、賢治は私にとっては、とても興味のある人です。

賢治の言葉は、どれも心に響きます。
根底に、大きな愛を感じます。
私も、そんな生き方をしようと思っていた時期がありました。
でも、賢治のようにはなれません。

久しぶりに今日、「永訣の朝」を読みました.
これまであまり気にならなかった2つの文章が心に残りました。

「わたくしもまっすぐすすんでいくから」
「わたくしのすべてにさいわいをかけてねがふ」

それぞれ、真ん中と最後に出てくる1行です。
まだまだ賢治には遠いです。

■2212:「死者」の誕生(2013年9月22日)
節子
鷲田さんの「〈ひと〉の現象学」は面白かったです。
そのなかに、「ひとは死して、生者から死者への語りかけのなかで、こんどは生者に語りかける死者として生まれなおす」という文章が出てきました。
とても納得できました。
死は「死者」の誕生なのです。

生者と死者は違う世界に生きていますが、お互いに語りかけが出来るのです。
私は、毎朝、節子に語りかけ、挽歌を通しても、節子に語りかけています。
節子もまた、私に語りかけてきています。
他の人には聞えないでしょうが、私には聞えます。
語りかけは、一方的な行為ではなく、関係性の現象だからです。

語りかける生者がいないこともさびしいことでしょうが、語りかける死者がいないこともさびしいことです。
そのことに気づいていない人が多いように思います。
いや、もしかしたら、死者に語りかけることを知らない人も、最近は増えているのかもしれません。

それにしても、「人は死ぬことで死者として生まれる」という発想が新鮮でした。
もし、人が此岸と彼岸を転生しているのであれば、まさに死は生を、そして生は死を意味します。
そして、此岸と彼岸とが語り合える世界であるのであれば、そういう関係での生き方を学ぶのが良さそうです。

明日はお彼岸の中日です。

■2213:遅くなってしまったお墓参り(2013年9月23日)
節子
いつもは彼岸の入りにお墓参りをするのですが、今年は今日になってしまいました。
実は、昨日までお彼岸であることを忘れてしまっていたのです。
最近はいろいろと心煩わされる問題が多くて、少し疲れているのかもしれません。
お墓で般若心経をあげてきました。

午後、ジュンのスペインタイル教室に来た娘の友人たちがお供えの花とおはぎを持ってきてくれました。
先日は、ユカの友だちがわざわざお花を上げに来てくれましたが、節子はまだいろんな人の世界に残っているようです。
人には、それぞれ定めのようなものがあるのだと改めて感じます。

彼岸を越えるといよいよ秋です。
この夏は、酷暑のために庭の花もかなり元気をなくしてしまっています。
それで、昨日は娘たちと花を買い込んできました。
花の選択には、今も節子の好みが繁栄されています。
来週には庭の花もきっと華やかになっていくでしょう。

もっとも、私が抱えている「心煩わされる問題」はなかなか完結しません。
もう少し続きそうです。
だからこそ心を鎮めるために、毎朝のお参りはしっかりとやらなければいけません。
お彼岸を忘れるようでは、どうしようもありません。
実に困ったものです。

■2214:DVの相談を受けました(2013年9月24日)
節子
昨夜、関西にいる友人からDVの関係での相談を受けました。
その人の知り合いが東京にいるのですが、DVの被害にあっているようです。
それで相談に乗ってもらえる人はいないかというのです。
最近の事件報道を見ると、警察はあまり信頼できないのだそうです。
そこで、私の友人知人にメールで情報提供をお願いしました。
そうしたら、あっという間にたくさんの情報が集まりました。
それほどDVは、蔓延しているのかもしれないとショックでした。

なかには生々しい情報を送ってくれた人もいます。
DVも、たぶん加害者と被害者が峻別できない複雑な問題なのでしょう。
そこでは被害者の殺害や加害者の自殺まで起こっています。
社会が壊れだしている、一つの表れのように思われます。

それにしても、せっかく愛し合って一緒に暮らし始めた人たちが、なぜうまくいかなくなるのでしょうか。
最近は離婚率もとても高いようです。
そもそも結婚しない人も増えています。
私の娘の1人もまだ結婚していません。
親としては、とても心配であるばかりではなく、娘に申し訳なくて、仕方がありません。
たぶん私の、そして節子と私の、生き方のどこかに問題があったのでしょう。
心当たりがないわけではありません。

DVは、愛の表現の一つでしょうか。
そんなはずはないと思う一方で、それを完全には否定できずにいます。
食べてしまうほど愛しているという言葉がありますが、愛するあまり食べてしまったら、間違いなくDVです。
そうした猟奇事件も起こっています。

昔は、夫婦のケンかは犬でも食わないと言われていました。
結局はいつの間にか仲直りして、仲良くなるからです。
しかし、最近はそうではなくなってきたのかもしれません。
とてもさみしい話です。

もっとみんな伴侶を大事にしてほしいです。
かけがえのない存在なのですから。

■2215:チビ太の四十九日(2013年9月25日)
今日はチビ太(チャッピー)の四十九日です。

わが家でのチビ太の居場所はリビングでした。
リビングとダイニングは続いていますので、夜、のどが渇いて冷蔵庫に飲物を飲みに行ったりする時には、チビ太を起こさないように気をつけて行ったものです。
長年その習慣がついているため、いまもいつも気をつけて行くのですが、電気をつける時に、「ああ、もうチビ太はいないんだ」と気づきます。
もう49日も経つのに、それがまったくなおりません。

朝起きていく時も同じです。
これまでは「チビ太、おはよう」と声をかけてリビングに入っていきましたが、今も同じように声をかけています。
いつもはほとんど忘れているのですが、リビングに入る時には必ずチビ太を思い出します。
その時の気分は、ちょっと悲しい気分です。

チビ太の位牌をどうするかは、まだ家族の意見が分かれています。
一番、最後まで面倒を見たのは、ユカですので、ユカの意見を優先させようと思います。
ユカは、当分、位牌をそのまま置きたいというのです。
節子よりも大きな位牌なので、私自身は違和感があります。
庭に埋葬しようと言うのが私の意見ですが、それにはユカは絶対反対です。
できれば、私も節子も庭に埋葬してほしかったくらいなのですが、人間の場合は法的にも禁じられているようですが、犬の場合はどうでしょうか。
しかしまあ、娘が反対なので、その可能性はありません。

遺骨をどう考えるかは、その対象との関係によってまったく違ってきます。
節子の遺骨は、私には節子と同じくらい愛おしいものです。
しかし、たぶん家族以外の人の遺骨には、そういう感情は起こりません。
むしろ身震いするほどの存在かもしれません。
不思議と言えば、実に不思議です。
よく遺体と一緒に長年暮らしていたというような事件がありますが、愛する人の遺体は、愛おしい存在ですから、なんの不思議もないのです。

チビ太との距離はどうもユカが一番近いようです。
まあユカに任せることにしましょう。
私は節子だけでもう手一杯ですので。

節子
四十九日を終えて、チビ太も彼岸ですね。
咬まれないようにしてください。

■2216:時間はあっても余裕がないこともあります(2013年9月26日)
節子
今日はまた大きなトラブルが舞い込んできました。
最近はいささか精神的に疲弊していますので、トラブルを楽しむ余裕もありません。
悪い時には悪いことがどんどん重なっていくのです。
人生は、実に皮肉で、ひとつがうまく行きそうになると、うまく動き出したと思っていたことが破綻しだしたりします。
たぶん私自身の目配りに間違いがあるのでしょうが、それにしてもどうしてこうもトラブルが多発するのか。
人を信頼して生きるということに、いささかの自信がなくなってきます。

昨日、小宮山さんが私に携帯や会社に電話してきて、何回、かけても私が電話に出なかったので(ただ気づかなかっただけなのですが)、心配して自宅にまでかけてきたそうです。
オフィスの留守電に気づき、小宮山さんに電話したのですが、「佐藤さんが倒れたのではないかと心配した」と言われました。
まあ、この歳になると笑い話でも済まされない話です。
小宮山さんも、私の心労のタネを少しだけ知っているので、心配したのです。
自分はともかく、ほかの人に心配させるようでは、生き方が間違っているとしか思えません。
それにしても、今日はまたダブルパンチ的な悪い情報がふたつも飛び込んできました。

そんなわけで、今日は挽歌を書く余裕がありません。
書く時間はあるのですが、書く余裕がないのです。
まあそういう時もあるでしょう。

節子
あなたがいなくなってから、良いことがありません。
困ったものです。

■2217:自らの「いのち」でないいのちを生きること(2013年9月27日)
節子
映画「天地明察」では、主人公の夫婦が、それぞれに違う場面で、相手にお願い事をするシーンがあります。
そのお願い事とは、「自分より先にしなないでほしい」ということです。
その気持ちはよくわかります。

人生を一緒に過ごすことに決めても、ほとんどの場合、一緒に死ぬことはありません。
その先を考えると、2人の願い事は両立し難いのですが、そう思うことも当然です。
長生きは、決して自らのためなのではないのです。
最近、そのことがよくわかってきました。
同時に、人の「いのち」は自らのものではないということも実感できるようになりました。

自らの「いのち」でないいのちを生きることを自覚すると生き方は変わるはずですが、それが必ずしもそうはなりません。
どこかでまだ、自分の人生だからという思いがあります。
私自身、これまでも、そして今もなお、「自分の人生をしっかり生きないといけない」などという話をしています。
あまりにも、自分を抑えて、与えられた人生や組織に依存した生き方をしている人が多いように感ずるからです。
そこの矛盾が、まだうまく埋められずにいますが、自分の信ずるもののために生きることが、大きないのちを生きることになるような生き方に近づきたいと思っています。
その「大きないのち」ですが、節子がいる時には、それが何となく見えていたのですが、今はそれを失っているのかもしれません。
「大きないのち」は、たぶん、一人では生き抜けないのです。
最近少し弱気になっているせいか、そんな気がしています。

ところで、映画「天地明察」ですが、主人公夫婦は、同じ日に亡くなったそうです。
これは実話に基づいた小説の映画ですが、もしそうだとすれば、実に幸せな夫婦です。

今日は秋晴の良い天気です。
めげずに前に進めそうな気がするような、「気」が充満しているような朝です。
気弱になると、こうした自然に大きく支えられているのがわかります。

■2218:「坊さんのような生き方」(2013年9月28日)
節子
今週は3つのサロンを湯島で開きました。
軽い話もあれば、重い話もありました。
今日は、自殺未遂をした吉田銀一郎さんを主役にしたサロンでした。
吉田さんとは3年の付き合いですが、この3年で大きく変わりました。
今日はいろいろと話を聞いた後、もう自殺問題の当事者などといわずに、今日からは支援者になろうよと吉田さんに話しました。
吉田さんも、ようやく決断しました。
3年かかりましたが、とても嬉しい日になりました。
これで変わらなければ、今度こそ吉田さんを蹴飛ばさないといけません、

終わった後、小宮山さんたちと居酒屋に行きました。
小宮山さんとの付き合いは、もう15年以上でしょう。
友人が主宰していたソシオビジネス研究会で私の講演を聴いてくれて、それが付き合いの始まりでした。
小宮山さんが、その時、私の話をどう受け止めたか、今日、初めて教えてもらいました。
「坊さんのような生き方をしている人だな」と思ったのだそうです。
これはちょっと意外、いや、大いに意外でした。
私は、時代の最先端を行く生き方をしているという自負があったからです。
ビジネスに関しても、時代先取りの話をしたつもりですが、おそらく誰にも理解してもらえなかったのでしょう。
私の話を聞いて、その後、付き合いが始まったのは、2人の学生だけでしたが、ビジネスをやっている人にはまったく受けなかったのでしょう。
にもかかわらず小宮山さんは、その時から時々湯島に顔を出し始めました。
今週は、なんと2回もやってきました。
人生は実に面白いものです。

しかし、「坊さんのような生き方」と言われたことはこれまで一度もありません。
あまりに意外な言葉だったので、いささかひるんでしまって、「坊さんのような生き方」って、何ですか、と質問するのを忘れてしまいました。
小宮山さんの口ぶりからして、どうもほめられたのではないことは間違いありません。

人の生き方は、自分が思っているのと他者が思っているのとは、違うものです。
これまで何回もそれを経験してきました。
どちらが正しいかどうかは言えませんが、たぶん大切なのは自分の思いではなく、他者の受け止め方でしょう。
人の評価を決めるのは、決して自分ではないからです。

さて「坊さんのような生き方」ですが、やはり違和感があります。
そう思われないように、生き方を見直す必要がありそうです。

と、ここまで書いてきて、ハッと気づきました。
そういえば、小宮山さんは私に時々、お布施をくれるのです。
「坊さんのような生き方」とお布施。
なんで小宮山さんはお布施をくれるのだろうかと理解できていなかったのですが(にもかかわらずもらっています)、いまやっと理解できました。
私は、小宮山さんには、いまも「坊主」なのです。
そういうことだったのです。
気づくのが遅かったです。

もらったお布施は誰かに回さないといけません。
でもまあ一応、お布施はちゃんと次に回していますから、バチは当たらないでしょう。
しかし、「偽坊主」にならないように、注意しなくてはいけません。

節子
お坊さんではなく、お坊さんに送ってもらう人になりたいのに、なかなかなれずにいます。
困ったものです。

■2219:記憶の支援(2013年9月29日)
節子
一緒にハワイのキラウェア火山を見に行った、茂木さんが今や大活躍ですが、茂木さんと奥田さんの対談を読んでいて、「記憶の支援」という言葉を初めて知りました。
奥田さんはホームレス支援などで有名な方ですが、対談を読んでいて、その生き方に感銘を受けました。
その奥田さんが、こう話しているのです。
少しだけ、短く書き直して、紹介させてもらいます。

家族は、一緒に生活をしているわけですから、自然と記憶が蓄積されていきます。そして、その記憶を使って現在起こっている事柄や事件への対処を考えたりします。例えば、本人が忘れていても、誰かが病歴を覚えていれば対処ができます。しかし、路上の支援においてはこれができない。誰もその人に関する記憶を持っていないからです。家族が崩壊していく中で、このような家族的機能をこの社会の中でどう持たせるのかが課題なのです。「記憶の支援」、それはあなたのことを忘れてはいないという強いメッセージと共に、具体的対処を可能にするうえで重要です。

記憶を共有することが大きな支援になる。
いままではっきりとは意識していませんでしたが、まさに家族や仲間にとって、「記憶の支援」こそが要かもしれません。
奥田さんが話している以上に、「記憶の支援」の力はきっと大きいでしょう。

これを読んだ時に、すぐ思い出したのが、日本ドナー家族クラブの間澤さんです。
間澤ご夫妻はアメリカ留学中の娘さんを交通事故で亡くされ、娘さんの遺志でドナーになりました。
それで日本ドナー家族クラブを立ち上げましたが、私もささやかに応援させてもらいました。
間澤さんたちは、5月17日を「生命・きずなの日」と定め、毎年、公開の集まりを開催していました。
そのイベントのために、みんなで短い動画作品を創りましたが、それは「あなたをわすれない」とみんなが呼びかける映像集でした。
私も参加させてもらいました。
それを制作する時の、間澤さんご家族の熱意が、いまも鮮明に記憶に残っています。

間澤さんは数年前にご主人が亡くなりました。
その後、私もご無沙汰になってしまっていますが、一度だけ、奥様から、元気にしていますと連絡をもらったことがあります。

ネットで調べたら、日本ドナー家族クラブのサイトが更新されていないのに気づきました。
とても残念に思いましたが、記憶の共有を継承し、育てていくことは簡単ではありません。
一昔前の家族は、たぶんそれができました。
家族とは、実は記憶の倉庫であり、それが家族を支えてきたのでしょう。

話が少しずれてしまいましたが、「記憶の支援」とは素晴らしい言葉です。
記憶していることは、他者への支援であると同時に、自らにとっても支えなのです。
そうした「記憶の蓄積所」が消えつつあるのが、社会が壊れつつある原因なのかもしれません。

■2220:死は必然である(2013年9月30日)
節子
最近、友人たちから死生観に関する本が2冊、届きました。
いずれも私のホームページで少し紹介しましたが、一条真也さんの「死が怖くなくなる読書」と藤原さんが編集した「今を生きる僧侶の言葉」です。
言霊の力は大きいのです。
しかし、私の場合、死生観に関する言説は、節子との別れを体験してからは、受け取り方が変わりました。
心に響いてこないのです。
死生観を一般論として、文字にすることへの拒否感かもしれませんが、自分のことを語っていないものには、特に違和感を強く持つことが多いです。

ところで、後者の本で知ったのですが、浄土真宗本願寺派では、日本各地でビハーラ活動というのを展開しているそうです。
「ビハーラ」とは、サンスクリット語で「安住」「安らか」「くつろぐ」という意味で、ビハーラ活動とは、ホスピスやターミナルケアの仏教版と言ってもいいでしょう。
生老病死の苦しみや悲しみを抱えた人々を全人的に支援するケア活動で、具体的には、僧侶、医療関係者、福祉士などがチームを組み、患者さんの心に寄り添い、支援を求めている人々が不安と孤独のなかに置き去りにされないように、共感しその苦悩を直視し、自らの問題として共に歩む活動だそうです。
その活動の基本にあるのは、「死は敗北である」とは考えず、「死は必然である」と捉えるという姿勢です。
これは前者の本の著者、一条さんと同じです。

だれもが死を迎えると考えることは、だれでもわかっていることですが、愛する人の死に直面すると忘れてしまいます。
死が、その人だけを襲ったと、ついつい考えてしまうのです。
しかし、「だれもが死を迎える」と思いなおせば、心は少しだけ和らぎます。

「今を生きる僧侶の言葉」の紹介文にこんな文章がありました。

死を前に癒されていく人の心境の変化を知ることは、まだ逝かない人であっても、悩み苦しむ心に染みわたり、安らぎを感じさせてくれる。

遺された者に、安らぎを与えてくれる死というものもあるのだと気づきました。

■2221:死をいつ迎えるか(2013年10月1日)
昨日、「だれもが死を迎える」と書きましたが、問題は、「死をいつ迎えるか」かもしれません。

ギリシア語には、「時」を表す言葉が2つがあります。
「カイロス」と 「クロノス」です。
前者は「時刻」を、後者は「時間」を指しています。
クロノスは、過去から未来へと一定速度で流れる連続した時間で、私たちが普段使っている、いわゆる「時計の時間」です。
それに対して、カイロスは、一瞬や個人ごとの主観的な時間を指すのだそうです。
管理された時間がクロノス、管理できない時間がカイロス、と言ってもいいかもしれません。

旧約聖書の「伝道の書」のなかに、「生るるに時があり、死ぬるに時があり」という有名な言葉がありますが、それがまさに「カイロス」だそうです。
つまりカイロスは、人為を超えた神の時なのです。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
・・・・・・
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに 時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
・・・・・・
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを 初めから終りまで見きわめることはできない。

私はクリスチャンではありませんが、この言葉はとても好きです。
とても仏教的でもありますし。

私は大学時代から腕時計をほとんどしたことがありません。
それに、クロノスに規制された生き方が馴染めませんでした。
「時」には、表情もあれば、意味もある。
そう思っています。
しかし、実際に生き方は、どうもクロノジックに生きているようです。
それに比べて、病気になってからの節子は、カイロスの時間を生きていたように思います。
一瞬一瞬を意味あるものにするために、しっかりと生きていました。

人は、死ぬ時に死ぬ。
そしてそれはまた、「その時にかなって美しい」。
そう思えるように、早くなりたいと思います。

■2222:湯島のローソン(2013年10月2日)
節子
湯島のオフィスの近くのローソンが新装開店しました。
ところがもしかしたら、オーナーが変わったかもしれません。

湯島のオフィスは25年前に開きました。
当時は、節子と一緒に出勤していました。
私たちがオフィスを開くのと、たぶんほぼ同じころにローソンが開店しました。
私は当時、コンビニを利用することはまったくありませんでした。
たぶん節子もそうだったと思いますが、ちょうどオフィスに行く途中だったので、このローソンは利用させてもらいました。
ただそれだけの話なのですが、そのローソンのオーナーが道で会うととても丁寧にあいさつしてくれるのです。
最初は、私自身、その人がだれかわからずに、あいさつされて戸惑ったことがあるのですが、節子からローソンの人だと教わりました。
以来、道で会うと私からも声をかけさせてもらうようになりました。

そのローソンは場所があまり良くなかったのか、10年ほど前に大通りに面した場所に移転しました。
前の店舗は、たぶんオーナー家族の住んでいるビルの1階にあったのですが、そこはどうやら息子さんがカフェを始めました。
大通りに移った新店舗は好調でしたが、すぐ近くにファミリーマートができてしまいました。

数週間前に、突然、そのローソンが閉まって改修工事に入ったのです。
さらにその少し前に、前に会ったところのカフェも閉鎖されました。
オーナーの方はどうしたのだろうとずっと気になっていたのですが、ローソンの跡にまたローソンが開店しました。
よかったとうれしかったのですが、スタッフが全員変わっていました。
もしかしたら、オーナーが変わったのです。

長々書きましたが、この数週間ずっと気になっていたことなのです。
ローソンが転居し、カフェもできた頃、オーナーの奥様に、2つもお店ができて大忙しですねと声をかけたら、での大変なのですよと答えてくれたのが忘れられません。
もしかしたら、ほんとに大変だったのかもしれません。

湯島のオフィスは、もう25年目です。
その間、ほとんど来なかった時期も5年近くありますが、それだけいるといろんなことがあります。
また節子が知っている人が、1人、いなくなってしまったかもしれません。
とてもさびしいです。

■2223:またひとり旅立ちました(2013年10月3日)
節子
今年もまた、我孫子の散歩市が近づきました。
ジュンがスペインタイル工房を開いているので、その日はわが家も会場の一部になるのですが、私はいつもそこで勝手なカフェを開いています。
タイルとは関係なく、私に会いに来る人もいます。

今年は最後になるかもしれないので、我孫子の友人知人に少し案内を出すことにしました。
そのおひとりの山内さんの奥さんからメールが来ました。

主人は7月28日に3か月の療養で亡くなりました。

短いメールですが、内容は衝撃的でした。
私自身は2年ほど前に、ご主人とあることでご一緒しただけでしたが、とてもやわらかな魅力的な笑顔の方でした。
農業関係のジャーナリストでしたが、論説などに健筆をふるっていました。
ゆっくりお話ししたことはなかったのですが、昨年のカフェにご夫妻で寄ってくれたのです。
たぶんご自宅からの通り道沿いに、散歩市会場の旗を見つけたのでしょう。
とても仲の良いご夫婦でした。
かなり長居してくれました。

半年前くらいでしょうか、電車の中で本を読んでいたのですが、ふと顔をあげたら斜め前に山内さんが座っていました。
いかにも気持ちよさそうな感じで眠っていたので、声をかけるのはやめました。
私が降りる駅に来てもまだ眠っていました。
それが山内さんを見た最後でした。
そのことはもしかしたら前にブログで書いたかもしれません。

山内さんは、最後までお仕事に取り組んでいたわけです。
おそらく穏やかな3か月だったことでしょう。
お人柄は最後にも表れるのかもしれません。
こうして、だんだん知り合いがいなくなっていくのでしょう。
最近そんなさびしさを少し感じます。

視点を変えれば、彼岸に友人知人が増えているわけです。
私も、そろそろ軸足を移し出す時期かもしれません。

山内さんのご冥福をお祈りいたします。

■2224:「カケコー」(2013年10月4日)
節子
今年は20年の一度の伊勢神宮の遷宮の年です。
そのクライマックスともいえる遷御の儀は、2日の未明、「カケコー」の声で始まりました。
これは神への呼びかけでしょう。
日本は言霊の国と言われますが、もともと言葉は神のものだったのではないかと思います。
神は、言葉を通じて、人と共にあったように思います。

今のような言語ができたのは3500年ほど前だそうです。
それまでは、神の言葉が人の右脳に響いていたと言います。
人は神と共にあり、彼岸と此岸はつながっていたと言います。
神の言葉を模倣して、人の言葉が生まれました。
その言葉は、もっぱら左脳で使われたと言います。
そして「意識」がうまれたのです。
これは、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」からの受け売りです。

言語が生まれて、人は神とは別の世界を持つようになったのでしょう。
シュメールでも黄河流域でもおなじ時期だったようです。
聖書のバベルの塔の話では、天まで届く塔を立てようという人間の不遜さを起こって、言語を奪ったと書かれています。
それで塔は完成しませんでした。
神が怒ったのは、塔を建てようとしたことではなく、神の言葉に従わずに自らの言葉を使い出したことへの怒りだったのではないかと思います。

言霊は、言葉そのものに現実を生み出す力があるわけではありません。
最近読んだ中公新書の「言霊とはなにか」によれば、神とのつながりによって、言葉は力を持ったと言います。
しかし、神から見放されれば、言葉は単なる意味を伝える不完全な道具でしかありません。
神の言葉と人の言葉を混同したところから、人の苦労は始まったのかもしれません。

遷御の儀での「カケコー」は意味を伝える言葉ではなく神への呼びかけでしょう。
呼びかけられた神は、応えてくれます。
今回も、一陣の風が吹いたそうです。
神はまだ不遜な人類を見放してはいないわけです。
そんなことを考えながら、遷御の儀の報道を見ていました。

ところで、節子と一緒に、伊勢神宮に行ったはずなのですが、その記憶がまったくありません。
なぜでしょうか。
不思議です。

■2225:銀閣寺のお線香(2013年10月5日)
節子
今日から我孫子の「手づくり散歩市」です。
昨年から名前が「アートな散歩市」になってしまいましたが、ジュンが引き続き参加しているので、私も例年のように珈琲サービスをすることにしていました。
しかし、今日はあいにくの雨で、庭でのカフェはできませんでした。

午後から、久しぶりに杉田夫妻がやってきました。
数年前の散歩市に来てくれたご夫妻です。
いつもこの時期はアメリカだったようですが、今年は奥さんのローレンさんが2週間ほど前に帰国されたようです。
お2人は、タイル工房でタイルづくりに挑戦されました。

雨も本格的になってきたので、今日はもう誰も来ないなと思っていたら、思いもしなかった人が来ました。
経済同友会の太田さんです。
久しぶりです。
たまたま先日、ある人と私の話になり、私をネットで調べていて、今日の庭でのカフェを知り、西東京市からわざわざ来てくれたのです。
来るなり、奥さんに線香をあげさせてほしいと言ってくれました。
しかも線香持参です。
京都東山の銀閣寺のお線香でした。

太田さんは、節子がなくなったことを知らず(基本的には私の友人知人には話しませんでしたので)、ネットで私のサイトを見て、知ってくれたのです。
奥さんには湯島でお茶を淹れてもらいましたから、と話してくれました。
私がまだ会社時代、経済同友会に通っていた時期がありますが、その時以来の付き合いです。
いささか型破りの人で、私にはぴったりの人です。

タイルづくりを終えた杉田夫妻も一歩になって、室内でカフェしました。
和紙の専門家、天文学の専門家、そして経済同友会の型破りスタッフと、面白い組み合わせでしたが、話が弾んで6時近くまで話しこんでしまいました。

節子が始めた、手づくり散歩市カフェのおかげで、自宅でもいろんな人との出会いがあります。
明日は誰が来るでしょうか。
雨があがってくれるといいのですが。

■2226:慢性忙しさ病(2013年10月6日)
節子
忙しく生きていると、まわりが見えなくなってきます。
最近の私の生き方は、もしかしたらそうなってきているのかもしれません。

忙しいとは「心を亡くす」と書きます。
必ずしも、時間がないという意味ではないでしょう。
むしろ「何かにこころを奪われて、周りが見えなくなってしまっている」ことが、私にとっての「忙しさ」です。
いささか勝手な解釈ですが、私の場合は、そう考えるととても納得できます。

やるべきことが多くて、10分刻みで動かなければいけない時に、「忙しさ」を感じたことはありません。
その時は、むしろある目標に向かって、心を集中していますから、心を亡くすとは正反対の状況なのです。
時評編で書いたこともありますが、暇の時ほど、むしろ「忙しい」気分に陥りやすいのです。

そういう考えでいえば、最近は、心が何かに集中することがありません。
もしかしたら、最近の充実感のなさは、「慢性忙しさ病」かもしれません。
だから、それを打ち消したくて、「忙しくない」と人に言っているのかもしれません。

この2日間、地元のイベントに便乗して、いろんな人たちに会いました。
今日、来てくださったなかのお2人は、散歩が大好きのようです。
わが家の庭でのサロンが終わった後、おひとりは、近くの手賀沼公園の周りをかなり遠くまで散歩されたそうです。
もうお1人の、初めてお会いした方もよく散歩されているようです。
昔は日本で一番汚れていた手賀沼も。最近はかなりきれいになりました、周辺も整備され、散歩道もできました。
緑もあれば、水もある。
ゆっくりと散歩すれば、いろんな発見もあります。

節子がいた頃は、時々、散歩もしました。
しかし、いまはもうまったく散歩はしていません。
出かける気がしないのです。
心が失われている表れかもしれません。
みんなと話していて、そんなことを感じました。

■2227:困ったものです(2013年10月8日)
節子
悪いことがまた重なりだしました。
いささかパニックです。
まさに「心失う忙しさ」です。
心身穏やかでなく、そのせいかミスが増えてきました。
そんなわけで、暫くまた挽歌が書けないかもしれません。
困ったものです。

こういう時には、ほんとうに節子にいてほしいです。
一人で難問に立ち向かうのは、心身ともに疲れきります。
渦中にいると見えなくなりがちですが、まあたいした問題ではないのでしょう。
頭ではそうわかっているのですが、なかなか抜け出せません。
実に困ったものです。

■2228:朝のない夜(2013年10月9日)
最近、気分的にちょっと暗いので、暗い話です。
もっとも、この挽歌はすべて暗いかもしれませんが。

今朝、ふと「朝の来ない夜はあるなあ」と思ったのです。
ついでにいえば、「春の来ない冬」もあります。
実に暗い話ですね、すみません。
気分はどうしても出てしまうものです。

今、いささか思い気分の状況にありますが、昔は、こうした辛い状況の時には、○○(月日が入ります)になればすべては終わっていると考えて、頑張ることができました。
どんなに大変でも、必ずそれが終わる時期はあるからです。
最近の憂鬱な状況も、実は10月の中旬には解放されると考えて、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせてきたのですが、それが予想と全く違うことになったのです。
それで、解放どころか、憂鬱さはさらに高まってしまったわけです。
しかも、それに加えて、さらに難題が発生し、良かれと思って動いていたことが、今朝の今朝までほぼ全てが裏目に出てきてしまったのです。
それで、今朝もいささかパニックでした。
そんなわけで、「朝の来ない夜」はないから、もうじき、この状況から抜けられるだろうと改めて自分に言い聞かせたのですが、そこでハッと気づいたのです。
「朝の来ない夜はある」ということに。
節子には、2007年9月3日の朝は来ませんでした。
そして、それで寒々した冬のような状況に陥った私は、もう7年目なのに、春を体験したことがないのです。

やはり暗いですね。すみません。
そう思って、ホームに落ちないようにしようと注意しながら電車に乗って出かけました。

ここで終わると読者の人は心配するかもしれませんが、実はその後、流れが少し反転しそうな気配を感じたのです。
状況が反転したのではありません。
気分が、です。

思いもかけなかった人から電話がありました。
午後にお伺いした特別支援学校で、3か月ぶりに私の本来の活動に触れました。
困ったことを何人かの人にメールしたら、数名から好意的な返信がありました。
まあ、それだけのことです。
客観的な状況は、もしかしたらさらに悪化しているかもしれません。
しかし、改めて思いました。
朝の来ない夜はないし、春の来ない冬もない、と。
9月3日、節子はきっと白い花にかこまれて目覚めたでしょう。
私も、自分では気づいていないけれど、きっとまわりは春なのでしょう。
そんな気がしてきました。

そうしたら少し楽になりました。
明日はホームから落ちる心配をせずに、オフィスに行けそうです。
食欲もきっと回復するでしょう。
この3日間、あまり食欲がなかったのです。
いやはや困ったものです。

■2229:愛することと愛されること(2013年10月10日)
節子
愛の究極的な表現は殺人かもしれません。
それによって相手を独占できるからです。
食べてしまいたいほど可愛い、という言葉は、そうしたことを示しています。

物騒な話から始まりましたが、最近はストーカー事件での殺害が時々報道されます。
なんともやりきれない事件ですが、愛の怖さを感じます。
相手を殺害するのは愛ではないといわれそうですが、一概には決め付けられません。
人の感情は実に不思議なものです。
その状況に自らが陥って初めてわかることもあるでしょう。

私はいま、これまで経験したことのない不思議な状況にあります。
自らを客観的に見る余裕などないはずですが、時々、それが見えてしまいます。
まるで幽体離脱して自分を見ているような気持ちです。
しかも不思議なことに、おろおろしている自分と楽しんでいる自分がいるのです。
もしかしたら、彼岸から現世を見るとこんな情景が見えているのかもしれませんね。
節子は、それを楽しんでいるかもしれません。
それにしては、支援の手を差し伸べてくれないのは不満ですが。

そんな気持ちで、愛が殺害に及ぶ事件をみていると、きっと加害者も不思議な状況に落ち込んでしまったのだろうなと、少し同情してしまいます。
そういう状況では、たぶん、正常な思考回路は働いていないのです。
だから今の私もいささか判断が危ういのです。
節子がいたら、自分の考えを相対化できるのでしょうが、一人で考えていると空回りか無限の突き進むかのいずれかに陥りがちです。
たぶん最終的には後者に向いて、行くところまで行ってしまいます。
歯止めがきかなくなるのです。
まあ、このように自分の状況がわかるうちは、私もまだ大丈夫かもしれません。

しかし、なぜ愛が殺意に変わってしまうのか。
それは、たぶん、多くの人が「愛すること」を愛とは考えずに、「愛されること」を愛と考えているからでしょう。
よく考えてみれば、「愛されること」ほどわずらわしく、迷惑なことはないのですが、なぜか多くの人はそれを好みます。
愛されたら、それに応えなければいけません。
いろいろと制約も受けかねませんから、私のようにわがままに行きたい人間には不要のことです。
しかし、相手を純粋に愛していれば、相手も愛してくれるものです。
相手が愛してくれることと自分が愛されることとは、微妙に違います。
人の愛し方は、人それぞれだからです。

相手が自分を愛しているのはわかっても、だからと言って、自分が相手から愛されていると実感できないことはあるものです。
両者は微妙に違います。

節子と40年、生活を共にして、愛に関してはさまざまな気づきをしました。
お互いにわずらわしくない生き方を30年かけて築きあげたのに、それが途中で終わったのが、ちょっと悔しい気がします。

そして、そうしたことに気づく前に、失敗してしまう若者が多いのが、とても哀しいです。

■2230:意識を変えると逆風も順風になる(2013年10月10日)
挽歌を書く余裕がなくなってきたと書きましたが、どうやら逆ですね。
挽歌でも書いていないとさらに状況は悪くなりかねません。

昨日、少し意識を変えました。
難題には抗うことなく、逆風も順風にしてしまうということです。
そう感じたのは、昨日、都立の特別支援学校の高等部の就業技術科にうかがったのがきっかけでした。
障害のある高校生が、実に爽やかに実習作業をしていました。
校内で会うとみんな大きな声であいさつをしてくれます。
それぞれの発表の場面も見学させてもらいました。
考えてみると、この2か月、そうした世界と切り離されて、知人支援のために資金調達やビジネスの交渉などに奔走していました。
25年前に捨てたはずの世界に戻ってしまっていたのです。
あまりに感覚が戻らずに、相手を信頼しすぎて、そこに情や過剰な正直さを持ち込んでしまったために、結果的にはほぼすべて失敗しました。
考えてみると、失敗してよかったと思えるようになりました。
要は、私が今の苦労から逃げたいだけだったのです。

今日は、少し朗報がありました。
意識を変えれば、同じものも悲報にもなれば朗報にもなるのです。

今日は、支え合い共創サロンを湯島で開催します。
数日前まではとても負担でした。
余裕がなかったからです。
そういう時に限って参加者が集まります。
正式申込みだけで15人を超えてしまいました。
この湯島のオフィスに入るでしょうか。
ちょっと心配ですが、まあなるようにしかなりません。

それに約束していた相手の予定が変わって、午後、空白の時間ができました。
3時から湯島でぼーっとメダカを見ていました。
少し前からパソコンにも向かいだしました。
パソコンを開いたら、また一人、サロンに群馬から来るそうです。
ますます心配ですが、きっと私の元気なさが何となく伝わって、みんながやってきてくれるのでしょう。
まあ、そう理解しましょう。

明日が良い日になれば、先が見えてくるかもしれません。

■2231:さらに意識を変えると順風も逆風になる(2013年10月11日)
さて、昨日の続きになりますが、「さらに意識を変えると順風も逆風になる」と言う話です。

最近、かなりパニックだとこの挽歌で書いているために、いろんな人から心配してくれる電話やメールや手紙が届きます。
申し訳なく思いますが、パニック状況なのは事実なので仕方がありません。
でもこの数日、少し気分が変わりだしているのです。

今日は、大きな進展がありました。
私が関わっている事業の取引先の企業のトップが来日して、事の成り行きで、私が契約書にサインしてしまったのです。
そのため、私が名実ともに「社長」になってしまったわけです。
なんともまあ、奇妙な話ですが、これまでの不安定な立場からしっかりした契約に支えられた立場になったわけです。
契約が成立するかどうか、危惧する人も少なくありませんでしたし、私もほんとはなりたくなかったのですが。
これは「順風」でしょうか。
独占輸入権を手に入れたのですから、順風と考えるべきでしょう。

しかし、意識を変えると順風も逆風になるのです。
知人が、兄が急死したためにある大企業の社長になってしまいました。
高収益の良い会社なので、端からみたら羨ましいことかもしれません。
しかし彼は私のところに来るたびに嘆いています。
順風と逆風は、見方一つで変わるのです。

ということは、今の私が置かれている状況は、どうでもいいのかもしれません。
それに降りまわれてしまわないように、やはり「平常心」が不可欠なのです。

それでもまぜか憂鬱な気分は一向に晴れません。
大切なのは順風でも逆風でもなく、無風ですね。

さてさて。

■2232:ドラマの山場(2013年10月12日)
節子
ドラマが山場の一つを越えました。
もう戻れません。
昨日、とうとうフランスの化粧品会社と輸入販売契約を締結してしまいました。
久しぶりに、ホテルでビジネスミーティングでした。
といっても極めてカジュアルで、契約書のサインも「おさむ」で行いました。
まあ相手はフランス人なので、みみずが動いた後にしか見えなかったかもしれません。

交渉に入る前に、私のビジネス観を話しました。
ビジネスはお金ではなく約束を守ることと相手を信頼することだということです。
相手も、正直な人と契約したかったと言ってくれたので、交渉成立です。

節子もよく知っている武田さんは、電話で深入りは避けろといつもにない沈痛な声で留守電にメッセージを残していました。
他者のことより自分の生活を大切にしろと言うのです。
しかし、他者の生活と自分の生活は切り離されて存在するわけではありません。
当事者でない人のアドバイスは、的確なのですが、現実的ではありません。

私が契約したことを知ったら、友人たちはさらに心配してしまうでしょう。
会社経営する時間も能力もないと、みんな思っているでしょうし、たぶんそれは事実です。
私が25年間、経営している個人会社コンセプトワークショップは、いまなお1000万円を超える負債を抱えています。
給与はこの10年近くもらったこともありません。
経営能力はありますが、利益を上げる意欲はありません。

私も自分で契約をしたくてしたわけではなく、事の成り行きでこうなってしまったのです。
最後の判断は、「節子は賛成するだろうか」でした。
その結論は「賛成」でした。
無責任な節子は、いつも最後には、私の決断を後押しするタイプでした。
それにフランスの会社と取引するというのは、なにか節子好みのにおいがします。
節子がいたら、そのフランス人をわが家に招待したがったはずです。
節子は、経験した事のない新しい事が好きでした。

問題は私が英語もフランス語も話せないことです。
さてこれからどうするか。
成り行き上、こうなってしまいましたが、これからどうなるのでしょうか。
考えるとまたおかしくなるので、この週末は一切考えないことにしました。

この1年半、実は大変でした。
そしてこの2ヶ月はさらに大変で、この1週間はパニックでした。
そうしたことに決着をつけて覚悟しようというのが、今回の契約劇でした。
いわばドラマの山場です。
相手はフランク・ベネット。
いかにもフランス人といった感じの人物で、創業者の息子です。
契約を終わり握手している写真を撮ろうとカメラを持っていったのに、緊張していたせいか、忘れてしまいました。

さてこれからどうなるか。
先が見えないことは楽しいことです。
未来に不安がない人生など、楽しいわけがありません。
しかし、私の人生が少し変わる可能性はあります。
ドラマの第2部が始まります。
節子はきっとはらはらどきどきして見ているでしょう。
まあ本当は、私のほうがはらはらどきどきしているのですが。

■2233:植物と私の元気の違い(2013年10月13日)
節子
昨日は徹底的にのんびりしました。
流れを変えるためには止まらないといけません。
ぼーっとしていたら、挽歌に書きたいことが頭に浮かびました。
しかし、そのままぼーっとしていて、夕方、パソコンに向かったら、なぜか思い出せなくなってしまいました。
以来、ずっと考えていましたが思い出せません。
それで昨夜は挽歌も書かずに寝てしまいましたが、朝になっても思い出せません。

今朝は良い天気です。
それで久しぶりに畑に行ってみました。
久しぶりですが、とんでもないことになっていました。
セイタカアワダチソウと笹が元気に覆い茂っているのです。
手の施しようもありません。
とりあえずセイタカアワダチソウだけはほとんど抜きましたが、草の茂り具合は半端ではありません。
暑さに手を抜いていたら、まさに「倍返し」どころか「十倍返し」にあったような感じです。
植物の、この元気の良さはいったいなんなのでしょうか。
その元気のおこぼれをもらいたいと、真剣に思いました。

植物と私の元気の違いの理由は明らかです。
植物には邪念がなく、小賢しさもない。
私には、まだまだ邪念が多く、小賢しさもある。
そのうえ、節子への未練さ、まだあるのです。
そこが違いです。

「レナードの朝」という映画の最後に、セイヤ医師が「私たちは一番大切なものをなくしてしまっている、それは純真な気持ちだ」とスピーチしていました。
なぜか、セイタカアワダチソウを抜きながら、その言葉を思い出しました。
そして、なぜ私たちは、植物のように、素直に生きることができないのだろうかと思いました。
邪念なく、素直に生きていたら、春になったらまた生まれてこられるのかもしれません。
邪念なく、現実に誠実に向き合っていたら、春が来るのかもしれません。
たまには畑に行かなければいけません。
自然から教えられることはたくさんありますから。

■2234:天才に会いました(2013年10月14日)
節子
今日は天才に会いました。
電気はなぜ電線を流れるのかがわからないというのです。
わからないことをわからないと素直にいえる人は、やはり天才でしょう。
水素からヘリウム、リチウムと並ぶ化学元素表を、私は美しいものと感じていました。
しかし、その人は、あれは水素から始まる変化の表だと言うのです。
つまり、宇宙の最初に水素があった。
そこからヘリウム、リチウムと次々と元素が生まれた。
セシウムも、水素から生まれた。
だとしたら、セシウムは水素の戻せるはずだと言うのです。

これだけ聞くと説得力はないでしょうが、私は直感的に、この人は天才だと感じました。
みんなが発想の起点にしている知の体系の向こう側が見える人なのです。

あんまり挽歌には相応しいテーマではありませんが、時評編に書いても相手にされないでしょうから、あえてここに書いておくことにしました。
もし節子がいたら、私は興奮して話していたでしょうから。

その人の発想は、私と非常によく似ていました。
原発事故への対応も、私が思っているのとほぼ同じでした。
小学校の生徒が、たぶん考えつくような対策ですが、なぜか誰も言い出しません。
それを、その人ははっきりと話しました。
つまり子どもの目で見ているのです。
だから私は、その人を信頼できます。
しかし、その深さにおいては、私の比ではありません。
だから私は凡人で、彼は天才だと思ったのです。
私は、多くの場合、与えられた公理的な知を基盤に考えてしまいますが、その人はそれさえ疑います。
疑うと言うよりも、公理の先が見えてしまうのでしょう。
私には、天才としか思えなかったのです。

その人は田中さんといいます。
大宰府の加野さんが、東京にいったら、私に会えというので、明日からの福島出張の前日にやってきて、私と会ったわけです。
加野さんと心が通い合うはずです。

2時間の田中さんとの話は、実に楽しく共感できました。
最近疲れきっていましたが、今日は実に良い出会いでした。
不思議な出会いではありますが。

■2235:愛する人の突然の死は人生を変えます(2013年10月15日)
節子
しばらくあまり挽歌らしからぬ内容が続きました。
私の精神状況がどうしても表れてしまいます。
今日は雨です。精神状況が弱いときには、天気も大きな影響を与えます。

この頃、死を伴う事件のニュースに触れると決まって感ずることがあります。
この事件で、いったい何人の人が人生を変えてしまうのだろうか、と。
そう思うと、自分のことが少し相対化できます。
お経に説かれている、死者を出していない家族はないというキサー・ゴータミの話を思い出します。
http://mujintou.lib.net/houwa1.htm
悲しみは、いかにも自分中心のものです。

親しい人、とりわけ愛する人の突然の死(別れ)は、人生を変えます。
その変え方は、人それぞれでしょう。
良い悪いではなく、ともかく変えてしまう。
でもみんな、なんとかこれまでの生き方を続けようと努力します。
それができないことを知っていても、です。

人生は続いていますから、大きな断絶を認めるわけにはいきません。
そうしたかったら、出家でもするしかない。
しかし、家族がある以上、なかなかできるものではありません。
それに、人生が断ち切られたなどと思えば、前に進めなくなりかねない。
それで、脳が作動し始めます。
断絶したはずの人生を、取り繕いだすのです。
そして、一見、連続したような形で、人生は続くのです。
しかし、心身は非連続であることをよく知っています。
非連続の人生を生きることは、けっこう辛いことです。

それにしても、たった一人の他者が死ぬことで、これほど変わってしまう人生とはいったい何なのか。
時々不思議に思うことがあります。

前に書いたことがありますが、節子の死を知って、ある人(初対面の人ですが)から「これから自由になれますね」と言われたことがあります。
その時は耳を疑いましたが、冷静に考えれば、たしかに自由になったのです。
そう考えれば、辛さは軽減するでしょうか。
そうならないのが、愛する人との別れです。

■2236:台風一過(2013年10月16日)
節子
台風による大雨で、手賀沼公園が水浸しです。
こんなことは初めてです。
今日は台風を予防して、予定を変えてしまいましたが、台風は意外と早く通り過ぎてしまいました。
しかしかなりの大雨で、水の被害が出ています。

台風一過という言葉があるように、台風はどんな被害をもたらそうと、通り過ぎると多くの場合、からっとした青空になります。
汚れた空気はなくなり、実にさわやかな気分になれます。
家屋倒壊や水害などの被害にあったところは、それどころではなく、台風が通り過ぎても問題は残ったままですが、全体の天気は、台風が嘘だったように穏やかに明るくなります。

私がいま抱えている難題は、なかなか台風一過といったことにはなりません。
じわじわと責められ続けています。
考え方を変えれば、すぐにでもその状況から抜け出せるのですが、その踏ん切りがつきません。
私の優柔不断振りが、禍を増幅しているわけです。
台風と私の状況の、あまりの違いに、ますます自己嫌悪に陥ります。
せっかく休んだのに、いろんなところから電話とメールがきます。
みんなパニックなのかもしれません。
私の基本姿勢は、嘘をつかないことと相手を信頼することです。
それを貫いてだめであれば、それはそれですっきりとします。
しかし、その途中は結構大変で、節子の代わりに娘たちがいま被害を受けています。

台風は、なぜ起こるのでしょうか。
たぶん状況を変化させるために起こるのでしょう。
だとしたら、昨日からの新しい難問は、もしかしたら台風かもしれません。
台風一過とはならないでしょうが、何が変わるか楽しみです。
まあ、かなりのやせ我慢の見栄ですが。

■2237:市役所の人がまた3人やってきました(2013年10月17日)
節子
我孫子市役所の人たちが3人、湯島に来てくれました。
私が正式に市役所と接点を持ち始めたきっかけも、3人の職員の訪問からでした。
当時の市長の紹介で、3人の人が来訪し、結局、我孫子の総合計画の委員を引き受けたのが、最初でした。
以後、いろいろとあり、最近は少し足が遠のいていましたが、今回は副市長の青木さんの紹介で縁ができた大畑さんが、広報課と企画課の人たちと一緒に来てくれたのです。
市役所にお伺いして話すのとはまた違った雰囲気でお話ができました。

節子が発病して以来、そして節子が旅立って以来、積極的に市役所や地域活動に関わってはきませんでした。
その気力がなかったからです。
ですから、考えてみると、久しぶりに職員のみなさんときちんとお話ができた気がします。
今日のポイントは、どうしたら我孫子での暮らしの魅力を外の人たちに伝えられるかです。
住民として、私にとっても大切なテーマです。
大畑さんたちと話していて、なんだか最初のころのことを思い出しました。
何ができるかを考えようと思います。

節子の話も出ました。
広報室長の斎藤さんが花かご会ができたころ、都市公園課で花かご会の応援をしてくれたそうです。
これはもうお返ししなければいけません。
最近は、いろんなトラブルに巻き込まれ、気が萎えているのですが、元気が出てきました。
節子がいなくなっても、やはりもっときちんと取り組むべきですね。

午後は、その関係で社長業の時間を取られてしまいました。
その格差の大きさに、やはり私に似つかわしくない「社長業」は早く卒業しなければいけないと思いました。
どこで人生を間違ってしまったのでしょうか。
困ったものです。

■2238:死が見えるようになってきた時代(2013年10月18日)
節子
台風が大きな原因になって、伊豆大島では50人近い死者が出てしまいました。
実に痛ましいことですが、最近、気になる事があります。
一昨年の東日本大震災以来、「死」が社会の前面に出てきたことです。
よく言われるように、1945年の日本の敗戦は、日本文化の基層にある哲学を「死」から「生」へと変えました。
武士道に代表される、死を意識した生き方よりも、生を謳歌する生き方へと変わったといってもいいでしょう。
それは同時に、人と人とのつながりを壊し、生命をおろそかにすることにもつながったように思いますが、日常生活から「死」は次第に見えないところへと追いやられていったように思います。

その流れを変えたのが、東日本大震災でした。
その報道の中で、私たちはたくさんの「死」に出会いました。
それに関しては、あえてここで書くこともないでしょう。
それと同時に、「つながり」への動きも回復してきました。
死とつながりは、決して無関係ではありません。

みんなが「死」を意識した生き方に変わったわけではありません。
しかし、「死」を見てしまった人の生き方は変わります。
直接見なくとも、多くの死、しかも理由もなく、普通の生活のなかで突然見舞われた死の報道を浴びせられるように受けているうちに、私たちの生き方は変わってきているはずです。
そのせいか、最近は「死」が前面に出てくる報道がますます増えているように思います。
報道の姿は、時代の実相を反映しているように思います。

東日本大震災よりも一足早く、節子の死を体験することで、死が私の日常の現実の中に入ってきました。
「死」、そして「生」への意識は一変しました。
当然のことですが、「死」は常に日常の隣にいます。
しかし、節子の死を体験するまでは、それは生活から遠いところにありました。
両親の死も体験していますが、それはある意味で、素直な歳のとリ方のなかでの一つの日常の事件でしかありません。
しかし、自分よりも年下の伴侶を失うことは、決して、日常ではないのです。

節子の死は、私には大きな生き方の変化をもたらしました。
同時に、生きることの意味も一変したように思います。
ところが、東日本大震災の後、私だけではなく、社会全体が死を過剰に可視化してきているような気がしてなりません。
死は決して隠すものではありませんが、最近のように、死が克明に、しかも「客観的な事実」賭して語られだすことには、大きな違和感があります。

死は、やはり、個人の思いのなかで、ひっそりと見えるのがいいように思います。
あまりに死がおおっぴらに語られることに、いささかの不快感さえあります。

■2239:挽歌を読まれることは悪い面もあれば良い面もあります(2013年10月19日)
節子
ある研究会に招かれて、久しぶりにお話をしてきました。
研究会の代表は、私のことをあらかじめ知るために、私のサイトなどを見たそうで、この挽歌もどうやら目に入ったようです。
私の紹介の時に、そのことにも言及してくれました。

私は自らのほぼすべてをネットで公開していますので、仕方がないのですが、時にいささか気恥ずかしかったり、困ったりすることもあります。
以前、ある大企業の研修の講師を間接的に頼まれたことがありますが、引き受けて準備を始めようと思ったら、間に入った人から、実は企業の担当者が佐藤さんのホームページを読んで、こんな宇宙人のような人に話をしてもらうのは心配だと断られてしまいました、と連絡してきたことがあります。
まあ納得できる話です。
それなどはよくある話なのですが、私のすべてを読まれていると思うと、何か偉そうなことを言っても迫力が出ないということもあります。
困ったものです。
少しは見栄を張ればいいのですが、これだけいろいろと自らを公開していると、見栄も嘘もどこかでばれてしまいます。

挽歌に言及してくださった代表の方は、これほどまでに奥さんを愛せるのはある意味で羨ましいとも話してくれました。
その言葉は素直に受け容れさせてもらいました。
しかし、言い方を換えれば、そうとしか言えないというのが実際でしょう。
羨ましいと言うよりも、ちょっとおかしいんじゃないのか、と言われているような気がしないでもありません。
それも含めて、素直に受け入れさせてもらったと言うことです。

しかし、私の最大の欠点は、節子の事が少しでも話題になると、元気が出てきてしまうことなのです。
実は昨日、まためまいがしてダウンしかけたので、心配していたのですが、そのおかげもあって、今日は久しぶりに3時間のスピーチを楽しくつとめさせてもらいました。
節子が守ってくれたのかもしれません。

■2240:愛の本性(2013年10月20日)
節子
昨日の新聞に、国語辞典の「大辞林」のデジタル版に、8つの言葉の解釈を一般公募して、その中からいくつかを収録するという記事がありました。
すでに公募は始まっていて、もう4000件ほど集まっているようです。
応募が一番多かった言葉は「愛」だそうです。
新聞には、その応募例として、「愛」とは「誰もが努力次第で持ち得るもの」というのが掲載されていました。
大いに違和感がある解釈です。
これでは「愛」を遠くに感じてしまいます。

私が感じているのは、「愛とは誰もが本来持っているもの」なのですが、しかしこれは採用はされないでしょう。
面白くありませんから。
辞書による言葉の説明は、多くの場合、私の感覚とは合わないものが少なくありませんが、愛はその典型かもしれません。

人の特性を一つあげるとしたら、私は「愛すること」をあげます。
とっさの時に表われるのが人の本性だとすれば、それはたぶん「愛」でしょう。
ホームから落ちた人や川でおぼれている人を見て、反射的に助けようとして飛び込んでいく話はよく聞きます。
生命への愛は、すべての人が本来持ち合わせているように思います。
というか、それが「生命」ということでしょう。
にもかかわらず、日常的にはそれが素直に出てこない。
努力しなければ、愛せなくなっているとしたら、それはとても悲しいことです。
つまり、愛そのものがすでに打算的なものになってきていると言うことです。
そうした現状を否定するつもりはありませんが、私自身はそうはなりたくないと思っています。

この挽歌を読んだ人は、私が妻だけを溺愛していて、執着していると思うかもしれません。
そうかもしれませんが、私自身はそうは思っていません。
私にとっては、すべての生命が愛の対象です。
誰かに会うと、まず頭に浮かぶのが、この人のために何かできることはないかという思いです。
そこに「大きないのち」でつながっている自分のいのちを感ずるからです。
私の感覚では、それが「愛」です。
他者を愛することは、まさに自らを愛することなのです。

にもかかわらず、私にとって節子は特別の存在です。
それは、そうした私の「愛」が、そこに象徴され具現化していたからです。
そして、節子は、そうした私の思いに、素直に反応してくれました。
素直すぎるほどに反応したため、私には彼我の区別が出来なくなったほどです。
それが、もしかしたら、いまの迷いにつながっているのかもしれません。

話がそれてしまいましたが、愛はすべての人が本来持っているものだと考えると、とても生きやすくなります。
もちろん裏切られることはありますが、それさえ許せるかもしれません。
なんだか「きれいごと」を書いてしまったような気もしますが、これが私の素直に気持ちでもあります。
みんながもっと自らのなかにある「愛の本性」に気づいてほしいです。

■2241:相談相手(2013年10月21日)
節子
相変わらずいろいろな相談が舞い込んできます。
今は私自身が相談に乗ってほしいような状況ですが、そう言ってもいられません。
だれも、生きていれば、いろんな問題にぶつかります。
気楽に相談できる人がいれば、ほとんどの問題は解決します。
しかし、そう簡単に気楽に相談できる人などいないのです。
それに相談に乗ってもらうと、なんとなく借りの気分も生まれてしまうのです。

夫婦の良さは、問題を共有できるところにあると私は思っていましたが、どうも世間的には必ずしもそうでもないようです。
当然といえば当然ですが、私たち夫婦は、問題をシェアできていたように思います。
それを一度体験してしまうと、実に生きやすくなりますが、それはたぶん一緒に暮らす時間の長さだけではなく、最初のボタンのかけ方に影響されるような気がします。
私たち夫婦は、少なくとも私は、自分の歴史をほとんど捨てることによって、ゼロから同棲を始めたのです。
したがって問題をシェアせざるを得なかったのです。
しかし、そうした私の勝手な思い込みに、当初、節子はかなり苦労したことでしょう。
節子が、それを自分のものにしてくれたのは、私が会社を辞めてからかもしれません。

いずれにしろ、私には節子という強い相談相手がいました。
だからどんな場合も前に進めたのです。
相談に応えるということは、解決策を出すことではありません。
問題をシェアすることだろうと私は思っています。

さて、いろんな人からメールや電話、あるいは湯島にやってきての話を通して、相談があります。
と言っても、何も明確な回答を求める相談とは限りません。
いわばちょっと愚痴をこぼすだけのこともあります。
しかし、その愚痴をシェアすることも、相談に乗るということです。
そう考えると毎日、たくさんの相談を受けていることになります。
今日も数件の相談がありました。
解決策は出さないまでも、アクションを起こさなければいけないことも少なくありません。
今日も4人の人に、メールでお願いごとをしましたが、自分のことでないことでお願いごとをするのは結構難しいのです。
気もつかいます。

しかし、自分の問題を考えているよりも、誰かの問題に関わるアクションを起こしている時のほうが、なぜか幸せです。
みんなが相談してきてくれるのは、私を幸せにしてくれるためかもしれません。
そういえば、節子は以前、そんなことを言っていたような気がします。
誰かの問題を考えているほうが楽しそうね、と。

しかし、もうそう言って私を元気づけてくれる節子はいないのです。
そのせいか、時々、なんで私はこんなことをやっているのだろうと思うことがあります。
節子なら即座に言うでしょう。
あなたが好きでやっているのでしょう、と。
当時はそう思っていましたが、本当にそうなのか。
最近少し疑問に思い出しています。

■2242:霊魂において乱されないこと(2013年10月22日)
古代ギリシアの哲学者エピクロスは、人間の生きる原動力は快楽であり、快楽こそが「目指すべき目的」であると考えました。
快楽という言葉は、現代では享楽的な意味合いが強いですが、エピクロスのいう「快楽」は「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこと」という意味で、特に後者に重点が置かれています。

節子は、最後の闘病において、残念ながら「肉体においての苦しみ」からは自由にはなれませんでしたが、「霊魂において乱されないこと」は実現できたかもしれません。
しかるに、いまの私を見ると、「肉体においての苦しみ」はないものの、「霊魂における乱れ」から自由になっていないような気がします。
これは考えなければいけません。

節子との別れが「霊魂における乱れ」を生み出した時期もありますが、それは「乱れ」というよりも「混乱」というのが正しく、混乱がおさまれば、むしろ平安が感じられるものでもあります。
エピクロスがいう「霊魂の乱れ」は、そういうものではないでしょう。
うまく説明できませんが、心の乱れ方には2種類あるような気がします。
時には、心の乱れが、平安や(エピクロス的)快楽につながることさえあるように思います。

娘のジュンが最近、よく「平常心」ということを口にします。
ジュンも、この数年、いろいろなことがあって、苦労してきています。
おそらく責任の大半は私にあるのですが、平常心とは「霊魂において乱されないこと」かもしれません。
私も、平常心を目指さねばいけません。
最近の私は、おそらく「平常心」を失い続けているからです。
もう1人の娘のユカからも、父親はどっしりとしてほしいと言われました。
どうも私は軽すぎるようです。
それはそうでしょう。何しろ宮沢賢治が「雨にも負けず」に書いているような、「おろおろした生き方」にも憧れがあるからです。
考え直さなければいけないかもしれません。

秋になり、空がきれいになりました。
節子と見た千畳敷カールの青空を時々思い出します。
しかし、それを楽しむ気にはまだなれません。
「霊魂」がまだ乱れているからです。
乱れは、悲しみからは生まれません。
乱れを生むのは「邪念」であり、「執着」です。

エピクロスのメッセージにはきちんと耳を傾けなければいけません。
そう思う、秋の日です。

■2243:お金は魔物(2013年10月23日)
節子
最近どうも道に迷っている感じがします。
節子がいなくなってから、やはり道を踏み外したようです。

昨夜、2つの電話をもらいました。
一人は大畑さんです。
大畑さんはつい最近知り合った人ですが、わが家の農園の荒れ放題さを見て、次の休日に草刈りに行きますと申し出てくれたのです。
正直な話、それは話の勢いでのことだと思っていたのですが、昨夜、申し訳なさそうな声で電話してきました。
予定していた日に用事が入ったので、延期させてほしいというのです。
休日もいろいろと活動をしている方ですので、本気にはしてなかったのですが、本気だったのです。
素直に受けることにしました。
その電話のやり取りでとても気持ちが明るくなりました。
私は金銭を通さずに、物々交換や事々交換で生きたいと思っているので、こういう話はもううれしくて仕方がないのです。
問題は、私がその後、大畑さんに何でお返しできるかですが、ペイフォワードの考えによれば、そう難しく考えることもないでしょう。
誰かに役立てばいいのですから。

その後、もう一人の人から電話がありました。
その人の会社の資金繰りが破綻しているので、その支援をしていたのですが、その返済ができないとまた言ってきたのです。
もう何回、約束が反故にされたでしょう。
その人にも事情があるのだからと思ってはいるのですが、やはり約束を反故にされると気分は沈みます。
それに私自身も、いま大変なので、自分の問題にまでつながります。
この世界はまさに「金銭」の世界です。
人の思いや情は、役に立たないばかりか、むしろ悪く作用します。
それをこの1年半、身を持って体験してきていますが、抜けられません。
私に邪念があるからです。
金銭には、そうした魔力があります。

駆け込み寺や支援活動をしていれば、こういう話は決して少なくありません。
これまでは、その世界に関しては私だけで責任が取れる範囲にしていましたが、節子がいなくなって、少し羽目を外してしまったのです。

「金銭」の世界に関わっていると、自分の邪念がまた強まっていくことを感じます。
節子のおかげで、かなりその世界から抜け出たと思っていたのですが、どうもそう簡単ではなさそうです。
最近、貯金がないのが少し不安になりだしました。
今までは考えたこともありませんでした。
中途半端に金銭の世界に関わってしまったからでしょう。
困ったものです。

大畑さんの電話で、かなり元気が出てきていましたが、またエネルギーが吸い取られてしまいました。
お金は魔物です。
今日も元気がありません。

■2244:故人と共同存在(2013年10月24日)
節子
私たちが自らの存在の不安を感ずるのは、身近に死を体験した時です。
この数十年、私たちは死を見ないような生き方をしてきました。
幸か不幸か、私たちは同居していた両親の死を体験し、最後まで見届け、葬儀も執り行いました。
以前の日本では、こんなことは当たり前だったでしょうが、いまの日本は必ずしもそうではありません。
同居の家族の死を体験したかどうかは、大きな違いを生むように思います。

そして、私は、それに加えて、伴侶である節子の死を体験しました。
両親の死の体験とは、それは全く違うもので、いわば節子と一緒に死を共体験したような気さえします。
この体験をした人は、さらに少ないでしょう。
生活を共にしている人の死は、別れであると同時に、ある意味での絆を生み出すような気がします。

哲学者のハイデッガーは、「死者は、遺族から突然奪いとられてしまうかもしれない。だがふつう私たちは遺族として、葬式などの儀式をとり行い、「故人と共同存在」していると思いこんでいる」と、その著書に書いているそうです。
ハイデッガーが、そんなことを書いているとは思ってもいませんでしたが、これは時間論にもかかわる話でもあります。

私の感覚は、まさにいまなお「節子と共同存在」しているという感じなのです。
普段は、そんなことを意識したことはありません。
理性的には、節子はもう彼岸の人であることを知っているからです。
しかし、例えば、朝起きて、まだ頭がいささかぼーっとしている時、あるいは真夜中に目が覚めた時、さらには精神的に疲れ切って思考力が散漫になっている時、誰かに救いを求めたくなるほど不安にかられた時、ふと、横に節子を感ずることがあります。
節子の位牌のある仏壇は、わが家のリビングにあります。
朝、起きて、まず最初に私がすることはリビングのシャッターを開けることなのですが、暗いリビングに入っていくと、そこに節子の気配を感じ、思わず声をかけます。
節子だけではありません。
つい最近まで、そこにいた、チビ太を感ずることもあります。
節子ばかりひいきにするとチビ太がひがむといけないので、大きな声で「チビ太、元気か」とわけのわからない声をかけることもあります。
共に暮らしていた人は、死者になっても一緒に暮らしているという感じが、私の場合はまだ残っています。

これは私には大きな支えです。
もちろんそれ以上の支えは、私の場合は、娘たちの存在です。
娘たちには感謝していますが、やはり節子との共同生活の感覚がなければ、いまの私の生活はないでしょう。

「故人と共同存在」をするための葬儀。
それが十分にできない被災地でのみなさんの辛さを思うと、心が沈みます。
ましてや、その死者がいまもなお存在している福島や大島から離れなければいけない人たちの辛さに、心が痛みます。
故人との共同存在の支えは、たぶん体験した人でないとわからないでしょう。
私は、もう転居はできないだろうと思っています。

■2245:節子が撮った顔写真(2013年10月25日)
節子
フェイスブックの顔写真に使っている写真は、もう10年以上前の写真です。
節子がいなくなってから、ずっとこの写真を使っていますが、最近、あまりに古いので、あるところに掲載するのは新しいものに変えてみました。
ところが、その関係者から、やはりフェイスブックの写真を使いたいと言ってきました。

この写真は、節子と一緒に近くのあけぼの公園に行った時に、節子が撮った写真です。
コスモスの時期でした。
すでに節子の病気が判明していたかどうか、はっきりしません。
調べればわかるのでしょうが、いずれにしろ節子が撮った写真であることは間違いありません。

その旨を編集担当者に伝えたら、こんなメールが戻ってきました。

それだからでしょうね!
とても素敵にやさしそうなお顔で撮れているので、
チームのみなさんもFacebookのお写真が好き、とおっしゃっていたのだと思います。

今の写真は良くないのかなどと憎まれ口をたたくのはやめて、すなおに喜ぶことにしました。
節子がいた頃といなくなってからは、私の表情も変わっているのでしょう。

節子がいなくなってから、あけぼの公園を歩いたことはまだありません。
一度だけ、娘と行ったような気もしますが、あまり記憶にありません。
しかし、節子と一緒に、この写真を撮った時のことは、なぜか思い出せます。
それが正しい記憶かどうかはわからないのですが。
最近、自分の記憶に自信がなくなってきています。

この写真はもう使うのはやめようかと思いだしていたのですが、もう少しこの写真をフェイスブックには使うことにしました。
写真の前に、節子が見えるからです。

■2246:アパティア(2013年10月26日)
節子
先日、エピクロスのことを書きましたが、エピクロスと対照的な哲学者として、よく取り上げられるのが、同時代人のキプロスのゼノンです。
快楽を重視したエピクロスのキーワードは「アタラクシア」(心の平静)ですが、ゼノンのキーワードは「アパティア」でした。
ただし、アタラクシアとアパティアとは、対語ではありません。
いずれも目指したのは、「心の平静」です。

アタラクシアに関しては、以前書いたことがあります。
アパティアは、英語のアパシー(無関心、無感動)の語源となったギリシア語で、「感じない」という意味だそうです。
ゼノンは、外部の事柄には無関心、無感覚でいるのがよいとしたのです。
ゼノンの思想は、その後、ストア派として発展し、ストイック(禁欲的)という意味になっていきます。
私自身は、エピクロスの快楽主義も、ゼノンの禁欲主義も、そう違わないように思っています。
いずれも、自らの思うように生きるのがよい、と言っているように感ずるのです。
ちなみに、私は「アパティア」を無関心ではなく、中立的と勝手に解釈しています。
そして私は、自らの思うように生きることに誇りを持てる生き方をしたいと思っています。
そういう考えに至ったのは、仏教の「大きないのち」の考えを知ってからです。

喪失体験をすると、ある意味で人はアパティアを体験します。
あるいは過剰な快楽を求めることもあるかもしれませんが、それは決して、エピクロスの言う快楽ではなく、心の平静とは程遠いものでしょう。
ストア派とエピキュリアンのことは高校時代に学んで知っていましたが、アタラクシアとアパティアの言葉を知ったのは、節子を失ってからです。
そして最近ようやく、私がストア派とエピキュリアンとは同じなのではないかと感じていたことの意味が少しわかりました。

節子との暮らしでは、私は節子にいささかコミットしすぎだったようです。
いや、それこそが「愛」ということなのかもしれません。
特定の人を愛することは、決して心の平静をもたらさないのです。
心を平静にしていくためには、すべてを愛さないといけないのです。
いや、正確に言えば、心が平静であれば、すべてを愛せるのです。

なにやら気恥ずかしいのですが、最近そんな気がしてきています。

■2247:節子だったらどうしたか(2013年10月27日)
節子
時評編のほうで、昨日と今日、「生き方を問い質す3つの話」を書きました。
ホームページにも掲載しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/how%20to%20live.htm
どうも最近、生き方に迷いがあります。
そこにようやく気づきだしました。

昨日からテレビでは、みのもんたさんの去就が話題になっています。
彼の次男が犯罪を起こし、それに関連して、みのさんが親としてどう責任を取るかが注目されています。
昨日、事件発生後2か月を経て、初めてみのさんは記者会見を行いました。
かなり芝居がかっていましたが、真情も感じました。
私が一番心に残ったのは、先立たれた妻だったらどうしただろうかという話でした。
この言葉は、真実ではないかと思います。

人は話しながら考えます。
一人で頭の中だけで考えていると堂々巡りしたあげく、おかしな方向に進みだすことがあります。
節子がいる時には、あまり意識はしませんでしたが、話し相手がいるかどうかは意識や行動に大きな違いをもたらします。

みのさんは自分の間違いに気づくのに2か月かかりました。
おそらくその間、亡き奥様といろいろと話したのでしょう。
長年連れ添っていると、そこにいなくとも、相談はできるのです。

さて私の場合ですが、最近、節子に問うことを忘れていたような気がします。
節子だったらどうしたかは、時に考えることはあるのですが、結局、まあこの問題なら私に賛成するだろうと安直に考えるようになってきています。
要は、ちゃんと相談していないと言うことです。
やはり目の前にいないと、都合よく考えてしまいがちです。

目先の問題は、仕方がないかもしれません、
しかし大切なのは、目先の問題ではありません。
自らの生き方、自らの律し方です。
みのさんの記者会見を聴いていて、それに気づきました。

さて、生き方を問い質す3つの話ですが、節子ならどう思うでしょうか。
それも含めて、もう少し考えたいと思います。
節子と私は、考え方や行動において、少なからず違いがありました。
だからこそ話し合いの意味があった。
そのことを最近少し軽んじていました。
困ったものです。

■2248:竹粉で育てた庄原里山の夢ファームのお米(2013年10月28日)
節子
広島の折口さんからお米が届きました。
この挽歌を読んで、私がとんでもなく大変な状況に陥っていると心配してくれたのです。
なんでもかんでも赤裸々に書くのは考えものです。
節子がいつも言っていました。
なんでも正直に書けばいいものではない、と。
それに、あなたはいいかもしれないが、家族の立場がない、と。
まあその通りです。はい。

折口さんからは先日電話がかかってきました。
大変そうなのでお米を送ると言ってくださったのです。
その話を娘にしたら、「お気持ちだけでもう十分です」と言うべきでしょう、と節子みたいなことを言われました。
たしかにそうで、折口さんにはお世話になっているばかりですし、それに考えてみるとまだお会いしたこともないのです。
そうだなあと少し反省していたのですが、昨日、とんでもなくおいしそうなお米がドサッと届いてしまいました。

庄原里山の夢ファームのプレミアム米です。
このお米は、平成24年度の「大阪府民のいっちゃんうまい米コンテスト」で日本一に選ばれたお米だそうです。
竹粉の肥料で育てたお米だとも書かれていました。
折口さんには、ほんとうに申し訳ないことをしてしまいました。
電話したら、折口さんから、奥さんとチビ太にもお供えしてくださいといわれました。
またまた恐縮してしまいました。
やはりブログに書きすぎていますね。

それで今日の夕食は、私がこの里山の夢プレミアム米を炊いて、夕食づくりをしようと決意しました。
折口さんのエールに応えるには、そうするしかないでしょう。
美味しいお米は一汁一菜で十分ですが、まあがんばって、もう一品は挑戦してみます。

ところで、挽歌の記事でご心配をかけているかもしれませんが、たいしたことはないのです。
節子との別れに比べれば、どんな問題も瑣末な問題でしかありません。
それに、人生、悩みがなければ退屈です。
しかも、負け戦や解けない問題への挑戦は、私の大好きなことなのです。
いずれにしろ、嘘をつかずに生きていれば、必ず良い方向に向いていくことを、私は体験的にも確信しているのです。
節子も見守ってくれているでしょうし。

■2249:新しい1日(2013年10月28日)
節子
今日はさわやかな秋晴でした。
最近の生き方の流れを変えるために、少しいつもとは違った1日を過ごしました。

まず仕事部屋を少し片付けました。
仕事部屋の状況は、まさに私の心の状況を示しています。
2つの机の上には書類などが山積みでした。

ついでに、衣替えもしました。
衣服の整理は苦手ですが、これからはきちんとやろうと思います。

午後は畑に行って、先日刈った草を袋詰めし、野菜の添え木などを片付け、草刈りの準備をしてきました。
もっともすぐに疲れてしまい、1時間たらずで引き上げてきましたが。
しかし、今度こそ野菜づくりにきちんと取り組もうと思います。
花畑も復活させましょう。

次にお墓に行きました。
花屋さんの花と庭の花を合わせて供えてきました。
なぜかお墓の前に年老いたかまきりがいましたが、お参り中、動かずにずっと私たちを見ていました。
節子だったのかもしれません。
今回は久しぶりに本堂にもお参りしました。

気乗りのしないことは先延ばしにするのが、最近の私の傾向でしたが、先延ばししてきたことに着手しました。
気が重いですが、きちんとやらなければ、その付けは結局自分にまわってきます。
もっと自分に厳しくならなければいけません。

夕食は久しぶりに私が担当しました。
折口さんからの夢のお米を炊き、ナスのお味噌汁をつくりました。
料理も考えましたが、せっかくのお米の味の邪魔をしないように、お刺身とちょっとしたお惣菜を買ってきてしまいました。
娘には浅漬けを頼みました。
手抜きだと言われそうですが、まあ事実、手抜きでもあります。
最初から無理をすると続きませんので。
手づくり料理のほうは、追々、やっていくことにしました。
美味しいご飯を節子とチビ太にも供えさせてもらいました。
近くの下の娘にもお相伴してもらいました。

炊きあがったご飯は、まぶしいほどの白さでしたが、新しい精米技術で、いわゆる金芽が残っているのです。
かきまぜたら、もち米かと思うほどの粘り気を感じました。
ご飯はとても美味しく、おかずなしでもよかったほどでした。

いつもより早目にお風呂にはいり、机の下に埋もれていた、ネグリの「コモンウェルス」を読み出すことにしました。
今年の初めに読み出したのに、実は投げ出していたのです。
今度はきちんと読みましょう。

というわけで、まあ新しい出発の日になりました。
不思議なもので、私の決意が伝わったのか、悩ましい電話もメールも不思議に皆無でした。
いやそれどころではなく、うれしいメールが2つほど届きました。
心持ちで世界は変わるものです。

明日からは、おろおろせずに、前を向いていけるでしょう。
意識を変えれば、難局も楽しい挑戦になっていくはずです。
もう心配ご無用です。
はい。
それでは、これからネグリを読み出します。
すぐ寝てしまいそうですが。

■2250:温かい美味しいごはん(2013年10月29日)
節子
昨日、届いた嬉しいメールの一つは、折口さんからでした。
ご本人には了解を得ていないのですが、一部を引用させてもらいます。
それが今日の挽歌です。

佐藤さんは、私と「面識が無いのに!」と思われているようですが、きっと前世でも佐藤さんにお世話になっていたのではないかと感じることが多いのです。
お米を発送する際にも、お嬢さんに住所をお尋ねしたところ、「我孫子市白山」 なんと奇遇なことに!私の尺八の師範名が「白山」なのであります。\(~o~)/

さて、お米にまつわる話は色々あるのですが、恥ずかしながら十年前精神的にどん底状態にあった私に、あるお宅で温かい美味しいごはんを頂く機会があり、ぽろぽろとこぼれる涙の塩味ご飯をいただいた経験から、他人がしんどい思いをしているときには、ぜひ美味しいお米を食べさせてあげたいと思いました。(~_~;)

佐藤さんと共に、広島の冤罪で闘っておられる煙石さんにもお米を送らせていただきました。人生のどん底にいたときに、佐藤さんにも煙石さんにも助けていただき、おかげでなんとか立ち直ることができました、感謝・感謝です。(^_-)-☆

最近になり、やっと「なぜどん底を経験したのか?」「なぜ尺八を吹くことになったのか?」が解り始めてきたようにも思います。
また、多くの人との出会いも、輪廻の世界を信じるわけではないのですが、どうやら仕組まれたもののように思えてなりません。

我が奥さんと出会うことがなければ障害をもつ4人の兄弟達とのスリルある人生経験もなかったのでしょうが、どうやら奥さんとの出会いも仕組まれているようで、来世でも捜し求めて再び一緒に山あり谷ありの人生を歩むような気がしてなりません。(ーー;)

佐藤さんと奥様やちび太くんとの出会いもなんだかそんな気がするのです、今は別れていてもすぐに出会うように仕組まれているのではないかと!(^_^)v

寒くなってきましたので、どうかお体を大切にして下さい。お電話をいただき有難うございました。(^_^)/

昨日読んだ時には、ただうれしかっただけですが、今日になって何度か読み返すたびに、なぜか涙が出るようになってしまいました。
それで折口さんには了解も得ずに、挽歌に書いてしまいました。

それにしても、なぜ涙が出るのでしょうか。
折口さんからのお米は、それはそれは「温かい美味しいごはん」でした。

■2251:元気は天下のまわりもの(2013年10月30日)
節子
今日も秋晴のよい天気です。
意識を変えたせいか、美味しいご飯のせいか、わかりませんが、元気が出てくる方向に流れが少し変わったようです。

私の状況を心配した若い友人が、私にできることがあれば、土日ならかけつけます、とメールをくれました。
感謝の返信をしたら、「私は佐藤さんががんばっていらっしゃるお姿に元気づけられています!」と書いてきてくれました。
なんだかちょっとうれしくなりました。
私は、頑張っている様子よりも、へこたれている様子を書いてきている気がしますが、それでも時にはこうして「元気」を与えていることもあるのです。
そういえば、別の友人からも、以前、大変な時に私との電話のやりとりで元気づけられたと言いうようなメールもいただきました。
「元気」は、お金と同じで、「天下のまわりもの」なのかもしれません。
どこかで誰かに元気を与えておけば、いつか戻ってくるのです。

元気が出てくると、また新しいことをやりたくなります。
その上、こんなメールがくると、ますますがんばりたくなってしまいます。
今日は、案の定、そうなりました。
映画「自殺者1万人を救う戦い」を制作し、精力的に上映会をやっている、レネさんから久しぶりに連絡がありました。
ちょっと相談があるというのです。
そこからまた深みに引き込まれそうな話になりました。
タイミングがよくありませんでした。
1週間前なら、引き込まれずすんだかもしれません。
しかし今日の元気では、レネさんのために一肌脱ごうという気になってしまったのです。
後先を考えずに、約束してしまうのが、私の悪いところです。

レネさんは、この3年半、自殺問題を指摘する映画制作とその上映のために、大変な時間とエネルギーを注いできています。
もうこれ以上は付き合えないと奥さんは怒っているそうです。
そんな話をしていて、そういえば、私も、「仕事ばかりしないで、食事くらいゆっくりしてほしい」と節子によく嘆かれていたことを思いだしました。
それで、何とかレネさんの負担を少なくすることができないかと思いついたわけです。
この話は、改めて時評編で呼びかけたいと思います。

レネさんには、仕事もほどほどにと話しましたが、やはり元気に活動している人と話すと、こちらも元気をもらえます。
元気は出さないといけません。
少しくらいの苦労がなんだと、自分を鼓舞しなければいけません。
それにしても、人に会うとやりたいことが生まれます。
レネさんの前に会った人にも、あやうく約束をしそうでした。
これも実に面白いテーマの話なのです。
元気もほどほどがいいようです。

■2252:不幸や苦境もまた、生きる原動力(2013年11月1日)
節子
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、「人間にとっては、欲することがすべてかなうのは、さほどよいことではない」と言っています。
たしかに、すべてのものが手に入ってしまえば、人生は退屈なものになりかねません。

最近の子どもたちがもしおかしくなっているとしたら、それはあまりに「物質的に満ち足りているから」かもしれません。
有名人の子どもたちが起こす不祥事に触れると、いつもそう思います。
一時期話題になったホリエモンは、「お金で買えないものはない」というようなことを言っていましたが、言い方を変えれば、お金で買えるものでしか構成されていない世界で育ち、生きているということでしょう。
余計なお世話でしょうが、同情を禁じえません。

不満や不足こそ、生きる原動力だと言われます。
もちろんそうではない生き方もあるのでしょうが、生きるとは不満や不足を補う楽しみの連続だとも言えます。
言い方を変えれば、生きるということは、不足や不満と付き合うということです。
その不満や不足が、あまり大きくないほうがいいかもしれませんが、それを決めるのは人それぞれです。
野心を抱き、大業をなす人にとっては、不満や不足は大きければ大きいほどいいかもしれません。

こう考えてくると、不満や不安だけではなく、不幸や苦境もまた、生きる原動力につながっていくことがわかります。
節子を失うことによって、私は生きる気力を失いかけていましたが、それを生きる原動力に反転させることもできたのです。
残念ながら、私自身まだそういう考えをきちんとは受け入れられずにいますが、いつかその意味を知ることができるでしょう。

節子が元気だったら、こんなことは考えもしなかったかもしれません。
少なくとも、知識としてしか、考えなかったでしょう。
しかし最近は違います。
いつも「一人称自動詞」で、自分の生き方につなげて考える習慣が身についてきました。
節子との別れが、私を少しだけ成長させたことの一つです。
節子は今もなお、私にとってはいい先生です。

■2253:病床の横で読んでいた「マルチチュード」(2013年11月2日)
節子
また冬のような日になりました。
今日はこたつがほしいほどです。

今日は「コモンウェルス」という本を読んでいました。
これは、政治哲学社会のネグリとハートの書いた、新しい民主主義への革命の書「帝国」3部作と言われている本の3冊目の本です。
昨年末に買ったのですが、読めずにいました。
読めなかった理由は、節子と関係があります。

実は3部作の2冊目の「マルチチュード」は、節子の闘病中に読んでいました。
実に刺激的な本で、入院中の節子の病床の横で読んでいたような気がします。
普通の本はどんなに厚い本でも、2〜3日もあれば読了するのですが、「マルチチュード」の本は上下2巻でしたが、かなり長い時間かかった気がします。
内容が難解で密度が高かったことも理由ですが、今から思うと、おそらくもう一つ理由がありました。
「現実逃避」です。
普段と同じ状況をつくりたかったのです。
そして、節子にも安心させたかったのです。
だから読んでいても、読んでいないことが多く、何回も同じところを読み直していた気がします。
しかし、節子がいなくなった後、なんで病床の横で本など読んでいたんだろうと悔やみました。
節子はどう思っていたでしょうか。

ちなみに、節子の病床の横で読んでいた本は、「マルチチュード」だけです。
もしそうであれば、「マルチチュード」の読了には数か月かかっています。
それが事実なのか、私の記憶の世界の中でのことなのか、わかりません。
しかし、なぜか「マルチチュード」の本と病床で寝ている節子の姿が、いつも一緒に思い出されてしまうのです。
同じ著者の「コモンウェルス」を読み出すと、そのイメージが浮かんできてしまうのです。
だから読めなかったのです。

この本を久しぶりに手に取りました。
不思議なのですが、なぜかすらすらと読めるのです。
それも節子を常に思い出しながら、です。
ネグリの本が、こんなに読みやすいとは思ってもいないほど、すらすら読めます。
もしかしたら、「マルチチュード」は、私は読んでいなかったのかもしれません。
私の印象では難解でしたが、それは目で文字を追っていただけだったからかもしれません。

「マルチチュード」は、私には特別の本になっています。
節子と重なってしまっている本なのです。

■2254:笑顔が戻るのもさみしい(2013年11月3日)
節子
今日も空一面が灰色で、心身ともに寒々とした朝になりました。
今朝のNHKテレビ「おはよう日本」で、東日本大震災の時に、最後まで防災無線で住民に避難を呼びかけて津波の犠牲になった、南三陸町の遠藤未希さんのお母さんの日記が紹介されていました。
日記を通して、悲しみを乗り越えるため一歩一歩前へ進もうとする母親の思いが伝わってきました。

その中に、こんな文章が出てきます。
「お母さんは少しずつ笑って過ごせるようになっています。それも何かさみしい。少しずつあなたの顔がぼやけてみえます。」
大震災から1年半経った頃の日記です。

笑えることは本当に幸せなことです。
しかし、その幸せなはずの笑えることに「さみしさ」を感ずることの辛さは、なかなかわかってはもらえないことかもしれません。
しかし、遠藤さんの気持ちは、愛する人を失った人の多くが体験しているのではないかと思います。
笑いの中にさみしさがある。
でも、そのさみしさは自分だけのもの。
他の人には気づかれたくない。
いや、自分はほんとうに笑っているのだろうか、
とても複雑な気持ちなのです。

にもかかわらず、笑わないと生きてはいけません。
笑うことで、さみしさを忘れないといけない。
意識しようが意識しまいが、生きるということは、そういうことなのでしょう。
さみしいのに笑える自分がいることが、時に不思議でもあります。
そして、同時に、そうやって笑っている自分を冷やかな目で見ている、もう1人の自分がいて、さらに、その2人を見ている自分もいる。

人とは本当に不思議な存在です。
たくさんの「いのち」の集合体なのかもしれません。

今日は青空は期待できません。
なにか気の萎えてしまう1日になりそうです。
せっかく元気が出てきたのに、困ったものです。
元気になりすぎて、また走り出そうとしている私を、思いとどまらせようとしているのかもしれません。

■2255:妻のお陰さん(2013年11月4日)
節子
偶然に、この挽歌を見つけてくださった山陰太郎さんから、昨日、投稿がありました。
2年半前に奥様を見送ったそうですが、奥様の名前と年齢が節子と同じようです。
昨日が誕生日だったそうです。

はじめまして
今日は妻の68回目の誕生日を祝いました。
娘夫婦と息子の四人でイチゴケーキと紅茶の簡素なお祝いです。
ただ、妻はこの世にはおりません。2年半前に病に持って行かれてしまいました。

これを読んで、節子ももう68歳なんだと気づきました。
元気だったらどんな感じでしょうか。
節子がいたら、私も自分の年齢を実感できるかもしれませんが、節子がいなくなってから、私の年齢意識はそこで止まってしまっている気がします。

山陰さんは、こう続けています。

尽くすことが当然のような妻のお陰さんで
多くの厳しい荒波を乗り切ることが出来ました。
まだまだ妻の優しい呪縛からは、解き放たれることが出来ない日々をなんとか過ごして
おりますが、何時気持ちが萎れてしまうかもしれません・・・

自分のことのように、心身に響きます。
私がわがままに生きてこられたのは、節子のおかげでした。
節子がいなくなってから、それがだんだんわかってきました。
しかし、もし立場が逆だったとしたら、たぶん節子も同じように感じたかもしれません。
尽くすことは、尽くされることに通ずるからです。
伴侶に先立たれるということは、そうしたことに気づかされることかもしれません。
先立つことも後に残ることも、悲しさや辛さは同じなのかもしれません。
節子も、彼岸で寂しい思いをしているかもしれません。

山陰さんは、パソコンを使ったエクセル絵画と言うのをやっています。
山陰さんのホームページで見せてもらいました。
http://goen23226.blogspot.jp/
どうしてエクセルでこんな作品が出来るのか、驚きです。
節子がいたら、やってみたいというような気がしました。
節子は、新しいことが好きでした。

■2256:畑がきれいになりました(2013年11月5日)
節子
昨日、斎藤さんと桜井さんがやってきて、わが家の家庭菜園の草刈りをしてくれました。
世の中には親切な人もいるものです。
斎藤さんは、大畑さんの紹介で、つい1か月ほど前に知り合った人です。
その大畑さんも、最近知り合った人です。
先月、おふたりは湯島に来てくれ、ほんの少しだけの相談に乗ったのです。
ただそれだけのことなのですが、わが家の畑が草ぼうぼうのことを知っていた大畑さんが、草刈りに行くといってくれたのです。
おふたりとも休日もボランティアで超多忙な人たちですので、冗談だと思っていたのですが、本気だったのです。
大畑さんは今日は来られなかったので、斎藤さんが桜井さんを誘ってくれたようです。
しかし不思議です。
知り合ったのはつい最近、しかも桜井さんは面識もない人です。
その人たちが、小雨のなか、わが家の畑の草刈りをしているのです。
どう考えても、不思議ではないですか。

しかしお話していたら、少しだけ接点があるのです。
3人とも実は我孫子市役所の人なのですが、それぞれにささやか接点がありそうです。
特に斎藤さんは、節子たちが立ち上げた駅前の花壇整備に取り組む花かご会を応援してくださっていたおひとりです。
そのお話を聞いただけで、私は斎藤さんを年来の友のように感じてしまったわけです。
人のつながりは、ほんとに不思議で、知り合ってからの時間の長さとは関係ありません。

草がすごくて、もう手の出しようもなかった畑が見事にきれいになりました。
これからはきちんと手入れしなければいけません。
そうでないと斎藤さんや大畑さんに合わす顔がありません。

それにしても、どうしてこんなに気持ちの良い人が最近、私の前に次々と現れるのでしょうか。
私が元気をなくしていたのを心配して、節子がお天道様にお願いしてくれたのでしょうか。
節子に感謝したいと思います。
いや、お天道様に感謝すべきかもしれません。
まあ、それ以上に、斎藤さんと桜井さんと大畑さんに感謝です。
良い人と時間を共有すると、元気が出てきます。
ありがとうございました。

■2257:月下美人(2013年11月6日)
節子
節子にステキなプレゼントをもらいました。
エクセルで描いた「月下美人」です。
先日、挽歌で書いた山陰太郎さんが、ご自身のサイトにアップしてくれました、
山陰さんのサイトには、他にもたくさんの作品が掲載されています。

http://goen23226.blogspot.jp/

月下美人の作品には、こう書き添えられています。

「月下美人」
実際に見たことはない花ですが、つい先日繋がったネットの世界、ある方の天国の奥様へ贈りたいと思います。
花言葉は「儚い美」。仄かな香を放ちながら白い大輪の花を一晩だけ咲かせるという、伝説めいたお花のようです。

「ある方の天国の奥様」とは、節子のことです。
この挽歌を読んでくれて、魂をこめて描いてくれたのが、この作品です。
月下美人は、夜に咲くそうです。
そして、一夜にして枯れるのだそうです。
まさに「儚い夢」です。

しかし、月下美人にとっては、それは決して儚い夢ではないのでしょう。
時を得て、思い切り大きく咲く。
それもだれにも見られることなく、真夜中に。
その潔さはうらやましい。

この絵をよく見ると、山が見えます。
この風景は、節子と一緒にいった千畳敷カールで見た風景にとてもよく似ています。
最近、時々、なぜかその時の風景を思い出していたのですが、まさか月下美人の後ろに、それを感ずるとは思ってもいませんでした。

山陰太郎さんの奥さんも、お名前が節子で、年齢も私の妻の節子と同い年です。
違うのは旅立った年。
私はまだ山陰太郎さんとはメールだけのお付き合いですが、どこかに似たものを感じます。
山陰太郎さんも、そう感じているそうです。
だとしたら、たぶん、それぞれの伴侶だった2人の節子たちも、どこか似たところがあるのでしょう。
彼岸で会っているかもしれません。

■2258:一筋の金色の細い糸(2013年11月7日)
節子
今日も、山陰太郎さんの話です。
月下美人を描いてくださった山陰太郎さんです。
いただいたメールにこんな文章がありました。

私はまだ、真っ暗闇の中を彷徨っている状態ですが、一カ月半ほど前から暗闇の中に一筋の金色の細い糸を見つけました。
直径1ミリメートルにも満たない細い真っ直ぐな糸ですが、暗闇の見果てぬ何処からか私の胸に延びてきています。
想像では、その糸の先には妻がいるような感覚がしています。
昔、紙コップで作った糸電話のように、時々妻に話しかけたりアドバイスを貰ったりしています。

糸電話で彼岸と話ができる。
実にうらやましい。
素直にそう思います。

山陰太郎さんは、「他人様からは笑い話にされること間違いないと思い、だれにも話してはおりません」と書いていますが、私には素直に信じられます。
暗闇を彷徨っていると、いつもは見えないものが見えてくるものです。
見えてきたら、それを信じなければいけません。
信ずればそれが現実になるからです。
これは、大宰府の加野さんから教えてもらったことです。
偶然ですが、今日、その加野さんから電話をもらいました。
まあ関係ない話ですが、加野さんは霊能者ですから、関係あるかもしれません。
加野さんも、彼岸と交流している人です。

私にも、節子から糸電話がかかってこないものでしょうか。
今とても節子のアドバイスがほしい時なのですが。
山陰太郎さんが、とてもうらやましいです。
はい。

■2259:「現実に一人になると生きていけるものですね」(2013年11月8日)
節子
もう一度だけ、山陰太郎さんの話です。

メールにこんな文章がありました。

妻も自分が逝ってしまうことなど考えてもおらなかったと思っています。
その理由は、私が一人では生活など出来ない人間だと言っていましたから
そのことは間違ってはおりませんが、現実に一人になると生きていけるものですね

私の話のような気がしながら読んでしまいました。
そして、「現実に一人になると生きていけるものですね」というところにうなずいてしまいました。
ほんとにそうです。
生きていけるのです。

私自身、6年半も生きつづけられるとは、思ってもいませんでした。
生きる気力がなかったからです。
しかし、生きていると生きてしまうのです。
生きることが現実となってくるのです。

山陰太郎さんは、奥様を見送ってから、まだ2年半ほどだそうです。
その頃は実にあやういです。
生きているかどうか、実は自分でもよくわからない。
私の場合はそんな状況でした。
山陰太郎さんは、奥さんからの電話もあって、新しいことを始められました。
私もちょうどその頃、知人の一声で、新しいことを始めました。
その私の体験からいえば、山陰太郎さんもあやうさから抜け出せるでしょう。
それがいいかどうかは、なんともいえませんが。

しかし、実際には、生きていけるのは「一人になっていない」からかもしれません。
愛する人と出会えれば、もう永遠に一人にはならないのです。
山陰太郎さんが生きているのは、間違いなく、奥様の支えのおかげです。
自分に身を置いてみて、そう思います。

にもかかわらず、私も時に思います。
「現実に一人になると生きていけるものだな」と。
そして、
「節子は、そのことを喜んでいるだろうか」と。

■2260:歩くことの治癒力(2013年11月9日)
節子
鈴木さんが「ロング・マルシュ 長く歩く」という本を教えてくれました。
フランス人の元ジャーナリストが、サンチャゴ巡礼で生きる意欲を取り戻し、そのあとに挑んだシルクロード徒歩旅行の記録です。
ある雑誌に載っていた、著者の短い文章も送ってきてくれました。

10年前の妻の死で開いた傷が、ふさがらないままだった。仕事に打ち込むことでしのいでいたが、いま、その仕事までが私を見捨てようとしていた(退職が近づいていたという意味)。

そして、彼はサンチャゴ巡礼路を歩くことにしました。
そこで歩くことの治癒力を発見。
歩き続けねばならないと決心。

機械文明のため、われわれは歩く人類というものを忘れてしまった。
歩いて辿る小道は生命の道だ。

この本を紹介してくれた鈴木さんもサンチャゴ巡礼路を歩いていますが、また行きたくなっているようです。
四国のお遍路さんも計画しているようです。

節子がいたら、私たちも四国に行っていたでしょう。
節子の姉夫婦は何回も歩いています。
そろそろ私たちも行こうかと話をしはじめた時に、節子のがんが発見されました。
サンチャゴ巡礼も、節子は少し関心を持っていました。
サンチャゴ巡礼の映画づくりの取り組んでいた黛まどかさんを囲むサロンを湯島で開き、節子も参加し、黛さんの本も読んでいました。
しかし、結局、節子も私も、巡礼路を歩くことはありませんでした。

しかし、考えようなのですが、私はいま、節子と2人で巡礼路を歩いているような気もします。
この挽歌は、私にとっての「巡礼の記録」なのかもしれません。
そう考えると、もう6年以上、歩いていることになります。
苦難も多ければ、お接待も多く、疲れたり癒されたりしています。

人生は旅そのものだ、などと月並みなことは言いたくありませんが、旅だと思えば、いろいろと納得できることが多いです。
しかし、本当の旅は、彼岸への旅かもしれません。
此岸はすべて巡礼路かもしれません。
そう思わないと、最近は身が持ちません。
お天道様は、時に苦難を与えてくれます。

■2261:毒素(2013年11月10日)
節子
昨日、紹介した鈴木さんの手紙によると、「ロング・マルシュ」を読んだこともあって、近くの井の頭公園を久しぶりに歩いてきたそうです。
鈴木さんの手紙からの引用です。

 池が見えるベンチでボーっとしていると体から毒素が少し抜けたような気がします。

我が家の近くにも手賀沼公園という小さな公園があります。
池が見えるベンチもあります。
節子が闘病中は、早朝に良く2人で散歩に行きました。
しかし、節子がいなくなってからは一人で散歩にいったことはありません。
どうしても足が向きません。

鈴木さんではありませんが、私も最近は毒素が心身に充満しています。
最近は、毒素で成り立っているのではないかと思うほど、毒素を感じます。
それで自己嫌悪に陥ってしまうと、なぜかさらに毒気が集まってきます。
気分を変えて、かなり流れは変わりましたが、心身の毒素はなかなか出て行ってくれません。
私もベンチでボーっとしてみないといけません。
手賀沼の湖畔からは、運がよければ、遠くに富士山が見えることもあります。
さらに運がよければ、毒素が浄化されるかもしれません
しかし、今日はあいにく寒くて出かける気にはなりません。

昨日は湯島で、箸ピーサロンを開催しました、
湯島のサロンは、いずれもとてもカジュアルなのですが、私の紹介の仕方が悪いのか、敷居が高いと思っている人もいます。
でも一度来てくれると、そんなことはないと実感してくれるはずですが。
しかし、まあ、そんなわけで、箸ピーサロンなら敷居も低いだろうと、やってきてくれる人もいます。
昨日は、初対面の人も5人も来てくれました。
箸ピーゲームを楽しめば毒素が抜けるはずなのですが、逆に毒素のおかげ、昨日の私の成績は散々でした。
心身の調子はちゃんと成果に出るものです。

さてどうもこのままだとせっかく流れを変えたのに、また反転しそうです。
明日は予定を変えて、娘夫婦と一緒に紅葉でも見に行こうかと思います。
紅葉狩りは、節子がいなくなって、はじめてのことです。

■2262:家族になぐさめられる歳になりました(2013年11月11日)
節子
今日はいろんなことをすべて「横に置いて」、ジュン夫婦と紅葉を見に行きました。
紅葉狩りは、節子がいなくなってから初めてでしょうか。
むかし、家族みんなで行ったことのある茨城の龍神大吊橋です。
これができた時に、節子と娘たちと一緒に行ったのですが、それ以来久しく行っていませんでした。
最近、私がいささか不安定な状況にいるのを見かねて、誘ってくれたのです。

あいにく秋晴とは言えず、雨模様の日になってしまいましたが、ついで近くの花貫渓谷にも足をのばしました。
紅葉は、まだちょっと早かったですが、気分転換にはなりました。

帰宅後、ユカも一緒に、お寿司屋さんに行きました。
そんなわけで、今日は家族になぐさめられる日になりました。

最近つくづく思うのは、なんとまあわがままに生きてきたことかと言うことです。
この歳になって気づくのは、もうどうしようもなく遅いのですが、自分は良いとして、家族には大きな迷惑をかけてきたのだと思い知らされることが多いです。
たまたまつい先日、政治哲学者のネグリとハートの「コモンウェルス」という本を読みましたが、そこに「家族という〈共〉(コモン)は腐敗しやすい」と書かれていました。
ネグリとハートの考えは、私の生き方にとても深く通じていて、共感することが多いのですが、家族が腐りやすい制度だという指摘にはドキッとしました。
私のテーマも「コモンズの共創」で、ネグリたちよりも早く、そういう生き方をしてきていると自負しているのですが、私の家族観には甘えがあったような気がします。
私は、どうも家族に甘えすぎているようです。
おそらく、節子にも甘えすぎて、依存しすぎていたのでしょう。

ほんとは、娘たちになぐさめられるのは、いまに始まったことではないのです。
ずっとなぐさめられてきたのでしょう。
節子にも、ずっとなぐさめられてきたわけです。

そういえば、春にもユカから、同じようなことをしてもらった気がします。
改めて今日、紅葉狩りに誘われて、そのことに気づきました。
人は、まわりからなぐさめられているからこそ、生きつづけられるのかもしれません。
たくさんの人たちからなぐさめられていることに気づかないといけない、と改めて思いなおしました。

■2263:愛は〈共〉を構成するカ能(2013年11月12日)
節子
少し小難しいことを書きます。
昨日も書きましたが、「コモンウェルス」と言う本を読みました。
とても示唆に富む本でした。

ところで、私が25年間勤務した会社を辞めて、コンセプトワークショップという会社を節子と一緒に創設して、活動を始めた時に、ぼんやりと考えていたビジョンがあります。
そのビジョンは、次第に見えてきましたが、それは会社の名前につながっています。
「コンセプトワークショップ」を略して、私たちはCWSと読んでいました。
そして、CWSは、もう一つの言葉の略称でもありました。
それが、「コモンウェルス・ソサイティ」です。
ネグリとハートの3冊目の書名が、まさか「コモンウェルス」になるとは思ってもいませんでしたが、ある意味では当然の結果だという思いもあります。
少しうれしい気がしますが、節子とその嬉しさを分かち合えないのが残念です。

その「コモンウェルス」という本の最後は、「愛」というキーワードに収斂しています。
彼らの次の作品では、「愛」が前面に出てくるだろうと思います。
それもまた当然の結果ですから。

ところで、同書に「愛は〈共〉を構成するカ能でもある」という文章が出てきます。
そしてさらに、いささか難しい表現が続いています。

愛の構成的なカ能と愛による〈共〉の創造は、存在の生産、現実性の生産に含まれている、存在論的なカと呼ぶことのできるものを示唆している。

本書を読んでいない人にとっては、いささかわかりにくい表現でしょうが、なんとなく意味は伝わるのではないかと思います。
私には、節子と一緒に生きてきた40年のすべてが、この言葉で納得できるような気がします。
節子の病が発見されてから、私はなぜかネグリに出会い、それにはまってしまいました。
そして、節子を見送って6年経たいま、この文章に出会いました。
いまは、この言葉の意味がとてもよくわかるような気がします。
「愛は〈共〉を構成するカ能」。
私のテーマである「コモンズの共創」には、不可欠な要素です。
愛を呼び戻さなければいけません。

■2264:ふだんのくらしをしあわせに(2013年11月13日)
節子
先日、「福祉」教育を話題にしたサロンを開きました。
それに関しては時評編に少しだけ紹介しました。
フェイスブックにも書いたのですが、ある人が「福祉」とは「ふだんのくらしをしあわせにすること」だと書いてきてくれました。
「ふだん」「くらし」「しあわせ」の頭文字をつなげると「ふくし」になります。
なるほどと納得しました。

これを書いてくれたのは、坂戸の須田さんです。
覚えてくるかどうかはわかりませんが、須田さんには節子も一度だけ会っています。
それは、節子が参加していたコーラスグループの発表会でした。
節子は、かなり病状が悪くなっていましたので、歌うのは無理でしたが、発表会にはぜひ行きたいというので、2人で出かけました。
それが、節子が外出した最後かもしれません。

須田さんは坂戸でコーラスグループに入っていましたが、その先生が、節子たちのグループと同じ人だったのです。
その関係で、坂戸からわざわざ我孫子まで須田さんは聴きに来てくれたのです。
節子と会ったのは、それが最初で最後でした。
節子は、その発表会ではたくさんの人たちに会いましたので、須田さんのことは覚えていないかもしれません

その須田さんが「福祉」とは「ふだんのくらしをしあわせにすること」と教えてくれたのです。
須田さんは、それを実践している人です。

私たちの「ふだんのくらし」は「しあわせ」だったでしょうか。
私は少なくとも「しあわせ」でしたが、節子はどうだったでしょうか。
私にとっての幸せの源泉は「節子」でしたから、節子がいない今は、幸せとは言えないかもしれません。
でもまあ、いまのふだんのくらしも、いろいろとありますが、幸せというべきでしょう。
人生は、不幸の中にも必ずどこかに何がしかの幸せはあるものですから。

今日、新たにジョイワークスという会社を創った人たちが湯島に来てくれました。
働く喜びを取り戻したいという思いからの起業です。
一人はロゴセラピーを勉強していた友人です。
フランクルを読んで、生き方を変えたと言います。
私のところに報告に来てくれたのが、とてもうれしいです。

「幸せ」とはなにか。
最近思うのは、人は人であることで、すでに幸せなのだということです。
ふだんの暮らしをおくれることが、幸せだということです。
節子がいない幸せもあるのだと思わなければいけません。

今日はこれから「支え合い共創サロン」です。
ふだんのくらしが幸せになるような、仕組みを考える第1回目です。
どういう話になるでしょうか。
節子がいないのが、とても残念です。

■2265:死の迎え方(2013年11月14日)
節子
昨日の湯島のサロンに、若い僧侶の中下大樹さんが参加してくれました。
お寺に生まれたわけではないのですが、思うことあって、僧籍を得て、さまざまな活動に取り組んでいる人です。
今年の春に、自殺のない社会づくりネットワークで開催した集まりで知り合いました。
若いにもかかわらず、500人ほどの最期を看取った体験をお持ちです。

昨日の集まりで、ある人が、孤独死の何が問題なのかと問題提起したのをきっかけに、話がいろいろと飛び交ったのですが、最後に中下さんが人の最期について語ってくれました。
ほとんど人は、やはりさびしがるそうです。
しかし、なかには泰然と死に向かう人もいるそうです。
人の最後に、その人の人生が凝縮して現れてくるのかもしれません。

節子の最期は、どうだったでしょうか。
少なくとも右往左往はせずに、さびしがることもなく、家族に囲まれて、自然に、眠るように、旅立ちました。
右往左往したのは、家族でした。
死は、本人の問題ではなく、周りの人たちの問題だという思いがします。

孤独死が問題なのは、孤独死そのものではなく、孤独死を迎えてしまう「生き方」です。
死は、本人にとっては、体験もできないことですから。

死は、周りの人たちへの大きなメッセージです。
そのメッセージをどう受け止めるかは、人それぞれでしょうが、とりわけ身近な人の場合は、そのメッセージをうまく受け止められないような気がします。
メッセージをうまく受け止められないと、立ち直ることも難しい。
私の場合は、5年ほどかかりました。
しかし、そのメッセージを解読するには至っていません。
ただ、そのメッセージが、私の生きる力になっているような気がしています。

節子との突然の別れ。
それに右往左往した自分が腹立たしくもあります。
人の死は、周りの人にも、その生き方や価値観を露呈させる働きがありそうです。
私は泰然と死を受け容れて、自然に旅立てるか、ちょっと不安があります。
節子がいたら、そうできる確信はあったのですが。

■2266:オリオン座(2013年11月15日)
節子
昨日は少しダウンしてしまっていましたが、そのひとつの理由は、オリオン座です。
一昨日、帰宅したのは夜の11時頃でしたが、駅から家まで歩いてくる時に、夜空が異様に美しいのを感じました。
最近、これほどまでに美しい夜空を見ていなかったような気がしました。
途中で少し立ち止まって、見上げていました。
オリオン座の三ツ星がちょうどよく見える位置にありましたが、三ツ星がこんなにはっきりと見えるのはめずらしい気がしました。
三ツ星を囲む4つの星もはっきりと見えました。
オリオン座だけではありません。
西空のほうも含めて、全空の星が輝いていました。

それを見ていたら、また、いまの生き方が間違っているような気がしだしてしまったのです。
いや、間違っているのは間違いないのですが、そこから抜け出せずにいる自分がいやになったということです。
そして、またダウンしてしまったわけです。
困ったものです。

昨日、やる気もなく、だらだらしていましたが、何気なく録画していたコズミックフロントを再生してみました。
なんとオリオン大星雲の話でした。
まったく意識していなかったのですが、この番組をなぜ録画していたのかも意識がありません。
少しまた不思議な気がしましたが、番組で見るオリオン大星雲の映像は実に神秘的でした。
そこでは、星が生まれ、星が死んでいく。
そうした宇宙の時間の流れは、私たちが感じている時間などは誤差の範囲でしょう。
私たちが生きている現世の時間の流れは、たぶんたたみ込まれているに違いありません。
時間の後先が入り乱れていることでしょう。
そんな気がしながら、見るでもなく見ないでもなく、テレビの前にいましたが、今日、改めてきちんと見直しました。
実はこれも偶然なのですが、昨夜、コズミックフロントの新しい番組の放映があるのに気づき、それも録画しておいたので、一緒に見たのです。
新しい番組は、ホーキンズが語る宇宙の始まりの話でした。
無から宇宙が発生した。
もしそれが事実なら、宇宙は無でしかありません。

寒いせいか、どうも元気が出てきません。
明日は、元気がでないと困るのですが。

■2267:この世を流れる流れ星(2013年11月16日)
節子
節子も知っている岡紘一郎さんが、また本を書きました。
「稚き面輪はだれに似たるや」という、彼の叔父さんの記録のようです。
今回は、思い切り個人的な話ですが、岡さんのライフワークだったようです。
彼なら、ほかにもいろいろとライフワークのテーマがあるはずですが、これがライフワークだったことを初めて知りました。

昨日受け取ったばかりで、まだ読んでいないのですが、書き出しに心が反応してしまいました。
それを引用させてもらいます。

生命体は、どれをとっても、おなじものが二度とあらわれない、この世を流れる流れ星である。流れ、消えていくわずかな時間でさえも、笑い、悲しみ、怒り、喜び、励み、落胆する生の営みがあり、固有の顔や姿があった。
 流星のような人生。太いのか、細いのか。長いのか、短いのか。輝きに違いはあるが、いずれにしも一瞬のできごとにすぎない。
 たとえか細くても、短くても、飛翔する自分の姿をだれが見てほしくないだろうか。だれでも心すれば、この世をよこぎる一筋の小さな輝きを脳裏に焼きつけることはできる。

彼らしい文章です。
これに関しては、よけいなコメントを書くのを控えたいと思います。
とても心に深く響きました。

岡さんは、会社時代の同期です。
彼とは4年間、滋賀で一緒でした。
節子も知っていますし、岡さんも節子を知っています。
特に仕事を一緒にしたわけではありませんが、私たちは2人とも意識の面で、どこか組織から外れていましたので、心が響いたのかもしれません。
私が会社を辞めた後も、東京に出てきた時などに、湯島にも立ち寄ってくれました。

人の生は、一瞬のできごと。
とても心に響きます。
その一瞬が、いかに豊かなものであるかを、岡さんは知っているのでしょう。

伝記は、私の好みのジャンルではないのですが、読んでみようと思います。
彼が、ライフワークとした意味がわかるでしょう。

■2268:年賀欠礼のハガキが届きだしました(2013年11月17日)
節子
今日は黒岩比佐子さんの命日です。
昨日、知人が教えてくれました。
もう3年も経ちましたと言うべきか、まだ3年かと言うべきか。

これは私だけのことかもしれませんが、友人たちの死の時点の後先が次第にわからなくなります。
まるで、現世での時間が途切れてしまったように、旅立った日からの時間は誰も彼も同じように感じてしまうのです。
だから、「もう」と思ったり、「まだ」と思ったりしてしまうわけです。
誰かに言われなければ、年数などはわかりません。
若い友人たちも何人か見送りましたが、今となっては、誰が先で誰が後かも曖昧になってきています。
まあそんなものなのでしょう。

今年も年賀欠礼のハガキが届きだしました。
わが家も、そういえば、チビ太がいなくなったので、年賀欠礼です。
チビ太も、家族の一員でしたので。

寒い冬になりそうです。

■2269:節子、いろんな人に合いましたね(2013年11月18日)
節子
市川覚峯さんが久しぶりに湯島に来ました。
相変わらずの調子で、活躍しています。

市川さんは、3年間、山で修業してきた人です。
比叡山、高野山、そして吉野の大峰山。
それも半端ではない荒行もこなしてきた人です。
それにもかかわらず、実に軽いところがあります。
それが良いかどうかは、微妙なところです。

高野山の断食行の最後の日に、節子と一緒に僧坊を訪ねたことを時々思い出します。
翌朝、まだ真っ暗な時間にお堂で護摩を焚いてくれました。
あの時の市川さんは、透き通っていました。
あの時ばかりは、節子も市川さんを見直したことでしょう。

節子が亡くなった日、市川さんは奥さんと一緒にわが家にとんできてくれました。
誰が教えてくれたのでしょうか。
今から考えると不思議です。
そして、節子に枕経をあげてくれました。
以来、市川さんの頼みは絶対に断らないようにしています。

節子と高野山に行ってから、もう15年以上経ちます。
あの頃、小学生だった市川さんの息子さんも、今や立派になり、僧籍までとりました。
思えば、節子と一緒だった頃、実にさまざまな人たちとの出会いがありました。
節子にも、たぶん刺激的な出会いも少なくなかったはずです。
もう付き合いがなくなった人も少なくありませんが、節子と一緒に付き合っていた人に会うと、その時に戻るような気がします。
とりわけ湯島で会うと、そこにまだ節子がいるように感ずることもあります。

やはり湯島のオフィスは撤退するわけにはいきそうもありません。

■2270:庭のランタナが冬を越せますように(2013年11月19日)
節子
庭に地植えしたランタナが元気です。
しかし、寒さには弱いので、冬には枯れてしまうかもしれません。
カバーをするなり何らかの方策が必要です。

とまあ、これはほんの一例ですが、節子がいなくなってから、新しい仕事が増えました。
もっとも、そのほとんどをさぼっているため、いろいろと問題が発生しているわけですが。
生活環境を維持していくのは、それなりに大変です。
私の快適な生活は、節子によって支えられていたことがよくわかります。
しかし、人には得手不得手がありますから、やはり一人ではなく、何人かで不得手を補い合いながら、得手を活かし合う生き方が望まれます。
ただ、他者との暮らしは、お互いを縛り合うという面もあります。
そこがうまくいかないと、夫婦は破綻し、家族は分解しかねません。
幸いに、私たち夫婦は破綻には向かわずに、活かし合う暮らしができたように思いますが、しかし、本当は節子が負担を少し過多に背負い込んでいたのかもしれません。

花木も、季節によって、それなりに守ってやらなければいけません。
同じように、夫婦もお互いに守り合うことが大切です。
節子がいなくなってから、もう私を守ってくれる存在はいなくなりました。
そんなことを言うと、娘たちや親戚や友人に失礼ですが、やはり伴侶の守る守備範囲は、だれにも肩代わりはできせん。
時に、節子に救いを求めたくなることがありますが、なんとか何回かの冬を乗り越えました。
乗り越えると強くなるものでしょうか。
必ずしもそうとは限りません。

ちょっと気を許すと、大丈夫だと思っていた花木が枯れてしまうこともあります。
この冬はとりわけ寒くなりそうなので、きちんとケアしていこうと思います。
花木や他者へのケアは、実は自らへのケアでもあるのです。
最近、そのことが実感できるようになって来ました。
必ずしも十分に実践しているわけではないのですが。

■2271:畑でのひと休み(2013年11月20日)
節子
今日は雲ひとつない秋晴です。
午前中に時間が出来たので、畑に行ってきました。
先日、斎藤さんと桜井さんがわざわざやってきてくれて刈ってくださった草が山になっています。
燃すわけにはいかないので、土に穴を掘って埋めることにしました。
ところが、この畑はもともと農地ではない山林だったので、いろんな植物の根が張っていて、なかなか掘れません。
それに一人でやっていると、私の場合、すぐに飽きてしまうのです。
また軽い立ちくらみを感じたので、埋めることは諦め、ゴミで出すことにしてしまいました。
燃やしたらとても良い肥料になるはずですが、残念です。

途中、畑の真ん中に腰をおろして、ひと休みしました。
久しぶりにいい汗をかいた感じです。
地面に腰をおろすと、作業している時とは違った風景が目に入ってきます。
バッタが寒そうに、草の陰に隠れていました。
なぜか季節はずれのモンシロチョウが飛んでいました。
ただ、トンボはまったく見当たりません。
もう季節が終わったのかもしれませんが、今年はトンボが少なかったように思います。

わが家の周辺の自然もこの数年で大きく変わってきています。
10年前には庭の池にゲンゴロウが飛んできたりしていましたが、いまは何も来ません。
私にとって、周辺の風景が変わってきているのは、節子がいなくなったからだけではないようです。
自然そのものも変わってきているのでしょう。

節子が元気だった頃は、私自身も自然と触れ合う時間も多かったですが、最近はあまりありません。
畑に行っても、作業をするだけで、畑との交流はありません。
それでは畑をやる意味がないと節子に言われそうです。
もう少しきちんと生きなければいけないと、ふと思いました。

■2272:彼岸は残された人の心身の中にある(2013年11月21日)
節子
朝起きて、リビングに行くと、そこに節子の気配を感じます。
チビ太の気配を感ずることもあります。
そこには、節子とチビ太がいて、朝になって、私が起きてくるのを待っているのかもしれません。

気配を感ずると声をかける。
声をかけると気配を感ずる。
相手が彼岸にいようと、その関係性には変わりはないようです。
彼岸は、もしかしたら此岸に残された人の心身の中にあるのかもしれません。
その気になれば、人はいつでも、彼岸と交流できるのです。
そう思うと、少し心はなごみます。

一人になると、ふと、節子を思い出します。
思い出すと、そこに節子の気配を感じます。
過剰に思い出すと辛くなるので、適度に思い出すようにしていますが、思い出すと気配が感じられるのは、ある意味での支え合いになります。
そうして、人は先に逝った人たちに支えられているのかもしれません。
彼岸は、自分の中にある。
この頃、そんな気が強くしています。

今日の東京の空はとてもきれいです。

■2273:今の生き方はこれまでの生き方の結果(2013年11月24日)
節子
連日、秋晴日和がつづいています。
青空の下では気分が明るくなります。
時間の合間を見て、畑にも時々行くようになりました。
まだ何も植えていないので収穫はありませんが、
来年は栽培を再開したいと思います。

敦賀から野菜がどっさり届きました。
そういえば、先日は岐阜の佐々木さんが柿をどっさり送ってきてくれました。
昨日は神戸の田中さんが、元気が出る水を送ってきてくれました。
わが家の生活は、こうしてみなさんから支えられているわけです。
経済的に貧しいと、生活は豊かになると、誰かが書いていたような気がしますが、私の場合、いずれも中途半端ではあるものの、いずれからも豊かさを享受させてもらっています。
しかし、豊かさや幸せは、定義が難しいですが、そう思えば良いだけの話かもしれません。

今の生き方は、これまでの生き方の結果であると、つくづく実感します。
今の私の生活を支えているのは、節子と一緒に暮らした40年間が大きな影響を与えているわけです。
そういう意味では、いまもなお、節子と一緒に暮らしているともいえるわけです。
まあ、苦労しているのは私だけですが。

昨日、お墓参りにも行ってきました。
お墓の周りに、節子が植えておいた小菊が満開でした。

■2274:引接結縁の楽(2013年11月24日)
極楽往生に関するガイダンスともいうべき「往生要集」を書いた恵心僧都源信は、生きた人間の生のなかに、地獄や餓鬼を見ていたといわれています。
おそらく、そこに極楽世界をも見ていたのでしょう。

浄土宗につながっていく「往生要集」には、極楽浄土での生活の様子も描かれています。
そのひとつに、「引接結縁の楽」というのがあるそうです。
極楽では、縁のある人々を自在に連れて来られるのだそうです。
現世ではなかなか思うようにならなくても、極楽浄土では、だれでも思いのままになるというわけです。
いささか理屈っぽい言い方をすれば、極楽(彼岸)では時空間がたたみこまれており、すべてが量子力学の世界のように自由自在に存在しているがゆえに、それが可能になるのかもしれません。
問題は、此岸にいる人までも連れて行けるのかどうかです。

昔から、「神に愛でされたものは早世する」といわれますが、これもまた神が連れ出す結果かもしれません。
愛する人に先立たれた人が、後を追うように亡くなることがありますが、それもまたこうしたことの一つかもしれません。
私の場合、いまだ節子には呼び出されていないようですが、時々、彼岸にいるような気がすることがありますので、もしかしたら気づかないうちに彼岸との往来をしているのかもしれません。

とまあ、今日はおかしなことを書き出してしまいましたが、ふと目についた「往生要集」の解説書をぱらぱらと読んでいたのです。
そこに仏の観察法が書かれていました。
実際には仏像のイコノグラフィーのような解説です。
そこに「上品上生」と言う文字が目に入りました。
極楽往生を願う人たちには9種類(上品上生から下品下生まで)存在するとされ、仏たちもまたそのそれぞれに応ずる形で、印を結んでいるようです。
私にはこれがなかなか理解できずに、節子と会った頃、仏像の前でよくこの話をしたことを思い出しました。

最近は仏に会いに行く機会も減りました。
仏を語ることは、もっと減りました。

■2275:加齢の停止(2013年11月25日)
節子
久しぶりに高須夫妻と食事をしました。
高須さんたちは、私たちが最初に仲人をさせてもらった夫婦です。
最近は高須さんも海外での仕事になったので、なかなか会う機会がありません。

高須さんの上のお嬢さんはもう中学3年生です。
まわりの人たちはどんどん歳をとっています。
もちろん私自身もそうなのですが、伴侶がいないせいか、なかなか自分を相対化できません。
伴侶である節子が歳とっていくのをこの目で見ていれば、自分の歳も実感できますが、それがないせいか、どうも自分が歳をとっているのが実感できないのです。
毎朝、顔を洗う時に鏡に映る自分は見ていますが、不思議なもので鏡に映る自分からは歳を感じません。
写真になるとわかるのですが、写真はこの頃、あまり撮りませんし、撮っても見ません。
ですから私自身の老いは、なかなか実感できないでいます。
「老人」であるという認識はあるのですが、実感はありません。
実に困ったものです。

もし今、節子がいたら、どんな感じになっているでしょうか。
想像も出来ません。
私の世界の中での節子もまた、歳をとるのをやめています。
6年前、私たちは2人とも歳をとるのをやめてしまったわけです。
歳をとらずに生きていくことは、浦島太郎のように、ある時に突如、一挙に歳をとることになるのでしょう。
それもまた困ったものです。

やはり伴侶と一緒に、自然に歳をとりたかったものです。

■2276:節子の隣での読書の思い出(2013年11月25日)
節子
最近寝不足が続いています。
夜中に目が覚めてしまうことが多いのです。
眠れないので、本を読み出すこともあります。
寝る前にベッドで読書をするとすぐに眠くなるのですが、真夜中に目覚めた時の読書は眠くなりません。
なぜでしょうか。
それでまあ寝不足が続いているわけです。

そんなこともあるので、最近はベッドの横に書籍が積まれています。
夜中の読書用の本は、いずれも以前読んだ本だけにしています。
昨夜、読んだのは古田武彦さんの「真実の東北王朝」です。
本もおもしろいのですが、最初に読んだ頃のことを思い出せるのも、もう一つの効用です。

東北は、いつか節子とゆっくりと出かけるところでしたが、結局、バスツアー旅行しか行けませんでした。
節子は三陸海岸に行きたいとずっと言っていましたが、私は十三湖が希望でした。
結局、そのいずれにも行かず、秋田の角館とか弘前にしか行けずに終わってしまいました。
悔いが残ります。

「真実の東北王朝」は、真偽が問われている古代史の書「東日流外三郡誌」をテーマにした作品です。
「東日流」は「つがる」と読みます。
そこに十三湖が出てきます。
私にとっては、とても夢のふくらむ本なのです。
しかし、現実派の節子は、そうした古代の夢にはあまり関心を持ちませんでした。
私は「見えない風景」が好きですが、節子は「見える風景」がすきだったのです。
エジプトに行った時も、私には古代エジプトの華やかさが見えましたが、節子からはただ泥の塊じゃないのと言われてしまいました。
まったく困ったものです。

「真実の東北王朝」は、節子がいなくなったせいか、以前読んだ時よりも面白かったです。
読了していませんが、また今夜も夜中に目が覚めたら、読もうと思います。
寝不足はもうしばらく続きそうです。

しかし、書いていて思い出しましたが、節子が元気だった頃も時々、真夜中に本を読んでいたことがありました。
節子に、迷惑ではないかと訊いたら、隣で本を読んでいると安心して眠れると言ってくれました。
寝ている節子の隣で本を読む幸せは、もう体験することはありません。
あれは至福の時間でした。

■2277:家の中の風景の変化(2013年11月27日)
節子
寒くなってきました。
昨年はついにこたつを立てずに、冬を越しましたが、今年はこたつを立てようと思います。
節子がいなくなってからの数年の冬は、和室のこたつに、文字通り引きこもりでした。
何もする気がなく、死んだようにしていた2年間もありました。
昨年の冬は初めて、その和室から抜け出たのですが、もうこたつを立てても大丈夫でしょう。

こたつは、家族を集める働きを持っていると思っていましたが、どうもそうではなくて、節子が家族を集める働きをしていたようです。
一昨年までのこたつは私が独占していました。
あったかな団欒の場所から、寂しい孤独の場所へと、こたつのイメージが変わってしまいました。
一人住まいになると、こたつの意味は変わってしまうようです。

節子がいなくなってからも、家の中の様子はほとんど変わっていません。
しかし、その意味合いは微妙に変化しているように思います。
その典型が、和室であり、食卓です。
わが家の食卓は、節子の強い希望で、円卓なのです。
私には、和室も円卓もどことなくさびしいものになってしまっています。

わが家の短い廊下の側面に、家族のミニギャラリー用の4つの隙間空間があります。
節子やジュンがいた頃は、そこにそれぞれ工夫して何かを飾っていました。
そういうのが好きな節子は、いろいろと季節ごとに工夫していましたが、いまは注意しないとただのもの置き場になってしまい、それもまたさびしさを感じさせます。
節子が、季節ごとに替えていた絵画や額も、今は誰も替えようとはしません。
節子が残していったままに、残しておきたいという、私の無意識な思いを、もしかしたら娘たちも感じているのかもしれません。

室内に飾られているものの記憶は、ほとんどが節子のものです。
そうしたものをつないでいくと、節子の世界が見えてくるのですが、私には背景がわからないものもあります。
物には、その人の歴史や物語があればこそ価値があります。
海に出て行く船の絵がありますが、これは節子が油絵を習っていた時の先生の絵です。
節子には油絵仲間との楽しい思い出が浮かぶでしょうが、私には単なる絵画でしかありません。
和室の床の間には、節子が書いた書が飾られていますが、節子にはその書は仲間や先生との楽しい思い出が詰まっているでしょう。
しかし、私には、さびしい思いしか呼び起こせません。
さびしさの向こうには、たくさんの楽しさがあるはずですが、私にはそこまで届くことができません。
節子の楽しい思い出話を聞くことができないからです。

節子がいれば楽しい時間を実現するものも、節子がいないために寂しさしか呼び起こさないとしたら、同じ風景がまったく違ってしまうわけです。
しかし、それを替える気にはなれません。
だからなかなかさびしさから抜けられないのかもしれません。
困ったものです。

■2278:ハンナ・アーレントの愛(2013年11月28日)
節子
先日、「ハンナ・アーレント」の映画を観ました。
ナチのアイヒマン裁判を傍聴したアーレントの記事が大きな騒ぎを起こした話を映画化したものです。
時評編には書いたように、いささか肩すかしの映画でしたが、そこにハイデッガーとアーレントの関係が微妙に埋め込まれていました。
アーレントとハイデッガーは、師弟の関係を超えて、恋愛関係にあったことは有名です。
私にはあまり興味はなく、それと切り離して、アーレントを読んでいましたが、この映画を観て、どうもアーレント理解はハイデッガーとの関係と切り離させないような気がしてきました。
愛は、その人の思想や生き方に深く関わっていることを忘れていました。

この映画にはもう一つ「愛」の話が出てきます。
ユダヤ人の感情を裏切って、アイヒマン裁判を客観的に評価したアーレントに対して、家族のようにアーレントを愛してくれていた友人のユダヤ人から「ユダヤ人を愛していないのか」と問われて、彼女は「一つの民族を愛したことはないわ。私が愛するのは友人よ」と応える場面です。
この発言とハイデッガーとの関係は矛盾して感じますが、アーレントの愛の考え方が伝わってきます。
ハイデッガーとの愛はゾーエの愛、友人に応えた愛はビオスの愛。
そう考えればとても納得できます。

アーレントの処女作は「アウグスティヌスの愛の概念」という博士論文です。
その存在は知っていましたが、まったく興味もなく、読もうなどとは思ってもいませんでした。
この映画を観て、どうもすっきりしないので、なぜか読む気になりました。
書名が示しているように、この本はキリスト教の愛の概念ですから、神への愛がテーマでしょう。
また本書は難解だといわれていますので、私には歯がたたないでしょう。
でも気になった以上は読まないといけません。
それで入手して読み始めました。
ところが最初のページで挫折してしまいました。

愛は本で読むものではありません。
改めてそう思いました。

■2279:箱根(2013年11月29日)
節子
箱根の小涌園に来ています。
箱根ホテルで恒例の経営道フォーラムの合宿です。
毎年、ここには数回来ていますが、芦ノ湖に上がることはほとんどありません。
箱根をゆっくりと楽しむ気分にはなかなかなれないのです。
それでも最近は節子がいなくなってからの数年とは違って、風景を見る余裕が出てきました。
そういう意味では、時間は心をいやしてくれるのかもしれません。
以前は、時間が癒すなどという言葉に反感さえ感じたものですが。

今日は朝早く家を出たのですが、案内をきちんと読まなかったため、ホテルで2時間も空き時間ができてしまいました。
ロビーで景色を見ながらぼんやりとしています。
寝不足のせいか、眠くなってきます。

それにしても、節子はどうして箱根が好きだったのでしょうか。
よく飽きもせずに、箱根に通いました。
節子がいなくなってから、仕事で私が箱根によく通い出すようになったのは皮肉な話です。

そろそろ私の出番の時間です。
会場に行くことにしましょう。

■2280:これからの人生に必要ない物(2013年12月1日)
節子
風邪を引いてしまいました。
箱根の合宿で、ちょっと調子がおかしいと思ったのですが、案の定、風邪のようで、合宿からの帰路の予定を変えて帰宅しましたが、ダウンしてしまいました。

会社勤務時代に私のアシスタントだった女性から手紙が来ました。
今年、ご主人も定年で会社を辞め、人生の見直しに入っているようです。
もうそんな歳になったのかと感慨深いです。

彼女の手紙に、「これからの人生に必要ない物の処分にとりかかっている」と書いてありました。
しかし、それがなかなか進まないようです。
持ち物を処分するということは、ある意味では過去を捨てるということであり、同時に未来も捨てるということです。
もうこの資料や記録はいらないということは、これからの人生にはもう縁がないということだからです。
それはかなり思い切った決断が必要です。
私も、何回か、身辺整理に取り組んでいますが、いつも失敗しています。

ところで、「これからの人生に必要ない物」という表現がとても気になりました。
私がうまく身辺整理できないのは、これからの人生が展望されていないからだと気づいたのです。
逆に言えば、身辺整理とは、これからの人生を考えることなのでしょう。
その自覚が不足していました。

節子がいなくなってから、私の場合は時間が止まってしまった気がします。
それは、これからの人生を封じ込めたということかもしれません。
だとしたら、身辺整理などできるはずもないわけです。
たしかにそう考えると、今の私の生き方は、いかにも「投げやり」の生き方です。
少し自分自身のこれからの生き方を考えなければいけないのかもしれません。
私には、とても不得手なことなのですが。

「新しい人生のスタートと思って、今まで溜め込んできた物を少しずつ減らしながら生活していきたいと思います」と最後に書いてありました。
私はどうも、新しいスタートをきりそこなったのかもしれません。

風邪のせいか、どうも気分が軽くなりません。

■2281:ピュシス(2013年12月2日)
昨日の挽歌に山陰さんからコメントをもらいました。

佐藤さんがおっしゃる
>今の私の生き方は、いかにも「投げやり」の生き方です。
まったくそんなことはないと思います
投げやりというのは、言い換えれば「自然流」ではないのでしょうか

山陰さんのフォローはうれしいのですが、最近の私の生き方は、正直、少し、いやかなり、「投げやり」なのです。
でも、それはそれとして、「自然流」もまた、私が大切にしている生き方です。
それで、今日仕入れた、知識をひけらかしたくなりました。

アリストテレスによれば、人間には、それぞれ、固有の「ピュシス(自然)」があるという。ピュシスとは、魂(プシュケー)の元となる素材である。そのピュシスにしたがって、私たちが「魂の最もすぐれた機能」を満たすならば、それがすなわち「幸福」であり、また「善」といわれる。

これは、たまたま今日、読んでいた「ロスト近代」という本に出てきた言葉です。
今日は、風邪なので何もやることがなく、机の上に積んでいた、この本を読んでいました。風邪の時は、もっと軽い本を読みたかったのですが、適当な本がなかったのです。
風邪のせいで、かなりとばして読んでしまいましたが、最後のほうに出てきた、この部分だけはなぜかすんなりと頭に入ってきました。
プシュケーは知っていましたが、その元になる固有の「ピュシス(自然)」が、人にはそれぞれあるということを初めて知りました。
そして、そのピュシスを活かして生きることが「善き生」であるとアリストテレスは言っているのです。
私には、実に好都合な考えです。

ピュシスについては、もう少しきちんと調べてから、書くべきなのですが、今日は風邪なので、まあ調べるのはまたにしましょう。
ともかく、自然に生きるのは決して悪いことでもないのです。
ところで、私に固有なピュシスとは何でしょうか。
もしかしたら、「投げやりに生きる」のが私のピュシスかもしれません。
家族からは、「思い付きで生きている」と言われていますし、私も実際に「思いつき」を大事にしています。
「思い付きで生きている」「投げやりに生きる」「自然に生きる」。
さて、どう違うのでしょうか。

やはりアリストテレスのピュシスを調べる必要がありますね。
風邪のせいか、支離滅裂なものになってしまいました。
風邪を引いたら、本など読まずに、きちんと休んでいないといけませんね。
それが出来ない性格なのです。
困ったものです。はい。

■2282:どうも記憶喪失傾向があるようです(2013年12月3日)
風邪がなかなか治りません。
免疫力が低下しているのかもしれません。
あるいは治りたくないという気持ちがどこかにあるのかもしれません。
病気も元気も、いずれも「気」の問題ですから、本来は自分でかなりの部分はコントロールできるはずです。
時には病に伏せることもいいでしょう。

そんなわけで、今日もまた、本を読んでしまいました。
先日、読み出したアーレントの「アウグスティヌスの愛の概念」です。
先日は最初の3ページでダウンしましたが、今日は、わからないままなんとかわかるところだけを拾って、読み終えました。
この本はアーレントの懺悔録かもしれないというのが、感想です。
ところが、読んでいるうちに、前に読んだような気がしてきました。
まさかと思いながら、私のパソコンに残している文献記録を調べてみました。
私は、気になった本はかなり克明にメモを取ってていねいに読みます。
そして、気になった文章を残しています。
まあ残しても読み直すことはまずないのですが、調べ物などで検索することがあった時代の習慣が残っているのです。

それで調べてみたら、やはり要旨を抜粋した記録が残っていました。
しかも、この挽歌でも2回も取り上げていることに気づきました。
2012年の3月です。
先日の挽歌で、読んだことがないと書きましたが、間違っていました。
しかも、アーレントとハイデッガーの関係にまで言及しています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/03/post-e8c1.html
その記憶をまったくなくしてしまっていました。
いや、ハイデッガーとアーレントの関係も、先日映画を見るまでは、あまり理解していなかったのです。
私の理解力や記憶力は、かなり問題が多いようです。
歳をとると同じことを繰り返し話すといいますが、もしかしたら私もそうなっているのかもしれません。

前回読んだ時の私の残したメモを読むと、今回よりもどうも理解は深いようです。
書籍は、読み手の心身の状況によって、違い世界を見せてくれるのかもしれません。
1年半前に読んだ時には、自らの問題と重ねながら読んだのかもしれません。
当時はまだ、私の魂は彷徨っていたかもしれません。
今回はどうでしょうか。
やはり、自分と重ねながら読んでいますが、心に響いたところは微妙に違うような気がします。
今回気になったメッセージを次に書くことにします。

■2583:愛は創発をもたらす(2013年12月4日)
昨日の続きです。
「アウグスティヌスの愛の概念」のなかに、「愛は帰属性を与える」というアウグスティヌスの言葉が出てきます。
キリスト教徒にとっては、最高の愛は神への愛でしょうから、神に帰依し、自らを任せることで永遠の至福を得ることができるというのは納得できます。
アウグスティヌスは、愛を2つに分けています。
同書から引用します。

一つは、その追求を絶えず欺く、誤った対象に向けられる愛である。それは消えゆくものとしての現世に固執する誤った「愛」としての「欲望」であり、いま一つは、神と永遠を追求する正しい「愛」としての「愛」である。

消えゆくものへの愛を「誤った愛」といわれるのは、いささかムッとします。
しかし、「愛は帰属性を与える」ということには共感がもてます。
ただし、私の実感では、その帰属性は相互関係にあります。
自らを相手に帰属させるということは、同時に相手のすべてを引き受けるということだろうと思うからです。
そうでなければ、単に相手への依存であり、寄生であり、時には拘束されることにもなります。
神への愛も、おそらく同じではないかと思います。
つまり、神に帰依することは、神のすべてを引き受けることを意味するのだろうと思います。
私はキリスト教徒ではないので、勝手な解釈なのですが。

フランクルが、その著作の中で、収容所で体験した、そうした話を紹介していたように記憶しているのですが、少し調べてみましたが、見つかりません。
またまた私の記憶違いかもしれません。
しかし、神に帰属するということは神を引き受けることでもあるでしょう。
帰属とは一体化ということですから。

しかし、帰属と相互帰属とは違います。
帰属は相手に一体化することですが、相互帰属は相互に帰属しあう中から新しいものを創出することだからです。
その意味で、私は「愛は創発をもたらす」と感じています。
「創発」とは、異質なもののふれあいの中から、その異質のものとは全く別の新しいものが生まれることです。
愛によって、お互いが変化する。
そして、新たに創発されたものにいずれもが帰属していく。
それは、私の体験でもあります。
「今のままの君がいい」などという愛の言葉は、私には考えられません。
愛は変化をもたらす、極めてダイナミックな関係だと思います。
キリスト教における神への帰属は、私には静態的に感じられます。
そもそも「永遠の至福」に、何の価値があるのか。
むしろ刹那の至福にこそ価値があると私は思います。
永遠を生きる神と刹那を生きる人間とは、世界が違うのです。
これも、その時々を大切にしていた、節子から学んだことです。

実はこの記事は、昨夜書き上げて、今朝、見直そうと思っていたのですが、パソコンの操作ミスで朝起きたら、記録されていませんでした。
それで最初からリライトしたのですが、書き上げてみたら、昨夜書いたものと論旨がかなり違うものになってしまいました。
これもまた、その時々を生きている人間の移り気のせいかもしれません。

■2284:ピュシスの乗り物(2013年12月4日)
昨日、魂の話を書きました。
一昨日は、その魂の元になるピュシスに言及しました。
そこで書いた通り、ピュシスについて少しだけ調べてみました。

手元の本で記載を見つけたのは、岩波哲学・思想事典です。
久しぶりにこの事典を開きました。
かなりていねいな説明がありました。

それによると、「万物がそこから生成し、そこへと消滅する万物の根源」とあります。
同時に、それは生命の元であり、それ自身が生きたものとも書いてあります。
古代ギリシア人は、すべての存在はピュシスから生まれピュシスへと没すると考えていたようです。
アリストテレスは、「自己自身のうちに運動と静止の原理を持つもの」を自然的存在者と規定しましたが、自然的存在者に内在する、そうした力の源泉こそがピュシスなのです。

わかったようでわかりにくい説明ですが、ネットで調べたら、「人間の主観を離れて独立に存在し、変化する現象の根底をなす永遠に真なるもの」という説明に出会いました。
このほうがわかりやすいかもしれません。
要は、人智を超えた絶対的なもの、それがピュシスです。
しかし、この説明では、自分の固有性を支えるものは、自分の主観を離れていることになります。
つまり、魂とは自分とは別のものと言うことになりかねません。
となれば、自分とは「魂の乗り物」ということになります。
「生物個体は遺伝子が自らのコピーを残すために一時的に作り出した「乗り物」に過ぎない」と主張する、利己的な遺伝子論を思い出します。
ピュシスと遺伝子がつながってきます。

ところで、アリストテレスは、人にはそれぞれ固有のピュシスがあると言っていますから、私のピュシスは私だけのものと言うことでしょう。
ここで疑問が生じます。
ピュシスとは生命の数だけ存在するものなのか、仏教でいう「大きないのち」のように一つのものなのかという疑問です。
そして、没したピュシスはどうなるのか。
またどこかに再現してくるのでしょうか。
もしそうであれば、輪廻転生ということになります。
しかし、生命の数が増えているとしたら、ピュシスもまた分裂増殖していることになります。分裂するのであれば、統合することもあるでしょう。
だとしたら、固有と言っても、その時々においての固有ということになります。
つまり、没したピュシスは一度、固有性を失い、大きなピュシスに統合されていくと考えたほうがいいでしょう。
生命の元である「大きなピュシス」から、「小さなピュシス」が生まれ、さまざまなプシュケー、魂を一時的に生み出すというのであれば、わかります。
これだと、仏教でいう「大きないのち」とつながっていきます。

結局、古代ギリシアであれ、仏教であれ、最新の科学技術であれ、行きつく先は同じなのかもしれません。
そしてそれは、個人の実感とも繋がっているのかもしれません。

しかし、自分が、自らの主観(意識)とは別の存在(ピュシス)に動かされているというのは、どう受け止めるべきでしょうか。
納得できるようで、納得できない話です。
でもまあ、せっかく乗り込んでくれたのですから、私のピュシスと仲良くやっていくしかありません。

風邪はだいぶよくなりました。
今日は出かけなければいけませんが、大事にしていれば、明日は治るでしょう。

■2285:「私が神様をお助けしなくてはいけない」(2013年12月4日)
挽歌2583で、神との帰属関係に関して。そうした挿話をフランクルの本で読んだような気がすると書きました。
それが気になって、昨夜、もう少し調べてみました。
フランクルの本ではありませんでした。
ウルリッヒ・ベックの「〈私〉だけの神」でした。
しかも、その話をこの挽歌でも紹介していました。
挽歌1856「慣れることができないこと」です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/10/post-6339.html
読み直してみると、その時の私は帰属関係とは無縁な捉え方をしています。

改めて、エティ・ヒレスムのことを考えてみました。
エティは、神に救われるのではなく、神を救おうとしています。
アウシュビッツ収容所に収監され、死を意識しだした時期に、エティは日記にこう書いています。
長いですが、引用させてもらいます。

神様が私をこれ以上助けられないなら、私が神様をお助けしなくてはいけない。次第に地表全体がたった一つの収容所と化しつつあり、そこから逃れられるのはごく一握りの人でしかない。

神様、大切なことはただ一つ、私たち自身の中に住まうあなたのひとかけらを救い出すことなのです。もしかすると私たちは、さいなまれた他の人々の心の中で、あなたを復活させるお手伝いができるかもしれません。確かに神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます。それはもう、この人生の一部になってしまっています。私はあなたに釈明を求めてはいません。むしろあなたのほうが、いつの日か私たちに釈明を求められることでしょう。そしてほとんど心臓が鼓動するたびに、私にはますますはっきりとしてくるのです。あなたは私たちを助けることができないのだということが。むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならず、私たちの内なるあなたの住まいを最後の最後まで守りぬかねばならないのだということが。

神様、私はこうしてあなたと対話をすると、次第にまた心がおだやかになってきます。これからはあなたともっとたくさんの対話を交わすつもりです。そしてこのやり方で、あなたが私のもとを立ち去れないようにするつもりです。

俗な言い方を許してもらえれば、神を活かすか殺すかは、私の問題なのです。
「神」の代わりに、ほかの言葉を入れても、このことは成り立ちそうです。

ちなみに、風邪はまた悪化しました。
「風邪を治すか悪化させるかは、私の問題」ともいえますね。
今日は、治しましょう。

■2286:強欲な人生から抜けられません(2013年12月5日)
節子
風邪がなかなか抜けません。
にもかかわらず、湯島にまた来ています。
来客があるためですが、出かける時に暖かだったので、うっかりと薄着で出かけてきてしまいました。
こうして風邪をこじらせていく習癖は一向に治りません。
もっと自分を大事にしなければいけません。

年末のご挨拶が届くので、私も電話をする機会が増えました。
昨日は野路さんのご主人と電話しました。
奥さんが節子と仲良しだった人です。
奥さんは数年前に階段から転落し、それが原因で記憶喪失になってしまいました。
しかし最近少しずつ記憶を取り戻しているようです。
しかし、それはそれでまた、ご主人にはストレスなのだそうです。
人間は欲が深いから、よくなりだすと逆に期待が膨れるのかもしれません。

人には、それぞれ事情があります。
ようやくそれがわかってきました。
何をいまさらと思われそうですが、頭ではわかっても心身ではわかったとは言えないことも多いのです。
少なくとも、誰かをうらやんだり非難する気持ちがあるならば、わかったとは言えないでしょう。
私は今でも、時にうらやんだり批判したりする気持ちが浮かびますので、十分とは言えませんが、ねたみや非難からは自由になってきました。
しかし、様々な人たちと触れ合っていますので、あまりに語られていることが違うことに出会うと、時にむなしくなることはあります。
お金がほしくなることもあります。
まだまだ人間は未熟です。
最後まで未熟のままでしょうが、少しは向上したいものです。

それにしても、人の強欲さをこの頃、改めて思います。
もちろん自分のことです。
この歳になってもなお、やりたいことが出てきてしまいます。
誰かが会おうと言えば、ついつい出かけてきてしまいます。
さびしいからでしょうか。

節子がいたら、おそらくこんな生活にはなっていないと思います。
2002年に活動を一回リセットし、生き方を変えるつもりが、どうもそれ以前の延長で、しかも中途半端にしか生きていません。
当時、節子と引き換えならば、すべてのものを捨てる覚悟があったのですが、それが逆転してしまいました。
節子がいないことが、私の強欲さの理由かもしれません。
困ったものです。

湯島も寒くなってきました。
来客がそろそろやってくる時間です。
たぶん刺激的な話を持ち込んでくるでしょう。
困ったものです。

■2287:暇なので風邪が治りません(2013年12月6日)
今日こそ風邪を治そうと思い、午前中は休んでいたのですが、やはり午後になると退屈になってしまい、市役所に行くことにしました。
特に急ぎの用事はなかったのですが、最近、いろんな人にお世話になっているので、お礼を言いに行きたくなったのです。
先日、市役所の皆さんに協力してもらって行った放射性除染実験の報告書も届けたかったのも、一つの理由です。

あったかいので、のんびりと自転車で行くことにしました。
自転車で10分くらいのところです。
まず副市長の青木さんのところに行きましたが、案の定、お留守でした。
青木さんは超多忙な人ですから、居ても邪魔をしないほうが良いので、むしろホッとしました。
市役所に来たついでに、いろんなところに顔を出してみましたが、5人ほどの人に会えました。
一番会いたかったのは、先日、わが家の家庭農場の草刈りにわざわざ来てくださったお2人でしたが、幸いなことにお2人とも在室でした。
来年は見事な収穫を期待しておいてくださいと見栄を切ってきました。
まあ誰も信じていないようでしたが。
しかし、市役所の職員の方にとっては、暇な住民がやってくるのが一番迷惑でしょうね。
でも私の顔を見ると笑顔でやってきてくれるので、ついうれしくなってしまいます。

帰りものんびりと自転車で来たのですが、やはり疲れます。
帰宅して急いで栄養ドリンクを飲みました。
そういえば、風邪薬も降圧剤も飲むのを忘れていたことに気づきました。
株式会社オクトの水素イオンウォーターで飲むと薬の効果は高まるといわれていたことを思い出して、薬を飲みました。

さてこれから何をするべきでしょうか。
少し休んで、近くの病院に入院している人のお見舞いにでも行きましょう。
風邪で休んでも、それなりに忙しいのです。
いや暇だから、忙しいのでしょうね。
節子が居たら、ちゃんと眠っていなさいといわれるのですが、幸か不幸か、今日は誰もおらず私一人なのです。
困ったものです。

■2288:寒さに気が萎えています(2013年12月9日)
節子
相変わらず心身ともに萎えています。
気候も寒いですが、時代も寒いです。
こう寒くなるとやはり心身をあたためあう伴侶がほしくなります。
自分の小さな世界に逃げ込みたくなるわけです。
私には居心地のよい場所はなくなりそうです。
どこにいても寒い気がします。

この1年程、交流が途絶えていた知人から、あるコンテストで入賞した短いエッセーが送られてきました。
同居していた母を亡くした直後の体験を書いたものでした。
その人らしさがあふれ出た文書でした。
そこに、独り言が増えたと書いてありました。
寒い時代を独りで生き抜くのは気力が必要です。
せめて独り言できる相手がいないとめげてしまいます。

この数日、パソコンに向かう気がせずに、メールチェックしかしないでいました。
パソコンに向かわないと、ついつい挽歌も書けなくなってしまっていました。
私の独り言は、この挽歌ですので、やはり挽歌は毎日書かないといけません。
明日からまた、パソコンに向かいだそうと思います。

■2289:思いの先(2013年12月10日)
節子
最近どうも元気が出ないのは、生きていく方向に混乱があるからだと気づきました。
以前は、いつも前を向いて生きていました。
昔話は好きではなく、そうした話が多くなる集まりへの参加は気がすすみませんでした。
いつも、新しい世界との出会いから元気をもらっていました。
いまもそれは変わりませんが、どうも私の目線が最近は前を向いていないようです。
それが、年齢のせいなのか、節子がいないからなのか、わかりませんが、前を見ようという気が失われてきていることはたしかです。

だからと言って、後ろを向いているわけではありません。
節子が教えてくれたように、いま、この時間をていねいに大切に生きているわけでもありません。
むしろ、過去はあまり思い出したくなく、いま現在の時間も、あまり身が入っていないのが現実です。

ではどこを向いているのか。
そう考えてみると、どこも向いていないような気がしてきました。
これでは気が萎えてしまうのは当然です。

新しい世界との出会いは、今も時々、その入り口に出会います。
自分では何も努力していないのですが、いろんな人が湯島にそういう話を持ってきてくれるのです。
しかし、以前と違って、その入り口から入っていこうという元気が出てきません。
これは間違いなく、節子がいないからです。
新しい世界を共有できる人がいないことの意味は大きいです。
節子がいたら、世界の広がりは楽しい人生をもたらすでしょう。
しかし、一人になった今は、どうしてもそう考えることができません。
これは論理的ではないのですが、なぜかそう思うのです。

とんでもなく面白そうな話もないわけではありません。
やってみようかと思うこともないわけではありません。
しかし、どこかで足腰に重りがついてしまったように、結局、途中で尻込みしてしまうのです。

最近、気が萎えているのは、気を萎えさせる意識が、私自身の中にあるからでしょう。
このジレンマから抜け出すにはどうしたらいいか。
まだどうも知恵が浮かびません。

なかなか元気が出てくる挽歌が書けずにいます。
困ったものです。

■2290:アーレントの哀しい物語(2013年12月10日)
節子
3日ほど挽歌を書かなかったので、もうひとつ書きます。

この3日間、あまり体調がよくなく、ほとんど自宅にいましたが、めずらしくほとんど本を読んでいました。
アーレントの「人間の条件」です。
先日、アーレントの映画を観たこともあって、読み直してみる気になったのです。

前回読んだのは、もう20年ほど前だったと思いますが、今回はまったく違う読み方ができました。
アーレントの私生活と重ねて読んだからです。
アーレントがほとんど語ることのなかった強制収容所での体験が行間ににじみ出ているような気がしました。
生きるか死ぬかの瀬戸際で奈落も体験したかもしれないと思わせるようなところもありました。
あるいは、ハイデッガーとの悲恋の体験も、文章の後ろに感ずるところもありました。
そんなわけで、今回は小難しい「人間の条件」を読むというよりも、アーレントの哀しい自伝物語を読んでいる感じです。

アーレントに関しては特に調べたこともなく、さほどの知識もありませんので、行間に感ずる、そうした思いは私の勝手な想像力の創造物というべきでしょう。
アーレントも、この本で書いているように、人の思いを書いた文字の物語は、読む人によって蘇ってくるわけですが、書き手の物語と読み手の物語が、同じであるわけではありません。
私が感ずる物語は、私の体験によって、さらに編集されているわけです。
しかし、そうしたことのおかげで、今回はかなりきちんと読むことができたように思います。
もっとも大部の本なので、まだ半分しか読み終えていませんが。

こうした読み方は、かなりおかしな読み方でしょうが、まさにアーレントのゾーエとビオスを感ずるおかげで、難解なアーレントの文章も、時に親しみを感ずることができます。
アーレントは、十分に女性であり、十分に俗物であり、十分に弱者なのです。
それに、先日観た映画の映像が時々浮かんできて、その語り口さえ、聞えてくるようなところもあります。
とりわけマルクスへの言及部分は、滑稽ささえ感じます。

どんなに論理的な論文にも、書き手の感情は出てくるものだと、改めて感じました。
もしかしたら、アーレントの作品は、すべて挽歌かもしれないと、思ったりしました。
まだ200頁以上残っていますが、この勢いで読み終えようと思います。

■2291:もう少し体調不良のままでいましょう(2013年12月10日)
節子
今日は新潟から金田さんが来てくれたので、湯島に出かけたのですが、私がまだあんまり元気が出ず、金田さんには悪いことをしてしまいました。
金田さんも、いろいろとあって、ともかく元気をもらいに私に会いに来てくれたのですが、今回は元気をあげられなかったと思います。
来てくれた人に、元気をあげられなくなったら、湯島を開いている意味がありません。
そろそろ湯島駆け込み寺も店じまいの潮時かもしれません。

それに、どうも共通の知人の話になると、ますます元気が出ない話になりがちです。
昔一緒にやっていた古代ギリシアの会のメンバーも数名の方が鬼籍に入られていました。
そうした話を聞くと、時間がたっていることに気づきます。
ふと、浦島太郎を思い出しました。
老いに気づかないのは、自分だけかもしれません。
伴侶という鏡がなくなってしまってからは、ますますその恐れがあります。

同世代の人ではなく、若い人と会わないと元気はもらえないです。
そういえば、最近はあまり若い人たちに会っていないことに気づきました。
若い人にとって、湯島が魅力ない場になってきているのでしょう。
少し呼び込みをしなければいけません。
誰か私に元気を与えに来てくれませんか、

しかし、私もそれなりにがんばっています。
先日はなんとパイリアをつくりました。
まあ相変わらずの思いつきですが、スーパーのチラシを見ていたらパイリアという文字が目に入ったので、つくろうと思ったのです。
まあパイリアセットというのを買ってきて、そこに少しだけ好みの具材を追加し、お米は先日、折口さんが送ってくださった無洗米を入れて、調理しただけですが。
美味しかったですが、いささかつくりすぎて、翌日もパイリアでした。
こんな感じで、少しずつですが、料理も始めています。
明日の夕食も挑戦しようと思います。

アーレントの「人間の条件」は、もうじき読了です。
最初は昨日も書いたように、アーレントの感情を覗き見するという不謹慎な読み方でしたが、次第に内容が面白くなってきました。
依然として、あんまり理解はできていないのですが、メッセージは伝わってきます。
風邪が治らないと読書の時間が取れるのがメリットです。

体調は、その気になれば、たぶんすぐにでも治るでしょう。
いまはただ、あんまり治りたくない気分なのです。
その理由は、世間の風潮です。
じつはかなり厭世観が高まっています。
どう考えても、元気が出てくる状況ではありません。
テレビのニュースを見るたびに、元気がなくなってしまいます。
なんともすっきりしない時代です。

次は、ダン・ブラウンの最新作でも読むことにしましょうか。

■2292:アテネのような暮らし(2013年12月12日)
ハンナ・アーレントの「人間の条件」を読み終えましたが、20年ほど前に読んだ時には、ほとんど理解していなかったことがわかりました。
今回、理解できたともいえないのですが。

読んでいて、また節子を思い出してしまいました。

アーレントは古代ギリシアのポリスの生活にとても好意的です。
そこでは、人間の活動は、生命維持のための労働と生活の基盤づくりのための仕事と公的領域を豊かにする活動とが明確に分かれていました。
家庭は労働の場であり、家族は主人が公的世界で自由に言論と活動が行えるように労働に従事したのです。
アテネの民主主義は、こうして労働から自由になった市民たちが言論と活動をふんだんに行えたというだけの話です。
アーレントによれば、いまの社会は、公的領域はなくなり、労働に覆いつくされた労働者社会だといいます。
挽歌編なので、許してもらえるでしょう。
まあ一つだけ追加しておけば、アーレントはこう書いています。

人間がダーウィソ以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら進んで退化しようとし、そして実際にそうなりかかっている。

実に辛らつですが、私の今の気分にはぴったりと合います。
それは、私が一番危惧し、そこから自由になりたいと思っていた生き方ですから、

ところで、私が本書を読んで感じたのは、私が会社を辞めてから自由に生きてこられたのは、節子がアーレントの言う「労働」を一切引き受けてくれていたのではないかということです。
だからといって、節子が惨めな生活をしていたわけではありません。
節子は節子で、それを楽しんでいたはずです。

誰かの世話をすることと誰かの世話になることと、どちらが幸せでしょうか。
これは一概には決められない問題ですが、たとえば介護などの場合で言えば、答えは明確です。
介護することは大変だという人もいるでしょうし、事実、大変なのですが、それでも介護される側の人はもっと大変なのです。
大変さだけではなく、どちらが幸せかといえば、介護するほうでしょう。
もちろんこれも、人それぞれですから、人によっては異論もあるでしょう。

アーレントの議論と世話の議論は違う話ですが、私は節子に世話されてきたわけです。
私が世話できたのは、闘病生活の4年だけでした。

話がそれてしまっていますが、アーレントの難しい本を読みながらも、節子とのことが頭に浮かんできてしまいます。
そして、アテネの貧しい平凡な家族のような暮らしをさせてもらったことに、改めて感謝しています。
私が40代から、賃仕事などせずに、自由に生きてこれたのは、節子の支えがあればこそでした。
それがなくなった今、生きづらいのは当然のことなのです。
少しは、生きるために必要な「労働」をしなければいけません、

■2293:なぜ私が再婚しないかの理由(2013年12月13日)
節子
今日は大きな元気をもらいました。
某社の社長だった人が湯島に来てくれたのですが、1時間の予定が2時間以上、話し込んでしまいました。
内容は書くのは差し控えますが、これから取り組む活動に関して、決意のほどをお聞きしたのです。
会話が実にかみ合ってしまいましたが、佐藤さんと私は発想が同じなのですね、と言われてしまいました。
たしかに発想は同じですが、その方の行動力は私の数倍です。
大企業の社長を経験されただけあって、そのお話にはリアリティもあります。
感激しました。
そして元気をもらったわけです。

その方は、私よりもかなり若いのですが、やはり奥様を亡くされました。
そして最近再婚されました。
再婚されたのが「元気の素」かもしれません。
いや、元気だったから再婚されたのかもしれません。
まあ、どちらでもいいことですが。

さて、私が再婚をしないのは、元気だからでしょうか。
それとも元気でないからでしょうか。
まあこれもどうでもいい話ですが、そのいずれでもないのです。
節子がいなくなったので、再婚の相手が見つからないのです。
私が再婚するとしたら、また節子にしようと決めているからです。
たぶん節子もそうだったでしょう。

さて、そろそろ元気を出さないと、節子に怒られそうです。
体調はだいぶ戻ってきました。

■2294:小春日和の和室には今も節子がいるようです(2013年12月13日)
節子
だいぶ元気が出てきました。
もっとも世間では、相変わらずおぞましい状況が続いています。
まあしかし、それもまた面白いと思えば、厭世気分はやわらぎます。

ところで、ブログやフェイスブックに「厭世観」と書いたら、3人の人からメールやコメントが届きました。
厭世観が人をつなげると言うのも、おかしな話ですが、世間には厭世観が広がっているのかもしれません。
しかし、メールを下さった人たちに共通するのは、みんな「大切な人」との別れを体験していることです。
大切な人を失うと厭世的になってしまう。
つまり大切な人がいればこそ、世間は輝いていたのに、いなくなってしまった途端に、世間はその輝きを失い、魅力のないものになってしまうのです。
実は、成仏できないでいるのは、遺されたものの魂なのかもしれません。

私の場合、節子が会いなくなってから、ある種の「引きこもり」になっています。
家に引きこもっていると言うわけではないのです、いつもどこかに引きこもっている感じがするのです。
だから世間がどんどん狭くなる。
狭い世界からは魅力はどんどんなくなっていく。
厭世観の強まりは、私自身の意識のせいであることは間違いないでしょう。
決して世間のせいではない。

しかし、引きこもると良いこともあります。
世間の実相の見え方が変わってくるのです。
自らの世界の狭さもよくわかってきます。
厭世気分は、実は自己嫌悪と同じことなのかもしれないと気づくと、寛容にもなれます。

今日は和室のコタツで、この挽歌を書いています。
和室は冬しか使いませんが、節子がいた頃は、冬はいつも和室でした。
今もなお、和室には節子の気が漂っている気がします。
節子が愛用していた帽子もまだ床の間に残っています。

今日は、節子がいたら、とても幸せな時間を過ごせる小春日和です。
コタツに入っていると、節子がいた頃に戻ったような気がします。
しかし、帽子をかぶる節子はもういないのです。
どうしていないのか、まだきちんと理解できていない自分に気づくと、やはり自己嫌悪に引き込まれそうです。
さて、畑にでも行ってみましょうか。
立ち止まると、また連れ戻らされそうです。
困ったものです。

■2295:ホモ・サケル的生き方(2013年12月17日)
節子
また少し挽歌を書かずにいました。
体調が悪かったのでも、時間がなかったのでもありません。
ただ書けずにいたのです。
まあそういう時があってもいいでしょう。

この2日間、対照的な時間の使い方をしていました。
ひとつは極めて現実的な問題に煩わされていました。
これはなんとか短期的には解決しました。
もうひとつは頭が痛くなるような本を読んでいました。
アレントの「人間の条件」を読んで以来、ふたたび「公共性」という問題が気になりだしたのです。
とりわけ、人間なのかと思われるほどの主体性をなくした「ホモ・サケル」的な生き方への関心です。
ホモ・サケルとは、社会的・政治的生活を奪われて、法的保護の対象外とされ、生きようが死のうがかまわないと見なされた人々のことです。
イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンによって有名になった言葉です。
このブログの文脈でいえば、ビオス(社会的・政治的な生)を奪われて、ゾーエ(生物的な生)しか持たない存在のことです。
アレントの「人間の条件」は途中までは面白かったのですが、最後のほうはいささか疲れてしまい、いつものように粗雑な読み方になってっしまったのですが、どこか気になるところがあり、また同じようなテーマの本を読み出してしまったのです。
その本がまた、実に読みにくい本で、しかしどこかに惹かれるところがあり、読了までに2日間もかかってしまったわけです。
頭が疲れて、挽歌を書くところまでいきませんでした。

ところで、ホモ・サケルです。
アガンベンは、ドイツの強制収容所での話を題材に、ホモ・サケルを語っているのですが、現代の社会は、その全体が「収容所型」になっているのではないかとも言われています。
アレントも、そう考えていたと思いますが、今回読んだ稲葉振一郎さんの『「公共性」論』では、ホモ・サケル的生き方で何が悪いのかという根源的な問いを出してきています。
私は消化不良ですが、その問いにはとても納得しました。
根源的な問いこそが、私の関心のある問いなのです。
節子は、最初はそういう私の問いかけに呆れていましたが、次第に共感するか腹を立てるかのどちらかになってきていました。
これもまた、節子との思い出の一つです。

ホモ・サケル的生き方が良いか悪いかはともかくとして、最近の私の生き方は、どうもホモ・サケル的になってきているのではないかと言う気がふとしました。
たしかに、さまざまな社会問題に関わって生きてきてはいますが、どこかに能動的・主体的になりきれないところがあるのです。
稲葉さんの本を読んでいて、そんなことを考えてしまいました。

出かける時間になってしまいました。
中途半端ですが、とりあえずアップしておきます。
今日は湯島でロングランのサロンをやります。
中心は認知症予防ゲームと箸ピーゲームです。
2時からサロンは始まり、6時過ぎまで続きます。
誰でも歓迎ですので、私のように元気がなくなってしまった人はぜひ遊びに来てください。
元気になることは請け合いです。
誰でも歓迎ですので、気楽にどうぞ。

■2296:湯島に集まる人たちも変わりだしました(2013年12月18日)
節子
雪が降りそうな寒さです。

昨日は湯島に16人の人が集まり、ゲームをテーマにした長時間のサロンをやりました。
認知症予防ゲームから始まり、箸ピーゲーム、道具を使わないコミュニケーションゲーム、そして最後はラフターヨガでした。
実は明日もサロンですが、今月は毎月バラバラにやっているサロンを横につなげながらのサロンをやっています。
節子がいなくなったので、こうしたサロンの開催も大変なのですが、最近は私が何も言わないのに、参加者みんなで終了後、後片付けを手分けしてやってくれます。
その上、お菓子まで持ってきてくれる人もいます。
昨日はうっかりして、もらったお菓子を出すのを忘れてしまいましたが。
珈琲を淹れたり、お菓子の準備をしてくれるのも、参加者が自発的に動いてくれます。
私は最初の口火を切るのと最後の締めをするだけで、後は寝ていても大丈夫そうです。

唯一、節子がいた時との違いは、花がないことです。
玄関の花は、いまもなお造花です。
それも節子が来られなくなるのでと言って、セットしたバラの造花です。
一度、私の留守に部屋を使った人が花瓶を割ってしまったそうなので、節子がセットした時とは花瓶の色が変わっていますが。

昨日のゲームに共通するのは「人のつながりを育てる」と言うことです。
ゲームは目的でなく、そのための手段です。
節子がいない今も、湯島は人をつなげる場になっています。
うれしいことです。

ゲームをしながら、しかし少し寂しさはあります。
ここに節子がいたらどうだろうかと、時にふと思ってしまうのです。

そういえば、ラフターヨガをやってくれた人は、湯河原からわざわざ参加してくれました。
節子がいたら、もしかしたら、よい友だちになったかもしれません。
考えてみたら、昨日のサロンに参加してくれた人たちで、節子が知っている人は、小宮山さんと小林さんだけになりました。
時間の流れを改めて感じます。

■2297:ホモ・サケル的な生の幸せ(2013年12月18日)
節子
ホモ・サケルに言及しましたが、それにつながる議論として、人の動物化という議論があります。
きわめて大雑把に言えば、最近、自分では何も考えずに与えられた環境を受動的に生きている人が増えてきていることが、動物化の意味です。
収容所型ホモ・サケルに対して、テーマパーク型ホモ・サケルと言ってもいいでしょう。
実は、このブログの時評編では、このことが基本テーマの一つでもあります。

自分が伴侶を失って、一時、まさに収容所型ホモ・サケルに陥ってから、そうしたことが改めてよく見えてきたこともありますが、それは私の学生の頃からの生き方とも言えます。
私が節子と結婚したこと自体も、その現れですし、会社を辞めたのもその現れです。
ともかく用意されて先が見えている軌道は走りたくはなかったのです。

自分をしっかりと生きることとホモ・サケル的生き方は、正反対なのかもしれません。
アガンベンのホモ・サケル論を最初に知った時には、そう思いました。
しかし、その後、どうもそうではなくて、社会に合わせて生きるビオス的な生はむしろ無主体的な生き方であって、社会から逸脱して生きるゾーエ的な生こそが、主体的に生きていることだと思い始めています。
まだ消化不足で、自分でも考えが整理できずに、混乱していますが、この挽歌を書き続けながら、なんだかそんな気がしてきているわけです。

自分に素直に生きるということは、いったいどんな生き方なのか、実はわかったようでよくわかりません。
まあそんな小難しいことはどうでもいいのですが、このことは「幸せ」という問題につながっていきます。
主体的に生きることが幸せなのか、社会の流れに乗って(強い者には巻かれて)、自己にこだわらずに生きることが幸せなのか。
それは一概には決められません。
しかし、節子がいなくなってからは、テーマパークさえもが楽しめなくなっています。
つまり世間的な喜びへの感受性がなくなっているのです。
たぶん宝くじの7億円が当たっても、それほどうれしくはないでしょう。
「幸せ」をもはや手に出来なくなったことが、実に不幸せなことなのですが、そもそも「幸せ」という概念そのものが、ビオス的な概念なのでしょう。
猫には幸せはあるかもしれませんが、水槽の中のめだかにはたぶん「幸せ」などという考えはないでしょう.
言い換えれば、いつも「幸せ」なのです。
「幸せ」はそれを失って初めて気がつく概念なのです。
だとしたら、ホモ・サケル的な生もまた、幸せなのかもしれません。
そもそも「幸せ」とは無縁な生だからです。

幸せと不幸せは、まさにコインの表裏です。
今の私は、幸せなのでしょうか。

■2298:ドラマの主人公としての人生(2013年12月20日)
節子
最近、自分を相対化して考えることがだいぶできるようになってきました。

テレビでは、毎日、さまざまな事件が報じられています。
たとえば、交通事故の死亡事故に触れても、以前は、可哀相にと思うくらいでした。
しかし、今はそうではありません。
その一人の死の周辺で、さまざまなドラマが起こっているだろうなと思うわけです。
死んだ人はそこで終わったとしても、そこから始まるたくさんの物語があるはずです。
報道では過去の事件や事故として報じられますが、実は本当の物語は、そこから始まります。
しかも、一つではなく、たくさんの物語が、です。
そうしたことへの想像力が、最近は働くようになってきました。
報道されていることは、実は氷山の一角のことでしかないのです。

テレビのドラマもいろいろとありますが、そこではさまざまな事件や事故が起こります。
波乱万丈であればあるほど、ドラマとしての面白さは高まります。
仮にあたたかなホームドラマだとしても、山あり谷あり、悲劇あり喜劇ありでしょう。
ドラマの観客としては、スリルに富む場面があればこそ、主人公に自らを同化できるとも言えるでしょう。
主人公に降りかかってくるさまざまな不幸や難局も、ドラマの魅力を高めるはずです。

ところが自分の場合は、どうでしょうか。
そうしたドラマは歓迎できるでしょうか。
それよりも、何も起こらない人生のほうがいいでしょうか。
幸せなことだけ起こってほしいと言うのは、たぶん不可能でしょう。
なぜなら「幸せ」は相対的なものだからです。
それに、毎日が単調な繰り返しであれば、退屈してしまうでしょう。
そして、とても幸せだと思えないでしょう。

もしドラマの主人公に、山あり谷ありを望むのであれば、自らの人生も、山あり谷ありのほうがいいのではないか。
テレビドラマの場合は、結局、最後には主人公は幸せになるのだから、途中の不幸や難局は、むしろ最後の幸せの増幅剤として受け容れられるのでしょうか。
そういう面はあるかもしれませんが、それだけではないでしょう。
私たちは、途中の波乱万丈な展開そのものを楽しんでいるように思います。
たしかに、最後に主人公が不幸のまま終わった場合は、何か気分がすっきりしないかもしれませんが、なにが不幸かは人それぞれですし、大きな視点で考えれば、一見不幸なようでそうではないこともありえます。

自分の人生を見ている自分の立場から言えば、山あり谷ありの人生のほうが楽しいのではないか。
そんな気が、私は以前からしているのですが、最近、それがかなり実感できるようになってきました。
それが、冒頭の、自分を相対化して考えることができるようになってきたという意味です。

こう考えると、自分の人生も違ったように見えてきます。
テレビの主人公は、自分で勝手に物語を変えることはできません。
シナリオ作家が書いているとおりにしか、ドラマの人生は進みません。
では実際の自分の人生はどうでしょうか。
主人公の私が、勝手に生き方を変えられるのでしょうか。
これは、かなり難問です。
つい最近までは、自分の人生は自分で決めなければいけないと思っていましたが、どうも必ずしもそうではありません。
それもまた、自分を相対化して考えることができるようになってきたということの、もう一つの意味です。

波乱万丈とはいえませんが、苦楽半々の私の人生のシナリオを書いているのは誰なのでしょうか。
もう少し上手な書き手に書いてほしかったような気もしますが、まあそれなりに良い人生なのでしょう。
節子の人生も、そうだったに違いない。
それもまた相対化できるようになったこその考えです。

さて、幽体離脱まで、あと一歩です、とも言えないこともありません。

■2299:位牌檀に恒例の花かご会のカレンダーを供えました(2013年12月21日)
節子
花かご会の山田さんが、花かご会カレンダーをつくったからと持ってきてくれました。
節子の位牌檀に毎年飾っています。
節子はカレンダーの好きな人でしたから。

最近は花かご会のみなさんにお会いしていませんが、我孫子駅前の花壇を見るたびに思い出しています。
花かご会も高齢化が進んでいるようですが、今度、若い人を紹介することになっています。
もうだいぶ前から言われていたのですが、ついつい忘れてしまっていました。
一昨日、ある人と話していたら、我孫子を花でいっぱいにしたいと考えている人がいることを知ったので、まずはその人と私の共通の知人をお引き合わせしようと思います。

我孫子を花でいっぱいにするというのは、節子が花かご会を立ち上げる時に2人でよく話していたことです。
花の持っている、人と人をつなげていく力はとても大きいのです。
当時は、私もいくつかのまちづくり活動に関わっていたこともあり、節子に提案したのですが、実は却下されてしまいました。
そんな大きな構想を最初から打ち出したら、みんな負担を感ずる、それよりもまずは気楽に花を楽しむことから入りたいというのが、節子の言い分でした。
それはそうでしょう。
私の発想は、自分では汗をかかない外部者の理屈であり、節子のは実際にやっている人の素直な感覚なのです。
これはひとつの例ですが、理屈に偏りがちな私の生き方の危うさを、節子はいつも気づかせてくれました。
節子はもういませんが、長年節子と暮らしてきたおかげで、最近は私も少しは賢くなりました。
と言っても、やはり理屈で行動することも少なくありません。
それで失敗することも多いのです。
今年もたくさんの失敗がありました。

節子がいなくなってからのわが家の変化のひとつは、カレンダーがなくなってきたことです。
以前のようにカレンダーをもらうことがなくなってきたこともありますが、カレンダーが不要になってきたということもあります。
節子は、それに不満かもしれませんが、位牌檀にはきちんとカレンダーを置いていますので、いいでしょう。

今年も余すところ、もう10日ほどです。
時の立つのが速いのか遅いのか、よくわかりませんが、最近は年末の実感もあまりわかないのはなぜでしょうか。
寒さだけはわかりますが。

■2300:節子の実家(2013年12月22日)
節子
いま気づいたのですが、和室の床の間に節子が作った木目込み人形が置かれています。
一時期、節子は木目込み人形づくりにはまっていて、いろいろと作っていましたが、人形は魂を持ち出すので、私はあまり好きではありません。
娘のジュンも、そうなのですが、そのせいもあって、わが家では人形はあまり見えるところには置かれていないのです。
多分、これが唯一の例外でしょう。

それは、床の間の真中にどんと置かれています。
節子が元気だった頃は、床の間に物を置くことはありませんでしたから、節子がいなくなってから、私か娘の誰かが置いたのでしょう。
なぜでしょうか。
しかもその横に、なんだかよくわからない人形が3人並んでいます。
まあ、それらは魂を持ちそうもない人形たちですが。

人形ではありませんが、わが家には今も、節子の手によるものが、いくつかあります。
そうしたものが、まだ節子の雰囲気を発信しているわけです。

家は、そこに住んでいた人の心を宿しています。
その意味で、家族をつなげていく大事な役割を持っています。
結婚した頃、節子と一緒に節子の生家に戻った時に驚いたことがあります。
いつもの節子ではない節子を感じたのです。
正直のところ、最初はとても違和感を持ちました。
私たちの家にいる時の節子と、生家にいる時の節子は、明らかに違うのです。
私は「実家」という言葉が嫌いでしたが、その時に、なぜ「実家」と言うかがわかったような気がしました。
だからこそ、その後は、ますます「実家」という言葉は私にはタブーになりました。
私たちがいま住んでいる家こそが「実家」でなければならないと思ったからです。

ところが、滋賀の節子の生家が建て直されてから、状況は変わってしまいました。
節子は気づいていなかったと思いますが、そこでの節子はいつもの節子だったのです。

わが家は10数年前に転居しました。
節子が土地を探し、家族みんなで設計し、新築した家です。
節子にとっては、暮らした期間から言えば、決して長くはありません。
転居前の家のほうが長かったでしょう。
しかし、この家には節子は愛着もあり、思いも深かったと思います。
節子は、もっとこの家で暮らしたかったのです。
私に、そう言ったこともあります。
だから節子の魂も、この家に今なお強く宿っているはずです。
思い当たることはたくさんあります。
いまもきっと、節子はこの家に住んでいるのでしょう。
ここが、節子の実家になったわけです。

■2301:元気が出てこない年末(2013年12月22日)
節子
節子がいなくなってから、私の生活は極めてストイックになりました。
節子がいた頃から、かなり慎ましやかな生き方だったと思いますが、それがさらに強まった気がします。
もっとも、自分で「ストイックだ」などという人は、あんまり信用できません。
私の場合も、そうかもしれません。

しかし、華やかな場に出かけることは極力控えていますし、世間的な「祝祭」にもほとんど無縁です。
クリスマスだからといって、ケーキを食べるわけではなく、お正月だからといって、立派な御節を用意するわけではありません。
節子がいた頃は、世間的な「祝祭」日には、わが家もささやかには華やぎましたが、今はほとんどそんなことはありません。

もっとも、華やかさがないと、人生はあまり明るくなりません。
ハレとケという、メリハリが人生には必要だということはよくわかります。
しかし、どうも「ハレ」気分を味わう気にはなれないのです。

節子がいなくなってから7回目の年越しです。
7年も経てば、気持ちも戻ってもおかしくないと思うのですが、ハレ気分への拒否感はむしろ年々強まってきています。
未練がましいのか、気弱なのか、わかりませんが、ともかくだめなのです。

どうして年末になると、気分が沈んでくるのでしょうか。
もしかしたら、年末は、いつも節子と一緒にいろいろとやっていたからかもしれません。
家族総出の大掃除、そして買出し。
その真ん中に、いつも節子がいました。

年末はどうも元気が出てきません。
困ったものです。

■2302:食卓のガラスがなくなりました(2013年12月23日)
節子
またひとつ、節子の思いのこもったものがわが家から消えました。
食卓のガラスです。
ひびが入ってしまったので、廃棄することにしました。

わが家の食卓は円形テーブルです。
食卓を円形にするかどうかは、家族でだいぶもめたのですが、節子の強い要望で、円形のテーブルになりました。
さらに節子の要望で、テーブルに合わせてガラスを上に置くことにしました。
これはわざわざガラス屋さんに頼んで加工してもらったものです。
節子には、思いのこだわりの深いものでした。

そのガラスが、今年の初めにひびが入ってしまったのです。
しばらくはガムテープで補修して使用していましたが、ひびがどんどん広がってしまったので、廃棄することにしました。
ところが、ごみに出すために、それを小さく割ろうとしたのですが、強化ガラスなので、金槌で叩いてもなかなか割れないのです。
そんな丈夫なガラスなのに、なぜひびが入ったのでしょうか。

ガラスをはずしたら、まっさらな食卓の木面が出てきました。
傷が全くありません。
娘のユカは、ガラスを置くことに強く反対していましたが、それは生活の記憶が刻まれないからと言う理由でした。
たしかに、その通りです。
あまりに無傷なので、ここで節子と一緒に食事をしてきた痕跡が見当たりません。
いささかさびしい気はします。

形あるものは、傷がつき壊れていきます。
それを止めようと思うのは、やはりやめたほうがいい。
改めて、そう思いました。

■2303:誰にための挽歌か(2013年12月24日)
節子
この挽歌も2300回を越えました。
言い換えれば、節子が旅立ってから2300日以上が経過したと言うことです。

挽歌は、本来、鎮魂歌です。
旅立った魂が迷いなく彼岸に辿りつくために願いの歌です。
2300日以上経っても、まだ挽歌を書き続けているということは、鎮魂に成功していないと言うことかもしれません。
つまり、そこで主客が逆転します。
実は、挽歌とは旅立った魂のものではなく、遺された魂を鎮めるものなのです。
そして、実は私に葉、それができていないということなのです。
おそらく、節子はすでに彼岸にあり。仏教でいう「中有」の状態にあるのは、私なのです。

万葉集にはたくさんの鎮魂歌が出てきます。
そもそも鎮魂歌が生まれたのは、古代の殯(葬送儀礼)の場だったでしょう。
そこでは、死者生前の事跡を朗々と詠ずる慰霊儀礼だったのです。
そこで重要なことは、みんなの前で、朗誦されたと言うことです。
声が、彼岸と此岸をつないだのです。

ちなみに、文字を音読せずに黙読するようになったのは、さほど古いことではないようです。
文字は声に出してこそ、力を持つというのが、長い歴史の文化でした。
つまり、この挽歌のように、ただただ書かれるだけの挽歌は、あんまり力がないのです。

しかし、だからこそ、鎮魂歌、あるいは挽歌には意味があるともいえます。
鎮魂の効果がない鎮魂歌、挽歌を書き続けることで、「一件落着」することを先延ばししているという効果です。
魂を鎮めずに、魂の気を引き寄せ続ける。
同時に、自らをもまた、そこに閉じ込めることで、別れの現実を先延ばししているというわけです。
であればこそ、この挽歌は2300回も続いている。
そして、まだ続けたいと思っているわけです。

節子はもう愛想を尽かしているかもしれません。
そういえば、昨夜、夢に節子のお母さんが出てきましたが、なぜか節子は出てきませんでした。

■2304:宇宙の子(2013年12月24日)
節子
佐久間庸和さん(ペンネーム一条真也)から、新著「慈を求めて」が送られてきました。
早速、読ませてもらいました。
一条さんと節子は会う機会はありませんでしたが、一条さんは闘病中の節子のために韓国の灌燭寺でお守りを手に入れてきてくれました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#0329
節子は、それをいつも枕元においていました。

佐久間さんが昔から提唱しているのが、月への送魂です。
本書から引用します。

古代人たちは「魂のエコロジー」とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。
その象徴が月です。
彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。
月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。

佐久間さんは、地球のどこからでも見ることができる月に魂を送ろうと構想しているのです。
その大構想に、私はとても共感しています。

佐久間さんは、最後にこう書いています。

わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿です。
入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。
宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。
そして、夜空にくつきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。
人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。
その意味で、月は生きとし生けるものすべてのもとは同じという「万類同根」のシンボルでもあります。

宮沢賢治を思い出します。

■2305:なぜか知人がワインを持ってきてくれました(2013年12月25日)
今日はクリスマスです。
世間はみんなクリスマスを楽しんでいるでしょうが、私にはまったく無縁で、今日もまたいくつかの悩ましい問題に関わらざるを得ず、機嫌の悪い1日でした。

ところが、夕方、なぜかまったく理由がわからないのですが、知人がワインを持ってきてくれました。
親しい知人ではなく、滅多にお会いしない人ですが、寒い中を大きなワインをわざわざ歩いて持ってきてくれたのです。
しかも、近くの人ではありません。
わが家からだと歩くとたぶん30分ほどかかるところにお住まいだと思います。

あまりにも意表を突かれたせいで、対応ができませんでした。
彼女は、ワインがお好きそうなので、何となく持ってきてしまいました、と言いながら、大きなワインを私に渡すと、「メリークリスマス」といって、帰っていきました。
機嫌が悪く、気も萎えていたこともあって、「良いお年を」としか返せませんでした。
さてさて、どう対応すべきだったでしょうか。

ところで、実は私はアルコールには弱いのです。
とりわけワインは得手ではありません。
彼女の言い方が、あまりに確信を持った言い方だったので、そのことを打ち明けることができませんでした。
もっとも、いただいたワインはカリフォルニアワインの白なので、私にも飲めるかもしれません。

不思議なことでしたが、この人のおかげで、今日はクリスマスなのだと改めて思いました。
いや、この挽歌を読んでいて、私を元気づけるためにワインを下さったのでしょうか。
そうだとしたら、この記事も読まれそうですね。
もし読まれていたら、ありがとうございました。
正月に来客と一緒に、味わわせていただきます。

年が明けたら、またお会いしましょう。

■2306:「夢よりも深い覚醒」(2013年12月25日)
節子
「夢よりも深い覚醒へ」という本で、大澤真幸さんは、3.11を体験した私たちに必要なのは、「夢から現実へと退避する覚醒ではなく、夢に内在し、それを突き抜ける覚醒、夢よりもさらに深い覚醒である」と書いています。
普通は、あまりに受け容れがたい現実に直面して、夢に逃避しがちな生き方への警告をするのですが、大澤さんは逆に「3・11の(悪)夢を突き抜けるような仕方で、覚醒しなくてはならない」と書いているのです。
大澤さんのメッセージは、いつも難解なので、このメッセージも私自身、消化できてはいないのですが、「夢よりも深い覚醒」という言葉には強く惹かれるものがあります。

大澤さんのこの言葉は、挽歌には無縁なのですが、この言葉がずっと心に引っかかっています。
普通に考えれば、節子がいなくなってからの私は、現実感覚をかなり失っていますので、現実への退避はしていませんが、同時に、夢への逃避もしていません。
現実も夢もない、いわば宇宙の隙間である「亜空間」に陥ったような浮遊感の中で、過ごしているというような感覚なのです。

亜空間での生活は、しかし、悪いことばかりではありません。
以前とはまったく違った視点で物事を考え、世界が見えるようになったとともに、この数年間、考える時間がたくさんあったのです。
考えるだけではなく、これまで体験しなかった体験もしました。
頭で考えていたことを心身で受け止めることもありました。
大仰に言えば、世界がそれなりに見えてきたのです。
もちろん、私なりの世界です。
さらに、これまでの私自身の生き方も、少しだけですが、相対化できたようにも思います。

しかし、そろそろその世界から抜け出ようと思います。
「亜空間」での浮遊状態も、それなりに辛くなってきたからです。
それに、このあたりで目覚めないと、目覚めないまま消滅しかねません。
少しだけ垣間見えてきた私の世界で、もう少し意識的に目覚めるのも意味があるかもしれません。
現実を目指さない目覚めとは難しそうですが、それにしても「夢よりも深い覚醒」とは魅力的な言葉です。

■2307:相互身勝手関係(2013年12月26日)
節子
凍えるような寒さです。
彼岸にも季節はあるのでしょうか。

季節は生活に節目をつけてくれます。
それはそれでいいのですが、寒ければ寒いと不平をいい、暑ければ暑いと文句を言う。
人間はまことにもって、身勝手です。
しかし、その身勝手さが人生を豊かにしてきているのかもしれません。

豊かさとは少し違いますが、夫婦の良さはお互いに身勝手になれることです。
すべての夫婦がそうではないでしょうが、お互いに身勝手にならないと長年連れ添い続けることは苦痛になりかねません。
身勝手に成り損なうとむしろお互いに拘束しあう関係にもなりかねません。
そういう意味では、私たちは、かなり早い時期に身勝手文化を身に付けたように思います。
それは実に簡単なことで、自分の身勝手さと相手の身勝手さは、セットのものだという、簡単なことに気づけばいいだけの話です。
それさえわかれば、身勝手に振舞われることもまた、むしろ快適にさえ感じられるのです。
つまり、身勝手さは相互関係においてこそ、価値を持ち出すように思います。
言い換えれば、気持ちよく安心して身勝手になれるのは、誰に対してでも、ではなく、特定の人にだけなのです。
言い換えれば、そういう人こそ、愛する人なのかもしれません。
そうした人がいることの幸せは、いなくなってから気づくことです。

もちろん、伴侶や親子でなくとも、身勝手をぶつけてくる人はいます。
身勝手は、相互関係であればこそ受け容れられますが、そうではない友人や知人の身勝手さは、伴侶のそれと違って、素直には受容できません。
どこかで拒否感や不快感が生まれます。
だからと言って、そうした相手に自らの身勝手さをぶつける気にはなれません。
夫婦の場合は、お互いに身勝手であることが、その関係を深めますが、そうでない相手の場合は、身勝手さは関係を壊しかねません。

しかし、すべて物事には裏表があります。
身勝手関係を作りあげた生活に慣れてしまうと、その相手がいなくなってしまうと、途端におかしくなってしまうのです。
自らの身勝手を引き受けてくれる人がいなくなってしまうからです。
あるいは、快適な身勝手さをぶつけてくる人もいなくなるからです。
それは、実にさびしいことです。

身勝手さを発揮できないと、人生は少し疲れますね。

■2308:今年最後のオープンサロン(2013年12月27日)
今年最後のオープンサロンは、4時から8時の開催にしました。
オープンサロンだけは、相変わらず節子も知っている懐かしい常連の人たちが多いです。

武田さんは、このサロンだけの常連ですが、相変わらず私とは論敵関係です。
今回も危うくまた議論別れになる寸前でした。
幸か不幸か、間をとりなす人が2人もいましたので、事なきを得ましたが、こうした緊張感が生まれる唯一のサロンが、このオープンサロンです。

そういえば、節子がいなくなってから変化したことがあります。
それは、サロン終了後、ほとんどの場合、だれかが後片付けをしだして、使用したカップを洗ってくれるのです。
実に不思議です、
別に女性とは限りません。
大企業の部長だったり、まさかこの人が、と思うような人が、食器を洗い出すこともあるのです。
とうていご自宅でやっているとは思えないのですが。
なにやらとても不思議な光景です。

昨夜は、しかし、なんとなく話をしながら、カップを洗うところまでいかずに、私も含めて帰るような流れになってしまいました。
ところが、大島要さんが、気づいて、私が洗いますと残ってくれたのです。
まあそれだけの話なのですが、湯島の場がこうやってみんなで創っている場になってきていることが、何かとても幸せな気持ちがしたのです。

節子とはじめたサロンも25年続いているわけですが、今年も無事、終わりました。
来年もオープンサロンは続けようと思います。

■2309:「男前の生き方」「女前の生き方」(2013年12月28日)
節子
年末に来るのは、訃報のはがきだけではありません。
いろんな人たちから今年の報告なども兼ねて、いろんなメールが届きます。
もっとも最近は、義理堅くていねいに報告してくれる人は少なくなってきましたが、これはもしかしたら、私の付き合い方が粗雑になってきているからかもしれません。
反省しなければいけません。
しかし、人数は減ってきたとはいえ、そういう年末の挨拶はうれしいものです。

報告ではありませんが、昨日のサロン用にとわざわざ珈琲を送ってきてくれたKさんにお礼の電話をしたら、めずらしく、ちょっと元気がないのが気になりました。
そういえば、Kさんとは今年は一度も会っていないような気がします。
いつでも存在感があるので、節子と同じで会わなくても隣にいるような存在なので、あんまり会いに行くことも考えないのですが、ちょっと気になりました。
それで少しだけ、まじめな話をしました。
お互いの近況を少しだけ話題にしたのです。

少しだけ話は聞いていたのですが、相変わらず「任侠の世界」の生き方を続けているようです。
誤解があるといけませんが、「任侠の世界」とは「筋を通す生き方」あるいは「男前の生き方」です。
私が目指す生き方でもありますが、私にはなかなか実行できない生き方です。
そうした「筋を通す」ために、最近はかなりハードな状況にあるようです。
如何に頑強とはいえ、歳も歳ですので、無理をしなければいいのですが。
電話で話をしているうちに、ますます心配になってきました。
電話では、実はKさんのほうが私のことを心配してくれていたのですが、他者のことを心配するのは、自らが弱くなっているからともいえます。
それもこの数年、私自身が体験したことです。
年が明けたら、一度、会いに行こうと思います。

Kさんは、節子が逝ってしまってからの知り合いですが、節子もよく知っているTさんからはメールが来ました。
Tさんの生き方も、ドラマがあります。
「女前の生き方」という言葉があればそういいたいところです。
最近は要職にもあり、かなり多用のようですが、自分をしっかりと持とうとしているところが好きです。
それに強ぶっていますが、実は結構弱いのです。
これはKさんも同じかもしれません。
彼女との付き合いは、もう20年を超えるでしょうが、不器用ながら、筋を通して誠実に生きているのもKさんと同じです。
年が明けたら、Tさんにも会いたくなりました。

来年は、また動き出そうと思います。
身体が持てばですが。

■2310:花と音楽(2013年12月29日)
節子
今日は花かご会の山田さんと我孫子の音楽ソムリエの宮内さんをお引き合わせしました。
節子の位牌壇のあるわが家のリビングでのお引き合わせだったので、節子も聞いていたかもしれません。

花かご会もメンバーの高齢化が進み、作業もだんだん厳しくなってきているようですが、会としては節子がいた頃と同じく、いまもまったりとしたとてもいいグループのようです。
しかし、いまのままだと次第に動きにくくなるので、少しずつ若い世代を入れたり、ほかのグループとの交流があったほうがいいと思います。
たまたま宮内さんも最近、花に関心を持ってきているようなので、お引き合わせしたのです。
どう展開していくかわかりませんが、宮内さんの柔らかな発想と乗りのいいメディエーター役で、きっとなにか面白い動きがうまれていくでしょう。
しかし、山田さんは少し戸惑ったかもしれません。
話が少し広がりすぎたかもしれません。

花かご会ももう10年だそうです。
花かご会のみなさんには、節子もとてもお世話になりました。
節子の病床には、花かご会のみなさん一人ひとりからのメッセージをボードに貼って置いていました。
それが、節子には大きな励ましになっていたことでしょう。
みんなとても良い人で、節子がいなくなってからも、何回も来てくださいました。
そのお礼をしなければいけないのですが、なかなか私のできることが見つかりません。
花の植え替えの忙しい時に、応援に行くことも考えましたが、かえって足手まといになるでしょう。
作業日に差し入れを届けるのも、なかなか良いタイミングを得られずにいます。
そんなわけで、気になりながら、今年は一度もみなさんへの挨拶もできていません。
困ったものです。
でもまあ、今回のお引き合わせが、少しでもお役に立てればと思っています。
節子が喜んでくれているとうれしいのですが。

■2311:茂さんのお餅(2013年12月30日)
節子
今年もまた、東尋坊の茂さんが、みんなでついたお餅を送ってきてくれました。
茂さんは、10年前から、福井の東尋坊で、自殺防止のための見回り活動をしています。
前にも書きましたが、闘病中の節子と最後に出かけた遠出の旅行は芦原温泉でした。
そのついでに立ち寄った東尋坊で、自動車を降りた途端に出会ったのが、茂さんでした。
その前からささやかな交流があったので、もしかしたら会えるかもしれないとは思っていましたが、まさか自動車を降りた途端にそこで会うとは思ってもいませんでした。
その時にも、茂さんがやっているお店で、お餅をいただきました。
とてもとても美味しかったです。

節子が逝ってしまってからしばらくして、茂さんからメールをもらいました。
そこに茂さんの夢が書かれていました。
それが縁になって立ち上げたのが、「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」です。
2〜3年は事務局役を果たすとお約束して立ち上げたのですが、なかなか抜けられずに、いまもささやかに関わらせてもらっています。
その関係で、茂さんはお餅を毎年送ってきてくださるのです。
早速、節子にも供えさせてもらいました。
茂さんとの縁は、私にはどうしても節子がつないでくれたような気がしているのです。

そういえば、その茂さんとの縁でつながったのが、一昨日書いたKさんです。
Kさんの運転で、2人で東京から東尋坊まで自動車で行ったこともあります。
人の縁は、不思議です。
いろんな形でつながりがつながりを生んでいきます。
そうしたことを体験していると、人間はすべてつながっていることがよくわかります。
一時期、「無縁社会」などという言葉が流行りましたが、社会も人間も、縁で成り立っているのです。
そこに気づけば、みんなもっと生きやすくなるのでしょうが。

■2312:7回目の年越しです(2013年12月31日)
節子
節子を見送ってから7年目も今日で終わります。
夏には7回忌も済ませたのに、気持ちはまだまだ整理できません。

アルベール・カミユ。
年末になって、なぜかカミユを思い出して、昨日から大掃除の合間に、彼の遺稿をまとめた「反抗の論理」をぱらぱらと読むでもなく、頁を繰っていたら、こんな文章が目に付きました。

そのものの価値を知ったいま、それは失われている。

まさに、この7年間の私の思いです。
だが、7年間、失われたものへの悲しみだけではなく、失うことによって、得たものへの気づきも生まれてきています。

年末なので、ホームページに書いた、今年の年始の言葉を読み直しました。
そこに、宮沢賢治の言葉が引用されていました。

 ああ いとしくおもうものが
 そのままどこへ行ってしまったかわからないことが
 なんといういいことだろう

失ったものの価値を超えて、もはや失うことのない価値に気づいたといってもいいかもしれません。
おそらく宮沢賢治も、そうだったのでしょう。
銀河鉄道の夜を読むとそれが伝わってきます。

私がカミユの作品に出会ったのは1960年。
節子に出会ったのは1964年。
節子と出会い、一緒に暮らしだした頃は、私はカミユにあこがれていました。
節子には大きな戸惑いがあったはずです。
しかし、節子は、それにとても素直に馴染み、逆に私を変えてしまったのです。
そんな気がします。

カミユは「反抗の人」でした。
年が明けたら、50年ぶりに、「ペスト」を読んでみようかと思います。
節子と付き合いだした頃の気分に戻れるかもしれません。
そこから出直せば、もう少し気持ちが整理できるかもしれません。

明日は、とても穏やかな年明けになりそうです。
私も、穏やかな気持ちで新年を迎えられそうな気がします。
来年は、少し前に進められるかもしれません。

■2313:「生きたいと思わねばならない。そして死ぬことを知らねばならぬ」。(2014年1月1日)
節子
またひとつ、年が明けました。
節子を見送ってから、7回目の新しい年の始まりです。
今年は初日の出がよく見えました。
節子がいたときにはいつも2人で拝んでいましたが、今年は拝むこともなくただただその美しさに見とれ、荘厳さを感じていました。
昨日の朝と同じ日の出なのに、なぜ元旦の日の出には特別のものを感ずるのでしょうか。
おそらく、自然世界もまた「意味の世界」だからでしょう。

この数年、亜空間のなかを浮遊するような感じで過ごしています。
時間が止まったように、過去も未来も感じない、よどんだような生き方といってもいいかもしれません。
ともかく〈生きている〉という実感が得られない。
そんな生き方に陥っています。

それに気づいたのが一昨年ですが、昨年もそこから抜け出られずに、いや抜け出ようという気にならずに、過ごしてしまいました。
数日前も書きましたが、昨年末、書棚にあったカミユの本がなぜか目にとまりました。
読むでもなくぱらぱらとめくっていたら、いくつかの言葉が目に入ってきました。
今年の挽歌は、その言葉から始めたいと思います。
それは、カミユが書き留めたナポレオンの言葉です。
「生きたいと思わねばならない。そして死ぬことを知らねばならぬ。」

節子と別れてから、私は生きたいと思うことなく、7年を過ごしてきました。
生きたいと思わないということは、死ぬことにも無関心だということです。
死への恐怖や不安は、不思議なほどに全くありません。
つまり、死を忘れてしまったといってもいいでしょう。
そんなこともあって、この言葉が目にとまったわけです。
カミユもまた、この言葉に引かれたのだと思うとちょっと愉快になりました。
カミユは、明らかに「生きたい」などと思ったことはないでしょう。
生きたいと思わねばならないと思ったわけですから。
彼が、異邦人のムルソーのように死に向かわなかったのは、この言葉のせいかもしれません。
だから私も「生きたい」と思うことにしました。
生きたいと思うことで、死の感覚を思い出させてくれるかもしれません。

年の始まりから、死の話になってしまいましたが、初日の出を見ながら、生と死はつながっている同じものであり、わずか瞬時のものでしかないと気づいたのです。

節子の好きだったわが家のリビングは、いま陽射しで春のようです。
これから娘たちと待ち合わせて初詣です。
今年は、浮遊状態から解き放たれるかもしれません。
すべては大きな自然の流れるままですが。

■2314:年賀状(2014年1月2日)
節子
今年も節子の友人たちから何通かの年賀状が届きました。
宛先は私ですが、言うまでもなく、節子宛の年賀状です。
節子に供えておきましたので、もう読んでいることでしょう。
昨年までは、節子に代わって私が返事を書いていましたが、今年は止めようかと思います。
というか、今年は年賀状を書くのは止めようかと思っているのです。
数年前から年賀メールに切り替えましたが、それでも届いた年賀状には返信していました。
しかし、どうも気分的に「年賀」という気がしなくなってきたのです。
今年は、年賀メールも出していないのです。
困ったものです。

私の友人からの年賀状に、この挽歌に言及しているものもありました。
節子も知っている吉田俊樹さんは、時々、うじうじした文章を読んでいると書いていました。
たしかにうじうじした文章なのでしょう。
困ったものです。

節子は年賀状が好きでした。
版画で年賀状を作っていたときは、それはもう大変で、家中、制作途中の年賀状でいっぱいになり、私も手伝わされていました。
その後、プリントごっこなるものができて、簡単になりましたが、節子はなかなかパソコンの年賀状は受け容れませんでした。
パソコンでの印刷を受け容れた後も、宛名書きだけは手書きでした。
病気で大変になってからも、その人への思いを頭に描きながら宛名書きをしてこそ年賀状だと、譲りませんでした。
年賀状を書いている節子は、たしかに幸せそうでした。
節子は、私の年賀状は、年賀状とは認めていませんでした。
年賀状ひとつとっても、さまざまな思い出があります。

私のところに来る年賀状も少なくなってきました。
75歳までには届く年賀状をゼロにしたいと思っています。
別に深い意味があるわけではありませんが、もうすでに十分につながっているからです。
この歳になると、そんな気分になるものです。
ただ、彼岸からの年賀状が届くとしたら、それはぜひとも欲しいものですが。

■2315:ハリー・ポッター(2014年1月3日)
節子
昨日の夜から今日はほとんど1日中、録画していた映画を見ていました。
「ハリー・ポッター」です。
8作品もあり、時間にすると20時間近いのですが、早送りで半分くらいの時間で見終わりました。
それでも10時間以上、かかったわけです。
いずれも前に一度観ている映画なので、ストーリーは理解しています。
以前はばらばらに観ていたので、いろいろと納得できないことが多かったのですが、一気にすべて観ても、やはり納得できないことが多かったです。
早送りで観たのが間違いだったかもしれません。

この種の映画は、節子は全くダメでした。
現実主義者の節子は、現実離れした話には興味を持ちませんでした。
さらに、何かを壊すとか、人を殺すとかいう、暴力が登場する映画も嫌いでした。
ついでにいえば、食べ物を大事にしないのもダメで、パイや卵の投げ合いの喜劇なども怒り出すほどでした。

今回、改めて8作品を一気に観ようと思ったのは、いつものように、思いつきなのですが、それでもこの映画が「生と死と愛」をテーマにしていたという記憶があったからです。
しかし、観終わった感想は、何でこんな映画があれほどの話題になったのだろうと言うことでした。
そんな映画を2日もかけて見直したのですから、困ったものです。

映画は、主人公のハリーが死者たちの支えを受けて、悪に立ち向かうという話です。
最後の戦いには、亡くなった両親などが総出演します。
要するに、生きる者は死者たちに守られて生きているという話なのです。
自らの生命をかけてハリーを救った母親は、ハリーに言います。
「(見えなくても)いつもみんなあなたのまわりにいるよ」と。

愛する人を見送った人から時々、メールをもらいます。
あるいはこの挽歌にコメントをもらうこともあります。
そうした人たちに共通しているのは、まだ近くに「愛する人」がいるという感覚です。
一方で、自らの心身が削がれ、ぽっかりと穴があいてしまっているのに、どこかに「あたたかなもの」を感ずると言うことです。
私の場合もそうです。
心があたたかくなるだけではありません。
時には身体さえもあたたかくなることがあるのです。

近くに「愛する人」、つまり節子がいるという感覚は、私の場合、次第に、近くに「愛」を感ずるという感覚に変わってきています。
それが、生きる意志を失ってしまった私に、生きる力を与えてくれているのでしょう。
ハリー・ポッターの映画を観る気になったのも、もしかしたら、そのことを私に気づかせるためだったのかもしれません。
いや、もっと深い意味があるのかもしれません。
今年もまた、こうして「思いつき」を大事にしようと思います。
考えてみれば、節子に結婚しようかと言ったのも、思いつきだったのですから。

■2316:コト的生命観(2014年1月4日)
節子
今日は少し理屈っぽい話です。

生物とは、「生命を持った物」という意味ですが、「生命」の定義はそう簡単なことではありません。
しかし、今回はそういうことではなく、生命とはモノなのかコトなのかという話です。
さらにいえば、モノとしての生命とコトとしての生命と分けて考えてみようという話です。
昨日書いた「ハリー・ポッター」の映画を観ながら考えたことです。

仏教で「大きないのち」という場合、それは「モノとしてのいのち」ではなく「コトとしてのいのち」の意味でしょう。
高野山の奥の院には、いまなお空海が生きていて、毎朝、食事を届けているそうですが、そこに生きている空海は、コトとしての空海のいのちです。
それぞれの家庭の仏壇にお供えをするのも、そこに「コトとしての生命」が生きていると思えばこそです。

コトとしての生命は、モノとしての死を超えて、生きています、
宿っていたモノから解き放たれ、自由に彼岸や此岸を行き交えるようになるのかもしれません。
あるいは、モノからの解放によって、どこにでも遍く存在するようになるのかもしれません。
遍く存在しながらも、ある個性を維持しているというのもおかしな話ですが、次元を超えて考えれば、おかしな話でもないのでしょう。

人工生命に取り組んでいる有田隆也さんは、「モノ的生命観」を超えた「コト的生命観」を提唱しています。
そして、生物という観点、モノという観点にとらわれずに生命を相対化していくことが大切だといいます。
そのためにも、「生物とはモノであるのに対して、生きているというのはコトである」という基本に戻るべきだと、その著書「生物から生命へ」に書かれています。
大切なことは、「モノ的生命観」から「コト的生命観」への移行は、時間軸と空間軸を変えることです。
モノは時空に囚われますが、コトは時空を創りだします。
とても共感できます。
かつては同じものだった科学と宗教(哲学)が再び統合されつつあるような気がします。

生物としての節子はもう存在しません。
しかし、生命としての節子は存在しないとは言い切れません。
存在するとも言い切れません。
ただ、コトとしての生命から考えれば、そもそも死などは一瞬のプロセスに過ぎないのかもしれません。
その先になにがあるか。
節子は知っているのでしょうか。
先を越されたのが残念です。

■2317:共進化する夫婦(2014年1月5日)
昨日の挽歌に「コト的生命観」のことを書いたら、読者の山陰さんからコメントをもらいました。
それで、それに関連したことを今日も書くことにしました。
昨日よりも、さらに理屈っぽい話です。

「コト的生命観」では「共進化」ということが重要視されます。
共進化とは、お互いに能動的に影響を与え合って、相手を変え、自らを変え、関係(世界)を変えていくことです。
「共進化」の視点で世界を見ると、いろいろと見えてくることがあります。
とりわけ環境問題において、この視点は有効です。
この言葉は最近ではかなり一般化しましたが、私がまだ仕事をしていた10年ほど前にはなかなか一般的には通じませんでした。
今から考えるとなんでもない普通の言葉であり、当然の考え方なのですが、こういうことを何回も体験しています。
その生き証人の節子がいないのが少し残念ですが、言葉というものは、つくづく生きているものだと思います。
つまり、言葉と社会は深く深くつながっているのです。
そして世界を構築しているのです。

しかし今日書こうと思うのは「共進化」の話です。
共進化の典型は夫婦かもしれません。
多くの場合、そして私たちの場合も、それまでは全く知ることのなかった2人が生を共にすることで、互いに相手を変えていくのが夫婦です。
しかし、変わるのは夫婦のそれぞれだけではありません。
そこに新しい世界が生まれ、その世界がさらに外の世界を変えていくわけです。
それが常に好ましい変わり方とは限りませんが、ともかくそこから新しいコトやモノが生まれだしていく。
そしていつの間にか、2人が創りあげてきた関係が主役になっていく。
モノとしての2つの生命が夫婦を形成しているのではなく、コトとしての夫婦が2つのモノとしての生命を育てていくようになるのです。
それがさらに外に向かって共進化を引き起こし、社会は進化していく。
夫婦は、共進化の核の一つのような気がします。

一般に共進化関係は、さらに大きな共進化関係を生み出していきます。
それが行き着く先が生態系です。
生態系は、開かれた共進化関係によって生み出された、大きな共進化の世界です。

しかし、閉じられた2者による共進化関係が強くなりすぎると悲劇が起こります。
共進化関係が広がらずに、大きな共進化構造から逸脱し、内向しだすのです。
そうなってしまうと、生きる気力は急速に萎えるでしょう。
生きるとは、新しい世界に向かうことなのですから。

私たち夫婦は、常に開かれた存在を目指していました。
相互を過剰に拘束しあうことなく、それぞれの生き方を尊重していました。
2人とも、世界を広げてきていました。
そのはずだったのですが、どうも私は過剰に節子に依存していたのかもしれません。
伴侶との別れが、私の時間軸を止めてしまったことが、その証拠です。
もし開かれた共進化関係であったなら、違った展開になったはずです。

コトとしての夫婦の世界はいまも続いていますが、どうも動きはなくなってしまいました。
共進化のコアパートナーがいなくなったからです。
外の世界との共進化も、未だに実感できません。
止まった時間をどう動き出させたらいいのか。
時間が止まったままでは、気は萎える一方です。
さてどうするか。

節子は大きな難問を残していってしまいました。
実に困ったものです。

■2318:未来が見えてきません(2014年1月6日)
節子
寒くなりました。
私の部屋にはエアコンはないので、パソコンをやる気になりません。
暖房機を買えばいいのですが、もう先があんまりないと思うと、買う気が出ないのです。

身辺整理は相変わらずうまくいきませんが、どうにかして私の私物は減らしたいと思っています。
それで最近は本まで買わなくなってきています。
節子がいた頃は、こんなことはまったく考えたことはありませんでした。
まだ「未来」があったからです。
何かを買うとか、何かを始めるのは、未来があればこそです。
しかし、いまの私には「未来」という概念がありません。

しかし、実際には、誰にも「未来」は保証されてはいないのです。
年齢に関係なく、事故や事件で、突然に「未来」が奪われることもあります。
昨日も南米で新婚旅行に行った若者が殺害されという報道がありました。
不確実な未来よりも、確実な今日を大事に生きるべきでしょうが、なかなかそういう生き方はできません。
それに、未来があればこそ、今日が豊かになるからです。

私たちも、老後という「未来」の存在があることを当然のこととして生きてきました。
そのために、やり残してきた事がたくさんあります。
それができなくなったことは、私にも節子にも、とても残念なことです。
こうなるとわかっていたら、やっておけば良かった、ということが、山のようにあるのです。
できる時にやっておこうというのが、節子の考えでしたが、私は後でやれることは後にしようという考え方でした。
節子の考えにしたがっておけばよかったと、今にして思います。

しかし、その節子にしても、「未来」がないとは思ってはいなかったでしょう。
もしかしたら、最後の最後まで、未来を描いていたかもしれません。
なぜかそんな気がしてなりません。
私がそう思いたいだけのことかもしれませんが、節子はずっと生きようとしていたからです。

いまの私は、闘病生活の時の節子よりも、未来が感じられなくなっているかもしれません。
未来が感じられなくなると、途端に今日も意味を失ってきます。
最近、漸くそのことに気づきだしました。
時間は過去も未来も現在も折り重なっているのです。
さて、ここからどう抜け出すか。
頭では前に進もうと思っているのですが、どうも心身が動きません。
年が明けて6日目ですが、まだ動き出せずにいます。
寒さのせいであればいいのですが。

■2319:心平安だった6日間(2014年1月7日)
節子
人間はやはり自然と深くつながっています。
今日も快晴で、窓越しに入ってくる陽射しで、リビングルームは温室のようにあったかです。
午前中は用事がないので、陽射しの入る食卓にパソコンを持ってきて、挽歌を書くことにしました。
私の部屋とは大違いの、明るい環境です。
こうした中でパソコンに向かうと気分も明るくなります。
機能の挽歌は寒さに震えながら書きましたが、今日は陽射しが暑いくらいです。

窓から手賀沼の湖面が見えます。
風があるのか湖面が少し波立っていて、それが陽光をうけてキラキラと輝いています。
節子が大好きだった風景です。
とてものどかで、もしかしたら彼岸もこんなかなと思えるほどです。

今年はまだ世間との付き合いをほとんど始めていません。
年賀状も年賀メールも出しませんでした。
メールもあまり返信していません。
世間との付き合いがないと、心は平安だろうという思いから、昨日までは極力隠棲を決め込んでいたのです。
たしかに、心の平安は保てましたが、どこかに寂しさがつのることも否定できません。
それが昨日の挽歌にも影響したかもしれません。

といっても、社会に生きている以上、いろんなメールや電話がきます。
昨日は思いもかけない人からの電話が立て続けに2本ありました。
いずれも節子が知っている人からです。
隠棲を決め込んでも、電話が追いかけてきます。

電話のひとつは、年初めにとても納得できない不快な体験をされた人から、誰かにぜひ聞いてほしいという電話でした。
あんまり理解できないまま、30分、話を聞きました。
心の平安がちょっと陰ってしまいました。
最後に、聞いてくれてありがとうといわれましたが、その人の心は晴れたでしょうか。
それにしても世間ではなんで心の平安を乱すことが多いのでしょうか。
みんな心の平安を求めているはずなのに、不思議です。

心の平安を乱す大元はなんでしょうか。
自然災害のように、自然が原因であることもあるでしょう。
しかし多くの場合は、人間が原因です。
人との付き合いがないあままだと、心の平安を得やすくなるかもしれません。
そう思うと、世間との付き合いを始めることに躊躇を感じます。
しかし、なかには、連絡がないので何かあったのかと思ったといってきた人もいます。
世間と付き合わないこともまた、誰かの平安を乱すことになるのかもしれません、
生きることは実にややこしい。

それに、みんなの心が平安になってしまったら、社会は平衡状況になって、退屈になるかもしれません。
それこそが、彼岸と此岸の違いなのかもしれません。
此岸にいるかぎり、世間との付き合いは閉ざせません。
こののどかの光景を心に残しながら、今日は世間へのかかわりをはじめようと思います。
私にとっては、今日から新年が始まります。
手賀沼の湖面が静かになり、鏡面のように対岸の緑を映し出すようになっています。

■2320:相互依存関係が深まると死んでしまうというお話(2014年1月8日)
節子
散逸構造で有名なイリヤ・プリゴジンが高く評価しているエリッヒ・ヤンツという思想家がいます。
そのエリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」という本を読みおえました。
最初に手に取ったのは30年近く前だと思いますが、話があまりに大きく、途中で放棄していた本です。
ずっと気になっていたのですが、そろそろ読めるかもしれないと読み出したのです。
そこに、こんなことが書かれていました。

心とは固定した空間構造のなかに内在するのではなく、システムが自己組織化し自身を再新させ進化させるプロセスのなかに内在するものなのだ。平衡構造には心がない。

これだけ引用しても、たぶんわかりにくいと思いますが、心とは固定したものの中にある静態的な概念ではなく、動いているプロセスのなかにある動態的概念だという点に共感しました。
同時に、そのことは、動きが止まってしまうと心は消滅してしまうということも示唆しています。
逆に言えば、心がなくなると、人は動きを止めてしまうわけです。
最近、私が動けずにいるのは、心が消えかけているからかもしれないというわけです。
これだけでも、私には十分に面白い話なのですが、さらにこんなことも書いています。

すべての生命システムには、なんらかの共生が認められる。
しかし、共生が完全な相互適応になってしまう場合もある。
こうなると自治は決定的に失われ、融合しても何も新しいものを生みださない。
自治の喪失は、意識の喪失にも等しい。
それは2種の動物が生物機能面であまりにも相互依存していたり、ふたりの人間が心理面で過度に依存しあっていたりする場合に顕著だ。
このような場合は、新奇性を犠牲にして確立性が最大化される。
システムは平衡に向かい、遅かれ早かれ生物的ないし心理的死を迎えるのである。

もしそうだとすれば、私たちはすでに死んでいたわけです。
あんまり納得できませんが、なるほどと共感できるところもあります。

「自己組織化する宇宙」は、壮大な宇宙史の本ですが、なかなか面白かったです。
600頁の厚い本なので、かなりとばして読んでしまいましたが。
さて、この2つの話をどう解釈すべきか。
少し考えたいと思っています。

■2321:あったかな手賀沼の絵(2014年1月9日)
節子
前にも書かせてもらった山陰太郎さんが、エクセル画で手賀沼を描いてくれました。
エクセルで、どうしてこんな絵ができるのか不思議ですが、何かとてもあったかなものが伝わってきます。
山陰さんが、心を込めて描いてくれたのがよくわかります。
http://goen23226.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8.html?showComment=1389269261082

山陰さんも伴侶に先立たれています。
まだお会いしたことはありませんが、私たちをつないでいるのは、伴侶への思いです。
こればかりは、体験してみないとなかなか共有できない思いでしょう。
かなしいとかさびしいとか、そんな話ではないのです。
私ももう2300回以上の挽歌を書いてきていますが、なかなかうまく表現できません。
読者からすれば、うじうじしていたり、未練がましかったりと思うでしょうが、本人はそれほどそんな気持ちはないのです。
ただはっきりしていることは、生きる意味がどうも見つからないということです。
意味を見つけようと、何かを始めても、どうもしっくりきません。
つまり「気が萎えてしまっている」としかいえません。
病んでいるのではなく、萎えているだけですから、「病気」とは言えません。
気が萎えていることをなんと言えばいいのでしょうか。

山陰さんのエクセル画ですが、これはわが家から撮った、今年の初日の出の写真をもとに描いてくれたものです。
私がいま住んでいるわが家は、節子が選んだ土地につくった家です。
もし節子がいなければ、この家に転居することはありませんでした。
節子は、ちょっと高台にある、この家が大好きでした。
しかし、ここでの生活をゆっくり楽しむことはできませんでした。
転居してすぐに、胃がんが見つかったのです。

節子の楽しみは、この家から見る手賀沼の風景でした。
しかし、当然のことですが、家の前に他の家が建ち、すぐに視界は狭くなり、
次第に手賀沼は見えなくなってきてしまいました。
幸いに、わが家には猫の額ほどの小さな屋上があります。
そこから初日の出が見えるのです。
節子が旅立つ年の初日の出も、2人で見ました。
初日の光を一身に浴びて、節子は邪気をすべて吐き出したのですが、旅立ちは避けられませんでした。
ですから、初日の出を見ることは、私にはそう楽しいことではないのです。
でも初日の出だけは、必ず見るようにしています。
ああ、あの向こうに節子がいるかもしれないと思うも時にありますが、何も考えることなく、ただただ見るだけなのですが。

山陰さんのエクセル画をプリントアウトして、節子に供えました。
ちなみに、どこかで見たような色調だなと思ったのですが、節子の油絵の先生の絵の色調がこんな感じだったなと思いつきました。
いま、その絵がどこにあるか思い出せませんが。

■2322:初老(2014年1月10日)
節子
昨日、書き残したことを書きます。
山陰さんのエクセル絵画には言葉が添えられています。

手賀沼の湖面に揺れる木々の影
初老の心に 亡き妻偲ぶ

「初老」。
実は、この言葉にぎくっとしたのです。
私は72歳ですから、初老というよりももう十分に老人です。
しかし、どうもその感覚がないのです。
だからきっとぎくっとしたのです。

年齢とは不思議なもので、自分の年齢を自覚することはとても難しい。
自分だけではなく、長くずっと身近にいる親しい人の年齢も、なかなか客観的に意識できません。
小学校の時の友人とは、今なお、子どものままの関係を続けています。
私だけでしょうか。

実は私は、昔から、人の年齢が認識できないタイプでした。
ほとんどの人たちが同じように見えるのです。
なかなかわかってもらえないのですが、これも一種の知覚障害かもしれません。
他者の年齢が何となくわかるようになったのは、10年ほど前からです。
もっとも、今でもあまり自信はありませんが。
ですから自分自身の年齢が自覚できないのは、そのせいかもしれません。

知識としては、もちろんわかっています。
年齢が72歳の老人なのです。
しかし、どうも実感がもてません。
大学生の頃と、実はそう意識や精神は違わないのです。
実に困ったものです。

もし節子がいたら、お互いの加齢状況を少しは認識できたでしょう。
しかし、滅多に鏡を見ない私は、老いを実感できないのです。
それに、節子がいなくなった時点で、節子と一緒に生きてきた私の時計は止まってしまった。
だから、72歳といわれても、ピンとこないのです。
そのために、もしかしたら、生き方を間違っているのかもしれません。
節子がいた頃は、たしかに時々、注意されていました。
歳相応の生き方をしていなかったからです。
それが、いまも続いているのかもしれません。

しかし、「初老」とは、魅力的な言葉です。
初老を意識できず、初老らしい生き方を楽しめないのが、少し残念です。
もう少し、鏡を見るようにしないといけません。

■2323:家族思いではなく家族への甘え(2014年1月11日)
節子
何もしないうちに、もう今年も11日目です。
今日から活動開始です。
昨年から約束していた、レネさんの活動を支援するために、青山学院大学に出かけました。
レネさんは、日本では自殺者が多いことに衝撃を受け、自費で「自殺者1万人を救う戦い」という映画を制作し、社会に呼びかける運動を昨年から始めています。
昨年3月にその映画の上映会をやったのですが、以来、ささやかに相談に乗っています。
そろそろ次のステップに入りたいというので、年が明けたら相談しようということになっていたのです。

昨年会った時には、かなり疲れを感じたのですが、今日はとても元気でした。
家族でハワイに旅行したのが元気を回復した理由のようです。
レネさんにとっての重要な課題は、自殺防止というライフワークと家族との生活をどうバランスさせるかなのです。
これは難しい問題ですが、レネさんはとても家族を大切にしています。
今週は、アイルランドからレネさんの両親も来日しているのだそうです。
レネさんと話していて、私ももう少し家族を大事にすればよかったと、今日も反省させられました。

私の生き方は、やはりかなり変わっていました。
家族思いのつもりが、実際には家族への甘えだったのかもしれません。
最近そのことがよくわかります。
今となって気づいても遅すぎるのですが、節子にも娘たちにもほんとうに悪いことをしたと痛感します。

会社を辞めて25年目です。
今年はまた生き方を見直す年です。
どう悔い改めればいいのか、考えることがたくさんあります。
自分と立場の違う人と話していると、自分のことが良く見えてきます。
今年の仕事始めは、自分を見直すことでした。

節子
遅すぎた感はありますが、今年は少し生き方を変えようと思います。

■2324:科学が封じ込めた「見えない世界」(2014年1月12日)
節子
死後の世界があるかどうかはまだ解決されていない問題です。
昨日、NHKの番組で「超常現象」で、死後の世界や臨死体験が取り上げられていました。
死後の世界などないと断定する人もいれば、それがないと説明できないことがあるという人もいます。
ないことの証明はできませんから、科学者であれば、ないと断定することはできないはずですが、皮肉なことに、大方の科学者は「ない」といっています。
科学者とは、ある前提にたっての論理演算の世界に生きる人のことですから、見える世界しか見ないのが普通です。
しかし、そうでない人もいます。

番組でも引用されていましたが、ユングは「私は自分で説明できないものすべてを、インチキとみなすという、昨今の愚かしい風潮に与することはしない」と言っていたそうです。
ユングの時代から、今は大きく変わってきてはいますが、そうした風潮は今なお、世間を覆っています。
時評編では少し書きましたが、最近私も、放射性汚染物質の除染実験で、それを自分で体験しています。

やはりこの番組で、肉体的な死とともに、意識が肉体を抜け出し、他の肉体に入ったりすることがあるという、ベイトソンの仮説を紹介していました。
実は、これに関しても、私自身、そう考えてもおかしくないようなことを体験していますが、そう考えると説明しやすくなることも世間には少なくないかもしれません。

一時期、彼岸の科学はかなり流行しましたが、最近は少し下火です。
この番組を契機に、また少し流行りだすのでしょうか。
まあ私が此岸にいる間に、彼岸との交流ができるようになるのはあまり期待できませんが、いつまた、回路が復活するかはわかりません。
私自身は、小賢しい「科学」の発達が、此岸と彼岸の交流回路を断絶してしまったのだと思っています。
科学は、「見えるもの」を「より鮮明に」に見えるようにしてくれましたが、「見えにくいもの」や「わかりにくいもの」に関しては、逆に「見えないように」してしまったのです。
知識があれば、世界が見えるようになるとは限らないのです。
知識がないほうが、よく見えるものもあるのです。

いずれにしろ、私自身も、そう遠くない先に、ベイトソンの仮説を自分で体験できるかもしれません。
多くの臨死体験者が語っているように、先に旅立った人と再会できるかもしれません。
そう思うだけで、なんとなく幸せになるような気がするのですが、どうして多くの科学者はそう考えないのでしょうか。
まだ愛する人を見送ってないからでしょうか。
科学者がうらやましいですね。

■2325:知覚か感覚か(2014年1月13日)
最近また、節子が夢によく登場します。
しかし、前にも増して、夢に登場する節子は不定形なのです。
前にも書きましたが、何となくの雰囲気なのです。

生態心理学者のエドワード・リードは、「私はバラを庭にある美しい対象として知覚するのに対して、私が感覚するのはその感じ、色、匂いなどだけにすぎない」と著書「魂から心へ」で書いています。
知覚と感覚は違いますが、私たちは、どちらを中心に生きているでしょうか。
現代人は、「知覚」を基本に生きていると思いがちです。
しかし、実は「感覚」を基本に生きているのかもしれません。
少なくとも私は昔からそうです。

バラの花が、かぐわしい香りを生み出すのでしょうか。
それとも、香りがバラの花を鮮やかに輝かせるのでしょうか。
私は、ユリのカサブランカが好きですが、凛としたカサブランカの花ではなく、あの香りにつつまれることで引き出される意識が好きなのです。
私が認識している世界は、私の知覚によって創られているのか、それとも私の感覚によって創られているのか。
それはなかなか難しい問題です。
私が愛した節子は、知覚の対象だったのか、感覚の対象だったのか。

最近夢に出てくる節子は、知覚できない節子です。
しかし、知覚できない節子であれば、別に夢でなくとも、日常的にわが家にはいます。
何となく声をかけたくなる時もありますが、今、この時点でも、階下に節子がいてもおかしくないような気がしています。
節子が元気だった時も、四六時中、節子が隣にいたわけではないですし。
となれば、いったい何が変わったのでしょうか。

節子とよりも、長く間、会っていない友人や従兄弟がいます。
だからといって、特に寂しさやかなしさはありません。
その気になれば、会えるからでしょうか。
もしかしたら、会うこともなく、どちらかが先に旅立つかもしれません。
しかし、その人がたとえ遠くであったとしても、そこで元気にしていると思えば、何も変わりません。
節子も、彼岸で元気にしていると思えば、いいわけです。

しかし、なぜかそうならないのが不思議です。
やはり「感覚」だけではものたりません。
困ったものです。

■2326:寒中見舞いを書きました(2014年1月14日)
節子
今日、ようやく年賀状代わりの寒中見舞いを書きました。
節子にならって、宛名も1枚ずつ手書きで書き、手書きのメッセージを書きました。
これが意外と大変ですね。
昔はよくこんな大変なことをしていたなと思うほどです。
人間は、どんどん「退化」しているのがよくわかります。

久しぶりに手書きをするとうまく書けません。
これほど字が下手なのかと思い知らされたのはもちろんですが、それ以上に、うまく書けずに、手が震える感じなのです。
それにパソコンの打ち込み速度がリズムになっているせいか、ともかく速く書こうと急いでしまいます。
それで文字を間違えてしまいます。
枚数が多くなると、字も粗雑になります。
字の粗雑さは、心のこもり方と無縁ではないでしょう。
書きながら、やはり節子のことを思い出さ会話するようにゆっくり書かないといけないというのが、節子の考えでした。
今の私には、手紙を書くのは難しくなっているようです。
困ったものです。

結局、どうしても返信しないといけないと思われる世代の人だけでとどめさせてもらいました。
こうやって、自分の世界を狭めていくのかもしれません。

寒中お見舞いが届かなかった方がいたら、お許し下さい。
もう手が震えて書けそうもありません。

■2327:背中を押されている感じ(2014年1月15日)
節子
年が明けたのに、そして前に進みだそうと思っているのに、なかなか心身が動きません。
困ったものです。
しかし、不思議なもので、私の気持ちに呼応するように、年が明けてから、いろんな話が飛び込んできます。
まるで私の背中を押すような感じです。
こういうことに少し過敏になっているのかもしれませんが、自分の思いと環境の動きが連動していると感ずることは少なくありません。

昨年はどうも遠出する気がせずに、閉じこもりがちで、本当に出不精を決め込んでいました。
昨日も寒中見舞いを書いていて、昨年の初めに出かけようと思っていたところに、どこにも行っていないことに気づきました。
節子がいなくなってから、本当に私の行動範囲は狭くなっています。
世界を狭めていくと、意識はどんどん内向します。
それではますます気が萎えるだけでしょう。
ところが、なぜか今年になってから、いろんなところからの誘いがあります。
まだ彼岸に出かけるわけには行きませんが、その準備も兼ねて、今年は少し出かけようかと思います。

背中を押しているのはだれでしょうか。
だれであろうと、私が素直に前に進む気になるかどうかが大切です。
今回はちょっと前に進んでみようかと思います。
節子はいつも言っていました。
迷ったら、ともかくやってみるのがいい。
背中を押しているのは、節子かもしれません。

■2328:福井から蝋梅が届きました(2014年1月16日)
テレビのニュースで、蝋梅の花が咲いたというニュースをやっていました。
節子も蝋梅の花が好きでした。
残念ながら、わが家の蝋梅はまだ咲き出していません。
手入れ不良か、あんまり元気もありません、

しかし、一昨日、福井にいる節子のお姉さんから蝋梅と水仙の花が届きました。
毎年、届けてくれるのです。
節子に供えました。
昨日、咲き出して、今日は満開です。
節子は見ているでしょうか。

■2329:読書時間が増えました(2014年1月17日)
節子
最近、自宅にいる時に、暇をもてあますことが少なくありません。
節子がいた頃とはまったく違います。
節子がいた頃に、これくらい自宅で時間の余裕があったら、と思うことが少なくありません。
時間をもてあますなどという記憶はまったくありません。
むしろ、節子から、もう少しゆっくりしたらといわれるほど、自宅でも何か仕事をしていました。
もう少しすれば、一緒に過ごせる時間はたくさんできるからと、当時はお互いに思っていました。
残念ながら、そうはなりませんでした。
いまさら悔やんでも何の役にも立ちません。
しかし、当時、私はいったい何をしていたのでしょうか。

節子がいなくなってから、自宅でも読書をするようになりました。
以前、私の読書はほとんどが移動時間でした。
しかし、最近は出張も少なくなったため、移動時間が少なくなりました。
代わりに、自宅での読書が増えました。
それで長年「積読」になっていた分厚い本も読めるようになりました。
それに、そろそろ蔵書を処分するように娘たちから言われていますので、せめて読んでいない本は読んでおきたくなっています。
まあとても残された人生の時間では、すべてを読むのは無理でしょう。
あなたがいなくなったら、本をどうすればいいの、と節子はよく言っていました。
そんなことを思い出しながら、読書をすることが多くなってきました。

節子がいなくなってしまったために、時間の過ごし方がよくわからずに、無駄な時間を過ごしているような気がしてなりません。
読書の意味も、変わってしまったような気がします。
伴侶がいなくなると、こんなにも人生の意味が変わるとは、たぶんだれも思ってもいないでしょう。

■2330:「年が変わるたびに新しい悲しみにおそわれます」(2014年1月18日)
節子
昨日は阪神淡路大震災の19年目でした。
家族を失った遺族の方がテレビで話していました。
「年が変わるたびに新しい悲しみにおそわれます」と。

「日薬」という言葉があります。
時間が悲しみを癒してくれる。
時が一番の薬だ、ということだそうです。
これは、たぶん最愛の人を亡くした当事者ではなく、その周辺の人の話でしょう。
肝心の当事者は、決して、時の経過で癒されることはありません。
テレビで遺族の方が語っていたように、年を重ねるにつれて、むしろ新しい悲しみや思いが浮き上がってくるのです。
おそらく人生の意味が大きく変わり、元に戻ることはありません。

しかし、同時に、そのことを素直に受け入れられるようにもなってきます。
そのことを「癒し」というのであれば、癒されるといえないこともないでしょう。
でも、当事者にとっては、決して「癒し」という感覚ではありません。
痛みがどんどん深く沈殿し、意識の底にもぐりこみながら、心身を覆いつくしてしまう感じです。
それが、時に噴出します。
遺族の方は、毎年、1月17日になると、その悲しみで全身がつつまれるのでしょう。
そして、その悲しみに身を任せることで、逆に気持ちを新たにできる。
悲しみは、同時に元気にもつながっているような気がします。
新たな悲しみは、同時に、新たな生きる気力にもつながっているように思います。
そして、悲しみを噴出させることが、まさに亡くなった人への供養なのです。
悲しみが深ければ深いほど、亡き人への思いを確信でき、前に進むことができるのかもしれません。

19年も悲しさを深めてきた遺族のみなさんに、私も勇気をもらいました。
悲しみを、日々、新たにしていこうと、改めて思います。

■2331:泉涌寺に行っただろうか(2014年1月19日)
節子
先日、テレビの古寺名刹で、京都東山の泉涌寺をとりあげていました。
泉涌寺は、皇室の菩提寺とし「御寺(みてら)」と呼ばれていますが、本尊は、釈迦如来と阿弥陀仏と弥勒菩薩の三世仏です。
とても特徴的なのは、大門をくぐると仏殿が見下げる感じで目に入ってくる構図になっています。

泉涌寺は、節子と一緒に行ったような、行かなかったような、あいまいな記憶しかないのですが、なぜかずっと気になっているお寺です。
私の記憶力はかなりあいまいなため、節子と一緒にどこにいったか正確に記憶していないことが多いのです。
節子とは結婚の前後を含めて、滋賀には3年ほど居ましたので、京都や奈良にはよく行きました。
たぶん泉涌寺にも行っているはずなのですが、三世仏の記憶がありません。
あるのは、なぜか新緑の風景です。
その記憶が泉涌寺なのかどうか、はっきりしないのですが、なぜか泉涌寺だという気がずっとしています。
大門からの下り坂を、節子と一緒に歩いていった気がするのです。

実は、こういうあいまいな記憶なのに、細部の一部がやけに生々しく思い出されることが私にはかなりあります。
これは節子がいた頃からです。
節子に、あるところに一緒に行ったよねと話をしても、節子は行ったことがないというので、私の記憶ではその時に一緒だった節子の姉夫婦にも確認したのですが、姉夫婦もそろって、行ったことはないというのです。
私の記憶違いなのですが、もしかしたら、それは夢の中での体験なのかもしれません。
夢と現実の境目がかなり混乱していることが、私には昔からよくありました。
これは一種の精神障害かもしれません。
しかし、夢も現実も、所詮は一時の幻想だと言ってもいいかもしれません。
それに、節子との別れという衝撃が、私の記憶を混乱させていることも十分にあります。
過去の記憶は、いくらでも編集されてしまいますから。

さて泉涌寺ですが、果たして行ったことがあるかどうか、最近少し気になりだしています。
節子が残した日記を調べれば、事実がわかるかもしれません。
節子はていねいに日記をつけていたからです、
しかし、節子が残したたくさんの日記は、やはり読む気にはなれません。
この挽歌を、たぶん、私の娘たちが読む気にならないのと同じです。

今度、京都に行ったら、泉涌寺に立ち寄ってみようかと思います。
そこの三世仏にも会いたくなりました。
しかし、節子がいなくなってから、お寺に行っても、仏たちは声をかけてきてくれません。
一昨年、薬師寺に行った時、あれほど私の好きだった薬師三尊がとても無表情でした。
不思議なことですが、節子がいなくなってから、仏たちの表情が違って見えるような気がするのです。

■2332:長い長い思索の時間(2014年1月20日)
節子
今年になってから、長い長い「思索の時間」をもちました。
といっても、思索と言えば、聞こえが良いですが、実態は、気力がなく怠惰に過ごした時間というべきかもしれません。
しかし、怠惰に過ごすことと思索とは、たぶん切り離せないでしょう。
「忙しい」という言葉が「心を亡くす」ということを象徴しているのでれば、怠惰は「心を耕す」ことなのかもしれません。

昨年は、かなりの自己嫌悪に陥り、人への不信感を強め、厭世気分も高まってきていたのですが、それと同時に、秋くらいから、「不安感」が生まれてきていました。
根っからの楽観主義者ですので、「不安感」とはほとんど無縁に過ごしてきたのですが。
それも、私のこれまでの生き方に深く関わっているものなのです。
まあ笑われそうですが、正直に言えば、貯金がないことへの不安です。

私は、お金がなくとも幸せに生きられると言い続けてきました。
そして、実際に、そういう生き方をしてきたつもりです。
そのことは、節子が一番よく知っています。
節子がいたら、それだけで、ほかには何もいらなかったからです。
お金など、何の役にも立たないと思っていました。
病気になっても、節子が何とかしてくれるだろうと確信していました。
しかし、今はもう、その節子がいません。

昨年、あることに関わったために、少しまとまったお金が必要になりました。
お金を工面し、そのやりくりを考えるという、生まれて初めての体験をしました。
実に意外だったのですが、そういうことをやっていると、お金への執着が生まれてきてしまうのです。
お金を工面してやった人は、絶対に返済してくれるだろうと思っていたのに、必ずしもそうならないのです。
そうなると、何とか取り戻そうなどという考えが浮かんできてしまう。
まさに、お金の魔力に取りつかれて、おかしくなっていくのです。
そして自己嫌悪におちいってしまったわけです。
自己を嫌悪するほど、不幸なことはありません。

お金があることよりも、お金がないことのほうが、幸せに近づけるという、私の確信はやはり事実だったようです。
しかし、その一方で、節子がいなくなった今、お金がなくても大丈夫だと言い切れるかという不安が生まれてきたのです。
それで、年末に宝くじを買いましたが、見事に外れてしまいました。

まあ、そんなこんなで、年明けは自己嫌悪と無気力に陥ってしまっていたわけです。
しかし、負け惜しみ的に言えば、私にはとても意義深い体験でした。
世界が広がり、視野が深まり、お金にこだわる人の思いもわかるようになりました。

そして、長い長い思索の時間。
自分をかなり見つめ直すことができました。
厭世気分も他者への不信感も、すべては私に原因があることもよくわかりました。
嫌な自分も含めて、自分を素直に受け入れられそうです。
不安感も迷いも、払しょくできました。

お金がなくても、娘たちがいますので、大丈夫でしょう。
もちろん経済的に依存するという意味ではありません。
愛する人(この場合は節子ではなく娘たちです)がいれば、人は安心して生きられるものです。

節子
もう大丈夫だろうと思います。
節子がいなかったせいで、2年ほど、道に迷ってしまいました。
節子がいたら、「これもまた人生」と笑いあえたでしょうが。

■2333:いいこと探し(2014年1月21日)
節子
ようやく今年も活動を始めました。
これまでも何もしていなかったわけではありませんが、まだ気が入っていませんでした。
明日から湯島に行こうと決めた途端に、友人から電話がありました。
ある人を引き合わせたいというのです。
昨日、湯島でその人に会いました。
冠地情という人でした。
発達障害を持つ人のコミュニケーション支援に関わっている人です。
「イイトコサガシ」というワークショップも展開しているそうです。

冠地さんと話していて、心通ずるところがたくさんありました。
共通の知人も少なからずいるようです。
今年最初の出会いは、まさに前に進む契機になる出会いになりました。

ところで、冠地さんが取り組む「イイトコサガシ」ですが、
節子の「いいことだけ日記」を思い出しました。
残念ながら、節子の「いいことだけ日記」帳は、十分に埋められる間もなく終わってしまいましたが、手術の日にその投稿記事が新聞に載ったときの節子のうれしそうな顔が思い出されます。
節子は、そのうれしさで、過酷な手術にも耐えました。

ところで、よりによって、この時期に「イイトコサガシ」に取り組む冠地さんに出会うとは、これも何かの啓示でしょう。
節子に勧めるだけでなく、私自身が「いいこと探し」にもっと気を向けろということかもしれません。

昨日も冠地さんに話したのですが、コミュニケーションにとって重要なのは、自らの弱みをさらけ出すことと相手の良いところを見つけることなのです。
それは、生きやすくなるためのポイントかもしれません。
最近、どうも、そうした生き方から逸脱しだしていたようです。
節子に合わせる顔がありません。

さて今日から「いいとこ探し」をまた始めたいと思います。

■2334:とても良い人生(2014年1月22日)
節子
節子がいなくなってから知り合った友人の一人が、アーティストの篠崎さんです。
私よりも少しだけ年下ですが、とても個性的な生き方をしています。
とてもスピリチュアルな生き方というべきでしょうか。
あるいはとても純真無垢というべきでしょうか。
いずれにしろ、とても魅力的な人です。
その篠崎さんが、愛する人を亡くしたのは、もうかなり前のことです。
その後、いろいろとありました。
いや、あっただろうと思います。
それもあって、最近少し引きこもりがちになっているようです。
この1年、お会いしていません。
私以上に、長い長い思索の期間を過ごされていたはずです。

その篠崎さんから昨年、メールが来ました。
それをなぜか今日、思い出しました。
こう書いてあったのです。

歳を重ねて、良いこと、悪いことを含めて、とても良い人生だった、と振り返ることができるようになりました。

ここに込められた篠崎さんの思いの深さは、私には慮(おもんばか)りようもありませんが、少しだけ篠崎さんの心情を知っている私の心には、突き刺さってくるような言葉でした。
ですからずっと心に残っていたのです。

良いことも悪いこともあってこそ、とても良い人生なのです。
そういうことが、私もようやく実感できるようになってきました。
そう思えることが、まさに良い人生なのでしょう。

篠崎さんは、こうも書いています。

結果の如何に関わらず、何かに挑戦することは死の間際まで続けるつもりです。
同時に、ぼんやりと静かに過ごす自分の時間も大切にしています。

篠崎さんらしさを感じます。
篠崎さんは、絵本作家でもあります。
いまちょうど大きな仕事をされているのだろうと思います。
大作の絵本はアメリカで出版されるとお聞きしていますが、その一部を以前、見せてもらったことがあります。
魅力的な構想も聞かせてもらいましたし、私の感想にもアクティブに反応してくださいました。
どんな作品に仕上がるのか、とても楽しみです。

ゆとりができましたら、ぜひ、湯島を訪ねたいと思っています。

湯島で篠崎さんと久しぶりにお会いできるのも、そう遠くはないでしょう。
湯島には、いろんな人が来てくれます。
節子と一緒に湯島のサロンをやってきて、よかったです。

■2335:「いいことだけ日記」の反省(2014年1月23日)
節子
先日、「いいことだけ日記」について書いたのですが、このことを以前、この挽歌にもきちんと書いたと思っていましたが、どうも書いていないようです。
文中に出てくることはありますが、見出しにはなっていませんでした。
改めて書いておこうと思います。
6年の間に、私の考えも少し変わってきていますので。

節子は子どもの頃からずっと日記を書いていました。
その節子が、胃がんになり、手術をしてから、あまり日記を書かなくなっていました。
とくに再発してからは、書けなくなっていました。
それで、私が、自分を元気づけるためにも、ともかく「いいこと」を見つけ出して、それを書くような日記にしたらと提案したのです。
そして、3年日記を購入してきました。
その提案に、節子は喜んでくれましたし、新聞に投稿までしてくれました。
新聞を読んだ人からも、良い考えだという手紙もきました。
友人の一人は、その投稿が私の妻のものであるとは気づかずに、切り取って残していてくれました(妻が亡くなった後で気づいたそうです)。
うまくいけば、そこに、たくさんの「いいこと」が記録されていたはずです。
しかし、そうはならなかったのです。

その日記帳は、いまも節子の使っていた書棚に残っていますが、開く気にはなれません。
そこから、節子の厳しい闘病生活が見えてくるからです。

節子は、「いいことだけ日記」で元気づけられたでしょうか。
たしかに最初はそうでした。
しかし、いまから考えると、それは残酷なことだったのかもしれません。

昨年、私はある問題を抱えこみ、気の重い状況を続けていました。
そんな時に、「いいことだけ日記」を書いたらといわれても、書けなかったでしょう。
生活の基本が「悩ましい状況」にある時に、「いいことだけ」を見ようとすることなど、できることではないのです。
でも周りの人を心配させないために、「いいことだけ」を意識しながら生きようとする。
もしかしたら、そういうことを、私は節子に求めていたのかもしれません。

おそらく多くの人は、考えすぎだというでしょう。
しかし、こうしたことは、そうした状況に陥った当事者でなければわからないことです。
それに、世の中は「いいこと」だけで成り立ってはいないのです。
そして、もっと大切なのは、何が「いいこと」で、何が「いいことではない」のかです。
大切なのは、どんなことにも「いいこと」の要素があると気づくことでしょう。
昨日書いた、篠崎さんは、それを教えてくれています。
そして、節子がいなくなったいま、ようやく、そのことに気づきだしています。
「いいこと」と「いいことではないこと」とは、コインの裏表です。
「わるいこと」も含めてみんな「いいこと」だと思えるようになれれば、と思います。
もしかしたら、これが〈悟り〉なのかもしれません。
世界がすべて清々しく、あたたかに見えてくる。
そんな心境になれればうれしいですね。
まだもう少し「思索」と「体験」が必要のようです。

■閑話休題:挽歌と時評のクロス現象(2014年1月24日)
吉本隆明の芸術言語論によれば、言語には、コミュニケーションのための指示表出と、沈黙が溢れ出る自己表出とがあるそうです。
極めて粗雑に、しかも独断的にいえば、ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいい。
しかし、いずれにしろ表出(表現)することにより、世界は動き出します。
吉本隆明は数年前の最後の講演で、「表現とは自然や他者との交通路」と言い、「表現すると自然も他者も自らも変化する」と語っていました。
独り言のような自己表出もまた、自らを変化させると言うことです。
そして、その話を聴いた時、表出は自らを変化させるための仕組みなのだと思ったのです。

このブログは、挽歌と時評によって構成されています。
吉本の言葉を借りれば、挽歌は自己表出、時評は指示表出です。
ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいいでしょう。
数年間、書き続けてきて思うのは、実はそのふたつは深く深く重なっていると言うことです。
書き手としては、時々、どちらがどちらなのか迷うこともあるのです。

挽歌は、6年以上続けていますが、最初の頃と最近とでは、内容も書き方も大きく変化していると思います。
情緒的にいえば、最近は書いていてとても「渇き」を感じます。
言い方を変えれば、「生気」が希薄になっているのを感じています。
挽歌を書こうとしている自分を見ている自分が、書いていると感ずる時さえあります。

時評は、書く時の気分で大きく変わります。
「生気」が希薄な時には、書くことが思いつきませんが、生気が満ちていると書きたいことがどんどん見えてくる。
思いがふくれてくると、ついつい感情をぶつけたくなる。
そして、自己嫌悪に辿り着くこともあるのです。

つまり、ゾーエとビオスの逆転が起こっている。
しかし、指示表出の挽歌や自己表出の時評は、読者には意味がないでしょう。
挽歌でコミュニケーションしたくなったり、時評でうっぷんを晴らすのは、どこかが屈折しています。

まさに、こうしたことに、吉本のいう、「表現すると自然も他者も自らも変化する」ということがあるのかもしれません。
書き続けていると、変わってしまう。

しかし、挽歌や時評を書き続けることが、何とか私の生きる拠り所を落ち着かせてくれています。
身体が反応して、思わず嘔吐してしまったり、病気になったりしてしまったりすることと、同じなのです。
挽歌的に言えば、以前は節子がその役を引き受けてくれていましたし、時評的に言えば仕事がその役を引き受けてくれていた。
いまは、節子もいないし、仕事もやっていない。
私のメッセージを引き受けてくれる仕事は、残念ながら見つかっていません。

いずれにしろ、挽歌と時評が重なってきていると言うことも、それなりに確信できた。
いや、重なり合わせて生きることが可能だということが確信できました。
ですから、このブログを続けようかどうか、最近少し迷いが出てきています。
挽歌を書くとしても、なにも公開のブログで書くこともないですし、時評を書くよりも仕事をした方が良いのかもしれません。
しかし、もう少し書き続けたい気持ちの方が、今は少し強いですが。

■2336:愛する人を失ってこそ愛がわかる(2014年1月24日)
最近、毎日のように挽歌へのコメントを下さる山陰さんのコメントの一部です。

愛とは?
しかし、6年以上を越えて書き綴られた「節子への挽歌」を持ってしても、その答えは語り尽くすことは難しい。
「愛とは?」奥深く重厚で神秘なものなんですね。
理論や数字では答えられない「愛」、まして最愛の妻への愛を、言葉や文章で表すことは至難の業かもしれません。

そういわれてやっと気づいたのですが、この挽歌は、「愛」を語っているのですね。
そういう自覚は、あまりなかったのです。
悲しみや寂しさや、怒りや後悔や、そうした、むしろ後ろ向きの気分が多いように認識していました。
もちろんそれは間違いではありません。
それに、いつまで書いているのというのが、大方の人の感想でしょう。
まるでストーカーのようではないかと言われたら、返す言葉もありません。

山陰さんのコメントを読んで、この挽歌で「愛」という言葉がどのくらい使われているかを確認してみました。
挽歌の総集編を、私のホームページに再掲していますので、パソコンで簡単に調べられます。
結果は、予想以上に「愛」という文字が使われていました。

愛という文字は、多様な意味を持っています。
人類愛といった博愛から特定の個人を対象とした性愛までさまざまです。
「経営とは愛と慈しみ」と捉えている私の場合、企業経営においても「愛」がキーワードになりますから、挽歌でなくとも「愛」という文字を多用しているかもしれません。
しかし、思った以上に、挽歌でも「愛」が語られていました。
挽歌や鎮魂歌とは、やはり「愛の賛歌」なのだと改めて思いました。
生きるとは愛することなのです。
そして、愛とは、実はとても悲しくさびしく辛いものなのです。
だからそこに喜びがある。

愛を話題にした最新の挽歌は「ハンナ・アーレントの愛」です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/11/post-08ef.html
アーレントの著作の根底には、愛があります。
それも、実に悲しくさびしく辛い愛です。
不幸せがあればこそ、幸せがあるように、成就しない愛こそが、愛の意味を教えてくれるのかもしれません。

愛する人を失ってこそ、愛がわかる。
愛とは実に意地の悪いものなのかもしれません。

ところで、「愛とは奥深く重厚で神秘なもの」でしょうか。
これに関しては、明日、書いてみます。
もし気分が変わらなければですが。

■2337:愛とは単純で軽やかで明らかなもの(2014年1月25日)
予告どおり、昨日のつづきを書きます。
山陰さんはコメントで、「愛とは奥深く重厚で神秘なもの」と書いてくれていますが、むしろ、愛とは単純で軽やかで明らかなものではないかと、天邪鬼の私は思います。
山陰さん、すみません。

昨日の挽歌には、「愛とは、実はとても悲しくさびしく辛いもの」と書いているのに矛盾しないかと言われそうです。
私の意識のなかでは、矛盾はしません。
悲しさもさびしさも辛さも、みんな「単純で軽やかで明らかなもの」だと思うからです。
「軽やか」というのはちょっと違和感を持たれるかもしれませんが、愛に伴う「悲しさもさびしさも辛さ」には、軽やかさがあるように感じます。
いずれも、小賢しい「脳」を経由せずに、心身が反応するからです。
思ってもいないようなかたちで、それはやってきます。
突然涙が出てしまう。
意識もないのに胃腸がキュルキュル言い出す。
頭でどう対処しようとしても、対処できません。
とても素直な生命的現象です。

愛するとは、要するに「好き」だとか「いいな」とか感ずることです。
人を愛するとは、一緒にいると楽しいということだろうと思います。
でも、ただ「好き」というのでは何か言い足りない時に、「愛」という言葉が出てくるのかもしれません。
「愛している」といわれるのと「好きだ」といわれるのと、どちらがうれしいでしょうか。
私はやはり「好きだ」がいいですね。
「愛する」よりも「好き」のほうに、素直な気持ちを感ずるからです。

身も蓋もないようなことを書いてしまいましたが、愛とは生きる証なのかもしれません。
とても素直な生命現象なのです。
誰かや、何かを、愛せなくなったら、生きてはいけないでしょう。
愛とは、生きるために生命に埋め込まれた生命の種かもしれません。

とこう書いてくると、やはり「愛とは奥深く重厚で神秘なもの」ではないかと、山陰さんに言われそうですね。
そうかもしれません。
そもそも「生きる」ということが、奥深く重厚で神秘なものなのですから。

なにやら堂々巡りの自己否定の内容になってしまいました。

■2338:エントロピーが高まっている気分(2014年1月26日)
節子
今年になってから、どうも生活のリズムがとれません。
とともに、どこか気が抜けた状態から抜け出せません。
難しい表現をすれば、エントロピーが高まってしまい、動きが出てこないような感じなのです。
エントロピーが極大化するとはこういうことなのか、と最近は奇妙に納得しだしています。
意識がやけに平板になり、生活のメリハリやリズムをつけられなくなっているのです。

生命体は、環境とエネルギーや物質の交換を続けることで、自らの動的秩序を自分で組織化していくという、いわゆる「散逸構造」体です。
環境にエントロピーを排出し、自らの生命体を持続しているといってもいいでしょう。
しかし、最近、痛感するのは、環境との交換は、単にエネルギーや物質だけではなく、生命そのものをやりとりしているのではないかということです。
実際、清浄な自然の中にひたると、生命力が満ちてくることは実感できます。

他者との意識や感情の交換も重要です。
人と会うと元気になったり、疲れたりするのは、そこで何らかの生命力のやりとりが行なわれているからでしょう。

意識や感情の交換という点では、夫婦関係はかなり特殊なような気がします。
そこでかなり飛躍してしまうのですが、夫婦とは意識や感情の散逸機能増幅体といえるような気がします。
うっせきしたエントロピーを一挙に排出し、低エントロピーを取り込む仕組みといってもいいでしょう。
必ずしもうまくいくとは限らず、どちらかが過剰な負担を背負い込むことも多いでしょうが、うまくいけば、実に安定した生命力を動的に維持することができる。
節子がいた頃、私はほとんどストレスとは無縁だったのは、そのせいかもしれません。

節子がいなくなって6年以上経つと、どうやらエントロピーもかなりたまってきているようです。
妻に先立たれた3年後が危険というのは、もしかしたら、散逸構造が機能障害を起こすからかもしれません。

節子と結婚した当時、私はちょうどエントロピー概念を学んだところでした。
節子にも話しましたが、節子が理解した保証はありません。
しかし、結婚した頃は、こんな話をよくしていたものです。
2人とも好奇心だけは大きかった。
エントロピーが、とても低かったのです。
あの頃は、どんな話題も輝いていました。
私たちにとって、一番楽しかった時だったかもしれません。
最近は、その反対の極地にいる感じです。

■2339:コートがない!(2014年1月27日)
節子
来月、東北に行こうと誘われました。
寒いだろうから動きやすいコートを着ていかなくてはと思って、近くのユニクロに行ってみました。
ところがもう春物に変わっていて、防寒性のあるコートはありませんでした、
そこで、いまあるのを着ていこうとクローゼットを探してみました。
ところが、そこにあるはずのコート類が1枚もないのです。
そんなはずはないと家中調べ、娘にも処分していないか確認しましたが、心当たりがないと言います。
少なくとも3枚はあったはずですが、そういえば、ここ数年、着た記憶がありません。
いつも使用しているコートが1枚あるのですが、最近はそればかり着ています。
しかし、たしかに3枚はクローゼットにしまっていたはずなのです。
キツネに騙されたような気分です。

いろいろと考えた結果、昨年、身のまわりの整理をした時に、すべて処分したような気がしてきました。
なぜ処分したのか、よくわかりませんが、ともかく処分してしまったようです。
さてさて、東北には何を着ていけばいいでしょうか。
困ったものです。

節子がいなくなってから、買い物が苦手の私としては、ほとんど衣服などを買っていないのですが、まさか処分までしてしまっていたとは思ってもいませんでした。
もちろん処分したのは私です。
娘が嘆くように、どうも配慮に欠けているようです。

先日は、ボロボロの靴をはいていて、娘にしかられました。
捨てるはずの靴と使っている靴を間違っていたのです。
どうも歩きにくいなと思ったら、底が欠けていました。
困ったものです。
節子がいなくなってから、実はこうしたことが時々起こります。

娘は、そこまで面倒は見られないというのですが、あまりに節子に依存して生きてきてしまったようです。
いまはまだどうにかなっていますが、この先、いささか心配ですね。

しかし当面の問題は、東北に何を着ていくかです。
そういえば、昔、井上陽水に、そんな歌がありました。
さて、今でも冬物を売っているところを探さないといけません。
人生には雑事が多すぎます。

■2340:自宅での時間を持て余し気味です(2014年1月28日)
節子
今日は3月中旬並みの暖かさだったそうです。
三寒四温どころか、一寒一温、いや半寒半温、つまり日中は暖かいのに夕方から冷え込んでしまう日が続いています。
昨日はうっかり薄着をして外出し、夜遅くなったために寒さに震えながら帰宅しました。
今日はそれで早目に帰宅しました。

節子がいた頃は、なぜか自宅でも山のように仕事がありました。
もちろん「家事」ではなく、私の「仕事」です。
それで、節子からはよく「あなたの趣味は仕事ね」と言われていました。
当時は、気にはしていませんでしたが、いまにして思えば、少しは生き方を変えたらというメッセージだったのかもしれません。

それにしても、最近はどうしてこんなに時間があるのでしょうか。
自宅にいる時は、実にたっぷりと時間があるのです。
平たくいえば、やることがないのです。
といっても、実は「やらなければいけないこと」はそれなりに山のようにあります。
もちろん「家事」ではなく、「仕事」というか「活動」の関係です。
しかし、それをやろうという気になかなかなれません。
つまり、「やることはある」のに、実際には「やることがない」。
実に困ったものですが、どうもモチベーションが高まりません。
高まるのは、精神的な負担感だけ。

夜の付き合いを基本的にやめたのも、自宅での時間が増えた理由です。
節子がいなくなってからのほうが、なぜか急いで自宅に帰りたくなっているのです。
これは、われながら不思議なのですが、節子を見送ってからずっとそうです。
帰宅しても、そこには節子がいないのですが、なぜか早く帰りたくなっています。
帰宅してから、何をやるというわけでもありません。
たぶん節子がいた頃に比べると、テレビを見る時間もパソコンに向かう時間も減っています。
増えたのは、「やるべきこと」があるのに、なにも「やること」のない時間。
その結果、就寝時間は早まりましたが、いまも真夜中に目が覚めるので、睡眠時間は増えてはいません。
要するに、充実感がないわけです。

今日は隣町の取手市の市役所に行ってきました。
友人からの依頼で講演を引き受けてしまいましたが、主旨をきちんと聞いたら、テーマが「生きがい」でした。
最近の私の状況では、適役ではありません。
でももう引くに引けない状況です。
いやはや困ったものです。
講演日までに、今の状況を抜け出さないといけません。
しかし、「生きがい」ってなんでしょうか。
たっぷり時間があるので、今日はゆっくりお風呂に入って、考えてみようと思います。
そろそろお風呂が沸く頃です。

■2341:生活の「生きがい」と人生の「生きがい」(2014年1月28日)
節子
早々とお風呂に入って「生きがい」について考えてみました。
久しぶりに長湯をしましたが、あんまり考えは深まりませんでした。
そもそも「生きがい」などを考えること自体が、私の趣味には合わないという、身も蓋もない思いが強まっただけです。
健全な人生を送っていれば、思いもしない言葉かもしれません。

ただ、節子がいる時にも、「生きがい」ではありませんが、「生きる意味」という言葉は使っていました。
それも「私の生きる意味は節子だ」ということでした。
このことは、告別式の挨拶でも話させてもらいました。
挽歌にも、最初の頃は頻繁に「生きる意味」を書いた記憶があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/10/post_16bf.html
お風呂から上がって、調べてみたら、「生命を支える生きがい」などということも書いていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-79d3.html

「生きがい」といえば、飯田史彦さんが「生きがいの創造」を何冊も書いていたなと思い出しました。
彼から何冊か送られてきていますが、節子がいなくなってからは、飯田さんと会っていません。
節子を見送ってから少しして、飯田さんに会いたくなって、連絡したのですが、なぜか今は会えないと言われてしまいました。
彼とは不思議な縁なのですが、そろそろもう会える時期に来ているかもしれません。
連絡をとってみようかと思います。
でも、たぶん「生きがい」に関しては、飯田さんとの話にはならないでしょう。

昨日のお風呂での結論はこうです。
生活の「生きがい」と人生の「生きがい」は異質のものである。
相変わらずわかったようでわからない話ですみません。
でもこう考えれば、何とか私でも帳尻を合わせられます。
人生の「生きがい」は失っても、日々の生活の「生きがい」はもてる、と。
つまり、節子がいなくても、「生きがい」はもてるのです。
少し小賢しいですかね。

時間がたっぷりあったので、明日の挽歌を書いてしまいました。

■2342:白いブーケ(2014年1月31日)
節子
昨日、湯島で開催した古代史サロンに久しぶりに小学校の同級生の升田さんが来てくれました。
そして、節子さんにと白い花のブーケを持ってきてくれました。
早速、昨夜、供えさせてもらいました。
ちょうど供花がさびしくなってきたところでした。

いまも時々、花を持ってきてくれる人がいますが、うれしいことです。
というよりも、不思議な話です。
花好きだった節子は、どうも花を呼び込む何かを持っているのかもしれません。
もっとも、そのおかげで実は困ったことが起こったこともあるのですが、まあそれは書くのはやめましょう。

升田さんは数年前まで大学で国文学を教えていました。
その大学には私の知人も何人かいましたが、彼女はやはりかなり変わった教授だったようです。
専門は万葉集で、前に何回か論文を送ってもらいましたが、読みこなせませんでした。
今なら少しは読めるかもしれません。

ところで、最近、精神的な余裕がなく節子への供花が手抜きになりがちです。

今日は湯島で恒例のオープンサロンですが、一人で待っているのは退屈です。
今日は誰が来るでしょうか。

■2343:たわいない話がしたいです(2014年2月2日)
節子
先日、湯島に来た私よりも若い友人が、最近、妻との会話がほとんどないというような話をしました。
私には信じられない話ですが、そういう夫婦が最近は少なくないのだそうです。
その友人が言うには、ただ面倒くさいだけなのだそうですが。
なんとまあ贅沢なことかと思いますが、たしかに誰かと話すことは面倒なことかもしれません。
考えやリズムが違うからです。
この挽歌のように、勝手に節子に話しかけるのは楽ですが、もし節子がこれを読んでいたら、事実と違うとか、私はそうは思わないとか、いろいろと言ってくるかもしれません。

人はそれぞれに言葉の受け止め方も違いますし、考え方も違いますから、会話がいつも滑らかに行くとは限りません。
意図しない意味に取られて相手を怒らすかもしれません。
あるいは相手の思いを誤解して、不愉快になることもあるかもしれません。
それに一緒にいる時間が長くなると、どんな相手も気に入らないことが見つかるかもしれません。
私たちも、そういうことが全くなかったわけではありません。
むしろそういうことは年中あって、喧嘩ばかりしていたような気もします。
しかし、会話が途切れたことはありません。
いったい何を話していたのか思い出せませんが、よく話をしていました。

そういう話し合う時間がなくなったことは、私にはいささか辛いことです。
だから時々、湯島にやってきた人に無性に話したくなることがあるのです。
人は話をすることで、たぶん精神のバランスをとっているのでしょう。
この挽歌は、いわば、そうした話すことの代償行為かもしれません。
しかし、話すのと違って、書くとなるとそれなりに意味のあることを書こうと思ってしまいます。
また見栄もはりたくなります。
そのせいか、時々、書けなくなってしまうのです。

それに比べて、夫婦の話はたわいないものでも盛り上がります。
むしろ、意味がないほうが話が弾むかもしれません。
たとえば、一昨日、駅に行く途中に、見たような顔の人が挨拶をしてきました。
とっさには思い出せなかったのですが、かかりつけの歯医者さんでした。
背広姿で、しかもマスクをしていなかったからです。
夫婦の会話であれば、そんな話題でも盛り上がるものです。

そういうたわいない話ができる夫婦関係のありがたみを、会話が途絶えてしまった夫婦には教えてやりたいものです。
たわいない話をすることは、人を元気にする大切な要素かもしれません。

■2344:彼岸は天国か(2014年2月3日)
節子
今日は節子の月命日です。
以前は月命日にはお墓参りをし、自宅で節子を偲んでいました。
ところが6年も経つと、だんだん手抜きになり、お墓まいりも行かず、外出の用事をいれてしまったりするようになってきてしまいました。
困ったものです。
節子は私のことをよく知っているから、まあそんなものだろうと笑って許してくれるでしょう。
もし私と節子との立場が逆だったら、間違いなく節子も私と同じだろうと思いますし。

今日は自宅にいることにしました。
お墓は寒いのでやめましたが。
それでもやはり外出したくなり、午後には外出してしまいました。
その気になれば、いろいろと用事はあるのです。

時評編に少し書こうと思いますが、昨日、『「ユダ福音書」の謎を解く』という本を読みました。
ユダ福音書は、確か1970年代に発見された異端の書です。
数年前から日本でも話題になっていましたが、きちんと読んだことはありませんでした。
しかし、娘が読んでいたので借りて読みました。
実に驚きの内容でした。
まさに「もうひとつのキリスト教」です。

それによれば、肉体の死の先には、不死の世界があるというのです。
ただすべての人が、そこに行けるわけではなさそうです。
この本だけではよくわかりませんが、イエスの12信徒たちは行けなかったようです。
行けたのはユダだけです。
読んでいて、輪廻転生や解脱のことを想像しましたが、これまで、彼岸は最終地なのか転生の過程地なのかは、あまり考えたことがありませんでした。
どちらなのでしょうか。
もし、転生の過程の世界であれば、節子が次の人生に転生しないうちに、彼岸に行かねばなりません。

ちなみに、「ユダ福音書」によれば、パウロは行けなかったであろう真の天国に、私はたぶん行けるでしょう。
節子もたぶん行っているでしょう。
私たちは、過剰にではなく、それなりに、自らに誠実に生きているからです。
彼岸は、永遠の最終地である天国かもしれません。
しかし、それではちょっと退屈です。
やはりもう少し転生を繰り返したい気がします。
節子はどう思っているでしょうか。

■2345:以心伝心(2014年2月4日)
節子
今日は節子の誕生日です。
もう何歳になったのでしょうか。
今日の我孫子は寒くて、午後から雪が降っています。
雪といえば、これまた思い出すことがたくさんありますが、今日はまったく別の話を書きます。

娘から、お父さんは突然に脈絡なく、主語や目的語のない会話をする。自分の頭の中で会話していて、それを突然話し出すので、何を話しているのかわからない。もっときちんとわかるように話してよ、と時々言われます。
たしかに、私にはそういう傾向があります。
突然に、「だから・・・」と話し出すこともあるのです。

なぜそうなったかといえば、これもたぶん節子との会話の関係です。
以心伝心、で、指示語がなくても、あるいは前置きがなくても、伝わるのが私たち夫婦でした。
そうした会話に慣れてしまうと、普通の会話が面倒になります。

ところで、先日、伴侶との会話が面倒だといった友人ですが、彼の場合は、職場での会話のほうが指示語がなくても通じ合えるのでしょう。
職場で同じ仕事に取り組んでいると、いつの間にか、そこでも以心伝心の関係が育ってくるからです。
会話しやすいのが同僚か夫婦かは、人によって違うのかもしれません。
私の場合は、夫婦だっただけの話かもしれません。

以心伝心の関係は、実に居心地のいいものです。
相手に理解してもらっているという安心感がありますから、理屈など不要なのです。
話すことさえ不要ということさえあるのです。

ところで雪の話ですが、昔は今よりも雪は多く、冬は家族みんなでコタツに入ってテレビを見たりみかんを食べたり、話し合ったりしたものです。
そうなると、以心伝心の家族関係が育ちます。
しかし、最近は、そういう光景はほとんどの家庭から消えてしまったことでしょう。
わが家は、それでも節子がいた頃には、そういう光景が残っていました。
娘の一人が結婚して家を出たこともあり、今はそんな光景はなくなりました。
コタツに入るのは、私一人です。
いまも、一人で、コタツでパソコンを打っています。
以心伝心など、育つはずもありません。

向かい側に節子がいないコタツは、あんまり心身もあったまりません。
以心伝心だった節子の心は、どこに行ってしまったのでしょうか。
この和室に、いまもいるのでしょうか。

外の雪はまだ降っています。

■2346:コタツでの妄想(2014年2月4日)
節子
インフルエンザが流行っています。
私は幸いに、最近は風邪はひいても、インフルエンザにはかかっていませんが、今年はどうも免疫力的に不安があります。
注意しなければいけません。

今日もあんまり調子がよくないので、自宅で過ごしましたが、最近はインターネットのおかげで、湯島に行く以上に、いろんな人と交流ができます。
コタツの中から、新潟や福岡や岐阜や福井や大阪や広島と、簡単に連絡が取れるのです。
不思議な時代です。
地域的な問題だけではありません。
今日はちょっと気の重い話まで、ネットで対応してしまいました。
もしかしたら、コタツにいたほうがいろんなことができるかもしれません。

しかも、そうしたやり取りの合間に、こうやって彼岸にいる節子ともやりとりができます。
彼岸の場合は、現在の技術ではまだ返信を期待できないのですが、そのうち、返信も来るかもしれません。

彼岸との交流に関しては、節子が元気だった頃、少し話し合ったことがあります。
もし彼岸から此岸が見えるのであれば、先に行ったほうが、何らかの形で、合図を送るようにしようという話です。
しかし、予想以上に早く節子は旅立ったため、準備不足で、確認できないままになっています。
節子はたぶんもうすっかり忘れているでしょう。
もし覚えていたら、何らかのメッセージを送ってきてもいいのですが、それがありません。
もっときちんと話し合ってよかったのですが、今となってはもう遅いです。
もう少し時間がほしかったです。

先日、古代史のサロンをやった関係で、日本の古代史の蔵書を読み直しています。
以前は、邪馬台国の場所だとか、古代王朝の変遷だとか、朝鮮半島との関係だとか、そんなところに関心があったのですが、最近は少し関心が変わっています。
現代人が考えるような、区切られた世界ではなく、もっとおおらかな世界に、古代人は生きていたような受け取り方をするようになってきています。
そういう視点で読み直していくと、古代には、「個人の生」という概念が、まだそれほど強くはなく、みんな大きな生命の一部を生きていたような気がしてきます。
個人の寿命も今よりもずっと長かったのかもしれません。
そして、もしかしたら、彼岸と此岸はつながっていたのかもしれません。

インターネットはどこまで発展するのでしょうか。
私が生きているうちに、彼岸との交流が可能になるでしょうか。
そうなるといいのですが。

■2347:雪と炎(2014年2月5日)
節子
朝起きたら、隣家の屋根が真っ白でした。
今年初めての雪景色でした。
大日寺の庄崎さんに、節子が白い花に囲まれているという話を聞いてから、白い風景と節子が結びつくようになってしまっています。

そういえば、庄崎さんのお話を録音してきたのですが、未だに聞きなおしていません。
もう消えてしまったかもしれません。
なぜ聞く気がしないのでしょうか。
われながら不思議ですが、ともかくいまも聞こうという気にはなれません。
思い出したくないからでしょうか。
加野さんは、いまも毎月、大日寺で娘さんとの交流を続けているのでしょうか。

電話でお話しするかぎり、加野さんは前よりもお元気そうです。
彼岸から気をもらっているのかもしれません。
私も、最近、そんな気がしています。
気をもらわなければ、やっていけないはずですし。

大日寺でのろうそくの炎の動きは、いまも鮮明に思い出します。
わが家の仏壇はとても小さなサイズなので、そこに立てるろうそくも小さなものです。
朝晩に必ず点火するのですが、炎は揺らぎません。
節子がいるのかどうか、張り合いがありませんが、平安に過ごしているからかもしれません。
しかし、小さくても炎を見ていると心は揺らぎます。
雪を見ても、心は揺らぐのですが。

雪と炎。
いずれも彼岸につながっているような気がします。
今日はいつもよりも大きなろうそくをともしました。

■2348:人はみんな「変わり者」(2014年2月6日)
節子
自称変わり者夫婦が、自称変わり者の友人と一緒に湯島に来ました。
その友人が、ここに来る人はみんな「変わり者」だからと紹介してくれました。
「そんなことはない」と、否定しましたが、そう言う人が多いので、まあそうかもしれません。

そのご夫妻は、発達障害の人たちに働き場を提供しているのですが、お2人が言うには、そういう人から学ぶことが多いのだそうです。
とてもていねいに仕事に取り組むし、とてもあったかなものを感じ、一緒に働いている人たちが変わってきたというのです。
実に共感できる話です。
私は常日頃、いわゆる「健常者」(不思議な言葉です)なる人たちのほうこそ、「異常」ではないかと思っているのですが、それを裏づけてくれる体験談です。

大切な人を喪って、人は変わります。
私の経験では、2つの変わり方があるようです。
自分の世界に向かって「偏狭」になる人と、自分の世界のむなしさ(仏教でいう空)に気づいて「寛容」になる人です。
私の体験では、喪失体験の直後は、いずれもの方向にも引き寄せられ、右往左往しますが、次第にどちらかに落ちついてきます。
どちらがいいかはわかりませんが、後者のほうが間違いなく、生きやすくなりそうです。
そして、その方向に進むと、これまでこだわってきた判断基準が相対化されていきます。
そうなると世界の風景が変わっていきます。
私が「障害を持つ人」こそ健全だと思えるようになったのは、そのおかげです。
人はみんなそれぞれに「障害」がある。
そこに気づけば、誰にもやさしく、同じ目線で接しられるようになります。
寛容さは、世界を広げ深め、心を安堵させてくれます。

みんなそれぞれに「障害」があるのと同じく、実はみんなそれぞれに「変わり者」です。
しかし、なんとなく「標準的な常識人」(そんな人はいないのでしょうが)になろうとしてしまうのが、ほとんどの人でしょう。
湯島の空間は、「変わり者」でもいいんだという空気が、もしかしたら、あるのかもしれません。
だから、湯島では、みんな「変わり者」、つまり、自分になれるのです。
ビオスではなく、ゾーエの世界。

生真面目な節子は、最初はそれになじめませんでした。
だからサロンを始めた時には、かなりのストレスだったでしょう。
カルチャーショックだったはずです。
節子には苦労させたような気がします。
でも、そのおかげで、湯島のオフィスは今も「自由」が横溢しています。
そして、相変わらず「変わり者」がわがもの顔をしてやってきています。

私は、生真面目な節子も好きでしたが、変わり者の節子も大好きでした。

■2349:久しぶりに節子に会いました(2014年2月7日)
節子
久しぶりに節子に会いました。
グリーンのセーターを着ていました。
少しやせてしまいましたね。
といっても、夢の中です。

夢で、節子の気配を感ずることは多いのですが、節子の姿を見たのは本当に久しぶりです。
死んだはずなのに、どうしてここにいるのだろうかと、まず思いました。
そうか、死んだけれどもこうやって姿が見えるのだから、それでいいじゃないか、と次に思いました。
節子は、私には話しかけずに、ベッドの布団をベランダに干しだしました。
もしかして、それが気になっていたのでしょうか。
そこで目が覚めましたが、思い出せるのは緑のセーターと布団を干してくれたことです。

それで、起きてすぐに、自分で布団をベランダに干しました。
寒い日でしたが、幸いに陽射しがあたたかでした。
今夜はたぶん太陽と一緒に、節子の温もりもあるでしょう。

まあ、こんな話は、意味もない話だと思われるでしょう。
実際に、意味もない話です。
しかし、そんなことにも大きな意味を感ずるのが、たぶん喪失体験者の実際なのです。

昨夜、「自殺に追い込まれるようなことのない社会をどう育てるか」をテーマにしたラウンドセッションを開催しようと賛成してくれた人に集まってもらいました。
そこで、フランクルのロゴセラピーの話が出ました。
フランクルは、愛する家族を失った後も、アウシュビッツで辛い体験をし、そこで「生きる意味」についての大きな気づきを得ました。
それに関しては、何回か書きましたが、フランクルはアウシュビッツで夢を見たでしょうか。
もしかしたら著書に書かれているのかもしれませんが、私の記憶にはありません。
しかし、間違いなく見たはずです。
そして、その夢がフランクルに大きな影響を与えたのではないかと思います。

朝、位牌に向って、節子にありがとうと言いました。
そのおかげで、今日は、おだやかな1日を過ごせました。
娘たちを誘って、夕食を食べに行こうと思います。
節子も、もちろん一緒です。
本当に久しぶりです。

■2350:吹雪の夜(2014年2月8日)
節子
今日は20年ぶりの大雪で、我孫子も吹雪いています。
夕方までに20センチ以上積もりましたが、まだまだ降っています。
今日から東北に行く予定だったのですが、直前に中止になったので、今日は自宅で過ごしましたが、吹雪く様子を見ていると、いろいろと考えることが多く、あっという間の1日でした。

東京は20年ぶりの大雪と報道されていますが、そういえば、その20年前の大雪の日、湯島でサロンがあり、節子と2人で湯島のオフィスで宿泊した記憶があります。
ちょっとスリリングな体験でした。
翌朝、珈琲を飲んで、雪の東京を歩きました。
雪あがりの東京は、空気もいつもと違い、実に魅力的なのです。
あの頃はまだ、2人とも元気で、そうした非日常的な事件を楽しむ余裕がありました。

時評編のほうに、雪の降る様子を見ていると、とても無心になると書きました。
邪念が消えて、平安な気分にもなるのはたしかです。
しかし、午後から風が強まり、吹雪になってきてからは、平安というよりも、むしろ何か荒ぶる心というか、剥き出しの素直な心というか、そんなものも感じます。
雪の降る様子を見ているとあきません。
少し高台にあるわが家のリビングからは、吹雪いている状況がとてもよく見えるのです。
それをずっと見ていると、心にメッセージがいろいろと届いてきます。
そして、雪は何を鎮めようとしているのだろうか、などと思ってしまうわけです。
私自身も、鎮めるべきことがたくさんあることにも気づかされます。

吹雪く雪を見ながら、今日はいろいろなことを考えました。
夜になって、吹雪はますます強まっています。
時折、家が揺れるほどの強い風の音や、屋根から雪が落ちる音がします。
思い出すことが山のようにあって、今夜もまた眠れない夜になりそうです。

■2351:近所づきあいはいいものです(2014年2月9日)
節子
首都圏は45年ぶりの大雪でした。
わが家の庭のテーブルの上に積もっていた雪を計ったら42センチでした。
しかも昨日は北風の吹雪でしたので、朝起きて、玄関を開けたら、ドアが開かないほどの雪でした。
わが家は袋小路の一番奥で、しかも北側を向いているので、吹き溜まり状況でした。
朝、娘と2人で雪かきを始めましたが、どけた雪の持って行き場がなく、途方にくれて途中でダウンしてしまいました。

家に入って休みついでに、ブログに少し書き込んだら、早速、広島の折口さんから電話が来ました。
あまり無理をすると後で出てきますよとアドバイスしてくれました。
そのアドバイスを受けて、雪かきは娘に任せることにしました。

ところが、外が賑やかなので、出てみると、近所の人たちがみんなでわが家の前の雪まで自分たちの家のほうに寄せてくれているのです。
福知山に転勤で、留守宅になっているはずの高城さんまで一緒になっているのには驚きましたが、何か楽しそうなので、私もまた参加しました。
ちょっと先の吉川さん夫婦までが、わが家の前の雪を運んでくれています。
なんだかとてもあったかい気分になりました。

こんなにみんなが一緒に汗をかいたのは久しぶりです。
近所づきあいはいいものです。
節子がいたら、珈琲でも用意して、みんなでお茶会など呼びかけそうですが、さすがに私にはそこまではできませんでした。
そういう呼びかけは、できる人とできない人がいます。
節子はできる人でしたが、私は不得手なのです。

雪が降ったりすると私はついうれしくなって出歩く習性が昔はありました。
折口さんからは滑って転ばないように言われましたし、何人かの人からメールで注意されてもいましたので、今回はやめました。
その上、朝早く起きて雪かきをしたときに、防備不完全で衣服がぬれてしまったのを放置していたため、なにやらぞくぞくしてきたのです。
風邪でなければいいのですが。
11日に出かける用事があるので、今日中に体調を整えなければいけません。
困ったものです。

吹きだまったわが家の庭の雪は当分融けないでしょう。
しばらくは雪景色が見られそうです。

■2352:レールと愛(2014年2月10日)
節子
2日前の時評編「うまくいかない人生」に、知人から届いたメールの一部を引用させてもらいました。
そこでは引用しませんでしたが、もう1行、加えて、改めて引用させてもらいます。

一度レールを外れると、もう終わるんだなと、つくづく疲れ果てています。
今は積極的に死へ向かおうとは思いませんが、結局ご縁もなく、雇用も不安定な自分の選択の稚拙さに、未来など全く考えられない自分がいます。
最近特に、自分に合う人との出会い、愛情の有無が、どこにいようが何をしようが、全てではないかと思うようになってきました。

まだ若い女性ですが、3年ほど前に、湯島のサロンに来てくれました。
以来、連絡がなかったのですが、久しぶりにメールが来たのです。
いろいろと気になることはありますが、最後の1行が心に残りました。

自分に合う人との出会い、愛情の有無が、どこにいようが何をしようが、全てではないか。

私もそう思います。
もしかしたら、人生のレールにうまく乗れなかったからこそ、気づくことかもしれません。
レールに乗ってしまったら、あまり考えることなく、ただ走り続けることになるかもしれません。
レールに乗っていた人は、定年でレールを降りても、生き方は変わらず、一番大切なことに気づかずに生きている人も少なくありません。
この人は、自らを「うまくいかない人生」と考えているようなのですが、愛情がすべてだと気づいただけでも、いい人生なのではないかと思います。
愛情こそ、人を豊かにしてくれます。

私も、レールから外れた人生を生きています。
25年前に会社を辞めたことも、レールから降りたことかもしれませんが、そうではなくて、伴侶を失うことは、いわば人生の途中で脱線したようなものだからです。
しかし、脱線してもなお、何とか進めているのは、人との出会いや愛のおかげです。
愛と言っても、伴侶への愛に限っているわけではありません。
自らも含めて、愛することができるということです。
あるいは「愛されている」ことを実感できるということです。
天に愛されている、自分に愛されている。
いろんな言い方ができるでしょうが、要は「愛」を実感できることです。
人はみんな「愛されて」います。
そして、「愛する」ことは、誰にもできることなのです。
それも、「どこにいようが何をしようが」、です。

生きていくためには、レールよりも愛が大切かもしれません。

■2353:父の命日(2014年2月11日)
節子
また雪がちらついています。
今日も寒い日です。
今日は父の命日ですが、父の葬儀の日もとても寒い日でした。
私たちが最初の家族を見送った日です。
もう26年前になりますが、それから10年後に、母を見送りました。
そしてその10年後に、節子を見送ったことになります。
これは娘が気づかせてくれたのですが、その流れから言うと、節子が旅立った10年後に私の番がやってくるわけです。
あと3〜4年です。
この規則性はわかりやすいので、守ったほうがいいように思いますが、そううまくいくかどうかはわかりません。
まあしかし、それを念頭において、これからの3〜4年を過ごそうかと思います。
それを念頭に置くことで、生き方が変わるかもしれません。

節子のお父さんの葬儀も冬でした。
滋賀の高月での葬儀でしたが、まだ「伝統文化」を感じさせる葬儀でした。
娘が葬列の前を白衣で歩いていたのを覚えています。
3日も続く葬儀に、私は飲めない酒に苦労していましたが、これが「葬儀」なのだと思ったものです。
そういう葬儀に比べれば、昨今の葬儀は忙しいです。

節子は私の両親と途中から同居しました。
私の両親は、私よりも節子に気安さを感じていたかもしれません。
私は、両親に親孝行らしいことは何もしていませんが、唯一の親孝行は、節子と結婚したことかもしれません。
私の両親は、節子をとても気に入っていました。
しかし、途中からの同居は、節子にはいろいろと大変だったのかもしれません。
両親が亡くなってしばらくしてから、私は良い嫁になろうとしていたのかもしれないと、ふと漏らしたことがありました。
そうした節子の気持ちを、私ももう少し理解するべきだったかもしれません。

雪はまだ降っています。
体調もあまりよくないのですが、娘も同行してくれるそうですので、思い切って、父のお墓参りに行くことにしました。
節子も雪の中を待っているかもしれませんし。

■2354:話せる人がいるといい(2014年2月11日)
節子
今日は東日本大震災から2年11か月目です。

NHKのドキュメンタリー「最後の場所がなくなるとき 釜石の悲劇」を見ました。
東日本大震災で、200人以上の犠牲者が出た、釜石の鵜住居地区防災センターが解体されることになり、それに伴う遺族たちの複雑な思いをえがいた番組でした。
2組の遺族が登場します。
子どもを宿していた妻を喪った片桐さんと娘を喪った疋田夫妻です。
震災前、片桐さんと疋田さん夫妻は、交流はありませんでしたが、片桐さんの奥さんと疋田さんの娘さんは同じ職場の同僚だったのです。
そして2人とも、その防災センターで津波に襲われたのです。

センター解体に関する集まりで、2組の遺族はお互いを知り合いますが、番組の最後に、初めて話し合う場面があります。
片桐さんと疋田さんの父親は、挨拶で顔を下げあったまま、お互いにしばらく声が出せません。
出てくるのは涙だけです。
お2人の思いが、深く深く伝わってくる気がしました。

片桐さんがようやく声を出します。
「どうしても自分の話ができなくなるのです。誰にも話せない。」
疋田さんが応えます。
「他人ごとになってしまうからね」と。
片桐さんは
「それをずっとしまっちゃっていて、もう出せない。」
疋田さんがいいます。
「話せる人がいるといいのだが、一人だとつらいよね。」

妻を喪った片桐さんにとって、実はその解体される防災センターこそが「話せる相手」、いや奥さんだったのです。
番組の制作者には、それがわかっていたと思います。
わかっていたという示唆に富むシーンがありました。
センターが解体された後の片桐さんが気になります。

「話せる人がいる」ことの大切さは、その時にならなければなかなか気づかないでしょう。
片桐さんが言うように、自分の気持ちと世間の動きは、違うのです。
だから自分の気持ちは話してもわかってもらえない。
しかし、話さないと「もう出せなくなる」のです。
片桐さんの顔が当分忘れられそうもありません。

■2355:記憶の現実感が薄れてきています(2014年2月12日)
節子
体調がいまひとつです。
私の場合、かなり気分が環境と連動していますので、最近の世上がやはり影響しているのかもしれません。

昨日、テレビの「相棒」という番組の最後のところを見ました。
暗示による殺人がテーマでした。
私は、その部分だけを10分ほど見ただけなのですが。

人を眼隠して、出血していると思わせる状況をつくり、失血による死に向っていることを示唆すると、全く出血していないのに死ぬことがあるのだそうです。
19世紀にオランダの医師が行なった実験だそうです。
有名なミルグラムのアイヒマン実験というのもありますが、自らの生死は、ある程度、自分の意思で決められるということも含意しているように思います。
これに関連した話は、この挽歌でも何回か書いたような気がします。
私は両親と節子の3人の同居家族を見送りましたが、いずれもその最後の時間は本人の意思が影響していたと実感しています。
節子の場合は、なんと日が変わる真夜中の0時でしたが、これは決して偶然ではないように思います。
「いのち」とは、不思議なものです。

でわ、逆に「死んでいない」という暗示をかけたら、どうなるでしょうか。
もしかしたら、節子の最後の1か月はそうだったかもしれないと、時々思うことがあります。
節子との会話はほとんど記憶にないのです。
愛する人との別れなのに、記憶がないのは不思議です。
漠然とした光景は、時々、思い出すのですが、どうもはっきりした記憶がないのです。
あの頃は、私も節子と一緒に彼岸にいたのかもしれません。

なにやらおかしなことを書いてしまいましたが、
思い出そうとすればするほど、思い出せなくなっていく記憶もあるものです。
つまり、現実感がなくなっていくのです。
最後の1か月だけではありません。
最近、節子との思い出が、なにやら現実感を失い、すべて夢だったのではないかなどと思うことがあるのです。

人の過去は変わらないと言いますが、どうもそんなことはないようです。

■2356:身体がガタガタしてきました(2014年2月13日)
節子
最近、身体がかなり劣化してきました。
魂は永遠だとしても、身体はあまり長持ちはしないようです。

昨年からみぞおちに違和感があり、時々、痛かったのですが、最近はそれが気のせいかh路がってきています。
まあ大した痛みではないのですが、なかなか治りません。

次に、今度は左足の膝に痛みを感ずるようになりました。
そう大した痛みではありませんので、先日の雪かきのせいかもしれませんが、生まれて初めてのことなので、少しいやな気がします。

と思っていたら、今度は胸の痛みです。
これもわずかな痛みなのですが、こう次々とおかしくなっていくと気にならないこともありません。

もちろん身体のおかしさはこれだけではないのですが、今までなかった不具合が続発しているわけです。
病院に行こうとは思っているのですが、まあこれくらいの身体異常は、健全な老化の部類かもしれないと思うと、どうしても先延ばししてしまいます。

それに最近、見始めた韓国ドラマの「大祚栄」に出てくる高句麗の大将軍、ヨンゲムソンは国を守るために病気の激痛を精神力で耐えて、医者を驚かせるのです。
どういうわけか、こういう生き方に、私は感動してしまうわけです。
国のためというところではなく、単に激痛に耐えるというところにです。
念のために言えば、私にはできない生き方であるが故に感心するのですが。

そのドラマを昨日、観たので、病院はもう少し先にしようかと思い直しました。
どうもこういうところが、節子あら呆れられていたところなのですが、人の性分はそう簡単には直らないものです。
もっとも、激痛に耐えた、ヨンゲムソンは、正気を失い、判断を間違って国を混乱させるのですが、そして、それがたぶん高句麗の滅亡につながっていくのです(これはドラマではどうなっているのかわかりませんが、史実ではそうなっているようです)。
さらに悪いことに、結局、ヨンゲムソンは死んでしまいます。

やはり病院に行ったほうがよさそうですね。

先日、時評編に書きましたが、高句麗を舞台にした韓国ドラマを3作品見ました(1作品はまだ見ている最中ですが)。
その影響もあって、今、韓国の歴史教科書(検定版)の翻訳を読んでいます。
読んでいると言っても私の読み方なので、1時間でもう半分読んでしまいましたから、いかにも粗雑な読み方です。
それでもいろいろと気づかされることが多いです。

話がずれましたが、ドラマのヨンゲムソンはどう考えても単細胞の愚者としか言いようがありません。
しかし、国のために自らの死をもいとわない。
何やらうらやましい生き方です。
何かのために、あるいは誰かのために、生死を超えて取り組める人生は、幸せでしょう。
私にはもうそういう情熱も気力もありません。
もっとも、長生きしようという思いも皆無です。

さて病院はどうしましょうか。
人生には難しい問題が多すぎます。
昨日のドラマの続きを見て決めましょう。

■2357:また雪ですが、今回は出かけることにしました(2014年2月14日)
節子
また首都圏は雪です。
我孫子も朝から降っていて、わが家の庭にはもう積もりだしています。
今日は午後から湯島で人に会う約束をしていますが、どうしようか迷っていました。
昨夜の湯島での支え合い共創サロンは話が盛り上がり、なかなか終わらずに、帰宅も遅くなり、あんまり体調もよくないのですが、雪の中をちょっと出かけて生きたい気分も強いのです。

とても不謹慎なのですが、台風とか大雪とかには、なぜか心が騒ぎます。
利根川が決壊した時には、反対する節子を説得して、現場に見に行きました。
いまもそういう気分はありますが、現場に行って事故にあって家族に迷惑をかけないようにといつも言われていました。
さすがに、最近は自重していますが、自然からはぜひともエネルギーをもらわねばいけません。
まあ実際には、風邪をもらってくることの方が多いのですが。

迷っていたら、昨夜、サロンに参加した人から電話があり、湯島に自分のパソコンを忘れてきたというのです。
これはもう、出かけていくしかありません。
困ったものです。

常磐線はよく止まるので、早めに帰ろうとは思いますが、最近は電車に閉じ込められる体験も少なくなりました。
事故にも合わず、平安に暮らしていくことを願う一方で、人は事故に合ったり、悩みを抱えたり、トラブルがないと、退屈になるのかもしれません。

まだ雪が降っています。
まだ電車は順調でしょう。
もう少し積もってから出かけるのがいいかもしれません。
わが家から駅までは10分ほどですが、もう少し積もってからのほうが、楽しそうです。
転倒したりしたら、たぶん後悔するでしょうが、まあ人間はそもそも不合理な行動をとるものです。

ところで、出かける前に、昨日の挽歌に書いたテレビドラマ「テジョヨン」の録画を見ようと思いました。
その内容次第で病院に行くかどうかを考えようと思っていたからです。
ところが録画予約していたはずなのに、録画できていないのです。
それも全く時間帯の違う、予約したはずのない、韓国ドラマが録画されていたのです。
実に不可解なことです。
前日まできちんと録画されていたのに、です。
どういうわけか。
不思議なことが起こるものです。
頭がかなり混乱しています。
しばらく病院行きはやめましょう。

■2358:雪には嘘はありません(2014年2月15日)
節子
今日もまた、外は雪景色です。
雪を見ていると、なぜか節子を思い出します。
節子の生家は滋賀の湖北です。
そこでの雪景色の記憶が多いからでしょうか。
「節子」の音(せつこ)が、「雪子」に通ずるからでしょうか。

節子は、嘘のない人でした。
隠しごとは一切できない人でしたし、言葉だけの人を好みませんでした。
人は意図せずに、嘘をつくものです。
言葉で言ったのに、実際にはできないこともあります。
もちろん節子も例外ではなく、結果として嘘をついたこは何回もあります。
それで夫婦喧嘩になったことも少なくありませんでしたが、
それでも、節子は嘘のない人でした。

私も、嘘はつかないし、言行一致を信条にしていますが、節子から見れば、まだまだでした。
嘘のない人と嘘をつかない人は、違います。
節子は前者で、私は後者なのかもしれません。
節子から学ぶことは、たくさんありました。

節子は、私のことを、嘘はつかないけれど、言葉でごまかすと言っていました。
そこが小賢しい私の弱点です。
自分を正当化したくなる。
「嘘をつかない自分」を守ろうとして、嘘の弁解をしてしまう。
節子は、そういう私が嫌いでした。
節子に好かれるには、嘘をつかないだけではなく、嘘のない生き方でなければいけませんでした。
そのおかげで、私もだいぶ、嘘のない生き方ができるようになりました。
嘘がない生き方は、とても気持ちの良いものです。

しかし、時に嘘をつきたくなることもある。
嘘をついたり、言葉だけの人を非難したり、したくなる。
その時に、懺悔したり、愚痴を言ったりできる相手がいると心がやすまります。
それがないと、人間嫌いになりかねません。
最近の私の疲れは、その役割をしてくれていた節子がいなくなったせいかもしれません。

つい先日、ある人からメールが来ました。
まだ返信できていませんが、その人から昨日、追伸が来ました。
そこに、「先日は、読み返すに大変失礼な愚痴メールを送ってしまい、誠に申し訳ございませんでした」とありました。
その追伸を読むまで、それが「愚痴」だとは気づきませんでした。
この人もきっと、嘘のない人生を送っているのでしょう。
嘘のない人生は、それなりに大変かもしれません。

夕方には雪が融けたり、道路の雪は汚れたりして、白い景色はなくなってしまいました。
嘘がなくてもやっていける社会になればいいのにと、雪景色を見ながらずっと思っていました。

■2359:体調は戻りました(2014年2月16日)
節子
2日間、自宅でゆっくりしたせいか、体調が戻りました。
胸の痛みも、ひざの痛みも、消えたようです。
私が「がたがただ」と書いたために、心配してメールしてくださった方もいますが、すみません。
すぐに書いてしまうのも、考えものです。
この思慮のなさも、節子からいつも注意されていたことです。
でもまあ近々、病院には行く予定です。

この2日間、自宅で何をやったかといえば、時評編にも書きましたが、韓国の歴史教科書(日本語訳)を小学校から高校まで3冊を読んでいました。
とても興味深かったです。
できれば、節子と行きたかったのが、韓国です。
ソウルではなく、韓国の慶州とか南の方です。
節子がいなくなったため海外旅行はやめましたので、もう行く機会はありませんが、いささかの心残りはあります。

もうひとつやったことは、録画していたテレビ番組「古寺名刹」の東福寺を観たことです。
東福寺には行ったことがありません。
娘から庭が良いと聞いていましたが、映像でもなかなかの庭でした。
なぜこんなに良いお寺に、節子と一緒に行かなかったのでしょうか。
理由は簡単で、節子とゆっくり京都と奈良を回ろうといっていた矢先の、節子の発病でした。
そして、必ず治ると確信していたがゆえに、一時、体調が回復した時にも、いつか二人でゆっくりと回ろうといっていた、奈良と京都には行かなかったのです。
あの頃の私の判断は、とんでもなく間違っていましたが、あの時はそれしか考えられませんでした。
行ってしまったら、それが最後の旅になってしまいそうだったのです。

韓国も京都にかぎりません。
節子と一緒に行こうといっていたのに、行けなかったところがたくさんあります。
2人が元気な40年近い時間を、私たちは一体、何をしていたのでしょうか。
後悔先に立たず、です。

できる時にやっておかないといけない、は節子の口癖だったはずなのに、どこでどう間違えてしまったのでしょうか。

■2360:「石坂線物語」(2014年2月17日)
節子
滋賀発地域ドラマ「石坂線物語」が、昨日、テレビで放映されていました。
大津を中心に活動している私の知り合いも、たぶん、このドラマ制作に協力していると思い、録画しておきました。

石坂線とは、琵琶湖畔の滋賀県大津市の石山寺から坂本までを走る京阪電車です。
石山寺は、源氏物語を書いた紫式部のゆかりの寺であり、坂本は日吉神社の門前町で、比叡山への上がり口でもあります。
その真中に大津があります。
大津で乗り換えると京都の三条にも行けます。

私と節子の生活は、滋賀の石山ではじまりました。
石山寺の入り口の町です。
ですから、この京阪電車にはよく乗りました。
主に京都に行くことが多かったので、坂本の方にはあまり行きませんでしたが、途中の三井寺には時々行きました。
鐘の音のきれいな、見晴らしの良いお寺です。

テレビに登場した、石坂線の電車は、当時とあまり変わっていませんでした。
2両連結で、緑を基調とした電車です。
街中の道路を走るのも魅力でしたが、いまもなお変わっていないようです。
沿線住民の生活と関わっている電車なので、愛着を持っている住民も多く、その電車を活かしたまちづくり活動も盛んのようで、私の知人もいろいろと楽しんでいるようです。
昨年会ったときにも、そんな話をしていましたが、ドラマの話も聞いていたかもしれません。
すっかり忘れていましたが、昨日、何気なくテレビをつけたら、そのドラマが始まるところだったので、あわてて録画をしておいたのです。

今日、帰りが早かったので、そのドラマを見ました。
ストーリーはともかく、とても懐かしさを感じました。
石坂線に乗って、節子と京都に通っていた頃が、一番、私たちの楽しかった時かもしれません。
あまり記憶はないのですが、楽しかった時間の記憶は、意外とないものです。
これは、私だけのことかもしれませんが。

石山寺にも、よく行きました。
学生時代の友人が訪ねてきた時に、節子と一緒に、石山寺を案内した記憶があります。
あの時は、たしか節子は和服を着ていました。
その時の写真が記憶に残っています。
法事の時を除けば、和服の節子の記憶は、それだけです。

ドラマは、もう少し電車を主役にしてほしかったですが、そうはなっていませんでした。
だんだんと電車を舞台とする人生も少なくなってきているのかもしれません。

ちなみに、私と節子が結婚することになった最初の出会いは電車の中でした。
しかし、残念ながら石坂線ではなく、JRでした。
あの日、電車の中で、節子に会わなかったら、私たちはたぶん結婚しなかったでしょう。
人生とは、本当に不思議なものです。

■2361:開き直りのケア論(2014年2月18日)
節子
最近、ブログに弱気な記事を書いているせいか、いろんな人が心配してメールをくれます。
まさかと思っていた人からのメールには驚かされますが、退屈な愚痴記事を読んでくださっている人がいるのは元気づけられます。
今日も、1年半ぶりだと言って、まだお会いしたことのない人からメールが来ました。
うれしいことです。

今日は、3月に開催することにした2つの「自殺対策」をテーマにした集まりの準備の打ち合わせのため、湯島に来ました。
大企業の部長の職にある人たちが、集まりの実行委員になってくれましたが、テーマが「自殺」なので、多くの人は腰が引けてしまうようです。
今回来てくれた3人も、佐藤さんからでなければスルーしたと正直に教えてくれました。
もう5年ほど、この活動に関わっていますが、わかってもらうまではなかなか大変です。

準備会などでも、話し合って、問題をそれぞれ消化していくのが私のスタイルです。
ですから、準備会や実行委員会こそが、生々しい話し合いができます。
今日も、「自殺する権利」ということが議論されました。
さまざまな人がいる公開の場では、なかなかこうした議論はできませんが、少人数で時間も制限なく話し合う場合は、どんな議論も可能です。
自殺する権利を言い出した人は、近くで自殺を体験したそうですが、その人のことをわかってやることが大切だという意味で、「権利」という言葉を使いました。
「自殺」した人への冷ややかな、あるいは非難のこもった思いがあったことへの、その人の反発は、その人のやさしさの表れだろうと思います。

私が取り組みだしたネットワークは、「自殺のない社会づくり」という名前にしましたが、自死遺族の方から、その表現だと、自死した人が悪いようで、責められているような気がするといわれました。
そこで、いまは「自殺に追い込まれることのない社会」というような表現にしています。
こうしたことは、当事者でなければなければわからないことです。
私も伴侶を病死で喪って以来、それまではなんでもなかった言葉や言い回しが、とても気になるようになってしまいました。
その体験のおかげで、こういう意見にもきちんと耳を傾けられるようになったのです。
言葉は、人によって、まったく意味が変わってくるものなのです。

最近の私の体調や愚痴の話に戻せば、さまざまな社会の痛みに触れていると、それが時々鬱積して、不安感を高め、免疫力を低下させ、体調を崩すのです。
以前は、それを防いでくれたのが節子でしたが、いまは解決しようがありません。
ですから、定期的に体調がダウンし、愚痴や弱音が増えるのは、むしろ「健全さ」の表れなのです。
ご心配をおかけしてすみません。

しかし、誰かに心配させるのも、ケア活動のひとつではないかと、私は勝手に思っています。
「開き直り」にしか聞こえないでしょうが、そう思うと、きっと生きやすくなります。
ぜひお試し下さい。

すみません。はい。

■2362:節子の日記をどうしたらいいか(2014年2月19日)
節子
相変わらず私の仕事部屋は散らかっています。
今朝も娘のユカから、歳も考えて、少しは資料や書籍を処分したらといわれてしまいました。
自分でもそうしたいと思うのですが、なかなかそれができません。
資料は、私の人生の記録ですし、書籍もまた愛着があります。
書棚を見ていて、昔読んだ本がまた読みたくなることもあります。
一度も開いたことのない書籍を見つけると、なにやら罪悪感が生じて、数日、デスクの上に置いておくこともあります。
読まれることなく処分されてしまう本には、申し訳なさを感じます。
しかし、今ある蔵書をすべて読むなどというのはもう不可能でしょう。

もっとも、だからと言って、まったく無駄だったわけではありません。
書籍は不思議なもので、本の背を毎日見ているだけで、内容が感じられることもあります。
いざとなったら読めばいいという安心感もあります。
数巻から成る、日本古代史とか中世史などの本は、ほとんど読んでいません。
せいぜい読んだのは3〜4巻でしょうか。
早川書房のSF全集などはたぶん1冊も読んでいません。
読みたい作品は、全集ではなく、単行本で読んでいるからです。

読みもしない本を、節子がいた頃はよく買いました。
その頃は、書籍が並んでいるだけで、何だか幸せになれたからです。
私は、お金をほとんど使いませんが、書籍代だけはいくら使っても、節子は何も言いませんでした。
わが家の出費科目では、書籍代が一番多かったかもしれません。
そのおかげで、わが家には書籍があふれています。
節子は、いつも、修がいなくなったらこの本はどうすればいいのか、と話していました。
しかし、その問題を解く必要は、節子にはありませんでした。
私よりも、先に逝ってしまったからです。

節子が残した問題は、節子の日記です。
節子は日記が好きだったからです。
さて、この日記をどうすればいいか。
私の本も大変ですが、節子の日記の処分も大変です。

節子の日記には、節子の思いがたくさんこもっているでしょう。
日記を開くと、何やら飛び出してきそうで、なかなか勇気が出てきません。
たぶん、読まずに終わりそうです。

■2363:いろんな人から話しかけられる夢を3日見続けています(2014年2月20日)
節子
最近、よく夢を見ます。
時に、夢で疲れてしまい、起きた時にすっきりしないこともあります。
今朝がそうでした。

夢の内容はよく記憶していないのですが、とにかく何かの集まりのようで、次から次へと知らない人が私に話しかけてくる夢です。
なぜか、こういう夢が3日続いています。

みんな名刺を渡してくれるのですが、私には返す名刺がないのです。
つまり名刺が足りなくなったほど、いろんな人が会いに来てくれるという夢です。
いや、渡すべき名刺がないのは、私が実在していないことを示唆しているのかもしれません。
相手と私がどんな話をしているかは、目が覚めた途端に思い出せなくなるのですが、何となくとても充実した話である感じが残ります。
しかも、なんとなく面白いプロジェクトにつながっていて、私の気持ちが高揚している感じが起きてからも残っています。
その夢の最中に、目が覚めることもあります。
昨夜は、まさに夢の中でもトイレに行きたくなり、目が覚めました。
昨夜と同じ夢だなと思いながらトイレに行ったのですが、いつもは一度目が覚めるとしばらく眠れなくなるのですが、なぜかすぐにまた眠ったようです。
そして、またいろんな人に会う場に戻って、夢を見続けました。
朝起きた時には、ちょっと疲れが残っている気分でした。

どうしてこんな夢を3日も連続で見るのでしょうか。
最近、あまり新しい人と会っていないからでしょうか。
誰かに伝えたいことがたくさんたまっているためでしょうか。

それにしても、どうして見知らぬ人ばかりが、夢の中で私に会いに来るのでしょうか。
夢は実に不可思議です。
知り合いが夢にたくさん出てくるのであれば、そろそろこの世の人生も頃合かなと思えるのですが、知らない人が来るのでは、どうもそうではないようです。

さて、今夜はどんな夢でしょうか。
知らない人よりも、節子が出てきてくれるとうれしいのですが。

■2364:ちょっと昔の世界に戻ってみましたが(2014年2月21日)
節子
またパーティに参加してしまいました。
前にも出て、場違いな感じを持ってしまったのですが、なぜかまた出席する気になってしまいました。
人は懲りないものです。
ついでに、これまた久しぶりに講演まで聞いてしまいました。
パーティの前に基調講演があったからです。
これも誘われた時に、なぜか講演も聞くよと言ってしまったのです。
講演は「東京再生」に関する話で、なんと講演した伊藤滋さんは、勢いに乗って2時間も話されました。
私は、東京がますます劣化する昨今の流れには大きな違和感がありますが、伊藤さんの話はそれを超えて、話として面白かったので、退屈しませんでした。
しかし、話を聞きながら、私が25年前に離脱した世界は、今も変わることなく存在し、動いていることを、改めて実感しました。
私は、そうした動きが好きにはなれませんでしたが、節子は好きだったかもしれません。
再開発された、新しい東京に行くのが好きでしたから。
もし今も節子がいたら、楽しんでいたかもしれません。

会社時代の私と会社を辞めてからの私とは、世界が全く変化しました。
簡単に言えば、お金で動いている世界から、生活で動いている世界です。
あまりの急変に、節子にはもしかしたら、負担をかけたかもしれません。
それまでは定期的に入ってきた収入がなくなり、貯金は底をつき、不安を感じさせたこともあったかもしれません。
退職金は、とんでもない無駄づかいで、なくしてしまいましたし。
しかし、節子は、私のそうした生き方の変化に賛成していたことは間違いありません。
そこが、節子のおかしなところかもしれません。

会社を辞めた後、私の価値観は180度変わったのですが、会社の世界を離れても、どこもかしこも、やはり「お金の世界」でした。
それに反発を感じながらも、しかし時に、お金がほしくて、迎合的な仕事をしたくなる自分にも、時々出会いました。
しかし、私の新しい生き方が大きくはぶれずにこられたのは、節子のおかげです。
節子もまた、お金にはおどろくほど無関心で、お金がなくとも愚痴をこぼしたことがありません。
今にして思えば、時には少し「ぜいたくさ」を体験させてやりたかったです。
こんなに早く逝ってしまうとは、思ってもいなかったからです。
ちなみに、節子は再開発された東京に出かけても、ほとんどお金は使いませんでした。お金がなかったからでもありますが、たぶんそれだけではありません。
節子もまた、私以上に、普段はつつましかったのです。
時々、わけのわからない消費をするところは私と同じでしたが。

昔の世界に、昨日はちょっとだけ戻った気分でした。
パーティでは数名の旧知の人に会いましたが、みんなやはり向こうの人のような気がしました。
私の偏見かもしれませんが、私にとっての現世は、やはりかなり大きくゆがんでいるようです。
節子と一緒にいる時の、平安さは、なかなか最近は味わえません。

■2365:今年もチューリップが届きました(2014年2月23日)
節子
今年も新潟のチューリップがどっさりと届きました。
大雪のために、今年もまた大変だったようですが、いつものように金田さんが送ってくれたのです。
早速、節子に供えさせてもらいました。
位牌壇がとても華やかになりました。

前にも書きましたが、わが家の位牌檀は小さなサイズです。
ですから、位牌も含めて、みんな小さいのです。
真中に座している大日如来は、ジュンが製作し、家族で開眼し、お寺のご住職に魂を入れてもらったものです。
きちんと智賢の印を結んでいます。
脇持の菩薩は月光です。
これは東大寺の3月堂の月光菩薩のミニチュアです。
いつか渡岸寺の十一面観音のミニチュアもお呼びしたいのですが、最近は渡岸寺におまいりに行く機会がありません。

その小さな位牌檀には、たくさんのチューリップは入りませんので、いつも、位牌檀の前に花台を置いています。
その花台がいるも賑わっているのは、うれしいものです。

庭のチューリップは、最近はあまり元気がないので、昨年、球根を植えておいたのですが、それも少しずつ芽を出し始めました。
今年はいつもよりも賑やかになるでしょう。

雪も融けて、ようやく春が近づいてくる感じです。
春になったら、私ももう少し元気になるでしょう。

■2366:「自分が何をやっているか、もっと見ろ」(2014年2月24日)
節子
今日の挽歌のタイトルは、時評編と同じです。
タイトルだけではなく、中味もほぼ同じです。

タイトルの言葉は、映画「ボーン・アルティマシー」に出てくる言葉です。
屋上に追われた主人公のボーンに銃を向けた「殺し屋」に向って言う言葉です。
その殺し屋は、その少し前にボーンに助けられのですが、彼の「なぜ殺さなかったのか」という問いかけに、ボーンが応えた言葉です。
この映画は、DVDで、もう10回以上観ていますが、なぜか、いつもこの言葉が引っかかっています。
その理由が、今日、初めてわかりました。

昨日、「石器時代の経済学」について言及しましたが、先週、その本を読み終えてから、何か自分の生き方が基本的におかしかったのではないかという気がしてきました。
なんでこんなに忙しく生きてきたのだろうかという思いが強まってきています。
なんとなく、そのおかしさには気づき、25年前に会社を辞めたのですが、結局、その後も生き方は変わりませんでした。
主体的に生きる姿勢は強まりましたが、逆にさまざまなことに好奇心をかきたてられ、時間破産を続けるようになりました。
考えてみれば、その私の時間破産の生活に、節子を巻き込んでしまったのです。
しかも収入は、不安定になり、借金までたまりました。
ハッと気づいて、生き方を変えようと思った矢先に、節子の胃がんが発見され、4年半後に節子を見送る羽目になってしまいました。
それ以来、いまだに立ち直れずにいます。

この挽歌編を読むとわかりますが、今の私は「腑抜けな生き方」になっていると思います。
節子がいるときに、なぜあんなに忙しく生きていたのかと思うと元気が出ないのです。

ボーンの言葉は、私自身に向けられた言葉だったのだと、今日、気づきました。
自分の生き方が、もしかしたら、節子を早く旅立たせたのではないのか。
もしそうだとしても、もう取り返しがつきません。
救いのない人生を、これからも続けなければいけませんが、ボーンの言葉は、もしかしたら、そこから抜け出せといっているのかもしれません。

「自分が何をやっているか、もっと見ろ」。
そして、
「自分が何をやっていないか、もっと見ろ」。

■2367:春に花を咲かせる生命力(2014年2月24日)
節子
今日はとても気持ちのよい、春を感じさせる日です。
午前中は自宅で、少しぜいたくな時間を過ごしています。
昨日、書きましたが、やはり少し生き方を見直したほうがいいでしょう。
そうすれば、社会への怒りも鎮まるでしょう。

わが家はリビングとダイニングがつながっていますが、午前中はダイニングへの日当たりがよく、そこで外を見ながら、George Winston の SUMMER をCDで聴いています。
George Winstonを聴くのは久しぶりです。
どこか探せば、彼の SPRINGもあるはずですが、まあ探すのも面倒なので、リビングに出しっぱなしになっていたSUMMERを聴いているわけです。
一昨日、金田さんから届いたチューリップが、陽射しを受けて輝いています。
朝から3杯目の珈琲を飲みながら、外の手賀沼を見ていると、心がやすまります。
そういえば、昨日、佐久間さんから上座部仏教の根本経典「メッタ・スッタ」の自由訳が届きました。
それも読むことにしましょう。
実に久しぶりの、内省の時間です。

本来であれば、ここに節子がいて、意味もない会話を楽しんでいるはずだったのです。
そう思うと、一瞬にして、心のやすらぎは消えてしまい、さびしさに襲われます。
内省へと心が向うまでには、どうもまだ未練から抜け出せていないようです。
それに、George Winstonのソロピアノは、いかにも回顧的です。
選曲を間違えてしまったようです。

しかし、何もしないで、外を見ていると、たしかに自分の生き方のおかしさに気づきます。
こんなにのどかで気持ちのよい世界がある。
にもかかわらず、どうしてみんな外もあまり見えないところで、多くの時間を過ごさなければいけないのか。
いえ、他者の話ではなく、私はなんで一番活動できる時に、暮らしと切り離した仕事に、あれほどの没頭していたのだろうか。
それで、いったい、何が変わったというのか。

ガラス越しにぼんやりと外を見ていると、庭の花が咲き出していることに改めて気づきます。
春が来れば花が咲き出す。
土台、何かを変えようなどと思うことに間違いがあるのかもしれません。
すなおに生きることこそ、世界を変えることかもしれません。
いや、自分を変えることかもしれない。
植物の生き方に学ばねばなりません。

■2368:メッタ・スッタ(2014年2月25日)

平安の境地にある人は
 心身ともにすこやかで
 言葉優しく 誠実で
 うぬぼれることはない

これは上部座仏教の根本経典「メッタ・スッタ」の最初の言葉です。
「メッタ・スッタ」のことは、昨年、佐久間庸和さんに教えてもらいましたが、佐久間さんが、ご自分が訳した「慈経 自由訳」(三五館)を送ってきてくれました。
ブッダの生き方が、10項目に凝縮されたものです。

そもそも「経」とは、根本的な原理原則のことであり、生き方における芯の柱のようなものであり、自らの生き方を顧みる重要な視点を提供してくれるものです。
佐久間さんは、「メッタ・スッタ」を「慈経」と訳しました。
とても共感できます。
しかし、読んでみると、やはりいまの私の生き方は、あまりに未熟です。

冒頭に紹介した、最初の項目はどうでしょうか。
読んでまず感じたのは、私自身がいまだに「平安の境地」にはないことです。
節子がいなくなってから、ひと時たりとも平安だったことはありませんが、
しかし、最近は、それ以上に「平安でない」自分を感じます。
言葉が粗雑で、時に他者のみならず自らを裏切り、うぬぼれることは決して少なくありません。
そのために、心身ともに健やかではないのです。
そのせいか、昨年末くらいから、身体さえもがガタガタになってしまっているのです。

その結果か、その原因かは、わかりませんが、いまの時世にも怒りを感じます。
時世だけではなく、今を生きている同時代人にも、怒りを禁じえない。
節子がいたら、まだその怒りを少しは減じてもらえたかもしれません。
怒りは、その存在をわかってもらえている人がいるだけでも、大きく緩和されるものです。
吐き出さないと、怒りは沸々と強まってしまうのです。

どうしたら「平安」になれるでしょうか。
それは、たぶん、なろうと思ってなれるものではないでしょう。
なろうと思う気持ちをなくした時に、突然に訪れてくるのかもしれない。

慈経は、「慈しみの心」こそが、平安に通ずると説いています。
その「慈しみの心」が、最近、私の心身から少し逃げ出しているのです。

 すべての
 生きとし生けるものが
 幸せであれ
 平穏であれ
 安らかであれ

これは、小さい頃からの私の信条だったはずです。
ところが最近、どうもそう思えないのです。
そう思えない自分に気づくことほどさびしいことはありません。
「慈しみの心」が、また戻ってきてくれることを祈らねばなりません。
節子は戻ってはこないでしょうが、「慈しみの心」は戻ってくるかもしれません。

■2369:一緒のいる時間の大切さ(2014年2月26日)
節子
もう30年ほど会っていなかった従弟が、東京に来るというので、首都圏在住の従兄弟たちにも声をかけて、久しぶりに会食しました。
みんなそれぞれに歳をとり、なかなか会う機会も少なくなりました。

人生は、人それぞれです。
歳をとるにつれて、それぞれの人生に埋没して、なかなか会う機会がなくなりがちです。
逆に、兄弟姉妹でも利害関係や感情のもつれから、疎遠になることもあります。
私は2人兄弟ですが、価値観の違いから、会うとほぼ必ず論争になります。
それでも、幸いに住んでいるところが近いので、会う機会は多いです。
人のつながりは、会う時間の長さに大きく影響しています。

先日、ある集まりで、若者たちに、いまの社会で一番欠けているのは何かを訊いてみました。
最初に答えた若い女性は、「家族のつながり」と言いました。
どうして家族のつながりがなくなってきたのかと質問したら、「一緒にいる時間が少ないから」と答えました。
人のつながりは、一緒にいる時間や共通の体験によって、深まります。
ただし、そこに上下関係や拘束関係があれば、つながりもおかしなものになりかねません。
「絆」という言葉には、そうした要素がたぶんに含まれているため、安直に使うべきではないと私は思っています。
これは、東北被災地で活動していた医師の岡部さんから教えてもらったことです。

私と節子もまた、一緒にいる時間によって、その関係は大きく変わったように思います。
私たちが、お互いに深く理解しあえたのは、私が会社を辞めてからです。
お互いに、それまでは見えてこなかったことが見え始めました。
もし、私が会社を辞めていなかったら、私と節子の関係も変わっていたかもしれません。
この挽歌も、書かなかったかもしれません。

離婚が話題になるほどの夫婦の話が、時々、耳に入ってきます。
どんなに喧嘩をしていても、価値観や性格がちがっていても、対等な関係で一緒にいる時間が積み重なっていけば、つながりは深まります。
DVなどがある場合は別ですが、会話がないとか、好みが違うとか、そんなことであれば、離婚はしないほうがいいでしょう。
会話がなくても、いつか一緒に暮らしていたことが、大きな価値を持っていることに気づくことがあるものです。

なにやら従兄弟での会食の話とは違うことを書いてしまいました。
念のために言えば、会食では、そんな話は一切出ませんでした。
幸いに、私が苦手な昔話もほどほどでした。
何を話したでもないのですが、あっという間の5時間でした。

■2370:悲しさの陰(2014年2月27日)
節子
なかなか春にはなりません。
今日も寒い1日になりました。

愛する人を亡くした人には、どこか陰があります。
元気そうに見えても、どこかにさびしさがある。
ひょっとした拍子に、それが現れます。
そして多くの場合、それは同じ立場を体験した人にしか見えないかもしれません。
昨日、そんなことを思いました。

昨日、久しぶりに何人かの従兄弟たちと会食しました。
そのなかに、3年ほど前に息子を病気で亡くした従兄がいたのですが、いつもよりもどことなく言葉が少なかったのです。
話のなかでは、節子の話もそうですが、その息子さんの話も、みんな意識してかしないかは別にして、話題には出ませんでした。
むしろみんな避けていたかもしれません。
しかし、別れ際に、その人が私のところに来て、時間が解決することなどないね、とささやきました。
あなたの気持ちがよくわかったよ、とも言ってくれました。
おかしな話ですが、なぜかうれしい気持ちでした。
愛する人を喪った気持ちは、なかなかわかってはもらえないからです。

しかし、伴侶よりも、息子に先に行かれるほうが、悲しさや寂しさは強いかもしれません。
その人は、もう3年ほど経ちますが、立ち直れていないことが伝わってきました。
そして、みんなの前で、その人はその言葉を押さえていて、私だけにささやいてきたことに、少し後悔しました。
変な気遣いをせずに、むしろ息子さんの話題を出した方がよかったのかもしれません。
もし私だったら、そのほうがよかったなと反省しました。
自分の体験が活かせていませんでした。
中途半端な思いやりは、あまりよいことではありません。

しかし、立場が違うと、そう簡単な話でもありません。
やはりこの種の話は、難しい。
悲しさの陰は、陰のままにしておくのがいいのかもしれません。
言葉だけで話し合うのは、難しい話題なのかもしれません。

愛する人を喪うと、人生は変わってしまいます。
改めてそう思いました。

■2371:10年ぶりに知己が突然来てくれました(2014年2月28日)
節子
早いもので、今年ももう2か月が経過しました。
今日は今年2回目のオープンサロンです。
今日は、湯島での用事はなかったのですが、掃除でもしようと思い、3時ころに湯島につきました。
ところが、湯島のオフィスについた途端に、電話がありました。
名前を聞いても思い出せなかったのですが、これから行ってもいいかという電話でした。
20分ほどして、やってきたのは、もう10年ほどお会いしていない人でした。
どこかにお会いした記憶がありますが、名前も思い出せません。
2回ほど、湯島には来たことがあるというのですが、記憶がよみがえりません。
しかし話しているうちに、だんだん思い出しました。
依然、世界観や哲学の話をしたような気がします。
それに、私と違って、かなり運動家だった気がします。
運動家と言っても、最近はやりのスポーツではなく、社会運動家です。
かなり過激な人だった気がしますが、今もその片鱗がありました。
間違っていたら申し訳ないので、名前を出すのはやめましょう。

たまたま今朝、アップした時評編を読んで、多辺田さんと同じような体験をしたことがあるので、来てくれたそうです。
その話もお聞きしました。
本来はサロンで、その話をしてもらうとよかったのですが、あまりにも時間が早かったので、サロンはまたの機会になりました。
しかし、久しぶりに、2人でゆっくりと話せました。
いささか時流を憂うる話が多かったですが、そういう状況の中で、何ができるかが、私たち世代の責任です。
その人には、ぜひ若者向けの塾をやってほしいと頼みました。

そういえば、節子がいたころは、こういう出会いがたくさんありました。
まだ私が、社会に向けて、メッセージを発していたからです
実に多彩な人たちがやってくるので、節子はいつも戸惑っていました。
あのころが、実に懐かしい。

ところで、その人はこのブログを読んでくださっているのです。
おそらく10年来の読者でしょう。
この間の、私の変わり様も.変わらない様も、いずれも知っているわけです。
それにしても、そうした人が10年の間をおいて、湯島にやってきてくれる。
これは実にうれしいことです。

さてそろそろオープンサロンの時間が近づいてきました。
10年ぶりの知己との話で、今日はいささか疲れました。
やはりあんまり体調がよくありません。
今日は誰も来ないといいのですが。
いや、せっかく、このために出てきたのですから、来てくれたほうがいいですね。
今日は聞き役に徹しましょう。

■2372:信仰と家族(2014年3月1日)
節子
昨夜は、節子もよく知っている三浦さんと「信仰」について話し合いました。
三浦さんは数年前に大病のため、3回にわたる大手術をしました。
とても危険な手術でしたが、それを受け入れられたのは、信仰のおかげだと三浦さんは言います。
3回目の手術に先立って、三浦さんはカトリックの洗礼を受けたのです。
それが大きな支えになり、手術にも立ち向かえたそうです。

その後、三浦さんは元気を回復し、みんなからは「奇跡」といわれているそうです。
昨年から湯島にも来てくれるようになりましたが、お会いするたびに元気になってきています。

三浦さんはまた、「家族」こそが基本だと考えており、そういう生き方を実践されています。
いまは、息子さん夫婦を軸に、ご自分たち夫婦と息子さんの嫁さんの両親との、3家族で大きな住居をつくられて、それぞれが距離を持ちながらの生活をされています。
いろいろと大変でしょうが、三浦さんのお人柄が、その核にあるのだろうと思います。

三浦さんからお聞きする「家族」と「信仰」の話は、とても心に響くものでした。
しかし、そういう話を聞くと、心があたたまる一方で、節子を守ってやれなかった自分のふがいなさが、どうしても心に浮かんできてしまいます。
そうして、いつも複雑な気分になってしまうのです。

節子を守ってやれなかった無念さからは、解放されることはあるでしょうか。
それがある限り、この挽歌は書き続けようと思います。

■2373:人にとっての生きる「縁(よすが)」(2014年3月2日)
節子
冬に舞い戻ってしまったような寒さです。
寒い時には、いささか哲学がふさわしい。
早く目が覚めてしまいましたし。

改めて最近また、生きるとは何だろうかと思うことがあります。
明日のために生きているのではなく、いま生きていることそれ自体に意味があるのであれば、刹那的に生きればいいわけですが、明日があればこそ、いま生きていることの意味があるというほうが説得力があります。
未来の展望がないから、生きる喜びを見出せないと、人はよく言いますし、私自身もそう思います。
だとしたら、今に意味があるのではなく、明日にこそ意味があることになる。
しかし、その「明日」は、必ず来るとはかぎらない。
にもかかわらず、明日を生きる縁(よすが)にするのは、どこか矛盾しています。
しかし、現実ではない明日が生きる縁(よすが)であればこそ、どんな現実も受け入れられることも事実です。
そういう意味では、「明日」とは時間的な明日ではなく、「生きる意味」かもしれません。

草庵にこもった、たとえば法頂師は、どう生きたのでしょうか。
時折、山を降りて話をしたそうですが、なぜ話をしたのでしょうか。
日本の有名な高僧の話もお聞きしたことがあります。
私の関心事は、話の内容ではなく、なぜ彼らは話をするのだろうかということでした。
その答えは、いまも見つかっていません。

「明日」の代わりに、「他者」を置いてみましょう。
人は「他者」のために生きているのかもしれません。
「明日」は、今の自分にとっては、「他者」といってもいいでしょう。
とすれば、人にとっての生きる縁(よすが)は、「他者」ということになる。
「他者」が生きる縁(よすが)であれば、他者に法を説く高僧やイエスも理解できます。
しかし、他者を自らが生きるための縁(よすが)にするのは、やはりなじめません。
他者を手段として扱ってはならないという、カントの定言にも反します。

ひとつの解決策は、「他者」と「自己」の捉え方かもしれません。
生きるとは、自己と他者を超え、時間を越えた、「無為」なのかもしれません。
つまり、生きることとは、まさに「空」なのです。
だから実態がなく、問うてもなにも見つからない。
寒さのせいか、それが今日の結論です。

寒暖差のない彼岸には、哲学など不要なのでしょうね。
早く私も彼岸の平安に、身を任せたいです。
現世で生きることは、それなりに気力を求めます。
それに、今朝の寒さは、心身にこたえます。

■2374:生きていることのまぶしさ(2014年3月5日)
節子
また2日ほど、ブログを休んでしまい、挽歌も書けませんでした。
私のように、状況に自らを合わせすぎて、生活のリズムがうまくつくれない者にとっては、あることを毎日つづけることはどちらかというと苦手です。
その私が、こうやって、曲がりなりにも挽歌を書き続けていることは、節子もたぶん感心していることでしょう。

一昨日、会った人が、佐藤さんはいまも毎日挽歌を書き続けるだけの奥さんがいたのだから幸せですよ、と私に言いました。
その人は、奥さんと離縁し、子どもさんとも交流がなくなり、いまは一人ですが、私よりもずっと明るく、使命に燃えて生きています。
私との出会いは4年ほど前ですが、いまも毎月のように湯島に来ます。
さびしさから、私の顔を見に来るのかもしれません。
伴侶と死別するのと、伴侶と離婚するのと、どちらがいいでしょうか。
これは、当事者でなければ判断できない問題でしょう。

今日の新聞に、東日本大震災で妻を亡くした人の話が出ていました。
テレビで「あの日あの時」という証言番組が流れ出すと、「出てくる人たちはみんな生きているんだもんな」と言って、テレビを消したそうです。
その気持ちが、なんだかわかるような気がします。
その人にとって、「生きていること」の意味が、たぶん全く変わってしまったのです。
新聞やテレビに接していると、こうしたちょっとしたことに心身が反応してしまいます。

私も、時々、「生きている人たち」がまぶしすぎて、見つづけられないことがあります。
遺された人の語りも、時々、辛くて見つづけられないことがある。
「生きていること」を、意識するようになったのは、節子がいなくなってからです。
できれば、そんなことを意識することなく、生きていたかったと思います。

■2375:遺された人への心遣い(2014年3月5日)
節子
人はいつか死にます。

愛し合っている夫婦も、必ずいつかどちらかが死ぬわけです。
その場合、遺された人はどうなるのか。
そうしたことへの心遣いは、節子との別れを体験するまで、私は全く気づきませんでした。
私は両親と同居していましたが、父親が亡くなった後、母にどう心遣いしたでしょうか。
今から思えば、全くと言っていいほどしていませんでした。
母が仏壇に向って、般若心経をあげていても、そこに同席したことはありませんでした。
私が般若心経を覚えたのは、節子を見送ってからです。
なんとまあ勝手なことか。
一人になった母を旅行に誘ったり、一緒に何かをしたことはありますが、心遣いとはそんなことではないでしょう。
それは、自分がその立場になってはじめてわかることです。

しかし、身も蓋もない言い方をすれば、そんな心遣いなどできるはずもないということです。
伴侶や子どもに先立たれ、遺された者の人生は、そこで一度、終わってしまう。
そこから再起できるかどうかは、人それぞれでしょうが、生き方が大きく変わってしまうことは避けられないような気がします。

私の場合は、なかなか再起できません。
あまりに節子に埋没してしまっていたからでしょうか。
そんなこともないのですが、実に不思議です。
まあ、再起する前に、人生が終わるかもしれませんが、私の場合、時評編に書きましたが、節子が居ようが居まいが、この4月から生き方を変えるつもりでした。
うまく変えられるといいのですが。
ちなみに、どう変えるかを考える気力も今はないのです。
困ったものです。

■2376:歯磨きをがんばることになりました(2014年3月6日)
節子
今日は歯医者さんに行きました。
前回、歯の検診をしてもらった結果を教えてくれました。
幸いに今回は、磨き残しは改善されていましたが、歯ぐきなどの状況はさらに悪化していました。
歯が健康のもとだから、がんばって歯磨きを朝晩と増やしてくださいといわれました。
さらに、歯周病などの防止のためには、間食や珈琲に砂糖を入れるのもよくないですよ、と暗にいわれました。
しかし、歯のために、生活を変えるのは私の趣味ではありません。
ましてや、歯磨きをがんばるのも、私の趣味ではありません。
そこで、後3年持てばいいので、あんまりがんばりたくないのですが、と言いました。
どうしてですかと訊かれたので、3年半後にはいなくなるのです、と答えました。
その言葉に、説明していた歯医者さんは、言葉を飲み込みました。
私が病気で「余命3年半」と告知されていると思ったようです。
ちなみに、今回説明してくれたのは、新しい歯医者さんでした。
相手の戸惑いが伝わってきたので、「いや、病気ではなくて、それがわが家の決まりなんです」と、わけのわからない弁解をしました。
相手は、ホッとしてくれ、瞬時の緊張感は解けました。
そして、なぜか私は、歯磨きをがんばる約束をしてしまいました。
困ったものです。

人はなぜ歯を磨くのでしょうか。
食生活が間違っているのでしょうか。
まあ砂糖を取り過ぎの私の食生活は、明らかに自然ではないでしょうが、食生活を気にする生活が、どうも私の趣味には合いません。
節子は私の塩分の取りすぎなどを注意していましたが、いまもって、直りません。
直すつもりが、私には全くないからです。
娘は、もうすっかりお手上げで、最近は諦めているようです。

さて、今日から少し歯磨きをきちんとすることにしました。
もう一度、また歯医者さんに行かなければいけないからです。
歯医者さんに通っている間だけでも歯磨きはきちんとしなければいけません。
だから歯医者さんが嫌いなのです。

■2377:心が冷えると地球も冷える?(2014年3月6日)
節子
相変わらず寒さが続いています。
地球温暖化が叫ばれていますが、私はむしろ地球は大きな流れとしては寒冷化に向っているように思っています。
まあ、それはそれとして。

あるメーリングリストで、地球は温暖化しているのに、人々の心は冷却化しているという投稿がありました。
たしかにそんな気がします。
心が冷えるのは、健康にもよくありません。
私たちの周辺には、心のあったかな人たちがあふれかえっていたような気がしますが、最近、私自身が冷えだしたのか、何か様子が少し変わってきました。
みんな余裕がなくなってきたのでしょうか。
いや、私自身がそうなのかもしれません。
そして、そのせいか、最近、どうも寒さがこたえるようになってきてしまいました。
あっためてくれる節子もいないので、寒さはもろに心身を冷やしてしまうわけです。

地球の温暖化は二酸化炭素のせいだという俗説が、日本では流行っていますが、地球の寒冷化は人の心が冷え切ったためかもしれません。
いや、因果関係は逆かもしれません。
事実、二酸化炭素の増加と地球温暖化の因果関係は、むしろ温暖化が原因で二酸化炭素が結果だという説もあります。
私はそれに共感していますが、同じことが、冷却化にも言えるかもしれません。
つまり、最近の日本は、人の心が冷えてきたので、気候も寒くなってしまった。
私には、何かとても説得力があります。
みなさんはどうでしょうか。

それにしても、最近は、心底から心身が冷えてしまいそうな、悲しい事件が増えています。
私の心身が冷えているために、そうした事件が心に残るのでしょうか。
必ずしもそうではないような気がします。
節子
節子がいた頃よりも、明らかに社会は壊れてきています。
そんな気がしてなりません。

■2378:久しぶりの節子の写真(2014年3月8日)
節子
娘のユカが、柏のあけぼの公園のチューリップ畑で撮った節子の写真をプリントして私にくれました。
節子が病気になってからの写真は、ほとんどプリントアウトしていないのですが、久しぶりに節子の写真を見ていて、とても不思議な気がしてきました。
まだ節子がいないことが実感できないのです。
節子はいまもこうやって、すぐそこにいるという実感が、心身から抜けないのです。
写真の中の節子が実に生き生きと感じられるのです。
節子が死んでしまったことが、まだ私にはあまり理解できていないのかもしれません。

写真の節子は、かなりやせていました。
あのふっくらした節子とは大違いです。
しかし、いつものように、笑いながら両手を思い切りあげてはしゃいでいます。
いささか表情がきつい感じがしますが、この写真はいつごろのものでしょうか。
たぶん娘と一緒に、あけぼの公園に行った時の写真なのでしょう。
私には記憶がありません。
再発してからは、どこに行くのも私と一緒でしたから、これは再発前の写真です。
もしかしたら奇跡が起こると、誰もが思っていた頃です。
節子は思っていなかったかもしれませんが。

私だけではないと思いますが、妻の死は理屈ではわかってはいるのですが、感覚的にはまだ受け入れられないのです。
あの節子が私を置いて死ぬはずがない、とどこかで思っているわけです。
いまもどこかにいて、いつかきっと会えるような気がしていますし、いまもすぐ近くに節子の気配を感じます。
前にも書きましたが、たぶん節子の一部は、私の心身に入り込んでいるのでしょう。

その一方で、その身近に感ずる節子に会えないことが、とてもさびしく、時に精神を不安にさせます。
位牌に向って、何で出てこないの、と思わず声に出してしまうこともあります。
まあ分別のある者のやることではないでしょうが、分別を超えてでも、節子にまた会いたいという思いがあります。
この不思議な気持ちは、なかなかわかってはもらえないでしょう。
いまも、フッと節子がどこかから現れるかもしれないと思います。
それほど節子は、私の心身の中ではまだ現実感のある存在なのです。

節子の写真はたくさん残されています。
一緒に旅行に行った時のビデオもあります。
しかし、なかなか見ようという気にはなりません。
精神のバランスをくずしそうな不安もあります。
たった1枚の写真を見ただけで、これだけ心が揺らぐのですから、まだもうしばらくは写真は無理のようです。

節子には、この私は見えているのでしょうか。
見えていたら、もう少し私に元気をくれませんか。
最近は、とても心細く、自然の中に消え入りたい自分を感じています。

■2379:趣味の仕事を最近していません(2014年3月9日)
節子
節子はよく、「修は仕事が趣味なのね」と言っていました。
たしかに、私は仕事が大好きです。
ただ、勉強は好きだけれど学校の授業は嫌いだったというのと同じく、仕事は好きですが、自分が自発的に取り組める仕事以外は苦手です。
会社時代も、勝手に自分の仕事を自分でつくっていた面が強いですが、会社を辞めてからは、なお一層そうなっていました。
お金のための仕事は、よほど借金で困った時以外はしていません。
だからいまも借金が残っているわけですが。

しかし、節子が発病してから今日まで、ほとんど仕事をしていません。
あれほど好きだった仕事をやめてしまっているわけです。
それに私の仕事の考えは、なかなか理解してもらえません。
形だけの仕事はまったく興味がありません。
どうせやるなら意味のある仕事をしたいと思っていますが、そういう仕事にはなかなか出会えません。
最近、気が萎えているのは、仕事をしていないからかもしれない、とふと思いました。

先日、あるところで講演を頼まれましたが、講演は退屈なので、どうせなら何か始まるような話し合いのスタイルにしたいと提案して、受け入れてもらいました。
その準備のために、先方に出かけていって、2回ほど打ち合わせを行いました。
打ち合わせには、当日、話をしてもらう人たちにも来てもらいました。
私も少し話をすることにしましたが、私としてはそれなりにていねいに準備をしました。
できれば、最近はやりの「白熱教室」風にしたかったのですが、どういう人が参加するのかわからないのと時間の制約があるので、基本的には私が話しかけながら話をするスタイルにしました。

その準備をしながら、そういえば、以前はこうやって、いろいろと働きかけをしてきたなと思い出しました。
そして、そこからいろんな動きが広がりだしたことを思い出しました。
あの頃は、仕事が実に楽しかった。
それを思い出したのです。

今回も、この集まりをきっかけに、何か新しい物語が始まらないかと思い出しました。
そう思い出すと、何かわくわくしてきます。
しかも今回は相手もかなり意欲的なメンバーです。
関係者にいろいろと準備のメールを出したら、事務局的な役割をしている人からメールが来ました。

昨日の話し合いもそうでしたが、ここまで丁寧に準備にご協力いただけるフォーラム、シンポジウムに関わらせていただくのは初めてです。

私にとっては、めずらしいことではないのですが、私のやり方に共感してくれる人がいるのがとてもうれしかったです。
やはり私は仕事が好きなのです。

さて、そのシンポジウムは今日です。
新しい物語が生まれるといいのですが。
節子、以前のように応援してください。
節子は、こういうことのある日、私にちょっと迷いなどあると、いつもこう言って送り出してくれました。
「うまくいくわよ」
さて、そろそろ出掛けましょう。

■2380:谷和原村の思い出(2014年3月9日)
節子
昨日の講演会は楽しく終わりました。
それに思ってもいなかった人たちが参加してくれました。
節子も会ったことがある谷和原村(現在はつくばみらい市)の「城山を考える会」の横田さんと窪田さんです。
お2人は、節子のことを知って、わが家に農作業用の軽トラでお花を供えに来てくれました。
それがとてもうれしくて、いまもはっきりと覚えています。
谷和原村の城山でのイベントには、節子と一緒に参加させてもらったことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#1120
お土産に、美味しいそば粉と横田さんが畑から抜いた大根をもらいました。
実は、そば粉に関しては、節子がそば打ちをしようとがんばったのですが、「そば麺」というよりも「そばがき」のようになってしまった記憶があります。
イベント会場で、節子はそば切りをやらせてもらったのですが、わが家ではそれを私がやってしまったためだったかもしれません。
横田さんたちの活動は毎年広がってきており、いつかまた行きたかったのですが、実現できませんでした。

昨日の集まりには、小貝川のフラワーカナルの管理をしているNPOの人も参加しており、その人からフラワーカナルを知っていますかと訊かれました。
すぐに思い出せず、知らないと応えてしまい、相手を失望させてしまったのですが、講演終了後、その人から写真を見せてもらって思い出しました。
節子と一緒に行ったことがありました。
奇妙なことに、節子との思いでは無意識のうちに蓋をしてしまうことがあります。
これまで何回か経験していますが、少し経つと蓋が開いて思い出しますが、時にまったく思い出せないこともあります。

節子が一緒だったら、きっといろいろと新しいつながりが生まれたことでしょう。
節子がいたら、私の人生ももっと楽しい方向に変わっただろうなと、また未練がましく考えてしまいました。

寒さは続いていますが、庭の花も華やかになりだしました。
娘が庭の水仙を節子に供えてくれました。

■2381:自分の性格の悪さを感じます(2014年3月11日)
節子
3回目の3.11です。
新聞やテレビで被災者の話にたくさん出会います。
私がいささかひねくれているのだろうと思いますが、たくさんの感動的な話を聞かされるたびに、どこか冷えた自分がいることに気づきます。
どこかで、そんなはずはない、と思っている自分を感じます。
被災者の痛みに寄り添うとかいう言葉にも、どこか違和感があります。
どうも最近、私の性格は悪くなっているようです。

しかし、他者の痛みに寄り添うって、いったいどういうことなのでしょうか。
よく聞く言葉ですが、よくわかりません。

今朝の朝日新聞の夕刊に、作家の古川日出男さんが、『怒りでは「共有」できない』という寄稿をしていました。
そこにこんな文章がありました。

僕たちは被災地の、その一人ひとりの方々の憤り――さまざまな形の憤り――を共有することはできない。それが「可能だ」と思い込む態度は、正直おこがましい。しかし、悲しみに寄り添うことならば可能ではないか。そして、被災地に無数の「楽しさ」が生まれる手助けをすることは、もっともっと可能ではないか。

共感する一方で、やはりどこかに違和感があります。
前半は同感なのですが、悲しみに寄り添うことなど、できるはずがないと、性格の悪い私は、今も思っているのです。

今日はつっけんどんな挽歌ですみません。

■2382:コートを着ないででかけてしまいました(2014年3月12日)
節子
今日は家を出る時、暖かだったので、コートも着ないで出かけてきてしまいました。
しかしあんまりあったかくなりません。
それに今夜は、夜の集まりがあり、帰宅は遅くなりそうです。
せっかく治った風邪が戻ってこなければいいのですが。
こういうミスは、あいかわらず年中やっています。
つまり先のことを考えて行動していないということです。
娘からは、思いつき、行き当たりばったりの生き方を改めろと言われていますが、なかなか直りません。
困ったものです。

先のことを考えずに、その時、良いと思ったことをするのが素直な生き方だと、私はどこかで思っています。
これは子ども時代からのような気がします。
節子がいる時には、こうした生き方でも不都合はなかったのですが、節子がいなくなってからは、どうもそのマイナス面が強くなってきているようです。
なぜでしょうか。
娘は、節子がその分、苦労していたんだよといいますが、節子はたぶん、あんまり気にもしていなかったでしょう。
いや、そう思うのは私だけで、ほんとは節子はいろいろと気づかって、私をカバーしていたのでしょうか。
いなくなって初めて、ありがたさがわかるのかもしれません。

まあ困ったことが起これば、2人で知恵を出し合えば、どうにかなったような気がします。
1人で生きるのと2人で生きるのは、まったく違うような気がします。

さてあんまり寒くならないうちに、今夜の会場に行きましょう。
早く行ってもいいでしょうかと電話したら、部屋をあっためておきますと言ってくれました。
手伝うことがあれば、手伝いますよ、とも。
みんな親切ですね。
その言葉で、少しあったかくなりました。
さてお言葉に甘えて、そろそろ出かけましょう。

■ 2383:また服装を間違えて出かけてしまいました(2014年3月12日)
節子
今日は大阪です。
朝、急いで家を出たため、うっかり普段着のまま、出てきてしまいました。
その上、靴だけはビジネスシューズというチグハグさです。
昨夜、企業関係者の人を対象とする集まりを開催したのですが、久しぶりに背広を来てビジネスシューズを履いたのを、うっかり玄関に置いていたためです。
気がついたら新幹線に乗り遅れそうになっていたので、慌てて出発したのが敗因です。
電車に乗ってから、何かおかしいなと気づいたのです。
服装がチグハグだと、実に落ち着きません。

昨夜、帰宅後、すぐ寝ればよかったのですが、一昨日から読みだした、ダン・ブラウンの新作「インフェルノ」を読んでしまい、寝るのが遅くなり、寝坊したせいです。
私は最近、小説はほとんど読まないのですが、読む時には2日以内に読了することにしています。
間を置くと忘れてしまうからです。
「インフェルノ」は600頁を超える長い小説なので、苦戦しました。
節子がいたら、明日は早いのだからもう寝たらと言ったでしょうが、幸か不幸か、節子はいなかったのです。
それに最近、読書の速度が落ちています。
速度だけではなく、理解力も低下しています。困ったものです。

ところで、「インフェルノ」はあんまり面白くはなかったのですが、最後の舞台がイスタンブールです。
それもアヤソフィアと地下宮殿です。
昔、家族旅行で行ったところですが、そのおかげで、臨場感を持ちながら読めました。
メデューサの頭も出てきますが、実に懐かしいです。
トルコ旅行の時も、節子はあんまり体調は良くなかったと思いますが、とても楽しんでくれました。
私の好みのせいで、節子はエジプトやギリシア、トルコと付き合わされましたが、節子が一番気に入ったのがトルコでした。
しかし,まさかダン・ブラウンの小説で,節子を思い出すとは思ってもいませんでした。

ちなみに、「インフェルノ」は、ロバート・ラングドンものシリーズの最新作ですが,主人公のラングドンは,身だしなみにこだわっている人です。
今日の私のチグハグな服装戸は対照的です。
ファッションとかおしゃれには,全く無頓着の私も,今日はちょっと負い目を感じます。
しかも今日は某社を訪問する予定もあります。
入れてもらえるでしょうか。
いやはや困ったものです。

■2384:相談に振り回された1日(2014年3月14日)
節子
今日もまた『愚痴』を書きます。
なんでこうも次々と問題が起こるのでしょうか。
もちろん私の周辺の話です。
この2日間、いろいろと忙しく、やるべきことがたまっていたのですが、今日はそれをやってしまおうと思っていたのに、またいろんな問題の相談がありました。
まずは朝の電話からです。
応援していた活動が少しずつ前に進んでいたので安心していたのですが、それがどんでん返しになってしまったというのです。
疲れていたせいか、ちょっとがっかりしてしまい、電話の相手に少しきつく当たってしまいました。
私のだめのところはすぐ感情に出るところです。

つづいて、今度はメールです。
おやおや、ちょっとばかり深刻な相談です。
さてさてどうするか。

それに取り組んでいるうちに、朝の電話への対応が気になってきました。
ほっておくよりもと思い、関係者に連絡をとりました。
しかしすぐには連絡は取れません。

といううちに、またまったく別の人からの電話です。
今日、会えないかというのです。
なぜか、別の人から、今日会えないかとメールも来ました。
まったく別の人です。

とまあ、なぜか今日は相談が多いのです。
ちょっと疲れすぎて、これ以上、受け入れる気にはなれません。

夕方、朝の電話の関係者と連絡がつきました。
私の心配が杞憂だったことがわかりました。
関係者みんなに連絡して、軌道修正し、一件落着しました。
その代わりに、私のやる液事が少し増えました。

メールの相談は、これもほぼ解決。
会いたいという人には、いずれも来週にしてもらいました。
そういえば、昨日、フェイスブックでも相談があり、新幹線から返信しておきました。
これもかなり深刻な相談です。
その後の報告がありません。
無事だといいのですが。
でも確認する元気が出ません。
まあ、そんなこんなで、今日は朝から何も出来ずに終わってしまいました。
今日中にやる約束のことが3つもあったのですが、もう取り組む気にはなれません。

節子
どうにかならないものでしょうか。
昔と違って、最近は疲れてしまいます。
もうメールを見るのはやめましょう。
際限がありません。
今日は、どうも運の悪い日だったのかもしれません。
明日はゆっくりしたいものです。

■2385:わが家の桜も梅も今年はお休みでした(2014年3月15日)
節子
新聞やテレビによれば、河津桜が満開のようです。
春の近づきを感じますが、わが家ではいくつかの異変がありました。
昨年の手入れ不足のせいかもしれませんが、蝋梅も河津桜も花が咲きませんでした。
チューリップも、昨年末に球根を植えたもの以外はあまり芽が出てきませんでした。
代わりに水仙が例年よりも賑やかに咲いています。
ランタナに冬を越してほしくて、工夫しましたが、半分は成功して、芽を出し始めました。
庭の花も、手入れの結果が確実に出てきます。

節子がいなくなってから7回目の春なのですが、ようやく、意識的に春を迎えられそうです。
花が咲かないのが、気になりだしました。
しかしまだあまり花見には行く気分ではありませんが。

庭の花はあんまり元気はないですが、節子には毎日きちんと花が供えられています。
私は最近はちょっと手抜きになっていますが、今日も娘が花を買ってきていました。
節子の育てていたクンシらんも咲いています。

この3月で、会社を辞めてからちょうど25年です。
四半世紀ごとに生き方を変えようと思っていましたので、本来であれば、4月からズバッと生き方を変えたいところですが、どうもそれはできそうもありません。
さてどういう生き方がいいでしょうか。
節子がいなくなったために、方向がなかなか定めにくくなりました。

■2386:農カフェ「OMOしろい」(2014年3月18日)
節子
ちょっとまたややこしい問題に巻き込まれてしまいました。
どうしてこうも世の中には問題が多いのでしょうか。

そんな中、昨日はホッとする時間を過ごしました。
先月、湯島に来た宇賀さんご夫妻がやっている農カフェ「OMOしろい」にジュンと峰行を誘ってランチを食べに行きました。
車で40〜50分のところです。
とても気持ちの良いカフェで、食事もとてもおいしかったです。
調理は宇賀さんの息子さん、それにデザイナーの娘さんがお客さん対応です。
家族全員でやっているわけです。
近くに農園もありますが、こだわりを持って農業に取り組んでいる各地の農家の人たちとネットワークを組んでいます。
野菜の通販もやっています。
さらに最近は、手伝ってくれている若者が、リヤカーで野菜を売り歩いていると聞いていました。
その若者が、ちょうど戻ってきたので、会うことができました。
みんなとても気持ちのいい人たちです。
節子がいたら、とても喜んだでしょう。

家族や仲間と一緒に、ビジョンを持って、仕事をされている宇賀さんがとてもうらやましく感じました。
ひるがえって私の生き方を顧みれば、あまりに自分勝手だったと思います。
節子ともども、そう思います。

ところで、そのリヤカーの若者のフェイスブックを見ていたら、なんと20年以上前に付き合いのあった友人の息子さんでした。
その友人は、節子も会ったことのある人ですが、
今は静岡県に住んでいて、交流は途絶えていました。
彼ともフェイスブックで最近、つながりが復活したところです。
フェイスブックは、こんなことを起こしてくれることもあるのです。

フェイスブックが彼岸ともつながってくれるといいのですが、
まだそれは無理のようです。

さて今日はまた現実に引き戻されて、頭が痛いです。

■2387:変わり者の4人の仲間がまた一人減りました(2014年3月20日)
鎌倉の宮澤さんから電話がありました。
宮澤さんはもう85歳です。
節子も会ったことがありますが、現役時代は某社の役員をされていました。
私と会った時にもまだ役員をされていましたが、私自身は相手が社長であろうと失業者であろうと全く意味はありません。
誰とでも、一人の人間として付き合うのが信条です。
宮澤さんとは、そういう意味で付き合い仲間は3人いました。
社会で成功して、それなりの地位を得てしまうと、生きにくくなるものです。
だから逆に、そういう人間としてのフラットな付き合いは新鮮だったのかもしれません。
しかし、節子がいなくなってからはその3人とも付き合いが途絶えていました。
その一人は数年前に亡くなりましたが、もう一人が亡くなったという電話でした。

宮澤さんは元気そうでした。
ところが、最近、進行性の胃がんが発見されたそうです。
その手術で入院する前に、私と話したいと電話してくれたのです。
節子が亡くなった後の私のことを気にしていてくれたのです。
そして、もう佐藤さんしかいないので、元気にしていてください、といわれました。
退院してきたら、お会いする約束をしました。

宮澤さんとの4人の仲間は,いずれもかなりの変わり者でした。
私だけがひとまわり若かったのですが、そのおかげで私は少しだけ大事にされました。
正確に言えば、3人プラス私という構図だったかもしれません。
私は、いつも、ある意味では「子ども扱い」でしたから。
それに、私が一番社会から脱落していたかもしれません。

元気になった宮澤さんとお会いするのが楽しみです。
しかし、最後に宮澤さんが言いました。
この歳になると何が起こってもおかしくない、と。
たしかにそうです。
それは私自身のことでもあるのですが。

■2388:実に悲しいです(2014年3月20日)
節子
お彼岸の中日になってしまいましたが、娘たちを誘って、お墓参りに行ってきました。
行く前に鎌倉の宮澤さんから残念でさびしい電話をもらいましたが、帰宅後、さらに衝撃的なメールが届きました。
思ってもいなかった内容だったので、しばらく声が出ませんでした。
私の信頼できる友人の息子さんからです。
実は数日前に、その友人に、別の友人をお引き合わせするメールを出していたのですが、それへの返信でした。

長男の×××が代わりにメールを差上げております。
実は、父は現在、重い病気(末期)で入院中です。
このことは父の意思で近親者以外には伏せております。

そして、父よりの依頼でと一言言葉が書かれていました。
友人らしい、シンプルな一言でした。

息子さんとはお会いしたことはありません。
遠方に住んでいることもあり、友人とさえ久しく会っていません。
しかし、息子さんは私のことを知っていました。
とてもうれしい言葉が書かれていて、それゆえに、私の一存で、と断った上で、入院のことを教えてくれたのです。
前の挽歌で、何が起こってもおかしくない、と書いたばかりなのですが、まさにそれが起こってしまいました。

それにしても、つい10日ほど前に、その友人から手紙をもらったばかりです。
その手紙には、そうしたことは微塵も書かれていませんでした。
ていねいに読めば、その前の手紙には少し気になることがあったのですが。

息子さんとの約束なので、名前は書けませんし、文章を引用してしまったのも、約束違反かもしれません。
しかし、彼は私にとっては数少ない、完全に信頼できる友人でした。
50年以上の付き合いですが、さほど時間を共にしたことはありません。
節子も知っていますが、いささかの変わり者でもあります。
きちんと筋を通し、無欲な人だという意味ですが。

その彼が重病だとは。
詮索はやめましょう。
ただ祈るだけですが、息子さんの言葉には間違いはないでしょう。
昨年、会いに行こうかと思ったことがあるのですが、私自身がもう少し元気になってからと延期してしまいました。
また判断を間違ってしまいました。
それが悔しいです。

メールを読んでから、心がやすまりません。
頭が整理できません。
ただただ、実に悲しいです。

■2389:読書三昧していました(2014年3月26日)
節子
しばらくブログを書いていないのですが、書く気力が萎えていただけではなく、この間、ちょっと読書三昧をしてしまっていました。
2人の感動的な人の本を読んでいたのです。

一人は、財界人としても有名な品川正治さんです。
経済同友会の専務理事をやられていた財界人で、秘書役の太田さんから何回もお名前は聞いていたのですが、どうせ向こう側の人だろうとあまり興味を持てなかったのです。
昨年亡くなられたのですが、最近また湯島によく来るようになった太田さんから品川さんの言動を改めてお聞きし、もしかしたらと著書「激突の時代」を読んでみました。
すごい人でした。
こんな財界人がつい最近までまだいたのだと驚きました。
感激して、品川さんの本を読み漁って、この4日間で4冊読み終えました。
生前に一度でもいいから謦咳に触れたかったです。

もう一人は22日に開催した「自殺に追い込まれることのない社会」を目指してのラウンドミーティングに参加してくださった中下大樹さんです。
中下さんとは昨年来の付き合いですが、あまりよく知りませんでした。
その中下さんに当日少し問題提起してもらったのですが、それがとても感動的でした。
それで興味を持って、中下さんの本を3冊読みました。
これがまたすごいのです。
中下さんにすっかり惚れ込んでしまいました。

そんなわけで、この4日間、なんと7冊の本を読んでしまいました。
もちろん本だけ読んでいたわけではなく、来客や相談もありました。
ですから、挽歌も書けなかったのです。

中下さんの本には、節子のことを思い出させるものがたくさんありました。
品川さんの本には、節子に聞かせたいことがたくさん出てきました。
まあ、節子と一緒に読書三昧したということで、節子には許してもらいましょう。

世の中には凄い人がいる。
それが読書三昧の感想です。

■2390:死から学ぶことの大切さ(2014年3月27日)
節子
「自殺に追い込まれることのない社会」をテーマにした2回目の話し合いを開催しました。
今回のテーマは、「家族関係と人間関係」でした。
重いテーマなので、明るく話したかったのですが、ご自分の体験を話す方もいて、やはりどうしてもいつものようには話を進めることができませんでした。

問題提起をしてくださった僧侶の中下大樹さんの話は、心に重く響きました。
中下さんからは、前からお聞きしていたことですが、改めていろいろと考えさせられました。

中下さんは、自殺や孤立死で亡くなった方に立ち会うという活動を続けています。
もう2000人を超えているかもしれません。
誠心誠意、そうした活動に取り組んでいる姿勢に、頭が下がります。
自殺の問題に関わりだしてから、さまざまな人に出会っていますが、中下さんは、私には突出しているような気がします。
まだ30代だと思いますが、尊敬すべき人です。

その中下さんが、こういうのです。

私は自殺者の死に顔を数えきれないほど見ていますが、ホッとしたような、今までの苦しみから解放されたような顔を結構、多く見てきました。
その顔を見ていると、自殺が必ずしも悪とは言い切れなくなってきました。

この文章だけ取り出すと誤解されるかもしれませんが、中下さんの誠実な活動の積み重ねの上での言葉であることを思うと、中下さんの心情がわかる気がします。
私は、このメールを読んで、節子のことを思い出しました。
たしかに節子もまた、ホッとしたような表情を感じさせていました。

死とはいったい何のか。
中下さんは、こう言います。

私たち一般人が死をタブー視する限り、死は隠蔽され続けます。
死から学ぶという観点が、今の時代に欠けている点も無視出来ません。

同感です。
だから、私もこの数年、自殺を明るく語る活動をしているのです。
「明るく語る」ということに拒否感をもたれる方もいます。
しかし、死は明るく語りたい。深い悲しみを持って、ですが。

自殺は特別なのか。
自死遺族の人たちとの付き合いも数名あります。
たしかに「自殺」は病死や事故死よりも、語りにくいかもしれません。
私も、自死遺族の人と話す時、最初はとても気を遣いました。
しかし、自死遺族が特別な存在だとは、いまは思っていません。
たとえ病死でも事故死でも、喪失体験は同じです。
そして、死から学ぶという点でも通ずるところは少なくない。
そう思います。

節子と死別してから、私も多くのことを学びました。
この6年半、ずっと学んできたといってもいいでしょう。
だから、中下さんの言葉には、とても共感できます。

■2391:「老年の超越」(2014年3月27日)
節子
スウェーデンのラルス・トルンスタム教授は、「老年の超越」ということを提唱しています。
85歳を超えて、超高齢期になると「人は物質的合理的な視点から神秘的超越的な視点へと移行し、この移行とともに人生の満足感が増大する」のだそうです。

エリクソンの「ライフサイクル」論でも、老年期には人生を肯定的に振り返り、それまで育んできた他者と自己への信頼を感じることで、希望を持つことができるとされています。
そして、トルンスタムの「老年の超越」を、「時空を超えて、高みに上がること、凌ぐこと、まさること、限界を越えることである。それは人間の知識と経験の全てを越えること」と解説しています。
もしこれが事実であれば、老年期とはわくわくするものと言っていいでしょう。

私はまだ、超高齢期には達していませんが、なんとなく「老年の超越」はわかるような気がします。
時空を超えて、高みにあがれば、此岸だけではなく、もしかしたら彼岸も展望できるかもしれません。
いや、できるに違いありません。
彼岸が見えてしまえば、此岸での「知識や経験」など、瑣末なことなのかもしれません。

「認知症」という言葉よりも、私は「痴呆」という言葉のほうが好きですが、もしかしたらそれは、時空を超えた状況なのかもしれません。
それにしても、時空を超えるとはどういうことでしょうか。
実に興味があります。
できれば節子と一緒に、時空を越えた旅をしたかったですが、ひとりだと迷いそうな心配もあります。

最近、娘から「認知症気味」ではないかと指摘されています。
そろそろ私も「老年の超越」の入り口に近づいているのかもしれません。
なにやらわくわくしますが、単なる思考力や記憶力の劣化でなければいいのですが。

■2392:庭のテーブルに節子が見えるような気がします(2014年3月28日)
節子
今日はいい天気です。
庭の花もだいぶ華やかになってきました。
桜は全滅でしたが、なぜか今年は水仙がすごいです。
花の様子も年々、変わっています。
まあ、しかし節子が戻ってきたら、嘆くことでしょう。
野草コーナーはほぼ全滅ですし、多様性よりも草花の種類は明らかに減少しています。
節子が大事にしていたものも、かなり枯らしてしまいました。

世界は多様だからこそ豊かだと、私は思っています。
さまざまな人との交流が、私の世界を豊かにしてくれていることは間違いありません。
しかし、その一方で、いつかは多様な世界から離れて、節子と2人だけの老夫婦のくらしをしたいと思っていました。
その夢はかなえられませんでした。

日差しを受けている小さな庭を見ていると、どうしてもそこに節子の姿が浮かんできます。
狭い庭に置かれているテーブルで撮った、闘病中の節子の写真が仏壇に置かれているのに、先日気づきました。
節子の笑顔がとてもよくて、いまも節子は彼岸でこうして笑顔でいるのかなとふと思いました。
節子の写真は、あまり見ないのですが、見てしまうとその写真がどうしても残ってしまいます。
だから写真はできるだけ見ないようにしています。
しかし、ふと見てしまうと眼が離せなくなることがあります。
涙さえでてしまう。
困ったものです。

眩しいくらいの日差しを浴びた暖かそうな庭のテーブルに、節子が座っているような気がしてきました。
節子が元気だった頃、なぜこのテーブルでもっと一緒にお茶を飲まなかったのでしょうか。

お互いに元気だった頃、なぜもっと一緒にゆったりした時間を過ごさなかったのだろうかと時々、不思議に思います。
私の記憶から抜け出てしまっているのかもしれませんが、節子とゆっくりと過ごしたことがあまり思い出せません。
いつも何かをしていた。お互いにいつも忙しそうでした。
今ほどの心の余裕があれば、私たちの人生は大きく変わっていたでしょう。
節子もまだ元気だったかもしれない。

しかしこれが人生なのでしょう。
今日はこれから湯島に出かけます。
節子と長年やっていたオープンサロンの日です。
庭のテーブルで、見えない節子と一緒に珈琲を飲むのは、またにしましょう。

■2393:夢がない生き方は誠実ではありません(2014年3月29日)
節子
昨日は節子が逝ってしまってから出会った人と会っていました。
彼が相談に来たのです。

彼は元山口組の人です。
いまは堅気になって、とても誠実な生き方をしています。
彼は「男前」に生きることを大事にしていますので、人の前では弱みは見せません。
嘘をつくわけではありませんが、弱音を吐きません。
昨日も彼にも話しましたが、そこが私たちの共通点であり、違うところです。
つまり嘘をつかない点では同じなのですが、本当のこと(弱み)も吐き出してしまうかどうかが違うのです。
もっとも、彼と付き合っていると、言わなくとも「弱み」は見えてきます。
だからそれとなく彼のところに会いにいったのですが、今度は彼が相談に来たわけです。
そして、いまは私には弱みを見せてくれるようになりました。
弱みを見せられるようになれば、人は強くなれます。
それに、実際に、弱みはどんなに隠そうと周りには見えているものです。
ただ、だれもそれに気づかないようにしているだけです。
そういう生き方はつかれるでしょう。
私にはできません。

彼も、勢いのあった時代はいろんな人が寄ってきていたはずです。
いろんな人も助けてきたはずです。
しかし、助けたからといって、立場が逆になった時に助けてくれる人は多くはありません。
彼は、そういう生き方を「ずるい」と言います。
私は、「ずるい」ではなく「哀しい生き方」だと思うと、話しました。
そういう生き方をしていない彼が、私は好きです。

半端ではなく苦労して生きてきた彼には、裏切られた体験は少なくないでしょう。
強い人には、人は集まりますが、弱い人には集まりません。
だからこそ彼は弱みを見せなくなったのかもしれません。
私も同じ体験をしています。
しかし、私の場合は、弱みを見せることこそが、人の繋がりを育てると考えていますので、いまもって、みっともないと思われるほど、弱みを見せつづけています。
もちろん見せたくて見せているわけではありません。
私も「いいかっこう」をしたくなり、しようとすることはしばしばあります。
にもかかわらず、自らの弱さが半端でないので、ついつい弱音を吐いてしまうだけの話です。
人には、それぞれの生き方があり、それはなかなか変えられるものではありません。

昨日、彼とは家族の話もし、生き方の話もしました。
彼が今の厳しい状況を頑張っていられるのは、夢があることだと知りました。
とても素晴らしい夢です。
夢は応援しなければいけません。
そう思いながら、ハッと気づきました。
私自身の夢はもうないのだろうか、と。

やはり夢のない生き方は、誠実ではありません。
そのことに昨日気づきました。
苦労して汗して生きている人と話すと、たくさんのことを教えてもらいます。
そのお礼に、私も少しだけ彼の役に立つことができました。

夢のない「生」は、もしかしたら「生」とはいえないのかもしれません。
彼を見習って、もっと誠実に生きなければいけません。

■2394:春の便り(2014年3月30日)
節子
わが家への春の便りのひとつは、福岡からのあさりです。
蔵田さんが自ら海辺で採取して送ってくれるのです。
とても元気なあさりで、砂抜きのために水の中に入れていたら、周りが水だらけになってしまいました。
昨年はフェイスブックに写真をアップしましたが、貝殻から5センチ以上の長さで口が伸びているのです。
かなりグロテスクの光景です。

家の近くの手賀沼沿いの道路の両側にある桜もだいぶ咲きました。
庭の花も華やかになってきて、いよいよ春です。
若い友人たちからは、新しい仕事を始めるとか、職場が異動したとか、そんな知らせがいろいろと届きます。

そういえば、25年前の今日は、25年間続いた会社生活を終わらせるために、いろんな人のところに挨拶に行っていた日でした。
あれからもう25年です。
節子が元気だったら、盛大にお祝いの準備をしていたでしょう。
そんなことも最近はすっかり忘れてしまっていました。

この半年ほど、どうも気分がよどんでしまっていますが、春とともに、今年こそ動き出そうと思います。

■2395:時間感覚が回復しだしているのかもしれません(2014年3月31日)
節子
年度の変わり目のせいで、いろんな人から転進の連絡が続いています。
みんな、私よりも一まわりも二まわりも、いや三まわりも若い人たちです。
故郷に戻ることにした人もいれば、海外に移る人もいます。
企業からNPOに変わる人がいれば、NPOから企業に変わる人もいる。
同じ組織でも、仕事がガラッと変わる人もいれば、仕事を変えたくないので組織を変える人もいる。
それぞれいずれも納得できるものです。
最近は実に多様な生き方ができる時代だなと、改めて思います。
みんな自分の生き方を見つけていくものです。

おそらく昨年も、一昨年も、その前も同じだったのだと思いますが、こういうことを考えた記憶がありません。
それに、今年はなんだか自分が取り残されている気分がしてしまうのです。

みんなどんどん変わっていく。
新しい世界へと活動の分野を広げていく。
周りの人たちの世界が広がれば、それは私の世界の広がりでもあるはずです。
いつもなら素直にうれしがれたはずですが、
自分がどこか置いてきぼりになっているような寂しさを感じてしまう。
私には生まれて初めての気分です。
なぜでしょうか。

節子がいなくなってから、私の中では時間が止まっています。
季節の変化さえ、実はあまり実感できません。
しかも、止まっているのは私だけではなく、周りも止まってしまっているような気がしていました。
いや、そう思いたかっただけでしょう。
それが、今年は、周りがどんどんと変わっていくのが、気になるようになってきたのです。
考えようによっては、私の時間感覚が正常化してきているのかもしれません。
しかし、変えることのできない自分が、なんだかとても惨めな気がしてきています。
新しい世界への転進の連絡には、おめでとう、楽しみにしているよ、などと言いながら、どこか心の隅に、羨望と寂しさがあるような気がしてなりません。
考えようによっては、実に僻みっぽくなっている。
困ったものです。

歳のせいが、あるかもしれません。
しかし、間違いなく、節子がいないことが大きな理由になっているはずです。
節子がいたら、私もまだまだ大きく生き方を変えられるはずです。
前にも書きましたが、今日で私の第3四半世紀の人生は終わりです。
いよいよ第4四半世紀が始まります(第1四半世紀が22年だったので、年齢とは合いませんが)。
その生き方をどうするか、まだ何も考えていません。
しかし、時間感覚が戻ってきた今、もしかしたら考えられるかもしれないと思い出しました。

25年前の今日は、白いキャンバスに絵の具を入れるような、そんなわくわくする日だったのです。
この25年間は、あまりに面白く、あまりに悲しい四半世紀でした。
そのせいか、今はまだわくわくする気配はまったくありません。
いずれにしろ、私の第3四半世紀はおしまいです。

■2396:悲しむ力(2014年3月31日)
節子
先日、この挽歌にも書いた中下大樹さんの著書に「悲しむ力」というのがあります。
中下さんが直接に聞いた、死にまつわる30の言葉を軸に、日本人の死生観を書いた、とてもいい本です。
佐久間庸和さんも、その本をブログで取り上げています。

中下さんはその本の中で、今の日本に足りないのは「悲しむカ」ではないかと書いています。
中下さんがそう思ったのは、東日本大震災の時に、日本中で「がんばろう」コールが起こった時だったそうです。
被災地の現場で活動していた中下さんが感じたのは次のようなことでした。
少し長いですが、引用させてもらいます。

私たちは日々、仕事や生活に追われています。少し気を緩めれば、誰かに追い抜かれてしまうかもしれない。一度追い抜かれたら、そのまま脱落してしまうかもしれない。仕事だけでなく、生活そのものを失ってしまうかもしれない。そんなプレッシャーを感じながら、厳しい競争にさらされています。だからこそ私たちは、悲しみをできるだけ見ないようにやり過ごしています。誰かの悲しみを自分のことのように悲しんだり、自分の中にある悲しみを見つめたりすることは、時間の損失にしかならないからです。そうする中で私たちは、「縁」を磨いたり、つないだり、育んだりする方法を、忘れてしまったのではないでしょうか。
そして、この未曾有の大震災においても、「いつまでも悲しみに浸っていては厳しい競争社会を生き抜くことはできない」「いち早く立ち直らなくては、世界に置いていかれてしまう」。日本中が、そんな焦燥感を持っているように感じました。
しかし蓋をした悲しみが消えてなくなることはありません。どこかでくすぶり続け、トラウマのように私たちを苦しめ続けるのです。だからこそ、今、目の前にある悲しみから目をそらしてはいけないのです。

とても共感できます。
私は、すでに競争社会からは抜け出て、自分好みの人生に転じてしまっていますので、思う存分に悲しむことに身を任せていますが、その経験からも、中下さんがいう「悲しむ力」はわかります。
自らの悲しみに正面から素直に向かうことで、自分の世界が大きく広がったような気がします。
それに、他者の悲しみも、少しは見えるようになってきました。

悲しみを忘れようとすることもありません。
悲しみは、いつになっても悲しいものです。
それを忘れようとは思いもしません。
悲しみを語ることが、自分を元気にすることは、何回も体験しています。
そして、悲しみを共にすることもまた、大きな力を生み出すこともわかってきました。

しかし、中下さんの本を読むまでは、「悲しむことの効用」を意識してはいませんでした。
「悲しむ力」とは、とてもいい言葉だと思います。

悲しい時には悲しむのがいい。
悲しみの多い人ほど、生きる力も大きくなる。
もしかしたら、生きることとは悲しむことかもしれません。
悲しむことが生きることかもしれない。
そんな気がしてきました。

明日から4月です。
悲しむ力を支えにして、とりあえず、少し前に動き出そうと思います。

■2397:菜の花は食べられてこそ喜ばれる(2014年4月1日)
節子
今日は、私にとっては、新しい四半世紀の始まりでもあるので、自宅で過ごすことにしました。
畑の仕事も、今日からはじめようと思います。
一人ではなかなか畑にまで行く気にもならないのですが。

近くの菜の花畑が満開です。
道を歩いていても、菜の花の香りが届きます。
まさに春を感ずる日です。

菜の花と言えば、いろんな思い出があります。
最初に生活をはじめた滋賀県大津の瀬田の借家の近くにも菜の花畑がありました。
2人で出かけた記憶は、いつでもかなり鮮明に思い出します。
いまはもうなくなっているでしょうが。

近くの菜の花畑は、希望者にはわけてくれます。
この時期になるといつも娘が思い出す話があります。
娘と節子が一緒に、この菜の花畑に行った時の話です。
他の人たちは、菜の花を観賞用として花の部分だけを切り立っていたのに対して、
節子はかなり下の方から切り取ったそうです。
1本単位で料金は決まっていたようですが、同じ1本でも、節子の1本は他の人の数本に相当したようです。
なぜ下から切ったのかと言えば、花の観賞後、食べるためだったそうです。
いかにも節子らしいです。

娘に言わせると、節子も私に似て、常識が欠落していたそうです。
そういわれれば、そうかもしれません。
私には常識が欠落していることは自覚していますが、その私と波長が合ったのだから、節子にも常識はなかったのでしょう。
いやはや困ったものです。

菜の花のおひたしのほろ苦さは、私はあまり好きではありませんが、食べるたびに思い出すのがこの話です。
さてそろそろ畑に行ってきます。
節子がいたら、いい野良仕事日和なのですが、一人ではどうも足が重いです。
かなりの重労働でもありますし。

■2398:第4期のはじまり(2014年4月1日)
節子
挽歌2395で書いたように、今日は、私にとっての第4期の初日でした。
どういう生き方にしようかはまだ決まっていないのですが、せめて始まりだけでも、気を引き締めて、と思って、畑に行って、最初の鍬を入れてきました。
ところが、です。
3坪ほど耕したところで、鍬の柄が折れてしまいました。
鍬を畑に野ざらしにしてたために、腐ってしまったのかもしれません。
縁起がわるいと思いながらも、今日はきちんとやろうと、その後は、シャベルと鎌で何とか目標の広さを耕し終えました。
私としては、まあがんばったほうです。

その後、最近出版された新書の「ハンナ・アーレント」を読みました。
アーレントは、映画を観て以来、実は少し熱が冷めてしまっているのですが、それでも面白かったです。
まあ、そこまではとても良い日になりそうでした。
ところが、人生はそんなに甘くはありません。

夜、今日は早目にお風呂に入って、今度はネグリを読もうと思っていたら、友人から電話がありました。
少し深刻な相談です。
今朝、電話した時には、心配事はおさまったと言っていたのですが、それがまた動き出したというのです。
私ひとりではちょっと手におえないので、専門家にも電話をしたりして、ばたばたしてしまいました。

その合間に、メールをチェックしたら、訃報です。
先日、挽歌でも書いた親しい友人が亡くなったそうです。
予想していたとは言うものの、気持ちがすっかり萎えてしまいました。
しかも節子と同じ病気でした。

私の第4期は、こうして、めげそうな気分の中で始まりました。

■2399:自分のための日(2014年4月6日)
節子
また挽歌が書けない数日が続きました。
挽歌だけでなく、時評ブログもホームページの更新もできずにいました。
もしかしたら、なぜ書けないのだろうかと気にされた方もいたかもしれません。
最近の挽歌は、元気がなくて暗い挽歌が多かったですし。

たしかにいろいろとありました。
めげてしまったり、電話などのやりとりで疲れてしまったり、ちょっと仕事で出かけていたり、パソコンが不調だったり(まだ10年前のXPです)、不幸な気分になったり、いろいろでした。
しかし、私自身は、体調が悪いわけでも、家が火事になったわけでも、借金取りに追い立てられたり、事故にあったわけでもありません。
それなりに元気でもあります。
しかし書かないまま数日が過ぎてしまいました。
最近、どうも「書くこと」へのモチベーションが低いのです。
書きたいことは、それこそ「山のように」あるのですが、書くことにどういう意味があるのか、と思ったりするわけです。
もちろん基本的には自分のために書いていますから、書くことそのことに意味がある。
生きる意味が問題なのではなく、生きることに意味があるというのと同じことです。
でも、時にふと思います。
何をやっているのだろうか、と。
節子がいた頃は、よくそういう問いかけをして、節子に呆れられていたのですが、今は誰にも問いかけられません。
思いは、言語化しないと前に進めなくなることがある。

まあ、そんなわけで、ブログに書けない日が続いてしまいました。
ホームページは、追加料金を払っていないために容量がパンクしてしまい、更新できなくなってしまったのです。
いささか節約しすぎてしまいました。
貧すれば鈍すとは、このことです。
いやはや困ったものです。

明日は、「自分のための日」にして、生活を立て直します。

(2014年4月7日)
節子
今日は昨日の予告通り、自宅でゆったりとしました。
ゆったりとしたという意味は、何もしないという意味ではなく、思うがままに過ごしたと言うことです。

午前中は娘たちにも応援してもらって、畑仕事をしました。
荒れ放題だった荒地農場が、少しだけ整地され、そこにトマトときゅうりと茄子を植えました。
節子がいたらもっといろいろと植えたでしょうが、私一人でケアするのはこれが限度かもしれません。
しかし耕した面積はまだかなり残っていますので、もう少し何かを植えようと思います。

畑仕事を手伝ってもらったお礼に、最近、食べていないうなぎをご馳走しようと思ったら、なぜかみんなカレーが食べたいと言い出しました。
私が最近かなり貧乏なのを気遣ってくれたのでしょうか。
それで、ハリオンという近くのネパールカレーのお店に行きました。
このお店は、美味しい上にとても安いのです。
特に昼間は、夜の料金の半額です。
今日はなんとかセットというのを食べましたが、カレーは2種類選べて、ナンとライス、スープとサラダ、デザートヨーグルトと飲み物までついているのです。
さらにネパール風の餃子のようなものや豆でできたせんべいまでついていました。
それで1000円です。
どう考えても安すぎます。
でもそれでやっていけるのでしょう。
働いているのはみんなネパールの人のようですが、みんなとても明るいです。
やはり日本人は、生き方や働き方を間違っているような気がします。
話がおかしな方向に進んでいますが、まあ気持ちのよい昼食でした。

帰宅したら、早速、電話が入りました。
でもまあそれは早々に切り上げ、昨日再放映された英国のテレビドラマ「シャーロック」を見ました。
これはもう数回見ていますが、筋書きではなく、シーンごとの面白さを味わえます。
ついでにこれも録画していた韓国歴史ドラマ「テジジョン」もまとめて見ました。

夕方、週に何回か届くはがきツイッターが届きました。
箱根で俗世間の汚れを洗い落としてすっきりしましたかと書かれていました。
あんまりすっきりしていません。

今日は、壊れてしまっているホームページを直そうかと思っていましたが、そこまでたどりつきません。
そのため、明日も、もう1日、在宅でのんびりと過ごそうかと思い出しています。
人は限りなく怠惰になれるものです。
そういえば、これは節子のいる時から気づいていたことです。
節子がいない今、怠惰になることの恐ろしさも知っていますので、いささかの躊躇はありますが、まあいいでしょう。

でも、何か、とても大切なことを忘れているような気がしてはいるのですが。
困ったものです。