妻への挽歌(総集編5)
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目次

■1201:夫婦はお互いに弱みを見せられる唯一の関係(2010年12月16日)
節子
あなたは覚えていないでしょうが、10年ほど前の一時期、オープンサロンに来ていた星さんから先日、突然の電話をもらいました。
最初は、どの星さんか思い出せなかったのですが、話しているうちに思い出しました。
たしか栃木で起業した方でした。
その星さんが昨日、湯島に来ました。
お訊きしたら、なんと那須塩原から来てくださったそうです。
栃木といっても広いです。

当時のサロンは、実にさまざまな人たちが来ていたので、星さんとゆっくり話したことがなかったかと思います。
今回、いろいろと話してみて、星さんと私の考えがかなり似ていることに気づきました。
もっとも行動面では全くといっていいほど違うかもしれません。
星さんは企業を辞めて、那須塩原にご夫婦で移ったのですが、その大きな理由は「生き方」の問い直しにあったようです。
ところが気がついてみたら、それまでの東京住まいと同じような働き方をしていたことに最近気づいたのです。
そして私のところに「生き方さがし」の旅に来たというわけです。
いろいろと話しました。
星さんも思うところがあったようです。

ところで話のなかで、夫婦の関係が話題になりました。
星さんご夫妻はお2人ともそれぞれの仕事をしているようです。
それぞれが独立しているわけです。
あまり書いてしまうと星さんのプライバシーに関わりそうですが、いまはちょっと星さんのほうが苦戦しているようです。
しかし奥さんの助けは借りたくないと、考えているようです。

夫婦はお互いに弱みを見せられる唯一の関係ではないかと、私は思っています。
弱みは素直に解き放し、それを素直に受け容れれば、両者の間では、多くの場合、弱みは弱みでなくなり、むしろ強みに転化します。
節子との40年の夫婦関係で、そのことを私は実感しています。
そして、弱みを分かち合った夫婦は最強の存在になれます。
そして怖いものなど何もなくなるのです。
いや「がん」を除いて、というべきかもしれませんが。

そんな思いで、星さんといろいろと生き方も含めて話し合いました。
別れ際に、星さんにまた機会があったら来てくださいといったら、星さんが、今度は妻も連れてきたいです、と言いました。
その言葉で、涙が出そうになりました。

星さんは幸せな人です。そう思いました。
私は、那須塩原に節子を連れていけないのが、とても不公平な気がしました。

■1202:幸せな死のために何が必要か(2010年12月17日)
ご自宅で奥様を看取られた経験から、地域社会になにがあればいいと思われましたか、とある人に訊ねられました。
死生学に取り組まれている先生なのですが、そろそろ「死」に正面から向かっての議論をするべきではないかとお考えのようです。
そして在宅で死を迎える社会へ戻していきたいと思われているようです。

その方は以前から知り合っていた方ですが、節子が朝日新聞に投稿した「いいことだけ日記」が印象に残っていたそうです。
それから数年して、その投稿主の節子が私の伴侶で、「いいことだけ日記」を勧めたのが私だと知ったのだそうです。
世界はほんとうに狭いのです。

ところで、その質問に、私は正直、たじろぎました。
実は、私には節子を「看取った」という感覚がないのです。
そうか私は節子を看取ったのだ、と改めて認識しました。

次に思ったのは、なに一つ不満はない、ということでした。
死を迎えるために、何が必要でしょうか。
愛する人がそこにいればいいだけなのです。
しかし、そう言い切れる私たちは、とても幸せなのかもしれません。

死を支える仕組みは、たしかに大切かもしれません。
最近では、孤独死が問題になっています。
しかし、それらは「死に方」の問題ではなく「生き方」の問題です。
孤独死が問題なのではありません。
孤独な生き方が問題なのです。
問題設定を間違えると答えはみえなくなりますが、なぜかみんな孤独死を問題にします。

以前も書きましたが、医師はよく死を避けられない患者の家族に対して「死に方」が大切だと言いますが、とんでもありません。
当事者にとっては、死に方など考える必要はなく、あくまでも大切なのは「生き方」です。
「死に方」を問題にする社会は、私には壊れた社会に思えてなりません。
「死に方」を問題にする医師には、私は自らの生を預ける気にはなりません。

しつこいですが、大切なのは「生き方」です。
生き方がしっかりしていれば、孤独死など起ころうはずがないと、私は確信しています。
もちろん「自殺」も起こりません。
すべての根本は「生き方」なのです。

その方の質問に、私は「なにもありません」と答えましたが、質問が間違っていることに気づきました。
奥様が生きるために、地域社会になにがあったらよかったと思いますか、と訊かれたら、なにか思いついたかもしれません。
しかし、それはきっと、私たちの生き方に深くつながっているはずです。
そう考えながら、私たちの生き方はとてもいい生き方なのだと自賛したくなりました。
もちろんそういう生き方ができたのは、たぶん節子のおかげです。
感謝しなければいけません。

■1203:現世とは違う世界への通路があるのかもしれません(2010年12月18日)
節子
手帳が見当たりません。
昨日、帰宅して、少したってから、手帳がないのに気づきました。
直前に居た場所(そこで手帳を使いました)、みんなで探してもらいましたが、ありません。
手帳には予定が書かれているので、とても困っています。
ちょうど新しい年度に切り替えの途中だったの、私の名前も書いていませんから、もし道で落としたのであれば、拾った人も届けようがありません。
しかし、どう考えても、途中で落とす可能性はないのです。

実は帰宅してジャケットから手帳を引き出した感触が、手に残っています。
ですから家の中のどこかにあるのではないかと思えてなりません。
さほど広い家ではないので、ありそうな場所も、ありそうでない場所も含めて、何回も未練がましく探しました。
冷蔵庫の中まで探しました。
しかしありません。

昨夜、真夜中に目が覚めて、また手帳の感覚を思い出しました。
帰宅した時に手帳を持った感触がはっきりとあるのです。
にもかかわらず、なぜないのか。
朝、起きてまた徹底的に探しましたが、見つかりません。
どうしても「あきらめ」がつきません。

時々、節子が家にいるのではないかという気がすることがあります。
声をかけたり、探したりすることさえあります。
手帳を探しながら、そのことを思い出しました。

もしかしたらわが家のどこかに空間のひずみがあって、現世とは違う世界への通路があるのかもしれません。
手帳はもしかしたら、その穴に落ちてしまったのかもしれません。
どう考えても、あるはずのものがないのですから。
その通路が見つかったら、もしかしたら私も彼岸にいけるかもしれません。
あるいは節子が現世にやってくるかもしれません。

この年末の大掃除には、その通路を探すこともめざしたいと思います。

■1204:節子はいい先生でした(2010年12月19日)
節子
今年も残すところ10日ほどになりました。
いつもこの頃は、節子が和室で年賀状を書いていたのを思い出します。
節子は一枚一枚、ていねいに書いていました。
年賀状を印刷してしまう私のやり方には否定的でした。
大変そうなので、せめて宛先だけでも印刷したらと提案しても、頑として受け付けませんでした。
節子は、手書きでなければ心が伝わらないといつも話していました。
相手のことを思いながらゆっくりと書くことが大切だと言うのです。
たしかに、ゆっくりでした。
ですから節子の年賀状書きは数日にわたっていました。
でも書いている時の節子は幸せそうでした。
今もその様子がはっきりと思い出せます。

むかしは私もそうでした。
年賀状が300枚くらいまでは節子と同じように1枚ずつ書いていました。
当時は節子と一緒に、版画やプリントごっこで、手づくり感も楽しんでいました。
しかしいつの間にか私は印刷型になってしまいました。
もちろん文章は毎年それなりに思いを込めましたが、1000枚を超えるとどうしても心は入れにくくなります。
節子と並んで年賀状を書いていると、節子が1枚仕上げる間に私は数十枚を仕上げていました。
私がやったのは、相手を思い出しながら1〜2行の言葉を添えるだけでしたから。

節子は、そうした私のやり方には批判的でした。
そんな年賀状は出す意味がないとは言いませんでしたが、否定的でした。
今にして思えば、節子のやり方に見習うべきでした。
節子は、年賀状を書きながら、相手の人と心を通わせ合っていたのです。
この挽歌を書きだしてから、心を通わせながら文章を書くことの意味が少しわかってきました。
節子にとっては、そんなことなど当然のことだったのでしょう。

節子は私からたくさんのことを学びました。
修さんからいろんなことを教えてもらったと、よく話していました。
しかしそんな知識は瑣末なことなのです。
私が節子から学んだことは、本質的なことでした。
それに気づくのが少し遅すぎました。
どれほどたくさんのことを節子から学んだでしょうか。
最近ようやくそのことがわかってきました。

節子は私にとって、ほんとうにいい先生でした。

■1205:手賀沼公園に3年半ぶりに行きました(2010年12月20日)
節子
我孫子市の市長選に現職に対抗して立候補した若者がいます。
坂巻さんという40歳の若者です。
40歳が若者といえるかどうかはかなり疑問ですが、この歳になるとそう感じます。
ふと思い立って、その人を応援することにしました。

昨日、彼のキックオフ集会でした。
節子が好きだった手賀沼公園で、手賀沼を見ながらの集会でした。
節子がいなくなってから、初めて手賀沼の水際まで行きました.
3年半ぶりでしょうか。

手賀沼公園は、節子のリハビリのために、2人でよく散歩に行きました。
ベンチに座って、夕陽を眺めたこともあれば、早朝に白鳥を見た記憶もあります。
元気になったらボートに乗りたいと、節子は入っていましたが、実現しませんでした。
節子がいなくなってから、私は手賀沼公園に入ることはありませんでした。
一度だけ用事で入り口まで行きましたが、落ち着かずにすぐに帰りました。
その手賀沼公園でキックオフ集会をやったのです。

節子へも献花ためにわが家に2回も演奏に来てくれた宮内さんに頼んで、会場の雰囲気づくりの演奏もしてもらいました。
幸いに天気に恵まれ、たくさんの人たちが来てくれました。
そこで思わぬ人に会いました。
節子が入っていたコーラスグループ「道」の浜田さんです。
向こうから声をかけてくださいました。
浜田さんはさまざまな活動に取り組まれていると節子から聞いていましたが、今回も決して有利ではない酒巻さんを応援してくれているのです。

県会議員の花崎さんも来ていました。
彼が県議に立候補した時には、節子と一緒に選挙事務所に激励に行ったものです。
その花崎さんも、もう県議を2期も務めています。

節子が元気だったら、たぶん私よりも一生懸命に活動したかもしれません。
しかし、私よりもずっと生活者でしたから、いまのような選挙活動のやり方や政策には批判的だったのではないかと思います。
節子は、いつも生活者の視点を崩しませんでした。
知識はあまりありませんでしたが、いつも先入観なしの素直さで生きていたように思います。
そして、いつも「正義」の人でした。
最近流行の難しい「正義」ではなく、極めて素朴な、人としての「良識」です。
いまの状況を知ったら、節子なら行動を起こすような気がします。
そんな気がしながら、私もささやかに関わっているのです。
節子がいないのが、ほんとうに残念でなりません。

■1206:祈り(2010年12月21日)
節子
また夜明けに目が覚めました。
なぜかわからないのですが、急に、私の今の生き方に何かが欠けているような気がしました。
なぜそんなことを考えたのか、わかりませんが、時々、夜中に誰かから問題を与えられたような感じで、目が覚めるのです。
その時はかなり深い思索ができて満足するのですが、その後、必ずといっていいほど、また眠ってしまい、起きると思い出せません。
問題だけは思い出せるのですが。

今朝の思索での結論は、私に欠けているのは「祈り」だということだったような気がします。
節子には「祈り」がありましたが、私には「祈り」がないのではないかというようなことを考えていたような気がします。

先日観た映画「うつし世の静寂に」のテーマは「祈り」でした。
かつては人々の暮らしの根底に祈りがあったというのです。
とても納得できます。
昨今は「祈り」があまりにもありません。
そして私自身は、それなりに「祈り」を意識して生きてきた思いがありました。
しかし、本当に私には「祈りのこころ」があったのか。

節子は寝る前に感謝の言葉を口にして祈っていました。
節子が病気になってからは、私も隣で同じように祈りました。
節子は時々、言いました。
修の祈りにはこころがこもっていない、と。
決してとがめるような言い方ではなく、節子らしく笑いながらの好意的な言い方でしたが。
しかし、困ってからの祈りは打算以外の何ものでもないのかもしれません。

「祈り」がないのは、私だけではありません。
社会から「祈り」が失われつつある、そんな気がします。
だからこそ、祈らなければいけません。
しかし、「祈る」とはどういうことでしょうか。

今朝、目覚める前にはひとつの結論に達していたはずですが、どうしても思い出せません。
夢の世界と現実のこの世界の中間に、彼岸と此岸とをつなぐような、夢現(ゆめうつつ)なもうひとつの世界があるような気がします。
その世界ではさまざまな呪縛が解かれて、人はみな哲学者になり、世界が限りなく見えてくるのかもしれません。
その知恵を、現世に持ち込めないのが残念です。

■1207:祈りとは心身を任せること(2010年12月22日)
昨日の続きです。

祈りについて、最近、この挽歌で書いたことを思い出しました。
まさに「うつし世の静寂に」をみた直後に書いていました。
そこには「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」と書かれていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/11/post-bc45.html
ふたつの世界とは、いうまでもなく、彼岸と此岸です。
その意味では、この挽歌は、そもそもが祈りかもしれません。

にもかかわらず、昨日は私自身に「祈り」が欠けていることに気づかされたのですが、それはこの挽歌に十分な思いがはいっていないためなのかもしれません。
昨日から時間の合間に「祈り」について考えていたのですが、祈りとは心身を任せることではないかという気がしてきました。
では誰に心身を任せるのか。
たぶん誰にでもなく、ただただ心身を投げ出して、任せるのです。
言い換えれば、それは「捨てる」ことかもしれません。
「心身を解放する」と言ってもいいでしょう。
ではどこに捨てるのか、何から解放するのか。
こうして思考はどんどん進んでいきます。

しかし、さきほど、前に書いた記事のことを思い出したのです。
「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」
読み直してみました。
すっかり忘れていましたが、すんなりと心身に入ってきます。
まあ自分で書いたことですから、それも当然の話でしょうが。

その2つの話をつなげると、こうなります。
彼岸と此岸の狭間に、自らの心身を投げ出して、自らを空しくする。
なんだかすっきりしますね。

現世の悩ましさや煩わしさも、彼岸への憧憬も不安も、すべてが消えてしまいます。
とここまで書いて、また思い出したことがあります。
これは明日に回します。
期待していただくほど、たいしたことではありませんが。

■1208:いのちの大きな循環(2010年12月23日)
私が天平時代の人たちの声を聞いたのは、高校3年の春でした。
修学旅行で奈良の薬師寺の薬師三尊を拝観している時でした。
なぜか牛車の音が聞こえ、人々のざわめきが聞こえたような気がしたのです。
それは目の前の薬師如来から聞こえてきました。
その時に、仏には時代を超えたたくさんの人たちの祈りが込められていると実感したのです。
以来、仏像が好きになりました。
そこにはさまざまな時代を誠実に生きた人たちの祈りが結集しているからです。
それこそがもしかしたら、虚空蔵への、あるいは彼岸への入り口かもしれません。

祈りによって解放された心身はどこにいくのか。
そうしたあまたの祈りが具象化したひとつが仏像かもしれません。
仏師の西村さんが、仏像は彫るのではなく、姿が現れるのをただたすけるだけだ、というようなことをお話しになったのを聞いたことがあります。
それを聞いて、私も試みましたが、手は動きませんでした。
節子からは笑われました。
しかし、やはりあの時は、祈りがなかったのです。

毎朝、節子の位牌とわが家の大日如来を前に、般若心経をあげています。
それと同時に、節子への感謝と、誰にでもない、そして内容もない、「祈り」をあげます。
時には、誰かの名前や顔を思い出しながら、時にはイラクの映像を思い出しながらですが、ただただ無為に祈ることもあります。
こうした「祈り」が、いつの日か、なにかの形へと具象化していくのかもしれません。
そして、その具象化したものから、私たちは大きな安堵や平安を受け取るのです。
時空間を超えた、いのちの大きな循環を感じます。

節子に向いて、私が祈るとき、私の背後で節子が祈っている。
そんな気もします。
祈りは、ふたつの世界をつなぐだけではないのです。
大きな「いのちの輪」をまわしているのかもしれません。

私に欠けていたのは、「祈り」ではなかったようです。
祈りをする自らを消し去ることだったのです。
止観を超えなければいけません。

メルロ=ボンティは、「世界は主体から分離しえないが、この主体とは世界の投影に他ならない。そしてまた、主体も世界から分離しえないが、この世界も主体そのものが投影する世界なのである」と述べています。
この言葉の意味が、最近少しわかってきたような気がします。

■1209:Happy Doll(2010年12月24日)
節子
久しぶりに夜の銀座を歩きました。
私たちが歩いた頃とはまったく様変わりです。
なぜこんなにも華やいでいるのでしょうか。

銀座に行ったのは、銀座和光のショーウィンドウに飾られたHappy Dollたちを見にいったのです。
Happy Dollは、ホスピタルアートに取り組む高橋雅子さんたちのHappy Doll Projectから生まれました。
高橋さんたちは、5年前から全国の病院をまわり、患者さんたちと一緒に、願いと希望をのせた人形作りに取り組んできました。
5年目の今年は、全国7病院を巡回後、そこで生まれたHappy Dollたちをニューヨークで病気と闘う子どもたちに届けるために、2つの病院と会場にて初の海外プログラムを実現させたのですが、そこで活躍したHappy Dollたちが銀座に出現したというわけです。

残念ながら、その舞台も明日でおしまいです。
ぎりぎりのところで、何とか私もHappy Dollたちに会うことができました。
子どもたちのたどたどしい文字でメッセージも書かれていました。
しかし、Happy Dollと名づけられたように、みんなとても明るく、前を向いていました。
子どもたちはみんな、いつも前を向いているのです。
その一人ひとりに、たくさんの物語があるのでしょう。

たくさんの幸せそうな若者たちも、Happy Dollたちを見ていました。
彼らはそこに、どんな物語をみていたのでしょうか。

これからHappy Dollたちを見にいくといったら、それまで仕事で会っていた2人の友人も付き合ってくれました。
私とほぼ同世代の、ビジネスマンらしからぬビジネスマンたちです。
お2人はHappy Dollたちをじっくりと眺めていました。
その横顔に涙さえ感じました。
みんなちょっと元気をもらえたかもしれません。

節子
久しぶりの銀座は、私には目がくらみそうになるほどの華やかさでした。
節子と歩いた頃とは全く違う世界のような気がしました。
銀座が変わったのでしょうか、それとも私が変わったのでしょうか。

Happy とはいったいなんだろうか、そんなことを考えながら帰ってきました。
私にはやはり節子の写真を見ながら、挽歌を書いているときが一番Happyなのかもしれません。

■1210:幸せは思い出すのではなく、その時に気づくのがいい(2010年12月25日)
節子
節子がむかし使っていた小さなノートが出てきました。
そこに、こんな言葉が書いてありました。

幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ
ピアニスト オスカー・レバント

節子は気になった言葉や気づいたことをすぐメモする習慣がありました。
これもそのひとつでしょう。
よく見ると、平成17年2月4日、ニフィティカードと書き添えていました。
2月4日は節子の誕生日です。
ニフティからのバースデイカードに書いてあった言葉でしょう、
ちなみに、この言葉をネットで調べたら、出てきました。
オスカー・レバントは、アメリカのピアニスト、作曲家、俳優とあります。
「巴里のアメリカ人」にも出ていたそうです。

平成17年2月4日。
節子が少し快方に向かっていた時です。
ホームページで確認したら、節子の還暦の日でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#02042
奈落の底から前に向かって動き出していた頃です。
あの頃の節子は、まちがいなく「日々の幸せ」を意識していました。
一緒にいた私には、それが確信できます。
しかし、レバントの言葉とは違って、節子はそれを思い出すことはなかったのです。

今の節子ならこういうでしょう。
幸せはあとで思い出すものではなく、その時に気づかねばいけない、と。
節子は病気が快方に向かい出してからは、そのように生きていました。
思い出す幸せよりも、生きる幸せに、私たちは感謝しなければいけません。
そのことを教えてくれた節子に、私は感謝しています。

ただどうしても、今はまだ、その幸せ感が持てないでいます。
節子がいない人生には、幸せなどはあろうはずがないという意識から抜けられないのです。
私の場合は、レバントの言葉も心に響きます。
節子がいた時が、いかに幸せだったか、経験していた時よりも、今のほうが、その幸せの大きさがよくわかります。
あの幸せには、もう二度と出会えないのでしょうか。
もしそうならば、思い出したくもない幸せでもあります。

■1211:イルミネーションのない年末(2010年12月26日)
節子
今年のわが家には、例年のようなイルミネーションはありません。
少しさびしい気もします。
年末に来て、みんな忙しくなってしまい、それどころではなかったのです。

節子はイルミネーションが好きでした。
私はあまり好きではありませんでした。
私の生活信条に反するからです。
でも節子がイルミネーションを飾ることには反対はしませんでした。
人にはそれぞれの生き方があり、夫婦といえどもお互いの好みは大切にしなければいけません。

しかし、イルミネーションに関しては、いまでもちょっと後悔していることがあります。
星の形のイルミネーションを節子が買おうとした時に私が反対したことです。
私には、いささか野暮ったく思えたので反対したのですが、その後、いろいろと他のお店を探しても、いいものがなかったので、諦めてもう一度そのお店に買いに行ったら、売り切れていたのです。
たいしたことではなく、節子もさほど欲しがっていたわけではないのですが、ずっと心に残ってしまいました。
そういう「瑣末な記憶」が、心をつつきます。
自虐趣味と思われるかもしれませんが、決して「自虐」ではなく、思いを通じ合った記憶なのです。

昨年は娘が一部のイルミネーションを飾りましたが、その娘たちも今年はいろいろと忙しそうです。
材料は出してあるのですが、飾らないままにクリスマスも終わってしまいました。

節子はクリスマスのイルミネーションに限らず、季節にあったちょっとした飾り付けが好きでした。
それに気づいて、心がホッとしたり、季節を思い出したり、節子のそうした遊び心が私は大好きでした。
その価値はよくわかっていますが、私にはそれができません。
人にはそれぞれできることとできないことがあります。
そのことが最近よくわかってきました。

たぶん私たちは、気づかないままに、お互いを支え合う関係になっていたのです。
節子がいなくなって、私の世界が変化してきているのは、そのせいだろうと思います。
こうして、人は変わっていくのでしょうか。
環境の変化と自己意識の変化にはタイムラグがあるようで、相変わらず違和感のある世界に投げ込まれたような思いから抜けられずにいるのです。

■1212:愛と執着(2010年12月27日)
節子
寒くなりました。
今年はなかなか時間に余裕ができません。
自宅の大掃除も目処がたっておらず、ましてや湯島の掃除は年を越しそうです。
なぜこんなに時間がないのか。

なんでもかでも、節子を理由にするように思われるかもしれませんが、これは間違いなく節子の不在のせいだろうと思います。
なぜかといえば、節子がいればこそ、自分の時間をつくる意識が働きましたが、いまはそういう意識が働かないのです。
基軸がないと人は流れに身を任せてしまうもののようです。

その時間のないなかを、かなり難解な本を読んでいます。
フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」です。
1991年に出版された本ですが、ずっと気になっていた本です。
ヴァレラはオートポイエーシス論を言い出した一人ですが、その視点で社会や組織を見ると新しい視野が開けてきます。
私のこの15年の発想の根底にあるのが、このオートポイエーシス論です。
日本広報学会で話をさせてもらったことがありますが、残念ながら反応はゼロでした。
それでその学会には見切りをつけて辞めました。
まあそれほどある意味では私の発想の基本になっています。

といいながらも、実はきちんとは理解できていないのです。
それで気になっていたヴァレラを読み出したのです。
時間がない時こそが、難しい本を読む時だというのが私の考えです。
さまざまなことをやっている時は、心身が活性化しているから、本の吸収力が高まるのです。

ところがこの本はあまりに難解で、なかなか進みません。
これほど歯がたたない本は久しぶりです。
何となくわかるようで、わからないところが多いのです。
もう読みはじめて1週間は立ちますが、今日、やっと半分ほど読み進んだのですが、そこに仏教の縁起の話が出てきたのです。
そして、愛と執着に関する記述が出てきました。

愛(渇望)からすぐに生じるのは執着/固執である。

そして、愛は輪廻においてきわめて重要な結節点になっていて、ここで覚知した人は解脱できると書かれています。

この文章に出会ってから、また前に進めなくなりました。
この文章の前後に出てくる記述が、あまりに今の私にぴったりなのです。
おかしな言い方ですが、もしかしたらやっとオートポイエーシス論が理解できるかもしれません。
これも節子の導きでしょうか。

■1213:にぎやかなオープンサロンの再現(2010年12月28日)
節子
今日は今年最後のオープンサロンでした。
20人を越える人たちが来てくださり、昔のオープンサロンの雰囲気が久しぶりに再現された感じです。
顔ぶれも、節子が知っている懐かしい顔が何人かそろいました。
ここに、節子と黒岩さんがいたら、昔のサロンそのものでした。
黒岩さんの話題もでました。

たくさんの人が来たので、私ひとりではとても対応できなかったのですが、ネットワーク・ささえあい事務局長の福山さんが節子代わりに対応してくださいました。
節子がいなくなってからの、湯島での集まりでは、不思議なことですが、必ずと言っていいほど、だれかが接待や後片付けの役を自発的にやってくれるのです。
女性だけではありません。
時には男性の、思っても見なかった人が、珈琲カップなどを洗ったりしてくれるのです。
私が、その種のことが苦手なことをみんな感じとるのかもしれません。
そんなわけで、節子がいなくても、湯島での集まりは不都合なく続けられているわけです。

サロンのない様などはホームページ(CWSコモンズ)のほうに書こうと思いますが、4時間のロングランのサロンも、なかなか終わらずに、話題もいろいろでした。

ところで、サロンが始まる前に台湾から電話がありました。
留学生時代に湯島によくきていた呉さんでした。
私の声を聞いて、佐藤さんの声が元気になっていて、うれしいと言ってくれました。
呉さんは節子もよく知っているのです。
今度、奥さんと一緒に来日するそうで、我孫子のわが家を訪問したいというのです。
とてもうれしい話です。
そういえば、昔、節子と一緒に留学生の集まりの場もやっていたのです。
そのことも思い出しました。

来年は、また節子がいた頃のようなサロンを、きちんと再開しようと改めて思いました。
なんだか今日は、7年前に戻ったような、そんな日になりました。
年末の多用な時期に、わざわざ湯島まで来てくださった方たちに感謝しなければいけません。
節子と一緒に長年にわたって、さまざまなサロンをやっていたことは、いまの私にたくさんの元気を与えてくれます。
節子にも感謝しなければいけません。

■1214:喪失の悲しみを癒すのは新しい出会い(愛)(2010年12月29日)
浜松のUさんが節子に,といって花を持ってきてくれました。
Uさんと節子は面識はありませんが、Uさんも愛する人を見送ったことから、以前一度湯島に訪ねてきてくれたのです。
大阪でのある集まりにも、参加してくれました。
そのUさんから数日前にメールが届いたのです。

大阪での集まり以来、すっかりご無沙汰していますが、お変わりございませんか。
最近の挽歌、読ませて頂きましたが、お忙しそうですね。

私も元気に、忙しく活動しています。
時が出会いを運んできてくれたのです。
その出会いは、喪失感でいっぱいだった私になぜか、やる気と元気を与えてくれました。
そして、今はその人の為に、自分のできる限りのことをしたいという思いにかられています。

喪失の悲しみを癒すのは、新しい出会い(愛情)なのかもしれません。
因みに、今、育もうとしているのは「友情」です。

さて、今回メールしているのは、他でもない、その友人の力になりたいからです。
今、窮地に立たされているその友人の為に、私ができることを考えていたら佐藤さんのお顔が思い浮かびました。

佐藤さんのご経験の中でのお知恵、アイディア、お考え、是非とも伺ってみたいのです。
私は、私にできる、思いつく限りの行動を起こさずにはいられません。

そしてぜひとも年内に会いたいと行って、やってきたのです。
そして節子へと花をいただきました。
節子の好きな、あったかなやわらかい花でした。

「窮地の友人」の話を聞きました。
ミュージシャンで、その人の曲に感動したのが、出会いだったようです。
そして彼から、愛する人を失ったUさんを元気づけようと、Uさん一人に向けたコンサートのCDが送られてきたのだそうです。
そういう活動をしているミュージシャンのようです。
その彼が、活動を継続でききるかどうかの問題に直面しているようです。
そこでUさんは「自分でできること」はないかと動き出したのです。

Uさんは、スピリチュアルな若い女性です。
最初に彼女に会って話を聞いた時に感じたことは、どう考えても現世の論理には合わないということです。
私以上に、現世とそこでの常識を超えています。
その彼女が、
「喪失の悲しみを癒すのは新しい出会い(愛)」
と言うのです。

いろいろと話をして、少しだけ彼女の「できること」が見えてきたようです。
彼岸の人と話すと生きる力をもらえますが、現世の人と話すことも、意味があるかもしれません。
彼女が来年何を始めるか、私にも少しわかるような気がします。
私も少しはUさんに役立ったかもしれません。

今年は、ほんとうに、「支え支えられる年」でした。

■1215:意識は変わらないのに表象は変わっていきます(2010年12月30日)
節子
今年もあと2日です。
この1年、実にいろいろなことがありましたが、娘たちも含めて、なんとかそれぞれの生活を取り戻しつつあるように思います。
おそらくこの挽歌も、年初と年末では雰囲気がかなり変わっていると思います。

一昨日の集まりで、20代の若者から、「佐藤さんはいつも夢があって幸せそうです」と言われました。
悲しみによどんでいた1年前に比べれば大きな変化です。

この挽歌の読者からも、あたたかい、あるいは辛らつな、メールをもらいました。
以下無断転載です。

1年間無料で、妻への挽歌購読させていただき、有難うございました。
頼りなさそうにとぼとぼ歩いているかと思うと、気力を振り絞って無謀な時間破産なとのたまったり。

はちゃめちゃながら、その破天荒ぶりを支えていた方を、懐かしく偲んだり。心の中を吹き荒れる嵐を、じつと耐えたり、枯野に晒したり、ワンワン泣いたり、苦い酒を飲んだり(佐藤さんが下戸なのは幸いです)。

そんな佐藤さんを読者は暖かく見守っているのです。
めんどくせえ奴だ、めそめそしやがって!独りよがりなだけじゃないか、おめえだけがヒーローかよ!
ケドョおめえはえれえよ、裸になることを、恥ずかしく思っていないんだもの。

自虐さは相変わらずだけど、時間が薬です。
痛みすら懐かしく思える、時が来るのではないでしょうか。
私はまだ痛みは痛みで、その痛みで眠れない時さえあります。

答えも、開放する術も、ごまんとあったとしても、今の状況が案外楽なのかもしれません。
来年は佐藤さんにお会いしてもいいかなと、思っています。

この方も愛する伴侶を見送りました。
この文章は、私と自分とがかなり入り混じっている気がしますが、この方も私と同じく、きっと1年前とは変わってきています。
意識ではまったく何も変わっていないのに、表象では変わっていく。
「私は、私と環境である」といったオルテガを思い出します。

■1216:希望に感謝して生きる(2010年12月31日)
節子
節子のいないまま、また1年をなんとか乗り越えました。
大晦日の夜になると、いつもとはとがって、節子のいない寂しさが全身を覆うような気がします。
節子がいた時に、幸せな年越しは、もう二度とやってこないでしょう。

そしてもう数時間で、新しい年が始まります。
今年は年末になって、ユカが肺炎になったので、初日は一人で見ることになるでしょう。

昨年の元旦はどんな気持ちだったのだろうかとホームページを調べたら、次のように書いていました。
自分で書いた文章にもかかわらず、何回も読み直してしまいました。
今年最後の挽歌は、その文章を再掲することにしました。
今の私の気持ちにとてもぴったりするからです。

新しい年が始まりました。
私に生きる意味を与えていた妻を見送ってから3回目の新しい年です。
妻への思慕の念は高まりこそすれ弱まることはありませんが、みなさんからは元気になってよかったとよく言われるようになりました。
確かに元気にはなりました。
「希望を確信するのではなく、希望に感謝して生きたい」
これが昨年の年初の思いでした。
希望に感謝するとはわかりにくい言葉ですが、要するに生きていることに感謝するということです。
生きていることに感謝する「お返し」は、自分の生が他者に意味を与えることかもしれません。

私にできることは何か。それが昨年の課題でした。
少しは他者のためになったでしょうか。それはわかりません。
しかし今年も、自分ができることは何だろうかと、会う人ごとに考えながら生きていこうと思います。
それこそが、生きる意味を取り戻し、希望が見えてくる道なのかもしれません。
そして、時代の岐路といわれる現在、まさにその生き方が求められているようにも思います。
みなさんは、人生の意味をどうお考えですか。
平安がもっともっと広がりますように。
2010年1月1日
佐藤修

まもなく、節子を見送ってから4回目の新しい年がはじまります。
まだ希望は見えてきませんし、生きる意味も取り戻せずにいますが、それがなくても平安は得られることを学びました。
節子と毎日会話しているおかげかもしれません。

■1217:心の中で家内を茶飲み友達にしていきます(2011年1月1日)
節子
今年も穏やかな年明けでした。
例年通り、屋上から手賀沼に上がる初日の出を見ました。
初日が出てきた途端に、あたりがあたたかな雰囲気で満たされ、幸せな気分になります。
久しぶりに、そのあたたかさを感じました。
節子のいないお正月も、今年で4回目です。

届いた年賀状を見ていたら、「これからは心の中で家内を茶飲み友達として前向きに生きていきます」と書いている年賀状に気づきました。
Yさんからの年賀状です。
そういえば、Yさんもたしか一昨年、奥様を見送ったのです。
Yさんは、この文章を手書きで書き添えています。
ということは、たぶん私を意識して書いてくれたのです。
私が節子を見送ったことを知ってくれているのでしょう。
にもかかわらず、私はYさんのことを忘れていました。
自分のことになるとしっかりと記憶にとどめられるのに、他者のことは心に残っていない自分の薄情さに驚きます。
恥ずかしい限りです。

Yさんはなぜわざわざ手書きで書いたのでしょうか。
文字で書くことで、心の中の奥様が生き生きと見えてくるからではないかと思います。
私の場合はそうです。
書いたり話したりすると、安心するのです。
私の心身にも節子は宿っている気がしますが、こうやって文字にすると、その気がより確かなものになるのです。
人の思いは、形になればなるほど、実感しやすくなるのです。

届いた年賀状のなかには、節子の友だちからのものも少なくありません。
宛先は私になっていますが、ほんとうは節子に宛てて書いているのでしょう。
そこに書かれたわずかばかりの文字の向こうに、節子が見えるような気がします。

節子と最後に行ったイラン旅行でご一緒した弁護士のNさんからも届きました。
Nさんからの手紙を読むと必ず、節子と一緒に歩いたシラーズの橋を思い出します。

節子は年賀状が好きでした。
陽だまりのなかで、1枚1枚、年賀状を読んでいる節子の姿を思い出します。
節子の年賀状と私の年賀状は、意味が全く違いました。
だから節子がいなくなったいまも、実質的には節子宛の年賀状が届くのです。
今年は、私も節子のように、1枚1枚の年賀状を読みました。

私にも少し心の余裕が生まれだしたのかもしれません。
実は節子がいなくなってから、私は年賀状が書けなくなっているのです。

■1218:「愛する愛」と「愛される愛」(2011年1月2日)
鈴木章弘さんが、昨年、心に響いたことばのひとつとして、次の言葉を年賀状に書いてきてくれました。

生きるのに必要なものだけを持ち歩く身軽な旅は、エネルギーを高め、活力を与えてくれる。簡素こそが幸せの秘訣なのだ。

ナチュラリストの探検家ピーター・マシーセンの言葉だそうです。
たしかに旅の場合はそうだと思います。
私も旅行の荷物は決して多くはないほうです。

しかし、人生という旅ではどうでしょうか。
「愛」は荷物でしょうか。
そして、生きるのに必要なものでしょうか。

昨年、愛と執着について書きました。
愛がなければ執着は生まれない。
愛から生まれる執着からどう解放さえるか。
それが輪廻の輪から解脱することだと仏教は説いています。
もう少し続きを書こうと思いながら、終わっていたことを思い出しました。

愛がなければ執着は生まれませんが、
愛がなければ人生には意味がありません。
愛を捨てることが執着を捨てることではないような気がします。

愛には2種類あります。
「愛する愛」と「愛される愛」です。
私は「愛すること」が好きなタイプです。
愛されるのは面倒ですが、愛するのは簡単だからです。
この2つの「愛」は、同じ「愛」と言う言葉ですが、まったく別のもののような気がします。
それに関しては、いつかまた書こうと思いますが、
今日の問題は、人生において荷物になるのはどちらの「愛」か、という話です。
これは悩ましい問題ですが、解脱につながる話かもしれません。

ナチュラリストのマシーセンは、自然を愛したはずです。
そして、そうした愛があればこそ、旅を続けられたような気がします。

つまり、「愛する愛」は荷物にはならないのです。
それに対して、「愛される愛」は荷物になります。
その荷物の重さに耐えかねて、旅に出る人さえいるのです。

簡素こそが幸せの秘訣。
この言葉の意味をもう少ししっかりと考える必要があるような気がします。

■1219:はじまり(2011年1月3日)
「ノウイング」という映画をテレビで観ました。
最近流行の「地球滅亡もの」の一種です。
滅亡の原因は太陽の爆発です。
きちんと見ていなかったので記憶が曖昧ですが、映画に出てきて生命の保存役を果たすのがプレアデス星人のようです。
プレアデス星団は、地球から400光年離れた星団ですが、宇宙人の出身地としてよく出てくる星で、地球人類の祖先という説もあります。

まあこの種の話は、節子はあまり興味がありませんでしたが、今となっては節子のほうが詳しいかもしれません。
なにしろ彼岸では、太陽系もプレアデス星団も同じ時空間に織り込まれているのでしょうから。
今頃、節子もプレアデス星人と付き合い出して、「修の言っていたことはほんとだったのだ」と驚いているかもしれません。

しかし、そんなことは、今日、書こうと思ったことからいえば、どうでもいいことです。
「ノウイング」では、地球の滅亡を知ったプレアデス星人が人類を残すために2人の子どもを選んで宇宙船で新しい星に移転させるのですが、その2人以外の人類は、太陽の熱で地球もろとも焼尽されてしまうのです。
その直前、主人公は長年疎遠だった両親の元に帰ります。
牧師の父は、これは終わりではなく始まりだというのです。
すべてが太陽に焼き尽くされることが、なぜ「始まり」なのかわかりませんが、なぜか奇妙に納得してしまいました。
仏教では、死は次の輪廻の始まりになるわけですが、この映画にあるのはキリスト教的世界ですから、次の天地創造を示唆しているのかもしれません。

節子を見送る行事は終わった時、身勝手にも私は、すべての世界が終わればいいと思いました。
それは私自身の中で、すべてが終わったという感覚があったからでもあります。
しかしその念は必ずしも強くなく、世界はおろか私自身も終われませんでした。
伴侶を失った後、自らの生を自然に終わらせる人がいますが、そういう人の話を聞くとちょっとうらやましくもなります。
残念ながら私の場合は、いまなお生きつづけています。

死は始まりなのだという牧師の言葉は、奇妙に心に残りました。
つまり、死は新しい生への入り口なのです。

死からはじまる世界。
節子は、私に先んじてその世界を始めました。
どんな楽しい体験をしているのでしょうか。

■1221:うれしさと悲しさの共存(2011年1月5日)
節子
今日は台湾の呉さんがやってきました。
7年ぶりでしょうか。
前回は節子もまだ元気でした。

呉さんとの縁は、節子と一緒に湯島で留学生たちのための集まりを毎月やっていた時にできたものです。
呉さんは毎月やってきました。
正月にはわが家にまで来てくれました。
呉さんが台湾に帰国してしばらくしてから結婚式の知らせが届きました。
相手も湯島の留学生サロンに参加したことのある人でした。
台湾での結婚式にはとても興味があったのですが、当時は私もいろいろと仕事をしていたため、その当日がどうしても調整できない用事が入っていたため行けませんでした。
今から思えば、誰かに代わってもらえたのでしょうが、当時の私の価値観はいまとは違っていたのです。
私は滅多に後悔しない性格だったのですが、このことだけは後になってとても後悔しました。

節子は台湾に行ったことがありませんでした。
一度行こうと言いながら、なかなか機会がなく、病気になってしまってからは、少し良くなったらまずは近場の台湾から旅行をしようと話していました。
呉さんからも何回もお誘いがありました。
もう少し良くなったら、といいながら、結局、台湾旅行は実現しませんでした。
そのことも悔いとなって残っています。

久しぶりの呉さんはだいぶ太っていました。
留学生サロンに集まっていたなかで、最もビジネスには向いていない若者でしたが、いまは台湾の高雄で会社をやっています。
しかしあまりの人の良さに、いささか心配ではあります。
イベントなどの記念品のバッジやストラップなどを製作している会社ですので、もしそういう話があればご連絡ください。
愛知万博ではだいぶ注文をもらったそうです。

呉さんはご夫妻で来日されたのですが、奥さんは昔、わが家のある我孫子の渋谷さんというお宅にホームステイしていたそうです。
それで彼女は渋谷さんのところに、彼はわが家に来たのです。
それぞれの話が終わった後で、彼女にも会いました。
彼女とは15年ぶりくらいでしょうか。

節子がいたらどんなに喜んだことでしょうか。
それを思うと、呉夫妻に会えたうれしさと同じほどの哀しさを感じました。
うれしさと悲しさは、共存するのです。
節子を見送ってから、よく体験することです。

でもまあ、節子はきっと喜んでいるでしょう。
節子は、とても素直で人の良い呉さんがとてもお気に入りだったのです。
呉さんは節子の位牌にお線香をあげてくれました。

■1222:帽子(2011年1月6日)
節子
寒いので和室のコタツでパソコンに向かいました。
和室の床の間に節子の写真と帽子が乗っています、
意図して乗せているわけではなく、どうも片付ける気力がなくて、ただ3年前に仮置きしたままになっているだけなのです。
その節子の写真と帽子が、コタツに入ると目の前の位置に重なるようにして見えるのです。
写真は葬儀の時に使った写真です。
黒枠を白枠に変えようと思っているのですが、どうもその気さえ起きません。
節子の記憶の残る物は、何も変えたくないという意識が働いているのかもしれません。
あるいは、ただ怠惰なだけかもしれません。
まあ私にとってはどちらも同じことなのですが。

帽子は、節子が病気になってからの旅行によくかぶっていたハンティングです。
私の好きな帽子です。

節子の服装の趣味は、正直、あまりよくありませんでした。
私との趣味の違いもありましたが、節子の好みはちょっと変わっていました。
ふた昔前か、ふた昔先のファッション感覚でした。
どうみても今風ではなく、お洒落でもありませんでした。
しかし、帽子だけは私と好みが合いました。

私は帽子をかぶっている節子がとても好きでした。
麦藁帽でもキャップでも、節子は帽子が似合いました。
その最後の帽子が床の間に置かれているのです。
そのハンティングは、しかしあまりかぶられることはありませんでした。
その最後のハンティングをかぶって、一緒に旅行したのは、おそらく数回だけです。
その一世代前のハンティングはどこにいったのでしょうか。
もしかしたら捨ててしまったのかもしれません。

最近、ようやく節子のことを冷静に思いだせるようになりました。
しかし、思い出していると涙が出てくるのは、今もなお変わりません。
帽子と写真を見ていると涙で風景がかすんできます。
そして節子が帽子を手にとってかぶってしまうような気がしてきます。

最近また節子に無性に会いたくなっています。
この先、何年、この寂しさに耐えなければいけないのでしょうか。
誰かに愛されている人が先立つことは、やはりよくありません。
先に逝くのは、愛する人でなければいけません。
節子はそれを間違ってしまったのです。
それとも節子は私以上に私を愛していたのでしょうか。
そんなはずはありません、

私の最後の旅立ちには、この帽子を持たせてもらうことに決めました。

■1223:「元気になるかどうか、それが問題だ」(2011年1月7日)
節子
今年の新年の挨拶に、次のような文章を書きました。

「希望を確信するのではなく、希望に感謝して生きたい」
これが、最近の私の信条です。
希望に感謝するとは生きていることに感謝することであり、
その「お返し」は、自分の生が他者に意味を与えることかもしれません。
自分の存在が、だれかを元気にするのであれば、これほどうれしいことはありません。
そして結局は、その元気は自らへと戻ってきます。
昨年は、そんな生き方ができたように思います。
そのおかげで、たくさんの人たちから元気をもらえました。

この文章を読んだ人たちから何通もメールをもらいました。
思いもかけなかった人からもメールをいただいたのには驚きました。
久しくお会いしていないデザイナーの田中さんは、
「佐藤さんのサイトを読んで元気をもらっています」
と書いてきてくれました。

先日わが家に来た呉さんも、元気な佐藤さんに会えてよかったと言ってくれましたが、
同じ日にインドネシアにいるチョンさんからも、佐藤さんは元気でないとダメだというようなメールがきました。
彼らが留学生だった頃、きっと私の元気が少しは役立っていたのでしょう。

それにしても、呉さんもチョンさんも前に話した時にはよほど私の気が萎えていたのでしょう。
私自身は、誰かに接する時の状況はあまり変わっていないような気がしているのですが、ある期間をあけて会ったり話したりすると、やはり違いが感じられるのかもしれません。
どうやら私は、どんどん元気になっているようです。

希望への感謝の思いが誰かを元気にし、それが自分も元気にしてくれる。
元気になれば、さらに周りを元気にしていける。
そんな「元気の循環」が、私の周りに生まれだしているような気がします。

しかし、ここでまた余計なことを書いてしまうのですが、
そうした元気が大きくなればなるほど、私の心身のどこかで、小さな声がするのです。
そんなに元気になっていいのか、
節子もいないのに、元気になると節子がさびしがるよ、と。

人の心の中には、たくさんの自分が住んでいるようです。
ハムレットではないですが、
「元気になるかどうか、それが問題だ」
なのです。

■1224:節子が持っていった思い出(2011年1月8日)
節子
今日もきれいな青空で、日向ぼっこ日和です。
年末年始とばたばたさが続き、お雑煮も1回しか食べられない、正月らしからぬ正月になりました。
初詣にもまだ行けずにいます。

一昨日、山積みの宿題を終わらせてホッとした途端に、今度は何もする気がなくなりました。
といっても、昨日も東京での会合に出たり、地元の選挙事務所にいったり、それなりの行動はしていますが、どうも気力が出ないのです。
年賀状もまだ白紙のままで机の上にあります。
毎年必ず新年の挨拶をするメーリングリストにも、まだ投稿できずにいます。
その気になれば、5分でできるのですが、その気にならないのです。
早く知らせなければいけないこともあるのですが、なぜかその気が起きません。
その理由はわかりませんが、こういうことが増えてきました。

そうした素直な気分にできるだけ従いながら生きようと思いだしていますので、したくないことはしないようにしていますが、そうすればするほど、心の中になにか不安感が高まるのです。
精神的にはよくありません。
こういう経験は節子がいた頃はなかったような気もしますが、年のせいかもしれません。

わが家は幸いに日当たりがいいので、冬でも青空があればあたたかい場所があります。
そこでぼんやりしていると至福の時間を過ごせます。
昔もこんな体験があるなと思い出しました。
海水浴にいって、浜辺で熱い太陽の下で波の音を聞きながら寝ていた時がそうでした。

前にも書いたような気がしますが、人類が最初に月に降り立った時、節子と2人で北茨城の海に泳ぎにいっていました。
北茨城のどこの海だったか思い出せませんし、第一、なんで北茨城なんかに泳ぎにいったのか不思議ですが、たぶん事実です。
民宿だったと思いますが、部屋のテレビでアポロの月面着陸を見ていました。
しかし当時の私たちは、そんなことよりも海で泳ぐほうに熱心でした。
砂浜で波の音を聞きながら、2人で並んで寝ていたことを思い出します。

とこう書いてきて、果たしてその思い出は事実なのだろうかとまた思いました。
実は北茨城での海水浴の思い出は、思いだすたびにそう思うのです。
探したらその時の写真はあるでしょう。
ですから間違いはないと思いますが、現実感がないのです。
私にはそういう記憶がいくつかあります。

節子は、私との思い出をたくさんつくりたいといっていました。
もしかしたら、私との思い出のいくつかは節子が彼岸に持っていってしまったのかもしれません。

陽だまりでうとうとしていたら、そんなことを考えてしまいました。
さて年賀状でも書きましょうか。

■1225:ゆっくり歩くといろんなことを思い出します(2011年1月9日)
節子
寒くなりました。
今日はチビタの散歩に行きました。
チビタも高齢なので、近所を少しまわってくるだけですが、速度が実にゆっくりなのです。
他の犬には追い抜かれてしまいます。

そう言えば、節子の散歩も同じでした。
実にゆっくり歩きました。
私には気がつかないようなゆるやかな上り坂も、節子には負担でした。
弱い立場にある人ほど、わずかばかりの辛さを実感できることを、私は節子との散歩で学びました。
しかし、その学びは、節子がいた頃に十分生かされたとは思えません。
節子への心配りは、今から思えば、反省することだらけです。
チビタの散歩をしながら、そんなことをまた思い出していました。

鉄道で旅行をする時に、目的地までの電車の時間をどう考えるかによって、旅の意味合いは変わります。
節子は道中も楽しむタイプでした。
ですから新幹線よりも在来線が好きでした。
もちろん遠くに行く時には在来線は無理がありますが、50歳になっても、友人たちと青春きっぷなどを楽しんでいました。
私もどちらかと言えば、ゆっくり道中を楽しむ旅が好きでした。

ところで、私の人生は途中を楽しむ人生だったのだろうか、と思うことがあります。
老後になったら、という発想は皆無でしたが、かと言って、その時々を十分に充実させていたかといえば、疑問です。
節子には、私の生き方は仕事ばかりのように映っていたような気もします。
一般的にいえば、夫婦の時間は決して少なくありませんでしたし、一緒に旅にもよく行きました。
しかし、今から思えば、節子はもっと私が仕事から解放されることを望んでいたことは間違いありません。
節子が病気になってからは、私は原則として仕事は一切受けませんでした。
しかし、それまでのつながりで断れないような仕事や相談には乗り続けましたし、NPOの支援活動も継続していました。
もしかしたら、節子は不満だったかもしれません。

いやいやそんなことはない、とも思います。
節子はいつも、私はいいからもっと他の人のことを考えたらと言ってもいました。
でもあれは本心だったのでしょうか。
彼岸で節子に再会したら、訊いてみようと思います。
節子のやさしさを思い出すと、やはりどうしても涙が出てきます。

■1226:「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」(2011年1月10日)
「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」とは、異端の認知科学者マーク・ジョンソンの言葉だそうです。
認知科学の基本姿勢は、世界はそれを見る人から独立して存在するというものですが、私にとっての世界は、私がいればこそ存在するのであって、私の理解する世界は、おそらく他の人とは大きく違っているだろうと思います。
しかし人は(私もですが)、往々にして、みんな同じ世界に生きていると思いがちです。
私が、そのことを単に頭ではなく、心身で実感し出したのは、やはり節子を見送ってからです。
世界は一変し、他の人と話していても、なんだか別の世界にいるような気がよくしたものです。
最近は、そういう違和感はあまり持たなくなりました。
私と他者の世界の違いではなく、みんなそれぞれに違うのだということと、にもかかわらず、それに併せて、みんなの世界はしっかりと重なり合っているのだという気がしてきたのです。
それに同じ世界を生きる必要もありません。
私が節子と同じ世界に生きようとしたことは、私には悔いのないことですが、それは相手が一人、ただ1回だけのことだからこそ、できたことなのです。

「理解とは、そのなかで人が世界を有する出来事である」
節子がいればこそ、あるいは節子がいないが故にこそ、私の世界は私の世界でした。
その世界は決して私とは無縁にあるわけではありません。
私の考えや行動によって、世界は変わっていくでしょう。
私が生きる世界と私の思い(理解)と、深くつながっています。

挽歌を書き続けながら、その世界も私の理解もいろいろと変化していることを感じています。
私自身は、この挽歌を読み直すことはないのですが、書いていて感ずるのは、節子のことも、過去の事柄も、微妙に意味合いが変わってきているのではないかという不安です。
注意しないと、私の節子像は実像とは別のものになってしまっていくかもしれません。
いや娘たちによれば、もうすでに変わってきていると言われます。

しかし、どれが実像なのか、まあそんなことは意味のないことかもしれません。
節子もまた、私と同じように、いまなお生きつづけているのですから。

■1227:「節子だから許してくれるよ」(2011年1月11日)
節子
寒くなりました。
雪のために、交通環境にも障害が発生し、いろんな問題も起こっています。
しかし、どういうわけか、わが家のある我孫子は毎日好天に恵まれています。
新年の挨拶にもかいたのですが、私のまわりはいつもあたたかい空気で守られているようです。

節子がいたころは、その年の目標や行事を新年に話し合ったり、決めたりしていたものですが、今年はそういうことの全くない年の始まりでした。
気がついて見たら、もう11日です。
節子がいなくなった途端に、節目の感覚が無くなってしまいました。

元旦の最初の食事で、節子は私にちゃんと挨拶をするように仕向けていました。
1年の計は元旦にあり、というわけです。
ところが私はそういうのがまったく駄目なのです。
それはハウスマネージャーとしての節子の役割だろうと逃げていましたが、節子がいる頃は一応、何か一言二言話していたような気もします。
しかし節子がいなくなった途端に、わが家からはマネージャーがいなくなりました。
今年は娘が肺炎だったこともありますが、けじめなく年を越し、けじめなく年を始めてしまいました。
節子はきっと嘆いていることでしょう。
そういえば、今年はお神酒もいただいていません、
仏壇にもあげていません。
困ったものです。

しかし、節子はそういう仕来りは気にはしていましたが、そのやり方には頓着しませんでした。
実に柔軟というか、いい加減というか、そのスタイルは何でもありという面ももっていました。
「心が入っていればいいのよ」というのが、節子の考えでした。
まあその「いい加減さ」は、私と同じなのですが、ですからわが家にはこういう言葉もあるのです。
「節子だから許してくれるよ」

というわけで、節子の位牌の前のお供えはなかなか替えてもらえませんし、お茶も時にもらえません。
しかし節子のことですから、まあ良しとしているでしょう、
立場が私と逆だったら、もっと手を抜かれていたかもしれません。
なにしろいい加減の節子ですから、
まあ私もきっとこう言っていたでしょう。
「節子だから仕方がないよね」

■1228:地蔵菩薩からの贈りもの(2011年1月12日)
節子
大きなブリが神崎さんから届きました。
先日、電話で「魚をさばけるか」と電話がありました。
ブリを送ると言うのです。
神崎さんは、このブログでも登場したことがあるかもしれませんが、お地蔵さんのような人です。
と言っても、自分でも言っているように、数年前までは任侠の世界の人でした。
その波乱に満ちた人生は、彼のブログをお読みください。
節子に引き合わせられなかったのが実に残念ですが、体育会系の好きな節子にはきっと気があったでしょう。
もっとも節子は面食いでもありましたから、いささか微妙ではありますが。
何しろ神崎さんは見た感じからして、それとわかる風体なのです。
しかし正義の人である点では、間違いなく節子とは気が合ったはずです。

神崎さんに、自分でさばいたらいいじゃないかと言ったら、そんな面倒なことができるかと言われました。
指をつめるより簡単だろうと言いましたが、一人では食べきれないと言うのです。
そんなやりとりの挙句、結局、神崎さんは自分がもらうはずだったブリを私に送ってくれました。
地蔵菩薩が困っている人を救ってくれる話は本当なのです。
それが今日、届いたのです。
富山県氷見の立派な寒ブリです。
私一人では途方にくれたでしょうが、幸いにジュンがさばいてくれました。
ジュンは節子の娘ですから、何でも手前流でやってしまうのです。
私も手伝いましたが、なにしろ血を見るのが嫌いな私には不得手な作業です。

わが家には出刃包丁が2本あります。
そのうちの1本は私のです。
私が会社を辞めた時に、北九州市の収入役だった山下さんが私にくれたのです。
これからは自分で料理くらいしろと言うことだったのでしょう。
意気込んだ私は、節子に鯛を買ってきてもらいさばいてみました。
しかし、その後、私はニ度と魚はさばきませんし、節子もニ度と私には勧めませんでした。
なぜなら、その時さばいた鯛は見事に半分以上ごみになってしまったからです。

さばいているとどうしても節子の話題になります。
わが家には節子のエピソードは山のようにあるのです。
こうしていつまでも家族の話題になる節子は幸せ者です。
節子の話題を話せる残された者は、幸せなのでしょうか。
いささか微妙ではあります。

今日はブリシャブを初めとしたブリ三昧です。
節子が好きだったブリ大根や荒汁を節子にも供えることにしました。
節子も久しぶりに豪華な夕食です。
何しろわが家は普段はお茶だけしか供えていないのですから。

ところで、石鹸でよく洗ったのに、まだ手から生臭さが抜けません。
それとさばく時に見たブリに顔がまだ目の前にちらつきます。
心やさしい人に魚をさばかせるとは、地蔵菩薩も残酷なことをするものです。

■1229:世界が退屈な理由(2011年1月13日)
湯島にまた人が戻り出してきました。
今日も20代から60代まで、さまざまな人が来てくれました。
節子がいたら、そのそれぞれの人について、いろいろと話ができて、世界を広げることができるのですが、私だけだとただ会うだけでその後の発展がありません。
まあ会うだけでも世界は広がるのですが、節子と後で話すと立体的に世界が広がったのです。
目が2つあるために世界が立体的に見えるように、心が2つあると世界の奥行きもまた豊かに広がるのです。
私たちは一緒に新しい人に会ったり、新しい場所に行ったり、新しい体験をしたりすると、必ずそれぞれの視点で話し合ったものです。
私も節子も単細胞的でしたから、まあ2人で一人前とも言えるのですが、それでも複数の目で見る世界はいつも豊かで楽しいものでした。

世界とのこうした付き合いが、節子がいなくなってからはできなくなってしまいましたが、もしかしたら、それが私の最近の退屈さの一因かも知れません。
最近どうも世界が退屈で仕方がないのです。

私と節子は、それぞれ育った環境も違いますし、関心事も違いました。
結婚した時の私たちの世界は、おそらくまったく違っていたのです。
にもかかわらず、私たちが比較的早い時期に、それぞれの世界を卒業して、2人の新しい世界を創れたのは、最初にお互いが自分を完全にさらけ出したからだろうと思います。
私たちほど隠しごとのない夫婦はいないね、とは、節子がよく言っていた言葉です。
早い時期にすべてを共有することで、何かを隠すことの必要がまったくなくなったからです。
同時に、それぞれの体験を容易に共有できるようになりました。
つまり、心が2つになったのです。
そのおかげで、世界はさまざまな意味を見せるようになりました。
退屈な政治も、節子と話していると、それなりに退屈ではなかったのです。

世界が退屈になったのが、節子がいなくなったからだとしたら、もう私にはわくわくする世界は2度と味わえないのかもしれません。
いろいろと面白そうな話が最近また見え出しているのですが、どうも以前のように心身が動かないのはそのせいかもしれません。

節子の存在は、実に不思議な存在でした。
最近それに気づいたのですが、考えれば考えるほど、その理由がわかりません。
なんで節子はそんなに大きな意味を持っていたのでしょうか。
あまり賢くもなく、それほど美人でもなく、節子がいつも自分でいいっていたように、私と同じで退屈な人柄だったのに、不思議というしかありません。
2人の世界が、あまりに見事に創れてしまったからかもしれません。

■1230:病院(2011年1月14日)
節子
節子を見送ってから、なかなか近寄りがたかった病院に行ってきました。
といっても日大の歯学部の病院です。
親知らず歯が少し問題を起こしているので、昨年の春に歯医者さんから紹介されていたのです。

一人で大きな病院に行くのは久しぶりです。
節子が元気の時は、いつも節子が同行してくれましたし、節子が病気になってからはいつも私が同行していました。
病院の待合室が以前から私には苦手なのですが、節子を見送った後は病院そのものが苦手になりました。

節子を見送った1年後に、友人から病院関係の研究プロジェクトに誘われました。
私が以前立ち上げた、生活者の視点から病院を考えるヒポクラテスの会というのがあったのですが、そのメンバーからのお誘いでした。
当時は病院と聞いただけで心穏やかではありませんでした。
それで辞退させてもらいました。
しかし、3年経って、やっと病院にも行けるようになりました。

私と同じように、愛する人を見送ったことから病院に一時期、行きたくなくなった人がいます。
ホスピタルアートなどの活動に取り組んでいた高橋雅子さんです。
彼女の場合は、ご両親を見送った後、病院にある種の感情を持ってしまったようですが、彼女はしばらくして亡くなったご両親が逆に病院での活動を後ろから押してくれるような気がして、また病院の活動に戻られたそうです。
以前、挽歌でも紹介したハッピードール展は、高橋さんの活動の成果です。
もしかしたら、節子もまた、私に病院に関する活動をしてほしいと思っているかもしれません。
今日、病院の待合室でそれに気づきました。

ところで高橋さんはスロバキア国立オペラの東京公演に協力したことは、前に時評編で書きました。
その思いの良さに、オペラ嫌いの私も、その公演を応援していますが、なかなかチケットが売れません。
首都圏界隈の人で、もし行ってもいいという方がいたら、ぜひ高橋さんにお申込みください。
詳しくはブログをお読みください。
私は21日に行く予定です。
何かが変わるかもしれません。

■1231:いやな夢を見なくなりました(2011年1月15日)
最近、節子の夢をよく見ます。
昨日は2人で旅行に行っている夢でした。
今朝はかなり鮮明に覚えていたのですが、いま思い出して書こうと思ったら、なぜか思い出せません。
その前の夜も、節子が夢に出てきましたが、なんの夢だったかさえ思い出せません。
もしかしたら、夢を見たこともまた夢なのかもしれません。
夢は本当に不思議です。

節子が元気だった頃、夢にうなされて目が覚めたことが何回かあります。
あまりの怖さに節子を起こして、笑われたことさえあります。
目覚めの悪い夢も時々見ました。
金縛りになったことも数回ありました。
非日常的な奇妙な夢もよく見ました。
夢は、私には苦手だったのです。

ところが、最近はそうした夢を一切見なくなりました。
以前と違って、私の夢はとても穏やかな、日常的な夢になっているのです。
心が平安になっているのでしょうか。
節子がいなくなったのに、心が平安になるというのはとても不思議ですが、最近見る夢はいつもあたたかく、穏やかなのです。
目覚めが悪いことはありません。
一人になった私を節子が守ってくれていると思いたくなるほどです。

夢ではないのですが、真夜中に突然目が覚めることはいまもよくあります。
しかし、目が覚めても、またすぐに眠れるようになってきました。
前にも書きましたが、夜の私の寝室は、とてもあたたかくて明るい感じがしてなりません。

ところで、節子の夢を見たと書きましたが、夢に出てくる節子は、姿かたちがあるわけではないのです。
正確に言えば、「気配」なのです。
自分の顔が自分には見えないように(鏡に映さないとみえません)、節子の姿も見えないのです。
しかし間違いなく節子はそこにいるのです。
夢の中では、節子と私は重なっているのかもしれません。
だから心が平安なのかもしれません。

夢でない現実でも、早くそういう気持ちになりたいと思っています。
残念ながら、いまはまだ、節子がいないのが寂しくて悲しくて、仕方がないのです。
つまり私の心身は、平安ではないのです。
夢の世界のようになれれば、どんなに幸せなことでしょうか。
そんなことを思うことも、時にあるのです。

さて今夜はどんな夢に出会うでしょうか。

■1232:世界は極めてもろい存在です(2011年1月16日)
節子
この冬はじめての雪です。
朝起きたら外の景色が白くなっていました。
昔は雪が降ったらうれしくて会社を休むほどでした。
しかしいまはただただ寒いだけです。
人間は歳をとると感受性が鈍ってくるようです。

雪にまつわる思い出もいろいろあります。
子どもたちが小さい頃は毎年、猪苗代にスキーに行きました。
会社を休んで雪ダルマをつくったこともあります。
しかし節子との思い出といえば、結婚の報告に出雲大社に行った帰りになぜか大山のスキー場に迷い込んだことでしょうか。

何回も書いていますが、私たちは結婚式をきちんとはあげませんでした。
結婚して数か月後に、節子の親戚対策で、節子の実家で式をあげましたが、それは自分たちのためのものではありませんでした。
結婚の誓いは出雲大社で行ない、それから鳥取などを数日旅行したのですが、今ではどこに行ったのかさえ、私には記憶がありません。
節子の当時の日記には書いているかもしれませんが、今はまだ読む気にはなれません。
いや最後まで読まないかもしれません。

当時はたぶん節子に夢中だったのでしょう。
ともかくほとんど記憶がないのです。
そのなかで何となくイメージに残っているのが、スキー場のゲレンデを革靴で歩いた記憶です。
それが現実のことなのかどうかは、節子がいなくなったいまはわかりません。
なにしろ私は記憶力があまりなく、過去のことへの興味がほとんどない人間なのです。
未来の記憶(そんなものはないと言われそうですが)のほうが、どちらかといえば、残っているのです。
しかし、その未来の記憶が実現したことはあまりありませんが。

人の思いから独立した客観的な世界がある、という考えは、いまではかなり疑問視されてきました。
それはそうでしょう。
今朝の雪景色にしても、人によってそこから受ける心象風景はまったく違います。
世界は、その一部でもある、そこにいる人の心との関わりあいの中で、それぞれの心の中に姿を現すのです。
大山のゲレンデを歩いた記憶が、現実のものだったかどうかは瑣末な話なのです。
いずれにしろ、私の記憶世界の中にはしっかりと残っているからです。

こうした話を節子にすると、節子はいつもさも感心したように聞きながらも、まったく聞き流していたことを思い出します。
しかし、そうした節子の姿もまた、私の頭で創作されたものなのかもしれません。
世界は極めてもろい存在です。

そのもろい世界での節子とのつながりが消えないようにしなければいけません。
そのためには、私の世界の中での節子には、もっともっと元気に跳びまわってほしい気もします。
私の世界から節子が消えたら、私の世界は私の世界ではなくなってしまうからです。

夕方には雪はほとんど解けてしまいました。
世界は極めてもろい存在なのです。

■1233:だれかの役に立つ(2011年1月17日)
節子
ホームページ(CWSコモンズ)に今年の挨拶を書いたのですが、それを読んだ何人かの方からメールをもらっています。
今日もまたメールがきました。
昨年春からぷっつりと連絡がなくなり、少し気になっていた人です。

とても勇気づけられました。
昨年は、自分がしていることの意味が見出せず、底辺を歩伏前進しているようなことも多かったように思います。

思ったとおりの自分でないことを、それを体験したときに、瞬時に受け入れられるようになったら、
人間のいやな部分を目撃したときに、それを現実として瞬時に外在化することができるようになったら
もっと生き方が楽になるのだろうなあと思います。

まだまだ未熟極まりない私ですが、佐藤さんのおっしゃるとおりほんの少しでも誰かにお返しできれば、
また、もしそれができなかったとしても、生きていることに感謝することは、その瞬間とてもこころがやわらかくなりますね。

こういうメールを数名の方からいただきました。
「いつかだれかの役に立てるようになりたい」というようなことを書いてきた人もいます。

節子は、元気だったころ、私の役に立っていると思っていたでしょうか。
病気になってからはどうでしょうか。
元気な時はともかく、病気になってから節子は時々、私に謝っていました。
病気になってごめんね、とか、修の生活を拘束してごめんね、とか、一緒に旅行にいけなくてごめんね、とか・・・・。
思い出せばきりがありません。
涙が出てくるだけです。
もちろん私は謝る必要などまったくないよ、と言っていましたし、そう思っていました。

私にとっては、節子は生きる意味を与える人でした。
つまり、存在するだけで私の役に立っていたのです。
いつからそうなったのかはっきりしませんが、病気になる前からです。
そして病気になってから、そのことを改めて強く実感しました。
節子は、そのことをよく知っていました。
節子は私の駄目さ加減を、だれよりもよく知っていました。
だから、私より先に逝くことを一番謝っていたのです。
しかし、それは私たちが決めたことではありません。
決まっていたことなのかもしれません。

ただ言えることは、節子がどうであろうと、節子は私の生に意味を与えてくれる存在なのです。
そのことが最近よくわかってきました。

節子がいなくなったら私は生きつづけられるだろうかと思っていましたが、なぜか節子が逝ってしまっても、私は生きつづけました。
それを不条理なことと前に書いたような気もしますが、節子がもし私の生に意味を与える存在であるならば、それは「生死」には関係ないということが最近ようやくわかってきました。
いまなお私が生きつづけられていることも、なんの不思議もないことなのです。

節子にとって私がそうだったように、どんな人も必ず生きる意味を与えているだれかがいるはずです。
その人が見えないからといって、自らをおろそかにしてはいけません。
そして、逆にまた、私にとって節子がそうであったように、人はだれもが生きる支えにしている人がいるはずです。
そして私たちがそうであったように、支えると支えられる、あるいは生きる意味を与える、与えられるは、実は同じことなのです。

勇気づけられた、というメールをもらうと、私もとても勇気づけられます。
人の心はほんとうに響き合うようにできている。
最近そう実感することが多くなっています。
彼岸の節子の心にも響いているでしょうか。

節子、
彼岸に行っても、節子は私の生きる意味を生み出しつづけています。
ありがとう。
心からそう思います。

■1234:オペラを観劇する前に感激できました(2011年1月18日)
節子
とてもうれしいことが起こりました。

時評編に「市民の市民による市民のためのオペラ」のことを書きました。
私のホームページのほうにも紹介記事を書きました。
でもあまり反応がありませんでした。
やはりオペラは距離があるかなと思いました。
ある人に、オペラに行きませんかと言った途端に、また高尚な話ですね、と言われたので話すのを止めたこともありました。
それで少しひがんでいたのです。

少し時間ができたので20人ほどの友人に今度は直接メールで案内を出しました。
一昨日のことです。
驚いたことに、昨日から電話やメールが入りだしました。
チケットの申込みも届き出しました。
私に言ってきてもいいなどと無責任に書いてしまったのが失敗でした。
なかには4枚とか、増えてもいいかとか、いろいろです。
ある人が周りに声をかけたら関心を持つ人が多くて驚いたといってきました。
私も驚きました。

自分のブログで紹介したり、ツイッターで書き込んだり、仲間に転送したり、いろんなことをみんながやってくれるのです。
その反応の良さに驚きました。
やはりネットの威力はすごいと思いました。

しかも、です。
このオペラのメールを出したおかげで、しばらくご無沙汰していた人からの近況報告が届いたり、近々会うことになったり、うれしいことが広がっているのです。
まだお会いしたことのない、この挽歌の読者からも申込みの連絡がありました。
最近ちょっと疲れていたのですが、なんだか突然に気分が晴れてきました。

そういえば、この挽歌のおかげで知り合った人たちも何人かいます。
人は動けば必ず世界は広がるのです。
縁は見えないだけで、広く張りめぐらされていることをまた実感しました。

節子
そんなわけで、初めてのオペラに行ってきます。
節子がいないので少し、いや、かなり億劫ですが。

■1235:悲しい時には悲しむのがいい(2011年1月19日)
節子
ある人からの過去のメールを探していたら、こんなメールに出会ってしまいました。

佐藤さんへ
夫は、お前より、1分前に死にたいといっております。
私も、何をするにも夫と一緒なので、きっと佐藤さんの気持ちがそのときになればしみじみわかると思います。

いっぱいめそめそして、またいつか奥様に会えたら、思いっきり笑われたらいいじゃないですか。
がんばって、めそめそしてください。
微笑みながら天国からきっと眺めておいでかと思います。

彼女は10年近く前に、山口県のあるNPOの集まりで、発達障害者のための働き場をつくりたいと呼びかけていました。
それでささやかに応援させてもらって以来のお付き合いで、東京に来ると私に会いに来てくれます。
不思議な人で、ある時はお漬物の大根を、ある時は手づくりのバックをお土産に持ってきてくれました。
節子は、そのバックを大事に使っていましたが、そのお礼を書いた返事が、このメールです。
節子を見送って、まだ3か月もたっていない日付でした。

当時はいろんな人が声をかけてくれました。
私がきちんとそれに応えられていたかどうかは自信がありません。
しかし、この種の、つまり「めそめそ」を応援してくれた人にはたぶん返事を出したように思います。
素直な気持ちに従うことを応援してくれる声には心やすらぎ、元気が出るのです。
もし皆さんのまわりに、悲しみに出会った人がいたら、元気になれなどといわずに、悲しみを応援してほしいと思います。
人は、悲しい時には悲しむのがいいのです。
うれしい時にはうれしがるのがいいように。

来週、この人は湯島に来ます。
彼女が構想していた働き場は見事に実現したのですが、それがさらにどう発展しているか、楽しみです。
彼女のお菓子づくりの腕も上達したことでしょう。

乗り越えなくてはならない課題があると、人は元気になり、大きくなります。
乗り越えられない課題の場合はどうでしょうか。
最近、その答が見つかったような気がします。
乗り越えられない課題は、そもそも課題ではないのです。
ニーバーの祈りの意味が、最近少しまた深くわかったような気がします。

■1236:感謝したい時には妻はなし(2011年1月20日)
節子
最近また節子の前が花でにぎやかになっています。
今日はネパールで活動している田中さんが娘のスペインタイルの工房に来てくれたのですが、チューリップとフリージアを持ってきてくれました。
田中さんは日本のチューリップをカトマンズに植えてくれてことがありますが、今日持ってきてくれたのは日本のチューリップです。
私は出かけていたので、田中さんにはお会いできませんでしたが、節子はみんなから花がもらえて幸せ者です。

その前に、敦賀からは福井の水仙が届きました。
福井の水仙も毎年届きます。

今年のお正月はバタバタしていて、生花はあまり買わなかったのですが、
それでもその時のカサブランカがまだ咲いています。
寒いせいか長持ちします。
室内のシクラメンもカランコエも元気です。
そういえば昨年もらったミニ胡蝶蘭がつぼみを持ち出しました。
庭にある盆栽に梅も咲いています。
寒い冬でも花は元気に咲くことを知りました。
今週は寒い毎日が続いていますが、わが家は花のおかげで華やいでいるのです。

寒さには強い花も、水は不可欠のようです。
乾燥した天候が続いているので、水やりをきちんとやっていなかったため、枯れてしまった花木もありそうです。
ちょっと気を抜くと室内の花木も水が不足して元気をなくします。
かといって、たくさんやりすぎると根腐れしてしまいます。
気が抜けません。
まあそんなわけで、節子が残した花木は、残念ながら毎年少しずつ減っています。
しかし、いのちあるものは、いつか必ずいのち尽きるものですから、仕方ありません。

私も植物が大好きです。
節子のおかげで、いつも花に囲まれていましたが、節子がいなくなってから、花の世話の大変さを知りました。
花だけではありません。
私の生活が快適だったのは、節子のおかげだったのです。
最近そのことにようやく気づきだしました。
親孝行、したい時には親はなし、と言いますが、感謝したい時には妻はいないのです。
困ったものです。
伴侶がいる方は、そうならないように、いますぐ感謝することをお勧めします。
感謝の言葉を伝えられないことは、とても辛いことですから。

■1237:音楽の力(2011年1月22日)
節子
「スロバキア国立オペラ公演」に行ってきました。
オペラ嫌いが行きたくない理由だと書きましたが、実はもっと大きな理由があったのです。
それは書かないでおこうと思っていましたが、書くことにします。
高橋さんに会ったら、なんだか気持ちが落ち着きました。
心の扉は少しずつ開いていかなくてはいけません。

実はこれまでにもコンサートなどを何回か誘われたことがあります。
理由をつけて、あるいは理由なしにお断りしてきました。
理由は行けなかったのです。
節子とのさまざまな記憶からどうしても解放されないからです。
演奏を聴く勇気が持てなかったからです。
節子はコンサートが大好きでしたから。

ですから、今回、なにやら「勢い」で行くことにしてしまったのですが、行く直前まで気が重かったのです。
しかし行ってとてもよかったです。
たくさんの人にも会えましたし。
高橋さんも元気でした。

公演もすばらしいものでした。
小ホールで舞台との距離感もあまりなかったこともあるでしょうが、心身が演者たちと同調するような気がしました。
後半はオペレッタやミュージカルの曲を歌って聴かせてくれました。
聴きなれた曲もありました。
そしてわれながら驚いたのですが、最後に近づいた頃には、曲に合わせて心身が動き出していたのです。
最後は一緒に歌いたい気分でした。
まるで節子が乗り移っているようです。

アンコールの最後に歌われたのが、「Time to say goodbye</a>」でした。
なぜこの曲が選ばれたのでしょうか。
心に響き過ぎました。
それもあったのかもしれませんが、最後に高橋さんと話しているうちに、何かが解けたようです。
高橋さんに感謝しなければいけません。

やはり動き出すと何かが変わります。

■1238:Time to say goodbye(2011年1月22日)
昨日のオペラの最後に、出演者全員で歌ってくれたのが、Time to say goodbye です。
私はこの曲を「別れの歌」だとばかり思っていました。
改めて今日、CDで聴きなおしながら、ネットで歌詞の意味を確認してみました。
別れの歌と言うよりも、旅立ちの歌のようです。

ネットの中で日本語に訳されたものをみつけました。
長いですが、引用させてもらいます。
出所はここをクリックしてください

歌詞はイタリア語ですが、なぜか「Time to say goodbye」だけが英語になっています。
全訳はこうなっています。

ひとりきりでいるとき 私は水平線を夢見る
そして なにも言えなくなってしまう
部屋のなかは暗い 陽の光がないから
あなたが私のそばにいないと太陽も消えたまま
窓から私の心が広がっていく
あなたのものになった心が
あなたはそんな私に光をふりそそいでくれる
あなたが窓の外で見つけてきた光を
Time To Say Goodbye

いままでに見たこともおとずれたこともない場所を
今こそ暮らしましょう あなたと旅立とう
船に乗り 海を越えて
そう私にはわかっている
あなたとなら生きていける
あなたと旅立とう
船に乗り海を越え
そうわたしにはわかっている
あなたとならもう一度生きていける
あなたと旅立とう
わたしとあなたと

訳のせいか、意味はかなり曖昧ですが、情景は浮かんできます。
いえ、浮かぶというよりも、私自身とあまりにも重なってしまうのです。
しかし何回もサラ・ブライトの歌を聴きながら、歌詞を読んでいると、やはりこれは「別れの歌」ではないかという気もしてきます。
そして、「別れ」とは「旅立ち」のことなのだと気づきました。
コロンブスの卵ではないですが、なぜかこれまであまり意識していませんでした。

節子は旅立ったのに、私は旅立てずにいる。
旅立つ勇気がほしいです。
節子がいたら助けてくれるのですが。

■1239:「余命」と「いつ何があってもおかしくない」(2011年1月23日)
若い友人からメールが来ました。
年末に会って、今年はあることに取り組もうという話をしていたので、その報告かと思ってメールを読み出したのですが・・・・

母が、5日夕方、緊急入院し、検査の結果、すい臓がんと診断されたのです。
13日に、本人と家族に告知されました。
なんと余命3ヶ月・・・

お正月休みは、母の手料理を囲んで、のんびり過ごしたばかりで、
今現在も元気にしている母が、あと数ヶ月の命だとは、到底信じられません。

思ってもいなかった内容に一瞬読みとどまってしまいました。
それにしても、「余命」って一体なんなのか。
改めて思いました。
信じられなければ信じなければいい、と言いたい気もしましたが、やめました。
それは個人の問題ですから。

私も全く信じませんでしたし、意識さえしませんでした。
節子は意識はしていましたが、信じてはいなかったような気がします。
意識しなくても、信じなくても、現実は現実として進んでいきます。
しかし、生命はいかなる場合もそれ自体価値のあることで、「余った命」など断じてあるはずもないのです。
医学の知識があるとしても、勝手に決めていいものでしょうか。
節子の主治医は、「いつ何があってもおかしくない」とはいいましたが、「余命」と言う言葉は使いませんでした。
「いつ何があってもおかしくない」という表現は、今の私にも当てはまりますが、その言葉の意味は状況によって、当事者がしっかりと受け止められる言葉です。
その意味では、とてもやわらかな言葉です。

「いつ何があってもおかしくない」としても、彼女のお母さんや周りにいる人たちが価値ある生を楽しまれることを祈りたいと思います。
「いつ何があってもおかしくない」私も、節子がそうであったように、1日1日を大事にしなければいけません。
今の私の生き方を見たら、きっと節子には怒られるでしょう。
少し反省しなければいけません。

■1240:最初の旅立ち(2011年1月24日)
一昨日、Time to say goodbye について書いた時に、「別れと旅立ちは同じこと」と書きました。
考えてみると、出会いもまた旅立ちなのです。

節子と出会って一緒に人生を歩もうと思った時、私の旅が始まったのです。
かなり意識的な旅でした。
それまでの私の人生を、その時は、消そうと思っていたからです。
もちろん、人生は消そうと思って消せるはずもありません。
しかし当時の私は、あまり現実感覚がなく、理念的に、あるいは思考的に生きていました。
自分の人生は自分で演出し、物語を創出していくのだという思いがありました。
そう思った契機は、当時愛読していた「芸術新潮」に載っていた1枚の絵です。
アルゼンチンのルシオ・フォンタナの絵です。
今でも覚えていますが、真っ赤なキャンバスの真ん中に、斜めに切口が鮮明に描かれているだけの絵です。
ネットで探しても見つかりませんでしたが、斜めに走った切口が、なぜか私の人生に見えたのです。
そしてもう一度無地のキャンバスに生きる奇跡を描きなおしたいと思ったのです。
キャンバスは、私にとっては社会そのものでもありました。
今から思えば、かなり気負いがありました。
自分の人生のドラマは、白紙から自分で演出したかったのです。

結婚は、主役の私が、共演者に節子を選んだだけの話だったのです。
だから節子への結婚申込みの言葉が、「結婚でもしてみないか」だったのです。
聞きようによっては、極めて不謹慎な言葉です。
節子の両親が慌ててとんでくるのも当然です。
しかし、私にとっては、決していい加減な発言ではなく、そこにすべてを入れ込んでいたのです。
結婚は決して目的ではない、大切なのは人生を共に開くこと。
節子は、それを直感的に感じ、私を全面的に信頼し、私との共演に身を投じたのです。
それが節子の望んでいた人生だったかどうかはかなり疑問ですが、私と人生を重ねるうちに、節子と私の人生は一体化してしまったことは間違いありません。
そして、節子は私との人生を楽しみました、
来世でも私を選ぶか、という私の質問に「選ぶ」という回答を得たことは一度もありませんが、それは問う必要もないほど明確なことだったからです。

節子との出会いが、私の人生の旅立ちだったとしたら、節子との別れは、その旅の終わりだったのでしょうか。
しかし、その前に、私にはもう1回、フォンタナの絵を思い出した時があります。
長くなるので、明日に続けます。

■1241:突然に終わった再びの旅立ち(2011年1月25日)
昨日の挽歌の続きです。
再びフォンタナの絵を思い出したのは、47歳のときです。
25年間所属していた会社を辞める決意をしたのです。
そして、退社後のシナリオをまったく用意せずに会社を辞めました。
その時の私の思いは、「また新しいキャンパスに1本の線を引こう」というイメージでした。
その時点で、価値観を変えました。
もちろんキャンパス、つまり活動のフィールドも変えました。
この時も節子は何も言わずに賛成し、2人の新しい旅立ちがはじまったのです。
ある雑誌に頼まれて、その頃の気持ちを書きました。

節子と私の関係は、そこでまた変わりました。
フォンタナの絵ほど鮮明ではないですが、人生をやり直すのはとても楽しいものでした。
そして、それから私の生き方は大きく変わりました。
専業主婦だった節子の生き方も変わりました。
私たちの関係が、それまでとは違って、ばらばらでは立てないほどに相補的になったのは、その頃からです。
ただ今から思えば、私は節子の好意にあまりにも甘えすぎた気がします。
わがままで勤め人向きでない修が、家族のために25年間もがんばってくれた、だからこれからは修の好きなように生きればいい、という節子の言葉と好意を、あまりに素直に受け入れてしまったのです。

私のわがままが、節子の負担になっているのではないか、そんな思いから1年仕事をペースダウンしようと思った時に、皮肉な事に節子の病気が発見されたのです。
節子との2番目の旅立ちは、こうして中断を余儀なくされました。
そして、節子との別れ。
3回目の旅立ちとなったわけです。
それまでともかく一緒に歩いてきたのに、突然に別れなければいけなくなったのです。
節子の旅立ちを送った後、私は旅立ちどころではなく、立っていることさえできなくなったのです。

私の人生にもし意味があるとすれば、それは2回目の旅立ち後でした。
世界が広がったのです。
私にとって、とても大きな生を実感でき、世界が見えるようになったのは、この旅立ちのおかげです。
学生時代と人生観や世界観が変わったわけではないのですが、それが現実となって現れてきたのです。
しかも、節子という「支え」のおかげで、いつも、そして何でも、思い悩むことなく取り組めました。
失敗しても、嫌になっても、全面的に理解してくれる人生の伴侶の存在は、限りない勇気を与えてくれたのです。

であればこそ、その突然の終わりは、私には辛いものでした。
それが第3の旅立ちとは気づきませんでした。
節子の旅立ちは、同時に私の旅立ちであることに気づかないほどに、私の意識が萎えていたとしか思えません。

■1242:第3の旅立ち(2011年1月26日)
もう1日だけ「旅立ち」の話を続けます。

節子は49日の旅を経て彼岸に着きました。
私は1240日の放浪の末に、やっと旅をしている自分に気づいたことになります。
節子を見送って以来、おろおろと生きてきたために、それに気づいていなかったのです。

もう一度、Time to say goodbyeの歌詞を見てみましょう。

いままでに見たこともおとずれたこともない場所を
今こそ暮らしましょう あなたと旅立とう
船に乗り 海を越えて
そう私にはわかっている
あなたとなら生きていける
あなたと旅立とう
船に乗り海を越え
そうわたしにはわかっている
あなたとならもう一度生きていける
あなたと旅立とう
わたしとあなたと

あなたと一緒に、新しいところに行って、新しい人生をはじめよう
あなたとなら、それができる
あなたとなら、先の見えない海も乗り越えられる

とまあ、そんな意味でしょうか。
問題は、この「あなた」です。

四国のお遍路さんは、笠に「同行二人」と書いています。
いつも弘法大師が一緒だと言うことですが、その意味は、自らの中にある「本来の自己」と同行しているという意味だそうです。
「本来の自己」をどう考えるかは難しい問題ですが、私は自らの心身に刻み込まれた人生のすべてだと思っています。
そこには両親はもとより、生命の記憶がすべて宿っており、自己にして自己に非ずの「大きな生命への入り口」ではないかと思います。
そして、いまの私の場合、その象徴が節子なのです。

Time to say goodbye
別れを言って旅に出る。
これはお遍路と同じく、「同行二人」の旅立ちです。
そう考えると私の今の心境にまさに重なってきます。
言い換えればこうなります。

だれかを本当に愛したことがあれば、
どんなことにも耐えられる。
どんな世界でも生きていける。

私が旅に出たのは1回だけだったのです。
節子に出会った時だけだったのです。
フォンタナの絵は1枚だけしかなかったのです。
Time to say goodbye を聴いているうちに、そのことに気がつきました。
節子と一緒の旅なら、前を向いて進まなければいけません。

■1243:現実を容易に受け入れないのは現実が存在しないからだ(2011年1月28日)
節子
湯島のオフィスでの来客の合間に、突然に空き時間があることがあります。
先ほどから一人なのですが、湯島のオフィスで一人になる機会はそう多くはありません。
誰かに会うためにオフィスに来ることが多いからです。
それに一人になると、ついつい物思いに沈みがちです。
気がつくとただボーっと外を見ていることもあります。
そういえば、昨日は挽歌を書いていないことに気づきました。
昨日は何をしていたのでしょうか。
時間はあったはずですが。

こうやって湯島から外をボーっと見ていると、そばに節子がいるような気がします。
笑われそうですが、実はまだ節子がいない世界を生きているという実感はないのです。
同じ立場の人には、たぶんわかってもらえるでしょうが、今にも節子が隣から声をかけてくるような気がどうしてもするのです。
また会えますよ、といってくれる人の言葉に、奇妙に真実味を感じるのです。
私には、節子がいない世界などありようがないのです。

ブラジルの作家、ボルヘスはこう書いています。
「われわれが現実を容易に受け入れないのは、現実が存在しないことを予感しているからにすぎない」

この言葉に時々すがりたくなるのです。
現実を受け入れらないのであれば、その現実は存在しない。
なんと快い響きでしょう。
節子のいない現実は存在しないのです。
いつか必ず節子が戻ってくる。
愛する人を失った者は、哀れにもそう信じているのです。
そう信ずればこそ、生きていけるのかもしれません。

もちろんボルヘスは、そんなことは言っていません。
それを勝手に誤解しているのは私ですが、私の誤解にも僅かばかしの真実はあるような気もします。
それに、ボルヘスもたぶん認めるであろうように、現実の世界は一義的に存在するわけではありません。
現実は誰かが勝手に構成して創られた「客観的に実在する」ものでもありません。
私たちが現実だと思っている世界が、現実であるとは限りませんし、第一、現実などというものがそもそもないのかもしれません。
そう考えれば、節子がいると思いながら生きつづけることは決して間違いではないのです。
少なくとも、節子がいない世界を受け入れるのはやめる価値はあるのです。

空を見ていると、人は哲学者になるのかもしれません。
ボルヘスは私には縁遠い人でしたが、なぜか急に懐かしくなりました。

■1244:ラスコーの壁画(2011年1月29日)
フランス南西部のラスコーの壁画といえば、学校の教科書にも出てくる有名な先史時代の遺跡です。
1万5千年前にクロマニヨン人が壁に描いたものだとされています。
発見されたのは1940年頃です。
一時は観光客にも開放されていましたが、壁画の外傷と損傷を防ぐため、50年ほど前に洞窟は閉鎖されました。
代わりに、そのすぐ近くに実物そっくりの洞窟壁画が作られているそうです。
そして、今はそこが観光客に開放されています。

そのことを私はある本で読んだのですが、その本によれば、それがコピーであることはどこにも掲示されていないので、ほとんどの人がコピーであるとは思いもしないというのです。
もし知っていても、実際に見ている時には、そんな事を意識もしないでしょう。
私も以前、家族と一緒に、飛鳥の高松塚古墳の壁画を見たことがありますが、私も節子も、それがコピーであるかどうかなどは気にしませんでした。
完璧なコピーだからです。
時間が少し経てば、コピーと本物の差は誰にもわからなくなるでしょう。

こんなことを書いたのは、昨日書いた「現実は現実なのか」という話に触発されたからです。
あの記事を書いた後、急に映画「ソラリス」を思い出したのです。
「ソラリス」のことは前にも書きましたが、ポーランドのスタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』が映画化されたものです。
この小説は2回、映画化されていますが、今回思い出したのは、2作目のアメリカ映画のほうです。

惑星ソラリスの表面全体を覆う知性を持つ「海」とその探査に取り組む人間との奇妙なコミュニケーションがその映画の内容なのですが、ソラリスに新たに赴任した科学者クリスが、驚くべき出来事に直面するというところから映画は始まります。
その出来事とは、自殺した妻が突然に現れるのです。
それは、「ソラリスの海」が、クリスの記憶を読み取り、それを再合成して送り出してきたものなのです。
ですからクリスにとっては、理想化された妻でもあるわけです。
記憶から合成されたものですから、いくら消そうと思っても消えません。
アメリカの作品は、クリスとその「妻もどき」との関係はかなりの軸になっています。

そもそもこの映画のテーマは「コミュニケーション」であり、「意思疎通できない生命体と人間とのコミュニケーション、もしくはややこしい関係」なのですが、そうした極めて思弁的なテーマを、極めて生々しい愛の関係に絡めて物語を展開するのは、いかにもアメリカ的です。
実はレムの原作にはそんなややこしい話は出てこなかったように思います。
私がこの原作を読んだのは、節子にちょうど会った頃です。
SFマガジンという雑誌に翻訳が連載されていたのです。
知性を持つ海の話は、節子に何回もしましたが、なかなか興味を持ってはもらえませんでした。
当時の節子は、まだ頭の固い常識人だったのです。

挽歌90で、ソラリスのことを少し書いたことがあります。
その時は、亡くなった妻との再会を結局は拒否してしまうクリスと違って、私は再現された節子との世界に埋没してしまうだろうと書きました。
同時に、しかし、「想念」が創りだした節子と実在した節子とは別人であり、それは節子への裏切り行為でしかない、とも書きました。

考えが変わりました。
ラスコーの話を知って、コピーと本物が結局は同じなのだと思うようになりました。
差別化しているのは、お金儲けの商業主義者か権威にしがみつく権威主義者です。
生活しているものにとっては、どちらでも同じです。
そう考えるようになったのは、もしかしたらボードリヤールの影響かもしれません。
ラスコーの話を知ったのは、ボードリヤールの最後の著作の「悪の知性」なのです。

その本でボードリヤールはこう問いかけています。
「コピーがコピーであることをやめたとき、オリジナルはいったいどうなるのだろうか」
答は明確です。
コピーがコピーであることをやめたとき、オリジナルもコピーもなくなるのです。
つまり、実体化された節子は、実在していた節子とまさに同じものなのです。

彼岸がまた少し見えた気がします。

■1245:寒い日(2011年1月30日)
節子
この頃、とても寒いのです。
寒くて凍えそうなのです。
寒気が日本列島を覆ったことも、その一因ですが、そういう寒さとはちょっと違います。
私の心身に周期的にやってくる寒さです。
凍えそうになって縮こまるのは、身体よりも心です。
だれかに会っているといいのですが、一人になってパソコンに向かうと急に心が冷えてきて、気力が失せていきます。
以前は、パソコンに向かって、「節子」と画面に打ち込むと、自然と次の言葉が出てきて、文章が続いていくのですが、この数日は頭で考えないと書くことが出てきません。
そしてなにやら小難しいことを書きたくなるのです。

気を取り直して、テレビで毎週放映されている「イタリアの小さな村の物語」を見ました。
この番組はとてもあったかいので、私の好きな番組です。
なかなか時間が合わないので、DVDに録画して、時々観ています。
前にも書きましたが、そこによく登場するのがとても仲の良い老夫婦です。
その夫婦の距離感や血縁・地縁とのつながりも、実に程よく、見ていて気持ちが和らぎます。
どんなに仲の良い夫婦が出てきても、嫉妬したことはありません。
ただただ心があたたかくなるのです。

ところが、心が縮んでいるせいか、今日はとても寂しい気持ちがしてしまいました。
この番組は節子と一緒に観る番組だったという思いが起こってきてしまったのです。
そうなると、もう見つづけることができません。
いつもと違って、心は和らぐどころか、ますます冷え込んでしまいました。

まあ、こういうこともあるでしょう。
元気になったようでも、やはりまだ、心は安定していないようです。
彼岸が見え過ぎてしまったせいでしょうか。

ともかくこの数日、とても寒いのです。
節子に何かなければいいのですが。
まあ此岸の私が心配するのもおかしな話ですが。

そういえば、4日前からチビ太も夜、意味もなく鳴きつづけることがあります。
東のほうを見ながら、暗闇で鳴いています。
彼岸は西方のはずなのですが。

いつもは私のまわりは、いつもあたたかさに囲まれているのですが、
今日はことさら寒いです。
あたためてくれる節子は、もういません。
寒さを自分で跳ね返すしかありません。

■1246:夫婦の距離感(2011年1月30日)
挽歌で、心の寒さを書いたら、少し寒さから抜け出せそうな気がしてきました。
弱みは開かなければいけないというのが、私の生活信条ですが、その効用を改めて実感しました。
弱みは内に押さえ込んでいてはいけません。
弱みは外に見せることで、時に強みに転じるのです。
いつも他の人に言っているのに、それを忘れていました。

27日に挽歌を書いていないので、今日はもうひとつ書くことにします。
挽歌のナンバーは、節子がいなくなってからの日数に合っているのですが、今のままでは1日ずれてしまいますし。

直前の挽歌で、「イタリアの小さな村の物語」に登場する老夫婦たちのお互いの距離感は、とても程よい、と書きました。
そう書きながら、私たち、節子と私の距離感はどうだっただろうかと考えました。

程よくはなかったのです。
間違いなく近すぎました。重なりすぎていたのです。
特に私は、節子にべったりでした。
節子がいないとやっていけないほどに、自らを節子に合わせていました。
節子は時々言ったものです。
私よりも素敵な女性がたくさんいるのに、どうして私とばかり一緒にいたがるの、たまには浮気をしてみたら、と。
節子にとって私はウザったい存在だったかもしれません。

私の節子への距離感は過剰に接近していたと言っていいでしょう。
節子も、仮に少しウザったいと思っていたとしても、それを許していたのですから、私たちはとても「程よい距離感の夫婦」ではなかったのです。
その結果、どうなるか。いや、どうなったのか。
一方がいなくなった時、残されたほうは立ちゆかなくなってしまうのです。
あまりに深くつながっていたが故に、その喪失感は埋めがたいほどに甚大です。
人を愛するのも、ほどほどにしなければいけません。
私たちは、お互いにいささか距離を縮めすぎていたのです。
病気になった後の節子は、それに気づきました。
だからとても心配していたのです。

しかし、夫婦の距離感は、夫婦それぞれです。
意図的に自制したりはできません。
もしかしたら、「イタリアの小さな村の物語」に出てくる夫婦の距離感も、テレビ上に演出されただけの話かもしれません。
程よい距離感の夫婦など、実際には難しいでしょう。
これは私の僻みかもしれませんが、そんな気がします。

それに、もし仮に、私たちが程よさを超えた夫婦だったとしても、悔いはありません。
その余韻が、私の生きる力になっているのですから。
ものごとには必ず裏表があるものです。

■1247:節子の失踪(2011年1月31日)
娘のジュン夫妻が今朝、イタリアとスペインに出かけました。
それぞれ料理とタイルづくりの学びが中心の旅ですが、昨夜遅くなって、ジュンが節子を連れて行くと言い出したのです。
節子とは20年ほど前にスペインに行く予定でしたが、同居していた母の関係で直前に止めてしまったのです。
スペインは歴史豊かなところですので、私も行きたかったところです。
そんなこともあったので、ジュンは節子を連れていこうといい出したのです。

それで気がつきました。
最近、小節子(こせつこ)がいないことに、です。

小節子とは、私といつも一緒にいる節子のことです。
小さな容器(偶然にもスペイン製)に節子の遺灰と心が入っているのですが、それをいつも私は持参していたのです。
ジュンがスペインに同行しようとしたのは、その小節子なのですが、そういえば最近、小節子を持ち歩いていなかったどころか、その存在すら忘れていたのに気づきました。
この数か月ほど、小節子に会った記憶がありません。
慌てて探し出しましたが、どこにもありません。
この半年、着ていた服や使っていたかばんなどを調べましたが、出てきません。
最近の私の仕事部屋はごみ屋敷のように書類や書籍の山ですので、そこに埋もれているかもしれないと思い、引き出しの後ろからすべて探しましたが、見つかりません。
もしどこかに置き忘れてきてしまったとしたら(実は一度ありました)、あまりに長い時間が過ぎているので、もう見つからないでしょう。
それに、見つけた人がヘロインかと思って飲んでしまったら、節子はどうなるのでしょうか。
いやはや困ったものです。
あるいは、節子が怒って、家出してしまったのかもしれません。
半年近くも忘れていたのですから、まあ仕方ありませんが、捜索願も出しかねます。

諦めてパソコンの前に座ったら、なんと目の前のパソコンの画面の下に小節子がいるではないですか。
確か、先ほど探した時にはいなかったはずなのに、もしかしたら、すねた節子が一瞬隠れていたのかもしれません。
いかにも節子らしいです。
節子を見つけたのは夜の11時。
しかし無事、節子はジュンたちと一緒に先ほど成田を発ちました。
節子がとても好きだったフィレンツェとスペインを楽しんでくることでしょう。
私は、そのいずれにも行ったことはないのですが、私の分まで楽しんできてほしいと思います。

しばらく小節子はいませんが、実は中節子(ちゅうせつこ)もいるので、さびしくはないのです。
ジュンたちが、小節子をスペインに置いてこなければいいのです。

■1248:「あの人は本当に変わったひとだ」(2011年2月1日)
節子
節子がいたら喜びそうな話です。

節子も知っているパオスの中西さんが、ご自分が主催するビジネススクールの公開シンポジウムで私の話をしたそうです。
そのビジネススクールで、私が一度講演させてもらったのですが、それを話題にしたようです。

中西さんは「企業というものは社会性があることが当然、というおもしろい授業をされた佐藤修先生」と紹介してくれたようですが、それを聴いた人が私に教えてくれたのです。
そこまではいいとして、そのメールには、もう一つおまけがついていました。
当日は、多摩大大学院教授の紺野登さんもお話されたそうですが、紺野さんも私のことに言及され、「あの人は本当に変わったひとだ」と言っていたというのです。

紺野さんと知り合ったのはつい最近です。
いくつかの偶然が重なって、私の友人たちから私の話を聞いて、先月湯島に来てくれたのが初めての出会いでした。
その時には、極めてまともな企業論や経営論を話し合っただけですが、その紺野さんから「本当に変わったひと」と言われるとは、一体どうなっているのでしょうか。

ところで、この私宛のはずのメールが、間違ってあるメーリングリストに流されてしまいました。
そうしたらすかさず、若い友人が反応しました。

「あの人は本当に変わったひとだ」
ぼくもそう思います(笑)

一体どうなっているのでしょうか。
私が「本当に変わった人」ですって。
そんなはずはないのです。
私ほどまっとうで、普通の人はいないのではないかという自負が私にはあるのです。

節子
節子も結婚前は私のことを「変わったひと」と思っていたようですが、まだまだそういう誤解をしている人が少なくありません。
どうしたら、その誤解を解くことができるでしょうか。
それとも本当に私は「変わったひと」なのでしょうか。
節子ならきっと笑ってこういうでしょう。
「修さんは変わってなんかいないわ、すこしおかしいだけよ」

■1249:「看取り」(2011年2月2日)
節子
死の問題に取り組んでいる小畑さんが、「看取りの教科書」を出版したいのだが、そこに原稿を書いてくれないかと相談に来ました。
小畑さんは、私の事情をよく知っている方で、節子の看病時にも私に気遣いをしてくださっていた方です。
この挽歌も読んでくれていて、節子を見送った後の私の状況もよく知っています。
かなり迷ったようですが、遠慮しながら打診してきました。

お話を聞いた時、最初「看取り」という言葉がどこか遠い世界の言葉のように感じました。
しかし、言われてみれば、たしかに私は節子を看取ったのです。
小畑さんからこの言葉を聞かされるまで、その認識が私にはまったくありませんでした。
まだ節子が生きているような、そんな意識をずっと持ち続けていたわけです。
その認識は持てたのですが、何を書いていいか、まったく思いつかないのです。
その本の出版企画書ももらっていたのですが、なぜか頭に入りません。
それでそのことを正直にお伝えしました。
書きたくないとか、書けないとかいうのではなく、何を書いていいか思いつかなかったのです。
誰かに引き出してもらえれば対応できるかもしれないと小畑さんに伝えました。
そうしたら小畑さんはライターの方と一緒に、今日、取材に来てくれました。
会うまでは、正直、ちょっと気が重かったのです。

ところが、小畑さんとライターの方と3人でいつものように話していたら、自然といろんなことを思いだしてきました。
涙が出ることもなく、むしろ楽しく話せました。
そんな話で本の原稿になるか心配だったのですが、帰宅して改めて小畑さんからいただいていた出版企画書を読み直してみました。
驚いたことに、私が思っていたことと違うことがそこに書かれていたのです。
前には一体何を読んでいたのでしょうか。
もしかしたら、以前は「看取る」という言葉に呪縛されて、意識が固まってしまっていたのかもしれません。
同じ文章を読んでも、意識によってまったく違った受け取り方をするものです。
哲学の世界では「解釈学的転回」という言葉がありますが、まさにそれを実体験した気分です。
今日、話をすることによって、意識の呪縛が解け、まったく違うように解読できたわけです。

だからといって何を書いていいかがわかったわけではありませんが、こんな話をすればよかったなというような思いが出てきました。
もしかしたら、今日の話し合いで、私の体験を相対化する第一歩が踏み出せたのかもしれません。
思ってもいなかった質問も受けましたし、とてもわかってもらえないと思っていた「危うい話」も小畑さんは誠実に聴いてくれました。
たとえば、大日寺のロウソクの話や通夜の後の私と節子の会話の話です。
何を言っても、今日の2人は受け入れてくれました。
それが、呪縛が解けた一因かもしれません。
看取りにはスピリチュアルなことへの理解も大切と思っている小畑さんは、むしろそうした話に関心を寄せてくれました。

同じような状況にある人たちの話し合いの効用がよく語られます。
自助グループ活動です。
そうしたグループに参加しようという気はまったく起きないのですが、その効用が少し理解できたような気もします。
でもまだそうしたグループに行く気にはなれませんが。

■1250:おかしな夫婦(2011年2月3日)
節子が私と結婚した理由の一つはたぶん頭が混乱したことだったと思います。
田舎育ちのために、たぶん私のような人間には会ったことがなかったのでしょう。
私と会ったころの節子は、人を疑うことなどまったく知らない純真な人でした。
だんだん人が悪くなっていったのは、たぶん私の生でしょう。
もっとも節子にも、それなりの「素質」はありましたが。

私も当時は同じように「純真」でした。
悪いことに、その上、現実感がありませんでした。
「頭で生きている」という感じでした。
しかし、当時の私は別に自分が変わっているなどとは思ってもいませんでした。
友人知人とは基本的な価値観が違っていることは感じていましたが、
さほど落ちこぼれることもなく、仲間はずれにもされずに、共立ちには恵まれていました。肩肘張って生きていたわけでもありませんでした。
会社に入っても、地で生き続けられたのは、今から思えば、私の愚鈍さのおかげだったかもしれません。

付き合いだした頃、節子はよく言いました。
東京の人の話はよくわからない、と。
しかし、まもなく、それは東京の人だからではなく、私だからだと、節子は気づきました。
その後は、修さんは変わっていると言いだしました。
私は得意の論理を駆使して、変わっているのは私でなくて他の人だと説得しました。
完全には納得しませんでしたが、節子にはかなり腑に落ちた感じでした。
その時はすでに私の世界に落ち込んでいたわけです。

結婚してしばらくして、やはり節子が私を少しおかしい人だと思っていることを知りました。
しかし、「おかしい人」と結婚しようと決める人もまた「おかしい人」です。
つまり私たちは「おかしい夫婦」だったわけです。
どこが「おかしい」のかと言われると答えに窮します。
実際、どこもおかしくないのです。
「他者にはできるだけ迷惑をかけない」「自らに嘘をつかない」、それくらいが私たちの基本ルールでした。
重要なのは後者です。
世の中の「常識」であろうと、自らが納得できないことには従わないのが、「自らに嘘をつかない」ということです。
そうした生き方を貫くと、どうも「おかしな人」になりかねないのが現代のような気がします。
不登校になったり、引きこもったりする子どもたちの多くは、嘘をつけないのかもしれません。

おかしな夫婦にとっては、自らと一緒に生きてくれる人の存在は大きな支えです。
いや、支えというよりも力というべきかもしれません。
それが私たちの関係でした。
その一方がいなくなり、一人になってしまうと生きる力が削がれてしまうのは仕方がありません。

おかしな生き方をしていると、喜びも大きいですが、悲しみも大きいのです。
それは甘んじて受け容れなくてはいけません。

■1251:節子も66歳になりました(2011年2月4日)
昨日、娘が敦賀にいる節子の姉に電話しました。
彼女の誕生日だったのです。
節子の姉妹は1日違いの誕生日でしたので、お互いに誕生日には電話しあっていたのです。
その文化が、節子がいなくなったいまも残っています。
娘が電話したら、姉が「節っちゃんも明日で66歳だね」と言ったそうです。

今日は節子の66歳の誕生日です。
朝、娘と一緒にお墓参りに行きました。
娘が言いました。
普通は亡くなってしまうとそこで歳をとらなくなるのにお母さんは歳をとっているんだ、と。
その言葉が、私にはとても現実感がありました。
私が歳をとっているのに、節子が歳をとらないわけはありません、

それにしても、節子はなかなか戻ってこないね、と娘にいいました。
私のそういう言葉には娘は慣れていますが、本当にそう信ずるようになると大変だね、と笑いながらいいました。
娘は、私が本気でそう思っていないと思っているわけです。

たしかに、今の私は、節子が戻ってくるとは思っていません。
それは願望でしかありません。
しかし、どこかに、戻ってくるのを待っているという感覚もあるのです。
そして、その「待つ」という感覚が、実は私の支えにもなっているのです。
信じたくない事実を受け入れるのを保留しているわけです。
それに、「待つことがある」ということは、生きる力を与えてくれもします。

ところで、そう思い続けていると、娘が言うように、本気でそう信じだすかもしれません。
もし、そうなったとしたらどうなるでしょうか。
痴呆の始まりにされるのかもしれません。
いや、もうすでに、私はいささか痴呆化が始まっているのかもしれません。
なぜなら、時々本気で待っている自分に気づくことがあるからです。

節子の友だちから絵手紙が届きました。
節子の誕生日は2月4日、節分の「節」をとって、節子と名づけられたのです。
そのおかげで、節子の友だちは節子の誕生日を覚えていてくれるのです。
節子の位牌の前に、その手紙を置いて、返事くらいは自分で出せよ、と言っておきました。
彼岸からでも、手紙くらいは出せるでしょう。
そう思うのは、やはり私の痴呆が始まっているせいでしょうか。

節子も66歳。私たちも歳をとったものです。
節子にいつも言っていたように、私は早くボケの世界に入りたいです。
ボケの世界はきっと平和で、豊かではないかと、昔からずっと思っているのです。
節子に苦労させられなかったのが、ちょっと残念です。
呆けた私と付き合うのはけっこう大変だったでしょうから。

■1252:閉じられた愛と開かれた愛(2011年2月5日)
今日は、とても理屈っぽい話です。
表題は内容とあまり関係はありません。

一昨日の時評編で、ネグリの言葉を引用しました。
その時は気づかなかったのですが、後で、私の節子への愛もネグリのいう「息の詰まるような閉鎖空間に限定されている愛」だったのだろうかと考えてしまいました。

一昨日も引用しましたが、ネグリはこう書いているのです。

近代の愛の概念はほとんどといっていいほどブルジョアのカップルや、核家族という息の詰まるような閉鎖空間に限定されている。愛はあくまでも私的な事柄になってしまった。私たちは近代以前の伝統に共通して見られる公共的で政治的な愛の概念を回復しなければならない。

この言葉にはとても共感できます。
では、私の場合はどうであったか。
この挽歌を読むと「閉鎖空間での愛」に閉じ込められているのではないかと思われそうですが、私の空間概念はいつも開けたものです。
なぜならば私が空間の中心にいるからです。
しかし、それは決して独我論的空間を意味しません。
それは、すべての能動的な起点が自分自らにあるというだけの意味です。
そのベクトルは全方向的に、しかも無限に向かっているのです。
課題は、そのベクトルの先に向かって何ができるかです。
これが、私の生き方の基本です。

ですから、前にも書いたように、私には「愛される」というような受動的なことは「愛する」という能動的なことの一面でしかないと考えているのです。
今様にいえば、一人称で語ることしか、私には興味がないのです。
その一人称には、おのずと世界も含まれます。
私は、私とその環境だからです。

そして、私がそうであるように、すべての人がそうした空間をもっていることを前提にしての空間概念が、私の空間概念であり、世界観です。
挽歌にはふさわしくないややこしい話ですが、挽歌を書いていると、そうした発想がどんどん広がっていくのです。

私の節子への愛は、決して閉じられたものでありませんでした。
節子の向こうには開かれた世界があったからです。
もちろん節子も同じだったはずです。
まずは最も身近な節子を愛することで、世界中の人を愛することがはじまります。
私たちが好きだったのは、宮沢賢治です。
このことは以前一度書こうと思いながら、なかなかうまく書けずにいました。
今もあまり自信がありませんが、いつかきっと書けるでしょう。

言葉はとても難しく、当然のことながら、私の言葉もいろいろと誤解されているようです。
以前は頭で考えていたコミュニケーション論が最近は自らの問題として、とてもよく実感できるようになりました。
言葉はまさに、関係性の中で意味を育てていき、それに伴ってまた、言葉が生まれてくることを体感しています。
改めてハーバーマスを読みたくなってきています。

■1253::節子の気配(2011年2月6日)
節子
節子の写真を見ていると、どうしても節子がまだいるような気がしてきます。
なぜでしょうか。

先日、<a href="http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/02/post-a4a5.html">小畑さんから、奥さんの気配を感ずるのはどういう時ですか、と訊かれました。</a>
答えられませんでした。
たしかに気配を感じた記憶があるのですが、具体的に思い出そうとすると思いだせないのです。
もしまた感じたら連絡しますと言ったのですが、この数日、意識していても、具体的な気配を感じないのです。

と言うのは、実は不正確で、ある意味では常に感じていることに気づいたのです。
気配というよりも、もっと現実感のある、一緒にいるという感じです。
写真を見ていると、その気配は強まります。
すぐそばに節子がいるような、そんな気さえするのです。
その気配の正体をつかもうと意識を集中させると、まさに節子が実体化するのではないかと思うほどに、すぐそばに節子がいるような、そんな気持ちになるのです。
ところが、実体化しそうなところまで来て、そこでとまってしまいます。
なにかとてもあたたかな雰囲気は感ずるのですが、そこから先にどうしてもいきません。
「ソラリスの海」の助けがあれば、たぶん実体化するのでしょう。
不思議な感覚で、これは節子を見送った後、いつになっても変わらない世界です。

小畑さんは、奥さんは鳥や花になって戻ってくると言っていたそうですが、鳥に奥さんを感ずることはありますか、とも訊きました。
なぜか即座に「ありません」という答が口から出てきました。
意識の上では、あれは節子かな、などと娘たちと話すことはありますし、昨年、庭にヒヨドリが巣を作った</a>時にもそう考えたことはあります。
しかし、残念ながら、そうした鳥たちに無意識に節子を「感じた」ことはないのです。
意識の世界と無意識の世界は明らかに違います。
そしていま、私たちがたぶん共在しているのは、意識の世界ではなく、無意識の世界です。
意識の世界には、もちろん節子はいますが、それはあくまでも私の願望の世界でしかありませんから、私たちの世界ではないのです。

節子の写真を見ていて感ずるのは、間違いなく私たちの世界です。
その世界がまだ私には感ずるだけで実感できないのが、悔しくてなりません。
たぶん、節子には見えているのでしょうが、私はまだ小賢しい理性に阻まれて、見えてこないのです。
人類は、いつからこの小賢しさを身につけたのでしょうか。
彼岸と此岸を往来していた人たちがうらやましいです。

■1254:心理的リアクタンス(2011年2月7日)
節子はよく知っていますが、私はかなりの天邪鬼です。
実のところ過剰なほど素直な面とその反対に極度の天邪鬼が、私には同居しています。
そのことを知っていた節子は私をうまく操れたはずですが、節子もまたとても素直な人でしたから、人を操ることは不得手でした。

過剰な素直な面は、たぶん私の方が上手でした。
普通の常識を持っている人ならとても信じないようなことを、私はすぐに信じてしまうことがありました。
まあ「常識がない」だけかもしれませんが、どんなこともまずは信じてしまうのです。

その反面、相手が何かを決めつけて話している時には天邪鬼の心が出てきてしまいます。
そして、自分ではまったく思ってもいなかったことを、ついつい発言してしまいます。
私に何かをやらせようと思ったら、反対のことを言えばいいのです。

あることをやろうと思っている時、反対されると、多くの人はますますそのことをやりたくなるものです。
親に結婚を反対されるとますます結婚したくなるとう話はよくききます。
私たちもいずれも、最初、親に反対されました。
だから結婚したわけではありませんが、反対されたことを実行することは若い時には楽しいものです。
最近の若者は、そういうことがしにくくなっているため、精神的な問題を起こすことが増えていると私は思っていますが、この話はまたいつか時評編に書きます。

先日、ある人に、元気になったと手紙を書いたら、それを喜んで、親は元気でなければいけないと書いてきました。
その一言で、天邪鬼が首を持ち上げ出しました。
もう元気になったなどと言うのはやめようと思いました。
元気は、今の私にはふさわしくありません。
なによりも節子が悲しむでしょう。
節子は、間違いなく、私が元気をなくしていることのほうが喜ぶはずです。
妻を亡くした父親が元気だったら子どもはどう思うでしょうか。
悲しんでいるほうが安心するでしょう。
私なら、間違いなくそうだからです。
第一、私がいないのに、元気でははしゃいでいる節子など、許せまません。

説得者の意図した方向とは逆の方向に被説得者の意見や態度が変わることを、心理学ではブーメラン効果といいますが、なぜそうなるかについては、説得されると人は自らの自由が迫害されると感じて、自由を取り戻そうとする心理的なリアクタンスが発生するのだと言われています。
よくわかります、
人は自由でありたいのです。
くよくよしていても、メソメソしていても、あるいは元気でも、それは自分の気持ちのあるがままに任せたいのです。
私は、それを「わがままな生き方」として、自分の生き方の基本に置いてきました。
節子は、それを良く知ってくれていましたし、自分でもそういう生き方をしていました。
節子もまた、わがままでした。
嘘をつかない生き方をしていたという意味です。

心理的リアクタンスは、自らのアイデンティティを守ろうとする生命現象だろうと思います。
大きな生命現象に身を任すと、人は生きやすくなるのかもしれません。
悲しいときは泣けばいい、楽しいときは笑えばいい。
元気などという、わけのわからない言葉を自分で使ったことを後悔しています。

■1255:節子宛の手紙(2011年2月8日)
節子
また節子に手紙が届きました。
今度、地元から県会議員に立候補される方からです。
信書の秘密に反しますが、開封させてもらいました。
節子がこの人を以前支持していたことを知っていますが、前回の選挙でその人は落選していました。
代わって当選した人も、私たちの知っている人でした。
地域で生活していると、いろいろな人間のつながりが育っていきますから、選挙などではどうしても「人情」が関係してきます。
選挙は必ずしも政策や理念で決まるものではないのです。
私は、それは必ずしも悪いことではないと思っています。

この挽歌に書いたかどうか忘れましたが、先月行われた我孫子市の市長選挙では私は現職に対抗して立候補した若い候補者を応援しました。
相手方の現職の市長の一番の味方は、私のよく知っている人でした。
節子の葬儀にまでわざわざ来てくれた人です。
にもかかわらず私は、相手方に加担しました。
その人がもし自ら市長に立ったのであれば、私はその人を応援したでしょうが、残念ながらその人が味方した人は私にはとても支持できない人でした。
節子がいたら、どうしたでしょうか。
今回は、たぶん私と同じ判断をしたでしょうが、話し合えないのが残念です。

それはともかく、ポストに節子宛の手紙を見つけるととても複雑な気持ちがします。
うれしいような、腹立たしいような、不思議な感覚です。
以前はどちらかといえば、腹立たしいほうが強かったのですが、最近はむしろちょっとうれしい気分なのです。
やはり私自身が変わってきているようです。
時間と共に変わることと変わらないことが、どうもあるようです。

ところで、この手紙ですが、彼岸に転居したと言って、郵便局に転送してもらえるといいのですが、無理でしょうね。
まあ一応、位牌の前に報告しておきましょう。

■1256:突然の不安感(2011年2月9日)
節子
吉田銀一郎さんは、自殺未遂サバイバーを自称しています。
実にドラマティックな人生を過ごしてきました。
私が吉田さんに会ったのは昨年の11月5日ですが、以来、毎月2回ほどお会いしています。
今日は、その吉田さんのカミングアウトぶりに感激したという、菅野さんと3人で話をしました。
個人を生きている人には、私はとても関心があります。
その人のために何かできることはないだろうか、とついつい考えてしまうのです。

吉田さんはまだ「自殺未遂」した自分の人生にこだわっています。
そのこだわりがある限り、サバイバーとはいえないと、私は辛らつに話していますが、吉田さんの話を聞くたびに、人生や家族や夫婦や仕事について考えます。

菅野さんは、まだ若い女性ですが、彼女も自分の人生を生きています。
そのせいか、実に本質的なことをはっきりというのです。
とても刺激的な2時間になりました。
吉田さんもきっと少し前に進めたと思います。

人はそれぞれ「重荷」を背負って生きています。
その重荷の中身は、自分ではなかなかわかりませんが、誰かと話し合っているとだんだん見えてきます。
そして、誰かが背負っている重荷は、実は自分も背負っていることに気づかされます。

重荷を背負い合う関係を少しずつ広げていきたい。
そう思ってはじめたのが、コムケア活動ですが、重荷を背負い合うことは、そう簡単ではありません。
すべてを背負い合ってくれた節子の存在は、いまから考えるととても大きかったのです。
節子がいた頃は、ともかくなんでもすべて背負っても大丈夫という意識がどこかにあったのです。
ふらついたら、節子という支えがあったのです。
あまり頼れるほどの支えではありませんでしたが、精神的には大きな存在でした。
その節子がいなくなったいま、あまり安直に、重荷を背負い込むことは留意しなければいけないのかもしれません。

吉田さんと話していて、急にそんな不安感が襲ってきました。
吉田さんがどうのこうのというわけではありません。
話している合間に、あれもこれもと引き受けてしまった、いろんなことが思い出されてきて、急に不安になってきてしまったのです。
この不安感は、いったい何なのでしょうか。

吉田さんたちは帰りましたが、まだ胸がドキドキしています。
奇妙な挽歌ですみません。
節子に助けを求めたい気分で、ついつい書いてしまいました。

■1257:小節子が軽くなって帰宅しました(2011年2月10日)
小節子が無事帰って来ました。
しかも少し軽くなってです。
節子の好きだったフィレンツェにほんの一部が残ったようです。
まあいいでしょう。

小節子が不在の間、チビ太は夜鳴きばかりしていました。
昼間は眠ってばかりなのに、夜になると東の方向を向いて、ひたすらに鳴くのです。
夜中に何回も起こされます。
蹴飛ばしたくなりますが、そういうわけにも行きません。
その上、小さな体なのに鳴き後はとても大きいのです。
声を出せない節子も困ったものですが、吼えるチビ太も困ったものです。

小節子が戻ってきたので、今日はチビ太は静かでしょうか。
そうだといいのですが、

■1258:「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(2011年2月11日)
節子
雪です。

春に認知症予防をテーマにした公開フォーラムを開催することを急に決めました。
それで一緒にやってくれそうな人たちに数日前に急に案内を出し、今日、湯島で最初の顔合わせをすることにしました。
ところが雪です。
湯島のオフィスの外は吹雪くほどの雪です。
参加者はあるでしょうか。

雪を見ていたら、ついつい宮沢賢治の詩を思い出しました。
節子の参加していたコーラスグループでも歌っていた歌です。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
賢治の妹が病床に伏せりながら、外の雪を見て、賢治に「あの雪を口にしたいので、とってきてくれないか」といったのです。
そういえば、この話は以前も書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/11/post-aaab.html

暖かな部屋から外の雪を見るたびに、この言葉を思い出します。
大日寺の庄崎さんは、節子は彼岸で白い花に囲まれていると教えてくれました。
彼岸では雪は降るのでしょうか。
穢れのない彼岸には、きっと雪が降る必要はないのでしょうね。

そろそろ参加者が集まる時間です。
雪の中を来てくれるでしょうか。

■1259:思い出せない記憶(2011年2月12日)
節子
どっさりとチューリップが届きました。
毎年、新潟の金田さんから届くのです。
いろいろな色のチューリップが50本も届き、節子の周りが華やかになりました。
今年は雨が降らずに庭の花も枯らしてしまったりして、ちょっとさびしかったのですがこれで節子も満足でしょう。
私も、そのおすそ分けを楽しませてもらっていますが。

チューリップといえば、節子と一緒に行ったハウステンボスでも見事なチューリップを見たような気がします。
あの時も、長崎や佐世保の友人たちが私たちを歓迎してくれました。
ハウステンボスの記憶は私にはほとんどないのですが、その前夜、長崎でご馳走になったしっぽく料理を節子が喜んでいたのが思い出されます。
ハウステンボスでは確かホテルヨーロッパに宿泊した記憶がありますが、それ以外は私の記憶にはほとんど残っていません。

4月に認知症予防に関するフォーラムを開催することにしました。
思い立って、昨日、雪の中を最初の実行委員会を開催しました。
そこで、認知症は他人事ではないと話していたのですが、どうもすでに私もかなり進行しているのかもしれません。
節子と一緒に行った旅行なども、行ったことだけは思いだせるのですが、その旅行で何を見たのか、何をしたのかが思い出せないことが多いのです。
もしかしたら思い出したくないのかもしれません。
不思議なほどに、思い出せなかったり、まったく忘れてしまったりしていることが多いのです。
節子と一緒に、私の記憶のある部分が飛び出してしまったのかもしれません。

今回のチューリップがそうであるように、時々、忘れてしまった私の記憶に、何かを思い出させてくれる友人知人にとても感謝しています。
でも、時にそれは悲しさも思い出させてくれるのですが。

今日の寒さは尋常ではありません。

■1260:見たい意志をもてば見えてくるものもある(2011年2月13日)
節子
世間では「無縁社会」などという言葉が流行っているようですが、私はたくさんの縁に支えられているのをいつも感じています。
先日も、スロバキア国立オペラの件で、いろんな人たちが応援してくれました。
いまも会ったこともない人たちが私を支えだしてくれています。
とても不思議な気分です。

1週間ほど前に、認知症予防に関するフォーラムを開催しようと思い立ちました。
そして何人かに声をかけて、集まりを開きました。
急だったので、集まったのは2人でした。
ところが、その報告をメールで流したら、次々に応援してくれる人が現れたのです。
私のまったく知らない人たちです。

人のつながりは、本当に不思議です。
こちらから呼びかけると、そして何か動き出すと、待っていたように応援してくれるのです。
この社会にはたくさんの縁が張りめぐらされているのです。

しかし、その一方で、無縁と思っている人も多いようです。
なぜそうした人は、自らの周りにある縁に気づかないのでしょうか。
縁を見る力が弱まっているのかもしれません。

人は見たいものしか見ないものです。
縁が見えないのは、縁が見たくないからかもしれません。
たくさんの縁が見えたら、その縁を無視できなくなりますから、それなりに大変なのです。
縁は支えられる縁だけではなく、支える縁もあるからです。
私たちは、それが煩わしくて、縁を見たくなくなったのかもしれません。
見たくなくなると、見えなくなるものです。

逆に見たいという強い意志があれば、見えないものまで見えてきます。
彼岸はどうでしょうか。
私にはまだ見えてきませんが、彼岸にいる節子は時々、見えるような気がします。
こんなことを書くと、気が触れたのかと思われそうですが、たとえば写真の向こうに節子の温もりや魂を感ずるということです。

同じ物を見ても、見ているものは見る人によって違います。
同じ物を見ても、見ている時や状況によって見えるものは違います。
人の思いが認識を生み出し、それが事実を生み出します。

節子を見たいという強い意志が、もしかしたら、私の周りにあるたくさんの縁を引き寄せているのかもしれません。
そして、そうした縁が、節子の代わりに、私を支えてくれているのかもしれません。
なぜか私のまわりは、いつもあったかです。

■1261:プレゼント(2011年2月14日)
湯島に行ったら、ポストに2つのチョコレートが届いていました。
そういえば、今日はバレンタインデイです。
今日、湯島にやってきた方も、やはりチョコレートを持ってきました。

実は、節子はよく知っていましたが、私はバレンタインデイのチョコレートのやりとりが嫌いなのです。
贈ってくださった人には申し訳ないのですが、あんまりいい気持ちはしないのです。
商業主義的なそうした流行を、私は生理的に受け付けられないのです。
それに、私よりも、もっと贈るべき相手がいるだろうと思うのです。
といっても、ユニセフもフォスターピアレントも、あんまり好きにはなれないのですが。

その話を娘にしたら、お父さんがお母さんにプレゼントをした記憶がないというのです。
これはまた心外ですが、そう言われるとそうかもしれません。
娘が言うには、節子の誕生日に娘たちが何かプレゼントをしようと話していると、お父さんも仲間に入れてくれと言って、あとは費用負担だけすることが多かったようです。
しかも私と節子の財布は一緒でしたから、お金はお母さんからもらっておいてという感じだったようです。
贈り物とは、相手に喜んでもらえるものを心を込めて、時間をかけて、選ぶところに意味があるというのです。
まるで節子のようなことを言います。

まあ私もそう思います。
家族以外に贈り物をする時には、かなり考えます。
しかし考えてもいい知恵が浮かばないので、節子がいる時は、節子に、この人はこういう人だから良いものを選んでよ、と頼む癖がついてしまったのです。
人には得手不得手があります。
ともかく私は買物が不得手なのです。
最近はかなり慣れてきましたが、今でも支払は自分ではほとんどしません。
大きな買物には娘についてきてもらい、お金を払ってもらいます。
何しろ私は財布さえ持っていないのです。

ところで、プレゼントの話ですが、節子も私からプレゼントをたまにはもらいたかったと娘たちに話したことがあります。
しかし、たぶんそれは話の勢いでしょう。
節子は、私がプレゼントしないことを不満には思っていなかったと思います。
それだけは少しだけ自信があります。
節子が欲しかったものは、私はすべて節子にあげていたからです。
そして、私も節子からすべてをもらっていました。
ですから時々節子が何かをくれても、うれしくもありませんでした。

そういうものじゃないでしょう、とこれを読んだ娘から怒られそうですが、今から考えると、やはり節子もプレゼントが欲しかったのかもしれませんね。
これを書いているうちに、そんな気がしてきました。
そういえば、指輪が欲しいというような話になったので、好きな指輪をあげるから買っておいて、と言ったら、節子は結局買いませんでした。
やはり、あの時はこっそり買って渡すべきだったのでしょうか。

これ以上書くと、いろいろぼろが出そうなのでやめましょう。

ところでもらったチョコレートですが、結局、食べてしまいました。
美味しかったです。
宗旨を変えたほうが良いかもしれません。
何しろ最近は「ぶれる」のが流行のようですので。
節子はぶれない人でしたが。

■1262:機械どもの反乱(2011年2月15日)
節子
今朝起きたら雪が8センチほど積もっていました。
久しぶりの積雪です。

雪とは関係ないのですが、最近、あまり良くないことが頻発しています。
そのせいか気分も冴えませんが、気分が沈みがちだと、さらに悪いことが重なります。
今日は寒かったので、コタツでパソコンをしていたら、キーボードに珈琲をこぼしてしまいました。
そのまま静かに拭き取れば何ともなかったのですが、最近、どうもパソコンの調子がよくないので、八つ当たり的にキーボードのキャップをいくつか外してしまいました。
偉そうにしているパソコンに、渇を入れようと思ったのです。
ところがその取り方が雑だったせいか、その後、パソコンが私のキー操作と違う動作をするようになったのです。

私は今、自宅では2台のパソコンを使っていますが、実は数日前から2台とも私に従わなくなっているのです。
たいしたおかしさではないのですが、たとえばPDFが開けないとか、突然に書きかけのものが消えるとか、嫌がらせとしか思えない動作を時々するのです。
オフィスでもパソコンを使っていますが、それも1週間ほど前から少しおかしいのです。
これは偶然でしょうか。
どう考えても、3台のパソコンは連動して、私に対抗しています。
彼らもエジプトの若者たちのように、FACEBOOKで連携して、酷使反対に動き出したのでしょうか。
そう思ってもおかしくないような状況が起こっているのです。
節子に話したら、また始まったと笑うかもしれません。
しかし、私の感じでは機械も意志を持っていることは間違いありません。
私の感情に反応しているとしか思えないことがよくあります。

こういう時には、私は自分で機械を修理しようと思い立ちます。
そして大体の場合、私の「修理」は「破壊」を引き起こします。
そうして壊れてしまった家電製品はたくさんあります。
おかげで最近はCDが聴けません。
2台あるミニコンポとラジカセを修理したため、壊れてしまっているのです。
いま気づきましたが、パソコンだけではなく、オディオ機器も反乱していますね。
そういえば、テレビも1台、おかしい。

と書いてきて、やっと気づいたのですが、最近、わが家の機械たちは異常です。
どうしたことでしょうか。
いずれも古くなって、買い替え時期にきたと言うことでしょうか。
それとも、最近、私の霊気が地場を狂わせているのでしょうか。
私としては、どうせなら後者の説を受け容れたいです。
なにしろ最近は、良くないことが起こりすぎるのです。

いや、もしかしたら私の霊気ではなく、節子の霊気かもしれません。
そういえば、昨夜も夢に節子が出てきました。
内容はまったく思いだせないのですが。

■1263:愛する人たちにはsay goodbye はない(2011年2月16日)
節子
先日、スロバキア国立オペラの公演を主催した高橋さんたちが来てくれました。
訊きたかったことを質問させてもらいました。
アンコール曲を選んだのは高橋さんたちですか、と。
やはりそうでした。

アンコール曲は2曲でした(最終日は3曲だったそうです)。
「遠くに行きたい」と「time to say goodbye」です。
その選曲が、とても気になっていたのです。

音楽は人の心を動かします。
しかし、その動かし方、受け取り方は、聴く人によって大きく変わるでしょう。
言葉の意味さえも、変わります。
Goodbye が必ずしも別れを意味しないように、です。

同じ言葉に喜びを感じたり、悲しみを感じたりすることはよくあります。
言葉は、その時々の心の状況によって意味合いを変えます。
心が弱っている時には、どんな言葉にも不安を感じます。
心が躍動していれば、どんな言葉も元気をくれます。

最近、ちょっと心が弱っているような気がします。
最近はサラ・ブラントマンの歌に哀しさを感じます。
それでしばらくは聴くのをやめていました。
高橋さんに会ったので、久しぶりに聴いてみました。
前にはそんなことはなかったのですが、「say goodbye」という言葉が耳に突き刺さります。
私には、言える言葉ではありません。
節子も、最後まで言いませんでした。
愛する人たちには、say goodbye はないのだと、改めて思いました。
この歌のおかげで、そのことに気づかされました。
何回聴いても、涙が出ます。そして飽きることがありません。

今日は朝から元気が出ません。
やっと挽歌が書けましたが。

■1264:大きな生命(2011年2月17日)
気が滅入るときは、どうしても抽象的な世界に心が向かいます。
今日は、大きな生命の話です。
もし、私が、そして節子が、オートポイエティックな大きな生命現象の一部だとしたらどうでしょうか。

節子に出会ってからでも、節子を見送った後からでもなく、私は大きな生命体の一部であるという感覚を、持つでもなく持っています。
私が動くと世界は変わり、それがまた再帰的に自らに戻ってきます。
なぜこんなことができたのかと自分ながらに訝しく思うこともあります。
会社時代の企業文化変革活動も退社してからのコムケア活動も、なぜ実現したか不思議です。
そうしたことを何回か経験すると、自らが絶えず変化する生命現象、あるいは自然現象の一部であることを、感じないわけにはいきません。

私は基本的に怠惰な人間です。
節子とは大違いでした。
節子は良くも悪くも、身体を動かしていないと落ち着かない人でした。
怠惰な私は、しかし、時にしたいことが心に浮かびます。
好んでやりたいこともありますが、むしろそうでないことが多いのです。
なぜそんなことをしようと思ったのか、自分でも説明できないことが少なくありません。

怠惰ですから、ほんとうはやりたくないのです。
動き出す契機は、誰かにやることを話して、ともかく小さな一歩を踏み出すことです。
「やる」と口に出した以上は、動き出さないといけません。
私には「自分のためには嘘はつけない」という、行動原理が埋め込まれています。
ですから、やると言った以上は、心身が動かざるをえないのです。
そしてそれからが不思議なのですが、動き出すと自然とうまくいくのです。
途中で、私の気が萎えないかぎり。

問題は2つあります。
口に出す相手です。
そして時に震えそうな心を萎えさせない、あったかな支援。
その2つができるのは、節子でした。

その節子の不在は、私の行動を変えました。
動けない、動いても続かない。
しかし、ようやく最近、自らがオートポエティックな生命の一部である感覚を回復し出しました。
世界は、つながっています。
動き出すと、物語が始まります。

明日からまた動き出そうと思います。
大きな生命を確信しながら。

■1265:春がきました(2011年2月18日)
節子
お昼ごろから我孫子は春です。
朝方までの雨は止み、太陽が戻ってきました。
それも心強い陽射しです。
先日降った雪がまだ軒下に残っていますが、この陽射しで解けるでしょう。
春が来た感じです。

陽射しのなかで、和室のランの花が咲き出しているのに気がつきました。
水仙や梅など、庭の花も咲き出しています。

人の心身は自然と深くつながっています。
いろんなことを体験すると、それがよくわかります。
自らもまた自然の一部だと意識しただけで、自然に支えられている自分にも気づきます。
さあ、動き出さなければいけません。
しばらくうずくまっていた心身を開かなければいけません。

節子は春の到来が好きでした。
花が元気になるからです。
八方美人型の私は、すべての季節が好きでした。
冬もまた良し、夏もまた良し、でした。
しかし、それも節子がいればこそだったのかもしれません。
あるいは若いからだったのかもしれません。
夏浜も冬山も縁遠い存在になってしまいました。
いまはやはり春が元気をもらえそうです。

節子がいなくなってから4回目の春です。
しかし、春を意識したのは初めてかもしれません。
強い陽射しは、人を酔わせます。
下戸の私には、お酒の酔いとは違って、快い酔いです。
それに、陽射しのなかに節子も感じるのです。
節子なら庭に出て、花木の手入れでしょう。

さてさて、私は何からはじめましょうか。
まずは、自分自らの手入れからはじめようと思います。
動き出せば、山積みになっている問題も吹き飛ぶかもしれません。
明るい動きのところには、明るい話題しか舞い込んではきませんから。

みなさんにも春の陽射しが届きますように。
もちろん彼岸の節子にも。

■1266:人の世の住みやすさ(2011年2月19日)
昨日から今日にかけて、またたくさんの人に会いました。
人にはそれぞれの世界があり、物語があります。
しかし、そうした「自分の物語」をしっかりと生きている人はどれほどいるでしょうか。
時々、そう思うことがあります。

夏目漱石の「草枕」の出だしの文章は有名なので、多くの人が知っているでしょう。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

今日、新聞を読んだといって、湯島の「支え合いサロン」にやってきた人がいます。
人と話すのが好きなのだそうですが、子どももいないし、人と話す機会がないというのです。
近所の交流もないし、趣味や学びの会にも参加できるものがないといいます。
つまり、居場所がないと言うのです。
まだ50代の女性です。
不思議です。
人と話すのが好きならば、道で出会った人に話しかければいいだけです。
声をかけるだけなら、智や情や意地など関係ありません。
それに、その人にはまだ元気に働いている伴侶がいます。

伴侶と離婚し、子どもたちとも疎遠になった人が、その人にアドバイスしました。
自分から動きだせば、世界は変わる、と。
その人は、一度は自殺を試みた人です。
最近、湯島のサロンに毎回やってきます。
その人は「ここに来るととても気持ちの良い時間を過ごせる」と言うのです。
人の世は、決して住みづらくなどないのです。

草枕は、先の文章のあと、こんな文章が続きます。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

詩が生まれ、画が出来るのは、住みにくさのおかげだと言うのです。
私は詩も書けず、絵も描けませんでした。
詩人にも画家にもなれない、多くの人は、要するに、さほど生きづらくはないはずなのです。
ほどほどの生きづらさは、世界を豊かにするとも言えます。
いろんな人に会っていると、そんな気がしてきます。

どこに越しても住みにくいということは、どこでも住みやすいということです。
いろんな人の話を聴いていると、自分の世界が相対化されてきます。
そして、自分の生き方も見えてくるような気がします。
だから、人に会うと元気が出てきます。
節子ほどではありませんが、だれでもが人に元気を与える存在なのです。
最近、つくづくそんな気がします。

■1267:河津桜の向こうに見える世界(2011年2月20日)
節子
庭の河津桜が咲きだしました。
昨年よりも1週間ほど早いようです。

四季があることは、周りの風景を変え、意識や行動に変化を与え、生活を豊かにしてくれます。
私たちはとても恵まれた環境に暮らしていることを感謝しなければいけません。

節子がいなくなってから、しかし、そうした季節の変化や風景の変化があまり意識しなくなってきました。
節子がいなくなって、心身の感受性が弱まっているのかもしれません。
しかし、ただそれだけではないような気がします。

最近、よく思うのですが、伴侶や家族や仲間がいるということは、世界をそれだけ多角的に感じられるということかもしれません。
私の場合は、節子への依存度が高かったので、節子の不在は大きな影響を与えています。
節子がいたころの私の世界といなくなった今の私の世界は、明らかに違います。

感覚的に言えば、どうもカラフルでない気がします。
心身がブルーだからではありません。
どうも感覚的に世界の見え方、周辺の見え方が違うような気がします。
うまく説明できないのですが、生活を共にしていると、もしかすると感覚が共有され、人間の心身もホログラフィのようになるのかもしれません。
一部が欠けてしまったホログラフィのように、どうも世界がぼんやりとしか見えていないのです。
地デジのテレビとアナログテレビの違いのようです。

ところが、さらに面白いことことに気づきました。
世界がぼんやりとしか見えてこなくなると、見えないものが見えてくるような気がしてくるのです。
もしかすると、もうじき、見えないものが見えてくるかもしれません。

河津桜の花の向こうに、いろんなものが見えます。
一輪の花の向こうに、さまざまな世界が広がっているのです。
節子と一緒なら、もっとたくさんの世界が見えるはずなのですが。

■1268:良き聴き手(2011年2月21日)
節子
今日は久しぶりに読書の1日でした。
先日から読み出していた「市民社会とは何か」という新書なのですが、途中から急に面白くなり、ついつい午後の予定までキャンセルして、読んでしまいました。
新書ですから、集中して読めばそんなにかからないのですが、私は「市民社会」という言葉にはかなりの思い入れがあるのです。
大学生だった頃、私は武蔵野市に住んでいましたが、当時の武蔵野市は、新しい市民論を掲げた松下圭一さんの、いわば実験場でもあったのです。
私は別に何かに参加していたわけではないのですが、身近なところでの動きのために、市民論や市民参加論、あるいは市民参加論に興味を持っていました。
本が面白くなったのは、そうした日本の1960年代からの市民社会論の動きが書かれていたからです。
ただ読むだけではなく、そこからいろんな思いが浮かんできてしまったのです。
そんなわけで、1冊の新書に1日もかかってしまったわけです。

当時、「日本には市民がいなかった」などという言説が広がっていましたが、私にはとても違和感がありました。
つまり、どちらかといえば、「市民論」に共感というよりも、どこかに違和感を持ちながらの興味だったのです。
その後、日本における「市民社会論」は大きく変化していきますが、いつもどこかでぴったり来ないままでした。
NPO法にも大きな違和感がありました。
この本を読んで、そのわけがわかりました。
思った通りだったのです。

こんな話は、挽歌ではなく時評編に書くべきですが、挽歌で書き出したのには理由があります。
私の「市民観」や「市民社会観」は、おそらく節子との出会いに影響されているのではないかと言う気がしてきたのです。

「市民」か「住民」か、という議論があります。
学生の頃は、私はいささかの違和感を持ちながらも、「住民から市民に進化しなければいけない」と考えていました。
おそらく節子に会った頃は、まだそういう考えだったと思います。
それが次第に「市民」という言葉に、胡散臭さを感じ出したのです。
それが節子のせいだとは言いませんが、節子とさまざまな話をし、暮らしを共にする中で、私の考えが変わってきたのです。
「市民」か「住民」か、などということには、節子は興味を持ちませんでしたが、私が話すといつも素直に「感心」してくれたのです。

人は話しながら考えるものです。
私は本を読むと必ず節子に話しました。
節子の反応は、私には大きな刺激でした。
私がいまあるのは、「良き聴き手」を持ったからなのです。
本の内容と直接関係があるわけではないのですが、今日、1日読書をしていての一番の気づきはそのことでした。
私が本を読まなくなった理由も、少しわかりました。

■1269:春が来ない冬(2011年2月22日)
ちょっとまた悲しい話です。

日曜日の朝日新聞に、ノンフィクション作家の佐野眞一さんが「事実を丹念に掘り起こす」というタイトルで寄稿していました。
「事実を丹念に掘り起こす」ということであれば、黒岩比佐子さんだったなと思いながら、何気なく読んでいたら、最後に黒岩さんの「パンとペン」が出てきました。
この本は私のサイトでも紹介しましたが、秀作です。
佐野さんはこう書いています。

「冬の時代」と呼ばれる社会主義運動弾圧の時代があった。
幸徳秋水や大杉栄は、その受難の代表として大抵の人は知っている。
では、彼らの生活を支える「売文社」を興した堺利彦を何人が知っているだろうか。
黒岩比佐子はそこから始めて、堺の人間的魅力を余すところなく描き出した。
「パンとペン」という秀逸な題名に作者の才能の埋蔵量が垣間見える。
「冬の時代」の後に「春の時代」が到来しなかったことを歴史は語っている。
私はそれを検証するもう1冊を書かねばならない。
著者はそう宣言した直後、52歳の若さで亡くなった。

春が来ない冬。
こうして改めて、第三者の言葉として目にすると、さまざまなイメージが重なってしまい、一瞬、心が止まってしまいました。
これから大きな花が咲こうとしている直前に黒岩さんは逝ってしまいました。
彼女の執筆への思いを知っていたので、邪魔をしてはいけないと彼女を訪ねることもなく、そのうち、湯島にもまたぶらっと行きますという彼女の言葉にまかせていたのですが、結局、ゆっくり話をする機会もありませんでした。

湯島天神の近くのレストランで、節子と3人で食事をしたのはいつだったでしょうか。
その時の黒岩さんは、まだ暮らしそのものも大変のようでしたが、いつものように、控え目に、しかし大きな夢を語ってくれていました。
節子は、そうした黒岩さんの夢が実現するのを確信していました。

黒岩さんにも春は来なかったのか。
節子にも、私にも、春は来なかったのか。
春とは何なのか。
もしかしたら、冬こそが春なのかもしれない。
わけのわからない表現ですが、そんな気もします。

佐野さんは最後にこう書いています。

次代を嘱望されていた彼女の早すぎる死は、「冬の時代」と言われて久しいノンフィクション界に将来の希望がまた一つ消えてしまったようで、悔まれてならない。

そう思います。

節子
黒岩さんと会っていますか。

■1270:死の報道の向こう側(2011年2月23日)
悲しさは突然にやってきます。

毎日、さまざまな事件が起こります。
不条理な事件や事故で突然の死に見舞われる人もたくさんいます。
ニュージランドの地震で数十名の人が生命を落としました。
リビアでは今日もきっと不条理な死を迎えた人がいるでしょう。
そして日本でも、自らの生命を断つ人が毎日います。
私が味わったような体験をしている人がたくさんいるわけです。
そう思うと、やりきれない気持ちになります、

しかし、人は身勝手なもので、新聞で「死」という文字を見ても、自分が味わっているものと重ねて考えるわけではありません。
自らの心身とのつながりの距離に応じて、死は単なる言葉でしかありません。
そこで報道されている「死」と私が体験した節子の「死」が、同じものだとはとても思えません。
だから冷静にテレビの画面を見ていられるのかもしれません。

死は、だれもが当然に迎えるものという人もいます。
しかし、自らの生命よりも愛していた人には、「当然の死」などという言葉はまったくつながりません。
自らの死は、いつか来るものとして素直に受け入れられても、自らの愛する人が自分よりも先に逝くなどということは思いもつかないでしょう。
少なくとも、私の場合はそうでした。
節子は「永遠の存在」だと、どこかで思っているからです。
私にとっては、節子は死ぬはずもない人だったのです。

新聞やテレビで報道されている、たくさんの死は、私と同じ思いをたくさん生み出しているでしょう。
にもかかわらず、ニュースになって報道されると、死は無機質な事実になってしまいます。
しかし、その無機質な報道の向こうに、たくさんの私がいるのだと、時々考えることがあります。
みんなどうやって耐えているのだろう。
最近、そんなことをよく思います。

■1271:春は名のみの 風の寒さや・・・・(2011年2月24日)
節子
今日は、この挽歌を読んでくださっている方からいただいたメールを勝手に公開してしまいます。
私と同じように伴侶を見送った女性の方です。
私の挽歌よりも、私の時評よりも、とても説得力のある文章です。
何回も読ませてもらいました。
どこか、心に残るものがあるからです。

風や空の色、そして光、全てが春へと向っています。
ニュージーランドのクライストチャーチの地震、エジプトに続くリビアの革命、地球上のあちこちで阿鼻叫喚の声が聞こえます。
心を揺さぶる文章ですか?
佐藤さんの文章、どんな酷い体調の時でも、心が折れてぼろぼろの時でも書き続ける意思。
正直に、素直に書かれた文章は、時に切なく、時にアホで、時にそうだそうだと旗を振ったり、そうじゃなかろうと、くそっと罵ったり、購読料を払わず読ませていただいているこの数年、NHKの受信料よりよほど意義あるものと、楽しみなのです。

書けない時もおありでしょう、愛する人のいない、愛される事のない毎日、伴侶の居ない事というのは、片翼飛行に似て、着地していても、バランスが取れていない、バランスが取れていない事を、ごまかしているために、もっと悲惨。
たぶん花の名前などご存じなかったであろう佐藤さんが、周りの小さい花々に目を向けられた時、私は瞑目したのです。

愛する人を死なせたという、罪悪感を死ぬまで背負いながら生きてゆく重さを、佐藤さんの中にも感じるのです。
春が来ても、いえ春が来たとしても、佐藤さんの顔に心からの笑みが、訪れることがないのは確かです。
啓翁桜,河津桜、花屋さんで見かけます。

昨年、花見のお誘いしたのを思い出しました。
辛い思い出です。
北朝鮮、中国、革命が起きたらと思う国です。
ただ民の流血は、防がねばなりません。何時の世も、流血の始まりは民なのです。

春は名のみの 風の寒さや・・・・

お元気でいて下さい。

流血、心からの笑み、罪悪感。
そして、春は名のみの 風の寒さや・・・・
早春賦は子どもの頃、よく歌いました。
風の寒さの意味も知らずに、ですが。

まだ花見には行けそうもありません。

■1272:心からの笑みはもう訪れることがない(2011年2月25日)
昨日、挽歌を読んでいる方からのメールを掲載させてもらいました。
アップした後も、読み直してみました。
私は自分で書いたものはあまり読み直しません。
ですからこのブログは誤植だらけで、よく叱られます。
今回は改めて何回か読み直しました。

一昨年、自殺のない社会づくりネットワークの立ちあげのフォーラムを開催しました。
参加してくださった会場のみなさんも含めての話し合いのスタイルでした。
たくさんの人がたくさんのことを話してくれました。
終わった後に参加者と一緒に交流のための懇親会をやりました。
そこで、顔見知りだった自死遺族の方から、叱られました。
自殺未遂の方の支援をしている人との会話の中で、支援する活動は楽しいですか、というような表現を私がしたのだそうです。

自殺のない社会づくりネットワークに関連したフォーラムを私は4回開催してきました。
これに関われたのは、節子を見送ったことと無縁ではありません。
もし節子との別れがなければ、私はこのネットワークを立ち上げる気にはならなかったでしょう。

「自殺」という重いテーマですが、話し合いでは私はいつも「楽しく」「笑いが起こるように」進行してきました。
テーマが重いからこそ、明るくさわやかな場にしたいからです。
暗い話は明るく語らなければいけません。
これは、私の信条の一つでもあります。
しかし、自死遺族の方にとっては、不謹慎だと思われたかもしれません。
その方は、それ以来、参加してはくれません。

「佐藤さんの顔に心からの笑みが、訪れることがないのは確か」と、昨日紹介した方は断言しています。
残念ながら、私もそう思います。
しかし、だからといって、私から笑みが消えたわけではありません。
むしろ、だからこそ、笑わなければいけないのです。
しかし伴侶の自死を体験した人にとっては、心からの笑みどころか、意志としての笑みも、忌まわしいだけのものかもしれません。

この頃、私は思います。
泣くことも笑うことも、結局は同じことなのだと。
楽しいから笑うだけではないのです。
悲しいから笑うこともあるのです。
そして、そのいずれであろうと、愛する伴侶の不在は、さびしいものです。
心からの笑みも、心からの涙も、私にはきっともうないでしょう。

もちろん望みもしませんが。

■1273:「生きること」も先送りしたい(2011年2月26日)
節子
先日、湯島のある集まりで、ニートのような者ですと自己紹介する20代の若者から、佐藤さんもニートのようなものですよね、と言われてしまいました。
とんでもないと、慌てて否定しましたが、否定するということは、要するにそうだということを表明しているといっていいでしょう。
根も葉もないことであれば、否定などしなくてもいいわけですから。

最近、どうも何でも先送りにする傾向が強まっています。
もともと私はそうした傾向があり、節子からはいつも「必要なことからやりなさいよ」と言われていたのですが、最近は必要であろうと不要であろうと、すべて先送りにしたくなるのです。
時々、「生きること」も先送りしたいなと思うことがあります。

実は、節子がいなくなってから、「生きること」がどうもすっきりしないのです。
表現が難しいですが、「生きている」という実感が不確かなのです。
生きるのが嫌だとか、辛いとか、そう言うことではまったくありません、
ふわふわと生きている、だから何かをしようという思いはあっても、切実感が生まれない。
その私の心身が、20代の自称ニートの若者に同調したのかもしれません。

自分の心身の時間感覚と時計の動きがずれている気もしています。
時間の流れになかなかついていけないのです。
先送りしてしまうのは、そのせいかもしれません。
私は若い頃から腕時計はせずに、時計の時間はあまり気にせずに生きてきました。
誤解されるといけませんが、時間にルーズだということではありません。
守らなければいけない時間は、かなり厳密に守ってきたつもりです。
まあ大切に思う時間が、あまりないと思うのが問題ではあるのですが。

節子は私と違って、必要なことから取り組む性格でした。
そして腕時計を持ち歩いていました。
新幹線に遅れると悪いからと早目に家を出るタイプでした。
新幹線に乗り遅れることは私には大切なことではなかったのですが。

そして、口癖は「できる時にしておこう」でした。
私は、「しなくてもよい時にはしないでおこう」でした。
その節子が、先に逝ってしまったのです。
「できる時にしておこう」と思ったのでしょうか。
そう思えないこともないのですが、これ以上はやめましょう。

「生きること」を先送りしたい、ということはどういうことか。
生きることを先送りした生は、魂の抜け殻のような存在かもしれません。
そういえば、最近、どうも魂が抜け出してしまっているのではないかと思うこともあるのです。
もしそうであれば、魂はいったいどこにいったのでしょうか。
いずれにしろ、どうも自分を十全に生きていない、そんな気がしてなりません。

■1274:一番大切なのは「幸せ」(2011年2月27日)
節子
たまたまテレビをつけたら、ジャーナリストの堤未果さんが母校の和光小学校での授業の番組をやっていました。
NHKの「課外授業 ようこそ先輩」です。
テーマは「考えてみよう“幸せな国”」。
ついついみてしまいました。
最後に堤さんは子どもたちに、一番大切なのは「幸せ」です、と話していました。
一番大切なのは「幸せ」。
とても共感できます。
そんなの当たり前だろうと大人たちはいうでしょうが、幸せを大事にしている大人は、私の知る限りではそう多くはありません。
子どもたちに向かって、「一番大切なのは幸せ」ときっぱりと言い切った堤さんに共感しました。

私は堤さんとは面識はありませんが、ご両親とはささやかなお付き合いがありました。
ばばこうちさんと堤江実さんです。
ばばさんは、節子の葬儀にも来てくださいましたが、節子は私がばばさんに会う以前から、テレビのばばさんのファンでした。
ばばさんの「正義感」が節子には共感できたのでしょう。
そのばばさんも、昨年、逝ってしまいました。

ところで、「幸せ」とはなんでしょうか。
難しく考えれば難しいですが、簡単に考えれば簡単です。
「幸せだ」と思える状況が幸せなのです。
しかし、その幸せの渦中にいると、その幸せに気づかない人が多いように思います。
私もその一人でした。
節子がいなくなった後、それに気づかされました。
そして、たぶんまた3年過ぎた頃、3年前(つまり現在のことですが)は幸せだったのだと気づくことでしょう。
人は、それほど欲が深いとも言えるでしょう。

いまの幸せを大事にする、それは決して、現状を受け入れるということではありません。
未来に向けてのたくさんの選択肢があることの「幸せ」に気づくことです。
節子の不幸は、その選択肢がある日、突然に断ち切られたことでした。
しかし、節子は、その中でも、日々の「幸せ」を大事にしていました。

私は、日々の幸せを大事にしているだろうか。
節子がいたらきっと怒られそうな毎日を過ごしている気がしてきました。
伴侶がいなくなると、生き方のバランスが取れなくなります。
困ったものです。

■1275:「片肺飛行」の気忙しさ(2011年2月28日)
節子
最近また時間に追われ出しています。
困ったものですが、時間の使い方がどうもわからなくなってきてしまっているようです。
というか、時間を配分する基準が私の中から消えてしまったのかもしれません。

もともと私はものごとをできるだけ同じように見ようとして生きてきました。
人間であれば、肩書などではなく、人としての尊厳さだけを意識するようにしています。
だれもが私にとっては、同じ価値を持っています。
節子は、その点だけは私を評価してくれていました。
ただその反面、私には「威厳」とか「礼儀」が不足していると時々指摘されていました。

友人から、もっと人を選んで付き合ったらどうかと言われたことがありますが、私には難しいことです。
結果的には、そうなっているはずですが。
用件もそうです。
節子はよく、大切なことからしたらどう、と言いましたが、大切さの基準をちょっと変えれば順序はいかようにも変わります。
私にとっては、やりたいことが一番大切なことともいえるのです。

今もそうした生き方は変わっていないのですが、どうも節子がいたころとは違うような気がします。
やはり伴侶を失うということは、生活のリズムが維持できなくなるということなのでしょう。
3年半経過して、ようやくそうしたことに気づきだしたのは、この挽歌の読者のどなたかがコメントをくださった言葉を使えば、「片肺飛行」が安定してきたからかもしれません。

それにしても最近は時間に追われがちで、挽歌も書き遅れ気味です。
とりわけ夜の集まりが多くなってきたのが辛いです。
忙しさの中で、節子を忘れないようにはしていますが、もうしばらくこうした状況が続きそうです。
まあ、節子は許してくれるでしょうが。

■1276:同士からのメール(2011年3月1日)
節子
杉本泰治さんからメールが届きました。

どうしてらっしゃるかな、とホームページを開いたら、昨日の3月1日には、「節子さんへの挽歌」を書いておられて、感じ入りました。
健康で、いっそうご活躍ください。

杉本さんは、私たちのことを「どうし」と読んでくれていました。
たぶん同志ではなく、同士という意味でしょう。
杉本さんは一緒にハワイにキラウエア火山を見に行った「同士」なのです。
節子の訃報を知って(どうして知っていただけたのでしょうか)、すぐにわが家までやってきてくれました。
いや、記憶が定かではないのですが、もしかしたらその前に節子のお見舞いにも来てくれていたような気もします。
そのいずれかの時に、節子さんは同士ですから、と言ってくれました。
何やらとてもうれしい気がしました。

杉本さんは私よりも一回り年上です。
ハワイにご一緒したのが最初の出会いですが、以来、私は一方的にお世話になっています。
いつかお返ししなければと思いながら、今もってお世話になるばかりです。

人間は不思議なもので、お世話になる一方の人とお世話をする一方の人とにわかれます。
そして、なぜか自然にいろんな人のお世話になる人とそうでない人にもわかれます。
私は前者で、なぜかいろんな人のお世話にばかりなってきています。
図々しいのかもしれませんが、なぜかそうなのです。
杉本さんにもお世話になりっぱなしなのですが、そればかりか、私よりもずっと年上の杉本さんが私を心配してくれているのです。

このメールの文面はもしかしたら、この数日、挽歌が書かれていないことを心配してくださってのメールかもしれません。
この数日、挽歌が書けていなかったのです。
やはり挽歌は毎日きちんと書かなければいけません。

節子
あなたがいなくなっても、まだ私たちのことを見守ってくれている人がたくさんいます。
私たちはどうしてこんなにも善い人たちにばかり囲まれているのでしょうか。
とてもあったかくい世界です。
にもかかわらず、なぜ節子は逝ってしまったのでしょうか。
そしてなぜ私は今なお、ここにとどまっているのか。
どう考えても、理解できません。

■1277:節子のおかげで農作業(2011年3月2日)
節子
今日は農作業をしました。
こうなった理由は、もともとは節子にあるのです。
節子は、いなくなってもなお、私の生活に影響を与えています。

仕事がたまっていたので、今日は午後からそれを自宅でやっていました。
誰かが来たので出て見ると、近くの小野寺さんでした。
小野寺さんは、わが家の家庭農園の近くの一人住まいの100歳の方の家に、住みこみで、お世話されている方です。
ご本人ももう80歳近くですが、とても元気です。
わが家の荒れ果てた家庭農園にねぎを植える話を娘から聴いていたようで、いつ植えるのか、手伝いますよと言うのです。
しかし、その家庭農園は手入れもしていないので雑草で大変です。
その上、仕事も忙しいし、断りたかったのですが、小野寺さんはともかくやりたそうなのです。
それにわざわざわが家まで誘いに来てくれたのですから、断るわけにはいきません。
そこでついついじゃあ私も一緒にやりますよ、と言ってしまったのです。
不幸なことに、あいにく娘は用事があって行けなかったのです。

これがなんで節子のせいかといえば、そもそも隣家でもない小野寺さんと接点をつくったのは節子なのです。
知りあいもいない小野寺さんに、節子が声をかけたのがきっかけだったようです。
節子は、働き者が好きなのです。
小野寺さんはともかく働き者です。
節子がいなければ、決して接点は生まれなかったでしょう。
私は怠惰者ですから。

その働き者の小野寺さんと一緒に農作業するのは大変です。
私はすぐにばててしまいました。
小野寺さんは、あまりに早くばててしまった私を見て笑い出しました。
そして、もう帰ったほうがいいというのです。
お言葉に甘えて、息を切らしながら帰宅しました。
そう言えば、節子がいた頃もこんなだったなと思い出しました。
働き者と付き合うのは大変です。

後で農園を見たら、きれいにネギが植えられていました。
これで食費がだいぶ助かりそうです。

それはともかく、おかげで予定の仕事ができませんでした。
農作業は30分ほどでしたが、疲れてしまい、その後はテレビを見てしまったのです。
その後もさぼってしまいました。
週末の公開シンポジウムのコーディネーター役を引き受けているのですが、その準備もできませんでした。
さてさて、シンポジウムはどうなりますことやら。

■1278:節子のいないひな祭り(2011年3月3日)
節子
ひな祭りです。
今年は節子のつくった雛人形は登場しませんでした。
ユカのコーナーにミニ雛人形が飾られただけです。

節子の文化は、「手づくり」を重視することでした。
私の稼ぎが低くてお金があまりなかったせいもあったかもしれませんが、私も節子もできることは自分でやろうという姿勢が強かったのです。
以前も書きましたが、私の場合はそれが結局は直るものまで壊してしまうこともあったのですが、節子の場合はまあうまくいっていたようです。
雛人形もすべて節子の手づくりでした。
最初は木目込み人形でしたが、以来、いろんなスタイルの雛人形が生まれました。
娘が大きくなってからはつくるのはやめていましたが、かわりに毎年、いろんな工夫で、家を飾っていました。
短冊の雛人形や手づくりではないのですが、どこかから買ってきた小さな雛人形が、家のどこかに、その時期になると置かれるのです。
ひな祭りだけではありません。
季節に応じた小物が、わが家を飾ってくれていました。

この季節であれば、誰も食べない雛あられも買ってきていました。
季節を大事にするのは、花が好きな節子にとっては当然のことだったのでしょう。
私はそのおかげで、季節感を持ちつづけることができました。

節子のその文化は、一部は娘たちにも伝わりました。
しかし、今年のひな祭りにはたしかに雛あられはありませんでした。
今年のひな祭りは、残念ながら、ユカのコーナー(わが家には家族それぞれの小さなコーナーが廊下の壁にあるのです)にミニ人形が飾られただけでした。
まあ、こうした小さな小物を飾るのも節子の文化なのですが。

しかし、節子がいないと、ひな祭りという気分はまったくしませんね。
それでも、今日はひな祭りなのですね。

■1279:もう一つの心(2011年3月7日)
節子
ちょっとバタバタしていて投稿が止まっていました。
時間不足というよりも、書く気が起きてこなかったのです。
4日ぶりの挽歌です。
こんなに長く書かなかったのははじめてです。

最近、いささか悲しい現実によく体験します。
そうした問題はかなり個人的な問題が絡んできますので、公言ははばかれますが、そんなことの積み重ねの中でいささか疲れがたまってしまっていました。
その癒し方が、今の私にはどうもわからないのです。
まあそれもどうでもいい話ですが。

以前も一度書きましたが、王様の耳はロバの耳だったことを知ってしまった床屋の話があります。
彼は誰にもそのことを言えないので、井戸に向かってそのことを言ってのですが、井戸ほど恐ろしいものはありません。
このモチーフは星新一のショートショートの代表作の一つにも使われていますが、だれもみんな出口のない井戸がほしいかもしれません。

私にとっては節子がその役割を果たしてくれました、
別に外に向かって隠すほどのことはないのですが、もう一つの心を持つことは安定感を与えてくれます。
人は、一人では生きにくい生き物だとつくづく思います。
最近の日本社会がおかしくなっているのは、一人で生きることを目指しすぎたからではないかという気もします。
大きな生命から自らを切り取って自立しようとする試み自体が、どだい無理だったのではないかとさえ思います。
こういう話になると、まさに哲学の話になりそうですが、自らの半分の死を体験すると、人は哲学者になるのかもしれません。

何を書こうとしているのかわからなくなってきましたが、そのわけのわからない話(誰に話していいかわからない話)をする相手が、伴侶なのかもしれません。
節子がちゃんと聴いていたかどうか確信はありませんが、節子に向かって話すと、いかなる場合も、どんなな病みも融け、心のつかえが解けました。

人は自分の外に、もう一つの心が必要な生き物かもしれません。

■1280:日程を決めたらそうなるものです(2011年3月7日)
節子
今日はまた雪で、庭が白くなってしまいました。
河津桜の花も雪まみれです。

昨日、1日、身を流れに任せたらすっきりしました。
今日は朝からたまっている宿題をこなし、4月に予定している公開フォーラムの準備を始めました。
今度は認知症予防に関するやわらかなネットワークの立ち上げです。
世間ではいま、認知症が話題なのです。
京都で認知症予防ゲームに取り組んでいるグループに加担することにしたのです。
みんな私よりもずっと年上の女性たちですが、その元気さは驚くばかりです。
そのグループの活動の首都圏での展開を応援する約束を2年前にしたのですが、この2年間は別のテーマに追われてしまい、踏み出せずにいました。
1か月前に思いきって取り組むことにし、何人かの友人知人に一緒にやろうと誘ったのです。
そして4月9日にやることを決定しました。
後先を考えずに、日程を決めてしまうのが、私のやり方です。
節子は、そうした私のやり方に振り回されていたのではないかと、今にして思うと心当たります。

私と生活を共にすることは、おそらく大変だっただろうと思います。
自分本意でわがままなのです。
その上、私はかなり常識を欠落していました。
いまも娘たちから注意されることがありますが、思考回路のどこかに欠陥がありそうです。
もっとも、節子もまたちょっとずれていましたから、うまくやってこられたのでしょう。
しかし、私からみれば、節子は頼りないながらも、困ったことが起これば解決を頼める存在でした。
なにしろ私の伴侶なのですから、それは私には当然のことでした。

節子が逝ってしまうことは、私には困ったことでした。
だから逝かないで、元気になって欲しいと節子に頼みました。
神にも祈りました。
これまた極めて非常識なのですが、だからそうなるはずだと、最後の最後まで、考えていたのです。
心底、そう確信していたのです。
節子の最後の闘病生活は、今から考えると反省だらけです。
もしかしたら、さすがの節子も私の非常識さに呆れていたかもしれません。
思い出すだけでも、節子に謝りたい気持ちです。
節子に笑って許して欲しい気持ちです。
ああ、だんだん感情がおかしくなってきました。
困ったものです。

ともかく、節子が逝く日程は、私が決めたかったのです。
もちろん、私の逝く日の後でなければいけません。
しかし、私の思いとは無関係に、節子には逝ってしまったのです。

何の話でしたでしょうか。
節子の話になると、ただでさえ欠陥のある思考回路がさらにおかしくなるようです。
要するに、4月9日に認知症予防のフォーラムを開催します。
やると決めたからです。
節子はもっと生きると決めればよかった。
私が強く決めれば、天もそれに従ってくれたかもしれません。悔やまれます。
またわけのわからないこと書いてしまいました。
まだ脳疲労は回復していないようです。

■1281:人の心身の中にはたくさんの「いのち」が宿っている(2011年3月8日)
昨日降った雪が庭にまだ残っています。
しかし、今日は昨日とは打って変わって、春を感じさせる陽射しです。
春は冬の中から立ち上がってきます。
季節の変わり目には、いつも自然の大きさを感じます。

冬には冬の生き方があり、春には春の生き方があります。
同じように、人には、その時々の状況に合わせた生き方があります。
さびしい時にはさびしい生き方があり、楽しい時には楽しい生き方がある。
しかし、悲しいことに、自然と違って、冬の次に春が来るわけではありません。
悲しさやさびしさにつかまってしまうと、そこからなかなか抜け出せなくなるのです。
そして、そのうちに、その状況に居心地の良ささえ感じるようになります。
悲しさや寂しさの意味が反転するのです。

人の心は、不可思議です。
わかっているようでわからない。
心を操るもう一つの心を感ずることも少なくありません。
あるいは、寂しさの中にいる自分や、楽しさを感じている自分を、ひややかに見ている自分に気づくこともあります。
人の心身の中には、たくさんの「いのち」が宿っているのかもしれません。
そのひとりが、節子であっても不思議ではありません。
そして、どれがほんとうの自分かもわかりません。
おそらくそんなものはないのでしょうが。

一昨日は啓蟄(けいちつ)でした。
大地に包まれて眠っていたいのちが動き出す日です。
今年は、たくさんの「いのち」に身を任せようと思い出しています。

■1282:房総の花(2011年3月8日)
節子
ジュン夫妻が房総半島に行って、早春の花をお土産に持ってきてくれました。
節子と一緒の最後の家族旅行は房総半島でした。
節子は、好きな花と好きな家族を満喫してくれたと思います。

ユカが宿と食事処を決めてくれました。
鳩山家の別荘だったところに泊りましたが、安いプランだったので部屋はあまりよくありませんでした。
いまはもう思い出せませんが、貧乏性の節子と私が、きっと安いプランを選んだのでしょう。
私たちは、最後まで貧乏性でした。
私の記憶では、節子に贅沢をさせてやった記憶がありません。
節子が贅沢をした記憶もありません。
慎ましやかに生き、慎ましやかに終わっていく、それが私たちの生き方でした。

それが最後の旅行になると知っていたのは、節子だけだったかもしれません。
少なくとも私は、そうは思っていませんでした。
最後だと思えば、これまでなかったような贅沢な部屋を用意したでしょうに。
どこまでも愚鈍で、思いやりの欠落している夫でした。
現実がまったく見えていなかったのです。

その頃は節子だけでなく、家族みんながそれぞれ疲れていましたが、自動車での一泊二日の旅行は、思い出したくなくても思い出してしまうほど、いろいろなことがありました。
節子は歩くのも大変だったかもしれません。
しかし私たちと一緒に、歩いてくれました。
ゆっくりと、ゆっくりと。
私には、そんなことができるでしょうか。
節子は、私と正反対に健気な人でした。

ジュンたちのお土産の花は、いろんなことを思い出させてしまいます。
やはり私にはまだ、房総半島は思い出したくない場所のひとつのようです。

節子は花を喜んでいるでしょうか。
あの時、節子がおいしそうに食べた金目鯛を思い出します。

■1283:病院の待ち時間(2011年3月9日)
節子
今日は病院で一人で1時間待ちました。
私が一人で1時間待つというのはめずらしいです。
節子がいたら、よくがんばってね、とほめられそうです。
今回も1時間待たされたら帰ろうと思っていましたが、その5分前に呼び出されました。
予約制度の意味がないとこの病院の管理能力を疑いたくもなりますが、まあ相手が病院ですから、いろいろと事情があるのでしょう。
緊急の患者がいたのかもしれません。
自分勝手な行動は控えなければいけません。
しかし、私は「待つ」という行為が苦手です。
誰かと一緒であれば何とかなるのですが、一人だと我慢できません。

病院の待合室で、何回、節子と待ったでしょうか。
長い時には2時間も超えました。
病院で患者を待たせるという神経が、私にはわかりませんが、現実は待たないわけにはいきません。
以前も書きましたが、医師によっては「長いこと待たせてすみません」といいますが、さも当然のように何も言わずに診察を始める医師もいます。
医師も忙しく、昼食もまともに食べていない実状を知っているものとしては、そうした無駄な時間をできるだけなくしたいと思う「まじめな医師」の気持ちもわかります。
しかし、それは決して無駄な時間ではなく、医師の医学的な処置行為よりも大きな効果のある医療行為だろうと、私は思います。

また話がそれてしまいましたが、待合室で順番を待つ間、節子は何を考えていたでしょうか。
私が節子に同行せずに、娘に代わりを頼んだのは、たしか1〜2回でした。
後は必ず私が同行しました。
待合室に節子を一人にしたことはありません。
と、今日まで思っていました。
しかし、そうだったのか。

私のいまの病院通いは、たいした病気ではありません。
しかし節子の場合はそうではありません。
どれほど心細く、どれほど辛かったか。
辛い手術もあったのです。
それにも、節子らしい対応をしてくれましたが、ほんとうは心細かったのではないかという気がしてきました。
いまさらそんなことを思ってどうするの、と言われそうですが、今日ふとそう思ったのです。

待合室の待ち時間を、もっともっと楽しい時間にできたのではないか。
ただ付き添えばいいというものではないのです。
もっと節子との時間を充実させるべきだった。
そこがたとえ病院の待合室であっても、節子には大事な時間だったのですから。

後で思うと、どんな時にもできることはたくさんあります。
人の愚かさは、救いようがありません。

■1284:花粉症でなくても涙は出ます(2011年3月11日)
節子
最近また迷走しがちです。
春のせいでしょうか、凍えていた気持ちが起きだしたのでしょうか。
気持ちが上下します。
わけもなく不安になったり、わけもなく沈んだり、わけもなく動き出したり。

「病院の待ち時間」にコメントが書きこまれました。
読んでいるうちに、涙が出てきてしまいました。
春のせいでしょうか。
ともかく止まらない。

実は、涙はこのコメントだけではありません。
その直前に本を読んでいたのですが、なぜか涙が出てきたのです。
普通なら涙が出るような本ではありません。
岩波新書の「人が人を裁くということ」という、小坂井敏晶さんの本です。
とても考えさせる本です。
しかし涙が出たのは、その本論ではありません。
「あとがき」に紹介されていた、フランスであった話です。
引用させてもらいます。

強制退去処分を受けた不法滞在アフリカ人が、パリ・ドゴール空港に移送され、旅客機の座席に縛り付けられた。そのとき、来客十数人が警察のやり方に抗議して、シートベルト着用を拒否した。飛行機は離陸できない。結局、抗議者は全員逮捕され、警察署に連行される。その中に、パリ第八大学で勉強するマリ出身の女子学生がいた。それを知った学長は、彼女の救援活動を組織するよう全教員に要請するとともに、学生を警察署に引き取りに行った。

この文章に、なぜか涙が出てしまいました。
なぜ涙が出るのでしょうか。
著者の小坂井さんは日本なら逆に、学生を叱責し、警察に謝罪する学長の方が多いだろう、と書いています。

最近、よく思うのです。
今の日本は、死者の国ではないかと。
もしそうであれば、私自身が死者ということです。
おまえは、シートベルトを拒否できるか、そう問われているような気がします。

「病院の待ち時間」にコメントをくださったライムさんは、「奥様への想いは、優しいですね:と書いてくれました。
しかし、優しさには強さもなければいけません。
最近、気が弱くなっています。
春だからでしょうか。
節子は、春が好きでした。

■1285:国内最大規模の地震が起きました(2011年3月11日)
節子
マグニチュード8.8の東北地方太平洋沖地震が起きました。
発生してすでに2時間以上経過しましたが、まだわが家でも余震でかなりの揺れを感じます。
節子の位牌も倒れてしまいました。
飾り棚のヴェネチアンのガラスとジュンのスペインタイルがいくつか壊れてしまいました。
その片づけで、指に怪我をしてしまいました。
私の細長い書庫は、書籍や書類が棚から落ちてしまい、入れないほどです。
これだけ大きな地震は初めての体験です。

私は、今日は自宅で仕事をしていました。
首都圏の交通機関は止まっていますので、オフィスに出かけていたら帰宅できなかったかもしれません。
それにしても、長い地震でした。
それにまだ余震が続いています。
あまり気持ちのいいものではありません。

わが家には非常持ち出し袋はありません。
これは、節子の文化ではなく、私の文化です。
自然の力には、素直に従うのがいいと言うのが私の考えです。
非常時には、非常時らしく苦労しなければいけません。
それが私の文化です。
節子は、いざと言うことのために、そうした準備をするタイプでした。
ただ残念ながら、忘れやすい人なので、用意していても、いざという時に、それを見つけることができないタイプでした。
ですから、結果的には私と同じくなります。
まあ、万一の場合は、節子の位牌だけを持ち出せばいいでしょう。
それを示唆するように、節子の位牌が仏壇から転げだしたのかもしれません。

またかなり大きな余震が来ました。
家が悲鳴をあげている感じです。
挽歌を書いている場合ではないですね。
しかし、すごい地震なので、節子と話したかったのです。

娘たちは、近くのお年寄りのお宅に様子を見に行きました。
節子が残してくれた文化は残っているようです。

■1286:挽歌どころではないほどの地震です(2011年3月12日)
節子
地震の被害が次々と明らかになってきています。
その被害は驚くほどのものでした。
まだ余震があり、それもかなり大きなものもあります。
しかし、人は状況にすぐ慣れてしまうもので、余震にも慣れてしまいました。
節子の不在にはなかなか慣れないのとは大違いです。

知人のいる町が全滅とか津波に襲われたという報道が次々あるので、テレビからも目を離せません。
そのうえ、福島の原発のトラブルまで発生しました。
テレビでさえ炉心溶融の可能性を報道していますので、ますますテレビから離れられません。
知ったからといって何かできるわけではありませんが、他のことをやる気が出ません。
昨夜もずっとテレビを見ていたので、眠くて仕方がありません。

節子がいたらどうしたでしょうか。
こういう時の節子は、実に心強かったですが、私はただただテレビを見ているだけです。
壊れた置物は廊下に放置したままですし、散らかった資料もまああまりきちんとは片づけられずにいます。
節子がいたら、テレビばかり見ていないで片づけなさいよ、というでしょうが、原発が危ういのに片付けなどできるか、と言い合っていたでしょう。
しかし挽歌どころではありません。

私たちの社会がいかに危ういものであるか、思いしらされました。
その上、こういう時には頼りになる節子がいないので、困ったものです。
この地震は社会の方向を変えてしまうかもしれません。

■1287:うれしい電話(2011年3月12日)
節子
陸前高田が津波で壊滅してしまいました。
以前お会いした人たちは、どうなったでしょうか。
こころ痛みます。

しかし、悪いことばかりではありません。
地震のおかげで、思ってもいなかった人からの電話をもらいました。
いつも気になっていたOさんです。
まさかOさんから電話が来るとは思ってもいませんでした。
どんな時にも、うれしいことはあるものです。

Oさんは一度は死を考えたことのある若者です。
その直前に相談を受けたとき、私は節子のことで余裕がなく、上手く対応できなかったのです。
要するに、Oさんの置かれている状況に合わせての感情移入ができなかったのです。
しかし、節子は違いました。
節子に言われて、そのことに気づきました。
そのことを、いまもとても悔いています。
しかし、Oさんは、そうした中途半端の私の対応にもかかわらず、私に感謝してくれているのです。
うれしい電話です。

Oさんは名古屋にお住いですが、茨城に近い我孫子に住んでいる私のことを心配して電話してきてくれたのです。
千葉の情報はあまりテレビでは報道されないので、実状は見えないのかもしれません。
情報がないと、人は悪いほうに考えがちです。
Oさんは、とても心配して、ライフラインは大丈夫ですかと訊いてきました。
辛い状況を体験した人は、他者の痛みを思いやれるようになるのでしょう。
とても心配しての電話でした。

久しぶりに電話で話したOさんは元気そうで、何か必要なものがあったら送りますと言ってくれました。
こんなうれしい言葉はありません。
これも節子のおかげです。

節子
Oさんは元気です。

■1288:あなたたちは一人ではない(2011年3月15日)
節子
地震は想像を超えるものでした。
首都圏まで影響が出始めました。

せっかく書き遅れていた挽歌が追いつきそうだったのですが、また数日書けずにいます。
まだ書く気分にはなりません。
こうした時期にはネットも使用を控えようと思います。

時評編にも書きましたが、今朝、友人から次のサイトを教えてもらいました。
http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc
見せてもらいました。
挽歌を読まれている方にもみてもらいたくて、ここでも紹介します。
ぜひ見てください。

■1289:悲しいときは泣けばいい(2011年3月16日)
節子
津波の報道と原発事故の報道が交互に行われています。
それはまったく異質なものですので、見ていて心身が疲弊します。

津波の報道はかなり心を揺さぶります。
見ているのが辛い画面が多すぎます。
津波で洗われた旧市街地に向けて、「おかあさん」と泣き叫ぶ少女の姿はさすがに見ていられませんでした、
一方、原発事故は心に突き刺さります。
いい加減な報道が多く、もう少しまじめに報道しろといいたくなります。
誰も肝心のことを質問しませんし、説明しません。

いずれにも共通しているのは、世の終わりです。
世の終わりとは言い過ぎに聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。
福島原発の実状はかなり深刻であり、テレビの報道とは全く違うように思います。
一歩間違えば爆発ですが、誰もそのことを正面から見据えて取り組もうとしていません。
まじめに取り組んでいるのは、おそらく原発現場の作業員だけです。
どう考えても不条理です。
しかし、不条理なのは津波で肉親や隣人を一瞬にして奪われた人も同じです。
きっと世の終わりを見たはずです。
友人から10人以上の従兄弟家族が絶望的だというメールが来ました。
どう返信したらいいでしょうか。
幸いに被害を免れたという連絡をもらった人に、良かったね、と素直に言えない自分がいます。

テレビを見ながら思います。
悲しいときは泣けばいい、それしかできないのですから。
泣けない人間には真実はない、と私は思っています。
テレビの画面で泣いてしまうと、後々まで世間から嘲笑されるおそれもありますが(ひどい社会です)、そんなことは気にする必要はないでしょう。

私もいろんな人に笑われました。
しかし、悲しいときには泣くのがいいです。
被災者にできることは、それしかないのですから。
私にできることも、被災者の人と一緒に、涙を流すことかもしれません。

枝野さんも、もしかしたら、泣きたいのかもしれません。
泣きたいのに泣けない生き方。
節子がいた時には、私もそう生きていたように思います。
節子の前でだけ涙を見せました。
しかし、今はどこでも泣けるようになりました。
いや、涙をこらえられなくなったと言うべきでしょうか。

泣きたい時に泣けるような社会になれば、きっと社会は住みやすくなるでしょう。
不謹慎ですが、そんなことを考えながら、テレビを時々見ています。

■1290:正常な生活とは(2011年3月16日)
節子
電話事情が改善されたようで、いろんな人から電話が入りだしました。
お米はあるか、不自由している物はないか、みんな心配してくれます。

たしかにテレビを見ているときっと心配になるのでしょう。
しかし、私が住んでいる我孫子市は特に問題はありません。
スーパーから食材が無くなっているようですが、すぐに回復するでしょう。
ガソリンの給油が大変そうですが、まあ使わなければいいだけの話です。
計画的な停電も行われていますが、それくらいの不便はむしろ好ましいことかもしれません。
それにわが家は娘たちの意向で、かなり厳しい「節電」も行われています。

友人知人からの、ちょっと辛い連絡も入りだしました。
もちろんホッとする連絡も入ります。

電話やメール、あるいはネットの利用も、地震発生以来、控え目にしていましたが、そろそろ大丈夫かもしれないと思い、少しずつ再開しました。
福島の原発がたいへんな事故を起こしていますが、その状況はテレビを見ていてはあまりわかりません。
それもあって、ネット利用者が少ないだろうなと思う午後の時間帯を使って。ネットも利用するようにしました。
メーリングリストへの投稿も控え目に再開しました。
そうしたらいろいろと反応もあります。
やるのを忘れていた仕事も思い出しました。
それで昨日までは暇だったのですが、また忙しくなりました。

まだ電車の運行状況が不安定なので、オフィスには行っていませんが、明日にでも行ってみようかとも思います。
生活は徐々に正常化しつつあります。
と書いて、気づいたのですが、どちらが「正常な生活」なのでしょうか。

節子と違って、私が「リアル」に生きていないことに気づかされます。
節子なら、この数日が正常だったのよ、と言うでしょう。
たしかにそうに違いありません。
困ったものです。
また不正常な、あるいは不健康な、生活に戻りますか。

■1291:祈り(2011年3月17日)
節子
原発事故はますます深刻化する一方です。

祈りの文字がネットで目につくようになりました。
もっと祈りを集めようという呼びかけもあります。
その一方で、原発現場では決死の作業が続いています。
その人たちへの祈りもしなければいけません。

祈りは通ずるのか。
節子と一緒にどれほどの祈りをしたでしょうか。
そうした祈りは、通じたのでしょうか。

祈りは、神や天へのものではありません。
自らへのものです。
祈りが通じたかどうかは、自らの考え方次第です。
そう気がついたのは、節子を見送って数年してからです。
祈りは必ず通ずるものなのです。
そう思えるようになってきました。

節子も祈り続けていました。
節子はきっと、その祈りのなかで彼岸に旅立ったのです。
祈りは、その結果とは無縁です。
祈りそのものに意味があるのです。
今回の地震や津波の被災地でも、たくさんの祈りがあったことでしょう。
テレビの報道画面から伝わってきます。

祈りましょう。
原発現場で作業している人に感謝しながら。
被災地で辛い思いをしている人に感謝しながら。
そんな気持ちでいっぱいです。
節子も、彼岸で祈ってくれているでしょう。
そんな気がします。
夢も見ます。

■1292:悲しみのエネルギー(2011年3月18日)
節子
テレビも新聞も、毎日、生と死を考えさせられる報道ばかりです。
節電に努めていることもあって、テレビはあまり見ていませんが、テレビをつける度に、やりきれない話が飛び込んできます。
もう地震から1週間経ちますが、悲報が日に日に増えています。

こうした悲惨な状況の中でも、秩序が維持されていることに海外からは高い評価を受けていますが、さまざまな事件も起きはじめているようです。

福島原発は、まさに悪夢です。
予想している通りの進行をしています。
どう対処していいか、わかりません。
あまりに問題が大きすぎます。
30年前に節子と話していたことが現実のものになろうとは思いもしませんでした。

人は、常に楽観的なシナリオにしがみつくものです。
その結果、何が起こるか、それを思い知らされてからまだ3年半です。
しかし懲りずに、いまもまた楽観的なシナリオに従おうとしています。
私には、選択肢はそれしかないからです。

それにしても、今回の地震と津波は、1万を超える人の命を奪い、40万人近い人の暮らしを変えてしまいました。
私たちのような思いが、1万も生まれたということです。

昨日、祈りについて書きました。
祈りは集まれば、自然さえも変えると私は思っています。
祈りにエネルギーがあるのであれば、悲しみにもエネルギーがあるはずです。
そうでなければおかしい、そう思います。

悲しみと祈りのエネルギーが、流れを変えてくれるかもしれません。
私の悲しみも、そうした大きな悲しみに、合流させなければいけません。
節子への思いが、すべての死者への思いに重ねられるとは思えませんが、家族を探し歩いている被災者の姿を見ながら、そんな思いが浮かんできています。

祈りや悲しみは、みんな同じなのかもしれません。

■1293:逃げたい気分(2011年3月19日)
節子
地震騒ぎで庭の水や利を忘れていました。
ますます庭の花は悲惨です。
家の中に取り込んでいた花もいくつか駄目になってしまいました。

何をしているわけでもありません。
むしろ睡眠時間は増えていますし、食事もきちんととっています。
疲れの原因は「無力感」かもしれません。
地震発生以来、テレビを見過ぎたのかもしれません。
人を疲れさせるのは無力感なのかもしれません。

昨日、近くの家電販売店に行きました。
いつものように、たくさんの人がいました。
地震も津波も、原発も、何もなかったように思うほどです。
しかし、買いに行った電池は一つもありませんでした。

朝、地元の若者がチャリティー野菜市を開くというので出かけてみました。
みんな張り切っていました。
売上は被災地に送るのだそうです。
前向きに取り組んでいる友人知人のメールも届きだしました。
にもかかわらず、自分の気持ちが萎えていくのを感じます。
被災関係の画面がテレビに出てくると、目を背けている自分に気づいて、罪悪感が出てきます。

電話やメール、あるいは誰かに会っている時はいいのですが、その後、どっと疲労感が襲ってきます。
逃げたい気分です。
しばらくは花の水やりに専念したいという気がします。
生活につながる生々しい情報には、もう耐力がありません。

■1294:「妻にメールしました」(2011年3月19日)
節子
福島の原発事故で、放射能を浴びる危険を冒しながら消防活動に取り組んでいる人たちがいます。
その人たちが記者会見を行いました。
責任感と勇気を持った人たちです。
私ならできるでしょうか。

現場に行く前に家族に連絡しましたか、という質問に、みんな携帯電話で妻にメールしたと答えました。
そのメールの文章も紹介してくれました。
聞いていて、とてもうらやましかったです。
そして、彼らの勇気の源泉は、やはり伴侶の存在だったのだと思いました。
そして、節子がいたら、私にもできただろうと思いました。
愛する人がいる人は、強いものです。

消防隊のリーダーの人が、隊員に危険を冒させて、その家族に申し訳なかったといいました。
その時に、彼は涙をながさんばかりに声を詰まらせていました。
私も涙が出そうになりました。
彼のその言葉は、自らの伴侶への気持ちでもあったのだろうと思います。
彼を支えたのも、たぶん奥さんであり家族です。

急に節子がいない寂しさに気づきました。
これだけの大事件は、節子と一緒に立ち向かいたかったです。
たぶん、まったく違った対応になったでしょう。

今日もあまり元気が出ませんでした。
明日は元気になれるといいのですが。

■1295:自己喪失(2011年3月20日)
節子
今回のような大きな津波は、平安時代にも東北で発生していたようです。
多賀城址には、その痕跡がしっかりと残っているようで、それに気づいての対策を主張していた人もいました。
十三湖のように、他にも東北の巨大津波の記憶はあるはずですが、そうした事実はなかなか意識されないのでしょう。
大地の記憶と人間の生活は、最近では必ずしもつながっていないからです。

「私とは記憶そのものだ」と書いているのは、小坂井敏晶さんです。
心理学の世界では、主体性という概念はほぼ否定されています。
この挽歌では、個別の生命体を越えた「大きな生命」について時々書いていますが、おなじことが「意識」にも言えます。
私の意識は私の物ではなく、記憶という現象を介して「大きな意識」とシェアしたものなのです。
節子の意識もまた、同じことです。

小坂井さんの表現を借りれば、「自己は記憶の沈殿物」なのです。
自己という実体があるわけではありません。
たしかに自己の肉体はありますが、意識する自己の実体はありません。
他者との様々な体験の記憶を通して、自己がうまれます。
私の場合、その共通の体験量が圧倒的に多いのが節子でした。
だから節子がいなくなったことは、自らの消失にもつながりかねなかったのです。

小坂井さんは、「他者と共有した時間をすべて取り除いたら自分自身が消失してしまう」と言っています。
そて、「だから身近な人を亡くすと、いつまでもその人の写真に語りかけたり、その人を思い出すモノを大切に取っておくのだろう」と書いています。
位牌やお墓がどんなに大事なのか、わかります。

今回の地震や津波で、瞬時にして多くの記憶を失った人は戸惑うばかりでしょう。
愛する人を失うことは、確かに悲しく辛いことです。
しかし、失ったのは愛する人たちだけではないのです。
その人を思い出すモノや風景までもが失われてしまった。
対象喪失ではなく自己喪失と言えるかもしれません。

私には被災地の風景や被災者の言葉は、辛すぎて観ていられません。
しかし、もしかしたら、あの風景は、私にとっての節子のいない今の世界の風景と同じなのかもしれません。
もしそうなら被災した人たちは、それをしっかりと心に刻み込んでおかねばいけません。
それが生きる力を与えてくれるからです。
節子の記憶が、私に生きる力を与えてくれているように。

■1296:用事がなくなった後の空白(2011年3月21日)
節子
地震のおかげで、生活のリズムが狂ってしまいました。
いろいろと前向きに進んでいたのですが、すべてが変わってしまいました。
この1週間、ほとんど在宅でした。
外出はしていますが、せいぜいが隣町の柏です。
そのせいか、心身ともに不調です。

先週の金曜から日曜日まで、信濃川に鮭の稚魚を放流するイベントやシンポジウムに参加するため、新潟と長野に行く予定でした。
地震が起こってしまったためにすべてが中止になってしまいました。
とても残念です。
用意した鮭の稚魚は新潟水辺の会のみなさんが放流して来てくれたそうです。

中止されたのはそれだけではありません。
企業の人たちとの合宿もNPOの集まりもまちづくり関係のミーティングも中止です。
予定がなくなることの意味に気づきました。

節子がいた時には、予定が中止されると節子との時間が増えて、むしろうれしいものでした。
しかし、いまは違います。
そうした予定がなくなると、時間がまさに空白になるのです。
そして、どうしたらいいかわからなくなるのです。
いまさら何をという気もしますが、これまでそんなことを感じたことはありませんでした。
しかし今回は、ほとんどすべて予定がなくなった上に、湯島にも行かずに在宅しつづけたせいかもしれません。
時間の使い方がわからなくなってしまいました。
被災地の人の状況やその関係でさまざまなボランティア活動が求められていることは知っているのですが、それにも本腰が入りません。
自分で能動的に動き出す気が起きないのです。

いろんな人からメールは来ます。
元気のメールとそうでないメールです。
日本全国がどうも躁と鬱に二極化しているような気もします。

私はちょっとうつ状態かもしれません。
節子がいたら、すぐに直してくれるでしょう。
しかし、いまは自分だけで解決しなければいけません。

これではいけないので、明日は湯島に出かけようと思います。
今週は恒例のオープンサロンですので、いろんな人に会えるかもしれません。
私は、人に会うと元気になれるのです。
節子もそれをよく知っていました。
しかし、最高の元気の素は節子だったのですが。

■1297:3日遅れのお彼岸の墓参り(2011年3月23日)
お彼岸にお墓参りに行かなかったので、今日、行ってきました。
地震で多くの墓石がずれていましたが、倒壊はほとんどありませんでした。
補修の仕事をしている人がいましたが、茨城のほうは大変な状況だそうです。
津波に襲われたところは、倒壊どころではなく、跡形もなくなってしまっているのでしょう。
それがどんなに辛いことか、最近は少しわかってきました。
千の風になろうとなるまいと、やはりお墓は大切です。

1年ほど前までは毎週お墓参りをしていましたが、最近はちょっとさぼり気味です。
もし立場が代わっていても、きっと節子も今頃はさぼっていたでしょう。
まあ、そうした点においては、私たちは極めて似た物夫婦でしたから、間違いありません。
娘たちからは、ちょっと皮肉を言われていますが。

そういえば、最近、庭の献花台にも花がありません。
その上、節子の思い出の花は枯らせてしまうし、困ったものです。
少し悔い改めないと、怒った節子が化けて出てきそうです。
しかし、化けようと化けまいと、節子が出てくることは歓迎ですので、ここはむしろ悔い改めることなく、もっとさぼったほうがいいかもしれません。
本当に化けて出てくるといいのですが、

■1298:別れ方(2011年3月24日)
節子
生活はかなり正常化してきましたが、被災の深刻さは想像以上です。
死者・行方不明が2万人を超えそうです。
一番心身にこたえるのは、「別れ」を感じさせる画面です。
不思議と「死」に対してはなにも感じません。

家族との別れ、伴侶との別れ、そうしたことを感じさせる画面になると画面を変えてしまいます。
見ていられないからです。
そういうことを繰り返していて気づいたのですが、問題は「死」ではなく「別れ」です。
人生においては、「別れ方」が問題なのです。

余命が問題になる患者の家族に医師は「生き方」ではなく「死に方」だといいます。
なんと非情な言葉だろうと私は憤りを感じましたが、それは「死」という言葉が、生命的でないからです。
代わりに「別れ方」だと言われても、おそらく同じように憤りを感じたでしょうが、普段から「別れ方」は考えておかねばなりません。
もしそうしていたら、いざという時に、もう少し悔いのない生き方ができるかもしれません。
親との別れ方、子どもとの別れ方、そうしたことはだれもが日常的に考えることかもしれません。
しかし、伴侶との別れ方も、普段から考えておくべきことかもしれません。
出会いは必ず別れにつながるのですから。
そして、時に今回のように、ある日、突然やってくるかもしれないからです。

いまから考えると、私にはその考えが欠けていました。
節子にはそうした考えはあったような気もしますが、あえて私には求めませんでした。
節子は私に最後まで希望を残していてくれたのです。
最近またそんなことをよく考えます。

節子が言っていました。
明日がなくても後悔しないように、今日はしっかりと生きた、と。
それに対して、私は笑いながら、明日もあるから大丈夫だよ、などと無責任なことを言っていました。
真剣に生きていた節子に対して、なんと不誠実だったことか。

被災地の人たちのちょっとした言葉が、節子との会話を思い出させて、心を凍らせます。
生き方に誠実さが不足していました。
口惜しくて仕方がありません。
いまさら謝っても、どうにもなりませんが、位牌に向かって毎日謝罪するばかりです。

不謹慎かもしれませんが、今回の地震や津波は、私の心身のなかの風景につながっています。
だから、とても寒いのかもしれません。

■1299:陽射し(2011年3月25日)
節子
今日は久しぶりに陽が射しました。
空気は冷たいですが、陽があたっているところはとても暖かです。
東北の被災も福島原発の事故も、忘れてしまいそうになります。

自然の力は、それにしても、大きいです。
地震や津波を起こしたのも自然ならば、すべてをつつみこむような暖かさを与えてくれるのも自然です。
陽射しに目をつぶっていると、天国にいるような気持ちになります。
もっとも、私はまだ天国に行った記憶がないので、本当かどうかはわかりませんが。

陽射しにつつまれながら、考えたのですが、もしかしたら私はずっと節子の陽射しの中で、好きなように生きてきたのかもしれません。
節子の陽射しは、いつも私を温かくしてくれていました。
その陽射しがなくなって、気が冷えてきていたのかもしれません。

自然の力も大きいですが、人の力も大きいです。
被災地の報道を見ていて、改めてそう感じています。
ところで、私は、だれかの陽になれているでしょうか。
反省しなければいけません。

■1300:「こういう時期だからこそできることはやる」(2011年3月26日)
節子
地震はありましたが、恒例のオープンサロンは予定通り開催しました。
実は4月に予定していたあるフォーラムを延期にしようと思って相談したら、みんなから「こういう時期であればこそやってほしい」といわれたのです。
「こういう時期だからこそできることはやる」というのは、説得力のあるメッセージでした、
そこで、地震で開催できなかったコムケアサロンも兼ねることにし、それぞれに何ができるだろうかを話題にすることにしました。
もっとも実際に誰が来るかはわかりません。

誰も来なくても開催する、がオープンサロンの方針でした。
さすがに誰も来なかったことはありませんが、一人だけだったことが一度あります。
定刻になっても誰も来ないと、節子と今日は誰も来ないのか、レストランはいつもこういう気持ちを味わっているのだろうね、などと話し合っていたことを思い出します。
外が暗くなってきても誰も来ないと不安なものです。
しかし、誰も来ないしばしの空白時間は、自らの時間を他者に委ねるという、私たちにとって、とても意味のある時間でもありました。
今日は、それを一人で体験しなければいけません。

と書いていたら、早速お一人お見えになりました。
続きは、後で書きます。

続きを翌朝書いています。
昨日のサロンは10人近くの人が来てくれました。
被災者に何ができるかよりも、話題はどうしても原発事故に向いてしまいます。
みんな話したいことがたくさんあるのです。
ここでは少し書きにくい内容の話もいくつかありました。

一番若い参加者の片野さんはもう少ししたら現地に行く予定だそうです。
若い女性のフットワークの良さにはいつも驚かされます。
男性は論ずるだけですが、女性は行動します。
それも節子から学んだことでした。

ところで、「こういう時期だからこそできることはやる」という言葉は、どこかで聞いたことがあるなと思っていたのですが、節子も同じようなことを言っていたのを思い出しました。
私にもできることは、まだいろいろありそうです。

■1301:加野さんからの水(2011年3月26日)
節子
福岡の加野さんから水が届きました。
我孫子の水汚染がまたテレビで放映されたようです。
昨日、解毒効果もある水素イオン水を送りますと電話がありました。
とてもお元気そうで、安心しました。
なにしろ加野さんはもう80歳のなかばなのです。
最近ご無沙汰していたので、ちょっと気にはなっていたのですが、逆にどうも心配されていたようです。
水道水がありますから大丈夫ですと応えましたが、我孫子の水道水も汚染されているようです。
現場の渦中にいるよりも外部の人の方が問題の所在がわかるのかもしれません。
しかし、それは仕方がないことです。
時評編に書きましたが、すべては原発を許した時に始まっていたのです。
その時に覚悟すべきことであり、いまさらバタバタするのは私の生き方には合いません。
節子もきっと賛成してくれるでしょう。

心配してもらうことを素直に受け入れることも、大事です。
これは節子と言うよりも、私の文化でした。
誰かに何かをしてやるほどの能力も資力も特にあるわけではない私としては、存在すること自体で役に立つことがあるという、考えようによっては実に自分に都合のいい考えを昔から持っています。
この考えが間違っていなかったことを、私は節子との別れで確信しました。
節子は私に何もしなくても、存在するだけで私の支えになっていたのです。
節子がいなくなってから、そのことを改めて実感しました。

加野さんからの水は結局、送ってもらうことにしました。
いつかまたお返しすることができるかもしれません。
お互いの年齢を考えると、それが現世ではないかもしれませんが、そんなことは瑣末な話なのです。

加野さんの水は、先ずは節子に供えさせてもらいました。
節子と一緒に大宰府に加野さんを訪ねたかったと、改めて思います。
加野さんからいただいた久留米絣のテーブルクロスや暖簾は、節子のお気に入りでした。

■1302:静的な不安定感(2011年3月27日)
ネットワークささえあいの交流会を開催しました。
この大変な時期にもかかわらず、6人の人が集まりました。
この状況の中で、何ができるのか、みんなそれぞれにそう考えています。
しかし、注意しないと、善意は迷惑にもなりかねません。
そこが難しいところかもしれません、

ある人が、こうした状況の中で、男性と女性の動きは違うと話しだしました。
簡単に言えば、男性は社会の一員として考えるので、あまり状況に振り回されないで、坦々と仕事をこなしているが、女性は生活の視点で考えるので、放射能汚染や地震の動向に過敏に反応してしまう、というのです。
その人は女性なのですが、勤めています。
自分も男性の多い職場にいると仕事中心で考え行動するが、しかし自宅に変えると母親として妻として家族の生活を考えるので、汚染情報などには過敏に反応し、買物にも走るというのです。
ということは、必ずしも男女の違いではなく、組織人か家庭人かの違いかもしれません。

私にはとても興味深い指摘でした。
組織秩序からの発想と個人生活からの発想と、そのいずれもが大切です。
夫婦が分担していたのは、作業や役割ではなく、そうした思考の視点ないしは理念なのではないか。
もしそうならば、夫婦で一緒に生活することが、判断基準の視点を二極化し、それが人生を深めるのではないか。
そして、そのことが社会を安定させ変化させる原動力ではないかと思ったのです。

最近、私の生活が単調なのは、視点が単極化したためかもしれません。
もし社会が動的に安定しているとすれば、最近の私は静的に不安定です。
壊れているのは社会ではなく、自分ではないか、
時々そんなことを考えさせられるのも、もしかしたらそのせいかもしれません。

ちなみに私の心身は、最近は、いわゆる「下船病」のように、常に揺れ動いているような感じです。
困ったものです。

■1303:動けない日もあります(2011年3月28日)
私が一番動けなくなったのは、たぶん節子と別れてから3か月から半年経った頃です。
信じたくない現実は、それくらいの時間がないと実感できないのです。
いまもなお完全に実感しているかといえば、残念ながらそうではありません。
おそらく未来永劫、節子との別れには納得できずにいくことでしょう。
それにそれが必ずしも間違いとも言えません。

被災地のみなさんの多くは、おそらくまだ実感はできていないのではないかという気がします。
確かに哀しいし涙は出ます。
寒さに震え上がってしまうかもしれない。
しかし、それは心身が反応しているだけでしかありません。
そして、それがおさまりだすと、魂の中の暗闇が見えてきます。
それは決してふさがりません。

見かけ上、元気になっていく心身と欠けてしまったことに気づく魂。
それは奇妙に交錯しながら、バランスを取りながら、自らを変えていきます。
自分ではなかなかコントロールできません。
こんなはずではないのにと思いながら、動けないのです。
涙も出ないのに、哀しさが襲ってくる。
元気になろうという心身を、そうした涙も出ない哀しさが引き戻す。
何もできない1日。
そうしたことが時折、起こります。

これは病気だろうか、とも思います。
しかし、おそらくそうではないでしょう。
これは健全な証拠なのです。

被災地のたくさんの方たちの、今年の秋が心配です。

節子
今日はそんなことを考えていました。
動けない時は、動けない。
4年前の夏の節子のことが心から離れません。

■1304:ほうれん草を買うかどうか(2011年3月29日)
節子
あなたならどうしたでしょうか。

なぜか近くの八百屋さんに茨城産のほうれん草が並んでいたそうです。
出荷制限と聞いていたのですが、不思議です。
娘は買ってきませんでした。

それをめぐって、娘と私の節子観が正反対であることがわかりました。
私が、節子なら買ってきただろうな、こういう時こそ、農家を支援しなければいけない、と言うと、
娘はすかさず、節子だったら買わないよ、何でそんな危険なものをあえて食べないといけないのかというよ。
さてどちらが正しいでしょうか。

難しい放射線量など、節子は理解できないでしょうから、要は危険かどうかが判断基準になるでしょうが、同時にせっかく丹精込めて育てられた野菜への愛着もあるでしょう。
節子は食材が無駄に扱われるのが、とても嫌いでした。
それにテレビで、すべてが危険なわけではないという報道を見ていたら、むしろ応援の意味も兼ねて買うのではないかと、私は思います。
それに、節子は賞味期限などあまり気にせずに、期限切れのものを捨てずに調理していましたし。
それ以上に、私がそう思うのは、私なら気にせずに買うからです。
ナにソロ私たちは同じ価値観を持っていたはずですから。

ところが娘は、そういう無茶をやる私に、節子は否定的だったと言うのです。
そして、家族の安全を守るように、安心できない食材は買わなかったというのです。
そう言えば、中国産は避けていました。

わが家では、「節子だったら」というのが流行り言葉なのです。
ところが、その節子基準は、人によって違うようです。
困ったものです。

ところで、今回に関しては、いずれが正解でしょうか。
当の節子本人は答えられるでしょうか。
たぶん答えられないでしょう。
時に買い、時に避ける、節子もその時々に気分に大きく影響される人でしたから。
まさに私と同じでした。
要するに私たちが似ていたのは、いい加減だったということなのでしょうか。
いやはや困ったものです。

■1305:地球は存続しているのか(2011年3月30日)
節子
どこかおかしい気がします。
私が、ではなく、社会が、です。
何かがおかしい、そんな気がしてなりません。
これまで感じたことのない、奇妙な感じです。
現実感がないのです。

若い頃、読み耽っていたSF(空想科学小説)の影響が今頃出てきたのかもしれません。
それはこんなイメージです。
福島原発が核爆発を起こし、その連鎖で地球が消滅。
時空間が歪み、時間の流れが混乱し、いま私はその残渣としての超時間的存在に投げ出されている。

夕方、人と会うために、これから自宅を出る予定ですが、わが家の周辺はなぜかひどく静かです。
まさに亜空間に閉じ込められて、漂っているような気分です。
まるで自分が幻想の世界を遊泳しているような気分になります。

これほどの惨事が近くで起こりながら、みんな競って食材を買いあさる。
どう考えても納得できる世界ではありません。
原発事故は深刻さを増しているのに、同窓会のゴルフの案内が回ってくる。
テレビでは、相変わらず内容のないタレントのトーク番組が流れ、人の不幸を題材にした安直な報道番組が流れています。
キャスターやコメンテーターや学者なども、毎日、同じようなことを話しています。
話してばかりではなく、やることがあるだろうにと思います。
とんでもないほど恐ろしい話なのに、記者会見で話す人たちは、感情ももたずに話しています。
私にはゾンビのように感じます。
この世界は、本当はもう存在しないのではないか、気づいていないのは私だけという気がしてくるのです。

もしかした、もうみんな彼岸に来てしまっているのかもしれません。
もしそうなら、どこかで節子に会えるかもしれません。
さてそろそろ出かけましょう。
節子に会えるといいのですが。
この歪んだ亜空間が消滅しないうちに。

■1306:フェイスブックとつぶやき(2011年3月31日)
節子
最近、フェイスブックというのが広がっています。
ネット上でのつながりの輪なのですが、まさに「友だちの友だちは友だちだ」という世界です。
若い友人から誘われて、以前から一応登録はしていますが、最近、いろんな人から「友達リクエスト」というのが届きます。
中には名前も知らない人からも届きますが、調べていくと共通の友人がいるのです。
この人とは共通の友人が3人いますよ、などとシステムが教えてくれるのです。
それはそれで結構面白いのです。
そのおかげで、しばらく交流が途絶えていた人との交流が再開されたこともあります。
相手からも、まさかフェイスブックで会うとは思いませんでしたなどというメールが届きました。
この世界は、リアルでもバーチャルでもなく、私にはもう一つの世界のような気がします。
そう思うのは、その世界で発せられるメッセージは、相手を特定していないことも多く、最近流行の「つぶやき」のように、内言語の表出でもあるからです。

言語には、内言語と外言語と文字言語の3つがあります。
内言語とは、心の中で用いられる発声を伴わない言語のことで、一説では一日3万語も発せられているそうです。
したがって、その大半は自分でも意識していないはずです。
それに対して、外言語は他者に向けて発せられる、目的を持った言語です。
文字言語は、それらとはまたまったく違うものでしょう。
私たちは、そうした3つのまったく違う言語の世界に生きているわけです。
いうまでもありませんが、私たちの生を支えているのは、内言語です。
それがなければ、他の2つの言語は、たぶん意味を持ちえません。

節子がリアルに隣にいた時、私たちの会話は内言語と外言語が重なっていたはずです。
私たち夫婦に限らず、心を通わせあった関係にある人同士は、たぶん内言語と外言語を融解させています。
表出されない内言語が、伴侶という相手に伝わるという関係が生まれていたのです。
人の絆の強いコミュニティにおいては、同じことが行われていたはずです。
その絆が壊れてしまったいま、ツイッターという「つぶやき」が重宝されるわけですが、それはいかにもさびしい社会のように、私には思えます。

しかし、この挽歌もまた、「つぶやき」といってもいいでしょう。
まさに今の私は、相手のいないままにつぶやかなければいけない「さびしい存在」なのかもしれません。
こう考えていくと、節子の存在は現代的でなかったのかもしれません。
節子がいたおかげで、私はこの現代においても、つながりに支えられた生き方に身を任せられてきたのかもしれません。
前にも書きましたが、私の脳が、あるいは言語世界が、最近の言葉でいえば、ソーシャルブレイン的に、内言語も外言語も区別せずに会話できたのは、節子の存在のおかげだったのかもしれません。

フェイスブックは、しかしその役割を果たしてはくれないでしょう。
他者のつぶやきは、私にはやはり無機質なつぶやきでしかないからです。
そして、私自身は、見えない大きな生命の海につぶやく意味がうまく理解できないからです。
節子へのつぶやき、内言語的な無意識のつぶやきは、節子によってしっかりと受け止められていました。
そうした関係を失ったことが、おそらく「そうか、もう君はいないのか」という、城山三郎さんのつぶやきだったのでしょう。

■1307:フェイスブックの魅惑(2011年4月1日)
フェイスブックの話です。
この記事は時評編と螺旋的に絡み合って書いています。
今日の時評編に、フェイスブックに誰かの名前をいれると、その人にまで届く人の連鎖を明らかにしてくれるシステムができればいいと書きました。
たとえば、私がリビアのカダフィ大佐に会いたいとすると、カダフィと名前を入れると、まずは国連の職員だった友人の名前が出てきて、次にその友人のリビアの友人の名前、そこからリビアの人を介して、カダフィにつながるルートが見えてくるという仕組みです。
いまは、そうした探索を自らでやらないといけないのですが、システム的にはそう難しいことではないように思いますので、まもなく実現するでしょう。
もちろん、フェイスブックだけではだめです。
さまざまなネットワークがやわらかにつながってこそ、できることです。
これは華厳経のインドラの網につながります。
それができると、世界は大きく変わるように思います。

さてここまでは時評編の話ですが、ここからが挽歌編です。
そこに佐藤節子の名前を入れたらどうなるか。
もちろんその答えは明確で、退屈なのですが、一瞬、もしかしたら彼岸の節子にまでつながるかもしれないと思わせるような不思議さが、フェイスブックにはあるのです。
節子がもしフェイスブックの世界に入り込んでいたら、どうなっていただろうかと、ふと思います。
そして、秦の始皇帝でさえ手に入れられなかった、不死の生命が得られたかもしれません。
映画「マトリックス」の世界、あるいは、ヴァレルのオートポエティックな世界です。
彼岸と此岸がつながっていることがわかれば、時間は変質します。

フェイスブックは魅惑的な世界です。
彷徨していたら、いつか節子に出会えるかもしれません。
そんな気にさせる世界です。

■1308:春の便り(2011年4月2日)
節子
春の初めに毎年届くのが蔵田さんのアサリと筍です。
その春の便りが今日、届きました。
節子の代わりにユカが調理してくれました。

また春がきました。
何回目の春でしょうか。
今年は大変な地震騒ぎで、花見も自粛気味ですが、私にとっては花見のない春はもう今年で4回目です。
といっても、庭の鉢植えの河津桜は毎年見ています。
その河津桜は、もう花はとうに散ってしまっています。

春が来たら、今年はちょっと出かけようかという気分に少しなっていたのですが、地震と津波のおかげで、その気分ももうどこかに飛んでしまいました。
今年もまた、きっといつの間にか梅雨に入り、夏になっているのでしょう。
季節と気持ちが、節子がいなくなってからは、いつもずれてしまっています。
節子は季節の人でしたから、私はいつも節子を通して、季節を感じていたのです。

今年の東北には、春はないのかもしれません。
しかし、人の社会はどうあろうと、花はいつものように咲くでしょう。
三春の桜はかなりの老木なので心配ですが、いまもきっと大地にしっかりと根を下ろして、いつもよりもがんばっていることでしょう。
福島の花見山も例年より華やかかもしれません。
自然は、必ず呼応しあっていますから、今年の東北の花はいつもよりも力強く咲くはずです。
そして、人の過ちを癒すように、人の心に元気を与えてくれるに違いありません。

節子のおかげで、東北の花はたくさん見に行きました。
しかし、まだまだ見ていないところがたくさんあります。
いずれも、もう見ることはないでしょう。

私への春の便りは、桜ではなくアサリと筍なのです。

■1309:復興への不謹慎な思い(2011年4月3日)
節子
被災地の復興の早さに驚いています。
同時に、「復興」という言葉に羨望も感じます。
これこそ不謹慎と非難されそうですが。

壊されたものには復興できるものとできないものがあります。
市街地がいまや泥沼のようになってしまい、近隣の地域に一時疎開していく住民たちが報道されていました。
その住民たちの地域の区長が、「自分たちの地域は自分たちで復興しなければ」と話していました。
しっかりと生活している人たちの覚悟と姿勢には、感動します。
その一方で、やはり復興という希望に対して、うらやましさを感じます。
こんなことを言ったら、私の人間性を疑われかねませんが。

被災者のなかには、伴侶や家族を失った人たちもたくさんいます。
すべての家族、さらには友人までも失った人もいるでしょう。
私よりも、もっと過酷な試練を与えられている人も、たくさんいるはずです。
なかには、なぜ自分だけが残されたのかと嘆いている人もいるでしょう。
その人に比べれば、私にはたくさんのものが残されています。
希望がない、という点でも、私などは恵まれていると言うべきです。

しかし、そうしたことはすべてわかってのことなのですが、
テレビに出てくる被災者が時にうらやましくなります。
彼らには進んでいく道がある。目指すべきものがある。
そんな気がするのです。

人は、一人で生き、一人で死ぬものだという人がいます。
私は、その言葉にはとても反発しますが、節子は一人で彼岸へと旅立ちました。
しかも、直る人もある病気が、その原因です。
人為では抗しがたい地震や津波のせいではないのです。
その不憫さから、なかなか抜け出られません。
その責めは、すべて私が負わなければいけません。

今回の地震や津波で命を失った人は3万人を越えるかもしれません。
気の遠くなる数です。
あまりに不謹慎で、文字にすることさえ躊躇すべきですが、なぜか私にはそれがうらやましいのです。
それに対して、一人で旅立った節子の不憫さ、その旅立ちを止められなかった自らの不甲斐なさ。
テレビを見ていると、突然、そんな思いが浮かんでくるのです。

壊されたものを復興できない者にとっては、被災者のみなさんを応援しつつも、時々どこかで、ふっと羨望の念に襲われるのです。
そんな思いは捨てて、自分のなかの希望を探し出すべきなのでしょうが。

希望もなく、生きつづけることは、実に辛いことです。
被災者のみなさんの希望が消えることのありませんように。

■1310:三春の実生の桜(2011年4月4日)
節子
昨夜、NHK教育テレビで、玄侑宗久さんと吉岡忍さんが対談をしていました。
玄侑宗久さんは、芥川賞作家で、そのエッセイも話題になっている人ですが、一昨日、思い出した桜で有名な三春のお寺のご住職でもあります。
私自身は、玄侑さんの本はあまりピンと来なかったため1冊しか読んでいなかったのですが、昨日の対談の玄侑さんには、どこか心通ずるものを感じました。
その言葉ではなく、行動にですが。

私がテレビを見る気になったのは、前日に三春の桜を思い出したからです。
テレビも、最後の場面は三春の桜の話でした。
ただし、あの老木ではなく、地元の人が実生の桜の手入れをしているシーンでした。
大地にしっかりと根づき、何年も地域を守る桜は、実生でなければならないと、古老が話していました。
節子が蒔いた実生の樹がわが家の庭にもいくつかあるはずですが、私の手入れ不足で枯らしてしまったかもしれません。
これからはそういうことのないようにしようと思います。

玄侑さんのお寺は三春にありますから、今回の事故の福島原発からは45キロのところです。
原発事故が起こった当初から住民がたまたま測定していた放射能測定器は反応し、かなり高い数値だったそうです。
政府の発表のいい加減さは、実はいたるところに出ています。
まじめに自然と付き合っている人たちには、政府の話の虚実がよく見えるものです。

玄侑さんが、「死に甲斐」という言葉を発しました。
私の嫌いな、受け入れがたい言葉です。
しかし、玄侑さんは、「誰かがそれによって変わることが死に甲斐だ」というような主旨のことを話しました。
今回の震災でたくさんの人が亡くなりましたが、それで人々の生き方は変わるはずだ、そうでなければたくさんの人の死に甲斐がないと玄侑さんは言うのです。
反射的に、心で反芻しました。
節子には死に甲斐はあっただろうか。
節子の死は、私の人生だけでなく、世界観を変えました。
節子が、その死をもって私に教えてくれたことは、私の人生をも変えました。
節子には死に甲斐があったといえるでしょう。
昨夜は、少し安堵して眠りました。

しかし、朝起きてこの挽歌を書きだして気づいたのは、要するに「死を無駄にするな」ということなのです。
やはり私の感覚には合わないことに気づきました。
生にも死にも、無駄という概念はつながりようがないからです
「死に甲斐」という言葉は受け入れがたいと、改めて思い直しました。

ただ、昨夜の玄侑さんには心通するところがありました。
著書を読み直してみようと思います。

古老が育てる三春の実生の桜は、来世、節子と一緒に見に行こうと思います。

■1311:ヨモツヒラサカの巨石(2011年4月5日)
彼岸と此岸の間を行き来できなくなったのは、日本の場合、7世紀ころだと思われます。
それまでは彼岸につながる通路は、おそらくいたるところにあったのでしょう。
その通路が断ち切られたのは、イザナギの愚行です。
彼岸に旅立ったイザナミを追いかけて黄泉の国に行ったのはいいのですが、黄泉の国での妻の姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。
イザナギの裏切りによって、彼岸と此岸をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは、千人で押しても動かないほどの巨石でふさがれてしまったのです。
これは「古事記」に語られていることです。

巨石でふさいだのは誰か。
西條勉さんは、近著「古事記神話の謎を解く」(中公新書)で、それが行われたのは日本書記や古事記が編纂された時代だと言います。
だとしたら、天武か持統か、あるいは藤原不二等かもしれません。
なんとまあ、罪つくりのことをしでかしたものです。

しかし、ふさがれたものであれば、また通ずることもあるでしょう。
もしかしたら、今回の原発事故が奇跡を起こすかもしれません。
巨大なエネルギーは、時に時間軸を、そして空間軸を組み換えてしまいます。
先月起きた大地震は、それほどのエネルギーはもっていなかったでしょうが、その発端だった可能性はあります。
それに、これまた不謹慎な話ではありますが、福島原発の先行きは、そう楽観できるものではありません。
残念ながらチェルノブイリ以上の惨事になるおそれさえあります。
それがいつ起こり、どこまでいくのかは、わかりませんが、一つの世界が終わったことは間違いないでしょう。
その渦中にいる私たちには、おそらく最後まで気づかないほどの大きな変化を起こしていくはずです。

その変化の一つとして、ヨモツヒラサカの巨石が粉々に壊されてしまうことは、十分にあり得ることです。
愚かな妄想と思われるかもしれません。
しかし、世の中に、絶対の公理などないのです。
可能性がゼロの予想は、ありえません。
予想できることは、すべて可能性があることなのです。

もし彼岸に行けたとしたら、どんな節子に会えるのか。
いささかの不安といささかの楽しみがあります。
いささかの覚悟も必要でしょうが。

■1312:アーモンドの花(2011年4月6日)
節子
アテネにいる写真家の橋本さんが、ギリシアのアーモンドの花の写真を送ってきてくれました。
アーモンドは、桜に似た花です。
節子とギリシアに行ったのは3月でした。
アーモンドの花も見た記憶があります。

ギリシアと桜と言えば、思い出すのはスニオン岬です。
前にも書きましたが、節子はスニオン岬に桜を植えたいと言ってギリシア観光局にまで手紙を書いたことがありました。
あの手紙は出状されたのかどうか、あまり記憶が定かではありません。
最近急速に記憶が曖昧になってきています。
生命現象として、これは健全なことなのでしょう。
記憶がいつまでも鮮明なのは、決していいことではありません。

アーモンドの花言葉は「希望」。
春はみんなに希望をふりまく季節です。
私でさえも、時にその気なります。
東北の被災地の人たちを思って、今年は花見を自粛する動きがあります。
わが家の近くのあけぼの山公園でも花見のイベントは中止のようですが、こういう時こそ桜から元気をもらわなければいけません。
というように、他人事だとそう思えるのですが、いざ自分のことになると桜を楽しむ気にならないのはなぜでしょうか。
まあ今年は、橋本さんのギリシアのアーモンドで我慢しましょうか。

■1313:花木への声かけをさぼっていました(2011年4月7日)
節子
昨日、久しぶりに本郷のオフィスに行きました。
最近はあまり行っていないのですが、ここは以前コムケアセンターの事務所にしていました。
節子が病気にならなければ、コムケア活動も少し展開が変わったでしょうが、残念ながらこれからという時に節子の病気が発見されました。
活動を支援してくれていた住友生命にお願いして、活動を終わらせる予定だったのですが、やれる範囲でやってもらえればいいという好意ある対応をしてもらいました。
そのおかげで、止めることもなく、かといってやらなければいけないこともなく、その時々の私の状況に合わせて、ゆるやかな活動として続けさせてもらってきました。
節子が一時期、元気になった時には、節子も活動に参加しました。
節子がいなくなった後の私を元気づけてくれたのも、コムケアの仲間でした。
考えようによっては、コムケア活動のおかげで、私の世界は閉じられずにいたといえます。

本郷のオフィスには節子も何回か来たことがありますが、節子が持ってきたポトスが今もとても元気です。
昨日、なぜかそのポトスがとても気になりました。
いつもは見過ごしていたのですが。

湯島のポトスも元気です。
季節の変わり目に節子は植え替えなどをしていましたが、そんな手入れもしないまま、5年近くが経っています。
地震騒ぎで、最近かなり放置してしまっていたので、その残されたわずかの鉢物の元気がなくなっているのに気づきました。
生きている生命は、やはり心をかけていないと気が弱まるのでしょうか。
水をやるだけではだめなのです。
そう言えば、最近、あまり声をかけていませんでした。

地震のあった後、絆とかつながりとかといった言葉がテレビから毎日流れます。
そうした言葉は「連呼する言葉」だとは思えませんが、そうしたことへの関心が高まることは悪いことではありません。
しかし、身の回りの植物を枯らせてしまうようでは、絆もつながりもあったものではありません。
功利主義的な、あるいは人間中心的な、絆やつながりへの呼びかけに、最近少し違和感を持っています。
最近のテレビの報道を見ていると、あいかわらず自然とのつながりや絆には世間は無関心です。
それが今回の、自然からのメッセージだろうと私は思っています。
節子がいたら、どういうでしょうか。
きっとそう思うはずです。
節子も原子力は嫌いでしたし。
もう少し花木に心を向けなければいけません。

■1314:人はそれぞれの世界に生きています(2011年4月8日)
節子
地震や原発事故の先行きはまだ見えてきません。
その支援に駆け回っている人がいる一方で、まるで地震や津波がなかったようにいつもと同じように過ごしている人もいます。
いろんな人からメールが来ますが、まさに人の生きている世界はそれぞれだと改めて実感します。

今回のような大きな異変の発生後でもそうなのですから、節子がいなくなっても、私以外の人にとっては、世界はなんら変わらなかったはずです。
変わったのは、私だけだったのかもしれません。
また「死にがい」という玄侑宗久さんの言葉を思い出してしまいました。
宗久さんは、人がどのくらい変わるかが「死にがい」だと言いました。

人の生は絡み合っています。
何回も書いているように、夫婦や家族の生はとりわけ絡み合っています。
それぞれの生の境界さえ、時にわからなくなっています。
ですから、その死は、自らの生のある部分を道ずれにしていくわけです。
変わらないはずがありません。
しかし、その絡み合い方で、変わり方はいろいろなのでしょう。

今回の地震で夫を亡くしたフィリンピン女性の話が前にテレビで報道されていました。
故国の両親からは帰ってこいと電話がかかってくるそうですが、日本に残っているそうです。
亡夫の父親がうれしそうでした。
息子が幸せな生を生きていたことがうれしかったのでしょう。
彼女の気持ちもよくわかるような気がしました。

ところで、人がどんな世界に生きているかは普段外からはわかりませんが、何か事件(たとえば今回の地震や、私の場合には妻の死)が起こると、その見えなかったそれぞれの世界が見えてくることがあります。
それは予想とは全く違うものであることも少なくありません。
そして、友人を失うこともあれば、友人を得ることもあるのです。

普段は見えない、それぞれの生きている世界が見えてくる。
それは同時に、自らの生きている世界が見えてくることでもあります。
そして、自らの生き方を問う正す機会かもしれません。
私自身は、いま少し自己嫌悪に陥っています。
なぜもっと信念に生きなかったのか、と。

節子がいる時には、気づかなかったこともたくさんあります。
いまさら気づいても遅いのですが。

■1315:癒す生気(2011年4月9日)
節子
近くの手賀沼沿いの道路の両側の桜が満開です。
きっと近くのあけぼの山公園の桜も見事なことでしょう。
節子がいたら、お弁当を持ってお花見でしょうが、残念ながらわが家は誰も行こうとは言いません。
今年もお花見のない春で終わるでしょう。

ところが今日、ユカと一緒にお墓参りに行ったのですが、そこに赤とピンクの見事な花を咲かせている樹がありました。
今までもあったのでしょうが、気づきませんでした。
どうも桜のようなのですが、普通の桜とはちょっと違います。
何という桜でしょうか、今度、住職に会ったらお訊きしようと思います。

新聞によれば、津波に襲われた被災地の人たちも桜を楽しみに待っているそうです。
花が人の心を癒す効果は大きいです。
私もお花見には行きませんが、桜の花には癒されます。

癒される。
自分でもよくわからないのですが、実は癒されることへの抵抗がどこかにあるのです。
癒されたいはずなのに、素直に癒されることを受け入れられない自分がいるのです。
節子がいなくなってから、私の心身がひねくれてしまったからかもしれませんが、自分にもどうにもできない素直でない自分がいるのです。

しかし、癒されるのではなく、自らを癒すことには抵抗はありません。
と、ここまで書いてきて、昔、「癒し」は自動詞だと書いたことを思い出しました。
それをホームページやブログで探しましたが、見つかりません。
困ったものです。

癒されるためには、自らを癒す生気がなければだめなのです。
自らの中に「癒す生気」が戻ってくるのを待たなければなりません。
最近またそのことを忘れていました。

■1316:疲れていますね(2011年4月11日)
節子
久しぶりに家庭農園の雑草取りをしてきました。
わずか1時間足らずでしたが、へとへとです。
被災地でのボランティアなど、とてもできそうもありません。
しかし、時に身体的疲れを作り出さないと精神的疲れは解消できません。
身体の疲れと精神の疲れは相互に打ち消してくれるような気がします。

このブログを読んでくださっているSさんがメールをくれました。

ずいぶんとお疲れのご様子。
それだけの関係作りをされておられ、お疲れは当然とは思いますが。

ブログにも、疲れは現れるのでしょうね。
もちろん精神的疲れですが。
節子がいたら、精神的な安定をいろいろと調節でき、疲れの解消もできるのでしょうが、一人だとなかなかそれが難しいことは間違いありません、
夫婦はお互いに相手に対して問題警告機能と問題解消機能を持っているように思います。
相互に問題を発生させる機能ももちろんありますが、長年きちんと連れ添っていると、問題発生よりも問題解消の機能のほうが高まるのではないかと思います。

Sさんは、私がいろんなことに関わっていることが疲れの原因だとご指摘ですが、まさにそうかもしれません。
せっかく畑仕事で元気になって戻ってきて、パソコンを開いて、あるメーリングリストを見たら、またいささか不快なメールが目に付きました。
あるメーリングリストで、ある人がある人を(いずれも私には全く面識のない人です)「心が病んでいる」と糾弾したので、その(糾弾された)人の投稿から私は学んでいますと投稿したら、私まで怒られてしまいました。
そう言う人に限って、自分は実名を名乗りません(ちなみに、糾弾された人は実名を名乗っています)。
なんだか嫌な気分になってしまいました。
まあ、メールやブログをやっているとこんなことはよく起きます。

節子がいなくなってから、ネットでメールしたり投稿したりすることが増えました。
増えるとどうなるか。
こうした不快なことも増えるのです。
それも多くはバーチャルな世界での不快事です。
節子がいたら、何と言うでしょうか。

パソコンの世界でばかり時間を過ごさずに、ちゃんと生きなさいよ。
そういうかもしれません。
節子は、パソコンに向かっている私が嫌いだったのです。
節子がいたら、今ほどにはネットの世界での人とのつながりは多くはならなかったでしょう。
パソコンに向かわずに、花見にでも行って、そこで誰かに出会っていたことでしょう。
節子がいないので、パソコンに向かうしかないのです。
そしてますます気分的に疲れてしまう。
さてどうやって抜け出すか。
今日は実は病院に予約していたのですが、あまり行く気になれずキャンセルしてしまったので暇なのです。
今日はもう畑には行きたくありませんし、さてどうするか。
困ったものです。

節子に愚痴をこぼせないので、今日は挽歌で愚痴をこぼしてしまいました。
すみません。

■1317:今日は無駄口(2011年4月12日)
節子
東日本大地震のかなり大きな余震が続いています。
最近は、震度3くらいでは動じなくなってしまいました。
それに最近の関心は原発事故です、
原発事故は実体が少しずつ露呈しだしましたが、まだまだ原子力関係の学者たちは嘘で固められた話ばかりしています。
マスコミでの報道はあまりにひどく、最近はだれも信頼はしていないでしょうが、節子がいたらどういう評価をするでしょうか。
専門的な知識がない分、生活者の素直な反応が聞けたと思うのですが、残念です。

私は、中途半端に知識があり、また物事にいささか過剰に反応する性向がありますので、時に現実への対応を間違ってしまうのですが、節子と話すことで、自分を相対化することができました。
いまはそれができないのが、ちょっと残念です。

いまちょうど、菅首相の記者会見がテレビで報道されています。
節子が見ていたら、きっと呆れるでしょう。
私でも呆れてチャンネルを変えてしまいました。
民法は報道を止めてしまっていましたが、昨今の政治状況は節子が一番嫌っていた、嘘づくめです。
こんな嫌な日本を体験しなくて良かったね、節子。

今日は愚痴ではなくて、無駄口になってしまいました。
どうも最近、また挽歌がかけません。

■1318:「30年後に笑うんだったらいまから笑ったほうがいい」(2011年4月12日)
欽ちゃんの番組で人気者だった気仙沼ちゃんは、節子も好きでした。
挽歌を書きながら見ていたテレビで放映されていた菅さんの記者会見があまりに内容がないので、チャンネルを変えたら、そこに気仙沼ちゃんが出ていました。
もう56歳、気仙沼大島で旅館をやっていたのですが、今回の津波で旅館は被災し、いまは避難所生活だそうです。
しかし、その周りには、いまも笑いが絶えないようです。
実際に気仙沼ちゃんは、以前と同じように自然に笑っていました。
そしてこう言ったのです(不正確かもしれません)。
「30年後に笑うんだったらいまから笑ったほうがいい」

たしか「30年」と言ったように思いますが、間違いかもしれません。
でも、気仙沼ちゃんらしい言葉です。
いつか笑うのであれば、早いほうがいいかもしれません。
それに、いま笑い出せば、きっといつか笑えるようになるはずです。

30年後に笑うんだったらいまから笑ったほうがいい。
私もそう思います。
そして、30年後にも笑えないのと思うのであれば、ますますいま笑ったほうがいい。
人は悲しくても笑えます。
むしろ悲しいから笑える時もあるのです。

しかし、笑っても悲しさは消えません。
気仙沼ちゃんも、もしかしたら悲しいから笑うのかもしれません。
涙と笑いはつながっているのです。
この頃、それを痛感しています。

■1319:節子ならどうするか(2011年4月13日)
節子
節子ならどうするでしょうか。

原発事故を知った東電社長が奥さんを米国に避難させたという話を今日、聞きました。
真偽のほどはわかりませんが、それを聞いて私がまず思ったのは、私だったらどうしたか、そして節子だったらどうしたか、です。

まず私はどうするか。
たぶん節子に状況を説明した上で、打診はするでしょうが、おそらく薦めはしないでしょう。
できれば、一緒にいてほしいと頼むか、私も一緒に避難するでしょう。
節子は、仮に私が勧めても、独りでは避難せずに、行動を共にするでしょう。
節子が私を独り置いていくわけがありません・
とまあ、これが私の勝手な想像です。

娘に、節子ならどうすると思うかと訊いてみました。
お母さんは行かないよ、と即座に娘は答えました。
やはり私たちは苦楽を共にする理想の夫婦だったのです。
と思いきや、娘が続けて言いました。
お母さんは英語が話せなかったからね。

娘と私の節子像は、かくも違うのです。
困ったものです。

さて、私もそろそろ彼岸に避難することを考えたい気分です。
節子に話したいことが溜まりに溜まって、あふれだしそうです。

■1320:すべての始まり(2011年4月14日)
節子
この頃、なかなか挽歌が書けません。
以前はパソコンに向かい、「節子」と打ち込むと、自然に何かが頭に浮かび、書きだせたのですが、この頃は書けないのです。
書けないというよりも、節子と会ったころのことが思いだされてしまい、その思いの中に迷ってしまうことが多くなってきました。

節子に会った頃が、私は一番幸せだったのかもしれません。
節子はまだ私のものではなく、私もまだ節子のものでもありませんでした。
私にも、節子にも、たくさんの可能性があり、選択肢がありました。
それに、それぞれに恋人もいたのです。

しかも、節子も感じていたと思いますが、私たちはあまりにも違い過ぎました。
節子は「現実の人」でしたが、私は「物語の人」でした。
誠実に生きようとしている節子に対して、当時私は生きることは物語を創ることと考えていました。
節子には、私がとても不真面目な人に見えたでしょうし、私には節子が真面目すぎる退屈な人に見えました。
それがどうして結婚することになったのか。

当時の私は、結婚したら相手と一緒になって、自分が理想と考える夫婦、さらには家庭を創りあげようという思いが強くありました。
具体的な理想像があったわけではありませんが、何となくの物語のイメージはありました。
そのためには、固定観念の強い人はだめでした。
柔軟な発想のできる人でなければいけませんでした。
節子が柔軟だったかどうかは極めて疑問でした。

繰り返しますが、それがどうして結婚することになったのか。
今もってわかりません。
ただわかっているのは、最初に節子と歩いた奈良の日のことです。
具体的なシーンはまったく思い出せないのですが、それを思い出だそうとすると、ただただ全身があったかな気持ちで覆われる
どう考えても、あれは異常な日だったのです。
しかし、それがすべての始まりだったのです。

ちなみに、節子と奈良を歩いたことは間違いありません。
猿沢の池の横の坂で撮った節子の写真を見た記憶があるからです。
でもそれも含めて、あれは誰かが創作した物語だったのでしょうか。
もしかしたら、私たちの人生は、誰かが創った物語をただ演じているだけなのかもしれません。
そんなことを考えていると、挽歌が書けないのです。

■1321:かけがえのない存在(2011年4月15日)
節子
津波で妻を見失い、その後もまだ出会えていない高齢の男性が、絞り出すような声で、
「ふつうの女だったが、かけがえのない存在だった」
と話していました。
昨夜、テレビをつけたら突然出てきた映像です。
その人は、いまなお、奥さんを探し続けているのでしょうか。
最近は、被災地の映像は見ないようにしているのですが、突然だったのでついつい見てしまいました。
表現が不正確かもしれませんが、私にはそう聞こえました。

「ふつうの人」が、ある人には「かけがえのない人」になる。
考えてみると不思議です。
しかし、人が生きるということは、周りの人や自然と関係を深めていくことです。
ですから、人も自然も、時間と共に、「かけがえのない存在」になっていきます。
そして、人も自然も、実は絡み合っているのです。
それを象徴しているのが、伴侶かもしれません。
伴侶の向こうに、実はすべての生活や自然もあるのかもしれません。
節子を見送って、そのことがよくわかりました。

「かけがえがない」のは節子が特別の存在だったからではないのです。
節子と一緒に築き上げてきた世界にとって、節子が不可欠な要素だったからなのです。
その世界は、節子とともに瓦解してしまった。
そんな気がします。
テレビに出てきた人も同じなのだろうと思います。
「かけがえのない存在」は、失って初めてわかるのです。
それまでは、あまりに「ふつうの存在」だからです。

東日本大震災で被災された方は、そうしたさまざまな「かけがえのない存在」を一挙に失ってしまったのです。
昨日までの風景が、昨日までの人のつながりが、一挙に無くなってしまった。
私は、伴侶を失っただけで、これだけおろおろとしているのですから、伴侶だけでなく、その伴侶と一緒に築き上げてきた世界、育ってきた世界までをも一度に失った人の戸惑いはどんなに大きいことか。

夏が過ぎた頃が、とても心配です。

■1322:節子への賛辞(2011年4月16日)
節子
庭の手入れをさぼっています。
少し早めの還暦祝いに家族から造ってもらった庭の池は無残な姿になっています。
計画ではここにサワガニが定住しているはずなのですが、落ち葉で埋もれてしまい、サワガニはおろか、棲んでいるはずの金魚もめだかも見えません。
反省して、少しだけきれいにしました。

節子は前の家の時もそうでしたが、庭に池を作るのに反対でした。
庭に池を作ると良くないことが起こると節子は思っていたのです。
前の家では、確かに良くないことが起こり、池を埋めてしまいました。
しかし、それに懲りずに、今の家に転居した後、私がまた池が欲しいと言い出しました。
家族はみんな反対でしたが、私の希望が強かったため、転居して少ししてからみんなで池を造ってくれたのです。
小さな池ですが、2つあって、上の池から下の池に水が流れる仕組みになっています。

その池には何回もサワガニを放しましたが、棲み付きません。
節子は無理だといつも言っていましたが、それでも私がサワガニを買いに行ったり、捕まえに行ったりする時には必ず付きあってくれました。
庭の池にサワガニを定住させることが、私にとってどんなに大事なことなのかを、節子は理解してくれていたのです。
節子以外の人には決してわかってはもれないでしょう。

人には、それぞれ大切にしていることがあります。
他の人にとってはどうでもいいことが、ある人にとっては、とても大切なこともあるのです。
それがわからずに、友だちを裏切ってしまったり、友だちに裏切られたりすることもあります。
第三者から見たら、どうでもいいようなことで喧嘩になることもあるのです。

私たちも夫婦喧嘩をよくしました。
喧嘩の原因は、いつも馬鹿げたことでした。
娘たちは、バカな親だと思っているでしょう。
しかし、夫婦は喧嘩を通して、世界を重ねていくのです。

節子は、おそらく私以上に私を知っていてくれました。
節子といると、どんな時でも安心で、心が和らぎました。
私の価値観は、かなり変わっているような気もしますが、節子は私以上にそれを知っていました。
だからやはり、節子は私にとって、「かけがえのない人」だったのです。

節子がいなくなってから、心が完全に和らぐことはなくなってしまいました。
それを嘆くつもりはまったくありませんが。

■1323:パルミラ(2011年4月17日)
節子
世界遺産のテレビ番組で、パルミラを観ました。
私が一番訪ねたかったシリアの遺跡都市です。
観ていて、その素晴らしさに改めて心が躍りました。

パルミラを知ったのは30年ほど前でした。
やはりテレビの番組で知ったのですが、以来、私にとっていつか訪問したい場所になりました。
しかしシリアは遠い国でした。

会社を辞めて、海外旅行ができる時間的余裕ができて、最初に行ったのは、しかしパルミラではなく、エジプトでした。
節子は、さほど遺跡は好きではありませんでしたから、遺跡だけの広大なパルミラには魅力を感じなかったでしょう。
エジプトには、廃墟だけではない見所はたくさんあります。
最初に行ったのが、アブシンベル神殿でした。
遺跡などは土の塊でしかないといっていた節子も、次第に遺跡に興味を持ち出しました。
そして、ギリシア、トルコ、イランと、節子もそれなりに楽しみ出しました。
しかし、そろそろパルミラをと考え出した時に、私たちの海外旅行は終わってしまったのです。

節子がいなくなったからには、もう金輪際、海外旅行には行くまいと決めました。
しかし、どこかでパルミラにだけは行きたいという思いがありました。
そして、今日、パルミラの映像を観て、やはりパルミラには行こうと思いました。
パルミラは、節子の嫌いな土の塊しかないように見えたからです。
もちろん建物の列柱は見事な雰囲気を残していますし、復元も進んでいるようですが、砂漠の中にある広大な廃墟は、やはり土の塊です。

ギリシア・ローマの遺跡の柱はどうしてこうも魅力的なのでしょうか。
古代遺跡のシンボルの一つは塔です。
天にも届く塔は神に向けたものだと思いますが、バベルの塔の話でわかるように、神は人の造る塔を嫌いました。
にもかかわらず、なぜ人は塔をつくるのか。
そして、人はなぜ塔に魅了されるのでしょうか。

ちなみに、古代ギリシアには塔がないといわれます。
エジプトにもシュメールにも、そしてローマにも、塔はありました。
しかし古代ギリシアにあるのは、塔ではなくて柱です。
ギリシアが神に愛されたのは、そのせいかもしれません。
パルミラはローマ時代の遺跡だと思いますが、塔の写真を見たことがありません。
パルミラも、きっと神に愛された都市だったのでしょう。
だから、ぜひともそこに立ってみたいと思います。
節子もきっと許してくれるでしょう。

一段落したら、パルミラです。

■1324:無人島暮らし願望(2011年4月18日)
節子
東日本大震災後、被災された人たちのために何かしたいという人が増えています。
この大震災が時代の流れを変えるのではないかという気がしていましたが、実際にそうなりそうな気配を感じます。
いろんな人がやってきて、そういうプロジェクトを話してくれます。
今日も若い女性が友人と一緒に飛び込んで来ました。

肝心の話が終わった後に、こんなことも考えているという話をしてくれました。
その話を聞きながら、ついつい節子がいたらなあと思いました。

それは五島列島の話です。
そこにかなり広い土地があり、そこを活かして何かできないかという話です。
被災者のためにということで話が出てきたのですが、私が考えたのは、被災者ではなく自分のためです。
節子が元気だったら、節子を説得して、残りの人生をそこで暮らせたのに、と思ったのです。

私は、人が大好きですし、人のつながりを育てるような活動もしています。
しかし、どこかで、すべての人のつながりを捨てて、節子と一緒に無人島で暮らしたいという思いも、ずっとあります。
人が大好きな反面、自分を含めて、人という勝手な存在への嫌悪感もあるのです。
ですから、誰もいない無人島に、節子と一緒にめたらどんなにいいだろうかと節子には時々話しました。
あなたにはそんな生活ができるはずがないと、節子は真に受けませんでした。
それに、私の飽きっぽさを知っていましたから、3日目にはやはり戻ろうといいだすだろうというのです。
確かに私は飽きっぽいのですが、このことに関しては私には自信がありました。
それに私は節子に飽きることはないのです。
それに、目移りするものがなければ、飽きることもないのです。

五島列島の写真を見ながら、こんなに美しい世界を、なぜ私たちは、見にくい都市に変え、息苦しい生活をしているのかと思いました。
生き方を問い直す機会にしなければいけません。
どんな復興をしようとしているのでしょうか。
いろんな人の話を聞きながら、だんだん冷めてくる自分に、また嫌悪感を強めています。

■1325:霊界を往復する鳥(2011年4月19日)
節子は鳥や花になってまた戻ってくると言い残しました。
花はよくわかりますが、鳥は意外でした。
なぜ鳥なのか、ずっと気になっています。

西條勉さんの「「古事記」神話の謎を解く」(中公新書)を読みました。
これまで読んだことのない新鮮な切り口で、古事記の話を読み解いている本です。
読んでいたら、こんな文章が出て来ました。

鳥は空を飛ぶ。そこから古代的な信仰では、異空間の霊界を往復すると思われていた。世界中に共通する人類の信仰とみていい。

神話では鳥が死者を埋葬する儀礼によく出てきます。
しかし、節子がそんなことを意識していたはずはありません。
かなり病状は進行しており、思考力もないほどの苦しい状況で、書き残した言葉だったのです。
意識して出てきた言葉ではなく、自然に出てきたイメージだったと思います。
もしかしたら、その時、節子はすでに鳥を感じていたのかもしれないと、この文章を読んで気がつきました。
たしかにその頃の節子は、彼岸に魂を移しだしているような状況でした。
当時は気がつかなかったのですが、後で考えると、そう思えるのです。
節子の魂は、すでに鳥になって彼岸と此岸を飛び交っていたのかもしれません。
だから、自然と鳥という言葉が出てきたに違いありません。

私は蛇年生まれです。
蛇と鳥は相性がいいとは言えません。
しかし考えてみると、蛇もまた彼岸と此岸を行き交う存在だと思われているものです。
蛇には「邪悪」なイメージもありますが、それは「近代に組み込まれない」という意味でしょう。
鳥も蛇も、近代に奉(まつ)ろわぬ存在なのです。
そういえば、節子は酉年でした。
それをすっかり忘れていました。
鳥になって戻ってくるとは、何の謎でもなかったようです。

今日、家の近くでスズメが2羽、楽しそうにふざけあっているのをみました。
昨年、わが家の庭から巣立っていったヒヨドリはどうしているでしょうか。

■1326:偉大なる神様のプレゼント(2011年4月20日)
節子
人にはそれぞれの物語があります。
それはなかなか外部からは見えません。

この挽歌にコメントを寄せてくれた木田さんとは、私の記憶では2回お会いしています。
たぶんその時のことは、私のホームページの週間記録に出ているはずです。
もっとも、私が木田さんを知ったのは、それ以前です。
私が事務局をやっていたNPO活動への資金助成プログラムに木田さんが応募してきたのが最初です。
残念ながら助成の対象にはなりませんでしたが、同じ我孫子の人だったので、節子には話した記憶があります。
その後、私が話をさせてもらったシンポジウムや集まりで木田さんとお会いしました。
ゆっくりお話したことはありませんでしたが、活動を始める前にパートナーを見送っていたことはまったく知りませんでした。
そんな様子も微塵も見せず、2回目にあった時には、私の辛らつな話をとても肯定的に受け止めてくれていました。
毅然としてご自身の意見を発表されたのが印象的でした。

その木田さんからのコメントを読んで、自分がいかに他者の事情に無頓着だったのかと反省をしました。
自分が悲しみや辛さを抱えていればこそ、他者の悲しみや辛さがわかると思っていますが、あまりに自分の思いに浸りすぎていると、他者の状況は見えてこないのかもしれません。
そうならないようにしないといけません。
そうなってしまっては、おそらく自分の悲しさや辛さも見えなくなってしまうでしょう。

木田さんは「震災は偉大なる神様のプレゼント」と書いています。
それは多義的な、そしてとても含意に富んだ言葉です。
しかし、「すべての事柄には意味がある」とすれば、震災も愛する人との別れも、なにかのプレゼントなのです。
そのプレゼントの意味が、私はまだ理解できずにいます。
時に、自分の状況を相対化することも必要なのかもしれません。

■1327:季節感(2011年4月21日)
節子
とても寒い1日でした。
例年だと今頃、近くの手賀沼公園で植木市が開かれるのですが、そんな雰囲気ではありません。
ホームページの記録によれば、節子を見送ることになる2007年の今日、節子と一緒に手賀沼の植木市に行ったとあります。
花好きの節子は、植木市には毎年出かけていました。
病気になってからは、私も毎年、節子に付き合いました。
わが家の小さな庭には、その植木市で買ってきた庭木もあるのでしょう。
残念ながら私にはどれがそれなのか見分けられないばかりか、そのうちの何本かは手入れ不足で枯らしてしまったかもしれません。

植木市はその一例ですが、節子と一緒に暮らしていると、季節感を自然と感じさせられました。
春には桜、秋には紅葉。
しかし、節子がいなくなってしまってからは、どうも季節感が希薄になりました。
自然との付き合いも疎遠になってしまっています。
自然と共に生きている人間にとっては、季節感はとても大切です。
最近どうも元気が出てこないのは、そのせいかもしれません。

今日の寒さは、逆の意味で季節を感じさせてくれました。
4月なのになんでこんなに寒いのか。
季節に合わないことが、いかに生活をおかしくしてしまうのか。
そんなことを考えさせられたのです。

節子がいないので、自然が私に教えてくれたのかもしれません。
もう4月も下旬、春たけなわです。
能動的に動き出さなければいけません。
きっと今日の寒さは、私の心が冷えているからです。
明日から動き出そうと思います。
身体の話ではありません。
魂の話です。

■1328:久しぶりの花木園(2011年4月22日)
今日は気分を変えようと、節子がよく行っていた岩田園にミモザの樹を買いに行きました。
庭のミモザが成長しすぎたので、植え替えることにしたのです。
わが家には何本かの樹がありますが、大きく伸びる樹はあまり優遇されていません。
庭が狭いからですが、どうもそればかりではありません。
節子は大きな樹が好きではなかったのです。
ですからなかなかわが家には定着しないのです。

河津桜も地植えではなく、鉢に植えられています。
私は地植えを希望しましたが、大きくなるからだめだと言われました。
転居した時に、植木屋さんのお勧めで庭の一番目立つところに植えた樹は節子のお好みに合わなかったために違う場所に植え替えましたが、そのせいで枯れてしまいました。
その後、その場所にはいろんな樹が植えられましたが、どれも定着せずに、結局、花畑になってしまいました。

ミモザは、散歩していた節子がどこかの庭のミモザが気に入って小さな樹を買ってきて植えたのですが、どんどん大きくなってしまいました。
毎年見事な花も見せてくれましたが、大きくなりすぎたので、枝を切ってしまったのです。
ミモザは枝を切ると枯れてしまうことは知っていたのですが、すべて切ってしまいました。
それで、新しいミモザを植えることにし、娘たちと花木を売っている岩田園に行ったのです。
残念ながらミモザはありませんでした。

久しぶりの岩田園でした。
節子と何回も通ったところです。
特に転居した頃は、何の樹を植えようかとよく議論したものです。
私も、花はともかく、樹木にはそれなりの好みがあったからです。
意見が合わないまま、いろんなところに行った記憶があります。

夫婦連れで花や樹を選んでいる人も少なくありませんでした。
その風景を見て、ちょっとうらやましさを感じました。
これまで夫婦連れを見ても、あまりうらやましさは感じなかったのですが、どうしたことでしょうか。

ミモザがなかったので、生け花のユリを買ってきました。
節子も私も、花は白いカサブランカが一番好きでした。

元気を出そうと岩田園に行ったのですが、判断を間違えてしまったようです。

■1329:届かない声、届けない祈り(2011年4月23日)
東北の被災地をまわってきた宗教学者の山折哲雄さんが、「被災者には声が届かないこともある」と話していました。
被災者とはまったくちがいますが、その言葉がとても心に響きました。

節子を見送った後、たくさんの方が声をかけてくれました。
とてもうれしい反面、とてもわずらわしい気もしました。
こういう言い方をすると身も蓋もありませんが、少なくともある時期はそうでした。
そして、さらに見も蓋もないのですが、かけてくれる言葉の向こうが見えてしまうのです。
これは、自分にとってもとてもいやなことです。
相手が誠実に声をかけてくれるのに、素直に受け取れない自分に出会うからです。
耳を閉ざしたくなる時もあるものです。

山折さんは、被災者に対しては、時に沈黙も大切だとお話されました。
確かにそう思います。
しかし、この沈黙もまた難しい。
沈黙ほど大きな声はないからです。

節子を見送った後の私の体験を、普遍化して、大震災の被災者の気持ちまで推察しようとは思いませんが、今朝、テレビで見た山折さんの言葉がとても印象的でした。
山折さんは、現地に立たなければ現地の人の気持ちはわからないという思いで、被災地を回られたようです。
その衝撃は大きかったようです。

現地に行きもせず、被災者の思いを憶測することはできませんが、思いを馳せて祈ることはできます。
声にせずに、祈ることも、意味があるのかもしれません。
もちろん被災者に届けようなどとは思いません。
祈りはいつも自らのためにあるからです。

■1330:サイババも死を免れませんでした(2011年4月24日)
節子
インドのサティヤ・サイババが死去しました。
84歳とはいえ、不治の病を次々と治した超能力者のサイババでさえ死を免れなかったわけです・

節子は、私とは違って、超能力とか超常現象とかをあまり信じない人でした。
私と結婚してからは、少し変わりましたが、それでも自分で納得できないことには納得できない近代的意味での現実主義者でした。
しかし私は、存在する物はすべて信ずるところから出発する、前近代的な現実主義者でした。
ですからサイババが行なう行為は、そのまま受け入れました。

サロンにある時、インドのサイババのアシュラムに行ってきた人が参加しました。
その人が、サイババの出した灰を持ってきてくれました。
私は舐めてみましたが、節子はどうだったでしょうか。

そのサイババが亡くなったのです。
不治の病を治してきたサイババ、アガスティアの葉を通してアカシックレコードも読んでいただろうサイババにとって、死とは何だったのでしょうか。
おそらくサイババにとっては、死は再生と同じなのでしょう。
サイババは、死を免れなかったのではなく、死を選んだのでしょう。
死は涅槃であり、死は解放かもしれません。
しかし残された者にとっては、死は死でしかないのが不思議です。

それにしても、節子と一緒にやっていたサロンには、実にさまざまな人たちがやって来ました。
サイババの訃報を聞きながら、いろんな人の顔を思い出しました。
人の死は、さまざまなことを思い出させます。

■1331:スーちゃんは幸せな人生だったと思います(2011年4月25日)
節子
節子はもう知っていると思いますが、スーちゃんこと、元キャンディーズの田中好子さんが 55歳で急死しました。
今日がその告別式でした。

帰宅したら娘から、スーちゃんの生前のメッセージが流されたけど、お父さんは聞かないほうがいいよといわれました。
泣いてしまうだろう私を気遣ってのことです。
私も、聴く勇気はありませんでした。
ところが、10時過ぎにテレビをつけたら、なんとちょうどそのテープが画面で流れ出したところでした。
これは偶然ではないでしょう。
それで結局、聴いてしまいました。

涙はこらえきれませんでしたが、スーちゃんの人生は幸せだったんだなと心から思いました。
そして節子の人生も幸せだったんだと自分に言い聞かせました。
愛する人が幸せな人生だったのであれば、その伴侶も幸せなはずです。
人は悲しいから泣くのではなく、幸せだから泣くのかもしれません。
そして泣いてしまうから悲しくなるのかもしれません。

それにしても55歳とは早すぎますね。
節子の62歳でもさえ、私には納得できない早さでしたのに。

■1332:昔の知り合い探し(2011年4月26日)
節子
フェイスブックでエジプトの中野さんと出会いました。
フェイスブックで出会うとは思ってもいませんでしたが、なにしろ世界中で5億人の人が利用しているというのですから、考えてみると不思議でも何でもありません。
中野さんに出会えたので、ほかにも誰かと会えるかもしれないと、友だちの友だちを少し探してみました。
フェイスブックは友だちが見つかったら、その人の友だちも一覧で出てくるのです。
さらにその友だちと言うように、どんどん先に進めるのです。

スモールワールドという調査実験が有名ですが、6〜7人を経由すると世界中の人はみんなつながっているのです。
たしかに有名人も時々出てきます。
もう亡くなった人もいるのです。
もっともフェイスブックをやっている人だけの世界ですから、だれとでも会えるわけではありません。
しかし、私は今回、忘れるほど付き合いが途絶えていた何人かに出会いました。

10年ほど音信のなかった人がいますが、何とその人はホームページを時々見ていてくれていたそうで、先方は私の生活を知ってくれていました。
節子との別れも知っていたわけですが、たぶん声をかけられずにいたのだろうと思います。
私が事務局をやっているメーリングリストのメンバーもいました。
その人は、メーリングリストで私の言動に日々触れていたので、さほどご無沙汰感がないと言います。
不思議な時代です。

そういえばカイロの中野さんもご夫妻でブログを読んでくれているそうです。
もしかしたらこのブログも読まれているかもしれません。
パルミラに行きたいなどと書いてしまいましたが、これもまた中野さんには読まれてしまったかもしれません。

中野さんは、わが家の最初の海外家族旅行の時のガイドをやってくれた方です。
遺跡などまったく興味を持たなかった節子が、その後も遺跡旅行に付き合ってくれたのは、最初の旅行のガイドが良かったからだろうと思います。
実に豊富な知識で、しかも自然体で案内してくれました。

節子がいたら、間違いなくもう一度エジプトには行ったはずですが、残念ながら2度目のエジプトは私にはなさそうです。
名ガイドの中野さんのお話を聞けないのはかなり残念です。

しかしフェイスブックはすごいです。
節子がいたらもっともっと楽しめたでしょう。
前にも書きましたが、友だちを探していると、もしかしたら節子との共通の知り合いに会えるかもしれません。
いや、お互いに会う前の、それぞれの恋人にも会えるかもしれません。
それはいささかスリルがあります。
節子がいないのが残念です。

■1333:バランスの崩れ(2011年4月28日)
節子
風邪をひいてしまいました。
最近、生活のリズムが乱れていたので、注意しないといけないと思っていた矢先でした。
風邪といってもたいしたことはないのですが、心身のバランスがどうもとれません。

人の心身は微妙なバランスの上に成り立っています。
同じように、人の生活はさまざまな要素のバランスの上に成り立っています。
それを痛感したのは、節子を見送ってしばらくしてからです。
1年ほどだったでしょうか。

心身のバランスは、老いとともに少しずつ乱れていきます。
同じように生活もそうです。
心身と生活は深くつながっていますから、老いとともに、それまでの生き方を変えていかねばいけません。
それが自然にゆっくりと進めば、それを素直に受け入れられもするでしょう。
伴侶がいれば、お互いに支えあいながら、老いを楽しむこともできるかもしれません。
しかし、私の場合は、残念ながらそういう状況にはなれませんでした。
節子と一緒の生き方に埋没しすぎてしまっていたからです。
それこそが私の幸せだったのですが。
津波で奥さんを亡くした人が、「もう少し一緒に歳を重ねたかった」としみじみ語っていましたが、共に歳を重ねる幸せを多くの人は気づいていないのかもしれません。

微妙なバランスの崩れは、地震の余震のように、時々フッと意識させられます。
そんな隙間に、風邪がやってきたのかもしれません。
軽い風邪なのに、心身のバランスの崩れを大きく感ずるのはなぜでしょうか。

社会のバランスの崩れとも連動し、増幅されているのかもしれません。
バランスは、とても大切です。

■1334:なにもない日常生活こそが幸せ(2011年4月28日)
風邪のおかげで、今日はテレビを見ていました。
今回の大震災で被災した人たちの報道もみました。
みんなが異口同音に「幸せ」を語っていることに気づきました。
しばらく見ていなかった間に、状況は大きく変わっているような気がしました。
みんな足元を見だし、前を向きだしたようです。
そうした人や暮らしの表情は、ネットで飛び交う情報からは、なかなか見えてきません。
ネットでの被災関連の情報には、まだ怒りがあふれています。
おそらくその世界は、被災した当事者とは違った人たちの世界なのかもしれません。

前項で書いた「共に歳を重ねる幸せ」にもつながりますが、「少しずつ日常を取り戻してきた」ということを、幸せそうに語る人たちがとても印象的でした。
私たちに必要なのは、決してお金でも地位でも評判でもありません。
私たちを心から幸せにしてくれるのは、豪華な食事でも、華麗なパーティでも、刺激的な旅行でもありません。
おそらく退屈だけれど、毎日続く日常生活の喜びです。
節子は病気になってから、「今日も平穏に1日を過ごせたことを感謝します、明日もそうでありますように」と寝る前に祈っていました。
ちなみに、彼女はクリスチャンではなく、仏教徒でした。
私は、今日よりも明日がよくなりますように、と祈っていましたが、その欲の深さは人を幸せにしないのかもしれません。

「共に歳を重ねる幸せを多くの人は気づいていない」と前に書きましたが、平穏な日常にこそ幸せがあることにも多くの人は気づいていないような気がします。
みんなが「平穏な日常」を求めだすと、経済は成長せず、社会は活性化しないかもしれません。
しかし、「成長」や「活性化」よりも、大切なことがあることを、私は節子を見送ってようやく気づきました。

今日は、いろいろと考えることの多い1日になりました。

■1335:生き残ったという罪悪感(2011年4月29日)
節子
「いのちと死に寄り添う支援」のテーマを追いかけている友人がいます。
私も取材を受けました。
間もなく出版する予定だったようですが、この大震災で状況が一変してしまいました。

彼女からメールが来ました。

死を視野に入れるという当初の出版意図は、震災以降大きく変化したと感じています。
今ほど、誰もが死とは、そしてまた生きることとは、という命題と、真剣に向き合ったことはないと感じます。
そこをどうこの書に反映させるべきか考えるとなかなか筆が進みません。

よくわかります。
そして、彼女はこうつづけて書いています。

私にできることは、
被災された方々が、自分があのなかで生き残ったという一種の罪悪感を超えて、
自分の果たすべき役割を見出していく過程をともにすることだと思っています。

彼女は福祉の専門家ですが、自らの問題と重ねながら、福祉の問題に実践的に向かい合った生き方をしている人です。
節子の闘病中も、節子を見送ってからも、なにかと心遣いしてくださいました。
この本に関する取材にしても、私の心身の奥にある「一種の罪悪感」を気遣っての、取材だったかもしれません。
事実、彼女たちの取材を受けて、私の気持ちに少し安堵感がでてきたからです。
最初はお断りしたのですが、それが「自分の果たすべき役割を見出していく過程をともにすること」だという思いが、彼女にあったのかもしれません。

愛する人を見送った人は、多かれ少なかれ、「生き残ったという一種の罪悪感」を持っているような気がします。
どこにも向けようのない悲しみや怒りが、自らに向くのです。
その「罪悪感」を超えるのは、そう簡単なことではありません。
なぜなら、本当に超えたいなどと思っていないからです。
その「罪悪感」があればこそ、生きる力が出てくるとさえいえるかもしれません。
危険なのは、それがちょっと反転してしまう時です。
そこから悲劇が起こりかねません。
今回の被災者に関しても、そうした悲劇が少なからず報道されています。

ところで、この本の編者である彼女は、いまご自身も親のケアなどで大変な状況にあるのですが、昨今の状況の中で、「動けない自分にじりじりしてしまいます」と書いてきました。
なにか自分に出来ることがあれば声をかけてほしいとも書いてきてくれました。

もしかしたら、彼女を突き動かしているのも、「一種の罪悪感」かもしれません。
こんな言い方をすると噴飯物でしょうが、もしかしたら今回の大震災は人々の中に鬱積していた「見えない罪悪感」を目覚めさせたのかもしれません。
良い方向で、動き出すことを祈らずにはいられません。

■1336:「空気のような存在」(2011年4月30日)
節子
これほど多くの人が、日常生活のなかで死と接したことは、そうあることではないでしょう。
昨日、今日と、3つのサロンを開催しました。
テーマはそれぞれに違いますが、いずれでも「死と直面した人」が語られました。

昨日は東北の被災地の応援に取り組んでいる人たちが中心の集まりでした。
ちょうど2日前に東北に行っていた人が、話しているうちに声をつまらせました。
今日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会をやったのですが、そこでも自殺防止の相談活動に取り組んでいる人が、やはり報告をしながら声をつまらせてしまったのです。
みんな明らかに正常ではありません。
気持ちが高ぶったり沈んだりしているのです。
死の体験があまりに多いので、社会全体がおかしくなっているような気がします。

現地の人たちも、みんな冷静に語っているようで、実は根本のところで変調をきたしているのでしょう。
悲しすぎて悲しめない、あまりに日常過ぎて理解できない、多すぎて受け止められない。
それにたくさんの人たちが、わけもなく(理由はもちろんあるのですが)応援してくれる。
テレビの取材までくるし、世界からも見られている。
最近はさすがに「がんばれ」とは言わないが、そんな思いは伝わってくる。

もし私だったらどうでしょうか。
少なくとも、思い切り泣きたいですし、弱音を吐きたいです。
なにもせずに呆けていたいし、誰にも会いたくないかもしれません。
もしかしたら、それさえもできない人がいるかもしれないと思うと、心が痛みます。

連休が始まってたくさんのボランティアが東北に向かったようです。
たしかに瓦礫を片付けるなど、たくさんの人手が必要でしょう。
ボランティアの中には、心のケアの活動をする人もいるでしょう。
間違いなく、たくさんの人が東北に行って、被災者の生活の応援をすることは、被災地の人たちにとっても喜ばしいことでしょう。
悲しさにいたたまれずにいる時に、だれかから声をかけられるほど、心やすまることはないのです。
しかし、同時に、悲しさにいたたまれずにいる時ほど、一人でいたいこともあるのです。
矛盾しているようですが、私の場合はそうでした。

多くの人が失ったのは、「空気のような存在」だった家族や隣人です。
そこにいるのに、それを意識しないですむ人。
その不在に気づきだす頃が、とても心配です。
被災者の方はもちろんですが、社会全体も、です。

あまりに多数の死の体験が、社会をどう変質させていくのか、不安です。

■1337:イザナキかオルフェか(2011年5月1日)
愛する人を冥界まで探しに行った話で有名なのが、日本のイザナキとギリシア神話のオルフェウスです。
これについては、この挽歌でも何回か書きました。
この両者はよく似ているといわれますが、実は全く違います。
最近、ようやくこの挽歌でも「死」と言う言葉を使えるようになったので、書くことにします。

イザナキもオルフェウスはルールを破ったために愛する人を現世に連れてこられませんでした。
そこまでは一緒ですが、そこからが違います。
オルフェウスは、その後も愛する妻を思い続けます。
しかしイザナキは、冥界の妻の姿を見てしまってからは、妻から逃げようとするのです。
そこからの話は「死霊との闘い」です。
そしてそこに端を発したせいか、いまも日本では死者を送った後は自らを塩で清めます。
このあたりのことは、工藤隆さんの「古事記の起源」(中公新書)にわかりやすく書かれています。

私は節子を見送るまで、死者への恐れがとても強く、墓地にもあまり行くことができませんでした。
墓地から伝わってくる冥界のエネルギーを素直に受け容れられなかったのです。
ところが、節子を送った後、そういう恐れがなくなりました。
節子を送った直後は、異常なまでになくなりました。
父母の時とはまったく違いました。
薄暗い、だれもいないがらんとした真夜中の葬儀室に、遺体と2人だけでいるなどということは、それまでの私にはとてもできなかったでしょう。
愛する人の死を体験すると、人は冥界に関する捉え方が変わってしまうような気がします。

工藤隆さんの本によれば、古代人はそもそも死を恐れるものだったようです。
だからこそ篤く弔い、埋葬するわけです。
そうしないと祟られるかもしれません。
墓石は冥界との入り口をふさぐものかもしれません。
オルフェウスのように、冥界を恐れないのは知性が生み出した物語だと工藤さんは言います。
納得できるような気もしますが、違和感がないわけでもありません。
ネアンデルタール人が、死者に花束を供えていたことは有名ですが、そこに感ずるのは冥界との往来の思想です。
むしろ知性が冥界との通路を閉ざすために、死霊や地獄の思想を生み出したようにも思われます。
彼岸や天国の思想は、それへの反論です。

イザナキかオルフェかと問われれば、私はオルフェ的な生き方をしています。
今もなお、おろおろしながら、生きているわけです。

■1338:生命とは強くてもろいもの(2011年5月3日)
節子
庭の藤が満開です。
クマンバチがたくさん寄ってきています。
節子がいなくなってから庭の手入れが行き届かず、かなりの花木を枯らせてしまいました。
私たちの思い出のある花木もだいぶ失われてしまいましたが、まあ生命あるものいつかは消えていくのですから、仕方がありません、などというと、節子がまた「相変わらず都合のいいように納得してしまうのね」と笑うでしょうが。
まあそこが私の良いとこなのです。

一昨年は「北斗七星」の形に咲いたナニワイバラは、今年はランダムにわっと咲いてしまいました。味も素っ気もありません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/04/post-933b.html
自然は気ままでもあります。

昨年やっと復活してくれたサツキは芽を出してくれません。
油断していたら復活をやめてしまったようです。
節子が大事にしていた山野草もあんまり状況がよろしくありません。
自然と付き合うのは大変です。

生命とは強くてもろいものです。
植物と付き合っていると、それがよくわかります。
そして、節子もそうでした。
3月の東日本大震災で被災した人たちの報道を見ていても、そう思うことがよくあります。
いえ、それよりも、私自身がまさに「強くてもろい」存在であることを最近は痛感しています。

さて今日も、庭や室内の花に水をやりましょう。
水をやりすぎて枯らしたランや、水が不足して枯らしたパピルスなど、わが家の植物はだんだん少なくなってきていますが、今年は増えるようにもう少し誠意を持とうと思います。
節子は、たぶん信じてはいないでしょうが。

■1339:またお風呂で寝てしまいました(2011年5月3日)
節子
また湯ぶねで寝てしまいました。
最近こういうことが多く、そのうち、浴槽で溺死してしまうかもしれません。

今日は久しぶりに湯島に出ていましたが、来客続きで昼食を食べ損ないました。
その後も来客やら用事でばたばたしてしまい、帰宅したら死にそうなほど疲れてしまいました。
お風呂もやめて寝たかったのですが、娘が攻めて湯ぶねにつかるだけでもと言うので、入ったのですが、気がついたら寝ていました。
困ったものです。

私は一人で何かをするのが嫌いです。
話す相手がいないとだめなのです。
ですから、一人でレストランに入ることはまずありません。
お風呂も一人が好きではなく、節子がいた頃はいつも一緒でした。
だから一人でお風呂に入っても退屈で仕方がありません。
話し相手がいないことがどれほど退屈なことなのか。
沈黙が苦手なのです。

今日、午前中にお会いした人も私と同じで、沈黙が苦手な人です。
彼は、2人で話している場合、間が耐えられないので、ついつい余計なことを話してしまうといっていましたが、よくわかります。
余計なことを言うと、いろいろと問題を起こしかねません。
それもまたよくわかります。

節子との会話でも、余計なことを話して夫婦喧嘩になったことはよくありますが、喧嘩は要するに話し合いですから、私は好きでした。
しかし節子は好きではないようで、喧嘩すると口をきいてくれなくなるのです。
沈黙には弱い私は、そこでやむを得ずにすぐ謝ってしまっていました。

話がそれました。
お風呂の話でした。
昔、私が好奇心に任せてさまざまなプロジェクトに取り組んでいて、節子と話す時間があまり取れない時期がありました。
その頃の私たち夫婦の会話はお風呂でした。
お風呂では身体を洗うよりも会話だったのです。
そういう生活が長かったので、会話のない入浴は退屈で仕方がないのです。
会話できないお風呂の時間は退屈で、ついつい寝てしまうのです。

それだけではなく、お風呂で寝てしまうほどに疲れているのかもしれません。
生活のリズムが崩れると大したこともしていないのに疲れを感じます。
いや、大したことをしていないから疲れるのかもしれません。
明日はちょっと「大したこと」に挑戦してみましょう。
地震以来放置していた掃除に取りかかることにします。

■1340:「見知らぬわが町」(2011年5月5日)
節子
久しぶりにテレビドラマを見ました。
NHK福岡放送局が昨年12月に放映した「見知らぬわが町」です。
今日、全国放映されたのです。
このドラマのことは、福岡の西川さんから昨年の放映時にお聞きしていました。
劇中にかなり重要な役割を果たすハーモニカ演奏を西川さんが指導されたのです。

舞台は福岡県大牟田市。かつて炭鉱で栄えた町です。
ドラマは次のように展開します。

主人公は16歳の高校一年生。不登校に悩んでいる。
夏休み最後の日、憂鬱な気分を振り払うかのように、自転車で町外れに出掛け、そこで目にした巨大な廃墟に不思議と心を奪われてしまう。
それは、この町の過去の象徴とも言うべき、炭鉱のヤグラだった。
それをきっかけにして、彼女はどんどん町の歴史にのめりこんでいく。
それと並行して、家族の過去が見えてくるのです。

詳しくはNHKのサイトを見て下さい。
サイトには制作エピソードなども出ていて、とても面白いです。
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/drama/wagamachi/index.html

主人公は早くして母親を亡くしています。
それはストーリーとはあまり関係はありませんが、見ている私には大いに関係がありました。
妻がいなくなると、母親がいなくなると、家族は変調を来たします。
しかし、それもこのドラマにはあまり関係はないでしょう。
にもかかわらず、涙が出たのはなぜでしょうか。
恥ずかしながら中途半端な涙ではなく、一緒に見ていた娘の手前、嗚咽をこらえるのがやっとのほどでした。
これほどの涙は、節子と一緒に見たアンゲロプロスの『永遠と一日』以来です。

おそらくそこに描かれていた、3世代の家族の、それぞれの生活ぶりが、私の何かにひっかかったのです。
明らかなのは、いしだあゆみが演ずるおばあさん役を、節子が演じられなかったことです。
あるいは老夫婦の姿を私が演じられなかったことです。
一緒に、慎ましやかに老いていくのが私たちの夢でした。

テレビを見終わってからもう2時間以上たちますが、まだ涙が止まりません。
節子に会いたい、苦しいほどにそう思います。

■1341:初ものを食べる時には東を向いて笑わないと(2011年5月6日)
節子
めずらしいことが起こりました。
ユカがデザートにスイカを買ってきたのです。
スイカと言っても小さなスイカの、しかも半分だけですが。
早すぎる初ものは、わが家ではなかなか買いません。
まあ高いからですが、その文化は節子から娘たちへときっちりと伝わっています。
スイカはまだ早すぎると思っていたのですが、なぜかユカが買ってきました。
こういう時には必ず「節子だったら買ったかな」と言う話になります。
私たち夫婦には、それなりのルールはありましたが(たとえば早すぎる初ものは買わないもその一つです)、「ルールには縛られない」という実に便利なルールもありましたので、もしかしたら節子も買ってきたかもしれません。
何しろ被災地支援で野菜を食べなければいけません。
ちなみに、そのスイカは茨城県産ですが、茨城も風評被害で大変なのです。

早速、節子にお供えしました。
そうしたら娘がいいました。
お母さんが、初ものを食べたら、東を向いて笑わないとだめだよと言っていたね。
こんなふうにして、わが家では時々、節子が今でも登場します。

節子の叔母が京都にいました。
私も何回か節子と一緒に、その叔母さんの家に行きました。
京都の家らしく、行儀作法にうるさいようでした。
私も節子も、若い頃は形重視の行儀作法にどちらかといえば反発していましたから、その家は苦手でした。
叔母も叔父もとても良い人でしたが、いささか時代に反発していた私と、その私を選んで、きちんとした結婚式もあげなかった節子には厳しかったのです。
世間に反発していた私と躾にうるさい叔母叔父の間に立って、節子は苦労していたのでしょう。
叔母の家に行く時には、節子は私のいろいろと注文をつけていましたから。

「初ものは東を向いて笑って食べる」というのは、京都の文化だそうです。
もしかしたら、これも京都の叔母から習ったことかもしれません。
笑いはともかく、旬のものを最初に食べるときは、太陽が昇ってくる東を向いて、太陽に感謝しながら食べるという意味のようです。
節子は、娘たちが生まれてから、こういうことを言うようになったような気がします。
それまでは、私に話しても無駄だと思っていたのです。
しかし実際には、40歳を過ぎた頃から、私もそうしたことに関心が高まりました。
行儀作法の形の奥にある歴史や心が見えるようになったからです。
気づかせてくれたのは、本人は意識していなかったでしょうが、節子との暮らしです。

ちなみに、今日のスイカですが、何しろ小さくて一口でなくなってしまいましたが、甘くて美味しかったです。
しかし5月からスイカを食べるのはやはりちょっと気が引けます。
次に食べさせてもらえるのはたぶん7月に入ってからでしょう。
そういえば、節子もそうだったような気がします。
時々、予想しなかったものをかなり早目に食卓に出して、家族を喜ばす。
まあわがやの贅沢は、400円のスイカのレベルなのですが。

■1342:自殺未遂サバイバーの友人(2011年5月6日)
節子
昨年知り合った吉田さんという人がいます。
私よりも歳上の男性です。
彼は、自殺未遂したことをカミングアウトし、昨今の自殺対策関係者にもっと自殺未遂者の声を聴いて欲しいと働きかけ続けてきました。
しかし、なかなか聞いてもらえないばかりか、吉田さんの思いの強さに逆に敬遠されるような状況に陥っていました。
私は、その噂を少しだけ聞いていましたが、昨年11月に私たちが主催したフォーラムに吉田さんが参加してくれました。
直接話してみると、しっかりした人で、噂とは違います。
噂で人を判断してはいけないことを改めて実感しました。

以来、吉田さんはよく湯島に来ます。
そして彼のこれまでの人生をしっかりと聞かせてもらいました。
そしてこれからの生き方や活動計画をじっくり聞きました。
私よりも年長なのに、その計画への吉田さんの思い入れはすごいものがあります。

吉田さんはかつて会社を経営していました。
ところが注文が多くなりすぎて、対応できなくなり、そこから人生が狂い出しました。
精神的にダウンし、狂言自殺を経て、本当の自殺を図りました。
幸いに生命は助かりましたが、それもあって家族は崩壊しました。
吉田さんを再度の自殺から救ったのは、実の妹さんだったようです。
その方は、現在はフランスにお住いのようです。

最近はすっかり元気ですが、吉田さんが時に涙ぐむことがあります。
家族の話をする時です。
周囲の人ともさまざまな確執がありましたが、この半年、吉田さんといろいろと話しているうちに気持ちが和らいできたのが伝わってきます。
しかし、思いを変えられないのが、やはり家族への思いのようです。

家族との絆という言葉がありますが、そこには愛憎がひしめきあっています。
もちろん吉田さんは、いまも家族を心から愛しています。
それはよくわかります。
だから時に涙ぐみ、時に怒りを見せます。

吉田さんと話していて、いつも感じます。
社会に向けての行動に、吉田さんをせきたてているのは、きっと元奥さんの存在なのだと。
離婚後、吉田さんと奥さんがどういう関係にあるかはともかく、間違いなくいまの吉田さんの意識の後ろには、別れた奥さんが存在しています。

こんなことを書いたのは、私がなぜこの頃、動けないのだろうと考えていたからです。
生きる拠り所だった節子が、彼岸に行ってしまったことと無縁ではないでしょう。

彼岸はやはり遠い。
この頃、そう思えて仕方がありません。
もし愛する人がまだ此岸にいるのであれば、それを大切にしなければいけません。
私からすれば、そのことに気づかない人が多すぎます。

■1343:井口さんからの新茶(2011年5月8日)
節子
井口さんから毎年恒例の新茶が届きました。
お茶好きの節子に供えさせてもらいましたが、久しぶりに井口さんに電話しました。
奥さんが出ました。
節子は会ったことはなく、手紙だけの交流でした。

その井口さんの奥さんが体調を崩してもうかなりになります。
難しい病気で、なかなか治療法がないようです。
何か私に出来ることがあればいいのですが、私には何ができるか検討もつきません。
節子がいたらもう少し何か方策があるような気もしますが、私はただ心配することしかできません。
井口さんに限らず、こうしたことがこれまでも何回もありました。
夫婦の付き合いや女性への対応は、節子がいない私には難しいのです。

井口さんは、奥さんとできるだけ一緒にいるようにと勤務を辞めました。
仕事は続けていますが、仕事量は激減したはずです。
大学の教授だったのですが、その潔さに感服しました。
それだけではありません。
昨年、転居することにしましたと連絡があった時には驚きました。
奥さんの体調を考えての決断だったようです。
ますます感服しました。
私も節子の体調に合わせて、少しだけそれに似たような決断をしましたが、いまから考えるとやはり中途半端でした。
思いだすと悔やまれることばかりです。

久しぶりに電話で話した奥さんは元気そうでした。
その旨、伝えると、最近ようやく底を脱しましたという答が返ってきました。
とても明るい声でした。
辛い体験もお聴きしました。
看病していたお母さんを数か月前に見送ったようです。
しかしそれが逆に一つの節目になったようです。
おそらくとても深く愛していたのでしょう。
矛盾しているようですが、私にはそんな気がします。
代わって電話口に出てきた井口さんも元気そうでした。
とてもうれしい気持ちになりました。

伴侶の体調の辛さは、わかり合えるようで、なかなかわかりません。
それが私の体験的反省です。
しかし、2人で取り組んでいる時は、お互いにとても幸せなのかもしれません。

井口さんもしばらくは仕事があまりないようです。
お二人でゆっくりと季節を楽しまれることでしょう。

■1344:カーネーションのない母の日(2011年5月8日)
今日は母の日です。
残念ながらわが家には何事も起こりませんでした。

節子がいた頃は、みんなで母の日を祝って食卓を囲み、娘たちは節子に何かをプレゼントしていました。
父の日とはだいぶ違いました。
そういえば、母の日は私が子どもの頃からありましたが、父の日は途中で誰かがつくったものですので、私にはほとんど興味がないというのも一因でした。
私がまだ小学生の頃は、母の日にはみんな赤いカーネーションを付けました。
母親のいない子どもは、白いカーネーションでした。
今から思うと何という思いやりのないルールだったかと信じられない気がします。
大人のルールに懐疑的だった子ども時代の私は、当時から反発していました。
私はカーネーションが好きではありません。

今日は節子の位牌壇にもカーネーションは飾られていません。
なぜ飾らないのと娘に訊いたら、節子もカーネーションが嫌いだったのだそうです。
今日はじめて知りました。
それでわが家の庭にはカーネーションがないのです。
それで節子に供えるのは撫子なのだそうです。
そういえば、一昨日のお墓参りの花にも撫子が入っていました。
考えていないようで、娘たちはいろいろと考えてくれているようです。
私とはだいぶ違います。

節子への母の日プレゼントは私が代理で受け取るよと娘たちにいったのですが、相手にされませんでした。
どうも母親と父親は違うようです。
いや私が親としてあまり認知されていないのかもしれません。

節子は節句とかメモリアルデイとかイベントデイは、それなりに好きでした。
私は古来の節句などはともかく、誰かが勝手につくった商業主義的な「○○○の日」というのは好きではありません。
私が嫌いなせいか、節子がいなくなってから、そうした祝膳が少なくなったような気もします。
しかし、娘たちが適度に節子的な食事を用意してくれます。
その日が、わが家の祝日なのです。
まあわが家の祝いの膳と言っても、手巻き寿司や筍ご飯や、まあそんな程度なのですが。

明日はみんなで夕食は韓国料理に行くそうです。
明日は何の日なのでしょうか。

■1345:丑三つ時の事件(2011年5月9日)
昨夜、時間はまさに丑三つ時、つまり午前2時。
わずかな音で目が覚めました。
不連続で、パソコンのキーボードを打ち込んでいるような音です。
うとうとしながらだったので気のせいかと思いました。
ところがしばらくしてまた聞えてきました。

私は寝る時には、真冬でもドアを開けて寝ています。
わが家でドアを閉める習慣があるのは、娘たちだけです。
ですから娘の部屋を除いて、すべての部屋は扉があいています。
その音は部屋の外から聞えてきます。
気のせいではなく、まちがいなく誰かがキーボードをたたく音です。
娘はもう寝ていますし、彼女の部屋の扉は閉まっているので聞えてはこないはずです。
寝室の隣が私の仕事部屋ですが、どうも音は階下から聞けてくるようです。
階下の和室には、節子が使っていたパソコンがあります。
そういえば、ちょうど節子がキーを打っているような、あまり速いテンポではない打ち方です。
音は間違いなく続いています。
節子でしょうか。

時計を見ると、まさに「2:00」。草木も眠る丑三つ時です。
起き上がって階段のところまで行きました。
と、そのキーボードを打ち込むような音がぴたっと止まったのです。
やはり気のせいかと思っていたら、今度はちょっと違う音がしてきました。
意を決して、階段を下りました。
さて、それからどうなったか。

実に退屈な展開が待ち受けていたのです。
期待させてすみません。
そこにいたのは、わが家のチビ太だったのです。
チビ太は室内犬ですが、いささか獰猛な性格なので、いつもリビングの一角に紐でつながれています。
ところが、なぜかその紐がはずれてしまったようで、階下を自由に彷徨していたのです。
その歩く音が、ちょうどパソコンのキーボードを打つ音だったのです。
いやはやとんだ丑三つ時の事件でした。

チビ太を彼のベッドに連れて行こうとしたら、足がびしゃっと水につかりました。
なんとチビ太くんは廊下におしっこをしていたのです。
なんとまあ性格の悪い犬でしょうか。
まあ飼い犬は飼い主に似てくると言いますから仕方ありませんが。
しかし、なぜチビ太の紐ははずれたのでしょうか。
そんなに簡単にはずれるはずはないのですが。

やはり節子の仕業でしょうか。

■1346:本当に必要なものは一つ(2011年5月10日)
節子
こちらではいろんなことが起こっています。
たとえば今日はこんなことがありました。

福島の原発事故で周辺の住民は自宅退去させられていました。
それ以来、みんな自分の家に戻れないでいたのです。
そして、今日から一時帰宅が開始されたのです。
自宅にいられるのはたった2時間。
そして持ち帰られるのは一袋です。
私だったら何を持ち帰るか。
テレビでは、位牌や預金通帳、印鑑、権利書、アルバムなどを持ち帰る姿が報道されていましたが、まあふつう思いつくのはそんなところでしょう。

しかし考えてみるとこれは結構難しい問題です。
何を選ぶかに、これまでの自分の生き方、これからの自分の生き方が象徴されるような気もします。
私もいろいろと考えてみました。
しかし、なかなか選べません。
そして結局は選べないだろうと言うことに行き着きました。
言い方を換えれば、何でもよくて、目に付いたものを持ち出すことになるだろうということです。
節子がいないという前提での話ですが。

節子がいない現在、すべての物事の重要性は、私にはフラットになった気がします。
私にとって重要だったのは、考えていくと、節子だけだったのです。
真意が伝わるかどうか不安ですが、人にとって本当に必要なものは一つしかないのかもしれません。
その「一つ」が、人なのか、物なのか、場所なのか、思い出なのか、あるいは名誉なのか誇りなのか。
それは人によって違うでしょう。
なかには「お金」と言う人もいるかもしれません。

私の場合は、節子でした。
そのたった一つの「必要なもの」を失った時、人は価値の基準を失います。
自らが生きていくことの価値さえ見えなくなる。
だから、その「一つ」は、自分よりも大切なのです。
それがあればこそ、生きていけるのかもしれません。
それを無くした時、人はどうやって生きていけばいいのか。
少なくとも「生きる意味」は変わってしまいます。

自宅に久しぶりに戻った人の言動を見ながら、そんなことを思い馳せていました。
そして、みんな何かを「持ち帰る」ためにではなく、たくさんの思いを「置いてくる」ために、自宅に戻りたかったのではないか、とふと思いました。
みんなの生き方はたぶん大きく変わっていくでしょう。
その出発点として、自宅に立つことの意味は、とても大きいように思います。

■1348:「ちゃんと入院しなさいよ」(2011年5月12日)
節子
風早さんから電話がかかってきました。
「入院するんですって!」といつものように思いを込めた声が聞こえてきました。
「親知らず歯を抜くだけですよ」
と答えたら、「知ってます。でも侮ってはいけません。ちゃんと入院してくださいよ」というのです。
そういえば、ある人も同じようなメールをくれました。
私がちゃんと入院することをまだ疑っているようです。
どうも私は友人たちからの信頼がありません。

しかしなぜ風早さんが知ったのでしょうか。
あるメーリングリストで日程決めに関して、その日は入院日だと答えたのを読まれたようです。
私は口が軽いので、気楽に何でも話してしまい、いつも節子から「言わなくてもいいことをいってしまうんだから」と呆れられていましたが、まさに余計なことを口にしてしまうタイプなのです。
困ったものです。

風早さんはメールまでくれました。
それによると、昭和58年にやはり1週間の入院で親知らず歯を抜いたのだそうです。
問題は、その後にこう書いてありました。

今でもカンカンというノミで骨を削る音が耳の奥に残っています。
恐れさせるつもりはありませんが、侮ってはなりませんぞ!

これは十分に「恐れさせて」います。
まあ担当の医師からはもっと脅かされていますが。

実は、この件は入院が決まった時にフェイスブックに書いたのですが、その記載へのコメントがいろいろ寄せられたのにも驚きました。
フェイスブックでは時々、メッセージ性のあることも書いていますが、そういうことへの反応よりも、格段に多かったのです。
世界の未来と私の歯の手術とどっちが重要かといやみを言いたい気もしますが、後者のほうが気楽に反応できるのでしょう。
つまり重要ではないということです。
困ったものです。
しかしみんなが心配してくれることには感謝しなければいけません。
そういえば、風早さんのように体験者もいました。

娘たちは心配していません。
節子がいたら心配してくれるのに、と娘たちに言ったら、お母さんも心配しないよ、と即座に言われました。
そういえば、節子の最初の胃の摘出手術の時、一番心配していなかったのは節子でした。
早期発見だから大丈夫と言っていました。
家族や友人を心配させないように、明るく話していました。
その頃のことを思い出すと、節子にまた無性に会いたくなります。

しかし1週間、病院で何をしたらいいのでしょうか。
久しぶりに読書三昧とも考えましたが、「ノミで骨を削る音が耳の奥に残っている」としたら、読書どころではないでしょうね。
医師と交渉して早目に退院しなければいけません。

■1349:ジャスミンの香り(2011年5月13日)
節子
1週間ほど前から、駐車場の白いジャスミンが満開で、その香りがあたりに充満しています。
わが家の20メートル先くらいから、その香りがにおってきます。

ジャスミン茶は苦手ですが、ジャスミンの花の香りは大好きです。
風下に当たる玄関先の駐車場に咲いているので、家には香りは届いてきませんが、節子の位牌に小さな一輪を供えるだけで部屋にジャスミンが行き渡ります。
カサブランカもキンモクセイも、みんな気持ちを和らげてくれますが、ジャスミンはそれだけでなく、ちょっと夢も感じさせてくれます。
ジャスミンの香りは、なぜか節子を思い出させてくれるのです。

■1350:夫婦での散歩のお薦め(2011年5月14日)
節子
久しぶりにチビ太の散歩に行きました。
最近は歩くのもやっとで、あれほど喜んでいた散歩も、あまり喜びません。
それにあまり無理をさせないほうがいいとお医者さんにも言われています。
いつぞやは歩く向きを変え損なって、仰向きに転んでしまいました。
それ以来、ともかくチビ太の歩く速度に合わせてゆっくりと歩くようにしています。
たった200メートルくらいの往復に20分近くかかるのです。

今日、そうやって散歩しながら、節子と一緒の散歩のことを思い出しました。
節子も、「その年」の今頃はチビ太と同じようなテンポでした。
それでも節子は散歩を止めませんでした。
節子と一緒の散歩は、悲しい散歩も楽しい散歩もつらい散歩もありました。
手術直後のリハビリのための散歩は泣きながらだったことも少なくありません。
一緒に散歩していると、特に話などしなくても、お互いのことがよくわかります。
歩き方に、その人の性格や価値観が自ずと出てくるからです。

節子とは、散歩ではありませんが、一緒によく歩きました。
考えてみれば、私たちは奈良を1日、歩き続けることから始まったのです。
電車で偶然に会って、そのまま奈良に行き、奈良公園から、春日大社、東大寺をまわって、奈良駅に着いた時には、もう暗くなっていたのを覚えています。
それからもよくいろんなところを歩きました。
私たちが一緒に歩いた距離はどのくらいでしょうか。
かなり長いかもしれません。

しかし、自宅の周辺の散歩は、節子が胃の手術をしてからです。
日常生活における散歩は、もう少し歳をとってからという思いが、私にはあったのです。
もっと早くから一緒に散歩することが、生活に組み込まれていたら、私たちの人生は変わっていたかもしれません。
そんな気もします。

ご夫婦で散歩している姿を時々見かけます。
うらやましいという思いではなく、素直に祝福したい気がします。
私たちができなかった分も、たくさんしてほしいです。
夫婦にとっての散歩の効用はとても大きい。
それに気づかなかったのが、とても悔やまれます。
そして、その気になればできるのに、それをしない夫婦が多いのが残念でなりません。
まあ、私たちもそうだったわけですが。

もしお読みなっている方で、夫婦での散歩をされていない人がいれば、ぜひ伴侶の方に声をかけて、明日にでも一緒に散歩に出かけてみてください。
世界が変わるかもしれません。
私にはもうできませんが、できる人にはぜひお薦めしたいです。

■1351:終わらぬ日々がつづく(2011年5月15日)
昨夜、NHKBSテレビで「死刑 被害者遺族・葛藤の日々」を見ました。
時評編で書きましたが、先日、ブログの読者から「死刑弁護人」の本が事務所に届いていたこともあって、しっかりと見せてもらいました。

この番組は、今年の3月、最高裁で死刑が確定した連続リンチ殺人事件(1994年)で息子を殺された夫婦と弟を殺された人の17年間の心の動きを追ったドキュメントです。
主軸にあるのは、被告との関係を通しての、それぞれの心の葛藤です。

息子を失った夫婦は最後まで被告と会うことを拒否し、死刑を求めてきました。
一時期、被告から繰り返し届く謝罪の手紙に心が揺らぎますが、弁護士からの電話で弁護士の意図を感じて、再び心を閉ざします。
そして死刑が確定した時には涙ながらに喜び息子に報告するのですが、3か月後の取材では、気持ちがやはり整理できないと語ります。
目的が達成されてはじめて、死刑の持つ重さに気づいたのかもしれません。

弟を失った人は、途中で死刑反対に心が変わりますが、それでも時々、死刑反対を唱える弁護士たちに利用されているのではないかという迷いが生まれると語ります。
被告には会い続けますが、裁判の途中で脳梗塞で倒れてしまいます。
しかし、リハビリに励み、また刑務所に被告に会いに行きだすのです。
彼は死刑判決を聞いて「残念」と不自由な口で一言つぶやきます。

被害者遺族にとっての死刑とは何か、そのことを通して、生きるとは何かを考えさせてくれる番組でした。
こうした重い番組は、最近どうも苦手です。
一人で見るには、いささか辛いです。
かといって誰か第三者と見るのは、さらに辛いような気がします。
そういう番組を見ていると、自分でも気づいていなかった生の自分が露出するからです。
節子であれば、その露出がむしろ自分のパワーになりますが、節子以外の人だったら、それがたとえ娘であっても、心安らかではないように思います。

番組の話を長々と書きましたが、最後のナレーションでドキッとしました。
「被害者遺族にとっては、終わらぬ日々がつづく」
そんなナレーションだったと思います。
今思い出して、文字にしてしまうと何の感慨もないのですが、昨夜、番組を見ての最後にその言葉を聴いた時には、まるで自分のことを言われたような気がしたのです。

始まったことは終わらない。
愛する人の死は、それが病死であろうと殺害であろうと、人生を変えてしまいます。
変わった人生は、もう再び変わることはないのです。

この挽歌の読者の方がコメントにこう書き込んでくれました。

私はまだ40代なので、あと何年、夫無しで生きていかなければならないかと思うと、ぞっとします。
生き地獄です。

新しい人生が、生き地獄であってはいけません。
そう思いますが、私には、そしてたぶんご本人以外には、成す術がないのです。
生きるとは一体何なのか、この歳になって、そんなことを考えようとは思ってもいませんでした。
今頃は、縁側でのんびりと節子と意味のない無駄話を語りあっていたはずなのですが。

■1352:ぷーちゃんのコメントへ(2011年5月16日)
今日は宛先を変えます。
節子ではなく、ぷーちゃん宛です。
ぷーちゃんはこの挽歌に今日、コメントを寄せてくれた人です。
私が知っているのは、そのコメントに書かれていたことだけです。

最近、実はかなり気が滅入っています。
3.11症候群と私が勝手に命名している症状です。
そんな状況であることもあって、今朝、このコメントをみた時には思考力を失いました。
すぐに返事を書かなくてはと思いながら、書けませんでした。
悪いことに今日は、ちょっと気の重い用事が2つありました。
一つは入院のための病院での検査だったのですが、いろんな検査をしているうちにすっかり気を吸い取られてしまった気がします。
しかしその間も、ぷーちゃんのコメントが片時も頭から離れませんでした。

夜はあるNPOの総会でした。
そのことはまたどこかで書きますが、少し気の重い総会だったのです。
つかれきりましたので、本当はもう寝たいですが、もしかしたらぷーちゃんが返事を待っているかもしれません。
コメントに関する返事ではなく、挽歌で返答しようと思います。

ぷーちゃんのコメントは、コメント欄を読んでほしいですが、一部を抜粋します。
私の頭から離れない部分です。

最愛の妻を喪って、僕は壊れてしまったようです。
毎晩、仕事から帰ると、泣きながら酒を飲みます。
妻が元気だった頃は散歩をして過ごした休日は、今では朝から夜まで酒を飲んで泣いています。
いったいいつまでこの地獄が続くのでしょう。

もうひとりの方も、先日、「生き地獄」とコメントに書いてきました。
「地獄」
実はずっとこの言葉がこの数日、気になっていました。
地獄ってなんなのだろうか。

と、ここから先はどうも長くなりそうです。
うまくかけるほど、今日は私自身余裕がありません。
それにぷーちゃんはもう酒を飲んで寝ているかもしれません。
書き出しましたが、この続きは明日にします。
ともかくずっと考えていたことをぷーちゃんにはお伝えしたいです。
まなさん、にも。

■1353:地獄(2011年5月17日)
昨日の続きで、地獄のことを書きます。

地獄はいろんな意味あいがあります。
手元の世界宗教大事典(平凡社)には細かな字で4頁も記載があります。
しかし、最初に書かれている定義は簡単です。
「死後に赴くべき他界の一つ」とあります。
地獄と言うと、恐怖のイメージがありますが、彼岸のこととも言えます。

私にとっての彼岸のイメージは、とても明るくあったかいものです。
そこに節子がいると思っています。
私は、すべての人は同じ彼岸に行くと考えています。
ですから、私にとっての「地獄」は、彼岸とほぼ同じです。

人権と言う言葉があります。
human rights の訳語です。
人権思想を支えているのは、「生きていることは正しい(right)」ということです。
誰かからその正しさを与えられたものではなく、生きていることが正しいのです。
ちなみに、このことは「生きていないことは正しくない」ということにはつながりません。
生きていないこともまた正しいのです。
それは矛盾しません。
それぞれの状況を、素直に受け容れるということでしかありません。
しかし、「生きていること」を勝手に否定することは正しくないはずです。
正しいことを否定するわけですから。
嘆くことも好ましいことではないかもしれません。

生きていれば、辛いことも悲しいこともあります。
煩悩から自由になることなど、できるはずがありません。
梅原猛は、愛と俗世の価値を並べて、いずれに縛られても地獄と語ります。
地獄という言葉は、彼岸とは別に、現世をさす場合もあります。
煩悩が地獄を生み出し、そこから抜けるには煩悩を超えることと仏教は説きますが、その時の地獄は此岸のことです。

つまり、地獄は彼岸でもあり此岸でもあるわけです。
そして、生き地獄であろうと先の見えない地獄であろうと、生きなければいけません。
それが正しいことだからです。
しかし、私はあまり「地獄」という言葉は使いたくありません。
そこは節子のいるところであり、私のいるところだからです。
此岸の地獄を生き抜き、彼岸の地獄に行く。
これが私にとっての人権、human rights です。
たしかに愛する人がいない世界で生きることは辛いことです。
しかし、辛いのは自分だけではありません。
相手もまた彼岸で辛いのです。
辛い「地獄」が続くのは、しっかりと受け容れなければいけません。
生きていることが正しくなくなったら、きっと愛する人が彼岸の地獄に誘ってくれるはずです。

節子を見送って、今日は1353日目です。
ようやくこんな言い方ができるようになりました。
これは喜ぶべきことか、あるいは悲しむべきことか。
節子はどう思うでしょうか。
判断に迷います。

書き上げて挽歌にアップしようと思ったら、まなさんからコメントが届いていました。
アップを迷いましたが、アップします。
また新しい宿題をもらってしまった感じです。
地獄を生きるのは辛いことなのです。

■1354:悲しみ嘆き、後悔し、自らを責め、無為に時を過ごしましょう(2011年5月18日)
コメントに投稿してくれたお2人の人が、こう書いています。

愛する人、すべてを分かち合ってきた人を失って、喜びや楽しみの感情は全くなく、罪悪感や後悔に苛まれ、ただ一日をやり過ごしている感じです。
この状態を地獄と表現しました。

妻を喪うと同時に僕はすべてを失った気がします。夢も希望も、したいことも行きたい所もない。

お2人に共通しているのは、世界が無表情になったということかもしれません。
私はそうでしたし、いまもなおそうだといってもいいかもしれません。
無表情の世界にどう関わっていいか、わからないのです。

自らが生きていることさえ意味を失っているのですが、同時に「生きないこと」もまた意味を失っているのです。
まあ簡単にいえば、みんな勝手にやってよ、という感じが、節子を失ってから少し経過しての状況です。
当時は、世界が崩壊しても、大隕石が地球に衝突しても、なにも動じなかったでしょう。
むしろ心のどこかに、そうしたことを望んでいたとさえいえます。
「したいことも行きたい所もなく」、「ただ一日をやり過ごしている」。
まさにそんな状況でした。

いまも、それが大きく変わったわけではありません。
できることなら、そういう世界に埋没していたいという気分もありますが、生きることは自分だけの営みではありません。
みんな関わり合いながら、生きている。
一人そこから逸脱するのは「正しいこと」(right)ではないでしょう。
意図的にそう考えているわけではなく、自分の意識を超えて、自然と心身がそうなっているのです。
そうした流れには抗いようがありません。
生命の不思議さを感じます。

まなさんは、こうした状態を「地獄」といいます。
「罪悪感や後悔に苛まれる」辛さはよくわかります。
私も時々、今でもですが、逃げたい気分に陥ることがあります。
不安に陥ってしまうこともある。

しかし、最近、私はこう考えるようになりました。
いなくなってなお、罪悪感や後悔に苛まれるほどに思いを込めた人と出会えたのだ、と。
それは、この辛さを補ってなお余り過ぎるほどの大きな幸せではないか。

それにしても、たった一人の、しかもどこにでもいるような人がいなくなっただけで、これほど世界は変わってしまうことがあることの不思議を思います。
節子という存在はいったい何だったのだろうか。
美人でも才媛でもなく、私と同じように、どこにでもいるただの人です。
生前、節子がよく言っていたように、「私より素敵な女性はたくさんいるでしょうに」、なぜこれほどまでの思いが続くのか。
いくら考えても不思議でなりません。

まなさん
ぷーちゃん
今の状況もまた、愛する人といっしょに創りだしたことなのです。
悲しみ嘆き、後悔し、自らを責め、無為に時を過ごしましょう。
きっとそこにこそ、意味があるのではないかと思います。
先輩面して、偉そうなことをいってすみません。
本当は皆さんとそう変わらないのですが。

今日は初夏のような日になりました。

■1355:バーチャルな世界(2011年5月19日)
節子に会いました。

3年前に、この挽歌で、Wii Fit のことを書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/06/post_ac18.html
Wii Fitは、任天堂のゲームソフトです。
前にも書きましたが、画面で自分のキャラクターを創りだし、その自分がスポーツやゲームをするのです。
健康管理プログラムもあり、体重測定や測定機能もあって、バランス年齢が出てきたりします。
3年前には毎日やっていたのですが、1年で飽きてしまい、誰もやらなくなっていました。
久しぶりに、娘がやっていたので、私もからだ測定をしてみました。
そうしたら恐るべき測定値が出たのです。

以前やっていた時には、バランス年齢は50代だったのですが、なんと75歳に劣化していたのです。
バランス感覚が落ちてきていますね、と画面で注意されてしまいました。

そもそも最初の画面で、こんなメッセージが出てきました。
「おさむさん 588日ぶりですね」
そうです、588日間、やっていなかったことがしっかりと記録されているのです。

一番簡単なトレーニングをやることにしました。
ジョギングです。
3分ほど走るわけですが、その画面の世界にはわが家の家族など、知り合いが何人かいるのです。
もちろん実在の人が自分でつくりだしたキャラクターです。
節子のキャラクターは、節子がいなかったので、苦労してみんなでつくりだしました。
苦労というのは、節子の体重に見合う家族がいなかったので、その操作がそれなりに難しいのです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、そのおかげで、わが家のWii Fitの世界には、節子が元気にしているのです。

ジョギングは、実際にWii Fitの前で走ると、画面の私がコースを走っていくようになっています。
途中、誰かに追い抜かれたり、反対側から走ってくる人と会ったりします。
沿道で応援してくれる人もいます。
まあそういう単純なゲームなのですが、ゴールに近づいた時に、節子が反対側から走ってきたのです。
あっ! 節子だと声に出してしまいました。
しかし、節子は私には目もくれず、走り去っていきました。

まあ、それだけの話なのです。
すみません。

バーチャルな世界で節子に会う。
バカにされそうなので、あまりみんなには言えませんが、それもまあそれなりに楽しいものです。

実はもう一つ秘かに計画していることがあります。
これは内緒にしたい、ここだけの話なのですが(いささかの「違法行為」なので)、最近はまっているフェイスブックに節子を蘇らそうかと思っているのです。
節子のメールアドレスはまだ解約していないので、節子にメールすれば届きます。
返事がないので、読んでいないようですが、そのアドレスを使えば、フェイスブックが作成できます。
いや実際にもう作成してあるのです。
データはまだ未公開のままになっていますし、私との関係もいまは隠したままです。
でもフェイスブックの世界にも、節子がいるのです。
これもまあ、それだけの話なのですが。はい。

つまらない話につき合わせてしまいましたが、やっている本人(つまり私のことですが)にとっては、それなりに意味もあるのです。
この数日の挽歌とあまりにもトーンが違うので、戸惑われたかもしれません。
しかし、今日は久しぶりに節子に会えて、ちょっと幸せな気分なのです。

■1356:カクテルバラ(2011年5月20日)
節子
バラの季節です。
節子が育てていたさまざまなバラが咲き出しています。
節子が好きだった、バラらしくないバラのカクテルも毎日、花を増やしています。

今朝もテレビでどこかのバラ園を紹介していましたが、バラ園にはいろんな思い出があります。
もっとも私たちが一緒に行ったバラ園は、いつも早すぎたり遅すぎたりで、私自身はあまり感激したことはありません。
ところが、節子が友人たちと行くといつもバラ園は見事だったようなのですが。
あるバラ園では取材を受けて、新聞にまで登場していました。
やはり花もまた人を選ぶのかもしれません、

一番悲惨だったのは、私たちの最後の海外旅行になったイランのシラーズのバラ園でした。
時期が少し遅れてしまっていたために中途半端な見事さでした。
中途半端なバラは、興醒めです。
バラは勢いがなければいけません。
その点、カクテルバラは勢いがなくてもそれなりに雰囲気を保ってくれています。
節子はカクテルバラが好きでしたが、私の好みではありません。

節子は正統的な真紅のバラが好きでした。
私ではなく、私の友人が真紅のバラをお土産に持ってきてくれてからかもしれません。
ちなみに、私は節子に花を贈ったことはありません。
もし人生を繰り返すとしても、たぶん花の贈り物はしないでしょう。
買物嫌いな私にとって、特に花を買うことは想像もできないことですから。

カクテルバラの向側には、ジュンが植えたプレイボーイが満開です。
私はこちらのバラのほうが好みです。

そういえば、湯島のオフィスにあったミニバラが先週、小さな一輪を咲かせていました。
季節がくれば咲きだす花が、とてもうらやましいです。

■1357:ホッとする空間(2011年5月21日)
私のオフィスは湯島にあります。
ワンルームマンションの一室です。
部屋の真ん中にテーブルがあり、15人ほどであれば話し合いの場がもてます。
平成元年の8月から続いています。
実にいろいろな人がやってきました。
大学教授から予備校生、上場企業の社長からリストラにあった現場作業者、社会起業家やNPO関係者、国会議員から地方議員、大都市の市長から職員、公安警察の人から麻薬常習者、殺人課の警察官も来ました。右翼も来ましたし、革命家も来ました。
自殺未遂者も僧侶も、写真家も作家も、キャリア官僚も、著名な財界人も来ました。
デザイナーも芸術家も、百姓も靴職人も霊能者も行者も、渋沢栄一のひ孫も来ましたし、だれかの生まれ変わりだという人も来ました。
書いていくときりがないですね。
そうそう、今もお付き合いのある「元やくざ」の人もいます。
さらには、私の前世の友人も来ました。

いろんな人と一緒に、いろんな話も来ます。
M資金の話もあれば、生活保護の話も夫婦関係や親子関係の相談、25億円の遺産の寄付の話し、生きるための3万円の工面から6億円の仕事の相談までさまざまな相談も来ます。

オフィスは小さな1室ですが、実にさまざまなものがつまっています。
これだけさまざまな人が座ったことのある部屋は、そう多くはないでしょう。

会社を辞めた時、私が実現したかったのは、誰もがそこにいくとホッとできる空間です。
みんなに開かれていて、だれもがそこにある珈琲を飲める空間です。
そこではだれもが一人の人間として、楽しく話し合える空間です。
疲れたらそこに来るとちょっとだけ元気になれる空間です。
困ったらそこに行くと何とか先が見えてくる空間です。
死にたくなってもそこに行くと生きたくなってしまう空間です。
病気になってもそこにいくとみんなと同じだと思える空間です。

そんな空間をつくりたかったのですが、23年もたったのに実現できませんでした。
数年前に、一緒にその夢に取り組んでいた妻を病気で見送りました。
妻は、常識人でしたから、あまりにもいろんな人が来るので、最初は混乱しました。
オフィスに行くのを嫌がったこともあります。
しかし節子がいたおかげで、もしかしたらビジネス空間とは違った雰囲気が生まれ、そのおかげでいろんな人が素直に自分を開いてくれたのかもしれません。
ある会社の社長は、節子にとてもほれ込んでくれて、いつもお土産まで持ってきてくれました。
会うたびに、いつも節子をほめてくれました。

節子がいなくなって、オフィスを閉めようと思いました。
あまりにも思い出がつまっているからです。
しかし、結局、閉められませんでした。
閉めようと思った理由と閉めなかった理由は同じです。
閉めませんでしたが、夢は忘れました。

最近、またそのオフィスに通いだしました。
私だけではなく、またいろんな人が来てくれるようになりました。
今日は2つのサロンを開催したのですが、20人を越える人たちが来てくれました。
サロンで話を聞きながら、このオフィスをどういう空間にしようと思っていたかを、久しぶりに思いだしました。
もしかしたら、ちょっとだけ夢に描いていた空間になっているかもしれないと思いました。
サロンが終わったら、参加してくれた人たちがみんなで片づけをし、食器を洗い、きれいにしてくれました。
急に、このオフィスでホッとしてくれる人がいるかもしれないという気がしました。
とても幸せになりました。
どこかに節子がいるような気がしました。

■1358:梵我一如(2011年5月22日)
仏陀が生まれる以前のインドで活動していたヤージナヴァルキヤは、ウパニシャッド最大の哲人と言われています。
梵我一如を言い出した人とされています。

梵我一如とは、宇宙を支配する原理である梵(ブラフマン)と個人を支配する原理である我(アートマン)とが同一であることを意味します。
多くの「我」は、自分が独立した存在であると思っており、梵によって自らは律せられていると考えがちです。
そこで迷いや悩みが生じます。
しかし、梵我が同一であることを知れば、すべては同じように見えてきます。
それは同時に、真の自己(真我」)を知ることであり、梵(天)と合一することにより、永遠の平安が得られることでもあります。
そこには、他律も自律もなく、ただ平安があるのみです。
そうして輪廻から解脱できるのです。
その世界では、自己は他者であり、私は節子でもあるわけです。

まあ難解なインドのウパニシャッド哲学をこうも粗雑に表現してはいけませんが、ヤージナヴァルキヤはプラトンやソクラテスよりも早く現れた、史上最初の本格的哲学者だと東邦大学の渡辺恒夫教授は言います。
機会があれば、もう少し学んでみようと思っています。

梵我一如となって解脱するのは難しいですが、節子がいなくなってから、時折そういう感覚を持てることがあります。
仏教では後世に至って、アーラヤ識という梵我一如のわかりやすい説明構図が考案されますが、自己をゆるやかに捉えていくと、世界は次第に広くなり、他者と自己との境界が消えていきます。
しかし注意しないと自己の世界の拡大という広がり方もあるのです。
残念ながら多くの人は、その方向に進むような気がします。
そこが悩ましい問題です。

唐突に梵我一如を書いたのは、最近、誰かの話の中に自分を感ずることが多いからです。
挽歌にコメントしてくださった方もそうですが、それだけではありません。
偶然なのでしょうが、先週は毎日のように、そうした体験をしたのです。
節子がいたら、その体験を共有できるのですが、いないので内に貯めていたら、心身をあふれて、意識が梵に向かいだしたような気がふとしたのです。

もちろん解脱とは無縁の話です。
ただ解脱ということは実際にあるのだという、そんな気が最近してきました。
ちなみに、前に書いたかもしれませんが、私は解脱よりも転生を望んでいます。

■1359:命といのち(2011年5月23日)
昨日に続けて、仏教の話を少し書きます。

仏教では、「いのち」は尽きることのない永遠の生命、「命」は限りある人間の生命、を意味すると、むかし誰かの本で読んだことがあります。
たとえば、「仏のいのち」、「佐藤修の命」というわけです。
昨日の話につなげれば、命はいのちの一時的な現象ということになるかもしれません。
あるいは、命はいのちを通じてつながっているという言い方もできるでしょう。

つながっている命は、人間だけではありません。
私は、生物を超えて、万物にまで広がっていると捉えたいですが、少なくとも自然とのつながりは感覚的に理解可能ではないかと思います。
命をつなぐものは、水と土です。
というよりも、水も土も命を持って生きています。
むかし土壌菌の先駆者である内水護さんから、土に関してお話をお聞きしたことがありますが、最初に教えてもらったのは、土が生きていることでした。
その頃読んだ本に(私の蔵書にありますが、いま手元にないので書名がわかりませんが)、生きている土から人間を創造したという聖書の話は科学的なのだと書いてあったことも覚えています。
土と水もまた、命といのちをつなぐものではないかと思います。
土は命を支え、水は命をつなぎます。
そうしてつながった命が、いのちへとつながっていく。

私は毎朝、節子に水を供えます。
水を供えるのは供養の出発点です。
仏前に供養される水を閼伽(あか)といいますが、この閼伽がアクア(水)の語源だという俗説もあります。
毎朝、私は閼伽水を通じて、彼岸の節子と命を交わしているつもりです。

自らの命が、大きないのちの一部であると思うと、生きるのがとても楽になるはずです。
梵我一如の心境で悩むことがなくなるからです。
しかし、頭ではわかっているのですが、なかなか梵我一如にはなりません。
そもそも「本来無一物」にさえなれず、今もなお、私は物財に囲まれて生きています。
実はそうした物財が、彼岸の節子との間を邪魔しているのだろうとは思ってはいます。
しかしそうした物財を通してしか、まだ私は節子とのつながりを確認できずにいるのです。
まだまだ梵我一如には程遠いのです。

節子は命の先が実感できた時に、いのちを実感しただろうか。
時折そう考えることがあります。
もしかしたら、あの年の8月のある日、節子の命は命へと変わったのではないか、と思うことがあります。
そういう考えが浮かんでくると、不思議なことにどこかでパタっと思考停止してしまいます。
なぜでしょうか。
まだまだ私には見ることのできない、密教の世界かもしれません。

■1360:常懐悲感 心遂醒悟(2011年5月24日)
仏教話ついでにもう一つ思いだした言葉を書くことにします。
「常懐悲感 心遂醒悟」
法華経寿量品にある言葉です。
東日本大震災以来、時々、心に浮かぶ言葉です。

30代の頃、仏教関係の入門書をかなり読んだ時期があります。
特に悩みがあったからではなく、単に知識としての興味からです。
しかし、それでも記憶に残るものはあります。
節子の病いと共にあった4年、さらに節子を見送ってからの3年、この言葉がようやく理解できてきた気がします。

「常懐悲感 心遂醒悟」
「じょうえひかん しんすいしょうご」と読みます。
常に悲感を懐けば心は遂に醒悟せり。
つまり、人は悲しみを持つことによって、心は澄んでくる、というような意味でしょうか。
悲しみが、人を目覚めさせてくれるのです。

私はあまり苦労のない人生を送ってきました。
悲観したことがないわけではありません。
節子に会う前にかなり派手な失恋も体験しました。
数日間、独身寮の一室にこもっていたこともあります。
まあよくある話ですが、ある日、窓を開けたら、きれいな花が咲いていました。
花の美しさを本当に知ったのは、その時かもしれません。
その少し後に、節子に出会いました。

しかし、概して私の人生は退屈でした。
思うように進むことが多かったのです。
そして節子との別れ。
全く信じられないことでした。
悲しみが一挙に心身を包みこみ、半年ほどは、たぶんかなり異常を来たしていたはずです。
娘たちとさえ、うまく付き合えなかったほどです。

しかし次第に、まさに「心が目覚める」ように、自らのではない悲しみが見えるようになってきた気がします。
節子の悲しみさえ十分見えなかったのに、いまは多くの悲しみが感じられるようになったのです。
心が澄んできたかどうかはわかりません。
でも昨日、数年前から私のところによく来る人が、佐藤さんの周りにはいい人ばかりだと言ってくれました。
いい人ばかりに取り囲まれていたら、私もきっと心が澄んでくるでしょう。
悲しみに感謝しなければいけません。

■1361:黒岩さんが西日本新聞に出稿しました(2011年5月25日)
節子
黒岩比佐子さんが生前に書いていた文章が、今月の西日本新聞に10回連載されました。
藤原さんがその記事を送ってきてくれました。
読み出しましたが、やはりなかなか読めるものではありません。
黒岩さんが、この原稿を書いていたころのことがよくわかるからです。
当時、彼女から送られてくるメールに対して、無理はしないほうがいいよ、とは決していえませんでした。
彼女は、寝食も忘れて書くことで希望が見えていたのです。
それが痛いほど伝わってくるので、むしろ過酷なほどの無理を応援していました。
ですから、そこに何が書かれているかも、読まなくてもだいたいわかるような気もします。

現世にいなくなった親しい人が、こうしてライブに登場してくるのを体験すると頭がちょっと混乱することもあります。
節子の場合は、毎朝、いたはずのところにいないので、毎日、その不在を確認できますが、そうでない場合は、ついついその不在を失念することも少なくありません。
黒岩さんも、なんだか今も、突然に訪ねてくるような気がしてなりません。

親しい友人が亡くなっても、その時はとても寂しく悲しいのですが、少し時間がたつとあまり感じなくなることがほとんどです。
とても親しかったのに、まったくと言っていいほど悲しくなかった友人もいます。
若い頃、北欧でヒッピー生活をしていた彼は、生前から生とか死には頓着していなかったのです。
私が心から好きだった友人の一人でもありますが、直接会うことはだんだんなくなっていました。
合わなくてもいいほどに親しい関係というのもあるような気がします。
そのせいか、彼の訃報を聞いた時は、衝撃的なショックは受けましたが、不思議なほど悲しくはありませんでした。
しかし、どうしても葬儀には行けずに、今もなお、彼の死を自らの眼では確認していません。
ですから、私の中では彼はまだ生きていて、私たちの関係はあまり変わってはいないのです。

どれだけ一緒にいる時間があったかで、悲しみは決まるのかもしれません。
節子と一緒にいる時間はたくさんありました。
特に闘病生活に入ってからは、ほぼすべての時間が節子とともにありました。
だから、節子がいなくなった後の喪失感は大きかったのです。
闘病を共に続けた夫婦は、とてもつらいものです。

毎月開催している自殺問題をテーマにした交流会で、先週、医師の人がご自分の患者の自殺を止められなかった経験を話してくれました。
流れの中で話し出してしまったのだと思いますが、途中、声が詰まって話せなくなりました。
聴いている私も、頭が真っ白になり、その人が何を話したのか、今はもう全く思い出せないのですが、「大きな喪失感」という言葉だけが今も頭に残っています。
この挽歌でも書いたことがありますが、「喪失感」の大きさは、言葉では表現できません。
以前はたぶん「対象喪失」と書いたかと思いますが、実際には自らが喪失する感じなのです。

また書いているうちに、思いが飛び回って、支離滅裂な文章になってしまいました。
書き出した時に思っていたのは、その人が生きていると思えば、みんな生き出してくるではないかということでした。
黒岩さんが生きているとしたら、節子もどこかに生きていると思えばいいのだ、という、これまたおかしなことを書こうとしていたのです。

死者と現世で会うこともある。
私はそう信じているのです。
しかし、今となって思えば、節子の葬儀に出たのは失敗でした。

■1362:入院の準備(2011年5月26日)
節子
6月1日には入院するので、その準備を始めました。
準備といってもたいしたことではありません。
病院で、麻酔担当、看護師、歯科医と3人の人から説明を受けたのですが、節子がいたら全部やってくれるでしょうが、私にはあんまり興味はありません。
説明した後、なにか質問はありますかと訊かれたので、入院中は何をしていたらいいでしょうかと質問しました。
そうしたら、「退屈ですよね」と軽く流されてしまいました。
しかし、それが私の最大の関心事です。
長ければ10日も入院なのだそうです。
親知らず歯を抜くだけで、大変です。

全身麻酔なのですが、麻酔担当の若い医師は、リスクもありますので、もしリスクが大きすぎると思ったら手術を止めてもらってもいいですと、親切に話してくれました。
これは「親切」というべきかどうか迷いますが、その若者はとても親切なのです。
15000分の1で、何かリスクが起こるそうです。
どういうリスクか訊き忘れましたが。
ただ、当院で手に負えなければ、別の病院に転院するから安心してくださいと説明してくれました。
安心すべきかどうかちょっと迷いますが、最近の原子力安全・保安院の説明よりは、間違いなく親切です。
とても良い病院なのです。

娘に入院時に持っていくもののリストを渡して用意してもらうようにしました。
私は退屈対策として、いま流行のipadを買うことにしました。
最近働いていないので、節約して我慢していたのですが、10日の入院の退屈を考えたら、ここは我慢すべきではないと判断したのです。
ところが、お店に行ったら、なんと無料なのです。
お金がなくても買えてしまう。
まさに今様の恐ろしい仕掛けですが、まんまとそれにはまってしまいました。
ところが在庫がなくて、1週間待ち。入院に間に合いません。
そのためいま使っているイーモバイルの速度を高めることにしました。
そんなわけで、何かと大変だったのですが、これで入院中もブログは書けそうです。
節子には批判されそうですが、入院中もやることができました。

娘の伴侶に、もし15000分の1の確率で帰れなかったら後はよろしくと頼みました。
彼は、大丈夫ですよ、などとは言わずに、任せてくださいと言いました。
これで思い残すことはない、とついつい言ってしまう雰囲気ですね。

入院前にやることが山積みで、遺書を書く暇がないので、今回はとりあえず戻ってこようと思います。
ちなみに病院でこんなことをやったらいいというアドバイスをみんながくれたので、退屈どころか忙しい入院生活になりそうです。
いやはや困ったものです。

■1365:節子のいないサロンの準備(2011年5月27日)
節子
久しぶりに新潟の金田さんが湯島に立ち寄ってくれました。
大震災以後、初めてでしょうか。
地震の後、自宅に電話をかけてきて、米がないようだが、水は大丈夫か、と心配してくれた人です。
私よりも、我孫子の被災状況をよく知っていました。
金田さんの奥様も数年前に体調を崩されました。
その時に、金田さんから「佐藤さんの思いがよくわかった」と電話をいただきました。
それ以前から、金田さんは私たちのことをいつも気遣ってくれていましたが、それ以来、その気遣いぶりはますます高まった気がします。
以前も書いたような気がしますが、「気遣うように生まれた人」と「気遣われるように生まれた人」とが、いるように思います。
私は後者です。
周りの人への気遣いがあるようでないのです。
自分でもそれがよくわかっていますので、あまり無理はしません。
それでも時々、気になる人がいます。
昨日もちょっと連絡が途絶えていた人に連絡を取ったら、今日から入院ということでした。
入院の直前まで、私は気付かないのです。
そして逆にその人から気遣われてしまいました。
節子はどちらだったでしょうか。
どちらかといえば、節子もまた気遣うよりも気遣われる人だったかもしれません。
今にして思えば、私たちはわがままに身勝手に生きていたような気がします。
そうした私たちを、たくさんの人が支えてくれていました。
毎月、最後に金曜日に開いていた、誰でも歓迎のオープンサロンに集まる人たちが、私たちを支えてくれていたのです。
今日は、そのオープンサロンです。
いまちょうどサロンが始まる1時間前。
御徒町の吉池や松坂屋で軽食素材を買い込んだ節子がやってくる時間です。
サロンが始まるまでの1時間、準備をしながら、今日は誰がきてくれるだろうと節子と話していたことを思い出します。
節子がいなくなってから、サロンもさびしくなりました。
買い物嫌いな私はお菓子を買うのが精一杯です。
食べ物もさびしくなりましたが、最近は参加者も少なくなりました。
サロンの常連だった黒岩さんもいなくなりました。
節子がいなくなったので、私の口の悪さを止める人もいなくなり、常連だった武田さんももう行かないと来なくなりました。
さて今日は誰が来るでしょうか。
節子はこの部屋のどこかにいるのでしょうか。
夕方のこの時間が、私は一番嫌いです。

■1364:連名での手紙(2011年5月28日)
埋田産から昨日、コメントが寄せられました。
質問でした。
読んだ人もいるかも知れませんが、こういう内容でした。

先日、亡くなった母が、生前元気だった頃、私に言い残していた言葉があります。それは母の親友には、病気のことも亡くなったことも、すぐには知らせないで欲しいということです。「悲しませたくない。生きていると思えば、今まで通り、これからもずっと大事な友達として存在し続けることができるんだから・・・。お母さんが死んで、落ち着いた頃に、あなたからお母さんの意思を伝えて欲しい」

そうお母さんから頼まれたのだそうです。
そして、「佐藤さん。私はどうしたらいいでしょう、とても悩んでいます」という内容でした。

私なら、母と自分と連名で手紙を出します。
明るく楽しい手紙ですが。

と答えました。
今朝、またコメントに投稿がありました。

連名で手紙を書くとこにします。
母が心から愛した大切な親友を、悲しませたくありません。
明るい手紙を書こうと思います。

節子を見送った最初の新年、私も節子と連名で年始の挨拶の手紙を書きました
読み直してみました。
連名で書いたと記憶していたのですが、正式な表記は、
「佐藤修(佐藤節子)」
となっていました。
代筆といった感じでしょうか。
いまなら「佐藤節子・佐藤修」と並べて書くでしょう。
こういうところにも、その時々の気持ちが現れるものです。

埋田さんの文章の一つが心に残りました。
「生きていると思えば、今まで通り」
そう、生きていると思えばいいのです。

人はたくさんの家族や友人、知人との死別を体験します。
それに耐えていけるのは、もしかしたら、どこかで「生きている」という無意識の意識が作動しているからかもしれません。
今も時々、そういえば彼はどうしているかなと思って、そうだ、彼はもう亡くなったのだ、と思うようなことがあります。
生きていようが生きていまいが、友は友です。

しかし、伴侶の場合はそれがなかなか難しい。
あまりに深く生を交わしすぎてしまったからでしょうか。

■1365:亡くなって初めて見えてくるもの(2011年5月30日)
節子
最近知り合った人からメールが来ました。

昨年、両親を共に亡くしましたが、亡くなって初めて見えてくるものが沢山あります。 
人が亡くなる、それまで有ったものやコト、周囲の環境の突然の変化などなど変わって、また無くなって判ることがある・・・ということを学びました。
想像力は人並みにあると自負していましたが、気づいてみると、「ああ、自分もこの程度か」と思ってしまいました。
月並みですが、一日は一生という言葉を日記に連日、書いています。

「亡くなって初めて見えてくるもの」
よくわかります。
私にもたくさんあります。
節子の悪いところ、良いところ、日時を経るにつれていろいろ気づくのです。
なぜもっと早く気づかなかったのか、悔やんだことも少なくありませんでした。
節子のことはすべてわかっていたというのは、大いなる誤解でした。
しかし、悪いことも良いことも、今となってはすべて節子の「良さ」であることは言うまでもありません。
ニーバーも言っています。
直せないものはすべて良いものだ、と。
いえ、これは私の勝手な解釈なのですが。

「一日は一生」
これは病気になってからの節子の生き方でした。
粗雑な生き方をしていた私には、教えられることが多かったです。
しかし、これはたぶん教えられて身につく生き方ではないのかもしれません。
できる事はできる時にやっておくという節子だったからこそできたことかもしれません。
私も一時期、努力しましたが、節子がいなくなってからはまた以前の粗雑な生き方に戻ってしまいました。
むしろ粗雑さは高まりました。
生きることへの未練は、ほとんどなくなりましたから。

昨夜、節子の夢を見ました。
とてもあったかな気持ちになる夢でした。
久しぶりに涙が出ました。
しかし、心が安らいだ気がします。
最近、かなり疲れていましたが、節子はそれを知ってやってきたのかもしれません。
もしかたら、節子も(自分が)亡くなって見えてきたことがあるかもしれません。
私のどういうところに気づいてくれたでしょうか。

たぶんますます私を好きになってくれているはずです。
私と同じように。

■1366:古希だそうです(2011年5月30日)
今日は私の古希の誕生日です。
実は私には、誕生日を祝う文化はありません。
子どもの頃は誕生会があり、結婚してからも家族が祝ってくれました。
しかし、私にはほとんど興味がないのです。
なぜ誕生日を祝うのか、理由があまりぴんとこないからです。
1年間、無事過ごせてきたことを祝うという意味なのでしょうが、とりわけ問題がある状況ではないので、祝う意味がないのです。
粗雑に生きてはいますが、私には毎日毎日が同じように大切なのです。

闘病していた節子の場合、状況は全く違いました。
60歳の誕生日を迎えられるだろうか、それが節子の、そして家族の気持ちでした。
60歳を迎えて、次は61歳。そして62歳。
63歳の誕生日は迎えられませんでした。
当時、節子にとっても私にとっても、誕生日は格別の意味があったのです。
しかし、いまの私には全くありません。
いささか天邪鬼の私は、誕生日を祝う気はありませんでした。

ところがです。
最近はじめたフェイスブックを開いたら、たくさんの誕生日おめでとうのメッセージが届いていたのです。
そしてそこにさまざまなエールが書き込まれていました。
それを読むと、私もけっこう人の役にたってきたような気になります。
自慢ぽく、節子に読ませたいものもあります。
「お祝いではほめるのが当たり前よ」と節子はきっと笑うでしょうが。

お祝いされるとなにやらうれしくなってしまうのは、歳のせいでしょうか。
ほめられると奇妙に反発してしまうのが、私だったはずなのですが。
節子がいなくなってから気弱になったようです。
ふだんほめてくれる人がいなくなったからかもしれません。
節子は、私がどんなことをしても、認めてくれましたから。

韓国の佐々木さんが、韓国では「生日」の尊敬語が「生辰」で、同じ発音で「生新」生き生きして新しいことという言葉がある、と教えてくれました。
そして、古希の記念に入院するそうだが、疲れた心身を療養によって癒され、生新の気分で戻ってくるように、とエールを送ってきてくれました。
古希の記念に入院するのだと気づきました。
天は、すべての人の生き方をしっかりと見ていてくれるのです。

誕生日は素直に喜ばないといけません。

■1367:手巻き寿司と一房のぶどう(2011年5月31日)
節子
今日から親知らず歯を抜くための入院です。
たかが歯を抜くだけなのに、長ければ10日の入院だそうです。

しばらく不在になるので、昨日は少しばたばたしていて、挽歌をかけませんでした。
今日も9時には出ないといけないのです。
なにやら大仰なことになりました。

昨夜は私の誕生日も兼ねて、自宅でみんなで食事をしました。
節子が大好きだった手巻き寿司です。
娘の伴侶の峰行のイタリアンレストラン エヴィーバ!の定休日だったので、彼がつくってくれました。
せっかくのイタリアンではなく、和食になったのは、私の嗜好を優先してくれたからです。

わが家では、誰かの誕生日はいつも手巻き寿司パーティでした。
節子が始めた、わが家の文化でした。
節子がいたらどんなに楽しかったことでしょうか。
節子に供えるのを忘れてしまっていましたが。

今朝の朝食に、なんと一房のぶどうが出ました。
私は、普段は食べるものに対する欲求はほとんどないのですが、なぜか突然に何かを食べたくなることがあります。
季節には無関係に、です。
節子がいた時には、ついつい節子に、○○を食べたいのでかってきてくれない、と考えもせずにいってしまっていました。
慣れていた節子は、またかと適当に聞き流していました。
数日前に、なぜか急にぶどうが食べたくなりました。
それでいつもの癖で、ぶどうが食べたいと発言してしまったのです。
いまはぶどうの季節ではないよ、と娘にたしなめられました。
ところが、そのぶどうを娘が入院前の朝食の果物で出してくれたのです。
節約家の娘がぶどうとは、ちょっとしたサプライズです。
季節はずれの巨峰は甘みが不足していましたが、美味しかったです。
今度は忘れずに節子にも供えました。

それにしても入院はわずらわしいです。
ユカがぜんぶ支度をしてくれていますが、さぞかし退屈でしょうね。

パソコンは持参しますが、通信環境がわからないので、挽歌は投稿できるかどうかわかりません。
投稿できなくても、毎日、書くようにします。

明日は全身麻酔で、呼吸も停止だそうです。
もしかしたら彼岸探索もできるかもしれません。
初めての入院体験。
節子を身近に感ずるかもしれません。

そろそろ出かけます。

■1368:はじめての入院(2011年6月1日)
節子
入院しました。
ユカに同行してもらい、10時に病院に到着、午前中はいろいろと説明を聞きました。
親切すぎるほどの丁寧な説明で、それだけで疲れました。
節子と一緒に入院の説明は何回か聴いたはずなのですが、こんなに面倒だったかなと思いました。

血圧を測ったら高いのに驚きました。
前にもこの病院で測ったら高かったのを思い出して、血圧計が壊れているのじゃないかと言ったのですが、この前の測定器とは違いますと言下に否定されてしまいました。
そういえば、先週、降圧剤を飲むのをかなり忘れていたので、そのせいかもしれません。

幸いなことにパソコンも使え、この1年ほど、使っていいなかった通信用のエアエッジも速度は遅いですが使えました。
入院してまでパソコンをするなという節子の声が聞こえますが、挽歌は書かなければいけません。
生き方において先達の佐々木さんからも、パソコンを持ち込むなといわれていましたが、持参してしまいました。
困ったものです。

病院は、とても静かです。
新しい病院なので、空間的にもゆったりしています。
節子が元気で、付き添っていたら、きっと良い時間がすごせたでしょう。
しかし、節子がいないので、実に退屈な時間になりそうです。
入院期間は一応10日までなのですが、10日も持ちそうもありません。
これまた困ったものです。

思い出せば、節子はいつも病院でも明るかったです。
一度だけ弱気になっていたことを覚えていますが、その時以外は、私に心配をかけまいと節子は健気に振舞っていました。
私なら思い切り節子に心配をかけ、迷惑をかけたでしょう。
そんなことを思いながら、退屈な入院生活を始めました。
話す人がいないのは退屈ですね。
それにしても、時間がありすぎます。

仕方がないので、国会中継を見て、早めにシャワーに行き、フェイスブックをやりました。
6人部屋で、入院患者は同じく今日からのお一人です。
大きなタトーをした若者です。同行している奥さんもタトーが目立ちます。
とても素直そうな若者夫婦ですが、けっこう大変な状況のようで、医師がちょいちょい顔を出しています。
でもとても仲のよさそうな夫婦です。
なんだか心が和らぎます。

■1369:手術は何事もなく終わりました(2011年6月2日)
節子
手術は何事もなく終わりました。
麻酔薬はどうもすぐ効くタイプらしく、打ってすぐに、その後の記憶が全くなくなりました。
麻酔担当の浜野医師には、せめて手術室に入るまでは意識を持続すると言っていたのですが、見事にだめでした。
意識が回復したとき、浜野さんは開口一番、私の勝ちですね、と笑っていました。
浜野さんの麻酔は完璧でしたね。
もちろん手術をした外科医の武田さんも完璧でした。
まったく痛みも何もありませんでした。

しかし5時頃まではまだ緊急処置室で横になっていました。
ユカと兄が付き添っていましたが、まあ退屈だったでしょう。

夕食は完全な流動食で、餓死しそうなほどおなかが満たされませんでしたが、フェイスブックでそう書いたら、空腹を感ずるのは元気の証拠と何人からメールが届きました。

親知らず歯の奥に,含歯性のう胞というのができていたのですが、それも完全にとれました。
それが悪性だと大変なことになるそうですが、大丈夫そうだといっていました。
元気がないのと餓死とどちらがいいのでしょうか。

まあそんなわけで、手術も終わり、後は退屈するのみだとおもっていたら、
入院患者が少ないせいか、いろんな人がちょいちょい来ます。
一般の看護教育では歯学は学ばないのだそうです。
ですから歯科病院にはいると、そこで初めて歯学を学ぶのだそうです。
食事は患者の状況で実にきめ細かく考えられているようです。
歯科病院ですから、節子が入院していたがんセンターとは雰囲気がかなり違います。
だから節子の追体験にはならないでしょう。
しかし、節子と一緒だったことが多いので、初めての入院も違和感なく楽しんでいます。
本を5冊も持ち込みましたが、まだ1冊も読んでいません。

パソコンの具合が悪く、アップが1日、遅れてしまいました。

■1370:入院3日目(2011年6月3日)
節子
入院3日目ですが、もう1週間くらいいる感じです。
医師も、とても昨日手術をしたとは思えないというほどの回復振りです。
というよりも、回復も何もないと思うのですが、これなら日帰りでも大丈夫だったのではないかと思います。
ただ実は親知らずだけではなく、その奥に含歯性のう胞というのができていたのですが、万一それが悪性だとかなり大変なんだそうです。
これから検体検査ですが、まあ大丈夫だろうということです。

しかし病院では時間がなかなか進まない。
それに持ってきたモバイルのエアエッジの通信速度が遅く、時々おかしくなるのです。
持参した本は漸く先ほどから読む気になりました。
病院という環境なので、医療や看護の関係の本を持ってきたのですが、それはやめて「国家」関係の本を読み出したのですが、なんとその最初のテーマが健康保険の話でした。
やはりこれもまた定められていたのかもしれません。

節子は入院の夜は何をしていたでしょうか。
いつも面会時間の最後まで私はいたと思いますが、節子だったらどうでしょうか。
この病院は食堂がないので、まあ無理ですが。

明日は娘がipadを持ってきてくれます。
ようやく入荷したのだそうです。
明日からは忙しくなって、挽歌を時間がなくなるかもしれません。
やはり挽歌は節子の写真のあるわが家で書くのが一番です。

病院では早寝早起きです。
習慣になるといいのですが。

■1371:病院はやはり異質な時空間です(2011年6月5日)
節子
なぜか病院にいると「挽歌」も「時評」も、書く気になりません。
入院前には思ってもいないことでした。
どこかここは日常と違う時空間にあって、本も読めず、テレビも見る気がおきず、かといって思いを深めることもありません。
さらにボーっとしているわけでもないのです。
退屈ではありますが、30分おきには医師や看護士やスタッフがやってきます。
もしかしたら忙しいのかもしれません。
昨日、ユカがipadを持ってきてくれたので、それでフェイスブックなどをやればいいのですが、どうもそれもあまりやる気が出ないのです。

隣室の、私とほぼ同じ世代の患者さんは廊下を足早に往復しています。
そろそろ退院で、リハビリですかと訊いたら、7日に退院だそうです。
病気は舌癌、舌を半分切除したので、話すリハビリもしているのだそうです。
しばらく話しましたが、退院日を決めた後で、その日が「仏滅」だと気づいたそうです。
仏滅を意識する人もいるのです。
やはり病院には、明るさと重さが共存しています。

どんなに思い状況でも、どんなに哀しく寂しくとも、私は明るさだけは大事にしています。
節子を見送った時もそうでしたし、その後もたぶんそういう生き方は持続できたと思います。
この挽歌を読んでくれた人は、私が一時期、とても陰鬱に絶望していたと感じられたかもしれません。
しかし、実際にはそうしたときもなお、この挽歌のおかげで、つまり個々に書き出すおかげで、私は明るさを持続できたように思います。
今から思えば、少し気持ちがおかしくなっていたことはあります。
娘たちだけは知っているでしょうが。

どんな悲嘆も深めつつ言語していくことが必要。
生き残ってしまった、
あの震災の破局の只中にいる人は、生きているのは偶然で合って、あの状況では死ぬことが当然だった。

昨日、挽歌を書いていないので、気になっていたのですが、自然体が私の信条なので、9時の消灯にあわせて寝てしまいました。
しかし眠れず、いろいろと考えさせられました。
眠ったのは12時過ぎでしたが、5時には目が覚めました。
テレビをつけたら、辺見庸さんがいつものように、重く語っていました。
「瓦礫の中から言葉を」
それを見ていて、ちょっと元気になれました。
挽歌を書く気になりました。

■1372:絶望できることことは人の持つ能力の一つ(2011年6月5日)
前の挽歌で書きましたが、テレビで辺見庸さんの「瓦礫の中から言葉を」の独白を聴きました。
考えさせられました。
大震災後のすっきりしなかった気持ちも少しすっきりしました。
世間の動きに、言葉にならない、あるいは言葉にするのを躊躇するような気持ちがあったのです。
みんな「嘘っぱち」に見えていたのです。
自分のやっていることの一部も。
節子がいたらそんな話も吐露できたでしょうが、なかなか心の奥底は言葉にするのは難しい。
節子なら直感的に伝わるでしょうが。

気分を変えたくなりました。
今日から6時に着替え、就寝時に着替えることにしました、
病院だからパジャマという考えは捨てました。

辺見さんは、大震災後のさまざまな動きに関して、とても心に響く言葉を語っていましたが、挽歌を書こうと思った言葉は次の言葉です。
辺見さんはこう言いました。

絶望できることは人の持つ能力の一つだ。
今ある絶望をもっと深めていくのも能力。
それが新しい可能性を開く。

新しい可能性には興味はありませんが、絶望を深めて反転させることなら、すでに身につけました。
絶望もまた希望なのです。
昨日書いたように病院には明るさも重さもある。
つまり絶望も希望もある。
節子もまた、その時空間の中にいたのです。
それが、おそらく人生を豊かにするような気が、この頃しています。
負け惜しみにも感じますが、節子との別れのおかげで得たものはたくさんあります。
人生も変わりました。
不幸になりましたが、人生は幸せだけでは成り立たないでしょう。
節子にしてやりたかったことは、山のようにありますし、節子にしてほしかったことも山のようにありますが、それはどれだけ尽くしたところで、満足はできないでしょう。
だとしたら、現実に満足するのがいい。

節子は、私のいない病院で何を考えていたのでしょうか。
たぶん何も考えていなかったでしょう。
ただ自らの素直な生を、ありのままの生を、感じながら、前を向いていたような気がします。
もしかしたら、生も死も、瑣末なことかもしれません。
辺見さんのメッセージを反対に受け止めてしまっているかもしれません。

■1373:関係性としてのケアリング(2011年6月6日)
節子
病室が満員になりました。
昨日までは2人だけだったのですが。
雰囲気ががらっと変わりました。

10日間の入院だというので、本を5冊持ってきました。
病院で読むのだからとケアリングや医療関係の本を持ってきました。
本は、どこで読むかで変わってきます。
今日、「ケアリングの現在」というちょっと古い本を読みました。
5年ほど前の書籍です。

病室には30分おきに、さまざまな人が来ます。
医師、ナース、薬剤師、掃除の人、栄養士、掃除の人も来ますし、検査の人も来ます。
普通に見れば、私は患者で、ケアされているわけです。
しかし、実際にはそうした医療関係者と私の間にもケアリングの関係が成立しています。

そうした実際の関係性のなかで、ケアやケアリングのことを今日は少し考えました。
もちろん節子とのケアリングに関してもです。

ケアもケアリングも、私は関係性の概念だと考えています。
ケアしようとすればするほど、ケアはできません。
それが私の、節子との経験です。
必ずしも成功したとは思いません。
節子はきっと不満だったでしょう。
いつもそう思います。

来世での別れは、お互いにもっとうまくやれるでしょう。
自分の体験を踏まえて、今日は改めてケアリングの意味に気づきました。

■1374:明日は退院です(2011年6月7日)
節子
一昨日までは糖分不足でした。
昨日からはかなりの塩分不足です。
食事にもう少し塩分を加えてもらえないかと話しましたが、だめでした。
栄養管理の思想は、「科学的データ」に信頼を持たない私にはなじめない思想です。
個人の心身が求めるところから発想するのが、私の生き方の基本です。
ですからこれまでもどうも、規範的な世間常識と食い違うことがあり、ある年齢までは生きずらい社会でした。
それを支えてくれたのが、節子でした。
節子もまた、どちらかといえば、規範的なものよりも心身的なものを大事にしていたように思います。

術後の異常はまったくなく、健康そのものなのですが、なかなか退院させてもらえないのは、私の年齢のせいかもしれません。
手術日の夕方に退院してもいいくらいでした。
ただ何かトラブルがあると大変なのでしょう。人生にはトラブルはつきものですから、患者の選択に任せればいいと思うのですが、そうもいかないのでしょう。
しかし、もう少し長く入院しているとたぶん異常が発生しそうです。
困ったものです。
年齢によって入院期間を決めるのも規範型です。

病院でゆっくり静養してきたらいいとみなさんはいいますが、病院で静養などできません。
とりわけ私の場合は、かなりの寝不足です。
早く眠る分、夜中に目がさめ、さらに朝早く目が覚めます。
昼間は眠れないタイプですので、平均して5〜6時間の睡眠です。
それに「何かをして疲れる」よりも、「何もしないで疲れる」ほうが、疲れは深いのです。
そんなわけで、今はかなりの疲労困憊です。

しかし、心が安らぐこともあるのです。
意外なのですが、節子をふと感ずることがあるのです。
ちょっとした時に、突然に節子のイメージが浮かび上がってきます。
節子の入院のときの様子を、です。
心に起こるのは、哀しさや悔いというよりも、むしろ懐かしさなのですが、この病院のどこかに節子がいるような気さえすることがあります。

こうして私の最初の入院は、明日で終わりです。
今日は個室に移り、パソコンをやったり本を読んだりしています。
明日は9時半に娘が迎えに来てくれる予定です。

しかしなんで今夜も病院で泊まるのか、よくわかりません。
シャワーを浴び、普段着でくつろいでいるのですが。
今日、退院するように頼めばよかったです。
いつも私は気づくのが遅いのです。
困ったものです。
節子がいたら、きっともう少し早く退院させてくれたでしょう。

■1375:わが家が一番(2011年6月8日)
節子
8日間の入院生活を終えて、今日、帰宅しました。
入院のことは時評編に書きましたが、とても退屈で、面白い体験でした。

しかし、やはりわが家は落ち着きます。
節子もそうだったように、私もわが家が一番好きです。
どんなホテルや旅館よりも、どんなレストランよりも、どんなホールよりも。
ましてや、どんな病院よりも、です。
そこに節子がいれば最高ですが、いないとしても、やはりわが家は心和み、落ち着きます。
この空間には、私たちが積み上げてきた、見えない文化が根づいているからです。

入院から戻って来たとき。節子もきっとこうした気分を味わったのでしょう。
しかも、節子の場合は、そこに私がいました。
節子のほうがずっと幸せだったかもしれません。
ちょっとうらやましい気分がしないでもありません。
私には、待っていてくれる節子がいないのですから。

しかし、節子がいなくても、わが家はやはり落ち着きます。
もしかしたら、わが家の「そこここ」に、節子が宿っているからかもしれません。
それが、私の心の平安を生み出してくれるのかもしれません。

やはりわが家は、私たちの生きつづける場だと、改めて思いました。
このわが家から、旅立たなければいけなかった節子は、どれほど心残りだったことでしょう。
その思いが、まだわが家に留まっているとしたら、ずっと留まっていてほしいです。
いつか私と一緒に、旅立てばいいのですから。
そんな気がする、久しぶりのわが家です。

■1376:無意識の意識(2011年6月9日)
節子
人には複数の意識が相乗りしているのかもしれません。

2日に手術のために全身麻酔を受けました。
肩に注射をうった途端に、私の意識はなくなりました。
節子もよく知っているように、私の身体はとても素直なのです。
目覚めた時には、それまでの記憶はまったくありませんでした。
その間、約3時間半でした。

全身麻酔と聞いたときには、もしかしたら新しい体験ができるかもしれないと思いました。
たとえば、幽体離脱や彼岸への旅です。
残念ながら、記憶に残る体験は何もありませんでした。
彼岸に飛んで、節子に会うことも出来ませんでした。

ところが、麻酔が覚めた後、付き添っていた娘や担当の医師から話を聞いたら、麻酔注射のあとも、しばらく私は話をし、身体的な反応もあったそうです。
また目覚める少し前から反応があったそうです。
これはどういうことでしょうか。

意識されていない意識、いわゆるユングの集団的無意識や井筒俊彦さんのアラヤ識のように、そうしたものの存在は広く認められつつあります。
しかし、私が意外だったのは、意識がまったくないのに、外部に反応し、言葉まで発していたということです。
その時には「意識」があったが、その後、その記憶が失われたという捉え方もできますが、微塵も記憶がないというようなことが起こるとしたら、やはりそこには「非連続」の溝があるといってもいいでしょう。

催眠状況で、思ってもいなかったことを話し出すという現象も報告されています。
その時の言葉は、どの意識から生まれているのでしょうか。
考えるととても不思議な気がします。
麻酔がかかっている間に、反応していた「私の意識」とはなんのか。

意識と魂は別だという人もいますが、意識であろうと魂であろうと、それは私なのか、というのが私の関心事です。
私の知らない私がいるわけです。
その私は、私の知っている私とどうつながっているのか。
そして、思うのです。

2007年9月3日の0時0分。
節子は、私の問いかけに応えなくなりました。
しかし、それまでの6時間ほどもまた、節子はいつもとは違った反応でした。
意識があるとは思えないままに、しかし私たち家族に誠実に反応していたのです。
あの時の、節子の反応を支えていた意識は、いったい誰だったのか。

この2つが、どこかでつながっているような気がして、この1週間ずっと考えているのですが、つながりを見つけられません。
私の知らない「私」は、何か知っているのかもしれませんが、確認の方法もありません。

「私」って、いったい何なのでしょうか。

■1377:箱根と芦原(2011年6月10日)
節子
箱根に来ています。
20年近く続けている経営道フォーラムの合宿です。
箱根に来るのはかなり辛い時期もありましたが、最近は周りの風景を見る余裕も少しずつ出てきました。
そろそろ芦ノ湖にも行けるかもしれません。
しかしこの周辺にはあまりにも思い出が多すぎます。

ポスト入院症候群?もかなり回復し、食欲が戻ってきました。
肉料理もこなしてしまい、ビールもわずかですが、飲んでしまいました。
今も毎食後、抗生物質などを飲んでいますが、そのせいか、今度は胃が少しおかしくなってきました。
胃の調子が悪くなったら薬はやめてもいい、と退院時に薬剤師から聞いたような気もしますが、きちんと聞いていなかったので、あまり確実ではありません。
困ったものです。
血圧が高くなったら、だったかもしれません。
そういえば、降圧剤を飲むのを忘れていました。
忘れるのは、平常に戻ったということです。

まあそんなわけで、今はまだ薬漬けですが、手術の後は何の痛みもなく、気になりません。
身体的感覚の低下のせいかもしれません。
まあ、こうして人間の心身は次第に衰えていくのでしょう。
自然の摂理は素直に受け入れなければいけません。

病院で同室だったNさんは手術が終わったでしょうか。
私と同じ手術をしたSさんはもう退院したでしょうか。
数日前まで一緒だった人たちとは全く違う世界にいる人たちと今日は1日、ずっと付き合っていましたが、なかに私と同じ体験をされた方もいました。
同じ体験をしていると、なんだか心が通ずるような気になります。
たった数日でも一緒に時間を過ごすとついつい思い出すのですから、40年以上も一緒に暮らした節子が頭を離れないのは当然ですね。

久しぶりにゆっくりと温泉に入りましたが、やはり温泉だけはいささか辛いものがありました。
節子は、温泉がとても好きでした。
最後に一緒に行った芦原温泉での節子はとても明るく、みんなを鼓舞してくれました。
私には一番辛い思い出の一つです。

■1378:シャデラックスと荒木一郎(2011年6月11日)
節子
久しぶりに湯河原に寄りました。
ここは、私たち夫婦の終の棲家になるはずでした。
人生計画はうまくいかないこともあるのです。

3月の地震でどうなっているのかと思い、箱根に来たついでに立ち寄りました。
書斎の書棚から本が飛び散っていました。
ここで仕事をすることも、もうないでしょう。
書籍は処分したほうがいいかもしれませんが、何かを変える気には、まだなれません。

ここには私のお気に入りのLPがあります。
シャデラックスの「緑の地球よ どこへ行く」と荒木一郎の「ある若者の歌」です。
いずれも私の大のお気に入りなので、節子も何回も聴いたはずです。
久しぶりに聴きました。

シャデラックスはあまりメジャーではありませんでしたが、私が一番好きだったグループです。
特にこのLPは、大きなメッセージのこもった歌ばかりです。
しかもこのレコードの収益の一部は、水俣病センター設立委員会に寄贈されました。
CD化もされていないようですし、ユーチューブでもほとんど見つかりませんが、すばらしい歌ばかりです。
たとえば「PPMのうた」というのがあります。
歌詞の一部を紹介します。

PPMってなんのこと どこにかくれているのだろう
PPMってだれのこと どこからやってくるのだろう
(中略)
牛乳ビンにもかくれている
べんきょうしてても気になるの
ごはんのときも気になるの

夢のなかまで追いかける
にげてもにげても にげられない

まさにいまの放射能汚染を思わせます。
このLPに入った曲のメッセージが、残念ながらどんどん現実になってきています。
いまこそ多くの人に聴いてほしい曲ばかりです。

もう1枚の荒木一郎は、私たちが一緒に暮らし始めたころ流行っていた曲です。
私が大好きなのは「君は知らない」という歌でした。
荒木一郎のCDは何枚か出ていますが、この曲が入っているものは残念ながら私は見つけられずにいます。

青い海原 海をみつめていた
黙ってただ たたずんでいる
あの人は何をしているのだろう
きっと戦に行った人を 待っているのさ

遠い異国の 空をみつめていた
黙ってただひとりで 横顔を夕陽が赤く染めると
やがてひとつぶの涙が その人の頬に流れた

久しぶりに聴いたら、急に歌いたくなりました。
歌を歌うのは5年ぶりでしょうか。
歌いだした途端に、不覚にも涙が出てきて、とまりません。
昔は、節子と一緒によく歌いました。

歌いながら、この人は私ではないかという気がしてきました。

今日はここに泊まるつもりでしたが、やはり帰ることにしました。
寄らなければよかった、まだ立ち迎えそうにもありません。

■1379:失ったものを取り戻すことなどできない(2011年6月12日)
昨日書いた、荒木一郎の「ある若者の歌」には、「笑ってごらん」という曲もあります。

もしもあなたが泣きたいなら
笑い顔して泣いてごらん
笑顔が あなたに消えてしまった幸せを
そっと返してくれるだろう

当時は、この言葉に違和感はなかったのですが、いまは大いにあります。
泣きたいときは、思い切り泣くのがいい。
笑顔など不要です。

それに、消えてしまった幸せは、二度と戻ってはこないのです。
未練がましく、それを戻してほしいなどとは思いません。
幸せに限らず、失ったものを取り戻すことなどできないことはよくわかっています。
そして、そうした失った幸せの思い出に浸ることも、私には無縁のことです。
後悔することも、私には無縁のはずでした。
しかし、残念ながら、節子のことに関しては、何度も後悔を味わいます。
そこから今もって抜け出られない。
自分でもいやになるほど、未練がましいのです。

得たものは必ず失う。
それはよくわかっている。
失うことは、得ることでもあるということも一応わかっているのです。
しかし、節子を失ったことは、そうした私の考えさえも混乱sだせてしまっています。

失ってからわかる悲しみや幸せもあります。
失ってから得る悲しみも幸せもある。

この局に最初に出会ったのは、節子と一緒に暮らしだしたころです。
それから45年。
生きることの意味が、ようやくわかってきたような気がします。

■1380:存在しない命日(2011年6月13日)
これは「たまたま」だったのか。
そう思うことが時々ありますが、節子も、最後にそう思わせてくれました。

節子が息を引き取ったのは、9月3日の0時0分です。
そう告げてくれた医師が、時計を見て確認してくれました。
それがちょうど0時0分でした。
日が入れ替わる、まさにその瞬間に、節子は逝ったのです。
正確に言えば、節子の命日は実は2日でもなく3日でもないのです。
0時0分のイメージが、いつも頭から離れません。

私は、母を病院で見送りました。
節子と一緒に付き添っていたのですが、朝になって容態が変化し、関係者にすぐ来るように連絡しました。
私の娘が、自動車の渋滞でちょっと遅れました。
ところが、その娘が病室に着いて、母に声をかけた途端に、母の心拍が止まりました。
母は、孫がそろうのを待っていたのです。

先日書いた「無意識の意識」につながるのですが、節子もまた、そうした「意識」を越えた意識に支えられていたように思います。
そして、0時0分を待って、現世での生に区切りをつけたような気がしてなりません。
「たまたま」だったのかもしれませんが、私にはそう思えるのです。

もしかしたら、命日をつくらないために、節子は0時0分を選んだのかもしれません。
その最後を、9月2日の24時と捉えることもできます。
9月2日の24時と9月3日の0時0分は、同じ時刻なのかもしれません。
どちらと捉えるかによって、節子の命日は変わってしまうのです。
私たちは、9月3日を選びました。
最後を見届けてくれた岡田医師も、まったくなんの躊躇もなく、9月3日の0時0分と宣言しました。

しかし、最近思うのです。
節子は、命日をつくりたくなかったのではないかと。
時間の流れの中にある亜時空間に入り込み、私を誘っているのではないか、とついつい想像をふくらましたくなるのです。
亜時空間は、遍在しています。
時間の流れ、空間の制約から自由なのです。
1日おきに出現する0時0分は、彼岸に向けられた此岸の通路かもしれません。

節子
0時0分は「たまたま」だったのでしょうか。
それとも「メッセージ」なのでしょうか。

■1381:久しぶりの不忍池(2011年6月14日)
節子
電車を乗り間違えてしまい、湯島に行く予定が上野に着いてしまいました。
そこで、久しぶりに上野公園の不忍池を通ってオフィスに行くことにしました。
歩いて20分ほどです。

このルートは、節子とはよく歩きました。
上野もどんどんきれいになっていますが、このあたりにはまだなんとなく時代に乗り遅れたような哀しい雰囲気があるのです。
節子も私も、感覚的にはそういうところが好きでした。
少なくとも私には、再開発されたきれいすぎる都心部はなじめません。

最近は野宿者も少なくなりましたが、どこかまだその雰囲気は残っています。
いわくありそうな中高年の人たちが、道端に座っています。
なにかを待っているのでしょうか。
それぞれに、きっとさまざまな物語があるのでしょう。
大きなかばんを持っている人もいます。
そのかばんにはきっと彼のすべての思い出がつまっているのでしょう。
なぜかビニールを広げて、そこに座っている中年の女性もいます。
パンを食べている老人もいますし、花の咲いていない蓮を見つめている若い男性もいます。
言葉はいずれもまったくありませんが、時折、どこかから歌か叫びかわからないような声が聞えることもあります。
そうした風景の中を、私たちはゆっくりと歩くのが好きでした。

時に、ここで骨董市が開かれていました。
最初の頃は私たちもよく足を止めましたが、いかにもといった感じが多く、そのうちさすがの節子も素通りするようになりました。
むしろ不忍池沿いではなく、少し街中に入ったところに、面白い陶器屋があります。
そこも節子はお気に入りでした。
陶器店にはよくつき合わされました。

上野はとても猥雑な町です。
すぐ近くには、アメ横もあります。
節子はアメ横は好きではありませんでした。
私も好きではありませんでした。
アメ横は、とても人間臭いところなのですが、なぜか2人とも、微妙になじめないところがあったのです。

人の好みは、実に微妙です。
その微妙な違いも、長年一緒に暮らしていると重なってきます。
不忍池の哀しい風景がなぜ好きなのか、アメ横の威勢のいい風景がなぜきらいなのか、説明はできませんが、私たち2人にはとても納得できるのです。

不忍池を通り過ぎて、思い切って入り込めずにいた湯島天神の境内を通ることにしました。
にぎわっていました。
本殿にはまだお参りできず、お賽銭をあげて一礼だけして通り過ぎました。
ここも、思い切り節子との思い出がつまっているのです。

今日の通勤は、とても疲れました。
背中に節子が乗っていたのかもしれません。

■1382:「心配ばかりかけて」と思える幸せ(2011年6月15日)
節子
3日前から全身に発疹です。
どうやら薬疹のようです。
手術後の薬は一切やめました。
フェイスブックで、発疹の処置法を知りたいと書いたら、10人以上の人からアドバイスをもらいました。
実にいろんなアドバイスがありました。
おかげで、私は薬疹のプロになった気分です。

翌日はたまたま退院後初めての通院日で、手術してくれた武田医師と久保医師に会いました。
武田さんが、抗生物質フロモックスの薬疹だと思うが、きちんと診てもらうようにというので、クリニックの遠藤さんのところで薬をもらってきました。
そのおかげで、落ち着きだしましたが、いまも上半身は見事な湿疹です。

術後に無茶をしたからだと多くの人に言われましたが、たしかにそうかもしれません。
ビールも飲んだし、合宿では暴飲はしませんでしたが、暴食してしまいました。
80歳の腕白おばあさんの高林さんからは、腕白坊主と言われてしまいました。
いやはや本性は隠せません。
しかし、おかげで、手術後は無理をしてはいけないということを知りました。

薬疹といえば、節子を思い出さないわけにはいきません。
節子は抗生物質アレルギーがあり、薬疹で2週間ほど入院したことがあります。
あの時、私は節子が燃えてしまうのではないかと思ったほどです。
湿疹だらけの自分の身体を見ながら、それを思い出しました。
すごい薬疹でした。
ですから薬疹の恐ろしさは、一応は知っているのです。

節子は、私に心配ばかりかけていました。
薬疹、気管支炎、そして…
心配ばかりかける節子がいないのが、とてもさびしいです。
どんなに心配をかけようと、やはりいてほしい。
家族も友人も、心配をかけることに、意味があるのかもしれません。
「心配ばかりかけて」と思えるのは、この上ない贅沢な幸せなのかもしれません。

■1383:なんとまあ「贅沢なこと」(2011年6月16日)
節子
たぶん節子は合ったことがないと思いますが、Aさんがやってきました。
家を出ようと思います、と言うのです。
前からお話は聞いていましたが、彼はもう50代です。
8年ほど前に、ある人の紹介で、私を訪ねてきてくれ、それ以来のお付き合いです。
彼が言うのは、たぶん私と佐藤さんの考えが似ているので、その人が私を紹介したというのです。
似ているでしょうか。
似ているところはもちろんあるでしょう。
しかし似ているんだったら、夫婦別居などするはずがありません。

なぜみんなもっと伴侶との関係を大切にしないのか。
そう思うことがよくあります。
あまりに身近すぎて、そのありがたさ、一緒にいることの幸せが見えないのでしょうか。

夫婦の形はさまざまです。
ですから、私の考えは間違っているかもしれません。
夫婦別居が一番にお互いを支え合ったり、慈しみ合ったりできるのかもしれませんし、長い夫婦生活の一つの過程として、そういうスタイルもあるのかもしれません。
夫婦喧嘩は犬も食わないというように、夫婦の事は他者が詮索すべきことではないのかもしれません。
しかし、伴侶がいなくなってしまった立場から言えば、なんとまあ「贅沢なこと」かと思うのです。

お互いに心を開き合っていない夫婦もいます。
お互いに相手を思うあまり、そうなっていることもあるように思います。
しかし、心遣いが過ぎることは、私の体験では必ずしも良いことではありません。

私たちは、お互いにストレートでした。
だから喧嘩も絶えませんでしたが、隠し事や遠慮はまったくありませんでした。
お互いに隠せるほど賢くも器用でもなかったからかもしれませんが、私たちは何事も2人で相談しながら共同生活をスタートさせたおかげだろうと思います。
6畳一間に近い生活からのスタートでした。
節電どころか、暖房器具さえ買えずに、テレビもなく家具もなく、私が理想としていた神田川のスタイルだったのです。
節子がそれに満足していたかどうかはわかりませんが、今から思うと、そうした生活(数か月で終わってしまいましたが)の時が、私たちがもっとも幸せな時期だったように思います。
当時の節子は、まぶしいほどに輝いていましたから。
そうした時期があればこそ、私たちは心を完全に開き合えたのかもしれません。

湯島には、いろんな人が来ます。
お話を聴いていて、いろいろと感ずることが多いのです。
節子を思い出すことも、少なくありません。

■1383:ヘリテージホテル(2011年6月16日)
節子
今日は熊谷のヘリテージホテルで合宿です。
東日本大震災の影響で、スケジュールがいろいろと変わったおかげで、2週連続での合宿です。
このホテルに節子と一緒に来たことはないのですが、このホテルで仕事をされていた岡山さんに節子はお世話になったことがあります。
岡山さんは歩きづらくなった節子に、官足法という足のマッサージを施してくれて、小さな奇跡を起こしてくれたのです。
その経緯はホームページに書いていますが、私たちに大きな喜びを与えてくれたのです。
ですから私にとっては、岡山さんは忘れがたい人なのですが、その岡山さんもいまはこのホテルではお仕事はされていないようです。

岡山さんから教えてもらった、官足法のマッサージを私は毎日2回、節子に施していました。
今から思えば、その朝晩30分のマッサージタイムは、私たちの心を通わせあう時間でもありました。
私が節子にきちんとしてやれたのは、これくらいでしょうか。
岡山さんは、佐藤さんほどきちんと続けている人はめずらしいといってくれましたが、
私にとっては実に幸せな、楽しい時間だったのです。
もちろん、哀しい時間でもあったのですが。

その小さな奇跡が、大きな奇跡へとつながったら、節子と2人で、この温泉に来たはずです。
節子は、なにしろ温泉が好きでしたから。

ちなみに、岡山さんを紹介してくれたのは、大分の友人です。
岡山さんと話していたら、私が時々合宿で泊まらせてもらっている、このホテルにかかわっている人だったのです。
こうした「不思議な縁」は、たくさんあります。
縁とは不思議なものです。
そしてそれ以上に、どこに行っても、節子との縁があるのです。
どこに行っても、節子から解放されないわけです。

中年一緒に暮らしていると、まあこうなるのでしょうね。
外はホテルらしからぬ、カエルの合唱です。
そういえば、白馬で節子と泊まったホテルも、カエルがうるさかったですね。

■1384:不思議な縁(2011年6月17日)
節子
熊谷は今日も雨でした。
せっかく熊谷に来たので、久しぶりに時田さんに会いたくなりました。
電話したら幸いに時間が取れそうだということで、わざわざヘリテージまで車で迎えに来てくれました。
時田さんは建築関係の会社の社長ですが、豊かな文化人です。
俳人の金子兜太さんからも「多才多感の士」と評されるほどの俳人でもあります。
時折、句集を送ってきてくれますが、私はあまり得手ではなく、感想もなかなかいえません。

時田さんと出会ったのは会社を辞めた直後です。
たしか「日本を美しくする会」というのを友人が立ち上げたのですが、その設立の時にお会いして以来の付き合いです。
熊谷にお住まいのこともあって、なかなかお会いする機会はなかったのですが、ある時、東京の街でぱったり会ったりしたこともあります。
人の縁は、不思議なもので、これだけたくさんの人がいる東京でも、ぱったりと出会うことはあるものなのです。
私は、そうした経験がかつてはかなりありました。

時田さんは、このホテル・ヘリテージのオーナーとも懇意な関係だそうで、ホテルに着くなり、社長室で話そうということになりました。
そんなわけで、社長の杉田さんも交えて、話をさせてもらいました、
話題は、東日本大震災の被災者支援の取り組みの話になりました。
その話は、また時評編で紹介します。
感動的な、ちょっとうらやましい話です。

昨日、岡山さんのことを書きました。
杉田さんはもちろん岡山さんのことをよくご存知でした。
少しだけ岡山さんのことを話させてもらいました。
まさか時田さんを通して、杉田さん、岡山さんとつながっていくとは思いもしませんでした。

急に時田さんを思い出して連絡し、こうして旧交をあたためると共に、新しい出会いをもらい、それが何と節子にまでつながったのです。
時田さんと、なにか一緒に仕事をしたこともなければ、さほど会う機会もなく、普通なら疎遠になってもおかしくない間柄なのですが、お互いにどこか気になるところがあるようです。
人の縁とは、ほんとうに不思議なものです。

■1385:不思議な縁(2011年6月18日)
節子
熊谷は今日も雨でした。
せっかく熊谷に来たので、久しぶりに時田さんに会いたくなりました。
電話したら幸いに時間が取れそうだということで、わざわざヘリテージまで車で迎えに来てくれました。
時田さんは建築関係の会社の社長ですが、豊かな文化人です。
俳人の金子兜太さんからも「多才多感の士」と評されるほどの俳人でもあります。
時折、句集を送ってきてくれますが、私はあまり得手ではなく、感想もなかなかいえません。

時田さんと出会ったのは会社を辞めた直後です。
たしか「日本を美しくする会」というのを友人が立ち上げたのですが、その設立の時にお会いして以来の付き合いです。
熊谷にお住まいのこともあって、なかなかお会いする機会はなかったのですが、ある時、東京の街でぱったり会ったりしたこともあります。
人の縁は、不思議なもので、これだけたくさんの人がいる東京でも、ぱったりと出会うことはあるものなのです。
私は、そうした経験がかつてはかなりありました。

時田さんは、このホテル・ヘリテージのオーナーとも懇意な関係だそうで、ホテルに着くなり、社長室で話そうということになりました。
そんなわけで、社長の杉田さんも交えて、話をさせてもらいました、
話題は、東日本大震災の被災者支援の取り組みの話になりました。
その話は、また時評編で紹介します。
感動的な、ちょっとうらやましい話です。

昨日、岡山さんのことを書きました。
杉田さんはもちろん岡山さんのことをよくご存知でした。
少しだけ岡山さんのことを話させてもらいました。
まさか時田さんを通して、杉田さん、岡山さんとつながっていくとは思いもしませんでした。

急に時田さんを思い出して連絡し、こうして旧交をあたためると共に、新しい出会いをもらい、それが何と節子にまでつながったのです。
時田さんと、なにか一緒に仕事をしたこともなければ、さほど会う機会もなく、普通なら疎遠になってもおかしくない間柄なのですが、お互いにどこか気になるところがあるようです。
人の縁とは、ほんとうに不思議なものです。

■1386:メランポジウム(2011年6月19日)
節子
むすめたちが、庭の花の苗を買いに行くというので付き合いました。
節子の時もそうでしたが、一応はついていくのですが、私はすぐに飽きてしまいます。
しかし、花木の中にいると、元気をもらえます。
どちらかと言うと、私は花より緑の葉が好きです。

花の好みは、家族といえども違います。
私はシンプルで、しかも葉っぱが若い緑の花が好きなのです。
都会的な花よりも、田舎の片隅に咲いているような、地味で飾り気のない花が好みです。
しかし、必ずしもそうしたものが選ばれるとはかぎりません。
花選びには、私は基本的に口を出しません。
手入れをするのが私ではないからです。
私が手入れをすると、枯らすことが少なくないのです。

選んでいるうちに、娘が、この花は節子が好きだったねといいました。
メランポジウムです。
キク科ですが、小さなひまわりのような花で、暑さに強く、広がって咲くととてもきれいです。
節子は好きでしたが、わが家の庭ではメインにはならなかった花です。
あまりに平凡なので、決して主役になることのない花と言ってもいいでしょう。
それにとても素朴ですし、きれいではありますが美しいとはいえません。
しかし、花も葉も、よく見るととても素直です。
いささか身びいきかもしれませんが、どこか節子に似ています。
むすめたちの選択の対象にはなっていませんでしたが、2鉢買ってもらいました。
本当は10鉢ほど買ってじゅうたんのように広げるときれいなのでしょうが、わが家の庭にはそんな広さはありません。
どこに植えてもらえるかはわかりませんが、この花は秋まで咲き続けるはずですから、枯らさないかぎりは、しばらくはつきあえそうです。

庭に関しては、私の担当は小さな池の部分だけです。
しかもそこは、できるだけ自然な感じにしたいので、水草も含めて草が茂っています。
先日書いたように、長年いた金魚も見つかりません。
小さな池なので、ちょっと探せばわかるのですが、探したくもありません。
荒れ果てた池というイメージが好きなのです。
それに、いつぞやは池の中に大きな蝦蟇がいたこともあります。
まあこう書くと、意図的に池の辺りを自然状態に保っているように思えてしまいますが、本当のところは単に手入れ不足なだけなのです。
かなり荒れています。

メランポジウムを契機に、少し私も庭の手入れをしようかと思い出しました。
節子と一緒に行った山野で、購入してきた山野草も、いささか危機状態にあります。
もうどれがどこのものかさえわからなくなってしまいましたが、このままだと絶滅しそうです。
庭の花木に、節子の思いがこもっているとしたら、
もう少しきちんと関わっていかないと節子に怒られそうです。
しかし、花木への心をこめた手入れは大変です。
私には、不得手です。
もしかしたら、私の、節子への愛も、まあこの程度だったのかもしれませんね。
もしそうなら、節子は間違いなく、それに気づいていたでしょうね。
いやはや、本性は隠せないものです。

■1387:枇杷(2011年6月20日)
節子
我が家の下の塚原さんの庭の枇杷がすずなりになっています。
庭に出ていたら、よかったら採りにこないかと下から声がかかりました。
私は、今日はめずらしく庭の手入れをしていて(ただ茂りすぎた木や花を切っていただけですが)行きませんでしたが、ユカが収穫に行ってきました。
節子に供えるようにと、枝ごともらってきましたので、早速活けてもらいました。

塚原さんの枇杷は、節子と深くつながっています。
節子もさまざまな治療に取り組みました。
そのひとつが、枇杷の葉の温湿布です。
枇杷の葉を熱して、それを患部に貼るのです。
官足法のマッサージと枇杷の温湿布が、私の仕事でした。
毎日、かなりの量の枇杷の葉を使うので、近所で枇杷を植えているお宅に頼んで、葉っぱをとらせてもらいましたが、一番たくさんもらったのは、塚原さんのお宅の枇杷の葉でした。
ユカと一緒に、葉をとりに時々寄せてもらっていました。
わが家の庭にも枇杷を植えて自給しようと思って苗を植えましたが、育つ前に、残念ながら枇杷の葉はもういらなくなってしまいました。

枇杷の葉療法に限らず、私たちはいろいろな療法を試みました。
民間療法への医師の反応は一般に冷ややかですが、当事者になると、藁をもつかむ思いで、さまざまなものに挑戦します。
残念ながら、そうした民間治療の知識は体系化されていません。
その効用は客観的なものとはいえず、昨今のエビデンス・ベースド・メディシン(科学的根拠に基づく医)の流れの中では、だれも体系化などしようとはしないのでしょう。
しかし、実際に身近で誰かががんになってしまうと、多くの人が民間療法への関心を高めるはずです。
実際に近代医療から見放されてしまえば、それに頼るしかないのです。
それに、かりにエビデンスがないとしても、効用がないとは断定できなません。
もう少し体系化していければ、使い方ももしかしたら見えてくるかもしれません。
節子がもし元気になったら、私はそれをライフワークにしてもいいと思っていました。
しかし、その思いは、節子と一緒に消えてなくなりました。
今はもう、関心はなくなってしまっています。

ちなみに、わが家では、節子が元気な頃から枇杷は1年に1回しか食べません。
節子は、初物は基本的に旬の時期に1度は買ってきました。
しかし、枇杷は食べるところがないねと言って、2回目はありませんでした。
わが家にとって、枇杷は食べるものではなく、季節を知るものでした。
そして、最近は、節子のことを思い出させるものになってしまっているのです。

塚原さんの枇杷はまだちょっと早すぎて、甘味が不足しています。
節子ならきっとジャムにしたでしょう。

■1388:身体健康御守(2011年6月21日)
節子
今日は湯島に井口夫妻がやってきました。
ついに節子は会う機会がありませんでしたが(文通だけでしたね)、井口さんの奥様はいつも会うと節子の話をしてくれます。
節子が元気になったら、4人で食事をしたいと思っていましたが、実現できませんでした。
たぶん節子とは話が合っただろうと思います。

井口さんの奥様も、最近、あまり体調がよくありませんでした。
気分転換に、湯島でも我孫子でもどちらでもいいから一度お2人で来ませんかと誘っていたのです。
近くに来る機会があって、寄ってくれました。
とても元気そうでした。
元気な人を見ることほどうれしいことはありません。

一緒に食事をした後、お2人は湯島天神にお参りしたいというので、私だけ先にオフィスに戻りました。
珈琲を淹れていると2人が遅れて戻ってきました。
そして、湯島天神で、私のために「身体健康御守」をもらってきてくれました。
私が、最近入院したことを知っているのです。
相変わらずの憎まれ口で、「もうそろそろいいかと思っているんです」と言ってしまいました。
そろそろ人生を止めてもいいという意味です。
井口夫妻は、口をそろえて、まだだめだと言いました。
なかなか此岸を離れることはできません。困ったものです。

人の人生は、自分でも決められません。
井口さんの奥様も、体調がひどい時には生きるのが辛かったようです。
節子もそうでした。
しかし、自分の生命は決して自分だけのものではありません。
辛くても生きなくてはいけません。
辛くても生きつづけられない時が、あるように。

私は自分の健康を大事にするという感覚が乏しいのですが、それは健康も生命も天から与えられたものであり、それを素直に生きればいいと思っているからです。
しかし、自分の生命はそう思うくせに、節子の生命に関しては、そう思えませんでした。
いまから思えば、自分の我欲のために、節子に無理に頑張らせてしまったのかもしれません。
節子の生命は、私のものだと思いすぎていたのかもしれません。

私の健康は、だれのためのものでしょうか。
娘たちのためのものかもしれませんし、私に会いに来てくれるたくさんの友人知人のためかもしれません。
井口夫妻からもらった「身体健康御守」を大事にしようかと、ちょっと思いました。

実は、私は「御守」はちょっと苦手なのです。
理由は、節子を守ってくれなかったからです。
しかし、少し見方を変えれば、御守が節子を守ってくれていたのかもしれません。
過剰な我欲は捨てなければいけません。

でも、健康に気をつけるって、どうすればいいのでしょうか。

■1389:「生きることは喜びに満ちている」(2011年6月22日)
佐久間さんが「手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく」のチケットを送ってきてくれました。
観に行ってきました。
今回は3部作のうちの最初の作品だそうです。
ブッダが出家したところまでの、いわばブッダ序論です。
予想以上に原作に忠実なため、ちょっと物足りなさを感じましたが、これからの展開に期待したいと思います。

この作品のテーマは、「いのち」あるいは「生きる」です。
そこには2つの生がクロスして描かれています。
奴隷から王を目指したチャプラと王から人を目指したシッダルタです。
映画では、彼らは戦場で出会います。
そのシーンの映像処理は私には印象的でした。
シッダルタの発しているあたたかなオーラが、チャプラのいのちを目覚めさせるシーンです。
私も一瞬、あったかなオーラを感じました。

しかし、この映画のナレーションで気になる言葉がありました。
「生きることは苦しみに満ちている」
これはこの作品のメッセージのようでもあります。
これまでは、こういう言葉を聞いてもすんなりと受け容れられたように思います。
ところが今回は、この言葉が奇妙にひっかかったのです。
「生きることが苦しいはずはない」
自分のどこかで、そう叫んでいる気がしたのです。

最近、生きることの捉え方が、自分なりに少し変わってきているような気がします。
たしかに、生きることには悲しみも寂しさも辛さも、そして苦しみも満ちている。
でもそれらはすべて、喜びのためにあるのではないか。
「生きることは苦しみに満ちている」という言葉の呪縛にはまってはいけない。
もし言葉にするのであれば、「生きることは喜びに満ちている」と言うべきです。
最近、そういう思いが強くなってきています。
そのせいか、映画の中で語られるこの言葉に、大きな違和感を持ってしまったのです。

言葉は現実を創りだします。
そして時間の方向性を決めていきます。
「苦しみを超えるために生きる」のか、「喜びのなかに生きる」のか、その違いは大きいです。
それは、生の意味合いを変え、社会の構造を変えていくはずです。

前向きに生きなければ、とみんな言います。
前向きとは何でしょうか。
私は、いまを思い切り素直に生きることではないかと思います。
素直になれば、哀しさや寂しさ、辛さや苦しさの中に、見えてくるものがあるのです。
とてもあったかな光のような、喜びと言ってもいいかもしれないものが。

■1390:生きるもよし、終わるもよし(2011年6月23日)
節子
今朝は涼しかったのに、午後から急に暑くなりました。
お墓参りをして戻ってきたら、視野が少しおかしいのです。
軽い熱中症でしょうか。
実は昨夜も、チビタが眠らずに、私も5時までリビングのソファーで寝ていました。
チビタが眠らないのは、もしかしたら暑さのせいかもしれません。
昨年の夏には、暑さにやられて緊急入院しましたが、かなりの高齢なので、見かけの元気さに惑わされずに注意しなければいけません。
そう思っていたら、なんと私自身も同じことのようです。
自分では気づかないのですが、かなり心身はボロボロになっているのかもしれません。
幸いに、少し休んだら元に戻りました。

生きつづけることには、あまりこだわりはありません。
生きるもよし、終わるもよし、といった心境ですが、それにしては、いかにも「とり散らかった」状況にいます。
身辺をもう少し整理しておくようにと、娘たちは思っているでしょうが、整理せずに終わるのも私らしくていいかなとも思います。
ほんとうは、そうした途中の終焉を節子が面倒を見てもらうはずだったのです。
節子がいない今となっては、人生の終わり方を考える楽しみもありません。

佐藤さんにはまだ元気で活動してほしいと思っている人がたくさんいるのですから、と言われることもあります。
本当かなあと思う一方で、もしかしたらそうかもしれないと思う顔も浮かんできます。
まあ、それも多分私の勘違いで、私などいなくても、誰も困りはしないでしょう。
人間とはそういうものですから。

節子がいなくなったら生きてはいけないと思っていたことを思い出します。
にもかかわらず、もう3年半たつのに、私は元気に生きています。
節子に嘘をついた結果になってしまっていますが、当時は本当にそう思っていたのです。
しかし、ある意味では、私の生は別のものになっているかもしれません。
節子が隣にいた時には、「生きるもよし、終わるもよし」などとは思ったこともないからです。

「生きるもよし、終わるもよし」の人生を、どう過ごせばいいのか。
熱中症には気をつけるとして、これはそれなりに難問かもしれません。

■1391:ドラえもんの冷蔵庫はもうありません(2011年6月24日)
節子
今年は暑いです。
この3日間、真夏日が続いています。

今日はめずらしく湯島でのんびりしました。
午前中病院で、そのまま湯島に来ました。
5時まで来客の予定がなかったので、出かけようと思ったのですが、暑いのでやめました。
お腹が減ってきたので気づいたのですが、お昼を食べるのを忘れていました。
いまさら出かけるのも面倒なので、冷蔵庫などを探しましたが、お菓子類以外は何もありません。
困ったものです。
仕方がないので、珈琲を入れて非常食用のリッツを食べることにしました。
珈琲は今日はもう5杯目なので、趣向を変えて、インドネシアの、たぶんエスプレッソ用の粉で淹れることにしました。
名古屋の水野さんにもらった珈琲ですが、実に苦味の利いた珈琲です。

私は一人で食事をするのがとても苦手です。
ですからよく昼食を抜いてしまったものです。
それで節子がある時から、私が一人でオフィスに行くときにはお弁当を作ってくれました。
お弁当も一人で食べるので、あまり好きではありませんが、節子は食事嫌いの私でも気楽に食べられるようにと、小さなおにぎりにしてくれ、おかずもとても小さな容器に見事に詰めてくれていました。

また節子がオフィスに来ていたころは、いざという時のために、冷蔵庫に何かが入っていました。
だからお腹がすくとどこかを探すと何かが出てきたのです。
ドラえもんの冷蔵庫のようでした。
節子がいなくなった後、一時期、福山さんが冷蔵庫に何かを入れてくれていましたが、最近は彼女も忙しいので、湯島にはあまり来ません。
ですから、今では、私が入れないと何も出てきません。

それにしてもリッツは美味しいですね。
珈琲は苦すぎますが、空腹はなんとかなりました。
空腹が何とかなったら、別のことに気づきました。
今日はオープンサロンです。
6時過ぎから誰かが来ます。
お菓子は用意してきましたが、軽食は買うのを忘れました。
まあ今日は飲み物で我慢してもらいましょう。
節子がいる時のサロンは、いろんなものが用意されましたが、いまは私があんまり何も用意しないので、参加者も空腹をこらえているのかもしれません。

まあ、これからは「つましく生きる」ことが大切ですので、それを率先垂範していると思いましょう。
さて、そろそろお客さんが来るころです。
久しぶりにゆったりした時間を過ごしました。
デスクの上のめだかの容器を掃除し、トイレもかなり粗雑ですが掃除し、ゆっくりと金子由香利のシャンソンを聴き、難解な「民主主義の逆説」を読み直しました。
実はソファでうたた寝までしました。
ああ、植木の手入れがまだでした。

なんだか節子のような1日、いや半日です。

■1392:「人生を人為的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」(2011年6月25日)
節子
今日は涼しい1日でした。
太平洋側の高気圧と大陸の低気圧が競り合っているなかに、台風がやってきたので、暑さと涼しさが入れ替わってしまいました。
自然の力の大きさにはいつも驚かされます。
「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さは、経済成長優先社会におけるわれわれの人間の条件の否定を現出させている」とフランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュは「脱成長の道」の中で書いていますが、全く同感です。
そろそろ経済成長神話から、私たちは抜け出なければいけません。
しかし一度つくりあげられた「常識」からは、なかなか抜け出られないのも人間です。
その「常識」の中にいることが、「生きやすさ」を生み出してくれるからです。

と、ここまでは、実は今日の時評編(「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」)の文章と同じです。
今日は同じ書き出しで時評と挽歌がどう変わるかを遊んでみました。

自然の力の前には、人は成す術もなく、ただそれに合わせるしかありません。
自然を支配し、管理することができると思うのは、ラトゥーシュが言うように、傲慢さ以外のなにものでもありません。
しかし、人が抗えないものはほかにもあります。
それは、自らのなかにある「思い」です。
「愛」と言ってもいいかもしれません。

節子への思いや愛は、いまも熱く私の心身に宿っています。
いかに思っても、いかに愛したくても、もうその対象はこの世には存在しない。
対象の存在しない思いや愛は、存在するのか。
そんな気もしますが、しかし、その思い、その愛は、断ちがたく、私を呪縛しつづけます。
存在しないものを愛しつづけることの辛さと哀しさは、当事者だけのものです。
それを捨ててもだれの迷惑にもなりません。
もし捨てられれば、どれほど楽になることか。
そして新しい世界が見えてくるかもしれません。
そう考えることもできるでしょう。
しかし、その思いや愛を捨てることは、これまでの自分のすべてを捨てることであり、生き直すことにほかなりません。
それには、どれほどのエネルギーを必要とすることか。
生き直すエネルギーは、少なくとも今の私にはありません。
しかし、実は、そう思うことは、経済成長神話に従って生きるのと同じことではないのか。
ラトゥーシュの言葉に出会った時に、ふとそう思ったのです。
生き方を変えることができるのであれば、生き直すこともできるのではないか、と。

しかし、ラトゥーシュの言葉を何回も何回も読み直しているうちに、言葉の真意が見えてきました。
ラトゥーシュは、こう言っているのです。
「人生を人為的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」を捨てよ、と。

私たちの、あるいは私の人生は、こう定まっていたのです。
それに素直に従えばいい。
断ちがたい思いや愛は捨てることもなく、無理に生き直すこともない。
ラインホールド・ニーバーが祈ったように、
変えることのできるものと変えることのできないものとを見分ける知恵が大切なのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/keieiron12.htm#07

何だか小難しい挽歌になってしまいましたが、節子との毎日の会話(挽歌)は、私の生き方を問い直す時間でもあるのです。
節子は今もなお、私の生きる指針です。

■1393:極楽浄土(2011年6月26日)
節子
平泉の中尊寺が世界遺産になりました。
今日は、朝から何回も中尊寺の映像を見ました。
今日放映された「世界遺産」も中尊寺でした。
節子と一緒に歩いた道も出てきました。

中尊寺に節子と行ったのは、節子が病気になってからです。
節子がちょっと元気になった2年間、私たちはさまざまなところに行きましたが、行き場所を選んだのはいつも節子でした。
実は、そうして節子と一緒に行った旅の記憶は、今の私の記憶にはあまり残ってはいないのです。
節子は、いつも旅が終わると、また一つ一緒の思い出ができたねと笑っていましたが、なぜか私にはあまり残っていないのです。
今となっては、本当に節子と一緒に行ったのだろうかと思うことさえあります。
金色堂さえも一緒に入った記憶がありません。
なぜでしょうか。
もちろん行ったことは間違いなく、写真も多分残っているでしょう。

平泉は藤原三代が創りあげた東北の極楽浄土です。
私が最初に行ったのは、中学校の修学旅行でした。
その時の金色堂の印象がとても強く、それが私がお寺に興味を持った始まりでした。
高校の修学旅行は関西でしたが、初日に行ったのが宇治の平等院でした。
ここも浄土を思わせるところでした。
私にとっての3番目の極楽浄土は京都大原の三千院です。
最初に行った当時は阿弥陀堂にも自由に入れました。
舟形の天井の堂内に入った時に、瞬間的にこれはタイムマシンだと思いました。
阿弥陀の両脇の観音と勢至の中腰の姿勢は、まさにマシンが動いているのを感じさせました。
三千院は浄土ではなく、その入り口だったのだと思いました。
私のお気に入りの場所になり、その後、節子とも何回か行きました。
しかし、行くたびに建物は整備され、タイムマシン的要素はなくなり、退屈な空間になりました。
観音も勢至もやる気を感じられなくなりました。
最後に節子と行ったのは、節子が病気になってからのことですが、ただの寺院にしか感じられませんでした。

節子が突然、平泉に行きたいと言い出しました。
安いツアーがあるというのです。
節子と一緒に行った、最後の浄土です。
中学時代以来の平泉でしたが、私にはやはり退屈な感じがしました。
日本の寺院は年とともに退屈な空間になり、仏たちもなんだか寂しげになってきているような気がします。

奥州藤原氏も藤原道真も極楽浄土に憧れたようですが、私も、そしてたぶん節子も、極楽浄土への憧れはまったくありませんでした。
その理由は、節子がいなくなってからわかりました。
そして、私たちの浄土は終わったのです。
中尊寺への憧れもなくなりました。
もう二度と行くことはないでしょう。

■1394:情念のエントロピー(2011年6月27日)
私が会社に入ったのは昭和39年です。
その年に節子に会ったわけですが、節子以外にも私の人生を方向づけた出会いがありました。
同期で入社したかなり年上の岡田さんというドクターから教わった「エントロピー」と言う概念です。
今でこそ知っている人も多いですが、当時はまだあまり知っている人もなく、私には実に新鮮な話でした。
岡田さんがなぜその話を私にしたのか、わかりませんが、当時はまだエントロピーという話に興味を持つ人は少なかったようで、岡田さんは私にていねいに説明してくれたのです。
最初に話を聞いたのは電車の中でした。
節子と最初に、親しく話したのも電車の中でしたが。

岡田さんとはなぜか気が合い、三島での新入社員教育の時にも2人でこっそりと抜け出し、近くの三保の海岸に泳ぎに行ったりしました。
見つかればさぞ怒られたでしょうが、同期入社した親友社員は200人以上でしたから見つかりませんでした。

企業経営にもエントロピー発想は大切だと思い、少しは勉強もしました。
雑誌に経営論を連載した時にエントロピーの話も書いたのですが、友人の大学教授が関心を持ってくれて、自分の著作に取り上げてくれましたが、他には反応はありませんでした。
その後、大学で経済学を教えてくれた玉野井芳郎さんが、エントロピーとエコノミーをつなげて考察している本を読んで感激しました。
玉野井さんの授業は実に退屈だったので名前をしっかりと覚えていたのですが、私が卒業後の授業内容は全く違っていたようです。

なぜこんなことを急に思い出したかと言うと、ある本を読んでいて、エントロピーと玉野井さんの名前が出てきたからです。
そして、当然ながらその関係で、シュレディンガーのことも出てきました。
生きるとは、体内で発生する余剰エントロピーを体外に捨てることによって自らを維持することである、と言ったのはシュレディンガーです。
有名な定義ですが、その言葉に久しぶりに出会って、すぐ思いついたのが、この挽歌です。
私の心身で発生する過剰な情念を吐き出す役割を、この挽歌が果たしていることに気づいたのです。
エントロピーと情念は違いますが、つながることも多いような気がします。
もしかしたら、「エントロピー心理学」あるいは「エントロピーセラピー」なるものがあるのではないかと思い、ネット検索してみました。
あってもよさそうですが、言葉としてはまだないようです。
「情念のエントロピー」という捉え方もおもしろいと思いましたが、これもありません。
なければ創るのがいいですが、まあ今のところ、そこまでは乗っていません。

それで論理的ではないのですが、例によって飛躍的な結論です。
私にとって、生きるとは挽歌を書き続けることなのです。
書き続けないと情念が過剰化し、思いの構造が破壊し、心が変調をきたすわけです。
人は、それぞれの過剰な情念を処理する仕組みを持たないといけません。
その方法が見つかれば、世界から戦争やテロはなくなるかもしれません。

またひとつテーマが見つかりました。
あんまり取り組む気はないのですが、おもしろそうだと思いませんか。

■1395:フェイスブック(2011年6月28日)
節子
今日の暑さは異常でした。
その暑さの中を湯島のオフィスに出かけました。
特に用事はなかったのですが、日曜日に持っていったランタナの鉢に水をやるのを忘れていたことを思い出したのです。
ランタナを選ぶか、自分の熱中症予防をするか、二者択一でしたが、ランタナを選びました。

節子もよく知っているように、私はランタナが好きなのです。
書斎にもオフィスにもランタナをよく持ち込むのですが、手入れ不行き届きでダメにばかりしているのです。
ちなみに、私が好きな花は手のかかる花が多いので、よく枯らすのです。
ランタナは、手のかからないほうですが、それでもよく枯らしました。
それで今回はランタナへの水やりを選んだのです。
よりによってこの暑さのなかをとも思いましたが、暑いのは私だけではありません。
ランタナも暑さに疲れていることでしょう。

そのことをフェイスブックに書いたら、最近、フェイスブックで知り合ったSさんが、ランタナという花はどんなに価値があるのかと思ったのか、ネットで調べたのだそうです。
そしたら、毎朝散歩している際道際に咲いている花だということがわかったそうです。
Sさんはこう書いてきました。

ランタナってどんな植物だろうと検索しましたら、散歩道に咲いている花でした。
長年、名前が分からなくて、喉に小骨が刺さっている感じでしたが、これですっきりしました。

フェイスブックが面白いのは、こういう交流があるからです。
ちなみにSさんとはまったく面識はありません。
つい先日、「友達リクエスト」が届いたのです。
リクエストの理由をSさんはこう書いてきました。

私より年長の方は極めて希でしたので、「友達になる」をクリックいたしました。

たしかに言われてみるとそう多くはないかもしれません。
しかし、高齢者こそフェイスブックをやる意味があるような気がします。
こんな暑い日も、自宅にいながらにして世界と触れ合えるからです。

節子はインターネットが好きではありませんでしたが、フェイスブックはきっと気にいったと思います。
残念ながらまだインターネットは彼岸とはつながっていないようですが、はやく彼岸ともつながってほしいです。
彼岸にいる友人たちともぜひとも交流したいと思います。
此岸にも友人は多いですが、最近は彼岸に転居した友人も少なくありませんので。

それにしても、今夜も暑くて、茹りそうです。

■1396:融けるような暑さ(2011年6月29日)
節子
融けるような暑い日です。
朝はとてもさわやかで、陽光と鳥のさえずりで目を覚ませました。
いつものように、少しだけ節子のことを思いながら、今日は生まれて初めて節子に「恋文」を書こうかと言う気になっていたのですが、起きて動き出したら、恋文のことを忘れてしまいました。
ずっと天気が悪かったり不在だったりしていたので、放っておいた「家事」をしていたのです。
節子がいたら、私には必要のない家事です。

玄関の水瓶を復活させました。
節子だったらそろそろ水草を浮かべだすだろうなと思ったのです。
庭の金魚は全滅のようですが、幸いに黒めだかは元気です。
節子ならなにがしらの遊び心を込めたでしょうか、その元気も今日はありません。

それにしても暑いです。
明日はあるところで講演させてもらう予定ですが、その準備をしようかとパソコンに向かったのですが、身体が融けてくるような暑さです。
わが家にはクーラーは来客のスペースにしかなく、各人の部屋にはありません。
夏は暑いところに価値がある、などと言っていた頃が懐かしいです。

身体が融ける前に、頭の中の脳が融けてきているようで、思考力も生まれません。
そんなわけで、また節子を讃える恋文挽歌は今回も実現しませんでした。
実は時々、私がいかに節子を愛していたかという挽歌を書こうと思うこと事があるのです。
しかし、いざ書こうと思うと、そういう恋の言葉はどこか遠くに言ってしまい、カジュアルでどうでもいい思い出が浮かんでくるわけです。
やはり「恋のうた」は秘め事の世界のことなのかもしれません。

夕方になって、少しだけ涼しい気配が出てきましたが、まだ暑いです。
身体に汗がジトーっと出てきます。

私が暑い夏が嫌いになったのは、節子との最後の夏が暑かったからです。
この暑さの中を闘病している人に、エールを送りたいです。
決して暑さに意志を融かされませんように。
奇跡は、信じなければいけません。

■1397:暑い夏の夜は嫌いです(2011年6月30日)
節子
暑さのせいか、わが家のチビ太がかなりおかしくなっています。
夜になると怯えたように動き出すのです。
熱帯夜のせいかと思い、扇風機やクーラーも試みましたが、効果はありません。
ともかくうろうろと歩き回り、東を向いて吠え続けるのです。
夜ですから近所の迷惑になっていることは間違いありません。
吠えないように、かなりの努力をしていますが、うまくいきません。
昨夜も明け方の5時15分まで、チビ太のいる近くのソファで寝るでもなく、寝ないでもなくの夜を過ごしました。
いまは頭がボーっとしています。

吠え続けるチビ太に声をかけながら、なぜ彼が吠え続けるのだろうかと考えるのですが、理由が思いつきません。
怯えたようなチビ太を見ていると、なにか霊気かあるいは放射線に怯えているのかとさえ思えます。
人間でいえば、おそらく90歳を超えたであろうチビ太には、少なくとも私には見えないものが見えるのかもしれません。

4年前の夏。
節子にとって、そして私たち家族にとって、一番辛かった夏でした。
昼も夜も、節子と一緒に過ごしましたが、あの当時、私は果たして節子のことをどのくらい知っていたのだろうかと思うと、いつも心が痛みます。
本当に、私は節子と共にいたのだろうか。と。
特に夜になると、そう思います。
だから、私には暑い夏の夜はとても辛いのです。
節子に懺悔した気分になります。

節子も、チビ太と同じように、私には見えないものを見ていたのでしょう。
それを私に伝えたかったのかもしれません。
話すのも辛そうな節子に、また元気になったら、と私は話を拒んでいたのではないかとも思います。
節子のことはすべてわかっていたということは私の傲慢な誤解かもしれません。
いや、間違いなくそうでしょう。
チビ太のことがわからないように、節子のことも何一つわかっていなかった。
そう思うと悔しくてしかたありません。
だからそう思わないようにしているのです。

辛い夜も、朝になるとどこかホッとして、気分が変わります。
夜の世界と昼の世界は、ハデスとゼウスの性格のように、まったく別の世界なのかもしれません。
昼間に思い出す節子との最後の夏の思い出と、夜に思い出す節子との最後の夏の思い出とは、明らかに違います。
もしかしたら、本当は私もチビ太のように、吠え続けたい衝動がどこかにあるのかもしれません。

問題のチビ太は、いまは夜よりも暑いはずなのに、平和そうな顔をして熟睡しています。
その勝手さに、蹴飛ばしたくなるほどです。

■1398:消えてしまった老後(2011年7月1日)
節子
最近、ちょっと思うのですが、私には「老後」はないのかもしれません。
なぜそう思うかというと、昔の宣伝コピーではありませんが、「節子のいない老後なんて・・・」という気がするのです。

私も古希ですから、もう十分に老後にあるわけですが、なぜかその気分になりません。
頭ではわかっているのですが、老後の暮らしをどうしたらいいかわからないのです。
節子がいたら、とてもいい老後を暮らし始めているのだろうと思うのですが。

節子が元気だったら、どんなおばあさんになっていたでしょうか。
しかし、それもまた想像できません。
節子にも老後はなかったのです。

節子が逝ってしまった、あの日、私たちの老後は消えてしまいました。
あの時点で、私たちの時計は止まってしまった。
そのため、それ以来、私の時間感覚はリズムをくずしたままです。

人は、太陽や自然を見て、時を感じます。
時計が時を刻んでいるように思いがちですが、そうではないでしょう。
たしかに短い時間は、時計が教えてくれますが、生きるという意味での時間は、時計が刻む時とは無縁のように思います。
私は20代の頃から、腕時計をしたことがありません。
腕時計をすることが、私には「自分の生」を吸い取られるような感覚があったからです。
自然の中で、自分の時間を生きる、それが私の選んだ生き方です。
自分の時間と時計の時間の折り合いはなんとかつけてきましたが、年齢の意識はあまりありません。

太陽や自然に加えて、もう一つ、私には時間の基準があったように思います。
それが節子でした。
節子との関係性といってもいいかもしれません。
間違いなく私たちの関係性は変化しました。
私の感覚では「熟す」という感覚です。
「熟す」とは、まさに時の長さを実感化させるものです。
太陽よりも、自然よりも、それが私の生にリズムをつけるはずでした。

節子との関係性が刻む時間があったおかげで、私は自然だけの時間に流されることなく、自分の人生の時間を持てたように思います。
自然(の時間)は、個人の生には関心を持ちません。
個人の事情には無頓着に、押し付けてくるだけです。
そして、時がくれば、非情に心身を終わらせます。
そこにあるのは豊かな老後ではなく、フィジカルかつメンタルな不自由な老化だけでしょう。
一人になったいま、古希や長寿を祝う意味など、あろうはずもありません。
あるのは嘆きだけです。
愛する人が隣にいれば、熟した老後の関係性がある。

その「老後」がなくなってしまった以上、自然の時を受け容れなければいけません。
時計が刻む時も意識しなければいけないかもしれません。
私の中で、最近、生活のリズムがとれないのは、時の基準がくずれたからです。

老後のない人生を、どう受け容れるか。
いまさら腕時計は持ちたくないと思っています。

■1399:そうだ 奈良にいこう(2011年7月2日)
最近、ブログに疲れが出ていますよ、と2人の人から言われました。
たしかに、疲れがたまっています。
疲れの理由は、チビ太の夜鳴きのおかげで夜眠れないこと(昨夜もソファで寝ました〉から社会への大きな無力感までさまざまです。

生活があまりに平坦になっているからかもしれません。
考えてみると、一昨年の年末に思い立って娘たちと沖縄に旅行して以来、旅行にも行っていません。
行く気がしないのが理由なのですが、それではますますマイナススパイラルに落ち込みかねません。
最近、気がどんどん萎えてきているのが自分でもわかります。
気分転換に久しぶりに東大寺にでも行こうかと思い出しています。

東大寺は、最初に節子と一緒に歩いたところでもありますが、そのためではありません。
まだ会社に勤めていたころ、仕事で壁にぶつかると、東大寺の3月堂に行きました。
あの狭い空間に座っていると何か落ち着けたのです。
そして、そこから出て2月堂から奈良の町を見下ろすと、気分が大らかになったものです。
ある時は雨で3月堂から出られなかったのですが、同じように出られない人がいました。
たしか大阪大学の先生でした。
しばらくお付き合いがありましたが、それもいつの間にか途絶えています。

奈良や京都の寺院から足が遠のきだしたのは、会社を辞めた頃からです。
訪れるたびに、仏たちの顔が寂しそうに見えてきたからです。
昔は、心がやすまった薬師寺も唐招提寺も、どこかよそよそしくなりました。
節子と訪れた頃の奈良や京都のお寺には、まだ仏が宿っていたようですが、いまはどうでしょうか。
ちょっと行くのがこわい気もします。

節子がいたら、「そうだ 奈良に行こう」と明日にでも出かけたいのですが、最近の私はあまりフットワークがよくありません。
夏は暑いから秋にしようなどと思うようになっています。
これではマイナススパイラルから抜けられるはずがありません。
さてさて。

■1400:世界で一番孤独な部屋には「孤独」はない(2011年7月3日)
大学生の頃、寺山修司の1冊の本を読みました。
たしか三一書房の新書で、気楽に読める本でした。
今は手元にありませんが、もしかしたら「家出のすすめ」だったかもしれません。
私はあまり本で影響を受けるタイプではないのですが、当時の三一書房の新書には目を開かせてもらうことが多かったです。
大学で学んだこととはかなり違い、私の心に響くものが多かったです。
寺山修司のその本も私に大きな影響を与えたような気がします。

寺山修司の20回忌に出された「寺山修司作詞+作詩集」というCDがあります。
そのなかに「孤独よ おまえは」という曲があります。
歌っているのはシャデラックス。
すっかり忘れていたのですが、昨日久しぶりに聴きました。
繰り返し、繰り返し。

その歌詞の一部です。
もちろん寺山修司の作詩です。
いかにも寺山修司です。

世界で一番孤独な夜は きみのいない夜
きみのなまえは 愛
きみのなまえは 自由
きみのなまえは しあわせ

世界で一番孤独な部屋を ぼくは出ていく
世界で一番孤独な夜を撃つ ぼくは兵隊だ
世界で一番孤独な夜は きみのいない夜

なぜもっと早く思い出さなかったのか。
いささか気恥ずかしいですが、私にとっては、愛も自由もしあわせも、すべて「節子」に集約されます。
つまり、その3つが、とてもうまく重なっていたのです。
それら3つは、必ずしも重なるとは限りません。
愛のゆえに自由を失い、自由のゆえに幸せを失い、幸せのゆえに愛を失うことは決して少なくないからです。
しかし、私は、節子のおかげで、それらを重ね合わすことができました。
少しだけ時間はかかりましたが。
そして、それが重なった時に、すべての終わりが始まったのです。

その節子のいない、世界で一番孤独な部屋で、毎日、世界で一番孤独な夜を過ごしているわけです。
部屋を出ることもなく、夜を撃つこともなく。
なぜなら、そこには「孤独」はないからです。

世界で一番孤独な部屋には「孤独」はない。
説明しだすと長くなりそうですが、愛、自由、そしてしあわせの重なり合いを体験すると、二度と孤独にはなれないのです。
久しぶりに寺山修司を読んでみようか、そんな気になっています。

■1401:池の金魚が全滅しました(2011年7月4日)
節子
昨日、庭の池の掃除をしました。
1か月ほど前から池の金魚がいなくなったからです。
大きな金魚は10センチくらいに成長していました。
それが突然に、ある日から姿を見せなくなったのです。
できるだけ自然のままがいいという思いから、最近は池端の植物も刈り込むことなく放置していましたから、うっとうしいほどに茂っていました。
また池には隠れ場所になるようにと、ブロックや壊れた植木鉢なども沈めていましたから、そこに隠れているのではないかと思っていました。
しかしいつ見ても金魚がいません。
そこで久しぶりに水を入れ替えることにしました。

金魚はやはり1匹も出てきませんでした。
跡形もないのです。
金魚だけならまだしも、一緒にいたタナゴも見つからなければ、ヌマエビも見当たりません。
実に不思議です。

猫の仕業ではなさそうです。
がまがえるか蛇が食べたのでしょうか。
しかし、がまがえるも蛇も痕跡が見当たりません。
まさか蒸発したわけではないでしょう。

いや、その「まさか」がないとはいえません。
何しろあまりに見事です。
金魚は以前も死んだことはありますが、必ず池に浮いており、きちんと埋葬しました。
しかし、今回は池に死んだ金魚が浮かんでいたことはありませんでした。
池は和室から見えるので、毎朝、シャッターを上げるときなどに確認できるのです。
なぜ突然に、しかもすべてがいなくなったのか。

私の希望もあって、池の周辺はできるだけ自然状態を維持したいと思っていました。
自然のままの結界を深め、そこに沢蟹を棲息させたいと思っているのです。
毎年、沢蟹を放しますが、いつの間にかいなくなるのです。
節子がいた頃から、春になったら沢蟹が突然に大量に出てくると期待していました。
節子はいつもその話になると笑っていましたが、沢蟹捕獲にはいつも付き合ってくれました。
しかし、これまでの繰り返しで、その一画には不思議な生命の場が生まれつつある気という気がしてきた矢先の金魚消失事件です。

まあしかし、現実主義者の娘たちは、そんな話の相手をしてくれませんので、まずは池を掃除して、そこにあたらいい金魚を放しました。
毎日、存在を確かめながら、この池がどこかに通じていないかどうかを確かめるつもりです。
小さな池ですが、私には不思議な霊空間のような気がします。

■1402:「節子だったら怒るだろうな」(2011年7月5日)
節子
最近、「節子だったら怒るだろうな」という言葉が、わが家ではよく聞かれます。
私もそうですが、娘たちもよく使います。

たとえば、昨日、松本復興担当相が宮城県知事と会見した風景をテレビでみていたら、ユカがお母さんなら「この人嫌い」と怒るだろうなと言いました。
言葉づかいの粗雑な人が、節子は嫌いでした。

節子は、感覚的に物事を評価する人でした。
そのため決してぶれる事はありませんでした。
小賢しい知識での評価はぶれることが多いですが、節子の評価は直感による事が多かったように思います。

人は、他者にどう接するかで、その本性が見えてきます。
私のように、中途半端な知識と先入観があるとそれが見えなくなることもありますが、節子はそんな知識と賢さはありませんでした。
会社を辞めて湯島にオフィスを開いてから、私のところにはいろんな人がやってきました。
私を訪ねてきたのですが、節子に接する態度で、私にも人の本性が見えてくることがありました。
会社の事務スタッフと思っていたのに、私の妻だと知った途端に言葉遣いまで変わる人もいました。
私もまた、節子を通して、人の哀しさやずるさを、さんざん思い知らされました。
いつかも書きましたが、節子のおかげで、私は4つの目で人を見ることができていたのです。
それは今も変わりません。
節子ならどうするかは、いまもなお私の判断基準の半分をしめています。
節子の、人を見る目は「確かなもの」でした。

その「節子の目」から見ても、怒りたくなることが最近は多すぎます。
そのせいか、最近は私はとても不機嫌なのです。
それでまあ、思い出して「ガリヴァー旅行記」を読み出したりしています。
ガリヴァーを書いたスウィフトも、時代に怒りながら、不機嫌な人生を送ったと記憶していたからです。
今日、読み終えました。
スウィフトと私は、その不機嫌さの内容が全く違うようです。
スウィフトには「節子」がいなかったのです。
今日はまた、節子にちょっとだけ感謝の念が高まりました。

■1403:デラシネケア(2011年7月6日)
節子
昨日、韓国にお住まいの佐々木さんが来てくれました。
最近どうも気力が出てこないとお話したら、佐々木さんは節子のケアがなくなったからではないかというのです(ケアという言葉は使いませんでしたが、まあそんな意味だと受け止めました)。
佐々木さんからは、前にも同じようなことを言われていたのですが、そうかもしれないと今回は思いました。
最近の気の疲れは、ちょっと深いのです。

昨日は佐々木さん以外にも3人の人が湯島に来ました。
みんなそれぞれの人生にいろいろと問題を抱えているようで、名目は違えこそすれ、その人生を語ってくれます。
しかもそのうちの2人は、カウンセラーを仕事の一部にもしている人です。
ケアする人のケアということがよく言われますが、カウンセラーにもカウンセラーは必要なのでしょうか。

ケアリングに関していつか書いたことがありますが、ケアされる必要があるケアの仕方は私のケア概念とは違います。
私が考えるケアは関係性、しかも創造的な関係性です。
私は誰かのために誰かをケアすることは先ずありません。
ケアは誰か(自分も含めて)のためにあるのではなく、ケアそのもののためにあるように思います。
さらにいえば、生きるとはケアすることなのだとも思います。
そのことを実感させてくれたのが、節子との関係性でした。

誰かのためのケアではないのであれば、節子がいなくなっても何の変化も起きないはずです。
しかし実際には、節子がいなくなってから、「ケアすること」への気はかなり萎えています。
その理由が、佐々木さんの言葉でわかりました。
私のケアの世界が根っこのないデラシネケアになってしまったのです。
根っこがなければ、栄養もこなければ成長もありません。

ケアはある意味で生きる力の源ですが、自分だけではなかなか育てられない。
独善的な施しの世界になったら、いつか限界が来るでしょう。

とまあ、実は昨日、ここまで書いたのですが、先が書けなくなりました。
なんだか大きな発見につながるような気がしているのですが、うまく書けません。
アップしようかどうか迷いますが、まあ思いつきのメモとして、アップすることにしました。
思いついたイメージは、「親子」や「夫婦」というのはケアの文化を育てる仕組みなのではないかと言うことです。
そのケアの原型が失われているということは、新しいケアの世界がはじまるということなのかもしれません。
挽歌にしては、いささか小難しい内容になってしまいました。
まあ、たまにはいいでしょう。
節子は、そうした私の語り口には慣れていますので。

■1404:悲しんだり怒ったりすることも幸せのうち(2011年7月7日)
節子
若い頃に、インドのアシュラムで行をしてきた鈴木さんから時々いろんな情報が届きます。
今日届いたのは、スマナサーラ長老と小池龍之介さんの談話記事です。
「いま日本で最も著作が売れているお坊さんの2トップかもしれません」と書いてありました。
前にも、この2人の記事を、鈴木さんは送ってくれています。
鈴木さんは、私を元気づけようと思っているのです。

ところが残念ながら、私はこのお2人の発言があまりピンと来ないのです。
スマナサーラ長老に関しては、私の知人も応援しているのですが、私は大きな違和感を持っています。
これに関しては、以前かなり怒りを含んだことを、この挽歌でも書いています。
読み直してみるといささか恥ずかしいですが、まあその時はそう思ったのだから仕方ありません。
スマナサーラさんは、今回送ってもらった談話記事でも、「怒ることは極限の無知」とたしなめていますが、怒りのない人生は私とは無縁です。

今回、スマナサーラさんは「そもそも、なぜ、悲しみという感情が起きるのでしょうか。それは物質への執着がゆえ、です」と言っています。
私もそう思います。
しかし、執着などがなくても起きる悲しみもある気がします。
素直に生きていたら、理由もなく悲しくなることもある。
それを理解しないスマナサーラさんは解脱してしまったのかもしれません。

彼はこうも語っています。
「人を不幸にしているのは、怒り、欲望、執着などです」
たしかにそうかもしれません。
しかし、これもどこかに違和感があるのです。

小池さんはこう語っています。
「よいことがあっても調子に乗らず、悪いことがあっても落ち込まないことで、心はやすらぎ平静を得られます。そうすれば、どこで何が起きても心がぶれず、最高の幸せが得られるのです」
私には、意味のない同語反復に思えますが、最高の幸せなどという言葉にも卑しさを感じます。
幸せにも最高と最低があるのでしょうか。
あるとしたらきっと「価格」もついているのでしょうね。

お2人に共通しているのは、「幸せのすすめ」です。
しかし、「幸せ」は人それぞれです。
画一的な幸せを大安売りするような人たちを、私は好きにななれません。
それが私の違和感のもとなのです。

鈴木さんがこの挽歌を読んだら、気分を害するかもしれません。
しかし、鈴木さんはなにしろインドのアシュラムで行を積んできた人ですから、「極限の無知」に迷う衆愚も見捨てることはないでしょう。

節子
今日も、心安らぐこともなく、怒りに思いをぶらせながら、節子のいない悲しみのなかで、1日を幸せに過ごしました。
そのため、こんな八つ当たり的な挽歌になってしまいました。
最近、怒りと悲しみで、壊れそうです。

■1405:アーティチョークの花(2011年7月8日)
節子
庭の花が次々と咲き出しています。
畑のほうは手入れ不十分で雑草に覆われています。
その一画に、娘が植えたアーティチョークが見事に咲いていました。
この2年ほど手入れをしていないので、食用には適さないそうなので、花をとってきた、節子に供えました。
あまりにきれいだったので、フェイスブックに掲載したら好評でした。

今日は挽歌の代わりに、その写真を載せることにしました。
節子が大好きな色でしたので。

■1406:たねやの水羊羹(2011年7月9日)
節子
節子が好きだった、たねやの水羊羹を供えました。
ユカが買ってきたのです。

たねやは滋賀県近江八幡に本社があります。
節子が元気だった頃(といってももう闘病中でしたが)、私たちの共通の友人知人たちと近江八幡で会ったことがあります。
その時は節子の体力はかなり落ちていましたが、とても元気でした。

節子はどんな時も、いつも明るく元気でした。
いまNHKの朝のドラマ「おひさま」の主人公、太陽の陽子と同じくらい、私をいつも元気にしてくれていたのです。
私が、いまのように明るく楽天的になれたのは、節子のおかげです。
明るく元気な節子が、私は大好きでした。

みんなで食事をした後、私は会社時代の先輩と陶器を見にいきましたが、節子は近江八幡に住んでいる友人の勝っちゃんたちとたねやでお茶をしたはずです。
そのころはまだ、たねやは今ほど首都圏では有名ではありませんでした。
たねやは和菓子も洋菓子も美味しいですが、以来、勝っちゃんは節子に毎年、たねやの洋菓子を送ってきてくれました。
ユカもそれを知っていて、高島屋でたねやを見かけて買ってきてくれたのです。

節子と一緒に食べたたねやのお菓子はいつもおいしかったのですが、今日の水羊羹はちょっと物足りませんでした。
しかし、これはたねやさんの問題ではなく、節子がいないためであることは間違いありません。
涙が口に入ったわけではないのですが、いろいろ思うことも多く、味覚がおろそかになってしまいました。
表現が難しいのですが、「遠いところの水羊羹」を食べているような気がしました。
美味しさの半分を節子が持っていってしまったのかもしれません。
節子がいない節子では、お菓子の味さえ変わってしまうのです。

節子がいなくなって1400日以上経っているのに、今でも時々、ふと思います。
なんで節子はここにいないんだろう、と。
いまも節子に惚れこんでいます。
困ったものです。

■1407:言葉と真実(2011年7月10日)
言葉には真実がなければいけません。
それは、私たち夫婦のいくつかの基本合意のひとつでした。
節子は、私以上に「真実のない言葉」を使う人、つまり、言葉だけの人が嫌いでした。
私も、そうでした。
私たちにとって、最大のタブーは「嘘をつく」ことでした。
発話した言葉は守らなければいけません。

言葉はすべて守らなければいけないとなったら、生きていくのはかなり窮屈になります。
京都の人が、その気もないのに、「食事でもしていきませんか」というという話は有名ですが、その類の言葉は、いろんな人と付き合っていくためには不可欠なのかもしれません。
時にお世辞を使うことも、時にはうれしくなくてもうれしそうにすることも、お互いに気持ちよく過ごすためには必要な知恵かもしれません。
しかし、私たちは、2人ともそれが不得手でした。

私たちは、自分がそうでしたから、誰かが言った言葉は心底信じました。
その結果、時に裏切られるのですが、それは言うまでもなく私たちの問題です。
相手の人に、悪意があるわけではなく、騙そうなどとも思っていないのです。
私たちにとっての「言葉」と世間一般に流行している「言葉」とは違っていました。

時評編で書きましたが、「サバルタンは語ることができるか」という本を書いたガヤトリ・スピヴァクがブルガリアで講演した記録を読みました。
難解でよく理解できませんでしたが、それを読んでいて、気づいたことがあります。
詳しくは時評編「サバルタンは自らを語ることができない」を読んでもらうとして、挽歌編風に言えば、言葉が必要な世界と不要な世界があるということです。
そして、言葉が必要な世界の言葉には真実がなく、言葉が不要な世界では言葉の前に真実がある。
しかも、そのふたつの世界はつながっていて、ほとんどの人は、そのいずれかだけでは生きていけないということです。

心を完全に開き合った、あるいは運命を同じくしている者同志の間には、言葉は必須のものではありません。
言葉があろうとなかろうと、そこには「真実」があるからです。
私たちはたくさんの言葉を交わしていましたが、その言葉は私たち以外の人との間で交わされた言葉とは違う種類のものだったのです。
しかし、その違いに私は気づいていませんでした。

最近、どうも自分の居場所がわからなくなってきています。
その理由が何となくわかった気がします。
言葉は世界における自らの居場所を定位してくれるものです。
ところが、私は言葉が不要な世界での言葉遣いになれてしまったが故に、いつも言語が過剰になってしまい、自らを定位できずにいるのです。
言葉に真実がなかったのは、実は私のほうだったのです。

友人から、コミュニケーション能力不足を指摘された意味が、最近少しわかりだした気がします。

■1408:体験すべき思い出はすべて体験してきたのかもしれない(2011年7月11日)
節子
昨夜はチビ太に付き合って、明け方まで仮眠状態でした。
この数日、こういうことが続いています。
4年前の節子とのことも思い出されます。
チビ太はもう高齢ですので、最近は散歩も節子と同じように、ゆっくりとゆっくりと歩いています。
チビ太との暑い夏が、どうしても節子との暑い夏に重なってしまいます。

暑い上に、こうした状況で寝不足が続いています、
さすがに今朝は眠さに勝てず、5時半頃にチビ太が眠りだしたので、私も眠ってしまいました。
そして、夢を見ました。
久しぶりに、夢の中で泣いてしまいました。
最近、涙を出すことは、夢でも現実でも少なくなりました。
悲しさやさびしさが弱まったわけではありません。
むしろ深まればこそ、涙を流さずともいいようになったのかもしれません。

夢には節子は出てきませんでしたが、節子のことを話している私が出てきました。
たくさんのペーパーが散らかっていました。
そこにはなにやらキーワードや記号や絵が書かれていました。
節子がいたら、これをまとめてくれるはずだった、と話している私がいました。
話しているうちに、なぜか夢の中の私は声をつまらせてしまい、そこで目が覚めました。
ただそれだけの夢なのですが、いつものように、とてもあたたかな気持ちが残っていました。

夢に出てくる節子は、多くの場合、「雰囲気」です。
節子の笑顔はなく、節子の笑顔の雰囲気だけが感じられます。
節子は、私のなかではもう実体のない霊魂になっているのかもしれません。
時に節子を抱きしめる夢も見ますが、その時の節子も、身体のない雰囲気だけなのです。

今朝の夢に出てきたペーパーは、多分、私たちの思い出の記録でしょう。
今日の青い空を見ていて思い出すのは千畳敷カールを一緒に歩いた日のことです。
晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の日の、楽しい日には楽しい日の、辛い日には辛い日の、それぞれの私たちの思い出があります。
思っていたよりも早く終わってしまいましたが、体験すべき思い出はすべて体験してきたのかもしれません。
ですから、それを思い出せばいいだけなのかもしれません。

しかし、涙は何だったのでしょうか。
悲しいから涙が出たのではないかもしれません。
涙が出た後には、必ずと言っていいほど、あたたかな気持ちが私を包むのです。

夢のおかげで、今日はまだ眠いですが、元気に出かけられそうです。

■1409:「萌える季節」(2011年7月12日)
節子
相変わらず厳しい暑さです。

美野里町の文化センター「みの〜れ」の山口館長とスタッフの人たちが湯島に来ました。
来年が開館10年目なのだそうです。
まだ10年しか経っていないのかと思うほど、私には昔のプロジェクトですが、このプロジェクトは思い出の多いプロジェクトです。
住民が中心になって、自分たちの文化センターを見事につくったのです。
そのプロセスを記録に残したくて、住民たちに声をかけて本を出版しましたが、また同じようなスタイルで本を出版したいというのです。

「みの〜れ」の?落としも、住民たちが作ったミュージカル劇団が演じました。
節子と一緒に観にいきました。
「みの〜れ」には、さまざまな思い出もあります。

話を終えて帰る間際に、山口さんは壁のリトグラフ(藤田さんの「萌える季節」)を見て、これは誰のですか、と訊きました。
ついつい妻が好きだったのですと応えてしまいました。

節子の葬儀には美野里町から大勢の人が来てくれました。
山口さんは節子とは会ったことがありませんが、お心遣いいただきました。
もう4年くらい経ちますね、と山口さんが言いました。
その一言で、また美野里町に行く気になりました。
4年前のことを覚えていてくれたのです。
そして、佐藤さんが元気になってよかったと言ってくれました。

節子は幸せ者だと、時々思います。
会ったことのない人にまで覚えていてもらえるのです。
そして、私もまた、幸せ者だと思います。

壁にかけてある「萌える季節」はとてもいい版画ですが、これまで作者を質問されたのは2回目です。
山口さんは、なぜ質問したのでしょうか。
山口さんたちが帰った後、久しぶりに「萌える季節」を眺めました。
たしかに、林の向こうに何かがいそうな版画です。
見つづけていると奥に通ずる道が見えてきます。
そこに入り込んで行くと、節子がいそうな気配がします。

節子は、この版画をデパートで見て、すぐに買ってきました。
よほど気に入ったのでしょう。
もしかしたら、いまはこの林の奥にいて、毎日、私を見ているのかもしれません。
そんな気さえしてきました。
暑さのせいでしょうか。

■1410:クレー(2011年7月13日)
節子
国立近代美術館にパウル・クレー展に行ってきました。
節子がいなくなってから、もしかしたら初めての美術展かもしれません。
今回は、娘たちが行くというので、私も一緒に行けました。
まだ一人では行く気にはなれません。

節子と付き合いだした頃は、むしろ私のほうが美術展を誘う側でしたし、
私と節子の好みはかなり違っていました。
私は前衛美術の一部にしか興味がありませんでしたが、節子はヨーロッパ絵画が好みでした。
結婚した当時、池袋の西武美術館(だったと思いますが)で開催されていたカンディンスキー展を見にいきました。
キャンパスの中に、実物の洋傘が埋め込まれている絵を見て、節子は笑い出しました。
しかし、後で考えると、それが節子と私の好みが、さほど違っていないということに気づく始まりだったかもしれません。
節子は、その後も時々、カンディンスキーの話を、思い出したようにしたものです。

クレーとカンディンスキーは、かなり同じ世界を生きて人だと思いますが、当時の世界はまだまだきっと人間の心が自由に飛びまわれる時代だったのではないかと思います。
もちろんクレーも、実際にはナチスによる弾圧を受けており、生きにくい時代だったのでしょうが、にもかかわらずというか、それゆえにというか、魂は此岸を超えて、生きていたように感じます。
今回展示されていた作品は、どちらかというと、悪魔や異人の世界、もしくは異界を感じさせるものが多かったように思いますが(有名な「天使の絵」はありませんでした)、一つだけ、純真な目の作品があり、心洗われました。

節子が一緒だったら、いろいろと話しながら見たのでしょうが、娘たちと私とはリズムが違い、すぐにはぐれてしまいました。
クレーの絵画はとてもメッセージ的なので、たぶん話し出したら楽しい話もできるのでしょうが、今回は一人でただ黙々と鑑賞させてもらいました。
後で娘たちと話し合ったら、意外と同じ作品に関心が重なっていました。
全員が気に入ったのは、「動物飼育係の女性」でした。
私が気にいったのは「鳥の島」でした。これはたぶん節子も気にいったでしょう。
ふと節子を思い出したのは「嘆き悲しんで」でした。

ただ私の記憶の中にあったクレーの世界とは、ちょっと違ったような気がしました。
なんだか少しすっきりしないものが残ってしまいました。
私が変わってしまったのかもしれません。
やはり美術展は、節子と一緒が一番です。

■1411:チビ太の努力(2011年7月14日)
このブログでも何回か書きましたが、わが家のチビ太が夜鳴きするため、家族は夜落ち着きません。
吠えると近所迷惑なので、なだめにすぐ駆けつけなくてはいけません。
チビ太のベッドのあるリビングのソファで明け方までうとうとしていることも少なく多いです。
おかげで寝不足が続いていました。
鳴き声が近所に響かないように、窓は開けておけませんので、最初は熱さのためかと思い、夜中にもクーラーを入れ、扇風機もかけていましたが、どうやらそうではないことがだんだんわかってきました。
昼間眠ってばかりだから、夜に眠れなくなるのかもしれないと、昼間できるだけ起こしたりしましたが、それも難しいです。
なにしろもう高齢なので(間もなく16歳、人間で言えば90歳を超えています〉、散歩さえあまり長くはいけません。
そのうちに、立ったままうとうととするようになってきました。
チビ太も昼間寝ないように頑張っていると思ったのですが、どうも様子がおかしいのです。
それで一昨日、病院に行ってもらいました。

診断は「ボケのはじまり」だそうです。
宙を見据えて瞑想するのも、昼と夜を間違えるのも、理由もなく吠えるのも、不安気に彷徨するのも、すべてはボケ現象だそうです。
そしてDHAなどのサプリメントを調合してもらいました。
一昨日から朝晩それを飲むようにしたら、夜鳴きも瞑想も彷徨も、ぴたっと止みました。
おかげで、この2日間、私も娘も起こされずにすみました。
夜がこんなに平和だということを忘れていました。
夜が眠れるせいか、ようやくいろいろとやる気が戻ってきました。
なんのことはない、寝不足が最近の不調の原因だったのかもしれません。

いや、もしかしたら、私もチビ太くんと同じように、ボケが始まっているのかもしれません。
そろそろDHAを飲まないといけないかもしれません。

ところで、寝ないで頑張っているチビ太を You Tube にアップしました。
4分もあって、ちょっと長いですが、ぜひご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=6nQdat-cFu0
You Tubeにアップする前にフェイスブックに載せたら、いろんな人からエールが届きました。
「チビ太 がんばれ」のエールです。
残念ながら、私へのエールはありません。
私のほうが、実は大変なのですが。はい。

■1412:困った時の節子頼み(2011年7月16日)
節子
昨日は朝から夜までいろいろとつまっていて、挽歌を書く時間がありませんでした。
しかし、2度ほど、節子に救いを求めたくなったことがありました。
いずれもバスや電車の中です。

まだ松戸の歯の病院に通院していますが、処置を終えて病院から出てきたら、どうも歩きづらいのです。
足を見たら、久しぶりに履いたビジネスシューズの底がはがれているのです。
そういえば、この数年、靴を買っていませんし、靴の管理もしていません。
それに最近はあまり黒靴は履かないのです。
今朝は時間がなく、たまには違うのと思って、一番上にあった靴を選んたのですが、それがもう寿命を超えて、廃棄されるべきものだったようです。
急いで出たので、それに気づかなかったのです。
娘に連絡して別の靴を持ってきてもらうよう頼みました。
娘は、どこかで靴を買ったらいいというのですが、買物は苦手なのです。
節子なら持ってきてくれるよ、という殺し文句で、娘は仕方なく届けてくれました。
わがままな父親を持つと娘は苦労します。
わがままな夫を持った節子はどうだったでしょうか。

帰りの電車はもっと悲惨でした。
昨日は椿山荘で経営道フォーラムの発表会があり、その打ち上げに参加していたのですが、生ビールとよくわからない軽いお酒を飲んだだけだったのですが、帰りの電車に乗ったら視界がおかしくなってきました。
視界だけではなく、意識も朦朧とし、なにやら苦しくなってきました。
もともと下戸ですので、さほど飲んでいないのですが、こんな状況になるとはよほど身体が弱ってきているようです。
そういえば、昨日もチビ太に明け方1時間ほど付き合わされて、寝不足でもありました。
久しぶりに悪い形の酔いが回ってきたのです。
我孫子に着くまでの時間が実に長く、思わず節子に救いを求めました。
困った時の節子頼みです。

節子は迷惑でしょうが、神や仏に祈るよりも、節子に祈るほうが、何かと心強いものです。
言い換えれば、祈れる存在があることはとても大事なことです。
まあ節子ですから、たいした救いにはなりませんが、祈る相手があるだけで、支えにはなるように思います。
夜遅かったのですが、娘にまた駅まで迎えに来てもらいました。
そんなわけで、昨日は挽歌を書くどころではなかったのです。

節子
暑い夏を苦労して何とかやっています。
ちなみに他の靴をみてみたら、後は大丈夫でした。
昨日履いた靴は何だったのでしょうか。
もっとも私には、そうした生活品の「捨て時」がよくわかりません。
娘は、私の衣服を見て、もう捨てたら、とよくいうのですが、なかなか捨てられません。
節子のものも、まだ残っています。
困ったものです。

■1413:「そばにいてくれるだけでいい」(2011年7月16日)
節子
テレビでうっかり西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」を聴いてしまいました。
この種の歌は、極力テレビでは見ないようにしています。
「この種の歌」というのは、節子との思いがつながりそうな歌という意味です。
音楽の力は大きく、突然に閉じていたはずの扉を開いてしまうのが恐ろしいからです。
この歌は節子も好きでした。
節子がいたら、きっと歌いだすだろうなと思いながら、ついつい一緒に歌ってしまいました。
歌いながら、節子が隣にいるような感じがしました。
この気持ちは、なかなかわかってもらえないと思うのですが、実に奇妙な感覚におそわれるのです。

西田敏行は、つづけてフランク永井さんの持ち歌だった「おまえに」を歌いました。
節子はフランク永井の歌が好きだったなと思いながら、ついまた聴いてしまいました。
私は歌詞をすっかり忘れていましたが、画面にテロップが出てきたので思い出しました。
「そばにいてくれるだけでいい」
これは私が節子によく言った言葉でもありました。
もちろん、この歌とは関係なく、です。
節子も、同じように、よく私に言いました。
私たちは、お互いが隣にいるだけで元気が出てくる関係だったのです。

ところが次々に出てくる歌詞のテロップを見ているうちに、歌えなくなりました。
あまりに私の心境に突き刺さるのです。
節子と一緒に聴いた時の意味合いとまったく違うことに気づいたのです。
「おまえに」の「おまえ」がいない立場では、意味合いが変わってくる。
そのことに気づいたのです。
希望の歌は絶望の歌になるのです。
愛の歌は嘆きの歌になってしまう。
歌えるわけがありません。

同じ歌詞でも聴く者の状況によって、意味は全く違ってくるのです。
やはり「この種の歌」はもう聴くのをやめようと思いました。
あまりに辛く、あまりにも悲しい。

節子は、私の歌う声が好きでした。
音楽番組を見ていて、時に私に歌ってよと言うこともありました。
若い頃は一緒に歌いながらよく歩いたものです。
樫原神宮で急に降りだした雨の中を、傘もささずに2人で歌いながら歩いたこともありました。

そういえば、昔、わが家でカラオケ大会をやったことがあります。
カラオケが広がるもっと前のことです。
カラオケ機器もない時代だったので、歌のない曲だけのレコードでやったのです。
その時の録音テープがどこかにあるはずです。

カラオケが流行りだしてから、節子は家族で行きたがったのですが、私がカラオケ嫌いだったので実現しませんでした。
節子が望んだのに、私がその気にならずに実現しなかったことは、カラオケのほかにもたくさんあります。
それを思い出すといつも後悔するのですが、しかしそれも含めて、節子は私が好きだったはずです。
私も、わがままな節子が好きだったからです。
夫婦はお互いにわがままにならなければいけません。
わがままを共有できれば、きっと最高の夫婦になるでしょう。
しかし、どちらかがいなくなると、残されたほうは奈落の底に落とされるかもしれません。
好きだった歌さえ、歌えなくなるのです。

■1414:辛い経験をすればこそ心が平安になる(2011年7月17日)
節子
昨日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会でした。
東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんも久しぶりに参加してくれました。
このネットワークは、節子と一緒に東尋坊に行ったことが発足の一つの契機になったことから、茂さんと会うといつもあの日のことを思い出します。
夕陽のきれいな日でした。

茂さんの東尋坊での活動はテレビでもよくとりあげられます。
しかし残念ながら、茂さんの真意がなかなか表現されていないような気がします。
茂さんの思いは、もっと深くもっと誠実です。
それにビジョンもあるのです。
この2年、茂さんと付き合ってそれがよくわかります。
その茂さんは、東尋坊の見回りだけでなく、福井駅の前に「喫茶去」という名前の相談所を開設したのです。
自殺に関連した相談所は、実は全国にたくさんあります。
しかし茂さんはそれに不満を持っています。
相談に乗るだけでなく、当事者と一緒になっての包括的な解決姿勢が必要だというのが茂さんの考えです。
いいかえれば、相談に来た人を心身ともにすべて引き受ける覚悟がなければいけないのです。
しかし、当事者は千差万別、みんな違います。
その違いをしっかりと認識することがなかなか難しい。
そんな話がいろいろと交わされました。

私も当事者視点という言葉を時々使います。
しかし、この「当事者」という言葉が曲者なのです。
たとえば伴侶を失った者同士でも、実はさまざまです。
ついつい同じだと思ってしまいがちですが、当然それぞれに違うのです。
にもかかわらず、「伴侶に先立たれた人」として一派ひとくくりに扱われることほど不快なことはありません。

では「当事者意識」とはなんなのか。
一人ひとり違うのであれば、当事者の視点に立ってなどという言葉は無意味ではないのか。そこで気がついたのですが、実は「当事者意識」というのは、「人はそれぞれに違うという意識」なのではないかと思います。
それに気づけば、さらにその向こうにある「人はみんな同じという意識」に辿りつきます。
そしてだれにもやさしくなれるのです。

生きていることが辛くなるような体験をした人は、そういう意識に辿りつきやすくなります。
そこに辿りついた人は、どんな相談にも応じられるかもしれません。
いやそれ以前に、自らが平安になれるのではないか。
辛い経験をすればこそ、心が平安になる。

茂さんのことを書こうと書き出したのに、思ってもいなかった内容になりました。
私にとって、挽歌を書く時間は節子と会話しながらの哲学の時間なのです。
推敲せずに、思いつくまま書きなぐっているので、支離滅裂ですみません。
私の中では、それなりにまとまってはいるのですが。

■1415:年寄りの冷や水(2011年7月18日)
節子
今朝も頑張って、畑に行ってきました。
起きるのが少し遅くなったため、7時近くになってしまったのですが、30分も雑草を刈っていたら、汗が止まらなくなりました。
実は、最近のわが家の農園は、とても「畑」などとは言えず、竹やぶと言ったほうがいいかもしれません。
刈っても刈っても、追いつきません。
そのやぶの中で倒れてしまっていても、だれも気づかないかもしれません。
それに一人の畑仕事は、楽しいものではありません。

戻ってきて、シャワーを浴びて、珈琲を飲んで、シャキッと出かける予定だったのですが、今朝の作業は少しハードすぎたのか、どうも体調がおかしいのです。
実は一昨日くらいから、どこがどうおかしいか説明しにくいのですが、なんとなくおかしいのです。
だからこそ、今日は畑に行って汗を流し、シャキッとしたかったのですが、逆効果になりました。
年寄りの冷や水とは、このことでしょうか。

今日は大きな集まりに加えて、急用もできたのですが、いずれもやめることにしました。
また友人知人に義理を欠いてしまいました。
まあこれまで逆にかなりのことをしてきたつもりなので、許してはくれるでしょう。
無理をしないのが、最近の私の生き方なのです。
節子が元気だった頃に、この生き方をしていたらと思うこともありますが、節子がいる時はなぜかどんな無理も厭わしくは思いませんでした。
節子は、そうした私に少し呆れながらも、それが修の生き方だから仕方がないと諦めていました。
しかし、いまは無理をするモチベーションが働きません。
ということは、節子にとってはとんでもない話でしょうが、私がいろいろと無理をしていたのは「節子のため」だったということになります。
このパラドクスは、いつかもう少し考えてみた問題です。

今日は2つの用件をさぼったことに罪の意識を感じながら、1日をだらだらと過ごしてしまいました。
私にとってはたぶんあまりないことですが、身体が安定しないのです。
軽い熱中症でしょうか。

しかし夕方になって、ようやく安定してきました。
わが家のチビ太が呆けて眠いのに寝るのを忘れているように、私も心身の疲れに気づかないほど呆けてきているのかもしれません。
なにしろ私の意識の時計は4年前に止まってしまっています。
心身の時計と意識の時計の差を認識しないと、さらに多くの人に迷惑をかけそうです。
自重しなければいけません。

■1416:「喜びをもった支え合い」(2011年7月19日)
BS放送ではよく海外の観光地のドキュメントを放映しています。
節子が好きそうな番組が多いです。
節子はドラマやバラエティはあまり見ませんでしたが、ドキュメントは好きでした。
いつもそれを思い出します。
デジタル化されたおかげで、最近のテレビ画像はとてもリアルです。

ユカが節子と同じで、紀行ものが好きなので、時々一緒に見ます。
今日も大陸の列車の旅を見ていました。
見ていて気づいたことがあります。
どんな素晴らしい風景を見ても、行きたいと思う気が起きないのです。
節子がいなくなってから、私の心からは何かを喜びたいという気持ちが消えてしまったのです。
喜びがない人生は、疲れるものです。

最近、また「コンヴィヴィアリティ」という概念が語られだしています。
イリイチの本でこの言葉に出会って以来、それは私の生き方の一つの指針になりました。
コンヴィヴィアリティは、本来は「饗宴」と言うような意味のようですが、イリイチはこれを「喜びをもった支え合い」というような意味に使っています。
「喜びをもった支え合い」は、私の生活信条の一つになりました。
そして、それが私の世界を大きく変えてくれたのです。
その基本にあったのが、節子との「喜びをもった支え合い」でした。
すべてはそこから派生していたような気もします。

最近、どうも自分の生き方に奇妙なずれを感ずるような気がします。
支え合いが、どこかで愉しめないのです。
そして、これまでは感じたことのない、精神的な疲れや不安定さを時に感じます。
もしかしたら、それは私の心の中に、「何かを喜びたいという気持ち」がなくなってしまったからかもしれません。
行動力が低下し、疲れが溜まるのは、そのせいでしょうか。
そういえば、この数か月、首都圏から出ていません。
自宅で過ごす時間がとても増えたような気がします。
にもかかわらず、疲れが溜まりつづけています。

なぜか生きることを喜べない、支え合うことを愉しめない。
これはかなり「赤信号」なのかもしれません。
困ったものです。
どこかで反転させなければいけません。

それにしても、節子はいい伴侶でした。
この頃また無性に節子が恋しいです。

■1417:「生きていくことを共にする社会」(2011年7月20日)
節子
人間には2つの欲求があるといわれます。
存在欲求と所有欲求です。
存在欲求は「何かと共にあること(being)」によって充足され、所有欲求は「何かを所有する(having)」ことによって充足されます。
所有欲求が充足されると「豊か」になり、存在欲求が充足されると「幸せ」になります。
豊かになったからといって、幸せになるとは限りません。
これに関しては、「幸福のパラドクス」という研究もあります。

私はどちらかといえば、所有欲求よりも存在欲求が強いように思います。
衣食住という言葉がありますが、私にとって意味があるのは「住」だけです。
衣食への欲望は少なく、食はお味噌汁とお漬物があれば満足でした。
衣服ももう少し良いものを買ってよと節子にまでいわれましたが、着られればいいのです。
最近、(見るに見かねたのか)友人が仕立券付きのシャツ生地をくれましたが、仕立てに行くつもりはなく、有効期限が切れてしまいました。
ユニクロの1000円のシャツで満足なのです。
しかし、住む場所にはこだわりがありました。
それを知ってくれた節子は、節約を重ねて、私に快適な住まいを遺していってくれました。
節子がいなくなっても、私が何とか元気だったのは、この住まいのおかげです。
「住まい」は所有欲求というよりも、存在欲求に関わっています。

しかし、せっかくの住まいも節子がいなければ充足感は得られません。
高台なので、キッチンから手賀沼が少し見えます。
毎朝、そこで珈琲を淹れながら外を見るたびに、節子にもっともっとこの景色を見せたかったと思います。
ですから、折角の景色を見ながらも、幸せ感は生まれてきません。

住まいにとって大切なのは、そこで共に暮らす家族です。
そういえば節子はよく言っていました。
住まいで大切なのは「良き隣人」だと。
幸いに節子が残してくれたわが家は、良き隣人にも恵まれています。
これも節子のおかげです。

神野直彦さんは、「生きていくことを共にする社会」に変えてかなければいけないと言っています。
とても共感できます。
私が目指していることでもあります。
人の喜びは、「共に生きる」ことなのです。
しかし多くの人はそれに気づいていないのか、「共に生きる」ことへの関心が低いように思います。
「つながり」とか「支え合い」とかいう言葉はあふれてきましたが、実態はあまり変わっていないような気もします。
「共に生きる」喜びを教えてくれた節子には感謝しなければいけませんが、それを終わらせた節子には苦情を言いたい気もします。

■1418:インセプション(2011年7月22日)
昨年話題になった映画「インセプション」を観ました。
昨夜、娘がお父さん向きの映画だからとDVDを勧めてくれたのです。
長い映画でしたが、ついつい観てしまいました。
そんなわけで、昨日は挽歌も時評も書けませんでした。

インセプションは節子向きの映画ではありませんが、たしかに私向きでした。
ストーリーは、人の夢の中に入り込んで、その人のアイデアを盗み取ったり、逆に考えを埋め込んだりするという話です。
監督のクリストファー・ノーランは、アルゼンチン出身の作家ボルヘスの「伝奇集」から着想を得たそうですが、見終わった後、それを知って奇妙に納得できました。
昔、大のボルヘス好きの先輩からボルヘスの話を何回も聞かされていたのを思い出しました。

映画のストーリーはあまり緻密ではなく、まあそれほどの新鮮味もありません。
しかし、夢の中の夢といった夢の「階層」と、その一番奥に、主人公と妻とが一緒につくりあげた「夢の世界」があるという構想がとても納得できました。
これはバーティカルなパラレルワールドであり、愛する者を失った者が探しにいくことのできる世界構造なのです。
さらにそれに加えて、夢と現実の連続性と現実の相対化が示唆されています。
現実世界では独占できない伴侶を独占するがために、妻は現実の世界から夢の世界に移っていくのですが、夫である主人公は子どもとの関係性を断ち切れないのです。
映画を観ていないとわかりにくいと思いますが、私には彼らの葛藤と迷いがよくわかります。

夢の世界は、階層ごとに時間の進み方が違います。
これは浦島太郎の話とは逆で、夢の世界のほうが時間は長いのです。
彼らはかなり深い階層の夢の世界で50年を二人だけで過ごしたのですが、おそらく現実社会では数日の話だったのでしょう。
私がうらやましいと思ったのは、2人だけの世界で50年を過ごしたということです。
これは私が節子に話していたことでもあるのです。
50年を2人だけで過ごすことは現実的ではありません。
しかし、愛するということは時間を超えるということだと思っていますので、たぶん私には可能なはずです。
節子が耐えられたかどうかは、私にもわかりませんが、退屈させない自信は私にはありました。
歳をとらずに50年をただただひたすら2人だけで過ごす。
こういう世界を考えた人がいたことを知って、私はとてもうれしかったのです。

論理もつながりも粗雑な映画だと思いますが、私には奇妙にリアルでした。
最後は、主人公は妻ではなく現実の世界を選びますが、これは私にはありえない話です。
せっかく現実の相対化を描きながら、結論は極めて退屈な凡作ですが、しかし私には、しばらく忘れていた世界を思い出させてくれました。
久しぶりに、ボルヘスも読もうかと思います。

■1419:寝相(2011年7月22日)
節子
昨日は挽歌を書かなかったので、今日は2つ書きます。
ともかく挽歌ナンバーを、節子を見送った日からの経過日数に合わせておきたいためです。

とても暑い毎日が続いていましたが、昨夜はむしろ肌寒い夜でした。
私は、節子がいなくなってから寝室のドアは開けて寝るようにしています。
そのためどこからか風も入ってくるのです。
しかし暑い毎日だったので、薄い肌掛け布団しかありません。
そのため寒くて何回も目を覚ましました。
そこで思い出したのが、寝相の話です。

私は寝相の悪い人で、節子は寝相のいい人でした、
節子は寝た時と同じ状況で朝、目を覚ますのです。
薄いタオルケットでさえ、節子には朝まできちんとかかっているのです。
私は厚手の布団でさえ、ベッドから落としたり、縦横が変わったりするほどですから、軽い布団だとすぐに足やお腹がでてしまうのです。

節子が隣に寝ていた時には、節子の布団を無意識にとってしまっていたこともあります。
それに節子が横にいれば、そうそう大きく動けるわけでもありません。
しかし今は2つのベッドを一人で使っているので、縦になっても横になっても大丈夫です。
しかし掛け布団はそういうわけには行きません。
どこかにいってしまうのです。
寒くなって目を覚ますと、節子が薄いタオルケットを見事に全身にかけて安眠していることがよくありました。
私にとっては、それはそれは感動的でした。

節子がいれば、掛け布団がなくなったので貸してくれないかとか、寒いのでどうにかしてよ、と頼めるのですが、節子がいないのでまあ考えることしかできないわけです。
それで、昨夜は目を覚ますたびに、節子はどうしてあんなに動かずに寝ていられたのだろうと考えていました。
もちろん答は見つかりません。
しかし節子の寝姿は、とてもきれいでした。
もうそれも見ることはできません。
そう思うと、ますます寝苦しい夜になってしまい、昨夜は寝不足になりました。
今夜はちょっと集めの掛け布団をつかうことにしました。
一人でも眠れるでしょう。

■1420:気分を変えないと挽歌が書けなくなりそうです(2011年7月23日)
節子
夏祭りの季節です。
先週は近くの八坂神社、今週は柏のお祭りです。
まあ私はお祭りとは縁遠くなってしまいましたが。

世間は「夏休み」です。
夏といえば、出かける季節です。
娘たちが小さな頃は、毎年、山や海に行っていました。
娘たちが大きくなってからは、夫婦で節子の実家や姉が嫁いでいる福井に出かけていました。
節子がいなくなってからは、ただただ暑いだけの季節になりました。

この数年、夏はいったい何をしていたのでしょうか。
あまり記憶がありません。
節子がいないと、こんなにも生活が無意味なのかと驚くほどです。
しかし、伴侶を失うとこんなにも崩れてしまう人生とはいったいなんのなのか。
自らの怠惰さをすべて節子のせいにしているのではないか。
そんな気もします。
このままだと、私もあの時に終わったといってもいいでしょう。
それにしては、まだ仕事をしたいなどという未練はどこから出てくるのでしょうか。
どこか潔くない自分を感じて、自己嫌悪に陥りそうです。
誰かと会っていると元気になるのは、「見栄」なのかもしれません。

来週こそ、この状況から抜け出ようと思います。
そうしないと、この挽歌もなかなか書けなくなるような気がしますので。

■1421:「諸縁を断って静かに生きる」のは無理のようです(2011年7月26日)
涼しい日です。
最近、なんとなく気持ちが重く、何をやりだしても前に進めません。
それで動き出せるようになるまで、何もしないことにしました。
そんなわけで、今日は朝から無為に過ごしています。
無為に過ごすのはけっこう退屈するものです。
夕方になって、ついついパソコンを開いてしまいました。

友人からこんなメールが来ました。
佐藤さんもわたしも(?)疲れているので、
いまは雌伏の時期であります。
諸縁を断って静かに過ごしてまいりましょう。

友人はともかく、私は「雌伏の時期」ではなく「終焉の時期」なのですが、
終焉に向かう生き方は難しいのかもしれません。
それに、「諸縁を断って」生きるのは私には「憧れ」ではあるのですが、まだその生き方に入るほど自らを豊かにできていないのです。

ライターのKさんからもメールが来ていました。
奥様が新聞に投書なさったときの佐藤さんとのやりとりが知りたいのです。
ブログかどこかにあるとOさんがおっしゃるのですが、どこかわかりません。
投書内容も知りたいです。
Oさんいわく、ご夫婦の関係がよくわかるエピソードなので、ということなので、

KさんはOさんが紹介してくれたライターの方ですが、いま「看取り方」を題材に原稿を書いているそうです。
私の話は役に立たないだろうと言ったのですが、以前一度取材に来てくれました。
Oさんは、きっと節子の書いた「いいことだけ日記」のことを言っているのでしょう。
私のホームページは迷路のように複雑な構造なので、私自身どこにその記事があるか,容易にはわからないのです。

パソコンから離れようかとも思っていたのですが、退屈のあまり、パソコンに向かうとこうやって「諸縁」が迫ってきてしまいます。
困ったものです。
その上、ハスの花まで届きました。
諸縁を断つにはほど遠い生き方をしている自分に気づきました。
それにしても、ネットでつながってしまった世界は、まさに「煩悩のあふれる世界」です。
「諸縁を断って静かに生きる」には、まずはパソコンを捨てることです。
さてそれができるでしょうか。

もはや私には、「諸縁を断って静かに生きる」ことは無理なのかもしれません。
パソコンの向こうに、あまりにたくさんの世界が見えすぎます。
疲れても、動き出さなければいけません。

■1422:ねえちゃんの田んぼ(2011年7月26日)
節子
敦賀のおねえさんからハスの花が届きました。
「ねえちゃんの田んぼに今年も花が咲きました」と筆で書いた絵手紙と一緒に、です。
その絵手紙は、なんとペーパータオル2枚に書かれていました。
こうしたことの鮮やかさは、節子とそっくりです。

ねえちゃんの田んぼ。
それは敦賀の姉の家の近くにある田んぼです。
昔は稲を植えていたのですが、最近、ハスを植えるようにしたのです。
ちょうどその植える時に、節子が行き合わせ、ほんのわずかばかりの手伝いをしたという話を節子から聞きました。
ハスは毎年見事に咲き続け、毎年、わが家にも何回か送られてきます。
その今年の一陣が、今日、届いたのです。
節子がいなくなってから、季節の感覚が私から抜けていますが、またハスの季節かと、いろんなことを思い出させてくれます。

ハスを見ていると、節子のさまざまな笑顔が浮かんできます。
節子が病気になってからは、時々、2人で敦賀に行きました。
そして姉夫婦と一緒に、いろんなところに行きました。
そういう時の節子は、私にはまぶしいほど元気でした。
実にたくさんの思い出がありますが、その思い出はいつもある思い出に辿りつきます。
日本海の夕陽を4人で見た思い出ですが、そこでいつも私の思考は止まってしまいます。
いえ、その先に行きたくない私が思い出の世界から抜け出てしまうのですが。
その先は、あまりに悲しすぎるのです。

それにしても、節子の思い出はどうしてこうもたくさんあるのでしょうか。
普段は封印しているのですが、一度、蓋を開けると押さえようがありません。
節子の世界にまた、吸い取られそうです。
ようやく気が戻りそうだったのに、いやはや困ったものです。

■1423:そうだ、お寺に行こう(2011年7月27日)
節子
3.11以来、心の癒しになるような本が売れているそうです。
また「ブッダ」そのものもブームになっているといいます。
友人が、そうした記事や情報をまた届けてくれました。
しかし、スリランカ出身の僧侶、スマナサーラ長老も、ドイツ哲学専攻の異色の僧侶、小池龍之介さんにも、どうも違和感があります。
小池龍之介さんの著作はまだ読んでいないので、一度読もうとは思っていますが。

多くの人が、今の日本仏教は葬式仏教だと言います。
その言い方には、お寺への蔑視の気持ちを感じます。
葬式だけしかせずに、仏教の教えを広め実践していないというのです。
しかし、そうでしょうか。
私は大きな異論を持っています。
確かに「お金まみれ」のお寺も少なくないでしょうが、真面目なお寺も少なくありません。
それに「葬式仏教」で何が悪いかとも思います。
「葬式」は、単なる儀礼的なイベントではないはずです。
有名人の葬儀は、別かもしれませんが。

お寺という場にきちんと向き合えば、わかると思うのですが、本など読む必要はありません。
タレントのような僧侶の話など聴く必要もありません。
以前、節子と瀬戸内寂聴さんのお話を聴く機会がありました。
ビジネスマンを対象にした、ホテルでの講演会でした。
私は途中で退席したくなりました。
聴いた後の、私と節子の感想は全く同じでした。
「癒し」ではなく、寂聴さんの生き方の貧しさを感じました。
私は、「卑しさ」さえ感じました。
私が聴いた場が悪かったのかもしれませんが、節子もそう感じたのですから、私だけの責任ではないような気がします。

節子のお墓のあるお寺は小さなお寺です。
しかし、そこに行くと、何となく安堵します。
そのお寺に限りません。
どこのお寺でも、お堂に上がって、仏と対座して手を合わせると心やすまります。
癒しは、他者からもらうものではなく、自らのなかにあるのです。

ちなみに、私も仏教関係の書物は読みます。
難しい教理の本もあれば、今様の入門書もあります。
いずれの場合も、お寺の本尊に向き合うように読ませてもらいます。
本は、葬儀やお寺との付き合いとセットになっています。
そんな気がします。

そういえば、最近、お寺で仏様にゆっくりと対座したことがありません。
心が貧しくなっているのは、そのせいかもしれません。

■1424:ミンミンゼミ(2011年7月27日)
節子
今年初めてミンミンゼミの鳴き声を聴きました。
ミンミンゼミに限らず、今年はセミが少ないのですが、暑さに弱いミンミンゼミにとっては、今年の暑さは大変なのでしょう。
例年よりも鳴き声を聴きません。
節子はミンミンゼミよりも、ヒグラシのカナカナという鳴き声によく反応していました。
なにか寂しさを感じさせるからだったと思います。
節子にとっては、ミンミンゼミの鳴き声は暑苦しすぎたのかもしれません。

夏は節子に実家で過ごした時期もありますが、ミンミンゼミには子どもたちと一緒の真昼の風景を、カナカナゼミには節子と一緒の夕方の風景を思い出します。
人によって違うのでしょうが、自然はそうした生活の思い出と深くつながっています。
さらにそこに、家族や妻との思い出が重なってくると、セミの鳴き声ひとつが、心を躍動させたり、心身を萎縮させたりしてしまいます。
本当に不思議です。

わが家の周辺にはまだ緑がそれなりにあります。
ですからセミもよくやってきましたが、今年はまだわが家にはセミは来ません。
いつもは庭に見かける、セミの抜け殻にもまだ一つも出会っていません。
噂では、今年はどこもセミが少ないようです。

セミは不思議な生き物です。
あれほど含水量の少ない生物は、そう多くはないでしょう。
子どもの頃からそれがとても不思議でした。
ギリシア神話の映画には、よくアポロの「黄金のセミ」が出てきますが、SF好きだった私には、セミは生き物ではないようにずっと感じていました。
セミの寿命は実にはかないものですが、そのくせ、セミは「復活」や「不死」「変身」の象徴とも言われています。
それにあんなに小さな身体であるにも関わらず、その鳴き声は遠くまで響き渡ります。
私には、尋常の生き物とはとても思えません。
それに死んだセミには、不思議になんの「不浄感」もありません。
セミは生きていても死んでいても、まったく変わらない存在です。
もしかしたら、セミは彼岸からの使いかもしれません。
だとしたら、先ほど聞いたミンミンゼミの声は、私へのエールかもしれません。

さて明日からまた元気に活動できそうです。
この数日、奇妙に落ち込んでいました。
節子がいたら笑われそうです、

■1425:生き方を変える(2011年7月28日)
八ヶ岳山麓に転居した中村さんが久しぶりに湯島に来ました。
自然と共にある生き方へと、人生を思い切って変えたのです。
昨日わざわざ17キロも離れているお店まで行って、特別の信玄餅をお土産に買ってきてくれました。
日持ちがしないので、今日中にと言うので、早速、節子に供えるとともにいただきました。
たしかに、これまで食べた信玄餅に比べてずっと美味しい気がしました。

中村さんは、節子も知っていますが、私と同年のビジネスマンでした。
定年退職後も、いろいろとドラマティックな生き方をしていますが、今年の3月から家族で八ヶ岳山麓に転居、今はテレビも新聞もない、まさに自然と共にある暮らしです。
中村さんが人生を変えたには、それなりの理由があります。

思ってもいなかったことが、人の人生を変えるものです。
私と中村さんの生き方は、数年前まではかなり対極にあったような気がします。
中村さんと出会ったのは10年ほど前だと思いますが、当時は中村さんはまだバリバリの現役でしたが、私はすでに社会からかなり脱落していました。
しかしどこかで通ずるものがあったのか、中村さんは湯島のオープンサロンによく来てくれました。
しかし中村さんが、心を開いたのは3年ほど前かもしれません。
お互い、いろいろなことがあったのです。

変わらない人生もいいものでしょうが、変わる人生もまたいいものかもしれません。
中村さんは、以前にも増して、若々しく元気そうでした。
いささか疲れてしまってきた私とは大違いでした。

私はまだ、節子との別れで変わってしまった人生を「いいもの」とは思えずにいますが、発想を変えれば、その「価値」が見つかるかもしれません。
人生の豊かさは、もしかしたら「悲しみの多さ」かもしれなと思うこともあります。
悲しみや辛さを体験するたびに、世界が広がるからです。
私も、そろそろまた生き方を変えたほうがいいかもしれません。
帰り際に、中村さんは私に言いました。
佐藤さんはやはり前のような生き方がいい、と。
節子がいたころの生き方に戻るのも、ひとつの「変わる人生」かもしれません。

さてどうしましょうか。
節子ならどう言うでしょうか。

■1426:「長い旅を共にしている節子」(2011年7月30日)
節子
政治学者の東大名誉教授坂本義和さんが岩波新書で回想記を出版しました。
「人間と国家」という上下2冊の本です。
坂本さんとは面識はありませんが、誠実な平和研究者として畏敬の念をいだいていました。
坂本さんという一人の政治学徒の生活を通した、戦後日本史と言ってもいい内容の本ですが、私には自分の人生を振り返えさせられる本でもありました。
坂本さんは私より14歳年上ですが、生きてきた時代はそう変わらないような気がしました。
本に出ている様々な事件や状況の多くは、私にとっても懐かしいものでした。

私は大学時代はあまり勉強しませんでした。
もしもう少し学んでいたら、人生は変わっていたでしょう。
しかしもしそうであれば、節子に会うことはなかったでしょう。

本には坂本さんが学んだ時代の教授の名前がたくさん出てきます。
その気になれば、私もそうした人たちの謦咳に触れることができたはずです。
しかしあまり大学が好きでなかった私は、そうした人のことをあまりにも知らなすぎました。
知識のないものには、目の前に宝物がころがっていても気づかないのです。
坂本さんが名前をあげている人たちには強いメッセージがありました。
あまり授業にも出なかった私でさえ、名前と顔が今でもはっきりと残っています。
謙虚に学ぶ姿勢がかけていたことを悔やみますが、もう後の祭りです。
当時は、小説以外の本を読むのがあまり好きではありませんでした。

節子と会ってからの人生は、私には実に快適な世界でした。
小説は読まなくなりました。
実生活のほうが、よほどドラマティックだったからです。
たまに話題になった小説を読んでも退屈でした。
事実は小説より奇なり、という言葉がありますが、全くその通りだと思いました。

節子がいなくなってから、大学時代に読むような本を読み出しました。
いまなら坂本さんが名前を挙げている教授たちの講義を素直に聴けるでしょう。
不思議な話ですが、坂本さんが名前を挙げている教授と私の印象に残っている教授とはかなり重なるのです。
だが当時は、そうした著名な教授の話も、私には退屈でした。
アカデミズムと権力の癒着に、過剰な先入観があったのかもしれません。
もう一つのアカデミズムがあることを知ったのは、大学を卒業してからでした。

「人間と国家」は、久しぶりに大学時代のことを思い出せてくれました。
大学時代から、私は生き方において、かなり落ちこぼれていたのです。
節子との出会いは、いくつかの偶然が重なったとはいえ、大学時代に思い描いていた生き方を現実のものにしてくれたのです。
思えば、退屈ではない、私らしい人生でした。
坂本さんと違って、回顧録を書くような人生ではなく、挽歌しか書けませんが、怠惰な私にはそれが相応しいことはまちがいありません。

坂本さんは、本書の最後に「長い旅を共にしてきた妻に捧げる」と書かれていました。
その文章が目に入ってきた途端に、節子との暮らしもまた、「長い旅」だったのだと思いました。
40年が長いという意味ではありません。
そうではなく、ともかく「長い旅を共にしてきた」という言葉に心が動きました。
大学時代は節子に会う前でしたが、いまの私の記憶の世界では、不思議にそこに「節子」がいるのです。
もちろん、今もなお、私は節子と「長い旅を共にして」いるように生きています。
私もまた、節子とは「長い旅を共にして」いることを改めて実感しました。
でもちょっとだけ、回想録を共有する人がいる坂本さんがうらやましいです。

■1427:友が去る淋しさの感覚がありません(2011年7月31日)
九州の藏田さんからうなぎが送られてきました。
藏田さんは「布施の人」です。
いろんなものを、理由をつけては送ってくれるのです。
節子の献花にもわが家まで来てくれました。
「仕事」で少しお付き合いがあっただけなのですが、そして私のほうがいろいろとお世話になったばかりか、逆に迷惑さえかけたはずなのですが、布施の人である藏田さんは、そんなことなど忘れたように、私を元気づけてくれるのです。

今回は、手書きではなく、パソコンでつくった手紙が入っていました。
藏田さんはとても達筆なので、いつもは手書きなのに、と思って読んでいたら、最後に衝撃的な文章が書かれていました。

会社時代、一緒に仕事したY君が今年の4月20日に亡くなりました。
新盆は7月15日で両日とも日帰りで会いに行ってきました。
友が去るのは淋しい限りです。

Yさんは私もよく知っている人です。
将来を嘱望されていたにも関わらず、数年前に体調を崩されて会社を休んでいるとは聞いていましたが、まさかそこまでとは思っていませんでした。
一瞬、衝撃を感じました。
私よりもずっと若いはずです。

私への心遣いから、葬儀も新盆も私に連絡することなく日帰りされたのでしょうか。
藏田さんは、そういう人なのです。

自分ではなかなか老いを意識することは難しいものです。
私はすでに古希ですが、意識の上でも生き方においても、まだ学生の頃とそう変わりません。
おかしな話ですが、中高年の人を見ると、みんな自分よりも年上の人だと勘違いしかねないほどなのです。
実に困ったことなのですが、私もまた、藏田さんのように、友が去る淋しさを味わうことが増えていくのかもしれません。

しかし、愛する伴侶を失う体験をしてしまうと、死というものへの意識はかなり変わります。
私だけのことかもしれませんが、実は訃報を聞いてもそう動ずることがないのです。
薄情と言われそうですが、衝撃的ではあるのですが、不思議と悲しさとか淋しさが生まれてこないのです。
今日、藏田さんの手紙を読んで、改めてそのことに気づきました、

私自身が、彼岸に近づいているからなのかもしれません。
とはいうものの、もう一度Yさんには会いたかったです。
今はただ冥福を祈るのみです。

■1428:節子は悪女ではありません(2011年8月1日)
挽歌1245「生き方を変える」で、
私はまだ、節子との別れで変わってしまった人生を「いいもの」とは思えずにいますが、発想を変えれば、その「価値」が見つかるかもしれません。
と書いてしまいました。
実は少し自問自答しながら書いた文章だったのですが、案の定、読者のYHさんから厳しいつっこみがありました。

発想を変えれば節子さんとの別れの「価値」を見つけることができますか?
「いいもの」と思えるようになるとほんとに考えていらっしゃるのですか? 

YHさんも、伴侶との別れを体験されたのです。
YHさんのメールを読んだ時には、怒られた気分になってしまいました。
「価値」ではなく「意味」と書けばよかったなと小賢しいことを一瞬考えましたが、指摘されていることは、そんなことではないでしょう。
そもそも「いい」とか「よくない」とかという発想そのものが間違っているのです。
「いい」とか「よくない」とかという発想は、愛する者を失ってしまうと、実際には無くなってしまいます。

しかし、節子がいなくなった後の人生が、もし不幸なものであるならば、節子は「悪女」になりかねません。
愛する私に「不幸」を残していったのですから。
もしそうであれば、節子には後ろ髪引かれるような辛い別れだったでしょう。
そして私への罪悪感が残るでしょう。
それでは快適な彼岸の生活は望めません。

節子がいなくなった後、頭では「不幸」を感じたことはあります。
節子の位牌に向かって、よく「節子のおたんこなすめ」とよく呟いたものです。
なぜ置いていってしまったのか、恨むような気持ちが起こったこともあります。
なぜ愛する者に、こんな悲しい思いをさせるのか、怒りたくもなりました。

しかし、節子がもし私が思っているような「いい女」であれば、私を不幸にするはずはありません。
節子はそんな薄情者でも自分勝手な人でもありません。
節子は、ただただ私の幸せを望んでいました。
だとしたら、節子との別れで変わってしまった人生には必ず意味があるはずです。
それを「いい人生」と思えれば、節子に感謝することはあっても、恨むことはないでしょう。

日本には言霊信仰があります。
言葉にすればそれがいつか実体を伴うようになる、という信仰です。
その信仰があればこそ、私は節子に向かって、真言を唱えます。
般若心経もあげるのです。
空海は「名はかならず体を招く。これを実相と名づく」と書き残しています。
節子がいなくなってからのことも含めて、節子との人生は「いい人生」だったと思いたいというのが、私の最近の心境です。

YHさん、これでは納得してもらえないでしょうが、少しだけ先輩である私は、そんなところに辿りついています。

■1429:「渡岸」と「岸渡」(2011年8月2日)
ふと思いついたのですが、節子の実家の近くにある十一面観音が住まっているのは、渡岸寺ですが、熊野の那智にあるのは青岸渡寺です。
那智は観音浄土信仰の地で、その浄土は海の向こうにあるとされていました。
青い海が、彼岸への青い岸だったのでしょうか。

「渡岸」と「岸渡」は示唆に富む組み合わせです。
「渡る岸」と「岸を渡る」とは全く意味合いが違います。
青岸渡寺の近くには補陀洛山寺があり、そこには「海を渡って浄土に行くための補陀洛渡海船が祀られています。
補陀洛は「観音浄土」のことです。
青岸渡寺は彼岸に向かって開かれていたわけです。
その彼岸は輝くような青に覆われているのでしょう。

節子は、陽光が輝く、少しさざ波のたった水面が好きでした。
わが家のキッチンからわずかばかりですが、手賀沼の湖面が見えますが、晴れた日にはその湖面が見事にキラキラと輝きます。
青ともいえず白ともいえない、その向こうを感じさせる情景です
その情景が、節子は大好きでした。
いま、節子の代わりにキッチンで珈琲を淹れていてその情景に出くわすと、節子も向こうからみているのかなといつも思います。

節子の実家の近くの渡岸寺は、向源寺の一画にあります。
といっても、いまは渡岸寺観音堂が中心になっていると思いますが。
毎回、行くたびに変化しているのでよくわかりませんが、昔の風情はなくなってきてしまいました。
もう彼岸への入り口は閉じているかもしれません。

ところで、向源寺は、もともとは光眼寺だったようです。
これまた興味をそそられる名前ですが、まあ深入りはやめましょう。

渡岸寺、「渡る岸」。
なぜここに「渡る岸」があるのか。
それは、そこにいる十一面観音に会ったら、何となく納得できるかもしれません。
あれほどの十一面観音はみたことがありません。
それに作法も違うのです。
この観音に導かれるのであれば、どこでもが「渡る岸」になるでしょう。
しかし、その十一面観音も最近は小さくなってしまい、元気がないように感じます。
見世物になってしまっているからです。
いまは人を渡岸させる力はないでしょう。

渡岸寺は最澄に所縁があるようですが、いまは真宗のお寺です。
滋賀の湖北はいうまでもなく真宗の里なのです。
節子の両親も、その本山である京都の東本願寺に納骨されていると聞いています。
しかし、節子はそこには行きません。
節子の渡岸の地は、私がいるところなのです。
そして、渡岸が完成するのは、私と一緒に「岸を渡る」時なのです。

ふと思い立って、「かんのんみち」という写真集を見たために、いささかおかしなことを書いてしまいました。
今日の手賀沼の湖面には輝きはありません。

■1430:その時は良い考えだと思った(2011年8月2日)
前の挽歌を書いているうちに、なぜか急に行きたくなりました。
大学時代に友人と紀伊半島を無銭旅行しました。
南紀の白浜の砂浜で一夜を明かした記憶はありますが、青岸渡寺に行った記憶はありません。
あの大滝のイメージは記憶の世界にはあるのですが、私の記憶はかなり狂っていますので(記憶する習慣が昔からありません)、確実ではないのですが、那智には行っていないと思います。
那智の大滝は、見ていると観音が浮かび上がってきます。
だとしたら、会いに行かねばいけません。

同居している娘を誘ったら、「お父さんの提案は思いつきだから24時間と持たないでしょう」といなされました。
そういわれると返す言葉もありません。
その通りだからです。

私の好きな映画に「荒野の7人」という西部劇があります。
黒澤明の「七人の侍」の西部劇版です。
そこにこんな会話が出てきます。
そこで一番印象に残っているセリフは、スティーブ・マックィーンの言葉です。
「裸でサボテンに抱きついた男がいた。どうしてそんなことをしたのかと訊いたら、その時は良い考えだと思ったんだと答えた」

何ということもない話ですが、大学生の頃、この映画を観た時からずっと印象に残っている言葉です。
いささか大げさに聞えるでしょうが、私のその後の生き方に大きな影響を与えています。
その時、良い考えだと思ったら、ともかくやってみればいい、というわけです。

この話は節子には何回かした覚えがあります。
節子は私のようにこの話には感動もしなければピンとも来なかったようです。
むしろ、私には「あなたは後先を考えずに行動するから気をつけてね」と時々言っていました。
しかし、そういう節子も、娘たちのいる前で、「どうして修となんか結婚したんだろうか」と言っていましたから、まあ節子も同じようなものです。
その時は「良い考え」だと思っていたのです。
人間はみんなそうでしょう。

節子がいなくなってからも、私は、その時々に「良い考え」だと思うことに素直にしたがって生きています。
しかし、娘が言うように、「良い考え」が次々に浮かんでくるので、なかなか実現するまでに至りません。
困ったものです。

ところで、青岸渡寺もいいですが、やはり渡岸寺のほうがいいかもしれません。
それに那智はちょっと遠いですね。

■1431:丸くなければスイカではない(2011年8月3日)
時評編に書きましたが、近くの八百屋さんでスイカを買ってきました。
娘にまかせておくと、いつも1/4のスイカを買ってきます。
私にとっては、切られたスイカはスイカではありません。
そういえば、「合理主義者」の節子も、丸ごとスイカはあまり買ってきませんでした。
スイカは丸くなければいけないと考えている私には実に不満でした。

なんで丸いスイカを買ってこないのかと、節子に不満を何回も言いましたが、節子は冷蔵庫に入らないとかみんなあまり食べないから残ってしまうとか言うのです。
私にとっては、何の理由にもなりません。
スイカは丸くなければいけないからです。
節子のもう一つの理由は、切ってあればおいしそうかどうかわかるというのです。
切ってみたら「はずれ」だったということもあるのが、スイカの醍醐味ではないかと私は思うのですが、節子はなにしろ「合理主義者」なのです。いやはや。
この件に関しては、私たち夫婦は最後まで折り合いが付けられませんでした。
でもやさしい節子は、そうは言っても時々は私のために丸いスイカを買ってきてはくれました。

その節子の「スイカは食べられる分量だけを買う」という文化は、不幸なことに娘たちに継承されてしまいました。
それに、娘たちはスイカ一切れで満足するのです。

そんなわけで、今日は私がスイカを買いに行ったのです。
八百屋さんの若者に、スイカは丸くないとダメだよね、と言うと、即座に彼はそうですよね、といいました。
そして付け加えました。
家に2.3個の丸いスイカが転がっていないとだめですよね。

そういえば、昔、節子の実家に行くとスイカがいくつも部屋の隅に転がっていました。
一つはバケツに冷やしていましたが、いつからスイカを冷蔵庫で冷やすようになったのでしょうか。
一瞬、2つか3つのスイカを買おうかと思いましたが、思いとどまりました。
なにしろいまは節子もいないし、余っても近所の子どもたちに声をかける勇気はありません。
節子ならやりかねませんが。

で、スイカをひとつ買って帰りました。
そしてすぐに包丁を入れました。
残念ながら余り慣れていないので、斜めに切込みが入ってしまいました。
そういえば丸いスイカを切ったことがなかったのです。
意外と難しいのは、包丁が切れないせいでしょう。いやはや。
娘と一緒に食べましたが、1/4も食べられません。
なにしろ今日はそう暑くなく、スイカ日和ではなかったのです。
それに買ってきたのが夕方だったのです。
しかたなく残りをなんとか冷蔵庫に入れました。
節子と娘から、「だからスカイは丸ごとはダメなのよ」と言われているようで、肩身が狭いです。

さてさて明日はがんばってスイカを食べなければいけません。
子どもの頃は、スイカを食べ過ぎて、お腹が重くなって立ち上がれないこともあったのですが、そんなスイカの食べ方は、もう誰もしないのでしょうね。

そういえば、節子にスイカを供えるのを忘れてしまっていました。
明日の朝、供えましょう。
丸いまま供えておけばよかったですね。

■1432:挽歌をかけなかった言い訳(2011年8月5日)
節子
また昨日は挽歌が書けませんでした。
湯島についた途端に、来客などで時間の合間が全くなくなり、昼食さえも食べる時間がない1日でした。
節子が元気だったころは、いつもこうでした。
あの頃は、本当にいろんな人たちが湯島に来ました。
最近は、あまり人は来ないですが、それでも来る日は4組も5組もやってきます。
別に仕事の話でもないのですが、身の上相談というわけでもありません。
湯島の居心地のせいか、長居する人も少なくありませんが、それで結局、次の来客が来るまで話してしまい、私はトイレに行く時間もないほどなのです。
困ったものです。
中村さんは、こういう生活に戻れといいましたが、身が持ちません。
やはり人に会うのは週に3回どまりにしたほうがよさそうです。

それにしても、昔はよくこんな生活をしていたものです。
仕事をする暇ができないのは、当然といえば当然でした。
しかし、節子は、そうした私のおかしな生活を支えてくれました。
収入がなくても、何の苦情も言うことなく。
美味しいレストランで食事をすることも、ブランド品を買うこともなく、わがままな私に付き合ってくれたわけです。
感謝しなければいけません。
もし苦労をかけたとしたら、反省しなければいけません。
もっとも、私が「反省する」といっても、節子は「あなたの言葉は軽すぎる」といつも笑っていましたが。

昨日は9人の人が来てくれましたが、節子が知っている人は一人だけでした。
私の付き合いの世界も変わりつつあるのかもしれません。
湯島に来る人も、節子を知らない人が増えてきているというわけです。
私が前に進んでいるという言い方もできますが、節子がいない私には付き合いたくないという人がいるのかもしれません。
ぷっつり来なくなった人もいます。
なにしろ4年近くたっても挽歌を書いているのですから、いい加減、愛想が尽きたと言われても仕方ありません。
それに、愛する人を失った人とは付き合いにくいものですし。

節子と出会った前後で私が変わったように、節子と別れた前後で私が変わったことは間違いないでしょう。
人は付き合う相手で人柄がわかるといいますが、私の人柄はどう変わったのでしょうか。
自分では「変わった」という意識はあるようでないのですが、外から見るとどうなのでしょうか。
やはり「付き合いにくい人」になったのでしょうか。
ちょっと「性格が悪くなった」という自覚はあるのですが。

今日は午前中は病院でしたが、1時からまた来客が続きます、

■1433:常懐悲感、心遂醍悟(2011年8月5日)
常懐悲感、心遂醍悟。
法華経寿量品にある有名なことばです。
常に悲感をいだいて、心ついに醒悟する、と訓読みします。
人は絶えず悲感に打たれることによって眼をさますことができる。
幸福のなかにどっぷりつかって、積極的な生きかたを忘れてしまった人間に必要なのは、悲感である、というわけです。

悲感を胸中に抱きながら生きることは辛いことだろうと、私も以前は思っていました。
もちろん辛いことではあるのですが、悲感と無縁に生きることと比べて、どちらを選ぶかと問われたら、今の私は迷います。

法華経の解説書を読むと、こういうようなことが書かれています。
人は、悲感に囚われると、なんとかしてそれから逃れようとする。
たとえば、その悲しみを他人に話すことによって悲しみを消そうとする。
こういうものを愚痴という。
しかし、愚痴をこぼしたって、事態は良くならない。かえつて悪くなる。
むしろ、悲感を自分の胸のなかに抱いていることが大切だ。
その悲感があなたの心を浄化する。
悲感は、冬のすみきった寒気のように、痛いほどに鋭いが、その鋭さが心地よく気持ちをほぐしてくれる。
そして、心を醒めさせてくれる。

今の私には納得できます。
だとしたら、この挽歌は「愚痴」なのか。

空海に、彼の愛弟子の智泉が早逝した時の逸話が残っています。
空海は、その悼文の中で、こう書いているのです。
「哀れなるかな。哀れの中の哀れなり。悲しきかな、悲しきかな、悲の中の悲なり。
(中略)しかれどもなお夢夜の別れ、不覚の涙に忍ばれず」

悲しさは思い切り表現してもいいのです。
しかし、表現してもそこからは逃れられません。
あとはただ、常懐悲感。
悲感を抱きながら生きることが、いつしか生きる意味を生み出してくれるのです。
悲感しながらも、悲感から目を逸らさずに、しかし素直に生きることに、少し慣れてきたような気もします。

■1434:「身体」のある言葉(2011年8月6日)
節子
生死や愛に関わることについて、いろんな人がいろいろと言いますが、私にはピンと来ることがあまりありません。
特に「仏教者」や「知識人」と言われる人の話の多くは、素直には心に入ってきません。
これは、私の性格の悪さのためかもしれませんが、「わかったようなこと」を言われると、ついつい反発したくなります。
しかし、同じことを、実際に体験した人の口から聴くと共感できます。
言葉は発話者と一体になって、意味を形成するということかもしれません。

言葉は「いのち」を持っているという言霊思想は前にも書きましたが、
言葉は「身体」も持っているように思います。
つまり、「節子の言葉」と「私の言葉」は、同じ言葉でも、その意味や効果は違うものだということです。
時々、節子ならこう言うだろうなと思うことがあります。
その時には、必ず節子の姿や表情が対になって思い出されます。
声は聞こえませんが、節子の身体は感じます。

言い換えると、「身体」のない言葉ほど、虚しい言葉はありません。
私が、「宗教者」や「知識人」の話に反発を感ずるのは、それが身体を持たない言葉に感ずるからです。
自分の身体から遊離して、誰かのため、聴き手のために、語られている気がするからです。
読み手のために書かれた言葉も、私には虚しく響きます。
そういう言葉には、「いのち」も感じません。

言葉の出発点は、身体的体験だろうと思いますが、体験がなくても語れるのが、情報社会、知識社会かもしれません。
しかし、知識も情報も、やはり自らの身体を通さなければ、本当の言葉にはならないような気がします。
そうしたことを十分に行わずに、したり顔でお説教されると、「あなたは実体験されたのですか」と、ついつい訊きたくなります。
ちなみに、シッタルダもイエスも、聖書や経典を残したわけではなく、実践を残しただけで最近、「仏教」ではなく「ブッダの言葉」と言うような表現が使われだしていますが、身体と切り離されて着飾ったブッダの言葉は、経典とさほど変わらないでしょう。

ローマ時代の哲学者キケロが、「時間がやわらげてくれぬような悲しみはひとつもない」という言葉を残しているそうですが、この言葉は、たぶん自らの体験談なのではないかと思います。
だから2000年たった今にまで残っているわけです。
ブッダにも同じような、いまもなお生きている言葉があるのかもしれません。
しかし、もしあるとしても、したり顔で解説してほしくないと、性格の悪い私は思います。

■1435:「カティンの森」(2011年8月7日)
節子
アンジェイ・ワイダの「カティンの森」をDVDで観ました。
ワイダの映画を観るのは30年ぶりでしょうか。
学生の頃の「地下水道」や「灰とダイヤモンド」の印象が強烈過ぎて、その後観た「大理石の男」(面白くなかったです)以来、観る気にはなれませんでした。
それにしても、「地下水道」は今もなお、思い出しただけで心が冷えてくるような映画でした。

節子と結婚してからは、あまり映画には行かなくなりました。
それまで奇妙な魅力を感じていた、M.アントニオーニやイングマル・ベルイマンの映画に興味を失ったのは、たぶん節子と結婚したからだと思います。
映画よりも現実の世界のほうが、私を魅了しだしたわけです。
それに、節子は映画という虚構の論理の世界よりも、美術展やコンサートといった直接体験できる感性の世界が好きでした。

「カティンの森」は、私にとっては、その事件そのものへの関心がありました。
ご存知の方も多いと思いますが、20万人を超えるポーランドの将校や徴兵者を含む軍人たちがカティンの森で虐殺された事件です。
当初、それはナチスの仕業とされていたのですが、真相はソ連の人民委員会でした。
それに関しては、私は何の怒りも感じないのですが、事実を知りながら隠蔽したアメリカのルーズベルトなどの国家政権へは怒りを感じます。
真相を公開しようとした人たちは不幸な目に合わされています。
政府は、いつの時代も同じです。
ヒトラーだけが例外だったわけではありません。

この映画には、事実に従って毅然と生きた(あるいは死んだ)人たちが描かれています。
そのそれぞれの生き方には、背筋が震えました。
私が揺さぶられたのは、将軍の夫人ローザの生き方でした。
愛よりも真実に、生命よりも真実に。
誠実に生きている人にとっては、真実こそが、すべての愛の、そして生命の根源なのです。
自分の生き方を、振り返らないわけには行きません。

「カティンの森」の感想は、挽歌よりも時評で書くべき題材ですが、節子に話したい気持ちが湧き上がり、挽歌に書いてしまいました。
この映画は、「愛」を深く考えさせる映画です。
伴侶への愛、兄への愛、父への愛、友への愛。
悲しさの中でこそ、愛はその真実の姿を表します。
そして、愛するということの悲しさを教えてくれるのです。
ワイダに何があったのでしょうか。

気になりながら、観る気になれなかった「カティンの森」でしたが、思い切って観てよかったです。
映画館ではまだ観る勇気はありませんが。

■1436:慈悲を込めた怒り(2011年8月8日)
節子
上野の国立博物館で「空海と密教美術展」をやっています。
仏像はお寺で見たいという思いが強いため行く気はなかったのですが、ユカのお勧めもあって行くことにしました。
まだ行ってはいないのですが、昨日からテレビで3夜連続の「空海」特集をしています。
その第1回目は「仏像革命」。
東寺の立体曼荼羅にある怒りの表情の明王がテーマでした。
空海がもたらした、怒りの仏像の意味が、さまざまに語られていました。

慈愛に満ちた穏やかな表情の仏像と怒りの表情の明王像とは、たしかに対照的です。
如来を守る四天王像もまた、時に怒りの表情を見せています。
それは仏が守る平安な世界に攻め入る「仏ならざるもの」への威嚇だと考えられますが、私はずっとそれに対して違和感を持っていました。
山川草木悉皆仏性というのであれば、「仏ならざるもの」は存在しないはずです。
帝釈天は誰と戦っているのか。
一説では阿修羅ですが、阿修羅もまた仏の世界にいるものです。

こうした疑問は、しかし解くべき問題ではないのかもしれません。
なぜなら、山川草木悉皆仏性とは、山川草木悉皆魔性をも含意するからです。
さらにいえば、仏性と魔性とは、コインの表裏、不一不二なのです。
こういう話こそ、いま必要だと思いますが、救いを説く僧尼たちは、あまり語りません。

仏師の松本明慶さんは、「怒り」の表情に慈悲を感ずる人もいるといいます。
その怒りの表情の先が、自らの「敵」に向けられていると感ずれば、むしろその「怒り」は「慈悲」に通ずるというのです。
たしかに言われてみればその通りです。
その怒りは、自らを守ってくれる意志の強さを表わしていることになります。
つまり、仏が向いているのは、拝む私なのか、私の顔が向いている先なのか。
それによって、仏の表情の意味は一変するわけです。

しかし、空海が求めた「怒り」の表情は、それとはまた違っていたようです。
番組の語り手でもある作家の夢枕漠さんは、一番の悲しさは愛する人を亡くした時だと言います。
しかも、それが病気や天災であれば、その悲しみや怒りを向ける矛先がない。
慈悲の表情だけでは、そうした悲しみは救えないというのです。

仏の怒りが向けられているのは、拝む人、つまり私ではないか。
そして、その怒りは、私の深い悲しみ、深い怒りに、同調してくれているのではないか。
つまり、怒りの矛先がわからない私に代わって憤怒の表情を示してくれているのではないか。
だからこそ、恐い顔の不動明王は、心を鎮めてくれる存在なのです。
そこにあるのは、慈悲を込めた怒りなのです。

「一番の悲しみ」を体験したおかげか、こうしたことが少しずつわかってきて、怒りの表情の中に慈悲を、慈悲の表情の中に、怒りを感じられるようになって来ました。

いまなおわからないのは、大笑いしている仏の顔です。
まだ笑いの中に慈悲を読み解く事ができずにいます。

■1437:「常在悲感」(2011年8月9日)
仏教の話が続いたついでに、もう1回だけ。
「常懐悲感、心遂醍悟」の話が出てくる法華経寿量品には、もう一つ有名な言葉があります。
「常在霊鷲山」です。
霊鷲山は、ブッダが法華経を説いた聖山ですが、ブッダの寿命は永遠であり、常に霊鷲山に在って説法を続けている、というのです。
空海がいまなお、高野山の奥の院で衆生の救いを念じているのも、同じことかもしれません。

仏教の心を説き続けている紀野一義さんは、「常在霊鷲山」と同じように、「常懐悲感」ではなく「常在悲感」でなくてはいけないと言います。
「常懐悲感」、悲感を懐く(いだく)というのでは、私と悲感は別ものになります。
しかし、「常在悲感」であれば、私は悲感の中にある、つまり悲感と私はひとつということになる、というのです。
理屈っぽく感じるかもしれませんが、深い悲感を体験すると、そのことがよくわかります。
悲感は、私そのもの。いまの私には違和感なく納得できます。

だから何だと言われそうですね。
まだうまく説明できませんが、たとえば、悲感は切り離せないということです。
懐いている悲感は忘れることも捨てることもできるでしょうが、「常在悲感」の悲感は捨てることもできません。
また、「常在悲感」は、私は常に悲感のなかに在る、ということであって、悲感が常に私の中に在るということではありません。
ですから、悲感から抜け出ることもできないのです。

なにやら「悲しい人生」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
悲感の世界にも、喜びも楽しさもある。
むしろ、ちょっとした優しさや気遣いに感激できるようになって、喜びは多くなるかもしれません。
「悲感の世界」は、細やかな感情の機微が見えてくる、むしろ豊かな世界なのです。
「常懐悲感」の場合は、自分の懐く悲感だけが重く感じられて、世界が見えなくなることもあるかもしれませんが、「常在悲感」にある人は、悲感を分かち合う優しさが生まれるのです。

私がこういう心境になってきたのは、ついこの数か月のことです。
いえ、今も時々、自分の「悲感」の重さに潰されそうになることもないわけではありません。
しかし、3.11の東日本大震災で生まれた多くの人たちの「悲感」に触れて、「悲感の世界」がようやく見えてきたような気がしています。

■1438:4回目のお盆が来ます(2011年8月10日)
節子
節子のお盆の帰省が近づきました。
節子だけならいいですが、いつ、お坊さんやらだれかが来ないとも限りません。
それで、娘と一緒に仏壇の掃除をしました。
節子の友達からの手紙が何通かたまっていたので、整理しました。
節子と仲良しだった勝っちゃんからの絵手紙もありました。

掃除を終えて、パソコンを開きました。
挽歌のコメント欄に、その勝っちゃんからの投稿が書き込まれていました。
節子に関しては、こういう偶然の一致がよく起こります。

節ちゃんが亡くなられて四回目のお盆が来ましたね。
いつまで経っても忘れられません。

そうか、4回目なんだ、と思いました。
節子がいなくなってから、時間の感覚があまりなくなっています。
節子がいなくなったのが昨日のようにも感じられますし、いなくなってからもう何百年も過ぎてしまったように思うこともあります。
何百年というのはおかしいのですが、節子と一緒だったのは「前世」だったような思いに捉われることがあるのです。
逆に、もしかしたら明日、節子が戻ってくるかもしれない気がすることもあります。
私の中では、時間の流れが乱れてしまっているわけです。

4回目のお盆。
いつまで経っても忘れずに、思い出してくれる人が、節子には私のほかにもいるのです。
節子は幸せ者なのです。
勝っちゃんが思い出すのはお盆だけではありません。
私の記憶では、勝っちゃんはいつも節子の誕生日を覚えていて、電話や手紙をくれていたように思います。
節子の誕生日は「節分」だったので思い出しやすいから、というような話を聞いたことがあります。
それに引き換え、節子は勝っちゃんの誕生日を忘れがちで、来年は忘れないようにしなくちゃ、と言っていたのを覚えています。
なんとまあ節子は薄情者だったことか。
しかし「あばたもえくぼ」というように、惚れてしまうとそういう欠点までもがなんとなく好きになってしまうものなのです。
いまから思えば、節子は欠点が多かった。
にもかかわらず、なんで好きになってしまったのか。
愛とは不思議なものです。

お盆で節子が帰省してくるのであれば、少しシャキッとしなければいけませんが、最近はいささか夏バテです。
節子が帰省してきたら、元気が出るかもしれませんが。

■1439:私だけの悲しみ(2011年8月11日)
友人が体調を崩しました。
なにやらややこしい病名で、身体が自由に動かなくなっているそうです。
電話で、服を着替えるのに1時間もかかってしまう。これまで身体の不自由になった高齢の父に無理を強いていたことに気づいた、というようなこと言ってきました。
体験しないとわからないことはたくさんあります。
いや、すべてがそうなのです。
しかも、その「体験」は人によって違いますから、実は人の気持ちなど、わかるはずもないのです。
そういう認識があって初めて、他者への思いが通じ合えるのかもしれません。

私の悲しみは、私だけのものです。
しかし、だれかにわかってもらいたいという気持ちがどこかにあります。
そして同時に、誰にもわかるはずがないという、怒りのような気持ちもあるのです。
一番安堵できるのは、私の悲しみを誰かがわかってくれた時ではありません。
私が誰かの悲しみを少しだけわかったような気持ちになった時なのです。
私だけの悲しみを守りながらも、その世界を広げられたと思えるからです。
大切なのは「自動詞」なのです。
悲しみの世界の中では、私が常に主役でありたいのです。

私だけの悲しみ、って、しかしなにか「少女趣味」ですね。
俺だけの哀しみ、といえば、男らしいでしょうか。
まあそんなことはどうでもいいのですが、最近、少しずつ悲しみの意味がわかってきたような気がします。
独りよがりといえばそうなのですが、何だか少しずつすっきりしてきた気がします。

最近、悲しみの話が続きました。
そろそろ悲しみの世界から抜けないといけないのですが、
しかし最近なにやらとても「悲しい」のです。
お盆が近いからなのか、8月だからなのか。
その悲しみを「共にする」節子がいないのが、どうも理解できないのですが。

ライムさんがコメントに書き込んでくれました。
素直に心に入りました。
ありがとうございました。

■1440:曼荼羅のおどり(2011年8月12日)
節子
昨夜はチビ太〈16歳の老犬〉に起こされて、真夜中、彼に付き合って起きていました。
そばにいないと鳴くので、彼の近くで先日録画した「空海 曼荼羅の宇宙」を見ました。
魅了されました。
チビ太どころではなく、気がついたらチビ太は寝ていました。
もしかしたら、節子の時の私の看病も、こんなだったのでしょうか。
大いに反省させられました。

魅了されたのは曼荼羅の前で踊るダンサーの森山開次さんです。
彼は空海が修行した地で空海が仰ぎ見た星空を追体験したり、さまざまな曼荼羅に触れたりしながら、踊りを生み出していくのですが、その過程で曼荼羅の意味が解き明かされていきます。

私が感動したのは、奈良国立博物館にある子島曼荼羅です。
紺の綾地に金と銀で描かれた両界曼荼羅です。
その前で、森山さんは、曼荼羅が心のなかまで包み込んでいくような気がすると話していましたが、テレビ画像からでさえ、そう感じました。

曼荼羅の仏と一体化したような森山さんの「おどり」は、私には少し違和感のあるものもありましたが、魅了されました。
曼荼羅世界は仏たちの饗宴だったことを、改めて実感させてもらいました。
そして曼荼羅に、これまでにない親しみを感じました。

森山さんは、みずからのおどりについて、こう話していました。

やっぱり私は人間だし、ほとけの踊りをしたいとは思わなくて、いま感じている等身大の自分がそこに向き合って出てくる感情を隠さないで、悲しいことや醜い心や、いろんな気持ちを出していきたい。

とても共感できる言葉であり、また森山さんのおどりには、確かにそれが感じられました。
「怒り」も、恐ろしいまでに見事に演じられていました。
同時に、私には嘆きも感じられました。

悲しみ、醜さ、喜び、怒り、嘆き。
曼荼羅には、そうしたすべてが仏たちによって込められているようです。
そして、その曼荼羅の世界は、まさに私が生きている、この世界です。

森山さんのようなすばらしいおどりは、私には出来ませんが、その時々に湧き上がってくるさまざまな感情を素直に出しながら、無邪気なほとけたちと共にありたいと思いました。

明日は節子の迎え火です。

■1441:お盆で節子が帰省しました(2011年8月13日)
節子が帰省しました。
と、これがまたややこしいのです。

一応、今日は彼岸の入りなので、お墓に節子を迎えに行きました。
この日のお寺はいつもと違って、大賑わいです。
娘から誰もいないとお経の声が大きいのに人がいると声が小さいと笑われていますので、今日は大きな声で般若心経をあげました。
わが家の迎え火は、提灯ではないのです。
わが家らしく、ガラス製のキャンドルケースなのです。
最近は伝統的な提灯がいいと、私は思い出していますが、何しろわが家の仏壇からしてそうなのですが、節子は仏事に関しては、明るさを求めていました。
節子はどちらを好むでしょうか。

それはそれとして、無事、お寺からロウソクの火を自宅までもってきて、庭で迎え火です。
そしてお盆のために用意した精霊棚用のロウソクに火を移しました。
そして、そこの節子の位牌に向かって、
「節子が帰ってきたよ」
と報告したわけです。
口に出して、ようやくおかしいと気づきました。
節子はどこにいるのか。わが家の位牌壇なのかお墓なのか。
まあこれは毎年この日になると思い出す「ややこしい話」なのですが。

この期間はわが家の仏壇は、大日如来を入れたまま扉が閉ざされます。
年に1回の大日如来のお休み期間です。
節子が独占している精霊棚には、あまり食事は供えられません。
別に主義があるわけではなく、単に手を抜いているだけですが、合理主義者の節子はたぶん賛成しているでしょう。
その代わり、花はたくさん供えられています。
お供えする花は仏花ではなく、節子好みの明るい花です。
今年もまたユリを中心に供えさせてもらいました。
お隣の宮川さんも毎年、おしゃれなフラワーアレンジメントを届けてくださいますが、節子の好みを知っているのか、今年は明るいピンクを基調にしたものでした。
お盆から9月はじめの命日まで、わが家はまた花で賑わいますが、こう暑いと花の元気を維持するのが大変です。

わが家は転居したため、お寺さんはあまり来ません。
今年も忙しいようで、今日はお見えになりませんでした。
それで私が棚経として般若心経をあげました。
きっと節子は感激していることでしょう。

ところで、わが家のチビ太が夕方から興奮して吠え止みません。
帰ってきた節子を感じているのでしょうか。
節子の精霊棚とチビ太のベッドはすぐ近くなのです。
今夜は節子も眠れないかもしれません。

■1442:愛するものたちの帰省の夏(2011年8月14日)
節子
昨夜は明け方までチビ太が眠らずに、大変でした。
お医者さんからもらっている頓服薬を飲ませても、なかなか効果が出てきませんでした。
今日も暑い日です。

3.11の津波で、妻と娘と手を握り合って逃げていたのに、津波に襲われて手を放してしまい、家族を失ってしまった男性の嘆きを、何回かテレビで見ました。
昨夜もその映像に出会いました。
記録映像は時に残酷です。

その人は、「手を放してしまった」と表現しました。
「手を放したこと」への呵責が感じられます。
一緒にいた愛するものたちと一瞬にして引き裂かれてしまう。
これほどの悪夢はないでしょう。

その映像を見ていて、私はいつも思います。
「手を放した」のではなく「放し合った」のだ、と。
なぜならそれまで「手を握り合っていた」のですから。
「手を放す」と「手を放し合う」とどこが違うのか、
と問われそうですが、私にとっては大きく違います。

愛し合うものたちの行為は、如何なるものにも「意味」があります。
逃げる時に手を握り合うのも、危機を逃れる時に手を放し合うのも、です。
もしそこに「意思」が働くならば、だれもが手を話すはずはありません。
手を放し合ったのは、お互いに愛し合っていたからこそだ、と私は思います。
そして、誰かが遺された。
遺されたものの辛さは、遺されたものでなければわからないでしょう。

昨日、時評編に書いたドラマ「家族の絆」のなかの実際の取材映像で、沖縄の防空壕に爆弾を投げ入れられた中から奇跡的に生き残った人が生き残ったことの辛さを話していました。
その時の光景がいつも浮かんできて、心やすまることがないというのです。
目が覚めてしまった人には、悪夢が永遠につづくのです。

その悪夢を終わらせることができるのは、逝ってしまった愛する人だけです。
昨日から、彼岸と此岸がつながるお盆です。
愛する者たちがいまたくさん戻ってきているでしょう。
たくさんの悪夢を燃やし尽くしてほしいと願います。
この暑さは、そのせいかもしれません。

わが家にも節子が戻っています。
チビ太の興奮はそのせいかもしれません。
私もなお、「手を放してしまった」ことの悪夢から完全には解き放たれてはいないのですが。
この時期は、夢をよく見ます。

■1443:記憶の喪失(2011年8月15日)
暑さがつづいています。
今日はユカと一緒に父母のお参りに行ってきました。
節子は私の両親と同じお墓に埋葬されています。
これは節子自らが選んだことです。
節子は30代の中頃から私の両親と同居し、2人を最期まで看取ってくれました。
お墓は同じなのですが、仏壇だけは節子専用にさせてもらいました。
両親の仏壇は私の兄に頼みました。
そんなわけで、お盆には両親は兄の家に、節子はわが家へと戻ってくるのです。

節子は私の両親には、私以上に好かれていました。
しかし、義理の父母との暮らしは、節子にはかなりのストレスだったでしょう。
ですから、節子が父母の墓に埋葬してほしいと言い出した時には、正直驚きました。
おかげで、私も両親と同じ墓に入ることになりました。
私は閉所恐怖症ですから、お墓への埋葬は好みではありません。
広い空間に散骨してほしいと、節子には頼んでいましたが、そうはなりませんでした。
節子が墓を選んだ以上、私も同じ墓に入るつもりです。
節子と一緒なら、なんとか耐えられるでしょう。
だめなら一緒に出ればいいですし。

お盆のせいか、両親の仏壇の前でも話は両親や節子のことになりました。
そして病院や闘病の話になったのですが、私にはほとんど記憶がないことに気づきました。
兄夫婦のほうがいろいろと覚えていますし、娘のほうが覚えているのです。
話しているうちに少しずつ思いだしましたが、なぜか連続した記憶ではなく、極めて断片的なのです。
もともと私は記憶力がよくないのですが〈過去にはほとんど興味がないのです〉、それにしてもあまりにも忘れている自分をいささかいぶかしく思いました。
しかしまあ、忘れていくことは健全に歳をとっていることなのでしょう。

記憶が薄れていくと欠落した記憶を埋めるための創作が始まります。
この挽歌も、だんだん創作になっていきかねません。
もっとも今も、創作じゃないのと時々娘たちから言われます。
私の意識では、創作はないのですが、まあ人の記憶など、すべて創作かもしれません。

節子が帰省していたにもかかわらず、今年のお盆はなぜかお盆らしい気がしません。
なぜでしょうか。
軽い熱中症のせいか、最近あまり現実感がないのです。
もしかしたら、彼岸の入り口が開いたので、節子が戻ってきたのではなく、私の心が彼岸に行ってしまっているのかもしれません。
そう考えると奇妙に納得できる、この3日間です。
心ここにあらず、というような毎日を過ごしています。

■1444:送り火(2011年8月16日)
お盆も、あっという間に送り火です。
今日はみんなでお寺に行きました。
夕方だったせいか、ごった返していました。
わが家のお寺は、前にも書きましたが、我孫子市の久寺家というところにある宝藏寺です。
真言宗豊山派のお寺です。
久寺家は昔は久寿寺と書いたそうですが、何やら意味ありげのお寺です。
昔の小さな城址ともいわれるところにあるため展望が比較的いいです。
昔は、その近くに住んでいたので、父母の墓参りに、節子と一緒によくそこには行きました。

お墓のイメージは、そこに親族のお墓があるかどうかで全くイメージが変わります。
私は昔は墓地がなんとなく恐くて、不浄のイメージがありました。
夜に一人ではとても行けないところでした。
父母を葬ってからはイメージが変わりました。
不浄感はなくなり、恐さもあまり感じなくなりました。
そして節子を葬ってからは、私にとってはほぼ日常空間と同じになったのです。
今なら夜でも行けるでしょう。

お墓のイメージの変化は、彼岸への距離に関連しているのかもしれません。
昨日、時評編で日系アメリカ人のミネタさんの
「何かについて、誰かについて、知れば知るほど、恐怖感はなくなっていく。」
という言葉を引用させてもらいましたが、
まさに彼岸やお墓に関しても、同じ事が言えるかもしれません。

最近は彼岸と此岸の距離は遠くなってきているのか、近くなっているのか。
これはどちらともいえません。
近くなってきているような気もしますが、生活の面では遠のいているようにも思います。
葬儀形式も形式化してきている一方で、個性化もしています。

家庭で送り火を燃やす風景には最近はあまり出会いません。
しかしお寺への提灯の数は年々増えているような気もします。

節子の送り火は、今日は4人で行いました。
今夜からまた節子は仏壇に戻っています。
今年のお盆は、不思議な疲れを感じたお盆でした。
歳のせいか、暑さのせいか、それとも時空の歪のせいか。
いずれにしろ、なにもできない4日間でした。

■1445:カニッツァの三角形(2011年8月17日)
「カニッツァの三角形」をご存知でしょうか。
有名な錯視図形の一つです。
ご存じない方は次のサイトで体験してください。
http://brainsc.com/kinou/kanizsa.html
実際にはそこにないものが見えてくることはよくあることです。

しかし、「そこにあるもの」とは何でしょうか。
もしそこにあるように見えるのであれば、それは「そこにある」と言ってもいいかもしれません。
ドラゴンは実在する生き物でしょうか。
想像上の生き物ですが、たぶん多くの人は、その姿をイメージできるでしょう。
実在する動物の多くを、私は実際にこの目で見たことはありません。
だとすれば、私が見たことがない実在する動物とドラゴンのような架空の動物は、私にとっては分けて考えることはありません。
いずれも私の頭の世界には「生存」しているのです。

進化心理学というのがあるそうですが、そこでは、「記憶」とは生き残るために人が身につけた「道具」であるとされます。
そして、「記憶の世界は生きていくために好都合なように変化していく」というのです。
とても納得できる話です。
しかし、これはなにも「記憶」だけではありません。
「現在」の世界もまた、「生きていくために好都合になるように」変化しているのかもしれません。
現在の世界は、「想像」によって構成されていきますから、記憶の世界と同じように、その人の意思によっていかようにも変わりえます。

お盆には彼岸と此岸の世界が通ずるという「方便」もまた、私たちが「生きていくために好都合になるように」設計されたことでしょう。
その方便を信ずる人は、祖先たちとの饗宴を楽しんだかもしれません。
「カニッツァの三角形」が見えるならば、彼岸が見えないとは言い切れません。
その気になれば、彼岸に行ってしまった人にも会えるかもしれません。

残念ながら、今年のお盆は節子に会えませんでした。
彼岸もあまり実感できませんでした。
しかし、カニッツァの三角形のような、見えない世界が見えてくるかもしれない。
そんな気がしてきました。
人は見えるものを見るのではなく、見たいものを見るものです。
だとしたら、いつかきっと彼岸も見えてくるでしょう。
節子にもう一度会いたいという気持ちだけは強く持ち続けたいと思います。

私が生きているうちに会えるといいのですが。
今年のお盆は暑いお盆でした。

■1446:「妻は4年前に亡くなりました」(2011年8月18日)
節子
街で、付き合いの少ない知り合いに会うのが苦手です。
なぜか決まって「奥さんはお元気ですか」と訊かれるのです。
私たちは、いつも2人一緒だったから、そう訊かれるのかもしれません
今日、夕方、近くのお店で久しぶりに会った人からも、そう訊かれました。
「妻は4年前に亡くなりました」
その言葉は、あまり口にしたくはない言葉です。
この言葉を聞かなければ、その人の世界ではいまも節子は生きているのですから。
しかし、私の世界にはいないのに、誰かの世界にはいるのも、あんまり気持ちのいい話ではありません。

人は自分中心で物事を考えがちです。
節子を見送った直後、そのことを知らない人に出会うとなぜか腹が立ちました。
知らないのが当然なことはわかっているのに、なぜか腹が立つのです。
私が愛する節子が旅立ったのを知らない人がいるとは信じられない、そんな気分でした。
それほど私には大きな事件だったわけです。
その反面、4回目のお盆ですね、などと言われると心和むのです。
その自分本位さは、われながらいやになりますが、それが素直な気持ちなのです。

愛する人を失う体験を持つのは私だけではありません。
みんなそうした体験を持っているはずです。
昨日も川下りを楽しむ船が転覆して、死者が出たというニュースが流れていました。
私と同じ思いをする人がまた何人か生まれた、というのが、こうしたニュースに接した時に、いつも私の頭をよぎる最初の気持ちです。
毎日、どこかで愛する人との別れが繰り返されている。
節子との別れは、どこにもよくある話の一つでしかないのです。
そんなことは、私もよくわかっています。
にもかかわらず、私にとっては、節子との別れだけに特別の意味がある。
なんとまあ身勝手なことか。

「妻は4年前に亡くなりました」
その言葉も口に出したくないですが、それ以上に、その言葉への反応が辛いです。
相手もどう反応していいか困るでしょうが、その反応にどう反応していいか、これまた悩ましい話なのです。
ちなみに、どんな反応であっても、身勝手な私が満足することはありえません。
だから近くで、あまり親しくない人に会うのがいやなのです。

■1447:哀しみの愛と歓びの愛(2011年8月19日)
節子
「愛」は、実にさまざまです。
この挽歌を読んでコメントやメールを寄せてくださる人もいますが、
それを読んでいて、それがよくわかります。

学生時代、映画館にかなり入り浸っていました。
「愛」をテーマにした、イタリアやフランスの映画もよく行きました。
恋愛体験もないくせに、いささか頭でっかちの恋愛感を持っていました。
節子は、最初はたぶん戸惑ったことでしょう。

40年の節子との生活は、いろいろありました。
波風も全くなかったわけではありません。
しかし、私の愛も恋も、次第に節子に収斂しだしました。
映画の世界を抜けて、実際の世界へと引き寄せられたのです。
節子と一緒にいるだけで、最高に幸せでした。
節子も、そうだったと思います。たぶん、ですが。

節子を見送った後、次第に強くなってきたのは、愛の哀しさです。
愛は、歓びを与えてくれますが、その大きさに比例した哀しみも用意してくれています。
人を愛するということは、その哀しみを覚悟するということなのです。
その覚悟がなくては、人を本気で愛することなどできません。
しかし、残念ながら、若い頃にはそんなことなど気づくはずもありません。
私もそうでした。
それに気づいたのは、節子を見送ってからでした。

その覚悟があれば、節子との最後の数年は少し違ったものになったかもしれません。
しかし、私は、その覚悟から逃げていました。
節子は絶対に治るものだと信じ込んでいたのです。
今から思えば、一種の逃避かもしれません。
節子は、そうやって逃避する私をたぶん責めはしないでしょうが、知っていたはずです。
いま思えば、そう感じます。
節子は、いつもやさしかったのです。
信ずるのも愛ならば、騙されるのも愛かもしれません。

哀しみの愛と歓びの愛。
いま私は、哀しみの愛のなかにいます。
歓びの愛にもう一度戻りたいと思いはしますが、それはかなわぬ思いです。
しかし、ふたつの愛を体験してこそ、節子への愛は成就するような気がします。
哀しみの愛の中でこそ、見えてくる節子の魅力もあるからです。
それによって、節子を愛したことの歓びが実感できるのです。
節子と別れて、私はますます節子にほれ込んできました。
人を愛することができるほど、幸せなことはありません。

挽歌を書いていると、いろんなことに気づかせてもらえます。

■1448:輪廻でもなく解脱でもなく(2011年8月20日)
数日前までの酷暑が嘘のように、節子が彼岸に戻ってから、肌寒ささえ感ずる日が続いています。
節子が、酷暑を持っていってくれたのでしょうか。
そんな思いがするほどに、急に涼しくなりました。
人は身勝手なもので、暑い時は涼を求めるくせに、涼しくなると暑さがほしくなります。
新しい世界よりも、慣れ親しんだ世界を懐かしむようになったら、人生は終わりだと考えていたころがあったことを、思い出しました。
私は、過去にはほとんど興味を持たないはずだったのに、最近は未来よりも過去に生きているのかもしれません。
それが良いとか悪いとかではなく、ふとそんな気がしました。
もちろん、今も決してそうではありませんが。

夏から秋へ、此岸から彼岸へ。
人は世界を渡り歩いているのかもしれません。
しかし、違う世界へ向かう時には、ある種の高揚感が生まれます。
だから、季節の変わり目が、私は好きでした。
あるいは、違った文化の世界が好きでした。

節子がいなくなって、世界は変わりました。
私が動かなくても、夏が秋になるように、変ったのです。
いまから思えば、たしかにその時、私は高揚していたかもしれません。
告別式での挨拶や弔問客への対応、妻を亡くした私が元気そうなのを見て、驚いた人がいるかもしれません。
世界を移る時には、だれかがきっと「ちから」を与えてくれるのです。

節子がいなくなった世界はもうじき4年が経ちます。
その世界は、奇妙に完結していて、時間の流れが不安定です。
しかも重力が大きいようにも思います。
その世界は、決して居心地が良いわけではないのですが、違う世界に動きたいとも思わない、不思議な世界です。
言い換えれば、もう次の世界に渡り歩く気がなくなった、ということです。
「出家」という言葉がありますが、どこかそんな思いに通ずる気もします。

この世界からは此岸が良く見えますし、彼岸さえ見える気がする。
輪廻と解脱ということも、時に感じます。
もう前にも後にも進むことなく、あえて「瞑想」もすることなく、自然にあることでいいのだと誰かから言われているような気もするのです。
しかし残念ながら、まだ心の平安は得られずにいます。
とても宙ぶらりんの心境です。

いま私は本当に生きているのかどうか、時々、疑問に感ずる事があるのです。

■1449:生きることの大切さ
(2011年8月21日)
節子
友人の知人が心筋梗塞で亡くなりました。
まだ50代で、どうやら過労だったようです。
なぜ人は死ぬほど働くのでしょうか。
生きるために働いているはずなのに、働きすぎて死んでしまうのは、本末転倒です。
死者には申し訳ないのですが、そういう話を聞くたびに、生きようとがんばっていた節子を思い出します。
「生きること」をもっと大事にしてほしい、と言っていた節子の目を思い出します。

そういう人には、多くの場合、予兆があります。
本人もそうですが、周囲の人も、それに気づいていることが多いのです。
昨日、心筋梗塞でなくなった人も病院に行く予定だったのが、仕事の忙しさで遅れてしまったようです。
そういえば、節子もよく知っていたYSさんもそうでした。
仕事のために病院に行くのが遅れてしまい、間に合わなかった。
40代でした。
彼のお母さんにお会いした時には、かける言葉もありませんでした。
なんという親不孝なのか。
しかし、そういう人に限って、誠実でやさしい人も多いのです。
そういう人を、死に追いやる社会にやはり問題があるのかもしれません。

今日は湯島で、自殺のない社会づくりネットワークの恒例の交流会です。
私が、自殺の問題に関わりだしたのは、「どうしてもっとみんな生きることを大事にしないのか」という、節子の、怒りのような言葉と無縁ではありません。
自殺も過労死も、他者を殺めるのも、孤独死を放置するのも、そうしたことを引き起こす社会に対して何もしないのも、みんな同じことなのかもしれません。
その出発点は、言うまでもなく、自らの「生きる」ことを大事にすることです。
自らの「生」を大事にしないで、どうして愛する人の「死」を悼むことができるでしょうか。

誠実に、素直に、ひたすらに、生きること。
それが私の今の生き方です。
そうしなければ、彼岸で節子に合わす顔がありません。

過労死も自死も避けなければいけません。
死を避けたくても避けられない人がいることを知ってほしい。
そして避けられなかった死を悼んでほしい。
そうすれば、生きることの大切さに気づくはずです。

最近は、悲しいことが多すぎます。

■1450:夢のような世界(2011年8月22日)
少し前に、夢だと思って見ている夢のことを書きました。
この種の夢は「明晰夢」というそうです。
「明晰夢をよく見る人は、やがて見ている夢を自分でつくり変えることが可能になる」と、ある本に書かれていました。
最近、そうした明晰夢を見ることはなくなりましたが、以前はよく見ました。
ところが、なかなか思ったようにはなりませんでした。
空を飛べる夢を見ても、思うように飛べなくて、失敗するのです。

節子がいなくなった後、節子の夢を見たいと思うこともありました。
しかしなかなか思うようにはなりませんでした。
その頃からでしょうか、私はあまり明晰夢を見なくなったような気がします。

夢は寝ている時だけ見るものではありません。
生きている時も見る夢はあります。
希望や目標と言ってもいいかもしれません。
両者は全く違うものではないかと思いますが、なぜか同じ「夢」という言葉で表わされます。

いずれも「質感のない映像」のようなもので、いとも簡単に壊れてしまいます。
しかし、寝ている時に見る夢は「現在」の話です。
一方、生きている時の夢は「未来」の話です。
それがどうして同じ言葉で語られるのか不思議です。
両者はきっと深くつながっているのでしょう。

節子と一緒に描いていた私の「夢」は、節子と共に消えました。
それに代わる夢を持てない私は、それ以来、夢がなくなりました。
しかし、もしかしたらすべてが夢になってしまったということかもしれません。
節子のいない人生は、夢のようだともいえるからです。
「夢」という言葉は不思議な言葉です。

最近、明晰夢をみなくなったのは、現実が夢のような世界になったからかもしれません。
しかし、その現実も、なかなか思うようには変えられません。
困ったものです。

■1451:明王の怒り(2011年8月23日)
上野の国立博物館で開催されている「空海と密教美術展」に行ってきました。
テレビの空海特集番組で「怒りの仏像」を見ていたこともあって、明王像に目が行きがちでした。
明王を、怒りを意識してみるのは初めてです。
明王がなぜ憤怒の表情をしているのか、ということを改めて意識したことなどなかったからです。
それに私の意識の中では、明王にはあまり関心はなかったのです。
それに、仏像は慈悲に満ちた温和な表情が好きでした。
しかし、怒りを意識して明王や四天王などを見ると、たしかに伝わってくるものがあります。
それに、思い出せば、憤怒とは言わないまでも、怒りを感じさせる如来蔵や菩薩像もあります。
私自身、恐ろしくなって逃げ出したこともあります。
京都の勝林院の阿弥陀如来です。

怒りは、「思いどおりにならない状態に直面したときに誘発される感情」だといわれます。
怒りの表情は、それを向けた相手の意識や行動を変える効果があります。
明王は、衆生の生き方を変えさせようと、怒りを発しているのでしょうか。
これまで私は、何となくそう感じていました。
慈悲だけでは衆生は救えない、だから空海は仏像に怒りを持ち込んだともいわれます。
でもそうなのだろうか。

怒りは自らに向けるべき表情ではないとも言われます。
自らに向けても意味がないですし、そもそも向けられない。
しかし、怒りはむしろ自らに向けられる時にこそ、本来の意味を持つ表情なのではないか。

私もたぶん、ある時期、怒りを心身に出していたはずです。
どこに向けていいかわからない、怒りの念が強まってきて、それが顔に出てしまうのが、自分でもわかったこともありました。
その多くは決して「誰か」に向けられたものではないのですが、たまたまその時、相手をしていた人は自分に向けられたと思ったかもしれません。

たしかに周囲の人たちが無性に腹立たしかったこともあります。
私の気持ちも知らないで、と逆恨みしたこともありますが、その時でさえ、素直に相手を受けいれられない自分への嫌悪感や苛立ちが、腹立ちの原因でした。
怒らせているのも自分、怒っているのも自分という、奇妙な状況に入ると、なかなかそこから抜けられません。

展示会場につくられたミニ立体曼荼羅空間で休みながら、そんなことをいろいろと考えさせられました。
そして改めて明王の怒りを見て感じたのは、その奥にあるやさしさや悲しみ、あるいは弱さでした。
怒りの表情が仏像に現れたのは、仏像が成長した結果なのではないか、そんな、わけのわからないことを考えながら、会場を出ました。

節子にも見せたかったです。

■1452:場所が語りかけてきます(2011年8月24日)
昨日、国立博物館で空海展を見た後、少し暑かったのですが、上野公園を通って湯島のオフィスまで歩きました。
上野公園から寛永寺を抜けて、不忍池の端を通って30分ほどです。
この時期はハスが池を埋め尽くしています。

不忍池は節子とよく歩きました。
オフィスからの帰り道の一つだったからです。
この界隈はとても不思議な空間なのです。
まだまだ人間らしさが強く残っています。
節子と歩いていた頃とそう違っていません。
行き交う人も、実にさまざまです。
いささか「危うい人」もいますが、それも変わっていません。

節子がいなくなってから、ここを歩くのは2回目です。
いつも2人で歩いていた道を、一人で歩いていると、ちょっとしたことで節子を思い出します。
あそこにいるおばあさんに、節子だったら声をかけるだろうな、とか、
あの人は敬遠して、節子は反対側に避けるだろうな、とか、
ちょっとここで一休みしようといいかもしれないな、とか、
節子の言動が思い出されるのです。

人の記憶は、頭の中だけにあるのではないようです。
場所とつながることによって、忘れていた記憶がよみがえります。
言い換えれば、その場所にも節子の息吹が残っている。
それを強く感じます。
場所が語りかけてくるのです。

不忍池を離れて街中に入っても、いろんな記憶がよみがえります。
陶器のお店、漆器のお店、そうしたものが好きだった節子は、よく立ち寄りました。
特に買うわけでもないのですが、そういうお店が好きでした。
私は買わずに出てくるのが気がひけましたが、節子はそんな事は気にしませんでした。
でも買いたいものもきっとあったはずです。
私は、無責任に好きなものがあったら買ったらいいじゃないかと勧めましたが、わが家にはお金がなかったのかもしれません。
お金のことはすべて節子に任していましたが、会社を辞めてからは、私の収入は極めて不安定で、次第に無収入に近くなっていったからです。
それでも、わが家は豊かでした。
経済的に困ったこともなく、物もありあまるほどあります。
最近はちょっと苦しいこともありますが、不思議と何とかなっています。
節子がきっと見守ってくれているのでしょう。

■1453:Day Dream believer(2011年8月25日)
私のブログを読んでくださっているイルカさんからメールが来ました。

原発事故以降、40年前に原発反対の曲で、マスコミから封殺されてしまった、忌野清志郎の曲を改めてじっくり聴くようになったのですが、
そのなかに、Day Dream believerという曲があります。
この曲は清志郎が亡くなったお母様のことを歌った曲ということなのですが、なぜか、この曲を聴くたびに、どうしても、佐藤さんと奥様の節子さんのふたりのことを歌っている曲になのでは?と頭に浮かんできてしまうのです。
とても良い曲と思うので、佐藤さんにお伝えしたくてメールをしてしまいました。

忌野清志郎。
いろいろと話題の多いミュージシャンでしたが、私とは少し世代的にずれていたのか、私自身はあまりこれまで聴いたことはありませんでした。
特に「がん」と聞いた途端に、その人の音楽は聴けなくなるのが、最近の私ですので、イルカさんと違って、亡くなったあとも、原発事故以降も、聴いてはいません。
しかし、他ならぬイルカさんのお薦めですので、ユーチューブで聴いてみました
1回目は、正直、ピンときませんでした。
でも、イルカさんは、この歌から私たちを思い出してくれるのです。
この3日間、パソコンンに向かうたびに聴いていました。
そして、なんとなくイルカさんのいっていることがわかってきました。

それで歌詞を書きとめて、自分の声で読み上げてみました。
驚いたことに涙が出ました。
最近、「臨書」という言葉を覚えたのですが、これは「臨読」ですね。
誰かの文章を、自分の声で読み上げると、その人の気持ちが追体験できるようです。

もっとも、歌詞はお世辞にもうまいとはいえません。
私ならもう少しうまく書くのにと思うほどですが、この一節が頭の中で「発酵」しだしたのです。

ずっと夢を見て いまもみてる
僕は Day Dream believer
そんで 彼女は クイーン

たしかに、今の私です。

Day Dream believer
日本語に訳すと「夢に生きる人」でしょうか。

イルカさんからまたメールが来ました。
以前、2008年に、清志郎の「夢かもしれない」の曲について、私がブログに記事を書いたとき、偶然にも、佐藤さんからコメントをいただきました。

すっかり忘れていましたが、その頃からずっと私は夢を見ているのかもしれません。
私のブログや挽歌を読んでくれている人は、もしかしたら私よりも私のことを知っているのかもしれません。

イルカさん
この曲が好きになりました。
ありがとうございました。

■1454:臨読(2011年8月26日)
節子
節子は、自分に向けて書かれているので、この挽歌を毎日読んでいるでしょう。
そろそろ終わりにしてよ、と思っているかもしれませんが。

ところが、これまでの挽歌を一気に読み進んでいるらしい人が出てきました。
なぜわかったかというと、その方が先日、次のようなコメントを寄せてくださったのです。

佐藤さんのこの「挽歌」を順番に読ませていただいています。
どれも、一つ一つの言葉が心に染み入ってきます。

なにしろ1450を超えていますから、1項目1000字弱として、140万字なのです。
面白ければともかく、私のつぶやきでしかない挽歌を通読するには、よほどの思いがなければできません。
この方とは面識はありませんが、すさまじいエネルギーが感じられます。

昨日、「臨書」ならぬ「臨読」のことを書きました。
臨書とは、手本の書の字体とそっくりに書くことです。
手本に可能な限り似せて書くと、その手本を書いた人の気持が分かるのだそうです。
先日、NHKの空海の番組でそれを知りました。
また最近、知人が、空海の書を臨書すると元気がもらえると、フェイスブックで教えてくれました。
私も昨日書いたように、忌野清志郎のDay Dream believer の歌詞を読み上げたら、曲を聴いていたのとは違った思いが実感できました。
それを「臨書」をもじって「臨読」と書いたのです。
私の挽歌を通読し終わったら、どのような思いが起こるか、実はいささかの期待と不安もあります。

この方は、ご自身の愛と哀しさを強くお持ちですから、臨読によって、私の思いの奥の奥までがきっと見えてしまうでしょう。
私にはまだ見えていないことも見えるかもしれません。
読み終えた時のコメントが、楽しみでもあり、不安でもあります。

いつか、私も自分で書いたこの挽歌を読み直すことがあるでしょうか。
節子はたくさんの日記を書き残していきましたが、私はまだ読めずにいます。
日記を臨読する勇気は、いまのところありません。

■1455:観音の思い出(2011年8月27日)
節子
先日、上野の国立博物館に空海展を見に行った時に、ちょっとだけ本館にも立ち寄りました。
久しぶりです。
小学校の頃から、上野の博物館は私の大好きなところで、よく通いました。
特に国立博物館の雰囲気は気に入っていました。
しかしこの20年ほどは本館に入ったことがありませんでした。
それで雰囲気だけを味わいたくて、立ち寄ったのです。

レプリカでしたが、薬師寺東堂の聖観音像がありました。
まさかここでお会いできるとは思ってもいませんでした。

再建された薬師寺の伽藍には結局いけませんでしたが、薬師や唐招提寺には何回か行きました。
そのふたつをつなぐ道もとても好きでした。
節子が病気になる少し前に京都には行きましたが、奈良には結局いけませんでした。
あの時、なぜ足を伸ばさなかったのか悔やまれます。
奈良に最後に行ったのは、薬師寺の西塔が完成した直後だったと思いますので、もう長いこと訪れていません。
奈良にはまた一緒に行こうといいながら、実現できなませんでした。
今から思えば、薬師寺の薬師三尊に祈れば、奇跡が起こったかもしれません。
薬師寺の薬師三尊は、私が最初に惚れこんだ仏なのです。

先日、空海展を見たせいか、最近、いろいろと仏像を思い出します。
節子と引き合わせてくれたのは、渡岸寺の十一面観音でした。
飛鳥寺の大仏にはちょっとしたいたずらをした思い出もあります。
三千院の阿弥陀三尊は訪れるたびに姿勢を変えていました。
気にいるかなと思っていた法華寺の十一面観音には節子はあまり興味を示しませんでした。
そう思いながら、気がついたのですが、節子はあまり仏像が好きではなかったのかもしれません。
私よりも信心が深いのは間違いありませんが、節子から仏像の話を聞いたことがありません。
節子の実家は滋賀県高月町。
観音の里といわれているところなのですが、あまりに身近すぎたからでしょうか。

節子とまた観音めぐりをしたいです。
節子と一緒に観音の前に立った時の心の平安さを、もう一度体験したいです。
それはもはや、かなわぬ夢でしょうか。
それでは観音になって夢に出てきてほしいものです。

■1456:花火(2011年8月28日)
手賀沼の花火大会は、今年は中止でした。
代わりに、今日、ほかのイベントにからめてのミニ花火大会がありました。
会場はいつものように、わが家からよく見えるところです。

この花火大会がよく見えるというのが、ここに転居してきた大きな理由でした。
しかし、その花火大会を節子がゆっくり堪能したのは、もしかしたら1回だけだったかもしれません。
というのは、友人たちを誘ったために、最初の頃は、その接待で節子はばたばたしていたのです。
来客も一巡して、ゆっくりと見られるようになった頃に、節子は発病してしまいました。
それからは、節子はゆっくりと見られたでしょうが、心から楽しむことはなかったかもしれません。
最後の年の花火大会は、思い出すだけでもいやになる思い出もあります。
だから思い出すのはやめます。
そんなわけで、私も最近は花火があまり好きではなくなってしまいました。

でも今日は屋上で娘と見ました。
感動もせずに、ただただ節子を思いださないようにして、です。
しかし、時々、節子の声が聞えるような気もしました。

写真を撮りましたが、花火の写真はうまく撮れたためしはありません。
写真を位牌の前に置こうかとも思いましたが、考えてみれば、彼岸から節子は見ていたかもしれません。
まあ、しかし、下手な写真を2枚だけ載せておきましょう。

■1457:空海の縁(2011年8月29日)
節子
日本経営道協会の市川覚峯さんから電話がありました。
市川さんはいつも夏には2週間ほど山ごもりの行をされますが、そこから帰ってきた後だったのでとても元気な声でした。

市川さんはある時、思い立って行に入りました。
最初は千日回峰行者 光永覚道師に師事し、比叡山の無動寺谷の明王堂で得度して1年間の行を積みました。
得度式には私も参加し、光永覚道師ともお会いしましたが、思い切った決断でした。
翌年、今度は高野山に移り、「虚空蔵求聞持法」を会得しました。
虚空蔵求聞持法は言うまでもなく、空海に大きな力をあたえた大行です。
断食の満行日に、私は節子と一緒に、市川さんが寄宿していた宿坊に行きました。
夜になって待っていたら、階段を軽快に上がってくる足音が聞え、市川さんが部屋に入ってきました。
驚いたのは、身体が透けて見えるような透明感があったことです。

翌朝、まだ暗い中を、市川さんは護摩を焚いてくれました。
暗いお堂の中は、当時の私にはまだ恐怖感さえありましたが、私には初めての体験でした。
その後、市川さんのご家族と一緒に、奥の院まで行きましたが、断食明けにも関わらず市川さんは役の行者が空を飛ぶように、軽快な足取りでみんなを先導してくれました。
その後、市川さんはさらにもう1年、吉野に移って、生命を賭けた大峯百日回峰にも挑まれました。

その市川さんから電話がありました。
ちょうどその時、私は山折哲雄さんの「空海の企て」を読み直していたところでした。
電話はちょっとした用事でしたが、最近、空海がらみの話が多いので、これもなにかの意味があるのかもしれません。

節子の訃報を聞いた市川さんは奥さんと一緒にすぐにわが家に来てくれ、お2人で節子の枕経をあげてくれました。
あれからまもなく4年です。
高野山で会った、当時小学5年だった市川さんの息子さんも立派な若者になりました。
節子は、成人した彼には会っていないかもしれませんが、実にいい若者です。

急に市川さんに会いたくなったので、近々、彼を訪ねようと思います。
彼もまた、彼岸とも少し通じている人でもありますし。

■1458:大師堂(2011年8月30日)
空海で思い出したことがあります。

滋賀県高月町の節子の生家の近くに「大師堂」があります。
弘法大師(空海)への信心の厚い人が集落の人たちに呼びかけて、20年ほど前に建立したのです。
とても立派なお堂です。
そのあたりは浄土真宗なので、なぜみんながお大師様を信仰するのか理解できませんでしたが、おそらくそれらは次元の違う話なのでしょう。
その大師堂の建立には、節子もわずかばかし寄進したのですが、当時、私はその意味がわからず、無関心でした。
大師堂が完成してからは、帰省するたびに節子と一緒に大師堂にお参りに行きました。
そこは村人たちの、いわばサロンの場なのです。
いつもいくとだれかがお参りしており、話が始まります。
面白い空間です。
節子のおかげで、私もお参りさせてもらえました。

大師堂の壁には寄進者の名前が掲示されています。
節子の名前も書かれています。
私の理解が深ければもう少しきちんと寄進したのですが、当時はまだ私はあまり関心がなく、そうした動きにも関心がありませんでした。
ですから節子から話があったときにも、いいんじゃないのと、あまり気乗りしない返事をしたのではないかと思います。
節子の思いに応えてはいなかったかもしれません。
ですから節子は心ばかりの寄進に留まったのだと思います。
しかし帰省すると節子は必ずその大師堂に私を誘いました。

その大師堂にも、私はもう行くことはないでしょう。
そこで初めて出会った村のおばあさんたちと話している時の節子は、私には輝いて見えましたが、その節子を思い出すのは、いまの私にはちょっと耐えられそうもないからです。
そういう場での節子は、なぜかいつも輝いていました。
そう思うと、節子とは一体なんだったのだろうかと、ふと思うことがあります。
平凡すぎるほど平凡で、才も色もあんまり持ち合わせていなかったと思いますが、私には特別の存在だったのです。

人は、だれかとの関係において、輝いたりくすんだりするものです。
才も色も、個人の中にではなく、関係性の中に存在するのかもしれません。
節子のことを思うとき、いつもそう思います。
節子は私だけに輝いていたのかもしれません。
私も、たぶんそうだと思います。
私のことを心底知っていたのは、節子だけだったように思います。
自らを知る者がいる時ほど、がんばれることはありません。
最近はあんまりがんばれずにいます。
困ったものです。

■1459:五弦琵琶(2011年8月31日)
節子
塚谷誠さんが、2作目の句集「五弦琵琶」を送ってきてくれました。
私は俳句にはほとんど興味がないのですが、書名の「五弦琵琶」に引き込まれました。
そして、いつもなら後回しにするのに、いくつかを読んでしまいました。
塚谷さんの、その後の世界が彷彿とします。

節子も2回ほど、塚谷さんに会っています。
塚谷さんは、その後も会うたびに節子の話をしてくれました。

塚谷さんは、私が勤めていた東レの先輩です。
全くの分野違いでしたので、会社時代は時々、お話を訊きに行くという程度のお付き合いでした。
私が会社を辞めてしばらくしてから、突然に連絡があり、湯島に来ました。
その時は京都の会社の社長でした。
そういえば、その会社は空海の立体曼荼羅のある東寺の近くです。
塚谷さんは、毎朝、当時の境内を通って出社していたとお聞きしています。
またもや空海がらみですね。

塚谷さんは、新しく経営を任された会社の再建に取り組みたいので協力してほしいとお話しされました。
私が東レ時代に取り組んだ仕事を評価してくださってのお話でした。
引き受けさせてもらいました。
それが塚谷さんとの新しいお付き合いの始まりでした。

会社再建は見事なほどに成功しました。
私の役割はほとんどなく、塚谷さんの理念と思いが、再建を可能にしたのです。
節子が元気になっていたら、京都で塚谷さんに再会して、きっと美味しい食事をご一緒できたでしょう。

五弦琵琶という書名は、昨年の正倉院展で塚谷さんが出会った聖武天皇遺愛の螺鈿紫檀五弦琵琶に由来するそうです。
私は、螺鈿紫檀五弦琵琶は写真でしか見たことはありませんが、実物を見たら引き込まれるかもしれません。

塚谷さんは会社を引退されてから俳句を始めました。
それにしては見事です。
師の塩川雄三さんもほめています。
会社時代の塚谷さんからは思いもしませんでしたが、塚谷さんは文学青年だったのです。

節子は病気になってから俳句に興味を示しました。
そういえば、ずっと前に黛まどかさんが湯島に来たことがありますが、それを契機に俳句に興味をもったようでした。
しかし、その直後に発病してしまったのです。
少し元気になってから、旅行先で、時々、できたといって、私に俳句を聞かせました。
節子は気に入った景色を見ると、スケッチをしたりするのが好きでしたが、そこに俳句が加わったのです。
しかし残念ながら、その期間は短く、作品はたぶん残っていません。
富士山が見える元箱根の恩賜公園で節子が句ができたといっていたのを記憶していますが、句までは思い出せません。
私の誠意のなさがわかります。

塚谷さんの句です。
曝涼の館に聴けり五弦琵琶
涼しさが実感できます。
彼岸も見えます。

■1460:夢から目覚め、現実からも目覚める(2011年9月1日)
節子
4回目の命日は、台風がやってくる大荒れの日になりそうです。
今年は3回忌と7回忌の間で、とくにお坊さんにお経をあげてもらう予定はないのですが、まあ自宅でしずかに節子を偲ぼうかと思います。

この挽歌を読んでくださっている方からメールが来ました。
この人も数年前に伴侶を見送っています。

早 9月ですね 節子さんのご命日がすぐです
時間薬とは 慰められる時よく耳にする言葉で そうですね と一応答えますが 何年たっても 時が心を癒すことはありません この間 ふと目覚めると 隣のベッドが盛り上がっていて なんだ 寝ているじゃない 死んでなんかいないじゃない なんて長い 悪い夢見てたんだろうと 手を伸ばしたら 眼が覚めました しばらく起き上がれませんでした 

夢と現実が逆転してくれたら、と私も時々思います。
しかし、映画「マトリックス」で描かれていたように、これは荒唐無稽の発想ではありません。
生命現象の大きな枠組みで考えれば、すべては夢といえるのかもしれませんし。
そんな気もします。

ブッダとは、普通名詞においては、「目覚めた者」という意味です。
つまり、現実に生は夢と考えているのです。
チベット仏教には、夢のヨーガ(瞑想)というのがあるそうです。
夢の中で、これは夢にすぎないのだと気づく練習をするのです。
チベット仏教では、死後49日、幻の身体を持ってさまようとされています。
そこで、物理的な身体に束縛されていた認識を解放する事ができるかどうかが大切になってきます。
多くの人は、幻の身体のイメージを作り上げて、それに執着してしまい、また生まれ変わってきてしまう。
これが輪廻です。


夢から目覚め、現実からも目覚める。
夢を夢としていき生き、現実を現実として生きる。
そのいずれにおいても、目覚める自分、生きる自分がいます。
自分がいれば、夢でも現実でも、さほどの違いはないはずなのです。

しかし、夢が現実であってほしい、現実が夢であってほしいと、まだ目覚めきれない私は思ってしまいます。
最近また、よく夢を見ます。

■1461:柳原和子さん(2011年9月2日)
節子
昨日からまた私のブログへのアクセスが急増です。
調べてみたら、昨日、BSアーカイブスで「百万回の永訣 柳原和子 がんを生き抜く」が放映されたのが原因のようです。

前にも書いたと思いますが、柳原さんとはささやかなメール交流がありました。
テレビで柳原さんを見て、節子は、この人は強い、と言いました。
たしかに柳原さんは自分をしっかりと見据えながらも力強く前に進む人のようにも見えました。
しかしその実、節子よりも弱かったのかもしれません。
テレビなどで見る柳原さんとは別の柳原さんと、ほんのわずかだけ接しさせていただいたことで、私の彼女のイメージは変わりました。

節子を見送って以来、私は「がん」という文字を正視できずにいます。
新聞に「がん」という文字があると、その頁を避けている自分に気づくことが少なくありません。
がんになりたくないのなら、検診をしっかり受けろと兄からは言われ続けていますが、「がん」検診というイメージにつながる検診は心理的に受け容れられないのです。
論理的ではないのですが、それが素直な私に気持ちです。

がんに襲われた人は、もしかしたらみな同じかもしれません。
柳原さんも節子も、同じだったようにも思います。
ただ少しだけ節子が強かった、そして平安でいられたのではないかと、私は思います。
私の思い上がりかもしれませんが、その違いは私の存在です。
人生を分かち合える伴侶が隣にいるかどうかです。

柳原さんは、伴侶の代わりに、世界のすべての人と共にいたいと思ったのかもしれません。
その証が、この記録映像です。
しかし、世間は「弱い人」にはつめたいのです。
私は、その「世間」を変えたいと思っていますが。

妻ががんになってしまった夫は、本当にどうしようもないほど、だらしないのよ、と柳原さんはメールで書いてきました。
だから、そうした人たちのネットワークをつくってほしいといってきたのです。
もちろん私につくれるわけはありません。
しかし、今から考えると、彼女は、どうしようもないほどだらしなくなりそうな自分のことを言っていたのではないかと思うのです。
柳原さんから送られてくるメールの文章は、これがプロのライターの書いたものかと思うほどに「だらしない」ものでした。
もちろんそこに、柳原さんの真実がこもっているのですが。

明日は節子の4回目の命日です。
節子が好きな胡蝶蘭も届きました。
台風も少し進路を変えてくれたようです。

■1462:フェイスブックでの命日(2011年9月3日)
節子
4回目の命日を迎えました。
フェイスブックにそのことを書いたら、画家のSさんからこんな投稿がありました。

最近、様々な喪失感について考えています、
奥様をなくされた喪失感は、4年を経ても強く残っているものなのでしようか。

そこから始まったやりとりの一部です。

私:残るというよりも、逆に高まる感じです。そして、喪失感と言うよりも世界が変わってしまいます。つまり世界の大きな部分そのものの喪失です。時間が解決するなどと言う事は全くありません。時間で癒される喪失感などは瑣末な喪失感だとさえ思えます。

S:実は母を8年間の在宅介護の末、在宅で看取りました。母は幸せな最期で思い残すことはないだろうと周りは私を慰めます。しかし、佐藤さんのおっしゃったように、世界の大きな部分を喪失しています。佐藤さんのコメントで、今の状況を受け入れられそうです。

私:愛する人と別れた人に、思い残す事がないなどと言う事は絶対にありません。むしろ思い残す事の多さは、時と共に増えていくのが普通だろうと思います。悲しんでいる人に、軽々にいう言葉ではありません。少なくとも私の場合はそうです。私は今もなお、毎日妻への挽歌を書いていますが、昨日で1461回です。書けば書くほど思い残す事が育っていきます。喪失感は広がります。しかし、喪失は同時に獲得でもあります。大きな世界の視点から見れば、単なる喪失はありえません。喪失したという事実を獲得できるわけです。それを大切にしています。私は仏教徒ですので、なおのことそう感ずるのかもしれません。

S:一つ一つの佐藤さんの言葉が胸に響きます。確かに、単なる喪失ではないようです。 私も母の死から学んだことが沢山ありました。その中で一番大きなのは、死を受け入れる姿を教えてもらえたことです。私も何れ死にます。その時、その経験はいくらか救いになるのではと思っています。そして、生きている時間を大切に使うこと、ささやかな幸せの大切さも学びました。

フェイスブックは公開の場でのやりとりですので、これを読んでくださっている人が時折、コメントをいれてくれます。
そのひとつ、節子に会ったこともある長崎のMさんからのコメントです。

もう奥さんが亡くなられてから4年になりますかね。川本三郎さんの「今も、君を想う」を読むと、2年前に亡くなられた奥さんとの思い出を綴られ、奥さんとの他愛ない対話、散歩、おいしいものを一緒に食べたことなど彼女と暮らした日常生活の楽しい日々を切々と書いて、今のつらい毎日を何とか切り開いていく手記でしたが、佐藤さんも同じおもいでしょうね。映画「東京物語」の笠智衆の姿も目に浮かびます。

フェイスブックは、こうしたやりとりがいろんな形で広がっていきます。
今日は台風のせいもあって、どなたもわが家にはお越しになりませんでしたが、こういうかたちでいろんな人が命日に少しだけ参加してくれました。
韓国の佐々木さんは、ご自宅近くの曹渓寺(チョンゲサ)にお参りに行ってくれました。
みなさん ありがとうございました。

節子
明日からは彼岸5年生ですね。

■1463:節子からの電話(2011年9月4日)
昨日の明け方、節子から電話がかかってきました。
と言っても、夢の中で、ですが。

何かの集まりに出ていたら、電話ですといわれました。
電話に出ると節子でした。
節子は、誰かと話しながら電話しているようでした。
最初の言葉は忘れてしまいましたが、つづいての言葉が、
「あれはやめましたよ」でした。
その言葉が引き金になったように、目が覚めてしまいました。

「あれ」って何だろうと思い、起きてきた娘にこの話をしました。
当然ながら、娘が「あれ」に思い当ることはなく、そのままこの話は忘れてしまいました。
ところが夜に、急にまた思い出しました。
なんだろう、「あれ」って。
気になりだしました。
命日の朝のことでしたし。

気になっていたせいか、昨夜はまたその夢を何回か見ました。
電話がかかってくる夢ではなく、「あれ」ってなんだろうかと話している夢です。
たぶん節子は出てきませんでした。
内容も思い出せません。
まあそれだけの話なのですが、「あれ」ってなんだろうと気になると気になるものです。

この2日間は、なんとなく間延びした2日間でした。
例年はだれかが訪ねてきてくれますが、今年は見事なほど家族だけでした。
手持ち無沙汰なのに、何もやる気が起きないのです。
節子が電話してきた「あれはやめましたよ」と関係があるのでしょうか。
あるはずもないだろうと思いながらも、何かが引っかかっています。

彼岸に向かう節子には、いろいろと頼みごとをしました。
いまも位牌に向かって、頼みごとをすることもあります。
そのいずれかのなかに、「あれ」があるのかもしれません。
さてさてそれを見つけるのは難問です。
また電話がかかってくるのを待つしかなさそうです。

私の5年目が始まりました。

■1464:リセットの日(2011年9月5日)
節子
ユカの友だちのAさんが、今年もまた献花に来てくれました。
私は出かけていて会えませんでしたが、毎年、花を供えにきてくれます。
帰宅したら、位牌の前に供えられていました。
節子は、娘たちの友だちにも印象をいろいろと残しているようです。
うれしいことです。

今日はもう一つ、節子がらみのことがありました。
私も知っているTさんから手紙が届きました。

夏の暑さが少し和らぐ9月3日は、私にとってはリセットの日です。
自分に「ちゃんとやってる?」ときいてみる反省の日になったんです。
節チャンのおかげですね。

節子が彼岸に旅立ってから4年経ちますが、こうして今も思い出してくれる人がいます。
私にも、それはとてもうれしいことです。
亡くなった後にこそ、その人の生き方は見えてくるのかもしれません。

私の場合はどうでしょうか。
4回目の命日を思い出してくれる人はいるでしょうか。
あまり自信はありません。
生き方を変えなければいけません。
思い出してもらう必要はないのですが、思い出してもらえるような生き方をしなければいけません。

人に役立つという意味では、私のほうが節子よりも役立っていると思います。
でもたぶん大切なのはそんなことではありません。
もっと大切なことがあるのでしょう。
それが何なのか、まだわかりませんが、節子にあって私にないものが、きっとその答えです。
私が節子に惹かれつづけているのは、その「何か」なのかもしれません。
それがわかれば、私もリセットできるのですが。

■1465:「閉鎖された空間」(2011年9月6日)

統合失調症の人が幻覚妄想に影響され、自傷他害の恐れがある場合、安全目的で保護室に入ってもらうことがあります。
その人の精神世界で起こっている現象は「真実」なのです。

精神保健福祉法第37条第1項の中にある法律といえども、そんな時、とても葛藤を覚えます。
「閉鎖された空間」に中に入れられる感覚、鍵を掛けられ自由に出入りすることができない状況は、苦痛です。
精神病院の実習に学生を連れて行くとき、保護室入室体験をしてもらいます。
患者さんがどのような思いで、この狭い空間の中にいるかを、体験してもらうのです。
1分ともちません。
わたしも、とても息苦しく、発狂しそうになります。

しばらく前に、精神看護学の先生からもらったメールにあった文章です。
このメールを読んだ時、もしかしたら私も、自由に出入りできない「閉鎖された空間」の中にいるのかもしれないと思いました。
そして、私が感じている現実は、果たして「真実」なのだろうか、とも。

人の精神世界は、実にさまざまです。
人によって世界は全く違うのかもしれません。
どこまでが「幻想」で、どこまでが「真実」かは、かなり難しい問題のような気もします。
この挽歌で書いていることが、時にちょっと「おかしい」のではないかと思うことがあります。
それに、4年も経つのにまだ挽歌を書き続けていることも、異常かもしれません。
そろそろその「閉鎖された空間」から出たらと思っている人もいるかもしれません。
節子なら、すばらしい女性がたくさんいるのだから、少しは私から自由になったら、というでしょう。
その言葉は、節子から何回か聞かされたこともありますし。

しかし、実は、本人は決して「閉鎖された空間」にいるなどとは思ってもいないのです。
狭いとさえも思っていない。
人の精神世界は、実にさまざまなのです。
そして、思いが深ければ、その世界は無限に広がっていくのです。
そして、自由という点においても、限りなく自由なのです。

その無限の広がり、限りない自由。
果たしてそれが「真実」なのかどうか。
それは保証できませんが。

■1466:スペインタイルを注文しました(2011年9月7日)
節子
今日は実にさわやかな風を感じます。
秋になりました。
季節の変わり目を感じられるのはうれしいことです。

ジュンの連れあいの両親が金婚式だそうです。
お祝いの飾り皿を、ジュンがスペインタイルで焼き上げました。
なかなかの出来栄えです。
残念ながら私たちは貰いそこないました。
そういえば、私たちのスペインタイルがありません。
ジュンに注文することにしました。
写真を探さなくてはいけません。
良い写真があるといいのですが。

節子との写真を探すのは、それなりに覚悟が必要です。

■1467:湯島での空白の2時間(2011年9月8日)
節子
湯島で2時間、空白の時間ができてしまいました。
最近、時間の合間を見て、書類の整理をし始めました。
節子が一緒にいた頃は、書類の整理はすべて節子任せでした。
さまざまな資料がテーマ別にファイルされていたのですが、それを活用する機会も最近はなくなってきました。
それでも、節子と時間をかけてつくり上げてきた仕組みは、湯島のオフィスでも家庭でも、いまもなおそれなりに機能しています。
さて、書類の整理を使用かとも思いましたが、どうも今日はやる気がおきません。

ベランダに出しているランタナは、最近は注意して水をやっているので、元気です。
節子が残していた大きな鉢が2つありますが、そこに植え替える仕事はどうでしょうか。
まだ暑いので、もう少し涼しくなってからのほうがいいでしょう。
なれない仕事で、せっかくのランタナをまた枯らしてはいけません。

あんまりやることがありません。
それで、友人が持ってきてくれた珈琲豆を一人で挽いて、久しぶりにゆっくりと珈琲を飲みました。
今日は朝から4杯目の珈琲です。
節子がいたら、ケーキが出てくるのでしょうが、残念ながら珈琲だけです。

このオフィスは、誰に対しても開かれたコモンズ空間であると共に、私と節子の2人だけの憩いの場でもありました。
私にとっては、とても不思議な場なのです。
オフィスの様子は節子がいた頃とほとんど変わっていません。
久しぶりに来た人の中には、雰囲気が変わったねという人も時にいますが、多くの人が、懐かしいですね、といいます。

次の来客までまだ1時間以上あります。
手持ち無沙汰ので、机の上の黒めだかの水槽の掃除をしようかと思います。
この黒めだかは、節子がいるときにはいませんでしたね。
あの頃いたのは、ヒメダカでした。
そういえば、きれいに見えていた夕陽も、最近はビルの陰で見えなくなりました。
やはり少しずつ風景は変わっているものです。

いや、節子がいないことが一番の変化ですね。
雰囲気が変わったね、という人の意識の中には、もしかしたら節子がいるのかもしれません。
私にとって雰囲気が同じなのは、きっと私の中に節子がいるからでしょう。

まあそれはそれとして、水槽の掃除です。
今日の夜はここで技術者交流サロンです。
少しずれ込んでいますが、サロンがどんどん増えてきています。
節子だったらなんと言うでしょうか。
また病気が始まったわね、というかもしれません。

■1468:九十九島煎餅(2011年9月9日)
昨夜、帰宅したら、節子の位牌壇の前に、佐世保市の九十九島煎餅が供えられていました。
娘が、隣のMさんの娘さんの旅行のお土産だよ、と教えてくれました。
修学旅行でしょうか。
それにしてもわが家にまでお土産とは恐縮してしまいます。

Mさんとわが家とは、ほぼ同じ頃にここに転居してきました。
前にも書きましたが、当時、娘さんはまだ小学校に入ったばかりだったと思います。
私は一度だけしか話したことはありません。
いつもより早く帰宅したら、彼女がわが家の和室に不安そうな顔で座っていたのです。
節子に訊いたら、学校から早く帰ってきたら、家に鍵がかかっていたそうなので、家で待ってもらっているの、と言うことでした。
まだお互いに転居したばかりでしたので、あまり話したこともなく、彼女はきっと不安だったと思います。

その娘さんももう高校生です。
彼女に限らず、当然ですが、近所の子どもたちもみんな大きくなりました。
街中であっても、私は気づかないでしょう。

転居して来た時に、こんなこともありました。
遊び盛りの子どもたちが道でボール遊びをして、近くの家の植木を傷めたりすることがよくありました。
子どもはそういうものですから、私は気にもしていなかったのですが、あるお宅の奥さんが嫌がっていたようです。
それで、なんと節子が、そのやんちゃ坊主たちに注意したというのです。
節子は、子どもを注意するのは地域の大人の責任だというのです。
その少し前に私は、若い仲間と一緒に、これからの保育システムの研究会をやっていました。
そこで、ソーシャル・フォスターリズムという考え方を提案しました。
社会が子どもを育てるという発想です。
その構想は残念ながら実現しませんでしたが、節子はそれを実践していたのです。
それが私と節子との違いです。
私は理屈を考えますが、節子は直感で素直に動くだけなのです。
そうした生活者の言動に接していると、コンセプトがどうのスキームがどうのというような小難しいことは、ばからしくてやっていられません。

大きくなった子どもたちを、節子は見ているでしょうか。
あのやんちゃ坊主たちも、立派な青年になりましたよ。
成長しないのは、わが家族だけです。
節子がいなくなってから、みんな成長をとめてしまった気がします。

■1469:2人で出し合えば、時間は数倍になる(2011年9月11日)
節子
昨日は朝から夜まで時間がとられて、挽歌を書く暇がありませんでした。
暇がないというのは、私が一番嫌いな言葉ですが、本当は暇ではなくて、気力がなかったというべきですね。
時間がないからできなかった(できない)というのは、私たちの間では理由にはなりませんでした。
そんな生き方は、私の生き方でもありません。

しかし最近は、そういう理由を思いついては、怠惰に過ごしています。
節子がいたら、変わったわね。と笑われそうです。

暇がないという人ほど、暇だというのは、会社時代に私が気づいたことです。
人が発する言葉のほとんどは、事実の反対なのかもしれません。
私は、節子によく「愛しているよ」と言いました。
上の論理から言えば、節子を愛していないが故に口に出した言葉かもしれません。
実際に、節子はいつも、あまりに軽く言うので真実味がないと笑っていました。
私が、節子を愛していたかどうかはともかく、最近は何が何でも毎日挽歌を書くという気力はなくなってきました。
困ったものです。

しかし今のところ、数日のうちに、節子後の日数と挽歌の番号は一致させるようにしています。
と言うわけで、今日は2つの挽歌を書こうと思いますが、寝不足で頭がフラっとしています。
全くもう困ったものです。

昨日の午後はある研究会に出ていましたが、被災地支援の話をした人が、
「2人で分け合えば、悲しみは半分になり、喜びは2倍になる」
という言葉を引用しました。
よく聴く言葉ですが、この言葉は、その通りです。
その言葉を聴きながら。こんなことを考えました。
「2人で出し合えば、時間は数倍になる」
最近、暇なのに時間がないのは、節子がいないためです。

節子は、私の世界と共に、私の時間まで、彼岸に持って行ってしまいました。
困ったものです。
暇なのに時間がないのは、けっこう辛いものです。

■1470:節子への苦言(2011年9月11日)
私より5歳年上のSさんは、毎日、奥さんと自分の食事を作っています。
奥さんが具合が悪くなってからずっとだそうです。
私はそれを最近知りました。

Sさんと知り合ったのは4年ほど前でしょうか。
とても誠実な人で、ある会の世話役をやってくれていますが、みんなのために尽力されています。
一方で、仕事を通して得たこれまでのご自身の体験知を、後世に残しておくために執筆活動にも取り組んでいます。
私とは違い、きちんと資料を調べて書かれているでしょうから、大変だと思います。
取り組まれているテーマは、たぶん今ではSさんでなければ書き残せないでしょう。
昨夜も、そのSさんと一緒だったのですが、Sさんの専門分野に関する私の思いつきの暴論にも誠実に応えてくれます。
そのお人柄に魅かれて、Sさんのためなら何かしなければいけないと思ってしまうほどです。

しかし、とても不謹慎なのですが、私にはSさんがとてもうらやましいのです。
食事をつくって一緒に食べられる伴侶がいるからです。
私は、自分だけのためなら食事づくりはやりたくないですが、節子がもし一緒に食べてくれるのであれば、食事づくりが好きになるでしょう。
食事にかぎりません。
何でもいいのです。
一緒に苦楽を共にする伴侶がいる人がとてもうらやましい。

離婚話をしていようが、別居していようが、喧嘩ばかりしていようが、伴侶はいないよりもいるほうがいい。
そう思います。
考えが古いとか自分勝手だと思われるかもしれませんが、そう思います。
しかし、最近は伴侶の価値に気づかない人が増えてきているように思います。
失ってから気づいても遅いのです。

これは、他人事ではありません。
私の最大の悩みは、娘が一人まだ結婚していないことです。
私たち夫婦の責任ですが、娘たちは結婚志向がずっとありませんでした。
わが家の居心地がよかったからではありません。
私たち夫婦のどこかに欠陥があったからです。
それを思うと、心が痛み、罪悪感に襲われて、時には夜も眠れません。
その辛さを分かち合う節子もいません。
息子であればともかく、娘にとって父親は頼りにはならないのでしょう。

毎日、その娘が食事をつくってくれ、節子の代わりに私の暮らしを世話してくれます。
それを喜んでいいのか、悲しむべきか、それすら判断できませんが、節子がいないために、娘たちの人生も変わってしまったことは間違いありません。

節子は実に「罪づくりの人」です。
時には節子への苦言も呈したいです。

■1471:年を経るごとに思いは深くなる(2011年9月12日)
節子
9.11事件から10年が経ちました。
9.11事件の時は、私は帰宅していて2階で仕事をしていました。
階下でテレビを見ていた節子や娘に呼ばれて降りていったら、想像を超えた映像が目に入ってきました。
あの日から10年。
自分が当事者ではない事件は、時間が速く進むものです。

10年目の今日、何もなければいいがと念じていました。
その一方で、防弾ガラスの陰で式典に臨んだオバマ大統領にはがっかりしました。
ケネディとはやはり違います。

9.11事件で息子さんを亡くされた日本人がテレビの取材に答えていました。
「年を経るごとに思いは深くなる」
当事者の中では、もしかしたら時間は逆流しているのかもしれません。

節子を見送って4年が経ちました。
この4年は一体なんだったのだろうか。
時々、そう思います。
思いを深くする以外に、生きる術が見つからないのです。
おそらく私の周りにいる人は、私のそんな気持ちには気づいていないでしょう。
元気そうな私を見て、新しい人生を踏み出したと喜んでくれている人ばかりです。
私と日常的に付き合っている人は、わざわざ挽歌を読むこともありません。
それに読む必要もない。
この挽歌の世界は、私の毎日の生活とは重ならないかもしれません。
それは自分でも少し感じています。
しかし、時に無性に虚しくなります。
虚しくなると全身から生気が引きます。
何かに癒されたいという気さえ起きないくらいに、生気を失います。
そして時に、不安が沸き起こります。
だから、思いを深くする以外に、生きる術が見つからないのです。

10年目の追悼式、7回忌。
そういう誰にも認めてもらえる節目には、元気になれるのです。
そういう時に、溜まってしまった思いを少しだけ軽くできるのです。
しかし、それがいつもあるわけではありません。
いつもは、一人で思いを深くする以外ないのです。

3.11も9.11も、二度と起きてほしくありません。
もちろん9.03も。

■1472:愛は開目(2011年9月13日)
節子
人を愛したことのある人は、決して人を憎むことはない。
これが私の体験から得た確信の一つです。
よく「愛が憎しみに変わる」ということが言われますが、憎しみに変わるような愛は、私には愛とは思えません。
ある人を愛すると、そこからすべての人や物への愛が広がるものです。
どんな人の中にも、必ず「愛したくなる」ものを見つけられるようになります。
「愛は盲目」ではなく「愛は開目」なのです。

テレビドラマの「砂の器」を見ました。
松本清張の原作に基づくものですが、かなりのアレンジがなされていました。
ドラマそのものとしては、脚本がかなり粗雑で、殺人の動機も説得力がありません。
たぶんこの脚本家は、人を愛したことがない人だと思いました。
自己への愛と他者への愛が整理されていないせいか、原作の持つ深さは感じられませんでした。
しかし,その軽さの故に、原作の持つ重苦しさからは解放されていて、ついつい最後までみてしまったのです。
いずれにしろ、このドラマのテーマは「愛」です。

殺人犯と刑事は幼児期に、それぞれ辛い思いをします。
2人の人生を支えたのは、その辛さの中から育った「愛」でした。
愛が見えるのは、たぶん悲しみや辛さの中からです。
辛さの中で愛を育むか、辛さを忘れるために愛を育てるか。
刑事は前者を選び、犯人は後者を選んで殺人まで犯してしまうのです。
その犯人に、改めて愛に気づかせるのは刑事です。
中途半端な書き方ですので、ドラマを見ていない人は何のことかわからないでしょうね。
すみません。

私は、ドラマの筋立てには違和感を持ちましたが、辛さの中でこそ愛は育つということを感じました。
また愛はそもそも無償なのだということも改めて感じました。
殺された被害者は、加害者を最も愛していたのです。
被害者はたぶん幸せだっただろうな、という思いが、ふっと頭に浮かびました。

この頃、少しずつ「愛」というものがわかってきたような気がします。

■1473:未来から挽歌を書いたらどうなるか(2011年9月14日)
節子
いろんな人が湯島に来ますが、昨日、未来の情報アーカイブをみんなで創るプロジェクトに取り組んでいる未来新聞の森内真也さんがやってきました。
私たちは、現在から未来を考え、過去を語りますが、森内さんは未来から現在を過去形として語ることで意識が変わるというのです。
話していて、とても波長が合いました。
2時間を越える時間でしたが、あっという間でした。
久しぶりに時空間を越える話ができました。

断片的な記憶を再編集することで、過去が変えられるように、未来に視座を置けば、現在も変えられます。
言い換えれば、過去も未来も現在も、確実なものではないのです。
所詮は脳内の記憶の動きで変わりうるのです。

それはともかく、未来からこの挽歌を書いたらどうなるでしょうか。
3年後の自分を想定し、そこから挽歌を書くわけです。
3年後には私もまた彼岸にいるかもしれない。
彼岸に行ってから、今の私を振り返ったらどうでしょうか。
面白い気がします。
節子と一緒に話し合っている挽歌になるかもしれません。

3年後に再婚していたらどうでしょう。
まあこの可能性は限りなくゼロに近いですが、世の中には絶対に起こらないことはありません。
その場合の挽歌はどうなるか。
続いているかどうかさえ危ぶまれますが。

3年後にも相変わらず節子を思いながら挽歌を書いているとしたらどうでしょう。
あんまり面白い想定ではないですが、3年という時間の経過が私をどう変えているか、これも興味があります。
ちなみに、私自身は3年後の自分はほぼ見えています。
この歳になると、3年という年月はほとんど誤差に近いからです。

久しぶりに時間について話し合いましたが、そのおかげで、止まっていた私の時計も動き出すかもしれません。

■1474:自然のユニティ(2011年9月15日)
節子
文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、人間の精神を、個人の脳内に限定せず、環境と一体になった情報システムとして捉えました。
そして、その大きな精神を「自然のユニティ」と呼んだのです。
むかし読んだだけですので、あまり正確には理解も記憶もしていないのですが、その発想にはとても納得したことを覚えています。
その延長に、私はガイア思想や仏教の大きな生命の考え方を重ねています。
私にとっては、有名なドーキンスの「利己的な遺伝子」論よりずっと納得しやすいのです。

自然界そのものを一つの精神と捉えれば、個人の生死は大きな流れの一つのドラマでしかありません。
いや「しかありません」と言うべきではなく、「と位置づけられます」というべきでしょう。
そう考えるとどうなるか。

ここからがまたややこしいので、節子の嫌いな話になりそうです。
個人の生死が大きな流れのドラマであれば、演じている当事者と観ている観客は分けることができるでしょうか。
精神は個人の脳内では完結していなのですから、分けられるはずはありません。
さらにいえば、彼岸に旅立った節子の精神は、此岸にいる私の精神とつながっているのです。
自然のユニティは、いわば情報(精神)が回り続ける、統一された一つの生態系なのです。
そう考えれば、愛する人の死はドラマではありますが、ドラマでしかないのです。
いつかまた再会できるということです。
いや、再会というよりも、そもそも「別れ」はないのです。
節子なら、そろそろ席を立つころですね。はい。

にもかかわらず、節子との別れが、私の心身を拘束するのはなぜでしょうか。
ベイトソンの答は明確です。
現代人が個人の意識を肥大化させたからだと言うのです。
そう言うのは、ベントソンに限りません。
仏教も空即是色と昔から言っていますし、聖徳太子も「世間仮虚」と言っています。
意識が邪魔をして、「自然のユニティ」を生きられないのが現代人です。
なんと小賢しいことか。

個人の意識で生きるとどうなるでしょうか。
時間の速度が変わるのです。
自然に身を任せられなくなって、自然を管理したくなるのです。

だんだん話が大きくなってきてしまいました。
今日は何を書くつもりだったのでしょうか。
自然のユニティのなかに身を任せば、別れなど瑣末なことだ、と書こうと思ったのですが、どうもそうはなりませんでした。
この挽歌は、書いているうちに考えや気分が変わってしまうことがよくあります。
そういえば、ベイトソンは、そんなことも書いていたような気がします。
記憶違いかもしれませんガ、もし明日時間があれば、彼の本で探してみましょう。
いや、こんなややこしい話を書きつづけると節子に嫌われますので、明日はもっと軽い挽歌がいいですね。
どちらになるかは、明日の気分次第ですが。

■1475:「佐藤さんは幸せだね」(2011年9月16日)
節子
今日は小難しい話はやめましょう。

「マリアージュ」といえば、節子は思い出すでしょうが、あの小山石さんが来ました。
彼が言いました。
「佐藤さんは幸せだね」と。
彼がそういうのだから、そうなのでしょう。
まあ幸せにやっていますから、安心してください。

幸せとは何だろう、などと問い始めると、また小難しくなりますが、なぜ彼はそう思ったのでしょう。
私が苦労しているように見えないからでしょう。
節子は知っていますが、私は「現状がベスト」と考えますし、「解けない問題はない」と考えるタイプです。
誰かがとんでもない難問を持って相談に来ても、私は話を聴いて、即座に答えます。
「その問題を解くのは簡単です」と。
その時に、私の頭の中に解があるわけではありません。
ただそう言うことに決めているだけのことです。

こうした能天気な生き方は、人を幸せにします。
どんなに不幸な状況も、これ以上ないほどの不幸でも、それを甘んじて受け容れると、それはまたそれなりに幸せなのです。
そう思えば、余計な苦労などする必要はありません。
悲しければ悲しさを、辛ければ辛さを、不安なら不安を、不幸なら不幸を、すべてそのまま素直に受け容れればいいだけなのです。
所詮、人ができることは限られていますし、奈落にも底はある。
そう思えば、どんな状況も、不幸でさえも、幸せに転じられます。
実は、その魔力を持っているのが、「愛する伴侶」です。
私の場合は節子でした。
節子は、不幸さえをも幸せに変える魔女だったのです。
節子がいなくなってから、そのことが徐々にわかってきました。
そして、最近では、その魔女の呪力が私にも植え付けられているのに気づきだせたのです。
私の心身の中に、愛する魔女が住みついているのです。
たぶんわかる人にはわかってもらえるはずです。

最近は、実に不幸な状況にもかかわらず、幸せでもあるのです。
昨日書いたベイトソンの自然のユニティの考えから言えば、不幸も幸せも瑣末な話なのでしょうが、不幸も幸せも一緒に味わえる幸せは、たぶんベイトソンは体験できなかったでしょう。
最後はやっぱり小難しい話になってしまいました。
困ったものです。

■1476:二度と崩れることのない幸せ(2011年9月17日)
「私が幸せだって?」
夜中に目が覚めました。
なぜか突然、昨日書いた挽歌のタイトルの言葉が思い出されました。
「佐藤さんは幸せだね」
昨日は何の違和感もなく、その言葉を肯定する挽歌を書きました。
そのことが、心のどこかに引っかかっていたようです。
「私が幸せだって?」の声で目が覚めました。

朝起きた時には、もうそのことを忘れていたのですが、
挽歌を書こうとパソコンに向かったら、またその言葉が浮かびました。
昨日書いた挽歌を読み直してみました。
素直に私の心に入ってきました。

愛する人を失うと、「幸せ」という概念が崩れ去ってしまうのです。
「幸せ」がなければ「不幸」もなくなります。
そして、「幸せ」だった時間が凍結され、完成されるわけです。
二度と崩れない幸せ。
だから「佐藤さんは幸せだね」という言葉には否定することもないのです。

二度と崩れることのない幸せは、二度と出会うことのない幸せでもあります。
だから愛する人を失った人は、その世界から抜けようとしない。
その「不幸の中」にいればこそ、「幸せ」とつながっていられるからです。
それに、抜け出ても、新しい幸せに出会うかもしれませんが、出会わないかもしれない。
「幸せ」は一度出会えばいいのです。
欲を膨らませてはいけません。

こういうことは、すべて仏教の経典に書かれているように思います。
私は経典を読む力はありませんから、素人向きの解説書しか読んだことはありません。
解説書でさえ、正直、私には難解です。
でも何冊か読んでいると、伝わってくるものがある。
生き方を問い質されることもある。
あるいは仏像の前に対座させてもらっていると声が観えることもある。

まだ奈良にも行けていませんが、行く時がきたら行くことになるはずです。
すべては大きな流れの中にあるからです。
そうやって、幸せの時を過ごし、「死」を合わせる日を待っているわけです。

■1477:縁切寺(2011年9月18日)
節子
暑さが続いていましたが、どうやら今日で秋に向かうようです。
午前中は暑かったのに、夕方になったら肌寒いくらいになりました。
自然の変化の見事さには、いつも驚かされます。

なぜか急に、さだまさしの「縁切寺」を聴きたくなりました。
幸いに「グレープ」のCDがありました。
このCDは、節子とよく聴きました。

「縁切寺」
節子を見送ってから、この曲を聴くと必ず涙が出ます。
ご存知の方も多いでしょうが、この歌は失恋の歌で、私たちには当てはまりません。
しかし不思議なほど、私たちのことのように思えるのです。
ちょっと長いですが、歌詞を一部省略して引用させてもらいます。

今日鎌倉へ行って来ました
源氏山から北鎌倉へ
あの日と同じ道程で
たどりついたのは 縁切寺

ちょうどこの寺の山門前で
きみは突然に泣き出して
お願いここだけは 止してあなたとの
糸がもし切れたなら 生きてゆけない
あの日誰かに 頼んで撮った一枚切りの一緒の写真
納めに来ました 縁切寺

君は今頃 幸せでしょうか
一度だけ町で 見かけたけれど
紫陽花までは まだ間があるから
こっそりと君の名を 呼ばせてください
人の縁とは不思議なもので
そんな君から 別れの言葉
あれから三年 縁切寺

なぜこの歌を聴いて、私たちのことと思えるのか不思議ですが、節子と何回も聴いたためかもしれません。
ちなみに、節子は同じCDに入っている「精霊流し」が好きでした。
もしかしたら、と、ふと思います。
あの頃から私たちには、別れが定められていたのかもしれません。
あまりの幸せさに、お互い、そんなことなど考えもしていなかったのです。

ところで節子、
君は今頃 幸せでしょうか。

■1478:幸せの涙(2011年9月19日)
節子
Pattiさんという方が、2週間前のこの挽歌にコメントを投稿してくれました。
Pattiさんは、2か月ほど前に伴侶を見送ったそうです。
翌日が47歳の誕生日。あまりにも若い別れです。
すい臓がんだったそうです。

そのコメントを読んで、私は返事が書けませんでした。
Pattiさんの言葉は、あまりにも私の気持ちそのものだったからです。
Pattiさんはこう書いています。

頑張ったのはあなたです。
ごめんね、守りきれなくて。
私と一緒に暮らしてくれてありがとう。
一緒にいるときから感謝していたよ。
泣くなと言っているかもしれないけれど、
幸せだったから、とてもいとおしいから、だからこそさみしくて泣くんだよ。

この言葉に出会って、私はたじろいでしまいました。
Pattiさんの、この言葉はまさに私の言葉でもありました。

Pattiさんは、「節子への挽歌」を読んで、いろいろな思いをめぐらせることができることに感謝していると書いてくれました。
私もまた、Pattiさんの言葉に思いをめぐらせているのに気づきました。
私だけの閉じた世界から抜け出せるかもしれない、と思いました。
最近、いささか自分だけの世界に引きこもりたくなってきていたのです。
私はこれまで、ほかの人の追悼文などを読めませんでしたが、もしかしたらこれからは読めるかもしれません。

しかし、なかなかPattiさんに返事を書けずにいました。
そして今日、Pattiさんから2回目のコメントが届きました。
次の言葉が、また私の心を打ちのめしました。

私は幸せ者です。それは誰に憚ることもなく真実です。
彼と出会えたこと、刺激的で楽しい時間を共に過ごせたこと。

このいさぎよさ。
そこに込められた万感の思い。
そうなのです。私が幸せであることは「誰に憚ることもなく真実」なのです。
今日、2度目の涙です。
こんなに涙が出たのは久しぶりです。
しかし、その涙は「幸せの涙」です。
人は幸せでも涙が出てくるのです。
そしてその結果、さみしくなる.
そしてまだ涙が出てきて、また幸せになる。

Pattiさん
私もPattiさんに負けずに、幸せです。
そして、Pattiさんに負けずに、さみしいです。
ありがとうございました。

■1479:最近墓参をさぼっています(2011年9月20日)
節子
最近、墓参りを少しさぼっています。
毎週、墓参すると娘たちには宣言していたのですが、この頃は、月に2回ほどになってしまいました。
最近はもう2週間ほど行っていません。
今週末のお彼岸までまあいいかと思っていました。
まあ、相手が節子だからいいだろうと、ついつい甘くなってしまうのです。
節子が考えることと私が考えることは、いつもほぼ同じだったからです。

今日は朝から湯島のオフィスに来ているのですが、先ほど、娘から電話がありました。
娘たちでお墓に行ったのだそうです。
そうしたら新しい花が供えられていたそうです。
たぶん花かご会のみなさんだろうというのです。
花かご会のみなさんは毎年命日を覚えていてくれるのです。
うれしいことです。

わが家のお墓の近くに、節子の友人の伴侶のお墓があります。
その方は必ず月に2回お墓参りに行くそうです。
その時に必ずお線香を一本だけ節子のお墓に供えてくださっているそうです。
私の友人たちがこんなに来てくれるのに、やはりあなたは誠意がないわね、と節子に怒られそうです。
困ったものです。

ところでお墓に行く意味は何でしょうか。
節子の位牌はわが家にありますし、あえてお墓に行くこともないような気もします。
土葬だった時代はそうもいきませんが、いまはマンションの中にお墓がつくられる時代です。
だとしたら、あえてお墓はお寺でなくてもいいかもしれません。
お寺のお墓とわが家の庭の献花台と家の中の位牌壇と寝室の節子のコーナーと、節子はどこが一番居心地がいいでしょうか。
少なくともお寺ではないでしょう。
そう考えるとお墓のあり方を考える必要があるかもしれません。
もし自宅の位牌壇を本拠地とすれば、お墓参りの意味も変わってきます。
決して、私がお墓参りをさぼりたくてこう考えているわけでは在りません。
念のため。

時々、亡くなった家族と同居しているという「事件」が報道されます。
その報道に触れるたびに、私は複雑な気持ちになります。
少なくとも、そうした人を責める気にはなれません。
私もできれば、火葬などすることなく、ましてやお墓などに埋葬することなく、ずっと節子と一緒にいたかったからです。
それが適わぬことであることはもちろんわかっています。
しかし今でも時々後悔したくなるのです。

なんだか最近、お墓参りをさぼっている言い訳の挽歌になってしまいました。
でも一つだけ言えることがあります。
お墓参りが日常の暮らしの中に組み込まれることは、とても意味のあることだと思います。
特に子どもたちにとって意味があるように思います。

間もなく、お彼岸です。
またお寺がにぎわいます。
にぎわっているお墓の雰囲気が、私はとても好きです。

■1480:台風(2011年9月21日)
節子
久しぶりの台風です。
雨風がすごいです。
台風が来るとなぜか心が騒ぎます。
いつも節子には怒られていましたが、なぜか外に出たくなるのです。
自然の強い力に触れたくなるのです。
雨風に触れると、自分が大きな自然の一部であることを実感します。
同時に、恐ろしさも感じます。

ところで台風が来るというのに、その対策を今回はすっかり忘れていました。
節子がいたら、いろいろと指示されたのでしょうが、指示がないと忘れてしまうようではまだ自立できていません。

夕方の7時頃、すごい風だったのですが、突然大きな音がしました。
出てみると壁にそってバラを這わせていたフェンスがはずれて、そこにかけていた植木鉢やタイルなどが宙ぶらりんになっているのです。
しかもまさに一番の風の道をさえぎる形で、です。
ほかに飛んでいったら大変なので、雨の中を娘と一緒に片付けようとしたのですが、バラが絡まっていてうまく動かせないのです。
そのうちに、バラのトゲが腕に刺さりだして大変なことになってきました。

何とか近況措置して家に入ると今度は裏のほうから大きな音がします。
そこで今回は何もしていなかったのに気づいたのです。
明日の朝が、いささか心配ですが、まあここまできたら仕方がありません。
節子の献花台が無事だといいですが。

8時過ぎには雨がやんで風だけになりました。
と、それまで寝ていたチビ太が起き上がって、外に出たいというのです。
風がすごいので出ないだろうと思ったのですが、ドアをあけてやったら出て行きました。
そして風のほうを向いて、いつものように瞑想を始めました。
10分以上、じっと動かずに、風の中に立っていました。
そうしたら、なんと風が静まったのです。
風が止んだらまた家の中で吠え出しましたが。

私は台風が好きでした。
家の中で節子と一緒に、ちょっと不安を感じながら、自然の大きさを感じるのが好きでした。
節子がいないと台風もあんまり楽しめないのが残念です。

9時過ぎにはほとんど風はおさまりましたが、時折、突風がまだ吹いているようです。
ドキッとするような音がまだ時々しています。

■1481:守護神(2011年9月22日)
節子
台風一過のさわやかな1日になる、と思っていたら、お昼過ぎから雲行きが少し怪しくなってきました。
黒雲が空を覆いだしました。

ところで、ふと思ったのですが、最近、これといった災害にあっていません。
昨日は午前中、以前から歯医者を予約していたので、その前後の日には予定を目いっぱいいれていたのに、21日だけは空けておきました。
大地震のあった3月11日も、午前中に地元で人と会う約束を入れていたため、オフィスには午後から行こうと思っていたのですが、午前中の話し合いがちょっと長引いたので、オフィスに行くのを直前に止めてしまいました。
したがっていずれの日も出かけていなかったので、いわゆる「帰宅難民」になることなく、自宅でテレビを見ていました。

まあ思いつくのはその2回だけなのですが、そういえば最近は事故や災害に会うことがありません。
出かける頻度が少なくなったからなのでしょうが、それでは面白くないので、こう考えることにしました。
節子が守ってくれているのだ、と。
そう考えるとこれからはあまり先のことを考えずに気楽に行動すればいいことになります。
私が出かける時には大事件は起こらないからです。
節子が突然に心変わりしなければの話ですが。

私たちは、仏や神に守られて生きている、と昔の人たちは考えていました。
こうした考えを合理的ではないと言う人もいます。
しかし、仏や神を「自然」と考えれば、それは極めて合理的な考えです。
地球に優しく、とか、自然を守ろう、などという傲慢さは、そこからは生まれてきません。
私たちが、優しく守られているのですから。
その主客転倒を捨てないかぎり、自然は私たちを守ってはくれないでしょう。

これは以前からの私の考えなのですが、昨日、古い映画をDVDで観ていて、気づいたことがあります。
見ていた映画は、リメイク版の「ジャッカル」です。
この映画は、最後の部分だけが好きなのですが。
その映画のキーワードの一つは、「自分の女さえ守れなかった」という言葉です。
それを観ていて、ハッと気づいたのです。
つい先日、同じような言葉を、この挽歌にも書いたからです。

「節子を守ってやれなかった」という考えは、傲慢ではないのか。
守ってもらっていたのは、私だったのではないのか。
私が節子を守れなかったと嘆くのではなく、節子が私を守ってくれたことに、素直に感謝すべきなのではないか。

まあ他の人からしたら、どうでもいいようなことでしょうが、ちょっとそんなことを考えてしまいました。
空はますます暗くなり、今にも雨が降り出しそうです。
今日もまた、節子は私を守ってくれるでしょうから、大丈夫でしょう。
守護神の節子に感謝しなければいけません。

■1482:流れにまかせた生活への反省(2011年9月23日)
節子
こたつがほしくなるような日になってしまいました。
去年も書いたような気がしますが、最近は秋がなくなってしまったようです。

この夏は、結局どこにも行きませんでした。
この秋も、そうなってしまうのでしょうか。
いろんな相談が持ち込まれて、それを受けて予定表を埋めていくとどんどんつまっていってしまいます。
だれかから何かを頼まれると、断ろうと思っていても、気が付いてみると引き受けているのです。
断るための「理由」がないからなのです。
そうした受動的な生き方に陥らないように、それに抗うように、私自身が主催するサロンなどもいろいろとやっているため、さらに予定表は埋まっていきます。
その結果、なんとなく何かをやっているような気分になって、わざわざ奈良まで行く努力をしなくなってしまうわけです。
しかし、自分で計画しなければ、何も動き出しません。
節子が促してくれるわけでも、誘ってくれるわけでもありません。
このままだと、気がついたら今年も終わりと言うことになりかねません。
これではいけないので、何が何でも10月には奈良に、11月には箱根に行こうと思います。
日常生活だけでは、気がどんどん沈んでいってしまうからです。
人には「ハレの日」がなければいけません。
実現できればいいのですが。

節子がいる時は、「生活を楽しくしよう」という意識が働いていました。
しかし、節子がいなくなってからは、「生活をどうこうしよう」という発想はなくなり、ただただ「流れにまかせて生活している」という感じです。
ようやくそのことに気づきだしたというところです。
今までは、それさえも気がつかなかったのです。
もっとも、だからといって、「生活を楽しくしよう」という気も起きませんが、最近のちょっと気が沈んだ生き方にはかなりの自己嫌悪を感じているのです。
抜けないとますます沈んでいきそうです。

今日はお彼岸。
20日ぶりにお墓参りに行きました。
節子が心配しているかもしれません。

■1483:もっと節子を手伝っておけばよかったです(2011年9月24日)
節子
来週、我孫子の手づくり散歩市です。
最近はわが家も会場になっていので、ジュンが工房に来た時に少しずつ庭の手入れをはじめていたのですが、この台風で見事なほどに花木がやられてしまいました。
節子がいたら、花の植え直しもしてくれるのでしょうが、何しろわが家の園芸部はジュンと節子だけで、あとの2人は苦手なのです。

先日、写真を見ていて、節子がいた頃の庭の華やかさの見事さを思い出しました。
ガーデニングとはとてもいえないような小さな庭ですが、四季を問わず、わが家はいつも花が咲いていました。
節子は家の中の掃除はかなり手を抜いていましたが、庭の手入れはこまめにやっていました。
私のケアよりも花木のケアのほうが、節子は好きだったかもしれません。
花屋さんから枯れそうな花をどっさり買ってきて、元気にさせていました。
まあ、時には私も元気にしてはくれましたが。
花木は愛情を込めて、毎日、会話しながら育てないといけませんし、ちょっと気を抜くと元気を失ってしまいます。
夫婦と一緒です。
節子がいた頃は、わが家の花木も幸せだったことでしょう。

節子の後、ジュンが頑張ってくれていますが、結婚してしまったので、そうそうやれません。
私も毎日、水をやりながら、花木を気にしていますが、自分で植えた節子にはとても及びません。
節子のいた頃に比べれば、花の種類も数も半分以下になってしまったでしょう。
節子が大事にしていた木を枯らせてしまい、これは大変だと植え替えて丹精にケアした結果、復活した2本の木も(以前、この挽歌にも書きましたが)、新芽がでてきてホッとして気を抜いてしまい、結局、ダメにしてしまいました。
合わせる顔もありません。
生き物を育てるということは中途半端ではできないことです。

手入れができないのだから、思い切ってもっと整理したらと娘たちは言います。
しかしその気にはなかなかなれません。
花木の一つひとつに節子が重なるからです。
手入れが行き届かずに枯れてしまって、結果的には整理されているわけですが、娘からそういわれるともっと手入れするよと言ってしまうのですが、なかなか心身が動きません。
困ったものです。

今日はジュンが手入れをしていたので、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ手伝いました。
節子が元気だった頃、もっと手伝えばよかったです。
手伝っておけばよかったことは、ほかにもたくさんあります。
節子が元気だった頃、私はいったい何をしていたのでしょうか。
何が大切なのか、きっとわかっていなかったのでしょう。
大切なのは、愛する人と時間を共にすることです。

■1484:ささえあい交流会(2011年9月25日)
節子
高崎での「ささえあい交流会」に参加しました。
長野や埼玉からも、仲間たちが参加してくれました。
節子にも手伝ってもらって始めたコムケア活動(支え合うつながりを育てる会)は、少しずつですが、いろいろな物語を生み出しています。
派手さはありませんが、私にとっては、どこに行っても心を通わせあえる仲間がいるのがうれしいです。
いずれもお金とは無縁のつながりですので、切れることもありません。

昨日の会場は高崎市郊外の「ゆいの家」でした。
「ゆいの家」を主宰する高石さんは、数年前にご主人をがんで見送りました。
彼女は高校の教師でしたが、思うことあって教師を辞めて、若者たちや弱い立場の人たちの支え合う場をつくる活動に取り組みだしました。
私が彼女に会ったのは、コムケアの集まりを高崎で開催した時です。
以来、ゆるやかな交流が始まりましたが、節子の発病のしばらく後に、彼女の伴侶も発病しました。
彼女の対応は、私とは違いましたが、間違いなくそのことは彼女の生き方をまた少し変えさせたように思います。

今日の集まりで、彼女が「旦那がいたときは経済的なことは考えなくてもやれたのに」とポツンと言いました。
おそらく問題は「経済的なこと」ではないでしょう。
直接、活動に関与しなくても、伴侶がいることは社会活動に取り組む時の大きな支えになるのです。
社会活動は別にお金がもらえるわけではありませんし、達成感もあるようでないものです。
時に、なんで私はこんなことをやっているのだろうと思うこともあります。
しかし自分の活動をいつも理解して見てくれる人がいると思うとそんなことを考えることはありません。
誰にもわかってもらえなくても、妻だけは、夫だけは、わかってくれていると思えるからです。
その存在がなくなると、時に自信さえなくなることがあるのです。
ご主人の病気に、あれだけ淡々としていた高石さんの心の内がちょっと見えて、ホッとしました。

昨日の集まりに参加してくれた一人が、この場は行政やNPOがやっている集まりと違って楽しいといってくれました。
それもとてもうれしい言葉でした。
ささえあい交流会は、長野や埼玉に飛び火しそうです。
もちろん群馬ではこれから継続していくことになるでしょう。

節子
コムケアの活動ではいろいろと心配をかけましたが、順調に進んでいます。
ゆっくりですが。

■1485:節子は追い返すでしょうか(2011年9月26日)
節子
節子が元気だった頃は一緒に見ていたNHKの朝の連続ドラマ小説をいまも見ています。
いまは「おひさま」というドラマです。
主人公の母親は彼女の小さな時に病気で亡くなり、その後、父親が一人で3人の子どもを育てるという設定です。
父親を演じているのは寺脇康文さんですが、間違いなく節子が惚れこむような男性です。
私とはだいぶ違います。

その人が映画館で倒れて生死の境をさまようのがこの数日の話です。
滅多に映画を観ないその人が毎日映画館に通ったのは理由があります。
その映画に妻に似た女性が出てくるからなのです。
募った思いがある時に、思わぬ形ででてくることはよくわかります。

今日は生死の境目から生還する話でした。
うなされて妻の名前を呼びます。
子どもたちは、お母さん、お父さんを連れていかないでと叫びます。
意識を回復した父親は言います。
お母さんに会ったけれど、追い返されたよ、と。

節子ならどうしたでしょうか。
そして私ならどうしたか。
悩ましい問題です。
節子は間違いなく追い返すでしょう。
私は、判断に悩みます。
しかし、いつか必ず彼岸で会えると思えば、急ぐことはないかもしれません。
それに節子の意に反して無理やり彼岸に移った後で追い返されたらもう行き場がありません。
まあここは私も素直に追い返されましょう。
しかし、一度でいいから、節子を抱きしめたいとは思います。

節子がいないのに、こうして朝のドラマを見続けているのも考えてみると不思議です。
見る意味などないはずなのに。
テレビだけではありません。
節子がいなくなった今も、基本的には生活のスタイルはあまり変わっていないのです。
不思議です。

■1486:夫婦って何なのだろうか(2011年9月27日)
節子
最近、日本で起こっている殺人事件の加害者の約半数が「親族」なのだそうです。
家庭は愛情の育まれる場所であると同時に、暴力の嵐が飛び交っている場所でもあるのです。
暴力は、必ずしも憎しみから生まれるわけではありません。
暴力は愛からも生み出されます。
相手に対する深い思いは、時に暴力に転化することもあるのです。
仲が良かった夫婦が、突如、変わってしまうこともあります。
それは、夫婦があまりに閉鎖空間だからなのかもしれません。
そのせいか、最近は開かれた夫婦関係、お互いの生活を尊重しあう同棲関係や逆に別居結婚などが増えているようです。
つまりお互いにそれぞれの自由度を尊重するというわけです。

私たちは、それとは全く正反対でした。
できるだけ相手を拘束し、絡み合う夫婦が、私たちの最初からの文化でした。
私たちの生活は、何から何まで一緒でしたし、隠し立ては皆無でした。
しかし、お互いにそれぞれの思いは自分のそれ以上に尊重してきました。
それが十分できていたかどうかは、節子がいないいま、確認のしようがありませんが、
概して私たちはお互いに拘束しあう夫婦関係に満足したように思います。
節子は間違いなく、私との関係には満足していたはずです。
もちろん私は、節子に完全に満足しています。
だからこそ、節子がいなくなった後、自らの生き方さえ混乱してしまったのですが。

仲違いしたり、憎しみ合ったりしている夫婦を見ると、うらやましくなります。
仲違いも憎しみ合いもできない自分がさびしくなるのです。
もう一度、節子と喧嘩したい。
節子に憎まれたい。
そう思うのです。
しかし、暴力沙汰になってしまっている夫婦を見ると、怒りを感じます。
節子だったらどういうでしょうか。

最近、夫婦って何なのだろうか、と考えさせられることが増えています。
私たちは、ちょっと変わった夫婦だったのかもしれません。

■1487:「長い灰色の線」(2011年9月28日)
夫婦を描いたひとつの映画がずっと私の記憶の中にあります。
「長い灰色の線」です。
たぶん高校時代に観たと思います。
まだ「夫婦」とは何かなどということにはほとんど意識がない頃でしたが、この映画はなぜか私の心に2つの強い気持ちを残しました。
「心からのあたたかさ」と「おそろしいほどの哀しさ」です。
映画は、結婚から死別までの夫婦の人生を描いた映画だったと思いますが、ストーリーはあまり覚えていません。
ただ、夫が妻を見送ったはずです。
その映画は、伴侶との別れの「おそろしいほどの哀しさ」の不安を私に植え付けました。

節子が元気だった頃、テレビで「長い灰色の線」が放映されたことがあります。
ずっと気になっていた映画だったのですが、いざテレビで放映されるとなると、観たい気持ちよりも、観たくない気持ちが大きく、結局、見送りました。
その時に思ったのは、いつか節子と一緒に心穏やかにこの映画を観たいということでした。
しかし、まさか私がこの映画の主人公のように、節子を見送るなどとは思ってもいませんでした。

物語の内容はほとんど記憶がありません。
覚えているのはアイゼンハワー(もちろん本人ではありません)が登場したことくらいです。
それなのに、なぜか「おそろしいほどの哀しさ」が、忘れようもなく、心の奥深く沁みこんでいるのです。
その映画は、もしかしたら、節子を見送ることを私に教えてくれたのかもしれません。
もちろんその映画を観た時には、私には節子の存在すら知りませんでした。
にもかかわらず、なにかどこかでつながっているような気がするのです。

しかしどうして「長い灰色の線」の映画のことがずっと気になっていたのでしょうか。
その映画のことを忘れたのは、たぶん節子の病気がわかった頃からです。
そしてつい最近までです。
ふつうに考えると思い出すべき理由がある時期に忘れてしまっていたわけです。

「長い灰色の線」の映画を急に思いついたのは理由があります。
先週、テレビ番組表で映画「シマロン」が放映されることを知りました。
この映画も結婚から死別までの夫婦の人生を描いた映画です。
この映画では先立つのは夫です。
この映画を観たのは大学時代で、印象に残っているのは主人公の生き方でした。
ただ最後に夫婦の真髄を感じたような記憶があります。
しかしこの映画も物語は覚えていません。

夫婦は楽しく幸せなものと、私はずっと思っていました。
しかしその夫婦になる前には、私は夫婦とは哀しく不安なものだということを知っていたのです。
それを忘れさせてくれていた節子に感謝しなければいけません。
節子との暮らしは、「心からのあたたかさ」でつつまれていましたから、ただただ「楽しく幸せなもの」でした。
その「あたたかさ」は、もう二度と体験することはないでしょうが。

■1488:「一枚のハガキ」(2011年9月30日)
節子
この挽歌の読者のお一人が、「一枚のハガキ」の映画チケットを届けてくださいました。
新藤兼人監督の引退作といわれる作品です。
新藤さんの映画は、私には重すぎるので、どうも苦手です。
迷ったのですが、すべての物事には意味があるという、基本的な私の信条に基づき、今日、シネマ有楽町に観に行きました。
行って気づいたのですが、節子と一緒に「永遠と1日」を観た映画館の、同じ場所にある映画館です。
建物は全面的に変わっていますが、場所はほぼ同じです。
あの時は、映画館を出ても、嗚咽をとめられないほど涙が出てしまいました。

「一枚のハガキ」も実に悲しい物語ですが、最後には希望が示唆されています。
それが救いでしたが、やはり重い映像で、私には荷が重過ぎました。
もっと軽く、重いテーマを描くのが効果的だと思いますが、やはり新藤監督の育った時代がそうさせないのでしょう。

戦争末期に召集された100人の中年兵士の啓太は、仲間の森川から「自分は戦死するだろうから生き残ったらハガキは読んだと妻を訪ねてくれ」と一枚のハガキを託されるところから物語は始まります。
そのハガキにはこう書かれていました。
「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」
前半は、啓太とその仲間の兵士の妻の実にやりきれない人生が描かれています。
そしてその積み重ねの上に、このハガキが新しい物語を作り出していくのです。
前半は特に、ともかく暗いのです。そして重い。
しかし、そこに登場する人たちはみんなとても人間的で誠実です。
そこからは不思議なあたたかさが伝わってきます。そこに救いがあります。
そしてそれが最後の希望につながっていくのです。

妻役の大竹しのぶが、実にすばらしい。
出征した夫の戦死を聞いた妻は、堪えていたのが、ある時堪えられなくなって、叫びます。
「なんでわしを残して死んでしまったんだ!」
心を揺さぶられるシーン、ほかにも少なくありません。

100人の兵士の生死は、くじ引きで決まりました。
啓太は運が良く、森川が運が悪かった。運の悪さは森川の妻にも両親にも降りかかります。
妻はくじで生死が決まったことに、救いを求めようとします。
このあたりのやり取りも、とても考えさせられます。

長くなりました。
時間がなくなったので、続きは明日書くことにします。

■1489:「何の風情もありません」(2011年9月30日)
映画「一枚のハガキ」に関連した昨日のつづきです。
ハガキに書かれていたのは次の文章です。
「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」
この言葉は、愛する人を失った人の共通の思いでしょう。
音羽信子さんを見送った新藤さんの真情のような気がします。

昨日、ほぼ10年ぶりに訪ねてきた人がいます。
後から変わっていませんねとメールが来ました。
しかし、私は変わりました。
見える人には見えるでしょうが、節子がいた頃の私と今の私は、ほぼ別人と言っていいでしょう。
愛する人を失った人ならきっとわかると思います。

何が変わったのか。
私にとっては「世界の風情」が変わりました。
世界にとっては「私の風情」が変わったと思います。

昨日は湯島のオフィスで、オープンサロンという、誰でも歓迎のお茶のみ雑談会をやりました。
節子と一緒に始めたものです。
節子がいなくなった後、止めていましたが、再開してほしいという声があったので再開しました。
しかし、形は同じでも、節子がいた頃とはたぶん似て非なるものです。
私にとっては、やはり「風情がない」のです。

「あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」
とても、心に響く言葉です。
愛する人のいない世界は、驚くほどに「平板」なのです。
「風情」も「意味」もなにも感じられない。
ただそこにあるだけの世界になってしまいます。
「意味のない世界」を生きることは、疲れるものです。

映画の話に戻れば、主人公の知子(森川の妻です)は「風情」ある人生を取り戻します。
しかし、それを導いたのもまた、愛する伴侶だったのです。
それは示唆に富むメッセージです。
新藤さんがまた映画を創った意味が少しわかったような気がしました。

お祭もイベントも集まりも、風情はないかもしれませんが、風情がないと感ずる心の世界には、まさに「風情」がある。
一度、体験した「風情のある世界」はもしかしたら、自分では気づかないだけで、実はそのまま残っているのかもしれません。
つまり、「風情のないことを感ずる風情」です。
なにやら禅問答のようになってしまいましたが、「風情」という言葉が、いま心を覆っています。

■1490:庭園カフェ(2011年10月2日)
この2日間、地元で手づくり散歩市というのがありました。
地元の手づくり工芸などに取り組んでいる人たちがショップを出して、そこを歩いてもらおうというイベントです。
わが家はメイン会場の通りとは少し離れていますが、庭にある娘のスペインタイル工房が会場になっています。
それで私は来てくださった方に庭で珈琲のおもてなしをさせてもらうのです。
節子がいたら、きっとやりたがるだろうなという思いがあって、始めました。
しかし、節子がいないせいか、それこそ風情が出てこないのです。

今年の手づくり散歩市は、残念ながらあまり「散歩市」にはなりませんでした。
天気が悪く寒かったこともあるのですが、それ以上に、コンセプトがあいまいで、なにやら「手づくりショップ村」が数か所にできただけの感じになってしまいました。
わが家に来た人も、どこが「散歩市」なのかわからないと怒っていました。

まあそれはともかく、寒い中をがんばって、私の担当のカフェは一応2日間開店しました。
フェイスブックを見て来てくれた人など、初めてわが家を訪ねてくれた人もいます。
しかし2日間を通じて、今年珈琲を飲んでくれた方はたった11人でした。
もっとも時間的にはほぼいつも誰かがいました。
お客様に出した珈琲は11杯ですが、私がその相手をしながら飲んだ珈琲もほぼ同じです。
おかげで胃がむかむかしています。

節子がいたらたぶんお客様は多くなったでしょう。
多いだけでなく賑わったことでしょう。
なにしろ私に会いに来る人は、あんまりスペインタイルに関心がなく、なかには工房にも入らずにカフェ目的の人もいるのです。
スペインタイル工房と私のカフェは結びつかないのです。
節子の友だちだったら、珈琲よりもスペインタイルに興味が行くでしょう。
それに節子のことですから、がんばってロールケーキを焼くでしょう。
節子はそういうのがとても好きでした。

私が会社を辞めた頃、節子には喫茶店でもやろうかと言ったこともありますが、やらないでよかったです。
売上が上がったと喜んでよく調べてみたら、私がその売上の半分だったというようなことにもなりかねません。
まさに「花見酒の経済」で、倒産は間違いありません。
しかし、だれもお客様が来ない喫茶店で、節子と一緒に珈琲を飲む老後生活を体験したかったです。
それもまた、私たちにとっての実現しなかった夢の一つです。

■1491:沢蟹の棲家への入居者募集中(2011年10月3日)
昨日は実現しなかった夢のことを書きましたが、私にはまだ実現していない夢もあります。
それはわが家の庭の池に、沢蟹を定住させることです。
節子が元気だった頃は、毎年、福井の節子の姉の家に行くと必ず沢蟹を見つけて連れてきました。
そして庭の池に放すのですが、すぐに居場所が分からなくなり、二度と姿を見つけることができません。
最初の頃は、節子はあまり本気に受け止めていませんでしたが、次第に理解してくれて、福井への旅行の度に沢蟹探しに付き合ってくれました。

茨城にも探しに行ったことがあります。
それを思い出して、今日、茨城に沢蟹探しに行きました。
節子と以前、一緒に行ったあたりですが、やはり沢蟹がいそうなところにまで行き着けませんでした。
節子がいないのもさびしいですが、沢蟹がいないのもさびしいです。

節子は植物と一緒に暮らすのが好きでしたが、
私は、沢蟹に限らず、小さな生き物と一緒に暮らしたいと思います。
昆虫が飛んできたら、家の中に入れたいというタイプです。
もちろん家の中では昆虫は生き続けるのが難しいので、分別がついてからは、迷い込んだ昆虫は外に出してやるようにしていますが。

庭の池に沢蟹が定着するはずがないと節子はいつも笑っていました。
しかし、笑いながらも私の沢蟹取りにはいつも付き合ってくれましたし、姉夫婦にまで頼んでくれていました。
まあ姉夫婦は、私の気まぐれの一つで、さほど真剣ではないと思っていたと思います。
しかし、私は正真正銘、沢蟹と共に暮らしたいのです。
水槽で飼われた沢蟹ではなく、池に自発的に定着した沢蟹とです。

昨年、敦賀の姉から「カニを送ったから」と電話がありました。
こんなうれしい電話はなかったのですが、送られてきたカニは、沢蟹ではなく、越前蟹でした。
カニは蟹でも、越前蟹では食べることしかできません。
がっかりしました。
娘たちは喜んで食べていました。まあ、私も食べましたが。

私が好きなのは、毛蟹でも越前蟹でもタラバ蟹ではなく、生きている沢蟹なのです。
蟹を食べるのが好きなのではなく、蟹と共にあることがうれしいのです。
前世のいずれかでは、蟹だったのかもしれません。

どなたか我孫子の近くに、沢蟹が生息している場所をご存知ありませんか。
連れてきた蟹は決して食べたりはせず、棲みやすい棲家を提供します。
自由を拘束することはありません。
食べられる蟹はいりません。

■1492:「くじのせいだ」(2011年10月3日)
節子
「一枚のハガキ」の映画は、新藤監督の作品らしく、見終わった後も、時間が経つにつれてむしろ心の底からじわじわと思いが染み出してきます。

映画のキーワードのひとつが「くじで決まった」ということです。
友子のつれあい(森川)が戦地に派遣されることになり、その仲間の啓太が終戦まで戦地に行かずにすんだのは、移動先を決める「くじ」の結果です。
知子は夫の死を「くじ」のせいにして、自分を納得させようとします。
そこに意味を持たせたくないからです。
啓太は、しかし、「くじ」では納得できません。
なぜ自分が生き残ったのかを煩悶します。
実際にはそんなに簡単ではなく、そうした思いがそれぞれに交差しているのですが、友子は繰り返し「くじのせいだ」と叫びます。

愛する人を奪われた人は、たぶんみんな、「なぜ自分たちだけ」という思いに苛まれます。
自分たち、とりわけ自分に、落ち度があったのではないかと煩悶します。
そしてとても惨めな気持ちになってしまうのです。
それが世間に対する「負い目」にまでなることさえあります。
そうした体験をすると、さまざまな「弱い立場の人」たちと、少しだけ気持ちを分かち合えるようになります。
そして、それができるようになれば、惨めさはしなやかさに変わります。
いささか図式的に書きましたが、これが私のこの4年の気持ちの変遷です。

しかし、友子はそんなまどろっこしいことはしません。
啓太が言った「くじ」という言葉に、解決策を見出すのです。
ちなみに友子の義理の両親の自己納得の言葉は「運」でした。
ここでは、「運」も「くじ」の同義語です。

「くじ」は、言い換えれば「定め」です。
個人の問題は、そこでみんなの問題になるわけです。
くじに当たる意味合いが反転します。
残された人を生かすために、くじを当てた人は従容と「定め」に従うわけです。
そこで「惨めさ」は「誇り」に転化できるかもしれません。
それがいわゆる「英霊」思想です。

「一枚のハガキ」を観ながら、そんなことを考えていました。
節子との別れは「定め」だったのだろうか、と。
そう考えると、いろんなことが意味ありげにつながってきます。
節子との、あの別れは、節子に会った時から、いや会う前から決まっていたという物語ができそうです。
しかし、それこそが「英霊発想」なのかもしれません。

節子との別れが、くじによるものであるかどうかは、瑣末な話です。
ただただ悲しむこと、悼むこと、思い続けること。
それこそが大切なことだと改めて思います。
やはり新藤監督の世界は、私の世界とは違うようです。

■1493:節子がいないので疲れます(2011年10月4日)
節子
お風呂の湯ぶねで寝てしまいました。
最近、ちょっと疲れが溜まっているのでしょうか。
節子がいた頃に比べると、私の行動量は半分どころか、三分の一にも満たないでしょう。
にもかかわらず、疲労感は倍増しています。
充実感や達成感がないからかもしれません。

人は何かのために生きるのではなく、誰かのために生きる、というのが私の考えですが、その「生きる目標」を与えてくれた「誰か」がいなくなると、どうも生きる意欲が損なわれます。
意欲がないと、同じことをやっていても疲労感は違います。
本来はワクワクすることでさえ、時にむなしくなります。
ワクワクしないわけではありませんが、節子がいた頃とは何か違います。
「ハレ」の日はなく、毎日が「ケ」なのです。

節子はいつも私に言っていました。
「たまにはすこしゆっくりしたら」と。
いまなら節子はこういうでしょう。
「たまにはすこし急いだら」と。
それほど時間を無駄にしています。
だから忙しくなるのです。

充実感がないまま、疲労感が溜まっていきます。
お風呂に入っても身体を洗う気にもなりません。
そして今日は湯ぶねで寝てしまい、気がついたら15分も寝ていました。
あのまま眠り続けられたら、とも思います。
ちょっとあぶない兆候です。

生活が単調になってきたということもあります。
節子がいた頃と違い、いまや私が真ん中にいる生活ですから、どうしても私好みのものになります。
節子がいた頃の私たちの生活は、お互いに相手の生活に付き合っていましたから、生活に変化がありました。
その変化がなくなり、私の生き方をさえぎる人もいません。
さえぎる人がいなければ、あえて何かをやろうともしなくなるものです。
そして、ますます無気力になる。

伴侶を失った人はみんなこうなのでしょうか。
私の周辺には伴侶を失った人は少なくありませんが、その人たちも私と同じなのでしょうか。
ちょっと違うような気もします。
それとも本当は私と同じなのに、見栄を張って、しゃんとしているだけなのでしょうか。
まあ、私もこの挽歌を読んだりしなければ、しゃんとしているように見えるかもしれません。
しかし、本当は疲れきって、ようやく生きているというのが実態なのかもしれません。

節子に無性に会いたくなることが、時にあります。
今日は、その「時」です。
そう思いながら、この挽歌を書いていたら、急に節子がとても近くにいるような気がしてきました。
目の前にある節子の写真の温もりが伝わってくるようです。
節子が会いに来ているのかもしれません。
今夜は、夢に節子が出てくるかもしれません。
今日は早く寝ましょう。
長い夢が見られるように。

■1494:私以外はみんな元気そうです(2011年10月5日)
残念ながら昨夜は節子の夢は見ませんでした。
夢を自在に操れるところにまで、まだいけていないのです。
まあ自由に操れる夢であれば、それは「夢」とはいわないでしょうが。

今日はとても寒い日になりました。
それで娘がいない間に和室にコタツをたててしまいました。
私はコタツが大好きなのです。
いつも節子には、まだ早いと言って止められていましたが、それにしてもこんなに早くコタツを出したのは初めてかもしれません。
寒いばかりでなく、今日は朝から雨です。
それでオフィスに行くのをやめて、たまっている仕事に取り組みだしましたが、寒いのでやはりコタツにはいりたくなりました。
コタツに入ると仕事をする気分が出てきません。
そこで最近気になっている友人に電話することにしました。
電話をするとまた引っ張り出されかねないので、あんまりしたくはないのですが、「便りがないのは元気な証拠」ともいえない友人も少なくないのです。

まずは小学校時代の同級生のS。
一人住まいで、前回の電話ではあまり元気がなかったのですが、今回は元気そうでした。
まずは安心。
しかし案の定、会うことになりました。

続いて、大阪にいるMさん。
Mさんは私より年上なのに今年から大学院に通いだしているのです。
そのせいか、この半年、全く連絡がなくなっていました。
ダウンしたのではないかと気になっていたのですが、これまた元気でした。
話の成り行き上、大阪まで会いに行く約束をしてしまいました。
だから電話はしたくないのです。

3番目はさらに気になっていた難問を抱えているBさん。
今度こそ少しどきどきして電話しましたが、やはり元気でした。
心配していたのが損した気分です。

要するに、一番元気でないのは私だということがわかりました。
元気だったら元気だといってこい、と言いたい気もしましたが、まあ元気で何よりです。

そういえば、広島のOさんから、寒いのでコタツが登場、というメールが今日、届きました。
Oさんももう半年以上、連絡がありませんでした。
とても元気そうで、家の近くには沢蟹がたくさんいるよと書いてありました。
私の挽歌を読んでくれているようです。


それにしても今日は寒いです。
娘に頼んで夕食はあったかいうどんにしてもらいました。
予定していた仕事は、また先送りになってしまいました。
困ったものです。

■1495:健全さの維持(2011年10月6日)
節子
最近は自分の言動のおかしさを相対化するのが難しくなっています。
節子がいた頃は、節子の反応で私自身の言動を相対化できました。
節子も私同様、あんまり常識はありませんでしたが、少なくともその反応で自分の行動を相対化する視座を得られました。
だからこそ、私としては思い切り自由に発想し行動できた面があります。

しかし、節子がいない今は、いささかの危うさがあります。
このブログの時評編の私の意見もかなり偏っているはずです。
表現はさらに独善的です。感情的で、品格もありません。
節子がいた頃は、時々、修正勧告が出たほどです。
私自身ちょっと気になる時には、予め節子に読んでもらいました。
いまはそれもできません。
ですから時に書きすぎたりして、後で反省することもあるのです。

それに最近はかなり「ひがみ根性」がたかまっているような自己嫌悪感もあります。
昔のようなのびのびした明るさは自分でも失われたと感じています。
だから最近のブログは、かなり偏っているだろうなと自覚していました。

最近、思ってもいなかったTさんがブログを読んでくださっていることがわかりました。
それで、いささか気になって、
最近はどうも社会が病んでいるような気がしてなりません。
私もそうなのでしょうが。
と弁解めいたメールをTさんに送ってしまいました。
そうしたら返事が来ました。
佐藤様はずば抜けて健全でいらっしゃいます。

「ずば抜けて健全!」
事実はともかく元気が出ました。
Tさんは私よりも10歳ほど年上、欲もなく邪気もなく、実に誠実な方です。
その人から「健全」と言われると、それは元気が出るものです。
それに私は人の言葉はほぼすべて信じてしまうというタイプなのです。

節子がいなくなってから、私の性格はかなり悪くなりました。
自分でもわかります。
人の思いやりを素直に受け容れられないばかりか、気遣いにまで時に反発してしまうのです。
節子のことを忘れているような人には、ついつい邪険にしてしまいます。
もともとあまり健全とはいえなかった私の精神は、ますます邪気を帯びてきている怖れがあります。
そう思っていたのですが、なんと予想外の「健全」エールです。

愛する人を失うと世界が変わります。
最近、挽歌にコメントを書いてくれた方が「希死念慮」という言葉を使っていますが、その気持ちはよくわかります。
私はそこから抜け出しましたが、その思いに襲われたこともあります。
いまでも、自暴自棄的な気分がどこかに残っています。
そのため、意見が必要以上に極端に走りかねません。
健全さを維持するのは、難しいのです。
しかし健全さは生きる基本でなければいけません。
Tさんのエールを心しながら、節子のいる時の健全さを思い出そうと思います。

愛する人を失った人は、自分だけで考えていてはいけません。
誰かに心を開くことが大切です。
私はこうして挽歌で心を開いているので、もしかしたらささやかな健全さを維持できているのかもしれません。

■1496:2人の留学生(2011年10月7日)
節子
今日は2人の留学生が湯島に来ました。
まったく別々にですが、なぜか今日は集中しました。
一人は韓国から、もう一人は中国からです。
2人とも女性で、一人は大学院を目指しており、一人は今月から大学院だそうです。
学ぶべき目標もしっかりと持っています。
いずれも友人からの紹介ですが、どうも日本の学生よりしっかりしています。

2人は、それぞれ別々に来ましたが、話をしていて、昔やっていた留学生サロンを思い出しました。
あれも節子がいたおかげで実現したものです。
もし節子が元気だったら、またやろうかと言うかもしれません。
節子は好奇心が強かったので、外国の人が好きでした。
節子がいたらたぶんわが家に招待したでしょう。

一人のほうがやりやすいこともありますが、夫婦で取り組んだほうが好都合のこともあります。
サロンは、私だけよりも夫婦のほうが雰囲気がやわらぎます。
節子と一緒にやっていた時には、女性もよく参加していましたが、最近の私だけのサロンでは男性ばかりです。
どこが違うのでしょうか。
それにおもてなしの仕方も違います。
節子は飲み物や食べ物を用意していましたが、私は面倒なのであんまり用意しません。
ですから同じサロンでも、どこか雰囲気が違うのです。

留学生サロンをやっていた頃は、いつか帰国したみんなのところを訪ねていこうと節子と話していました。
しかし残念ながら実現しませんでした。
いまも時にお誘いがありますが、節子と一緒にやっていた留学生サロンなので、私一人で行く気にはなれません。

節子と一緒に、いろんなことをやってきたことを思い出すと、寂しさがつのります。
みんな途中で終わってしまいました。
しかし、人生はそんなものなのでしょう。
途中で終わるのが、むしろ幸せな人生かもしれません。
そんな気が、今日はしています。

■1497:「一人できちんと生きていくのは しんどいなー」(2011年10月8日)
今日は私のことではありません。
近くの、やはり伴侶を亡くされた方からのメールの紹介です。

先週の手づくり散歩市にもしかしたらいらっしゃるかなと思っていましたが、来ませんでした。
風邪かなと思っていたら、やはり風邪だったようです。

先週末の手作り市に ぜひジュンさんのタイル工房と 佐藤さんのコーヒーを頂きに伺おうと思っていましたら 風邪にかかり 伺えず残念でした。
クスリもきちんと飲んでいるのに罹ってから三週間経っても まだなんだかスッキリしません。
ホームドクターは 夏の疲れもあるのでしょうとの診断でしたが 何もせず横になりながら なぜこんなに 長引くのかナーと考えてみました。
夫や家族がいる時は 早くよくなって 食事つくりや 滞った家事をしなくてはと思うのに 一人の今は 迷惑を掛ける人もなく 治りたいという気力がないんだなと気付きました。
一人できちんと生きていくのは しんどいなー いつまで生きなくちゃいけないのかなーと 肉体と精神は 連動しているのを痛感しました。

同じようなことを私も体験しているので、よくわかる気がします。
前にも書いたことがありますが、肉体と精神はまさに連動しています。
イヌイットは、生きる気を失うと風邪でも死んでしまうと、文化人類学者の方が書いていましたが、意識は生死さえ決めているのです。

だとしたら、節子は自らの精神、意思で、死を選んだのでしょうか。
また書き出すと長くなるのでやめますが、私はそう思います。
ではなぜ死を選んだか、です。
それは、おそらく問題の建て方が間違っているのです。
発想を反転させましょう。
節子は自らの精神、意思で、生きつづけていたのです。
肉体的にはもう限界を超えていたにもかかわらず、です。
だから問題を建てるとしたら、「なぜ生を選んだか」でなければいけません。
そしてその答は明確です。
家族を、とりわけ(たぶん)私を愛していたらからです。
そしてある見極めをつけて、旅立ったと思いたいです。

人は一人で生きていないが故に、しんどくても生きつづけようとするのです。
ですから、一人で生きていないからこそ「しんどい」のです。
たぶんそうですよ、YHさん。
言い換えれば、みんな「一人ではない」のです。

つい最近、知人の家族が自殺したことを知りました。
もう少し「しんどさ」に耐えてほしかったですが、一人ではないことを実感できなくなったのでしょう。
どうしてこんなことが起こるのか。
節子が知ったらとても悲しむでしょう。
私たちは、だれも一人ではないのです。
ご冥福を祈りながらも、とてもやりきれない気持ちです。

湯島では、みんな一人ではないということを感じてもらうための、カフェサロンを毎週のようにやっています。
いつかこの挽歌の読者限定のカフェサロンをやれればと思います

■1498:どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある(2011年10月10日)
節子
また2日間、ブログが書けませんでした。
時間がないわけでは決してないのですが、書けないのです。
最近は、時評編もなかなか書けずにいますが、毎日必ず書こうと決めた挽歌も書けないことが時々あります。
自然に生きるのをモットーにしていますので、無理はしませんが、それでも書かなくてはという気持ちが心から抜けません。

今日は、お墓参りにも行ってきました。
夕方だったので、お墓には誰もいませんでした。
誰もいない夕方のお墓は哀しいほどにさびしいです。

帰って、テレビをつけたら、私の好きな安田顕さんが出ていました。
NHKのドラマ「風をあつめて」です。
筋ジストロフィーの子を抱える家族の話でした。
なぜか涙がとまりませんでした。
実話に基づく話だそうですが、2人の筋ジストロフィーの娘と向きあいながら、いつしか娘たちに自分たちが生かされていることを知る夫婦の物語です。
決してハッピーエンドとはいえませんし、こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、私には娘たちを失う夫婦がうらやましくさえ感じられました。
それで、涙が止まらなかったのです。
悲しかったからでは在りません。
それと同時に、自らを嘆く私自身の欲深さも反省しました。
人の幸せは、決して客観的な状況などではないのです。

もうひとつ感動したのは、主人公が勤めている福祉施設に出資を申し出てきた会社の社長や施設の上司のあたたかさです。
福祉施設の経営を支援しようと言い出した会社の社長は、主人公の家族状況を知った上で、娘さんたちのために人生を犠牲にして大変だね、というような言葉をかけます。
それに対して、主人公は、「犠牲ではありません、もし福祉に関わろうというなら、犠牲というような言葉を使わないほうがいいです」と言い返します。
この場面も私はとても共感できました。
しかしそれ以上に、その時には少し気分を害したように見えた社長が後で謝ってきたのに涙が出ました。
涙は、悲しいから出るのではないのです。

どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある。
改めてそのことを思い出しました。
そう思うとどんな時にも生きやすくなるでしょう。
しかし、そう思うのは簡単なことではないのです。
最近は精神的な疲労感が覆いかぶさってきていました。
しかし、涙が出たら、少し心が軽くなりました。
もしかしたら、まだまだ泣き足りていないのかもしれません。
お恥ずかしい限りですが、いつか思う存分涙したいと思います。

■1499:夫婦的無意識(2011年10月10日)
涙が出たせいか、挽歌が書けるようになりましたので、もう一つ書きます。

昨日、湯島で古希世代フェイスブック学びあいの会を開催しました。
高校時代の同窓生から提案があったので、フェイスブックで呼びかけたのです。
結局、集まったのは4人だけでした。
一人は節子もよく知っている乾さんですが、あとの2人は私の高校と大学の同窓生たちです。
大学の同窓生は店網と高橋。節子はそれぞれに会っています。
高校の同窓生は寺田さんですが、私もお会いするのが初めてなので、節子はもちろん会っていません。

私は、高校や大学時代の話を節子にしたことはあまりありません。
それに私は47歳で、会社を辞めてしまい、社会的なレールから離脱しました。
それ以来、官庁や大企業、大学などで活躍している友人たちとはあまり付き合わなくなりました。
世界がどんどんと違っていってしまったのです。
歳をとると、同窓会だとかメーリングリストとか交流が盛んになりますが、私はそれにもほとんど参加しません。
ですから、節子は私の若い頃のことを知りようもなかったのです。
一度、節子と一緒にハワイに行った時に、ポリネシアンセンターで大学の同級生だっ阿部夫妻に偶然に出会ったことがあります。
滋賀の大津で、結婚直後、「神田川生活」をしていた頃に、店網たちが来てくれたことがあります。
湯島にオフィスを開いた時に、高橋はワインを持ってお祝いに来てくれたことがあります。
私が本当に大学に通っていたことを節子が実感できる機会は、それくらいだったかもしれません。
大学時代の話を、私はしたことがほとんどなく、ましてや高校時代の話は全くしたことがないのです。
そう考えると、私たちはお互いのことを一体どのくらい知っていたのでしょうか。
あんまり知っていないのかもしれません。
しかし不思議なもので、大切なことはお互いに十分に知りあっっていた気がします。
私がどんな大学生だったかはたぶん節子はわかっていたでしょう。
何しろ私は子どもの頃から何一つ変わっていない、成長していないからです。

節子はどうでしょうか。
節子もたぶん私と同じです。
節子からきちんと聞いたことなどありませんが、私には子どもの頃からの節子のことが、手に取るようにわかります。

不思議なものです。
愛し合って一緒に暮らしていると、相手のすべてが共有化されていくのです。
集合的無意識からちょっと浮き上がったような、夫婦的無意識が生まれるようです。
それが、今の私を支えているのかもしれません。

■1500:考えなければいけないことが増えました(2011年10月11日)
節子
先ほど、お風呂に入りながら考えました。
なんで最近こうも気分が混乱しているのだろうか、と。
さほど忙しいわけではありません。
節子が元気だった頃に比べれば、関わっているプロジェクトは半分にも届きません。
それ以上に、それぞれへのコミットの度合いが全く違います。
だから気楽なはずなのに、何やら心せわしく、気分ガ落ち着かないのです。
お風呂でそんなことを考えていたら、その理由に気づきました。

考えなければいけないことの範囲が広がったからです。
たとえば、寒くなれば、着るものを考えなければいけません。
先月は急に寒くなったので朝、秋のスーツを出したら、きちんとしまっておかなかったので、カビだらけで着れなくて、着ていくものがなくて困りました。
そのうえ、服まで買いに行かなければいけません。
季節に応じて寝具も変えなければいけない。
親戚付き合いも少しは考えなければいけませんし、何か贈ってもらったら苦手の御礼の電話もしないといけない。
洗面所が壊れたら直さなければいけませんし、娘のことも考えなければいけません。
家計も考えないといけないし、貯金通帳の残高も注意していないと電気代が引き落とせなかったという手紙が届きます。
庭や室内の花には水もやらなければいけないし、何を食べたいか娘に訊かれて答えなければいけません。
チビ太の介護も、金魚の世話も、意図せざる住人のゴキブリの退治も、すべて気にしないといけません。
気づいてみたら、やることが急に増えてしまっていたのです。
そうそう掃除もしないといけない。

節子がいた頃は、そういうことに私は一切、気を使わなくてよかったのです。
寝具も衣替えも、季節が来れば自然と行われていましたし、家計の心配などしなくてもよかったのです。
何かが欲しくなったら、節子に一言言えば、たいてい実現したか、あるいは忘れてしまったかで、いずれにしろ私は何もしないで口だけ動かしていたらよかったのです。
そして私は、関心を持ったことだけにわがままに時間と意識を注入できたというわけです。

経済的な仕事などは生活的な仕事に比べたら簡単なものです。
論理で対応できるからです。
しかし生活はそうはいきません。
家事をやったことのある人ならわかるでしょうが、家事は実に大変です。
チビ太の介護をして気づいたのは、わが両親の介護をしてくれた節子の苦労です。
まあ会話ができた分だけ、チビ太よりは楽だったかもしれませんが、大変だったでしょう。

テレビのCMにもありましたが、生活を支えるということは大変なことなのです。
私が、能天気に、実にさまざまな課題にのめりこめたのは、節子が私の生活を支えてくれていたからです。
毎年、赤字つづきの会社の経理までやってくれていました。
その節子がいなくなったために、私の守備範囲は一挙に数倍になってしまった。
だからきっと最近心が混乱してしまい、心休まることが少ないのかもしれません。

幸いに娘が私の生活を支えてくれてはいますが、娘にはやはり遠慮がありますし、娘もまた私に遠慮がある。
だから節子とは違って、無条件に丸投げして、忘れるわけにはいきません。
娘にはよく「節子だったらなあ」と言うのですが、即座に「私は節子じゃありません」と言われてしまいます。
それはそうです。反論のしようがない。
でも節子に完全に任せていたために、何をやっていいのかさえ気づかないこともあるのです。
節子が心配していましたが、私にはやはりあんまり生活力はなさそうです。
困ったものです。
節子はきっと彼岸で、それ見たことかと半分笑いながら、心配しているでしょう。

■1501:「バルド・トドゥル」(2011年10月12日)
節子
あなたが逝ってしまってから、今日で1501日目です。
あっという間の1500日であり、長い長い1500日でもありました。

チベット仏教の有名な経典に「バルド・トドゥル」があります。
「チベット死者の書」として有名な経典です。
前に一度、言及したことがありますが、「バルド」は中間の状態を意味します。
中間とは、生と生の中間です。
人は死ぬと、バルドの状態に入り、そこからまた新しい生に移っていくというわけです。
そのバルドの世界にうまく入れるように、チベット仏教では死に臨む人の耳元で、この経典を語り聞かせます。
それは死後49日間にわたって行われるのです。
「トドゥル」とは、耳で聞いて解脱するという意味だそうです。

生は、ずっと「バルド」にとどまるわけではありません。
そこからまた生の状態へと移ります。
チベット仏教では「転生」が大きな意味を持っています。
最高僧であるダライ・ラマも転生を繰り返します。
転生を示す証拠は、これまでにもたくさん語られています。

節子は今どこにいるのか、を問うことは意味がありません。
節子は、おそらく「いまここにいる」からです。
49日を過ぎて、解脱できれば、時空間を越えた彼岸へと移ります。
それはこう考えていいでしょう。
「個」としての生命が、一度、「大いなる生」に包み込まれて、次の生にそなえる状態に入る。と。
私は、彼岸とは大いなる生そのものではないかと、最近考えるようになりました。
大いなる生は、私を含む全宇宙を覆っているとしたら、彼岸は世界そのものです。
ただ現世のようには、個々の存在、個々の生命体にはわかれていないために我々の感覚では認識できないだけです。

一昨日見たテレビドラマの「風をあつめて」の最後のシーンは、娘を見送った主人公が、以前家族で一緒に見た阿蘇の火口を見て自転車で坂道を走っていくのですが、それにかぶせて、娘がいまも一緒にいるから大丈夫だというような主人公のナレーションが流れます。
とても素直に、心に入りました。

節子がいなくなって1501日。
よくぞここまで私も生きつづけられたと思います。
挽歌ではメソメソしているように感ずるでしょうが、挽歌を書いていない時はそれなりに元気です。
明るいしよく笑うし、決してくらくはありません。
それは節子が一緒にいることを実感できているからです。
だからこそ、時に無性に会いたくなることもあるのですが、会えなくても節子のぬくもりや気持ちを実感できることもあるのです。
だから1500日、持ちこたえられました。
そして気づいたのですが、私にとっても今は「バルド」なのです。
そしてもしかしたら、私は気づいてはいませんでしたが、ずっと耳元で節子が語っていたのかもしれません。
だから私も「バルド・トドゥル」の恩恵を得られたのではないか。
そんな気がします。

もう一度、昔読んだ「チベット死者の書」の解説本を読み直してみようと思います。

■1502:エジプト
(2011年10月13日)
節子
最近またエジプトは騒然としています。
コプト教徒と軍・警察が衝突し、死者が出ています。
なかなか治まりません。
娘たちと中野さんたちは大丈夫かなという話になり、フェイスブックで確認してみました。

中野さんはカイロにお住まいです。
わが家の最初の海外家族旅行はエジプトでしたが、その時にガイドをしてくださったのが中野さんでした。
その後、ささやかなお付き合いがつづいているのです。
中野さんが教えてくれた、バレンボイムのラマラ・コンサートは、心が震えるほどに感動的でした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_5897.html
ご夫妻で帰国された時には、湯島にも来てくれました。

中野さんからすぐに返信がありました。
「平和的なデモ」なはずが一転して激化してしまったことに多くの方々が、当惑しております。昨日と今日のカイロの街は、まるで喪に服しているように静まり返っています。

今日は奥さんの眞由美さんからメールが届きました。
眞由美さんはNHKラジオ「深夜便」に出演されています。
深夜なので私はほとんど寝ているのですが、今日は起きていようと思います。
コプト教徒と軍・警察の<衝突>を取り上げるそうですので。
番組表では彼女が登場するのは午前0時代です。
みなさんも起きていたらぜひお聞き下さい。
現地で住んでいる人の、確かな報道ですので。

それはそれとして、節子がいたら、間違いなくもう一度エジプトに行ったはすです。
アブ・シンベルもスフィンクスも、ルクソールも、あまりに衝撃的で、結果的には何も見てこなかったような気がします。
古代遺跡は泥の塊でしかないと言っていた節子も、エジプトは好きになっていました。
一段落したら、ぜひもう一度夫婦で訪ねようと思っていましたが、節子がいなくなってはもはや行くことはありません。
残念ですが、来世に回しました。
来世にはエジプトの謎はもう少し解けているでしょうが、観光地化も進むでしょうから、私好みではなくなっているかもしれません。

エジプト旅行で知り合った金沢の八田ご夫妻も、今はお2人とも鬼籍に入られ、節子に会っていることでしょう。
エジプトに行った頃の節子は、もしかしたら一番元気だった頃かもしれません。
あの時に、不死の秘法を学んでくればよかったです。

■1503:今度こそ奈良に行きます(2011年10月14日)
節子
奈良に行くことにしました。
ユカがめずらしく付き合ってくれるそうです。

来週、大阪でNPO活動に取り組んでいる友人知人に会いに行くことにしました。
最近はどうも遠出しておらず、世界が膠着してきているのが自分でもよくわかります。
何とかしないといけません。
それで関西に出かけることにしたのですが、いっそのこと、もう1日、滞在して久しぶりの奈良を歩こうと考えたのです。
歩くコースは、節子と最初に歩いたコースです。
佐保路にしようかとも思ったのですが、あの道はいまでは節子と歩いた時の雰囲気は全くないでしょうから、やめました。
平凡ですが、奈良の標準散策コースです。
一人で歩くのは気が重いので、娘を誘ったわけです。
どんな旅になるのでしょうか。
もっとも行きも帰りも娘とは新幹線は別々です、
京都で落ち合って奈良に行こうと言うわけです。

関西には友人知人がたくさんいます。
しかし今回は会うのはやめました。
ただただ「奈良を歩く」ことにしたいと思ったからです。
一人ではなく、娘を誘ったのは、どこかで立ち止まりたくなかったからです。

節子がいなくなって、奈良はどう変わったでしょうか。
ちょっと興味があります。
いや言い直しましょう。
節子がいないいま、私にとっての奈良はどんなメッセージを与えてくれるだろうかということです。
奈良は、節子と何回も歩きましたが、正直、なぜか私の記憶のなかではほとんど消えているのです。
残っているのは、夢と同じく、気分だけです。
飛鳥にはお茶目な節子、西の京には気だるい節子、斑鳩には神妙な節子、そして東大寺には心が躍動するような若い節子の、それぞれの雰囲気がただよってくるのです。
論理的な記憶はもうすでに壊れているのでしょうか。
断片的なシーンとその土地につながった節子との気分だけが浮かんできます。

私たちは猿沢の池から始まりました。
そこで撮った節子の写真を見て、「そうだ節子と結婚しよう」と思ったからです。
まあ私の人生は、こんな感じで、思いつきで大きく動いてきています。
実際にはほとんどの人もまた同じでしょう。
人生を変えるのは「思いつき」であり、「思わぬ事件」です。

数か月前に、たしかこの挽歌を書いている時にも、「そうだ奈良に行こう」と書いた記憶があります。
その時には行けませんでしたが、今回は行けそうです。
猿沢の池も歩いてきましょう。節子に会えるかもしれません。

■1504:私たちは良い親ではなかったようです(2011年10月15日)
節子
今日の夕食時は節子の話で持ちきりでした。

娘のジュンは結婚して近くに住んでいますが、毎日、わが家の庭にあるスペインタイル工房に仕事で出勤です。
そのため夕食はほぼ毎日、わが家で食べています。
パートナーは、柏でエヴィーバ!というレストランをしていますので、夕食時にはいないのです。
上の娘のユカは、私と同居しています。
ですからわが家の夕食は、私がいると3人で食べることになります。
なんだか代わり映えがしません。

今日はいくつか節子の話題が出ました。
その一つは、時々、娘たちから出てくる、子どもの頃、小遣いが少なかったという話です。
私も何回か聞きました。
2人の娘が共通して同じような体験をしています。
子どもの頃、同級生たちと遊びに行っても、いつも小遣いが一番少なく、みんなのようにお土産も変えなかったという体験です。
毎月の小遣いも、どうやらずば抜けて少なかったようです。

わが家では、子どもがお金を使うことには極めて消極的だったのです。
これは私たちに共通した文化でした。
お金がなかったからかもしれませんが、それだけではありません。
子どもがお金を使うことに、どうも抵抗があったのです。
それに、私も節子も、そもそもお金を使う文化があまりなかったのです。
まあ、それはそれで一つの考え方なのですが、娘たちにとって不幸だったのは、両親ともがお金に疎かったことです。
たとえば、今時の子どもたちの小遣いの相場を知らなかったのです。
ですからわが家の娘たちは、駄菓子屋でお菓子を買う経験もあまりしていないようです。
まあわが家の近くにはあんまり駄菓子屋などありませんでしたが。

小遣いが少なかったことから起こった、いろんな事件を娘たちは話してくれました。
節子がいたら、自分のせいであることなど忘れて、たぶん転げまわって笑うでしょう。
節子は、そういう人でしたから。
私は、そういう節子が好きだったのですが。

娘たちの話には、当然、私も登場します。
あんまり「良い父親」とはいえないようです。
たとえば、なけなしのお小遣いで私にウィスキーボンボンをプレゼントしたのに、このお菓子はあんまり好きじゃないな、と言われたと、ジュンが言います。
娘からのお土産は何でも喜ぶはずなのに、余計な一言を言ってしまい、子ども心を傷つけていたようです。

この頃、娘たちから子ども時代の意外な話を聴くことがあります。
節子と一緒に聴きたかったです。
そして節子と一緒に笑い転げたかったです。

節子
どうやら私たちは、「良い親」ではなかったようですよ。
それはそうでしょう。
いまさらどうしようもできませんが。

■1505:異変
(2011年10月17日)
節子
私もかなり彼岸に近づいてきたようです。

昨日は久しぶりに茨城県の美野里町(現在は小美玉市)の文化センター「みの〜れ」に行きました。
10年前に住民みんなで本を出版しましたが、またその方式で本を出版したいというのです。
その準備会をやっていたのです。
懐かしいメンバーも参加しました。

その話し合いの途中に、突然に、視界がおかしくなりました。
焦点が合わないのです。
明らかな異常です。
話の最中だったので、みんなに気づかれないように様子を見ました。
なかなか元に戻りません。
脳の異常かもしれません。
さてどうするかと思っているうちに、何とか元に戻りました。
しかし30分くらい、異常は続きました。
だれにも気づかれなかったと思いますが、少し冷や汗もでました。
娘に迎えに来てもらおうかと考えたほどです。

幸いにその後は安定しました。
話し合いは思ったより盛り上がってしまい長引きましたが、何とか乗り切れました。
ところが帰ろうとしたら、文化センターの山口館長が食事を誘ってくれました。
1時間程度であれば、とお付き合いしたのですが、これまた話が盛り上がってしまい、
気がついたら電車の時間を超えていました。
そのため山口さんは私を自分の車で土浦まで送ってくれる羽目になってしまいました。
その後、幸いに異常は再発せずに、無事、帰宅したわけです。

娘たちに事情を話し、私が死んだら困るかなあ、と訊いたら、めずらしく「困るよ」と答が返ってきました。
まだ此岸での存在価値はあるようです。
いや解放されていないというべきかもしれません。
症状は収まったものの、とても奇妙な疲労感と違和感があり、お風呂に入ってすぐ寝ることにしました。
それで挽歌も書けませんでした。

夜も何度か目が覚めました。
朝起きてもどこかすっきりしません。
かかりつけの遠藤クリニックに行ったら、一度、眼科に行ってくださいといわれました。
手足の痺れがないようなので、高血圧のせいではなさそうです。
しかし頭の後ろがなんとなくもやっとしています。
明日から大阪に行きますが、めずらしく少し不安です。

■1506:反省(2011年10月17日)
私の目の異常をブログやフェイスブックに書いたら、早速、いろんな人から連絡がありました。
最初に連絡があったのは、任侠の人、神崎さんからですが、電話に出た途端に「目と映画とどっちが大事や」と怒られました。
選択肢の並べ方が間違っています。
目と「やろうと決めたこと」とどっちが大事や、と聞かれれば、躊躇なく、後者です。
それがあなたの世界(任侠の世界)だろうと反論しました。
自分のことと他人とで、判断基準が違うのはよくありません。
困ったものです。

ブログには書きませんでしたが、お医者さんからは眼科に行けといわれましたが、眼科ではなく、映画を見に行ってしまいました。
岩波ホールで上映している「沈黙の春に生きて」です。
ベトナム戦争で空からまかれた枯葉剤の後遺症をとりあげたドキュメンタリーです。
その感想などは時評編に書くつもりですが、映画館から出たら携帯電話に留守電が入っていました。
韓国の佐々木さんです。
留守電には「ちゃんと医者にいってください」と入っていました。
軽い気持ちで書いてしまいましたが、いろんな人に心配をかけてしまったようです。

しかし、心配は不要なのです。
なぜかといえば、20年以上前に、私の友人がある有名な占い師に私のことを占ってもらってきてくれました。
そうしたら、私は93歳まで生きることがわかったのです。
だから心配はないのです。

ところで、「沈黙の春に生きて」には、枯葉剤の後遺症で大変な障害をもった人たちが登場します。
もちろん失明した人も出てきます。
それを見ながら、もっと自分の身体を大事にしないといけないと思いました。
そして、節子のことを思い出しました。
節子は、病気になってから、自分のみならず、周りの人の健康や身体のことをとても気にするようになりました。
病院にも行かず、映画館に行ってしまった私を、節子はきっと怒っているでしょう。
神崎さん、佐々木さん、そして節子と、3人の人に怒られたら、反省するしかありません。

今日の夜は湯島で「ささえあい交流会」ですが、少し早めに帰らせてもらおうと思います。
93歳まで生きても、まわりに迷惑をかけすぎるようになっては、いけませんので。

■1507:前世で徳を積んでいたようです、もしかしたらですが。(2011年10月18日)
久しぶりに東海道新幹線に乗りました。いま米原を過ぎて滋賀に入りました。
1年ぶりかもしれません。
車窓の風景をみているとさまざまなことが思いだされます。
節子の両親は滋賀に住んでいましたので、毎年、何回かは私も米原で降りました。
米原から京都までの車窓風景も見慣れたものです。
節子に最初に会ったのも大津でしたし。
(ここまでは車中で)

今日は私が取り組んでいるコムケアの関係者とお会いするための旅です。
心の通った相手ばかりなので気楽な旅で、むしろ私にとっては元気回復の旅なのです。
しかし、そのテーマはいずれもかなり「重い」ものですが、重いテーマであればこそ、明るく軽やかに取り組む必要があります。

最初は京都でした。
私よりも高齢なのに私よりも段違いに元気で柔軟な高林さんとその仲間の福井さんと会いました。
その後、少し時間があったので、東本願寺の阿弥陀堂に立ち寄りました。
少しばかりミニ瞑想しましたが、さまざまな人がさまざまなスタイルで祈っています。
大きな広間の阿弥陀堂は、とても安堵できる空間です。

つづいて大阪へ。
最近、NHKがドラマ放映した「経営の神様」の神様の松下むめのさんに絶大な信頼を得ていた松本さんにお会いしました。
ようやくむめのさんのすごさが話題になりだしましたが、どんなにがんばっても、男は女に勝てません。

夜はコムケア活動を応援している住友生命の皆さんと会いました。
節子を見送って、精神的にはどん底にいたときに、私に会いにきて、ともかく応援するからと言ってくれた的場さんが、佐藤さんも元気になりましたね、と言ってくれました。
当時を思い出しました。

私が社会から隠棲せずにすんだのは、コムケアの仲間のおかげです。
改めてそう思いました。
それにしても、どうして私は、こんなに良い人にばかり恵まれているのか。
もしかしたら前世で私はよほど良いことをしてきたのではないかと思います。
そうでなければ、こんなにみんなが支えてはくれません。
来世もみんなから支えてもらえるように、もう少し現世で仕事をしなければいけないのかもしれません。
本当は、節子と一緒にそれをしたかったのです。
一人で取り組むのは少しきついこともありますが、節子の分までがんばらなければいけません。
彼岸に早く行きたいなどと思ってはいけませんね。
はい。

■1508:久しぶりの奈良(2011年10月20日)
節子
19〜20の2日間、ユカと始めての父娘旅行をしました。
前日、大阪で仕事があったのですが、19日のお昼に京都で落ち合い、奈良に行きました。
久しぶりに奈良です。
まだ娘たちが小さかった頃、家族旅行もしたはずですが、娘たちにはあまり記憶がないようです。
私もたぶん10年ぶりですので、どう変わっているかいささかの危惧を感じていました。

まったくといっていいほど変わっていました。
そればかりではありません。
距離感や空間配置さえが私の記憶とは大きく違っていたのです。

一番の違いは、春日大社の位置でした。
興福寺から春日大社までがこんなに離れているとは思ってもいませんでしたし、春日大社から東大寺の3月堂まではすぐだったはずなのに、道に迷うくらい遠くなっていました。
まさかのこの10年で地殻変動したわけではないでしょう。
愛する者たちにとって、遠い道はないといいますが、節子と歩いていた時にはきっとあっという間の距離だったのでしょう。
話に夢中になっていて、途中の距離感はないわけです。

今回は娘が付き合ってくれましたので、それでも近かったはずですが、一人ではたぶん歩ききれなかったでしょう。

猿沢の池は昔のままでしたが、そこから奈良公園に上がる階段は広くなっていました。
そこで撮った節子の写真が鮮明に私の記憶に残っています。
そこから私たちの物語が始まったのです。
その最初の日と同じコースを、娘と2人で歩きました。
時に節子の話をしながら。

残念ながら奈良公園は雰囲気が違っていました。
それに、春日大社は人を寄せ付けなくなっており、東大寺の2月堂も3月堂も改修中でした。
4月堂だけは以前とまったく変わっていなかったのがせめてもの救いです。
そして、大仏殿の裏庭にはそう簡単には入れなくなっていました。

それでも仏たちには会えました。
阿修羅は興福寺の国宝館で、月光菩薩には東大寺ミュージアムで、ですが。
展示品になってさらされているようで、どこかさびしさはあります。
阿修羅は小さくなり、月光菩薩は色白になり、いずれもオーラが弱まっていました。
節子が一緒だったらどういうでしょうか。
少なくとも私はもう奈良市には来ないでしょう。
3月堂が改修されても、たぶん来る気にはなれません。

夕方、ユカに連れられて「ならまち」を少し歩きました。
私一人であれば、訪れない場所です。
それに今回の旅行は、ユカが節子の役割を果たしてくれ、私はただ行きたいところをいえばいいだけでした。
節子がいた頃のように、財布も持たずに、細かなことを気にせずに旅行できました。
支払いはすべてユカがしてくれました。
お金を払う行為が私には一番苦手なのです。
感謝しなければいけません。

■1509:ナーランダの月(2011年10月20日)
父娘旅行の2日目は、斑鳩と西の京です。
ゆっくりと回る予定で、朝早くホテルを出ました。
斑鳩の法隆寺に着いたのは8時40分、まだ始まったばかりで、門前ではお寺の人たちが掃除をしていました。
修学旅行生やツアー客もまだ来ておらず、東伽藍はゆっくりと見る事ができました。
東伽藍から出ると大宝蔵院なるものが出来ていました。
百済観音がおさめられていましたが、やはり展示品になっているような気がしました。
だんだん滅入ってきましたが、夢殿から中宮寺に回って、驚きました。
中宮寺は完全な展示会場になっていました。
受付の人が素朴な人だったのが救いでしたが。

もう少しゆっくりと思っていた法隆寺もただただ拝観しただけで、西の京に向かいました。
薬師寺は西塔ができてから節子と訪ねましたが、なにかおかしな空間になってしまった失望感だけが記憶に残っています。
少しは落ち着いているかなと思っていたら、今度は東塔の補修工事が始まっていました。
白鳳伽藍はまさに工事現場でした。
弥勒の世界です。いまの救いはありません。
そういえば、薬師寺の講堂には弥勒が安置されています。
弥勒は未来仏です。
憧れだった薬師三尊もオーラはなく、小さくなっていました。
玄奘三蔵院というのも出来ており、平山郁夫画伯の壁画が公開されていました。
私は平山さんの絵は苦手ですが、最後に1枚、気になる絵がありました。
ナーランダの月です。

ペルシアやゾロアスターを感じさせる不思議な絵で引き込まれてしまいました。
平山さんの絵はあまりに乾いているので私には伝わってくるものがないのですが、この絵には彼岸に通ずるものを感じました。
そのうちに、そこに一人の僧が描かれるでもなく、描かれるでもなく、ぼんやりと浮かび上がってくるのに気づきました。
気になって、係の人に訊いてみました。
そこになんとなく描かれているのは高田好胤さんだそうです。

こういう話です。
白鳳伽藍を写経勧進による浄財で再建しだしたのは管主になった高田師ですが、彼は西域を一緒に歩いた平山さんに壁画を頼んだのだそうです。
しかし、その壁画が完成し、魂を入れる直前に高田さんは亡くなられてしまいます。
平山さんは、ほとんど完成していた壁画を見てほしいと高田さんに勧めたそうですが、仏に見せる前に自分が見るわけにはいかないと高田さんは言われたそうです。
そして残念ながら、高田さんは生前に壁画を見る機会を得ることなく旅立ったのです。
高田さんにとっては、現世など一瞬の間であり急ぐこともなかったのでしょうが、平山さんは、壁画の最後のナーランダの月(ナーランダの学校は三蔵法師が行き着いて学んだところです)の中に高田師を描き、絵の中から壁画を見てもらうようにしたのだそうです。
お2人の関係が伝わってきて、私は初めて、平山郁夫さんの絵に興味を感じました。
節子は、私と違って、平山さんの絵が好きでしたし。

絵の中で高田さんに再会するとは思いもしませんでした。
高校の修学旅行で薬師寺に来た時に、私も高田さんの説明を直接聴いた一人です。
実は後で手紙も出したことがあります。
仏を展示品にしていいのかという問いでしたが、その話はいつかまた書くことにします。

高田さんの話を聞いて少し救われた気持ちで、唐招提寺に行きました。
唐招提寺は、改修工事がなされたはずなのに、雰囲気はそう変わっていませんでした。
節子と一緒におそばを食べた山門前のお店もまだ残っていました。
その時と同じように、経蔵の前で娘と一緒に休みながら、少し節子の話をしました。

初めての父娘旅行は、こうして最後は当時の雰囲気のなかで、終わりました。
しかし予定よりも2時間も早く全行程を終わってしまいました。
斑鳩も西の京も、せわしない世界に向かっているようです。
節子だったらなんと言うでしょうか。
勝手な懐古趣味かもしれませんが、私には昔とは違う世界になってしまったようで残念でした。

しかし娘に付き合ってもらってよかったです。
娘は京都を歩いてから帰るというので、私は1日早く帰宅しました。
帰ったら寒いのに驚きました。
奈良は初夏のようでしたのに。

1510:元気になられてよかったとまだ言われます(2011年10月21日)
茨城の高須さんのお母さんから新米が送られてきました。
いつもは息子さんのほうにお礼の電話をするのですが、今日はなんとなくお母さんのほうに電話をしました。
私と同世代ですが、私よりも前に伴侶を見送っています。

お元気そうな声でしたが、もっと驚いたのは、お元気になられたのですね、という言葉でした。
それで気づいたのですが、私が電話するのは、もしかしたら初めてかもしれません。
節子がいた頃は、節子が電話していましたし、節子がいなくなってからは電話した記憶がありません。
そして息子さんから、私がどんな状況になっていたか聞いていたのかもしれません。
しばらくはダメでしたが、最近は元気に仕事もしていますと言ったら、弾むような声で、私もそうだったからわかりますよ、でも元気になられてよかった、と繰り返し言ってくれました。
気にしてくれていたのが伝わってきました。
もっと早くに電話すればよかったです。

高須のご両親もとても仲のよい夫婦でした。
ご夫婦で農業に取り組んでいましたが、信頼しあっている関係がよくわかりました。
おそらく私たちと同じ世代での別れだったと思います。
私たちは葬儀に行ったはずですが、あまり記憶がありません。
なんとなく奥さんにお悔やみを言った記憶だけはあるのですが、告別式にいけなかったのでしょうか。
そうした不義理の多さに、最近は過去を思い出すのがおそろしいです。

高須さんとは不思議な縁で、仲人をさせてもらったのが始まりでした。
高須さんは、友人と一緒に私のオフィスにやってきました。
その友人の人生相談に、私が少しだけ乗ったのです。
私にはいずれも初対面でした。
その時は高須さんとはあまり話すこともなく、彼は友人と私の話し合いを横で聴いていたくらいです。
ところがそれからしばらくして、高須さんから電話がありました。
仲人を頼みたいというのです。
一度しか会っていないので、返事に窮しましたが、どうしてもと言うので、ともかく会うことにしました。
そして気づいてみたら仲人を約束していたのです。
これも「縁」のひとつです。
縁の始まりは、いつも不思議です。

節子が元気だったら、高須さんのお母さんとは仲良しになったかもしれません。
高須さんに限らず、そう思うことがしばしばあります。
どう考えても、神様は順番を間違えました。
神様に会ったら、思い切り苦情を言うつもりです。

■1511:風邪(2011年10月23日)
節子
風邪をひきました。
急な寒さにやられましたが、昨日、2つの集まりのはしごをしてしまったのが敗因で、ちょっと悪化させてしまいました。
その上、なぜか寝不足です。
節子がいないせいか(いても同じだと思いますが)、健康管理が苦手なのです。
しかし今週は後半ちょっとまたいろいろと集まりがあるので、昨日からちゃんと薬を飲んで、大正製薬のゼナまで飲んで、どこにも出ずに在宅で養生しています。

そんなわけで、どうもパソコンに向かう気になれず、挽歌も書き留まっています。
あまり溜まると書けなくなるので、今日は風邪の報告を持って挽歌に代えます。
彼岸では風邪にひくことなどないのでしょうね。
肉体があるとわずらわしいものです。

■1512:罪つくりの女(2011年10月23日)
節子
奈良公園や法隆寺は人であふれていましたが、薬師寺や唐招提寺のある西の京は修学旅行もあまりいなくて静かでした。
それに場所の雰囲気も、あまり変わっていませんでした。
特に唐招提寺の周辺は前に節子と歩いた時と、大きくは変わっていないでしょう。
山門前のお蕎麦屋さんもまだ開いていました。
お客さんは一人もいませんでしたが、当時、お店でおそばを出していたと思われる女性が、おばあさんになってお店番をしていました。
節子がいたらきっと何か声をかけたでしょう。

今回、奈良を歩いて感じたのは、風景が大きく変わってきていることです。
節子と歩いた時のことを思い出せたのは、薬師寺から唐招提寺への道と猿沢の池だけでした。
風景が変わったせいか、節子がいなくなったせいか、わかりませんが、ほとんど場所の雰囲気が違うのです。
風景は自分の気持ちによって大きく変わって見えるものだと、改めて思いました。
節子ともしも一緒だったら、薬師寺から受けた印象も違っていたかもしれません。

これはなにも寺院だけの話ではありません。
あまり意識はしていませんでしたが、私の日常の風景もたぶん大きく変わっているのでしょう。
そして違った風景の中で暮らしていると、それがまた逆に私の意識を変えていく。
それはまた節子との関係においてもいえる話です。
節子が元気だったころも、私と節子の関係は変化していましたが、いなくなってからも、その関係性は変化しているわけです。
関係は深まっているのか、薄れてきているのか。
奇妙な話ですが、たぶん深まっているでしょう。
それぞれの時間が止まってしまっているのに、関係だけは深まって成長しているわけです。

節子がいた時には気づかなかったことに気づくこともあります。
欠点も長所も、新たな気づきがあるのです。
気づいたからといって、いまさらどうしようもないのですが。

別れが愛を深めることもあるようです。
元気だった頃に、なぜもっと愛さなかったのか、時々、そう思うこともあります。
節子は罪つくりの女です。

■1513:偲ぶ会(2011年10月24日)
節子
黒岩さんが急逝して間もなく1年です。
湯島の集まりで、今でも時々、黒岩さんの話題は出ます。
黒岩さんが元気だったら、今頃きっとまた新しい著作を発表していた頃でしょう。

「語り継ぐ黒岩比佐子の会」の案内が届きました。
どうしようか、ちょっと迷っていました。
そしてやはり欠席の返事を出しました。

人の死を偲んで語り合うことに、私は違和感があります。
時々、そういう会の誘いは来ますが、すべて不参加です。
参加の呼びかけの返事に、欠席の理由を書いたことはありませんが、私にはそういう場が理解できないからです。
そのため、せっかく企画してくれた人の気分を害してしまったこともあるかも知れません。
冷淡だなと思われてしまったかもしれません。
妻への挽歌をずっと書き続けているのに、ほかの人の死を偲ぶことはしないのかと思われても仕方がありません。
しかし、集まって何を語るのでしょうか。
私には思うことは山のようにあっても、語るべきことは何一つありません。
たとえそれが節子であっても、です。
死はよく知り合った人たち同士でこそ語られるべきことだと思っています。
そしてそこに彼岸とのつながりがないと、私には落ち着けません。
ただ黙祷するだけの場なら、私にも参加できるかもしれませんが。

だからといって「偲ぶ会」に反対なのではありません。
そうすることによって安堵する人もいるでしょうし、語り継ぐことがその人の「生命」を蘇らすこともあるでしょう。
あるいは、そうした場で、自らの、あるいは大切な人の、死を考えることができるかもしれません。
私がいつも不参加なのは、そういう場で「語るべきこと」がないばかりか、「聴くべきこと」もないからです。

今回は「偲ぶ会」ではなく「語り継ぐ会」です。
ですからちょっと迷いました。
「音のない記憶」でデビューする前から、黒岩さんは湯島のサロンの常連でしたし、節子と一緒に黒岩さんの熱い思いを聴いたこともあります。
節子が逝ってしまった後、黒岩さんはわが家に献花にも来てくれました。
語ろうと思えば、語れることはあるのかもしれません。
しかし、そうした場に行ったら、間違いなく後悔すると思うのです。

なぜでしょうか。
理由は自分でもわからないのですが、そうした場に参加した時の自分の姿がまったく想像できないのです。
ですから、黒岩さんの会も欠席することにしました。
黒岩さんは、たぶん気分を害さないでしょう。
私の性格を、それなりに知ってくださっていましたから。

■1514:メメント・モリ(2011年10月25日)
節子
世界の各地で自然災害による死者が出ています。
タイでは洪水で、トルコでは地震で、多くの死者が出ています。
自然災害だけでなく、事故による死亡報道も毎日たくさん報道されています。
今この瞬間にも、予期せぬ死を迎えている人がどこかにいるでしょう。
世界の人口と平均寿命から計算すると、1年に1億人が、1秒に3人が死を向かえていることになります。
死は、私たちとは隣り合わせなのです。
しかし多くの人は、死のことを考えるのを避けているといわれています。
これは「近代」の特徴かもしれません。
近代は、自然を克服しようとした流れの中で、死をも視野から追い出したのです。

1960年代にアメリカで コンシャス・ダイイング(意識して死を迎えよう)という主張が広がり、ダイイング・プロジェクトなるものが話題になったことがあります。
1960年代のアメリカにはさまざまな新しい風が起こり、歴史の大きな岐路にあったと思いますが、残念ながらそれは本流にはならず、サブカルチャーで終わりました。
私はそうした動きから影響を受けたと思いますが、ダイイング・プロジェクトには違和感がありました。

メメント・モリという言葉があります。
最近はかなり使われるようになってきました。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。
もっとも最近は、「死を想え」という意味が強調されています。
藤原新也さんが同名の本を出版して話題になったのが1983年です。
その本には、死を語る衝撃的な写真が収められているそうですが、この種の本は、私はいまだに手に取ることができません。

ダイイング・プロジェクトでも、実際の死体を見ながら、それが朽ちていくのを想像するという瞑想プログラムがあると聞いていますが、私にはできないことです。
スイスのチューリッヒ郊外の墓地に連れて行ってもらった時の衝撃は今でも忘れられませんが、私にはメメント・モリは受け付けられないのです。

前に、エラン・ヴィタール(「生の躍動」)のことを書きました。
私はやはり、「生」を基本に生きたいと思います。
メメント・モリではなく、メメント・ヴィタ(「生を想え」)が私の指針です。
生きているのに死んだような生き方をしたくはありませんし、
心でもなお生きていることを信じたいと思うのです。

節子は今もなお、私と共に生きていますので。
死は、生の一つの節目でしかないと思っています。
主客転倒してはいけません。
それは教団宗教や生政治や近代医療の罠でしかありません。

■1515:メメント・ヴィタ(2011年10月26日)
節子
メメント・モリよりもメメント・ヴィタの発想のほうが良いということを昨日書きましたが、
ラテン語では、「生きる」という言葉の動詞の完了形が「死」を意味するそうです。
死とは生をパーフェクトなものにするという認識です。
もしそうなら「死」は「生」の一部です。
つまり、「死」が「生」の目的ではありません。
「死」が「生」の目的であれば、「生」は「死」の一部ということになるからです。

節子が進行性の胃がんだと分かった時、知人の医師は「死に方」の問題ですとアドバイスしてくれましたが、それには賛同しかねます。
仮に医学はそうであっても、医療はそうであってはいけません。
医師がいうべき言葉ではないはずです。

人は死ぬために生きているわけではありません。
あえて言えば、生きるために死ぬのです。
最後までどう生き抜くか、そう考えるのが素直な発想です。
「ホスピス」は行ききるための施設といっていいかと思いますが、そうであればそこにはその思想がなければいけません。

メメント・モリは、盛者必衰や日々を大事に生きることを諭す言葉とも言われます。
どんな人にも必ず死はやってくる。
明日、死ぬかもしれないのだから、毎日を大事に生きなければいけない。
そういう意味も含まれています。
あるいは仏教的な諸行無常や色即是色の哲学も含意されているでしょう。
しかしそれらはすべて「生き方」の問題であって、「死に方」の問題ではありません。

メメント・モリが、直接には「自殺」を想起させることはないでしょうが、死こそ生なのだという深い含意は簡単には表象しません。
だとしたらやはり、メメント・ヴィタです。
生の輝きを思い起こすことこそが、生を完結させます。
死を超えた節子は今なお、私の心身の中では躍動する生を維持しています。
生きている節子を思うだけで、私の心身は元気になります。
メメント・モリからメメント・ヴィタへ。
それだけで、もしかした、自らも、そして死者も、救われるかもしれません。
死者は彼岸で生きているのですから。

死は生の、ほんの一瞬の一部でしかない。
そう思えるように、ようやく最近なってきました。

■1516:位牌(2011年10月27日)
大震災の後、被災地で移動喫茶店活動を始めた、CAFE de Monkの金田住職のお話を聞きました。
時評編にも書きましたので、併せて読んでもらえればうれしいです。

その中に、
位牌のための死んだ人もいる。
位牌がないと前に進めない人もいる。
というお話がありました。
「位牌」とは何なのか、改めてそう思いました。

位牌を取りに自宅の戻り、そのために津波の犠牲になった人がいます。
福島原発の避難地域の人たちも一時帰宅して持ってきたなかにたぶん必ずと言っていいほど「位牌」があったでしょう。
私ももしわが家が火事になったら、位牌を優先して持ち出すでしょう。
なぜ位牌はそれほどに大切なのでしょうか。
おそらくそれは「理屈」を超えたことなのでしょう。
理由などなく、ただただそれが「位牌」だからです。
位牌がないと前に進めない、ということも私自身の体験からもわかるような気がします。

私にとって節子の「位牌」は2つの意味があります。
一つは、彼岸にいる節子との接点です。
彼岸と此岸にわかれてはいても、私たちはつながっていることを可視化してくれるのが位牌です。
節子の位牌を見ればその向こうに節子が、両親の位牌を見ればその向こうに両親が感じられます。
位牌は、「つながり」の象徴なのです。

しかし同時に、位牌は「別れ」の象徴でもあります。
此岸の節子への未練を断ち切り、自分を納得させるものでもあります。
位牌を見ると、ああ節子はもういないのだと思えます。
写真を見ていると妄念が起きてきますが、いはいはそれを遮断してくれるのです。

そうした経験をしていましたから、金田さんのこの言葉はとても心に響きました。
位牌は、死者のためにあると共に、残された生者のためにもあるのです。

■1517:またつらい冬がきます(2011年10月28日)
節子
東日本大震災からもう7か月以上経ちましたが、まだまだつらい話がたくさん入ってきます。
寒い冬を向かえ、被災されたみなさんにはまたつらい時期がやってきました。
残された者にとって、寒い季節は冷えた心をさらに凍えさせてしまいます。
節子を送ってもう5回目の冬ですが、いまだに冬を思うだけで心身が冷える気がします。
私には、幸いなことに一緒に暮らしている娘がいますから、一人になることはあまりありません。
もし私一人だったら、と思うと、生きる勇気を持てないかもしれないと思うこともあります。
愛する家族を失って、お独りでこの冬を過ごさなければいけない方がいると思っただけで、心が痛みます。
その心の痛みは、決して他人事ではなく、自分の事のように私の心身を凍えさせます。
不思議なほどの一体感、共体験感覚があるのです。
だから被災者の冬の報道は、正直、恐くて見ることができません。

人は、一人で生まれ、一人で死ぬ、という人もいます。
私はそうは思っていません。
生まれる時もたくさんの人に支えられたように、死ぬ時もたくさんの人につつまれています。
彼岸への旅は、一人かもしれませんが、それでもたくさんの人が見守ってくれています。
そして、いうまでもなく、此岸で生きている時も、たくさんの人と一緒です。
人は、人と無縁で生きることなどできません。
そして死んでもなお、一人になれることはないでしょう。

しかし、どんなにたくさんの人たちと一緒であろうと、いつも隣にいた人がいないことのつらさは消えません。
いるのが当然だった人がいないことには、実はなかなか慣れません。
慣れないからこそ、現実感が持てずに、耐えられているということもあるのですが、それでも時に心身が震えるほどに悲しさが湧き上がることもあります。
同じ境遇の人の姿を見た日の、夜です。
そんな時には、もう節子には会えないのだ、などと思ってしまいます。
普通に考えると、節子にはもう会えないのでしょうが、そんな思いは私の心身の中にはどこにもありません。
どこかで会えると確信しているのです。
おそらく、愛する人とわかれた人は、みんなそう思っているのではないかと思います。
そうでなければ、生きつづけられないように思います。

夜になったら、戻ってくるのではないか。
冬になったら、戻ってくるのではないか。
いつも心身のどこかで、そう考えているような気がします。
だから、冬が、そして夜がつらいのです。

夜、突然、目が覚めます。
となりを無意識に手探りします。
そして、早く夜が明けてほしいと思うことも少なくありません。

夜も、冬も、きらいです。
きっと彼岸には、夜も冬もないはずです。

■1518:老後の不在(2011年10月29日)
節子
お近くのTさんご夫妻が近くのマンションに転居されました。
同世代だったので、自治会の活動などではご一緒させてもらっていましたが、節子がいたらもっと親密なお付き合いが出来ていたでしょう。

息子さんたちがもう独立されているので、最近は夫婦お2人の生活でした。
マンションのほうが暮らしやすいとお考えになったようです。
ご主人は、2階建てよりも平面で暮らせるマンションのほうが楽ですからと言っていました。
旅行などで長期間留守にする場合も、マンションのほうがいいでしょうし。

うらやましい気がしました。
私たちも、マンションでの老夫婦の暮らしを考えていたからです。
山と海が見えるマンションです。
しかし、そうした「老夫婦の暮らし」は、私たちには訪れませんでした。
私たちには、「老後」はなかったのです。
街中で老夫婦を見ると、正直、うらやましいです。
私にも、そして節子にも、体験できなかったことですから。

夫婦が一番ゆっくりできる時期はいつでしょうか。
おそらく子どもたちからも解放されて、何かにわずらわされることなく、2人だけで気ままに過ごす、老夫婦としての日常なのではないかと思います。
時にはそれぞれに、時には2人一緒に、気の向くままに過ごす暮らしです。
私も、節子も、その夫婦最高の歓びを体験できなかったのかもしれません。

しかし欲をいうのはやめましょう。
私たちは老夫婦としてではありませんでしたが、十分に2人の暮らしを楽しんだようにも思えるからです。
47歳で会社を辞めてからは、一緒の時間が多かったです。
今にして思えば、会社を早く辞めてよかったです。
そうでなければ、節子との関係は「ほんもの」にならなかったかもしれないからです。
私が会社を辞めてからの私たちは、いつも一緒でしたから、神様が嫉妬したのかもしれません。
そう思われても仕方がないくらい、私たちは愛し合っていました。
だからといって、老夫婦の暮らしを私たちから奪ってはほしくありませんでした。
まさにOh, my God!です。

いまごろ、Tさんたちは、新しいマンションで、お2人のゆったりした朝食を楽しんでいることでしょう。
私たちなら、間違いなくそうしています。
そんな時の節子の姿が、目に浮かびます。

■1519:悲しみと幸せ(2011年10月30日)
今日は手賀沼のエコマラソンです。
わが家の下の道がコースになっています。
節子がいた頃は沿道まで応援に行っていました。
節子は応援の旗までつくったことがあります。
そんなことを思いながら、リビングルームから走っている人たちを見ていました。
今年も、たぶん私の知り合いも走っていたでしょう。
もしかしたら節子の主治医だったI医師も走っていたかもしれません。

節子がいなくなっても、世間の動きは変わりません。
時期が来れば地域の行事も、以前と同じように行われます。
そうした大きな流れの中で、私たちはそれぞれの役割を果たしています。
大惨事の場合は、行事を自粛したり中止したりすることはありますが、よほどの場合でなければ、何事もなかったように時間は流れていきます。
言い方があまりよくないかもしれませんが、住民の死もまた地域社会にとっては「一つの行事」なのかもしれません。
節子がいなくなった直後は、そうした自然の流れにさえ、ついていけなかった時期がありますが、いまはそうした自然の流れが逆に支えになっています。
そして、個人の生命や暮らしは、大きな生命の流れの中の一部なのだと実感できるのです。

しかし、伴侶を失うとその風景はまったく違うものになります。
その変化の度合いが、伴侶との関係を物語っているのかもしれません。
関係が深いほど、変化が大きいことは言うまでもありません。

人との別れの悲しさを味わいたくなければ、人を愛さなければいいでしょう。
愛する幸せと別れる悲しみは、たぶん比例しているでしょう。
結局はみんな平等なのです。
そう思えば、いまの悲しみは幸せの証でもあるのですが、そう思えるようになるにはやはり時間が必要でした。
私がそう思えるようになったのは、つい最近です。
そう思えれば、悲しみもまた幸せになっていきます。

愛する人を失っても、凛として生きる人もいるでしょうが、私にはそれができません。
みんなから呆れられるほどに、なよなよと生きています。
しかし、悲しみとか幸せと言うものは、たぶんそうした中にあるのだろうと思います。
節子と一緒の幸せと悲しみと一緒の幸せと、どちらがいいのか。
答えはわかりきってはいますが、あえて答を出さずに、問題のまま残しておこうと思います。

しかしようやくエコマラソンのランナーたちを素直な気持ちで見送れるようになりました。
ひがみながら「大きないのち」「大きなながれ」から逸脱しかけていた私も、少しずつまたもとの場所に戻りつつあるような気がします。
節子が元気だった頃と同じように、また素直に生きられればと思っています。

■1520:「チベット死者の書」(2011年10月31日)
最近また、シンクロニシティがよく起こります。
先週、京都で友人と「比叡御膳」という精進料理を食べながら、比叡山で友人の得度式にでた話をしていたら、携帯電話がなりました。
なんとその友人からの、久しぶりの電話でした。
しかも、東京の私のオフィスの前からの電話でした。
こうしたことがよく起こるのです。

昨日、自宅である探し物をしていました。
結局、それは見つからなかったのですが、代わりに思わぬものを見つけました。
20年ほど前にNHKテレビで放映された「チベット死者の書」の録画テープです。
実はこれもあることで、数日前に思い出して、その記録の本を再読したのですが、テレビ番組も見たいなと思っていた矢先でした。
まさか自分で録画していたとは思ってもいませんでしたし、テープが残っているとも思っていませんでした。
早速、昨夜、そのテープを見ました。
先日、読んだ本とほぼ同じ内容でした。
しかし、映像で見るとまた印象は違います。
死者の姿やホスピスのやりとりが、生々しく伝わってきました。

そういえば、先週もなぜか奈良を歩いてきました。
奈良では死者には会いませんでしたが、たくさんの仏に会ってきました。
もしかしたら、あれも仏たちが私を呼んでくれていたのかもしれません。
私は、仏たちに会って元気になるつもりでしたが、記憶に残っているのは、仏たちの悲鳴です。
そして、昨夜、20年前のテレビ番組を見ながら、先週奈良で会った阿修羅や薬師や月光菩薩たちが安置されていたのは、仏たちのホスピスだったのではないかという気がしてきました。
妄想としかいえませんが。

しかし妄想はさらに広がります。
私はいま、自分では気づいていなのに、ホスピスにいるのではないかという感覚におそわれました。
さらにもしかしたら、バルドにいるのではないか。
彼岸に旅立ったのは、節子ではなく私なのではないかという感覚です。
なぜか私は、死に対する恐れの感覚は皆無なのですが、そう考えるとその理由もわかります。
こうして妄想は際限もなく広がりました。

風邪が長引いて、頭が朦朧としているためか、そんな妄想に昨夜はうなされていました。
そして、彼岸も此岸もそう違いはないのだろうなと思えるようになりました。
私の意識も、この身体から早く自由になりたいです。
いや、ほんとうはもう自由になっていて、気がついていないのは私だけなのかもしれません。

まだどうも妄想の世界から抜けられていないようです。
今日も1日、休むことにします。

■1521:「心が連続しているならば、生もまた連続している」(2011年11月1日)
節子
昨日紹介した「チベット死者の書」には、ダライ・ラマのインタビューが登場します。
そこで語られている言葉は、とても共感できるものです。
一部は時評編でも紹介させてもらいますが、ここでは挽歌編らしく、輪廻転生と生の連続性に関連して語られていることを少し引用させてもらいます。
ちょっと長いです。

「経験から私たちは心が常に変化していることを知っています。心は肉体環境が変化した故に変わることもあれば、それにはかかわりなく変化することもあります。心は一瞬一瞬変化してゆく現象です。」
「心も因(主要因)と縁(間接因)を持っているに違いありません。粗いレベルの心の間接因は脳であり、究極の主要因は直前の心、より微細な心です。直前の心なくしては、現在の心が生み出されることは難しいと納得できるはずです。」
「まず原因から結果が生まれ、その結果が原因となり、それがまた結果となってゆく、つまり因果の法則(縁起論)ゆえに意識は持続的であり、経験や印象を次々に集積し、どこまでも流れてゆく。この心の連続体を想定するのが仏教の基本的説明です」。
「心が連続しているならば、それにともなって存在もしくは生もまた連続しています。」
「このように肉体は刻々変化しており、新たな生が始まるとともに、新たな肉体が生じます。これが生まれ変わりの理論なのです」。

ここで、「微細な心」と言われているのは、私たち一人ひとりの心身の奥深くに普段は無意識に存在する心、のようです。
連続体としての生、「大きないのち」に根ざしているとともに、「大きないのち」そのものといえるかもしれません。
それは、脳が作動しなくなった時に表に出てきます。
「死の過程の最柊段階に現われる光明である」と、死者の書は語っています。
バルドの生は、この「微細な心」を通して「大きないのち」に支えられているのです。

ダライ・ラマの言葉で、私がハッとしたのは、
「心が連続しているならば、それにともなって存在もしくは生もまた連続しています」
というところです。
心がつながっていれば、存在もつながっている。
頭では理解していたことですが、この言葉の奥に、なにかとても深い意味が含意されているような気がしてきました。

節子の身体から魂が、あるいは「微細な心」が抜けていく瞬間を、私は無意識に覚えています。
その時には、いささか気が動転していて意識できなかったのですが、後で気づいたのです。
「微細な心」を通じてつながっている節子に、いつかまた会えると思うと元気が出ますが、心のつながりが生のつながりであるのであれば、いまの私の生を、もっともっと大切にしなければいけません。
そのことに気づいて、ハッとさせられたのです。
生き方を変えねばいけません。
節子のためにも。

■1522:愛の両義性(2011年11月2日)
節子
今日、時評編でBOPビジネスの両義性という話を書きました。
貧困層を救うという活動が、注意しないと貧困層をさらに貧しくし、しかも新たな貧困層を増やしてしまうという話です。
昨日、まさにそういう話を湯島の集まりでしていたのですが、挽歌でも「両義性」をタイトルにして書くことにしました。
時々思うことですので。

節子も知っているように、私は経営も経済もその原理は「愛」でなければいけないと思っています。
しかし、「愛」は光の側面と同じように闇の側面も持っています。

昨日はアジアを飛び歩いている若者をゲストに話し合いをしていたのですが、話しているうちに、なぜか映画「スターウォーズ」のアナキン・スカイウォーカーを思い出していました。
アナキンは、正義を守る人として期待されていたのですが、母や恋人への愛が禍して、自ら持っている力を闇の世界に利用され、ダークベーダーという闇の権力者へと変わってしまうのです。
映画を観ていない人にはわかりにくいでしょうが、愛は人を一変させてしまうことはよくある話です。

節子を失って、私も大きく変わりました。
以前の私ではない自分を感じます。
しかし、どこが変わったのかと冷静に考えると説明できません。
もしかしたら私自身はなにも変わっていないのかもしれません。
しかし世界との関係性や私の生き方は、間違いなく変わりました。
以前も書きましたが、世界が滅んでくれたらなどということさえ考えたこともあります。
愛は、時に邪悪なものを生み出すのです。
アナキンが光の世界から闇の世界へと移ったこともわからないわけではありません。

光と闇は、その人の立ち位置によってたぶん反転します。
古代においては、神も鬼も同じ存在だったように、価値観が多様な世界においては、光も闇もないのかもしれません。
そうした二元的世界は近代以来の話なのかもしれません。

しかし、「愛」には正反対の意味合いが含意されているように思います。
実際にも「愛されて困っている人」も少なくないはずです。
あまりにも誰かを愛してしまったが故に、自分を失ってしまう人もいます。
「禁断の果実」と言われるように、愛は幸せと不幸せの源なのです。

しかし、にもかかわらず、私にとって一番大切なものは何かと問われれば躊躇なく答えます。
愛がなければ生きる価値はない、と。

■1523:人の一生は記憶そのもの(2011年11月3日)
人の一生は記憶そのものであるといわれます。
つまり、私という存在は、私の心身の記憶の塊と言ってもいいでしょう。
そして、その記憶とは私が生きてきた全生涯の、私そのものに起こったこと、周辺との関係において起こったこと、さらには私のすべての感覚が感じたことのすべてなのです。
意識して記憶していること、つまり脳に記録されていることはほんの一部でしかないでしょう。
しかも、その記憶は変化しますし、編集されて新しい記憶を生み出しますし、時には創作が行われていきます。
このあたりのことは、最近の認知科学がかなり面白い知見を生み出しています。
多重人格の研究からも、考えさせられる知見が増えています。

人は記憶の塊と考えると愛する人との別れもまた強烈な記憶として私の一部になっていると考えられます。
そうなるととりわけ嘆くような話ではなくなってしまいそうです。
私の死もまた、記憶の塊が一つ消えただけの話です。
いや実は消えたわけではなく、それが社会の記憶につながっていると考えると、実は未来永劫、消えないことになります。
それが虚空蔵やアカシックレコード、あるいは一時期話題になったアガスティアの葉につながっていくわけです。
つまり記憶は消えることがないのですから、人は永遠に存在するのです。

とまた、わけのわからない挽歌になりましたが、私は「佐藤修」というファイルの記憶の塊ということになると、発想は広がります。
この挽歌に書かれている節子は、実は私の記憶が編集して生み出した存在かもしれません。
自らが自らを生み出す仕組みをオートポイエーシスといいます。
私が目指す組織原理です。
生命体は自らと同じ生命体を生み出す能力がありますが、記憶もまた記憶を生み出していく、オートポイエティックな存在なのです。

長いこと節子のことを挽歌で書いてきていると、新しい節子が生まれてきているような気がします。
節子のことを思っているうちに、これまで気づかなかった節子に気づくこともあります。
まあそんなことはありえないわけで、大体において記憶が生み出した創作なのでしょうが、それが実に自然に節子だと思えるのです。
そうして節子は私以上に成長していきます。
ですからますます愛すべき存在になっていくのです。

節子のことを書くことによって、実は私自身の記憶の塊が変化していることも事実です。
私もまた、節子にとっての愛すべき存在になってきているわけです。
記憶の塊としての私は、肉体が食事をして維持・成長しているように、こうして挽歌を書くことによって維持・成長しているのです。
ですから挽歌を書かない日は、なんだか空腹感ならぬ、空心感が出てくるのです。

■1524:「それは節子の文化だから」(2011年11月4日)
節子
福井の義姉から野菜がどっさり届きました。
野菜が届くと節子がむかし朝日新聞に投稿した母からの野菜便のことを思い出します。
その節子の母が亡くなり、節子も亡くなったのに、野菜便だけは続いています。
不思議といえば、不思議です。

節子がいなくなっても続いていることはいろいろあります。
節子の命日に、節子の友人から花が届くといったようなこともありますが、もっと日常的にはわが家の家族の暮らし方には節子のやり方や残したスタイルが続いています。
節子の記憶が家族の記憶に転移され、それがいまなお生きつづけていると考えることもできます。
いろんなところに、節子が生きつづけているわけです。

わが家では時々使われる言葉があります。
「それは節子の文化だから」という言葉です。
たとえばわが家では家族の誰かが外出する時には、必ず残っている人が玄関まで見送りに出ます。
節子は、私が外出する時に必ず玄関まで見送っていたからです。
仕事中でもテレビを見ていても、玄関まで見送りに出るのです。
出なくてもいいよと娘は言いますが、「これは節子の文化だから」と言って、それは守られています。
それは決していい意味だけではありません。
節子は結構いい加減でしたから、節子のせいにすることも出来るのです。
掃除をしたくない時には、まあしない日もあるよ、それが節子の文化だから、と言うように使えます。

野菜便から話はおかしな方向に発展してしまいました。
しかしまあ、これも「それは節子の文化だから」許されるでしょう。

ところで、野菜便は、もう一つあります。
福岡からの野菜便です。
企業を定年で辞めて故郷に戻った蔵田さんからの野菜便です。
節子がいた頃から始まっていますが、節子が感心した立派な野菜で、しかも種類が多いのです。
蔵田さんご自慢の手づくり野菜です。

わが家の家庭農園は、今年は手入れ不足でダメでしたが、こうした野菜便でわが家の食卓はいつも豊かです。
これも節子が残してくれた文化かもしれません。
わが家はお金がなくてもなんとか暮らしていけるのも、節子の文化なのです。

■1525:適度の老化(2011年11月5日)
節子
今日は頚部の血管の超音波診断をしてもらってきました。
幸いに異常は見つからなかったようです。

先月、ものが二重に見えたり、手足の痺れがあったり、頭のもやもやが続いたり、あまり快適とはいえない状況が続いたのですが、人生を真面目に生きようと思い直し、思い立って今週、脳外科に行ってきたのです。
MRI診断の結果は、いつものように「適度な老化」状況でしたが、念のために頚部の血管を検査しようと言うことになっていたのです。
診断中、私も画像を見せてもらっていました。
わけのわからない画像でしたが、カラフルで結構面白いのです。
動脈と静脈の性質の違いもよくわかりました。
画像にちょっとおかしなものが現れたので、これは何かと訊いたら、加齢による「のう胞」だと教えてくれました。
加齢とともに、そうしたものが生じ、それが悪性だと悪さをしだすのだそうです。
しかし、なにが「悪性」かの判断基準は相対的なものです。
私は「適度の老化」という発想が好きなのですが、適度に終焉に向かっているようです。
節子を見送った後、私は病気にもかなり寛容になってきています。

視界がおかしくなったのは緑内障かもしれないといわれています。
しかし「適度の老化」を一々気にしていたら、何のための人生かということになります。
人生を真面目に生きるというのは難しいことのようです。

歳とともにいろんな意味で身体は「劣化」しています。
たぶん精神や知能も「劣化」しているのでしょう。
身体は自分でもそれなりにわかりますが、精神や知能はなかなか自覚できません。
しかしMRIで輪切りの脳の映像を見せられて、そこになにやら脳劣化を示すものがあるといわれるとなんだか安心できます。
身体だけ劣化して、脳機能が劣化しないままだと、不幸になるのは目に見えています。

最近、認知症予防の問題にささやかに関わっています。
数年前に出会った高林さん(NPO法人認知症予防ネットワーク理事長)の情熱にほだされて、彼女の活動を応援することにしたためです。
高林さんが開発した認知症予防ゲームの体験フォーラムなどを主催したりして、一応、参加した人からは喜ばれています。
新しい動きもいろいろと出始めています。
しかし、私自身は自分の「認知症予防」には関心はありません。
そもそも「認知症」という概念が私にはなじみにくいのです。
つまり、私にとっては認知症もまた「適度の老化」でしかないのです。
それによって周辺の人たちに迷惑をかけるのは避けたい気もしますが、人はそもそも周りの人に迷惑をかけながら生きているのです。
それはそれで仕方がないことです。

節子は、「適度の老化」もせずに彼岸に急いで旅立ちました。
それこそ周りの人には「大迷惑」です。
せめて私は「大迷惑」をかけずに、適度の老化で適度に迷惑をかけていこうと思っています。
節子の分まで迷惑をかける権利をもっていると勝手に思い込んでいるので、娘たちは大変です。
しかしそれもまた人生なのですから、仕方がありません。

■1526:コタツ(2011年11月6日)
節子
今日は寒い日でした。
おそらく節子でもコタツに入りにきたでしょう。
そういえば、節子は私と違って、あまりコタツがすきではありませんでしたね。
節子と一緒にコタツでみかんを食べながら話し合った記憶があまりありません。
どうしてでしょうか。

私たちは、年末に突然に同棲を始めました。
お金が全くなく、暖房器具を買えませんでした。
したがって最初の冬はコタツしかなかったのですが、安い貸家だったので隙間風が入る小さな家でした。
双方の親も結婚を認めていなかったので、家具も皆無でした。
まあそういう同棲生活が、私好みなのですが、節子はあまり好んでいなかったかもしれません。
しかし、たぶん私の口車に載せられたこともあって、そういう「神田川」生活を楽しんだはずです。
休日はいつも奈良か京都でした。
その生活は半年くらいしか続かなかったと思いますが、私には一番楽しかった時期でした。
その頃は、テレビもなく、ただただ2人でコタツに入って話し合っていました。
いったい何を話していたのか、今となっては思い出せません。

節子は記録が好きな人でした。
毎日日記を書いていましたから、それを読んだら当時話していたことも書いてあるかもしれません。
しかし、その日記帳を読む気には、まだなれません。
ただでさえちょっとだけ思い出しても、心が揺らぐのに、節子の書いた日記を読んだら、ブラックホールに吸い込まれるように抜けられなくなるかもしれません。
節子の日記は、誰にも読まれることなく、私と一緒に荼毘に付されるのが相応しいと思っています。
そうすれば、それこそ私のバルドの旅も退屈しないでしょう。
まあ入りきれないでしょうから、最初の2〜3年だけにしたいですが。

わが家のコタツは和室に立てます。
コタツに入ると節子の写真が目に入ってきます。
冬は、節子と一緒にいることが多いことに気づきました。
冬もまんざらではありません。

それにしても今日は寒い日でした。
心のせいかもしれませんが。

■1527:「話す相手がいないこと」の意味(2011年11月7日)
昨日、朝のテレビの「こころの時代」に、仏教談話会を主宰している野田風雪さんが出ていました。
私は風雪さんのことを知りませんでしたが、ネットで調べたら、仏教談話会などを通して、人生は無常であること、その無常を超える道が仏法にあることを、長年、人々に説いてきた方だそうです。
今年、90歳だそうですが、長年連れ添った奥さんに先立たれて、「無常の圧倒的な力に押し潰されそうになりながら、再び生きる気力を取り戻すことが出来た」というお話をされていました。
90歳という長寿を生き、しかも長年、人生の無情を説法した人にして、伴侶との別れは、生きる気力をなくしてしまうほどのことなのです。

風雪さんは、「話す相手がいないこと」の辛さを語っていました。
私も同じ体験をしていますので、よくわかります。

しかし、です。
「話す相手がいない」とはどういうことでしょうか。
いままであまり考えたことがなかったのですが、風雪さんのお話を聴いて、そんなことを考えました。
私の場合、「話す相手」ならたくさんいます。
風雪さんは、おそらく私以上にたくさんいるはずです。
にもかかわらず、「話す相手がいない」思いに襲われるのです。
「話す相手」とは、いったい誰なのか。
たとえば私の場合、娘たちや親しい友人ではだめなのか、と言うことです。
答えはいうまでもありませんが、ダメなのです。
どこが違うのでしょうか。

節子と話している時、私は節子と話していたのではないのではないかという気がしてきました。
話していた相手は、「節子」ではなく「節子と私」だったのです。
つまりこういうことです。
私と節子は、世界を共有化していたために、私たちの会話は、実はそれ自体が一つの世界を構成していたのです。
そう考えると納得できることがたくさんあります。
節子がいなくなった時の、異常とも思える喪失感。
判断基準が混乱して、かなりおかしくなってしまったこと。
時間が止まったような、言い換えれば世界が終わったような感覚。
悲しさや寂しさとは違う虚無感。

節子との会話は、私たちの内語だったのです。
したがって記憶が共有化されていたので、会話のルールや仕組みが他の人との会話とは全く違っていたのです。
その世界は、40年という長い時間をかけて、しかも心身の共体験を重ねることで育ってきていたのです。
話す相手がいなくなったのではなく、話しあっていた世界が丸ごとなくなったのです。
話す相手だけではなく、話す主体もなくなったわけです。

幼馴染との会話は、特殊なものだということは多くの人が体験しているでしょうが、夫婦の会話はそれ以上に特殊なのです。
だから替わりになるものはありえないのです。

奥さんを亡くされてからの風雪さんは、たぶん話す内容が微妙に変わったはずです。
同じ体験をした人でないと気づかないかもしれませんが、風雪さんの内語の世界、生きている世界が変わったからです。
すぐには影響は出ないでしょうが、じわじわと出てくるように思います。

伴侶との別れは、無常に陥るか無常を超えるかの岐路なのかもしれません。
もっとも、無常は陥ろうが超えようが、いずれも無常なのですが。
個別世界がなくなることは大きな世界に融け込んでいくことなのです。
そこにこそ、大いなる仏法の英知があるように思います。

■1528:「マドレーヌの回想」(2011年11月8日)
一昨日、コタツでの思い出があまりないと書きました。
コタツに限ったわけではないのですが、節子との思い出はたくさんあるはずなのに、実はあまり思い出せません。
なかにはほぼ完全に欠落しているものもあります。
不思議です。
しかし、あるきっかけで、その忘れてしまっていた記憶が一挙に吹き出してくることがあります。

20世紀を代表する作家と言われるマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に、「マドレーヌの回想」という有名なシーンがあります。
マドレーヌ入りの紅茶に触発されて、主人公が思い出を一気に頭の中に展開するところです。
あるちょっとしたことが、記憶の世界を表出させることはよくある話です。
「失われた時を求めて」は、回想を語りながらその中に自分の内面を発見していくというスタイルの小説ですが、この挽歌を書いていて、プルーストがなぜこれほどの長編を書き上げたかが少しわかる気がします。
自らの内面の深さは、底知れずなのです。

挽歌で何かを書き出すと、連鎖的にさまざまなことが浮かび上がってくることがあります。
もし挽歌を書き続けていなかったら、節子との思い出は、どんどん沈みこんで、ますます思い出せないほど遠くに行ってしまうかもしれません。
節子と一緒に、思い出までもが彼岸に行ってしまったら、私の世界はますますやせ衰えていきそうです。

「マドレーヌの回想」ではないですが、わが家には節子を思い出す「マドレーヌ」的なものが、まだ山のようにあります。
ただでさえ散らかっているわが家ですので、そうしたものを片付ければ、きっともう少し快適な空間になるのでしょうが、日常的に節子を思いだせるように、あまり片付けないようにしています。
「マドレーヌ」に囲まれている限り、節子の暮らしを忘れることはないでしょう。

「失われた時を求めて」は大長編です。
しかし分量においては、たぶん私の挽歌がそれを上回っていくはずです。
この挽歌があと何年続くかわかりませんが、プルーストを上回るとはうれしいことです。
まあ文字量だけの話ですが、もしかしたら記憶量にもつながらないわけでもないでしょう。

■1529:誰のための思い出だったのか(2011年11月9日)
思い出のことをもう少し続けます。

節子は、病気になってから、私との思い出をたくさんつくりたがっていました。
何のためだったのでしょうか。
その思い出をどこに残したかったのでしょうか。
先日、人は記憶のかたまりだという話を書きました。
昨日は節子との会話は内話、つまり記憶の編集だと書きました。
そんなことを書いたり考えたりするうちに、このことが気になりだしたのです。
まあ普通の人は、そんなことなど問題にしないでしょうが、そこが愛する人を失った人のおかしなところです。

節子がつくりあげていった「思い出」は、節子が持っていくためのものだったのでしょうか。
あるいは、私に残していきたかったのでしょうか。
もし後者であれば、それは私のためなのでしょうか。
節子がいなくなっても、私が大丈夫のように、でしょうか。
あるいは私に忘れてほしくなかったからでしょうか。

たとえば旅行に行って、とても楽しい日になった時に、節子は寝る前に、ポソっと、「またひとつ修との思い出ができた」とうれしそうに言いました。
その言い方は、間違いなく、私のためではなく、自分の心身に残していきたいという感じでした。
それに節子は、私のことをたぶんほぼ完全に理解していたでしょうから、私が思い出などにはあまり興味を持たないことを知っていたはずです。
それに私がどのくらい節子を愛していたかもしっていましたから、私が節子を忘れるなどとは考えなかったでしょう。
ですから、節子は自分が彼岸にもっていくための「思い出」をつくっていたという気がします。
だからもしかしたら、と考えてしまいます。
節子との思い出は、節子が持っていってしまったのではないか、と。
それで私にはどうも記憶の欠落があるのではないか、と。
実に困ったものです。
2人の思い出は、私にも思い出す権利があるはずですから。

もうひとつの可能性があります。
思い出が、個人とは切り離された世界を生み出すことを感じていたのかもしれません。
私たちが作りだす思い出が、一つの世界を創りだす。
その世界を豊かにしておきたいと思っていたのかもしれません。

思い出とは過去のものなのか、現在のものなのか、未来のものなのか。
それは難しい問題です。
書き出したら長くなりそうです。

そんなことを考えていくと、思い出づくりに幸せを感じていた節子が、改めていとおしく、抱きしめたくなるほどです。
それに、節子がいなくなっても、節子との思い出は創りだせることを、節子は気づいていたでしょうか。
思い出とは、不思議な世界です。

■1530:心の霧が晴れたような気分(2011年11月10日)
今日は私の記憶の話です。

先日、お風呂に入っていて、アレっと気づいたことがあります。
浴室はこんなにすっきりしていただろうか。
もっと湯気でぼんやりしていたのではなかったのか。
それが契機になって、この数年のことを思い出してみました。
ついしばらく前まで、私の周りにうっすらと「モヤのようなもの」がかかっていたような気がします。

特に入浴時のように、一人になった時です。
あるいは夜に駅から自宅まで一人で歩いて帰る時(昼間はそうでもないのですが)。
湯島のオフィスに一人でいる時。
なんとなく「ぼやー」っとした雰囲気に包まれていたような気がします。
そして、その中にいるとあまり現実感がなかったような記憶があります。
たぶん外部の物理的な世界の状況ではなく、私の脳の内部の認識のせいだろうと思います。

今から思い出すと、そうした時には実に奇妙な感覚になって、時間の感覚がなくなります。
道を歩いていると道沿いの樹木が語りかけてくるような気がしてきます。
湯島の場合、空に吸い込まれそうな気がしたこともあります。
お風呂の中では、まるで夢の中にいるような、そんなことがありました。
うまく説明できませんが、世界がよく見えなくなっていたことはまちがいありません。
浴槽で、心身があたたまってくると、時間を実感できない状況に入ってしまうのです。
そういえば、最近はそういうことがなくなったのです。

しばらく前までは、まちがいなく私の記憶や意識が、モヤや霧のようなものにかこまれていた気がします。
どうもうまく書けませんが、間違いありません。
夢まぼろしの世界を彷徨していたのかもしれません。
それがいつの間にか、その霧が、モヤが、晴れているのです。
たしかに視界がすっきりしだしています。

だからといって、何が変わったというわけではありません。
ただそれだけのことなのです。
これが本当のことなのかどうかも、正直なところ確信が持てません。

心の霧が晴れた、モヤが通り抜けた。
それにはどんな意味があるのでしょうか。
その答えはまだわかりません。

■1531:男性の時代の終焉(2011年11月11日)
節子
今日は湯島にも行かずに、国会中継を見てしまいました。
TPP審議の中継番組です。
それを見ていて、男性と女性の問題の捉え方の違いを感じました。
質問に立つ議員も、男性と女性がいましたが、私がとりわけ共感を持てたのは女性議員の質問の視点でした。

まあそれは性差と言うよりも個性や立場だということかもしれませんが、私にはやはり「女性」の目線や論理を感じました。
それがこれまでの経済や政治に欠けていた点だと、私は思っています。

応答する閣僚には女性(小宮山厚労相)もいましたが、主に応答していたのは野田首相、枝野さん、安住さんでした。
明らかに男性的な応答でした。

話が飛躍しますが、私たちは結婚から20年ほどは、たぶん私が主導権をとっていました。
主導権が節子に移ったのは、20年を超えてからです。
私の考え方や生き方も変わりました。
政治の見方も経済の見方も変わったと思います。
節子の影響を受けたからではありません。
影響という面では、節子は私の考えに強く影響されましたし、最後まで私の考えを信頼し、基準にしていたような気がします。
しかし、実は私自身は節子と話しながら、あるいは行動を共にしながら、自らの生き方が変わってきたのを感じていました。
大雑把に言えば、理屈より感性、社会より家族や仲間、知識より生活、概念よりも現実、といったように価値の置き所が変化したのです。

節子は気づかなかったでしょうか、節子から私が学んだことは山のようにあります。
節子と一緒に暮らしていなかったら、私の生き方も価値観も間違いなく違ったものになったでしょう。
私自身に素地はあったと思いますが、それを引き出してくれ、自信を与えてくれたのは節子です。
節子がいなくなってから、そのことがよくわかってきました。
それを節子に言葉で伝え、感謝の念を表わせなかったのは、とても残念です。

男性の政治の時代は終わったのではないか。
それが今日の国会中継を見ての感想です。

夜になって、野田さんがTPP交渉への積極的な姿勢を表明しました。
金融ビッグバンも郵政民営化も、保険法の改正も、なにも総括されていないままに、また日本での暮らしは、その延長に向かって行くようで心配です。

■1532:選挙(2011年11月12日)
節子
また昨日は挽歌を書き損ねました。
いろんなことをまた始めた上に、チビ太があまり体調が良くなく、夜はなかなか熟睡できず疲労が溜まっているため、出来るだけ早く寝るようにしているのです。
節子がいたら、挽歌なんか書いても私は読まないから早く寝たほうがいいよ、と言うでしょうから、まあそれにしたがって無理はしないようにしています。

それでも毎日書くと決めた以上は、それを守らなくてはいけません。
そう思っていますが、時には何を書けばいいか浮かんでこないこともあるのです。
1年ほど前まではパソコンに向かって、「節子」と書き出すと、自然と書くことが浮かんできたものですが、最近はそうでもないのです。
困ったものです。

今日は我孫子の選挙でした。
結婚以来、選挙はいつも節子と一緒に行っていました。
投票まではお互いに名前を明かさず、帰りの道でそれぞれがだれに投票したかを明かすのがわが家のルールでした。
時に一致することもありましたが違っていることも多かったです。
娘たちが選挙権を持ってからは、基本的に家族で行きましたが、このルールは娘たちにも継承されました。
節子がいなくなっても、この文化は続いています。

節子がいた頃は、政治の話も経済の話も家庭でよくしました。
節子は政治にも経済にも疎かったですが、関心はありました。
節子と話していると、私も考えが整理できました。
そういう話し合いの場がなくなったのが残念です。

選挙の投票に行くたびに、必ず節子のことを思い出します。
そして節子だったら誰に投票するかなと思います。

■1533:最小にして最高の共感の共同体(2011年11月13日)
人類学者のマリノフスキーは、「よい天気だね」とか「こんにちは」などといった、あまり意味のない言葉を頻繁に掛け合うことによって成り立つ社会を「共感の共同体」と呼びました。
意味がない言葉、といってしまうと正しくはないかもしれません。
いわゆる定型的な挨拶語のような言葉のことです。
マリノフスキーは、こうした言葉を「small talk」と呼んでいます。
-
言葉は知識や考えを媒介すると同時に、感情や気分を伝達します。
まさにこの定型語は、繰り返すことによって、感情や気分が通じ合うようになるのです。
たかが挨拶ですが、されど挨拶。挨拶を言い交わす効果は大きいです。
挨拶をしっかり言うことで、経営危機を乗り切った会社もあるほどです。

夫婦は、最小にして最高の、共感の共同体ではないかと、私は思っています。
共感の共同体としての夫婦ほど、居心地のよい世界はありません。
それが出来てしまえば、言葉は不要になってしまいます。
と言うよりも、言葉の役割が変わってくるはずです。

私たち夫婦のsmall talkは何だったでしょうか。
私は「節子」でした。
つまり、お互いの名前をよく呼んだのです。
「おはよう」とか「だいじょうぶ」とかいう呼びかけも多かったです。
こうしたsmall talk が私たちを同じ共感の共同体の住人にしていったのです。

夫婦の会話はとても大切です。
昔は、会話の少ない夫婦が多いと言われたこともありますが、最近は会話の多い夫婦も増えているようです。
しかし大切なのはsmall talk なのです。
small talk は、実は自然に出てくる気遣い言葉だからです。
心とつながっているのです。

節子との暮らしで、そのことを私は教えてもらいました。
そしてそれこそが、快適に暮らす最高の要素なのだと、最近では思うようになっています。
ケアの世界も経営の世界も、基本は自然に出てくるsmall talk なのです。
難しい言葉や流暢な話術は、small talkに比べたら、その効用は小さなものです。
そのことに気づいてから、私の生き方は大きく変わりました。

いま少し寂しいのは、small talkがなくても共感が維持できた、最高の伴侶がいないことです。
究極のsmall talkは、non talkなのです。
これにはマリノフスキーも気づいていなかったかもしれません。

■1534:名前(2011年11月14日)
節子
昨日の挽歌を読んだ友人から、「佐藤さんにとってのsmall talkが奥様のお名前だったというのも感銘を受けました」というメールが来ました。
それで今日は、名前のことを書こうと思います。

私たちは、お互いを名前で呼び合っていました。
娘が生まれてからもそれは変わりませんでした。
「お母さん」とか「お父さん」とか呼ぶことは皆無でした。
名前を大事にするということには、私はかなりのこだわりがありました。
夫婦同士の場合、それは問題はありませんでした。

ところが娘たちにどう呼ばせるかということでは、節子と私は意見が異なりました。
私は、娘たちにも「修」「節子」と呼ばせるのがいいと提案しました。
節子は反対でした。
「お母さん」「お父さん」がいいというのです。
私は、そうした一般名詞で人を呼ぶのは賛成しかねます。
どうしてもというなら「私のお父さん」と呼ぶのが正しいはずです。
しかし、そんな主張が通るはずもありません。
残念ながら方針は一致せずに、それぞれがばらばらで娘たちに付き合いましたので、娘たちは混乱したかもしれません。
しかし今もなお、節子のことを娘たちは「節子(さん)」と呼ぶこともありますので、まあ私の文化も少しだけ継承されたわけです。

私は「佐藤」という、ありふれた苗字なので、会社時代も会社を辞めてからも、名前で呼ばれることが多いのです。
しかしその文化はそう多くないようです。
ある外部の集まりで、私と一緒に活動していた若者が私のことを「修さん」と呼んでいたのですが、その後、その会議に参加していた会社の社長から、あの若者は佐藤さんのことを「修さん」と呼んでいたが、一体何者なのかと訊かれました。
私には意外な質問でしたが、私の文化はまだ当時は特別だったのかもしれません。

しかし人を名前で呼ぶのは当然です。
私は大学教授であろうと医師であろうと「先生」とは呼ばずに「さん」付けで呼びますが、それは私にとっては相手に敬意を表わすためなのです。
私も時に「先生」と呼ばれることがありますが、あまりいい気持ちはしません。
それで必ず「先生」ではなく「佐藤さん」です、とさえぎるのですが、どうしても直らない人がいます。
それはそれで仕方がありませんが、やはり人は「名前」で呼ぶべきだろうと思っています。
それが「私の常識」です。

ところがそうした「私の常識」は、現在の社会では時に異端のようです。
呼び方くらいはいいですが、他にもそうした今様ではない「私の常識」に、もしかしたら節子は苦労したのかもしれません。
節子が私と同調してきたのは、たぶん結婚してから20年くらい経ってからです。
それまでは苦労させたのかもしれません。
それが病気の原因でなければいいのですが。

今の時代は、すなおに常識的に平凡に生きることが難しいのかもしれません。

■1535:元気の炎(2011年11月15日)
節子
昨日、セラピー活動をしている2人のセラピストが湯島に来ました。
一人はアートセラピスト、一人は臨床美術でクリニカルアートに取り組んでいる人です。
いま私が取り組んでいる認知症予防フォーラムの案内を知ってやってきてくれたのです。
節子がいた頃ほどではありませんが、今も毎週、新しい出会いがあります。
湯島は不思議な場で、実にさまざまな人を招きこんでくれるのです。

新しい世界にワクワクする感度を、最近は漸く少し取り戻してきています。
昨日の臨床美術の話は、節子だったらすぐ身を乗り出して、参加するでしょう。
しかし、その行動力は、私にはまだ戻ってきていません。
節子が聴いたらどんなに喜ぶだろうなと思いながら話を聴いていました。
それに、少し疲れがたまっているせいか、いつもより反応が悪いような気もしていました。

ところが、別れ際にクリニカルアートに取り組んでいる人が、元気をもらったといってくれたのです。
最近、自分ながらに元気が弱まっているのを感じていましたので、意外な言葉でした。
そして今日、アートセラピストの人からメールが来ました。

佐藤さんとお話ししているととても明るい気持ちになれ、パワーをいっぱいいただいたような感じがします。
我々もそうでありたいと思っています。

そして続いて臨床美術の人からも届きました。

何よりも、佐藤さんから発するエネルギーが、次に進む意欲につながり、とても活力になりました。

最近、どうも元気が出ないと思っていました。
しかしどうやら他者にはパワーを発しているようです。

周りの人を明るく元気にすること。
これは私が望んでいることです。
しかしその本人の、つまり自分の元気が枯れていては他者に元気を与えられないと思っていました。
それが2人から同じようなことを言われたのは意外でした。
そういえば、昨日、もう一人学生がやってきました。
私から元気を吸収したいといって、かばん持ちでも何でもやるからと言ってきたのです。
私から見れば、私よりも数倍も元気で行動力のある若者です。

元気とは何だろう、と考えてしまいました。
そして、節子が話もできないほどに病状が進行していた時でさえ、私は節子から元気をもらっていたことを思い出しました。
元気は、個人の中にではなく、人と人との関係性の中から生まれているのかもしれません。
化学反応のように、元気を生み出す出会いと言うのがあるのかもしれません。
そして常に元気を他者に与え続ける関係もあるのです。

節子は最期の最期まで、私に元気を与え続けてくれました。
いや今もなお与えてくれています。
節子は、私から元気を奪ったとばかり思っていましたが、そうではなかったのです。
元気ではなく、決して明るくはない私が、時に周りに元気を与えることができる。
節子が私に遺していってくれた「元気の炎」が、いまもまだ私の心身で燃えているのかもしれません。
そのことに気づかされました。
しかし、にもかかわらず、私自身は元気を実感できず、ただただ悲しいばかりです。
他者への元気な炎ではなく、私自身を元気にする炎を、節子に贈ってほしいです。
それには、節子に会うしかないのでしょうか。
彼岸に行くまで、お預けなのでしょうか。
実に、罪つくりな話です。

■1536:もう一度行きたかった節子との沖縄旅行(2011年11月16日)
森山良子さんの「なだそうそう」を聴いてしまいました。

節子と沖縄に行ったのはいつだったでしょうか。
節子が病気になる前でしたが、いつだったか思い出せません。
格安ツアーだったと思いますが、4日ほど、沖縄を回りました。
節子は沖縄が大好きになりました。
娘たちにもさかんに沖縄旅行を勧めていました。
私たちも、今度は格安ツアーではなく、ゆっくりと沖縄を回ろうと話していました。

節子はコーラスグループに入っていましたが、節子はいつも家で練習していました。
そのなかに、「島歌」や「花」、「芭蕉布」そして「なだそうそう」がありました。
節子はよく口すさんでいました。
そのおかげで私も何となく歌えるようになりました。
いまもその頃の楽譜が、寝室に乱雑に残っています。
あまり片付ける気がしないので、そのままに、です。
発表会のDVDも残っています。

一昨年、節子が勧めていた沖縄に娘たちが行こうと言い出しました。
ジュンが結婚する前の、最後の家族旅行でした。
本当は4人で行くはずの沖縄旅行が、3人でした。
その頃、私はまだ、精神的にかなり不安定でしたが、節子と話しながらの旅でした。

「なだそうそう」を改めて聴いて、また沖縄に行きたくなりました。
沖縄は、なんだか彼岸に一番近いところのような気がするのです。
節子がいなくなったいま、同じ歌を聴いても、まったく違う思いが湧き上がってきます。
時に、息苦しくなるのはなぜでしょうか。

それにしても、節子は私をいろんなところに連れて行きました。
沖縄旅行も節子が手配してくれたのです。
できることなら、彼岸への私の旅も、節子に手配して欲しかったです。

■1537:黒岩さんの一周忌(2011年11月17日)
節子
今日は黒岩比佐子さんの一周忌です。
先日、彼女を偲ぶ会がありましたが、私は参加しませんでした。

黒岩さんから衝撃的なメールが来たのは2009年の12月16日でした。
声が出ませんでした。

メールを書こうか、やめようかとずいぶん迷いましたが、
お知らせしないのも……と思って書くことにしました。
実は、12月1日から今日(12/15)まで、東大病院にずっと入院していました。
11月に膵臓がんが見つかり、肝臓にも転移している状態で、入院中から抗がん剤治療を始めました。
(中略)
まさか、このような事態になるとは予想もしていなかったので、
自分自身がまだ受けとめられずにいます。
(中略)」
節子さんのこともありましたし、私の周囲の人たちも、ほとんどががんで亡くなっています。
でも、実際に自分ががん患者になってみると、人生観が変わるほどのショックです。
突然、このようなメールをお送りして、驚かせてしまい申し訳ありません。
どうかくれぐれもご自愛ください。

最後のメールは2010年の10月10日でした。
彼女の最後の作品になった「パンとペン」を私のホームページで紹介したのを知ってのメールでした。

HPのほうにも書いていただき、うれしかったです。
節子さんが生きていらっしゃったら、きっと笑顔で言葉をかけてくださったことでしょう。

あとがきに書いたように、堺利彦の孫娘である近藤千浪さんも、節子さんのように素晴らしい人でした。
それが、なんの前触れもなく、心不全で6月に急逝されてしまい、いうべき言葉もありませんでした。
人の生死については、かなり考えて、自分なりに悟りを開くことができたようです。
講演会にも来てくださるとのこと、お会いできるのを楽しみにしています。

その講演会が黒岩さんと話した最後でした。
節子は黒岩さんの将来の活躍をとても楽しみにしていました。
今頃は彼岸で会っているかもしれません。
今朝は、節子の位牌に向かって、2人に話しかけました。

■1538:昔はよかった、のか?(2011年11月18日)
節子
椿山荘で、山城経営研究所の25周年の集まりがありました。
そこで久しぶりに昔の受講生などにお会いしました。
いまでは社長になっている方も少なくありません。

ところで以前、湯島のオープンサロンに来てくださった人がいました。
もう会社は引退されている方です。
その人が後輩だといって社長を紹介してくれました。
そして、私のことを、「佐藤さんもお酒が大好きだから」と言ってくれたのです。
実は私は下戸で、ほとんどお酒は飲めません。
それで急いで訂正させてもらいました。
そうしたらその人が言うのです。
では人に振る舞うのがお好きなのですね、と。
そんなことはないのですが、返事に困っていると、その人はこう言いました。
以前、湯島のサロンに参加させてもらったら、海保も取らずに飲み放題、食べ放題でしたよ、と。

たしかに節子がいた頃はそんな時期もありました。
毎月のオープンサロンは、ビール飲み放題でした。
食べ物も節子がそれなりに用意してくれていました。
最もその頃からお金はあんまりなかったので、節子は苦労していたかもしれません。
それに参加者がいろいろと持ち込んできてくれました。

いまはビールではなくコーヒーサロンです。
しかも会費までもらっています。
むかし参加していて人がいたら驚くでしょうね。

節子がいなくなって変わったこともあるのです。
最近のサロンには女性はあんまり参加しません。
そういえば、昨日書いた黒岩さんはサロンの常連でした。
ほかにも女性の常連はいましたが、節子がいなくなってからぱったりこなくなりました。
それに参加者も昔に比べて圧倒的に少ないです。
それになにかちょっと明るくないですね。
来年から少しまたサロンのあり方を考え直したほうがいいかもしれません。

昔の人に会うと、またいろんなことを思い出しますが、節子のことも時々話題になります。
うれしくもあり、さびしくもあり、です。

■1539:「お幸せになったそうですね」(2011年11月19日)
「お幸せになったそうですね」
久しぶりにお会いした某社の女性社長がそう話しかけてきました。
何のことかなと怪訝な顔をしていたら、いい人と出会われたそうですね、と言うのです。
おやおや。
そんなことは一切ありません、とついつい強い口調で反応してしまいました。
その人は、戸惑ったように、再婚されたとお聞きしましたが、というのです。
私はさらに強い口調で、「そんなことは絶対にありえない話です」といささかの怒りをもって応えました。
さらに戸惑ったその人は、そうですよね、あんなに奥様を愛されていましたものね、と言いました。
「誰からお聞きになったのですか」と問いかけましたが、答はありませんでした。
そこで会話は切れてしまいました。
私は、その直後にパネルディスカッションのコーディネーター役をすることになっていましたが、なにやらどっと疲れが出ました。
機先を挫かれた感じでした。
まあなんとかパネルディスカッションはうまくいきましたが。

その女性社長との付き合いは20年近くになるかもしれません。
節子も知っている人です。
彼女もドラマティックな人生を歩んだ人です。
仮にそういう噂があったとしても、そう思われたことがとても不愉快でした。

「お幸せになったそうですね」
なんだか同情されているようで、いやな言葉です。
いまの私はたしかに「幸せ」ではないかもしれません。
しかし、何かがあったら「幸せ」になれるものでもありません。
「幸せ」という言葉は意味が深い言葉です。
節子を見送って、それがよくわかるようになりました。
それに、人は一度幸せを体験すれば、それで十分なのです。
その体験を持ち続ければ、未来永劫、幸せでいられるものです。
おかしな言い方ですが、たとえ「不幸」になっても「幸せ」なのです。

節子は病気になる前によく言っていました。
もし修が先に死んでも、私は再婚しない。
もう一度、結婚するのは面倒くさいから。

まったく育ちをことにする他人が、心を本当に通わせあうのは簡単なことではありません。
節子の、この言葉は、私と心を通わせあったことの証だったと思いました。
私も同じように、もう一度、本当に心を通わせあう関係を他者と構築できるほどのエネルギーは残っていません。
私たちも、それなりに真剣に自分をぶつけ合って、真剣に夫婦をしてきたのです。
それに関しては、それなりの自負があります。
娘たちからは「いい加減な夫婦」に思われていますが、

それにしてもそんな噂が流れているとは、一体誰が流しているのでしょうか。
私を全くわかっていない誰かが流しているのでしょうね。
困ったものです。

■1540:投げ出せない人生(2011年11月20日)
節子
最近、いろんなことが重なってどうも時間がとれません。
さまざまなことに関わりすぎているからかもしれません。
昔はいろんなことに関わることが逆に元気の源でしたが、最近はどうもそうでもありません。
節子がいたら、またたしなめられるところでしょう。
「忙しい」のはみっともないことですから。
しかし、最近、少し「心を失うような」状況です。
心を失うと忙しくなります。
忙しいから心を失うのではありません。
心を失うから忙しくなる、それはわかってはいるのですが、最近は心を失いがちです。

昨日、東北の水産関係の3つの会社の社長のみなさんとお会いしました。
いずれも今回の津波で壊滅的ともいえる被害を受けた会社です。
テレビなどでも拝見していたみなさんですが、お話していて、とても「あったかなもの」が伝わってくるのです。
ああ、この人たちは「心を失っていない」と思いました。
そして自分の最近の状況を反省しました。

節子がいなくなってから、時に人生を投げ出したくなることがあります。
節子のところに行けたらどんなに心安らぐだろうと思うこともあります。
その一方で、娘たちのことを考えると、その身勝手さに気づきます。
節子ほどではないでしょうが、私がいなくなったら、娘たちは悲しむでしょう。
人は、一人では生きていない。
それに気づけば、人生は投げ出せません。

宮沢賢治のことを最近またよく考えます。
賢治のように、私もトボトボと歩き続けるしかありません。
トボトボ歩くと見えてくることもたくさんありますし、それは豊かな歩きなのかもしれません。
しかし、時々、昔のように急ぎ足になってしまうのです。
そして心失い、忙しくなってしまう。
その繰り返しなのです。
そんなことをしなければいいと自分でもわかっていますが、忙しくして心を失わないとやりきれないこともあるのです。
まだまだ心は安定していない証拠です。
長年、あまりに節子に依存していた生き方をしていたからでしょう。
困ったものです。

今週は少しトボトボ歩きに戻ろうと思います。
しかしどこに向かっているのだろうかと、時に思います。
まだまだ人生を悟るには程遠いようです。

■1541:湯島でのひと時(2011年11月21日)
節子
今日は昨日までと打って変わって、穏やかな日和です。
昨日までのばたばた殻抜けて、久しぶりに湯島でのんびりしています。
といっても、しばらくしたら出かけて、夜はまたここでささえあい交流会です。
しかし先ほどか1時間ほど、珈琲を飲みながら、何をするでもなくのんびりしています。
このオフィスから、私は東京の空を眺めているのが大好きです。
ゆっくりと流れる雲を見ていると、何だかすべてのことが瑣末に感じられてきます。
節子がいるときには、こうやってのんびり2人で空を見ていたことはあったでしょうか。
いつも私たちは何か話していました。
何を話していたのでしょうか。
すべては、もう昔の話になってしまいました。

湯島のオフィスは、最近いろんな人が使い出しました。
コモンズ空間を目指していたのですから、それはそれでいいのですが、なにやら共同経営者が不在になった感じです。
節子が用意しておいてくれた食器なども少しずつ壊れたりしてきています。
本来はきちんと買い足さないといけないのですが、そういうことが私は不得手です。
しかし不思議なもので、節子がいなくなっても、何となく湯島のオフィスは回っているのです。

最近は集まりがあっても、参加者の誰かがカップを洗い、後片付けをしてくれます。
節子がいた頃は、節子がほとんど一人でやっていました。
状況が違うと、みんなの行動も変わるものなのです。

節子がいる頃と変わったことはあるでしょうか。
時々、雰囲気が変わったねという人がいます。
しかし何も変わっていないのです。
ベランダや室内の植物もあまり変わっていませんし、壁にかかった版画もそのままです。
もちろんレイアウトは変えていません。
テーブルと椅子はかなり古くなったので、買い換えたいところですが、そういうこともまた、私のもっとも不得手とするところです。
椅子の一つはちょっと壊れてしまってきていますが、すべてを買い直すとなるとかなりの出費ですので、収入がほとんどなくなっている私には今は無理そうです。
でも節子がいたら、たぶん買い換えるでしょうね。
来年は少しがんばって仕事をして買い換えようかとも思います。

そうそう変わったことが一つあります。
先日、12人用の珈琲メーカーを購入しました。
今までは5人用だったので面倒でしたが、いまは楽になりました。

そろそろ出かけなくてはいけません。
久しぶりに1時間ほどのんびりと無為の時間を過ごしました。

■1540:迷惑を掛け合う伴侶がいない寂しさ(2011年11月22日)
節子
また訃報が届く季節になりました。
このところずっと付き合いが途切れていた、年上の友人が亡くなったと奥様からはがきが届きました。
不謹慎ですが、伴侶より先に逝けたことを少しうらやましく思いました。
さだまさしの「関白宣言」ではないですが、伴侶に先立たれることの辛さは体験しないとわからないでしょう。
来世では、その辛さを節子に体験させるために、今度は私が先に逝きたいものです。

しかし、先立つ立場であれば、どう思うでしょうか。
愛する伴侶や家族を遺して、旅立つ辛さは、遺された者の辛さ以上のものかもしれません。
いや両者を比べること自体が、そもそも意味のないことでしょう。
いずれもが、同じように、悲しくて辛いのです。
できるならば、一緒がいいですね。

昨日、ある集まりで、同世代の人がしみじみと語りました。
この歳になると子どもたちに大きな迷惑を掛けることのないように生きることが大切だと思う、と。
たしかにそうかもしれません。
しかしもし節子がいたら私はそんな事は一切考えないでしょう。
夫婦とは、お互いに支え合う関係であると同時に、迷惑を掛け合う関係でもあるからです。
「支え合う」と「迷惑を掛け合う」とは、もしかしたら同じことかもしれません。

私には、迷惑を掛けても大丈夫の伴侶は、もういません。
迷惑を掛けてくる伴侶もいない。
私には、それこそが寂しいです。

それにしても、節子には山のような迷惑を掛けてきました。
節子はそれをすねて、先に逝ってしまったのかもしれません。
そうでなければいいのですが。

■1541:「なんで悲しむことがあるの」(2011年11月23日)
節子
ある人から東北被災地に「なつかしい未来創造株式会社」が生まれたという話を聴きました。
「なつかしい未来」
いうまでもなく、10年ほど前に話題になったヘレナ・ノーバード=ホッジの本「ラダックから学ぶ 懐かしい未来」を意識した命名の活動です。
そういえば今こそ読み直すべきだと思い、同書をざっと読み直しました。
そのことを時評編で書こうと思いますが、一つ心に残った言葉があったので、挽歌でも書くことにします。
気になった言葉は、「なんで悲しむことがあるの」です。

この本は、著者のヘレナさんが体験したラダックの社会の変化を記録したものですが、彼女がラダックに最初に住みだしたころの話に出てくる言葉です。
ちなみにラダックはチベットと隣接したインドの地域です。
ヘレナさんが住み始めた頃のラダックは、今のブータンよりみんな豊かで幸せだったのでしょう。

ラダックの人たちは、この地球上に彼らの居場所をしっかりと持っている。その場所との毎日の親密な接触、季節の移ろいであるとか、必要性、制約など、身近な環境についての知識を通して、そこにしっかりとつながっている。

そのおかげで、ラダックの人たちは、どんな状況であっても満足し、幸福を感じることができるのだとヘレナさんはいうのです。
そして、こう続けています。

満足は、自分が大いなる命の流れの一部であることを感じ、理解し、気を楽にしてその流れと一緒に動いていくことから来る。もし長旅に出ようとしていた矢先、大雨が降ってきたとしても、なぜ惨めになる必要があるのか。そうなって欲しくなかったかも知れないけれども、ラダックの人は「なんで悲しむことがあるの」という心の姿勢でいる。

最近、私はあまり「悲しむ」という感覚がなくなってきているような気がします。
節子がいなくなった悲しみに、私が持っている「悲しみの感覚」をすべて使い切ってしまったからかもしれないと思っていました。
しかしどうもそうではないようです。
この文章を読んで、そんな気がしました。

「なんで悲しむことがあるの」
たしかにそうです。
節子とのつながりを信じていれば、悲しむことはない。
ありのままにすべてを受けいれ、素直に生きていれば、何も悲しむことはないのです。
もし悲しむことがあるとすれば、それは「悲しむこと」に逃げようとしている自分の生き方なのかもしれません。

「ラダックから学ぶ 懐かしい未来」からは、何か大きな力をもらった気がします。
そのラダックが壊れてきていることも、悲しむことではないのでしょう。
挽歌を書き続けているおかげで、私自身の生き方が少しずつ整理されてきているのがうれしいです。

■1452:いつもより暗い夜景(2011年11月24日)
節子
今夜は湯島で認知症予防のフォーラムの実行委員会です。
6時半からですが、まだ誰も来ていません。
特に用事もないので、一人で音楽を聴きながら、真っ暗な外を見ていたら、ついつい昔、節子と一緒にサロンの準備をしながら、同じような時間を持っていたことを思い出しました。
いつもは、ここに節子がいたのです。

湯島のオフィスから見える夜景は、遠くの高層のマンションのさびしい明かりです。
以前はもっと明るかったですが、最近はマンションの明かりも少なくなりました。

夕方から夜にかけての、この時間は、ただでさえ、とてもさびしい気になる時間です。
しかし、その時間を節子と一緒に過ごしていた記憶が、今となってはとてもあったかい気がします。
あったかくて、その分、哀しい。
そんな気がします。

そろそろ誰かが来るかもしれません。
珈琲でも淹れておきましょう。
以前は節子がすべてやってくれていましたが、最近は私の仕事です。
それにしても、今日はいつもより外が暗い感じがします。
夜景も気分次第で変わるものです。

■1543:Nさんのこと(2011年11月25日)
節子
節子の友人のNさんからりんごが届きました。
いつものように、蜜の入った長野の美味しいりんごです。
お礼の電話をかけました。
夏に電話した時には、ご主人が出たのですが、Nさんは階段で転んで入院していると聞きましたが、もう元気になっているだろうと思ったのです。

ところが電話に出たのは、またご主人でした。
そしてお話を聞いたら、Nさんは骨折だけではなく、記憶障害や言語障害なども出てしまい、まだ回復されていないのだそうです。
どうやら大変なようです。

Nさんは、実は節子より先に胃がんになってしまいました。
節子が投稿に書いた友人はNさんです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/hitotoki07.pdf
幸いにNさんは克服されましたが、お互いに同じ体験だったので、Nさんは遠くにお住まいにも関わらず、わが家まで足を運んでくれました。
節子のことをとても心配してくれていました。

2人とも元気だった頃、節子はNさんご夫妻と一緒に自動車で旅行にも行っています。
それがとても楽しかったようで、よく話していました。
いつか私も一緒にと言われていましたが、当時はまだ仕事が楽しくて仕方がなく、気乗りしない返事をしていました。
そのうちに、Nさんが、そして節子が、胃がんになってしまったのです。

Nさんはまだ記憶が完全には戻らずに、言葉も不自由なようです。
節子がいたら、すぐに跳んで行って、元気にしてやれるのにと思います。
節子がいないのが、とても悔しいです。
私では何の役にも立てません。
最近、そういうことが時々あります。
私よりも節子のほうが長生きすべきでした。
つくづくそう思います。

ご主人が電話口で突然、奥さんからもらったつる草が元気に花を咲かせています、と言ってくれました。
節子から、とてもいいご主人だとお聞きしていましたが、私はまだ一度もお会いできていません。
そのつる草は、たぶんヤマホロシです。
節子が残してくれたヤマホロシのおかげで、急にNさんのご主人に会いたくなりました。

節子がそう思っているのかもしれません。
いなくなってもなお、節子は私のいろんな縁をつくってくれます。

■1546:前世での友人たち
(2011年11月26日)
節子
寒くなりました。

ハーモニカの西川さんが韓国からメールしてきてくれました。
27日にはソウルでコンサートも開くそうです。
今日は西川さんの歓迎会だったようで、佐々木ご夫妻ともお会いしたようです。
今回は西川さんもご夫妻で行かれたようです。

その西川さんからのメールです。

いつのまにか、憲文さんと盛り上がってしまいました。
佐藤さんもそうですが、憲文さんとは、ソウルで今回を含めて2回しか会っていないのに、ずっと前からの友人のような感じがするのが不思議です。

そういえば、西川さんが節子のお見舞いにわが家に来てくださったのは、まだ数回しかお会いしていなかった頃です。
メールで知り合ってからすぐに西川さんは福岡から湯島にまで来てくださいました。
そこから不思議な友だち付き合いが始まったのです。
節子の葬儀にもわざわざ来てくださり、献花してくださいました。
人の付き合いは決して時間ではありません。

29日には佐々木さんのところで、佐々木さん手づくりのマッコリを飲むそうです。
佐々木さんからもメールが来ました。

今回は、糯米9に紅米を1の割合で混ぜて? 呑酒を仕込んでみました。
試飲は西川さんとします。どんな評価でしょうか?

ソウルはこちらよりもずっと寒いでしょうが、マッコリと両ご夫妻の熱い話で、きっと寒さなど吹っ飛ぶことでしょう。

西川さんが書いてきたように、初対面なのに懐かしい友人に合ったような気がする人が時々います。
もしかしたら前世でお付き合いがあったのかもしれません。
現世の暮らしは、長い人生のほんの短い「一幕」なのかもしれません。

■1547:「愛しいもの」(2011年11月27日)
節子
Sさんがまた小池龍之介さんの記事を送ってきてくれました。
小池さんは、いま話題の若い僧侶です。
Sさんは、私が小池さんにはピンと来ていないのを承知で送ってきてくれるのですが、やはりまたピンとこないのです。

たとえば、小池さんの「超訳ブッダの言葉」にこんな一節があります。

ブッダの言葉
私はかつて、「目分」よりも
愛しいものを探して
世界中を
求め回ったけれども、
「自分」より愛しいものは
どこにも見つからなかった。
それは他者にとっても同じこと。

ブッダは本当にこう思ったのでしょうか。
私には疑問です。
私がそう思うのは、「自分」と「他者」がつながっているという発想が、そこに感じられないからです。
「自分」がいて「他者」がいる。
いまの私には悟った人の発想とは思えません。
失礼ながら、小池さんはまだ豊かな愛を経験していないのではないかとさえ思えます。
若い僧侶に難癖をつけているわけではないのですが、こうした人の人気が高いということに、大きな危惧を感じます。

私も若い頃、自分より「愛しい」ものを探しました。
そして見つけたのが「節子」です。
いや正確に言えば、「節子」というよりも「愛」といっていいでしょう。
人を愛するということは、自分への「愛」を克服することです。
節子は、その「象徴」だったのです。
人を愛することを一度でも知ったら、すべてのものへの愛しさが生まれます。
自分のための愛が、すべての人のための愛になるのです。
この感覚は、愛を体験した人でないとわからないかもしれません。

自分という、閉じた小さな世界から飛び立つこと。
私にとっての「愛」は、そういうことです。
自分への愛が、自分を含めたすべてのものへの愛に変わるための「愛」。
それに気づかせてくれたのが、節子でした。
そして、愛が解放されれば、たくさんの「愛」が自分に降り注ぐのが実感できるようになります。
愛に包まれているといっていいでしょう。

節子がいなくなって4年たって、ようやくそれが納得できてきました。
自分のこだわっていては、本当に「愛しいもの」は見つかりません。

■1548:妻の役割の大きさ(2011年11月28日)
節子
庭のバラの剪定をしました。
剪定というよりも、ばっさりと大整理したというのが実態ですが。
節子がいなくなって以来、庭の整理はジュンがやってくれていますが、結婚して家を出たのでこれまでのようにはいきません。
そのためもあって、庭に壁に沿って育っていたバラがどんどん大きくなり、先日の大風で支えが倒れてきてしまっていたのです。
主人がいないと庭も荒れてくるものです。
ジュンはよくやってくれますし、私もユカも水遣りなどはやってはいますが、追いつきません。
節子は在宅の時には毎日、庭の手入れをしていましたから、それに比べればどうしても庭の花木は不満でしょう。

ちょうどジュンも時間があったのでみんなでバラを剪定しだしたのですが、そのうちにどんどん切りこんで、実にすっきりしてしまいました。
節子がいたら、どういうでしょうか。
ちょっと切りすぎでしょうか。
しかし節子も、植木は切れば切るほど元気になるといっていましたから、まあいいでしょう。

庭の手入れの主担当は、まだジュンです。
ジュンは近くに住んでいて、しかも毎日、お昼頃から夜にかけて、わが家のスペインタイル工房に仕事で通ってきているのです。
それで、仕事の合間に庭の手入れをしているのです。
そのおかげで、辛うじて庭は維持されていますが、私の担当の池の周辺はいまや悲惨です。
自然らしいのがいいといいながら、手入れをさぼっていますが、自然は手入れをしてこそ維持されるものです。
困ったものです。

そういえば、わが家の家庭農園も荒れ放題です。
放射線汚染もあって、足が遠のいてしまっていますが、そろそろ枯れ草の掃除に行かないといけません。
節子がいなくなったおかげで、なにかと仕事が増えました。
しかし、妻の役割の大きさにも気づかされています。
気づくのが遅かったかもしれません。

■1549:自立生活4年生(2011年11月29日)
節子
急に寒くなったので着る服がありません。
ユカにこれでいいかなと訊きながら、なんとかこなしていますが、今朝もズボンが白すぎてシーズンに合わないといわれました。
明日から軽井沢なので、何を着ていったらいいか訊いたら、ユカからまだ4年生だねと言われてしまいました。
節子がいなくなってからの自立生活4年生と言うわけです。
たしかに節子がいる時には、冬になれば衣服も寝具も替わっていましたが、今は自分でやらなければいけません。
先日もユカに付き合ってもらって、あったかなシーツを買いに行きました。
電気毛布を使いたくないといったら、あったかなシーツにするといいと言われたのです。

それにしても、面倒なことが多すぎます。
今日も湯島のオフィスに管理費の振込みが3か月もできていないと督促状が来ていました。
自動振込みしている銀行の預金残高がなくなっていたのです。
ユカに振込みを頼んだら、どこにお金があるのと訊かれました。
銀行にあるだろうといったら、その銀行の預金がないんだよと言われました。
お金は降って沸いては来ないんだよと諭されました。
頭ではわかってはいるのですが、結婚以来、すべて節子に任せていたのでどうも不得手です。

料理もまったくできません。
買物も不得手ですし、第一、財布を持っていないのです。
節子が心配していた通り、なかなか自立できません。
当分、自立学校は卒業できそうもありません。
妻に先立たれると人間のダメさ加減が露呈します。
困ったものです。

■1550:愛する人を見送った者同士(2011年11月30日)
節子
軽井沢に来ています。
シーズンオフのため、街は閑散としています。

夜、若い知人から電話がありました。
彼は最近、父を見送ったと聞いていましたので、気になっていたのですが、そんなことなどまったく感じさせないような明るい声でした。
その声の向こうにある「思い」を知っているだけに感ずるものがありました。
最近、顔を出さないね、というと、また行きますと元気な声が返ってきました。

大阪で、やはり父を自死で見送った人がいます。
彼女に会ったのは昨春ですが、同じような立場の人たちの集まりをやりたいといって連絡してきてくれたのです。
時間をかけて準備してきましたが、ネットワークも立ち上がり、集まりもいよいよ始まることになりました。
電話の声も最初の頃に比べるとだいぶ違ってきています。
2回目の集まりに私も顔を出そうと思っています。

伴侶か父親かの違いはありますが、愛する人を亡くしたという点では私と彼らは同じです。
そういう人に出会うと、なぜか心が開きます。
その人に、自分の気持ちを感ずるからかもしれません。
最近は、少しだけですが、そうした場合の「距離のとり方」もわかってきました。

愛する人を亡くした者にとって、冬の寒さはこたえます。
軽井沢は、明日は雪になりそうです。

■1551:「妻せつ子」
((2011年12月1日)
節子
今年もとうとう12月になってしまいました。
その途端に寒さが厳しくなりました。
軽井沢より東京のほうが寒いのではないかと思いながら夜遅く帰宅したら、テーブルに「妻せつ子」が待っていました。
といっても残念ながら、私の妻の節子ではなく、トマトです。

娘が、お店で見つけたので買ってきたというのです。
ふくろに「トマト妻せつ子」と書かれています。
熊本産のトマトです。

ネットで調べてみました。
いろんな人が話題にしていました。
その名前の面白さで買った人も少なくないようです。
それらの情報によると、どうも生産者の奥さんが「せつ子」さんのようです。
ちなみに娘さんは「ミーちゃん」で、ミニトマトミーちゃんというのもあるそうです。
なんだかいいですね。
今日は位牌の節子の前に置き、明日は食べてしまおうと思っています。

ちょっと疲れが取れました。

■1552:意外な読者(2011年12月2日)
節子
大宰府の加野さんから電話がかかってきました。
突然、挽歌を読みましたというのです。
エッとつまってしまいました。
まさかあのご高齢の加野さんの目にはとまらないだろうと無断で何回かお名前を出してしまっているのです。
最近は一応少しは気をつけていますが、以前は実名で書いていることが多いのです。
加野さんに関してはまさかパソコンはやらないだろうと気を許してしまっていました。
冷や汗が出ました。

お聞きしたところ、従業員の方が見つけて、加野さんにお見せしたのだそうです。
よく見つけたものです。
まさに情報は飛び回るのです。

そういえば先日も、これはフェイスブックですが、これまた思ってもいない人から記事へのコメントをもらい冷や汗をかいたところです。
ブログにしろホームページにしろ、あるいはフェイスブックにしろ、読まれることを前提に書いているわけですが、書いているうちに読者のことなど忘れてしまうのです。
その結果、余計なことを書いてしまい、冷や汗をかく羽目になるわけです。
困ったものです。
しかし、まあそれが私の生き方ですから直しようもありません。

最近、娘からあんまり節子やわが家の恥になることは書かないようにと釘を刺されています。
まあそれくらいわが家には「恥になる」ことがあるのかもしれませんが、事実を公開することは嘘をつくより、恥にはならないはずです。
しかし節子もけっこう見栄っ張りのところがありましたから、娘と同じように思っているかもしれません。
まあ私も娘たちからいわせれば、いい格好したがるといわれていた時期もあります。
いまはもうしたくても「いい格好」はできませんので、言われなくなりましたが。

それにしても意外な読者の出現に驚きました。
自重して書かなくてはいけません。
まあしかしそんなことは無理でしょう。
失礼があったら、ただただお詫びするだけです。

加野さん
無断でお名前を書いてしまい、申し訳ありませんでした。
今日は寒い1日でしたが、さらにさらに寒くなりました。

■1553:ラフターヨガ(2011年12月6日)
節子
この数日、いろんなことが重なってしまい、時間破産してしまいました。
自己管理していればこんなことにはならないのですが、節子がいなくなってからなかなか自己管理しようという気になれなくなってきています。
それで時間破産と無為の日々が隣り合わせているようなことがよく起こります。
困ったものです。
そんなわけでこの数日、挽歌も書けていません。
少しまとめて挽歌を書いてしまいましょう。

3日と4日、認知所予防ゲームや人を笑顔でつなげてくためのファシリテーションのフォーラムを開催しました。
定員を超すほどの参加者がありました。
なかには遠く広島から参加してくださった人もいます。
2日間にわたって、笑いの絶えない実に楽しいフォーラムになりました。
私が主催するフォーラムは、基本的には、たとえ「自殺」がテーマでも明るく楽しいものにするようにしていますが、今回はゲームをやってくださる高林さんと講座を担当した吉本さんのおかげで、実に楽しい2日間になりました。
参加者も大喜びで、終了後の懇親会も盛り上がりました。

その懇親会に、今回のフォーラムに参加した、ラフターヨガをやっている方が2人参加してくれました。
お2人は面識がありませんでしたが、それぞれ全く別々にフォーラムに申し込み、しかもなんと偶然に関を隣り合わせたのです。

ラフターヨガは、笑い(ラフター)とヨガの呼吸法を組み合わせたものです。
笑うことで多くの酸素を自然に体に取り入れ、心身共にすっきりし元気になることができるのだそうです。
「ただ笑うだけ」ですので、だれでもできます。
やり方も自分で開発してもいいのだそうです。

懇親会に参加してくださった2人の方が、みんなに少しだけ手ほどきをしてくれました。
と言っても、ただ笑うだけです。
一人の方はライオンの笑いを教えてくれました。
これはただ目を大きく開き、舌を出して、手を頭の両側で開いて、誰かと向き合って大笑いするのです。
ただそれだけのことなのです。

その方はお母さんが認知症で顔の表情がなくなりました。
それである時、思い立って、お母さんに向き合って、このライオン笑いをしたのだそうです。
そうしたら表情のなかったお母さんが笑ったのだそうです。
笑いにはそれだけの効用があるのです。

節子は笑いが免疫を高めるといって、笑いを大事にしていました。
もし節子がいたら、どんなに喜ぶことでしょう。
そんな思いもあって、節子の分まで私も笑いました。
笑った後に、少し涙が出ました。
だれも気づかなかったでしょうが。

■1554:いのちの強さとはかなさ(2011年12月6日)
新聞で知人の死を知りました。
驚いて共通の知人に電話したら彼もまだ知りませんでした。
その人に最後に会ったのは1年ほど前です。
湯島に訪ねてきてくれました。
夏に弟さんから兄の体調がちょっとよくないと聞いていましたが、まさかそんなに悪いとは思ってもいませんでした。
まだ50代の半ばです。

思い出したのは、20年近く前の友人のことでした。
病気で入院したと聞いたのでお見舞いに行こうと思ったら、今はまだ手術後で話せないのでもう少し落ち着いてから来てほしいといわれました。
のどの手術だったのです。
それもそうだなと納得してお見舞いに行きませんでした。
しばらくしてそろそろ行こうと思い出だした矢先に訃報が届きました。
とても後悔しました。
彼も50代半ばでした。
その人は会社時代の先輩でしたが、湯島にもよく来て、節子のお気に入りの一人でした。
節子が娘たちと香港旅行に行くと言ったら、メモまで作ってきてくれて、節子にガイダンスしていたのを覚えています。
私はそこには入れませんでしたが。

お見舞いは早く行かなければいけません。
また前と同じ過ちを重ねてしまいました。
それにしても、突然の訃報は人の命のはかなさを教えてくれます。

訃報は突然に届きますが、その後には「生きよう」「生きていてほしい」という物語が繰り広げられているのです。
その長くて重い物語を一緒にやってきた者として、それがよくわかるのです。
その人はどんな物語を繰り広げていたのでしょうか。
いろんなことが思い浮かびます。
当人も、周辺の人も、大変な思いを重ねてきたはずです。

そうしたことを体験すると、命の強さも感じられるようになります。
「生きよう」「生きていてほしい」という思いが、どれほど命を強くすることか。
しかし、だからこそまた、命のはかなさもしみじみとわかるのです。
強さとはかなさ。
いずれも、私にはとても哀しく、とても辛い思い出しかないのですが。

Mさんのご冥福を心からお祈りします。

■1555:「家族のためにがんばってくれています」(2011年12月5日)
先日、挽歌で書いたNさんの娘さんから電話がありました。
先日、記憶を失いがちなNさんを元気にしようと娘につくってもらったスペインタイルの「祈りの天使」を送りました。
娘たちもみんなNさんともお会いしているので、それぞれにエールの言葉も書き添えておきました。
そのお礼の電話だったのですが、娘さんからお聞きして、思っていた以上にNさんの状況は大変なことがわかりました。
娘さんが言いました。
死ぬほどの怪我だったのですが、家族のためにがんばっていてくれるのです、と。

よくわかります。
人は、自らのために生きようとするのではないのです。
愛する人のために、愛する家族のために、みんなのために、がんばっているのです。
体験した人ならきっとわかるでしょうが、人は自らのために生きようとするのではないのです。
そして、命が尽きても、人は、愛する人のために、愛する家族のために、みんなのために生きつづけているのです。

父も看病で大変なので、私の家に来てもらったのですが、やはり父のいる自分の家がいいというので、今はまた実家に戻りました。
私もできるだけ実家に行くようにしています、と娘さんは言いました。
今回、ご主人からではなく、娘さんからの電話だったので、少し気になったのですが、ご主人が倒れなければいいがとちょっと思いました。
伴侶の心身は親子よりもつながっていると、私は思っています。
前にも書きましたが、愛する伴侶の死は自らの死とほぼ同じです。
同じように、愛する伴侶の健康状況もまた心身に深くつながっています。
愛するわが子への母親の思いと同じかもしれません。
愛するということは、そういうことです。

しかし、看護は、それはそれは大変です。
私も、もし一人だったらとても対応できなかったでしょう。
幸いに娘たちが一緒になって看病してくれました。

肝心のことを書き残しました。
娘さんはNさんにタイルを見せながら節子のことを話してくれたそうです。
記憶をなくしていたNさんが、そのうちに「亡くなったのよね」とつぶやいたそうです。
節子がいたら、とんでいっただろうにと、また思いました。

■1557:夫婦言葉(2011年12月7日)
節子
読者の方からこんなメールをもらいました。

家族しか分かり合えない 暗号のような言葉ありますよね
大体が お互い顔を見合わせながら思わず 笑ってしまう 
言葉やジェスチャー 夫婦しか分かり合えない言葉もあります 
特に子供たちの幼い頃の 
訳のわからないオノマトピアや かわいいしぐさが 基になっていて 
ふとしたきっかけで突然 思い出して 
ああ もう黙っていても 分かり合える人は居ないんだと思うと 
冷え冷えとした部屋に 一人取り残されたと 感じます

たしかに、たしかに。
まさにそうなのです。

家庭には、それぞれのオノマトペがあり、それぞれの仕草があります。
それは無意識の中で生まれ育った家族共有のシニフィアンシステムをつくりだしています。そして、そこには豊かな表情を持った言霊がこもっている。
その世界は、いまから考えると、実にあったかな心和む世界でした。
私のエネルギーの素だったかもしれません。

それぞれの家庭には、その家庭でしか通じない言葉があります。
同じように、夫婦だけでしか通じない言葉もある。
なんでもないよく使われる言葉なのに、一般的な意味を超えて、夫婦だけに広がる広い世界に通ずる「夫婦言葉」のようなものです。
そんなことを考えたことはありませんでしたが、この方からのメールを読んで、気づきました。
そうか、最近は夫婦言葉がないので、どこかおかしかったのだ、と。

最近、娘たちによく、「節子だったらなあ」というのですが、そういうとすかさず娘から「私は節子じゃありません」と言われてしまいます。
節子だったらどうなのか、実は私自身あまりわからないのですが、でもどこかちょっと違うのです。
この方が言うように、「黙っていても 分かり合える人」がいないことからくる「違和感」でしょうか。
娘たちは本当によくしてくれるのですが、どこかやはり違うのです。

節子と一緒に育て上げてきた「夫婦言葉」は、もう死語になってしまったのですね。
それがとてもさびしいです。

■1558:夫婦の力(2011年12月8日)
日本ドナー家族クラブの間澤さんから年賀欠礼のハガキが届きました。
ご主人が亡くなられたと書かれていました。
71歳、私とほぼ同年です。

間澤さんと知り合ったのは10年以上前にNPOへの資金助成プログラムのコムケア活動を始めた時です。
資金助成先を決める公開選考会に、間澤さんは参加してくれました。
その会で私はコムケア活動の趣旨などを話させてもらいましたが、そこで「楽しい福祉、明るい福祉」を考えていきたいと言いました。
休憩時間に間澤さんは私のところにやってきました。
少し怒っている感じでした。
日本ドナー家族クラブを立ち上げたが、ドナーの家族として、「楽しい福祉」などできませんと言われました。
間澤さんはアメリカに留学していた娘さんを交通事故で亡くされ、彼女の意志を受けて、ドナー提供したのです。
しかしドナー家族は世間の冷たい目にさらされる当時の風潮を実感し、それを変えていくために同じ立場の人たちに声をかけて、ご夫妻で日本ドナー家族クラブを立ち上げたのです。

間澤さんは、しかしその後もコムケアの集まりに参加してくれるようになりました。
そしてある日、5月17日を「生命・きずなの日」と決めて、自分たちだけではなく開かれた集まりをやりたいと言ってきました。
http://www.jdfc.net/0517day.html
いつの間にか、間澤さんもコムケアの仲間になってくれ、私の意図に共感してくれるようになっていたのです。
私も一度、参加して。お話させてもらったこともあります。
活動は順調に広がり、間澤ご夫妻の心も癒えつつあるだろうと思っていましたが、節子の症状が悪化してからは接点がなくなっていました。
しかし間澤さんがコムケアで知り合った人たちと一緒に活動していることは耳に入ってきていました。
一度また声をかけてみようかと思っていたところでした。

間澤さんの手紙に、「日本ドナー家族クラブは収束させました。ありがとうございました。」と書かれていました。
そこに間澤ご夫妻のお気持ちを強く感じました。
やはり間澤さんも夫婦一緒だったからこそ、あれだけの活動を起こせたのだと改めて思いました。

このように、訃報と共に活動が終わるという連絡が入ることが多くなりました。
そのたびに、私の世界も少しずつ収束に向かっているのだと感じます。
この時期は寒いだけでなく、寂しい時期でもあります。
間澤さんのご冥福をお祈りします。


■1559:「早目にやる」か「できるだけ遅らせる」か
(2011年12月9日)
節子
最近はなかなか挽歌が追いつきません。
AS日数(節子後の日数)と挽歌のナンバーに3つほどのズレができています。
漸く追いついたかと思って油断するとまた離れてしまいます。

節子の信条は「早目にやる」でしたが、私の信条は「できるだけ遅らせる」でした。
なにかの時間も、ぎりぎり間に合うように出発するのが私で、余裕を見て出かけるのが節子でした。
飛行機は2回、新幹線も1回ほど乗り遅れたことがありますが、まあそれでもあんまり不都合はありませんでした。
私のその生き方が、節子も巻き込んで迷惑をかけたことは1度だけでしょうか。
友人の結婚式の仲人を頼まれた時ですが、私が時間を間違えて、しかもぎりぎりに出たので、大変なことになったことがあります。
幸いに式の時間にはぎりぎり間に合いましたが、新郎新婦の親御さんにはすっかり信頼を失ったことだと思います。
さすがにそれ以来、私も少しだけ余裕をみて出かけるようになりました。
逆に節子は、私と暮らしているうちに、私に近づいてきました。
それでまあ、終盤(おかしな表現ですが)はお互い、ちょうどよいところに収まっていたように思います。
夫婦とはそんなものかもしれません。
だんだんと近づいてきて、気がつくと逆転していることもあるのです。

しかしそれはどうも表面的なもので、本当は変わらなかったのかもしれません。
彼岸への旅立ちに関しては、相変わらず節子は早々と出かけてしまいました。
私はもしかしたらぎりぎりまで出かけないのかもしれません。

結婚して変わるところもあれば、変わらないところもあるものです。
しかし、まあだからこそ夫婦はかけがえのない存在になっていくのでしょう。
番号あわせのためにつまらないことを書いてしまいました。
今日はとても疲れているのです。
困ったものです。

■1560:スーパーマリオ(2011年12月10日)
節子
ユカがプレゼントをくれました。
何だと思いますか。
なんとスーパーマリオのゲームなのです。
10数年前に、スーパーファミコンが流行した頃、私がはまってしまったゲームの一つです。
それがWii-fit でできるようになったのです。
さてさて困ったものです。

実はこの2週間ほど「忙しくて」、いろんなことがたまっていました。
そのため、最近少しイライラしがちなのか、誰かに当たってしまうことがあるのです。
今日はいろんな宿題を片付けて、精神的に落ち着きたいと思っていたのです。
ところが、です。
Wii-fitのスーパーマリオのゲームが届いてしまったのです。
これはもうやらなければいけません。
懐かしい画面と音楽、うれしくなって始めました。
ところが思うように操作できないのです。
反射神経が大幅にダウンしています。
いくらやっても前に進まないのです。
1時間やっても、最初のゲームさえクリアできずに、同じ場面の繰り返しばかりです。

ユカが、節子がいたら「もういい加減にやめたら」というよ、からかいますが、なかなかやめられません。
あんまり力を入れてしまい、指が痛くなってしまいました。

節子は、この種のゲームは好きではありませんでした。
むしろ夜遅くまでやっている私を観て、どこが面白いのと呆れていました。
しかし娘たちが私をからかうと、逆に「修さんは頭を使う仕事なので、こういう息抜きが必要なのよ」とかばってくれました。
節子は普通の母親と違って、いつも娘よりも私のほうをかばってくれるタイプでした。
それでまあ私を甘やかしてしまった面はありますが。

ファミコンのゲームに関連しての節子との思い出はいろいろとありますが、節子がゲームをやっていた記憶はありません。
身体を動かすのが好きだった節子には、室内で画面を見ながらやるようなゲームは性に合わなかったのでしょう。

しばらくはまたはまりそうです。
周りの友人知人には内緒にしておきましょう。
現在以上に信頼を落とすと生きにくくなりかねませんので。

しかしこのゲームは、なぜだかまったくわかりませんが、始めたら止められなくなります。

■1561:家族みんなで汗をかくこと(2011年12月11日)
節子
今日は娘たちが2人とも時間があったので、3人でリビングとキチンのフロアのワックスがけをしました。
ソファや食卓を移動しての、それなりの大仕事です。

わが家の文化は、できることはできるだけ家族でするということでした。
ほとんどのことは、みんなで一緒にやりました。
それが、住まわせてもらっている家に対する住人の責務だと思っているからです。
そうしたことを仕切っていたのは、いつも節子でした。
そういう時の節子は。いつも張り切っていました。
家族みんなで汗をかくのは快いものです。
終わったところで、お菓子が出てくるのですが、今日は昨日、鈴木さんからお土産でもらった、くるみ入りのクグロフをみんなで食べました。

そこで娘がこんな話をしました。
娘の知人家族が娘の伴侶がやっているエヴィーバに食事に来てくれたそうです。
ところがどうも短時間で食事を終えて帰ったのだそうです。
用事があるらしくて急いで帰ったようね、と後日、娘がその知人に訊いたそうです。
そうしたら、その人が、旦那と息子と食事をしても話すこともないから食べるだけで帰ったのよ、という答が帰ってきたそうです。
まあ言葉通りではないとしても、節子がいた頃のわが家の文化では考えられないことです。
わが家の家族は、いつもよく話しました。
とりわけ私たち夫婦は、話が途絶えたことはありません。
節子がいなくなってからは、私の会話量は半減とは言いませんが、かなり減ったことは間違いありません。
会話の多さは、共体験の多さにつながっているのかもしれません。
いろんなことを一緒にやるのが家族だというのが、私たち夫婦の考えでした。
娘たちはかなり反発したこともありますが、その文化は今も残っています。

わが家の食卓は円形です。
これも節子の選択でした。
その円卓を囲んで、みんなが汗をかいた後のおやつの時間は、とてもあったかな時間でした。
もうそんなあったかさに、2度と浸れないのかと思うとちょっとさみしいです。
それに、節子がいない円卓のおやつタイムは私にはどうも何かが欠けているような気がして、どこか落ち着きません。

おやつを食べた後、みんなでスーパーマリオをしてしまいました。
節子の話題もたくさんでました。
姿は見えませんが、やはり節子は私たちと一緒にいるのかもしれません。

■1562:「ときめき片付け法」(2011年12月12日)
節子
「ときめき片付け法」というのをテレビで知りました。
そのものを実際に持った時に、心ときめかなかったら、処分するという方法です。
片づけがなかなか進まないので、早速、取り組んでみることにしました。

まずは私自身の衣服関係です。
長年着用していないものがかなりあります。
私は買物が好きではないので、たとえば気にいったズボンなどがあると、一挙に3〜4着、色違いで節子に頼んで買ってもらっていました。
ところが気分が変わると、それをまったくはかなくなりました。
ですから同じようなものが何着もあるのです。

節子がいなくなってから、ほとんど買物に行かなくなりました。
そのため以前のものをまた着だしているのですが、あまりピンと来ないものもあるのです。
それを今回、捨てることにしました。

ところで、節子のクローゼットやタンスも娘たちがかなり整理してくれたのですが、途中で整理をやめてもらっていました。
なんだか節子がどんどんと遠くに行ってしまうような気がしたからです。
今回は、しかし私が直接、処分しようかと思ったわけです。
それで引き出しをあけて、節子の衣服にさわりだしました。
残念ながらときめいてしまうのです。
いや、「ときめき」ではないのかもしれませんが、何か感じてしまうわけです。
そういえば、ときめき片付け法を始めだした人は、ルールーの一つとして、「他の人のものには手をつけてはいけない」と話していました。
となると、節子のものはいつになっても片付きません。
とりあえずは後回しにしました。

私の物に関しては、少しずつ片付けは進みだしました。
書類や資料はなかなか捨て難いのですが、私にとっては価値があっても、私以外にはほとんど価値のないものでしょう。
書籍は図書館やブックオフでいくらでも読むことができる時代です。
娘は、もし思いの強い本があるのなら、宛先を書いて手紙もつけて香典返しにあげたらいいとアドバイスしてくれましたが、それもまたもらった人にとっては迷惑でしょう。
それに香典がもらえるとは限りません。

本来無一物になるのは、本当に難しいものです。
結局、私も物に埋もれて生を終わるのでしょう。
節子がたくさんの物を残したのは、私のためだったのですが、私が残しても娘たちは迷惑するだけでしょう。
やはりここはどんどんと物を処分していかねばいけません。
節子の物も、やはり私が処分しないといけないのでしょうね。
節子はいなくなってもなお、私に迷惑をかけています。
困ったものです。

■1563:愛の気(2011年12月13日)
節子
最近、夢に節子がよく出てきます。
といっても、節子の姿形がでてくるというよりも、節子を感じさせる夢といったほうが正しいでしょう。
登場人物は娘たちだけなのに、節子の存在があきらかなことも多いです。
明らかに節子でない人なのに、そこに節子を感じることもあります。
いずれにしろ、目が覚めると節子がいた感じが残っているのです。
そしてなにかとても「あったかな雰囲気」が余韻として残っているのです。
目が覚めた後も、数時間はその「あったかさ」が残ります。
これがもしかしたら「愛」ではないのか、とふと思いました。

愛に包まれた人はいつも幸せでしょう。
愛する相手が五感では確認できなくとも、存在を確信できればどんなに心やすまることでしょう。
私にはキリスト教はまったく理解できませんが、「神と共にある」とはこういうことなのかもしれません。
それが実感できれば、磔にも歓びを感じられるかもしれないと気づきました。

西洋文化における3つの「愛」として、エロス、フィリア、アガペがよくあげられます。
極めて大雑把に言えば、自分のための愛のエロス、分かち合う仲間の愛のフィリア、個を超えた愛のアガペといっていいかもしれません。
キリスト教では、アガペの愛は「神より出ずる愛」とされています。
私自身は、この3つの愛を一体として捉えているのですが、この挽歌を書き出してから、そのことを改めて確信するようになってきました。
そこには、華厳経が説くような、ホロニックな構造があるのです。
神は、まさに自らの中にいるのです。

今日も寒い1日になりそうですが、節子からもらった「あったかな愛の気」のおかげで、あたたかな1日にできるかもしれません。
夢に出てくる節子の「愛」は、実にあったかく、私を幸せにしてくれます。
節子にいつも心から感謝しています。
できるならば、いま一度、五感で抱きしめたいのですが、それこそ適わぬ夢でしょう。

■1564:自省(2011年12月14日)
節子
鈴木さんが小池龍之介さんの本を送ってきてくれました。
小池さんの主張には私が否定的なのを鈴木さんはよく知っているので、「ピンとこないようでしたらポイしてください」というメモが入っていました。
先週、スマナサーラさんの活動を支援している知人から、次のメールを書き添えて、初期仏教セミナーの案内が届きました。
佐藤様が長老は無礼な人だとお怒りでいらっしゃると仄聞致しましたので、まだそのお気持ちが続いているのでしたらこのメールは破棄をお願いします。

お2人からの言葉を読んで、無礼なのは私のほうだと反省しました。
私はほとんどすべての人が好きなのですが、人を導く立場や人を統治する立場、あるいはみんなで創りあげている組織をマネジメントする立場の人には好き嫌いをいささか過剰に表明することが多いのです。
このブログでもそうしたことが少なくないと思います。
もちろん理由をあげてですが。

スマナサーラさんや小池さんは、現代の若者たちに大きな影響を与える立場にあります。
ですからついつい評価が厳しくなります。
しかし、他者を非難することはどういう理由があろうとほめられることではありません。
節子がいたらきっとたしなめてくれるでしょうが、そのタガがなくなったので、表現が時にきつくなりすぎるのです。
困ったものです。

そんな反省から、スマナサーラさんや小池さんの本を改めて読んでみることにしました。
実は時々そう思うのですが、実際にはなかなか読めずにいました。
勢いがついた時に読まねばいけません。
そこで先ず読んだのが、鈴木さんから送られてきた小池さんの「心の守り方」です。
本の帯にこう書かれています。
 私たちの苦痛は、本当に現実がもたらすものか?
私たちが幸福だと思いこんできたものは本当の幸福だったのか?
この言葉には何の違和感もありません。
しかし本文を読み出すと、やはり違和感が生まれてくるのです。
でもまあ、せっかく読み出したのですから、もう何冊かを読むことにします。
節子が読んだらどう思うか、それが訊けないのが残念です。
たぶん私と同じ感想だとは思ってはいるのですが、節子は私よりもバランス感覚は少しだけたかったので、もしかしたら違うかもしれません。

それにしても、どうしてスマナサーラさんや小池さんがそんなに話題になるのか。
社会が病んでいるのでしょうか。
それとも私が病んでいるのか。
自らを相対化できないことは、それなりに辛いものです。

■1565:地と図(2011年12月15日)
節子
湯島には実にさまざまな人がやってきます。
そうした人たちに会っている時には、たぶん節子がいた頃の私とそう違わないかもしれません。
しかし、お客様が帰って、次の来客までの間、時間があくとなにやら無性に疲れが出てきます。
節子がいた頃は、お茶など出してもらって、節子といろんな話ができましたが、一人だとそういうわけにもいきません。
来客に出した珈琲メーカーに水を足して、もう1杯、珈琲を飲むことくらいしかできないのです。
私は、「沈黙」や「静寂」があまり得手ではありません。
特に今のように外が暗くなってくるとなにやら考え込んでしまいがちです。
節子がいた頃には、なかった時間です。

地と図というのがあります。
人の生活の「地」とはどういう状況でしょうか。
たぶん一人でいることでしょう。
そして誰かと一緒の時が「図」といってもいいでしょう。
私の場合、以前は節子がいる時が「地」だったのではないかと、ふと思いました。
もちろん独りになることはありましたが、むしろ節子と一緒にいた時間が、私にとっての「地」、つまり日常だったように思います。
独りの時は、むしろ「図」だったのかもしれません。

「地」が変わると、そこに描かれる「図」も変わってきます。
それはなんとなく感じていたのですが、最近、同じような「図」にいても、以前とは違うような気がしていました。
たぶんそれは、「地」が変わってしまっていたからです。

「地」が変わる。
それはもしかしたら、人生が変わることかもしれません。
だとしたら、以前と同じように来客と会っていても、たぶん雰囲気は全く違うのだろうなと思います。
節子がいた時といなくなってからと、変わったかどうか、こんど昔からの友人知人に訊いてみようと思います。

間違いなく変わったのは、訪問客が帰った後の時間です。
呆けたように、疲れてぼんやりしています。
なぜこんなに疲れるのか、理由がわからないのですが。

■1566:「I'm sorry 」「Thank you」「I love you」(2011年12月16日)
pattiさんがコメントしてくださいました。

今日は録画しておいたNHKアーカイブスの五木寛之の仏教への旅を見ていました。
その中のアメリカの禅寺の住職の言葉ー
仏教をシンプルに伝えるとしたらとの質問に答えたのは
 「I'm sorry 」「Thank you」「I love you」であると。
なんと、私が泣いても泣いていなくても毎日毎日彼に伝えていることではないか!と絶句しました。
この明瞭な言葉にあらゆる思いが内包されています。
ああ、そうなのだとまた泣きました。

pattiさんは数か月前に伴侶を亡くされました。
以前にもコメントを書いてくださいました。
今回も、この文の前にこう書かれています。

彼が旅立ってから5ヶ月近く、初めて一人で迎えるこの季節、そして彼の不在を実感する生活を重ねてきことで、
不安定な気持ちに陥ってしまったようです。
今になって声を上げて泣いてしまうことが多くなりました。
「やっぱり、あなたがいないこの世はさみしい!」と。
でも、この状態が私の日常になったのだとやっと受け入れました。

今回のコメントもとても長く、私も繰り返し読ませてもらいました。

「仏教への旅」のテレビは、黒岩比佐子さんも関わっていたので、私も観ました。
しかし、「I'm sorry 」「Thank you」「I love you」のことは記憶に残っていませんでした。
pattiさんと同じように、節子への思いのすべてが、そこに包まれていると気づきました。
pattiさんのコメントを読んだ時には、しかし、そこまででした。

そして今朝、いつものように節子の位牌に向かってロウソクの火をつけながら、節子に話しかけていて、気づいたのです。
私の口から出ていたのは、まさにこの3つの言葉だったのです。
pattiさんと一緒ではないか!
改めてpattiさんのコメントを読み直しました。
DVDで「仏教の旅」も見直そうと思います。

他者や事物に対する私の姿勢も、この3つです。
慈しみと愛。
これは私の本業でもある「経営コンサルティング」の基本に置いている経営観でもあります。
そうした生き方を、節子が一番よく理解してくれていました。
最近でこそ理解者はいますが、以前はよく笑われたものです。
しかし理解者がいると、人は安心して、ぶれなくても生きられます。
節子はいつも私をエンパワーしてくれていたのです。
節子のおかげで、私も仏教の真髄に少し近づけているのかもしれません。

改めて、
節子、ありがとう。ずっと一緒にいられなくてごめんね、ずっと愛しているよ。

■1567:おかしいほど元気なんです(2011年12月17日)
福岡に転居してしまって、悠々自適な生き方を楽しんでいる蔵田さんがサツマイモをどっさり送ってきてくれました。
電子レンジにかけると焼き芋になるサツマイモです。
お礼の電話をかけたら、奥様が出ました。
お元気ですかと訊かれたので、蔵田さんほどではないですが、ほどほどに元気ですと応えたら、笑いながら、うちの人はおかしいほど元気ですよね、と答が返ってきました。
「おかしいほど元気」
蔵田さんにはぴったりの表現だと思いました。

蔵田さんに代わってもらったら、屈託の全くないいつもの元気な声で、
最近は九州のJRの特急列車に乗りまわっているんです、と話されました。
これまたまさに「蔵田さん」的です。
冬は自慢の農仕事がないですものね、というと、冬も関さばを釣りに行ったり、いろいろ忙しいのだそうです。
その合間に特急の一人旅で、その土地々々で行きずりの人との交流を楽しまれているようです。
蔵田さんらしい、いくつかのエピソードを聞かせてもらいました。

蔵田さんには仕事の面でもいろいろとお世話になりましたが、蔵田さんは退職して故郷に戻った後も私たちを気遣ってくれました。
節子の訃報を知って、九州からわざわざわが家にまで花を持って来てくださいました。

節子の病気が一時期回復した時に、節子と一緒に蔵田夫妻に料理用のエプロンを贈ろうということになりました。
いつも立派な手づくり野菜を送ってくださるのですが、蔵田さんはご自分でも料理をすると聞いたからです。
いつもなら節子だけで買いに行くのですが、なぜか2人で百貨店に買いに行った記憶があります。
節子の病気が回復したら、夫婦ぐるみでのお付き合いが始まっただろうと思いますが、蔵田さんの奥様には私たちはお会いできないままになりました。
しかし、そのエプロンのおかげで、蔵田さんの奥様ともなんとなく親しみを感じています。
「おかしなほど元気」な蔵田さんと話していると、その元気のお裾分けが私にもまわってくるような気がします。

それにしても、いろんな人とのつながりの中に、節子がなぜか関わっているのが不思議です。
節子のおかげで、そういう人とのつながりが切れずにいるのかもしれません。

■1568:喜怒哀楽の二面性(2011年12月18日)
江戸時代の儒学者 貝原益軒は、大声で笑ったり泣いたり、あるいは怒ったりすると、気が漏れてしまい、心身にとって良くないことだと戒めています。
気は、自身の内にしっかりと固めておかなければならないというわけです。
「男は黙ってサッポロビール」ではないですが、軽口の男は信頼できない風潮が、少し前まではあったように思います。
その視点からいえば、この挽歌を書いている私などは、男の風下にも置けない存在かもしれません。

しかし江戸時代も300年という長さの中で、世相はいろいろと変わりました。
文化・文政期になると、「気をいふ物、よく廻れば形すくやかになる、滞ほる時は病生ず」と書いている国学者もいます。
喜怒哀楽こそが心に鬱屈した気を解放し、元気になるというわけです。

喜怒哀楽は、薬にもなれば毒にもなるわけですが、私はもちろん後者の論に共感しています。
だからこそ、節子を見送っても、なお元気でいられるわけです。

節子と私は、お互いの喜怒哀楽を素直にぶつけ合っていました。
だから夫婦喧嘩も絶えませんでしたし、心底から愛し合う夫婦でもあったのです。
喜怒哀楽を共有することの効用は計り知れないほどに大きいように思います。
挽歌を書くことで、私は心身のなかにある喜怒哀楽を解き放っているのです。
ですから、哀しさに沈むこともありますが、鬱積した気が病に転ずることはありません。
挽歌の文面よりも、心身は軽いのです。

この挽歌を読んで下さっている方もいます。
時々、コメントなどももらうのですが、少し気になることもあります。
心のうちに溜め込んでいる喜怒哀楽に、この挽歌が悪さをしないか。
それがいつも気になっています。
喜怒哀楽のブラックホールにはまってしまうと、人は身軽にはなれません。
この挽歌が、読者の喜怒哀楽を外に向けて解放する役割を少しでも果たせたら、うれしいのですが。

喜怒哀楽を心身で表現するのはいいとして、こんなかたちで文字に書いてしまうことがいいのかどうか、書いていて時々迷うこともあるのです。
節子だったら、たぶんですが、あんまり賛成しないでしょうし。
節子は、もうそろそろやめたら、と言っているかもしれません。
病にならないために、私はまだ書き続けますが。

■1569:挽歌が書ける生き方(2011年12月20日)
節子
また挽歌のナンバーと節子がいなくなってからの日数がずれてきています。
今はまだ一つだけのずれですが、最近、ずれることが少なくありません。
挽歌が書けていない日は、必ず入浴時に何を書こうかと思うのですが、思いつかないことがあるのです。

なぜ思いつかないのか。
もしかしたら「忙しい生き方」になっているからかもしれません。
いうまでもなく、「忙しい」とは「心を亡くすこと」ですから、挽歌など書けるはずもありません。
こういう生き方は、私が一番恥としている生き方です。
忙しいうちが花、などと言う人もいますが、そんな生き方は私には恥ずかしい生き方です。

実は「暇」な時にも挽歌は書けません。
なにか意味のある活動をしていると、必ず書くことが自然と浮かんできます。
忙しいことと暇なことは、私にとっては同じことなのです。

挽歌が自然に書けるかどうか。
これが最近の私の一つの生き方の基準になっています。
最近の毎日の過ごし方は本意ではありません。
どこに間違いがあるのでしょうか。
もしかしたら、生き方が粗雑になっているのかもしれません。
だから忙しかったり暇だったりするのでしょう。

今年の年末年始は予定をほとんどいれないことにしました。
まもなく生活も正常化するでしょう。
挽歌もきっとまた無理なく書けるようになると思っています。

節子
もう少し待っていてください。

■1570:花かご会カレンダー(2011年12月21日)
節子
花かご会の山田さんが、恒例の「花かご会カレンダー」を持ってきてくれました。
花かご会が、駅前の花壇を材料に手づくりカレンダーを作成しているのです。
メンバーである武藤さんのお宅で採れた柚子もどっさりともらいました。
私は外出していたので、あいさつはできませんでしたが、今年も節子が見えるように位牌壇のところに掲げています。
また年明けにでもお礼の差し入れをしておきましょう。

節子が大好きだった花かご会のみなさんは、いまも節子を思い出してくれて、命日には毎年、お墓にまで行ってくれています。
うれしい話です。

花かご会は、我孫子駅前の花壇の整備をしようという人たちでつくったグループです。
もし節子が元気だったら、私もメンバーに巻き込まれた可能性もありますが、いまとなってはなかなか参加もできません。
節子がいたら、間違いなく私の世界は広がっていたでしょう。
それがちょっぴり残念ではあります。

節子がいなくなってからは、年末行事もほとんどないので、「年末感」がほとんどなくなっています。
節子がいたころは、いろいろと恒例の年末行事があったのです。
そしてそれなりに私も巻き込まれていたような気がします。
節子がいなくなってから、私はどうも季節感を失ってしまっています。
花かご会のカレンダーが届いて、改めて今年もあと10日なのだと気づきました。
今年は、いろいろとあったようで、しかしあまり行動をしない1年だったようにも思います。

今年の花かご会カレンダーは例年と違って横型でした。
年を重ねるごとに完成度は高くなっているように思います。
節子はきっと喜んでいることでしょう。

節子は本当にいい仲間に恵まれていました。
そう思うととても気持ちがあたたかくなります。

■1571:チャレンジャー(2011年12月22日)
節子
今日、節子宛に「運転免許証更新のお知らせ」が届きました。
来年が更新年なのです。

わが家で最初に自動車免許を取得したのは節子でした。
エコロジストを自称し、自家用車にはどちらかといえば否定的だった私は免許も持っていなければ、免許をとろうという意志は若い頃から皆無でした。
それを知っていた節子は、私には内緒で教習所に通っていました。
そしてある日、突然に、自動車免許を取ったと家族に発表したのです。
わが家に自動車文化が持ち込まれました。

最初はあまり乗り気ではなかった私も、ついつい節子に送り迎えをしてもらうようになって、宗旨替えしてしまいました。
会社を辞めてから、私自身が免許を取得してしまったのです。
わが家で免許を取るのが一番遅かったのは私です。

娘が、「節子はチャレンジャーだったね」と言いました。
わが家に新しい文化を持ち込むのは、いつも節子でした。
節子のいいところは、口だけでなく、実行することでした。
たしかに「チャレンジャー」というイメージがあります。
しかし、改まって、何を持ち込んだかと考えてみると思いつきません。
でも、節子には何となく「チャレンジャー」のイメージがあります。
なぜでしょうか。

節子のチャレンジは、思い出せないほどにたいしたことではないのかもしれません。
しかし、時々、新しいことを始めて、家族を驚かせたり、私を喜ばせたりした記憶があります。
節子はともかく、家族を喜ばせることが好きだったのです。
それに比べて、私は節子をどれほど喜ばせてやれたでしょうか。

しかし、節子にとっては、私が喜ぶことが一番の喜びだったのかもしれません。
私もまた、喜ぶ節子を見るのが一番の喜びでしたから。
愛するものたちにとっての喜びは、結局は一つなのです。

今はどうでしょうか。
節子と喜びを共にできないことが、私が心から喜びを感じられない理由かもしれません。

ところで、節子。
免許証の更新はどうしましょうか。
娘が節子の位牌の前にはがきを置いていましたが、まさか現世に戻ってきて、チャレンジすることはないでしょうね。

■1572:トイレ掃除(2011年12月24日)
節子
大掃除が始まりました。
今日の私の担当はトイレでした。
それで思い出しましたが、10年ほど前に、わが家のトイレ掃除は私が担当すると宣言しました。
当時、トイレ掃除で有名な鍵山秀三郎と交流があり、その少し前に鍵山さんと一緒に仲間で箱根湯本の公衆トイレの掃除をやったことがありました。
私は感化されやすいタイプなので、その影響を受けて、トイレ掃除担当宣言をしたわけです。
節子は、「はい」ではなく、「はいはい」と聞いていました。
宣言は家庭内だけではなく、オープンサロンでもみんなの前で公言しましたが、参加していた鍵山さんのそうじ塾にも参加していた三浦さんが、続けないとダメですよと、釘をさしたのを覚えています。
三浦さんに見透かされていたように、私のトイレ掃除は、毎週という宣言が毎月になり、そのうちに、気が向いた時になり、結局、いつのまにかやらなくなってしまいました。
まあ節子もそれに関しては、一言も何も言いませんでしたので、最初から壮なる事はわかっていたのでしょう。
節子がいなくなってから、改めて掃除宣言をしましたが、やはり持続できずに、むすめたちに迷惑をかけています。

そんなわけで久しぶりのトイレ掃除でした。
まあほどほどに満足できるところまでやりましたが、鍵山さんにチェックしてもらったら、いろいろと指摘されそうです。
しかしまあ節子の文化の家ですから、この程度で十分でしょう。
実は節子も掃除があまり得手ではなかったのです。
その証拠に、いまもたくさんの不要なものが残っています。
困ったものです。

■1573:節子の遺品(2011年12月24日)
トイレ掃除に続いて、キチンの掃除も手伝いました。
掃除ついでに食器の整理もしました
いかにもという食器なども出てきます。

食器ではないのですが、立派な木製のローラー棒が出てきました。
一度も使った形跡がありませんが、これには見覚えがあります。
夫婦でイランに旅行した時に、たしかイマーム市場の出口のお店で節子が購入したのです。
なぜ覚えているかといえば、バスの集合時間だったので急いでバスに向かう途中のお店に展示されていた何かが気になっていたようで、一度、通り過ぎてから節子が未練ありそうに振り返ったのです。
それで迷ったら買ったらいいと言ったのですが、その言葉で節子が戻って買ってきたのが、なんと木の棒だったのです。
何に使うのかわかりませんでしたが、節子はこんなのが欲しかったのよと話していました。
なんとかバスには間に合いましたが、あわただしい買物だったのではっきりと覚えているのです。
そういえば、その後、その棒にお目にかかったことはありませんでした。
食器の奥深くに、使われることなく保管されていたというわけです。
節子はいつか使うつもりだったのでしょうか。

実は、そういうものが少なからずあるのです。
不思議なものを買うのが好きだったのです。

萩焼の立派な湯飲み茶碗も夫婦セットで出てきました。
まあ私の趣味ではないので(私は食器はシンプルなものが好きなのです)、節子は使わなかったのでしょうか、処分したくてもいささかしにくいので、また保管されていた場所に戻ってしまいました。

節子は陶器が好きでした。
そういえば、昔はよく付き合わされたものです。
そのくせ、毎日の食器はスーパーで買える安いものを使っていました。
私も同じで、いまもスーパーで買ったシンプルな食器を使っています。
しかし気にいるものを見つけるまでに半年はかかりましたが。
私と節子の価値観は、とても似ていたなあと改めて思います。
おかしなところに、おかしなこだわりがあったのです。
私は、節子のそんなところがとても好きでした。

■1574:節子への手紙(2011年12月24日)
節子
岡山の友澤さんから手紙とケーキが届きました。
友澤さんはお元気そうでした。
先日、福岡の松尾さんとお会いになったそうで、お2人で撮った写真が同封されていました。
松尾さんもお元気そうでした。

友澤さんも松尾さんも、節子と一緒にヨーロッパに旅行した仲間ですね。
松尾さんとはその時の写真を見ながら話しが弾んだようです。
私も何回かお会いしていますが、みんな節子のことが大好きでした。
わが家にまで足を運んでくださいました。

ヨーロッパに一緒に旅行に行ったもう一人の仲間が先日、この挽歌でも書いたNさんです。
名前を書いてもいいでしょう。
野路さんです。
4人は仲の良い仲間で、国内の旅行も一緒に何回か行っています
その4人も、それぞれにいろんな事情を抱える歳になっています。
友澤さんが、そう書いているのです。

節子宛の手紙も入っていました。

節子さま
ご無沙汰してごめんなさい。
此岸では、いろいろ大変です。
野路さまのこと、守ってあげて下さい。

節子
私のように毎日、拝んでいますか。
まさか、私に拝まれているだけではないでしょうね。
彼岸は平和でしょうが、此岸ではいろんなことが起こります。
彼岸の平安をぜひ祈ってください。

最近の社会はかなり壊れてきているようで、私もそれなりに疲れを感じます。
私も早く彼岸に行って、節子と一緒に平安な世界を楽しみたいものです。

今夜はクリスマスイブ。
娘がケーキを買ってきてくれました。
クリスマスプレゼントはありませんでしたが。

■1575:嘆き悲しむことで、穏やかな気持ちになれる(2011年12月25日)
節子
鈴木さんに勧められて、小池龍之介さんの「考えない練習」を読みました。
面白かったのですが、やはり心に響きません。
体験の違いかもしれないと最近思えるようになりました。

たとえばこんな文章があります。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

親族が亡くなった時に、いつまでも嘆き悲しんでいるのは、亡くなった方を思うゆえと思われるかもしれません。けれど、いつまでも泣き続けることは、相手に起因する苦痛をいつまでも感じ続けているということであって、その「負」の波動をずっと発散し続けているわけですから、自分にとっても良くありません。
また、相手のことを思っているつもりで実際は相手ゆえに自分がネガティブになっているわけですから、亡くなった方のためにもなっていません。
 (中略)
亡くなってしまった方の供養に際して大切なことは、嘆くことではなく、慈しみの心を持つことです。
相手のことを本当に思うなら、慈悲の瞑想で「亡くなった方が穏やかであるように」と念じることのほうが有益なのです。
亡くなった方が安らかでありますように、とひたすら念じ続けていると、穏やかな気持ちになってきます。ところが悲しいという感情に心が侵されていると、心が怒っているので苦が生じ、身体も蝕まれていきます。

反論があるわけではありません。
むしろ理解はできるのです。
しかし、どうもぴんときません。
少なくとも私の感覚とは全く違うのです。

どこが違うのか。
「泣き続ける」とか「嘆き悲しむ」というのは、決してネガティブな感じではないのです。
そして、それらの行為と「穏やかな気持ち」とは矛盾もしません。
つまり、「泣き続ける」「嘆き悲しむ」「穏やかな気持ち」、そして「慈しみの心を持つ」ことは、少なくとも私の場合は重なっています。
泣き続け、嘆き悲しむことで、慈しみの心も育まれ、穏やかな気持ちになることもあるのです。
これは愛するものをなくしたからこそ、確信できることでもあります。

「悲しいという感情に心が侵されていると、心が怒っているので苦が生じ、身体も蝕まれていきます」というのも、以前ならそうだろうなと思ったことでしょう。
ただいまは違います。
「悲しいという感情に心が侵されている」のではなく、「悲しいという感情に心が満たされている」と捉えると全く別の受け止め方ができます。
他者の悲しみも素直に受け容れられて、心身が素直に反応するようになるのです。

本当に人を愛し、その人との別れを体験すれば、たぶんわかることでしょう。
たぶん小池さんは、自分ではその体験をしていないような気がします。
もし体験していたら、こんな「乾いた」物言いはしないでしょう。
しかし、だから小池さんが間違っているとはまったく思いません。
ただ今の私にはぴんとこないだけで、時と状況が違えばきっとぴんと来ることでしょう。

悲しみや愛を、軽々に一般論で語るべきではないのではないかと、私は思います。
それは一人ひとりが直接出会って、乗り越えていくべきことのように思うのです。
そして、一人ひとり、それぞれに違った表情を持っているのです。

■1576:小掃除(2011年12月26日)
節子
今日は湯島のオフィスの大掃除をしようと思って出かけてきました。
考えてみると、節子が湯島に来なくなって以来の掃除のような気がします。
5年ぶりでしょうか。
まあ時々は小掃除をしてはいるのですが、せっかく節子が最後にきれいにしてくれた床のカーペットもだいぶ汚れてしまいました。
きれいに改装されたカーペットは節子は見ることはありませんでしたが。
節子が元気だあったら、壁紙も張り替え、ペンキも塗る予定でした。
ペンキの缶が残っていましたが、私一人でやる気もでないので廃棄しました。
しかし掃除をすると、節子の思い出の品が出てくるので、なかなか進みません。

まずは一番目立つガラス拭きからすることにしました。
一人でやっているとなんだか虚しいものです。
寒いのでまあほどほどにしました。
室内に掃除機を駆け出しましたが、古い掃除機のせいかパワーダウンしています。
うまく行かないのでやめました。

まあ大きな物だけ片付けて終わることにしました。
なにしろいまは先日のフォーラムで使った認知所予防ゲームの道具が大きなダンボールなどにつまって片付け場もなく置いてあるのです。
それを運ぶ台車まであります。
それに最近はこのオフィスを使いたいという人がスクリーンまで持ち込んでいます。
だんだん私の居場所がまたなくなりかねません。
困ったものです。

幸いに、大掃除が遅れたので、来客が来る時間になってしまいました。
これ幸いに、今年もまた小掃除で終わることにしました。
正月休みにでも、節子がやってきて片付けてくれているといいのですが。
それにしても、節子がいなくなったおかげで、どれだけ節子のおかげで私が快適な生活をしていたかがよくわかります。
改めて感謝することの多い毎日です。

■1577:中掃除(2011年12月27日)
昨日は湯島の小掃除でしたが、今日はわが家の寝室の大掃除でした。
寝室は節子の部屋でもありました。
節子の物がたくさんあるのです。
ですからあんまり片付けはしておらず、節子がいた頃のままのものがかなりあるのです。
それをかなり思い切って捨てることにしました。

実にいろんなものが出てきました。
節子はコーラスグループに入っていましたので、楽譜や録音されたテープ、DVDもたくさん出てきました。
発表会にはほぼ毎回私も聴きに行きましたので、楽譜にも懐かしさがあります。
そのなかからいくつかの譜面とテープとDVDを残して、あとは処分することにしました。
新聞や雑誌の切り抜きもいろいろと出てきました。
何でこんなものを残していたのだろうかと言うのもありましたが、節子らしいものもありました。
遺されたものを見ると、その人の世界が良く見えるものです。

捨てられなかったのは手紙類です。
闘病中の節子を元気づける手紙や訃報を聞いての手紙がたくさん出てきました。
箱や引き出しに私が詰め込んでおいたものも多いのですが、やはりそれはそう簡単には捨てられません。
残しておいても、私以外の人が読むことはないのはよくわかっているのですが、まだ捨てる気にはなれないのです。

そうした手紙に混じって、節子の指導で私がエプロンをして車海老を揚げている写真が出てきました。
節子が病気になった後、私に生活力をつけるために料理を教えてくれている時の写真です。
しかし節子のその企ては残念ながら成功しませんでした。
私は今も生活力があまりないのです。

さらに、家族みんなで書いた「節子復活カード」なるものが出てきました。
わが家は、家族の誰かにいろんな「御守カード」を送る習慣があるのですが、こんなカードを作ったことはすっかり忘れていました。
節子はどこかの御守と一緒に、それを大事にしまっていたのです。

生前、節子が愛用していた携帯用ルーペも出てきました。
これは私が譲り受けることにしました。

というわけで、大掃除のつもりが、やはりあまり捨てられずに、中掃除になってしまいました。
それにいろんな節子に出会ってしまったので、掃除をする気分は消えてしまいました。
こうやってわが家の掃除はなかなか進まないのです。
困ったものです。
節子に手伝いに来てほしいものです。

■1578:「よい一日」(2011年12月28日)
先日、小池龍之介さんの本を数冊読んだのですが、その勢いでスマナサーラさんの「悩みと縁のない生き方」という「日々是好日」経の本を読みました。
いずれもどうも馴染めない人なのですが、私の読み違えかもしれないと思い、読むことにしたのです。
節子もよく知っている通り、私は思い込みが強いですので。

書き出しはこうでした。

「『今日はよい一日でした』と言えるように、毎日、過ごすことはできますか?」まず、私はネなさんに、そうお尋ねしたいと思います。
これは自分が「仏教の勧める生き方」をしているか杏かを知ることのできる、基本均な質問(自問)です。

まさに節子の生き方でした。
もしかしたら波長が合うかもしれないと思い、一気に読みました。
しかしやはり違っていました。
スマナサーラさんは、過去も未来もない、あるのはただ「今」だけだというのです。
過去や未来への煩悩でいまこの瞬間が見えなくなっているというわけです。
たしかにそうかもしれません。
小池さんの著書と同じく、頭では理解できますが、やはりどこかに違和感が残ります。
あえていえば、大切なことを忘れているような気がするのです。
いまこの瞬間を通して、実は過去も未来もつながっているのだということを。

節子は毎晩、寝る前にお祈りをしながら、今日もよい一日だったと感謝していました。
そして、明日もまたよい一日になりますようにと祈っていました。
いつの間にか、私もまたそう思うようになりました。
節子は、瞬間瞬間を大事に生きるようになりました。
しかし、だからと言って、過去や未来への思いを捨てたわけではありません。
煩悩と言ってしまえばそれまでですが、節子にとって、過去もまた現在、未来もまた現在だったのです。
真剣に祈るならば、時間はほとんど意識しなくなります。
そして、過去も未来も含めて、すべてをいい瞬間にしたいと、節子は思っていたような気がします。
今がよければ、未来もよくなるし、過去がよければ今もいいのです。
人やいのちのつながりと同じように、時のつながりに気づけば、今も過去も未来も、同じものだと気づくでしょう。

節子は、間違いなく、自分がいなくなった後の私を見ていました。
そしてそれも含めて、毎日をよい一日にしようとしていたのです。
一方、私は過去も未来も見えなくなり、いま目の前で闘病している節子しか見えなくなっていたように思います。
だからたぶん「大きな過ち」を犯したのです。
「いま」という時を理解できていなかったのです。
節子ほどには、真剣に生きていなかったのです。
節子と私のこの時間意識の違いを、節子は多分感じていたでしょう。
なんとなくそう思います。
時を越えてしまえば、もしかしたらそんな違いは瑣末なことかもしれません。
節子は、ある時から、すべてをゆるしていたのです。
ずっと近くにいて、そう確信しています。
だから節子は一言たりとも繰言は言いませんでした。

「よい一日」
その深い意味に、まだ私は届いていませんが、節子のおかげで少しだけ垣間見えるような気がしています。

■1579:わが家の一番の料理は節子(2011年12月29日)
節子
今日は、夜になって娘が正月料理の買出しに行くというので付き合いました。

私の両親と一緒だった頃の正月は家族みんなで準備をしたものです。
お客様のためもあって、量も多かったので、私も買出しによく付き合わされました。
大晦日は、除夜の鐘がなるころまで、母も節子も料理に取り組んでいました。
正月の食卓は、まさにハレの場でした。
両親が亡くなってからは、わが家だけの正月になりましたが、それでも節子が中心だった時は、さまざまな料理が用意され、賑やかな食卓でした。

そんな記憶から、一人ではとても持ちきれないほどの買物なのだろうと思って、娘に付き合ったわけです。
ところが、娘の買ったものといえば、なんと買い物かごひとつ分だけなのです。
しかも、メインディッシュになるようなものもありません。
おせちも簡素化され、いつも残ってしまう黒豆などは買わないことになりました。
数の子にしても、娘が吟味していたので、何を吟味しているかと思ったら高すぎるので、というのです。
いやはや予想以上に節約家です。

そういえば、節子がいなくなってから、わが家の正月の食卓は、ハレの食卓というよりも、普段より質素な食卓になってきたような気もします。
いつもと違うのは、おなますくらいでしょうか。
おなますとお煮しめは、私が食べるので、娘がつくってくれます。
こうして伝統文化は失われていくのでしょうね。
節子は伝統を楽しむタイプでしたが、娘にはあんまりその気はないのです。
私も、食事に関しては、好きなものを食べ、無駄はしないというタイプです。
どんなご馳走よりも、美味しいご飯にお味噌汁とお漬物と、少し欲をいえば、新鮮な果物があれば、もう満足なのです。
着飾ったお正月料理は、あまり好きではありません。

それに、節子がいなくなってからの食卓は、どんなに豪華な料理が並んでも、実は決してハレの場にはならないのです。
食事は、料理と一緒に楽しむメンバーによって決まってきます。
私にとっても、たぶん娘にとっても、もはや正月の食卓は、ハレの食卓ではなくなってしまったのです。
わが家の正月の食卓を楽しいものにしていたのは、料理ではなく節子の演出であり、節子の存在そのものだったのです。
娘と買い物に行って、そのことを思い知らされました。

節子と一緒に食材の買い物に行っていた頃が思い出されます。
その時の節子は、とても楽しそうでした。

■1580:元気のお裾分けができるようになりました
(2011年12月30日)
節子
大晦日です。
一応、年越しの準備はほぼ終わりました。
節子もジュンもいないので、ユカと2人で大奮闘です。

昨年はユカが急性肺炎で大変でしたが、今年はユカが頑張ってくれました。
いま正月のお煮しめとおなますをつくっています。
節子がいた頃の雰囲気が少しだけですが、戻ってきた感じです。

先ほど、ジュンたちも来たので、みんなでお墓にも行ってきました。
メンバーは違うものの、久しぶりになんとなくわが家らしくなってきました。

今年はいろいろありました。
節子がもし元気だったら、たぶん私たちの生き方は大きく変わっていたと思いますが、節子がいないために私はただおろおろするだけで、何もできずに終わりました。
夏くらいまでは、私自身の気分もどんよりしていましたが、秋に入る頃から雲が晴れたような気分になれました。
年初考えていたことは、ほとんど何もできずに、あまり充実感のない年ではありましたが、
年末には、「おさむに会うと元気で年越しできる」と幼馴染におだてられたり、「佐藤さんのおかげで今年はいい年になった」などと友人におだてられたりするようになりました。
私も他の人に元気をお裾分けできるほどの元気がたまってきたのかもしれません。
少しは誰かの役に立てているのかもしれません。
メールや手紙ももらいました。
うれしいことです。

この挽歌のおかげで出会えた人も何人かいます。
メールだけのお付き合いもあれば、直接に会いに来てくださった方もいます。
挽歌を書いていて、それが一番うれしいことです。
節子の引き合わせだろうと確信しています。

風邪も引かず、元気に年が越せそうです。
守ってくれてありがとう。
すべては節子のおかげです。

■1581:非日常的日常(2011年12月31日)
節子
今年最後の挽歌です。

節子のいない年越しも、これで5回目になります。
よくまあ元気で生き長らえていると不思議な気持ちになることもあります。
節子がいなくなったら、私も生きる気力を失い、たぶん後を追うように逝くかもしれないと思っていましたから。
にもかかわらず、もう5回目の年越しです。

節子のいない生活にも順応できているように見えるでしょう。
外部から見たら、私もいまでは元気になり、普通の生活を過ごしているように見えるはずです。
しかし、40年も一緒に暮らしてきた妻のいない暮らしは、決して「日常」にはなりません。
順応はできたかもしれませんが、決して慣れることはありません。
朝、位牌に向かって、般若心経を唱え、節子に話しかけるのは日常化しましたが、しかしなぜ節子はいないのだろうかという疑問は決して消えることはありません。
そして節子のことを思った途端に、胸が痛み、涙が出ます。
これは未来永劫消えないことでしょう。
それもまた、日常化してしまったのです。
まさに、日常にして日常に非ず、非日常にして非日常に非ず、なのです。
それは、なかなか説明ができないほどに、不思議な世界でもあります。

そうした「非日常的日常」のなかでは、人は自然と「哲学的」に、あるいは「思索的」になります。
ホームページに書いたことですが、私の世界はこの数年で大きく変わってしまいました。
私自身はたぶんほとんど変わっていないと思うのですが、私とは「私とその環境」と考えれば、私は大きく変わってしまっているわけです。
自分で言うのもおかしいですが、その変わりようは、自分でも驚くほどです。
節子がいた頃の私とは、全く別人の私がいるわけです。

「哲学的」あるいは「思索的」というわりには、いまも相変わらず、感情的、情緒的、刹那的に行動しています。
しかし、2つの世界を生きていると、さまざまな思いがめぐってきます。
時間感覚も大きく変わってきますし、第一、見えないものが見えるようになるのです。
もちろん見えるものも見えなくなってしまうこともあるわけですが。
そして、論理もまた跳んでしまうのです。
たとえば、節子の目線を感ずることがあります。
そこにいない現実とそこに感ずる現実をどう辻褄をあわせればいいでしょうか。
そいて、哲学的、思索的になっていくわけです。

今日は節子がいなくなってから、1581日目です。
よくぞここまで挫けずに来られたものです。
娘たちのおかげだと思っていますが、それが良かったかどうかはまた全く違う話です。
これもまた「非日常的日常」、あるいは「非常識的常識」なのです。

節子、そろそろまた新しい年が始まります。
おまえがいないので、新年を迎える感激はありませんが。

■1582:世界を創出する能力(2012年1月1日)
節子
厚い雲のために初日の出も拝めない年の始まりでした。

毎年、初日の出を見ることでわが家の1年は始まりました。
節子は闘病時でさえ、元旦の朝は屋上で初日の出を拝んだものです。
初日の出を見られなかったのは、ここに転居してから初めてのことです。
今年はちょっと残念な年明けでした。

わが家の年明けの行事は、家族みんなでの初詣と墓参りです。
これは節子がいる時からの文化で、1回たりとも欠かしたことはありません。
闘病時も、節子も一緒に歩いて近くの子の神神社に初詣に行きました。
神社から富士山がよく見えるのですが、今日は残念ながら富士山も見えませんでした。
初日の出も富士山も、そして節子もいない年の始まりでした。
いつもとは違う「ないないづくし」です。

しかし、節子の話題は何回も出ました。
節子は間違いなく、まだ私たちの世界に生きています。
だからこそ、私たち家族は心穏やかに生き続けていられるのかもしれません。

私たちの目の機能は、デジカメに例えると100万画素程度しかないのだそうです。
100万画素のデジカメの写真はかなり粗い映像です。
にもかかわらず、私たちが見ている世界は、スムーズです。
それは脳によって、画素の粗さが修正されるからなのだそうです。
しかも人間の目には、「盲点」というのがあって、全く見えないところ(暗点)もあるのだそうです。
それも脳が補ってくれているのだそうです。
つまり私たちが見ているのは、現実ではなく、100万画素の材料で創作された映像なのです。

創作あるいは編集を可能にするものはなんでしょうか。
多分過去の記憶でしょう。
今朝、いつもならば初日が出てくる場所の写真を撮りましたが、そこに日の出をイメージすることはできますし、昨年見た方向に富士山を想像することもできます。
同じように、節子は見えませんが、たとえば神社の焚き火に手をかざして暖を撮っている節子をイメージすることもできます。
もし私の創作能力が高ければ、節子の存在する世界を創出することもできるかもしれません。
節子との日々が戻ってくるわけです。
しかし、もしそうなったとしたら、人は私のことを気がふれたと思うでしょう。
他の人には見えない節子を感ずることができるわけですから。
しかし、人間の脳は、それくらいのことはできるはずです。

つまり私たちが実感している世界と現実の世界は、それほど固定的でもなければ、確実なものでもないわけです。
脳が勝手に現実を材料にして、私たちが生きやすい世界を生み出してくれているのです。
最近、脳に関する本を少しだけ読みかじったのですが、そのおかげでそう思えるようになりました。

問題は、自らの創作能力、編集能力を高めることですが、そのためには常識の呪縛を脱ぎ捨てなければいけません。
自らに素直になっていくと、それも可能な気がします。

それはともかく、昨夜はあまり寝ていないので、そして今日も出かけていて疲れたので、そろそろ寝ようと思います。
夢の中であれば、私でも少しは創作能力を発揮できるでしょう。
節子に会えるといいのですが。
ついでに、富士山と初日の出も一緒だともっとうれしいです。

■1583:「一人」という言葉(2012年1月2日)
節子
昨年の元日の新聞には「無縁社会」とか「孤族」とかいう言葉が目立ちました。
しかし、今年の元日の新聞は、むしろ「縁」とか「絆」という言葉が目立ちます。
こうした世論の風潮にはとてもついていけません。
たぶんいずれの言葉も、使っているのは同じ種類の人なのでしょう。
言葉だけで生きているから、すぐ乗り移れるのです。

年末にある人から「生まれて初めて一人で年を越します」と言うコメントがありました。
心に深く突き刺さる言葉です。
その言葉が頭から離れません。
しかも、元日の夜にテレビで録画していた東野圭吾のドラマ「赤い指」を観たら、そこにもまた「一人で旅立つ」話が出てきたのです。

「一人」
これまではあまり考えたことがありませんでした。
人は所詮、一人で生まれ、一人で死ぬものだという言葉にも反発を感じていました。
人はいついかなる場合にも「一人」ではないというのが、私の考えだからです。

「赤い指」は、いろいろと考えさせられる内容のドラマです。
ドラマの謎解きの鍵とも重なっているのですが、死を直前に迎えた父親を主人公は見舞いにも行きません。
なぜ行かないのかと従弟から責められます。
結局、父親を看取るのは従弟なのですが、息を引き取った父親を前に、主人公は語るのです。
父は仕事ばかりしていて母と離婚、その後、母は誰にも看取られることなく一人で死んでしまった。
父は、その母の思いを自分でも背負うために、息子にも看取られずに一人で寂しく死ぬことを望んでいたのだ、と。
娘と一緒のこのドラマを観ていたのですが、私は涙があふれてしまいました。
父親の思いが痛いほどわかりますし、彼がどれほど別れた妻を愛していたかもわかります。
妻を孤独死させたのであれば、自らもそれを味わうことで、妻に近づける。
安易な解決策と思う人もいるでしょうが、私には素直に受け容れられます。

ところで、主人公の父親は「一人」で闘病し、「一人」で死んだのか。
決してそうではありません。
ドラマではそこにまた感動的な話が込められているのですが、それは別にして、彼は決して孤独死ではないと思います。
亡き妻と一緒に死を迎えたからです。
本気で愛したことがあれば、人は決して孤独にはなりません。

なにやら暗い話で、また長い話になりそうですね。
続きはまたにして、今日は「一人」とは何かを考えたかったのです。
今朝も5時に目が覚めて、このことをずっと考えていました。

コメントくださった方は「生まれて初めて一人で年を越します」と書いています。
「そんなことはない、ご主人が一緒にいますよ」と言ってしまうのはいかにも月並みです。
それにその方も、そんなことはよく知っているのです。
間違いなく伴侶を心から愛していたからです。
「生まれて初めて一人で年を越します」という言葉にこそ、伴侶への愛を強く感じます。
そう思ったのです。
そして私には、「一人で年を越す」意識があったのだろうかと気づいたのです。
節子は、たぶんそうした気遣いを私に向けていました。
私がいなくなった後、修は大丈夫かしらと時々心配気に話していました。
それにもかかわらず、私は「生まれて初めて一人で」彼岸へと旅立つ節子の不安を気遣っていませんでした。
4年以上経って、それにようやく気づいたのです。

一人で旅立つ不安はどれほどのものであったか。
それに私はどのくらい気づいていたのか。
節子がいなくなってから、いつも節子と一緒にいるという思いで、なんとか平静さを保っていますが、彼岸に向かう節子の一人旅の不安の感覚を、私も味わわなければいけません。
寂しいのは残された者だけではありません。
残していった者こそ、寂しく不安でしょう。
節子の無念さや寂しさを、どうしたら共体験できるのか、ずっと考えていますが、答が見つかりません。
難問を抱えた年の始まりです。

■1584:「一人」なのか「一人でない」のか(2012年1月3日)
昨日の続きです。
東日本大震災によって、「生まれて初めて一人で年を越した人」は、たくさんいるはずです。
私の場合は、娘たちがいます。
しかしまったくの「一人」で年を越した人もいるでしょう。
それを思うと、果たして私に耐えられるだろうかと思いますが、やはり支えてくれるのは、自分は「一人ではない」という気づきかもしれません。
しかし、そうは言っても、「一人は一人」なのです。
一人であることの「寒さ」は体験しないとわからないかもしれません。

昨日の挽歌も今日のこの文章も、矛盾だらけだと怒られそうです。
「一人」なのか「一人ではない」のか、どちらなのか、はっきりしろと言われても仕方がありません。
ここがなかなかわかりにくいのですが、「一人」であって「一人」でなく、「一人」でなくて「一人」なのだ、ということなのです。
わかりやすくいえば、一緒にいる感じがするのですが、言葉が戻ってこないのです。
あんまりわかりやすくないですね、すみません。
ともかく私自身、わからないのです。
だからこそ、「一人で年を越した」という言葉が、心に刺さったのですが。

今朝もまた別の方からコメントがありました。

「生まれて初めて一人で年を越す」
私もそうでした。
でも佐藤様が書いてらっしゃるように孤独ではないのです。
「本気で愛したことがあれば、人は決して孤独にはなりません」
という言葉。
本当にその通りだと思いました。

同じように感じている人が他にもいるということは、この気分が私の負け惜しみではないのだと自分を元気づけられます。
実は、節子がいなくなって以来、自分が少し「ひがみっぽく」なっているような気がしてならないのです。
事実、時々、幸せそうな2人ずれを見ると嫉妬しますし、仲たがいしている夫婦を見ると、なんでこの人たちでなく私たちに別れが来たのだろうかと罪深い思いを持ってしまうのです。
だから自分の言葉を誰かが体験的に肯定してくれると元気が出るのです。

私はいま「一人」なのか「一人でない」のか。
心身は揺れ動きます。

そう思っている人は、今年はきっと多いのでしょう。
今年の冬が寒いのは、そのせいかもしれません。
一人であることの「寒さ」は体験しないとわかりません。

■1585:ミラーニューロン(2012年1月4日)
今朝は日の出が見えました。
年が明けて初めての元気な太陽です。
ようやく年があけた感じで、元気が出てきました。
しかし、妻のいない正月は、どうしても正月気分にはなれません。

家族の写真が載った年賀状がたくさん届きます。
みんな幸せそうで、その幸せが見ているだけで伝わってきます。
以前なら、その幸せ気分が見ている私にまで広がるのですが、なかなかそうはなりません。
我ながらいやになります。

今年の箱根駅伝は感動的な場面が多かったような気がします。
ほとんどすべてを見ていたのですが、涙が何回も出ました。
とりわけ選手たちの涙を見るとついつい泣けてきます。
これまでもこうだったのだろうか、もしかしたら涙もろくなったせいのでしょうか。

他の人がしていることや状況を見て、それが自分のことのように感じる共感能力を司っている神経細胞を、ミラーニューロンというそうです。
ミラー、つまり鏡のように他者の感情を写し取ってしまうわけです。
だから泣いている人を見ると悲しくなり、笑っている人を見ると笑ってしまうのです。
最近のお笑い芸を見ていると、芸そのものの面白さよりも、そうしたミラー効果に依存しているような退屈なものが多いような気がします。
節子は、そういう芸が大嫌いでした。
そこが私と違うところでした。
私は、なぜかミラーニューロンが過剰なほどに発達していて、テレビの中の人の行動にすぐ影響されるタイプなのです。

ところで、ほかの人よりもミラーニューロンが強いはずの私が、なぜか幸せそうな家族写真を見ても共感が起きないのです。
それが最近とても気になっています。
私の中に、ねたみの心情があるのでしょう。
時々、自己嫌悪に陥るのは、そのせいなのです。
いやな人間になってきています。
このままだと節子にも嫌われそうですね。
どうしたら素直になれるでしょうか。

■1586:人との距離、彼岸との距離(2012年1月5日)
節子
年明け早々の訃報です。
八尾さんが元旦の日に心不全で亡くなられました。
今年、喜寿を迎えるはずでしたが、その日が「偲ぶ会」になりました。

八尾さんは某社の社長を退任後、経営道フォーラムのプロジェクトを継ぐことになり、その関係で節子も何回かお会いしたことがありますね。
最近は小諸郊外に隠居され、自然のなかでの豊かな生活をされているとお聞きしていましたが、まさかの訃報でした。
この3年ほど、お会いできていませんでしたが、今年はお会いしようと思っていたところでした。

皮肉なことなのですが、そろそろお会いしようかと思い出した途端に、訃報が届くことが時々あります。
重久さんの時がまさにそうでしたし、三浦さんの時もそうでした。
これはしかし、偶然ではないのかもしれません。
訃報が届く前に、最近会っていないなと思い出す人と思い出さない人との「距離感」は明らかに違うのですが、言い方を変えると、距離感の近い人の場合、不思議と訃報が届く直前になぜかその人のことを思い出しているのです。
思い込みすぎかもしれませんが。

八尾さんは小諸郊外に庵を建てていましたが、数年前にそこでの暮らしに軸足を移しました。
結局、その庵を訪れることはできませんでしたが、八尾さんらしい、晴耕雨読の豊かな生活だったのでしょう。
昨年、八尾さんが私のことを少し心配していたという噂を聞きました。
その時にはなんとも思わなかったのですが、昨年末に八尾さんのやっていた研究所を訪問した時、なぜか八尾さんに会わなければと思ったのです。
そんなところに、突然の訃報です。

しかし、考えてみれば、驚くことはありません。
私も含めて、70歳を過ぎれば、人はいつ逝っても不思議ではありません。
こんな言い方をすると不謹慎かもしれませんが、彼岸はさほど遠くではないのです。
最近、そういう気分が育ちだしています。
節子が彼岸にいるからかもしれませんが、訃報を聞いても悲しみはあまり感じません。
私と彼岸の距離が近づいているのかもしれません。

人との距離感、彼岸との距離感。
私も次第に彼岸の人との距離感が近くなってきているのかもしれません。

節子
そちらで八尾さんに会ったら、よろしくお伝え下さい。

■1587:モノに囲まれた無一物の世界(2012年1月6日)
節子
届いた年賀状を読んでいたら、こんな文章が目にとまりました。
「モノがなくても、どうにかなるんだな」という感覚が一度わかってしまうと、生きることがグッと楽になります。
前にも話題にした「ときめき片付け法」の近藤さんの言葉だそうです。

この種の言葉に出会うと、私はいつも「節子」という言葉で置き換える習慣ができてしまいました。
つまりこうです。
「節子がいなくても、どうにかなるんだな」
たしかに、これはこれまで何回か体験してきたことです。
どうにかなるのにもかかわらずに、どうにもならないと思い込んでしまっている。
これが「執着」ということでしょうか。
執着がある限り、本来無一物の境地には届きようがありません。

モノが少なければ少ないほど、それをどうすればいいかなどと心惑わされることも少なくなり、生きることが楽になるかもしれません。
しかし、残念ながら、必ずしもそうとばかりもいえません。
「衣食足って礼節を知る」という言葉があるように、モノがなければないで、またそれを欲する惑いが生まれます。
欲しいものがあるほうが、もしかしたら、生きるのが楽になるかもしれません。
モノを捨てることで心安らかになる人もいれば、モノに囲まれることで心安らぐ人もいるのです。
それは、「人」や「愛」に関してもいえるのかもしれません。

節子を見送った後、ある人から「自由になりましたね」と言われました。
私にはショックでしたが、そういう人もいるのです。
愛する人を失って、「もう二度と人を愛したくない」と言う人もいます。
モノと同じく、人も愛も、煩わしいものでもあるのです。
しかし、少なくとも、私は今もって、人も愛も捨てる気はありません。
だからモノも捨てられないのかもしれません。
本来無一物は、まだまだ遠い世界です。

節子がいたほうがいいのか、いないほうがいいのか、などということは、私の場合は成り立たない問題ですが、人によっては成り立つこともあるわけです。
だから「離婚」が、これほど多いのです。
私の周辺でも、離婚はとても多くて、とても悲しいです。
私には、なかなか理解し難いことです。
しかし、それを理解しなければ、本来無一物の世界には入れないのかもしれません。

本来無一物ということは、人や愛までも含んでいるのでしょうか。
間違いなく言えることは、節子がいない今の人生は、私にとって決して楽でもありませんし、心もやすまりません。
私の執着と煩悩のためなのか。
でも、だからといって、本来無一物が私と無縁の世界とは思えません。
むしろとても近い気がするのです。
節子のいない世界は、私にとっては、無一物の世界に近いような気がします。
まだうまく説明できませんが、モノに囲まれながらも、私は本来無一物の世界に近づいている。そんな気がしていてなりません。
私にとって、モノも人も、そして愛も、どうも違ったものになってしまった。
真にもって、身勝手な解釈です。

■1588:「あの世へ行くのが現実味を帯びてくる」(2012年1月8日)
節子
今年になってからの時間の進み方はなぜかとても速いです。
そのせいか挽歌が間に合いません。
年初からまた1日、遅れてしまいました。

節子もよく知っている丹波さんも、もう80歳です。
久しぶりに近江八幡で地域活動に取り組んでいた丹波さんを一緒に訪ねたのはいつだったでしょうか。
もしかしたら、あの時はもう節子は闘病中だったかもしれません。
最近、私の時間感覚は大きく狂っていますので、いささか危ういですが。

丹波さんからメールが来ました。

80になると、あの世へ行くのが現実味を帯びてくる。
つまり神や仏が気になりだす。
日本の神や仏は西洋のコンセプトでいう宗教ではなく。
なんともイノセントではあるが、わかりやすく本質をついた教えであることに感じいり。
おだやかにあっちへゆくことをうけいれる仕組みをもつ。

仏教の教えは「この世たれぞつねならむ」無常、
つまり実体のあるものはこの世にはない。 
ということを前提として、
神道の教えは「敬神崇祖」
敬神は八百万の神々、つまり命をはぐくむ環境を敬うことだし。
崇祖は生きとし生きるものの先祖、
つまり命の始まりとそのつながりを大切にしなさいよという教えである。

 では大切にするにはどうすればいいのか、それは「祈り」しかない。
 このごろ、この仕掛けはうまいことできとるなと感じいる日々であります。
                    
まさに丹波さんらしい。
丹波さんは、私が会社に入った時の最初の上司でした。
「おさむちゃん、せっちゃん」と、私たちを呼んでいました。
私が、会社時代にとんでもないプロジェクトを起こした時にも、丹波さんはただただ応援してくれました。
私たちは、そういうたくさんの人たちに支えられて、実に自由に生きてきました。
娘のユカからは、お父さんたちは常識がなかったから、と今でもよく言われますが、常識が欠落していても、何とかやってこられたのは、周りの人たちのおかげです。

「あの世へ行くのが現実味を帯びてくる」
とても感じ入る言葉です。
私も、少しずつですが、そんな気分が芽生えだしています。
それに、彼岸に節子がいると思うと、彼岸と此岸はつながっているような気がして、たいした「道のり」ではないのではないかなどと思えるようになってきました。

年初はちょっとばたばたしましたが、今年は平安に暮らせそうです。

■1589:愛(2012年1月8日)
節子
挽歌の読者のK(makimakiro)さんからコメントが届きました。

私は、人生にとって必要なものは「愛」しかないと思っています。
モノや人という物理的存在は「愛」があってはじめて意味を持つものと。

池谷裕二さんの「進化しすぎた脳」という本にこんな文章が出てきます。

世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。

私も以前からそんな風に考えていたので、この文章に出会った時にはとても納得できました。
池谷さんはこう言うのです。

まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、というふうに世の中の多くの人は思っているけど、ほんとはまったく逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目ができあがって、そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子をその目で受け取り、その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって、はじめて世界が生まれたんじゃないか。

Kさんは、「モノや人という物理的存在は「愛」があってはじめて意味を持つ」といいます。
これにも、私はとても共感します。
では、池谷さんの話とKさんの話は、どうつながるでしょうか。

目を通して世界が形成されるのであれば、愛を通して世界は意味をもってくるわけです。
意味のないものは存在しないのと同じだと考えれば、両者はつながってきます。
目で認知することで世界は現出し、愛を注ぐことで世界は輝いてくる。
そんなところでしょうか。
もしそうならば、愛を注げば世界は輝いてくるとも言えるわけです。
あるいは、愛するものは存在しているのだが気がついていないだけ、とも言えるかもしれません。

Kさんはつづけて、「節子様と早くに出会えた佐藤様を、未だ独り者の私はいつも羨ましく思っています」と書いています。
しかし、私が出会ったのは「節子」ではなく、「愛」だったといえるでしょう。
大切なのは、「対象との出会い」ではなく、「愛との出会い」なのですから。

みんな、それになかなか気づきません。
私は、節子を深く愛していましたが、節子だけを愛していたわけではありません。
節子は、私の愛の象徴だっただけなのです。
節子は、もちろん、そのことを知っていました。
私が、地面を歩くアリさえも愛していたことを節子は娘たちにも話していました。
そこにはいささか誇張がありますが、嘘でもありません。
そして、節子は私のそこが好きだったのです。

「愛」とは悩ましいテーマです。
しかし、人を愛するのは簡単です。
ただ愛すればいいのですから。
でもせっかく育てた愛の対象がなくなってしまうと、人は混乱してしまいます。
でもおちついてくると、その「愛」はなくなってはいないのだということに気づきます。
そして、物理的存在はなくても、愛は存在することに気づくわけです。
Kさんのメールは、改めてそのことに気づかせてくれました。
ありがとうございました。

■1590:宇宙的巡礼(2012年1月9日)
テレビで、「聖地巡礼200キロの旅」を見ました。
世界遺産に登録されている巡礼路「カミーノ・デ・サンティアゴ」をタレントの宇都宮まきさんが歩いたドキュメントです。
カミーノ・デ・サンティアゴはキリスト教の三大聖地に数えられるサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼路です。
いろいろと考えさせられる内容のドキュメントでしたが、それを見ながら、節子と一緒にこの路を歩きたかったなと強く、強く思いました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラを知ったのは10年ほど前です。
歌人の黛まどかさんが湯島に来ました。
当時、黛さんはサンティアゴ巡礼のドキュメント映画づくりに取り組んでいて、その資金集めの相談に来たのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sanchago.htm
資金集めは私の不得手な世界ですが、一度、多くの人に知ってもらおうということで、湯島で黛さんを中心にしたサンティアゴサロンをやりました。
節子も参加しました。
実は、節子が俳句に興味を持ったのは、黛さんに会ってからです。

その後、黛さんは熊野古道に関わりだしました。
それで、まずは熊野古道からと節子と話していましたが、その前に節子は病に襲われてしまったのです。
四国遍路も、熊野古道も、そしてサンティアゴ巡礼路も、どこも歩けませんでした。

四国遍路は、一人で歩いても同行2人といわれます。
弘法さんが一緒に歩いてくれるというわけですが、今日の番組の中で、一人で歩いている人との会話に、同じような思いで歩いている人が出ていました。
一人で歩いているようで、実はみんな、誰かを思いながら、歩いているのです。
これは巡礼の時だけではありません。
人生を「ひとつの旅」と考えれば、その旅はどんなに孤独に見えても、決して一人ではないのです。

番組の中で、一人で歩いている女性を追い越します。
ところが次の巡礼宿で朝方、彼女が夫と2人で出発するのに出会います。
彼女は一人でではなく、夫婦で巡礼していたのです。
夫が言います。
「私たちはそれぞれのテンポで歩いていますが、いつも妻のことを思いながら歩いています」
彼らは今日もまた途中で一人ずつになり、夕方には宿で合流し、明け方にはまた一緒に出発するのです。

私たちの巡礼行は、もしかしたら節子を見送ってから始まったのかもしれません。
歩くテンポが違っていたために、節子は一足早く、彼岸側を歩き出しました。
しかし次の目的地で、合流できるのでしょう。
ちょっと長い1日ですが、宇宙的スケールの巡礼路を節子と歩いていると思うと、なんだか気持ちが壮大になって、楽しいです。

■1591:家庭農園の整備(2012年1月10日)
節子
節子が残していった家庭農園が雑草で覆われていたので、みんなで雑草刈りをしました。
1年近く放置していたので大変でした。
節子が元気だった頃は、週に何回か通っては整備していましたが、今は笹薮のようになってしまっていました。
業者の人に整備してもらおうという意見もありましたが、お金は極力使わない生活をしていますので(先月も事務所の管理費が未納だと督促状が来ました)、娘たちに頼んで食事を日当にしてやってもらいました。
節子がいなくなってから、まあいろいろと苦労しているわけです。

湯島も一時期、閉鎖しようと思いましたが、できませんでした。
節子の思いが残っているところは、なかなか壊せません。

農園の惨状は、節子がいたら呆れるよりも笑い出すでしょう。
それほどひどいのです。
汚れると道を歩く人がゴミを捨てやすくなりますので、ゴミまでたまっていました。
ところが、そこに子猫が2匹、いたのです。
とてもきれいな猫で、痩せてもいませんでしたので、近くの家の飼い猫が、たまたまいたのかもしれません。
猫にとっては、折角、身の隠しどころになっていた笹薮が刈られてしまったので、迷惑そうでした。

節子の計画では、農園の半分は花畑にするはずでした。
一時期、かなりきれいになって、通る人から喜ばれたと節子は言っていましたが、いまは通る人から苦情が出てもおかしくないくらい汚かったのです。
まあゴミを捨てる人には役に立っていたのですが。
敦賀の義姉が、百日草の種を送ってきてくれて、是をばら撒いておくと雑草を押さえられるといってくれましたが、それもさぼってしまっています。
しかし今年は何とか花壇は復活させたいと思います。

節子は元気な時に、いろいろやっていたので、いなくなった今は苦労があるのです。
庭の花木はかなり少なくなりました。
節子にとっても、私にとっても、大事な思い出の花木もだいぶ枯らしてしまいました。
しかしまあ、それも自然の流れでしょう。

しかし今日は疲れました。
今から思うと、節子は頑張り屋さんでした。
それが今となっては仇になっているのですが。
頑張り屋の女房を持っている人は、先に旅立たないと苦労しますよ。

■1592:挽歌を書き続けている効用(2012年1月11日)
池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』という本はともかく面白い本です。
ところがそこに、こんな文章が出てくるのです。

記憶は生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返していって、どんどんと変化していく。

記憶は常に変化しているというのです。
そこがコンピュータと人間の違いです。
コンピュータは情報を「そのまま」保管し、後で引っ張り出しても同じままに出てきます。
ところが人間が記憶を思い出す場合は、そうではないのだそうです。
人間の記憶は、すごく曖昧に、しかもたぶんいい加減に蓄積されているため、思い出す度に、その内容が書き換わってしまうわけです。
その思い出した記憶が、また保管されるわけですから、その内容はどんどんと変わっていくことは間違いありません。
そうして「思い出」は、どんどん自分勝手に書き換えられていくことになります。

この挽歌ももう1592回目です。
池谷さんの話に従えば、節子の記憶は1592回の思い出しを繰り返して、その記憶はたぶん大きく変わってしまっているでしょう。
もしかしたら、実際の節子と今の私の心にある節子は、全くの別人であるかもしれないわけです。
現に娘たちは、お父さんはお母さんのことを美化しすぎているのではないか、と笑います。
まあそれは必ずしも否定できません。
しかし、それは言い方を変えると、節子と私の関係は、今も成長しているということでもあります。
節子と一緒に今も暮らし続けていたとしても、5年前とは違った節子像を、私は持っていると思いますから、同じことなのです。

脳にはまた、実際に起きてしまったことを自分に納得できるように理由づけるという機能があるそうです。
これを「作話」というそうです。
要するに、脳は勝手に自分にとって快い物語を生み出してしまうわけです。
こうして記憶はどんどんと物語化していきます。

こういう視点で、この挽歌を読み直して見ると、私の節子像がどう変わってきているかわかるかもしれません。
もしかしたら、最初の頃の節子と最近の節子とは別人になっているかもしれません。
それもまた実に興味あることですが、しかしあんまりも挽歌を書き続けてしまったので、いまさら読み直す気力は全くありません。

しかし挽歌を書き続けてきて、高まったなと思う能力が一つあります。
ゲシュタルト群化能力、ばらばらの要素を見て全体をイメージする能力、です。
私は子どもの頃、探偵になりたいと思っていた時期があります。
シャーロック・ホームズのファンでした。
しかし、ホームズのようなゲシュタルト群化能力が不足していたので、早い時期に諦めました。
いまならホームズほどではないにしても、かなり個々の要素の奥にある全体像が見えるような気がします。
それが挽歌を書き続けている効用かもしれません。
もちろん、私も節子も、そして私たちの関係も、成長し続けているというのが、最大の効用なのですが。

■1593:「恋愛は脳からの魔法のプレゼント」(2012年1月12日)
池谷裕二さんの本を引用したので、ついでに池谷さんの恋愛論を紹介します。
あんまり挽歌らしくはないのですが。

ちょっと長いのですが、『単純な脳、複雑な「私」』から引用させてもらいます(一部要約しています)。

高度な知性がある人間は、できる限り優秀な子孫を残したいと、あれこれ思いを巡らせる。そこから、より秀でたパートナーを見つけなきゃいけないという精神的な願望が生まれる。しかし、地球上には多くの人がいるので、最良のパートナーだと決めるのは不可能。そこで、次善の策として、身近の「まあまあよい人」を選んで妥協しないといけないわけです。
ただ、それだけだと、知的生物ヒトとしては、どこか納得できない気がする。そこで登場するのが恋愛感情です。「この人でいいんだ」と無理矢理に納得するために、脳に備わっているのが恋愛感情。
恋愛はテグメンタ(快感を生み出す脳の部位)を活性化しますから、心を盲目にしてくれる。すると目の前の恋人しか見えなくなる。ほかの人なんかもうどうでもいい、「私はこの人が好きなんだ」「この人こそが選ばれし人だ」なんていう奇妙な妄想が生まれるわけです。

まさに「恋は盲目」というわけです。
ちょっと笑えますが、奇妙に説得力もあります。

さらに池谷さんはこう続けます。

もちろん、その人がベストの選択肢かどうかなんて、実際にはわかんないんですよ。というより、実際にはもっといい人はたくさん他にいるんでしょうね。それでも、脳が盲目になり、心の底からバカになることで、私たちは当面は納得して、子孫を残すことができるのではないでしょうか。
つまり、恋愛は脳からの魔法のプレゼントなんですよ。恋人たちにとっては、こんなに幸せなことはないですよね。

さて挽歌気分に戻って、私たちの恋も愛も、盲目の産物なのでしょうか。
もちろんそうなのです。
元気だった頃、節子はよく言いました。
「たくさんの女性がいるのに、どうして私がいいの?」
それは節子にも向けられる質問なのですが、節子の答えは簡単明瞭でした。
「いまさら恋愛などは面倒だから、修でいいわ」
これは私にも当てはまります。
こうしてともかく自分たちは最高のカップルだと思い込むことで、私たちは幸せになったわけです。
池谷さんは、そうした真実を教えてくれます。

節子は、私の身近にいた「まあまあよい人」だったに過ぎないのです。
たいして美人でもないし、頭も良くないし、古代遺跡も好きでないし、頑固だし、私よりも花を大事にするし、夜更かしだし、寝坊だし、・・・
にもかかわらず、私はやはり節子がいいですね。
また来世も節子を選びたいと心底思うのです。
しかし、これに関しても、池谷さんはこういうのです。

付き合う時間が長いとその人が好きだと思う働きが脳にはあると。
いやはや脳科学者はいやな人種ですね。
願わくば。いまの盲目状況から目覚めたくありませんが、そのためにはこの挽歌を書き続けなければいけません。
いやはや困ったものです。

■1594:節子の心配事(2012年1月13日)
節子
2年ほど、音信不通だった、節子もよく知っているTさんから電話がありました。
私にはあんまり意識がないのですが、私の言葉にムッとして暫く来なかったのだそうです。
どうやら私に失礼な発言があったのだそうですが、私にはその認識が皆無なのです。
ということはそういうことがほかにもきっとあるのでしょうね。
私はあまり考えることなく思ったことをすぐに発言してしまうところがあるからです。
節子はそれで時々はらはらしていたはずです。

節子とまだ結婚する前ですが、髪の毛をいつも面白く結っている若い女性がいました。
私はその人とすれ違うと、なぜかその髪の毛に触りたくなってしまうのです。
そのことを節子に話したら、修さんなら「触っていい?」といいそうね、と笑いました。
幸か不幸か、その人とは知り合う機会がなかったので、髪には触れませんでしたが、面と向かって話す機会があれば、「触っていい?」と言ったかもしれません。
困ったものです。

子どもは、思ったことをそのまま口に出します。
こんなことを言ったら失礼ではないかとか、誰かにおかしく思われるのではないか、などとは思いません。
そういう意識が出てくるのは、大人になってからです。
子どもは実に素直で、生命現象をそのまま生きています。
実は、私はどこかで成長しきれていないため、思ったことを話すのを思いとどまる「理性」がかなり弱いのです。
最近はだいぶよくなったと思いますが、ついつい思ったことが口から出てしまうのです。
脳と口が近すぎるのかもしれません。
我ながら困ることもあります。
Tさんのことも、たぶんそうした結果でしょう。
Tさんは、私のことをよく知っている人ですから、まあ電話一本で関係は回復ですが。

話はそれましたが、私は思ったことをストレートに言うので、節子はいつも心配していました。
湯島にまだ節子が来ていた頃、お客様が帰った後に、あんな表現は失礼じゃないの、といわれたことも少なくありません。
たとえば、久しぶりにやってきた人に、話している途中で、「ところで今日は何しに来たの」などと言ってしまうのです。
私には悪気はないのですが、人によってはムッとすることもあるのだそうです。

この癖は今も直っていません。
つい発言してしまった後、あ! 節子にまた注意されるなと思うのですが、直りません。
節子が心配していたことは、なかなか直っていませんが、まあなんとかやっています。
Tさんにお詫びにお寿司でもご馳走してよと言ったら、謝るのはそっちでしょうと、言われてしまいました。
ムッとさせたほうが悪いのか、ムッとしたほうが悪いのか、是も節子と私の見解の相違点の一つでした。

■1595:ベン・ブリードラブからの贈り物(2012年1月14日)
肥大型心筋症をもって生まれてきたベン・ブリードラブは、昨年のクリスマスの日に18年という短い人生を終えました。
その直前の12月18日に、彼は動画「This is my story」をYou Tubeにアップし、これまでの生活、経験した何度にも渡る臨死体験を世界に伝えてくれました。
それをフェイスブックを通して、村瀬弘介さんから教えてもらいました。
映像では、ベンが文章を書いた小さな紙を1枚ずつ見せてくれています。
たとえば、始まりはこうです。

こんにちは。ベン・ブリードラブです
僕は生まれてからずっと肥大型心筋症でした
すごく深刻で危険なやつです
そして成長するに連れ、こいつが厄介なものだと知るようになりました
ずっといつも怖くて、最悪な感じ。
(中略)
でも、こいつを受け入れ、ともに生きるということは僕が学んだことの一つです。

臨死体験も語られます。
最初は4歳の時だったそうです。

「死」ってやつを最初に騙してやったのは4歳の時です。

僕は二人の看護師に担架に載せられ
かあさんに寄り添われながら廊下を進んでいました
その時、大きな光が僕の上で光り輝いていたんです・・・
(中略)
僕は目を奪われ、あふれる微笑みを止められず
心配事なんて何一つ無い、世界を曇らせることなんかないって
そして、ずっと微笑んだまま・・・
あの幸せがどれだけ満たされた気持ちだったかなんて表現できないよ

その後も、ベンは「「死」ってやつを騙し」ては、3回も臨死体験をするのです。
3回目のことをこう書いています。

僕は白い部屋にいた。
壁はなく、ずーっと広がっている部屋だ。
全然音がしない。ただ、4歳の時に感じた幸せな感じがそこにはあった。
僕はすごいカッコイイスーツを着ていて、そこに僕の好きなラッパー・Kid Cudi がいた。
なんで一緒にいるただ一人の人間が彼なのか・・・って考えながら
目の前の鏡に映る自分の姿を見ていた。
僕が最初に思ったことは「マジかよ?!俺ら超カッコイイじゃん」。
そして「あの感じ」を感じながら、微笑みはあふれ続けた。
自分自身を誇りに思った。鏡に映る自分を見ながら、
これまでの人生を、僕がしてきたこと全てに。
あれは "最高の" 気分だった

Kid Cudiは、ミュージシャンだそうです。
そしてこのYou Tubeを私に教えてくれた村瀬さんも、スピリチュアリティの高いミュージシャンです、
村瀬さんはこう書いています。

深いお話です。
死をどうとらえるか、それは生をどうとらえるか。
すべて自然の理ならば、生まれるのを恐れる必要がないのと同様に、もしかしたらとてもナチュラルで、祝福されるべきものなのかもしれない。
しかし生きている間に死を学ぶことは、突発のパニックを防ぐことになり、非常に大切な気がします。
たとえばチベット死者の書のような、死について定義した書籍がホスピスで大きな評価を受けるように。
この青年の貴重な提言に敬意と心から感謝を想い、大きな気づきをありがとうございます。

節子の隣にいたのは、私でしょうか。
それはともかく、節子もそうした"最高の" 気分にいてくれるのでしょう。
そう思うと、心がとても安らぎます。
今の私には、自分よりもやはり節子のことが気になるのです。
そうした者にも、ベン・ブリードラブのメッセージはとてもうれしいものです。

■1596:Mさんとの再会(2012年1月16日)
節子
昨日は新年会サロンというのをやりました。
久しぶりに湯島のオフィスがあふれました。

最初にサロンに来たのはMさんです。
定刻よりも30分ほど早かったので、2人だけで少し話せました。
節子は面識がありませんが、私がMさんにお会いしたのは10年ほど前です。
企業の経営層を対象にしたある研究会でお会いしましたが、どこか心に残るものがありました。
毎年、年賀状が届いていましたが、交流はなくなりました。
この挽歌でも書いたかもしれませんが、そのMさんから1年ほどまえに電話がありました。
どうも最悪の事態を脱したようでした。
Mさんは、Yさんから私に電話をしたらといわれたのだそうです。
Yさんは私がMさんと出会う場をつくっていた人ですが、Yさんがなぜそう言ったのかはわかりませんが、もしかしたらMさんと私が同じ体験をしたことが理由かもしれません。
そして1年して、昨日、湯島に来てくれたのです。

私は「経営とは愛」だと考えています。
愛のない経営はうまくいくはずがないと思っていますが、なかなか賛成者はいません。
最近でこそそういう人はいますが、Mさんとお会いした頃はまだ異端の説でした。
ですから誰も私の話など真に受けなかったかもしれません。
Mさんは当時、かなりの借財をしていましたから、それどころではなかったかもしれません。

Mさんは、昨日、こう言われました。
会社で利益を上げて、それを社員だけで分け合っていいのか、むしろ社会とどう分け合うかが大切ですね。
苦労をして、いろいろなことがわかりました。

苦労しなければMさんはお金持ちの社長で終わったかもしれません。
苦労したからこそ、世界が広がり深まった。
そのことを心底実感されているようでした。
とてもうれしい再会でした。
またゆっくりとお話しすることにしました。

節子にも聞いていてほしかった話をいろいろとしました。
Mさんは私よりも年上です。
そしてさらに年上のYさんは今年の元日旅立ってしまいました。
昨日の出会いは、Yさんのお心遣いでしょうか。

■1597:家族と夫婦(2012年1月16日)
節子
昨日のサロンで、家族ってなんだろうかという話になりました。
若い参加者から、最近、血縁のない家族の話がテレビや映画で増えているという話が出たのを契機に、いろいろな意見が飛び交ったのです。
家族とは何か。
考えていくと難しい話です。

25年ほど前に住まい方研究会というのをやっていましたが、その頃、私が提起していたのは「核家族」ならぬ「拡家族」の復活でした。
血縁は家族を形成する最も効率的な要素ですが、それだけでは家族は血族の一部になってしまいます。
生きていく一人の人間の立場から考えると、それが絶対でもないでしょう。
それに血のつながりなどは見えませんから、あまり重要な要素ではないようにも思います。
DNA検査などで調べることにどんな意味があるのか私には理解できません。

その人と一緒にいると一番安心できて、その人であればなんでも相談できる。
私は、そんな人と暮らしたいと思います。
最初からそんな人がいるかといえば、それは親しかないでしょう。
しかし親との暮らしは対等ではありません。
それに、親にとっての子どもと子どもにとっての親はかなり違うものであって、たぶん平等な関係性は形成されないように思います。
ですから親子関係は家族の結果であって、家族の根幹にはならないように思います。

家族の基本は血縁のない夫婦だと私は思います。
だとしたら、家族にとっては血縁はきっかけでしかありません。
最初からお互いにこの人といると安心で、なんでも相談できるというような人は絶対にいないでしょう。
そうした絶対的な安心の関係は、時間をかけて一緒に暮らしながら育てていくものです。
それが夫婦だろうと思います。
そして、その関係性を育むために、親子関係が効果的に作用してくるのではないかと思います。
いささかややこしい話ですみません。

ところで、私にとって、一緒にいるだけで安心で、何でもさらけ出せ、なんでも相談できる人は節子でした。
節子は実に頼りない人でしたが、なぜか節子に頼めば何でも大丈夫、最後は節子が何とかしてくれるという、私にとっては、一種の「魔法の杖」でした。
全く論理的でないのですが、精神的に節子がいると安心だったのです。
それが夫婦なのではないか。
そんな気がします。

最近離婚が多いですが、離婚とは夫婦というしっかりした家族になることに失敗したことなのかもしれません、
夫婦になってしまえば、離婚など起こりようがありません。
家族のことを話しながら、そんなことを思っていました。

■1598:青空(2012年1月17日)
節子
今日の東京の空はとてもきれいでした。
ここ数日どんよりとしていたので、とても気分が晴れました。
節子がいなくなってから、湯島のオフィスからどれほど東京の青空を一人で見ていたことでしょう。
空からたくさん元気づけられました。
空を見ていると、節子と娘たちと一緒に行ったエジプトの空を思い出します。
会社時代はゆっくりと空を見ることなどありませんでしたが、初めての海外家族旅行で見た空の深さは忘れられません。
あの頃の節子は、青空のように明るく元気でした。

新潟から新潟水辺の会のみなさんがやってきました。
空の話になりました。
新潟市は雪は少ないが、冬の空は青空がなく、どんよりしている、そのせいか太平洋沿い育ちの妻は軽いうつ状態になってしまう、とOさんが言いました。
空がどんよりしていると人はその影響を受けるわけです。

Oさんたちと別れてから、いや、空だけではないなと気づきました。
最近、日本全国でうつ状態の人が増えているのは、社会全体がどんよりとよどんでいるからなのだろうと思ったのです。
そして、せめて私の周りだけは、どんよりしないように、私自身も青く晴れなければいけないと、改めて思い直しました。
心を明らかにしなければいけません。

青空といえば、闘病中の節子と駒ヶ岳千畳敷カールを歩いた時も、とても深い青空でした。
ホームページにその時のことが書かれていますが、その直後に節子が再発してしまうとは思ってもいませんでした。
と思いが広がってしまうと、やはり明るく晴れ晴れはできませんね。
困ったものです。

鈴木さんの勧めもあって、道元の正法眼蔵を読もうと思っています。
道元を学べば、もう少し心を清々しくさせることができるかもしれません。
闘病中の節子がくれた明るさの大きさを、最近、やっと実感できるようになってきました。
今度は私が誰かに注ぐ番ですね。
がんばって道元を読むようにしようと思います。

■1599:苦労こそが人を幸せにする(2012年1月18日)
節子
節子も知っているNさんが久しぶりに湯島に来てくれました。
そして奥様にお花をと言って、お花代をいただきました。
辞退しようと思ったのですが、受け取ってしまいました。
今もなお、そう言ってもらえることがとてもうれしいです。

Nさんは、10数年前に会社を辞めて起業しました。
しかし、いまも苦労されているようです。
苦労していると、人は他者のことを思いやる心が起こるものです。
苦労は、人を優しくし、幸せにします。
つまり苦労こそが、人を幸せにするのです。
最近、そのことがとても実感できるようになりました。

帰り際に、Nさんに、奥さんにはすべて話してあるのかと訊きました。
半分くらい、とNさんは応えました。
みんな話すといいと言いたかったのですが、今回は言い切れませんでした。

なぜみんな、苦労を伴侶と分かち合わないのか、いつも不思議に思います。
分かち合えば、苦労は優しさと幸せにつながっていることに気づくのですが。
しかし、「優しさと幸せ」はいつ反転するかもしれない不安定さも持っています。
愛すればこそ憎しみが高まり、そしてまた、幸せが不幸にいかに転じやすいか。
そうした話は、世の中にはあふれています。
だから躊躇するのかもしれません。

いろいろな人が、私のところに来ては、いろんな悩みや迷いの話をしてくれます。
考えてみると、私はそういう、誰かに相談に行った記憶がありません。
迷いや悩みは、すべて節子と分かち合っていたからです。
そして、幸いにそれは反転することなく、私たちの間に「優しさと幸せ」を生み出してくれていました。
2人で解決できないことは、何一つないと思っていました。
そう思えていた頃が、私たちにとって一番幸せな時だったのでしょう。

その幸せを思い出して、最近、時々思うのです。
そのままずっと今も続いていたら、あまりに幸せすぎたのだろうな、と。
そして、その幸せに気づかないままにいたかもしれない、と。
あるいは、それが幸せから不幸に転じたかもしれない、と。
節子との別れは、むしろ私たちに、幸せをくれたのかもしれません。
おかしな論理ですが、とても納得できるのです。
Nさんのおかげで、そんなことを考えさせてもらいました。

節子の位牌壇は、お正月の花でまだ賑やかです。
すかしユリも満開です。
それが終わったら、節子が好きだったカサブランカを供えさせてもらおうと思います。

■1600:「節子がいる私」と「節子のいない私」(2012年1月19日)
寒いです。
我孫子はみぞれが時々降っています。

10年前に離婚された方、まだ結婚されていない方から、コメントが書き込まれました。
お2人からは、「節子がいる私」を、少しだけうらやんでもらえました。
つい4年前には、節子に先立たれて、これ以上ない不幸を自らに重ねていたのに、いまはうらやまれても、それを素直に受け容れられる自分がいます。
とても不思議な気がします。

節子がいなくなってから、わが家はどことなく寂しく、哀しく、そして寒々としています。
節子の位牌の前には、いつも花が供えられていますが、それが逆に寒さを感じさせることさえあります。
和室にたてたコタツも、いまはそこに集まる人もいません。
身体は暖まりますが、心はなかなか温まりません。
今日のように、とても寒い日は、心まで冷えてきます。
実は、お2人からうらやんでもらえたような「節子がいる私」と同時に、「節子のいない私」が同居しているわけです。
そして、「節子がいる私」が「節子のいない私」を悩ませるのです。
なぜいまここに節子がいないのか、と。
そういう思いに襲われると、心身が動かなくなるのです。
その哀しさは、なかなかわかってはもらえないでしょうが。

愛する人が「いない」という意味はふたつあります。
「まだいない」のか「もういない」のか。
あるいは、「意識的にいない」か「身体的にいない」のか。
まあこんな理屈はどうでもいいのですが、心身が冷えてくると、そんなことまで考えてしまいます。
困ったものです。

まだ外はみぞれです。
明日の朝は白くなっているでしょうか。
朝起きて、窓を開けると真っ白な世界。
「雪だよ」と節子を起こしたことを思い出します。
雪の朝は、いつも私のほうが早起きでした。

それにしても寒いです。
手がかじかんできています。
節子に暖めてほしいです。
昔のように。