妻への挽歌(総集編8)
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目次


■2401:生きるとか死ぬというのは、他者がいればこその概念(2014年4月8日)
節子
人間は、結局はひとりなのだと、よく言われます。
ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくとも言われます。
この言葉には、私はまったく同意できません。
人は、どんな場合にも「ひとり」ではありません。
だれかがいればこそ、生まれてこられたし、死んでもいける。
生きつづけられるのも、だれかがいればこそでしょう。
地球に一人残されたら、生きるという意味がなくなるはずです。
生きることと死ぬことさえ、別のことではなくなってしまうでしょう。
生きるとか死ぬというのは、他者がいればこその概念です。

人が、個人としての意識や存在を得たのは、5000年前頃だという説もあります。
言語ができたおかげだとも言われます。
私にはとても納得できます。
それまでは、個としての生とか死とかいう概念はなかったのかもしれません。
いや、もしかしたら、それはそんな古い話ではないのかもしれません。
映画やテレビドラマの時代劇を観ていると、ばったばったと人が死んでいく場面がありますが、当時は、まだ「個の死」という概念が自覚されていなかったのではないかと思います。
そうでなければ、あんなに無造作に人は死んだり殺したりしないでしょう。
家族のために死ぬという場合、その死は、もしかしたら、生きることを意味していたのかもしれません。

先週、友が亡くなりました。
関西に住んでいることもあって、2〜3年に一度くらいしか会うことのなかった友人です。
手紙やメールも、年に数えるほどでした。
息子さんが、教えてくれました。
おかしな話ですが、友人が死んでも、私の生活にはほとんど影響がありません。
会う機会が少なくなっただけだと考えることもできます。

これまで多くの友人の訃報を受け取りました。
しかし、最近、誰が死んでいて誰がまだ存命なのか、記憶が曖昧になってきました。
これは「老人性痴呆」のせいかもしれませんが、もしかしたら、そうではなく、存命かどうかはあまり意味のないことであるが故に、記憶が曖昧になるのではないかという気がしてきました。
毎日会うような家族でなければ、生死はあまリ問題ではないのです。
たとえ亡くなったとしても、私の中にしっかりした記憶があれば、生きているのと同じです。
なにやらめちゃくちゃな議論のようにも思えますが、今でも鮮明に記憶している亡くなった友人もいます。
彼は、私の生活の中では、いまもなお生きている気がします。

そういう意味では、節子もいまなお、生きています。
死んでしまったのがさびしいのではなく、会えないのがさびしいだけなのです。
死者と会える方法はないものでしょうか。

孤独死や孤立死も、決して、一人で死んでいくのではないでしょう。
必ず誰かを思い出しながら、誰かに見守られながら、旅立つのだろうと思います。

スピノザのことを、ある本で読んで考えたことです。
スピノザを少し読んでみようと思います。

■2402:明日のことを考えるから辛くなる(2014年4月9日)
節子
本でこんな話を読みました。

京大霊長類研究所で飼っていたチンパンジーが大怪我で寝たきりになってしまったのですが、そのチンパンジーは、悲観することなく、寝たきりのまま生活を楽しんだそうです。
それを観察した松沢哲郎さんは、チンパンジーはそもそも明日のことなんか考えないし、今現在は生きているのだから、悲観する理由がないんだと気づいたといいます。

わが家のチビ太も2年間、老衰のため寝たきりでした。
彼が、それを楽しんでいたかどうかはわかりませんが、悲しんだり嘆いたりはしていませんでした。
いや、松沢さんほど確信はありませんが、そんな気がします。

その話を紹介している、いま話題の理化学研究所の藤井直敬さんは、「明日のことを考えるから楽観や悲観が生まれる。チンパンジーのように主観的な「今」だけの存在であれば、生きることは結構楽なことかもしれませんね」と書いています(「談」99)。

とても納得できる話です。

未来は勇気や生きる喜びを与えてくれますが、同時に苦しみや不幸も引き起こします。
今だけを、刹那的に生きることができれば、たぶん人生は面白くなるでしょう。
しかし、それは「人生」とはいえないかもしれません。

節子も、3〜4か月ほど、ほぼ寝たきりになりました。
あの時の節子は、どうだったのでしょうか。
それは確信をもてません。
では私はどうだったか。
今から思えば、未来ばかりを見ていて、現在をおろそかにしていたかもしれません。
節子を治すことしか考えられずに、あるいは治った節子ばかりを見ようとしていて、現在に誠実に立ち向かわなかったような気がしてなりません。
そしてさらに思いを進めれば、実は辛くなるがゆえに、楽しい未来しか見ようとしなかった。

節子は現在を生き、私は未来を生きていたがゆえの、すれ違いがあったのです。
いまさらこんなことに気づいても意味がないのですが、最近、ようやくそうしたことにも気づきだしました。
節子が繰り返し話していたように、人は今を生きなければいけません。
改めて、その意味をかみしめたいと思います。

■2403:自分の創作世界の中で心を安定させる行為(2014年4月9日)
節子
挽歌をだいぶ書かなかったので、藤井さんが出てきたついでに、もう一つ書くことにします。
おなじインタビュー記事で、藤井さんはご自分が開発されたSR(代替現実)システムでの実験の話をされています。
その実験とは、頭部装着型のディスプレイ装置を使い、目の前の現実映像と予め記録された同じ目線での360度映像を、同じディスプレイで途中で切り替えて見せていくと、記録された過去のシーンと目の前の現実シーンの区別がつかなくなるというようなものです。
そういう実験を重ねてきて、藤井さんは、私たちが実感している現実もまた、すべて脳内現象として説明できるといっています。
極端に言えば、そうした技術を発展させていけば、現実もまた思いのままにつくれるということです。
映画「ソラリス」や「トータルリコール」は、まさにそうした話ですし、1960年代から70年代にかけての日本のSFにも、同じテーマの話がいくつかありました。
それが現実味を帯びてきたというわけです。

もしかしたら私が生きているあいだに、此岸において、節子に会えるようになるかもしれません。
だからといって、会うかどうかは、決めかねますが。

話がまたそれました。
私が今回書こうと思ったのは、そういうことではなくて、現実とはいかにもあいまいなものだという話です。
絶対的に何かがあるわけではなく、僅かばかしの素材を、自分に都合の良いように、物語に仕上げているのが、認識であり体験だということです。
同じ現実を観察しながらも、その認識や記憶は、人それぞれだとも藤井さんは、書いています。
それでは共に生きてはいけないので、共通の尺度を作り上げてきたのが人類だとも書いています。
私のように、そうした共通の尺度や常識になじめない人間にとっても、その仕組みの恩恵は計り知れないほどに大きいです。
しかし、そこからくるストレスもまた大きい。
それを解消してくれていたのが、節子だったと、最近、これも改めて気づきました。

また話がそれました。
あいまいな現実ということを踏まえると、この挽歌で書かれている私の記憶は、すべて創作かもしれません。
事実、娘からはかなり創作だと指摘されています。
私には全くそういう思いはないのですが。
挽歌を書くとは、自分の勝手な世界の中で、心を安定させる行為なのかもしれません。

■2404:伴侶がいなくなった後(2014年4月10日)
節子
こんなデータがあるそうです。

60歳以上の女性では、「夫が生存している」ほうが「生存していない」場合に比べて死亡リスクが2倍高く、男性では「妻が生存している」場合には死亡するリスクが半減する。

とくに75歳以上の場合、この傾向が強いそうです。
夫婦というものは、伴侶の寿命にも大きく影響する。
しかし、男性と女性とでは、逆だとは、複雑な気分です。
夫にとって妻は命を支える存在だが、妻にとって夫は命を脅かす存在というわけです。
いささか納得できない気がしますが、なんだか分かるような気もします。
たしかに、節子がいたおかげで、私はどれほど生きやすかったことか。
ということは、それだけ節子が苦労していたということかもしれません

言い方を変えると、女性は一人でも生きられるが、男性は一人では生きられない、ということでもあります。
あるいは、親子関係が影響しているのかもしれません。
しかし、いずれにしろ、伴侶のいなくなった男性は元気をなくし、伴侶のいなくなった女性は元気になるということです。
そういわれると、たしかにそうした事例は周りにもあります。
私自身も含めてですが。

死亡リスクが倍増したにもかかわらず、私はもう6年半、生きています。
これは、われながら驚きです。
節子もまさか、6年ももつとは思っていなかったでしょう。
しかしまあ、この6年、ある意味では死んでいたようなものです。
死ぬことさえ忘れてしまっていたのかもしれません。
最近、かなり精神が正常化してきましたので、問題はこれからかもしれません。

死亡リスク倍増の中で生きることは、それなりにスリリングで楽しそうです。
ルールを破るのは、楽しいことですし。

■2405:生まれ変わり(2014年4月10日)
節子
ちょっと面白いインタビュー記事を雑誌で読みました。
話しているのは、東大教授の岡ノ谷一夫さん。
こんな話です。

私が私の個別の意識をもっているということは、どう考えても特殊すぎる感じがする。
だから逆に、私が今もっている意識には遍在性があり、今の私が消滅したあとに別の人の中で再構築される可能性もあるのではないか。

「今の私が消滅したあとに別の人の中で再構築される可能性もある」。
これだけ読むと、何かオカルト的ですが、岡ノ谷さんが言っているのは、自分の意識もさほど特殊なものではなく、いろんなところで生じる意識のうちの一つであり、たまたま区分けられたものでしかないと考えると、いろんなことが見えてくる、といっているのです。

広い世界の中には、私と同じ意識の人、つまりもう一人の私がいるかもしれないと考えると、世界は違って見えてきます。
もしかしたら、どこかに私がいる。
あるいは、いつかまた私が誕生する。
言い換えれば、どこかに、あの節子もいる、ということです。
こういう話を重ねていくと、わけのわからないオカルトの世界に入りかねませんが、しかし意識とか心の問題を考えていくと、オカルトとは別の世界を感ずることができるようになってきます。
そして、彼岸に届きそうで、届かない、もどかしさを感ずるようになります。

岡ノ谷さんは死後の世界はないと断言しています。
つまり、死んだらもう全部終わりだというのですが、最近は生まれ変わりということにも興味を持つようになってきたといいます。
意識や心の問題、あるいは言語の問題を考えていくと、たぶんそうなっていくのでしょう。

最近、こんな話が多くなってきてしまいました。
私の心境の変化のせいかもしれません。

■2406:愛する人から奪われていく(2014年4月11日)
節子
久しぶりに小学校時代の同窓生に会いたくなって、大森に行ってきました。
小学4年から中学1年まで、私は大森で育ちました。
今では、大森に住んでいる同窓生は少なくなってしまいましたが、今日、会ったのは靴屋の基之です。
急に電話したのですが、わざわざ駅まで出てきてくれて、美味しいうなぎをご馳走してくれました。
自分の靴屋のお店は臨時休業にしてきたそうです。
彼は親父さんのあとを継いで、靴屋をやっていましたが、名人だった親父さんのような良い靴は自分には作れないと作るのをやめてしまいました。
巨漢で、いまは独り身なので、いつもちょっと気になっています。
これほどのお人好しはいないというほどのお人好しですが、最近は靴は売れないと言っていました。

彼と、もう2人ほど、親しい仲間がいるのですが、それぞれにいろんな問題があって、最近はなかなか会う機会もありません。
小学校時代の同窓生でいえば、男性は5人ほど亡くなっていますが、そのうちの3人は、小学校時代には私ととても仲良しでした。
子どもの頃、一番よく遊んだのが、その3人でした。
よりによって、なぜその3人が亡くなってしまったのか、一時はちょっと気になりました。
私に親しい人が、先に旅立っていく。
まあ、そんな気さえしたこともあります。

これは小学校時代の同窓生に限ったことではありません。
なぜ、よりによって彼が、と思う体験は少なくありません。
しかし、これは、私だけの話ではないのでしょう。
人はみんな自分中心に考えますから、そういう印象が残ってしまうのでしょう。

「愛する人から奪われていく」。
私には、そんな気がしてなりません。
まあこんなことを言うと、いま残っている人は、どうでもいい人なのかと怒られそうですが、そんなことは決してないのですが、子どもの頃、仲がよかった友からなくなってきているのは事実です。

久しぶりに会ったといっても、特に用事があったわけでもありません。
しかし、話しているときりがありません。
幼なじみとはそんなものなのでしょう。
少し元気が出てきましたが、うなぎのせいではないでしょう。
無垢の世界に立ち返ると、人は元気になるものです。
ちなみに、私にとって、節子との関係は、まさに「無垢」の関係でした。
お互いに完全に正直になれましたし、駆け引きなどは不要でした。
お互いに隣にいるだけで、心が落ち着きました。
そういう関係性は、一朝一夕には出来ません。
お互いに、それなりの努力を重ねた結果でもありました。
もう、そういう自らを完全に開放できる関係を体験する事は無理でしょう。

別れた後、また少しややこしい相談を受けている人に電話しました。
みんな基之のように、無垢な生き方をしていると社会は平和なのですが。
基之との時間でもらった元気は、やはり1日で消費してしまいました。
社会は、壊れているとしか思えません。

■2407:「あなたの温かみがなくなって世界が冷たくなった」(2014年4月12日)
節子
タイトルの「あなたの温かみがなくなって世界が冷たくなった」は、ハンナ・アーレントの葬儀で、友人のハンス・ヨナスが語った言葉です。
この言葉に出会った時、なんだか私自身の気持ちのように感じました。
「あなたの温かみがなくなって世界が冷たくなった」。
文脈も、意味も、まったく違いますが、私の思いを表現する言葉です。

しかし、なんと感動的な言葉でしょうか。
節子の告別式では、私にはこういう言葉は出てきませんでした。
また6年以上にわたって、挽歌を書いていますが、そこでもこういう言葉は出てきません。
それどころか、この挽歌は、なかなか目指している挽歌にはなりません。
あまりに、節子との距離感が近すぎるでしょうか。
気のきいた言葉が、いつになっても出てこないのです。
節子と付き合い始めた頃、毎日、節子に詩を書いて送っていましたが、あの頃のほうが、企業の聞いた言葉が出てきていたように思います。
感性がまだ瑞々しかった若さのおかげかもしれません。

今では、心に響く言葉がなかなか出てきません。
そのため、誰かの言葉を借りて、この挽歌を書くことも少なくありません。
まあ、それも一つの節子への挽歌と考えてもいいでしょう。

そんなわけで、今日はヨナスの言葉を節子に贈ります。
「あなたの温かみがなくなって世界が冷たくなった」
夜になると、冷たさがこたえます。

■2408:農園が少しずつ復活してきています節子(2014年4月13日)
わが家の農園も少しずつ「畑らしく」なってきました。
まあ、ほんとに少しずつですが。
写真は1週間前のものですが、きゅうりとトマトとなすを植えています。
今日は、そのとなりに大根のタネを蒔いてきました。
ちょっと古いタネなので、芽が出るといいのですが。

なにしろ空いている宅地を利用しての畑なので、大変です。
節子の時代に、苦労して土壌を良くしてきましたが、節子が農園をできなくなってから放置していたため、また笹が全面を覆ってしまったのです。
2年かけて、何とか笹を抑制してきましたが、根が張り巡っているので、大変です。
その上、放射性汚染のために、表土をかなり削除しました。
だからまさにまた開墾作業をつづけています。

節子は一時期、ピーナッツを植えました。
初めて生のピーナッツを茹でて食べましたが、とても美味しかった。
でも今は、放射性汚染の関係で、土中に生えるピーナッツはちょっと抵抗があります。
大根も迷ったのですが、まあ植えてしまいました。

畑作業はそれなりに大変です。
前にも書きましたが、誰かと一緒にやるとゆっくりと話しながらできるので楽しいのですが、一人だともくもくと作業するという感じで、すぐ疲れてしまいます。
畑にじかに腰を下ろして、休み休みの作業ですが、私は一人で何かを黙々とやるのが苦手なので、すぐ飽きてしまいます。
座り込んで、掘り返した土を見ていると、それなりに面白いのですが、やはり一人では長続きしません。
不思議なもので、節子と一緒だった時には、何であんなに畑作業が楽しかったのでしょうか。それは別に畑作業に限ったことではありません。
どんな退屈なことも、節子と一緒だと楽しかったのかもしれません。
いまは何をやっても、楽しくはありません。
困ったものです。

道沿いは節子の構想では、散歩する人たちのための花畑です。
しかし、道沿いは斜面なのと笹の根が広がっているので、整地が遅れています。
昨年は、中途半端なまま、ひまわりと百日草の種を蒔いたのですが、全滅でした。
今年は、がんばって夏までには花畑にしようと思います。
苗は高いので、庭のプランターに花の種を蒔きました。
うまくいくといいのですが。

■2409:人は一人で生きてはいない(2014年4月14日)
節子
人は自分の人生ではなく、自分たちの人生を生きているのではないかと、最近、強く思えるようになってきました。

節子と一緒に暮らすようになって、私の人生はたぶん一変しました。
価値観も大きく変わった気がします。
最初は、私が節子の価値観を変えようと思っていましたが、価値観は関係性の中で育っていくことを、40年の結婚生活で実感しました。
「社会脳」という言葉がありますが、極端に言えば、脳はそもそも「個人脳」ではないように思います。
人は決して、一人では生きていないのです。

節子が旅立った翌年、秋葉原通り魔事件という無差別殺傷事件が起きました。
その犯人の弟さんが自殺しましたが、その人が残した記事を読みました。
事件が起きた後、家族はみんな人生を変えてしまったのです。
弟さんは、自殺してしまいました。
弟さんは、被害者家族も辛いだろうが、加害者家族も辛いのだと書いています。

家族の一人が、事件を起こすことで、家族は、人生を狂わせます。
事件に限りません。
事故でも自殺でも、近くの人の死は、人生を変えるのです。
人は、一人で生きているのではなく、家族や仲間など、「自分たち」で生きている。
最近、改めてそう思います。

節子がいなくなって、人生を変えてしまったのは、私だけではありません。
まだ結婚せずに自宅に残っていた、娘たちの人生も変わってしまいました。
親としては、それが悔やまれて仕方がありません。
家族は、良い時はいいですが、問題が起こると、シェアしてしまうのです。
たとえば、家族の誰かが、思っていたよりも早く亡くなってしまうと、家族は混乱し、それぞれの人生は大きく狂いだします。
家族の「絆」が強ければ、なおさらです。

人の死は、必ずまわりの人たちを巻き込んでしまいます。
人は、決して一人では死ねない。
私たちは、つながって生きている。
「いのち」は、決して自分のものではないのです。
この頃、そういうことを痛切に感じています。

■2410:「必然」というものへの一種の愛(2014年4月16日)
節子
われわれは単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならない、とスピノザは言いました。
すべては、自然の流れの中で動いている、それに帰依すれば、絶対的な安心が得られるとスピノザはいいます。

昨日は久しぶりに新潟に行ってきました。
5年前から関わっている「ネットワークささえあい」の新潟サロンが始まったのです。
第1回目だったので、私も参加させてもらいました。
佐藤裕さんが参加してくれました。
裕さんも、私と同じく、数年前に家族のひとりを失いました。
会を主催した事務局のお一人である金田さんも、昨年、同じ体験をしました。

家族を失う意味は、それぞれに違います。
一様に考えることはできません。
それに、一般論で考えることもまちがっています。
100歳を超した親とまだ若い子どもとは、その意味は全く違うだろうと考えていましたが、そうではありません。
喪失体験は、それぞれに違っていて、一般化はできません。
そうしたことに気づいてきたのも、最近のことです。
以前は、伴侶を失う事こそが一番辛い、と私自身思いこんでいましたが、そんなことはありません。
喪失体験の辛さは、比較などできないのです。
それは相手の問題ではなくて、自分の問題だからです。
喪失体験とは、他者の死のことではなく、自らの生の問題なのです。
常に悔いが残るのも、そう考えれば、納得できます。
昨日の集まりで、ようやくこの事が、実感できました。
グリーフケアの捉え直しが必要なような気がしてきました。

スピノザは、しかし、そうした別れは、自然の大きな流れの中での「必然」だと断定します。
そう確信すれば、全体的な安心がやってくるというのです。
一種の諦めの勧めのような気もしますが、そうではありません。
そこには「愛」があるといいます。

スピノザの「エチカ」の入門書を読んでみましたが、よく理解できませんでした。
唯一、受けたメッセージは、「必然」というものへの一種の愛をもてるならば、平安な生が得られるだろうということです。
なかなか消化できません。

新潟は桜が満開でした。

■2411:久しぶりの河島さん(2014年4月18日)
節子
節子がいなくなってから、衣服などの買い物にほとんど行かなくなってしまいました。
そのため6年以上経過すると着るものがなくなってきました。
特に、まったく買っていないのが、ビジネスシューズです。
もう7〜8年、一足も買っていません。
しかもほとんど履く機会もありません。
背広を着た時だけは履きますが、最近は月に1〜2回です。
先日、下駄箱に入っていた5〜6足の靴のなかから、無造作に1足を引っ張り出して大阪に履いていきましたが、雨の中を歩いていたら、靴の底がはがれてしまいました。
古い上に、よほど安い靴だったのでしょう。
気づいたのが、新大阪駅に着いた時でしたので、そのまま新幹線に乗りました。
そして大変な苦労をして、何とか帰宅しました。
靴屋の友人から、安い靴はだめだと言われていましたが、その通りでした。
しかし、靴底がはがれてしまうとは、困ったものです。

来週また大阪に行くのですが、あの悪夢を思い出しました。
それで残っていた靴をすべて処分し、新しい靴を1足だけ買うことにしました。
それで近くのイトーヨーカ堂に娘に頼んで靴を買いに行きました。
そうしたら、衣料関係の特売をやっていました。
3割引きなのです。
滅多に行かないので、ついでなので、シャツを買うことにしました。
選んだら、同じのを持っているんじゃないかといわれました。
そういえば、前に買ったシャツと同じものでした。
私は、いろんなものを楽しむタイプではなく、気にいったら、それだけを楽しむタイプなのです。
だからいまもって、節子にこだわっているのでしょう。
困ったものです。
ちなみに、そのシャツは以前買った時の3分の1以下の値段でした。
これもいささか納得できませんが、買ってしまいました。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、その買い物をしていたら、突然、声をかけられました。
転居前に住んでいた家の近くの河島さんご夫妻です。
実に久しぶりです。
「とても気になっていたのですが、お元気そうで何より」、とお2人は言ってくれました。
お会いするのは、節子の葬儀以来かもしれません。
そういう河島さんたちも、お元気そうでした。

「河島さんもお変わりないようで」と応えたら、「いまも貧乏に暮らしています」と河島さんらしい言葉が返ってきました。
それで、ついつい「わたしもそうです」と言ってしまいました。
ちょっと河島さんに失礼だったでしょうか。

河島さんは、東京でお店を持っていた時計職人でしたが、もうお店もやめていることでしょう。
以前、一緒に電車に乗っていたら、私の時計を見て(その時、ある理由でオメガの時計をしていたのですが)、せっかくのオメガが可哀相ですと言って、わざわざ預かっていって磨き直してくれました。
時計嫌いな私は、かなり乱雑に扱っていて、時計の表面ガラスが傷だらけだったのでしょう。
あまりにきれいになって戻ってきたので、使うのをやめてしまいました。
そのオメガの時計は、アポロが月面に到着した最初の宇宙士がはめていたのと同じ時計なのだそうで、あることでオメガからもらい、仕方がないのでしばらく使っていたのです。
河島さんに会うと、あの時に御礼をしたかどうか気になって仕方がありません。
私は、そういうところがかなり非常識で、忘れてしまうのです。
実に困ったものです。

節子が元気だったら、河島さんとの付き合いも続いていたでしょう。
節子がいなくなったために、付き合いが止まってしまった人も少なくありません。

また食事でもご一緒しましょう、と分かれました。
ところが、そのおかげで、靴を買うのを忘れてしまいました。
さて、来週の大阪行きは大丈夫でしょうか。また靴底がはがれないことを祈るばかりです。

■2412:ほんとうによいこと(2014年4月19日)
節子
今日は湯島でフォワードカフェをやります。
この集まりは、自殺のない社会づくりネットワークの交流会から始まったのですが、「自殺」を前面に打ち出すとみんな腰が引けるようで、参加者が固定されがちでしたので、昨年からスタイルを変えました。
ちょっとつまずいたけれど、いつか前に向って進みたいと思っている人たちの、ホッとできる場にしたいと思ったのです。
一挙にそうはなりませんが、継続したいと思っています。
それは、依然、節子とやっていた頃のオープンサロンの精神です。
オープンサロンは賑やかになりすぎてしまいましたが、今回は私自身があまり広く活動していませんので、集まる人たちも純粋にカフェを楽しむ人たちになってきました。
会の参加者が増えて賑やかになっていくことが、必ずしもいいわけではありません。
最近ようやく、そうしたことが頭での判断ではなく、感覚的に納得できるようになってきました。

いろんなスタイルのサロンを、いまもやっていますが、そのおかげでさまざまな人たちに出会います。
さまざまな人生があることを、いつも実感しています。
うらやましい人生もあれば、何かしてやりたくなる人生もあります。
カフェをしながら、いつも思います。
みんなが、お互いに心を開いて、一緒に支え合ったら、世界は豊かになるだろうと。
しかし、その一方で、私自身も含めて、みんなそれぞれに「自分の世界と自分の小さな財産」にどこかで執着しています。
人は支え合わないと生きていけませんが、同時に、自分ひとりの世界を持たないと、生きつづけられません。
本当に、人とは勝手なものです。

しかし、私にとっては、節子との生活は、すべてを投げ出しても、心地よいものでした。
節子さえいれば、財産など何一つなくてもいいと思えていました。
夫婦とは、実に不思議な関係です。

スピノザは、「知性改善論」と言う本で、「一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれのあずかりうる真の善[ほんとうのよいこと]で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探究してみようと」。

私にとっては、その答は存在します。
しかし、「手に入れて」というスピノザの発想は、たぶん間違っています。
「ほんとうによいこと」は、決して、手には入りません。
節子が隣にいて、手に入っていた時には、その意味が私にはわかっていなかったのです。
私の手から離れてからやっと、私には「ほんとうによいこと」とは何なのかがわかりました。

さて、今日はどんな物語に出会えるでしょうか。
もし良かったら、湯島に遊びに来てください。
1時半から3時半までやっています。

■2413:確かなのは、いま、ここに、生きているということだけ(2014年4月21日)
節子
韓国で客船の沈没事故があり、多くの高校生たちが閉じ込められたまま、もう5日間も経過しています。
家族の思いはいかばかりかと思うと心が痛みます。
暗い船室に閉じ込められ、救いも来ずに絶望的な生を過ごすとはなんと残酷なことでしょう。
緩慢な死。思っただけでも、心が震えます。

最近になってやっと「死」という言葉を使えるようになりましたが、
死というのはいかにもあっけないものです。
私自身、いまの次の瞬間に死んでしまうことも十分あります。
死んでしまえば、私自身は、たぶん「次の生」を生きているのでしょう。
もちろん、それがまったく存在しないのかもしれませんが、その時には私自身が存在しないわけですから、死もまた存在しないわけです。
しかし、もし私がいるとしたら、「次の生」を生きているといっていいでしょう。
生は、存在する限り永遠です。
でも、生とは、いかにも頼りなく、不確かで、何の保証もありません。
確かなのは、いま、ここに、生きているということだけです。
節子は、それを実感していた。
節子ともっと話して置けばよかったと、最近、痛切に思います。
いかなる哲学者の書よりも、節子は見えていたような気がします。
節子を見送って、6年半、私も少しだけ、そんなことを感じられるようになってきました。

いま、ここを、しっかりと生きるということは、しかし、簡単なことではありません。
そもそも「しっかり」と、とは何なのか。
流れにあわせて、自然に生きるということとも違うでしょう。
いま思い出すと、節子は感謝しながら生きていました。
今日も夜を迎えられたことに感謝。
朝を迎えられることに感謝。
何事も感謝です。
どうしたらそういう気持ちになれるのか。
私には、難しいことです。

節子も、娘たちも、賛成してくれると思いますが、
私は「ありがとう」という言葉をよく発します。
もちろん「感謝」の気持ちがあるからなのですが、感謝して生きるということは、それとは違う話でしょう。
今、ここに、いることを感謝するということですから。

韓国の客船沈没事故の報道を見ながら、思い出すのは、やはり節子との最後の1か月でした。
思いだすと、いまも、心が震えます。
先に船を下りた船長と、私は同じだったのではないか、そう思うと夜も眠れません。

■2414:どんどん歳をとっていきます(2014年4月21日)
節子
久しぶりに、近くに住んでいる、会社時代の同期生のAさんと食事をしました。
6月に同期会を開催するのですが、私が参加しないので、たぶん参加を勧めることもあって、食事を誘ってくれたのです。
私は、同窓会などがあまり得手ではないのです。
節子がいなくなって、ますますその傾向が強くなりました。
そういう場に参加すると、突然に、周りの風景が遠くに感じられ、自分の居場所が見えなくなることがあるようになったためです。

私の同期生は、202人だそうです。
そのうちの1割ほどが、亡くなっているそうです。
そういえば、最近、訃報が届くことが多くなりました。
つい最近も、私の親しい同期生の訃報が届きました。
そういう歳になってしまったのです。

Aさんのことは、節子もよく知っています。
そのAさんも、2年前から体調を悪くし、いまはあまり遠出ができないそうです。
実は先月、会食を約束していたのですが、当日の朝、奥さんから、体調をまた壊し、入院するため延期してほしいと電話があったのです。
今日のAさんは、とても元気そうでしたが、お互いに、何があるかわかりません。
死がいつ来てもおかしくないのです。

食事の後、喫茶店で話していたら、近くの奥山さんが入ってきました。
彼女は私よりも少し年下ですが、介護していた母親を見送って、今はおひとりのようです。
数年前、あるグループをつくった時、会計役を引き受けてくれたのですが、その会のメンバーもみんな歳をとってしまい、最近は活動がほとんどなくなってしまいました。
奥山さんから、最近、集まりがないですね、そろそろ解散したらどうでしょうか、と言われてしまいました。

こうやって、みんなどんどん歳をとって、いなくなっていくわけです。
節子、まあ、そんな歳になってしまいました。
彼岸にいると歳はとらないのでしょうが、此岸ではどんどん歳が進んでいきます。
彼岸が近づいてきているような気がします。

■2415:なかなかネガティブ志向から脱却できません(2014年4月23日)
節子
最近、気が萎えているせいか、少しいやなことが起こると、「もういいか」という気になってしまい、それを跳ね返そうとする気が起きなくなってきてしまいました。
さらにいささか僻みっぽくなってきて、相手に「うらみつらみ」のひとつでも言いたくなってしまうのです。
相手にも相手の事情があることを、ついつい忘れてしまうわけです。
そういう自分がまたなんだか惨めになってしまい、さらに気が萎えていく。
この半年、そんな状況に陥ってしまっています。
その流れを変えようと思ってはいるのですが、一度、流れができてしまうとなかなか変えられません。

世の中のすべてのことは、両面を持っています。
どんな親切にも悪意があり、どんな悪意にも親切があります。
ある事柄を、どちらの面から見るかで受け取り方はまったく変わってきます。
そんなことは、一応は理解していますが、気が滅入っている時には、どうしてもネガティブに受け止めてしまいます。
そしてますますネガティブになってしまう。
それもまた、人の素直な反応なのですので、あまりそれに抗うことなく、生きてきましたが、最近はネガティブな面が心身に堪えるようになってきてしまっています。
無理をして、行動すると、必ずといっていいほど反動がきます。
昔はこんなことはまったくありませんでした。
歳のせいか、節子の不在のせいか。

早く元気が出てくるような挽歌を書きたいのですが、どうもなかなかそうはなりません。
困ったものです。

■2416:朝から比べるとだいぶ元気になりました(2014年4月23日)
節子
久しぶりに清田さんと平井さんに会いました。
そのうえ、おいしいお昼までご馳走になってしまいました。
真鯛のソティが、とてもおいしかったです。

2人とも節子も何回か会っていますが、お元気そうでした。
逆に、お2人からは、私が元気そうだと言われましたが。

お2人に最初に会ったのは、もうかなり前です。
20年ほど前でしょうか。
いろいろとお世話になりました。
平井さんとは、平井さんの会社の企業変革の話を本にする仕事を一緒にやりました。
単なる方法論や報告には、私は全く興味がないことを知っているダイヤモンド社の岩崎さんが間に入ってくれたのと平井さんの強い思いのおかげで、私には実に創造的な楽しい仕事でした。
あの頃は、私自身も企業の変革や社会の変革に情熱を持っていました。

清田さんとも、その頃、知り合いましたが、お世話になったのは少し経ってからのギリシア旅行した時でした。
ツアー旅行だったのですが、たまたま宿泊したホテルのすぐ近くに海外駐在だった清田さんのオフィスがあったのです。
そこでお会いし、その翌日か翌々日がツアーのフリーの日だと話したら、清田さんがスニオン岬に案内してくれたのです。
帰りにおいしい魚料理もご馳走になりました。
その後、家族でトルコ旅行した時にも、清田さんのお心遣いで、イズミールで現地スタッフのエシムさん(だったと思いますが)が現地で食事をご馳走してくれました。
節子はとてもそれを喜んで、彼女が日本に来たらわが家に招待しようと言っていました。
それは残念ながら実現しませんでした。

たまたまお2人は、いま公益財団法人の研究所に所属しているのですが、そこで出している機関誌「談」が、かなり以前からの私の愛読書なのです。
まさか、この2人がその編集に関わるようになるとは思ってもいませんでした。
ちなみに、この「談」は、雑誌嫌いの私が、ほぼすべてをきちんと読んでいる唯一の雑誌です。
現代社会を読み解きたい方やアカデミアの最前線の気配に関心のある方には、お勧めします。

まあ、「談」はともかく、久しぶりにお2人とお話しできて、少し元気になりました。
共感するところがたくさんありました。
なぜか、お2人には、心が開いてしまって、節子のことまで話してしまいました。

不思議なもので、お2人と別れて、湯島のオフィスに立ち寄り、パソコンを開いたら、ずっと待っていた人からのメールが届いていました。
流れが変わるといいのですが。

■2417:他者への声かけは、自分への声かけかもしれません(2014年4月24日)
節子
暖かな陽射しのいい天気です。
今日は午前中は在宅なので、畑に行ってきました。
畑は少し手を抜くと、草が伸びだして、大変になりますが、それ以上に、植えつけた野菜の苗が元気にならないのです。
野菜には声をかけないといけません。
人とまったく同じです。

フェイスブックをやっているといろんな人の様子がそれとなく伝わってきます。
元気な人はいいのですが、時々、声をかけないと心配だなということがあります。
私自身、そういう時がありますので、よくわかります。
しかし難しいのは、声の掛け方です。
人は勝手なもので、声をかけてもらいたい一方で、声の掛け方で、受け取り方が変わってしまうのです。
でもまあ、まずは声をかけることです。
今朝も若い友人に声をかけさせてもらいました。
声をかけた途端に、ハッと気づきました。
これは自己の心情の他者への投影なのだと。
そう気づくと、いろんなことの見え方が変わってきます。
声をかけてこない人の心情や、極めて事務的な物言いも、結局は、自分自身にその根因があるのだと。
そう考えると、気分がかなり明るくなります。
世界は、自分の心情の投影でしかないのかもしれません。

畑はだいぶ広がってきました。
花の種が早く芽を出してくれるといいのですが。

今日は、良い日になりそうです。

■2418:いのちの季節(2014年4月24日)
先の挽歌を陽射しが当たる食卓で書いていました。
そうしたら、何かが窓にぶつかりました。
我が家は高台のはずれにあるせいか、時々、鳥が窓にぶつかるのですが、そんな大きな音ではありませんでした。
何だろうと見回すと、庭にくまんばちが飛んでいて、空中にとまってこちらを見ています。
もしかしたら、ぶつかったのは、その蜂かもしれません。

そういえば、朝、畑に出かける時にも、庭にいました。
藤棚の藤が咲き出したので、その蜜を吸いに来たのかと思っていましたが、蜜を吸う様子もなく、空中に止まっています。
節子でしょうか。
ガラス戸をあけて外に出たら、寄って来ずに、飛んでいってしまいました。
節子ではなかったようです。

戻ってパソコンに向かったら、また窓に何かがぶつかりました。
今度は先ほどよりも大きな音です。
出てみましたが、何もいません。

そういえば、今朝、庭にめずらしい鳥が来ていました。
飛んできたのではなく、裏庭の方から地面を跳ぶように走ってきたのです。
節子が、「また花や鳥になって戻ってくるわ」といっていたのを思い出して、出てみたら、この時も鳥は飛んでいってしまいました。

今日は、いろんな「いのち」がやってきるようです。
いや、私の心情が生き生きしてきたからかもしれません。

書き終わって、しばらく外を見ていましたが、くまんばちも鳥も戻ってきません。
しかし、外に出て、藤棚を見たら、先ほどのくまんばちが仲間と一緒に蜜を吸っていました。

春は、やはり「いのちの季節」です。

■2419:身勝手さを思う(2014年4月25日)
節子
やはりこの挽歌は、いろんな人に心配をかけているようです。
広島の折口さんからまたメールが来ました。
そういえば、先日会った平井さんも、この挽歌を読んでくださっているそうですが、だから「元気そうでよかった」と言ってくれたわけです。
いやはや困ったものです。

たしかに、そう元気とは言えず、時にドスンと落ち込んでしまうのですが、根が楽観主義というか単純なものですから、たぶん文章から感ずるほどではないのです。
挽歌にそうした思いを書いた途端に、気が戻ってくる面もありますし。
友人の吉田俊樹さんは、「こんなうじうじした文章を読めるか」と言いながらも、時々読んでいるようですが、それは私がともかく生きていることを確かめるためなのかもしれません。
まあ、そういう効用はあるようですが、それにしてもちょっと暗い文章が多いですね。
反省してはいるのですが、どうしてもそうなってしまいます。
困ったものですが、お許しください。

昨日も書きましたが、どの面に焦点を合わせるかで世界は違って見えてきます。
節子もよく知っている友人に、この連休に会えないかという連絡をしたら、妹さんのがんのケアもあって、連休は時間がないと連絡がありました。
そういえば、前に妹さんのがんの話は聞いていましたが、私自身すっかり失念していました。
彼女にとって、妹さんががんになったことは、とても衝撃的なことで忘れようがないでしょうが、私はそれを忘れてしまう。
人はなんと身勝手なことか。
自分のことは大げさに書きながら、他者の悲しさや辛さは軽く聞き流してしまう。
そのメールを読んで、とても恥ずかしい思いに襲われました。

友人自身は、最近大活躍で、それを知るたびにうれしい思いだったのですが、実はその後ろに妹さんの辛い事情もあったわけです。
彼女の辛さに関して、なんと無頓着だったことか。
人には見えないことがたくさんあることを、時に忘れてしまいます。
私のように、すべてをさらけ出してしまうと、自分は楽になりますが、その分、もしかしたら周りが迷惑しているのかもしれません。

私は娘から時々言われることがあります。
お父さんは見えることしか見ないで相手を決めつける、と。
自分では決してそうは思っていないのですが、自分自身が極めて単純なので、心のひだや見えない心情に鈍感なのかもしれません。
自分としては、そうしたことへの心配りは誰にも負けないと思ってはいるのですが、どうもそうではなさそうです。
これは節子からも以前よく言われていたことでもあります。

ちなみに、挽歌を読んで下さっている方の気持ちへの配慮は、間違いなくできていません。
そうでなければ、こうも毎日、意味もないことを書き続けられません。
以前は、それでも月に1回くらいは、意味のあることも書けていたような気がしますが、最近は自分でさえ、書いた後、アップしようかどうか迷うことが多いのです。
娘は、ネタがなくなったのではないかと言いますが、決してそうではなく、私の心情、あるいは生への思いが希薄になってきているのだろうと、私は思っています。

文章には、その人の生き様が現れるものだと、改めて思います。

■2420:夕陽(2014年4月25日)
節子
今日は湯島のオープンサロンです。
節子がいなくなってからも、まあ細々と続けていますが、節子がいたころとは大違いです。
当時の参加者も時にやってきますが、最近は参加する顔触れもかなり変わっていますので、もし節子が久しぶりに顔を出したら、むしろ戸惑うかもしれません。
サロンが始まる前の1時間は、いつも不思議な時間でしたが、それは今も変わりません。
今日は、夕陽がとてもきれいでした。

西側の窓の外の展望は節子がいたころに比べると少し変わりました。
最初のころは、遠くの夕陽がとてもきれいに見えていましたが、今は高いビルの隙間から、季節によって、見えたり見えなかったりするようになりました。
今の季節はかろうじて、ビルの合間に見えます。

夕陽を見ていると、やはり思い出すのは、節子の病気が再発する直前に見た、若狭湾沿いの河野からの夕陽です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0922
思い出して、その時に書いたホームページの記事を読み直してみました。
なにか淡々と書いていますが、その時の夕陽は私には忘れられないものでした。
お互いにどこかで、もしかしたらこの夕陽を一緒に見る事はもうないだろうと、どこかで思いながら、私も節子も、決して口には出さなかったのです。
その旅行が、私たちの最後の遠出の旅になりました。

湯島から見る夕陽もとてもきれいでした。
2人で夕陽を見ながら、今日は誰が来るだろうと話していたことを思い出します。
夕陽は、一人で見るとさびしくなります。
2人で見る夕陽はなんだか夢があって、私は好きです。

■2421:たくさん友人に支えられているのを実感します(2014年4月26日)
節子
久しぶりに朝早く家を出て、大阪に向かっています。
東海道新幹線はあまり好きではないのですが、今年は乗る機会が増えそうです。
今日は大阪でコムケアの仲間たちが開催する集まりがあるのですが、そこに参加するためです。
先週は新潟に行ってきましたが、よほど暇なのだろうと思われそうです。
まあ、事実、暇ではあるのですが。

昨夜も湯島でサロンでした。
初参加の人が2人も来てくれましたが、そうした人と話していると、サロンも意味があるかと思います。
それに私にとっては、世間の実相を実感できる場でもあるのです。
初参加の2人は若い女性でしたが、その話はとても興味深い話でした。
最近、感じていることが裏付けられた感じです。
初対面にもかかわらず、お互いにアドバイスしている様子を見ていると、
改めてサロンのような、カジュアルに世界を広げられ、自らを相対化できる場の必要性を感じました。
もしかしたら、私たちがやっていたサロンは、思っていた以上に意味があったのかもしれません。
最近は、節子がいた頃とはサロンのスタイルは変わってしまっていますが、節子がいなくなった分は、参加者のみなさんがフォローしてくれるようになっています。
昨日も大島さんが後片付けをしてくれていました。

今日の大阪での集まりには、久しぶりの人も来てくれます。
一人は、私の会社時代の友人の増山さんです。
今は環境系のNPOをやっていて、今日の集まりにはあまり関係ないのですが、私に会いに来てくれるのです。
コムケアの仲間では、小田原の時田さんがたまたま京都に来ているので参加してくれるそうです。
時田さんは、極めてご多用のはずですが、時々、思いもしないところで、私の動きに反応してくれるのです。
4年ほどお会いしていませんが、お会いできるのが楽しみです。

ところで、昨日のサロンでは、初対面の人もいたので、私も久しぶりに自己紹介しました。
話しながら、やはり私の生き方は世間からは大きく脱落しているなと思いましたが、そのおかげで、各地にたくさんの知り合いができて、いろんなところでお会いできるようになりました。
今日もまたいろんな再会がありそうで、楽しいです。

でもまあ眠いです。
大阪まではまだ少し時間がかかります。

ところで、昨夜は湯島の珈琲メーカーのスイッチは切ったでしょうか。
私は切った記憶がありませんが、ちょっと心配ですね。
火事にはならないでしょうが、困ったものです。

■2422:また来世でも会いたいといわれる生き方(2014年4月28日)
昨日、NHKの大河ドラマを観ていたら、こんなセリフが出てきました。

貴殿との付き合いは短い期間だったが、楽しかった。
また来世でもお会いしたい。

かなり不正確な引用ですが、たしか、死を決意した山中鹿介が黒田官兵衛に言った言葉です。
心に響きます。
私もそういう生き方がしたいとずっと持っています。
しかし、私自身、何人くらいの友人に、こういう思いを持っているでしょうか。
かなりいるようで、しかし考えていくと、あんまりいないような、そんな気がします。
ということは、たぶん私に対しても、ほとんどの人は、こうは思ってはいないことでしょう。
人の付き合いは、はかないものです。

会社時代、若い部下が転勤になった時に、私に対して、「ぜひまた佐藤さんと一緒に働きたい」と言ってくれたことがあります。
彼とは、会社時代は一緒に働く機会はありませんでしたが、不思議な縁で、私が会社を辞めた後に、同僚としてではありませんでしたが、同じプロジェクトを2年ほど一緒にやる機会がありました。
立場が違ったので、残念ながら私も彼も直接の「相棒」にはなれませんでしたので、以前とはまったくと言っていいほど関係性は違ったものになってしまいました。

それに、人とのつながりは難しく、関係が深まることで、お互いのあらも見えてくることもあります。
夫婦の場合は、それが極端になりかねません。
また来世でもと思うようになるかもしれませんし、もう来世では会いたくないと思うようになるかもしれません。
同じお墓には入りたくないと言う夫婦が少なくないとも言われます。

私の場合は、躊躇なく言えます。
節子との付き合いは短い期間だったが、楽しかった。
また来世でも夫婦になりたいと。
そして、躊躇なく、節子もまたそう言うだろうと確信しています。
そう確信できることが、私の生きる支えでもあります。

しかし、もしかしたらそれは私の誤解かもしれません。
そういえば、生前、節子は言っていました。
あなたはよく飽きないわね、と。
もしかしたら、節子は私に飽きていたかもしれません。
困ったものです。
彼岸で再会したら、確かめなければいけません。

■2423:大切な相手がいると人は弱くなる、だろうか(2014年4月29日)
節子
昨日、ドラマで聞いたセリフに言及しましたが、もうひとつ記憶に残ったセリフがあります。
それはイギリスのテレビドラマ「シャーロック」に出てくるセリフです。

ホームズの兄のマイクロフトは、原作とはかなり違ったキャラクターになっています。
彼が、ホームズの相棒であるワトソンに話すセリフに、こんなのがあります。

大切な人がいると人は弱くなる。

なにもマイクロフトのセリフを引用せずとも、これはドラマや映画の基本にある考えです。
冷酷な殺し屋には、多くの場合、家族はいないですし、誰かを愛したためにダメになってしまう殺し屋もよく登場します。
「大切な人」がいると、その人を守るために制約や迷いが生まれるからです。

しかし、逆に、「大切な人がいると人は強くなる」というドラマもあります。
大切な人を守るためであれば、なんでもしてしまうということです。

これは同じことを言っているのかもしれませんが、同じこともちょっと視点を変えると全く正反対な表現になることの一例です。

ところで、「大切な人」がいなくなってしまったらどうなるのか。
大切な人を奪った相手が特定できるのであれば、そこへの怒りが生きる力を与えてくれます。
前に挽歌でシリーズ的に書いた映画「ブレイブワン」は、その一つです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/12/post-0d30.html
最近話題のテレビドラマ「MOZU」の主役の一人である、公安警察の警部は、妻を事件で失うのですが、その真相を知りたくて、暴走的な行動に出ます。
彼が妻を愛しているかどうかはわかりませんが、「大切な人」であることは間違いありません。
「大切な人」がいなくなってしまったら、もはや何も失うものはなくなり、どんなことも怖くはなくなるのでしょう。
大切な人がいなくなると人は強くなれますが、それは大切な人がいたからです。
つまり、人が強くなるためには、大切な人がいなければならないのです。

マイクロフトがいう「大切な人がいると人は弱くなる」ということの根底には、キリスト教的神が存在します。
神への帰依か大切な人を守ることか、というテーゼです。
しかし、人は大切な人がいればこそ、強くなれるのです。
神にも抗うほどに、です。

私は、神よりも、大切な人の思いに、従いたいと思っています。

■2424:畑を頑張っています(2014年5月2日)
節子
畑がだいぶ畑らしくなってきました。
道沿いの斜面にもマリーゴールドを植えました。
節子がやっていた頃とは大違いですが、少しずつ回復しています。
娘たちも時々、手伝ってくれています。

ノビルが目につくので、フェイスブックに書いたら、みなさんがレシピを送ってきてくれました。
それで今日はノビルをたくさん収穫してきました。
ジュンに手伝ってもらって調理しましたが、実に美味しくないのです。
フェイスブックでの友人たちの言葉によれば、みんな美味しいと書いてあるのですが、調理に失敗したのかもしれません。
ジュンによれば、節子もノビルは調理しなかったようですね。
むかし食べたことがあるとは言っていたそうですが。
さてさて美味しいと勧めてくれた人たちにはなんと言えばいいでしょうか。

畑作業は大変ですが、着実に作業が進んでいるのがわかって、やりがいがあります。
それで、ついつい無理をしてしまう。
私は先のことを考えずに、目一杯やって倒れるタイプだと思われているので、娘たちがいつも心配しています。
しかし、自分の限界はよく知っています。
時におかしくなることはありますが、人生は時におかしくなるようでなければ退屈です。
そういう私の生き方を、心底わかってくれていた節子がいないのが残念です。
時に倒れるのが好みなのですが、節子がいないいまは、倒れることも出来ません。
困ったものです。

明日もまた畑作業です。
野菜はほとんど芽を出してきていないので、いまはまだ開墾作業なのですが。
それにしてお篠の根の広がりは、それはもう凄いです。
人のつながりに比べると見事と言うほかありません。
今日は本当に疲れました。

■2425:心身快調(2014年5月4日)
節子
また挽歌がたまってしまいました。
書こうと思いながら、最近、パソコン嫌いになってきています。

昨日は節子の月命日なので、娘たちを誘ってお墓参りに行きました。
もうじき、ここに自分も入るのかと思うと、いささかおかしな気分です。
しかし、私がお墓に移住したら、娘たちの墓参りの回数も減るでしょう。
夫婦と親子では、やはり少し違うのです。
私も、節子が元気だった頃は、両親の墓参りには、お彼岸や命日や年末年始くらいしか、来ませんでした。
今は月に2回が目標ですが、気を抜くとすぐに1か月くらいたってしまうのです。
考えてみたら、今回も1か月以上経過していました。

お墓はさぼり気味ですが、自宅の仏壇は毎日お参りしています。
最近は、節子に合わせて、いろんな人たちの冥福を祈っています。
病気祈願を念ずることも少なくありません。
そうやってだんだん人は彼岸に近づいていくのでしょう。

今日はこれからまた畑です。
世間は、楽しい連休ですが、私にとっては、畑仕事くらいしかやることがありません。
そのおかげで、心身はいたって快調です。

■2426:愛が失われていく時代(2014年4月23日)
節子
またストーk−による殺人事件が起きました。
なんともやりきれない事件です。
私の友人も、いまストーカーに悩まされているので、他人事ではありません。
しかし、愛が殺害につながるはずはありません。
どこかで、何かが屈折しています。
ストーカー殺人だけではなく、DVにもまた同じような構造があるでしょう。
「愛」とは、実に悩ましいものです。

節子には明言していましたが、私は「愛されること」にはあまり関心はありません。
多くの人に愛される生き方をしたいとは思っていますし、愛されればうれしいでしょう。
しかし、それは私がどうこうできることではありません。
「愛」に関して、私ができることはただひとつ、「愛すること」です。

人は「愛する」よりも「憎むこと」に傾きがちです。
人の欠点を見つけるのは、いとも簡単なことでもあります。
にもかかわらず、「愛する」ことは「愛されること」と違って、その気になれば自分でできることなのです。
そして、よく言われるように、愛している人からは普通は愛されるものです。
もし愛されなければ、愛し方が間違っている。
これが、私の愛の考え方です。
だから、私は「愛すること」しか関心がないのです。

ストーカーは、相手を愛していると思っているようですが、愛するということを勘違いしているのでしょう。
そして、こんな言い方をすると怒られそうですが、ストーカー事件やDV事件の唯一の解決策は、相手を愛することではないかと思います。

もちろん、愛するというのは、大きな意味での愛のことです。
言い換えれば、相手の尊厳を認め、相手の不幸を受け容れることです。

社会から「愛」がどんどんなくなっているような気がします。
私が、なんとか健全でいられるのは、節子を愛しているからかもしれません。
だれかを十分に愛することができれば、そして「愛すること」の幸せを体験すれば、多分すべての人を愛することができるようになるはずです。
節子が、そのことを教えてくれたのかもしれません。

■2427:ひるむ事なく旅立てる生き方(2014年5月6日)
節子
亡くなった友人の奥さんから手紙が届きました。
そこにこう書かれていました。

残念ながら病いには負けてしまいましたが、1年4か月にわたって、ひるむ事なく向き合ってきた姿を、私は誇りに思っております。

彼らしいと、改めて思いました。
そして、節子もまた、ひるむ事なく向き合っていたことを思い出しました。
それは、きっと「病いに負けた」のではなく、病いを超えたからだろうと思いました。

私の場合はどうでしょうか。
ひるむ事はない、と断言したいところですが、確信は持てません。
実際の状況に直面しないと、人の本性は現れません。
しかし、その本性は、生き方に現れもします。
ひるむ事なく旅立てる生き方に心がけなければいけません。
最近、少し生き方が惰性に流れています。
心を入れ替えなければいけません。

■2428:長い連休は怠惰に過ごしました(2014年5月6日)
節子
長い連休が終わりました。
といっても、私にはあまり意味のないことですが。
しかし、私も世間並みに、オフィスには1回しか行きませんでした。
相談があるので湯島に来てほしいという電話はありましたが、気分が乗らず連休明けにしてもらいました。
いつもなら、出かけるのですが、今年は気分が乗らなかったのです。
近くに出かけたり、自宅に来客があったり、少しは用事もありましたが、基本的には自宅で過ごしました。
何をやったかといえば、まあせいぜいわが家の農園の開墾作業くらいです。

時間がたっぷりあるので、学生の頃読んだカミユの「ペスト」を読むつもりでした。
しかし、結局は読めずに終わりました。
時間がふんだんにあると、本は読めないのが、私の昔からの習性でした。
時間がない時ほど、本も読めれば、仕事もできるのです。

振り返ってみると、実に何もしない怠惰な10日間でした。
節子がいた頃、こんなことはありませんでした。
節子がいなくなってから、私は実に怠惰になりました。
自分でも驚くほどです。
節子はもっと驚くでしょう。

怠惰に過ごしたツケは、必ず降りかかってきます。
明日からが少し不安です。
連休中にやるからと、いろんな人に約束していたことがあるような気がします。
しかし、幸いなことに最近は、以前よりももっと物忘れが激しいのです。
歳をとると許されることもあります。
人生はうまくできているのです。

■2429:社会への怒りで気が萎えています(2014年5月12日)
節子
何かを考えるのがいやになってしまっています。
無性に身体を動かしたくて、今日も強風の中を畑に行って、草刈りをしていました。
道沿いの斜面の篠笹の根を掘っていたら、近くの大西さんが愛犬のカンナちゃんを散歩に連れて通りかかりました。
少し話しました。
大西さんは、節子の葬儀にも参列してくれましたが、その後もわが家にご夫妻で献花に来てくれました。

大西さんは子どもがいないので、奥さんと2人住まいです。
私よりも若いのですが、経営していた会社をたたんで、いまは悠々自適のご様子です。
私たちも、そういう老後が夢だったのですが、現実は強風の中での開墾作業です。
人生は本当に思うようには行きません。

草の根を深く切り裂く鎌を買ってきたのですが、これが実に調子がいいのです。
ともかく地面を切り裂くように、土に指して引っ張ると面白いように草木の根っこが切れるのです。
これまでてこずっていた、ワイヤープランツも篠笹の根もかなりしょりできそうです。
もっとも1時間やってもわずかばかりしか整地はされませんし、まだまだ前途多難ではあります。
しかし、最近のように、考えるのが嫌な時には、気分がすっきりします。

まあそんなわけで、やはりブログも挽歌も書けずにいます。
本も読めません。
いろんな意味での「怒り」と「無力感」に苛まれています。
ニュースを見ると、怒りが浮かんでくるので、ニュースも新聞もあまり見る気が起きません。
こうして人はみんな、大勢に屈していくのでしょうか。
節子がいたら、この怒りをぶつけられるのですが。

節子は、今のようなひどい社会を見ないですんで幸せでした。

■2430:生きることの責任(2014年5月13日)
節子
昨日、しばらくぶりにブログを書いたら、「生きていましたか」とメールが来ました。
いやはや、今やこの挽歌が、私の「生きている証」のようです。
しかし、それは象徴的な意味でも、また現実的な意味でも、事実かもしれません。

「生きている」ことの意味は、単に呼吸をしているだけではないでしょう。
「死に体」という言葉があるように、死んでいなくとも生きていないこともあると言ってもいいでしょう。
しばらく前までの私は、もしかしたらそうだったかもしれません。
もしそうなら、生きていなくとも死んでいないこともあると言えるかもしれません。
こうしたことは書き出したらきりがありません。
しかし、それはたぶん極めて個人的な話になってしまい、文字にした途端に、なにやら危うい話になりそうです。

この数日、パソコンに向かえずに、ブログを書きませんでした。
ブログを書かないと、寂しさに陥りがちな節子のことも不快なことの多い時代状況のことも考えないですみます。
何も考えずに、ただ、いま、ここで、素直に時間に流されればいい。
悲しみもなければ、怒りもない。
この生き方は、ある意味では、実に楽な生き方です。
なににも煩わされることがありません。
時に電話やメールもありますが、いずれも無視すれば無視できないわけでもありません。
そのしわ寄せはいつかくるでしょうが、それまでは平安に過ごせる。
「隠棲」とはこういうことなのでしょうか。

しかし、それは「生きている」と言えるのか。
人は一人では生きられないという意味は、文字通り、一人しかいない場合は、生きていようと死んでいようと同じことだということではないかと、このごろ、思います。
人が生きている実感が持てるのも、生きがいを持てるのも、喜怒哀楽を感じられるのも、すべて誰かがいるからです。
悲しみや怒りがあればこそ、生きていると言えるのかもしれません。
自分の世界に引きこもってしまったら、生きている意味はなくなってしまいそうです。
自分の世界とは彼岸なのかもしれません。

世間がとても嫌いになってきていますが、自らもその世間の一員であることを忘れてはいけません。
この時代を生きることの不快さは高まるばかりであり、それを緩和してくれた節子もいなくなってしまっていますが、自分の世界に逃げるわけにも行きません。
悲しみと怒りのブログを、またできるだけ書くことにしようと思います。

■2431:「フリードマンが死んでよかったね」(2014年5月13日)
今回はタイトルが刺激的です。
時評編のほうに書こうかとも思ったのですが、挽歌が2週間ほどたまってしまっていますので、挽歌編に書くことにします。
まあどちらに書くかで、重点の置き方は変わってくるのですが。

この言葉は、高名な経済学者の宇沢弘文さんの言葉です。
フリードマンとは、ノーベル経済学賞まで受賞したミルトン・フリードマンのことです。
金銭市場原理主義と言ってもいいでしょうが、私にはとても受け容れ難い言動の人でした。

宇沢さんが以前発表した論考や講演録などを再編集した「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社)を読んでいたら、そこにこんな話が出てきました。

2006年でしたか、フリードマンが亡くなったという知らせを受け取ったとき、私と妻は思わず異口同音に「フリードマンが死んでよかったね」と。(笑)しかし、50年近く付き合っている人を「死んでよかった」と言うのは余りひどいというので、また2人でフリードマンの思い出話を30分間ほどした後、「フリードマンが死んでよかったね」とまた言ってしまいました。たいへん失礼な…。(笑と拍手)

宇沢さんが、ますます好きになりました。
と同時に、こういう会話ができる伴侶のいる宇沢さんがとても羨ましく思いました。
伴侶とは、まさに忌憚なく、こういう会話までできてしまう関係なのです。
最近の夫婦は、会話があまりないという話もよく聞きますが、それでは夫婦の意味がありません。
宇沢さんは、あっけらかんと講演で語っていますが、たぶん夫婦の会話のなかでは、もっと豊かな話し合いがあったはずです。
決して、個人としてのフリードマンの死を不謹慎に語っていたのではないでしょう。
その真実は、もちろん私にはわかりませんが、宇沢ご夫妻の30分の会話に、大きな幸せと羨望の念を感じます。
どんなことを話しても、決して誤解されることのない安心感は、人を幸せにします。
私と節子との会話は、完全ではありませんでしたが、ほぼそれに近かった。
もし宇沢ご夫妻ほどに、私たちの現世での生活が続いていたら、宇沢さんご夫妻と同じように、忌憚なく、そして屈託なく、絶対安心な会話ができたと思います。
そのためにこそ、私たちは結婚以来、隠し事も嘘もない生き方をしていたのですから。

しかし、その死を喜ばれるということもまた、幸せなことかもしれません。
死を喜ばれるほどに、生ききったともいえるからです。
フリードマンの生前の言動は、受け容れ難いですが、死ぬことによって人を喜ばせることができたとは、とても複雑な気分です。

■2432:「還るところはみないっしょ」(2014年5月14日)
節子
この週末、福井で開催されるNPOの集まりに出かける予定です。
主催はNPO法人心に響く文集・編集局です。
そのNPOが10周年を迎えるので、その記念の集まりです。
このNPOのことは、何回かここでも書いていますが、節子もよく知っているNPOです。

その集まりで、仏法劇団「合掌座」が「還るところはみないっしょ」という演劇を演じてくれます。
「合掌座」は、どうも吉崎御坊と縁があるようです。
元小学校の先生だった長谷川さんという女性が、どうも信徒に呼びかけてつくった市民劇団のようです。
吉崎御坊は、節子との最後の遠出の旅行で立ち寄ったところです。
もっとも残念ながら、あまり良い印象は残っていません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0921
あの時の節子は、再発していたにもかかわらず、誰よりも元気でした。
思い出すだけで、心が痛むような場面もいくつかありましたが。

吉崎御坊に立ち寄った後、足を延ばして東尋坊に立ち寄ったのですが、
そこでNPO法人心に響く文集・編集局の茂さんたちに出会ったのです。
週末に茂さんがプロデュースした集まりに参加するのも、元はと言えば、その節子との旅行が始まりだったのです。
ですから茂さんたちとの縁は、私には特別のものがあるのです。

ところで、合掌座の演劇の「還るところはみないっしょ」という言葉はとても安心感を与えてくれます。
そのタイトルだけで、興味が高まります。
還るところはみないっしょ。違いは、わずかばかりの時間の差。
そう思えば、悲しさも寂しさもないはずなのですが、その「わずかの差」が貪欲な私には堪えます。
どんな演劇なのか、楽しみです。

■2433:老い方は難しいです(2014年5月15日)
節子
一度、挽歌を書くのをさぼってしまうと、どうも書き忘れそうになります。
以前は日課の中に組み込まれていて、何となく時間があくとパソコンに向かって、「節子」という書き出しの文字を入力して、書くことが浮かんできたのですが、この1か月、かなり書かない日があったため、そうした習慣がなくなってしまいました。
1か月程度でなくなってしまうのでは習慣ともいえないかもしれませんが。

これは挽歌に限りません。
時評編も同じです。
と言うか、むしろ「時評編」のほうが書けなくなっているのです。
それというのも、この時代に生きていることへの不甲斐無さというか、怒りや屈辱を感ずるからです。
そう思い出したのは、今年に入ってからです。
まあ、この話題は時評編に回すべきですね。
節子に八つ当たりするのはやめましょう。

しかし、挽歌編も明らかにトーンも変わっていると思います。
自分でもわかるのですが、書こうとしていることが、なんだか「乾いている」のです。
読んで下さっている方には、そうは思えないかもしれませんが、なんだかパサパサしているのです。

最近、韓国歴史ドラマの「大祚榮(テジョヨン)」を観ています。
渤海を建国した英雄の話です。
そこに、唐のソリンギという武将が登場します。
主人公テジョヨンの敵役ですが、私好みの裏表のない正義漢です。
今日も観たのですが、老いたソリンギが相手の謀略を見抜く場面がありました。
それに感心した部下に、ソリンギが言います。
「歳をとると心身は衰えるが天に通ずるようになる」と。
なかなか良い言葉です。

私自身、そうなっているかどうかはかなり怪しいものですが、何となく、天に近くなっているなという感覚はあります。
歳のせいだけでもなく、もしかしたら、毎日、彼岸の節子と話し合っているからかもしれませんが。
娘は、私が最近物忘れが多く、心配だといいますが、物忘れが多くなったというよりも、まあ細かなことにこだわらなくなってきたといってほしい気がします。
忘れることが増える一方で、見えてくるものもまた増えるのです。
天に近づくとは、もしかするとそういうことかもしれません。

ソリンギもそうですが、相手の謀略に気づいたからと言って、それを暴くことはしません。
暴いたところでどうにかなる話ではないからです。
むしろ謀略をかわすように身を処すればいい。
残念ながら、私の場合は、まだそこまでいけていません。
しかし、騙されることも、時には良しとしましょう。
それこそが、老いることなのですから。

老い方は、とても難しい。
私よりも年長の友人知人と付き合っていて、そう感じます。
特に、伴侶がいなくて、一人で老いなければいけない場合は、難しさは倍増します。
注意しなければいけません。

■2434:節子の庭(2014年5月16日)
節子
玄関や庭のバラが咲きだしています。
節子がバラ好きだったこともあり、わが家の狭い庭にはたくさんのバラがあります。
節子がいなくなってから、しばらくは手入れ不足で枯らしてしまったものもありますが、それでもこの季節になると次々に咲き出します。
唯一の例外は、昨年まで壁一面に広がっていたナニワイバラです。
あまりの元気さに、ほとんど全てを刈り取ってしまったので、今年は片隅で少しだけ花を咲かせているだけです。
マリーゴールドもまだ満開のまま残っていますので、今の庭はとても華やかです。
それに今朝は陽射しも眩しいほどのよい天気です。
心が少し軽やかになります。

庭を見ていると、そこに節子がいるような気がします。
こういう日は、いつも節子は麦藁帽をかぶって、草花の手入れを楽しんでいました。
いまなら庭で一緒に楽しめたのですが、当時は、私があまりに仕事好きだったので、出かけることが多く、節子と庭仕事をした記憶はあまりありません。
大いに後悔しています。

節子が元気だった頃の私たちの生活は、たぶん私のリズムが中心だった気がします。
今から考えれば、生活の豊かさは間違いなく、節子のリズムでした。
いまさら気づいても、もう節子はいませんから、気づくのが遅かったのです。
会社を辞めた時に、大きな転機があったはずですが、あの時も節子は私のわがままに付き合ってくれました。
ゆっくりした時間を過ごせるようになったはずですが、組織から離れた後、私の活動分野は格段に広がり、ますます「仕事人間」になってしまったのです。
その上、収入は激減しましたから、それなりに大変だったかもしれません。

わが家の庭はとても狭いのですが、高台にあるために、展望はいいのです。
わずかではありますが、手賀沼も見えます。
節子は、この庭が大好きでした。
もっとこの庭での草花いじりを楽しんでもらいたかった。
庭に花に水をやりながら、いつもそう思います。
ここは、いまもなお、「節子の庭」といってもいいでしょう。
節子の思いが、いたるところに感じられますから。

■2435:久しぶりの北陸線(2014年5月16日)
節子
久しぶりに北陸線に乗っています。
明日、福井での集まりに参加するためです。
先ほど、節子の生家のある高月を通過しました。
この辺りも今は長浜市になってしまいました。
節子とよく利用した高月駅は、場所も含めて変わってしまいました。
私は、もちろん以前の駅舎が好きです。
いろんな思い出もありますし。

最初に節子の生家を訪ねたのはいつだったでしょうか。
私の結婚申し込みはかなり変わったものだったので、節子のご両親も心配だったことでしょう。
今から思えば、赤面の至りです。
それでも結婚を許可してくれました。
節子のご両親は、とても実直で、そのくせとても柔軟でした。
だから私の常識を逸脱した行為も受け入れられたのでしょう。
感謝しています。

米原から高月の北陸線は、よく乗りました。
いつも隣に節子がいました。
だから北陸線は今でも好きです。
しかし、特急はあっという間です。
昔のような、チンタラした北陸線が好きです。
車窓からの風景が、とても好きでした。
特に稲穂が輝く季節が。

もし節子と結婚しなかったら、北陸線に乗る機会もなく、明日の集まりにも参加することはなかったでしょう。
人生とは、不思議です。
列車は敦賀に止まりました。
ここに節子の姉が嫁いでいますので、この駅もよく利用しました。
今もお米や野菜を送ってくれます。

そう言えば、敦賀にもしばらく来ていません。
福井からの帰りに寄せてもらおうかと思います。
次は福井です。

■2436:敦賀の節子の姉夫婦の家に立ち寄りました(2014年5月17日)
節子
福井に来た帰りに、敦賀にいる節子の姉夫妻の家に立ち寄らせてもらいました。
久しぶりです。
敦賀も将来新幹線が伸びてくるようで、そのせいか、駅を含めて、駅界隈も大きく変わりつつあるようです。
節子がいなくなってから、訪問する機会も減りましたが、それでもいつでも歓迎してくれます。

敦賀は古代史でも重要な舞台の一つですが、今はその雰囲気はあまりありません。
歴史よりも原発を選んだのかと最初敦賀に来た時に思ったことを思い出します。
しかし、ここもまた節子と結婚しなかったら、これほど何回もくることはなかったでしょう。

節子の姉妹はとても仲がよく、私たちも姉夫婦の家に泊まることが多かったのです。
姉夫婦は、私たちをいろんなお寺に連れて行ってくれました。
たぶん節子が私が観音菩薩像が好きなのを伝えていてくれたからでしょう。
若狭から奈良への道は、かんのん道と言われるくらい観音様が多いのです。
節子がいなくなっても、気楽に寄せてもらえるのは、節子のおかげです。
勝手な話なのですが、今もなお、節子と一緒のような気がしているので、私もあまり気兼ねなく、お世話になれるのです。
不思議なことに、今も節子が一緒にいるような気がします。

■2437:かに探し(2014年5月18日)
節子
昨夜は敦賀の姉夫婦の家で宿泊しました。
ちょうど田植えが終わったところだったので、何処かに行こうということになりました。
そこで希望を言いました。
カニ探しに行きたい、と。
わが家の庭の池に放すカニです。

その希望は受け入れられ、三方の石観音様がいいということになりました。
車で1時間ほどのところです。
私の観音様好きととんでもない私の希望を組み合わせた苦肉の選択です。
三方石観世音は、三方湖を見下ろす山の中腹にあり、きれいな川が流れていて、たぶんカニがいるだろうというのです。
やっと待望のカニに出会えそうだと意気揚々と出かけました。
ところがです。
先日の大雨に見舞われて、山崩れの跡もあり、奥の院に行く山道も途中で通行禁止になっていました。
車を停めて、川の上流に踏み入ってみると、川岸に水に流されて来たであろう流木や土砂が積もっています。
見た感じは、カニの生育にとって理想的な環境のように見えるのですが、川に入って探していると、生き物の気配がないのです。
義兄も一緒になって探してくれましたが、カニは見つかりません。
大雨に流されてしまったのでしょうか。

本流の大きな川はどうだろうかと思って、年甲斐もなく無理をして河川敷に飛び降りてカニ探しをしましたが、カニ探しに関してはいささかの自負のある私にも見つけられません。
諦めて流れから出ようと思った途端に足を滑らして、水の流れのなかで転倒してしまいました。
衣服はビショビショです。
姉夫婦は心配してくれましたが、まあ手に擦り傷ができた程度で、いたみはありません。

しかし、カニは諦めて家に戻りましたが、私の思いに同調してしまった義兄は、家の近くの川で探そうと言い出しました。
節子が一緒だった頃、一度、カニを探しに行って、たくさん捕まえた川に行きましたが、ここも収獲ゼロ。となると、ますます探したくなり、たまたま自宅にいた甥も動員して、長靴で装備して近くの川を総点検です。
かなり藪深いところまでわけいって探しましたが、出会ったのは大きな蛇だけでした。
義兄は会う人ごとに、カニがいるところを知らないかと訊いてくれましたが、昔はどこにもいたが、最近は見ないなとみんな言うのです。
どうもこの近辺の人たちは、カニには関心がないようです。
私には信じられないことですが。

結局、1時間にわたるカニ探しは失敗に終わりました。
それにしても、義姉一家はとんでもない来客に振り回されてしまったわけです。
もしかしたら、節子の苦労を少しわかったかもしれません。
しかし、実に楽しい日でした。たぶん私だけでしょうが。

節子
あなたがいなくなっても、義姉夫婦は私のわがままに付き合ってくれています。
これも節子のおかげです。

ところで、今、帰路の新幹線で、これを書いていますが、今頃になって、足が痛くなってきました。
どこか傷ついたようです。
年を取ると痛みが出てくるまで時間がかかるといわれましたが、まさにそのようです。
明日の用事のために今日は帰ることにしたのですが、明日は大丈夫でしょうか。
いやはや困ったものです。

■2438:人を人として付き合うことの大切さ(2014年5月21日)
節子
昨日、久しぶりに畑に行ったら、草が勢いを強めていました。
へこたれそうです。
今日は雨で、畑にいけません。
ますます草は勢いを付けていくでしょう。
困ったものです。

へこたれるのは、畑だけではありません。
人生いろいろありすぎます。
福井から戻ってきたら、また次々と問題発生です。
なんでこうも問題が多いのか。
社会は間違いなく壊れています。
福井であった人たちのように、どうしてみんなもっと素直にゆっくりと生きていけないのか。

福井のシンポジウムの帰りに敦賀に寄ったのですが、翌日、柿の葉というレストランに行きました。
節子も、多分知っているだろう人から教えてもらったと義姉が話していました。
敦賀からはかなり離れているところでしたが、その人の名前を話したら、お店の人も知っていて、そこでその人の話になりました。
敦賀のような地方都市でも、そうした人のつながりが表情豊かに残っているだと感心しました。

この数日、時評編では「社会から人が消えつつある」という話を書いていますが、地方に行って、心がやすまるのは、表情のある人のつながりを感じられるからです。
人を人として付き合うことは、簡単なことなのですが、なぜか多くの人は、そういう生き方から離れているような気がします。

節子が湯島で、私の仕事を手伝ってくれていた時の話ですが、知人の女性経営者が突然訪ねてきました。
近くに来たので立ち寄ったというのです。
迎えに出た節子には目もくれずに、私に話しかけてきました。
帰り際に、節子のことを紹介しました。
彼女は、慌てたように、奥様とは知らずに失礼しましたと態度が一変しました。
奥様と事務員とはどう違うのか。
いずれも人としては、同じはずなのですが。

節子はこうしたことをたびたび経験していました。
ある財界の有名な人がやってきたことがあります。
その人は、節子が私の妻だったとは最初は知らなかったと思いますが、ていねいに節子に話しかけました。
以来、単純な節子は、その人がテレビに出るたびに、私に教えてくれるようになりました。

他愛のない話ですが、人を人として付き合うことの大切さを、私は節子からたくさん教えられました。
節子が私を信頼してくれていたのは、私がだれであろうと、人として付き合おうとしていたからです。
私にとっては、どんなに高名な人も無名な人も同じです。
しかし、残念ながら、時にまだそれが揺らぐことがあります。
節子がいないいま、そうした私の態度を注意してくれる人がいないので、心しなければいけません。

■2439:節子は佐久間さんに会えませんでしたね(2014年5月22日)
節子
昨日、一条真也のペンネームを持つ、北九州市の佐久間さんが湯島に来ました。
佐久間さんといえば、韓国の論山の灌燭寺(アンチョクサ)の弥勒仏にお参りした時に、節子のために、灌燭寺の魔除けの数珠と病気平癒に「ご利益」のある守り札をもらってきてくれた人です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#0329
残念ながら、節子はお会いする機会がありませんでした。

数珠と御守をもらった頃、節子の病気は悪化に向かっていた頃でした。
私も外出をほぼすべてやめて、節子に寄り添う生活になっていました。
節子は、とても喜んで、枕元に御守と数珠を置いて、毎日の般若心経には、その数珠を使っていました。
佐久間さんに会うと、いつもそのことを思い出します。

佐久間さんは、昨日も、この挽歌のことを話題にしてくれました。
それで、少しだけ節子のことも話しました。
佐久間さんのブログにも紹介してくれていますが、佐久間さんから節子の存在を感ずることがあるかと訊かれました。
存在を感ずるというよりも、むしろいつも一緒にいるような気分だということを伝えたかったのですが、うまく話せませんでした。
どうも今もなお、節子のことになると、論理的に話せなくなってしまいます。

夢のことも訊かれました。
夢ではよく節子の気配を感じます。
前に書いた気もしますが、節子の姿かたちが出てくる夢は、最近は見たことがありません。
しかし、なぜか節子の気配というか、存在を確証できるような夢はよくみます。
その時には、目が覚めたときに、心身がものすごく「あったかい」のです。
涅槃の境地とはこんな感じかと思うほどです。
ちなみに、節子がいた頃には、そういう至福感を体験した覚えはありません。

起きてからもずっと、そのあったかさが残ることもあり、その日は幸せな気分で過ごせます。
ところが、どんな夢だったかは、不思議なくらい思い出せません。
目覚めた時には覚えているような気がしますが、すぐに思い出せなくなるのです。

佐久間さんは北九州市にお住まいですが、節子と一緒に北九州市に行った時には、まだ佐久間さんとは知り合っていませんでした。
もし知り合っていたら、と思うと、ちょっと残念ではあります。
佐久間さんの専門のひとつは、冠婚葬祭の研究と実践です。
若い頃の私は、いわゆる「儀礼」には価値を見出せずにいました。
儀礼の価値に気づかせてもらったのは、実は節子と佐久間さんなのです。
佐久間さんは、魂の世界にも造詣が深く、いつも教えられることがたくさんあります。
その魂の世界を、実感的に垣間見させてくれたのが、私の場合は節子です。
佐久間さんと縁ができたのも、それこそきっと深い意味があるのだろうと、思っています。

■2440:胸躍らせる挨拶(2014年5月23日)
節子
先日、福井のシンポジウムで、仏法劇団の合唱座が「還るところはみないっしょ」という演目を演じてくれました。
始まる前に、座長の長谷川さんから、これは実話に基づく話ですとお聞きしていました。
主人公のお名前は、すずきあやこさんでしたので、ネットで調べてみました。
神奈川県にある、浄土真宗立徳寺のホームページ「月々の法話」のなかに、鈴木章子(すずきあやこ)さんのことが紹介されていました。
http://www.ryuutokuji.com/houwa40.html

少し編集して、一部を引用させてもらいます。

鈴木章子(すずきあやこ)さんは、北海道のお寺の坊守さんです。
49歳の若さで乳癌を患い、旦那さんと4人の子どもさんを残してお亡くなりになりました。
ご生前、鈴木章子さんは、「私は癌をいただいたおかげで、仏法に出遭わせていただいた。癌にでもなって自分の命を真剣に考えることがなければ、私は一生気付かずに終わってしまったかもしれないけれども、今は、自分の命の帰る場所があることを仏法に聴かせていただくことができた」と涙ながらに話しておられたそうです。

坊守さんとは、お寺のご住職の奥さんです。
ちなみに、合掌座座長の長谷川さんも、とても気さくな坊守さんです。

鈴木章子さんは、亡くなる2か月前に書かれた「おやすみなさい」という詩を書きました。
こんな詩です。

「お父さんありがとう。また明日会えるといいね」と手を振る。
テレビを観ている顔をこちらに向けて
「おかあさんありがとう。また明日会えるといいね」と手を振ってくれる。
今日一日の充分が胸いっぱいにあふれてくる。

月々の法話には、こう解説されています。

この詩の「お父さんありがとう」の一言の中には20年余りの夫婦として共に歩むことが出来たことへの感謝の想いがあるのでしょう。しかし、「また明日会えるといいね」と、切なる思いで願ってみても、間違いなく明日を迎えることが出来るという生命の保証が無いのです。
今夜お迎えが来るのかも知れないという中で、永遠の別れの思いをこめて「おやすみなさい」と言葉を交わして眠りにつく。幸い朝が迎えることが出来た時には、「お父さん、会えてよかったね」「お母さん、会えてよかったね」と心おどる思いで挨拶を交わされたそうです。
鈴木章子さんは、「46年の人生で、こんな挨拶を一度だってしたことが無かった。健康にまかせて、忙しい毎日の中で、うわの空の挨拶しかしてこなかった。私は癌をいただいたお陰で、今は一度一度の挨拶も、恋人のように胸おどらせて挨拶ができるようになった」と喜びの中で語っておられました。

劇を見ながら、いろんな思いがわきあがりました。
長谷川さんにも、節子のことを話しました。
そのせいか初対面だったのに、とても心が通じ合いました。
きっとまたどこかでお会いできるでしょう。

■2441:久しぶりの南禅寺(2014年5月24日)
節子
久しぶりに京都の南禅寺の庭にきています。
午後から京都で集まりがあるのですが、その会場が南禅寺南禅寺のすぐ近くだったので、少し早目に来て、庭を見たいと思ったのです。

京都は夏のような暑さです。
たまたま京都の各寺院が恒例の特別拝観期間でしたので、山門の上にのぼることができました。
京都が一望でき、その昔、石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」といったという話も納得できます。

大方丈の庭は、記憶よりもずっと小さく、土塀に囲まれた人工的な空間になっていました。
昔もそうだったかもしれませんが、イメージが違っていました。
京都や奈良のお寺にいくと、いつもそう感ずるのですが、それは私の意識が変わってしまっているからかもしれません。

庭に面した縁側で少し休んでいます。
背後の緑が、とてもきれいです。

■2442:見てくれている人(2014年5月26日)
節子
最近、土日に遠方に出ることがつづいていますが、そのせいか、何か時間的な余裕がなくなっています。
私の場合、特に決まった仕事があるわけでもなく、時間はすべて自由に自分で使えるはずなのですが、土日にはゆっくりと休むことがないと気分的に落ち着きません。
これは長年の生活リズムのせいかもしれません。
平日に自宅でゆっくりしていると、何となく罪悪感に襲われるのも、そのせいでしょう。

最近は週末がほとんどゆっくりできません。
今度の週末も箱根で合宿です。
ホームページの更新も十分に出来ず、なにかと落ち着きません。
時間がないわけではありません。
暇で暇で仕方がないといいたくなるほど、その気になれば時間はつくれるのですが、その気にならないわけです。
困ったものです。
要するに生活にメリハリと節目がなくなっているのです。

なくなっているのは、節目やメリハリだけではありません。
前にも書きましたが、生きる基準がなくなってしまったのです。
これは、体験して初めてわかったのですが、一度、伴侶との生活に慣れてしまうと生きる基準が2つになって、それで安定します。
2つと言うのは、言うまでもなく、自分の視座あるいは立脚点と、伴侶のそれです。
本当は3点が一番安定するのでしょうが、それでは安定しすぎて、今度は窮屈になってしまいます。
基準が2つの生活は、適度に揺れながら、でも自らを相対化できる心地よさがあります。
私は、そうした生き方に40年、身を任せてきてしまいました。
ですから、自分以外のもう一つの基準点がなくなった衝撃はとても大きいのです。
自分が見えなくなってしまいそうです。

基準にはもう一つ大きな役割があります。
自分を外部から見ていて、評価してくれるという役割です。
すごくうれしいことがあっても、自分1人だけしか知っていないと思うとさびしくなります。
人は誰かに知ってほしいと思うことは少なくありません。
偉業をなした若者が、まずは母親に伝えたいという心境と同じく、人は誰かに褒めてもらうことをどこかで期待していますが、それは自分の生きる基準になっている人でなければなりません。
私の場合は、それが節子でした。
伴侶とは、「見てくれている人」なのです。

残念ながら、私の嬉しいことも哀しいことも、心から受け止めてもらえる人はもういません。
そうなると、人の生き方は粗雑になりがちです。
最近の私の生き方が、まさにそうなっているような気がしてなりません。
俗人は、どんなにあがいても、やはり「見てくれている人」がいないとがんばれません。

■2443:そとづらのよさが崩れそうです(2014年5月27日)
節子
最近どうも余裕がなくなっているような気がします。
しかも「唯我独尊」になっているような不安もあります。
困ったものです。

人は本来、勝手なものです。
それはよくわかっていて、自分もそうですから、他者の勝手さも、できるだけ受け入れるようにしてきました。
ところが最近、時にイライラして、怒りを発散してしまうのです。
この1週間、たぶん私の電話で不快感を受けた人が少なくとも2人はいるでしょう。
いずれも古くからの知り合いなので、私のことはかなり知っているとは思うのですが、私の対応はいささか過剰だったなと、電話を切ってすぐ後悔しました。
以前は、こんなことはあまりなかったと思うのですが、私自身がやはり余裕がなくなっているせいでしょう。
お恥ずかしい限りです。

以前はなかったと書きましたが、実はそれは家族以外に対して、という条件付です。
節子にもそうですが、娘たちや両親にも、私はかなりきつい物言いをしてきました。
家族は自分と同じだと思うので、そうなってしまうのです。
節子や娘からは相手の気持ちへの思慮がないと、指摘されていました。
大人になった娘は、お父さんは「そとづら」がいいからと言いだしました。
私にとっては、実に心外な言葉なのですが、娘の評価は私よりも正しいでしょう。
私のそとづらの良さは、節子や娘によって支えられてきていたのかもしれません。

もちろん、私自身はそとづらがいいなどとは決して思ってはいません。
家族へと同様、誰にも素直に接してきましたから。
むしろ、節子や家族に接するほうが、ずっとやさしいはずだと思っていますが、娘たちはそうは思っていないのです。
節子は、たぶん思慮がないのは思慮が不要だからとわかってくれていましたが、夫婦と親子は違います。
夫婦は対称性を実現できますが、親子は常に非対称です。
それに気づかなかった私は、親としては失格に近いです。
この頃、そう痛感しています。

不快な電話の話に戻れば、私の暴言は、あまりに相手の人が私の話の真意を理解してくれないことに原因がありました。
もともと私には、物事を極端にいう性癖がありますが、過剰な反応をして、思ってもいなかったことを口に出してしまったのです。
実に恥ずかしいことですが、一度、口から出た言葉は消せません。
慌てて取り繕いましたが、ますます自分が惨めになります。
そして、相手と同じく、自分も不快になって、どんどん滅入ってしまうわけです。

こんな時こそ、節子が隣にいてほしいです。
私の性格の悪さをカバーしてくれていたのが、節子だったのかもしれません。

■2444:自転車で本郷界隈を1時間走ってきました(2014年5月29日)
節子
時評編にも書きましたが、今日はいい1日です
自転車で、本郷界隈を1時間走ってきました。
気ままなサイクリングではありません。
会社の決算申告を税務署に届けに行ってきたのですが、その途中、東大の構内を走り、それから文京区シビックセンターまで行ってきました。
時評編に書きましたが、その1時間、いろんな「ちょっとしたこと」があったのです。
たまには自転車もいいものです。

東大の構内は久しぶりだったので、ちょっと回り道などしてしまいましたが、道に迷うほど、昔とは変わっていました。
私は卒業後、一度しか言ったことがありませんが、節子が湯島に来ていたころ、たまには行けばよかったと悔やまれます。
そういえば、駒場には一度、節子と一緒に行ったことがあります。
東大の大学院生が主催したイベントに、節子と2人、招待されたのです。
その時には、私は大恥をかいたのですが(いうまでもなく、私にはその自覚は節子に言われるまでありませんでしたが)、今も忘れられない思い出です。

節子が発病するまで、会社の経理は節子の担当でした。
節子もまた、私と同じく、お金の計算は不得手でしたので、大変だったでしょう。
でもその頃は、税理士がきちんとやってくれていました。
節子がいなくなってからは、税理士に頼むお金も無くなったので、私が自分でやっています。面白いと思えば、まあそれなりに面白いのですが、B型の節子には負担だったかもしれません。

節子
今年の株式会社コンセプトワークショップは、また赤字でした。
今年も報酬をもらえません。
困ったものです。

壊れていた自転車が直りました。
私が直したのですが、正直に言えば、どうも壊れていなかったのに、壊してしまっていたのです。
原因は全く別のところにありました。
それはそれとして、これからは少し自転車を活用しようと思います。
それにしても、今日は暑い1日です。

■2445:韓国歴史ドラマ(2014年5月29日)
節子
節子がいなくなってから、変わったことの一つに、韓国テレビを見ることようになったことがあります。
節子は韓流ドラマにはまったく関心はありませんでしたが、まさか私が韓国のテレビドラマを見るようになるとは思ってもいなかったでしょう。
もっとも私が身るのは、現代ドラマではなく、歴史ドラマです。
それも高句麗と百済に関するものに限られています。
最初に見たのが、「朱蒙」(チュモン)という高句麗を建国した英雄の話です。
それも途中から観たのですが、いかにも内容が簡単で、昔の中学校の学芸会のようなものだったので、最初はまさか見つづけるようになるとは思ってもいませんでした。
しかし、それが契機になって、高句麗という国に関心を持ったわけです。
それに、隣国なのに、あまりにも私には知識がなかったことへの反省もありました。
以来、高句麗ものは、極力見るようにしています。
高句麗のドラマには、会話の中に、朱蒙の名前が出てきます。
いまは、高句麗滅亡とその遺臣たちによる渤海建国の話である「テジョヨン」を見ています。
まさに学芸会なのですが、ついつい観てしまうのです。
並行して韓国の歴史の本も何冊か読みましたが、どうも史実とはちょっとずれがあるようです。

百済の話は、実は高句麗の流れで見だしました。
ドラマ「朱蒙」の主役の1人のソソノ(朱蒙の第2王妃)が建国したのが、百済なのです。
高句麗と百済が同じ始祖を持つとは私は全く知りませんでした。
いまは「百済の王クンチョゴワン」というのを見ています。
登場人物が多すぎて、あんまり理解できていませんが。

韓国の歴史ドラマを見ていると、感ずることがいくつかあります。
任務に失敗するとすぐに、王に向かって「私を殺してください」「私を許さないでください」と言うのです。
命乞いや許しを乞うことはしないのです。
心を開かないのも、また相手を信じないにも、私が見た歴史ドラマに共通です。
ですから、見ていて、あまり気分のいいものではありません。
にもかかわらず、なぜか見つづけています。

節子が元気だったころ、一緒にテレビドラマを見た記憶がありません。
当時は、やることがいろいろとありました。
テレビよりも楽しいこと事がたくさんあったような気がします。
テレビを見る時間が増えてきたのは、生活が充実していないことの証なのでしょう。
いま、週に5本のドラマを見ています。
それを知ったら、節子は驚くでしょう。
私も驚きです。
テレビ離れしなければいけません。

■2446:私の誕生日(2014年5月30日)
節子
今日は私の誕生日です。
誕生した時の記憶がないため、私はあんまり誕生日に関する思いがなく、誕生日を祝うという感覚がないのですが、フェイスブックをやっていると今日は誰の誕生日だというメッセージが届くので、そういう友人には「誕生日おめでとうございます」とメッセージを送るようにしています。
それはどうもフェイスブックのルールの一つのようです。
いわば一種のスモールトークなので、私にも共感できます。

今日は私の誕生日なので、いろんな人から誕生日おめでとうメッセージが届いています。
朝から、それらに返信しています。
今日から箱根で合宿なので、今、箱根に向かっている車中なのですが、電車に乗ってアイパッドを開いたら、またたくさんのメッセージが入っていました。
これは大変だと、車中で返信をはじめました。

しかし、こうしてスモールトークのやりとりを年に1回くらいやるのも悪くありません。
今日は車中で本を読むつもりでしたが、箱根に着くまで対応にかかりそうで、本を読む時間はなさそうです。
困ったものです。

ところで、節子は私が車中でパソコンをやるのが嫌いでした。
当時はアイパッドではなく、いわゆるウルトラPCでしたので、アイパッドよりも少し大きかったのです。
電車に乗ってまで仕事をするなと言われていました。
仕事というよりも、メールチェックだったのですが、ともかく節子は嫌いでした。
今日の、今の様子をみたら、節子は怒るでしょう。

でもまあ、年に一回なので、許してくれるかもしれません。
節子は、どんなに怒っても、最後はすべてゆるしてくれましたから。

■2447:箱根(2014年5月31日)
節子
また箱根に来ています。
とてもいい天気で、新緑がまぶしいです。いつもは朝には帰るのですが、今回は3時までホテルに缶詰めです。
主催者の熱意に負けてしまいました。
熱のある人には抗えません。

節子は箱根が大好きで、何回も付き合わされました。
だから、箱根は私には微妙なところなのです。
以前、一度、ついフラフラと芦ノ湖にあがったことがありましたが、基本的にはいつもホテルから直帰です。
しかし、最近はあまり抵抗なく箱根に来られるようになりました。

私たちは、もしかしたら湯河原に転居も考えていました。
もうその計画は実行されることはありません。
私の次の転居先は、たぶん彼岸です。

部屋の窓から新緑の山を見ていると箱根好きだった節子の気持ちが感じられます。
緑が好きだった節子が、どこかにいるようです。

■2448:奪われてしまった「老い」(2014年6月2日)
節子
昨日はちょっとダウンしてしまいました。
最近は本当に無理ができなくなりました。
それでも夕方は、気を取り直して、久しぶりに畑に行ってきました。
数日行けずにいたのですが、見事に野草の反撃で、花畑も野菜畑も草で埋もれそうになっていました。
4〜5日、行かないだけでこのあり様です。
野草の成長は、そばでじっくり見ていたら、わかるかもしれなません。
5日で5〜10センチは伸びているような気がします。

人間も若い頃は、このくらい元気なのでしょう。
しかし、最近の私は、ちょっと水をやらないとクタッとしてしまう野菜のようです。
いや少々水をもらっても、シャキッとできません。
困ったものです。

節子がいなくなってから、私は自分の年齢を客観的に実感できなくなっています。
自分は自分では見えないので、老化している自分になかなか気づかないものです。
伴侶の節子がいれば、節子の老いを自分に重ねて実感できますが、それがないとなかなか実感できません。
伴侶を失った人が、若さを維持できるのは、そのせいかもしれません。

不思議なもので、鏡に映る自分の「老い」はなかなか見えないものです。
写真を見ると、否応なく伝わってきますが、最近、私は写真を見る機会は少ないのです。
フェイスブックに使っている写真は、節子が撮ってくれたものですから、10年ほど前のものでしょう。
私自身の脳で自覚している自分と10年前の写真は、実はそう違わないのですが、外から見た私は、私の脳内自覚とは全く違っていることでしょう。
そんなことはわかってはいるのですが、自分の老化は、なかなか実感できません。
だからみんな「無理をしている」のに気づかずに、ある日、突然倒れるのかもしれません。
周りの人は迷惑でしょうが、本人は理想的かもしれません。

しかし、夫婦仲良く、自然に老いていくのが理想でした。
いたわり合いながら老いていき、いたわり合いながら旅立っていく。
そんな老後が奪われてしまったのが、残念です。

老体にムチ打って、今日も湯島に出てきました。
最近、手入れ不足のオフィスの植物やメダカは元気です。
老いているのは、私だけ。
ちょっとさびしいですが、この現実は変えられません。

■2449:だからどうした(2014年6月2日)
節子
湯島で時間ができたので、もうひとつ書こうと思います。
実は節子がいなくなってからの日数と挽歌の番号が20ほどずれてしまっています。
つまり20日ほど書くのをさぼったということになります。
自分ではそんな意識はないのですが、どうもそのようです。

今日は実はまだ思考力が回復しません。
その証拠に、本を読んでも、内容が頭に入ってきません。
本と自分とが一体化しないと、いくら頁が先に進んでも、何も頭に入ってこないのです。
ただただ文字を読んでいるだけですから、無意味です。
本と一体化できると、飛ばし読みしても、なんとなく内容が伝わってきます。

ちなみに、本は読まずに机の上に置いておき、時々、目次をぱらぱらとみるだけでも、内容を感ずることができることがあります。
なかには本当にそれができる子供たちがいるようですが、私の場合は、感ずるだけで理解はできません。
ところが、急に読みたくなったり、かなり時間が経ってから、その本を思い出して読んでしまうことがあるのです。
会うべき人には必ず会えるように、読むべき本は必ず読む機会があるのかもしれません。

なにやらおかしなことを書きましたが、今日は本を読む気にもなれません。
暑さのせいかもしれません。
今は湯島のオフィスですが、クーラーはつけていません。
Tシャツ1枚ですが、暑くて仕方がありません。
これも多分、疲れのせいでしょう。
心身が弱っていると、気候への抵抗力も落ちてしまいます。
「悪い汗」をかくわけです。

何やら挽歌とは無縁なことを書いて、番号稼ぎをしているような気もしますが、そうでもないのです。
私が挽歌を書いている時には、必ず節子に話しかけているのです。
だからどうした、と言われそうですね。・

挽歌を書く時に、何かを書こうともって書き出すこともありますが、ほとんどは何も思わずに、まず「節子」と打ち込みます。
そこから何かが浮かぶこともあれば、浮かばないこともある。
しかし、まあ思いついたことを書きだすのが、この挽歌です。
だからまったく内容のない記事も少なくありません。
しかし、私には書いている時が、意味ある時間なのです。
だから、私には「だからどうした」という問いは当てはまりません。
そもそも、どうしもしないのです。

窓から夕日が見えていましたが、いまビルの陰に隠れました。
だからどうした。

そうなのです。
意味のないことがとても大事な意味を持ってくる。
それがたぶん「愛」がもたらす贈り物なのです。
とりわけ美人でもなく、ましてや賢くもなく、性格がいいわけでもなく、趣味が同じでもない節子が、いつの間にか私にとって、「特別の人」になったのは、お互いに愛し合うことになったためでしょう。
でも、その「愛」とは何か。
これも多分説明しだしたら、「だからどうした」と言われるようなことになるでしょう。

どんな退屈なことも、どんなありふれたことも、素晴らしく輝いてい見える。
愛は、そんな世界を生み出してくれます。
なんでもない、この夕日を、節子と見ていたことを思い出します。

そろそろ友人たちがやってきそうです。
コーヒーでも淹れておきましょう。

■2450:生きた証(2014年6月3日)
節子
この挽歌が縁で、交流が始まった人がいます。
私と同じく、伴侶を亡くした男性です。
しかも、私との共通点がいくつかある人です。
面識はありませんし、遠くにお住まいなので、縁ができてからも会う機会は来ていません。
その方も、伴侶のことをブログに書きつづっています。
自分たち夫婦の「生きた証」を残しておきたいという思いで、書きだしたようですが、公開することにしたとメールが来ました。
それで読ませてもらいました。

これまで少しだけお聞きしていた、おふたりのことがよくわかりました。
実に感動的で、実に共感できる生き方です。
よかったら読んでみてください。
私の挽歌など、吹っ飛んでしまうような、心ふるえる内容です。
http://itukusimi.blogspot.jp/
おまえと・・輪廻の旅路

「数年後には、子供たちに私たち夫婦の真実の姿を知ってもらいたいと考えております」とメールに書いてありましたが、しっかりと伝わるでしょう。
そして、おふたりの「生きた証」は間違いなく、社会にも刻印されたと思います。

その方は、こう書いてきました。

共に生きているときは、当たり前のように思っていた妻の優しさが
死に別れた後にも強い優しさを感じられるとは、魂の悪戯なのでしょうか

魂の悪戯。
そうかもしれません。

■2451:よたよた人生(2014年6月4日)
節子
気になっていた問題が2つほど解決しました。
完全な解決ではありませんが、少しホッとしました。
悪い事があれば、良い事もある。
それが生きているということでしょう。

心を許しあえた伴侶がいれば、悪い事も良い事も、すべては良いことに転化できます。
いずれの場合も、生きる力になっていくわけです。
しかし、一人になってしまうと、良い事も悪い事も、ただそれだけの話です。
悪い事の良い面や、良い事の悪い面も見えにくくなります。
だから生きることが、ふくらんでこないで、退屈になりやすいように思います。
最近は、とても退屈です。

しかし、なぜか退屈があるところまでいくと、誰かが問題を持ってきます。
悪い話もあれば、良い話もあります。
悪いか良いかは、一概には言えません。
私が関わる必要がないものも多いのですが、なぜか関わってしまうのです。
何で関わってしまったのだろうと、後で我ながら不思議に思うことも少なくありません。
その習癖は、節子がいない今も変わっていません。
節子はお人好しと言い、娘は馬鹿だと言いますが、それが私の生き方ですから仕方ありません。

悩ましい問題が解決すると、新しい問題がやってきます。
私はどうも「問題」を引き寄せるタイプのようです。
ですからいつまでたっても、穏やかに暮らせません。
良い事も悪い事もあるなかで、自分が出来ることをわきまえて、相手や問題と適切な距離をとっていかなければいけないのでしょうが、ついついコミットしすぎてしまうのです。
近寄ってくる問題には無関心ではいられないのです。
そのくせ、問題が解けるわけでもない。
重荷を背負ってへとへとになったり、相手の重荷を軽くするどころか重くしたり、相変わらずよたよたと生きています。

私の人生には、どうも平安はなさそうです。
困ったものです。
最近の疲れの原因は暑さだけではないようです。

■2452:自由の極致は隷従、隷従の極致は自由(2014年6月5日)
節子
しばらく音信が途絶えていた友人から電話やメールがありました。
最近、久しぶりの電話やメールは、ほとんどがあんまり嬉しい話ではありませんが、昨日のものはいずれもそうした類の話ではありませんでした。
それに久しぶりの友人の、元気そうな声を聞く事は、それだけでもうれしいものです。

もう10年以上も前になりますが、ある友人が、これからは付き合う人を少しずつ絞り込んでいくと書いてきたことがあります。
そのさらに数年前には、私が誰とでも付き合うことを注意されたことがあります。
いずれの場合も、私には理解できない話でした。
他者との付き合いは、私の意思だけで、どうにかなるわけではないというのが私の理解だったからです。
来る人はこばまず、去る人は追わない、というのが私のルールです。
しかし、人は付き合う人によって、世界が大きく変わるだろうとも思います。
もし私が節子に会っていなかったら、私の人生は全く違ったものになっていたでしょう。
同じように、友人知人を意図的に選んでいたら、これまた世界は変わっていたはずです。
しかし、一度の人生であれば、どれが良かったかどうかなど比較しても意味がありません。たった一つの人生を、最良だったと思うほかありません。

自然の成り行くままに生きることは、自然への隷従なのか。
時評に少し書きましたが、昨日、500年前の若者が書いた「自発的隷従論」という本を読みました。
時評編で考えると、これは革命の書でもありますが、挽歌編で考えると、これは自由の書かもしれません。
私は現世的には自由に生きており、多くの人たちの今の生き方にはまったく馴染めませんが、もしかしたら私自身もまた、自発的な隷従生活を送っているのかもしれません。
自由の極致は隷従、隷従の極致は自由、かもしれません。

書こうと思っていた事が、途中で全く変わってしまいました。
友だちの話を書くつもりだったのですが、昨日読んだ本が強烈過ぎました。

2つの話の続きは稿を改めて。

■2453:出会った人はみんな友(2014年6月5日)
節子
まずは友だちの話からつづけます。
節子と出会ったのが自然の定めだったとしたら、節子に限らず、すべての人との出会いが自然の定めです。
小賢しい自分の好みや打算で、人との交流を選択することは、そうした定めに反します。
それに、付き合いは、どちらか一方の決めることではありません。
当事者の思いを超えたところで成り立っているような気がします。
ですから付き合っているようで、付き合っていない関係も少なくありません。
逆に、付き合っていないようで、付き合っている場合もあるでしょう。
人のつながりは、個人で完結する話ではありません。

この話を進めていくと、以前流行語になった「無縁社会」や「絆」の話につながっていきます。
人はどんなにあがいても、他者とのつながりは切れませんし、どんなに孤立しているように見えても、その気になれば、他者とのつながりは見えてくるでしょう。
そのつながりの糸を手繰り寄せれば、孤立ではないことがわかるでしょう。
人はだれもが、人との縁によって生きているのです。
孤立は感違いでしかありません。

前項に引用した「自発的隷従論」にこんな文章があります。
「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ」
この文章をもじって、こうも言えるでしょう。
「もう孤立はしないと決意せよ。するとあなたがたは孤立していない」
隷従も孤立も、自分で決めているだけの話なのです。

しかし、友と付き合うのは、それなりに労力が必要であり、煩わしいのも事実です。
だからこそ、人は歳をとるにつれて、交友の範囲を狭めていく。
その上、高齢になるにつれて、同世代の友人知人の訃報も増えてくる。
かといって、若い世代の友人知人がそう簡単に増えるわけでもありません。
ですから、人は自然に友人知人が減っていくのは、これまた自然の摂理です。
そうであれば、あえて自分から友人知人を絞ることもないでしょう。
それに、煩わしくない付き合い方もあるのです。

15年ほど前に、私に「付き合う友をもっと選べ」と助言してくれた友人は、全く別の意味で言ってくれたのですが、私にはやはり小賢しく聞こえてしまいました。
ですから、むしろその人との付き合いが弱くなってしまい、いまは交流がありません。
しかし、付き合いが途絶えたとは思っていません。
また連絡があるかもしれませんし、どこかで会えるかもしれません。
今もなお彼は私の敬愛する友人の1人です。

私の友人知人の何人かは、すでに鬼籍に入っています。
節子もそうですが、彼岸にいる友人知人が増えてきています。
自分も間もなく、彼岸に行く歳になったせいか、彼岸にいようが現世にいようが、あんまり違いがないような気もしています。
もし節子が今も現世にいたら、そうは思わないかもしれませんが、私には現世と彼岸はつながっているのです。
そういう立場からすると、友は多いほどいい。
たとえ、絶交されても、友は友です。

また何か違う話になってしまったような気もしますが。

■2454:私たちは死という「主人」に隷属している、のか?(2014年6月5日)
つづいて、自由の極致は隷従、隷従の極致は自由という話です。
本来、この話題は時評編に相応しいのですが、まあ引用した手前、挽歌編でも書いてしまいます。
と言っても、今回は引用だけです。
私の意見は、引用文の向こう側に感じてもらえればと思います。
いつか書こうとは思いますが、あまりに衝撃的だったので、いまはまだ整理できずにいます。

この論文の解説をフランス哲学の研究者の西谷修さんが書いています。
そこにイギリス人作家のカズオ・イシグロさんの小説「わたしを離さないで」が紹介されています。
この作品は映画にもなっているそうですが、私は知りませんでした。
西谷さんの紹介によれば、
「この作品は、移植用臓器を供給するために育てられたクローンたちが、自らの運命の枠内で定められた短い生をまっとうしてゆくという物語だ。彼らは成長するとまず「介護人」にそしてやがては「提供者」となり、何回かの「提供」を経てそれぞれの生を「まっとう」してゆく。そこにはこの理不尽な運命に対する抗議や抵抗はほとんどなく、それが自分たちの自明の生の形であるとでもいうかのように、彼らは従容として枠づけられた階梯をたどり、成長しそして短い生を終えてゆく。彼らは、自分たちの生がいわば他者たちの道具の地位に限定されており、その枠内でしか生きられないという条件をそのまま受け入れ、その限界のこちら側に留まって生を終える。その気があれば越えられるとも思われるこの不条理で理不尽な限界が、魔法の結界ででもあるかのように、彼らはそれを越え出ようとはしない」
という話です。
西谷さんは続けます。

人は限られた期間の生を生きる。
そして誰も死を免れることはできない。
まさにその意味ではクローンもまったく「人間と同じ」なのだ。
言い換えれば、我々は逃れられない死という「主人」に隷属しており、死の課す結界を受け入れるかぎりで、それぞれに充実した生をまっとうしてゆくことができるというわけだ。

みなさんはどう思われますか?
トム・クルーズ主演の映画「オブリビオン」をもう一度、観たくなりました。

■2455:裏切りへの感謝(2014年6月6日)
節子
関東も梅雨に入りました。
今日は早朝より湯島に来ています。
いささか悩ましい問題に関するミーティングです。
人はどこまで人を信ずることができるのか、まあそんな気づきを得るトラブルにこの数年付き合っています。
一時は、私自身がおかしくなりそうでしたので、少し距離を置くようにしていましたが、そのままというわけにもいきません。
それで今朝、ミーティングを持ちました。
幸いに、いい方向に向いて動き出しそうです。
信頼すれば良い方向に動き出すという信念を維持するのは、けっこう大変です。

裏切るよりも、裏切られたほうがいい、ということを知ったのは、テレビドラマ金八先生の主題歌だった「贈る言葉」からです。
これまでの人生の中で、それは実証されてきました。
裏切られたことは多く、つい最近も同じ人から3回目の裏切りを受けました。
裏切られることが多いと慣れてくるものです。
しかし、裏切らざるを得ない人への同情よりも、まだ腹立たしさが勝ってしまうのは、我ながら情けないものです。

私にとって、一番の裏切りは、節子でした。
私よりも先に逝ってしまったからです。
時々、朝、お線香をあげながら、節子に恨み言を呟くことがありません。
先に逝ってしまうとは許せない、と。
しかし、視点を変えれば、節子にとっての最大の裏切りは私でしょう。
後に残ってしまったのですから。
まだ現世で何をしているの、そろそろこっちに来たらと、節子は反論しているかもしれません。
裏切ることと裏切られることは、コインの裏表かもしれません。

裏切りへの腹立ちは、相手を信頼しているから起こることです。
ですから「裏切りは信頼の証」かもしれません。
裏切った相手をまた信頼するのは論理的にはおかしいのですが、現実はよくあることです。
裏切られてもなお信頼する、というのが、信頼するということかもしれません。

雨がひどくなってきました。
そのせいから約束の人がなかなかやってきません。
人生は思うようにはいかないものです。
だから人は人を裏切ってしまうのかもしれません。

もう少し待ってみましょう。
もしかしたら、その人は私に挽歌を書く時間を与えるために遅れているのかもしれません。
裏切りも、そういうように考えれば、感謝しなければいけないことかもしれません。

いささか気分的に疲れていて、また意味不明なことを書いてしまったかもしれません。
それにしても遅いですね。
腹立ちの内容に、コーヒーでも淹れましょう。

追記(2014年6月6日午後2時半)

実は約束の時間を間違えていたのは私でした。
1時間勘違いしていました。
来客は正確にやってきて、正確に帰りました。
すみません。まあ人間はこうやって、勘違いして、約束を破られたと思うことも少なくないのでしょう。
実に勝手な言い訳ですが。はい。

■2456:ルクレティウスの疑問(2014年6月6日)
「なぜ、たっぷり食べた客のように、人生から立ち去らないのか」
ある本で知った、ティトゥス・ルクレティウスの言葉です。
この言葉に出会ったのは2か月ほど前です。
以来、頭から離れません。

ルクレティウスは古代ローマの哲学者です。
15世紀になって、その著書が発見されて話題になった人ですが、私の記憶にあるのは次の言葉です。
「感覚にとって真なりと思われたものは、すなわち真実である」
この言葉は、私の信条のひとつにもなっています。

そのルクレティウスが、「なぜ、たっぷり食べた客のように、人生から立ち去らないのか」と言ったということは知りませんでした。
レストランを出る時のように、人生から立ち去るのがよいというわけです。
残っていても、もう食べられないのですから。
でも、ほんとうにそうでしょうか。
この第2のルクレティウスの言葉は、私の感覚にはどうしても合いません。

たっぷり食べたかどうかは、その人でなければわからないでしょう。
だからルクレティウスは、謙虚にこう思うべきでした。
「人生から立ち去らないのは、まだ食べたりないからだ」。
そして、食べたりないのに人生から立ち去らなければいけなかった人への思いも持ってほしかったです。

節子は、まだたっぷり食べてはいませんでした。
食べ残したことがたくさんあったことは間違いありません。
しかし、たっぷりではないけれど、良い料理を楽しむこともできます。

少し早かったですが、節子も私も、それなりに「いい人生」でした。
節子が出て行ったのは、「たっぷり」食べたからではありません。
私がまだ出て行かないのも、「食べたりない」からではありません。
ルクレティウスの質問にはこう答えたいです。
「それは人生が、あまりにすばらしいからだ」と。

その素晴らしい人生から、節子は出ていかされ、私は残されてしまいました。
ルクレティウスがもし、私のような立場に置かれたら、何というでしょうか。
人生とレストランを一緒にしてほしくはありません。

■2457:「嬉しいお便り!」(2014年6月7日)
節子
先日、湯島に来た人と話していて、私の知っている人のことが話題になりました。
そういえば、その人にもしばらく会っていないので、そのことをメールしました。
その人はちょうど、東北に出かけていたところでした。
こんなメールが届きました。

釜石線に乗り、遠野に向かう車中で嬉しいメールを拝見しました。
○○○さんは、よくお世話になります。
佐藤さんのこと、亡くなられた奥様のことを時々思うことがあります
いずれまたお目にかかりたいです。
遠野から陸前高田に向かう予定です。
青空に山の緑が美しく映え、谷の水も澄みわたっています。
穏やかな日に、佳き便り、ありがとうございました。

タイトルに、「嬉しいお便り!」とありました。
私にも、とてもうれしいお便りでした。
どこがうれしいかといえば、「亡くなられた奥様のことを時々思うことがあります」というところです。

彼女に最後に会ったのは、確か3年ほど前。彼女の制作した映画の上映会でした。
その時には、彼女は上映会の主役の一人でしたので、ゆっくり話す時間はありませんでした。
それ以来、会う機会がありませんでした。
彼女もまた、時代の流れに抗うように生きている人です。
遠野から陸前高田への旅は、たぶん新しい作品の関係なのでしょう。

彼女と節子は、おそらくちゃんと話したことはないはずです。
ある会でたぶんすれ違い的に会っているはずです。
なぜ彼女が、私と節子のことを思いだしてしてくれるのでしょうか。
その理由が何となくわかるような気がして、それがとてもうれしいのです。
思い出されてもうれしくない人もいれば、とてもうれしい人もいます。
彼女の場合は、後者です。

今年中には会う機会が来るでしょう。
思い出して、彼女が書いた本をまた読み直してみようと思います。

■2458:警蹕(けいひつ)(2014年6月8日)
節子
相変わらず気忙しい毎日を過ごしています。
なかなか気分的なゆとりが生まれません。
生活のリズムが一度狂ってしまうと、なかなか元に戻らないのです。
困ったものです。
なんとか気分を戻そうと、昨日、挽歌に書いた本を読むことにしました。
小倉美惠子さんの「オオカミの護符」です。
一昨年読んだのですが、改めて良い本だと思いました。

それはそれとして、前回はあまり意識していませんでしたが、警蹕(けいひつ)の話が出てきます。
警蹕とは、神が通る道を清め、邪気を祓うための雄叫びですが、ある神事でそれを体験した小倉さんは、「まるでオオカミの遠吠えのようにも聞こえた」と書いています。
私も、そう思います。

オオカミはなぜ遠吠えをするのか。
それは群から離れた仲間を呼び戻すためだと聞いたことがありますが、とてもそうは思えません。
私には、仲間を喪ったオオカミが、哀しさをこらえきれずに発する魂の発露のような気がします。
あるいは、神への訴えかもしれません。
そんな気がしてなりません。

それにしても、オオカミは不思議な生き物です。
小倉さんもその本で書いていますが、人間を襲うこともありながら、人間からは神とされることが多いのです。
そもそも名前からして、「大神」ですし。

警蹕に関しては、以前、この挽歌でも書いたことがあります。
挽歌688の「神と一緒に過ごす豊かな時間」です。
そこでは警蹕は「言葉が生まれる前の発声」だという説明を書きました。

今日、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」で、妻をはじめとした一族が信長によって処刑されたことを知った村重が言葉にはならない叫びを上げます。
まさに言葉にならない雄叫びです。
心の真情は言葉にはならないのでしょう。
もちろん警蹕とはまったく別のものですが、私はこういう場面を見ると、いつも数年前に見た、このテレビの警蹕を思い出します。
そして、村重のように、叫び声をあげられる人をとても羨ましく感じます。
同時に、神事で警蹕を行う人の心情を思います。

私が節子を見送った時には、声さえ出ませんでした。
いや悲しみさえ実感できませんでした。
そこに家族だけではなく、医師も看護師がいたことは、たぶん、理由ではありません。
受け容れられずに、理解できなかったのです。
理解できないと声が出ない。
いまならたぶん声は出るでしょう。
しかし、神事でもなければ声も出せません。
思いのすべてを発声する機会を失ってしまったのが残念です。

■2459:「がんでよかったね、交通事故で突然に死ぬことだってあるんだから」(2014年6月9日)
節子
最近知り合った友人と話していたら、その人も妻を胃がんで亡くされたことを知りました。
話していくと、亡くなったのが2007年でした。
病気は進行性胃がん、発見から旅立ちまで4年ちょっとだったそうです。
時期も病気も、節子とほぼ同じです。

しかし違う点が一つありました。
その人の場合は、手術をしなかったそうです。
彼は、奥さんを死なせはしないと決めて全力を尽くしたようです。
私は「治る」と信じましたが、彼はそうではなく、「死なせまい」と決意したのです。
私の間違いは、「治る」とか「治す」とかいうところから抜けられなかったことです。
今にして思えば、それが大きな悔いですが、彼には悔いはないでしょう。
私には、彼ほどの決断はできませんでした。
そして奥さんは彼の腕の中で息を引き取ったそうです。

話していて、共通するところがとてもたくさんあることに気づきました。
本題も忘れて、お互いに心を開き合いました。
お互いに、伴侶から学んだことはたくさんありました。

彼らを救ったのは、ある人との出会いでした。
「がんでよかったね、交通事故で突然に死ぬことだってあるんだから」。
そう言われたのだそうです。
私なら素直に聞けたかどうか自信はありません。
しかし友人たちはその言葉の真意を素直に受け入れたようです。
そして奥さんは残された人生を、とても意義あるものにしたようです。
死を実感することが幸せなのかどうかはわかりませんが、少なくとも残されるものにとっては、突然でないほうがいいことは言うまでもないでしょう。
私も彼も、4年ほどの妻との生活をもらえたのですから。
その4年の生活を、無駄にしては、それこそ、申し訳がたちません。

4年間で学んだことはたくさんあります。
そのことに、改めて感謝しました。

■2460:心身が震えるような夜でした(2014年6月10日)
節子
昨夜はとても寝苦しい夜でした。
暑さのためではなく、2つの理由がありました。
ひとつは、「パパ」という言葉です。
厚木男児遺棄事件の父親が、最後に聞いた子どもからの呼びかけです。
なんという哀しい話なのか。
父親を非難する前に、あまりの哀しさに眠れませんでした。
その哀しさを増幅したのは、昨日、読みたくないと思い続けながらも、読んでしまった小説「わたしを離さないで」です。
なぜかその2つが重なってしまい、昨夜はあまり眠れませんでした。
これほど哀しい朝は、節子を見送ってからの数日以来です。
今日は予定をすべてキャンセルさせてもらいました。
心身が震えるほどに、気が萎えているのがわかります。
話には聞いていましたが、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」が、これほど哀しい話だとは思っていませんでした。

しかし、私には絶対に読めない本だと思っていたのに、なぜ読む気になったのか。
あまりにも読もうかと思う理由が重なったからです。
これも理由があるのだろうと思い、昨日読み出したら、止まらなくなりました。
あまりに哀しすぎる。
読むのをやめようと思いながらも、義務感のようなものがあって、読み終わり、テレビをみたら「パパ」です。

何を書いているのか、わからないかと思いますが、今日は気分がおさまったら、時評編に「わたしを離さないで」とオメラスの話を少し書こうと思います。
その後で、つまり少し心身があったまった後で、挽歌にも書ければと思います。
「わたしを離さないで」は、人の死を救うために創られたクローンの子どもたちの話です。

■2461:今日もまた節子の話をする機会がありました(2014年6月11日)
節子
今日また、節子のことを話す機会がありました。
今週2回目です。

その人も伴侶をなくされたのですが、私が妻を見送ったことを知りませんでした。
それはそうでしょう。
付き合いをはじめてまだ半年くらいですから。
しかし、なぜか気が合ったというか、その方は毎月のように湯島に来てくれます。
今日はコーヒーを淹れている時の雑談の中で、ふと胃がんで妻を亡くされた方の話が出たのです。
その方はお医者さんだったそうですが、お医者さんであれば、なおのこと辛かったことでしょう。
そこから私の話になり、雑談が雑談でなくなってしまいました。
さらにいろんな話に広がってしまったのです。
人は見えないけれど、みんないろんなことを背負っています。
まさか今日はそんな話になるとは思ってもいませんでした。

一昨日もそうですが、話していて、やはりまぶたが重くなるのを感じました。
もうちょっとで、涙が出るところでした。
しかし、不思議なことに、気分的にはなにか心洗われるような気がしました。
やはり時々話さなければいけないのかもしれません。
同じ立場の人たちが話し合う効用はあるようです。
書くよりも話すほうが、どうも鎮魂効果は大きいようです。
気分が少し軽くなっている気がします。

■2462:世界が狭くなってきている気がします(2014年6月13日)
節子
相変わらず気分がすっきりせずに、思いだけが広がっています。
時評編で、オメラスとヘイルシャムのことを書いているうちに、いろいろと思いが飛び出し、むかし読んだ本を思い出して、何冊かを読んでしまいました。
もちろんきちんと読んだのではなく、思い切りの飛ばし読みです。
若い頃読んだSF小説の「都市と星」まで読んでしまいました。

節子と会ったころ、私はSFの世界にかなりはまっていました。
学生時代はどちらかといえば、ミステリーでしたが、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を読んで、すっかりSFのとりこになってしまいました。
『ソラリスの陽のもとに』には2回映画化されており、このブログでも、あるいは挽歌でもとりあげていると思いますが、映画も好きでした。
特に2作目の『ソラリス』は、今も時々、観ます。
考えさせられることが多いからです。

リアリストの節子は、SFは好みではありませんでした。
ですから節子と一緒に暮らすようになってからは、私もSFの世界からは次第に離れてしまいました。
しかし節子との会話においては、SF的な話が相変わらず多かったような気がします。
というのも、私は時間旅行やパラレルワールドや超能力や超物理学などをすべて信じているからです。
一緒に暮らしていると、いつのまにか世界は共有されていきます。
私がリアリストになったように、節子はいつの間にか、超常現象への違和感を画していたように思います。
そして私は、リアリズムと超常現象は深くつながっていることにも気づきました。
いや同じと言っていいかもしれません。
科学の知は、つまり常識の知は、現実観察を縮減する知恵でしかないから、現実を見えなくしがちなのです。

いずれにしろ、私の世界の半分は、節子と一緒に作り上げてきたものです。
その世界が、節子がいなくなったあと、どんどん変質しているのかもしれません。
私の世界が退化している、どうもそんな気がしてなりません。

■2463:そうだ、アナグマを捕獲しよう(2014年6月15日)
節子
昨日は朝から夕方まで、いろいろとありました。
最近、あまり夜眠れないため、疲労がかなり積み重なっているようです。
昨夜は何もする気がなく、お風呂にも入らずに就寝、めずらしく明け方まで目を覚まさずにいました。
しかし、何やらいろんな夢を見た気がします。
目が覚めても何か頭が回っているようで、起き上がるまで少し時間がかかりました。

きちんと寝たはずなのに、食欲がなく、私としては記憶がないのですが。朝のコーヒーを飲む気がしませんでした。
今朝の朝食はブルーベリージャム入りのヨーグルトと庭先から摘んだサニーレタスの葉に包んだハムだけです。
ジャムは先日、キューピーの社長だった鈴木さんから勧められたまるごと果物シリーズのジャムですが、たしかに美味しいです。

午前中は気力なく、それでもがんばってホームページ(CWSコモンズ)を更新。
今日はワールドカップでの日本の試合日ですが、私は全く興味がありません。
午後は娘のジュンがスイカを買ってきたので娘たちと食べて、久しぶりにみんなで話をし手いたら少し元気が戻ってきたので、ようやくコーヒーを飲みました。

梅雨に入ったのに今日もまたさわやかな良い天気です。
ボーっとテレビを見ていたら、アナグマの映像が出ました。
娘が言うには、この辺りにもアナグマがいて、見かけたことがあるそうです。
テレビで見たアナグマは実に魅力的でした。
明日は、アナグマ生け捕りのための罠を作ろうと思いつきました。
娘たちは相手にしませんが、節子だったら手伝ってくれたでしょう。
節子は、まったく意味がないことを知りながら、私のそういう思い付きにも協力的でした。

さて、明日はアナグマ生け捕り装置作りです。
さて捕まるといいのですが。

ちょっと元気が出てきました。

■2464:迷惑と遠慮(2014年6月15日)
節子
時評編では少し書きましたが、昨日、湯島で「遠慮と迷惑」をテーマにしたサロンを開催しました。
13人も参加してくれました。
いつものように、多彩なメンバーです。

最初に問題提起してくれた方が、いささか刺激的なお話をされました。
彼女の夫が自死しているのですが、それを最後に語りだしたのです。
それもとても素直に語りだしました。
DVを受けた話までも、
そして彼女がしみじみと言いました。
あまりにも自分は、相手の言動をそのままに受け止めてしまい、そこに込められた意味や示唆を汲み取れなかった、と。
夫婦といえども、相手のことがすべてわかるわけではありませんし、むしろその関係性において、甘えや期待が影響して、見えなくなってしまうおそれがあります。
だから彼女に限らず、言動の真意を汲み取るのは難しいのがふつうでしょう。

人はみんなに迷惑を受けながら生きているとよく言われます。
昨日のサロンでもそういう話が出ましたが、私はそうではなくて、人が生きるとは迷惑や恩恵をかけあうことなのだろうと思います。
これに関しては、また時評編に書こうと思いますが、私と節子の関係がとても気持ちよくいったのは、最初からそれをお互いに意識しあっていたからです。

私の勝手な結婚申し込みや結婚の仕方は、節子の両親には大いなる迷惑でした。
それによって節子の両親と家族は、大変な苦労をしたと思います。
今から思えば、本当に悪いことをしてしまいました。
しかし、結婚して時間が経ってからは、節子の両親も、娘は良い伴侶を選んだと思ってくれたと思います。
それがせめてもの私の恩返しです。

私はどうか、
実のところ、節子と結婚して迷惑を受けたことはありませんでしたが、なんと最後にどんでん返しで、節子が先に逝ってしまうという、とんでもない迷惑を受けました。
しかし、それを上回る大きな恩恵も受けました。

考えてみると、夫婦も迷惑をかけあう関係なのです。
そして私たちが、お互いに悔いのない夫婦でいられたのは、お互いに「遠慮」がなかったからです。
それが、私と節子が一緒に暮らし始める時に、約束したことでした。

遠慮をまったくしなくていい伴侶がいなくなったのは、本当に辛いことです。

■2465:節子が持っていってしまった思い出(2014年6月16日)
節子
気温の変化が激しいせいか、それとも気が萎えているせいか、なかなか体調が戻りません。
畑が草に覆われだしているのに、出かける気が起きません。
昨日決意した、アナグマ生け捕り活動も今日はできませんでした。
困ったものです。

テレビで大覚寺の紹介番組を見ました。
節子と大津で一緒に暮らし始めた頃は、週末は毎週のように京都か奈良に出かけていました。
当時は今よりもお寺も開放的でしたから、ゆっくりと散策することもできました。
私たちにとっては、一番楽しかった時かもしれません。
しかし、残念ながらその期間は、そう長くはありませんでした。
結婚してから1年半程して、東京に転勤になったからです。

節子と一緒にいった京都のお寺では、清滝川沿いの栂尾、槇尾. 高雄の、いわゆる三尾をゆっくりと下ってくるコースが好きでした。
節子ガ発病する直前に、2人で久しぶりに京都に行った時にも三尾を歩いたような気がしますが、不思議なことに、いまは節子との旅行はほとんどが霞がかかったように不確かな記憶しかないのです。
しかし、たしか高雄あたりの川沿いで魚料理を食べたような気がしますので、間違いなく2人で歩いたはずです。
そういえば、神護寺の紅葉が少し早いねと話し合った気もします。
節子の残した日記や写真を見れば、真偽の程がわかるのですが、わかったところで何の意味があるでしょう。

大覚寺も節子と一緒に大沢池の周りを歩いた記憶がありますが、池のススキは思い出すのに、そこに節子が見えてきません。

最近私は物忘れが多く、娘たちはまじめに心配しだしていますが、節子との記憶があまりはっきりしないのは、歳のせいでも認知症のせいでもないと思っています。
その思い出を、節子が持っていってしまったのです。
そうでなければ、これほど思い出せないはずがありません。

そういえば、節子は病気になった後、「今日もまた修との思い出がひとつできた」と喜んでいました。
その思い出は、私に残していくものではなく、彼岸に持って行くものだったのかもしれません。
そう考えると、節子との思い出が、何やら霞にかかったようになっていることが納得できます。

■2466:相談事の多さと「豊かさ」「貧しさ」(2014年6月17日)
節子
挽歌でも、たまには元気が出るようなことを書きたいと思うのですが、最近はなかなかそういう気になりません。
なぜかこの頃、無性に節子に会いたくなっています。
いまの私には、山のように節子に相談したいことがあるからです。
それに、伴侶にしか相談できないこともあります。
そうした相談事の重さに、最近はつぶされそうです。
困ったものです。

相談事が多いということは、それだけ豊かな人生を過ごしているということのはずです。
それが私の考えでした。
しかし、心身のパワーが衰えてきたせいか、あんまり豊かだとも思えなくなってきました。
時に、朝、節子の位牌に向かって、節子、どうにかしてくれよ、とつぶやくことがあります。
相談事が多いことは、ある年齢を超すと、「豊かさ」ではなく「貧しさ」の表れになるのかもしれません。

自分では変わっていないと思いたいですが、体力も精神力も大きく変わっていています。
自分の生活範囲を少し狭めていったほうがいいのかもしれません。
豊かな老後には、相談事は邪魔なものかもしれません。
しかしまあ、私の場合、豊かな老後は期待できませんので、相談事に悩みながら、人生を終えるのも悪くないかもしれません。

やはり今日も元気が出る挽歌にはなりませんでした。
困ったものです。

■2467:私たちは霞に支えられていました(2014年6月17日)
節子
2465で「節子との思い出が、何やら霞にかかったようになっている」と書きましたが、「霞」という言葉で思い出したことがあります。
少し元気が出るかもしれないので、それについて書きます。

会社を辞めた後、わが家は定期収入がなくなりました。
2年ほどして対価をもらう仕事もはじめましたが、基本的には収入が保証された仕事はなく、対価なしの仕事が中心になりました。
そのうち、周りの人たちから、佐藤さんは霞を食べて生きているわけではないだろうが、どうやって生計費を稼いでいるのかとよく質問されました。
仙人とか宇宙人とか言う人まで現れました。

私自身は、お金の問題はすべて節子に任せていましたし、収入もなかったわけではありません。
ただ無償で引き受ける仕事が多かったのかもしれません。
会社を辞めた時に、金銭収入と仕事とは切り離して考えると言うことにしたからです。
引き受けたくない仕事の場合は、高い金額を提示し、断られるようにしました。
相手が断らずに発注してくれたこともありますから、わが家の収入が多かった年もないわけではありません。
しかし、私も節子も、お金の感覚はあまりしっかりしていなかったので、どうしてお金で苦労しないのかと不思議がったことも少なくありません。
私がお金に困って、娘たちの定期預金から融通してもらった事は2回しかありません。
もちろんすぐに返済しました。

ところで、最近、小倉美惠子さんの書いた「オオカミの護符」で、「霞」には「修験道での信頼関係の縄張り」という意味があることを知りました。
霞を食って生きるとは、一般的には「浮世離れして、収入もなしに暮らすこと」のたとえですが、修験道の世界ではまったく違った意味になります。
その本で、小倉さんはこう書いています。

「カスミ(霞)」とは、修験道で「縄張り」を意味するといい、山伏が開拓した檀家・講中(講社)を指す。この「カスミ」は、奉納や布施を受ける経済基盤でもある。

自然とともに生きる修験者たちは、まさに霞を食って生きていたわけです。
信頼関係に支えられて生きていたと言ってもいいかもしれません。
だとしたら、私たちもまさに、霞を食って生きていたといっても、大きな間違いではありません。
それで私たちはお金には困らなかったのです。
節子がいたら、このことを話して、だから困らなかったのだと説明してやれるのですが。

今はちょっと困っていますが、それは節子が霞を彼岸に持っていってしまったからかもしれません。
困ったものです。

■2468:生命と物質の緊張関係の弛緩(2014年6月18日)
節子
今日は少し理屈っぽい話です。

生命現象と物質現象に関して、物質は解体方向に向かうのに、生命は統合方向に向かうといわれます。
解体という意味は、秩序が壊れていってバラバラになっていくという意味です。
逆に統合とは、バラバラのものが関係付けられ秩序化していくという意味です。
難しい言葉を使えば、物質界ではエントロピー増大の法則が支配するのに対し、生命はそれに抗って、エントロピーを減少させていくということです。
かなり不正確な表現ですが、統合に向けての流れが止まった時に、生命は死に向かいだすわけです。

最近の私ですが、身体は間違いなく解体に向かっています。
どこもかしこも、ボロボロになりつつあります。
先日は胸部を強く打ったら暫くの間、咳をしても痛いほどでした。
足腰はかなり弱ってきていますし、皮膚の老化は一見しただけでよくわかります。
以前、脳のMRIやCTを撮ったら、歳相応に壊れてきていると言われました。
いろいろと新品に替えたい器官もあるのでしょうが、替えるわけにもいきません。

一方、生命的な面では、相変わらず世界を広げながらも、自分の世界はますます進化しているような、気がします。
まだ死に向かっての反転はしていないのではないかと思っています。
しかし、最近、いささか危うい動きを感じます。
というのも、統合に向けてのモチベーションや好奇心へのフットワークが大きく後退しているのを感ずることがあるのです。
「そんなことを学んだところで、何になるのか」
「それを見に行ったところで、何になるのか」
そんな思いがどこかに浮かんでくるのです。
昨日も実は、東京国立博物館のある展示を見に行くつもりでしたが、少し疲れていたこともあって、まあいまさら見てもなんの意味があるのだろうと小賢しい思いに襲われて、やめてしまいました。
困ったものです。

生物は、生命と物質から構成されています。
その生命と物質の緊張関係の中で、生物は生きているのだろうと思いますが、どうやらその緊張関係が、私の場合、少し緩んできてしまっているようです。
軌道修正すべきかどうか、それが問題です。
ちなみに、自己修復できるのも生命の特徴です。
どうしようか、迷いだしています。

■2469:ドリームジャンボの幸せ(2014年6月18日)
節子
ドリームジャンボ宝くじが当たりました。
実にめでたい話です。
当たったら借金をすべて返済し、ついでに友人の借金も返済して、先行きに備えて人並みの貯金をし、これまで迷惑をかけてきた娘たちにお裾分けし、残ったお金で仕事をしようと思っていたのですが、残念ながら当たった金額は3000円でした。
3000円では、いかんともしようがありません。
次回のドリームジャンボを購入することで、再挑戦です。

とまあ、人はまことに勝手なもので、お金から解放された生き方などと言いながら、いざとなると3000円ではどうしようもないなと思ったりしてしまうわけです。
今回、宝くじを買ったのは、いささかお金に窮していたからですが、こんな時には絶対に当たるはずだと確信していました。
天は、困った人を見捨てるはずがないからです。
そして、その確信は現実になったのですが、3000円とは思ってもいませんでした。
これは、天に感謝すべきかどうか、いささか迷うところです。

まあ信ずればきちんと実現することは証明されました。
次回は、きっと5億円が当たるでしょう。
買い忘れないようにしなければいけません。
当たったら、昔のようにまた、仕事を広げられます。
もう一度だけ行きたいと思っているエジプトにも行けるかもしれません。

しかし、信じても実現しないこともあります。
節子の病気治癒がそうでした。
私は絶対に治ると確信していました。
そう思うしかなかったのですが、その確信は裏切られました。
でも、こうも考えられます。
節子が絶対に回復し元気になると思っていた4年半は、とても幸せだったのです。

ドリームジャンボが絶対に当たると思っていることも、幸せなのです。
だから「当たると思うこと」で満足すべきなのでしょう。
それに、実際に5億円も当たってしまったら、不幸になるかもしれません。
だから「当たらないこと」も幸せなのです。

要するに、いつも幸せなわけです。
そういう発想が、私の発想だったはずです。
最近少し、心が歪んでいました。
困ったものです。反省しなければいけません。

■2470:霞(カスミ)の話のつづき〔挽歌編〕(2014年6月19日)
この記事の前半は時評編の同名の記事の前半とほとんど一緒です。

節子
先日、「霞(カスミ)を食べて生きる」話を書いたら、2人の人からメールをもらいました。
お一人は、挽歌編にコメントを寄せてくださいましたが、その方も「カスミ」族のようでした。
もう一人は、その話の大元である小倉さんからでした。
この記事が彼女の眼にとまってしまったわけです。
いやいやお恥ずかしい。
でも、とがめるのではなく、彼女らしいやさしいコメントでした。

久々に佐藤さんのブログを拝見したら、修験者の「カスミ」について、
とても素敵な読み解きをされていて、思わず大きく頷きました。
こんな風に、拙書からご自身の発想を豊かに立ち上げて下さるものなのか…と知り、気持ちが大きく膨らむように思いました。

小倉さんは農家の出身で、子どものころは、庭で飼っていた鶏の卵を集めるのが自分の仕事だったと話してくれたことがあります。
節子と一緒で、家を出てしまいましたが、結局、会社を辞め、自らの生き方を始め、今はご自分の映像プロダクションを主宰されています。
小倉さんは、さらにうれしいことを書いてくれていました。

会社組織から離れ、ささやかな自分の場を持ってみると、
佐藤さんが地道に人を繋ぐ場を続けておられることの意味の大きさがわかりかけてきました。

私が25年間、続けている湯島のサロンが初めてきちんと評価してもらえたようで、とてもうれしく思いました。
湯島を閉じようと思った時に、いろんな人が継続してほしいと言ってくれましたが、ほんとは継続をさほど望んでいなかったことはその後の関わり方で私にも伝わってきました。
私が落ち込まないように気遣ってくれたのでしょうから、それはそれなりにうれしいのですが、こんなに苦労して湯島を維持することもないかなと、時々思うこともあります。
でもこうして小倉さんからメールをもらうともう少し続けようと思えます。

サロンを始めたのは、節子がいたからでした。
節子がいなくなったので、サロンをやめようと思い、実際に一時はやめていました。
湯島のオフィスも閉鎖しようと思ったことも一度ならずあります。
しかし、小倉さんのような方もいますし、経済的にも支援してくれる人も数名います。
声をかけるといろんな人が集まってくれますが、もしかしたら迷惑をかけているのかもしれません。
実際、佐藤さんから声をかけられたら来ないわけにはいかないと言われたこともあります。
そうなると、それはもう「老害」でしかありません。
そうならないように、注意しながら、もう少しサロンを続けることにします。
私の理想は、湯島のオフィスをいつも鍵がかかっていない、みんなのたまり場にすることですが、それはかなり難しいことだと分かってきました
でも、湯島のオフィスには、気のせいか、いつもカスミがかかっているような温かさもありますし、もしかしたら「みんなのコモンズ空間」が実現するかもしれません。

■2471:フォワードな生き方(2014年6月20日)
節子
昨夜、ワールドカップの報道を見ていて、ふと「私も最近はフォワードしてないな」と思いました。
ここで言う「フォワード」は、前を向いて考えるということなのですが。

昔、挽歌にも「フォワード」ということを書いたような気がして、調べてみました。
一昨年、「フォワードに生きる」という挽歌を書いていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/11/post-a07c.html

私が、この言葉を自分の活動につなげて使い出したのは、自殺のない社会づくりネットワークを立ち上げた時です。
自殺を思いとどまり、再出発しようとしている人たちを「フォワード」と呼ぼうと思ったのです。
さらにその意味を広げて、「ちょっとつまづいてしまったけれど、それを乗り越えて、前に向かって進みたいと思っている人」と捉え、毎月、湯島でフォワードカフェも始めました。
私もまた、「フォワードな生き方」に変えていこうという思いも重ねていました。
そのあたりのことを、一昨年の挽歌で書いているのを、改めて読み直しました。
その挽歌の最後には、
「節子がいなくなっても、私は素直に生きられるようになっているような気がします」
と書いてありました。

いまはどうでしょうか。
素直な生き方をしている点では、そうなのですが、最近はあんまり「フォワード」ではないような気がします。
正確に言えば、どちらが前かわからなくなってきている。
そんな気がするのです。
いろんなことに取り組んではいるのですが、どこかに「冷めてしまった自分」を感じるようになってきています。
もしかしたら、これが「老いる」ということかもしれません。
それは、しかし、私の生き方ではありません。
フォワードな生き方を思い出さねばいけません。

■2472:私自身の老いを生きる(2014年6月20日)
節子
前回の記事で、「老い」と言う言葉を使ったので、「老い」について書きます。
というのも、今朝、読み上げた「高齢者が働くということ」という本の中で、著者のケイトリン・リンチは「アメリカ人は老いを一種の病気と見なしている」と書いていたのを思い出したからです。
アメリカ人に限らず、最近の日本人もどうもそう考え出しているような気がしますが、まさに「健康産業」創出のためには、そういう発想が必要なのでしょう。
老いを病気などと考えていたら、豊かな老いは体験できないでしょう。

その本でも語られていますが、「老いとは文化的に構築された概念」です。
そもそも65歳からは支援される存在としての高齢者などと概念化する発想が間違っています、
人は、歳相応に振る舞うべきだという「常識」がありますが、そんな社会的圧力は撥ね返さなければいけません。
先日、ある集まりで、参加者の一人が「佐藤さんのようなご隠居さんのような人」と言われた時には、いささか不快でしたが、私には隠居は向きません。
死ぬまで仕事はしつづけるでしょう。
娘は、歳をとったら少しは身奇麗にしないとお説教しますが、そんなつもりもありません。

しかし、実際には歳相応の生き方になっていくものです。
もちろん、「健康のために何かやっていますか」などという愚問には胸を張って、何もやっていませんと言う自信はあります。
何もやっていないからです。
アンチ・エイジングなどという、自然の摂理に反することもやっていません。
ただただ素直に生き、自然に老化していくことが、私にとっての「健康」なのです。
節子という伴侶もいないので、迷惑をかけることもなくなりました。

ますますわがままに、私自身の老いを生きたいと思います。

■2473:なかなか花壇ができません(2014年6月21日)
節子
畑の道沿いの傾斜地は篠笹などの根が張っていて、一筋縄ではいきません。
マリーゴールドが何とか頑張っていましたが、ちょっと行かないと草で覆われてしまいます。
家でタネから育てていたひまわりが大きくなったので、その斜面をていねいに根扱ぎをし、槌をかき混ぜたのですが、アリの巣がたくさんあって、気づいたら小さなアリが手を覆っていました。
大きなアリだとわかるのですが、小さなアリだったので、咬まれるまで気づきませんでした。
気づいた時には、アリがほぼ全身に入り込んでいて、大変でした。

そういえば、数日前には、ダニにもやれました。
幸いにいま話題のマダニではなく、性格の良いダニだったので、少し腫れてかゆくなっただけでしたが、畑仕事をしていると、さまざまな生命体に出会います。

先週は雨だったこともあり、しばらく畑には行けなかったのですが、その間に畑はまた草に覆われだしました。
前にも書きましたが、草の成長力はものすごく、人の努力などあっという間に消し去ってしまいます。
しかも刈っても刈っても、負けずに芽をのばしてきます。
根をかなり切っているのですが、根の張り巡らせ方もたぶんインターネットのようにリゾーミックなので、少々、切り裂いても効果はないのです。
時々、娘が手伝ってくれますが、そんなわけで、孤独な戦いをしているわけです。
なかなか花壇といえるほどにはなりません。

畑に植えたナスやミニトマト、きゅうりは少しずつなりだしました。
ミニトマトの成長力もものすごいです。
あまりに伸びたので、枝をはらうことがありますが、その枝を土にさしておくと、そこからまたどんどん成長します。
植物から元気をもらいたいものです。

■2474:死がなぜこわいのか(2014年6月21日)
節子
死がこわいという人がいます。
おそらく節子には、そういう感覚はなかったと思いますし、私にもありませんが、多くの人が死をこわがるのはどうしてでしょうか。
それがよくわかりません。

節子もそうでしたが、死は悲しく寂しいものです。
しかし、それは「こわい」というのとはかなり違います。
正確に言えば、死が悲しいのではなく、死によって、会えなくなる人がいることでしょう。
あるいはやり残したことがあるからでしょう。
そうした、悲しく寂しい状況を引き起こす死を避けたいということであって、死そのものがかなしいとかさびしいとか言うことでもないのかもしれません、
いずれにしろ、死はいつか必ず誰にも起こることですから、こわがることもありません。
ところが、なぜか生死に関する書籍などを読んでいると、ほとんどの人が「こわい」ということを問題にしています。
これは、私にはよくわからない心境です。

なぜ、死がこわいのか。
死の先に何があるかわからないからでしょうか。
しかし、先に何があるかわからないことが「こわい」のであれば、人生は常に「こわい」はずです。
「地獄」に陥るのがこわいのでしょうか。
だとしたら天国にいけるように生きればいいだけの話です。
「死がこわい」ということの意味がよくわかりません。

この挽歌にコメントを投稿したり、私にメールをくださる方で、伴侶を失った方の何人かは、むしろ死を楽しみにしています。
というか、死の先で、また伴侶に会えることを楽しみにしています。
会えるかどうかは確実ではないでしょうが、会える可能性はゼロでもないでしょう。
だから、楽しみにすることは合理的です。
会えるかどうか、考えただけでもわくわくします。

「死はこわいものなのか」
前からずっと気になっていたことなので、ちょっと書いてみました。
必ず死はやってきます。
人生の最後が、そんな「こわいこと」であるはずがありません。
なぜそんな考えが広まってしまっているのでしょうか。

みなさんは、死がこわいのでしょうか。

■2475:痒いところが掻けないのは困ったものです(2014年6月22日)
節子
昨日、畑でアリに襲われて、そのせいか体中が痒いです。
アリではなく、草にやられたのかもしれません。
畑仕事をする時には完全装備してやるようにと、節子によく言われたことを思い出します。
私はいつもの服装で畑作業をし、ズボンを台無しにしたり、虫に刺されたり、ケガをしたりすることが多かったのです。
最近は一応、軍手はするようになりましたが、どうも身体を覆うというのが不得手です。
それに作業をしていると暑くなるのです。
昨日も無防備で作業をしていました。
よく見ると、腕の至るところに、虫に刺されたようなあざや赤いふくらみがあります。
痒み止めのムヒを塗っても、あまり効果がありません。
実に痒い。困ったものです。

手足はまあいいのですが、手が届かない背中の痒さは大変です。
節子がいたら、「ちょっと背中を掻いてよ」といえますが、娘にはなかなか言えません。
実に困ったものです。

痒いところを掻いてもらう。
手の届かないところへの気配りをしてもらう。
節子がいなくなってから、こうしたことができなくなりました。
もちろん娘たちがある程度はしてくれます。
昨日も突然のお客様があったのですが、私が気づかないことを知らぬ間に娘がやってくれたのに気づきました。
お客様はそんなことには気づかないでしょうし、以前の私ならたぶん気づかなかったのですが、お客様に合わせたちょっとした心遣いは大切なことでしょう。

そういう節子や娘たちのあたたかな心遣いのなかで、私は快適に暮らしてきたわけです。
節子がいなくなってから、ようやくそのありがたさを実感するようになりました。
気づかないところで、節子にはたくさんお世話になってきたのでしょう。
痒い背中が掻けないことで、そのありがたみへの感謝の思いが強まります。
それにしても痒いです。

■2476:最近、あまり地元を歩いていません(2014年6月22日)
節子
今日は我孫子で認知症予防ゲームに取り組みだした人たちと会いました。
話していてわかったのですが、おひとりは、たぶん節子が知っている人のむすめさんです。
節子もさほど地域活動をしていたわけではありませんが、民生委員をやったりサークル活動をやったり、少なくとも私よりも生活レベルでのネットワークはありました。
時々、節子から名前を聞いた人に出会うこともあります。

地元で活動しようとすると、やはり生活で根づいている女性のネットワークは効果的です。
男性のネットワークとはやはりちょっと違うような気がします。
最近、節子がいてくれたらなあと思うことがよくあります。
節子がいないと、地元での活動への意欲が高まりません。
なぜでしょうか。
自分でもよくわからないのですが、もしかしたら、私が自分の生活を投げてしまっているからかもしれません。
なかなか生きる動機づけができないのです。
決して生きることを捨てているわけではないのですが。

以前より、地元を歩く機会も減りました。
節子がいた頃は、地域の行事にもそれなりに参加しましたが、今はほとんど参加しなくなりました。
もともと私は、そうした行事にはあまり関心がないのですが、節子が引っ張り出してくれていたのです。
やはり私自身の生き方を見直さないといけません。
困ったものです。

■2477:いいところ」が多すぎる(2014年6月23日)
節子
最近頑張って挽歌を書いていますが、なかなか番号が追いつきません。
今日は実は節子の旅立ちから2487日目なのです。
10日のずれがあります。
今月中に追いつきたかったのですが、無理のようです。
まあ無理をすることもありません。
10日などという日数は、まあ瑣末な端数でしかありません。
と自己弁護するのが悪いところですが。

前にも書きましたが、
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/08/post-d987.html
節子から何かをとがめられた時の、私の口癖は、「それが私のいいところだよ」でした。
頼まれた仕事を忘れても、修理すると言い出して家電をさらに壊しても、とんでもない経済的な失策をしても、家族に迷惑をかけても、自分の部屋が書類で埋もれていても、すべてその一言で終わるわけです。
もっとも、「それが私の良いところ」と言うのは、実は理にかなっているのです。
人には直せないところと直せるところがあります。
直せるところは直せばいい。
しかし、直せないところは直せないのですから、それを欠点だなどと考えずに、「長所」と考えればいいわけです。
実に理にかなっている。
問題は、節子が言っていたように、もしそれを認めるのであれば、他者の欠点も長所として受け止めなければいけません。
そこから私のもう一つの生き方が生まれます。
どんな人とも、その人の持っている「良いところ」を見つけて、そこと付き合うという考え方です。
これまた理に適っているでしょう。

しかし問題は残ります。
これも節子にも言われましたし、今も娘に言われていることですが、どうしても自分に甘くて他者、特に家族には厳しくなるのです。
本当は自分に対してが、一番厳しいのですが、どうもそう見えないらしいのです。
また家族は、どうしても自分と同一視してしまいがちなのです。

ただ節子はそのことをわかっていてくれたようにも思います。
たぶん娘たちもわかってくれているでしょう。
それにしても、私には「いいところ」が多すぎます。
困ったものです。はい。

■2478:「おせったい」な生き方(2014年6月23日)
節子
四国遍路を一緒にまわることはできませんでした。
ともかく忙しさに埋もれて、体調を少し崩していた私の生活を見直そうと、恒例のサロンまでも1年間休止して、さて少し休もうと思った、まさにその時に、節子の胃がんが発見されました。
私の予想では、私のほうに可能性があったのですが、なぜか節子が引き受けてしまったのです。
サロンを休んで、自分たちの生活を中心にしようと考えていたのですが、海外旅行もあれば、四国のお遍路さんもある1年間のはずでした。
しかし、そうはなりませんでした。
義姉夫婦は2回も四国を回っています。
私たちは一度も、しかもどこも行っていませんでした。
この頃、なぜか無性に残念に思います。

先ほと、テレビのクローズアップ現代で四国遍路を取り上げていました。
大日寺のご住職が「おせったい」の話をされていました。
四国遍路の「おせったい」は、まさに「恩返し」、ペイフォワードの仕組みなのです。
そんな当たり前のことに、なぜ今まで気づかなかったのだろうと思いました。

節子はよくわかっていてくれましたが、私の生き方は、ペイフォワードです。
もっとも、ペイフォワードどころか、時々、レストランで食事をしても、うっかり支払うのを忘れてお店を出ようとすることが時々あります。
なにやら、私自身、いつもお天道様に「おせったい」されているような気がしているところがあります。
その反面、私自身もそれなりに「おせったい」もしています。

会社を辞めた時に、あまり明確には認識していませんでしたが、今から考えると「おせったい」な生き方を目指したように思います。
その「おせったい」の場が、湯島のサロンでした。
節子はそのことをよくわかってくれていました。
節子がいたから、「おせったい」もそれなりにできたのかもしれません。

節子がいなくなってから、私の「おせったい」な気分はかなり消えてしまいました。
逆に「おせったい」されたいという甘えが強まったような気もします。
それでも、ささやかにまだ「おせったい」活動もしているかもしれません。
幸いに今もなお、湯島のオフィスは「駆け込み寺」になっています。

テレビを見ていて、節子はいなくなったけれど、節子と一緒に四国を歩こうかと一瞬思いました。
しかし、ご住職の話をお聞きして、思いを変えました。
もしかしたら、私たちは、四国遍路ではない遍路を、一緒に歩いていたのかもしれないと思ったのです。
実に勝手な思いなのですが、そう思ったら、心がとてもさわやかになりました。
四国遍路ではない遍路。

明日は湯島に行こうと思います。
だれか「おせったい」を受けに来てくれるといいのですが。

■2479:ウグイスと蛇(2014年6月24日)
節子
今朝はウグイスの声で目が覚めました。
最近、明け方、鳥の声をよく聞きます。
とても賑やかですが、今朝のウグイスはなにやらはしゃいでいる感じでした。
節子は、生前、また花や鳥になって時々帰ってくるからと言っていましたが、今朝のウグイスは節子だったかもしれません。

わが家の庭は狭いのですが、高台のためによく鳥が来ます。
節子がつくった餌台がありますが、最近は餌を入れたことはなく、もっぱら水場になっています。
そのせいでもないでしょうが、庭の果実ものはすべて鳥にたいらげられます。
ジュンベリーやユスラウメなどは色がつきだすとすぐなくなってしまいますし、ほかのものも私たちの口にはいったためしがありません。
しかしまあ、節子も混じっているかと思えば、それもいいことでしょう。

わが家の庭は狭い割には荒れ放題です。
と言うか、ある部分は私の好みで、あまり手入れをしないことにしているのです。
それで時々思わぬこともあるのですが、多分そこから這い出してきた蛇が、昨日は庭の片隅で死んでいました。
蛇が死ぬとはあまり縁起が良くないのですが、なぜ死んでしまったのか理由がわかりません。
もしかしたら、アナグマにやられたのかもしれません。
狭い隙間に入り込んで、息絶えていました。
気づいた時にはすでにアリが群がっていました。
最近私も畑作業中にアリにやられっぱなしなのですが、アリから見たら、私に大事な棲家を台無しにされている恨みがつのっているはずです。
それで、わが家の庭のアリに頼んで、大事な蛇をやっつけたのかもしれません。
私は蛇年生まれなのです。

蛇は庭に埋葬しましたが、すぐに自然に帰ることでしょう。
まあこうやってみんな自然に戻っていくわけです。

■2480:山形のサクランボ(2014年6月24日)
節子
山形の一大さんがまたサクランボを送ってきてくれました。
もう10年ほども会っていないのに、律儀な人です。
早速、節子にお供えしました。

山形は、節子と一緒に行きたかったところです。
一大さんからは、山菜取りを誘われたこともありますが、もう少し先になったらと言っているうちに節子が倒れてしまいました。
少しよくなった後、一度、一緒に蔵王には行きましたが、それが唯一の山形の思い出です。

節子が元気だった頃に庭に植えた、佐藤錦のサクランボは、1本が枯れてしまいました。
たしか2本ないと実がつかないといわれて、2本植えたのですが、育ったのは1本でした。
節子がいなくなってからは庭の樹木への関心もなくなってしまい、いろいろと枯らしてしまいました。
幸いにまだ1本あるので、これからは大事にしようと思います。
そういう思いが出てきたのが、昨年の秋からでした。
いささか気づくのが遅れました。

一大さんは、以前、湯島のサロンにも来てくれたことがあります。
節子も会っています。
ちょうどその時は、いつものような賑やかなサロンではなかったのでせっかくきてくれたのに残念だったねと節子とはしたのを覚えています。
でも一大さんは喜んでくれました。

最近はなかなか山形に行く機会がありません。
と思っていたら、小宮山さんから電話があり、来週山形に行くのだが時間があくので、誰か紹介してほしいと連絡がありました。
山形には友人知人が少なくありません。
さて、小宮山さんと波長が会うのは誰でしょうか。
できることなら私も行きたいところで、少し迷うところです。

■2481:薬師寺の思い出(2014年6月25日)
節子
録画していた「薬師寺」のドキュメンタリーを見ました。
薬師寺の薬師三尊は私が最初に見た仏像です。
高校の時の修学旅行でしたが、薬師三尊には圧倒されました。
奈良時代に人たちも、この仏たちに拝んでいたのだと思った途端に、なぜか当時の人たちのざわめきが聞こえてきた気がしたのです。
それ以来、仏像が好きになりました。
だから私にとっては、思い出深い仏像です。

大津にいた頃、節子とも何回か、行きました。
最初に行った時に、節子にざわめきの話をしたのですが、節子には冗談に聞こえたようです。
何回目かには、しかし、あなたなら聞こえたかもしれないと言ってくれました。
なにしろエジプトの廃墟のような砂にさえ感動する私と長年一緒だったので、否定しても無駄だと思っていたのでしょうか。
しかし、もう少し節子が長生きしてくれたら、私と一緒に、ざわめきが聞こえるようになったかもしれません。

東京に転居してからも、薬師寺には節子といったような気がします。
私たちは、京都よりも奈良が好きでした。
何しろ最初に一緒に歩いたのが、奈良でしたから。

薬師寺は行くたびに大きく変わっています。
私は、節子と最初にいった昭和40年頃の薬師寺が一番好きです。
薬師寺が好きだったのは、私には白鳳の息吹きを感ずる場所だったからです。
飛鳥ほどではありません。
飛鳥は、そこに行くだけで、心が震えました。
薬師三尊は、白鳳仏か天平仏かで論争があるそうですが、私にはそのあたたかさから、白鳳仏だと思っています。

昨年、娘と久しぶりに奈良に行きました。
ちょうど東塔の補強工事中だったこともあり、来たことを後悔しましたが、薬師寺から唐招提寺の道はあまり変わってはおらずホッとしました。
でも、残念ながら、白鳳の息吹きは感じられませんでした。

薬師寺の東院堂の聖観音のレプリカが東京国立博物館にあります。
近いうちに、会いに行ってこようと思います。
いつもとてもさびそうです。

■2482:妻に先立たれた男性の生きづらさ(2014年6月26日)
節子
ある大学院生が、病気などが原因で髪を失った女性たちは、いかなる「生きづらさ」を抱え、それに向き合い、対処しながら生きているのか、について、経験者たちに聞き取り調査した話を、好井裕明さんが本(「違和感から始まる社会学」光文社新書)に書いています。

好井さんは、その話に関連して、私たちが無意識に持っている「豊かな美しい髪は、女性の美しさとは切り離し得ないものだという常識的な信奉」に言及します。
さらにテレビコマーシャルなどによって、「美しい髪をもつことは女性にとって大事」とでもいえる「常識」が社会的につくられていることも指摘しています。

それを読んで、昔の話を思い出しました。
節子と結婚した頃に、お互いが知っている人で、とても髪がきれいな若い女性がいました。
私は、その髪に触りたいと思い、節子に触らせてもらいたいと本人に頼んでみようかと相談しました。
そんなことをしたら、変態者と思われるし、彼女の付き合っている人(その人も私たちの知人でした)に怒られるよと節子は笑い出しました。
でもまあ、その時にはそう思ったのだから仕方がありません。
もちろん実現はしませんでした。

私の母は乳がんで、片方の乳房を失いました。
以来、ほとんど温泉に行っても、みんなとは入浴しませんでした。
私には、それへの違和感がありましたが、乳房を失うことから生ずる「生きづらさ」への配慮がありませんでした。
さらに、母が伴侶を見送った後の母への配慮も、いまにして思えば、まったく不十分でした。
私が、それに気づいたのは、自分が同じ体験をした時、つまり節子に先立たれた時でした。
人間の愚かさを呪いたくなります。

好井さんは、私たちが「あたりまえ」だと思っていることで、傷ついている人たちがいるのだということを教えてくれています。
私も、たくさんの人たちを傷つけていることを反省しなければいけません。
娘からは、よく注意されていますが、私の物言いはいささかストレートすぎるのです。
いまもそれが一因になって、2つのトラブルに直面しています。
困ったものです。

私が加害者になっていることも多いでしょうが、被害者になることもあります。
たとえば、「妻に先立たれた男性」に関する「あたりまえ」の「常識」です。
「妻に先立たれた男性」が、どれほど「生きづらい」ことか。
やはりなかなかわかってはもらえません。
これは、しかし、甘えと言うべきでしょう。
生きづらさを生きることも、また人生なのですから。

■2483:摂理(2014年6月27日)
節子
明け方に節子の夢を見ました。
一緒に福引を引いたら大当たりで、とても高価なもの(それが何かは思い出せません)が当たったのですが、その価値は意味のない価値なのではないかと2人とも気づいたような気づかないようなところで目が覚めました。
久しぶりに節子が出てきたのに、おかしな夢でした。
色即是空、空即是色のような話でした。

あんまり関係のない話なのですが、一条真也さんから教えてもらった矢作直樹さんの「人は死なない」という本に「摂理」という言葉が出てきます。
なぜかその言葉を思い出しました。
その本は、副題に「ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」とあるように、医学者である著者が、医学や科学の限界の認識の上に、スピリチュアリズムについて言及している本です。
著者の生きる姿勢は、本の最後の文章にしっかりと書かれています。

人はみな理性と直観のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、良心に耳を傾け、足るを知り、心身を労り、利他行をし、今を一所懸命に生きられたらと私は思っています。そして、「死」を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、「生」を全うしたいものです。
寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、という意味で「人は死なない」。私は、そのように考えています。

著者はまた、これまでの人生体験を踏まえて、私たちを取り巻く森羅万象、そして私自身の人生は、科学的論理や善悪の倫理を遥かに超えた、まさしく摂理の業としか思えない、と書いています。
すべては、摂理に従って動いている。
そして、その摂理は私たちの霊魂とともにあるというのです。

福引の夢で、なぜこの話を思い出したかわからないのですが、摂理に従って生きていると考えると、少しホッとするところがあります。
節子との別れも、摂理に従ったものだったと思えるからです。
それに、節子の霊魂は生きているわけです。

最近ちょっと宝くじに当たらないと困ると思っていました。
節子には当たるように頼まなかったのは、当たるだろうと確信していたからです。
しかし、宝くじに当たるか当たらないかも摂理なのです。
欲を出してはいけません。
夢は私への忠告かもしれません。
最近、迷いが多いです。

■2484:実盛坂を上れなかった人(2014年6月27日)
節子
湯島駅からオフィスまで歩いて5分ほどです。
この道を私はもう25年間、通い続けています。
少しは変化していますが、ほとんど変わっていません。

湯島駅の場所に比べるとオフィスのあるところは高台です。
そのため、途中で実盛坂という急な階段を上らないといけません。
58段あります、
私のホームページに地図があるのですが、そこにこんな説明を入れています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf

途中で急な階段に出会いますが、途中で帰らないようにしてください。
人生には苦難はつきものですから。

実はこれまでの25年間に一度だけ階段の下で諦めて帰った人がいます。
オープンサロンに初めて参加すると言ってきた女性です。
私は面識がなく、あるメーリングリストでお名前を知っていただけです。
サロンの途中で電話があり、階段の下まで来たが、急なのでここで引き返すことにしましたというのです。
サロンで私自身が話していた時だったこともあり、それは残念です。とだけ答えてしまいました。
あれしきの階段で諦めるとは、といささかがっかりしたこともあります。
そしてその人は結局、湯島のオフィスに来ることはありませんでした。

節子が発病した後、回復するかに思えたころ、湯島通いも復活しました。
いつも私と2人一緒でした。
しかし、この急な階段はやはりつらいと言って、ゆるやかな坂に遠回りしたこともあります。
その時に気づいたのですが、階段を実際に上れない人もいるのです。
そして、もしかしたら、あの時に来るのを断念した人は車椅子だったのかもしれないと思い至りました。
実際にはどうだったのかは、今となってはわかりません。
当時は、私の知らない人も含めて、オープンサロンには毎回15人ほどの人が集まりました。
2割くらいは、いつも私も初対面の人でした。
ですから、その人の名前もおぼえていないのです。
とても悔いています。

実盛坂を上るのが、私もそろそろ負担になってきました。
節子には、いつも無理をさせていたかもしれないと、この頃思うことが少なくありません。
節子の優しさを思うと、涙が出ます。

今日は、節子のいないオープンサロンです。
誰か来てくれるといいのですが。

■2485:こじんまりしたオープンサロンでした(2014年6月28日)
節子
昨夜のオープンサロンには3人の人たちが来てくれました。
昔とは大違いで、最近のオープンサロンはとても地味なのです。
3人には3人の良さもあります。
今回は、みんな私を元気づけるために来てくれたようです。
にもかかわらず、「みんな暇ですね」などと相変わらずの悪態をついてしまったので、みんなさぞかしむっとしていたことでしょう。
困ったものです。

節子の知っている人では、三浦さんと小山石さんが来ました。
三浦さんは最近体調もよくなり、先日は奥さんと一緒にクルージングで台湾にまで足を延してきたそうです。
三浦さんほど、心底善意の人は滅多にいませんが、あまり体調もよくないのに、サロンには来てくれます。
今回は、節子はあったこともない吉本さんという人が来ていて、たまたま三浦さんと関連した話をしていた時に、三浦さんがやってきました。
これも何かの縁で、それからひとしきり、3人でその話題の話になりました。
企業関係の仕事の話なのですが、話しているうちに、いろんなことを思い出しました。
そういえば、企業変革関係のプロジェクトをやらなくなってから長い時間が経っていますが、企業文化の変革や企業家精神の啓発などのプロジェクトをまたやりたい気分になりました。
小山石さんは、湯島をオープンした時にも、やってきて、紅茶の話をしてくれたので、節子も印象づけられた人です。
相変わらず変わっていませんが、昨日は紅茶ではなく珈琲を持ってきてくれました。

人数が少なかったこともあり、なぜか湯島に来た、ちょっと変わった人たちの話になりました。
湯島には本当にさまざまな人がやってきました。
話していると、いったい私は何をやってきているのだろうかと、我ながら不思議になります。
節子がよくついてきてくれたものだと、改めて感謝しました。

湯島を開いてから、それでもきちんとした仕事をしていた時期もありました。
しかし、なにやら少し社会のわき道にどんどん迷い込んでしまったような気がします。
それでも私に勢いがあった時には、いろんな人が集まってきてくれていました。
しかし、私があまりにわがままで(良く言えば素直で)あるがために、私の態度を横柄だと感じたりする人も少なくなかったはずです。
最近は湯島に入りきれないほどにサロンに集まることもなくなりました。
こうやってだんだん人は社会から外れていくのかもしれません。

心許した人たちばかりでもあったので、私への辛らつな指摘もありました。
むかし節子から言われていたことも思い出しました。
そんなわけで、昨夜のオープンサロンは、いつもとちょっと違ったものでした。
でもまあ、おかげで少しまた元気も戻ってきました。
友人たちにはもっと素直に感謝しなければいけません。

■2486:池に魚を放しました(2014年6月28日)
節子
魚屋さんに行って魚を数種類仕入れてきました。
食べる魚ではなく、飼う魚です。
最近、わが家の魚は絶滅の危機に瀕しているのです。
庭の池の魚が全滅したのは、2年前ですが、その後、放したメダカがまたもや全滅です。
改めて水は全部出して、一度カラにしたのですが、最近の雨でいっぱいになっていました。
それで金魚屋さんに行って、金魚とタナゴとエビを購入してきました。
メダカもほしかったのですが、あいにくお店の人に今は元気がないのでやめたほうがいいといわれました。
このお店は、どういうところで飼うのかまでチェックされるのです。

節子は池に反対でした。
庭に穴を掘ってはいけないという子どもの頃聞いた話を信じていたからです。
逆に私は水が大好きで、池も大好きなのです。
以前の家でも池をつくっていましたが、ちょっと不幸が続いた時に、節子の気持ちを汲んで埋めてしまいました。
そのおかげで、不幸が山を越したかどうかは、記憶がありませんが。

しかし、なぜか転居した新しい家では、私の誕生日祝いに池をみんなで作ってくれたのです。
節子が元気のあいだは、池も元気でした。
近くの手賀沼からゲンゴロウやミズスマシも飛んできました。
しかし、節子が病気になってからは、池も元気がなくなってきました。
まあ、これは単に私がそんな気がしているということだけのことですが。
そして、3.11の1年後に、すべての魚やエビが突然全滅したのです。
魚を放しても、なぜかダメでした。

5月に池にハスを植えました。
昔はハスもパピルスも育っていましたが、この数年、いずれも枯れてしまっていました。
幸いにハスは元気です。
それで今度は金魚とエビを放すことにしました。
うまく育ってくれるといいのですが。

エビはしばらくは室内で飼って、それから池に放す予定です.
節子の位牌の近くに、節子が熱帯魚を飼っていた水槽があるのです。
そこの熱帯魚も、今は1匹しかいないので、私と同じように、いつもさびしそうです。

■2487:平安を与えてくれる祈り(2014年6月29日)
私の一日は、節子への祈りによって始まります。
これは、節子がいなくなってから始まったことですが、祈りを受け止めてくれるのは、わが家の大日如来です。
娘が手づくりし、家族3人で開眼し、お世話になっているお寺で魂を入れてもらった大日如来です。
昨日、時評編にこうした書き出しで、少し「祈り」のことを書きました。
最近は「祈る」ことが多くなりました。

節子の胃がんが再発した後、私たちは毎日寝る前に一緒に祈りました。
しかし、今から思えば、祈りの内容は違っていたのかもしれません。
私の祈りは、奇跡への祈りであり、節子の祈りは感謝の祈りだったような気がします。
その違いが、最近少しわかってきました。

節子がいなくなってから、私はしばらく放心していたように思います。
仏壇や献花台に手を合わせていましたが、何を祈っていたのか、あまり思い出せません。
おそらく旅立った節子の平安を祈っていたのでしょうが、実は残された私の救いを願っていたのかもしれません。
祈りは、願いにもつながっています。
放心した私の願いは、決してかなえられるものではありません。
しかし、それでも祈りによって、私自身の平安は保たれた気がします。
祈りは、自らを、自らを超えた大きな存在(それを神と言ってもいいでしょうが)にゆだねるからです。
小さな私欲をわずらう自分はいなくなります。
いま思えば、節子もまたそうだったのです。
祈りは、人に平安を与えてくれるのです。

まだまだ私は、そうした「祈り」の境地には達せられません。
節子の祈りを思い出しながら、少しずつそうした祈りに近づければと思います。

今朝の祈りは、いつもとは少し違いました。
でもまぁ、ここに書いたようなことが気になって、いつもよりも早く起きてしまったので、とても眠いのですが。

■2488:風邪を引いたようです(2014年6月30日)
節子
どうも風邪を引いてしまったようです。
今日は自宅でおとなしくしていました。
今週はいくつかの約束もあるので、入り口で治さなければいけません。

なぜ風邪を引いてしまったのか、原因がわかりません。
無理をしているわけでもありませんし、気温の変化にもそれなりに留意していたのですが。
昨夜の寝相の悪さのためでしょうか。 

しかし、風邪を引く以上、何らかの理由があるはずです。
もしかしたら、少し休めということかもしれません。
客観的に見たら、休むほどのことはしていませんが、いろんな気遣いに疲れが出てきたのかもしれません。
そういえば、最近の私の電話ぶりは問題がありそうです。
節子がいたら、間違いなく注意されるでしょう。
一方的に声高に話しだしてしまうのです。
実に困ったものです。

昨日、新潟の金田さんのメールにこんなことが書かれていました。

失礼ながら、佐藤さんの機関銃のようなお話を聞いてますと、整理するのに苦戦してます。

これは婉曲に私にアドバイスしてくれているものと思われます。
金田さんと一緒に、今あることに取り組んでいるのですが、一昨日、私がちょっといらだってしまい、私よりも年長の金田さんに一方的にいろいろと話してしまったのです。
金田さんは、私の失礼な話しぶりを寛容に包み込んでくれましたが、電話を切った後、我ながら嫌な気分になってしまっていました。
しかし、幸いに、今日、金田さんから順調に進みだしたとの電話がかかってきました。
ホッとしました。

心に余裕がないと、思わぬ失態をします。
少し休んで、自分を見直すことが必要です。
風邪を引いたのは、そのためでしょう。
午後からゆっくりとしていました。
残念ながら、まだ風邪が治った気配はありませんが、ひどくなったようにも思いません。
早目に寝ようかとも思いますが、早く眠ると夜中に目が覚めてしまいます。

私にはめずらしい書籍を先日図書館から借りてきているので、それを読もうと思います。
関川夏央さんの書いた「二葉亭四迷の明治41年」です。
この本を読む気になったのも、おそらく意味があるのでしょう。
たぶん読み終われば、その理由がわかると思うのですが。

■2489:精神的疲労(2014年7月1日)
節子
風邪は入り口で止まりそうです。
いやもしかしたら、風邪ではなかったのかもしれません。
精神的疲労からのダウンかもしれません。
今日はまだ何となく気だるく、頭の後が重いのですが、大丈夫でしょう。
手のしびれが気になりますが、まぁ、いまに始まったことではありません。
ただし、湯島に行くのはやめました。
昨日、書いた「二葉亭四迷の明治41年」も、半分で眠くなってしまい、読了できませんでしたので、それも読もうと思います。

ところで、精神的疲労というのはどこから生まれてくるのでしょうか。
人と付き合うことから生ずるのでしょうか。
自然と付き合っていると、精神的疲労は生まれないのでしょうか。
そうとも言えません。
梅雨の季節に、畑で草と付き合っていると、それなりの疲労感は生まれるのです。
いくら刈っても、それ以上の速さで成長してくるのですから、自分のやっていることが徒労に終わりかねないのです。
しかし、人との付き合いと違って、その草に癒されることもあります。
それに、成長する若草を見ていると、それだけでも気持ちがさわやかになります。
成長して大きくなったセイタカアワダチソウを見るとムッとしますが、芽を出したばかりだと抜く気にもなれません。
そして結局は裏切られてしまうのですが。

という風に考えていくと、あることに気づきます。
精神的疲労は、他の精神との軋轢によって生まれるのではないかと、いうことです。
つまり自然との間ではあまり精神的疲労が生まれないのは、自然の精神を私たちが理解できていないからです。
それに対して、人との付き合いにおいては、相手の精神が理解できると思ってしまうから、そこに軋轢が生じてしまうわけです。
なるほど、とても納得できる考えです。

このテーマは、古典的SFの「ソラリスの陽のもとに」で扱われています。
いわゆる自然が精神を持って、人間にもわかるように働きかけだしたらどうなるか。
「小さな」精神しか持てない人間は、精神的疲労どころか、精神的破綻に瀕していきます。
小説を読んだ方、あるいは映画を観た方にはわかってもらえると思いますが。

次々と書きたいことが浮かんできてしまいます。
これもまた、精神的疲労(高揚)のせいでしょうか。
ソラリスは「彼岸」に通ずると考えると、この7年の私のいろんなことがこれまでとは違う意味で納得できます。
何となく、そうした事は意識していましたが、改めてかアンが得ると大テーマです。

最近、人との付き合いに疲れてきていること、その解消法は皮肉なことに人との付き合いにしかないこと。それができないのは節子と関係あること。そういうことを書こうと思っていたのに、なぜかソラリスの話になってしまいました。
やはり精神的に疲れているのかもしれません。
困ったものです。

今日は久しぶりに畑に行ってみようと思います。
先日植えた、必要周りが健気に頑張っていると思いますので。
明日は、たぶん精神は正常化しているでしょう。

■2490:今日もデモに行きませんでした(2014年7月1日)
節子
とうとう集団的自衛権の行使容認が閣議で決定されました。
にもかかわらず、私はデモにも参加せずに、自宅にいました。
少しだけ迷ったのですが、体調もあまりよくないのを口実に国会にも行かずに、ただテレビを見ていました。
もし節子がいたら、一緒にいっただろうなと思いながら。

前に挽歌で書きましたが、節子が発病する2年前、テロ対策特別措置法制定反対する市民中心のデモに、節子と一緒に参加しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/07/post-d9a0.html
寒い夜でしたが、みんな興奮していたので、熱気であふれていました。
節子には新鮮な体験だったようで、その後も、ピースウォークなどにも一緒に行きました。
私の話よりも、新聞やテレビの報道のほうを信じがちだった節子も、そうした現場を体験することで私への信頼感も高めてくれました。
もし節子が元気だったら、デモへの参加も続けたでしょうが、節子のがんが発見されてからは、そうした活動もほとんどやめてしまいました。
世界の未来も大切ですが、当時の私には節子のほうが大事でした。
それでも時々、節子に押されて、そういう集まりにも参加しましたが、持続できませんでした。

節子がいなくなってからは、ますます参加しなくなりました。
頭では参加しようと時々思うのですが、同時に、気が起きないのです。
ちょっと無理して参加しても、なにやらすぐに帰りたくなるのです。
これは実は、デモに限りません。
美術展も映画も観光もそうなのです。
一人で行く気にはなれないのです。

それではまずいなとは思うのですが、素直に生きることを大事にしていますので、仕方がありません。
節子がいなくなって、私の行動力は激減しています。
歳のせいもあるでしょうが、それだけではありません。
どんなにがんばっても、やはり心に大きな穴があいているようです。

■2491:「徘徊」気分がわかりました(2014年7月2日)
節子
今日は調子がよければ、国会前に行ってみようと思っていましたが、やはりやめました。
どことなく違和感と疲労感があります。
もう1日だけ休もうと思います。
昨日、無理をして畑に行ったのが逆効果でした。
畑に行くくらいなら、国会前に行くべきでした。
そうしたら気が晴れていたかもしれません。

節子がいなくなって、こういう時の時間の過ごし方の難しさに気づきました。
一人で休息をとるということは、それなりに難しいことです。
一人でいると退屈なので、どうしても何かしたくなります。
と言っても、本を読む気力はありませんし、テレビも観ているとなにやらむなしくなります。
節子が相手をしてくれれば、何気ない話で気を紛らわせますが、一人で話すわけにもいきません。
それでついついパソコンに向かったりしますが、メールなどを見てしまうと、また気の重くなる話が舞い込んできかねません。
気があふれている時は、どんなバッドニュースも取り組む課題に転換できますが、気が萎えている時には気持ちがどんよりしてしまいます。
外界との関係はシャットダウンしなければいけません。
だからと言って、寝る気にはなりません。
私の性癖として、明るい時にはなかなか眠る気にはなれません。
節子もそうでしたが。

さて困ったものです。
もしかしたら、こういう状況のなかで、高齢者は「徘徊」に出かけるのかもしれません。
不幸にもまだ私は、その域に達していませんが、そういえば、ちょっとどこかに出かけたい気分になりますね。

人生を一人で過ごすのは、やはり強い精神力が必要です。
私にはあまり向いていないようです。

■2492:「笑いがなくて生きているっていえるか」(2014年7月2日)
節子
前の記事をアップした後、テレビを見たら、3年前に放映されたNHKテレビの「笑う沖縄 100年の物語」を再放送していました。
私がスイッチを入れた時にはもう残り時間が10分ほどのところでした。
しかし、印象に残る10分でした。
気がつくのが遅すぎました。

お笑い芸人のゴリさんが、終了後感想を述べていましたが、それにもとても心打たれました。
彼は、番組に出ていたある人の人間力を絶賛しながら、その人の発した言葉を紹介していました。
「笑いがなくて生きているっていえるか」だったような気もしますが、間違っている可能性のほうが大きいです。
その言葉は、普通は言えないような場所で語られたようでした。
ゴリさんが、あらゆる感情をこわされてしまった時には、もう笑うしかないのかもしれないというようなことを語っていました。
全体の状況が理解できていないまま、その言葉を聞いていましたが、それも含めて、今日の私にはとても心に響く言葉ばかりでした。

死に直面してもなお、節子は笑いを失いませんでした。
私たち家族も、笑いを大切にしました。
傍から見たら、おかしな家族だったのかもしれません。
そのことも思い出しましたが、それ以上に、最近の私の心境から抜け出ないといけないと思いました。

この数日、私はたぶん笑っていません。
だから心身がおかしくなっているのかもしれません。
明日は、必ず出かけようと思います。

テレビも、時には良いものです。
体調は相変わらず、あんまりよくありません。

■2493:節子の縁(2014年7月3日)
節子
節子のお兄さんからメールが来ました。
といっても、あなたにはお兄さんはいませんでしたね。
この「節子」は、あなたのことではありません。
この挽歌の読者のお1人の妹さんです。

以前、時々、この挽歌のコメントにも投稿してくださった人です。
愛する節子を喪ったことが契機で、この挽歌に出会ってくれました。
最初にメールをもらった時には、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出しました。
私が節子に会う前からとても好きな詩のひとつでした。

その人からのメールのことを書こうというわけではありません。
今日は「節子の縁」の話です。
この挽歌を読んでメールをくださった、少なくとも3人の方は、その愛する人の名前が「節子」なのです。
「節子への挽歌」でネットを調べるとこの挽歌に出会うわけです。
ですから、節子という名前からのご縁と言ってもいいでしょう。

名前は不思議なものです。
愛した人の名前が「節子」だったためか、「節子」という名前には好感を持ってしまいます。
いまでは、「節子」という名前は、私には特別の意味を持ってしまっています。

私と同姓同名の「佐藤修」さんと何回か会ったことがあります。
ある時は、佐藤修さんと食事を一緒にしたこともあります。
なんだかとても奇妙な気分でした。
前にも書きましたが、大学受験の時の隣の人も「佐藤修」さんでした。
一時期、私は「佐藤修の会」をつくろうと思っていたこともあります。
今はそういう元気はもう全くなくなってしまいましたが。

節子のご縁は大事にしなければいけません。
私と一緒で、「節子」に先立たれた人はみんな苦労しているようです。
しかし、そういう人とのメールも、とても奇妙な気分です。
「節子」という文字を見ると、どうしても私の場合は、あなたを思い出すからです。
あなたではない節子さんって、一体どんな人でしょうか。

彼岸に行ったら、会えるかもしれませんね。

■2494:コミュニティ、家庭、そして夫婦(2014年7月3日)
節子
今日は国会議事堂から霞が関まで歩いてきました。
一昨日は官邸前で集団的自衛権反対の集会が行われていたのですが、今日はいつもの通りの様子でした。
夕方になれば、また人が集まってくるのかもしれませんが、夕方には予定があったので昼間に行ってみました。
肝心の反対活動が展開されていた時には、私は一度も行かなかったのですが、ずっと気になっていたので、もう終わってしまった後だったのですが、罪滅ぼしに歩いてきたわけです。
もう何も痕跡はありませんでしたが、一応、私としては気分的に落ち着きました。
節子に話したら、相変わらず無駄な動きが多いねと笑われそうですが。

それにしても今日は暑いです。
来客が2組あるので、湯島のオフィスに来ていますが、その合間に、明後日お会いする予定の増田レアさんのお父さんである、大仏空さんの生涯を紹介している本を読みました。
「脳性マヒ者と生きる 大仏空の生涯」という本です。
もう25年ほど前に出た本なので入手できず、図書館に頼んで探してもらい、ようやく昨日借りることができたのです。
そこに衝撃的な問題提起がありました。
家庭とコミュニティは両立するかどうか。
そして介護疲れで被介護者を殺めることの意味への問い直しです。
いずれも最近、私が気になってきているテーマなのですが、これほど明確に問題提起されるとたじろいでしまいます。

家族とコミュニティに関しては、それと類似の問題があります。
夫婦と家族の関係です。
夫婦は家族の一要素と捉えられがちですが、必ずしもそうではありません。

大仏さんは、茨城に脳性マヒ者のコロニー「マハラバ村」をつくり、そこで脳性マヒ者たちが家庭をつくりました。
ところが、その家庭がコロニーのまとまりに必ずしも支援的でなかったと、この本の著者は語っています。
コミュニティの基本は家族・家庭であると思っていた私には衝撃的な問題提起ですが、考えてみれば当然すぎるほど当然の話です。
そして、同じ問題が夫婦と家族にもあることを、改めて意識しないわけにはいきません。
この問題は、節子がいなくなった後、ずっと考えてきたことです。

以前、書いたことがありますが、私たちにとっては親子よりも夫婦軸が強かった気がします。
娘たちにはとても申し訳ないことをしたと今頃になって強く反省しています。
愛しすぎる夫婦は決して家族にとっては望ましいものとは限りません。
それは親子関係が強すぎる家族にも当てはまるかもしれません。

ちょっと刺激の強すぎる本を読んでしまいました。
もっと元気な時に読むべきでした。

■2495:ルーティンワーク(2014年7月4日)
節子
わが家の2階には、エアコンが一つもありません。
私の仕事場も2階なので、エアコンはありません。
ですから冬は寒いし、夏は暑いのです。
そこで今年は、仕事場の窓に朝顔を植えることにしました。
プランターに4本の宿根の朝顔を植えました。
湯島のオフィスに行く途中に、毎年、見事に花を咲かす朝顔のように、たくさん花を付けてくれるといいのですが、その花を見るのはたぶん私だけです。
朝顔には申し訳ないことをしましたが、せいぜいよく見るようにしないといけません。
そんなわけで、毎朝の日課が一つ増えました。
朝顔への水やりです。

最近、少しずつですが、家事のルーティンが身につきだしました。
ルーティンという発想は、昔の私には耐え難いものでしたが、いまは反対です。
ルーティンワークの大切さが、少しだけわかるようになってきました。
文化の基本はルーティンなのだということもわかってきました。
少しは成長しているわけです。

節子は今日も昨日のように平安だった、明日もまた今日のようでありますようにと、祈っていました。
私は、どちらかといえば、明日は今日と違いますようにと思うタイプでした。
昨日のような今日は、退屈で無意味だと思うほうでした。
未来は見えないほうがいいと、いつも思っていました。
一度の人生ならば、できるだけさまざまな世界と触れ合いたかったのです。

そのくせ、自分の世界はかなり限定的でした。
とりわけ、世間的な流行の世界には、どうしても心身が動きませんでした。
臆病といってもいいほどです。
節子は逆に、新しい世界への気楽さがありました。
わが家に新しい文化を持ち込んだのは、ほとんどが節子でした。
そうした私と節子との組み合わせが、私たちの世界のバランスをダイナミックに安定させてくれていたように思います。
節子のおかげで、私の世界はかなり広がったといってもいいでしょう。

人の生活は、さまざまなルーティンに支えられています。
節子がいなくなって、改めてそのことを実感します。
家事のほとんどすべてがルーティンなのです。
頭ではわかっていたそのことを、最近は心身でも少し対応できるようになりました。
しかし、節子がつくってくれていたわが家のルーティンも、だいぶ消えてしまいました。
私が壊してきたのかもしれません。
生き方を少し変えなければいけません。

■2496:雨で元気になる野草が羨ましくもあります(2014年7月5日)
節子
今日も雨です。
雨だとどうも元気が出ないのが、私の悪い性格です。
しかし、庭の花木も畑の私にとっての天敵の草も、みんな元気になるでしょう。
同じものが、人によっては元気のもとになり、元気を削ぐ原因にもなる。
私のように、「雑多な生き方」をしていると、それがよくわかります。

「雑多な生き方」とは、表現が不遜ですが、「枠を決めない生き方」というような感じで使いました。
先日会った友人から、私が懲りずに重荷を背負い込んだことに関して、「なんで引き受けてしまうのですか」と問われましたが、別に引き受けたわけではなく、ただ断らなかっただけなのです。
信条に反することは断りますが、それ以外は断る理由がないからです。
それが「枠を決めない生き方」であり、その結果が「雑多な生き方」です。

薬も、ある場合は人を元気にし、ある場合は人を害します。
同じ人にとっても、同じものが薬にもなり毒にもなる。
そうであればこそ、自分を生きる面白さと価値がある。
苦も楽も、結局同じことなのに気づけます。
そして、小賢しい知識や狭い考えで、断ったり引き受けたりするのではなく、断らないのが良いということになるわけです.
なにやらこれこぞが小賢しい気もしますが、私にはそれが「素直な生き方」なのです。

何でこんなことを書き出したのでしょうか。
最初に戻りましょう。
節子と結婚したのは、私にはプラスマイナス両面があったはずですが、私はすべてプラスと考えました。
節子も同じです。
であれば、節子との別れもまた、同じことです。
とまあ、こんなことを書こうと思って、書き出したのですが、そういう発想そのものがかなり小賢しいような気がしてきました。
せめて雨に当たって元気になる草のように、最近やけに降ってくる問題も、そこから元気をもらうように発想を変えないといけません。
雨で元気になる野草に学ばねばいけません。

■2497:脳が詰まってきているような気がします(2014年7月6日)
節子
最近、かなり「脳力」が低下しているようです。
数年前に、めまいが止まらずに2年続けて脳のMRIとCTを撮ったのですが、その時、医師からは「歳相応に老化しています」と言われましたが、さらに老化し、脳の一部に梗塞現象や機能低下が広がっているのでしょう。
思考力や判断力、あるいは記憶力が低下するのは、私にとっては全く問題はないのですが、脳の疲労感が強まっているのは、少し困っています。

昨日は2つの、いささか「重いテーマ」の話し合いをする機会がありました。
直接、重いテーマで話し合ったわけではないのですが、カジュアルに生きている私としても、一応、真剣に考えますので、それなりに疲れます。
しかも、その一つは初対面の人との話し合いでした。
それでも話し合っている時はいいのですが、終わって一人になると疲れがどっと出てくるのです。
昨夜も帰宅後、いささか疲れてしまい、ぐたっとなっていました。

ぐたっとなりながら考えました。
昔はこんなことはなかった、と。
なぜこんなに疲れるのでしょうか。
これは「健全な老化」現象なのでしょうか。
そうではない、と気づきました。
節子がいないことが原因なのです。

昔は、どんなに疲れて帰ってきても、節子に必ず何があったかを話したものです。
節子はよほどの事がない限り、それをきちんと聞いてくれました。
話を聞いてもらう、それが疲労を回復させる最高の手段だったのです。
どんなに悩ましい問題や不安も、それをわかってくれている人がいると思えば、乗り越えられます。
信頼できる人に話すことによって、脳内に蓄積されたものが放出されるのです。
放出されないままに、私の脳には、たくさんのものが沈殿しているのかもしれません。
そう気づいたわけです。

さてこの沈殿物をどう処理するか。
これまた解決の難しい問題です。
まだ私の脳は、疲れきったままで、回復していません。
畑にでも行くのがいいかもしれません。
でも、身体もそれなりに疲れています。
困ったものです。

■2498:挽歌を読んでくれている方からのメール(2014年7月7日)
節子
昨日の記事にコメントが届きました。
4年ほど前に最初のコメントをもらった、お会いしたことのないライムさんという方からのコメントでした。

今夜の記事、胸に詰まりました。
本当に安心して話を聞いてもらえるのは、夫婦だけですね。
私もつくづく実感しております。

こういうコメントをもらうと、不思議なことに少し落ち着きます。
自分だけのことではないのだと思うからかもしれません。

挽歌を書いている時は、節子と会話しています。
以前は、会話しだすとすぐに書くことが浮かんできましたが、最近はそうでもありません。
時には節子とのしばらくの会話(もちろん声には出ませんが)だけで挽歌を書くこともなく、終わることもあります。
無言のままに、一緒にボーっとしている時さえあるのです。
それだけ「静かな関係」になってきたのかもしれません。
時には無性に会いたくなることもありますが。

ライムさんからのコメントは、2年ぶりでした。
人の「縁」に意味を感じている私としては、一度、メールやコメントをもらった方のことは時々思い出します。
なかにはわが家まで突然来てくださった方もいますが、その後、音信がなくなると、それなりに気になります。
ですから、久しぶりにコメントやメールが来ると、少しだけホッとします。
先日も、しばらく連絡のなかった方からメールをもらいました。
ホッとしました。

しかし、私の知らない人がどこかで時々、この挽歌を読んでくれていると思うと、実に不思議な気がします。
その人たちとも、ささやかにでしょうが、世界をシェアしているような気がします。
そして、そういう人たちに支えながら私は生きているような気もします。
みんな節子を介してつながった人たちなのですから。

夫婦とはちょっと違うとはいえ、そういう人たちに私は話を聞いてもらっている。
それを幸せだと思わないわけにはいきません。

■2499:どうして「やる気」が起きないのか(2014年7月7日)
節子
今日は七夕ですが、残念ながら雨になりました。
あまり意味もないのですが、七夕までにこの挽歌のナンバーと節子を見送った後の日数とを合わせようと思っていたのですが、追いつきませんでした。
今日は節子がいなくなってから2502日目です。
3つずれてしまっています。

節子がいなくなってから、もう2500日も経ったのだと思うと、これまた不思議な気がします。
つい最近まで節子と一緒に暮らしていたような気がするからです。
しかし、その一方で、まだ2500日なのかという思いもあります。
節子と会わなくなってから、なが〜い時間が経ってしまったような気もするのです。
時間の長さと言うのは、不思議なものです。

もし時間に密度があるのであれば、節子がいなくなってからの私の生きる時間の密度はかなり希薄になっています。
気がつくと無為に過ごしていることも少なくありませんし、第一、「いつまでに何かをしなくては」という思いはほとんどなくなりました。
節子がいた頃は、どんなに大変なことも、それでも明日には日が昇るのだからと頑張りましたが、いまは逆で、もう節子はいないのだからと、あんまり意味のない理屈づけで、無理をしないようになってしまっています。
節子の存在は、いつも私には大きな支えでした。
世界中の人からほめられるよりも、節子に認めてもらいたいという気分がありました。
そういう意識もあって、社会からはどんどん脱落してきているのですが、肝心要の節子がいなくなってしまうと、がんばる支えがなくなってしまい、実に生きにくくなってしまったのです。
そういう意味での「自立」は、私にはどうも無理のようです。
節子に依存した生活が長すぎました。

節子がいないままの人生は、あとどのくらいつづくのでしょうか。
もうしばらくはつづきそうです。
節子がいなくても、何とか生きつづけることができることにも気づきました。
それに、私が生きつづけることは、節子が現世とのつながりを維持しつづけ、節子もまた生きつづけることにもなりますから、もう少しつづくのも悪いことではありません。

やることが今日も山積みでしたが、あんまり進みませんでした。
節子はよく知っていますが、私は「やる気」が起きないと何もできないのです。
しかし、今日はあまりに怠惰でしたので、夜になって罪悪感に襲われています。
困ったものです。

■2500:空の青さは元気をくれます(2014年7月8日)
節子
昨日とは違い、とても空が青い朝です。
昨夜は少し早目に寝たので、すっきりと目覚められました。
私は自然環境に大きく影響を受けるタイプなのですが、青空が一番元気づけられます。

青空といえば、思い出すのが2つあります。
エジプトのルクソールの青空と長野の千畳敷カールの青空です。
いずれも節子と一緒でした。

25年間の会社生活を辞めて、生き方を変えることにしたのが、今から25年前です。
家族みんなでエジプトに旅行に行きました。
わが家にとっては、初めての海外家族旅行でした。
ルクソールでは、ナイル川に面したホテルに泊まりました。
青空がきれいでした。

25年間の会社生活でも青空はたくさん見ていたはずですが、なぜか空の青さが心に残りました。
旅行中、節子と空が青いねと何回も話したことを思い出します。
以来、青空を見るのが好きになり、元気が出るようになりました。
それまでは、どちらかといえば、空の雲が好きだったのです。

千畳敷カールは、節子の病気が一時回復した時に一緒に行きました。
節子は元気で、一緒に千畳敷カールの散策を楽しみました。
あの時の空は、ルクソールの空よりも深い青さでした。
今でもはっきりと覚えています。

湯島のオフィスに行く途中に、実盛坂という急な階段があります。
その前で、必ず私の目は空を見上げます。
そして、いつも、エジプトと千畳敷の空を思い出します。

会社時代のことはあまり覚えていませんが、会社を辞めてからは空を見上げることが多くなりました。
最近はさらに多くなっています。
いつも節子が隣にいるような気がするからです。
ただし、今日のように、澄み切って広がる青空の時ですが。

今日は湯島に出かけようと思います。

■2501:未来は見えないほうがいい(2014年7月9日)
節子
とても強い台風が西日本に近づいているようで、テレビでは盛んに警戒情報をながしています。
今日の首都圏はとても良い天気で、テレビを見なければ、数日後に首都圏にも強い台風が来ることなど思いもしないでしょう。

「ペイチェック」という映画がありました。
ある人が、未来を見ることができる装置を開発するのですが、人類は未来を知ることで、不幸を予防できるどころか、知ってしまった未来に向けて、逆に突き進んでいくことを知り、その装置を壊すという物語です。
未来を知ることは、決して良いことではありません。
私はそう思っています。

大地震の予知や警戒に関しても盛んに報道されますが、私にはあまり関心はありません。
自然の猛威には抗うつもりもありません。
未来を知って、生きやすくなるのであればともかく、そうはならないでしょうから。

闘病中の節子にとって、大切なのは未来ではなくその時々でした。
私は、しかし、その節子の真剣な生き方とは少しずれてしまっていました。
節子に、病気が治ったらとか、元気になったらとか、そんな条件付の会話をしていたような気がします。
今から考えれば、私にとって都合の良い未来を見たがっていただけです。
それは、節子の気持ちを逆なでしていたかもしれません。
節子にとっては、そういう未来ではなく、いまそのものを私と分かち合えたかったはずです。
私は自分勝手に、明るい未来をイメージすることが、節子を元気にすると思い続けていたのです。
節子は、その私の考えには賛成しましたが、それは節子にとってはその時の私との関係が大事だったからです。
思いは共有できていたように見えて、実は全く別だあったのかもしれません。
そういうことに気づいたのも、節子が逝ってしまい、この挽歌を書いているおかげです。

人の未来は、おそらく決まっていないのです。
決まっていなければ見えるはずもない。
いや見えるとしたら、それは今をあいまいにする、一種の麻薬かもしれません。
未来ではなく、現実を誠実に見ることが、未来を見ることなのでしょう。

彼岸に行ったら、節子に謝らなければ行けないことが毎日増え続けています。
困ったものです。

最近は天気予報の精度が急速に高まっているようです。
それが本当に良いことなのかどうか。
私には迷うところです。

先が見える人生は、私の好みではありません。
節子はどうだったでしょうか。
7年前の今頃、節子はもしかしたら未来が見えてしまったのかもしれません。
しかし、私にはそれを伝えませんでした。
この季節になると、毎年、そんな気がしてきます。

■2502:「生きることはまわりにバラを植えることである」(2014年7月10日)
節子
最近、本を読むことが多くなりました。
だれでもそうでしょうが、自分の考えに合うような本を探すためか、共感できる文章によく出会います。
そのためだろうと思いますが、私自身の生き方への確信が強まっています。
昨日から読み出した本は、「暇と退屈の倫理学」という本です。
改めて自分の生き方や考え方が整理されるうれしさを感じながら読んでいますが、やわらかい本にもかかわらずなかなか進みません。
いろいろと自分自身の生き方を振り返りながら読んでいるせいかもしれません。

その本の序章に、ウィリアム・モリスの言葉が紹介されていました。

わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られねばならない。

ちなみに、湯島のオフィスの玄関には真紅のバラの造花が飾られています。
節子が湯島に通っていた時には、できるだけ生花にしていましたが、あまり通えなくなってからは、造花にしていました。
節子が最後に飾った造花が真紅のバラでした。
節子は、真紅のバラが好きだったのです。
もう7年以上経ちますが、今もそのまま、飾っています。
モリスの言葉とは無関係ですが、私はその造花をすぐに思い出しました。
湯島に行くたびに、そのバラを見ているからです。

私の人生は、バラで飾られていたでしょうか。
私も節子も、パンよりもバラを求めていたことは間違いありませんが、バラにはあまり飾られていなかったかもしれません。
モリスの言葉にならえば、バラを植えていたと言ったほうが、私の感覚には合います。
「生きることはまわりにバラを植えることである」というわけです。
そして、節子がもし今も元気だったら、私たちの周りにはバラが咲き出していたかもしれません。
そんな気がしてなりません。

いま節子の位牌の前には、庭のバラの花が供えられています。
その多くは、節子が植えておいたバラです。

■2503:「なんとなく退屈だ」(2014年7月11日)
節子
哲学者のハイデッガーは退屈を3つに分けて考えているそうです。
ハイデッガーは、著書も生き方も、私には歯が立たない難解なものですが、その退屈論にはちょっと興味を引かれます。
ハイデッガーは、最も深い退屈は「なんとなく退屈だ」というような退屈だというのです。
難しい議論は私にはあまり消化できていませんが、「なんとなく退屈だ」という気分はとてもよくわかります。

節子はよく知っていますが、私はどんなに忙しくても退屈することが少なくありませんでした。
他者から見たらそれなりに楽しんでいそうなイベントの最中にも、あるいは時間破産して何かに追われている時にも、結構退屈なことが少なくありません。
さらにいえば、大好きな遺跡を見に行っても、突然に隣の節子に、「この遺跡を見て何の意味があるのかなあ」とついつい発言してしまうことがあるのです。
その度に、あまり好きでもないのに付き合わされている節子は呆れるのですが、なぜか突然、退屈になる。
風光明媚な観光地に行って、そんなことを言おうものなら、節子は呆れるのではなく怒り出すのですが、一度ならず言ってしまったことがあります。
自分でもよくわかりませんが、ふとそう思うわけです。
友人知人と議論が盛り上がっている、まさにその時に、突然退屈を感じ、話せなくなることもあるのです。
体験して不快に感じた人もいるかもしれません。

自分が好きな行動をしている時でさえそうですから、お付き合い的な集まり、とりわけ結婚式や何かのお祝いなどは、もう死ぬほど退屈です。
隣の人と話していると楽しいですし、美味しい食事もうれしいのですが、どうもどこかから「なんとなく退屈だ」という声が聞こえてくるのです。
ちなみにお葬式で退屈したことはこれまで一度もありません。

ハイデッガーの退屈論を紹介している本を読んでいたら、まさにいつも私が感じていることが、文字通り書かれているのです。
驚くというよりも、奇妙な気になって、一気に読んでしまいましたが、読み終えた後、やはりどこかで「なんとなく退屈だ」と思う気持ちがあるのです。
困ったものです。

ところで、いささか言いよどみますが、「3万年付き合っても退屈しないよ」と節子に言ったことがあります。
それも一度ならず、でしたが、節子は冗談だと笑い流していました。
私が飽きっぽいこともよく知っているからです。
しかし、実はその気分は素直な私の実感でした。
私の数少ない信条の一つは、「嘘をつかない」ことです。

さて〈退屈〉とは何なのでしょうか。
節子がいなくなってから、私には「退屈でない」時は一度もありません。
しかし逆に、ふと「これって何の意味があるんだろうか」と思うこともなくなりました。
これを考えていくと、ハイデッガーよりも深遠な退屈論が書けるかもしれませんが、まとめる能力がありません。

ちなみに、人は忙しい時ほど退屈になるものです。
今日も退屈な1日でした。

■2504:嫌な時代(2014年7月12日)
節子
あなたがいなくなってから、嫌なことがどんどん進んでいます。
といっても、私の生活に関連したことではありません。
日本という社会、日本という地域が、です。
まあこんなことは時評編のテーマですが、少しばかり節子にも関わることなので、今日は少し「怒り」を書きたい気になりました。
節子なら、私の気持ちをわかってくれるでしょうから。

節子はNHKのテレビ番組「クローズアップ現代」のキャスターの国谷裕子さんが好きでした。
いつも、すごい人だと感心していました。
「クローズアップ現代」をそれほど見ていたわけではありませんが、なぜか節子は国谷さんに感動していました。
あまりに褒めるので、私もいつの間にか好きになりました。
たしかに他の番組のキャスターとは違います。

7月3日に同番組は集団的自衛権をとりあげました。
いまやどんどん政府の広報機関に向けているNHKの流れの中で、国谷さんは持ちこたえられるだろうかと思いながら見ていました。
国谷さんは健在でした。
少し安心しました。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3525.html#marugotocheck

ところがその後、国谷さんの代わりのアナウンサーがキャスターをやっているのに気づきました。
たまたま私が見た時だけがそうだったのかもしれません。
しかし少し嫌な予感がしました。
それと、これも気のせいか、番組が放送されない日も増えてきているような気がします。

今朝読んだネット記事に、週刊「フライデー」7月25日で7月3日の「クローズアップ現代」の顛末が書かれていることを知りました。
その記事が正しいのかどうか、私にはわかりませんが、それによれば、放映後、政府やNHKのトップからの圧力が凄かったというのです。
そして、国谷さんは控え室に戻ると人目もはばからずに涙を流したそうです。

NHKの9時のニュースは、いまや見るに耐えないほど、権力に寄生してきています。
私には、嫌な時代になってきました。
節子は、こうした時代の気分を浴びなくてよかったです。

節子
此岸はどんどん荒れてきています。
彼岸はそうでなければいいのですが。

■2505:赤後寺の千日会(2014年7月12日)
節子
滋賀の高月町にいる節子の同級生だった雨森さんからメールが来ました。
赤後寺の千日会が先週無事終わったそうです。
前にも書いたことがありますが、赤後寺には千手観音像と聖観音像が安置されていますが、いずれも重要文化財です。
この周辺にはたくさんの観音様がいますが、ご住職のいない無住寺も多く、集落の人たちに守られてきているのです。
集落の人たちと観音様の関係が、いつも羨ましく思っています。
赤後寺のすぐ近くには賤ヶ岳がありますが、戦国時代はこのあたりは戦いも多かったため、戦火から守るために、土中や川の中に隠されてきたことがわかるような仏像も少なくありません。
赤後寺の観音様もその傷跡が残っています。
節子がいた時に2回ほど、私もお参りさせてもらいました。
最初に拝観した時には、その痛々しさに驚きました。
その時は、お寺の世話役をされていたのが、節子の叔父に当たる人でしたが、いまでも観音様を守っているのは集落のみなさんなのです。
雨森さんは、最近ずっとそのお役目を引き受けているお一人のようです。
幸せな人です。

赤後寺の千日会法要は有名な行事で、その法要へのお参りは千日分の参拝と同じ功徳があるとされているそうです。
ちなみに、そのどちらかの観音様は、災い転じて利となす「転利(コロリ)観音」といわれ、3回参拝すれば極楽往生できるともいわれているのだそうです。
節子は少なくとも3回以上はお参りしていますので極楽往生していますが、私はまだ2回なので、一度またお参りに行かねばいけません。

雨森さんからのメールによれば、大型台風が心配されていましたが、今年の千日会にも敦賀の姉夫婦はお参りに行ったそうです。
雨森さんはこう書いてきてくれました。

同級生の藤田君と境内で、「今年は節ちゃんの姉さん来られるかなあ、天気も悪いし、歳も我々より上やし」、なんて会話していたら、すぐ「今年も、お参りさせて頂きました」とお見えになりました。
地元の者とお姉さんと同級生の人とも暫く立ち話に花が咲きました。
「佐藤さんがお寄りになって、さわ蟹取りも、取れなかったでしょう」なんて話もしました。
妻への挽歌は読ませて頂いているのです。

雨森さんは今も挽歌を読んでくれているのです。
ありがたいことです。

発病後、節子が少し元気になった2年ほどの間、帰郷するたびに、雨森さんご夫妻と何回か食事をしました。
節子は病気になった後、私にいろんな友人を引き合わせました。
私も素直に同行しました。
節子がいつもとても幸せそうだったからです。
幸せそうな節子の隣にいることほど、私にも大きな幸せでした。

雨森さんも、節子のおかげでいただいたご縁ですが、そこからさらに広がったご縁もあります。
雨森さんのメールを読みながら、ついついちょっと感傷的になってしまいました。

■2506:クワガタとカミキリムシ(2014年7月13日)
節子
わが家の住人が増えました。ただし、定着してくれるかどうかはわかりませんが。

ジュンがわが家に来る途中でクワガタを見つけました。
途中で子どもたちに会ったらあげるつもりだったようですが、今日は誰も外で遊んでいませんでした。
それで私がもらうことにしました。
物置から虫かごを出してきて、そこに2、3日、仮住まいしてもらい、その後、庭のどこかに放そうという計画です。
前にもこの計画は何回も試みましたが、いつも放した途端にどこかに行ってしまいます。
虫にも一宿一飯の仁義があるだろうと私は確信しているのですが、最近の昆虫の世界も荒れているようで、いつも期待を裏切られます。
逃げられているのは、池のカニだけではないのです。

その虫かごに餌や草木を入れようと探していたら、あまりにもタイミングよく、カミキリムシが飛んできました。
いささか太り気味でしたが、性格の良さそうなカミキリムシです。
これはやはりほってはおけません。
明日は彼らの餌を買ってきて、2.3日面倒を見て、しばらくしたら庭に放すことにします。

そういえば、先日、池を見たら、アメンボらしきものが泳いでいました。
わが家の庭も、少しずつ復活しています。
たぶん、ですが。

■2507:不老不死の世界(2014年7月15日)
節子
昨日、予定よりも少し早目に湯島のオフィスにいったのですが、オフィスの入り口に林さんが待っていました。
そういえば、2時にお会いする約束をしていたのです。
完全に失念していました。
20分も待たせてしまいました。
久しぶりに来てくれたのに、大変申し訳ないことをしました。

歳のせいで認知症気味になったわけではありません。
昔からこういうミスを時々やってしまうのです。
困ったものだ、などとすませられる問題ではありませんが、困ったものです。
それにしても林さんにはご迷惑をかけてしまいました。

林さんは、あるプロジェクトを立ち上げようとしています。
それで、それに関するネット探索をしていたら、なんと私が15年ほど前に書いた小論を見つけたのだそうです。
灯台下暗しと言うわけで、私のところに相談に来たわけです。

私も時々、昔書いたものやあるところで話した記録に偶然出会うことがあります。
まあこの10年はあまり活動していないのですが、昔は少しは活動もしていたようです。
久しぶりに読み直すと、感心することもあれば、恥ずかしくなることもあります。
ネットの世界に過去が残るということは、ある意味では不思議な感じです。
ネット世界というのが、もう一つの世界として成立しているのかもしれません。
そこでは時空間がたたみ込まれているのかもしれません。

この挽歌も、私がいなくなっても残るのでしょうか。
これまた不思議な気がします。
ネットには、さまざまな生きた足跡が蓄積していくのでしょうが、膨大な情報量になるでしょう。
その情報集積から、なにかが生まれるかもしれません。
不思議な世界です。

人のいのちは、記憶に関わっていると言われますが、このネット世界ではいのちの不老不死が実現しそうです。

この2日間、いろんなことに追われて、また挽歌をかけませんでしたが、ほぼすべて一段落したので、今日は3つほど挽歌を書くことにしました。

■2508:節子の実家での法事の思い出(2014年7月15日)
節子
節子の生家から恒例のメロンが届きました。
滋賀県の高月町ですが、以前は節子のおじさんがメロンを栽培していて、それを送ってくれていたのですが、その叔父さんも亡くなってしまい、いまは多分どこからから購入して送ってくれているのです。
節子は高月のメロンが好きでしたので、お供えさせてもらいました。

滋賀県に住んでいる節子の親戚のみなさんも世代交代が進んでいます。
私の知っている人は、もうあまりいません。
節子の生家とのつきあいも、最近はあまりありません。
節子がいたころは、いろいろな法事にも呼んでもらえましたが、最近は先方の遠慮もあって、呼ばれることも少なくなりました。
それで、節子の生家にはしばらく行っていないのですが、そのおかげで、私の頭の中にある節子の実家での法事の雰囲気は、節子がいた頃のままなのです。
最初は慣れていなかったので、むしろ苦痛でしたが、一度慣れてしまうと、田舎の法事は心和むものでもあります。
特に、私がお酒を飲めないこともみんなに知れわたったおかげで、無理に飲まなくてもよくなってからは苦痛もなくなりました。
それに、節子が笑いながら、私に法事での手の抜き方を教えてくれたのです。
節子の実家での法事においては、節子は私の心強い先生でした。
その節子が、かなりいい加減であることを知ったのは、だいぶたってからです。
要するに田舎の法事は、とてもカジュアルなのです。
一見、厳かで儀礼主義的ですが、本当は一種のお祭なのです。
ですから、節子と一緒に参加する法事は、不謹慎ですが、とても楽しいものでした。
しかし、節子がいなくなってからは、楽しくはなくなりましたが。

それに、法事に行けば必ず節子が話題になり、私も節子のことをいろいろと思い出してしまいます。
それはそれなりに辛いことなのです。
だから法事に呼ばれないのは、私にとっては実はホッとしてもいるのです。

もしかしたら、来年当たり、節子の母の13回忌かもしれません。
これは行かないわけにはいきません.
節子のいない田舎の法事は、いささか不安がありますが。

メロンはまだ食べごろではないので、仏壇にあがったままです。

■2509:人間である生き方(2014年7月15日)
節子
生命誌館館長の中村桂子さんが書いた「科学者が人間であること」を読みました。
1点を除き、その内容には心から共感しました。
と言うよりも、私が考え行動していることとほとんどすべて重なっていました。
多くの人に読んでほしくて、最近は会う人ごとに勧めていますが、あまり読んでもらえそうもありません。

中村さんのことは、以前、節子に話したことがあります。
もう30年以上前のことだと思いますが、私が東レにいた頃です。
中村さんは当時三菱化成関係の研究所にいたはずです。
ある会で、中村さんの講演を聴く機会がありました。
もう内容は覚えていませんが、「ライフ」に関するお話が私の心に響きました。
それでどうやったのかわかりませんが、中村さんのところに会いに行きました。
そこですごく感動した話がありました。
中村さんが、帰宅したら子どもの靴下の破れた穴を繕うのですよ、と話してくれたのです。
他のことは何も覚えていませんが、その話には感激し、帰宅するなり節子に話したことを覚えています。

今回、中村さんの本を読んで、そのことを思い出しました。
中村さんは、その頃から「人間」だったのです。

私が会社を辞めた時にも、挨拶状を中村さんに出しました。
それで電話をもらった記憶がありますが、以来、お付き合いは途絶えています。
何しろ私はどんどん社会から離脱してきていましたから。
しかし、今回、この本を読んで反省しました。
社会から離脱せずとも、「人間」であり続ける事ができたのだと思い直したのです。
私はただ、楽な道を選んだだけだったのかもしれません。
中村さんは心から尊敬できる人です。
しつこいですが、一点だけ気になることはありますが。

節子もまた「人間」でした。
だから私は好きでした。
節子が靴下を繕っている姿は見たことはありませんが、そういう生活感がありました。
帰宅すると、素朴な生活の雰囲気を、私はいつも味わえていたのです。

25年間の会社勤めの後、私は会社を辞めて、節子と一緒に生活起点の生き方を始めました。
お金は一挙に減りましたが、生活は一挙に増えました。
世界が変わりました。
すべては節子が一緒に支えてくれたおかげです。

その生き方が間違っていなかったことを、中村さんの本で改めて確信できました。
今ここに、節子がいないのがとても残念ですが、私ももっと「人間」であり続けようと思います。
いつかまた中村さんにお会いできるでしょうか。

■2510:さわやかな朝ほど寂しさが募ります(2014年7月16日)
節子
今日も気持ちのいい朝です。
最近はいささか「生活」に負けていますが、さわやかな朝には元気がもらえます。
今朝の青空のように、自分の心も清々しく晴れわたらさなければいけません。
心さえ澄んでいれば、「生活」などには負けません。
生活に負けるとは、心が澄んでいないことの証かもしれません。
問題のすべては、自分が起点なのですから。

前にパスカルの言葉に言及しましたが、私自身、気をまぎらわすために、無理やりいろんなテーマや問題を引き寄せているような気がします。
しかも、素直に取り組めばよいものを、なぜか「問題」を引き起こすように、無意識に動いている自分に時々気づくのです。
たまたまその矛先が向いてしまった人には大変申し訳ないと思います。
考えてみると、以前は、その役割を節子が一手に引き受けていたのかもしれません。
そう思うと、心が痛みますが、そうした役割を果たせることの幸せを、私自身もなくしているさびしさも感じます。
節子の問題を全身で引き受けていたのは、私でしたから。
傷つけ合いながら、支え合う。
そういう伴侶がいなくなってしまったことが、時にはやりきれなくなります。
それに、こんなに気持ちのいい朝を、一緒に喜び合う節子もいない。

皮肉なことに、さわやかな朝ほど寂しさが募ります。
元気なはずが、またちょっと気持ちが沈みそうです。
やはり最近は生きることへの疲れがたまっているようです。
どうしたらよいのか、わからないのが困ったものなのですが。

■2511:意味のない世界で生きること(2014年7月16日)
節子
一昨日、Yさんという方からメールが来ました。
まったく知らない方です。

書き出しはこうです。

V.E.フランクルについて探していると、
「節子への挽歌」にたどりつき、節子様への想いを拝見致しました。
体中から力が抜けて、悲しみと涙があふれました。

先月21日、私のパートナーは交通事故で突然いなくなりました。
享年56歳でした。
世界が崩壊し、いったい何がおこったのか、
ただただおびえて、葬儀を終えました。

すでに3週間たちましたが、やはり彼のすがたを追っている毎日です。
私にとって今この世界は意味がなく、魂はすでに彼とともにあるようです。

無断引用なので、引用はこれくらいにしますが、
私もこのメールを読んで、「体中から力が抜けて、悲しみと涙があふれました」。
これに続く文章も含めて、あまりにも通ずることが多かったからです。
不思議なことに、同じ体験をした人には、どこか共振するところがあるのかもしれません。
実は挽歌が2日ほど書けなかったのは、このメールでいろんなことがフラッシュバックしてしまったからです。
今もって、時々起こる現象です。

「世界が崩壊し、いったい何がおこったのか、ただただおびえて・・・・」。
まったくそうでした。
崩壊したはずなのに、崩壊していない世界を呪いたくなったことさえありました。
地球のすべてが爆発して消えてくれれば、どんなにいいだろう、そんな悪魔的な思いも浮かびました。
「意味のない世界」で生きることは、何かをごまかさなくてはできません。
私がほぼ自分を見つめなおせるようになったのは、昨年の秋ですから、6年はかかったことになります。
長くて短い6年でした。

しかし、今でも時々、意識が戻ることがあります。
無性に節子を抱きたくなる事があります。
無性に節子と話したくなる事があります。
無性に節子が恋しくなることがあります。
そんな時は、ただただしずみこんでいます。
助けが欲しくても、誰も助けてはくれませんから。

■2512:思い出などは不要ですね(2014年7月17日)
節子
ようやくナンバーが追いつきました。
今日は節子が逝ってしまってから2512日目です。
私以外の人にはまったく無意味な数字ですが。

数字に限りませんが、その人にとってだけ意味のあるものは少なくありません。
もしかしたら、そういうものがどれだけあるかが、人の関係性の深さを表すことなのかもしれません。
節子は、病気になってから、私との思い出づくりを意識していました。
「思い出」ということにあまり関心のない私は、そうした節子の思いにきちんと対応していなかったような気がしています。

このブログでも何回か書いていますが、私は過去にはあまり関心がありません。
未来にも、あまり関心がありません。
私の関心は、主に現在に向いています。
現在からは、それに続く過去や未来が見えるからです。
現在から切り離して過去や未来を考えることが不得手なのです。
そのくせ、節子が元気だったころは、よく写真を撮りました。
海外旅行の時には毎回ビデオ撮影をしていました。
いつか節子と一緒に見ようという思いがあったのでしょうか。
あるいは、過去に関心がないからこそ、記録を残しておこうと思ったのでしょうか。
自分でもわかりません。

節子が病気になってから、私の現在志向は一層強まりました。
節子の影響を受けたこともありましたが、節子の病気の現実を医師に告げられてから、それまで以上に、時間が「今」しか意味を持たなくなったのです。

節子を思い出させる物は、今もわが家にはたくさんあります。
節子が創っていった「思い出」を思い出させる物もたくさんあります。
しかし、実はそんなものがなくても、節子が今もここにいるように感じられます。
今にして思えば、「思い出」などは、ことさら創る必要などないのです。
一番の思い出は、何もない日常の暮らしなのです。
節子と暮らしたわが家や地域、それらがすべて節子とともにあるのです。
いささか大仰な言い方になりますが、世界のどこにいても、節子とつながっている気がしていますから、特別の思い出のモノやコトはいらないのです。
節子がいなくなった当初は、節子の遺品が捨てられませんでした。
しかし、今はそんな遺品はあまり意味を持たなくなってきました。

相変わらず、訳のわからないことを着てしまいました。
今日もまた、少し疲れ気味です。
川内原発が再稼動しそうなので、気持ちは一気に奈落の底です。

原子力規制委員会の田中委員長の思い出は、一体何なのでしょうか。

■2513:慰労会の是非(2014年7月18日)
節子
最近の私の疲れを口実にして、私の慰労会をやろうという人たちがいます。
困ったものです。
そうしたことでますます疲れるわけですから。
何しろ私は下戸なのです。
先日もあるグループから誘われてしまい、断るきっかけを失してしまい、飲みに行きました。
私はビール一杯しか飲めなのですが、帰ろうと立ち上がる元気もなく最後までいてしまいました。
しかも、それは慰労会ではなく、単なる飲み会でした。
きちんと会費を取られました、
私の勘違いで、慰労ではなかったのです。

それはそうでしょう。
性格の悪い私に対して、そう簡単に慰労してやろうなどと言ってくれる人はいないでしょう。
ですから、慰労会をしてくれるという好意はありがたく受けなければいけません。

しかし、慰労会というとどうして飲み会になるのでしょうか。
最近、「脱法ハーブ」を服用して、自動車事故を起こしている事件が連日のように報道されていますが、私にとっては、「脱法ハーブ」もアルコール類も同じに思えます。
良いか悪いかではなく、認めるのなら両方を認め、禁止するなら両方を禁止するべきだというのが、私の長年の考えですが、賛成する人はまずいないでしょう。
しかし、お酒を飲んで酔った人と話すのは、どうも好きになれません。
酔ってマナーを失するくらいなら、飲むべきではないと思うのですが、思わない人のほうが多いようです。

節子は、私以上に下戸でした。
お酒を飲むとじんましんが全身に出るほどでした。
ですから、私たち夫婦の食卓にはワインもなければお酒もありませんでした。
まあ世間的に言えば、なんの面白みもない夫婦だったかもしれません。

下戸ですから、2人とも酒席が苦手でした。
会社時代は、サラリーマンとして、上司に付き合わされることもありましたが、たとえ相手が社長であっても、調子を合わせたり、お酌をするようなことはしたことがありません。
実につまらない部下だったわけです。
それだけでなく部下を飲みに連れて行くこともありませんでした。
実に面白くない上司でもあったわけです。
課長だったころ、私とは仕事ではつながりのない副社長が私を飲みに連れて行こうとわざわざ声をかけてくれたことがあります。
もちろん私一人ではなく、取り巻き連中のなかに、なぜか若い私を入れてくれたのです。
いささか心が動きましたが、食事ではなく派手な酒席であることが予想されたので、みんなの前で即座に断りました。
一瞬、場が凍ったような感じになりましたが、大人物の副社長は許してくれました。
しかし、その副社長からは可愛げのない奴だと思われたことでしょう。
2度と声をかけてはもらえませんでした。

酒席ではなく、食事だといわれて、他者から副社長でやってきた人とご一緒したことがあります。
もう1人、副社長の前の会社の腹心の部下も一緒でした。
ところがなぜか私と副社長とが論争になってしまい、挙句の果てに。その副社長から辞表を書けと言われたことがあります。
もちろん書きませんでしたが、あれもたぶんお酒を飲んだからおかしくなったのです。
私ではなく、相手が、です。たぶん。
その時同席したのは、今も活躍している有名な人ですが、彼に確認したら、どちらに問題があったのか教えてくれるかもしれません。
もっとも、彼も酒を飲んでいたでしょうから、まあ結局は「藪の中」です。
だから酒席は嫌いです。

長くなってきました。
何を書こうと思ったのでしょうか。
しらふでもこんな感じでふらふらしているのですから、酔った人を非難できるしかくはありませんね。
やはり疲れているのでしょうか。
慰労会を早くやるように言ったほうがいいかもしれませんね。
いやはや困ったものです。
でもまた会費制の慰労会なのでしょうか。
だとしたらお酒は最小にして、美味しい料理のところがいいのですが。

■2514:無意味な時間をシェアできる人(2014年7月19日)
節子
昨日はある人が、奥さんの手づくりの紫蘇ジュースと梅干を持ってきてくれました。
みんな実に親切です。
時には元気がなくなるのもいいことです。
しかし、そろそろ元気にならないといけません。

もっとも元気がないからと言って、うだうだしているわけでもありません。
それなりにいろいろとやっているのです。
ただ気分がすっきりしないということです。
紫蘇ジュースや梅干ではだめかもしれません。
しかし、わざわざ持ってきてくれる気持ちに出会えると元気をもらえます。
やはり元気になる一番の方法は、良い人に会うことです。

テレビのニュースを見ると、ともかく元気がなくなります。
それにしても、どうしてテレビは、悪い人ばかり報道したがるのでしょうか。
見ていると気が滅入るような人に関する報道が多すぎます。
そういう報道ばかり見ていると、私自身も影響を受けそうです。
テレビの人たちも、きっともう影響を受けていることでしょう。
仕事とはいえ、同情します。

人は、時間を共にする人から大きな影響を受けるものです。
節子がいなくなって7年。
私の性格は良くなったか悪くなったか。
最近、かなり悪くなってきているような気がします。
節子のせいでしょうか、それともテレビ報道のせいでしょうか。

私以上に単細胞だった、節子との無意味な時間がなつかしいです。
無意味な時間をシェアできる人がいることの大切さを、最近、痛感しています。

■2515:風邪を引いたのに気づきませんでした(2014年7月20日)
節子
風邪のようです。

今日は来客やLLPコモンズ手賀沼の総会やら近くの神社のお祭やらいろいろありましたが、帰宅したら、ドッと疲れが出てダウンしてしまいました。
どうやら風邪のようです。
なんとかホームページの最小限の更新は終えたのですが、かなり状況が厳しくなったので、ブログは書くのをやめて、もう寝ることにしました。
この数日の体調不良は、もしかしたら風邪の前兆だったのかもしれません。
にもかかわらず、時代風潮のせいにしたりしてしまっていました。

落語に、自分が死んだことを忘れてしまった男の話がありましたが、
風邪を引いたことに気づかずに時代を嘆いているとは困ったものです。
明日の集まりもキャンセルしなければいけません。
いろいろと用事があるので、風邪を引いている場合ではありません。
困ったものです。

ではおやすみなさい。

■2516:風邪は楽しくありません(2014年7月21日)
節子
とうとう声が出なくなってきました。
今日の予定はすべてキャンセルし、自宅療養です。
電話を受けた人は驚いたでしょう。
普段とは全く違う声でしたから。
状況は昨日より悪く、思考力はますますありません。 
本を読む気にもなれませんし、テレビも見る気も起きません。
しれで、めずらしく2時間も寝てしまいました。
しかし、一向に良くなる気配はありません。
さてさて困ったものです。

栄養剤を飲んで、風邪薬も飲んで、のどの薬も飲んで、といろいろ飲んでみましたが効き目がありません。
それでお風呂に入って寝ることにしました。

独り住まいで風邪になると、どうしようもないでしょうね。
幸いに私の場合、娘が同居してくれていますが、私のように自立していない人間は、「もういいか」などと思ってしまいかねません。
娘は、明日は医者に朝一番で連れて行くと言っていますが、医者に見てもらって治るくらいなら楽なものです。
風邪くらいは根性で治さなければいけません。

しかし、お風呂はやめたほうがよかったかもしれません。
症状はさらに悪化している気もします。
節子がいる時には、風邪もまた楽しからずや、でしたが、今はそんな気にはなりません。
おかしなものです。

■2517:声が出なくなりました(2014年7月22日)
節子
ますます声が出なくなってきました。
困ったものです。

私には3日間ルールと言うのがあります。
風邪を引いた場合、3日間は風邪菌たちに私の身体を提供しようというルールです。
ですから3日間は、彼らの思うように活躍してもらい、4日目にはお引取り願うというわけです。
ところが、風邪菌たちとのコミュニケーション能力が不十分のため、なかなかそううまく行きません。
しかも、今回は、3日目に当たる明日、1ヶ月前から決まっていた約束があるのです。
初対面の人なので、声が出ないでは済まされません。
いやはや困ったものです。
それで止むを得ず、お医者さんに行くことにしました。
ところが、喉が炎症を起こしているので、治るのに2〜3日はかかるというのです。

それで、フェイスブックで、何か良い民間療法はないかと問いかけました。
長ネギを喉に巻くとか、天を仰いで呪文を唱えるとか、そういう類のものを想定していましたが、即効性のある妙案はなかなか寄せられません。
「響声破笛丸」という薬があるそうですが、薬だと面白みはありません。
「丹田百叩きの法則」というのもあるそうです。
今度会った時に伝授するといわれましたが、間に合いません。
ニンニクと生姜で汗を出せというのもありましたが、これは風邪の治療法でしょう。
みんな帯に短し襷に流し、です。

節子がいたら、私の今の尾を聞いて、大笑いするでしょう。
ほんとに節子は能天気な人でした。
でも笑われるのが一番の元気回復剤だったのかもしれません。
いずれにしろ、明日は声が出ると良いのですが。

■2518:たくさんの人の友人になりたい(2014年7月23日)
節子
今日は久しぶりに社会のど真ん中で、しかし流れに正面から対峙しながら、わが道を進んでいる方に会いました。
太田黒さんが引き合わせてくれました。

太田黒さんは、わが家まで献花に来てくれた人です。
そういう人の申し出には絶対に従うようにしています。
まあそこが私の弱点で、とんでもないトラブルにも巻き込まれてしまったわけですが、
その考えを変えるつもりはまったくありません。
恩には報いなければいけません。

太田黒さんは、時々、この挽歌も読んでくれているようです。
今日、お会いした方は牛窪さんの同級生でした。
節子は、牛窪さんには1度しか会ったことはありませんが、サントリーホールにベルリンフィルハーモニーの「運命」を節子と一緒に聴きに行った時に、偶然にロビーでお会いしました。
それからまもなくして牛窪さんの訃報を知りました。
とても残念だったのは、その時にも、牛窪さんからある件で一度会おうといわれていたことですが、その件が話し合えなかったのが、実に心残りでした。
大事な時に、大事な人を失う。
私も何回かそれを体験しています。
それがなければ、人生は変わっていたはずだと思うことが時々あります。

ところで、今日は普通の声が出ないまま、その方にお会いしました。
しかし、あまりに話が楽しく面白く、3時間も話し合ってしまいました。
おかげで少し良くなってきていた喉の調子は悪化し、声がまたでなくなってしまいました。
しかし、それにまさる話をお聞きできました。

私は社会から離脱を決意して、もう25年ですが、こういう人に会うとちょっとだけ残念な気がします。
ビジネスの世界のダイナミズムは、やはり人をわくわくさせます。
その世界は、しかし私には遠い世界になってしまいました。

太田黒さんは、私を元気づけるために、声をかけてくださったのです。
口では何も言わず、滅多に声をかけてくれませんが、どこかで支えてくれている人がいます。
友人とは誰のことなのだろうか、と時々思うことがあります。
私も、そういう意味で、たくさんの人の友人になりたいと、改めて思いました。

今日、いただいたお茶はとてもおしかったです。

■2519:記憶の世界は事実とは違うようです(2014年7月24日)
節子
また声が出なくなってしまいました。
それで今日こそ、電話にも出ず、自宅で声の療養です。

しかし、暑くて、朝早く起きてしまいました。
それで、久しぶりに白洲正子さんの「十一面観音巡礼」を読み出しました。
気が萎えた時やら、手持ち無沙汰の時に手に取る本なのです。

それを読んでいて、記憶の世界と客観的な世界の違いにまた気づきました。

私の記憶では、白洲さんの十一面観音巡礼」を最初に読んだのは、芸術新潮の連載記事でした。
毎日、発酵日が待ち遠しいほどだった気がしますが、今朝、本に出ている年譜を見たら、芸術新潮での連載開始は1974年となっていました。
私の記憶には合いません。
1974年にも芸術新潮は愛読していましたが、私の記憶と整合しないことがあるのです。

というのは、私が最初に奈良の佐保路を歩いたきっかけは、法華寺の十一面観音に会いたかったからです。
そして、これは間違いなのですが、滋賀にいる時に節子と一緒に佐保路を歩き、法華寺の十一面観音について白州さんのエッセイからの受け売りの説明をしたのを覚えているのです。
1974年は、私は間違いなく東京に来ていましたし、2人で佐保路を歩いていることは絶対にないのです。
どうにも辻褄が合いません。
節子が残していった日記を読めば、たぶん事実がわかるのでしょうが、余計なことまで思い出しそうなので、やめました。

どうでもいい話かもしれないのですが、もしかしたら私の記憶の世界は私が編集した世界かもしれないという思いが生まれてきました。
これは私だけのことではありません。
友人知人が、私との共通の思い出話を語ってくれることがあります。
ところが、私の記憶とは全く違うことも少なくないのです。
私が行ったこともないところで、私の話を聞いたという人もいますし、私には記憶のない会話を再現してくる人もいます。
人の記憶は、かなり柔軟に変るのかもしれません。
とりわけ時間の前後関係が変わってしまうことは少なくありません。
今朝の私の戸惑いも、その一つです。

ところで、もう何回も読んだはずの「十一面観音巡礼」に最初に出てくる聖林寺の十一面観音の話です。
実はまだ会ったことがないのですが、急に興味を感じました。
白洲さんが書かれている、その生い立ちがその気にさせたのです。
きちんと写真を見ようと、愛読書の「かんのんみち」を探したのですが、なぜか見つかりません。
この本は絶対に手放さない本なのですが、どうしたことでしょうか。
しかし、その代わりに「奈良の仏像70」と言う写真集が出てきました。
もうすっかり忘れていた本ですが、そこに載っていました。
実にまじめな十一面観音像です。
同書の仮説によれば、天平文化の爛熟期の「美の権化」とあります。
しかしなぜか私にはまったく「美」が感じられません。
これまで見慣れてきた写真と、撮影者が違っているからかもしれません。
その意味でも、私の記憶は今朝、修正を余儀なくされました。

記憶とはやはり生きているものなのです。

■2520:Take it easy(2014年7月25日)
節子
暑さが続いています。
もう梅雨明けし、本格的な夏になりました。
その酷暑のなかを、今日も湯島に初対面の2人がやってきてくれました。
お2人とも薬剤師です。
そのお一人は、お仕事をやめて、社会活動に取り組もうと考えています。
偶然にも私が端役を務めた2つの集まりで、私を知ってくれて、人を介して私のところに来てくれたのです。
専門職なので、まだ仕事を続けることもできたようですが、最近の薬剤師の世界への違和感から、もう自分は必要とされていないと考えるにいたり、すぱっとやめたようです。
その違和感は、薬剤師の世界に限ったものではなく、時代の風潮と言ってもいいかもしれません。
しかし、誠実に生きてきたが故に、違和感を強く感じたのでしょう。
その気持ちがよくわかります。

しかし、誠実に生きてきたのでしょう、残された人生をどう生きるかを真剣に考え、迷っていたそうです。
ところが、私のホームページに書いてある、私の信条を読んで、とても楽になったと言います。
それまでのその人の責任感の強い信条とは違っていたのです。
私の信条は、Take it easy。気楽に行こうよ、なのです。
それで気が楽になり、私のところにようやく来てくれることになったそうです。
実は、そのつながりがもう一つ理解しがたかったのですが、まあそういうことにこだわらないのが、Take it easy なのです。

刺激的なお話なので、ついつい話しすぎてしまい、また声が出なくなってきました。
困ったものです。

次の来客まで1時間ほどあったので、声を休めたらのどが少し楽になりました。
ところがそこに次のお客様が来ました。
久しぶりに石井さんです。
これがまた面白い話の相談で、ついついまた話し出してしまいました。
ところが1時間たったところで、今度は本当に声が出なくなりました。

そこで物理的の終わりました。
だんだん話す時間が短くなってきました。

30分休んでいたら、少し声が出そうになってきました。
そうしたら今度はサロンのお客様が来ました。
これまた久しぶりに柴崎さん。
この記事を書くことを理由に、今、彼がひとりで話しているのを聞きながら、パソコンを売っています。
それがまたまた面白い話題です。
やはり無理をしても話さなければいけません。
困ったものです。

■2521:気管支炎(2014年7月26日)
節子
喉の炎症はどんどん悪化しています。
理由は明確で、話してはいけないのに、しゃべってしまうからです。
しかし、わざわざ湯島に話に来てくれたのに、単なる聞き役に徹するわけにもいきません。
サロンでも、佐藤さんにはできるだけ話さないようにさせると心遣いしてもらっても、ついつい話してしまうのです。
困ったものです。
良くなるはずがありません。

それどころか、実は昨夜からいささか症状が変化しだしました。
気管支がどうも反応しだしたようで、時々、抑えようもなく気管支の筋肉?が震えるような、おかしい状況になり、意図しない音声が口から出てしまうのです。
それで昨夜はあんまり眠れませんでしたが、さらに今夜はきつそうです。
私の状況を見て、娘が気管支炎に入り口だというのです。

節子は気管支が弱く、時々重度な気管支炎を起こしていました。
入院したこともあります。
気管支炎になった節子は、見ていられないほど、辛そうでした。
しかし、手の施しようがないのです。
それを思い出してしまいました。
がまん強い節子は、私と違い、弱音は決して吐きませんでしたが、今の私とは比べものにならないほど、辛かったのだと思うと、愛おしさがつのります。
節子はいつも「がまんの人」でした。

しかし気管支が勝手に動くのは、嫌な気分です。
自分の身体は、決して自分のものではないということがよくわかります。
今日は眠れるといいのですが。

■2522:無言の夫婦(2014年7月28日)
節子
ダウンしてしまいました。
喉をこじらせすぎてしまい、咳が出て、どうしようもありません。
それでまた、昨日は挽歌を書きそびれてしまいました。

日曜日は完全無言、今日もほぼ無言の1日でした。
今日は自宅への来客もあったのですが、私があんまり話さないので、早々と帰りました。
機嫌が悪かったわけではなく、話せなかったのですが、誤解されないといいのですが。

無言のままで、コミュニケーションすることはそう簡単なことではありません。
言葉は、積極的なコミュニケーションのためではなく、むしろ自らの身を守るための「安全保障の手段」として生まれた、と「人類史のなかの定住革命」という本で西田正規さんは書いています。
なるほど、と思いました。
言葉は人間関係の潤滑油なのです。
無言の人と一緒にいると、やはりどこかに不安が生じます。

唯一の例外が、もしかしたら夫婦かもしれません。
夫婦は無言でも、以心伝心するからです。
節子が、隣にいるだけで、心が癒され、気が励まされるというわけです。
喉をやられて声が出なくても、声を出す必要がないのです。
しかし、伴侶でもない相手には、たとえどんなに親しくとも、無言と言うわけには行きません。
私の勘違いかもしれませんが、親子もやはり無言にはなれません。
無言でも人生を共有できた節子のありがたさを、声が出ないこの数日、改めて思いました。

もっとも最近は別の意味で、無言の夫婦、会話が消えた夫婦が増えているといわれています。
私には、人生を無駄にしているように思えてなりません。

ところで、声は少しずつ回復してきています。
明日から活動再開です。
挽歌も、です。

■2523:激安うな重(2014年7月29日)
節子
声を出さない生活というのはやはり無理ですね。
今日もまた少し話してしまったら、声がかすれてきてしまいました。
この1週間は、読経も最後の1行だけです。

喉が治らないので、お医者さんにまた行きました。
血圧を測ったら、やけに高くなっていました。
ちゃんと薬を飲んでいますかと、また言われましたが、今日はきちんと飲んできたにもかかわらず170を超えていたのだそうです。
咳止めの薬ももらい、なんとまた1種類薬が増えました。
困ったものです。

今日は土用なので、一応、みんなで鰻を食べました。
どこも混んでいるので、自宅で食べることにしましたが、最近貧乏なので、今年は激安のうな重でした。
近くの回転寿司が予約販売していたのを、新聞広告で見て、回転寿司のうな重ってどういうものだろうかと興味をもって、ついつい私が勝手に電話で申し込んでしまったのです。
なんと1人分1300円くらいでした。
娘からは、どうせ食べるのならちゃんとしたものを食べろといつも言われていたのですが、頼んでしまったので、仕方ありません。
そのため、今年は全員、そのうな重につき合わせてしまいました。
4人で食べましたが、誰一人として、美味しいといいませんでした。
正直なのはいいことです。
その上、鰻は半身でした。
しかも、寿司飯のうな重は、私の好みではありませんでした。

うなぎは節約してはいけません。
混んでいても、やはりちゃんとしたお店で食べないといけません。
お金がなかったら食べなければいいだけの話です。
食べるのであれば、ちゃんとしたものを食べなければいけません。
激安うな重に騙されてはいけません。
結局、今度、美味しいうなぎをご馳走する約束をしてしまいました。
貧すれば鈍すとはよく言ったものです。
ますます貧乏になりそうです。
それは決して悪いことではないのですが。

テレビでは成田の鰻屋「豊川」の繁盛振りが報道されていました。
節子は、「豊川」のうなぎが大好きでした。
そういえば、仏壇にうな重を供えるのを忘れていましたが、忘れてよかったです。
節子は、豊川のとは違うわねと嫌味を言うでしょうから。

■2524:弱々しく頼りない生き方が続いています(2014年7月30日)
節子
節子がいなくなってから、私の生き方は弱々しく頼りないものになりました。
妻に先立たれて後追いするのではないか。
いつまでめそめそと挽歌の世界に閉じこもっているのか。
とまあ、友人たちからはこんなふうに思われているのでしょう。
愛想を尽かして、離れていった人もいますし、逆に頼りないからと支えになってきてくれる人もいます。

とても不思議なのは、湯島でのサロンは再開していますが、いつのころからか、使ったカップなどは参加者が自発的に洗っていってくれるようになったことです。
私は、そのままでいいよと言っていたのですが、今では終わったらだれかれということなく、誰かが片づけをしてくれますので、流れに任せています。
参加者は毎回、違いますし、時には大企業の部長たちの集まりもありますが、そんな時でさえ、誰かが洗い出すことが少なくないのです。
節子がいなくなったにもかかわらず、私の負担は増えていないのです。

むしろ、サロンやフォーラムなどを開催することは多くなりましたが、以前と同じく、呼びかけに応じた人たちで実行員会をつくり、できることをそれぞれが引き受ける形でやっています。
こうしたスタイルが定着するまでは大変で、節子のみならず娘たちも駆り出したために、わが家での私の評判はいたって悪いのですが、いまは家族なしでもうまく事が運ぶようになりました。
実は今日も、8月5日に開催する公開フォーラムの実行委員会を呼びかけたら、当日であるにもかかわらず2人の人が参加を申し出てくれました。
今日は3人くらいでやろうと思っていたら、10人近くの人が、この暑さの中を集まってくれます。
しかも、みんな手弁当です。
当の私自身でさえ、なんでこんな暑い日に、体調もまだ悪いのに、出かけなくちゃいけないのだといやいやながら出かけてきたのですが、みんなよく集まってくれます。
それが実に不思議なのですが、こうした私の世界を創りだしてくれた上で、節子の役割はとても大きいのです。
それは誰にもわかってはもらえないでしょうが。

湯島は、誰でも歓迎する空間であることは、今も変わっていません。
最近は湯島に来る人の顔ぶれもかなり変わりました。
節子のことをまったく知らない人も多くなっています。
でも相変わらず、湯島に来るとほっとしてくれる人たちが多いのです。
この空間をできるだけ維持したいと思っています。
もっとも、湯島に来て、不快感を持って帰っていく人も時にはいます。
私の対応が悪いためですが、それもまた、私の弱さの一つです。
困ったものですが、直しようがありません。

自らの弱さを見せることこそが人のつながりを育てるポイントだとは、昔会った金子郁容さんから学んだことです。
そういえば、金子さんは最近どうしているでしょうか。

■2525:思考の枠組み(2014年7月31日)
節子
人が書いたものの真意を理解するのは難しいことです。
話している場合は、心身から発するさまざまな情報から、言葉の奥にある意味を受け止めることもできますが、文字の場合はなかなか真意を受け止めにくいことが少なくありません。
特に私の場合、言葉に勝手に自分なりの意味を込めてしまい、しかも反語的な文体が多いので、私の意図は受け止めにくいのかもしれません。
私自身の表現力の低さも、もちろんあります。

私の文章、特にこのブログの時評編は誤読されることが少なくありません。
そう思うのは、時々、フェイスブックでも時評編のブログを紹介するのですが、それへの反応の多くは、私にとってはピント外れのものが多く、時には私の意図とは正反対の受け止め方がされる場合もあるのです。
人には思考の枠組みがあり、それにしたがって、読み解くからでしょう。

しかし、そうはいっても、思考の枠組みは多くの場合、社会の常識に準拠しています。
そうでなければ、社会で生きていくことが難しくなるからです。
ですから、いつの間にか、「思考の枠組み」は自分のそれではなく、予見としての「常識」の枠組みに合わせるようになり、自分での主体的な思考は停止していくことになります。

ところが、愛する人を奪われてしまうと、その「思考の枠組み」が壊れてしまうのです。
壊れるというよりも、与件としての「思考の枠組み」から解放されると言ってもいいでしょう。
ともかく、そんなことはどうでもよくなる。
理解できない現実のなかで、常に真剣勝負で「自分」を生きなければいけません。
ですから、言葉だけの世界を生きている人たちの会話は、虚しく通り過ぎていくだけです。
逆に、生々しい思いのなかで誠実に生きようとしている人に出会うとほっとする。
思考の枠組みから解放されると、さまざまなものがよく見えてきます。
悲しみや寂しさ、弱さや辛さ、怒りや我慢、小賢しさや惨めさ、嘘や真実などがです。
だから、言葉だけの世界には、もう入れなくなってしまう。

今日、私のフェイスブックの記事に、愛する人を失ったKさんが、投稿したり削除したり、心の迷いを見せてくれていました。
そして、自分が壊れているというようなコメントを残してくれました。
その経緯を見ながら、「壊れ」ではなく、思考の枠組みが動いているのだと感じました。
思考の枠組みができてしまうと見えなくなってしまうものが見えている。
思考の枠組みがないために見えてこないものもたくさんありますが、見えてくるものもあるのだと、今日は改めて感じました。

私のブログが誤読されやすいのは、私の思考の枠組みがまだ壊れているかずれているかしているからなのでしょう。
責任は、、やはり私のほうにあるのです。

■2526:節子がいた頃のような平和な一日(2014年8月1日)
節子
10日ぶりに畑に行きました。
驚くほど草が生い茂っていました。
花畑ゾーンは、ひまわりとマリーゴールドとグラジオラスが、頑張っていましたが、それを覆い隠すように草が伸びていました。
斜面なので、なかなか草刈りしにくいのですが、少し整理し、頑張っている花にエールを送りました。
草に埋もれていたバラで手を切ってしまい、気づいたら血だらけになっていましたが。

野菜畑のほうは、きゅうりはうどん粉病で全滅ですが、ミニトマトとナスが頑張っていました。
ナスはなんと20センチほどの大ナスになっていましたが、やわらかく食べられそうです。
後から植えた、唐辛子類も頑張っています。
何かを植えて手入れしておかないと草が見る間に覆い茂ります。
ハーブはほぼ完全に草に埋もれていました。

畑になっていないところには、思い切り根こそぎ刈り取ったはずのセイジがまた復活していました。
また名前を忘れてしまったのですが、シランの一種がこれまた群生していて、元気です。
ちなみに、午後、花屋さんに節子の好きなカサブランカを買いにいったのですが、そこでそのシランのような花が植木鉢に入って300円ほどで売られていました。
わが家の畑では邪魔者扱いになっている草も、きちんとした名前をつけて、ちょっと整えると3000円になるわけです。
わが家には、その100倍はあるでしょうから、3万円ほどの価値があるわけです。
少ないとプラスの価値がつきますが、多いとむしろマイナスの価値になる。
商品というのは、そういうものなのです。

花屋に行った帰りに魚屋さんに寄り、節子が飼っていた小さな熱帯魚も3匹、買ってきました。
実は私も娘も、あんまりその魚が好きではなく、節子がいなくなってからきちんと世話をしていなかったため、1匹になってしまったのです。
1匹では寂しいでしょうからと、少し賑やかにしたのです。

なんだか今日は、節子がいた頃のような、平和な家族生活でした。
しかし、畑仕事はなかなか娘たちは手伝ってくれません。
もう止めたらと言われているのですが、なぜか止める気にはなれません。
かといって、しっかりとやるわけでもないのです。
私の心身の中に移り住んだ節子が、きっとそうさせているのでしょう。

喉はまだ治りません。
5日までには治さないといけないのです。

■2527:不幸の認識は過ぎ去った喜びの記憶とともにある(2014年8月2日)
節子
今日は朝早く起きて、畑に行こうと思ったのですが、まだ必ずしも体調が戻っていないので、一人で出かけてダウンするといけないため、庭の草木への水やりだけにしてしまいました。
庭の椅子にしばらく座って、草木をみていたら、若い頃、家族ででかけた夏山での朝を思い出しました。

16世紀に生きた若者が残した「自発的隷従論」と言う小論があります。
以前、時評編で紹介しましたが、その本を読んだ友人から昨日手紙をもらいました。
それで思い出しましたが、その著者のラ・ボエシは、こう書いています。

人は、手にしたことがないものの喪失を嘆くことは決してないし、哀惜は快のあとにしか生まれない。
また、不幸の認識は、つねに過ぎ去った喜びの記憶とともにあるものだ。

時評編的にはこれに必ずしも同意はできないのですが、挽歌編的にはとても納得できます。
幸せと不幸は、コインの裏表なのです。
だから不幸を嘆いてはいけません。
不幸を紛らわすためには思い出に浸ればいいわけですが、そうすればますます不幸を強く感ずることになるでしょう。
人生とはまことにややこしく皮肉です。

今日は手賀沼の花火大会です。
朝から、その告知の花火があがっています。
花火を打ち上げる会場は、わが家のすぐ近くなのです。
ここに転居した理由の一つが、花火が目の前で見られることだったのです。
この花火大会には、私たちの喜びの記憶と悲しみの記憶が、いずれもたくさん詰まっています。
だから、節子がいなくなってからは、あまり心静かに花火を見ることができなくなっています。
喜びの記憶も悲しさの記憶も、強すぎると心を安らかにはしてくれません。
なにやら胸騒ぎのする1日になりそうです。

■2528:花火なのに心身が華やかになれません(2014年8月2日)
節子
今年の手賀沼花火大会は娘たちと4人でゆっくりと見ました。
ジュンの連れ合いの峰行は、毎年、自分のお店があるため、見られなかったのですが、今年はお店を休業にしてゆっくり見ようということになったのです。
節子がいた頃はお客様も多く、その対応に追われていました。
手賀沼の花火の日は、来客の日、「ハレの日」になっていました。

節子の病気が再発した夏にも、お客様が来ました。
節子と私は花火を見ることもなく、冷房の効いた病室に籠もっていましたが、それがいわばあまり感じのよいものではなかったので、節子がいなくなってからの花火の日は、むしろ「ケの日」になってしまいました。
それでも来る人がいると、節子の文化をある程度受け継いだユカは、その接待に気をつかい、結局、落ち着かないというので、昨年からは声かけをやめました。
今年もちょっと迷いましたが、峰行が来るというので、家族4人だけで、花火を堪能することになったのです。
もっとも、私自身は堪能というわけには行きません。
いろいろと複雑な思いの1時間半でした。

わが家の小さな屋上の目の前が、手賀沼の花火会場です。
水上花火も見下ろせる位置なのです。
さらに、松戸や佐倉など、他にも数か所の花火が遠くに見えます。
でもやはりどこか退屈です。

1時間半の花火を見終わって、節子の位牌に向かって思わず口に出してしまいました。
花火を見て一体何の意味があるのだろうか。
人は冷静になると、その人生は貧しいものになるのかもしれません。
最近の私の生活は、間違いなく、貧しく退屈です。
意味を見出せないほどに、貧しく空疎なのです。
節子にさえ呆れられるほど、貧しい暮らしになっているかもしれません。

花火好きなはずの私が、一向に花火に心身が動かない。
自分ながら驚きです。
「ハレの日」であるはずの手賀沼花火大会の日が、また「ハレの日」に戻ることはあるのでしょうか。

■2529:パソコンでさえ2台あるのに(2014年8月3日)
節子
体調がなかなか戻らないのに輪をかけて、今度はパソコンがダウンです。
もう10年ほど使っていますから、無理もないのですが、ダウンしてしまいました。
仕方なく、以前使っていたノートパソコンを引っ張り出して、何とか作業していますが、メインのパソコンにしか入っていないソフトがあるため、ホームページは更新できません。
メールアドレスも最近のものは引き出せません。
これはちょっと大変です。
その上、5日に開催する公開フォーラムの資料づくりが途中だったのです。
明後日開催なのに、まだできていないのです。
誰かにSOSを出したいところですが、いまさらという感じで頼めません。
こういうのを泣き面に蜂とでもいうのでしょうか。
公開フォーラムは70人ほどの参加者が申し込んできていますが、みんなに集合時間の再案内をしなければいけません。
大丈夫でしょうか。
いささかパニックになってもおかしくないのですが、不思議なことにあんまり危機感がありません。
なぜでしょうか。

暑さもあって、パソコンがダウンしたのかもしれず、1日、休ませたら直っているかもしれない、などという、いかにも安直な考えもあります。
何しろこのパソコンはもう10年ほど使っているXPの古いものです。
いつ壊れてもおかしくないのですが、買い換えるお金を節約してしまっていたのです。
節約する対象を間違っていたのかもしれません。
しかし、パソコンもこれだけ長く使っていると、私を見捨てることはないでしょう。
夜になって涼しくなってきたので、もう直ったかもしれません。

この文章は、ノートパソコンで作成していますが、そろそろデスクトップを起動させてみようと思います。
直っていたら、この文章をアップしますので、もしこの文章を読んでいる方がいたら、それはデスクトップが回復したということです。
パソコンが2台あってよかったです。

節子も2人いたら、よかったのにと思います。
いや一人だったからよかったのでしょうか。

■2530:また一つ荷物を担ぐことにしました(2014年8月5日)
節子
さわやかな朝です。
今日は、認知症予防をテーマにした公開フォーラムを開催します。
パソコンが時々、ダウンしながらも、何とか最小限の作業を終えることができました。
いつものように、自発的に集まった人たちが、できることを出し合いながら、実現するフォーラムです。
今回は、準備のプロセスを楽しむところまではいきませんでしたが、10人を超える人たちが実行委員会に集まりました。
いつものように、私の出番はほとんどありませんが、最後に3分だけ話させてもらうことにしました。
これを契機に、「やさしさのシャワー」を広げる、ゆるやかなコミュニティを立ち上げる提案をすることにしたのです。
これでまた一つ、荷物を担ぐことになるわけです。
最近の私自身の思いとは矛盾するのですが、開催する1週間前に思いついてしまいました。
困ったものです。

こうした集まりをやる時、以前はいつも節子がいました。
節子が表立った役割を担うことはありませんでしたが、いつもどこかで見守ってくれたのと大きな意味でのアドバイスをしてくれていました。
誰にも見えない苦労をしていても、節子だけは知っているという思いが、苦労を苦労と思わせないところがありました。
私にとっては、節子が「お天道様」だったのです。
その節子がいなくなってからも、なぜか惰性でそういう生き方を続けています。

昨日は、作業途中でメインのパソコンがダウンしてしまいました。
体調もそうですが、パソコンまでもがダウンとは、私の生き方が咎められているような気もします。
たしかに、最近の生き方には、自分ながら少しおかしさを感じてはいますが、それに代わる生き方が思いつきません。
いや、生き方はわかっているのですが、そこに移る動機づけがまだ弱いのです。

次の集まりを終わったら、少し自分の生活にもっと入り込もうといつも思いながら、次々と集まりが持ち込まれてしまいます。
引き受けなければいいだけの話だけなのですが、そうはなかなかいかないのです。
それに、自分でやろうと思うことも少なくないのです。
節子がいたら、たぶん引き受けないかもしれませんし、思いつかないかもしれません。
節子がいなくなってから、自分自身の主体性が弱まっているような気もします。
この惰性から、そろそろ抜け出ないといけません。

声が出るようになったのですが、今日は話し過ぎないように自重しようと思います。

それにしても、さわやかな朝です。

■2531:とんでもないミス(2014年8月5日)
節子
またとんでもないミスをしてしまいました。
昨日の公開フォーラムの疲れもあったのですが、その後いささか不愉快なメールが来たりして、それが今朝の午前中まで引きずってしまいました。
午後の約束も出かけるのをやめて、メールで打ち合わせることにしました。
お昼頃、一応、すべて決着をつけたのですが、どうもやはり体調が良くありません。

ところがそれも終わって、ホッとしていたら、携帯に電話がかかってきました。
私は携帯電話が嫌いなので、普段は基本的には出ないのですが、何気なく出たら、某社の部長からでした。
そして、3時の約束でしたよね、と言われました。
時計を見たら3時7分。
それでハッと思い出しました。
経営道フォーラムのチームメンバーとのミーティングを約束していたのです。
すでに5人の大企業の経営幹部の人たちが、暑い中を湯島のビルの入り口に集まっているそうです。
部屋には鍵がかかっているのでは入れません。
さてどうしたらいいか。
実に刺激的な状況です。

いっぺんに体調の悪さが吹っ飛びました。
幸いに部屋の鍵はあるところにおいてあったので、それを教えて、ともかく部屋に入って打ち合わせを始めてもらうことにしました。
そして、ひげもそらずに、着の身着のままですぐに家を飛び出し、湯島に向かいました。
4時5分到着。我ながら早く着いたのに驚きました。
それにしても、悪いことをしました。
なんとかお役には立てましたが。

実はこのところ、私自身、かなり機嫌が悪いのです。
私の周りにはいろんな人が集まってくれて、みんなが私を支えてくれています。
佐藤さんの人徳だ、佐藤経だとおだてられることも多いのですが、実はそうではなく、たぶん便利な存在なのでしょう。
多くの人は、ほとんど私のことを理解してはいないのです。
それはそうでしょう、私自身、自分のことを理解できていないのですから。
しかし確実に言えることは、私は社会から「ドロップアウト」しているのです。
私の立場から言えば、「社会に毒されていない」ということなのですが。
だからほとんどの人はと善悪の基準が反対なのです。
だから私の共感する人など、さほどいないはずなのですが、表層的なところではちょっとだけ「共感」してもらえるところがあるのかもしれません。
基本的な考え方が違う人が多いのですが、そう思われていないのです。
だから逆に私は、相手のちょっとした言葉に、違和感を持つことが多いのですが、最近それがどうも増えている気がします。
しかし、「ちょっとした言葉」にこそ、その人の本質が現れるものです。
それで、最近私は機嫌が悪いのです。

機嫌が悪くなるとミスが増えるのです。
しかしミスをやってしまうと、自己嫌悪感が強まり、機嫌の悪さの原因は自分にあることに気づき、少しだけ性格がよくなります。
時には「大きなミス」も大切なことなのです。
と、負け惜しみを言いながら、今日は疲れがドッと出てしまいました。

酒井さん、すみませんでした。
まあこの挽歌を読むことはないと思いますが、自分のためにも謝っておきたいと思います。
心身に溜め込むと、また機嫌が悪くなりかねませんので。
酒井さんは、心を癒す人なのです。

■2532:死者は美化される(2014年8月7日)
節子
昨日の「ミス事件」で心身が少ししゃんとして、今日はのどの調子もまあまあです。
やはり「病は気から」です。
しかし今日は大事をとって声を出さないように過ごしました。
いささか長いので、喉頭がんを心配してくれる友人もいますので。

喉頭がんといえば、いつも思い出すのが先輩の重久さんのことです。
体調が悪いと聞いたのでしばらく会わずにいたのですが、そろそろ大丈夫だろうと思い連絡しようとしていた矢先の訃報でした。

自分のことを理解してもらえる人に会うのは、最高の幸せです。
こんなことを言うと、友人知人に叱られそうですが、自分で納得できるわかり方をしてもらえる人は決して多くはありません。
重久さんは、数少ないその一人でした。
東レ時代の先輩ですが、それほど親しかったわけではありませんが、私の思いをシェアしようとしてくれた人です。
私も彼の思いを少しだけシェアできていました。
重久さんが会社を辞めたら、きっと何か一緒に出来たはずです。
たぶん喧嘩しながらですが。

若くして亡くなった2人の友人もいます。
JTの社員だった加瀬さんと元ヒッピーの三浦さんは、なぜか心が通じ合えていました。
いずれも突然の訃報でした。
3人とも、かなりの「変人」でした。
私がそう思っていただけかもしれません。

ちなみに、3人ともそう親しく付き合っていたわけではありません。
しかし、なんとなくお互いにお互いを認め合えていました。
言葉を選ばずに言えば、お互いに「好き」だったのです。
理由もなく、時に会いたくなり、時に会いに来る。
そんな付き合いでした。
ですから、本当は理解などしあえておらずに、付き合いが突然に切られたために、私のことをわかってくれた友人と思うようになったのかもしれません。
亡くなってしまうと、それまでの付き合い方に悔いが出てきます。
それを補うために、美化してしまう。
娘から、この挽歌は節子を美化しているとよく言われます。
それは否定できません。
同じように、友人たちもそうかもしれない。

でもそれはそれでいいでしょう。
それが悲しみや寂しさを少しでも埋めてくれるのであれば。

お盆が近づきました。
今日はお墓の掃除に行こうかとも思いましたが、だらだらと過ごしてしまいました。
おかげで喉の調子はだいぶよくなりました。
もう大丈夫でしょう。

■2533:野路さんからの桃(2014年8月8日)
節子
野路さんから桃が届いたので、電話しました。
もちろん節子の友人の野路さんではなく、その伴侶の野路さんです。
私は面識はありませんが、節子は面識があり、とてもいい人だと何回もお話を聞いています。
節子が元気だった頃にはお会いする機会はありませんでした。
その野路さんと、最近は年に数回、電話で話すようになっています。
人の関係とは不思議なものです。

節子の親しい友人の野路さんは、節子がいなくなってからも数回、節子への献花にわが家まで来てくれました。
節子の使っていた衣服を素材にして、裂き織のバッグを創ってくれ、私たち家族全員にもらいました。
そういう、とても器用で、気配りの深い人でした。

野路さんの伴侶の野路さんから、連絡があったのは節子が逝ってから何年目だったでしょうか。
階段から落ちて、大怪我をしてしまったのです。
そして記憶を失ったのだそうです。
長い入院から退院したものの、その大変さが少しわかります。
夫である野路さんは、仕事もやめて、妻のリハビリに専念されました。
そのあたりから、私たちの付き合いが始まりました。

野路さんも少しずつ記憶も戻っているようですが、まだまだのようです。
それでもきちんとした「反応」ができるようになってきたからうれしいですね、と言うと、野路さんはますます頑固に自己主張するようになって、むしろ大変さが増したと笑いながら言いました。
その複雑な気持ちがわかります。
夫婦はお互いにわがままですから、たぶん几帳面に付き合っていると大変なのでしょう。
私には、そこに伴侶がいるだけでも羨ましい気はしますが、実際にそういう状況になると、そう簡単な話ではないのかもしれません。

野路さんが送ってくれた桃は、固くて甘い「あかつき」でした。
節子に供えさせてもらいましたが、この時期、節子へのお供えは増えています。
節子も、久しぶりに野路さんと話しているでしょうか。
節子が好きだったカサブランカもかざっています。
最近、時間がなくて、なかなかお墓に行けていないのが気になっています。

■2534:与えられた寿命(2014年8月9日)
節子
やはりあんまり体調がよくありません。
そろそろ「寿命」かもしれません。
と書くと、また心配する人もいるかもしれませんが、寿命は与えられたものですから、心配することはありません。
節子のことを考えていると、どうしても「与えられた寿命」という考えに馴染んできます。
節子はたぶん、それを知っていたのでしょう。

3週間経ちますが、喉は相変わらず不調です。
できるだけ他者に迷惑をかけないように、一度、病院で検査してもらおうとは思いますが、喉の不調と言うよりも、全体的にだるさがあるので、原因は別かもしれません。

暗い書き出しになってしまいましたが、単なる寝不足かもしれません。
それに気分は悪くはないのです、ただ体調に少し違和感があるのです。

今日は本郷でサロンです。
湯島の予定でしたが、参加者が40人にもなってしまったので、会場を変えました。
節子が元気だったら、一緒に聴きたいテーマの話です。
マハラバ村コロニーがテーマです。
そこから脳性マヒの人たちの集まりである「青い芝の会」が生まれたと聞いています。
コロニーを立ち上げた大仏空さんの娘さんの増田レアさんがゲストです。
参加者の半分は、面識のない人ですが、新しい出会いがあるでしょう。
そういえば、5日に開催した認知症予防の公開フォーラムでも、何人かの新しい出会いがありました。
あまりその後の体調が良くないので、まだフォローしていませんが、連絡をもらった人もいます。
世界が広がるのは、うれしいものです。

さて、「与えられた寿命」ですが、その活かし方もまた「与えられている」のかもしれません。
この頃、そんな気がしてきています。
自分で主体的に判断して、行動しているようで、実はすべてが決まっている。
そう考えないと、私の最近の行動は自分でもあまり理解できません。
逆に、そう考えると実にいろんなことがすっきりします。
なによりも、瑣末なことに悩まないでいいのです。
もしかしたら、これが「歳をとる」ということでしょうか。

■2535:弱音常習犯(2014年8月10日)
節子
最近の私の弱音記事や弱音発言のせいで、いろんな人が心配してくれて、メールや電話をくれます。
困ったものです、などと言うと、ひんしゅくを買いそうですが、弱音を吐くことはどうもあまり常識的ではないのかもしれません。
私の場合、「弱音」を発する基準がきっと非常に低いのです。
私に会ってもらうとわかるのですが、何だ、元気じゃないかと言われるほどなのです。
だから「心配しただけ損だ」と言うことになりますので、また言っている、という程度に軽く流してください。

それともちょっとつながるのですが、今日、私のフェイスブックでいろんなやりとりがなされていました。
ある人が長いコメントを書いてくださったのです。
私のよく知っている人です。
その文章のなかに、「私は佐藤さんのような命知らずな発言はそら恐ろしくてできません」と書かれていました。
え! と驚きました。
昔はともかく、最近はそんな過激な発言はしていないつもりですが、言葉の受け止め方は人それぞれですから、注意しないといけません。
これは、節子からいつも指摘されていたことです。

湯島に節子が来ていた頃、来客の方が帰ると節子は私に、あんな発言は失礼でしょうと時々指摘してくれました。
私には全く失礼だとは思えないことが多かったのですが、今から考えるとたぶん「失礼」だったのでしょう。
ホームページやブログも、よく書きすぎて、節子から削除を指摘されたこともあります。
話と違って、書いたものは確かに言われてみると失礼さもわかります。
しかし、昨今はだれもチェックしてくれないので、また粗雑で暴力的な文章を書いてしまっているのかもしれません。
人の性格は、なかなか直りません。

弱音を吐いていると2つの効果があります。
まず助けてくれる人が現れます。
しかし、これも2種類あって、実は私の負担がさらに重くなる場合もありますので、困らせる人も現れるともいえます。
もう一つは、弱音を吐くと少し気が楽になります。
しかし、これも弱音を吐いているうちに、ますます状況が悪化することもあります。
喉が悪いなと話し続けていると、いつになっても喉が治らないということです。
自分の言葉に、自分の心身が素直に従っていくというわけです。
それらをすべて総合しても、私の弱音を吐く生き方は変わらないでしょう。

この生き方が私の身についたのは、たぶん節子のおかげです。
どんな弱音を吐いても私を信頼していた節子の存在は、私には大きな支えだったのです。
だからいまでは、どんなことにもあまりへこたれません。
だから弱音を気楽に吐けるのです。
ですからご心配ありませんように。

ただ命知らずにはなりたくないので、何とかしなければいけません。
でもまあ、いまさら命にこだわることもありませんが。

■2536:心配してくれる人がいることの幸せ(2014年8月10日)
節子
挽歌ナンバーがひとつだけずれているので、追いつくためにもう一つ書きます。
書くほどのこともないことですが。

最近、自分が実に粗雑に、感情的になってきているのがわかります。
自分の思うようにならないと、勝手にやってよという気になってしまうのです。
そしてついつい感情が出てしまう。
気分を害した人も少なくないでしょう。
性格がさらに悪くなってきています。

自分で言うのもなんですが、私は客観的で論理的で「公正」の人と思われがちです。
自分でもなぜかわかりませんが、そう思われている節があります。
もちろんそう思われることは、私には気分が良いものではありません。
どう考えてほめられているとは思えませんし。
私と親しくなるとそうではないことはわかるのですが、そう思われることが多いのです。
いささか自慢めいて聞こえそうですが、つい今しがたあるメーリングリストに流された記事に、「既成概念にとらわれない、物事の本質をきちんとすばやく見極められ佐藤さん」と書かれていました。
私のことなのです。
こう書いてくれた人は私よりも年上の、誠実に人生を生きている人です。
客観的で論理的で「公正」で、しかも柔軟な発想ができ、本質を見極める人。
もう神様に近いですね。
その神様に近い人が、粗雑でわがままで利己的な言動をしてはいけません。
心しければいけないのです。
それはわかっているのですが、この頃はみんなのわがままさに我慢できなくなってきているのです。
自分のわがままさは棚に上げて、です。
それにしても、みんな勝手です。
今ごろわかったのかと節子には笑われそうですが。

私は考えは比較的に簡単に変えますが、約束したり合意したりしたことはむやみには変えません。
一度言葉に出したことも変えることはありません。
「武士に二言なし」という言葉は、私の大好きな言葉です。
しかし、最近は、そうした信条で生きている人はあまりみかけません。

実は最近体調が悪いのは、そういうことと無縁ではないのです。
以前なら節子に発散できましたが、いまは挽歌に書くことくらいしかできません。
困ったものです。
それでどんどん疲労感がたまり、免疫力が低下し、声が出なくなる。
そうに違いありません。

今週は、集まりが一切ありません。
人と会う約束も、そう多くはありません。
マハラバの増田さんからもらった大根ハチミツは効果をあげています。
というわけで、病院に行くのをやめることにしました。
アドバイスくださったみなさん、すみません。
でも、今週まだ違和感が残ったら、今度こそ病院に行きますので、お許しください。

それにしても心配してくれる人がいるのが幸せです。
ありがとうございます。

■2537:お花が届きました(2014年8月11日)
節子
今年もお盆が近づきました。
また隣の宮川さんがお花を届けてくれました。
節子が逝ってしまったのとほぼ同じ時に、宮川さんの母上も亡くなったそうです。
新盆が一緒だったこともあり、毎年、思い出してお花を届けてくれるのです。
それもいつも立派なお花ですので、恐縮してしまいます。
どうお返しすればいいかよくわからないので、毎年、もらいっぱなしなのです。
こういうお付き合いは、私はとても不得手なのです。
いつかお返しできる時はくるでしょうか。

宮川さんの花で、今年も迎え火の季節だと実感しました。
節子がいなくなってから本当に季節感がなくなってしまっています。
明日は節子を迎える準備をしなければいけません。
でもこれもまたいささかややこしい話です。
いつも節子はわが家にいるはずなのですが、お盆にはその節子は仏壇に隠れてもらい、改めて精霊棚を整えて、節子を迎えるわけです。
お迎え用の馬とお帰り用の牛ですが、牛はわが家の畑で取れたナスでつくります。
馬用のきゅうりは今年もダメだったのですが、ちょうど節子のお姉さんから野菜がどっさり届いたので、それをつかいましょう。

明日は節子が好きだった杉野さんの梨を買いにいってこようと思います。
今年は私たちもまだ食べていないのです。
杉野さんと引き合わせてくれたのも、節子でした。

最近はお盆といっても、わが家にはお坊さんは来ません。
ですから私が般若心経を唱えるのです。
節子にとってはあんまりありがたみがないかもしれません。
幸いに声はほとんど回復したので、大丈夫でしょう。

仏壇の前がこれから花で賑わいだしますが、それに伴って、私の気分は逆に沈みがちです。
お盆から、節子の命日に向けての3週間は、私には毎年、少しだけ辛い時期なのです。
その辛い時期も、今年で7回目になりました。

■2538:すぎのさんの梨(2014年8月12日)
節子
すぎのファームに梨を買いに行ってきました。
いつものように、杉野ファミリー全員で作業をしていました。
久しぶりに杉野さんご夫妻と話をしてきました。
杉野さんも忙しい人なので、なかなかゆっくり話す機会はありませんが、お互いに話したいことがたくさんあるのです。

私は毎年、少なくとも1回はすぎのファームにお伺いするのですが、いつも家族みんなで働いている姿を見て、あたたかい気持ちになります。
みんなとても幸せそうです。
生きていることを実感できる生き方でしょう。
節子がいた頃の、わが家の風景でしたが、いまは残念ながらそういう風景はありません。
何しろ中心になるべき、節子がいないからです。
怠惰な私は、働く場の中心にはなれないのです。

杉野さんの梨は、節子が大好きでしたが、とても美味しいのです。
近くにも梨園があって、もぎたての梨も売っているのですが、遠くまで足を伸ばすだけの意味はあります。
すぎのファームは近くの道の駅にも出荷しているのですが、すぐに完売してしまいます。
だからファームまで買いに行かないといけないのです。

今年の梨もとても美味しかったです。
杉野さんの奥さんが、形は悪いけれどと言って、とても大きな梨をおまけにいくつかくれました。
たしかに形が悪くて商品にはならないだろう、特大の梨を節子にお供えしました。
だんだんいつものような雰囲気になってきました。

明日は迎え火です。
今日はいろいろあって、お墓の掃除にはいけませんでした。
まあ、そんなことは節子は気にしないでしょう。
私の両親はがっかりしているかもしれませんが。

■2539:節子はほんとに帰ってきたのでしょうか(2014年8月13日)
今日は迎え火です。
時間が早かったせいか、お墓はまださほどにぎわってはいませんでしたが、迎え火を炊き、ロウソクに火を移して、帰宅しました。
節子が戻ってきました。
と言って何も変わったわけではなく、いつもどおりです。
ただいつもの仏壇は扉を閉じて、お盆期間は精霊棚に節子の位牌が出ているだけです。
普通はお膳などあげるのでしょうが、わが家は果物とお菓子だけです。
花も今年は、控え目にしました。
暑いのですぐ枯れてしまいます。
一昨日まで咲いていたカサブランカも、もう枯れてしまいました。
でもまあいつもよりは、華やかな花に囲まれています。

今日も暑い日です。
娘夫婦が帰った後は、まあ用事もなかったので、位牌壇の前で過ごしました。
ただただ怠惰に、です。
静かな、何もないお盆です。
ちょっと寂しい気もしますが、これもまた私の生き方の結果なのですから仕方ありません。

怠惰にしていたら、気分が緩んだせいか、なにやら身体全体がかったるい感じになってきました。
節子が戻ってきたので、甘えが出てきたのでしょうか。
喉のお医者さんに行く予定だったのですが、せっかく節子が帰ってきたのだから、病院でもないだろうという口実で、止めました。
困ったものです。

今日は暑いですが、セミの鳴き声があまりしません。
奇妙に静かなお盆です。
節子は、ほんとに帰ってきたのでしょうか。
帰ってきたんだったら、なにか「兆し」を感じさせてほしいものです。

■2540:今日はずっと位牌の前で過ごしました(2014年8月14日)
節子
大宰府の加野さんから電話がありました。
年に1回のお戻りなので、ゆっくり過ごしてくださいという電話でした。
もちろん、節子のことです。
加野さんも、今日は一人娘の寿恵さんと一緒にすごされているそうです。
節子が亡くなった翌年、加野さんと一緒に大日寺の庄崎さんのところで、2人の彼岸での様子を聞かせてもらったことが、今も昨日のように思い出されます。

加野さんはもう80代の後半でしょう。
しかしとてもお元気です。
なぜなら、娘の寿恵さんの50回忌までやろうと考えているからです。
寿恵さんは、若くして亡くなりました。
ちょうど私が節子と一緒に多くの人との付き合いを断っていたころです。
寿恵さんが亡くなったのを知ったのは、節子を見送ってからです。
いや、正確には、節子を見送る前に知っていたのかもしれません。
きちんとした知らせはなかったのですが、何となく伝わってきていたような気もします。
しかし、節子には伝えていないことだけは確かです。
私が大宰府に伺ったのは、節子が逝ってしまった1年後でした。
加野さんから大日寺を誘われたのです。

加野さんのところには、とうとう節子と一緒にうかがう機会がありませんでした。
加野さんは久留米絣のお店をやっています。
節子が大好きになりそうなお店でした。
寿恵さんからもらった久留米絣の敷物や暖簾を、節子は大事にしていました。
節子と加野さんのお店に行けなかったのは、とても残念です。

今日はずっと家にいました。
来客もありませんでした。
節子の位牌の前で、ぼんやりとしていました。
そういえば、福岡の蔵田さんからも電話がありました。
お元気そうでした。

もっとも平安な1日だったわけでもありません。
携帯電話は止めていますが、ネットからいろんなメールが届きます。
私自身のことではないのでなかなか書きにくいのですが、放置してはいけなくなった事件がまた再発しました。
時評編で書こうかと迷っています。
まだその「覚悟」ができずにいます。
節子がいたら、何と言うだろうかと思いながら、決断しかねています。

■2541:語りだしたくなる人生もある(2014年8月15日)
節子
人にはさまざまな人生があります。
語りだしたくなる人生もある。

今日はある件で、2人の人に暑い中を湯島に来てもらいました。
いろいろと話し合っているうちに、そのおひとりが、今日は連れ合いの命日だという話をし始めました。
というよりも、それが話の最後に出てきたのですが。
しかもかなり複雑な話で、もしかしたら連れ合いの死を止められたかもしれないという話です。
それが、数年前の今日の未明だったのです。

その方の連れ合いがなくなられていたことは知っていました。
ある程度、その事情もお聞きしていました。
しかし、今日お聞きした話は、初めてでした。
もしかしたら、止められたかもしれない。
その方は、ずっとそう思い続けてきていたのかもしれません。
それを誰かに言いたかった。
でもなかなかそれは話せる話ではないのです。
今日、まったく別の話のなかで、たぶん話したくなったのです。
その気持ちがよくわかります。
私も時に、節子のことを無性に話したくなりますが、話すきっかけが見つけられません。
今日、彼女は、もうどうしようもなく話したくなったのでしょう。
しかし、私はそれをうまく受け止められませんでした。
でも、今日が命日だということを知りました。

4日前に、知人からメールが来ました。
いろいろと書いている中に、今日は月命日でしたと書いてありました。
彼女も、最近、大切な人を見送ったのだなと思いましたが、私は全く知りませんでした。
それでなんとなく訊ねてみましたが、見事に返信からはその話題は外されていました。
月命日であることを知ってほしいような、しかし誰のことかは知られたくないような、そんな複雑な気持ちの揺らぎを感じました。
彼女もまた、いつか話しだしたくなるかもしれません。

こういう生き方をしていると、いろんな人が人生を話してくれます。
私の質問に応じてではありません。
私は過去にはほとんど興味がなく、私の質問は、「それで10年後はどうしているのですか?」というような、先のことがほとんどなのです。
しかし、多くの人は、未来よりも過去を語りたがります。
それで私も最近は、過去の話のなかから未来を聞き取るようになってきています。
過去と未来は、深くつながってもいるからです。

しかし、つながっていない過去と未来もあります。
大切な人の死が、過去と未来を分断するのです。
でも本当は、つながっているのです。
だから時に無性に話したくなる。

語りだしたくなる人生もあるのです。

■2542:「単なる偶然です」(2014年8月16日)
送り火でした。
お墓から帰宅していた節子は戻りました。
精霊棚もいつもの仏壇に戻りました。
お盆が特別の時なのだという感覚が、最近はほとんどありません。
毎朝、お経をあげていますし、いまもなお節子はわが家で暮らしていると思っているからです。
しかし、来週は施餓鬼、その次は節子の命日です。
夏は、それなりに彼岸との距離は近いのです。

先週、お会いした小児科の松永医師の「運命の子 トリソミー」を読みました。
重度心身障害児を育てる家族を題材にした作品で、昨年の小学館ノンフィクション大賞の受賞作です。
松永さんの、誠実な、そして強靭な人柄がストレートに伝わってくる作品です。
文章も実に生き生きとしていて、一気に読んでしまいました。

松永さんは長年、小児がんの問題に取り組まれている方ですが、小児がんに関する作品もいくつかあります。
ただ、節子を見送ってからは、私は「がん」という文字に出会うと心身が凝固してしまうのです。
新聞記事でさえ、そうですから、書籍など読めるはずもありません。
しかし、「運命の子 トリソミー」の文章の見事さに乗せられて、読んでみようという気になりました。
手に取ったのは、「がんを生きる子」。
副題は「ある家族と小児がんの終わりなき闘い」です。
最初は少し苦痛でしたが、次の文章に出会えてからは、スッと読めるようになりました。
その文章とは、「単なる偶然です」という松永さんの言葉です。

娘が小児がんになったと知らされた母親が、松永医師に質問します。
「どうしてこんな病気になってしまったのでしょう?」
松永さんは、こう答えます。
「単なる偶然です」。

この言葉に出会った後は、この本も一気に読めました。
たぶんもう「がん」コンプレックスは克服できたでしょう。

それにしても、「単なる偶然です」と言い切れる松永さんとはどういう人なのでしょうか。
実に興味深いです。
松永さんの2冊の本のおかげで、いろんなことから解放された気がします。
今度湯島でサロンをやってもらえないかと松永さんに頼みました。
9月13日に開催します。

「それぞれの家庭にはそれぞれの形の幸福、がある」
「辛い思いをしていない家族など、一つとしてない」
これも松永さんの「運命の子」に出てくる文章です。
私よりも20歳も若いのに、松永さんはたぶん、私の数十倍の人生を生きてきているのだろうと思います。
お話させてもらえるのが、楽しみです。

■2543:世界が別の世界になってしまったような記憶(2014年8月17日)
節子
昨日書いた松永さんの本でもう一つ印象に残った部分があるので、それを書くことにしました。

小児がんの娘の抗がん剤治療が始まってからのある日、その母親は周りの世界が白黒テレビの画像のように、色がなくなって見えるようになったそうです。
その話を、同じ病室の小児がんの息子を持つ母親にすると、その母親はこう応えます。

「分かるよ、私も。治療の合間に外泊しても、団地のママ達とはもう世間話ができないの。以前は、井戸端会議を毎日のようにやって、ワイドショーで放送してた皇室の話とかですごく盛り上がったりしたんだけど、今は、は? 何それ? つて。全然意味が分からないっていうか、自分には何の関係もないっていうか、もう、全然どうでもいい話なの。だからだんだんママ達の会話にも参加しなくなったし、向こうからも声がかからなくなるし、でも、それでいいのかなって」
「単に話題が合わないということじゃないのよ。喋る言葉も違う。人間も別。別の世界にいる、みたいな感じなの」と、その母親は言います。

世界が、これまでの世界とは一変してしまう。
私には、「わかる」とはとても言う自信はありませんが、それに似た体験は何回もしています。
話していても、自分の心身がどこか遠くに行ってしまっているような、そんな気になったことが何回もあります。
そういう体験がなくなってきたのは、ようやく昨年の秋になってからです。
信じたくない現実に出会うと、人は現実から抜け出てしまうのかもしれません。

「喋る言葉も違う。人間も別。別の世界にいる、みたいな感じ」。
たしかに、節子がいなくなってからしばらくは、そんな世界に生きていたような気がします。
いまは周りの世界にもあまり違和感がありませんが、逆に、あまり「生きている」という感覚がありません。
やはり、あの時、節子と一緒に私の半分も旅立ったような気がしてなりません。

お盆が終わり、秋になりました。
節子が好きだった紅葉の季節です。

■2544:分別リサイクルゴミ箱(2014年8月18日)
節子
友人が来ました。
彼は最近少しへこたれています。
そしてこう言いました。
俺はゴミ箱のような存在で、みんなが俺のところにゴミを捨てにくる。
だから、みんながゴミを捨てやすくするために、きれいなゴミ箱にしておかないとだめなんや。
だから、がんばって疲れてしまう。

それを聞いて、もしかしたら私もゴミ箱なのかもしれないと思いました。
そう言うと、彼は即座に、そうや、佐藤さんもゴミ箱や、と言うのです。
でも佐藤さんは、ゴミを分別しているところが俺とは違う。

あんまり「分別」する姿勢はないけどなあ、と思いましたが、そもそも社会のゴミ箱だったという気づきは、私には新鮮でした。
そうか、だから疲れるのだと、何やら訳のわからないまま納得しました。

2時間ほど話していたら、若い友人がやってきました。
もちろん約束していたのですが、彼が今、執筆している本の原稿がどうも「つまってしまっている」ようで、雑談に来たのです。
テーマは「時間」に関する、いささか哲学的なものです。
頭が疲れている私には、いささか難解なテーマです。
2時間ほど話し合って、ほかの人とも話したりしているのと訊いたら、このテーマでは話し合える人はなかなかいないと言うのです。
そうかやっぱり私は分別リサイクルゴミ箱なのだと思いました。

節子もまた、私にとっての分別リサイクルゴミ箱だったことに気づきました。

暑さのせいで、いささか訳のわからない挽歌になってしまいました。
生きていくためには、ゴミ箱は不可欠です。
しかし、私自身がゴミ箱とは、今日、初めて気づきました。
そろそろ受け付け禁止にしないと、パンクしそうですが。

■2545:悩みやトラブルがあればこそ人生は豊かになる(2014年8月19日)
節子
この頃、会う人によく言う言葉があります。
「悩みやトラブルがあればこそ、人生は豊かになる」。
最近改めてそう思うのです。
これは、毎晩、今日もまたいつもと同じ1日を過ごせましたと感謝していて節子の考えに反するわけではありません。
何もない人生も豊かならば、悩みやトラブルのある人生も豊かなのです。

節子との別れという大きな体験をしてしまってからは、それ以外のことはみんな「瑣末」にしか感じられなくなっていました。
仮に地球が滅んでも、私はさほど驚かなかったかもしれません。
それほど人生が、とても平板で、退屈になってしまっていました。
感情さえもが弱々しくなっていましたから(今もまだそうですが)、喜怒哀楽さえあまり感じられなくなっていました。
心から笑うことも、心から悲しむこともなくなっていました。
いろんなトラブルや事件にも、何も感じられなくなっていたのです。
節子のいなくなった人生は、実に味気なく、張り合いのない、まるで抜け殻のような人生だったのです。

だから、最近、「悩みやトラブルがあればこそ人生は豊かになる」と感じられるようになってきたのは、感情が戻りだしたと言えるのかもしれません。
そう感じ出したのは、昨年の秋頃ですが、以来、悩みやトラブルに襲われつづけています。
それまでもそうだったのでしょうが、たぶん気づかなかったのでしょう。
気づかないままがよかったか、気づいたほうが良かったか。
これまた難問ですが、気づくようになってしまったからには、逃げるわけにもいきません。
であれば、それをポジティブに受け止めるのは、節子の姿勢でもありました。

問題は、体力や気力の問題があって、悩みやトラブルを楽しめなくなってきたことです。
時に逃げたくもなります。
しかし、悩みやトラブルの先を思えば、逃げるわけにはいきません。

それにしても、「豊かな人生」って一体何なのでしょうか。
今の人生が豊かだと思うのが、一番、良い答かもしれません。
たとえ、節子がいないとしても。

■2546:うっとうしくない助け合いの関係は夫婦だけ(2014年8月20日)
節子
喉の調子が悪いことが広まってしまいました。
今日はまた熊本のハチミツが届きました。
「助けて」と言える社会へというテーマのサロンもやったことがありますが、助けてなどと言わずとも、困っている状況をさらけだせば、みんなで助けてくれるものです。

しかし、自らをさらけだすのは、それなりに難しいのもまた事実です。
さらに問題は、助けてもらったら、助け返すことになりますが、それがまた大変です。
注意しないと、「ポトラッチ」の世界になりかねません。
昔は、日本にも「恩送り」というペイフォワードの伝統があったようですが、最近のように、社会の仕組みが変質してくると、それもなかなか簡単ではありません。
そのためもあって、閉じられた関係性のなかで、貸し借りをバランスしていこうという意識が強くなりがちです。
そうした感覚があまりないはずの私でさえ、最近少しそうした意識が生まれてきています。

それに、「助け合う」関係は、ある意味では「うっとうしい」ものです。
助けたり助けられたりすることは、とても気分がいいものですが、助けた記憶や助けられた記憶はあまり気分のいいものではありません。
それが「しがらみ」を生み出し、相互の関係を歪めることにもなりかねません。

うっとうしくない助け合いの関係は、夫婦だけかもしれません。
言い換えれば、そうした「覚悟」がないと、夫婦関係は維持できないかもしれません。
以前は家族もそうだと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
親子はどうしても対等の関係にはなれませんし、兄弟姉妹もいつか生活基盤を異にしていくからです。
家族は、むしろペイフォワードの世界を学ぶ場だったともいますが、いまは必ずしもそうではなくなってきています。

隣の人が、香川のお土産のピオーネをお裾分けしてくれました。
節子に供えさせてもらいました。
節子がいたら、お近く同士の付き合いはもっと育っただろうなと時々思うことがあります。
ここに転居して、2年ほどで節子は病気になってしまいました。
それでも今も隣り近所のお付き合いがあるのは、節子のおかげかもしれません。

「助けて」と言う前に、困っていることをさらけだすのがいい、というのは私の発想です。
私よりも少しだけ「見栄っ張り」だった節子は、賛成ではないかもしれません。
時々、そんなみっともないことをするなと言っていました。
それに物欲しげな言動(困っているということはそういうメッセージを含意します)は、節子が一番嫌うことでもありました。
今の私の言動には、節子は眉をひそめているかもしれません。

ちなみに、私の喉はほぼ回復しました。
ご心配をおかけしました。

■2547:携帯電話もパソコンも買い替えました(2014年8月21日)
節子
相変わらず暑いです。
今日は午前から午後にかけて、我孫子で用事が重なったのですが、街中を歩くだけで体力を消耗するような暑さでした。
夕方になって、ようやく少し風が和らいできました。

久しぶりに畑に行こうかとも思いますが、またおかしくなってもいけません。
迷いながら、パソコンに向かいました。
今朝、時評編に書いたのですが、携帯電話をやめようかと思っています。
それでいまもほとんど携帯電話の電源を切っているのですが、娘から電話したのにつながらなかったと早速に怒られました。
いささか勝手なのですが、携帯電話は発信専用にしようと思っていたのですが、あんまり評判はよくありません。
まあそれはそうでしょう。
でも発信専用が私には一番好都合ですから、しばらくはそれでやってみようと思います。
いつまでもつかはわかりませんが。

壊れたと思われたパソコンが直ったこともどこかに書きました。
このまま使おうと思ったのですが、ほとんど使わない携帯電話を買い替えるのであれば、毎日使うパソコンこそ買い替えるべきだと思いなおしました。
それに最近は、メールが時々消去したり、読み取れないデータがあったりして不便も生じているのです。
多分私が購入する最後のパソコンになるでしょうから、少しコストをかけてもいいのですが、そういうところへのこだわりがまったくないため、相変わらず低価格のデルのパソコンになってしまいました。
パソコンもたぶん15台目くらいですが、最近は味も素っ気もないデルばかりです。
問題は今使っているソフトがそのまま使えるかどうかです。

私はほとんどお金を使わないのですが、久しぶりの買い物でした。
もっとも最近はすべてカードとか引き落としなので、お金を使った気にはなりません。
節子がいなくなっても、その点は変わらないので、ありがたいのですが、そういうお金は一体誰が払っているのでしょうか。
いい加減だったとはいえ、管理してくれる節子がいなくなりましたから、カードが使えなくならないように注意しなければいけません。
しかし、やはりお金を直接払わないので、携帯電話もパソコンも神様の贈り物のような気がしてなりません。
だからこそ大事に使おうという気になるのですが。

パソコンはまだ届いていないので、今日は古いパソコンでの入力です。

■2548:サルスベリが満開です(2014年8月22日)
節子
前の家から持ってきたサルスベリがよく咲いています。
これは転居時に植木などの移植を頼んでいた植木屋さんがあんまり価値がないと残していたのを、どうやら節子が娘たちと一緒に抜いて別に運んできたようです。
ジュンから聞いた話です。

わが家の家事は節子任せでした。
そのせいで、私の評判はたいへん悪いのです。
同世代に比べると、かなり理解があったほうではないかという自覚があったのですが、それは私の独りよがりで、現実は家事も育児も妻任せで、そのくせ理屈だけは言っていたようです。
しかもその「理屈」がそれこそ「独りよがり」のものだったようです。
具体的な事例を出して、娘から指摘されると、反論のしようもありません。
間違いなくそうだったのでしょう。
父親としては、反省させられることばかりです。

サルスベリは、毎年、たくさんの花を咲かせます。
もしかしたら一番元気かもしれません。
カルミヤも元気がありませんし、アセビはなくなってしまいました。
梅は持ってこなかったのでしょうか、姿がありません。
昔はたくさん梅がなって、梅干も節子がつくっていました。
ツバキやサザンカもあんまり元気がよくありません。
今年の春は、節子が買ってきた河津桜は花をつけませんでした。
ツツジも、節子がいなくなってから枯らしてしまいました。
いや枯らしたのではなく、枯れたのかもしれません。
そうした中で、元気なのがサルスベリ。
花木への愛情も大事にしなければいけません。

花木への接し方を見れば、節子への接し方もわかるかもしれません。
自分の記憶に残っていることと、現実とは違っているのかもしれません。
最近、娘と話していて、そんなことを思い知らされることが時々あります。
困ったものです。

■2549:発心(2014年8月23日)
節子
録画していた「古寺名刹」の神護寺を観ました。
京都の高尾にある、紅葉の美しいお寺です。
私の好きなお寺の一つです。
節子とも2回ほど参拝したと思います。
最後に行った時も、たしか紅葉の季節だったように覚えています。
しかし、最近の私の記憶はいささか自信がありません。

番組の最後に、神護寺の谷内貫主が、お寺を単に癒しの場ではなく、発心の場にしてほしいというような話をしていました。
不正確かもしれませんが、私にはそう聞こえました。
そして、癒しとは発心なのだと思ったのです。

この1か月、心身ともにすっきりせずに、だらだらしています。
何もしていないわけではなく、外部から見たらそれなりに動いてはいるのですが、自分では気が入らない、とても居心地の悪い状況です。
しかも、歳をとるということはこんなことなのかと、奇妙に覚ったような気持ちが時々起こってくるのです。

神護寺貫主の言葉が、心身に響きました。
いま必要なのは「発心」、つまり何かをやろうと心を起こすことだ、と。
それにはやはり「場所」が必要なのです。
それを忘れていました。

たまたま明日は、施餓鬼でお寺に行きますが、施餓鬼で混雑している宝蔵寺は発心の場にはならないでしょう。
さてどこがいいでしょうか。
神護寺から不動明王が移ってきている成田山新勝寺がいいかもしれません。
場所の力を借りないと、動けなくなることもあるのです。

■2550:7回目の施餓鬼(2014年8月24日)
節子
7回目の施餓鬼です。
施餓鬼は毎年、太陽がじりじりするような暑い日です。
この日は檀家の人たちがみんな集まり、お寺が人で埋まるほどになります。
今年は、さぼって、本堂での行事が終わる頃にお寺に行きました。
本堂の外にも設営された椅子はもちろん満席で、参道の石段や墓場に行く通路も人であふれていました。
幸いに今年は例年よりも涼しいのが救いでした。

お墓の掃除をしたりして少し待っていると本堂の行事が終わりました。
本堂の行事に参加していた兄が卒塔婆を持って出てきたので、2人でお墓に行って、お参りをしました。
お墓の前で般若心経をあげ、久しぶりに兄と駅の近くのカフェで珈琲を飲みました。
兄と私は、生き方も考え方も大きく違っているので、会えば論争になります。
しかし決して仲が悪いわけではありません。
ただあまりに考え方や生き方が違うのです。
母親の遺言は、兄弟仲良くやってねと言うものでした。
最近では、そうした母親の心配がわかるようになりましたが、論争は相変わらずです。
それがまた「瑣末な話」での論争なのです。
節子も、あまりにどうでもいい問題で論争になるのを見ていて、呆れていましたが、まあ論争などと言うのはそんなものでしょう。
夫婦喧嘩は、さらに「どうでもいいこと」が原因なのですし。

施餓鬼から戻ると節子の位牌の前に軽井沢のお菓子が供えてありました。
お隣さんからのお土産だそうです。
わが家は施餓鬼といっても自宅の仏壇に食べ物を特別に供える棚はつくりません。
ただお寺の施餓鬼会に出て、卒塔婆をお墓に立ててくるだけです。
しかし、今年は、運よく、節子が好きそうなクッキーが供えられて節子は喜んでいるでしょう。
しかも節子が好きな軽井沢のお土産です。

娘たちが小さい時には、軽井沢の奥や周辺にはキャンプに何回か行きましたが、軽井沢銀座にはついに一緒には行けませんでした。
節子は友人たちと行ったことがありますが、私があんまり軽井沢は好きでないのです。
だから節子は私を誘うことはありませんでした。
私が好きなのは、ただ山があり森があり、川があり、サワガニがいそうなところです。
人が多い避暑地や観光地は、どうしても好きになれません。
今から思えば、節子にはきっと大きな不満だったことでしょう。

施餓鬼も終わりました。
後は節子の8回目の命日です。
今年は何もせずに、家族でつつましやかな会食でもしようと思います。
いつもはだれかに任せるのですが、娘のユカから、いつも他人任せの生き方をそろそろ止めて、今年は自分で仕切ったらと厳しく言われました。
なんともまあつめたい娘です。
節子、次の日曜日、会食したいので場所を決めといて、といえる人生が懐かしいです。

■2551:不思議な空間(2014年8月25日)
節子
相変わらず喉の調子がよくありませんが、今日は湯島に発声のプロが2人やってきました。
声育士の菅原さんと声みがき術の牧野さんです。
菅原さんは節子も何回か会ったことがありますが、NPO法人感声アイモの事務局長です(たぶん)。
牧野さんは、私もつい最近知り合ったのですが、本業はボーカリストです。
ロイヤルナイツのメンバーだったので、たぶん私も節子もテレビでは何回か見ているはずです。

私の声を治しに来たのではありません。
共通点があるので、お2人をお引き合わせしたのです。
ところが、話がどんどん広がり、気がついたら、なんとホツマツタエや東日流外三郡誌などの話になってしまっていました。
その話題になるとやはり口を出したくなり、私もまた喉を使ってしまいました。
最後に久しぶりに菅原さんの発声の手ほどきがありましたが、その時はもう手遅れでした。
困ったものです。

2時間も話したのですが、2人はどうも話し足りなかったようで、私と別れた後、喫茶店で続きをやるといっていました。
湯島は初めてだった牧野さんは、帰り際に、不思議な空間と時間でしたと言いました。
どういう意味でしょうか。

牧野さんが「不思議な空間」と表現してくれましたが、実は同じような言葉を過去にも2回ほど受けています。
言葉は違っても、同じような感想を聞いたこともあります。
その「不思議な空間」に、私は25年間通い、そこで「不思議な時間」を過ごしてきたわけです。
ですから、私自身が「不思議な存在」になってしまっているとしても不思議ではありません。

最近、私の生き方や考え方は、どうも非常識のようで、ほとんどの人に理解されていないことを感じています。
フェイスブックでもそうですが、私の書き込みへのコメントは読み違いが多いですし、湯島での会話もあんまり正確に伝わっていないようです。
人は「不思議な存在」は理解しませんから、不思議とは思いませんが、牧野さんにはやはり不思議だったのでしょう。
不思議であることがわかる人とは、つきあいやすいです。

人が分かりあうというのは、難しいことです。いや不可能かもしれません。
世間の人たちと考えをシェアできないのは仕方がないのかもしれません。
しかし、正直、ちょっと寂しい気もします。
だから人は伴侶を求めるのかもしれません。

■2552:「カミハテ商店」(2014年8月26日)
節子
時評編に書きましたが、映画「カミハテ商店」を見ました。
東尋坊の茂さんが、ある意味でのモデルになっている映画です。
主人公の千代は子どもの頃、父親が自殺した60歳の女性です。
父が自殺した断崖絶壁がある、世界の果てのようなさびしい村で、商店を開き、毎日、10個のコッペパンを焼いて、障害のある若者が届けてくれる牛乳と一緒に売っているお店をやっています。
映画の内容に関しては、時評編に少し書きましたので、それを読んでください。

千代を演じているのは、高橋恵子さんです。
千代の人生に何があったかは、ほとんど語られていませんが、それがどんなものだったかは伝わってきます。
彼女の歩き方、他者への反応、言葉にはならない絶望感、生きることへのやりきれなさ。
ともかく観ていて辛くなるほどの映画なのですが、不思議なことにどこかにあったかさがあるのです。
最近は消えてしまったけれど、私が子どもの頃にたくさんあったような、あたたかさです。

ところで、映画の中の千代の歩き方を見ていて、もしかしたら私もあんなふうに人生を歩いている時があると思いました。
心身が重くなって、歩けなくことがある。
前に進めなくなって、人が嫌いになって、気が失せてしまう。
千代役の高橋恵子さんの演技は、恐ろしいほどに心に入ってきます。
その重い足取りは、彼女の店でパンを買って、崖から飛び降りた人たちの人生を背負ってしまっているからだろうかと最初は思いましたが、そうではないでしょう。
千代が背負っているのは、父親の死であり、その死を受け止めなければいけなかった母親の死なのです。
つまり、かけがえのない人との、不条理な別れです。
私の場合、背負っているのは節子一人です。

千代は映画の最後に、たぶん心身を軽くするきっかけに出会います。
映画には予兆しか描かれていませんが、千代は生きはじめるのです。
歩き方は変わるでしょう。
実は誰にもきっかけはたくさんあるのでしょう。
私にも、あるはずです。

実にさまざまなことを考えさせられた映画です。

■2553:遺された人への思い(2014年8月27日)
節子
大雨による土砂災害で広島では70人を超える人が亡くなりました。
中東では毎日のように戦いの中で多数の死者が出ています。
毎日、たくさんの人が死んでいる。
そしてたくさんの人が遺されている。
私たちは死者に対して哀悼の意を持ちますが、もしかしたら遺された人にこそ思いをいたさなければいけないのかもしれません。
辛いのは死者よりも遺されたものかもしれません。
最近、つくづくそう思います。

死者を悼む儀式は、遺されたもののためにあることはいうまでもありません。
遺されたものを思いやることこそが、死者への最高の哀悼になることもいうまでもありません。
そこでは、死者と遺されたものは一体となっている。
もし遺されるもののいない死というものがあるとしたら、それは哀しいことなのだろうか、と時に思うことがあります。
死が哀しいのは、遺されるものがいるからです。

それは当然のことです。
自分の死は、自分では体験しようもありません。
だから、自分の死を悲しむことはできない。
死は、遺されたものにしか起こりえないことなのです。
そう思うと、死とはいったいなんなのだろうかという思いがまた起こってきます。
節子にとって、死とはいったいなんだったのだろうか、と。
いや、そもそも節子は死んだのだろうか、と。

臨死体験の話を読むと、死は「至福の体験」でもあるようです。
他者の死は悲しみをもたらしますが、自らの死は至福をもたらす。
それは、ある意味での生の体験かもしれません。
だとしたら、その先にあるのはいったいなんなのか。

死の報道は、心を重くします。
しかし、死は新しい生に通じているのだとしたら、少し心が軽くなる。
そうでもしなければ、心身がもちません。
どうしてマスコミは、毎日毎日、こうもたくさんの死を報道するのでしょうか。
それも、あまりに生々しい物語とともに。
死者や遺された人を悼んでいるようですが、私にはとてもついていけません。
私の心が歪んでいるのでしょうか。

多くの遺された人の悲しみに、私自身の悲しみも乗せて、思いを馳せたいと思います。
思い切り悲しむのがいい。
遺された者の悲しみがわかるのは、自分だけですから。

■2554:PPKという言葉が嫌いです(2014年8月28日)
節子
昨日はちょっと疲れて帰宅し、また挽歌を書きませんでした。
この頃は疲れるとパソコンに向かうのもおっくうです。
挽歌も書かずに寝てしまいました。
なかなか習慣化できません。
それに今年の夏の暑さは、かなりこたえました。
こうやってだんだん人は彼岸への近づいていくのでしょう。
最近、その感覚がわかるようになってきました。

世の中にはPPK、ピンピンコロリと、突然に死んでしまうことを望む人もいますし、それをお祈りするお寺まであるようです。
私は、このPPKという言葉が大嫌いです。
とても不謹慎な言葉ではないかと思っているのです。
死を、そんな風に語るべきではないでしょう。
やはり死は、時に悲しみながら、時に迷惑を周囲に与えながら、時に戸惑いながら、時に心乱しながら、ゆっくりと迎えるのがいいように思います。
それに、ピンピンコロリという語感も不快感があります。
生や死をあっけらかんと語るのはいいですが、もっと真摯に向き合いたいというのが、私の思いです。

しかし、今のような生き方をしていると、そうなりますよ、と久しぶりに会った佐々木さんから言われました。
ともかくもっと元気をつけなくてはいけないと、また韓国の紅参精丸という丸薬をもらいました。
きちんと飲むようにと念を押されました。
私の心身の健康は、みなさんのさまざまな支えで維持されているのです。

声が出るのかという電話もありましたが、多分もう大丈夫でしょう。
もっとも話し続けていると昨日のようにまたおかしくなるのですが。

人間の心身は機械ではないので、加齢とともにさまざまな機能不全が起こります。
それにしたがって、素直に生きたいと思っていますが、どうもみなさんはいろいろと心配してくれます。
でもまあ好意を無にしてはいきません。
そうした支えで、もう少し年甲斐もなく元気に過ごさなければいけません。
しかし、PPKだけは避けたいと思います。
せめていつ旅立つかは、自分で決めたいと思っています。

■2555:縁に従う生き方(2014年8月29日)
節子
オープンサロンに、久しぶりに武田さんがやってきました。
武田さんとはもう35年ほどのお付き合いですが、不思議な関係です。
お互いに議論好きのために、時々、もう湯島には来ないぞと関係が「悪化」することもありますが、時間が経つとまたやってきます。
私自身は、自分の好き嫌いで人と付き合ってはおらず、ただ自然に生きているだけなので、来る人とは会い、来ない人とは会わないだけの話です。
それに、一度出来た縁は大事にしていますので、仮に不快なことがあっても、それが付き合いを止めることにはなりません。
しかし、なぜか時々、突然連絡が来なくなり、湯島に来なくなる人もいます。
心当たりがない場合も多く、気にはなりますが、まあそれもまた自然の成り行きに任せます。
しかし、一度出来た縁は、大事にしようがしまいが、なくなるはずもありません。
10年ぶりに、連絡があって、湯島に来る人もいます。
人の縁とは不思議なものです。
それが実感できると、「縁に従う生き方」を素直に受け入れられます。

人の縁は、人生を豊かにも貧しくもしてくれます。
人生には、豊かさも貧しさも必要ですが、豊かさを求めて、「縁を活かす」生き方は私には向いていません。
偉そうにいえば、カントの「人を手段」にしてはいけないという定言に共感しているからです。
私自身はたくさんの縁に恵まれすぎるほど恵まれていますので、それだけで十分なのです。
それに、縁がもたらす貧しさや不幸も、人生を豊かにしてくれることは間違いありません。
むかし友人から、付き合う人をもう少し選べよと忠告されたことがあります。
一昨日、そう忠告してくれた友人と共通の友人に8年ぶりに会ったのですが、その友人の名前が出ました。
それで思い出したのですが、彼とも8年以上会っていないことに気づきました。
でも彼は私の大事な友人です。
多分いつか会えるでしょう。

節子と会わなくなってからまだ7年しか経っていません。
そう考えると、7年などよくあることだなという気もします。
まあそのうち、また会えるでしょう。
縁が出来ているのですから。
一度生まれた縁は、消えることはないでしょう。

■2556:いじけた生き方(2014年8月30日)
節子
節子がいた頃にはまだ広がっていなかったフェイスブックというSNSがあります。
私は、しばらく入院しなければいけなくなったのを契機に、これに登録したのですが、おかげで病院にいてもネットで世界とつながっているような気分でした。
この仕組みでは、その気になれば、友だち関係にある人たちを通して、世界の動きにかなりランダムに触れることができます。
それも、しっかりと情報が入ってくるというよりも、何となく見聞できるという感じです。
メールやラインと違って、几帳面に対応する必要はなく、気が向いたらページを開いて、誰かの記事を読んだり、自分で書き込んで呼びかけたりすることができます。
10日間、放っておいてもだれからもとがめられることはありません。たぶん。

一番のメリットは、自分の生活を相対化できることです。
ともすると、人は狭い世界に埋没し、考え方や知識が偏りがちですが、そうしたことを防いでくれます。
だから、私も時々ですが、ほかの人のページをランダムに見るようにしています。
読むというよりも、まさに見る感覚なのですが。

ところで、そうやって他の人の生活を垣間見ていると、私の生活はかなり特殊なのではないかという思いが強まってきます。
まあ、それを意図して、25年前に生き方を変えたのですから、当然のことなのですが。
しかし、みんな陽気に楽しく人生を楽しんでいるのに、私はそういう生き方から大きく外れていることを改めて思い知らされると、時に寂しくもなります。
自分が、社会からはみ出していることや性格的な偏狭性やコンプレックス、あるいは生き方の間違いなどが、なんとなく体感的にわかるのです。
少なくとも、いまの私は、少し、いや、かなり、いじけていることは間違いありません。
だからといって、生き方を変えようとは思いませんが、自分の相対的な位置づけがわかると、他者への配慮は少しだけできるようになります。たぶん。

それにしても、みんな「幸せ」そうで、うらやましい。
最近はフェイスブックで、他者の生き方を見ながら、落ち込むことも少なくありません。
世界が見えることは、必ずしも良いことではないのかもしれません。

早いもので、8月も終わります。
8月は、私にとっては、特別の月になっています。

■2557:「ほどほどに」(2014年8月31日)
節子
今年もまた、滋賀の節子の友人たちから胡蝶蘭が届きました。
そんな季節です。

私は、電話がどうも苦手なのですが、手紙はもっと苦手なので、いつものように、電話でお礼を言うことにしました。
2人とも元気そうでしたが、まあそれぞれいろいろとあるようです。
相手からも元気ですかと訊かれたので、歳に見合って「ほどほどに」元気ですと応えました。
70前後にもなれば、若い頃と同じ意味で「元気」であるのは、むしろ「病気」かもしれません。
私は最近、この「ほどほどに」という言葉が気にいっています。

元気ですか?
ほどほどに。
忙しいですか?
ほどほどに。
美味しいですか?
ほどほどに。
面白ですか?
ほどほどに。

実にいい言葉です。
もっと早くから、この「ほどほど人生」を守っていたら節子にも苦労をかけなかったかもしれません。
節子への愛も「ほどほど」だったら、私もこんなに苦労はしなかったかもしれません。
いや、むしろ「ほどほど」の愛だったので、こんなに苦労しているのかもしれませんが

まあ、いまもきっと私は「ほどほどの人生」を過ごしているのでしょう。
なにしろ私自身が「ほどほどの人」なのですから。

「ほどほど」
実にいい言葉です。
内容がないのが、実にいい。
はい。

■2558:哀しさや寂しさを緩和させるための忘却(2014年9月1日)
節子
節子の命日を前に、家族でささやかな会食をしました。
節子がいた頃を思い出して、久しぶりに中華料理の知味斎の円卓です。
両親が健在だった頃は、よく行きましたが、次第に行かなくなり、節子が病気になってからはたぶん一度も行ったことはありません。
それでも、中華料理にまつわる思い出はいろいろとあります。

病気になる前に、節子が更年期障害で元気がなくなった時期があります。
その時に、娘たちと3人で、気分転換に香港に行っています。
私は同行していませんが、それが食べ物と買い物のツアーだったからでしょう。
3人が香港にいったことはもちろん覚えています。
湯島で節子に会った私の友人が、わざわざ節子に香港に行ったらここに行ったらいいと地図まで書いて説明してくれていたのを覚えています。
そこまでは覚えているのですが、香港に行った理由を今日初めて知りました。
いや、忘れていたのを思い出しただけかもしれません。
ともかく、節子の気分転換だったのだそうで、当時、節子は心身共に不調だったのです。
そのため、その時に撮った写真を節子は見なかったそうです。
そういえば、香港で作ってきたという、娘たちと節子の写真入りの陶器も、どこかに埋もれていました。
節子は、そこに写っている自分が気にいらなかったのでしょう。
香港旅行の話も、あまり聞いた記憶がありません。

香港での話を今日は少し娘たちに聞かせてもらいました。
前に聞いたような気もしますが、あまり覚えていないのです。
今日に限りませんが、娘たちと話していて、実は私の節子の記憶はかなり失われていることを感ずることがあります。
まあ加齢に伴う忘却かもしれませんが、どうもそれだけではありません。
節子の記憶を軽くしておこうという力が働いているような気が、時にするのです。
大事な人の記憶は忘れないようにしようという心の働きがあるのではないかと思っていましたが、どうも実際は逆のようです。
忘れることによって、哀しさや寂しさを緩和させようとするのが、もしかしたら生命の本質かもしれません。

娘たちが話す節子の思い出話が、私には全く覚えのないことが時々あるのです。
今日もまたそのことを実感させられました。

久しぶりの知味斎の料理は、かなり変化していました。
節子だったら、何と言うでしょうか。
節子は、食べ物にはいつも一家言ありました。
自分では大した料理もできないくせに。
でも、私は節子の下手の料理が大好きでしたが。

■2559:健全な老化(2014年9月2日)
節子
喉の調子がまだ治らないので、とうとう病院に行きました。
カメラまで入れて検査してもらいましたが、やはり「健全な老化」と考えていいようです。
ただし、あまり喉を酷使しないようにと言われました。
特に、いまは喉に炎症があるので、それを完治するようにと薬をくれました。
実は前のお医者さんからも薬をもらっていたのですが、途中で止めてしまっていたのです。
今日のお医者さんは、実にソフトの人で、軽い薬なので飲むようにとていねいに説明してくれました。
ていねいに説明されると、なんだか飲まないと悪いような気がして、飲むことにしましたが、お昼は早速に飲むのを忘れました。
実に困ったものです。
まあ、こうした忘れがちなのも、「健全な老化」の証拠なのですから、仕方ありません。

ところで驚いたことに薬代が270円だと言うのです。
2週間分です。
これはやはりおかしいでしょう。
日本の医療行政が赤字になるのは当然です。
私は負担率も少ないのでしょうが、270円はないでしょう。
思わず薬局の人に安すぎますね、と言ってしまいました。
それに病院も明るく快適な雰囲気で、スタッフもたくさんいました。
暑い夏には、ここに来て、治療に励む人がいてもおかしくありません。
少なくとも冷房のないわが家よりも快適です。

節子を見送ってからしばらくは、病院に入ることさえできませんでしたが、今日は快適さを感ずるほどになりました。
ただし、まだがんセンターには行けません。
明日は、節子の8回目の命日、2560日目です。

■2560:日常生活のなかでの命日(2014年9月3日)
節子
節子がいなくなってから2560日目、8回目の命日です。
といっても、今年は特に法事は用意していないので、私が般若心経をあげ、できるだけ位牌のそばで怠惰に過ごすというだけの話です。

しかし、もうまる7年も経つのかと思うと、不思議な気分です。
あっという間の7年という感じです。
まあ人生そのものが、「あっという間」の出来事なのかもしれません。

8年目にもなると命日意識も薄れ、気がついてみたら、花もあまり用意できていませんでした。
困ったものです。
命日にはこれまでカサブランカは欠かしたことがなかったような気がしますが、今年はカサブランカどころかユリさえありません。
庭の花でもかざろうと思ったのですが、これはという花がありません。

その上、お供え用の果物もみんな食べてしまい、梨くらいしかありません。
畑から野菜を収獲してきて、それでも供えようかと思いましたが、あいにくミニトマトくらいしかなっていないようです。
と言うわけで、今日の節子へのお供えはいかにも日常的です。
何もない命日。
でもこれもまたわが家らしくていいでしょう。
何事もポジティブシンキング、というのが節子の好きな生き方でした。

もう少し誠意を持って、命日を迎えてよ、と節子は笑っているかもしれません。
まあ節子にとっては「想定内」のことでしょうが。

■2561:新しい年のはじまり(2014年9月4日)
節子
また新しい1年の始まりです。
久しぶりに昨夜は節子が夢に出てきましたが、目が覚めて、奇妙な不安感に襲われました。
具体的な不安ではなく、理由もわからない不安感です。
あんまりよくない新年のはじまりです。

人は、たぶん「だれか」のために生きています。
それが、自分だったり、神だったりすることもあるでしょうが、仮に自分だとしても、それは「もう一人の自分」でしょう。
ともかく「だれか」がいることによって、生きる意味がでてきます。

その「だれか」がいなくなると、それこそ「生き方」がわからなくなります。
混乱してしまうわけです。
改めて、その誰かを「創造」すればいいのですが、それができる人とできない人がいるのでしょう。
私は「できない人」のようです。
宗教に帰依することもできないわけです。
だから、節子がいなくなって以来、「生きる実感」が持てず、したがって「生き方」がわからないのです。

それでも時間は過ぎていきます。
もう8年目に入るわけですが、生きる実感もなく、生きる意味もよくわからないのに、生きつづけています。
こうして生きていることは、不思議な気もしますが、以前と何も変わっていないような気もします。
ただ一緒に喜び悲しむ人がいないだけの話です。
そこで、時々、自分は生きているのだろうかと奇妙な疑問が生じます。
喜びや悲しみは、個人のことのようですが、実は関係性のなかで生まれてくるものです。
だから、それを共にする人がいない喜びや悲しみは、とても不確かではかないのです。

今朝の奇妙な不安感は、そのせいかもしれません。
また道が見えない1年が始まります。

■2562:悲しさを吐露する距離(2014年9月6日)
節子
昨日から新潟に来ています。
新潟で新しいネットワークを立ち上げる活動の一環ですが、1日早く来て、新潟水俣病資料館の塚田さんに会いに行きました。
塚田さんとは4年ほど前に資料館を訪ねた時に、とても感銘を受け、もう一度お会いしたいと思っていたのです。
今回もとても共感できるお話をたくさんお聞きできました。
様々なところで、こうした地道な活動が行われているのです。

帰り際に、塚田さんがポツリと娘さんのことを話し出しました。
昨年、がんでなくされたのだそうです。
一時は職場復帰もされたそうですが、とても見事な生き方だったようです。
突然の話だったので、私も少し気が動転して、頭にきちんと残っていないのですが、最後に塚田さんが「すごい娘だったと今は思っています」と言った言葉は鮮明に覚えています。
改めて塚田さんのお人柄に触れた気がします。

悲しさは、やはりだれかにいうのがいい。
でもなかなか近くの人には言えないものです。
塚田さんが私に話してくれたことの意味がよくわかります。
話してもいい人は、わかるものなのです。

またいつか塚田さんに会いに来たくなりました。
資料館の前に広がる福島潟は、心を癒してくれました。
その福島潟が見える資料館の2階のデッキで、塚田さんが話してくれたのです。

■2563:また荷物をもらって帰ってきました(2014年9月7日)
節子
今回の新潟行きは少し疲れてしまいました。
今年の夏ばての影響でしょうか、どうも調子が良くありません。

新潟からの帰りは、東尋坊の茂さんとご一緒でした。
まさか私が、価値をほとんど認めていない形式重視の行政の自殺防止活動イベントに荷担することになるとは思ってもいませんでした。
今回はひょんなことから参加する羽目になってしまいました。

思えば、節子と一緒に東尋坊に行った時に、茂さんと偶然に会ったのが、このテーマに関わる始まりだったかもしれません。
節子がいなくなってから、気力が失せていた時に、茂さんから届いたメールが、なぜか茂さんとの縁を深めることになりました。
茂さんは、その生き方において、私の目指す生き方です。
茂さんが大事にしているには、「知ったものの責任」です。
知ったくせに何もしないのは犯罪だとさえ言うのです。
見習わなければいけません。
口だけの人があまりに多いですから。

昨日は新潟でシンポジウムでした。
テーマは「自殺に追い込まれることのない社会のためになにができるか」でした。
前日、懇親会がありました。
さまざまな意見が飛び交いましたが、いずれも私にはピンときませんでした。
口数の多い人ほど何も語っていないものです。
私も、その一人かもしれません。
自分のことはなかなか見えないものです。
節子がいた時には、注意してもらえたのですが、いまはお山の大将になっているのかもしれません。
しかし、他者のことはよく見えます。
思わず、私は一人称自動詞で語る人しか信頼しませんとよけいな発言をしてしまいました。
酒の席だったので騒がしさにかき消されたのが幸いでしたが。
しかし、どうも大人数の酒の席は好きではありません。
必ず1人や2人、仕切り家がいるからです。

ちなみに新潟でもまた宿題をもらってきてしまいました。
行動すれば必ず荷物を背負い込んでくる。
節子がいた頃と変わっていないのです。
しかも今では、その荷物をシェアしてくれる節子もいません。
だから疲れがなかなか抜けないのかもしれません。
まだ疲れが抜けず、ボーっとしています。

■2564:秋になりました(2014年9月9日)
節子
節子が好きだった秋になりました。
節子の病状が一時回復し、近場の旅行が出来るようになった頃、節子はいろいろなところに私を誘い出しました。
印象に残っているのは、紅葉した風景です。
節子が残した日記などを開けば、もしかしたら押し花になった紅葉が出てくるかもしれません。

一番印象に残っているのは、高尾山です。
高尾山は、節子が東京で最初に登った山です。
まだ結婚する前に、私の両親に引き合わせるために、2人で東京に来ました。
翌日、2人で、スイカを買ってケーブルカーで高尾山に登りました。
いまほど人が多くなかった時期です。
山頂のベンチに座って、スイカを手で割って、2人で食べた記憶があります。
その頃の私は、今よりもさらに非常識な自由人でした。
生真面目な節子は戸惑いながらも、私との行動を楽しんでいたように思います。

闘病中に登った時は、まさに紅葉の季節でした。
山頂で、見ず知らずの3人組の食事に紛れ込んで、鍋料理を分けてもらった記憶もあります。
あの時の3人はどうしたでしょうか。
節子がいると、ああした気ままな行動もできますが、1人になった今は、できそうもありません。
私の自由さは、どうも節子に奪われてしまったのかもしれません。

夫婦として長年暮らしていると、夫婦のライフスタイルが決まってきます。
ところが、その片割れがいなくなると、どうも調子が出ません。
かといって、結婚前の自分には戻れません。
そのためか、行動が萎縮し、中途半端になってしまっています。
困ったものです。

今年は紅葉を楽しむ気になれるでしょうか。
7年前の秋の紅葉のことを思い出すと楽しむ気にはまだなれませんが。

■2565:心機一転、できるような(2014年9月10日)
節子
パソコンを切り替えることにしました。
今使っているパソコンはもう10年ほども使用しています。
同じころ2台のノートパソコンも購入しましたが、その2台はすでにスクラップし、1台は新しく購入しました。
新しいパソコンは慣れていないせいか、どうも使いにくいので、メインに使用する自宅のデスクトップは相変わらずXPを使っていました。
しかしさすがに最近はXPの使用者は少ないようで、送られてきた情報が開けないことが時々あります。
それで新しいPCを購入しましたが、これまでのソフトが使えません。
ですから、プリントアウトもスキャナーの読み込みも、PDFの作成も、ホームページの更新もできなくなってしまいました。
さらに不都合なのは、前のパソコンでは自分用の漢字転換辞書を作成していたので、打ち込みが非常に楽だったのですが、それができなくなってしまいました。

ですから2台のパソコンを並べて、使い分けることにしました。
しかし、そのために散らかりっぱなしのデスクを整理しなければならなくなりました。
私の仕事部屋はとても狭く、その上、机が3つも並んでいますが、これまでそのデスクの上が書類で山積みになっていました。
今日は朝からずっと書類の整理をしていました。
ところが書類の下からなんと購入していたプリンターのトナーが3つも出てきました。
つい最近、予備にと思い新規に購入したところだったのですが、実はすでに買っていたのに、それを忘れてまた買ってしまったわけです。
いやはや困ったものです。

買っていたのを忘れて、また買ってしまうのは、節子もよくやっていました。
まあ私たち夫婦は、いずれもあんまり注意力や記憶力がいいほうではないのです。
考えずに行動してしまう、まあそれが私たちのいいところだったのですが。
そんなわけで、節子がいなくなってから、同じようなものがいろいろと出てきました。
困ったものです。

疲れ切ってしまいましたが、部屋はかなり片付きました。
心機一転、明日からまた新しいプロジェクトに取り組もうかという気にさえなってきました。
環境を変えることは大事ですね。
明日はさらに書庫の整理をしようと思います。
ここもまた書籍や書類があふれていますので。
しかし注意しないと、整理しているうちに人生が終わりそうです。
過去を整理すると、当然、未来も整理することになりますので。

■2566:墓荒らし(2014年9月10日)
節子
どうやら節子の近辺にも事件が起きたようですね。
驚きました。
節子は、私の両親と同じお墓に入っています。
予想もしていなかったのですが、旅立ちの直前に節子が希望したのです。
その心境の変化がなぜ起こったのか、理由は訊きませんでした。
なぜかといえば、私は節子に絶対に治るからと言い続けていたからです。
いまにして思えばおかしいのですが、その時には私自身、そう確信していたのです。
理性や客観性を欠いていたといえば、それまでですが、節子がいない世界は、当時の私には想像さえできなかったのです。
現実を見ていたのは、節子だけだったのかもしれません。
だからお墓の話などはしませんでした。

両親の墓は私の兄が守っていますが、同居していたのは私たちでした。
だから直前に兄の了解を得て、両親のお墓に埋葬させてもらいました。
そのため、私もまた意志に反して、そのお墓に入ることになりました。

そんなわけで、節子は両親と同じお墓にいるのです。
ところがそのお墓のあるお寺から、一部のお墓が荒らされた可能性があるので、各檀家で確認されたいという連絡が兄のところにあったそうです。
それで兄はお寺に行って、ご住職と確認してきたそうです。
なんとわが家のお墓も、蓋も開けられた形跡があり、ひとつの骨壺の蓋が逆さまになっていたそうです。
お墓が荒らされるとは、いやな時代になってきたものです。

今年は春にも、蟻がお墓に巣を作って大変でしたが、災難続きです。
私も近いうちに行ってこようと思います。

■2567:心を開くと軽くなる(2014年9月11日)
節子
衝撃的な911からもう13年がたちました。
個人の思いなど無関係に、時間はあっという間に過ぎます。
時々、思うのですが、私がいなくなったところで、世界は変わりなく続いていくのだろうと思うと、日々の喜怒哀楽など些末なことなのかもしれません。
妻の死は、夫にとっては大事かもしれませんが、世界中で毎日、たくさんの人が同じ体験をしていると思うと不思議な気もします。
しかし、そうしたことは自分で体験してみないと、まったく気付くことはありません。
自分で体験すると、ちょっとした報道でも、その先が見えてきます。

先日、NHKで福島県楢葉町の72時間を放映していました。
たまたま私の知人が登場するというので観たのですが、悲しい内容でした。
楢葉町は原発のすぐ近くで、まだそこでの生活は禁止されています。
昼間は、原発に働きに来る人たちがたくさんいますが、彼らは取材者に向かってほぼ無口で、機械のロボットのように働き場(原発)に向かいます。
その風景は、実に異様です。
しかし、私の心に残ったのは、そうした人たちではありません。

留守になった住民の家に空き巣がはいるため、避難している住民が時々自動車で見回りをしていますが、その人が番組の取材で思わず話し出したことがあります。
その人の奥さんは、原発事故の後、避難生活の疲れで亡くなってしまったのだそうです。
60歳。とても明るく元気な人だったそうです。
彼はしみじみと、原発事故さえなかったら、楽しい老後生活になったのにと語ります。
事故の数日前に、夫婦で年金の手続きに行ったのだそうです。
話しながら、その人は涙をこらえきれませんでしたが、私も同じでした。
そして、その人は言いました。
こんな話はしたことがなかったけれど、ついつい話してしまった、と。
取材者との心の距離感が、ちょうどよかったのでしょう。
でも想いを話せて、心が少し軽くなったのではないかと思います。
悲しみは、誰かが開いてやらなければいけません。

原発は、私には悪魔のような存在に見えます。
にもかかわらず、日本の政府は原発依存から抜け出ようとしていません。
まさに悪魔に魂を売った人たちの政府のような気がします。
その人たちに、この人の悲しみはわからないでしょう。
原発がないと困るなどと言っている人もまた、同罪です。
そういう人には、妻を失ったこの人の思いなど分かるはずもありません。

911で大切な人を失った人たちの悲しみを、私は知る由もありません。
しかし、その悲しさを利用している人たちへの怒りは忘れることができません。

■2568:庭を少し元気にしよう(2014年9月12日)
節子
今年の夏は自宅にいることが多かったのですが、そのせいか、気になることがいくつかありました。
その一つは、セミが少なかったことです。
毎年わが家の庭には朝、セミの抜け殻が見つかるのですが、今年はほとんど見つかりませんでした。
セミの鳴き声も少ないです。
あげは蝶は時々やってきますが、小さな蝶々もまた、最近は見かけなくなりました。
自然が貧しくなっていると一概には決めつけられませんが、何か自然から動きが弱まっているような気がします。

もっとも自然は手入れ次第でもあります。
節子がいたころと違い、庭の手入れはどうしても十分にはできません。
狭い庭とはいえ、庭の草花に声をかけなければどうしても草花の元気は出ません。
草花が元気がなければ生き物も集まっては来ないのでしょう。

節子が手入れしていたころは、たぶん庭と節子はかなり一体感があったでしょう。
でも今は残念ながら、毎日草花に声をかけるようにはなっていません。
リビングから見えるところには気が行きますが、家の裏とかふだん見えないところはどうしても気が行きません。
久しぶりに裏に行ったら、黄色な曼珠沙華が4本も咲いていました。
昨年は赤だったような気がしますが、今年は全部黄色でした。
とても立派な曼珠沙華でした。
1本だけ切って、節子に供えましたが、曼珠沙華が咲くところはちょうど死角になっていたのです。

人の住まない家は傷みが早いと言います。
目を向けない庭も同じで、荒れてしまうのでしょう。
朝起きたら、家を一周することを明日からの日課にしようかと思います。
そうすれば、草花から元気をもらえ、草花に元気を与えることができるかもしれません。

■2569:よいことば(2014年9月12日)
節子
仕事場の資料を整理していたら、節子が残した便箋などの箱がでてきました。
そのなかに、毛筆用の和紙の便箋が出てきたのですが、表紙に、節子が筆書きで「よいことば」と書いていました。
最後のページは、「一日の旅 おもしろや 萩の原」でした。
これが、和室にかけてある節子の作品になっているのですね。
ですから、この「よいことば」を書いたのは、節子が病気になって、東さんのところに書を習いに行っていた時でしょう。

そこに書かれている「よいことば」は、いかにも節子らしいものばかりでした。
そのなかに、こんなものがありました。

不幸を知らない人は 幸福も知らない
悲しみを知らない人は 喜びも知らない

これを書いた時の節子の思いは、どんなものだったのでしょうか。
悲しみを乗り越えて、喜びに出会っていたでしょうか。
そんな思いも持ちましたが、もしかしたらこれは私へのメッセージなのかもしれないと思い出しました。
改めて読み直してみると、どうも私あてのものではないかと思えるものばかりです。

たとえば、

心をこめて きけ
心をこめて はなせ

これは、節子が私によく言っていた言葉です。
私は、言葉を軽く扱いすぎるというのが、節子の不満でした。
たしかに、その気があります。

特に私あてだと思われる言葉がありました。

善いことでも
まわりをよくみて
やりなさい
本当のことでも
相手のことを
考えて言いなさい

はい
そうします。
実はいまもそれができずに、娘にも叱られています。

■2570:人は関係性の中で育っていく(2014年9月14日)
節子
昨日、湯島で、小児外科医の松永さんを中心にしたサロンを開きました。
時評編などにも書いていますが、松永さんは昨年、「運命の子 トリソミー」という本で小学館ノンフィクション大賞を受賞した方です。
その本は、私のホームページでも紹介させてもらいましたが、短命という定めを持った男の子を授かった家族の物語です。
松永さんは、その家族との出会いの中で、命とは何かを考えていきます、
そのご自身の体験に沿って、すばらしいお話をしてくれました。
いつもはゲストが話し終わると、すぐに発言が出るのですが、今回は話の重さからかしばらく沈黙があったほどです。

私は、松永さんの紹介で、「こんなお医者さんがいるのだと驚きました」と、ついつい話してしまいました。
私が考える「本当の医者さ」です。
時評編に、少し医療改革のことを書きましたが、書いているうちに、節子の2人の主治医のことを思い出しました。

人は関係性の中で育っていきます。
18トリソミー(染色体異常)の朝陽ちゃんの家族は、たぶん朝陽ちゃんとすでに一体になっているでしょう。
祖母は、最初は怖かったそうですが、今は大の仲良しのようです。
重度の障害児を授かった両親は驚きと怒りを感ずるようですが、時間とともに、それを受容し、自分の一部にしていきます。
つまり関係性の中で、人の生は営まれているのです。

節子との関係性が、私という人間をつくりだしたように、人は一人では生きていらずに、誰かと生を分かち合うことで、「自分」を形成していきます。
たとえどんな人であろうと、関係が育っていくと、自分の一部になってしまいます。
最近問題になるDVやストーカー問題には、そうした悩ましさがあります。
また喪失体験による自己破綻も、そうしたことの結果です。

松永さんのお話を聞いていて、節子との関係性を思い出していました。
もはや私には、自分を作り直す気力はありません。
最後まで、節子と一緒に、その関係性を引きずりながら、生きていこうと思ます。

■2571:死ぬとき心はどうなるのか(2014年9月15日)
節子
昨夜、NHKスペシャルでテレビで「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」をやっていました。
立花隆さんが、世界各地の専門家を訪ねての思索ドキュメントです。
立花さんも74歳。
別れた奥様のがんに続いて、ご自身もがんを患って、死を意識されていると思いますし、何よりも歩く姿や語りの表情に、これまでとは違う立花さんを感じました。
やはり、人は自らの周りにさまざまなことが起こると、世界を変えていくのかもしれません。

番組の最後に、立花さんはレイモンド・ムーディ博士を訪ねます。
ムーディ博士は臨死体験をし、死後の世界を信じるようになった人ですが、立花さんをこのテーマに誘った人でもあるそうです。
それで、立花さんは会いに行きたくなったと言います。
死んだら心は消えてしまうと考える立花さんとはムーディ博士の考え方は違いますが、この番組で改めて思索した立花さんの考えは変わったのでしょうか。
久しぶりに会った立花さんに、ムーディ博士は「お元気ですか」と挨拶をしますが、立花さんは「そうでもありません」と応えます。
実に象徴的な一瞬でした。

番組では、最後に立花さんがこう語っています。

今回、死ぬことがそれほど怖いことじゃないということがわかった。
人生の目的というのは心の平安。
人間の心の平安を乱す最大のものというのは自分の死について頭を巡らせること。
いい夢を見たいという気持ちで人間は死んでくことができる。

立花さんは「心の平安」を「アタラクシア」という言葉で表現していました。
私には違和感がありました。
これでは古代アテネのエピキュロスと同じではないか、と思ったのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/02/post-2edd.html
人生の目的はアタラクシアではなく、エラン・ヴィタール(生の躍動)ではないかと、私は思っているからです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-a6fe.html
そして、以前の立花さんは、私には輝いて見えていたのです。

ムーディ博士は「客観的に考えてみれば死後の世界があるとはっきりいえる自分に矛盾を感じます。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちは自分が紡いできた物語つまり人生とは何だったのかその意味を知りたいと思いながら最後のときを迎える。そして臨死体験が待っている。私もあなたも好奇心を抱きながら人生を全うしていくのでしょう」と立花さんに話します。
そして、また向こうで会えると言うのです。
立花さんの答えは、残念ながら画面には出てきませんでした。

立花さんが最後に語った「いい夢を見たいという気持ちで人間は死んでくことができる」というのは、これまでも多くの臨死体験者が語った、大きな幸せの光に包まれることです。
節子もきっと、その光に包まれながら旅立ったのでしょう。
その時に、節子は「生の躍動」を感じたでしょうか。
私の関心事はそこにあります。

私もいつかそれを体験するわけですが、そう思えば、自分の死は何の恐れもありません。
ただ私には、残された者たちのことが気になるだけですが、それもまた勝手な思い込みなのかもしれません。
それを「執着」「煩悩」というのかもしれません。

■2572:「女房とパソコンは古いほど良い」(2014年9月16日)
節子
パソコンを新しいのに変えたら、実に調子が悪いです。
そもそも前のパソコンに入っていたソフト関係を移そうとしたのですが、なかなかうまくいきません。
わざわざワイアレスのマウスにしたのですが、これがまたスムーズではないのです。
やはり使い慣れたパソコンがいいですね。
そのうえ、画面が大きくなるとばかり思ったのに、横幅は広くなりましたが、縦が短くなったので、むしろ小さくなった感じです。
横広になった分だけ、むしろ無駄なスペースが増えた感じです。
機能は確かに増えましたし、きめ細かくなったのかもしれませんが、むしろもっとシンプルにしてほしいものです。
ユーザー仕様ではなく、開発者仕様のような気がします。

とまあ、こんな感じで新しいパソコンに苦戦しているうちに、そういえば、「女房と畳は新しいほうがいい」という言葉があったなと思いだしました。
たしかに畳は新しいほうがいい。

そういえば、「女房と鍋釜は古いほどいい」という言葉もありました。
今回の苦労から言えることは、「鍋釜」ならぬ「パソコン」もまた、古いほうがいい。
いや「古い」というからおかしくなるのですが、「付き合いが長い」と言えば、実に合理的な意見です。
付き合いが長ければ、なじんできて、自分と一体化できますから。

少し前に、関係性のことを書きましたが、関係は人だけではありません。
私たちは、周りにあるすべてのものや自然とつながりながら生きています。
そのすべてに「愛着」を持てるかどうかが大切なことのように思えます。
私の場合は、愛着を持ちすぎて、捨てられなくなります。
書籍や書類はなかなか捨てられません。
節子が使っていた物もなかなか処分できません。

今日、ようやく節子が使っていた鏡台ドレッサーを処分しました。
処分するまでに7年もかかってしまったわけです。
娘は、空間のほうが大事なので、2年使わないものは処分したほうがいいと言います。
そう思うのですが、なかなかそうはできません。

しかし、そのなじんだ女房もいなくなりました。
こうして次第に世界が小さくなり、自分もいなくなるのでしょう。
しかし、節子のドレッサーのように、私がいなくなった後に残ってしまうものがある。
それをいかに少なくするか。
その思いで、これから少しずつ身軽にしていかねばなりません。

まずはパソコンを新しいものに切り替えて、1台にしなければいけません。
さてまたチャレンジしてみましょうか。

■2573:体調を治す方法が見つかりました(2014年9月17日)
節子
わが家の農園に最近行けていません。
唐辛子はどうなっているでしょうか。
花畑はもう全滅でしょうか。
天候の関係もありますが、体調がもう一つなので、なんとなく行く元気が出てこないのです。
しかし、もしかしたら因果関係の捉え方が間違っているのかもしれません。
農園に行かないから、体調が良くならないのかもしれません。
なぜなら、体調が悪いと言っても、どことなくという感じですから。

因果関係を逆転させるというのは私の好きな発想です。
それは、論理演算ゲームとしても面白いですし、長く状況が変わらない時には、そういう発想の転換が効果的なこともあります。

友人から、こんな手紙が届きました。
無断転載ですが、匿名なので許してくれると思います。たぶん。

この1週間は不安感が強くあり、それまで半信半疑だったのが、「本当にうつ状態だろうか?」と思えてきました。

焦りと不安感、頭も回らず本も読めない、というのです。
さて、これらの要素の順番関係はどうでしょうか。
「頭も回らず本も読めない」ので「うつ状態かもしれない」という「不安と焦り」に襲われるのでしょうか。
「うつ状態かもしれない」という「不安と焦り」があるために「頭も回らず本も読めない」のでしょうか。
あるいは、「焦りと不安」が起こり、「頭も回らず本も読めない」ので「うつ状態かもしれない」と思うのでしょうか。

ここでの3つの要素のうち、主体的に変えられるのは、「頭も回らず本も読めない」だけです。
だとしたら、解決するためには、頭を回して本を読めばいいだけの話です。
と、こういう風に考えるのが、私の事態解決策なのです。
このように考えていけば、ほとんどの問題は簡単に解決します。
いまの私の場合で言えば、体調がなんとなく悪いので畑に行けない、ということを逆手にとって、畑に行けば体調は良くなるというわけです。

また、わけのわからないことを書いているような気がしてきましたが、実は節子が元気だったころは、こういう話をよくしていたものです。
節子は、いつも私に騙されたと言って、怒っていましたが、最後のころは、「はいはい」と言って聞き流していました。
しかし、こういうことが事態を変えることもあるのです。
まあ、もちろん事態を悪化させることもありますが、それは仕方がないことです。

さて、明日はオフィスに行く予定でしたが、それをやめて畑に行ってみようと思います。
さてどうなるか。
体調が悪化するか良くなるか、私は良くなるに賭けますが、節子はたぶん悪くなるに賭けるでしょう。
節子とは、こんなやり取りが何回もあったのを思い出します。

もしかしたら、節子との大切な時間を、無駄に浪費していたのかもしれません。
いやはや困ったものです。

■2574:農作業の効用は不明です(2014年9月18日)
節子
オフィスに行こうか、病院に行こうか、畑に行こうか、迷ったのですが、昨日の決心通り、畑に行ってきました。
半端でなく、草が生い茂っていました。
なんでこうも元気なのでしょうか。
おそらく自然のままに、素直に生きているからでしょう。
見習わなければいけません。
しかし、草っていうのは、悩むことはあるのでしょうか。

鍬まで持って行ったのですが、耕すどころではなく地面が見えないほどの茂りようです。
根扱ぎ鎌で草刈りに挑むことにしました。
問題はどこからやるかです。
まずは栽培していたミニトマトや唐辛子の周りを整理することにしました。
ミニトマトは、今年は連作したせいかあまり出来は良くありません。
唐辛子は、生い茂った草の中で頑張っていました。
不注意にも1本は草と一緒に抜いてしまいましたが、唐辛子も赤くなっていました。

しかし、いくら草を刈ってもあんまり変化がありません。
それほど茂っているわけです。
それで道沿いの花壇のところの草刈りをすることにしました。
なんと草の中で、マリーゴールドがまだ咲いていました。
しかし、ここが花壇だったとはだれにも分からないほどの悲惨な状況です。
案の定、途中でお手上げになりました。

それでも1時間半ほど頑張ったのですが、焼け石に水といった感じです。
どっと疲れが出てきて、立ちくらみがしてきました。
昔からそうですが、思い立ったらすぐに頑張ってしい、自制力が働かないのです。
畑の草の上で寝てしまいました。

実は先日、素晴らしい本に出会いました。
宇根豊さんの「農本主義が未来を耕す」です。
私は、農本主義者だと確信が持てたのですが、その本によれば、たとえ草刈りであろうと楽しいはずだと書いてありました。
注意すると虫の声や草の声が聞こえるはずだというのです。
寝ながら、というよりも、倒れたまま、耳を澄ませましたが、聞こえてきません。
聞こえてくるのは、自分の激しい息切れの音です。
しかし、とてもきれいなシジミチョウのつがいが飛んできました。
彼らにしばらく見とれていましたが、目の前で少し休んだ後、何も語らずに飛び去ってしまいました。
宇根さんが言うほど、楽しくはありませんでした。

そのうちに、幸いに気分も収まり、立ちくらみもなくなりました。
冷静になって、周囲を見ると、やはり気になることがあります。
バッタ類に出会いません。
生き物に会うのが楽しいと、宇根さんは書いていましたが、今回、会ったのはやぶ蚊だけでした。
デング熱にはかからないでしょうが、ともかく蚊にはよく刺されて、身体中がかゆくなりました。
蚊にとっては、いい日だったかもしれません。
私も少しは蚊には役立ちました。
しかし、あんまり楽しくない農作業でした。

ところで、元気のほうはどうでしょうか。
疲れすぎて、体調が悪いかどうかよくわかりません。
農作業の効用は、かくして確証は得られませんでした。
宇根さんが言うように、続けなければいけません。
理屈だけの農本主義者には、草も虫も土も何も語ってくれないのです。
節子なら、私よりも耳がいいので、何か聞こえたかもしれませんが。

■2575:お墓は彼岸に通じているのか(2014年9月20日)
節子
お彼岸が近いので、ちょっと早かったのですが、娘たちを誘ってお墓に行きました。
先日、墓荒らしにあって、修復の必要もあったからですが、まあたいしたことはありませんでした。
それでも墓石をずらして、お墓の中を見てみました。
なんと元気そうなトカゲが一匹、遊んでいました。
お墓の蓋がずらされたので、その隙間から入ったのでしょうか。
蓋をしなおす前になんとか、トカゲを外に出そうとしましたが、10分ほど頑張りましたが、ダメでした。
トカゲは土を掘って、土中に潜れますので、まあ何とか外部に出られるでしょう。
そう願いながら、蓋を閉めてしまいました。
そして、私も間もなくここに入るのかと思いました。
閉所が好きではない私の趣味ではないのですが、仕方ありません。
でもここから彼岸への道も開かれているのでしょう。

今朝、テレビで隠岐の海士町の近くに散骨できる無人島があると報道していました。
私は散骨派でした。
開かれた大地に戻りたいというのが、私の単純な考えだったのです。
しかし日本では散骨は難しいようです。
海への散骨は比較的やりやすいようですので、海への散骨を最初は希望していましたが、最近は海への散骨は溺れそうな感じで拒否感が出てきました。
ということで、やはり私も結局は、お墓に入ることでよかったような気がしてきています。
こういうのは、決めておいても、いざその時になると、考えが変わるのかもしれません。
節子が、まさにそうでした。

節子の母親は、もうじきお迎えが来るからと、死をあっけらかんと語る人でした。
それに比べて、私の母は、死に関しては全く言葉にしない人でした。
節子とよく、対照的だねと話し合っていたものです。
私たちはどうだったでしょうか。
やはりそれぞれが親の傾向を継いでしまっていたようです。
私は、節子の死を、一度も口にしたことはなく、考えたこともありませんでした。
だから、私には節子の死は、突然起こったことでした。
周りの人たちは、みんな間もなく訪れる節子の死が見えていたのでしょうが。
私と家族だけが、別の世界を生きていたわけです。
いまから考えると、実に不自然なのですが、当時はまさにそうだったのです。
以前書きましたが、私には死は突然やってきたのです。

ところが、両親の場合は違いました。
死を予想できたのです。
節子の場合、私には自分のことでもあったから、死が見えなかったのです。
その延長で考えると、私自身の死も、私には見えないことでしょう。
だから私には死が怖くないのかもしれません。

あのトカゲはどうしたでしょうか。
娘は、このトカゲは節子じゃないのか、と言っていましたが、そうだったのかもしれません。
実に色艶のいい。元気なトカゲでした。
もう彼岸に戻ったでしょうか。

■2576:新米ですき焼き(2014年9月21日)
節子
もしかしたら、ですが、先日畑に農作業に行ったのはよかったのかもしれません。
体調も少し改善されたような気もしますが、なによりも前に進めるようになりました。
ためておいた友人との約束事もやる気になってきましたし、本もまた読みたくなってきました。
この1週間に読んだ本は、「歴史の進歩とはなにか」「ケアの本質」「思想の冒険」など、昔の本の再読が多いのですが、赤線などが引かれていて、最初に読んだ当時のことを思い出して、少しだけ心がホットになりました。
その勢いで、以前の生活リズムを取り戻せればと思います。
ともかくこの数か月は、生活がいささか沈んでいますから。
そのくせ、見栄を張って、というよりも、責任感から、集まりを企画したり、集まりに参加したりしていますので、精神的にも疲れてきているのです。
そうした状況から抜け出せそうです。

ところが、そうなったとたんに、たまっていた約束事をどっと思い出してしまいました。
約束の期限を遠に過ぎたものもありますが、それはやるべきかどうか迷います。
いまさらやっても、相手には迷惑かもしれません。
しかしまあ、動き出せたのだから動き出すのがいいでしょう。

自分が動けない時には、周りの人たちの動きがとてもうらやましく感じます。
輝いて見えるのです。
そうした連絡があると、うれしい半面、自分の状況を思って、少し落ち込んだりもしてしまうのです。
人間というのは、実にめんどくさくて、ややこしいものなのです。

昨日、節子の姉夫婦から新米が届きました。
今年は天候の関係であまり出来がよくないと言っていましたが、さっそく味わうことにしました。
料理は面倒なので、すき焼きにすることにしました。
私がつくるのですが、うまくいくでしょうか。
娘に手伝ってもらって、材料を買ってきました。
ちなみに、すき焼きは、節子の両親の家に最初に訪ねた時にごちそうしてくれた料理です。
節子にも少しお供えしようと思います。

その前に、お昼過ぎにまた畑に行ってきます。
倒れないといいのですが。
野草を多いので、何かすき焼きに入れられそうなものがあればと思いますが、まあ私の知識では探せそうもありません。
農本主義者として、もっと勉強しなければいけません。

■2577:憂社会病(2014年9月22日)
節子
昨日も畑に行ってきたせいか、体調もよくなってきたような気がします。
昨夜は久しぶりによく眠れました。

今朝、私よりも10歳も年上の方から、こんなメールをもらいました。

現在が戦前で、どことなく不穏な国情と、佐藤様のご体調は関連するのかもしれませんね。
満州事変勃発以来昭和20年まで、国情と平行して胃腸を弱らせた人もありました。
神経の鋭い憂国(?)、憂社会(!)の士の宿命ではないでしょうか。
国の責任と個人の責任は別物、と称してけろりと割り切る人もおられますが。

この方は、「やさしさのシャワー」を周りにふりまいて、みんなを元気にし、社会を元気にしている方です。
私にも、そのシャワーを注いでくださったわけです。
過分な評価を真に受けるほど自失してはいませんが、ついついほめ言葉から元気をもらうタイプなので、元気がさらに高まりそうです。

昨夜から、戦前の農本主義者、橘孝三郎を取り上げた「テロとユートピア 5・15事件と橘孝三郎」(新潮選書)を読み出しました。
まだ途中ですが、農行(最近、「農業」ではなく「農行」という表現が気に入っています)はどうも両刃の剣なのかもしれません。
農本主義者が、なぜに5・15事件に連座したのかは、考えさせられる話です。
農行をしていると、時代の実相が見えてくるのでしょうか。

確かに、この方が言われるように、国情への不快感は、私にはかなり影響があります。
そうであれば、行動に移せばいいのですが、それもできない自分への不快感もあります。
ストレスからか口内炎ができてしまいましたし、最近は朝のコーヒーがおいしくないのです。
食欲もあまりありません。
テレビニュースを見ると気分が悪くなりテレビを蹴飛ばしたくなり、キャスターやコメンテーターの発言を聞くとその人まで蹴飛ばしたくなり、どうも心も荒れています。
ちなみに、かなり人嫌いにもなっています。
いや、人不信と言ったほうがいいかもしれません。
自分がどんどん孤立し、自閉に向かっているような気さえしています。
そういう状況では、一番逃げやすいのは、「体調不良」なのです。
私の最近の心身の不調は、仮病かもしれません。
「体調不良」だと、活動をさぼる名目も得られますし。
困ったものです。

ところで、ちょっと気になるのですが、この方は今の日本を「戦前」と捉えています。
戦前を体験された方の体感が、そう言わせたのかもしれません。
たしかにおぞましい未来が、ついそこに来ているような気もします。
日本人がこれほど好戦的だったとは、実に悲しくさびしいです。

こう書いてきたら、また元気が萎えてきました。
さて、今日は午前中に畑に行ってきましょう。
昨日は、大きなガマガエルと小さなバッタに出会いました。
今日はだれに会えるでしょうか。

■2578:農作業しながら読書する豊かな暮らしのはずなのですが(2014年9月22日)
節子
今日も畑で頑張ってきました。
幸いに娘たちが少し手伝ってくれたので、今日はかなり作業が進みました。
一人での農作業よりも、どこかで誰かが農作業をやっているのが感じられるだけでも、楽しさが高まると、宇根さんが本で書いていましたが、まったくその通りです。
娘がちょっと手伝いに来てくれるだけで、作業への飽きが来ないのです。
それで今日もまた、いささか頑張りすぎてしまいました。

しかし、今日もまた死にそうになるほど疲れました。
節子も知っている、近くの農家の人が、機械でやったほうがいいですよ、と声をかけてくれましたが、農本主義者はできるだけ機械を使わないのがいいのです。
機械を使うと、草や生き物や土の手ごたえを感じにくくなるからです。
そのことは、やっていると実によくわかるようになります。
まあ3日頑張っただけですので、大きなことは言えません。
あなたはちょっとやっただけで偉そうなことを言う、といつも節子に言われていたのを思い出します。
まあ、そこが私の良いところ(節子は悪いところだと言っていましたが)なのですが。

今日は、かなり作業が進み、土が見えだしてきましたので、小さな虫も見えだしました。
以前よりもたしかに生き物は少ない気がしますが、注意してみると、やはり土壌は生きています。
土は生き物だと教えてくれたのは、内水護さんです。
次第にうっそうとした藪に近づいているので、注意しないと蛇を切ってしまいかねません。
ますます機械など使えません。
しかし、逆に蛇に咬まれてしまうかもしれませんので、手袋はきちんとするようにしています。
私は、手袋などがあまり好きではなく、いつも無防備で作業をして、節子に注意されていました。
節子がいなくなった今は、注意しないといけません。
いずれにしろ、農作業とは生き物との交流なのです。
交流があれば、お互いにリスクが発生するのです。

節子は、毎日、庭の花木と交流していました。
しかし、そうするためには、それなりに心に余裕がなければいけません。
私もそうしようと頭では思うのですが、実際には続きません。
私の場合は、まだ「意識」しなければできないのです。
節子は日常化していました。
たぶん花木と付き合うのが好きだったのでしょう。
私はまだそこまでいきません。
生き方に、まだ余裕がないのかもしれません。
農本主義者などと書いていますが、まあ畑作業よりもまだ読書のほうが好きなのです。
節子が元気だったころは、少しだけ一緒にやっても、私はすぐに退屈して戻ってきてしまう。
そんな感じだったのですが、今は私が一人でやらなければいけません。
改めて、農作業の大変さは身にしみます。
体調が悪いなどと言ってはいられないのです。

明日もまた農作業です。
農作業しながら読書する。
実に豊かな暮らしのはずですが、なぜか豊かさを実感できずにいます。
どこかにまだ無理があるのです。
あんまり無理をしないほうがいいわよ、と節子が笑っているような気がしないでもありません。

■2579:カサブランカの香り(2014年9月23日)
お彼岸なので、娘が節子にカサブランカを供えてくれています。
カサブランカがいくつも開花していて、部屋中に香りが充満しています。
私もこの香りがとても好きです。
節子の葬儀にも、斎場に頼んでできるだけカサブランカを増やしてもらったのを思い出します。

いつもはお墓にも、いわゆる仏花ではなく、節子の好きそうな花を選んでいくのですが、お彼岸の時には両親もいるので、菊の花などの和花の多い、ふつうの仏花になっています。
しかし、自宅の仏壇には、カサブランカがいいので、毎年、娘たちが供えてくれるのです。

このカサブランカの香りは、悲しさも伴っています。
節子がいなくなってから、わが家にはこの香りが充満していました。
そこに包まれての期間が長かったので、いまもそれを思いださせられるのです。
節子がいなくなってからの1年は、私はあまり生きている実感のないまま、この香りに閉じ込められていたような気さえしてきます。
だから、この香りは心身を安らかにするだけではないのです。
思い出しても思い出せない1年の気分を感じるのです。
にもかかわらず、カサブランカの香りは好きです。

香りは、忘れてしまった人の記憶を思い出させます。
今やわが家からは、節子の香りはほとんどなくなってしまいました。
8年目ともなれば、それは仕方ありません。
それに節子は、特別の香水を使うような人ではありませんでした。
ただただ質素に、素直に、生きていただけです。
これといった特別の香りがあるわけではない。
節子を思わせる香りが、カサブランカになってしまったのは、少し残念ではあります。

ちなみに、私がカサブランカが好きなのは、香りだけではありません。
ユリの白い花も、大好きなのです。
そこに、節子を感ずるからでもあります。

■2580:農作業中には雑念は起きません(2014年9月24日)
節子
連日の農作業でいささか疲れましたが、病院に行くよりはたぶん効果はあったでしょう。
しかし身体じゅうがかゆくて仕方がありません。
蚊にさされただけではなく、草にかぶれたのでしょう。
突然やってきて草を刈りだした侵入者に対して、草も防衛策を発動したわけです。
その攻撃は、甘んじて受けなければいけません。

農作業をやっている時には、少なくとも雑念は消えてしまいます。
ともかく無心で草を刈るわけです。
それも篠笹の多いところですので、土中に根切り鎌を入れて根こそぎかりとるのです。
中腰だと疲れるので、地面に足をついて、作業しています。
もちろん衣服は泥だらけ。
草の丈が長い場合は、顔に草が反抗してきます。
雑念ではないのですが、時折、この草は残しておけばよかったと思う時もありますが、そう思う時にはもう切ってしまっています。
生き物にはそれなりに注意していますが、作業をしている時には、あまり気にする余裕はありません。
まだ要領が悪いので、そんな感じです。
もっとも、雑念がないためか、作業が止まらなくなります。
疲れさえ感じなくなるのです。

体力の限界に達したところで、はっと気づいて作業を中止し、地面に腰を下ろして、持参した飲み物を飲みます。
本来、これも手作りのお茶が理想的ですが、ついつい手軽な栄養ドリンクなどを持って行ってしまいます。
これではいかにも農本主義者にふさわしくないのですが、エネルギー補給も兼ねているのです。
もっともエネルギー補給になるかどうかはわかりませんが。

実は、この時が問題です。
空の青さに見とれたり、草の中の生き物に出会ったリすることもありますが、「雑念」がわっと浮かぶことがあります。
なんでこんなことを一人でやっているのだろう、と思うのです。
節子と結婚しなかったら、こんなことは今、していないだろうな、と思うのです。
家庭農園などもなかったでしょう。
その引き込み役の節子は、なぜいないのか。

しかし、そうした雑念も最近は次第になくなってきました。
ただ無為に風に心身を任せることが増えてきました。
農作業の効用が少しですが、わかってきたと言ってもいいでしょう。

休んだ後がまた大変です。
刈った草を燃やすことができれば、土壌も豊かにできるのですが、たき火は禁止なので、袋に詰めてごみとして回収してもらいます。
1日の作業で大きな袋が少なくとも5〜6個はできます。
それを少し離れた自宅に届けるだけでも一仕事です。
これだけの労働をしても、作物の出来が悪くて、収穫はゼロなのです。
いや、収穫は本当はとても大きいのかもしれません。
雑念のない時間を過ごせる、それこそが報酬なのかもしれません。

今日は脳作業をやめて、湯島に来ています。
ここにも作業はそれなりにあるのです。

■2581:俗物根性はなくなりません(2014年9月25日)
節子
NHKの朝ドラ「花子とアン」になんと茂木健一郎さんが出版社の社長役で登場しました。
いささかセリフは棒読みでしたが、存在感がありました。
まさかあの茂木青年が、これほど多面的な活躍をするとは思ってもいませんでした。

私たちが茂木さんと会ったのは、彼がまだ高校生の頃です。
あるチームで、ハワイのキラウエア火山に行った時の、最年少のメンバーが茂木さんでした。
今の茂木さんは恰幅もよくアクティブですが、高校生の茂木さんはすらっとして控え目でした。
数日間の旅行中、何を話したかの記憶もありません。

旅行から数年して、参加者に声をかけて湯島で集まりをやりました。
そのツアーに参加したメンバーは、みんな個性的な人たちでした。
大阪在住の人も2人参加してくれました。
その時の茂木さんは、もうあの時の茂木さんではなく、よく話す茂木さんでした。
あまりに話しすぎるので、大阪から参加した一人が、ほかの人の話も聞きたいと、たしなめたほどでした。
茂木さんの才気は、その時にはもう十分に輝いていました。

少したって、茂木さんはイギリスの大学に移りました。
渡英後もメールでのお付き合いはありましたが、いつの間にかつながりが切れてしまいました。
そしてそれからしばらくして、そこらじゅうで茂木さんの名前を見るようになりました。
私たちにとっては実にうれしい話で、節子も茂木さんの名前を見つけるといつも私に教えてくれました。

テレビや新聞で、時々、昔付き合いのあった人に出会います。
最近は毎日のようにテレビに登場する人もいます。
私も、社会のなかで仕事をしていた時代があったのです。
そうした生活を続けていたらどうだったでしょうか。
もし伴侶が節子でなかったら、続けていたかもしれませんが、節子のおかげで生き方を変えることができました。
自分をしっかりと生きることができているのは、節子のおかげです。

人生の幸せとはなんなのか。
それは、自分をしっかりと生きていけることでしょう。
しかし、人生は自分だけのものではありません。
みんなつながっているのです。
そのつながりがどこまで見えるか。
それによって、幸せの実感は変わってきます。

社会のど真ん中で活躍している以前の知り合いの姿を見ると、少しうれしくなります。
昔の、もう一つの私の人生を思い出させてくれるからです。
また会って話したいなとも思いますが、相手が有名になってしまえば、会いに行くのははばかられます。
それに、たぶんもう私とは違う世界にいることでしょう。
しかし、どこかにちょっとだけうらやましがっている自分もいます。
つまり、まだ未練がましさと俗物根性が残っているのです。
節子が一緒だったら、そんな未練や俗物根性は沈められるのですが。
困ったものです。

しっかりと世を捨ててから、彼岸には旅立ちたいと思いますが、うまくいかないかもしれません、

■2582:仕方ない。神様がそう決めたんだ。(2014年9月25日)
節子
また思いもよらない人からメールが届きました。
以前、この挽歌を読んで、突然にメールをくださった田口和博さんです。
田口さんは、「小さな村の物語 イタリア」のプロデューサーです。
今回は挽歌とは関係なかったのですが、田口さんからメールをいただいたので、「小さな村の物語 イタリア」の最近、心に響いた言葉を書かせてもらうことにしました。

先月放映された、コッタネッロが舞台になった179話です。
その回の主役は、夫を亡くしたヴァンダさんと妻を亡くしたベニートさんの話です。
それぞれの生き方にたくさんの気づきと勇気をもらえますが、1か月たっても忘れられない言葉が一つあるのです。
それを思い出して、今日また録画していたものを見直しました。

ベニートさんは、奥さんを亡くしてもう8年近くになります。
今も週末だけの理髪店を開き、村人と楽しく過ごしていますが、夜になると亡くなった奥さんを思い出すと言います。

 夜になると妻を思い出す。
 目の下にそばかすがあるとか、そんなことを思い出す。
 まるでそこにいるように思い出す。
 すると僕は眠れるんです。眠気がやってくる。
 彼女は本当にいい妻だった。
 涙もでないほど…

とこう言って、ベニートさんは涙ぐみます。
そのシーンに、私は心がふるえましたが、心に残ったのはしばらく間をおいて発せられた次の言葉です。

 残念だけど彼女はもういない。
 仕方ない。神様がそう決めたんだ。

残念だけど、神様がそう決めたんだ。
神様がそう決めたのであれば、それには意味があるのだろう。
いつかその意味が、わかる時が来るかもしれない。
仮に、わからなくても、それはそれでいいのではないか。
最近、私もそう思えるようになってきたのです。

それにしても、この番組は、引き出し上手です。
普通の人から、実に深遠なメッセージを引き出します。
有名人の言葉にはあまり共感しない私も、この番組に登場する普通の生活者の言葉からは、多くのことを気づかされます。
やはり長く人生を生きることで得るものはたくさんあるのでしょう。
翻って、私自身を顧みると、あまりにも浅薄な言葉しか出てこないのが恥ずかしい限りです。

この番組は最後に毎回、しめくくりのナレーションが語られます。
今回のメッセージはこんな内容でした。

心の奥にある引き出しから、思い出がひょっこり顔をのぞかせる。
  無理に引き出しを閉じなくてもいい。
  たまには眺めていればそれでいいのだ。

たまには眺めていればいい。
そうなのですが、しかしそれはとても難しいことなのです。
ベニートさんの涙ぐんだ表情が、やはり忘れられません。
今日は眠れるでしょうか。
  
■2583:「佐藤さんとも会えなくなるかもしれないから」(2014年9月27日)
節子
節子もよく知っているTFさんが、昨日、湯島に来ました。
佐藤さんとも会えなくなるかもしれないから、と言って。

新たながんが見つかったのだそうです。
死について、話し合いました。
いずれにしろ生きている人にとって、死は存在しないという認識では、同じですし、TFさんはこの数年、死に直面していますので、死に対する考え方もとても淡泊です。
どっちが先に死ぬかなあ、と、真実味を持って語れる仲なのです。
2人とも、いろんな意味で、死は比較的身近なことなのです。

TFさんとは30年ほどの付き合いです。
私とはかなり生き方も違いますし、考え方も違います。
TFさんの、私への印象は、「いやな奴」だったそうですが、私のTFさんへの印象は「変なやつ」でした。
ちなみに、私が最も交換を持つのは「変な人」です。
会うたびに、彼は佐藤さんはバカだからと言いますが、「バカだ」という言葉は私にとってはほめ言葉なので、喧嘩にはなりません。
「いやな奴」「変のやつ」「バカな奴」は、一見、否定的に感じますが、いずれにも「生きた人間」が含意されているので、人の関係を育てるには肯定的だと言ってもいいでしょう。

TFさんとは一緒に仕事をしたこともなければ、遊んだこともありません。
しかし、なぜかお互いに親近感はあります。
たぶんお互い「バカ」だからでしょう。

共通の友人たちも、鬼籍に入った人が多いです。
しかし、人間、70歳を超えると、此岸にいるか彼岸にいるかなどあまり関係がなくなります。
此岸にいても、そんな会う機会もありませんから、そのうち、どちらにいるかさえわからなくなることもあります。
でまあ、「ところで○○さんはまだ健在だったっけ」などという会話が結構あるのです。
しかし此岸にいようが彼岸にいようが、違いはないのです。
そうやって、いつか気づいたら、自分も彼岸に来てしまっていたということになるのでしょう。

まあお互い、そんな感じなので、深刻感はありませんでしたが、わかれた後、やはりちょっと日常的すぎたかなと思いました。
それに、彼が「佐藤さんとも会えなくなるかもしれない」と言った時は、けっこう真顔でした。
一度、きちんと彼と食事でもしようかと思います。
お互い議論好きなので、議論から喧嘩になる可能性が、ないわけではないのです。

■2584:さあ生活をリズムに乗せよう(2014年9月28日)
節子
今日は朝から頑張りました。
狭い仕事部屋の整理がかなり進み、パソコンや周辺機器の位置も変更し、2台のパソコンを無理なく使えるようにしました。
ついでに埋もれていたミニコンポも使えるようにしました。
ここしばらく音楽など聴いたこともなかったのですが、久しぶりにCDが聴けるようになりました。
夕方には、畑に行って、草刈りをしてきました。
かなり畑も整理できました。
あとは耕耘機を手に入れれば、作業もかなり加速されるでしょう。
どこかから中古の安いものを探してこないといけません。

作業部屋が整理されたら、パソコンに向かうのもとても楽になりました。
今夜はずっとパソコンに向かっていますが、実に好調です。
こんなにすっきりとしたのは久しぶりですから。
しかし、ホームページの更新やメールのやり取りで、ブログを書くところまではいけませんでした。
この挽歌だけ書いて、今日は終わりにしようと思います。

仕事部屋が片付き、畑も整理されてきたので、生活リズムもまた早寝早起きに戻そうと思います。

というわけで、今日の挽歌はこれでおしまいです。
節子
私もだいぶ元気になってきました。
あと2〜3年は大丈夫でしょう。

実は、こういう気になったのは木曾の御嶽山の噴火のおかげです。
因果関係はほとんどないのですが、いろいろと思うところがあったのです。
節子ならたぶんわかってもらえるでしょうが。

■2585:釣瓶落とし(2014年9月29日)
節子
この頃、時間の進み方が早くなってきました。
何もしないうちにどんどん季節が変わっていきます。
楽しい時は時間が早く進み、嫌な時は時間がなかなか進まないのが普通ですが、最近はなぜか早く進みます。
もちろん楽しいわけではないのですが。

秋の日は釣瓶落とし、と言われます。
秋になると、急速に日が暮れるように、人生も終盤に近づくとそうなるのでしょうか。
それにしても、実に早いのです。
あっという間に、夏になり、あっという間に秋。
この秋もまた、あったという間に冬になっているのでしょう。
気が付いたら、彼岸にいたということになっては、周りの人たちに迷惑をかけてしまいます。
注意しなければいけません。

昨日、仕事部屋をかなりすっきりさせましたが、仕事部屋だけではなく、もっと生活をすっきりさせなければいけません。
やらなければいけないことがたくさんあります。
人生を身軽にするためにやらなければいけないことがたくさんあると言うのは、矛盾ですが、これまでの生き方がどこかで間違っていたのでしょう。

今日こそ早寝早起きです。
早くスタイルを作らなければ、早く進んでしまう時間に追いつけなくなりそうです。

■2586:流された生き方から抜け出そう(2014年9月30日)
節子
最近、「よりよく生きる」ということからかなり身を離して生きているような気がします。
うまく表現できないのですが、与えられた生をただ受け入れているといったような気分なのです。
考えようによっては、「流された生き方」です。
積極的に何かやることを探すまでもなく、厄介な話も含めて、いろいろと課題がやってきます。
だからといって、それに生活を制約されるわけでもありません。
気が乗らなければ伸ばしてもだれも苦情を言ってきません。
果たすべき時期がひと月も伸びてしまっていると罪の意識を感じますが、だからと言って、無理をすることはありません。
すべては、気が向いた時、という生き方です。
「よりよく生きる」という思いがない、実に意味のない生き方になっています。
時々、お天道様に申し訳ないと思いますが、お天道様に怒られるようなことだけはしていません。たぶん。

こういう生き方をしていると、たくさんのことに気づきます。
ともかくみんな忙しいのです。
忙しいだけではありません。
何か大事なことを忘れて、生きているように思えてなりません。
こんなことをいうと失礼ですが、みんな、私とは違う世界に生きているように思えます。
生きる上で、大切にしていることが、どうも私とは違うのです。
その違いが、あまりに大きくて、私自身も説明できないのですが、時にさびしくなることもあります。
フェイスブックで、このブログの時評編を時々、紹介させてもらっていますが、それに対するコメントを読むと、私の言いたいこととは無縁の受け止めが多いのです。
たぶん世界が違うのです。
もちろん、すべての人がという意味ではありません。
事実、今月も私と同じ世界を生きていると感じた人に複数出会えています。

「よりよく生きる」とは何かが問題ですが、時には「生きる」とは何なのだろうかということを立ち止まって考えることも大切かもしれません。
私の場合、立ち止まりがいささか長すぎたかもしれません。
そのせいか、「よりよく生きる」ことさえも、興味をなくしてしまいました。
「よりよく生きる」ことを捨てることこそが、「よりよく生きる」ことかもしれません。
「流された生き方」ではなく、「よりよく生きる」ことを捨てるほどに「よく生きよう」と、最近、思い出しています。
いまはまだ、流されがちですが、もっと無心に、もっと素直に、ありのままの自分を、生きたいものです。
節子に対して、そうであったように。

■2587:自分から行動を起こす(2014年10月1日)
節子
今年ももう10月です。
実に時間が早く進みます。
先日も書きましたが、注意しないとあっという間に人生は終わってします。
死を意識した節子は、病状が一段落した時に、とても意識的に生きました。
あの頃の節子は、ある意味、とても生き生きしていました。
節子にとって、当時の時間の進み方はどうだったのでしょうか。

意識的に生きるということが、どういうことなのか、まだわかっていないのですが、まあ、それを考えながら生きようということです。
わかったようでわからない話ですが、今はいささか流されて過ぎていますので。

とくに最近は引きこもりがちです。
誘われると出かけますが、自分でどこかに行こうという気が起きません。
福岡にも長崎にも、滋賀にも山形にも、行きたいと思うのですが、行く理由が与えられません。
行きたい理由はあるのですが、それはそこに、久しく会っていない友人がいるだけの話です。
それだけでは、最近の重い腰はあがらないのです。

最近は湯島に行くのも面倒になってきました。
行くといろんな人に会うことになります。
会えば何かの宿題を背負いこみます。
相手から背負わされるという意味ではありません。
私が勝手に刺激を受けて、行動したくなるのです。
しかし、すぐに行動できない自分に気づきます。
だから人には会いたくないのですが、会いたいと言ってくる人がいれば、会わないわけにはいきません。
ずっとそういう生き方をしてきたからです。

今日も湯島に行きますが、今日はちょっと違います。
私から会おうと誘ったのです。
もっとも相手は、先週も会った武田さんです。
自分から行動を起こす。
しばらくやめていたことを始めることで、何かが変わるだろうと思っています。

■2588:2人の貧乏人の話し合い(2014年10月1日)
節子
武田さんと友好裡に3時間も話しました。
昔はよくこうやって話し合ったものでした。

武田さんは明後日から夫婦でフルムーン九州旅行です。
佐藤さんはうらやましがるからとあまり話さないのですが、友人夫婦が仲良く旅行することはうれしいことです。
武田さんとの付き合いはもう30年ほどだと思いますが、ビジネスの付き合いはありません。
私の場合、そういう友人がほとんどですが、お互いの生き方を知り合った仲です。
かなり生き方は違うので、活動の接点はあまりできませんが。

武田さんは、墓石に「究極的民主主義の提唱者」と彫り刻むように子どもたちに頼んでいるそうです。
武田さんのライフワークは、究極的民主主義なのです。
本も何冊か出版していますが、代議制民主主義は民主主義に非ずというのが、武田さんの主張です。
ビジネスのための会社はお持ちですが、その会社もある意味では、民主主義というテーマに取り組むための存在と言ってもいいでしょう。
そういう生き方は、実に健全です。
ただし、武田さんは私と違って浪費家でもあります。
困ったものですが、それは彼の個性なのですから仕方がありません。
佐藤さんは貧乏だからといつも言われていますが、浪費家ほど貧しい人はいませんので、私から見れば、武田さんが貧乏なのです。
まあ、それほどに意見は違うのですが、意見が違うことはいいことです。

湯島のオフィスを開いた時、武田さんはよくやってきていました。
当時、よく来た人で今も続いているのは武田さんくらいでしょうか。
時代も来客も、どんどん変わっていきますが、変わらないのは私と武田さんくらいでしょうか。
武田さんと話していると、節子がいたころのことを思い出します。
節子がいなくなった後、武田さんは私のことをとても心配してくれました。
そうしたことへのお返しが全くできていません。
最後に、武田さんのためにひとつくらい何か役に立つことをしようと思っているのですが、今日、話し合って、少し私にもできることが見えてきました。
11月に、武田さんの政治サロンを開き、できればユーチューブでアップできないかと思っています。
サポートしてくれる人はいないでしょうか。
参加してくれる人も歓迎です。
ご連絡ください。

■2589:わらび餅(2014年10月2日)
節子
昨日、湯島に来た友人が、2種類のわらび餅を持ってきてくれました。
金沢と浅草のものです。
彼は今、わらび餅にはまっているのだそうです。
節子の好物だったので、いずれもまずは仏壇に供えさせてもらいました。

昨夜は遅かったので、今日、そのおさがりをいただきました。
いずれもおいしかったのですが、私には金沢のほうが好みでした。
ただ、正直に言えば、私はさほどわらび餅が好きではなかったのです。
ところが、今回、2つのわらび餅をいただき、好きになりました。
嗜好が変わったのかもしれません。

実は、嗜好が変わったのはこれだけではありません。
自分ではそうは思っていませんが、節子や娘たちに言わせると、私は好き嫌いがかなりあるそうです。
もしかしたら、節子がいたころは、節子の好きなものは、あまり食べなかったのかもしれません。
特に好きだというものは、とても限られていて、それ以外の食べ物に対する執着はほとんどないのです。
ですから、よりおいしく食べられる人がいたら、その人が食べるのがいいというのが、私の考え方でした。
ところが、節子がいなくなったら、食べる人が減ったので、私も食べるようになった、そうして食べてみたら、おいしかったということなのかもしれません。

しかし、それだけではないかもしれません。
確かに、嗜好自体が少し節子に似てきたような気もします。
私の味覚を通して、彼岸の節子が現世の味を楽しんでいるのかもしれません。

■2590:節子の陰謀(2014年10月3日)
節子
また箱根に来ています。
と言っても、恒例のホテルでの合宿です。
今回はほぼフルコミットですが、どうしても話しすぎで、また喉の調子がよくなくなりました。
要するに、老化により発声機能が弱まったのかもしれません。
先週ももう一度病院に行こうかと迷ったのですが、工藤医師にどう説明していいか整理できず、躊躇している次第です。
まあ老化と考えるのが理にかなっていますし、何よりも面倒臭くなくていいでしょう。
医療費の無駄遣いもさけられますし。

ところで、今日の箱根は良い天気でした。
まだ紅葉には早いですが、節子が好きだった箱根だなと思いながら上がって来ました。
最近はあまり抵抗はなくなりましたが、箱根はやはり苦手です。
2年ほど前、魔がさして、ホテルからの帰り、逆方向のバスに乗って後悔したことがありますが、箱根には節子に付き合って毎年2、3回来ていましたので、そこらじゅうに思い出があるのです。
まるで節子を思い出させる仕掛けが至るところに張り巡らされているようです。
これはもしかしたら、節子の陰謀かもしれません。
困ったものです。

さて明日もフルコミットする予定です。
喉は大丈夫でしょうか。

■2591:常識に無知だったのかもしれない(2014年10月4日)
節子
今朝の箱根はあまり天気がよくありません。
今日は、午後まで合宿に付き合います。
一応、話し合いのアドバイザー役ですが、いない方が良いこともあるのですが、
今回はなんとなく最後まで付き合った方がいいと思っています。
いた方がいいかどうかは、それなりにわかるものです。

自分の行動は自分の判断と責任で決めるのが、会社を辞めた時に決めたルールです。
昨今のビジネス環境やビジネス界の常識には合わないかもしれません。
しかし、フリーで仕事をするのであれば、組織や制度や世間常識の呪縛からは自由でなければ意味がありません。

ところで、世間常識の呪縛から自らを解き放すことと世間の常識に無知であることとは違います。
もしかしたら、私の生き方は前者ではなく後者だったのかもしれません。
最近、娘からそう指摘されているのですが、反論できずにいます。
もしそうであれば、常識人の節子には戸惑いの多いことだったでしょう。
もっとも、節子もまた常識に無知だったことは十分あり得ます。
困ったものです。

ホテルの窓から箱根の緑を見ていると、いろいろと思いが広がります。

さて時間になりました。
話し合いの場に行くことにします。
今日は少しおとなしくしていようと思いますが、さてどうなりますか。

■2592:重荷をシェアするということ(2014年10月6日)
節子
台風が関東を直撃しそうで、近くでもいろんな動きがあります。
我孫子市でも避難所が設置されました。
わが家は手賀沼のまわりの崖の真ん中なので、上から崩れてくるか、下に崩れるか、いずれの可能性もありますので、ほどほどの緊張感はあります。
風の道にあたっているので、強い南風が来るといささか心配でもあります。
強風の恐ろしさはこれまでも体験しています。

今日は幸いに約束がないので、自宅でのんびりしようと思います。
昨日は少しばたばたしていて、挽歌も書けていませんし、ホームページの更新もできていません。
最近は、いささか重荷を背負いすぎて、へとへとですので、今日はそれらを脇に置いて、思い出さないようにしましょう。
思い出すと、どうしても心身が動いてしまいます。

節子がいなくなってから、一番大変なのは、精神的に重荷をすべて一人で背負い込むことになったことです。
相談者の重荷もありますが、私自身の重荷もあります。
娘たちや友人知人にシェアしてもらえる重荷もありますが、精神的にシェアしてもらうことはなかなか難しいのです。
夫婦がシェアしあうのと、家族がシェアしあうのと、仲間でシェアしあうのとは、何かがどうも違っているようです。
実際のところ、背負い込んだ重荷を節子がシェアしてくれても重荷が軽くなるとは限りません。
ただ重荷を背負う元気が出てきただけです。
重荷を背負っていること知ってもらっているだけでも元気が出ます。
ということは、重荷をシェアするのは2種類あるということかもしれません。
重荷を分かち合うシェアと重荷を背負うエネルギーを支えてくれるシェアです。

節子がいなくなってから、何がなくなっていたのか、少しわかった気がします。
重荷を背負うエネルギーを補給してもらえなくなっているのです。

書き出しとは全く違うことを書いてしまいました。
実は、挽歌を書いていると、いろんな気づきがあります。
気づいたから書いたというものもありますが、ともかくパソコンに何かを書き出すと気づきをもらえることもあるのです。
この挽歌は、そういう意味では節子にシェアしてもらうための仕組みであり、だからこそ続いているのかもしれません。

雨が激しくなってきました。
南風のせいで、外気の温度が高まっているようで、部屋の窓が曇って、外があまり見えなくなってきました。
これから何が起こるのか、何やら不気味でもあり、楽しみでもあります。

■2593:「私は生きていていいんでしょうか」(2014年10月6日)
節子
悲しい事件が起こりました。とても悲しい事件が。
今年の7月に起こった佐世保市の高校同級生殺害事件の加害者の父親が自殺したのです。
弁護士の話によれば、父親は事件後、「私は生きていていいんでしょうか」と落ち込むことが多かったそうです。
考えようによっては、この事件は、被害者ばかりで加害者のいない事件です。
そういう被害者だけの事件が、最近多すぎます。
社会の実相を象徴しているようです。
それを助長しているのが、マスコミかもしれません。

時評編ではなく、挽歌編で、このことを書き出したのは、この父親が残した言葉が心に深く残ったからです。
「私は生きていていいんでしょうか」。
こういう思いに出会った人は決して少なくないでしょう。
そして、この人も、誠実に生きていたのでしょう。
同じ状況にあれば、私も同じ問いかけをし、同じ行動をしないとは言い切れません。
だから、心に深く残ったのです。

しかし、私はこの問いにこそ、問題があるように思います。
誠実に生きるのであれば、「私は生きていていなくてはいけないのでしょうか」と問うべきではないかと思います。
問いかけが間違ってしまっている。
もちろん、この父親の行為を非難するつもりは全くありません。
ただ、この人が、問いかけをこう変えていたら、結果は変わっていたのではないかと思うのです。
結果が変わったら、何かが好転するかどうかはわかりません。
私が悲しまなくてすんだだけかもしれません。
でも、できればこう問うてほしかった。
誠実に生きていただろうこの人は、この問いであれば、生きていなければいけないと思ったかもしれない。

人は、生きていなくてはいけないのです。
せっかくの「生」をいただいたのですから。
生は思い切り大切にしなければいけません。
たとえ、生きていることをすべての人から非難されようと、生きていていいし、生きていなければいけないのです。
だから生きることは辛くても価値のあることなのです。
「生き切れなかった」節子から教えてもらったことのひとつです。

自殺した父親も、たぶんそれをわかっていたはずです。
誰かが「問」を変えてやればよかったのです。
だから、私にはとても悲しい事件なのです。

■2594:佐々木夫妻との懐かしい写真(2014年10月7日)
節子
懐かしい写真が届きました。
2006年に、佐々木夫妻がわが家に来てくださった時に、庭で4人で撮った写真です。
佐々木さんが撮った写真をスキャナーで読みこんで送ってくださったのです。
佐々木さんたちはとてもお元気そうです。
後ろに「手づくり散歩市」の旗が立っていますので、10月です。
節子の再発が明らかになった直後です。
佐々木さんたちに了解を得ていないので、写真は小さく掲載しておきます。
私も、久しぶりに笑顔の節子に会えた気分です。

佐々木さんたちからは、いろいろと気遣っていただきました。
佐々木典子さんと、その後、いろいろと活動面でご一緒することがあるとは、その時には思ってもいませんでした。
節子がいなくなって、引きこもっていた私を韓国まで呼び寄せて、元気づけてくれたのも佐々木夫妻です。
節子がいなくなってからの初めての海外旅行でした。
お2人には大変お世話になりながら、正直に言えば、上の空の韓国旅行だったのですが。

節子はこのころから病状が悪化していきました。
この写真を見て、もうこんなに痩せていたのかと改めて驚きました。
いまはまた彼岸で、昔のように丸々しているでしょうか。
写真を送ってくれた佐々木さんに感謝します。

■2595:決定的瞬間(2014年10月8日)
節子
以前、カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」について、何回か書いたことがありますが(時評編が中心でしたが)、彼の作品に「日の名残り」という、これもまたとても哀しい小説があります。
主人公は英国人の執事スティーブンスです。
執事という職業は、現代の日本人にはなじみのうすい職業ですが、著者が主人公に執事を選んだ理由は「我々は皆、執事のようなものだ」からだそうです。

執事に限りませんが、私たちは生きている以上、決断を迫られる場合があります。
そうしたなかには、その決断が自らの人生を決めることになる「決定的瞬間」というものがあります。
それがどの段階でやってくるのかはわかりませんが、後で振り返ると、あの時がそうだったと思うことがあります。
「日の名残り」は、そのことをテーマにしています。

スティーブンスは、最高の執事を目指しています。
そのために、尊敬する父親の死に目にも会えませんでした。
執事にとっての大事な仕事と重なったためでした。
父を見守るか、直面している重要な仕事を続けるか。
彼は仕事を選びました。
その時、彼は「今が決定的瞬間」だと思ったかもしれません。
事実、それによって、彼は執事としての高い評価を得ることができました。
執事だった父親は、息子を誇りに思って旅立ったかもしれません。

しかし、スティーブンスにとっての「決定的瞬間」は、ほかにもあったのです。

彼が執事をしていた家の家政婦ミス・ケントンは、彼に想いを寄せていたのですが、彼もまた彼女に好意を感じていました。しかし、偉大な執事が恋愛感情をもつなど、彼には言語道断でした。
ある日、スティーブンスは、彼女の部屋の前で彼女のすすり泣く声に気づきます。
彼女の叔母が亡くなった知らせが届いたのです。
スティーブンスは、部屋に入り彼女を慰めることもできたのですが、「個人的な苦悩にむやみに干渉する」ことを潔しとせずに、通り過ぎます。
その後、しばらくして、ミス・ケントンは家政婦を辞め、好きでもない男性と結婚しました。

彼はこの出来事のことなどすっかり忘れていました。
ところが、それから20年経ったある日、彼は、あのミス・ケントンの部屋を通り過ぎた時こそが、決定的瞬間だったと気づくのです。
それに気づいたスティーブンスは、夫と別居していたミス・ケントンを訪ねます。
ちょっと期待した人には残念なのですが、哀しい結果で、小説は終わります。

私の人生にとっての決定的瞬間はいつだったのだろうか。
時々そう思うことがあります。
実のところ、今のような人生になることは、思ってもいませんでした。
たぶん節子もそうだったでしょう。
人生とは実にわからないものです。

■2596:喜びを分かち合える人の大切さ(2014年10月9日)
節子
湯島のオフィスに一匹だけ残っていた水槽の白メダカが死んでしまいました。
元気だったので安心していたのですが。
これでメダカは全滅してしまいました。
しばらく湯島に来るのをさぼっていたため、水温が上昇したためかもしれません。
黒メダカ、ヒメダカ、白メダカといろいろ湯島で飼ってみたのですが、うまくいきませんでした。
節子が来ていたころは、メダカもずっと長生きだったのです。

水槽は、貝とエビだけになってしまいました。
エビは3匹だけだったのですが、今はたくさんになっています。
エビがメダカに勝ったのかもしれません。

しかし、もしかしたら白メダカは一匹だけだったのでさびしくて生きるのを止めたのかもしれません。
仲間がいるといないとでは、世界が違うでしょうから。

昨日の挽歌で、執事スティーブンスのことを書きました。
彼は主人であるダーリントン卿のために人生をささげてきて、一流の執事と自他ともに認められる存在になりました。
目指していた目的が達成されたのです。
ところが、そこから人生が変わりだします。
次なる目的が見いだせなかったからでしょうか。
そうではないでしょう。
さらなる高みを目指すことはできたはずです。
では、何か。
それは目的を達成した喜びを分かち合える人がいなかったことに気づいたからだろうと思います。
だからミス・ケントンに会いに行ったのでしょう。

話は飛びますが、なぜアレキサンダー大王は身を崩し、若くして病死したか。
あれだけの偉業を達成しながら、やはり達成を分かち合う人がいなかったからだろうというのが、私の昔からの考えです。

今回のノーベル賞受賞者の報道を見ていて、分かち合う人がいることをとてもうれしく思います。
喜びや悲しみを分かち合う人の存在が、どれほど大きな意味を持っているか。
改めてそれを強く思います。

メダカの話がなにやら大きな話に飛躍してしまいました。
水槽で跳ね回るエビを見ていると、思いも跳ね回ってしまいます。

■2597:不老不死(2014年10月11日)
節子
何やら元気になったはずなのですが、昨夜から体調がいささかおかしくなりました。
時評編で「健全な老化」賛美論を書いた途端に、このていたらくです。
どこというわけでもないのですが、胎に力が入らないのです。
老化するといろいろとありますが、どうも無理ができないのと心身がいささかバランスしていないのが困ったものです。
しかし、今日は午前中の約束もあり、午後からは湯島の集まりもあるので、湯島に行きました。

今朝、電車の中で読んできた本に映画「TIME/タイム」のことが言及されていました。
不老不死が実現した未来の社会の話です。
と言っても、実に暗い話です。
私も以前観ましたが、記憶に残っているのはスラム街の陰鬱さだけです。
すっかり忘れていた映画です。
不老不死が実現したということは、裏を返せば、生死が管理できるようになったということです。
管理された人生を生きるということは、どういう感じでしょうか。
その種の話はオーウェルの「1984年」をはじめ、いくつかありますが、不老不死が実現しても、あまり関係ないのでしょうか。
実は、全く違うはずなのですが、たぶん「TIME/タイム」の原作者には想像できなかったのでしょう。

いずれにしろ、死を管理された人生は、たぶん「生きている」という気はしないでしょう。
生きている喜びは、もしかしたら死があるからかもしれません。
こう言えるようになったのも、やはり節子がいなくなってから8年たったからかもしれません。

節子がいたころには、私も不老不死にあこがれました。
しかし、今は違います。
不老不死は人生を退屈にすることはあっても、豊かにはしないだろうなと思います。
だから健全に老いていき、気がついたら鬼籍にはいっているというのは、やはり生きる魅力なのだろうと思います。
しかし、鬼籍に入っていたことに気づいた時の気分ってどんな感じでしょう。
想像しただけでも楽しくなりますね。
節子はどうだったでしょうか。

■2598:「苦悩のない状態とは死んだ状態」(2014年10月12日)
節子
最近読んだ「つくられる病」の本にこんな文章がありました。

生きている限り、私たちは何らかの苦悩に直面する。
苦悩のない状態とは死んだ状態である。

同感です。
ただし「苦悩」の質や大きさにもよるのですが。

この言葉の裏を返せば、節子には苦悩がないということになえるでしょうか。
時々、節子の位牌に手を合わせながら、節子は苦労がなくていいね、と声をかけます。
節子が現世の苦悩から解放されていることは、せめてもの救いです。

山林に入って自然のなかで生きていれば、たぶん苦悩から解放されるかもしれませんが、人の中で過ごしているとどうしても苦労や悩みは発生します。
そこから逃げようとして「ひきこもり」が始まるのかもしれません。
最近ようやくその気持ちがわかってきました。
あまりにも遅い気付きですが、気づけたことを良しとしましょう。
最近、私も引きこもりたくなることがあります。
事実、その思いに引きずられて、在宅することが増えています。

平安に暮らすためには、自宅に引きこもるのが一番です。
自宅で畑作業をし、読書し、時に世界を見る。
そんな生活はおそらく平安で豊かな生活でしょう。
幸いにして、私の場合、そうしようと思えば、できないわけではありません。
なんとか自活できる生き方を身に着けてきていますので。
しかし、そういう生活になぜか移ろうとは思いません。
余計なお世話をしながら、余計な苦悩を引きずり込んでいるわけです。
3日も自宅にいて、静かに暮らしていると、これでいいのかという声がどこかから聞こえてきます。
それで自分から用事を創り出し、湯島に出かけていくわけです。
この生き方は、たぶん最後まで変わらないでしょう。
人にはそれぞれ生き方が決められているのです。
それに抗うことはできません。

■2599:老いることや死んでいくことの意味(2014年10月13日)
昨日、文章を引用させてもらった井上芳保さんの「つくられる病」の中に出てきた文章をもう一つ紹介します。

2003年に施行された「健康増進法」という法律の第2条には「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」とある。
「国民の責務」として健康が規定されていることになる。
何かおかしくはないか。
健康は人間としてよりよく生きるための権利のはずなのだが、そうではなく義務とされているのだ。

こうした流れに、井上さんは異議を申し立て、こう語っています。

老いることや死んでいくことの意味を、あるいはそもそも人間が生きるとはどのようなことなのかを、我々は近代主義から自由になって再考してみるべきであろう。

心から共感します。
昨今の医療のあり方には、大きな違和感があります。
そう思いだしたのは、節子と一緒に病院に通ったことが大きく影響しています。
病院には近寄らないという友人がいますが、私にはそれほどの自信がなく、しかも自分自身のことではなかったこともあって、中途半端な付き合いをしてしまったことを、今は悔いています。
病院にどう接するかは、その人の生きる哲学に深く根ざしています。
いまから思えば、私は中途半端でした。
念のために言えば、病院にかかったことを悔いているのでも、病院を否定しているのでもありません。
私自身の生きる哲学のことを言っているのです。

しかし、節子と死別し、この挽歌を書き続けている中で、私自身、老いることや死んでいくことの意味をそれとなく考えるようになってきました。
そして、それが少しわかってきたような気がします。
一言で言えば、老いることや死んでいくことがあればこそ、いまこの時の意味があるということです。
同時に、老いることも死ぬことも、それ自体に意味がある。
それは人生における重要なプロセスだからです。
そして、周囲の人たちとの関係性を変えてくれることも人生に刺激を与えてくれます。

それにしても、なんで生命は発生したのでしょうか。
考えていくと、そこにまで行ってしまいます。

■2600:恩送りと迷惑送り(2014年10月13日)
節子
幸いにわが家では台風の被害はありませんでした。
台風一過の翌日は気分がいいものです。
今日はちょっと元気な1日でした。

今日は茨城の新米が送られてきました。
くわえて、敦賀から野菜がどっさり届きました。
ありがたいことです。
こうしてなんとか私の暮らしが成り立っています。
だから誰かの役に立つように、「恩送り」をしたくなるわけです。
といっても、私ができることは本当に少ないのです。

幸いに、インドネシアで仕事をしているマレイシアのチョンさんから、今日、相談のメールが来ました。
ちょっと私には分野違いの話ですが、何かできることはないかを考えて、ささやかなアクションを起こしました。
人はこうやって、つながり、支えあいながら、生きているのでしょうか。

実は今日こそ1か月以上、先延ばしにしている約束の仕事をするつもりだったのですが、あまりに気分が良かったので、また先延ばししてしまいました。
約束した人たちに合わせる顔がありません。
恩送りをしている一方で、どうも「迷惑送り」もしているようです。
困ったものです。

■2601:奇跡を起こすのは愛(2014年10月14日)
節子
今日はイエス・キリストの話です。

イエス・キリストが起こした奇跡物語はたくさんあります。
目の見えない人を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、いろいろとあります。
これは後世の人が脚色した話だという人もいますが、イエスの時代の人はだれも否定していないそうです。
魔術かもしれないと批判する人はいましたが、そうしたことが起こったということに関して否定している記録はないそうです。
レザー・アスランの「イエス・キリストは実在したのか?」で改めて知ったことですが。

韓国で認知症予防ゲームに取り組んでいる佐々木典子さんのお話によれば、そのゲームの楽しさにつられて、車いすの人が一人で歩きだしたということがあったそうです。
私は、そうした話は特に「奇跡」とはとらえずに、生命現象の一つだという捉え方をしています。
ですから、私には「超能力」とか「超常現象」という言葉そのものにも違和感があります。
人間の能力はフルに発揮されているわけではないのですから、現代の科学で理解できないことが起こるのは当然のことなのです。
科学で理解できない現象を「超能力」とか「超常現象」と呼ぶこと自体が、私には違和感があるのです。
その背後には、科学万能発想があり、どう考えても傲慢であり、無知そのものでしかありません。
死んだ白雪姫が王子の愛を込めたキスで生き返るということは、私にはきわめて理解できる話です。
いま考えると、なぜ私はそんな簡単なことさえしなかったのかと後悔しています。

イエスの時代には、目の見えない人が見えるようになり、死んだ人が生き返ることが信じられていたのかもしれません。
科学の世界は、生命や愛の世界のほんの一部しか解明していないでしょう。
世界は、科学者が見ているよりもずっと広くて深いのです。
だからこそ、未知を解明する科学が存在できるのですから。

節子の病状が反転し、奇跡が起こったと思った、まさにその日の夜、節子は旅立ちました。
私に、ナザレのイエスほどの熱情と信念があったら、と「イエス・キリストは実在したのか?」を読んで、改めてまたそう思いました。
いや、私になかったのは、誠実さと愛だったのかもしれません。
彼岸で節子に会ったら、叱られるかもしれません。

■2602:へとへとの1日(2014年10月16日)
節子
昨日はいろんな人と会いました。
そのうえ、久しぶりに夜の飲み会にまで最後まで付き合い、帰宅が零時を過ぎてしまいました。
節子がいなくなってから、夜は極力、早く帰宅するようになりました。
別に理由があるわけではないのですが、気持ち的にそうなっているのです。
しかし考えてみるととても不思議で、節子がいればこそ早く帰宅したくなり、いなければ帰宅が遅くてもいいのではないかと考えるのが理にかなっているのですが、反対なのです。
節子がいなくなって直後からずっとそうです。

ところで、昨日お会いしたお一人は、久しぶりの人です。
前にも書いたような気がしますが、福岡で活躍されている権藤説子さんです。
東京に来ていたので、お互いの時間の合間を見て、お会いしました。
権藤さんは、私が会社を辞める少し前に福岡で起業したのですが、私が湯島でオフィスを開いてすぐに湯島に来てくださったのです。
もしかしたら、節子とも会っているかもしれません。
権藤さんが、だれの紹介で湯島に来たのか、全く思い出せませんが、
その時は、まだ会社経営に関して、いろいろと悩んでいた時期だったそうです。
そして、私がその時に話した言葉を今も覚えていてくれました。

しばらくして、私が福岡に行った時に、権藤さんのオフィスを訪問しました。
スタッフの方ともお会いしました。
その時の私との会話も、権藤さんは覚えていてくれて、私に教えてくれました。
最初に会った時の私の言葉も、訪問時の私の言葉も、今の私と全く同じような発言でした。
権藤さんは、その、たぶん失礼な私の言葉を素直に受け止めてくださったようです。

いまは、権藤さんのオフィスも30人ほどの大きなオフィスになっているそうです。
私がお伺いした時にお会いした原さんという方も、まだオフィスにいて、私のことを覚えてくれているそうです。

権藤さんとお会いしたころの私は、新しい生き方を目指していました。
仕事観も経営観も、ほぼ180度変えてしまいました。
当時はそれなりに会社時代の私の活動を知ってくださっている方もいて(今は大企業になっている創業者の方からもスカウトされたこともあるのです)、会社からの仕事も頼まれたりしていましたが、なにしろ仕事観も経営観も変えてしまっていたので、たぶんなかなか会社の人たちにはわかってもらえなかったように思います。
しかし、権藤さんのように、私の言葉を覚えていてくださっている方もいることを知って、とてもうれしです。
何よりもうれしいのは、権藤さんの会社はとてもあったかな会社のようです。
会社も、社会も、あったかくなければ意味がありません。

勤めている会社に違和感を持ち、休職してしまった方も来ました。
いつもお菓子を持ってきてくれる人なので、お昼でもご馳走しようと思ったのですが、逆に私の方がご馳走になってしまいました。
この人も、私の言葉を、それが何か走りませんが、きっと覚えてくれているのです。

その間にやってきたのがミュージシャンです。
3年ほど前にドラッカーの本に出会い、感動し、経営に目覚めてしまったのだそうです。
いまでは、ドラッカーを材料にしたマネジメント講座をやっているそうで、その報告に来てくれたのです。
実に情熱的な人ですが、節子はこの人には会っていません。
ミュージシャンらしい、経営の捉え方に感心しました。

夜は大企業の経営幹部のみなさんとのサロンと懇親会でした。
ここにも突然の参加者があり、ちょっと話し合いにも広がりが出ました。
ただ気が付いてみたら11時になっていたので、帰宅したらもう暦が変わっていて、へとへとになりました。

考えてみると、節子が元気だったころは、毎日がこんな感じでした。
よくまあ、こんなハードな毎日を連日続けられていたものです。
改めて、節子のおかげだったことに気づかされました。

■2603:降圧剤がまた10日ほど切れていました。(2014年10月17日)
節子
最近調子が悪いのは降圧剤を飲んでいないからかもしれないと昨夜思い出しました。
節子も知っている遠藤クリニックの遠藤さんに言われて、数年前から高血圧のため薬を飲んでいるのです。
と言ってもかなりいい加減な飲み方で、よく忘れるのです。
そのうえ、最近、遠藤クリニックが転居し、少し遠くなったので、行くのが面倒なので、今月はじめに薬がなくなっているのですが、もらいに行っていないのです。
薬がないので飲めないのです。

それで今日、たまたま遠藤さんに娘が行くというので、薬をもらってきてもらいました。
遠藤さんは娘に、「お父さんは薬を飲んでいないようだね」と言いながらも、薬を出してくれました。
それでさっそく飲みました。
飲む前後に血圧を測ってみましたが、あんまり変化はありませんでした。

薬剤師の方から、飲んだり飲まなかったりするのが一番よくないと言われたことがあります。
まあしかし、人間は機械ではないので、薬が切れたからおかしくなることもないでしょう。
こういう素人判断がよくないのでしょうが、玄人判断がいいとも限りません。
人間の身体は柔軟性に富んでいるのですから。

薬嫌いと言えば、節子も薬嫌いでした。
もう大昔ですが、まだ医師が権力的だった時代(といっても40年ほど前ですが)、節子が風邪をひいて医者に行くことになりました。
そのお医者さんは薬をたくさん出すばかりでなく、注射もするお医者さんでした。
節子が私にも同行してほしいと言われて、私がついていったことがあります。
医師が注射を強く勧めてきたら、やめさせてほしいというのです。
前回は医師に負けたのだそうです。
私は待合室で待っていました。
そうしたら医師と節子の言い合いが聞こえてきました。
注射を打つかどうかもめているのです。
約束通り私も診察室に入っていき、結果的に注射はやめてもらったのです。

いまから考えると不思議な気がしますが、確かな記憶です。
そんなお医者さんなら、最初から行かなければよかったでしょうが、やはり前回医師に説得されたのが悔しかったのでしょう。
その後、節子はその医者には2度と行かなくなりました。
いまから思えば、節子もかなり性格が悪いですね。

まあ今は信じにくい話ですが、そういえば、その頃、私もあるお医者さんに行って、胃腸の検査をしてもらいましたが、結果を訊きに行くのをやめたことがあります。
何をされるかわからないような気がするほど、高圧的な医師だったからです。
そういうことを考えれば、最近のお医者さんは変わりました。

遠藤さんは節子のことをよく知っています。
どんなに辛くても弱音を吐かない人というのが、遠藤さんの節子評でした。
そんなことはないのですが、医師との人間関係はとても大事です。
言うことはあまり守りませんが、私は遠藤医師を気にいっています。
少し遠くなったのが残念です。

■2604:悩みを荷担できるか(2014年10月19日)
節子
昨日、自宅で暮らせなくなった人たちのセーフティネットをテーマにしたサロンを湯島で開催しました。
7人の参加者がありました。
参加者の一人は、自宅で暮らしている人たちのセーフティネットに取り組んでいる人です。
まったく視点が反対ですが、いずれも40代後半の女性です。

参加者の半分は男性でしたが、男性と女性とでは現実感が違います。
女性は、将来の自分の問題として考えていますが、男性はむしろビジネスとして考えています。
老後の生き方に関して、やはり男女の思考は違うようです。

この種の集まりをこの数年かなりやってきました。
40代から50代の女性が、自らの老後の生き方を真剣に考えています。
それに比べて男性は、必ずしも現実感を持って考えていないような気がします。
自分の人生を真剣に生きているのは、女性たちなのかもしれません。
男性はどこかで女性に依存している気がします。
私自身がそうだからなのかもしれませんが、いつもそう思います。

少なくとも私は、将来のことをあまり考えずに生きてきました。
その咎が、今頃になって、私を襲ってきているのですが、それにもかかわらず、相変わらず先のことは考えられません。
いまは何一つ不自由なく生きていますが、これがずっと続くとは限らないでしょう。
それはわかっているのですが、先のことが考えられないのです。

深い喪失体験をされた方には、わかってもらえるかもしれませんが、時間感覚がなくなるのです。
同時に、不安もあまりなくなります。
ただし、実体がよくわからない「不安感」はあるのですが。

不安もなく、未来もない。
それではたして「生きている」と言えるのか。
最近、時々、そんなことを考えます。

昨日、お会いした人が、ある事情で最近悩みが飛躍的に増えたそうです。
普通ならめげるところでしょうが、「人生にようこそ」って言われている気がするそうです。
悩みがあってこその人生。
悩めるのは未来があるからです。
その人の悩みを、少し荷担しようかなと思ったりしています。
もし担えるのならばですが。

生きているかどうか、確かめるのもいいかもしれません。

■2605:赤い唐辛子(2014年10月20日)
節子
畑での野草とのたたかいは、ようやく決着がつきました。
昨年と違って今年は私が畑を制しました。
刈り取った篠笹は堆肥にならないので、袋詰めしてごみとしてほとんど処分し、堆肥になりそうな草は穴を掘って埋めました。
まだ耕して、畝をつくるところまではいきませんが、近々、耕耘機を購入して、耕すつもりです。
今年は野菜はほとんどダメでしたが、最後に赤い唐辛子が数本実っていたので、抜いてきて、節子に供えました。

今年はわが家にはあまり良いことは起こらずに、厄払いが必要なほどですので、これで厄除けでも作ろうかと思います。
しかし、以前も一度、だれかから立派な赤い唐辛子の束をもらったのですが、あの年もあまり厄払いにはならなかったような気もします。
わが家よりも、きっと困っている家が多いのでしょう。
わが家で厄を祓えば、どこかにその厄が行くかもしれないので、軽々に厄払いするわけにもいきません。
しかし、できればわが家の厄も祓いたいものです。

野菜はダメでしたが、節子が植えたミカンは今年4つ実りました。
植えてからもう10年近くたつのですが、なぜか大きくならずに、しかも実がならなかったのです。
今年はめずらしく実りました。
何しろわが家の農園は、宅地造成されたところの空き地の一画なので、土壌はひどいものです。
家屋建設の時の様々なものが埋まっていたり、とても畑などとは言えません。
ですから樹木でさえ難しいのです。
わが家から移植した日本イチジクも枯れてしまいました。
幸いに小さな枝を挿しておいたのが根付いてくれましたので、何とかこれを復活させたいと思います。
2年後には節子に供えようと思います。
節子は、この木のイチジクだけは好きでしたから。

節子がいたころに、もっと一緒に畑をすればよかったと後悔しています。
最近また後悔することがいろいろあります。
後悔しても何の意味もないばかりか、逆に気分が重くなるだけなのですが、後悔するような材料がたくさんあるのです。
それが心にたまってくるのはよくありません。

畑に穴を掘って、草を埋めましたが、草と一緒に後悔の種も埋めてしまえればいいのですが。

■2606:物忘れ度の向上(2014年10月21日)
節子
最近、物忘れが多くなってきました。
今日、図書館から予約していた本が準備できたのでという連絡がありました。
時間があったので、図書館に行ったのですが、なんと肝心の図書カードを忘れて、出直すことになってしまいました。
出直すついでに、もう1冊予約しようと、予約カードを書いて提出してきました。
帰宅したら電話がありました。
図書館からで、予約カードの本は、先ほど、佐藤さんに貸出しました、という電話でした。
つまり、私が今日借りてきた本を、新たにまた予約してきたというわけです。
健全な老化による認知力の低下を超えているかもしれません。

もっとも、こうした物忘れは、老化のせいではなく、生まれつきなのかもしれません。
若いころから、こうしたことは決して少なくなかったからです。
お金を持たずに喫茶店に入ったり、レストランでお金を払わずに出ようとしたり、まあいろいろとありました。
それで、いつの間にか、私はお金を持たないようになり、すべてを節子に任せるようになりました。
私の物忘れのひどさは、節子がカバーしてくれていたのかもしれません。
もっとも、その節子も私と同じく、物忘れをよくするタイプでした。

私は今、認知症予防ゲームの普及にささやかにかかわっています。
にもかかわらず、私は認知症という概念を認めていません。
なんでもかんでも病気にしてしまう風潮がなじめないのです。
物忘れが激しくても、生活に不便はないように思っています。
周りの人が迷惑だと言う人がいますが、それくらいの迷惑は我慢してもらいたいものです。
と、節子がいたころは考えていました。
しかし、節子がいない今は、そうも言ってはいられません。
やはり私も認知症予防ゲームをやらないとダメでしょうか。

さてさて悩ましい問題です。

■2607:突然仏門に誘われた若者が湯島に来ました(2014年10月22日)
節子
18歳の足立さんは、朝起きたら、突然仏門に誘われる声を聞いたそうです。
それまで一切、仏教のことは考えたこともなかったのに、です。
そして高野山大学に入りました。
そして、20歳の時、日本における葬儀のあり方に違和感を持ったそうです。

足立さんと言っても、節子は誰のことかわからないでしょう。
それは当然で、私も今日、初めてお会いしたのです。
湯島には全く別の用事でやってきました。
しかし、話していて、その分野の人ではないものを感じて、初対面にもかかわらず、「あなたはどういう人ですか」と質問させてもらったのです。
そうしたら冒頭の言葉が返ってきました。
なるほど、と納得できました。

高野山と言えば、節子と一度、宿坊に泊まらせてもらいました。
友人の断食の満行日でした。

足立さんの大学の卒論は、空海とカントに関するものだったようです。
少しだけ、お話を聴かせてもらいました。

それからお葬式の話になりました。
現代では、葬式が生活と切り離されたイベントになっており、お寺との付き合いもその時だけのものになりがちです。
しかし、お寺の役割はもっと大きいのではないかと、足立さんは思っているようです。
まったく同感です。
お寺ができることはたくさんあります。
キリスト世界の教会のように、生活の中心に置かれてもいいはずです。
事実、節子の生家の集落は、そうでした。

足立さんのビジョンを少しだけ教えてもらいました。
もう一度、足立さんと話したくなりました。

節子
湯島には、相変わらずいろんな人が来ます。
来ないのは、節子だけですね。

■2608:寒くて暗い1日(2014年10月23日)
節子
今日は自宅で仕事をしていたのですが、あまりの寒さに、こたつが欲しいくらいでした。
今年もまた、秋らしい秋はなく、冬が来そうです。
衣替えをしようと、秋冬の衣服を出し始めていますが、衣替えも結構面倒です。
季節の変わり目には、何を着たらいいか迷います。
秋冬をすべて出して広げたところで、やめてしまいましたので、寝室は寝るところがない状況です。
困ったものです。

雨のために、畑にはいけませんでした。
1日、自宅にいると、なんだかとても疲れます。
仕事の合間に、本を読んだのですが、その本がこれまたかなり暗い本で、そのせいか、夕方にはやる気が失せてしまいました。
その本は、少し古い本ですが、芹沢一也さんの「狂気と犯罪」という本です。
最近、精神医療の関係の本を読んでいるのですが、読めば読むほどに暗くなります。
この種類の本を読みだしたきっかけは、大熊一夫さんの「精神病院を捨てたイタリア、捨てない日本」という本を読んだのがきっかけです。
大熊一夫さんの本は、実は40年以上前に読んだことがあります。
「ルポ・精神病院」という本です。
朝日新聞の記者だった大熊さんが、アルコール依存症を装って、精神病院に入院し、その体験録を書いた本です。
40年以上前の本ですが、この本は忘れたことがありません。
最近の状況も含めて、3冊ほど読んでみましたが、日本の状況はあの頃からあまり変わっていないようです。
気分が暗くなりました。
「ルポ・精神病院」を読んだのは、節子と結婚する直前です。
節子とかなり話題にした記憶があります。

当時から、精神障害者を取り巻く環境はそう変わっていないようです。
いや、ある意味ではもっとひどくなっているかもしれません。
少し前に、精神病院に勤務している作業療法士の方が湯島に訪ねてきました。
少しだけお話を聞きましたが、まだそんな状況なのかと驚いたものですが、どうもその話は特別な事例ではないようです。
彼女は最近、病院をやめました。
理由は知りませんが。

「狂気と犯罪」は、日本における精神障害者を取り巻く歴史と現状をするどい批判の目を持ってまとめたものです。
読んでいるうちに、日本の警察や医療、さらには司法の世界に、怒りがわいてきました。
怒りの対象が、あまりに大きいので、私には行動を起こす勇気はありませんが、精神的にはよくありません。
これが高ずると、私も病院に連れ込まれるかもしれません。
まあこれは冗談ですが、もし私がもう少し早く生まれていたり、ちょっとどこかでミスを犯していたら、私も精神病院に措置入院させられていた可能性はたぶんにあります。
そう思うと、ますます暗い気分になります。

とまあ、寒いうえに、暗い1日になってしまいました。
もうこの種の本はこれでお終いにしましょう。
明るい本を探して読まなければいけません。

■2609:それでも農夫は諦めません(2014年10月24日)
節子
どうも医療と福祉のありかたに縛られてしまっています。
今日は、やはりイタリアの精神病院解体レポートの「自由こそ治療だ」という本を読んでしまいました。
最近、毎日2時間ほど読書しています。

「自由こそ治療だ」のなかで、とても感動的な言葉に出会いました。
その言葉とは、精神障害のある人が繰り返し、医師に苦労を掛けます、挙句の果てに自殺未遂まで起こしてしまう。そこでその遺志に著者がその遺志に、「再び監禁してしまった方がよいのではないか、と思いませんか」と訊いたところ、医師は首をふって次のように言ったというのです。

「いいえ、いいえ。我慢しなければいけません。私たちは農夫のようなものです。畑を耕し、作物を植え、収穫を待ち望むのです。それから霰が降り、すべてをオジャンにしてしまう。でも、それでも農夫は諦めません。彼は翌日またはじめます。そして今度はもっとよいことを期待するのです」。

とても元気づけられる言葉です。
むしろ「時評編」ネタなのですが、節子にも教えたくて、挽歌編に書いてしまいました。
節子と一緒に、こういう生活をしたかったと、つくづく思います。

それにしても、この言葉は気に入りました。
今日もまた畑に行けませんでしたが(明日も出かけるのでだめですが)、日曜日にはやはり畑に行きましょう。
時評編にも、やはりこの言葉を紹介しましょう。

実に気に入りました。
そういえば、「小さな村の物語 イタリア」では、こういう話が多いです。

■2610:毒杯による尊厳死(2014年10月27日)
節子
安楽死問題に衝撃を与える事件が、いまアメリカで起こっています。
末期の脳腫瘍で医師に余命が6か月以内と告知された、29歳の女性が、11月1日に尊厳死することをユーチューブで流したのです。
昨夜のテレビが、それに関連して、安楽死(尊厳死)の問題を特集していたのを見たのですが、実に後味が悪く、寝付かれませんでした。
いまもまだ気分がよどんでいるのですが、ここに書いてしまって、そこから抜けようと思います。

その番組で、イギリスの老夫婦がスイスの「尊厳死を支援する施設」(スイスでは尊厳死のための自殺ほう助が認められています)に行き、4か月の話し合いの中で、結局、尊厳死を選ぶのです。
難病の夫が妻に手を握られたまま、自ら毒杯を飲んで死に向かう実景がなまなましく放映されました。
その場面が、あまりにも強烈だったの、寝付かれなかったのです。
もしかしたら、節子もそれを望んだことがあったかもしれません。
私に、それを暗示的に示唆したことがありましたから。
その時のことがまざまざと目に浮かびます。

イギリスの老夫婦は、尊厳死したのは夫だけです。
さすがに、死に直面していない妻の死をほう助することは認められていません。
しかし、もしかしたら、本当は妻のほうこそ、死にたかったのかもしれません。
送られる方と送る方では、間違いなく送る方が苦しいのです。
しかも、隣で尊厳死していく夫を見ていたら、それは忘れがたい記憶になって残るでしょう。

さらに・・・

とまぁ、私自身につなげながら、いろんなことを考えてしまったわけです。
その気持ちを書くことで抜け出そうと思ったのですが、逆効果でした。
ますますいろんなことが思い出されてしまいました。
ますます気分は重くなってしまいました。
オフィスに行く予定だったのですが、今日はやめようと思います。

ちなみに、余命宣告を受けて、尊厳死を決めた女性が、別の医師の忠告で病気に立ち向かい、14年経った今、元気で暮らしている姿も報告されていました。
節子も、奇跡が起こる一歩前まで行ったのです。
何が起こるかはわかりません。
やはり私は、毒杯を飲む方法には断固反対です。

■2611:官兵衛のあくび(2014年10月25日)
節子
最近、予定表に空白が増えてきました。
会社を辞めて、節子と一緒に活動を開始した時には、何も働きかけなくとも、手帳はかなり先まで黒く埋まってしまいました。
そのため、毎年年初に予定帳に毎週2日間、何も予定を書き込めないように、最初に黒く塗りつぶしていたことを思い出します。
しかし、今はそんなことをしなくとも、予定表が埋まることはありません。

私が、いわゆるビジネス的な仕事を辞めたのは、節子が発病した翌年からですから、もう10年以上、ビジネスワークはしていないことになります。
もちろん、節子がいなくなってからは、時々、それらしきこともやっていますし、2年ほど前にはある理由でお金をもらう仕事をしたくなったのですが、10年も間が空いてしまうと、そう簡単ではありません。
ただ、ビジネスワークをしなくとも、ソーシャルワークと私が呼んでいる仕事はあります。
それも3年ほど、ほとんどやめていました。
それが復活してきていますが、それでも手帳が埋まるほどではありません。

しかし、だからと言って、何もしていないわけではなく、時に時間の工面が難しくなるほど、バタバタしてしまうこともないわけではありません。
それでも基本的には、忙しいほど暇なのです。
つまり、心を見失うほど退屈だと言うことです。

昨日、大河ドラマ「黒田官兵衛」を見ていたら、隠居した官兵衛があくびをしながら、物足りないと嘆いていましたが、奇妙に共感してしまいました。
しかし、彼の隣には、苦楽を共にしてきた妻のてるがいます。
私の場合は、節子もいないので、ともかく退屈なのです。
だから畑に行って、無思の時間を過ごしたり、読書に逃げ込んだり、サロンを開いたりしているのですが、要するに何かが抜けているような気がしています。
何が抜けているのか、官兵衛のあくびを見て、少しわかったような気がしました。
しかし、いまさら生き方を変えるわけにもいきません。

黒田官兵衛のあくびは、いろんなことを考えさせてくれました。
節子が隣にいたら、考えもしなかったでしょうが。

■2612:付き合い世界(2014年10月28日)
節子
最近めっきり受信するメールが減りました。
最近は平均して1日に100通くらいでしょうか。
しかもそのうち、半分以上は勝手に送られてくるメールです。
迷惑メールなどは別枠に排除されるようにしていますが、それでもなぜかいろんなメールが届きます。
実際にメッセージに対応すべき個別のメールは、最近はせいぜい30通以内です。

ホームページへのコメントも最近はなくなりました。
おそらくホームページはすでにメインの個人情報メディアではなくなっているのでしょう。
ブログも、フェイスブックと違い、コメントはほぼなくなりました。
以前は、1日気分が沈むような辛辣なコメントもありましたが、最近はなくなりました。
そもそもネット上がにぎやかになりましたから、私のようなくどくどしくややこしい議論のサイトは時代遅れなのでしょう。
ましてや、この挽歌編のように、書き手のためのサイトは読まれる方がめずしいということでしょう。
読んでくださる方には、感謝しなければいけません。
幸いなことに、どのくらいの人が読んでくださっているかは、書き手の私にはわかりません。
それに誰が読んでくれているかもわかりません。
時々、読んでいるという人に会って、いささか恥ずかしい気分になることもありますが、挽歌と時評がありますので、どちらを読んでいるかあいまいにできるのがせめてもの救いです。

今年は紅葉でも見に行こうかという気になり始めていたのですが、いろいろとあって、今年もまた行けそうもありません。
あいかわらずストイックな生き方を続けています。
それもあってか、行動範囲は最近かなり狭まっているような気がしますが、これもまた「健全な老化」のあらわれなのかもしれません。
それに「老化」は必ずしもマイナスベクトルではなく、行動範囲を狭くなっても、世界は狭くならないのかもしれません。
動かなくとも以前よりも世界は見えるようになってきました。
彼岸に行けば、さらに世界がよく見えるのでしょう。
そんな気がします。

連絡が途絶えた友人知人が何人かいます。
しかし考えてみると現世での連絡などあまり必要ないのかもしれません。
友人知人を悲しませないためにも、付き合いの世界は徐々に小さくしていくのがいいのかもしれません。

今日は何やらおかしなことを書いてしまいました。
一昨日の老夫婦の映像が頭から離れません。

■2613:降圧剤を飲むのをやめました(2014年10月29日)
節子
高血圧だと言われて、この数年飲んでいた降圧剤を飲むのをやめました。
きっかけは、「つくられる病」という本を読んだからです。
血圧が高くなるのは、身体がそれを必要としているからだと書かれていました。
あまりに高いのは問題ですが、「正常」と言われる数値は、なぜかどんどん下がっているのだそうです。
降圧剤市場は、それによって急拡大していると書いてありました。
それを知った以上、とりあえずは飲むのをやめてみたわけです。
こういう、いわゆる「素人の生兵法」というのが一番危ないのです。
しかし、節子は知っていますが、私は知った以上、やってみるのが信条なのです。

服用をやめてから1週間経過しました。
とりわけ異常は出てきません。
血圧計で測ってみたら、185/95でした。
3回測りましたが、まあそんなものでした。
これを正常とみるかどうかは微妙ですが、まあもう少し続けるとともに、血圧を自然に下げるようにしようと思います。
しかし、どうすればいいかわかりません。
ただただそう念ずるだけですが。

ちなみに私は塩分を取るほうです。
節子がいるころはいつも注意されていましたし、今も娘に注意されています。
しかし、それを減らすつもりはありません。
そうするならば降圧剤を飲めばいい話ですから。

自然に生活していて、それでも血圧が高いのであれば、どれもまた仕方がありません。
血圧の上が200を超えるまでは、もう少し薬はやめてみようと思います。
もちろん調子がおかしくなっても、薬を飲む予定です。

節子が入院していたころは、医療への信頼はかなりあったのですが、
最近、精神医療関係の本を読み続けているせいか、医療体制への不信感が高まっているのです。
困ったものです。

■2614:心配される歳になりました(2014年10月30日)
節子
節子もよく知っているTさんから電話がありました。
Tさんは、先週、病院で手術をしたところです。
エヴィーバで友人と食事をしていたので、気がつかなかったのです、たぶん退院したのだろうと、コールバックしました。
ところが、まだ病院でした。
術後にいろいろあるようで、退院が延びたのだそうです。
明日、会えるかと思っていましたが、少し先になりそうです。

それはいいのですが、声の調子に何か不安を感じさせられました。
お互いに、生死に関してはあっけらかんと語れる仲ですが、声の調子が違うだけで、言葉とは全く違うものが伝わってくることを実感しました。
こちらから電話したので、もしかしたら病室で、小さな声しか出せなかったのかもしれません。
しかし、どうもそれだけではない感じです。
何やらとても気になります。
1週間ほど延びただけだと彼は言いますが、それこそ蛇足というものでしょう。
1週間ではないなという気にさせられました。
でもまあ、Tさんのことだから、元気に戻ってきて、私とまたけんかをすることになるでしょう。
そうでなければいけません。
まだ論争の決着がついていませんし。

ところで、こういうことが、最近は少なくありません。
友人知人に連絡するのに躊躇する年齢になってしまったというわけです。
もっとも、それは他人事ではありません。
私自身も、そう思われているのかもしれません。
というのは、先週も久しく会っていない滋賀の友人から、メールアドレスが変わったというメールが来ました。
ほとんどメールのやり取りのない友人です。
節子も知っているYさんです。
「ご無沙汰してます」と返信したら、「お元気でお過ごしの様子、安心いたしました」とすぐに返事が戻ってきました。
つまり、気にしてくれていたわけです。
ま、そんな歳になってきたわけです。
年内は難しいかもしれませんが、滋賀に行こうと思います。
懐かしい友人たちを集めてくれるそうですので。
みんな節子もよく知っている人たちです。
滋賀の生活はとても楽しかったですね。

■2615:夢こそ生きる支え(2014年10月31日)
節子
時評編に書いたのですが、今朝の朝ドラでの2つのセリフにいろいろと思いをはせました。
「人は夢ではいきていけない」
「私は夢を食べて生きていけます」

最初のは、ウィスキーづくりにすべてをかける主人公まっさんを諭す世間の良識人のセリフ。
次のは、そのまっさんを支える妻のエリーのセリフです。
時評編に書きましたが、私は、人は夢だけで生きていける、むしろ夢がなければ生きていけないと考えています。
そしてエリーが言ったように、夢があれば生きていけるとも思っています。

夢は、どんなにささやかであってもいいのです。
大志や大望などである必要はまったくありません。
今日は楽しい1日にしたい、というような、ささやかなもので十分です。

さらに言えば、その夢を妻や家族や仲間と一緒に見ることができれば、どんなに幸せでしょうか。
最高の幸せは、世界中みんなと一緒に見る夢かもしれません。

最近、時々思うのですが、節子がいたころは何であれほどに些細なことが楽しかったのでしょうか。
夢に関して言えば、ことさら夢について話し合ったことはありません。
でもどこかに、夢の気分があったのです。
一緒に老いを楽しみ、生を全うするくらいの、夢だったのです。
人が生きていられるのは、そんな小さな夢でいいのです。
それに対して、夢だけでは生きていけないなどという発想は、さびしすぎます。
少なくとも、私は夢のない人生は生きたくはありません。

といいながら、果たして今の私の夢はなんでしょうか。
この挽歌にも書いたかもしれませんが、夢がなくなってしまい、生きる意味を見失ったという状況も何回かありましたし、いまもそういう状況から抜け出たとは言えません。
しかし、生きている。
つまり夢がまだ私の中に残っているのです。
それはなんでしょうか。
彼岸で節子に会うことでしょうか。
心穏やかに余生を過ごすことでしょうか。
誰かの役に立つことでしょうか。

夢は残っているにもかかわらず実感できないのは、もしかしたら分かち合う人がいないからかもしれません。
夢そのものではなく、夢をシェアすることに、私の意識が向きすぎていたのかもしれません。
そう考えると、いろんなことが納得できます。
私にとっての夢とは何なのか。
いや、夢とはなんなのか。
またまた青臭いテーマにぶつかってしまいました。
困ったものです。

■2616:冬の始まり(2014年11月1日)
節子
11月になってしまいました。
最近は時間がたつのがとても速く感じます。
今日は寒い1日でした。冬を感じるほどでした。

雨で畑に行けないので、そして寒くて本も読めないので、娘と一緒に大型DIY店のジョイフルホンダに耕運機を買いに行きました。
ジョイフルホンダに行くのは久しぶりです。
節子が元気だったころはよく通ったものです。
そのうち近くにも大きなDIYのお店ができたので、ほとんどの物はそこで用立てられるようになったのです。

ジョイフルホンダのもう一つの魅力は草花や植木がたくさんあったことです。
お正月の花は毎年そこで購入していました。
節子は花好きでしたから、いつもは質素でもお正月の花はかなり頑張ったのです。
花を選ぶだけでいつも30分はかかった記憶があります。
節子は、特に華道を学んだわけではありませんが、節子の活けた花が好きでした。

私の両親と同居していたころは、今では考えられないほどの料理も用意されていました。
来客もあり、いつも賑やかなお正月でした。
30日に家族で買い出しに行き、31日は夜まで調理でした。
元日は兄家族がやってきました。
そしてみんなで初詣に行きました。

わが家の文化が変わりだしたのは、私が会社を辞めてからです。
収入が激減し、支出が急増したためです。
さらに両親が亡くなってからは、メニューは大きく変わり、形が消えだしました。
それでも節子が中心にいたころは、ほどほどのお正月でしたが、節子がいなくなってからは、好きなおせちとお雑煮くらいになってしまいました。
実質的になったというべきかもしれません。
節子がいたら嘆くかもしれません。
お正月から華やかさが消えてしまいました。

変わっていないのは、活け花と初詣ですが、それも最近はだんだん地味になってきました。
金銭的には貧乏であることを、みんな意識しだしたからかもしれません。
節子も私も、金銭的貧乏には関心はありませんが、娘たちは私たちより心配性かもしれません。

久しぶりのジョイフルホンダは、植木や花のコーナーが縮小していました。
これも時代の変化のあらわれでしょうか。
ちょうど、時評編で、人生にはバラも大切だという文章を書いたところですが、節子はバラが好きでした。
もちろん象徴的な意味でのバラです。

食事時だったので、そのお店のフードコートで650円のラーメンセットを娘と食べてしまいました。
娘が連れ合いにメールしたところ、もっときちんとしたものを食べるようにと叱られてしまいました。
しかも、そのお金は娘が出してくれました。
気がついたら私はお金を持っていくのを忘れてしまったのです。
節子がいないと、耕耘機を買うどころか昼食さえも食べられません。
困ったものです。

ちなみに耕耘機は結構大変そうなのと、お金がなかったので、買わずに帰ってきました。
こうして、今年の冬が始まりました。

■2617:グループフルーツジュース(2014年11月1日)
節子
今日はもう一つ書いておきます。
広島の折口さんから電話がありました。
いつものことながら、お元気ですかという電話です。
しかしこれは無意味な挨拶言葉ではありません。
折口さんは、私のブログやメーリングリストへの投稿を読まれていて、私が少しおかしいなと感ずると、実にタイミングよく、電話してきてくれるのです。
ですから、いつも折口さんから電話があると、きっとあのせいだとわかるのです。

今回はたぶん、私が降圧剤を飲むのをやめたことを知って、心配してくれたのだろうと思います。
そういえば、ほかにも2人の方からメールをもらいました。
とても心配してくださっているのです。
申し訳ないと思っています。
そんなことをいちいち書くなと言われそうです。

報告ですが、薬をやめたぶん、血圧計で毎日測定しています。
今日も3回測定しましたが、190/90前後でした。
調子はどうかと言えば、今のところ違和感もなく、頭痛も肩こりもありません。
この調子だと、降圧剤を飲まなくても大丈夫そうです。
つまりご心配なくということです。はい。

一番うれしいことは、降圧剤を飲んでいるために禁止されていたグループフルーツジュースが飲めることです。
今日、出かけていたのに、飲みそこないました。
明日は飲もうと思います。
私はアルコールは飲まないので、せめて好きなグループフルーツジュースくらいは飲んでも家計は大丈夫でしょう。

折口さん
ほどほどに元気にしていますので、大丈夫です。
折口さんもご自愛くださいますように。
それにしても、まだ私たちは一度も会ったことがないのです。
人のつながりとは不思議なものです。
私の頭の中には、会ったこともなく写真も見たことのない折口さんの姿がしっかりとあるのです。
どこかで会ったら、わかるかもしれません。
実に不思議です。

■2618:中途半端な1日(2014年11月2日)
節子
昨年は年末にバタバタしてしまい、大掃除ができませんでした。
それで今年はゆっくり時間をかけて掃除することにしました。
今日はリビングのフロアのワックスはがしをしました。
かなり汚れてしまっていたので、初めての試みです。
予想以上に大変です。
すっかり疲れてしまい、途中でダウンしました。
困ったものです。

後は怠惰にテレビを見てしまいました。
実は読書をしようと思ったのですが、読みだした本が実に難解で、頭に入ってこないのです。
この本はこれまでも何度か挑戦して、そのつど挫折しています。
ピエール・ブルデューの「実践感覚」です。
今回もまた序文で終わりそうです。

それで気分を変えて、録画してあった映画を見ました。
怪盗グルーの映画です。
この映画は2回目なのですが、まったく面白くないのですが、キャラクターがとても気に入っているのです。
ちなみにこの映画はアニメです。
1作目は、怪盗グルーが月を盗む話です。
このアイデアが実に気に入って、私はファンになったのです。
節子はこの種の映画は好きになりませんでしたが、ここに出てくるキャラクターは気に入ったはずです。

というわけで、今日はいろいろと中途半端な1日になりました。
先のない大事な人生において、こんな無駄な日を過ごしていていいものか。
ちょっと罪悪感を持ちながら、今日はもう寝ようと思います。
実は朝がとても早かったものですから。

■2619:だれも読まない墓碑銘(2014年11月3日)
節子
月命日なので娘たちを誘ってお墓詣りに行きました。
今年はお墓荒らしにあったりアリの巣ができたり、わが家のお墓にもいろいろとありましたが、少し整え直してきました。

ところで、お墓詣りに来て、いつも思うのは、墓地というのはやはり異様な空間だなということです。
最近では「お墓など不要だ」などという議論もありますが、それはともかく、お墓の形が変わっていくことは間違いないでしょう。
なぜならば、私たちの生き方が変わってきているからです。
お墓は、ある意味では私たちの生き方の象徴です。
いつもそんな気持ちで、墓地を見まわしています。

私の友人は、自分の墓石にある言葉を刻んでもらうことを息子さんに頼んだそうです。
彼は、あることを歴史に残したいからです。
しかし、昨今のように自然災害が多くなると、墓碑銘ですら、長く残るかどうかわかりません。
もし残したいなら、ネット環境のクラウドに墓碑銘を残す方が確実かもしれません。
考えてみると、もしかすると私のホームページは、私の墓碑銘になるのかもしれません。
この挽歌も、その一部になるかもしれません。
不思議な時代になったものです。

最近、ホームページの更新が不十分ですが、墓碑銘を意識して、もう少しきちんとしたほうがいいかもしれません。
しかし、まあ娘たちは、たぶん私のホームページを読むことはないでしょう。
ましてや、それ以外の人が読もうはずもありません。
だれも読まない墓碑銘。
実に私好みです。
ホームページの体裁を少し変えていこうかと思います。
このブログは、このまま続けようと思いますが。

■2620:余命宣告の罪深さ(2014年11月4日)
節子
余命宣告を受けていた米国の女性が、「尊厳死」を実行しました。
結局、だれも止められなかったわけですが、果たして本当に止めようという働きかけがあったかどうかは疑問です。
世界はすでに大きく変質していることを、改めて実感しました。
世界は、ただ単に「興味」を抱いただけだったのかもしれません。
少なくとも日本のマスメディアの報道からは、そう思わざるを得ません。
私自身は、正直に言えば、目をそらしたい気分でした。

時評編に書きましたが、私にはこの事件は「尊厳死」ではなく、「人間の尊厳性の否定」としか受け止められません。
そして、その背後にあるのは、いのちの私物化であり、人間の事物化です。
私の周りだけではなく世界からどんどん人はいなくなっているのかもしれません。

節子は、息を引き取る1か月ほど前に、もうこれでいいでしょうと紙に書きました。
もう話せなくなっていたのです。
当時、私自身がたぶん正常な判断ができなくなっていて、それに誠実に立ち向かえませんでしたが、それから節子は1か月近く、壮絶な戦いをしてくれました。
その姿を思い出すのがつらくて、どこかで忘れたいという意識があるのですが、忘れることはできません。
あの1か月は、それこそ生きるとは何かを、私たち家族に伝えてくれたように思います。
人のいのちは、個人一人のものではないのです。
節子は、その時、大きないのちを生きていました。

余命宣告を受けて、死を選んだブリタニー・メイナードさんは、29歳でした。
余命宣告の罪深さに憤りを感じます。
神でもあるまいし、中途半端な知識しかない医師に、なぜ神のような余命判断を許しているのか。
医療界にも不信感を持ってしまいます。

■2621:弥陀の本願(2014年11月5日)
節子
五木寛之さんの「私訳歎異抄」を読んでみました。
さほど新しさはありませんでしたが、まえがきに魅かれたからです。
そこに書かれていた五木さんの思いが素直に心に入ってきたからです。
それで、久しぶりに歎異抄を読んだのです。

久しぶりに「弥陀の本願」という言葉に出会いました。
節子の生家は、浄土真宗でした。
結婚してから、節子の生家での法事で、何回も聞いた言葉です。
法事での読経の後、参列者全員で和讃の一部を唱えます。
私には初めての体験でしたが、最初に耳に残ったのが、「弥陀の本願」という響きでした。
和讃は実にリズミカルで、聞いているだけでも、ちょっと彼岸を感じさせます。
それも数十人の人たちによる声明は、心に響きます。
おそらくみんな気分が高揚し、一種の彼岸体験をする人もいるかもしれなと思うほどでした。
参列者で声を出せなかったのは、私だけだったのですが、節子の生家のある滋賀県の高月町は「観音の里」というくらい、参列者全員がお経も和讃も唱えられるのです。
それは実に新鮮でした。

もっと新鮮だったのは、「死」そして「葬儀」が「日常的」だったことです。
そこでは、死がまさに「あっけらかん」と語られていました。
いわゆる「他力の慈悲」のなかで生きる人たちを感じました。
節子の母は、「お迎えが来る」という言葉を、実に自然で使える人でした。
節子もまた、そうした文化を引き継いでいたかもしれません。

節子はいなくなってから、高月の法事にはあまりいかなくなりました。
節子が一緒でない法事が、これほどまでに悲しいものだと気づいてから、あまりいけなくなってしまったのです。
来年は義母の法事があるかもしれません。

ちなみに、弥陀の本願は、すべての人を平安な彼岸に導くことです。
それによって、現世の生にも平安をもたらしてくれるのです。
阿弥陀仏に感謝しなければなりません。

■2622:病気や健康という言葉の意味が変わりました(2014年11月6日)
節子
冬を思わせる朝でした。
高血圧のための降圧剤を飲むのをやめて2週間がたちました。
いまのところ異常は起きていませんし、むしろ調子がいいくらいです。
一応、毎日血圧を測り、注意はしていますが、もう少し続けようと思います。
ちなみに、久しぶりにグレープジュースを飲みましたが、期待していたほどおいしくはありませんでした。

最近さらに病気観が変わってきました。
これは、実はこの数年、少しずつ意識するようになってきています。
節子がいなくなってから、病気を治すという言葉にどこか引っかかるようになりました。
節子の病気を治せなかったことへのコンプレックスからです。
さらに健康が大事だとか、長生きこそが幸せ、などという言葉にさえ、心がうずくようになってしまいました。
なにか責められているように感ずるのです。
長生きできなかった節子を否定されているような気さえしたのです。
健康とか病気とかいう言葉の意味が一変してしまったのです。

前にも書きましたが、自死遺族の人から「自殺のない社会をめざす」という言葉を聞くと、自死した父親が責められているような気がすると言われたことがあります。
以来、その言葉は使わずに、「自殺に追いやられることのない社会」と表現していますが、その人の気持ちが理解できたのも、節子のおかげです。
人は、自らの体験で、言葉を解釈します。
自らの体験が気持ちを形成していきます。

節子がいたころといなくなってからとでは、私の言葉への感情も大きく変わってしまっているわけです。
人は言葉を通して社会に生きていますので、そのことは人生を大きく変えてしまいます。
最近、ようやくそのことに気づくことができるようになりました。

病気が悪くて、健康が良いとは言い切れないのです。
その違いも、最近は極めてあいまいに感ずるようになってきました。

それでも、風邪だけは引きたくないと思っていますので、まだまだ矛盾しているのですが。

■2623:節子に会う前も幸せでした(2014年11月6日)
節子
今日は湯島で少し時間を持て余しています。
時間が許せば、久しぶりに東京国立博物館に行けたのですが、中途半端な空き時間になってしまいました。

私が博物館に通い出したのは、小学4年のころからです。
兄に連れて行ってもらった交通博物館に魅了されて、その後は、同級生を誘って、上野の国立博物館と科学博物館によく行きました。
しかし、次第に足が遠のき、大学時代は特別展でもなければ行かなくなりました。
今はあまり行くことはありません。
それも、少し雰囲気を感じてくるだけです。

時々行くと、今も子供のころを思い出します。
科学博物館は変わってしまいましたが、国立博物館の本館は、今も昔の雰囲気を残しています。
よく通っていたころは、まだ節子とは会う前の小中学校時代ですが、あの頃にはたくさんの夢がありました。
実に懐かしい時代です。
国立博物館の前庭のベンチに座っていると、その当時を思い出します。
当時の社会は、経済的には貧しかったと思いますが、なぜか実にあったかでした。
私の家も、貧しかったですが、私自身は苦労した経験がありません。
今から思えば、大志もなく、実に安直に生きてきてしまった気がします。

そういう私に、生きる意味を与えてくれたのが節子でした。
「生きる意味」とは何かと問われると、答えに窮しますが、自分の人生を素直に生きるということです。
大志や目標はますます縁遠くなってしまいました。
生きることが目的になったのです。
節子に会う前も、私は十分に幸せでした。
しかし、節子に会う前後では、何かが大きく変わってしまったような気がします。
「節子とはいったいなんだったのか」。
最近そんなことを考えることがあります。

節子とも上野の博物館には何回か行ったはずですが、あまり思い出せません。
思い出すのは美術展やコンサートばかりです。
なぜ思い出せないのでしょうか。

近いうちに、また国立博物館に行こうと思います。
薬師寺の聖観音にもお会いできますし。

■2624:非日常から転じた「ケ」の世界(2014年11月7日)
節子
最近、ケの世界に埋没しているせいか、心身のよどみを感じます。
人にはやはり、ハレの世界が必要のようです。

「ケ」は簡単に言えば「日常」、「ハレ」は「非日常」ですが、柳田國男はこの2つが次第に重なりだしてきているといいました。
たしかに、日常もまた変化のあるものになってきました。
そして、かつてであれば、ハレ時の暮らしが日常化し、暮らしからめりはりが消えつつあります。
ちなみに、ハレにはプラスのハレとマイナスのハレがあります。
非日常という意味では戦争もハレ舞台です。
しかし戦争状態が日常になってしまい、ハレがケに転ずることもあります。
ハレがつづけばケに転じます。
私の場合も、節子との別れという非日常が、日常になってしまい、ハレがケに転じたような気がします。
非日常が日常になれな、なかなか新たなる非日常は得られなくなるのです。

もう30年ほど前になりますが、5人の民俗学者たちが共同でシンポジウムを開催しました。
その報告書はとても興味深いものでした。
桜井徳太郎さんから「ケガレ」という概念が出されたのです。
その時の記録は、「ハレ・ケ・ケガレ」(青土社)という書籍になっています。

ケガレというと一般には「穢れ」「汚れ」を指しますが、私が興味を持ったのは、ケガレとは「ケが枯れる」とい捉え方でした。
ケが枯れる、つまり気が枯れるです。
勝手に解釈すれば、生活には気が必要です。
気をいれておかないと、波風の多い日常生活を乗り切れません。
注意しないと、気が弱まり、枯れてしまいかねない。
そこで、枯渇してしまった気、つまり日常生活を支えるエネルギーを回復するために、「ハレ」の時間が必要になる。
日常を支える非日常が日常を支えているというわけです。
気を取り戻すためには、ただ休めばいいと言うわけではないと言うことです。
極端に言えば、疲れた時には休むより、非日常が効果的というわけです。

節子がいなくなってから、考えてみると、私の生活には、ある意味では「ハレ」がなかったかもしれません。
ですから、私のケ(気)は、もう消尽されつくしているのかもしれません。
気がなくなれば、当然ながら「生命」も消えるでしょう。
となれば、これはあまり誠実な生き方でも、素直な生き方でもありません。
のどが渇けば水を飲むように、気が枯れたら、気をもらわねばなりません。
気をもらうために、ハレの場に行かねばいけません。
ところが、非日常から転じた「ケ」の世界にいると、「ハレ」が見つけられないのです。
困ったものです。
どうしたらいいでしょうか。

■2625:生命を支える場の力(2014年11月8日)
節子
今日もまた寒い日でした。

畑のみかんの樹にみかんが3つなっていました。
まったくの手入れ不足でしたが、今年からなりだしました。
前に1つ収穫したので、今年は4つなったわけです。
最初のは酸っぱくて食べられませんでしたので、残りは熟すまで残していました。
もう少し残しておこうと思ったのですが、最近畑に行く機会が少なくなったので、今日、畑の近くを通ったので、落ちないうちにと収穫して節子に供えました。
見た感じ、まだ酸っぱさそうです。

このみかんは節子が取手の植木屋さんから買ってきたものでした。
転居前の家には果実が成る樹も多かったのですが、なぜか節子はあまり好きではなく、転居後は果実の樹は植えられませんでした。
これは数少ない1本ですが、結局、畑に植えられてしまいました。

そういえば、家の庭にサクランボを植えたことがあります。
私の希望で2本買ってきましたが、1本は枯らしてしまいました。
節子はどちらかと言えば、樹木よりも草花が好きでしたから、家の裏に植えられたためです。
残った1本はいまもありますが、節子に先立たれた私のように、あんまり元気がありません。
さくらんぼは2本ないと実が成らないのですが、花もあまり咲いたのを見たことがありません。
まあ、この10年ほど、わが家の庭の花木はあまりケアもされずに、冬の時代を過ごしてきたのです。
まあかなりの花木を枯らさせてしまいました。
困ったものです。

これは気のせいかもしれませんが、池の魚が原発事故以来、数か月で死んでしまいます。
土砂を入れ替えたり、きれいに洗っているのですが、定着しないのです。
それと同じで、節子がいた頃はあんなに元気だった山ほろしまで枯れてしまい、その後、植え替えたのに一向に大きくなりません。
手入れ不足だろうとは思うのですが、あまりに繰り返されるので、呪いさえも考えたくなります。
放射線量の関係ではないかと思ったりもしています。
春に池に放した魚がまた全滅していたのです。
どうも、今のわが家には生命を支える場の力が萎えているのかもしれません。

そんななかでみかんの収穫はうれしいのですが、考えてみると、これは畑でした。
庭に生命力を取り戻すにはどうしたらいいでしょうか。
まずは自らの生命力の回復です。
しかしこう寒いと心身が凍えてしまい、生命力も萎えそうです。

■2626:生きるものの歌(2014年11月8日)
節子
前の記事を書いてから、テレビでも見ようとスイッチを入れました。
デューク・エイセスが歌っていました。
すぐにチャンネルを変えようと思いましたが、間に合いませんでした。
デューク・エイセスが歌っていたのは「生きるものの歌」。
https://www.youtube.com/watch?v=gQBr7LKZ4GA
あの歌詞に引きずり込まれてしまったのです。

あなたが この世に生まれ
あなたが この世を去る
わたしが この世に生まれ
わたしが この世を去る
その時 涙があるか
その時 愛があるか
そこに 幸せな別れが あるだろうか

節子がいなくなってから、テレビの歌番組は見るのをやめました。
歌は強烈に記憶を呼び起こすからです。
特にデューク・エイセスは思い出したくありません。
節子とのたくさんの思い出があるからです。

私は子供のころからデューク・エイセスが好きでした。
節子と一緒に最初に行った京都でのコンサートも、デューク・エイセスでした。
一緒に住まいだしてからは、ちょうどデューク・エイセスの「にほんのうた」シリーズが始まり、よく一緒に聴きました。
そのせいで、いまもデューク・エイセスを聴くとついつい心がつらくなります。
映像があるとなおさらです。

「生きるものの歌」は、たしかベトナム戦争が終わった年につくられました。
ですから、未来を歌ったものです。
しかし、改めてこの歌を聴くと、以前聴いた時とは全く違ったものに聴こえます。
それにしても、歌の力はすごいものです。

この歌の最後はこうです。
もう忘れていましたが、

世界がどんなに平和でも、悲しい夜は来る。
誰もが耐えて生きている。
思い出と歌があなたを支えてゆくだろう。

思い出と歌。
それが私の支えになるには、もう少し時間が必要のようです。
久しぶりに今日は、涙を止めきれませんでした。
おかげで、たぶん明日はすっきりとするでしょう。
最近は、涙を忘れていましたから。

なお、デューク・エイセスではないですが、次のサイトで瀬戸カオリさんが最後まで歌っているのが聴けます。
私は初めて瀬戸さんの歌を聴きましたが、思いがさらに伝わってきてしまいました。
https://www.youtube.com/watch?v=tGxw90ruxUU

■2627:ナラティブ・グリーフケア(2014年11月9日)
節子
私たちの周りには、たくさんの「死」があります。
テレビや新聞でも、毎日、たくさんの死が報じられています。
以前、私は、そうした報道に触れると、死んだ人への思いをはせました。
しかし最近は違います。
遺された人への思いが、まず浮かんできます。
死のリアリティは、遺された人にしかわからない。
節子との別れを体験して、そう思うようになりました。
節子が、死をどう体験したのかは、とても興味がありますが、それは間もなく私も体験するでしょう。

最近、テレビや新聞で死が報じられることが多すぎます。
事件の場合、それが詳しく報じられることに、とても違和感があります。
日常生活では死を隠しながら、縁の薄い人の死は興味本位の物語として受け止める傾向が強すぎます。
この風潮は、死への冒涜だと、私は思います。
愛する人や大事な人の死を体験すれば、そんな扱いはとてもできないはずです。
それが事件であれば、なおさらです。
他者の死を、軽々しく物語として語ってほしくはありません。

しかし、遺された人にとっては、まさに愛する人の死は物語です。
遺された人は、その別れを物語にしておかないと耐えられないのです。
すぐには受け入れがたい現実を消すために、物語として受け止める。
時間をかけて、物語が生まれてくる。
そして、生きていた時の、その人の物語も、です。

死の報道に触れると、いつも、遺された人の物語を思ってしまいます。
何かできることはないのか。
もしかしたら、私の体験がグリーフケアに役立つかもしれない。
そんな気がしてネットで調べてみました。
ナラティブによるグリーフケアがすでに行われていることを知りました。
やはりみんな考えることは同じなのかもしれません。

ナラティブの主役は当事者です。
物語れるのは、遺されたものだけに許される行為だと、私は思っています。
ナラティブの力は、大きいように思います。

■2628:夫婦の別れは先に旅立つ方がいい(2014年11月10日)
節子
節子がいなくなってから、いろいろなことがありました。
私の生き方は間違いなく変わりましたし、考え方も変わりました。
しかし、外から見ると、あまり変わっていないようです。
変わったと思っているのは、もしかすると、私だけなのかもしれません。

今日も、久しぶりに会った人から、変わっていないねと言われました。
幸いに、今日は「良い意味」で言われたのですが、時代が変わる中で変わっていないのは、実は変わっていることでもあるのです。
人は環境の中で生きているのですから。

なぜ自分では変わったと思うのに、人にはそう見えないのか。
節子がいなくなってから、自分が見えるようになってきたのかもしれません。
しかし、見えてきた自分は、実はあんまり好きになれない自分なのです。
その、好きになれない自分へと変わっていくのが自覚できます。
それにしても、正直、自分がこれほどまでに頼りにならない存在だったかと思い知らされる毎日です。
それは、あんまり気分のいいものではありません。

節子が元気だったら、こんな自分に出会わずにすんだだろうと思います。
あまりに、節子に依存して生きてきた自分に、いささかの嫌悪を感じます。
しかし、もし立場が逆だったら、節子はきっと、もっと悲惨だったでしょう。
最近、そう思うことがあります。

夫婦の別れは、先に旅立つ方が幸せです。
つくづくそう思います。

今日はちょっとさびしい日でした。

■2629:アリ(2014年11月11日)
節子
昨日の出来事です。

湯島で来客から来客の間、30分ほど一人になることがありました。
マグカップにコーヒーを入れ直そうと思って、少し離れたところに置いていたカップに目をやると一匹のアリが、マグカップの側面を歩いていました。
どうしてこんなところにアリがいるのだろうかと思っているうちに、アリはカップの後ろ側に回ってしまい見えなくなりました。
それで、カップを取り寄せて、後ろを見たのですが、なぜかアリがいません。
カップはテーブルの真ん中に置かれていたのですが、周りを探しまてもいないのです。
近くには何もない状態でしたから、隠れようはないはずです。
そんなはずはないと思い、懸命に探しましたが、結局、見つかりませんでした。

夢を見たのでしょうか。
なにやら不思議な気分になりました。
しかし、そもそもテーブルの上に、アリがいることが考えられません。
部屋の中でアリに会ったことは、少なくともこの数年はありません。
見間違えでしょうか。
そう考えなければ、辻褄が合いません。

まあ、それだけの話なのですが、1日経った今日も、どうも気になります。
あのアリはだれだったのだろうか、と。

実は、その少し前にブログに「蟻のように生きる人生」という記事を書いたところで、アリのことをいろいろ考えていたのですが、その影響で幻想を見たのかもしれません。
しかし、そのアリは、たしかにマグカップの側面を横に歩いていたのです。
そして消えてしまった。

昨夜、薄暗い庭に出た娘が蛇がいると言うので、懐中電灯を持って出てみたら、枯木がちょうど蛇のように見えたものでした。
人が見る風景は、自分の頭の中で創り出したイメージであることは、少なくありません。
あのアリも、私の脳が創り出したものだったのでしょうか。
そう思うと、だんだんそんな気がしてきます。
見えるはずのない、アリの顔までが浮かんでくるのです。
脳が創り出したものは、どんどんと脳が育てていくのでしょうか。

湯島では、時々、こんなことを体験します。
一人でいると、いろんなことを体験するのです。
そういえば、2か月ほど前には、テーブルの上に置いた部屋の鍵が忽然と消えてしまったこともありました。
この部屋は、もしかしたら、彼岸とでもつながっているのでしょうか。
もしそうなら、今度は、アリではなく、節子を出現させてほしいものです。

今日はまた、凍えそうなほどに寒い日になりました。

■2630:不安な1日を安心して過ごしましょう(2014年11月12日)
節子
久しぶりに不安な夢を見ました。
いろいろと気になっていることが、悪い形で夢に現れてきます。
歳を重ねるとこういうことが増えてきます。
悪い夢は誰かに話せばいいと言われますが、話す気にもなれない夢もあります。
言葉にすると、まさにそれが実現してしまうのではないかという不安もあります。
静かに吉報を待つことにしました。

夢というのはとても不思議です。
前にも書いたかもしれませんが、3.11の前には海の波が襲ってくる夢をよく見ました。
私自身が山に逃げあがる夢も何回も見ました。
時に節子と一緒に、時には節子と離れ離れに。
節子がいたら、そうした夢についてたぶん話し合ったでしょうが、なぜ津波の夢を見るのか不思議でした。
しかし、3.11が起きてからは、津波の夢を一度も見ていません。
単なる偶然なのか、私だけではなく、多くの人が3.11の前に津波の夢を見ていたのか、ちょっと知りたい気もします。

節子がいなくなってから、見るようになった夢のひとつは、飛行機に乗り遅れそうになる夢です。
最近は飛行機に乗る機会はほとんどないにもかかわらずです。
乗り遅れそうになる理由はいつもほとんど同じです。
荷物の整理が間に合わないのです。
これは考えようによっては、今の私へのメッセージかもしれませんが、この1年ほどは、あまり見なくなりました。

私は暗示にかかりやすいタイプなので、夢にはあまりこだわらないようにしています。
幸いに、夢というのは、気にしないようにしていると、すぐに忘れるものです。
昨夜も、とても懐かしい人に会ったような気がしますが、今ではもう思い出せません。
ところが、冒頭に書いた不安な夢は今もはっきりと思いだせます。
ある人からの電話ですが、会話が成り立たないのです。
これ以上書くのはやめましょう。

今朝も気持ちが凍えるような寒さです。
暖房器具のない寒い書斎から、外を見たら、近くの電話線に大きなカラスがとまっています。
気のせいか、時々こちらを見ています。
さらに気持ちが冷えました。

というわけで、今日は出かけるのをやめることにしました。
明日は来客で、出かけられないので、今日は湯島に行こうと思ったのですが、なにやら不安感があるのでやめました。
幸いに約束がありませんでしたので。

なにやら不安な1日を、今日は過ごそうと思います。
とここまで書いた時に、つまり、いまですが、大きな地震が来ました。
やはり今日は不安な1日になりそうです。
家にいたら、たぶん安心でしょう。

■2631:それでももう少し続けましょう(2014年11月15日)
節子
3日間、また挽歌をさぼってしまいました。
最近、気分の起伏が大きいのと、友人知人のことが気になってしまっているとで、なんとなく落ち着かなく、挽歌も時評もあまり書く気が起きないのです。

しかし、節子のことを思い出さない日はありません。
それに、節子を思い出させることに出会うことも少なくありません。

たとえば、先日、テレビで映画「ジェロニモ」を見ていたら、こんなセリフに出会いました。
ジェロニモは妻を先になくすのですが、その時に、ジェロニモは「生きる意味を失った」というのです。
昔、見た時には、まったく気にも止まらなかったセリフです。
今回は奇妙に心に残りました。

例えば、これも映画ですが、妻を亡くした人が「一人で寝るのはさびしいですね」と言われて、「眠れないよ」という場面がありました。
私は、幸か不幸か眠れますが、さびしいことには変わりがありません。

ハワイのキラウェア火山の溶岩が家屋を焼き払ったシーンが出てくれば、節子と一緒に行った時のことを思い出します。
今日は、萩市の人に会いましたが、そういえば、萩も節子と自転車で回りました。
こんな感じで、いろいろと思いだすことは多いのです。

思い出すことが多くなったので、挽歌が書けなくなっているのかもしれません。
しかし、ここまで続いたので、なんだかやめる気になれません。
ますます内容がない挽歌になってきていますが、ともかく書き続けようかと思っています。
困ったものです。

しかしいつかまた内容がある挽歌が書けるようになるかもしれません。

■2632:たくさんの柿とみかん(2014年11月16日)
節子
敦賀から、庭になった柿とみかんがどっさり送られてきました。
野菜もたくさん届きました。
毛虫付きの白菜もです。
節子がいたころは、みかんが酸っぱくて食べられませんでしたが、今年のミカンはなぜか美味しく、それで送ってきてくれたのです。

節子たちの姉妹は、とても仲良しでしたから、いまもいろいろと送ってきてくれます。
なにかお返しと思いますが、そういうのが全く不得手で、いつも失礼をしています。
娘からも言われますが、私には誰かに何かをプレゼントするというのが苦手なのです。
自分のものでさえ、買うのが嫌いで不得手ですので、以前はすべて節子に任せていました。
ですからお金を使うのが非常に苦手なのです。
節子がいたころは、誰それにお世話になったので、何か送っておいてよ、と言えば、すべて解決していましたが、娘にはさすがに言えません。
なにしろ節子への誕生日祝いまでも、節子に何か買っておいてよというほどでした。
全く誠意もないわけですが、私自身はそういうことにほとんど関心が持てないのです。
実に困ったものです。
しかし、そういう性分なのだから仕方がありません。
それに財布も持っていないので(最近はようやくカードを使えるのですが)、以前は買い物自体ができなかったのです。
無理してプレゼントを探したこともありましたが、やはり楽しいものではありません。
贈り物という文化が、私にはどうも苦手なのです。
理解できないと言ってもいいかもしれません。

結婚以来、節子がいたころは、レストランでお金を払ったことは一度もありません。
だから一人ではレストランには、いまも入りません。
時に間違ってカフェに入ると支払わずに出てしまいかねなので、先払いのカフェに入るようにしています。
大学生のころは、決してこうではなかったのですが、節子に依存して暮らし続けたせいかもしれません。
しかし、おかげで、お金と切り離して生きることになじみやすくなっています。
これは、節子のおかげです。

そういえば、先週、きちんとした立派な富有柿も送ってもらいました。
節子が富有柿が好きだったことを知っている佐々木さんが送って下さったのですが、敦賀の柿は普通の家に鈴生りになっている柿です。
大きさも見栄えも全く違いますが、当分は果物は買わずにすみます。
こんな調子で、わが家には消費税はあまり関係ないのですが、消費税増税は延期になるようです。

今日は実に怠惰に過ごしました。

■2633:「生涯現役」という生き方(2014年11月17日)
節子
また喪中ハガキが届く季節です。
知らなかった人もいますが、改めて親しい友人のハガキが届くとドキッとします。
やはりもういないのだと思うわけです。
めったに会わない友人の場合は、正直に言えば、訃報を受けた時や葬儀では悲しいですが、3か月も経過すると意識の外に行ってしまいます。
親しい友人の場合も、そうです。
もちろん頻繁に会っていた友人の場合は違うでしょうか、遠くに住んでいて、数年に一度くらいしか会うことのなかった友人の場合は、記憶から外れてしまい、そのうち、亡くなったことさえ意識しなくなるのです。
私が薄情のせいかもしれませんが、少なくともこれが事実です。
それに、会うことは友情の必須要件ではありません。
まだ一度もお会いしたことのない友人も、私には数名います。
相手の方が友人と思っているかどうかはともかく、私の心象世界の中では、友人であり、姿かたちのイメージもあります。
大変不謹慎な話ですが、万一、その方が亡くなったとしたらどうでしょうか。
会ったこともない人との別れは、どんなものでしょうか。

歳をとって世間から隠棲する意味は、友人知人の死を悲しまないため、あるいは自らの死で友人を悲しませないための、知恵だったのかもしれません。
「生涯現役」という生き方は、もしかしたら、そうした人類の知恵に反する生き方かもしれません。
今日も届いた数通の喪中ハガキに目を通しながら、そんなことを考えました。

若い友人から、佐藤さんのように「生涯現役」を目指したいと言われたことが2回ほどあります。
私は、決して「生涯現役」を目指してはいません。
ただ素直に、生きたいように生きているだけです。
しかし、やはり生き方はもう少し考えたほうがいいかもしれません。
人は自然に滅んでいくのが理想です。

■2634:褒めてくれる人(2014年11月19日)
節子
高倉健さんが亡くなりました。
テレビはそれに関連した番組が多くなっています。
高倉健さんが多くの人に愛されていたのを改めて感じます。

ちらっとしか見ていないのですが、高倉さんが昔書いた文章が報道されていました。
お母さんが亡くなった時のもののようです。
それは、お母さんに褒められるために、自分は頑張ってきたという内容で、最後に、「お母さんがいなくなって、代わりに褒めてくれる人を探さないといけない」というような言葉で締められていました。
意外な話ですが、高倉さんのお人柄が伝わってきます。

私には、そういう気持ちは全くありませんでした。
両親を喜ばせようと思ったことは一度もなく、逆に迷惑ばかりをかけてきました。
しかし、結果的には両親は私の生き方を喜んでくれたはずです。
褒められたことはありませんが。
ただ両親が節子を私に褒めていた記憶はあります。

私を褒めてくれたのは、もしかしたら節子でした。
もっとも節子から直接褒められたことはあまりありませんが、節子の葬儀の後、節子の友人から節子が私のことを褒めていたという話を聞いたことがあります。
私は、むしろほかの人に伴侶を褒めることは厳禁だという考えでしたし、節子もそう思っていたはずなので、それは意外な話でした。
どう褒めていたのかは、今ではもう確かめようもありませんが、私の価値観はちょっと歪んでいるので、それが私にとっての褒め言葉かどうかはわかりません。
しかし、その話を聞いた時、正直、少しだけうれしかったのも事実です。

今日、高倉さんの言葉を聞いて、私が楽しくやってこられたのは、そして何事もうまくできたのは、節子が褒めてくれていたからかもしれないという気がしてきました。
そういえば、節子がいなくなってからは、だれも私を褒めてくれません。
そのせいか、最近はうまくいかないことが多くなっています。

私は誰かを褒めるのがとても不得手ですが、褒められるのはもっと苦手だと思っていました。
しかし、褒めるということは、そして、褒められるということは、人を元気にしてくれるのでしょう。
気づくのが遅すぎました。

ちなみに、自分を褒めてやりたいという言葉は、私にはまったく理解できない言葉です。
どちらかといえば、好きになれない言葉です。
だれかに褒められたいというのはもっと嫌いな言葉でした。
しかし、もしかしたら、節子に褒められていたので、それで十分だったのかもしれません。
いまもまだ、節子は私のことを褒めつづけているでしょうか。
残念ながら、確信は持てません。

■2635:世の中には悪い人もいるかもしれない(2014年11月20日)
節子
最近、私の考えがもしかしたら間違っているのかもしれないという気がしてきています。
この歳になってそう思いだすのは、かなりつらいものがあります。

私は、この世の中には「悪い人」はいないと考えています。
節子には必ずしも賛成されませんでしたが、少なくとも節子は私のその生き方を否定はしませんでした。

「悪い人」はいませんが、「悪い言動」はあります。
このブログの時評編では、私もまた、時々「悪い発言」をしていますし、これまでの人生において私も「悪い行動」をしたことも少なくないでしょう。
しかし、それにはそれぞれ理由があるわけで、悪い行動をする人も、ほんとはそんなことをやりたくはない、というのが私の考えです。
そういう視点に立てば、悪い言動をする人には同情するべきであって、非難するべきではない、ということになります。

そういう考えだと、時々、周りの人にも迷惑をかけることさえ起きます。
できるだけ迷惑をかけないようにしていますが、時には思ってもいないような迷惑をかけていたことに気づくこともあります。
その迷惑を一番受けたのは、家族です。
もう取り返しがつかないのですが、最近反省させられることが多いのです。

しかし、悪い人はいないと考えて生きることで、得たものや生きやすさもあります。
それは、たぶん節子も味わったのではないかと思います。
迷惑と得たものとのバランスがとれていたかはわかりませんが、良し悪さの評価基準も相対的なものですから、考えてもあまり意味がありません。
ただ、節子が「良い人生」だったと言ってくれたのは、本意だったと思います。
私もまた、いまのところは、とても良い人生でした。

しかし、この歳になって、人生を少し客観的に見えるようになると、いかにも自分勝手で自分本位の生き方をしてきたと思わざるを得ません。
そう思いだすと、心身が重くなってきます。

そんな心境の中で、もしかしたら世の中には「悪い人」もいるのかもしれないと、最近思うようになってきたのです。
具体的にどうだと言う話ではありません。
そう考えると、自分を正当化できるからです。
しかし、正当化したところで何かが変わるわけではありません。

自分が創り出した「まわりの人への迷惑」はなんとか収めようと思うのですが、なかなかうまくいきません。
節子がいなくなってからの私の言動は、やはりバランスを崩してしまっていたようです。
その重さに、いささか打ちひしがれてしまっています。
こころが晴れないのは、まさに自業自得です。
私の反省点は、「良い人」に「悪い言動」をさせてしまったことです。
哀しいですが、やはり家には鍵をかけないといけないのでしょう。
それが私にはなかなかできませんでした。

ちなみに、家の鍵はたとえであって、わが家に泥棒が入ったという意味ではありません。
念のため。はい。

■2636:また底なし沼に引きずり込まれそうです(2014年11月22日)
節子
最近、毎日のように不愉快なことがあります。
さして大きなことではなく、実に些末で、節子に話したら笑われそうなことですが、私自身にとっては結構不愉快なことなのです。
身勝手な言動は、たとえどんなに小さくとも、いやなものなのです。
たとえば、言葉だけの人はどうも許せないタイプなのです。
おそらく私自身も、同じようなことをやっているのでしょうが、どうも「自分に甘くて、他者に厳しい」のかもしれません。
しかし、どんどんと人嫌いになっていくのが、いささかやりきれないです。

歳をとるにつれて、寛容さが増す人もいれば、逆の人もいます。
私の場合は、後者かもしれません。
いろんなことが見えてきてしまう結果、小さな事さえ気になるのかもしれません。
これを「偏屈」というのでしょうか。
大らかさが消えてしまえば、残されるのは生きづらい人生です。
これは実に困ったことです。

しかし、もっと本質的な問題は、私自身の世界が固定化していることかもしれません。
世界がどんどん広がっている時には、寛容さが維持できます。
というか、寛容でなければ、その広がりについていけないのです。
そして、その寛容さを楽しめもします。
しかし、世界の広がりが止まりだすと、現状をより良いものにしたいという思いから、細かなことが気になりだすのかもしれません。
どうも最近は、些末なことが気になります。
その結果、なにやら不愉快なことがどんどんと蓄積されていくわけです。

不愉快なことがあるから精神が安定しないのか。
精神が安定しないから、小さなことまで不愉快に感ずるのか。
たぶん後者でしょう。
些末なことを不愉快に感ずるような生き方に、今の私は陥っているようです。
伴侶がいないと、こういう時に助けてくれる人がいないのがつらいです。

どうもまた最近うじうじしだしています。
困ったものです。

■2637:世間と付き合うべきかどうか(2014年11月23日)
節子
昨夜はちょっとした「異変」に襲われました。
病気の多くは、自分で呼び込むことなんだなと改めて実感しました。
夕食を食べていたら、突然、視野がおかしくなりました。
まあ年末によくある異常なのですが、何時もとはちょっと違っていました。
異常な不安が全身を襲ってきたのです。
食事を辞めて、30分ほど横になっていたら、ほぼ以前に戻りましたが、血圧を測ったらそれなりに高いので、降圧剤をついに飲んでしまいました。
まあ仕方がありません。
娘に過剰な迷惑をかけてはいけないので、すぐに寝ることにしました。
早く寝たせいか、夜中に目が覚めて、困りましたが。

今朝は、いつもより遅く目覚めましたが、どうもすっきりしません。
休んでいたかったのですが、今日はいくつか約束があり、出かけてきました。
夕食も約束しているのですが、調子が悪かったら失礼しようと思っています。

ところで、昨夜、横になっている時に、いろいろと考えました。
もしかしたら自分で病気を呼び込んでいるのではないのか、と。
もう一つ思ったことは、世間との付き合いをさっぱりやめたらもっと平安な暮らしができるだろうなということです。
どうも余計なことを引き受けてしまい、勝手に苦労しているのかもしれません。
この性分は、しかし、なかなか直りません。

今は湯島にいます。
午前中に人と会っていたのですが、かなりストレスフルな話でした。
こういう話が、一番よくないのです。
気分はますます悪く、やはり今日は自宅で寝ていたほうがよかったなと思いだしていました。

そろそろ次に約束のところに移動しようと思っていたら、続けさまに電話がかかってきました。
一つは見知らぬ人からでした。
私のホームページを見て電話してきてくれたのです。
最近はホームページの更新も最小限になっているので、以前のように読者も多くなく、連絡もない状況なので、少しうれしくなりました。
早速お会いすることになりました。
もう一つは、これまた意外な内容の電話でした。
もしかしたら朗報かもしれませんが、そうでなくとも、またちょっと私の周りに波風が立ちそうです。
波風は私の好物の一つです。

それで、少し元気が出ました。
まさに病気は気分次第です。

そういえば、別の友人が骨折して寝ているという連絡も今朝ありました。
崖から落ちても、けがもしないような頑強な友人ですが、痛くてたまらないそうです。

まあ世間とつながっていると、いろいろとあります。
世間づきあいをきっぱりやめたら、どんなにすっきりするかわかりませんが、やはり朗報や悪報があればこそ、人生は豊かなのです。
苦労のない人生はたぶん退屈でしょう。
胃の痛みも、耐えなければいけません。
そんな気もして、もう少し世間づきあいを続けようと思います。

高血圧の薬はどうしようか迷っています。

■2638:気が弱まっているとやさしくなれるのかもしれません(2014年11月24日)
節子
昨日書きましたが、体調があまり良くなく、昨日は小児外科医の松永さんの講演を聴きに行ったのですが、終わった後の話し合いや懇親会に出られず、途中で退席してしまいました。
楽しみにしていたのに、とても残念でした。

松永さんのお話は、感動的というか、心揺さぶられるものがありました。
いのちとは何か、人間の尊厳とは何か。
理屈ではなく、松永さんの実践体験から積み上げられたお話は、心身を揺さぶられるものがありました。
質疑応答の最後に、私の隣の人が手を挙げて発言しました。
その発言が、さらに私の心身を揺さぶりました。
その方は、トリソミー(染色体異常)の子どもを持つ父親でした。
当事者でなければ決して発言できないお話でした。
最近いろいろな当事者と直接話す機会に恵まれてきていますが、そうした人と話していると、知識だけで話している「専門家」の言葉が白々しく感じられるようになってしまいます。
私自身もまた、「白々しい思いの世界」にいることを思い知らされます。
だから当事者のお話を聞くと心身がゆさぶられるのです。
ちなみに、お話された松永さんは「医師」ですが、当事者の世界で生きている医師です。
私が松永さんにほれ込んだのは、こんな人がお医者さんにもいるんだという思いからです。

ところで、終了後、発言した隣の人に話しかけようと思ったのですが、声をかけた途端に、胸がつかえて、声が出ず、代わりに涙が出てしまいました。
隣の人はさぞ驚いたことでしょう。
自分でも驚きました。
後になって気づいたのですが、今回過剰すぎるほどに心身が揺れたのは、私の体調が悪かったからかもしれません。
そう思わないと理解できません。
松永さんのお話は前にもお聞きしていますし、元気な時にお聴きしていたら、感動だけで終わったかもしれません。
隣席の人への声掛けも、もしかしたらしなかったかもしれません。
体調不良で気が弱まっていると、人の感受性は高まるのかもしれません。
そんな気がしました。

そういえば、節子がいなくなってから、ある意味での感受性が高まったことは間違いありません。
人はやはり悲しみを体験しなければいけません。
そしてまた、悲しみを乗り越える必要もないのかもしれません。
悲しみの中にあればこそ、他者の哀しみも感じられます。
そうなれば、自らの幸せもまた、強く感じられるようになるかもしれません。
人は、それぞれにみな哀しく、幸せなのです。

帰りの電車の中で、体調が悪くて途中で帰宅とフェイスブックに書き込みました。
そうしたらいろんな人がエールを送ってくれました。
気が弱まっていると、そうしたエールも素直に受け入れられます。
天邪鬼の私は、いつもはエールを素直には聞けないタイプなのです。

昨夜は8時に就寝、今日は1日、本を読んだりテレビを見たりで過ごしました。
そのおかげで、どうやら元気になりました。
もう大丈夫でしょう。
少しだけ心が不安なのは、きっと寒いせいでしょう。
明日は暖かいといいのですが。

■2639:「好きになると別れがつらくなる」(2014年11月24日)
節子
今日はテレビで古い映画のDVDを観ました。
今日は休もうと決めていたのですが、何もしないのは実に退屈で、ついつい観てしまいました。
観た映画は、古い西部劇映画の「シェーン」です。
私が小学校の時に初めて観た西部劇映画です。
この映画で、私は西部劇ファンになりました。
ただし、1960年代までの西部劇ですが。
なんでいまさらという気もするのですが、手元のDVDを探していたら、これが出てきたのです。

ところが映画が始まって、あの有名な音楽が流れだしたら、それだけで涙が出そうになりました。
昨日の余韻ではないでしょうに、なぜか最近は涙がよく出ます。
かつては有名だったこの映画も、今では知らない人の方が多いでしょう。
流れ者の元ガンマンが開拓移民をガンマンから守るために立ち上がり、去っていくという話です。
当時は、主役のアラン・ラッドの早打ちと殺し屋のジャック・バランスの不気味さと子役のブランドン・デ・ワイルドが話題になりました。
しかし、この映画は、単なる活劇ではなく、そこに甘酸っぱい人情劇が絡んでいるのです。

シェーンが厄介になったジョーの妻のマリアンが、息子のジョーイにこういうのです。
シェーンを好きになってはいけない。
好きになると別れがつらくなるから。
この言葉は、実は自分に言い聞かせている言葉でもあるのです。
久しぶりにこの言葉を聞きました。

人を好きになることはうれしいことです。
しかし、それは同時に、別れを背負い込むことでもあるのです。
人生とは、実に皮肉なものです。

今日はなんだか涙の多い1日でした。
そういう日は、本当にたわいないことでも涙が出るものです。
明日からはしばらく涙はやめましょう。

■2640:「死」と「別れ」(2014年11月25日)
節子
今日はさらに寒い日になりました。
そのうえ、雨です。
せっかく今日から元気になろうと思っていたのに、困ったものです。
寒いと元気が出ません。
また倒れないように、注意しなければいけません。

しかし状況を変えるために湯島に行くことにしました。
わが家は寒いですが、湯島はエアコンがあるので暖かくできます。
家だと暖房施設のない私の書斎(仕事場)ではパソコンをする気にもなれません。
それに今日は、まだ会ったことのない人が湯島にやってくるのです。
どういう人でしょうか。

ところで有名な話ですが、昨日、観た映画「シェーン」に関して、殺し屋との打ち合いでシェーンは死んだという説があります。
これは、最近の、たしか007の映画でも劇中で話題になっていた話です。
「シェーン」のラストは、ジョーイが馬に乗って去っていくシェ−ンに向かって、
「シェーン カムバック」と叫ぶシーンです。
それに応えることなく、シェーンは去っていくのですが、その時にすでにシェーンは死んでいたという説が一時期、広がったのです。
それに関して、いろいろな理由付けがされたのです。
実に平和な時代でした。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という話も有名ですが、諸葛孔明の死はどの時点とすべきでしょうか。
もちろん息を引き取った時点が本人にとっては死でしょうが、ほかの人にとっては、必ずしもそうではありません。
愛する人の死を、いつまでたっても受け入れられない人もいます。
その場合は、たぶん、その人の世界ではまだ死は起こっていないのです。

「別れ」と「死」。
「死」とは必ずしも「別れ」ではないのかもしれません。

■2641:いのちのつなぎ方(2014年11月25日)
節子
湯島で時間ができてしまいました。
ちょっと書き遅れている挽歌を書くことにしました。

昨夜、テレビで5歳未満の子どもの臓器移植が報道されていました。
すべてうまくいったそうで、とても安堵しました。
しかし、ドナーの家族のことを思うと心が重くなります。
どんなに複雑な思いにあることでしょうか。

以前、ドナーの家族のご夫妻とお付き合いがあり、ささやかにその活動にも関わらせてもらいましたが、今はどうされているでしょうか。
娘さんのお一人を交通事故で亡くされたのですが、一人でも欠けてしまうと家族は変質しがちです。
家族というのは、実に微妙な関係でもあるのです。
思いが深すぎて、それが逆作用することもあります。

とても仲の良いご夫妻でしたが、それぞれに重い荷物を背負っているのをいつも感じていました。
もう15年ほど前のことですが、今とはだいぶ世間の理解度も違っていて、ドナー家族は大きな精神的な負担を背負うような時代でした。
私と出会った時には、精神的にも不安定だったのだと思います。
最初のコミュニケーションはあまりうまくいきませんでしたが、すぐにお互いに心が開けました。
しかし、たぶんそれはあくまでも浅い意味の心であって、私はご夫妻の悲しみの半分もわかっていなかったでしょう。
当時、様々な問題を抱えている人たちと、できるだけ素直に、そして誠実にお付き合いさせてもらいましたが、今から思えば、まだまだ第三者的でした。
そうしたことに気づかされたのは、やはり節子のおかげです。
当事者の思いは、第三者とは全く違います。
当然ではありますが、だからこそ支え合うこともできるのです。

節子は病気でしたので、臓器移植はできませんでした。
しかし、誰かが節子の一部でも引き継いでくれていたらと思うことがあります。
いや私自身が何か引き継ぐことができなかったのだろうかとも思います。
そんなことを口にしたら、ドナー家族を傷つけるかもしれません。
でも、どこかで愛する人が生きていると思えるような気もします。

命をどうつないでいくか。
それがそのご夫妻の課題でした。
この報道をどんな思いで見ているでしょうか。

■2642:ヒューマニズムが見たい(2014年11月26日)
節子
昨日、私のホームページを見て湯島に訪ねてきてくれた人がいます。
世界にはいろんな人がいて、いろんな生き方をしていることを、少しは知っていますので、どんな人に会っても滅多には驚きませんが、今回はちょっと驚きました。
私よりも1歳年上ですが、私に比べると段違いに純真で開放的な人です。
由緒ある来歴の人ですが(話していてわかりました)、それを話しもしなければ隠しもしません。
その人にとっては、たぶん「瑣末なこと」なのでしょう。

かなりの時間話しましたが、お互いにほぼすべてのこれまでの生き方を象徴的にわかり合った気がします。
その方も言ってくれましたが、私たちにはその価値観や生き方において、共通するところがかなりあります。
だからきっと、突然に電話をかけてきて、湯島にも来てくれたのです。

その方のライフワークは、ヒューマニズムがあふれたテーマパークづくりです。
というか、たぶんヒューマニズムを見たいのです。
ヒューマニズムを見たい、というのはわかりにくい表現ですが、そんな気がします。
実は、私もそう思っているからです。

もうひとつ共通点がありました。
伴侶がおらずに、毎日、一人で寝ていることです。
一人で寝ているとさびしいですと、心底、さびしそうに話されました。
こんなに素直に心情を豊かに話された人は初めてです。
私まで涙が出そうになりました。

長寿の家系だそうです。
「あったかいテーマパーク」を創れれば、いつ死んでもいいということですが、逆に言えば、「あったかいテーマパーク」を創るまでは死ねないのです。
その人がいつでも死ねるように、何かできることはないか。
昨夜から、その問題を考え続けています。
私も、いつでも死ねるように、抱え込んでいる問題を解決してくれる人がほしいです。

■2643:病気の節子のことを思い出すと辛くなります(2014年11月27日)
節子
入院中のTさんから電話がありました。
10日の予定が延び延びになっていて、もう40日を超えていました。
様子を訊く勇気もなく待っていましたが、そろそろ見舞いに行こうかと思っていた矢先です。
正直、今でも私には、病院への見舞いは結構ストレスなのです。
そのTさんからの電話でした。
元気そうな声で、疲れ切った感じの私の声を聞いて、逆に心配されてしまったほどです。
「そういえば佐藤さんのほうが年上だよね」と言われました。
それで、私も、「まあ歳の順にしたいよね」と答えましたが。
Tさんは、節子のこともとても心配してくれた人ですが、節子亡き後の私のことも心配してくれているのです。まあ、「たぶん」ですが。

Tさんからの電話は朗報ですが、これまた節子もよく知っているKさんからは、気管支ぜんそくで入院していたという電話がありました。
気管支ぜんそくと言えば、節子もとても悩まされた病気で、2回も入院しています。
その時の節子のことは思い出すだけでもつらいものがあります。
病気に関する節子の思い出もたくさんあります。
あまり思い出したくない記憶ですが。
病気の節子のことを思い出すと辛くなります

私は、入院経験は親知らず歯を抜くとき一度経験しただけです。
入院と言っても気楽な入院でした。
病気に関しては、当事者になったことがないのです。
だからきっと入院に関する感受性は弱いでしょう。
人は体験しないことは、理解はできても感じられないものです。

昨夜、娘に勧められたサプリメントを飲んで寝たら、体調が回復していました。
体調が戻ったら、今日は天気も良くなりました。
私の大好きな広くて深い青空です。
Tさんは見ていないでしょうね。

■2644:「おみおくりの作法」(2014年11月28日)
節子
久しぶりに映画の試写会に行ってきました。
映画は「おみおくりの作法」。原題は「Still life」、静かな人生です。
日本語のタイトルには大きな違和感がありますが、それはそれとして、心に残る作品です。
ヴェネチア国際映画祭などで数々の賞をとった話題の作品だそうです。

舞台はイギリス。
孤独死した身寄りのない人を弔う仕事を誠実に取り組んでいる44歳の民生係ジョン・メイが主人公です。
ジョンもまた孤独です。
主人公のジョンのセリフはあまりなく、サイレント映画のようでもあります。
しかし、それにもかかわらず、ジョンの気持ちは痛いほど伝わってきます。

筋を明かすわけにはいきませんが、私は途中からもう涙が止まりませんでした。
書きたいことがたくさんあるのに、書けないのが残念です。
でも、セリフのひとつ二つは書いてもいいでしょう。
といっても、何しろジョンはほとんどしゃべらないので、セリフはジョンのものではありません。
例えば、「黙ったまま隣り合っていられる相手」がいることの幸せが語られます。
例えば、「彼の過去は知らないのに1日で離れられなくなる」と愛が語られます。
例えば、「彼は命の恩人だ、あの山で俺を見捨てないでくれた」と友情が語られます。
そして、セリフのないジョンのStill lifeが、人間が生きることの哀しさを教えてくれます。
そして、それは喜びにもつながることを。
そして、誠実とはなにかも。

20年前に観たギリシア映画「永遠と一日」に負けずに涙が出ました。
今回も、ずっと節子が隣にいる気持ちで観ていました。
あの時と違って、嗚咽は堪えられましたが、沸き起こった思いのやり場には困りました。
「黙ったまま隣り合って」いてくれる節子が無性に恋しくなりました。

来年の1月からロードショーが始まる映画です。
多くの人に観てほしい映画です。
http://bitters.co.jp/omiokuri/
公式サイトに予告編があります。

■2645:葬儀は誰のものなのか(2014年11月29日)
節子
昨日観た映画の余韻がまだ残っています。
はっとしたやりとりがもう一つあります。
これも主人公の言葉ではありませんが。

ジョンの仕事のやり方に批判的な上司が彼に解雇宣言する時に、こんなことを言うのです。
葬儀は遺された者たちのためのものだから、だれも参列しない葬儀は不要だ、ただ火葬すればいい、と。
葬儀とはいったい誰のものなのか。

葬儀は必要か不要か、という議論が日本でもあります。
そういう議論も、このことに深くつながっています。
私自身は、葬儀は「要不要」の議論の対象ではないと思うようになっています。
それを超えて、自然に行われるものだと思うのです。
そして、それは生前のその人とその周りの人たちとの生き方の問題でもあります。
決めるのは当事者であって、一般論で語るべき問題ではないように思います。
それに、それぞれの葬儀のスタイルもありますから、第三者からなかなか見えないものがあります。

葬儀とはいったい誰のものなのか、という問いも難問です。
死者のためか、遺された者のためか。
私は、これには答えられません。
答はおそらく両者のため、さらにはもっと大きな「いのち」のためとしか言えません。

節子も私も、自分のお墓も葬儀も否定的でした。
しかし、死が見えてきた時に、私たちは2人とも自然にいずれをも、当然のように受け入れました。
そのやり方にはいささかの後悔は残っていますが、たくさんの人に来てもらった葬儀が行われたことは、私も節子もよかったと思っています。
節子がそう思っているのが、なぜわかるのかと言われそうですが、通夜に一人で節子の隣にいた時に、それが伝わってきました。
間違いありません。

ついでに言えば、お墓もまた死者のためでも遺された者のためではありません。
死者と遺された者が共に生きるためのものなのだと、最近は思えるようになっています。
まだ現世と彼岸とがつながっていた昔、お墓のスタイルが生まれたのです。
最近はそう思うようになりました。

あんまり映画につながる話は書けませんでした。
何しろ書いてしまうと映画の「ネタバレ」になりかねませんので。

■2646:空虚な週末(2014年11月30日)
節子
人生はなかなかうまくいきません。
いろいろとあってやはりまだ生活が軌道に乗りません。
どうしてこうもうまくいかないのでしょうか。
体調は戻りましたが、生活は戻りません。

この土日は、自宅に居て、何もしない予定でした。
いや事実、何もしなかったのですが、なぜか何もできませんでした。
なんだか禅問答みたいですが、何もせずにやりたいことをやりたかったのですが、そのやりたいこともできなかったということです。
相談ごとの長電話が2本もかかってきたり、半分寝ながらテレビを観ていたり、結局、何をやっていたかわからない2日間になってしまったのです。
今頃になって、挽歌を書いていますが、何もしないとやはり何かすっきりしません。

何もしなくても、節子と一緒にいたら、こんな思いにはならないでしょう。
しかし、一人だとむなしい1日だったという思いしか残りません。
罪の意識さえ感じます。

先週はいろいろとたくさんの刺激がありすぎました。
あまり書けないこともいくつかありましたし、考えさせられることも少なくありませんでした。
娘からは、思いつきで生きるのをやめろと言われていますが、私にもそれなりの苦悩もあるのです。
節子が隣にいてほしい週末でした。

先週前半は体調不良、後半は精神不良でした。
人生は、なかなか平静になりません。
困ったものです。

■2647:思い出してくれるだけでうれしい
(2014年12月1日)
節子
節子の友人の野路さんと久しぶりにお話ができました。
ご主人に電話したら、うれしそうに、ちょっと待って下さいと言われ、代わって電話口に出てきたのが野路さんでした。
階段から落ちたことがきっかけで記憶を失い、身体にも障害が出てしまい、私との電話にもこれまで出られなかったのですが、少しずつ記憶が戻り、話もできるようになったのだそうです。
「我孫子の佐藤さん」というと、思い出すのだそうです。
でももしかしたら、電話口には節子がいると思ったかもしれません。
しかし、口調はお元気そうでした。
実にうれしい話です。
節子が元気だったら、野路さんももっと早く回復したかもしれません。

ご主人は毎日野路さんのリハビリなどを含めてケアしているそうです。
笑いながら、記憶が戻ってくるにつれて自我が出てきて、わがままになってくるので疲れますと言いました。
そして、それに続いて、でも「元気でいるだけでうれしいです」と付け加えました。
それが夫婦でしょう。
何やらとてもうらやましい思いがしましたが、私自身もうれしくなりました。
こうやって節子の友人たちが節子を思い出してくれるだけでうれしいものなのです。
節子にとっては、野路さんは闘病に際しての目標だったのです。
野路さんは、病気の先輩だったのです。
辛い手術の時も、節子は野路さんのことを思いながら頑張ったはずです。

節子と野路さんとは、ほかにも福岡や岡山に住んでいる2人の仲良しがいて、わが家にも来てくれたことがあります。
節子がいなくなってからも、みんなで来てくれました。
家族づきあいをしていた頃、私はあまり付き合いの良いほうではありませんでした。
それもまた悔やまれる思い出です。

■2648:陽だまりの中の無為(2014年12月2日)
節子
体調の関係もあって、この1か月はあまり人には会いませんでした。
正確に言えば、人と会わない日が多かったということです。
いささか人嫌いになってきているからです。

土との触れ合いも少なかったです。
天候のせいもありますが、畑に行く気が起きませんでした。
幸いに、この季節になると野草もあまり生えてこないのです。

これほど自宅に居る日が多かったのは、節子を見送ってからの1年以来かもしれません。
あの頃は、友人たちが何かと私を引き出してくれましたが、最近はそれもあまりありません。
しかし、考えてみれば、これが歳相応ということなのかもしれません。

今日は午後から在宅していましたが、適度な陽当たりの気持ちの良い午後でした。
陽だまりの中でお茶を飲みながら無為に過ごす。
それこそが、人生の最高の行き着き先かもしれません。
事実、私はそれを望んでいました。
しかし、それをひとりで演ずることは、いかにも退屈なのです。
一人で無為を楽しむ境地には、まだ辿りつけていないようです。

しかし、平和な午後でした。
人生とは実にうまくできていて、素直に生きていると、自然と幕が下りていくのかもしれません。

■2649:ラムセスヒルトン(2014年12月2日)
節子
毎週はがき定期便をくれる鈴木さんは、料金の切手以外に、私のためにわざわざ選んだ切手(JAPEXで購入)を本文の上に貼ってきてくれます。
なぜか私にはエジプトと絵画がテーマだそうです。
エジプトは好きなのですが、実は絵画はあまり好きではないのです。
節子は絵画が好きでしたが、私は彫刻が好みです。
まあそれはどうでもいいのですが、今日、届いたはがき定期便には、カイロのヒルトンホテルの切手が貼ってありました。
そして、「ここに泊まられましたか?」と書いてありました。

私たちがエジプトに行ったのは、もう20年以上前です。
最初のわが家の家族海外旅行でした。
退職金をもらっていたので、当時のわが家はいささかバブルでした。
いまではありえないのですが、JTBのエジプトツアーに行くことにしました。
行き先がエジプトでしたので、家族はあまり乗り気ではありませんでした。
節子も、どうせならヨーロッパかカナダを望んでいました。
しかし、私の好みで最初の海外旅行はエジプトになってしまいました。
その時に宿泊したのが、カイロのラムセスヒルトンでした。
懐かしい話です。

その時のツアーはとても充実したものでした。
エジプト在住の中野さんがずっとガイド役をしてくれました。
中野さんのガイドは素晴らしかったです。
中野さんとは今もお付き合いが続いています。

中野さんは、エジプトは好きになってもう一度来る人ともう絶対来ない人と別れるのですよ、と話されましたが、私たちは必ずもう一度行こうと思っていました。
最初はあまり乗り気ではなかった節子も、とても気に入ったのです。
節子の病気が治ったら、必ず行ったはずです。
しかし、残念ながら、2度目はありませんでした。
節子がいなくなったからです。

もう2度と泊まることのないホテルの切手を懐かしく見ています。

■2650:夫婦喧嘩(2014年12月3日)
節子
エジプト旅行中に3回夫婦喧嘩をしたことを思い出しました。

今朝、カイロのヒルトンホテルの切手を貼ってきてくれた鈴木さんが、メールをくれました。

切手のナイルヒルトンは確かナイル川の中洲にありました。
単なる宿泊施設ではなく切手になるくらいの観光名所ということですね。

そう書いてありました。
それを読んで、そのナイル川にかかっている橋を歩いて渡っている時に、たしか夫婦喧嘩をしたなと思いだしました。
私たちはよく喧嘩をしたのです。
まことにみっともない話ですが。

エジプト旅行では、たぶん3回、言い争っています。
不思議と記憶が鮮明なのです。
ただし、喧嘩の原因も内容も全く思い出せませんが。
あとの2回は、ルクソールのホテルと回路に戻る途中の列車のなかでした。
列車内の喧嘩以外は、まあ軽い論争だったと思いますが、それも朝日が昇り始めた風景が車窓に見えだしたので、収まりました。

よく話し合いをする夫婦は、よく喧嘩もするものだ。
これは私の勝手な解釈です。
節子はあまり賛成はしないでしょう。
節子は喧嘩が嫌いでしたから。
そのくせ、謝ることもしませんでしたが。

しかし、どんなに喧嘩をしていても、相手を憎むことはありませんでした。
夫婦喧嘩とは不思議なものです。
それが少し過激になると、DVになってしまうのかもしれません。
不思議なのは、夫婦喧嘩ではなく、夫婦なのでしょう。
喧嘩によって距離を縮めることができるのが夫婦や友人。
喧嘩によって溝を広げてしまうのが知人や他人。
かもしれません。

それにしても、夫婦喧嘩をする相手がいないことは、とても寂しく悲しいものです。

■2651:死は終わりではなく始まり(2014年12月4日)
節子
とても重い、重い,でも、元気をもらえる本を読みました。
松永正訓さんの「小児がん外科医」です。
松永さんにある問いかけをしたら、「がんの話は佐藤さんには無理だろうから、ここだけを」といって付箋をつけて送ってくださったのです。
松永さんの、そのお心遣いに感謝しながら、そのページをまずは読んだのですが、結局、全部を読むことになりました。
松永さんの悲しみや厳しさへの姿勢に、感動しながらです。
4日かかりりましたが、松永さんの強さと優しさに改めて感服しました。

松永さんはたくさんの「死」に立ち会っています。
そして、たくさんのことを学んでいる。
そして、こう書いています。

死は何かの終わりではありません。
何かが終わる死というものは存在しない。
死から何かが始まることもある。

愛する人の死は、決して終わりではなくはじまり。
いまの私は、素直にうなずけます。
しかし、その始まりを前に進めることが難しい。
もしかしたら、どこかに、始めたくない自分がいるのかもしれません。

先日観た「おみおくりの作法」と重ねて、考えると、やはり頭が混乱してきます。

■2652:聞き手の役割(2014年12月4日)
節子
たまにはうれしい電話も来るものです。
入院していた武田さんがようやく退院するそうです。
最初の言葉は、ドキッとするような電話だったのですが、それは武田さんらしいジョークで、一安心でした。
最近、胃が痛くなるような電話ばかりだったのですが、久しぶりにうれしい電話でした。
もうしばらく武田さんとの現世の付き合いは続くようです。
まあ、あまり長いのも考えものですが。

病院からの電話のくせに、長電話で、相変わらずの政治議論をしてしまいました。
そのうちに、おなかが痛くなったから切ると武田さんが言いました。
お互い、武田さんがかなりの病気であることの認識が欠けています。
困ったものです。
退院がまた延びなければいいのですが。

武田さんは、いまのひどい政治に対する武田さんの意見を聞いてくれる人がいない、少数派の無念さを感ずる、というのです。
しかし、それは喜ぶべきことでしょう。
少数意見の持ち主こそ生きている人間。
多数説にある人は、もう死んでいる人だから、少数派であることに喜びを感じようと応じました。
少数派であることを誇りに思わなければいけないということです。
私と同じくらい単純な武田さんは、「そう言われるとちょっと気分がいい」と言いました。
そこから、いつものようにまた、無意味な政局批判が続きました。
世の主流を歩いている人は、だれも本気で政治など考えていないでしょう。
まあ考えているのは、社会から脱落し、円安だとか株高などとは無縁の生活にある私たちくらいでしょう。
そもそも政治とは、アテネではそうだったように、「余暇活動」なのですから。

武田さんの「論理」的な話に、社会の主流の人たちは耳を貸さないでしょう。
忙しく働いている人たちには、アベノミクスがなんであるかさえ、考える余裕もないでしょう。
私には無縁な、円安や株価の目くらましにあっているだけです。
一方、私には円安も株価も無縁です。
消費税増税だって、さほど金銭消費しない私にはどうでもいい話です。
だから政治の本質が見えてきやすいのです。
原発や集団的自衛権には関心を持たざるを得ません。
自分が生きている時代に、そんな恥ずべきことをしてほしくないからです。
犯罪者にはなりたくありません。
まあ、そんなところが私と武田さんとの共通点です。
だから、武田さんも入院中にもかかわらず長電話してくるのでしょう。

おなかは痛くなったかもしれませんが、まあ今日はあまり反論もなくきちんと聞いたので、武田さんは少しはガス抜きできたでしょう。
聞いてくれる人がいるのはいいことだ、というようなことを武田さんは最後に言っていました。
そうなのです。
人には、だれも聞いてくれないような些末な話を誠実に聞いてくれる人が必要なのです。

節子は、そうした些末な話、私にとっては本質的な話を誠実に聞いてくれる人でした。
聞いてくれて、わかってくれる人がほしいです。

■2653:三島駅からの富士山(2014年12月5日)
久しぶりに東海道新幹線に乗りました。
浜松行きなので「ひかり」に乗車しましたが、三島停車の列車でした。
いま三島に到着、目の前に富士山がくっきりと見えます。
久しぶりに見る雲のない富士山です。
その前に、「TORAY'」の大きな看板があります。
私の会社生活はここから始まり、ここで終わりました。
節子との出会いも、ここがあればこそです。

この東レの工場で2か月実習しました。
若い工場のひととの6人部屋での共同生活は、実に刺激的でした。
一番年上は確か「加藤さん」と言い、私よりも少し年上でした。
もう一人、いまでもはっきり顔を覚えている若者はビートルズのファンでした。
休日にみんなで散歩したきおくがあります。
その時も、富士山も見た気がします。
その後の付き合いはありませんが、時々思い出します。
みんなどうしているでしょうか。
三島駅からの富士山
工場での実習は重合課というところの夜勤もあるシフト作業でした。
夜明けに重合塔の見回りがあって、最初に塔にのぼった時に、目の前に富士山が突然見えてきた時には感動しました。
工場実習を終え、正式に配属されたのが滋賀工場。
そこで節子に出会って人生を変えました。

東レでの最後の仕事はCI という仕事でした。
ボスに提案して、やらせてもらったのですが、今から考えれば無謀なプロジェクトでした。
東レのシンボルマークも一新しました。
三島工場の看板は巨大でしたから、新しくするのは大変でした。
それに発表までは隠さなければならず、新幹線の駅の正面にあることもあって、作業にも苦労しました。
このサインには、そんな思い出があります。
その仕事は、私の人生を再び変えました。
その仕事が、私の東レでの最後の仕事でした。

この風景を見ていると、何かとてもしみじみしてしまいます。

■2654:人は人に会うために生まれてくる(2014年12月6日)
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節子
2651で引用させてもらった松永さんの「小児がん外科医」には、またこんな言葉がありました。

自分が死ぬということは悲しいことだとも思いました。
なぜならば、それは親しい人と会えなくなるからです。
生きているということは、人間関係を結ぶということです。
人間関係があるから情愛が生まれ、その結果、死を悲しみ悼むのです。
死というものは何かの出来事ではありません。
すべては生きている間の人間関係の断絶が死に集約されるのです。
つまり人は、人間関係を結ぶために生きているとも言えます。

実は、先日、松永さんが講演で、「人は人間関係を結ぶために生きている」と話されたので、それに関してメールしたことで、松永さんはこの本を送ってきてくれたのです。
松永さんは、「(佐藤さんに)こうした本を勧めていいのか、相当迷いましたが、思い切って送ってみました」と書いてきてくれました。

松永さんの「人は人間関係を結ぶために生きている」という言葉が、自らの体験から生まれてきていることを改めて実感できました。
私も同感です。
人は、人に会うために生まれてくる。
そう思います。
そして、人との結びつきの中でみんな生かされている。
だとしたら、と、松永さんは続けます。

この自分の命を丁寧に生きよう。

私も、もっと丁寧に生きなければいけないなと少し反省しました。
残念ながら、頭ではわかっていますが、なかなかそうならないのが恥ずかしいです。
松永さんに叱られそうです。

昨日からの合宿で、またたくさんの人との出会いがありました。
温泉の湯ぶねでは、山崎さんという人とも出会いました。
最近少し投げやりになっている生き方を改めなければいけません。

■2655:ホームページがうまく更新できません(2014年12月7日)
節子
トラブル続きなのですが、今度はパソコンのホームページ作成ソフトがうまく作動しなくなりました。
半日何とかしようと取り組んでいましたが、うまくいきません。
ホームページは毎週日曜に更新なのですが、更新した記事の一部が反映されないのです。
何度やってもダメです。
そもそもマニュアルなど読まないタイプですので(正確には読んでもわからない)、いろいろとやっているうちに、ますますおかしくなってしまいました。
まあこうやって、私はこれまでもたくさんのものを壊してきたのですが。
節子にも家族にもまったく信用はありませんが、壊すこともまた大切なことなのです。
そのものの意味がわかりますので。はい。

ホームページは10年以上の私のほぼすべての記録が埋め込まれていますので残しておきたい気はしますが、まあそろそろ廃棄する時期かもしれません。
本当に少しずつですが、いま身辺整理を進めています。
かなりの資料や文献なども廃棄し始めていますが、ホームページもそろそろ廃棄する時期かもしれません。
いまも毎週更新はしていますが、あんまり内容があるとは言えませんし。
最初のビジョンは壮大だったのですが。

それでも、この1か月でも、私のホームページを読んで訪ねてきてくれた人が2人もいますから、残しておきたいという未練もあります。
ホームページのおかげで仕事がダメになったこともありますから、ないほうがいいかもしれないとも思います。

私のホームページは2002年1月1日にスタートしました。
前年の年末に急に思い立ち、友人に2時間作り方の基本を教えてもらい、後は我流でDream weaverをつかって、2日でアップしたのです。
その年の大晦日は大変で、大掃除も年越しそばもないほどでしたが、奇跡的に自力でつくれてしまったのです。
そのあとは、勝手な追加更新作業で、今ではホームページの中にある記事を自分でも探せないほどの複雑な構造になっています。
容量を減らすために、写真は極力掲載しないので、文字が多いホームページになっていますので、当初から評判はよくありませんでした。
まさに自分にとってのメモランダムが主目的です。
私自身はあまり記憶力がよくないため、ホームページが私の人生記録でもあるのです。
ですから、ホームページを失くしてしまうと、私の過去はかなりの部分、なくなってしまいそうです。
2004年からはブログも並行して書いていますが、これは私の考えの記録なので、私の過去の世界を思い出す材料にはなりません。

というわけで、今日はまったく無駄な半日を過ごしてしまいました。
さてどうするか。
まあ、それはそれとして、今日はもうやめましょう。
この数日、ちょっと寝不足なのでお風呂に入って寝ることにしましょう。

■2656:人生の修め方(2014年12月8日)
節子
2か月ほど前に、一条さんから自著「終活入門」が送られてきました。
私に終活を勧めるために送ってくれたのではありません。
一条さんは本を出版するたびに、いつも送ってきてくれるのです。
いろんな人が自著を送ってきてくれますが、それらはきちんと読んで、私のホームページで紹介するようにしていますが、読めない本もあります。
いまだに、死やグリーフケアに関する本が、私にはなかなか読めないのです。
この「終活入門」も、そんなわけで長いこと机の上に積んでいるだけでした。

昨日、なんとなく手に取って読んでしまいました。
当然ですが、一条さんらしいメッセージが込められていました。
あまり抵抗なく読めました。
そういえば、数日前には松永さんの「小児がん外科医」も読むことができました。
私の意識も少しずつ変わってきているようです。

一条さんは、「終活」を「人生の終い方」ではなく「人生の修め方」と捉えています。
「修め方」、私の名前も入っているなと改めて思いました。
「人生の修め方」。
そういえば、私にはこの視点がまったくないことに気づきました。
素直に生き、自然に死んでいくのが、私の理想だからです。
しかし、それでは周りの人たちには大きな迷惑をかけるでしょう。
節子がいれば、それでよかったのですが、節子がいない今は、「人生の修め方」を考えないといけないと反省しました。
一条さんからのメッセージを、私はそう受け止めることにしました。
しかし、「人生の修め方」とは難しい課題です。

ちなみに、コムケア活動に取り組んでいるおかげで、「エンディングノート」については10年ほど前から私自身関心を持っていました。
おそらく日本ではじめてに近いころに作成されたエンディングノートは。コムケア仲間の嶋本さんが作ったものです。
ささやかに応援させてもらいました。
当時は、「エンディング」という言葉に抵抗があるといったら、嶋本さんは「サクシード・ファイル」という言葉を考え出してくれました。
いまから思えば、「エンディングノート」という嶋本さんの提案をそのまま受ければよかったと反省しています。
嶋本さんが当時考えていたのもまた、生き方の話でしたから。
あの時、もっと真剣に考えておけば、表層的な言葉に惑わされることはなかったでしょう。

難しい課題ですが、少し真剣に考えてみようと思います。
気づくのが、あまりに遅かったのですが。

■2657:「気」が創り出す現実(2014年12月9日)
節子
結婚したジュンは、いまもスペインタイルの仕事をしていますが、その工房がわが家の庭にあるので、午後はわが家に出勤して仕事をしています。
工房は庭にありますが、2階のジュンの部屋にあるパソコンで仕事をすることもあります。
先日、だれもいない日に、2階でパソコンをしていたら、1階で、とんとんと誰かがドアか壁をたたく音がしたそうです。
なんだろうかと思って降りてきたそうですが、だれもいない。
ジュンによれば、その日だけではなく、そんなことが時々あるというのです。

実は、私もそうした経験が何回かあります。
一度などは、1階のリビングに居たら、勝手口のドアをトントンと繰り返したたく音がするので、外まで出てみたこともあります。
それが2日も続いたのです。
いずれも時間は午後の少し遅い時間です。

節子が帰ってきたといったら笑われそうですが、しかし、そうでないとも言い切れない。
こんな時、遺された者は、そうしたことに過剰な意味づけをしがちです。
いうまでもなく、私もそうです。
どこかに痕跡がないかと探すこともあります。
残念ながら見つかったことはありません。

一般には、こうしたことは「気のせい」ということになるでしょう。
しかし、問題はその「気のせい」ということです。
つまり、「気」が何かを創りだす。
「気」によって実際に起こってくることは少なくありません。
社会学者のロバート・マートンは、誤った判断や思い込みなどが,新たな行動を引き起し,その行動が当初の誤った判断や思い込みを現実化してしまうことがある、という「自己成就予言」について語っています。
自らの世界は、自らの意識が創り出していく側面は否定できません。

もっとも、だからと言って、わが家に時々起こる「人の気配」が節子だということが現実化することは客観的には起こらないでしょう。
ただ、それが実際に起こるかどうかは、当事者にとってはあまり重要ではありません。
しかし、そう思い込んでいるうちに、節子の姿が見えだしてくることは、十分あり得ることでしょう。
ただ、その場合は、世間的には「気がふれた」ということになってしまいます。
そういう意味で、「気のふれた」人も、少なくないかもしれませんが、私にはその人が「気がふれた」などとはとても思えません。
むしろ、正常なのだろうとさえ思います。

人の気配がしたら、「節子か?」と声に出します。
これまで返事が聞こえたことはありませんが、彼岸の節子には届いているでしょう。
そう思っています。

■2658:曇り空の向こう側(2014年12月10日)
節子
湯島のオフィスから空を見ています。
1時間ほど、ただただ見入っていました。
いろいろと思いが浮かぶにまかせて。

今日は青空ではなく、どんよりした曇空です。
こういう日は、無性に寂しさがつのります。
今日は来客があるわけではないのですが、久しぶりに東京国立博物館に行こうかと思って出てきました。
しかし、先ほどから曇り空を見ているうちに、気力が萎えてしまいました。

昔から私は空を見るのが好きでした。
しかし好きなのは青空であり、青い空の中を流れる雲でした。
そうした中に、未来を感ずるからです。
しかしどんよりした曇った空には動きがありません。
ただただひたすらどんよりしているだけです。
まるで最近の私のようです。
ずっと見ていると、その向こうに自分がいるような気さえしてきます。
困ったものです。

時代が変わった、と最近よく思います。
そこで生きている人たちの考え方や行動が変わったと感じます。
何が変えたのでしょうか。
私は生活空間の変化が大きな影響を与えていると思っています。
時々、華やかな都心部に行くと、なんだか自分がそこの小さな部品のように感じます。
居心地が悪いのです。
しかし、節子はそうしたところも好きでした。
丸の内が変わった時も、節子に誘われて出かけました。
私は辟易していましたが、節子は生き生きしていました。
そして、家族連れの有名人に気づくのです。
私にはみんな同じ顔に見えてしまい、すれ違っても気づかなかったりしましたが。

しかし最近の変わり方のすさまじさには、節子もついてこられなかったでしょう。
今頃は彼岸から東京の変容を見ているでしょうが、どう感じているでしょうか。
私たちの時代は、もう終わったのでしょう。
そんな気がします。
人はそれぞれ生きる時代を決められているのでしょう。

空が少し明るくなってきました。
気のせいでしょうか。
でも今日は国立博物館はやめましょう。
久しぶりに少し雑踏の中を歩いてみたくなりました。
一人では歩くことのなかった御徒町のアメ横です。
節子はあんまり好きではありませんでしたが、会社の帰りに時々寄り道したことがあります。
あれから10年以上たっています。
どう変わっているでしょうか。

今日は暇で暇で仕方がない日です。

■2659:アメ横を素通りしました(2014年12月11日)
節子
昨日はオフィスの帰りにアメ横を歩いてみました。
以前とはかなり様子が変わっていました。

ところで、御徒町からアメ横に入ったのですが、入り口に長い行列がありました。
なんだろうと思ってみたら、宝くじ売り場でした。
御徒町の駅の近くの宝くじ売り場には誰もいなかったのですが。
その行列を見て、宝くじを買うことにしました。
しかし、並ぶのは嫌いなので、だれも並んでいない売り場を見つけようと思いました。
上野駅の近くに売り場があったのを思い出しました。

アメ横はやはりにぎわっていましたが、外国の人が多かったです。
以前よりも何やら面白い雰囲気は消えてしまったような気がします。
目立って多くなったのは、何かが食べられる場所です。
売り場はあまり活気がありませんでした。
まだ時間が早すぎたのかもしれません。

上野駅の近くの宝くじ売り場は、閉まっていました。
「外出中」と書いてありました。
そんなわけで、残念ながら宝くじは変えませんでした。
今年もまた幸運を逃がしたかもしれません。
宝くじが当たったら、やりたいことがいろいろとあるのですが。

上野駅も久しぶりでしたので、少し構内を歩いてみました。
節子が好きだった雑貨屋はなくなっていました。
季節のせいか、どこも華やいで見えました。
そういえば、多くの人にはボーナスが出たところですね。
わが家には関係ない話ですが、それでもみんながうれしい時期は、なんとなく私までうれしくなるものです。

結局、何も買わずに帰宅しました。
今年も地味な年末になりそうです。
節子がいなくなってからは、いつも地味ですが。

■2660:たくさんの人に会う夢を見ました(2014年12月13日)
節子
最近よく夢を見ます。
残念ながら節子の夢ではありません。
いずれも、いろんな人たちに会う夢です。
時々、雰囲気的に節子が出てくるような気もしますが、姿かたちは出てきません。

最近、あまり人に会っていません。
そのせいかもしれませんが、ともかくいろんな人に会う夢が多いのです。
今朝、目が覚める前に2つの夢を見ました。
最初に見た夢は、懐かしい人がなぜかたくさん集まっている夢です。
いまもはっきりと顔を思いだす人もいますが、さほど親しかったわけではない友人知人です。
なぜかその人たちと、最初にどこで出会ったんだっけ、という会話をしていました。
その過程で、夢に出てきていない人の名前まで私が口にしたのが記憶に残っています。

その後、うとうとしてしまい、また夢をみました。
今度は全く知らない人ばかりでした。
しかしなぜかとてもリアリティのある集まりです。
なぜかみんな私のところに来て、名刺をくれます。
ただし、きちんとした名刺ではなく、紙切れにパソコンで印刷した名刺です。
一挙に10数枚の名刺をもらったので、名前は覚えていませんが、いずれも特徴のある人です。
なかには本名と違う名前になっていますが、と断って名刺をくれた人もいます。
私が気になっていて、まったく取り組めていない問題を体現した人もいました。

最近は、夢を見ても、目が覚めるとほとんど忘れてしまい、夢を見たという余韻が残っているだけですが、今朝のはふたつともかなりリアルでした。
なぜでしょうか。

挽歌の読者から、「佐藤さん、とても寂しい気持ちなのだという気がします」とメールが来ました。
たぶん最近の私の挽歌には、そうした気分が現れているのでしょう。
確かに、最近、無性にさびしい気がします。
節子がいないからというよりも、時代がだんだん遠のいていくという気がするのです。
歳をとるということは、そういうことなのかもしれません。
次第に人嫌いになりながら、一方では人に会いたくなっているのです。
世間も嫌いになってきていますが、未練もまた高まっています。
こんな社会でいいのか、と。

私の価値観とみんなの価値観が、どんどん離れていく。
どちらが動いているのか、最近はよくわからなくなってきました。
選挙の結果で、もしかしたらわかるかもしれません。
社会に未練がなくなるような、不幸な結果にはなってほしくはないのですが。

■2661:暇の中での反省(2014年12月14日)
節子
昨日、久しぶりに畑に行ってチューリップを植えてきました。
ちょっと遅くなったのですが、まあ大丈夫でしょう。

今年は8月に体調を崩して以来、どうも生活のリズムが回復しません。
体調がよくなると、精神的にダウンし、精神が回復すると体調が変調を来たすという感じです。
困ったものです。

しかし、心身の調子が悪いと、普段は考えないようなことも考えるものです。
それに発想の枠組みも、少し変わってきます。
最近思いついたのは、「なぜ人は働かなければいけないのか」ということです。
そう思っていた時に、副題に「勤勉の誕生」とある「日本人はいつから働きすぎになったのか」という新書を見つけました。
それを先日読んだのですが、とても納得できました。
日本人が勤勉になったのは、そう古いことではないようです。
そして働きすぎに向かいだしたのは、高度経済が始まる1970年前後からのようです。
まさに私は、その時代に会社に入り、会社時代を過ごしていたわけです。
私さえもが仕事の魅力に引き寄せられて、午前様になったり、仕事を家庭にまで持ち込んだりしていたわけです。
幸いに、1989年に私はそこから抜け出ました。
そして節子にも手伝ってもらいながら、仕事をするでもしないでもない、不思議な会社を立ち上げて、共感を持てたプロジェクトに参加させてもらってきたわけです。
それを精神面で支えてくれたのが節子でした。

しかし、その生き方や仕事の進め方は、世間的な常識とはかなりずれがあったようです。
そのためか、家族にはいろいろと迷惑を与えてしまったかもしれません。
働きすぎを避けようと会社を辞めたにもかかわらず、一時は「時間破産」を続けるような毎日でした。
そこからも抜けようとした、まさにその年に、節子の病気が発見されてしまったのですが、そのために、節子と一緒に「ゆったりした暮らし」を楽しむことはなくなってしまいました。
そして、節子がいなくなった今頃になって、もてあますほどの怠惰を味わえるようになったのです。
人生とはまことに皮肉なものです。

節子がいたころに、これほどの時間があれば、と反省しています。

■2662:八田さんの思い出(2014年12月14日)
節子
友人からのお勧めで、いま、台湾に関する本を何冊か読んでいます。
その1冊は、司馬遼太郎の「台湾紀行」です。
司馬さんの「街道をゆく」シリーズ40です。
そこに、土木技師の八田與一の名前が出てきます。
台湾が日本領だった時代に、台湾で大規模な水利工事を成功させ、台湾を豊かにするうえで大きな功績を残した人です。
いまも銅像が残っているそうです。

八田與一は、富山県の金沢で明治19年に生まれました。
夫人は外代樹(とよき)といい、同じく金沢生まれだそうです。
大活躍した八田夫妻の生涯は、しかしとても悲しい最後で幕を閉じます。
太平洋戦争が始まって間もなくの1942年、八田與一は陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されてしまうのです。
享年56歳でした。
妻の外代樹は、その3年後、夫が尽力して建設された烏山頭ダムに身を投ずるのです。

読んでいて、急に金沢の八田夫妻のことを思い出しました。
私たちがエジプトに旅行に行った時に、メンバーの中にいたのが八田さんご夫妻でした。
とても気が合い、帰国後の付き合いが始まりました。
八田拡さんは、たしか金沢市の教育関係のお仕事をされていたと記憶していますが、お会いした時にはすでに定年で辞めていたようでした。

一度、節子と一緒に金沢に行ったことがあります。
その時に、八田さん自らが金沢の古い街並みを案内してくださいました。
遺されていた旧家にも、そこを管理している人ともおなじみだったようで、家の中まで丁寧に案内してくれました。
奥様もわざわざ出てきてくれて、ご一緒の食事をさせてもらいました。
宿泊も、たしか、八田さんのお薦めのところだったような気がします。
とてもおしゃれな、金沢らしい民宿でした。

その八田さんご夫妻も、もうお亡くなりになっていますが、なぜか八田さんから送られてきた広辞林がわが家にあります。
なぜ広辞林を贈ってくださったのか思い出せませんが、いまもなお、かくしゃくとした個性的な話しぶりは覚えています。

台湾紀行を読んでいて、八田さんという名前で八田さんのことを思い出したのは、司馬さんが取り上げている日本人とどこかでイメージがつながっているからです。
もしかしたら、八田與一と八田拡さんはつながっているかもしれないとネットで探してみましたが、見つかりませんでした。

八田ご夫妻は、わが家では一時、よく話題になっていました。
私たちは旅でご一緒した人とのつながりを大事にしていたのです。
しかし、節子がなくなってからは、そうしたつながりも消えてしまってきました。
私たちより年上の方が多かったので、今頃は彼岸で節子は交流を楽しんでいるかもしれません。

■2663:情けない時代になりました(2014年12月15日)
節子
寒さのせいか、風邪を引いたかもしれません。
今朝起きたら、なにやら調子がよくありません。
もしかしたら、昨日の選挙結果に心身が不調をきたしてしまったのかもしれません。

元気が出ないというか、正直に言えば、世の中を蹴飛ばしたい気分です。
昨日の衆議院選挙の結果は安倍政権の圧勝です。
それに関するテレビ番組に出ている、いわゆるコメンテーターの人たちの意見が、あまりにもひどいのが腹立たしいのです。
あれだけ「大義なき解散」とはやしたてて、選挙への関心を持たせないようにしていたくせに、投票率が低いなどと、よく言えたものです。
80年前もたぶんこうだったのでしょう。

争点はいろいろあるなどと、今頃になっていうことにも腹が立ちます。
もっと腹立たしいのは、選挙に行かないという若者たちの取材画面を繰り返し流していることです。
まるでそれを褒めているような感じです。
そんな人たちをテレビで拡散してほしくはありません。
たぶんそうした映像を流すテレビ局関係者は投票にもいかないのでしょう。
情けない時代になりました。

格差はさらに広がっていくでしょう。
時評編で書こうと思っていて、その意欲さえなくしていますが、おこぼれ頂戴にあずかろうとアベノミクスを支持している人たちは、自らよりも低所得の人を犠牲にしていることへの想像力さえないのです。
そしていつの間にか自らもみじめになっていくでしょう。
経済の基礎的な勉強くらいはしてほしいものです。

とまあ、こんな暴言を吐きたくなるほど、気分は最悪です。

節子は、こんな情けない時代を経験しないだけでも幸せかもしれません。
挽歌らしからぬ、単なるうっぷん晴らしになってしまいました。
明日は、回復できるでしょうか。
いやはや困ったものです。

■2664:時代と人生(2014年12月16日)
節子
我孫子では雪が降ってきました。
まだ目には見えませんが、外に出ていると感じる程度の雪ですが。
昨夜の電話によると、福井の敦賀では今、20pほども積もっているそうです。
今年は雪が多い冬になるそうです。

選挙結果にめげていてはいけないので、気を入れなおして、生活することにしました。
それにしても、なんでみんな選挙結果でめげないのか不思議です。

私も節子も、ほんとうに「良い時代」に生を受けました。
両親にも娘たちにも、申し訳ないほど「良い時代」でした。
もっとも、両親も娘たちも、そうは思っていないかもしれません。
自分たちこそ「良い時代」に生まれたと思っているかもしれません。
たしかにそれも一理あります。

人は自分が生きる時代の中でこそ、自分を捉えられます。
人生は時代とともにあるからです。
私の実感で言えば、節子がいた時といなくなってからでは、社会の風景や時代の雰囲気が一変しました。
平たく言えば、節子がいなくなって、世界は変わったのです。
時代はまた、自らの人生とともにあるのでしょう。

雪の意味合いもまた変わってきています。
人はすべてのものを自らの人生とのかかわりの中で見ているからです。
例えば、節子がいたころの冬は、とてもあったかなイメージがありました。
こたつでみかんを食べながら談笑しているイメージです。
あるいは家族で鍋をつつきながら談笑しているイメージです。
しかし、いまは、ただただ寒いだけです。
雪もまた、冷たいだけです。

昔は雪が降るとうれしくて、会社を休んだことさえありました。
私は雪が大好きでしたから。
しかし、今日は雪を感じながら湯島に出かけます。
会社時代の先輩が久しぶりに会いたいと言って来てくれるからです。
もう20年近く会っていない人です。
仕事でご一緒したことはないのですが、なぜか昔の会社時代の人が最近声をかけてきます。

それが歳をとるということかもしれません。

■2665:悲しみの大切さ(2014年12月17日)
節子
我孫子にもゆかりのある柳宗悦の『南無阿弥陀仏』には、こんな記述があるそうです。

悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。
悲しむことは温めることである。
悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。
悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。

私もまた、節子を喪ってから、このことを何回も体験しました。
最近、同じ悲しさをかかえている人たちのグループが広がっていますが、おそらくそれは、こうしたことによるものでしょう。
悲しみと悲しみが合わさった時、情愛が生まれる。
人と人がつながるのは喜びをとおしてではなくて悲しみをとおしてだ、と柳は感じていたと、「現代の超克」で、この文章を紹介してくれている若松英輔さんは書いています。
まさにそうだと思います。

若松さんは、こうも書いています。

悲しみを、悲惨なだけの出来事にしてしまったのが現代です。
それはとても貧しいことだと思います。
悲しみは決して惨めなだけの経験ではない。
むしろ、悲しみの扉を経なければ、どうしても知ることのできない人生の真実がある。

喪失体験の直後は、とてもこんな気持ちにはなれません。
しかし、数年経つと(人によって時間は違うでしょうが)、悲しむことの大切さがわかってきます。
悲しみは忘れ去るのではなく、大事に大事に、心身にしまっておくのがいいように思います。
それによって、間違いなく、世界は広がり深まります。
悲しみは忘れたり解決するものではないのです。
悲しみは、悲しみのまま、素直に受け入れればいいのです。

柳宗悦の言葉に出会えて、元気が出ました。

■2666:生き方の揺らぎ(2014年12月18日)
節子
今日は2人の弁護士と接点がありました。
いずれも長い付き合いの友人です。
一人とは私自身のトラブルの相談で、もう一人は私の知人の知り合いのトラブルに関連してです。
前者は東京在住なので、会いに行きました。
後者は関西在住なので、メールのやり取りです。
ところで、偶然なのですが、お2人とも私と同じく伴侶に先立たれているのです。
だからと言って、別にどうしたというわけでもないのですが、ふたりとも弁護士という社会的活動をしていることが、その後の「支え」になっているのかもしれません。
誤解かもしれませんが、夫婦の世界とは違った「もう一つの世界」があったかもしれません。
もし会社勤務時代に節子との別れがあったのであれば、私の受け取り方も違ったかもしれません。

節子を喪ってから、私はいささか「暴走・迷走」しているらしいです。
自分では、必ずしもそうは思えないのですが、娘や親しい友人からはそう指摘されています。暴走や迷走が止まったのは、たぶん1年少し前でしょう。
たぶんこの挽歌にも書いたと思いますが、そのころ、自分でもようやく「我を取り戻した」感じがしましたから。

直接会った弁護士の友人からは、これまでのような「仙人」のような生活をやめて、このトラブルにしっかりと対峙する覚悟を持つかどうかが、解決のポイントだと厳しく言われました。
普段は交流のない彼から、まさかそういう指摘を受けるとは思ってもいませんでした。
私のことを面と向かって「仙人」呼ばわりする友人はいますが、それはせいぜいが2人です。
しかし、もしかしたら、私の生き方は多くの人にそう見られているのかもしれません。
そういえば、昨日久しぶりにお会いした会社時代の先輩から、「まだお布施生活をしているのか」と言われました。
もしかしたら、気づいていないのは私だけかもしれません。

仙人の世界にはトラブルなどあろうはずがありません。
トラブルに悩まされるということは、私が相変わらずただ怠惰で逃げているだけということの現れでしょう。
そういえば、娘からは「良い格好しすぎている」とも言われています。
そのしわ寄せは、みんな周りに行くわけです。

そんなわけで、残る人生は現実的に生きることにしようかどうか、少し迷いが生まれてきました。
私が今考えている「現実的」とは、「現在的意味での常識にしたがって」というような意味です。
そう思って振り合えると、私の人生は昔からやはりちょっとおかしかった気もします。
でも、そのおかげで、節子と会えたのですから、それはそれでよかったのですが、たぶん「自覚」と「覚悟」が不足していたのでしょう。
節子がいない今頃になって、そんなことに気付くのは、結構つらいものなのですが。
それも娘から指摘されると、なお辛いものがあります。
まったく反論の余地がないからです。
いやはや困ったものです。

■2667:あっという間の1年(2014年12月19日)
節子
昨日、寒い中をコートも着ずに外出していたら、やはり風気味になってしまいました。
今日は家を出ずに自宅で休んでいたのですが、これまたいろいろとややこしい電話などもあり、落ち着かない1日でした。
さらに悪いことに、いろんなことがうまくいかない日でもありました。

節子に報告できることといえば、花かご会の山田さんが例年のカレンダーを持ってきてくれたことです。
12月に入って、2回ほど我孫子駅前の花壇で作業している花かご会をお見かけしましたが、今はとてもきれいになっています。
今年はついに差し入れをする機会がありませんでした。

カレンダーと言えば、ポラスの小久保さんもまたカレンダーを持ってきてくれました。
いまのこの家を建てる時にお世話になったのが小久保さんですが、節子がいれば、付き合い方もまた変わったのでしょうが、いまはもうカレンダーを持ってきてくれる時に話すだけになってしまいました。

節子はカレンダーが好きでした。
どの部屋にもカレンダーをはりたがっていました。
節子がいなくなってからは、その文化は消え、わが家にはほとんどカレンダーはなくなりました。
花かご会の手づくりカレンダーは、毎年、節子の仏壇に置かれています。

今年も余すところ、もう10日ほどです。
友人が、あっという間の1年でしたと、今日メールをくれましたが、本当にあっという間でした。
人生の最後に思うことも、そんなことでしょうか。
あっという間の一生だった、と。
節子は、あの時、そう思っていたでしょうか。
たぶんそうではないでしょう。
1年はあっという間だったとしても、一生は決してそうではないでしょう。
1年と一生とは、どこが違うのか。
もしかしたら、節子がいないために「あっという間」感があるのでしょうか。
だとしたら、私のこれからの人生は、たぶん、あっという間に過ぎるでしょう。
でもまぁ、その前の40年間の人生があるので、最後に息を引き取る時には、「いろいろとあったな」という思いになるかもしれません。

さてどちらでしょうか。
そう思うと、人生最後もまた、楽しみです。

■2668:いろんな人と付き合うと寛容になれます(2014年12月20日)
節子
今日も寒い日です。そのうえ、雨も降ってきました。
自宅で休んでいたかったのですが、湯島で3件ほど用件があったので、出てきました。
ところが11時の約束の人がいつになっても来ません。
携帯電話の番号を聞いておけばよかったのですが、私も携帯電話をあまり使わないので聞いていません。
1時間ほど待っていますが、連絡もありません。
困ったものです。

しかし、こういう経験は何回もあります。
だいたい同じ人が繰り返すのですが、まあ仕方ありません。
そういう人なのでしょうから、それに合わせて付き合わない私が悪いのでしょう。
もしかしたら、遅れてくるかもしれませんので、食事にも出られません。

午後からは学生たちを交えての「若者と自殺」をテーマにしたミーティングです。
どこかに案内を出していますが、年明け後に公開フォーラムを開催できればと思っていて、いわばその準備会なのです。
1時過ぎには、早く来る人がいるかもしれません。
これもよくあることで、約束の30分以上前に来てしまう人もいるのです。
これも困ったものですが、まあそれもまた仕方ありません。
そもそも時間などに縛られることに異論を持っているものとしては、それくらいのことは受け入れないと言行一致しませんし。

そんな状況のため、今日はまた昼食を食べ損ないそうです。
まあ、昔はこうした日が連日でした。
そこで節子がミニ弁当をつくってくれていました。
5分で食べられるお弁当です。
私の条件は、カラフルで食べやすいことだけでしたが、節子はうまく作ってくれました。
そのお弁当が懐かしいです。

来るか来ないかわからない来客待ちのため、することがありません。
いろんな人と付き合っていると、人は寛容になってくるものです。
ただ、私の場合、時々、切れてしまい、八つ当たりを受ける人がいるのが問題です。
そしてまた、八つ当たりをしやすい人もいるものです。
これもそう生れついたのでしょうから、仕方ありません。
こうして現世は、うまく回っているわけです。

彼岸はどうでしょうか。

追記
この記事をアップした直後に、友人から電話がありました。
近くにいるので、もし湯島にいるなら行ってもいいかというのです。
まさかこの記事を読んだはずはないのですが、こういうこともあるわけです。
遅れた来客があるかもしれませんが、まあいいでしょう。
そんなわけで、退屈からは救われそうです。

■2669:うれしい出会い(2014年12月21日)
節子
今日はユカと一緒に近くのスーパーに食材の買い出しに行ってきました。
私の買い物の練習もかねてですが、スーパーに行って商品の価格を見るだけでも、少しだけ景気の実相が感じられるので、昔から節子にもよく付き合っていました。
ただ実際にレジに並ぶことはありませんでしたが、最近はなんと支払いまでするようになってきています。

今日は昨日の疲れもあって、ひげもそらずに出かけたのですが、娘と一緒にレジに並ぼうとしたら、突然、「佐藤さんですか?」と声をかけられました。
スーパーで声をかけられたりすることは、ないわけではありませんが、その人が誰か思い出せません。
とても親近感を感ずる人でしたが、どうしても思い出せません。
そこで、失礼ながら、どなたでしたっけ、と恐縮しながら尋ねると、佐藤さんは知らないはずですと言われました。
ますます混乱してきましたが、その方は、私のホームページやブログなどを読んでいるというのです。
たしかにホームページやフェイスブックには写真が出ています。
しかし、それらはみんな10年以上前の写真です。
しかし、その方には、どうやら瞬間的にわかったようです。

その方は原田さんとおっしゃり、5年ほど前に我孫子に転居し、市民活動にも取り組まれているようです。
実にうれしい話です。
どうやらわが家もご存じのようです。
改めてお会いすることにしました。
今日は立ち話で終わりましたが、何か昔からの知り合いのような気になってしまいました。

原口さんも、まさか、こんなところでお会いするとはと言いましたが、人はきっと会うべき人には必ず会うものだと思いました。
原口さんも来年は良い年になりそうだと言ってくれましたが、私もそう思います。

ちょっと気分がふさぎがちでしたが、元気が出てくるようなうれしい出会いでした。

■2670:「すまんが先にいく」
(2014年12月22日)
節子
今年は久しぶりに、NHKの大河ドラマを観ていました。
その「後藤官兵衛」は、昨日が最終回でした。
ちょっとうらやましいセリフがありました。
妻子や仲間に看取られて息を引き取る場面で、官兵衛がこう言うのです。
「すまんが先にいく」
私もこんなセリフがいいたかったです。

私はまだ生きていますので、このセリフが言えないわけではありません。
しかし、妻もなく、仲間と一緒に活動していない立場では、「すまんが」と言う相手がいません。
むしろ先に行くことが当然のような状況にいますので、言えるのは「順番通りいく」という言葉でしょうか。
こんなセリフでは、言わないほうがいいでしょう。

思い出すのは、節子が「先にいくこと」を家族に詫びていたことです。
特に私には何回も繰り返していました。
官兵衛は、後を安心して託せる状況で逝きました。
残念ながら、節子は安心はしていなかったでしょう。
そして、案の定、その後はいろいろと大変でした。
いまも、そうですが。
そんなことを思いながら、官兵衛のセリフを聞いていました。

今年ももう残り少なくなりました。
せわしなさの中に、生活の節目を感ずる年末は、私は子供のころから大好きでしたが、節子がいなくなってからの年末は平板になってしまいました。
生活を共にしていた人が、先に逝ってしまうと、やはりリズムが狂います。
順番はやはり守られなければいけません。
考えても仕方がない、そんなことを改めて思っています。

■2671:ごまどうふ(2014年12月23日)
節子
今日も寒いですが、日差しがあったかなので、窓ふきをしました。
少しずつですが、掃除をしていますが、いつもながら途中で挫折します。
毎年、夏に大掃除をしようと思うのですが、夏になると忘れてしまいます。
困ったものです。

大宰府の加野さんが高野山のごまどうふを送ってきてくれたので、久しぶりに電話しました。
相変わらずお元気そうで、また相談を受けてしまいました。
加野さんは、私よりも一回り年上だと思いますが、霊性の強い方で、私よりはよほどしっかりしています。
ごまどうふは、私は不得手なので、節子に供えさせてもらいました。
節子と一緒に高野山に行った時には、ごまどうふは食べたでしょうか。
宿坊での食事に出たかもしれませんが、あまり記憶がありません。
今日は、節子にお供えしたごまどうふを味わってみようと思います。

それにしても、加野さんの元気の素はなんでしょうか。
ご本人はイオン水のおかげだといいますが、おそらく「生きる意志」でしょう。
以前、お聞きしたことがありますが、加野さんには生きる目的が明確にあるのです。
それによればたぶん私よりも長生きされるでしょう。
生きる意志のある人は、ちょっとくらいの壁にぶつかっても動じません。

加野さんと最後にお会いしたのは、大日寺に行った時です。
大日寺の庄崎さんに、彼岸の節子との仲立ちを頼んだ時です。
ですからもう5年ほど前のことでしょうか。
その時の庄崎さんの言葉はレコーダーに録音したのですが、一度も聴いていません。
そのレコーダーは、それ以来、一度も使っていないのです。
今日、整理をしていたら、そのレコーダーが出てきました。
聴こうかどうか迷いましたが、やめました。

まもなく節子が逝ってから、8回目の新年を迎えます。
早いものです。

■2672:花かご会のカレンダー(2014年12月24日)
節子
今年も花かご会のカレンダーを山田さんが届けてくれました。
花かご会は、我孫子駅の南口前の花壇の整備をしているグループです。
節子もそのメンバーだった関係で、メンバーのみなさんが時々、わが家にまで花を供えに来てくれました。
定期的に駅前花壇の整備をしている姿をみますが、年末に向けて、今はきれいに仕上がっています。
花壇にどう花を植えるかの計画を立てている節子を思い出します。
そういう時に節子はいつも幸せそうでした。

節子にとっては、花かご会はとても大切な仲間でした。
心残りは、最後に皆さんがお見舞いに来てくださった時に、節子の調子がとても悪くて、会ってもらえなかったことです。
節子は、みなさんには元気な姿を覚えておいてほしかったのでしょう。
私が取り次いだところ、今日は会いたくないと言うので驚きました。
その時には私もきっとまた会ってもらえる時が来ると思っていました。
しかし、その時は来ませんでした。
それがよかったのかどうか、いまもわかりません。

節子の病床の枕元には、いつも花かご会のみなさんが一人ひとり書いてきてくださったメッセージが貼られていました。
節子を支えてくれたみなさんなので、いまも私は深く感謝しています。
それなのに、今年は一度も差し入れにもいきませんでした。

その花かご会のメンバーも少しずつ欠けてきているようです。
こういうところにも時間が過ぎていくのを感じます。

■2673:年の瀬の気分がしません(2014年12月25日)
節子
ちょっと早いですが、娘と一緒に年末年始の買い物に行きました。
なんとなくついていったのですが、いつもと大した違いのない買い物でした。
わずかに数の子やおせちを買い込んだだけでした。
節子がいたころには、年末の買い出しもまた年中行事のひとつでしたが、今はそんな雰囲気はなくなってしまいました。
それに、元日から近くのスーパーも営業しているのですから、特に何かを準備しなければいけないわけでもありません。
おせちや数の子なども、早めに買ってしまうと、年内に食べてしまうことにもなりかねません。
なくなったら元日の初詣の帰りにスーパーで買えるのです。
なにか生活がどんどん平板になっていきます。

しかし、その一方で、わけのわからないイベントが増えています。
そういうものには私は関心が全くないのです。
そういう商業主義的なイベントと歴史の中で生まれてきた季節行事とは、まったく違います。しかし、いろんなイベントや行事があると、感覚がマヒしてきます。
そして、大事にすべき季節行事までも最近はおろそかにしてきているような気もします。
今年は節分の豆まきもしなかったような気がします。
反省しなければいけません。

それにしても、わが家にはあまり歳末風景がありません。
節子は年賀状が好きでしたから、時間をかけて書いていましたが、その風景ももうありません。
私自身は、最近では年賀状はやめました。
以前は、それが年末の忙しさをもたらしていました。
大掃除に駆り出されることもありません。
節子がいなくなってからお歳暮までやめてしまいました。
仕事も、気が向くままという感じなので、年末だから忙しいわけでもありません。
年末に1年間を顧みて、新しい年に供えようなどということもなくなりました。
したがって、年末らしい雰囲気は、わが家にはあまりありません。
いや、私自身の気持ちの中にないのです。

こうなってしまったのはなぜでしょうか。
社会環境の変化もあるでしょう。
しかし、最大の理由は、私の生き方にあるかもしれません。
けじめを詰めずに、だらだらと生きるようになってしまっているようです。
反省しなければいけません。
まあ、こんな気持ちになったのは、節子がいなくなってからはじめです。

来年はもう少し誠実に生きようと思います。
節子がいなくなったせいにして、生きる誠実さを軽んじてしまうのは、もうやめて、来年は少ししっかりと生きようと思います。
一人で新年を迎えるのも、もう8回目です。
少しは進歩しなければいけません。

■2674:節子を知っている友人たちが続けて来ます(2014年12月26日)
節子
今日はさまざまな人が湯島に来てくれます。
最初のお客様は京都で伝統文化に取り組んでいる濱崎さんです。
相変わらず活動をどんどん広げているようで、そのチャレンジ精神は大好きですが、いささか危なっかしいところがあります。
濱崎さんとは、彼女がまだ大学院生時代だった時に知り合いましたが、伝統文化への思い入れの強さには敬服します。
節子も一度会っていますが、それは彼女たちが東大の駒場で開催した公開シンポジウムの時でした。
夫婦で参加したのですが、シンポジウムが始まる前に、彼女がお茶をたててくれました。
なぜか私たち夫婦は壇上に乗せられ、みんなの前でお点前をいただきました。
私は作法など全く知らず、普段と同じように、無造作にいただいてしまいましたが、隣にいた節子は恥ずかしい思いをしたそうです。
何しろ私は作法を無視した対応をしたからです。
それもみんなの見ている前で、です。
困ったものです。

お茶をたててくれたのは濱崎さんですが、それにも懲りずに、今も付き合ってくれています。
節子が闘病で食欲がなかった時には、濱崎さんは冷菓を送ってきてくれました。
濱崎さんは、大学院終了後、老舗の和菓子屋さんの太田さんと一緒に、京都の弘道館を復活させようといささか無謀な挑戦をしています。
一昨年、弘道館をお伺いした時には、太田さんがわざわざ来てくださり、手作り和菓子と一緒にお茶をたててくれました。
その時も、作法などわきまえずに、美味しくいただきましたが、節子のことを思い出していました。
太田さんも実に魅力的な人です。

濱崎さんにしろ、太田さんにしろ、世間からかなりはずれた生き方をしています。
私は、そういう人と会うと元気が出てきます。
次の来客は、これまた節子の闘病中に、おいしいケーキを送ってくださっていた鈴木さんです。
鈴木さんは、来年、世界に向けて歩き出す計画をお持ちです。
さらにその後は、これまた節子のよく知っている武田さんと柴崎さんが来るようです。
なにやら今日は、節子の知っている人が湯島に来てくれます。
節子が呼んでくれたのでしょうか。

今日の東京は、青空の気持ちの良い冬です。
そろそろ鈴木さんが来るころです。
コーヒーでも淹れることにしましょう。
こうしていると、節子がいた頃のことを思い出します。

■2675:不運なトラブル(2014年12月27日)
節子
昨日はさんざんな日になってしまいました。
来客や今年最後のサロンはとても面白く、よかったのですが、事件は帰りの電車で起こりました。
途中で座れたのですが、愛用のクラッチバッグを棚の上に置き、本を読んでいました。
思うことがあって、石牟礼道子さんの本です。
ついつい夢中になってしまったのですが、終点の下車駅である我孫子に着いて、棚の上を観たら、そこにあるべき私のクラッチバッグがないのです。
たまたまそこに駅員の人が回ってきたので、事情を話しました。
しかし、たしかバッグを置いた時に、似たようなバッグはありませんでしたから、取り違えられた可能性はありません。
だとしたら盗難しか考えられません。
もしそうだとしたら、よりによって私のバッグを選ぶとは盗んだ人も努力の甲斐がなかったでしょう。
私のバッグの中にあるのは、書籍とデジカメくらいのものなのです。
しかし、はっと気づきました。
今日、会った友人から、まだ公開できないので私どまりと言われて渡された1枚の資料が入っていることに気づいたのです。
デジカメはお金で買えるものですから、誰かが使ってもらえれば無駄にはなりません。
書籍も同じですが、その資料だけは回収しなければいけません。
それで駅の人に探してもらいましたが、やはりどの駅にも届いていません。
何やら気分が沈みこんでしまいました。
節子がいたら元気づけてくれるでしょうが、娘には、私の不用心さを注意され、日本も最近は注意しないといけないのだと諭されました。
私が基本的に悪い泥棒はいないと言い続けていることに娘たちは批判的なのです。
盗む人も悪いが、盗まれる人も悪いというのが、娘の論理なのです。
たしかのそうでしょう。
すきを与えて盗ませてしまったと考えれば、盗む人より盗まれる人の方が悪いということにもなります。
何やらしょんぼりして、節子に線香をあげていたら、電話がかかってきました。
三郷の警察からです。
いまここにバッグを持ってきてしまった人が来ているが、このバッグは佐藤さんのものかというのです。
手帳に私の電話番号が書かれていたのです。
なんで交番からの電話なのかと思いましたが、まあいろいろとあったようです。
それから3人の人と電話で何回か話す羽目になってしまいました。
遺失物でも盗難でもなく、担当が警察か駅かというような話になってしまったようです。
間違ってバッグを持ち去った人が私に謝りたいというので、その人とも話しました。
内心、ちょっとだけむっとしましたが、まあ人には間違いはありますから、咎めるわけにもいきません。
しかし、ちょっと理解しにくい事件ではあります。

そんなわけで、今朝は埼玉県の三郷までバッグを引き取りに行ってきました。
無事、バッグは戻ってきたわけです。
今年は何かとトラブルの多い年でしたが、これが最後のトラブルだといいのですが。
そういえば、その帰りに、花かご会の山田さんに会いました。
花かご会の集まりのようでした。

■2676:「人生」は生きている(2014年12月29日)
節子
今日は雪が降りそうな日になりました。
昨日は夕方になって、いろいろとやらなければいけないことを思い出して、挽歌を書き損ねました。
一時期、挽歌書きは習慣化していたのですが、最近は生活リズムそのものが乱調しています。

昨日、東尋坊の茂さんと川越さんたちが、恒例のお餅を送ってきてくれました。
茂さんたちは、東尋坊での見回り活動のなかで、昨日までに507人の「人生に悩める人たち」に出会ったそうです。
年末にも気を許せないのでしょう。
あの寒い東尋坊で見回り活動をしている茂さんたちには頭が下がります。
電話したら、いつもと変わらぬ元気な茂さんの声が聞けました。
節子がいたら、茂さんたちとの関係もさらに深いものになっただろうと残念でなりません。

このお餅は、見回り活動の仲間や人生の再出発に向けて準備している人たちみんなでついたものです。
茂さんは、この餅をみんなの心が込もった「気餅」と言っています。
みんなが和気あいあいと元気よく餅つきをしている風景が目に浮かびます。

人生に疲れて元気がなくなってしまった人には、子どものころに家庭で味わったような、あったかい「おろしもち」を食べてもらおうとはじめた茂さんたちの「おろしもち屋」さんも、もう10年を超えました。
節子と一緒に、そのお餅を食べてからもう10年近くもたつのです。
あの時には、あまりの意外さと話に夢中になってしまい、せっかくのおいしいおろしもちを食べ残してきてしまったことを思い出すたびに後悔しています。
しかし、あの出会いがなければ、私の生き方もかなり変わっていたはずです。

茂さんの協力を得て、今年の9月には新潟でも自殺防止に関わるフォーラムが開催できました。
その開催に一方ならぬご尽力をされた金田さんの人生もまた、少し変わりつつあるでしょう。
こうして人の生き方は変わっていくのでしょう。

人生とはつくづく「生きているもの」だと思います。
私が人生を生きているのではなく、生きている人生に私が生かされているのです。
私の思うようにならないのは当然なのでしょう。
今年も実にいろんなことがありましたが、最後にきて、少しだけ「心の平安」が感じられるようになりました。

今日は寒い雨の中を湯島に出かけます。
今年最後の集まりです。

■2677:10年前のことを思い出させてくれた木下さん(2014年12月29日)
節子
今年最後の湯島のお客様は、豊橋の木下さんでした。
木下さんは10年近く前に、代々木のオリンピックセンターで開催したコムケアの最終選考会に参加してくれていたそうです。
当時、全国のNPOを対象にした資金助成プログラムの運営をしていましたが、応募した人たちの投票で助成先を決めるようにしていました。
その最終選考会は公開で行っていたのです。
選考会の後、立食パーティもやりましたが、私が主催者だったので、周りにいろんな人が集まっていて、声をかけそこなったのだそうです。
その後、木下さんはサロンにも出てくれましたが、その時もゆっくり話す時間がなく、しかし、なんとなくメールやフェイスブックでの交流が続いていました。
その木下さんが、東京に行くので湯島に寄りたいと言ってくれたのです。

代々木での集まりの時には、残念ながら節子は病気で参加できませんでした。
準備のため私は前泊しましたが、その時、一緒に食事をした何人かの方のことを今も思い出します。
愛知や群馬や四国などから参加してくださって前泊された方たちです。
みんな障害をお持ちの方や高齢者などに関わっている人たちばかりで、痛みをお持ちの方ばかりでした。
そのせいか、私もついつい節子のことを話してしまいました。
場違いだったかもしれないと気になっていました。
しかし、翌日の選考会の始まる前に、みなさんと話していたら、ある人が「佐藤さんはどこかあったかい気分がする」とつぶやいてくれました。
哀しさや寂しさの表明が、あったかい空気を生むこともあるのだと、思いました。
その言葉が私を元気にしてくれ、選考会は大成功でした。
節子は参加できませんでしたが、参加していたのだと、なぜか思いました。
5回の選考会を開催しましたが、私には一番心に残る会でした。

木下さんは、その会に参加してくれていたのだそうです。
その話を聞いて、いろいろと思いだしました。
選考会に残ったあるNPOの代表は、私と同じく、伴侶をがんで喪いました。
その直後にお会いしましたが、私とは対照的に、実に気丈夫に振る舞われていました。
伴侶を喪うと、男性は自壊しがちですが、女性は強いなと思いました。
生きる力が違うのかもしれません。

木下さんと会った後に、ある集まりが湯島でありました。
そこに参加された2人の女性も、伴侶を亡くされています。
おふたりとも社会的な活動に取り組んでいます。
見習わなければいけません。

木下さんからメールが来ました。

限られた時間でしたが、佐藤さんの心の琴線に触れられた気がして、大変嬉しいです!

人との出会いは本当に不思議なものです。
来年は木下さんが働いている豊橋に行ってみようと思い出しています。

■2678:同じ目線での生活(2014年12月30日)
節子
同じ目線で生きることの意味を、最近改めて感じています。
水俣病事件に誠実に取り組まれ、水俣学を提唱された原田正純さんは、晩年、奥様と一緒に行動されていたそうです。
「苦界浄土」の著者の石牟礼道子さんは、そのエッセイで、原田さんの奥さんの言葉を書いています。

「結婚して以来、こんなに一緒にいる時はございませんでした。もうあとのなか命ですもんね。一緒にいなきやと二人で言い合っています。とっても幸福です。原田が世間に出て、なにをしているのかだんだんわかってまいりましてね。私も協力しなきやと思うようになりましたの。とても楽しくて、こんな幸福なことはありません。」

同じ目線での生活が、夫婦の関係性を確かなものにしていくのでしょう。
私は、一緒に暮らすようになった時に、このことを節子に話した気がします。
私たちは、いつも一緒に考え行動することを心がけていました。
隠し事はなく、意見は言い合うために口喧嘩はよく起こりました。
しかし、会社に勤めていた頃は、目線の違いが少しずつ広がっていたような気がします。
それが破綻まで行きそうな時もなかったわけではありません。
私が、もし会社生活を続けていたら、節子との関係もいまとはかなり違ったものになっていたかもしれません。
私が会社を辞めてからは、その溝はなくなり、目線もそろって来ていたと思います。
夫婦と親子との違いはここにあるような気がします。
親子は、決して同じ目線には立てないからです。

これはなにも夫婦に限ったことではありません。
「同じ目線」というのは、社会活動をする時にはとても大切なことです。
社会活動に取り組んでいる人と会っていて、時に私が拒否感を持ってしまうのは、この「目線」がためです。
社会のため、困っている人のため、などという言葉が出てくると、頭のどこかがプツンと切れてしまうのです。

節子の胃がんが発見されてから、私は基本的に仕事をやめ、再発して以来は、ほとんど自宅で過ごしました。
病院もいつも一緒でした。
節子が一時期、回復した時には、遠出はできませんでしたが、日帰り旅行もよくしました。
その4年半、私たちの目線はほぼそろっていたと思います。
その時に、節子が幸せだったかどうか、確信は持てませんが、私たちが一緒にいた時間は多かったことは間違いありません。

そして節子が逝ってしまった後は、さらに私たちはいつも2人一緒にいる感覚です。
しかし、「幸福か?」と言われると、「幸福だ」とは言いかねます。
挽歌を書くよりも、節子との語らいのほうが、楽しいだろうからです。
語らう伴侶がいないことは、さびしいものです。
特に寒い冬には、そう感じます。

■2679:疲れた年も今日でおしまい(2014年12月31日)
節子
節子がいなくなってから2679日が経過しました。
そして、明日は8回目のお正月です。
今年もいろいろありましたが、年末近くなって、体調も気力もかなり戻ってきました。
そうなると、またやらなくてもよいことをやりだしてしまうのが、私の悪癖です。
大晦日の今日になっても、余計なお世話の活動をしてしまっています。
困ったものです。
しかし、ちゃんと最後のお墓参りには行ってきました。
般若心経もあげてきました。
本堂にもお参りし、若住職とも話してきました。
お寺では、今夜の除夜の鐘の準備をしていました。

節子が元気だったころ、お寺に除夜の鐘をつきに行ったこともありました。
初日の出もよく一緒に見ました。
もうあんな年越しは戻っては来ません。
それがちょっとさびしいです。
いまも、なんだか年末の気分がしないのです。
それでも、明日は新しい年です。

今年ほど疲れた年はありません。
その疲れを忘れたいです。

昨日までの天気予報と違って、明日の朝は晴れそうです。
初日の出が見えるかもしれません。
来年はこれまでと違って、少し前を向いて進めそうです。
そうしないと、いつになっても彼岸への旅立ちができません。
前に進む後押しをしてもらうためにも、明日は初日の出を見たいと思っています。

節子
今年も1年間、ありがとう。
もう少し現世にいないといけなさそうですね。

■2680:雲の向こうの初日
(2015年1月1日)
節子
また年が明けました。
節子がいた時と同じように、屋上で初日の出を待ちました。
雲が多かったのですが、雲の向こうに少しだけ初日を感じました。
節子のいない8年目が始まりました。

今年は少し前に進みだそうと思います。
そうしないと、いつになっても、彼岸にたどりつけないような気がしてきたからです。

正月の過ごし方は、節子がいなくなってから、大きく変わりました。
家族みんなで食べる正月料理は何やら「合理的」になってしまいました。
そういえば、活け花も小さくなりました。
日常と非日常の差がどんどんなくなっている時代の流れには抗いがたいものがあります。

朝、次女夫婦と合流して、初詣ででしたが、今年は人が少なかったような気がします。
帰り際に雪がちらつきましたが、残念ながらすぐにやんでしまいました。

ホームページを更新しましたが、いつも年初に書いている2つのメッセージを今年は簡素化しました。
以前書いたものを読み直してみると、その時々の私の状況がわかります。
何やら迷路の中で止まっている自分を見るようです。

今年は少し前に進もうと思います。
雲の向こうの初日を見るには、進まなければいけません。

■2681:ドキッとしたりホッとしたりの年賀状(2015年1月2日)
節子
最近、年賀状も年賀メールもやめてしまいました。
ただ届いたものには返信するだけにしています。
印刷された年賀状や相手が特定されていない挨拶メールはほとんど読まないのですが、それでも時々、ドキッとしたりホッとするものも少なくありません。

ずっと気になっていたMさんからは、例年通りの印刷されただけの年賀状でしたが、届いただけでもとてもホッとしました。
三が日が明けたら電話しようと思います。

節子も会ったことがあるYさんからのメールを読んだ時には心が凍ってしまいました。
娘さんが急逝されたというのです。
Yさんは、会社時代に私の職場に入ってきました。
その後、結婚し、パートナーの転勤でスイスに転居、いまもスイス在住です。
毎年、近況報告のメールが新年に届くのです。
Yさんのことを少しだけ知っている私としては、彼女がその悲しみを乗り越えようとしている姿が、頭に浮かびます。
私と違って、外部に私情をそう見せるタイプではありません。
ましてや、海外でのこと、いささか心配ではあります。

メールには、こう書かれていました。

あまりの突然のことで、私たちも、信じられない気持ちで
長い旅行に行っていて、そのうちに戻ってくるのではと思えてなりませんでした。

「でした」と過去形で書かれているところも、いかにもYさんらしいです。
Yさんのお父上も存じ上げていますが、さぞかしつらかったことでしょう。

Yさんが書いている「長い旅行」という気持ちはよくわかります。
実は、私はいまも、時々、節子のことをそう思うことがあります。
そういう思いを長年もっていると、それがとても現実感を持ち出すのです。
それに、実際にそうかもしれないのです。
さすがに最近は戻ってくるような気はしませんが、いつか旅先で会えるだろうというような思いが浮かぶことはあります。

ショックを受けることもあります。
伴侶の訃報を聞いた人から、再婚の報告があると、よかったねと思うと同時に少しだけショックも受けます。
私が悲しがることはないのですが、何かさびしさに襲われます。
娘に話したら、生前から別居したり憎悪関係になったりする人もいるのだから、祝福すべきでしょうと言われましたが、どうも割り切れません。
私が特殊すぎるのかもしれません。

そういえば、長い年賀?電話もありました。
今日の午前中は何本かの電話で、せっかくの箱根駅伝を見損なってしまいました。
三が日のテレビで、私が唯一見る番組なのですが。

■2682:何かを共有していると思えれば、人は会わなくてもいいのかもしれません。(2015年1月3日)
節子
今日は朝からゆったりしています。
そうなったのは、たぶん暖かな陽射しのせいです。
窓から見える手賀沼の湖面が、きらきらととてもきれいでした。
この光景が節子は大好きだったのを思い出します。
天候や自然の景色は。心身に大きな影響を与えます。
まるで、今日が元旦のような感じがしてきました。

広島のOさんが、電話してきてくれました。
いろいろとお話したのですが、最後にはっと気づきました。
私はOさんに一度もお会いしていないのです。
一度も会ったこともないのに、Oさんは私がブログなどに弱音を書くと電話で元気づけてくれます。
いつぞやは美味しいお米まで送ってきてくれました。
そのお米のご飯を食べると、私が元気になると思ってくれたのです。
それで、ついついお会いしたことがあるという感じになってしまうのですが、会ったことは一度もありません。
実に不思議な関係です。
今年はお会いでしたいですね、と電話で話し合いましたが、離れているのでそう簡単には会えません。

そういえば、鳥取にも、一度もお会いしていないのに、よくメールをくれる方がいます。
人は会わなくても、心を通わせ会えるのかもしれません。

年賀状を見て、この人とはもう20年以上も会っていないなと気づくことがあります。
なかには40年ほど会っていない人もいます。
それでも、関係はつづいています。

スイスのYさんは、娘は長い旅行だといいました。
手賀沼の湖面を見ながら、節子もこの光景を見ているような気がしました。
何かを共有していると思えれば、人は会わなくてもいいのかもしれません。
いずれにしろ、そのうち、彼岸で会えるのですから。

と思いながらも、やはり会いたい気分は残ります。
そのせいか、今朝、節子の夢を見ました。
あまり良い夢ではなかったのですが。

■2683:湯島天神にお詣りしました(2015年1月4日)
節子
今日は今年最初の湯島でのサロンでした。
年末に思い立って、案内をしたところ、11人の人が参加してくれました。
それも初めて湯島に来てくれた人が3人もいます。
3時間半の予定が5時間近くになってしまいました。

終わった後、久しぶりに湯島天神にお詣りしました。
実はサロンの始まる前に行こうと思ったのですが、なんとオフィスのあるビルの前まで行列で、交通規制をしていました。
並ぶのは性に合わないので、ベランダから下の通りを眺めていました。
お茶の水方面からどんどん人が来ます。
たぶん神田明神から流れてくるのでしょう。

節子とは毎年、年のはじめに車でやってきて、オフィスの大掃除をしたものです。
しかし、年々、参詣客が増え、年始には交通規制で入れなくなってしまいました。
それをしらずにやってきて、交通規制しているお巡りさんにむりやり入れてもらったことを思い出します。

節子がいなくなってから、しばらくは年末か年始に大掃除に来ていましたが、最近はやめてしまいました。
それで今日はサロンが始まる前に少しだけ片づけと掃除をしました。
節子のお気に入りのリトグラフも壁に掛け直しました。
お正月用の飾りもあるはずですが、探したのですが見当たりません。
しかたなく小さな鏡餅だけを用意しました。
しかし、掃除はやはり退屈で、途中でやめてしまったので、さほどきれいにはなっていません。
今年はトイレ掃除をきちんとしようと思います。
イエローハットの影山さんと一緒に湯元の公衆トイレの掃除をしたことを思い出します。

サロンには女性の方が3人参加してくれていましたが、終了後、私が誰かと話してくれているうちに、カップなどや炊事場をみんなきれいにしてくれました。
あげくのはてに、布きんなどまで新しいのを持ってきてくれました。
最近の湯島は、そんな文化になっています。
みんなが私の弱みを助けてくれるのです。
感謝しなければなりません。

サロンが終わってバタバタしていたら暗くなってしまいました。
湯島天神もすいていたので、久しぶりにお詣りしました。
節子がいなくなってから足が遠のいていたのですが、今年はもう少しお参りしようと思いまちょっとだけ懺悔をしました。
今年は、良い年になるといいのですが。

■2684:永遠と一日(2015年1月5日)
節子
ギリシア映画「永遠と一日」を有楽町のシャンテ・シネで一緒に観たのはもう15年ほど前になるでしょうか。
私はギリシア映画は苦手なのですが、古代ギリシアの会パウサニアス・ジャパンの事務局長をやっていたので、節子を誘って出かけたのです。
ギリシア映画は重いので、一人で見る自信があまりなかったからです。
節子はこういう形で、よく付き合わされて迷惑だったことでしょうが、いつも気持ちよく付き合ってくれました。

この映画の監督は、テオ・アンゲロプロスという巨匠です。
名作をたくさん残していますが、私は見た後、疲れ切ってしまうので苦手でした。
「永遠と一日」も、私には苦手の展開でした。
ところが、どうしたことか、最後になって、涙が止まらなくなったのです。
涙だけであれば、いいのですが、嗚咽を止められないほどでした。
終わってからも止まらず、映画館を出ても止まらないのです。
泣きながら有楽町の人混みのなかを歩いたわけですから、すれ違った人はどう思ったでしょうか。
節子はさほどでもなく、後でどうしてあんなになったのと笑われるほどでした。
しかし、無性に泣きたくなったのです。
最近は涙もろくなったのですが、当時はそんなことは滅多にありませんでした。

この映画のテーマは「愛と死」です。
ホームページでよく著書を紹介させてもらっている一条真也さんが、その映画を観て、感想をブログにお書きになりました。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150104/p1
一条さんらしく、とてもていねいに解説されていますので、みなさんもぜひ読んでみてください。
感受性豊かな一条さんの感想を読むと、きっと映画も観たくなります。

実は、私もこの挽歌でこの映画のことに言及しているだろうと思っていました。
しかし探してみましたが、記事の中に少しだけ言及されてはいましたが、きちんと書いたことがないことに気づきました。
節子を見送った後、この映画のことをよく思い出しています。
何回か見ようと思ったこともあります。
しかしやはり観ることはできませんでした。

私のホームページを探してみたら、アンゲロプロス監督の「エレニの旅」に関して書いた記事に、私が「永遠と一日」で号泣した記事(2005年3月)がありました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#0318
「エレニの旅」は観ないと断言していますが、その時に私の気持ちが思い出されます。
2005年といえば、節子はもう発病後です。
観ないと明言することで、私の気持ちを表現していたのです。
ホームページには節子の病気のことは基本的に書かないようにしていたのです。

「永遠と一日」であんなに涙が止まらなかったのは、節子をもうじき見送ることを無意識に感じていたのではないかと思うことがよくありました。
そうでなければ、あんなに嗚咽するはずもありません。
しかし、私たちが「永遠と一日」を観たのは、節子の胃がんが発見される数年前です。

一条さんのブログに、この映画のタイトルの意味が書かれています。

アレクサンドレ(主人公)が亡き妻に「明日の時の長さは?」と問いかけると、妻は「永遠と一日」と答えます。

節子を見送って、数年して、私はこの意味をようやく実感できるようになりました。
私もどこかにDVDがあるはずなので、思い切って観てみようかと思います。

■2685:不幸に恵まれた人生(2015年1月6日)
節子
運動不足のせいか、あるいは食べ過ぎのせいか、どうも心身の軽やかさがありません。
最近、睡眠はきちんととっているのですが、なぜか眠いのです。
永眠に入るにはちょっと早い気もしますが、困ったものです。

「苦界浄土」を読むつもりが、年が明けた途端に、本を読む気が失せてしまいました。
年末から年始にかけて、いろんなことがありました。
「苦界浄土」だけではなく、何冊かの本をパソコンの横に置いていますが、読む気が起きません。
気がないと読んでも頭に入りませんから、読まないほうがいいのです。

何かとやることは多いのですが、やらなくてもいいことばかりやっているのかもしれません。
私の場合、いつも「思うがまま」に、やるかどうかが決まってきます。
ですから時々、なんでこんなことをやっているのだろうかと自分で思うことも多いのです。
しかしやりだしたことは、途中で投げ出すわけにはいきません。
節子からはいつも「あなたの優先順序のつけ方はおかしい」と言われていましたが、たぶん私の判断基準は世間からずれているのです。
この性癖もまた、いつになっても直りません。

しかし、世の中には「やらなければいけないこと」が多すぎます。
誰かに頼まれたわけでもないのですが、頼まれていないからこそ、やらないといけないというのが私の気分なのです。
しかし、それをすべて受けているとまたまた時間破産に陥ります。

パスカルは「パンセ」で、人は部屋でじっとしていられずに外に出ていくために不幸になるのだと書いているそうですが、まったく同感です。
だれともつきあわずに、ひっそりと生きていれば、不幸にはならないでしょう。
「引きこもり」の魅力に、時々、身を任せたくなることもありますが、これもまた、私にはできそうもありません。
私はたぶん、不幸に恵まれた人生を送るように生まれついているのでしょう。
こんな寒い日は、自宅でゆっくりしていればいいものを、と我ながら思うのですが。
しかし、石牟礼さんも、そうやって「苦界浄土」の世界に引き込まれたのでしょう。
こんな言い方をすると叱られそうですが、その世界に魅了されれば、幸せや不幸などは超えられるのはないかと思います。
そして、時間もまた超えられる。
生と死の境界すら超えられるのかもしれません。

今日、少し遅れた年賀状がYさんから届きました。
そこに、「NPOにつまづきを感じながら頑張っています」と書いてありました。
YさんがNPO活動に取り組みだしたきっかけには、私もささやかに責任があります。
それで私も何回か足を運びました。
お礼に大根やそば粉をもらったこともあります。
お金をもらった仕事はすぐ忘れてしまいますが、漬物や大根をもらった仕事は決して忘れることはありません。
それに、Yさんはわざわざ作業用の軽トラックでKさんと一緒にわが家まで節子に花をあげに来てくれました。
その恩義を忘れるわけにはいきません。

この一言のメモを書いたのは、YさんもKさんもきっと何か困っているからでしょう。
その声を聞いてしまった以上、何かできることを考えなければいけません。
だから年賀状を読むのが好きではないのです。
人とつきあうと、本当に不幸になるのです。
パスカルは、どうしたのでしょうか。
間違いなく不幸だったでしょうね。

■2686:カサブランカの香り(2015年1月7日)
節子
昨日まで気づかなかったのですが、朝起きて節子に般若心経をあげていたら、カサブランカの香りが部屋に充満しているのに気づきました。
年末は、お金の節約で、カサブランカは買えなかったのですが、それではいけないと思い、元旦に買ってきました。
とても立派なカサブランカです。
しかし、いつものように香りがしないなと思っていたのですが、考えてみると開花しだしたのが3日くらいからです。
いまは4つの大輪が咲いていますので、香りも豊かになってきたわけです。

カサブランカに、特別の思い出があるわけではありません。
ただ私も節子も、この花が好きだっただけです。

節子はおしゃれではありませんでした。
香水などにもあまり興味はありませんでした。
私は、節子以上に興味はありません。
そもそも女性の化粧には、むしろ違和感があるくらいです。
化粧しない女性の方が私は好きでした。
最近はそうでもなくなってきましたが。
それでも最初に仕事でパリに行った時に、節子に香水セットを買ってきたのですが、言葉が通じなかったためか、なんと男性用でした。
結局、使われることなく廃棄されました。
それくらい私も節子も知識も関心もなかったのです。

私が、カサブランカの花の香りが好きだと気がついたのは、節子を見送って、しばらくしてからです。
その香りが、なんとなく節子を思い出させてくれるのです。
節子の香りではなく、節子を思い出させてくれる、ちょっと悲しい香りなのです。
香りの中には思い出が込められていることを知ったのも、節子が逝ってしまってからです。

今日は、カサブランカの香りに包まれた部屋で1日を過ごそうと思います。
幸いに今日は、出かけなければいけない用事はありません。
「苦界浄土」を読みましょう。
きっと彼岸がもっと感じられると思います。
電話がなければいいのですが。

■2687:勘違いの自画像(2015年1月8日)
節子
挽歌をよく読んでくださっている、まだお会いしたこともない方が、私たちのことを想像して描いてくれたエクセル画を、メールで送ってきてくれました。
正月返上で働いているとお聞きしていましたので、時間のない合間に描いてくださったのです。
この方も4年ほど前に伴侶を亡くされています。
メールにはこう書かれていました。

4年も経ち、いまだ家内の死を真正面から受け入れることの出来ない私は、間違いなく変人でしょうね

決して変人ではなく、むしろ、それが普通なのではないかと思います。
それへの対応の仕方が、私もこの方も不器用なだけでしょう。
不器用だからと言って、そう簡単には考えは変えられません。

この方は、以前もエクセル画を描いてくださいましたが、今回はこう書いてくれています。

お会いしたこともない佐藤様ご夫婦を、想像しながら描いた絵を添付させて頂きました。
場所も特定の場では御座いませんが、京都辺りを創作いたしました。
今年は、佐藤様にお会いできるような気がしております。

この絵に描かれている「私たち」には、私自身は大きな違和感があるのですが(太郎さん、すみません)、挽歌からはこういうイメージが生まれてくるのでしょうか。
この絵からは、品格のあるおしゃれな大人の雰囲気が感じられますが、実際の私たちはそれとは正反対でした。
品格とは縁もなく、おしゃれでもなく、たぶん成熟した大人の雰囲気もない夫婦でした。
気分的には、ふたりとも、かなり若い気分でもありました。
それに、私はコートも帽子も不得手でした。
私は、娘からカジュアルウェアが似合わない人と言われ続けていますが、たしかに我ながらそう思います。
しかし、本当はいまでも、若い人が着用するようなものが好みなのです。
カジュアルなものでないものも、おしゃれではありません。
一度くらい、高級な背広をつくったら、と言われながら、いつも互助会か何かで安い背広をつくってもらっていました。
その背広も節子が元気だったころのものですから、もう10年近く前のものしかありません。
しかも保存が悪かったため、何着かはよく見ると虫に食べられた小さな穴があるのです。
いやはや困ったものです。
ですから、エクセル画のような品格のある雰囲気にはならないのです。

ただそのくせ、いろいろとこだわりはあるのです。
おしゃれではない上に、着用するものの条件がたくさんありすぎるのです。
そのため節子は私の衣服の買い物につきあうのは好きではありませんでした。
私が着たくなるようなものに出会うことは少ないからです。

ところで、このエクセル画で感じたのですが、自分で持っているイメージと第三者に見えているイメージとは、違うのでしょうね。
事実、私は、私よりも若い60代の人たちをテレビなどで見ても、どうしても自分よりも年上に見えてしまうのです。
そして、歳相応に扱われることにむしろ違和感があるのです。

人はみんな、勘違いの自画像を持っているのでしょうね。
とりわけ伴侶のいない人は、そうではないかと思います。
困ったものです。

■2688:緒方正人さんの本を読みました(2015年1月9日)
節子
もし節子が元気だったら、一緒に会いに行きたい人ができました。
詳しいことは知りませんでしたが、水俣市の芦北に住む緒方正人さんという人です。
お名前だけは以前から知っていたのですが、緒方さんの語った本を2冊、読ませてもらいました。
ただただ敬服しました。
本当に生きている人だと思いました。
読んだ本は、「チッソは私であった」と「常世の舟を漕ぎて」です。
緒方さんとはもちろん面識もなく、勝手に思い込んでいるだけですが、これほど魅力的な人はそうはいないでしょう。
感激したので、場違いの挽歌にも書かせてもらいます。
節子にも知ってほしいからです。

これまで私もそれなりに魅力を感じた人はいました。
もう少し若い時には、会いたくなったら会いに行きました。
最近はそんな元気はないのですが、もし節子がいたら、緒方さんには会いに行きたい気分です。

緒方さんは、自分の生き方や考え方を問い質す過程で「狂って」しまいました。
正真正銘の、凄絶な狂いだったようです。
そして、自分にたどりついたのです。
その緒方さんの語りは、すべてすんなりと心身に入ってきます。
これほど違和感なく読めた本は、今まで1冊もありません。

何がすごいのか。
私が何に感激したのか。
それはなかなかかけませんが、ともかく嘘のない生き方をしています。
しかも自分を生きています。
私が目指しながら実現できていない生き方です。
私のように、中途半端な狂いではだめなのでしょう。

緒方さんは、奥さんのことも少しだけ語っています。
語りは少ないのですが、緒方さんの隣に奥さんがいることは、読んでいるとたびたび伝わってきます。
素敵な夫婦なのでしょう。

いつかお会いしたいと思いますが、水俣まで一人で会いに行く元気はありません。
でも会いたいと思いつづけていたら、会えるかもしれません。
これまでも、会いたい人には会えることが多かったですから。
その時は、節子も同行したいと思います。

■2689:年賀状を書かないで10日を過ぎてしまいました(2015年1月10日)
節子
まだ年賀状をほとんど読んでいないのです。
明日から読み出そうと思います。
私は数年前から年賀状を出すのをやめてしまいました。
しばらくは年賀メールを送っていたのですが、それもやめてしまいました。
それでも毎年年賀状をもらったら、メールをやっている人にはメールを、やっていない方には年賀状を出していました。
今年は、それもやめたばかりか、年賀状もきちんと読みませんでした。
とくに理由があったわけではありません。
年末以来の疲れで、なぜか世間と関わるのが無性に煩わしかったのです。
年賀状を一枚ずつ読んで、一人ひとりに返事を書くのはそれなりに面倒なので、先延ばししたくなるわけです。
フェイスブックをやっている人は、それでも私がほどほどに元気なのを知っていると思いますが、そうでない人は心配して電話までしてきてくれます。
なにしろ親戚にもほとんど出していないからです。

年が明けてからですが、なぜか面倒なことをする気が起きないのです。
三が日、ほとんど何もせずに気ままに過ごしたのが快適だったので、それになじんでしまったのかもしれません。
世間の付き合いを絶つことは、たぶん快適なことなのでしょう。
時々、それに引き込まれたくなりますが、それを体験していないので、そこに入り込む勇気がまだ出てきません。
煩わしいと思いながらも、いまはまだ、世間との付き合いの魅力が勝っているのです。

世間との付き合いを絶つことの究極は、現世での生を絶つことです。
いずれにしろ、いつかそうなるわけですから、まあ急ぐことはありません。

年賀状を全く読んでいなかったわけではありません。
元旦に届いた100枚ほどは、一応、さらっと目を通したのですが、後は名前だけです。
しかもだんだん読むのも面倒になり、いまは机に積んでいくだけです。
200枚ほどたまったでしょうか。
届く年賀状は激減していますが、でもまだこれだけの人が年賀状をくださるのだと思うと不思議な気もします。
昔はよくまあ、あんなにたくさんの年賀状を書き、多くの人と付き合っていたものです。

年賀状をくださった方、申し訳ありません。
明日から少しずつ返事を書いて出すようにします。

■2690:年賀状の返事を書き出しました(2015年1月11日)
節子
年賀状を読みだして、返事を少しずつ書き出しました。
そのなかに、とてもうれしい人からの年賀状もありました。
数年間、音信不通のOさんです。
昨年はメールでしたが今年は年賀状でした。
立ち直りだしているようです。
節子が必死に生き抜こうとしていた時に、自殺予告のメールをくれた人です。
時期が時期だけに、節子も私もいささか「怒り」を感じてしまいました。
その時期でなければ、私たちももう少し彼を応援できたのですが。
そのため極めてささやかな応援しかしなかったのに、Oさんは覚えてくれています。
そして、元気になって仕事も始めたことを報告してきてくれました。
今年は東京にも行きたいと書かれていましたので、再会できるかもしれません。

新しい活動に取り組みだしたという報告もいろいろとありました。
いつもなら素直に喜べるはずですが、なんとなく嫉妬心が浮かびます。
欲が深いのか、私もそうした活動に巻き込まれたいなと思ったりしてしまうのです。
歳をとるとだんだん僻みっぽくなるのかもしれません。
困ったものです。
もちろん中には応援したくなるような、うれしいものもあります。
しかし、いずれにしろ、みんなが元気になっていくのと反比例して、私の元気がなくなっていくのは、これもまた健全なあり方でしょう。

途中でまた用事ができてしまいました。
電話に出ると、ついつい余計なことを引き受けてしまうのです。
結局、今日はちょっとしか年賀状の返事はできませんでした。
山と積まれた年賀状をみると気力が萎えてしまい、理由をつけてはほかのことをしてしまうからです。
まあ、ここまで遅くなったのですから、急ぐこともないだろうと、勝手な理由を見つけて。
明日から少しずつ書くことにします。
全て終わらないうちに、やめてしまうかもしれません。
困ったものですが、頑張らないのも大切なことですから。
それにしても、注意しないと今年は忙しくなりかねません。
やはり携帯電話はできるだけでないほうがよさそうです。

■2691:年賀状を読んでいると自分の心境がよくわかります(2015年1月12日)
節子
今日はメールをやっている人たちにほぼ全員、年賀状の返信をさせてもらいました。
ハガキでの返信は先延ばししてしまいましたが。

年賀状を読むと、その人の1年が伝わってきます。
そこにはいろんな人生があります。
まさにそこには、喜怒哀楽に満ちた社会の縮図があります。
こういう感じで年賀状をゆっくりと読んだことは最近あまりありません。

同世代の人の年賀状には、健康に関係した記事も少なくありません。
健康を害したために、好きなテニスを禁じられたとか、書こうと思っていた本を諦めたとか、東京が歩きにくいことがわかったとか、いろいろとあります。
そういう人はみんな、私に無理はしないようにとアドバイスしてくれます。
自分が健康を害して、その大切さに気づくのでしょう。
たしかに、頭でわかっているのと自分がそうなるのとでは、まったく違うことでしょう。
アドバイスはきちんと聞き入れなくてはいけません。

ご夫婦で旅行に行っている写真も少なくありません。
以前は、そうした社員を見ると何やら私までもがうれしい気持ちになりましたが(節子がいなくなってからもです)、なぜか今年は寂しさを強く感じました。
節子がいないことが、実感できるようになったからかもしれません。

一番さびしいのは子供やお孫さんと一緒にいる写真です。
私は娘が2人いますが、残念ながら孫がいません。

新しい活動に取り組んでいるという話は、これまではただただうれしいだけでしたが、今回は少しうらやましい気がしました。
私がもう新しい活動に早々取り組めなくなってしまったからかもしれません。
これは「嫉妬」かもしれません。
無理して私も巻き込んでくださいと書きたい気分ですが、相手には迷惑にしかならない年齢になってしまいました。

とまあ、年賀状を読んでいると、まるで自分の心境がえぐられるように実感できるのです。
そんなわけで、今日はたくさんの人の人生を感じながら、私自身の今の心境(認めたくないことも含めて)に触れることになりました。
たくさんの喜怒哀楽に襲われた感じで、いささか疲れた1日でした。

そんなわけで、ハガキの返信は先延ばしにさせてもらった次第です。

■2692:輝きに満ちた瞬間(2015年1月13日)
節子
昨夜、久しぶりに節子の夢を見ました。
それも最初に会ったころの節子でした。
節子の冷たい手を、私が温めてやっている夢でした。
本当は、私の手の方が冷たいはずなのですが。

なぜそんな夢を見たのか。
心当たりが一つだけあります。

時々、書いていますが、私の好きな番組のひとつに「小さな村の物語 イタリア」があります。
昨日、北イタリアの谷間の村のコメリアンスの話(第191話)をみました。
http://www.bs4.jp/document/italy/onair/190.html
いつもながら、番組は深いメッセージを含意していましたが、それは近々、時評編で取り上げるとして、夢の原因と思われるのは、最後のナレーションです。
少し文脈が違うのですが、私の心に響いたものを紹介させてもらいます。

一度、足をとめて、昔のことを思い出してみる。
そうすれば、ささやかだけれど、輝きに満ちた瞬間を感じるはずだ。

このナレーションだけ切り取って引用するのは、プロデューサーの田口さんに叱られそうですが(文脈も違えば、表現も少し違います)、「昔のことを思い出してみる」とつなげて、「輝きに満ちた瞬間」という言葉が、なぜか深く心に響いたのです。

私は過去を思い出すことが不得手です。
過去にはほとんど関心がないからです。
にもかかわらず、「節子という過去」に呪縛されて生きています。
もしかしたら、私の中では、いまだ「過去」になっていないのかもしれません。
節子に話しかける場合の心情は、過去の節子にではなく、いまここにいる節子にです。
なかなかうまく表現できないのですが、節子はまだ私とともに「いる」という感じなのです。

ですが、昨日、そのテレビのナレーションを聞いてから、少し昔の節子を思い出しました。
未来を見つめながら素朴に誠実に現実を生きている節子の前に、おそらく経験もしたことのない、いささか常識的でない私が現れたのです。
混乱しないわけがありません。
そして気がついてみたら、一緒に住んでいたわけです。
私は、当時は、毎日を創出するような姿勢で生きていた気がします。
大げさな生き方ですが、過去の呪縛を捨てて、節子との生活を一から創っていくというつもりだったのです。
つまり、毎日が創造的な「輝きに満ちた瞬間」だったのです。

それが私たちの最初の1年でした。
残念ながら、そうした生活は1年もすれば、日常化し、輝きは消えていきます。
私の考えていた反常識的な生活は、現実化していきました。
しかし、そのおかげで、私たちの結婚生活は破綻もせずに、持続したのです。
後で聞いた話ですが、そうは続かないだろうと言っていた人もいたようです。

いまにして思うのですが、節子だからこそ、続いたのかもしれません。
節子を洗脳するはずの私が、洗脳されてしまったのかもしれません。
不思議なほどに、節子は私に反発せずに、私のスタイルを受け入れてしまったのです。
現実感のない、かなり変わった生き方を、です。
何しろ、最初は6畳一間の「神田川」生活でした。
もちろん家具など何もなかったのです。
古い借家で、暖房器具もなく、冬は寒くて仕方がなかったです。
それが、私の理想の同棲生活だったのです。
いまから思えば、節子はよく付き合ってくれました。
私が妥協してしまったこともありますが。

しかし、何もなくても輝きはありました。
あの頃の節子は、輝いていました。
節子はたぶん、私と結婚したことで、「輝きに満ちた瞬間」を少しは体験したと思っています。

一緒に住みだしてしばらくして、会社の広い社宅に転居しました、
そして東京に転勤。
それで、私たちのいささかスリリングな生活は、退屈なものに変質したように思います。
あの1年は、私たちの生き方を決めた1年だったような気がします。

休日はいつも京都か奈良を歩きました。
そして、駅から20分もかかる畳一間の借家への暗くて寒い夜道を、いつも手をつないで歩きました。
私の手はいつも冷たかったのです。

いささか長すぎる昔話でした。
これだけ書いたので、今日はもう夢は見ないでしょう。

■2693:「幸せ」の思い出(2015年1月14日)
節子
昨日の「小さな村の物語 イタリア」(191話)のことを、時評で書いているうちに、やはり挽歌にしようという気になりました。
というのも、節子が元気だったら、私たちもロレンツォ夫妻の幸せは私たちの夢に通じていることに気づいたからです。

ロレンツォとは、その番組に出てくる71歳の主人公です。
私とほぼ同世代です。
舞台は、北イタリアの谷間の村コメリアンス。
そこで48年間、ロレンツォは妻と2人でバール(バー)と食料品店をやっていました。
しかし、ロレンツォは店を閉じることに決めました。
奥さんはもう少し続けたかったようですが、彼はむしろ趣味の狩りをやったり、もっとゆったりした暮らしを望んだのでしょう。
どんなにうまくいっていても、歳に合わせて、生き方を変えるのは大切なことです。

48年続いたバールをやめることにした時、感謝の気持ちで谷間中の人たちに自由に飲んでもらうことにしました。
たくさんの人たちが集まったでしょう。
私には、ロレンツォ夫妻は最高の幸せを味わっただろうなとうらやましく思いました。
ロレンツォはこう話しています。

バールをやっていて本当によかったです。
だれもが挨拶に立ち寄ってくれた。
谷中の人が家族のような感じだったんです。
たくさんの人と知り合って、多くの現実を知り知恵も増えました。
それぞれがいろんな経験があり語るべきことがありますからね。
ボクらはお互いの人生や人柄を知り尽くしているんです。

実は、時評編にこう書いてきて、はっと気がついたのです。
私たちにも、ちょっと似た小さな体験があったことを。

私たちは湯島のオフィスで毎月最後の金曜日の夜、オープンサロンを開催していました。
いまも続いていますが、雰囲気は全く違っていました。
いささかバブリーでしたが、軽食やお菓子も節子が用意してくれていました。
ビールもコーヒーも飲み放題でした。
だれでも歓迎で、会費もなく、出入り自由でした。
多い時には20人を超す参加者がありました。
テレビの取材があったこともあります。

最初は、節子はこの集まりがあまり好きではありませんでした。
それに参加者が増えてくると買い物も大変で、いつも上野の松坂屋で買ってタクシーで湯島まで持ってきてくれました。
当時もあまりお金がなかったので、節約もしなければいけません。
しかし、節子も私の思いを知っていたので、会費をとろうなどとは言い出しませんでした。
そのうちに、参加者がいろいろと持ってきてくれるようになりました。
しかし、それが多くなりすぎて、これまた節子は大変だったようです。

しかし、だんだんと節子もそのサロンになじみだしました。
節子も知り合いが増えていきました。
それに私がどんな活動をしているかも、理解してくれるようになっていきました。

ところが、私があまりに忙しくなり、体調が悪くなってしまいました。
「大きな福祉」を理念にした活動では、どんな相談にも乗ると公言してしまったからです。
おかげで、仕事をする暇もなくなり、人生は変わってしまいました。
借金もそれなりに増えました。
それで、サロンを一時中断し、私自身、生き方を見直すことにしたのです。
最後のサロンにはたくさんの人が集まってくれました。
最後の最後に遅れてやってきた人からは立派な花束まで、節子はもらいました。
ロレンツォ夫妻ほどではありませんが、少しだけ私たちは幸せを味わいました。

そのあと、私は健康診断をしましたが、節子も一緒に行きました。
そして異常が発見されたのは、私ではなく、節子でした。
幸せの後には不幸が来るものなのかもしれません。
ロレンツォ夫妻がそうでないことを心から祈ります。
しかし、ロレンツォはそうはならないでしょう。
その生き方が私とは比べようもないほど、誠実なのです。
それについては、時評編に書こうと思います。

長い思い出話になってしまいました。

■2694:往来できる世界での別居(2015年1月15日)
節子
節子も会ったことのある佐々木夫妻が来てくれました。
奥様が韓国から帰国されたので、お2人で来てくださったのです。
お2人は、節子が闘病中にわが家にも来てくれて、いろいろとアドバイスしてくれました。
節子がいなくなってからも、献花に来てくれました。
そして、まだ私が元気がなく旅行などとてもできなかった時に、私をわざわざ韓国にまで招待してくれました。
もしその招待がなければ、私は海外旅行など行く気にはならなかったでしょう。
節子が発病してから海外旅行はしていませんから、10年以上、パスポートは使っていませんでした。
あわててパスポートを取りに行きました。
まさか、海外に行くとは思ってもいませんでした。
韓国ではお2人にはお世話になりっぱなしでした。
私自身、まだ精神的にも不安定だった時期です。
せっかく、いろいろと案内していただいたのですが、私の反応は頼りないものだったことでしょう。
行くには行ったものの、心はまだわが家にあったような気がします。
それでも、その海外旅行のおかげで、その後、遠出もできるようになりました。
そして少しずつ自分自身を取り戻してきたのです。
そんなわけで、お2人にはとてもお世話になっています。

お2人は今、仕事の関係もあって、岐阜とソウルに、分かれて暮らしています。
岐阜とソウルでは、その日のうちにお互いに行ける距離です。
もしかしたら。とてもいい距離なのかもしれません。

私たちの場合は、此岸と彼岸です。
そう簡単には往来できません。
それに昔はともかく、最近は両岸をつなぐ通路も閉じられてしまったようです。
できることなら、私たちもせめて往来ができるところでの別居であってほしかったです。
時に、無性に会いたくなることもありますので。

私は、いつか此岸と彼岸とは往来できるようになるだろうと思っています。
残念ながら私の今回の現世滞在中には、それは実現できないでしょうが、もしかしたら、彼岸から此岸への道はもう開いているのかもしれません。
それに、そもそも肉体から自由になった魂は、時空間を超えて自由に飛び回れるような気がします。
だとしたら節子は私の今の人生を見ているのかもしれません。
そうであれば、たまには声をかけてほしいものです。
いや声をかけているにも関わらず、私がまだそれを受信する能力を身につけていないだけかもしれません。

仲の良い佐々木ご夫妻と話していて、そんなことを考えてしまいました。
仲良し夫婦を見ていると、とてもあったかくなります。

それでも、その後にちょっとさびしさもやってきますが。

■2695:中西さんの時計(2015年1月16日)
節子
昨夜、久しぶりにパオスの中西さんにお会いしました。
中西さんは、私の人生を変えたお一人です。
会社時代に中西さんに会うことがなければ、私は会社にずっといたかもしれません。
しかし、人生がこんなに大変で面白くなったのは、中西さんのおかげかもしれません。

中西さん主宰のデザイン戦略経営のビジネススクールで、昨夜はお話させてもらいました。
私の話は、ビジネススクールには向いていませんが、中西さんは毎年私に話させてくれています。
しかも今年は2回も話させてもらうことになりました。
それはともかく、中西さんは、私たちが湯島でオフィスをオープンする時に、自らがデザインした時計を持ってきてくださいました。
いまもその時計は湯島にあります。
ちょっと時計盤の表示が変わっていますので、時々、それに気づいて頭をかしげながら、しばらくしてはっと気づいて笑顔になる人がいます。
それはこんな時計です。

講義の最後で、私のオフィスへのお誘いとともに、その時計の話をしたら、中西さんもそれについて、私が以前たたいた軽口の話をされました。
私が、この時計はデザインはいいが正確に動かないといったそうです。
確かにそんな記憶がありますが、改めて中西さんからそういわれると身が縮こまります。

湯島のオフィスを開いた時、1週間、出入り自由のサロンを続けました。
100人を超える人たちが来てくれましたが、中西さんも結構ながくいてくれました。
中西さんの話は節子にはたびたびしていましたが、節子が直接会ったのは、その時です。
節子は一目ぼれではありませんが、すっかり中西ファンになってしまいました。
そんなことを思い出しました。

中西さんとの思い出はいろいろあります。
生きる世界はかなり違いますので、一緒に仕事をするとか活動するとかいうことはないのですが、なぜかとてもつながるところも感ずるのです。
私の生き方はかなり理解してくれていて、私が時々、愚痴をこぼすと、それがあなたの選んだ生き方でしょと笑いながらちくりというのです。
昨日もまた言われてしまいましたが。

昨夜は講義の前に、中西さんが京菓子の阿闍梨餅を2つくれました。
誰かにもらったおすそ分けだと言って。
こういう、わけのわからない中西さんの行動は私の好みです。

講義とは別に、一度また雑談に行きたくなりました。
節子がいたころに付き合っていた人ではない人との交流が最近は増えていますが、中西さんは節子が元気だった時代をもいださせてくれるお一人です。

■2696:朝早く黙祷をしました(2015年1月17日)
節子
阪神大震災から20年がたちました。
被災者の方が、長いと言えば、長いし、あっという間だと言えば、あっという間だったと話していました。
あの時のままで、時計が止まっているというようなことを話された方もいました。
そのすべてが、納得できます。
私もそうだからです。
時間感覚が全くおかしくなってしまっています。

被災者で家族や友人を亡くされた方と伴侶を病気で亡くしただけの私とは比べようもありません。
それでも、被災者のみなさんの思いには、何か共通するものを感じます。
しかし、テレビでさまざまな風景やさまざまな人の思いに触れるのは、あまり元気が出るものではありません。
3.11もそうですが、私はできるだけテレビを観ないようにしています。

今日は穏やかな暖かい日になりました。
昨日は、4人のエネルギッシュな人たちに会い、たくさんの刺激を過剰に受けてしまったので、その余韻がまだ残っているのですが、今日は、自宅で何もせずに過ごす予定です。
何事も起こらなければいいのですが。

■2697:人生を変えた出会い(2015年1月18日)
節子
一昨日、中西さんとの出会いが、私の人生を変えることになったと書きましたが、人との出会いは人生を変えるものです。
そもそも私の人生が大きく変わったのは、節子との出会いでしたし。

26年前に、私は会社を辞めて、生き方を大きく変えました。
その生き方に触れて、もしかしたら人生を変えてしまった人がいるかもしれません。
会社を辞めてから数年は、これまで体験しなかったさまざまな世界に触れて、わくわくした毎日を過ごしていました。
ですから、湯島に会いに来た人たちにも、世界は面白いと言い続けていたような気もします。
そして実際に会社を辞めてしまった人も数名います。
もちろん私の言葉で会社を辞めたわけではないでしょうが、少し後ろを押してしまう役割を果たしたかもしれません。
無責任と言えば、無責任でした。

しかしうれしいこともあります。
数日前に、大阪の若い友人からメールが来ました。
春に結婚して、これまでやっていたNPOも友人に任せて、島根に転居することになったという知らせです。
この友人との出会いは6年ほど前でしょうか。
私が主催したフォーラムに彼女が参加したのをきっかけにして、少しだけ相談を受けて、ささやかに応援していたのです。
彼女はいろいろと書いた最後に、こう書いてくれました。

佐籐さんとの出会いはまさに私の人生を変えた出会いです。

こういわれるとうれしいものです。
人の人生を変えることになれば、当然大きな責任が発生します。
しかし、そうした責任は実際には追うことなどできません。

節子は、間違いなく私に会って人生を変えてしまいました。
それがよかったのかどうかはだれにもわかりませんが、よかったと思うことにしましょう。

人生は、自分一人では成り立ちません。
人とのつながりの中で、育っていきます。
だれに出会うかによって、人生は変わってきます。
だからこそ、人と会うのは楽しいとともに、疲れます。

明日はまた、お互いにちょっとだけ、人生を変え合った人と会います。
節子もよく知っている人です。

■2698:縦も横もつながりが切れだした社会(2015年1月20日)
節子
昨日は少し重い話を聞きすぎて、疲れてしまい、パソコンに向かえませんでした。
しかも、その重い話はまた、私自身にも返ってくる話でしたので。

最近いろいろな人に会って感ずるのは、家族を通じた世代間の支え合いの文化が薄れているのではないかということです。
老老介護という言葉が以前よく使われましたが、どこかの時点で世代間の交流の関係が変わってしまったのでしょう。
日本の家族関係は、世代単位へと向かってしまっているわけです。
変わったのは、世代間という、いわば「縦の関係」だけではなく、親戚づきあいといった「横の関係」も変わっているようです。
家族づきあいも、大きく変わってきているようです。
私自身の場合も考えてみても、両親の時代に比べて、親戚づきあいは極端に減っています。
親戚の数が少なくなったということもあります。
私の生き方の問題もあるでしょうが、湯島にやってくる人たちの話を聞いていると、どうも私だけでないようです。

社会のかたちと家族のかたちは、どちらが原因でどちらが結果かはともかく、深くつながっています。
そして、それは、私たちの生き方を規定していきます。

伴侶がいる場合、お互いに元気な時には、世代や横のつながりが弱まっても、そう不都合は感じないでしょう。
お互いに支える存在がいるからです。
しかし、どちらかに問題が起きると、途端に、そうした人とのつながりの大事さが実感できます。
今まで支えになっていた存在や関係が、逆に負担になって押し寄せてくることさえあるのです。
支えと負担は、時に共存しますが、どこかで疲れが出てきてしまう。
そうなると、すべてが「反転」することもあり得ます。
老老介護の疲れから起こる悲劇もよく報道されます。
そうならないような仕組みが、もっと広がっていくことが望ましいと思いますが、社会の構造が変化していく状況の中では、問題が見えだしてこないと、その仕組みへの関心は生まれてきません。
私は、そうした場や仕組みをゆるやかに広げたいと思っていますが、なかなか広がりません。
元気な人は必要性を感じず、元気でない人は、それをつくる元気もないからです。
その中間の仕組みだった、家族や親戚や地域社会は、いずれも機能を失いだしているのです。

湯島は、そんな人たちのたまり場にもしたかったのですが、私一人ではやはり荷が重すぎると感じだしています。
つくづく節子がいなくなったことを残念に思います。
何か仕組みを変えていかないといけないと、昨日は湯島に来た人の話を聞きながら、改めて思いました。
そしたら、私自身の問題に思いが広がり、それで疲れがどさっと出てしまい、挽歌も書けなかったのです。
さて妙案はないものでしょうか。

■2699:ハグだけは女性にすると決めている(2015年1月20日)
節子
福岡の藏田さんから本が送られてきました。
「ディセットU」、川柳の句集です。

藏田さんが川柳にはまっていることは、北九州市の友人からも聞いていました。
毎日新聞の人気コーナー「仲畑流万能川柳」(万柳)に蔵田さんの句がよく入選されているというお話でした。
それを聞いた時に、私もネットで調べてみたら、藏田さんの作品があった記憶がありました。
いまも調べてみたら、いくつか出てきました。
たとえば、着物というお題での藏田さんの作品です。

亡き母の泥大島を案山子着る

藏田さんは畑もやっています。
藏田さんの畑は、案山子がいるほどの大きな畑なのでしょうか。
凝り性の藏田さんのことですから、畑も半端ではないのかもしれません。
いつぞや奥さんが、お金のかかる畑だと言っていましたが、案山子にまで泥大島を着せるとは、さすがに藏田さんです。

藏田さんは私より年上ですが、定年を迎えたら、さっと会社を辞めて、故郷の福岡に帰ってしまい、自然を相手に優雅な生活を始めました。
これもまた藏田さんらしい鮮やかさでした。
藏田さんとは仕事の関係でお付き合いが始まりました。
実は、藏田さんには多大な迷惑をかけてしまったにもかかわらず、それ以来、ずっと親しくお付き合いさせてもらっています。
節子も藏田さんのことを知っていて、藏田さんのダンディさにほれ込んでいました。
今回送っていただいた句集にも藏田さんの写真が出ていますが、ますますダンディな趣味人を感じさせます。

藏田さんは、節子が亡くなった後、わが家にまでわざわざ献花に来てくれました。
そしてその後も、いろいろと野菜だとか魚だとかアサリだとか、ご自分が育てたり採取したりしたものを送ってきてくれるのです。
お礼のしようもありません。

句集に載っている藏田作品は、いずれも藏田の人柄や生活を感じさせるものです。
いくつかを紹介しましょう。

薬より息子の顔が効くらしい
お盆には生きた息子を待っている
糠の床ご先祖様の息聞こえ
「悩みない」ズバリ言う人悩んでる
見つめれば相手も見てる誰だっけ
ハグだけは女性にすると決めている
満腹で飛べなくなった蚊を叩く
人間は幸せ祈り戦する

節子が元気だったら、きっと川柳が気にいったでしょう。
節子も時々、旅行先で句を読んでメモしていたのを思い出します。

川柳は人の香りがするように思えると藏田さんは書いています。
藏田さんの香りも確かに伝わってきます。
私が一番気に入ったのは、
ハグだけは女性にすると決めている
です。
いかにも藏田さんらしく、それに藏田さんでなければ言えないことですので。

一昨日(18日)、新春北九州市川柳大会があったようです。
藏田さんも、8つのお題で16句を発表したようです。
どんな句を詠まれたのでしょうか。

■2700:言行一致のむずかしさ(2015年1月21日)
節子
この挽歌もついに2700になりました。
ということは、節子がいなくなってから今日は2700日目ということです。
まさかこれだけ長く続くとは思いませんでしたが、しかしあっという間の2700日のようにも思います。
最初の数年は惰性で生き、そのあとの数年は粗雑に生き、きちんと生きようと思う気になってきたのは、つい最近のような気がします。
頭では「誠実さ」を大切にしなければいけないと思っているのですが、生きることに誠実でなければ、それは単なる標語でしかありません。
したがって、言行一致には程遠いわけで、私が一番嫌いな生き方を自らがしてきたことになります。
それだけでも自己嫌悪におちいります。

しかし、言行一致という生き方は、なかなか難しい。
さまざまな不幸な事件が毎日のように報道されていますが、そうした事件に対する「識者」のコメントなどに触れていると、言行不一致どころか、自分のことを懺悔しているのではないかと思うような相手への攻撃に出会うことも少なくありません。
言葉とは恐ろしいもので、いつも発言者自身にも向かっているのです。
私も、心しなければいけません。
こんな生き方をしていると、彼岸であった時に、節子に叱られそうですね。

今日は少し懺悔した気分の多い日になりました。
諭す人がいなくなると、人は世界が見えなくなるものです。
伴侶は、そのための存在だったのかもしれません。
注意しなければいけません。

■2701:わくわくキラキラ(2015年1月22日)
節子
今日もまた寒い日です。
最近、寒くて雨なのに、湯島に来なくてはいけないことが多いのです。
雨の日は自宅で読書、という晴耕雨読の生活に変えたいのですが、なかなかそうはいきません。
これまであまり「良い生き方」をしていなかった天罰かもしれません。

今日は、しかも、大企業の経営管理者の人たちとのミーティングまであります。
私が関わっている活動のチーム研究のアドバイザー役を長年しているのですが、今期のチーム研究のテーマは「わくわくキラキラする企業文化」です。
難しいテーマよりも、こういうテーマが私は好きですが、このテーマを選んだのは私ではありません。
チームメンバーが決めたのです。
大企業の経営幹部の人たちが、「いきいき」とか「キラキラ」というテーマで話しあう時代になったのです。
いいかえれば、いまの大企業は「わくわく」「キラキラ」していないということです。

社会はどうでしょうか。
社会もまた「わくわく」「キラキラ」などしていないように思います。
当然のことながら、多くの人の生き方も同じかもしれません。

私が学生だった頃、学校を卒業して会社に入ることは「わくわく」することでした。
会社に入って、先輩たちが「キラキラ」と見えたこともおぼえています。
いつから変わってしまったのでしょうか。
大学生たちから、社会に出ていくことは「不安」で仕方がないという話を最近よく聞きます。
社会がおかしくなってきているのは否定しようがないようです。

考えてみると、私たち(私も節子も)はわくわくする時代、キラキラする時代を生きてこられたのかもしれません。
一緒に暮らしだしたころの社会は、まだ貧しかったかもしれませんが、いきいきとしていました。
どうも私が元気が出ないのは、時代のせいもあるかもしれません。

最初のお客様が見えたようです。
これからずっと来客続きの1日です。

■2702:なぜか体調がいいので心配です(2015年1月24日)
節子
どうも節子に再会する時期がまた延びそうです。
私の本意ではないのですが。

先日書いたかもしれませんが、マクロビオティックに取り組んでいるおふたりの方から玄米食を勧められて、敦賀の義姉に頼んで送ってもらいました。
玄米食など修さんには無理だよと言いながらも、送ってくれたのですが、食べてみたらこれがおいしいのです。
前に食べた時はダメだったような記憶がありますが、なぜでしょうか。
玄米食にすると長生きすると言われたので、あまり乗り気ではなかったのですが、まあ食べることにしました。
でも毎日ではなく、白米と日替わりにしようと思いますので、さほど長生きにはならないと思っていました。

ところが、一昨日、やってきた宇賀さんたちが、ステビアの茎や葉でつくったものを飲むと、さらに長生きするというのです。
長生きは好みではないというと、長生きしてもらわないと困りますと叱られました。
いやはや人生はうまくいきません。
それまで飲むと、さらに節子との再会が遅れることになります。
困ったものです。
それで海洋はうやむやにしておきました。
私は、一応言葉に出したことは守ることにしているものですから。

実はあんまり良いニュースではないのですが、今年になってから体調がなぜかいいのです。
いろんなところに問題は発生していますが、昨年の中頃とは大違いです。
昨年の中頃は、もしかしたら意外と早いかもと思ったりしていますが、状況が一変してしまったのです。
そのうえ、玄米とステビアです。

そして、さらに悪いのは、何やら相変わらず時間がとられてしまう相談が増えているのです。
まあ、相談に応じるだけであれば、そう問題はないのですが、何か話を聞くと相手が思っている以上のことをやりたくなってしまうのです。
今年はきちんと対価をもらう仕事をして、身辺を整理しようと思っているのですが、どうもそういうことにはなかなかなりません。

こういうと、何やら忙しそうに思うかもしれませんが、実際には暇で暇でしょうがないほど忙しいのです。
私には忙しいと暇は同義語なのです。
節子はたぶん理解してくれるでしょうが。

昨日も今日も暇すぎて、挽歌を書けずにいましたので、まとめて書いてしまいます。

■2703:「おい、暇か?」(2015年1月24日)
節子
ついでにもうひとつ書きます。
最近、気に入っている言葉があります。
長く続いているテレビドラマの「相棒」をよく観るのですが、私が気に入っているのは主役の2人ではなく、脇役の捜査1課と2課の刑事です。
特に気に入っているのが、2課長がよく使う言葉です。
「おい、暇か?」
実にいいですね。
それでわが家でも、娘たちによく使いますが、あんまり対応してもらえません。
暇なのはお父さんでしょう、と手厳しいのです。
まったくわかっていません。

節子ならきちんと対応してくれるでしょう。
「おい、暇か?」への応対は、「はい、あなたほどではありませんが」がいいと思いますが、残念ながら「おい、暇か?」と私に言ってくれる人がいないのです。
私の場合は、「忙しそうですね」と言われることが多いのですが、これが私にとってはうれしくない言葉なのです。
そういう人には必ず、「暇で暇で死にそうです」と答えています。
まあそれもまた事実でもあるのです。
正直、最近は心が燃え出すような面白いことに出会うことがありません。
だから時間破産になっても、暇で退屈な気分なのです。

節子がいなくなってから、何をやっても退屈です。
困ったものです。
もう少しこの退屈な人生を過ごさなければいけないのですから。

■2704:一人の死とたくさんの死(2015年1月25日)
節子
シリアではいま国際的な内戦が広がっています。
そのなかで、2人の日本人がイスラム過激派に拘束され、1人は殺害されるという事件が起こっています。
これに関しては、この数日、時評編に何回か書きました。
節子にも書いておこうと思います。
こういう事件が起きると、私たちはよく話し合ったものです。
あの頃が実に懐かしいです。

2人の日本人が殺害されるかどうかで、世界は大きな騒ぎになっています。
しかし、その一方では、まったく報道もされずに、たくさんの人たちが、内戦で毎日のように殺害されています。
イスラム国が外国のジャーナリストなどを殺害する方法は残虐だと言われていますが、空爆で無差別に突然殺害される場合の方がむしろ残虐かもしれません。
しかし、そうした視点は誰からも指摘されません。

こうした報道を見ていつも思うのは、大騒ぎになる「ひとりの死」と騒がれることもない「たくさんの人の死」とを、どう考えればいいのかということです。
人の命の重さには変わりがないと言われますが、にもかかわらず、騒がれたり騒がれなかったりするのはどうしてでしょうか。

愛する人の死を体験した人であれば、どんな人の死にも、たくさんの「物語」があることに気づくでしょう。
有名人だけに「物語」があるわけではありません。
シリアの内戦で殺害されたたくさんの人の死には、それぞれに物語があります。
にもかかわらず、だれにも気づかれずに死にいく人たちがいる。
その事実こそが、むごくて残虐なのではないのか。

一人の死の向こうにある、たくさんの死を思わずにはいられません。
しかし、なんで人は殺し合うのでしょうか。
実に哀しいです。

シリアにはパルミュラ遺跡があります。
節子と一緒に行きたいと思いながら、ついに行けなかった遺跡です。
来世では行けるかもしれません。
破壊などされていないといいのですが。
こんなことを思うのは、いささか不謹慎ですね。

■2705:問題が起こったら寝てしまう(2015年1月26日)
節子
ユカからは、お父さんは学習しないね、といつも言われていますが、また時間破産してしまいました。
いろんなことを引き受けすぎる癖に、引き受けたことをすぐに忘れ、締め切り間近になって思い出すという、悪い性癖は一向になおりません。
そんなわけで、この週末は暇で暇で仕方がなかったのですが、今日の午後から宿題をやりだしたら、あまりにたくさんありすぎるのと、肝心の資料をオフィスに忘れてきたりで、もう大変でした。
今日は午後からずっとパソコンにかじりついていました。
しかし、挽歌も時評も書けませんでした。
まあ、こういうこともあるのが人生です。

しかし、ずっとパソコンに向かっていると、さすがに疲れます。
それに最近また高血圧の薬を飲み忘れがちなので、頭痛までしてきました。
困ったものです。
予定をみたら、明日から毎日、来客やらミーティングがあるようです。
それに、夜もずっと何かあるようです。
しかも、明日の集まりの案内をきちんと出していないことに、いま気がつきました。
参加者が少なかったわけがわかりました。
今さら出すわけにはいきません。
そういえば、カフェサロンの企画も最近は忘れていました。
さてさてどうしたものか。
泣きたい気分とは、こんなことでしょうか。

今年から前に進もうと思いながら、どうもまだリズムがとれません。
先がまだ見えてきませんが、今日は寝ることにします。
問題が起こったら寝てしまう。
最近気に入っている方法です。

■2706:気分破産の3日間(2015年1月29日)
節子
また時間破産に陥ってしまい、挽歌を休んでしまいました。
あまり書かないでいると、また電話がかかってくると悪いので、書くことにしました。
時間破産の始まりは、月曜日からでしたが、破産するとすべてがおかしくなることを今回は改めて実感しました。

まずは27日。
午後から来客続きの日だったのですが、その準備もしなければと思い、早めに家を出ました。
オフィスについたのは11時過ぎでした。
ところが、オフィスの前に10時半に約束した人が待っていたのです。
2年に一度くらい体験する光景です。困ったものです。
私が完全に失念していたのです。
その方は、しかし怒ることもなく、待っている間に気分転換できたと言ってくれました。
部屋が空いていたらそうだったかもしれませんが、何しろオフィスは私が行かないと鍵がかかっているのです。
ですからオフィスの前で立って待っていてくれたのです。

でもまあ、その方との約束はまあ無事終わりました。たぶん。
これに懲りることなく、また来てくれるでしょう。
メールで、お詫びをしたら、「とっても居心地がよかったです」と返してきてくれました。

しかし、こういう不手際をやると、そこから私のリズムが壊れてしまい、その日は最後まで尾を引きました。
午後からいろいろな来客があり、さらに夜は少し難しいテーマのサロンでした。
食事をする暇がなかったのですが、それを予想してか、夕方のお客様はあんまんを持ってきてくれました。
なんで私が食事をしていないのがわかったのだろうかと思いましたが、最近の私の生活のリズムが狂っているのを感じてくれたのかもしれません。
しかし、せっかく来てくださったみなさんへの対応が、うまくできたかどうか不安です。
少なくともお一人には、十分な対応ができませんでした。
たぶんその方は私に少し何かを相談するつもりだったと思うのですが、私の余裕のなさを感じて、それを持ち出さなかったような気がします。
それを翌朝気づき、メールをさせてもらいました。

28日も調子は戻らずに、なにか不安感が残っていました。
節子がいれば、そうしたものを解消でき、翌日には絶対に持ち越すことはなかったのですが、一人だと解消できず持ち越すのです。
困ったものです。
朝、出際に友人から電話がありました。
いささか私がイライラしていたせいか、いつも以上に辛辣な発言をしてしまいました。
まあよくあることなのですが、言わなくてもいい発言をしてしまったのです。
実は同じことを別の友人にも26日にしてしまい、後悔していたのですが、またやってしまったわけです。
それがまた尾を引き、この日もますます落ち込み気味で、うまくいきませんでした。
夜は初対面の方もいる集まりでしたが、いつもとは違う気分で参加しました。
見るもの聞くもの、なぜか無性に腹立たしいのです。
一応、自重したつもりですが、かなり発言してしまったので、不快感を与えなかったことを祈るばかりです。

まあ、こんなわけでこの数日、少し荒れています。
こんなことでは、いつになっても前に進みだせません。
さてさて今日は時間破産から抜け出さなければいけません。

破産から抜け出すのは実は簡単なのです。
気分次第で変わるからです。
経済的にも問題を抱えているのですが、それにはなぜか何の危機感もありません。
要は、「破産」とは精神の問題なのだろうと思います。
これもまた、節子との暮らしの中で身についたことなのですが。
それに「破産」などという言葉を使うこと自体、逃げの姿勢です。
これからは「破産」という言葉を使うのはやめることにしました。
そもそも私の人生そのものが、最初から「破産」気味だったのですから。

明日から、たぶん正常化します。
性格も少しは良くなると思います。

■2707:背広を着るとしゃきっとしてしまう哀しい習性(2015年1月29日)
節子
今日も背広を着てきました。
背広を着ると気分がしゃきっとします。
私も、そういう風に仕立てられてしまっているわけです。
今は、月に1回か2回しか背広を着ませんので、基本的に私はしゃきっとはしていないことになります。
そういう生活がこの数年続いていますので、時々、背広を着るとなぜかうれしくなります。
困ったものです。

しゃきっとしていると一人でも立っていられるのですが、しゃきっとしていないとどうも一人では立っていられないのです。
当然ながら、一人では立ち続けていられないのは健全な人間の証拠です。
しかし、しゃきっとできないので、仲間がほしくなります。
背広を着ていない人は、なぜかスキが多いので、仲間は必然的に背広を着ない人が多くなります。
しゃきっとしない人が集まると、全体もまたしゃきっとせずに、わけがわからない集まりになることもあります。
私は、いまは「しゃきっとしない族」にいますが、かつては「しゃきっと族」の一員でしたので、ある程度、しゃきっとしていないと居心地が悪いのです。
その上、時々、しゃきっと生活の楽しさを思い出して、一時的しゃきっと族言動に陥るのです。
そうなると始末が悪いのです。
中途半端なしゃきっと族への嫌悪感が湧きおごってしまうのです。
そして、たいがいにおいて、後で自己嫌悪に陥るわけです。

こう書いてきて、気づいたのですが、最近は逆転しているかもしれません。
今日は、これからビジネススクールに2回目の講義に行くのですが、前回の受講者はあんまりネクタイをしていませんでした。
私だけがネクタイだったかもしれません。
背広でネクタイの大企業正社員とフリーランスのアントレプレナーを比較すると、しゃきっとしているのは後者ですね。
気づくのが、あまりに遅すぎました。

私の今日の講義はアジテーションの要素が強いのですが、背広を着た老人からアジテーションされても迫力はないでしょうね。
次回は背広はやめましょう。
もし次回があれば、の話ですが。

さてそろそろ会場に向かいます。
始まりの時間に遅れた実績も少なくありませんので。
やはり背広を着てもしゃきっとするわけではなく、要はその人次第ですね。
私がしゃきっとしていないのは、背広のせいではないようです。
困ったものです。はい。

■2708:風邪をひくと死んでしまいかねない歳になったようです(2015年1月30日)
節子
風邪をひいてしまったようです。
久しぶりと言えば久しぶりです。

今日は世界初の「箸ピー大会」が川口で開催されるので、私も参加させてもらう予定だったのですが、行けなくなってしまいました。
注意していたのですが、最近の疲労の蓄積と昨日の寒さでやられてしまったようです。
困ったものです。
昨夜は恒例のサロンだったのですが、常連の武田さんから、今日は寒いからサロンはやめた方がいい、お互いに風邪をひいたら死んじゃうかもしれない歳になっているんだから気をつけろと、昨日、余計なお世話の電話があったのですが、どうも余計なお世話ではなく、現実になってしまいました。
サロンは早く切り上げようと思っていたのですが、話が面白くて切り上げられませんでした。
たしかに駅から自宅までの間、寒かったですし、そのうえ、帰宅後、お風呂に入ってからついつい寒いところで、エアコンも入れずに、何とはなしにテレビを観てしまっていました。

今日はいい天気になりましたが、薬を飲んで、こたつに潜っている予定です。
風邪は今日で治らせないと、せっかく戻りそうになっている生活リズムがまた崩れてしまいかねませんので。

■2709:ジャーナリストの後藤さんの死(2015年2月1日)
節子
風邪は今回は迅速な対応でなんとか防げそうです。
先週はインフルエンザやのど風邪の人と身近で話し合うことがありましたので、今回は大事にしたのです。
のどの調子がまだ悪いですが、なんとか乗り越えられそうです。
でもまあそんなわけで、今日もまた1日、休んでいました。

テレビは「イスラム国」に殺害されたと思われる後藤さんのニュースばかりです。
これに関しては、時評編に書きましたが、私はこういう事態をもたらしたのは政府の対応に大きな理由があると思っています。
政府の意図に従っての結果なのではないかとさえ思います。
日本はまさに「戦争」ができる国に向かいだしました。
80年前もこんな感じで、日本人は戦争に向かっていったのでしょう。
そんな気がしてなりません。
節子は幸せな時代に旅立ちました。

節子がいたらテレビを観ながら、こんな話ができるのですが、一人でテレビを観ていても、実に退屈なのです。
しかし、人間の死は突然にやってくるものです。
後藤さんはまさかこうなるとは思ってもいなかったでしょう。
後藤さんの元気な映像を見ていると、悲しみよりも、いまも後藤さんが生きているとしか思えません。
人はまさに「記憶」の中でも生き続けているものなのです。
この事件がなければ、私の世界に後藤さんが生きることはなかったでしょう。
そう考えるととても不思議です。

やはり喉がおかしいです。
もう寝ましょう。
困ったものです。

■2710:寒中見舞い(2015年2月2日)
節子
風邪の悪化は何とか食い止めたようですが、喉も胸も何か違和感があって、全身にも違和感があります。
まあ、これが老化ということかもしれません。
今日もまた1日、何をやるでもなく過ごしました。
テレビは見る元気もなく、本も読む気力もなく、パソコンに向かうのもおっくうで、結局、何もしないで終わってしまいました。
やはり自宅にいるのが良くないのかもしれません。
今日で3日間、自宅引きこもりです。
人と会う約束もいくつかあるのですが、どうもその気になりません。
約束している人には申し訳ないのですが。

夕方、友澤さんから寒中見舞いが届きました。
友澤さんは節子の友人で、節子の葬儀にも、またわざわざわが家への献花にも、倉敷という遠方であるにも関わらず来てくださいました。
その中に、こう書いてありました。

佐藤様のお文が届かない正月は何やら淋しい気持ちでございます。

そして、節子も知っている知人の方が昨年亡くなられてことも書いてありました。

文中の「佐藤様」は、節子のことですが、節子がいなくなってからは、私がずっと、いわば「代筆」してきました。
今年は、実は年賀状も寒中見舞いも書いていないのです。
最近は、小正月と言われる1月15日頃に、いただいた年賀状でメールをやっていない方には、年賀はがきで寒中見舞いを出すようにしているのですが、今年は出していないのです。
ハガキは用意しておいたのですが、まだ白紙のままです。
しかし、友澤さんのように、心配してくれる人もいるでしょうから、遅まきながら節子の誕生日にでも出すことにしましょう。

風邪は今日で終わりにして、明日からは少し動き出しましょう。
挽歌も、もう少しきちんと書くようにしたいと思います。

■2711:風邪はやめたのですが(2015年2月3日)
節子
風邪は今日でやめました。
節子はいつも同意してくれませんでしたが、意識を変えれば病は終わりますから。
まあ、そうではない病もありますが。
明るく前を見ないといけません。
連絡しなければいけない、いくつかの用件にも取り組みだそうと思います。

そんなわけで、まずは昨日決意した年賀状の返信から始めました。
ところが、最近きちんとした手紙を書いていないので、文字がうまく書けないのです。
それなりに苦労してほぼ仕上げました。

その合間にテレビをつけると、相変わらずイスラム国と後藤さんの番組ばかりです。
また気力が萎えておかしくなるといけないので、テレビはすぐに消して、本を読もうかと思うのですが、どうもまだ本を読む元気はもどっていません。
3日も寝込むと足が弱くなるとよく言われますが、3日も何もせずにぐうたらしていると思考力も弱くなるようです。
いやもしかしたら、まだ風邪なのかもしれません。

そんなわけで、「やりたいこと」をリストに書き上げました。
なんとすぐに10項目を超えてしまいました。
しかし、本当は「やらなければいけないこと」をリストアップすべきでしょう。
節子がいつもそう言っていました。
「やりたいこと」を優先すべきか、「やらねばいけないこと」を優先するかは、私と節子とではいつも意見が分かれました。
私は前者、節子は後者でした。
にもかかわらず、節子は私よりも早く逝ってしまいました。
これは大きな矛盾です。

ところで、「やらなければいけないこと」はいくつくらいあるでしょうか。
恐ろしくて、書き出す気にもなりません。
何しろこのひと月、忙しさを理由に怠惰に過ごしてきてしまいました。
そういえば、歯医者さんへの予約も、もう半年以上、遅れています。
また注意されるでしょう。
いささか憂鬱ではあります。
風邪をひいている方が、人生は楽ですね。
ちょっと決断が早すぎたでしょうか。

娘からインフレエンザが流行っていると聞きました。
抵抗力が弱まっているので、気を付けないといけません。

■2712:「偉大で輝かしい冒険」(2015年2月4日)
節子
今日は節子の誕生日です。
もし現世にとどまっていたら、70歳ですね。
70歳の節子は想像ができませんね。
まあ73歳の私も想像できませんが。

死者の特権は、歳をとらないことかもしれません。
最高の時に死を迎えるのも、ある意味では幸せかもしれません。
そんなことを言うと、不謹慎の誹りを受けるでしょうが、そんな思いも持てるようになってきました。
念のために言えば、節子がそうだったという意味ではありません。
節子にはもう少し生きていて、その最高の時を迎えてほしかったと思います。
残念ながら私たち夫婦は、そんな「最高の時」を迎えることなく、私も含めて、人生を終えてしまったような気がしています。
まあ、こういうのを「強欲」というのかもしれませんが。

先日、テレビの番組でコナン・ドイル(シャーロック・ホームズの生みの親)の最後の言葉を知りました。

読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。
でもこれからなによりも偉大で輝かしい冒険が私を待っている。

最高の時、よりももっと大きな人生が、旅立ちの後にある。
そう思うと、また世界は違って見えてきます。

現世では、私と結婚すること自体が、たぶん節子には大きな冒険だったはずです。
みんなから反対され、あまり常識的でない生活に付き合わされたのですから。
でもまあ、私たちには十分にワクワクするような人生も少しだけ楽しんだことは、節子も賛成してくれるでしょう。
節子はいま、彼岸でどんな冒険をしているでしょうか。
私が行くのを待っているのでしょうか。
まあ、そんなことはないでしょう。
もう少し私は現世に滞在することにしました。

■2713:男前も気弱になることがある(2015年2月5日)
節子
今日は東京も雪が積もるようです。
我孫子も朝はみぞれでした。
そんな中を今日は湯島に来ました。
昨日、電話があり、相談ごとで呼び出されたのです。
相談相手は「男前」のKさんです。
Kさんは最近いろいろありすぎて、一時はかつての面影がないほどにやつれていましたが、苦境を脱したはずでした。
「男前」に生きていると、けっこう大変なのです。
それと対照的に、弱みとダメさ加減をそのままに生きている私でもそれなりに生きづらくなっているのですから、Kさんは大変でしょう。
それが「相談」があるのですから(もちろん彼は相談があるなどとは一言も言いません)、よほどのことでしょう。
雪の日は出かけたくないのですが、仕方ありません。

思った以上に大きな相談でした。
それに、Kさんにしては、いつもになく「弱気」です。
もう疲れたというのです。
「男前」に生きている人が発する言葉ではありません。
困ったものです。
しかし、前回会った時よりも、表情がよくなってきていました。
もっとも体調のほうは悪くなっているそうですが。
体調が悪いと気も萎えてしまうのはよくわかります。

Kさんは、いまは一人住まいです。
昨年は1週間ほど動けずに寝ていたことがあったそうです。
それがこたえたのでしょう。
出身地に帰ろうかと思うと相談に来たのです。
いざという時、息子が近くにいると心強いというのです。
Kさんからこういう言葉を聞くとは思いませんでした。

Kさんの夢を知っているだけに、それが実現しないのが残念ではありますが、Kさんには生きづらい社会になってきているのでしょう。
息子が近くにいないと心細いというのは、口実かもしれません。
出身地に帰れば仲間がいます。
都会で生まれる「仲間」はどこまで「仲間」でしょうか。
信じた人に裏切られると、心が萎えます。
Kさんが出身地に帰りたくなったのは、たぶんそのせいでしょう。
男前の生き方は、信じた人は最後まで信じなければいけません。
たとえ裏切られたとしても。
しかし、気が萎えていると、裏切られてもいないのに、そう思うこともあります。

バランスをとるために、私も彼に頼みごとをしました。
男前の生き方をしている人には、借りをつくらせてはいけないのです。
それに、Kさんの弱音など聞きたくはありません。
Kさんには、早く元気になってほしいものです。
せめて私程度には。

節子
一人で生きていくのは、それなりに辛いものです。
節子が先に逝ったのは、よかったことかもしれません。

■2714:「笑点」をみて心を平安にさせましょう(2015年2月7日)
節子
どうも明るい話がありません。
気分が沈んでいるせいかもしれません。
なかなか流れを反転させられません。
こういう時は、何をやってもうまくいきません。
セールスの電話〈自宅にいるとよくかかってきます〉の受け応えさえ、終わった後で(断った後で)嫌な気分になってしまうほどです。
困ったものです。

気分転換に、映画「マトリックス」を観ました。
先日、そのメイキングを観て、また観たくなっていたのです。
たぶん3回目ですが、なぜか観ていてイライラします。
なぜ以前はあんなに面白く思ったのだろうかと不思議です。
主人公たちがみんな愚劣に見えてしまいます。
「愛」が救世主を復活させるというくだりは、白雪姫の方がまだましだと思えるほどです。

そのくせ、ある意味ではやけにリアリティがあります。
この世界は、コンピュータの中で構成されているシミュレーション世界なのだという話は、40年ほど前のSFでよく語られていましたが、最近はなにやら現実感が出てきています。
そう考えると、ますます気分が沈みます。

さらに悪いことに、テレビの次に「民意のつくられかた」という斎藤隆夫さんの本を読んだら、その第1章「言論人が国策を先導するのか」で、ますます平静さを保てなくなりました。
斎藤さんの怒りが伝わってきたのかもしれません。
無性にまた厭世観が強まってきました。

こういう時は何をしてもダメですね。
ストレスがかなり溜まっているようです。
節子がいるころは、ストレスなどたまらなかった気がしますが、すべては節子が受け止めていたのかもしれません。

こういう時はどうしたらいいか。
本当は畑仕事がいいのですが、いまからでは遅すぎます。
そういえば、テレビで「笑点」が始まる時間です。
私が最近、土曜日に在宅の時はいつも見ている番組です。
むすめたちからは、お父さんもこういう番組を見るようになったかと笑われますが、別に面白いわけでもないのですが、なぜか心が平安になるのです。

大切な人を失った人の人生とは、みんなこんなものなのでしょうか。
最近そんなことを時々思います。

■2715:デュークエイセス(2015年2月7日)
今日2回目の挽歌です。
先の挽歌を書いてテレビを見に行ったのですが、曜日を間違えていました。
「笑点」は日曜日でした。
それでほかのチャンネルにしてみたら、デュークエイセスが「生きるものの歌」を歌っていました。
前にこの挽歌でも書いた「生きるものの歌」です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/11/post-2c56.html
何回聞いても涙が出ます。

テレビをそのままにしていたら、次の曲は「友よ さらば」でした。
http://www.uta-net.com/movie/172569/
いろんな思いが浮かんできます。
デュークエイセスも、私たちがよく聴いていたころのメンバーは2人になりました。
それとも重ねながら、聴いてしまいました。

友よ さらば
まさか 君が俺より先に逝くなんて

友よ、さらば また会う日まで
しばらくの別れだ
友よいずこ さびしくないか
大丈夫 俺もそこへ行く

もう少し 待ってくれ
しばらくの別れだ
友よ また会おう

節子は、私にとっては、友でもありました。
その友も、もういない。
デュークエイセスのメンバーも年老いました。
それを見ていると私自身の老いも実感できます。

デュークエイセスの「にほんのうた」シリーズは、どれもこれおも、私も節子もとても好きでした。
一緒に暮らしだしたころに全曲が生まれたので、ふたりでよく聴きました。
だから、私たちが一番楽しかった時代と重なっているのです。
少し哀しくもあり、少し滑稽でもあり、少し輝いているのです。
いまネットで調べていたら、男声合唱団Mというグループが、「にほんのうた」の全曲?を歌っているのを見つけました。
https://www.youtube.com/watch?v=7pGZGk0shKk

ところで、デュークエイセスを聴いて、ちょっと気分がよくなったのですが、そのあと、TBSの報道特集「イスラム国特集」を見てしまいました。
平安になった心が、また暗澹たるものになってしまいました。
政府というものの残酷さを改めて思い知らされました。
もしかしたらすべては自衛隊のイラク派兵から始まったのかもしれません。
節子と一緒に反対のための国会デモに参加したことを思い出します。
いまもし節子が元気だったらデモに参加できるのですが、行く元気が出てきません。

今日は在宅でしたが、いろんなことを思う1日になってしまいました。

■2716:気づかないことが多すぎました(2015年2月9日)
節子
うかつにも気づかなかったのですが、湯島のオフィスの西側に大きなビルが建ち始めています。
今までのように、夕方の落日の風景が見られなくなってしまいました。
湯島に来るたびに、外は見ているのですが、そしてそのビルが建ち始めていたのは気づいていましたが、その意味を「意識」したのは今日が初めてです。
つまり、建物が建つことと夕日が見られなくなることとがつながっていなかったのです。
こういうことはよくあることです。

節子がいなくなってから、その意味をさまざまな形で思い知らされていますが、人はあまりに身近にあるもののありがたさになかなか気づかないものです。
それは、しかし、節子に関してだけの話ではないかもしれません。
娘に言わせると、私は周りの人の苦労や気遣いなどに気づく心遣いに欠けているようです。
自分では決してそんなことはなく、むしろ気遣いのあるほうだと思っていたのですが、娘からの言葉はどうも正しいようです。
言葉で相手を傷つけていることも少ないようです。
たぶん節子も最初はかなり傷つけられたことでしょう。
いや最後までそうだったかもしれません。
しかも、発言する私自身に、そうした意識が皆無ですから、ますます持って始末が悪いわけです。

私の生活が、かなり破綻気味なのは、節子がいなくなってしまったためではなく、いなくなったことをしっかりと「意識」していないためかもしれません。
破綻しているのが、自分でも気がつかないのです。

今日も寒い日でした。
大学教授をしている古い友人が訪ねてきてくれました。
しばらく会っていない間に、良い先生になっていました。
いろいろと刺激を受けました。
前に向かって進んでいる人はまぶしく感じます。
しっかりしなければいけません。

■2717:仏たちに会いたくなりました(2015年2月11日)
節子
今日は父の命日なので、いまお墓に行ってきました。
父の葬儀の日は実に寒い日でした。
節子の父も12月に亡くなりましたが、その日も雪の降る寒い日でした。
あの頃は、まだ人が死ぬとはどういうことか、よくわかっていませんでした。
伴侶を見送った母や義母の気持ちなど、まったくわかっていなかったことに気づいたのは、節子がいなくなってからでした。
体験しなければわからないほど、私は愚鈍でした。

今日も寒いですが、陽射しがあるので気分的には暖かです。
寒いと心身が委縮してしまい、何もやる気が起きません。
それで午前中、録画していた「みちのくの仏像」展の紹介テレビを見ていました。
いま東京国立博物館で展示中です。
行きたいと思いながら、忘れてしまっていました。
幸いに娘が録画していて、思い出させてくれたのです。

東北の仏像は、これまでほとんど拝顔したことがありません。
いずれもとても個性的です。
仏像の表情は、時代や社会を反映しています。
私はどちらかと言えば、端正な表情が好きなのですが、東北の仏たちは、けっこうおどけた表情をしていました。
とても親しみが持てる感じです。
やはり展示会に行きたくなりました。
仏に会えば、気分も変わるかもしれません。

こうした時も、節子がいた時にはすぐ予定が決まり、行くことになったのですが、一人だといつでも行けると思いながら、結局は行かずに終わることも少なくありません。
その結果、ますます出不精になってしまっています。
しかし、来週には東京博物館に行ってみようと思います。

テレビで紹介された仏の中に、初期の円空仏がありました。
言われなければ円空の作品だとは気づかないでしょう。
円空は、どういう気持ちで、あれほどたくさんの仏を生み出したのでしょうか。
初期の円空とその後の円空は、世界観が全く違っていたのでしょう。
何がそうさせたのでしょうか。
観念の仏ではなく、たぶんどこかで円空は仏に出会ったのでしょう。
そんな気がします。

人はめったに仏には会えません。
でもひょっとした時に、仏を感ずることはあるはずです。
そして、自分の中に仏のイメージをしっかりとつくり上げている人もいるでしょう。
私にも、私の仏のイメージが心身の中にあります。
さまざまな個性的な仏像を見ながら、そんなことを考えていました。

午後から畑に行って、少し耕しだそうと思っていましたが、寒いのでやめました。
風邪はもう大丈夫でしょうが、気を許してはいけません。
まだどこか完全ではないような気もしますので。
午後もまた怠惰な1日になりそうです。
仕事場に暖房がないのが問題ですね。
仕事がまったくできません。

■2718:すべては「自分自身」(2015年2月12日)
節子
寒さの中にも春を感ずるようになってきました。
一進一退ですが、私の気分も少しずつ前を向きだし、そのせいか、前向きの話が多くなってきました。
それで気がついたのですが、同じ話も気分次第で、後ろ向きにも前向きにもなるものです。
よく言われるように、すべては「自分自身」なのです。

日曜日から京都と大阪に行くことにしました。
何人かの人たちに会ってくる予定ですが、その一人は、息子さんを自死で亡くされた方です。
その方は、同じような悲しみを起こさないようにと、さまざまな活動に取り組んでいます。
私は2年ほど前にお会いしたのですが、彼女の活動に見えないくらいささやかな支援をしています。
彼女の活動も、ようやく一つのかたちになりだしています。
その話をお聴きして、何かできることを考えようと思っています。

彼女の場合、息子を失った母親の強い愛情を感じます。
喪失体験を乗り越えるには、再生のための創造体験が必要だということを、痛感します。
なかには過労死するくらい働きだしてしまう人もいます。
私のように、動けなくなる人もいますが。
さまざまな人を見ていると、すべてはその人自身なのだと感じます。
誰かを真似てみても、うまくいきません。

しかし、私の場合は、ライフステージもあり、穴の開いた心身の思うがままに任せることができました。
その余裕が与えられたことには感謝しなければなりませんが、その余裕を創りだすために節子との時間をゆっくりと楽しむことがなかったことはいくら悔いても悔い足りません。
しかし、それもまた、考え方次第です。
苦を共にすることもまた、楽を共にすることと同じことかもしれません。
それに、私たちには「苦」という概念はありませんでしたし。
ただもう少しゆったりした旅行を楽しめばよかったと思います

すべては自分自身。
それは私の信条だったのですが、最近は忘れかけていました。
少し意識を引き締めなくてはいけません。

もうじき春です。
今年はお花見に行けるようにするつもりです。
こうやって書いておかないとまたくじけそうなので、節子への決意表明です。

■2719:今年最初の農作業(2015年2月12日)
節子
久しぶりに畑作業をやりました。
午前中に地元の市民活動の件で会っていた原田さんと少しだけ農作業の話になったのですが、その話で急に畑に行きたくなったのです。
冬の間は草も成長しないので、最近、作業のためには行っていないのです。
しかし、作業をしなくても行かないといけません。
放っておくとせっかく植えたチューリップの球根も芽を出さないでしょうから。
花は、愛情だと節子も言っていました。

それで行くには行ったのですが、やはり行ってみると草がもう芽生えだしています。
冬の間に畝づくりをしようと思っていたのですが、このままだとまた野草との戦いになりそうです。
耕耘機は買うかどうか迷ったのですが、いまの私には7万円はちょっとつらいのでやめてしまいました。

幸いにチューリップは少しだけですが、芽を出し始めていました。
空き地の道沿いはかなりの急勾配です。
以前は節子が瓦礫や石などで、ロックガーデン風にしていましたが、いまはもう跡形もなく、ただただ荒れているだけです。
昨年はマリーゴールドやヒヤシンス、ひまわりなど、いくつか植えましたが、お金を節約して少ししか植えなかったので、花畑とは言えない状況でした。
今回はまずはチューリップを30個、植えましたが、特売の球根だったのでいささか心配です。
それにあまり花壇として整地されていないので、難しさがあるのです。
今年は少し花壇らしくしようとは思いますが、問題は実は費用ではなく労力なのです。
それはそれは大変で、いつも死にそうなくらい疲れます。
人には得手不得手があるのでしょうか、私の容量がきっと悪いのでしょう。
畑作業に関しては、私よりも節子が得手でした。

今日は急に思い立ったこともあって、準備もせずに行って、急に鍬で開墾し始めました。
10分で完全に息切れです。
何しろきちんとした農地ではなく、宅地の空き地なのです。
そのうえ、小さな笹が根をめぐらしてもいるのです。
節子なら、少しずつ丁寧に耕していくでしょうが、私はそういうのは不得手で、粗雑に広い範囲をやってしまうので、結局、疲れる割には報われないのです。
途中で娘に飲み物を届けてもらい、何とか1時間近く畑に居ましたが、作業時間は半分くらいでした。
半分は畑の土の上に寝転ぶほどではありませんが、倒れかけていました。
ちょっと危ない風景だったかもしれません。
そのうえ、帰宅後、またおかしくなってしまいました。
めまいと視野異常が発生しました。
ひどくなる前に横になって休んだので、事なきを得ました。
そういえば、また最近、高血圧の薬を飲むのを忘れていました。
危ないですね。
困ったものです。

農作業も不得手ですが、薬を飲むのも不得手です。
また教予定していた課題をやらずに、終わってしまいました。
これもまた困ったものです。
そのうえ、今日、お会いした原田さんから宿題ももらってしまいました。
だから人に会うのは嫌いなのです。
しかし、畑に行っても、人に会うのと一緒で、いやそれ以上の宿題をもらってきてしまいました。
この世で生きていると、毎日宿題をもらうような気がします。
彼岸ではどうでしょうか。
輪廻転生を目指した宿題があるのでしょうか。
節子がうまくこなせているといいのですが。

■2720:いつまでも自慢の子ども(2015年2月13日)
節子
息子さんを亡くされた方からメールが来ました。
こう書かれていました。

母親にとって子供というのはいつになっても自慢の子供です。
ですが、亡くなった子供の事をいつまでも言っていると、
友人や家族にさえもうんざりとされてしまうんです(;^ω^)
ですので、言いたくても言えない人もかなりいらっしゃると思っております。
そういうお母さんに集まってもらい、自分の(亡くなった)子供の年表のようなものを
作って自慢をしていただこうと思っていたのですが、

過去形で書かれているのが気になりますが、それはそれとして、この方のお気持ちはよくわかります。
それに、これは私にも当てはまることだからです。
「亡くなった妻の事をいつまでも言っている」ので、たぶんうんざりされている人も少なくないでしょう。
挽歌以外では、言ってはいないつもりですが、時に話し出してしまうこともないわけではありません。

この挽歌も、あまりに長く続いています。
でもまあ、同じように娘さんを亡くされた方も、ずっとブログを書き続けています。
http://d.hatena.ne.jp/mikutyan/
その方からは時々エールを送ってもらっています。
時に、そのブログに私の挽歌も取り上げてもらってもいます。
まだお会いしたことはない方ですが、どこかで心が通じています。

自慢の子どもに比べて、節子は私の「自慢の妻」だったわけではありません。
自慢でないからこそ、愛おしさや悲しさがあるのかもしれません。
それに、いつになっても私の妻であることは間違いありません。
疎まれようとも、挽歌は続けていこうと思います。

■2721:死後生(2015年2月13日)
先日、何気なくテレビを見ていたら、柳田邦夫さんが「死後生」について語っていました。
その時は聞き流してしまったのですが、今日になってなぜか思い出しました。
何の番組だったのか思い出せないので、内容も確認できません。

柳田邦男さんは、その著者の中で「死後生」について書いてきていますが、私はまだきちんと読んだことがありません。
それでネットで調べてみました。
昨年の「静岡新聞」の元日に、柳田さんと政治学者の中島岳志さんの対談記事があることを知りました。
そこで、柳田さんはこう語っています。

数百人分の闘病記や追悼記を読むうちに気づいた。
死者は生きているじゃないかと。
愛する家族や友の心の中で「死後生」を生きている。
逆を言えば、より良い死後生のために心して今を生きなきゃいかん。
40年かけてたどり着いた死生観です。

柳田さんは息子さんの死を体験されています。
その人にして、この死生観ですから、とても心に響きます。
その柳田さんが、「より良い死後生のために心して今を生きなきゃいかん」と語っていることを今日初めて知りました。
「奥さんのために」とか「奥さんは喜んでいない」などと言われると大きな反発を感じますが、柳田さんのこの言葉は、むしろ実感として素直に響きます。
にもかかわらず、ともすると忘れてしまうことでもあります。

死後生。
死後を生きる。
大切な人を見送ると、そのことがよくわかってくる。
いや、そう思わないと、その死を受け入れられないのかもしれません。

柳田さんは、さらにこう言うのです。

私はね、死者ほど精神性のいのちが躍動し、本質に迫る言葉を発する存在はないと思う。
それに気づいたのは、息子が自死を図った20年前です。
脳死状態にありながら彼は、人間の苦悩をどこまで分かっているのか、と鋭い問いを父親に突きつけてきた。
終末期医療の取材を積み重ねながら、死の本質に触れていなかったと思い知らされ、生と死について考えを深める契機になった。

心の奥底まで響いてきます。
節子もまた、半分彼岸に旅立っていた1か月、私に鋭く問いかけていたのです。
いまから思うと、私はその問いかけを逃げていたような気がしてなりません。
もしかしたら、節子は最後に私への愛想が尽きていたとしても、おかしくないと最近思うことがあります。

昔、会社時代に、柳田邦男さんの取材を受けたことがあります。
喫茶店で1時間ほど話をさせてもらいましたが、あんなに誠実に真摯に取材されたことは前にも後にもありません。
その柳田さんの言葉は、単なる言葉ではなく、たくさんの死後生たちのいのちの声のように私には響きます。
もっと誠実に真摯に生きなければいけません。

■2722:花の季節
(2015年2月14日)
節子
また節子のまわりが花でいっぱいになりました。
最近、いろんな花を供えていますが、今日は新潟からチューリップがどっさり届いたのです。
大雪の中を金田さんが送ってくださいました。
毎年のことですが、あまりにもどっさりなので、いつもはおすそ分けするのですが、今回は花好きの人が旅行中なのと私自身も明日から不在なのでお渡しできません。
そんなわけで今回は、しばらく家中がチューリップということになりそうです。

私も昨年、畑にチューリップを植えておきました。
昨日、畑に行った時に見たら、芽吹いていました。
うまく咲きそうです。
庭はモグラの攻撃が激しいので、球根物のチューリップはうまくいきません。
節子がいたら大丈夫だったかもしれませんが、最近は諦めています。

チューリップではないですが、庭の河津桜が今年は無事に花芽をつけています。
昨年は手入れ不足で花を咲かせてやれませんでしたが、今年は大丈夫です。

新潟からチューリップが届くと、わが家も花の季節に入ります。

■2723:タイトな日程(2015年2月14日)
節子
だいぶ元気が出てきました。
明日はNPOとのミーティングで京都に行くのですが、ついでに盛り沢山のおまけをつけてしまいました。
元気な時の私のスタイルに、久しぶりに戻りました。
15日は一泊し、16日にたくさんの人に会うことにしました。
前もって相談していた人は1人だけで、あとは私の気力次第と思い、迷っていました。
しかし、昨日からいろんな人に会おうと思い立ちました。
その結果、今現在で5組の人と会うことになりました。
今日になって急に電話を受けた人はムッとされても仕方がないのですが、みんな気持ちよく引き受けてくれました。
しかも、移動時間があまり取れないので、すべて新大阪駅界隈での約束にしました。
遠い人は1時間もかかってきてくれます。
まことに持って自分勝手ですが、みなさん今回は私に合わせてくれました。
東レ時代の先輩は、相変わらずだなという感じで、毎日が日曜だから出ていくよと言ってくれました。
迷惑な話でしょうが、私自身はうれしい限りです。

それでホテルも新大阪駅の近くにとることにしました。
駅から2分のところに格安ホテルが見つかりました。
直前割引とかいうのがあって、なんと1泊4000円です。
最近の私の生活にはぴったりです。

16日は朝の8時からスタートです。
テーマはいろいろとありますが、最初は自殺問題に絡むこと、最後は孤独死問題に絡むことです。
ちなみに15日は、認知症予防に絡むミーティングです。
いずれも重いテーマですから、気を張っていなければいけません。
実はまだ5組目の後にも時間が取れそうです。
昔だったら、もう2組ほど入れたかもしれません。
こういう緊張感のあるスケジュールが」大好きなのです。
会社時代の出張はいつもこうでした。
さすがに今はその気力はありません。

こういうタイトな日程を組むことに、節子はいつも反対でした。
もう少し余裕をもたないといけないとよく注意されました。
こうした予定の組み方は、人生設計そのものにつながっているからです。
その私の生き方を見直そうと思った矢先の、節子の病気発見でした。

さて明日は朝7時前には出なければいけません。
寝坊しなければいいのですが。
そろそろ寝ましょう。

■2724:宝蔵院(2015年2月15日)
節子
今日は久しぶりに宇治の萬福寺に行く予定でしたが、途中についつい平等院と宝蔵院に寄ってしまったら、約束の時間に間に合わなくなりそうになってしまい、肝心の萬福寺は三門だけの見学に終わってしまいました。
しかし、宝蔵院ではとてもいいものを見せてもらいました。
ここは有名な大般若経の版木が6万枚も保存されていて、いまも実際に手刷りされているのです。
版木は300年以上前のものです。
ちょうど経蔵の片隅で手刷りをされていたので、見学させてもらいました。
刷り師は矢部さんという方で、もう30年ほどやっているそうです。
注文を受けてするのだそうですが、1枚ずつ丁寧に刷っていました。
今回の注文は4000枚だそうです。
気が遠くなる枚数です。

それを見ながら、黒岩さんもきっとこの風景を見たのだろうなと思いました。
黒岩さんは五木寛之さんの「百寺巡礼」の編集をされていましたから、きっと五木さんに同行されているはずです。
「百寺巡礼」には この宝蔵院の版木のことが書かれていたのを覚えています。

以前、太宰府の観世音寺に行った時も、そこに「百寺巡礼」の本が置いてあったので、同じようなことを思いだしたことがあります。
黒岩さんが彼岸に行って、もうどのくらいでしょうか。
彼岸で節子と会っているでしょうか。

宇治の平等院は、改修工事が終わっていて、とてもきれいになっていましたので、私の好みとは違っていました。
そのせいか、節子と一緒にきた時の記憶がうかんできません。
最近、どこの寺社も観光地もどんどん綺麗になってきています。
それはいいことかもしれませんが、なにか時間の流れが切れてしまうような気もします。
風景があまり変わらないうちに、節子と一緒に行ったところをまわってみるのもいいかもしれません。

でもがっかりすることになる恐れが多いでしょう。
節子がいなくなった後、日本はなぜか急に大きく変わり出したような気がするのは気のせいでしょうか。

■2725:生き方が間違っていたようだ(2015年2月16日)
節子
今日は大阪にいました。
いい天気で、コートはいらないほどでした。
新大阪駅界隈で、朝からいろんな人たちに会いました。
人に会うと元気がでます。
いろんなところに友人がいることはとても幸せなことだと改めて思いました。

会社時代の友人にも会いました。
昔、一緒に萬福寺に行った吉田さんです。
入社は同期ですが、年齢は私よりも上で、入社時代、いろいろとお世話になりました。
考えてみると、その頃から私はいろんな人のお世話になる存在だったようです。
要は頼りなかったのでしょう。
その吉田さんが、こう言いました。
最近、自分の生き方は間違っていたような気がする、と。
実は最近、私もそう思うことがあるというと、吉田さんは、自分だけではないのかと少し安堵したようでした。

吉田さんは、最初に会った時から、実に個性的で素直な生き方をしていました。
つまり「自分の生き方」をしっかり持っている人でした。
ですから、この言葉を聞いた時は意外だったのです。
しかし、吉田さんにしてそうであれば、そう考える人は少なくないのかもしれません。
かくいう私もそうですし。
もしかしたら、それが歳を重ねるということかもしれません。
もちろん、だから後悔しているということではありません。
ただどこかおかしいことに気づいたということです。
自分の生き方を相対化できるようになったと言ってもいい。

そう思って、これまでの自分の生き方を振り返ると、たしかにおかしいのです。
しかし、「おかしい」ということは,よくいえば、「自分を生きてきた」とも言えるのです。
過去を振り返って、悔いや迷いのない生き方は、退屈な生き方かもしれません。
もしもう一度、人生があるとしても、多分、私も吉田さんも今回と同じような「間違ったかもしれない生き方」するような気がします。
しかし、吉田さんがなにかまじめに、そうつぶやいたのが心に残りました。

吉田さんと会った前後にも、実に個性的な生き方をしている人と会いました。
もうお一人だけ、書いておこうと思います。
節子の知らない人ですが。

■2626:人にはそれぞれ縁がある(2015年2月16日)
今日、お会いしたお一人が松本さんです。
これまた実に個性的な生き方をされています。
私が出会ったのは、たぶん10年近くまえですが、以来、年に一度くらいはなぜかお会いします。
松本さんが取り組んでいるのは、「いのちのセキュリティ活動」です。

最初に出会った頃は孤独死防止でした。
具体的な仕組みを開発し、その実現にむけて精力的に取り組んでいましたが、なかなか広がりません。
松本さんの構想がきちんと理解できる人が現れないのです。
それはあまりにシンプルだからです。
私はたぶん理解できていますが、自分で実現に取り組むまでにはいたっていません。
それで関心を持ってくれそうな人や東北被災地の支援者などを紹介したり、東京で説明会をやったりしましたが、うまく行きません。
そんなこともあって、いつも気になっているのです。

大阪に来る前日に、なぜか松本さんを思いだしました。
それで電話しました。
松本さんは枚方のほうにお住まいなので、時間的にはお伺いするのは無理かなと思っていました。
そうしたら松本さんが新大阪まで来るというのです。
それで厚かましくも新大阪駅でお会いしました。

話はここからです。
お会いした途端に、松本さんが話し出しました。
新しい動きが出始めたところだというのです。
それも意外な展開の可能性のある話です。
そして、松本さんは、
何か新しい動きが始まると、なぜか佐藤さんから電話があって会うことになる。
昨日も佐藤さんから電話をもらった時に、奥さん(私も何回かお会いしています)と「佐藤さんは不思議な人だ」と話をしたというのです。
そういえば、いつもお会いする度に、松本さんはわっと新しい動きについて話し出すことが多いのです。
どうやら松本さんと私とは、何かの縁があるのかもしれません。

人にはそれぞれの縁がある。
と私は思っています。
ずっと忘れているのに、なぜか突然に思い出す人がいる。
思い出すには、必ず理由がある。
松本さんと話していて、改めてそう思いました。

ところで、松本さんが「いのちのセキュリティ活動」に取り組み出したきっかけは、松下幸之助さんの奥様のむめのさんの一言なのです。
この話は実に面白いのですが、それはいつかきっと松本さんが本にしてくれるでしょう。
そう期待しています。

■2727:平等院のお地蔵さん(2015年2月17日)
節子
平等院で線香立を買ってきました。
なぜかお地蔵さんの線香立でした。
地蔵菩薩と平等院は、私の頭の中ではつながらないのですが、地蔵菩薩は阿弥陀如来の化身とも言われていますので、考えてみれば不思議ではありません。
しかし、やはりピンときません。

阿弥陀如来の居る浄土は、私にはとてもっとい感じですし、なんとなく貴族的なイメージがあり、あまり行きたくはありません。
それに比べて、地蔵は庶民的で、しかも極楽浄土と違って現世に隣接している気がします。
私の好みはやはりお地蔵さんです。

もっとも、阿弥陀仏もお地蔵さんも、その誓願は似ています。
いずれも宮沢賢治的なのです。
衆生みんなが成仏しなければ自らの悟りは得ないと決めているのです。
つまりすべての人の成仏を願い、保証しているわけです。
弥勒にはなにか不安を感じますが、阿弥陀や地蔵には安心をもらえるのです。

ところでお地蔵さんの線香立ですが、わが家の小さな仏壇にはぴったりなのです。
しかし、むすめからは平等院に行って、なんでお地蔵さんなのかと言われてしまいました。
それもこんな子供が喜ぶような、お線香立なのかと。
まあ言われてみればそうなのですが、阿弥陀のミニチュアもあったのかもしれません。
しかし、ミュージアムショップに入った途端に、このお地蔵さんが目に入ってきたため、他は何も見ずに、選んでしまったのです。
相変わらずの「視野狭窄」です。

今朝は、このお線香立で、2回もおまいりをしました。
節子もきっと、好みでしょう。

■2728:老害注意(2015年2月18日)
節子
今年は温暖の差が激しいですが、私の生活の緩急の差もかなり激しいです。
心身がどうもついていきません。
もっともそうした緩急の差をつくりだしているのは私自身なのですが、動き出すと次々と関心が広がり、余計な寄り道ばかりしてしまうからです。
そのうえ、一番早く取り組むべきことが、いつも最後になるのです。
この性癖は最後まで直りそうもありません。

今日は古くからの知り合いの2人の編集者をお引き合わせしました。
面白いプロジェクトが生まれそうです。
お2人とも20年以上前からの付き合いですが、最後にはっと気づいて、2人に年齢をお聞きしました。
50代後半なのです。
知り合った頃は30代でしたが、私自身はまだその感覚でいたのです。
私がもう隠居した「過去の人」に見えるのは、当然です。
ところが、困ったことに私にはその実感がないのです。

その一方で、私よりも上の世代の人たちと会うと、その加齢ぶりが伝わってきます。
冷静に考えれば、私も加齢でもう「よれよれ」になっているのでしょう。
そういえば、昨日もある人に会いに行ったら、開口一番、「お元気そうでうれしいです」と言われました。
その意味をきちんと受け止めていなかった自分に、今日、改めて気づきました。
自分のことはなかなか気づかないものなのです。
もうよれよれの年寄りだという自覚をしっかりと持たねばいけません。

そうした状況にもかかわらず、今年になって取り組みたいことがどんどん増えているのです。
そしてついつい余計な口出しもしてしまう。
そのうえ、頼まれもしないのに、京都や大阪までで行ってしまう。
これは「老害」かもしれません。
自重しなければいけません。

それにしても、こんなに面白いことが山のようにあるのに、どうしてみんなやらないのでしょうか。
それで、ついついいろいろと関心を持ってしまうのですが、意識はともかく、身体がついていかなくなってきているようです。
まあ動けるうちは、もう少し動こうと思いますが、老害には気をつけようと思います。

■2729:「ゴドーを待つ生き方」(2015年2月20日)
節子
今日はちょっと最近の気分の披瀝です。

有名なベケットの「ゴドーを待ちながら」の舞台は観たことがありません。
戯曲もきちんと読んだことはありません。
なんとなく知っているだけなのですが、「ゴドーを待つ生き方」がなんとなく理解できるようになったのは、節子がいなくなってから数年してからです。
戯曲も読んでいないし舞台も観ていないので、「ゴドーを待つ生き方」と言っても、私の独断的な解釈ですが。

節子を見送って数年は、前に向かって生きようなどという気は全く浮かびませんでした。
生きている意味さえ考えられませんでした。
しかし5年ほどたってからでしょうか、もしかしたら私は「何かを待って生きている」というような気がしてきました。
待っているものが、死かもしれませんし、娘たちの幸せかもしれません。
しかし、どうもそうではないような気がしてきました。
私が待っているのは、まさに「ゴドー」なのです。
前に進もうとする。
あるいは後ろに後退しようとする。
でもその時に、ふと思うのです。
「いや動き出さずに、ゴドーを待とう」と。
ゴドーを待つことこそ、生きるということではないかと。

私もようやく「ゴドーを待つ生き方」の境地にたどりついたのです。
そして、そのゴドーの気配を最近感ずるようになってきました。
来ると信じられるようになれば、待つことが終わります。

何やら禅問答のような話ですみません。
しかし、最近、まさにそんな気分が私を覆っているのです。

■2730:日常のなかの異邦人(2015年2月23日)
節子
「日常のなかの異邦人」という言葉があります。
哲学者の鷲田さんが言いだした言葉のようです。

「異邦人」といえば、どうしてもすぐにカミユを思い出します。
あの小説を読んだ時の衝撃は忘れられません。
しかし、異邦人は何も特殊な存在ではなく、人は時々、自分が異邦人であるような気分に陥ることがあります。
自死遺族の人と話していると、時々、この人は現世にはいないのではないかと思うことがあります。
いや他人事ではありません。
私自身、節子に旅立たれて数年は、自分がこの現世に居場所がないような気がしていました。
いまもなお、時にそうした気分になることもあります。

ある意味では、私は小さな時から異邦人気分を持っていました。
うまく説明できないのですが、どこか世間の常識に適合できないのです。
不登校にはなりませんでしたが、勉強が好きだったくせに、学校は嫌いでした。

今日、時評編に「りんご2つとみかん3つ、合わせていくつか」という話を書きました。
友人の太田さんから聞いた話です。
とても共感できる話です。
太田さんは最近湯島によく来ます。
しばらく交流が途絶えていましたが、密接な交流が再開したのは、節子のことを知って、太田さんが突然わが家にお線香をあげに来てくれてからです。
どこかで何かがつながったのかもしれません。
太田さんは間違いなく異邦人です。

湯島には、そういう異邦人がよく来ます。
社会の中心を歩いている人も来ますが、そういう人はだいたい一度で来なくなります。
しかし、異邦人の要素を少しでも持っている人は、たぶん居心地がいいせいか、長居をしたり繰り返しやってきたりします。

私も世間に居場所のなさを感ずることは多かったのですが、節子がいたころは、そう思ってもいつも寄港してこころ休まる港がありました。
節子のことです。
節子はいつも私に安堵を与えてくれる存在でした。
私のどんなわがままも受け入れてくれました。
ですから、自分が異邦人と思ったことはありませんでした。
一人とはいえ、同邦人がいるのですから。

節子が旅立って、私は、カミユの異邦人とは違う異邦人という存在がよくわかりました。
だれとも心がつながらないのです。
いまだから言えますが、むすめたちとも心が通じない。
現世にいながら、現世を実感できないのです。

いま思うと、もしかしたら節子も、最後の闘病の時、異邦人の孤独を味わっていたのかもしれません。
一度だけ、そういうまなざしを私は感じたことがあります。
その時には、おろおろしてしまい、うまく節子の心を抱きしめてやれませんでした。
時々、そのことを思い出すと今も恐ろしいほどに滅入ってしまいます。
どんなに寄り添ったつもりでも、寄り添えないものなのです。
私だけがそうだったのかもしれませんが、時々、そんな気がして、悲しさに襲われます。

異邦人が何人集まっても、結局はみんな一人ひとりの異邦人。
今日は一生懸命、仕事をしましたが、夜になって、無性にさびしいです。
なぜ節子はいないのでしょうか。

■2731:人の死は人の生のためにある(2015年2月24日)
節子
先日のサロンの後、何人かで居酒屋に行ったのですが、そこでこんなことが話題になりました。

悲惨な状況の中でも、親は自らを犠牲にしてまで、子どもだけを助けようとする。
しかし、悲惨な状況の中で一人残された子どもはどうなるのか。
むしろ残すことなく最後まで一緒にいたほうがいいのではないか。

自らが死んだら残された子どもたちはどうなるか。
そういう思いで、子供を道連れにする親がいる。
道連れにされた子どもの立場はどうなるのか。

話題になったのは、前者の話です。
後者は、それと関連して、私が思い出した話です。

ところで、前者の話を聞いた時、「それは、子どもを生かしたいということではなく、自分が生きたいからではないか」という気がしました。
そして、節子のことを思い出して、私の体験的な実感を話しました。
愛する人がいる。
その人が死のうとしている時に心身が感ずるのは、その人の死ではなく自らの死です。
その人が死なないように願うのは、自らが生き続けたいと願うことに重なります。
そうであれば、たぶん自らが死のうとする時に思うのは、死を免れない自分の生を生き続けられる可能性をより多く持つ子どもに託するという本能です。
自らの実感を伝えるのは難しく、あまり伝わらなかったと思いますが。

柳田邦男さんは、息子に先立たれています。
脳死状態の息子さんと一緒に過ごした11日間を書いた「犠牲(サクリファイス)」は、私はいまも読めずにいます。
しかし柳田さんのほかの著作の中で、柳田さんの思いはさまざまに感じさせてもらっています。
ある著作の中で、柳田さんはこう書いています。

「彼の存在感は19年経った今も、私の心のなかで1パーセントも薄らぐことなく特別の場所を占めている。彼のいのちは、私の中で傲然とした側面さえ漂わせて生きているのだ。」

命はつながっている。
息子は父の中に生き続け、父は息子の中に生き続ける。
親が子供の生を願うのは、まさに自らの生を願うからなのではないか。
もっといえば、個体としての人の生から解放されれば、不滅のいのちの世界に入れるのかもしれません。
そして、人の死は、人の生のためにあるのかもしれません。

死は、むしろ「別れ」でしかないのかもしれません。
生と死は対称的な存在だということです。
死んだのは私であって、生き残ったのが節子かもしれない。
そんな気もします。

■2732:悪いニュース(2015年2月25日)
節子
出鼻をくじかれました。
ようやく動き出そうとすると何かが起きます。
神様は私に重荷ばかりを背負わせます。
どうしていつもいつもこうなのでしょう。
恨みたくもなります。

「悪いニュースや」
いつものような声で、電話は始まりました。
悪いニュースには慣れていますので、どうせ大したことではないだろうと次の言葉を待ちました。
「このままだと1週間、長くて余命6か月だと言われたよ」。
一瞬、心身が凍りつきました。
彼らしく、淡々と話します。
電話の主は、死ぬことにはそうこだわっていない友人です。
今週にでも会う予定の友人でした。
彼の言葉に合わせて、何か言わなければいけないと、あまり的確とは思えない言葉を次々に発してしまいました。
正直、おろおろしてしまったのです。

話しているうちに少し落ち着いてきました。
相手ではなく私がです。
ようやく私も自分を取り戻しました。
自分のことだと大丈夫なのだが、やはり人のことになるとおろおろしてしまうものだね。
そういうのが精いっぱいでした。
この言葉だけが真実で、ほかのたくさんの言葉は無意味な言葉だった気がします。
こうした場合によく使われる言葉の羅列です。
そんな言葉は当事者には無意味どころか、むしろマイナスだというくらい、私もわかっているのですが、何か言葉を発しないと落ちつけなかったのです。

その人の夢の実現に、私も少し応援するつもりでした。
その話をつい少し前にしたばかりでした。
しかもその実現に向かって動き出そうとしていた矢先です。
衝撃以外の何物でもありません。

前にもこんなことがあったなと思いだしました。
黒岩さんのことです。
しかも同じ病気です。

昨日は来客やらサロンで考える時間がなかったのですが、
終わって一人になって、またドシンと衝撃に襲われました。
彼にどう話したらいいでしょうか。
まだおろおろしています。
電話もかけられない。
今朝起きても気分が静まりません。
私よりも一回りも若いのに、なにをやっているのかと、彼を蹴飛ばしたい気分です。

付け加えれば、その電話の後、もう一人、今日会う予定だった人から連絡がありました。
余命6か月ではないですが、こちらもそう簡単な話ではないようです。
会うのを延期しました。
なんでこうも次々と悪いニュースが届くのか。
私は、前世でいったい何をしてしまったのでしょうか。

■2733:平安な節子がうらやましい(2015年2月26日)
節子
気が滅入っている時には、さほど大きな問題ではなくても負けそうになります。
挽歌を書くと、ますます暗い内容になりそうなので、今日は書くのをやめます。
心が冷えていたせいか、天気まで今日は冷え冷えしていました。
平安に過ごしている節子がうらやましいです。

■2734:1週間のご無沙汰でした(2015年3月5日)
節子
1週間、挽歌も時評も書きませんでした。
挽歌を書き始めてから1週間も書かなかったのは初めで、番号も10回ほどずれてしまいました。
いろんなことが起きて、頭が回らなくなったのですが、同時に体調もあまり良くなく、お腹がしくしくと痛かったり、首が回らなくなったり、頭が重かったり、無性に眠かったり、身体にまで不具合が出てきています。
気が滅入っている時には、どんどん悪いほうに考えがちです。
いやもしかしたら、このままダウンしたいという無意識の願望があるのかもしれません。

もちろん悪いことばかりではなく、うれしい話もあったのですが、この間、かなり自宅に引きこもりがちでした。
私の場合、仕事をしなければいけない時にはむしろ自宅に引きこもるのですが、今回に限って言えば、仕事をするためというよりも、逃避的な意味合いが強いです。
しかし、中途半端にいろいろと動き出したこともあって、パソコンに向かうとやらなければいけないことが押し寄せてきます。
無視すればいいだけの話ですが、どうもそれができずに、余計なお世話に時間を割いてしまうのです。

ですからパソコンも開かず、ブログもお休みというのもあるのですが、西部劇のセリフではありませんが、一度、逃げてしまうと逃げ続けることになり、たぶん元には戻れなくなります。
それは避けたいと思います。
挽歌を書かなくなれば、たぶん生きる気力はさらに低下するでしょう。
そろそろ立ち直らなければいけません。
今日は本当は、時間をとって畑に行くつもりだったのですが、急用ができてしまい、行くタイミングを失してしまいました。
土にも癒してもらえませんでした。

時評も書けずにいますが、最近ニュースを見たくなくなったのです。
テレビをつけると、18歳の少年が・・・という言葉ばかり耳に入ります。
もうあのニュースは見たくないのです。
18歳の少年を追い込んだ人たちは気づいていないでしょうが、あのニュースを無神経に流し続ける大人たちの方が狂っているとしか思えません。
そういう狂った社会を相手に時評を書いても、ただただ虚しいだけだからです。

最近、自分の居場所が見つからないのです。
節子に助けてほしいです。

とまあ、愚痴をこぼしてしまいましたが、教からブログを復活させようと思います。

■2735:世界が非連続なのか、私自身が非連続なのか(2015年3月5日)
節子
再開最初の挽歌です。

この1週間に数冊の本を読みましたが、そのひとつが「ケアの始まる場所」という論考集でした。
その中に「死者のケア」という論考がありました。
そこにこんな記載がありました。

死者は「いない」というあり方,すなわち「不在」というあり方で存在し続けているのである。
私たちがその内で現に存在する世界とは,「生前の死者とかつて共にあった世界」であり,「今は亡き死者と共にある世界」なのである。
そうであればこそ,たとえ死者が不在となったとしても,その世界の側から(世界の内にある事物やその人の痕跡を通して)死者になったその人を偲ぶことが可能となる。

こんなややこしい表現などしなくてもいいではないかと思われるかもしれませんが、こういう言葉に奇妙に心が安堵するのです。
しかし、気になることもあります。
「生前の死者とかつて共にあった世界」と「今は亡き死者と共にある世界」とは連続しているのかどうか。
私にはどうも連続していないような気がします。
世界はその人の意識が創り出しているはずです。
ですから、自らの一部が喪失するような体験をしてしまった以上、世界は非連続になっても仕方がありません。
つまり、世界が非連続なのは、私自身が非連続な存在だということにもなります。
世界と自己とは、どちらが因でどちらが果かも明確ではありません。

この本は、そうしたことを考えさせられる様々な示唆に満ちている本でした。
明日からはまたきちんと挽歌を書くようにしようと思います。
新聞やテレビの報道番組も見ようと思います。

■2736:強くて弱い生命力(2015年3月6日)
節子
久しぶりに湯島に来ました。
うっかりランタナの鉢をベランダに出し忘れていたのですが、寒さでやられていました。
1か月ほど前には、わが家から挿し木していった小さなランタナを、水をやり忘れて、枯らしてしまったので、このランタナは枯らしたくないと思っていました。
少し大きめの鉢にしっかりと根付いたランタナは外に出しておいても大丈夫だったので、気を許してしまいました。
ランタナは渇きには弱いのですが、寒さにも弱そうです。
今回はまだ完全には枯れていないので、復活してくれるかもしれません。

しかし、植物の生命力は、強いのか弱いのか、よくわかりません。

娘が正月用の生け花に、白く塗られた装飾用の枝を添えていました。
生け花が枯れた後、それを小さな花ざしにいれておいたら、なんと最近、そこから若葉が出てきたのです。
そして、次第に根までつくられてきました。
ものすごい生命力を感じます。

しかし、その一方で、ちょっとした渇きや寒さでもいのち尽きることもあります。
節子がいなくなってから、たくさんの植物を枯らしてしまいましたが、それこそちょっとした油断からです。
実はわが家でも新しい色のランタナの挿し木を大事に育てていましたが、わずか2日ほど水やりを忘れただけで枯れてしまいました。
2日くらい我慢しろよと思いますが、それは勝手な言い分です。
それから毎朝声をかけながら水やりをしたのですが、復活しませんでした。

もろくて強く、強くてもろいのが、いのちなのかもしれません。
湯島には、先日、新潟の金田さんかもらったチューリップの花を数本持ってきていました。
枯れずに頑張っていた3本を、花瓶に入れてテーブルの上に残しておきました。
もう枯れて花が落ちているだろうと思っていたのですが、なんとまだ2本ががんばっていました。
感激して水を入れかえようと思って、花瓶を持ち上げたら、元気そうだった紫色のチューリップが一挙に花びらを落としました。
まるで私に見せてから散ったような感じです。
花にもしっかりと意識がある、改めてそう思いました。
最後の一輪はまだ元気そうです。
今度来る時まで元気でいるでしょうか。
あまり湯島を留守にしてはいけませんね。

■2737:負い目(2015年3月7日)
節子
ブログを更新していなかったために心配してくれていた人がいて、再開したらホッとしたというメールが何通か届きました。
気にしていて下さる人がいることに感謝しなければいけません。

昨日、福岡の蔵田さんから恒例のアサリが届きました。
ご自身で海岸まで出かけてとってきてくださるのです。
この寒い中を、私よりも年上なのに、出かけて行ってくれるのです。
このアサリがとてもおいしいのは、蔵田さんのお気持ちが深く入っているからです。

蔵田さんは、会社を定年で辞められると関係会社などへの誘いもすべて断って、奥様と一緒に郷里に帰りました。
そこで、畑をやったり海に出かけたり、自然の中で豊かに暮らされています。
しかし、隠居ではありません。
ここでも書いたことがありますが、川柳にはまったり、あるいは地域活動に関わったり、社会活動も楽しまれています。
昨日電話したら、奥さんが最近家族が増えたと言います。
自動車のボンネットに捨て猫がいたので、それを飼うことにしたのだそうです。
名前は「ぼん」。
ボンネットからの命名でしょう。
いかにも蔵田さんらしい名づけ方です。

なかなか福岡に行く機会がなく、ここ数年、お会いしていませんが、ますますお元気のご様子です。
蔵田さんには長年お世話になりっぱなしですが、現世でお返しすることは無理でしょう。
しかしまあ、来世もあるので、いつもそのご厚意は素直に受けています。

電話では時々お話しますが、私は蔵田さんの奥様にお会いしたことがありません。
しかし、蔵田さんとの暮らしぶりは、なんとなく伝わってきます。
節子がいたら、おそらく2人で蔵田家にも訪問していたことでしょう。
1人になると、その勇気はなかなか出てきません。

人がどう生きてきたかは、高齢になってから現れてくるのかもしれません。
私のまわりにもたくさんの幸せな夫婦がいますが、その人たちの生き方を考えるととても納得できます。
私が今、こうして伴侶を失い、幸せとは言いにくい状況にあるのは、やはり私の生き方の結果なのでしょう。
最近、そのことがようやくわかってきました。
節子を幸せにしてやれなかったことの負い目から、どうしても抜け出せません。
時間が過ぎるにつれて、ますます負い目が重くなってくるのです。

やはりどうも明るい挽歌が書けません。
困ったものです。

■2738:親身に話し合う関係(2015年3月8日)
節子
気になると気になって仕方がないことがあります。
最近はいささか過剰に敏感になっているのかもしれません。

昨日、携帯に「会いたい」という電話がありました。
電車の中だったので、1時間後に電話してと伝えたのですが、そのあと、すぐにシンポジウムに参加してしまい、失念してしまっていました。
夜に、電話がなかったことに気づきました。
朝、起きてすぐに電話しましたが、電話もメールもつながりません。
その前に会った時に、少し不安な言葉をぽろっとつぶやいたのが気になっていたのです。
最近は、私自身が精神的に不安定なので、他者に過剰に同調しがちなのです。
こういう時には、誰にも相談できません。
つくづくと、他者に関わることの重さを感じます。
中途半端にかかわるのが一番悪いということは、私もわかっているのですが。

落ち着かない時間を過ごしていました。
なにも手につかないのです。
お昼頃、メールが届きました。

京都のお寺で参禅し、気持ちが落ち着いたとありました。
ホッとしました。
と同時に、私こそ参禅したほうがよさそうだと思いました。
彼も、あまり親身に話し合う友人や家族がいなのでしょうが、考えてみると、私も同じような状況です。
座禅によって、「親身に話し合う」ことのできる、もう一人の自分に会えるでしょう。

親身に話し合う関係というのは、なかなかそう簡単には構築できません。
夫婦というのは、まさに「親身に話し合う関係」であることに大きな価値があるのだと、痛感します。
節子がいたおかげで、あるいはいたために、私はこれまでまだ一度も座禅を組んだことがありません。
座禅で、節子に会えるかもしれません。
自宅でも座線を組むことはできそうです。

■2739:今年は河津桜が咲きました(2015年3月10日)
節子
今日、気づいたのですが、庭の河津桜が今年は咲きました。
一昨年は手入れ不足で、枯れそうになってしまい、花どころではなかったのですが、何とか持ち直しました。
地植えではなく、大きな鉢に育てているのですが、そのため、きちんと水をやらないと弱ってしまうのです。
まだ元気とは言えず、頼りない咲き方ですが、咲いてくれたことに感謝しなければいけません。
河津の桜はもう満開で、にぎわっていることでしょう。
わが家の桜は見る人も少ないので、かわいそうです。

人は、さびしさを知ると、他者のさびしさにも気がいきます。
その対象は、決して人ばかりではありません。
山川草木、すべて、寂しさを感じていることが、少し実感できるようになるのです。

自分に余裕がないと、庭の花への関心もでてきません。
おそらく咲いたのは今日ではないでしょう。
数日前から咲いていたのに、誰も気づかなかった。
余裕のない暮らしをしていると、こんなものでしょうか。
余裕のなさのために、よいことにも気づかず、ますます余裕をなくしていくのでしょう。
反省して、今日は、庭に出て、花々に声をかけ、咲いている水仙を節子に供えました。
畑まで行けば、チューリップも咲いているかもしれません。

河津桜も一輪供えようと思いましたが、やめました。
一輪さえもが貴重なほどの、頼りない咲きっぷりですので、
少ない仲間から一輪だけを引き離すことができませんでした。

■2740:神崎さんからの電話(2015年3月16日)
節子
相変わらず挽歌が書けません。
時評編はお誘いを中心に少しずつ書き出しましたが、挽歌がまだ復活できません。
なぜでしょうか。
もちろん理由などはなく、ただ書けないだけですが。

本人がすでに自分のブログやフェイスブックで公言しているので、実名で書きますが、友人の神崎さんが余命宣告を受けました。
http://blog.goo.ne.jp/kurara_77

もう3か月を切っています。
その知らせの電話を神崎さんから受けてから、どうも何かが変わってしまいました。
神崎さんは手術も終え、いまは自宅で療養です。
私は、見舞いにも行かず、電話もメールをしていません。
何と言えばいいのか、なんと書けばいいのか。
彼の目をしっかり見ながら話せるかどうか。
しかし頭から離れたことはありません。

その神崎さんから電話がありました。
全くいつものように、屈託のない話しぶりですが、いつもとは違います。
話の内容は書くのをやめますが、私が神崎さんに伝えようかと思っていた通りの決断をしたようです。
長い電話でしたが、私は今回もうまく受け答えができませんでした。
そのうえ、神崎さんは自分のことよりも私のトラブルに関する心配をしてくれていました。
そして、電話で、佐藤さんは頼りないから心配だよというのです。
すっかり見透かされてしまっています。
まあ、しかし神崎さんに言われるほど、頼りなくもないのですが。
電話を横で聞いている人がいたら、私が余命宣告を受けたのだと思ったかもしれません。

神崎さんと出会ったのは、節子がいなくなってからです。
ですからまだそう長い付き合いではありません。
ですが、なぜか神崎さんとはどこか通ずるものがありました。
神崎さんと話していると、節子とのことをなぜか思い出すのです。
神崎さんは、「余命宣告」を受けた時に、残された時間でいろんな人にあいさつができるから交通事故での突然死よりも幸せだとブログに書いています。
私も、そんなことを、この挽歌に書いたことがあります。
しかし、どちらが幸せかは、いまの私にはわからなくなってしまいました。

神崎さんとの電話の後、また心身が動かなくなってしまいました。
しばらくして、畑に行って、少し回復してきましたが。
今日は暖かな日ですが、なぜか心身が震えるほどに寒いです。

■2741:自然は、必ず病気を治してくれます(2015年3月17日)
節子
畑に行ってきました。
久しぶりです。
あまり体調も良くなかったのですが、身体を動かしたくて、鍬で少し耕しました。
すぐにへこたれてしまいました。
鎌で野草を刈り込みましたが、これもまたすぐにへこたれました。
土の上に座りこんで、少し風にあたりました。
今日の風はとてもあたたかでした。
身体を動かしたせいか、少しずつ身体があったかくなってきました。
しかし、まだ心身の芯は寒いままでした。

視野が狭くなっているようで、30分ほど作業していましたが、動物には出会えませんでした。
藪になっているところも、刈り込みましたが、蛇にも変えるにも出会いませんでした。
気のせいか、篠笹の勢いも弱まっていました。
ノビルがたくさん出ていましたが、無性に刈り取りたくなって、むやみやたらに鎌を入れてしまいました。
思い出して、道沿いの傾斜に植えた、チューリップを見たら、たくさん芽が出ていました。
あまりに無造作に植えたので、競い合っている感じで、花がきちんと咲くかどうかは不安です。
とまあ、こんな無意味な行動で、畑で1時間ほど過ごしてきました。
少し気持ちがおさまりました。

神崎さんにも、郷里に帰って、自然の中に浸るのがいいと伝えました。
人を病気にするのは「人間」です。
自然は、必ず病気を治してくれます。
死は、防げないとしても、です。
節子の看病の時には、まだそのことが、私にはわかっていませんでした。

神崎さんに奇跡が起こってほしいです。
彼もまた、奇跡が起こってもいい生き方をしてきたのですから。
節子の奇跡は、間に合いませんでしたが。
それを思い出して、また涙が出てきました。

■2742:記憶の大海の中の孤島(2015年3月18日)
節子
人はちょっとしたことが契機になって、昔の記憶をよみがえらせることがあります。
前にも「マドレーヌの回想」の話を書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/11/post-0622.html
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭にでてくる有名な話です。
記憶の世界は広く深く、意志によって呼び覚ます記憶は、ほんの一部です。
記憶はむしろ、私たちの意志の外にあります。
ですから、思ってもいないことで、あるいは思ってもいないタイミングで、記憶が想起されるのです。
フロイトは、記憶は意識によって、抑圧されて、無意識の世界に追いやられると言いましたが、「意識」というよりも「意志」の呪縛から抜け出るのが記憶ではないかと思います。
ただ、フロイトが言うように、「無意識には時間がない」ようです。

最近、続けざまに、その「マドレーヌ」に出会っています。
あまりに多いので、偶然とも思えないほどです。
そういう体験を続けていると、もしかしたら、人は記憶の大海の中の孤島に住んでいるのかもしれないという気になってきます。
そして、何かのはずみに、大波にさらわれて、記憶の大海の中に放り出されてしまう。
よほど泳ぎが達者でないと、おぼれかねない。
そして、もしかしたら、私は今、まさにおぼれかけているのかもしれない。

海でおぼれないコツは、むやみにもがかないことです。
もがけばもがくほど、記憶の大波は大きくなる。
逆に、静かにしていれば、人の身体は自然と浮いてくる。
波に身を任せれば、また島に連れて行ってくれる。
それはわかっているのですが、ついついもがきだすのも、また人なのです。

でもまあ、もがくのも少し疲れました。
そろそろ身を任せましょう。
記憶は意志によってはどうしようもなく、身を任せるしかないのですから。

今日はまた、ちょっとつらくて、みじめな1日でした。
春は来るようで、なかなか来ません。

■2743:本当の人間の道を歩むこと(2015年3月19日)
節子
先日、久しぶりに映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を観ました。
ケビン・コスナーが監督・主演です。
もう20年以上前の映画ですが、いまなお新鮮です。
いささか長すぎると感じたのを覚えていましたが、今回は長さを感じませんでした。
あっという間の3時間でした。

観たことのない人のために言えば、これは異色の西部劇で、西部開拓の最前線に一人でやってきた騎兵隊員とスー族の交流を描いた映画ですが、ここに登場するスー族は、多くの西部劇に出てくるインディアンとは正反対に、極めて人間的に描かれています。

その映画の中で、スー族のリーダーの一人、「蹴る鳥」が、騎兵隊員だった「狼と踊る男」に語る、こんなセリフがあります。

この世で人の生きる道はいろいろあるが、
何よりも大事な事は、本当の人間の道を歩むことだ。

この映画の中で、まさにスー族たちは、「本当の人間の道」を歩いています。

私の好きなテレビ番組「小さな村の物語 イタリア」に出てくる人たちも、「本当の人間の道」を生きています。
だから、見ていてとてもあたたかくなると同時に、自らの生き方を反省させられるのですが、「本当の人間の道」を歩くことは、そう簡単なことではありません。
ですから、そうした生き方をしている人を見ると、感動してしまうのです。
そして、そのたびに思うのですが、私よりも節子の方が「本当の人間の道」を歩いていたこと、そして私は、節子と一緒に暮らすことによって、「本当の人間の道」に目覚めたのかもしれないということです。

一昨日、書いた余命宣告を受けた神崎さんは、幸いなことに、この挽歌を読んでいないはずなので(彼はこういううじうじした文章が嫌いです)、書いてしまいますが、彼は、数少ない「本当の人間の道」を歩いている一人です。
余命宣告を受けたいまも、その言動は変わりません。
彼と話していて、それが伝わってきます。

私もまた、「本当の人間の道」を歩こうと、それなりに心がけています。
神崎さんとは、かなり対照的な生き方ですが、つながっているのは、その点です。
私たちは、どこかで暗黙のうちに、その相互理解があります。
だから、なぜか心が通じたのです。

しかし、私よりも若いくせに、先に逝くとは失礼な話ですが、それが、「本当の人間の道」を歩いてきた結果なのであれば、仕方ありません。
彼がそうであるように、悲しんだり、別れを惜しんだりするのは、やめようと思っています。
「本当の人間の道」を語り合う友が、いなくなるのは残念ですが、どう語りかけたらいいのか、思いもつかないのです。

何やらまた大きな課題を与えられたような気がします。
神崎さんにも、困ったものです。
節子もまた、困ったものでしたが。

■2744:インディアンたちは幸せだったに違いない(2015年3月20日)
節子
昨日の映画を観て思ったことを、もう一度書きたいと思います。
しみじみと、深く思ったことです。

白人たちに滅ぼされていったアメリカのネイティブ(インディアン)たちと滅ぼす側の白人とは、どちらが幸せだったのか。
映画を観ていない人にはなかなか理解してもらえないと思いますが、この映画を観終わった時に感じたのは、インディアン側だったという確信です。
最近、かなり精神的にへこんでいて、気持ちが湿っぽくなっているためかもしれませんが、滅ぼす側よりも滅ぼされる側が幸せかもしれないと思えるのです。
そしてそれは、過去の話などでは全くなく、私の生き方につながる問題だと、時間がたつにつれて感じられるようになりました。
いや、インディアンたちが幸せだったのでなければいけないのです。
なぜなら、それが私の生き方に通じているような気がしたからです。

私が、あこがれている生き方は、どうも「インディアン・ライフ」のようです。
表現的には、まったく正反対のようにも見えますが、でも私があこがれているのは、こういう生き方なのだと、映画を観ていて感じました。
「ひ弱な」私には、インディアンのような見事な生き方はとてもできませんが、その生き方を目指すことはできるでしょう。
少なくとも、人や自然を信ずることくらいは、私にもできます。
しかし、改めて自省すれば、まだまだ信じ足りない自分に気づきます。
人を信ずればこそ、裏切られることはあっても、感動することもできる。
機械のように生きなくていいだけでも、白人よりもインディアンが豊かではないか。

間違いなく、滅ぼされたインディアンの方が豊かだったと思いたい。
しかし、歴史は豊かな生き方には加担しません。
なぜなら豊かさには動きが生まれにくいからです。
そして、いまの社会は、私にはとても豊かだとは思えません。

節子がいなくなってから、いろいろと考えることが多くなりました。
節子と話す時間がなくなったぶんだけ、自問自答が増えています。
応えてくれる相手がいないので、自分で考えなければいけない。
自問自答は、なかなか戻れないものです。
そう思うと、どんどんそんな気がしてくる。
だれも止めてはくれません。
だから娘からは「暴走している」と前にも注意されたのです。
娘たちには、私はいったいどう見えているのでしょうか。

もう一つ困っていることがあります。
思考は深まりますが、言動はむしろ飛散しがちなのです。
重荷を背負った心身を軽くするように、人に会うと、ついつい饒舌になり、言わずもがなのことを言ってしまう。
今日も、おふたりの人に会いましたが、勝手なことを話しすぎてしまい、いささかまた気が滅入っています。

まあこういう時は、何をやっても気が滅入る。
流れが反転するのを待たねばいけないのかもしれません。
しかし、節子がいなくなっていても、私は豊かなのかもしれません。
いや、そう思わなければやっていけないのかもしれません。

気が滅入っていると思考まで堂々巡りしだします。
今日はもう寝ましょう。

■2745:土と語る男を目標に(2015年3月21日)
節子
お彼岸なのでお墓に行きました。
庭に咲いている水仙とミモザも供えてきました。
節子が好きだったミモザは、数年前に枯れてしまいましたが、2代目のミモザが大きく育ち、花をたくさんつけています。

庭の花木もだいぶ元気が出てきました。
手入れしないとダメな花はかなり減ってしまいましたが、その分、手入れなしでも大丈夫な水仙が広がってきています。
また花の季節、農作業の季節です。

今日は畑用のジャガイモの種イモを買ってきました。
昨日お会いした原田さんが、我孫子の土壌にはメイクインが合っているとアドバイスしてくださったので、メイクインを選びました。
我孫子の土壌はかなり放射線汚染しているので、地中で育つものはやめておこうと思ったのですが、自然を信ずることにしました。
それに、ジャガイモの栽培はこれまでも何回もしているので、手始めの作物としては安心です。

ついでに河津桜を植える鉢も一回り大きいのを買ってきました。
節子が元気だったころ、節子の生家に行った時に、そこでかなり大きな「盆梅」をやっている人からいろいろと見せてもらったことがあるのですが、それを思い出して、ミニ盆桜ではなく、ちょっと大きな盆桜にしてみようと思ったのです。
庭の河津桜は、いまさら小さくはできませんので。
一人なので続くかどうかは不安ではありますが。

土と花々に付き合いだせば、きっと心身の調子も戻ってくるでしょう。
さまざまな雑念からも解放されるかもしれません。
「狼と踊る男」にはなれませんが、「土と語る男」を目指したいものです。

■2746:ガマガエル(2015年3月22日)
節子
庭の池にたくさんのカエルの卵が発見されました。
そういえば、先日、池がバシャバシャしていたので、もしかしたら帰るかなと思っていたのですが、案の定、カエルのようです。
もしかしたら、以前、魚が全滅したのは、このカエルのせいかもしれません。
なにしろ大きなガマガエルなのです。
前にも一度、見つけたことがあり、捕獲して、近くの手賀沼に放してきましたが、その後、しばらく見かけなかったので、もういなくなったとばかり思っていました。
まだ仲間がいたようです。

カエルが大嫌いな娘から、池を埋めてほしいといわれているのですが、私は池が好きなのです。
しかし、手入れをあまりしていないため、荒れ果ててしまっています。
というよりも、そうした荒れ果ててた感じの池が私は好きなのですが、あまりに放置していたので、ガマガエルの住処になってしまったのかもしれません。
水をなくしたのですが、残念ながら当のガマガエルには出会えませんでした。
実はこの池は、2段式のセットになっていて、上の池から下の池に水が流れるスタイルなのですが、その2つの池を流れる水路にカニの隠れ場をつくったり、水路の下に隙間をつくったりしたのですが、もしかしたらそこに隠れているのかもしれません。
もはや私の手には負えません。
しかし、その奥の方にガマガエルが住んでいるとしたら、魚はまた食べられてしまいます。
解決するには、この池そのものを一度解体しなければいけません。
さてさて困ったものです。

わが家は、そもそも15年ほど前まで、斜面林の一部でした。
それを宅地化したので、そこに先住していた生物には迷惑な話だったのです。
へびもいれば、ガマガエルもいるわけです。
モグラもいます。
もう15年近く経過していますが、彼らはいまなお健在なのです。
何しろ彼らの方が先住者ですので、私の立場は弱いわけです。

さてしばらくはガマガエルとの出会いに注意しなければいけません。
アオガエルとちがって、ガマガエルとの出会いは、決して楽しいものではないからです。

■2747:ジャガイモを作付けました(2015年3月22日)
節子
今日も「孤独な農作業」をやってきました。
少しずつですが、野草の生息地を耕して、畑に近づけています。
なにしろ空いている宅地を利用しての畑仕事ですので、大変です。
土ができたころには、家が建つことになり、畑を諦めなければいけなくなる可能性は大きいです。
しかし、節子が始めたところなので、まあもう少し続けようと思います。

先日、畝を3列つくっておいたのですが、そこにジャガイモを植えました。
ネギの苗も買ってきたのですが、とりあえず仮植えをしました。
節子がやっていたころのことを思い出しながらですから、いかにも頼りないのですが。

土を耕し、笹の根っこを切り取りながら、農業とは生命体としての地球を傷つけることだなという思いがします。
まだ動物類にはあまり出会いませんが、昆虫の幼虫など出てくると、殺傷してしまうことも少なくありません。
農業とは、生と死に深くつながっていることも実感します。
本来、生きるということは、他者の生と死の上に成り立っているのでしょう。
そういういうことが、とてもよくわかります。
会社で仕事をしていては、そんなことには気づきようもありません。

節子と一緒に畑をやっていたころは、私は大雑把な仕事をし、節子が細かな仕事や作付をしていました。
で飽きると、後は頼むよと言ってやめてしまっていました。
一人でやるとなると、そういうわけにもいきません。
後片付けまでやらなければいけません。
そういうことが、いかに苦手かがよくわかります。

ジャガイモも、本来は、種イモの芽の状況に合わせて、いくつかに分割し、切断面に石灰をかけて植え込むのでしょうが、面倒なので、種イモ一個ずつをそのまま埋め込んでしまいました。
さてさてうまくいくでしょうか。

それでも次第に畑らしくなってきました。
荒れ放題になっていたところを、ここまでもってくるのに3年かかりました。
こういう時間感覚は、とてもいいです。
少しずつですが、私もようやくそうしたリズムに少しなれていけそうです。

■2748:相性(2015年3月23日)
節子
昨夜、庭のガマガエルが騒ぎ出しました。
せっかく生んだ卵を私が処分してしまったからです。
昼間はいなかったのに、夜になって池に戻ってきたら、池の水もなくなっていて、卵もないので、大騒ぎをし始めたのです。
大きな声で鳴きだしました。
近所迷惑なので、捕獲して、手賀沼に放しに行ってきました。

不憫ではありますが、彼女のおかげで、池の魚がまた全部食べられてしまったので、仕方ありません。
気づかなかったのですが、池の水自体がかなり汚されてしまって、エビもまた全滅です。
そういえば、最近、池の生物が全滅を重ねているのは、ガマガエルの生だったのかもしれません。
放射線汚染でも、ハクビシンでもなかったのです。

ガマガエルを飼ったらどうかという考えもありますが、ガマガエルとは相性が良くありません。
それに、むすめが許しません。
むすめのカエルきらいは尋常ではありません。
何しろ父親である私よりも、カエルが嫌いなのです。
ですから、多数決で決めても、2対1で、ガマガエルには勝目がありません。

まだどこかに冬眠している仲間がいるかもしれませんが、わが家の周辺にはたぶん蛇もいるので、ガマガエルには安全な住処ではないことをわかってもらいたいです。

それにしても、人は勝手なものです。
私は、わが家の庭にカニを生息させたいと願っています。
これまでも試してみたことがありますが、やり方がまずくて成功していません。
カニなら大歓迎なのに、ガマガエルはどうしてこうも嫌悪してしまうのでしょうか。
私は、爬虫類がどうしても好きになれないのです。
しかし、世の中には、爬虫類をペットにしている人もいます。
犬や猫ならともかく、家の中に蛇やカエルが同居していたら、私ならぞっとしてしまいますが、カニをみてぞっとする人もいるのかもしれません。
やはり「相性」というのがあるのでしょう。

人にも「相性」はあります。
私は、なぜ節子と「相性」が合ったのでしょうか。
考えてみるととても不思議です。
さほど「いい女」でもなく、才色兼備では全くなく、堅物で退屈で、感性も私とはかなり違い、性格もとりわけ良いわけでもなく、取り柄と言えば、「うそをつかない」だけしかなかったのですが、なぜか実に相性が良かったのです。
節子に限りません。
人にはなぜか「相性」がある。
「相性」って、いったいどこから来るのでしょうか。

■2749:「いま、ここで、行動しなくてはならない」(2015年3月23日)
節子
朝、広島の折口さんが電話してきました。
折口さんは、私のブログなどを読んでくれていて、私が元気がないと、すかさず電話してくれるのです。
不思議なことに、私はまだ折口さんには一度もお会いしたことがないのですが、何か並々ならぬ縁を感ずるほど、不思議な縁の人です。
折口さんは、このブログも読まれているでしょうから、あんまり書くのははばかられますが。

折口さんは、私が書いたガマガエルの記事を読んで、電話してくれたそうです。
折口さんが広島に40年ほど前に転居された時、なんと25pほどの大きなカエルに出会ったと話してくれました。
ちなみに昨日のガマガエルは、たしか15pほどでした。

櫓口さんの電話に始まり、今日はちょっと「良い日」になりました。
山口の東さんからも、うれしいメールです。
私の一言が、ちょっと役立ったかもしれません。
柴崎さんからもメールが来ました。
理由は書きませんが、ちょっとこれまでとは違ったメールの表現でした。
それもまた私にはうれしいことなのです。

午後から少し出かけていたのですが、そこでも少しだけ良いことがありました。
そして帰宅してパソコンをひらいたら、とんでもなく「良いこと」がありました。
3月28日に開催する、大学生の話し合いフォーラムの事務局をやっていますが、そこに参加したいという大学生の方からのメールです。
そこに書かれて内容が、とてもうれしく、元気が出たので、勝手に一部、引用させてもらいます。

半年ほど前から、些細なきっかけでCWSプライベートを拝読させていただき、ほっとしたり、世の中への歯がゆい思いがしたりして、いつもこころが動かされています。
僕ももう少し、「正直に」生きようと思っているのですが、なかなかうまくいきません。
そんなときに、佐藤さんの文章の、ことばの一つ一つが僕のあしたの、そして今日の励みになっています。
ありがとうございます。
僕はいままで何かの集まりに一人で参加するようなことは、一度もありませんでした。
見知らぬ人といきなり打ちとけて話し合うことに抵抗があったのです。
それは今も変わりませんが…
それに、今回のテーマに強く関心があるわけではないのです。
しかしどういうわけか、
「いま、ここで、行動しなくてはならない」ような…、そんな気がしたのです。

節子
こんなうれしいことはそう起こるわけではありません。
「いま、ここで、行動しなくてはならない」
それでついついうれしくなって、挽歌にまで書いてしまいました。

節子がいなくなった今も、とてもささやかではありますが、少しは誰かの役に立つ生き方ができているような気がして、今日はとても気分がいいです。
まだこれからも良いことがありそうな気がします。

そういえば、節子もよく知っている杉本さんからも電話をもらいました。
明後日、お会いします。
ともかく、今日は良い日です。
もしかしたら、昨夜のガマガエルがいなくなったおかげかもしれません。
最近の私の不調は、すべてあのガマガエルの仕業だったに違いありません。
そう思うことにしましょう。

■2750:セージ(2015年3月24日)
節子
今日は畑に行きました。
最近ようやくコツがつかめてきました。
要は無茶をせずに、休み休みやるというだけの話ですが。

ゆっくりと作業すると、気づくことも少なくありません。
小さな生き物にも気づきます。
ようやく10坪くらいが、畑らしくなってきました。
今日はそこに消石灰をまいてきました。

昨年は、ノビルがたくさん自生していたので、それを料理して食べましたが、あんまり私の好みではなかったので、今年は刈り取ることにしました。
今年の目標は、畑らしくするということなのです。
一部を残したりしていると、なかなか作業は進まないのです。

昨年まで、周縁部には紫色のセージが群生していました。
セージは花も香りもいいのですが、何しろ増えすぎてしまい、大変だったので、昨年、すべて根っこから抜いてしまいました。
そのせいか、今年はほとんどなくなってしまいましたが、なくなるといささかさびしい気がします。

セージは、抗酸化作用を持つ薬草としても有名ですし、ハーブティにもなります。
私はハーブはあまり好きではないのですが、セージやランタナの香りは大好きなのです。
それで、方針を変えて、今年はきちんとセージを育てることにしました。
放置するのではなく管理するということです。
畑の一画をきちんとセージ畑にすることにしました。
これは非常にいい考えです。
セージを退治すべき野草と考えれば、そこを畑にするために手間暇かかりますが、群生地をセージ畑と考えれば、手間暇はほとんど考えなくてもいいのです。
つまり発想を変えただけで、何もせずに、畑が広がったと言えます。
こうやってローマ帝国は領土を広げてきたのだなと考えたりして、今日の農作業は幸せのうちに終わりました。
つまり、セージにわが家の畑では「市民権」が与えられたのです。
ちなみに、セージは、古代ローマ時代より薬草やお茶として使われていたそうです。

しかし問題は、昨年かなりのホロコーストをしてしまったので、セージがきちんと復活してくるかどうかです。
思いつきで、勝手に野草を絶滅させてはいけません。
畑から学ぶことは多いのです。

■2751:感傷的なひととき(2015年3月25日)
節子
今日の東京は空がとても青いです。
湯島の実盛坂の下で、いつも空を見上げます。
ビルの合間にしか見えない、小さな空ですが、それが昔からの私の習慣なのです。
その習慣が始まったのは、エジプトに行ってからです。
エジプトの空の青さが、とても心に残ったからですが、東京の空も時にエジプトを思い出させるのです。

ベランダに無造作に置いていた小さなシクラメンが、花を咲かせました。
もうだめだと思って、外に出したまま冬を越したのですが、小さな花を咲かせてくれました。
今度もっといい鉢に植え替えようと思います。
湯島の生き物たちも、手入れ不足にもかかわらず、頑張ってくれています。

今日は、来客に時間を合わせずに、かなり早めに湯島に来ました。
昨夜、ちょっとよくない夢を見てしまい、早く目覚めてしまったのです。
多くの夢は、起きるとすぐ忘れるのですが、忘れられない夢もあります。
そんな時は、夢とはいったい何なのか、ついつい考えてしまいます。
それも、その夢に関わることが、朝起きたら起こっていた場合には、なおのことです。
今日がまさに、そういう日でした。
「予兆」でしょうか、「シンクロニシティ」でしょうか。

今日の東京は、風が冷たいですが、部屋から外を見ていると春を感じます。
実盛坂の下から見る空よりも、部屋から見る空は、青さが弱くなります。
もちろん気のせいなのですが、そもそも環境の風景は「気」によって出現します。
ですから同じ風景も、どこから見るかで変わってきます。
私は、実盛坂の下から見上げる、ビルの合間の小さな空が好きなのです。

実盛坂は、節子と何回も何回も上り下りしたところです。
体調を悪くしてからの節子は、長い階段の途中で、少し休んだものでした。
そして、ついに登れなくなったのです。

湯島の部屋は、節子がいなくなってから、少し殺伐としてきています。
東日本大震災で、キャビネなどはずれてしまっていますが、放置したままです。
壁から落ちたリトグラフは、最近、やっと壁に戻しました。
しかし、何かが欠けています。
それが何かはわかりませんが。
以前は、ここにたくさんの人が集まっていました。
私も毎日出てきて、いろんな人たちと会っていました。
しかし、今はそういうにぎやかさはありません。
一人でオフィスに座っていると、なにかとても寂しさも感じます。

一番大きな変化は、窓からの風景をさえぎる大きな建物が建設されだしていることです。
これでもう夕日は見られなくなりました。
節子がいたら、悲しむでしょう。
この窓から見る夕日は、とても美しかった。

今日は。なぜかとても感傷的な気分です。
NHKの朝ドラの「まっさん」を観たからかもしれません。
死を悟ったエリーが、節子に重なって見えたのです。
書いていたら、また思い出してしまいました。

青い空に癒してもらうほかありません。

■2752:チューリップとつくしんぼ(2015年3月26日)
節子
畑がだいぶ広がってきました。
その一方で、まだ道沿いの花畑は手入れがなかなかできません。
そのなかで、ようやくチューリップが一つだけ花をつけました。
なかなか畑に来られずに水やりが不十分だったせいか、みんな短く育ってしまいました。
昔写真を送ってもらった、ネパールのチューリップを思い出しました。

今日は娘にも少し手伝ってもらいましたが、娘が畑の片隅に、つくしんぼを見つけました。
ともかく私は、例年のように野草に占拠されそうな畑地を取り戻そうと頑張りすぎているためか、見える世界が狭くなっているようです。
つくしんぼを愛でている余裕が失われているとしたら、なんのための畑仕事かということになりかねません。
いささか反省しました。

しかし実際にやってみるとわかると思いますが、土を耕し、地下深く張り巡らされた笹の根っこと対峙するのはかなり疲れます。
成長した笹も結構厄介で、ていねいに切ればいいのですが、面倒なのでかなり大雑把にめちゃをやることも少なくありません。
先日は、鎌であやうく脚を切りそうになりました。
幸いにズボンが切れただけで、脚は大丈夫でしたが、ズボンが見事に切れていたのに後で気づいて感心しました。
注意しないといけません。

もう10坪くらいの畑はできました。
消石灰と苦土石灰をもまきました。
いよいよ野菜を植え付け、来週からは花畑ゾーンの作業を始めようと思います。
苗を買うと高いので、花も種からまいてみようと思います。
形が出てくると少し楽しくなります。

■2753:自らの死期はわかるものだろうか(2015年3月27日)
節子
昨日は「食養」をテーマにしたサロンでした。
手づくりの玄米おにぎりを食べながら、もし私たちにもう少しこうした分野の知識があれば、節子の人生も変わったかもしれないと、そんな思いを持ちながら、話を聴いていました。
節子を守れなかったことへの思いは、なかなか捨てられるものではありません。

食養に長年取り組んでいる栗原さんは、人には親からもらった強い身体を持っている人もいるというようなこともお話になりました。
私も、もしかしたら、そうかもしれません。
もうそろそろ現世はいいかと思いながらも、死ぬ気配を感じません。
私が目指す、言行一致にはならないのです。
困ったものですが、こればかりは仕方ありません。
健康や身体への注意はほとんどないのですが、節子が逝ってしまってからは、むしろ身体的には元気になってきています。
もちろんいろんなところに変調はきたしていますが、生命につながるような意識はありません。

参加者の太田さんが、人は死を予知できるのだろうかという話をしました。
昔の人は良く自らの死を悟ったという話がありますが、最近はさまざまな医療的・薬学的支援の中で、自らの死を意識できなくなってきているのではないかという話です。
太田さんの話は、いつも実に示唆に富んでいます。
その発言を聞きながら、私はここでも節子のことを思い出しました。
節子はたぶん自らの死を意識していたことでしょう。
あるいは、もしかしたら、自らの死を体験していたかもしれない、そんな気がしています。
死を予知した人は、強くなれるのでしょう。

私はどうでしょうか。
たぶん、その時になったら、自らの死を予知できるのではないかと思っています。
これまでも、もしかしたら死につながっているかもしれないと予感したことはあります。
しかし、それは頭で感じただけで、いつも間違いでした。
しかし、本当の死期というものは、心身を素直にもてば、予知できるような気がしています。
できればそういうようになりたいと思っています。

サロンの前後に、またいささかショッキングの話がおふたりから聞かされました。
朝に見た、朝ドラ「まっさん」の影響か、今日もまたなんとなく感傷的な日になりました。

■2754:愚鈍さと聡明さ(2015年3月30日)
節子
私の場合、大切なことは、気づいた時にはすでに遅いのです。
聡明ではなく、愚鈍であるためでしょう。
それでも、まあ気づくだけ良しとするかと思うのですが、遅すぎた気づきであれば、気づかないほうがいいのかもしれません。
気づいて後悔することの辛さは、あんまり味わいたくない辛さですから。

最近、節子に関して、気づくことが多いのです。
なぜそんなことに気づかなかったのかということもあれば、たとえば食養の話を聴いていて、もっとそうしたことを知っていたら、と思うことも多いのです。
私は、あまりにも「生きること」に無知だったことを、最近、思い知らされています。

私は、過去の事にはあまり興味のない人間だと思っていましたが、どうもそうではなく、過去のことをくよくよ考えるタイプの人間なのかもしれないという「気づき」まであると、それこそ生きにくくなってしまうのです。

愚鈍さと聡明さ。
どちらが生きるには好都合でしょうか。
愚鈍であることの方がいいだろうと思っていましたが、どうも私は中途半端な愚鈍さしか持っていないようです。
最近生きにくさを感じますから。

夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という言葉が、最近はとても心身に響きます。
愚鈍さは、やはり一人では生きにくい。
2人であれば、逆に生きやすくなる。
そんな気がします。
愚鈍な人は、伴侶を大切にしなければいけません。
一人になると、なぜか賢くなりたくなってくるようです。
しかし、聡明にはなれないのですが。

■2755:モンキチョウに出会いました(2015年3月30日)
節子
畑は今日も順調でした。
残っていたジャガイモをすべて種付けしました。
道沿いのチューリップも、だいぶ咲き出しました。
節約して今年は30球根しか買わなかったのですが、順調に育つことがわかったので、来年は100球根にしようと思います。
アジサイとバラも、今年はきちんと手入れをしたいと思います。
野草と私との力関係が変わりそうです。

新しい試みを始めました。
畑の端っこに野草が生えるのが気になっていますが、そこに使用済みのコーヒーの粉をまくことにしました。
野草の成長を止めるのではないかと思ったのです。
湯島のベランダで、もしかしたら肥料になるかと思って、ランタナの大きな鉢にコーヒーの粉をまいたら、そこからは草が生えてこなかったのです。
この2か月、ためておいたコーヒーの粉を今日、畑のまわりに撒きました。
さてどうなりますか。

今日はとてもあたたかでした。
今年初めて、モンキチョウに会いました。
土を耕している時に、幼虫にも出会いました。
生き物が元気になってきているようです。
蛇に会うのは避けたいですが、そろそろ気をつけないといけません。
それに鍬も注意しないと生き物を殺傷します。
農業とは、命を奪うことだということがしみじみとわかります。
だから、命を大事にするようになるのでしょう。

「農本主義が未来を耕す」という魅力的な本の中で、宇根豊さんはこう書いています。

ごはんを食べることは、米の命を奪うことではなく、稲が田んぼで生きることを保証することなのです。
一杯のごはんを食べないということは、オクマジャクシだけでなく稲3株10本ほどの苗の命を奪うことなのです。
「命をいただく」というのは、こういう生の世界に生きている同士の関係なのです。
私たちが「いただきます」と言うときに、たぶん食べものは生きものに戻ってこう言っているのでしょう。
「おかげで、この世界で生きることができたよ」。

私の場合、この感覚はまだ身体的なものにはなっていませんが、頭ではだいぶわかってきました。
じゃがいもを育てるためには、土を元気にさせないといけません。
一方で殺生をしながらも、一方で命が育つ土壌を豊かにしている。
少なくとも、土を殺すことだけはしてはいけないのです。
野草の思うままにしてもいけないのです。

■2756:桜の季節(2015年3月31日)
節子
ようやく春です。
桜が満開で、わが家からも下の道沿いの桜がよく見えます。
今年も、どうも花見に行く気分ではないのです。

春にはふさわしくない、少し暗い話ですが、どうも私から何かを「愛でる気持ち」が失せてしまったのかもしれません。
節子がいなくなってから、好奇心は相変わらず衰えていませんが、何かを愛でるとか味わうという気持ちが消えてしまった気がします。
もしかしたら、もともと私にはそうした審美感が弱かったのかもしれませんが、最近、特にそうなってしまった気がします。
言い換えれば「感動」がなくなったのです。

もちろん、いまもそれなりに「感動」や「感激」を体験することは少なくありません。
でもなぜかそれは、「人の気持ち」などへの反応がほとんどであって、「花鳥風月」への気持ちではないような気がします。

いささか理屈っぽく言うと、世界がとても冷めて見えるようになってしまったのです。
美しい桜の向こうに、花も葉っぱも落した枯木が見えてしまう。
花の下ではしゃぐ人たちの向こうに、寂しさや悲しさを感じてしまう。
そこに居る自分自身も、何か他人のように思えてしまう。
素直に生きたいと言いながらも、あんまり素直でない自分がいるのです。
困ったものですが、そこから抜け出られない。

依然、私を元気づけようとしたのでしょうが、お花見に誘ってくれた人がいます。
出かけて行って、結局は逆に落ち込んでしまいました。
華やかな桜の下で、どう対処したらいいのか、わからなかったのです。

しかし、それもこれもみんな、「思い込み」かもしれません。
あれからかなり時間がたちますし、お花見に行ったら、気分が変わるかもしれません。
さて、行ってみますか?
わが家から少し歩くだけで、桜が見られますし、湯島のオフィスに行くのに上野公園を通っていけば、桜は満喫できるのです。

節子は桜が好きでした。
とりわけ病気になってからは桜が見たいと、いろいろなところに付き合いました。
最後に見た桜は、近くのあけぼの公園の早咲きの桜でした。
昔は家族などで、あけぼの公園に毎年お花見に行っていました。
節子がいなくなってから、それもなくなりました。
今日も人出でにぎわっていることでしょう。
あけぼの公園も、久しく行っていません。
私の世界はかなり狭くなっていることに、いまさらながら気づきました。

桜の季節になると、世間とは反対に、私は少し暗くなってしまうのです。
困ったものですが。

■2757:我孫子の桜(2015年4月1日)
4月になりました。
駅に行く途中の道の桜が、この数日の暖かさで見事に満開になっています。
この桜は、ここに転居して以来、いつも見とれるほどの桜です。
もう古木で、しかも道路の中にあるので、交通には邪魔になっていますが、誰も切ろうなどとは言いません。
桜の時期以外は、単なる邪魔な枯れそうな古木なのですが。
わが家の界隈には、ところどころに、こうして古木の桜が数本残っているのです。

いま、我孫子では桜散歩というイベントを開催中です。
我孫子の桜もいろいろとあるのです。
http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,114416,57,663,html
動画で、手賀沼散歩道の桜も見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=myasp_Geai0

わが家の下の手賀沼沿いの通りも桜並木です。
私たちがここに転居した少し前から整備されだしたのですが、ようやく「それらしく」なってきました。
節子に見せたいですが、節子が元気だった頃は、見栄えもあまり良くありませんでした。
手入れも結構、粗雑で、節子はいつも嘆いていました。
我孫子でも桜がたくさん見られるようになったのに、桜好きの節子はいなくなってしまいました。
困ったものです。

わが家の桜は、1本以外はどうも全滅してしまったようです。
節子に合わせる顔がありません。
それにしても、花や木の手入れは大変です。
私のような、怠惰で粗雑な人間には向いていません。
まあ、節子も、結構、怠惰で粗雑だったような気もしますが、何が違うのでしょうか。

■2758:久しぶりの不忍池(2015年4月2日)
節子
久しぶりに不忍池と上野公園に行きました。
といっても、オフィスからの帰りに、上野まで歩いたというだけのことですが。
久しぶりですが、だいぶ変わっていました。
桜もまだきれいで、見るでもなく見ないでもなく、桜の下を歩いてきました。

不忍池のまわりでは、この季節はいつも露店が並んでいるのですが、何やらどこも混んでいました。
節子はこの種の露店が好きでしたから、よく付き合いましたが、こんなに混んでいるのは初めてでした。
それに露店も以前に比べるととても多くなっていました。
一人だったので、露店の商品を見る気にもならずに、ただただ歩いてきただけです。

上野公園の桜は、最盛期は過ぎていましたが、まだきれいで、花見客もたくさんいて、ぶつかり合う感じでした。
外国の人が多かったのも印象的でした。
社会はどんどん変わってきていますね。

節子がいなくなってから、上野に来ることも少なくなりました。
美術展もコンサートも、縁遠くなってしまいました。
節子がいなくなってから行くことのあるのは、東京国立博物館くらいです。
世界が狭くなってしまっているのです。
困ったものです。

■2759:残された者の愚痴(2015年4月3日)
節子
箱根に来ています。
恒例の企業の経営幹部の人たちとの合宿です。
今日の箱根は荒れ模様です。
こんなに荒れている箱根はめずらしいです。

昨夜、夜、胃が痛くて目が覚めました。
節子が隣にいたら、起こして、胃薬を持ってきてもらうところですが、不幸にして、もういないので、胃薬を自分で取りにいって飲みました。
伴侶がいないということは、こういうことか、とちょっと思いました。
今回はたいした痛みではなかったのですが、たいした痛みの場合はどうすべきかを考えているうちに、寝てしまいました。
朝、起床したら、痛みは消えていました。

これからこういうことが起こり出すのかもしれません。
やはり夫婦は先に逝くのがいいですね。
残された者の身にもなれと、節子に言いたいです。

今もなお、私は先のことを一切心配もせず、考えてもいませんが、少し考えたほうがいいような気もしてきました。
しかし、いまさらながらの感じもあり、施設には無理でしょうし、いざとなったら娘たちが看病してくれるかどうか定かではありません。
すべては、これまでの生き方の結果でしょう。
いまさら気づくとは困ったものです。

節子はちょっと早すぎましたが、たぶん安心して旅立てたでしょう。
私の旅立ちは、ちょっと心配です。

■2760:晴耕雨読(2015年4月7日)
節子
この2日間は、晴耕雨読でした。
先週後半から日曜日にかけて、一人になる時間がなかったので、無性に一人になりたかったのです。
幸か不幸か、天気もあまりよくなく、まさに晴耕雨読の2日間になりました。

昨日は午後から久しぶりに長い時間、畑にいました。
いつもは1時間もすると疲れ切るのですが、昨日は休み休みの畑作りで、3時間近く畑で過ごしました。
かなりがんばったので、全面積の半分以上が、なんとなく畑になってきました。

疲れると畑の土の上にすわって、土を見ています。
衣服は泥だらけです。
その雰囲気は、ホームレスどころではありません。

昨日は、せっかく耕したところに、アリが巣をつくっていました。
迷ったのですが、殺蟻剤を散布しました。
畑を耕すということは、生き物との戦いでもあるのです。

ただ無駄な殺生はしたくないので、鍬を入れる時も、それなりの注意はします。
昨日は20センチくらいのミミズに出会いました。
幼虫もかなり出てきました。
土の中も、春になってきているのです。

今日は雨でしたので、読書でした。
フェイスブックで、松永さんが紹介していた「生命倫理の源流」(岩波書店)を読みました。
300頁ほどのハードブックですが、副題が「戦後日本社会とバイオエシックス」とあるように、主に1960年から80年代にかけての概論です。
この時代は、まさに私の生きた時代です。
バグウォッシュ会議とかアシロマ会議とか、私の生き方に大きな影響を与えた話が出てきました。
最近は、技術倫理に関心を持っている人でさえ、バグウォッシュ会議もアシロマ会議も知らない人が多いのですが、やはりこの2つの会議は倫理を考える人には要の会議なのだと改めて私の生き方の幸運さを実感しました。
おそらく私の生きた時代は、人間が輝いていた時代なのです。

昨日も本を読みおえました。
先週の出張の電車の中で読みだしていた新書の「経済学からなにを学ぶか」です。
新書ですが、かなりテキスト的な経済学史で、読むのが結構つらくて、難儀しましたが、昨日、読了しました。
面白いと300頁でも一気に読めますが、気が乗らないと新書でも4日もかかってしまいます。
しかし、これも読んでいて、経済という面でも、私の生きた時代は、いろいろな変化や発見があった時代だったことに気づきました。

考えてみると、いろんな意味で、私は「良い時代」に恵まれました。
そのまさに、「良い時代」を、節子と一緒に過ごせたことは、何よりも幸運でした。

生まれる時代によって、人の幸不幸は決まるのかもしれません。
何よりも、お互いの生まれる時代によって、出会えるかどうかも決まるのですから。

■2761:「感じるところがあります」(2015年4月7日)
節子
私と同じく、大切な「節子さん」に先立たれた、挽歌の読者のSさんからメールが来ました。

最近節子さんへの挽歌がよく途切れているので、心配もありますが、感じるところがあります。(中略)
たぶん自然にそうなっているのだろうと勝手に想ったりしています。(中略)
そしてまた勝手に思ってるのですが、畑を頑張ろうという気持ちもなんとなくわかった気がしています。

たぶんSさんが「感じていること」は当たっているでしょう。
畑をがんばろうという気持ちも、もしかしたら、私よりもわかっているのかもしれません。
そんな気もします。

私の生き方は、目線を同じくするということです。
しかし、最近つくづく思うのは、そういう生き方ができていなかったことです。
目線を同じくして生きるということは、実際にはとても難しいことです。
他の人の言動が目線の高いことには、すぐ気づくのですが、自分の目線の高さはなかなか気づきません。
しかし、同じ体験をしたり同じ状況にある人同士は、目線は自然と同じくなります。
目線が同じくなると、相手のことが自然と伝わってきます。
だから、Sさんの「感ずるところ」は、たぶん私が無意識に感じていることなのです。

言葉にはなかなかできないのですが、最近、私はかなり自然に生きられるようになってきました。
自然に生きるということは、実に意味深いことです。
これも言葉にすると誤解されそうなので、言葉にはしませんし、またできないのですが、そんな気がしています。
Sさんも、最初と違って、いまはかなり自然に生きているような気がします。

■2762:「命ってのは個人のものじゃない」(2015年4月8日)
節子
冬に逆戻りの寒い日でした。
昨日、集中して本を読んだせいか、何やら頭がつかれて、無駄な1日を過ごしてしまいました。
こういう本の読み方はよくありません。
晴耕雨読とは程遠い読み方です。
節子がいなくなってから、どうも生活のリズムが偏りがちです。

ところで、昨日よんだ本の中に、浄土真宗の研究者の信楽峻麿さんのインタビューが載っていました。
そこで、信楽さんが「命ってのは個人のものじゃない。家族のものであったりね、身内のものであったり、あるいは友達のものであったりしてね」と話していました。

仏教における生命理解の特徴は「生命通底」。
一切の生きとし生けるものに命が共存・共通している、いやそれ以上に、草木国土悉皆成仏というように、土や石、鉱物にまでも命が宿っているというのが仏教の生命観です。
畑をやっていてよくわかるのですが、土は間違いなく生きています。
もしそうなら、意志もまた生きていてもおかしくありません。
私には、仏教の生命観はすんなりと受け入れられます。

命はあまねく存在する。
そして、みんなつながっている。
こう考えると、命の意味が広がります。
そして、「命ってのは個人のものじゃない」ということが、腑に落ちるのです。

その一方で、命がつながっているのであれば、個人の死はどういう意味を持っているのだろうかということになります。
あまり意味はないのではないか。

とここまで書いてきたのですが、私の部屋には暖房器具もないため寒くて仕方がありません。
今日は都心では雪まで降ったようです。
この寒さで風邪をひくと悪いので、この続きは明日にします。
今日は早々とお風呂に入って、メールをやっていたら、すっかり身体が凍えてしまいました。
風邪をひいたら大変です。

■2763:時間は関係性の中にこそ存在する(2015年4月11日)
節子
今日も冬のような寒い日です。
私の心情と同じく、いつになってもあったかくなりません。
困ったものです。

さて、友人の博士論文の議論に付き合っています。
こういう相談は楽しくていいです。
それなりに頭は使いますが。
論文のテーマの一つは、時間論です。
時間はいったい誰のものか。
その友人と話していると、いろいろと考えることが多いのですが、
節子との関係で時間を考えると、いろんなことに考えが広がります。

博士論文を書いている友人の発想の起点は「時間の私的所有」ということです。
時間が私的なものになったために、逆に人は時間からも疎外されだしたというのです。
自分のものになった途端に、奪われてしまったというわけです。
とても共感できます。
そもそも時間は、自分のものになどならないのですが、近代はそう擬制したのです。

誰かを愛すると、そのことがよくわかります。
誰かを喪うと、さらによくわかる。
時間は、関係性の中にこそ存在し、誰のものにもならないのです。
時間のことを考えれば考えるほど、そういう思いになってきます。

明後日もう一度、友人とそんな話をすることにしました。
節子も知っているように、私はこういう話がとても好きなのです。
節子は、わけのわからない、こういう話によく付き合ってくれました。
あの頃がとても懐かしいです。

■2764:ユリとバラ(2015年4月11日)
節子
ユリの大輪が節子に供花されています。
気がついていますか?
供えられてから、もう1週間近く立つような気がしますが、4つ目のつぼみが今日、開きました。
日中はあまり気づきませんが、夜、戸を閉め切ってそこにいると、ユリの香りが充満しています。
私の大好きな香りです。

花好きの節子でしたから、供花だけは欠かさないようにしています。
できれば毎日、ユリを飾りたいところですが、そうもいきません。
節子のための花基金も底をついてしまっていますので、最近は、大輪のユリは月に1回程度になっているかもしれません。
節約して、小さなユリになったり、ユリがなかったりしています。
まあ、節子は別にユリにこだわっていないでしょうから、いいでしょうが、やはり節子の前に大きなユリが咲いていると、私はなぜかホッとします。

しかし、考えてみると、節子が好きだったのは、バラでした。
それも真紅のバラでした。
私のイメージには合わないのですが、好きだったので仕方ありません。
ユリが好きだったのは、私かもしれません。
だから節子はよくユリを活けていたのかもしれません。

いや、考えてみると、それもまた私の思い込みかもしれません。
バラとユリとどちらが好きだったか。
もしかしたら、そこに私の節子へのイメージがあるのかもしれません。
そしてそれが少しずつ変化してきているのかもしれません。

純白でもなく、真紅でもなく、黄色のようなあったかい色が節子の好みだったような気がしてきました。
私の記憶の中の節子は、いまもなお変化しているようです。
思い出は、いかようにも変えられるようです。
困ったものですが。

■2765:感受性を高めなければいけません
(2015年4月13日)
節子
最近また、偶然の一致が周りで起こりだしまいた。
まあ小さな話が多いのですが、例えば、昨日、テレビに録画していた松本清張の「砂の器」を見ました。
玉木宏と小林薫の2011年版(テレビ朝日)です。
前にも見ているのですが、なぜかまた見たくなったので、録画していたのです。
そこに、島根県の亀嵩という場所が出てきます。

今日、杉原さんと食事をしたのですが、杉原さんの地方転居の話になりました。
前から聞きいていましたが、どこに行くのかは詳しくは聞いていませんでした。
ところが、その場所が亀嵩だというのです。
おやおや。

ある集まりのゲストが決まりませんでした。
苦肉の策として、あの人に相談してみようかと思っていたら、その人からメールが来ました。
しかも今度の集まりに話をさせてくれないかというメールです。
もちろん喜んでお願いしました。
などなど。

まあ、いずれも大した一致ではありませんが、時々、こういう時期がやってきます。
なにかが起こるかもしれません。
こういう時には、感受性を高めておかなければいけません。
気が弱まっているために、何か見落としていることがあるのかもしれません。
なにかが始まるといいのですが。
どうも最近は退屈で仕方がありません。

■2766:自分への気づき(2015年4月14日)
節子
今年もまた敦賀の義姉から大きなタケノコが届きました。
私は、タケノコが大好きなのですが、私が住んでいる界隈のタケノコは、まだ放射性汚染の関係で食べられません。
だから西日本からのタケノコは、とてもうれしいのです。
最近は毎日、畑で笹と格闘していますが、その親分のようなタケノコを食べてしまうのもまた、気分のいいものです。

節子がいなくなってから、私の食生活はたぶん大きく変わりました。
娘の嗜好と私の嗜好は、大きく違うからです。
もしかしたら、節子も私とは違っていたのかもしれませんが、私にかなり合わせてくれていました。
私は基本的には野菜と海藻好みであり、それも味付けは醤油中心なのです。

タケノコは、たぶん私だけが好きなのです。
セリも大好きですが、娘たちは食べません。
その一方で、娘が好きな西洋野菜は苦手なのです。
娘に言わせると私は好き嫌いが多いので、食事作りが面倒だと言います。
それなのに、私自身、好き嫌いがないと思っているのは、節子がたぶん私に合わせてくれていたからでしょう。
いろんな意味で、節子のおかげで、快適だったわけですが、それは自分のことに気づかされていなかったということでもあります。
節子がいなくなってから、そのことがよくわかります。
もちろんだからと言って、節子を恨んだりはしていません。
感謝してはいますが。

伴侶の存在は、自分の欠点を気づかせてもくれますが、見えなくしてしまうこともあります。
それは、また人とは「個人」単独ではそんざいしていないものだということも教えてくれます。
節子がいなくなってからもなお、節子と一緒だったころと同じように、節子からいろんなことを気づかされています。

今日も寒い1日でした。

■2767:明恵上人に会いたくなりました(2015年4月14日)
節子
最近また夢をよく見ます。
寒いからかもしれません。

時に女性の夢を見ます。
なぜか別れの夢です。
明らかに節子ではないのに、節子のように思えることがあります。
不思議なことに、その内容はほとんど思い出せませんが、どことなくあったかくて悲しい感じが目覚めた時に残っています。

先日、テレビで京都栂尾の高山寺の番組を観ました。
高山寺は、たしか節子と一緒に行った記憶がありますが、テレビを見ていてもなかなか記憶が戻ってきません。
西明寺や神護寺は思い出せるのですが、高山寺のイメージが出てこないのです。

高山寺の開祖は、華厳密教を打ち立てた明恵上人です。
残っている明恵上人像の表情はとてもあったかで、会っただけで安堵できます。
明恵は、すべての人を差別しなかったと言われます。
華厳密教と言いながら、とても人間的な信仰を貫いた人だったようです。
白洲正子さんの「明恵上人」を読んだのは、もう30年程前でしょうか。

明恵上人は毎日の夢をしっかりと書きつづった「夢記」という作品を残しているそうです。
そこには女性も出てきます。
明恵は、愛がなければ仏教はわからないと言ったそうです。
もちろんその「愛」は「愛欲」「愛執」ではなく、「法愛」を指すのでしょうが、私には「愛」は一つしかありません。
素直な愛であれば、他者から見れば、「愛欲」に見えても「愛執」に見えても、私には「愛」です。
あえて、「法愛」だとか「博愛」などということ自体に、小賢しさを感じます。

しかし、夢の中で、なぜ節子はいつも、形がないのでしょう。
あるいは違った人の形で現れるのでしょう。
節子の顔を、夢で見るのは、たぶん1年に1回くらいです。
それがちょっと不満ではありますが。

久しぶりに「明恵上人」を読み直したくなりました。

■2768:新しい経済を生きる(2015年4月15日)
節子
昨日は長い夢を見ました。
残念ながら節子とは無縁の夢でした。
私が、新しい経済の枠組みについて話をしている夢でした。
話し手であるくせに、同時に私は聴き手でもありました。
聴き手の中に節子がいたかどうかはわかりませんが、気配は感じました。

おかしな話ですが、その中でいくつかの新しい気づきがありました。
起きてすぐにメモすべきでしたが、3時間以上たったら、もう思い出せません。
何かとても大きな気づきがあったような気がしますが、大した話ではないのかもしれません。
まあこれは時々あることなのです。
残念ですが、しかたありません。
それにしても、夢とは不思議なものです。

新しい経済の捉え方は、私の生き方につながっています。
その模索から始まった、私の関心事ですので。
できれば、私の第4期(第4四半世紀)は、その生き方を夫婦で実現したかったのですが、残念ながらそうはならずに、私は今も、長い第3期の延長の生き方を続けています。
しかも、ここにきて、お金に囚われてしまった面もあって、いささか不本意な生き方になっています。
これも節子がいなくなったためと言いたいのですが、そういったところで何も変わりません。
しかし、伴侶を喪うと、人は時に道を踏み外します。
困ったものですが。

それでも、新しい経済に関しては、かなり実態を感じられるようになってきました。
生き方を変えて、もう26年なのですから、そうでなければいけませんが、なんとか26年も生き続けてきたことは、それなりに確信になってきました。
それでも、その生き方を誰かに勧めたり、実践的に指南することなどできません。
新しい生き方は、自らを素直に生きる人が増えることによってしか実現しないでしょうし、そうした生き方は「スタイル」ではなく「価値観」としか言えないからです。

現実の社会では体系化できないが故に、夢の世界で、話をしていたわけです。
しかし、その夢の中の講義も、途中で目が覚めてしまいました。
最後の結論には達しなかったわけです。
もう少し、いまの生き方を続けるしかありません。
あるいは、夢の続きを見せてもらうしかありません。
今度は目覚めたらすぐにメモをしようと思います。

今日は天気予報と違って、とてもいい天気です。
今日は自宅にいます。
午後から天気は荒れるとも言われていますが、いまのところ、その気配はありません。
節子の友人たちが、わが家に来るので、降らなければいいのですが。

■2769:花かご会がちょっとだけピンチです(2015年4月15日)
節子
花かご会の山田さんと黒武者さんが相談にやってきました。
花かご会は、我孫子駅南口前花壇の手入れをやろうと、節子たちが12年前に立ち上げたグループです。
我孫子駅の南口は我孫子市の玄関でもあり、そこからまっすぐに10分ほど歩くと我孫子市のシンボルの一つの手賀沼公園です。
いまはそこへの道は、狭いため、歩きやすくはないのですが、まもなく一方通行になり、道路も整備される予定です。
そうなると、駅から手賀沼への道は、ますます我孫子市の看板になっていくでしょう。
花かご会の役割が強まってくるはずです。
ところが、どうも実状はそうでないようです。

我孫子市は今、観光にも力を入れていますので、玄関の我孫子駅前はもう少し整備したほうがいいと思いますが、なかなかそうはなりません。
駅前商店会もあまり機能していません。
花かご会の活動はもっと評価されていいと思いますが、いまは本当に見えないところで頑張っているグループです。

節子がこの活動を構想していた時、私は、どうせなら我孫子市全域を視野において、「花咲かおばさんの会」という名前で、我孫子市全体に花を広げたらと提案しましたが、受け入れられませんでした。
花の苗の費用も、住民から寄付を仰いだらどうだとも提案しましたが、だめでした。
そのころは、まだそうした活動はあまり例がなく、先駆的な活動として、県からの補助金ももらえたのだそうです。
ところが、最近はそうした活動は広がってきているため、資金助成が受けにくくなってきているのだそうです。
来年度から花の苗の費用も、これまでのようにはもらえなくなったのだそうです。

さてどうするか。
私が昔、三沢市から相談を受けたような話です。
でも、駅前の花壇です。
ちょっと問題は違うような気もします。
まち全体のデザインの問題かもしれません。

助成金がなくなったというのは、私にとっては「グッドチャンス」なのですが、節子であればともかく、山田さんや黒武者さんに、それを強く勧めるわけにもいきません。
それには、それなりの苦労があるからです。
しかし、その気になれば、面白い物語が生み出されるかもしれません。

さて何ができるかを少し考えてみようと思います。
節子ならどうしたでしょうか。

■2770:仏眼仏母像(2015年4月17日)
節子
久しぶりに、白洲正子さんの「明恵上人」を読みました。
読んでいて、ほとんど内容を覚えていないことに気づきました。
と同時に、私にはとても共感できる話ばかりでした。
だから、久しぶりに明恵上人の像を見て、気になりだしたのかもしれません。

久しぶりに、明恵上人の像を見たのは、先週のテレビの「高山寺」の紹介番組です。
先日も書きましたが、高山寺には節子と一緒に行ったはずですが、記憶が引き出せません。
それで、さらに気になって、白洲正子さんの「明恵上人」を読み直したのです。
残念ながら、記憶はもどってきませんでした。

同書の最初の方に、2つの絵のことが書かれています。
「明恵上人樹上座禅像」と「仏眼仏母像」です。
いずれも高山寺にある有名な絵です。
「明恵上人樹上座禅像」はたくさんのものを感じますし、私も好きな絵です。
しかし、「仏眼仏母像」はテレビでの説明にもかかわらず、私には何も伝わってきませんでした。
白洲さんが本で書かれていたことも、すっかり忘れていました。
本によれば、白洲さんも最初はこの絵に違和感を持っていたようです。
ところが、現物を見て、納得したのだそうです。
そのことが、とても興味深く書かれていました。
それで改めて、録画していた高山寺の番組を見直し、「仏眼仏母像」をじっくりと見直しました。
繰り返し見たのですが、やはり納得はできませんでした。
正直、好きにはなれません。
ご存知の方も多いでしょうが、「仏眼仏母像」を掲載しておきます。

実物は2メートル近く、つまり等身大ほどに大きいのだそうですが、大きさが大切なのかもしれません。
この「仏眼仏母像」は、明恵の持仏でした。

人は、写真や絵や像の中に、何を見るのでしょうか。
節子が葬儀用にと選んだ写真は、すでに病気がかなり進んだ時のものでした。
最後の家族旅行の時の高原での写真です。
その写真は仏壇に供えられているので、今も毎朝見ていますが、
節子はなぜこれを選んだのでしょうか。
明恵が「仏眼仏母像」を持仏にしたように、節子にはしっかりと意味があったのでしょう。
私もその写真をいつも持っていますが、あんまり私を護ってくれていないような気がします。
困ったものです。

■2771:疲れる夢をよく見るようになりました(2015年4月19日)
節子
明恵の夢の話を書いたせいか、最近、夢ばかり見ています。
それもかなり見ていて「疲れる夢」なのです。
最近は、あまり熟睡することがなく、夜中によく目が覚めますが、必ずと言っていいほど、夢で目覚めます。
目覚めるとトイレに行きたくなり、行ってしまうのですが、ベッドに戻ってくるともうその夢が思い出せません。
ただ、なにか宿題をもらったような夢だったことだけは思い出せます。
それを思い出そうとしても思い出せず、眠ってしまうと、また違う夢を見ます。

白洲さんの「明恵上人」は講談社学芸文庫版で読んだのですが、河合隼雄さんが解説を書いていました。
それが面白くて、その河合さんの書いた「明恵 夢を生きる」を図書館から借りてきて、読み出しました。
夢の事がたくさん書かれています。

私も昔は、夢の中で夢を見たり(記憶では3層の夢を見たことがあります)、夢をコントロールしたりできたのですが、最近はそういうことが出来なくなりました。
実際の生活そのものが、「夢」のようになってしまったからかもしれません。
ただただ受け身で「疲れる夢」を見るようになってきています。

疲れるというのは、講義を聞いたり、講義したり、あるいは議論したり、宿題を背負わされたり、そんな内容なのです。
しかし、そうしたことの肝心の内容が目覚めると思い出せない。
なにかやらないといけないという気持ちだけが残ってしまう。
だから疲れてしまうのです。
夢のことを話し合う相手がいないので、思い出せなくなってしまったのかもしれません。

なんとなく思い出せることもあります。
一昨日は目覚めた時に、もしかしたらこれは正夢かもしれないので、彼から電話が来るかもしれないと思ったことを覚えています。
しかし、お恥ずかしいことに、朝食をすませたら、もう思い出せないのです。
「彼」というのがだれだったかも思い出せません。
昨日一日電話を待ちましたが、心当たる人からの電話はありませんでした。
朝にそう思ったことが、夢だったのかもしれません。
そうだとすれば、ますます私の生は、夢に近づいているようです。

今日は、読み出した「明恵 夢を生きる」を読もうと思います。
天気も悪いので、読書日和です。
最近、よく本を読むようになりました。
読書もまた、夢と同じようなものかもしれません。

■2772:悪いこともあれば良いこともある(2015年4月19日)
節子
今日は読書できませんでした。
日中はお客様が来たので読書できませんでしたし、夜になったらまた「事件」発生で、何やら本を読む気がしなくなってしまいました。
それに、たった今、その当人から電話がかかってきて、いささか気分が滅入ってしまいました。
ヘイトスピーチではないのですが、まあ、その類の電話です。

私は、自らをかなりオープンにしていますし、好き嫌いもそれなりに明白にしています。
ですから時々とんでもないメールが来ますが、電話はあまりありません。
今回は、私が主催した会でのある人たちの発言が、ある人の気分を害したようで、その腹いせが私に回って来たようです。
かなり酔っているような電話でしたが、かなりの暴言を浴びせられました。
相手が、「あの発言はあり得ない、恥を知れ」というので、さえぎって、そんなことはないと説明をしようとしても、一方的に早口にヘイトスピーチです。
面倒になったので、電話を一方的に切ってしまいました。
こういうことがあると嫌になりますが、まあヘイトスピーチをする人もまた、追い詰められているのでしょうから、それも理解しなければいけません。
しかし、実に疲れます。

今日はそれだけではなく、もう一ついささか腹立たしいことがありましたが、悪い時には凶事が重なるものです。
しかし、うれしいこともありました。
昨日、知らない人からメールが届きました。
続けて、先のメールはアドレスを間違えてしまい、すみませんというお詫びのメールが届きました。
しかし私のアドレスを知っているということは、どこかで私と接点があった人のはずです。
いろいろと調べてみましたが、思い出せません。
あいにく、パソコンを昨年買い替えたので、それ以前のメールの記録はありません。
そういう時は、本人に訊くのが一番です。

今朝、返事が来ました。
6〜7年前に開催した、自殺防止活動に関わる公開フォーラムに参加してくれた人でした。
参加申し込みを受けた人には、必ず私は返信をすることにしていますので、それでアドレスが記録されていたようです。
その人は私のことを少し覚えてくれていました。
妻を亡くしたことも、です。
そんなことまで、そのフォーラムで話してしまったのでしょうか。
あの頃は、まだ私は精神的にかなり危うかったのですが、何を話したのかいささか気になります。

実は、たぶん同じ集まりに、大阪から参加してくれた自死遺族の人がいます。
彼女は、その集まりに出て、何かをしようと思い立って、5年前にグループを立ち上げました。
苦労の甲斐あって、グループは軌道に乗り、結婚を契機に、その活動を卒業することになりました。
その岡崎さんが、来週は東京に来てくれて、湯島での集まりに話をしてくれることになりました。
私も、少しは役に立てたかもしれません。
そして、その直前に、同じフォーラムに参加してくれていた人と、偶然のアドレスミスでつながったのです。
なにかの縁を感じます。
その方も、岡崎さんのサロンに山梨から参加してくれることになりました。
なんだか、私には、少し報われたような気がします。

自宅に居た割には、いろいろとドラマのあった1日で、読書は全くできませんでした。
凶事のトラブルの方は、まあ少しやり過ごそうと思います。

■2773:人は生き、人は死ぬ(2015年4月20日)
節子
しばらく連絡がなかったKさんから電話がありました。
節子もよく知っているKさんです。
奥さんのがんが発見されたのだそうです。
妻は誰にも言うなというのですが、佐藤さんだけにはお伝えしたくて…。
おふたりの気持ちがよくわかります。
私たちもそうでした。

当人はだれにも話したくなくなり、その伴侶は一人で背負い込むにはあまりに重くて、誰かに言いたくなる。
私たちもそうでした。
ただ、私たちの場合、ちょっと違っていました。
楽観主義者の節子は、健康診断で胃がんがわかった後も、最近は技術も進歩しているし、早期発見のがんは治るからと、手術検査をする前はとても明るく、友達にも話していたのです。
ですから知っている人は少なくありませんでした。
しかし、そのがんが、進行性で、しかもかなり進んでいることがわかってからは、節子は語らないようになりました。
それとは逆に、私は無性に誰かに相談したくなってしまいました。
相談しても、あまり意味はないのですが、なにかのひかりを得たかったのです。

Kさんにどう応えたらいいでしょうか。
私は、どうも人を慰めるのが不得手です。
どうもそれは、私の死生観にあるようです。
人は生き、人は死ぬ。
それに抗うことなく、従容と従うのがいい。
生かしてくれる命は、医学とは関係なく、生かしてくれる。
節子との別れを体験して、5〜6年経って、そういう心境になってきました。
そう思わなければ、どうにも心が安まらないからです。

Kさんご夫妻の平安を祈るばかりです。

■2774:3人目にならないように(2015年4月20日)
節子
ユカが、昨日、駅からの帰り道で、倒れている高齢者に出会いました。
私と同世代だったようです。
声をかけたら意識がもうろうとしていたようで、携帯電話で救急車を呼んだそうです。
近くの段差で転んだようで、腕が大きく切れていて、出血していたそうです。
私も注意しなければいけないという話になりました。

今日は次女のジュンが電車の中でやはり私くらいの男性が突然倒れたのに出くわしたそうです。
その人はすぐに立ち上がり、事なきを得たようですが。
お父さんも注意しないといけないと言われました。
私はあんまり注意しない人だからです。

連日、私と同世代の人が倒れる現場に、なぜか娘がそれぞれ居合わせたわけです。
3人目は、私かもしれません。
それで飲み忘れていた高血圧の薬を急いでのみました。
そういういい加減な生き方が問題なのだといつも言われていますが、性分ですから、仕方がありません。
困ったものです。

しかし、この歳になると、いつどうなるかわかりません。
実は畑で作業をしていて、時にめまいを感ずることがあります。
その時は、無理をせずに、畑の上に横になります。
先週もおかしくなり、20分ほど横になっていました。
なぜかちょっといい気分でもあります。
このまま静かに往生するのもいいな、などとは決して思いませんが。

今日、フェイスブックでまだ若い知人に、誕生日メッセージを送りました。
そうしたら、彼から返信が戻ってきました。
「最近は寄る年波にはかてなくなりつつあります」と書いてありました。
この知人は、40代です。
40代で「寄る年波」?
70代の場合は、なんといえばいいのでしょうか?

まあいずれにしろ、もう少し生きる必要が出てきているため、少しは気をつけようかと思いだしています。
お天道様のお声がかからなければですが。

■2775:シンクロの動悸(2015年4月22日)
節子
またシンクロニシティです。
今回は少し深い意味を感じます。

いま30年ほど前に読みかじった(途中で挫折)マッキーヴァーの「コミュニティ」を読んでいます。さすがに2〜3日では読めずに、もう4日前から読んでいますが、なかなか進みません。
並行して、河合隼雄さんの「明恵 夢を生きる」を読み出しました。これも1日で読めると思ったら、かなりの難物で、3日かかりました。
ところがいずれも今日読んだ部分が、同じ内容に感じたのです。
河合さんの本の最後に、華厳経の事事無擬の法界の話が出てきます。
昔、私の目を啓いてくれた「インドラの網」の話です。
すべてはすべてに宿っているという話です。

その本を読み終えて、開きっぱなしになっていた「コミュニティ」を途中から読みだしたら、こんな文章に出会いました。

全有機体の福祉は、部分すべての福祉のなかに見出される。「一人の成員が苦しむとすべての成員もともに苦しむ。あるいは一人の成員が栄誉を賜わるとすべての成員もともにそれを喜ぶ」。それ故に個人に関して、有機体の福祉を追求する関心には葛藤がない。(「コミュニティ」143頁)

これだけでは、何がシンクロニシティだと思われそうですが、私にはシンクロしている動悸さえ聞こえそうな気がします。
なぜ今、この2冊の、古い本を読む気になったのか、それも含めて、私にはとても偶然とは思えません。
あまりの驚きに、場違いとは思いながら挽歌に書いてしまいました。
謎解きは、これからです。


■2776:知への渇望感(2015年4月22日)
節子
今日は花かご会の総会だったようです。
私も花かご会の関係で、いろんな人に会いだしています。
節子の遺言ではありませんが、節子だったらどうしたかなと思いながら、その想像の範囲をかなり超えて、私自身の思いが生まれてきてしまっています。
節子だったら、たぶんそこまでやらないでよと言いそうです。
注意しなければいけません。

しかし、一つの活動をとってみても、そこからいろんなことが見えてきます。
昔節子が言っていたことを思い出しながら、それとなく反芻したりしています。

同時に、畑もまた頑張りだしています。
腰の痛さもあって、無理はできないのですが、目に見えて成果が出てくる仕事はいいものです。
楽しいとまではまだ行きませんが、がんばれます。
今日もまたジャガイモを植えてきました。
わが家にあったジャガイモが芽が出だしていたので、全部植えてしまいました。
きちんとした種イモではないので、どうなりますことか。

作業をしていたら、近くの農家の青木さんが話に来ました。
人と話していると、ますますがんばれます。
それで今日もまた、ついついやりすぎてしまいました。

午後からは来客でしたが、その人も農業に関わる活動もしている人でした。
加えて最近は福祉の仕事も始めたそうです。
こんな身近にも、福祉と農業に関わっている人がいました。
話していたら、もう一人、共通の知人がわかりました。
地域での活動はこうして、広がっていくのでしょう。
少しずつ具体的な活動に入りだせそうです。
節子がいないのが、いささか心細いですが。

そんなわけで、今日は午前中からずっと地域活動になりました。
どこまで深入りするか、ここは少し考えなければいけません。
しかし、少し動きだすと、どんどん地平が開けていく。
困ったものです。
実は、その一方で、最近、知への渇望感が強まっています。
若いころに、なんでもっと勉強しておかなかったのか。
それなりに読書はしてきたつもりですが、肝心の本をあまり読んでこなかったような気がしてなりません。
もう少し此岸にいるうちに、知に触れる喜びを楽しみたいと思っています。

■2777:シンクロニシティが続いています(2015年4月24日)
節子
先日、シンクロニシティについて書きましたが、その記事を読んだ北九州市の佐久間さんがご自身のブログで、それを取り上げてくれました。
最初は、津波の夢の話ですが、後半の「シンクロ」の記事を取り上げてくれています。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20150423/p1

津波の夢の話は、私のブログでは書いたことはないのですが、佐久間さんに前に話したことがあり、今度見た夢があまりに鮮烈だったのでついつい佐久間さんにメールしたのです。
佐久間さんのメールには書きませんでしたが、そして誰にも話していませんでしたが、今度の夢で見た風景は実は月面での風景のような気がしました。
同時に、冥界のような気もしました。
そして、なぜかその冥界がとても貧しい山村につながっていたような気がします。
そのあたりはあまりはっきり思い出せないのですが。

まあそれはともかく、昨日、また「シンクロ」が起きたのです。
それも北九州市がらみです。
それでこれもついつい佐久間さんに伝えたくなって、メールしてしまいました。
こんな内容です。

2003年に、小倉北区でまちづくりトークライブをやったのですが、
その時、その企画をしていた高橋さんの写真が、昨日、私のフェイスブックに、「知り合いではありませんか」と出てきました。
フェイスブックには、そうした仕組みがあるのですが、いつもはほとんど知らない人です。
そこで、高橋さんにメッセージを送りました。
そうしたら、こんなメールが届いたのです。

 本当に懐かしく、そして嬉しい気持ちで一杯です。

 今、北九州は新緑の綺麗なさわやかな季節。
 今週は特に天気の良い日が続いており、
 市役所横の紫川と桜並木の新緑を見ながら昼休みの散歩を楽しんでいます。
 
 今日連絡をいただいて、とても驚いたんです!
  
 実は昨日出席した会議の委員さんから「共創」という言葉が出てきて、
 佐藤さんのことが頭に思い浮かんだばかりだったのです。
 すごいタイミングだと思いませんか?

おやおや、またかと思いました。
ちなみに、「共創」という言葉は、私が会社を辞めて、コンセプトワークショップを創った時の理念なのです。
すでにその前から「共創」という言葉はあったかもしれませんが、当時調べた限りでは見つかりませんでしたので、私が勝手に造語したのです。
まあそんなことはどうでもいいのですが、
1997年に、北九州市で全国地域づくり先進事例会議が開催された時、私は「住民と行政との共創による地域づくり」をテーマに分科会を持ちました。
たぶん行政や地域活動に関して「共創」とい言葉が使われた最初でしょう。
高橋さんは、たぶんその「共創」という言葉に共感してくれたのです。
そして、小倉北区役所に異動になった時に、まちづくりトークライブを企画し、私を呼んでくれたのです。
その様子はいまもホームページに残っていることを高橋さんは教えてくれました。
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000028095.pdf

実は、そのメールが来る前に、社会教育の関係者と新しい社会教育プロジェクトを、まさに「共創」するミーティングをやっていたのです。
5月1日に北九州市の市役所の人が湯島に来たいというメールも前日に届きました。
それも何年ぶりかのメールでした。
他にもまだちょっとしたシンクロニシティが起こっているのです。

ともかくいささか不思議な気分になって、佐久間さんに今朝またメールしたのです。
最後に余計な蛇足をつけてしまいました。

シンクロニシティは起こりだすと際限がなく、どこをどう発展させるかですね。
私の場合、いつも途中で動かなくなるので、なかなか発展はしなくなりますが。

佐久間さんからやはり返信がありました。

佐藤さんも、ぜひ、北九州にお越し下さい!
それが宇宙からの贈り物であるシンクロを止めないことだと思います。

さてどうしましょうか。
前々回は、こうして誘われたところに行くのを止めたためにシンクロは止まったのです。
あの時、もしそこに行っていたら、私の前世のことが分かったかもしれません。
今度は来世を見るシンクロでしょうか。
行くべきか止めるべきか。
もっとも今回は、まだ場所の啓示は降りてきていないのですが。

■2778:時空間を超えた思いの伝達(2015年4月25日)
節子
シンクロニシティ現象はますます広がっています。
まあ、シンクロニシティをあまりに広義にとらえていることもありますが。

今日も湯島で、あまりにも偶然の出会いがありました。
しかし、挽歌編にはいささか書きすぎたので、最近のシンクロ現象は明日の時評編に書こうと思います。

ところで、昨日、湯島である集まりをやったのですが、そこに5年前に私が進行役を務めたフォーラムに参加してくれた人が参加してくれました。
5年前の集まりで、私が「奥さんを亡くしたことを話したのが記憶に残っている」と話してくれました。
私には記憶がないのですが、たぶんそのころは、何かの拍子につい口走ったのかもしれません。
そしてその人は、そのことが印象に残っていたのです。

その集まりは「自殺多発場所での活動者サミット」という公開フォーラムでした。
そのパネルディスカッションの進行を私がしたのですが、その中で、「自殺も病死も、大事な人を亡くすという意味では同じだ」というような話をしたそうなのです。
その2年後に開催した公開フォーラムではそういうことを間違いなく話したのですが、5年前に話した記憶は全くないのです。
報告書に目を通してみましたが、その記録は見つかりません。
しかし、どこかでそういう感じの発言をしたのかもしれません。
でも、もしかしたら、その方の気持ちが、私の心の中を読み取ったのかもしれません。
その方も、大切な人を亡くした経験をお持ちの方でした。

人は「言葉」を介して考えや思いを伝えあいますが、精神が不安定な、あるいは高揚している状況の中では、時に言葉を介さずに、思いや考えを通じ合わせることが出来るのではないかと、最近思いだしています。
さらに、それは時空間を超えてしまうような気もします。
これ以上書くと「危うい話」になりかねませんが、最近、生命の不思議さを改めて感じます。
ともかく、この2週間、不思議な世界を生きている感じなのです。

ところでどうでもいい話ですが、昨夜、節子の実像がしっかりと出てくる夢を見ました。
あんなに鮮明な節子を夢で見たのは初めてです。
しかし、あれはたぶん私が節子に会う前の節子のような気がします。
見たこともないだいだい色の和服姿で、私とは面識のないような感じで、横を通り過ぎていきました。
私が、声をかけるべきかどうか迷っているうちに、通り過ぎて行ったのです。

夢を意識していると、夢の内容がどんどん変化するようです。
もっとも目が覚めて数分のうちに、内容が思い出せなくなってしまうことは変わりません。
これは年齢のせいかもしれませんが。
さて今夜はどんな夢でしょうか。
明恵の気持ちが少しわかるような気もしてきました。

■2779:野菜を植えました(2015年4月28日)
節子
何かと気分的に忙しくて、また挽歌が書けずにいました。
まあ節子のための仕事も、この間、していました。
花かご会のことです。
いい方向になってきていますので、ご安心ください。

節子から引き継いだ畑も、ジュンたちが手伝ってくれたおかげで、今日はたくさん植えつけました。
とまと、なす、きゅうり、セロリ、ピーマンなど、わが家の農園も農園らしくなってきました。
しかし、身体はかなりボロボロです。
明日は整体にでも行かなと持ちません。
しかし、もしかしたら、内臓系から来ているかと思っていた痛みも、まあ悪化はしていないので大丈夫でしょう。

先週、がんばってマッキーヴァーの「コミュニティ」を読みました。
古い翻訳なので、読むのが大変でした。
それに500頁の大部であり、疲れ切りました。
しばらくは本を読みたくない気分です。
パソコンに向かうのも、あまり気分がのらないのです。

明日も畑で土を耕すという、豊かな1日を目指します。
世間的には連休のようですが、私はいつものように、気の向くままに過ごす予定です。
明日からはまたパソコンに復帰しますが。

■2780:腰の痛みが治ったようです(2015年5月1日)
節子
今日は大忙しの日でした。
しかしすべてうまくいきました。
まあこういう日があってもいいでしょう。

ところで、整骨院に行きました。
娘が紹介してくれましたが、初めてのところです。
ただただ身体を軽くこするような感じなので、効いたのか効かないのかよくわからないという評判が気にいったので、連れて行ってもらうことにしました。

実は1週間前から腰を痛めていました。
普段は痛くないのですが、ちょっと腰を曲げたり力を入れると激痛が走るのです。
もしかしたら、筋肉痛ではなく、内臓のせいかもしれないと思ったこともありますが、先週、その整骨院の話を聞いたので行ってみることにしました。
しかし時間の都合がつかず、今日の午後、行くことにしていたのです。

娘が2時に迎えに来てくれましたので、自動車で整体院に向かいました。
自動車で15分ほどのところです。
到着して自動車を降りる時に、はっと気がつきました。
腰の痛みがあまりないのです。
そういえば、今朝から痛みを一度も感じていません。
あれ、治ってしまったようだと娘に話しましたが、いまさら帰れません。
それに15分もかけてきたのですから、このまま帰るのも気が進みません。
それで治療を受けることにしました。

まず問診です。
どうしたのですかと訊かれて、1週間目に腰を痛めてしまって…、言葉が詰まりました。
いまはどうですか、と訊かれて、治ったようですともいえないので、だいぶ良くなったみたいです、といささか腰の引けた回答です。
それでまだ痛いのですか、と追及されて、まあ痛いと言えば痛いです…
要領を得ないぼけ老人だなと思われたかもしれません。
まあ、それはあながち事実に反しない評価ではあります。

で結局、ベッドに寝せられて、まずは腰を冷やしました。
それから軽い治療というか、軽いマッサージです。
施術後、椅子に座らせられて、治りましたかと訊かれました。
痛みはあまりないのですが、それはここに来た時からあまりなかったのです。
ですから、治ったとは言わずに、痛みはあまりありませんと正直に答えました。
そうでしょう、治ったでしょうと先生は喜んでくれました。
いい先生です。

念のためにと椅子に座ったまま、首と肩をかるくこすってくれました。
首もかたくなっていますよ、と言われました。
実はベッドで30分ほど寝ている時に、姿勢がよくなくて肩が凝ったのですが(途中で先生が直してくれましたが)、そうも言えません。

身体をこすっているのは、気を流すようにしているのですか、とつい余計なことを訊いてしまいました。
先生は即座に、気なんてものはありませんと否定しました。
私の聞き違いかなとも思いましたが、確認する勇気がありませんでした。
もしかしたら、悪い先生ではないかと一瞬頭をよぎりましたが、これほど明確に考えを述べるのは、良い先生の証拠だと思うことにしました。

というわけで、あれほど痛かった腰の痛みは治ったのです。
しかし、身体をちょっとねじるとやはり痛いです。
先生にそう言ったら、身体をねじるような無理をしてはいけませんと言われました。
考えてみれば、先生の言うことは正しいです。
身体をよじらないと行動しにくいのですが、と言いかけて、途中でやめました。
名医にさからってはいけません。
いずれにしろ治ったのだから、それで満足しなければいけません。

うっかりお金を払わずに出てしまいましたが、娘が払ってくれていました。
こういうことがよくあるので困ります。
私にはお金を払うという習慣というか意識がちょっと希薄なのです。

友人が、もし治らなければ「神の手」を紹介してくれると言ってくれていましたが、とりあえず「人の手」で治ってしまいました。
そんなわけで明日は農作業はお休みです。

■2781:畑の様子(2015年5月1日)
節子
実は整骨院に行く前に、少しだけ畑仕事をしました。
この数日、それなりに頑張ったので、畑は畑らしくなりました。
まあそのために腰を痛めてしまったようなのですが。
畑の様子を写真に撮りました。
いまはまだ貧弱ですが、まもなく立派な畑になり、見事な収穫がもたらされるでしょう。
たぶん、いや、もしかしたら、ですが。

ここは3年前は荒れ放題でした。
篠笹が生い茂り、大きな蛇が時々姿を見せていたのです。
野草を復活し、刈っても刈っても、追いつかなかったのです。
それが畑になったのです。
節子がやっていた頃ほどにはまだ戻っていませんが、まあかなりよくなりました。

写真には写っていませんが、畑の上の方は斜面の花壇の予定です。
ここはなかなか難航しています。
まだ「きれい」と言われるには程遠いのですが、だいぶ野草は刈り込みました。
節子は、ロックガーデンなどと言って、瓦礫や石を上手く活かしていましたが、私にはそれは無理です。
ここは娘たちに手伝ってもらわなければいけません。

さて畑です。
毎朝、水をやり通い、声をかけなければいけません。
私の場合、3、4日で飽きてしまうので心配ですが、今年は頑張ろうと思います。

写真に写っているのは、じゃがいも、きゅうり、ナストマト、セロリ、ピーマン、ハーブです。
さらにこれからあいているところに、植え込んでいきます。
収穫が近づいたら、また写真をアップします。
さてどうなっているでしょうか。
写真がアップされなかったら、やはり失敗だったということです。

■2782:藤の花が散りました(2015年5月4日)
節子
今日は強い風の日でした。
そのため、満開だった庭の藤がすべて散ってしまいました。
この藤は、節子がどこかから鉢で買ってきたものを地植えにしたのですが、今は大きく育ち、毎年、楽しませてくれます。
河津桜も、大きな鉢に植え替えました。
これでしばらくは大丈夫でしょう。
まあかなり枯れてしまった花木も多いのですが、これからは少しきちんと手入れをしようと思います。

藤岡に藤を見に行ったのはいつだったでしょうか。
もう節子は発病していたかもしれません。
ともかくあの頃の記憶は、私の中では時間が混乱しているので、前後関係が整理できずにいます。
最近よくテレビで藤岡の藤が話題になっていますが、それを見るたびに思い出します。
前後関係は全く思い出せないのですが。

今週の土曜日は庭でオープンサロンですが、残念ながら藤もクレマチスも、いまが満開でした。
バラが少しずつ咲きだしていますが、少し早いかもしれません。
なかなかうまくいきません。
しかし、今年の散歩市は5月の開催なので、節子がいたらさぞ張り切っただろうなと思います。

■2783:幸せな夫婦(2015年5月4日)
節子
一昨日のオープンサロンに2組の夫婦が来てくれました。
ひと組は初めての参加です。
フェイスブックでサロンを知って、夫婦で来てくれたのです。
2組の夫婦のやってきた時間が違ったために、サロンはなんと4時間も続きました。
なぜか普段とは全く違った疲れを感じました。
いずれの夫婦も、とても仲の良い夫婦だったからでしょうか。

ひとつの夫婦は、2人である事業を起こそうとしています。
農業と福祉を重ねたような、大きな構想に基づいて、とても挑戦的なプロジェクトです。
少なくとも月に1回は湯島に来ます。
私は雑談相手ですが、最初の夢のような話がだんだん形になってきています。
これこそ私が目指している「コンセプトデザイン」なのですが。
2人の価値観は共通ですが、意見や行動の仕方はそれぞれ違います。
2人ともかなり個性的なので、自らの世界をしっかりと持ちながら、共通の夢を追いかけているのです。
とてもうらやましい関係です。

もう一組は初対面ですが、私が最初に知り合ったのは、奥さんの方です。
家庭内傾聴ファシリテイタ―として、若者や子供の支援をされています。
彼女が、今日、無理やりというか、あまり説明もせずにパートナーを同行して来たそうです。
パートナーは数年前に会社を辞めて電気工事の事業を起こして、一人で仕事をしているそうです。
一人でやっているので、組織的な管理の世界から自由になって、それはそれは幸せだと言います。
私も会社を辞めた時に、そうだったなと思いだしました。
幸せそうなご夫婦の姿を見ていると、どうしても節子を思い出させられます。
困ったものです。

もう一つ思い出したことがあります。
昔、節子とサロンを一緒にやっていた時、わざわざ足利から通ってくれていた保育園の園長夫妻がいました。
親の園を継いだようで、まだとてお若い夫婦でした。
なぜサロンに来るようになったのか全く記憶がありませんが、ある時からパタッと来なくなりました。
あの夫婦はどうしたのかと節子と話したことを思い出しました。
節子が元気だったら、探して訪ねていけたのですが。

そんなような、ちょっと今頃思い出して、気になっている人が何人かいます。
節子が元気だったら、そういう人を訪ねる旅ができたのですが。
いろいろと思うことがあって、一昨日は疲れてしまったのです。
その疲れが昨日も残っていたようで、挽歌をまた書けませんでした。

■2784:節子への供物(2015年5月4日)
しばらく挽歌を書いていなかったので、ついでにもう一つ書いてしまいましょう。

一昨日、北九州市の中嶋さんが湯島に来てくれました。
中嶋さんは節子もよく知っている蔵田さんの知り合いです。
蔵田さんが会社を辞めてさっさと戻ってしまった、福岡県の築上町のご出身なのです。
お2人と私とは、まったく違った関係で知り合いました。
中嶋さんは、私のホームページを読んでいて、蔵田さんの名前が出てきたので驚いたそうです。
まあ世界はそれほど狭いわけです。

中嶋さんは湯島に来るのは初めてです。
節子にはもちろん会っていません。
その中嶋さんが、奥さんに供えてくださいと、福岡の湖月堂の栗饅頭とぎおん太鼓を持ってきてくれました。
その気持ちがとてもうれしく、帰宅してすぐに節子に供えさせてもらいました。
一度も会ったことのない人からまで、しかも7年以上たった今も、お供え物をもらえる節子は幸せです。
それもまあ、私がこの挽歌を書いているからかもしれないので、私のおかげかもしれませんが、この挽歌を書き続けているのは節子のおかげなので、結局は節子が出発点と言ってもいいでしょう。

今日は、さびしく一人で、その栗饅頭をお相伴させてもらいました。
私たちには、縁側でゆっくりと日向ぼっこしながら、一緒にお茶とお菓子を食べる幸せはついに訪れませんでした。
池の見える縁側は、一応、つくっていたのですが。

■2785:死は何か「ちょっと珍しい日常事」(2015年5月5日)
余命宣告を受けた友人がいます。
余命宣告を超えている友人もいます。
いつ死んでもおかしくない友人もいます。
しかし、いずれの友人にも私には別れの感覚はありません。
これまでと何の変化もないように、それぞれと付き合っています。
ただ相手は、その人によって、微妙に違っているのを感じはしますが。

節子を亡くしてしばらくしてから、死は終わりではないという気が身についてきました。
一種の精神防衛機能が作動したのかもしれません。
そう思わないと耐えられないからです。
そうして今では、必ず来世があると思えるようになってきています。
死に対する感覚は、大きく変わりました。
時間を経るにつれて、そういう感覚が強まり、いまでは死が何か「ちょっと珍しい日常事」のようになってきています。
もちろん実際に死に直面したら、そんなはずもなく、大きな衝撃を受けるでしょうし、自らの死を宣告されたら心が揺らぐことでしょう。
しかし、なにか死が特別のことではないような気が、最近は強まっているのです。
同時に、自らの死が、とても身近に感ずるようにもなってきています。
風邪をひくように、もしかしたら、死も突然にやってくるのかもしれません。
そんな気も、時にすることがあるほど、いまや死は「ちょっと珍しい日常事」になっています。

いずれにしろ、死は終わりではありません。
生き方よりも死に方が大切だという言葉がありますが、そうではなくて、死の先をどう生きるかが大切だと、最近は思えるようになってきています。
死を超えて生きている節子が、少しうらやましい気がします。
私もまた、節子のように、死を超えてもしっかりと生きられるといいのです。

■2786:「暇で暇で仕方がない」ほど忙しい気分(2015年5月6日)
節子
この連休は、暇なのか忙しいのかわからないのですが、なにか余裕のない1週間でした。
どこにも出かけず、自宅と湯島で過ごしました。
それも結構疲れる1週間でした。
たまっていた課題を整理するどころか、むしろ課題を新たに引き受けてしまい、自分で自分を追い詰めているような状況でもあります。
時間が取れずに、お墓参りにも行けない状況です。
困ったものです。

一時、痛みが軽くなった腰も、また痛みが増してきました。
時間がないと言いながらも、畑に行って、草取りなどをしているので、またそれが響いているのかもしれません。
もしそうだとすれば、私の身体もかなり老化が進んでしまったということです。
老化と言えば、身体だけではなく、脳の方もかなり劣化しています。
面倒なことを考えたくない気分が高まってきています。
本を読んでも、以前ほどには早く読めません。
人と会っていても、疲れるようになってきました。
ますます困ったものです。

世間的には、大型連休で、みんな楽しい非日常の時間を過ごしていることでしょう。
そのおかげ、電話やメールがかなり減っているので、私も少しは楽ですが、私の生活は、いつも以上に「日常的」になっています。
生活には「メリハリ」をつけないとどこかで壁にぶつかりがちなので、メリハリをつけたいのですが、節子がいなくなってからはそれが難しくなりました。
ただただズルズルと、平板な生き方が続いており、なんだかワクワクすることがないのです。
だから最近の口癖は、「暇で暇で仕方がない」になっています。
ズルズルしているためか、何をやってもリズムに乗れません。
時間がかかってしまうわけです。

思い切って、湯河原から箱根にでも行ってこようかと思っていたら、昨日から、大湧谷あたりが火山性地震で危険になっているようです。
不謹慎ですが、節子がいたら、節子を誘って出かけるのですが、一人ではそれも気が乗りません。
明日から2日間は、またちょっと時間がありませんが、その先は自宅でカフェを開く予定です。
庭の整理もしなければいけません。
何やら最後まで忙しい連休で終わりそうです。

なにか夢中になれることや目標があればいいのですが、それがないために、年がら年中、

「暇で暇で仕方がない」ほど忙しい気分です。
実に困ったものです。

■2787:なんだか時間に追われていました(2015年5月12日)
節子
またまたしばらく挽歌が書けませんでした。
世間では連休ですが、そういう時には仕事とは無関係な相談事が多いのです。
なにしろ暇で暇で仕方がないと公言していますので、暇を埋めてやろうという親切心からなのでしょうが、いろいろとありました。
そしていささか疲れました。
やはり暇の方がいいかもしれません。

まあそれはともかく、連休が終わった後の土日にわが家の庭で散歩市のおまけのサロンをやりました。
そのために、庭の整理をしなければいけないので、娘と少し頑張りました。
節子がいたころとはかなり違いますが、まあなんとか形が整いました。
しかし、その作業でちょっと重いものを運んだりして、私は腰を痛めてしまいました。
以前から腰が痛かったのですが、理由はよくわかりませんでしたが、やはり軽いぎっくり腰だったようです。
花壇用の土の入った容器を持ち運んだ時に、治りかけていた腰の痛みが戻ってきて、しばらく動けませんでした。
さほどひどくはなかったので、しばらくして普通に歩けるようになりした。
そんなアクシデントはあったものの、なんとか庭はお客さまを受け入れられるほどになりました。
残念ながら、花はちょうど藤が終わり、バラは咲き始めでしたが、ジャスミンが満開だったのと庭のシャボンのような匂いのする花も満開だったので、花の香りに包まれた感じになりました。
初日は寒かったのですが、2日目は暖かな絶好の散歩日和でした。
居心地がいいのか、中には3時間以上もいてくれた人もありました。
思ってもいなかった人まで来てくれました。
うれしいことです。

みんなが帰った後、しかし、疲労感がどっと出てきました。
その疲労感が翌日まで残ってしまい、昨日はめずらしく長い昼寝までしてしまいました。
今日もまだ眠いです。
そんなわけで、挽歌も時評も書けないでいました。

明日から少し回復しようと思います。
今日は台風のためか、すごい風です。
たまった約束を電話とメールで消化していますが、脳疲労のためか、効率が極めて悪いです。
困ったものです。

■2788:家に居てものんびりできませんでした(2015年5月12日)
節子
ゆっくり休もうと思っていたのですが、なかなかそうもいきません。
次々となぜか電話がかかってきます。
携帯電話はどうも好きになれずに、一時、やめていたこともあったのですが、いつの間にかまた復活していました。
もっとも私自身は携帯していないことも多いので、出ないことも相変わらず多いのですが。

幸いに、今日は深刻な電話はありませんでした。
しかし、休もうと思ったら、携帯電話は切っておかなければいけませんね。
と思って、切ったら、今度は家の固定電話に電話が来ました。
電話口にでたらなにやら売り込みの電話でした。
それも2本も続けてきました。
いやはや静けさを確保するのは難しい時代です。

今日ではありませんが、電話に出ると、「奥さまはいらっしゃいますか?」と突然訊かれることもあります。
いまはいませんというと、何時ごろお帰りですか、としつこい場合もあります。
心に余裕がある時は、さあ、聞いていないのですが、と答えるのですが、余裕のない時には、たぶん帰ってこないでしょうと言って、電話を切ります。
相手はどう思うでしょうか。
どういう意味か、少しは悩んでくれるでしょうか。
悩まずに、すぐに次の電話番号にかけるのでしょうね。

在宅しているといろいろのことがあります。
エホバの証人たちがやってきたり、近くの葬儀社からの勧誘があったり、まあいろいろです。
これも、昔は日間に任せて対応したことがあります。
エホバの証人に関しては、編集の仕事をしていた私の知人は、暇だったので相手をしているうちに、それを本にしてしまいました。
そういえば、その人とはもう20年近く会っていません。
どうしたでしょうか。

とまあ、こんなことを考えながら、今日は全く意味もなく1日が過ぎました。
今日中にやろうと思っていたことも手付かずでした。
そのうえ、まだ疲れがとれません。

ちなみに、家庭というのは、一人でいても、決して静かな場所ではないことは、節子がいなくなってから知ったことです。
静けさは、彼岸にしかないのかもしれません。

■2789:気分の重い日もあります(2015年5月13日)
節子
節子がいなくなってから、たぶん今日は2812日目です。
この挽歌は、ついに3週遅れになってしまいましたが、やはりパソコンに向かう時間がありません。
物理的にはあるのですが、気分的にないのです。
しかし、3週も遅れてしまうと、挽回しようという気もなかなか起きません。
困ったものです。

それにしても、何が気分を沈ませているのでしょうか。
挽歌だけではなく、時評編も書いていないのですが、社会の動きにも最近は怒りさえ感じなくなりました。
最近は新聞も10分ほどしか読みませんし、テレビニュースもほとんど見なくなりました。
社会からリアリティがなくなってきています。
自分自身の存在のリアリティがなくなっているというべきかもしれません。
そこに居たいと思う「社会」がなくなっているのかもしれません。

こんなことを書いていると「うつ」ではないかと思われそうですが、事実、そうなのかもしれません。
夜中もよく目が覚めます。
いささか不眠気味で、夜は好きにはなれません。

なにやら最近はブラックホールに捕らえられてしまったようで、心身がとても重いのです。
誰かと会っている時は、なぜか元気になるのですが、別れた後はどっと落ち込みます。
軽い躁鬱でしょうか。

節子がいなくなって7年半。
もしかしたら、時間の経過は、人を弱くするのかもしれません。
時間が解決するなどとは、一体だれが言い出したのでしょうか。
時間が経てば経つほど、さびしさや辛さは蓄積されてくるだけです。

今日はちょっと気分が重い日でした。

■2790:DAXの死(2015年5月14日)
節子
今朝は天気が良くて、気も晴れそうだと思っていました。
早々と庭の水やりをやり、さて出かけようと思って、パソコンでメールをチェックしたら、思いもかけないメールが、知らない人から入っていました。
余命宣告を受けて福井に戻っていた友人の訃報でした。
つい数日前にはフェイスブックで、昔の兄貴分と別れの食事をしたというようなことが書かれていたので、安心していました。
彼には6月か7月には福井に見舞いに行くと伝えていましたが、間に合いませんでした。

実は、その見ず知らずの人から、彼が入院したというメールが届いていました。
迷惑メールに紛れ込んでいたので気づきませんでしたが、そこに、「もし入院したら私に連絡するように」といわれていたのだそうです。
気づいた時点で、電話すれば良かったのですが、そんなに迫っているとは思わなかったのです。
また間に合いませんでした。
しかし、これもまた、彼の意図したことかもしれません。

東京を離れる時に、彼の送別会がありました。
電話すると、彼は、「佐藤さんが来るような送別会ではない」と言いました。
それで、では夏になったら福井に行くよと言っていたのです。

余命宣告を受ける直前に、彼は湯島に来ました。
これからの生き方を話し合いました。
それに向かって動き出した途端の、余命宣告でした。

心と笑顔のきれいな人でした。
人生の半分は刑務所で暮らしたと話していました。
数年前に、足を洗い、福祉の関係の仕事をしていました。
彼は私には見栄も張らずに心を開いていました。
最後に会えなかったのは、心残りですが、心がつながっていれば、会うかどうかは些末なことなのです。
しかし、彼と出会ったのは、きっと何か意味があったのです。

まだ頭が整理できませんが、彼のことですから、彼岸への旅もきっと楽しんでいることでしょう。

心がまた不安になってきています。
困ったものです。
これもまた、意味があるのかもしれません。

■2791:死にふさわしい言葉は「無念」(2015年5月15日)
節子
昨日訃報を受けた後、最後まで面倒を見ていたHさんと電話で話しました。
彼女にとってもあまりにも突然のことだったようです。

Daxは、男前に生きることを信条にしていました。
しかし、最後はちょっと手違いがあったようです。
いくつかのほころびが感じられます。
彼にしてもやはり、死に直面して、いささか揺らいだのかもしれません。
人であれば、それもまた仕方がないことかもしれません。

彼は献体を望んでいましたが、手続き的な理由で、それができなくなったそうです。
そうなれば、からの次の希望は「散骨」です。
日本海に戻るという彼の希望はかなえられるでしょう。

Daxの余命宣告から始まる展開から、さまざまなことを教えられました。
死は、まさに「祭り」なのだと思いました。
本人にも、周りの人にも。
しかし、祭りの気分の乗れない人がいます。
あるいは、本人自体、ある人との関係においては「祭り」にできないものがあります。
まだ直観的な理解にすぎませんが、そう思います。

Daxが、最後の別れの集まりに、私に来ないように言い、一言ぼそっとつぶやいた言葉が心に残っています。
彼はたぶん、死がお祭りであることを知っていたのです。
一度は、自ら命を断とうとしたしたこともありますから、死にはなんの恐れもなかったでしょう。
ただ無念だったとは思います。

節子もそうでしたが、死に当てはまる言葉は「無念」だけかもしれません。

Daxの冥福をいのるだけです。
最後に一度だけ、夢を見たと彼が話していたのが思い出されます。

Daxの遺したブログがあります。
http://blog.goo.ne.jp/kurara_77

■2792:実際に見える顔と写真の顔(2015年5月15日)
節子
昨日はそんな気分ではなかったのですが、小学校時代の仲間と食事をすることになっていたので、重い気分をひきずって大森まで行ってきました。
私は、同窓会というのがあまり好きではないので、滅多に参加しませんが、そのため、時々、個別に呼び出されるのです。
昨日は、節子も知っている湯島にも来たことのあるメンバーたちです。

ところが、鰻屋さんの2階の個室で話していて、いざ帰ろうとしたら、お店の人が誰もいないのです。
予定の時間を過ぎてしまっていたため、もう帰ったのかと思われたようです。
帰るに帰られず、困っていましたが、1時間ほどしてお店の人が、まだいるのですか、と言ってきました。
それで無事、解放されました。
鷹揚なお店か、いい加減なお店か、よくわかりませんが、おかげでさらに疲れました。

まあそれはどうでもいいのですが、みんなそれぞれに病気を抱えています。
今度、会う時は誰が欠けているだろうかという話になり、私も立候補しました。
しかし、大体において、そうした時に立候補するのは残ってしまうものです。

一人が、まあ最後かもしれないので、写真を撮っておくといって写真を撮ったのですが、デジカメでその画面を見直して、写真だと全然違う顔になっていると言うのです。
それはよくわかります。
会った時には子ども時代の関係に戻って、顔まで子どものときの顔に見えてくるものです。
しかし、写真はうそを言いません。
写真だけではありません。
昨日は、冒頭に書いた理由で予想以上に長く鰻屋にいて、そのあとコーヒーを飲みに行ったのですが、鰻屋の時に見えていたみんなの顔と喫茶店でのみんなの顔が違うのです。
つまり、長く話していて、疲れてしまうと、相手の「今の顔」が見えだすのです。

会った時のはつらつさとは全く違った歩き方で、みんな駅に向かいました。
さて次は誰がいなくなるか。
神に愛される人からだとしたら、もしかしたら誰も呼ばれずに、また4人で会うことになるかもしれません。
困ったものです。

しかし、朝の訃報のショックで、何か頭が疲れ切って、後半は実に辛い2時間でした。
帰宅してお風呂に入る気力もありませんでした。
今朝もまだ頭がすっきりしません。

■2793:「異邦人」のようなさびしさ(2015年5月16日)
節子
どう考えてもこの世は不条理だ、などとムルソーのようなことは言えませんが、最近、どうも自分が「異邦人」のような気がすることがあります。
社会が悪いのではなく、もちろん私が悪いのでもなく、ただ世界が少しだけずれているだけなのだろうとは思いますが、そのずれは、私に限らず、だれにもあることでしょう。
しかし、それにしても、あまりに違いすぎる。
最近、ようやくそれに気づきだしました。
節子がいたころは、そんなことなど考えたこともありませんでしたが、世界をシェアできる人がいなくなると、そういうことが見えてきます。
そして追いやられてしまう。
どうせだれもが分かってくれないのだからと、暴発することもあるでしょう。
ムルソーを暴発させたのは太陽の陽射しではなく、その違いの格差の持つエネルギーかもしれません。
もしそうであれば、私も十分に暴発のパワーはあるかもしれません。
ただ幸か不幸か、それを現実化するほどの体力がありません。
だから、注意しないと、そのエネルギーが自らに向かって、世捨て人になる恐れもあります。
世捨て人は、私の価値観では、死者と同じですので、避けなければいけません。

私は、もともと言語能力がかなり弱いのですが、最近、思うのは、これまでの70年、いろいろと話してきたけれど、ほとんど誰にも私の話は伝わっていなかったのではないかという気もします。
そう思うことで、自分を納得させたり、慰めたりすることができるから、そう思うのですが、その反面、あまりの違いに生きる時代を間違えたのだという寂しさも感じます。

節子も当初、私の言葉はほとんど理解不能だったようです。
あなたの話は、どこまでが「本当」で、どこまでが「うそ」かわからないとよく言われたものです。
言葉には、本当もうそもありません。
本当やうそがあるとしたら、それがあるのは言葉の奥にある世界です。
ですから、その問題の立て方自体が、間違っていると私は思いますが、一緒に暮らしているうちに、次第に多くのことが「うそ」ではないことを実感してくれたようです。
さすがに、昔、大宰府に住んでいたとか言う話は信じませんでしたが。
でも、否定もしませんでした。

横道に入りますが、私が昔、大宰府に住んでいたことを知ったのは、20年ほど前に大宰府の観世音寺を訪ねた時です。
そこを歩いていて、あっ! ここには前に住んでいたことがある、と突然に感じたのです。
もちろん前世の話です。飛鳥の頃でしょうか。
現在の科学では証明しようがないので、そう思ったら信ずるしかありません。
それが、私にとっての「素直に生きる」ということです。
時間は少しかかりましたが、節子とは世界をシェアできていた気がします。

私は、思いがほぼすべて身体に出るタイプなので、隠せないならすべてを開いていけばいいという生き方になったのですが、だからと言って、それが誰にでも伝わるとは限りません。
むしろ、言葉や知識が、それを妨げてくれるのです。
ほとんどの人は、私の言葉を信じません、いや理解しようともしない。
それぞれがみんな自分の言語体系、知識体系で受け止めるからです。
これは、節子から教えてもらったことです。
同じ言葉も、話す人によって受け取られかたが違うことを。
私の場合、そのおかげで私の真意は冗談と受け取られて、これまでむしろ生きやすい人生を送ってきたのかもしれません。

しかし、それこそが、私自身、中途半端な生き方になってしまった理由かもしれません。
そして、いま無性に孤独を感じている。
やはり、この世は、不条理ではなく、条理に従っているようです。
もし不条理があるとすれば、世界をシェアしたパートナーがいなくなり、世界だけが残ったことかもしれません。

何やら長い挽歌になってしまいました。
今日もまた寝不足です。

■2794:出鼻をくじかれています(2015年5月18日)
節子
最近、私のまわりで起こっていることは、シンクロニシティと出鼻をくじかれることの2つです。
それらが関係あるのかどうかわかりませんが、後者もまた大きな意味でのシンクロニシティかもしれません。

この1年近く、あまり心身共に調子がよくありません
どこと言って大きな不具合があるわけではありませんが、基本的には気が起きてこないのです。
時々、気が起きて、さぁ、始めようと思うと何かが起きて、気をそいでしまいます。
それも瑣末なことが多いのですが。

最近、ホームページの行進がままならないことが多いのですが、昨日は予定通り更新を終えて、アップしようと思いました。
ところが何回やってもアップできないのです。
前のパソコンで真でやってみたり、いまのパソコンを復元してみたり、いろいろと試みましたが、ダメです。
今朝も朝から何度か試みましたが、ダメなのです。
まあ、これはほんの一例ですが、こういう瑣末なことが、私の出鼻をくじいています。

今月はたまりにたまっている課題をこなさなければいけませんが、どうも気が起きないのです。
まるで誰かが、私の今のような不安定で無気力な状況を維持させたいと思っているようです。
事実、そうなのかもしれませんが、社会と付き合っていると、わがままの限界というのもあるものです。

もちろん私の周りにも、新しい風は吹いています。
それに魅かれることがないわけではありませんが、気が起きなければ、動きようがありません。

ホームページが更新されていないと心配してくださる人がいますので、更新できないのは私の理由ではないことを知らせたい気もあって、書かせてもらいました。
何かが邪魔をしているのでしょうか。
まあ、これは無意味な偶然だとは思っているのですが。

それにしても、気分がすっきりしないまま1年も経ってしまいました。
そろそろ前に動きたいものです。

■2795:供物のお裾分け(2015年5月19日)
節子
少しずつ生活のリズムが取り戻せそうです。

節子の生家から大きな荷物が届きました。
何だろうと思って開けてみたら、法事の供物のお裾分けでした。
先日、法事があったのですが、行けなかったのですが、なんと私にまで送ってきてくれたのです。
この供物を参加した人たちで分かち合うという文化が、最初は私には新鮮でした。
ご仏前などの金銭とは別に、みんな思い思いの品物を持ってくるのです。
だいたい参列者の数を見越して、その数だけ持ってきます。
お菓子もあれば、果物もあれば、日用品もあれば、いろいろです。
昔はたぶんお金ではなく、こうしたものを持ち寄ったのかもしれません。
法事が終わると、それをみんなで分けるのです。
私は、世事に疎い人間でしたので、そうしたことがとても興味深かったのです。
節子が元気だったころ、節子の生家の法事での私の仕事は子どもたちと一緒にそれを仕分けすることでした。
大きな法事の時は一人では持てないほどになります。

今回は、そのお供え物のお裾分けが送られてきたのです。
実に懐かしい気持ちになりました。
節子の姉夫婦と一緒に、私もささやかなお供え物をしました。
それも私の名前入りで入っていました。
自分にも戻ってくるのが素晴らしいです。

故人をみんなで思い出しながら、飲食を共にし、お互いの健康を気遣い合いながら、お供えをみんなでシェアする。
こういう文化が、都会にはもうほとんどないと思いますが、香典文化ではなく、供物文化のほうがあったかくていいです。

以前、香典を用意できないのでお葬式にいけなかったという話を聞いたことがあります。
お供え物であれば、道端に生えている草花でも大丈夫です。
しかし、都会では、その草花さえ手に入れにくい。
さびしい時代になってきているような気がします。

■2796:ふと節子を思い出すことが多くなりました(2015年5月19日)
節子
先日、ある集まりの様子をICレコーダーで録音したのですが、その時に、数年目に大日寺に行った時の節子との交流のやり取りが、まだそのままレコーダーに残っているのに気づきました。
聞き直したこともないのですが、消去されないように、パソコンに取り込みました。
あの体験は不思議な体験ではありましたが、まだはっきりと覚えているので、聞き直すこともありません。
それに機械を通すと、実際とは違って、論理だけが伝わってきますので、記憶が壊れてしまいかねません。

人によって違うのでしょうが、私は節子に何する過去の記録に触れる気があまり起きません。
写真もビデオ映像も、むしろ見る気が起きません。
節子が残した日記も読む気が起きません。
できるならば、過去の節子とではなく、いまの節子と出会いたいからです。
いまもなおどこかに節子の死を受け入れられずにいるのかもしれません。
実際に出会えることはできないのですが。

それにしても、生活の中で、節子とのつながりを感じさせられることはいまも多いのです。
庭の手入れをしていても、湯島のオフィスで書類を片づけていても、街を歩いていても、テレビを観ていても、お風呂に入っていても、電車に乗っていても、ふと節子を思い出すことがあります。
それが40年以上、一緒に生活していたということなのでしょう。
最近は、なぜかふと節子を思い出すことが多くなっています。
あまりに日常的な事なので、むしろ挽歌が書けません。

残念ながら、私をこんな風に思い出してくれる人はないでしょう。
夫婦と親子は、たぶんまったく違うような気がします。

遺された者は、実に割が悪いです。
今日はまた寒い日になりました。
気温の寒暖差が激しいので、どうも体調がすっきりしません。
困ったものです。

■2797:ひがみ根性を捨てなければいけません(2015年5月20日)
節子
今日はさわやかな日になりました。
気持ちも明るくなります。

一昨日、企業関経営関連のシンポジウムがありましたが、気分が全く乗らずに、話したいことがなかなか話せずに、場違いさを感じ滅入っていました。
自分が、いかに「いまの企業」の世界から脱落してきているかを改めて思い知らされていました。
しかし、最後に主催者の人から「佐藤さんの話はとてもわかりやすかったと参加していた某大企業の社長が言っていた」と教えてもらいました。
ちょっと元気になれました。
しかし、私が「しかし今日は疲れていたせいか、うまく思いを話せなかった」というと、それくらいがいいのかもしれませんよ、と笑いながら言われました。
実は、この人も、某大企業の社長だった人です。
この言葉は、どう受け止めたらいいでしょうか。
いつもは、いささかラジカルすぎて、伝わっていないのかもしれません。
そのことを、柔らかく指摘してくれたのかもしれません。

シンポジウム終了後、わざわざ3人の人が挨拶に来てくれました。
これも少し元気をもらいました。
翌日、お礼のメールを送ったら、その一人が、「切り口が新鮮で、いつも大変勉強になります」と書いてきてくれました。
どうも以前から私のことを知ってくれていたようです。
これが褒め言葉かどうかは微妙なところですが、少しだけ伝わっていることもあるのかもしれません。

25年前は、思い切り伝えたくて、いろんなところで話をさせてもらいました。
しかし、あの頃はまだ頭で考えるだけでした。
いまは、かなり先が見えるような気がします。
そして、ますます社会から脱落していく自分を感じます。
昔は、それが快かったのですが、最近は時に弱気になるのです。
節子が隣にいないためかもしれません。
絶対的に信じてくれて、運命を共にする人が一人でもいれば、人は強くなれます。

最近、私自身がひがんでいて、自分を社会から疎外しているのかもしれません。
これは一種の甘えかもしれません。
もう少し強くならなければいけません。
何しろ私には未来が見えているのですから。

■2798:来客の合間(2015年5月21日)
節子
今日はまた夏のような暑い日です。
湯島は今日も朝から来客続きで、いささか疲れていますが、まあ初夏のような感じなので、疲れも気になりません。
ベランダの草木の手入れをしないといけないのですが、最近はちょっと余裕がありません。
せめて枯らさないようにしようと思っていますが、いまのところ大丈夫です。

一寸来客が途切れて、いま一人でホッとしています。
今日、最後のお客様は杉本さんです。
まもなくお見えになるでしょう。

節子の訃報を聞いて、杉本さんはわが家にすぐに駆けつけてきてくださったのですが、開口一番が節子さんも「同士」でしたから、という言葉でした。
杉本さんは私よりもかなりご高齢ですが、しっかりしたビジョンを持って、社会と関わっています。
杉本さんの行動力には、私自身大きな影響を受けていますが、その杉本さんも最近は年には勝てないようです。
私も理事を務めさせてもらっているNPO科学技術倫理フォーラムをどうするかを考えだしています。
このNPOは、杉本さんがあってこそのNPOなので、私は収束するのがいいと思っていますが、杉本さんはどうお考えでしょうか。
今日は、その相談ではなくて、最近、杉本さんがある学会で発表したことのお話と同時に、そこでの新しい発見のお話の予定です。
宿題をもらわないようにしなければいけません。
杉本さんから言われると、自分ができないかもしれないと思っていても、断れないのです。
困ったものです。

杉本さんは、時々、湯島に立ち寄ってくださいますが、杉本さんに会うたびに、節子のことを思い出します。
私たちが杉本さんにお会いしてから、もう30年以上経過しています。
言葉は決して多い人ではないですが、なぜか私には会うだけでホッとする人です。
ちなみに、私たちは意見はそれぞれに違うことも多いので、時々、激論になることもあるのですが。
今日は、論争は避けようと思います。
私の心は、今日もまた、かなり折れそうになっていますので。

ところで、湯島での来客の合間は、いつもとても感傷的になるのです。

■2799:支えてくれる人が無性にほしくなりました(2015年5月22日)
節子
夢で目が覚めました。
節子の夢です。
昨夜は節子からの電話の夢でしたが、今朝は節子が隣で寝ていて、節子の寝顔に見とれていたら、夢の中で、もうひとりの節子がやってきて、起こされました。
節子の夢を見ると、いつもは快さが残るのですが、この2日は寂しさだけが残りました。
最近の夢は、その気になれば、簡単に解き明かせるほどの「簡単なメッセージ」を持っているものが多いのです。
その集積が、私をさびしくさせているのでしょうか。

最近、あまりに様々なことが起きました。
いつもはトラブルさえもある意味で「楽しめる」のですが、最近は逆にトラブルから逃げたくなります。
生命力が弱まっているのでしょう。
それが、夢にも出ているのかもしれません。

最近、だれかに支えてほしいと思うことがあるようになりました。
この数日、無性にそう思います。
もしかしたら、生まれてはじめの気持ちかもしれません。
いつも私は、自分でも気づくことのない誰かに支えられてきたのでしょう。
だから、誰かに支えてほしいという気持ちはあまり記憶にはありません。
いまも多くの人たちに支えられている。
頭ではそう思うのですが、心身はそうは感じられなくなってきています。
孤独感とでもいうのでしょうか。
いや、そんな一言で表現できるようなものではありません。
もっと深くて、悲しいものです。

どうしてこんな気持ちになってしまったのか。
なぜこんなにさびしいのか。
人は一人で生きているという言葉ほど、理解できない言葉はありませんでした。
いつも、良い友だちに囲まれて、だれかのことを心配し、誰かに何かできることはないかと、考えているのが私の生き方でした。
いまも、気になっている友は少なくありません。
しかし、いまはそうした世界とは別の世界に引き込まれようとしているのかもしれません。
とりわけだれもいない時に、たとえようのない、恐ろしいほどのさびしさが襲ってくる。
それは多くの場合、ほんの一瞬なのですが、誰かに思いきり抱きしめてもらいたいと思うほどです。
象徴的ではなく、物理的に、です。
子どものように。

今朝の目覚めは、その気分でした。
これから、庭の草花に水をやり、動き出せば、この気分はたぶん消えるでしょう。
今日は久しぶりに、小美玉市にある文化センターの「みの〜れ」に行き、旧友たちと会いますが、みんなと会っている時には、いつものような気持ちに戻って、寂しさなどはみじんも感じさせないでしょうし、私自身も感じなくなっているでしょう。

でも、今朝の孤独感と無性な寂しさは消えることはないでしょう。
明日も、襲われるかもしれません。
今朝の気持ちを残しておきたくて、書き残してしまいました。

節子の寝顔を実に美しかった。
あれはもしかしたら、節子ではなく、私の理想の伴侶だったのかもしれません。
だから、本当の節子が起こしに来たのかもしれません。
もちろんそれも夢の中で、ですが。

■2800:不安や怒りのはけ口のような存在(2015年5月23日)
節子
最近、いろんな重い話に覆われているのですが、今朝の金田さんからの電話も重すぎて、少し金田さんには失礼な応対をしてしまいました。
私が感情的になってしまう話題はいくつかあるのですが、がん治療の話は、いまもってダメなのです。
どこかで頭が混乱してしまい、ついつい聞きたくないというメッセージを発してしまうのです。
今日も最初は自重していたのですが、途中でやはりおさえられなくなってしまいました。

幸いに金田さんも頭が混乱しているのと、話すのに夢中で、私の言葉は届かなかったかもしれません。
その証拠に、佐藤さんの元気な声を聞くと元気になると言ってくれました。
私が元気だったのでなく、いささかいらだっていただけのことなのですが、それが金田さんには元気に感じたのでしょう。

そしてその後に、金田さんが、こういう話は誰にもできないので、佐藤さんにしか言えないのですと言ってくれたので、私は大いに反省しました。
がん治療の話を聞くのはやはり私には耐えがたいのですが、
そんな思いで電話してきてくれたのに、なんと冷たい対応だったことか。

つづいて、今度は違う意味で「重い電話」がかかってきました。
武田さんが、安保11法案の閣議決定後の安倍首相の記者会見の新聞記事を読んで、どうしようもなく腹が立ったので電話したというのです。
とんだとばっちりです。
迷惑だよと言ったら、こういう話をわかって聞いてもらえるのはあなただけだからというのです。
なんだか私は、不安や怒りのはけ口のような存在の気がしてきました。

そこで、はっと気づいたのですが、もしかしたら、節子は私にとっての「不安や怒りのはけ口」だったのかもしれません。
いや、間違いなくそうだったでしょう。
だから私は、節子が元気だったころは、ストレスとは無縁でした。
しかし、私は、節子にとっての「不安や怒りのはけ口」になれていたでしょうか。
なれていたようでもあり、なれていなかったようでもある。
いささか微妙です。

最近、私が精神的に不安定で、気が高まらないのは、「不安や怒り」を内蔵しているからかもしれません。
どこかに行って吐き出せるといいのですが、私にはそういうことがほとんどできないのです。
節子はそれを知っていました。
だから私の話はすべて(聞き流しながらも)受け止めていてくれたのです。
かけがえのない、良き伴侶でした。