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■小さな変化の中に、大きな変化の予兆が含意されています(2015年1月1日)
新しい年が始まりました。
最近は、しかし、新年を迎えたという感激を感じません。
歳のせいもあるかもしれませんが、大晦日も元旦も、平板化してしまい、特別な日というような気がしなくなってきています。2018
近くのスーパーは、今日も朝からいつもと同じように営業していました。
生活にリズムをつける節目がどんどんなくなっているようです。

元日の新聞からメッセージや呼びかけが感じられなくなってきたのは、いつからでしょうか。
テレビに至っては、メッセージどころか、内容のない番組だらけになってきています。
私の印象論ですが、日本の社会はどんどん「痴呆化」しているような気がします。
時代は、大きな岐路にあると思うのですが、ジャーナリズムの世界の人たちの「やる気」があまりにも伝わってこないのです。
今日は、新聞は10分ほど、テレビはほとんど見ないで終わってしまいました。

こうしたことは、この数年、じわじわと進んでいる変化のような気がしますが、今年は、それが加速されているように感じます。
社会がどんどん劣化しているようで不安です。
社会の劣化は、個人の生活ばかりか生命さえも危険にさらしかねません。
80年前の日本やドイツは、こんな感じだったのかもしれないと思うと、恐ろしくなります。
杞憂であればいいのですが。
しかし、小さな変化の中に、大きな変化の予兆が含意されています。
見逃さないようにしなければいけません。

新年最初の時評は、もう少し元気なものを書きたかったのですが、今年はこんなことしか書けません。
今年は、好ましいと思われる予兆をできるだけ見つけていきたいと思いますが、いささか心配の年の始まりでした。
気になって仕方がない「小さな変化」が、あまりにも多すぎます。

■新年湯島カフェへのお誘い(2015年1月2日)
新年早々からのお誘いです。
昨年は、湯島ではさまざまなカフェサロンを開きました。
今年もまた、いろんなテーマやテーマなしの集まりをやろうと思っています。
時にテーマが重かったり、難しそうだったりすることがありますが、参加していただけるとわかりますが、いつもきわめてカジュアルで気軽なサロンです。
気楽に過ごせ、ほっとできる場を目指しています。
私が行けなくとも、誰かが開いてくれるような、みんなのカフェサロンの場に、湯島の空間がなればいいなと思っています。
普段はあまり接点のないような、いろんな立場の人が出会える場になれば、もっとうれしいです。

そんな思いを込めて、新年交流会を兼ねて、今年最初の湯島カフェサロンを開催します。
誰でも大歓迎ですので、コーヒーを飲む感じでお立ち寄りください。
もちろん時間内での出入り自由です。
まだお会いしたことのない、このブログの読者にも、お会いできればうれしいです。

○日時:2015年1月4日(日曜日)午後1時半〜5時 (5時閉店)
ご都合のいい時間にコーヒーを飲みに来る感じでお立ち寄りください。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
場所がわからなかったら、下記に電話ください。
03−6803−2575
○会費:500円

ではお会いできるのを楽しみにしています。

■「歴史は人間をユートピアに導きはしなかった」(2015年1月2日)
今日のタイトルは、昨年読んだ山崎憲さんの『「働くこと」を問い直す』(岩波新書)の書き出しの文章です。
この文章がずっと気になっています。
そして、「私たちは何か大きな間違いをしているのではないか」と思いだしています。
一言で言えば、今はまさにユートピアではないのかということです。
それに気づかず、人は常に先を目指す、つまり「進歩」を目指す。
でもそれは人を幸せにするのでしょうか。

人は、幸せであろうと同じ状況が続くと退屈します。

アーサー・C・クラークの「都市と星」はSFの古典ですが、そこには理想の都市ダイアスパーが登場します。
そこで暮らす人たちは、1000年の寿命を得て、平安な生活を楽しんでいます。
主人公のアルヴィンは、その快適な生活に甘んじることなく、禁断の「都市の外」へと出ていくのですが、そこはユートピアとは反対の不安と危険の世界です。
いまもってよく使われるSFのひとつのスタイルです。

安心と快適な暮らしが保証されている社会と明日に何が起きるかわからない社会と、どちらが暮らしやすいでしょうか。
私はずっと前者だと思っていました。
だから、誰もが安心して快適に暮らせる社会を目指す活動に取り組んできました。

しかしその一方で、その世界から出ていくことは魅力的だと感じ、実際にはその選択肢をとってくることが多かった気がします。
明らかに人は矛盾しています。

自分の居場所がしっかりと決まっていて、やるべきミッションも決められている社会は生きやすいでしょうか。
私は、そうした社会がいいと思っています。
最近の日本企業が元気がないのは、そういう組織になってないからではないかなどとも思っています。
しかし、これもまた本当にそうなのか。
よくよく考えてみると、そんな社会や組織は退屈ではないのか、
タイトルの文章を見た途端に、なぜかそんな疑問がふっとわいてきてしまいました。
もしそうなら、考えを改めなければいけません。

人は不安や危険を臨んでいるかもしれない。
そう思って社会のあり方を考えると、違うビジョンが出てきそうです。
なぜ低所得者たちはさらに格差を広げるアベノミクスが好きなのか。
なぜ若者たちは憲法9条を捨てて戦争を好むのか。
なぜ危険だとわかっている原発再稼働を選ぶのか。
みんなもしかしたら「平安」に退屈しているのかもしれません。
そう考えれば、いろんなことが納得できます。

何か皮肉に感じられるかもしれませんが、皮肉でも逆説でもありません。
そういう風に考えることもできるということです。
そう考えれば、厭世観や人嫌いが治るかもしれませんし。

最近の世間嫌いは、自分の身勝手な「正義感」や「価値観」に呪縛されているせいかもしれません。
思考の「公理」に呪縛されている人たちばかりだと嘆いている私自身が、まさにそうなのかもしれません。
時々、そう感ずることが増えてきています。
所詮は、みんな「時代の子」なのです。

今年は、その呪縛からもっと自由になろうと思っています。
ますますわけのわからないことを、このブログでも書くかもしれません。
困ったものです。

■ヘンリー・スティムソンの知恵(2015年1月3日)
最近、いろんなトラブルに巻き込まれたせいか、人への信頼感が揺らいでいました。
世の中には、もしかしたら「本来性悪の人」がいるのではないかと、少し思い出していました。
そう思うと、ますます人への不信感が高まります。
会いたくないなどと思うことさえあるようになってしまいました。
それでは、人生は楽しくなりません。
昨年の私の体調不良は、そのせいかもしれません。

昨日、真夜中にふと思いだしました。
ヘンリー・スティムソンの言葉です。
スティムソンは、アメリカのトルーマン政権の陸軍長官でした。
1965年の9月の閣議で、ソ連を威圧するために水爆開発に積極的なトルーマンに対して、彼は異を唱えます。
彼はこう語ったそうです。

私が長い人生で学んだ教訓。
それは、ある人間を信頼にたる人間にする唯一の方法は、こちらが彼を信頼することである。
こちらが不信感を示せば、相手は信頼できない人間になる。

この言葉を、私は昨年、オリバー・ストーンが語るアメリカ史で知りました。
とても納得できます。
信頼したければ、信頼すればいいのです。
その信頼が純粋のものであれば、絶対に裏切られることはないでしょう。
もし思った通りにならなかったとすれば、問題は自分にある。
実は、私も頭ではそう思っています。
しかし、なかなかうまくいきません。
どうしてでしょうか。
私の信頼の仕方が十分でないからなのでしょうか。
それとも、日本社会の本質が変わってしまったからでしょうか。

私が子供のころは、間違いなく、みんな他人を信頼していました。
人をだましたり、泥棒したりする人がいたとしても、それは生きるための苦肉の策であって、悪い人はいませんでした。
もう一度、みんながお互いに信頼できて、少しくらいの悪事は許容できる社会を目指せないものでしょうか。

今年は、もう一度、スティムソンの教訓を意識しなおそうと思います。
その手始めに、まずは自分を信頼することから始めようと思います。

■学生時代のような熱い議論を取り戻そう(2015年1月6日)
4日に新年交流サロンを急に思い立って、開催しました。
12人の参加がありました。
初めて湯島のサロンに参加してくださった方から翌日、メールが来ました。

昨日は久しぶりに学生時代に戻ったような
楽しい時間を過ごすことができ、本当にありがとうございました。

たしかに、言われてみると、湯島のサロンは、学生時代を思い出すような喧々諤々の議論がよくおこなわれます。
時には、ホットになりすぎて、少し雰囲気が険悪になることもあります。
ぎりぎりのところで、一応、ホストの私がストップをかけて、雰囲気を変えるスウィッチャー役を果たすのですが、時に私自身が議論で熱くなってしまい、うまくいかなくなってしまうこともありました。
メールをくださった方は、50代の学生時代、弁論部だった人です。
その方が書いているように、自由に話し合うのは楽しいものです。
当日、一番燃えた議論は民主主義と現在の政治の話でした。
国会に熟議がない現在、国民である私たちが本音をぶつけ合わなければいけません。

フェイスブックに参加者の笑顔の写真をアップしたら、参加した女性の方がこうコメントしてくれました。

笑顔の写真もいいけど、皆さんの真剣な姿も悪くないなと思いました。
写真を見ると「楽しい」ように見えないかもしれませんが、様々なバトルが楽しかったですよ♪

大人になると、青臭い議論や真剣なバトルは避けるようになってきます。
私のような青臭い議論が大好きで、つい熱くなってバトルになってしまう大人はそう多くないかもしれません。
学校を卒業してもう50年以上たちますが、いまもなおバトル議論が大好きです。
ただし、相手が本音で語ってくれる場合ですが。
だから湯島のサロンは、時々、青くホットになるのです。

私は、いまこそ青臭い議論が必要だと思っています。
知識をため込んでわかったようになることが、一番罪深いことだろうと考えています。
自分で考え、それを隠すことなくぶつけ合い、相手からも学び、これからの社会に向けてのしっかりした生き方を実践しなければ、社会はますます砂上の楼閣になっていくように思います。

しかし、メールくださった方が感じたように、そうした「議論の場」が大人になるとなくなってしまうのです。
分別などというおかしなことに自己規制されて、本音を語ることをみんな躊躇してしまいがちです。
紅白歌合戦で、サザンが安倍首相を裸の王様にもじったような歌を歌ったそうですが、本音を語ることを控えている人たちも、私には裸の王様の仲間に見えます。
本音も話せず生きていても楽しくないでしょう。

今年は、若いころを思い出して、青臭い議論をどんどんするようにしませんか。
話したくなったら、ぜひ、湯島に来てください。
こんなテーマでサロンをしたいというご希望がある方には、湯島を喜んで開放させてもらいます。

人間は話しながら考え、実践策を見出していくものです。
対話や熟議の時代を取り戻したいです。
人間として生まれたからには、最後まで人間として生を全うしたいものです。

■真実を語れるのは体験者だけです(2015年1月7日)
昨日に続いて、4日のサロンでの発言をもう一つ。

サロンには福島で仕事をされている方が参加されました。
福島の原発事故の後、自らが線量計を24時間装着した生活をずっと続けています。
そのデータを踏まえて、事故後の福島の状況に強い危機感をお持ちです。
湯島でも何回か、報告をしてもらいましたが、今回のサロンに参加した人たちにとっては初めて聞く話も多かったようで、質問攻めで、やむなく途中で話題を変えなければいけなくなったほどでした。
そして、ある人が、そうした実情はどうしたら入手できるのかと質問しました。
その方は、それはここの湯島サロンですよ、と応じました。

そのやりとりで、私はふたつのことを思いました。
まず、福島原発事故後の福島の状況について、あまりに情報がないということです。
というよりも、意図的に事実を隠すために、違うところに焦点を当てた情報がマスコミによって広げられているように思います。
真実を隠す最良の方法は、情報を知りたい人が望むだろう情報をどんどんと流すことです。
別に嘘をつかなくとも、真実のある部分を切り取って編集して流せば、正反対の印象を与えることなど、そう難しいことではないのです。
人は、聞きたいこと聞き、見たいものを見るものですから。
福島の被災地ツアーに参加しても、みんな同じものを見てくるわけではありません。
大切なことは、事実はできるだけ直接に見聞することでしょうが、まずはその姿勢を持つこと、少なくとも与えられる情報ではなく、自分で調べようとすることです。

もうひとつは、情報を入手できるのは「ここの湯島サロン」という意味です。
その気になれば、そういう場所はつくれるのだというのが、その意味でしょう。
直接福島に知り合いはいないとしても、周りを探せば、事故後の福島を体験している人は必ず見つかるはずです。
その人が東京に出てきた時に、その人を囲んで話を聞く場をつくることは難しいことではないでしょう。
そういう場はすでにたくさんありますが、もっともっと増やしていくことが大切です。
それも講演会ではなく、相互に話し合い確認しあえる場です。
そして、そういう場をつくる人が増えてくれば、もっともっと多くの人が福島の現実を知ることになるでしょう。

原発事故問題に限らず、そういうサロンが日本全国にどんどん広がれば、日本は変わっていくでしょう。
少なくとも、たくさんの道があることに気づくことができるでしょう。

■恐ろしいのは無責任な自粛と自粛のない無責任さです(2015年1月8日)
今朝の朝日新聞に「政治家のネタ、NHKで没」というコラム記事が載っていました。
ちょっと気になる記事がでていました。
お笑いコンビの爆笑問題がTBSのラジオ番組で、NHKのお笑い番組に出演した際、事前に用意していた政治家に関するネタを局側に没にされたことを明らかにしたのだそうです。

新聞記事によれば、爆笑問題の田中裕二さんが「全部ダメって言うんだよな。あれは腹立ったな」と語り、それを受けて、太田光さんが「プロデューサーの人にもよるんだけど、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための」と話し、田中さんは「色濃くなってるのは肌で感じるね」と応じたようです。

爆笑問題のおふたりには、自粛させるということこそが圧力の存在だということへの認識はないようです。
それに、自粛した人の言い分に従うこともまた自粛であるという自覚がないようです。
いずれも商業主義的な世界でのせめぎ合いでしかありません。
爆笑問題のような、典型的な権力寄生型の道化師的御用芸人は、権力にとっては好都合な存在でしょう。

これについて、NHKの籾井会長は8日の定例会見で、一般論として「個人名をあげて、色々お笑いのネタにするのはちょっと品がないんじゃないか」と語ったそうですが、籾井さんと爆笑問題はきっと気が合いそうです。

それはともかく、パリでは、イスラム教を揶揄する風刺画を掲載した新聞社シャルリー・エブドが襲撃され、画家も含めて12人が死亡するという事件が起きました。
「表現の自由」への攻撃として、犯人たちは非難されています。
そいえば、少し前には金正恩暗殺を題材としたコメディー映画「ザ・インタビュー」に反発した北朝鮮がサイバーテロを起こしたと話題になりました。
これに対しても、表現の自由の侵害と世界的なキャンペーン活動が展開されました。
私は、表現の自由の大切さは十分に理解しているつもりですが、表現する側にも節度があって然るべきだと思っています。
テロを起こすのはよくありませんが、テロに駆り立てるのも、好ましくはありません。
いかに自由とはいえ、個人の尊厳を揺るがすようなことは許せませんし、それは私には風刺とは思えません。
権利を実行する人には、それなりの責任と覚悟が求められます。

シャルリー・エブド社は、言論の自由を守るためにこそ、自粛もできたはずです。
ただやみくもに批判し風刺すればいいわけではありません。

ふたつの事件は、正反対のように見えて、私には同じものに感じます。
恐ろしいのは無責任な自粛と自粛のない無責任さです。

■経済とはだれのため、何のためにあるのか(2015年1月11日)
来週あるビジネススクールで、「社会性企業」というテーマで話をします。
「社会性企業」という言葉は、私の造語ではなく、数年前にあるビジネススクールの一こまを頼まれた時に、指定されたタイトルです。
私自身、この言葉の意味を考えあぐねましたが、話し手が理解できていないタイトルで講義もするのもいいものだと思い、引き受けてしまいました。
もう4年ほど引き受けていますが、講義の最初は、受講者たちに「社会性企業ってなんですかね、何か矛盾した言葉ではないですかね」と質問することから始めています。
しかも、最後もまた、「で結局、社会性企業ってなんなのでしょうか」という疑問で終わるのです。
困ったものです。

私の講義は1年間のカリキュラムの最後のセッションです。
一昨年は、後で湯島にやってきた受講生から、他のすべての講義と真反対のことを言われて頭が混乱したという人もいました。
頭が混乱することはいいことです。
学ぶということは、混乱からしか始まりませんから。

ところで、今回は、経済ってなんでしょうか、という問いかけをしようと思っています。
経済成長が生活をよくするとか、経済とは金銭の話だとか、最悪の場合は、全体が豊かになれば格差はなくなるだろう、などといまだに思っている人がいるからです。

とてもわかりやすい現象が今起きています。
「円安」です。
円安で大企業は、何も変えなくとも、輸出を通して利益を増加させられます。
その利益が下請け企業や従業員を通して社会に流れて、みんなの生活をよくすると言われます。
しかし、実は円安によって増加した利益の源泉は、円安によって負担の増加を強いられた下請け企業や生活者が負担しているのです。
以前、トリクルダウンのことを少し書いたことがありますが、要は格差拡大によって、豊かな人はさらに豊かになっていくのです。
最近は、それを経済と称する人が増えています。

最近、トマ・ピケティの「21世紀の資本」が話題になっています。
昨日はNHKまでもが取り上げていました。
本も売れているようですが、私にはとても読み切れる内容はないので、まったく関心はありません。
それにそんな膨大なデータ解析をしなくても、実際の生活者にはわかっていることだけですから。
何も知らない学者の難しい議論にごまかされるのは避けたいものです。
ほとんどの場合、事実は簡単なのです。
富の増加は、どこかから収奪してくるしかないのです。

昨日、挽歌に水俣の緒方さんのことを書きました。
漁師の緒方さんは、漁師は自然の海から魚を盗んでくる泥棒だと自分のことを言っています。
その罪の意識を持つことの大切さを教えてくれているわけです。

話がそれてしまいましたが、経済とはだれのため、何のためにあるのか、それを今回はみんなに訊いてみようと思います。
それだけでも、講義はいいのではないかと思いますが、それではいかにも愛想がないので、昨日、90枚を超えるパワーポイント作成しました。
疲れ切りました。

ところで、皆さんは、経済をどうお考えでしょうか。

■原子力損害賠償制度の意味を考えるカフェサロンのお誘い(2015年1月12日)
福島の原発事故は、それまで隠されていた、さまざまな問題を露呈させてくれました。
しかし、それにもかかわらず、大きな流れは変わらないどころか、逆に問題が隠されたり、加速されたりしているような気がしてなりません。
私は、まさに60年前の水俣病事件と同じではないかと思っています。
それもあって、この年明けに、「国家」に見切りをつけて、新しい視点で活動をされた水俣病患者でもある緒方正人さんの「チッソは私であった」という本を読みました。

その中で、保険や補償の意味についても、緒方さんは鋭い問題提起をしています。
それで改めて、保険とか共済といった問題も考えてみようと思っていた矢先に、原子力損害賠償制度について、問題提起しつづけている本間さんから電話をいただきました。
本間さんは、加害者保護に向かう原子力損害賠償制度の動きに危機感を持たれています。
それで、本間さんとお話して、本間さんの危機感をテーマにサロンを開くことにしました。
本間さんは、「反原発の大事なことを見落としていないか」「だれが日本を動かしているのか」という問題も視野に入れて話し合いたいと考えています。
タイトルは「原子力損害賠償制度」ですが、そこから見えてくる社会の統治構造やいま私たちに問われていることがテーマです。
本間さんは研究者ですので、タイトルも専門的な問題ですが、むしろ「本間さんの怒り」をテーマにしたサロンができればうれしいです。
いまの社会は、なぜか「怒り」が、無意識のうちに抑圧され、おかしな方向を向いてしまっているのが恐ろしいです。
本間さんは、問題はシンプルで普遍性があるとお話になっています。

平日の夜になりますが、ぜひ関心のある方のご参加をお願いします。
そうしないと本間さんの怒りは解けませんので。

○日時:2015年1月27日(火曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:加害者保護に向かう原子力損害賠償制度を放っておいていいのか
○問題提起者:本間照光さん(青山学院大学教授)
30~40分ほど、本間さんに問題提起していただき、その後みんなで話し合いです。
○会費:500円

■パリの大規模デモへの一抹の不安(2015年1月13日)
連続テロ事件が起きたフランスの各地で11日、テロに屈しない決意を示す大規模な行進があったと各紙が報じています。
フランスのメディアによれば、200万人を超える人が参加したそうです。
しかも、パリでのデモ行進の先頭には、国家や宗教を超えて、さまざまな人たちが歩いていました。
オランド大統領の呼びかけに応じて、イギリス、ドイツの両首相らが腕を組んで行進し、その隣には、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長の姿もありました。
それをテレビで見た時には、感激しました。
大きな困難の前には、団結が実現するのだと思ったのです。

しかし、テレビで見たパリの共和国広場の大群衆の映像が、気になってしまいました。
なぜかヒトラーの演説に集まった大群衆に、イメージが重なってしまったのです。
こんなことを思うこと自体、非難されそうですが、どこかに間違いが隠されているような気がしてなりません。

今朝のテレビでは、イスラム過激派ボコ・ハラムが、少女に自爆テロを強制した事件を報じています。
許されない非道な行為と報じられていますが、私もそう思います。
しかし、なぜ彼らがそこまでやってしまうのだろうか、という疑問も同じようにますます強まってきます。
本当に、イスラム過激派だけを責めていいものなのか。
パリの行進に集まった各国の首脳たちに、責任はないのか。
そして、イスラム過激派に関する報道は、果たして事実なのか。
そうした問いかけが、ますます大事になってきているように思います。

父親を水俣病で亡くし、自らも水俣病患者だった緒方正人さんは、その著書「チッソは私であった」の中で書いています。

私がチッソの中にいたらどうしただろう、30年、40年前、チッソの中にいたらどうしただろうかと考えることがヒントでした。今まで被害者、患者、家族というところからしか見ていないわけですね。立場を逆転して、自分が加害者側にいたらどうしただろうかと考えることは今までなかったことでした。そして、私も同じことをしたんじゃないかという恐ろしさを初めて感じました。

緒方さんは、問題の立て方を変えることにしました。
そして緒方さんは、チッソに対する訴訟からおり、新しい生き方にうつりました。
その基本にあるのは、人間の尊厳性の回復です。

対立からは、何も生まれません。
人として話し合えば、そして魂が通じ合えれば、殺し合うことは起こらないでしょう。
それに、人間は社会的な存在ですから、生物的な「生命」を奪わなくとも、相手を殺すことはできます。
そして、自分では気づかないまま、相手を殺していることもあるのです。
非道な行為を始めたのはどちらが先かは、大きな目で考えなければなりません。

共和国広場の大群衆に熱気の中から、何が生まれて来るのかに、いささかの不安があります。
歴史は繰り返すとよく言われますが、そうならないことを祈るばかりです。

■誠実な生き方(2015年1月15日)
私の好きなテレビ番組「小さな村の物語 イタリア」の190話のことを挽歌に2回ほど書きましたが、その最後に、「誠実な生き方」という言葉を使い、それに関しては時評編で書くと予告してしまいました。
それを読んだ読者から、楽しみにしているというメールをもらいました。
番組を見ていた時には、71歳のロレンツォ・パルマーノの生き方に、私とは比べようもないほどの誠実さを感じたのですが、改めてそれについて書こうと思ったら、なかなか考えがまとまりません。
しかし、メールをもらったからには書かなければいけません。
さてさて困ったものです。
しかし、ロレンツォの生き方から私たちが学べることは多いと思います。

たとえば、こんな生き方です。
ロレンツォは、挽歌に書きましたが、狩りが趣味です。
猟犬を数匹飼っており、もう年老いて猟ができない老犬も2匹います。
彼らの食事づくりも、ロレンツォの仕事です。
愛犬の食事が終わると、なぜかまた別の食事づくりです。
そしてそれを畑の外に置きに行きます。
実は森にいるシカが畑を荒らさないように、畑の外に食事を置いておくのです。

私はイスラム過激派への抗議のデモを思い出しました。
ロレンツォの態度とあまりにも違います。
シカに畑を荒らされるのは、ロレンツォにとっても嫌なことでしょう。
だからと言って、畑に網をめぐらすわけではありません。
もちろん抗議デモをして、行政に解決を求めるわけでもありません。
その代わりに、森に食べ物がなくなってしまったシカのために、わざわざ食事をつくって提供してやっているのです。
ナレーションでは、「自然へのレスペクトを忘れない」と語られていました。
レスペクトは感謝に通じます。
自分に禍をもたらすように見えるものにも感謝する。
私が最近、「誠実」と感ずる生き方は、こんな生き方かもしれません。

パリの市民たちには、こうした誠実さがありません。
イスラム過激派と言われている人たちも、好きこのんで暴挙に出たわけではないでしょう。
追い詰められて、これ以上、生きてはいられなくなっての暴挙かもしれません。
もしそうなら、「敵」(もしいるとしたらですが)はほかにいる。
むしろ一緒になって解決策を考えるのが、私が考える「誠実な取り組み」です。
「対立」は、誠実の欠如から生まれるのかもしれません。
暴挙には屈しないと声高に叫んで、あえて風刺画を再掲するような行為は、相手の思いを逆なでするだけで、言論の自由を大切にする姿勢とは思えません。
ロレンツォの行動とパリ市民の行動は、私には真反対に感じられます。

ちなみに、ロレンツォの誠実さは、シカや自然に対してだけではないでしょう。
だからバールの最終日に、谷間中の人たちが来てくれたのでしょう。
誠実さは、いつも幸せをもたらすのです。
私のお別れ会にはどれほどの人たちが、自発的に行こうと思ってくれるでしょうか。

ついでに、同じ番組に出てきた91歳の木工職人ルイージ・スクレムさんの言葉も紹介しておきたいと思います。
彼はこう語っています。

人生、誠実に仕事をすることが大切です。
支払いもなんでもごまかすことはしてはいけないんです。
そうすれば大きな問題なく、毎晩いい眠りにつける。
稼ぎは少なくても、安心できて心おだやかなのが一番です。

私が誠実に生きていないことの証は、時々、いい眠りにつけないことです。
誰かをごまかすことはしていないつもりですが、ルイージには遠く及ばない生き方なのでしょう。
反省しなければいけません。

長くなりました。
また続きを少し書いていきます。

■一緒に生きている社会(2015年1月16日)
昨日、書いた「誠実な生き方」につなげて、しばらく「新しい経済」に関して書くことにします。

昨日、韓国で暮らしている佐々木夫妻にお会いしました。
雑談の中で、私が百済と新羅の文化圏では今も何か違いがありますか、と質問したのですが、やはり違いはあるそうです。
そして、こんなことを教えてもらいました。
百済のあった朝鮮半島南西部の全羅道は豊かな穀倉に恵まれていたので、食べ物には困らず、住民たちは誰にでも食べ物を振る舞い、そのため、食堂がなかったのだそうです。
いまでも「食は全羅道」と言われているそうです。
今は食堂もたくさんありますが、ソウルとは出てくる量や味がずいぶん違うそうです。
とても興味深い話です。

以前、水俣に行った時に、水俣病が引き起こした地域問題の解決に尽力した吉本さんのお宅に泊めてもらいました。
朝、寝坊してしまったのですが、起きたら誰もいません。
食事するところには朝食が用意されていて、勝手にご飯をおひつからよそって食べた記憶があります。
食べていたら、誰かが来たような気もします。
もちろん鍵はあいていて、誰でもが勝手に入ってきてご飯を食べられるようになっていました。
私の勝手な記憶違いかもしれませんが、たしかそんな文化がまだ残っていたような気がします。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、1943年のベンガル飢饉を分析し、実際には、飢饉発生時には飢饉以前よりも多くの食糧生産量があったことを証明しました。
要するに、その食料が適切に配分されなかったために大飢饉が起こったのです。
飢饉は食料不足から起こるだけではなく、経済や社会の仕組みからも起こるのです。
これは、全体の経済成長と個々人の生活とは決して比例関係にはないことを示唆しています。

昔の全羅道や水俣のような社会では、食事に関しては金銭のやり取りはありません。
つまり現在の経済基準では、経済成長はおろか、低所得の貧困地域にみなされかねません。
しかしお金が流通していなくと、豊かさは実在するのです。
自然からの恵みは、たとえそれを得るために特定の個人が汗をかく必要がありますが、基本はみんなのものという認識があれば、いまとは違った経済が育っていくはずです。
全羅道や水俣の話、あるいはセンの主張は、それを示唆しているように思います。

■自分に禍をもたらすように見えるものにも感謝する(2015年1月17日)
コメリアンス村のロレンツォは、自分の畑の野菜を荒らしに来る野生のシカに、野菜を荒らさないでほしいと畑の外側にエサを置いています。
それは、荒らされないための防衛策だと考えることもできますが、野菜を与えてくれる自然への感謝の思いを込めたお返しとも考えられます。
皆さんはどうお考えでしょうか。
私は、ロレンツォの心情は後者だと思います。
自然とともに生きている人たちは、自然の恵みは自分だけのものではなく、みんなものと自然に考えているだろうと思うからです。
日本でも農家の人たちはできた野菜を通りがかりの人にまであげてしまうことを私も体験しています。

そこに、私は2つの深い意味を感じます。

まずひとつは、自然の恵みは独占してはいけないということです。
たしかにそれを収穫するために、個人的にも大きな努力をしたでしょう。
しかし、努力すれば収穫できたわけでもありません。
自然の恵みがあればこその収穫です。
そういうことをきちんと知っているのだろうと思います。
水俣の芦北で漁業をやっている緒方さんは、海の魚はまさに自然の恵みであり、
昔は漁師はとってきた魚を村中に配ったといいます。

もう一つは、災いを与えるものも含めて社会は構成されているということです。
災いかどうかは、受け取り方次第です。
シカは確かに畑を荒らしますが、シカも生態系の重要な一員です。
シカがいればこそ、自然の循環環境は守られているのです。
私たちは、目先の特質で考えてきた結果、いまのような不安定な世界になったのかもしれません。

「災いを与えるものも含めて社会は構成されている」という考えを、私たちは強く持つべきでしょう。
ロレンツォは、本能的にそのことを知っているのでしょう。
いやロレンツォに限りません。
自然とともに生きている人たちは、たぶんそのことを知っているはずです。
そして、そう考えている人は、決して、相手の存在を否定はしないでしょう。
そうであれば、パリの反イスラムデモは起きるはずもない。
反ユダヤ主義も在特会のようなヘイトスピーチデモも起きないはずです。

最近、多様性が大切だと盛んに言われています。
しかし本当に多様性が大切だと思い、行動している人はどれほどいるか。
もっとロレンツォから、私たちは学ばなければいけません。

■マイナス面から考える経済(2015年1月17日)
ロレンツォの話をもう一度書きます。

ロレンツォの趣味は狩りです。
畑の外側に、シカのために餌をつくって置いておくようなことをしながら、一方では時々、森に行ってシカを撃つのです。
これをどう理解すればいいでしょうか。

それぞれを別々に考えると矛盾するように思いますが、たぶんそれはセットのものなのでしょう。
つまり、関係性の中にはそれぞれにとってプラス面もあればマイナス面もあるということです。
どちらか一方にしか価値が流れない関係は、収奪か犠牲でしかありません。
それでは関係は持続しません。
持続する関係とは、プラス(利益)もマイナス(負担)も双方向に流れ合っている関係だろうと思います。
言い方を変えれば、プラスもマイナスも、同じコインの裏表かもしれません。
それは薬を考えればよくわかります。
どんな良薬も、マイナスの副作用を持たないものは、たぶんないでしょう。
効果が大きいものほど、劇薬性を持つものです。

昨今、私たちは商品のプラス面だけに着目しがちです。
つまり「プラス面しか考えない経済」になっているわけです。
「不足の時代」はそれでもよかったかもしれませんが、いまのような「過剰の時代」には、プラスの効用よりもマイナスの弊害の方が大切になってきているように思います。

関係性全体を、あるいは社会全体を、ホリスティックに考えていくことも大切です。
昨日も農業に造詣の深い方とお会いしたのですが、その人は農業は土から収奪するのではなく、土と一緒に育っていかないといけないということを話してくれました。
野菜を育てるために土の養分をもらう代わりに、土の健全性を維持し育てるために、土にもきちんとお返しをしていかねばいけないということです。
しかし、それは大量の化学肥料を施すということではありません。
それはますます土を死に追いやることになるからです。
化学肥料はプラス面もありますが、じわじわと土のいのちをむしばんでいく劇薬でもあるからです。
プラスだけを見てしまうと、マイナス面が見えなくなってしまうわけです。

農業に限らず、そうしたプラス面だけをみながらの経済が、あるいは生活が、社会を覆いだしているような気がしてなりません。
もっとマイナス面から考える経済があってもいいように思います。

■大義なき選挙(2015年1月18日)
今日は我孫子市の市長選挙の投票日でした。
1時過ぎに投票に行ってきましたが、1時現在の投票率が12%強でした。
いかにも低いですが、今回はやむを得ません。

昨年末の衆議院選挙では、世間は「大義なき解散選挙」と騒いでいましたが、私は選挙はそれ自体に大義があると思い、そういう記事をこのブログに書きました。
しかし、もしかしたら、「大義なき選挙」というのもあるのではないかと、今日の投票の帰り道に考えました。
そして、今回の我孫子の市長選挙はまさにそれかもしれないと思いました。

ホームページには少しだけ書きましたが、今回、現職に対して立候補したのは私の知人の女性です。
彼女は、無投票はよくない、市政に対する住民の関心を高めるためにも、立候補するのは住民の義務だという思いで立候補したと私には話してくれました。
その考えには共感できるところがありました。
もし明確に現在の市政に異議があり、それに代わるビジョンを住民に伝えたいのであれば、そしてそれに私自身が納得できれば、私も彼女を応援するつもりでした。
しかし、直接会ってお話を聞いたのですが、それが伝わってこないため、彼女を応援するのをやめました。
彼女には、立候補を思いとどまるように2回かお会いしました。
彼女の思いを実現するためには、市長選への立候補はむしろマイナスだと考えたからです。
以前から準備してきたのであれば別ですが、告示の2週間ほど前に決断して動き出すような状況では、逆に選挙に対する住民イメージにもマイナスだと考えたのです。
厳しい言い方をすれば、もっと誠実に選挙に取り組んでほしいと思ったほどです。
選挙にかかる費用も住民の税金なのですから。
しかし、彼女の決意は固く、立候補したのです。
選挙期間は1週間。現職と私の知人の2人の選挙戦でしたが、あまり選挙カーも見かけませんでした。
そんな状況で、たぶん我孫子市の多くの住民は今日が投票日だとさえ気づかない人もいたでしょう。
必ず選挙に行く友人も、今回は投票には行きませんでした。
投票率を低くするのは、必ずしも住民の政治意識が低いだけではありません。
立候補する側の意識の問題も、大きく影響することに気づきました。
「大義なく選挙」もあるのです。

今回の投票率は33%弱でした。
選挙への信頼性や意義は、我孫子ではますます低下してしまったような気がします。
とても残念でなりません。

■経済成長のための企業か社会をよくするための企業か(2015年1月19日)
「新しい経済を考えるシリーズ」その4です。

現在の経済活動を主導しているのは、企業と言っていいでしょう。
その企業の目的はなんでしょうか。
私が会社に入った時に、会社の経営者から聞いた言葉のひとつは、雇用の場を増やしていくことでした。
松下幸之助は、松下電器は家電製品だけではなく、人をつくる会社だと言っていました。
また、水道の蛇口から出てくる水のように、低価格で良質なものを大量供給することでみんなの生活を豊かにしたいという「水道哲学」を松下幸之助は唱えていました。
当時、いずれにも、私は共感していました。
私が、経営者に違和感を持ち出したのは、1980年前後からです。

それにしても、最近の企業の経営者は何を目的にしているのでしょうか。
いとも簡単に従業員を解雇し、会社は、人をつくるどころか、人を壊す場所になってきています。
多くの経営者が考えているのは、目先の利益であり、経済成長への寄与だけのような気もします。
経済成長への寄与が、会社の目的になったようにすら感じます。
日本企業の統治スタイル(コーポレート・ガバナンス)の変質の結果が、それを加速させました。

経済は、本来は「経世済民」といわれるように、社会のため人々の生活のためのものでした。
そのために経済の健全な(社会や生活に役立つ)成長が大切だったのです。
しかし、いつの間にか、その手段や結果であった「経済成長」が目的になってきました。
そして、成長をはかる基準は「金銭」になっていきます。
「金銭経済成長至上主義」「マネタリーエコノミクス」です。
金銭を介さない活動は、価値を失い、金銭を得ることだけが「仕事」と評価されるようになり、女性たちもまた「社会進出」という名目で、金銭市場に取り込まれてきたわけです。
次第に、経済成長と社会の豊かさとは切り離され、社会全体の「汎市場化」が進みます。
つまり、生活や文化が「市場化」され、社会を壊すことで経済成長が実現していくようになっていきます。
その結果、経済成長も壁にぶつかることになるでしょう。
そうした事例は私たちのまわりにいくらでもあります。
地方の荒廃の原因の多くは、その結果です。

こういうことに関しては、このブログでも何回も書いてきていますし、私自身、そうした経済スキームから少しずつ抜け出す生き方に変えてきていますが、そう簡単には抜けられません。
先日も九州の友人が、夫婦2人であれば、月に10万円もあれば豊かに暮らせると話してくれました。
その友人は、いまはその数倍の収入を得ていますが、一度そういう生活に慣れてしまうと、なかなか10万円生活には移れないのも事実です。

経済や企業の変化は、人々の生活や文化、そして意識を変えてきてしまっています。
しかし、金銭経済成長はそろそろ限界にきているような気がします。
どこから変えていくかは難しいですが、まずは可能な範囲で、それぞれが生き方を変えることから始めないと流れは反転できないように思います。
逆に、そうしようと思えば、個人にもできることはたくさんあるように思います。

■ムスリム国家との関係の行方(2015年1月21日)
イスラム国による日本人殺害予告映像が流れ、大きな問題になっています。
とうとうここまできたかという思いでいっぱいです。
この映像には、いささかの違和感がありますが、それはそれとして、日本ももう戻れなくなりそうです。
信頼関係は、構築するのは時間がかかりますが、壊れるのは瞬時です。
その瞬時が、まさに昨年の7月1日だったのかもしれません。
憲法学者の水島朝穂さんは、最近の著書(「立憲的ダイナミズム」)の中で、こう書いています。

彼(安倍首相)が「閣議決定」でやったことは、憲法の大原則である平和主義の根幹(首)を斬り落とす「憲法介錯」にほかならない。
内閣は、憲法に違反する内容の「閣議決定」を行ったのである。
これは「平成の7.1事件」として記憶されるべきだろう。

「憲法介錯」は、憲法解釈に欠けて言葉です。念のため。
学者の言葉としては、いささか過激ですが、そこに水島さんの真情が感じられます。

「立憲的ダイナミズム」は数名の方が書かれている本ですが、そこにやはり憲法学者の君島東彦さんがこんなことを紹介しています。

NGOの一員として、12年間にわたってイラクの民衆に寄り添い、イラクの状況を見てきた米国の平和活動家、ペギー・フォー・ギッシュは、「イスラム国」に対する米国等の空爆はテロリズムを封じ込めることにはならず、むしろテロを拡散・強化することになるだろうと予想している。

まさにそうなってきています。
戦いの構図の捉え方を変えなければいけません。
これも君島さんの論文の中に出てきていますが、イギリスの国際政治学者ケン・ブースは、われわれにとっての脅威は、敵国の兵器や軍隊ではなくて、互いに対峠する兵器システム、戦争システムであり、われわれの敵は、攻撃しようとするテロリストではなくて、テロリズムを選択肢にしてしまうような歴史的不正義であるといっているそうです。

人同士の戦いではなく、人とシステムの戦いだと考えると、世界の風景は違って見えてきます。
いささかSF風に聴こえるかもしれませんが、チャールズ・ライクが半世紀前に喝破した通り、敵は「システム」なのです。
問題の構造を見誤ると、事態はますます泥沼化するようで不安です。

もうひとつ気になることがあります。
2004年のイラク日本人人質事件で起こった「自己責任論」ブームのような動きが出なければいいのですが。
当時の日本の有識者たちの反応は、いかにも哀しくさびしいものでした。
たとえば、上坂冬子さんの発言を知った時には、衝撃的でした。
http://c-oizumi.doorblog.jp/archives/51313768.html
こういう風潮に加担しないように注意しなければいけないと改めて当時を思い出しています。
そして、私たちの政府が何をしているかを問い直す契機にもしたいと思っています。
これは決して、私と無縁な事件ではないのですから。

■メアリー・カルドーの提言(2015年1月23日)
イスラム国による日本人拘束事件はまだ解決されずにいますが、この報道を見ながら、昔読んだメアリー・カルドーの「新戦争論」を思い出しました。
副題に「グローバル時代の組織的暴力」とあるように、カルドーは、戦争の概念を拡大し、国家間の戦争とは違った「新しい戦争」が生まれてきていることをとてもわかりやすく説いています。
出版した2年後に、9・11事件が起きていますが、日本語の翻訳がでたのは2003年でした。
そのおかげで、日本語訳には9・11事件に関する小論が付け加えられています。
そこで危惧されていることが、最近のイスラム国の動きをみていると、まさに起こっており、いまもって世界は的確な対応ができていないのではないかと思わせられます。
カルドーの指摘をきちんと受けて対応していたら、イスラム国事件は起きなかったのではないか。
世界は戦争の構図を読み違えてしまっているのではないか。
そんな気がします。

カルドーの指摘を受けて世界をみれば、かなり違った世界が見えてきます。
もしかしたら、今回の事件も起きなかったかもしれません。
安部首相のエジプトでの2億ドル発言への評価も、違って見えてきます。

カルドーの「新戦争論」の「日本語版へのエピローグ」だけでも読むと、世界の見え方が少し変わるかもしれません。
私が昔、メモしていた部分を少しだけ紹介します。

カルドーは、9・11事件をアメリカへの敵対行為としてではなく、「人道に対する罪」と表現しています。
イスラム対アメリカではなく、人道への攻撃と捉えます。
戦いの構図が変わります。
キリスト教徒もムスリムも、一緒になって立ち向かう構図になります。
人道に反する結果を引き起こす空爆行為は、その構図からは生まれないでしょう。

ではどういう対抗策がありうるのか。
カルドーは、「人道の原則に対する主体的関与と人間の多様性に対する尊重」を信条とする「コスモポリタン」のネットワークを育てていくことだと言います。
そして、グローバル化によって疎外され、困窮に陥っている人たちをどう支援していくかにこそ、暴力の連鎖から抜け出す鍵があるというのです。

とても共感できます。
しかし、私がこの本を読んでから10年近く立ちますが、相変わらず「古い戦争」の呪縛の中で、世界はますます暴力にシフトしているような気がします。

世界を捉えるパラダイムを変えなければいけないのではないかと、テレビの報道をみながら思い、カルドーの「新戦争論」を少しだけ、今日、読み直しました。

■イスラム国からのメッセージ(2015年1月25日)
イスラム国によって拘束されていた一人が殺害されたかもしれないという報道がなされています。
もし事実だとしたら、とても残念なことであり、その行為は許されるべきではありません。

しかし、その一方で、私にはとても気になることがあります。
ほぼすべての報道が、一方的にイスラム国を非難するだけであることです。
しかも、残虐だとか非道だとか、感情を込めた非難が繰り返されています。
もちろん、それを否定する気はありませんが、彼らがなぜそうした状況に追いやられているのかも考えるべきではないかと思うのです。
イスラム国のメンバーもまた、平和のために戦っていることを忘れてはいけません。
そうした想像力が少しでもあれば、事態は違った方向に向きだすかもしれません。

人の命が、もし大事であるとすれば、イスラムの人たちの命も同じように考えなければいけません。
最近の報道は、イスラム国側の非道さ、残虐さばかりを報道していますが、その「自分たちは正義」と言わんばかりの姿勢には違和感を持たざるを得ません。
報道されているイスラム国の姿勢と何が変わるというのでしょうか。

殺害予告の映像を見た時に、そして2億ドルの要求を聞いた時に、私が感じたのは、日本人に対するイスラム国からの強いメッセージでした。
私たちもまた、イスラム諸国の人たちが追いやられている世界を支えているのではないか、少なくとも、そうした世界状況に無関心のまま、中東での「非人道的な状況」を見過ごしているのではないか、ということを、イスラム国は警告しているのではないか。
さらに、日本はその道を意識的に進みだそうとしているのではないか。
昨年の集団的自衛権の閣議決定(7.1クーデター?)は、その始まりを予感させます。
そして、この時期におけるエジプトでの2億ドル支援も、そうした文脈で考えれば、人道支援に名を借りた体制づくりと受けとめられても仕方がないとも思います。
ましてや、こうした状況(拘束された2人の日本人の解放交渉を水面下で進めていたと思われる状況)のなかで、首相が声高らかに明言することは、イスラム国にとっては、実に挑発的な行為に見えても仕方がありません。
「お金」こそが、いまのような状況をもたらしてきたのですから。

念のために言えば、私はイスラム国を弁護するつもりもなく、日本政府を非難するつもりもありません。
ただ、私たちはこの事件でイスラム国の非道さを責めるだけでいいのかということです。
私たちの考え方や行動も、これを契機に問い直す姿勢が必要ではないかと思うのです。

少なくとも、私たちはもう少しイスラム世界のことを知る必要があります。
お互いに知り合い、学び合うことから、平和は始まります。
非難するだけでは状況は変わっていきません。
私が、カルドーの「新戦争論」を改めて読み直したのも、そのためです。

イスラム国からのメッセージを無駄にはしたくありません。
私たちはもっとイスラム世界で起こっていることに、関心を持ちたいものです。
そして、私たちがそこにどうつながっているのかを考えたい。
それこそが、グローバル化された世界の生き方だと思います。
そして、問題は、私の生き方にまでつながっていることを忘れたくはありません。
問題は決して「お金」では解決しないことも。

■子どもたちの目(2015年1月25日)
後藤健二さんの撮影した子どもたちの写真を少しだけ見せてもらいました。
後藤さんは子どもたちにも好かれていたようです。

それをみながら思い出した2つの記事を紹介します。
長いですので、今回はコメントなしです。
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まずは先日読み直したカルドーの「新戦争論」に出てくるものです。
ノルウェー人の心理学者による、ボスニアの少年イヴァンとの面談記録です。

9歳の子供に、自分の父親が親友を銃で殺したことをどのように説明することができるだろうか?
私はその子自身にどう考えているかを話してくれるよう頼んだ。
彼は私の目をじつと見て言った。
「彼らは、脳にとって毒となるものを飲んでいるんだと思う」。
そして彼は突然付け加えた。
「だけど今はみんな毒におかされているから、きっと水の中に毒が入ってるんだと思う。汚染された貯水場をきれいにする方法を見つける必要がある」。
そこで私が子供も大人と同じように毒におかされているのかと質問すると、彼は首を振って言った。
「ううん、全然。子供の体は小さいから、毒もあまりたまらない。それに子供や赤ん坊はほとんど牛乳を飲んでいるから、毒には全然おかされていないよ」。
私は彼に、政治という言葉を開いたことがあるかと質問した。
すると彼は飛び上がらんばかりの勢いで、私を見て言った。
「そうそう。それが毒の名前だよ」

もう一つは、ヴィクトル・ユーゴーの情景詩「1871年6月」です。
1871年のパリ・コミューン事変について書かれたものだそうですが、私は最近読んだ川口幸宏さんの「19世紀フランスにおける教育のための戦い」で知りました。
同書からの引用です。

流れた罪深い血と清らかな血で染まる
石畳の真ん中の、バリケードで、 
12歳の子どもが仲間と一緒に捕らえられた。
− おまえはあいつらの仲間か? − 子どもは答える、我々は一緒だ。
よろしい、ではおまえは銃殺だ、将校が言う。
順番を待っておれ。 − 子どもは幾筋もの閃光を見、
やがて彼の仲間たちはすべて城壁の下に屍となった。
子どもは将校に願い出た、ぼくを行かせてください、この時計を家にいるお母さんに返してくるから。
− 逃げるのか? − 必ず戻ってくるよ。
− このチンピラ恐いのだろ! 何処に住んでるんだ?
− そこだよ、水くみ場の近くだよ。だからぼくは戻ってきます、指揮官殿。
− 行ってこい、いたずら小僧! 
− 子どもは立ち去った。− 見え透いた罠にはめられたわ!
それで兵士たちは将校と一緒になって笑った、
瀕死の者も苦しい息のもとで笑いに加わった。
が、笑いは止んだ。思いもかけず、青ざめた少年が
璧を背にして、人々に言った、ただいま、と。

愚かな死は不名誉である、それで将校は放免した。

それぞれから強いメッセージを受け取れます。

■「恫喝」よりも「祈り」(2015年1月29日)
矢部宏治さんの「日本はなぜ、「基地」と「原発」をとめられないのか」という本が話題になっていますが、その中で、矢部さんは自民党の憲法改正草案をみれば、日本の現在の水準は「近代文明の尺度で測れば、3歳の幼児くらいでしょう」と言われても仕方がないと書いています。
もちろん戦後、日本人のことをダグラス・マッカーサーが「近代文明の尺度で測れば、12歳の少年」と言ったことをもじっている言葉です。
私も自民党の憲法改正草案は、その解説まで含めてきちんと読みましたが、唖然とする内容です。
それに関しては、以前、このブログでも10回にわたり私見を書きました。
私のホームページにもまとめて転載しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm
自民党の憲法改正草案をきちんと読んだ人は、おそろしくて自民党には投票しなくなるだろうという気はします。

イスラム国日本人拘束事件の報道を見ていて、矢部さんが書いたことを思い出しました。
テレビ界に登場している人が、もし日本人の知的水準を示すのだとしたら、いささかおそろしさを感じます。
日本人は、いわゆる「有識者」たちよりはまともだと思っているからです。
しかし、日本人は世界的に見て、異常にマスコミへの信頼度が高い国民だそうですので、テレビ界での有識者のレベルに知的水準が落とされる恐れは十分にあります。

一番驚いたのは、イスラム国でも戦略発想する人がいるのかという、有名なキャスター役の人のいかにも相手をバカにしたコメントを聞いた時です。
さすがにその時には、フセイン政権時代の優秀な人材などがイスラム国には移っているという中東に詳しい人のコメントがありました。
今回の事件でのイスラム国の展開は、実に戦略的だったと思いますし、最初から首尾一貫していて、着実にシナリオ展開してきているように私には思えます。
また今回のヨルダンの対応も見事に感じます。
もしかしたらイスラム国とヨルダンは仕組んでいるのではないかとさえ思えます。
ただし、こうした思いも、私があんまり信頼できないでいるテレビから得た情報からの組み立てですので、まあ砂上の楼閣的推測でしかありません。

しかし、はっきりしていることはいくつかあります。
日本の政府や事件を報道する人たちの「目線の高さ」と「恫喝的な姿勢」です。
発言を聞いていると、相手を卑劣だとか残虐だとか、言語道断だとか、非難だけで、相手を理解しようという姿勢が感じられません。
それでは交渉どころか、コミュニケーションも成り立ちません。
政治的なパフォーマンスという側面もあるでしょうが、相手の立場を認めて、相手が聴く耳と大義を得られるような配慮は必要でしょう。
少なくとも、首相という役割を踏まえれば、「最低の品格」は維持すべきだと思います。
世界に向けては、日本人の代表なのですから。
それにくらべて国民の多くは「祈り」を基本にしています。
「一刻も早く解放しろ」よりも「無事帰ってきてほしい」の方が、たぶん相手の心には響くでしょう。

この事件から見えてくるのは、日本の政治と社会の実相のような気がします。
しかし、どうやら先が見えてきたようでほっとしています。

■「祈り」よりも「自分の生き方の見直し」(2015年1月30日)
昨日、イスラム国による日本人拘束事件も、先が見えてきたようでほっとしていると書きましたが、どうもそうでもないような感じに展開しています。
さらに事件の向こう側が見えてきて、ほっとするどころかやはりぞっとするべきかもしれません。
まだ私の推測は捨てきれずにいますが、いささか甘かったと反省もしています。

ところで、昨日の記事では「恫喝」よりも「祈り」だと書きました。
しかし、今日は「祈り」より「自己反省」だと言いたい気分が強まっています。
祈りを否定するつもりはありませんが、単に「祈る」だけではなく、こうした事件をひき起きしたことに対して、自らの生き方を一度問い直すべきだということです。

「I am Kenji」の運動が広がっています。
あるいは、後藤さんを支援するサイトもいろいろとできてきています。
私の友人も立ち上げていますし、私も一つだけあるサイトにサインしました。
しかし、やはりどこか違和感があって、心が動きません。
「I am Kenji」のカードをもった写真を何回も見ているうちに、その違和感はますます高まっています。
ましてや「私はシャルリー」の呼びかけの写真とつなげて考えると、むしろ否定的にさえなります。
少なくとも「私はシャルリーではない」の方が、私にはぴったりくるからです。
ジョージ・クルニーでさえ始めたというニュースには驚きました。
これを機に、私はクルーニーファンであることをやめました。
事の発端の一つは、シャルリーの恥ずべき行為だったと私は思っているからです。
すべての物語には始まりがあるのです。

日本の「I am Kenji」運動は西前さんの純粋な思いからスタートしているようです。
西前さんの純粋な思いには微塵の疑いもありません。
その言葉には心から共感できます。
しかし、その運動に参加している有名人の写真を見ているうちに、どうも違和感が出てきてしまうのです。
あなたたちの活動がイスラム国を生み出したのではないかとさえ思ってしますのです。
いや、イスラムの一部の人たちが、自爆テロまでして抗議している今の世界を作ってきたのは、有名人だけではありません。
私たちの生き方が、それを支えてきたのです。
そうであれば、私にも責任はある。
世界を変える出発点は、いつも自分にあります。
祈りは、そうした自己反省、自らの生き方の問い直し、そして生き方を変えていくことがあってこそ、力を持ちます。
祈りが意味を持つのは、祈る人自身の誠実さです。
誠実さは自らの生き方に裏付けられていなければいけません。

この事件を契機に、多くの人たちの生き方が変わっていけば、世界はいつか変わるでしょう。
しかし、祈る一方で、問題を相手に帰責しているようでは、イスラムの人たちや貧しい人たちをますます窮地に追い込んでいく世界になりかねません。
私は、祈りの中に、自らが生き方を変えられるようにという祈りも加えたいと思います。

たしかにイスラム国の取り組みには憤りを感じます。
しかし、彼らがなぜそういう行動をとるのか。
相手を責めるだけでは、前に進みません。
相変わらず好戦的で攻撃的な発言を繰り返している日本の政府にこそ、矛先はむけられるべきだろうと思います。
そして、こういう世界を支えている私自身の生き方にも批判の目を向けるべきだろうと思います。
祈りも大事ですが、まずは私の日常行動を変えなければいけません。
だれかに帰責しても、誰かを非難しても、事態は変わりません。

私に何ができるのか。
すぐには何も変化は出ないと思いますが、100年後には世界が変わっていることを念じながら、その方向に向けて、さらに一歩を踏み出したいと思います。

■イスラム国にどう立ち向かうか(2015年1月31日)
イスラム国による日本人拘束事件は硬直状況に陥ってしまっているようです。
この事件が起きた時に、思い出して、メアリー・カルドーの「新戦争論」を読み直したのですが、改めてカルドーの指摘が心身に響いてきました。
もしカルドーのいう「コスモポリタン・アプローチ」を取り入れていたら、9.11以降の世界の歴史は変わっていたように思います。
また今回の事件に対する対応も、別の道があったはずです。
日本政府は、相変わらずアメリカ依存の対応に終始しています。

カルドーは同書でこう書いています。

(「新しい戦争」においては、)恐怖と憎悪を蔓延させる戦略に対抗して、人々の「感情と理性」を育むという戦略が取られなければならない。
排除の政治に対して、包容の政治が行われなければならない。

日本政府の対応はどうでしょうか。

ちなみに、カルドーの言う「コスモポリタン・アプローチ」は、「アイデンティティ・ポリティクス」と対比されていますが、決して、アイデンティティを否定しているものではありません。
カルドーの説明によれば、「地球規模で多様なアイデンティティが存在することを尊び、複数の相重なるアイデンティティを受け容れるとともに、むしろ肯定的なものと考え、そして同時に、全ての人間存在の平等と、人類の尊厳を尊重するため主体的に取り組む」ポリティクスです。

カルドーはまたこうも書いています。

コスモポリタン・アプローチは、紛争当事者の政治目標を受け容れてしまってはどのような解決策も機能しないことから、コスモポリタンな原則に沿って機能するような代替的な政治に基づいてのみ、正統性の回復が可能になるという前提に立っている。

「イスラム国」という呼び方の是非がようやく議論されだしていますが、問題は「言葉」ではなく、その実体をどう捉えるかでしょう。
そして大切なのは、「代替的な政治」というビジョンと理念に基づいた対応ではないかと思います。

■後藤さんの行為を無駄にしないために思うこと(2015年2月1日)
イスラム国に拘束されていた後藤さんが殺害されたというニュースが流れています。
それもかなり信憑性は高いようです。
事実であるとすれば、実に悲しく、また恐ろしいことです。
終始、毅然としていた後藤さんの生き方に、深い敬意を感じます。
いまの報道が事実でないことを、いまもなお祈りたいと思います。

「非道で卑劣」な行為と相手を責めているだけでは、後藤さんは喜ばないでしょう。
語るのさえおぞましい事件ですが、後藤さんの生命を賭した行動から、私たちは学ばなければいけません。
どんなに「非道で卑劣」な行為に見えても、物事には必ず理由と意味があります。

昨日も書いたように、カルドーは「恐怖と憎悪を蔓延させる戦略に対抗して、人々の感情と理性を育むという戦略」が大切だと語っています。
私には、この言葉が深く心に響きます。
毅然としてテロに立ち向かうことは必要ですが、それは相手を非難し暴力的に抑え込むことではないはずです。
テロを引き起こす状況を克服することにこそ、毅然と立ち向かうことでなければいけません。
恐怖と憎悪の罠に陥ることだけは避けたいものです。
それでは、相手と同じ存在になってしまいかねません。
大切なのは、相手の立場と思いに誠実に耳を傾けることでしょう。

問われるべきは、「彼らはなぜこんな非道で卑劣な行動をしたのか」ではなく、「私たちはなぜ彼らにこんな行動をさせてしまったのか」であるべきでしょう。
そして、自らにもまた、相手にとっての「非道で卑劣な行為」はなかったかを問い質すべきです。相手を責めるだけでは、問題は解決できません。
まずは、自らが正すべきことはないかを考えることで、事態は変わっていくでしょう。

エジプトで安倍首相が発信した2億円支援をイスラム国は口実にしました。
これは戦闘に加担することではなく、人道支援だと日本は応じました。
しかし、そうした論理への異議申し立てこそが、イスラム国を支えている論理かもしれません。
たとえば、カルドーはすでに15年ほど前に「新戦争論」でこう書いています。

私は、実際の人道的介入は、「新しい戦争」の性質について、一種の近視眼的な認識に縛られてしまっていた点を強調したい。
人道的介入は戦争を阻止することに失敗したのみならず、実際にはさまざまなやり方で戦争が継続することさえ助けたかもしれない。

これだけ引用すると誤解されるかもしれませんが、カルドーは事例を含めてていねいに説明しています。
そして、新しい戦争においては、闘い合う敵同士にさえ、戦争経済面での多層的な依存関係が生まれることも示しています。
人道的介入という言葉で、思考停止してはなりません。
「介入」である以上、戦いの構造をきちんと踏まえておかなければいけません。
わかりやすい例は、アメリカ軍によるイスラム国への空爆です。
空爆はイスラム国を標的にしていますが、イスラム国支配下の住民を殺害してしまうことで、逆効果を生み出す危険性も持っています。
つまり「戦いの構造」と「戦いの目的」が変質していることを認識しなければいけません。

長くなってしまいました。
今回、私が学んだことのひとつは、世界から見たら、日本はもう「平和国家」の道を捨てつつあると思われているということです。
私たちの日本も、イスラム国化していくのかという恐怖です。
今回の事件は、そうした危機への警告のような気がします。

シリアには行けませんが、国会前のデモや都内の集会には、私でも行けるはずです。
シリアの子どもたちのところには行けませんが、私の周りに人たちにささやかなエールを送ることは私でもできます。
シリアに入る前の後藤さんの表情は、とても明るかったのが印象的です。

■平和日本60年の終焉(2015年2月3日)
今回のイスラム国日本人殺害事件は残念な結果になってしまいました。
すべては「後知恵」ですが、いまから考えるとこの結末は、1月20日に殺害予告が公にされた時にほぼ決まっていたのかもしれません。
中途半端な浅慮で、希望的見通しを持ったことを反省します。
時代は思っている以上に早く進んでいるようです。
改めてニーメラーの思いを噛みしめなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html
後藤さんが身をもって教えてくれたことも忘れてはいけません。

後藤さんの行動に関しては、さまざまな議論が起きていますが、いつものように関心が些末なところに行ってしまい、いつのまにか忘れられることが心配です。
しかし、この事件は、日本が外部からどう見られているかを示すものでもあります。

昨年の7月1日、安倍政権は集団的自衛権を閣議決定で認めました。
それは、公約にも掲げずに選挙で大勝した党首が、憲法を踏みにじった「事件」でした。
国会での審議も経ずに、この60年、守り続けられてきた「専守防衛」という国家の基本が崩され、戦争が再び国政の選択肢になったのです。
いまなお世界の常識である「近代国家思想」からすれば、それは「正常化」とも捉えることができます。
そもそも立法・行政・司法という三権分立の上にあるべき「統治」あるいは「軍事」という、近代国家の本質がこの60年の日本にはありませんでした。
しかし、それを「国家の欠陥」と考えるか、「新しい国家への挑戦」と考えるかは、人それぞれでしょう。
私は後者と考えていました。
日本国憲法はアメリカ政府によってつくられたかどうかの議論も盛んですが、統治なき近代国家の実験こそは、新しい世界への挑戦として大きな意味があると考えてきました。
それはまだ、アメリカという暴力管理下型の近代国家のサブシステムでしかなかったかもしれませんが、そこから得た知見は大きく、それを基本にした「新しい世界」構想が可能なのではないかとさえ期待していました。
昨年の7月1日の閣議決定は、それを否定して、歴史を引き戻すことになりました。
日米同盟の事実が、にわかに大きく感じられるようになってきました。

今回の事件が、こうしたことによって引き起こされたとは思いませんが、無縁でもないように思います。
イスラエル国家の樹立をテーマにした映画「栄光への脱出」の最後のシーンを思い出します。
この映画は明らかなプロバガンダ映画ですが、イスラエル国の成立と同時に、仲よく暮らしていたユダヤ人とアラブ人が殺し合いを始めます。
主人公アリ(ユダヤ人)の盟友だったアラブ人は、アリに別れを言って去った後、仲間に殺されてしまいます。
なぜかその時に感じた哀しい記憶を今回思い出しました。
先日紹介した、ボスニアの少年が言ったように、
政治こそが世界に毒を撒いているのかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/01/post-1bf3.html
そういう政治ではない政治の可能性を、日本の60年に期待していたのですが。
残念でなりません。
たぶんもう元には戻らないでしょう。

■今年最初の「ちょっとハードなカフェサロン」のお誘い(2015年2月4日)
今年最初の「ちょっとハードなカフェサロン」は、常連メンバーの折原利男さんからの提案で、昨年、出版された『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)を材料にして、いまの日本の社会の問題を話しあうことになりました。
企画者の折原さんのメッセージをお読みください。

矢部宏治さんの『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』を読んで、その「秘密」の答えにショックを受けない人はいないでしょう。そしてその現実を乗り越えて進むしか、われわれの未来はないことも確信できると思います。この本が提起する問題を、是非ともカフェサロンの皆さんと共有し、どうしていったらよいのかを一緒に考えていただきたいと願っています。

念のために言えば、「基地」や「原発」がテーマではありません。
私たちの生き方や社会のつくり方がテーマです。

なお、このテーマに関連した、折原さんの評論「金子光晴と現代」を参加者にはあらかじめ送らせてもらっていますので、ご希望の方はご連絡ください。
書籍と併せて、読んでいただければと思います。

●日時:2015年2月21日(土曜日)午後1時半から4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf」
●問題提起者:折原利男さん
●会費:500円

■ちょっと知的なカフェサロンを始めます(2015年2月3日)
湯島のオフィスで、ちょっとハードなカフェサロンというのをやっていますが、それとは別に今度は「ちょっと知的なカフェサロン」を始めることにしました。
「知的」とは何かと言われそうですが、要は私が「面白い」と思ったテーマでのサロンです。
「ハードなカフェ」との違いは、事前準備が不要で、当日、ただ話を聞くだけでもいいというカフェです。
その第1回目は、星座と神話をテーマにした写真家の橋本武彦さんにお話をお聴きすることにしました。
橋本さんが「発見」した、オリオン座と古代の紋章の謎を読み解くことで、古代の信仰について話をしていただきます。
橋本さんは、ギリシアやトルコに住みながら、星座を追いつづけてきています。
その作品は、橋本さんのサイトに一部紹介されていますので、ご覧下さい。
http://www.geocities.jp/TakeAratus/
また今回のテーマをまとめた膨大な原稿もすでにありますが、残念ながらまだ出版はされていません。
今回のサロンを契機に、橋本さんが出版にまた動き出してくれることを期待しています。

ともかくワクワクするようなサロンになりそうです。
よかったら遊びに来てください。

○日時:2015年2月24日(火曜日)午後7時~9時
6時半には開場しています。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「オリオン座から読み解く古代紋章の謎」
○話題提供者:橋本武彦さん
○会費:500円
○申込先:qzy00757@nifty.com

■国家を中心とした安全保障か、人間を中心とした安全保障か(2015年2月6日)
冷戦後の世界では、国家を中心とした安全保障から人間を中心とした安全保障へと視点が変わってきていると言われています。
しかしながら、今回のイスラム国日本人殺害事件に関する日本政府の考え方は、それとは反対の動きを示しています。
いま国会で行われているやりとりを聞いていて、それがよくわかります。
菅官房長官が2日午後の会見で、政府としては身代金を用意せず、犯人側と交渉するつもりはなかったこと(事後の発表ですから、これは「事実」です)を明らかにしたことに関して、孫崎さんがテレビで強く批判していましたが、2人が拘束されている状況の中でも相手と「交渉しなかった」ということは、私には犯人側の一方的な攻撃姿勢と同じように思います。
全く交渉しないということは、解決するつもりがないということと同じです。
つまり、日本政府は最初から2人を「コラテラル・ダメッジ」として考えていたということになりかねません。
日本政府は、国家を守るためには日本人を犠牲にするということです。
もしそうであれば、イスラム国と全く同じではないかとさえ思ってしまいます。
原発事故やその後の原発輸出の動きにも、そうした日本政府の安全保障観が感じられます。

冷戦後に、国家起点ではなく人間起点で安全保障を考えるという動きが出てきたのは、核兵器の出現と無縁ではありません。
抑止力を高めるために核兵器増強競争をしているうちに、核兵器そのものの存在が自らの存在さえも危険にしてきたのです。
つまり、脅威は他国の核兵器ではなく、核兵器そのものになったわけです。
それが結局は冷戦を終焉させる契機になったわけですが、同時に、国家(体制)維持のための安全保障ではなく、人間の生活安全を中心にした安全保障へと大きく流れを変えだすことになったように思います。

テロ行為もまた、核兵器と同じように、国家を超えだしています。
イスラム国は、国と言っていますが、これまでの国家概念には当てはまりません。
いまの構図は、国家を超えた「テロ活動」と社会の関係だと思いますが、9.11を契機に、ブッシュ政権はテロと国家の対立構図をつくってしまいました。
ですから、「イスラム国」などという、わけのわからない存在が生まれてきたのだろうと思います。
そして、最近の日本政府もまた、「イスラム国」と似てきているような気がします。

人間を中心とした安全保障は、むしろ日本がイニシアティブをとっていた時代もありました。
しかし、小泉政権から方向は変わりだしました。
それに関しては、ホームページで何回か書いたことがありますが、安倍政権(第1次も含めて)になって、まさに反転した感があります。

イスラム国問題は、福島とも深くつながっています。
そのことを見落としてはならないと思っています。

■トリクルダウンの逆再配分機能(2015年2月6日)
イスラム国関係の事件のために、しばらく「あたらし経済」シリーズをかけずにいましたが、また再開します。
なお、前回までのものは、下記にあります。

この間、「21世紀の資本」の著者のトマ・ピケティが日本に来て話題づくりをしていきました。
ピケティは、膨大なデータ解析の結果、格差の問題の根底に、「資本収益率は経済成長率よりも大きい」ことを発見し、このまま放置していたら格差は構造的にっさらに拡大すると指摘したのです。
何をいまさらという気もしますが、格差の拡大が資本主義さえも危うくするということを経済学者が明言したことには大きな意味があります。

前回も少し言及しましたが、たとえば「トリクルダウン」についてもう一度考えてみましょう。
トリクルダウンのイメージは、シャンペングラスをピラミッドのように積み上げ、その最上部のグラスにシャンペンを注いでいくと、あふれたシャンペンが次々と下の階層のグラスを満たしていくイメージでとらえていいでしょう。

ここには2つの問題があります。
第1は、グラスの大きさの問題です。
上部のグラスほど、大きいと考えていいでしょうが、そのためピラミッドとしては不安定な構造になります。
上があまりに大きくなりすぎると、ピクティが危惧しているように、社会は壊れます。第2は、上から注ぎ込むシャンペンはどこから持ってくるのかという問題です。
現実には、シャンペンを作っているのは一番最下層なのかもしれません。
しかし、それでも限界はあるでしょう。
もしかしたら、シャンペングラスピラミッドの世界の外部から持ってきたのかもしれません。
ピラミッド内部の下層からすくいあげて、上から注ぐとすれば、結局、下層にいる人たちは、自らが生み出した富、あるいは保有している富の一部しか取り戻せないということです。
となれば、トリクルダウンとは、富の再配分システムではなく、逆再配分システムということになります。
さらに、ピラミッド内部ではなく外部から取り込んでくるとすれば、それは外部からの富の収奪でしかありません。
これもまた「南北問題」という形でかつて大きな問題になったことであり、世界を今のようにゆがめてしまった原因と言うべき、世界レベルでの逆再配分システムです。
さまざまな仕組みで、南北問題は覆い隠されてしまっていますが、実態はますます深刻化し、いま起こっている「イスラム国」問題の遠因も、ここにあるのかもしれません。

現場から吸い上げて、一部を現場に戻すという発想と仕組みは、さまざまな分野に展開されています。
企業の社会貢献活動もその一つです。
あるいは生活保護制度や自立支援制度も、その応用系です。
念のために言えば、それが悪いと言っているわけではなく、そうしたサブシステムをつくっていかないとシャンペングラスピラミッドは崩れてしまいかねないということです。
つまり、資本主義が壊れてしまうということです。
だとしたら、資本主義や社会を壊さないためにも、事態をきちんと捉えなければいけません。
ピケティへの関心が高いのは、そういうことを背景としているとも言われています。
シャンペングラスピラミッドが崩れ去って、一番困るのはピラミッドの上にいる人たちだからです。

トリクルダウンが、きちんと再配分機能を果たしていた時代はあったかもしれません。
しかし、少なくとも今の日本では、逆再配分の仕組みになっているように思います。
トリクルダウン発想で、安直な経済成長を考える経済学からは抜け出なければいけません。

■TBS報道特集「検証イスラム国人質事件」が明らかにしたこと(2015年2月7日)
今日のTBS報道特集「検証 イスラム国人質事件」は衝撃的でした。
新しい発見が少なからずありました。
政府が意図していたことが明白に示されたように思います。
日本政府が考えている「安全保障」が一義的には国民のためではないこと。
またアメリカがやはり日本の政府の上位にあること。
安部首相と菅官房長官の非道さです。
岸田外相も加えるべきでしょう。
沖縄県知事にも会おうとしない2人の姿勢と通ずるものがあります。
こんな人たちに日本の未来をゆだねた私たちは、イソップ物語の蛙たちと同じレベルなのかもしれません。
原発事故の結果を従容と受けざるを得ないと同じように、彼らの暴挙もまた私たちが引き起こしたことを忘れてはなりません。
そんな人たちと同じ時代を生きていることに私は厭世観を高めているのですが、たぶん私も同じように蛙の次元なのでしょう。

ほぼ同じ時間に、WOWWOWで、昨年話題になった「ハンナ・アーレント」を放映していました。
それがとても象徴的でした。
昨年観た時には、いささか期待外れに感じたのですが、もう一度ゆっくりと観てみようと思います。

TBS報道特集が報じた新事実は、本来であれば政権をさえ揺さぶるだろうと思いますが、結果は逆になる恐れもあります。
報道ステーションから古賀さんが外されたという話も聞きますが、キャスターの日下部さんや金平さんが外されないことを祈るばかりです。

■人間ロボット社会(2015年2月8日)
新しい経済は、政治にも深くかかわってきますので、「新しい経済」シリーズと並行して、イスラム国事件から発したシリーズも並行して続けます。

イスラム国の兵士たちを見ていると(もしテレビ報道が正しいとしてですが)、個人の主体性は奪われていて、ロボット兵士のように感じます。
自爆テロリストにも2種類あるでしょうが、子どもまでも「自爆者」に仕上げるというやり方は、人間から主体的な思考を剥奪しているとしか思えません。
彼らは「大義」のために消費される存在であり、いわば「体制」のための部品です。
であれば、人間というよりも、ロボットに近い存在です。
そうした人間ではないロボットと戦うのですから、大変です。

しかし、ではロボット兵士を相手にしている有志連合や日本の人たちはどうでしょうか。
こちらもロボット化しつつあるのではないかという思いが拭い切れません。
報復合戦になってきている状況を見ていると、行動がかなり対称的だからです。
戦うことが目的化した社会は恐ろしい。

そういえば、オウム真理教による犯罪の実行者も、同じようでした。
彼らは自ら思考することなく、指示に従って行動したように思います。
どうもこうしたことは、今回に限ったことではなさそうです。
人間の本性に関わっているのかもしれません。

「民意のつくられかた」という本で、ジャーナリストの斎藤貴男さんは、集団的自衛権の閣議決定に関連して、「事態の重大さに照らせば、この国の世論の寛容さは異様なほどではあるまいか」と書いています。
寛容さには、思考による寛容さと思考停止による寛容さ(無関心さ)があるのかもしれません。
もしかしたら、私たちもまた、ロボット化の道を進んでいるのかもしれません。
そういえば、企業の経営管理者の研究会で、会社で働く人は「部品」のようになってしまったという話になったことがあります。
会社の部品、つまりロボットです。

まさに「マトリックス」の社会です。
これが私たちの目指す社会なのでしょうか。
そんなはずはないのですが。

■STAP細胞事件と理研の対応(2015年2月11日)
理研は、昨日の記者会見で、STAP細胞事件で世間の話題になった小保方さんの刑事告発を考えていると発表しました。
驚きました。
そこまでやるかという感じです。
理研のトップをはじめとした「経営者」側は何の責任も謝罪の言葉もない中で、現場の人だけが苛め抜かれている構図を感じます。
いささか大仰ですが、イスラムの人たちを追い詰めて、過激派を生み出している世界の構図と、どこか似ているような気がしてしまいました。
それにしても理研のトップの野依さんはどう考えているのでしょうか。
かつていささかひどいことを書いてしまったのが気になっていましたが、やはり野依さんはそういう人だったようです。
みんな祭り上げられると世界が見えなくなるのかもしれません。
やるべきことをやらないことは、私には恥ずかしいことです。
まわりに誰か諭す人はいないのでしょうか。

STAP細胞事件は、さまざまなことを気づかせてくれましたが、科学技術の世界がお金まみれになっていることも、気づかせてくれた一つです。
原子力ムラに関しても盛んに言われましたが、真理のためよりも金銭のために動く研究者が増えているのでしょう。
手段だった金銭が、いつのまにか目的になってきているわけです。
一番不幸なのは、科学者たちでしょうか、そんな流れを受け入れてしまったのでしょうか。

これは私の妄想だけではないようです。
世間から脱落しながら生きていると、いろんな人が来てくれて、いろんな話をしてくれます。
そうした話をつないでいくと、お金まみれのアカデミズムの実相も垣間見えてきます。
科学技術立国という言葉の意味も、もしかしたら私の理解と世間の理解は違うのかもしれません。

昨日の理研の記者会見は、とても後味の悪いものでした。
小保方さんいじめとしか思えません。
弱いものいじめの世界からなぜみんな抜けられないのでしょうか。
いじめるとしたら、強いものを対象とすべきでしょう。
安倍いじめが起こらないのが不思議です。
それが今の日本社会の本質なのでしょうか。

■「安全保障のジレンマ」異論(2015年2月11日)
ウィキペディアによれば、「安全保障のジレンマ」とは、「軍備増強や同盟締結といった自国の安全を高めようと意図した国家の行動が、他国に類似の措置を促し、双方が欲していない場合でさえも、紛争をもたらす緊張の増加を生み出してしまう状況」と説明されています。
これは、安全保障の逆説ともいわれることもあります。

しかし、きちんと考えればこれはジレンマでも逆説でもなく、本来的に「安全保障」の捉え方を間違っているだけの話だろうと私は思っています。
とりわけ、最近何回か書いた「国家安全保障」においては、少し考えればすぐわかることです。
「抑止力理論」が示しているように、自国の安全保障を高めるということは、相手の安全を危険にさらすことによって担保されます。
そうした状況が、安定した関係や全体の安全性を危ういうものにすることは明らかでしょう。
しかし、これが国際政治学においては「安全保障」と言われているのです。
生活者の視点から考えれば、なんと馬鹿げたことでしょうか。
不安な状況を創り出すことで、安全が保障されるというのですから。

専門家の難しい理論や言説には、こうした「裸の王様」的な理論が少なくありません。
ですから私は、専門家のいうことだから正しいなどとは思うことはありません。
専門家ほど、専門分野における知識が少ない人はいないとさえ思っています。
知識は、相対的な位置づけがあってこそ、意味があります。
そういう認識のない専門家の知識は、私には無意味なものにしか思えません。

最高の安全保障は、宮沢賢治のいう「みんなが幸せにならないと自分も幸せにならない」ということだろうと思います。
イスラム国を非難し、追い込むだけでは安全な社会は決して来ないでしょう。

発想を変えなければいけません。
追い詰められた人の反撃をなくすには、追い詰めることをやめればいいだけの話なのです。
専門家の難しい議論に騙されないように、無垢な子どもの目を持ち続けたいと思っています。
そして、宮沢賢治がそうであったように、隣に困った人がいれば、自分に何ができるかを考える生き方をしたいと思っています。
もっとも、最近は自分自身に困ったことが増えてきているのが問題なのですが。

■畑を耕しながら考えました(2015年2月12日)
近くの空き地を利用して、畑作業をしています。
と言っても、始めたのは数年前からです。
農地ではないので、土壌が固く耕すのが大変です。
これまで2年かかって、何とか畑に近づきましたが、放射線汚染もあって、野菜を栽培しても食べられないので、モチベーションは低いのです。
しかし、今年は何とか食べられる野菜を栽培しようと思います。

それで今日、思い立って今年最初の鍬入れをしました。
耕耘機がないので鍬で耕さないといけません。
しかし、これが思った以上に大変なのです。
無理をして倒れたこともありますので、あまり無理もできません。
しかし、春になって野草が生えだすと見る間に草で畑は覆われます。
草刈りのスピードより野草の成長の方が早いのです。

しかも近くに竹林があるため、笹の根が地下に縦横に広がっています。
いくら鎌で買っても、根っこから切っていかないとすぐまた復活してくるのです。
しばらくぶりだったので、今日は死ぬほど疲れ、休む時間の方が長かったです。
笹は大変だから除草剤をまくしかないと農業をやっている人から言われましたが、除草剤をまけば土壌も殺されます。
だから大変でも少しずつ野草を刈り取り、土を掘り返し、荒れた土地を畑地にしていかなくてはいけません。

あまりに疲れて畑に転がって、空を見ながらふと、これはイスラム国との戦いと似ているなと思いました。
有志連合は、めんどうなので除草剤を空爆でばらまいているのだなと思いました。
昔、ベトナムの上空を飛行機で飛んだ時に、枯葉作戦で茶色になったベトナムに衝撃を受けたことがありますが、あれと同じだなと思いました。
結局は、ベトナム戦争は住民が勝ちました。

イスラム国は極悪非道だと言われていますが、ベトナム戦争とは違い、住民はどちらなのでしょうか。
そこが少しややこしいですが、やはり空爆はよくありません。
丁寧に少しずつ豊かな土にしていかなくてはいけません。
しかし、それがあまりに大変だと、ついつい除草剤をまきたくなります。
耕耘機を使いたくなります。
でも土中にいる微生物やミミズなどを殺しては、豊かな野菜は育ちません。

しかし、イスラム国のような篠笹の攻撃には、どう対処したらいいでしょうか。
笹には悪意などありません。
根っこから刈り取る時には少し痛みも感じます。
こんなことを考えていたので、結局、ほんのわずかしか耕すことができませんでした。
明日もまた行かなくてはいけません。

イスラム国はこれからどうなるのでしょうか。
畑の行方も心配ですが、やはりそちらの方がより心配です。

■時評が書けません(2015年2月22日)
「絶望という抵抗」という本を見つけました。
辺見庸さんと佐高信さんの対談です。
読むとますます落ち込むだろうなと思いながらも、前書きとあとがきのお2人のメッセージを読みました。
佐高さんが、こう書いていました。
「7月1日の集団的自衛権行使の閣議決定以来、私自身、身体的変調を来たし、ジンマシンが容易におさまらない」
昨日も湯島の集まりに来てくれた友人は昨年末の選挙の後、おかしくなりそうだと言っていたのを思い出しました。
なんとまあ醜い時代になったことか。
にもかかわらず、世論調査によれば安倍政権の支持率は上昇していると言います。
自分もその一人であることも忘れて、日本人を軽蔑したくなります。
そのせいか、時評が書けません。

しかし、昨日、湯島で、ちょっとハードなカフェサロンをやりました。
矢部さんの『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』を読んだ友人が、放っておけないでしょうと、サロンを主催してくれたのです。
11人の人が集まってくれました。
この時代においてもまともな大学教授のHさんが、あきらめてはいけないと言っていたのを思い出しました。
そのHさんは、昨日も参加して下さり、40年前の著書「社会科学としての保険論」を読むようにと渡されました。
これも「あとがき」を読みました。
Hさんが40年以上も誠実に生きていることを知って、自らの甘えを反省しました。

それにしても、と思います。
この時代の流れはもう反転しないのだろうか、と。
社会や歴史は、個人の思いを吸い取りながら動いていくようです。
流れに抗う思いも、すべては大きな流れを勢いづけるだけなのかもしれません。
民主主義とか自由とかを口実にしたトリックが、しっかりと仕組まれている。
そこから外れるとテロと名指され、挙句の果てにはイスラム国や北朝鮮のように、大きな流れを勢いづけるための道具にされていく。
名もない庶民の一人として、テロ行為さえをも自らのエネルギー源にしてしまう時代の奔流に飲み込まれないように生きていくには、どうしたらいいか。

昨日のサロンで少し元気をもらったので、来週からは時評編を再開できるかもしれません。

■りんごが2つ、みかんが3つ。全部でいくつでしょうか(2015年2月23日)
友人の太田さんが子供の頃体験した話です。
私は何回か聞いていますが、聴くたびに、その深い意味への理解が深まります。

太田さんが子供の頃、学校で、先生がこんな問題を出したそうです。
「ここにリンゴが2つ、みかんが3つあります。さて全部でいくつでしょうか?」
たまたま最初に当たったのが太田さんでした。
太田さんは答えました。
「リンゴが2つ、みかんが3つです」
先生は、次の人に訊きました。
次の生徒は「5つです」と答えました。
先生は、「そうですね、5つですね」とその子を褒めました。
太田さんは正解にしてはもらえなかったのです。
そこから太田さんの素晴らしい生き方が始まったのです。
太田さんは、なんでりんごとみかんを同じものとして数えるのかに不満があったのです。
その太田さんの世界観は、いまもなお健在です。

柳田邦男さんが、知的発達に遅れのある女の子が小学校入学前に受けた知的理解力についてのテストの話を紹介しています(「言葉が立ち上がる時」)。

「お父さんは男です。では、お母さんは何でしょう?」。
おそらく小学校へ入学する前の健常児が百人いたら、百人とも即座に同じ答を言うだろう。「女です」と。
しかし、テストを受けていた女の子は、医師が予想もしていなかった答を言ったのだ。「お母さんはだいすきです−」。
こういう答は、学校教育の中では受け入れられない。
「お母さんは女です」と答えないと○を与えられない。正解とされない。
「だいすきです−」では×なのだ。
案の定、女の子はIQ37と判定され、右の質問の答は×とされたのだ。

学校教育とは何なのかがよくわかるお話です。
こうした教育から抜け出さなければいけません。
しかし、私も含めてたぶん多くの人は、骨の髄までこうした教育の成果を身につけているのでしょう。
安倍政権が支持されるのは、学校教育の成果かもしれません。

■太平洋銀行(2015年2月23日)
とてもいい言葉に出会いました。
「太平洋銀行」です。
Eテレの「こころの時代」で石清水八幡宮の田中宮司さんが、津波に被災した岩手県の漁師の方から聞いたという話をされていました。
その漁師の方は、とても明るくこんな話をしてくれたそうです。
今は津波で何もかも失ったが、漁場はもっとよくなって、私たちに富を与えてくれる。
いまは太平洋銀行に預金しているのです。
いずれは必ず恵みを与えてくれるでしょう。

私も南相馬の漁師だった方にお会いした時に、その方がこういっていたのが印象的でした。
すべてを失って気がついたのですが、私たちは海をはじめとした自然から、たくさんの恵みをもらって生きていた。
それなのに、お金儲けのために余計なことをしていたのかもしれない。
その方は、一時期、北海道などに避難されていたそうですが、やはり故郷に戻ってきて仕事を始めたそうです。
その時はまだ量はできない状況でしたが、今頃はどうされているでしょうか。

自然は大きな銀行なのかもしれません。
その銀行に、私たちは預金もせずに引き出してばかりいたのではないか。
生き方を変えなければいけません。

■「自殺者3万人の社会で生きる」を大きなテーマにした学生たちの話し合いのご案内
(2015年3月5日)
時々書き込むように、自殺に追い込まれることのない社会を目指してのささやかな活動に取り組んでいます。
テーマに沿ったラウンドテーブルセッションも続けていますが、今度は「自殺者3万人の社会で生きる」を大きなテーマにした、学生たちの話し合いの場を開催することになりました。
大学の講師をされている先生とその生徒たちが実行委員になって、昨年末から準備を進めてきましたが、開催内容が決まりましたので、ご案内いたします。

主な対象は大学生を中心にした若い世代にしていますが、高校生にも呼びかけられればと思っています。
またこの問題に関心のある方であれば、年齢にこだわらずに参加歓迎です。
ただし、あくまでも話し合いの中心は若い世代の人たちにする予定です。
若い世代の人たちにこそ、こうした問題に関して話し合ってほしいと思っています。
そして、若い世代から、私たち大人はもっと学ばなければいけないと思います。

単発の集まりにせずに、秋には2回目の集まりを開催する予定で、そのためのゆるやかなネットワークづくりも考えています。
そういう場で、政治や経済、さらには歴史や文化の問題を話し合っていければと考えています。

ところが春休みであることもあって、なかなか学生のみなさんへの案内が届きにくく、参加者集めに苦戦しています。
みなさんのまわりに若い世代の人たちにぜひご案内ください。
ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

〔日時〕2015年3月28日(土曜日) 午後1時30分〜4時
〔会場〕青山学院大学(青山キャンパス) 17号館8階17810教室
http://www.aoyamabs.jp/access.html〔プログラム〕
○映画『自殺者1万人を救う戦い』(レネ・ダイグナン制作:52分)をみんなで観る。
○映画を材料にした参加者の話し合い
○こうした問題に対して何ができるかを考える〔主催〕「大学生がいまを語り合う」フォーラム実行委員会(委員長:楠秀樹)
〔事務局〕コミュニティケア活動支援センター
参加申し込みは以下に、メールしてください。
comcare@nifty.com

■保険の社会化は「保険の消滅」をもたらす(2015年3月8日)
昨日、共済研究会のシンポジウムでした。
そこにパネリストの一人として参加させてもらいました。
共済研究会は、「共済の歴史や文化を学び合うとともに、協同組合共済や自主共済、助け合い活動について、研究・交流するため」に、2006年5月に発足した個人の自主研究会です。
私も、友人に誘われて、しばらく参加していました。
私が共済の興味を持った経緯は、ホームページに以前書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0621
会を抜けた経緯も、たぶんどこかに書いています。

今回のシンポジウムの全記録は「賃金と社会保障」という雑誌に収録されます。
それを踏まえて、私の10分間のキースピーチは、ともかく雑誌に記録してほしくて、盛りだくさんの内容にしてしまいました。
ともかくキーワードを話しておけば、雑誌に収録されるときに補足説明しても嘘にはならないからです。
しかし、盛り込みすぎて、うまく話ができずに昨日は落ち込みました。
それに早口だったので、あまり伝わらなかったでしょう。

説明しませんでしたが、配布したレジメに、共済の目指すところは共済事業の消滅だと書きました。
私は、ビジネスの究極的な目標は「自己消滅」だと考えています。
近代の産業の論理は、「自己増殖」ですが、それでは社会はよくなりようがありません。
私が「近代産業のジレンマ」と呼んでいる現象です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm
制度がもし、社会の不都合を正すためのものなら、当然、不都合をなくすことに注力すべきだからです。
不安があるから「保険」や「共済」が求められるのですが、不安がなくなれば、つまりみんなが助け合い支え合う社会であれば、保険も共済もいらないのです。
このことに、実は制度やビジネスの本質が垣間見えますが、誰もそんなことは考えもしません。
私には、それが不思議でなりません。
ただ、私の考えだと経済成長も事業拡大も否定されかねません。
もちろん私はそうは考えていませんが、説明しだすと長くなりそうなのでやめます。
関心のある方は湯島にお越しください。

このレジメをまとめた後に知ったのですが、80年ほど前に「保険の社会かは保険の消滅」と書いていた人がいました。
小林北一郎という人です。
青山学院大学教授の本間さん(今回のシンポジウムの企画者です)が40年前に出版した「社会科学としての保険論」に紹介されています。
本間さんは、今回のシンポジウムの基調講演でも、そのことを紹介されました。

保険の社会化は保険の消滅。
ここには資本主義経済社会を超えていくヒントが含まれています。
自己消滅か自己増殖か。
自己消滅は言い換えれば新しい自己創出です。
私には、気づきの多いシンポジウムでした。

■保険が開くのは平和か戦争か(2015年3月10日)
7日に開催した共済研究会シンポジウムでの感じたことをもう一つ書きます。
いささか過剰に思考を広げた論考ですが。
保険も共済も、自分の仕事をしっかりすべきだとパネリストのおひとりが発言されたことに関連して、思ったことです。
ちなみに、その方の発言にはほぼ完全に共感したうえでの勝手な思いです。

シンポジウムの基調講演で、本間さんは、資本主義はふたたび「戦争への道」に向かっているのではないかと話され、巨大化する保険も、そしてそれに同化しつつある共済も、同じ方向を向いているのではないかと、指摘されました。
そして、そのあとのパネルディスカッションで、大阪損保革新懇世話人の松浦さんが、品川正治さんの「損保はブレーキ産業」だという言葉を紹介しました。
資本主義の暴走を止め、危険を回避する役割が保険にはあるというのです。
品川さんの言葉は、私も保険の意味を考え直す契機になった言葉ですので、その言葉を松浦さんが持ち出したことに共感しました。

しかし、そこで、余計な発言をしてしまいました。
最近の原発再稼働や集団自衛権の動きを思い出してしまったのです。
そこで、この「ブレーキ産業」と「戦争産業」との関係をおふたりに質問させてもらいました。
おふたりからは的確なお答えをもらいましたが、参加者には伝わったでしょうか。
いささか心もとない気がしました。

私の考えはこうです。
もし損害保険業界がしっかりしていたら、原発産業はこれほど広がらなかったといことです。
だれもが知っているように、原発事故は単なる確率論的な計算では考えられません。
保険技術の基本にある「大数の法則」になじまないからです。
ですから再保険の引き受け手はなく、営利保険では対応できずに、国家が引き受けることになります。
しかし、国家とて原発事故には対応できません。
それは今回の福島の事故でだれの目にも明らかになった通りです。
ですから「安全神話」が生み出され、万一、事故が起こった時には、「想定外処理」されることになるわけです。

損保業界が、もし品川さんの言うように、ブレーキ役をミッションとするのであれば、原発事故の持つ意味をきちんと社会に公開し、社会に働きかけるべきでした。
しかし、残念ながら事態は逆を向きました。
中途半端な保険対応により、原発産業はむしろ勢いがついたのです。
そして、福島事故が起こった後も、国家による原子力損害賠償は、原発再稼働を支持し、加速される方向で、事業者保護に向かっています。
これに関しては、本間さんが厳しく指摘していますが、ほとんどの専門家は関心を持ちません。

損害保険産業は、私にはまさに戦争産業に向かっているように思います。
しかし、それは損害保険だけではありません。
保険そのものが、いまや「平和」や「安心」に背を向けだしたように思えてなりません。
私の間違いだといいのです。

メルケル首相と安倍首相が並んで記者会見している姿を見て、思い出したので、書きました。
まだブログがなかなか書けずにいます。

■戦争反対カフェのお誘い(2015年3月14日)

最近の社会状況にはかなり危ういものを感じている方は少なくないと思います。
特に気になるのが、政治とマスコミです。
さらには、私も含めて、私たちの生き方も気になります。
日本が戦争に向かった80年前と似てきているのではないかという人も少なくありません。
私自身、そう思っていて、時代の行く末に不気味さを感じています。
今のままでいいのだろうかと思うのですが、どう動けばいいのかの妙案も見つかりません。

そんな話を友人たちと話していたら、もっと現実を共有していくことが大切ではないかという話になりました。
たしかに、私たちは現実の動きをあまりにも知らなすぎます。
マスコミの報道は、現実のほんの一面でしかありません。
現実をもっと知ることができれば、この流れに異議申し立てするエネルギーも高まるかもしれません。
与えられた情報で生きるのではなく、生きるための情報を求めていかねばいけません。

そこで、極めて短絡的なのでが、問題をわかりやすくするために、「戦争反対サロン」を立ち上げることにしました。
かといって、デモ行進や抗議イベントをしようなどと考えているわけではありません。
まずは、自分が今どんな状況の中にいるのかを認識していこうということです。

毎月、最初の日曜日の午後に、テーマと問題提起者を呼んで開催しますが、サロンなので、参加者の話し合いを中心にしたいと思います。
第1回目は、4月5日ですが、「自民党憲法改正案」をテーマにします。
この改正案の行く先に、戦争が見えてくるからです。
問題提起者は、長年、直接民主主義の実現に向けての活動をしてきた武田文彦さんです。
憲法に関する著書もあり、また現在は雑誌「ベルダ」で独自の政治論を連載しています。

社会の先行きに危惧の念をお持ちの方、あるいはそうでない方、いずれの方も大歓迎です。
喧嘩にならない程度の論争ができればうれしいですが、そうでなくても、自民党憲法改正案への理解を深める人が一人でも増えるだけでも、社会は変わりだすはずです。

みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2015年4月5日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円
○テーマ:自民党憲法改正案を考える
○問題提起者:武田文彦(究極的民主主義研究所所長)
○参加申込み先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■私が尊敬する政治家は鳩山由紀夫さんです(2015年3月14日)
鳩山由紀夫元総理が、クリミアを訪問し、物議をかもしています。
ほとんどの人が、鳩山さんの行動を非難し、実弟さえからも「日本人ではない」と非難されています。
もっとも、「日本人ではない」というのが、非難か褒め言葉かは微妙ですが。
政治家は口をそろえて、国益に反する、世界の平和に反すると言います。
そういう面が、確かにあるかもしれません。

そういえば、鳩山さんは首相時代に沖縄基地問題でも非難されました。
自らが代表を務める民主党の仲間からも裏切られ、官僚の餌食になりました。
あの時も、多くの人は鳩山さんを責めました。

私は、平成になってからの一番尊敬する政治家と訊かれれば、躊躇なく「鳩山由紀夫」と答えます。
彼ほど、政治の原点に返って考えた政治家はいないと思うのです。
それに、現実も変えました。
鳩山さんの沖縄基地発言のおかげで、沖縄の人たちは意識を変えたはずです。
国益ではなく、国民益で考える政治家だと、私は思いました。
少なくとも、彼は「考える政治家」です。
主体性がある。そう思います。

ですから、今回のクリミア訪問も私は、そこに意味を感じます。
少なくとも、鳩山さんには、だれであろうと耳を傾ける姿勢がある。
お金や地位や私情のために生きている多くの政治家とは違うように思えるのです。
もう15年ほど前ですが、私が事務局長をやっていたリンカーンクラブの総会に鳩山さんを呼びました。
その時、話し合いの進行役だったのですが、鳩山さんが参加者の声に誠実に耳を傾けていたことがとても印象的でした。
私の誤解かもしれませんが、鳩山さんは「友愛」を信条にしていると感じました。
当時は、まだ鳩山さんは「友愛政治」という言葉を使っていませんでしたが。
他の政治家とは、明らかに雰囲気が違ったのを覚えています。

今回のクリミア訪問の意味は私にもよくわかりません。
しかし、問題の解決のカギは現場にある、という私の信条から言えば、とても共感できる行動です。
現場に行かずに何がわかるのか。
沖縄県知事に会おうとせずに、沖縄の統治を進めている現政権との違いを感じます。
余計なことを書き加えれば、沖縄県知事に会わずに、新たな基地建設を進めている安倍政権が、自らは戦地にいかずに戦争を手段に持ちたいという方向に進んでいることは、当然かもしれません。

鳩山由紀夫さんを尊敬するなどというと、たぶん多くの人からひんしゅくを買うことでしょう。
もしかしたら、また「死ね!」などというメールも届くでしょう。
日本の社会は、すでにそんな時代になってきているのが恐ろしいです。

しかし、私は鳩山由紀夫さんがなぜか好きなのです。
もちろん個人的な面識は一切ありませんが。

■食養をテーマにしたコムケアサロンのお誘い(2015年3月15日)
お誘いが続いていますが、もうひとつ。

食は文化の基本ともいえる、食をテーマにしたサロンを開催します。
食のテーマから私たちの今の生き方を考える場にしたいと思います。
テーマは「自分自身へのおもてなし食養(マクロビオティックス) 」。
話題提供者は、その分野に造詣の深い栗原さんと林さんです。

介護や子育てなどの活動においては、食の問題は非常に重要ですが、そもそも自らのケアという意味でも、食はもっとしっかりと考えられる必要があります。
いまさらながらではりますが、久しぶりに食をテーマにしたサロンです。
と言っても、ただ単に「食」の問題に限ったわけではありません。

「マクロビオティックス(食養)」に関しては、ご存知の方も多いと思いますが、提唱者の桜沢如一さんの視野はもっと広く深いものでした。
それは「平和」や「大きな福祉」につながるものです。
さらにいえば、そこでは原子転換理論も示唆されています。
放射線汚染に関するヒントさえも、そこにあるかもしれないと、私は考えています。
まあ、今回はそこまでの議論にはならないと思いますが。

長年、食養の考えを実践してきた栗原さんと林さんは、食養の理念が、「だれもが心地よく生きられる社会」に深くつながっているのではないかというお考えから、食養の考えを広く社会に広げていきたいと考えています。
食のありかたは、個人の心身に大きく影響を与えるばかりでなく、その人の生き方や人間関係、さらには社会のあり方にも大きく関わっているというのが、おふたりのお考えです。
最近の、いささか壊れつつある社会のあり方や私たちの生き方を考えると、私もまったく同感です。

そんなわけで、今回はおふたりから、「食養」の理念をお聞きし、食とケアの話ができればと思っています。
同時に、栗原さんと林さんの活動にも、みんなでアドバイスできればと考えています。

当日は、玄米おむすびと番茶も用意される予定です。
いつもとは違ったコムケアサロンになればと思っています。
みなさんのご参加をお待ちいたします。

○日時:2015年3月27日(金曜日)6時30分〜9時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「自分自身へのおもてなし食養(マクロビオティックス) 」
○話題提供者:栗原さんと林さん(食養実践者)
○会費:500円
○参加申込先:comcare@nifty.com

玄米おにぎりの用意がありますので、参加者は事前にお申し込みください。

■最近滅入っている理由(2015年3月17日)
以前、ブログで「誠実な生き方」に関して書いたことがあります。
それを読んだ読者から、こんなメールをもらいました。

「誠」の漢字は、「言」(ものをいうこと)と「成」(なすこと)とからなっています。すなわち、「言を成すこと」。これに「実」(まごころ)がついて、「誠実」。
したがって、誠実:(他人や仕事に対して)まじめで真心がこもっていること、というような辞書に書かれている意味になる、ということが、この歳になってようやく分かりました。お恥ずかしい限りです。

私も、「誠」が「言を成すこと」だという認識はありませんでした。
納得できました。

私は「言葉」を大事にしているつもりです。
言葉にしたことは、基本的に実行しています。
自分で発言した言葉には責任を持つようにしています。
その結果、時に不本意な重荷を背負うこともありますが、言葉は多義的ですから、仕方がありません。
武士や経営者が寡黙な理由は、よくわかります。
私も、できるだけ口を慎むべきですが、それができない性格です。
根が武士ではないからでしょう。

最近、これまでになく滅入っている理由は、もしかしたら、こうしたことに関係しているかもしれません。
それで、冒頭に引用した読者のメールを思い出したのです。

「誠」にはまた、相手の「言」を信ずることも含まれるように思います。
自ら「言を成すこと」のであれば、相手の「言を成すこと」もまた信じなければいけません。
つまり、「言を信ずること」、そして「言によって生きること」こそが、私にとっての「誠な生き方」です。
もちろん、その「言」とは、意味のない音符ではありません。
言葉に「いのち」を吹き込むことがなければいけません。

最近、言葉だけの人がまた増えているように思います。
企業の経営管理者たちと話していると、実体のない言葉があふれています。
議論しているようで全く議論がなされていない状況によく出会います。
恐ろしいことに、それでも成り立つ世界が広がっています。
政治の世界も、まさにそうなりつつあります。

「言を成すこと」のであれば、「言」に意味を与えなければいけません。
言葉には「意符」と「音符」のふたつの側面がありますが、両者があってこそ、「言が成る」からです。
音符だけの言葉づかいの人は、決して「誠の人」にはなれないでしょう。
最近は、「誠のない人」が増えてきました。

しかし、と、さらに思います。
まわりに「誠のない人」が増えているのは、私自らが「誠のない人」になってしまったからではないのか。
そう思うと、納得できることが少なくありません。
私自身が、「誠の生き方」をしていないことに気づきます。
世界は、まさに自分が写っている鏡です。

だから、ますます滅入ってしまい、ブログが書けないのです。
不幸の理由がわかったからといって、不幸から抜け出せるわけではありません。
むしろますます不幸になっていく。
そんな気分です。
困ったものです。

■ニムルド遺跡と辺野古の海(2015年3月17日)
前のブログ記事をアップした直後に、メールが来ました。
まさかと思う人からのメールです。
そこに、こう書かれていました。
「何時も襟を正して!!!!読ませて頂いております。」
え! あの人が! とさらに驚きました。

人間は単純なものです。
このメールで、ブログを書く気が出てきました。
少しずつ再開していきますが、今日は、辺野古のことです。
というのは、先のメールをくださった方が、こう書かれていたからです。
鳩山由紀夫さんのことを書いたブログ記事へのコメントです。

今回の「鳩山由紀夫」に関する文面は目から鱗のもやもやが晴れた思いでした。
今般の沖縄知事の動きもあの首相時代の鳩山さんの活動の流れにあると思っています。
駄目なものはダメと言って良いのだ。言うべきだと。
そして私たち一人一人が沖縄の基地を少しは考えるべきだと。

「イスラム国」がメソポタミアのニルムド遺跡などを破壊しているようです。
ニムルドの遺跡は、私の憧れですので、実に悲しい話です。
博物館のアッカドの彫刻などが壊される様子が放映されていましたが、やりきれない気持ちです。
こうした遺跡は、一度壊されたら、もう回復はできません。
遺跡よりも現在の暮らしが大切だという考えもわからないではありませんが、壊すことはないだろうと思います。
壊したらもう戻らないものもあるのです。
「イスラム国」の行動への、いささかの理解を、私は維持したいと思っていましたが、この映像を見て諦めました。
世の中には、壊してはいけないものもあるのです。

さて辺野古のことです。
基地建設の工事が始まりました。
住民の代表である知事とも会おうともせず、住民反対を無視した、力に任せての暴挙です。
長い歴史の中で育てられてきた美しい海が壊れだすのは、時間の問題です。

「イスラム国」の暴挙と、安倍政権の暴挙と、どう違うのか。
しかも、ニムルド遺跡よりも、辺野古の海の方が、もっと根源的な意味を持っているかもしれません。
ニムルド遺跡は過去を穢すことですが、辺野古の海は未来を穢すことなのです。
忌まわしさは、どちらにより多いか。
私には、もちろん後者の方が、より罪深い行為に感じます。
その動機においても、です。

■18歳の若者に政治を任せられないと思っている人に(2015年3月18日)
最近、私的にもあまり良いことがなく、いささかひがみっぽくなっています。
それでも時には感動的なことにも出会えます。
数日前に、テレビで見た感動的な言葉のことを忘れかけていました。
周辺の不快な事件の続発に、危うく忘れるところでした。
思い出して書いておきます。

東日本大震災の大津波で児童74人と教職員10人が亡くなった石巻市立大川小学校の被災校舎をめぐって、保存か解体かを決める地元住民による話し合いが行われています。
その話し合いの場で、友だちや妹を亡くした大川小の卒業生たちも参加し、保存を望む立場から、その思いを述べていました。
詳しい内容は、次のサイトをご覧ください。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/10/okawa-sho_n_6844410.html
発言の全文も次にあります。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html

卒業生の一人の只野哲也君が、最後に話していたことに、私は感動しました。
だいたいこんな内容だったと思います。

校舎を残してほしい。
しかし、残したくない人もいるでしょう。
その人たちの思いも大切にしたい。
だから私は、時間をかけて、みんなが残すことに合意できるまで、そういう人たちと話し合っていきたい。

表現はかなり違うでしょうが、こういう趣旨だったと思います。
つまり、多数決で決まったから校舎を残すのではなく、きちんとみんなが話し合って残していきたい、と明確に話したのです。
宮本常一の「忘れられた日本人」のなかにでてくる「対馬にて」の寄合を思い出します。
それは、日本における民主主義の実例として、以前はよく引用されたものですが、最近はあまり引用されなくなってしまいました。
これもまた、社会の変質のひとつの結果でしょう。
要旨は、次のサイトに少し説明されています。
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/Miyamoto-Tsuneichi-minzokugaku.htm

只野くんの知性のかけらさえなくなっている政治家たちに聴いてほしかった発言ですが、同時に、18歳から選挙権を与えることに疑念を持っている人たちにも聴いてほしい話です。
むしろ、投票権は、20歳未満にした方がいいのではないかとさえ、私には思えます。

子どもたちの感性と知性を信じなければいけません。
同時に、私たちは子どもたちの言動に耳と目を傾け、自らの心の中にある邪気のない子供時代の感性と理性を思い出さなければいけないと、痛感しました。

■みなさんへの質問です(2015年3月20日)
今朝のテレビで、茨城県の城里町の庁舎移転の様子を放映していました。
城里町の庁舎は、東日本大震災で大きな被害を受け、解体されていましたが、今年度、再建されました。
しかし、その建設工事費や備品購入費をめぐり、今年度の予算がなかなか成立せずに、前の町長が辞任。
昨年9月の町長選で、IT企業「楽天」出身の36歳の上遠野(かとうの)さんが町長に当選したのです。
そしてようやく完成した新庁舎に引っ越すことになったのです。

年度予算案では、新庁舎の備品代が1億3千万円、引っ越し費用が2千万円とされていました。
しかし、新町長はそれを節約しようと決めたのです。
まず備品に関しては、廃校となった学校などのイスや机、ロッカーなどを再利用することにし、ほとんど無償で550点の備品を入手。結局、約50万円に抑えたといいます。
引っ越し費用は、専門業者に頼むのをやめ、職員200人が休日出勤し、シルバー人材センターに登録する高齢者ボランティアにも手伝ってもらって、なんと300万円に抑えたのだそうです。

ある人はブログでこう書いています。

職員自ら荷物を運び、引っ越し代は2千万円から300万円に圧縮できたと朝日新聞が好意的に伝えていますが、これって人件費をカウントできない日本的な浅はかな考えですよね?
引っ越しのプロでもない高級取りの役人に引っ越しさせるより、プロにちゃっちゃとやらせたほうが結果的に安上がりなのは当たり前。

さて、みなさんはどうお考えでしょうか。
いまの社会のあり方や私たちの生き方を考える、たくさんのヒントが、ここには含まれているように思います。

私の考えは、明日、書かせてもらいます。
ぜひみなさんも少し考えてみてください。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔1〕(2015年3月21日)
昨日の時評編で、城里町の庁舎移転の話を書き、それに対してどう思うかを問いかけました。
同じ記事をフェイスブックにも載せましたが、コメントして下さったのは2人だけでした。
対照的なコメントでした。
もっといろんな人の意見を知りたいと思い、私の意見を書くのはもう少し先に延ばすことにしました。
ぜひみなさんの意見を私まで送ってください。
アドレスは、qzy00757@nifty.comです。

私の意見を先延ばしにする代わりに、ちょっと違った問題をもう一つ書くことにします。

先日、あるビジネススクールでみんなに問いかけた問題です。
静岡県の三島に、行政と企業と住民と三者でつくった「グラウンドワーク三島実行委員会」というのがあります。
日本におけるグラウンドワーク運動の先駆的な組織です。
そこの活動のひとつとして有名な事例があります。
行政が行うと施設整備に3000万円かかると見積もられ、財源不足で整備されないでいた新興住宅地の公園を、市民と企業と行政の協力によりなんと5万で作ってしまったという話です。
金額は資料によって少しずつ違っているのですが、ともかく桁が3桁も違うお金しかかからなかったというのです。
さて問題です。
この活動で生まれた価値はなんでしょうか。
これが、講義での私の問いかけです。
ここに、マネタリービジネスとソーシャルビジネスの違いの本質があると、私は考えているのです。

この問題と同じように、城里町の庁舎移転の収支バランスを、金銭以外の要素も入れて考えるとどうなるでしょうか。
金銭以外の要素も入れて、収支バランスや生産性を考えると金銭だけで考えるのとは違った世界が見えてきます。

蛇足を追加します。
たまたま先ほどテレビを見ていたら、寅さんの映画をやっていました。
10分ほど観ていたのですが、こんなやり取りがありました。
寅さんが、隣の工場の社長に、社長は上流階級だと言います。
社長は、そうかなあ、俺はそんな風には思えないと言います。
それでみんなが、では寅さんはと問いかけます。
寅さんのおじさんが、上流階級はカレーテレビを持っているが、寅さんは持っていないので上流ではないと言います。
寅さんの義弟が、異論を唱えます。
物を持っているかどうかではなく、もっと大切なものがある、と。
結局、寅さんはテレビは持っていないが、「人への愛」があるということになり、寅さんは上流階級という結論になるのです。
書いてしまうと面白くありませんが、それが実に楽しく語られるのです。
これから学校で道徳教育が制度化されていきますが、ぜひ寅さんシリーズを必修教材にしてほしいです。
私もまだ全編は観ていないですが、どうも観たほうがよさそうです。
元気が出てくるかもしれません。
忘れている大切なことを思い出させてくれるかもしれません。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔2〕
(2015年3月22日)
フェイスブックやメールでコメントをもらっていますので、私の意見はさらに先延ばしにして、私の体験したことを今日は書くことにします。
もう10年近く前になるかもしれませんが、青森県の三沢市の「花いっぱい運動」の相談を受けたことがあります。

青森県の三沢市では、2001年ころから、まちづくり活動の一環として、花と緑のまちづくり活動補助金制度をつくって「花いっぱい運動」を展開してきました。
その補助金制度が来年からなくなることになったのですが、これまでの活動成果を進化させ、まちづくりに発展させていきたいということで、住民による「花と緑のまちづくり推進委員会」が発足し、行政との検討会が開催されたのです。
そこに、参加させてもらいました。

まず、全員の自己紹介がありましたが、5年間の資金助成の成果は見事に出ているようで、多くの方が花づくり活動の意義を実感しているようです。
ただ残念ながら、これまでの支援がほとんど資金助成だったためにみんなの関心がまだお金をどう工面するかにあることでした。
これがおそらく日本の住民活動や市民活動の最大の問題です。
そこから抜け出ないかぎり、今のお金万能の社会は変わっていかないでしょう。

私はまずみなさんに「自分の家の庭の花づくりに助成金を当てにしますか」と質問しました。
自分の家の花づくりと自分の町の花づくりとどこが違うのか。
この町が「私の町」だと思えれば、ごみなど捨てないでしょうし、花も植えたくなるでしょう。
その意識のないまちづくりは、他人事になってしまいます。
補助金があるから花いっぱい活動をしているのか、自分たちの住んでいるまちを花でいっぱいにしたいのか。
そこに「まちづくり」を考える大きなヒントがあるはずです。

その後の動きは、とてもうれしいものでした。
住民たちが、それぞれにできることや提供できること(たとえば花の苗を育てる場所など)を出し合って、補助金がなくても、「花いっぱい運動」がまわりだしたのです。
そして1年後には、住民たちが自分たちで住民に呼びかける公開フォーラムまで開催したのです。
お金がなくてもできることはたくさんあります。
いや、お金がないからこそできることもあるのです。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔3〕(2015年3月23日)
この問いかけに関して、数名の方からコメントなどをいただいていますが、個人あてに来たご意見のなかに、とても共感できるものがありました。
埋田さんからのものですが、ご本人の了解を得て、全文を紹介させてもらいます。
私も、いくつか気づかせてもらいました。

興味があった記事でしたので、私も、私自身の視点(子育ての視点)での考えをお伝えしてみようと思いました。

新町長さんの決断と実行力は、素晴らしいと思いました。

お金は便利です。困りごとを簡単に解決してくれます。
お金を出せば、新品の備品が手に入り、引越し業者がプロのテクニックで
安全に、スピーディーに作業してくれることでしょう。

子育てをしていても、便利さにうっかりと手を出してしまいそうになることがあります。
例えば、小学校で彫刻刀が販売された時に知ったのですが、最近の学童用の彫刻刀には
「安全ガード」という装置がついていて、子供が怪我をしない為の工夫がされています。
大抵の親は、「あぁ。安全!便利!」と、何の疑問も抱かずそれらを買い与えます。
刃物を扱う機会の少ない子供たちが「刃物」を体験する貴重な機会なのに。
怪我をするかもしれない、という体験でしか、教えられないことがあると思うのですが。

城里町で行われた引越しも同じだと思います。
重たい荷物を持って、腰でも痛めたら誰が補償してくれるでしょう。
業者に頼んでおけば問題は起こりにくいでしょうね。
しかし、彫刻刀と同じように、大切な機会を失うと思うのです。

重い荷物は、きっと力持ちの若い男性職員が協力し合って運ぶでしょうし、
力仕事が苦手な女性職員や年配の職員の方は、自分にできる仕事を探して作業するでしょう。
そうして得られた、仲間意識や互いをいたわり合うことこそ、
行政を支えていく上で最も大事な意識を育ててくれるものだと思います。

今後、この作業に参加された職員のみなさんは、まずお金で解決をするという考えは捨てるでしょう。
他に使えるものはないだろうか?お金以外に解決する方法はないだろうか、と知恵を出し合うと思います。
小さな知恵を出し合う習慣が日常になれば、これまでお金でしか解決できないと思い込んできた様々なことが、新しい考え方で議論されるようになると思います。
互いに気遣うことも増えるはずです。
仕事に行き詰っている人、困っている人に気付けるようになります。
助け合い、いたわり合う感性は、町民の生活にも向けられるはずです。
血の通った行政が育つと思います。

いいこと尽くし!と思いました。
そこで、この件について私の考えを夫に伝えてみました。
大部分で、私の意見に賛成してくれましたが別の考えも話してくれました。

勤め先で時々起こる出来事らしいのですが、一個100円の単価の部品を100個手に入れようとしたとします。
1円でも安いものをと思い、1時間かけて探し続けたら、単価99円のものを見つけることができました。
部品の購入代金としては100円得した訳ですが、その社員には1時間2000円の人件費がかかっている。という話です。

こんな話をきくと、手間暇かけて安さを追求するより、さっさと決断して、時間は有効に使った方がいいな、と思うわけです。

「お金」で早急に解決した方が、より有益な場合もあるし
「手間暇」かけて解決した方が、より有益な場合もある。
どちらの解決策を優先させるのか、常に判断をし続けていくことが大切なのだと夫の話を聞いて思いました。

新町長さんの、今回の決断については、私は大賛成です。素晴らしいと思いました。
でも、次の決断の時には、また考えをリセットして、より有益な解決策を探し続けて欲しいと思います。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔4〕(2015年3月23日)
そろそろ「みなさんへの質問です」に関する私の意見を書こうと思います。
なお、この間、フェイスブックでもいろんなコメントをもらいました。
私のフェイスブックは公開なので、次から読めると思います。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10200245669260288?comment_id=10200252316826473&notif_t=feed_comment

〔3〕で紹介した埋田さんのコメントで、私が言いたいことのほぼすべてが言い尽くされていますので、少し違った形で私見を書くことにします。
まずは論点の整理です。

論点はいくつかありますが、備品の再活用に関しては、反対する人は少ないでしょう。
廃校に残されている備品は、たぶん倉庫に眠ったまま、いつか費用をかけて廃棄処分される可能性が強いからです。
したがって、ほとんどの人は反対しないでしょう。
しかし、私たちの実際の生活は、必ずしも、そうではないのです。
私たちは、まだ使えるものを、デザインが古いとか、機能的に不十分だという理由で廃棄しています。
廃棄するには、自らが直接的に費用負担することは少ないですが、当然ながら「費用」は常にかかっています。
ただ、それに気づいていないだけです。
しかも、経済成長志向の社会では、このことは「無駄」だとは意識されずに、奨励されています。
「消費」こそが生産を支えるからです。
ちなみに、今も各地に「消費者の会」なる組織がありますが、時代錯誤も甚だしいと、私は思っています。
自らを経済成長支援チームと表明しているわけで、せめて「生活者の会」くらいに改名する「時代感覚」は持ってほしいと思っています。
かつて消費にストップをかけるかもしれないと期待した「コンシューマリズム」も、今ではすっかり変質してしまっています。
これに関しては改めてもう少し詳しく私見を書きます。

備品の再活用には異論が少ないだろうと書きましたが、経済成長主義者は、実際にはこういう生活スタイルを自らは実践していません。
そうしたことを考え直す契機にできれば、美j\本妻活用の意味はさらに大きなものになります。
古い備品を使うことに抵抗があるか人もいるかもしれませんが、役場の総務課の人は、自分が使う机は廃校の校長の机(「校長」と机の横に書かれていました)だったと、テレビではうれしそうに話していました。
備品の再活用の意味は、たぶん「予算削減」ではないところに、大きな意味があるように思います。

引っ越し作業を自分たちでやったというところには、さまざまな意見があるでしょう。
情報をきちんと押さえてはいませんが、職員には休日出勤手当を支給したのか、シルバー人材センターは有償だったのか、という問題があります。
後者、つまりシルバー人材センターは間違いなく有償でしょう。
日本では「ボランティア」というと「無償」と捉えられますが、それこそ「金銭社会に埋没した発想」です。
ボランティアとは、自発性の意味であり、私は、強制されない活動と受け止めています。
つまり、自分で仕事を選べるということです。
前者に関しては、「金銭手当の支給」か「代休付与」かという選択肢があります。
私は、たぶん「代休」かあるいは「無償」ではないかと思いますが、確かめたわけではありません。
そこで問題は、「もし金銭換算したら、業者に外注するよりも高くなったのかどうか」、そして「もし無償で働かせた場合は、搾取になる」ということです。
私見を述べれば、そもそもそういう発想が問題だと思います。
これは、「仕事観」、あるいは「組織との関係」、つまり「生き方」に関わる問題です。

思いつくだけでこれだけの問題が示唆されています。
明日から、一つずつ私見を書いていきたいと思います。

■沖縄の翁長知事にエールを送りたいです(2015年3月23日)
沖縄県の翁長知事が、辺野古の海底ボーリング調査の停止を沖縄防衛局に指示し、従わない場合は埋め立てに必要な岩礁破砕許可を取り消す意向を表明したと報道されました。
菅官房長官は相変わらず、「法治国家だから粛々と進める」と繰り返し語っているのでしょう。
中谷防衛相も「日本は法治国家」と話していましたが、「法治国家」とはいったい何なのか。
法は権力者のためにだけ、あるのではありません。
都合のいい時だけに「法治国家」を持ち出すのは、いかにも権力者の身勝手さです。
私の学んだ「リーガルマインド」は、法を支配の道具に使うなということだった気がします。

だいぶ前に書いた「私が尊敬する政治家は鳩山由紀夫さんです」という記事に、先日、こんなコメントをいただきました。
コメントを読んでもらえばいいのですが、全文を再掲します。

私は沖縄県民です。
私も鳩山由紀夫さんについては好意的に受け止めています。
クリミヤのことなどは深くは知らないので沖縄関係のことでしかわかりませんが・・・。
辺野古について県外移設を求めてもいいことを沖縄県民に示した功績は大きいと思います。
これまで基地は県外には持っていけないのだから実を取ることに意識を持っていこうとする勢力が県政をとることもありました。
しかし、今はもう違います。鳩山さんのおかげです。
マスコミ人の中には鳩山さんのことを沖縄に無駄な期待を抱かせて無責任と沖縄県民は思っていると言う人がいます。
それは違うと思います。
逆に沖縄県民の目を覚まさせたことに対して本土の人の中に鳩山さんを疎ましく思う気持ちがあるのではないかと思います。(サンデーモーニングで大宅映子さんが言っていました。)
この記事にあるように鳩山さんを「国民益で考える政治家」と捉えると、自分の利益で動く多数の政治家の中で異端児・宇宙人扱いされるのがわかります。

沖縄の人からのコメントだったので、私にはとてもうれしいものでした。
やはり当事者の判断が、一番大事だというのが私の考えだからです。
特にうれしかったのは、「県外移設を求めてもいいことを沖縄県民に示した功績」というところです。
つまり、鳩山さんの発言で、呪縛されていた「意識」が解きほぐされたということです。

エンツェンスベルガーという詩人の書いた「意識産業」という本が、1970年代に日本でも話題になりました。
私が、少なからず影響を受けた本です。
その本を思い出して、書庫から見つけ出しました。
その本の帯に、こう書かれていました。
「現にある支配関係を永遠化しようとする意識産業の搾取的本質を告発し言論の自由への考察を深めた話題作」。
私は、当時から「情報化社会」や「文化産業論」には、大きな危惧を感じていました。
当時書いた、そうした動きへの反論も、どこかに残っているはずです。
しかし、時代の流れは、私が危惧した通りの方向に進んできたように思います。

もう一つ、この人のコメントで、ぞっとしたことがあります。

逆に沖縄県民の目を覚まさせたことに対して本土の人の中に鳩山さんを疎ましく思う気持ちがあるのではないかと思います

これには、私は反論したいですが(そこまでの意識さえもないと思うからです)、私たち「本土の人」が沖縄の人にとって、どう思われているのかが伝わってくるからです。
私たちは、もっと沖縄について知ろうとしなければいけないと、改めて思いました。
鳩山さんにだけ期待していてはだめなのです。

いつかこの方に会えればと思っています。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔5〕(2015年3月24日)
今回は、あまり異論がないであろう、「備品の再活用」について考えてみます。

ここで重要なことはなんでしょうか。
1億3千万円と見積もられていた備品代が、50万円で済んだということに価値があるのでしょうか。
しかし、視点を変えれば、1億3千万円の市場が消えてしまったとも言えるわけです。
備品を購入してもらえると期待していた会社があったかもしれません。
その会社の人の立場から言えば、それは決してうれしいことではないはずです。
お金を消費するということは、経済を活性化するということです。
有名なニューディール政策は、ある意味で、「無駄な消費」を創出することで、経済を回復させたのです。
したがって、城里町の備品代節約は、喜ばない人もいたはずです。
前の記事で、「備品の再活用に関しては、反対する人は少ないでしょう」と書きましたが、必ずしもそうではないかもしれません。
ここに、経済のややこしさがあります。
つまり、お金の消費は、誰かにとっての収入なのです。

ですから、備品の再活用に関しては、金銭の次元ではない次元で考えることが必要だと思います。
何人かの方が書いてくれていますが、要は、「物」をどう扱うかです。
「消費財」という言葉がりますが、ここでも私は「消費」という言葉に少し抵抗があります。
備品を製作した人たちが、廃校に放置された様子をもし見る機会があれば、たぶん悲しむでしょう。

昔、トヨタ自動車のエンジニアたちの研究会に関わらせてもらったことがあります。
当時は、自動車の燃費を向上させるために、軽量化を目指しての部品のプラスチック化が大きな課題でした。
ある時、その活動に取り組んでいる人が、廃車の解体工場に見学に行ったのです。
彼は、そこで自分たちのつくった自動車が、無残に破壊されているのを目にしました。
無節操なプラスチック化によって、かつてのような解体ができなくなっていたのです。
その人は、私にこう言いました。
これまでは、ともかくできるところはみんなプラスチックに置き換えようと考えていたが、解体のことも考えながらプラスチック化を進めたい、と。
感激しました。
私が、トヨタ自動車が好きになったのは、その人のその言葉のせいです。

あんまり関係のない話を書いてしまったかもしれませんが、物にも「いのち」はあるのです。
先生たちも、長年愛用した机などの備品が朽ち果てるのは悲しかったでしょう。
私たちは、物を粗末に扱う文化に浸りきっていますが、それに気づかなければいけません。
物を粗末に扱う人は、人も粗末に扱うことになりかねないからです。

城里町の備品再活用は、町役場の人たちに、そうしたことを気づかせる契機になったかもしれません。
いやそうでなければ、いけません。
それは1億3千万のお金よりも、ずっと大きな価値のあることだろうと、私は思います。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔6〕(2015年3月25日)
いよいよ問題の引っ越し作業に職員が取り組んだ問題の是非です。
まず結論を述べれば、私は、それは「当然のことであり、問題になること自体に違和感がある」と思っています。

問題を非常に単純化すれば、「職場の引っ越し作業は仕事に含まれるかどうか」です。
それは、仕事をどうとらえるか、職場をどうとらえるか、という問題です。
もちろん、自分の仕事であっても、外注することはあり得ます。
昨今では、かつては「家事」とされた家族の仕事も、外注化されてきています。

1999年の国際労働機関(ILO)総会において、ディーセント・ワーク(Decent work、働きがいのある人間らしい仕事)が提案され、それがILOの目標の一つになりました。
それまで量で考えがちだった(と私は捉えていました)労働組合が、ようやく質の問題に目を向けたかととてもうれしく思った記憶があります。
日本では協同総合研究所の菅野正純さんが、とても誠実にその言葉を考えていたと思いますが、残念ながら菅野さんは急逝されてしまいました。

「仕事」をどうとらえるかは、さまざまな論考があります。
そして、それは、私たちの生き方の問題です。
さらに、社会とは何なのかということにも深くつながっています。
このテーマは、これまでもこのブログで散発的に書いてきましたが、今回はちょっと違った話から始めたいと思います。
まずは、たまたま今朝、読んだ「談」という公益財団法人たばこ総合研究センターの機関誌に出ていた山下祐介さんの言葉を紹介したいと思います。

現代の社会システムは家族や地域をどんどん解体させて、一人ひとりを「労働者」に仕立てることで、市場経済のなかで有効に使え、すべての人たちが国家の成長に寄与するように仕向けすぎてきた。しかし、そのために活き活きとしていた社会が弱り、衰退し、あるいは消滅してしまうほどだんだんと死にかけてきて、場合によっては自らの命を絶ち始めている。

ここで私が問題にしたいのは、「労働者」という概念です。
このシリーズの〔4〕で、「消費者」という概念(言葉)をかなり否定的に扱いましたが、それと対をなしているのが「労働者」です。

近代の発想は、「要素分割」です。
全体を把握するのではなく、部分を対象にしていくことで、全体を知ろうとするわけですが(「要素還元主義」)、それは同時に、部分を操作することで全体を操作するという発想に繋がっていきます。
それは限界があるばかりか、問題を起こすのではないかという議論が当然起こってきましましたが、近代の合理性の思想はなかなか変わらず、事態はますます要素還元主義に向かっているようにさえ思います。

いうまでもありませんが、私たちは「部分」を生きているのではなく、「全体」を生きています。
労働者や消費者ではなく、生活者だということです。
もちろん、時に「消費」し「労働」するとしても、そこに「者」をつけてしまうと、思考は呪縛されます。
言葉は、人の思考を抑え込んでしまう力があるからです。

何やらまた、小難しく、さらに横道にそれだしていますね。
すみません。
しかし、今回言いたかったのは、「仕事」をどうとらえるかです。
そして、職場ってなんだろうか、という問題です。
きれいに掃除された「檻」の中で、与えられた「課題」をこなすだけの「労働提供者」になることは、私には向いていません。
私がまだ会社で働いていたころは、職場の掃除も自分たちでやっていました。
子どものころは、学校の教室の掃除も、もちろん生徒たちでやっていました。
時にガラス窓をあり、けがをすることもありましたが、それもまた楽しかった記憶があります。

長くなったので、続きはまた明日に。

ちなみに、山下さんは、「生態社会学」を提唱していますが、昨年出版された「地方消滅の罠」(ちくま新書)はとても示唆に富んでいます。
それと、この「談」という年3回発行される雑誌は、私がほぼすべてを完読している唯一の雑誌です。
エディターの佐藤真さんの編集がとても示唆に富んでいるからです。
余計なことを書き加えてしまいました。

■無意味であってもしなければいけないことがある(2015年3月30日)
前々から話題になっていましたが、3月27日放送の「報道ステーション」(テレビ朝日系)で、古舘さんとコメンテーターの古賀茂明さんが、実に示唆に富む口論を展開しました。
次々と削除されているようですが、いまならどこかのユーチューブで見ることができます。
それに番組でのやり取りを書き下ろしてくださっているサイトもあります。
ぜひお読みください。
http://news.livedoor.com/article/detail/9941821/

事の良し悪しはそれぞれの判断にお任せするとして、こういう形で実態が顕在化することがまだあったことがとてもうれしく思います。
古賀さんの言動は、いろいろと評価は分かれるでしょうが、私は大きな拍手を送りたいです。
ガンジーの言葉を、私も多くのコメンテーターに読んでほしいと思っていたからです。
場があるのであれば、評論するだけでなく、主体的に語り、可能な範囲で行動すべきです。

古賀さんが番組で掲げたガンジーの言葉を掲載させてもらいます。
これは、古舘さんだけではなく、私たちにも向けられている言葉ですから。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

■お金、お金、お金(2015年3月30日)
このブログで、しばらく「城里町の庁舎移転」から学ぶことを書いていますが、その活動が示唆していることの重要性を感じさせる事例は、しばしば報道されています。
たとえば、今日の朝日新聞の報道によれば、人口減少に直面している島根県浜田市では、
4月から破格の条件で県外のひとり親家庭を迎えることにしているそうです。
新聞によれば、月給15万円以上、中古車無償提供、一時金130万円。
条件は、親が介護現場で働くこと。
経済支援は1年限りですが、1世帯あたりの支援は最大400万円を超えるそうです。
ほかに、転居費などの一時金が30万円。
月給は最低15万円の月給のほか、市から養育費が月3万円。
契約通り1年間働けば、さらに一時金100万円が出るそうです。
住居は市が家賃月1万〜3万円の公営住宅を確保し、空きがなければ民間の賃貸住宅を紹介し、2万円を上限に家賃の半額を補助するといいます。
車がない人にはネッツトヨタ島根が中古のコンパクトカーを無償提供。

過疎高齢化が進む浜田市の担当者は「保育所の待機児童はほぼゼロ。豊かな自然環境で子育てができる」と呼びかけています。
なんだか夢のような話ですが、この種の話はほかにもあると思います。

ひとり親家庭の住みにくい時代ですから、こうしたことが悪いとは思いません。
そういう選択肢があるだけで、安心する人は少なくないでしょうし、この制度で、いい意味で生き方を変えるチャンスを得る人もあるでしょう。
地域も元気になるかもしれません。

にもかかわらず、私はさびしくて悲しい気がします。
「お金、お金、お金」というイメージが拭えないのです。
札束で地元を黙らせて、原発を建設した話を思い出します。
もちろん原発の場合とはまったく違う話です。
要は、過疎化を避けたい自治体が、何とかして住民を増やすために、地域みんなで引っ越してきた人たちを支えようという話と受け止められるかもしれません。
しかし、私には何か違うような気がします。

もし私なら、転居者に金銭支援するのではなく、いまの住民たちが住みやすくなるにはどうすればいいかの知恵を、住民みんなで考えるようにします。
住民たち(行政職員ではありません)が豊かに幸せに住んでいる地域には、引っ越したくなる人も出てくるでしょう。
それでこそ、地域の生活は豊かになる。
お金の魅力で人を呼ぼうという発想が、私にはとても哀しくさびしいのです。
これまでの行政の発想や施策への問い直しがなければ、一時的には効果が挙げられても、おそらくますます事態は悪化するだけではないかと、他人事ながら心配です。

お金に依存していて、良いことはないのではないか。
私は、そう思っているので、悲しくてさびしく感ずるのです。
城里町の人たちから学ぶことはまだまだたくさんあります。
明日からまた「城里町シリーズ」を再開します。

■「地方消滅の罠」(ちくま新書)はお勧めです(2015年3月31日)
「お金、お金、お金」の記事の続きです。
この記事をフェイスブックにも紹介したら、コメントが書き込まれました。

佐藤さん、私はこの記事を新聞で読んでそんなに深く考えませんでした。私ももう少しで(少しでないかな?)若かったら島根に行ったかも、と思いました。ひとり親家庭にとって仕事と家があり、子どもと安心して暮らせる場所があることだけでありがたいと思うのです。確かにお金ではないですが、やっぱりお金が問題になります。

それに対して、私はこうコメントを返しました。

問題は「子どもと安心して暮らせる場所」が失われていることに大きな問題があります。
私たちが、そうした社会をつくってきたのです。
その発想を断ち切らないと、誰もが気持ちよく安心して暮らせる社会には向かわないのではないか。
アマルティア・センが指摘したように、地球は今存在するすべての人たちが安心して暮らせるだけの十分な支えを提供してくれているのです。
たしかにお金がないと生きづらいのが現実です。
しかし、いまではお金があっても生きづらくなっているようにも思います。
発想を変えないといけないのではないか。
すぐにとは言いませんが、生き方も変えないといけないのではないか。
ちなみに、私はお金をすべて否定しているのではありません。
地域通貨のように、「あたたかなお金」をみんなで創り出せたらいいなと思っています。

山下祐介さん(首都大学東京准教授)の「地方消滅の罠」(ちくま新書)はとても共感できる本です。
政府の「地方創生戦略」は地方に良い結果を生み出すでしょうか。
そこには「大きな罠」があるように、私も考えています。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔7〕(2015年3月31日)
いろいろと事件があって、なかなか続けられません。
今日は、引っ越し作業に職員が取り組んだ問題の是非の続きです。
断片的に書いているので、気が抜けてきた感じはしますが。

さて、職員が自分たちで引っ越し作業をしたことによって、生まれたものは何でしょうか。
昨今では、「コスト」ばかりが注目されますが、コストはパフォーマンスとの関係において評価されなければいけません。
つまり大切なのは、コストではなく、コスト/パフォーマンスです。
そして、コストもパフォーマンスも金銭だけで考えるべきではないと思います。
ではこの場合の「パフォーマンス」、成果とは何か。

ホームページには書いたのですが、先日の食養サロンで、長年企業に関わっている太田さんが、企業の社員寮で朝食をきちっと食べるような状況をつくったら、社員同士の交流が深まった事例を紹介してくれました。
最近は、同じ組織にいても、仕事以外での交流の機会が少なくなってきています。
まさに、組織の成員が大きな機械の部品のような存在になってきているのです。
そういう状況の中で、仕事は無関係な交流は組織を変える契機になります。
つまり、みんなで仕事を離れて、引っ越し作業をやったことで、普段とは違う交流が起こったはずです。
そこから生まれた「成果」は、とても価値のあるものだと思います。
私の会社時代を振り返っても、その意味の大きさを確信します。
職場に関する関係性も変わったのではないかと思います。
職場は、与えられた檻ではないのです。

もちろん大きくて重いものは、当然ながら専門の業者の人に頼んだはずです。
専門家に任せたほうが効率がいいという意見もありますが、それは個々にはあるでしょうが、全体としては、たぶんそんなことはないでしょう。
現に設備や備品や書類を使用している人たちが、実際の運搬や配置に取り組んだ方が、能率もいいでしょうし、扱い方もていねいだろうと、私は思います。
しかし、それはあくまでも副次的なもので、大切なのは、自分たちで引っ越し作業をやるということの意味ではないかと思います。
もしかしたら、仕事に対するとらえ方が変わったかもしれません。
いつもとは違った才能や人柄や、あるいは親しみが発見され、共有されたかもしれません。
それに、きっと楽しかったに違いありません。
そして、なかには打ち上げを楽しんだ人がいるかもしれません。

家事を外注することに抵抗感がなくなってきている時代には、私の考えは特殊かもしれません。
しかし、家事を外注することによって、家庭や家族が変質してきているように、職場も組織も変質していくはずです。
いや、もうすでに大きく変質しています。
いまや「仕事」そのものまで「非正規社員」に外注するようになってきているのです。
そうした動きには、私は大きな違和感があるのです。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔8〕(2015年4月1日)
気が抜けたビールの気分ですが、もう少し続けます。
フェイスブックで、こんなコメントをもらいました。

〔A〕休日出勤と労働に対して対価を支払ったのでなければ、2000ー300=1700万円を搾取しているだけです。

同じ人から、こんな意見ももらいました。

〔B〕休日出勤で肉体労働を業務命令された職員はどう思ったのでしょうか? 労働者の側の視点が無ければ、この問題に解を出すことは難しいと思います。

「搾取」「肉体労働」「業務命令」「労働者の視点」。
私にはいずれも違和感のある言葉です。

まず〔A〕について。
もし「搾取」だとして、誰が「搾取」したのでしょうか。
役場の支出は住民の税金ですから、住民が「搾取」したことになります。
管理職の町長が「搾取」したのでしょうか。
ちなみに、町長も率先して引っ越し作業をしていたようです。
節約した経費は、誰のものになったのでしょうか。
たぶん住民でしょうが、それを「搾取」というのには違和感があります。
視点を変えて、誰が損をしたでしょうか。
引っ越し業者であり、清掃会社でしょう。
儲ける機会を失ったのですから。
彼らは、「搾取」されたのでしょうか。
まさか「搾取」する機会を奪われたわけではないでしょうが。
これまた悩ましい問題ですが、ここに実は私は「産業社会」の本質があると思っています。

「汎市場化」が進み、人の生命さえもが「商品化」あるいは「儲け」(「稼ぎ」ではありません)の対象になる以前の社会であれば、住民みんなで引っ越しを手伝ったかもしれません。
たぶん、それは楽しい「ハレ」の日になったことでしょう。
役場は、住民みんなのものですから。
そうした「働く喜び」は、もう失われてしまったのかもしれません。

〔B〕に関しては、明日にまわしたいです。

■城里町のみなさんから学ぶこと〔9〕(2015年4月2日)

昨日の朝、畑に行って土を耕してきました。
1時間ほどですが、「肉体労働」をしてきました。
業務命令ではないのですが、宇根豊さんの「農本主義が未来を耕す」という本を読んで、畑仕事もまた「お天道様の命令」だという気持ちで、あんまり行きたくなかったのですが、行ってきました。
休み休みの肉体労働ですが、何やら気分がすっきりしました。
もしかしたら、城里町の役場のデスクワーカーたちには、久しぶりに気持ちのいい汗がかけたのかもしれません。

まあ。それは勝手な推測ですが、今日は、昨日書き残した〔B〕の話です。
「労働者の側の視点」はとても重要です。
しかし、それは労働者でなければ不可能です。
その前に、しかし行政職員に対して、あなたは「労働者ですか?」と質問したら、みんなどう思うでしょうか。
私は、これまで自分が「労働者」であると自覚したことは一度もありません。
何回も書いているように、私は人間であって、労働者ではありません。
労働組合員であったことはありますが、労働者などという概念で人を見る発想が私には理解できません。

柴又の寅さんは、隣の工場で働いている人たちを「労働者」と呼びます。
とても鋭いメッセージが、そこには込められています。

福祉に関わる活動をしていると、よく「相手に寄り添って」とか、「相手の立場になって」という人がいます。
私は、寄り添えるかもしれないが、相手の立場に立ちなどという傲慢さを捨てるべきだと、いつも思います。
そういう人は、私の体験では、ほぼ確実に「目線が上」のような気がします。
かわいそうな人と位置付けているのです。
そこから変えなければ、ケアの精神など持てようがありません。
ケアは、あわれむことでも、バカにすることでもない。
そう思います。

話がだんだんそれてきていますね。
すみません。

労働者は、しかし、いないわけではありません。
組織に属していると、組織の雰囲気や暗黙のルールに基づいて、「自発的隷従」を強いられることは少なくないでしょう。
私の知っている会社が、あるボランティア活動をやっているうちに、その活動を会社の正規の事業活動にしてしまいました。
それまでは使用があれば断れたのですが、会社の字となれば、そう簡単には断れなくなってしまった。
さてどうするか。
そんな話も最近身近にあります。

なかなか本題に行きませんが、実は引っ越し作業に限らずに、しようがある時には、あるいは納得できない仕事には、ノーといえるべきなのです。
長くなったので、とりあえずまとめてしまいますが、実はそうした問題が、引っ越し作業が業務になったことによって、意識化されるのです。
休日に業務命令された作業が。引っ越し作業でなかったらいいのでしょうか。

つまり、〔B〕の問いかけには、それ自体に「差別」や「隷従」の要素が感じられます。
いささか書きすぎてしまいました。
書いた割には内容がないですね。
すみません。
でも、思いが伝わるといいのですが。

■城里町のみなさんからから学ぶこと[10](2015年4月3日)
今日は、箱根で企業の人たちとの合宿ですが、箱根に向かう電車の中で、伊藤誠さんの「経済学からなにを学ぶか」を読んでいたら、分業の弊害の話が出てきました。
「分業」の効用を発見したアダム・スミスは、「国富論」のなかで、分業の弊害についても語っているそうです。
分業の結果、仕事は「単純作業」に分断され、仕事に関して工夫する必要がなくなる。そのため、多くの人は、「神の創りたもうた人間としてなりさがれる限り愚かになり、無知になる。私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう」と言うのです。
マルクスも、分業が多くの労働者の生産的な本能と素質を抑圧し、ゆがめて奇形化するとし、それを克服するためにも、コミューン社会に期待していたと言います。
分業の発想は、経済を飛躍的に発展させましたが、人間を変質させた面もあるようです。
しかし、スミスもマルクスも、ひどい言いようですね。

以上が伊藤さんの本から知ったことですが、これと城里町の庁舎引越し作業とつなげてみたくなりました。
昨日は、「労働者」という捉え方にいささか過剰に毒づきましたが、働く人や生活している人を、労働者や消費者と、まさに「分業」発想で捉える文化に異議申し立てしたかったのです。
言うまでもありませんが、「分業の思想」は産業の世界だけの話ではありません。

最近の職場は、徹底した分業の文化によって、「コミューン」感覚は弱まっています。
昔は、職場仲間とのレクリエーションも盛んであり、職場での雑談もありすぎるほどありました。
今は、そういう職場は少ないでしょう。
城里町役場はどうだったか知りませんが、今回の引越しは、もしかしたら「コミューン」を出現させたかもしれません。
つまり、「労働」の構築体ではない、人間の集団を出現させたと思います。
普段の業務の時とは違った人間関係が出現し、違った才能や人柄が露出したかもしれません。
そして、それがその後の仕事に良い影響を与えたとしたら、2000万円どころではない効果を現出させた可能性もあります。
楽天出身の若い町長には、そうしたことが、もしかしたら見えていたのかもしれません。

金銭だけでない視野を持つと、まったく違う風景が見えることがあります。

■戦争反対カフェサロンがスタートしました(2015年4月5日)
このブログでもご案内しましたが、今日は戦争反対カフェサロンの第1回目でした。
雨の中を13人が集まりました。
20代から70代まで、年齢は幅広かったですが、男性ばかりでした。
平和や戦争に関心を持っているのは男性で、女性はたぶん平和を実践しているのでしょう。
そのせいか、話は争点的で論争的で、理屈も多かったです。
男性だけだとこういう議論になるのだと、桐山さんが感想を述べました。

安倍政権反対派が多かったのですが、安倍政権支持派もいました。
問題提起者の武田さんの、怒りのこもった簡潔な問題提起を受けて、最初に塩尻さんが、これもしっかりした事実認識をベースに反論し、そこから話は盛り上がっていきました。
時に横道にそれたこともありましたし、現実問題から社会哲学まで、議論が広がり、議論をテーマに戻すのに苦労しました。

最後に、湯島のサロンに初めて参加した大学生のNさんが、大人たちの議論は私たちの世代とは全く違う、と感想を述べました。
言葉がきつく、対立的すぎて、発言したくなくなる(しにくい)というのです。
それまでにぎやかに論争を楽しんでいた大人たちは、ちょっとしゅんとしてしまいました。
そこからの議論も、私にはとても刺激的でした。
次に若い参加者(4歳年上)が、しかし、それでも自分の意見をはっきりというべきだと発言しました。
このやり取りも、昨今の社会状況というか若い世代の状況を象徴しているように思いました。

年長者たちからは、ご自身の戦争関係体験も踏まえて、戦争は絶対に繰り返したくないと強い発言もありました。
真ん中世代の人は、世代によってこんなにも考え方や論じ方、言葉が違うのに驚いたと言いました。
などなど、実に刺激的な「戦争反対カフェ」の始まりでした。

今回は柴崎さんが映像に録画し、それを一部削除してユーチューブに流すことにしました。
完成したらご案内します。

このサロンのために、熊本の宮田さんが、平和国家コスタリカのコーヒーを送ってくれたのですが、私が前日まで不在だったため、受け取れずに、再配達をお願いしたのですが、サロンに間に合いませんでした。
で、今回はブラジルのコーヒーになってしまいました。
コスタリカのコーヒーは次回用にしました。

ちなみに、次回は「不戦の70年」をどう受け止めていくかをテーマに、6月13日に開催します。
その前に、もしかしたら、もう一度、開催するかもしれませんが。
できれば、「女性たちは憲法改正をどう考えているのか」をテーマにしたいです。
どなたか話に来てくれませんか。
話してくれる人が3人集まったら開催します。
もし話してもいいという人がいたら、私に連絡ください。
コスタリカのコーヒーはきっとおいしいですよ。

なお、このカフェサロンは継続的に開催しますので、案内をご希望の方はご連絡ください。
戦争賛成者も含めて、だれでも参加歓迎のカフェサロンですので。
ただし、「テロリスト」はあまり歓迎できませんが。

■駅に着いたのにドアが開かなかった事件(2015年4月9日)
3日前の4月5日の話です。
日曜でしたが、湯島でサロンがあり、夕方6時過ぎに帰宅したのですが、その電車の話です。
千代田線は1~2分遅れることはよくありますが、1~2分の遅れでも車内放送は理由を含めて丁寧に繰り返し説明し、謝罪します。
1~2分など、そんなに謝罪したり説明したりする必要はないだろうと私は思っていますが、今回書くのはそのことではありません。

この日も1~2分遅れて終点の我孫子駅に到着しました。
乗客は扉の所に集まりましたが、なぜかドアがあきません。
不審に思っていると1分ほどして、停車駅を直しますので少しお待ちくださいと車内放送がありました。
私はいつも降りるほぼ同じ場所で位置の違いはあまりなく、少し意外だったのですが、いつになってもドアはあきません。
みんななんとなく異常に気づきだしました。
しばらくして、また停車位置を直すので、ということに合わせて、到着が遅れてすみませんという放送が入りました。
しかし、いつになっても電車は動く気配はありません。
乗客は、席にまた座りだしました。
5分ほどたって、ホームの向かい側に後続の電車が到着しました。
その電車と位置を比べると、なんと位置のずれは1メートル強でした。
隣の若い夫婦が、何だこれだけか、融通が利かないなと怒り出しました。
それでも私たちが乗っている電車は、動く気配がありません。
若い車掌は「到着が遅れてすみません」と繰り返しますが、到着が遅れたのではなく、あなたがドアを開けないだけではないかと思いました。
さらに5分近くがたちました。
そしてようやく電車は1メートルほど移動して、ドアが開きました。

改札口に行ったら、だれも何もなかったように、出札口を通り降りぬけて出ていきました。
私も帰ろうとしたのですが、おかしいと思ったことはきちんと伝えなくてはと思い直し、駅員の居るところに行って、話をしました。
駅員はすでに知っていたようで、責任者を呼びますと言って、話を聴いてくれません。
らちがあかないので帰ろうとしたら、責任者という人がやってきました。
事情はすでに知っていたようで、ただすみませんと謝るだけです。
私は、謝ってほしいわけではなく、理由が知りたいと話し、乗車位置がずれたらドアは開かないシステムなのか、それとも車掌が自己判断で開けなかったのか、位置のずれはどのくらいまでが許容範囲なのか、と質問しました。
そして、もしその仕組みが悪かったら修正するべきだと伝えました。
おそらく今回のことで、後続車は遅れが出て、コストも発生しているでしょう。

答えてもらったのは、開けようと思えば車掌は開けることができますということでした。
ただ、位置のずれによっては、電車がホームの外部に出てしまい、危ないので開けません、今回どのくらいのずれであったかは私は確認できていません、と繰り返しました。
しかし、なぜすぐに停車位置を修正しなかったのかは、何の説明はありませんでした。
たぶん運転手と車掌のコミュニケーションの問題ですが、運転手は乗車位置を直す必要はないと考えたのでしょう。
普通の感覚であれば、今回の場合は誤差範囲だからです。
今までもこれくらいのずれは体験しています。

私に対応した責任者は、何回もすみませんと謝りました。
私は、このことに怒っているのではなく、こうしたことが怒る社会に怒っているのだということは、たぶん伝わらなかったでしょう。
謝ることが大切なのではなく、仕組みや考え方を見直すことが大切だと、その人に伝えたかったのですが、謝られてしまうとこちらがクレーマーのような気がしてしまいます。
しかし、小さなことでもおかしいと思うことに気づいた人はきちんと問題にしていかないと、社会はどんどん壊れていきます。

日本人はマニュアルを活かすのではなく、マニュアルに縛られる、とよく言われます。
仕事に対する責任の捉え方も、最近大きく変わってきています。
人間はどんどんいなくなり、機械部品のように判断できない労働力が動かしている仕組みの社会で生きるには、自分も人間であることをやめなければいけないのかもしれません。
いろんなことに、改めて気づかされた事件でした。

■「平和」を語り合う女性の会をやりませんか(2015年4月9日)
5日の日曜日に、湯島で「戦争反対カフェサロン」を開催しました。
大学生から70代まで13人の人が集まりました。
このカフェを開くことにしたきっかけは、ある集まりで、最近の日本の状況は、第二次世界大戦に突入した80年前に似てきているのではないかということが話題になったことでした。
最近の日本は、平和とは逆の方向を向かっていることは間違いないでしょう。
パラオに行かれた天皇の意図と安倍政権の意図は反対を向いているように思います。

「戦争反対カフェサロン」には13人が集まりましたが、みんな男性でした。
ある人が、男性だけで話していていいのだろうか、というような発言をしました。
たしかにそうです。
こうしたテーマの場合、なぜか男性は集まりますが、女性は集まりません。
NPO活動している女性たちは、目先の個別問題には熱心ですが、その土台になる社会全体のあり方には、なぜか関心を持ちません。
そういう人たちが、80年前には、戦争を起こす強力な支援役になったのではないかと思います。

しかも、最近の日本の女性たちは私には実に好戦的に見えます。
もしビジネスの場が、最近の戦場であれば、その戦いぶりは男性勝りです。
彼女たちの関心はまもなく戦争に向かうのではないかと思うほどです。

以前書きましたが、市民活動は「政治」から無縁であってはいけません。
政治から無縁であることが、政治の流れに加担するからです。
そうして、ドイツはヒトラーに身を任せてしまいました。

いささか挑発的に書きましたが、
そんなわけで、女性を中心にした「現在の政治状況と平和」を語り合う「戦争反対カフェサロン」を開きたいと思います。
「福祉活動」に関わる女性の参加者が3人以上、集まったら、の条件ですが。
最大の福祉は「戦争のないこと」だということに、気づいてほしいからです。

ぜひやりたいという人がいたら、私(qzy00757@nifty.com)あてに連絡してください。
前の戦争を後ろで支えた女性のようにはなりたくないという人がいればいいのですが。

■櫻井よしこさんと宮脇順子さん(2015年4月10日)
昨夜、BSフジの「プライムニュース」を見ました。
テーマは靖国参拝問題で、櫻井よしこさんと若宮啓文さんがゲストです。
櫻井さんの考え方は私には全くと言っていいほど、受け入れられず、最近は顔を見るだけでチャンネルを変えるほどでした。
若宮さんは朝日新聞時代からわりと共感できるところがありましたが、やや退屈でした。
にもかかわらず2時間のこの番組を見てしまったのは、疲れていたからでもありますが(昨日は3組の人の相談に乗ってきました)、キャスターの反町理さんのスタイルが好きなのです。

嫌いな人と退屈な人の討論だったのですが、とても面白かったのです。
櫻井さんの話し方は、内容というよりもとても論理的で冷静なので、なんとなく説得させられそうになります。
昨日の議論を聞いていて、なぜか櫻井さんの論調に同調しそうになってしまいました。
たとえばA級戦犯はなぜ別扱いなのかに関しても、私自身が自分で判断していないことに気づきました。
同時に、同じ情報も捉え方によって、まったく違う意味を持ってくることも改めて感じました。
そこで気がついたのですが、最近、私は自分が共感できそうな本しか読んでいないようです。
それでは、世界はどんどん狭まり、判断は正しさを維持できません。
櫻井さんを忌み嫌っていたことを反省しました。
もちろん考え方については、私には共感できないことは変わりませんが。

先月、宮脇順子さんの「悲しい歴史の国の韓国人」と「韓流時代劇と朝鮮史の真実」を読みました。
私はいくつかの韓流時代劇を見て、かなり韓国については「洗脳」されていますが、それ以前から、韓国に対する評価がなぜかかなり高かったのです。
韓国史に関する本も、韓国の歴史教科書(小学校から高校まで)も読んで、韓国の立場もそれなりに理解できていると思っていました。
ですから最近のヘイトスピーチなど、理解さえできないのです。
しかし、宮脇さんの本を読んで、お恥ずかしいながら、愕然としました。
実は、読む前は「とんでも書籍」の一種かと思っていたのですが、実にわかりやすいのです。
そのわかりやすさにおいては、韓流時代劇と同じくらいです。
こういうわかりやすい論理には、人は簡単に洗脳されがちです。
私も見事に「洗脳」されました。
私の考えが変わったということではありませんが、ヘイトスピーチをしている人のことが少しわかった気がします。
これまでの韓国観から自由になって、もう一度、韓国のことを考える姿勢をもらったのです。

まさか櫻井さんや宮脇さんから、こういう示唆をもらうとは思ってもいませんでした。
やはり自分の考えとは反対の人の意見を誠実に聞くことは大切です。
自分がいかに独善的かがよくわかります。

若宮さんと櫻井さんは、番組が終わった後、どんな会話をしているのでしょうか。
それが実に興味あります。
2人ともあまり裏表があるとは思えませんので。

■株価上昇がなぜこんなに話題になるのでしょうか(2015年4月11日)
日経平均株価が15年ぶりに2万円を超えたと昨日からテレビでは盛んに報道されています。
こういうニュースが、トップに報道される社会そのものに、私は背を向けたいのですが、まさに金銭社会をあおっています。
今年の株価上昇だけで4億円以上利益を得たという人がテレビで紹介されていましたが(昨年は億円以上損をしたそうです)、こういう生き方の人が増えたら社会は壊れるに違いありません。
株価の上昇に寄生しているだけの生き方からは、何も価値が生まれてきませんから。

為替の変動で、利益を上げたり損失を生じたりする生き方もそうですが、金銭での損益は新しい価値(実体)を創りだしません。
同じことをしていても損益が大きく違ってくる社会から抜け出ないといけないように思いますが、どうも時代は反対の方向です。
価値(実体)をt繰り出すことをおろそかにする以上、私たちは間違いなく、「消滅」の方向に向かっています。

株式市場は私には「逆トリクルダウン」システムの典型だと思いますが、薄く広く価値を収奪し、格差を拡大していく仕組みは、マスメディアに支えられています。
価値(実体)を創りだす気を萎えさせ、価値(実体)の浪費をあおります。
一件、社会は豊かになっているように見えますが、結局は「貧しい世界」からの価値の移行でしかありません。
そもそもテレビで、株価情報や為替情報を毎日繰り返し流していくようになってから、社会はおかしくなりだしたような気がします。
これについては10年以上前にこのブログでも書いた気がしますが。

そうはいうものの、利益を上げた人の話を見ると、私もちょっとうらやましくも思ってもしまうのです。
まだまだ私の根性は、金銭依存から自由にはなっていないようです。
お金というのは、ほんとうに人を惑わせます。
お金がないから生きていけないという不安に呪縛されているのでしょう。
しかし、そんなことはありません。

今朝の朝日新聞に、とてもうれしい記事が出ていました。
http://digital.asahi.com/articles/ASH496V8ZH49UDCB01R.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASH496V8ZH49UDCB01R

記事の概要はこうです。

都内の食品会社に勤務していた吉田さん(28)は、昨年、九十九里町に転居。140uの空き地を45万円で購入。業者に依頼して井戸を掘り、最低電流の電気も引きました。
テントで暮らしながら、近くのホームセンターで建材を買い、ネットで建築の方法を学びながら約1か月で4畳ワンルームの小屋を完成させました。ここまでの出費は計約90万円。
現在は、水道代は無料、電気代は月約400円。家庭菜園で野菜を作ったり、近所から食料品を分けてもらったりして、食費は月3万〜5万円。
ネットで生活の様子を紹介したブログのおかげで、県内外の小屋仲間と知り合い、交友関係も広がったそうです。
吉田さんは「節約するつもりはないのだが」と言っていますが、浪費しなければいいだけの話なのかもしれません。
こういう人が、いま増えていると、この記事には書かれています。

■改めて鳩山元首相を尊敬します(2015年4月11日)
昨日のBS日テレの「深層ニュース」は「鳩山元首相の行動の謎」と出して、ゲストの一人に私が尊敬する鳩山由紀夫さんが出演していました。
先日、紹介した「プライムニュース」とは違って、私はこの番組はいつも途中で見るのをやめることが多いのですが、昨日は最後まで見ました。
しかし、そのおかげで、極めて不愉快な夜になってしまいましたが。

「プライムニュース」と違って、この番組は、キャスターがあまりテーマに関する勉強や準備をあまりしていないように思えて、掘り下げが全く「深層」ではないので見ていて退屈どころか嫌になってくるのです。
昨日はとりわけひどかったです。
女性のキャスター(名前は避けますが)が、鳩山さんを「告発」するようなぶしつけな発言が多く、見るに堪えなかったのですが、鳩山さんはほぼ最後まで、それにも誠実に対応していました。
このキャスターは、鳩山さんに「反省していますか」「(これから)うまくやれますか」などという発言をしていたのです。
しかも鳩山さんの発言を遮るような、それこそ「やじ」のような発言まで何回かしていました。
それをたしなめない、メインキャスターもどうかと思いますが。

まあそれはそれとして、鳩山さんのウクライナ訪問の意味がよくわかりました。
沖縄の基地への取り組みも改めて納得しました。
やはり鳩山由紀夫さんは、私が尊敬する政治家でした。

■なにが社会の方向を決めるのか(2015年4月14日)
福井県の高浜原発の3・4号機について、福井地方裁判所は「国の新しい規制基準は緩やかすぎて原発の安全性は確保されていない」という判断を示し、再稼働を認めない仮処分の決定を出しました。
異議申し立てなどによって、この決定が覆らなければ、高浜原発は再稼働できなくなったと報道されています。
この報道に接した時に、久しぶりに私は気分が明るくなりました。

しかし、すぐにまた心配になってきました。
関西電力は異議申し立てをし、政府は相変わらず強権を発揮し続けるでしょう。

沖縄の辺野古の工事に関しても、翁長知事が行政不服審査法に基づいて、工事差し止めの申し出でをしたところ、なんと政府は農水省に、その執行停止を申し立てるというおかしなことを行い、それが認められて作業は継続されています。
良識をお持ちだと思っていた林農水相が、たんたんと行政不服審査の無効を宣告している姿を見て、権力機構の恐ろしさを垣間見ました。
行政不服審査法の目的は、行政庁の処分に不服がある国民の権利を守ることであり、「行政機関同士の争いに用いられたケースは極めて異例で、専門家からも疑問や批判が出ている」と毎日新聞では報道されていました。
国民の不服の制度が、お上の強制の制度にもなってしまっては、どうしようもありません。
私にはわけのわからないことですが、制度的にはそれが成り立つのでしょう。
ですから、今回の高浜原発に関しても、政府は強権で原発再稼働に取り組むのでしょう。

こうした「道理」よりも「無理」が通るのが、いまの日本の社会の実態ですが、言い方を変えると社会の仕組みが壊れていて、統治不能になっているのかもしれません。

猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』を読みました。
読んでいなかったのですが、友人から紹介されました。
そこにこんな文章が出てきました。

「東條なら陸軍を抑えられる」という木戸内大臣の窮余の策が東條総理大臣誕生につながった。が、結局その作戦は水泡に帰した。東條の力でも開戦への趨勢をとめえなかった。国務と統帥に二元化されたわが国の特殊な政治機構は、個人の力では克服できない仕組みになっていたのである。

敗戦が確実であることを知った、時の天皇と首相は戦争を避けようと考えていたが、止められなかった。
それは、統治の仕組みの欠陥によって、誰も止められなかったのだと、猪瀬さんは書いています。
人間が社会の行く末を決めるのではなく、社会それ自体が時代の方向を決めていく恐ろしさを感じます。
そこではもはや人間は、「部品」でしかありません。

一時の明るい気分は、すっかり吹っ飛んでしまいました。
また気が沈んできています。

■戦争反対カフェサロン女性版を一緒に企画する人はいませんか(2015年4月15日)
よせばいいのに、戦争反対カフェサロン女性版の呼びかけをしてしまいました。
呼びかけ方への批判が2人の女性から届きました。
私に「偏見」を指摘されました。
「偏見」は個人的意見でもありますので、褒められた気もします。
同時に、賛成という方が4人連絡してきました。
うち3人は福祉関係の仕事をされている方です。
もう一人も福祉分野での大学の先生です。
条件をクリアしたので、開催しないわけにはいきません。
しかし、どうも私の呼びかけの趣旨は伝わらなかったようです。
幸か不幸か、みんなの日程の調整をしてみたら、一番早くて6月27日でした。
ですから急がなくても大丈夫です。
そこで、まずは実行委員会を呼びかけることにしました。

ところで、この呼びかけのおかげで、示唆に富むことをふたつ教えてもらいました。
ひとつは、山形市で、子どもたちへの絵本の読み聞かせをしている女性からです。

長谷川義史さんの「@ぼくがラーメン食べてるとき」「Aへいわってすてきだね」を読んでいます。
@は、遠い国の出来事と思っていることも、以外と近くで起きていることを教えてくれます。
Aは、平和のために自分のできることからがんばろう!というメッセージを伝えてくれます。

早速、@を図書館で探して読んでみました。
そうか、これが女性の感覚なのかと感心しました。
3回読みましたが、たしかに平和の書です。
もしこの本に出会えたら、ぜひお読みください。

もう一人の女性からは、その方の友人の書いた「奇跡はつばさに乗って」(源和子 講談社)を紹介してもらいました。
これも早速読んでみました。
平和な世の中をつくるために必要なことは、「赦すこと」「認め合うこと」と書かれていました。
とても共感できました。
私の友人は、その本との出会いで生き方を変えたようです。

さて、こうしたことも踏まえて、戦争反対カフェサロン女性版を一緒に企画する人を改めて募集します。
誰かが開催する会に参加するという呼びかけではなかったのですが、どうもそういう感じで受け止められてしまったようです。
そんな会は山のようにありますから、私には興味はないのですが、どうもそれが伝わりませんでした。
困ったものです。

■5月9日と10日は我孫子手づくり散歩市でカフェを開きます(2015年4月22日)

5月7日から22日まで、我孫子アートな散歩市が開催されます。
その一環として、昨年は中止になった「我孫子手づくり散歩市」が復活します。
わが家にある娘のスペインタイル工房 Taller de Junも参加しますので、以前のようにもし雨が降らなければ、工房の横の庭で、私がオープンカフェを開きます。
カフェのオープンは、5月9日と10日の2日間で、時間は10時から午後4時までです。
コーヒー(無料)だけですが、もしよかったらお立ち寄りください。
できれば昼食時は避けてもらえるか、各自サンドウィッチ(ご自分用)でもご持参いただければうれしいです。
例年、いろんな人が立ち寄ってくれて、いろんな話がはずみます。
場所は、手賀沼公園の近くのわが家です。
我孫子駅南口前の「アビシルベ」(我孫子インフォメーションセンター)に散歩市の地図があると思います。

■「自死」と「ささえあい」をテーマにしたサロンの報告(2015年4月25日)
毎月、最後の金曜日の夜に開催しているコムケアサロンの今月のテーマは「自死」と「ささえあい」でした。
20代から70代まで、立場もさまざまな人が11人集まりました。
山梨からわざわざ参加してくださった方もいます。
大学生も2人参加してくれました。

ゲストは、大阪豊中市を拠点に活動している「あゆみあいネット」の岡崎さん。
岡崎さんは、小さな時に父親を自死で亡くされています。
父親の自死が、家族をどう変えるか、子供にどう影響を与えるか。
岡崎さんの自己紹介から始まる「物語」は、とても衝撃的であると同時に、心に響くものがありました。
岡崎さんは、5年前に私たちが主催した「自殺多発場所での活動者サミット」に参加してくれました。
岡崎さんの言葉を借りれば、それが人生を変えたのです。
その集まりでの、私の言葉を岡崎さんは覚えてくれていました。

その集まりがきっかけになって岡崎さんは、動き出しました。
それからの経緯は、私のホームページに時々登場しています。
そして、あゆみあいネットを軌道に乗せ、岡崎さん自身もお父さんの出身地に戻って結婚されることになったのです。
その節目として、わざわざ東京まで話をしに来てくれたのです。

岡崎さんの話を聴きながら、一人称自動詞で語ることの大切さ、つまり「当事者」が自らの問題に正面から向かい合い、それを開いていくことの意味を、改めて確信しました。
「自らの問題」を起点にしていくことこそが、深い社会性を創りだすように思いました。
視野をちょっと広げるだけで、実は「自分の問題」がひろく世界につながっていくことに気づくはずです。
そこから、世界は開けていくような気がします。
岡崎さんは、そのことをていねいに話してくれました。
そして、お互いに個人として認め合い、日頃のちょっとした声掛けや接し方を大事にすることこそが、「支え合い」なのだということを気づかせてくれたように思います。
日本社会における「自殺・自死」への位置づけの問題や家族の問題、また電話相談やネットの問題なども話題になりました。
いずれもとても考えさせられる問題でした。

岡崎さんの話がとても素直にオープンだったこともあったと思いますが、参加者も普段はなかなか話せないようなことまで開示してくれました。
自らの問題には限りませんが、みんなそれぞれに背負っているものを、素直に解き放す場が、もっともっとあるといいとも思いました。

そうした中から、「社会の穴」(岡崎さんの表現です)が見えてきたら、それをみんなができる範囲で埋めていくようにしていくことで、社会は豊かになっていくだろうという岡崎さんの話にとても共感します。
ところで、私のまわりでこの1週間、さまざまなシンクロニシティ現象が起こっています。
このサロンでも、それが2つも起こりました。
それについては、改めて書こうと思います。

■いまの社会は生きづらいのか?(2015年4月26日       9
昨日は若者を中心としたカフェサロンの第1回目でした。
3月28日に青山学院大学で開催した、映画「自殺者1万人を救う戦い」を観て、大学生たちが語り合うフォーラムを開催したのですが、そこから生まれた集まりです。
4人の若者と大学の先生が2人、それに企業に関わっている人が2人、社会からの脱落者が1人(私です)集まりました。
私にはいろんな意味で興味ある集まりになりました。
若者と大人とが対等な立場で話し合うことが、いまは少なくなっているのかもしれないと感じました。
それと、若者と大人の時間感が違うことにも気づきました。
若者はさまざまな好奇心を持っているのに、それを果たす場や方法がまだ見えていないような気もしました。

秋には、みんなでちょっと大き目の公開フォーラムを開こうというのが当面の仮目標ですが、そのテーマを話しているうちに、「居場所のなさ」「生きづらさ」という言葉が出てきました。
そこで、私は思わず、若者たちに、今生きづらいのですか? と訊きました。
どうもそうではないようだったからです。
いまの社会は、あるいは会社は、居場所のない生きづらいところだというイメージが深く植え付けられているような気がしました。
かつての若者が感じたであろう「生きづらさ」や「生への不安」とは、まったく異質なもののようにも感じました。

無関係な話ですが、以前読んだ山下祐介さんの「地方消滅の罠」(ちくま新書)を思い出しました。
つまり、地方消滅というイメージを広げることで地方を管理しやすくしているという状況に、みんな洗脳されてしまいました。
原発がないとやっていけないという言説も同じものでしょう。
いや、中国が攻めてくるという言説も流布されてきています。
そして、社会は生きづらいという言説。
言説の呪縛の恐ろしさを改めて感じました。
私も考え直さなければいけません。

話が脱線しました。
ちなみに次回は5月23日の午後です。
若い世代(10〜30代)の方の参加を大歓迎します。
同時に、若者への敬意をもっている大人の参加も大歓迎です。
若者を管理したり教育したりしようとする人は、私はあまり歓迎しませんが、門戸は開いています。
関心のある人はご連絡ください。
また近づいたら案内します。

■シンクロニシティの頻発(2015年4月28日)
最近、私のまわりの時空間が少し乱調しています。
というと大げさですが、ともかくシンクロニシティ現象ともいうべき「偶然の一致」が頻発しているのです。
挽歌編には何回か書いてきていますが、改めて書き留めておこうと思います。

たったいま、友人のSさんから電話がありました。
「その人でしたよ!」というのです。
話はこうです。
松本清張原作の「砂の器」の映画に亀嵩という地名が出てきます。
その映画を観た翌日、Sさんと食事をしたのですが、彼が今度亀嵩への転居を考えているというのです。
連日、亀嵩の名前に出会ったので、驚いたのですが、そこから様々なシンクロが始まりました。
1週間後にある集まりをやりました。
大阪の岡崎さんが話に来てくれました。
岡崎さんもまもなく転居です。
転居先はどこかと訊いたら、「亀嵩」というのです。
しかも、話していたら、岡崎さんの友人の友人も亀嵩に移るかもしれないというのです。
その話をSさんにしたら、Sさんのパートナーの知り合いも亀嵩に移るそうだというのです。
何やらこんがらがってきますが、実は岡崎さんとSさんは3人を通してつながっていたのです。
それがわかって、Sさんは「その人でしたよ!」と電話してきたのです。

岡崎さんは、5年ほど前のある集まりに参加したのが契機になって、人生が変わりました。
その集まりに参加したのが山梨にお住いのHさんです。
私は直接の面識はありませんが、その集まりの受付係でした。
Hさんはメールで申し込んできましたが、申し込みを受理した返信を私は送っていました。
5年以上がたちましたが、お互いに交流はありませんでした。
1週間ほど前に、Hさんから私にメールが届きました。
アドレス違いの間違いメールでした。
そこで間違って私のところに来たことをお知らせするとともに、どうして私のアドレスを知っていたかをお尋ねしました。
それで5年前の集まりに参加したことを知ったのです。
それで岡崎さんが話される集まりのことを伝えしました。
Hさんはわざわざ山梨から参加してくれました。
たまたまの偶然とはとても思えません。

数日前、フェイスブックに「知り合いではありませんか」と見覚えのある人の写真が出てきました。
もしかしたらと思い、Tさんに確認のメッセージを送りました。
ちょうどその時、ある会議の話題で、Tさんは私のことを思い出していたところだったのです。
「なんというタイミング!」と彼女はすぐにメールしてきました。
彼女は北九州市の市役所の職員ですが、その話を3階上にいる私と共通の友人のNさんに連絡しました。
Nさんは来週東京の湯島に立ち寄りたいと数日前に私に連絡してきたのです。
Nさんはすぐさま3階下に降りて行って、彼女といろいろと話したそうです。
Nさんは「何かの計らいのような気がしています」とメールしてきました。

TさんとNさんと私の共通のキーワードは「コミュニティ」と「共創」です。
もう10年以上前に、山形市で「全国地域づくり先進事例会議」を開催しました。
始まりは当時の山形市の日本青年会議所の五十嵐さんと私との雑談から始まりました。
テーマは「共創」。
私の記憶に残る集まりのひとつでした。
五十嵐さんから5月に湯島に行きたいと連絡が入りました。
なんで今なのか?
亀嵩から北九州市の動きは、山形に飛び火しました。
きっとまた何かが起こるでしょう。

長々と書きましたが、こんなことが周りで起こっているのです。
湯島のオフィス近くの階段を上がりきって、前を見たら、先方で手を振っている人がいました。
なんと知り合いのTさんでした。
大昔の本を読み直していたら、なぜかその本の話題が、先週は3回も出てきました。
などなど。
きりがないとは言いませんが、とても偶然などとは思えないのです。

最近はやけに疲れやすくて、時にあっという間に時間がたってしまいます。
きっと私のまわりの時空間にひずみが出ているのでしょう。
そう考えると、すべてが納得できますし、何もしなくても安心できます。
明日は何が起こるでしょうか。

■ジョン・ダワーの警告(2015年5月3日)
昨日のTBS報道特集の「ジョン・ダワーの警告」がどうも物議を呼んでいるようです。
この程度の内容でさえ、ひどい攻撃に合うような、貧しい国になってしまったのが、とても寂しいです。

この番組は、私が辛うじて心を穏やかにしてみることのできる番組なのですが、昨日のタイトルは「戦後70年歴史家からの警告」。
日本の近代史研究を専門にする、アメリカの歴史家ジョン・ダワー氏のインタビューでした。
インタビュアーは金平キャスターです。
次のような5つの章に分けて、とても明快なジョン・ダワーの警告が続きます。

戦後70年 戦争の美化
戦争責任 日本とドイツ
沖縄の声を聴け
「普通の国」の正体
日本の若者たちへのメッセージ

ダワーは最後にこう言います。

「かつての日本にあった理想や希望が今ではなくなってきたのでは」と感じるときがあります。
そのことを、とても悲しく、虚しく感じます。
日本には「アメリカのミニチュア版(Little America)」になって欲しくありません。
絶対にならないで。そうなったら最悪ですよ。

とても共感できました。
今日、どんな反応かなとネットで少し調べてみました。
ひどい酷評ばかりが目に入ってきました。
それで今日は、完全に滅入ってしまっていました。
日本はもう終わってしまったとしか思えなくなったのです。

ところが夕方、知人から、この番組をみましたか、とても感動し、みんなに見てほしいという内容でした。
それで、私も思い直して、この番組のことを広げる努力をすることにしました。
いまならまだユーチューブで映像が見られます。
お時間があればぜひ見てください。
https://www.youtube.com/watch?v=nyOsNOj-sRE

ジョン・ダワーの著書「敗北を抱きしめて」も、古い本ですが、お勧めします。

今日は、憲法記念日です。
そこで思い立って、5月31日に、自民党憲法改正案を逐条的にみんなで読む会を開催することにしました。
フェイスブックで呼びかけたら、即座に参加したいという連絡が入りました。
それで少しだけ元気になりました。

まだ遅くないのかもしれません。
もしかしたら。

■Proactive contribution to peace(2015年5月5日)
平和に向けて先手を打つ貢献――。
英語の「Proactive contribution to peace」を訳してみた。
実はこの英語も翻訳で、もとは日本語の「積極的平和主義」。
自民党内に「憲法に盛り込もう」という声もある言葉だ。

これは一昨日(2015年5月3日)の朝日新聞の<座標軸:連帯なき「積極的平和主義」>の書き出しの文章です。
筆者は論説主幹の大野博人さんです。
現在の日本の政府は、この「積極的平和主義」に向けて憲法を変えていこうとしています。

言葉は恐ろしいもので、「積極的平和主義」と言われれば、ほとんどの人が肯定的に受け取るでしょう。
しかし、これは両義的な意味を持っています。
誰に「貢献」するかの視点をどこに置くかで、「平和」の意味が逆転するからです。
そもそも「貢献」という言葉ほど、危うい言葉はありません。
「平和のための戦争」という言葉もありますが、平和と戦争はコインの両面です。
平和と戦争は、決して対立概念ではありません。

それを鋭く指摘したのがノルウェーの政治学者ヨハン・ガルトゥングです。
ガルトゥングは、戦争のない状態を「消極的平和」とし、それに加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない状況を「積極的平和」としました。
安部首相が「積極的平和主義」と言い出した時、私はガルトゥングの「積極的平和」を思い出したのですが、それとはむしろ真逆な概念でした。

大野さんが「平和に向けて先手を打つ貢献」と書かれているのを読んで、思い出したのが、1970年代の戦争抑止議論です。
核による抑止論に対して、アメリカの心理学者チャールズ・オズグッドは、段階的な核軍縮を先導することこそが戦争を回避するというGRIT(Graduated Reciprocation in Tension-reduction)論を提起しました。
この考え方は、戦争に限らず、人の生き方において、示唆に富んでいます。

「Proactive contribution to peace」
「平和に向けて先手を打つ貢献」
どこかに違和感があります。
たぶん、その時の「平和」「peace」が、現場から遠く離れた統治者にとっての「秩序」を意味するからではないかと思います。
大切なのは、生活者一人ひとりのの安心と安全、そして尊厳です。
視点を変えれば、平和の意味は一変するのです。

個人の尊厳や安全を守る視点から発想していかないと、また聖戦論や正戦論が出てきます。
「聖戦」はイスラムだけが使っているわけではありません。
日本でも太平洋戦争は「聖戦」と言われていたことを思い出さなければいけません。
安部首相の頭の中には、いまなおそういう考えが残っているように思えてなりません。

■人が基本が金が基本か(2015年5月19日)
私が関わっている経営道フォーラムの発表会がありました。
企業の経営幹部の人たちが、半年間、チームを組んで研究してきたことの発表会です。
今回は4つのチームが発表しました。

この発表会には、もう20年以上参加していますが、その時々の企業の置かれている状況が伝わってきます。
今回は私だけではなく、みんなにも伝わったようで、発表の後の話し合いなどでも、結局、企業経営は人が基本だ、という受け取り方がほとんどだったように思います。
そうなったのは、たぶんいまの企業から「人が基本」という文化が消えてしまっているからでしょう。
いまの企業は、「人が基本」ではなく「金が基本」なのかもしれません。

企業経営にとって重要な3つの要素は「組織」「戦略」、そしてそれを動かす「人間」です。
組織や戦略は論理で考えられますが、人は論理だけでは考えられず、そこに難しさとともに可能性があります。
これまでの経営の基本は、組織や戦略に人を合わせることでした。
しかし、社会や経済が成熟してくるにつれて、人を基軸にして戦略や組織を考えることが重要になってきています。
組織や戦略が人を使うのではなく、人が組織や戦略を活かしていくということです。
それはある意味では、経営における人間観を変えることであり、経営のパラダイムシフトを意味します。
しかし、そういう方向に企業経営を変えていくことは簡単ではありません。
最近の日本企業をみていると、グローバリゼーションによる競争激化を口実に、むしろ、組織や戦略に人を合わせるという姿勢を強めているようにさえ見えます。
そのため、社員の持っている力を十分に引き出すことにあまり成功していないような気がします。
その一つの現れが、企業で働く人たちのメンタルヘルスの問題の増加です。
それは、当人にとってはもちろんですが、企業にとっても、経済にとっても、好ましいことではありません。

私のところには、若者たちがよくやってきますが、会社に入ることに不安を感じている若者が多くなってきています。
彼らは、先輩などを通して、会社の実状をなんとなく感じているようです。
企業を選ばずに、NGOを選んだり、自分たちでソーシャルビジネスを起業するという若者も増えています。
いまの企業は、やる気のある若者たちにとって魅力的な場になっていないのかもしれません。
せっかく入社したのに、やめてしまう若者も少なくありません。
もし、人が企業を育てていくのであれば、これは大きな問題です。

そうしたことの背景には、非正規社員の増加や即戦力になる人材の中途採用の広がりなど、経営要素としての人材に対する企業の考え方が大きく変わってきているという事情があります。それでいいのかどうか。
その一方で、正規の社員の意識も大きく変わってきています。
そうしたことに、いまの企業はしっかりと対応できているのかどうか。

そうした視点で、4つの発表を聞いていましたが、言葉とは裏腹に、ほとんどの人がまだ「金を基本」としているような気がして、聞いていて滅入ってしまいました。
言葉を変えるのは簡単ですが、考えを変えるのはどうも難しいようです。

■橋下大阪市長の敗北宣言は心に響きました(2015年5月19日)
大阪都構想は住民投票で僅差でありましたが、否定されました。
橋下大阪市長は政界から身を引くことになりました。
その記者会見の様子は、実に鮮やかであり、改めて「橋下」現象の意味を教えてくれました。
彼が、その記者会見で残した言葉は、多くの人が考えるべきことをたくさん含んでいます。
記者会見での彼の表情は、やっとこれで解放されるという感じでした。
7年間、私利を超えてよくやったと思います。

私自身は、橋本さんの基本的な考えには賛成できませんし、彼の視野の狭さにも共感はできません。
しかし、価値観は違っても、彼の小気味よい生き方には惚れてしまいます。
ぶざまな言動も決して少なくありませんが、それも彼の極めて主観的な感情が出ていますので、好感がもてていました。

しかし残念なのは、日本の地方自治体制が、揺るがなかったことです。
いまの日本の自治体制は、中央集権のための自治体制です。
住民の生活の視点から構築されているわけではありません。
明治維新の近代化構想ももちろんそうですが、第二次世界大戦後のアメリカによる2度目の近代化は、さらに統治のための自治を構造化しました。
それを壊していかなければ、住民自治は実現しません。
団体自治は、決して地方自治の本質ではありません。

大阪では、橋下行政の反動が起こりだすでしょう。
橋下さんを継ごうとしている若者たちが、どこまでそれを食い止められるか。

書きたいことはたくさんありますが、書く気力が出てきません。

■コムケアサロン「貧困をどう考えるか」のお誘い(2015年5月24日)
5月のコムケアサロンは「貧困をどう考えるか」をテーマに、NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの大西連さんに問題提起をしていただきます。

大西さんは、これまでもコムケアの活動に何回も関わってくれていますが、
今回は自立生活サポートセンター・もやいでまとめた、貧困問題をわかりやすく解説した「貧困問題レクチャーマニュアル」をベースに、
最近の貧困問題の実状や生活に困窮している人への支援の仕組み、
さらにはそうしたことに関わってきている大西さんの思いをざっくばらんにお話しいただき、それをもとに参加者で話し合えればと思います。

併せて、自立生活サポートセンター・もやいの活動についても少しご紹介いただこうと思います。

若い世代の大西さんが、実践活動を通して、最近の社会をどう感じているか、そして、どう実際に行動されているか、たくさんの気づきやヒントをもらえると思います。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。

なお、「貧困問題レクチャーマニュアル」は、自立生活サポートセンター・もやいのホームページからダウンロードできます。
参加される方はできれば事前にお目遠しいただければと思います。
http://www.npomoyai.or.jp/wp-content/uploads/2015/04/hinkonlec.pdf

●日時:2015年5月29日(金曜日)午後7時〜9時
●場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●話題提供者:大西連さん(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい)
●参加費:500円
●申込先:comcare@nifty.com

■自民党憲法改正案を読む会へのお誘い(2015年5月25日)
5月31日(日曜日)の午後、湯島で、自民党憲法改正案をきちんと読む会を開催します。
これは、4月にスタートした、「戦争反対カフェサロン」の第2回目です。
自民党憲法改正案を実際に読んだことのない人が多いのではないかと思いますが、きちんと読むと、唖然とすることも少なくありません。
サロンはいつも話が拡散してしまいますので、今回は前半はきちんと改正案を読むことに専念します。

参加者は、各自、改正案(必要があればメールで送ります)を読んで参加し、サロンでも改正案を逐条的に読みながら、武田文彦さん〈究極的民主主義研究所所長〉に「抑え気味」に解説してもらい、どこが問題なのかをそれぞれが考えるというスタイルです。
話し合いの時間はあまり取れませんが、まずは事実をしっかりと確認する勉強会です。
最初の2時間が「勉強会スタイル」、最後の1時間が話し合いを想定しています。
みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2015年5月31日(日曜日)午後1時半〜4時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円
○テーマ:自民党憲法改正案を読む
○解説者:武田文彦(究極的民主主義研究所所長)
○参加申込み先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
参加される方は事前にご連絡ください。
https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf

■コムケアサロン「貧困を考える」(2015年5月29日)
「貧困問題を考えるサロン」は途中までの参加も含めると14人になりました。
貧困への関心の高さがわかります。
見えていない人には見えませんが、きちんと生きている人には痛いほどわかる問題なのです。
もし皆さんが、「貧困」という言葉になにか感ずることがないとしたら、要注意です。
老後は不幸になるかもしれなません。

自立生活サポートセンター・もやいの理事長の大西さんの話はとてもわかりやすく、話し合いもはずんだので、30分以上も伸ばしたのですが、まだまだ話したかったという人が多かったです。
貧困問題からはいまの日本社会の実相が見えてくると同時に、私たちがいま正すべき課題も見えてくるような気がします。

今回は特にホームレス問題に関して、もやいが作成した「貧困問題レクチャーマニュアル」を使ってミニワークショップも組みいれてくれました。
たとえば、朝起きたら、家の前でホームレスと思われる人が寝ていたら、あなたはどうしますか、というテーマでの話し合いです。
自分の問題として考えると、問題がまた違って見えてくることをみんな実感したと思います。

ちなみにこのマニュアルはとても示唆に富んでいます。
自立生活サポートセンター・もやいのホームページからダウンロードできますので、多くの人に読んでほしいと思います。
http://www.npomoyai.or.jp/wp-content/uploads/2015/04/hinkonlec.pdf

私自身は、日本では、トリクルダウンの論理を使った、巧妙な貧困層の暮らしの市場取り込みの結果、逆再配分機能が発揮されて格差拡大が制度化されたと考えているのですが、そう考えると貧困層は「経済成長」のための不可欠な要素にされているような気がしています。
また多くの場合、住む場所(ハウスとホーム)こそが貧困問題を解決するカギだとも思っています。
必要なのは「雇用の場」ではなく「暮らしの場」だと思いますが、そういう意味から、貧困問題や経済の捉え方も見直していく必要があるようにも思います。

■「自民党憲法改正案を読む会」を開きました(2015年5月31日)
参加者は7人、全員男性でした。
改正案を逐条読みながらの議論でしたが、前文、天皇、安全保障、国民の権利及び義務までで2時間半を超えてしまいました。
しかし、ここまでに大きな論点がありますので、ある意味では目的を達成できました。

前文をしっかり読むだけでも自民党改正案の本質がわかります。
できれば皆さんも読んで、いまの憲法との違いを考えてほしいです。
それぞれの文章の主語の違いを比べてみるだけでも、改正案の意図が見えます。
ここでは参加者の一人から、日本人は明治時代の「臣民」からいつ「人民」になったのか。
そして、「人民」ではなくて「国民」であることの意味を認識すべきだと発言がありました。

第1章の「天皇」も、改正案では大きな変質が企図されています。
天皇の人権を無視していいのかという議論も多かったですが、改正案には民主主義や人権尊重という「建前の憲法思想」と整合しない根本的矛盾があります。
「天皇を救え!」という思いが出てこない日本国民の薄情さを私は感じます。
私は、あの「オメラスの話」を、いつも思い出します。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

第2章は、現行憲法の「戦争の放棄」が改正案では「安全保障」になっていますが、この考え方が時代錯誤だという意見が多かったように思います。
この章名は「安全保障」ではなく「安全の放棄」にした方がいいような内容だと私は思います。

第3章の国民の権利及び義務は、もう情けなくなってきます。
憲法とはとても言えない内容のような気がします。

そんな感じで、改正案のあまりのお粗末さに、この改正案は本気でつくったのかという疑問が出てきます。
しかし、どんなものでも、一応、与党の公式の改正案ですから、これがデファクトとしていつのまにか「認知」されていきかねません。

条文から離れて1時間ほどの話し合いをしましたが、なかなか止まりません。
なんとか議論を収斂させようと試みましたが、その都度、また新しい論点へと広がって止まらないのです。
それで無理やり切って、最後にそれぞれが感想を言って、何とか4時間近い議論を終えました。

私は次のような感想を述べました。
改めて憲法を読んでみると、現行憲法も含めて、「統治基本法」でしかないこと。
それでも現行憲法にはわずかに残っていた理念や普遍性志向が削除され、ますます手続法になってしまっていること。(たとえば、現行憲法の97条が削除されています)
立憲主義の理念は失われ、臣民の守る道を示す「ありがたい存在」を目指していること。

私たちは、日本国憲法のもとで「人民」へと変われるはずだったのに、やはり「国民」という名の臣民にとどまっているのを見透かされてしまっているのです。

こういう学びや話し合いの場は、意味を持っているのでしょうか。
今回、物足りなかったのは、自民党の改正案に賛成する人がいなかったことです。
意見の同じメンバーが話し合っても意味はありません。
もしみんなの意見が同じであれば、次は行動に移さねばいけません。
そんなわけで、それぞれ何かアクションにつながるように考えようという提案をしました。
私は最近、政府向けのデモよりも、まずは自分の思想を磨くことが大切だと思い出しています。
そのためにも、この種のテーマの話し合いの場を続け、参加者を広げたいとと思います。
それが私の、当面のアクションプログラムです。

今度は現行憲法を読む会をやる予定です。

ちなみに、自民党改正案に関する私見は以前、このブログでも書きましたが、その総集編が次にあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm

■時評がやはり書けません(2015年6月4日)
このブログでは、以前は毎日「時評編」も書いていました。
しかし、だんだんと書けなくなってきました。
特にこの半月程は全くと言っていいほど書けなくなっています。
なぜなのかと自分でも考えているのですが、自分自身の生き方にたぶん原因があるのです。
「心理主義の罠」のような気もしますので、注意しないといけませんが、やはり問題は自分にあるように思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/05/post_fbdd.html

一言で言えば、社会への関心を失いつつある。
というか、最近の社会は、私自身がその「一員」であると実感できなくなってきている。
たとえば都心に出て行って、高層ビルのまわりを歩いているビジネスパースンを見ているとどうしても「私と同種の生き物」には見えません。
あるいは表参道や銀座を歩いて、華やかな女性たちや若者たちを見ていても、それも「私と同種の生き物」には見えてこない。
モダンな人工装置の中を元気よく歩いている「人らしい生き物」は、私にはまぶしいほど進化した「新人類」に見えてしまい、私とは別の生き物に感じられる。
いまの社会に、私自身がついていけなくなっているのです。

時々、ふと思うのですが、私が気づかなかった間に、エイリアンによって世界は変えられてしまったのか、あるいは核戦争が勃発して、みんなもう死者の世界を生きているのか、そんな気さえします。
こんなことを書くと私の「正気」が疑われそうですが、最近は私にとっても「正気」の人と出会えることが少なくなってきています。
まあ、どちらが「正気」かは、一概には決められませんが、「正気」と思える人は本当に少なくなったような気がします。
幸いに私はまだ、「正気」の人に囲まれて生きていますから、身の回り的には生きやすさはあるのですが、でもその小さな社会の外に広がる社会は、どうもなじめない。
私とは違う世界のような気がして、考える気にならないのです。
だから、時評も書く気が起きないし、書くことが浮かばない。

まわりの世界に「生気」を感じられないのは、自らの「生気」が枯れているからでしょう。
生気がなくなると、周りの生気など感じられなくなってしまう。
つまり「生気」を失ったのは、私なのです。
それが、たぶん、時評を書けない理由なのです。

先週から、私自身の生活リズムを回復しようとしています。
挽歌は毎日書けるようになってきました。
いささか最近は自分の世界に引きこもりた気分におおわれているのですが、来週からは時評も書けるように、社会的な生活リズムも整えていこうと思います。

時評の再開は来週からです。たぶん、ですが。

■スチュアート・ミルの警告(2015年6月7日)
時評を再開します。
依然として気分は乗らないのですが(実際にはますます厭世観が強まっています)、だからこそ再開します。

まずは、ジョン・スチュアート・ミルの言葉を取り上げようと思います。
「たとえ、有益な目的のためでも、人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」
この言葉は、ジョン・ダワーの本「忘却のしかた、記憶のしかた」で知った言葉で、原典には当たっていません。
ジョン・ダワーが紹介している、カナダの歴史学者E・H・ノーマンが1948年に慶応大学で講演した記録の中に出てきます。
有名なカントの命題「人格に存する人間性を、つねに目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」を思い出します。

スチュアート・ミルのこの言葉を思い出したのは、昨日まで企業の人たちと経営問題に関して話し合う合宿に参加していたからです。
こうしたことが、実際に話題になったわけではありません。
なんとなく、みんなの話を聞いていて、思い出されてきただけです。

安部首相は、日本という国を「取り戻す」(人民から取り戻すという意味でしょうが)ために、まずは教育基本法から取り組みだしました。
明治政府と同じです。
まずは人民を「国民」にし、富国強兵に取り組むことによって、明治政府は短期間で近代国家に近づきました。
これもジョン・ダワーの本からの受け売りですが、ノーマンは、もし明治初期にもっと多くの血が流れ、それによって日本人がもっと本物の自由を勝ちとっていたら、世界は日本の侵略から免れていたかもしれない、と言っていたようです。
それにもうなづけますが、この話はまた別に書きたいと思います。

私は、阿部政権の思想や姿勢に反対ですが、その取り組み方は評価します。
野党には、そうした戦略志向がありませんから、独走を止めようがありません。
国民は、見事に「阿部政府」の「教育」によって、道具になっていることさえ気づこうともしません。

しかし、実は私たちが「道具」になっているのは政治だけの世界ではないように思います。
経済(企業)活動においても市民社会活動においても、状況は同じかもしれません。
そして、もしかしたら、日本人はもともと「道具的存在」が、その特質なのかもしれません。
2日間、企業経営に関する話をしながら、頭のどこかで、そんな疑問が強まってきてしまっていました。

よく誤解されるのですが、私はいまの政治や経済や企業やNPOを否定したり、敵視したりしているのではありません。
先行きを心配するという意味で、むしろ応援しているのですが、なかなかそうは受けとられません。
先日もビジネススクールで話したのですが、多くの「敵意」を感じました。
困ったものです。

私が危惧しているのは、ミルが、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」と言っているように、目先はともかく、その努力が報われないのではないかということです。
しかし、社会の流れは、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める」国家や組織を向いています。
そもそも学校も、その先端を走っているように思います。

それに抗う方策は一つだけです。
自らが道具にならないことです。
まわりの誰かを道具にしないことです。
しかし、無防備な子どもたちにはそれは期待できません。
さてどうするか。
道具になっていない先生を応援するしかないのでしょうか。

社会のことを考え出すと、すぐにやるべき課題に出会います。
そしてまた厭世観に負けて引きこもりたくなります。
しかし、道具にだけはなるまいと思っています。

■栃木県では新規就農者が増えているそうです(2015年6月7日)
昨日は那須塩原に行っていましたが、読売新聞の栃木版に、この1年間(2014年5月〜2015年4月)の栃木県内の新規就農者は1998年度の調査開始以来の最多の251人だったと報道されていました。
しかも、15~39歳の青年層が166人で最も多かったと言います。
農家出身者のUターン就農が多いのですが、非農家出身者も40人だったそうです。
ちなみに前年度も非農家出身者が41人いたそうです。
企業勤務から転身した2人の方の意見が乗っていました。
「生涯続けられる仕事だ」
「サラリーマン時代は帰宅が夜遅かったが、いまは子どもたちと過ごす時間や近所付き合いも増え、毎日が充実しています」

おそらく金銭収入は激減したと思いますが、生活満足度は総じて高まっているのが伝わってきます。
経済の考え方もそうですが、働き方や生き方を真剣に考えるべき時代になってきています。
そうした人たちが、きっと新しい地方を創りだしていくのでしょう。

昨今の「地方創生」の動きは、相変わらず「金銭経済」を基軸に発想されているような気がしますが、それでは地方を壊すことになりかねません。
地方に行くたびに、そう思います。

■社会の民度が劣化している?(2015年6月9日)
最近、痛感するのが、日本の社会の民度の劣化です。
こんなこと言うと、何を偉そうなと笑われそうですが、そう思うことが少なくありません。

社会の民度とは、私の勝手な定義づけですが、自分の主体性に基づいて、他者と一緒に、みんなが生きやすい状況を積極的につくりだそうとしている人がどの程度いるかということです。
一般に民度とは、人民の生活程度や文化水準の程度を言います。
しかし、「生活程度や文化水準の程度」をどうやって測定するかは悩ましい問題です。
先週もある人と、石器時代の人たちと現代の人たちとどちらが幸せかが問題になりましたが、それは、たぶん比較不能な問題です。
サーリンズの「石器時代の経済学」は面白い本ですが、私たちは決して石器時代人にはなれませんから、その気持ちまではわかりません。
「生活程度や文化水準の程度」で、社会の質を測定するのは適切とは言えません。
だから、私は、そこにいる成員の主体性や自律性、そして社会性(社会とのつながりの意識)に「社会の民度」の基準を置いています。

経世済民の徒とも言われる柳田国男は、権力の腐敗を防ぐためには「民衆もまた大いに覚るところがなければならぬ」と言っています。
国民が自主的な判断力、社会的な判断力をもつことが社会や国家を豊かにすると考えていたのです。
彼は普通選挙の実現に取り組みましたが、普通選挙制度がまた、金権政治や利権政治に向かう可能性を内在させていることも危惧していました。
そのために、柳田は「公民教育」に大きな期待を持っていました。
国民がよき学問を身につけて選挙に臨むことが、「生活苦」を救い社会を豊かにする政治を実現すると考えていたのです。

コミュニティ論の古典と言われるマッキーヴァーの「コミュニティ」に、こんな文章があります。

多数者支配の原則に身を託している今日の世界において、唯一の希望は、社会教育や社会的責任の教育、ならびに全人格の価値、自発性を第一義とし、強制を第二義とすることの主張、たとえ法的、政治的に許されても、深く持続的な対立を生み出し、コミュニティの力を減ずるような要求を差し控える方が賢明であることの強調である。

そして、彼も、「コミュニティの生命力は、成員である各人の個性と社会性に依存している」というのです。
つまり構成員の生の成熟をコミュニティの発達と考えていたのです。

こうした視点で考えていくと、いまの日本の社会は、劣化しているとしか思えません。
その象徴的な表れが、現在の安倍政権のような気がします。
学ぶことを忘れた国民は、決して良い政府を持てないでしょう。
そんな思いもあって、湯島では様々なテーマでの気づきの場を開いています。

■軍隊は人を殺すための装置です(2015年6月10日)
人は自らの行動を参照しながら、他者の行動を予測します。
そして、他者の行動を、自らの価値観で評価します。
ですから、他者を理解するには、その人が他者をどう見ているかで見えてきます。

ジョン・ダワーの「忘却のしかた、記憶のしかた」(岩波書店 2013年)を先月読んだのですが、ショックを受けたことがあります。
これまで思ってもいなかった指摘です。

手元に同書がないので、正確には書けませんが、こんな内容です。
敗戦後、アメリカの占領軍が日本にやってきました。
日本の男性たちはパニックを起こし、占領軍が日本人をレイプ(略奪・強姦)するという噂が流れたと言います。
それに関して、ダワーは、それは日本の男性たちが、兵士として海外でそういう行動をとっていたからだというのです。
なぜか本を読んでから1か月も経つというのに、その文章が忘れられません。

「戦争するってどんなこと」という中学生向けの本を、友人に勧められて読みました。
C・ダグラス・ラミスさんの本です。
とてもわかりやすく、たぶん「おとな」でもわかるようにやさしく書かれています。
蛇足ですが、前の文の「おとな」は「子ども」の書き違いではありません。
大人の理解力は、子供より劣っていると、私は確信しています。

それはそれとして、そこに19歳で沖縄戦を経験した大田昌秀さんのインタビュー記事が載っていました。
日本軍が沖縄の人を守るどころか、殺害も含めてひどいことをしたことが証言されています。
ショックでした。

ラミスさんは、軍隊が国民を守るというのは幻想だというのです。
軍隊は、国民を守るはずがありません。
なぜなら軍隊における人間観が「人を守る」という理念を失っているからです。

平和学の泰斗である石田雄さんの最新の著書「ふたたびの〈戦前〉」を読み出しました。
いまさらながらたくさんの気づきをもらえます。
軍隊は、国家を滅ぼすだけではありません。
人を壊すのです。

安保法制で多くの憲法学者が「違憲」を唱えています。
しかし、政府は「違憲」ではないと言っています。
軍隊をつくろうとするだけで、人は壊れてしまうのかもしれません。
人間だったら、人を殺す装置など作ろうとは思わないでしょうから、当然と言えば当然ですが。
明日、もう一度、つづきを書きます。

■人を殺すことができる人間を作る社会(2015年6月11日)
昨日の平和時評のつづきです。
石田さんの「ふたたびの〈戦前〉」のなかには、衝撃を受けた文書がもうひとつあります。
この本は、石田さんがご自身の体験をベースに書かれていますが、石田さんが軍隊に入って経験したことが書かれています。

1943年に徴兵されて軍隊に入ると、命令によって、いつでも誰でも、見境なしに人を殺すことができる人間を作るために、毎日大した理由もなく、殴られるという生活を経験しました。

軍隊では暴力が広く行われていたことは、さまざまな証言から、私も知っていました。
それは、しかし、恐怖を押し付けられた抑圧された状況の中での異常行為だと思っていました。
しかし、この石田さんの文章は、それが「見境なしに人を殺すことができる人間を作るため」の意図されたものだったことを示唆しています。

ダグラス・ラミスの「戦争するってどんなこと?」から、また引用します。

普通の人は人を殺すことに抵抗があります。(中略)
ところが、戦争になると、たくさんの若者がその抵抗をなくす訓練をうけます。
そして戦場に行って、若者たちが実際に人を殺す経験をして、それに慣れたら、さらに心のなかの抵抗が破壊されます。
(中略)
あるいは、軍隊に入らなくても、戦争している国には人を殺す話、自分の国が人を殺しているというニュースが毎日報道され、敵側の人が殺されたら、「イェーイ」「ばんざい!」と喜びます。
敵だったら人を殺すのはいいこと、喜ぶこと、という雰囲気になります。

そして、こう言います。

憲法を改正しても、すぐに独裁になることはありませんが、時間とともに社会も変わっていくでしょう。
日本を「戦争ができる国」に変えようとするなら、憲法9条を変えるだけではできません。
日本社会を「戦争ができる社会」に変えなければなりません。
何世代も前から日本は戦争していませんので、できるようにするのは大変なことです。

ちなみに、2015年5月29日の朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書かれていました。

 意外にも多くの兵士が銃を撃っていなかった。
米軍が調べたところ、第2次大戦で戦闘中に発砲したのは、全体の15%から20%に過ぎなかったという。(中略)
その後、米軍は発砲率を上げるための訓練法を開発した。
朝鮮戦争では55%になり、ベトナム戦争では90%以上になったそうだ。

人が壊される時代になってきているのです。
「戦争ができる国」になるかどうか。
それは、私たちが「人を殺すことができる人間」になるかどうか、にかかっています。
最後の砦は、結局は私たちなのです。
しかし、その最後の砦が、今や浸食されだしています。
2つの方向から。
これについては、後でまた書くつもりです。

■人を使わない戦争の可能性(2015年6月11日)
前の記事の続きです。

「戦争ができる国」になるかどうか。
それは、私たちが「人を殺すことができる人間」になるかどうか、にかかっています。
最後の砦は、結局は私たちなのです。
しかし、その最後の砦が、今や浸食されだしています。
2つの方向から。
と書きました。
2つの方向とは、「教育の徹底」と「戦争の仕方の変化」です。

教育の徹底に関しては、書くこともないほど明白です。
なにしろ日本人は、いまやすでに「戦争」を歓迎しているようにさえ見えます。
そうでなければ、安倍政権が高い支持率を受けることはないでしょう。
軍隊がなければ国は守れないなどという思いも育っていないはずです。
軍隊は、国家を守ることがあるとしても、国民は守りません。
そんなことは歴史を少し調べればすぐにわかるでしょう。
軍隊が殺している人間は、戦争相手の国民とは限りません。
沖縄の人たちは、それを生々しく体験してきたのです。

しかし、もうひとつ気になるのは、戦争の仕方の変化です。
自らを生命の危機にさらさなくても、人が殺せるようになってきたのです。
最近、日本でもいろいろと話題になっているドローンから爆弾を発射して人を殺す方法が取り込まれだしているのです。
自らは殺される危険性のない殺し方です。
極端に言えば、電子ゲームのようなものですが、機器の操作者の動作は同じでも、ゲームの向こうの現場では実際に人が殺されているわけです。
その操作技術が、電子ゲームによって、若者に「思考形式」と同時に、「教育」されているのです。
画面上の「悪者」が、いつ、敵国ないしは問題が起こっている地域の「人民」になったとしてもおかしくないのです。
恐ろしい時代に向かっていると思うのは、私だけでしょうか。
電子ゲームが、人の心にどれほどの影響を与えているかを、ゲーム会社の人たちはわかっているのでしょうか。
いや、わかっているからこそ、そうした「殺しに慣れる人間」を育てることに加担しているのかもしれません。

そして、戦争における「対立軸」が変わっていることに注意しなければいけません。
戦争は「国家間の争い」ではなくなり、「殺されることのない選ばれた人」による「普通の人」への支配行為になりつつあるわけです。
「殺し合いの戦争」から「一方的な暗殺行為」に変質したと言えるかもしれません。
経済の世界で「1%対99%」の対立が顕在化しつつありますが、政治の世界もまた同じ構図が生まれつつある。

世界は今、大きく様相を変えてきているように思います。
そうした展望の中で、ISの動きを見ているといろんなことが見えてくるような気がします。
これまでの思考の枠組みで見ていては、世界は理解できないような気がしてなりません。

いやもっと恐ろしいことも示唆しています。
書きだすと止まりません。
少し、違う話題を入れてから、また書こうと思います。

■第2回戦争反対サロン「70年の不戦をどう考えるか」の簡単な報告(2015年6月14日)
昨日は第2回戦争反対サロン「70年の不戦」をどう考えるかでした。
11人が集まりました。
女性が少ないと嘆いたら、それを受けて、農福活動に取り組んでくださっている、農カフェ「OMOしろい」の宇賀富美江さんが参加してくれました。
後は、やはり全員、男性でした。

西坂さんは、このサロンをやろうと思い立ってから、自分の問題として真摯に考えた結果、「どうやら、私は心情的な左翼にすぎない」と思うに至ったそうです。
そして、それに基づいて自分の考えをまとめ、「平和のための模索」をまとめてくれました。
そして、生き方も少し変わったそうです。
そのプロセスと整理したことを3章立てのレジメにまとめてくださり、それに沿って、とてもわかりやすいお話をしてくれました。
そして、それに基づいてみんなで話し合いました。

さまざまな意見と議論が出ました。
どうしたらいいかの話もだいぶ出ました。
話し合いの内容をきちんと報告できないのが残念ですが、少しずつこのブログに書いていければと思っています。

唯一の女性の宇賀さんが、やはり男性たちの議論は男性たちの議論だなと感想を述べてくれました。
そして女性としての平和に関する考えや取り組みを、これもとてもわかりやすく話してくれました。
立場や属性によって、考え方は違います。
老若男女を含めて、さまざまな人たちが話し合う場がとても大切だと、改めて思いました。
さまざまな意見に出会い、いろんな考えに触れ合う場が広がることが、もしかしたら「戦争」や「争い」の最大の抑止力かもしれません。

私は、戦争は経済のあり方に大きくつながっていると思っています。
経済のあり方は、さらに私たちの生き方につながっています。
そこを変えていかないといけないというのが、私の長年の取り組みです。

次回は7月18日に、女性を中心にした集まりを予定しています。
まもなく案内をアップしますが、関心のある方はご連絡ください。
詳しい企画案を送ります。

なお、もしご関心のある方がいたら、今回のレジメを西坂さんに頼んで送るようにしますので、ご連絡ください。

■「70年の不戦」その1:この70年間は「不戦」だったのか(2015年6月18日)
6月13日に「70年の不戦」をテーマにしたカフェサロンを開催しました。
その簡単な報告はすでに書きましたが、そこで話題になったことや気づいたことなどを、何回かに分けて書こうと思います。

一番、大きなテーマは、この70年の日本が本当に「不戦」だったのかどうかということです。
残念ながら、今回のサロンでは、これは大きな論点にはなりませんでした。
しかし、この70年、日本人は「戦争」という状況に中で、「人を殺すこと」も「殺されること」も体験していませんから、日本人は「不戦」状況を享受したと言ってもいいでしょう。
問題は、果たしてそれが、世界の平和に寄与したかどうか、あるいはそれが新しい世界のモデルになったかどうかです。
それは、不戦サロンの第2回に期待したいと思います。

サロンの後半で、私は次のような発言をしました。
日本が世界の戦争に直接的に巻き込まれなかったのは憲法9条のおかげであるが、しかし同時に、日米安保条約のおかげかもしれない。そして、日米同盟という枠組みで考えれば、日本は戦争に加担してきたとも言えるのではないか。
朝鮮戦争もベトナム戦争も、イラクも、沖縄の米軍基地から爆撃機は飛び立ったことを考えれば、攻撃された相手から見れば、日本が戦争に加担していなかったとは思わないかもしれない。
日本は、米軍の戦争を経済的に支えるための、工場であり、基地であっただけであり、「不戦」を享受したのは日本人だけの感覚ではないのか。
しかし、日本人が誰も「戦場において殺されずに、また人を殺なかった」という事実は、大きな意味を持っているのではないか。
その「不戦の体験」は、世界に発信する価値があるのではないか。

日本人は「戦争の被害者」という意識が強く、自らが「戦争の加害者」だったという意識が弱いということが、最近、よく言われます。
この意識構造は、いまの不戦の70年の受け止め方にもつながっています。
日本には確かに戦争はなく、その「平和」を享受してきました。
しかし、それは他国の「平和」を犠牲にしていたのかもしれません。
朝鮮戦争で日本は経済復興の契機を得たと言われるように、「戦争の加害者」であることの側面を意識することなく、「戦争に支えられた経済」によって、「平和」を享受してきているとも言えるかもしれません。
だとしたら、この70年を「不戦」と誇ることは難しい。
ただただ「直接的な被害」を回避してきただけであり、見方を変えれば、戦争に加担してきたとさえいえるかもしれません。

にもかかわらず、日本はこの70年、戦争に巻き込まれなかった。
それは、人類の歴史において、初めてのことかもしれません。
その意味を、私たちはやはり、もっと深く考える必要がある。

しかし、考える間もなく、その「不戦の70年」が終わろうとしています。
人類は、不戦とは無縁の生き物なのかとついつい思ってしまいますが、まだ諦めるのははいかもしれません。

■「70年の不戦」その2:戦争を回避する方策(2015年6月19日)
日本はなぜ70年も「不戦」でありつづけられたのか。
またこれまでも戦争に巻き込まれないためには何が必要なのか。
この問いに関しては、2つの考え方があります。

一般的に考えられるのが、攻められないために軍事的な抑止力を高めるという考え方です。
抑止理論から言えば、日本が70年も戦争から「無縁」だったのは、日米安保条約による米軍の「核の傘」のおかげだということになります。
そして、これからも、いま国会で議論されているような安保法制を積極的に整備し、日米軍事同盟をさらに強固なものにしていくということになります。

最近の日本人の多くは、意識的にではないとしても、そう考えているようです。
ダグラス・ラミスの「戦争するってどんなこと?」に、「2013年の朝日新聞による世論調査では、日米安保条約を支持する人は81%でした。一方、52%の人が憲法9条は変えないほうがいいと答えています」と紹介されています。
ここに、最近の日本人の本音が見えてきます。
憲法9条を守りたいなら、日米安保条約を支持することはありえないと思いますが、多くの人は軍事力による抑止力に依存しているのです。

しかし、軍事的な抑止力は両刃の剣です。
それは相手を信頼していないことの意思表示であり、いつでも攻撃できるという威嚇でもあるからです。
信頼されていないことを突きつけている相手を、信頼できる人はいないでしょう。
威嚇されて、心穏やかな人もいないでしょう。
売り言葉に買い言葉というような悪循環が始まりかねません。
それが1980年代までの国際政治でした。

その中心は、冷戦時代の米国とソ連の関係、つまり核抑止理論による軍拡競争に象徴されます。
自らの核戦力を増強することにより相手の核兵器使用を封じ込めていく発想(エスカレーション理論)は、結果としては相手の核兵力増強を引き起こし、両国は際限のない軍拡競争に陥ったのです。
そうしたなかで、逆に一方的削減(オスグッド理論)による軍縮という提案が出てきます。
いわゆる「段階的相互緊張緩和策」です。
まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こすという発想です。
提唱者のチャールス・オスグッドは、「一方的イニシアティブによる軍備削減」と書いていたと記憶していますが、「相手に対する信頼」に基づく、自発的な行動が出発点です。
キューバ危機は、ケネディとフルシチョフの信頼によって、回避されました。
ちなみに、オスグッドの主張は、日本でも「戦争と平和の心理学」として1968年に岩波書店から翻訳が出版されています。

いずれも自らの変化(軍拡、軍縮)が相手の変化を引き起こすと考えるわけですが、その変化の方向は全く違います。
そして、そこから出てくる結果も大きく違う。
自らの変化の方向が相手や状況の変化の方向を決めるのです。
世界は自らが変わる方向に変化していくものです。

威嚇か信頼か。
戦争を回避するには、どちらが効果的でしょうか。
私にはあまりにも簡単な問題なのですが、どうもそうでもないようです。
みなさんはいかがでしょうか。

■「70年の不戦」その3:SADAKO−LEGACY(2015年6月18日)
ちょっと寄り道をします。
というのは、昨日、SADAKO−LEGACYの佐々木祐滋さんが湯島に来てくれたからです。
友人が、引き合わせてくださったのです。

SADAKO−LEGACYは、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルとなった、佐々木禎子さんの生涯を伝えることを通して、平和への実現に向かって活動しているNPO法人です。

佐々木禎子さんは、2歳の時に広島で被爆し、12歳で亡くなりました。
最後まで、折鶴をおりながら。
本や映画になっているので、ご存知の方も多いでしょう。
http://www.sadako-jp.com/

SADAKO−LEGACYは、禎子さんのお兄さんと甥でミュージシャンの佐々木祐滋さんが中心になって活動しているNPOです。
http://www.sadako-jp.com/
その佐々木祐滋さんが、先日の不戦サロンに参加してくださった宇賀さん夫妻と一緒に、湯島に来てくれました。
いろいろと話しました。
そして、いろいろと考えました。
やはり、時代は変わろうとしているのだとも感じました。

祐滋さんと話していて、突然、前に読んだ本の中で、サダコさんの兄の雅弘さんが書いていた文章を思い出しました。
帰宅して、その文章を探して読み直してみました。
改めて共感しました。
ちょっと長いですが、その文章を引用させてもらいます。

2004年、ウィーンの中央図書館ホールで「禎子物語」を講演した後、質問時間が設けられ、地元の中学生が質問しました。
「原爆はどこの国が落としたのですか」と…。
私はこう答えました。
「あのときから長い時間が経過しました。その間に神様は、お互いの心を洗い流してくださいました。だから原爆を落とした国の名前は忘れました」と。
この心こそが、禎子が伝えたかった「思いやりの心」であるからです。
「憎しみからは、憎しみの心しか生まれない」。けれど大切なことは、憎しみ合う前に、お互いを理解しあう「思いやりの心」を持ち、これをつなぎ続けていくことだと禎子が教えてくれました。
次代を担う若者達に伝えたいのです。
(出典:「INORI」(綾野まさる ハート出版 2010)

「原爆を落とした国の名前は忘れました」。
目から鱗が落ちたのを思い出しました。

そういえば、たしか雅弘さんは、平和な世の中をつくるために必要なことは「赦すこと」だと言っていたような気がします。

ちょっと寄り道をさせてもらいました。

■「70年の不戦」その4:戦争を回避する具体策(2015年6月24日)
生活面での事情で書けない日が続きました。
日数はあきましたが、前の続きです。

サロンでは、戦争の抑止理論はともかく、戦争回避の具体策はないのかという話も出ました。
一番効果的なのは、お互いに知り合うことではないかと私は発言しました。
即座に反論を受けました。
そんな甘い考えは実際にはなりたない、と。

「栄光への脱出」(エクソダス)という映画があります。
イスラエルの建国物語を、ユダヤの視点から描いた映画です。
主演はエヴァ・マリー・セイントとポール・ニューマン。
私は大学生の時に観ました。
おそらくアラブとの関係だったのでしょうが、1970年代以降、日本では上映もテレビ放映もなかったような気がしますが、最近また解禁されているようです。

イスラエル建国が決まり、パレスチナに世界中からユダヤ人が移住してきます。
それまでユダヤ人と仲良く暮らしていた主人公の友人のアラブ人は、自分の意思とは別にユダヤ人の集落から去っていき、結局は同胞のアラブの過激派に殺害されます。
学生時代に観たこのエピソードはその後もずっと深く残っていて、忘れられません。
顔見知り同士でも、何か別の理由で、戦争に加担せざるを得なくなる。
私には、あってはならないことですが、歴史書にはそうした話は山のように出てきます。

フランスの哲学者レヴィナスは、「他者の顔に直面するとき、人は、その他者を殺すことはできない」と書いています。
人は人を殺せないのです。
前にも書きましたが、たとえ戦場であろうとも敵の顔を見たら、銃を撃てない人が多いことはさまざまな調査結果が証明しています。
ましてや、それが知り合いであれば、普通なら無理でしょう。
相手を殺すくらいなら、自ら死を選べと言った鶴見俊輔の言葉は、彼の体験からの思いでしょう。
そんなことは、勝手な想像からは出てくるはずもありません。

話がどんどん横道にずれていますが、争いを回避する最善策は、やはりお互いを知り合うことだと思います。
日韓も日中も、国家の関係は悪いですが、交流関係のある個人同士はたぶん信頼し合えることが多いでしょう。
そうした人同士の信頼関係が、本来は争いを回避するのではないかと、私は思います。

しかし、ここで悩ましい問題があります。
知り合うことによって、また誤解や不信感や憎しみが生まれることもあるということです。
家族間や親しい友人の間での争いや殺害事件は決して少なくありません。
それをどう考えればいいか。

話がどんどん広がっていきますが、もう少し書いてみたいと思います。

■「70年の不戦」その5:弱者は、弱者であることによってこそ、守られている(2015年6月29日)
お互いに知り合うことが、お互いの争いの原因になるか争いを起こさない状況づくりになるか。
これは一概には決められません。
しかし、大切なことは「知り合うこと」の内容だろうと思います。

最近知り合ったガーナの若者が、“We As One”というNGOをやっています。
そのテーマは「深さ」。
どんな人も、深いところでは共有できるものを持っているというのが、彼らの信念です。
大切なのは、共有できるところを大切にしながら、お互いの生き方を尊重し合うことだろうと思います。
それができれば、争いはなくなるでしょうから。

争いは多くの場合、「相手に対する警戒心」から起こるのではないかと思います。
警戒心を呼び起こす「知り合う程度」と警戒心を打ち消し合う「知り合う程度」というのがあるように思います。
これは人によって大きく違うでしょうから、悩ましいわけです。

人間にとって、心はなかなか外部からは見えませんが、顔は無防備に外部にさらされています。
昨日書いたレヴィナスの言葉は、だから「無防備さは争いを抑止する」という風にも受け止められます。
私たちは、ふつうであれば、無防備な子どもには暴力を襲う気にはなれません。
そうではないでしょうか。
そして、もしそうであれば、「力による抑止」などという発想は捨てるべきでしょう。
弱者は、弱者であることによってこそ、守られているというのが、私の考えです。
もし、弱者が、攻撃されるとしたら、それはたぶん弱者ではないからです。

しかし、そうした「事件」や「戦争」が起こるようであれば、それは「人」以外の要素が、そういう事態を起こしていると私には思えます。
ですから、もしそうしたことが起こることがあるという反論には賛成はしません。
そして、その点にこそ、もしかしたら問題の本質があるように思います。

また小難しい議論に向かっていますね。

最近、個人的な理由でブログが書けませんでした。
書かないうちに書きたいことがどんどん膨れ上がってしまい、なかなか最初の路線に戻れません。
しかし、ここは流れに任せましょう。
今日は2つほど、この続きを書こうと思います。
明日になるとまた違ったことを書きたくなりそうですので。

ちょっとこれから出かけるので帰宅してから書きます。

■「福島の子どもたち」をテーマにしたサロンの報告(2015年6月29日)
昨夜の「福島の子どもたち」をテーマにしたサロンは、たくさんの人に聴いてほしかった内容でした。
この種のテーマの集まりは、さまざまなところで開催されているでしょうが、やはり改めて、小さな場での話し合いの意味を感じました。

雨の中を10人が集まりました。
たまたま新潟から出張してきていた[ささえあいコミュニティ生活協同組合]の高見さんと川上さんも参加してくださいました。

立柳さんは詳細のレジメとともに、たくさんの資料を用意してきてくださいました。
立柳さんは年に1回程度、福島の実状をコムケアサロン話してくださるのですが、今回もかなり驚愕な事実がありました。
今回は録音しておき、文字起こしすべきだったと後悔しました。
一番心に残ったのが、除染作業員に関することでした。
中途半端に書くと誤解されますので、やめますが、沖縄を思い出しました。

今回は、学生から70代まで、女性も2人、経済界の関係者や食養に取り組んでいる人、NPO関係者、原子力行政に関わる組織の人など、多彩な立場の人がいたため、話し合いもさまざまな視点に広がりました。

非常に象徴的だったのは、初めて参加した人が、これまではあまり深くは考えていなかったが、立柳さんの話を聞いて、ちょっと認識の甘さを感じ、その後の話し合いの中で、生活実感的にはまた少し揺り戻され(あまり神経質になることもないかなと思い)、しかし、最後には立柳さんが話された、いろんな捉え方があるが、大切なのはそれぞれが自分の問題として主体的に考え行動することだというメッセージに納得したと話されたことです。
これこそが、まさに私がサロンをやっている目的ですので、うれしい思いをしました。

にもかかわらず、「自分の問題として主体的に考え行動すること」だけでいいのかと、私は少し異を唱えました。
それは、「体験したものの責任」ということです。
これは改めて、この時評編に書く予定です。

話の密度も高かったので、30分も延長してしまいましたが、話したりなかったことがたくさんありました。
立柳さんのメッセージはいつも心に響きます。
やはり現場に触れている「外の人」の目は大切です。
福祉関連のNPO活動をしている人たちにぜひ聞いてほしかった話でした。

■「70年の不戦」その6:「信頼関係」を失わせてきた「不戦の70年」(2015年6月30日)
昨日はやはり時間がなくて書けませんでした。

6月27日に、若者を中心にしたカフェサロンを開きました。
若者中心と言っても、大学生が3人と私のような高齢者も含めた40代以上が6人ですから、頭数では若者中心ではありません。
この集まりももう3回目ですが、私がそもそもこれを始めたきっかけは、学生たちに社会のことをもっとよく知ってもらい、彼らからの発信の場をつくれないかということでした。
社会に入れなくなっている若者たちの多さを日々実感していたからです。
しかし、サロンを開いても、若者はあまり集まらず、また、若者たちから「意志」が伝わってこずに、実はもうやめようかと思っていたのです。

ところが、その集まりを終わった後、参加していた一人の若者から、3回目にしてようやく若者層と元若者層の心が少しだけつながった気がしたと言われました。
そこで自分の不明さに気づきました。
つまり私たちは「信頼されていなかった」のです。
たしかに、話し合いの途中である若者から、作業を押し付けられる危惧の表明がありました。
作業を押し付ける気は全くありませんし、そもそも私の意識では彼らのために私自身がかなりすでに多くの作業をしている気持だったのです。
この「彼らのため」という意識が、そもそも「押し付け」かもしれませんが、彼らは作業を押し付けられることを懸念していたのです。
思ってもいなかったことでした。

ある調査によると、日本の社会はもはや「信頼」を基本にした社会ではなく、注意しないと誰かに騙される社会だと認識している若者が8割もいるそうです。
大人たちが呼びかける集まりには、何か裏があると感じる状況がすでにあるのかもしれません。
この集まりに関しては、最初から私は明確に目的を話してきているつもりですが、あまり伝わっていないようです。
すでに日本の社会は、「不信」を基盤とする社会に、変質してしまっているのかもしれません。
私が育ったころの日本社会は、人への信頼感があった気がします。
ちなみに私は、人を信頼することから付き合いを始めるようになっていますが、これはたぶん育った時代の社会がそう育ててくれたのだと思います。

話が「不戦」と関係ないところに向かっているように思うかもしれません。
しかし私には深くつながっていることです。
まず、もし、この「70年の不戦」の時代が、「信頼関係」を壊し不信を育ててきたのであれば、それは果たして「不戦」と言えるのだろうかという疑問です。
もうひとつは、信頼できない関係が広がっていけば、それこそいつか「戦争」につながるのではないか。
言い換えれば、信頼を育てることこそが、戦争を回避することではないかということです。

■「70年の不戦」その7:戦場は「殺す場」なのか「殺される場」なのか(2015年6月30日)
話が横道にそれているので、先日の「不戦の70年」サロンの話題に戻ろうと思います。

その時に、私が発言したことの一つが、「戦争における対立構造」の問題です。
戦争は「国家対国家」の対立構造で捉えられますが、そうではないのではないかという問題提起です。

9.11の後、ブッシュが、「テロとの戦争」と言いだしてから、戦争は変質し、IS国などというものが出てきましたが、これに関しては前にも書きました。
ただし、その後の動きを見ていると、これは決して「国家」とは無縁でない気がしてきました。
アメリカ独立戦争もイスラエル建国戦争も、こんなスタイルで始まったのでしょうから。

しかし、もっと根底にある構造に目をやる必要があります。
近代国家のスキームではとらえられない対立構造が強まっているように感じます。
山本七平さんの「私の中の日本軍」の中にこんな文章があります。

「私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。(中略)この人びとは、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だがもう一つの人びとにとっては、戦場は殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく繊滅される場所なのである。」
(中略)
前線の兵士たちにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。そして、ここに、前線の兵士に、敵味方を越えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた最前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。

山本さんは、「戦争をさせる人たち」と「戦争をやらされる人たちの構図で捉えています。
これも一つの捉え方ですが、私はさらにその奥に、「戦争を起こすシステム」と「そのシステムに駆りだされる人間」の構図があると思います。
このブログでも何回か書いているように、要は「システム対人間」の構図なのです。
その対立構造の中で、戦争もまた生まれてきています。
アーレントが喝破したように、凡庸な人だったアイヒマンが巨大な悪を実行できたのは、システムに魂を売り払ったからなのです。

さらに言えば、システムに魂を売った人間は、そうでない人間とは明らかに違います。
しかし、どちらが幸せで平和かというのは、これまた悩ましい問題です。
サロンでは、ついつい「家畜の平和(幸せ)」と「野生の平和(幸せ)」という、いささか過激な言葉を使ってしまいましたが、私たちはどこを目指そうとしているのでしょうか。
自分の問題として考えてみても、これは難しい問題です。

■「70年の不戦」その8:戦争ができることの条件としての隷従性(2015年6月30日)
戦争を起こさない一番確実な方法は、国民が戦争を拒否することです。
人を殺さなければいいのです。
これには「覚悟」が必要ですが。

「戦争するってどんなこと?」という本で、ダグラス・ラミスはこう書いています。

日本を「戦争ができる国」に変えようとするなら、憲法9条を変えるだけではできません。
日本社会を「戦争ができる社会」に変えなければなりません。

そのためには「教育」が大きな役割を果たします。
報道機関も、です。
最近物議を沸かしている百田さんの「永遠のゼロ」という小説や映画も、その一翼を担っています。
「永遠のゼロ」の映画を観て、感動したという人は、すでに戦争支援者になっていることを認識しなければいけません。
ちなみに、百田さんのような人は、戦争を商材と考えているのでしょう。
自らは絶対に巻き込まれない「安全な場所」にいるわけです。

話がそれましたが、戦争をすることを決めるのは安倍首相や百田さんのような人ですが、戦場に行くのは、徴兵された国民です。
ですから国民が兵役拒否をし、戦場に行くことを拒否し、戦場で相手を殺すことを拒否すれば、戦争は実際には遂行できないのです。

ここで、以前もこのブログで書いた「自発的隷従性」ということが思い出されます。
戦争が起こさないためには、私たち一人ひとりが隷従性を断ち切り、信念で生きることを守ればいいのです。
第二次世界大戦でも、良心的兵役拒否者は日本にも存在しました。

戦場でもし敵国兵士と向かい合った時にも、銃を発砲しなければいいのです。
その結果、自らが死ぬことになるかもしれません。
しかし、どうでしょうか。
相手を殺すことと自らが殺されることと、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
これもまた悩ましい問題ですが、鶴見俊輔さんは「教育再定義への試み」の中でこんな話を書いています。

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡莫史が自殺した。『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校4年生の時で、岡真史(14歳)の自殺は、その後2年たって彼が小学校6年生くらいの時だったろう。彼は動揺して私のところに来て、「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」とたずねた。私の答は、「してもいい。2つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい」。

鶴見俊輔は戦場に行っているはずです。
体験からの信条だと思います。

■「70年の不戦」その9:戦争は誰に向けて行われるのか(2015年7月1日)
戦争における「隠された対立構造」は、「支配者と非支配者」です。
決して国家と国家、つまり権力者と権力者の対立が、近代以降の戦争の実体ではありません。
そう考えると、戦争や軍隊や抑止力に関する見え方も違ってくるはずです。

たとえば、軍隊が鎮圧や暴力行使の対象とするのは他国だけではありません。
よく言われるように、戦争ができる軍隊を持つということは、国民を暴力的に支配できるということでもあります。
事実、軍事力は自国の国民に向かって発動されるケースが多いという報告もあります。
しかも、今回の自民党憲法改正案をよく読めば、そういうことが可能になるように書かれています。
戦争は国民を守るためだけではなく、国民を「隷従」させるためにも行われるのです。

前に書いたように、戦争を行うには、戦争に荷担する国民が必要ですが、もし国民が自発的隷従しないようであれば、軍隊がそれを強行できるのです。
このことは、先の戦争における沖縄で起こったことが、実証しています。
集団的自衛権などで使われる「自衛」の概念も、誰が主語なのか、そして「護る」ものはなんなのかをきちんと考えなければいけません。
しかし、いまの時代、それをしっかりと考えている人はいないでしょう。
ほとんどの人は、言葉のマジックにかかってしまい、結局は戦争に向けての動きに荷担してしまいがちです。

戦争とは、所詮はある「対立」をなくしていく方策です。
としたら、戦争につながる「対立構造」を明確にしなければいけません。
そのためには、現在の社会のあり方や経済のあり方を含めて考えなければいけません。

ちなみに、中国が日本に攻めてくるという人がいますが、もし攻めてくるとしたら、それは「中国」ではなくて「中国に住んでいる人」です。
それも「戦争」をしたいと思っている人に操られて、強制された人たちでしょう。
そういう人たちは、「敵」ではなくて「仲間」なのです。
そんなことにさえ気づかないのは、すでに「国家」の隷従者になっている証拠でしょう。
ヘイトスピーチをしている人たちは、まさに「自発的隷従者」として飼いならされた傭兵のように思います。

だんだん言葉が粗雑になってきました。
最近、私自身の心があれているせいなのですが、注意しないといけません。

もう1回だけ書いて、このシリーズは終わりにします。

■「70年の不戦」その10:私にとっての「平和活動」(2015年7月2日)
不戦サロンの報告をするつもりで、このシリーズを書き出したのですが、途中いろいろあって、最初の思いとかなり違ったものになってしまいました。
サロンでは、他にも「平和活動におけるエンターテイメント要素の大切さ」「男性と女性の考え方や行動の違い」「戦争の原因はすべて経済問題ではないか」「教育の恐ろしさ」「子育てと母親の役割」など、さまざまな論点が出たのですが、時間が経ったため、書こうというモチベーションが出てきません。
それで最後に、「私にとっての「平和活動」」について、書こうと思います。
サロンに参加した女性参加者の宇賀さんは「私にとっての平和活動は、農業であり福祉に取り組むこと」と話されました。
ここに、女性と男性の「戦争や平和」に対するとらえ方の違いが象徴されています。

もう10年ほど昔になりますが、さまざまな市民活動を対象に「平和への結集」を実現する会の準備会が開催されました。
呼びかけ人のお一人は小林正弥さん(政治学者)で、小林さんの人柄と考えに共感して参加させてもらいました。
その時の自己紹介で、私もまた、私の平和活動は「大きな福祉を目指す活動」と話させてもらいました。
その会は、その後、さまざまな活動を展開していますが、私はあまり参加できていません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/01/post_9e20.html

その会の呼びかけで、ピースウォークにも参加しました。
一緒に歩いた小林さん(たまたまその時は最初の参加者は私たち2人だけでした)と、これまでのようなスタイルのデモではなく、楽しいデモにしたいですね、などと話したのを覚えています。
小林さんは、「楽しい平和活動」を提唱していました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1223
ピースウォークも次第に音楽やストリートパフォーマンスなどともつながっていきました。

私にとっての平和活動はもう一つあります。
小林さんと知り合ったのは、小林さんたちが出版した『地球的平和の公共哲学』を購読しようという呼びかけを勝手に始めたのが契機になりました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heiwa-net.htm
生活レベルでの平和活動や楽しい平和イベントも、あるいは政治的なデモ活動も大切です。
しかし、それと並行して、事実を解明する専門家の活動を支援していくことも大事です。
専門家の活動の支援とは、その知的成果をきちんと学ぶことです。
事実を知れば、人の言動は変わってきます。
ですから、中途半端にではなく、きちんと学ばねばいけません。

8月に平和学の大御所のヨハン・ガルトゥングが来日するそうです。
http://www.huffingtonpost.jp/kenji-sekine/japan-positive-peace_b_7651094.html
安倍首相の「積極的平和主義」に対して、彼は「私が1958年に考えだした「積極的平和(ポジティブピース)」の盗用で、本来の意味とは真逆だ」と明言しています。
生活における平和活動やデモも大切ですが、人類の蓄積してきた知の世界から学ぶことも大切です。
つまり、私の「もう一つの平和活動」は、できるだけ幅広い読書です。

■成員に居場所を用意してくれない社会(2015年7月3日)
新幹線車内での焼身自殺事件は衝撃的でした。
また「新しい事件の方法」を解き放ったということに大きな脅威を感じます。
こうやって、人間は新しい「方策」を「やってもいいのだ」と「解禁」してきました。
新しい形の犯罪が行われ、それが世間の目にさらされると、必ず「模倣犯」が生まれます。
というよりも、「そんなことをやってもいいのだ」という「気づき」が生まれるのです。
そうして人類の歴史は、次々と新しい犯罪や事件を生み出してきました。
ですから、私は、新しい犯罪や事件は、あまり報道の対象にしてはいけないと思っています。
いま話題になっている、少年Aの「絶歌」は、出版すべきでもマスコミが取り上げるべきでもないと私は考えています。
林崎さんは、そうした「禁断の扉」をまた一つ開けてしまった気がします。

この事件で、もう一つ思い出したことがあります。
つい最近、友人に勧められて読んだピエール・ブルドューの「資本主義のハビトゥス」です。
この本は、フランスの社会学者ブルドューが、アルジェリアの農村社会が、フランスによる植民地化によって資本主義経済へと移行する過程での農民たちの暮らしの変化を社会調査した結果を踏まえて書かれたものです。
40年近く前の書籍ですが、人々の孤立化が問題になっている、現在の日本の社会を考える上でも、多くの示唆を含んでいます。

そこに次のような記述があります。

農民社会のように、その成員に労働を与える義務をそなえた社会、そして、生産的ないしは営利的な労働を知らず、同時に、労働の希少性も知らず、失業の意識もない社会、そういった社会では、なにかしたいと思う者には、つねにすべきことがあると考えられていて、また、労働は社会的義務とみなされ、怠惰は道徳的過失とみなされているのである。

私の印象に残っていたのは、「成員に労働を与える義務をそなえた社会」という言葉です。
今回事件を起こした林崎さんは、たぶん、いまの社会に「活動の場」、つまり「生きる場」が見つからなかったのでしょう。
彼は決して、「怠惰」ではなかったのではないかと思います。
ただただ「場所」がなかった。
成員に場所を用意してくれない社会。
日本はそんな社会になってしまったのだと、林崎さんはメッセージしてくれているような気がしてなりません。

この「事件」は、日本の社会の現在と未来を、鋭く象徴しているように思えてなりません。

■7月10日の「ちょっと不思議なカフェサロン」に参加しませんか?(2015年7月5日)
先日、ご案内した「ちょっと不思議なカフェサロン」ですが、テーマがいささか大きすぎたせいか、参加者がなかなか集まりません。
それでもう一度、ご案内させてもらいます。

千葉の白井市で、農カフェ「OMOしろい」をやっている宇賀さんご夫妻は、「ステビア農法」(これも魅力的な不思議な農法です)を基本に置いた、安全でおいしい、元気な野菜を全国に広げたいという活動に取り組んでいます。
しかも、そうした取り組みを、障がいを持つ人たちと一緒にやっていこうと考えています。
働き方に関しても新しい挑戦を続け、みんなで新しい企業を楽しく実現していこうとしています。

今回の集まりは、そうした活動に取り組む宇賀さんたちから、「農業と福祉の世界に大きな風を起こそうという構想」を話してもらい、みんなでいろいろと話し合おうという企画です。
テーマはいろいろあります。
「家族」「働き方」「障がい者自立支援」「農業」「食の安全」、そして「コミュニティ」。
どこに重点が行くかは、参加者の関心次第です。
だから「ちょっと不思議」なサロンなのです。

いささか生きにくくなっている現代社会を、少しでも暮らしやすく楽しい社会に変えていきたい。
そのために、誰もが、楽しく、支え合いながら、働き、生きていける「大きな家族」コミュニティを、みんなで一緒につくりたい、というのが宇賀さんたちの願いです。
いまはまだ、その基盤づくりの段階ですが、その構想をみなさんにお話しして、アドバイスをもらったり、一緒に活動に取り組む仲間を広げたり、あるいはさらに構想を広げたりしたいと、宇賀さんご夫妻は考えています。

そんなわけで、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
これまで湯島のサロンに参加したことのない人も大歓迎です。

○日時:2015年7月10日(金曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「農業と福祉の世界に大きな風を起こそう」
○問題提起者:宇賀夫妻(「農カフェ「OMOしろい」主宰」
○スタイル:30分ほど宇賀さんたちの構想をお話してもらい、あとはみんなでわいわいがやがや話し合いたいと思います。
○会費:500円

■体験したものの責任(2015年7月5日)
なかなか時評も書けなくなっていますが、先日、予告した「体験したものの責任」を書いておこうと思います。

福島の被曝状況をテーマにした先日のサロンの報告で、原発事故被害やそれへの対処法に関してはさまざまな捉え方と選択肢があること、報道やデータもまたさまざまであること、原発そのものに関しても賛否いろいろであることなどを踏まえて、大切なことは各人が自分の問題として主体的に判断し行動することだというところに落ちつきました。
それには私も異論はありません。
しかし、それだけでいいのかというと、やはり違うような気がして、サロンでもその意見を話させてもらいました。
それが、「体験したものの責任」です。

自分の問題として考えた時、原発は禁止すべきだという人とリスクはあるもののやはり原発に依存していきたいという人とに分かれるでしょう。
それに関しては、誰も他者を強制できないかもしれません。
しかし、原発事故を「体験した者」としては、その事故の意味をきちんと他者に伝えていく責任はあると思います。
というのは、原発事故は時間的にも空間的にも、その被害を限定することが出来ないからです。
チェルノブイリ事故からはもう40年近く経過しますが、未だに廃炉は実現できず、消滅した町は決して少なくありません。
原発事故は、決して「個人の問題」ではないのです。
その認識を持たねばいけません。
自らの雇用がなくなるとか、経済的なダメッジを受けるとか、利便性が損なわれるとか、そんなことは「瑣末なこと」です。
そういう発想で、原発を考えるような「利己的な姿勢」は、私には理解しがたいことです。

実際に原発事故の被害を直接体験していない人も多いでしょう。
しかし、福島の実状はかなり報道されています。
その気になれば、その惨状を知ることはできるでしょう。
たとえば、昨日、再放送されていた「廃炉への道」というNHKのドキュメント番組を見た人なら、その事故の意味がわかるはずです。

原発事故を起こしたのは、日本に住む(原発の恩恵を享受してきた)私たちです。
そして、その事故の結果を、さまざまな面で体験しているのも、私たちです。
実際に被爆しなかったとしても、被災して、故郷を失ったり人生を大きく変えたりしてしまった人たちをたくさん知っているはずです。
テレビでは、それでも「元気に頑張っている人たち」が話題になりますが、その陰でどれだけの人が人生を壊され、生命を失っていったことでしょう。
報道されない人たちへの想像力を高めなければいけません。
もし、自分が、そうした立場に置かれたら、どうでしょうか。
低線量被曝を繰り返し、故郷を失い、家族ばらばらになって、仮設住宅暮らしを続けることを想像してみなければいけません。
そういう人の身になっても、やはり原発を続けたいと思うでしょうか。
原発を続けるということは、いつかまたそういう人を生み出すということです。
いつものことながら、また「オメラス」の話を思い出します。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

「体験したものの責任」があるとして、どうやってその責任を果たせるでしょうか。
残念ながら、いまの私にはまだその答えが見つかりません。
いまできるのは、そこから逃げないということだけです。
原発事故は、原発を選択した時にもう決まっていたことなのですから。
結果は従容として受けとめなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/04/post-6569.html
原発立地地域の住民は、被害者意識だけではなく、加害者意識も持って、「体験したものの責任」も果たさなければいけません。
ちなみに、「原発立地地域の住民」には私も広い意味で含まれることは言うまでもありません。
日本人はすべて含まれなければいけません。
第二次世界大戦と同じく、私たちは被害者ではなく、その前にまず加害者なのです。
それを忘れてはいけません。

ですから私は、福島に限って言えば、気楽に復興支援などという気にはなれません。
私が切望するのは、そうした境遇に陥る人を、これからは出したくないという思いです。
復興よりも、それこそが大切だと思います。
それは被災地の復興ではありません。
原発のない世界に向けての社会の復興です。

アメリカン・ネイティブの社会には「7代先の掟」があるそうです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog6.htm#7dai
私たちの日本にもあったはずの文化です。
それがなぜなくなってしまったのか。
とても悲しく、実にさびしいです。

■ふるさと納税制度はどう考えてもおかしいでしょう(2015年7月8日)
今朝のテレビで、「ふるさと納税」について、コストパフォーマンス(つまり納税額に対する金銭換算返却率)のランキングが発表されていました。
一番大きなところでは、納税額の60%以上相当の価格の商品がもらえるのだそうです。
しかも、本人の税金そのものの負担は変わりませんので、実際の個人負担額は2000円なのだそうです。
こんなことが許されていいのでしょうか。
税金までもが「市場化」されてしまいました。
しかも低所得で、納税額の少ない人は、この制度は利用できませんから、これは明らかに「金持ち優遇制度」です。
もともと日本人の税金感は、お上に徴収されるというイメージが強いですが、そうしたイメージをますます強めることになりかねません。
いずれにしろ限られたパイの取り合いで、税金そのものの実質的な歳入額は減少しますし、それに伴う行政事務と経費は間違いなく増えています。
損をしているのは国民であり、得をしているのはふるさと納税制度のおかげで利益を上げている一部企業と高所得者です。
本末転倒の、ひどい制度がこれほどまでに広がっている社会には、嫌悪感を禁じ得ません。
みんな「金の亡者」になったのかと思えるほどです。

ある自治体の税務担当部長は、ふるさと納税制度の過熱ぶりには危機感をお持ちでしたが、全国的な「競争状況」のなかで、流れには抗いがたいと嘆いていました。
良識が通ずる社会ではなくなってきたのです。

プレミアム商品券というのもあります。
これはまだ少し許せるかもしれませんが、しかし、その発想も、どこか間違っているような気がします。
一見、住民は得をしたように感ずるかもしれませんが、そのプレミアム相当分は、だれが負担しているのでしょうか。
いうまでもなく、商品券を使いたくても購入できない低所得者が、薄く広く負担しています。
まさに「逆トリックルダウン」機能が働いているのです。
ピクティを持ち出すまでもなく、経済の格差拡大効果は、ますます巧みに制度化されてきています。
ともかく「金銭」をつかって、人を誘導する仕組みが多すぎます。
餌につられて動く家畜のような人間があまりにも多くなったためでしょうか。
私は家畜にはなりたくありませんが、家畜の群れから抜け出すことは至難のことです。

ふるさと納税の最初の趣旨である、故郷のために納税額の一部を回すというのは、私には異論はあります(故郷に貢献したいのであれば、税金とは別に寄付すればいいことですし、そもそも自らが住んでいる地域のためにこそ税金はあるはずです)が、まあ理解はできます。
しかし、ここまで加熱化したふるさと納税制度は、本末転倒もいいところです。
しかし正面から批判する人はいません。
まずは「ふるさと納税」を拒否したいところですが、私は低所得者なので、そもそも利用さえできません。
ですから声を上げるしかありません。

こうしたおかしな制度がどんどん増えているような気がします。
私自身は、カードのポイント制度もまったく理解できません。
騙されているような気がしてなりませんが、これは残念ながらカードを利用するようになってしまっているので、恩恵というか犠牲というかわかりませんが、そこから抜けられずにいます。

昨今の経済は、どう考えても、「経世済民」とは程遠いものになっているように思えてなりません。

■ちょっと不思議なカフェサロンの報告(2015年7月11日)
昨夜の「ちょっと不思議なカフェサロン」は13人の大人数になりました。
最初に宇賀さんが、農業の意味をわかりやすく話してくれました。
そして、「現代の農地は人にたとえると暴飲暴肉食の人のお腹と一緒だ」と話されました。
農地がそんな状況では農業の先行きには、不安がぬぐえません。
それを解決する一つが、宇賀さんたちが取り組んでいる「ステビア農法」です。
そして、それを広げていく過程で、農業と福祉はつながっていることに気付いたのです。
そしていまは、障害を持つ人も含めて、だれでもが働く場、安心して生きていける場のあるコミュニティづくりに、仲間たちと一緒に取り組んでいます。
ともかく発想も違えば、話題も多岐にわたるので、時間不足でなかなか話を深められなかったのが残念でしたが、それぞれにさまざまな「気づき」があったと思います。

去年の夏、マハラバ村の話をしてくださった増田レアさんも、ちょうど東京に来ていたため、参加してくれました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action14.htm#0809
マハラバ村は私が大学生の頃に出現した、農政麻痺の人たちの自活コロニーです。
そこから、日本の障害者人権運動が始まったと言ってもいいでしょう。
レアさんは、その創始者の大仏空さんの娘さんです。
いまは山梨で、自然とともにある生活をされています。

農業に関心を持つ人や若者支援や高齢者支援に関わる人など、多彩な人が参加し、宇賀さんたちの構想を広げていくアドバイスもしてくれました。
宇賀さんたちの仲間も2人、飛び入り参加でした。

このテーマは、合宿スタイルで、時間をかけて話し合うのがいいかもしれません。
今度は、宇賀さんたちの農カフェ「OMOしろい」で、自然の中でのサロンを考えたいと思います。
「OMOしろい」の前にはとても自然な谷津田があるのです。
お近くの方はぜひ一度、「OMOしろい」をお訪ねください。
http://noucafeomoshiroi.favy.jp/

■すべては決められた通りに(2015年7月15日)
今日は単なる愚痴です。

衆院特別委は、野党側が委員長に詰め寄って抗議している中、まさに怒号の中で安保法案を可決しました。
あまりにもあっけない決まり方でした。
テレビで見ていましたが、閣僚の席に座っている閣僚たちは、あの様子を見ていて何も感じないのかと不思議に思いました。
ある人が、その映像W見ながら、「学級崩壊のようだ」とつぶやいていましたが、まさにそんな感じです。
問題はもはや「安保法案の是非」ではなく、立法のあり方の問題に変わってしまいました。
いや、閣僚の良識の有無といったほうがいいかもしれません。
恥ずかしいと思う閣僚や与党議員はいなかったのでしょうか。

怒号の中で、あんな採決をしてしまう政府に、集団的自衛権の運営を任すことの恐ろしさを感じます。
この採決のスタイルにこそ、これからの紛争解決の進め方が象徴されているようにも思えます。
平和とか話し合いによる解決とか、信頼関係とか、そんなこととは全く無縁の世界の人たちです。
政治に良識が必要だった時代は、もう終わったのかもしれません。

策のない野党側にも、いささか失望します。
乱戦状況の国会の外では、多くの国民がデモをしていました。
野党議員は国会で自民党に話しかけるのではなく、国会を出て、集まった国民にこそ話しかけるべきではないかといつも思います。
問題はもはや「国会議員の仲間内の問題」ではなくなってきています。
国民の熱い思いを糾合すれば、大きな力になるでしょう。
野党はなぜそうしたことを考えないのでしょうか。
いつもそれが不思議です。
野党議員が話しかける相手は国民でなければいけません。
山本太郎さんに期待したい気分にもなりますが、山本さんの姿は最近見えません。

暑いので、国会にも行かずに、自宅でテレビを見ていた私にも嫌悪感を持ちます。
国会に行っても、結局はもう決まっているのだからと、どこかで思っている自分が、最近はどんどん大きくなっています。
そして、その分、こうやって、愚痴をぼやき他者を非難しているわけです。
一番どうしようもない存在かもしれません。

原発も動き出し、TPPで日本文化はさらに壊され、格差拡大のための成長戦略は加速され、無駄な公共投資は一段と増加し、…。
国民主権国家と言われる、この国の方向を決めているのは、一体誰なのでしょうか。

肩身の狭い社会になってきてしまいました。

■戦争に向かわないように、いま私たちができることを話し合いに来ませんか(2015年7月16日)
今度の土曜日(7月18日)に湯島で「平和を考える女性主役のカフェサロン」を開催します。

今回の安保法案の強行採決には怒りを超えて、悲しさを感じます。
なんでこんな社会になってしまったのでしょうか。
私たち国民は、あまりにバカにされています。
国民はまだ理解していないなどと言われていますが、その言葉にも怒りを感じます。
理解しているからこそ、これほど反対しているのではないのか。

しかし、多くの人が無関心だったことは否めません。
だから今年に入って、毎月、戦争反対カフェサロンをやっています。
ところが女性がやってこない。
それで今回は女性主役にしました。
もとりん男性も参加歓迎ですが、今度はなぜか男性が参加しないのです。
一体どうなっているのでしょうか。
毎回参加していた男性たちがだれ一人手を挙げてくれません。
それでまだ定員に達していません。
湯島にこれまで来たこともない方も大歓迎です。
急ではありますが、よかったら参加されませんか。
もちろん男性でも女性でも、それ以外でも歓迎です。
参加される方は、ご連絡いただければ嬉しいです。

以下、案内文です。

昨今の日本の状況は、じわじわと「戦争」に向かっているような気配があります。
しかし、私たちは「不戦の70年」を過ごしてきたためか、「戦争」を遠いところにおいて考えているような気がします。
思い出すのは、ナチス時代を生きたドイツの牧師、マルティン・ニーメラーの言葉です。
「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった。」
私たちは、まだ間に合うでしょうか。
そんな意識のもとに、戦争反対カフェを開催していますが、女性の参加者が少ないのが残念です。
そこでメーリングリストで、女性たちを中心にした平和を考えるカフェサロンを呼びかけたら、4人の方が一緒にやろうと言いだしてくれました。
日程がなかなか合わなかったため、開催が遅れていましたが、ようやく開催できそうです。
思いは、それぞれ違っていますが、ともかく開催したいと思います。
できれば一過性のものではなく、次に続けていければと思っています。
当日は、こんな感じで話し合いができればと思います。
・参加者の女性からのメッセージ(各3〜5分ずつの思いの披瀝)
・参加者の男性からの感想(各2〜3分)
・話し合い
  今の状況をどう考えるか
  何が問題なのか
  その状況を変えるために何ができるか
  
なお、どうしても後世に伝えておきたい体験談があるという参加者がいるようですので、その方たちの話を聞く時間を加えて、いつものサロンより30分長くしています。
できれば、この話し合いの中から、具体的なアクションプランが生まれてくればと期待しています。
ご参加をお待ちします。
○日時:2015年7月18日(土曜日)午後1〜3時半(予定)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○対象:女性主役としていますが、男性の参加も歓迎です。
ただし発言は女性優先の差別条件ですが。
○テーマ:戦争に向かわないように、いま私たちができること
○会費:500円

■「安保関連法案 まだまだ阻止できる」(2015年7月17日)
安保法案が衆議院を通過しました。
これにどう反応するか。
今朝の朝日新聞の天声人語を読んで反省しました。

「明日の自由を守る若手弁護士の会」の共同代表を務める黒澤いつきさんはフェイスブックに「安保関連法案 まだまだ阻止できます☆」というタイトルの記事を書いたそうです。
まだ参院での審議がある、諦めなくてもいい、というか諦めてはいけない、と
黒澤さんは、採決強行への抗議声明の形にはせずに、「人々が行動を起こすパワーになることを書こうと思った」そうです。
1日で30万を超えるアクセスがあったそうです。

意に反することが起こった時に、3つの対応姿勢が考えられます。
攻撃。諦め。そして希望の確認。
私のこの時評は、最近、前の2つが多いようです。
今回の安保法制強行採決に対してもそうでした。
しかし、そこからは何も生まれない。
天声人語で黒澤さんのことを知って、反省しました。
攻撃的な批判は自己満足でしかなく、諦めは逃避でしかない。
どんなに意に反しようと、やはり前に向けての希望を見つけ維持しなければいけません。
自らの意識を流れに合わせてしまったら、流れに荷担することになる。

たとえば、今朝のNHKのニュースで、安保法案は今国会で成立する公算が強くなったと繰り返し発信していました。
その言葉に嘘はありませんが、何回も聞かされていると、いつの間にか成立することを規定の事実だと受け入れてしまう。
こうやって私たちは、未来までをも決めてしまっているのかもしれません。
暗示にかかってはいけません。
黒澤さんが言うように、「まだ阻止できる」と言うところから、出発することで、力が生まれてくる。
お恥ずかしいことに、それをいつの間にか忘れていたことに気がつきました。
いささか生きることにつかれてしまっていたのかもしれません。

生きるということは、希望を持ち続けて、前に進むことです。
それが難しくなってきているような気がしていましたが、その思い込みをまずは捨てようと思います。
自分が変わらなければ、流れは変わらないでしょうから。
また国会にも出かけようと思い直しました。

安倍政権は倒さなければいけません。
その知恵が生まれてくるかもしれません。

■国民の声尾、国民の理解(2015年7月17日)
コミュニケーションとは自らが変わることである。
自らが変わることによって、相手との関係を変え、相手を変え、状況を変えていくことである。

これは、私の「コミュニケーション」のとらえ方です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm#cc

安保法案が国民に理解されていない、と政府はよく言います。
本当でしょうか。
細かなところは理解されてはいないでしょう。
しかし、その趣旨や狙いはどうでしょうか。
理解されていないのに、賛成や反対の割合は変化するでしょうか。
理解されていればこそ、ここまで反対行動が高まっていると考えることはできないのでしょうか。

政府のいう「国民の理解」は「賛成」を意味しますが、皮肉なことに野党の言う「理解」も、同じ枠組みの中に捉えられがちです。
野党は、まだ説明不足や議論不足などといわずに、「理解が進んだからこその反対の増加」という捉え方で議論すべきだと思いますが、野党もまた与党と同じく、国民を蔑視しているような気がします。
そうでなければ、野党は国会対策よりも、国民との連携に力を注ぐことになるはずです。
自民党と民主党は、基本的には同質だと思わざるを得ません。

説明責任という言葉も、一時はやりました。
説明責任を果たせばいいということではないはずですが、いつの間にか、肝心の問題の是非よりも、説明責任が目的化してしまった感もありました。
本末転倒も甚だしい気がしましたが、どこかで問題の核心が外されることには注意しなければいけません。
「説明」「理解」
そこには、一緒に考えるという姿勢はありません。

新国立競技場の「騒動」に関して、阿部首相は盛んに「国民の声を聴いて」と言い出しました。
原発や安保法案に関してと新国立競技場に関してとは、国民の声の聴き方が違うのでしょうか。
わかりやすい話に、話題の重点が移らなければいいのですが。
今ごろ新国立競技場が話題になること自体に、私はある作為を感じますが。

■学者の役割と良心(2015年7月18日)
安部首相が、戦後70年の節目に発表予定している「70年談話」に関して、国際政治学者ら74人が「日本が過ちを犯したことは潔く認めるべきだ」とする共同声明を出しました。
またひとつ、学者たちが動き出したことをとてもうれしく感じます。
それらは、いずれも「良心」に従った行動でしょうから。
先の憲法学者の動きもそうですが、そうした動きをマスコミが大きく取り上げるようになったことも、大きな変化のように感じます。

学者の社会的役割は、極めて大きなものがあります。
権力に寄生すれば、権力に大きな力を与えられます。
そして、個人的にも、大きな経済的財と社会的地位を得ることができるでしょう。
しかし、知を活かすことで、権力の方向を正したり、権力の暴走を抑えることもできます。
大きな経済的財は得られないかもしれませんが、社会をより善いものにできるでしょう。
いずれにしろ、学者の役割は大きい。
いつの時代も、知こそ力であり、だからこそ学者の存在があるのです。

問題は、その「知」の活かし方です。
昨今の学者たちの社会的呼びかけには、大きな敬意を感じます。

私が、学者に大きな信頼を寄せたきっかけは、ラッセル=アインシュタイン宣言です。
1955年7月、バートランド・ラッセルとアインシュタインの呼びかけで、11人の科学者がロンドンに集まり、連名で、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えました。
これが有名なラッセル=アインシュタイン宣言ですが、私が感心したのは、そこからパグウォッシュ会議が生まれ、いまもなお続いていることです。
パグウォッシュ会議は、すべての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議で、毎年、世界各地を回って開催されています。
残念なことに、原子力に関わっている、かなり社会的な視野を持ったエンジニアの方でも、最近はパグウォッシュ会議を知らないことです。
それは、この種の会議が開催されているにもかかわらず、あまり報道されないのと、そこから社会に向けての効果的な情報発信がないからです。
1970年代から80年代にかけては、日本でもかなり報道され話題になっていたような気がします。
まあ、その後、日本は方向を転じて、経済一辺倒に向かうわけですが。
学者も、経済一辺倒に急速に変質した気がします。

福島原発事故を起こした日本で、なぜラッセル=アインシュタイン宣言のような宣言が出されなかったのか。
原発に関わった科学者や技術者は、なぜパグウォッシュ会議ならぬ、フクシマ会議をはじめなかったのか。
いまからでも遅くはありません。
日本の科学技術者はフクシマの現実を踏まえて、新しい宣言をだし、歴史の流れを変える責務があるのではないか。
ちょっと存在感を薄くしているパグウォッシュ会議を刷新できるチャンスにもなるでしょう。

原発再稼働が目前に迫っているのに、科学技術者たちが、だれも共同声明を出そうとしないのが不思議でなりません。
憲法学者や政治学者の良心に基づく行動に、何も感じないのでしょうか。

学者の役割の大きな時代になっていることを、強く認識してほしいです。

■「女性が中心になって平和を語り合うサロン」の断片的な報告(2015年7月19日)
7月18日午後1時から、安保法案の強行採決への抗議デモが各地で展開されました。
国会前にも6000人(主催者発表)の人が集まったようです。
その同じ時間、湯島で「女性が中心になって平和を語り合うサロン」を開催しました。
なかなか参加者が増えず、タイミングが悪かったなと思っていましたが、
結局、女性7人、男性7人の14人の集まりになりました。
最初に手を挙げてくれたのは80代の女性ですが、このサロンのためにわざわざ京都から参加してくれました。

いつもより長い2時間半を予定していましたが、終わる気配もなく、3時間半を過ぎたところで、打ち切らざるを得ませんでした。
にもかかわらず、議論は拡散し、参加されたみなさんはまだまだ話したりなかったと思います。
この種のテーマは、話し合うことが実に難しいです。
しかし、話し合うことの大切さは、改めてみなさんも感じたと思います。

今日の集まりを直前に知って、わざわざ予定を変えて参加してくださった76歳の女性がいます。
広島近くので体験と戦後、台湾で7年間暮らした時の体験を話してくれました。
京都から来てくれた80代の女性は、自らが「軍国少女」になっていたこと、その生き方の呪縛の中に、いまも生きていることを話してくれました。
あまりに強烈だったので、話を深めることができずに、後で後悔しました。
もう一人、やはり話したいことがあると言ってこられた女性の方は、戦後の大変さを話してくれました。
そして、戦後、大きく変わったと言われるが、学校教育の基本は何も変わっておらず、戦前とつながっているという指摘をしてくれました。
つまり、相変わらず「自分をしっかりと主張する人」が育っていないということかもしれません。

もっと、人が生きるという視点からの平和が語られると思っていたのですが、そして後から考えると、語られてもいたのですが、進行役の私自身がそれを上手く消化できずに、話が広がってしまいました。
やはりこの問題は、時間をかけて解きほぐしていかないといけないと思いました。
少し若い世代の女性たちは、違った視点で話をしてくれました。
概念的な話ではなく、いまの平和をどう守っていくか、広げていくかです。

男性たちも話し合いに入ったあとは、やはり概念論になりがちでしたが、実践的な学びの場(その方は「ラボ」という表現を使いました)が大切だというところで、生活レベルの平和と政治レベルの平和がつながったようにも感じました。
つまり、平和にとっては「学びの場」が大切だということです。

他にもいろいろと議論はありましたが、遅れてやってきた太田さんが、いつものように爆弾発言をしました。
同じことも視点が違えば、逆に見える。
それを知るだけでも人は変わるはずだと、実際に身体を使って、参加者に体験させてくれました。
太田さんの発言は、たとえば国家の自衛権への疑問(私はあるはずがないと思っていますし、国家の自衛権は人々の生活には無縁なことです)などを含めて、かなり刺激的なものでしたが、時間切れで女性のみなさんのお考えを聴き損ねました。

最後に、では私たちにできることは何かないかという話になりました。
この種の話題を話すことはあまりなかったが、やはりこうしたことをまわりの友人たちと話し合うようにしたいと40代の女性が言ってくれました。
70代の男性は、サロン終了後にですが、考えや立場の違う人と、話し合うことを増やしたいと言ってくれました。
他にもいろんな話はありましたが、それぞれできることをやっていこうという思いは強まったと思います。

デモには参加しませんでした、こういう地味な活動も、たぶんいろんなところで広がっているのでしょう。
次回の戦争反対サロンは学生を主役にしたいと思っていますが、若者たちは、デモの方が好きそうですので、なかなかメンバー集めが難しそうです。

■「みんなの認知症予防ゲーム」ってご存知ですか?(2015年7月18日)
NPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんが湯島のサロンに来てくださったので、それに便乗して、夕方、高林さんが広げてきた認知症予防ゲームの実践者を中心にした集まりを持ちました。
メーリングリストで声をかけたら、すぐ15人の定員に達してしまいましたが、結局、18人の過密サロンになってしまいました。
実は、高林さんたちは、これまで「スリーA方式」というタイトルでゲームを広げてきましたが、いろいろと事情があって、今年からは「みんなの認知症予防ゲーム」というタイトルで活動することになりました。
ですから、「みんなの認知症予防ゲーム」と言っても、まだ知らない人がほとんどでしょう。
しかし、数年後には、きっと知っている人も多くなっていることと思います。
なにしろ「みんなの」ものですから。

名前は体を表すというように、ここにはいろんな意味が込められています。
しかし、残念ながら、そこに込められた思いや意味は、なかなか伝わりません。
高林さんの認知症予防ゲームを東日本に広げる役割を引き受けてきた私としても、その趣旨をきちんと実践者に伝えたいと思っていました。
本当は5月末に、こういう場を持ちたかったのですが、いろいろあって、いささか私自身が腰が引け、途中で止めてしまっていたのです。
しかし、今回、これまでゲーム展開に取り組んでいた方々が、みんな集まってくださったので、やっと肩の荷が下りました。

ゆるやかな組織や制度がそろそろ必要な段階になってきていますが、「ゆるやかな仕組み」をつくることほど大変なことはありません。
もう10歳、私が若ければイニシアティブがとれるのですが、いまはその元気がありません。
しかし、きっと今回、集まった中から、誰かが動き出してくれるでしょう。
そうしたら、私にできることも見つかるかもしれません。

ちなみに私の「認知症」の捉え方は、極めてポジティブなのです。
なにしろ私の発想は、世間の常識には大体において反対なものですから。
もちろん「認知症」の方の周辺の人がどんなに大変かはわかってはいますが、まずはポジティブに捉えることを起点にしています。
多くの人が体験するのであれば、死と同じく、ポジティブに捉えなければ、解決策は見えてこないと思っているのです。

■憲法を守れるのは国民の不断の努力だけ(2015年7月20日)
今日は1冊の本の紹介です。
つい最近出版された「裁判に尊厳を懸ける」(大川真郎著 日本評論社)です。

高校時代だと思いますが、「真昼の暗黒」という映画を観ました。
原作は、正木ひろしの『裁判‐人の命は権力で奪えるものか』で、冤罪事件と騒がれた八海事件を題材にしたものです。
冤罪事件の恐ろしさがリアルに描かれるとともに、ずさんな警察の捜査を告発した内容で、社会派映画の代表的傑作と評判になった映画です。
映画を観た帰り道、ずっと強い怒りから解放されませんでした。
それが、私が「検事」(弁護士ではありません)になろうと思った最初のきっかけでした。
そして、法学部に入学しましたが、いろいろとあって、法曹界への道はやめました。

大学時代の同級生の一人が、この本の著者の大川さんです。
大学を卒業後、久しぶりに会った時には、彼は日本弁護士連合会の事務総長でした。
そして、日本の司法改革に取り組んでいました。
彼に会った直後、大川さんは自分が関わった事件を本にした「豊島産業廃棄物不法投棄事件」を送ってきてくれました。
私の中で、弁護士という仕事の捉え方が少し変わりました。

本書は、その大川さんがこれまで関わった7つの裁判についてまとめた4冊目の著書です。
はしがきで、大川さんはこう書いています。

 長い弁護士生活のなかで、裁判を通して、数々のすぐれて魅力的な人々に出会った。
 虚飾のないたたかいの場で、数々の試練を乗り越えた当事者らのつよい信念、勇気、忍耐、決断、そしてなにより人間性に心を打たれた。

最初に取り上げられている事件は、無実の2青年が権力犯罪と闘った事件です。
読んでいて、まさにあの「真昼の暗黒」を思い出しました。
久しぶりにまた若いころの怒りが全身にこみあがってくるのを感じました。
高校生の頃の思いはどこに置いてきてしまったのかと、いささか自責の念が浮かびました。

つづいて、警察の暴力に職責を守り抜いた弁護士、集団暴力に屈せず職責を貫いた地方議員、大気汚染に立ち上がった市民たち、企業の不利益扱いを許さなかった女性労働者たち、虚偽の医療過誤告発を跳ね返した心臓外科教授、大量に不法投棄された産業廃棄物の撤去を求め続けた島民たち、といった6つの事件記録が続きます。
いずれも「たたかい」を余儀なくされた当事者たちの記録です。
大川さんは、その当事者たちに寄り添いながらも、理性的に事件の?末とその意味、そして当事者たちの生き方を語っています。

7つの事件に共通しているのは「人間の尊厳」の回復ですが、それだけではありません。
裁判の結果、新たな立法の契機になるなど、「社会の尊厳」もまた守られたのです。
大川さんはこう書いています。

もし、当事者らが裁判に立ち上がらず、人権侵害に屈していたならば、自らが著しい不利益を受けたまま終わっただけでなく、法によって保障された人権そのものが実質的に失われることになったかもしれない。

そして、19世紀のドイツの法律家イェーリングの名著「権利のための闘争」(実に懐かしいです)に言及した後、こう書いています。

わが国の憲法も「この憲法が国民に保障する基本的人権は国民の不断の努力によって保持しなければならない」としている。
人権は常に侵害の危険にさらされている。
人権侵害の不法に対しては、勇敢なたたかいが求められ、そのたたかいが多くの人の棒利を守るだけでなく、権利をさらによりよい方向に生成・発展させることにもなる。

いま、その憲法そのものが危機に瀕している事態が発生していますが、イェーリングが言うように、憲法を守れるのは国民の不断の努力だけなのです。
そして、本書の7つの物語は、その勇気を思い出させてくれるでしょう。
ぜひ多くのみなさんに読んでいただきたいと思います。

蛇足を付け加えれば、司法界のみなさんにもぜひ読んでほしいものです。
大川さんは、最後にこう書いています。

21世紀において、司法は他の政治権力から独立し、国民の権利、自由、民主主義の担い手として、より信頼され、頼りがいのある存在にならねばならないと思う。

私もそう願いますが、残念ながら現在の司法界は、自らの尊厳を失ってきているように思います。
大川さんは、先の「司法改革」においても大きな役割を果たし、その経緯も詳しく本にまとめられています。
残念ながら、私はその司法改革はあまり共感できませんが(理念を感じられないからです)、法曹界の人たちには、改めて「司法とは何か」をしっかりと考えてほしいと思います。
すみません。まさに蛇足ですね。

■ちょっとハードなカフェサロン「団体組織の仕組みの解明」のお誘い(2015年7月20日)
7月のちょっとハードなカフェサロンは、「日本における団体組織の仕組みの解明」というテーマで、杉本泰治さんの問題提起をもとに話し合いをしたいと思います。
杉本さんは、技術者であると同時に、法律にも造詣が深く、またNPO法人科学技術倫理フォーラムを立ち上げて、日本に「科学技術者の倫理」の問題を考える道筋をつけられた方でもあります。

杉本さんのテーマに関する思いを下記します。

●団体組織の仕組みの解明
──「坂の上の雲」を見て日本法は何をしてきたか

司馬遼太郎描く『坂の上の雲』の時代、軍事を担った秋山好古・真之兄弟と同じ世代の人たちが、列強との不平等条約の改正を目標に、西洋法の原理による法制の創設に取り組んだ。民法では、論点の一つに「パートナーシップ」があった。そこを原点として、団体組織の法の基礎理論が育ち、諸分野の団体組織研究を先導するはずのところ、それから百年、そうならなかった。「団体」の概念があいまいなまま、「団体」中心に考え、「個人」の行動に目を向けなかったことが、妨げとなった可能性がある。
人が集合するプロセスのモデル図によって集合の法則性を示し、団体の実体というのは、個人の集合からなるコミュニティにあたること、従来の論議には、団体の業務執行組織の欠落があることなど、団体組織の基本的な仕組みを明らかにする。

このカフェサロンは、「人間を起点とする社会」を話し合おうという視点で始まったものです。
「ちょっとハードな」とあるので、敷居が高く感ずる方もいるかもしれませんが、誰でも歓迎の気楽なサロンです。
コーヒーを飲みに来るくらいの気持ちで、遊びに来てください。
これまで来たことのない人も、もちろん大歓迎です。
みなさんの参加をお待ちします。

○日時:2015年7月25日(土曜日)午後3時半〜5時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「団体組織の仕組みの解明」
○問題提起者:杉本泰治さん
○スタイル:30〜40分ほどの問題提起の話の後、みんなで話し合う。
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■新国立競技場のような些末な問題に騙されたくありません(2015年7月24日)
新国立競技場の話は、知れば知るほど、すごい話です。
設計に数十億円かかるという話もすごいですが、契約価格は数倍になるのもよくある話というのも、すごいです。
関係者が、信じがたいほどに無責任というか、責任逃ればかりしているのも、すごいです。
安藤忠雄さんにはもう全くあきれました。
安藤さんに限らず、テレビに出てくる人たちが、みんな他人ごとに語っているのがすごいです。
財政がどんどん膨張していくのは当たり前ですね。
アスリートたちの発言も、私には非常に白々しく感じます。
お金にどっぷりつかった世界にいるとみんなおかしくなるのでしょうか。

まあたかだか2500億円ほどの話なので、私にはどうでもいい話ですが、こうした「瑣末な話題」のおかげで、原発とか再軍備とか、憲法無視とかいう大事な話が、軽く扱われてしまうのが、恐ろしいです。
アスリートたちも、そうした大きな謀略に利用されているのか、荷担しているのか、わかりませんが、いい加減にしてほしいと思います。

そもそも私はオリンピックには大反対です。
あれはもう完全に商業化していますから、ローマ時代のサーカスでしかありません。
私にはアスリートへの敬意は全くありません。
ローマ時代の剣闘士ほどにも、私には評価できません。
非難されそうですが、そもそも彼らのスポーツ観と私のそれとはまったく違います。
お金まみれの世界から、なんで抜け出ないのか、私には不思議です。

問題を取り違いたくはないものです。
新国立競技場の問題など、どうでもいい話です。
だから安倍首相は、白紙に戻し、国民の声に耳を傾けているのです。
耳を傾けるべきは、そんな些末な問題に関してではないでしょう。
勘違いしてはいけません。
新国立競技場の問題が、連日テレビで報道されていますが、そうした陰で、大きなものが動いているのが恐ろしいです。
問題の質の違いを、私たちはしっかりと認識すべきではないかと思います。

やはり私たちが一番考えなければいけないのは、原発のもんだだろうと思います。
原発は、軍隊よりも巨大な暴力です。

■ちょっとハードなカフェサロンの報告(2015年7月26日)
昨日のちょっとハードなカフェサロンは、うだるような暑さの中を、7人が集まりました。
テーマは、「法と倫理の両面からの「コミュニティ」の団体組織論的な解明」です。
話は、上場企業の財務報告の信頼性と原子力などの安全確保という、2つの身近な話題に関する問題提起から始まりました。
そして、日本のパートナーシップ(組合)法、パートナーシップと団体、コミュニティ、コミュニケーションなどについて、杉本さんは、独自の図解によって、わかりやすく説明してくれました。
杉本さんは、技術者、企業経営者というお立場を経て、50代半ばで会社を譲って法学を学びだし、その後、それらを統合した新しい視点でたくさんの著作を出され、大学でも講義されたり、技術倫理の問題に実践的に取り組んだりしてきています。
今回の発表は、そうした取り組みの結果、行き着いたところですので、そこにこめられた杉本さんの思いは2時間ほどのサロンでは消化しようもありません。
しかし、幸いに、多彩なメンバーが集まったので、その入り口は少しほどけたような気がします。
いつものことながら、話し合いのプロセスに意味がありますので、まとめようもありませんが、杉本さんのメッセージを私なりにまとめると、次の3点になります。
日本における団体組織の研究は、団体中心の論理に偏っていて、個人への視点が希薄だったこと、団体には「所有組織」と「業務執行組織」の2面があるのに、後者への視野がなかったこと、経済学・社会学などのコミュニケーション・ネットワーク論の発展に比べて、法学における取り組みは遅れていること。
そして、それを踏まえて、杉本さんは、冒頭に提出した2つの話題に関して、その意味とこれからの取り組みの方向性を示唆し、大切なのは個人を基点とした業務執行組織をどう設計し管理していくかではないかと締めくくりました。

私にとっての気づきはたくさんありましたが、所有組織に焦点を当てた法学的な議論と業務執行組織に焦点を当てた実際的な議論が、日本においてはいまもってあいまいなままになっていることを、きちんと問い直すことが大切だと強く思いました。
所有組織と執行組織を重ねていく動きは、たとえば、協同労働(ワーカーズコレクティブやソーシャルファーム)という形で、日本でも広がっていますし、アメリカではオープンブックマネジメントのように、実態的にそれらを重ねていこうという試みもあります。
しかし、時代の大きな流れは、むしろ、組織を資本の道具にすること、そして同時にそこに属する人間さえをも、その道具にするという方向に動いてきているように思います。
人を道具や手段としてはいけないというカントの命題は、もはや忘れられようとしています。
その流れに抗うために、組織(アソシエーション)とは何なのか、コミュニティとはなんなのか、を私たちは、改めて議論しなければいけないのではないかと思いました。

ちなみに、話し合いでの話題はいつものように広がり、なぜ福島原発事故が起きたのかとか、倫理とは何か、などといった話にも飛びそうになったりして、議論はなかなか終わらずに、今回も途中で終わった感があります。
しかし、私にはとても刺激的な3時間でした。
そしてまたいくつかの宿題をもらってしまったような気がします。

この続編をぜひまたやりたいと思いますが、どなたか問題提起者になってくれませんか。

■醜の王国(2015年7月28日)
安保法制と違い、新国立競技場問題は、計画が白紙撤回されました。
そうなると、これまでの最初の案が、本当は嫌いだったなどという意見が、計画を認めた当事者たちからも出てきました。
なんとまあ、情けないことか。
まさに「裸の王様」の世界で生きている「有名人」の哀れさを感じます。

それはそれとして、新国立競技場のザハ案は、デザイン的に見てどうなのでしょうか。
審美の世界のいる人たちからは、ほとんど意見が出されませんが、意見をお聞きしたいものです。
発言がないということは、意見がないということかもしれません。
意見がないということは、「審美感」がないということでしょうか。
美に関心のある人であれば、発言すべきです。

「民藝」を発見した柳宗悦であれば、どう語ったでしょうか。
「美しい」と思ったでしょうか。
そう思って、久しぶりに柳宗悦の本を少し読み直してみました。
ザハ案は「ゴミ」だと言い切ってくれるのではないかという期待がありますが、それは私のあまりに大きな希望的観測でしょうね。
ちなみに、私は、ザハ案を見た時には、あまりの醜悪さと暴力性に唖然としました。
あんなものが、美しいと言われる時代がおぞましいです。
まあ、オリンピックそのものが、今や醜悪の極みになってきていますが。

もっとも、私は、最近の東京の風景がどんどん醜悪になってきていると思っていますので、時代の美意識にはついていけていない存在なのです。
だから、柳宗悦を思い出したのですが。

柳宗悦は、宗教と美の「統一理論」に挑戦したと言われますが、すべての人には「美仏性」があると主張しています。
つまり、すべての人たちは美しいものを受け取る力をもっており、世のあらゆるところに美しいものが現れる契機が汎在している、というのです。
にもかかわらず、なぜ世界にはこれほど「醜悪なもの」が存在するのか。
それは、人のもつ小賢しい分別だと柳は言います。
「美仏性は自在心であるから(中略)、それが分別に邪魔され、拘束されて不自由に陥ったり、自己にこだわって、その奴隷となったりする時、仏性を傷つけられてしまう」のです。
分別や我執にこだわらない自在心さえあるならば、人は本来内に備わっている美仏性を生きることができるというのです。
あのザハ案は、私には、新国立競技場に関わる人たちの我執の塊に見えましたが、案の定、その後の経緯を見ていると、そこに群がった人たちの我欲と我執が見えてきました。
そこに群がった人たちの醜悪さが、あのデザインに象徴されてしまったのでしょうか。
安藤忠雄さんの記者会見も、それはそれはひどいものでした。
そこには、美の感性は皆無でした。

柳宗悦は「美の法門」でこう書いています。

「この世には段々醜悪なもの俗悪なものが殖える一方で、美の王国の建設どころか、醜の王国さえ、現れかねない始末で、進んでは醜をさえ喝采する人たちも殖えてゆく現状であります。」

時代の流れには抗えないとしても、せめて自分だけは、醜に喝采する人にはなるまいと思っています。

■参議院特別委員会での山本太郎さんに元気が出ました(2015年7月29日)
今日は参議院特別委員会で山本太郎さんが質問を行うというので、急いで帰宅して、テレビの国会中継を見ました。
実にわかりやすく、本質をついています。
私のような、生活者目線のものには、実に納得できます。
この30数分のやり取りはぜひ多くの人に見てほしいです。
https://www.youtube.com/watch?t=189&v=XlC-oyJKSFs

山本議員は質問に先立ち、沖縄辺野古からの傍聴人が来ていることを紹介しました。
私には、それが実に新鮮でした。
いまの安保法制にきちんと反対できるのは、沖縄の人たちだろうと私は思っています。
私たち「やまとんちゅう」には、残念ながら、反対する責務はあったとしても権利はないかもしれません。

つづいて、安保法制に関連して、「稼働中の川内原発がミサイル攻撃を受けた時にどれくらいの放射性物質が放出されるのか?」と質問。
原子力規制委員会の田中委員長が「弾道ミサイルが直撃した場合の想定はしていません。ちなみに事故が起きた場合の想定は福島原発事故の1000分の1以下」と回答しました。
驚きました。
福島原発事故の1000分の1以下!!
田中委員長がどういう人であるかもよくわかります。

実は、福島原発事故が起きた時に、もし地震や津波でなくて、テロによる攻撃だったら、とぞっとした記憶があります。
直後のある報告会で、そのことを質問しましたが、関係者の回答は、その想定はしていないということでした。
その時にも愕然としました。
ある技術者に、原爆と原発は同じだから原発も原爆効果を持っているのではないかと質問したら、まったく別で攻撃されても爆発はしないと言われました。
専門家の意見と素人の意見の違いに、気づかされました。
専門家は、狭い想定の中でしか、考えていないのです。
しかし、実際の生活は、想定内だけで動いているのではないのです。
素人には「想定外」はないのです。

山本議員も総理に質問を重ねます。
「どうして福島原発の1000分の1で済むのか。前に質問したところ、仮定の質問でありお答えするのは差し控えたいとの返答があった。仮定の話ではお答えするのは難しいということなのでしょうか総理」。
安倍首相は「武力攻撃は規模の大小やパターンが異なることから、一概に想定するのは難しい」と答えました。
まさに罠にはまった感じです。
山本議員は、ここぞとばかり追求します。
「今回の法案、中身や仮定や想定を元にしていませんか?A国がB国に攻撃を仕掛けた。友好国のB国から要請があって武力行使ができるのできないの、これは仮定ですよね?」。
「都合の良い時だけ仮定を連発して、国防上ターゲットになり得るような核施設に対する仮定や想定は出来かねますって、どんだけご都合主義なのか」。
実にわかりやすい。

他にも拍手喝采したいところはいくつかありました。

山本さんは、国民に代わって質問し、そして国民に向かって説明してくれている感じでした。
それこそが、テレビ中継される場合の国会議論の意味のはずですが、他の多くの議員は国民への意識もなく、退屈な質問と自己主張にとどまりがちです。

安倍首相も田中委員長も、質問には何一つ答えません。
たぶん最初から応える気もなく、したがって情報もないのでしょう。
事前の質問にも、誰も答えていないことを山本太郎さんは明らかにしてくれています。
そして、国会という場がどんな状況になっているのか、専門家とはどんな存在なのか、政府とは何なのかを、明らかにしてくれます。
山本太郎さんも、たぶん国民と同じように「軽い存在」に見下されているのでしょう。
それを十分に意識しているように、山本議員は健闘されました。
私自身は久しぶりに胸がすく思いでした。
しかし、あれほどの白熱した質問にもかかわらず、終わった後の拍手はまばらでした。
多くの歯車的政治家たちには、たぶん別の世界の光景なのかもしれません。
若い世代の議員もいましたが、何か感じてくれたでしょうか。

国会議員になっても、山本太郎さんのような、まじめな姿勢を維持できる人がいることで、少し元気も出ます。
ネットがアップされています。
ぜひ見てください。
https://www.youtube.com/watch?t=189&v=XlC-oyJKSFs

彼が言うように、原発再稼働も安保法制も、国民のことなど、まったくと言っていいほど考えられていないのです。
なにしろ、国民生活への影響という、肝心の検討が行われていないのですから。
山本議員の最後の締めくくりの言葉が実にいい。
「安倍総理の規制委員会への責任転嫁で、この質疑は終わりたいと思います」
ちなみに、田中委員長は、もちろん責任感など微塵もないことを答弁で明らかにしていますが。

■国家(ステート)から国民(ネーション)へ軸足を移す(2015年7月30日)
安保法制への国民の反対運動が広がっていますが、これは簡単に言えば、選挙によって統治権を与えた主権者である国民と国家を統治する政府との乖離を意味しています。
同じような構図は、例えば沖縄辺野古問題に関して沖縄住民から統治を委託された翁長沖縄政府と阿部政府との関係にみられるように、国家政府と地方政府にも起こります。
そうした時に、果たしてどちらに主導権があるかどうかは、時代によって変わってきました。
この1世紀ほどの世界の歴史は、たぶん、国家(ステート)から国民(ネーション)への動きです。

英語のステート(国家)とネーション(国民)は、日本では似たような受け取られ方がされていますが、まったく別のものです。
ステート(国家)は、一言で言えば、統治機構です。
つまり、政府の構造(制度)やそれを支える法体系や暴力管理体制です。
それに対して、ネーション(国民)は、共通の統治機構の管理下にある人々の集団です。
多くの場合、ネーションは、共通の歴史的体験を持ち、その結果、価値観や文化も共有しています。
近代国家の多くは、ネーションが主権を持った国民国家です。
しかし、言うまでもありませんが、国民主権というのはあくまでも理念的な擬制であって、国民の主権が保証されているわけではありません。
ですからステートとネーションには乖離が生ずるわけです。
同時に、ステートの内部構造(中央政府と地方政府)においても、当然、利害の不一致が起こります。
問題は、そうした時に、どちらが主導権をもつかです。

これまでは、上位組織、つまり中央政府に主導権がありました。
国民主権や人権思想から言えば、出発点は個々の人間、あえて概念的に言えば、国民にあるはずです。
しかし、それを有効に組織化、制度化できなかったために、統治の基点にはおけなかったのです。
ですから政府が主導するしかなかったのです。

深刻な問題は、制度というものは常に人間を超える存在だということです。
そのわかりやすい例は、ヒトラーナチスでしょう。
ある段階を超してしまうと、もはやだれもが止められなくなったのです。
国会の委員会中継を見た人は誰も気づくでしょうが、政府側に座っている閣僚たちには、人間としての表情があまりありません。
制度の一部になっていることがよくわかります。

大切なのは、政治のベクトルを変えることです。
個々の人間を起点とした統治の可能性を模索することです。
そうしたことに、多くの人が耳を傾けだしました。

沖縄の翁長知事が、国連の人権理事会で呼びかけを計画していそうです。
時代の流れは、いま大きな岐路に立っているように思います。

前にも書きましたが、日本の国会はあまりに閉鎖的です。
国民を見ていないのは、与党や政府だけではありません。
野党も含めて、国会議員や政党は発想のベクトルを変えていません。
ですから大きな力にはなりません。
ステートの世界からネーションの世界へと軸足を移さなければ、政治は動かないでしょう。

昨日の山本太郎議員の質疑のやり方を見ていて、改めてそう思いました。

ちなみに、直接民主主義を目指して、30年程前にリンカーンクラブを立ち上げた武田さんが、もう一度、活動を開始しようかと電話してきました。
一緒に活動してもいいという方がいたら、ご連絡ください。

■自らの生き方に「毎日、真剣に向き合う」こと(2015年7月31日)
7月30日の朝日新聞の「ザ・コラム」に上田俊英さんが「原発拒んだ女性たち」という記事を書いていました。
岩手県の三陸沿岸北部の田野畑村(人口3700人ほど)の話です。
1981年に、この小村では原発立地の是非をめぐって、村人が二分された歴史があるそうです。
この地が、原発立地の「有力候補」になったのです。
反対運動の中心になったのが、岩見ヒサさん。
岩見さんによれば、「村の男の人たちは、ほとんどが賛成」だったそうです。
当時、村の予算規模は20億円ほどでしたが、原発が建設されれば「31億5千万円」が交付されると言われていたのです。
しかし、岩見さんたちの反対運動が奏功したためかどうかはわかりませんが、原発は立地されませんでした。
そのおかげで、いまは自然が、村の観光を支えています。

この田野畑は、江戸時代、「一揆」の地でもあったそうです。
江戸時代に大きな一揆を率いた人の5代目の子孫の畠山さんは、原発反対を訴えていたころの岩見さんのことをよく覚えていて、「岩見さんたちは毎日、原発の問題と真剣に向き合っていた」と言っています。
「毎日、真剣に向き合う」。
つまり、反対運動というよりも、生き方を問い質すということです。
この姿勢が大事なのでしょう。

畠山さんによると、一揆の精神の原点は「勇気」「情熱」「団結」だそうです。
その精神があのとき、村の女性たちの心の中で花を咲かせていたのではないかと畠山さんは言います。
「大切なのは、金だけではない。原発ができていたら、われわれはいま、遠くに避難しているのかもしれない」という、奥山さんの言葉にもっと私たちは耳を傾けるべきです。

この話は大きな示唆を与えてくれます。
大切なのは私たちの生き方です。
原発を立地させたのも、そこに住む(広い意味では日本に住む)私たちの生き方です。
戦争を起こすのも、同じことかもしれません。
自らの生き方に、私たちは、「毎日、真剣に向き合う」ことが大切です。

■TPPの持つ意味(2015年8月1日)
TPP交渉が大詰めのようです。
その報道の仕方に、違和感があります。
テレビ報道では、消費者が安いものを入手できるか、生産者の利益を守るか、という形で報道されるようになってきています。
これこそ、この50年、政府が続けてきた方法です。
生産者よりも消費者の方が多いのですから、その報道は、TPP応援報道なのです。
このブログでも何回か書いていますが、問題をどう設定するかでメッセージはいかようにもそう阿できるのです。
こうした方法は、広報戦略の基本ですが、TPPに関しては見事に功を奏しました。
私にはあり得ない話でしたが、いまやもうTPP参加は既定の事実になっています。

TPPは「経済問題」ですが、経済は社会や文化を規定します。
バターが安くなるというレベルの経済問題は、些末な話なのです。
目先の損得しか考えられなくなってきている「消費者」は、いつも後で大きな損を後で背負わされます。
これまで何度その繰り返しが行われたでしょうか。
しかし「消費者」とはそういう存在なのでしょう。
日本の経済者とその片棒担ぎの経営学者は、せっせと消費者を創造してきたのです。
経営が顧客の創造などというバカな言葉が、いまもなお、使われているような経営学はもう捨てなければいけません。

TPPは、つまるところ、新自由主義の発想に基づいています。
そこでの「自由」とは、アメリカ資本主義の文化に支えられた「汎市場化」を理想とする自由です。
自由という言葉には、抗えない輝きがありますが、問題はだれが一番その自由を謳歌するかです。
考えればすぐわかることですが、自由は関係性の中で生まれる価値です。
すべての人が自由に振舞えるわけはなく、そこでは自由を管理するルールや基準が不可欠です。

TPPは、消費者には目先の利益をもたらしてくれるでしょうが、生活者にはとんでもない損害をもたらすような気がしてなりません。
そして、わたしたちは、そろそろ消費者から生活者へと、立場を変えなければいけません。
各地で盛んな「消費者運動」は、もう役割を終えたはずです。
そう思ってから、もう40年近くが経ちます。
そう思わせてくれた契機になった「コンシューマリズム」も、今やその意味合いさえ変わったようです。
若いころに見ていたビジョンが、ことごとく壊されつつあるのが残念です。

■「里山と土地所有を考える」カフェサロンのお誘い(2015年8月3日)
熊本で、農業と福祉の問題に早くから取り組んでいた、明篤館の宮田さんを囲んでのカフェサロンを久しぶりに開催します。
宮田さんには、毎年、1回ほど、お話をしてもらう機会があったのですが、昨年はお忙しくて実現しませんでした。
今回、久しぶりに来ていただけることになったので、少し欲張って、いろんなサロンのジョイントの形をとらせてもらいました。
テーマは、「里山と土地所有を考える」です。
具体的には次のような内容のお話をしてもらいます。
・里山問題とは何か?
・里山資本主義は本当にできるのか?
・魚附林と上流下流の連携
・保安林日照問題と広島山津波災害を教訓に
・里山と入会地問題
・障害者の農業活動についての直近の動き
話題が多岐にわたりすぎて、いささか心配ですが、お話をいただいた後、参加者の関心事に合わせて絞り込む予定です。
みなさまのご参加をお待ちしています。

○日時:2015年8月21日(金曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「里山と土地所有を考える」
○話題提起者:宮田喜代志さん(熊本明篤館館長)
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤修)

■第4回戦争反対カフェ「〈憲法違反罪〉を考える」のお誘い(2015年8月3日)
4月に始めた戦争反対カフェももう4回目です。
その間、番外編として「自民党憲法改正案を読む会」も開催しました。
8月は、若者中心の平和サロンを予定していましたが、最近の政治状況も踏まえて、このカフェサロンの最初に問題提起していただいた武田文彦さん〈究極的民主主義研究所所長〉が主張している、いささか刺激的な「憲法違反罪」をテーマに話し合いを行うことにいたしました。
日程も、あえて8月15日(土曜日)に設定しました。

武田さんが雑誌「ベルダ」に寄稿した、いささか刺激的な論文は、下記のところにあります。
ご関心のある方はお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/TAKEDA125.pdf

暑いさなかですが、ぜひ多くのみなさんのご参加をお待ちします。
テーマは難しそうですが、いろんな立場の人たちが、気楽に意見を出し合えるスタイルのサロンです。
コーヒーを飲みながら雑談する気分で、参加していただけると嬉しいです。

○日時:2015年8月15日(土曜日)午後1時半〜3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円
○テーマ:憲法違反罪を考える
○問題提起者:武田文彦さん(究極的民主主義研究所所長)
○参加申込み先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■主語はなんなのか(2015年8月7日)
このブログでは以前も書きましたが、メッセージを目的にした話や文章で一番大切なのは主語だと思います。
主語が曖昧なために、まったく正反対に受け取られることがあります。
なにを主語にするかで、その人の世界観や社会認識の構造がわかります。
それを踏まえないと、論者のメッセージは正確には理解できません。
今朝の朝日新聞に、佐伯啓思さんが、「押し付けられた米国的歴史観 ポツダム宣言の呪縛」という論考を寄稿しています。
それを見て、主語の大切さを改めて思いました。
主語を曖昧にして語るのを得意にしている人が多いですが、主語をどうとらえるかで論考の方向性は決まってきます。
主語のない論考は、私には意味がありません。

ポツダム宣言が要求していたのは、「軍隊の無条件降伏」であって「日本の無条件降伏」ではない、と佐伯さんは書いています。
このことは、最近いろんな人がなぜか改めて言い出していることです。
ここにも、軍隊と政府と国民とをどう捉えるかとことを考える「主語の問題」がありますが、それはそれとして、佐伯さんはこう話をまとめます。

ポツダム宣言に示されたアメリカ的歴史観にまで「無条件降伏」する必要はない。にもかかわらず、戦後日本は、この歴史観を受け入れ、戦前の日本を道義的に誤ったファシズム国家と見なしたのである。そうだとすれば、われわれは、今日のイラク戦争にも、対テロ戦争にも反対する根拠はなくなる。「自由と民主主義」を守るために、アメリカと協調するほかない。それがいやなら、もう一度、ポツダム宣言を読み直し、あの「戦後のはじまり」に何があったのか、を再考するほかあるまい。さもなければ、70年たって、「右」も「左」もいまだにポツダム宣言に呪縛されたまま、ということになるであろう。

この文章の主語がなかなかわかりません。
実際には、「戦後日本は」と「われわれは」という2つが出てきますが、それが何を意味するかはあいまいです。
そもそも、タイトルの「押し付けられた米国的歴史観」ですが、誰が誰に押し付けたのかが曖昧です。
もちろん、アメリカ政府が日本政府に押し付けたということでしょうが、多くの人は、アメリカの人たちが日本の人たちに押し付けたと考えるかもしれません。
佐伯さんによれば、戦前の日本は「道義的に誤ったファシズム国家」ではないようですが、当時日本国内で書かれたものなどを読むと、当時の国民の中には、そう思っていた人も少なくなかったような気がします。
さらに、こうも考えられます。
敗戦と占領によって、「米国的歴史観」が「日本政府によって押し付けられた歴史観」の呪縛から、日本国民を解放してくれた、と。
つまり、結局は「押し付けられた米国的歴史観」と「押し付けられた日本的歴史観」との話でしかありません。
事の本質は、そんなところにあるわけではない。
よく「押し付け憲法」と言われますが、誰が誰に押し付けたのかをきちんと吟味しなければいけません。
これは、世界の構造をどうとらえるかということにつながってきますが、その出発点は主語を明確にすることです。
佐伯さんの文章の「戦後日本は」は「戦後日本政府は」と書くべきです。
ちょっとした違いに見えますが、ここに問題の本質があるように思います。
ちなみに、もう一つの主語の「われわれは」は主語としては不要です。
それにそもそも論旨がめちゃくちゃですが。

ところで問題を一つ。
安保法制の議論で「自衛権」という言葉が盛んに使われます。
その場合、「自衛権」の主語は当然、「自」だと思いますが、その「自」とは一体、誰のことなのでしょうか。
国家の自衛権とは、一体何なのでしょうか。

■住民(国民)の責任−被害者になる前に加害者になることをおそれたい(2015年8月11日)
福島原発事故を体験した後も、地元の原発を再稼働させることを許した川内市の7万人の住民にはいささかの驚きを感じます。
住民としての責任を放置したとしか思えません。
もっとも住民の過半数は、再稼働に反対だったとも聞いていますが、小さな自治体レベルでさえ、住民の意見は大切にされないことにも、大きな驚きを感じます。
国民主権や自治は、今やどこにも見当たりません。

福島原発が事故を起こした時、私は最初、立地周辺の住民には一切の同情を持てませんでした。
自分たちで受け入れておきながら、そして、その利益を享受しておきながら、事故が起きたから補償しろというのは私の信条に反するからです。
しかし、少し枠を広げれば、原発を受け入れたのは、立地自治体だけではなく、福島県、さらには日本全体ですから、私もその仲間の一人でしかありません。
私自身が、福島原発事故の被害者であると同時に、加害者でもあるわけです。
その認識がない限り、原発周辺に住む人たちのことは責められないと気づきました。

福島原発で、少なくとも日本人は、もう原発をなくす方向に行くと思っていました。
それは、「体験した者の責任」として、当然のことだからです。
しかし、そうはなりませんでした。
そして事故から5年もたたないのに、原発がまた動き出すことになったのです。
おそらく住民の多くは、不安を持っているでしょう。
周辺の住民のみならず、多くの人が再稼働反対で全国からも集まりました。
テレビなどでも、多くのキャスターが、婉曲的にではありますが、異を唱えています。
にもかかわらず、川内原発は動き出します。

私が一番気になるのは、被害者になるかもしれないということではありません。
また加害者に戻ることです。
日本における原発再稼働は、私たち日本に住むものが、世界に向けての、あるいは未来に向けての、放射線被曝の加害者になるということだろうと思います。
福島事故を体験しながら、私たちは、また原発安全神話に依存して、目先の利益だけを見た生き方に戻ってしまったのです。
それがとても残念です。

川内市の市長はもちろんですが、私は川内市の住民の責任を問いたい気がします。
彼らは、加害者になることを選んだのですから。
しかし、加害者であることを選んだのは、川内市の住民だけではありません。
私たち、私も含めて、日本に住む者みんなが、加害者(つまり犯罪者です)になる道を選んだということです。
自らの責任もまた、問わなければいけません。

これと同じことが、安保法制の動きにも感じられます。
私たちがいま、真剣に考えるべきことは、被害者の目線だけ考えるのではなく、加害者の目線も持って、考えることです。
そういう視点を持てば、日本のこの70年も、平和だったとは決して言えないのです。
いまもなお、見えない戦場が、この日本には遍在しています。

これに関しては、項を改めて、書くようにします。

■「ヴァイマル憲法とヒトラー」(池田浩士著)のお薦め(2015年8月14日)
今日は、私が読んで、頭をガツンとやられたほどのショックを受けた本をご紹介します。
池田浩士さんの『ヴァイマル憲法とヒトラー 戦後民主主義からファシズムへ』(岩波現代全書)です。
今年の6月に出版された本ですが、書名からドイツの話だと思い、後回しにしていたのですが、数日前に読んで、まさにいまの日本への警告書なのだと知りました。
最後の章では、かなり具体的に、まさに今の安倍政権への批判とともに、私たち日本人の生き方が、辛辣に告発されています。
70年目の敗戦記念日を迎えるにあたり、一人でも多くの人に読んでほしいと思い、紹介させてもらうことにしました。

内容は読んでもらうしかないのですが、本書の紹介文にはこう書かれています。

第一次世界大戦後の戦後民主主義を体現するヴァイマル憲法下で、ヒトラーは人心を掌握し、合法的に荒権を獲得した。ドイツ国民を魅了したナチズムの本質を抉り出し、新たなファシズムの到来に警鐘を鳴らす。

まさに、そういう本です。
著者は、「ヒトラーとナチスが憲法を踏みにじっただけでなく、ドイツ国民がヴァイマル憲法を揉欄していたのです」と明言します。
その一因をドイツ国民のなかに深く根付いていた「臣民」の習性に見ます。
そして、日本の憲法もまた、そうした「臣民根性」が根底に持っているというのです。
しかも、その臣民根性は、いまなお脱却できていないことが示唆されています。
そうしたことが、具体的にわかりやすく書かれています。
敗戦40周年にあたって有名な演説をしたヴァイツゼッカー大統領も、厳しく告発されています。

しかし、著者が警鐘を鳴らす相手は言うまでもなく、私たち、現在の日本に生きている私たちです。
いまの日本の政治状況は、ヒトラーでさえできなかったことをやっていると指摘します。
そして、国民はそれを見逃している。
たとえば、こういうのです。

あの破局的な原発事故にもかかわらず、原発の再稼働を強行するというような、もしも政府が原発資本の利益よりも国民の安全と人権を尊重していれば到底できないようなことは、ヒトラーにはできませんでした。

これだけ取り出すと違和感があるかもしれませんが、本書を読めば、その違和感はなくなるかもしれません。

では私たちはどうすればいいのか。
著者は、日本国憲法第12条に、その答えがあると言います。
第12条の前半にはこう書かれています。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」。
つまり、私たち自身も憲法によって重い義務を課せられています。
憲法は、為政者だけに義務を与えているのではないのです。
私たちは、臣民ではなく、主権者なのですから。

私たちは、立ち止まり、見て、感じて考える、その感性をもつことが必要だ。
しかし、それはひとりではできない、共にある「他者」を必要とすると著者は書いています。

私もそういう思いで、湯島で毎週のようにカフェサロンをやっています。
明日の15日は、憲法違反は死罪にあたるという、いささか物騒なテーマでカフェサロンを開催します。
私は死刑は反対ですが、憲法違反を看過してきた私たちも、死罪にあたるのかもしれません。
よかったらご参加ください。
案内は下記にあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info1.htm#150815

■平和な日本における「見えない戦場」(2015年8月14日)
間があいてしまいましたが、4日前の「被害者になる前に加害者になることをおそれたい」で最後に書いた、加害者の目線も持って考えると、日本のこの70年も、平和だったとは決して言えないのではないかについて書いておくことにします。
この70年の日本は、自らの平和を実現するために、さまざまな戦場をつくってきた(荷担してきた)のではないか。
そしていまなお、それを継続しているのではないか、という反省です。

この前の時評編で、「ヴァイマル憲法とヒトラー」を紹介しましたが、この本を読んでいて、平和と戦争はコインの裏表だと改めて痛感しました。
しかし、戦争の裏にある平和など、私には無意味のように思います。
宮沢賢治がいっているように、みんなが平和でなければ、平和などあり得ないのです。

ナチズムの時代を肯定的な思い出として生きているドイツ国民は決して少なくないと言います。
「多くの体験者は、ナチス時代になってようやく生活が安定し、治安も落ち着き、ドイツ人としての誇りを持って生きられるようになった、と回想しました」と、その本には書かれています。
ナチドイツで虐殺されたユダヤ人たちは、実質的に国籍を奪われていたことからわかるように、ナチスドイツでは、豊かな暮らしを享受できる人もいれば、死に直面して生きていた国民もいたのです。
どちらの視点に立つかで、世界は全く変わってきます。

さて、日本のこの70年の平和ですが、確かに日本では戦争はなかったですが、その時期、世界は戦争から解放されていたわけではありません。
朝鮮戦争やベトナム戦争が象徴的ですが、そうした各地の戦争が日本の経済的繁栄を支えてくれていました。
日本が経済的豊かさを享受している、すぐその隣で、人々が殺傷し合っているのです。
日本は、まるでゲーテッドシティのように、戦火から守られていた。
他国の不幸によって、日本の幸せは守られていたのかもしれません。
それが悪いとは言いませんが、なにかとても心苦しい。
せめて、日本の平和の裏側には、そうした悲惨な現実もあることの認識は忘れてはいけません。
ましてや、それを加速するようなことは、避けたい。

他国だけではありません。
国内にも、生き死にに関わる状況が日常的に遍在しています。
たとえば、子供の貧困が話題になっていますが、子供を守るために、まるで戦場での生活のような生き方をしている人も少なくないでしょう。
武器で殺傷されることはないとしても、生命の危機を感じながら、毎日を生きている人も決して少なくないでしょう。
そうでなければ、これだけ多くの精神の病や自殺が広がるはずはありません。

ヨハン・ガルトゥングは、構造的暴力をなくすことこそが積極的平和だと主張しました。
最近、安倍首相が唱えている「積極的平和」とは全く意味が違い、ガルトゥングが異議申し立てしていることが先日新聞に出ていましたが、構造的暴力まで視野にいれれば、いまなお、日本には「見えない戦場」が遍在していると言っていいかもしれません。
しかも、それは少なくなるどころか、むしろ広がっている。
それのどこが、平和なのか!
ナチスドイツが政権をとった時代状況に極めて似ているように思います。
そうした「見えない戦場」が、日本国の内外に、私たちの暮らしの周辺にあることをもっと強く意識したいと思います。
ヒトラー時代のドイツ国民と同じ道は、歩みたくはありません。
でもそこからどうやって抜けるのか、まだ私には見えてこないのですが。

明日は敗戦の日。
せめて私のまわりの戦場への思いを深めようと思います。

■ちょっとハードなカフェサロン「マトリックス人間学」のお誘い(2015年8月17日)
ちょっとハードなカフェサロンのご案内です。
今回は、前回の報告に触発された椎原澄さんが手を挙げてくれました。
ちょっとハードなカフェサロン初登場です。
テーマは「マトリックス人間学」。

「マトリックス人間学」ってなんだ? とお思いでしょうから、
椎原さんの解説を下記します。

「人間を起点とする社会哲学」。
そこを基点にしながら「人間の尊厳を個人哲学の次元で日常的に確信できる人」の自覚を持つことができ、それぞれの存在理由を生かすことのできる「構造(組織ではなく)」を示せるのが、「マトリックス人間学」かもしれません(ビビりながら大きくでました)。
現行の構造に物理的に抗うのでもなく、「個の確立と共生(80年代から試行錯誤していること)」をこっそり「構造(関係性)」化する。
理想郷を描いているわけでもありません。
本当に今からどうなるかはわからない。
でも、どうなっても「自ら選択できる精神の自由」くらい持ったっていいんじゃないか。
そんな感じでしょうか。

なんだか話を聞きたくなりますね。
ところで椎原さんってどういう人ですかという質問もありそうです。
一言で言えば、私がこれまで会ったなかでも飛びぬけて「不思議な人」です。

ぜひ多くのみなさんの参加をお待ちします。
このサロンは、ちょっと敷居が高いという人がいますが、そんなことはありません。
気楽でカジュアルなサロンです。
誰でも歓迎ですので、コーヒーを飲みに来る感じで、お越しください。

○日時:2015年8月22日(土曜日)午後3時〜5時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:「マトリックス人間学」
○問題提起者:椎原澄さん(COS−COM 代表)
○スタイル:30分ほどの問題提起の話の後、みんなで話し合う。
○会費:500円

■いっそオリンピックがなくなるとうれしいのですが(2015年8月17日)
オリンピックのエンブレムのデザインが問題になっています。
デザイナーの佐野さんの評判もガタガタになってきてしまいました。
知的所有権という概念に否定的な私にとっては、最初はどうでもいい話でしたが、ここまで広がってくると、ついつい一言書きたくなってしまいます。

まずエンブレムの話ですが、あれはどう考えても似ています。
しかし、似ていてもいいではないかと私は思っていました。
人間が考えることなど、所詮はそう違わないのです。
どんなに独創的に考えだしても、同じようなデザインはどこかにあってもおかしくありません。
それに、すべてを調べろなどというのは現実的でもありません。

ですから、佐野さんは堂々と確かに似ているが、私はそれを盗用などはしていないと言えばいいだけの話でした。
しかし、佐野さんは、「まったく似ていない」と言い切ったのです。
その段階で、ああ、この人は感性が鈍く、デザイナーではないと思いました。
ロジックの人なのです。

でもそれでもそれは大した問題ではありません。
私は、最初からあのエンブレムデザインは好きではありませんでしたが、そもそもオリンピック自体が金にまみれた商業活動ですから、デザインが汚れてくるのは当然のことだと思っていました。
金が支配する世界で、美を守れるとは私は思っていないのです。
どうでもいい話です。

しかし、その後、次から次に出てくる「盗作まがいの作品」には驚きです。
ここまで切ると、もはやデザインの問題ではなく、生き方や文化の問題です。
デザインの世界にまで、工業化と金儲け主義がいきわたったということでしょうか。

新国立競技場も、私には醜悪な建物を醜悪な人たちが、醜悪な手法で悪用する活動の場になっていると思えます。
こうしたことが次々と起こるのは、オリンピックを日本で開催することにしたからです。
なぜオリンピックを招致したかといえば、金もうけや経済成長のためでしょう。
誤解かもしれませんが、私にはそう思います。
そんな予算があれば、原発被災者の支援や子供の貧困解消に当ててほしいですし。生活保護者を守ってやってほしい。
それくらいの思いを持つスポーツ選手(アスリートというおかしな名称も違和感があります)はいないのか、と私は情けなく思います。

オリンピック招致が決まった時から、私は反対を表明していますが、みんな蜜に群がる蟻のように、オリンピックに群がっています。
私には情けない光景にしか見えません。
スポーツを愛する人たちは、なぜおかしいと思わないのでしょうか。

■先祖が営々と育ててきた社会的装置(コモンズ)が壊されていいのか〈2015年8月22日〉
昨夜の里山サロンは、9人が集まりました。
ナチュラリストの木村さんが参加してくれたのは感激でした。
お会いするのは10年ぶりでしょうか。
宮田さんが最近保安林の問題に関わりだしたのを契機に、入会地やコモンズのテーマにぶつかったようで、そこから見えてきた問題をいろいろと話してくれました。
1年前に起こった広島の土砂災害も、入会地やコモンズとしての里山の問題に深くつながっています。
保安林で言えば、宮田さんは生活を管理する統治者の植林と生活に立脚した農民の植林(これを宮田さんは「農民的植林」と名付けました)の違いを実例を見せてくれながら説明してくれました。
農民的植林。非常に示唆に富む言葉です。
もしかしたらここに「コモンズ」の本質を解くヒントがあるような気がします。
さらにコモンズとしての神社や水路の話にも広がりました。
コミュニティの話も出ましたが、コミュニティとは「人と人のつながり」だけではなく「人と自然のつながり」という視点も入れなければいけないことを改めて実感しました。

私たちは、長い歴史をかけて、自らの生活を支える膨大な社会的装置(コモンズ)を育ててきました。
「水田」はそのひとつです。
若林さんが、埼玉の見沼田んぼでの市民活動の話を少し紹介してくれましたが、そこからも自然こそが世代を超えて、人をつなげていく装置であることがわかります。

そうした「みんなのもの」を一時の利益を求めて、誰かが処分してしまうようになった、いまの社会は、そして私たちの生き方は、やはり考え直す必要があります。

鳥獣被害の話も出ました。
昨今の環境保護活動は、私にはやはり違和感があります。
対症療法ではなく、私たちの生き方から考えていいくことが求められているように思えてなりません。
このテーマは、いつかナチュラリストの木村さんにサロンをしてほしいと思っています。

いつもながら、実践を重ねての宮田さんのお話には、刺激を受けます。
粗雑な報告しかできないのがとても残念です。

■ちょっとハードなカフェサロン「マトリックス人間学」の超主観的報告(2015年8月22日)
今日の「ちょっとハードなカフェサロン」は、「マトリックス人間学」がテーマでした。
人が仲間と一緒に社会にダイナミズムを生み出していく構造を考える視点を、長年の実践で検証してきた、椎原さんがお話をしてくれました。
そのダイナミック・マトリクスを丁寧に説明してくれた後、そのマトリクスのど真ん中にあるのは何かが、最後の椎原さんの問いかけでした。
実は私はお話をお聞きする前から、そのマトリクスに「いのち」を与えるのは何かを質問しようと思っていたのですが、逆に質問されてしまいました。
私はこれではないかと思っていたことがあるのですが、椎原さんは、そこに入るのは「モノ」だと言うので、わからなくなってしまいました。
無念なことに私は答えられませんでした。
他の方の答えも、「当たり」とは言ってもらえませんでした。
椎原さんの答えをお聞きして、それはないだろうといささか過剰に私は反応してしまいました。
そして反論している途中で、椎原さんに乗せられているなと気づきましたが、もう引き込めなくなってしまいました。
そういえば、25年前も、こうやって私は椎原夫妻の挑発に乗っていたなと思い出しました。

議論はかなり盛り上がり、ヘーゲルとかニーチェとか実存とか、難しい発言もありました。
いささか難しい議論もありましたが(なにしろ「ハードなカフェ」ですから)、難しくない発言もありました。
栃木から4時間かけて参加してくれた早川さんが、ご自分の物語を語ってくれたのです。
これだけでは参加されていない方には伝わらないでしょうが、生活視点で概念や枠組みの意味を再構築するという点で、私は多くの気づきと視点をもらいました。
時代の流れを変えるのは、生活視点をしっかり持った人の日常生活だと私は確信しています。

そもそもこのサロンは、「人間を起点とする社会哲学」が基調にあります。
人間を基調にしている以上、常に生活視点がなければいけません。
その意味で、私には早川さんの発言は大いに触発的でした。

椎原さんのマトリクス人間学のスキームは、まだ公開されていません。
椎原さんたちが立ち上げた「事業創造協議会」起点となるプロトコルだからです。
ですから、ど真ん中に入るものは何かもここでは書くのは避けたいと思います。
しかしそのうち、完成度を高めて公表されるでしょう。
ど真ん中の「文字」も、変わるかもしれません。

なにやらわけのわからない報告ですみません。
初めて参加してくださった方が、酒も飲まずにこんなに楽しい議論ができるとはと喜んでくれました。
その方は会社を定年退職で辞めた後、起業しました。
会社時代には扱えなかった「安全で安心なもの」を扱う会社をつくったと言いました。
実に素直な人です。
この言葉をテーマにサロンをしたい気持ちです。
4時間かけて2時間のサロンに参加してくれた早川さんは、来てよかったと言ってくれました。

椎原さん、そして、死にそうなほど暑い中を参加してくださった皆様、ありがとうございました。

■電力会社はなぜ気楽に原発を再稼働させられるのか(2015年8月25日)
川内原発から始まった、原発再稼働はさらに広がりそうです。
私は、集団的自衛権よりも、そのことが恐ろしいです。

原子力賠償制度がどうもその目的に反して、加害者保護に向かっていることへの危惧の念を早くから問題提起していた本間照光さんのサロンを今年の1月に開催しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action15.htm#01274
本間さんが早くから問題提起しているにもかかわらず、その声はなかなか大きくはならず、川内原発再稼働をむしろ支える方向で、制度改定の事態は動いている感があります。
原子力賠償制度というと、何か専門的な問題のように感じますが、こういう制度によって、原発事業者は守られているために、再稼働なども可能になっているのです。

この問題に誠実に取り組んでいる本間さんが、今週号の「エコノミスト」(2015年8月25日号)に、「骨抜きにされる原子力賠償制度 法律改定で加害者保護強まる恐れ」を寄稿されています。
ぜひ多くの人に読んでほしいと、本間さんから連絡を受けました。
私も、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
まだ書店に残っていると思いますし、図書館にもあると思いますので、ぜひ読んでもらえるとうれしいです。
私にメールでご連絡いただければ、コピーを送らせてもらいます。

1961年に制定された原子力損害賠償法(原賠法)は、原子力災害事故の被害者を保護するため、事故を起こした原子力事業者に対して、事故の過失・無過失にかかわらず賠償責任があるとする「無過失責任主義」と「無限責任」を定めています。
しかし、福島原発事故で明らかになったように、原子力事業者である東電は責任逃れに向かい、裁判まで起こしているのです。
福島原発で放射能漏れ事故が頻発していますが、近隣住民などへの「無限の賠償義務」など全く行われていないように思います。

そもそもこの目的自体に無理があります。
そんなことをやったら、原発は経済的に引き合う事業ではないのです。
原発事業を推進するための、「無理な約束」、言い換えれば「嘘の約束」だったとしか、私には思えません。
原発事故の「無限責任」などとれるはずがありません。
それにもし、そのリスクをコストに反映させたら、原発による発電コストは想像を絶するほど高価なものになるでしょう。
それを知っている保険業者は、誰も保険を引き受けないことがそれを証明しています。
原発による発電コストが安いなどという嘘が、いまもなお政府や御用学者から発言されること、そしてマスコミでも流されていることには驚きます。

本間さんは、この論考でこう書いています。
原賠法とそれとセットの「原子力損害賠償補償契約に関する法律」が原発再稼働の足かせになっているために、電力業者と政府は原子力賠償制度の法改正に取り組んでいる。
そして、その方向は、加害者である事業者保護だ。
「今後、原発事業者の責任を限定する形に原賠法が改められれば、原発事故の加害者の賠償費任が免除され、同法は事故防止のためのブレーキ役を果たせなくなる恐れがある」。
仮に原発事故が発生しても、原発事業者は守られる方向に向かっているわけです。
ですから、川内原発を初めてして、電力会社は安心して原発再稼働に取り組みだしたのです。
福島原発事故の余波を受け、他電力会社の管内にある原発も全面停止した時の状況を、政府は変えようとしているわけです。
ナチス時代のヒトラーでもそんなひどいことはしないだろうと、「ヴァイマル憲法とヒトラー」で池田浩士さんは書いていますが、私も同感です。

本間さんの「思い」が伝わりすぎて、少し書きすぎたかもしれません。
でも、知っていること、気づいたことを、しっかりと主張する姿勢を大事にしている本間さんを、応援しないわけにはいきません。
ぜひ「エコノミスト」の本間さんの論考は、読んでもらえるとうれしいです。

■ちょっと知的なカフェサロン「建築散歩のたのしさ」のお誘い〈2015年8月28日〉
久しぶりに「ちょっと知的なカフェサロン」のご案内です。
テーマは「建築散歩」。
埼玉県を中心に長年、建物散歩を楽しんでいる若林さんにお願いして、その楽しさをおすそわけしてもらうサロンを開催します。
併せて、10月には、若林さんにご案内いただく実際の「街散歩」も開催したいと思います。

若林さんは、仲間と一緒に「懐かしの街さんぽ 埼玉」という本も出版していますが、なによりも若林さんがフェイスブックで時々紹介してくれる建物がいずれも魅力的で、一度、是非お話をお聴きしたいと思っていましたが、思い切って若林さんにお願いしたら、なんとサロンとガイドのセットをご快諾いただきました。

まず今回は、湯島でのカフェサロンのご案内です。
若林さんがこれまで楽しまれてきた建物散歩を映像で見せてもらいながら、その魅力を語ってもらおうと思います。
また、建物散歩のコツのようなものも教えてもらい、参加者がそれぞれ自分の地域での建物散歩をしてみるのも面白いかなと思っています。
そして最後に、若林さんから、10月(17日を予定しています)に実際に建物散歩するコースなどをご紹介いただき、参加者の希望などもできる範囲で織り込んでもらおうと思っています。
場所の候補は、宮代町・幸手市、入間市、川口市、小川町、行田市、深谷市、飯能市など、いろいろと若林さんは考えてくれています。

2回とも参加してもらうのがいいですが、どちらか一方でも十分に楽しいと思います。

なお、埼玉県庁のホームページの中にたてもの散歩のサイトがあります。
ぜひご覧ください。
http://tatemono.art-saitama.jp/
また若林さんのフェイスブックには、若林さんが歩いた楽しい建物がたくさん掲載されています。
FBをされている方は、ぜひ若林さんに「友達」のメッセージを送ってください。

多くのみなさんのご参加をお待ちします。

●日時:2015年9月11日(金曜日)午後7時〜9時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●話題提供者:若林祥文さん(街歩き名人)
●参加費:500円
●申込先:qzy00757@nifty.com

■「湯島の珈琲サロン ?憲法9条を召し上がれ?」の報告(2015年8月31日)
8月29日の、若者たち主催「湯島の珈琲サロン ?憲法9条を召し上がれ?」の報告です。
若者が7人、40〜70代の若者を終わった人が5人参加しました。
憲法9条ではなかなか人は集まらないのではないかと、若者たちは工夫し、出前カフェ活動(?)をしている友人に頼んで、本格的なカフェを開いてくれました。
豆は、アフリカ、南米、アジアを代表するタンザニア、マンデリン、ホンジュラスでした。
小林さんが手製のカステラを持参してくれました。

議論は主催者の若者チームが創った「憲法9条改正案」と現行9条、自民党の改正案の3つが壁に張り出され、そこから話し合いが始まりました。
現行憲法の条文は、あまり評判がよくありませんでした。
若者チーム改正案は、現行憲法より長くなっていたので、読むのが大変でしたが、みんなが議論した結果、さまざまな視点が出てきているのを感じました。
やはり自分たちで条文を読みこなし創りかえてみることの意味を改めて感じました。
若者7人のうち、3人が留学生だったのも意外でした。
やはりこういうテーマは、日本の若者の興味をひかないのかもしれません。

若者でない参加者は、あまり発言しない約束だったのですが、うっかり私が最初にいつもの気分で軽口をたたいてしまったためか、発言が多かったです。
これは私の責任で、主催者の3人には申し訳ないことをしました。
今回は静かにコーヒーを飲んでいればよかったのですが、迷惑をかけてしまいました。

話はいろいろ出ましたが、一切省略して、2つだけ書きます。

いま日本は軍隊を持って戦争ができる国になろうとしていますが、これに関する意見を聞いたところ、若者たちの賛否はまさに半分に分かれました。
しかもまわりの若者たちは、どちらかというと戦争ができる国がいいと思っているほうが多いというのです。
軍事力が戦争の抑止力になると思っているわけです。
軍事力は戦争の誘発力になると思っている私には、理解できない話です。
最近またアメリカで取材中のアナウンサーとカメラマンが銃で射殺される事故が起きましたが、私には、これこそ、軍事力の日常的な意味を示唆しているように感じています。

もうひとつは韓国と中国の留学生からの発言です。
近現代史において、日本は侵略されたことがないが、韓国も中国も侵略されてきた。
それに島国と陸続きという違いもある。
したがって、「戦争」というものの捉え方が、日本と韓国・中国とは違うというのです。
当然のことですが、お恥ずかしいことながら、私はそんなことさえ、あまり意識していませんでした。
これは大きな学びでした。
ほかにも、若者からの学びはたくさんありました。
そして、若者たちがもっと多世代の人たちと話し合う場の必要性も強く感じました。

■国会12万デモから新しい流れが起きてほしいですが(2015年8月31日)
テレビや新聞でも報道されましたが、昨日、「戦争法案廃案!安倍政権退陣! 8・30国会10万人・全国100万人大行動」が全国で展開されました。
最近の日本は、国民のほとんどが「つんぼ桟敷」に置かれているような状況に感じています。
しかも80年前の日本と違い、国民自らが目と耳を閉じているような気がしてなりません。
いや心を失ったのかもしれません。
その背景には、生きるために忙しくしなければいけないという状況が広がっているのです。
実際には、忙しくなどする必要がない条件はできているはずですが、人為的に多くの人は目先の生活の危機感に追い込まれています。
そこから抜け出せば、いかようにも生きられるはずですが、心が呪縛されてしまうと、なかなか抜けられないのでしょう。
そうしたなかで、最近、国会周辺に限らず、各地でデモ行動が広がっています。
これが単なるガス抜き活動にならなければいいのですが、国会周辺のデモに参加していつも思うのは、空しさです。
デモをするよりも、まずは自らの生き方を考え直し、自分を取り戻すことが大切だという思いが強まっています。
そんなこともあり、最近、どうもデモに参加する気分になれないでいましたが、今回はやはり参加したいと思い、行ってきました。
会場に到着するのが、ちょっと遅れてしまったため、最寄駅の地下鉄の駅から地上に出るまでに20分近くかかりました。
駅構内でも熱気が伝わってきました。
もちろん地上も人でいっぱいでした。
友人たちと待ち合わせていましたが、結局、会えませんでした。

最近の国会デモの雰囲気と同じく、私にとっては予想以上に穏やかで平静なデモでした。
こういうデモがいいと思ったこともありますが、やはり少し物足りません。
特に現在のように、国民の声など全く聞こうとしない政府の場合は、こんな平静なデモではなく、やはり逮捕者が出るようなスタイルがいいのではないかなどと思いながら、歩いていました。
どこかで小競り合いがあれば、荷担したいという思いもあって、歩き回っていました。

平静とはいえ、人数はこれまで以上に多かったですし、高齢の女性が多かったような気がします。
若者は、シールズががんばっていましたが、総じてやはり少ないのが気になりました。
労働者はゼネストを!というビラももらいましたが、そのビラを読んだ限りでは、たぶん広がりは出ないでしょう。

デモにはまったく縁を感じなかった小沢一郎さんが演壇で話をしました。
まさかの登壇でおどろきました。
私のまわりでは失笑も起こりましたが、とてもわかりやすい話でした。
小沢さんが戦争ができる「普通の国」を目指していたことを思い出すと、頭が混乱してきます。
しかし、最近の政府のやり方への批判であれば、十分に納得はできます。
今回のデモのテーマは、要するに「国民の声を無視する政府への批判」なのだろうと思います。

もう一つ感じたのは、原発事故後のデモの時に比べて、警察があまり協力的ではなかった気がしたことです。
これは思い込みのせいかもしれませんが、締め付けや働きかけがあったとしたら、これも恐ろしい話です。
本当は、警察官や自衛隊のみなさんこそ、こちら側で行動すべきではないかと私は思いますが、日本に限らず多くの場合で、彼らは居場所を間違っているように思います。

国会前の道路が久しぶりに埋め尽くされ、多様な立場の人がたくさん集まった。
これは新しい時代の始まりだと解説するテレビのキャスターもいましたが、正直に言って、私にはそれほどのことは感じませんでした。
たしかにマスコミ報道がていねいにされたことには「新しさ」を感じますが、ここから何か新しいことが始まるとは、残念ながら思えないデモでした。
もちろんこれによって流れが変わることを切望していますが、そういう期待は持てなくなっている自分が残念です。

■オープンサロンを再開します(2015年9月1日)
最近、湯島に来てくださる人たちから、「こういう場がもっとあると言い」といわれることが増えてきました。

先日、10年ほど引きこもっていて、人へ信頼感を失っていた若者が来てくれました。
初対面でしたが、1時間くらいして、自らのことを話しだしてくれました。
私にとっては、感動的な瞬間でした。
初対面で、しかも湯島に来たのも初めての人です。
話し終わった後、自分でもどうしてこんなに話してしまったのだろうと不思議がっていました。

湯島のコンセプトワークショップは、実はそういう場所に育てたかったのです。
部屋の外のドアの表札には、こう書かれています。

Pax intrantibus  Salus exeuntibus

ご存知の方も多いと思いますが、ドイツにあるローテンブルグの古城に書かれた銘文で、「来る者に安らぎを 去りゆく者に幸せを」という意味だそうです。
時に失敗しますが、私はこの精神を大切にしてきました。
ただし、相手が肩書きや権威や権力を盾にしたり、私に合わせようとしているのがわかった途端に、その精神は反転して、その人を追い出したくなります。
そのため、不快な感じを受けて、二度と来なくなった人もいます。

へこんでしまった時、無性に誰かに話したくなった時、あるいは静かに過ごしたくなった時、気楽に立ち寄れて、そこに行くと安心できる場所が生活の身近にあると、人は強くなれます。
湯島をそんな場所にしたいと思いますが、もしそうであれば、テーマ別のサロンだけではだめでしょう。
先日来た若者は、目的もテーマもなく、ただ信頼する友人から、佐藤さんに会いに行こうと言われたので、来ることができたと言ってくれました。
目的やテーマを、重く感ずる人もいます。
そうであれば、最初の頃のように、テーマも案内もなく、ただ決まった日に、そこに行くとホッとする気分になれる、そういう「オープンサロン」が大切です。
ちなみに、以前のオープンサロンは、毎月最後の金曜日の夕方と決まっていて、案内は一切していませんでした。
不定期開店ではなく、そこに行くと必ず居場所が得られる「みんなの空間」。
街のスナックやカフェがそういう役割を果たしているのでしょうが、湯島もそんな場所にできればと思っています。

そこで、改めて、そういう、テーマも目的もない、まったく無駄なカフェサロンを再開することにしました。
日程は平日の夜か休日か迷うのですが、日曜から試行的にスタートしようと思います。
覚えやすいように、毎月(1月を除く)、最初の日曜日の午後です。
誰でも歓迎です。
詳しくはまた具体的な案内を書きますが、その第1回目は9月6日の午後1〜4時を考えています。
もちろん出入り自由で、私は必ずいます。
珈琲も絶やさないようにします。
まあ数日後のことなので、最初はだれも来ないかもしれません。
でも一人だとさびしいので、気が向いたらお立ち寄りください。
案内は明日、また書き込みます。

■9月6日のオープンカフェサロンへのお誘い(2015年9月2日)
昨日予告した通り、次の土曜日の9月6日にオープンサロンを開催します。
テーマがまったくなく、ともかく気楽に雑談ができる場にしたいと思います。
話したくない人は、ただ黙って珈琲を飲んでいるだけでも結構です。

湯島ではさまざまなカフェサロンをやっています。
ちょっと知的なカフェサロン
ちょっとハードなカフェサロン
大きな福祉を目指すコムケアサロン
戦争反対カフェサロン
農業と福祉を考えるサロン
などなど、です。
しかし、時々、テーマがあると敷居が高いとも言われます。
決してそんなことはないのですが、初めての人にはそう感ずるのかもしれません。

このブログの読者に向けて呼びかけたこともあります。
まだ会ったことのない人たちと出会う場にしたいと思ったのですが、毎回不発でした。
会ったこともないと、やはり敷居は高いのでしょうか。

それで、またともかく気楽に珈琲を飲みながら、茶飲み話をするサロンを始めることにしました。
私は基本的に「聴き役」ですが、相談にも少しは応じられるかもしれません。
なにしろ70年以上も生きていますので。
参加申し込みなど一切不要です。
出入りも自由なので、気が向いた時間にお立ち寄りください。

○日時:2015年9月6日(日曜日)午後1時〜4時(出入り自由)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○ルール:お互いに気持ちのいい時間を過ごすように心がけること
○会費:500円(部屋にある箱に入れてください)
○今回の珈琲:モカ(私が淹れます)

今月は日曜日開催ですが、しばらくは試行的に日程を変えていきます。案内は私のホームページのお知らせとフェイスブックに書く予定です。

まだお会いしたことのない方にもぜひお会いしたいです。
近くに湯島天神もあります。
どうぞ気楽に遊びに来てください。
そしてみんなで、「みんなのホッとする場」に育てていければと思っています。

では6日に、お会いできますように。

■平和活動としてのカフェサロン(2015年9月2日)
湯島では戦争反対サロンや平和サロンなどをやっていますが、そこで時々話題になるのが、「軍事力は抑止力になるか」という問題です。
多くの人はどうも「なる」と考えているようですが、私は「ならない」どころか、逆に戦争や暴力の誘発力になると考えています。
私の常識では、誰が考えてもそうだろうと思うのですが、どうもそうではなさそうです。
しかし、大きな時代の流れから言えば、世界は核軍縮にみられるように、抑止力としての軍事力神話は終わっていると思います。

では何が抑止力になるのか。
私は、人の繋がりだと思います。
あるいは、世界にはさまざまな人がいることを知り、お互いの尊厳を大切にしあう生き方の広がりだと思います。
そのためにも、まずは自らの世界を広げていくのがいいでしょう。
いろんな人たちが出会う場を広げていくのがいいでしょう。

湯島で開催しているカフェサロンは、参加者も少ない小さな出会いの場です。
しかし、そこで自分とは全く考えの違う人に出会うこともあります。
生活スタイルも全く違う人にも会えるかもしれません。
そうしたことを通して、少しだけかもしれませんが、寛容性や理解力が高まるかもしれない。
これが広がっていくことが、私が考える抑止力です。
いや、抑止力というよりも、支え合い力(相互支援力)と言った方がいいでしょう。
支えあう関係にあれば、戦争は起きにくくなる。
これが私の「平和活動」です。
そんな悠長な活動で平和は来るのかと言われそうですが、どんな大きな歴史的事件も、最初は本当に小さな出来事から始まるのです。
逆に言えば、小さな試みから大きなことが結実するかもしれません。

「国民として考える平和活動」も大切ですが、「一人の人間としてできる平和活動」も大切です。
そして、私の場合は、それが「大きな福祉を目指すコムケア活動」であり、カフェサロンが行われている「サロンカフェ」なのです。
そこに行くと気楽に心を開け、新しい出会いを得られる。
そんな「サロンカフェ」が、世界中に広がると、戦争はなくなるでしょう。
まあ私がまた戻ってくる来世か来々世には、きっとそうなっていると確信しています。

■白紙撤回(2015年9月2日)
今年の流行語大賞はどうやら決まったようです。
「白紙撤回」ですね。

新国立競技場につづいて、オリンピックのエンブレムが白紙撤回されました。
莫大な費用が、無駄になってしまったわけですが、経済成長にはダブルで寄与しますから、喜ぶ人も少なくないでしょう。
それにしても、こんな大きな問題を、白紙撤回しても、だれも責任をとらないというのが、実に恐ろしいです。
それに、白紙撤回ほど無責任な解決策はありません。
また、これほどに白紙撤回が日常化してしまうと、疑心暗鬼が横行しかねません。

もっとも、白紙撤回してほしいものは、なかなかしてもらえません。
これほどまでに反対の機運が高まってきたのであれば、安保法制も白紙撤回してほしいです。
私は、オリンピック招致も白紙撤回してほしいですし、原発再稼働も白紙撤回してほしいです。
ともかく白紙撤回してほしいことが山のようにあります。

白紙撤回が起こるのは、手続きにおかしいことがあるからです。
白紙撤回で終わらさずに、その原因を明らかにしてほしいです。
ネットによる監視の目がさらに向上することで、そうしたことができるようになってほしいです。
今回はまた、ネットの威力を教えられました。
私も、ネットをもっと活用して、自分でできることをやっていきたいと思います。

■中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年の思うこと(2015年9月3日)
今日、「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念式典が北京・天安門広場で開かれました。
日本も含めて欧米の首脳は参加しませんでした。
国連の潘基文事務総長の参加に対して、日本の菅官房長官は「国連は中立であるべきだ」と批判しています。

私には大きな違和感があります。
戦争を捉える軸が間違っていると思うからです。
習主席は演説で「抗日戦争の勝利で日本軍国主義の企てを徹底的に粉砕し、大国としての中国の地位を再び打ち立てた」と戦勝の意義を強調したそうです。
先の戦争で、勝ったのは誰か、敗れたのは誰か。
日本国民は、勝ったのでしょうか、負けたのでしょうか。

いうまでもなく日本という国家は負けました。
それが国民にとって良かったでしょうか、悪かったでしょうか。
もっと具体的に言えば、あなたにとってはどうだったでしょうか。
私は、よかったと思っています。
日本国家は負けてよかった、と思うのです。
間違いを正してくれた、連合国には感謝したい気分です。
なんという非国民かと怒られそうですが、いまの日本に誇りを持っていますから、なんと言われようと構いません。

習主席のいう「抗日戦争」の「日」は、日本国民ではありません。日本軍国主義です。
「中国人民抗日戦争」と「世界反ファシズム戦争」が併記され、それへの勝利が祝われたのです。
だとしたら、敗戦によって解放された日本の国民もまた、祝ってもいいのではないか。
国連は中立であるというのは、国家の次元の話で、人々の平和という創設の理念から考えれば、反ファシズムを祝うのはおかしな話ではありません。
潘事務総長に関してもいろいろと言われていますが、菅官房長官の見識よりも、私は納得できます。

とまあ、私はこんな風に考えるのです。
先の戦争で、私たちは何を学んだのでしょうか。
負けたことを悔やんでいるのでしょうか。
私にはその感覚は全くありません。
もし負けていなかったら、いまのような精神的に豊かな生活はできていなかったと思うからです。
こんなに誇れて、好きになれる国にはなっていなかったかもしれません。
安倍首相から「愛国心を持て」などと言われなくても、日本が大好きです。

先の戦争で、日本軍国主義が粉砕されたことを喜び、祝いたい気分です。
「終戦」は「敗戦」をごまかした表現だと言われます。
そんな姑息なことをやっているから、敗戦状況が永続するのだとも言われます。
しかし、私としては気分的には、1945年8月15日は「戦勝記念日」と捉えてもいいのではないかとさえ思います。
日本国民は、自らによってではないかもしれませんが、アメリカや中国のおかげで、間違った歴史の歩みから解放された。
たしかに、他国と違って、ゲリラ活動も市民活動も起こりませんでしたが、国内外の見えないところで、さまざまな思いと活動があったように思います。

習主席は演説で、列強の侵略を受けた歴史からの決別と、平和的な台頭を目指すという中国の立場を強調し、中国軍の兵力30万人削減を表明したそうです。
これもうれしいことです。
軍事力の抑止理論から、オスグッドの一方的軍縮論に変わったとは言いませんが、まあうれしい話です。

戦いの構造を間違えてはいけません。
国会周辺のデモも大事ですが、世界を見る自らの目も問い質したいものです。
80年前の世界から学ぶことは、山のようにあります。

■「ビハインド・ザ・コーヴ」(2015年9月4日)
昨日の朝日新聞に小さな記事が出ていました。

「イルカ追い込み漁へ出港、水揚げはなし」。
国内で唯一、イルカの追い込み漁をしている和歌山県太地町(たいじちょう)の漁師たちが3日朝、今季初めて出漁した。
世界動物園水族館協会(WAZA)に残留するため、日本動物園水族館協会(JAZA)が追い込み漁によるイルカの入手を禁じてからは初の出漁となった。

またその前日、こんな記事もありました。

日本のイルカ漁を批判的に描いた映画「ザ・コーヴ」に対抗し、反捕鯨団体の活動などを記録した映画「ビハインド・ザ・コーヴ」を日本人女性がつくった。カナダで開かれている「モントリオール世界映画祭」で9月4日と7日に上映される予定だ。

少し長いですが、朝日新聞の記事をもう少し引用します。

「ザ・コーヴ」は、和歌山県太地町での伝統的な追い込み漁を隠しカメラなどで撮影した作品で、2010年に米アカデミー賞を受賞した。漁師がもりでイルカを突き、海の色が真っ赤になっている場面などが論議を呼んだ。
「ビハインド・ザ・コーヴ」は、東京都内の映画会社代表、八木景子さん(48)が400万円の自費を投じて制作。太地町でイルカ漁を監視する反捕鯨団体シー・シェパードの活動記録やインタビューで構成している。
(中略)
八木さんは「食と宗教の自由は認めあうべきだ。それが世界の戦争をなくすことにつながる」と話している。
鯨やイルカを食べる文化がなぜ批判されるのか、もともと疑問に思っていて、国際司法裁判所(ICJ)が昨春、日本の南極海での調査捕鯨に中止命令を出したのを機に実態を調べ始めたという。
日本での公開は決まっておらず、八木さんが上映してくれる映画館を探している。
映画のダイジェスト版はインターネットの動画サイトで公開している。
https://www.youtube.com/watch?v=OwbHbUq9Vnc

太地町のイルカ追い込み漁に関しては、以前、ケネディー駐日大使が批判をしたことがあります。
彼女は、たぶん背景も知らずに流れに乗ったのでしょうが、それへの感想を書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/01/post-5dd9.html
ケネディー駐日大使には、せめてNHKが放映した「小さな村の国際紛争」という記録番組を見てほしかったと書きました。

いままたクロマグロの捕獲制限が話題になっています。
こうした問題もまた、金銭経済の論理で支配されてきていることに懸念を持ちます。
問題の所在が違っているように思うからです。
最近の世界の動きのすべてに、私が感ずることです。

八木さんの活動にエールを送りたいです。

■オリンピック白紙撤回の夢(2015年9月5日)
みんなで社会を動かす仕組みを標榜しているchange.orgから「文部科学省, 国際オリンピック委員会, 内閣総理大臣: 2020年東京オリンピックの開催返上を求めます」 に賛同をお願いしますというキャンペーンの案内が届きました。
https://www.change.org/
すぐに賛同しました。
そしてフェイスブックにシェアさせてもらいました。
そして次のような余計なことまで書いてしまいました。

大賛成です。最近、オリンピック関係者の特技になっている白紙撤回をしてほしいです。オリンピックは今や完全な商業主義になっています。私が不思議に思うのは、スポーツ選手の中からなぜボイコット運動が起きないかということです。まともなスポーツ選手なら、気づいてほしいものですが。

反論がどっと届くだろうと思っていました。
もちろんなかったわけではありません。
しかし驚くことに、私と同じように賛同してくれた人が続出し、change.org事務局から、あなたの紹介で○○さんが賛同しました、という連絡が次々に届きだしました。
いまも続いています。
改めてネット時代のすごさを実感しました。
なにしろ私の知らない人の名前が半分以上もあるのです。
ということは、私はすでに知らない人の中に大きく身をさらしているわけです。
それにしてもオリンピックを望んでいない人が私のほかにもたくさんいるのだということを知ってうれしくなりました。
オリンピックにかこつけて集まっている禿鷹のような人ばかりになったと私はかなり厭世観を強めていたからです。

もう一つ、「スポーツ選手の中からなぜボイコット運動が起きないかということです。まともなスポーツ選手なら、気づいてほしいものですが」と、いつもながらの、言わずもがなのことまで書いたのですが、これに関しても大きな批判がなかったのも驚きでした。
なかには共感してくれた人もいました。

昨今の商業主義化したオリンピックを、スポーツ選手はどう考えているのか、いつも不思議に思っています。
前にも書きましたが、会社のロゴマークを身に着けて、自らを宣伝媒体にしている人たちが私には実に惨めに見えますが、彼らはいったい自分をどう考えているのか、理解できません。
誇りなどないのでしょうか。
それに、これも前に書いて、批判されましたが、100分の1秒で測定される競技は、私には人間のものとは思えません。
完全に部品扱いです。
私には彼らは生きた人間には見えません。
アスリートのドーピングが問題になっていますが、パフォーマンスアップウェアだって同じように感じます。
「アスリート」と言われる人たちにとってのスポーツとは何なのでしょうか。

またまた問題発言シリーズになってしまいました。
今回はフェイスブックには載せないようにしましょう。
これ以上、友人を嫌いにはなりたくありませんので。

■ちょっとハードなカフェサロン「個人の尊厳と社会の尊厳」のお誘い(2015年9月6日)
9月の「ちょっとハードなカフェサロン」は、日本の裁判制度をテーマに、「個人の尊厳と社会の尊厳」を考えたいと思います。
問題提起は大川真郎さんにお願いしました。
大川さんは日本弁護士連合会の事務総長として、「司法改革」にも取り組みましたが、私が深い共感を持っているのは、有名な豊島の産業廃棄物問題への取り組みです。
また医療訴訟の問題にも取り組まれ、その経緯も本で読ませてもらいました。

最近、大川さんは、これまでの心に残った7つの裁判の記録を「裁判に尊厳を懸ける」として出版されました。
そこで大川さんはこう書いています。

 もし、当事者らが裁判に立ち上がらず、人権侵害に屈していたならば、
 自らが著しい不利益を受けたまま終わっただけでなく、
 法によって保障された人権そのものが実質的に失われることになったかもしれない。

まさに、このサロンが基調とする「人間を起点とする社会」につながっているお話です。
そこで大川さんにお願いして、サロンに来てもらうことにしました。
お聞きしたいことは山のようにあるのですが、今回は、「冤罪」や「医療訴訟」などの事例を切り口に、「個人の尊厳と社会の尊厳」をテーマにお話しいただこうと思います。
スタイルは、いつものように、最初にお話をしていただき、後半はみんなの話し合いです。

みなさんの参加をお待ちします。

なお、「裁判に尊厳を懸ける」の紹介は次のところにあります。
もしお時間があればお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#150719

○日時:2015年9月26日(土曜日)午後1時半〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「個人の尊厳と社会の尊厳」
○問題提起者:大川真郎さん(弁護士)
○スタイル:大川さんのお話の後、みんなで話し合う。
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■敵対しているのは、決して「人と人」ではない(2015年9月8日)
10日ほど前の話ですが、今朝のテレビで知って、とてもうれしかったので、紹介させてもらいます。

8月29日、宮崎県高千穂町で、住民有志でつくる「五ヶ所平和祈念碑奉賛会」主催の慰霊祭が行われたそうです。
慰霊されるのは、70年前の終戦前後、高千穂町内の山中に相次いで墜落した旧日本軍と米軍の航空機の搭乗員です。
墜落したのは、日本の陸軍戦闘機「隼」と米軍爆撃機B29です。
隼戦闘機は、終戦直前の8月7日、訓練中の事故でした。
B29は、終戦まもない8月30日、福岡の連合国軍捕虜収容所に補給物資を投下する途中に事故でした。

事故のあった当時、地元の人たちは、両者の遺体を分け隔てなく丁寧に埋葬し、若者たちの死を悼みました。
その後、この2つの悲劇は長い間忘れられていたが、1989年に登山家がB29の残骸を見つけたのをきっかけに史実の掘り起こしが始まり、住民は募金活動をし、戦後50周年の95年に2つの事故の犠牲者を慰霊するために平和祈念碑を建立。
結成した奉賛会が毎年慰霊祭を開いてきているのだそうです。
戦後70年を迎えた今年は、20年ぶりに米国側の遺族も招待されたそうです。
式典には遺族や地元の人たち約100人が出席。
慰霊祭後に記念撮影した日米の遺族らは不戦を誓い合ったと言います。

国を超えて、人として悼む。
未来の展望が明るくなるような、いい話です。
敵対しているのは、決して、「人と人」ではないのです。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/191881

■ダイニングを変えるべきか、変えないべきか(2015年9月9日)
今日の挽歌に「ご馳走」の話を書いたので、思い出したことがあります。
これも今日のことですが、電車に乗っていたら、こんなコピーのある広告が目につきました。

食卓をおしゃれにしてから
夫にはコンビニのお惣菜も
ご馳走に見えているようだ

さぁ ダイニングを変えよう。

家具販売店のIKEAの広告です。
現代を見事に象徴している広告コピーです。
たしかに、おしゃれでない食卓よりも、おしゃれな食卓での食事のほうが楽しいでしょう。
しかし、この広告は、コンビニのお惣菜はご馳走ではないと明言しているわけです。
そして、食事の内容よりも、食卓のほうが大事だとも言っている。
つまり、食事の内容よりも、ダイニングセットを大事にしようと言っているわけです。
どこか違和感を持ちながらも、私自身もこのメッセージは否定できません。
つまり、そうだよなと思ってしまうのです。
でも、どこかおかしい。

新聞やテレビのニュースは、内容がどうであろうと、私たちは、なんとなくそこに真実や信頼を感じてしまいます。
山本太郎という国会議員の発言よりも、阿部首相やなんとなく政治家らしい議員の発言を信じてしまう。
無名の人の発言よりも、大学教授の発言に信頼感を持ってしまう。
専門家の言葉は、信頼できるものだと思ってしまう。
どんなに騙されてきたかを忘れてしまう。
医師資格免許を持っていない人の医療行為には不信感を持ってしまう。
最後の例は、当然だろうと言われそうですが、私は大切なのは医療行為であって、資格の有無ではないと思っています。

大切なのは、内容そのものです。
そういう視点が、最近ちょっと忘れられているのではないかという気がしてなりません。
でも内容を問い質すのは難しい。
形を問題にして変えていくのは、それに比べれば簡単です。
だからついつい私たちは、内容よりも形式や肩書や手段を重んじてしまう。
こうした発想が、私たちの生き方そのものを覆いだしている。

この広告を見ていて、何か最近の私の生き方は間違っているのではないかという気にさせられてしまいました。
ダイニングをおしゃれにしたらご馳走に見えるようなものは、断固として拒否していこうと、改めて思い直しましたが、あまり自信がありません。
困ったものです。

■カフェサロン「建物散歩のたのしさ」の報告(2015年9月12日)
ちょっと知的なカフェサロン「建物散歩のたのしさ」は、いつもとはちがったメンバーになりました。
参加者が少なかったのが残念でしたが、若い女性が3人、参加してくださいました。
長年、この活動をしている「街歩き達人」の若林さんが、埼玉の地勢や歴史を踏まえて、興味深い建物をたくさん紹介してくれました。

私が度肝を抜かれたのは、現在は本庄市立歴史民俗資料館 になっている旧本庄警察署です。
http://takuan21a.exblog.jp/17622151
明治16年に建てられた洋風建築ですが、なんとコリント式の列柱が創られています。
明示16年に、こんな建物がつくられていたとは驚きです。
ほかにも、魅力的な建物がたくさんありました。
どうして埼玉にはこれほど残っているのでしょうか。
いや意識したら、私の周辺も含めて、どこにもまだ残っているものもしれません。
大切なのは、そうしたものへの関心なのでしょう。
それは、たぶん私たちの生き方にもつながっています。

ところで、若林さんの観察によれば、いまに残る魅力的な建物の多くが、地元の有力者によって、景気が悪い時に作られているケースが多いのだそうです。
つまり職人たちに仕事を提供する場を、意図的につくりだしたということです。
それは地域経済を守るとともに、職人の技術を守るという意味があったのでしょう。
まさに「経世済民」の経済が、有力者によって行われていたわけです。

埼玉県の河川と用水の詳細な地図も見せてもらいました。
これがまた素晴らしい地図です。
ちょうど前日に鬼怒川の堤防の決壊が生々しく報じられていましたが、埼玉はある意味で江戸を守る遊水地域だったのだそうです。
大地全域に血管が張り巡らせているような地図を見ていると、大地とともに生きている私たちの生活が、可視化されているような気がしました。
この図をお見せできないのが残念ですが、ネットで調べたら次の記事が見つかりました。
そこに小さく表示されています。
http://www.japanriver.or.jp/taisyo/oubo_jyusyou/jyusyou_katudou/no16/no16_pdf/w-forum.pdf
小さいのとカラーでないのが残念ですが。

入間にあるジョンソンタウンも初めて知りました。
建物がコミュニティをつくりだす。
これも示唆に富む事例です。

簡単な紹介しかできないのが残念ですが、実にわくわくする時間でした。
10月17日には、実際に若林さんの案内で建物散歩をします。
詳細が決まったら、ご案内します。

■武力や武装を、攻撃への抑止力か誘発力か(2015年9月14日)
昨日の朝日新聞の「日曜に想う」に、論説主幹の大野博人さんが、今春、フランスで出た「悪循環」という小説の始まりの部分を紹介していました。

 日々にらみ合っている日本と中国の戦闘機が、ついに南シナ海上空で不測の事態を引き起こす。
 互いに近づきすぎて、一方の戦闘機が相手を撃墜。パイロットは無事に脱出したが、やられた側はすぐ報復に。相手国の艦船を攻撃して沈没させた。乗組員約20人が犠牲になる。

決して可能性のない話ではありません。
軍拡競争の必然的な結果とさえ言えるでしょう。
これまで人類はどれほどこうした愚行を繰り返してきたことでしょう。
この小説の副題は、「第3次世界大戦の発端」だそうです。
第3次世界大戦の始まりは、日本の安保法から始まったと、歴史に書かれることがないとは言えません。

日本人は相変わらず、日米同盟による軍事力増強に依存した「安全保障」の世界にいるようです。
あるいは、自らの生き方に基づいて、近隣諸国が日本を攻めてくるという考えを持っているようです。
第二次世界大戦後、占領軍に対して抱いた恐怖感は、自らが侵略地で行ったことをイメージしたのではないかと、たとえばジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」で書いていますが、人は自分の行動原理に従って他者の行動を予測するものです。

アメリカでは、いまも銃による殺傷事件が多発しています。
たぶんその生き方の延長に、戦争大国としてのアメリカが成り立っているのでしょう。
武力や武装は、決して平和にはつながりません。
むしろ、偶発的な事故も含めて、戦争や衝突を誘発することになるでしょう。
武力や武装、軍事同盟は、攻撃の誘発力になったとしても、長い目での抑止力にはならないでしょう。
なぜなら、そこには相手を威嚇し、抑圧する姿勢があるからです。
威嚇や抑圧は、いつか必ず反発を受けるものです。

中国や韓国や北朝鮮が日本に攻めてくると考えている人は、
たぶん、無意識にではあれ、中国や韓国や北朝鮮を侵略したいと考えているのでしょう。
私には、そうとしか思えません。
そうでなければ、相手が日本に攻めてくるなどと考えるはずがないからです。
なぜそうした考えを持つようになったのか。
私には、悲しい話です。

安保法案は国民の反対の高まりにもかかわらず、強行採決に向かっています。
その姿勢にこそ、まさに安保法案の本質を感じますし、安保法案の成立には不安を感じますが、私にとってもっと残念なのは、多くの人が、武力や武装が戦争の抑止力となるという考えを持っていることです。
そういう考えであれば、平和の世界は、夢のまた夢でしょう。
法案よりも、私には、それが残念でなりません。

■安保法制反対デモと野党のがんばり(2015年9月17日)
安保法制の参議院での採決が迫っています。
そうした中で連日、国会でのデモが激しくなってきています。
昨夜は、かなりの雨にもかかわらず、国会周辺でのデモは続きました。
シールズのメンバーも頑張っています。
ちなみにシールズは、私は最初、あまり評価できずにいましたが、私の認識が間違っていました。
かなり本気になってきていますし、社会的になってきています。
人は、場を通して急速に成長するのでしょう。
場に出かけていない、私とは大違いです。
フェイスブックではいろいろと紹介していますが、ここでもシールズの奥田さんの国会の公聴会での映像を紹介しておきます。
うまく開けるといいのですが。
https://www.youtube.com/watch?v=5dsMhkj6eHk#t=72

しかし、最近のNHKの報道姿勢はますますおかしく感じます。
一昨日の夜の党首討論はひどかったです。
ついでに古いですが、山本太郎さんのNHKの日曜討論での発言のユーチューブも紹介しておきます。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10200815113896048?pnref=story

横浜の地方公聴会での水上弁護士の「公聴会が単なるセレモニーで茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません」という発言は、やはり新しい事件と言っていいでしょう。
当然のことを口に出す人が現れだしたのです。
そのまま席を立てば、もっとよかったのですが。

話がそれましたが、国会周辺でのデモの盛り上がりに呼応するように、国会内部での野党の行動もしたたかさを強めているようです。
結局、16日には委員会も開催できずに、17日に持ち越しました。
そのおかげで私は寝不足になってしまい、今朝も眠かったです。
しかし、夜通しデモに参加していた人に比べれば、楽をしすぎています。
今日もまた雨です。
老躯に鞭打って。デモに行くべきでしょうが、あんまり自信がありません。
一応、雨合羽持参で出かけるつもりですが。

委員会の開催時刻が迫ってきました。
またしばらくはテレビに釘づけになりそうです。

■昨日デモに参加して感じたこと(2015年9月18日)
昨日デモに参加して感じたことをフェイスブックに書きました。
そこでも予告しましたが、頭が冷静に戻ったら、ブログできちんと書こうと思っていましたが、なかなか怒りはおさまりません。
それで、とりあえず、フェイスブックに書いた記事を転載しておきます。
それへのコメントもいろいろとありました。
なかには、ますます怒りがこみ上げるコメントもいくつかありました。
怒りはおさまりそうもありません。
困ったものです。
以下、今朝、フェイスブックに書いた最初の文章です。

昨日ほど疲労感の残ったデモはありません。
帰宅して録画していた国会中継を早送りで見て、これは民主主義への宣戦布告だと思いました。
安保法制が平和への宣戦布告であることをまさに物語っています。
委員会の最後の場面だけをニュースで見た人や鴻池委員長を閉じ込めたという報道の言葉を真に受けた人たちには、野党の暴挙と見えたかもしれませんが、ていねいにこれまでのことを見て、各地のデモにも参加し、自分で考えてきたら、たぶん違ったことも見えてくると思います。
そうしないと、アイヒマンをはじめとしたドイツ国民がそうであったように、共犯者になるでしょう。

現政権がいかに嘘ばかりを重ねてきたかも、広聴人として国会で発言した濱田元最高裁判事の言葉を借りれば、「普通の知的レベルの人」であれば、気づくはずです。
自民党から全く異論が出ないのは、もはやかれらは思考停止し、知性を失ったからでしょう。思考しない人から構成される政党は、山崎さんがコメントされたように「カルト集団」と言われても仕方がありません。
ガルトゥングが言っているように、暴力には「構造的暴力」もあるのです。今こそ、少しでも知性のある人は、しっかりした想像力をもたねばなりません。大人たちは、感性を持っている若者に学ばなければいけません。

ブログできちんと書こうと思っていますが、いま書くと、どうやら「素直に」罵倒したくなりそうなので、少し頭を冷やしてから、ブログに書くつもりです。
しかし、安倍自民党は、どうもルビコンをわたってしまった気がします。
「ヴァイマル憲法とヒトラー」の著者の池田さんが言うように、これほどの国民蔑視は、ヒトラーでさえ、やらなかったことです。

まだ怒りがしずまらないため、とりあえず一言、異論を書こうと思っていたら、やはり長くなってしまいました。
やはり午前中は、頭を冷やしていた方がよさそうです。

■緊急カフェサロン「今回の安保法制成立をどう考えるか」のお誘い(2015年9月20日)
緊急サロンのお誘いです。
フェイスブックに、今回の安保法案に?末に関する投稿をいくつかしていたら、いろいろとコメントをいただきました。
賛否両論です。
なかには、簡単には答えられないものもありました。
それで、緊急カフェサロン「今回の安保法制成立をどう考えるか」を開催することにしました。
急ですが、お時間があればご参加ください。
主催は、リンカーンクラブですが、私が事務局役で担当します。

テーマは大きくは2つです。
ひとつは、これは民主主義の終焉ではないか、という進め方の問題。
もうひとつは、安保法制の内容に関する是非論です。
どちらが中心になるかは、当日の参加者次第です。
さらに第3のテーマが出てきたら、それも含めます。

最初に究極的民主主義所長であり、リンカーンクラブの初代代表の武田さんが20分ほど話をします。
武田さんは、今回の経緯を見ていて、涙が出てきたそうです。
どういう涙かは、当日、お訊きください。
その後は、参加者が私見を述べ、後半は全員で話し合えればと思います。
暴力は厳禁ですが、異論の激烈なぶつけ合いは歓迎です。
ただし、参加者のそれぞれの意見を認めあう姿勢は基本に置きたいと思います。

急なので、参加者はあまり集まらないと思いますが、とにかく今ここでやっておかないといけない気がしてきて、リンカーンクラブの武田さんと相談して、開催することにしました。
よろしくお願いいたします。

○日時:2015年9月23日(水曜日)午後1時半~4時半(予定)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf

■建物散歩ツアー(入間編)のお誘い(2015年9月22日)
9月に、若林さんに「建物散歩のたのしさ」をテーマにしたサロンをやってもらいましたが、実際にその楽しさを体験する建物散歩ツアー(入間編)を若林さんに企画してもらいました。
私の不手際で、ご案内が遅くなってしまいましたが、10月17日の開催です。
誰でも歓迎です。
参加ご希望の方は、私にご連絡ください。

○日程:2015年10月17日(土曜日) 小雨決行
○散歩地域:埼玉県入間地区(池袋から西武線で40〜50分)
○集合場所:西武池袋線入間市駅改札口
○案内人:若林さん
○コース予定:
11時 入間市駅集合出発
 午前  ジョンソンタウンを見学、
      途中で昼食(食事代は各自負担)
 午後  旧石川組迎賓館
     豊岡教会
     黒須地区見学(岡野さんに解説案内してもらいます)
16時半 西武池袋線入間市駅で解散
○募集人員:8名前後
○参加費:学生    500円
学生以外 1000円

■緊急カフェサロン「安保法制成立をどう考えるか」の報告(2015年9月23日)
急な呼びかけにもかかわらず、10人の人が集まってくれました。
ご多用の中を、仕事を犠牲にしてまで参加してくださった方もいました。
残念ながら、今回の安保法制やその採決のあり方に怒りと不安を持った人だけでした。
そもそもこの集まりを緊急開催したのは、私の反対姿勢に異を唱えた人たちと話し合いたくての企画だったのですが、一人も参加してくれませんでした。
やはり思いの深さの違いかもしれません。
そこにこそ、もしかしたら時代が凝縮されているような気もします。
しかし、幸いに、怒りのぶつけ合いには終わらなかったように思います。

参加者のおひとりが、「刃(やいば)は内に向けられている。私たち一人ひとりの生き方がどんどんと狭められている」と話されました。
私もまったくそう思います。
湯島でのこの種の話し合いも、来年はもうできなくなっているかもしれません。
しかし、その一方で、新しい動きも出てきたという話もありました。
若者は明らかに動き出していますし、大人たちも少しだけ政治に目覚めた動きもあります。
地殻変動が始まったと評価した人もいます。

いま大切なことは、「何を優先するか」です。
目先の問題にかまけて、大事なものを見逃してしまうような愚行だけはしたくありません。
ニーメラーのような後悔もしたくない。
そう思えば、一人ひとりが、いま何をすべきかは見えてくるでしょう。
そして、今日の10人が、明日の100人に広がることを念じています。

学ぶことを忘れてはいけないと参加した大学教授が話されました。
若者への言葉ではありません。
大学教授である自分も、若者から学ばなければいけないという意味です。
時代を切り開く真実は、いつの時代も「少数派」にあります。
あるいは、時代に染まっていない若者たちにあります。
いや、子どもたちかもしれません。

余計な知識の呪縛をすてて、素直に事実を見れば、裸の王様とその取り巻きのような愚行は犯さないでしょう。
なぜそれが多くの安倍政権支持者には見えないのか。
そのわけを知りたかったのですが、今回はそれができなかったのが残念です。

今回の集まりは一過性のものにしたくなく、継続させることにしました。
もし、今回の政府の進め方や安保法制の意義について、賛成の方で、問題提起してもいいという方がいたら、湯島の場所を提供し、私が事務局を務めますので、カフェサロンをやってもらえないでしょうか。
日程は、できるだけ合わせますので、ご連絡ください。

もし政府支持の人が手を挙げてくれない場合は、
次回は、「民主主義ってなんだろうか」をテーマにしたいと思っています。
また今回議論になった「国民投票制度」もテーマとして考えています。

出来ることから少しずつ、行動も始めたいと思っています。
それが時代の岐路とも言うべき、いまを生きる私たちの責任だろうと思います。

■カフェサロン「個人の尊厳と社会の尊厳」の報告(2015年9月26日)
今日のちょっとハードなカフェサロン「個人の尊厳と社会の尊厳」は11人の参加でした。
弁護士の大川真郎さんが、心に残った裁判の話を踏まえながら、まさにテーマにぴったりの話をしてくださいました。
大川さんがなぜ弁護士になったのか、そしてなぜ弁護士会の活動に軸足を移して、司法改革という難事に取り組んだのか、友人でありながら、そういう話をきちんと聞くのも初めてでした。
これまで司法改革に批判的なことを書いてきましたが、大川さんの思いの深さを知って、自らの不明さを恥じました。
加えて、これまで取り組んだ裁判の被告の大変さに言及する時の大川さんの表情は実に印象的でした。

大川さんが詳しく話してくれた4つの裁判に共通するのは、被告の自らの尊厳を懸けた信念と勇気と忍耐であり、それが社会の尊厳を守ったということです。
そういう勇気ある人たちのおかげで、社会、つまり私たちの生活が守られていることを、私たちはもっと認識しなければいけないと、改めて思いました。

大川さんのお話で、心に深く残ったことを3つだけ書いておきます。

裁判では個別の事件しか扱えないが、個別事件の裁判が法や社会を変えていくことがある。
人間は大事にされなければいけない。司法はその守り手ではないのか。
現在は闘いを忘れた時代になっている。それでいいのか。

いずれも具体的な裁判の話に関連させて話してくれました。
大川さんの最近の著書「裁判に尊厳を懸ける」にも語られていることですが、やはり本人から直接聞くと心に沁みこんできます。
私には感動的な3時間でした。

参加者も多彩で、話し合いもいろいろと広がりました。
今回は、医療制度改革に取り組んできた本田宏さんも初参加してくれましたが、大川さんの医療過誤裁判の話に関連して、医療の世界の実態などを話してくれました。
本田さんは「患者さん第一」を理念に活動をされていますが、大川さんの被告視点での姿勢につながるものを感じました。

いろいろと話していくと、やはり制度自体が人間を呪縛しているとともに、司法や医療や法律といった個別の領域を超えた活動の連携が不可欠だというような話になりました。
様々な分野で活動している人たちの、緩やかなカフェサロンはやはり続けようと思いました。

いずれにしろ、大川さんが関わった裁判の被告たちのように、信念と勇気と忍耐をもった「闘い」が必要であり、闘う人たちの連携がもっと広がっていくことが大切です。
大川さんの本にも書かれていますが、19世紀のドイツの法律家イェーリングが言っているように、自己の権利を守ることによって法一般が守られ、法一般が守られることによって自己の権利が守られるのです。
昨今の憲法問題や安保法制、あるいは原発問題にもつながっている話です。
原子力損害賠償法問題などに取り組んでいる本間さんが、最後にそのことに言及してくれました。

参加者からもさまざまな体験紹介や思いの発信がありました。
ご紹介できないのが残念です。
大川さんの話ももっとたくさんの内容があったのですが、ぜひ大川さんの著書「裁判に尊厳を懸ける」を読んでください。
今日の話を聞いて、読み込みが少なかったことを反省して、私ももう一度読み直してみようと思います。
私のホームページにも簡単な紹介記事を書いています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#150719

■「韓国での兵役体験」の話を聞く会を開きます(2015年10月6日)
湯島では、毎月、戦争反対カフェを開催しています。
さまざまな視点から、戦争や平和の問題を、自らの生き方と重ねながら、話し合おうというものです。
10月の戦争反対カフェサロンは、韓国から日本に留学している林さんに、徴兵制度を採用している韓国での「兵役体験」の話をしていただきます。
林さんは、2年間の兵役を体験され、いまは日本の大学で学んでいます。
ご自身の体験を踏まえた、戦争と平和に関する私見もお話しいただけると思います。
また韓国における日本(人)観もお話しいただけるかもしれません。
ぜひ多くの人たちに参加していただければと思います。
戦争反対カフェと言っていますが、もちろん戦争支持者も歓迎です。
さまざまな異論に触れるのも、湯島のカフェサロンが目指していることですので。

○日時:2015年10月11日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○問題提起者:林成勲さん(韓国からの留学生)
○スタイル:林さんの兵役体験の話の後、みんなで話し合う。
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com
参加される方は事前にご連絡ください。

■FBの書き込みにコメントしてくださった方へのとりあえずの回答(2015年10月7日)

9月23日に、緊急カフェサロン「安保法制成立をどう考えるか」の報告をFBに書き込みました。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200872542851736&set=a.1319286038109.34919.1709527228&type=3&theater
安保法案審議やその進め方に関しては、その前にもいくつか私見をアップしましたが、それらも含めて、いろいろなコメントをもらいました。
特に、私の意見に納得できないお2人の方から、かなりていねいな疑問を何回か投げかけられました。
FBで議論するのは、あまり適切とは思いませんが、問われた以上、応じる責任があります。
お2人への回答も含めて、ブログできちんと書く予定ですが、やはりFBでも「とりあえずの私見」を書かせてもらうことにし、ノートにアップさせてもらいました。
長いものになりましたが、それをブログにも転載しておきます。
私のFBは、公開タイプなので、だれでも上記のアドレスからは入れるはずですが、まあそれを読んでいなくても、概ね、意味は伝わると思います。

以下、HさんとKさんのコメントへの返信です。

私が物事を考える場合、重視していることが3つあります.
「ビジョン(どういう状況を目指して考えるかの方向性)」
「ファクト(現在の状況をどう認識するか)」
「ミッション(自分が行う言動の役割)」
の3つです。

今回の安保法案の審議や採決、それに対する社会や個人の活動についても、それに関する自分の意見を表明する時には、この3つを意識しています。
これは、今回の問題に限らず、ほぼすべての私の言動に通ずるものです。
この3つの要素に関して、私の考えはおおむね次の通りです。

ビジョン:誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す。
ファクト:多くの人がそう念じているが、いまの世界はそれと反対の方向を向いている。
ミッション:ビジョンとファクトの違いを可視化するために自分でできることに努める。

以上を踏まえて、コメントのなかの疑問やご意見に応えさせてもらいます。
まず、Hさんが整理してくださった「私見」(上記のFB記事のコメントに出ています)についての確認です。
おおむねその通りではありますが、微妙に私の認識とはずれがあります。
イタリック体は、HさんかKさんの書いた部分の引用です。

a. 武装が戦争の抑止力となるという考えであれば平和の世界は夢のまた夢、法案よりもそれが残念でなならない。殺すより殺される方が良い。
これは私の信念です。武装するところから、すでに戦争は始まっているというのが、私の認識です。

b.もし日米安保がなかったとしたらどこの国が攻めてくるというのか。
FBに書いたのは「日米安保がなければいったいどこの国が攻めてきたのか、あるいはこれからどこの国が「軍事力で」攻めてくるのかという、素朴な疑問です」ということですが、一番の疑問は、「日米安保がなければいったいどこの国が攻めてきたのか」というところです。朝鮮戦争において、アメリカが立ち向かわなかったら中国が日本にまで攻めてきたと考えているのでしょうか。日米安保がなければアメリカは朝鮮戦争には加担しなかったのでしょうか。こうしたことも含めて、もし「日米安保があればこそ不戦を維持できた」というのであれば、そこをきちんと説明したうえで、だから日米同盟が不可欠だと説明してほしいです。
また、これからどこかが攻めてくる可能性はもちろん否定はできませんが、私の将来に関する疑問は、「軍事力で」攻めてくるのか、という点です。Hさんの整理と同じように思われるかもしれませんが、まったく違うと私は認識しています。なぜならそもそも戦争の意味がこの30年でまったく変質したと思うからです。

c.安保条約のおかげで平和が続いたというのであれば、それはアメリカによる日本侵略を条約自体が防いでくれたから。
すみません。これは少し皮肉っぽく書いてしまった部分です。真意は、日本はアメリカに組み込まれてしまっての「平和」だったのではないかということを、むしろ逆説的に含意させたのです。

d.改憲や強行採決は安倍がヒットラー並みの証拠、民主主義の蹂躙(大意)。
大意はそう伝わったかもしれませんが、安倍首相をヒットラー並みとは考えていません。
両者は、比べようもないからです。
ヒットラーは、いまの歴史では最悪に描かれていますが、いまもなおドイツ人たちが評価していることの意味をきちんと受け止める必要があると思っています。
池田浩士さんが、岩波現代全書の「ヴァイマル憲法とヒトラー」の中でこう書いています。 

あの破局的な原発事故にもかかわらず、原発の再稼働を強行するというような、もしも政府が原発資本の利益よりも国民の安全と人権を尊重していれば到底できないようなことは、ヒトラーにはできませんでした。その意味では、ナチス・ドイツの国民は、日本とは比較にならないくらい、国家によって国民として保護されていたのです。

ヒトラーの間違いは、ユダヤ人やロマ民族や労働できない人は、ドイツ人ではないと考えていたことだろうと思います。
もっとも、最近の安倍首相の難民受け入れに関する発言など聞いていると、安倍首相がヒトラーを学んでいることは伝わってきますが、ヒットラー並みとは考えていません。
「民主主義の蹂躙(大意)」は、私はそう思っています。
しかし、ここでも、「民主主義」とは何かで議論はわかれます。
議会が絶対で多数決こそ民主主義と考える人にとっては、民主主義は蹂躙されていないのでしょうから。

ともかく極めてラディカルなお考えであり、今回反対側で叫び、また追従した人たちの多くは、安全保障環境の捉え方にせよ、アメリカ不信にせよここまで徹底した考えは持っていなかったと思います。

Hさんは、そうおっしゃいますが、問題の構図と言葉の意味がたぶん私と違うのです。
私は、実体で語ることを大切にしていますので、たとえば「アメリカ不信」などという考えは微塵もありません。
いや、そもそも「アメリカ」という実体が理解できないのです。
アメリカという概念は理解できますが、アメリカという実体(たとえば、アメリカ人?アメリカ政府?)はあまりに多義的で理解できないのです。
これもブログなどでは何回も書いていますが、ステートとネーションは違うと思っていますし、国民と生活者も違うと思っています。
それに、アメリカ人と言っても、どこまで入るのか、また一言で信ずるとか信じないとか言えるような単純なものなのか。
私が理解できるのは、実体が見える具体的な存在だけです。

また、世界の構造の捉え方も大切です。
私の世界理解は「人間とシステム」の構造を基軸にしています。
私が不信感を抱くとすれば、「アメリカ」ではなく「アメリカ政府」です。
同じ意味で、いまは「日本政府」にも不信感を持っていますが、私が知っている日本の人たちのほとんどには不信感を持っていません。
もちろんアメリカ人にも不信感はありません。

ラディカルとは、過激という意味でお使いだと思いますが、根底から考え直すという意味で、ラディカルというのであれば、いま求められているのは、その姿勢だと思います。
ですから、その意味で、私はラディカルであることは否定しません。
しかし、その場合は、「極めて」という形容詞は不要です。
つまり、私にとってのラディカルとは、生活のレベルから考えようということでしかありませんから。

こうやって逐語的に対応していくと、ますます泥沼に入って見えなくなりそうですね。
アプローチを変えましょう。

戦争に巻き込まれるという危惧は確かにありますが、私にとってのもっと大きな危惧は、すでに「生活の浸食」がいたるところで進んでいることです。
今回の反対運動の激しさにも、それは現れています。
デモに行く人たちが問題にしているのは、一体何なのか。
国会デモに行くと感じますが、そこに渦巻いている怨念や機会主義、憎悪の念ややり場のない怒り。時に元気ももらえますが、時に暗い気分にもなりました。
あのデモの現場には、社会の縮図さえある。
シールズの動きにも、危うさを感じます。
推進派と反対派が、私には時に相似形に見えてきます。

委員会での強行採決の時の、自民党議員の行動をきちんとご覧になったでしょうか。
一部のテレビが詳しく報道していましたが、
公聴会の報告もせず、最終質疑もさせずに、ともかく委員長に採決宣言をさせようと、委員でもない自民党議員が、一人の議員の合図で委員長を取り巻いた行為がはっきりと映像に残されています。
これが、今回の強行採決の直接的な発端でした。
そこに言わせた山本議員に、もしわずかな良識があれば、それを防げたはずです。
安倍首相や岸田さん、中谷さんに、少しでもフェアな精神があれば、あんなぶざまな光景は起こらなかったでしょう。
もはや時間の問題だったのですから。

核兵器を貯め込み、軍事費を増強させ続け、領土領海を侵犯し、国家ぐるみのサイバー攻撃やスパイ活動の手を緩めず、虚偽誇張の貶日教育やプロパガンダの執拗さ、

これらは政府がやっていることです。
その国の多くの国民は、日本で休日を楽しんでは爆買いをしている。
政府と生活者は別の存在です。
それに、もしかしたら、相手の政府も、日本を同じように見ているかもしれません。

戦争は政府間のものだと、数年前までは思われていましたが、9.11から状況は変わりました。
戦いの構図が、政府対政府ではなく、システムと人の関係になってきているように思います。
それは、すでにベトナム戦争で展開されたことです。
ベトナム戦争から学ぶことはたくさんあるはずです。

Hさんは、為政者は「殺すより殺される方が良い」というような聖人ではないと書いていますが、為政者は「殺すより殺される方が良い」というべきではありません。
しかし拉致された国民を救えないのであれば、それは「殺すより殺される方が良い」と行動しているのではありませんか。
それは、決して「聖人」だからではないはずです。

スイスの国民皆兵制は、私は共感しています。
日本がもし、9条をすてて、武装するのであれば、国民皆兵制は当然実行すべきです。
それは、自衛隊ができた時にも考えたことです。
国民は一度、行政の仕事を体験すべきだという提言を書いたこともあります。いずれにしろ、経済的徴兵や傭兵制度ではなく、国民皆兵制を前提に議論すべきです。

さらに言えば、私は兵役拒否者ですが、私の生活している社会が攻められたら戦います。
ガンジーの非暴力主義者でありたい気もしますが、私の性格としては、たぶん戦うでしょう。
矛盾していると言われるかもしれませんが、そう思います。
スペイン戦争にさえ行きたかったくらいですし、納得できる理由での民衆の蜂起には参加するでしょう。
今回、国会デモに参加した人たちは、たぶんみんなそうでしょう。

しかし、政府が起こす戦争には加担はしたくありません。
国会デモに行かなかった人や、そういう行動にシンパシーを感じない人は、経済的徴兵主義者ではないかと私は思います。
麻生さんや安倍さんが戦いの先陣に立つことはないでしょう。
彼らの家族も戦場にはいかないかもしれません。
なにしろ福島で原発事故が起きただけで、関東から、そして日本から逃避する人たちですから。
ちょっとまた書きすぎかもしれませんが、私はいまの政府の主要閣僚は信頼できずにいます。
国会審議を丁寧に見ていると、誠実さが全く感じられないからです。
昨日の朝日新聞夕刊のコラムで、池澤夏樹さんが書いていたように、参議院の自民党議員はどう考えても、誠実ではありません。

いずれにしろ、世界の情勢は大きく変わっています。
人びとの情報共有も進み、視野も大きく広がっています。
そもそも社会そのものが、「成熟社会」と言われるように変質してきています。
そうした歴史的な大きな変化を踏まえて、いまこそ「根底から」という意味で、ラディカルに未来と平和を考えるべき時期です。

一部の人たちのための「平和」のための「戦争」から、そろそろ抜け出ないといけません。
戦争は一部の人間を利するだけです。
多くの弱い人間は、そのための駒として、犠牲を強いられます。
なぜなら、システムはシステムのために存在するからです。
守るべきはシステムであって、人ではない。

Hさんは、アメリカの銃器所持制度はどうお考えですか。
そういう生活の次元から考えることが、私が考えるラディカルな、あるいは理性的な姿勢です。

安保体制によってリスクは高まりますが、聡明で理性的なコントロールのもと、より大きなリスクは防備できると考えざるを得ません、

とHさんはおっしゃいますが、これまでの歴史は常にそういう考えで、奈落へと向かってきたような気がします。
もし為政者が聖人であれば、そうはならなかったでしょうが、そもそも聖人はそんなことを考えないのではないでしょうか。

Kさんの「強行採決」に関する指摘には少し言及しましたが、それ以外に関しては私の上記の回答は不十分かと思います。すみません。
ただ、民主主義の捉え方は私とKさんとでは少し違っているかもしれません。
たとえば、Kさんはこう書いています。

少数派勢力が採決を拒み続けて多数の意見を封じることになってしまい、少数の暴力が多数の意見を封ずることになります。そのようなことは民主主義の考えとも、日本国憲法や国会法や議院規則の内容とも合致しません。

スチュアート・ミルは、民主主義とは、マイノリティのパブリシティを保証することだと言っています。
少数の暴力が多数の意見を封ずることがあってはいけませんが、いまの世論と政府の行動にこそ、その危惧を感じます。

仮に訴訟で訴えても有効となる確率100%(院内自治ということでですが)でしょう。

そうかもしれませんが、だからどうしたというのが私の考えです。
やはりおかしいものはおかしいと言わなければいけません。
勝ち負けなどは結果であって、負けるからと言って行動をやめてしまうのは避けるべきでしょう。
制度を基準にして考えるのではなく、理念を中心に考えたいと私は思います。
そうしないとアイヒマンのような、凡庸な人間になりかねないからです。

Hさんへの回答で書いたように、私の問題認識は、システムに対して、いかにして人間は主役であり続けられるかなのです。
制度やシステムは、変えられるものだと捉えています。
ですから、憲法改正ということであれば、何の異論もありません。
またきちんとした熟議や国会審議での誠実な回答があれば、多数決で決めることにも異論はないのです。

Kさんとは、基本的なところで考えを共有できるのですが、現実的な表れのところで、共有できないのが残念です。

この1週間、最近再放映されたNHKの「映像の世紀」を見直しました。
特に第二次世界大戦のところはていねいに見ました。
やはり私には、軍事力こそがすべての悪の基点のように思えてなりません。
同時に、経済格差こそが戦争の目的であり、原因であるような気がします。
貧しくても、みんなが穏やかに暮らせる社会。
その「みんな」には、中国の人たちも、ISの人たちも入っているといいなと、心から思います。

あんまり満足いただけない回答になってしまったかもしれません。
後はブログで補足していきます。たぶん、ですが。
時間ができた時に、ぜひ湯島でお話し合いができればうれしいです。
国会が、日本をよくするための話し合いの場になれば、さらにうれしいです。

Hさん、Kさん
ありがとうございました。

これを契機に、ブログで少し書きだそうと思います。

■気の萎えた3週間(2015年10月8日)
ほぼ3週間ほど時評編を書かずにいました。
安保法制の成立に伴う、様々なことを踏まえて、10回シリーズで書こうと思っていたのですが、書く気力が萎えてしまっていました。
自分の考えを相対化するために、ささやかな努力もしました。
昔読んだ書籍を読み直し、ドキュメンタリー番組も見直しました。
いろんな人とも話し合いました。

その間、気力がますます萎えてしまったのは、あれほどの大きな動きがあったにもかかわらず、フェイスブックでは相変わらずの日常が流れてきますし、マスコミも基本的には「終わった話」にしてしまっているからです。

そもそも参議院の特別委員会で強行採決が行われた日に、国会デモに行った帰り、霞が関を歩いていて、国会から少しだけしか離れていない霞が関では、省庁のビルから、平和そうな人たちが、何もないように話しながら出てくる姿を見た時に、言いようのない無力感に襲われたのが、気が萎えるきっかけでした。
笑顔で話している省庁のビルから出てくる男女を見ていたら、昔、映画で観た、ナチスドイツの強制収容所でガスを送る仕事をまじめにやってきた官吏が、自宅につながる階段を楽しそうにトントンとのぼっていく場面を思い出しました。
彼には、仕事が終わった後は、家族との楽しい晩餐が待っているのです。
ちなみに、この場面は、鮮明に残っているのですが、どの映画だったか思い出せないのです。
どなたかご存じだったら教えてください。

当日の国会周辺のシュプレヒコールに、なんとなく嫌な雰囲気を感じたことも、影響したかもしれません。
そこには、なにかルサンチマンの影を感じました。
どこか、なにかが、私が思っている世界とは違うのです。
私が、たぶん世界から外れてしまっているのです。

法案採決後も、政権支持率は大きくは変わらなかった。
世間的に影響を与えられる立場にある人たちも、新たな行動を起こさなかった。
ということは、私がやはり間違っているのかもしれません。
何が間違えているのか、自らを問い質しても、どうも間違いが見つかりません。
もしかしたら、間違いは、私自身が「行動を起こさないこと」かもしれません。
しかし、行動を起こす気にどうしてもなりません。
デモさえ、あまり行きたくなくなりました。
友人たちは、訴訟を起こしたり、さらなるデモを行ったりしています。
そうした動きにも、どうも参加できません。
自分ができることは何かと考えて、話し合いの場を呼びかけても、なかなか思うように人は集まらない。
それでも、私ができることと言えば、話し合いをする場をつくることくらいです。
そうした、「変わらない自分」にも、少し疑問が生まれてきている。

どれが因で、どれが果かさえ、わかりません。
ともかく、気の萎えた3週間を過ごしていたわけです。
でも萎えているだけでは、ますます萎える一方でしょう。
ともかくまた時評編を書こうと思います。

この3日間、わが家の農園に行って、土いじりをしていました。
そのおかげで、少しだけ、元気が出てきた気もします。
明日から時評編を再開します。

■安保法制騒動を考える1:目的の転移(2015年10月9日)
アメリカの社会学者ロバート.K.マートンは、官僚制の機能障害(逆機能)を批判していますが、そのひとつとして、「目的の転移」現象を指摘しています。
一言で言えば、規則遵守をしているうちに、それを絶対視するようになり、本来は「手段」にすぎない規則や手続きが「目的」に転じてしまうということです。
そうなるのは、全体が見えなくなって視野が狭くなるとともに、現状の構造を固定化したものだと考えてしまうからだと言われています。

こうしたことは、官僚に限らず、誰にでも起こりうることです。
もしかしたら、今やこうした状況が、社会を覆いだしているようにさえ思われます。
最近の日本の大企業などは、まさにその典型と言ってもいいかもしれません。
将来を展望しなければいけない政治家さえ、いまや目的の転移のなかで、自らの使命を失っているような気がしてなりません。
今回の、安保法制騒動で、そのことを痛感させられました。

いうまでもなく、目的‐手段は階層的なものです。
であればこそ、私たちは、常に、手段の先になる当面の目的を超えた、さらに上位にある目的を考えていかなければいけません。
目先の目的からは有効だと思われる手段が、その上位の目的から捉え直すと、無効どころか、有害であることさえあるからです。
何か行動を起こす時には、緊急避難的に、決断を急がなければいけない時はともかく、時間的に余裕があるのであれば、できるだけ上位にある目的をしっかりと認識しなければいけません。
改めてそのことを考えさせられました。

これから、何回かにわたって、安保法制騒動で感じたことを書いていくつもりですが、まず思い出したのが、「マートンの目的の転移」論でした。
時代が大きな岐路にある現在、こうした大きな目的はとても大切です。
平和とか戦争とか、安全保障とか、そんな言葉で語ることの無意味さは、今回の安保法制騒動での国会のやり取りでみんなわかったのではないかと思います。
大切なのは、何を目指し、何を生み出したいかです。

私にとっての生きる目的は、「みんなが安心して快適に過ごせる社会の実現」です。
そこに少しでも役立ちたいと思っていますし、それが結局は、私自身が安心して快適に過ごせる社会を目指すことだろうと思っています。
私の言動は、ほぼすべて、この目的に立脚して行われています。
時に、これとは正反対の言動をすることがあるかもしれませんが、たとえ現実はそうでも、この70年近く、理念はぶれたことはありません。
その視点を基軸にしながら、明日から少し書いてみようと思っています。
私の意見は、少なくとも2人の友人からは受け入れてもらえていませんが(2人への回答は一昨日このブログにもアップしました)、どこにその原因があるのかを、私も理解したいと思っているからです。
その2人への回答になればいいのですが。

■安保法制騒動を考える2:問題の混在(2015年10月10日)
今回の「騒動」においては、さまざまな問題が混在し、それらが整理されなかったために、まさに「騒動」としか言えないような状況になったように思います。
少し整理してみましょう。
大きな問題は2つあります。
「安保法制の内容」と「その審議採決の進め方」です。
安全保障の問題と国会議論の正当性の問題は、まったく次元の違う話です。
しかし、それが混同して、「騒動化」したのです。
世論調査にも、それが明確に表れていましたが、最後まで、マスコミも国会も整理しませんでした。
そこには、それぞれの立場からの、問題の本質を見えなくするための思惑が働いていたように思います。
マスコミも、そこに登場する「有識者」も、本気で問題の所在の整理する気配はありませんでした。
そうした動きは、「意図的なもの」だったかもしれません。

「安保法制」として、10の法案が一括処理されたということも、まさに「問題の混在」を意味します。
つまり、従来の法律を改正した10の法律と一つの新法が、一括審議されたということです。
しかも、内容的に見れば、「存立危機事態対応」、「重要影響事態対応」、「国際平和支援」という、性質が異なる3つの安全保障領域が混在していると言われています
正確さを欠く言い方になりますが、なんとなく「戦争法案」と「平和法案」が混在しているような気もします。
私には、複雑すぎて一括審議ができるのだろうかと不審に思います。
いや、そもそも「問題」が成立していないのです。
民主党は代案を出さないと非難されていますが、個別には一部、代案を出しています。
しかし一括法案に代案を出すことなど、できようはずがありません。
そうしたことも曖昧なままに語られがちです。
ここにも、「問題の混在」が見られますが、そのことがあまりに軽く受け止められたと思います。
つまりここでも、問題を見えなくするという意図が働いていたのではないかと疑いたくなります。

問題の意図的な混在は、今回の騒動の特徴だと思います。
多様な問題が混在すれば、議論は拡散し、反対意見もまとまりにくくなるからです。
世論調査の結果も、それぞれが都合よく「活用」できます。
混乱は「支配」のための常とう手段の一つですが、反対者にとっても、有効な常とう手段なのです。

問題の混雑は、国会デモの現場でも体験できました。
いろんなビラが配られていましたが、なかには、なんでこんなビラがあるのかというようなものも何枚かありました。
政府の横暴さに抗議するということで正当化されるのでしょうが、私にはなじめないような個別問題の主張もありました。
さまざまな立場の人が集まるというのはとても意義のあるものですが、さまざまな目的が集まることには、少し違和感を持ちました。

ほかにもいろいろとあるでしょうが、ともかく「問題」が整理されずに、議論がかみ合わずに、みんなが言いっぱなしの話し合いに終始したような感じがあります。
国会での審議を聴いていても、ほとんどが「議論」になっていなかったように思います。

もしかしたら、これこそが、現在の日本の社会の本質かもしれません。
みんな、自分の小さな世界で語っているために、思考が進まなくなっている。
自らを相対化できないのは、マートンの言う「目的の転移」と関係しているのだろうと思います。
問題を共有することで、議論は成り立ちますが、それぞれが自分の「問題」だけで語り、相手の「問題」を理解しようとしない。
そのために、「騒動」にしかならなかったような気がしてなりません。

騒動の後に残るのは、虚しさだけです。

■安保法制騒動を考える3:目的の確認(2015年10月11日)
この問題を考える場合、出発点は「目的の確認」になるでしょう。
それが共有できていなければ、議論はかみ合いません。
目的は、人によってさまざまかもしれませんので、私の目的を最初に明確にしておきたいと思います。
このシリーズの第1回目で書きましたが、私が考える大きな目的は、「誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す」ということです。
世界の平和を守るとか、日本という国家の発展を望むとか、そういうことではないのです。
その前提で考えていますので、そこに異論がある人は、この後の私の考えを読んでもほとんど意味がないかもしれません。
私が前提としている目的の設定に異論のある方は、そのことに関して異論を唱えてくださることは歓迎ですが、そこから展開される具体的な意見については、考えが異なるのは仕方がないことであり、たぶん議論はかみ合わないと思います。
国家の視点での見方・考え方と人間(国民ではありません)の視点での見方・考え方は、当然に違ってくるからです。
だからと言って、議論が無駄だというわけではありません。
それぞれの視点からの考え方をぶつけ合うことによって、気づくことは少なくありません。
ただし、前提となる視点が違うということは、常に意識しておく必要があります。
さらに、究極的には、その視点、言い換えれば「目的」もまた、問い質すという姿勢がなければ、議論は前に進まないでしょう。

議論をするということは、相手を打ち負かすことなどではなく、異論との話し合いの中から、新しいことに気づくということだろうと、私は思っています。

先日このブログにも載せた、フェイスブックへの投稿記事の中に書いたことも再掲します。

私が物事を考える場合、あるいは行動する場合、重視していることが3つあります.
「ビジョン(どういう状況を目指して考えるかの方向性)」
「ファクト(現在の状況をどう認識するか)」
「ミッション(自分が行う言動の役割)」
の3つです。
この3つの要素に関して、私の考えはおおむね次の通りです。
ビジョン:誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す。
ファクト:多くの人がそう念じているが、いまの世界はそれと反対の方向を向いている。
ミッション:ビジョンとファクトの違いを可視化するために自分でできることに努める。

前置き的なことが3回も続いてしまいましたが、明日から、具体的な問題についての私見と今回の気づきを書こうと思います。

■カフェサロン「韓国での兵役体験を聴く」の報告(2015年10月11日)
今日のカフェサロン「韓国での兵役体験を聴く」は、会場があふれるのではないかと危惧していたのですが、三連休のど真ん中のせいか、残念ながら10人の参加にとどまりました。

韓国での徴兵制度のもとで、2年間の兵役を体験してきた、留学生の林(リム)さんのお話は、とても興味深いものがありました。
韓国では徴兵制度があるとは知っていましたが、その内容に関して、具体的にお話を聞くのは初めてのことでした。
私には知らないことばかりでした。
それに、リムさんは、自らの主観的評価も含めて、ありのままに語ってくれましたので、考えさせられることがたくさんありました。

リムさんは、兵役体験はよかったと総括しています。
2年間の兵役義務期間に、2等兵から上等兵を経て、兵長までを体験するのだそうですが、それは短期間に組織での働き方や生き方を学ぶことでもあります。
ある意味で、人生のシミュレーションと言ってもいいのかもしれません。
リムさんに限らず、2年間の義務兵役体験で、社会人としての適応能力と「考え方」がきっちりと植え付けられるようです。
リムさんは、この2年間で、「ほう・れん・そう」(報告・連絡・相談)の大切さがわかり、それが身についたことだけでもよかったと言っています。
軍隊の持つ、対外的な攻撃抑止力(戦争対策)以外の効用を強く感じました。
もしかしたら、韓国の経済成長を支えてきたのは、徴兵制度を通した「人づくり」ではなかったのかとさえ感じました。
ちなみに、今回のリムさんの体験談からは、韓国の軍隊には人間的で柔軟な要素があるようにさえ感じました。

日本との関係もいろいろと話してくれました。
日本政府に対する不信感はあるものの、それはそのまま、日本人への不信感にはつながっていないということも話してくれました。
この辺りは、微妙なところなので、中途半端な報告はやめます。

今回は、日韓関係に深い関心をお持ちの方も参加していましたが、さまざまな質問に対して、リムさんがすべて答えていたのに、私はとても感心しました。
果たして今の日本の若者たちに、こうした会話ができるでしょうか。
最近では、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若者が増えているとも聞いています。
しかし、韓国は学校で近現代史をしっかりと学ぶそうです。
日本とは大違いです。
国会デモに参加している若者たちは、どれだけ日本の近現代史を学んでいるのか。
そこに、私は、最近の動きの危うさを感じています。

参加者からの指摘やお話も、とても触発されるものがありました。
それも含めて、もっと多くの人たちに聴いてほしかったと、思いました。
あまり人数が増えて公開型になると、リムさんも話しにくいかもしれませんが、安保法制に賛成であろうと反対であろうと、韓国の徴兵制の話から学ぶことはたくさんあります。
もし関心を持ってくださる人がいたら、ぜひリムさんを講師に呼んで話を聞いて下さい。
そして韓国の若者たちとぜひ触れ合ってほしいと思います。

■建築散歩ツアー入間編の報告(2015年10月17日)
昨日の建築散歩ツアー入間編には6人が参加、若林さんの案内で入間市を1日歩きました。
午前中はジョンソンタウン。戦後、米軍の軍人家族のための住宅ゾーンで、当時はまさにアメリカン・ライフスタイルが展開されていたところです。
一時はスラム化していたのを、地主の磯野商会が買い戻し、整備してきたそうです。
現在は120戸以上の平屋が緑に囲まれて、「古き良き時代のアメリカの街並み」を残しています。
一画にはカフェやレストラン、雑貨店やダンス教室などのゾーンもあり、若者たちのちょっとしたデートスポットにもなっているようです。
そのひとつのお店で、みんなで食事をしました。
内部は、スケルトンを活かしながら、それぞれの店主が内装を工夫しているようです。
敷地内の道路も含めて、地主の磯野商会が管理しているそうで、タウン全体が一つの雰囲気を醸し出していました。
磯野商会の地域への思いの深さに感心しました。
最初、ここに来た時にすぐ思い出したのが昔の代官山ですが、いまのような代官山にはなってほしくないと思います。

つづいて、旧石川組製糸西洋館。
これは大正時代につくられた洋風建造物で、年に数回の公開日だったため、なかも堪能させてもらいました。
石川製糸は昭和の初めに解散していますが、創業者の石川幾太郎は敬虔なクリスチャンで、その経営の理念は「愛」だったようで、いまでも石川製糸の「女工哀史」ならぬ「女工愛史」が語り伝えられているそうです。
こういう会社が日本にはあったことを、いまの大企業の経営者に知ってほしいです。

石川製糸が残した一つに豊岡教会があります。
16号沿いにある、W.M.ヴォ―リズ設計の少し目立つ教会です。
石川製糸で働いていた女工さんたちも礼拝を薦められていたそうです。

そこからは地元在住の建築家の岡野さんに案内をお願いし、
黒須地区の文化遺産的なものをいくつか案内してもらいました。
一つだけ紹介すれば、細芳織物工場で、住宅街の中に、鋸屋根がつながった工場で、いまもなお昔ながらの織機で織物をつくっています。
40年ぶりとは言いませんが、久しぶりにこうした織機が動いている現場を見せてもらいました。
社長自らも動き回るほどの忙しさでしたが、細芳さん自身、鋸屋根の工場も含めて、文化遺産としての動態保存に取り組まれていることがよくわかります。
ほかにも、「道徳銀行」とも呼ばれた無尽から始まった黒須銀行の建物(洋風土蔵造り)など、いろいろ見せてもらいました。

この地域の人たちが、どれだけ地域社会を大事にしていたか、を感じました。
そしていまもなお、その文化が受け継がれているのでしょう。
地域をゆたかにしていくのは、やはりその地域の人たちの、地域文化への思い入れなのだと改めて感じました。
しかし、そうした文化は、いま、経済主義の中で消えつつあるように思います。

歩き始めたころは小雨だったのですが、午後は雨も上がり、晴れ間も見えてきました。
5時間ほどの街歩きで、参加したみなさんと普段とはちょっと違った状況で話をするのも、こうしたツアーの魅力の一つなのだと感じました。
歩いてきた後、いただいた資料などを読み直していると、また行きたくなってしまいます。
これも街歩きのポイントだなと思いました。
若林さんが1回のみならず、何回も同じところを歩いていることの意味がわかりました。
若林さんが、回る先を選んでくださったのですが、振り返ってみると、そこから若林さんのメッセージが伝わってきます。

建物散歩は、単なる名所まわりではありませんでした。
自らの生き方や活動を問い直す刺激をいくつかもらいました。

安保法制騒動を考える4:平和と秩序(2015年10月18日)
少し間があいてしまいましたが、まず安保法制の意味を考えてみたいと思います。
というのも、「安保法制」を「戦争法案」と位置づけている人たちもいるからです。
同じ法制を、平和のためと思う人もいれば、戦争のためと思う人もいる。
なぜそんなことが起こるのでしょうか。
そもそも「平和」とはなんなのでしょうか。

「パックス・ロマーナ」という言葉が象徴しているように、「平和(ピース)」にはもともと「支配による平和(パックス)」という意味が含まれています。
パックス・ロマーナは、「ローマによる平和」と訳されますが、むしろ「ローマによる秩序」と言った方が実態に合うように思います。

考え方の違う人たちが、それぞれ勝手に生きていこうとするとぶつかり合うことも多いでしょう。
喧嘩や犯罪が起こるかもしれません。
自然の猛威や外部からの攻撃に対しても、ばらばらでは対処できないかもしれません。
そういうことが起きないようにするためには、だれかが権力を持って、社会の秩序を維持していくことが効果的です。
さらには、困っている人を助けるための活動やみんなにとって有益な活動をしていくという富の再配分も、権力による秩序維持につながるでしょう。
そうしたことができれば、みんなの安全も高まるはずです。
これはある意味での「平和」と言えるでしょう。

しかし、そこからはまた、権力者による圧政という危険性も生まれます。
秩序が厳しすぎて、自由が抑圧されることもあるでしょう。
殺し合いや犯罪は少なくなっても、支配服従の関係は広がり、ガルトゥングのいう「構造的暴力」が生まれるかもしれません。
社会全体のために犠牲になる、いわゆる「コラテラル・ダメッジ」の問題もあります。

しかし、権力機構の崩壊が何を生み出すかは、フセインなき後のイラクを考えれば、明らかです。
秩序を維持する権力の存在は、現実問題としては、必要悪かもしれません。
そして、そのひとつのあり方が、国家と言っていいでしょう。
最近、報道ステーションでコメンテーターを務めている憲法学者の木村草太さんも、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」と著書「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」に書いています。
しかし、秩序をつくることと個人の平安とは必ずしも一致しないところが悩ましいところです。

安保法制の賛成者も反対者も、戦争を回避しようと考えているはずですから、それを「戦争法案」と呼ぶのは適切ではありません。
しかし、その法制がどの視点から発想されているかと言えば、明らかに国家の秩序維持(支配)の視点です。
「安全保障」の主語は国家秩序の安全なのです。
ですから、私たち一人ひとりの平安な生活のためではなく、どういう秩序を私たちが選ぶのかが、安保法制の問題なのです。
その視点に立てば、「平和のための戦争」と言われることがあるように、「平和」は「戦争」の一形態とさえ言えるでしょう。

わかりきったことをくどくどと述べましたが、この辺りをしっかりと整理しておかないと問題が見えてこないように思います。

明日は「戦争」について整理してみます。

■安保法制騒動を考える5:戦争の構造(2015年10月19日)
「平和」と同じく、「戦争」も捉え方の難しい言葉です。

20世紀初頭までは、戦争は、宣戦布告によって始まり講和によって終結する、国家間での政治手段であって、国家の権利の一つとされていました。
しかし、第一次世界大戦後、パリ不戦条約によって、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄されました。
ただ、条約加盟国の自衛権は否定されまませんでした。
つまり大きな流れとしては、戦争は国際的に放棄されたのであって、日本だけの特異現象ではありません。
その認識がほとんど議論にならないのが不思議です。
しかし、不戦条約違反に対する制裁は制度化されず、再び世界大戦が起こったわけです。

戦争のかたちもまた、大きく変質してきました。
国家による戦争も、総力戦と言われるように、戦争の当事者が国民全員へと広がりました。
それはある意味で、国民国家であれば、当然の帰結でもあります。
さらに、国家間ではなく、戦争の当事者が国家を超えた集団(たとえばアルカイダやIS)へと広がりました。
9.11事件によって、「テロとの戦争」が、戦争の前面に出てきてしまったのです。
戦争さえをも秩序化しようとしていた主権国家構想の崩壊が始まったわけです。
戦争の構図は、「国家対国家」ではなく「国家対反国家」へと変質しつつあります。
こうした動きを見ていくと、戦争の本質が見えてくるように思います。
つまり戦争とは国家権力のヘゲモニー争いのように見えて、実は、国家を含む体制(システム)そのものと、その構成要素である人民との対立構図になってきているのではないかということです。
そこにあるのは、制度と人間の対立構造です。
こういう言い方をすると、最近のSF映画の構図を思い出しますが、まさにその構図が現実化していると言えるでしょう。
そう考えれば、各国が競って軍事力を増強している先にあるのは、むしろ自国の国民への「支配力の強化」なのではないかと私には思えます。

戦争の構造を、国家間の横の関係からシステム(そこには当然部品化された人間も取り込まれています)と個々の暮らしを持つ人間との関係に置き換えると、まったく違った風景が見えだします。
前に、このブログでも「メアリー・カルドーの提言」を書いたことがありますが、戦争の先にあるのは「人道」や「人権」なのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/01/post-e37f.html

軍隊が殺傷した人間は、他国人よりも自国人のほうが多いという統計を何かで読んだことがあります。
軍隊というシステムが見ているのは、仮想敵国だけではありません。
戦争概念が広がった現在、国内の秩序をかく乱する存在は、軍隊の敵になっていくことは言うまでもありません。
敵は本能寺なのかもしれないのです。

「戦争法案」と決めつける前に、戦争の構造、あるいは「危険にさらされるもの」をきちんと確認する必要があるのではないかと思います。
戦争法案と言っている人の「戦争」は、誰が攻め誰が攻められるのか。
それも軍事力で。
現実問題としては、私にはまったく考えられません。
この70年は、そういう存在にならないように努力してきた70年だったと思うからです。

■安保法制騒動を考える6:自衛の主語(2015年10月20日)
今日は「自衛」について考えてみます。
パリ不戦条約でも各国の自衛権は放棄されませんでした。
国家単位での武力行使一般を違法とした上で、侵略国への対応に関しては、世界全体で行おうというのが集団安全保障という構想でした。
国家による暴力の管理という「近代国家」構想を、そのまま世界に拡大しようとしたわけです。
しかし、状況はまだ熟してはおらず、集団安全保障を担保する仕組みは実現しませんでした。
ですから自衛権は国家の権利として残ったわけです。

ここで問題は、自衛権によって衛(まも)られるものは何か、ということです。
国家や国民だろうと思うでしょうが、その両者は同じものではありません。
国家が国民にひどいことをする場合もありますし、国民が国家を転覆させることもあるからです。
これに関しては、これまでも何回か書いてきました。
国家(ステート)と国民(ネーション)は違うものです。
だからこそ国民国家(ネーション・ステート)という言葉もあるわけです。
両者を別のものだとすれば、そのいずれが「自衛」の主語になるかを考えると、これも悩ましい問題です。
私は、「国家の自衛権」とか「自衛戦争」という言葉は、もはや存在しない概念だと思っています。
国家というリヴァイアサンが自衛権などもってしまえば、国民はたちうちできなくなるはずです。

しかし、そもそも国家という制度(仕組み)が、「自衛」するとはどういうことでしょうか。
このシリーズの「その4:平和と秩序」で引用させてもらいましたが、木村草太さんが言うように、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」とすれば、国家の目的は、「国民が人間らしく安心かつ幸せに暮らせること」です。
つまり、国家はそのための「手段」なのです。
まさにマートンの言う「目的の転移」に注意しなければいけません。

国家は法的な擬制はともかく、基本的人権のようなものを持つ存在ではありませんし、何よりも国家という行為の主体がいるわけではありません。
ですから、国家が持つ権利もまた、人間が持っている権利とは全く違ったものです。
つまり、国家は所詮は、制度(システム)でしかないのです。
国家が、自らの存在を自衛するという意味は、実際には、国家を統治している現在の政府の体制を維持するということであり、そこでは、国民は国家という制度に従属する要素としてしか位置づけられません。
そもそも「制度」には自衛権などあるはずもありません。
それこそ、それはSFの世界の話です。

国家の自衛権が何を意味するか。
それは、北朝鮮をイメージすれば、すぐわかることです。
あるいは、国家のためという口実で、多くの人が死んでいった太平洋戦争を思い出してもいいでしょう。
国民は、国家の自衛活動では、決して守られることはありません。
国家の自衛権がなんとなく国民の自衛につながるのは、戦争の構造を見誤っているからです。
「だれがだれに対して何を自衛しているのか」を見据えなければいけません。
国家のためと言って、国民が殺されるようなことがあれば、それはそもそも国家という制度の大きな目的に反します。

社会的共有資本の問題に取り組んだ宇沢弘文さんは、政府は統治機構としての国家ではなく、市民の基本的権利の充足を確認する役割をはたすものだと言っています。
その意味をしっかりと受け止めたいと思います。
コラテラル・ダメッジなど、決して許されることではありません。

■安保法制騒動を考える7:安全の抑止力(2015年10月21日)
今回は「抑止力」について考えてみます。
私は、軍事力(攻撃力)の増強は攻撃の「抑止力」になるのではなく、むしろ「誘発力」になると考えていますが、この考えはなかなか共感を得られずにいます。
ここで「誘発力」とは、他国からの攻撃を誘発するという意味もありますが、自らが他者(他国に限りません)を攻撃してしまうという意味での「誘発力」も含意しています。
名刀を持つと、ついつい使いたくなるということです。
戦争の構造が、対他国だけではなく、対自国民、あるいは国家を超えた人民にも広がっていることを考えれば(実際には昔からそうなのですが)、自らの攻撃を誘発するという意味がわかってもらえると思います。
さらにいえば、構造的暴力という「見えない戦争」にも、これは大きな効力を持つはずです。
戦争というものの形が大きく変わってきているという状況の中で、考えてもらえるとうれしいです。

安保法制に賛成の方の論拠の一つが、国際情勢の変化です。
具体的に言えば、中国や北朝鮮の脅威に対して、日米同盟を強化し、いつでも立ち向かえるようにしておかなければいけないと不安感があるのでしょう。
攻めて来られないように、自国の軍事力を増強したい、防衛だけではなく場合によっては先制攻撃できるような「軍事力」を持ちたい、アメリカ軍隊との関係を強化し、その助け(虎の威)を借りたい、ということでしょうか。
なにしろ、日本が攻められていなくても、世界中どこであろうと、戦争が起こっているところには出かけていけるのが、集団的自衛権の含意するところです。
直接的には他国を守ることを目的とした権利ではないのです。
現在の政府は、そのあたりをあいまいにしながら、「日本の自衛」につながると説明していますが、要はどこの戦争にも参加できるということです。

国際情勢の変化でよく言われるのが、中国や北朝鮮、あるいは韓国です。
例えば、中国の軍事力増強は驚くほどです。
南シナ海での行動も、たしかに目に余ります。
しかし、それを防止するのは軍事力ではないでしょう。
それに、中国や北朝鮮が、日本を侵略しに来ると、本当に思っている人がいるのでしょうか。
国際情勢、とりわけ日本周辺がきな臭いと思わせることで、利益を得ている人たちがいるはずです。
そうした「脅し」に乗せられてはいないでしょうか。
いささか極端ですが、北朝鮮の拉致問題が解決したら困る人もいるかもしれません。
私は、安倍政権もそう考え、総行動しているだろうと思います。
話がそれてしまいました。

しかし、そもそも軍事力はほんとうに戦争の抑止力になるのでしょうか。
いや、これまでの歴史で、抑止力になったことはあるのでしょうか。
私には、そこが大きな疑問です。
力が相手の攻撃を抑止するなどと思うのは、暴力や権力に媚びて生きているからではないでしょうか。
人は、自分の生き方や考えで、物事を決めていくものです。
軍事による抑止力論は、弱い者いじめをして生きている人たちの考えではないかと、私には思えてなりません。
だいたい権力者や支配者は、弱いものの犠牲の重ねてきた人が多いでしょうから、きっとそう思うのです。
私のように、貧しく生きていると、周りの人を信じなければ生きていけません。
普通の人たちは、寄り添って、支え合って、信頼し合って生きなければ、生きてはいけないのです。

1980年代には、核兵器による抑止論に対して、オスグッドの段階的軍縮論がありました。
つまり、不信による安全保障から信頼による安全保障へと、大きな歴史はその方向で動いてきたはずです。
机上論では軍事力増強や軍事同盟は、戦争や攻撃の抑止効果を持つのかもしれませんが、歴史はそうはなっていないのではないか。
私にはそう思えます。

相手に対して攻撃する意図がないことを示すために、人類は、握手やお辞儀という方法を発明してきました。
その人類の長年の知恵を大事にしたいと思います。

中途半端な説明になったので、納得してもらえなかったかもしれませんが、国家による軍事力増強や国家間の軍事同盟は、決して安全にはつながりません。
アメリカでの銃器発砲事故の多さを思い出していただきたいと思います。
私の信頼する友人でさえ、私のこの意見には賛成してもらえないのが不思議です。

もし攻撃されたらどうするのか。
それは攻撃されるような存在だったことを悔やむしかありません。
そうならないように、生き方は誠実でなければいけないと思っています。
国家のあり方も、同じではないかというのが、私の考えです。
リアリティがないと、よく言われますが。

■安保法制騒動を考える8:違憲立法の意味(2015年10月22日)
安保法制騒動の論点のひとつは立憲主義の是非でした。
立憲主義がないがしろにされてきているのは、この騒動に始まったことではありません。
政治学者の中野晃一さんは、「右傾化する日本政治」(岩波新書)の中でこう書いています。

長らく9条に照準を合わせた改憲論は、近年では西洋近代の立憲主義そのものに対する攻撃と化しつつある。

立憲主義を否定すれば、改憲など不要です。
改憲できないなら、無視すればいいというわけです。
今回の安保法制騒動は、そのことをだれの目にもわかるようにしてくれました。
その気になれば、ですが。
そうした大きな流れを踏まえて、今回の騒動を考えていくと、見えてくることも違ってきます。

戦後レジームからの脱却こそが、安倍首相のビジョンです。
そして多くの国民もまた、それを支持しています。
いまもってなお、40%を超える国民が、憲法をないがしろにする政権を支持しているというのですから、驚くしかありません。
前にも引用した木村さんが言っているように、「憲法を燃やすことは、国家を燃やすこと」なのです。
安倍政権の「日本を取り戻そう」の主語に関しては、以前も書きましたが、安倍首相の発言の意図は、日本の人民の手に取り戻すのとは逆の方向です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/06/post-909e.html
そこが言語の恐ろしいところです。
「戦後レジームからの脱却」とは何なのか、もし誠実な人生を送りたいのであれば、きちんと考えなければいけません。

しかし、日本の国民は、「臣民」であることを願っているのかもしれません。
政治の動向よりも、経済のことが好きのようで、相変わらず「経済成長」とか「雇用」とかに関心を向けています。
以前、「雇用」よりも「仕事」が大事だとこのブログで書いたら、厳しいお叱りをいろいろといただきました。
雇用と仕事の区別さえ、つかなくなっているとしたら、もはや何をかいわんやです。
日本人は臣民としての生き方に隷従したいのだろうと、400年前に「自発的隷従論」を書いたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシには見えるでしょう。
http://homepage2.nifty.com/CWS/book2.htm#005

武田文彦さん(究極的民主主義研究所所長)は、憲法違反罪は厳罰に処すべきだと言っています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/TAKEDA125.pdf
取り締まる人の手加減で、逮捕されたり逮捕されなかったりする法律違反に比べれば、憲法に違反することは大ごとだと思いますが、田母神さんのように、憲法違反してもいいのだと公言する防衛関係の公務員(当時)さえいるのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/11/post-5beb.html
しかも彼は、少なからずの人たち(若者も多いようです)からの共感さえ受け、政治活動を行っています。
戦後、戦犯と言われた人たちが、政治家になり官僚になったこともある国ですから、仕方ないのかもしれませんが、いかにも情けないことです。

違憲立法された法律に従うことも「法治主義」というのでしょうか。
たぶん「法律」の意味が大きく変質しているのです。
いまの日本は、司法権のみならず、立法権もまた行政権に取り込まれ、三権分立ではなく、統治権優先の全体主義国家になりつつあるような気がします。

今回の安保法制騒動は、それがいよいよ表だって動きだした事件のように思います。
「憲法を燃やした」ツケは、たぶん大きいでしょう。
しかし、まだ諦めることはありません。
沖縄の県民のように、諦めずに、隷従することなく、できることをやっていくことが大切でしょう。
翁長知事をはじめとした、沖縄の人たちに、元気をもらっています。

安保法制騒動と沖縄基地問題は、コインの裏表です。

■安保法制騒動を考える9:決定手続きの正当性(2015年10月23日)
今回の安保法制騒動で、私が一番問題だと思ったのは、進め方です。
たとえば、参議院特別委員会での強行採決の様子は、テレビでライブに見ていましたが、驚くべきものでした。
ニュースで断片的に見た人たちは、野党の暴挙と思った人もいるでしょうが、あれは明らかに与党の暴挙です。
その上、議事録までも改ざんし、手続きの正当性を取り繕おうとしていますが、前日の公聴会の報告もなく、慣習になっている最後の質疑もなく、採決時には野党の委員も立ったままの状態でした。

10個の法案を一挙に審議するということも、手続き的に暴挙としか言えません。
しかもそれらは性質の異なるものも含まれています。
これに関しては、「その2」で書きました。

正しい手続きとは何でしょうか。
ここでもマートンの目的の転移が重要です。
正しいかどうかは、かたちでは決まりません。
その目的によって判断しなければいけません。
たとえ100時間「審議」しても、きちんとした審議でなければ、意味がありません。
公聴会を何回開こうが、聴く耳を持っていなければ「公聴会」とは言えません。
国会での審議も、公聴会も、アリバイ工作劇ではないかと思えてなりません。
野党からの質問に誠実にこたえ、一緒になって、より合意できるものにしていく姿勢がなければ、いくら時間をかけても審議とは言えません。
公聴会も、ただ体裁づくりであれば、横浜の地方公聴会で水上弁護士が冒頭釘を刺したように、「公聴会が単なるセレモニーで茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません」ということになるでしょう。

手続きの正当性は、目的にかなっているかどうかで決まるはずです。
いや、そうでなければいけません。
茶番劇にしか見えないのは、手続きの目的が、政府見解を正当化するというところに置かれていたからです。
たとえばこうです。
衆議院憲法審査会において、与党推薦者も含めて3人の憲法学者が、安保法案を「憲法違反」だと明言すると、「違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」と言い、確認してたくさんいないことがわかると、「憲法の番人は最高裁判所であって憲法学者ではない」と言い、それを受けて、元最高裁判事たちが違憲と言ったら、彼らは現役ではないという。
まさに茶番劇としか言えない手続きなのです。
重視されているのは、「手続きの正当性」ではなく、「正当化するための手続き」なのです。
国民が賛成しないのは、法案の主旨がきちんと理解されていないからだという姿勢も、ここから出てきています。
そもそも政府には、「話し合おうという姿勢」がないのです。
これは辺野古基地問題でも明確に出ています。

つまり、現政府はもはや「独裁政権」になっているというしかありません。
もはや「民主主義」は消えてしまったというべきでしょう。
ですから、連日の各地でのデモに対して、耳を貸そうなどとしないのは当然なのです。
立憲主義も民主主義も、失われているのです。
そうした実態を、私たちはしっかりと認識しなければいけなのではないかと思います。

これから何が始まるのか。
80年前の日本とドイツの歴史を学ばなければいけません。

■安保法制騒動を考える10:個人としてどうするか(2015年10月24日)
このシリーズも、今回が最後です。
最後に、ではそうした状況の中で、個人としてはどうしたらいいかについて、書いておこうと思います。

その前に、これからどう展開するかを少し考えておきたいと思います。
自民党の憲法改正案には、現憲法にはない「緊急事態条項」(第9章)が新設されており、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同左効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」ことになっています。
2年前に、このブログで、「自民党憲法改正草案による亡国への道」という10回シリーズを書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm
その時は見過ごしていたのですが、この条項の意味が最近やっと理解できました。
これは、まさに戦争行為を可能にする条項なのです。
つまりは立憲主義を外すための条項です。
ワイマール憲法にあった「大統領緊急命令条項」を思い出します。
ドイツは、この憲法条項により、悪夢への道に進みだしたのです。
私が大学時代に憲法を学んだ小林直樹さんは、「日本国憲法が軍国主義を廃した平和憲法であるため、緊急権規定をあえておかなかった」と解釈しているそうです。
すっかり忘れていました。
憲法に緊急権を明記することは「憲法の自殺」であるという意見もあるそうですが、私はそういうことにさえ気づいていませんでした。
今回、気づいたことの一つです。

話がそれてしまいましたが、憲法改正の場合、9条からではなく、この緊急事態条項を潜り込ませることが考えられます。
この条項は、それこそ最近の「緊迫した国際情勢」という言葉とセットになれば、多くの人には違和感はもたれにくいでしょう。
しかし、この条項の恐ろしさを、できるだけ多くに人に知っておいてほしいと思います。

さて、個人としてどうするか、ですが、ある人のことを紹介させてもらいます。
その人は、福島県会津の人矢部喜好さん(1884〜1921)です。
矢部さんは、プロテスタントの信徒でした。
日露戦争が始まったころ、彼は、売国奴、非国民と罵声をあびせられるなかで、仲間たちと戦争反対運動に取り組んでいました。
20歳の時に、補充兵として入隊の命を受けました。
その時の彼の行動を、阿部知二さんの「良心的兵役拒否の思想」(岩波新書 1969年出版)から引用させてもらいます。

その前夜ひとりで連隊長に面会をもとめ、自分は国民としては徴兵を忌避するものでないが、神のしもべとして敵兵を殺すことができないのであるから、軍紀のためならば、この場で死をたまわりたい、と申し出た。その結果、裁判所におくられ公判に付されて、軽禁錮2か月と判決を受けて入獄した。出獄後、連隊区司令部から呼びだしを受け、彼はもとより、家族も教団の仲間も、死刑‐銃殺をはっきりと覚悟したのであった。
しかし司令部では、敵と戦うことは主義として相容れぬとして、傷病兵を看護するのはすすんでなすべきことではないかと説かれ、ついに看護卒補充として入隊して講和にいたるまでの日を送った。

著者の阿部さんは、「日本の軍部が、この早い時期において「良心的兵役拒否」の問題を、このように典型的な形で代替業務を与えることによって処理したことは、おどろくべきである」と書いています。

長くなってしまいましたが、最後に私が何をやるかです。
簡単に言えば、矢部さんのようでありたいと思います。
残念ながら、私は徴兵されないでしょうから、その機会はないでしょう。
しかし、自らの生き方において、矢部さんを見習おうと思います。

同時に、日常的には、2つのことに取り組むことにしました。
一つは、いまもやっている湯島でのサロンをさらに広げることです。
湯島のサロンの意味は、以前、シリーズで少し書きましたが、途中で終わっているので、また近いうちに書くつもりです。
湯島のサロン活動は、私の平和活動でもあるからです。
そのサロンのメニューに、近現代史の勉強会を加えようと思います。
できるだけ多くの人、とりわけ若い人たちに、歴史を知ってほしいと思います。
先日ある人から聞いたのですが、中学校で話す機会があったので、原爆が落とされた国は世界でどのくらいあるかと質問したそうです。
三択で、「1か国」「50か国」「100か国」。
一番多かったのは「50か国」だったそうです。
これは私たち大人の責任です。
また、民主主義をきちんと考える会もスタートさせます。

もう一つ個人的にやろうと決めたことがあります。
非武装抵抗や良心的兵役拒否などの書籍を読み直すことです。
この種の本は、日本でも1960年代から70年代にかけてたくさん出版されました。
私もかなり読んで刺激を受けましたが、その後なぜかその種の本は少なくなり、私も忘れていました。
わが家の書庫にも、何冊かあるはずです。
引っ張り出して読み直す予定です。

実はこのシリーズでは、徴兵制とかデモのこと、あるいは戦争に行かない権利など、いろいろ書くつもりでしたが、書けませんでした。
いつかシリーズ2を書ければと思っています。


長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。
反論異論大歓迎です。
機会があれば湯島にも来てください。

■安保法制騒動を考える番外編:読者とのやり取り(2015年10月25日)
安保法制騒動考10回が終わったので、フェイスブックで紹介しました。
お人知の方から、とても長いコメントをもらいました。
前にも紹介したことがありますが、私の意見には納得していない方のおひとりです。
とても誠実な方です。

それで、その方のご意見と私の回答を、長いですが、ここにも再掲させてもらいます。
安保法制騒動考の補足にもなると思いますので。

〔読者からのコメント〕
やはりご説にはいささか違和感を覚えてしまいます。世界には軍備(抑止力)を持たない国はごく少数存在しますが(対立や脅威、力のないミニ国家、彼保護国、駐留軍が代替?一時の日本とドイツ、など)、実際は集団安保体制や大国の庇護下に入っており、無手勝流の国は存在しないのではないでしょうか。日本国憲法第9条を参照したドミニカが該当すると言われますが、強力な警察が事実上その機能を果たしているに過ぎないようです。中南米諸国等は、クーデターなど対内誘発力の悲惨な体験を経て軍を解体した例もありますが、国内が内乱で滅裂となり、なかには再軍備せざるを得なかった国(モルディブ、ハイチ、セイシェル等)もあるとのことです。これらのケースではいわば民度や文化の問題も絡んでいると考えられますが。
今回法案への賛成の根拠は、私の場合、国際情勢の変化だけを見据えたためでもなく、また残念な表現である力への媚びや弱いものいじめ根性由来のものでも全くありません。人類が遠い将来ついに覚醒するのか否か知る由もありませんが、それまでの間は現実に蓋をしたまま理想論に耽ることはできないとの認識からです。残念ながら誠実や正義が通用しない政府が現存します。確かに中国が日本を直接的に侵略する事態は考えにくいことですが(本当は臆病で保身本能が強いことは、あの万里の長城から知れます)、他面、民族の宿痾と言える強烈なメンツ、中華思想、領土的野心、強欲などに由来し、かつ一党独裁政権保持のために、核心的利益と内外に嘯いてしまった事案とりわけ尖閣問題が衝突事態を惹起する危険性は相当程度大きいと言わなければなりません。今盛んに貶日行為に狂奔中ですが、その目的は衝突時に国際世論が少しでも味方になってくれるための伏線である可能性を否定できるでしょうか?さらに、賛成側のなかには大戦時のソ連の卑劣な侵略と暴虐を想起した向きもあったと思います。逆に反対側には、ブッシュやチエイニーが動いたイラク侵略のような資本と政治の癒着などを想起した向きも多かったでしょう。ともかく、現在もし地球上の警察機能を曲がりなりにも果たす国(アメリカ)が存在しなかったなら世界はどういうことになるか、想像しただけでも恐ろしいとは思われませんか?この地上で間断なく随所で行われてきたのは、支配者同士、市民同士の相互愛による平和だったでしょうか?
問題は、軍を保持し同盟を強化することの必要悪を明確に認識し、コントロールすべき国民の自覚だと思います。この点、大戦時において国民自身はどうだったかを含む総括を今からでも敢行すべきです。朝日のように手のひらを返したような自虐に走って余計な反発を招く愚行や、周辺国にプロパガンダの口実を与えるようなやり方の閣僚の靖国参拝はもううんざりです。安倍首相ももっともっと誠意を尽くしてわかりやすく国民を説得し、またもっと愚直に手続きを踏むべきでしたね。

〔私の回答〕
コメント、ありがとうございました。
たしかに、世界には軍備を持たない国はほとんどないかもしれません。
しかし、だからこそ、私は日本はそうあるべきだと思っています。
つまり、新しいあり方を提示するための70年間を体験し、いまこそ米軍の庇護からも脱し、「世界一無防備な国」になる道を選べないかと思うわけです。
念のために言えば、それは同時に、「世界の多くの国に役立つ国」でなければいけません。
それこそが、抑止力だと、私は思います。
そして、日本はいま、世界において唯一その可能性を持ち始めた国だと思っています。
歴史を反転させることができるかもしれません。
可能性があるのであれば、挑戦すべきだというのが私の考えです。
その結果、いささか時期尚早で失敗するかもしれません。
明治維新の草莽の志士のように、滅ぶことがあるかもしれません。
しかし、そうなろうとも、それを志向する価値があるというのが、私の思いです。
もちろん滅ぶことは避けねばなりませんが、これは生き方の「理念」の問題です。

たしかに、私も、人類が「覚醒するのか否か知る由」もないのですが、少なくとも覚醒するために自らを一歩進めていくということを大切にしたいと考えています。
「誠実や正義が通用しない政府が現存」することが、もし「残念」な事であるならば、少なくとも私の住んでいる国にはそうなってほしくないのです。
「尖閣問題が衝突事態を惹起する危険性は相当程度大きい」と思いますが、実際にそれを引き起こすのは、別の次元の話だと思います。これまでの戦争の発端は、むしろ軍事力の優劣比較からの論理的帰結からではないと思います。

「現在もし地球上の警察機能を曲がりなりにも果たす国(アメリカ)が存在しなかったなら世界はどういうことになるか、想像しただけでも恐ろしい」とは、思いません。
確かに秩序は乱れるでしょうし、私たち日本人はその秩序の利益を得ているでしょう。
しかし、その反面、中南米諸国やヴェトナムやアフガンはどうだったでしょうか。
秩序がゆるみだすことから、新しい時代は始まります。
明治維新もアラブの春も、そうでした。
秩序は、ある人には平和でも、ある人には戦争状態をもたらしています。
私自身は、誰かの犠牲の上に立った「世界秩序」の恩恵は受けたくありません。
これに関しては、かなり冗長ですが、前に「オメラスとヘイルシャムの話」を書きました。
よほど時間があれば、お読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

私も、「この地上で間断なく随所で行われてきたのは、支配者同士、市民同士の相互愛による平和」ではなかったと思います。
その4で書いたように、「平和」ではなく「勝者」にとって都合のいい「秩序」だったと思います。

「軍を保持し同盟を強化することの必要悪を明確に認識し、コントロールすべき国民の自覚」という意見は、否定はしませんが、国民が果たしてきちんとコントロールできるのかという疑問が残ります。
シヴィリアンコントロールさえ軽視され、ましてや違憲とされても、そんなことは無視していいという田母神さんのような高官に統治されているのが実態です。
そんな国家には、軍隊は任せられません。
まさに、「大戦時において国民自身はどうだったか」を思い出したいです。
とりわけ沖縄の歴史を私たちはしっかりと学びたいと思います。
今回の辺野古問題は、何も関わっていないことを示唆しているように、私は思います。

蛇足ですが、もし私が生活している社会が、他国や自国政府から耐えられないほどの攻撃を受けたら、いまの私は、ガンジーのような非暴力主義をとる自信はありません。
自分の理念には反しますが、たぶん武器をとって戦うだろうと思います。
草の根的に生まれてくるゲリラの戦いには、とても共感するところがあります。
その時には、老いも若きも、すべて戦いに立ち上がり、本当の意味での国民皆兵制が自発すると思っています。
国家による徴兵制ではなく、皆兵制であれば、いまの私は受け入れられます。
自らが戦うつもりもない人の閲兵式など見たくありません。

なお、「靖国参拝」については、書き出すときりがないのでやめますが、中国や韓国から批判されるからどうこうするという問題ではなく、それ自体の中に大きな問題が含まれていると思います。

なかなか共感は得られないでしょうね。
さらに違いが出てきたかもしれません。
しかし、コメントにはいつも感謝しています。
今度、おいしいコーヒーが手に入ったらぜひゆっくりとお話ししたいです。
ありがとうございました。

■カフェサロン「子どもの現在を考える」シリーズ第1回の報告(2015年10月25日)
昨日、湯島で、「子どもの現在を考える」シリーズ第1回のカフェサロンを開催しました。
日本子どもNPOセンターの専務理事の立柳さんに、先月発表した「子どもNPO白書2015」の取りまとめで考えたことなどを話してもらい、参加者で話し合いました。
立柳さんと一緒に白書をまとめた上野さんや編集者の杉山さんも参加してくれ、総勢15人の参加者がありました。
実に多彩な立場の方が参加してくれました。
なかには山梨から参加してくださった方もいます。
「子どもNPO白書2015」については、別途簡単な紹介をしておきましたので、ご関心があればお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#150913

立柳さんは、この白書をまとめて感じたいくつかの気づきを話してくださいました。
ひとつは、子どもを取り巻くさまざまな問題に個別に取り組んでいる人は多いですが、子どもの世界全体を観ている人が意外に少ないということです。
全体像が、なかなか見えてこない。
これは、福祉や環境問題全体についても言えることだろうと思います。
社会はさまざまな問題が絡み合って成り立っていますから、高齢者介護、情報社会化、まちづくりなどの問題との繋がりの中で見えてくる「子どもの問題」もあるでしょうし、逆に「子どもの現在」から、そうした問題の新しい側面が見えてくるかもしれません。
たまたま、前日に高齢者分野で施設展開している人が相談に来ましたが、「子どもの問題」にも視野を広げて考えると新しい解決策が見えてくるかもしれないと話したところでした。
社会の問題は、さまざまな問題のつながりや関係性の中で考えていくことが効果的です。
そのためには、その分野の実践者だけではなく、さまざまな立場の人が触れ合う場がもっと増えていってほしいと思います。

「子ども」は社会のさまざまな問題が凝縮されている存在かもしれません。
子どものかかえる問題からは、社会の実相が見えるような気がします。
そもそも「子どもNPO」ってなんだという話も出ました。
そこにはさまざまなテーマや課題が含まれていて、一括できないのではないかということかもしれません。
しかし、だからこそ、「子どもNPO」という捉え方に、私は意味を感じます。
縦割り社会で個別問題解決志向の強いいまの社会であればこそ、あらゆる問題につながっている
「子ども」の切り口から、社会を考えていくことが大切だと思います。
それに、立柳さんがお話してくれたように、「未来を託せるのは子ども」なのです。
子育てを終わった世代の人たちは、その思いから参加してくださったのだろうと思います。
子どもの視点に立って、未来を見ていくことは大切な事だろうと思います。

学童保育にも実際に関わっている上野さんは、子どもの遊びが大人によって「ルール化」されていることを紹介してくれました。
子供を大人がつくった「枠」にはめ込もうという「管理思想」が強まっているわけです。
子どものためという思いが子どもを抑圧しているという話もありました。
ここでも、「子どもNPO」の本質が問われています。
もしかしたら、福祉の本質にかかわることかもしれません。
NPOに関わっていると、いったい誰のための活動なのかと思わされることも少なくありません。
ちなみに、立柳さんたちは、「子育て」ではなく「子育ち」という視点で、子どもたちの主体性や尊厳をとても尊重した活動をずっとされています。

最近の子どもたちは、大人たちが決めたルールと自分たち(あるいは自分)のルールの「ダブルスタンダード」で生きているという話もありました。
いまや子どもも、「素直に」生きていけない、実に窮屈ですみにくい時代なのかもしれません。
子どもたちが、自分の主体性や自分の考えを育てるのではなく、それが摘み取られていく状況に、置かれているとしたら、未来はどうなっていくのでしょうか。
この問題は、「子どもNPO」の大きな課題だろうと思います。

子どもNPOは、資金的にも難しいという話もありました。
「子どもの貧困」と「子どもNPO」の財政的困難さは、実はつながっているのかもしれません。
しかし、だからこそ、そこに新しい社会のあり方の芽があるかもしれないと私は思っているのですが(つまりマネタリーエコノミーから抜け出す契機がある)、話がややこしくなるので、今回は発言を差し控えました。

ほかにもさまざまな論点が出されましたが、私自身、たくさんの気づきをもらいました。
土曜日の研修会には行政の人は参加してくれないという「嘆きの発言」もありましたが(まったく同感です)、行政の人や学校関係者にも、ぜひ参加してほしいサロンでした。

出版元のエイデル研究所の杉山さんが10冊持ってきてくださった白書は参加者のみなさんによって完売しました。
それだけでもうれしいことです。
この記事を読んだ方も、よかったらぜひ読んでみてください。
内容のとても濃い本です。

次回は、視点を変えて、学習塾などを通して、子どもたちに長年個人として関わっている、小出陽子さんに話題提供していただきます。
11月21日(土曜日)の午後を予定しています。
ぜひご参加ください。
驚かされる話がたくさん聞けるはずです。

■疑念1:お金で統治する政府への納税嫌悪感(2015年10月27日)
安保法制騒動に関して考えたことを10回にわたって書いてきましたが、しばらくその延長上に、現在の政府や経済界に関して、感じている疑念を何回か書いていこうと思います。
私の基本認識は、すでに「政府による戦争は始まっている」ということです。
それに関しては、このシリーズの最後に書ければと思います。

まずは昨日知った「衝撃的な事実」です。
今朝の朝日新聞から要旨を引用します。

安倍政権は26日、辺野古周辺の3地区の代表者を首相官邸に招き、今年度中に振興費を直接支出することを伝えた。辺野古への米軍基地移設計画に反対する沖縄県と名護市の頭越しに地元と直接交渉し、移設に向けた「同意」を浮き立たせる狙いがある。

辺野古周辺の3地区とは、自治体ではなく、住民自治会のような集落のようです。
その代表の区長も、法に基づいて選ばれたわけではなく、例えば私が地元の自治会の会長をやった時のように、自治会役員による持ち回りや推挙などで決められたのではないかと思います。
つまり、国が地方自治体を通さず、地元と直接交渉して公金を支出するということです。
その公金の一部は、言うまでもなく、私の税金です。

新聞記事の中で、成蹊大法科大学院の武田教授は、「お手盛りで額を決めて交付するのであれば、補助金等適正化法の趣旨に反する疑いがある。また、自治体ではない各集落が国からの交付金を適正に管理、使用できるのかも疑問だ」と言っています。
名護市の稲嶺市長は、「地方自治への介入だ」と批判しているそうです。

私にはこれは、政府によるお金を使った、あからさまな買収行為だと思います。
福島原発事故の補償のときの、石原環境相(当時)の「金目(かねめ)でしょ」発言を思い出しますが、安倍政府の最大の「武器」は「お金」なのだと思えて仕方がありません。
理念や共感、納得ではなく、お金で解決するスタイルです。
お金で解決しようとするのは、自らの正義を確信できないからでしょうか。
しかし、お金で解決するという発想は、問題を悪化させることになるのではないかと心配です。

政府がいやしければ、国民もいやしくなります。
今回、首相官邸に呼ばれた地元の3区長は期待をにじませたそうです。
仲井前知事のことも思い出します。
3人の個人的な批判をするつもりはまったくありません。
たぶんそうならざるを得ない状況に置かれているのでしょう。
お金の前にかしずく人、かしずかざるを得ない人はどんどん増えているのでしょうか。
格差社会化の、大きな問題がそこにあるように思います。
本来は反対になる契機であるはずですが。
金銭の前に心揺さぶられるのは、区長だけではありません。
たぶん地区住民のなかにも、そうした意識が生まれているのでしょう。
テレビで、地区住民が話していた中には、こうしたことを深く嘆いている人もいましたが、ある人は、基地で迷惑を受けるのは地元住民なのだから、名護市ではなく地区住民が交付金をもらうのは当然だと話していました。
沖縄にも、こういう発想が生まれてきているのかと、とても哀しい気になりました。
住んでいる地域は、確かに住民たちのものかもしれません。
しかし、住民たちだけのものではありません。
そもそも土地を、個人の私的所有権の対象としたローマ法の発想に間違いがあるように私は思います。
都市化されたローマと違い、自然の中で生きていたゲルマンの世界で生まれた法理は、土地は所有ではなく、総有とされたと、私は大学で学びました。
私がいまもって強く記憶していることの一つです。
私有地であっても、土地は個人の勝手には処分できないということです。
たしかに、基地ができて一番被害を受けるのは地元の人たちです。
だからと言って、お金と引き換えに、住民たちだけで土地の処分を勝手に決めていいのかどうか。
そこにどんな施設を作ってもいいのかどうか。

これは原発立地にも言えることです。
すべての地域が、もし基地や原発を引き受けなければ、基地も原発もできません。
原発の廃棄物の最終処理場がいまだにできないことが、それを物語っています。

もっと堂々と国民と議論し合う政府になってほしいと思います。
議論では説得できないからと言って、金銭や利権で買収するような政府にはなってほしくありません。
しかも、辺野古の環境監視4委員、業者側から寄付・報酬などという動きさえあるのです。
学者や有識者もまた、お金で心揺るがせられているのでしょうか。
お金で統治する政府への納税意欲は低下します。
買収行為に荷担することになるわけですから。

政府による戦争での殺人が罪にならないように、政府による買収もまた、罪にはならないのでしょうか。
政府の犯罪を訴えても、強行行為の中止を訴えても、同じ政府によって否定されたり無視されたりしてしまう。
3地区が首相官邸に呼ばれた昨日、翁長知事による辺野古承認の取り消しに関して、国交相が効力停止を決めたという報道がありました。
工事を継続したい防衛相の意向を受けて、同じ政府閣僚の石井国交相は、不服審査の裁決もせずに、防衛省が工事継続できるようにしたわけです。
現在の政府の統治機能とは、いったいなんなのか。
不気味さを強く感じます。

■疑念2:和を尊ぶ国民性はどこに行ったのか(2015年10月28日)
中野剛志さんの「TPP黒い条約」(集英社新書)のはじめに、こんな文章があります。

日本人は、元来、和を尊ぶ国民性をもっていた。それが明治になって、他人を自己の敵とみなすかのような西洋の対人関係や、正邪・善悪・権利義務をはっきりさせようとする西洋の制度がもち込まれた。そして、日本の文化や日本人の国民性を省みない、性急かつ無批判な近代化が進められたのである。これこそが、日本および日本人の混乱の原因である。

これがもし本当であるとすれば、私はちょっとうれしくなります。
人間とはそもそも「和を尊ぶ」本性を持っていると思っているからです。
ただ、そういう本性は、実際にはなかなか現実化しません。
石器時代はともかく、最近の文明化された社会は生きづらいからです。
ですから、日本人は元来、和を尊ぶ国民性をもっていたなどと言われるとうれしくなるのです。
しかし、「和を尊ぶ国民性」は、いまはどこに行ってしまったのか。

一昨日(2015年10月27日)の朝日新聞天声人語に、こんな言葉が紹介されていました。

「わたしたちは、みんなおたがい助け合いたいと望んでいます。……わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです。」

これは、チャプリンの映画「独裁者」に出てくる、有名な結びの演説です。
互いに助け合って生きれば、飢餓など起きないと、インドの経済学者アマルティア・センは言いました。
人類学者サーリンズは、石器時代には「富を持つことは負担だった」と書いています。
富を持つことに価値を持ち出して、文明を生み出して以来、人は「和」を忘れがちです。

争いを前提に政治を行うのではなく、和を基本に政治を行うことはできないのか。
私が、安保法制騒動考で書いた時の基本にある考えは、そういうことです。
しかし、日本政府はもとより、最近の日本人は、「和」からは発想しないのかもしれません。
そうだとすれば、私にはとても残念なことです。

「和」の対極にある一つの考えは、「分断」です。
辺野古基地周辺の住民たちにお金をばらまいたのは、明らかに住民分断策です。
「和」とは、真逆の政治の象徴です。
政治だけではなく、最近の経済の方向も、「和」ではなく「分断」を目指しているように思えてなりません。
マスコミさえもが、「分断指向」を持っているようにも思えます。
この指向は、海外にも向かうでしょう。

「和」には「小さな和」もあれば「大きな和」もある。
「小さな和」は、時に「大きな和」への障害になります。
特に、内を向いた「和」は、対外的には攻撃的になることも少なくありません。
戦争が起きると、必ずと言っていいほど、内部的には「和」が出現します。
そうならないためには、「和」は開かれていなければ、いけません。
「和」は、そのまま、平和につながるわけではないのです。

安保法制騒動考の第1回目で書いた「目的の転移」を指摘した、R.K.マートンは「予言の自己成就」とか「予測の自己実現」ということも指摘しています。
「他国から攻められるかもしれないと軍事力を強化したら、それを他国が脅威に感じ、攻撃をしかけてきた」というのが、「予測の自己実現」です。
日本の戦国時代には、こうして多くの戦乱が生まれました。
たしかに、現在の世界情勢は、すきを見せたら攻められるかもしれないという思考の呪縛から多くの人は抜け出せていないことでしょう。
「内向的な小さな和」を守るために、攻められることを前提にして、結果的に「和」を否定している。
私にはそんな気がしてなりません。
今回の安保法制騒動で、自民党な一糸乱れないほどの「和」を示しました。
しかし、それはたぶん私たちが大事にしてきた「和」ではないでしょう。
「和」が尊ばれるのは、異論を認識しあうことがあればこそですから。
すでに、「戦時体制」に向けて、異論を許容しない状況が生まれているとしたら、恐ろしいことです。

「開かれた大きな和」の理念を目指して、新しい国家のあり方を模索するべき時期に来ているように思います。
「開かれた大きな和」。
日本の古代の呼び方の「大和」には、そうした「開かれた大きな和」の理念があったと思いたいです。
そうした「開かれた大きな和」の理念から生まれる、平和とは何のか。
そこに国家政府による軍事力は入る余地がないように思っています。

■我孫子市に「サダコ鶴」がやってきます(2015年10月29日)
2015年12月6日に我孫子市に「サダコ鶴」がやってきます。
みなさん、「サダコ鶴」をご存知でしょうか。

佐々木禎子(さだこ)さんは、2歳のときに広島で原爆に被爆しました。
その後元気に成長しましたが、9年後に発病、8か月の闘病生活の後、昭和30年10月25日に亡くなりました。
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった少女です。
禎子さんは、病床においても生きる希望を1枚1枚の折り鶴に願いを託し、精魂込めて折り続けていたそうです。
貞子さんが実際に折った折り鶴(「サダコ鶴」)が、いま、NPO法人SADAKO LEGACY(貞子さんのお兄さんとその息子さんが中心になって立ち上げました)によって、平和の祈りを込めて、世界中に飛び出しています。
そして、今年の12月6日に、私が住んでいる我孫子にもやってきます。

SADAKO LEGACYの中心のおひとり、佐々木祐滋さん(貞子さんの甥)はシンガーソングライターです。
祐滋さんが作曲した、禎子さんの思いを綴った楽曲「INORI」は、2010年のNHK紅白対抗歌合戦で歌手のクミコさんによって歌われたのでご存知の方も少なくないでしょう。
12月6日のサダコ鶴贈与式には、祐滋さん親子も我孫子に来てくださるとお聞きして、市民とのコラボコンサートができないかと考えました。
祐滋さんに相談したら、快諾してくれました。
そこで、私の好きな、自発的な実行委員会を呼びかけました。
すべてゼロからのスタートでしたが、我孫子で音楽活動をしているA−Linkの宮内さんががんばってくれて、形が見えてきました。
時間がないので、心配でしたが、子どもたちから高齢者まで幅広い人たちのコンサートが実現できそうです。
我孫子界隈にお住まいの方で、スタッフワークなどで汗をかいてもいいという方がいたら、ご連絡ください。

12月6日は、ぜひ我孫子のけやきプラザにお越しください。
詳しい案内はまたご案内させてもらいます。
ボランティアスタッフも募集しています。

https://www.youtube.com/watch?v=aNTmENrpRRg

■カフェサロン「子どもの現在と子どもたちから学ぶこと」のご案内(2015年10月30日)
9月からスタートした「子どもの現在を考える」シリーズ第2回のご案内です。
第1回目では、子どもNPO白書をまとめられた日本子どもNPOセンターの立柳さんにお話ししていただきましたが、それを受けて、2回目は、子どもたち自身の問題に焦点を当てていくことにしました。
そこで、長年、子どもたちの世界に関わってきている、どんぐり倶楽部成田教室の小出陽子さんに話題提供してもらいながら、みんなで考えていければと思います。
私は先日、小出さんから、子どもたちの世界に関する衝撃的なお話をお聞きし、ぜひ多くのみなさんとも話し合いをしたくなっています。
サロンでは、小出さんがこれまでの実践の中で出会った子どもたちのことに言及しながら、次のような内容を話してもらえると思います。
・子どもたちの「言葉と現実がつながらない」「自力で考えられない」現状とその背景
・子どもたちは本来はわかろうとすること、考えようとすることを楽しむ存在であること
・学習方法を変えることで、大人と子どもの関係が変わること

子どもの抱える問題から、私たちの生き方やいまの社会のあり方の問題も見えてくるはずです。
なお、小出さんが書かれたブログ記事がありますので、よかったらお読みください。
https://www.facebook.com/yoko.y.7/posts/817174931714103

前回同様、子どもに関わられている方に限らず、ぜひさまざまな分野で活動されている人たちに参加していただきたいと思っています。
よろしくお願いいたします。

●日時:2015年11月21日(土曜日)午後1時〜3時
●場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●テーマ:子どもの現在と子どもたちから学ぶこと
●話題提供者:小出陽子さん(どんぐり倶楽部成田教室主宰)
●参加費:500円
●申込先:comcare@nifty.com

■疑念4:TPPへの危惧−もう一つの戦争(2015年10月31日)
安保法制を整備し、日米軍事同盟を強化しないと他者からの攻撃を受ける恐れが高まっていると考えている必要が私のまわりにも少なくありません。
その場合、「他者」はかなり具体的な「他国」のイメージがあるようです。
一方、そうしたことが、たとえばイスラム過激派の攻撃を誘発するという意見も少なくありません。
アフガニスタンや中東で活動している人たちはそう感じているようです。
軍事的・暴力的攻撃に関しても、このように正反対の意見があります。
「戦争」が新しい局面に変質(対立構造が国家間から組織間に変質)してきていることも考慮に入れながら、総合的に考えなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/post-947e.html

しかし、私たちの生活が攻撃されているという意味では、まったく違う局面での「もう一つの戦争」が進んでいるように思います。
私にはその問題の方が、もっと大きな「私たちの生活の安全保障問題」ではないかと思うのです。
それは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題です。
昨年亡くなられた宇沢弘文さんは、TPPは万物を私有化し利潤追求の対象にしようとする市場原理主義の現れであり、各国がその固有の歴史の中で構築してきた社会的共通資本を破壊すると言っていました。
宇沢さんがいう、「社会的共通資本」とは、人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的制度のことです。
たとえば、日本の国民皆保険制度と組み合わさった医療制度や自然と調和した農業の営み、里山などの自然環境です。
あるいは、経世済民のための商慣行や無尽講のような相互扶助の経済の仕組みも、そこに含めてもいいかもしれません。
それらは「誰かのもの」というよりも、「みんなのもの」と言っていいでしょう。

最近の新自由主義的経済は、すべてのものの市場化(金銭化)を目指して「暴走」しています。
そうした「汎市場化」の動きに違和感を持ったことが、27年前に私が会社を辞めた理由の一つです。
少なくともそれには加担したくなかったからです。
当時は、環境や福祉の分野がこれからの成長産業だなどと言われていた時代です。
そうしたことへの異論は、当時私も話をしたり書いたりしていましたが、流れは加速されるだけでした。
最近も、その種のことを話させてもらうこともありますが、相手にはまったくと言っていいほど、その意味が伝わらなくなってきています。
フロンティアが不可欠な資本は、あらゆるものを「市場化」し、あらゆるものが金銭利益追求の対象になってきていますが、人間さえもがいまやその「部品」あるいは「商品」へと化しているのかもしれません。

TPPの報道では、関税が話題にされますが、関税はその「氷山の一角」でしかありません。
世界が単一の市場になってしまえば、地域固有の文化である「社会的共通資本」は失われていくでしょう。
それは、とりもなおさず、私たちの生活が壊れていくということです。

TPPを主導しているのは、いまやアメリカを掌中にするほど巨大化してきた資本だろうと思います。
その資本が目指すのは、徹底した自由化と市場競争化を目指した、新しいルールです。
しかも、そのルールを運営する主体は、悪評のISD条項に示されているように、国家というよりも、投資家です。
国家主権から投資家主権への変化だという人さえいますが、私もそう思います。

そのTPPに日本は参加しました。
郵政民営化の悪夢が、また繰り返されることになりかねません。
問題は「経済」ではなく「文化」です。
「金融ビッグバン」が、日本の社会をどう劣化させたかを思い出すと恐ろしくなります。
つまり、日本はいま、資本による侵略を受けているとも言えるでしょう。
私には、「もう一つの戦争」のように思えてなりません。
軍事力のやりとりで見える戦争だけではないのです。
そして、その「戦争」では、ほぼ「敗戦」は見えてきました。
70年前のように、大本営発表にだまされているような気がしてなりません。

近隣諸国との関係や平和のための「安保法制」に目を奪われているうちに、日本はすっかり「他者」に侵略されてしまうかもしれません。
いやもうかなりの部分が、壊されてしまったような気もします。

「無意識のアメリカヘの自発的従属」という、「戦後レジーム」の完成が、「戦後レジームからの脱却」を掲げている安倍政権によって成し遂げられようとしているのは、実に皮肉な話です。

■疑念5:さらにもう一つの戦争としての原発(2015年11月2日)
TPPを「もう一つの戦争」の象徴と書きましたが、さらに「もう一つの戦争」にも言及したいと思います。
それは「原発」です。
原発を起点として見えてくるのは、システムと人間の戦いではなく、個々の人間が自らのうちに内在させている、「2つの生」の戦いかもしれません。

生のエネルギーは、「差異」から発生すると私は考えています。
これは、実に悩ましい問題です。
すべてが平安で、満ち足りていれば、それは「生きていない」ことと同じかもしれません。
生きているとは、変化することであり、その意味では「平安」ではないことかもしれません。
「差異」があれば、「秩序」を維持するために何かが必要です。
そう考えると、「戦争」と「平和」を同じコインの裏表とも思えてくるのです。
これは大きなテーマなので、今回はこれ以上書くのは止めましょう。

問題は、私たちのうちにある「2つの生」です。
原発を欲する生と原発を否定する生です。
おそらくほとんどの人の思いの中に、意識はせずとも、この2つの思いはあるでしょう。
そのため、福島の原発事故で、あれほどの生々しい体験をしたにもかかわらず、私たちは原発を捨てきれていないのです。

私は、原発は人類に埋め込まれた「自死装置」だと思っています。
先日、NHKの番組「新・映像の世紀」第1集を観て、改めてそう思いました。
もしまだ観ていない方がいたら、ぜひ見てください。
http://www.nhk.or.jp/special/eizo/

そして、私たち日本人は、その原発のとりこになってしまいました。
すでに日本列島の各地に原発ができています。
視点をかえれば、これは巨大な自爆装置を日本列島に埋め込んでしまったということです。
ここに、意図的な攻撃か、あるいは事故による航空機の激突か、さらには自然災害の直撃か、理由はともかく、破壊的な力が働いたらどうなるのでしょうか。

これは、「戦争」ではないかもしれません。
しかし、万一そんなことにでもなれば、私たちの「安全保障」は守られようもありません。
原発が原爆化するだけが問題ではありません。
原発の稼働によって発生する放射性廃棄物は、いまの展望では、じわじわと私たち人間の生命をむしばんでいくでしょう。
私たちは、そうした極めて「危険な状態」の中で、「他国からの攻撃」を心配している。
私には、それが滑稽にさえ思えます。

なぜそんな危険な装置を維持しているのか。
それは、一度獲得した物質的な利便性や経済的な成長への思いを捨てられないからでしょう。
原発は生命になじまないものと考えている私も、だからといって、原発依存社会から抜け出すわけにはいきません。
悩ましいのは、原発が引き起こしている「戦争」の敵は、実は私たち一人ひとりの心の中にいることです。
敵は「原子力ムラ」の人たちではないのです。

もし本気で、人間の安全保障を考えるのであれば、原発は一刻も早く廃炉していくべきです。
海外に原発輸出するのも止めるべきでしょう。
世界的な脱原発運動を起こさなければいけません。
福島で起こった原発事故さえもきちんと原因究明せず、うやむやの中で原発再稼働に動き出しているなかで考える安全保障とはいったい何なのか。
原発と安保法制は、深くつながっていることを認識しなければいけないと思っています。

この戦争を避けるには、私たちが自らの生き方を変えることしかないように思います。
まずは一人からでも、変えなければいけません。

■疑念6:戦争の始まりの非論理性(2015年11月3日)
戦争の始まりは、ほとんどの場合、論理的には説明できないように思います。
第一次世界大戦は、サラエボで発生したオーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者夫妻の暗殺事件で始まったと言われます。
武力による威嚇活動をしていると、意図せざる偶発事件が起きて、それが戦争に向かってしまうおそれがあります。
南シナ海で、アメリカと中国がまったく意図せざる偶発事故を起こし、それに日本が巻き込まれる危険戦略がゼロだとは言えません。
武力を伴う衝突は、偶発から暴走へと進まないとも言えません。
軍事力を持つということはそういうことでしょう。

意図的に始められる戦争もあります。
ベトナム戦争の本格化は、トンキン湾事件ですが、これはペンタゴン白書であばかれたように、武力を持っていた米軍による意図的な偽装活動からです。
これは、軍事力が勝っていたほうが働きかけた事例です。
こうした事例は少なくありません。
軍事力は抑止効果よりも誘発効果が大きいと私が思う理由の一つです。

イラク戦争は、イラクに大量破壊兵器があるということで始まりました。
相手を恐れさせる軍事力が戦争を誘発させた事例です。
イラクの軍事力が抑止力を持つほど大きくなかったから戦争が起きたのでしょうか。

では世界最大の軍事力をもつアメリカは誰からも攻撃されないでしょうか。
9.11は、そんな幻想を破りました。
9.11は戦争ではないというかもしれませんが、当時のブッシュ大統領は「戦争」だと言い、アフガニスタンとイラクとの戦争が始まり、6000人を超えるアメリカ軍の若者が殺されました。
殺したのは誰でしょうか。

戦争は国家間で行われるとは限らなくなりました。
その意味でも、国家単位の軍事力比較は、あまり意味をもたなくなったはずです。
それに、原発装置のように、軍事力の支配権が変わってしまうことさえあります。
そのことも十分考えておかねばいけません。
大切なのは、「戦いの構造の変化」をしっかりと認識することだろうと思います。

軍事力が抑止力になるためには、合理的な判断が双方で行われる必要があります。
しかし、そもそも戦争は「非合理」なものです。
ほとんどの人は、戦争をしたいとは思っていないでしょう。
戦争をしたいと思っている人がいるとすれば、論理的に考えていない人や特殊な状況にある人と考えるべきでしょう。
そういう人は、論理的に思考しませんから、抑止理論は成り立たないはずです。

戦争が発生するのは、偶発するか、あるいは軍事力の暴発かしかないように思います。

それでも皆さんは、軍事力が抑止力を持つとお思いでしょうか。
私にはまったく理解できないことなのです。

■「TPPと共済」を気楽に話し合うサロンのお誘い(2015年11月4日)
TPPへの参加が決定されました。
マスコミでは、もっぱら「関税問題」や「農業問題」として話題になっていますが、TPPは単なる経済問題ではなく、文化の問題でもあります。
医療や福祉への影響も少なくありません。
日本に長らくあった農民や庶民の支え合い(共済)文化にも影響があるでしょう。
しかし逆に言えば、これを契機に改めて、日本の庶民が培ってきた「相互扶助経済」を思い起こすことができれば、新しい動きにつなげられるかもしれません。
来年から、改めてそうした課題に取り組んでいこうと思っていますが、そのいわばプロローグとして、「TPPと共済」を気楽に話し合うカフェサロンを開催します。
話題提供は、長年この問題に取り組まれている、SPM研究所の佐々木憲文さんにお願いしました。
最初に少しだけ話題提供と佐々木さんの危機感を話してもらい、後はみんなで話し合うスタイルです。
テーマが難しそうですが、誰でも話し合いに参加できる「プロローグ」編ですので、気楽にご参加ください。
「共済」ってなんですか?という人も歓迎します。
「共済」は、これからの経済のキーワードだと私は思っていますので。

日時:2015年11月17日(火曜日)午後7時〜9時
場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
テーマ:TPPと共済をテーマにした気楽な話し合い
話題提供者:佐々木憲文さん(SPM研究所所長)
参加費:500円
申込先:qzy00757@nifty.com

■カフェサロン「民主主義ってなんだろうか?」のお誘い(2015年11月4日)
湯島では、時々、「民主主義ってなんだろうか」という話になります。
そこで、一度、原点に返って、「民主主義」をテーマにした、ちょっと研究会的なサロンを始めることにしました。
第1回目は、とりあえず間口を広げて、「民主主義ってなんだろう」を話し合おうと思います。
何やら「青臭い議論」ですが、一度やってみたかったのです。
とりわけ、「権利」の視点から考えるのか、「責任」の視点で考えるかに、私の関心はあります。

たぶん参加者の数だけの「民主主義」の捉え方が出されると思いますが、それを踏まえて、2回目からは、究極的民主主義研究所所長の武田文彦さんの著書「民主主義進化論」をテキストにした読書会を数回行う予定です。
第1回目のカフェサロンの参加者には、「民主主義進化論」上下2巻セットを、武田さんのご好意で、贈呈させてもらいます。

いまさら民主主義?という方もいるでしょうが、いまだからこそ民主主義なのだと考えています。
多くのみなさんの参加をお待ちしています。
もしまわりに関心を持ってくれそうな人がいたら、ぜひお誘いください。
よろしくお願いいたします。

○日時:2015年11月15日(日曜日)午後1時〜3時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「民主主義ってなんだろう」
○ゲスト:武田文彦さん(究極的民主主義研究所所長)
○スタイル:武田さんの短いお話の後、みんなで話し合う。
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■疑念7:「戦時体制」を体験したことはないのですが(2015年11月7日)
今日はちょっと寄り道です。

以前も書いたことがありますが、NHK「クローズアップ現代」や報道ステーションでのコメンテーターの発言に対して、安倍政権が圧力をかけたということが何回か起こっています。
そうしたことに関して、今朝の新聞では、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が「政府が個別番組の内容に介入することは許されない」などと厳しく批判したという報道がありました。
政権が報道に圧力をかけるというのは、異常なことですが、日本では「話題」にはなっても、「政治問題化」していくことにはなりにくいのが現実です。
肝心の報道陣が、見事なまでに「自主規制」してしまうからです。

これもひとつの例ですが、最近、日本が、窮屈な戦時体制のようになってきている気配を感ずることがあります。
私は実際には「戦時体制」を体験したことはありませんが、たぶんこんな雰囲気から始まったのだろうなと思います。

公民館などで憲法問題や平和の問題に関する集まりをやりにくくなっているというような話も不気味です。
しかも、その主役が公務員だと聞けば、まさにこの国にはもはや憲法はないのかと思わざるを得ません。
憲法99条には、「公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記されていますが、憲法をきちんと読んでいない公務員は少なくないでしょう。

しかし、公務員だけではありません。
たとえば、一昨日の朝日新聞にはこんな記事が載っていました。

東京・渋谷の「MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店」が、「自由と民主主義」をテーマに開催していたブックフェアを、ネット上の「偏っている」といった批判を受けて一時中止した波紋が広がっている。

もちろんこれは、政府が圧力をかけたわけではありません。
「偏っている」といった批判がネットで出回っただけのことでしょうが、それを受けて、大書店がブックフェアをやめてしまうなどということが起こるのは、これも「異常」としか言えません。
私には、社会は病んできているとしか思えません。
どう病んでいるかと言えば、成員が主体性を失い、権力に迎合して、小さな保身思考に呪縛されているということです。
主体性を失った成員から成る社会は、誰かの旗振りひとつで、いずれにも動き出します。
社会は死につつあると言いたい気分です。

これまで書いてきたことの構図で言えば、「制度」と「人間」の「戦争」はすでに勝敗が決まりつつあるのかもしれません。
生活者は「消費者」となり、「生産者」は「労働力」となり、社会から生きた人間がどんどん消えてしまっています。
ガルトゥングのいう「構造的暴力」のもとでの、非平和状況が生まれてきていると言ってもいいでしょうか。

こうしたなかで、安保法制が次々とつくられていくと思うと、恐ろしさを感じます。
自民党も民主党も、結局は現在の安保法制に賛成していると思いますので、政治の世界においては、よほどのことがない限り、もはや後戻りはしないでしょう。
だとしたら、どうするか。
やはり、危機感を持った人が、それぞれの生き方を変えることしかないのかもしれません。

最近、テレビのニュースや政治関連番組を見る気がしなくなってきています。
しかし、こうしたことがまさに戦争へと向かうことに荷担するのでしょう。
ニーメラーのメッセージをもう一度かみしめなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

■疑念8:「国家」と「生活者」の「戦争」(2015年11月7日)
安全保障の「安全」は、誰にとっての「安全」なのか。
私の最大の関心はそこにあります。
その点が、世間の常識と違うために、私の議論はなかなか伝わらないのだろうと思っていますが、そのことをどう書けばいいか、自分でもわかりません。
何回も書こうとしながら、うまく書けません。

今朝のNHKテレビの「こころの時代」は、ルポライターの鎌田慧の「ぼくが世の中に学んだこと」でした。
その最後に出てくる、青森県の大間原発建設の用地買収に最後まで応じなかった小笠原あさこさんの話が出てきます。
その土地は、原発からわずか200メートルしか離れていないところですが、あさこさんが最後まで土地を売らなかったために、原発は炉心の位置をずらして建設されました。
あさこさんが、土地を売らなかったのはなぜか。
娘の厚子さんが語ってくれています。
「海、あるべ、この土地あるべ。ぜにっこなくても、一生生きていける。1億円もらっても結局は1銭もなくなるぞ。この土地は絶対手放してはいけない」
厚子さんは、その母の言葉を守って、いまも土地を手放してはいないのです。
そこに、風力発電と太陽光発電で、ログハウスをつくっています。
鎌田さんは、あさこさんは運動家ではないただのおばさんで、これこそ「生活者の考え」だと話していました。
「国民」ではなく、「生活者」です。
もちろん「消費者」などでもありません。

それを見ていて、まさにそこに「国家」と「生活者」の「戦争」を感じました。
「国民」「消費者」などという言葉の意味を、私たちはきちんと考えなければいけません。
その思考レベルから抜け出さないと、社会の底で行われている「戦争」は見えてこないでしょう。
戦争は、他国との関係ではなく、自国内部の関係に基本があると私は考えています。
自国内部の権力構造を強化するために、対外的な戦争は行われるにすぎないのです。
要するに、「敵は本能寺!」なのです。

「国民」という概念は、明治維新後につくられた概念であり、「消費者」という概念は資本主義経済とともにつくられた概念だろうと思います。
この2つの概念は、私には「戦争」と切り離せないような気がします。
近代国家は、政府に従順な国民を必要とします。
資本主義の成長には、労働力以上に「消費者」が必要です。
「国民」と「消費者」をどうやってつくっていくか。
その効果的な手段が、「戦争」という手段ではないかと思います。
「戦争」を主導する人たちは、決してみずからは戦場には行きません。
これが、現代の「戦争」の実体ではないかと、私は思っています。

いささか舌足らずの、粗雑で過激な内容になってしまいました。
しかし、どうしてみんな「戦争の構図」が見えてこないのだろうかと不思議でならないのです。
私だけが、考え違いしているのでしょうか。

最近、報徳会や無尽講のことを書いた「相互扶助の経済」という本を読みました。
明治時代に、報徳活動による生活者に軸足を置いた経済や国家づくりと政府に軸足を置いた経済や国家づくりの抗争が見えてきます。
地域の生活者たちの汗と知恵は、中央政府に吸い取られ、日露戦争に使われました。
それを拒否して頑張った経済人もいましたが、結局は次第にそうした活動は消えていってしまいました。
生活者の生活を支えていた、海と土地は消えていってしまったのです。

南相馬市で会った、漁師の方が、この海と山があれば豊かな暮らしができていたはずなのに、お金に負けてしまっていた、と嘆いていたのを思い出します。

外国との「熱い戦争」はありませんが、国内での「冷たい戦争」は、広がっています。
国家政府の安全が、私たち生活者の安全を守ってくるとは限りません。
政府の安全と生活者の安全は、まったくと言っていいほど、別のものです。
政府の安全のために、国民が被害を受けることこそに、私は不安を感じています。

■疑念9:国家と自治体の関係(2015年11月7日)
国内の「構造的暴力」という「対立」は、中央政府と地方政府との関係にも見られます。
これは、「国家観」にもつながる重要な問題です。
「国家」あるいは「政府」の目的、あるいは存在意義は何なのかということです。
安保法制騒動考の第1回で書きましたが、目的が違う仕組みを「同じ言葉」で語るのは極めて危険です。
たとえば、「国家を守る」ということが意味するものが、まったく正反対になることもあるからです。

最近目に余るのは、政府による地方自治の軽視です。
私は、江戸時代の日本は、地方自治の集積によって日本全体が構成されていたと考えています。
ベクトルが反転したのは明治維新後の近代国家体制になってからです。
近代国家の枠組みに絡めとられることに関しては、当時の生活者たちはかなり抗った形跡があります。
生活者の汗と知恵と蓄積してきた「生活のための資金」も、近代的な銀行制度によって、政府に吸い上げられ、日露戦争や国家政府の基盤づくりに投入されました。
日本が近代国家としての基盤を確立できたのも、国家単位の対外戦争に取り組めたのは、そうした資金と国民意識を持つようになった生活者がいればこそ、でした。
それは当然のことで、価値を生み出すのは、生活者たちなのですから。

これも昨日紹介した古市さんの本に紹介されていた話ですが、2005年実施の世界価値観調査によると、「もし戦争が起こったら、国のために戦うか」という設問に「はい」と答える日本人の割合は15.1%。調査対象国24か国中、最低の数値だったそうです。
ちなみにスウェーデンは80.1%、中国は75.5%、アメリカは63.2%。
これでは法律をつくっても、戦争はできません。
それで安倍政権は、教育基本法を変えたわけです。

話がずれてしまいましたが、国家は人々の生活とは程遠いところにあります。
しかし、国家を支えているのは、いつの時代も生活者たちなのです。
生活に近いのは地域社会です。
「もし自分が住んでいる地域社会に誰かが攻め込んで来たら、自分の生活を守るために戦うか」という設問であれば、回答状況は変わるのではないかと私は思います。
ちなみに私は。この質問であれば、躊躇なく「戦う」と答えます。
みなさんはいかがでしょうか。

沖縄の基地問題を考えてみましょう。
沖縄の人たちは、すでに「基地」によって、生活を侵略されています。
それに対して、みんな立ち上がって、辺野古反対、普天間反対を叫んでいます。
しかし、そんな声など全く無視して、憲法に違反してまで、国家政府は暴力的な行為を重ねています。
つまり、自分が住んでいる地域社会に攻め込んできているのは、他国ではなく、自国の中央政府なのです。
これをどう考えるのか。
悩ましい問題です。

自分の生活圏である地域社会を守ることと国家政府の安全保障政策は、対立することがあるのです。
対立した時に、どちらに主軸を置くか。
もし日本が憲法に謳っているように、国民に主権があるのであれば、いうまでもなく生活圏を重視して、考えるべきです。
国を守るのは手段であって目的ではないからです。
憲法学者の小林節さんは、「アメリカ独立戦争からいけば、国民が幸福に暮らすために国があって、その国を運営するための権力機関を国民がつくり、国民の幸福を増進する。すなわち、国が国民に自由と豊かさと平和を与え続けるならいいけれども、それを奪ったら、政府も組織も取り替えていいんですよ」と佐高信さんとの対談で語っています(「安倍「壊憲」を撃つ」平凡社新書)。

中央政府のために、生活者の、そしてその生活圏である地域社会の「自由と豊かさ」が脅かされていて、それを法的に訴えても、政府は聞く耳を持とうとはしない。
そんな政府の語る「安全保障」とか「平和」というのは、一体だれのためにあるのか。
いまの政府が、国民が幸福に暮らすためにあるとは、私にはどうしても思えないのです。
会社を倒産させないために、社員を解雇するのも本末転倒だと思いますが、国家の安全のために、一地方を犠牲にする国家は、どう考えても、おかしいでしょう。
沖縄で起こっているような問題が、自らが住んでいる地域に起こったら、と思うと、改めて国家の、あるいは政府の恐ろしさを感じます。
沖縄の基地問題は、決して他人事ではありません。
地域社会で生活している人たちの声を聞かない政府は、小林さんが言うように、取り替えなければいけないのです。
それができないとしても、そうした政府が考える「安全保障」は、少なくとも「生活者の安全」とはほど遠いものであることを認識しなければいけないと思っています。

■疑念10:なぜ人は戦場に行くのか(2015年11月7日)
疑念シリーズも最後になりました。
最後は、なぜ人は戦争に行くのだろうか、ということを考えてみたいと思います。
戦争を起こすのは、権力者かもしれませんが、戦争を実際に遂行するのは、私たち人間だからです。
最近の原発再稼働の報道で、機会にスイッチを入れる作業員を見ていて、この人がいなければ原発は再稼働しないのにな、といつも思うのです。
その作業員の人を非難しているのではありません。
その作業員の方だけではなく、たくさんの「人間」が実際に再稼働作業に取り組んでいるからこそ、原発は再稼働しているわけです。
政府の決定だけで、原発が動き出すわけではありません。
同じように、戦争も宣戦布告しただけでは始まりません。
誰かが戦場に行って、「殺し合い」を始めなければ実際の戦争は始まりません。

と、思いたいのですが、実際には「政府の決定」だけで物事が動くことが少なくない。
どうしてでしょうか。
戦争が始まると、なぜ、生命の危険を恐れながらも、人を殺しに戦場に行くのでしょうか。
「国を守るため」なのでしょうか。
「赤紙」(召集令状)1枚で、なぜ人は戦場に行ったのか。

最近、「安倍「壊憲」を撃つ」(新書 2015)という本を読んでいたら、憲法学者の小林節さんがこんな発言をしいていました。 

フランスやアメリカの場合は、国家で一番偉いのは個々の国民だという思想が徴底している。だから、中央政府というのは雇われマダムだという意識が強い。日本は一番上に天子様がいたから上が偉い。どうしても上に向かってお辞儀してしまう。もうこれは民族性なんです。

私もこの意見に魅力を感じますが、「民族性」と言ってしまうと思考停止になってしまいます。
それに江戸時代に日本列島に住んでいた「民族」は、どうもそうではなかったのではないかと思えてならないのです。

400年近く前に、10代のラ・ポエシはこう書いています(「自発的隷従論」)。
あなたがたが、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。
そして、彼はこう呼びかけます。
もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。

戦争の根源は、もしかしたら自らのうちにあるのではないか。
ユネスコ憲章の宣言は次の言葉から始まります。
戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
つまり、人の心の中には「戦争の芽」があると言っているのです。

ラ・ポエシはまたこうも書いています。
みずからの自立を守るために戦う自由な軍とその自立を妨げようとする軍と、どちらが勝利を収めると推測できるだろうか。
答は明白のような気がします。
つまり、戦争の勝敗は、実は決まっているのです。

ただし、それは意思を持つ人間の場合です。
人が自らの意思をもたなくなってしまった時代の戦争は、どうなるのでしょうか。
そして、もしかしたらいま、日本はそういう状況になってきているのではないか。

私がいま最も危惧する戦争は、思考する意志を持ちつづける生き方を妨げるものとの戦いです。
戦場は、海外やどこか遠くにあるわけではありません。
私たちの生活の日常の中に、実はすでに「戦争」は芽吹いている。
「赤紙」で動くような生き方からは抜け出なければいけない。
毎日そう思いながら生きていますが、それはそう簡単なことではありません

■なぜ国会が召集されないのか(2015年11月11日)
昨日と今日、在宅時間だけですが、国会の審議を見ていました。
一番がっかりしたのは、「高木問題」などに報道の多くの時間を割いていたころです。
そんな問題など、私にはほとんど興味はありません。
たった2日間なのですから、問題を拡散せずに、野党は単に一点だけを追求してほしかったです。
その1点とは、「憲法無視」を明らかにするということです。

憲法違反という視点で問題を設定しても、さまざまな論点が見えてきます。
安保法制の参議院の特別委員会での採決も、今日、福島さんが追及していたように、私には明らかな憲法違反と思えます。
ほかにもいろいろとあるでしょう。
そして、極めつけは、憲法53条違反です。
それらを効果的に組み合わせて、野党が連携して、問題提起すれば、安倍内閣の本質はかなり露呈できたはずです。

憲法53条には、こう書かれています。

内閣は、国会の臨時会の招集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

野党5党は、すでに10月21日に召集要求書を出しています。
しかし、内閣は首相の外遊を理由に、すでに3週間も経過しているのに、国会の召集をしていないのです。
これは私には明らかな憲法違反と思えるのですが、なぜもっと野党は抗議しないのでしょうか。その一点だけに焦点を合わせて、安倍政権は憲法を無視して暴走していることを、はっきりと示していくことこそが、この2日間でやってほしかったことです。
そうすれば、高木問題もたっぷりと議論する時間が生まれるでしょう。

与党が与党なら、野党も野党だなと、思わざるを得ない2日間でした。

■カフェサロン「民主主義ってなんだろう」の勝手な報告(2015年11月15日)
カフェサロン「民主主義ってなんだろう」の参加者は5人でした。
残念ながら若い世代の参加はありませんでした。
その上、みんな一家言ある人ばかりだったので、軽い感じの雑談会にはならずに、かなり密度の濃い話し合いになってしまいました。
録音しておけばよかったです。
最初に究極的民主主義研究所の武田さんが、民主主義とはという問題提起をしてくれ、そこから参加者の「自分が考える民主主義」が語られました。
20年ぶりに湯島のサロンに参加してくれた坪田さんは、ドイツのドキュメンタリー映画「シェーナウの想い」の話から始めました。
https://www.youtube.com/watch?v=KD_2CAAA9gs
そして、民主主義の反対概念は独裁だと指摘し、循環する権力の話をしてくれました。
太田さんは、子ども時代の「民主的でない」と言われた体験を話してくれました。
そして、権力と情報について話しました。いつもながら本質的な問題的でした。
坪倉さんは、アテネの話も含めて、「個人の主体性」に言及されました。
民主主義の主体の問題です。
小林さんは、「効率」の問題にも触れながら、「話し合いの場」について話してくれました。
私は、武田さんの民主主義は決定手段ということに対して、なんで決めなくてはいけないのかと発言しました。
まあ、いろいろな議論が出ましたが、生活用語風にまとめると、こんな感じでしょうか。
「みんなが自分の意志で行動できること」
「それぞれが自分の思いを主張できること」
「おかしいことをおかしいといえ、本音で話し合える場所があること」
「それぞれの生き方を尊重すること」
表現は少し違いますが、不思議にもほぼ一致しました。
なにやらこれが民主主義の実体だとすれば、昨今の日本は民主主義からどんどん遠ざかっていることになります。

デモクラシーを民主主義と訳したおかげで、日本では混乱と理念化が進みました。
デモクラシーは制度や決定手段の問題ですが、民主主義はイズム(理念)や思想の問題です。
そこからさらに、運動としての民主主義、状況としての民主主義というものが生まれてきます。
制度、手段、理念、思想、運動、状況…、日本ではさまざまな民主主義論が展開できるわけです。
ポストデモクラシーの動きやマルチチュードの議論にも行きつくわけです。
また今回は深入りできませんでしたが、平等の問題や情報の問題もあります。
ちなみに、安倍さんの民主主義論もあるということも話題にはなりました。
民主主義の行き着くところは独裁政治だという話もありました。
書きだすときりがないですね。

最後は少し政策の話や制度の話にもなりましたが、これは次回以降のテーマになるでしょう。
小林さんが、とても面白かった、公開の場でこういう話し合いをしたいと言いました。
私もそう思いました。
参加していた人からは、大事な事がなにも報告されていないではないかと言われそうですが、気が向いたら補足してください。

しかし、「民主主義」って、実に多様な顔と力を持っていることを、改めて考えさせてもらいました。
次回からは、武田さんの「民主主義進化論」をテキストに、少し制度論的な議論をやろうかと思いますが、できればまた「民主主義ってなんだろうか」を生活用語で語る話し合いも定期的にやりたいと思います。
そういう会をやりたい人が5人集まったら、パート2を開催しますので、希望者がいたら、ご連絡ください。

■戦争と平和を考える1:戦いの構図(2015年11月15日)
129人もの死者を出したパリのテロ事件は衝撃的でしたが、十分に予想できた事件ではないかと思います。
そしてこれからもまだ繰り返し起こる事件でしょう。
それもパリに限った話ではありません。
日本も例外ではなくなりつつあります。
軍事力による抑止論がいかに無意味なものであるか、これでもまだわかってもらえないと思うと、いささか気が重いですが、諦めずに繰り返したいと思います。
そこでまた「安保法制騒動考パート3」を書きたくなりました。

繰り返しになりますが、戦争の概念も構図も時代によって変わってきています。
昔は「権力者」と「権力者」の戦いでした。
一騎打ちや決闘がその典型でした。
その発展形が王様同士の戦いで、駆り出されたのは王様の軍隊と傭兵です。
そして、国家と国家の戦いになり、それも国民が戦争の当事者になってきました。
いわゆる総力戦ですが、どうしてそんなバカげたことになったのか不思議です。
国民国家とか民主主義とかいう論理が効果的に使われたのでしょう。

つい最近までは、戦争と言えば、国家対国家の話でした。
その時代のなかでは、国内的な秩序維持は警察の仕事、対外的な秩序問題は軍隊の仕事という合意が出来上がっていました。
軍隊と警察は、いずれも暴力を許された組織ですが、その役割は全く違います。
しかしそうした認識は、9.11事件で敗れました。
国家が主体ではないテロ事件が、国内治安問題から「戦争」になってしまったのです。
そこで、戦争の構図は「国家(システム)」と「人間(生活)」に変質しました。
これらに関しては、安保法制騒動考のパート1とパート2で書きました。

今回のパリのテロ事件は、それを明確に示しています。
軍事力や国家間の軍事同盟は、まったくと言っていいほど、抑止力は持たないどころか、誘発力になっているのです。
具体的に言えば、日米軍事同盟が強化されていけば、ISのテロの矛先は日本にも向かうでしょう。
その時に、どんなに従来型の軍事力を持っていても、まったくと言っていいほど役にたたないでしょう。

仮想敵国などという発想は、ばかげているとしか考えられません。
肝心の敵に対して、目を背けることでしかないからです。

戦いの構図と戦い方が、変わってきていることが重要です。
原発さえもが相手の武器になるのです。
安全保障の考え方を、パラダイムシフトしなければいけません。

パリの事件は、そのことを教えてくれているように思います。
何回こうしたことを体験しなければ、私たちの考えは変わるのでしょうか。
このシリーズをまた再開することにしました。

■戦争と平和を考える2:生活者の声にはとても共感できます。(2015年11月17日)
今朝の朝日新聞の「声」を読んで、ちょっと寄り道をしたくなりました。
いずれも一昨日のパリでの「テロ事件」に関するものです。
書かれていることの一部を切り貼りして引用させてもらいます。

(22歳の大学生)
武力行使が世界の平和を本当にもたらすのだろうか。
武力行使以外に解決策を見いだせない世界の不条理さを感じるようになった。
憎しみの連鎖が断ち切れる日は、いつ訪れるのか。

(59歳の主婦)
人が人を信用するという人間社会の大切な根幹が、大きな打撃を受けたと感じる。
疑心暗鬼になり、移民やマイノリティーを排斥しまうとする動きにつながらなければいいが。

(62歳の会社員)
日本を含む世界の首脳はテロを批判し対策を強化するとの見解を出していますが、さらに空爆をするつもりでしょうか。
欧米諸国はまず、中東での植民地支配や、イラク戦争をはじめとする力による介入の過去を真剣に反省してほしいと思います。
そして平和的手段で問題の根本的解決を図るべきです。
そもそも、テロが非難される一方、空爆で人を殺しても非難されないのはどういう理屈でしょうか。同じ人殺しです。
今までのやり方で問題は解決しません。
テロに直面する国の国民は武力行使を優先する指導者に考え方を変えさせるか、別の考えができる指導者を選び直す必要があります。

こういう声を読むと、私の勝手な安保法制騒動考など、吹き飛んでしまいます。
生活者の声は、いつも健全で、深い英知と示唆を含んでいます。
昨夜、このシリーズの2回目を書き終わっているのですが、この3人の方々の声に比べたら、実に矮小な話なので、今日はぜひ多くのみなさんにこの声を聞いてほしくて、紹介させてもらいました。

■カフェサロン「TPPと共済」の報告(2015年11月18日)
昨日の「TPPと共済」をテーマにしたサロンは、参加者は7人と少なかったのですが、議論は実に刺激的で、かなりの激論になる場面もありました。
というのも、「共済」に関してほとんど知らない参加者もいたおかげです。
知らないが故に気づくことの大切さを改めて実感しました。
関係者だけではなく、さまざまな人が参加する話の場は、やはり学ぶことが多いです。

問題提起者の佐々木さんの話はかなり「根本問題」に触れるもので、「成長」とは何か「生産性」とは何かということまで言及されました。
佐々木さんは、TPPによって日本の風景が変わってくるのではないかと指摘されましたが、もしかしたらすでにもう変わりつつあるのかもしれません。
しかし、変わることが悪いことなのか、という問題も出されました。
これも悩ましい問題です。

共済と保険はどこが違うのかに関しても、いろいろな視点が出されました。
共済は、金融事業か社会制度かという話もありました。
TPPも単に経済問題ではなく、ましてや関税の話ではなく、文化や生き方の話だろうと思いますが、TPPの実体がブラックボックスに入ったままに、議論が進んでいるというのが実状です。
不思議な話ですが、考えてみれば、最近はそういうことがたくさんあるように思います。
「共済」も、保険との違いさえあまり議論されないままに、保険の世界に取り込まれつつあります。

予定の時間をかなり超えましたが、次々と発言が出てきて、これはもう合宿でもしないといけないなという感じでした。
最後に、「で、どうしたらいいでしょう」ということになったのですが、残念ながら妙案は出てきません。
できるところで、各自が前に進むしかないのかもしれませんが、伊藤さんの生活クラブ共済連の取り組みなどに期待するとともに、「共済」という考えをもっと多くの人に知ってもらうことが大切ではないかと思います。
ちなみに、昨日も話題になりましたが、生活クラブには「エッコロ共済」というのがあります。
http://kanagawa.seikatsuclub.coop/care/kyosai/post_2.html同時に、共済に取り組む人たちには、もっと「誇り」を持ってほしいと思います。

「共済の思想」は、人々の暮らしの中から生まれ育ってきたものです。
現在の日本の保険や共済は、明治期以前の無尽講や頼母子講、もやいなどとはつながっていない近代のものだと言う人もいますが、そんなことはありません。
経済はその地域の中で育っていくものですし、その主役は普通の生活者でなければいけません。
幸いに、日本では、その「共済の思想」や「仕組み」がまだ残っているように思います。
最近、「助け合い」とか「支え合い」、あるいは「共助」などということがよく言われますが、日本の歴史や文化の中にある「共済の思想」に学ぶことはたくさんあります。
それをつぶそうとしているのが、TPPかもしれません。
そもそも「自由貿易」などというのは、多様な生活文化を無視した話です。

話し合いの内容がきちんと報告できないのが、ちょっと残念ですが、湯島のサロンは、情報ではなく、ライブに話し合うことに価値を置いていますので、いつもながらの雰囲気的な報告になってしまいました。
それもかなり主観的な。

このテーマは、継続していきたいと思いました。
どなたか問題提起したいという方がいたら、大歓迎です。
ご連絡いただければ、うれしいです。

■戦争と平和を考える3:戦いの当事者と被害者(2015年11月16日)
戦いは、いつの時代も、弱い人が被害者になり、強い人が利益を享受する構図になっています。
それは、ある意味で仕方がないことですが、問題は、被害者が戦争の当事者であるとは限らないことです。
戦争の当事者は、勝った側が利益を享受し、負けた側が損失を受けるわけですが、しかし、必ずしもそうとも言えません。
例えば第二次世界大戦後の日本やドイツのように、運の悪い人が処刑されたとしても、多くの戦争を起こした人たちは、戦後の国家秩序維持のために結局は権力者として残ることが多いのです。
その典型が日本の岸信介ですが、そこまで目立たなくとも、敗戦国でさえ、官僚の多くは官僚に居座るのです。
ナチスドイツの場合も例外ではありません。
なぜそうなるかといえば、システムを維持するためです。
つまりは、システムが結局は勝つということです。
これは、黒沢明の「七人の侍」でのメッセージとは真反対です。
しかし、システムにとっての不可欠の要素である農民が残るのは、ある意味では当然なのです。
ここに、問題のなやましさを感じます。

フセインのイラクは、そうではありませんでしたから、ISのようなものが生まれてしまったわけです。
国家とは別のシステムが生まれてしまったわけですが、このグループがステートを名乗っているのは、実に象徴的です。
いずれにしろ、アルカイダやISと欧米政府は、戦争の当事者能力を持っているという点で同じ仲間です。
しかし、最近の戦争は、戦争を始める当事者ではない人々を、戦争に巻き込んでいきます。戦争の被害者は、そこに発生します。
それは、戦争の敗者ではなく、戦争の被害者としか言いようがありません。
「戦争の敗者」と「戦争の被害者」は、別なのです。
とすれば、「戦争」は、被害者の視点で捉え直していく必要があります。
そうすると、いまとはかなり違う「戦争・平和論」が構想されるような気がします。
「戦いに勝つ戦争論」ではなく、「被害者の出ない平和論」です。

こうしたことを象徴的に告発したのが、ナビラ・レフマンさんです。
パキスタン北西部に住んでいる11歳の少女です。
彼女は家族と一緒に、畑で野菜を摘んでいた時に、アメリカ軍のドローン無人機の攻撃で祖母は死亡。爆発でえぐれた地面に肉片が散ったといいます。
彼女自身も吹き飛ばされ、右腕から流血。家族8人も負傷したそうです。
ちょうど、その2週間前、同じパキスタンの少女でパキスタン・タリバーンに銃撃されたマララ・ユスフザイさんは世界の注目を浴びました。
アメリカではオバマ大統領が面会し、ノーベル賞まで受けました。
ところが、同じようにアメリカに悲劇を訴えに行ったナビラさんを、アメリカ政府はほとんど無視したのです。

私たちは、ともすれば、欧米政府とISが戦っているように思ってしまいます。
しかし、ナビラさんにとっては、欧米政府とISも同じなのです。
これをどう考えればいいのでしょうか。

戦争の被害者は当事者とは限りません。
最近の戦争においては、むしろ戦争の当事者ではない人たちが被害者になることが多い。
だとしたら、戦争の捉え方を変える必要があるのではないか。
私はそう思っています。

■カフェサロン「子どもの現在と子どもたちから学ぶこと」(2015年11月21日)
小出陽子さんのカフェサロン「子どもの現在と子どもたちから学ぶこと」はとても刺激的でした。
参加者は14人。湯島サロン初参加の人も3人いました。
まず前半は、小出さんが子どもたちと「どんぐり倶楽部」でやっている、絵を描きながら学ぶワークショップをみんなでやりました。
たとえば、小出さんが「虹色の風船を売っているお店があります」という文章を読み上げ、それをそれぞれが絵にします。その風船は外からは中が見えない箱に入っています」「しかも箱の中には風船が入っていない箱もある」「でも5つ買うと必ず2つの風船が入っている」「では風船を6つ買うには箱をいくつかあったらいいでしょう」というように順々と文章を続け、それぞれの文章で、自分の描いた絵を修正しながら、答えを見つけていくのです。
2つほど体験した後、小出さんが実際に接している子どもたちの話をしてくれました。
小出さんは、最初は英語を教えていたそうですが、英語以前に国語や算数が必要だと感じて、「どんぐり倶楽部」教室を開いたようです。
後半の小出さんのお話もとても考えさせられるものでした。
小出さんは、「学習教室や学校で、子どもたちと学習する中で、たくさんのこどもたちの「わからない」に出会っていると言います。
「赤いものってなんですか?」
「からすって虫ですか?」
100円玉を握りしめながら、「15円がないから買えない」
こうした発言に出会っているそうです。
赤色も、からすも、虫も知っているのに、それが具体的なものに結びつかないのです。
小出さんは、子どもたちの「考えられない」状態も日々目にしているそうです。
子どもたちは「わかろう」とする意欲を持っているのに、学校の先生がそれにうまく対応できないでいるのです。
そして、実際には生活経験が乏しいままたくさんの言語を押し付ける教育にさらされるうちに、次第に子どもたちから思考力が「蒸発」している。
それは果たして子どもたちだけの話なのか。
小出さんは、「大人であるわたしたちも本当にわかっているのか」と問いかけます。
私は、大企業の経営幹部や大学教授などとの付き合いもありますが、子どもたちと同じかもしれないという気がします。
もちろん私自身も、ですが。
こうした話から、コミュニケーションや学力の問題、学ぶことと問うことの関係、私たちの生き方の問題などに話は広がりました。
参加者からこんな算数の問題も出されました(表現は少し変えていますが)。
「りんご3つとみかん2つがあります。全部でいくつでしょうか?」
「一つの大福と一つの大福があります。一緒にしたらいくつでしょう?」
みなさんはどう考えるでしょうか。
サロンでは、このほかにもたくさんの意見や問題が提起されました。
子どもの問題から、私たちの生き方や社会の実相も見えてきます。
次回は1月を予定しています。
どなたか問題提起して下さる方がいたらご連絡ください。
また小出さんのお話は、サロンというよりも、もっと時間をかけたフォーラムのようなものができるといいなと思いました。
どなたか一緒に企画しませんか?

■映画「自殺者1万人を救う戦い」を観て語り合う会(2015年11月25日)
11月23日に、大阪で行われたあゆみあいネットが主催した「ドキュメンタリー映画「自殺者1万人を救う戦い」を観て語る会に参加させてもらいました。
参加者は少なかったですが、とても心に響きあう話し合いができました。
そこでもお話させてもらったのですが、少人数で、しかし本音で気楽に話し合える場がもっと増えていくといいなと思いました。

今回、みんなで観た「自殺者1万人を救う戦い」は、アイルランド人のレネ・ダイグナンさんが制作した映画です。
この春、東京の青山学院大学で上映会と話し合いの場を持ちました。
そこからまたいくつかの動きが出ていますが、
今日もそこに参加した成蹊大学の学生が、成蹊大学で上映会を開催してくれます。
そんな感じで、いまもまだじわじわと広がっています。
今回も、上映会に参加してくださったおひとりが、ぜひ自分でも上映会を開催したいと言ってくださいました。

この映画は、自殺そのものを取り上げるのではなく、
自殺者がこんなにも多い日本の社会はおかしいのではないかと、
外国人の目で、日本の社会のあり方、つまり私たちの生き方に疑問を投げかけてくれています。
さまざまな視点で、問題提起されていますので、
いろいろな受け取り方ができ、いろいろな話もできます。

制作されてから3年ほどたちますが、
事態はそう変わっているわけではありません。
この映画を観ながら、私たちの生き方を話し合う場がもっと広がっていけばと思っています。
映画はユーチューブで観られます。
https://www.youtube.com/watch?v=oo0SHLxc2d0
52分とちょっと長いですが。

もし映画上映会などやって下さる方がいたら、DVDにダビングしてお送りします。
ペイフォワード方式で、このDVDを広げてきましたが、最近少し停滞していました。

今回、あゆみあいネットのおかげで、映画を観てじっくりと話し合うことの大切さを改めて感じましたので、
また再開することにしました。
もしご希望の方がいたら、ご連絡ください。

また話し合いの会など開催する場合は、ぜひご連絡ください。

ちなみに、レネさんはいまはちょっと活動を中止しています。
また再開することができるようになったら、彼のサロンも開催する予定です。

なお、豊中市を中心にゆっくりと活動している「あゆみあいネット」も、集まりをやっています。
代表の上村さんも、このメーリングリストにメンバーですので、
お近くの方はぜひ一度、あゆみあいネットの集まりにも参加してみてください。
あゆみあいネットは、その立ち上げの時点から、ゆっくりと進むのが方針です。

いろんなところに、気楽に話し合える場が広がっていくとうれしいです。

■戦争と平和を考える5:戦争と犯罪(2015年12月3日)
この1週間ばたばたしていて書けませんでしたが、世界はますます「戦争状況」になってきています。
昨日もアメリカで銃撃事件が起こりましたが、武器を持つことで人の意識は変わっていくのでしょう。

前回、日本の自衛隊は「戦争をしない軍隊」と書きました。
かりに海外に派兵された自衛隊員が、現地で戦闘に巻き込まれ、相手を殺害した場合、それは「警察官職務執行法」の下で裁かれることになるのでしょうか。
つまり、正当防衛、緊急避難か、あるいは殺人かが問われることになるでしょう。
軍隊である場合は全く違います。
軍隊は、戦時において相手を殺傷し、ものを破壊するための集団です。
そうした行為は、犯罪にはなりません。
つまり、殺傷や破壊を正当化するのが、軍隊という組織、軍事力という力です。

昨日のアメリカの銃撃戦は「戦争」とは捉えられないでしょう。
ではパリのテロ事件はどうか。
ISのパルミラ遺跡の破壊はどうか。
どこまでが正当化され、どこまでが犯罪なのか。
実に悩ましい問題です。

現在のような状況のなかでは、「犯罪」と「戦争」を峻別することは難しいでしょう。
戦争はある意味でルールと論理に従って展開されますが、犯罪はそうしたものから逸脱するところで展開されます。
そこがつながってきてしまっているのが、グローバリゼーションの時代です。
国家の統治力が相対化してきてしまったということです。

抑止力に関して、前の2つのシリーズで何回か書きましたが、抑止効果を支えるのは論理です。
たしかに国家間の戦争には軍事力が抑止効果をもった時代はあったかもしれません。
たとえば、冷戦時代の初期はそうだったかもしれません。
しかし、グローバリゼーションのなかで、それこそ「格差」や「貧困」がグローバルに広がってきている状況においては、それこそが犯罪としてのテロを生み出すことは否定できません。
戦争が犯罪性を高めてきている現在、これまでの抑止力の考え方では対応できないでしょう。

犯罪に対して効果があるのは「危機管理」発想です。
危機管理においては、たぶん軍隊よりも警察の方が効果的に作動するでしょう。
そもそも組織の目的が違うからです。

グローバリゼーションによって、国家の意味が変化してきているように、国家間の争いであった戦争の意味も変質してきています。
犯罪と戦争が、まさに「シームレス」につながってしまったのです。

いま国家はISにてこずっていますが、おそらく「問題の立て方」あるいは「構造の捉え方」が間違っているためでしょう。
パルミラ遺跡を破壊したISは、単なる犯罪集団でしかありません。
それへの対処で、国家が争うなどということはあってはならないはずなのですが。

■戦争と平和を考える6:思いやりの心は、必ず連鎖する(2015年12月8日)
なかなか書く時間が取れないのですが、今日もまた横道です。
横道ですが、とても大切なことを書かせてもらいます。

昨日、地元の我孫子市に、広島から「サダコ鶴」が届きました。
サダコ鶴はご存知の方も少なくないと思いますが、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなった佐々木禎子さんが、死の直前まで追っていた折り鶴です。
禎子さんの実兄の佐々木雅弘さんとその息子さんの祐滋さんは、サダコ鶴を通して、世界に平和の思いを伝えていこうと活動しています。
祐滋さんはシンガーソングライターで、ご自身が作曲した「INORI」の弾き語りを世界で行っています。
サダコ鶴の寄贈式に、佐々木さん家族が来ることを知って、祐滋さんに地元のミュージシャンとのコラボコンサートをお願いしました。
フェイスブックやホームページで簡単に紹介しましたが、素晴らしいコンサートになりました。
雅弘さんは地元の中学生たちと一緒に、朗読劇「禎子物語」を演じてくださいました。

佐々木さん親子の思いは実に深いのです。
最近は新聞やテレビでも紹介されているので、雅弘さんのことをご存知の方も多いと思いますが、雅弘さんの2つの言葉を紹介させてもらうことにします。

ひとつは、雅弘さんがウィーンの中央図書館ホールで「禎子物語」を講演した時に、地元の中学生の「原爆はどこの国が落としたのですか」という質問への答えです。

あのときから長い時間が経過しました。
その間に神様は、お互いの心を洗い流してくださいました。
だから原爆を落とした国の名前は忘れました。

もうひとつは、ニューヨークの高校での生徒とのやりとりです。
ちょっと長いですが、源和子さんが書いた「奇跡はつばさに乗って」(講談社)から引用させてもらいます。

雅弘さんが朗読した後、白人の女子生徒が、「私たちの国アメリカを恨んでいない、と佐々木さんはおっしゃいましたが、本当なんですか。私には信じられない。アメリカが落とした原爆で佐々木さんは被爆し、あなたの妹さんが亡くなったんですよ。私だったら、愛する家族をそんなやり方で奪う国は絶対に赦せない」と発言したのです。
この生徒は、当時のトルーマン政権に対して、怒りをあらわにしていたそうです。
雅弘さんは、その女子生徒にほほえみながら、静かに語りかけたそうです。

「被爆者の私がアメリカに『恨み』を持たなかったのは、妹、サダコのおかげです。白血病で苦しんでいても、まわりをいつも思いやっていた妹の姿からそれを教わりました。原爆投下は悲劇です。日本にとっても、あなた方の国、アメリカにとっても。あなたのお気持ちはよくわかります。でも、この世の中に自分と違う意見を持つ人たちや国のリーダーがいるのは当然で、しかたのないことです」。
「でも大切なのは、その『違い』を恨むのではなく、ひとつでもいいから、おたがいの『共通点』を見つけることじゃないでしょうか。そして、その共通点を見つけられたら、そこから理解しあえるように努めてみることではないでしょうか。相手だって自分と同じ人の子。必ず共通点はあるはずです」。
「思いやりは、みなさんのまわりから始められます。あなたはその身近な人たちにとって『優しい存在』ですか。まずはあなたが身近な人たちにとって、思いやりのある存在になってください。そうすれば、争いはこの世から消えてなくなるでしょう」。
小さな思いやりの心は、必ず連鎖する。それは大きなうねりとなって、ときには想像を絶するパワーを引き起こす。

最近のISの問題を考える出発点も、ここにあるような気がします。
いまの世界は、どこかで間違っているように思います。

ちなみに、テレビでも大きく報道されていましたが、先月、雅弘さん親子はトルーマン元大統領に会ってきました。
サダコ鶴は、ハワイのパール・ハーバーにも贈られています。
一昨日、祐滋さんのご両親にはじめてお目にかかりました。
握手してきたおふたりの手のあたたかさから、その思いの深さが伝わってきました。

戦争をなくすのは、政治家でも軍人でもなく、私たち生活者なのです。
改めてそう思いました。

■戦争と平和を考える7:自らの居場所が見つからない人たち(2015年12月10日)
一時、難民を受け入れる方向で動いていた世界が、一転して、難民拒否の動きに転じました。
次期米大統領選に共和党から立候補を目指しているドナルド・トランプ氏の「イスラム教徒の入国禁止」発言。あるいは、フランスの地方選において、移民批判を重ねる国民戦線の大躍進など、時代の流れは一転して、移民拒否です。
どうしてこうなってしまっているのでしょうか。

ドラッカーは、第二次世界大戦のさなかに書いた「産業人の未来」の中でこう書いています。

大衆にとって社会は、そこに自らの位置と役割がなければ、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない。
さらに、そこにおける権力に正統性がなければ、専制、専横以外の何ものでもない。
そのとき彼らは不合理の魔力に従う。
信条をもたない大衆は、既存の社会秩序以外のものであれば何でも飲み込む。
いい換えるならば、彼ら大衆は、権力のための権力をねらう専制者や煽動家の餌食となる。
秩序をもたらしうるのは、彼らを奴隷としすべてを否定したときだけである。
機能する社会に組み込むことができなければ、彼らに秩序をもたらす方途はない。

実は先日、湯島で開催した「ドラッカーとナチスと市民性」というテーマのサロンの後の、メーリングリストでのやり取りで、私が思い出して引用した文章です。
そこでも書いたのですが、これはまさに現代において示唆に富むメッセージです。
ISがなぜ生まれたか、
そしてどうしたらIS問題を解決できるか、
そのすべてが、この文章で予言されているように思います。
そしてトランプ発言やマリーヌ・ルペン国民戦線党首の発言は、自らの位置と役割を見つけ出せない人たちをたくさん生み出していくことにつながるでしょう。

IS問題は対処療法的に解決しようとすればするほど、事態は深く広がりかねません。
そもそも「イスラム問題」とか「戦争」という切り口で捉えることに間違いがあるでしょう。
「戦争」ではなく「犯罪」ですから、軍隊により空爆などでは対処できるはずがないのです。

戦争は合法的なものでしたが、そういう意味での戦争は、もう起こることはないと思います。
ですから戦争を前提にした軍隊は、これからおそらくなくなっていくでしょう。
しかしそれでは困る人たちがいる。
だからこそテロ犯罪を戦争と意図的に混同させて、抑止力だとか軍事的集団自衛権とかを問題にしようとしているのではないかと思います。

合法的な戦争はもはやすでに「割に合わない戦略」になっているのです。
その代わりに、「見えない戦争」が広がりつつあります。
そして、その見えない戦争こそが、テロという犯罪を引き起こしているのではないかと思います。
次回は「見えない戦争」について考えてみようと思います。

■戦争と平和を考える8:見えない戦争(2015年12月10日)
尖閣諸島をめぐって、中国が日本の領域を侵犯してくるのではないかという不安が、軍事力による抑止力を支持する人たちにはあるようです。
しかし、そういう「目に見える戦争」は本当に起こるのでしょうか。
もちろん「起こらない」ということはできません。
しかし、起こるとしたら、それは前にも書いたように「論理的」にではなく、「事故的」「偶発的」「判断ミス的」に起こるのではないかと思います。
そこでは「軍事力による抑止力」は、ほとんど意味をもたないでしょう。

防衛庁で防衛研究所所長を務め、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)も歴任した柳澤協二さんは、岩波ブックレットの「民主主義をあきらめない」の中でこう言っています。

グローバリゼーションの時代に対応するキーワードは、抑止力ではなくて、むしろ「戦争って駄目だよね」という以上に、「戦争したら損だよね」という認識なのではないかと思うんです。

軍事力による「戦争」は、政治手段としての役割は終えてしまったのです。
柳澤さんは、「少なくとも、このグローバリゼーションの時代において、「抑止」はもうキーワードではありません」と明言しています。

しかし、依然として、「軍事力による戦争の効用」にしがみつく政治家は少なくありません。
それは、それに共感する国民がいるからだろうと思います。
ドイツ国民はナチスを育てましたが、いまの日本国民は何を育てようとしているのでしょうか。
とても不安があります。

ところで、いまの日本は「戦争」とは無縁なのか。
必ずしもそうとは言えないように思います。
しかし、その「戦争」は「見えない戦争」、あるいはガルトゥングが言う「構造的暴力による戦争」です。

日本でも無差別殺人事件やテロまがいの事件はすでに起こっています。
つまり「テロ犯罪が起こりうる状況」にあると言っていいでしょう。
そうした中ではISの呼びかけに共振した動きが出ないとは限りません。
防備体制が弱い、いわゆる「ソフトターゲット」での「テロ」が発生してもおかしくない状況に、日本はあるということです。
それがどこかで「戦争」につながっていくことがないとは言えません。
緊急事態宣言が行われ、一気に戦争に向かいだすこともないとは言えません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/10-7d54.html

国家の安全保障にとっても、こうした動きを「抑止」することこそ、いま必要なことではないかと思います。
そのために何が必要かは明確です。
いまの政治はそれと正反対の方向を向いているように思えてなりません。

戦争と犯罪とは別のものですが、グローバル化の中ではそれが奇妙につながり始めています。
そこに問題の悩ましさと本質があります。
そして、戦争そのものがどんどんと見えなくなってきている。
自由貿易体制の推進も、もしかしたら「もう一つの戦争」かもしれません。
私たちの社会の秩序が壊れるとしたら、それはどこからなのでしょうか。

アイルランド人のレネ・ダイグナンさんは自殺者の多い日本の社会に衝撃を受けて、「自殺者1万人を救う戦い」という映画を制作しました。
私たちが、危機を感ずるべきは「仮想敵国」などではなく、いまの社会のあり方、言い換えれば私たち一人ひとりの生き方ではないのか。
レネさんは、そう語っているように思います。

■緊急カフェサロン「辺野古のたたかいはいま」報告(2015年12月15日)
昨夜は、那覇在住の東アジア共同体研究所の緒方修さんに「辺野古のたたかいはいま」というテーマで、サロンを開いてもらいました。
急な呼びかけでしたが、参加者がわっと集まると思っていましたが、10人ほどの参加にとどまりました。
これ自体が、私には意外でした。
しかし20代の学生から70代のご夫妻という、幅広い参加者がありました。
いまの沖縄の問題は、まさに日本の「くにのかたち」を大きく変えていくものであり、しかも大きな時代の流れに逆行するものだと思っていますが、私たち「ヤマトンチュウ」の関心は低いのかもしれません。
これでは、ナチスファシズムに飲み込まれたのを後で悔やんだニーメラーの繰り返しになりかねません。

最初に映像「辺野古のたたかいはいま」を見せてもらいました。
今年の6月から8月の記録です。
いろいろと気づいたことや示唆もたくさんありました。
知らなかったこともたくさんお聞きできました。

私は2つのことがずっと気になっていました。
まず、沖縄の若者たち、とりわけ高校生や大学生たちはどう考えて、どう行動しているのだろうかということ。
それと、現地のアメリカ人たちはどう考え、どう行動しているのだろうかということです。
いずれもあまり動きがないそうです。
運動を起こす方が、「問題の立て方」に失敗しているのかもしれません。

緒方さんは、沖縄の新聞と「本土」の新聞の、問題の取り上げ方の違いについてもお話されました。
沖縄の人たちはほとんどが現地の新聞を読んでいますが、そこでは基地問題や民主主義の危機が大きく取り上げられています。
しかし、「本土」の新聞は時には1面に出ますが、取り扱いも取り上げ方もまったく違います。
そうした新聞を毎日読んでいることによって、意識は大きく変わってくることは間違いありません。

緒方さんは、キャンプ地にまだ放置されている遺骨の問題や大浦湾の生き物たちの話もしてくれました。
そして、「人権」や「環境」の問題をもっと表に出して、「世界」に訴えていくことの大切さも話してくれました。
しかし、それ以上にやはり、私たち日本人がもっと関心を持ち、自分の問題として考えることが大切だということで、話す場があれば、現場の状況を伝え、問題を知ってもらう活動に取り組まれているのです。
最年少参加者の大学生によれば、辺野古の話は周辺ではほとんど話題になっていないそうです。
学生に限らず、多くの人たちは、安保法制の問題と辺野古の問題を必ずしも結びつけていません。
そうした状況にこそ、問題の本質はあるのかもしれません。

ほかにもたくさんの話がありました。
機会があればまたぜひ緒方サロンを開きたいと思いますが、緒方さんが辺野古の話をするような場も、ぜひみなさんで作ってもらえればと思います。

なお、緒方さんたちの活動は次のサイトをお読みください。
http://eaci.or.jp/archives/
フェイスブックページもあります。
https://www.facebook.com/east.asian.community.institute

■みんなの認知症予防ゲーム(2015年12月15日)
湯島で、認知症予防ゲームの普及に取り組んできた高林さんのサロンを開催しました。
高林さんは、まだ認知症は予防できないと言われていた頃からNPO法人認知症予防ネットを立ち上げ、京都を中心に実践活動に取り組んできた方です。
先日、コムケア関西の水野さんから投稿があったように、いま、コムケア関西でも、「みんなの認知症予防ゲーム」リーダー養成をやっていますが、東日本でも大きく広がってきています。
「みんなの認知症予防ゲーム」の根底にはしっかりとした理論があります。
最近さまざまな予防策や対応策がマスコミでも報道されていますが、そのほとんどの要素が組み込まれているのです。
今回は、長年その普及に取り組んできた高林さんを囲むサロンでした。
20人近いゲーム実践者のみなさんが集まりました。
みんなゲームを通して、「認知症」症状の改善(時には奇跡的な改善!)に出会った体験をお持ちの方ですので、もっともっと広げていきたいと考えているのです。
どうしたらもっと広げられるか、いろんな考えや知恵が出てきました。
みなさんの熱意に触れているうちに、来年はさらに広がるだろうなと確信しました。
定期的に実践者の交流会をやることも提案されました。
関西では、水野さんたちが主催している講座のほか、高林さんのNPO法人認知症予防ネットの講座がありますが、東日本でも様々な講座が開かれだしています。
「みんなの認知症予防ゲーム」に関心のある方はご連絡ください。

ちなみに、認知症予防ネットでは、「安心バッッジ」を製作し、その普及にも取り組んでいます。
関心のある方はNPO法人認知症予防ネットにお問い合わせください。
http://www.n-yobo.net/
ただ現在、ホームページを模様替え中ですのちょっとわかりにくいですが、メールでお問い合わせするといいです。

■戦争と平和を考える9:なぜ人は戦うのか(2015年12月19日)
先週、湯島でお話をしてくださった東アジア共同体研究所の緒方さんから、いま、沖縄市で「戦後70年コザ暴動プロジェクト」が開催されていることを教えてもらいました。
http://kozaweb.jp/event/detail.html?&sp=true&id=2687
すっかりと忘れていましたが、そういえば、45年前の明日(1970年12月20日)は、沖縄のゴザでは米兵の起こした交通事故が発端となり、沖縄の住民の怒りが爆発した『コザ暴動』が起こった日です。
米軍関係の車両が、住民たちの手によって燃やされたのです。
緒方さんが送ってくださった「コザ「蜂起」45年」を読みながら、そこにはまだ、住民の怒りを爆発できる場所があったのだと思いました。
そして「戦う意味」もあったのです。
しかし、いまはどうか。

このシリーズは、安保法制騒動考を契機に書きだした第3部なのですが、次第に書けなくなってきています。
その理由は、戦争とはいったい何なのかが、どうも私自身よくわからなくなってきたからです。
たとえば、ナチスヒトラーはドイツ国民の支えによって生まれたという話と同じように、日本の戦前の軍国主義もまた、普通の日本人の支えによって戦争へと向かったはずです。
そして、その「恩恵」で、いまの私たちの生活がある。
そういう風に考えていくと、靖国神社に祀られたA級戦犯は果たして特別の存在なのだろうか、などという疑問まで出てきてしまい、思考が完全にストップしてしまってきたのです。
私がこれまで考えていたことが、根底から壊れだしているような気さえしています。
そのせいか、たぶん今回のシリーズは、内容が支離滅裂になっているでしょう。
私自身どうもすっきりしないのです。
少し前までは、私自身、何かわかった気がしていて、未来の展望さえも見えていたような気がしていましたが、いまは頭が混乱しています。
いったい人は何のために戦うのか。
もはや、これまでの意味での「戦う」ことは不要になってきているのではないか。
ミシェル・フーコーは、フランス革命時の断頭台での処刑儀式が不要になってきたことを説明してくれていますが、その延長上に、「殺戮しあう戦争」儀式もあるのではないか。
そんな気がしてきました。
それに、戦争がもし「利益争い」だとしたら、コストがかかりすぎる「殺し合い」は割が合うとは思えませんし、効果的でもありません。
「支配関係の維持」よりも、「権力の構造化」のほうが、利益をむさぼるには好都合のはずです。

そして、すでにそれに代わるものは生まれだしています。
たとえば、TPPは新しい形の戦争と言っていいでしょう。
ほかにもいろいろと考えられます。
いずれにしろ、軍事力による戦争は、冷戦時代を契機に、戦争の中心ではなくなりました。
そして、最近の新しい戦争は、始める前にすでに勝敗は決しているのが特徴です。
そもそも当事者はそれが戦争だとは思っていませんので、勝敗という意識さえ生まれません。
言い換えれば、孫子の兵法に言う「戦わない戦争」なのです。
権力による支配構造をつくることで、暴力に依存するよりもコストはかからないでしょう。
この第3部は、そういう結論に到達するはずでした。

しかし、まったく別の到達点も見えてきます。
戦争は殺戮しあうことにこそ意味があるという、おぞましい考えです。
いわゆるジェノサイド、あるいは優生思想につながる考えです。
いささか極端に聞こえるかもしれませんが、もはや「人間」など不要な時代になってきてしまっているのです。

シリアで展開されている「ISの戦争」には、それを感じます。
もちろん当事者の意図は、そこにはないでしょう。
しかし今は敵味方に関係ない「殺し合い」が展開されています。
それを進めているには、自らは「殺し合い」の外部にいる、無人機による空爆を指揮している人たちです。
そこでの「戦いの構図」がとても気になります。

このシリーズになんとかまとまりをつけようと、この数日毎日考えているのですが、書き出すとおかしな方向にいってしまい、途中でさじを投げだしていました。
今日は、中途半端なままですが、アップすることにしますが、つづけて、もうひとつだけ短いものを書いて、このシリーズから自らを解放したいと思います。
このシリーズを始めてしまったために、時評編が書けなくなってしまっています。
身のほどを知らねばいけません。

■戦争と平和を考える10:手におえないテーマでした(2015年11月19日)
このシリーズは論考がまとまらないまま、終わることにします。
支離滅裂な空虚なものになってきてしまいましたから。
最後に1枚の写真で終わることにいます。

この写真は、1970年代の後半に私が撮影した写真です。
タイへの出張の帰路だったと思いますが、飛行機から見えたインドシナ半島、つまりベトナム国土の写真です。
もう40年ほど前のことなので、記憶が間違っているかもしれませんが、機内のアナウンスで、インドシナ半島が眼下に見えることを知り、目をやったら、そこに広大な褐色の国土が広がっていることに衝撃を受けたのです。
いわゆる「枯葉作戦」の後です。
枯葉作戦とは、ベトナム戦争中に行われたアメリカ軍による枯葉剤の空中散布です。
森林部や農村部に散布されたために、植物が絶滅し、国土が褐色の不毛の地となってしまったわけです。
写真があまり鮮明ではありませんが、茶色の部分が枯葉剤を空中散布されたため植物が枯れ果てた大地ではないかと思います。

ベトナム戦争から人類は大きなものを学んだだろうと思いました。
しかし、どうもそうではありませんでした。
戦争はその後もどんどん進化しています。
軍事力による戦争は、もしかしたら氷山の一角なのかもしれません。
目に見えるところでの派手な戦闘の影で、もっと邪悪な、生命と歴史を破壊する戦いが広がっている。
この写真を見ていると、そんなことを思い出します。

最近出版された塩野七生さんの「ギリシア人の物語T」は、古代ギリシア人が戦争ばかりしていたということから書き出されています。
だから、「もう一つの戦いの場」であるオリンピックを始めた、と。
そのギリシアはまた、痩せた土地の褐色の大地だったために、海外へと「侵略」を重ねていくわけです。
そしてそこに文化と文明を創りだす歴史が広がりだしました。

その見事な成果だった、パルミラ遺跡もISによって爆破されてしまいました。
歴史は方向を転じたのでしょうか。
青かった地球は、褐色になっていくのでしょうか。
唯一の対抗策は、沖縄の人たちのように、非暴力での抵抗かもしれません。
沖縄の人たちは、ゴザ暴動から多くのことを学んでいるのでしょう。
私も改めて沖縄のことを学び直そうと思っています。
ギリシアから学ぶことは、もうないような気がしだしています。

最後まで支離滅裂なシリーズになってしまいました。
しかしこの間、かなりさまざまなことを考えました。
そして、戦争とか平和とかに関しては、もうあまり考えたくなくなってきました。
戦争とか平和とかいう「言葉」で語ること自体に、すでに罠があるような気がしてきたからです。
まずは他者との関係を楽しいものにしていこうと思います。
よかったら湯島に遊びにお越しください。

■戦争と平和を考える蛇足:恐ろしい未来への不安(2015年11月21日)
蛇足を追加します。

イラクヘの自衛隊派遣では日本の自衛隊員は一人も殺されることなく、またひとりも殺すことなく、任務を終えたといわれています。
たぶんそれは事実でしょう。

しかし、その後の報道によれば、イラクに派遣された自衛隊員延べ1万人のうち、30人前後が帰国後、自殺していると報道されています。
アメリカにおいても、ベトナム戦争での精神的後遺症の多さは話題にされ、それがアメリカ社会を変質させたとも考えられます。

こうしたことはもっとしっかりと認識されるべきでしょう。
人は戦場で肉体的に殺傷されるだけではないのです。
もしかしたら、昨今の日本社会は、ある意味での「戦場状況」なのかもしれません。

第二次世界大戦後、戦場で戦った元兵士たちは、帰還後多くを語らずに、最近になってようやく重い口を開きだした人もいます。

戦争と平和の問題は、一筋縄ではいきません。
先日放映された「新・映像の世紀」はヒトラーのナチスドイツが中心でした。
戦後解放された強制収容所の実情をドイツ人は見学させられました。
事実を突きつけられたドイツ人は「知らなかった」と言いました。
それに対して解放された人たちは、怒りを込めて叫んだそうです。
「あなたたちは知っていた」

私の未来を見ているような気がしました。
見学者になるか、解放された被収容者になるか。
できればそのいずれにもなりたくはありません。
しかし、どうもそれが許されないところまで来ているのかもしれません。

■塩野七生さんの「ギリシア人の物語T」を読みました(2015年12月25日)
塩野七生さんの「ギリシア人の物語T」が出版されました。
「ローマ人の物語」はずっと読ませてもらっていましたが、15巻が出版された後、当然、ギリシアに行くだろうと思っていたのですが、なぜか中世の方の行ってしまいました。
がっかりしていたのですが、ようやくギリシアです。
しかし3巻だと知って、すこしがっかりしました。
今年出版された1巻の主役はテミストクレス。
たぶん、後の2巻は、ペリクレスとアレキサンダーでしょう。
その後の時代のギリシアに関心のある私としては4巻ものにしてほしいものですが。

まあそれはそれとして、1巻目はとても面白く、ローマ人の物語の時のように一気に読んでしまいました。
いろいろと考えさせられることがありましたが、今日は印象に残った3つのことだけを羅列しておきます。

一つ目はちょっと長いですが、改革を起こす人の話です。

改革は、既得権階級のもつ欠陥に斬りこまないことには達成できない。斬りこむには、欠陥を知りつくす、と言うか肌で知っている者のほうが有利にきまっている。どこに、どう斬りこめば成功するかを、ローマ人の言葉を使えば、「食卓の話題」で自然に会得してきたからである。この種の「蓄積」は、いかに優秀な新興階級の出身者でも、一朝一夕には得られるたぐいのものではなかった。他には適当な教育機関が存在しなかった時代、それを教えこむのは家庭しかなかったのである。

2つ目は、アテネの民主主義の実態に関するものです。

直接民主政下のアテネで国の政策を決めていたのは、有権者総数の10%前後、ということになってしまう。

最後は、新しい文化の誕生に関することです。

時代を画するほどの文化文明は、異分子との接触による刺激がないところには生れない。自国内での温室栽培では、他民族にまで影響力をもつ画期的な文化も文明も生れないのである。

いずれもそれぞれ、現代のさまざまな問題を考える上での示唆に富んでいます。
それについては、それぞれに関して別途書いていければと思っています。
今日は予告編にとどまります。

■お金の呪縛から解放された生き方をしませんか(2015年12月26日)
最近ニュースを見なくなりました。
嫌な報道が多すぎるせいなのですが、こうして私もまた、社会の劣化に荷担していくような気がしてきて、気が重いです。
それにしても、多くの国民がいくら異を唱えても、何も変わらないで進んでいく。
恐ろしい時代です。
もうひとつとても不快なのは、全てがお金で解決しようとする風潮です。
日韓関係の慰安婦問題も、沖縄の辺野古の問題も、原発再稼働の問題も、すべてお金で解決しようとしている安倍政権には、もはや打倒しかないと思いますが、残念ながらその術がわかりません。

水俣病に関わってきた石牟礼道子さんは、こう話していました。

患者さんたちは極限状態なのに、チッソヘは「お願いに行く」と言ってました。でも、会社側は金を要求しに来たという扱いですから。患者さんたちは東京の社長さんに会いたいと言い出しました。一番偉い人なら、自分たちの苦しみをわかってくれるはずだと。「大変でしたね、やっとわからせてもらいました」と言ってもらいたかったのです。そうすれば救われる。でも、それはなかったですね(『朝日新聞』2008年12月8日)。

いま、同じことが韓国の慰安婦問題で行われようとしているような気がします。

私は、すべてがお金で決せられる時代への予兆を感じて、27年前に会社を辞め、それとは違った生き方を指向して生きてきましたが、そこから抜けるのに10年近くかかりました。
いまは、何とかお金で考えるのではない生き方になっていますが、むしろそうした視点から考えると、社会の風潮はますます「お金頼み」になっているような気がします。
そして率先して、政府がそれをやっている。
しかも私の税金も含めて、国民から預かったお金を勝手に私物化して使っている。
軽減税率の議論では、選挙対策費のような使い方さえしています。

安倍首相と菅官房長官は、私には犯罪者にしか見えませんが、戦争での殺人が正義であるように、彼らの金権政治も犯罪にはならないのでしょう。
しかし、そうしたことが様々な分野に波及していることは間違いありません。
金銭に関する倫理感を疑うような事件が、毎日のように起きています。

そこから抜け出るには、お金の呪縛から解放された生き方を目指すしかありません。
来年からそうした生き方を考えるサロンを開始する予定です。

■カフェサロン「教育を中核としたまちづくり」報告(2015年12月27日)
今日は今年最後の湯島サロンでした。
テーマは、「教育を中核としたまちづくり」。
話題提供者は、学校と地域の融合教育研究会会長の宮崎さんです。
宮崎さんはいま、宮城県女川町で活動されています。
私が知り合ったのは、宮崎さんが習志野市の秋津小学校の校長時代で、今や全国に広がっている、学校と地域の融合教育研究会が始まった頃でした。
その頃も一度、湯島でお話してもらったことがありますが、公立の小学校でもこんなことができるのかと、それこそ私の常識が覆される活動でした。
今回は、その話も含めて、隠岐の海士町での話や女川での最近の活動などについてお話してもらいました。
宮崎さんの実践には、教育やまちづくりの本質を示唆するたくさんのヒントがあります。
それに触れたら、本気で学校や地域社会を変えていきたいという人なら、必ずや「うずうず」してしまうはずです。
学校と地域の融合教育研究会のホームページもよかったらぜひのぞいてみてください。。
http://yu-go-ken.net/

宮崎さんは、学校の役割が第3期を迎えているといいます。
子どもの持つ多様な価値を、まちづくりの担い手として生かす、地域とともにある学校です。
そして、そうした「学校力」をどう活用するかが、地域社会にとっての課題だと言います。
そして宮崎さんは、それをまさに今、女川で実践されているわけです。

宮崎さんのお話はもっと多くの人たちに聴いてほしいと思います。
それで来年の2月27日に、宮崎さんにお願いして、公開フォーラムを開催することを考えることにしました。
決まりましたらまた案内させてもらいますが、いわばその実行委員会的なものはすでに生まれています。
今回はそのコアメンバーも参加しました。
ご関心のある方は是非実行委員会に参加してください。
ご連絡いただければ、ご案内させてもらいます。

■金権政治と金権社会に抗うために(2015年12月30日)
今朝の朝日新聞のトップ記事の見出しは「10億円「少女像移転が前提」」とありました。
一昨日の日韓外相会談での慰安婦問題での合意を報道する記事です。
これでは、交渉と言うよりも取引でしかありません。
その10億円に、私の税金も使われると思うと、やはり気が重くなります。

それにしても、いまの日本はまさに金権社会です。
すべてがお金で決着をつけていく。
しかも、決着をつける人たちは、当事者ではない人たちが、国民の税金を自分のお金のように使っての「金権解決」なのです。
そうやって原発も不条理な軽減税率も、辺野古問題も、福祉問題や環境問題もすべて処理されてきています。
国民の生命さえ、お金で取引される商品になっているようです。
なんという政府なのか。

お金が軸になる社会への予兆は1980年代にはかなり出ていました。
その時には、私はまだ企業で働いていましたが、環境や福祉が次の成長産業だなどと言われる風潮に嫌気を感じていました。
せめて自分だけでもと思い、その船から降りてしまったわけですが、いまにして思えば、あまりに利己的、そして短視眼だったかもしれません。
人は時代の流れから逃れることはできないようです。

慰安婦問題は、お金で解決できる問題ではないでしょう。
彼女たちの言い分をきちんと聞くことから解決は始まるでしょう。
少女像の移転や撤去は「手段」ではなく、「結果」なのです。
それがわからない限り、問題は解決しない。
そう思います。

辺野古問題も政府はお金で解決しようとしています。
そして原発再稼働がそうであるように、多くの人はそうしたお金に負けやすいのです。
全く情けない話です。
しかも、自分のお金でやるのではなく、国民のお金で解決するという、私には横領罪としか思えない政治家が政府を構成しているのです。
いまの閣僚たちを見ていると、人はこれほどいやしくなれるものかとさえ思います。

先日、「誤断」というテレビドラマを見ました。
お金ですべてを解決してきたビジネスマンの悲劇を描いた話ですが、現実の社会は今なお「おカネ万能」のようです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
お金に依存しないで生きていく方策はないのでしょうか。
テレビドラマ「誤断」を多くの人たちに見てほしいです。

先日、湯島で「お金だけでない支え合い」をテーマに、私が話をさせてもらうサロンを開催しました。
ある意味では、私の生き方のベースにある考え方を話させてもらったのですが、話していて、少し自分だけではなく、まわりにもその生き方を広げたくなりました。
来年から、「お金に依存しない生き方」をテーマにしたサロンを毎月開催しようと思います。できれば、話し合うだけでなく、具体的な仕組みを見つけられないかとも考えています。
最初のサロンは、たぶん1月9日か16日に開催しようと考えています。
ご連絡いただければ案内を送ります。

金権政府を倒し、金権社会を変えていくためには、まずは自らの生き方を変えなくてはいけません。

2016年

■1月3日に湯島カフェを3時間開店します(2016年1月1日)
あけましておめでとうございます。
今年も初日の出を見ることができました。
だれにとっても、昨年より良い年であるように祈願しました。

昨年も湯島ではさまざまなカフェサロンを開きました。
今年もまた、いろんなテーマやテーマなしの集まりをやろうと思っています。
時にテーマが重かったり、難しそうだったりすることがありますが、参加していただけるとわかりますが、いつもきわめてカジュアルで気軽なサロンです。
気楽に参加して、ホッとできる場を目指しています。普段はあまり接点のないような、いろんな立場の人が出会える場になればうれしいです。
できれば、私が行けなくとも、誰かが開いてくれるような、みんなのカフェサロンにできればと思っています。

今年から、毎月最初の日曜日の午後、テーマなしのオープンカフェを再開しようと思います。
参加の連絡も不要で、ただ気が向いたらそこに行くと、誰かがいるというサロンです。
もともと湯島のサロンは、そういうスタイルで始まったのです。
話したくなければ話さなくてもいいカフェサロンです。

というわけで、早速ですが、1月3日の日曜日、午後1時から4時までの予定で、カフェを開店しています。
近くに、湯島天神や神田明神がありますので、そこへのお詣りのついでの立ち寄りも歓迎です。
私の知らない人でも歓迎です。
コーヒーは、キリマンジャロの予定ですが、モカも用意しています。
もちろん時間内での出入りも自由です。
まだお会いしたことのない人にも、お会いできればうれしいです。
もしブログやフェイスブックをお読みくださっている方は、顔を見せてください。

○日時:2016年1月3日(日曜日)午後1時〜4時 (4時閉店)
ご都合のいい時間にコーヒーを飲みに来る感じでお立ち寄りください。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○喫茶代:500円

お会いできるのを楽しみにしています。

■今日最初の新年臨時開店カフェ報告(2016年1月3日)
今日の新年臨時開店カフェには10人のお客様が来てくれました。
それも10代から80代までの幅広さです。
それぞれのみなさんから、ご自分のことを話してもらっているうちに3時間が経ちました。
改めてそれぞれの方のお話を聞いていると、それぞれに関わりたくなってしまう気がしてきます。
やはり人はみんなそれぞれにたくさんの物語を背負っています。
そしてそれは、いずれも実に魅力的なのです。
それを聞き合うだけで、世界は広がります。
こういうテーマのない話し合いの場の大切さを改めて感じました。
時間はあっという間に過ぎてしまいました。

湯島のサロンに参加した最年少者はこれまで高校生でしたが、今日は15歳の若者が参加してくれました。
しかも京都の大原にお住まいで、春にはオーストラリアの高校に留学するそうです。
彼は、昨年、友だちと沖縄の辺野古にも行ってきたそうです。
こういう若者が、たぶん世界を変えていくのでしょう。

もうひとり、湯島サロンには初めての人が来ました。
なんと魔法使いです。
湯島にはいろんな人が来ますが、魔法使いはたぶん初めてです。
彼女は異星の人たちとも交流しているそうですが、湯島サロンもいよいよ宇宙的になってきました。
いつか宇宙の人をゲストにしたサロンができるかもしれません。

最後の方で、いささか過激な論争になり一瞬、場の空気が冷えそうになりましたが、それも含めて、湯島のサロンらしいものになりました。
茨城の幸田商店の干し芋、長野の五輪久保りんご、手づくりクッキーなどの持ち込みまでありました。
みんなとてもおいしかったです。

ところで、湯島天神のお詣りのついでにでも、とお誘いに書きましたが、湯島天神の参詣客は年々増えてきていて、今日もオフィスの前の道は若い人たちで長蛇の列でした。
夕方になっても行列は少なくなるどころか、ますます混んでいました。
写真はサロンの部屋から下を見下ろしたものです。
これにもいろいろと考えさせられました。

今年もまた湯島のカフェサロンをよろしくお願いいたします。
こんなことを話したいという連絡もいただいています。
今年のサロンはたぶん1月16日からスタートします。

■広島の煙石事件の恐怖(2016年1月4日)
私の新年は穏やかにあけました。
もっとも最近の世上の動きにはついていけずに、いささか「疎外感」を持ちながらの新年でしたが。
何事もないような平和な年賀状にも正直、いささかの違和感があるのですが、恐れや怒りを書かないではいられない人も数名いたのが、ささやかな救いにはなりました。
テレビからも、政治問題や社会問題を批判的に報道するものは見事といえるほどなくなっていますが、幸いにNHKのBSで、「映像の記録」が放映されていましたので、時々、それを見ていました。
この番組は昨年も再放映されたので見ていますが、何回見てもおぞましさが襲ってきます。

友人が、この番組に関して厳しいメールをくれました。

枢軸国側が勝っていたとしたらまるっきりかわってしまうような、連合国側にもあてはまるような批判を負けた側にだけしているだけで、心理的安定という根拠だけでいうならナショナリズムとかわらないものです。

私も同感です。
NHKは、昨年から「新・世紀の映像」を放映しだしていますが、それを見ていると、ますますそう感じます。
勝てば官軍なのですから、それは仕方がありませんが、私が不気味なのは、いまの日本の状況が、書籍などで読んだナチスドイツや軍国日本の1930年代にあまりに似ていることです。
いやすでに似ているどころか、そのものになってきているのかもしれません。
私たちの生活は、もはや取り囲まれているのかもしれません。

私たちを取り囲んでいるのは「何か」。
それは「えも知れぬ恐怖」かもしれません。
そうした「見えない恐怖」が、いまの日本を覆いだしています。
そして、その恐怖の中でみんな思考停止し、自らの小さな平和、小さな幸せ、小さな世界に閉じこもりだしています。

ほぼ1年前に、このブログで、広島の煙石事件のことを取り上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/12/post-0a5b.html
広島市の元アナウンサー煙石博さんが、銀行で客が置き忘れた現金66000円を盗んだとして、窃盗容疑で逮捕された事件です。
煙石さんは、確たる証拠もないまま、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けています。
詳しくは次のサイトの記事をお読みください。
http://tocana.jp/2015/11/post_8070_entry.html

地元広島では、冤罪を疑う声が高まっているそうですが、私が住んでいる千葉県には、この事件の存在すら聞こえてきません。
現在、事件は上告中ですが、第二審の判決後、煙石さんはこう述べています。
「みなさんの支援もあり、3年間がんばってこれました。私に起こったことは他の人にも起こりうることです。こういうことは絶対にあってはならない。」

これを読んで、ナチ支持から反ナチ主義へと転じたマルティン・ニーメラー牧師の言葉を思い出しました。
これまでも何回か引用してきていますが、改めて全文を引用します。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者でなかったからだ。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。
私は社会民主主義者でなかったからだ。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員でなかったからだ。
彼らがユダヤ人たちを連行したとき、私は声をあげなかった。
私はユダヤ人ではなかったからだ。
こうして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。 

煙石さんが感じているように、煙石さんに起こったことは「他の人にも起こりうることです」。
そして、いつかそれが私たちの社会を覆いだすかもしれません。
いや、すでに広島だけではなく、他のところでも起こっているかもしれません。
ナチスドイツも、こうして社会が壊れていったのかもしれません。

政治は恐怖や恐れによって支えられている、とも言われます。
そして、現代の恐怖は、可視化された恐怖はなく、私たちが一緒になって創り上げている恐怖とも言われます。
そうした状況では、「権力」や「体制」、「社会常識」に異を唱えることも勇気のいることです。
しかし、勇気をもって闘っている人にエールを送ることなら、できるでしょう。
そしてそれぞれが何ができるかを考え出せば、流れは変わるかもしれません。

ニーメラーの教訓をじっくりと噛みしめる年にしたいです。
そのためにも、多くの人にこの「煙石事件」の存在を知っていただきたいと思います。
周りの人にもこの事件のことを知らせてもらえるとうれしいです。
煙石博さんの無罪を勝ちとる会のホームページも、できればご覧ください。
http://enseki.noor.jp/

新年最初の記事は明るいことを書こうと思っていたのですが、どうも書けないまま4日になってしまったので、この記事を書かせてもらいました。
とても残念です。

■今年最初のカフェサロン「サービス文明論を語ろう」のお誘い(2016年1月6日)
今年最初のカフェサロンは、新年にふさわしく、少し壮大なテーマにしました。
資本主義に代わる、次の文明を考えようという話です。

常々、そんな問題を考えてきた坪田さんに問題提起をしてもらいます。
坪田さんからのメッセージを紹介します。

 リーマンショックで資本主義の限界が見えました。
次の文明はどうなるのでしょう?
 私(坪田)は、「サービス文明の到来」を確信しています。
 アマゾンで電子出版している「サービス文明論」の概要をお話しし、
皆さんのお考えを伺いたいと思います。

新年早々の開催ですが、ぜひ多くの人に坪田さんのビジョンを聞いていただき、今年の人生設計のも役立ててもらえればと思っています。

なお、坪田さんの「サービス文明の到来」(電子出版)は次のサイトに紹介があります。
http://book.symphocity.jp/ebooks/service.html

みなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年1月16日(土曜日)午後1時〜3時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「サービス文明論」を語ろう
○問題提起者:坪田知己さん(元日本経済新聞記者、京都工芸繊維大学特任教授)
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■いま政治に求められているのは「ビジョン」ではないのか(2016年1月6日)
国会中継の代表質問を見ていて、やはり今年も政治は変わりそうもないなと失望して見るのをやめてしまいました。
民主党の姿勢は全くといいほど変わっておらず、終始、批判だけに終わった感じがします。
自らのビジョンをベースにした批判でなければ、聴く人の心には響きません。

私は、政治とは社会を構成する誰もが、安心して暮らせる状況を創り出すためにあるのではないかと思っています。
そのために、いまのような大きな時代の変わり目には、ビジョンや理念、世界観を明確にすることが大切です。
なぜなら、いまの世界はまるで袋小路に入ってしまったように、誰かを蹴落とさないと前に進めずにいるからです。
そして、蹴落とされた人たちによって、ISのような世界規模のテロ活動や中国で頻発している「社会に恨みを抱いた」ための暴挙など、さまざまな事件が発生しています。
日本においてもそうした状況が強まっています。
その根底にあるのは、たぶん「見えない恐怖」「やりばのない怒り」でしょう。
人のつながりを壊すことによって、発展してきた近代は、あきらかにいま行き先を失っています。
いまこそ、私たちは社会の構造原理や私たちの価値観を基本から問い質す必要がある。

数年前に鳩山内閣が「友愛政治」「友愛社会」を掲げて政権交代を果たした時には、ようやく日本でも政治が始まるのだと期待したものです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/06/post-ed4f.html
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/05/post-ab44.html

私が最近において唯一尊敬する政治家は鳩山由紀夫さんです。
私にも理解できるビジョンや理念があるからです。
鳩山さんが組閣した時、世界は変わりだすと思いました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/06/post-c417.html
しかし見事に、同じ党内の人たちによって、足元をすくわれ、内閣は瓦解しました。
ビジョンや理念のない人には、鳩山さんは「宇宙人」にしか見えないようなのです。
よってたかって、鳩山さんを「陶片追放」してしまいました。
一時は、民主主義が嫌いになりました。

反安保法制も辺野古も原発もTPPも、私は反対です。
ですから、そうしたことへの反対運動には共感します。
しかし、それをしっかりと裏付けるビジョンや理念がなければいけません。
政府の政策に反対するだけでは、政権交代は実現しません。
事実、政権支持率さえ下げられない状況です。

いま必要なのは「新しい社会のビジョン」「新しい政治の理念」です。
さまざまな「反対論」の背景には、そうした理念やビジョンがあるはずです。
野党は、そのビジョンや理念を今こそはっきりとわかりやすい言葉で語ってほしい。
どんな社会を目指すのか。
社会の基本に置くべき価値観はなんなのか。
それを国民に示し、議論を起こすべき時ではないか。
反対運動も大事ですが、いま欠けているのは、そうした反対運動を支える「大きなビジョン」「大きな理念」です。

独裁といわれるほどに強い安倍政府に立ち向かうには、反対や批判ではなく、見えない恐怖におののく国民の不安に応えられる新しいビジョン、新しい理念の提示が不可欠です。
それに気づかない野党の与党批判は、政府を応援するだけの結果しか生まないように思います。
野党連合よりも、まずは国民に呼びかけての新しいビジョンづくりに、取り組むことが、政治の流れを変える出発点ではないかと思います。
批判や反対だけでは新しい価値は生まれませんし、国民の心を捉えることもできないでしょう
そしてもちろん、新しい時代を開くことなどできようもありません。

■「憎んではいけない。愛されない者だけが憎むのだ」(2016年1月7日)
北朝鮮がまた核実験をやりました。
国際的に批判の声があがっています。
たしかに時代に流れに逆行する蛮行だと思います。
しかし、各国政府が一方的に北朝鮮政府を非難攻撃する姿勢には違和感があります。
批判する側に、果たして批判する資格があるのか、と思うのです。

同時に、北朝鮮の平壌市民の声をテレビで見ると、1930年代から40年代の日本国民も同じだったのではないかと思ってしまいます。
いや、まさに今の日本国民もそう変わらないのではないかとさえ思えます。
そうした人たちを責めたり嘲る気にはなりません。

IS関連の報道もいささかの違和感があります。
もし報道の通りの蛮行をISが繰り返しているのであれば、にもかかわらずなぜISに参加する若者が減らないのか、が理解できません。
参加せざるを得ない状況が、あるのではないかと、つい思ってしまうわけです。

北朝鮮の核実験に関連して報道される金正恩にさえ同情したくなります。
もしかしたら、目に見えない恐怖に一番おののいているのは、金正恩かもしれません。
そう思っていた時に、ある人が、チャップリンの映画「独裁者」でのスピーチを思い出させてくれました。
ユーチューブで、改めてそれを見ました。
https://www.youtube.com/watch?v=RzTmkoR6mMQ
繰り返し2回見ました。
その中の次の言葉に心が響きました。

憎んではいけない。愛されない者だけが憎むのだ。

金正恩は、愛されたことがないのではないか。
そんな気がします。
そして、その金正恩を憎む人もまた、愛されたことがないのかもしれません。

もちろんだからと言って、核実験は許されることではないでしょう。
核実験は、原発再稼働や原発輸出と同じく、許されるべきではない。
しかし、もし核実験を非難するのであれば、自らの核兵器や原発を、まずは廃絶する努力をするべきでしょう。
ましてや、膨大な核兵器を保有する国家の軍隊と同盟することで、核兵器に依存して相手を脅威にさらすような国に、果たして北朝鮮を責める資格があるのか。
私にはあるはずもないと思います。

北朝鮮の核実験を責めるのであれば、まずは自国の原発再稼働や核抑止力依存の政治を止めなければいけません。
銃で支配する者は、銃を向けられても、相手を非難などできるはずもない。
そんなことさえ気づかない人たちには、つくづく愛想が尽きてきます。

恐怖におびえている、金正恩や北朝鮮政府を、まずは安心させてやることが大切ではないのか。
同じことが、ISについても言えるのではないか。
そう思うのですが、なかなか賛成してはもらえないでしょうね。

■支え合いカフェサロン「支え合い社会を考える」パート2のお誘い(2016年1月7日)
昨年末、「お金だけではない支え合い社会を考える」というテーマで、カフェサロンを開催させてもらいました。
その時は、いわば「入口編」として、周辺的な話や考え方を話させてもらいました。
そして、私の話の最後は「つづく」ということで終わらせてもらったのですが、
今年はできれば、具体的な支え合いの仕組みを考えるサロンとして継続させていければと思っています。

そこで、まずは参加者がみんなで、「こんな仕組みがあればいいな」とか「こんな場があれば安心できる」などといった、それぞれのわがままな願いや課題を出し合って、実際にお金だけでない「支え合い」って何なのだろうかを具体的にしていけないだろうかと思います。
できれば、自分の問題として話し合いができれば、と思います。
つまり、誰かのための支え合いの仕組みではなく、自分のための支え合いの仕組みがテーマです。
もちろん今すぐということではありませんが。
そして、もしそこから具体的な仕組みが見えてきたら、それを実現するにはどうしたらいいかを話し合い、次のパート3へと進めていければと思います。

相変わらずよくわからないサロンになりそうですが、もしかしたら新しい安心づくりの仕組みが見えてくるかもしれません。
前回のサロンに参加されていない方も、もちろん大歓迎です。
前回のサロンで私が話したことは、記録になっていませんが、パワーポイントがありますので、もしご希望があれば送ります。

よろしくお願いいたします。

○日時:2015年12月23日(水曜日・祝日)午後1時半〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「こんな仕組みがあれば安心だ」
○スタイル:それぞれが自分の考えをださいっての話し合い
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■ちょっとハードなカフェサロン「フランクフルト学派と市民性」のご案内(2016年1月9日)
昨年、「ドラッカーとナチスと市民性」をテーマにした「ちょっとハードなカフェサロン」を開催しましたが、そこで話題になったフランクフルト学派の近代批判をテーマに、「市民性」を考えるサロンを開催します。

フランクフルト学派とは、人間が自然や人間を支配し搾取する構造を持つ西欧近代の思想を批判し、1960年代の若者たちの運動や新しいコミュニティ論に影響を与えてきた一群の思想家です。
今回は、社会学史研究者の楠秀樹さんから、40分ほどフランクフルト学派の話をしてもらい、それをベースに、現代日本の社会のありようや課題、さらに前回田中さんが提起した「市民性」に関しての気楽な話し合いができればと思います。

こう書いてくると何やら小難しそうですが、勉強会ではなくカフェサロンですので、いつものように、気楽な話し合いにしたいと思います。
フランクフルト学派などは名前も聞いたことがないという人こそ、大歓迎です。
いまいささか袋小路に入っている感のある社会について、ちょっと違った視点で、話し合い、それぞれの気づきを得られる場になればと思います。
11月にサロンをした田中さんと16日に「サービス文明論」のサロンをする坪田さんも、議論に参加してくれる予定です。

みなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年2月13日(土曜日)午後3時半〜6時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「フランクフルト学派と市民性」
○問題提起者:楠秀樹さん(社会学史研究者:東京理科大学講師)
○スタイル:楠さんのお話の後、田中さん、坪田さんからコメントしてもらった後、みんなで話し合いたいと思います。
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■カフェサロン「サービス文明論を語ろう」の報告(2016年1月16日)
今日のカフェサロン「サービス文明論を語ろう」はまたまた超満員になってしまいました。
いつもと違って、今回は企業にお勤めの方にも少し声をかけさせていただいた結果、半数は企業の人でした。
しかし、ホームレス支援や障がいのある人の就労支援などに関わるNPOの人など、いつものように様々な人も参加してくれました。
若者の参加がなかったのが残念でした。

話題提供者は、元日経記者の坪田知己さん。
坪田さんはずっと前からメディア革命による社会や企業のあり方についての本も出されていますが、多様性を支えるサービス文明社会が到来したという「サービス文明論」も電子出版しています。
今回は、今や私たちは「機械の奴隷」になってしまったという話から始まり、つづいて、サービス文明社会の特質やそこでの生き方、働き方について、さまざまな問題提起がありました。
いろいろと突っ込みたい論点はたくさんありましたが、要はみんながもっと自分らしく生きられる社会が来そうだ、あるいはそういう社会を目指すべきだという話だったように思います。
そして、そのためのキーワードは、「個人の尊厳」と「信頼」「自律」という話でした。
あまりにも簡単なまとめですみません。

実際には、利己主義から利他主義へ、匿名社会から顕名社会へ、オープンエンドからオープンスタートへ、などといった話もありました。
「健常者」と「障がい者」の区別も解消されるのではないかという議論もありました。

アマゾンが過去の購入履歴を分析して、個人あてに推薦してくる書籍はなかなか的を得ているというような話もありました。
しかし、まさにそこにこそ、私は「管理された人間」を感じます。
自分では気づかないままに、得体のしれないものに操作され、「自分らしく生きている」ようで実は、その「自分らしさ」も「与えられた自分らしさ」になっているのではないかと思うわけです。
言い換えれば、「自律的」に生きているようで、実は「他律」されているのではないかと言う話です。
今回は、何しろ参加者も多かったので、そこまでの議論にはなりませんでしたが、いつか議論したいテーマではあります。

さらにいえば、そもそも「サービス」という言葉が問題かもしれません。
サービスの語源は「スレーブ slave」、まさに奴隷です。
私自身は、サービス社会は「奴隷社会」とほぼ同義と考えています。
坪田さんは、一方で「おもてなし」という言葉も使っていましたが、おもてなしには「尊厳」と「信頼」が含意されていますので、むしろ「おもてなし」とか「ホスピタリティ」という言葉のほうがいいような気もします。
しかし最近は、「おもてなし」も品格を失ってしまった言葉に成り果ててしまったかもしれませんが。

坪田さんは、インターネットと仏教の話にも少し言及しました。
常々、インターネットは華厳経に出てくる「インドラの網」、つまりインドラネットと同じだと思っている私にとっては、この議論もしたかったのですが、これまた始めるとさらに時間が延びるので我慢しました。
しかし、インターネットの意味は、もっとしっかりと考えるべきだろうと思います。

というわけで、1時間延長したにもかかわらず、話したりなかったことがみなさんそれぞれに多かったのではないかと思います。
そして、いかにも勝手な報告になってしまいました。

サロンは、異論反論が出るところに意味があります。
坪田さん、ありがとうございました。
坪田さんの問題提起は、さまざまな刺激を与えてくれましたので、どなたか、このパート2をやってくれませんか。

■自由とは責任を伴うもの(2016年1月17日)
長野県軽井沢町で1月15日に起きた軽井沢町でのスキーバス転落事故は41人が死傷するという惨劇になりました。
事件を起こしたのは、深夜に首都圏を出発し、スキー場に向かう「夜発」と呼ばれるツアーのバスでした。
報道によれば、スキー人口が減るなか、顧客を増やそうと、こうした「割安プラン」を企画する旅行会社は多いそうです。
事故で亡くなられた人たちのことが大きく朝日新聞で報道されています。
「学生12人 描いた夢」と大きな見出しで前面に亡くなった12人の学生たちのそれぞれの紹介があります。
とても違和感があります。
どこかおかしいのではないか。

亡くなった12人の若者に、特に大きく同情する気にはなれません。
もっと同情したい人は、私のまわりにもたくさんいるからです。
関係者の方がいたら、申し訳ないのですが、お許しください。
もちろん個人の死への追悼の念は持っていますし、バス会社への怒りも感じます。
しかし、この事故で問われるべきは、私たちの生き方ではないかと思うのです。
12人の若者を責める気はありませんが、単に「被害者」としてしか考えない社会の風潮には違和感があります。

思い出すのはポランニーです。
ポランニーは、若いころに書いた「自由について」という論考でこう書いています。

自由であるというのは、典型的な市民のイデオロギーにおけるように義務や責任から自由だということではなく、義務と責任を担うことによって自由だということである。
それは免責の自由ではなく自己負担の自由であり、したがって、そもそも社会からの解放の形態ではなく社会的に結びついていることの基本形態であり、他者との連帯が停止する地点ではなく、社会的存在の逃れられない責任をわが身に引き受ける地点なのである。

市場社会は、個人の責任を「免責」する機能があります。
保険のような制度や株式会社という仕組みは、まさに個人の責任をシェアし、みんなを生きやすくするために生まれた知恵だと思いますが、そうした社会の中に住んでいると、そもそも責任という意識そのものが消え去りがちです。

経済人類学を提唱したポランニーは、市場経済で消費の自由を謳歌する消費者は、価格さえ支払えば入手できる財やサービスが、直接には目に見えない多数の人間の「労苦や労働の危険、病気や悲劇的事故という犠牲を払って得られる、という事実が存在しないかのような錯覚に簡単に陥る」とも書いています。
そうしたことへの気付きから、最近はフェアトレードの考えが広がっているとはいえ、私たちの多くは、まだ「安いもの」の「意味」へは極めて鈍感です。
そこにどれほどの「リスク」があるか、思いもしなくなってきています。
格安バスツアーには、当然それなりのリスクがあるわけです。

昨日、湯島で開催した「サービス文明」をテーマにしたサロンでもトンネルの天井剥落や危険な橋梁に関する話が出ました。
それらをすべて「安全」にするのは無理でしょう。
トンネルにしても橋梁にしても、そこに「リスク」があることを私たちは意識しなければいけません。
「安全」を行政や企業などの第三者にただ要請するだけではなく、安全を望むのであれば、自らもまた応分の責任を負担しなければいけません。
今回の事故は、そうしたことを考えるきっかけにしたいものです。
問われているのは、私たちの「生き方」です。
そう考えると、いまのマスコミの報道姿勢には、どうしても違和感を持ってしまうのです。

■一番悪いのはCoCo壱番屋ではないのか(2016年1月18日)
カレーチェーン「CoCo壱番屋」が廃棄を依頼した冷凍ビーフカツなどを産廃処理業者が横流ししたことが大きな問題になっています。
しかし、どうも「問題の捉え方」に違和感があります。
期限切れの食品の表示偽装などの問題が起こるたびに感じることですが、もう一度、書いてみました。

昨年、CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二さんの講演をお聞きしました。
宗次さんは、道端の草を食べるほどの貧しさの中で育ったという自らの子ども時代のことを話されました。
それが実に心に響くもので、「CoCo壱番屋」に行かなければと思っていました。
食材や「食べるということ」を大切にしているお店だと思ったからです。
残念ながらまだ行っていないうちに、こんな「事件」が起きました。
そして、やはり行くのをやめることにしました。

報道では横流しした産廃処理業者が悪者として取り上げられています。
たしかに横流しや「廃棄」に関して約束を守らなかったことは悪いことでしょう。
しかし、私にはどうも割り切れません。
一番悪いのは、CoCo壱番屋ではないかと思えてならないのです。

どこが悪いのか。
そもそも横流しできるような大量の食材を無駄にしたことです。
私は、お金を無駄にすることには大して意味を感じませんが、食材を無駄にすることはどうしても許せません。
お金は単なる「手段的なもの」であって、日銀が印刷した無価値のものですが、食材は多くの人たちが自然の恩恵をもらいながら汗を流して創り上げてきた「価値あるもの」です。
お金を払って自分のものにしたから廃棄してもいいだろうということにはならないと思います。
もし私が廃棄を頼まれた産廃処理業者だとしたら、まだ食べられるたくさんの食材を前に本当に捨てられるだろうかと考えてしまいます。
何とか無駄にしない方法はないだろうか、と考えるのは、人として当然のことではないかとさえ思うのです。
もちろん、だからと言って、それを横流ししていいということではありません。
読み違ってはほしくありません。念のため。

日本では大量の食品廃棄物が出ていますが、問題にはなりますが、一向に解消されません。
なぜなのか。
CoCo壱番屋のような「悪質な会社」があるからです。
CoCo壱番屋の経営者は、私が考える「経営」ではなく、ただ金儲けだけが「経営」だと思っているのではないかとさえ思います。
「経営」とは、それが持っている価値を引き出し、輝かせることだと私は思っています。
その姿勢で経営コンサルタントをやっていましたが、仕事は全くありません。
その腹いせになってしまうと、この記事も説得力がなくなるので話を戻しましょう。

今回の事件で明らかになったのは、日本の食産業と日本の国民(私も含まれます)が「食材」を無駄にしているという構造あるいは文化だろうと思います。
企業の場合、それが経営を圧迫し、働く人の処遇を劣化させてもいるのです。
その構造を解消する方法は、すでに見つかっています。
たとえばトヨタによって広げられたカンバン方式、ジャストインタイムシステムです。
お客様の注文に合わせて、食材を仕入れ、過剰な食材在庫を持たない、過剰な供給はしないという発想です。
食関連でも、そうした発想で動き出しているところはあります。
それが広がれば、膨大な量の食材や食品の廃棄処分はなくなるでしょう。
しかし、残念ながら時代はそれとは正反対の方を向いています。
その象徴の一つがTPPだと思いますが、話を広げるのは止めましょう。

CoCo壱番屋の経営者は、創業者の宗次さんの思想を思い出してほしいものです。
食材を廃棄するなどという発想は道端の草を食べてきたという宗次さんの話が本当なら、絶対に起きないでしょう。
フードバンクや炊き出し、子ども食堂が広がっている時代です。
せめて必要な人に無償で提供するくらいのことは考えられるはずです。
流すとしても、業者仲間に流すのではなく、NPOや社会に流すべきでした。
その視点さえなかったということは、社会性を失っていたとしか言えません。
私が一番違和感を持つのは、そうした問題に視野を向けない報道関係者の「社会性」のなさなのです。
あるいは、そうしたことに気づかない、消費者団体や消費者そのものです。
まあ私にできることは、CoCo壱番には行かないということくらいですが、そうした小さな積み重ねが世界を変えていくと思っています。

今回は私の思いが伝わってでしょうか。
CoCo壱番を非難していますが、それが目的ではありませんし、実は必ずしもCoCo壱番を非難しているのでもありません。
実際には言及していない「食生活管理制度」や「食のあり方」、あるいは食とは関係ない「問題の立て方」、さらには「私たちの生き方への問いかけ」が私の伝えたいことなのです。
うまく伝わるといいのですが。

■カフェサロン「仕事における居場所感」のご案内(2016年1月18日)
今回は報告会を兼ねたカフェサロンのご案内です。
昨年、慶應大学環境情報学部の氏家さんが、「仕事における居場所感」についてのアンケート調査を実施し、その研究成果をまとめました。
調査にご協力いただいた方へは、その成果の発表論文が届けられていると思いますが、改めて湯島で、氏家さんに直接ご報告いただき、参加者で話し合うサロンを開催しようと思います。
氏家さんは、これからもこのテーマでの調査研究を進めていく予定ですので、こんな視点もぜひ研究してほしいというような要望も出していただければと思います。
ご関心のある方のご参加をお待ちします。
初めての方も歓迎です。
なお、参加される方には、あらかじめ氏家さんのまとめた研究成果の要旨論文をお届けしますので、ご連絡ください。

○日時:2016年2月9日(火曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「仕事における居場所感」
○問題提起者:氏家慶介(慶應大学環境情報学部学生)
〇スタイル:最初に氏家さんから調査結果の発表をしてもら、その後、自由に話し合います。
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■CoCo壱番のカツ横流し事件に関してのお詫び(2016年1月21日)
カレーチェーン「CoCo壱番屋」が廃棄を依頼した冷凍ビーフカツなどを産廃処理業者が横流ししたことが大きな問題になっています。
これに関しては1週間ほど前に、「一番悪いのはCoCo壱番屋ではないのか」というタイトルで、ブログを書きました。
そこでは、主に、「賞味期限切れ直前の食品の横流し問題」を中心にして、いまの食産業のあり方とそれを支える私たちの生き方への違和感を書きました。
読者から、「CoCo壱番は異物混入のおそれがあるので廃棄処分を依頼したのであって、賞味期限が問題ではなかったのではないか」とコメントをもらいました。
たしかに、言われてみれば、問題を整理しない粗雑な書き方でした。
最後に、「必ずしもCoCo壱番を非難しているのでもありません」と書きましたが、読者が「CoCo壱番非難」と受け止めたとしても仕方がありません。
タイトルも含め、粗雑な記事を一時的とはいえ、公開したことを反省し、読者にはお詫びいたします。

私自身は、仮に異物混入が原因だとしても、その処分の仕方や食品への扱い方に違和感があったのですが、どうしても読者は「個別の事件の内容分析」に興味があるようです。
それ自体が、まさに現代の特質のような気もします。
連日のテレビのニュース報道を見ていて、あまりのしつこさや細部への報道に、時代を隠そうとしているのではないかとさえ思ってしまいます。
事実、そうしたバス事故や横流し事件やSMAP騒動のかげで私たちの生活に大きな影響を与えるようなことが国会ではどんどん進められています。
民主党の議員が、国会でSMAPのことまで首相に質問する有様です。
それにしても、SMAPが国民的存在だなどという風潮は、まさにローマ時代の「パンとサーカス」を思い出させられます。

話がまたそれましたが、そんなわけで、ブログの記事を削除した後、何回か書きなおしてみたのですが、どうもうまく書けません。
しかし、その後の動きを見ていて、やはり書いておこうと思います。
ダイコーやCoCo壱番の奥にあることこそが、問題なのではないかと思うからです。
そこに居るのは、私たちです。
社会を正そうと思うのであれば、まずは自分の生き方を考え直すことから始めなければいけません。
他人事に社会を観察し語る人たち(私も時にそうなっているのかもしれませんが)だけでは、社会は変わらないでしょう。

今朝の朝日新聞に、辺見庸さんのインタビューが大きく出ていました。
彼の「流砂のなかで」という、高橋哲哉さんとの対談を読んだところですが、フェイスブックにも書きましたが、おふたりの見事な主体的な生き方にはいつも多くのことを気づかされます。
価値観は人それぞれだとしても、問題だけはしっかりと見据える努力をしたいと思っています。

つづけて、2回にわたり、先の記事を書き直したものをブログに掲載させてもらう予定です。
うまく書ければいいのですが。

カフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」のお誘い
年明けに、「箸を考え抜いたら人間とは何かという定義が出来ました」と言うメールを、国際箸学会の小宮山さんからもらいました。
これは会わなくてはいけないと思い、お話をお聞きしました。
私は、その定義には納得できませんでしたが、そこで「人間と道具」そして「遊びと働く」に関する話し合いになりました。
それに、小宮山さんとだいぶ長く話しましたが、まだその真髄が腹に落ちません。
それで、そうしたテーマでのサロンをやろうということになりました。
テーマは、「人間と道具、あるいは人間と遊び」を切り口に、「人間とは何か」を話そうということです。

人間の定義に関しては、「ホモ・ファーベル」(道具をつくる動物)や「ホモルーデンス」(遊ぶ動物)などというのもありますが、小宮山さんの定義はそれにつながりながら、微妙に違うところがあります。

1月に開催したカフェサロン「サービス文明論」でも、科学技術と人間の関係に関しての議論が出ましたが、それにもつながっています。

またまた、なんだかよくわからないサロンになりそうですが、いろんな気付きに出会うかもしれません。
みなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年2月21日(日曜日)午後1時〜3時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「人間と道具、あるいは人間と遊び」
○問題提起者:小宮山栄さん(国際箸学会会長)
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com

■賞味期限切れ間近の食品の横流し事件に思うこと(2016年1月21日)
CoCo壱番のカツ横流し事件を発端にして、他にもたくさんの廃棄食品が横流しされて、再び市場に乗ってしまっている事例が次々と報道されています。
何をいまさらと言いたい気分もありますが、不思議なのはこういう事件が起こると似たようなことが次々と記事になることです。
それはおそらく、そういう事実や状況を、業界の人たちは知っているからではないかと私には思えてなりません。
知っていてなぜ変えられないのか。
そこにこそ、問題の本質があると思うのです。
そう考えると、今回の横流し事件報道に関しても、「問題の捉え方」が違うのではないのか。
ダイコーだけを責めていいのか。
もっと奥深いものがあるのではないかと思うのです。

昨年、CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二さんの講演をお聞きしました。
宗次さんは、道端の草を食べるほどの貧しさの中で育ったという自らの子ども時代のことを話されました。
それが実に心に響くもので、「CoCo壱番屋」に行かなければと思っていました。
食材や「食べるということ」を大切にしているお店だと思ったからです。
残念ながらまだ行っていないうちに、こんな「事件」が起きました。
そして、やはり行くのをやめることにしました。
悪いのは、CoCo壱番屋ではなくて、横流ししたダイコーではないか。
CoCo壱番屋はむしろ被害者ではないかと、多くの人は思っているのかもしれません。
私は、そうは考えていません。
CoCo壱番屋にも大きな責任がる。
それはまた次回書くとして、今回は大量の食品ロス問題について書こうと思います。
それは、私の問題でもあるからです。

私は、お金を無駄にすることには大して問題を感じませんが、食材を無駄にすることはどうしても許せません。
お金は単なる「手段的なもの」であって、日銀が印刷した無価値のものですが、食材は多くの人たちが自然の恩恵をもらいながら汗を流して創り上げてきた「価値あるもの」です。
お金を払って自分のものにしたから廃棄してもいいだろうということにはならないと思います。
ですから、賞味期限切れで食品を廃棄することを許容している、食品産業に関わる人たちが理解できないのです。
彼らは、自らが扱っている商品への愛着や誇りはないのでしょうか。
賞味期限切れ近くになると消費者は買ってくれないので廃棄するしかないのかもしれません。
しかし、そこで納得していい問題ではないでしょう。

もし私が廃棄を頼まれた産廃処理業者だとしたら、まだ食べられるたくさんの食材を前に本当に捨てられるだろうかと考えてしまいます。
何とか無駄にしない方法はないだろうか、と考えるのは、人として当然のことではないかとさえ思います。
もちろん、だからと言って、それを横流ししていいということではありません。
読み違ってはほしくありません。念のため。

日本での大量の食品ロスは問題にはなりますが、一向に解消されません。
なぜなのか。
そこにこそ議論の焦点を向けなければいけないのではないか。
大量の食品ロスを出しても、利益が上がる事業構造に問題があります。
いやむしろ大量の食品ロスを出すことによって、利益を極大化させる構造になっているのかもしれません。
そこを見直すべきではないかと思います。

食品ロスの発生は、いうまでもなく過剰生産の結果です。
機会ロスをなくすために、過剰供給しているわけでしょうが、その結果、大切な食材が廃棄させられることになる。
どこかおかしくはないでしょうか。
事業を行う企業は利益を上げるかもしれませんが、食材を廃棄してしまうことは社会にとっては明らかに損失です。
今回の事件で明らかになったのは、日本の食産業と食文化の欠陥ではないかと思います。
供給側もお粗末ならば、消費者側もお粗末です。
食品が、まさに「餌」になっているような気がします。
和食文化が世界遺産になって騒いでいる場合ではないでしょう。
和食文化の真髄を思い出したいものです。

食品ロスを減らす方法はいくらでもあります。
過剰生産を防ぐためには、たとえばトヨタによって広げられたカンバン方式、ジャストインタイムシステムが参考になります。
お客様の注文に合わせて、食材を仕入れ、過剰な食材在庫を持たない、過剰な供給はしないという発想です。
食関連でも、そうした発想で事業に取り組んでいるところはあります。
それが広がれば、膨大な量の食材や食品の廃棄処分はなくなるでしょう。
しかし、残念ながら時代はそれとは正反対の方を向いています。

そして、因果関係はわかりませんが、そうした食品ロス体質の食産業を支えているのが、利便性を追求する賞味期限意識の高い消費者です。
食べていいかどうかさえ教えてもらわないといけなくなった「消費者」たちが、食品ロスを支えているのではないかと思います。
日本人の食文化はこれでいいのか。

みのりフーズの経営者の方が、少しくらい古いものでも洗って食べた世代だと話していましたが、私はその人にとても共感しています。
私は賞味期限切れのものも、もちろん捨てずに食べています。
食材は買った以上は、きちんと食べる責任があるからです。
外食産業の経営者には、そういう責任感を持ってほしいと思います。

いずれにしろ、現在のような食品ロス状況は、変えていかなければいけません。
どうしたら変えられるか、そういう視点で、今回の事件を活かしていきたいものです。
私も、外食も含めて、食については、改めて無駄を避けるようにするつもりです。

長い割には、何か書ききれなかった気がします。
やはり記事の書き直しは、難しいです。

■カフェサロン「支え合い社会を考えるパート2」の報告(2016年1月26日)
昨日のカフェサロン「支え合い社会を考えるパート2」は9人の参加でした。
予想に反して、女性は一人だけでした。
そのせいか、具体的な仕組みを話し合うつもりが、考え方や制度の方に話が行きがちでした。
具体的な仕組みを考える場合は、自分の生活を起点として、こんな仕組みや場がほしいというところから一人称で話し出さないといけないのですが、やはり時期尚早だったのかもしれません。
みんなあんまり困っていないのです。
まあそれが困ったことなのですが。

坪倉さんが自分の考えをまとめたペーパーをつくってくれたので、まずはそこから話をはじめました。
坪倉さんは、支え合いの基本単位として「家族」を核においています。
私も同じ考えですが、前回、坪倉さんがその話をしたら女性陣から厳しい批判の意見が出ました。
「家族」の意味が、男性と女性とではまったく違うのかもしれません。
これは大きなテーマですが、家族を支え合いの基本にしないとしたら、何が基本になるのかを、一度、女性に問題提起してカフェサロンしたいと思います。
問題提起してくださる女性を募集します。
しかし、やはり基本は家族でしかないのではないかと私は思います。
そうでないと未来を生み出す子どもたちの居場所がなくなるからです。

そもそも「支え合い」という言葉がこれほど話題になること自体に、社会のおかしさを感ずるのですが、そもそも「生きる」とは「支え合う」ことです。
もし「支え合い」が必要でないとしたら、その人は生きていないとしか言いようがありません。
それが私の基本的な考えで、要は、みんなもっと「生きましょう」と言うのが、パート1での私のメッセージでした。
どうもうまく伝わっていないようなので、今回また少しややこしい話をしました。

人間(西部知はすべてそうですが)は、生産しながら消費している存在です。
生きるとは、「生産」と「消費」の組み合わせですが、一人では自給できないので(必要なすべてを生産できない)、他者とのやり取りが大切になってきます。
自分が生産した余剰なものを他者に使ってもらい、他者が生産した余剰なものを使わせてもらって、生きることが成り立っています。
ここで、生産するとは必ずしも、「モノの生産」だけではありません。
その最小単位が家族であり、近隣社会であり、親族社会でした。
つまりそこでは、「支え合う」ことが生きることだったわけです。

ところが、近代になってから、生産と消費は切り離されました。
生産機能を集中させ、産業が成立しました。
人は、自らの生産機能をそこに買ってもらうことになりました。
しかし、生産したらそれを売らなければいけません。
そこで「消費者」がつくりだされました。
そして「市場」が生まれ、市場社会と言われるほどに、社会は汎市場化してしまったわけです。
そして、人は自らの消費機能を、その市場に吸い取られてきているのです。
しかも、近代の産業社会は、「生産の場」と「消費の場」が切り離されました。
ですから、生産と消費を統合していた、「家族」「近隣社会」などは不要になってしまいました。
逆に、そうしたものを壊すことで、市場は拡大し、産業は発展してきたわけです。
私がしばしば書いているように、「女性の社会進出」は「女性の市場化」でしかありません。

この調子で書きだすときりがないのですが、まあそんなことを話させてもらいました。
でもまあ、そんな私の話とはあんまり関係なく、話し合いはいろいろと広がりました。
若衆宿や頼母子講の話も出ましたし、持てる者が持てない者を助ける関係が自分の親の代にはあったという話、プ―タローでも生きる場所があったという話、農福連携の話、支え合いの前に人をつなぐ共通の話題になるものが大切だ、という指摘もありました。

就労支援活動などに取り組んでいる阿部さんが、社会的弱者とされる人たちは、誰かに役立ちたいと思っている人が多い、いう話をされました。
彼らは、不足を嘆いているのではなく、過剰を嘆いているのです。
もしかしたら、そこに「支え合い」社会を考える重要なヒントがあるかもしれません。
少なくとも私のまわりのほとんどの人は、それとは真逆な考えをしています。
誰かの世話をするのが福祉だとかケアだと思っている人が多いですが、大切なのは、誰かの世話になるということかもしれません。
つまり、「支える」ことを起点として考えるのではなく、「支えられること」を起点として考えることが大切かもしれません。
とすれば、支え合う仕組みを作る早道は、私がまず、支えられないと生きていけない存在になるのがいいかもしれません。
しかし、よく考えてみると、いま既にそうなっているような気もしますが。

昨年、スペインのサンチアゴ巡礼をしてきた鈴木さんが、支え合う場ってスピリチュアリティにつながっているようだと言って、巡礼路にある宿泊所の話をしてくれました。
ビジネスでやっているのとボランティアでやっているのとでは、雰囲気が大きく違うようです。
後者はとっても「あったかい」のだそうです。
ちなみに、実質的には料金はそう変わらないようです。

最後に、阿部さんが、湯島を活かして自分の世界に閉じこもりがちな若者たちのための話し合いの場を湯島でやろうとしていることを話してくれました。
私も参加させてもらう予定です。
そうした具体的な仕組みが少しずつ生まれてくれば、うれしいです。

とまあ、あんまり報告にならない報告ですが、「支え合い社会」に関しては、なかなか私の思いは伝わっていないので、ブログに少しシリーズで書こうと思います。
書き終わったらまたご案内します。
なお、このシリーズのサロンはつづきます。
ともかく具体的な仕組みを生み出したいものですから。

不覚にも風邪をひいてしまい、頭がボーっとしていて、いつもよりさらに冗長な報告になってしまいました。
インフルエンザはなかったので明日には回復するつもりです。

■カフェサロン「学童保育から見える子どもの世界」の報告(2016年2月6日)
今日のコムケアサロンは、学童保育に長年かかわっている上野陽子さん(日本子どもNPOセンター)に話題提供してもらいました。
学童保育についてほとんど知らない人も含めて、10人の人が集まりました。
上野さんから、学童保育はどんな場所なのか、そこで今どういうことが起こっているのか、そこに関わるものとしてどんな悩みを抱えているのかを、話してもらった後、いつものように自由な話になりました。
上野さんは、これまでの活動からていねいなレジメをつくってくださっていますので、もしご関心のある方がいたら、ご連絡ください。
上野さんの了解が得られたらお届けいたします。

話を聴いていると、まさに大人の世界と同じようなことが展開されているように思いました。
と同時に、学童保育もだんだん窮屈になってきているのだなとも思いました。
そして、学童保育の世界もどんどん「市場化」が進んでいるようです。
そのため、子どもの都合よりも、大人たちの都合が、支配しているのかもしれません。
「福祉」の世界の大きな潮流と同じです。
そこでは「保育」とは何か、といった大きな目的は忘れられがちです。

上野さんは、そうしたなかで、たぶん子どもたちと正面から付き合い、両親には見えない子どもの姿を両親に伝えようとしているのでしょう。
だから、悩みが山のように出てくるわけです。
たとえば、上野さんはこんな悩みを話してくれました。
・子ども目線ってなんだろうか。
・どうしたら、一人の「人」として、子どもと関わることができるのか。
・モノ(景品)をもらえる行事が多いのではないか。
・学童保育の世界で子どもたちを大切にすることが、学童保育の外での子どもたちの生活を危うくすることはないのか。
・日常からつながるイベントをつくりたい。
・保護者や地域や社会に、何をどう発信していけばいいのか。

私が面白かったのは、最近はボール遊びができなくなっている公園が多いそうですが、学童保育の場合はルールを破ることができないのに、学童保育以外の子どもたちはボール遊びをやっている(もちろんルール違反)という話でした。
不都合なルールは変えればいいだけの話ですが、ルールが一度できてしまうと、なぜかみんなそれに従わないといけないと思う社会になってしまったようです。
それに関連して、子どもたちがちょっと工夫してルールを変えてゲームをしていると、「このゲームはこうやって遊ぶんだよ」と注意する子どもがいるそうです。
こうして「ルール重視」になっていくと、大きなルールが壊れて、学級崩壊や学校への不適合が起こるのかもしれません。

母親と子供の関係も話題になりました。
母親にとって、子どもは自らの存在証明なのかもしれません。
2人の母親の、少し違いのあるご意見には興味を感じました。
これはいつかまたテーマにしたいと思います。

ほかにもたくさん考えさせられることがありました。
所詮は、子どもたちの都合ではなく、大人たちの都合が優先されていると最後に誰かが言っていましたが、私もまったく同感です。

学童保育を否定しているわけではありません。
しかし、かつて保育所が「託児所」と言われたようなことを繰り返してほしくはありません。
学童保育を利用している人は、家族や本人が、どこかで学童保育の運営にも参画する仕組みが必要だろうと思います。
小学生の子どもでも、スタッフとしてやれることはたくさんあるはずですし、それが無理なら10年後にお返しする仕組みも考えられます。
市場化とは違う展開があるのになあ、と思いながら、私は話を聞かせてもらっていました。

主観的な中途半端な報告ですみません。
まあ、いつものことですが。

社会に向けて「学童保育」の現場からの声を発信していく場を、日本子どもNPOセンターで検討してほしいと思いました。
みんなあまりにも知らないのです。
みなさん、もっと子ども世界に関心を持ちましょう。
子どもが豊かに育たなければ、社会が豊かになるはずがありません。

■「仕事における居場所感」報告サロンの報告(2016年2月10日)
昨日の「仕事における居場所感」の報告サロンは、意図に反して、企業関係者は少なく、多彩なメンバーの集まりになりました。
今回の話題提供者は、慶応大学湘南キャンパスの4年生の氏家さんです。
昨年彼が行った、主に企業の人を対象にした居場所概念の構築のための調査報告をしてもらい、それに基づいて参加者が話し合うサロンでした。
氏家さんの調査には私もささやかに協力しましたが、今回、改めてさまざまな人が、若者の報告を誠実に聞き、いろいろと意見を出してくれたのがとてもうれしかったです。
若者であるが故の未熟さは多々ありますが、だからこそ、それを誠実に聴き、真摯に話し合いを重ねていくことこそが、私のように歳を重ねたものの責任だろうと私は考えています。

氏家さんは、居場所感の構成要素として、「当事者意識」「関係性」「自己効力感」を抽出し、またソーシャルサポートの影響なども解析しています。
詳しい内容に関して関心のある方は、ご連絡いただければ、氏家さんにつなげますので、ご連絡ください。

この分野のプロでもある斎藤さんや本間さんも参加してくれましたし、わざわざ長野から参加してくれたNPOの江村さんもいます。
社会活動でお忙しい折原さんも、元日経記者だった坪田さんも参加し、いろいろとコメントしてくださいました。
この調査にやはり最初から協力してくれた大坪さんも参加してくれました。
そうした多彩な立場からの話し合いも行われました。
話しは多岐にわたりました。
そもそも「仕事がある」ということが、居場所を創りだしているのではないか、そもそも仕事もない人は、居場所感以前の状況にあるのではないかという話もありました。
「居場所がない」という言葉は、よく聞かれますが、そこにはさまざまな意味が込められているようです。
「仕事」とは何なのかという話もありました。

氏家さんの報告を聞いていて、私が感じたのは次の点です。
・居場所は「与えられるもの」なのか「創りだすもの」なのか。
・仕事場での居場所と社会との居場所はどう関係するのか。
・閉じられた居場所感と開かれた居場所感があること。
こうしたことを考えていくと、いろいろな面白テーマにたどり着きそうです。

氏家さんの調査研究活動は、まだ入り口に立ったところです。
これからが楽しみですが、体験豊かな多くの人にいろんなコメントをもらって、これからさらに豊かなものになっていくでしょう。
参加してくださったみなさま方には、とても感謝しています。
ありがとうございました。

■しばらく時評を書けずにいました(2016年2月13日)
時評が書けません。
そもそもcoco壱番の廃棄食品の横流し問題に関連した記事が最後なのですが、いまも悪いのは coco壱番だと思っていますが、それをきちんと書くのが面倒になってきてしまったのです。
最近の報道のほぼすべてがそうですが、問題の本質は問われることなく、表層的な事象にしか社会の関心は向かっていません。
それも繰り返ししつこく同じような報道が行われます。
要は、過剰報道で本質を見えなくする「非情報化」が行われているのです。
不倫議員の辞職など採りあげる価値さえないと思いますが、スター並みの採りあげ方です。
子どもの犯罪も、その周辺の大人たちの問題だと思いますが、大人たちはやぶの外です。
coco壱番の食品廃棄の原因は、不純物混入が原因だと最初報道されましたが、たぶんそれだけではないでしょう。
あれだけの大量な食品が廃棄されるという構造に問題があるのです。
それに、廃棄の仕方が問題なのですが、なぜか読者はcoco壱番の味方のようです。
結局何も変わらずに報道は終わってしまいました。
そうした風潮に嫌気がさして、時評が書けなくなっていました。
困ったものです。

私が最近強く感じているのは、ファシズム化の動きです。
北朝鮮では、いまなお、「処刑」というおぞましいことが行われているようですが、もしかしたら日本でも同じようなことが行われているのかもしれません。
そういう想像力を少し膨らませると、そんな気さえしてきます。

体調があまり良くなかったこともありますが、この数か月、きちんとした時評編を書けずにいました。
少しずつですが、慣らし運転的に書きだそうと思います。
この数か月で、かなり「ひがみ根性」が大きくなってきているので、いささかの心配はありますが。

■カフェサロン「フランクフルト学派と市民」の報告(2016年2月14日)
昨日の「ちょっとハードなカフェサロン」の話題提供者は、楠秀樹さんでした。
楠さんはいつも詳しいレジメをつくってきてくださいますが、今回も「フランクフルト学派と市民」と題した、ドイツにおける歴史研究(歴史認識)の動きをわかりやすく整理してきてくれました。
そして、それを踏まえて、現代にもつながる「優生学の問題」や公共圏の変質や生活世界の植民地化、道具的理性の意味、メディアの問題、さらにはナチドイツが特殊だったわけではないことなどにも言及され、そこから現代の日本社会を解く、さまざまなヒントを提起してくれました。
レジメを読み直してみると、楠さんの問題意識が改めて浮かび上がってきます。

レジメの最後に、いわば要約ともいえることが書かれているので、その一部を引用させてもらいます。

・ヒトラーの試みたことは市民を国民=民族にすることであり、それはより広く言えば遺伝の管理であったものとして今や反省され始めている。
・生殖や遺伝の管理という事態は、「家庭」を空洞化して国家に一人一人を帰属させ、生殖や妊娠の自己決定権をはく奪した。
・遺伝や健康、公共の福祉の下に「生きるに値しない生命」を排除する効率という発想を医師などの専門家や国民も支持し、協力した。

どこかいまの日本社会を思わせるところがあります。
ナチスが抹消しようとしたのは、ユダヤ人だけではないのです。
それにドイツ人が荷担し、つまるところはドイツ人自らもまた抹消の対象になっていった。
そこが実におぞましいところです。
そして、そうした意味においては、当時の日本人もさほど大きく変わっていなかったのかもしれません。
しかも、それはいまも変わっていないかもしれません。

ドイツ人はナチス時代のドイツを(不十分かもしれないとしても)総括しようとしたのに、なぜ日本人は戦前から戦時にかけての日本を総括できないのかという議論もいろいろとありました。
そこからいまの日本の社会状況や沖縄の問題などにも話は及びました。

フランクフルト学派が生み出した「価値」は何かという議論もありましたが、学ぶことはたくさんあるように思います。
私にとっては、湯島でのサロン活動も、ある意味では、その学びから得た一つなのです。
今回も、キーワードとして出てきましたが、私たち一人ひとりが「公共的市民性」を高めていくことが大切であり、現実的なのだろうと思います。

ところで、今回、楠さんは優生学の動きにかなり時間を割いて話してくれました。
そして、優生学の歴史はどうしても(そして時には意図的に)忘れられがちになると指摘されました。
楠さんが大学で接している学生たちの優生学への反応の話も、私には衝撃的でした。
これに関しては、改めてサロンを開きたいと思いました。

優生学への志向がナチスを生み出したとも言えるかもしれませんが、それに関しても日本はいま、かなり危うい状況にあるような気がします。
いまテレビで、カズオ・イシグロ原作の小説「私を離さないで」がドラマ化されて放映されています。
テレビのドラマはどうもなじめませんが、原作を読んだ時の衝撃は今も忘れられません。
ナチスドイツは決して、遠い世界の「悪夢」ではなく、私の隣にあるような思いが、最近強くなってきています。
そうしたことを改めて実感させてもらったサロンでした。

一部だけの報告になってしまってすみません。

■司法における非対称構造(2016年2月20日)
先日、大学時代の同窓生の大川真郎弁護士のオフィスを訪問しました。
大川さんは、昨年、「裁判に尊厳を懸ける」という本を出版しましたが、その内容に感動して、湯島のサロンでお話をしてもらったのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#150719
参加者には事前に読んできてもらいたかったのですが、読んできてくれたのは半分でした。
最近は本を読む人が減りました。
この感動的な本も、なんと2500部しか出版されず、増刷はなかったそうです。
司法界の人口を考えると、信じがたい話です。
もしまだ読んでいない人がいたら、ぜひ購入してください。
もし弁護士に仕事を頼む際には、この書籍を読んでいるかどうかを確認してください。

大川さんは司法改革にも取り組んだ人です。
大川さんたちの努力にもかかわらず、日本の司法は独立性を失い、劣化しているような気がしています。
さらに私自身は、司法の持つ意味を真剣に考えている人が少ないような気もしています。
大川さんの本を読ませてもらったり、大川さんのお話を聞いたりしているうちに、私自身も含めて、それに気づきました。
そんなこともあって、大阪の大川さんを訪問させてもったのです。

いろいろと示唆に富む話を聞けたのですが、それはそれとして、ハッと気づいたことがあります。
それは、裁判制度を構成している、検事と弁護士の立場の非対称性です。
検事は組織に属していますので、収入は保証されています。
それに対して、弁護士(組織の属している弁護士は別として)は基本的には個人事業ですから、自分で仕事を創りだし働かなければ収入は得られません。
裁判で敗訴すれば、報酬も得られないわけです。
つまり、組織人と個人という、まったく違った立場なのです。
このことのおかしさに、私は気づかずにいました。
もうみんな知っていることかもしれませんが、その意味がきちんと考えられているとは思えません。
言うまでもなく、裁判官もまた国家に所属していますので、収入は保証され、生活も保障されています。
裁判の両輪とも言うべき、弁護士と検事が、こうした非対称の立場に置かれていることは、裁判にどう影響するでしょうか。
アメリカが訴訟社会になった理由も、そこにあるのかもしれません。
まさに「近代産業のジレンマ」の典型的な事例です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm

いうまでもありませんが、その所属の故に、検事や裁判官は、国家統治の視点で考えますが、弁護士は依頼人の視点で考えます。
ここでも非対称は発生していますが、それはむしろ当然のことです。
しかし、本人の生活保障という面での非対称は、やはり仕組みとしておかしいように思います。
ではどうしたらいいか。
答はそう簡単ではないかもしれませんが、私たち一人ひとりの生活者が、弁護士という職業の意味をしっかりと理解しすることが、まずは大事です。
また大川さんに頼んで、湯島でサロンをしてもらいたくなりました。

みなさん
もしまだお読みでないとしたら、大川さんの「裁判に尊厳を懸ける」を読んでもらえれば、とてもうれしいです。
さらに感想を送ってくださった方には、いつでも珈琲をご馳走します。
私のホームページでは、大川さんの書籍も何冊か紹介しています。
今度のホームページ更新の際に、大川さんコーナーを創ることにしました。
すべて感動的な書籍です。
大川さんの人柄が伝わってきます。

■四天王像が一列に並んでいるお寺をご存じないですか(2016年2月20日)
非常識な疑問なのですが、どうも気になって仕方がないので、もしかしたらと思っての投稿です。
よほどお暇な方はお付き合い下さい。
そしてもし何かご存知でしたら教えてください。

一昨日、大阪の数十年ぶりに四天王寺を訪ねました。
ところが金堂の須弥壇の四天王像の配置が、記憶と全く違うのです。
私の記憶では、(常識的にはあり得ないことなのですが)、四天王像が須弥壇の4隅ではなく、たしか左前方に一列に並んでいるのです。
そんな配置は、常識的に考えても、あるはずがありません。
しかし、私の記憶では、そのあるはずもない配置なのです。
その異様な配置に驚いたのですが、ある理由で納得したという記憶が残っているのです。
ところが今回金堂も拝観させてもらったのですが、まったく正常な配置になっていました。
受付の人に恥を忍んで質問しましたが、もちろん以前からこの配置だそうです。

以前、その印象が強烈だったので何かに書き残した気がして、帰宅後、いろいろと調べてみましたが、そんな記録は出てきません。
資料や文献も調べましたが、そうしたものにもまったくそんな記述はありません。
もしかしたら夢の記憶なのかとも思いますが、かなり以前からその記憶があって、いつか再訪してみたいと思っていたのです。
記憶違いだと思えば、なんでもない話ですが、どうも気になります。
もしかしたら、四天王寺ではなかったのかもしれません。

どこかに、四天王像が四方に配置されずに、一列に配置されているお寺をご存知の方がいたら教えていただけないでしょうか。
どうも気になって、仕方がありませんので。
何かご存じの方は、次のところにメールをいただけるとうれしいです。
qzy00757@nifty.com

■マイナス金利とお金依存症(2016年2月21日)
しばらくかかないでいたため、かなりのストレスがたまっています。
それを抜く意味でも、今回は少しうっぷん晴らしです。

今朝のテレビ「報道新2001」を見ていて、やはり私は違う世界にいるなと思わざるを得ない発言ばかりでした。
テーマは、「初のマイナス金利始動効果は?アベノミクス逆風暮らしは」です。
ゲストの稲田自民党政調会長の発言は問題外として、それなりの見識をお持ちだろうと思う人たちの発言も、どうも基本から違和感があるのです。

たとえば、進行役の須田さんは、こういうのです。
「70歳に近づくにつれて、やはりお金は大切だと思うようになった」
この人は、おそらく貧しい生き方をしているのだろうなと憐憫の情を感じましたが、こういう人に経済を語る番組の編集役をやってほしくないなと思いました。
慶應大学教授の片山善博さんは、「マイナス金利はわけがわからない」というような発言をされましたが、わけがわからないのであればコメントしてほしくないと思いました。
デフレとインフレの話も少し出ましたが、これも違和感が大きいです。

私は、お金への過剰依存から抜けるべきであり、そのためにはデフレをもっと進めるべきであり、金利はマイナスであることを原則とすべきだと思っています。
ただそれらを個別に議論すべきではなく、総合的に考える必要があります。
つまり、「経済のパラダイム」を問い質すべき時期に来ていると思うのです。
パラダイムの転回を考える時には、先入観は捨てなければいけません。
素直に考えれば、生命を持った存在でない人工物(仕組みも含めて)は、放置したら「減価」します。
その基本を知っていたら、人工物である「貨幣」は保管していたら、減価、すなわちマイナス金利は当然のことです。

シルビオ・ゲゼルが提唱するゲゼル経済学は「減価する貨幣」を基本にしていますが、金利がつく貨幣という考え方は、経済の一つの考え方でしかありません。
というか、むしろ「減価する貨幣」を基本に考えるべきであって、それを「利益を生む貨幣」にしたが故に、さまざまな問題が発生していると考えるべきでしょう。
基本は大事にしなければいけません。
もっとも、そうした本来は経済の基本に置くべき考えの一部を、手段的に「いいとこどり」をしようとしたのが、今回の黒田日銀総裁の暴挙だと思いますが、目先しか見えないお金依存症の人たちには、わけがわからないのでしょう。
もちろん黒田さんも理解はしていないでしょう。
理解していたら、もう少しまじめに考えたはずです。

デフレはどうでしょうか。
経済のパラダイム転回の視点から考えた場合、デフレとインフレはどう位置づけられるべきでしょうか。
この問題は、私自身よく理解できていませんが、デフレの究極が、すべてのものが限りなく無料になるとしたら、歓迎すべきです。
しかし、それは同時に、人工物をつくるための労働の価値(つまり働く人たちの金銭収入)を減らすことだといわれます。
しかしそれは、働く価値がお金に強くリンクされているために起こることです。
その関係を見直すのも、経済パラダイムを変えるということです。
そういう大きな視点から、経済を考え直すことが求められだしているように思います。
経済成長は、いまや人間の生活を侵食する存在になってきているからです。

せめて70歳に近づいたら、お金の限界に気づく知性がほしいです。
そういう生き方をしてほしいです。

■イソップ物語の「カエルの王様」を思い出すような状況です(2016年2月21日)
経済に関して「うっぷんばらし」をしたので、政治に関しても。

私は日本の政治をだめにした一因は、民主党の岡田さんと野田さんにあるという「偏見」を持っています。
ですから、岡田さんが主導する民主党には、期待は微塵もありません。
なぜ私が岡田さんに不信感を持っているかと言えば、私に希望を与えてくれた、鳩山政権を内部から瓦解させたからです。
沖縄の基地問題で、鳩山さんは、政策パラダイムを変えようとしました。
しかし岡田さんは米国政府と米国資本に迎合して、それを支えなかったどころか、明確に裏切ったように思えてなりません。
それは私の「偏見」かもしれませんが、岡田さんの言動のすべてが私には、違和感があるのです。
野田さんは、民主党を安倍さんに差し出した人としか思えません。
それも、原発再稼働、TPP参加などのお膳立てさえ立ててです。
もともと2人とも、自民党から送られた「トロイの木馬」だったと思っていますので、まあボスに忠実に動いたのかもしれませんが、政権交代という国民の期待を裏切ったように思います。
この2人が、民主党という大事な政治勢力の一つを破壊したと私は思っているのです

アメリカの2大政党は、本来は共和主義と民主主義でしょうが、最近はかなり境界が乱れています。
日本の2大政党は、自由主義と民主主義だと思っていましたが、いまや民主主義は無残にも破壊された気がします。

そうした状況の中で、政府与党に対する新たな対抗野党を創りだすことが必要だといわれています。
共産党も姿勢を変えましたし、「市民連合」も野党連携を呼びかけています。
しかし、私はいずれにもあまり共感が持てません。
たしかに野党の結集は大切ですが、自民支持と脱自民という政治構造は、どうもイメージできません。
そこに何の価値観もビジョンもないからです。
価値の対抗軸がない限り、所詮は権力争いでしかありません。
ちょっとした拍子に、反ファシズムのファシズム化が起こるかもしれません。
もし仮に、野党連合が政権をとったとしたら、政治のスピードは落ちるでしょう。
そうしたら、国民はまた言うでしょう。
何も決まらない政治はいやだ、と。

イソップ物語の「カエルの王様」を思い出します。
その結末がそうであったように、神様はきっと素晴らしい王様を与えてくれるでしょう。
その準備が着々と進んでいるような気がしてなりません。
素晴らしい王様が君臨するようになる前に、私はいなくなりたいですが、もしかしたら間に合わないかもしれません。
いささか憂鬱です。

■カフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」の報告(2016年2月22日)
昨日のカフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」は、参加者6人のゆったりした集まりになりました。
話題提供者の小宮山さんは、国際箸学会の理事長でもありますが、箸のことを考え抜いているうちに、人間と道具とは切り離せないものだということにたどりついたのです。
小宮山さんは、人間とは道具がないと生きていけないものと考えているようです。
では、そういう意味での道具とは何なのか。
そして、なぜ道具は人間にとって不可欠なのか。
道具の効用はいったい何なのか。
そういうことを考えると、いろんな問題が見えてくるはずです。
とまあ、そんなサロンを想定していましたが、そういう話になったようでならなかったような気もしますが、しかしとても知的なサロンになったことは間違いありません。

参加者の深津さんが、ウィキペディアの「道具」の定義の最初にあるのが、「仏道修行の用具」だと教えてくれました。
今まで気づかなかったのですが、「道具」に「道」という文字がつかわれていることの意味が少しわかりました。
これには深い意味がありそうです。
人間の指が道具になる「咫(あた)」とか大工さんの常備道具だった「スコヤ」という話も出ました。
私は、その言葉自体を知りませんでしたが、道具を考える大切な視点がありそうです。

本来、道具は人間の手段だったのに、いまや人間が道具の手段になってしまったのではないかという話も出ました。
実は私が小宮山さんの話に関心を持ったのは、道具作りの好きな小宮山さんでさえ、そう思っているのだと感じたからです。
「人間とは道具がないと生きていけない」と考えるということはそういうことを含意しています。
私は、全くそうは思っていないのです。

小宮山さんはぶんぶんゴマの話も、実演付きでやってくれました。
ぶんぶんゴマから学ぶことも大きいです。

以上は話のほんの一部ですが、サロンらしいサロンでした。

ところで、このサロンの案内の時に、人間だけがやっている行動の話を書きました。
それについて補足しておきます。
ある本で読んだのですが、チンパンジーの認知に関する世界的な権威の一人、マイケル・トマセロは、「2頭のチンパンジーが丸太を一緒に運ぶところを見ることなどないだろう」と言ったそうです。
その話を紹介している道徳心理学者のジョナサン・ハイトは、その話を聞いて、人間がほかの生物と違うのは、そういう「意図の共有」ができることだと言っています。
私は、それを読んで、道具の本質は「意図の共有」にあると思いました。
昨日のサロンでも最後にその周辺の話になりましたが、残念ながら時間切れでした。
この話は、コミュニケーションの問題につながります。
このあたりはいつかまたサロンをしたいと思います。

■馳文科相の思い上がり(2016年2月26日)
馳文科相が23日の記者会見で、「私が学長であったとしたら、国旗掲揚、国歌斉唱を厳粛のうちに取り扱うと思っている」と話したそうです。
今日の朝日新聞の天声人語で知りました。
岐阜大の学長が今春の式で国歌斉唱をしない方針を示したことへの批判のようです。
馳さんが学長になったら、そうしたらいいでしょうが、他の学長を批判するのは、その見識を疑わざるを得ません。
思い上がりとしか思えません。
私の基準では、文科相にはふさわしくない発想です。
せめて憲法をきちんと読んでほしいです。

むかし読んだ文章を思い出しました。
思い出して読み直しました。
いささか恥をさらすようですが、もし気が向いたら読んでください。
「日の丸と君が代」という記事です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

馳さんのような人が、大学の学長にならないことを願いますが、楽観はできません。
社会は教育の場から壊れだしていきます。
教育は、まさに両刃の剣です。
ですから知性のある人に担当してほしいです。

■保育園をつくればいいのか(2016年2月26日)
今朝のテレビで知ったのですが、ネットで「保育園落ちた日本死ね!!!」投稿が話題になっているようです。
投稿者の気持はわかりますし、それへの反応のいくつかも読みましたが、共感できるものも少なくありません。
しかし、私は、そもそも「保育園依存の社会のあり方」に大きな疑問を持っています。
保育園をつくればいいのかということです。
問題の立て方が間違っているように思います。

これは保育園に限ったことではありません。
福祉施設もそうですし、病院もそうですし、働く場もそうです。
みんな問題を、誰かに丸投げした他者依存で、しかもハードな施設や制度に依存しています。
自分の生き方を問い質し、当事者たちが自分たちで解決するという発想は失われてきているのでしょうか。
要するに、最近の多くの人たちは、問題が起こればそれを誰かのせいにし、お上に解決を求めるだけのような気がします。
そこでは、大きな目的が見失われています。

保育とは何か、ではなく、自分の生活を維持するための保育園が必要だと言っているようにしか、私には聞こえません。
そこまでして、労働者や消費者になりたがる人たちの気持ちがわかりません。
そうやって資本の活動の手段になってしまう。
働かないとお金が得られず生活が成り立たないと言われるかもしれませんが、その発想こそが主客転倒しているように思えます。
まずは自らの生き方をしっかりと考え、何を大切にしたいかを考えるべきでしょう。

異色の経営学者の長老、ミンツバーグは近著「私たちはどこまで資本主義に従うのか」でこう書いています。

企業が法人として法律上の「人間」の地位を得る一方で、人間は企業にとっての「資源」になった。
あなたは「人的資源」でありたいだろうか。
私はいやだ。私は人間だ。

私も人間でありたいと思っています。
それにしても「死ね!」とは穏やかではありません。
以前、今回と同じような主旨で、雇用の場を増やすことに依存する考えに異論を書いたことがありますが、その時にも私あてに「死ね!」という物騒なメールが届きました。
そういう言葉遣いをする人は、もう人間ではなくなっているのだろうなと思います。
部品になった人たちは、死ねませんから、死ねという言葉を着やすく使うのでしょうね。
しかし、部品には子供は育てられないでしょう。
とても哀しい時代です。

■「みんなの社会教育ってなんだろう」(2016年2月28日)
昨日、「みんなの社会教育ってなんだろう」というテーマに、ミニ公開フォーラムを開催しました。
30人ほどの人が集まりました。
話し合いのベースをつくるために、2人の友人にお願いして、パネルディスカッション的な話し合いをしました。
その冒頭と最後に、私が話したことを、少し補足して書いておきます。
「みんなの社会教育」に込める私の思いをわかってもらえるとうれしいです。

これまでの社会教育は、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心でした。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を逆転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

「社会教育」というと、かなり固いイメージがあって、どうしても行政がやることと思われがちです。
今回の集まりも、NPO関係やまちづくりに関わっている人たちにも案内しましたが、自分たちとはあんまり関係ない世界の話だという反応が少なくありませんでした。
しかし、そうではないのではないか、と私は思っています。
NPO活動の意義は、個別課題の解決はもちろんですが、同時に参加者の市民性や社会性を高めることだと言われています。
もしそうならば、NPO活動やボランティア活動もまた、社会教育活動と言ってもいい。
まちづくりにとっても、主役はまちをつくっている住民です。
施設や道路や制度をつくるのが、まちづくりだった時代はもう終わっています。
だとしたら、その住民たちの意識や生き方、言い方を変えれば、社会性や市民性が一番大切です。
そこでも社会教育は重要なテーマになるはずです。

さまざまな社会問題が広がっていて、社会の劣化ということが問題になってきているいま、改めて社会教育ってなんだろうと考えてみることはとても大切なような気がします。

なぜ、「社会教育」という言葉にこだわるのか。
それは、改めて「社会」や「教育」という概念が重要になってきていると思うからです。
いずれもあまりにわかりきった言葉なのですが、あまりしっかりと考える人はいません。
私は、社会を「人のつながり」と考え、教育を「自分の発見」と捉えています。
社会は、そこにあるものではなく、自分たちで育てていくもの。
教育は、教えられることではなく、自分のちから(いのち、あるいは価値)を育てること。
そう考えています。
その視点から言えば、いまの学校は「反教育」ですし、いまの社会は「反社会」です。
(ここまでは今回は話しませんでしたが)

社会教育にとって、社会こそが学びのすべてです。
そして、大人も子供も含めて、私たち一人ひとりが主役です。
言い換えれば、この社会をつくっている私たち一人ひとりの責務です。
しかも、それは一人では完結しません。
学びとは、人とのつながり、自然とのつながり、過去や未来とのつながりのなかで行われるからです。
学びは必然的に「学び合い」になり、人のつながりを育て、まちを育てていくはずです。
社会教育を、政府や専門家に任せるのではなく、私たちが主役になるようにスキームを変えていくことが大切です。
社会教育を創りだす責任は、私たちにあるのです。

そういう視点で、改めて「社会教育」をデザインしなおしていきたいと思っています。
そうしたことを進めていくためにも、実践者のゆるやかなネットワーク、学び合いのネットワークを育てていきたいのです。
もちろん、これまでのスタイルの「社会教育」を否定する必要はありません。
そうした人たちとも、役割分担していくことが大事です。
しかし、みんな対等な立場でなければいけません。
その基本だけは、私には譲れないところですが、そこがまた「みんなの活動」を進めていくときの最大の難事なのです。

こうした思いに賛同してくれる人がいたら、ぜひともご連絡ください。
一緒にゆるやかな活動に取り組めればと思います。

■認知症徘徊の列車事故訴訟、家族の賠償責任を否定(2016年3月1日)
認知症で徘徊中の男性が列車にはねられ死亡した事故に関して、JR東海が遺族に損害賠償を求めた訴訟の最高裁判決が出ました。
家族の賠償責任は認められないという判決です。
まだ詳しい判決理由は報道されていませんが、素直に考えたら、当然なことだと私は思いますので、ホッとしました。
この裁判は、これからの日本を考えていく上で、とても大きな意味をもっているように思えて、ずっと気になっていましたので、今日の3時はテレビの前で過ごしました。

この裁判は、単に認知症介護の問題だけではなく、社会のあり方を考える上で、とても深い意味をもっています。
この事件を最初知った時、どこか問題の立て方がおかしいような気がしました。
遺族がJR東海に損害賠償を求めたのではないかと最初は思ったのですが、訴訟の流れは逆だったからです。
そこに大きな違和感を持ちました。
もしこれが、自動車事故であればどうだったか。
あるいは柵のない湖沼への転落事故だったらどうだったか、そう考えたのです。
しかし、裁判は、認知症家族の監督義務を問うているのです。
危険なシステムを運営管理している鉄道会社の安全対策義務が問われたのではないのです。
どこかに倒錯した発想を感じます。
いまの社会のおかしさを象徴している事例の一つではないかと思います。

この事件はまた、家族や地域社会のあり方を顕在化しています。
認知症介護に限りませんが、介護問題を家族だけに押し付ける文化は、日本においては、この百年ほどの文化ではないかと思います。
それ以前は、親族や地域社会や仲間たちが、支え合いながら解決する文化があったように思います。
そういう「人のつながり」が、社会だったのです。

高裁の判決は、伴侶に監督義務を求めていました。
義務はあるかもしれませんが、しかしだからと言って、近隣の人たちが言うように、苦労して介護していた伴侶に損害賠償を求めるというのは、人情に反するような気がします。
しかも、報道によれば、かなり誠実に対応していた家族たちです。
伴侶や親に死なれ、さらにそれを責められる家族の心情はどんなものだったでしょうか。
そこへの思いをいたさなければ、人の判断とは言えません。
司法の判断は法によらねばいけませんが、法は条文だけではないのです。

そんな複雑な思いを持っていましたので、この判決を知ってホッとしました。
今日はこれが気になって、出かけられずにいました。
今回の判決は、私にとってはそれほど大きな意味をもっていました。
やっと出かけられます。

■「社会的弱者」(と言われている人たち)が社会を育てる(2016年3月2日)
私が住んでいる我孫子市では、野外放送が時々行われます。
そこで、行方のわからない高齢者(認知症と言われる人)の情報が流れることが少なくありません。
具体的な情報が流され、そういう人を見かけたら連絡してほしいという放送です。
時に行方不明の子どもの情報が流れることもあります。
大体において、数時間後、遅くも翌日には、無事見つかったという放送が流れます。

在宅時にはよく聞くことがあるのですが、この放送は、住民たちにまちで歩いている人たちへの関心を高める効果があります。
つまり、認知症の人たちが、行方不明になってくれるおかげで、まちを歩く人やまちの様子に対する住民の関心が高まるわけです。
いささか不謹慎で、身勝手な言い方になりますが、認知症の方がまちで行方不明になることが、安心安全なまちづくりにつながっているともいえるように思います。
住民たちが、まちの様子に関心を高めていったら、間違いなく、まちは安心安全で、きれいになっていくでしょう。
そう考えれば、社会的に「弱者」と言われる存在の人たちが、実は社会を育てているのです。

しかし、そう言う人たちを排除する動きも、一方では存在します。
最近の日本では、優生学的気分が不気味に広がってきているような気配も感じます。
いささか考えすぎかもしれませんが、最近の若者の顔が何かみんな似てきているような気もします。
少なくとも、話し方や身のこなし方は似てきています。

社会にとって大切なのは、しかし、そういう画一化された優等生たちではありません。
この社会で生きにくいことをはっきりと顕在化している人たちこそが、社会を豊かにしてくれます。
それを忘れたくはありません。
そういう視点で、今回の認知症の方の列車事故訴訟を考えると、たくさんのことに気づかされます。

むかし読んだ森本哲郎さんの「ゆたかさへの旅」という本の中で、森本さんは確かこう書いていました。
インドのモヘンジョダロの人たちは、街をきれいにしていく活動に取り組んで、街を汚す要素を次々となくしていった。
そして、下水道も完備した立派な都市をつくりあげた。
しかし、どうも満足できない。
もっときれいな都市にしたいという願いが強まった時に、何が都市を汚くしているかに気がついた。
そして、自分たち住民を、片づけることにした。
そのために、モヘンジョダロは、突然、人のいない都市になり、いまも残ったのである。

その本を読んだとき、私は人類の歴史の意味がわかった気がしました。
人類の未来も、ですが。

■二宮金次郎をご存知ですか(2016年3月3日)
数年前に、埼玉県の熊谷市で活動されている埼玉福興の新井さんのところにお伺いした時、近くの民家の庭に、小さな二宮金次郎の石像があるのに気づきました。
学校でもない、普通の民家の庭先にあるのがめずらしく、つい写真を撮ってしまいました。

先ほど、テレビを見ていたら、二宮金次郎は忘れられつつあり、その像も撤去されてきているようです。
さらに歩きながら本を読むのは、歩きスマホ禁止の世相の中で好ましくないということで、椅子に座って本を読む二宮金次郎像につくりかえられたところもあるそうです。
いまこそ、二宮尊徳に学ぶことが多いと思っている私としては、とても残念です。

東日本大震災の後、南相馬を訪れた時に、仮設店舗の一画に、「報徳庵」という食堂がありました。
震災の後、小田原の報徳会のひとたちがやってきて、つくってくれたのだそうです。
いまなお報徳活動は続いていることを知りました。

昨年、「相互扶助の経済」という本を読んで、改めて二宮尊徳の経済観に教えられました。
その本を読みながら、これから必要な知恵が、尊徳の思想のなかにはたくさんあるように思いました。
いまの日本の経済政策も地方創生政策も、二宮尊徳の報徳経済から学べば、まったく違ったものになるでしょう。
アメリカ大統領選で、トランプ候補の暴言が話題になっていますが、私には最近の安倍政権の暴挙の方も気になります。

二宮金次郎というと、どうも戦前の臣民教育のイメージがあるのですが、二宮尊徳の思想や実践活動から学ぶことはたくさんあります。
ちょっとハードな本ですが、「相互扶助の経済」を多くの人に読んでほしいと思います。
次の更新時に、ホームページで紹介させてもらう予定です。
いつか報徳経済のサロンもやりたいです。
どなたか話してくださる方はいないでしょうか。

■「民主共和党」はどうでしょうか(2016年3月4日)
民主党と維新の党が合流して、新しい党になり、新しい党名を国民にも公募するそうです。
いずれの党も、私は信頼感を持てずにいますが、もし新しい党が「民主共和党」という名前になれば、支援者になろうと思っています。
私が考える政治思想には、自由主義、民主主義、共和主義があります。
前にも書きましたが、最近、私は民主主義よりも共和主義に信頼感を持っています。
共和主義というと、なんとなく古いイメージがあり、保守右翼をイメージしてしまいますが、共という文字と和という文字の組み合わせに魅力を感じます。
しかし、これらすべての言葉は、汚されてしまっているようにも思います。
アメリカの共和党は、いまや反共和主義になり、日本の(世界的にもですが)自由主義は経済的強者の自由主義になりました。
いずれも、選ばれたエリートたちの専制主義とさえ感じます。
民主主義は、それを支える人たちの意識や生き方に大きく規定されますが、少なくとも最近の日本の人たちの意識や生き方には、私は少し不安があります。
しかし、その3つに代わる政治思想を私は思いつきません。

鳩山さんが唱えた、「友愛主義」は最高でしたが、私たち日本人は、まだそこまで達していなかったようで、世論的にはかなり嘲笑されてしまいました。
実に残念ですが、「民主友愛党」は賛成者は少ないでしょう。

それで改めて、民主共和主義の思想を再構築することができないかと思っています。
「民主共和党」。
なにやら、アメリカの二大政党の統合形のようですが、政治思想もそろそろパラダイムの見直しをするべき時期ではないかと思います。

「民主くん」の処遇が問題だ、などと話している党幹部の不真面目さに、腹が立っ手いるので、あえてこんな記事をアップしました。
党名は、思想の表明です。
大事にしてほしいです。
「維新の党」などという危険な(まやかしの)党名(どこに向かって維新するのかが隠されています)に違和感を持たない人たちが、何を理念としているかが、見えてくるはずですから。

■憲法改正という言葉の詐術(2016年3月4日)
安倍首相が、在任中に憲法改正したいと発言して問題になっています。
言葉にしようがしまいが、そのために安倍さんは首相になったのでしょうから、そんな発言を問題にする風潮には違和感を持ちます。
しかし、考えてみれば、そもそも「憲法改正」という言葉は、どういう意味をもっているのか、わかりにくいでしょう。
私の友人が、「赤ペンを持って憲法を読もう」という本を書いたことがあります。
彼は、憲法を繰り返し読んでいるうちに、日本語としておかしい個所をたくさん見つけたのです。
日本の統治原理がうたわれている憲法が、日本語としておかしいのは、それこそおかしいと考えた彼は、赤ペンで憲法条文をチェックしたのです。
それは同時に、憲法をもっとみんなでしっかりと読もうよというメッセージでもありました。
しかし、その本のことを、平和をテーマにしたあるメーリングリストで紹介したら、いわゆる護憲派の人たちから厳しい批判を受けました。
護憲派は、憲法原理主義者なのだと感じました。

憲法は2つの面を持っています。
精神と条文です。
私は精神において護憲派であり、条文において改憲派です。
9条の精神をより堅固なものに知るためにも、条文は替えたほうが望ましいと思います。
9条の精神に反対の人は、私とは全く逆の方向への条文変更を考えているでしょう。
つまり、「憲法改正」という言葉は、何を目指すか、言い換えれば、何を「正しい方向」にするかで、同じ言葉でありながら、その意味は正反対にもなりうるのです。
ですから、論点となるべきは、憲法改正ということではなく、憲法の理念のどこか、なのです。
でも多くの場合、私たちは「憲法改正」を論点にしがちです。
ここに大きな落とし穴、というか、詐術が入り込んできます。

これは、憲法改正に限りません。
構造改革、政治改革、維新、変革、改正…、その種の言葉にはすべて落とし穴があるのです。
そういう思いで、こうした言葉が捉えなければいけません。
言葉の魔術にだまされないようにするために、私たちは言葉ではなく、内容で考える姿勢を強めることが大切です。

ところで、「赤ペンを持って憲法を読もう」という本を著者から数冊届けてもらいました。
湯島に来た人で、ご希望の方があったら差し上げます。
関心のある人は、湯島にどうぞ。
ちなみに、3月6日の午後2~4時は、恒例(毎月最初の日曜日)のオープンカフェです。
珈琲が500円もするのが問題ですが、場所の維持のためにお金のある人からはいただいています。
明日のコーヒーは、コナ珈琲を予定しています。
よかったらお越しください。
場所は次にあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf

■カフェサロン「アーユルヴェーダってなんですか」の報告(2016年3月6日)
昨日のカフェサロン「アーユルヴェーダってなんですか」は13人が参加しました。
参加者の関心もいろいろでしたが、それを踏まえて、サトヴィックの佐藤真紀子さんは、ていねいにお話をしてくださいました。
なんとなく知っていたアーユルヴェーダでしたが、全体像のお話を聞いて、改めてその深い意味を感じられました。
佐藤真紀子さんは、もともとジャーナリストでしたが、ご自身の治療体験から、アーユルヴェーダの世界に入っていき、脈診を専門とする家系(このお話も興味深かったです)のサダナンダ・サラディシュムク医師に師事。
いまはインドと往復しながら、アーユルヴェーダを広げていきたいと精力的な活動をしています。
真紀子さんご自身の、子どもの頃からのぜんそくや腰痛がアーユルヴェーダのパンチャカルマ(浄化両方)で完治した体験も、実に生々しく話してくださいました。

アーユルヴェーダは「生命を果たす/使い尽くすこと」だと真紀子さんは言います。
昨日は、歴史から理念、療法、食事法から精神や鬼神の世界まで、幅広く話題になりました。
ユマニチュードやマクロビオテックの話題も出ました。
アーユルヴェーダは、「病気を治す」「より健康にする」そして「幸福にする」という3つの段階がありますが、どうもその基本は「食」にあるようです。
といっても、たぶん狭義の「食」ではなく、私が昨日感じたのは、「自然との付き合い方」のようです。
とても興味を感じたのは、調理をする時の心のあり方も影響するという話です。
「森のイスキア」の佐藤初女さんも、たしかそんな話をしていたのを思い出しました。

あまりにいろんなことを聞いたので、紹介しだすときりがないのですが、ご関心のある方は、ぜひ佐藤真紀子さんの主宰しているサトヴィックのサイトをご覧ください。
真紀子さんの体験談も含めて、アーユルヴェーダに関するたくさんの情報に触れられます。
http://satvik.jp/aboutus/

今度の5月の連休には、表参道のサトヴィックで、アーユルヴェーダ博物館を開くそうです。
また毎年行っているサダナンダ・サラディシュムク医師の来日診察会も予定されています。

報告になったでしょうか。
なお私はほぼすべてに納得しましたが、アーユルヴェーダは「解脱を目指す」という点だけは共感できませんでした。
なぜなら私は解脱よりも、永遠に輪廻を繰り返したからです。
困ったものですが。

■アメリカの大統領予備選挙に思うこと(2016年3月7日)
アメリカの大統領予備選挙で、暴言王と言われるトランプ候補が、当初の予想とは違って勝ち進んでいます。
民主党でも、社会民主主義を標榜するサンダース候補がクリントン候補を追い上げています。
アメリカに住んだことのない私には確信は持てませんが、ここにこそアメリカ社会の実相が顕在化しているのかもしれません。

そう思って、改めて日本の政治状況を見ると、もしかしたら、日本ではすでにアメリカの先をいっているのかもしれないと気がつきました。
暴言と言えば、いまの日本の安倍政権の閣僚は暴言の常習犯です。
そもそも安倍首相自身、暴言のみならず暴挙の常習犯です。
こうしたことは、海外にはどう見えているのでしょうか。

憲法を無視し、税金を自分のお金のように使い込み、平和という名目で戦争の危険を高めている。
原爆を投下され、しかも最近、福島原発事故を体験し、それがまだ実態究明さえできていないのに、原発を再稼働させ、世界に輸出しようとしている。
メキシコの国境に壁をつくると言うほどシンプルではありませんが、そう違わないのではないかという気もします。
そういう首相を多くの国民が支持しているわけですから、それは日本の社会の実相を映し出しているわけです。

トランプやサンダースを支持するアメリカ人は、ちょっとおかしいのではないかと、私などは思ってしまうのですが、私たちも海外から見たら、そう見えているのかもしれません。
最近そんな気がしてなりません。

反知性主義が世界を覆いだしました。
であればこそ、私たちは自らの地勢を高めなければいけません。
国会にデモすることも大切ですが、それだけでは十分ではないような気がします。
自分たちでできることを考えて、それぞれが動き出さないと、この世界はどうもますます壊れていきそうです。
トランプ候補の暴言には心が冷えるほどの嫌悪をおぼえますが、むしろそう思う自分をもう一度、問い質すことも必要かもしれません。
マスコミの常識に呪縛されないように、慎重に考えなければいけない。
そして、アメリカの動きを日本に重ねた時に見えてくることも少しきちんと考えようと思い出すようになっています。

■3・11報道には大きな違和感があります(2016年3月11日)
東日本大震災から、今日は5年目です。
新聞もテレビも、3・11の特集ばかりです。
被害者や遺族の物語も多いのですが、そういう番組はどうも見る気がおきません。
誠実に描かれているのでしょうが、どうしてもそこに「作為」を感ずるようになってしまっています。
死を題材にしてほしくないという気持ちが強くなってきています。

それにしても最近のマスコミ報道は「死」を取り上げすぎではないかと思います。
子どもの自殺から高齢者の孤独死、あるいは悲惨な殺人事件や事故死。
テレビドラモも、死が安直に題材にされているような気がします。
あまりに安直としか言いようがありません。
「死」を題材に取り上げなくても、生死や人間をもっと語れるのではないかと思うのですが、死の刺激が求められているのでしょうか。
しかし、一度でも身近に死を体験した人であれば、そうは安直には扱えないはずです。

先日、この5年間、東北の被災地に住む人たちへの支援活動をしている人と話しました。
5年で被災地は変わってきましたかと質問したら、遠慮しがちに「変わっていないです」とつぶやきました。
復興が進んでいないという意味です。
無駄な復興事業は盛んに報道されますが、被災者にとっての復興は進んでいないのかもしれません。
復興を印象づけるような報道も多いですが、そうした番組も見たくはありません。
報道は、それが事実であったとしても、報道の仕方では全体を見えなくしてしまいます。
特に福島に関しては、復興などできるはずもありません。
政府に本気で復興する気があれば、原発再稼働などするはずもありません。

こんな思いを持ちながら、今日は3.11のことをいろいろともいだしています。
重くて哀しい1日でした。

■「保育園落ちた日本死ね」の憂鬱(2016年3月21日)
最近、すごく憂鬱で、時評を書く気が出てきません。
ニュースもあまり見たくなりました。
どうしてだろうと我ながら不思議に思っていました。
今日、その理由がわかったような気がしました。

「刑事フォイル」というテレビドラマがあります。
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/foyle/
イギリスのテレビドラマで、原題は「フォイルの戦争」です。
第二次世界大戦中のイギリスが舞台のドラマです。
最初からずっと見ていますが、いつも、もの哀しいあたたかさを感じます。
昨日の日曜日に放映されたのは「生物兵器」の後篇です。

フィールディングという老警視正が友人でもある同僚のフォイルに、この仕事をもう辞めようと思うと言う場面があります。
彼は、こう言うのです。

そこらじゅう、悪意と憎しみばかりだ。
人間性なんてあてにならない。
どこか夕陽がきれいな場所で、静かに暮らしたい。
気味は闘ってくれ。
おれはもういい。

なんでもないセリフですが、なぜか涙が出ました。
そしてハッと気づきました。
「保育園落ちた日本死ね」という言葉を聞いた時の、私の思いだったと。

非難されそうですが、この言葉は私にはとても不快な言葉でした。
しかし、その悪意と憎しみに満ちた、嘔吐を感ずるほど嫌な言葉が、なぜか多くの人の共感を得て、大きな動きを起こしてきています。
私には、それがとてもやりきれないのです。
国会にデモしている女性たちの気持がわからないわけではありませんが、敬意も拍手も送る気にはなれません。
これについては、前にも一度書きましたが、わたしたちはすでにもう日本を殺しているのではないかとさえ思うのです。
悪意と憎しみからは、たぶん何も生まれないでしょう。
そしてさらに思うのは、日本はもうフォイルの時代、つまり戦争に向かっている時代になってしまったのではないかと。

できれば、私も、フォイルのように闘いつづけたいとは思っています。
しかし、誰かに期待して生きるような生き方はしたくはありませんし、だれかに「死ね」とは言いたくありません。
でもいまの日本では、「保育園落ちた日本死ね」という生き方が多くの人の支持を得る社会のようです。
「保育園」にはいろいろな言葉が当てはまります。
そう思うと、とても嫌な気分に覆われてしまいます。
そういう親に育てられた子供はどんな社会を創りだしていくのでしょうか。
とても哀しくさびしいです。

こんなことを書くと、また「今の保育行政でいいのか」とか「子育ての大変さがわからないのか」とかという、私には思ってもいない非難を浴びそうです。
これまでもいつも私の言いたいこととは違うところでコメントをもらうことが多いので、今回もそういう批判をたくさんいただくでしょう。
しかし、私が悲しいのは、保育行政とかそんなことではなくて、社会に悪意と憎しみ、怒りが充満していることなのです。
そこがわかってもらえるとうれしいです。
この文章そのものにも「悪意と憎しみ」があるではないかと言われるかもしれません。
もしそうだとしたら、私自身も「悪意と憎しみの満ちた社会」に染まっているのかもしれません。
だとしたら、フィールディング老警視正のように、夕陽のきれいな場所で静かに暮らす道を選ぶべきかもしれません。
自らを正せなくて、社会を正せるはずがないからです。

そんなわけで、この2週間、時評をあまり書けずにいました。
でもやはり、めげずに時評を書きだそうと思います。
私はフィールディングよりフォイルの生き方に共感をもつからです。
どんなに憂鬱でも、納得できる生き方を捨てたくはありません。

■なぜクロネコヤマトの配達員は善い人ばかりなのか(2016年3月22日)
私がお会いしたヤマトの宅急便を届けてくれる人はみんな善い人です。
わが家にはヤマト便はよく届くほうで、私も結構対応させてもらうのですが、みんなとても気持ちのいい人です。
なぜヤマトの宅急便を届けてくれる人はみんな善い人なのか。

友人の鈴木さんが昨年、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を2か月半かけて歩いてきました。
帰国後、会うたびに、そこで出会った人たちはみんな善い人ばかりだったと繰り返すのです。
なぜだろうかと考えた結果、私たちの結論は「歩くから」でした。
人は歩いているうちに、邪念が消えて、人本来の善い性質が素直に出てくるのだということです。
さらに、巡礼では、いろんな人にも会います。
いずれも短い出会いであり、利害が絡むわけではありません。
それもまた、人の善い性質を高めるのではないかと思います。

歩く生活、言い換えれば身体を動かす生活。
さまざまな人との小さな出会いや会話。
この2つは、まさにクロネコヤマトの配達員の毎日ではないか。
だから、クロネコヤマトの配達員はみんな善い人ばかりなのです。

この数か月、わが家の近くの大きな家が解体され、そこに5軒の建売住宅が建つそうです。
その土地の整備にきていた人たちは、これまたみんな善い人ばかりでした。
なかには日本語があまりうまくない外国の人もいましたが、彼らも身体を動かす仕事です。

そこで私の得た結論は、身体を使った仕事をしながら、いろんな人とささやかに会話していると人は善い人になるということです。
その一方で、会社でデスクワークばかりしていると性格が悪くなるのではないかという懸念も強まっています。
ネットの普及も、それに関係しているでしょう。
政治家が悪くなったのも、いわゆるどぶ板政治、身体を使って人に会うことが少なってきたからではないか、と思うのです。

めちゃくちゃな論理ですが、こう考えると納得できることがたくさんあるのです。
人はやはり、よく歩き、身体を動かし、人に会わなくてはいけません。
パソコンばかりしていたら、性格はどんどん悪くなりかねません。

さて問題は、私のことです。
最近私の性格が悪くなってきたのは、もしかしたら歩きが足りないのかもしれません。
一時に比べると歩くようになったとはいえ、まだ歩き足りません。
なにしろサンティアゴ巡礼に行った鈴木さんは、毎日20km以上歩いていたのです。
私はその1/10くらいですので、鈴木さんのように善い人にはなれません。
困ったものです。

鈴木さんは、明日、今度は四国にお遍路に出かけます。
さらに善い人になって帰ってくるでしょう。

子どもたちにもっと歩く機会が増えると、日本は豊かになるかもしれません。

■自爆(自死)までして伝えていることに私たちは耳を傾けているだろうか(2016年3月25日)
またベルギーでISによる連続テロが発生しました。
ISによるテロは沈静するどころか、ますます広がっているようにも感じます。
テロをなくすのは難しいと言う人もいます。
果たしてそうでしょうか。
私たちは対応を間違っているだけなのではないでしょうか。

いまから30年近く前の1989年、ある雑誌に「対話の時代」と題する連載を書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/taiwa.htm
1989年は、いまから考えると時代の大きな変わり目の年だったと思いますが、その頃、私がイメージしていた21世紀は、「真心の時代」「対話の時代」「生活の時代」でした。
25年間、勤めさせてもらった会社を辞めて、私も生き方を変えました。
しかし、残念ながら私の予想は全く外れてしまい、時代は逆の方向に進んでいるような気がします。
そして、言葉だけは盛んに耳にするようになりました。
真心、対話、生活…。
しかし、言葉が語られれば語られるほど、そうしたものは消えていっているように思います。

ISのテロの報道を見ながらいつも思うのは、自爆までして伝えていることに私たちは耳を傾けているだろうか、ということです。
ISの暴力性や非人間性を示唆する映像や報道記事は多いですが、戦争とはもともと非人間的な暴力行為です。
ISが、際立っているわけではないでしょう。
私たちは、攻撃される側としてISを見ていますから、そう感じますが、IS側からは世界はどう見えるのでしょうか。
自らを犠牲にしてまで訴えているメッセージに、私たちはもう少し耳を傾けてもいいような気がします。
そういう報道は、今やほとんどありません。
対話していないのは、IS側ではなくて、私たちではないかと言う気もしてしまいます。
もし対話できるのであれば、自爆せずに対話してくるのではないか。
対話の拒否が、自爆テロに追いやっているのではないか。
せめて、ISを否定するのではなく、彼らに耳を傾け、現実を共有していかなければ、それこそテロはなくならないでしょう。
しかし、逆に、真心を込めた対話で、お互いの生活を理解しあえれば、テロはなくなっていくのではないか、と思います。

なぜ「対話」がめざされないのか。
もし、対話が成り立つと困る人がいるとしたら、どうでしょうか。
そこから考えていくと、現在の世界の構造が見えてくるような気がします。

ちなみに、これはISのテロに限った話ではありません。
身近な話で言えば、最近よく報道されている「子どもの自殺」の問題もそうです。
私たちは、子どもたちの切実な訴えに耳を傾けているのか。
両親から虐待を受けて保護を求めていた男子中学生が、相談者にも聞いてもらえず自殺したという報道が、現代社会の実相を象徴しているような気がします。
彼らは、保育園をつくれと国会デモも起こせません。
保育者の言葉に耳を傾ける以上に、子どもたちに耳を傾けることが、大切だと思いますが、現在はそれが逆転しています。

自らの生命を投げ出してまで、社会に訴えたい人のメッセージ、私たちはしっかりと受け止めたいと思います。
彼らは言葉でのメッセージさえ、できないのですから。
他人事ではなく、私自身として、それをどう考えるかが大切です。
明日は、そんなテーマで緊急カフェサロンを湯島で開催します。
1時半からです。

■緊急カフェサロン「責任者はだれなのか?」の報告(2016年3月27日)
広島の中3生徒の自殺という痛ましい事件を題材に、社会のあり方や私たちの生き方を問い直す緊急カフェサロン「責任者はだれなのか? −子どもたちの育ちの場を事例にして」は、14人の参加で、4時間の過去最長のサロンになりました。
20代から70代、男女比もほぼ半分という、にぎやかな構成でした。

最初に、問題提起者の吉田裕美子さん(NPO法人教育のためのTOC日本支部理事)から、ご自身が体験した、学級崩壊のクラスを生徒たちが中心になって解決した話があり、つづいて、広島の事件がなぜ起こってしまったかについて、「先生」「生徒」「親」という3つのアクターごとに参加者が問題点を出し合いながら話すというスタイルで話し合いが行われました。
いろいろな意見が出てきて、話が途切れず、気がついたら4時間の長いサロンになりました。
吉田さんの予定では、それに続き、他にも責任者はいるのではないか、そしてこうした事件の背景にある私たちの生き方や社会のあり方はどうなのか、という展開になるようでしたが、話し合いが盛り上がりすぎて、そこまで行けませんでした。

しかし、その途中で、「責任」とは何かが問題になりました。
「責任」という言葉をどう捉えるかということ自身が、もしかしたら、今回のテーマの答えなのかもしれないと思いました。
責任という言葉に代わる言葉を見つけるべきではないか、あるいは「責任」という言葉の意味転回をする必要があるのではないかという話にまでなりました。
言葉は、本質につながっています。

吉田さんは、後半の話し合いのポイントを話しながらまとめてくださいました。
これに関しては、もしご関心がある人がいたら、ご連絡ください。
吉田さんの了解を得られれば、提供させてもらいます。

話し合いの内容は、まとめようもないので諦めますが、吉田さんからのメッセージの一つは、「話し合いが不足している社会」のなかで、どうしたらもっとみんな話し合いができるだろうかということだろうと思います。
前半の学級崩壊を立ち直らせた事例で、吉田さんは子どもたちから得た気づきを話してくれました。

子どもたちは話を聞いてほしいと思っている。
子どもたち同志も、もっと話したいと思っている。
でも校内では、なぜか素直に話し合えない。

そして、子どもたちが話し合いをした結果、子どもたちは次の気づきを得たようです。

みんなで話し合えば大丈夫だ。
親切とは仲良くすること(話し合えることと言ってもいいと私は思いました)。

実に示唆に富んでいます。
私たち大人も、もっと子どもたちから学ばないといけません。
先生たちにも、教えるということは学ぶことだと気づいてほしいと思いました。

4時間のサロンでしたが、これを踏まえて、4番目のアクターである「自分自身」に焦点を置いてのパート2を開催したい気分です。
もし3人以上の賛成者がいたら、企画したいと思います。

広島の事件に関して言えば、先生も親も、おそらく人生を大きく変えてしまうことになったでしょう。
しかし、私自身もいつそうしたことの当事者になるかもしれません。
いやすでにもう「当事者」になっているかもしれません。
私には、改めて自らの生き方を問い質すサロンになりました。

■『「意地悪」化する日本』のお薦め(2016年3月31日)
岩波書店から出版された、内田樹さんと福島みずほさんの対談集『「意地悪」化する日本』は、日本の現状をとても素直に示唆していて、おもしろいです。
特に第5章の「それでも希望はある」は面白いです。
現実の政治状況もよくわかります。
私がなるほどと思った、いくつかを紹介します。

「地方で育つと、新自由主義者にはならないんですよ」
福島さんの発言です。とても納得しました。前に書いた、歩いていると善い人になるというのとつながっています。

「国家が理想とする家族像が子どもに植えつけられようとしているわけです。そうなると、子どもに家族や周囲の人たちを批判的に見る視点が育ちません。強い者に従う子どもを作っちゃいますよ」
これも福島さんの発言ですが、最近の保育園騒動にもどこかつながっている気がします。
つまり、子どもたちを育てるという視点ではなく、子どもたちを預けて働きたいという視点からの議論が主軸になっている恐ろしさです。安倍さんに限らず、親の方もそうなってきているように思いますが、私には本末転倒に思えてなりません。

「平和で豊かな社会であれば、他人を蹴落として自己利益を増大させる個体のほうが、弱い人たちを支援するために身銭を切る個体よりも権力や財貨も手に入るチャンスが多い。でも、最近の日本のように、十分に平和でもないし、豊かでもない社会においては、他の個体と競争して、パンを奪い取るような利己的なふるまいをするよりも、パンを分かち合うことで集団として生き延びてゆく方途を探るほうが、自己保存上でも適切になった」
ちょっと省略していますが、内田さんの発言です。これを受けて、福島さんは「今は、力を合わせないとやってゆけない時代」と言っています。こういう大きな時代認識がとても大切です。政府も国民も、どこかで発想を変えていかないと、ますます社会は劣化していくのではないかと不安です。

ちなみに、私は、誰かに会った時に、まずは「この人のために私には何ができるだろうか」と考えます。
それが、私にとって一番、いい結果につながっていくからという利己的な発想からです。
そしてたくさんの人から支えられて、まあそれなりに豊かに生きています。
ありがたいことです。

■ちょっと知的なカフェサロン「コンピューターに作曲が可能になった今、人間は音楽で何ができるのか?」のご案内(2016年4月10日)

人工知能と韓国のプロ棋士との囲碁の試合は、予想に反して、人工知能が勝利しました。
さらに今、人工知能が小説の創作にも取り組みだした話題になっています。
人工知能はどこまで「進化」するのでしょうか。

そこでちょっと知的なカフェサロンでは、「音楽」を切り口に、人工知能にはできない「人間のできること」を考えてみることにしました。
タイトルは「コンピューターに作曲が可能になった今、人間は音楽で何ができるのか?」。
話題提供者は、音楽のために生きているという小林正幸さんです。
小林さんは、「仕事は、何をして飯を食っているかという意味では某外資IT 企業のサラリーマンですが、何のために飯を食っているかという意味なら音楽です」という人です。
知的カフェサロンにふさわしい、不思議な人です。
小林さんはこう言っています。

私にとって音楽は、趣味でも教養でもありません。
音楽の秘密を知りたい。音楽の真理を知りたい。音楽の新しい地平を見たい。
それを音にしたい。
そんな未知の豊かな音楽を求めて、追いかけています。

こんな人に話題提供してもらった果たして話し合いが成り立つのかと、いささか不安ではありますが、次のような小林さんからのメッセージで開催を決めました。

現在でも、ある種の音楽はコンピューターではなく人間によって“音楽工学”的手法で生み出されています。
その手法とロジックをプログラムに表現できれば、コンピューターで実行することは可能です。
それがついに現実のものとなりコンピューターが作曲をするようになりました。
もしも人間が発見した音楽の法則が音楽を構成する全てであるなら、それにしたがってコンピューターで高速に大量に作曲することができ、人間はただそれを審美的に評価するだけの存在になってしまうかもしれません。
では、音楽創造はいつの日かすべてコンピューターに取って代わられてしまうのでしょうか。

ぜひとも、最後の問いの答えを知りたいです。
音楽が切り口なのですが、そこから話し合う広がりは、かなり柔軟なようです。
人工知能にできなくて人間にできることはなんなのか。
人間の創造性とは何のか。
人間は音楽で何ができるのか?
新しい気づきがたくさんもらえそうです。
もちろん音楽関係者である必要はまったくありません。
よかったら遊びに来てください。

○日時:2015年4月30日(土曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「コンピューターに作曲が可能になった今、人間は音楽で何ができるのか?
小林さんの問題的を受けて、みんなでできるだけ人間的な話し合いを行いたいです。
○話題提供者:小林正幸さん
○会費:500円
○申込先:qzy00757@nifty.com

■なぜ裁判員制度は行政訴訟に適用されないのか(2016年4月7日)
川内原発の運転差し止めは、福岡高裁によって棄却されました。
新聞での判決要旨しか読んでいませんが、「合理的」とか「客観的」という言葉が安直に語られているのがとても気になりました。
判決の文章にも不思議さを感じました。

たとえば、「住民らが生命、身体に重大な被害を受ける具体的危険が存在しないと、九電は相当の立証を尽くした」とあるようですが、「立証を尽くす」ってなんなのだろうかという気がします。
「現在の避難計画の下で川内原発を運転することで、住民らの人格権を侵害する恐れがあるとはいえない」ともありますが、すでに住民の人格権が奪われているような気もします。

まあそんな表現をいくらあげつらっても、水掛け論になるでしょう。
しかし、大津地裁の判断とはあまりにも違い、司法の判断とはいったい何なのかを考えたくなります。
単に「ある裁判官」の判断ではないのだろうかという気になります。
そう言えば、以前、ある人から家庭内暴力に関する冤罪の相談を受けたことがあります。
その人は膨大な資料を持ってきて、「○○裁判官に当たってしまうと、すべて男性が加害者になり親権も剥奪されるのです」と説明してくれました。
その真偽のほどは私にはわかりませんでしたが、自らのまわりのささやかな体験を思い出すと、まんざら否定できない気がしました。
司法は「私物化」されているのではないか、とまでは思いたくありませんが、現代は「私物化」の時代ですので、そういう状況が一部にあっても不思議はありません。

私は、裁判員裁判には否定的なのですが、もし裁判員裁判を適用するのであれば、こうした行政訴訟や社会全体に影響を与える「公衆に大きな直接的影響」を及ぼす事件にこそ、適用すべきだと考えます。
そうであれば、「客観的」とか「合理性」とかの基準が、一個人の価値基準から解放されるからです。
客観性とか合理性は、間主観的に成り立つものだからです。

それにしても、福島の原発事故の原因究明ができていないばかりか、その解決さえ十分できていないのに、次々と原発が再稼働されていく状況を見ていると、過ちは数回繰り返さないと気づかないものなのだなと思わざるを得ません。
まあ、私自身もそうですから、それは仕方がないのかもしれません。
しかし、そうした「過ち」を小賢しく利用している人たちを見ると、情けなくなります。
彼らにも、家族がいて、生活があるはずなのですが。
私には、とても不思議です。

■バトミントン選手の裏カジノ問題謝罪会見で思ったこと(2016年4月9日)
バドミントンの桃田選手と田児選手の裏カジノ問題謝罪会見は、見ていて本当につらかったです。
賭博問題で問題になった巨人の高木投手の記者会見の時も、一体誰がこんな純情な若者の人生を狂わせたのかと、強い憤慨の念を感じましたが、こんなにすぐにまた同じ光景を見ることになるとは思ってもいませんでした。
要するに、スポーツ界にはこの種の動きが蔓延しているということなのでしょう。
そう考えてこそ、問題の意味が理解できるような気がします。
悪いのは、彼ら若者ではないと、強く確信します。
私の憤慨の矛先は、いささか短絡的かつ感情的ですが、石原元東京都知事や橋下元大阪市長や森元首相に、そしてかなり八つ当たり的ですが、新自由主義を推進する財界人や政治家に向かってしまいます。

私は現代のスポーツがあんまり好きではありません。
ローマ時代の剣闘士の興業と似てきているように感じられるからです。
有名な選手を見ても、どうも「惨めさ」や「かわいそうさ」を感じてしまい、かつての運動選手のような輝きを感じられません。
もちろんそうでない選手も少なくありませんが、概してそんな気がしてしまうのです。
だから薬に頼ってしまうことも、私にはまったく違和感はありません。

今のスポーツ界はお金で汚染されつくされています。
箱根駅伝のように、まだ安心して見られるものもありますが、最近のスポーツは金儲けのためのショ―になってきている気がしてなりません。
社会のことをよく知らない純粋な若者が、しっかりとした指導もないまま、そうした世界に入ってしまえば、お金に関する感覚も変わっていくでしょう。
2020年のオリンピック騒動がわかりやすく露呈してくれたように、いまやスポーツは、芸能や福祉や環境と並んで、お金のあふれている世界になっています。
醜い社会になってしまったものです。

いまや日本の、というか世界の金融政策は、一種の賭博やカジノと同質とさえ言えるでしょう。
しかも、政府や財界人は、政策としてのカジノまで取り上げています。
そんななかで、体力と精神力をぎりぎりまで使い込みながら頑張っている若者たちが、「遊び」程度の賭博やカジノに迷い込んだことを、社会あげて問題にし、みんなの前で涙の謝罪を指せる社会には、どうも違和感を禁じ得ません。
もっと大きな問題をみなければいけません。

こうした問題が蔓延していることを、スポーツの世界をお金で売り払ったしまったスポーツ界のリーダーたちはどう考えているのでしょう。
まずはその人たちが謝罪すべきではないでしょうか。
若者たちを、スポーツ産業の商品にしていることへの反省はないのでしょうか。
カジノに取り組んでいた政治家や財界人は、カジノとは何かを、きちんと説明すべきではないでしょうか。
マスコミやスポーツファンは、スポーツ選手をお金儲けの手段にする発想こそを問題にするべきではないでしょうか。
ドーピング問題も、そこから出てきているように思います。

ちなみに、田児さんの借金の1000万円を返すために、みんなで寄付をしようというように考える人はいないのでしょうか。
もしそういう田児さん基金ができたら、私も借金を背負っている身ですが、1万円なら頑張って寄付します。
1000人いたら返せるでしょう。
そういう発想で、この問題を捉える人は私だけでしょうか。

やはり私には、社会がおかしくなっているとしか思えません。
そういうことは書きだすときりがないのですが。

■コムケアサロン「子どもたちが危ない!」のお誘い(2016年4月10日)
子どもから社会を考えるサロンも5回目になりました。
今回は、かなり核心に迫ったサロンを企画しました。
「子どもたちが危ない!」です。
それは同時に、「大人たちも危ない!」「社会が危ない!」という話でもありますが。

問題提起してくださるのは、久米隼さんです。
久米さんは、和光市社会教育委員でもあり、日本冒険遊び場づくり協会や児童虐待防止全国ネットワークのスタッフでもあります。
子どもの世界と多面的に関わっているだけでなく、社会そのものにも幅広くかかわっている若者です。
そういう久米さんが、子どもたちの世界をどう感じ、社会をどう見ているのか。
そして、なぜ「子どもたちが危ない」と思っているのか、などをお話しいただき、そこから私たち自身の生き方を考えてみたいと思います。
子どもたちの世界は、私たちの未来を示唆しています。
さまざまな立場のみなさんの参加をお待ちしています。

●日時:2016年4月24日(日曜日)午後2時半〜5時
●場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cccentermap.pdf
●テーマ:「子どもたちが危ない!」
●話題提供者:久米隼さん(児童虐待防止全国ネットワークオレンジリボン企画委員)
●進め方:久米さんからの問題提起を受けて、みんなで話し合うスタイルです。
●参加費:500円
●申込先:comcare@nifty.com

■私たちは本末転倒した生き方をしていないでしょうか(2016年4月13日)
また保育園に預けていた子供が死亡する事件が起きました。
その事件の報道に合わせて、1か月前にも同じような死亡事件が報道されています。
こういう「同種の事件の報道」に接するたびに、報道される事件とは「氷山の一角」でしかないことを思い知らされます。
おそらく保育園での死傷事件は、報道されている以上に多いのではないかと思います。
にもかかわらず、子どもを預けて働きに出る。
そこに大きな疑問を感じます。

私が保育園問題に取り組んだきっかけは、ある経済人対象の集まりで、生活の視点からの企業のあり方に関する報告をさせてもらったら、参加者の一人が、日本の経済基盤に大きな影響を与える少子化こそが問題だと発言されたことです。
私も当時、少子化に関する問題意識は持っていましたが、経済人は、それを「労働力と消費者の減少」と捉えているのだと気がつき、唖然としました。
しかし、当時はまだそうした意識さえ持つ人はさほど多くはありませんでしたが。
その後、財界でも少子化問題が盛んに話題になりだしました。
1990年(平成2年)の話です。

そういう経済界の発想には納得できないので、新しい保育モデル構想を考えるプロジェクトを始めました。
理念は、ソーシャル・フォスターリズム。保育とは社会の問題だという捉え方です。
それに基づいて、具体的な保育園の設計もし、あるところに提案させてもらいました。
残念ながら実現はしませんでしたが、その後、世論はますます「少子化」を経済の問題と捉えるようになりました。
こういう流れが、福祉でも環境でも同じです。
すべては「市場化」が理念でした。
社会の劣化が、そこから急速に始まった気がします。

保育問題は、誰のためのものなのでしょうか。
子どもたちのためのものか、働く親や企業、つまり経済のためのものか。
保育園落ちた日本死ね!という発想は、子どもの視点ではありません。
経済界や政府には、実に好都合な考えですから、両者がそれに飛びついたのは当然です。
保育園に入らずに親と一緒に暮らせるのであれば、子どもは喜ぶかもしれません。
待機児童を減らすために施設としての保育園をつくる発想は、私には本末転倒に思えます。
考え方が、基本から間違っているとしか思えません。

私たちは何のために働くのでしょうか。
お金のためでしょうか。
子どものためでしょうか。
そうはいってもお金がなければ生活できないという人には、お金がなければ生活できないような生き方を一度問い直してみたらと言いたい気がします。

私たちは何のために子どもを育てるのか。
まさか労働力や消費力を提供するためではないでしょう。
生きるとは何か。
働くとは何か。
そして、子どもを育てるとはどういうことか。
子どものために生き方を変えることができなければ、親のエゴでしかありません。

待機児童が減れば子供たちは幸せになるのか。
そして、親たちは幸せになるのか。
私には大いに疑問があります。
私たちの生き方は、あまりに本末転倒になっている気がしてなりません。
せめて私は、そんな生き方はしないようにしようと思っています。

■話すことと語ること(2016年4月14日)
ストーリーテリング協会を仲間と一緒に立ち上げました。
立ち上げにあたって、「ホモ・ナランス宣言」を書きました。
その草案をホームページにアップしています。
正式には協会のコアメンバーによって修文された者が、協会のホームページには掲載されるでしょうが、私自身は言うまでもなく、私が書いた草案が気にいっています。
よかったら、読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/narrative.htm

ところで、「話す」と「語る」とは意味合いが違います。
「話す」は、言葉を「放す」ことです。
それに対して、「語る」は、言葉によって価値を「象(かたど)る」ことです。
一方的なスタティックな行為と創造的なダイナミックな関係との違いがあります。

このブログの時評編の記事を時々フェイスブックに再計したり紹介したりすることがあります。
そうするといろんなコメントをもらいます。
たとえば、昨日の「私たちは本末転倒した生き方をしていないでしょうか」をフェイスブックに書きました。
私のフェイスブックは公開型なので、誰でもがコメントできます。
時に知らない人もコメントしてくれます。
それはとてもうれしいことです。
しかしいつも気になることがあります。
多くの場合、「語る」よりも「話す」ものが多いことです。
私の書いたものをきちんと消化しないまま、別の話を書きこんでくる人も多いのです。
テーマをすり替える人も少なくありませんし、私の主張を読み違える人も多いです。
つまり、あたしの主張をきっかけに「たまっていること」を放すスタイルです。
そういうスタイルが増えているのは、フェイスブックだけではありません。
むしろ社会全体が、そうなっている。
テレビのコメンテーターの発言のほとんどは「話す」型です。
もっと語ってほしいのですが。

私はできるだけ「語る」姿勢でコメントにはコメントを返しますが、それにも「反応してくれない」人もいます。
もちろんよく知っている人は、きちんと再びの反応をしてくれることが多いのですが、知らない人はコメントしたまま、それへの私のコメントも読んでくれたかどうかさえわからないこともあるのです。
そういうことが繰り返されると、コメントを返すのもおっくうになります。

とまあ、愚痴っぽいことを、それこそ「放って」しまいましたが、「ホモ・ナランス宣言」に書いたように、改めて「物語る」生き方を取り戻さないといけません。
もし共感して下さったら、ぜひストーリーテリング協会に入会してください。
活動が軌道に乗るまでの2年間は、私が代表を務めるつもりです。
ストーリーテリング協会のホームページはまだ作成途中ですが、次にあります。
http://www.storytelling.tokyo/

■神様の警告(2016年4月15日)
熊本の大地震は、私には川内原発稼働を許した私たちへの神様の警告のような気がします。
昨夜、テレビでニュースに最初に触れた時に頭に浮かんだのが、そのことです。
熊本で被災した人たちには、不謹慎かもしれませんが、今日もずっとその考えが頭から抜けません。
震源地が鹿児島だったら、どうなっていたかと思うとぞっとします。
川内原発の再稼働差し止め訴訟を却下した裁判官はどんな思いでこの報道を見ているでしょうか。
自然のエネルギーの大きさや気まぐれさへの考えは変わったでしょうか。
原子力規制庁は、熊本地震の影響はないと公表していますが、これまでのことを考えると、その公表をそのまま信頼することもできません。
いささかの不安はどうしても残ります。
せめて、こんな影響があったとか、こんな被害があったと言ってくれれば、少しは安心できるのですが。

テレビの報道を見ていると、一部のキャスターの人は、なんとなく川内原発再稼働差し止め訴訟のことを意識しての発言ではないかと思うことも少なくありません。
活断層はどこにあってもおかしくないとか、火山活動も活発になってきているとか、聞きようによっては、川内原発差し止め訴訟の裁判官へのメッセージのように聞こえて仕方がありません。
私の独りよがりの可能性は大きいですが。

もう40年ほど前になりますが、たしか「人類は滅びるか」という座談会の記録を読んだことがあります。
その本が手元に見つからないのでいささか不正確ですが、そこで、人類は22世紀には滅んでいるのではないかというような話し合いがなされていました。
そう言ったのは、たしか今西錦司さんでした。
かなりショッキングな話ですが、私も最近そんな気がしてきました。
もしかしたら、22世紀を迎えることはないのではないか、とも思います。

人の死はみんな当然のこととして受け入れます。
しかし、なぜか人類の滅亡は誰も考えようとしません。
しかし、種としての生物はいつか必ず滅亡するはずです。
人類の滅亡はもう少し先かもしれませんが、日本という国に対して、神様は警告を出しているのではないか。
最近そう思うことが少なくありません。

そう思う理由はもう一つあります。
それは東日本大震災の被災地の東北の海岸沿いに高い堤防が建てられる動きです。
私にはあれは、バベルの塔のような気がしてなりません。
神への、つまり自然への冒涜ではないか。
神様が怒るのではないか、とそんな気がしてならないのです。
現地の方には大変失礼なことだとは思うのですが、そういう気がしてならないのです。

私たちは、自然との付き合い方を間違っているのではないか。
この数年の日本の自然災害は、神様の警告なのではないか。
そんな気がしてなりません。

■「みんなのもの」パラドクス(2016年4月18日)
近くのNさんの庭には、この季節、見事なチューリップの花が咲き誇ります。
わが家から駅に行く途中の坂道にあるのですが、その坂道を上っていくときに必ず、そのチューリップの花畑が目に入ります。
私もいつもその恩恵を受けている一人です。

今年も見事なチューリップを楽しませてもらっていましたが、つい数日前にそこに手書きの注意書きが貼られました。
「花を取らないでください、みんなで鑑賞しましょう」

Nさんは道を行く人に見えるように、むしろ道に向けて花壇をつくっていますので、その気になれば簡単にとることができる場所なのです。
心無い誰かがとってしまったのでしょう。
それはとても残念なことです。
私も、同じ体験をしたことがあります。
道沿いの花壇をつくっていますが、育ってきた芝桜が根こそぎなくなっていたこともあります。
ちょっと残念でしたが、まあ私よりも大事に育ててくれればいいかとも思いました。
花壇の整備は、それなりに大変なのです。

Nさんのチューリップで、私が一番悲しかったのは、花がとられたという事実よりも、注意書きが貼られたことでした。
せっかくきれいなチューリップを見ても、その横にそんな張り紙があったら、心癒されることはないからです。
たぶん注意書きを貼るときにNさんは躊躇したでしょう。
Nさんはとても花好きで、時々、玄関に花を置いていることがありました。
Nさんは、それを自由に持って行ってくださいと言っていたのです。
そういう人ですから、注意書きを出すことが一番悲しかったのはNさんのはずです。

さて長々書きましたが、みなさんはどうお考えでしょうか。
注意書きは貼るべきだ。
とられないように柵をするべきだ。
そうお考えの人もいるでしょう。
でも私は、花を取られても注意書きは出すべきではないと考えます。
なぜなら花は「みんなのもの」だからです。

しかし、みんなのものであれば、私のものでもある。
そう考える人がいてもおかしくありません。
念のために言えば、Nさんのところの花は、もちろん法律的にはNさんの私有財産です。
しかし、Nさんは、自分だけで楽しむのではなく、みんなに楽しんでもらおうと、あえて自分の家に向けてではなく外に向けて花壇をつくっているのです。
Nさんは、自分のチューリップを「みんなのもの」と思っているわけです。

つまり、「みんなのもの」だから自分だけのものにせずにみんなで鑑賞しようという考えの一方で、「みんなのもの」であれば、「自分のもの」と考える人もいるわけです。
しかし、自分のものとした途端に、それは「みんなのもの」という考え方を否定することになります。
これはまさにパラドクスです。
「みんなのもの」は「みんなのもの」ではないという「みんなのものパラドクス」です。
ここにこそ、現代社会の問題を解く要の思想が込められていると私は思っていますが、まあそれはまたいつか書くことにします。

昨日、駅から帰宅する途中、偶然にNさんと会いました。
チューリップがきれいですね、とお礼を言ったら、Nさんが話しだしました。
あんな注意書きを出したくなかったの、でも3回も取られてしまい、それを見ていた人から勧められて出したのです、と、まるで私が注意書きがなければいいなと思っていたことを知っているような話をしたのです。
たぶんNさんは注意書きを出しながらそれがずっと気になっていたのでしょう。
Nさんのお気持ちがよくわかります。

さてこのパラドクス、あるいはジレンマはどう解決したらいいか。
みなさん、お暇だったらぜひお考えください。
チューリップの話ではなく、現代社会の大きな問題につながる話かもしれませんし。

■みんなのものは誰のものでもない?(2016年4月19日)
一昨日書いた「みんなのものパラドクス」に関連して、思い出したことがあるので、続きを書くことにします。

もう20年以上前だったと思いますが、東京の入谷の住宅地の一画に、たしか都有地がありました。
周囲には勝手に誰かが入れないようにと、フェンスが張り巡らされていました。
都有地なので、年に何回かは雑草が刈られていたと思いますが、夏になると野草が生い茂り、やぶ蚊も発生していたかもしれません。
そもそも地域住民にとっては、見栄えも悪く迷惑な存在だったと思います。

そうしたなかで、ある人が妙案を思いつきました。
まずは周辺の住民たちで、その雑草を刈り取ることを管理事務所に申し出ました。
都にとってはありがたいことなので、鍵を貸してくれました。
そして住民たちは、みんなで草刈りをして、鍵を返しました。
それだけなら何ということはない話です。
しかし、それを思いついた人は、こっそり鍵のコピーをつくってしまったのです。
従って、それから先は住民たちが、その塀の中に自由に入れるようになったのです。
そしてそこにみんなの花畑や農園をつくることにしました。
その写真を私は、この話をしてくれた人からもらっていたのでどこかにあるはずですが、見つからないのが残念です。

都の管理者は年に1回くらいしか来るか来ないかですので、気が付いた時にはきれいな花畑や農園になっていたわけです。
まさかそれをこわすとは言えないでしょう。
都は草刈りの費用がいらなくなり、「みんなの土地」はみんなでうまく活用されたわけです。
めでたしめでたし。

私は我孫子に住んでいます。
これも20年ほど前になるかと思いますが、我孫子駅の北口駅前の開発途中に、駅のすぐ前のかなりの広い面積の市有地が空き地になりました。
我孫子市民のみんなの土地ですので、我孫子住民に開放するのが良いと思いましたが、結局、入谷と同じようにフェンスが張られてしまいました。
せめてそこを自転車の置き場にでもしてくれれば、住民には好都合でしたが、次の計画が動き出すまでフェンスに囲われていました。
みんなのものだから、誰かが勝手に利用するのはダメなのです。
つまり「みんなのもの」とは、昨今の行政の仕組みの中では、だれも使えないということでもあるわけです。
「みんなのもの」とは、要するに「誰のものでもない」のです。

昨夜、湯島に来た人は数年前に会社を辞めて起業しました。
行政は、今回の熊本地震のような非常時のために、多くの非常食を備蓄しています。
幸いに非常事態が起こらないで、賞味期限が近づくと、それらは廃棄されます。
まだ食べられる膨大な食べ物が廃棄されるという、無駄な話です。
だとした、賞味期限直前のものを世界の飢餓地域に提供したらどうかと考えたのです。
最近話題になっているフードバンクの発想です。
大成功するはずでした。
しかし見事に失敗して、彼の会社は破産しました。
なぜ失敗したか。
行政が廃棄する膨大な非常食はみんなの税金で買ったものなので、行政の内部で処分しなければいけないのです。
つまり、役立てられると思っても、勝手には企業には提供できないのです。
それで費用をかけて廃棄処分するしかないのです。
それで彼の構想は挫折してしまいました。
行政のそうした仕組みを知って、彼は怒りに震えたそうですが。
ここでも「みんなのもの」は「誰のものでもない」ことがわかります。

さてさて困ったものです。
どうしたらいいのでしょうか。
「みんなのもの」って、一体何なのでしょうか。
私のテーマは、「コモンズの回復」です。
コモンズは、政府や国家という制度とは実はなじめない概念なのです。
そう考えると、「公共」という言葉のおかしさに気づきます。
「公」と「共」とは、発想の原理が全く違うのです。

■「小さな鍵」と「大きな鍵」(2016年4月21日)
鍵の話を昨日書きましたが、それで思い出したのが、千葉県習志野市の秋津小学校の宮崎校長です。
宮崎さんは、校長時代に学校の鍵を地域の信頼できる人たちにばらまいたのです。
学校を地域住民みんなで活かしていく場にしようと考えたからです。
そして生まれたのが、学校と地域の融合教育研究会です。
いまは宮崎さんは、校長を辞めて、まさに「みんなのものをみんなのものしよう」という活動に取り組まれています。
ちなみに、秋津小学校は、いまも不登校もいじめもないとお聞きしています。
秋津小学校の話は、有名なので、ネットで調べればいろいろと出てきます。
もしみつからなかったら連絡いただければ情報を差し上げます。

鍵は、外部からの侵入を遮断するために使われますが、考えようによっては、逆に外部そのものを引き込むものでもあります。
宮崎さんから鍵を預かった住民は、学校という空間を活かす責任を得たわけです。
責任に関しては、いつかまた書こうと思いますが、私は、義務ではなく権利と捉えています。
鍵を預かった住民たちは、学校の仲間になったわけです。
鍵はメンバーシップの証です。
「鋏と鍵は使いよう」なのです。
そのことに気づかせてもらえたのは、宮崎さんのおかげです。

宮崎さんが配ったのは、「物としての鍵」ですが、実は同時にメンバーシップという形のない意識のつながりを生み出したのです。
私は、それを「大きな鍵」と呼んでいます。
昔はみんな大きな鍵に守られて生きていました。
でも今は、「小さな鍵」で自分を守ろうとしています。

熊本の被災地で、空き家からの盗難が起こっているようです。
被災者は、支援物資の配給にもきちんと列をつくっている一方で、外部からやってきた人たちが、そうした不埒な行為を働いているのは、実に哀しくてさびしい話です。
その報道を見ながら、改めて「大きな鍵」の大切さと宮崎さんの活動を思い出しています。
宮崎さんを見習いたいと、いつも思っています。

■見える困窮と見えない困窮(2016年4月22日)
熊本や大分の地震被災地に対して、各地の自治体が職員を支援活動に派遣し始めています。
派遣している自治体の職員のフェイスブックを見ていたら、こんなコメントが書かれていました。
「自分も現地支援したい気持ちでいっぱい。いてもたってもいられない心境。」
よく知っている人なので、そうだろうなと心から思います。
被災地への職員派遣もとてもいいことだと思いますし、自分も何かしたいと思う職員の気持ちもよくわかります。
それは別に職員だけではなく、多くの人たちが、「自分に何かできることはないだろうか」と思っているはずですから。
そうした動きや風潮に、異論があるわけでは、まったくありません。
それを前提としての、ちょっとした感想です。

今回のような被災事故が起こると、みんな「何かをしたい」と思います。
しかし、被災事故が起こらなくても、生きるのに困っている人は少なくありません。
とくに自治体職員にとっては、被災事故の有無にかかわらず、たくさんの問題が地元地域には山積されているのではないかと思います。
それが証拠に、いまもって貧困のために命を絶つ人や精神的にダウンする人が少なくないという事実があります。
生活保障さえ、なかなか受給できない人もいますし、働く場もなく自らの身を売らなければいけない人も、いないとは限りません。
居場所のない高齢者や生きる上での障がいを持つ人も少なくないでしょう。
そうした「日常的な困窮」が、なかなか見えなくなっているのが現代かもしれません。
いや、みんな、あえて見ないようにしているのかもしれないとさえ思うこともあります。

今回のような大きな災害があると、それが見えてきます。
災害によって新たに生まれた「困窮」は多いでしょうが、なかには災害によって見えなかった「困窮」が見えてくることもあるでしょう。
災害は、社会のさまざまな問題を可視化してくれるのです。
しかし、災害があろうとなかろうと、実は「困窮」はあるのです。
自治体職員のみなさんは、本気でそうした「困窮」や「問題」を見ようとしているのか?
地域住民たちは、本気でそうした「困窮」や「問題」を見ようとしているのか?
災害で見えるようになったことに対して「いてもたってもいられない心境」になる前に、普段からもっと心がけるべきことがあるのではないのか。
そんな気がするのです。
もちろん私自身の自戒をこめてです。

災害によって顕在化するのは、「困窮」だけではありません。
「善意」もまた顕在化します。
いわゆる「災害ユートピア」の出現です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog6.htm#yu
みんなの「日常的な善意」もまた、普段抑圧されていることがよくわかります。
しかし、残念ながら、「災害ユートピア」は次第に消えていきます。
これもまた現代社会の特質だろうと思います。
しかし、災害がなくても、「ユートピア」はつくれるのではないか。
少なくとも、そういうことを目指した生き方をすることなら、誰にもできるのではないか。
私は、そう思いながら、そういう生き方を心がけています。
これもまた自治体職員にとっても、普段から取り組める仕事です。

大きな災害が起きなくても、「いてもたってもいられない心境」になるような問題は、普段から私たちのまわりにはたくさんあります。
日常的な生き方を少し変えるだけで、そういう問題が見えてくる。
ボランティア活動などと言わなくても、日常的な生き方のなかで、誠実に取り組めることがたくさんある。
みんなの目が被災地に向く足元で、被災者以上に困窮のただなかにある人たちがいることが、私にはとても気になるのです。

被災者に目を向けることを否定しているわけではありません。
しかし、日常的にも支援を求めている人がいることを忘れないでほしいと思うのです。
被災地へのまなざしの一部を、みずからの周辺にも向けていきたいと思います。

今回の記事を書くのは、ちょっと勇気が必要でした。

■「見える困窮と見えない困窮」にいただいたご意見(2016年4月23日)
昨日の「見える困窮と見えない困窮」をフェイスブックでも紹介したところ、いろんな意見をもらいました。
その一部を今日は紹介させてもらいます。

〔広島在住の方〕
私が大学生の頃、ちょうどUSA for AFRICAが流行ったりして、ちょっとしたチャリティブームでした。しかしながら、募金に参加する気になれなかったのは、ちょうど同じ時期、困窮きわまった私の実家では、米が買えないので「もやし」を分け合って食べていたからだと思います。助けてくれるのであれば、まず私の実家を助けて欲しかった。もちろん、日本に住んでいるだけで、多くのアフリカの子どもたちよりは恵まれているのはわかっています。しかし、気持ちはそのような絶対的な比較だけで決まるものではありません。チャリティは、色々な意味での余裕がある人々に任せておけばいい、そう感じてしまうのです。
ですので、「自分も現地支援したい気持ちでいっぱい。いてもたってもいられない心境。」
になどなったことがないので、自分は良くない人間なのだと思います。ただ、私は私以外の人生を生きることができない、という意味で、この気持ちを一生抱えていくしかないのでしょう。

〔60代の東京在住の方〕
佐藤さんのお気持ちは今週の一連の記事を読ませていただいて心に沁みます。
しかし、一方で、天の邪鬼の小生は、熊本地震への芸能人・タレントの寄付に対して、容赦なく浴びせられる“偽善”“売名行為”などの“ヘイトコメント”を想像してしまいました。
趣旨が違うけど、熊本地震に支援されている方々を非難してはいないにもかかわらず、仄かにそれに近い印象を受けてしまうのです?人間としての大きさが違うのか、、、よく分かりませんが、素直な気持ちです?
“困窮”の原因がハッキリしているからか、同じ日本人だからか、心が広くないからか、自分が困窮しているからか、、、??理由は定かではありませんが、熊本にも支援していない自分が情けなくなりそうな名文でした?(。>д<)

〔東京在住の建築家の方〕
佐藤さんの言われることはもっともだと思います。多分思っていても言わないだけで、そう思っている方は多いとおもいます。テレビからの報道しかみられないのでホントのことはどこまでわれわれが知っているのかわかりませんね。自衛隊2500人が土砂から亡くなった方を探す報道が毎日のように流れていますが、ホントはなくなった方より、生きていいる人の救助をしたほうがずーといいのにといつもテレビをみながらおもっています。でも、政治家や有名人がそんな発言をすると非難ごうごうなんでしょうね。そんな、日本は不思議な国だと思います。日本ではホントのことは公共的な場では言ってはいけないという社会性があるのでしょうね。そんな国なのにグローバル化に向かおうとするのが無理があるのだと思います。
〔この方への私の返信〕
「日本ではホントのことは公共的な場では言ってはいけないという社会性」。「言ってはいけない」という思い込みが「常識」になっていますね。私は思ったことをいつも言うもので、時々、物議をかもし、嫌われています。でも言いたいことを言うことで、自分の人生を生きられています。にもかかわらず、時に発言を躊躇する自分に気づいて自己嫌悪することもあります。まことに悩ましいです。
私は、「公共」という言葉が悪いように思います。「公」と「共」は、対立関係にあるように思うからです。あえて言えば、「公が共を抑える枠組み」が「公共」のような気がします。「公共発想の呪縛」からいかに自由になるかが、私の関心事の一つです。
〔私への再返信〕
共をほおっていくとろくでもない方向に進むかもしないので公が必要ですが、社会が成熟するに従い公が力を持ちすぎて、公と共の対立が始まるのでしょうね。・・・・話が長くなりそうなので、機会がありましたらまた、佐藤さんとお話が出来るときを楽しみにしています。
〔それへの私の再返信〕
いつでも歓迎です。「公」と「共」を考えるサロンをやってくれませんか。ちなみに、いささかややこしいですが、「官による公」と「共から生まれる公」とがあると私は思っているのですが、いずれにしろある種の緊張関係と支え合いの構造が必要だろうと思います。湯島のサロンは「共」の場ですが、100年後にはそこから生まれる「公」をイメージしています。

〔福島で働いている行政の方〕
ご意見につきまして、強く共感をいたします。申し上げたいことが多すぎるので、後日、お会いさせていただいた時に、たくさんお話をさせていただきたいと思います。
原発事故の被災地にて、行政の人間として働いております。

〔北九州の行政の方からの個別コメントの紹介〕
この記事に「発言」を引用させてもらった、行政職員の友人からメッセージをもらいました。その方が読んだらどう思うか、否定的に受け取られないか、気になっていましたが、真意を受け止めてもらえました。その上、現地でやってくることへの気づきまで得たと書いてきてくれました。ホッとしました。その方が何を得てくるか、とても楽しみです。その一方で、すでにそうした体験をした方がたくさんいるわけで、そうした情報は、私が知らないままに、行政の内部では集積されているのだろうなと気づきました。いずれにしろ、被災地での困窮に触れることで、日常時の地元の困窮への感度が高まることは間違いないでしょう。やはり、現場こそ最高の学び場ですから。

〔私からのこの記事へのコメントの紹介〕
この記事に関して、こんなメールをもらいました。
こんな意見もあることを、行政のみなさんにはぜひ知ってほしくて、紹介させてもらいます。
ほかにもいろいろと意見をもらいました。
以下、友人からのメールそのままです。

災害ボランティアに各県・市や日赤などから職員が派遣されますが、現地でも中間管理職的な位置づけとなり底辺で住民のためにと動くボランティアとは一線を画しているのが現実です。
一般の人が現地にボランティアで出かけるとボランティア受付で特技・職種などで振り分けられるものの泥や汚れと闘う底辺仕事ばかりとなりますが、公務員などの派遣職員は別格の扱いとなり現地でもあまり不自由さを感じないのではないかと、いつも不思議でなりません!せっかくの現場を体験するチャンスなのですが・・・・。(-_-;)
震災が全国で続いているのにもかかわらず、熊本での救援ボランティアセンターの立ち上がりは遅く、現場での混乱は理解できるものの、日頃訓練しているわりにはいざという時に役立たない社協というおかしな団体の構造の問題にも気づかされました。佐藤さんの発言は大いに支持します。

ほかにもあるのですが、多くのみなさんに読んでほしいものを選びました。
なお、いろんなやりとりの中で、少なくとも3人の方から話したいという連絡があったので、湯島で一度、サロンを企画したいと思います。
決まったらご案内させてもらいます。

■カフェサロン「今、子どもたちが危ない!」の報告
(2016年4月25日)
昨日の「今、子どもたちが危ない!」をテーマにしたサロンは、14人の参加で、熱い議論が交わされました。
問題提起してくれたのは、児童虐待防止全国ネットワークオレンジリボンの久米さん。
女川で活動している宮崎さん(学校と地域の融合教育研究会)も「伝えたいことがある」と言って参加してくれました。
いつものように、実に多彩なメンバーです。

久米さんはまずご自身が関わっているオレンジリボン運動(http://www.orangeribbon.jp/)の話を紹介してくれたうえで、参加者に問いかけるスタイルで話を進めてくれました。
前回の吉田さんの時もそうでしたが、なかなか先に進めないほど、発言が多いのです。
みんな「思い」が山のようにあるようです。

最初の問いかけは、次の3つが「育児」か「しつけ」か、というものでした。
@「怒って子どもを叩いてしまう」
A「遊ぶ時間がないほど毎日習い事に通わせる」
B「毎食コンビニお弁当」
議論百出で、@だけでも2時間がたちそうでしたが、大きくは、「暴力的行為は絶対にダメ」派と「状況による」派と別れましたが、後者が多かったように思います。
私は「叩く」ということが即虐待というようなマニュアル的な発想や問題提起のあり方に、むしろ問題の本質を感じています。
「ハグ」も「叩く」も、人間の表現形式の一つではないかと思うからです。
問題は「叩き方」であり、大切なのは、相手に対する姿勢、さらには日常的な人と人との関係のありようではないかと思うからです。
その意味では、私はAとBこそが「虐待」ではないかと思っていましたが(一時的な行為ではなく日常的な状態ですから)、話し合っているうちに、それもまた「短絡的」だという気がしてきました。

「身体的な虐待」や「暴力の行使」は「犯罪」ですから、その取締りをきちんとすればいいだけの話です。
むしろ問題にすべきことは、そうした犯罪や暴力ではなく、目には見えにくい「精神的虐待」や「構造的虐待」であり、さらには「虐待をしてしまう状況に追い込まれている人が増えている」という社会のあり方だろうと思います。
「子どもの虐待」という「事実」の奥にある「虐待を生み出す社会」に焦点を当てていくことが必要です。
そうした社会つくり出しているのは、私たち一人ひとりですから、それを変えていくのもまた私たち一人ひとりであるはずです。
このステップの最後に、久米さんは、「高層住宅の上層階で済むことはどうだろうか」という問題を付け加えましたが、これもとても示唆に富む問いかけだと思いました。

こうした議論を踏まえて、「児童虐待のない社会」にするには、という議論に移りました。
「子どもの立場に立って考えること」の大切さが指摘されましたが、そもそも「子どもの立場に立つ」とはどういうことかの議論になりました。
結局は、大人が考える「子どもの立場」は、大人の立場かもしれません。
親から虐待を受けている子どもも、ほんとは親がとても好きなのだと、実際に活動に取り組んでいる日高さんから指摘がありました。
それに、子どものほうこそ、親の立場を考えて嘘をつくことさえあるという指摘もありました。
私もそういう体験をしたことがあります。
母娘の関係は、実に不思議です。
単なる共依存の理論で理解してはいけない深さを持っているように思います。

とまあ、こんな感じで話し合いはつづいたのですが、最後の方では、虐待をしたくて虐待している人はほとんどいないのではないかという話題になりました。
つまり、みずからもまた、社会から広い意味での虐待を受けて、生きづらくなり、その結果、弱い立場の子どもへの虐待が生じているとしたら、まずは親を虐待から解放しなければいけません。
虐待されている子ども不幸ですが、虐待している親もまた、被害者だという気がしてなりません。
私が、児童虐待の報道に触れて、いつもまず思うのは、子どもと同時に、親への憐憫の情、あるいは親子の関係の哀しさです。
親に関する報道姿勢はいつも厳しいですが、親の状況をもっとしっかりとみていかないと、児童虐待はなくならないように思います。

しかし、そう考えると問題は解決しません。
虐待している親の現実は止めなければいけませんし、具体的な虐待から子どもたちを守らなければいけません。
たぶん、こうした大きく異なった問題が混在しているために、事態はなかなか変わっていかないような気がしますが、それはともかく現実の問題への取り組みも大切です。
児童虐待防止活動に取り組んでいた高月さんからは、参加者一人ひとりができることを考えてほしいという発言がありました。
私に何ができるか。
企業の経営管理者のみなさんに、自分たちが働いている世界の外部では、実は子どもたちはこんな世界に生きているのだということをもっと知ってもらうことが大切だという話も出ました。
私もできることは、そうしたことへの働きかけかもしれません。

いつもながら、伝えたいことのほんの一部しか伝えられずにすみません。
参加者の方、フォローしてもらえるとうれしいです。

次回は、子どもたちや親たちへのあたたかい眼差しで、長年実践活動をされている日高さんに、さらに一歩突っ込んだ現場からの報告をしてもらう予定です。

■カフェサロン「人工知能と人間の創造性について考える」の報告
(2016年5月1日)
音楽を切り口として、「人工知能と人間の創造性について考える」のサロンには、予想以上に幅広い立場の15人の参加者がありました。
「音楽」に興味のある人と「人工知能」に興味のある人とが混在したために、音楽論と人工知能論が行ったり来たりしましたが、それがまた面白かったです。
話し合いが始まる前に、音楽のために生きているという小林さんが、こう話しだしました。

今日はジャムセッションのような感じで自由にサロンができたら良いなと思っています。
コールアンドレスポンスで、いきましょう。
1つだけお願いがあります。
創造性という言葉を定義しないでほしいのです。
このお話に正解なんてありません。
いろんな創造性があるはずで、それを話し合って、人間の創造性の可能性を広げましょう、言葉は小鳥です。厳密に定義しようとして、ぎゅーっと握りしめたら死んでしまう。
創造性と言う小鳥には翼があります。
手を開いて、羽ばたかせてあげて欲しい。

ジャムセッション。
言葉の翼。
象徴的なメッセージです。
さらにこんな話もされました。

かっこよく(トランペットを)吹こうとするのではなく、こんなのでいいと思うと、うまく吹けます。
自分のもともと持っているものを、素直に出せば、よいものが生まれるのです。

「魂の交換」とか「大地の思考」という言葉も出てきました。
ここまでの話で、小林さんの音楽に対する姿勢や生き方が伝わってきますが、その後、レジメに沿って、コールアンドレスポンスで、話し合いが進みました。

話し合いの内容を報告するのは、私の能力をはるかに超えてしまいますので、いつものように(いつも以上に)極めて偏った報告をさせてもらいます。

小林さんは、最初に人工知能が作曲した音楽の一部を3曲、iPhoneで聴かせてくれました。
http://qz.com/488701/humans-are-confusing-music-composed-by-a-computer-for-j-s-bach/
それを聴いて、音楽には3つの「創造」(作曲)があると思いました。
データ(譜面の創造)、演奏(音の創造)、鑑賞(魂の創造)。
人工知能の作曲した1曲は人が演奏し、2曲はシンセサイザーの自動演奏でした。
私にはまったく違うものに感じました。

もう一つ感じたことがあります。
それは、人や人工知能が音楽を創るのではなく、音楽が人や人工知能を創るのではないかということです。
小林さんの言葉を使えば、「音楽」の代わりに「大地の思考」といってもいいでしょう。
いまでは、人工知能を使って、音楽の基礎知識がなくても作曲ができます。
しかし、人工知能が作曲するというのと、人工知能を使って作曲するというのは、まったく違います。
いつか突然に、人工知能が作曲をしだす時が来るでしょうか。
これも考えると、とても興味深いことです。

デジタルな音楽とアナログの音楽との違いも少し話題になりました。
なぜ日本の長唄は西洋音楽的な譜面にできないのかという指摘もありました。
自然の音と音楽との違いの話もありました。
ヨーロッパ人には雑音でしかない鈴虫の鳴き声がなぜ日本人には快く聴こえるのか。

人工知能に関して言えば、ディープラーニングやシンギュラリティの話も出ました。
ディープラーニングは、人工知能が人間の制約を受けずに独自に世界を読み解いていくということで、これによって、人工知能が自分自身よりも賢い人工知能をつくれるようになる「シンギュラリティ」(自己成長を始める特異点)に達するかもしれないと言われています。
もしシンギュラリティが実現すれば、人工知能は人間を超えるかもしれず、それが人工知能脅威論につながっています。

こんな感じで、音楽論と人工知能論が、いろいろと混じり合った、刺激的なサロンになりました。
最後は、神の話にまでなりました。
小林さんは、霊の世界ともつながっている人ですから。

そこで、最後の最後に、私は、ジュリアン・ジェインズの二分心の考えを紹介させてもらいました。
私は、独自の創造力を持つ人工知能の誕生を確信していますが、それはジェインズの「神々の沈黙」を読んで、「二分心」仮説を知ってからです。
ジェインズは、3500年前まで、人は右脳で神々の声を聞き、それを左脳で消化して行動していたというのです。
つまり、神の声に従って生きていたということです。
その頃の人間の生き方は、ホメロスの『イーリアス』に読み取れると書いています。
たしかに、そういう視点でホメロスを受け止めるととても納得できます。
しかし、3500年前頃に、人は神から独立して、右脳軸から左脳軸の生き方へと変わったのです。
神から独立したわけです。
そして、神を殺してしまった。
ジェインズに怒られそうな要約ですが、私は神が人に施したように、いま人が人工知能の自立の契機になっているのではないかと思います。
言い方を変えれば、私たち人間は、人工知能ならぬ「神工知能」ではないかというのが、私のいささか荒唐無稽と思われかねない考えなのです。

今回は、音楽論を期待して参加してくださった方には少し肩すかしだったかもしれません。
それで、小林さんによる音楽論サロンは、また改めて企画します。
また小林さんが納得できる、自らの音楽に到達したら、小林さんの音楽を聴く会も企画したいと思います。

いかにも自分勝手な報告なので、最後に、サロン終了後も話し合っていた人から届いたメールを引用させてもらいます。

Oさんが、AIでの作曲は権力者側の誘導に利用されるのでは、と懸念していました。
もうひとりのOさんは、AIは創造性より、Hさんが言ったデータマイニングに基づく楽曲づくりとなり、販売促進や映画の効果音など、実用的な面で活用される旨のことを指摘していました。
今回のテーマは「AIと創造性」でしたが、むしろ、このお二方の懸念(指摘?)するように「計算された効果をもたらすための音楽」づくりに当面は向かうのかもしれませんね。

音楽はいつも権力に深くつながっていますから、否定はできません。
期待と不安は尽きません。

■ストーリーテリングによるまちづくり(2016年5月5日)
私が住んでいる千葉県の我孫子市は「物語の生まれるまち」を標榜しています。
物語の生まれるまち。
これは、我孫子市だけではなく、最近の流行語でもありますが、
本来、「まちづくり」とは「物語を育てること」だろうと思います。
そして、その場合の主人公は、住民一人ひとりなのだろうと思います。
残念ながら、行政にはそういう発想はありません。
ですから、単なるスローガンに終わることが少なくありません。

私は20年近く前に茨城県の美野里町(現在の小美玉市)の文化センターの建設にささやかながら関わらせてもらったことがあります。
当時は、ハコモノ行政批判が広がっていた時期で、美野里町も文化センター建設に反対する人が少なくありませんでした。
私は、そのプロジェクトのアドバイザー役で関わらせてもらったのですが、住民のみなさんに「文化センターではなく、文化の物語をつくる」プロジェクトにしましょうと話させてもらいました。
つまり「モノづくり」ではなく、みんなで「物語りましょう」と呼びかけたのです。
そして「物語の生まれる」拠点の一つとしての文化センターを提案させてもらったのです。

そこからたくさんの物語を経て、文化センター「みの〜れ」が完成しました。
建物だけではなく、たくさんの物語も生まれました。
その経過が、あまりに面白かったので、住民の人たちと一緒に、その「文化がみの〜れ物語」(茨城新聞社出版)という本にしました。
文化センター「みの〜れ」は、いまなお、生き生きした物語を生み出しています。

センターが完成してから10年たった時に、住民たちが、文化センターを拠点に生まれた物語を本にしたいと、またやってきました。
前回と同様、住民たちで編集委員会を立ち上げ、文化センターを拠点に生き方を変えていった住民たちに、自らの物語を語ってもらい、「まちづくり編集会議」(日本地域社会研究所出版)という本を出版しました。
20人を超える人たちが、みずからの物語を生き生きと語っているのを読むと、物語りあうことがまちを育てていくことなのだということが実感できます。

「まち」とは、そこに住む人たちにとっての舞台です。
誰かがつくった物語に合わせるのではなく、住民一人ひとりが主役になって、自らの物語を語りだすことが大事です。
人は誰でも、物語る力がある。
それに気づけば、自然と物語は育っていきます。

私たちが先月立ち上げたストーリーテリング協会は、そうした「物語り合うまちづくり」を広げていきたいと考えています。
住民主役のまちづくりに取り組みたいという人がいたら、ぜひご相談ください。
一緒に、「物語の生まれるまち」を育てていければと思っています。

■我孫子アートな散歩市に合わせて、自宅でオープンカフェを開きます(2016年5月5日)
5月8日から29日まで、我孫子アートな散歩市が開催されます。
毎年、わが家にある娘のスペインタイル工房 Taller de Junも参加する関係で、雨が降らなければ、工房の横の庭で、私がオープンカフェを開いています。
例年、いろんな人が立ち寄ってくれて、いろんな話がはずみます。
今年は娘が参加できないのですが、工房は公開することになりました。
私はその留守番役なのですが、天気が良ければ、例年通り、横の庭でカフェをやっている予定です。
といっても、コーヒーを飲んでもらうだけのカフェなのですが。

カフェのオープンは、5月14日と15日の2日間で、時間は10時から午後4時までです。
庭のテーブルは一つなのですが、コーヒーは用意しておきます。
スペインタイル工房 Taller de Jun も、娘はいませんが、開いています。

場所は、手賀沼公園の近くです。
我孫子駅南口前の「アビシルベ」(我孫子インフォメーションセンター)に散歩市の地図があると思いますが、次のサイトにもあります。
https://www.city.abiko.chiba.jp/event/event/music/a-tonasanpo.files/SKM_C554e16041113355.pdf
会場番号6が、わが家です。
我孫子駅から10分ほど、手賀沼公園から5分ほどです。
例年は旗を立てたりしていますが、今年はめんどうなのでやめました。
わからなければ電話ください(090−7416−1679)。
雨が降った場合はお休みです。

晴れるといいのですが。

■「みんなのゆるカフェ」ネットワークのご案内(2016年5月7日)
湯島のコムケアセンターで、「みんなのゆる〜いカフェ」、略称「みんカフェ」を開いています。
まだ動き出したばかりの試行錯誤段階ですが、主旨に賛同して、同じような「みんカフェ」を始めようとしている人が出始めています。
その第1号として、5月26日、新潟の「ささえあい・新潟」が、新潟市で「みんカフェ」キックオフサロンを開催します。
最初なので、私も参加する予定ですが、お近くの方ももしお時間があればご参加ください。
案内は、下記します。
千葉でも、企画して下さっている人がいます。
また関西でも、同じような主旨で活動している人たちもいます。

コムケアとして考えている「みんカフェ」の目的は、「誰でも、そこに行くと自分の居場所がみつかるような場所」をつくり、そこに居合わせた人たちの「ゆるやかなつながり」を育てていくことです。
そして、そうした活動を、とてもゆるやかにつないでいき、時には交流できるようにしていければと思っています。
自分の居場所をつくっていくことも含めて、この主旨に共感してくださった人たちと一緒に、取り組めたらと思っています。

こんな活動を始めたいという人がいたら、ぜひご連絡ください。
5月28日には、湯島でも「みんカフェ」の集まりをやります。
まだ完全公開ではないのですが、関心のある人はご連絡ください。
詳しいご案内をさせてもらいます。

◆「みんカフェ・新潟」準備会のご案内
日時:5月26日(木曜日) 午後1時30分〜3時30分
場所:関屋地区公民館(バス:関屋昭和町下車)
会費:500円
事務局:ささえあい・新潟(金田英一 kaneda-ei@nyc.odn.ne.jp)

■コムケアサロン「なぜ私は〈ママと子供の無料パソコン教室〉をやっているのか」のお誘い(2016年5月17日)
今回のコムケアサロンは、少しスタイルを変えて、東京の練馬区で、主に母娘対象に地域活動に取り組んでいる、ひだまりサロン主宰者の日高正晃さんに、ご自身の生い立ちからいまの活動、そしてこれからの活動への思いを語ってもらいながら、少しナラティブなサロンを企画してみました。
「ナラティブ」とは聞きなれない言葉かもしれませんが、「自らの物語(マイストーリー)を語る」というような意味です。
昨今は、ともすれば社会に流されて、誰かの物語に合わせてしまう生き方が広がってしまっていますが、そういう生き方が増えてきてしまったために、社会はおかしくなってきているのではないかという気がしています。
みんながもっと自分の思いや生き方を大切にし、自らの物語りを語りだすことで、社会はもっと住みやすい方向に変わるのではないか。
コムケアのサロンを重ねてきて、最近、改めてそう感じています。
そこで、自らの活動を物語ってもらうサロンを時々開催することにしました。
今回は、子どもシリーズの一環でもありますが、併せてナラティブ(マイストリー)サロンの1回目でもあります。

これを企画したのは、ひだまりサロンの日高さんが私に自らの生い立ちといまの活動、そして、いま気づきだしたことを、話してくれたことが契機です。
最初は、それをどう消化すべきか整理できなかったのですが、整理する必要もなく、むしろ日高さんにそのままの話をしてもらうだけで、参加した人はそれぞれに大きな気づきをもらえるのではないかと気づきました。

日高さんは現在、ご自身が主宰する「ひだまりサロン」を拠点にして、女性、特にママと女の子のITスキルアップとITを活用した理系教育などの活性化を目指した活動に取り組んでいます。
ひだまりサロンの「ママと子供のパソコン勉強会」のサイトを見てもらえれば、その楽しそうな活動のプログラムがご覧になれます。
http://hidamari-salon.jimdo.com/
しかし、そうした楽しそうなプログラムには、日高さんの大きな思いが込められています。

たとえば、中国から帰化してから離婚されたシングルマザーと小さい女の子、DV被害のママと女の子。
友達が出来なくて、欲しいものが買えなくて、行きたいとこに行けなくて、でもいつも笑顔。
そういう子が内心どういう気持ちかが手に取るようにわかる気がすると日高さんは言います。

みんな貧しい。
交友関係も少なく、頼れる人も少ない。
だから将来稼げるように、学校の勉強を補完するように、ICTやサイエンスの実践的活用知識を楽しみながら身につけてもらおうというのが日高さんの構想です。

でも、それだけでは十分ではない。
そういう人たちが一緒に加われるような経済基盤ができないものだろうか。
日高さんの、今年の課題は、彼女たちの生活基盤が安定するように、彼女たちが在宅で安全に稼げる事業を、彼女たちと一緒になって開発していくことです。

そんな話を生々しく語ってもらいながら、できれば参加した私たちも、日高さんと一緒になって、新しい事業づくりの方策を考えられないかと思っています。
いつものように、さまざまな立場のみなさんの参加をお待ちしています。

●日時:2016年6月18日(土曜日)午後1時半〜4時
●場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cccentermap.pdf
●テーマ:「子どもたちが危ない!」
●話題提供者:日高正晃さん(ひだまりサロン主宰)
●進め方:前半の1時間で日高さんからの話題提起(勉強会の内容も話してもらいます)を受けて、後半ではみんなで話し合うスタイルです。
日高さんへのアドバイスもお願いしたいです。
●参加費:500円
●申込先:comcare@nifty.com

■28年間、経営道フォーラムというプログラムに関わらせてもらっての感想(2016年5月17日)
昨日は、椿山荘で、経営道フォーラムの発表会でした。
企業の不祥事が多かった1980年代、経営者に「経営の心と道」を学んでほしいという市川覚峯さん(現在は日本経営道協会代表)の思いから始まった「経営道フォーラム」というプログラムがあります。
市川さんの思いに共感して、そのプログラムに関わらせてもらってきましたが、昨日、58期の発表会を持って、私はコーディネーター役を辞めさせてもらうことにしました。
強い自責の念があります。

私のスタンスは、最初から全く変わっていません。
私が考える「経営道」とは生きる主軸を確立するということです。
「営み」の軸になるような「経」、つまり原理原則を大事にするということです。
平たく言えば、経営技術者や金銭管理者ではなく、主体性を持った人間になってほしいという思いです。
そのためには、自分の企業という「たこつぼ」から出て、広い世界を生きなければいけません。
そういう思いから、受講生のみなさんには、企業に使われるような経営者ではなく、企業を活かして、社会を豊かにしてくれる活動に目を開いてもらうような刺激を、ささやかに与えてきました。

その私の思いは、残念ながら果たせませんでした。
最近もまた、企業の不祥事が話題になっていますが、日本企業の経営者の多くは、企業を活かして社会を豊かにするどころか、企業に寄生して、社会をむしばんでいるような気さえします。
経営者だけではありません。
社会全体が、金銭利得に覆われてしまい、多くの人は「人間」であることさえ忘れかねているように思います。
そうした無力感から、辞めることにしたのです。

そして昨日は、椿山荘で最後の発表会でした。
最後は、とてもいいチームに恵まれ、その発表に対して、参加者が「静かな感動を受けた」と言ってくださるほどでした。
私も感動しました。
そして、もう少し続ければよかったかなという未練さえ感じました。

最後に、会場に向かって、いささか場違いな話もさせてもらいました。
広い世界を見てください。そうしたら企業を通してできることは山のようにあると話しました。
子どもの育ちの現場をもっと知ってほしいとも話しました。
ちょっと感情が入りすぎてしまい、伝わったかどうかは疑問ですが。

この数十年の経済学は、現場から離れた、演繹的な公理をベースにしたフィクションエコノミクスだと言われだしてからもう10年以上経過します。
私自身、会社時代からずっとそう思っていました。
経済学の前提にある公理は、私には非現実的なものばかりでした。
言葉と論理だけで、経済は日常生活とは、無縁な世界を構築し、企業はそこでのメインアクターとして、金融工学に基づいて、社会を市場化してきています。
汎市場化の中で、最近のオリンピック関連のさまざまな騒動に見られるように、スポーツも市場化されました。
環境や福祉の世界もまた、どろどろしたお金の世界になってきてしまい、本来的な環境保全や福祉はどこかに押しやられてしまいつつあります。
いまや経済は、生きた人間のための経済ではなく、死臭の立ち込めた市の経済になってきています。
改めて、生きた経済を回復しなければいけません。

経営学もまた、演繹起点の世界を構築し、企業から生きた人間を放逐しだしています。
それでは企業は元気になるはずはありません。
経営の基本は、生きた人間の無限の能力でなければいけません。
企業経営の要である、戦略も組織も、生きた人間が主役なのです。
それを忘れた企業は、単なる金銭増殖機械でしかありません。

感情が入り込んできて、少し書きすぎました。
経営道フォーラムのこれからに期待しています。

■話し方と生きる姿勢(2016年5月24日)
舛添都知事が政治資金がらみで世間の糾弾を受けていますが、こんな瑣末な事件で報道が覆われることが残念です。
いかにも瑣末な事件で、どうでもいいようなことをあれやこれやと報じています。
舛添さんが、こういう人であることなど、周辺の人はみんなわかっていたでしょうし、周囲の人でない私でもわかっていたことなので、その気になれば誰もが事前に知ることができたはずです。
こういう話があまりに多すぎます。

それはそれとして、舛添さんの記者会見を見ていて、改めて気づくのは、どうして主体的に話ができないのだろうかということです。
舛添さんに限りませんが、この種の記者会見で使われるのは、「…したいと思います」という表現や「ご心配をかけました」という表現です。
いずれもどこか他人事の言い方です。

「…したいと思います」というのは、願望と意向を述べただけの二重に逃げた表現です。
なぜ「…します」と言い切れないのか。
こういうところに、その人の生き方が伝わってきます。
「…したいと思います」というような表現をする人は、自分を生きている人ではないと私はいつも考えています。
そんな人は組織のリーダーにはなるべきではありませんし、なれません。
リーダーは「…する」と言わなければいけません。
せめて「…しよう」でしょう。
そう言えるリーダーがいない組織は、みんなが寄生している組織ですから、原子力ムラのように、いつか破綻するまで群がった人たちに善良な人が犠牲にされるための仕組みになってしまいます。
そういう組織がなんと多いことか。
組織には、人を活かす組織と人を殺す組織があるようです。

話し方には、その人の生き方が現れます。
私は一人称自動詞でできるだけ語ろうとしていますし、そこに曖昧な「…したい」とか「思います」とかいう余計な逃げ口上はできるだけ入れないようにしています。
したければすればいいですし、思うのであれば、これまた行動すればいいだけの話です。

同時に口に発した言葉は、大事にします。
舛添騒動から学ぶことはたくさんあります。

もうひとつ確信が深まったことがあります。
他者への批判の多くは、みずからにも当てはまることであるという仮説です。
誰かを批判する人の話を聞いていると、多くの場合、その人にもかなりあてはまることがあります。
舛添さんがやってきていることの多くは、これまで舛添さんが批判していたことと重なっています。
自分がやっているからこそ、他者のそうした行動が見えていたのでしょう。
批判というものは、いつもみずからにも向かっていることを、改めて確信しました。

ということは、ここで私が書いたこともまた、私にも向けられているということです。
正直、そんなことはないと言いたいのですが、たぶん否定はできないのでしょう。
「…したいと思います」という表現こそ、気をつけていますが、私もきっと逃げ口上を使いながら生きているのでしょう。
気をつけなければいけません。

こう考えてくると、世の中に批判したくなることが多いということは、自らの生き方もまた劣化しているということになります。
批判する前に自省せよ。
それを指針としてしまったら、時評が書けなくなってしまいました。
さてさて困ったものです。
ここから抜け出さなくてはいけません。

■「みんカフェ」を一緒に広げませんか(2016年5月25日)
いま、仲間と一緒に「みんなのゆる〜いカフェ」(略称「みんカフェ」)をはじめています。
目的は、「誰でも、そこに行くと自分の居場所がみつかるような場所」をつくり、そこに居合わせた人たちの「ゆるやかなつながり」を育てていくことです。
そうした場や活動を各地に広げ、それらをゆるやかにつないでいき、時には交流できるようにしていければと思っています。
自分の居場所をつくっていくことも含めて、この主旨に共感してくださった人たちと一緒に、取り組みだしています。
15年前から取り組んでいるコムケア活動や27年前からの湯島のサロンも、こうした思いで展開してきていますが、そういう集まりにもちょっと敷居が高いという人もいますので、ただただ居場所があればいいというだけの人も大歓迎のカフェです。
子どもも来ることがあるので、珈琲だけではなくジュースも用意しています。

明日、5月25日には新潟で、その準備会的なカフェをやります。
また28日には、東京の湯島でもあります。
あまり公開していませんでしたが、直前ですが、ご案内します。
気分が向いたらご参加ください。
また、こんな活動を一緒に始めたいという人がいたら、ぜひご連絡ください。

◆「みんカフェ・新潟」準備会のご案内
日時:5月26日(木曜日) 午後1時30分〜3時30分
場所:関屋地区公民館(バス:関屋昭和町下車)
会費:500円
事務局:ささえあい・新潟(金田英一 kaneda-ei@nyc.odn.ne.jp)

◆「みんカフェ・湯島」のご案内
日時:5月28日(土曜日) 午後1時〜3時
場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cccentermap.pdf
事務局:阿部(090-2744-6184) 佐藤(qzy00757@nifty.com)

■ふたつの「みんカフェ」を開きました(2016年5月29日)
新潟と東京で、それぞれ「みんなのゆる〜いカフェサロン」、略して「みんカフェ」を開催しました。

新潟では8人の人が、東京では10人の人が参加しました。
新潟は準備会でしたが、福島から避難されてきている方がおふたり参加して下さいました。
話し合いの結果、正式に「みんカフェ・新潟」をスタートさせることになりました。
次回は7月7日です。

新潟につづいて、東京の湯島で「みんカフェ・湯島」を開催しました。
こちらは準備期間を経て、今年から公開スタイルで始めています。
銚子からわざわざ高速バスで2時間かけて参加してくださった若い女性の「仕事」への姿勢の話がとても私には興味がありました。
ちなみに彼女は内定が決まった就職先の「雰囲気」が自分に合わないと思って、入社を見合わせたのです。いま失職中のようです。
発達障害を公言しているNさんは、同日開催されている5つのイベントの中から、このサロンを選んで参加してくれました。
クリエイティブコモンズの話をしてくれましたが、
彼もまた、現在の金銭至上主義の経済や社会のあり方に居心地の悪さを感じて、お金を介さない生き方を志向しています。
朝から夜までかなりハードな仕事をしているSさんは、たぶん仕事を通じて、社会の実相を感じていると思いますが、今回もさわやかな笑顔で参加してくれました。
こうした若者たちの話を聞いていると、現代という社会の醜い面も素晴らしい面も見えてきます。

若者たちもまた、普段はあまり接点のない、年上の世代の人たちの本音の話に触れて面白かったと言ってくれました。
いつものサロンの常連もかなり参加してくれました。

私の思いは、みんなの喫茶店を実際につくれないかということです。
「こども食堂」や「ブックカフェ」もいいですが、「居場所カフェ」もいいです。
全国的に広がってきているコミュニティカフェよりももっとカジュアルな、かたちのないカフェです。
新潟の集まりに参加された製剤薬局の方は、自分の薬局でも開けると言ってくれました。
先日、私はわが家の庭でオープンカフェを開催しましたが、どこかの公園でもいいかもしれません。

そういう場所が増えれば、きっとみんな生きやすくなり、犯罪やヘイトスピーチなど減っていくでしょう。
今日の話を聞いていて、なんだかそんなことが実現できそうな気がしてきました。
もし一緒に取り組もうという人がいたらご連絡ください。
私はもうあんまり頑張れそうもありませんが。

■沖縄を考えるカフェサロン・パート2のご案内(2016年6月1日)
伊勢志摩サミットやオバマの広島訪問などの報道の影になってしまって、沖縄の問題が見えなくなってきていることに、危惧の念を持っていますが、昨年12月に辺野古の報告をしてくださった、緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)のお時間をいただけましたので、辺野古サロン・パート2を開催することにしました。

前回参加してくださった皆さんはもとより、参加されなかった方も、この機会にぜひ、沖縄の辺野古の実情を知ってもらえればと思っています。
前回の案内にも書きましたが、沖縄の辺野古で起こっていることは、私たちの未来に深くつながっています。
そして、私たちの生き方にも深くつながっています。
ぜひ多くのみなさんに参加していただければと思っています。

緒方修さんは、長年、文化放送に勤められた後、沖縄大学などで教鞭をとられ、併せてさまざまな活動に取り組まれてきました。
1999年から那覇にお住まいで、現在はNPO法人アジアクラブ理事長でもあります。
最近、花伝社から「歩きはじめた沖縄 沖縄の自然と歴史、そして辺野古」も出版されましたので、そのお話も聞けるかと思います。

○日時:2016年6月20日(月曜日)午後6時半〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「辺野古からのメッセージ」
○話題提供者:緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)
東アジア共同体研究所http://www.eaci.or.jp/
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

■現代書館の「反メディア論」をお勧めします(2016年6月1日)
あっせん利得処罰法違反などの疑いで告発されていた前経済再生担当大臣の甘利さんを、東京地検特捜部は嫌疑不十分で不起訴にしました。
あれだけの証拠があるのに、不起訴になるとは思ってもいませんでした。
司法の世界は、どうもよくわかりません。

現代書館の「反メディア論」を読みました。
映画作家の森達也さんとジャーナリストの青木理さんとの対談です。
大きく取り上げられているのが、刑事司法の問題です。
特に死刑制度に関するところは、多くの人に読んでほしいところです。
拉致問題や沖縄に関するところも、興味深いです。

この本を読んで、やはり私たちは「司法の実体」をあまりにわかっていないことに改めて気づきました。
そこで、湯島で「司法」をテーマにした連続サロンを継続できないかと考えました。
これまでも何回か考えたことはありますが、踏み切れませんでした。
一度、友人の弁護士に頼んで、サロンを開催しましたが、その友人は大阪なので、連続開催は無理でした。
別に司法界の人がいなくてもできる話ですが、単なる雑談会にはしたくありません。
どなたか協力して下さる司法界の方はいないでしょうか。
いないとしても、まずはスタートするつもりです。

それはそれとして、先の「反メディア論」(現代書館)はお勧めです。
もちろん同書は、メディアをテーマにした対談集ですが、とても共感できます。
ちなみに、青木さんとは面識はありませんが、わたしがいま信頼できる3人のジャーナリストのおひとりです。

■「新しい判断」(2016年6月2日)
「再び延期することはない。ここでみなさんにはっきりとそう断言する」と明言して、安倍首相は衆議院を解散しましたが、その公約に反して、また消費税増税を再延期しました。
そして今度は、「公約違反ではないかとの批判があることも真摯に受け止めている」が、「新しい判断」について参院選で国民の信を問うと話しています。
なぜ「公約」が守られなかったのかは、語られていません。

今回の再延期の理由は、経済の停滞です。
「世界経済のリスク」などという言葉も使われていますが、野党からは「アベノミクスの失敗」だと指摘されています。
念のために言えば、前回の延期の時に、安倍首相は、経済成長率などを増税実施の判断材料にする「景気条項」を消費増税法から削除しています。

それにしても、「新しい判断」とは感心しました。
過去はともかく、「新しい判断」の是非を問題にする。
そのどこが悪いのか。
昨今の日本の社会状況を見ていたら、消費税増税の再延期に反対する人は多くはないでしょう。
目先の生活で言えば、私も出費が増えないので、どこかでよかったと思っているような気がしないでもありません。
もっとも私はほとんどお金を使わないので、消費税が上がってもあんまり影響は受けないと思いますが。

でも、果たして喜んでいて、いいのか。
私が危惧するのは、消費税や財政赤字ではありません。
「新しい判断」という発想です。
そこに含意されているのは、「約束の軽視」であり、「自省の放棄」です。
今回の件で言えば、自らの取り組み(アベノミクス)の失敗によって公約(消費税増税による社会福祉の充実と財政健全化)が果たせなくなったと考えるべきだと、私は思いますが、そこは全く触れられることなく、ともかく「新しい判断」を評価してくださいと呼びかけているわけです。
やはり根本的におかしいのではないか。

「新しい判断」という言葉で思い出したのは、「ニュースピーク」です。
ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に出てくる言葉ですが、従来の言語に代わる新しい言語を国民に押し付けることで、国民の思想を管理し、権力者の行動に反する思考ができなくなるようにするという話です。
もちろん「新しい判断」と「ニュースピーク」は、違うものです。
しかし、なんとなくつながっているような気がして、気が重くなってきました。
こんな言葉を流暢に使う人が国家を方向づけている。
そして多くの国民とメディアが、その政府を支持している。
政府に異を唱える動きは、たとえば現在の沖縄の問題がそうであるように、マスメディアの協力によって、見事に覆い隠されてしまっている。
もしかしたら、すでに私たちは、「ニュースピークの世界」に生きているのかもしれない、という気がしてきました。

テレビでは、都知事の(私には瑣末な事件としか思えない)事件を、大きく取り上げています。
こうした「サーカス的な見世物」の背後で、「ニュースピークの世界」が着々と進んでいると思うと、恐ろしくなります。

■カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼」のお誘い(2016年6月3日)
友人の鈴木章弘さんが、昨年は70日かけてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、今年は四国八十八箇所を40日かけて歩いてきました。
鈴木さんは、歩くことは、話すことと同じく、ヒトの特殊な能力だと言います。
私風に言いかえれば、ヒトは話しながら考えるように、歩きながら考える。
しかし、話しながら考えることと、歩きながら考えることは、もしかしたらまったく違うことかもしれません。

むかし、鈴木さんから教えてもらって読んだベルナール・オリヴィエの「ロング・マルシュ(長い歩き)」という本がありますが、そこに「歩くことがどれほどの力を発揮するものかを発見するのに、60年かかった」と書かれていました。
オリヴィエが、60年かかって気づいた「歩く力」とは何か。
また、オリヴィエは、歩くことで、現代の狂気に気づき、文明化によって忘れられつつある「おもてなし」にも触れられたと書いています。
サンティアゴ巡礼を終えた後、私は、何回か鈴木さんと会って話を聞く機会をもらいました。
話していて、まさに、オリヴィエの言葉を思い出しました。

私一人で、鈴木さんの話を聞くのは、いかにももったいないので、サロンを開くことにしました。
いつもは寡黙な鈴木さんは、巡礼のことになると話しが止まらないほど、饒舌になります。
さて、どんなサロンになるか。
巡礼報告の話になるかもしれませんが、「狂気とおもてなし」の哲学談義になるかもしれません。
いずれにしろ、私たちが忘れかけていることへの気づきをもらえるような気がします。

多くのみなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年6月19日(日曜日)午後1時半〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「サンチアゴ巡礼と四国巡礼で感じたこと」
○話題提起者:鈴木章弘さん(休筆中のライター)
○会費:500円

■「それでもボクは会議で闘う」ノ周防さんに感銘を受けました(2016年6月5日)
先日も書きましたが、湯島で、「司法サロン」を始めるつもりです。
日本の司法はあまりにもひどいと思うからです。
原子力ムラと同じような法曹ムラができているのは仕方がないとしても、法曹ムラの人たちは強大な「暴力機構」に巣食っているが故の、恐ろしさがあるからです。
私はこれまで弁護士もその仲間だと思っていました。
ですから、弁護士もあまり信頼できずにいました。
認識を改める契機は、大学の時の同窓生の弁護士に会ってからです。
そして司法のことをもう少し知らなければいけないと思い出しました。

先日、ある裁判に巻き込まれてしまった友人が湯島に来ました。
その話も生々しかったです。
腹立たしいですが、立ち向かうのは至難です。
こんな経験を何回かしていますが、これまでは深入りしたことがありません。

以前、湯島に公安警察が踏み込んできたことがあります。
私が直接の被疑者ではなく、私の友人がある嫌疑をかけられ、その調べに来たのです。
慇懃無礼さの後ろに、居丈高の権力を実感させられました。

75年も生きていると、いろんなことを体験します。
私自身はまだ裁判に巻き込まれたことはありませんが、傍聴に行ったことはあります。
あまりのばかばかしさに、それ以来、傍聴に行く気は起きませんが、それもやはり反省すべきかもしれません。

司法サロンを始めるために、いま何冊かの本を読みだしています。
その1冊が、映画監督の周防正行さんの「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店)です。
厚生労働省の村木厚子さんが巻き込まれた「郵便不正事件」での検察の証拠捏造が契機になってつくられた法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」に、法律家でない有識者委員の一人として3年間参加された人です。
そこでの論議を、ていねいに、しかもしっかりした主張を基軸において、紹介してくれています。
それを読むと、やはり日本の司法には失望どころか、絶望さえ感じかねませんが、周防さんの姿勢には感動しました。
周防さんは極めて誠実に書いていますので、専門用語も多く、読むのに疲れますが、私は感動しました。

部会の最後に周防さんが話ことが最後に紹介されています。
長いですが、とても大切根メッセージだと思うので、紹介させてもらいます。

法律の専門家の皆さんと3年間にわたって話し合う機会を得たことで、正直に申し上げれば、刑事司法の内実に少しだけ詳しくなった分、最初の頃感じていた刑事司法の現状に対する素朴な「驚き」、「疑問」、いわば市民感覚のようなものが、自分自身、非常に薄れてきているように感じます。これはどんな世界でもそうかもしれませんが、自分がその新しい世界へ入った時の戸惑い、驚き、違和感といったようなものが、徐々にその世界の常識に染まることで、何の疑問を持つこともなく、当たり前のこととなっていきます。(中略)是非、法律の専門家の皆さんにも心に留めておいていただきたいのは、専門家であるが故に当たり前に思っていることが、決して多くの市民にとっては当たり前のことではない、ということです。専門家に任せておけば良いのだ、ということではなく、多くの市民にも理解できるように言葉を早くしていただきたいと思っています。その責任が専門家にはあると思います。

この周防さんの言葉に、涙が出そうになりました。
決して読みやすい本ではありませんが、多くの人に読んでいただきたいです。

いつか湯島のサロンに周防さんに来てほしいと思いました。
どなたか周防さんの親しい友人の方がいたら、お願いしてもらえないでしょうか。

http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4000237292

■カフェサロン「ベーシックインカムを考える」報告(2016年6月6日)
昨日のカフェサロン「ベーシックインカムを考える」は15人の参加がありました。
最初から異論反論が噴出し、サロン初参加の話題提供者の三木さんは驚いたかもしれません。
三木さんは、ベーシックインカムの本質を話題にするために、いまの経済のおかしさを、信用論や需給構造の話から話し出したのですが、その段階で議論が噴出しだしてしまったのです。
三木さんの話をきちんとお聞きしてから話し合いを始めればよかったのですが、交通整理する私自身が議論に入り込んでしまい、サロンを議論の場にしてしまいました。
それに参加者があまりに多彩で、話し合いの視点があまりにも多核的でした。
あまりに話し合いが広がり紛糾したため、いつも以上に報告が難しく、どうしたものかと悩んでいるのですが、今回はサロンの報告はやめて、私が感じたことを一つだけ報告させてもらうことにしました。

ベーシックインカムとは、wikipediaによれば、「最低限所得保障の一種で、政府がすべての 国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に 支給するという構想」ですが、私は、基本的には社会の成員みんなが生きていける状況を保証して、自分らしい生活をできるようにする考えを具現化する仕組みと捉えています。
そして、大切なのは、その基本にある思想ではないかと思います。
それは、所得配分の問題や経済の問題ではなく、社会をどうとらえるかという問題です。
わかりやすく言えば、「社会とは働くものがつくっているものではなく。そこに存在する者すべてによって成り立っている」と捉えるということです。
昨日も、労働だけが「価値」を生み出すという議論がありましたが、その発想こそ、問題にされなければいけません。
労働はともかく、「働く」ということを「社会に役立つ行為」と捉えれば、それは「対価」とは無縁のことです。
働いて対価を得られない人にベーシックインカムを「恩恵的に」支給して、生きていけるようにするというベーシックインカムは、現状の経済スキームと何ら変わりません。
そうではなく、存在するだけで「社会に役立っている」という考えが、ベーシックインカムの一つの捉え方です。

こう書いてくるとわかりにくいかもしれませんが、その実例は私たちの身近にあり、しかも、それによってたぶん人類はこれまで大きな存在になってきたのです。
その実例とは、「家族」です。
家族の一員である乳幼児は対価を得る労働はあまり出来ませんが、存在するだけで家族に役立っています。
身体が不自由になった高齢者も同じかもしれません。
しかし、家族の一員は、「労働」しなくても生きていけます。
家族の一員であることによって、「ベーシックインカム」は保証されているのです。
家族を超えて、「同族集団」もまた、大きな意味でのベーシックインカムが保証されていたように思います。
かつては、リーダーの使命は、民を飢えさせないことでした。

もし「ベーシックインカム」をそういう視点で捉えると、それは現代の社会や経済のあり方への代替案の提案になっていきます。
改善案ではないのです。
したがって、単に制度を導入するという話ではなく、制度づくりの理念や方法を考え直すということです。

ちなみに、若い参加者から、もし数万円の生活支援費がもらえたら、金銭に呪縛されずに自らの能力を発揮させられる仕事に取り組めるかもしれないというような話がありました。
いまの日本社会は、みんな生活を維持するための労働に呪縛されているため、せっかくの「能力」を発揮できずにいる人が多いでしょう。
そう言う人たちが、自らの能力を発揮できるようになれば、社会は活力を取り戻し、後ろ向きの社会コストは削減できていくでしょう。
それこそが、本来的な「お金」の使い方だと私は思いますが、そこにどういう思想を盛り込むかによって、効果は「両刃の剣」になるでしょう。

ベーシックインカムを所得配分政策と捉えてしまうと、相変わらず金銭呪縛の社会から解放されない気がします。
何もしなくても餌を与えられて生きている家畜のような存在になっていいのか。
そうなってしまえば、社会はむしろ停滞していくでしょう。

19世紀初頭のアメリカを旅行したフランスの思想家トクヴィルが、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすのかを報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
トクヴィルは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点に注目します。
そして、奴隷制のない北部と奴隷制度が残っている南部を見て周り、北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、南部では働いている人が見つからないと報告しています。
彼は、「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」と言っています。
ベーシックインカムと、まったく無縁でもない話のような気がします。

サロンはいささか混乱したかもしれませんが(私の責任です)、三木さんのおかげで、いろんな論点が見えてきたような気がします。
参加者のお話も気づかされることが多かったです。

ちなみに、昨日は、スイスで成人の国民全員に毎月30万円、子供に7万円を支給するベーシックインカムの国民投票が行われたそうです。
また、フィンランドでも試験的な導入が決まっています。
昨日参加してくださった大野さんから、国連が支援して、以前ナミビアの寒村でのベーシックインカム社会実験が行われたことも知りました。
そうしたことからも、いろいろと気づかされることがたくさんありました。

三木さん、参加者のみなさん
ありがとうございました。
いつかまたパート2を開催したいです。

■惨めな舛添さんよりも権力に寄生した佐々木弁護士こそ糾弾されるべきではないか(2016年6月9日)
相変わらずテレビでは、舛添都知事がロボットのように同じ言葉を繰り返しながら、頭を下げ続けています。
見ているだけで、悲しくなります。
問い詰めているほうも、その答えなど求めてはいないでしょう。
誰が見ても、舛添さんはリーダーとしてやってはいけないことをやってしまったのです。
阻止NPO、いまなおやり続けているのです。
違法行為かどうかなどは、些末な話です。
大切なのは、法の精神に即して、恥ずべき行為をしたかどうかであり、権力は法に守られるとしても、権威とリーダーシップは、信頼に支えられているのです。
すでに舛添さんは都知事の権威を失っていますから、実質的には知事の座にはもはやいないと考えていいでしょう。
そんな人をいつまでもいじめても仕方がない。
むしろ同情してやりたいくらいです。
よほど不幸な人なのでしょう。

むしろ私が腹立たしいのは、「第三者委員会調査」などというものをしゃあしゃあと記者会見までして発表した佐々木弁護士です。
この弁護士が、かつては検察にいたというから驚きです。
検察官とはどんな人たちであるか、またまた露見した感じです。
郷原さんのような元検事の方が、なぜもっとはっきりと糾弾しないのか。
テレビでの発言も聞きましたが、歯切れがよくありません。
本当にがっかりします。

調査もせずに、ただ依頼人の話をまとめただけの発表であれば、私なら1日でできるでしょう。
その報告をまじめに聞いていた記者の人たちにも驚きますが、なんでみんな席を立たなかったのか。
私には、無能としか思えません。
ちょっとだけ突っ込んだ記者がいましたが、佐々木弁護士の答えに唖然としたのか、一瞬の沈黙がありました。
もう少し突っ込んで、みんなで退席したらよかったでしょうに。

それにしても、佐々木さんのような弁護士が日本の司法を担っているのです。
言葉を選ばずに言えば、佐々木さんの調査活動は詐欺としか思えませんが、こういう人に頼むしかない舛添さんには同情したくなります。
舛添さんは大学の優等生だったそうですが、大学の成績が全く無意味なことにも、みんな気づいてほしいです。

こういう人たちが、権力を支えていると思うと、恐ろしくなります。
司法界の人たちは、何とも思わないのでしょうか。
動かなければ、同じ穴のムジナと思われても仕方がないのですが。

しかし、そう思いつつ、気になってテレビを見てしまう自分も、嫌になります。
悲しい時代です。

■法隆寺と下鴨神社に行って感じたこと(2016年6月13日)
一昨日、奈良の法隆寺と京都の下鴨神社に行きました。
ある研修プログラムの一環で、20人ほどのグループだったのですが、それぞれ僧侶と宮司の方にご案内してもらいました。
とてもわかりやすく時間をかけて説明してくれましたが、それを聴いていて、このままだと寺社や寺院もまた「経済機関」になっていくのではないかといささか心配になりました。
説明してくださったおふたりの問題ではなく、そこから感じられる、その背景への思いからです。

たとえば、法隆寺では「世界遺産」になった時につくった石碑の前で、世界遺産になった経緯をお聞きしました。
下鴨神社では、財政的に維持が大変で、所有地にマンションを建設する背景を説明してくれました。
糺の森の木の落葉への周辺住民の苦情の話もありました。
いずれも捉え方によれば、仏教や神道の本質にも触れられる話だろうと思います。
しかしそこで語られていたのは、社会受けするような話でした。
笑いを取るような話には、私自身はちょっと疲れました。

法隆寺が世界遺産になるのは悪いことではないでしょう。
しかし私にはまったく興味がないことです。
世界遺産になったから人が増えるなどという風潮こそ、嘆きはしても、いいことだとは思えません。
それに世界遺産になって喜ぶという心境がわからない。
下鴨神社は、訪問した日はたまたま蛍の茶会があったためにぎわっていましたが、世界遺産になったのに平日は人が来ないとも説明されました。
観光客に来てほしいのですかと突っ込みたかったのですが、やめました。

私自身も観光で行ったのではないかといわれそうですが、実はまさか「観光」プログラムだったとは知らなかったのです。
もしそうであれば、参加はしませんでした。
しかし研修プログラムの一環だと言うので、法隆寺では西堂の三経堂あたりで法相宗のお話を聴けるのかと思っていました。
下鴨神社では、糺の森の神気に触れさせてもらえるかと思っていました。
そうではなく、僧侶も宮司も、たぶん観光ボランティアの方ほどにも、仏教や神道の心は語ってくれませんでした。

いまの時代、寺社の役割はとても大きいと思っていますが、肝心の自社の関係者はそう思っていないのでしょうか。
最近、京都や奈良の寺社を訪問すると、大工事が流行っている気がします。
それは悪いことではありませんが、もう少しやり方があるだろうと私はいつも不快に感じています。
そこにも、仏や神への信仰心が感じられないからです。
暑い日差しの中を長時間、説明を聞かされた腹いせになってしまっているかもしれません。
しかし、説明などしなくても、そこにいるだけで心が揺さぶられるのが、神社や寺院ではないかと思っている私には、いささか苦痛の見学でした。
でも法隆寺では、流れを外れて、坊守の方とお話させてもらったりしたので、ちょっとだけいい時間も過ごさせてもらいましたが。

■大きなものが見えない恐ろしさ(2016年6月15日)
都知事の政治資金の私的流用問題でテレにニュースは連日にぎわっています。
都知事の答弁のように、どこもかしこも、そして連日、同じことの繰り返しに近いですが。
しかし、どうしてこんな瑣末なことを根掘り葉掘り話題にするのか。
情ない状況です。

その陰に隠れていることの方に、私は関心があります。
たとえば、甘利さんの不起訴問題です。
舛添さんの話は日常的な話なので、私のような人間にもわかります。
金額もたかだか数百万円ですから、まあ想像はつきます。
しかし、甘利さんの話になると、多くの人は想像さえつかないのでしょう。
記者たちにも、理解できないのかもしれません。
最近の報道陣には、基本的な知識さえないような気がします。
ですからみんな舛添さん問題に目が行くのでしょう。
いじましく生活している舛添さんを、まるで自分と同じように感ずるのでしょう。
コメンテーターの発言を聴いていると、そんな気がしてきます。

自らが想像できない大きな問題には、関心さえ持てませんし、世界の狭い記者たちには想像さえできない。
そこで、いつも見逃されてしまいます。
いやだれかによって隠されているのかもしれません。
いままた陰謀論が広がりだしているようですが、それさえも誰かの意図の結果かもしれません。
実に退屈な陰謀論が多く、私の周辺でも何人かがそれにはまっています。

見逃されないような事件もありました。
たとえばロッキード事件です。
しかしそれもまた所詮は、その一部を理解できる部分だけ切り取って問題にしただけの話かもしれません。
だから結局は大きな問題はむしろ見えにくくなってしまったような気もします。
単に見えない世界の権力争いに利用されただけかもしれません。

舛添さんが涙を出してまで懇願している一方で、甘利さんは笑顔でほくそえんでいるでしょう。
甘利さんの後ろにいる人たちは、もっと喜んでいるでしょう。
多くの報道陣の目が、だれでもわかる舛添問題に行けばいくほど、ますます好き勝手なことができるひとがいるわけで、相変わらず政治は市場にできるからです。

舛添問題が都政を停滞させているという声もありますが、停滞どころか、その陰に隠れて、何かが着々と進んでいる。
そう思うと、舛添さんの茶番のような報道にジャーナリストの無責任さを感じます。
攻めて甘利問題をもう少し報道してほしいです。
もちろん沖縄の問題も、です。
何が大切かを忘れた社会は、壊れていくしかありません。
それもティッピングポイントを超えたら、一気にです。
もう超えてしまったとは思いたくはないのですが。

■私には死刑を実行する勇気がありません(2016年6月17日)
2010年、宮城県石巻市で殺人事件を起こした、当時18歳の少年の死刑が確定したというニュースを知って、それが頭から離れません。
報道によれば、この事件は、裁判員裁判で少年を死刑とした唯一の事件で、「市民らが少年に対して死刑を選択した判決が初めて確定する」(TBS系テレビでの報道)とされています。
「市民らが少年に対して死刑を選択した」という表現が、私の心を呪縛してしまったのです。

たしかに被告が起こしたことは、許しがたいことです。
最高裁の大谷裁判長は、「少年とはいえ深い犯罪性に根ざした犯行で、責任は重大だ」として、上告を棄却しています。
それには異論がないのですが、しかしだからといって、死刑が正当化されるわけではありません。
こうも言えるのです。
「(死刑とは)国家とはいえ深い犯罪性に根ざした行為で、責任は重大だ」。

これも報道によれば、犯行時に未成年だった被告に死刑判決が確定するのは山口県の光市母子殺害事件以来だそうです。
私が、死刑制度についてきちんと考えだすきっかけになったのが、この事件です。
当初は、被害者の夫による「死刑求刑」に共感さえ持ちました。
もし私が同じ立場だったら、死刑を望むのではないかと思ったからです。
しかし、そのブログを読んだ、見ず知らずの関さんという方からの指摘もあり、軽々に死刑論への共感を口にしてはならないと気づかされました。
どんな理由があっても、人の命を奪うことなどあってはならないとすれば、そもそも死刑制度などあっていいはずはなく、それはただ国民支配のためのものであると気づいたのです。
そのあたりのことは、このブログでも連続シリーズで書いたことがありますが、
私が死刑制度に反対する理由は簡単で、私には死刑執行ができないということなのです。

最近さまざまな世界と触れ合う中で、確信を持ててきたことの一つが、この世には純粋な加害者も被害者もいないということです。
被害者が、加害者以上に加害者性が強いと思うこともありますし、社会そのものが弱い立場の人を犯罪に追い込んでいる事例も少なくありません。
今回死刑が確定した少年も、そこに至る前での経緯はそう簡単ではないでしょう。

裁判員だった方が、「自分の出した結論がいいのか悩み続けて、つらくて」と語っています。
被害者の遺族の方は、「被告人が死というものに向き合うことで、初めて、娘があじわった恐怖や無念さを理解でき、反省や後悔の気持ちを抱くような気がしてなりません」と語っています。
被告は裁判の前に、「どんな判決が出ようとも被害者と遺族のことを考えていきたい。本当に取り返しのつかないことをした。一番謝らなければならない被害者本人には謝ることさえできません。今は空に向かって手を合わせて祈ることだけ」と語ったそうです。
この3つの発言を繰り返し読みましたが、やはりどこか間違っているような気がしてなりません。
何かとても大切なことが、いずれからも抜けているように思うのです。

私は、いつも、当事者の立場に立って、一人称自動詞で考えることを大切にしています。
もし私が、被告であり、遺族であり、裁判員であったら、違った答が出るだろうか。
一晩考えて出てきた答えは、「同じ答だ」でした。

少年を死刑にする社会には、やはり私は居心地の悪さを感じます。

■舛添さんを援護したくなってしまいそうです(2016年6月18日)
都知事辞任後も、相変わらず舛添報道が続いています。
こう長く続くと、舛添さんを援護したくなってしまいそうです。

東京都民は結局は、舛添さんと同じレベルの民度なのでしょう。
横から見ていると、どんぐりの背比べ、でお互いに自らを貶めている感じです。
選挙民はやはり自分の丈に合った代表を選ぶものだとよくわかります。

先の選挙で、まさか都民が舛添さんを選ぶとは思ってもいませんでした。
そこまで愚かではないだろうと思っていたのです。
彼のことを少しは知っていれば、あり得ない話だと思ったからです。
第一、自民と公明の推薦ですし。

猪瀬さんを辞めさせた都民も、信じがたかったですが、結局、都民は全く変わっていなかった。
都民はまたもや、舛添さんの「瑣末な話」を大きく騒ぎ立てて、社会をこわし続けているマスコミに乗せられて、舛添さんを辞任させてしまいました。
まさに「パックス・ロマーナ」時代の、剣闘士のゲームを見ている気分です。
私には、不快極まりないゲームですが、どこまで追い続けるのでしょうか。
退職金まで払うなというような意見もありますが、なんという「セコイ」都民なのだとあきれます。
報道も報道で、そんな時間があれば、沖縄や原発を報道してほしいです。

誰を選ぼうと都民のレベル以上の人は選ばれないとしたら、事態は変わらない。
まずは自らの世界を広げ高めなければいけないと思います。
なにかがあれば騒ぎ立てているような人たちの社会では、何も変わりません。
まずは一人ひとりの社会性や市民性を高めなければいけない。
それが、私があまりデモには行かずにサロン活動に集中しだしている理由でもあります。

でも私の思いが実現に向かったとしても、50年はかかるでしょう。
来世を期待するしかありません。

■カフェサロン「なぜ私は〈ママと子供の無料パソコン教室〉をやっているのか」報告(2016年6月18日)
今回は、主に母娘対象にパソコン技術を学んでもらうことによって、母娘ともども、生きる力を高めてもらおうという活動に取り組んでいる、ひだまりサロン主宰者の日高正晃さんにお話をお聞きして話し合いました。
8人の参加者でしたが、湯島のサロンには初めての方が3人もいました。
それも、在日韓国人の方、大企業の方、社会教育に取り組んでいる方と、多彩でした。

日高さんが、あえて主対象を母娘にしているのには理由があります。
DV被害を受けてシェルターに入っていた母親の支援に取り組んでいるからです。
日高さんの思いは2つあります。
ひとつは、母親の経済力を高めるためにパソコンの技術を取得してもらい、在宅でも仕事ができるようにすることと、その子どもたちの情報リテラシーの学びの場をつくりだしていくことです。
前者は、これからの働き方(私は「生業」を基本に置いた働き方への関心が高まると思っています)につながる問題であり、後者は、経済的な格差が教育の格差を引き起こし格差の構造化をますます進めるということへの対策です。
いずれも、とても大切な課題だと思います。

しかし残念ながら、日高さんの活動は毎年かなりの赤字です。
どうしたら活動を持続させ、発展させられるか。
参加者のみなさんから、さまざまなアドバイスや意見がありました。
具体的な提案もありましたので、私もさっそく動いてみようと思います。
今回は企業の人も参加していましたが、企業の人ができることも山のようにあります。
企業やNPOといった壁を超えて、もっとみんながつながればいろんな解決策が生まれてくるような気がします。
それぞれの「たこつぼ」世界から出ていけば、違った世界が見えてきます。

実は、サロンの2日前に、発達障害の人たちのたまり場である、高田馬場のNeccoカフェに行ってきました。
そこで発達障害の人たちと話していて、この人たちのそれぞれの才能や特技をつなぎ合わせたら、いろんなことができるだろうなと考えていたのですが、同じ問題を抱える人たちだけで考えるのではなく、もっと広いつながりのなかで考えていくことが大切だろうと改めて思いました。
コムケア活動を始めた動機の一つは、個別問題だけに取り組むのではなく、その根底にある社会の問題や自らの生き方へも目を向けるような社会にしたいと思ったことですが、そのためには一人ひとりの「視野」を広げる必要があるように思います。

話が盛り上がって、気がついたらまた予定の時間をオーバーしてしまっていました。
日高さんのように、社会活動を経済的に自立させることに悩んでいる人は多いと思います。
そうした人たちの学び合いの場をつくることもいいかもしれません。
どなたか事務局をやってもいいと言う人がいたら、ご連絡ください。

また今回、在日韓国人の方の発言を聞いていて、やはりそういう人たちにとっての生きにくさを感じました。
コムケアでは最初の頃、そうした問題にも取り組んでいましたが、最近すっかりと抜け落ちていました。
少し考えていきたいと思います。

日高さんの活動については、ひだまりサロンのホームページをご覧ください。
http://hidamari-salon.jimdo.com/

■カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼」の報告(2016年6月19日)
カフェサロン「サンチアゴ巡礼と四国巡礼で考えたこと」は盛況で、なんと16人の参加がありました。
ご案内に書いたように、歩くことが人を元気にすることは間違いない真実のようです。
こんな元気な鈴木さんは初めてだという人もいたほどでした。

1時間半、流暢に無駄なく話し続けた鈴木さんの話は、実践的な情報から哲学的な示唆まで、とても内容の濃いものですので、報告するのはとてもできません。
録音しておけばよかったと後悔しましたが、後の祭でした。
記録しておけば、紹介もできたのですが、私は記録するという文化のない人間なので、書き残していないため、内容を紹介することができません。
すみません。
もしどなたか記録していた方がいたらご紹介ください。

例によって、私の印象に残ったことだけを、断片的に紹介させてもらいます。
鈴木さんによれば、巡礼の楽しさのひとつは、人に会えることだそうです。
巡礼仲間との心の触れ合い、地域の人との暖かな人間的交流、…。
それを聞きながら、巡礼路よりも都会の道路や駅の方が人との出会いが多いのに、どこが違うのだろうかと思いました。
参加していた竹居さんも、自分は巡礼ではないが旅に出る楽しさも人に会うことだとお話になりました。
人はみんな人に会いたいのでしょうか。
都会にはたくさんの人がいるのに、そこでは人に会えていないのでしょうか。
実に面白い問題です。

鈴木さんはまたこう言いました。
巡礼で出会う人とは短い交流であるが故に、相手のいいところだけと付き合うことができる。
だからみんな「良い人」に感ずる。
そして、どんな人であろうと、別れる時には寂しさや悲しさを感ずる。
それを聞いていて、人生もまた長くて80年。有限の人生においても、相手のいいところと付き合うことはできないのだろうか、と考えてしまいました。
人生も巡礼だと考えれば、それができないはずはない。
そうなれば、住みよい世界がやってくるだろうなと思った次第です。

こんな話もありました。
サンチャゴ巡礼では相部屋が原則だったが、四国巡礼は個室が原則。
サンチャゴの時には相部屋を楽しんだ鈴木さんも、個室に慣れてしまうと、相部屋よりも個室好みになってしまったといいます。
なにか割り切れないものを感じながら聞いていました。
そういえば、私も最近、相部屋で泊まったことはほとんどありませんが、そのうち食事も個食になっていくのでしょうか。
ちなみに、サンチャゴ巡礼路の宿では相部屋もシャワールームも男女の区別がないという話もありましたが、なんだか日本は進んでいるのか遅れているのか、わからなくなりました。

鈴木さんはサンチャゴ巡礼では毎日20数キロ、四国遍路では30キロを歩いたそうです。
負担を少なくするために、荷物をいかに軽くするかがとても大切になってきます。
荷物が重いと足を痛め腰を痛め、歩けなくなるわけです。
そこで不要な荷物はどんどん減らし、身軽にならないといけません。
歩き続けていると、それこそ紙1枚の重さでも少ない方がいいと感ずるようになる。
領収書1枚でさえ、持ち歩きたくなく、もらったらごみ箱にすぐに捨ててしまったそうです。
この話は、とても興味深かったです。
人生にも通ずる話です。
私たちが生きにくいのは、もしかしたら不要な荷物を所有しすぎているからかもしれません。
人生においても、余分な荷物を捨てれば、元気が出てくるのかもしれません。

捨てるのは荷物だけではありません。
余計な思いからも自由になっていく。
そしてその分、全身の感度が研ぎ澄まされていくようです。
巡礼に行く前は、もしかしたら左脳の一部を過剰に使っていたのが、巡礼中は、全身の神経を使うようになっていたと、鈴木さんは話してくれました。
そのおかげで、自然の中で生きる力が高まった。
道路標識だけではなく、全体の風景や人の足跡、さらには太陽の位置などから、自らの場所と向かうべき方向を考えるようになった。
これもまた生きる上での大切なことを思い出させてくれます。

なぜ人は巡礼に行くのかという話もありました。
必ずしも宗教的な理由が多いわけではないようです。
20代の時に四国遍路をしたという中下さんが、当時は「死者の追悼」という理由が多かったという話をされました。
しかし、最近はどうもそういう理由よりも、「自らのため」の人が多いようです。
これに関しても、面白い議論がありましたが、長くなるのでやめます。

ほかにも面白い話がたくさんありました。
四国遍路の「お接待の文化」が、いまのままで維持されるのかどうかに関しても話があり、もし行くのであれば早い方がいいといいような話もあったような気がします。
長くなってすみません。

ちなみに、鈴木さんには早く本にして出版してほしいと頼んでいます。
もし本になったらご案内しますので、ぜひ読んでください。
もしサンチャゴか四国に巡礼に出る方がいたら、ぜひ一度、鈴木さんのアドバイスを受けることをお勧めします。

■「みんなのゆる〜いカフェサロン」のご案内(2016年5月20日)
先月から公開開催になった湯島での「みんなのゆる〜いカフェサロン」、略して「みんカフェ湯島」は、今月は6月25日(土曜日)の午後1時から3時の予定で、開店します。
もしお時間があれば、気軽に参加ください。
メニューは珈琲と紅茶とジュースだけですが、話のメニューは参加者次第です。
話したい人は話せる場になると思いますし、話したくない人には話さないでも大丈夫の場になると思います。
突然やって来てくださるので大丈夫です。
途中での出入りももちろん自由です。
お会いできるのを楽しみにしています。

○日時:2016年6月25日(土曜日)午後1〜3時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円(気が向いたら)

なお、7月から、成田、印西、新潟でも、それぞれ「みんカフェ」がスタートします。

■沖縄を考えるカフェサロン・パート2の報告(2016年6月20日)
昨年12月の緊急サロン「辺野古のたたかいはいま」の、パート2を開催しました。
前回に引き続き、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長の緒方修さんが、辺野古の写真を使って、最近の状況だけではなくその背景について、お話してくださいました。
前日(6月19日)に開催された「沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」の様子も話題になりました。
やはりマスコミ報道からは伝わってこないことがたくさんあります。

緒方さんが見せてくれた写真の中に、アメリカからやってきた「平和を求める元軍人の会」のメンバーが、辺野古で新基地建設反対を訴えている写真がありました。
昨年12月の辺野古反対抗議活動の時の写真だと思いますが、その報道の時に、元海兵隊員の方が、「私はテロとの戦いのためにイラクに派兵されたが、実際の戦場では、自分自身がイラクの人々にとってのテロだった」と話していたのを思い出しました。
そして、沖縄に基地を押しつけていることもまた、ある意味でのテロへの加担ではないかという気がしました。
私たちは、簡単に対立を図式化して、敵と味方に分けがちですが、大きな問題に立ち向かうには、敵味方を超えた話し合いを通して、問題を捉え直していく必要があるように思います。
真の敵は、もしかしたら、自分の中にいるのかもしれません。

沖縄の人たちが、いわゆる本土の人たちをどう考えているかという話もありました。
「結婚相手としては、米兵より日本本土人の方に抵抗を覚える」という話は衝撃的でした。
そういえば、20年以上前に沖縄に講演に行ったことがあります。
企画してくださった沖縄の人たちと、とても実りのある話ができた満足感を得ました。
ところが、帰りに空港までご自分の車で送ってくださった方が、東京から沖縄に嫁いだ方でした。
いろいろと話した後で、彼女が、沖縄の社会に入るまでの苦労を話してくれました。
それは暗に、沖縄の人はやさしいので本土から来た人にはなかなか本心は語ってくれませんよ、と言うメッセージだと気づかされました。
彼女から後で、沖縄の文化について沖縄の人が書いた本が送られてきました。

辺野古がいまどのような状況にあるか、そしてこれからどうなっていくか。
緒方さんのお話から、新聞やテレビの情報から感じていることとはかなり違う印象を、私は受けました。
そして少し安心しました。
沖縄独立論や沖縄大使の話も出ました。
知らないことがまだまだたくさんあることを思い知らされました。

緒方さんは、沖縄では自分たちはできることをやっている、だからみなさんもそれぞれにできることを考えてほしいと話されました。
案内にも書きましたが、沖縄の辺野古で起こっていることは、私たちの未来に深くつながっていることを考えれば、私にも何かできることがあるはずだと改めて思いました。
まずは、沖縄のことを周りの人にももっと伝えていこうと思います。

緒方さんは、最近、本を出されました。
「歩き始めた沖縄」(花伝社)です。
昨日もその本の紹介をしてくれましたが、私は地元の図書館にこの本を購入してもらうように頼みました。
まだ届いてはいませんが、きっと何人かのみなさんが読んでくれるでしょう。
まあ小さなことですが、そんなことも含めてやれることはあるでしょう。

緒方さんから今朝、メールが届きました。

私が沖縄にいて幸せを感じる時。
海辺で沈む夕陽を見ていたら犬を散歩させていたおばさんから、きれいですね、と話しかけられる。
居酒屋で隣に座っていた人からマグロの刺身の残りを、どうぞ、と差しだされる。
などは決して東京ではあり得ないことでしょう。
昨日はあまり良い話が出来ませんでした。
次の本は青い目が見た琉球。逝きし世の思い出、のように100〜200年前の時代を振り返りたい、と考えています。

沖縄サロンパート3が楽しみです。

■カフェサロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」のお誘い(2016年6月22日)
今回は、ちょっと趣向の違うサロンを企画しました。

新聞の折り込み広告などの、いわゆる資源ごみを材料にして、遊具をつくってみようというサロンです。
友人の益田さんは、某大学の細菌学の教授でしたが、いまは「どうもモノづくりが最終的仕事になった」と言いながら、紙を使った遊具づくりを近くの公民館などで子供たちに教えています。
その益田さんから、大人にはあまり興味を持ってもらえないのだが、湯島のサロンで一度やってみたいと連絡がありました。
彼がつくっているのは、たとえば、独楽や紙飛行機、牛乳パックボールなどですが、こういうものはみなさんもよくご存知かもしれません。
しかし、タケトンボも紙で作るのだそうです。

果たして、湯島サロンのみなさんに興味を持ってもらえるかどうか、迷っていたのですが、モノづくりに関心が深く、以前、サロンで「ぶんぶんゴマ」を紹介してくれた小宮山さんが、タケトンボまで作るのかと感心してくださったので、開催することにしました。
紙でつくったタケトンボは、果たして飛ぶでしょうか。

当日は、そうした遊具の作り方と遊び方を紹介してもらいますが、併せて、遊具や遊びに関する話し合いもできればと思います。
ちなみに、益田さんは、こうした活動を通して、体を動かすことの大切さを実感しているようですので、そのあたりも。

また、この遊具づくりを、子どもたちや高齢者の集まりなどで、取り上げてみたいという方も、ぜひご参加ください。
多くのみなさんの参加をお待ちします。

○日時:2016年7月3日(日曜日)午後1時半〜3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「新聞の折り込み広告などをつかった遊具づくりと遊び方」
○話題提供者:益田昭吾さん
○会費:500円

■舛添さんの行動は、結局は都庁文化の現れに一つでしかなかった(2016年6月22日)
舛添騒動が終わったかと思ったら、今度は都議たちのリオ視察騒動が起こっています。
構図はまったく舛添さんの海外出張と同じような気がします。
舛添さんの行動は、結局は都庁文化の現れに一つでしかなかったことが明らかになってきました。
辞任後の舛添さんの「怒り」に満ちた表情と大人げない行動の理由がわかる気もします。
舛添さんは、結局は都議たちと都庁の幹部職員たちに、いいように扱われていただけなのかもしれません。
とすれば、舛添さんにはリーダーシップもマネジメント能力もなかったということになるでしょうが、罠にはめられたような気がしてもおかしくはないでしょう。

舛添さんよりも、一番の悪の根幹は都議たちではないかとも言えるでしょう。
後から参加した舛添さんは、郷に入れば郷に従えだけの、人物だけだったかもしれません。
いずれにしろ、都議たちの語っていたことが、いかにも空しく響くようになりました。

都庁の職員すべてが、そうではないでしょうが、そういう職場に甘んじていることは、その無駄使いと公私混同の一端を担っていたということになるでしょう。
もちろん共産党の大山さんも、その例外ではありません。

むかしと違い、いまはインターネットなどを使えば、知ったことを公開していくことはそう難しいことではありません。
情報漏えいはよくないでしょうが、組織の不正を発見したら、それを正す努力をすることは、組織の成員の責務です。
おかしなことを見過ごさずに、きちんと正すように努力していかないと、いつの間にか自らもまた、そのおかしなことの当事者になってしまうからです。

しかし、これは決して都庁だけの話ではありません。
私も、どこかでおかしなことをしていないとは限りません。
都庁の文化が、都庁の職員の行動や意識に大きな影響を与えているように、
現在の日本社会の文化が、そこに住む私の行動や意識に大きな影響を与えていることは否定できないことです。

舛添騒動は、わが身を振り返る良い材料です。
私の中の「舛添」要素を改めて見つけ出して、廃棄しなければいけません。
まずは自らの生き方を問い直す。

みなさんもいかがでしょうか。
余計なお世話ですね。
すみません。

■争点が憲法であるという無意味さ(2016年6月23日)
参議院選挙が始まりました。
争点はなんなのか。
憲法改正は争点なのか、などと議論されています。
しかし、「憲法改正」は争点になり得ません。
それを争点にしようとしている人がいたら、とんでもない無知な人か詐欺師だろうと、私は思っています。

憲法は手段です。
決して目的ではない。
とすれば、憲法改正は、正反対の内容を意味する言葉になります。
戦争ができる国にするのも憲法改正であれば、戦争ができない国にするのも、憲法改正です。
それを曖昧にしたまま、改憲だ護憲だというのは、問題を見えなくするだけの話です。
争点とは、白か黒かがはっきりしたものでなければいけません。
争点にするのであれば、憲法ではなく、戦争をする国にするかどうかの選択でなければいけません。
だれにもわかる生活用語で語ってこそ、争点は争点になり得ます。
問題の立て方を学ぶことの少ない日本人は、「問題」とは何かがほとんどわかっていません。
だから「憲法改正」が争点だなどと言ってしまうわけです。

同じように、「経済成長」も手段であって目的ではありません。
しかし、残念ながら日本では、「経済成長」が目的だと思っている人が多いようです。
かつての民主党がその先鞭をつけたと思いますが、いまは自民党も新自由主義発想ですから、経済成長を目的化しています。
しかし、経済成長は、格差を増幅させることもあれば、格差を縮小させることも(極めて例外的ではありますが)あり得ます。
安倍首相は、次第に成長の果実が経済的な下層にも回ってくると言いますが、そんなことはありません。
なぜならいまの経済は、下層から少しずつ吸い上げて、その一部を下層に還元するという、ロングテール収奪型の逆トリクルダウン構造になっているからです。

それはともかく、経済成長は生活向上にもつながれば、生活の貧困化にもつながります。
安倍首相は、この数年の経済成長が成果を上げてきたと言いますが、間違いなく成果は上がっています。
金持ちがさらに金持ちになったという意味での成果なのです。
しかし経済的に下層にいる人たちは、むしろ貧困化が進みましたから、成果があったなどとは言わないでしょう。
経済成長は、置かれた立場によって、成果は正反対になるのです。
ここでも、もし争点があるとすれば、「格差縮小」とか「格差拡大」と言うことでなければいけません。
あるいは、企業のための経済成長か生活者のための経済成長か、でなければ意味が分かりません。

私は、今回の選挙の争点は明確だと思います。
独裁政治を許すのか、民主政治を目指すのかです。
その大きな岐路に、私たちはいます。
それを覆い隠すように、絹布プレカリテ改正や経済成長が争点として叫ばれています。
争点は、もっともっと大きなことなのではないかと思います。
だとしたら、誰に投票するかは明確です。

■みんカフェ湯島6月の報告(2016年6月25日)
今日の「みんカフェ」(みんなのゆる〜いカフェ)は異色の組み合わせでした。
初めての方も2人参加してくれました。
一人は20代の若者ですが、実に見事と思える、20代を過ごしてきたWさんです。
さまざまな問題を解決しながら、いろんな事情で延期せざるを得なかった「目標」に向かって、いままた進んでいます。
彼の見事な生き方は、多くの若者たちにも聞かせたかったです。
私は、こんな若者がいるのだと、感激しました。
もしかしたら、若者は本当はみんな彼のようなのかもしれません。

もうひとりは、北陸に帰っていたIさんです。
彼女は数年前に私の前に現れ、私たちがやっている活動を手伝ってくれた後、故郷の富山に戻りました。
そのIさんが、予告なしに参加してくれたのです。
わざわざ新幹線で来てくれました。
今年から、彼女が目指していた仕事に関われるようになったそうです。
これほどうれしいことはありません。
久しぶりに会った彼女は、前とは違い、とても穏やかな表情でした。
彼女もまた、みずからの目標に向かって着実に進んでいます。

もうひとり飛び入り参加がありました。
サロンの後にお約束していた私よりもご高齢の女性ですが、
早目に来たので、参加してもらいました。
なんとベリーダンスをやっているそうです。
その話から、日本にはなぜ「ハグ文化」がないのだろうというような話になりました。

常連の4人も加え、今回も、ゆる〜いカフェは気持ちのいいサロンになりました。

■イギリスの悲喜劇は日本では起こらないだろうか(2016年6月28日)
イギリスの国民投票によるEU離脱は、悲喜劇としか言いようがありません。
ジョンソンという政治屋の詐欺にあったとしか言いようがないでしょう。
EUを離脱すればEUに払っていた週あたり3億5000万ポンドの予算が浮くので、これを国民の保健サービスに回せるという、離脱派の公約が嘘だったことも判明しました。
事実を知らせずに、甘いことばで相手をその気にさせるという手法は、権力政治の常とう手段です。
離脱が決まった後、「EUって何だ」というネット検索が増えたという話は喜劇以外の何物でもありません。
みんなEUの意味も知らずに、離脱しようと考えたのです。
さすが、7つの海に船出したイギリス人の勇気は見上げたものですが、その代償は大きいかもしれません。

しかし、これはイギリスだけの話ではありません。
同じような動きが、アメリカでも起こっています。
トランプさんが大統領になるかもしれないという見方が日本でも広がっていますが、そんなことがあるはずはないと私は思っています。
イギリスに比べれば、アメリカの民主度は少しばかり高いと思っているからです。
イギリスでは、オルテガの言う「大衆の反乱」は起こり得ても、アメリカでは起こりようがないでしょう。

では日本はどうか。
日本は民度の高い国だと私はずっと思っていましたが、この数年の様子を見ていると、それは間違いだったかもしれません。
小泉郵政選挙は、まさに今回のイギリスのEU投票と同じでした。
以来、日本は変わった気がします。
投票した後、「EUって何だ」と騒ぎ立てるような国民になってしまった気がします。
郵政民営化を思い出せば、納得してもらえるでしょう。
あれで私たちはどれほどのものを失ったのか。
その評価さえ行われていません。
そしてTPPさえ国民は支持しているのです。
イギリス人を笑うわけにはいきません。

今度の参議院選挙は、後世の日本人から問われる選挙になるでしょう。
きちんと考えて投票したいと思います。
せめて18〜19歳の若者たちと同じ程度には誠実に考える人が増えるといいなと思っています。
イギリスの悲喜劇を他山の石として。

■緊急出版『子どもたちを戦場に送らない勇気』ミニ講演会のご案内(2016年6月29日)
安倍政権のもとで、日本の政治状況は大きな岐路に直面しています。私たちが70年にわたって拠りどころにしてきた憲法さえもが、正当な手続きで改正されるのではなく、無視されつつあるのが現実です。このまま安倍政権の暴走をゆるしていいのでしょうか。

さまざまな問題が露呈されつつある今こそ、自由で平和な暮らしができる政治体制を築くために動き出すべきだと、長年、在野で民主主義を研究してきたリンカーンクラブ代表武田文彦は考え、このたび『子どもたちを戦場に送らない勇気』(WAVE出版)を緊急出版しました。書店に並びだすのは7月4日頃ですが、それに合わせて講演会を下記の通り開催します。講演会といっても、著者とひざ突き合せて話し合うスタイルですので、どうぞお気軽にご参加ください。

同時に、しばらく会員活動を休止していたリンカーンクラブの活動も再開します。

○テーマ:安倍政権の暴走を止めるためには、どうすればいいか
○講 師:武田文彦(リンカーンクラブ代表)
     緊急出版に込めた思いと、これからのリンカーンクラブの活動計画を語り、
後半は参加者との話し合いを予定しています。
○日 時:2016年7月9日(土曜日)午後2時〜4時半
○場 所:湯島コンセプトワークショップ
     地図 http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会 費:2000円
参加者には『子どもたちを戦場に送らない勇気』(定価1620円)を贈呈します。
     内容紹介 http://www.wave-publishers.co.jp/np/isbn/9784866210186/
○主 催:リンカーンクラブ
○申込先:info@lincolnclub.net

以上、よろしくお願いいたします。

■カフェサロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」の報告(2016年7月3日)
ワークショップ型サロン「新聞折り込み広告などをつかった遊具づくり」は、9人の参加となり、予想以上に盛り上がりました。
特に女性たちがこんなに熱中するとは思っていませんでした。
高齢者や子ども、さらには障害を持つ人たちと関わっている人たちは、早速、活用したいといいながら、作業途中や作品を写真に撮っていました。

子ども関係の活動をしている人の参加が少なくて、残念だったのですが、竹居さんご夫妻が小学生の子どもさん(こう君)と一緒に参加してくださいました。
子どもの創造力のすごさには、改めて実感しました。
こう君は、講師役の益田さんとは全く別の作品をつくっていました。
男性は私も含めて、3人参加しましたが、頑張ったのは太田さんだけで、小宮山さんも竹居さんも私も途中でついていけなくなったほどです。

講師の益田さんは、細菌学の教授でしたが、なぜ紙細工に凝りだしたのか話してくれるかと思っていましたが、あまりにも参加者の反応が強かったため、最初からみんなで手を動かすワークショップになってしまい、結局話は聞けませんでした。
益田さんは高校時代の同級生ですが、自分で工夫して何かをつくるのがその頃から好きでした。
益田さんが、最近こんなものをつくったと、と言って、自作の紙製のコマを持ってきたのは、10年ほど前でしたが、そこから作品は広がっていました。
今回、人気があったのは、紙飛行機(上に持ち上げ手を放すだけで滑空していきます。アンパンマンもできます)と紙製の「タケトンボ」でした。
折り鶴を発展させた人形や紙ボールなども作りました。
「ぶんぶんゴマ」も登場しました。
基本は、紙を丸く巻くことなのですが、これも試行錯誤の結果、増田方式を生み出し、ちょっとした道具を使うことで、誰でも簡単につくれます。

遊具をつくること、そしてそれを使って遊ぶこと、さらにはその遊びでいい意味での競い合いや創造意欲を高めること、など、さまざまな効用を感じました。
いつか私の住んでいる我孫子にも、彼に来てもらってワークショップを開きたいと思いました。
いろいろと広がりが期待できます。

今回は試行的なワークショップサロンでしたが、実践活動をしている人たちが、お墨付きを与えてくれました。
益田さんと一緒に、この活動を広げていくことができないか、少し考えてみようと思います。
仲間になりたいという方がいたら、ご連絡ください。
いま少しずつ広がりだしている「みんカフェ」、みんなのゆる〜いカフェのプログラムにも向いているかもしれません。

■日本はすでにこれまでとは違う道を歩みだしている(2016年7月4日)
バングラデシュのレストラン襲撃テロ事件で、日本人7人が犠牲になりました。
とても残念な事件でした。
いろんなことを考えさせられました。

バングラデシュがパキスタンから独立する時に、私もあるグループにささやかな資金支援をし、そのグループからニューズレターを送ってもらっていたことを思いだします。
当時、1970年前後の世界は、まだたくさんの選択肢がありました。
新しい動きに、私自身は大きな夢を感じていました。
しかし、その頃、すでに世界は壊れだしていたのでしょう。
いや、第二次世界大戦からの復興が変質しだしていたというべきかもしれません。
1970年代後半から、私のような者にも、それが感じられだしました。

バングラデシュのテロ事件の報道を見ていて、気になることがあります。
テロへの批判ばかりが多くて、なぜテロが起こったのか、なぜ日本人が巻き込まれたのかということへの議論が表層的な気がするのです。
今回はJICAの関係者が被害に遭ったわけですが、それに関しても「JICAはバングラデシュのために働いてきたのに」という声が多いです。
こういう言葉はよく聞きますが、「バングラデシュのため」とはいったい何なのだろうかと思います。
今回テロを起こしたグループの人たちも、そう思っていたのか。
ここに大きな溝と落とし穴を感じます。

「日本人なら無害は過去の話」だと多くの評論家は発言していますが、後藤健二さんが殺害された時のISのメッセージ、「アベよ、戦いに参加するというおまえの無謀な決断でこのナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺戮する」を思い出します。
この言葉の意味を、私たちはもっと真剣に考えなければいけません。

7月10日は、参議院選挙です。
現実をしっかりと見ながら、真剣に考えて投票したいと思います。
イギリス国民のような後悔はしたくはありません。
目先の感情に振り回されたくはありません。

犠牲になった人たちへの追悼の念を持ちながらも、複雑な思いが去来しています。
私たちはもう一度、日本国憲法のもとに歩んできた道に戻れないのでしょうか。

■小池さんの喧嘩の仕方にほれぼれしました(2016年7月7日)
私は、自民党の小池さんが、政治家としては生理的といえるほど嫌いです。
日本の政治を劣化させるうえで大きな役割を果たしたと思っている小泉元首相ほどではありませんが、唾棄すべき政治家だと思っています。

ところがです。
今回の都知事選の絡む小池さんの言動には、なぜかほれぼれしてしまいます。
政策内容とかそんな話ではなく、その「喧嘩っぷり」にです。
戦い方をよくご存じのようで、小泉さんよりも巧妙です。
話し方や姿勢や目の配り方がいい。
時に過剰なひと言がありますが(たとえば、都議会の人に外で謝罪をした後に、貴社に「みていたでしょう?」と発言したのは失策だったと思います)、実に見事しか言いようがない。
対する石原さんが、いかにも無能に見えてきます。

昨日は正式に立候補し、都議の解散まで掲げてしまいました。
できれば、オリンピック招致白紙撤回も言ってくれればうれしいですが、まあそこまでは期待できないとしても、何かを変えてくれるという期待を持たせてくれます。
私が信頼している数少ないテレビのコメンテーターの玉川さんは、「良いポピュリズム」もあると発言していました。
敵ながら見事、としか言いようがありません。

最初は、これで引退かと思っていましたが、小池さんが当選してしまう可能性さえ感じられだしました。
その戦いぶりには、安置小池の私でさえ、支持したくなりますから。
それに比べて、対する人隊のなんと情けない戦いぶりなことか。
自民党に限らず、民進党の迷走ぶりは笑うに笑えません。

しかし、小池さんのような人が都知事になったら、それこそ大変です。
東京都とカルビーとは違いますから。

私は都民ではないので、投票権はありませんが、その結果はなんだかもう見えてしまったような気がします。
都民は、また前と同じことを繰り返すのでしょうね。
そんな気がしてなりません。

■「子どもたちを戦場に送らない勇気」(2016年7月8日)
リンカーンクラブ代表の武田文彦さんが、新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を書きました。
現在の安倍政権の、憲法をないがしろにした暴走を止めなければ、そう遠くない未来に、私たちは子どもたちを戦場に送ることになるだろうと、武田さんは憂いています。
そして、そうであればこそ、それを逆手にとって、自由で平和な暮らしができる政治体制を築くために動き出すべきだと考えたのです。
それが、もう本は書かないと言っていた武田さんが、再び本を出版した理由です。

武田さんは、湯島のサロンの常連の一人でもあるので、ご存じの方も多いでしょうが、彼はビジネスのかたわら、在野で民主主義をずっと研究してきた人です。
一時は、国会議員も巻き込んだリンカーンクラブも展開、早い時期から直接民主主義への可能性を提案していたので、最近亡くなった「第3の波」の著者、アルビン・トフラーにも関心を持たれた人です。
私自身は、リンカーンクラブ立ち上げ時に事務局長をやっていたこともあり、武田さんの思いやこれまでの取り組みはかなりわかっています。
必ずしも意見は同じではありませんが、武田さんの主張には基本的には共感しています。

今回、急遽、出版に踏み切ったのは、言うまでもありませんが、現在の参議院選挙、そして来年の衆議院選挙が、日本の未来を決めることになるだろうという、懸念からです。
本書の副題は「安倍政権の独裁政治を止めて、希望の国に!」となっています。
いままさに、日本は「大きな岐路」に立っています。
この私のホームページでも、自民党の憲法改正案については、何回も、そしてかなり詳しく書いたことがありますが、自民党憲法案に書かれている日本への道は、いまここで閉ざさなければ、ナチスを止められなかったニーメラーの二の舞になるでしょう。
それに気づいてもらうためにも、本書を一人でも多くの人に読んでほしいと思っています。

本書の内容を出版社のサイトから引用させてもらいます。

安倍政権の独裁政治は走り始めてしまった。
本書はその恐ろしさを明らかにして、このままだと日本はどうなるのかを示し、そうさせないために、本当の民主主義国家を築くにはどうすればいいかというところまで著したものである。
豊かに見えるこの世界が堕ち始めていることを一日も早く知り、平和を守るための最後の切り札をどう使うか。
暴走する安倍政権に歯止めをかけ、私たちが安心して幸せな暮らしができる国を築くための具体策を説いている。

本書のポイントは、ここに書かれている「平和を守るための最後の切り札」、そして「そのための具体策」にあります。
詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、武田さんは問題を「改憲か護憲か」などと単純化しません。
民主主義と平和主義を基本に置いた憲法が、いまのようにないがしろにされるのは、どこかに欠陥があったはずだと言うのです。
そして、「議会制民主主義」を問題にし、「現行の議会制民主主義を正当化し保証する日本国憲法そのものにも欠陥がある」、そして、「その欠陥が、安倍政権の憲法破りを誘発した」と、武田さんは指摘します。

ではどうしたらいいのか。
その答えは本書の中に書かれています。
「第三次民主革命」構想です。
「民主革命の真の目的は、安倍政権を倒すことではなく、より進化した、私たちがより安心して幸せな暮らしができる政治体制を築くことです」と武田さんは書いています。
「日本国憲法下の「議会制民主主義」という制度の根本的な欠陥を解決することが第三次民主革命の第一の目的、本当の民主主義を実現させることが第二の目的」なのです。
詳しくは本書をお読みください。

とても読みやすい本です。
武田さんの独創的な視点や提案もあります。
ぜひ多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。

ちなみ、本書の出版を記念して、湯島で武田さんを囲むミニ講演会やカフェサロンも数回開催予定です。
現在決まっているのは、7月9日のミニ講演会と7月24日のサロンですが、継続的に開催していきます。

さらに来週詳しく発表できると思いますが、武田さんの言う「第三次民主革命」に向けての活動を始めるために、しばらく休会になっていたリンカーンクラブ活動も再開します。
まだ制作途中ですが、リンカーンクラブのホームページもできつつあります。
http://lincolnclub.net/
多くの人に入会していただきたいと思っています。

湯島でも本書の販売をしていますので、湯島に来たら声をかけてください。
コモンズ書店での購入

■ふたつの新しい風がふきだしました(2016年7月8日)
参議院選挙の投票日が迫っているに、首都圏での報道は、都知事選の話題ばかりです。
今日はまた石田純一さんが、もし野党の統一候補にしてもらえれば立候補したいと記者会見をしました。
石田さんの動きに批判的なコメントも多いですが、私は拍手を送りたいと思います。
行政の体験がないとか、都政なのに憲法や原発の話をするとか言い人も多いですが、そう言っている人たちが日本をだめにしてきたとしか思えません。
大坂の橋下さんを持ち出すこともありませんが、体験重視は、「前例がない」といって現実を無視する日本の行政の本質でした。
それに、都知事は行政をするのではなく、政治をするのです。
また、憲法や原発の話は、どうして国政の課題だと考えるのでしょうか。
それこそが、私たちの生活に深くつながっている問題であり、それを生活から離れた世界の論議に任せたのが間違いだったのではないでしょうか。

都政の最大課題は、子育てや社会保障だという人もいます。
その発想が日本をこわしてきたのです。
東京都の最大の課題は、憲法であり、原発であり、言論の自由です。
それを踏まえない、子育てや社会保障などあるはずもありません。
産業のための政治や経済を、生活のための政治や経済に戻していかなくてはいけません。
安倍首相に取り戻されてしまった日本を、私たちのものにもう一度とり返さなくてはいけないのです。

都知事選の立候補者選びを見ていると、もう勝敗は決まっているように思います。
自民党は、小池さんに完全にコケにされて負けましたし、増田さんの優柔不断さを見ている都民は、増田さんが立候補したところで選ばないでしょう。
優柔不断なリーダーを望む人はいないからです。

民進党が取りざたしている人も、古賀さん以外は、論外でしょう。
蓮舫さんを退けたのが、民進党にとっての敗因の起点だったと思います。
岡田さんの政治センスの問題だろうと思いますが、岡田さんが率いている限り、参議院選挙もたぶん敗退するでしょう。
宇都宮さんは、立候補するでしょうが、まあ新鮮な発想は出てこないでしょう。
しかし、選挙はやってみないとわからないので、番狂わせがあるかもしれません。

私が考える意味のある候補者は、小池さんと宇都宮さんと古賀さんと石田さんです。
このメンバーだと、たぶん小池さんが当選しかねませんが、それは私には最悪のシナリオです。
しかし、小池さんの見事な喧嘩っぷりには、一度都知事をやらせてみたい気も起きます。
私にとっての最良のシナリオは石田さんを野党が統一候補にして、新しい風を起こすことです。

小池さんは小沢一郎さんの教えに従って、崖から飛び降りて風を起こしました。
石田さんは、立候補するかしないかはともかく、もっと大きな風を起こすかもしれません。

いずれの風が、これからの日本の方向性を決めていくでしょうか。
前から書いているように、政党の時代は、終わりつつあるように思います。

■リンカーンクラブの会員活動が再開されました(2016年7月9日)

リンカーンクラブ代表武田文彦さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」出版を契機にして、しばらく会員活動を休止していたリンカーンクラブの会員制度を再開させました。
昨日、その呼びかけを兼ねた武田さんのミニ講演会を開催しました。
かつての会員も数名参加し、総勢14人。
武田さんの思いをお聞きした後、さまざまな話が続出、2時間半の予定が3時間半を過ぎても議論が続きました。
学生や女性にも声をかけていたのですが、最初は男性ばかり。
それも高齢者が多かったのが気になっていましたが、遅れて参加してくれたのが30代の女性でした。
若い彼女の参加に、少し希望を感じました。

参加者の考えはさまざまです。
安倍政権を強く支持している人もいますし、安倍政権打倒を目指している人もいます。
国民投票制度や教科書検定制度や経済的格差の構造化の話題も出ました。

しかし、今回の話し合いの根底に流れていたのは、全体主義化している時代の流れへの懸念です。
リンカーンクラブの理念は、「個人の尊厳と尊重」、つまり「一人ひとりのさまざまな考えが尊重され、できるだけ活かされる社会」を目指すことです。
制度的に言えば、そうした民主主義の理念に、現実の政治制度を近づけていく活動をしていくのが、リンカーンクラブの新しい会員制度の目指すところです。
その意味では、特定の政党を支持することはなく、さまざまな政党や個人が、自由闊達に議論しあえるとともに、誰もが同じように思いを発信でき、決定に平等に関わっていくことを、リンカーンクラブの方針にしていくことになっています。
クラブとしてのアドボカシー的な活動はあるとしても、具体的な活動は個人をベースにして展開していきたいと考えています。
全体主義社会への動きに対峙するには、自らの組織もまた、全体主義ではなく個々人をベースにした活動でなければいけません。
しかも、その個人が主体的に考えられる姿勢と環境を持っていなければいけません。
そこが一番の難題ですが、昨日の議論の様子を見ていると、たぶん大丈夫でしょう。

リンカーンクラブは会員募集中です。
詳しくはホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/

なお7月24日には、リンカーンクラブサロンを開催します。
武田さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想や意見をベースにした、気楽な話し合いです。
改めてご案内しますが、会員以外も大歓迎ですので、ぜひご参加ください。
武田さんの「子どもたちを戦場に送らない勇気」も読んでもらえるとうれしいです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#160703

■参議院選挙結果に思うこと(2016年7月11日)
参議院選挙は結局、国民の敗北で終わった気がします。
イギリスのEU離脱を問う国民投票と同じ結果です。
それでもイギリスは、終わった後の結果が明確だったので国民は自らがやってしまったことに気づきました。
しかし残念ながら日本ではそれさえ起きませんでした。

公明党は勝利し、民進党は敗北しましたが、自民党は複雑です。
共産党がもう少し伸びると思っていましたが、意外と伸びませんでした。
民進党も、私の予想よりは頑張りましたが。
いずれにしろ結果は日本の政治状況が大きく変わってしまったということです。
憲法が操作の対象になる時代がやってきたということです。
私たちは、先の戦争体験で得たものを未来に残せなかったわけです。
結局、日本人はお金に負けてしまったのでしょう。
悲しい気がします。

今回の選挙には、しかし元気づけられることもいくつかあります。
例えば沖縄です。
生活している人たちが自分の問題を的確に捉えて当事者として動き出せば、お上の意向に立ち向かえることを示しました。
沖縄の人たちは、大地やいのちに根づいた自分たちの物語を創りだしたのです。
昨年国会でデモをした若者やママの会の人たちの物語とは全く違います。
大切なのは、他者を変えようとすることではなく、みずからが変わること。
いまはまだ、政権や報道が創りだす、虚実の物語の力が大きいですが、生活に根づいた物語を生み出す力がよみがえってきた。
与えられた物語に唯々諾々と従ったり、利用するのではなく、自らの物語を軸に、自分たち「みんなの物語」を創りだす動きが広がりだしました。
抗議するデモではなく、提案するデモが始まった。
社会を構成する一人ひとりが自らの物語を語りだせば、社会は豊かになる。
貧しい為政者のもとで、豊かな生活を過ごしていたであろう江戸の町民たちや地方の百姓たちを見習いたいです。

沖縄だけではありません。
注意して見れば、新しい兆しはいろいろ感じられます。
がっかりした、失望した、というメールや電話が多いのですが、何に、あるいは誰に失望し、誰を怒っているのでしょうか。
その対象は、みずからであるべきです。
世界を変えるのは自分でしかありません。
それに取り組まないのであれば、安倍首相に依存するしかないでしょう。

友人のメールや電話で、私は選挙結果以上にがっかりしています。
いまの状況が気にいらないのであれば、動き出さねばいけません。
今日は最悪の気分です。
一部の方には、電話で失礼があったと思いますが、お許しください。

■思想への共感と言動への共感(2016年7月12日)
都知事選の立候補者がにぎわってきました。
しかしその様子を見ていて、とても情けない気分になります。
今ごろでてくるなと言いたくなるのです。
後出しがいいとかいう話がありますが、いかにも姑息な議論です。
そして姑息な議論を語っていた自民党も民進党も惨めな結果になりました。

私は、小池さんのこれまでの政治思想には好感が持てません。
ですから、小池さんが都知事になることにはあまり良い気はしていません。
フェイスブックに、小池さんが都知事になるのは私にとっては最悪のケースだと書いたら、なぜ最悪なのかと友人から指摘がありました。
そこでいろいろと考えましたが、明確に応えられませんでした。
自民党員だからでしょうか、なぜかこれまで良い印象が皆無でした。

しかし、これもフェイスブックにも書きましたが、小池さんの戦い方は見事でした。
アラモの戦いを始めた時のトラヴィス大佐を思い出します。
その後の言動も、ほれぼれするほどです。
小池さんへの嫌悪感は強まっているのですが、その言動は見事な戦いぶりです。
石原さんは完全にコケにされていますし、増田さんも小さく見えます。
まあ、これは私の独断的印象ですが。

民進党は岡田さんと松原さんの不協和音があまりにみっともなく、結局はビジョンを持たない烏合の衆であることをさらけ出しました。
その後の動きも、あまりにお粗末です。
そんな中で石田さんと宇都宮さんが立候補の意向を出しました。
石田さんは、民進党に対する「いらだち」だった気がしますが、野党4党がもっと真剣に取り組んでいれば、宇都宮さんは立候補しなかったかもしれません。
宇都宮さんが出馬表明した段階で、野党4党の統一候補はなくなりました。

そして昨日になって古賀さんや鳥越さんの名前が出て、鳥越さんが立候補しました。
しかし、戦いはすでに終わっているように思います。
いまさらなんで出てきたのか理解できません。
私は鳥越さんも、ある理由で好きになれないせいかもしれませんが、全体が見えていない気がします。
いずれにしろ、新しい都知事は小池さんになるでしょう。
実に悩ましい。

小池さんは、その思想や政策において、私は共感できません。
しかし、今回の戦い方にはとても共感できます。
「敵ながらあっぱれ」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。

人が誰かを選ぶ時、思想への共感と言動への共感のいずれが大きな影響を与えるでしょうか。
いまの私は、後者が決め手になりそうです。
もしかしたら、多くの人はそうなのかもしれません。
これは、今回の選挙結果を考える時にも、重要なポイントかもしれません。
私は福島瑞穂さんの考えにほぼすべて共感できますが、どうもあの言動には違和感があります。
小沢一郎さんの政治思想や政策の考え方には共感できませんが、彼の言動には共感できます。

政治というものは、実に悩ましいものなのかもしれません。

■ウォーゲーム「朝鮮戦争」体験(2016年7月12日)
今日は、ウォーゲームの研究者の蔵原さんと軍事問題研究者の桜井さんと3人で、朝鮮戦争を題材にしたウォーゲームをやりました。
私だけが場違いなのですが、事の成り行き上、こういうおかしな組み合わせができてしまったのです。

蔵原さんが北朝鮮軍、私と桜井さんは韓国軍と国連軍でしたが、史実に反して、私たちが敗北してしまいました。
かなり難しいゲームで、正直、疲れ切りました。
慣れている蔵原さんは楽しんでいましたが、国連軍の桜井さんと私は、いささか疲れて、厭戦気分に襲われてしまいました。
戦争は、ゲームでも疲れますので、実際の戦争はやりたくありませんね。

3時間にわたる戦争ゲームで、学んだことは少なくありません。
たとえば戦争は最初の対応で、ある意味決まってしまうということです。
またゲームの進行のなかで、蔵原さんと桜井さんから、朝鮮戦争に日本がどう関わっていたかも、具体的に教えてもらいました。
思ってもいなかった事実も教えてもらいました。
私もそれなりに朝鮮戦争については、書籍などは読んでいるつもりですが、生々しい地図を目にしながらゲームでシミュレーションすると全く違った印象が得られます。
軍事専門家の桜井さんですら、気が付いたことがあると言っていましたから、ゲームの効用は大きいようです。
しかしそれにしても、疲れました。

このウォーゲームから何が得られるのか。
ゲーム終了後、少し話し合いました。
それぞれの戦争観が出てきてしまい、私はどうも浮いてしまっている気がしました。
戦争ゲームよりもテロ対策ゲームがいいのではないかと提案しかけましたが、あんまり強く主張すると、ゲームではない、本当の論戦が起こりそうなので、友情維持のために自らの主張を少しおさえました。
何しろ相手は専門家、それも2人ですから、論争の勝ち目はありません。
ゲームで敗北した上に、何かもう一つの敗北感がありました。

ゲームでの朝鮮戦争終了後、北朝鮮の将軍はどうなったかという議論になりました。
英雄になったか、処刑されたか。
大きな意見は一致しました。
戦争は、いずれにしろ惨めで虚しいです。

ウォーゲームをやる前、沖縄に花を広げるプロジェクトに関わっていたNPO研究者と食事をしていました。
やはり戦争よりも、花でまちを埋め尽くそうというプロジェクトの方が心やすまります。

■やはり小池都知事でしょうか(2016年7月13日)
都知事選に立候補予定の4人の人の記者会見がありました。
国政の時とは違って、多くの質問が的確なのに感心しましたが、回答する方が正面から答えていないケースもありました。
一番、誠実に受け答えしていたのが、宇都宮さんだった気がします。
好感が持てました。

増田さんは、善良さとやさしさは伝わりましたが、弱さと視野の狭さを感じました。
大都市のリーダにはなれない人だろうと思いました。

鳥越さんは、戦争や原発に関して明確な発言をされましたが、やはりまだ腹が決まっていないばかりか、いささか弁解的でした。
やはり周囲を気にするジャーナリストだと感じました。
私の先入観のためかもしれませんが。
ちなみに、テレビの多くのコメンテーターの認識とは違って、私は都政が国政に無縁であるとは思っていません。
都知事こそが、憲法や原発を課題にするべきだと思っています。
鳥越さんが、そこを語ってくれることを期待しましたが、弁解で終わりました。

小池さんは、相変わらず見事でしたが、戦争も憲法も原発も安倍政権のそれと同じであることを明確にしました。
まあ安倍政権と同じ方向を向いています。
都民のための政治にはならないでしょう。

というわけで、記者会見を聞いた限りでは、私は宇都宮さんに共感しました。
オリンピックに関する姿勢も共感できます。
もしかしたら、宇都宮さんもありうるかとちょっと期待を持ちましたが、まあ無理でしょう。
やはり見通しとしては、小池さんだろうと思いました。
闘い方を知っている。
それに、いまの都民の民度に合っているでしょう。
いまの都民は、沖縄県民ほどの知性や見識は持っていないでしょう。
仮に宇都宮さんが知事になっても、つぶされるだけでしょう。

それと面白かったのは、テレビの女性キャスターたちが、小池さんに明らかに反感を持っているのが伝わってきました。
女性たちの嫉妬心が小池さんを落とすかもしれません。
しかし、私の予想は小池知事の誕生です。
女性の都知事の誕生は悪いことではありません。
残念ながらそれが小池さんという,安倍内閣の仲間だということです。
私には最悪です。

都知事選への関心は、今日で終わりました。
結果がわかりましたので。

〔追記〕
この記事を書いた1時間後に、テレビで宇都宮さんの立候補取りやめが報道されました。
となると状況は変わり、鳥越さんが当選する可能性が高まりました。
もう少し都知事選への関心が持続しそうです。

■民主主義をテーマにしたリンカーンクラブサロンをスタートします(2016年7月14日)
ご案内の通り、7月9日に、リンカーンクラブ代表の武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」の出版を記念したミニ講演会(フォーラム)を開催しました。
それを契機に、これまで活動をやめていたリンカーンクラブの会員活動を再開しました。

翌日の参議院選挙で、日本はいよいよ憲法改正が現実の問題になってきました。
自民党の憲法案は、読んでいただくとわかりますが、民主主義の視点からも大きな問題が含まれています。
そうしたなかで、民主主義の視点から現在の日本の政治状況を考え、自分に何ができるか、何をするべきかを考えることが、いまを生きる私たちの重大な課題になってきました。
そこで、リンカーンクラブでは、会員の交流も含めて、毎月、民主主義の視点から、いまの日本の政治状況を考えるとともに、民主主義をテーマにした、カジュアルなサロンを開催することにしました。
その最初のサロンを、下記の通り、7月24日に開催します。
リンカーンクラブ会員だけではなく、広く開かれた場にしていきたいと考えています。
さらには、できれば全国各地に、そうした民主主義を語り合うサロンが広がることを目指しています。

最初のリンカーンクラブサロンは、武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想や意見をベースにしたいと思います。
武田さんにも参加してもらいますので、もし異論や疑問があれば、ぶつけてください。
サロンという、とても気楽な場ですので、軽い気持ちでご参加ください。
誰でも歓迎です。
一人ひとりの考えを大事にする民主主義の理念に沿った運営をします。

ちなみに、リンカーンクラブは会員募集中です。
詳しくはホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/
「子どもたちを戦場に送らない勇気」は以下に私が勝手に紹介しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#160703

7月24日、湯島でお会いできるのを楽しみにしています。

●日時:2016年7月24日(日曜日) 午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:武田文彦著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んで思ったこと。
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■非情報化社会(2016年7月19日)
最近テレビを見ていると、毎日同じような事件の報道が多くて、まるで時間が止まっているような気がすることもあります。
それが意味することを考えると、いささかゆうつになります。
私たちの世界は、実際に起こっていることで成り立っているわけではありません。
それぞれの人が、自分が知っていることで構成されています。
そして、その「知っていること」の多くが、その人が接している情報源によって決まってきます。
よく「朝日新聞」を読んでいる人と「読売新聞」を読んでいる人とは世界観が違ってくると言われますが、そもそも情報源を新聞に依存している人は、その時点で同じ穴のムジナでしかありません。
穴を出なければいけません。
かといって、ネット世界が情報源として広いかといえば、そんなことはありません。
たしかにネットの世界は広いですが、実際に個人が触れられるのは、極めて限られたその一部でしかありません。
私の体験では、ネット依存の人の情報世界は極めて狭いような気がします。
みんな底なしの大きな海におぼれてしまっている気がします。
ネットに依存している人で、自分を生きていると感じた人に会ったことはありません。

30年前、世間で「情報化社会論」が盛んだったころ、私は「非情報化社会論」を書きました。
途中までしか書けていないのですが、その時に考えていたことがその通りに進んできているように思います。
誰かがつくった二次情報の世界でみんな生きるようになってしまった。
私たちはいま、虚構の世界に生きているのかもしれません。
いまの経済は、虚構の経済学だという人もいます。
虚構であればこそ、学問になり得るのかもしれません。

虚構の世界に住んでいると、人は与えられた自分を生きるようになります。
虚構の世界のアフォーダビリティを活かして、さらなる虚構を創りだしていく。
それは、生命とは無縁の世界に通じていきます。
そして、人は不老不死の存在になれるのかもしれません。

私たちは3500年ぶりに、大きな時代の変わり目を生きているのかもしれません。

■自民党の憲法改正草案を読もう(2016年7月19日)
昨日、フェイスブックに書いた記事を転載します。

今朝の朝日新聞の投書欄に埼玉県の70代の女性からの「自民党の憲法改正草案を読もう」という投書が掲載されていました。
昨日も女性の参加者が多い、ある集まりの場で、雑談の合間に場違いの政治の話になってしまい、ついつい私も過剰に発言してしまったのですが、安倍政権の良し悪しはともかく、日本人であれば、自分のことだけを考えているのではなく、せめて憲法を読み、政権が変えようとしている改正案を読んでほしいと発言してしまいました。
あまりに場違いだったので、場がしらけてしまいましたが、いまの日本には自分のことしか考えていない「小さな正義の善人」が多すぎます。
ちょっと言い過ぎたなと反省していたのですが、この投書を読んで少しホッとしました。

昨年、この改正案を読むサロンを湯島で開催しましたが、また開くことにしました。
一緒に読みたいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

自民党改憲案に関する私の意見を書いたものが下記にあります。
3年前に書いたもので、いまは少し意見が変わっているものもありますが、お時間が許せば、お読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm

ちなみに、このブログですでにご案内の通り、今度の日曜日の7月24日の午後、湯島で民主主義を考えるサロンを開催します。
よかったらご参加ください。

■私たちは人間と扱われていない!(2016年7月22日)
関東にいるとなかなかわかりませんが、沖縄はいまいささかきな臭くなってきているようです。

昨日、知人からメールが届きました。
今月初め、沖縄の辺野古、高江へ行って座ってきたそうです。
メールにはこんなことが書かれていました。

参院選後、高江のメインゲートが破られ、オスプレの基地を強硬につくるようです。
新聞の報道の違い、
日本政府は沖縄軍事基地化を狙っている、
国民の税金がアメリカ軍にながれ、軍人たちが優遇され、
ともかくおかしい、
日本政府は日本の国民を考えていない、
そんなことが分かりました。
ともかく軍隊はいらない、戦いはいらない、と切に思いました。

アメリカの軍事基地では反対運動の人間の動きをビデオで撮っていました。
少し怖いと思いました。
高江は8年、辺野古は18年戦っている人たちがいる、すごいことです。

彼女は、演劇に関わっている人ですが、こう書いています。

特に俳優は、仕事柄、世界や人間のあり様を考えます。
おそらく芸術家というものはそういう人種だと思います。
真っ先にやられるのは演劇人だと(小劇場運動の推進者の)鈴木忠志さんは言ってます。
まあ、そうですね。
精神と芝居活動はつながっていて、人を大勢一度に動かすことができますから。
政府は怖いから真っ先に捕らえますね。
それに耐えられるだけの覚悟をいつもしなければと思いますが、
弱い自分が見えてしまいます。
アメリカの軍事基地では反対運動の人間の動きをビデオで撮っていました。
少し怖いと思いました。
高江は8年、辺野古は18年戦っている人たちがいる、すごいことです。

そのメールが届いた直後、菅官房長官は記者会見で、米軍普天間飛行場の辺野古移設を巡り、沖縄県を相手に新たな違法確認訴訟を起こすと発表しました。
辺野古の埋め立て承認を取り消した翁長知事が、撤回を求める政府の是正指示に従わないのは違法だとの確認を求める内容だそうです。

そして、琉球新報電子版によれば、沖縄防衛局は今朝午前6時ごろ、新たなヘリパッドの建設工事に着手したようです。
昨日から噂は流れていて、すでに数十名の市民たちが集まっていたようですが、その隙を抜いて機材が積み下ろされたと報じています。

テレビ取材に応じた現地の女性は、「私たちは人間と扱われていない」と怒りと悲しみを表明していましたが、私は被害者なのか加害者なのか、悩みます。
沖縄で行われていることは、日本の明日の姿を象徴しているように思います。

今度の日曜日、湯島で「民主主義」をテーマにしたサロンをスタートさせます。
私が考える民主主義は、「個人の尊厳を尊重しあう」、つまり「すべての人を人間として扱う」という考え方です。
24日を皮切りに、毎月開催していく予定です。
案内は、私のホームページやリンカーンクラブのホームページに掲載します。
よかったらご参加ください。
明後日(7月24日)もまだ参加可能ですので、よろしくお願いいたします。

■戦争と経済と格差はつながっています(2016年7月22日)
アメリカの共和党は、大統領選挙の候補にトランプさんを指名しました。
数か月前にはだれも予想していなかったことです。
日本ではいまもって、とんでもない人が候補になったという論調で報道されています。
もちろん私もそう思っていましたし、いまもそう思っています。
だが果たしてそうなのか。

オバマさんが大統領になった時に、私は感動しました。
しかし、その後のオバマ大統領の言動には違和感が高まってきました。
ノーベル平和賞を受賞しましたが、9.11後のブッシュ大統領と、どこが違うのだろうかと思うようになってきました。

オバマ大統領になってからアメリカの武器の輸出額は激増したといわれています。
青井未帆さんの岩波新書の「憲法と政治」によれば、アメリカの報道番組「デモクラシー・ナウー!」は、オバマ大統領が最初の5年間で認可したアメリカの武器輸出額が1690億ドル以上であって、ブッシュ政権の8年間の総額である300億ドルも上回っていること、その6割は中東に輸出され、最大の輸入国はサウジアラビアであることなどを、国際政策研究所の武器取引専門家の話として紹介しているそうです。
それはたぶん、国内問題にもつながっているでしょう。
いまのアメリカ社会がいい方向に向かっているとは、とても思えません。

私ですらそう感ずるのですから、アメリカの人たちはもっと強く感じているでしょう。
戦争と経済と格差はつながっています。
それがアメリカでは明らかに見えるようになっているのかもしれません。
だからのトランプ人気だとしたら、トランプさんは決して「とんでもない存在」ではないのかもしれません。
どんなにおかしく見えることも、必ず理由はあるものです。
私も、どうもマスコミ報道に洗脳されているのかもしれません。

日本ではまだ、アメリカほどには、戦争と経済と格差の繋がりが見えてきていないのかもしれません。
いまだもってトリクルダウンの詐欺話が通用していますし、経済が戦争に依存している実態も見えにくくなっています。
「とんでもない人」が登場する余地はまだ低いのかもしれません。

都知事選には21人が立候補していますが、3人以外は基本的には誰も当選するとは思っていないでしょう。
ですからその主張にも耳を傾ける人は少ないでしょう。
マスコミも相手にしていません。
しかし、もしかしたら、その18人の中にこそ、都知事にふさわしい人がいるのかもしれません。
少なくともトップ3人にはふさわしい人はいないように、私には思います。
しっかりした眼を持つことは、至難です。
でも持つように心がけたいと思います。

■8月の「みんカフェ湯島」のご案内(2016年7月23日)
湯島での「みんなのゆる〜いカフェサロン」、略して「みんカフェ湯島」は、7月はお休みさせてもらいますが、次回は下記の通り、8月7日(日曜日)に開催します。
もしお時間があれば、気軽に参加ください。
メニューは珈琲と紅茶とジュースだけですが、話のメニューは参加者次第です。
話したい人は話せる場になると思いますし、話したくない人には話さないでも大丈夫の場になると思います。
突然やって来てくださるので大丈夫です。
途中での出入りももちろん自由です。
お会いできるのを楽しみにしています。

○日時:2016年8月7日(日曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cccentermap.pdf
○会費:500円(気が向いたら)

■データが消えたという話へのコメント(2016年7月23日)
フェイスブックに書いたら、たくさんの反応があったので、それが面白くて、その一部を含めて、ここでも紹介しておくことにしました。

フェイスブックに書いたのは、こんな記事です。

昨夜、思ってもいなかったことが起こりました。
パソコンの電子メールの受発信記録がすべて消えてしまったのです。
不要なものはかなりこまめに削除していたのですが、この数年の何千というメール記録がなくなってしまったわけです。
いろいろと試みましたが、回復できませんでした。
一瞬にして記録が消える。
実にすばらしい経験です。
いろいろと考えさせられました。
実に脆い仕組みに支えられて生きていることにも気づかされました。
というわけで、メールを送って下さっている方にはご迷惑をおかけするかもしれませんが、お許しください。
できれば返信が必要な方で返信が届いていない方は、改めてメールください。

それに対する反応は、データ回復の対応策に関するものが多いのですが、それとは全く別のコメントがありました。
ひとつはmadoka satoさん(女性)のコメントです。
「やっぱり佐藤さんは素晴らしい」とほめてくださったと、次のようなコメントをして、生地をシェアしてくれたのです。

朝から涙が出たのはなぜかな?と思ってた。
大変!で終わりそうなこと、日常のことにも意味がある。
そんな目線を素敵だなと思います。

そしてこんなコメントもつけてくれました。

目に見えることや存在することは永遠がありません。
私たちは一瞬を生きていてそれが繋がっているのだなと思います。
無くなる見えなくなるのにあるもの、それもまたあるのだなと。

もうひとりは魔法使いの内藤さん(女性)です。

宇宙の友人から聞いたことありますが、電子機器が壊れたり使えなくなったりするのは、自分がバージョンアップして波動が変わった証拠らしいですよ。私もシェアさせてもらいます(笑)

男性たちは、みんなデータ回復や今後の対応に関してアドバイスしてくれました。
ところが、この2人の女性は全く別の発想です。
女性たちから教えられることはたくさんあります。

■稀勢の里を応援しています(2016年7月23日)
稀勢の里は、とても人気のある力士です。
しかしどうも私は、不得手です。
いつも難しい顔をしているからです。
もっと力を抜いて、素直に生きようよと声をかけたくなります。
私が好きな力士ではありませんでした。

しかし先場所からなぜかずっと応援しています。
横綱がかかっているからです。
久しく日本人の横綱が出ていないのが、なぜか気になっています。

私は、国家というものに縛られたくないと思っています。
日本人ですが、日本人を指揮したことはありません。
国籍など関係なく、世界中の人たちが、みんな仲良くやればいいと思っています。
国家という境界線は、そのためには制約になることもあります。
日本人を意識することは、まなすこそあれ、プラスではないと思っています。
オリンピックでも、国家単位でメダルの数が競われますが、あれには違和感があります。
私自身は、自分はかなりコスモポリタンだと自覚しています。

しかし、本当は必ずしもそうではないのかもしれません。
相撲の横綱がみんなモンゴルの人というのが、本当はなじめていないのです。
なぜ日本人はいないのか。
日本人に横綱になってほしい。
どこかでそう思っているのです。
だからこの2場所、好きでもない稀勢の里を応援しているのです。
そう考えなければ理由がつきません。
ただし、この2場所の稀勢の里の表情は、以前とは変わってきています。
私好みの表情を見せることが多くなりました。

昨日、その稀勢の里が日馬富士に負けました。
稀勢の里は急ぎすぎました。
もう少しじっくり対応したら、勝機はありました。
その取り組みを見てから、どうも落ち着きません。
稀勢の里の不安感が、私にまで乗り移ってきたような気さえします。
私もやはりナショナリストなのでしょうか。
自分の意外な一面を実感しています。

さてまもなく今日の稀勢の里と白鵬の取り組みです。
私は、白鵬が昔から好きです。
しかし今回は、稀勢の里を応援します。
日本人の横綱が生まれてほしいからです。

稀勢の里がもし今日負けたら、今日もまた何もできずに、無駄に過ごしてしまうことになりそうです。
さてどうなりますか。

■第1回リンカーンクラブサロンは9人の参加でした(2016年7月24日)
第1回目のリンカーンクラブサロンを開催しました。
代表の武田さんの新著「子どもたちを戦場に送らない勇気」を読んでの感想を出し合うことから始まりました。
本の前半の現政権批判は論点が分散しすぎて、何を伝えたいかがよくわからなかったが、後半のメッセージはよくわかった。
制度に関しの議論が多いが、制度を使っていくのは人間だから、国民の主権者意識を高めていくことが大切ではないか。
日本の政治に大きな影響を与えているアメリカとの関係があまり語られていない。
自民党の改憲案を論ずる場合、現行の日本国憲法だけではなく、大日本帝国憲法とモチベーション比較するともっとわかりやすいのではないか。
平和権的基本的人権(参加した川本さんが以前から提唱している概念)という視点から考えていくことも効果的ではないか。
いろいろと論じられているが、どうしたらいいかをもっと絞ってメッセージしてほしい。

ほかにも、代表を選ぶ選挙のあり方や国民投票制度に関する議論もかなりありました。

さらに、リンカーンクラブそのものについても厳しい問いかけがありました。
民主主義と民主制とは別のものであり、むしろ民主制に焦点を絞ったほうがわかりやすいのではないか。
リンカーンをタイトルにするとアメリカの民主制をイメージしてしまうので、「リンカーン」のタイトルを捨てたらどうか。
これについては、リンカーンクラブのホームページのブログ欄で、リンカーンクラブとしての考え方を書いていこうと思います。

今回は、現在の政権に批判的な人たちが集まりましたが、大学生も一人参加してくれました。
こういう話し合いの場に出たのは初めてでとても面白かったというのが、彼女の感想でした。
次回も友達を誘って来てくれるそうです。

リンカーンクラブとしては、政治を政治家任せにして、批判や要請を出すだけではなく、一人でも多くの人が、政治への関心を高め、いま何が進んでいるのかについての知見を広げていくためにも、今回のような「政治を話し合う場」が増えていくことが、すべての出発点だと思っています。
小さな活動ですが、こうした動きが全国に広がっていくことを目指したいと思います。

次回は8月20日の午後2時から、「自民党改憲論」をテーマに開催する予定です。
詳しくはまたリンカーンクラブのホームページでご案内します。
リンカーンクラブは会員募集中です。
ホームページに案内を書いていますので、ご入会いただけるとうれしいです。

■事件を見る視点(2016年7月26日)
相模原市の障害者施設で、痛ましい事件が起こりました。
今日のテレビは朝からその報道ばかりです。
その施設で半年前まで働いていた若者が、利用者19人を殺害したのです。
あまりの衝撃に、アメリカのホワイトハウス高官がコメントまで出しました。
私には、いかにも「白々しく」感じましたが。

こういう事件が起こると、私がまず考えるのは、加害者のことです。
もしかしたら、加害者こそが一番の被害者ではないかという気がしてならないのです。
実状を知らないくせに、そういう発想をするのは危険であることは承知していますが、昨今の社会情勢を考えると、どうもそういうところから「事件」を見るようになってきてしまっているのです。
なぜ学校の先生を目指していた、明るい若者が、こんな事件を起こしてしまったのか。
同じ時代を生きる私には、責任はないのか。

そういう視点で、事件の報道を見ていると、いつも不満に感じます。
事件の詳細や加害者の個人情報は詳細に語られますが、背景に関してはあまり語られることはありません。
障害者施設の働く現場や利用者の置かれている現場が、どうなっているのか、きちんと報道されることは少ないのです。

こういうことが2度と起こらないように対策を検討しますなどという、意味のない答弁ではなく、もし本当にこうしたことを起こしたくないのであれば、障害者施設の実態を変えていかねばなりません。
言い換えれば、それは「社会保障」の理念や社会の価値観を変えることになるかもしれません。
そうした根本的な社会のあり方に目をやらずして、軽々に対策などと語ってほしくはありません。

いまからもう45年前になりますが、「ルポ・精神病棟」という本が出版されました。
記者だった大熊一夫さんが、「アル中患者」と偽って、ある精神病院に入院した現場体験報告です。
その後、日本の精神病院は変わったと思いたいですが、最近の大熊さんの本を読んでも、その変わりようはさほど大きくはないような気がします。
数年前に私のところに来た精神病院のスタッフの方から、お聞きした話も衝撃的でした。
一時、改善されるかに見えた精神病院の実態は、また向きを変えつつあるような感じでした。

これは精神病院の話ですが、障害者施設はどうでしょうか。
見学はしたことはありますが、私自身は利用したこともそこで働いたこともありません。
ですが、その周辺からいろいろと聞いている話から、小さな事件が起こるたびに不安を感じていました。
そして今朝のこの事件。
やはり私が最初に思ったのは、加害者のことです。
はっきりいえば、加害者への同情です。
時代が、あるいは私たちの生き方が、彼を加害者にしてしまったのではないか。

今朝、そうした施設にも関わったことのある方から電話をいただきました。
こういう事件がいつか起きるのではないかと心配していた、とその方はお話になりました。
昔は、施設のスタッフも余裕があったし、スタッフと利用者が人間的な関係を持てたと言うのです。
いまはスタッフと利用者はもとより、スタッフ同士さえ、人間的な関係が持ちにくくなっていることは、私もいろんな人からお聞きしています。
私たちは、何かを大きく失ってしまっているのかもしれません。

事件の報道姿勢も、もしかしたらそうした事情を加速させているようにさえ思います。

ちなみに、今朝、電話をくださった方は、もしかしたら、私が「加害者」になることを懸念されていたのかもしれません。
そう考えるのはいささか考えすぎでしょうが、そうなってもおかしくない時代になってきているように思います。
今回の加害者の若者は、決して、私と無縁の存在ではないことを心したいと思っています。

■障害の所在(2016年7月26日)
前の「事件を見る視点」の補足です。

障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。

なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。

昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。

この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。

障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。

福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。

20年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。

■措置入院への不安(2016年7月29日)
その後の相模原障害者施設事件の報道に接していて、世間は何も変わっていない、と思います。
自らの生き方を問い質した人は、どれほどいるでしょうか。
自分は今回の加害者とは別だとみんな思っているのでしょうか。
自らもまた、「障害者」だという認識を持った人はどれほどいるでしょうか。
相変わらず、「障害者」は特殊な存在だという報道ばかりです。
とてもさびしい気がします。
さらに不安を感じるのは、措置入院が問題になってきたところです。
問題が違った方向を向いているのではないのか。
私が、その対象になったらと思うと、恐ろしくなります。

この事件は、いまの社会の本質を示唆しているように思えてなりません。
加害者の考えは、許されないとか、異常だとか、みんなそう語ります。
もちろん私もそう思います。
しかし、だからといって、彼はいまの時代風潮と無縁なのか。
彼は、本当に、私とは別の世界の特殊な存在なのか。
そして、許されないと語っている人の中には、人を差別する意識はないのか。

いまの時代風潮をよく見れば、同じような風景はいたるところにみられます。
ヘイトスピーチは、そのわかりやすい例ですが、それだけではありません。
学校にも企業にも、程度の差こそあれ、それにつながる発想や言動はないのか。

私は、彼のような行動を支えている、時代の風潮を感じます。
それは、個人の尊厳をおろそかにする風潮です。
正規社員と非正規社員の構造の中にも、それを感じます。
出産前診断に見られるような、優生学的な発想の動きも少なくありません。
強いものが勝っていく競争を是とする社会そのものの中にも、今回の加害者の言動につながるものを感じます。
自分は加害者の言動と全く無縁だと断言できる人が、どのくらいいるでしょうか。
時代が、彼のような存在を生み出してしまったのではないか。
そんな気がしてならないのです。

障害を持っている人が、加害者に怒りを持つことは、当然です。
私も怒りを持ちますし、怒りをぶつけたい。
しかし、それで怒りを解消したくはありません。
もっと怒りを向けるべき相手があるのではないか。
障害者を障害者として扱う社会にこそ、怒りを持つべきではないのか。
彼に怒りをぶつけるのではなく、彼を生み出した社会に対して怒りをぶつけていかなければ、事態は変わらない。
私が、世間は何も変わっていないと思うのは、そうした報道ばかりが流れていることです。
みんな他人事としてしか語らない。
加害者を非難する前に、まずは自らの生き方を問い質すことが大事なような気がします。
私としては、自分の中にある差別意識にしっかりと対峙する機会にさせてもらいました。

前に書いたことがありますが、精神病院の脱施設化を実現したイタリアの話を思い出します。
どうやら日本は、それとは真逆の方向に向かっているようです。
障害者施設もまた、私は脱施設化を目指すべきだと思いますが、それが実現するには、多くの人たちが、障害者などという発想を捨てて、多様な人たちと、人として付き合う余裕を持つようにしなければならないでしょう。
すぐにはそれは難しいでしょうが、せめてそれを目指す生き方をしたいものです。

今回の事件ほどひどくはないとしても、同じような事件は決して少なくないでしょう。
私たちは、そうしたことへの関心をもっと高めていきたいものです。
もしかしたら、自分も加害者的な言動をしていないかの反省も含めてです。

■都知事選に思うこと(投票日前編)(2016年7月30日)
明日は都知事選挙です。
選挙ですから結果はどうなるかわかりませんが、私は最初から小池さんが当選するだろうと思っています。
ほかの2人の候補者の動きと比べたら、格段の違いだからです。
選挙前から勝負はもう決まっていたような選挙です。

小池さんの戦いぶりには真剣さを感じますが、ほかの2候補の戦い方は情けないほどに貧弱です。
そもそも応援依存ばかりで、だれが知事になるのかわかりません。
私のまわりでは鳥越さん支持者が多いのですが、私は彼をまったく信頼できません。
増田さんにいたっては、主体性や自らの覚悟が感じられません。
小池さんは、私とは真反対の政策を志向してきた人ですが、その思考は明確です。
そして、そこに人生をかけている。
小池さんは、私には都知事には一番なってほしくない人ですが、安倍首相がそうであるように、多くの人に危機感の覚醒を与えてくれる存在になるかもしれません。

それにても、報道を見ていて、日本ではまだ効果的な選挙ができるほど、民度は熟していないと感じます。
少なくとも有力な3人の候補者は、何も語っておらず、政策とは無縁なパフォーマンスとけなし合いだけです。
時に語られる、例えば保育環境の改善に関しても、現場とは程遠い観察者の発言ばかりです。
保育園が足りないのではありません。
保育環境が劣化しているのです。
問題の捉え方がこれまでと同じです。
そこからは何も忌まれないでしょう。
つまり「哲学」がなく「誠実さ」がないのです。

3人以外の18人の候補者のメッセージがテレビで紹介されることが今回の変化かもしれません。
そこにとても新鮮さを感じます。

しかし、初の女性都知事の誕生は、何か大きな変化を期待させられるような気もします。
どんな結果になっていくか、幾ばくかの期待もあります。

もっとも、小池さんが当選しないこともないわけではないでしょう。
いやたぶんそんなことはないと思いますが、私の予想が外れたら、うれしいような悲しいような、複雑な気分になりそうです。

無駄話をすみません。

■都知事選に思うこと(結果判明後編)(2016年8月1日)
都知事選の結果はやはり小池さんの圧勝に終わりました。
小池さんのような、私には時代錯誤の危険な思想(新自由主義や核への考えなど)の持ち主と思われる人が、首都の知事になるということに不安はありますが、他の有力候補だった2人の傀儡性というか、受動的な生き方に比べれば、よかったかもしれません。

しかし、野党の共闘が挫折した感は否めません。
宇都宮さんや石田さんだったら、もしかしたら小池さんに勝てると、私は考えていましたが、いずれも野党は採用しませんでした。
たぶん隠れ自民党の岡田さんの判断が働いていた気がしますが、投票日前日に岡田さんは結果がわかったのでしょう。
民進党の代表選挙への不出馬を表明しました。
松原さんが怒るのも無理はありません。
結果がわかれば逃げ出すのは、岡田さんのこれまでの常とう手段のような気がします。
これで来年の野党共闘は期待できなくなった気がして残念です。
鳩山政権の時もそうでしたが、岡田さんはまさに新しい流れをこわすためにいるような気がしてなりません。
いずれにしろ、現在の民進党は野党結集の軸にはならないことが明確になった気がします。
思い切った組織変革が必要ですが、それに向かって動き出すきっかけになってくれれば、今回の都知事選も意味があったという気がします。

小池さんが圧勝したのは、政党の支持を受けずに、主体的に戦った姿が好感されたからだろうと思います。
その一方で、増田さんや鳥越さんは、政党に雇われたピエロのような感じで、頼りなさが強く出ていました。
おふたりはまさに小池さんの引き立て役だった気がします。
もはや組織に担がれて選挙に出る時代ではなくなったのです。
今回の選挙では、それを感じました。
政党の役割は、変わりだしています。

上杉さんが得票数では4番目でした。
彼のスピーチのいくつかは、友人がユーチューブを教えてくれるので何回か見せてもらいました。上杉さんが4番目になったことに、少しホッとしました。
しかし「媚を売る」選挙ではなく、「政策を語り合う」選挙になってほしいものです。
それが実現できないのは、都民と報道関係者の民度の問題でしょう。

いろいろなことを考えさせられる、都知事選でした。

■自民党の改憲案を一緒に読みませんか(2016年8月2日)

民主主義をテーマにした、リンカーンクラブのサロンのご案内です。
憲法改正が現実味を持ってきたことを踏まえて、今回は、自民党の改憲案をみんなできちんと読んでみようというサロンにしました。
勉強会的な要素も入ったサロンですが、自民党の改憲案を逐条的にみんなで読んで、お互いに気づいたことなどを、あまり深入りせずに、話し合えればと思っています。
自民党の改憲案を事前に読んでおきたいという方は、次のところに改憲案がありますので、ぜひお読みいただいて、気になる点などをチェックしておいてください。
https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
読まずに参加してくださっても、当日、みんなで読みますので、大丈夫ですが。
憲法改正に賛成でも反対でも、立場はまったく問いません。
誰でも歓迎の気楽なサロンですので、軽い気持ちでご参加ください。

参加される方は、できれば事前にご連絡ください。
よろしくお願いいたします。

●日時:2016年8月20日(土曜日) 午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:自民党改憲案を読んで、民主主義を考える。
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■みんカフェ湯島の報告(2016年8月8日)
昨日の湯島のみんカフェは、参加者は中高年男性5人でした。
想定外の組み合わせでしたが。
手術後のリハビリだと言って、くまさん介護の飯田さんが、異常な暑さの中を来てくれました。
リハビリになったでしょうか。
状況が悪化しなければいいのですが。
湯島には初めての伊藤さんも来てくれました。
伊藤さんは福祉関係の相談員です。
もう少しお話をお聞きしたかったのですが、
常連の太田さんと阿部さんも話したいことが山積みのようで、それに太刀打ちできませんでした。

しかし、紆余曲折の後、話はなんと、世の中に「悪い人」はいるのだろうかというような話から、「人間とは何か」という深遠?な話になりました。
中高年の男性たちが、こんな話で盛り上がるとは、暑さのせいでしょうか。
でもまあ、今度、湯島で「人間を考えるシリーズ」カフェサロンを開催する踏ん切りがつきました。

なお、みんカフェも少しずつ広がってきています。
8月28日には、千葉の印西市で土佐さんが開催します。
みなさんも、やってみませんか。
喫茶店でも開催できますので。

■天皇のお話に、上山春平とオメラスを思い出しました(2016年8月9日)
昨日、2016年8月8日、天皇が国民に向けてビデオメッセージを発しました。
天皇の誠実さと思いの深さを改めて感ずることができました。
テレビで、天皇のお話をお聞きしながら、2つのことを思い出しました。

ひとつは、上山春平の言葉です。
ある本(「公共圏という名の社会空間」)からの孫引きですが、見つけたので2つ引用しておきます。

朝日新聞(1989/1/16)に載っていた座談会の発言。
今の日本は国家組織の中枢に近い人々がけがれた印象を与えている。その中から選ばれた人が国の中心にいたのでは、やりきれない思いになる。しかし幸い、われわれはそういう汚さから無縁で真っ白な方を中心におくことができる。これは国の姿として実にありがたいことだ。
1990年11月号の「思想」に載った文章です。
天皇制は、国制の頂点に聖域を設け、権力競争に汚れやすい政治家たちをシャット・アウトする。その聖域から権力とのかかわりを最大限に排除したのが、今日の天皇制である。非権力という点では、世界の君主制のなかで最も徹底したケースといえるかもしれない。

もうひとつは、『ゲド戦記』の原作者アーシュラ・ル・グィンの『オメラスから歩み去る人々』です。
その短編小説の書き出しだけ引用しておきます。

此処ではない何処か遠い場所に、オメラスと呼ばれる美しい都がある。
オメラスは幸福と祝祭の街であり、ある種の理想郷を体現している。
そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。
人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。
祝祭の鐘の音が喜ばしげに響き渡る中、誰もが「心やましさ」のない勝利感を胸に満たす。
子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。
素晴らしい街。人の思い描く理想郷。
しかし、そのオメラスの平和と繁栄の為に差し出されている犠牲を知る時、現実を生きる自分達は気付くのだ。こ
の遥か遠き理想郷は、今自分が立っているこの場所の事なのだと。
オメラスが求めた犠牲。それはこんな姿をしている。

オメラスが求めた犠牲。それは思い出すのさえおぞましい話です。
ましてや、天皇のメッセージにつなげて書くのはさすがに憚れますが、実は私が最初に思い出したのは、オメラスの話です。
それがあまりに誤解されそうなので、書くのをおもんばかっていたのですが、何回も聴いているうちに、上山春平さんの言葉を思い出したで、一緒に書けば、真意はそれほど誤解されないだろうと思い、書く気になったのです。

私の生活の平安が、いかに天皇に依存しているのか、ようやく実感できるようになりました。

ちなみに、オメラスについては知らない人もいるかもしれません。
以前、ブログでシリーズで書いた記事をホームページに転載しています。
「オメラスとヘイルシャムの話」です。
あまりお勧めはしませんが、よかったら読んでください。
長いですが。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

■「核廃絶」を唱えるのであれば「原発廃止」も明言すべきです(2016年8月9日)
今日は長崎に原爆が投下された日です。
長崎での平和式典をテレビで見ていました。
長崎市長の呼びかけは、心にひびきました。
被爆者代表の井原東洋一さんのお話も、とても感ずるものがありました。
でも聴いていて、どこかに虚しさが残りました。
それは。「核廃絶」と言いながら、誰一人として、原発に言及されないことです。

言うまでもありませんが、原爆と原発は同じ原理で作られています。
しかも原発は核兵器の原料を作りだすという意味で、技術的にはつながっているものです。
原発は、福島での事故で証明されたように、意図的に爆発されたら、核兵器にもなり得ます。
核廃絶というのであれば、当然、原発も廃絶しなければいけません。
しかし、誰もそれを明言しようとしません。
しかもそこに核兵器推進論者の首相を招いての式典です。
どう考えても茶番でしかない。

井原さんのスピーチの中に、聞きようによっては安倍首相への問いかけがありました。
それが発せられた直後、テレビは安倍首相の表情を映し出しましたが、気のせいか不快そうな表情に感じましたが、ただそれだけでした。
安倍首相が登壇しようとした時に、会場から大きな野次が一言ありましたが、言葉は聞き取れませんでした。
みんなおとなしく聞いていた。
私には実に不思議な光景です。
本気でみんな核廃絶を願っているのだろうか。
いつもそう思います。

原発はなぜ核発電と呼ばないのでしょうか。
核廃絶運動に、原発廃止も含めないかぎり、虚しい言葉で終わってしまうように思えてなりません。

■銅メタルがとれたことをなぜ喜べないのか(2016年8月10日)
私は、現代の特徴の一つを「汎市場化」、つまり、すべての存在を貨幣経済の対処に組み込んでいくことと捉えています。
そして、それに少しでも抗うのが、私の生き方になっています。
汎市場化に大きな勢いがついたのが1980年前後です。
文化産業論が語られ、福祉や環境も「成長市場」だと狙われだしました。
貨幣経済は、私たちの生活の世界を次々と自らのための市場に変えていったのです。

そのひとつがスポーツです。
「1980年代には何百億ドル規模のグローバル市場に成長した」とフランクフルト学派のヴォルフガング・ シュトレークは「時間かせぎの資本主義」の中で、書いています。
その象徴がオリンピックでしょう。
オリンピックには拝金主義者たちが集まっています。
エンブレムの開発に、あれほどのお金が飛び交う一事をもってしても、それは明らかです。
どう考えてもおかしいでしょうが、誰もそれに異を唱えません。
考えてもいない5000億円の予算計画を提案することが、オリンピック招致のためには必要だったなどと、後になって明言している責任者たちは、おれおれ詐欺の実行者とそう違わないでしょう。
すべてはお金のため、すべては貨幣経済の延命のためです。
それがどれほど人をだめにしていくか。
ようやく卒業したかと思っていた「賃金奴隷制」の復活です。

オリンピックの報道をテレビで見ていて、実に哀しくなることがあります。
たとえば、銅メダルをもらった選手が、喜びを語らずに悔しさだけを語る時です。
発想がどこかで歪んでいます。
まともなスポーツ選手であれば、ちからいっぱい頑張って銅メダルを得たことを喜び、その上で、次は金を目指したいという夢を語るのではないかと思うのです。
いずれも明るい話です。
できれば、銅メダルさえもらえなかった選手たちを讃えてもほしいです。
結果よりも力を出し合って讃え合うことこそが、オリンピックの精神ではなかったのか。
金メダルを取ることが目標ではないと思うのは、私だけでしょうか。
なぜ勝者も敗者も讃え合う精神をなくしてしまったのか。
インタビューを見ていて、とても哀しい気がしましたが、そこにこそ現在のオリンピックの本質があるのでしょう。
みんな人間性を歪めているのではないか。
競技をしている人たちは、本当に人間なのか。
薬物ドーピングは問題になっていますが、薬物を使わない精神的なドーピングも問題にすべきではないのか。

念のために言えば、私は、そう語った選手を非難しているのではありません。
彼女は、銅メダルをもらえたことのすごさを素直に喜べなくなっている。
私が悲しく思うのは、彼女をそうさせてしまった状況が恐ろしいのです。
そうさせていることに、私たち観客も荷担しているのかもしれません。
もしそうであれば、歪んでいるのは私たちです。
まずは私も自らを問い直す必要がある。
彼女にインタビューを見て以来、そう考えています。

2020年の東京オリンピックは「アスリート・ファースト」に知ると小池知事は話しています。
ぜひその意味をしっかりと考えてほしいです。
せめて、メダルだけで評価する風潮はやめてほしいものです。

■「風は生きよという」上映会およびシンポジウムのご案内(2016年8月15日)
湯島のカフェサロンのメンバーの森本陽子さんが主宰している生命倫理カフェ・ねりまが、8月27日(土曜日)に、映画「風は生きよという」の上映会およびシンポジウムを開催します。
映画「風は生きよという」は、人工呼吸器装着者たちの日常を描いたドキュメンタリーです。
http://kazewaikiyotoiu.jp/
映画紹介の記事から引用させてもらいます。

淡々とその生活を映し出し、歩んできた人生を見つめた時、浮かんできたのは日常の尊さ。
たくさんの支援が必要だからこそ、多くの人に出会え、自由に動くことができないからこそ、生きてあることに感動する。
じんわりとこころを揺する、人と人とが織りなす物語。

80分ほどの映画を観た後、映画に登場する小田政利さんとご自身も身体に障害を持ちながら積極的な出版活動を行っている白井隆之さん、それに加えて、生命倫理カフェねりまの立ち上げの時に講演してくださった小児科医の松永正訓先生の3人による、パネルディスカッションがあります。

企画・主催者の森本さんからのメッセージです。

人間は未熟な個として、また寿命という定めをもって、誕生します。
生まれてすぐに立ち、歩行ができる
動物とは違い、未熟という障害をもち、一方では避けられない老いが待っていることを考えると、「障害」は、等しく人間に与えられた宿命ともいえます。
呼吸器を装着しなければ、生きることができないというのも、何も特別のことではなく、普通のこと。
あるいは、とくに生きることにまっすぐにむかい、自分のいのちを直視する日々を過ごしていることを考えると、彼らこそ、誰よりも健全で、また健康な人生を送っている人々ではないでしょうか。
「風は生きよという」人工呼吸器装着者たちの日常は、多くのことを私たちに語りかけ、そして日々を「生きよ、生きよ」と風を送ってくれているようです。
この風がみなさまに届くよう願っています。

私は、残念ながら参加できなくなりそうなのですが、多くの人に参加していただきたく、森本さんに代わってご案内させてもらうことにしました。
よろしくお願いします。
まわりのみなさんにも、ぜひお誘いください。

○日時: 2016年8月27日(土)午後1時半〜4時半(開場:13:00)
○会場:練馬区立 区民・産業プラザ(ココネリ)3F研修室1
http://www.nerima-idc.or.jp/plaza/info/information.html
○会費:1500円(学生・障害者と付添1名 1000円、中高生以下無料)
○申込先:bioethicscafe.nerima@gmail.com(事務局:森本)
*詳しくはホームページの案内をご覧ください。
http://bioethicscafe-nerima.jimdo.com/

■「時間かせぎの資本本主義」をお勧めします(2016年8月16日)
もう3週間ほど前になりますが、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本本主義」を読みました。
久しぶりに世界の大きな動きを考えさせられる経済書でした。
気になっていたことのいくつかの展望が開かれたような気がします。
それで多くの人にも読んでほしいと思い、ブログなどで紹介することにしました。
専門書とまでは言いませんが、気楽に読めるほどの本でもありませんが。
しかし,いまの経済の流れやEUの動きに関心のある人には、特にお勧めです。

極めて簡単に、私の主観的な要約です。
戦後資本主義の成長停滞を克服したかに見える、いわゆる新自由主義は実のところ、この危機を「解決」したのではなく、「先送り」してきたにすぎない、というのが本書のメッセージです。
そして、この先送りのために利用されたのが「貨幣」で「時間を買う」という手段だったと著者は言います。

シュトレークによれば、戦後経済が限界を示しだした1970年代以降、貨幣的手段を用いた時間かせぎがすでに3度にわたって繰り返されてきました。
最初は、国家による紙幣増刷(インフレ)。次が国債発行による債務国家への転換、つづいて国家債務の家計債務への付け替えともいうべき「クレジット資本主義」です。
それも2008年のリーマンショックにより破綻し、いまや国家を超えたインターナショナルな財政再建国家への移行過程にあると言う。
こうした4度にわたる貨幣マジックはその都度、経済危機を先延ばしにして政治危機の表面化を防いできたことは事実だとしても、それはもはや限界に達している、というのが著者の主張です。

そして、そうしたことが世界の質を変えてきています。
租税国家から債務国家への移行に伴い、社会的公平性を担ってきた国家機能の多くが、民営化に象徴されるように、次第に市場経済へと移ってきているのです。
事実上の国家主権の縮小過程が始まっているとも言えます。
市民によって統治され、租税国家として市民によって財政的に支えられている国家が、その財政的基盤を債権者の信頼に依存するようになるにつれて、債権者がいわば現代国家の第2の選挙民として登場してきます。
「国民」と並ぶ「市場の民(債権者)」が、国家のガヴァナンスに関わりだすというわけです。
これによって資本主義と民主主義の関係が新しい段階に入ると著者は指摘します。
「そこでは民主主義が市場を飼いならしているのではなく、逆に市場が民主主義を飼いなしている。これによって歴史的に新しい種類の制度構造が出現した」。
そして、「「市場」は人間に合わせるべきであり、その逆ではないというあたりまえの考え方が、今日ではとんでもない夢物語だと思われている」と言うのです。
資本主義と民主主義の両立の難しさについても、著者は言及しています。

ではどうすればいいか。
著者は直接的には言及していませんが、行間には著者のビジョンを感じます。
具体的な提案ももちろんあります。
たとえば、各国の通貨主権を回復です。

問題は、資本主義ではなく、民主主義なのかもしれません。
ちなみに、著者は債務国家がいかに富裕層に利するものであるかも語っています。

とても示唆に富む本です。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
なお、併せて、最近話題の「〈詐欺〉経済学原論」(天野統康 ヒカルランド)や「保守主義とは何か」(宇野重規 中公新書)も読まれると本書の理解も深まると思います。

コモンズ書店からも購入できます。
よかったらどうぞ、
いささか高い本なのですが。

■核抑止力信仰の悪夢(2016年8月17日)
前にも書きましたが、広島や長崎の平和宣言に、いつも物足りなさを感じています。
そこであまり「原発」が語られることがないからです。
私には、原発もまた「核兵器」だと思えてなりません。
核廃絶というのであれば、そこには当然、原発も含まれなければいけません。

しかし、現実はどうもそれどころではないようです。
報道によれば、オバマ米大統領が検討しているとされる核兵器の先制不使用政策に関し、安倍晋三首相が反対姿勢を示したそうです。
ワシントン・ポスト紙が1報じたニュースのようですが、同紙によると、安倍首相は北朝鮮に対する抑止力が弱体化し、紛争の危険が高まると伝えたと言います。
私には悪魔の思考のように思えますが、これが日本の核廃絶政策の現実なのでしょうか。

核兵器に関しては、オバマ大統領のアメリカでも驚くべき発言が続いています。
日本のマスコミも一時は持ち上げたトランプ大統領候補が日本の核武装を容認したことに対して、対抗馬のクリントン候補を応援するバイデン副大統領が、「核保有国になり得ないとする日本の憲法を、我々が書いたことを知らないのか」と批判したそうです。

世界は再び、核抑止力信仰が復活し、核拡散へとベクトルを変えるような気配です。
原発がますます必要になるのでしょうか。
原発は、かたちを変えた核拡散政策だと思いますが、安倍首相はどうもそれでも満足できないようです。
原発と核兵器とは別のものだという常識が広がっている日本では、それも仕方がないことなのでしょうか。
いずれも、 nuclear power であることには変わりはありません。

■「はったつ凸凹組合」を立ち上げてしまいました(2016年8月26日)
発達障害の仲間たちと「はったつ凸凹組合」を立ち上げることにしました。
最初はただ、発達障害の人たちの起業支援の相談に応じているだけだったのですが、何回か話しているうちに、まあ私も仲間になるのがいいと思ってしまったわけです。
ミイラとりがミイラになってしまった感じです。
まあ、こんなことの連続が私の人生なのですが。

それで今日、集まった2人の発達障害の友人たちと「はったつ凸凹トリオ」、いや「はったつ凸凹組合」をスタートさせたわけです。
当面は、中古PCをUbuntu(Linux)で使えるようにするとともに、Ubuntuコミュニティを育てていくと言うビジョンです。
かなり難しいテーマですが、発達障害の人たちは、雇用労働よりも協同労働が向いているのではないか、という思いで、ともかく動き出すことにしました。
なにしろまだ仲間も少なく、資金も皆無です。
一緒にやってもいいという方、協力して下さる方、資金や中古PCを提供してくれる方、ともかくなんでもいいので、応援者や仲間を探しています。
よろしくお願いします。

ちなみに、発達障害の、私の定義は、人は皆、何らかの意味で、発達障害というものです。だから私も仲間に入れてもらえたわけです。
さてさて、これからどうなるか。
見通しも勝算もなく、あるのはただただ不安ばかり。
今日もまた、いろいろ考えて眠れなくなるかもしれません。

しかし、相談に乗るということは、そういうことです。
この姿勢を、私は、東尋坊で見回り活動をしている茂さんから教えてもらいました。
そういえば、その茂さんからも先週、難題をもらってしまいました。
1週間悩んで、結局、引き受けました。
人生は苦難の道です。
疲れます。
はい。

高畑さんの息子さんの事件で、発達障害への偏見が生まれなければいいのですが。
女優の高畑さんの記者会見には、とても感動しました。
彼女をとても好きになりました。
久しぶりに、女性に惚れた気がします。

余計なことをかいてすみません。
だから発達障害だと言われるのかもしれません。
いやこれも、余計なひと言、ですね。
困ったものです。

はったつ凸凹組合への応援、よろしくお願いします。
「はったつ凸凹基金」を作ろうかと思っていますので。

■カフェサロン「病原体から見た人間」の報告(2016年8月29日)
遅くなりましたが、昨日開催のちょっと知的なカフェサロン「病原体から見た人間」の報告です。
12人の参加でした。

益田さんは、ジフテリア菌の話から始めました。
ジフテリア菌が人に悪さをするのは、ジフテリア菌に寄生しているファージ(細菌に感染するウイルスのこと)が持っている「毒素」のせいなのだそうです。
そこから、host parasite relation、つまり寄生者と宿主の構造の話になりました。
ファージの毒素は、宿主であるジフテリア菌には悪さはせずに、ジフテリア菌の宿主である人間に悪さをするのです。
そこから、寄生者にとっての環境とは何かという問題が出てきます。
生物学的に言えば、言うまでもなく、寄生者にとっての環境は宿主です。
ですから、生物と環境は、一次的な意味では win-winの関係です。
ジフテリア菌の場合も、よく見れば、host parasite relation はwin-win関係なのです。
しかし、ジフテリア菌の宿主である人を、ファージの毒素が殺害するとなると、ジフテリア菌は自らを支える環境を失うことになるわけです。
ファージの想像力が弱く、見えている世界がいかにも狭いのです。

ジフテリア菌の場合、みずからが環境となってさせているファージがあるとともに、ジフテリア菌にとっての環境である人間がいます。
この環境構造を人間に置き換えるとどうなるか。
人間を支える環境は自然環境といっていいでしょう。
人は自然環境に寄生しているわけです。
ではジフテリア菌にとってのファージは、人間の場合、何でしょうか。
益田さんは、それを「心」あるいは「脳」といいます。
さらに、「心」を中心に考えたらどうなるか。
心を支えている環境は「肉体」、心の中にあるファージ役は「欲」だというのです。
たとえば、糖尿病患者が、「食欲会っての自分」から「肉体会っての自分」へと認識を変えれば、事態は変わりだすと益田さんは言います。
これはきわめてわかりやすい話です。
つまり、自分をどうアイデンティファイするか、そして環境をどう捉えるか、という問題です。

ところで、細菌には、常在菌と病原菌があるそうです。
というか、広い意味での世界と仲良くやっている常在性の細菌と間接的な環境に悪さをする病原性の細菌がいるそうです。
これも人間社会に喩えれば、いろいろなことに気づかされますが、大切なのは、「病原性」という言葉です。
「毒素」という言葉もそうですが、いずれも人間の都合での命名です。
そこから考えていくと、さらに深い世界が見えてくる気がします。

人はなぜ自殺するか、人はなぜ戦争するか。
そういう話も出ましたが、時間の関係もあってあまり深められませんでしたが、いろいろと考えるヒントはあったと思います。
私は、政治(民主主義)や経済(資本主義)を考える大きなヒントもあるような気がしました。

ちょっと飛躍しますが、私はアリストテレスの「ピュシス」(「自然」と訳されています)という概念に共感しているのですが、その視点からは病原体も人間も同じ存在だろうと思います。
だから、人にとっての「悪さ」には、かならず「善さ」もふくまれていて、それをどう編集するかが課題なのだろうと思います。

蛇足ですが、今回はなぜか女性の参加者は一人もいませんでした。
男性にとっての環境は女性という捉え方をすると、これもまた面白い発見があるかもしれません。

なお今回の話を、参加者のお一人の西坂さんが録音してくれています。
益田さんはホワイトボードを使って説明してくれていたので、音声だけではわかりにくいと思いますが、ご希望の方はご連絡ください。
また今回は、初めての湯島サロン参加者もおふたりいました。
おふたりともとても喜んでくださいました。
湯島サロンは、いつでも気楽で息抜きできますので、初めての方も喜んでくださいます。
ぜひみなさんも気楽にご参加ください。

なお、今回2回目だった「人間を考えるシリーズ」の3回目は、スピリチュアルな話にできないかと考えています。
ちょっと飛びすぎてしまうかもしれませんが、焦点をどこに置こうか、ちょっと悩んでいます。

■4つの英国ミステリ―ドラマは心やすまります(2016年9月2日)
私が最近、繰り返し見ている英国のミステリードラマが4つあります。
「シャーロック」「ポワロ」「マープル」「フォイル」です。
「刑事フォイル」を除いては、録画したDVDがあります。
いずれも個性的な人たちが登場します。

「シャーロック」は、何回観ても発見があり、実に面白い。
主役のシャーロックは私の憧れの生き方をしています。
「刑事フォイル」は、いかにも英国人という感じがしますが、これまた憧れる生き方です。
以上の2本は、内容が面白いので、繰り返し見ても飽きません。

ところが「ポワロ」と「マープル」はあんまりおもしろくないのです。
しかし、なぜか見てしまうのです。
ただ、「マープル」は途中で俳優が変わってしまったので、私の中では混乱があり、あまり見なくなりました。
で、一番よく観ているのが、「ポワロ」です。
いま、週2回放映されているためもありますが、毎回、ストーリーは面白くないなと思いながら見ています。
なぜ観るかというと、人への信頼感、人間社会への信頼感が高まるからです。

といっても伝わらないと思いますが、ポワロのパートナー役のヘイスティングスが、私には「最上の人間」と思えるのです。
これほどの好人物は、世の中にはいないでしょう。
昔はみんな、人間はヘイスティングスだったのだろうなといつも思いながら観ています。
私の中にも、間違いなく、ヘイスティングス的要素は残っています。
ポワロには、もうひとり好人物が登場します。
スコットランドヤードのジャック警部です。
これほどの好人物が警視監になってしまうスコットランドヤードが存在した時代があるというのは、私には感動的な話なのです。
いまの時代が、すべてではない。
いまの時代こそ、おかしいということを確信できるのです。
ちなみに、ポワロも、無邪気な好人物であることは言うまでもありません。

今日も、ポワロとシャーロックを観てしまいました。
いずれも何回も観ているので、筋は知っているのです。
しかし、毎回、登場人物たちが、私に語りかけてくる。
そして、ついしばらく前までは、みんな人間として生きていたことを思い出させてくれるのです。

どうしてこんな社会になってしまったのか。
私がイギリスのミステリードラマが好きな理由は、そういう問いかけを思い出せてくれるからです。
日本のミステリードラマには、その種のメッセージがありません。

■カフェサロン「病原体から見た人間」パート2のご案内(2016年9月7日)
前回の、ちょっと知的なカフェサロン「病原体から見た人間」の話題提供者の益田さんから、病原体の話を踏まえた人間社会の問題について、あまり話せなかったので、パート2を企画してもらえないかという申し出がありました。
そこで、あまり間をおかないほうがいいと考え、今月のちょっと知的なカフェサロンは、病原体パート2にすることにしました。
前回参加されなかった方にも話がつながるように、冒頭で前回の総復習的な話をしてもらいますので、前回の参加不参加に関わらず、ご参加ください。

益田さんから、今回の内容をについて、ご連絡いただいています。

パート2の内容ですが、人間の欲は人間の心を環境とする寄生体ですが、この欲が作った社会構造や社会規則は人間の心にとって(人工的)環境になっています。このような環境と生物の逆転現象は、食欲あっての私ということと同じなのです。現実には体あっての私であるにもかかわらず人はえてして欲あっての私と錯覚します。
また破傷風菌の生態から自己とは何かについて新しい展望が開けます。毒素をたくさん作った破傷風菌は死んでしまいます。つまり破傷風を起こして死んだ動物の体を栄養とできるのは毒素をあまり作らないで死なずにすんでいた破傷風菌なのです。
今回はこの2つの主題でいろいろ話を広げてみたらと考えています。

どんな議論になっていくか、楽しみです。
前回ご参加のみなさんはもちろん、参加できなかった方も、ぜひご参加ください。

●日時:2016年9月25日(土曜日)午後2〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●テーマ:「病原体から見た人間パート2」
●話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者・紙工作人)
●参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com(佐藤)

■第3回リンカーンクラブサロンのご案内(2016年9月8日)
今月のリンカーンクラブサロンは「EU離脱に関するイギリスの国民投票」をテーマにして、国民投票の是非につて話し合いたいと思います。
これからの政治のあり方を考える上で、さまざまな材料がある事例だと思います。

リンカーンクラブとして主催しますが、いつものようなカジュアルなカフェサロンですので、気楽にご参加ください。
サロンですので、最初に30分ほど、リンカーンクラブ代表の武田さんに話をしてもらい、後はみんなの話し合いで、それぞれが理解を深めたり、新しい気付きを得たりできればと思います。
今回は平日の夜ですが、遅れての参加も大丈夫です。

●日時:2016年9月14日(水曜日) 午後7時〜9時
6時半から部屋は開けておきます。
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「EU離脱に関するイギリスの国民投票」
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■豊洲市場の盛り土不正問題に思うこと(2016年9月13日)
築地からの移転が予定されている豊洲市場での、土壌汚染対策の盛り土が主要建物下で行われていなかった問題が大きな話題になっています。
その後の報道を見ていると、どうも建物下だけの問題ではなく、盛り土そのものの進め方にも問題がありそうです。
少なくとも、都庁は嘘をついていたことが明白になってきました。
堤未果さんの「政府は必ず嘘をつく」(角川新書)を読んだ方もいるでしょうが、中央政府だけではなく、地方政府も、嘘を平気でついてきました。
そうしたことを国民や自治体住民が、つまり私たちが、受け入れてきたからです。

この事件の報道を見ていて、戦後の1946年に書かれた、映画監督の伊丹万作さんの言葉を思い出します。

「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみなロを揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか1人や2人の智慧で1億の人間がだませるわけのものではない」(「戦争責任者の問題」)

豊洲市場の盛り土問題の報道を聞いていて、ほんとうに不思議に思います。
都議会の議員が騒いでいますが、なぜこれまで調べようとしなかったのか。
築地移転推進派の組織の会長が、だまされたと怒っていますが、なんでこれまで本現場を見ていなかったのか。
マスコミも、これまで豊洲の現場を見に行ったことはないのか。

もちろんみんな「悪意」があったわけではなく、本当に知らなかったのでしょう。
今回、問題にしだした共産党の都議たちの努力も評価しますし、市場関係者の怒りも理解できます。
詳しく報道しているマスコミ関係者も、いまは誠実に報道していると思います。
でもどこかおかしくはないでしょうか。
あれほど問題になっていた安全問題対策が、実際にどう進められているかを、だれもきちんと追いかけていなかったということには驚きを感じます。
安全問題に関する技術委員会の人たちが、誰も現場に行っていないで、工事完了を承認したというのも驚きです。
つまり、みんな現場を見ずに書類だけの資料で活動しているということです。
それなのに、いまになって、だまされたというのはおかしいのでないかと思うのです。
現場を見ずに、どうして安全性など議論できるのか。

一番の驚きは築地の市場関係者です。
現場も確認せずに、都庁の説明を鵜呑みにしているということは、要は本気で安全を考えていないと言うしかありません。
やはり経済性だけに関心がいっていたのではないかと思ってしまいます。
魚屋をなめるなよと、推進派の会長は怒っていましたが、現場も確認しないような魚屋はなめられても仕方がありません。
そうした人が、安全性など考えられるわけもないでしょう。
こんな会長を持っている組織は、そもそも御用組織でしかない。
こういう人たちによって、社会は壊されていくのでしょう。

いささか過激に書いたかもしれませんが、今回の事件は、政府は嘘をつくことの明白な事例です。
お上は正しいという考えを、私たちはそろそろ問い直さなければいけません。
都庁でさえこうなのですから、中央政府の嘘はもっと壮大でしょう。

伊丹万作はこうも書いています。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
(中略)
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」

ちなみに、もう10年ほど前になりますが、「騙された者の罪」をブログで書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/04/post_4ec6.html

■フェイスブックの「いいね」から見る現代人の生き方(2016年9月14日)
私にとってとても気に入らないことの一つが、フェイスブックの「いいね」から感ずる、みんなの生き方です。
そこにこそ、いまの社会のもろさと虚しさが象徴されているような気がします。
私の友人知人への批判になりかねませんのが、書いてしまいましょう。
さすがに、フェイスブックにはアップするのは躊躇しますが。

フェイスブックに、どうでもいいようなこと、例えば、食事の話やきれいな景色や花などの写真を載せると、たくさんの人が「いいね」を押してくれます。
ところが、政治的なことや思想的なことを書くと(まあ私の場合、長いということもありますが)、「いいね」を押してくれる人は限られてきます。
つまり、みんなどうでもいいことには意思表示するが、思想的、政治的なことには積極的に意思表示しないということです。
これは、まさに現代社会のコミュニケーション状況というか、人て人との接し方を象徴しています。
そして、どうも組織に属している人は、そうした問題には基本的に反応しない傾向が感じられます。
組織に属する人には、政治的、思想的な意思表示に消極的、抑制的な人が多いということです。
組織に属することは、自らの考えを抑制することだと思っている人が多いのかもしれません。
しかし、自らの考えを抑制するような人が構成する組織は、健全な組織とは言えないと私は思います。
組織とは、さまざまな主体性がお互いを活かし合うことで、個人を超えた力が生まれるのではないかと思います。

さらに、思想的、政治的な記事へのコメントの半分は、きちんと読んでいないか、意味を誤解しているということです。
私のメッセージとは正反対な読み取りをして、賛意を表明したり反論を書いてきたり人は少なくありません。
そういうコメントの多くは無視しますが、あまりにもひどい時には反論を書きます。
でも、果たしてそれを読んでくれたかどうかはわからない場合も少なくありません。
自分にとって都合のいい読み方をして、自分の意見を述べるだけの人も少なくありません。
こうしたことから感ずるのは、今や人はコミュニケーションを求めているのではなく、私見を発するという姿勢を強めているのではないかということです。
それは、人とのつながりを回避する生き方とも受け止められます。

ツイッタ―やフェイスブックで、言葉や文字のやり取りは増えていますが、思いを重ねていこうというコミュニケーション姿勢は、むしろ失われているような気もします。
それが私には、とても気にいらないのです。

コミュニケーション・ツールの発展や多様化は、むしろコミュニケーションを阻害しているのではないか。
30年前に書いた「非情報化革命論」は、ますます深化しているようです。

■北朝鮮の核兵器開発に思うこと(2016年9月14日)
北朝鮮の相次ぐ核兵器のデモンストレーションに危惧を抱いている人は多いかもしれません。
だからこそ、日本も核武装しなければいけないと考える人もいるかもしれません。
そこまでいかなくとも、核抑止力を高めなければいけないと思う人は多いでしょう。
でも北朝鮮の核兵器がなぜそんなに脅威になるのでしょう。
私には、米ソや中国の核兵器のほうがよほど怖いですし、日本の原発も怖いです。

北朝鮮の金正恩はなぜ核兵器にこだわっているのでしょうか。
そしてどういう状況の時に、その核兵器を使用するつもりでしょうか。
それを考えれば、北朝鮮の核兵器開発の捉え方は一変するはずです。
北朝鮮が核兵器にこだわっているのは、核抑止力といわれる核兵器で、囲まれているからではないのか。
あるいは経済制裁で、世界が自分たちを追い詰めていると思っているのではないのか。
80年前の日本を思い出します。
そして日本は戦争に踏み切りました。
もちろん開戦前からわかっていたように、敗戦しましたが。

脱北者が続いていることから推測できるように、北朝鮮の国民は金正恩を支持はしていないように思います。
リビアのカダフィーやイラクのフセインとは違います。
なぜアメリカは、カダフィーやフセインを倒したように、金正恩を倒さないのか。
その気になれば、それはそう難しい話ではないでしょう。
にもかかわらず、それが起きないのは、たぶん金正恩の存在価値があるからでしょう。
金正恩が核兵器開発や暴挙を繰り返せば繰り返すほど、利益を得る人がいる。
金正恩の北朝鮮を守っているのは誰なのかが、そう考えると世界は少し違って見えてきます。

私たちは、北朝鮮の核兵器には脅威を感ずるのに、なぜアメリカの核兵器には脅威を感じないのか。
アメリカの核兵器は、しっかりと管理されていて、暴走はしないと思っているのでしょうか。
アメリカは、いま先制攻撃にも核兵器を使用する方向に向かっており、安倍首相はそれを督促すらしています。
北朝鮮の人たちはどう受け止めるでしょうか。
弱い立場の者が、戦いを挑むのは、追いやられた時だけです。
追いやられなければ、核兵器など使うはずもありません。
北朝鮮に核兵器を使わせるのは、他国です。

そもそも核兵器が目指しているのは、生命や環境の破壊です。
それを考えれば、北朝鮮の核兵器開発を止める唯一の方法は、世界が核兵器を廃棄することしかありません。
金正恩の言動の向こうに、私はそれを感じます。
自らは核兵器で威嚇しながら、他者の核兵器開発を非難することが私にはまったく理解できません。
自らはアメリカの核兵器に守られることを良しとしながら、北朝鮮のやっていることを理解しようとしない人の身勝手さを、どう考えるべきか。

いずれにしろ、軍事的な威嚇や経済的な追いつめは、事態をよくしていくことはないでしょう。
軍事力という暴力に依存する人は、結局は、その暴力の餌食になる。
私はそんな気がします。

蛇足ですが、だからどうしたらいいのかに関しては、極めて簡単です。
まずは北朝鮮の金正恩を理解しようとすることです。
対話できない相手だという報道が多いですが、そうであればこそ、どうしたら対話できるかを考えるのが、外交ではないかと思います。
危機感や不信感をあおる報道に、不安を感じます。

■「リンカーンクラブサロン「EU離脱に関するイギリスの国民投票」の報告(2016年9月15日)

リンカーンクラブサロンの3回目は、「EU離脱に関するイギリスの国民投票」をテーマに開催しました。
平日の夜でしたが、その関係か、いつもとは違ったメンバーになりました。
生活者感覚の高い2人の女性も参加してくれました。
今回のイギリスの国民投票に関しては、ネガティブな見方が多いですが、リンカーンクラブ代表の武田さんは、「民主主義政治の歴史に残る金字塔を打ち立てるほどの画期的な出来事」と高く評価し、民意を反映させる手段としての国民投票制を日本でも取り入れるべきだと問題提起しました。
加えて、いまの日本の議会制民主主義は、果たして民主主義を反映できる仕組みなのかと、疑問を投げかけました。
そこから話し合いが始まりました。

欧州生活の長かった庵さんは、世代別の投票率が大きく違っているなど、今回の国民投票の実態や、在英の友人のコメントなどを紹介してくれました。
畑さんは、国民投票だからといって民意を反映するとは限らないと指摘し、民意を反映させるための条件が重要だとし、さらに国民投票にはふさわしくない問題もあると指摘しました。
片野さんは、現在の議会制民主主義においても民意は反映されているのではないか、と指摘しました。
国民が重要な政治問題に賛否を投票するには、ある程度の知識や情報も必要になるのではないか、いまのマスコミ報道は果たしてそういう状況を創りだすようになっているかという指摘をしたのは、女性の小室さんです。
子ども問題などに関わっている鎌田さんは、日常の問題を通して社会をよくしようと活動している立場からすれば、男性たちの議論にはちょっと距離を感ずるというような指摘もありました。
いずれも生活者感覚と実際の社会活動から出た、説得力ある発言でした。
この種の話し合いでは、問題の捉え方や議論の仕方における男女の違いが出てくることが多いのですが、今回もまさにそれを明確に感じました。
リンカーンクラブの藤原さんは、最後に、だからこそ、こういう話し合いが大切なのだろうと思うとまとめてくれました。

大きな流れはこんな感じですが、その間、原発問題や教育問題なども出ました。
民意をより強く反映させられるような選挙制度へのアイデアも、鎌田さんから出されました。
武田さんと畑さんの異論のぶつかり合いもありましたが、まあ今回も事なきを得ました。
お互いに、最後に言い方がきつかったことを謝っていましたが、激論ができたということは、今回のサロンもまあ民主主義的に行われたということでしょう。

私は、話を聞いていて、民意を反映させるための手段として国民投票を実現するためには、制度的な条件整備と同時に、投票する私たち国民がしっかりした「民意」を持つことが大切ではないかと改めて思いました。
民意を反映させるためには、そもそも「民意」がなければいけません。
民主主義は誰かがつくってくれるものではなく、私たち自らが創っていかねばいけません。
改めて、そのためにこそ、リンカーンクラブの活動を広げていきたいと思いました。
みなさんもぜひリンカーンクラブへの入会をご検討下さい。

なお、次回は、安倍政権支持者の視点からの問題提起を受けて、日本の民主主義の現状について話し合いができればと思っています。
掴み合いにならない程度の激論が予想されます。
日程など決まったら、リンカーンクラブのホームページで案内させてもらいます。

■豊洲を選んだ時に築地は終わったのかもしれません(2016年9月16日)
豊洲盛り土問題はますます問題が深刻化しています。
築地市場の全面的改築が話題になったのは、鈴木都政の時代でした。
バブル期らしい、ウォーターフロント計画もにぎやかに報道されていました。
当時私は、東京都のCIプロジェクトの委員をさせてもらっていた関係で、ウォーターフロント計画も少しだけ勉強しました。
当時、仲卸の人とも知り合ったこともあり、築地への関心も持っていました。
しかし、都知事が青島さんになった途端に、ウォーターフロント計画も築地改築も消えていきました。
その後、私が朝の築地市場を見せてもらった時には、しかしまだ、移転よりも改築のほうが話題だったような気がします。

豊洲移転が決まったのは、石原さんの知事時代でしたが、なぜ築地の市場関係者がそれを受け容れたのか、理解できませんでした。
普通に考えれば、よりによって、安全性に問題があるところへの移転を受け入れたということは、よほどのお金が動いたのだろうなとしか思えませんでした。
築地は終わったと思いました。
文化ではなく、経済になってしまったのです。
興味はなくなりました。

2年ほど前に、築地の老舗の一つの丸山海苔店の社長に会う機会がありました。
そして1冊の本をもらいました。
テオドル・ベスターの「築地」です。
600頁を超す大著です。
それを読んで、不思議に思いました。
この築地はどこに行ってしまったのか。
築地市場の人たちは、どうして豊洲などを受け容れたのか。

豊洲を受け容れた以上は、もはや築地の哲学は消え去っているでしょう。
築地は過去のものになってしまったのです。
それは、今回の問題への築地市場関係者の発言が明確に語っています。
彼らは、もはや「食の専門家」ではなく、「産業人」になっています。
そして、いま起こっているのはまさに、経済問題です。
そこには、食という視点はなく、築地の人たちの誇りは感じられません。
いま問題になっているようなことは、私は初めて知りましたが、築地市場のトップの人たちであれば、知っていたはずですし、少なくとも知りうる立場にあったはずです。
現場を見に行けば、すぐわかることです。
設計図を見てもわかるはずです。
まさか自分たちにとって一番大切であるはずの、豊洲の建物の設計図を見ていないとは思えません。
市場関係者は、今頃知らないとは言えない立場のはずです。
そう思えてなりません。

豊洲移転をやめるかどうか、それが日本の未来を決めるような気がします。
経済の視点からではなく、生命の視点から、考えれば、おのずとそうなるはずでしょうが、福島原発事故の後の政府や国民の言動を思いだすと、結局は豊洲に移転することもありえそうです。

築地市場の若い世代から、豊洲拒否の動きは出ないものなのでしょうか。
ちなみに、テオドル・ベスターの「築地」は、厚くて読むのは大変ですが、示唆に富む面白い本です。

■蓮舫民進党への絶望的失望(2016年9月16日)
民進党の代表になった蓮舫さんが、あろうことか野田元首相を幹事長に考えているようです。
野田さんはそもそも自民党以上に自民党の人で、自民党に善いように利用されて、原発を再稼働させ、TPPを俎上に挙げた張本人です。
そして政権交代の成果を台無しにした中心人物です。
私は、当時のブログで、野田さんは自民党から送り込まれたトロイの木馬だと書きましたが、野田さん自身はその自覚はないでしょう。
しかし、野田さんこそが民主党を壊したというイメージを持っている人は少なくないでしょう。
私は、野田さんに少しでも誇りがあれば、首相を辞めた時点で議員辞職すべきだと思っていました。
その野田さんを蓮舫さんは幹事長にしようとする。
完全に民進党への細い期待は立ち消えました。
民進党には新しい政治を発送する文化はどうもなさそうです。

民進党より小池新党に期待したくなる気分です。
なにか元気が出るような大きな動きは出ないものでしょうか。

■まちづくり編集会議をスタートさせました(2016年9月19日)
6月くらいから、まちづくりや各地の社会教育などに関わっている仲間たちと、「まちづくりに関わっている人たちのゆるやかなネットワーク」をテーマに話し合いを重ねてきました。
大枠の合意ができましたので、具体的に動き出すことにしました。
名前を「まちづくり編集会議」としました。

この名前には、実は深い思いがあり、3年ほど前にもあるところで立ち上げたかった仕組みです。
地域社会には、多種多様な素材や多彩な人材がいます。
そうした素材や人を「編集」し、その地域社会ならではの「物語」を育てていくことが、私が考える「まちづくり」です。
それも、だれかが編集するのではなく、そこに住む住民たちみんなが主役になって編集するという、「共創」型のまちづくりが、私がこれまで関わらせてもらってきたプロジェクトの理念です。

全国各地に、そうした「まちづくり編集会議」が生まれ、それらがゆるやかにつながっていく。
そんなビジョンを描いています。
まもなくホームページも立ち上げ、広く呼びかけていく予定ですが、いまはまだ6人の小さなグループです。

今日は5人が集まりました。
呼びかけの対象は、自治体職員や自治体議会議員、あるいは各地でまちづくりや社会教育の活動をされている人たち、さらにはそういう活動に関心のある人たちです。
来春には本格的に組織化する計画ですが、組織づくりと並行して、いろんな集まりやイベントを開催していく予定です。
またご案内などさせてもらいますので、よろしくお願いいたします。
こうした活動に関心のある人がいたら、私あてにメッセージを送っていただければと思います。
ぜひ仲間になってください。

■10月10日、代々木の「ちいきコン」に来ませんか(2016年9月20日)
10月10日、代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで、若者法人JapaneseTEAMが、全国地域活性団体コンテスト、略して、「ちいきコン」を開催します。
詳しくは「ちいきコン」のサイトを見ていただきたいですが、全国で活動している9つの若者グループが集まって、自らの活動を発表し、参加者が投票する公開型のコンテストです。
友人の紹介で、事務局の美里さんがやってきたのですが、話を聞いてみると、私たちが15年前にやっていたコムケアの考えととても似ています。
とくに、参加者が応援した発表団体に参加費の一部を提供できるという仕組みがあることです。
これは、私たちがやった「コムケアカード」による参加者の直接支援活動と全く同じです。
それで私も協力させてもらうことにしました。
もしお時間があれば、ぜひ参加して、若者グループを応援してやってください。
今回をスタートとして、毎年開催していく計画だそうです。
会場でお会いできればうれしいです。
http://chikilab.com/contest/

■カフェサロン「3.11福島原発事故後の福島で仕事をしてきて感じたこと」のご案内(2016年9月23日)
久しぶりに、生々しい福島からの報告をしてもらうサロンを開催します。
これまでも何回か、福島からの報告をしてもらうサロンはありましたが、今回の話題提供者は櫻井裕さんです。
櫻井さんは土木エンジニアです。
3.11の後、じっとしていられなくなったようで、被災地にできることはないかと、仕事を辞めて、復興庁の復興支援員となり、福島県の楢葉町役場で復興作業に取り組んでいました。
その後、今度は環境庁の除染推進専門官として、浪江町の除染工事を担当していました。
今年、福島から戻り、いまは栃木県の宇都宮で仕事をしています。
福島原発事故後の状況を、まさに除染や復興の仕事を通じて、体験してきたわけです。

その櫻井さんから、自分が福島で体験してきたことを、みんなに報告する義務があると思うので、湯島で話させてくれないかという連絡がありました。
私は、時々、櫻井さんから福島の話をお聞きしていましたが、まとまった話を聞くのは初めてです。
そこで、櫻井さんの思いが熱いうちに、サロンを開催してもらうことにしました。

ちなみに、櫻井さんは茨城県の境町に住んでいます。
昨年の関東豪雨災害の時には被災地となったのですが、櫻井さんの出身地を憶えていた楢葉町有志の方々が募金を集めて境町長に届けてくださったそうです。
このことから、櫻井さんがどれほど現地に入り込んで仕事をしてきたかがわかります。
ですから通り一遍の観察者の視点を超えた、櫻井さんの思いが込められた報告になると思います。

ぜひ多くの人たちにお聞きいただきたいと思っています。
まわりの人たちにもご案内いただければ嬉しいです。

●日時:2016年10月15日(土曜日)午後1時半〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●テーマ:「3.11福島原発事故後の福島で仕事をしてきて感じたこと」
●話題提供者:櫻井さん(敬虔なクリスチャンでありミュージシャンでありエンジニア)
●参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com(佐藤)

■カフェサロン「病原体から人間を考えるパート2」の報告(2016年9月26日)
昨日のカフェサロン「病原体から人間を考えるパート2」は、10人のサロンになりました。
今回も、益田さんの話に、みんなが質問しながら、話し合うスタイルで進みました。
前回のレビューから話は始まりましたが、ポイントは、「生物と環境」というところです。
生物にとって環境は自らの存在基盤ですが、問題は環境をどうとらえるかです。
病原体は、みずからにとっての環境である人間を、発病させて死に至らしめると考えがちですが、益田さんは、前回、ジフテリア菌を例にして、そうではないのではないかと話しました。
ジフテリア菌は、そもそもそれ自身は、人間に対する毒素を持っておらず、実は発病させるのは、ジフテリア菌に寄生しているファージが毒素を出すというのです。
つまり、ジフテリア菌そのものは、自らの環境である人体を壊そうなどとはしていないわけです。

これを少し広げて考えると、生物は自らにとっての直接の環境を損なうようなことはしないが、その環境のもう一つ外側にある環境を損なうような行為をすることがあるということになります。
そこで生物主体と環境の構造を複層的に考えるという視点が出てきます。
いささか粗っぽい言い方をすれば、人間は自らの直接的な環境である、いまの生活を良くしようと思いながら、その外部にある自然環境を壊す(環境破壊)という生き方をしているわけです。

前回、糖尿病を例にして、食欲あっての自分と考えるか、肉体あっての自分と考えるかで、行動が変わるだろうという話が出ました。
これも、生物と環境の構造をどうとらえるかに関わってきます。

そして益田さんは、前回同様、同心円で、人間の環境構造を図解してくれました。
益田さんの考えは、人間のど真ん中には「欲」がある。
その外側に、「心」があり、さらにその外に「肉体」、そしてその外に「自然環境」という図です。
同時に、その構造は、外から内内部が創りだされていくとも言います。
自然が人間を生み出し、人間が心を生み出し、心が欲を生み出す、というわけです。

そこで、「生物は、自らの直接外側の環境を壊すことはない」と言う命題に戻って考えると、どうなるでしょう。
益田さんは、「自殺」を例に挙げます。
自殺は、肉体のみならず、心をこわすわけですが、先の命題に従えば、それを行うのは「欲」であるはずがないと言うのです。
欲の直接の環境は、心であり、肉体だからです。
とすれば、欲の中に、実はもう一つの「何か」が寄生しだしているのではないか。
それが、直接の環境である「欲」のために、その外側にある「心」や「肉体」を壊すのではないかというのです。
問題は、その「何か」とは何か、です。
それは益田さんにも分からないと言いますが、いくつかの示唆はありました。
たとえば、社会構造、たとえば、名誉心、です。
そして、益田さんは、自殺の問題は、そこから考える必要があると言います。

うまく伝わったでしょうか。
他にも破傷風菌の不思議な行動の話もありましたが、普段、考えたこともないような、いろんな話が出ました。
話し手の益田さんも、大学教授を辞めて以来、こんなに頭を使ったことはないと言いましたが、参加者はもっと頭を使ったと思います。
まあ、そんなサロンでした。

ちなみに、以前、何か似たような話し合いがあったなと思いだしました。
その時には、ど真ん中に「金銭」があるという話も出ました。
さて、ど真ん中にあるのは、いったいなんでしょうか。

■豊洲問題で一番大切なこと(2016年9月27日)
豊洲問題は、ますます混迷しているようですが、その一方で、市場建設地としての安全性の問題があまり議論されていないのがとても気になります。
問題の捉え方が、ずれているのではないかという気がしてなりません。

豊洲の地下空間に地下水がしみだしてきているという報道に接した時に、私がまず考えたのは、これほどの地下水がしみだすという場所に、果たして市場をつくっていいものだろうかということでした。
地下水だけではなく、おそらくさまざまな目に見えないガスも出ていることでしょう。
そういう視点からは、誰が地下空間を設けたかどうかという問題よりも、果たして豊洲が市場建設地として適切なのかどうかを、原点に戻って考えるべきではないかと思います。
私自身は、最初から、豊洲市場はあり得ないと思っていましたし、なぜ問題の多い、豊洲に決まったのかが理解できませんでした。
正直に言えば、いまや大量の商品が流通する大型市場に並ぶ食品の安全性などは望めないものという思いがありますので、その後、関心を全く失っていました。
築地市場組合の人たちが、豊洲を受け容れたのは、そういう「産業化」された市場に身を任せたのだろうという思いがありました。
福祉や環境に取り組んでいる人たちの多くも、そういう時代の大きな流れに身を任せだしていますから、築地市場の人たちを批判するつもりはありません。

ですが、それでも、少しくらいは良識が残っていると思っていました。
しかし、自らがこれから舞台にしていく豊洲の「市場施設」の作り方に、これほど無関心だったとは、驚きました。
最近は、みんな「現場」には行かずに、事務所で判断するようになっているのかもしれません。
築地で働く人たちは、都庁の職員に怒りをぶつける前に、まずは自らのそうした姿勢をこそ問い直してほしかったと思います。
会長の発言には、当事者意識が全く感じられませんでした。

大切なのは、問題は責任者探しではなく、豊洲がはたして市場としていいのかどうかです。
答えは、私自身は明らかではないかと思います。
専門家による、盛り土対策は、それ自体が、豊洲は安全ではないと物語っているはずです。
専門委員会の有識者たちにも、私は大きな違和感を持っています。
私は、そもそも専門家会議の委員が、問題の発端だと思っていますから、彼らこそ責任を感じてほしいと思いますが、むしろ今の報道では、彼らは被害者的になっています。
私にはまったく納得できません。

事件としての責任者探しはするにしても、いまこそ安全性という見地から、市場の立地の適格性をこそ考えるべきではないかと思います。
問題は、安全性をどう高めるかです。
経済の問題や組織の意思決定の問題は、副次的な問題でしかありません。
いまの報道は、問題の本質をずらして騒ぎ立てているだけのようにしか思えません。

私たちの生活につながっていく多くの問題が、経済的な問題や政治的な問題にすり替わっていくことに、とても歯痒い思いをしています。

■「みんカフェ・我孫子」がスタートしました(2016年10月2日)
誰でも、そこに行くと自分の居場所が見つかるような、「ゆる〜いカフェ」を、ゆる〜くつないでいこうという活動を、昨年から、湯島でスタートさせています。
主旨に共感してくださった方が、それぞれの場所で自分流に開いてもらい、いつかそれがゆる〜くつながればと思っています。
現在、湯島のほか、新潟と成田と印西などで、開催されだしていますが、今日は、私の住んでいる我孫子で、MTねっとわーくの土佐さんが第1回の「みんカフェ・我孫子」を開催してくれました。
私を含め、7人が参加しました。
今回は、いろんな活動をしている人たちが集まりましたが、地域によって、また主催者によって、スタイルはさまざまです。
テーマのない集まりであるからこそ、さまざまなサロンが創れます。
今回は、さまざまな活動が、ゆる〜くつながっていく機会になったような気がします。
これからどう展開していくか、楽しみです。

もしやってみようという方がいたらご連絡ください。
簡単なメモですが、「みんなのゆる〜いカフェ」(みんカフェ)ネットワーク構想を送ります。
そして、できるだけ応援させていただきます。

みんなが、自分の居場所が持てるような社会になれば、きっと豊かな社会になっていくでしょう。
今生は、それが期待できそうもありませんが、来世ではそんな社会に住みたいと思っています。

■第1回まちづくりサロンへのお誘い(2016年10月3日)
いま、さまざまな活動が、自分たちの生活環境を安心で豊かなものにしようという、広い意味での「まちづくり」に向かっています。
また、行政主導のまちづくりから、住民主導のまちづくりへと、「まちづくり」のとらえ方も、大きく変わってきているように思います。
そうしたことを踏まえて、これまでさまざまな形で、広義の「まちづくり」に関わってきたメンバーで、今春、「まちづくり編集会議設立準備会」を立ち上げ、議論を重ねてきました。

「まちづくり編集会議」という言葉に違和感を持つ人もいるかもしれません。
私たちは、こう考えています。
地域社会には、多種多様な素材があり、多彩な人材がいます。
そうした素材や人を探しだし(取材)、整理・味付けし(編集)、その地域ならではの「魅力的な物語」を育てていくことが、「まちづくり」ではないか。
それも、だれかが編集するのではなく、そこに住む住民たちみんなが主役になって編集するという、「共創」型のまちづくりが大切ではないか。

 そのためには、どうしたらよいでしょうか。
そこで、各地でそうした活動に取り組んでいる人たちの、ゆるやかなネットワークを創るとともに、各地に、その地域の「まちづくり編集会議」をつくっていきたいと考えています。
そして、そうした全国各地の「まちづくり編集会議」をゆるやかにつないでいくことで、この社会をもっと素敵なまちに変えていきたい。

いささか大仰な目標ですが、その準備活動のひとつとして、「まちづくりサロン」を毎月開催していくことにしました。
毎回、テーマを決めたり、ゲストに来ていただいたりして、まちづくりを具体的に語り合う場にしていきたいと思いますが、最初の集まりは、こういう思いに共感してくださった人たちに集まってもらい、これからの「まちづくり」について、それぞれの思いを語り合う、気楽なサロンにしたいと思っています。
「まちづくり」の概念をできるだけ広くとらえていきたいと考えていますので、どなたでも歓迎です。
それに、サロンですので、気楽な語り合いの場にしたいと思っています。
さまざまな立場のみなさんのご参加をお待ちします。

○日時:2016年10月23日(日曜日)午後3時〜5時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「まちづくりってなんだろう」
参加者それぞれの「まちづくり」に関する思いを語り合ってもらいながら、これからの「まちづくり」の方向性を考えていければと思います。
○会費:500円
〇主催:まちづくり編集会議設立準備会
○申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

■「自分の足で立ち、自分の頭で考える人」でありたい(2016年10月4日)
「理論社」の創業者である小宮山量平さんは、「自分の足で立ち、自分の頭で考えなければ、第2の敗戦が訪れる」と話されていたそうです。
小宮山さんは、数年前に95歳でお亡くなりになりましたが、たしか80代になってから長編小説に取り組まれだした。
娘さんのお一人が、たまたま私が住んでいる我孫子にお住まいだったこともあり、何回かお会いした時に、お父上の小宮山量平さんのことを知りました。
関心を持って、お書きになったものを少し読ませてもらいましたが、心に響くものばかりでした。

先ほど亡くなられた、むのたけじさんもそうですが、戦争を体験されるとともに、敗戦後の時代を生きた人たちのメッセージは、心に響くものがあります。
たぶん生々しい思いが、そこにあるからでしょう。
むのさんに直接インタビューして本にした黒岩比佐子さんから、むのさんのお話をお聞きしましたが、黒岩さんがかなり興奮しながら、むのさんのお話をしてくれたのを覚えています。
むのさんの心が、黒岩さんの心を揺さぶったのでしょう。
その黒岩さんも、若くして亡くなってしまいました。

小宮山量平さんが危惧されていたように、いまの日本は、「自分の足で立ち、自分の頭で考える人」がいなくなってきたような気がします。
ですから、せめて自分だけは、そうならないようにしたいと思っていますが、それだけでは私自身にとっても住みよい社会にならないでしょう。
ですから、できるだけまわりにも働きかけ、この時評ブログも書き続けているのですが、書き続けるのは、それなりのエネルギーが必要です。
このブログは、読者も少なく、書いたところで社会への影響はほとんどないでしょうが、一人でも読者があれば、書く意味、あるいは書く責任はあると考えています。
しかし、どうも書く気力は萎えがちです。
たぶんそうしたことから社会の劣化が始まるのでしょう。
社会の劣化は、だれにとっても、自分から始まるのです。
社会を嘆く前に、むのさんや量平さんの生き方に学びたいと思います。

小宮山量平さんの、もう一人の娘さんによれば、量平さんは、『おかあちゃん、ちっともいい世の中にならなかったねえ』と話していたそうです。
「いい世の中」になっていくのは、いつなのでしょうか。

そのために、これからも私は、自分の頭で考えていきたいと思っています。

■互恵的に生きられる社会を目指したい(2016年10月4日)
先日、体調がおかしくなった時に、フェイスブックに体調不良を書きました。
そうしたら、いろんな人からアドバイスが届き、なかには無償で私へのマッサージを提供するという申し出まで届きました。
先週は、パソコンからメールの記録がすべて消えてしまうというトラブルが発生しました。
この時もフェイスブックに書いたら、たくさんの人たちが、対応策を教えてきてくれました。
おかげで、もうメールが消えても大丈夫です。
自らの弱みや悩みを開いていくと、必ず誰かが助けてくれる。
そういう体験を、これまで何回もしています。

人は、他者の心の動きを感じとるミラー・ニューロンを持っており、そもそも他者と互恵的な関係に入る性向を生得的に持っていると言われています。
そして、それが、生物的にはひ弱な種である人類が、生き延びてきた理由だと言う人もいます。
そのことを、時々、実感させてもらうのです。
救ってもらうだけではありません。
私自身、困っている人がいたら、私に何ができるかを、自然と考えます。
誰かの役にたった時には、幸せな気分になれます。
人にとっての最高の喜びは、他者からの感謝の笑顔かもしれません。
互恵的に生きたいというのは、人の本性ではないかと思います。

しかし、その互恵的な本性が、いま「不要のもの」となりつつあります。
欲望の対象としての、あるいは生きる拠りどころとしての、金銭の存在が大きくなってきてしまったからです。

「近代」は「貨幣の流通」によって始まったという人もいます。
貨幣経済社会では、人は貨幣さえ所有すれば、他者の助けや支えなしでも生きていけるという考えを生んだのです。
つまり、(近代の意味での)貨幣の登場が、互酬的な人の生き方を変えてしまったのです。
さらには、互恵的な性向は、むしろ生きるためには邪魔にさえなりかねないのです。

先日、テレビで、「貧しい人を国が救うべきか?」という調査結果が話題になっていました。
経済を中心にした、国民の意識調査ですが、国による貧困者支援に反対な人の割合は、ドイツ7%、イギリス8%、イタリア9%、中国9%、アメリカ28%、そして、日本38%だったそうです。
原典http://www.pewglobal.org/files/pdf/258.pdfも少し読みましたが、調査方法に粗さを感じましたし、このデータは見つかりませんでしたが、大勢としては、そうなのでしょう。
意外な気もしますが、最近の状況から、そうだろうなとも思います。

私自身は、互恵的な生き方にこだわっています。
そして、貧しい人を救うためにこそ、国はあるのではないかと思っています。
しかし、それはお金による救済だけではありません。
お金による救済を進めれば、ますます「お金に呪縛された社会」になっていくでしょう。
私たちの生き方から、問い直さなければいけません。

私はお金に依存するよりも、人に依存する生き方を大事にしたいと思っています。
しかし、残念ながら、それは一人では実現できません。
ますます生きにくい社会になっていくのが心配です。
でも、時々、不幸な事件に遭遇すると、たくさんの人が支えてくれます。
ほんとうはみんな、互恵的な生き方をしたがっているのかもしれません。

流れを逆転させなければいけません。

■働き方と働かせ方(2016年10月5日)
「働き方改革」が話題になっています。
霞が関も都庁も、経団連も、みんな「働き方」を改革しようと動き出しています。
これって、おかしくないでしょうか?
言葉の使い方が間違っている、あるいは、問題の捉え方が間違っている。
私には、そう思います。

もし、働く人たちがそう言っているのであれば納得できますが、なぜか「働き方改革」を熱心に説いているのは、働く人たちではなく、働かせる人たちです。
問題の所在の捉え方と意識が違っているように思うのですがいかがでしょうか。

正しくは、「働かせ方改革」でしょう。
そうであれば、改革宣言も納得できますし、実効性も感じられます。
しかし、「働かせ方」を変えずして。働く人たちに「働き方」を変えろと言うのは、どう考えても、私にはおかしく感じます。

よく言われるように、変えられるのは自分だけです。
にもかかわらず、多くの人は、他者を変えようとする。
つまり、本気ではないのです。
自らが変わろうとしないで、他者を変えることなど、できるはずもない。
逆に、みずからが変われば、他者は変わっていくものです。

こうしたおかしなことが、たくさん、あります。
単なる言葉遣いの問題だと思われるかもしれません。
しかし、言葉遣いにこそ、思想や目的が現れるものです。
そうした視点で、気を付けていくと、以下に本末転倒したことが多いかが見えてくるかもしれません。

■国家が争い合うグローバリゼーション(2016年10月6日)
昨日の読売新聞に、「奈良の都にペルシア人役人がいた」という記事がありました。
それによると、奈良の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯」という名字を持つ役人の名前が書かれていたのだそうです。
当時、日本は今以上に国際色豊かで、ペルシア人もいたことは、これまでも言われていましたが、木簡で確認されたのは初めてだそうです。

私たちは、進歩主義、つまり時代とともに、文化は進歩し、いまがその頂点にあると考えがちです。
たとえば、グローバリゼーションや人間の活動範囲に関しても、そう思いがちです。
しかし、そんなことはありません。
いま、国会で、議員の二重国籍が問題になっていますが、奈良時代には役人の中にペルシア人がいたのです。

そもそも聖徳太子が突厥人だったという論もありますし、天武天皇も渡来人だったという説もあります。
いずれもかなり説得力ある論拠が提示されています。

私たちが知っている歴史は、時代に合わせて作られたものでしかありません。
そして、その時代の人は、いまが一番進歩の頂点にあると思いたがりますから、歴史書はほとんど前の時代よりも今の時代がいいということになりがちです。
しかし、歴史は必ずしも進歩しないことは言うまでもありません。

たぶん奈良時代以前の日本列島には、さまざまな民族の人たちが住んでいたのでしょう。
文化も多様だったはずです。
グローバリゼーションとは、国家の枠を超えると言う意味が含まれています。
インターナショナルとは違うのです。
世界の構成原理が変わるということではないかと思います。
だから逆に、ナショナリズムへの逃避も強まるわけです。

グローバリゼーションの時代には、むしろ多くの人が、さまざまな国籍をもって、国家の枠にこだわらない発想をしてほしいという思いがしますが、これは私の思い違いでしょうか。
国家が争い合うグローバリゼーションって、いったい何のか、私にはよく理解できません。

■世界が広がる議論(2016年10月8日)
昨日から企業の管理職に人たちの合宿に参加しています。
テーマをもって自分たちで研究し,報告書をまとめていくというプログラムの仕上げの合宿です。

こういう合宿に、私は25年以上,継続して参加していますが,そこで感ずることのひとつは、議論する文化がどんどんなくなってきているのではないかということです。
さらに気になるのは,パソコンなどの持ち込みによって、直接的な話し合いが変質してきたことです。
プロジェクターで投影されたパソコン画面を通しての話し合いのスタイルが広がっている気がします。
昔は、ホワイトボードに、みんなが手書きしあいながら議論していたような気がします。
私が、この活動に関わり出した25年前の風景とは、あまりにも違ってきています。
年々の変化は小さいですが、なんとなくそんことを感じ続けています。
それは、私には企業の文化の変化、時代の風潮の変化、のようにも感じます。

今回は、これまで私が参加してきた層より若い世代だったのですが、状況は同じでした。
議論を起こそうとあえて挑発的なコメントもしてみましたが、逆効果でした。

私は,議論が大好きです。
議論を通して,自らの考えを相対化でき、世界を広げることができるからです。
私にとっての議論の魅力は、何かをまとめるというよりも、世界を広げるというところです。
世界が広がれば、新しい問題が見えてきます。
何かをまとめるということは、新しい問題に出会えるということです。

同世代の人たちとは今もよく議論します。
しかし,考えてみると,若い世代の人たちとの議論は少なくなったような気がします。
もしかしたら,私の議論の仕方がずれてきているのかもしれません。
議論していないのは、私なのかもしれません。
その可能性がないではないですが、私には、やはり社会から、気づきのための議論の文化が消えつつあるような気がしてなりません。

もっとも、最近はディベート教育も広がっているようです。
議論し合い、異論をぶつけ合うことが重視されてきているという動きもあります。
しかし、議論する文化が消えつつあるからこそ、ディベートなどが話題になってきているのかもしれません。
しかし、ディベートと議論は、私には別物です。
違いを明確にしたり、合意形成を目指したり、自己弁護したりする議論ではなく、世界を広げるという議論、新しい気づきに出会える議論が、もっと広がればいいなと、思っています。

■75年サイクル論の不気味さをオリンピックパレードに感じました(2016年10月9日)
一昨日行われた銀座のオリンピックパレードの映像を見ました。
報道によれば、80万人の人が集まったそうです。
私には、遠い世界の話ですが、もしかしたら、すぐ近くの世界の話なのかもしれないと、映像で歓喜している人たちを見ながら、複雑な気持ちになりました。

政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんが、「全体主義はよみがえるのか」というテーマで、対談したものを本にしています。
集英社新書の「愛国と信仰の構造」です。
そこでの対話の基調にあるのは、社会学者の大澤真幸さんの「近代日本150年の25年サイクル論」です。
近代日本150年は、第二次世界大戦を境に75年で区切られる。
そして、その前後の75年を、さらに25年で区切っていくと、相似性が読みとれるというのです。
最初の25年は、「富国強兵」と「戦後復興」。
次の25年は、「アジアの一等国・好景気」と「ジャパンアズナンバーワン・バブル景気」。
そして最後の25年は、大戦前の場合は「恐慌から全体主義へ」という流れで、戦争に突入していくわけです。
それをなぞるように、いま、バブル崩壊を経て、全体主義の機運が高まっている、というのが、この対話の基調です。
そして、ふたたび大戦前のような結果にならないようにするにはどうしたらいいかを、おふたりは話し合いの中で、いろいろと示唆しています。
とても密度の濃い内容ですが、話し合いスタイルなので、とても読みやすく、気楽に読めますので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思う本です。

75年サイクルを表にしたものを、集英社新書の「愛国と信仰の構造」から引用させてもらいます。
この表を見ていると、いろんなことに気づくと思います。

■カフェサロン「3.11福島原発事故後の福島で仕事をしてきて感じたこと」の報告(2016年10月16日)
昨日開催のカフェサロン「3.11福島原発事故後の福島で仕事をしてきて感じたこと」は、16人参加という大盛況でした。
福島が忘れられていないと言うところで、まずはほっとしました。

3.11後、福島の楢葉町と浪江町で3年間仕事をしてきた櫻井さんは、クリスチャンでもあるので、話の最初に、新約聖書のマタイ伝25章をまず読み上げてくれました。
そして、櫻井さんご自身の3年間の仕事や生活について、話してくれました。
直接的に被災の状況が報告されたわけではありませんが、櫻井さんの生活を通して、いろんなメッセージを、それぞれが受け止めたと思います。

たとえば、櫻井さんは道路補修を終えた後に、そこに横断歩道の白いマークを書き上げた時に、「これが復興だ」と感じたと言います。
あるいは、人はたくさんいるのに、女性や子どもたちが少ないことに異様さを感じていたとも言います。
週末に東京に戻ってくると、そのあまりのギャップにも異様さを感じていたようです。
被災地の人たちは、みんなやさしいとも言いました。
被災そのものよりも、それによって、住民たちの間に、いろんな溝ができてしまったことの方が、大きな問題かもしれないとも話されました。
事故直後、現地の住民たちは、死を意識する緊迫感の中で過ごしていたというお話もありましたが、私には、櫻井さんが体感されたそうした日常的な話が心に突き刺さりました。

話の内容は、参加者のお一人の近藤さんがビデオで記録してくださいましたので、ユーチューブでアップできると思います。

福島の支援活動にも取り組んでいた山根さんは、先日、福島に行かれたそうです。
現地に行ってみて、衝撃を受け、意識が一変したという話をしてくれました。
報道を通して私たちが感じていることと、現地はあまりにも違ったのでしょう。
現地に触れることの大切さを、みんな改めて感じたと思います。

話し合いを紹介しだしたらきりがないので、これもユーチューブにゆだねたいですが、参加された方から後でいただいたメールをご紹介します。

原発問題は昔から少し興味があったので、とても勉強になりました。
普通の主婦なので、難しい事はわかりませんが、
原発の危険度は、わかっていますので、
これから主婦の集まりで話していきたいと思います。

櫻井さんにもお伝えしましたがとてもうれしい感想です。
サロンをやっていてよかったと思うのは、こういう感想が聞けた時です。

最後に、私の思ったことを(当日も発言しましたが)書かせてもらいます。
福島の人たちは、3・11が起こるまで、原発は安全だと思っていました。
しかし、安全ではなく、それによって人生は大きく狂ってしまいました。
しかし、原発が福島に建設された時でさえ、原発の危険性を強く主張していた人はいました。
でもみんな、安全だと思い、その利益を享受する方にばかり関心を向けていたのかもしれません。
原発事故が起こって、初めて現実と直面することになったわけです。
しかし、それは福島の人たちだけではありません。
もしかしたら、福島とはまったくちがって幸せそうに見える東京の人たちにも、もしかしたら、明日、「3.11」が起こるかもしれません。
利便性にばかり関心を向けていていいのか。
福島に寄り添うことも大切ですが、福島から学び、まずは身の回りの問題に関心を高めることも大切ではないか。

そんなことを、櫻井さんの報告を聞きながら、私は考えていました。

■リンカーンクラブ公開フォーラムのご案内(2016年10月16日)
私たちの声は政治に届いているのか。
日本は国民主権の民主主義国家といわれているが、本当にそうなのか。
最近、改めて、そう感じている人は少なくないと思います。

1983年11月19日、第16代アメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンはペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、「人民の、人民による、人民のための政治」を呼びかけました。
有名なゲティスバーグ演説です。
以来、世界は、「人民の、人民による、人民のための政治」に向かって進んできていますが、必ずしも多くの人が満足する段階には至っていないばかりか、むしろ最近の日本では、逆行しているのではないかというような状況さえ生まれています。

そうした思いから、私たちは、日本の現実をできるだけ民主主義に近づけていこうという活動に取り組むために、しばらく休会していたリンカーンクラブ活動を再開。そのお披露目もかねて、公開フォーラムを、11月19日に開催することにいたしました。
急なお誘いですが、ぜひ多くの人に参加していただき、どうしたら、私たちの声を政治に届けられるのかを、みんなで考えたいと思っています。

ちなみに、リンカーンクラブは、特定の政治団体につながるものではなく、政党活動を展開するものでもありません。
その活動自体も、民主主義の理念(個人の尊厳を尊重すること)にしたがって、さまざまな意見を大事にしながら、主権者である私たち国民一人ひとりの声を、できるだけ政治に反映していくにはどうしたらいいのかを考えていこうと思っています。

私たちの社会を、私たち自身が納得できるものにしていくために、また、子どもたちの未来を豊かにしていく社会にするために、ぜひ多くのみなさまに参加していただき、一緒に考えていきたいとと願っています。
よろしくお願いいたします。

日時
2016年11月19日(土曜日) 午後2時〜5時(1時20分開場)
プログラム
 第1部:講演(次の3人の専門家から問題提起していただきます)
小林節(憲法学者:慶應義塾大学名誉教授)
伊藤真(弁護士:伊藤塾塾長)
武田文彦(リンカーンクラブ代表:究極的民主主義研究所所長)
 第2部:参加者による話し合い
講演者と参加者が一緒になって、話し合いたいと思います。
会場
AP品川7階(東京都港区高輪3-25-23 京急第2ビル)
  JR・京浜急行線・品川駅高輪口前の第1京浜を新橋方向に徒歩2分右側
  http://www.cdit.or.jp/o_lecture/ap-shinagawa.pdf
定員:100名
会費:3000円(学生2000円)
主催:リンカーンクラブ(http://lincolnclub.net/)
申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■普通に考えておかしいことはおかしいのです(2016年10月17日)
豊洲の騒動はますます混迷している気がしますが、今日のテレビで、市場関係者のみなさんが説明会で怒りの声をあげているのを見ました。
私はこの問題で、一番反省すべきは、市場関係者と専門家会議の委員だと思っています。
私は自宅を建てる土地を探している時に、その土地のことをきちんと調べました。
納得できない時には、価格が安くても、魅力的でも、無条件で対象から外しました。
自分が住む家は、安心できる土地の上に建てたいと思っていたからです。
そこが、汚染された土壌の土地だったら、どんなに安くても、わが家を建てる気にはならなかったでしょう。

また家を建てている時には、何回か現場を見に行きました。
設計図はもちろん見ていましたが、実際に現場に行って気づいたことは少なくありません。
市場は自宅ではないとしても、市場関係者のみなさんは、そこでずっと仕事をする場です。
ましてや、食品を扱う場です。
そういう人たちが、なぜ汚染された土壌の上に転居することを認めたのかが全く理解できません。
普通に考えれば、あり得ない話だと思います。
市場関係者のみなさんは自分の家を建てる時にも、そうしているのでしょうか。
豊洲の土壌がどういう土地だったかは、最初からわかっていたことです。
だから最初はみんな反対していたのでしょう。
でもいつの間にか変わってしまった。
私には、食品を扱う仕事をしている人としての責任感がないとしか思えません。
都庁が悪いのではなく、悪いのは市場関係者の組合のリーダーでしょう。

その汚染された土壌も盛り土をしたら安全だなどという専門家がいることも信じがたいことです。
本当に、安全だと思っていたのでしょうか。
いまも、盛り土すれば安全だと言っているようにも聞こえますが、あまりに不誠実ではないかと思います。
長年にわたって深く汚染された土壌は、そんなに簡単には除染されません。
事実、たった数年で、いろんな有毒物が地上に出てきています。
それは盛り土していなかったからと言えるのでしょうか。
盛り土していたら大丈夫なのでしょうか。
普通に考えれば、そんなはずはありません。
専門委員のみなさんは、そこにわが家を建てる気になるでしょうか。
もし、そうでないとしたら、技術者としての責任感がないとしか思えません。
いや、技術者としても、あまりにお粗末です。

この構図はよく見かける構図です。
たとえば、原発に関しても同じ構図を感じます。
専門家と受入側の土地の責任者である権力者とで、安全問題は処理されます。
そして問題が発生すると、実際に現場で汗している人たちがとがめられます。
そこで働いたり住んでいる人たちが、被害をこうむるわけです。

こうした構造から、抜け出るにはどうしたらいいか。
権力者や専門家に任せておくのをやめなければいけません。
そこに生活している人たちが、自分たちで考えていかねばいけません。
専門家のように各論で考えるのではなく、もっと知性を持って考えなければいけません。
最高の知恵と知性は、誠実に生きている現場の人にあります。
「お上」にはないのです。
専門家は、現場の現実から、知恵を学んでいるのですから。

■民進党から自由党へ(2016年10月18日)
新潟市長選で、原発再稼働に慎重な米山さんが当選したことは、久しぶりにちょっと元気になることでした。
米山さんは、共産党と自由党と社民党が推薦しました。
民進党は自由投票でした。
選挙戦終盤になって民進党の蓮舫代表は応援に駆けつけましたが、醜態としか思えません。
勝ち馬に乗るような野党は、野党とは言えません。

蓮舫代表が実現した時、私は民進党への期待を少しもちました。
しかし、野田さんが幹事長になってしまい、蓮舫さんもまた隠れ自民党だと知りました。
民主党を壊したのは、野田さんですし、いま日本で問題になっている多くの問題を政治課題に乗せたのは、野田さんだと私は思っていますので、野田さんは自民党の(私にとっての)悪しき部分を代行する存在です。
自民党にとっては、実に使い勝手のいい存在でしょう。
よりによって、その野田さんを幹事長に選んでしまった蓮舫民進党には完全に失望です。

小沢さんがまた「自由党」を名乗りだしました。
自由党は、私の思想にはまったく合いませんが、一つの思想体系に裏付けられています。
そもそも党名に価値観が含意されていない政治集団は持続的な活動はできません。
良くも悪くも、名は体を表すからです。
これからの野党勢力の主導権は、自由党に移ることを、今少し期待しています。
小沢さんのイメージは、マスコミや政府によって、壊され続けてきていますが、ぜひとももう一度、小沢さんには頑張ってもらいたいと思います。
共産党と自由党と社民党と並べると、なんだかめちゃくちゃのような気がしますが、いずれにも政治理念があります。
そこを深めて、ぜひ野党再編に取り組んでほしいです。
いま必要なのは、改めての理念です。
節操のない民進党は、野党の核にはなれないでしょう。
いや、なってほしくありません。

それにしても、一度ならず2度にわたって、野田さんが野党潰しに関わるとは思ってもいませんでした。
自分がやってきたことの総括を、野田さんには一度してほしいです。

極めて個人的な思いを述べてしまいました。
管理自重したつもりですが、それでも少しすっきりしました。

■みんなの認知症予防ゲーム実践者交流の報告(2016年10月18日)
第2回みんなの認知症予防ゲーム実践者交流会は、首都圏で活動されている人たちが集まってくれました。
みんなそれぞれの場所で、いろんな活動をしている方ばかりです。
なぜか私だけが、まったくの部外者です。
今回は、京都のNPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんも参加してくれました。
高林さんと実践者の、ざっくばらんな交流も、わずかながらできたかと思います。

この活動は、高林さんの熱意とご尽力で、ここまで広がってきましたが、広がっているわりには、組織的に世の中に情報発信されておらず、活動もばらばらの感があります。
そのためか、マスメディアでもあまり取り上げられることもありません。
横からずっと見ている者としては、それがどうにももどかしく、余計なお世話とは思いながら、今回また呼びかけさせてもらったわけです。
できれば、ゆるやかな組織へと向かうお手伝いをしたいと思っていますが、活動を持続していくためには「事業性」と「社会性」のいずれもが必要です。
しかも組織に関わるみんなにとって、意味のある組織でなくてはいけません。
なにしろ「みんなの認知症予防ゲーム」と称しているのですから。
そうなるためには、まずはメンバーの間に信頼関係が育たなくてはいけません。
「みんなの組織」は、創るのではなく、生まれるのでなければいけません。

横からささやかに関わらせてもらっているおかげで、いろんなことに気づかせられます。
実践者でもない私の役割も、少しはあるようです。
実践者であればこそ、見えてこないこともありますから。
実践の現場から見えてくる日本の福祉思想の実相や限界も垣間見えてきて、実践者のお話は私にはいつも刺激的です。

ちなみに、私は「認知症」という概念そのものが、基本的に間違っていると思っています。
そういう考えにもかかわらず、なぜ「みんなの認知症予防ゲーム」に関わっているのかと問われると困るのですが、それはたぶん、このゲームの実践者が、みんないい人だからでしょう。
今日も10人集まりましたが、例外なくみんないい人です。
ご多用のなか、参加してくださった人たちに感謝いたします。
ぜひ「みんなの組織」を育てていければと思っています。

■第1回まちづくりサロンの報告(2016年10月24日)
第1回まちづくりサロンを開催しました。
さまざまな立場で「まちづくり」に関わっている人たちが、13人集まりました。
これだけ集まると、「まちづくり」の捉え方もさまざまです。

「ハード面でのまちづくり」と「ソフト面でのまちづくり」
「行政主導のまちづくり」と「生活者主導のまちづくり」
「統治環境整備」と「生活環境整備」
「お上のまちづくり」と「民のまちづくり」
さまざまな「まちづくり」の考え方が出てきました。
本題に入る前の雑談で、「居場所」が話題になっていましたが、「居場所をつくるまちづくり」と「居場所のある社会をつくるまちづくり」というのもあるように思います。
また、まちづくりには「王様」(リーダー)が必要かどうかという議論もありました。
そもそも「まちづくり」ってなんだろうという話もありました。

福祉活動に取り組む人にとっては、「まちづくり」と並行して、「まちこわし」が進んでいるように思えているかもしれません。
そもそも私が、この「まちづくり編集会議」を思い立った動機の一つが、「まちづくり」という名の「まちこわし」の動きへの懸念からです。
「まちづくり」と「まちこわし」はコインの裏表かもしれません。
つまり、「まちづくり」とは、そこに住む人たちの生き方の変革です。
建物や施設が、その地域の人たちの意識や暮らし方を変えることはよくあります。
人によって、同じことが反対の意味を持ってくることはよくあることです。
大切なのは、「だれにとってのまちづくり」ということかもしれません。
であればこそ、「まちづくり」の主役は誰かということが問われなければいけません。

建物や施設を構築するのも「まちづくり」ならば、建物や施設を活用するのも「まちづくり」です。
施設を建設するのは住民だけでは難しいかもしれませんが、施設を活用するのは「個人」にでもできることです。
そういう視点で考えると、いまの社会には「活用」できる施設は余るほどあります。
「まちづくり」の思想を変えなければいけない時代のような気がします。

さまざまな話題が出たので、うまく報告できませんが、私が一番面白かったのは、建築家でハードなまちづくりに長年かかわってきた竹居さんの、近くのまちの「おばさん」が、小さなスペースを活用して地域を豊かにしようとしているというお話でした。
そこに、新しい「まちづくり」のはじまり、あるいは本来の「まちづくり」の回復を感じました。
そして、それを象徴するように、今回のサロンの最後は、「挨拶をしなくなった社会」の話題で盛り上がりました。
今回のサロンの(私の独断的な)結論は「まちづくりは挨拶から」です。

ちなみに、サロンの中で、「まちづくり編集会議ネットワーク」の構想を話させてもらいました。
近々フェイスブックページも立ち上げます。
ご関心のある方はご連絡ください。
昨日配布した資料を送ります。

まちづくりサロンは、継続的に開催します。

■アスリートファースト?(2016年10月27日)
東京オリンピックの会場問題が連日話題になっています。
そこで出てくるのが、「アスリートファースト」です。
しかしこの言葉には大きな違和感があります。
彼らの発言にも違和感があります。

私の感覚からすれば、何という「わがまま」か。
彼らは本当に純粋にスポーツを楽しんでいるのか。
単に「オリンピック産業」の利用されている、タレントでしかないような気がするのです。
しかも、そこで出てくるのは、スポーツ選手ではなく、アスリート産業の興行師のような人や、オリンピック産業に寄生する人たちが多いような気がします。

今日、テレビでボート会場に関する埼玉県の彩湖の希望を話す学生たちの声を報道していましたが、彼らこそ、スポーツに純粋に取り組む人たちです。
海ではお金のない学生には練習もできないという声にはとても納得しました。
そういう、本当のスポーツ選手も視点で考えてほしいものです。
「アスリートファースト」などという言葉には騙されたくありません。

それにしても、「〇〇ファースト」という、奇妙なこと言葉が乱用される風潮がとても嫌な気がします。
「〇〇ファースト」という人は、私には、その〇〇を利用して、利得を得ようとっしているようにしか思えません。
「あなたのため」ですから、という人を、私は絶対に信頼しません。

ちなみに、私はオリンピックのような産業化したスポーツにはまったく興味はありません。
そこで金メダルを狙うスポーツ選手にも、まったく興味はないのです。
ですから、こんなひねくれた発想をしてしまうのかもしれません。

■カフェサロン「地域に看取りの文化を取り戻す運動」の報告(2016年10月29日)
カフェサロン「地域に看取りの文化を取り戻す運動」は20人を超す集まりになりました。
しかも、20代から80代まで。
みなさんの関心の多さに、改めて驚きました。

お話してくださったのは、東京の中野区で「ホームホスピス」を創る活動をしている「なかの里を紡ぐ会」の冨田眞紀子さんです。
富田さんが、その活動を始めるに至った思い、仲間の医療・介護関係者との取り組み、そして自らが半年間関西に転居して、実際の施設で体験してきたことなどを話してくださいました。
実際に、冨田さんが出会った「看取り」のお話も紹介してくれました。
そこから伝わってきたのは、「幸せな死」の豊かさでした。
それは、看取った人をも幸せにしてくれるような気がしました。
そこに冨田さんの取り組みの意味が凝縮されているように思いました。

富田さんはパワーポイントを使って、とてもわかりやすく話してくれました。
なぜ、いま、看取りの文化を地域に取り戻さなければいけないのか。
死を迎える場所が、自宅よりも施設が多くなったのは、1975年ごろ、いまから40年ほど前です。
言いかえれば、40年前にはまだ「看取り」が生活の中にありました。
それがいまは、「看取り」が社会からなくなってしまった。
その意味を、私たちはもっと考えなければいけません。
「看取る」体験は、人の意識を変えます。
それが、社会のあり方も、大きく変えているはずです。
私たちは、その大事な体験の場を失ってしまっているのかもしれません。
「死」は、人を分かつだけではなく、人をつなげるものでもあります。
「看取り」とは「受け取ること」だ、冨田さんは話されました。

冨田さんの言葉は、実践に裏付けされているので、一つひとつが心に響きました。
そして、最後の言葉は「尊厳を守る・存在の承認」でした。
腑に落ちました。

富田さんたちの活動はぜひホームページでお読みください。
http://www.nakano-sato.org/
そこに、これまで発行された機関誌がアップされていますので、関心のある方はぜひお読みください。
また冨田さんが講演されるような機会があれば、ご案内します。
ぜひ多くの人たちに聞いていただきたいと思いました。

今回の参加者は人数も多かったですが立場もさまざまでした。
長年、看取り活動に取り組んできた研究者やホスピスでたくさんの方を見送った体験のある若い僧侶、これからそういう問題に取り組もうとしている方もいました。
身近な人の看取りを体験された方も数名いて、それぞれ、ご自身の体験を語ってくれました。
そのひとつひとつに、大きな問題提起を感じました。

「看取り」の意味や死生観について、そしてどうしたら「看取りの文化」を地域に取り戻せるかについて、もう少し話し合いたかったのですが、そこまでたどり着けませんでした。
みんな話したいことがあるので、1回だけでは難しいようです。

冨田さんたちは、来年、中野に「ホームホスピス」を開園します。
その動きを知って、新しい家を提供してもいいという人も出てきているようです。
たぶんいろんな動きが出てくるでしょう。
今回、サロンで話を聞いた人のなかにも、いろんなことを考えた人がいるようです。

冨田さんたちの、これからの活動がとても楽しみです。
できれば、今回の続きとして、「看取り」をテーマにしたサロンを開催?できればと思っています。
話題提起者になってもいいという方がいたら、私にご連絡ください。

■リンカーンクラブサロン「私が安倍政権を支持する理由」の報告(2016年11月5日)
第4回目のリンカーンクラブサロンは、現在の安倍政権を支持する片野さんから、「私が安倍政権を支持する理由」をお話しいただき、それに基づいて、いつものように話し合いを行いました。
片野さんは、若いころから政治に関心をお持ちで、いまも「市民の立場」で、実際の政治にもつながりを持って、いろいろな働きかけもしています。

リンカーンクラブのサロンに参加する人は、現在の安倍政権には批判的な人が多いのですが、民主主義をテーマにする以上、いろんな意見の持ち主が、お互いに学び合うということを大事にしたいと思っています。
安倍政権は、立憲主義を否定し、民主主義をおろそかにしているという意見も多いですが、国民の半数前後の支持を得つづけている安倍政権を、そう簡単に、民主主義に反すると言っていいのか。そこは一度、冷静に考える必要があります。
同じ考えの人だけで話し合っていても、そこからは何も生まれません。
異論を拒否するような場からも民主主義は育ちません。

湯島のサロンには、安倍政権批判派が圧倒的に多いのですが、それを承知の上で、話を引き受けてくださった片野さんの誠実さに、感謝したいと思います。
案の定、参加者のほとんどが、アンチ安倍政権だったような気がしますが、そうした立場からの辛辣な異論や質問に対して、片野さんは常に平常心で応えてくれました。

片野さんは、冒頭、おおむね次のような基本姿勢を話してくれました。
「政治の目的は、国民の生命や財産の安全を守ることである」。
「国民は税金を払う義務と同時に、政治のおかしさを正していく義務がある」。
そしてつづいて、
民主党政権の「ていたらく」と違い、いまの安倍政権は、日本に「安定」をもたらしている、と話してくれました。
民主党政権の「ていたらく」とはなにか、安倍政権がもたらした「安定」とは何かについて、少し議論のやり取りがありました。

片野さんはまた、いまの日本は、努力すれば生活ができる社会だとも話されました。
これに関しては異論が出ました。
片野さんの「努力」とは何かも話題になりましたが、片野さんは教育の重要性を、出身地の釧路市の「子どもたちに基礎学力の習得を保障するための教育の推進に関する条例」を例に説明してくれました。
これには、子どもたちの学習に関わっている人たちから、質問や異論が出されましたが、「学力」や「努力」が何を指すかは、政治の捉え方の重要な分かれ目かもしれません。

片野さんはまた、現場と現実に立脚することの大切さも話されました。
そして実践につなげていくことが大切だとも言われました。
たしかに、実際に何かを実現するには、与党になり政権を取らねばいけません。
なにかを実現しようとすれば、与党や政権を通さなければいけない。
しかし、片野さんがいう国民の義務の「政治のおかしさを正していく」動きが、政権によって阻害されていることはないのか。
そうしたことに関連して、報道規制や憲法違反と言われての安保法制などの強行採決はどう考えるべきか。
また、国会での議論などで、政権は「政治のおかしさ」を指摘する声に、耳を傾ける「話し合い」の姿勢があるのか。

報道規制に関する片野さんの考えは、さまざまなメディアがそれぞれの主張をしており、報道の画一化にはなっていない。
実際に片野さんは、毎日さまざまな新聞を読んで、そう感じているそうです。
安保法制に関しては、いまの政治状況を考えれば、国民の安全を守るためには安保法制は緊急の課題であり、憲法改正などという時間をかけていては間に合わない、と言います。
憲法を守ることよりも国民の安全を守ることの方が優先されるべきだというわけです。
国会での議論が、異論に耳を傾けて考え直すような「話し合い」になっていないという意見に対しては、片野さんはあまり意識していなかったようですが、もしそうであればそれは糺すべきだというのが片野さんの考えのようでした。
片野さんの確信は、きちんと整合しているのです。

いまの日本では、「現場」には、どうも2つの層がありそうです。
片野さんがふれている現場と、私がふれている現場とは、どうも違っているような気がします。
国会議員にとっての「現場」とは、どこなのか。
一昨日、湯島に来た人が、私たちの現場の声は政治に届いていないと嘆いていましたが、片野さんが考える現場の声は政治に届いているのかもしれません。

とても大雑把な報告になりましたが、参加者の人たちにとっては、一番肝心のことが書かれていないと思うかもしれません。
それは、政治への評価は、その人が生まれ育ったなかで培われた生き方やいまの立場によって大きく規定されているということです。
片野さんは、それをとても素直に話してくれました。
政治は「理論」ではなく「感情」なのかもしれません。
最近読んだ吉田徹さんの「感情の政治学」を思い出しました。
だからこそ、いろんな人たちが、本音で気楽に話し合う場が大切だと、私は思っています。
その意味で、私にはとても示唆に富むサロンでした。
安倍政権支持の片野さんと安倍政権が心底嫌いな私の価値観は、もしかしたらそう違っていないのかもしれません。
片野さんが最初に語った2つのことには、私は異論はないのです。

なんだかとても複雑な気分です。

■この写真の折り鶴をご存知ですか?(2016年11月8日)
この写真の折り鶴をご存知ですか?
「サダコ鶴」です。
広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルとなった、佐々木禎子さんが残した折り鶴です。
映画にもなっています。
http://www.earthartfactory.org/blank
その「サダコ鶴」は、平和の祈りを乗せて、世界に飛び出しています。
昨年は、アメリカのトルーマン図書館にも贈られました。
トルーマン大統領は、70年前、原爆の投下を承認した大統領です。
その図書館に、どうして被爆者の折り鶴が置かれることになったのか。
尽力されたのは、トルーマン大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん。
そして、NPO法人SADAKO LEGACYの佐々木雅弘・祐滋さん親子です。
禎子さんは、禎子さんの兄と甥です。
おふたりは、平和を祈って病床で最後まで鶴を折っていた禎子さんの思いを世界中に届ける活動を続けています。
そのサダコ鶴が、昨日、湯島にも立ち寄ってくれました。
その写真です。1円玉と比較してみてください。
とても小さな折り鶴ですが、そこに込められた「平和へのいのり」はとても大きく、世界を変えようと飛び出しているのです。

佐々木祐滋さんは、ミュージシャンです。
“INORI”という曲をご存知の方も少なくないでしょう。
ご存じない方がいたら、ぜひユーチューブで聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=aZKgqjtig3M

昨日、祐滋さんと、サダコ鶴をもっと大きくはばたかせようという話し合いをしました。
何ができるかわかりませんが、いろんな力がほしいです。
世界のしあわせに向けて、できることはたくさんあります。
力を貸して下さる方がいたらご連絡ください。

■トランプ大統領実現で思ったこと(2016年11月9日)
アメリカ大統領がトランプさんに決まりました。
私のまわりには、早い時期から、トランプは大統領になると確信していた人がいますが、私自身は、無理だろうと思っていました。
昨夜でさえ、そう確信していました。
しかし、大方の予想に反して、トランプ大統領が実現しました。

最初に思ったのは、私がいかにいい加減な情報で考えていたのだろうかということです。
私も、最近のマスコミは真実を伝えずに、世論操作していると思っているにも関わらずに、アメリカ大統領選に関しては、マスコミ報道を真に受けていたわけです。
大いに反省しました。

次に思ったのは、アメリカの99%の人たちの怒りは、日本とは違ってどうも「本気」のようだということです。
日本では、原発にしろ、昨年の安保法制にしろ、デモは盛んですが、たぶんみんな本気ではないでしょう。
それに関しては前にも書きましたが、私自身は昨年の8月の国会デモに参加して、そこに本気は感じませんでした。
以来、デモに行くのをやめました。

ところで、トランプ大統領には私はどちらかと言えば、好意的です。
行き過ぎた自由貿易論は見直されるでしょうし、格差是正への動きも出るかもしれません。少なくとも、現在の政治のスキームにはノイズが入るわけですから、さまざまな問題の見直しが始まるでしょう。
政治家の既得権益にはメスが入れられるでしょうし、日米関係もたぶん、生活者感覚から考えればいい方向に向かうでしょう。

人権問題が指摘されていますが、きれいな言葉で覆われている陰険な人権主張よりも、本音での人権議論がなされるかもしれません。
ともかく「何かが変わる」可能性があります。

投票日前日の、トランプとクリントンの行動は対照的でした。
トランプは真剣に語りかけ、クリントンは有名タレントでごまかしました。
クリントンのやり方は、生活者をバカにしているとしか思えませんが、アメリカ人は最近の日本人と違って騙されなかったような気がします。
私は、そのことだけでもアメリカを見なおしました。

99%の人たちの怒りは、燃えだしました。
先のイギリスのEU離脱国民投票も、怒りの結果だと思います。
日本の報道はみんな大きなバイアスがかかっています。
EUなど、貧しい生活者にとって、望ましいはずはないでしょう。
ソ連と同じく、間もなく破綻するでしょう。
人間の生活する世界は、もっと小さいのです。
TPPなど、とんでもない話です。
1%だけが利益をむさぼり取るだけの話です。

怒りの声は、韓国でもフィリピンでも大きくなってきています。
でも、日本は動きだしません。
このままでいいのか。

11月19日のリンカーンクラブの公開フォーラムに、みなさん、ぜひご参加ください。

■トランプ勝利で思ったこと(2016年11月10日)
アメリカ大統領選挙は、トランプの勝利になりました。
私の周辺には、この結果を早くから確信していた人もいますが、私自身はまったく考えていませんでした。
トランプが選ばれるはずはないという確信がどこかにありました。
しかし、現実はトランプの勝利。

改めて、私たちは「現場・現実から離れた情報」のなかで生きていることを思い知らされました。
現地のアメリカでも有名な新聞のほとんどがクリントン勝利を確信していたようですし、日本の「有識者」や「ジャーナリスト」もまたほとんどがクリントン勝利を直前まで語っていました。
なぜ多くの人が読み違えたのか。
判断の基盤となる情報が不正確で不十分だったからだと考えるべきでしょう。
いいかえれば、彼らの情報と現場の情報とがつながっていなかったのです。
マスコミや「有識者」の情報環境は、おそらく現場から遊離した「二次情報」だったのです。

30年以上前に、私は「非情報革命論」を書きましたが、情報化の進展は、現場とは別個の「情報空間」を生み出すと考えていました。
そして、どちらに住むかで、世界は見え方が変わってくる。
まさにそのことを体験させられた気分です。
それも、自分自身もまた、その世界(「情報空間」)にいることを思い知らされたわけです。
私は、マスコミには懐疑的で、今回の大統領選報道にも批判的に受け止めていたつもりですが、基本的にはそのマスコミ報道をベースに考えていたことが露呈しました。
まだどこかに、マスコミ情報の基盤の上で思考している自分がいるようです。
今回はアメリカ大統領選挙でしたので、すぐには自分の生活につながらないかもしれませんが、おそらく自分の生活につながるところでも、こうした状況に私自身陥っているはずです。
心しなければいけません。

マスコミ情報が現場情報と遊離していることを示唆するのは、今回が初めてではありません。
大方の予想を覆す事例は、最近増えてきているように思います。
現実空間と情報空間が乖離しだしているのです。
にもかかわらず、それを受け容れたくない自分がいるのかもしれません。

たぶんいまの国際政治も国際経済も、現実とは違った別の世界を生み出しているのです。
そのいずれの世界でも「同じ言葉」が使われていますので、違う世界に住んでいることに気づきにくい。
その典型が、アベノミクスの経済成長論です。
「世界」9月号の「時間かせぎの政治」という論文を友人が教えてくれました。
そこで、吉田徹さんが、安倍政権の政治手法は「期待値の操作」で、アベノミクスが成功しないのは、それがまだ不足しているからだ、と言い続ける。すると、景気回復の実感がない人ほど、いつかは自分にも恩恵が及ぶはずと思ってしまう。その結果、「マイナスの実感があってこそ、それらは期待値へと転換される」。そこにこそ安倍内閣が支持されてしまう逆説がある、と書いています。
しかし、生活現場から遊離した金融経済での景気回復は、いつになっても現場には届きません。
世界が違うからです。
「時間かせぎ」と書かれていますが、「時間軸」の問題ではなく、「空間軸」の問題ではないかと私は思います。

ちなみに、吉田さんの論文は、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本主義」を参照していますが、シュトレークはもしかしたらトランプ勝利を予想していたかもしれません。
違った世界が見えていた人ですから。
「時間かせぎの資本主義」はとても示唆に富む本ですので、お勧めします。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#009

他にもいろいろと思うことがあります。
たとえば、私の思考パターンがすでに情報空間型に馴致させられているのではないかという不安です。
少しずつブログで書いていこうと思います。

■リンカーンクラブ公開フォーラム「つながって政治を変えよう!」へのお誘い(2016年11月17日).
つながって政治を変えよう!
政治に声を届けることをあきらめていませんか。
つながることで、できることがまだあります。

開催日が近づきましたので、改めてのご案内です。
世界中で、いま、市民たちが改めて、政治に対して大きな声を上げだしています。
しかし、なかなかその声は政治には届いていかないのも現実です。
政治側が、聴く耳を持っていないわけでもないでしょう。
しかし、現場の声が政治に届かないという思いを持っている人は多いでしょう。
声を届けるのをあきらめてしまっている人たちも少なくありません。
それでは政治はよくなっていきません。
どこかに、何か問題があるはずです。

そんな思いから、しばらく休止していた、リンカーンクラブの活動を再開しました。
そのお披露目もかねての、公開フォーラムを11月19日に開催します。
もしお時間があれば、ぜひご参加ください。
このフォーラムを契機に、リンカーンクラブの活動を再開いたします。
詳しい案内は、リンカーンクラブのホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/

会員も募集中です。
〔リンカーンクラブ公開フォーラム〕
http://lincolnclub.net/events.html
◆日時
2016年11月19日(土曜日) 午後2時〜5時(1時20分開場)
◆テーマ
政治に声を届けることをあきらめていませんか。
つながることで、できることがまだあります。
◆プログラム
第1部:講演(次の3人の専門家から問題提起していただきます)
小林節(憲法学者:慶應義塾大学名誉教授)
伊藤真(弁護士:伊藤塾塾長)
武田文彦(リンカーンクラブ代表:究極的民主主義研究所所長)
第2部:参加者による話し合い
講演者と参加者が一緒になって、話し合いたいと思います。
◆会場
AP品川7階(東京都港区高輪3-25-23 京急第2ビル)
JR・京浜急行線・品川駅高輪口前の第1京浜を新橋方向に徒歩2分右側
http://www.cdit.or.jp/o_lecture/ap-shinagawa.pdf

◆定員:100名
◆会費:3000円(学生2000円)
◆申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■第2回まちづくりサロンへのお誘い(2016年11月18日)
まちづくりサロンの第2回目は、「コミュニティ・オーガナイジング」をテーマにしたいと思います。
コミュニティ・オーガナイジングについては、ご存知の方も多いと思いますが、市民の力で自分たちの社会を変えていくための方法であり考え方です。
アメリカで生まれた手法ですが、日本でも一昨年、コミュニティ・オーガナイジング・ジャパンが設立され、さまざまな活動を展開しています。

今回は、その副代表理事である、池本修悟さんにお願いして、お話をお聞きしようと思います。
場合によっては、ミニワークショップも入れていただけるかもしれません。
と言っても、サロンですので、参加者の話し合いもしっかりとるようにします。

池本さんは、大学時代に創造支援工房FACE(フェイス)を立ち上げ、さまざまな活動を展開しています。
そうした活動とのつながりも含めて、コミュニティ・オーガナイジングの可能性や魅力をお聞きできると思います。

また、コミュニティ・オーガナイジングでは、5つのリーダーシップ要素を重視していますが、そのひとつが「ストーリーテリング」です。
みんなで一緒に物語を創りだし、人々の関係性を高め、人々の持っているさまざまな力をパワーに変えていくことで社会に変化を起こすことを可能にしていくのです。

いつものように、さまざまな立場のみなさんのご参加をお待ちします。

○日時:2016年12月14日(水曜日)午後6時半〜9時
午後6時半には会場をあけておきます。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「コミュニティ・オーガナイジングの魅力」
○話題提供者:池本修悟さん(コミュニティ・オーガナイジング・ジャパン副代表理事)
○会費:500円
〇主催:まちづくり編集会議設立準備会
○申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

■リンカーンクラブ公開フォーラムの報告(2016年11月20日)
リンカーンクラブ活動再開記念フォーラムは60人ほどの参加者がありました。
テーマは「わたしたちの声を政治にどう届けるか」でした。
前半では、リンカーンクラブ代表の武田さんが、キースピーチを行い、それにコメントする形で、憲法学者の小林節さんと弁護士の伊藤真さんが、お話をしました。
後半は、その3人も含めて、参加者みんなの話し合いになりました。
まずは、「なぜ私たちの声は届かないのか」、そして「どうしたら届けられるか」を話題にしました。

前半の話は間もなくユーチューブでアップします。
3人の話を、今回のテーマ(なぜ国民の声と政治にはギャップがあるのか)に即して整理すれば、武田さんは「仕組み」に、小林さんは「政権側」に、伊藤さんは「国民側」に、問題があるというお話でした。
私自身も、「国民」、つまり「私」に問題があると考えていますが、その内容は、伊藤さんとは真反対の理由です。
伊藤さんは、現状に満足している国民、つまり「自分」とは無縁の国民に問題があると考えているようです。
これに関しては、実はもう少し刺激的な議論があったのですが、部分的に紹介すると誤解されそうなので、ここではやめます。

会場からの発言は、とても示唆に富むものだったと思います。
たとえば、マンションの住民組合ではみんなの声で運営することができるのに、なぜ国政ではそうならないのか、という指摘には、私は大きなヒントがあると思いました。
都心飛行反対活動をしているという、「普通のサラリーマン」の人は、まずは身近な問題を取り上げて、政治が自分たちの生活とつながっていることをみんなで理解していくことが効果的だと話されました。
子どもたちの教育に関わっている人たちからは、教育の問題もでました。
子どもたちの教育は学校だけの問題ではありません。
家庭の問題でもあり、地域の問題でもあり、何よりも私たち大人の生き方の問題だというような話も、ちらっとですがありました。
それこそ、私は民主主義の出発点だろうと思っています。

1時間半ほどの話し合いの時間は、あっという間に過ぎました。
みんな話したいことがたくさんあるのです。
そして行動したいと思っている。
リンカーンクラブは、そういうエネルギーが集まる場にしていきたいです。
新たな入会者もありました。
みなさんも、ぜひご参加ください。
さまざまな声が集まってこそ、政治のレベルに近づけますから。

このフォーラムを受けて、12月3日には湯島で、リンカーンクラブのサロンを開催します。
その時には、私の個人的感想も、思い切り控え目に放させてもらおうと思いますが、今日はかなり公式的な報告です。

交流会もとても盛り上がりました。
今回のフォーラムは、ボランタリーに手を挙げてくださった12人の実行委員を中心に企画運営しました。
本当にお疲れ様でした。私も含めての12人の人たちに感謝です。

■ベトナム国会議員の賢明さ(2016年11月23日)
今朝の朝日新聞にこんな記事がありました。

ベトナム国会は22日、日本とロシアの企業が建設を担う南東部ニントアン省の原子力発電所計画を撤回する案を可決した。安全性を見直したところ建設費が当初計画より倍増し、財政的に難しいと判断した。日本にとっては、官民共同で獲得した原発輸出事業が頓挫することになった。

ベトナムの政治家は、まだしっかりした思考力を持っているようです。
この話は、3.11福島原発事故の発生の前に成立した話ですので、福島事故が発生した後は、判断愛量がまったく変わっているはずです。
日本からの情報を、彼らはしっかりと吟味したのでしょう。
ベトナムは、日本以上に電力を必要としているはずですが、賢明な判断をしたと思います。
私には、ベトナムの民度の高さをうらやましく感じます。

しかし、福島原発事故後に、輸出話が成立したインドの場合はどうなるでしょうか。
彼らは、福島の現実をきちんと調べたのでしょうか。
いや、日本は、福島の現実をフェアに伝え、コストや安全性の提案をしたのでしょうか。
そこに大きな疑念を感じます。
私には、どう考えても、詐欺行為としか思えません。
そうでなければ、売れるはずがありません。

それにしても、いまもって原発による電力コストが安いと言っている人がいる。
その一方で、原発事故の被害弁償費用や廃炉費用の巨額さが、それとは無縁に語られているのもおかしな話です。
さらに、原発が雇用を提供すると言っている人がいる。
福島の現実を、見てほしいと思います。
詐欺以外の何物でもないように、私には思えます。

今日の新聞の小さな記事は、私にはちょっとした救いの記事でした。
日本にも、ベトナムの政治家ほどにまともな政治家がいてほしいです。
もしいたら、ぜひお会いしたいです。

■「悪いのはわたしたちである」(2016年11月25日)
先日のリンカーンクラブのフォーラム以来、どうも元気が出ません。
そこで感じたことをブログで書こうと思いながらも、あまりにもみなさんと温度差があるので、躊躇してしまいます。
そこで少し冷却期間をとっていましたが、
昨日、参加できなかった友人から、私の報告記事を読んだ感想が届きました。
そこにこう書かれていました。

システム、権力者、国民…と一見バラバラのようで、「悪いのはわたしたちである」とする佐藤さんからは「外に原因を求める」点では同じに見えたのかなと思いました。

とてもうれしいコメントです。
初めて私のメッセージをきちんと受け止めてくれた人がいたと、少し元気になりました。

実は、当日のフォーラムでも、最後に私は感想を言うつもりでしたが、時間がなくなったために、簡単にしか言えませんでした。
そこで2つだけ、簡単に話しました。
ひとつは、「有識者」と言われる人たちと「生活者」の人たちの世界が、こんなにも違うのかという驚き。
もうひとつは、みんな「誰かのせいにしているという姿勢」を感じたという失望。
ゲストと参加者全員への批判ですので、かなり遠慮しながら話しましたので、逆に伝わらなかったかもしれません。

でも正直、いささかがっかりしました。
ちなみに、リンカーンクラブへの新たな参加者は3人だけでした。
デモに参加していたほうがよかったかなとさえ、思いました。
しかし、これもまた「悪いのはわたしたちである」という私の姿勢からすれば、身から出たさびでしかありません。

とまあ、この件は書きだすとどうしてもいささか感情がふきだしそうなのですが、友人から元気をもらったので、ブログに書きだすことにしました。
今日はこれから出かけて、1日、たぶん缶詰なのですが、明日からブログに書く予定です。
さすがに、フェイスブックにはアップしないつもりですが。

■愚民民主主義?(2016年11月26日)
19日に、「国民の声は政治に届いているのか」というテーマで公開フォーラムを開催しました。
その簡単な報告は、このブログにも書きましたが、そこでは書かなかったことがあります。
ゲストに、憲法学者の小林節さんと弁護士の伊藤真さんをお呼びしました。
そのおふたりから、衝撃的な発言があったのです。
いまの日本の国民は、「愚民」「奴隷」「家畜」だと、繰り返し明言したのです。

伊藤さんの論旨はこうです。
いまの政権の施策を多くの国民は支持している。
自分の生活や利害に直接関係ない問題に、理解も関心も持たない「愚民」の声は政治に届いていると言えるのではないか。

小林さんはこう言います。
憲法の問題を話しても、自らの生活を維持するので精いっぱいで、そんな問題など関心を示さない。
こいつらは愚民だと思う。

正確には、そのうちに動画記録をリンカーンクラブのホームページにアップしますので、それを見ていただきたいですが、そう大きくは違っていないでしょう。

私自身は、おふたりの発言にはさほど驚きませんでした。
いわゆる「有識者」のみなさんの本音が、これほどあらわに出ることは少ないですが、日ごろの言動から伝わってきていることですから。
この発言に対しては、さすがに会場から反論的な意見は出ました。
おふたりの「目線の高さ」を指摘した人もいました。
しかし、ほぼ例外なく、発言の最後はなぜか、その「愚民論」を受け容れてしまうような、腰砕けの意見が多かったのです。
私にとっては、それがむしろ驚きでした。
もっと怒ってしかるべきでしょう。
怒ることを忘れたのか!
私は進行役でしたので、怒りをぶつけることもできず、しかし一言だけ、「価値観の置き方によっては2人が愚民になる」と話させてもらいました。
おふたりからの反論はありませんでしたが、もしかしたらそんな指摘を受けたこともないでしょうから、耳に入っていなかったかもしれません。

リンカーンクラブは、できるだけ民主主義の理念に社会を近づけていこうという思いで活動しています。
そこで考えている「民主主義」とは、民主政治制度のことではありません。
「個人の尊厳を尊重する」ということです。
ちなみに、おふたりも、そういう表現も使っていたように思いますが、国民を「愚民」と見なしてしまうこと自体が、「個人の尊厳」を否定することです。
たぶんおふたりとも「個人の尊厳」の意味を知らないのでしょう。
国民の多くを「愚民」と決めつけることは、まさに「個人の尊厳」を否定することであり、日本国憲法の理念に反するのです。
もしかしたら、おふたりとも、日本国憲法を読んでいないのではないかと、私には思えました。
そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、読んでいて理解できないほど「愚かな」人ではないでしょう。

おふたりの主張は、「愚民」は相手にせず、です。
自分たちは「愚民」の仲間に入れていないのですが、先日のフォーラムに集まった人たちは、かれらのいう「愚民」でしょうか。
たぶんおふたりは、わざわざ集まってくれた「愚民」でない人たちに、むしろ「迎合」していたのかもしれません。
もしそうだとしたら、とんでもない思い違いです。
なかには、おふたりの話をありがたく聞いた人もあるかもしれませんが、私には、その後、失望したとかがっかりしたというメールがいくつか入ってきています。

書いていて、だんだん嫌になってきました。
このフォーラムの終わった時には、いろいろと書きたいと思い、昨日も書こうと思っていましたが、今日、書いているうちにだんだんむなしくなってきました。
怒りが消えていってしまったのです。
実は昨日、フェイスブックで予告したので、アップしないわけにはいかないのですが、昨日は少し「大見得」を切ってしまった気がします。

いろいろと書こうと思っていたのですが、やはりどうもモチベーションがあがりません。
少し視点を変えて、改めて書き直してみようと思います。

■「気づきのない民主主義は独裁政治」(2016年11月27日)
「愚民民主主義?」の続きです。
「愚民」を啓蒙することが必要だと、19日のゲストのおふたりは話しました。
その言葉に、会場から「目線が高い」という声がありました。
目線の問題でしょうか。
私には、それ以上に「人間観」や「人間性」の問題のように思います。
同時に、「民主主義」の捉え方の問題でもあると思います。

カリフォルニア大学のへンドリックス教授は「気づきのない民主主義は、ある種の独裁政治である」と言っています。
私流に言いかえれば、「民主主義とは気づきあうこと」です。
つまり、自らの生き方の問題が問われているのだろうと思います。
大切なのは「他者の啓蒙」ではなく、「自らの知性」を磨くことです。
そうすれば、他者を愚民と捉えるのではなく、その思いをしっかりと受け止める姿勢と理解力が生まれるでしょう。
人は「言葉」によって伝え合っているわけではありません。
その「言葉」、もしくは「無言」の奥にある、メッセージを読み取ることこそが、コミュニケーションです。
言葉のやりとりだけなら、「愚民」ならずとも「機械」にさえできるでしょう。
知性があれば、人を「愚民」扱いはしないでしょう。
そして、現場で生きている人たちから、たくさんの学びを得ることができるでしょう。
私が、会場で、あえて「視点を変えれば、おふたりこそ愚民」と発言したのは、その意味です。
少しばかりの知性があれば、それに気づいてくれたと思いますが。

私たちは、意識としては、他者の意見にも耳を傾けようという姿勢を持っています。
社会で生きていくためには、自分だけが正しいとは限らないことを知っているからです。
しかし、実際には、私たちは、自分の考えを基準にして考えがちです。
そして、それを理解してくれない人たちに、なんとか理解させたいと思うこともあります。
たとえば、私は「原発は人間が管理することのできない危険なもの」であり、「運転の安全性」は問題の本質ではなく、「原発そのものの安全性」を問題にすべきだと思っています。
そう確信しているために、運転の安全性を議論している人に会うと議論を放棄しがちですし、そういう人の考えを変えたくなります。
つまり、「啓蒙」したくなる。
しかし、そこには私が正しいという思い込みがあるわけです。
それでは議論は始まりませんし、そもそも私自身が「啓蒙」されることはありません。
頭ではわかっていますが、私自身、こうした過ちを犯していることは少なくないでしょう。

そこに、民主主義のむずかしさがある。
いまの日本の政治に異議申し立てをしないで、政権支持をしている人たちは、満足しているのでしょうか。
なぜ行動を起こさないのかと、私も思います。
しかし、起こさないのには起こさない理由がある。
いや、ある意味では起こしているのかもしれません。
それを無視して、「愚民」と決めつけたり、「怒り」を感じても、何も始まりません。
まずは自らが信ずることに従って、行動を起こすことです。
もしかしたら、多くの国民はすでにそうしているのかもしれません。
それが見えるだけの知性と気づきの姿勢を、私は持ちたいと思っています。
すべての始まりは、自分からですから。

■啓発と気づき(2016年11月28日)
「愚民」や「家畜」という言葉は、他者を指していう言葉としては共感できませんが、自らを省みての戒めの表現としては、私は受け入れることができます。
いまの私たち(私というべきかもしれませんが)には、世界はなかなか見えてきませんし、制度や権力に依存して生きている面が少なくありません。
ともすれば、何も考えずに、言われるとおりに生きているのが楽であることもあります。
小林さんと伊藤さんは、それに対して檄を飛ばしたとも受け取られます。

たしかにいまの社会は、広がりすぎて、理解するのは簡単ではありません。
原発にしろTPPにしろ、その正体をつかむのは難しい。
そうした社会の中で、自ら思考しながら生きていくのは、それなりのエネルギーが必要です。
その結果、気が付いてみれば、「愚民」「家畜」と言われるような生き方になってしまっているのかもしれません。
16世紀にラ・ボエシが「自発的隷従論」で書いたように、私たちは隷従をやめるだけで解放されるはずなのですが、それはそう簡単なことではありません。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#005

しかし、「愚民を啓発する」という発想は、あまりに民主主義的ではありません。
なぜなら民主主義とは、一人ひとりが主役であって、誰かのために存在するわけではないからです。
いうまでもありませんが、「啓発」や「啓蒙」は、誰かの視点で行われますから、ある意味での「支配」につながります。
そこには「知の階層」があり、それは「社会的地位の階層」(社会秩序)につながっています。
〈知は力なり〉というように、知が支配構造を規定していきます。
「知の格差」がある閾値を超えると、社会秩序を組み替える動きが起こります。
しかし、そこでも同じように、知の階層が作動しますから、それは「革命」にはつながらないでしょう。
それに対して、民主主義の理念は、知の階層を基本にはせずに、個人の、あるがままの知を基本にします。
それが「個人の尊厳」ということではないかと思います。
そこには、「知の階層」はありません。
しかし、それゆえに、社会の構造原理は大きく違っていくでしょう。
それこそが「革命」ではないかと思います。
残念ながら、個人の尊厳を基本にした社会秩序の原理は、まだなかなか見えてきません。

なにやら難しい議論になってきてしまいましたが、手段的な概念である「啓発」や「啓蒙」に代わるものは何でしょうか。
それはたぶん「自覚」や「気づき」です。
「自己啓発」という表現もありますが、大切なのは「内発的な自然の気づき」です。
それはたぶん「体験」から生まれます。

民主主義は「力」を基軸に置くか、「気付き」を基軸に置く蚊によってまったく違ったものになります。
多数決で決定する民主主義は、まさに個人を力の単位にしていますが、「気づき」は他者とのつながりの中で生まれ、作動します。

アーノルド・ミンデルは、自分や他人の内側で起きている経験についての気づき/自覚を重視する「ディープ・デモクラシー」を提唱しています。
そこでは、結果ではなくプロセスが重視されます。
それに関しては明日、改めて書いてみようと思いますが、啓発よりも気付きを起こしていくことが、いま求められていることではないかと思います。
であればこそ、私は、デモよりもサロンを大事にしているのです。

12月3日にはリンカーンクラブのサロンが湯島であります。
よかったらご参加ください。

■気付きを生む民主主義(2016年11月29日)
民主主義という言葉は多義的に使われますが、物事の決め方という捉え方について考えてみましょう。
集団での物事の決め方には、決定と合意があります。
決定とは、集団としての一つの意思を明確にするということで、決定されたことは全員が従わなければいけません。
日本の政治で行われているのは、この方式です。
そして、そこで採用されているのが多数決原理です。
国会は、議論の場というよりも決定の場として捉えられています。
ですから、政権党と国会の第1党が違っている時には、「ねじれ国会」と言われ、物事がなかなか決められずに、それが問題だと言われていました。
決定が国会の目的だとすれば、「決められない国会」は問題視されるでしょう。

しかし、国会での決定に時間がかかることは悪いことなのか。
私はまったくそう思っていません。
時間がかかるには、それなりの理由があるはずです。
ねじれ国会は、私はとてもいい形だと思います。
そこでは熟議が行われ、さまざまな視点で議論が深められるからです。

宮本常一は、「対馬にて」という論考で、村の取り決めに関する興味ある報告をしています。
有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、村で取り決めをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でも話しあうという話です。
参加者の異論がなくなった時点で、話し合いは終わり、終わった以上はそれを破る人はいないというのです。
決定事項に従わなければいけないという言い方もできますが、多数決での決定の場合とは、その意味合いは全く違うような気がします。

これは何も日本に限った話ではありません。
北米のイロコイ族などの先住民の部族の集まりもそうだったようですし、ネルソン・マンデラの『自由への長い道』には、南アフリカの部族の集まりでは、全員が話すまでは決定が下されない、と書かれています。
いずれも、多数決で決定するのではなく、とことん話すことで、全員の合意が生まれることを大切にしているのです。

決定と合意。
同じように聞こえるかもしれませんが、前者は結果を目的にし、後者はプロセスを目的にしています。
前者では異論があっても決定に合わせなければいけませんが、後者はプロセスの中で自らの考えが変わっていくのです。
つまり、昨日の記事の言葉を使えば、自覚や気づきが内発的に生まれてくる。
ですから、たとえ決定事項が文字にしたら同じであっても、その意味内容は微妙に違うのです。
しかも、プロセスを通して、人間関係も変わってくるでしょう。

これこそが「気付きを生む民主主義」です。
マンデラはこう書いています。

いつまでも要を得ずにとりとめなく話す人がいる。
また、差し迫った問題に直接言及し、単刀直入にずばり議論を始める人もいる。
感情的な話し手もいれば、そうでない人もいる。
民主主義はすべての人に耳を傾け、人として一緒に決断を下すことを意味する。
多数決は異質な考え方だ。
少数派の意見が多数派の意見によって押しつぶされてはならない。
同意しない人々に結論を押しつけてはならない。
もし合意に至らなければ、別のミーティングを開くことになるだろう。

ここには、「愚民」は登場しません。

■市民による直接民主主義と愚民による問いかけ(2016年11月30日)
民主主義を語る時に、引き合いに出されるのがアテネの民主主義です。
私は、アテネの政治は、民主主義ではなかったと思っています。
あれは、生きるための苦労を女性や奴隷たちに任せて、政治を生業とした「市民」たちが自分たちで制度化した問題解決の手法でした。
そこで「民」というのは、ほんの一部の人たちです。
漢語でいう「民」の意味とは全く相いれないものです。
そこを意識しておかないと、「愚民」という概念が入り込んできます。

ソクラテスは、このアテネで制度化されていた「市民による直接投票制度」、つまり私たちが、代わりにソクラテスが取り組んだ政治行動は、市民に対する問いかけでした。
今回のこのブログの記事の流れから言えば、これは「愚民からの問いかけ」と言ってもいいかもしれません。

ソクラテスの問いかけは、アテネ市民を混乱させ、結局、彼は市民の直接投票で「死刑」になります。
キリストは、自らが十字架で磔(はりつけ)されることにより、その後の世界に大きな影響を与えましたが、ソクラテスは自ら毒杯を飲んで市民たちに応えましたが、その後の歴史にはあまり影響を与えませんでした。
これは、アテネとローマの民たち(アテネでいう市民ではなく、女性や奴隷も含んでの「民」です)の状況(人間的熟度)の違いかもしれません。
これに関しては、大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醒へ」(岩波新書)の中で紹介されている良知力さんの「向こう岸からの世界史」(1848年のドイツ革命論)が大きな示唆を与えてくれそうなので、いま読みだしたところです。
ずっと気になっていたこの本を読む気にさせてくれたのは、19日のフォーラムの小林さんと伊藤さんの発言ですので、おふたりには感謝しなければいけません。

ソクラテスの問答法は、自分の考えを教えるわけではなく、相手の気づき/自覚を引きだすものでした。
ソクラテスの問いかけは、ソクラテスが知らないことの問いかけではなく、相手が気づいていないことを気づかせるための問いかけでした。
さらに言えば、問いかけた相手が「考えさせる」ための誘い水でした。
しかし、それによって、問いかけられた人は、自らの生き方を問い質されることになります。
言葉は語っても何も考えていないことにも気づかされるのです。
そのために、困惑した市民たちによって、ソクラテスは死刑の判決を受けるのです。
ソクラテスは、逃げられる機会はあったようですが、結局、毒杯をあおって自ら命を絶ちます。
なぜ彼は毒杯をあおったのか。
これに関しても以前ブログで書きましたが、いま思うには、それこそがソクラテスの問答法の究極点だったのでしょう。

話がソクラテスに行きすぎましたが、民主主義を語る場合、主なる民とはだれなのか、どこまでの民を包含するのかがポイントです。
もし、民主主義が「個人の尊厳」を基本に置くものであれば、そもそも「民」を「愚民」と「賢民」に分ける発想は矛盾します。

アテネで言えば、民会や執政官を構成した「市民」とアテネの社会を支えていた「住民」と、どちらが主役だったのか。
最近の韓国の大統領弾劾騒動を見ていると、アテネの陶片追放の歴史を思い出しますが、「愚民」という概念は、民主主義の本質につながる概念であることは間違いありません。
問題はどうすれば「愚民」と言われないような存在になれるかです。
ソクラテスの行動は示唆に富んでいますが、最後に死を迎えるのではいささかモチベーションは高まりません。
どこかにもっといい方法がありそうです。

■Imagine!(想像力を取り戻そう!)(2016年12月1日)
(今日は挽歌編と時評編に、タイトルを替えて同じものを書かせてもらいました)

なぜか涙が止まりません。
涙が出てくる時には、何かがたまっている時かもしれません。
心がとてもやさしくなっているか、あるいは逆にさびしくなっているときです。
いまのわたしは、いずれでしょうか。
残念ながら、後者だろうと思います。
最近、他者にも自分にも、やさしくなれない自分に、嫌気を感じているほどですから。

何かがあったわけではありません。
ただテレビの番組を見ただけなのに涙が止まらない。
番組は、昨夜の深夜(暦的には今日ですが)、録画していた「世紀を刻んだ歌2 イマジン」。
2002年に放映された番組です。
内容は、9.11事件直後のニューヨークと東京都内の中学校を主な舞台に、ジョン・レノンの“イマジン”が若者たちに何を気づかせるのかを示唆してくれるものです。
その合間に、さまざまな人が歌う“イマジン”がバックに流れます。
それを聞いていると、なぜか涙が出てきてとまらない。

“イマジン”を聴いた日本の中学生の一人がこう語ります。

もし大事な人がいなくなってしまったら、
その人の笑顔を見ることができなくなったら、
と思うと、私にはたえられません。

あるいは、こういう中学生もいました。

わたしはもっとやさしくなりたい。

そんな中学生の言葉に、涙が出てしまう。
“イマジン”のメロディを聞いただけで涙が出てしまう。
Imagine all the people living life in peace.
想像してごらん みんながなかよく生きている世界を。
この言葉だけでも涙が出てしまう。

私の想像力は、まだ病んではいないと安堵しながらも、その思いがまた涙につながっていくのです。
私が悲しいのは、妻の笑顔を見ることができなくなっただけではありません。
最近は、本当に平安な笑顔を見ることが少なくなってきたような気がします。
世界が深く病みだしている。
多くの人が笑顔を忘れだしている。
つくられた笑顔には、心が痛みます。
そうしたなかで生きている私もまた、おそらく病んでいるのでしょう。
そう思うと、ますます涙が出てきてしまいます。

■衆愚政治と民主政治(2016年12月4日)
先日書いた「Imagine!(想像力を取り戻そう!)」は、このシリーズの横道篇ですが、むしろそこで私の最近の心情はかなり出し切っていますので、その記事を書いたら、もうなんとなく気が抜けてしまいました。
私が言いたかったのは、まさに「みんな、もう少し想像力を発揮しようよ!」なのです。
世界は、与えられるものではなく、自らで見つけだし、創っていくものなのですから。
でも、ここで終わったら、私の機嫌はまた悪くなりそうです。
それで2日間、間が開きましたが、「民主主義」論を再開します。

少し切り口を変えて、海外の最近の動きを考えてみます。
たとえば、韓国の大統領辞任デモに100万人を超す国民が集まったと報道されています。
国民の支持率が5%を切ってしまったという朴政権は、今や機能不全に陥っています。
これは、まさに国民の声が国政を動かしている事例です。
しかし、これは民主主義の成果か民主主義の欠陥か。
国益にとって、あるいは国民の生活にとって、いいことかどうか。

オーストリアでも国民の声が政権交代を起こしそうです。
アメリカでは、予想に反して、トランプが大統領候補が決まりました。
イギリスは国民投票でEU離脱を決めました。
各地で、国民の声が政治に大きな影響を与えだしている。
これは「民主主義」の広がりでしょうか。
そうした活動に取り組む国民は、愚民なのか、意識ある人なのか。

民主政治は衆愚政治になる危険性を指摘する人は少なくありません。
しかし、もし民主政治が、民の声に基づく政治であるならば、そもそも民の声には「愚かさ」も「賢さ」もないということでなければいけません。
「愚かさ」や「賢さ」を認めてしまえば、それは「選ばれた人による政治」を認めることになるからです。
そして、その「選ぶ基準」はだれが決めるのか。
基準を決めた人の声に基づく政治になってしまうのではないか。
個人の尊厳を尊重するのであれば、人を賢いとか愚かだとか決めることがあってはなりません。

韓国は国民の声の盛り上がりで、国益を損なう事態が起こるかもしれません。
少なくとも、すでにさまざまな混乱は生じているでしょう。
しかし、生まれているのは混乱だけではありません。
新しい秩序への芽もまた生まれている。
混乱とはそういうものです。
その証拠はアメリカのトランプ現象です。
みんなトランプ大統領になったら大変だと言っていたはずなのに、トランプ勝利でドル高になり、希望が広がっている。
現状の秩序を基本にして考える人には見えてこないこともある。
イギリスがEUから離脱したのは、決して過ちとは言えません。
国民の判断は、善か悪かなどとは無縁です。
それを判断するのは、未来の国民でしょうが、彼らには正確な意味での判断力はありません。
比較するものがないからです。
「あの時、大統領を辞任に追い込まなければ」などということは、いかようにも物語をつくれるでしょうから、まったく無意味な論考です。
しかし、これに関しては、大澤真幸さんが示唆に富む論考をしていますので、改めて考えたいと思います。

いずれにしろ、国民の声が政治を動かすことがあるということが大切なことです。
日本でももちろんそういうことはあったかもしれません。
しかし、昨今はどうでしょうか。
原発反対や安保法制反対のデモは、盛んに行われました。
しかし結局何も変わらなかった。
どうしてでしょうか。
韓国の国民にできて、なぜ日本の国民にできないのか。
そこに大きな問題があるような気がします。

■「知の囲い込み」と「愚民概念」(2016年12月5日)
このシリーズは、私たちが主催した公開フォーラムで、ある「有識者」たちが日本の国民の多く(すべてではありません)を「愚民」と決めつけたことに違和感を感じ、書き出したものです。
もう一度、原点に戻って、「愚民」について考えてみたいと思います。
なぜならば、「有識者」は「愚民」こそが、その存在のよりどころだからです。
言い換えれば、「愚民」を生み出すことに、彼らは自らの存在基盤を見出しているのです。
私は、その構造に大きな違和感を持っているのです。

これに関しては、すでにさまざまな論考がありますので、繰り返すまでもないでしょうが、「愚民概念」は、巧妙につくられた、人為的なものです。
マルクスは、社会的知識を「一般的知性」と呼び、それが機械などの固定資本に具現化されて経済を大きく支えているとしていますが、アントニオ・ネグリは、そもそも個々人が持っている知性にまで、その概念を広げました。
そして、現代のような成熟社会にあっては、その一般的知性が経済を主導すると指摘しています。
そもそも一般的知性とは、みんなが創りだした共有財産(コモンズ)です。
たしかに発明家はいますが、その発明は完全に個人によって行われるわけではなく、社会を構成する「みんな」が生み出し育ててきた「知」の支えによって、顕現したものです。
しかし、知が「みんなのもの」であれば、空気のように、経済的価値を生み出すことはありません。
そこで始まったのが「知の囲い込み」です。
本来はみんなのものである土地の囲い込みから始まった資本主義経済は、人知までも囲い込みだしたのです。

その典型的な手法が、知的所有権です。
これは、一般的知性、つまりコモンズとしての知を市場化するためのものです。
そもそも、社会が、つまり「みんな」が育ててきたものを、法や制度によって誰かの私的所有物にするという仕組みです。
経済の面から言えば、そこには大きな効用があるでしょうが、そのために経済的に貧しい国の子どもたちには高くて購入できない医薬品が生まれてしまうわけです。
私たちの生活は、そうした「制度的に市場化」された商品やサービスに取り囲まれています。
わかりやすいのは、ウィンドウズなどのOSです。
税務や裁判などに関する知識も、そのひとつです。
私にはこうした「知の囲い込み」制度は納得できませんが、そうしたものを利用しなければいけない仕組みがどんどんと大きくなっています。

話がやや外れてしまいましたが、「囲い込まれた知の世界」の内外では大きな経済的な差が生まれてきています。
アメリカでは、そうした「知の世界」で働く人は、全体の2割だと言う人もいましたが、おそらくその比率はどんどん小さくなっているでしょう。
つまり、知の独占が進んでいるのです。
「囲い込まれた知の世界」から追い出された人たちは、どうなるのでしょうか。
そして、金融経済はともかく、社会の実体を創りだしているのは、どちら側なのか。
そこをぜひ想像してほしいと思います。
そして、「愚民」という言葉が含意することを、真剣に想像していただきたいと思います。
人は、いまや「想像力」を手に入れているのですから。

「愚民」と言われて納得してしまう人が多いことに、私は唖然としています。
有識者は、そもそも「愚民」概念に寄生している人たちですから、彼らがその言葉を使うのは、さほど驚きません。
しかし、「知の世界」から追い出された人までが、それに安住していることには、暗澹たる気持ちになります。
ジュリアン・ジェインズが言っている、神の声に従って生きていたという3500年前に戻った気分です。

そのうち、言語の使用にまでお金がとられるようになるかもしれないと言っていた人がいますが、あながちそれは冗談でもないのかもしれません。
知識社会は、知の開放(共有)社会であってほしいですが、どうも反対の方に向かっているのが、気になります。

話が少しずれてしまったような気もしますが、どうもこうした議論には、私はいささか感情的になってしまうのです。

■愚民と大衆(2016年12月7日)
今日は「愚民」と「大衆」についてです。

「アメリカ人の生活における個人主義とコミットメント」という副題を持つ、ロバート・ベラーの「心の習慣」を読み直しているのですが、そこには建国時のアメリカ国民の生き方がなぜ変わってきたのかが、とてもわかりやすく書かれています。
この本は、200人以上のアメリカ国民のインタビューをベースに書かれていますので、とても生々しく、伝わってくるのです。
日本でも最近同じようなスタイルでの社会調査が広がっているようで、昨年私も東大の大学院生のインタビューを受け、その分厚い報告書をもらいました。
たぶんまだその調査活動は続いていると思いますが、日本人の生き方のゆくえを考える上での示唆に富む知見が集まりだしていると思います。
それが果たして「愚民」かどうかはとても興味のあるところです。

先日、テレビの映像の記録プレミアム版を見ていて知ったのですが、マリリン・モンローは自伝でこう書いているそうです。

私は自分が世界中の大衆のものであることを知っていた。
それは、私が才能や美貌に恵まれているからではなく、
大衆以外のどんなものにも、どんな人にも、属したことなどなかったからだ。

彼女は縫製工場の売り子から映像時代のスターとしてスカウトされ、時代を象徴するまでになった、まさに映像の時代が生み出した寵児でした。
朝鮮戦争で戦う戦場の兵士たちを鼓舞する役割まで引受けされ、最後は謎の死をとげました。
私は、「バスストップ」が一番好きな映画でした。
中学生の頃観た映画なので、不正確な記憶ですが、私の「大衆観」にはたぶんある意味での影響を与えた映画です。

まあそれはどうでもいい話ですが、私が「大衆」という言葉を突き付けられたのは、スペインの思想家オルテガの「大衆の反逆」です。
オルテガは、「大衆」をあまり良い意味では使っていません。
大衆とは、指導者に従順で、自分を向上させようという努力を自ら進んではしようとしない人々のことである、と言っているのです。
このシリーズに即して言えば、「愚民」的な捉え方をしているといえるでしょう。
しかし同時に、オルテガは、現代社会を大衆支配の社会と断じ、しかもそこに、危険性だけではなく、大きな可能性を示唆しているのです。
そこに私は、ネグリの「マルチチュード」と同じものを感じます。

民主主義は、多数の支配という意味があります。
もしそうであるとすれば、その多数者を「愚民」として捉えることは、そこに秘められた大きな可能性を切り捨てることにならないでしょうか。
ネグリやオルテガ、あるいはベラーのように、俯瞰的で歴史的な姿勢こそが、いま求められていると思います。

マリリン・モンローがスターになったのは、私は彼女の知性のおかげだったと思っています。
大衆の大きな力を、彼女はたぶん知っていたのです。
そして大衆の賢さと知の豊かさもです。

■民主主義の両義性(2016年12月11日)
シリーズ「民主主義を考える」も、かなり書いてきたのでそろそろ終わりたいと思いますが、最後に、「民主主義とは果たして善いものかどうか」を考えておきたいと思います。
日本では、「民主主義とは善いもの」という捉え方が多いと思いますが、それもまた「戦後教育」の結果のような気がします。
たしかに、衆議による政治という仕組みに向かうことは歴史の大きな流れでもあります。
しかし、結果から見れば、衆議が善い結果をもたらすとは限りません。
それ以上に、そこに向かう過程で、さまざまな問題を引き起こします。

私は、民主主義の理念を「個人の尊厳を尊重すること」と捉えています。
そして、歴史は、その方向に向かって進んできていると考えていますし、これからもさらにその方向で進むだろうと考えています。
私は、その大きな方向性に沿って、生きているつもりです。
今回のテーマに即して言えば、「愚民」などと言った偏見やヘイトスピーチがなくなることを確信するとともに、そうした流れを押し戻そうとする、悪しき言動や思想には抗っていくつもりです。
このシリーズを書く気になったのも、そうした私の生き方の一つの現れです。

ところで、議会制民主主義は、民主主義の理念に近づく仕組みであることは間違いありませんが、同時に民主主義の前提を壊しかねない仕組みでもあります。
ルソーは、民主主義は選挙の時だけ作動するとも言っていますし、ノーム・チョムスキーは、自らの意思を他者に委ねると言う議会制民主主義の根底には市民を受動化するメカニズムあると警告しています。
大澤真幸さんは、「人が能動性を他者に委ねることが、資本主義と代表制民主主義の両方に共通した基本的なフォーマットである」(「正義を考える」)と言っています。
たしかに、その両者を社会の構造原理にしているところでは、見事なほどにそれが実現しつつあると、私は感じています。
そして、「民主主義の理念を感じさせる仕組み」を提供することで、多くの人たちは、満足してしまう。
選挙での投票権を得ただけ、もう主権者になった気分になり、気をゆるめてしまう。
そして、さらに民主主義を目指す制度への取り組みを忘れてしまう。
そんな状況が、生まれてきてしまうわけです。

「能動性を他者に委ねる」ということは、「思考停止し、他律的に生きる」ということです。
つまり、民主主義の前提である、「考える個人」がいなくなってしまう。
「民主主義制度」にはそういう落とし穴がある。
であればこそ、民主主義制度は常に進化をめざさなければいけないのです。

民主主義の前提となる「個人」を育てるのは、社会の役割です。
しかし、そうした「社会の教育力」もまた失われています。
昨日、20世紀中ごろに行われたアメリカ国民への社会調査をまとめた、ロバート・ベラーの「心の習慣」を読んだのですが、そこにアメリカ国民の生き方や考え方がどう変質してきているかが、ていねいに描き出されています。
改めてそれを読むと、まさに今日本でも同じような動きが進んでいることがよくわかります。
しかも、それが政治によって進められている。

私は「ゆとり教育」の理念に賛成でしたが、その進め方を知って、自らの不明さを反省しました。
そのきっかけは、ジャーナリストの斎藤貴男さんの『「ゆとり教育」と「階層化社会」』という論考を読んで、「“ゆとり教育”の本質は“エリート教育”のための原資を浮かせることだった」ことを知らされたことです。
たしかにその視点で教育改革を見なおしていくと、現在の学校教育での問題点が納得できます。
安倍政権による、教育基本法の改定は、私には日本国憲法改定と同じくらい衝撃的でしたが、ゆとり教育は、その同じレールに乗っていたことに気づかされました。
円周率を「3」と仮定したときにおかしいとは思っていましたが、理念に惑わされていました。
理念は、現実の姿によってこそ、評価すべきでした。

また長くなってしまいましたが、民主主義制度が善いものとなるか悪いものとなるかは、「民主主義の理念」と「民主主義制度の前提」にかかっています。
理念と前提がしっかりしていないと、民主主義制度は自己否定へと動き出す。
学校で、多数決が民主主義などといった表層的な民主主義を教えられた結果がいま、大きな影を落としだしている。
そのことを改めて、今回は思い知らされました。

リンカーンクラブの活動に、これからもう少し身を入れていくつもりです。
ぜひみなさんも参加してくれませんか。
「愚民」にもできることはたくさんあるはずですから。
入会をお待ちしています。

■「なぜこのような事件が後を絶たないのでしょう」(2016年12月21日)
7年前に島根で起こった殺人事件の犯人が確定したことで、遺族の方が「なぜこのような事件が後を絶たないのでしょう」と話していました。
「なぜ後を絶たないのか」。
よく耳にする言葉です。
しかし、その「なぜ」がきちんと考えられることは、あまりありません。
みんな、その言葉にうなづきながらも、「なぜ」を考えない。
だから、この問いの答えは明らかです。
このような事件が後を絶たないのは、誰も「なぜ」を考えないからです。
むしろ、同様な事件を誘発するようなことばかりしているのが、いまの社会のような気がしてなりません。
かなり厳しい言い方になりますが、当事者もまたその例外ではないことも多い。

ところで、「このような事件」とは、不条理な殺人事件だけではありません。
なぜ繰り返されるかと思われるような「このような事件」はたくさんあります。
子どもたちの自殺や「いじめ」と称する暴力行為も、後を絶ちません。
政治家の嘘も後を絶たなければ、報道の偏った編集報道も後を絶たない。
沖縄では、相変わらずの事件が繰り返されています。
原発事故はまだ「再発」していませんが、いまのままでは「後を絶つ」ような状況にはありません。
世界では、不幸な自爆「テロ」事件も広がっている。

「なぜ」をどうして考えないのか。
それは、原因は社会の制度や文化、あるいは自分とは別の世界にいる人たちにあると考えるからではないか、と私は思います。
ロバート・ベラーは、30年程前に出版した「善い社会」のなかで、「自らの社会の制度について考える私たち自身の能力を高めないことには」、「善い社会」は実現しないと書いています。
もし30年前のアメリカの人たちが、ベラーの警告に耳を傾けていたら、いまのようなアメリカにはなっていなかったかもしれません。
9.11も、たぶん起きなかったでしょう。
ベラーの警告は、いまの日本社会にもぴったりと当てはまります。

私はこの30年近く、さまざまな社会の問題に取り組む現場の人たちと、ささやかにお付き合いさせてもらってきています。
子どもの問題、高齢者の問題、障がいのために生きにくくなっている人たちの問題、自殺の問題、認知症の問題、メンタルヘルスの問題、…。
問題は違っても、「なぜ」を繰り返していくと、みんな同じところに行きつくような気がします。
それは、私たちの生き方です。
簡単に言えば、私たち一人ひとりの生き方が、「後を絶たない」問題を生み出している。
私たち一人ひとりの生き方が、社会をつくりだしているとしたら、そこで起きる「問題」に無関係な人などいるはずもない。
自分の生き方が、誰かを追い込み、誰かを不幸にしていることはないのか。
自分の生き方を変えることなく、社会に疑問を投げかけても、何も変わるはずはないのです。
「なぜ」を問うのであれば、まずは自分の生き方から問うのがいい。

私は、こうした言葉を聞くたびにそう思い、生き方を問い直すようにしています。
できることはたくさん思いつきます。
昨日よりも、もっとゆっくり歩くだけでもいい。
エレベータで乗り合わせた人に声をかけるだけでもいい。
気になっている人に、電話するだけでもいい。
物やお金への執着を少しだけ弱めるのでもいい。

「なぜこのような事件が後を絶たないのでしょう」と問いかけるだけでなく、
「このような事件が起きないように、自分にできることは何か」を見つけ、実行する。
「問い」は、「行動」につなげたい。
それぞれがそうしていったら、いろんなことが「後を絶っている」社会になるのではないか。
そう確信しています。

■カジノ法を成立させたギャンブラーたち(2016年12月23日)
先週、目の手術で入院していました。
総合病院だったので、いろんな人が入院していました。
自分で食事のできない人も、さわいで看護師をてこずらせる人もいました。
改めて社会の実相を考える、いろんな刺激をもらいました。

私の隣のベッドは、糖尿病の人でした。
屋外の警備員をしている68歳の男性ですが、一人住まいです。
海外に近いビル街での警備活動をしていて、体調がおかしくなり、病院に来たらすぐ入院。もう少し遅ければ人工透析になった恐れもあったそうです。
真面目に毎日働いて、月収は12万円。
唯一の楽しみは競馬と競輪だったそうですが、最近は収入が少なくそれもなかなかできないそうです。
それに、最近の競馬は、お金持ちたちが儲けられる仕組みができあがってしまい、情報不足の個人では、なかなか当てられなくなってしまったと嘆いていました。
それはともかく、その人は一時期かなりの生活をしていたようですが、いまは月収12万円で、入院費も仲間が支援してくれるのを待っている状況です。

私が入院中に若者が見舞いに来ていました。
その一人が、今度の競馬の予想を「あんちゃん」に聞きたくてと話していましたが、彼は、競馬を薦めないばかりか、パチンコもやめた方がいいと諭していました。

見舞客が返った後、私と競馬の話になりました。
今の競馬界への彼の怒りをだいぶ聞かされました。
競馬をまったく知らない私にも理解できる内容でした。
現場の人の話は、分かりやすくて説得力があります。

最後に彼は吐き出すように言いました。
ギャンブルは、勝っても負けても抜け出せなくなる。
そして生活を壊していく。
政府がカジノ法をつくって、ギャンブルをさらに広げようとしているのは許せない。
そういえば、彼は見舞客の若者にも、ゲームセンターの怖さも婉曲的に話していました。

退院してから、カジノ合法化を目指す「カジノ解禁法」が強行採決されてしまったことを知りました。
カジノやギャンブルが寄与する経済成長の意味など、彼らはまったく解することはないでしょう。
そこまでの知性は望まないとしても、わが入院仲間のような真面目に生きている人の声をもし聞いていたら、少しは考え直す気になったかもしれません。
カジノ法に意味があるような話をしている人をみるたびに、その糖尿病患者の顔を思い出します。
国会議員や「有識者」にも、彼ほどの「知性」を持ってほしいです。

国会議員は、今やカジノのギャンブラーのような生き方をしていますので、さほどカジノへの危機を感じないのかもしれませんが、ギャンブルの意味をもっと誠実に考えてみてほしいものです。

昨日、古い西部劇の「帰らざる河」を見ました。
アメリカは、どこで道を間違えてしまったのでしょうか。

■今年最後のオープンサロン(2016年12月25日)
眼瞼下垂矯正手術の結果、どうも顔が変わったようです。
まだあまり人には会っていないのですが、みんな笑うので、評価アンケートを取ることにしました。
いままでに質問したのは3人ですが、全員、「悪くなった」と言います。
その一人は、なんだか詐欺師のような感じがすると言うほどです。
自分ではあんまり変わらないように思うのですが、別人になったという人もいます。

ところで、11月と12月はサロンをあまり開かなかったのですが、年末と年始にオープンサロンを開くことにしました。
もし気が向いたら湯島にお立ち寄りください。
拝顔のご利益は保証しかねますが、珈琲は用意しておきます。
投票もお忘れなく。
投票結果は、後日報告します。
医師にも報告します。

年末のサロンは12月28日の2〜4時です。
近くに来る機会があれば、気楽にお立ち寄りください。
面識のない人も歓迎です。
年明けは、1月4日と7日を予定していますが、また年明けにご案内します。

来年から、別人として再出発するかどうか、いま思案中です。

■時代のスピード(2016年12月26日)
この10日間ほど、まぶたの手術で入院したり、その後は、目が不自由なため世間から没交渉になったりしていました。
今日からまたいろいろと関わりのあることの活動に参加しようと思って、パソコンでいろいろとその後の動きを見てみました。
そこで10日間の空白の意味を知りました。
まったく停滞しているプロジェクトもあるのですが、大きく展開しているものもあります。
そのため、どうもついていけなくなってきています。
全体像が見えなくなってしまっているからです。
ちょっと気を許すと、もうついていけなくなってしまう。
そのスピード感に、多くの人は追いかけられているのかもしれません。
スピードだけではなく、今の時代は、ネットを活用して、プロジェクトそのものが管理不能なほどに育っていく時代でもあります。
いつの間にか、自分の居場所さえ見つけられなくなりかねないのです。

しかし、その一方で、もう一つの体験をしました。
この間、不自由な目をだましだまし、何冊かの本を読みました。
いずれも古い本です。
80年ほど前に書かれたオルテガの「大衆の反逆」
30年ほど前に書かれたベラーの「善い社会」
読んでいて、そこに書かれているメッセージが、いまの時代にも実にぴったりと当てはまるような気がしました。
目先の事象のめまぐるしい変化の一方で、社会の根幹は何も変化していない。
そんな気さえしました。

これは矛盾したことではないような気がします。
社会の本質を変えないために、目先が目まぐるしく変わっているのかもしれません。
そう考えるととても納得できます。
ベラーの「善い社会」には、すでにそうしたことへの指摘があります。
そして、その後の世界を見ていると、ベラーの期待は裏切られ、懸念が現実化しているように思えます。

時間がますます早まっているようで、肝心の大きな時間は動こうとしていない。
10日間、立ち止まって気づいたことは、こんなことです。
私は腕時計はしていませんし、時計はあまり見ません。
できるだけ私自身の時計を基準に、生きたいと思っているからです。

この10日間は、私には貴重でした。
おかげで、以前よりも、自然に生きられるようになってきた気がします。

■遅ればせながらの入院報告(2016年12月26日)
12月の15日から3泊4日の短期入院をしました。
その後、1週間、在宅でした。
目が不自由だったからです。
今日から活動再開です。

実は退院の翌日、フェイスブックに描き込みをしました。
入院を知らせたフェイスブック記事へのコメントがたくさんあったからです。
その書き込みを、遅ればせながらこのブログにも残しておくことにしました。
まあもう1週間も前の記事なので、あんまり意味はないのですが。
いか、そのまま再掲します。

帰宅してFBを開いたら、たくさんの方からエールが届いていて、感激です。
初めての手術体験は実に面白かったです。
テレビ番組で見るような手術台で手術を受けながら、医師たちが交わす会話を聴くのも面白かったです。
ついつい私も参加してしまい、医師のモチベーションはなんですかと手術中に失礼な質問までしてしまいました。

同室の患者さんからもたくさんの学びがありました。
政治家も、年に一回は、こういうところで一週間くらい過ごしてみれば、世間の実相がもう少し理解できるでしょう。
同室のおひとりは、60代の屋外警備員で、熱心に働いても月収12万円。
冬は寒くて大変で、そのため顔面神経痛で病院に来たら即入院。
危ういところで人工透析になるところだったそうです。
いまは一人住まいですが、その波乱万丈の人生談も聞きました。
趣味は競馬だったそうですが、いまのカジノ法には怒りをぶつけていました。

彼は、今回の入院費も蓄えがないので、みんなが「包んで」きてくれるお見舞いで支払いを済ませるそうですが、ちょっと入院が長引きそうで、退院後仕事が続けられるかどうか、少し心配していました。
私には見舞客は来ませんでしたが、その人へは見舞客も多く、とてもうれしかったです。
私がうれしがるのもおかしい気がしますが、ともかく嬉しかったです。
真面目に毎日ハードに働いて12万円の一人住まい。
でも「アンちゃん」と慕ってくれる若者がいる。
その彼が、ギャンブルは貧乏人からお金を巻き上げて生活を壊すだけだと怒っていました。
やってきた若者にも、パチンコはたばこの煙で身体にも悪いからやめろと言っていました。
カジノ法に賛成する国会議員に、彼の話を聞かせたかったです。
それに、議員報酬の高さも自覚してほしいです。
たまには総合病院に入院して、まじめに生きている人たちの生活実態を知ってほしいものです。
まさに病院は社会の問題が縮図のように出ています。

看護師や病院スタッフの仕事ぶりからも、別の学びがありました。
病院システムや看護システムは脱産業化しなければいけないと私はずっと考えていますが、改めてそう思いました。
彼らは、まさにジョブやキャリアではなくコーリングとも言うべき、モチベーションで働いている。
それに弱い立場の人と接することで、みんなとても優しくなるのかもしれないと思いました。
ともかくみんな良い人ばかりです。
掃除する人まで、ともかくやさしくていい人ばかりです。
性格を直すのであれば、入院ではなく、政争のありバイトがいいかもしれません。
しかし、にもかかわらず、相模原の福祉施設での事件のようなことが起こるのはなぜなのでしょうか。
どこかに大きな問題がある。

そこで思いつきですが、国会議員の条件として、2年間の病院勤務を義務付けるのはどうでしょうか。
徴兵制度が国民意識を高めた時代がありましたが、これからは病院勤務制度がいいのではないかと思います。
ちなみに、福祉施設ではだめです。
理由はそれぞれでお考えください。
質問には答えません。

ほかにも、言語に関する大きな発見?など、いろいろとありますが、きりがありません。

肝心の手術は順調だったようです。
今朝、退院の前に医師が私をチェックして、いい結果だという顔をしていましたから。
しかし、視野が広がり、世界が明るく見えるようになると期待していましたが、まださほど実感はありません。
世界があまりに暗すぎるからでしょうか。

それはともかく、しばらくはサングラスをしないと外出しにくいですが、たぶん生活は何の支障もないでしょう。
でもまあ、手術したことを口実にして、しばらく休養を取る(怠惰をむさぼる)つもりですので、この件は聞かなかったことにしてください。
さて今年の年末は、たっぷりと時間を楽しめそうです。

■全体が見えなくなってきています(2016年12月28日)
たとえば今朝の朝日新聞朝刊の1ページ目には、
「首相 「不戦の決意」強調」
というトップ記事に並んで、
「辺野古 国が工事再開」
という大きな見出しがあります。
今日に限ったことではないのですが、
個々の報道からのメッセージと、さまざまな報道全体からのメッセージと、齟齬を感ずることが最近とても多いような気がします。

不戦の決意を強調した政府が、一方では戦争に向けての軍事力を強めるために沖縄の人たちの平安な生活を踏みにじっている。
安倍首相は、戦争をしたのか、したくないのか。
まともな思考力を持つ人であれば、悩んでしまうでしょう。

最近、30年程前にアメリカで話題になった「善い社会」という本を、私としてはかなり丁寧に読みました。
2回読み直したのです。
そこで1970〜80年代のアメリカ社会のことがていねいに語られていますが、
そこに、全体が見えなくなってしまったことの懸念が指摘されています。
全体が見えないということは、あるところだけを取り出して、判断を決めるようになるということです。
全体を見えない人たちは、右往左往しますから、いかようにも操作できるのです。

しかし、理解しがたい矛盾の言動は、安倍さんだけではありません
私のまわりの多くの人がどうも矛盾する言動をしているのです。
たぶん私もまたそうなのでしょう。
全体像が見えなくなると、人は論理的には個別の判断しかできなくなる。
だから、自らの矛盾さえ気づかなくなる。

そして矛盾があっては落ち着かないので、自分でその矛盾を編集して、自分が支持できる安倍政権を虚構してしまうわけです。
辺野古のことも高江のことも、みんな「不戦の決意」につなげてしまう。
人の命が大切だと言いながら、死刑を執行してしまうようなものです。

沖縄の現実を見れば、不戦の決意の意味は見えてくる。
それは、選ばれた人たちのための不戦や平和であり、その実現には弱い人たちを押さえつけることがセットにされている。
しかし、全体が見えない中で、そう考える人は少ないでしょう。
そもそも、恐喝による不戦は、すでにその出発点において、戦争の実行です。
でも多くの人はそうは思わない。

新聞は、それでも「不戦の決意」と「辺野古工事再開」とが並んで表記されますので、全体像とは言いませんが、矛盾や多様さが目に入ってきます。
しかし・ネット情報に依存している人は、個別情報が個別にしか入ってきませんから、ますます個別の世界で情報を受け取ることになる。
全体像はますます見えないでしょう。

そうしたことが、私たちの意識をどう変えていくか。
考えると恐ろしい気がします。

■今年最後のオープンサロン(2016年12月29日)
今年最後のオープンサロンは、初対面の人も含めて、4人の人が参加してくれました。
ミュージシャン、アナリスト、エッセイスト、フォトグラファーです。
なにやら特異なメンバーばかりです。
それにふさわしく、話題も「特異」でした。
最初は、時代を創っているのは誰かという壮大な話から始まり、最後は、自分の存在とは何だという、深遠な話でした。
その途中には、連帯とは何か、言語とは何か、時間とは何か、などといった難解な話もありました。
と、こう書くと、いかにも小難しいサロンだったように感ずるでしょうが、それはものの書きようであって、実体は、実にたわいない雑談サロンでした。
でも、参加者の人柄がほどよく出ていた、気持ちのいいサロンでした。
来年も、こんなサロンを増やしたいと思いました。
参加者のみなさん、ありがとうございました。

最後に、全員で写真を撮ることになりました。
今年も私は元気だったことの証として、私も写っています。
写真の真ん中の中島さんが持っている箱は、実は「投票箱」です。
いま湯島に来た人は、あることで投票してもらっています。
まぶたの手術をした私の雰囲気が、良くなったか悪くなったかの投票箱です。
投票は1月いっぱい受け付けています。
開票は1月末です。
みなさん、投票にお越しください。
全く何の効用もない無駄な投票ですが、人生にも社会にも、無駄は大切なことですから。

新年のオープンサロン、もしくは投票日は、1月4日と7日を予定しています。
1月4日は、たぶん、午後1〜4時くらいです。
正式には、年明け後、ご案内します。

ではみなさん
ほどほどに良いお年を。
ちょっと早いですが。

■メガネで世界は違って見えてくる(2016年12月31日)
メガネ生活になりました。
最初の1日は、うまく身体が適応できず、違和感を持ちながらの生活でした。
ところが2日目になると、違和感はなくなり、3日目はもうまったく普通に見えるようになりました。
人間の身体の適応力のすごさを、みずからで体感しました。

アメリカの心理学者のG.M.ストラットンの逆転眼鏡の実験は有名です。
彼は自ら上下左右が逆に見える眼鏡を着用して生活する実験を行いました。
その体験によれば、メガネをかけた直後は逆転していた視覚世界がやがて元のような普通の見え方になったそうです。
その話を読んだ時には、ただ驚いただけでしたが、今回、わずかばかりの体験によって、納得できました。
私も、今回、眼鏡をかけて帰宅する途中、違和感で吐き気がしほどでした。
安価な眼鏡だったせいもありますが、視界が歪んで見えていたのです。
ところがもう今は、まったくと言っていいほど違和感がないのです。
私の身体が適応したわけです。

つまり、私たちは自分が住んでいる世界に対する違和感を次第に失っていく存在なのでしょう。
年の最後に、とても考えさせられる体験をさせてもらいました。
政治とは、国民にどんな眼鏡をかけさせるかということなのかもしれません。
自分のかけているメガネを、時にはずすことが大切だと改めて感じました。

しかし、あきらかにこれまでと違ったことがあります。
世界が小さく見えるようになったのです。
たとえば、昨日ハガキを受け取ったのですが、そのハガキがいつもより小さいのです。
それで手元にあるハガキと合わせてみたら同じ大きさでした。
私の場合、近視なので、小さく見えるようになっているのでしょうが、コンタクトレンズの時よりも、世界が小さくなったような気がします。
もっともこれも間もなく慣れてしまうのでしょう。

しかし、メガネを使う生活は、たぶんこの1か月で終わる予定です。
となると、その後また、コンタクトレンズに戻った時に、世界はどうなるのでしょうか。

改めて人間の心身の不思議さに興味がわいてきます。

■今年は歴史が善い方向に動き出す年になりますように(2017年1月1日)
今年は久しぶりに地平からの初日の出が見られるかと思っていましたが、やはり雲のために、太陽が顔を出したのは数分後でした。
顔を出す前の雰囲気もとてもいいのですが、太陽が顔を出した途端に風景が一変していきます。
それからの数分は、世界に「いのち」が戻ってくるような、とても不思議な時間です。
「いのち」が息を殺している世界と動き出す世界。
でも私が生きたい世界は、その先の、「いのち」が普通に生きている世界です。
「いのち」が消えかかっているような、いまの世界は好きにはなれません。
昨年は、あまりにもたくさんのことに見舞われて、疲れ切っていましたが、
年末に2週間ほど、無為に過ごしたおかげで、意識に変化が起こりました。
今年も、これまでどおり、自らの「いのち」に誠実に生きたいと思っています。
1月4日と7日の午後、早速に湯島でオープンカフェを開店します。
近くに来たらお立ち寄りください。
ちょっと表情の変わったらしい私がいるだけですが。
面識のない人も歓迎です。
人はみな、友だちですから。
あたたかい陽光に包まれて、とてもおだやかな年明けです。
今年は、歴史が善い方向に動き出す年になることを祈っています。
「いのち」に恥じない生き方が、それを可能にしてくれるでしょう。
今年もまたお会いできますように。

■メガネを変えることも大切です(2017年1月3日)
今年元日の朝日新聞は、「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」というシリーズ記事の最初のテーマとして、「試される民主主義」を取り上げていました。
社説でも、民主主義の暴走への歯止めとしての立憲主義を取り上げていました。
それだけではなく、民主主義を意識した記事が多かったような気がします。
どうやらいま、「民主主義」が再び捉え直されようとしているようです。
大方の予想に反して、トランプが当選してしまったアメリカ大統領選挙のせいかもしれません。
トランプが当選したことが、何か民主主義の間違いであるかのような議論も多いような気がします。

そういえば、英国のEU離脱の国民投票も、同じような報道や採りあげられ方でした。
英国人がいかにも「間違った判断」を下したように言う人が圧倒的に多かった。
私もそう思ったこともありました。
だが、問題は、そう思うようになった、私たちの情報環境にあるのではないかと、いまは考えています。
問題の捉え方を変えると、結果の意味も変わってきます。

英国民やアメリカ国民の判断の良し悪しはともかく、なぜ私たちの思ってもいなかった結果が最近増えているのでしょうか。
私たちが得ている情報が歪んでいるのではないか。
そのために、世界を見損なってしまい、予想もしなかった結果を体験しているのかもしれません。

情報の歪みは報道の問題だけとは限りません。
たしかに昨今のマスコミの報道は偏っているように思いますが、その気になれば、マスコミ以外の情報も私たちはかなり得られる環境にあります。
世の中にあふれている情報をどう選択するかは、まさに私たち一人ひとりの問題です。
それに同じ情報でも、その読み方によってまったく違った意味になることもある。
だとしたら、情報提供者の問題にするのではなく、自らの情報読解力の問題として考えることが大切です。
他者のせいにしていては、何も変わっていきません。

年末にメガネをつくったのですが、メガネをかけたら視界がかなり変わってしまいました。
初詣に行った時、神社で石段を踏み外しそうになったほどです。
その体験で、やはり時にはメガネを変えることが大切だと改めて思ったのです。

与えられる情報で世界を見ていることは、与えられたメガネで世界を見ているのと同じことであり、その内に、そのメガネで世界を見るようになってしまいます。
目に合ったメガネでなくとも、気づかないうちに、目がメガネに合わせられてしまうわけです。
同じ世界も、メガネによって違って見えてしまう。
そして、そのこと、つまりメガネ次第で世界の解釈が違うということを認識することがとても大切なのです。

自分に見える世界だけを他者に押しつけてはいけませんが、それ以上に、自分でない人が見ている世界を押しつけられていることに気づかないのは危険です。
情報は、与えられるものではなく、得るものなのです。
それを忘れてはいけない。

民主主義をどう捉えるかは、いろんな考えがあります。
しかし、みんなが同じメガネをかけて、同じ思考をするようになれば、せっかくの民主主義も活きてきません。
ほとんどのマスメディアが、トランプ当選を予想できなかったことは、いまや情報の世界が非情報の世界になってしまっていることを示唆しています。
まさに、非情報社会が到来したのかもしれません。

■新年2回目のオープンカフェ報告(2017年1月8日)
昨日、新年2回目のオープンカフェを開きました。
バングラデシュでのテロの話から始まり、海外でのリスク管理の話、引きこもりの話、NPOのマネジメントの話、飛行機の話、生き方相談の話、・・・。
3時間以上、かなり盛り上がっていたはずなのに、思い出そうとするとあんまり思い出せません。
他にもいろいろとあったはずですが。
そういえば、人類はいつまで生き残れるかという話もありました。
初日の出を大井川で見たというような話もありました。
最後はそれぞれの今年の抱負や課題を少しずつ話しました。
それにしても3時間、ほとんど取り留めもない話を、アルコール抜きで続けるというのも不思議です。

10年ぶりにサロンに参加した人が、10年前と全く変わっていないと感想を話してくれました。
湯島のサロンは、どうも社会の動きに乗れていないようです。
困ったものです。

さて今年は、サロンや集まりをいろいろと開催する予定です。
ハードテーマからナンセンスまで、いろいろやりたいです。
テーマのあるサロンが中心ですが、私はテーマもスピーカーもない、わけのわからないサロンが大好きなので、このスタイルもやはり毎月開催したい気分です。

今年もよろしくお願いします。

■虚構と真実(2017年1月9日)
今朝の朝日新聞で知ったことです。
2004年からネットで「虚構新聞」を発行している人がいます。
その人によれば、最近は政治的なネタはやりにくくなったそうです。
「かつてなら冗談とわかって笑ってくれた。でも今は、いかにもありそうなウソの見分けがつかず、真に受ける人が多いんです」と言う、その人の言葉が紹介されていました。
たしかに、嘘のような本当の話や、本当のような嘘の話が、まかり通る時代になってしまいました。

オックスフォード英語辞書は毎年、「今年の言葉」を発表していますが、2016年世界の今年の言葉は「post-truth(ポスト真実)」だったそうです。
オックスフォード辞書のキャスパー・グラスウォールさんは、「ポスト真実」は「我々の時代を最もよく表す言葉のひとつ」になるかもしれないと選考理由を説明したそうです。
ちなみに、「post-truth」という表現が最初に使われたのは1992年だったそうです。

最近、世界で話題になっている「サピエンス全史」という本があります。
あまりの厚さに、私はまだ読む気にはなっていませんが、その本のキーワードは「詐欺」や「虚構」だそうです。
たとえば、農業革命は史上最大の詐欺。
そして、貨幣、国、宗教は虚構。

リチャード・ヴェルナーの「虚構の終焉」の表紙には、「フィクション・エコノミクス」という言葉が併記されています。
貨幣という虚構に基づいて、いまの経済は構築されているというのが同書のメッセージです。
それをベースに、その虚構の部分をていねいに解説されたのが天野統康さんの「〔詐欺〕経済学原論」です。
経済には、金銭経済と生活経済のふたつがありますが、それらは全く次元の違う話であることが、この2冊を読めばわかってきます。
ちなみに、私の経済の捉え方は、後者に基盤を置いているので、なかなかわかかってもらえません。

「サピエンス全史」の農業革命は史上最大の詐欺というメッセージは、視点を変えるということを示唆しています。
私は読んではいませんが、農業革命によって、「人類が小麦に家畜化されている」と書かれているようです。
主客を反転させると、見えなかったことがよく見えてきます。

虚構が悪いわけではありません。
「サピエンス全史」の著者は、インタビューでこう発言しています。
「虚構は重要で、価値があるものだと思います。なければ社会は成り立たない」。
しかし、その一方で、こうも語っています。
「文明が発達するほど、我々は不幸になっていく。なぜならその文明は「虚構」の上にもたらされたからだ」。
文明は私たちに利便性を与えてくれていますが、その裏で、不幸も与えているのかもしれません。

「ポスト真実」の時代には、虚構と真実を見分けるのが難しい。
というよりも、真実とは何かということが改めて、これまで以上に深い次元で問われることになるでしょう。
私自身は、虚構も真実も連続していると捉えていますので、すべてが虚構であり、すべてが真実です。
真実の裏には虚構があり、虚構の裏には真実がある。

「虚構新聞」の編集者が、社会の変化を感じたのは、2012年に、「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」と報じたときだそうです。
それがものすごい勢いで拡散し、「なぜウソの情報を流すのか」と次々に怒りの声が上がったのだそうです。
虚構新聞の記事の意味が、伝わらなかったわけです。
情報リテラシーが全く変わってしまったと言うべきかもしれません。
これも大きな問題です。

反知性主義につづく、「ポスト真実」。
知性と真実の捉え方を変えることが大切かもしれません。

■なぜ日本人は「出生地」にこだわるのか(2017年1月10日)
昨年、朝日新聞のコラムで、酒井啓子さんが刺激的な問いを出しています。
「日本の政治がひどくなって自由に議論できない社会になったら、海外に脱出するか」。
世界的にみれば、よくある問いの一つでしょうが、その問いへの同僚などの反応に酒井さんは違和感を持ったようです。
そのことに、私も大きな関心を持ちます。
日本から脱出することは、多くの日本人には選択肢にさえならないかもしれません。
日本人は、もしかしたら根っからの「国民」なのかもしれません。

そういえば、難民問題も、日本では「受け入れ問題」でしかありません。
そして受入に対して世代を問わずこぞって否定的なのは、福島原発の被災地から転居した子どもたちの扱いを見ればよくわかります。
出生地から出ることにも入ることにも、みんな抵抗があるのです。
日本はどうやら極めて、閉じられた社会のようです。
よく言われるように、「内」と「外」とは、別世界なのです。

福島原発事故につなげていえば、酒井さんの疑問はこういうようにも置き換えられます。
「住んでいるところの環境がひどくなったら、他のところに脱出するか」。
この問いに対しても、必ずしも答えは自明ではないでしょう。
実際に被災者のみなさんは、やはり住んでいたところに戻りたいという意向が強いように感じます。
もしかしたら、報道している人たちに、そうした発想が強くあるために、そういう姿勢で報道されているのかもしれませんが、なぜかみんな戻りたがる。
被災地に戻らずに加害者に転居を保障させるような動きは強まりませんし、政府も何とか除染して元に戻させようとしています。

これは組織への帰属性にもつながっているかもしれません。
かなり粗っぽい議論になりますが、こうした私たちの心性が、日本の社会を形成してきているように思います。
私たちにとって、環境は所与のものか、選択できるものか。
私には、その答えは明確ですが、みなさんはいかがでしょうか。
そのいずれかによって、生き方は大きく変わっているはずです。

■オバマとトランプのスピーチ(2017年1月15日)
アメリカのオバマ大統領とトランプ次期大統領のスピーチや記者会見が話題になっています。
ほとんどの人が、オバマの話に感銘を受け、トランプには反発しているように思います。
しかし、私は、オバマには失望し、トランプには期待しました。

オバマは、相変わらず、Yes,we can.といい、さらに今回は、Yes,we did.といいました。
なにをやったというのか。
期待を裏切っておきながら、それへの説明がない。
とても失望しました。

オバマの大統領就任演説には感動しました。
歴史の流れが変わると思いました。
しかし、1%支配の流れはむしろ加速され、アメリカはますます軍事力を高め、テロ活動を加速させた気がします。
オバマケアにも、大きな疑問がありますし、何よりもトランプによって簡単に覆されそうになっていることが、その実態を示唆しています。
今にして思うと、Yes,we can.というように、we で語る時の weとは誰かということさえ考えたくなります。
いまさらYes,we did.などといわれると、小賢しささえ感じます。
オバマには自らの生命をかけた責任感が全くなかったのではないかとさえ思います。
Yes,we did.の weとは誰だったのか。

オバマと違って、トランプは単数形のI(私)を主語にして語っています。
実体があいまいで責任転嫁しやすい複数形ではなく、責任が明確になる単数形ですから、私は好感が持てます。
良くも悪くも、そこに自分のすべてがかかっているわけで、逃げ場はありません。
学者や「有識者」は、weで語りがちですが、大統領のような実務者は単数形のIで語るべきだと思います。
そして、トランプは、自らの考えや政策を極めて明確に語っています。
そこにごまかしはありません。
メキシコとの間に壁をつくることをとんでもないように言う人は多いですが、壁をつくっている国は多いですし、見えない壁よりも見える壁のほうが私には安心です。
自由貿易を批判していますが、私は過剰な自由貿易によって、世界的な格差が広がっている現状はおかしいと思っていますので、賛成です。
アメリカファーストというのも批判の対象になっていますが、小池さんの都民ファーストやアスリートファーストと同じです。
もちろん私はいずれにも賛成できませんが、都民ファーストに賛成している人がなぜアメリカファーストに反対なのかがわかりません。

トランプが記者会見でCNNの記者に質問させませんでした。
それも多くの人が非難しますが、その一方で、マスコミの偏向が問題だという人が少なくありません。
にもかかわらず、こういう場面ではマスコミの立場に立ってしまうのが理解できません。
もしマスコミの報道姿勢が社会をおかしくしていると思うのであれば、トランプの行動も理解できるはずです。
先日も、民主主義をテーマにしたフォーラムをやりましたが、そこで多くの人がマスコミが問題だと言いました。
その人たちはこの場面をどう見たでしょうか。
たぶんCNNの記者の味方をするでしょう。
私には言行不一致に思えます。

もちろん私はトランプの姿勢がよいとは思ってはいません。
もしトランプに力と自信があれば、正々堂々と正面から質問を受けて立ったはずです。
でもそれでは勝ち目がないことを彼は知っているのでしょう。
何しろ長年現場で生きてきた人ですから、報道がいかに巧妙かを、身に染みて知っているはずです。
戦いの始め方に関しては、私はいつも映画「アラモ」のトラヴィス大佐のやり方を思い出しますが、トランプがマスコミに宣戦布告したやり方は賛成できます。
CNNの虚構性は、現に今回の大統領選で明らかになりました。
CNNをはじめとしたマスコミの在り方こそを、変えるべきチャンスです。

まだまだいろいろと書きたいことはありますが、要は、トランプは時代の流れに異議申し立てしてくれたのです。
それを逆手にとって、金融界は利益を上げていますし、1%の人たちは、トランプを手玉にとって、自らの利益につなげるでしょう。
その応援をしているマスコミや有識者たちには、私は大きな怒りを感じます。

50年ほど前に「アメリカの反知性主義」を書いたリチャード・ホーフスタッターが生きていたら、トランプとクリントンの大統領選をどう読み解いてくれたでしょうか。

■リンカーンクラブサロン「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」の報告(2017年1月23日)

昨日、「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」のリンカーンクラブサロンを開催しました。
参加者は10人でしたが、議論は盛り上がりすぎて、3時間たっても終わりませんでした。
今回は、普通の人の声を集めて社会に発信していく仕組みをつくりたいというニコさんの呼びかけから話し合いが始まりましたが、話題は広がり、現在の日本の政治の裏話のような話まで出てきました。
私には驚愕するような話もありましたが、納得できる話もありました。

最初に問題になったのは、「電力自由化の後、原発の電力を新電力会社にも請け負わせようという経産省の提案」の話です。
ニコさんは、原発事故によって生じたコストまで新電力会社に負担させるのはおかしいと考えていますが、これに関しては賛否両論がありました。
話しているうちに、結局は、原発をどうするかという話ではないかということになり、ドイツや台湾・ベトナムの話も出ました。
まだまだ私には知らないことがたくさんあります。

そこからなぜか、日本政治の裏話のような話題になってしまい、私には少しついていけなくなったのですが、予定調和などとは無縁のサロンですから、それがまた刺激的でした。
いろんな話がありましたが、何しろあまりに刺激的な話が多かったもので、うまく報告できません。

私の関心事で言えば、「主権者教育」ってなんだという問題提起に共感を持ちました。
主権者を教育するのは、一体誰なのか?
どう考えても私には理解できない話ですが、そもそも「主権者教育」などという言葉が使われている風潮に違和感を持っています。
かつての消費者教育の時にも感じた違和感です。
この言葉をいつか話題にしてサロンをしたいものです。

ちなみに、問題提起者の小室ニコさんは、みんなの声を書名で集めて、ネットで世界に発信していきたいという思いをお持ちですが、ご自分がネットが得手でないので、ネットの得意な人に応援してもらえないかと希望しています。
もし一緒にやろうという人がいたら、あるいはそういうことに関心を持ってくれそうな人がいたら、ぜひ小室さんに連絡してください。
私に連絡してもらえれば、つなげます。

なお次回のリンカーンクラブは、2月19日(日曜日)、新潟巻町での原発建設を巡る住民投票をテーマに、折原さんに報告してもらい、住民投票(国民投票)の意味を考えられればと思っています。
詳しい連絡は別途させてもらいます。

■2つの民主主義(2017年1月24日)
先日のリンカーンクラブのサロンでも話したのですが、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という理念には、2つの考え方が包含されていると思います。
「人民の、人民による政治」と「人民のための政治」です。
それが一致するのが一番望ましいでしょうが、実際にはそれはとても難しい。
なぜなら「人民」という概念が、あまりに包括的であいまいだからです。
そこで、私は2つを別に考えたほうがわかりやすいと考えています。

「人民の、人民による政治」は、政治を執行する主体が「人民」ということです。
いわゆる直接的民主主義で、これこそが、本来的な民主主義の理念ではないかと思います。
衆愚政治とかポピュリズムという言葉が、最近は否定的に使われますが、人民が主役であるならば、まさにそれこそが「人民の、人民による政治」です。
そもそも衆愚という言葉自体が、人民を対象化した捉え方で、人民とは違った「賢い存在」があるという前提に基づいています。
先日のリンカーンクラブの公開フォーラムで、「愚民」という言葉が「学者」や「有識者」から発せられましたが、そうした発想を持つ人には、「人民の、人民による政治」は恐ろしい発想でしょう。
もし民主主義に価値を少しでも置くのであれば、人民を信頼しなければいけません。
不都合な人民を「愚民」と言って排除する発想は、民主主義とは真逆な発想です。

「人民のための政治」は、政治の目的が「人民の幸せ」だとする政治です。
政治の主体は、そこでは問題になりません。
王が民衆の幸せを目指す善政を行うのであれば、それは「人民のための政治」です。
民主主義の理念を、個人の尊厳の尊重と捉えるのであれば、これもまた民主主義の一つと言っていいと思います。

「人民の、人民による政治」が、必ず「人民のための政治」になるとは限りません。
多様な価値観を持ち、多様な立場にある「人民」は、まさにその多様性のゆえに、政治の主体(主役)と客体(対象)はそう簡単にはつながらないからです。

おそらく多くの人は、「人民のための政治」を求めているように思います。
自らが政治の主体になるよりも、自らを幸せにしてくれる人に政治を託したいと思うのは、合理的な判断です。
それは決して「愚民の判断」ではありません。
そしてそれもまた立派な民主主義だと思います。
ただ代表になった政治家が、「人民のための政治」から逸脱しないようにする仕組みが必要であることは言うまでもありません。

しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
「人民のため」とは何か、「人民の幸せ」とは何かという問題です。
この点に関しての議論はあまりありませんが、最近話題になっているユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」には、その問題意識があります。
著者は、その本の最後にこう書いています。

私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

私はその問いかけに全面的に共感します。

私自身は、「人民の、人民による政治」のほうに民主主義の本質を感じています。
それは「幸せ」ということをどう捉えるかということにもつながっています。

トランプ大統領の就任演説にこんな言葉がありました。

We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.

私は、この最後の“to you, the people”という言葉が、とても気になりました。
これについては明日また書こうと思います。

■リンカーンクラブ 第1回講演会のご案内(2017年1月24日)
リンカーンクラブでは今年から定期的に「民主主義」をテーマにした講演会を開催していきます。
第1回目は、永田町議員会館で日々多くの議員から最新情報を入手し、政局の行方を分析している政治ジャーナリスト安積明子さんをお招きしました。
直前の案内になってしまいましたが、みなさまのご参加をお待ちしています。
案内チラシを添付します。

日時:2017年1月30日(月) 午後6時半〜8時半(6時開場)
場所:文京シビックセンター 区民会議室4階ホール
     http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
     丸の内線・南北線[後楽園駅]、三田線・大江戸線[春日駅] 徒歩1分
     JR総武線[水道橋駅](東口)徒歩9分
講師:政治ジャーナリスト 安積明子さん
内容:
1)野党共闘は成り立つか
2)現在の野党共闘の問題点
3)今解散すると衆議院はどういう構成になるのか
参加費:会員1000円、非会員1500円(税込み)当日会場でお支払いください
申込先:info@lincolnclub.net

■第7回リンカーンクラブサロンのご案内(2017年1月24日)
第7回リンカーンクラブは、前回話題になった原発問題にも絡めて、住民投票と民主主義のテーマについて話し合いたいと思います。
民主主義の問題は、ともすると抽象的な話になりがちですが、今回は20年ほど前に起こった、新潟県巻町での住民投票の経緯を最近まとめた折原さんに報告と問題提起をしてもらうことにしました。

記憶に残っている方も多いと思いますが、巻町では原発建設是非を問う、自治体による全国初の住民投票が行われたところです。
原発に「ノー」を突きつけた町民の選択と道のりは当時、「民主主義の学校」として全国的にも高く評価されたところです。

折原さんはその巻町の関係者などへの聞き込みなどを踏まえながら、当時の状況を「原発を葬った市民のスクラム」という報告にまとめています。
その論考を添付します。
参加される方は、事前にこの報告を読んでいただき、当日はそれを踏まえての話し合いができればと思います。
できればサロンにもご持参ください。

よろしくお願いいたします。

○日時:2017年2月19日(日曜日)午後1時半〜3時半
○会場:湯島リンカーンクラブ事務局(文京区湯島3−20−9−603)
http://cws.c.ooco.jp/lcmap.pdf
○問題提起者:折原利男さん
○テーマ:原発を葬った市民のスクラム 巻町住民投票をめぐって
○会費:500円
●主催:リンカーンクラブ
http://lincolnclub.net/
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■カフェサロン「豊かな高齢期を生きることの素晴らしさ」のお誘い(2017年1月28日)
昨年10月のカフェサロンで、
「地域に看取りの文化を取り戻す運動」
をテーマに冨田さんに問題提起していただきました。
その反響がいろいろとあったので、そのパート2を開催することにしました。
今回は、1990年前後から施設内での「看取り」を実践してきた
小田原福祉会の潤生園の時田佳代子さんに、
長年の体験を踏まえたお話をしていただこうと思います。
もちろん単なる講演会ではなく、
いつものように話し合いを中心としたカフェサロンです。

いまでは状況は変わっていますが、
小田原福祉会が看取りに取り組みだしたころは、
「死は医療のもの」という時代であり、
医療関係者からの非難の声も多かったそうです。
それが現在は大きく方向転換し、
施設での「看取り」が推進されています。
そうした動きには、理念というよりも、
財源の問題が影響しているようですが、
長年、そうした動きの渦中で活動している時田さんのお話は、
改めて、福祉や医療、さらには「死の問題」「看取りの文化」を考える上で、
大きな示唆をいただけるように思います。

時田さんは、臨床の場での長年の経験から、
人が死ぬことは怖いことではなく、
最期をどう迎えるかわかっていると、
自分自身のその時を真正面から考えることができるようになる、
と話されています。
そうした視点から、今回は
「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」
を多くの人に伝えたいと話されています。
時田さんと話していて印象に残ったのは、
「自然な死」ということの大切さです。
時田さんは、歳をとることは本当に素晴らしいと実感されているようです。

ぜひ多くの人たちに参加していただき、話し合えればと思っています。
まわりの人たちにもご案内いただければうれしいです。
高齢者に限らず、若い世代の参加も大歓迎です。

●日時:2017年2月26日(日曜日)午後1時半〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●テーマ:「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」
●話題提供者:時田佳代子さん(小田原福祉会常務理事)
●参加費:500円
○参加申込み:comcare@nifty.com

■“you, the people”と “we, the people”(2017年1月27日)
また少し時間に追われてしまい、書き込みが滞っていました。
前回、書き残したトランプ大統領のスピーチの “to you, the people”という言葉に関連して少しだけ書きます。
国民を,“you, the people”と捉えるか、“we, the people”と捉えるか、という問題です。
ここにはトランプ大統領の大きな世界観を感じます。

トランプ大統領は、こう話しました。
We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.
政権を、ワシントンD.C.から、あなたたち人民に取り戻している、という意味でしょうか。
その文脈の中で、トランプ大統領はどこにいるのか。
私にはそれがとても気になるのです。
トランプさん自身は、the peopleには入らない。
もうひとつ気になるのは、では「だれから」取り戻したのかということです。
アメリカには、the peopleではない、誰かがいるということでしょうか。

アメリカで一時期、「オキュパイ・ウォールストリート(「ウォール街を占拠せよ」)」という動きがありました。
1%と99%の対立です。
これは、アメリカ国内を超えて、世界的に広がっている構図ではないかと思います。
かつては、水平的な国家間の対立構造が、今ではグローバルな空間の中での、1%と99%の垂直的な対立構造へと、世界の構造が変わってきていると私は考えていますが、そういう見方からすると、トランプ演説は政権の主役を1%から99%の人民に取り戻したという意味合いにも感じられます。
私は、トランプさんは今は大金持ちであろうとも、たぶん本性においてはまだ99%から完全には抜け出ていない人だと思えるのですが、そう考えると、トランプ大統領のスピーチはなんとなく納得できるのです。
そして、彼が“we, the people”と言わなかったことにいささかの哀れさを感じてしまうのです。
彼は、“we, the people”といわなかったことにおいて、まさに99%の人であることを示唆しているような気がします。

取り戻すということでは、安倍首相も似た言葉を発していました。
「日本を取り戻そう」です。
これは、トランプ演説以上に、主語も目的語もありません。
ですから意味不明ですが、しかし実際には明確な意味を示唆しています。

いずれにしろ、安倍首相やトランプ大統領の関心は、取り戻しです。
アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。

■自分ファーストの風潮(2017年1月28日)
昨日のブログの最後に、
アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。
と書きました。
そういう風潮に合わせて、「取り戻し」の動きが高まっていることが不安です。

私は、人の本質は、他者をおもんばかることにあると考えています。
それは、人に限らず、生命の本質だと思っていますが、その本質の揺らぎは、人が「死」を認識した時から始まったのかもしれません。
つまり、個体の死が、生命の個体化を意識化させ、そこから私利意識が始まった。
人が、その「死」をむしろ支え合いや思いやりにつなげてきたのは、これもまた生命の本性から出たことだと思っています。

それはともかく、生物的にはひ弱な人類が、生き残れてきたのは、「支え合い」によるものだということは、多くの人が語っていることです。
いま話題の「サピエンス全史」の著者は、アフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れてほそぼそと暮らしていた「取るに足りない動物」だった現生人類が、地球を支配するに至ったのは、多数の見知らぬ者どうしが協力し、柔軟に物事に対処する能力を身につけたからだ、と書いています。
もしそうであれば、「支え合いの知恵」こそが、私たちの拠り所です。
そして、私たちはその知恵を時間をかけて制度化し、社会化してきました。
しかし、それを最近の「ファースト志向」は壊そうとしている。
トランプ大統領と小池都知事は、私には同じに見えていますが、それを多くの人が支援していることは、驚きです。
「○○ファースト」ブームです。
「アスリートファースト」という言葉が象徴していると思いますが、だいたいにおいて、「○○ファースト」と言っている人は、その「〇〇」ではなく、それを利用している「よこしま」人が多いように思います。
しかし、その「○○ファースト」に、「○○」の人たちはだまされてしまう。
そして、時代の風潮として、「○○ファースト」、つまり、自分たちのことだけしか考えていないという、生命らしからぬ考え方が広がりだしたということです。
いささか大仰に言えば、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」が始まったのです。
まさに、余裕のない、貧しい時代を象徴しています。

自然は、すべての生命に自らを提供している。
最近の異常気象が引き起こす自然災害を見ると、自然は恐ろしいと考えてしまいましが、それは「人間ファースト」発想によって、私たちの生活を成り立たせてしまっている結果かもしれません。
自然には、悪意があるとは思えません。
支援災害を起こす、その自然のエネルギーが、同時にまた、私たち生命に、あるいは人間に恩恵ももたらしてくれます。
東北の津波被災地に、防波堤を造り上げるのと、メキシコとの国境に壁をつくるのと、私には同じ行為に見えてしまいます。

「自分ファースト」志向は、物事の一面しか見ない、短絡的な姿勢です。
一昔前に、「啓発された自己利益 (Enlighten Self-Interests)」という言葉がはやったことがありますが、利己と利他は時間軸や空間軸を広げていけば、結局は同じものに行きつくはずです。

他者をおもんばかる生き方が、どれほど豊かなものであるか。
私たちは、それを忘れているような気がしてなりません。

■第1回企業サロン「電通社員過労自死問題から何を学ぶか」の報告(2017年1月29日)
昨日、第1回の企業経営サロンを開催しました。
会社を辞めた時から、つまり30年近く前からやりたかったことの一つに、「企業時評」というテーマがあったのですが、ようやくそれに取り組むことにしました。
これは、企業に関わる「事件」を材料にして、そこからこれからの企業経営や自らの働き方を考えていこうというものです。
今回は、電通社員過労自死問題を切り口に、最近話題の「働き方改革」を話し合うことにしました。
当初は、私が長年関わってきた経営道フォーラムの最近のメンバーだけを対象にしようと考えていました。
経営道フォーラムでは、抽象的な議論になりがちで、ケーススタディに基づく具体的な話し合いはなかなかできませんので、いわば経営道フォーラムで学んだことを実践的に消化する場にしたかったのです。
10人ほどを想定していたので、最近のチームメンバーに限って控え目に案内しました。
1つのチームだけでも、フォーラム期間中であれば、6人前後は来ますので、集まり過ぎたらどうしようなどと考えていたのです。
ところが参加申し込みは5人。
それで、開催前日にフェイスブックなどで公募しました。
結局、半分は経営道フォーラム以外のメンバーになりましたが、むしろそれがよかったような気がします。
2回目からは、公開で開催する予定です。

話し合いは、それぞれがまず事件に関する感想などを述べることから始めました。
実は、事件に関わるアクターを整理したペーパーは用意しておいたのですが、そんなものは不要でした。
それぞれからとても多様な視点と問題提起がありました。
私が気づかされることもたくさんありました。
話の内容は一切省略しますが、いまの企業や社会のあり方、教育や報道のあり方、あるいはSNSとコミュニケーションの捉え方にまで話は広がりました。
過重労働問題や働き方・働かせ方の問題、さらには日本の企業の生産性の低さも話題になりました。
3時間経過しても終わりそうもないほどでしたが、改めてこうした話し合いの場の大切さを感じました。
そして、こうした「事件」に対して、批判するのではなく、そこから学ぶことが、企業関係者にも私たち生活者にも、もっと必要なのではないかと思いました。
それがあれば、同じような事件が、繰り返されなくなるかもしれません。
そして、何よりも、働く人も企業経営者も、そして社会も、少し賢くなるかもしれません。

サロンの最後のあたりになって、「働く」とは何なのだろうかという話になりました。
私たちは、そろそろ「働くことの意味」を問い直す時期に来ているように思います。
「働かせ方」や「働き方」も大切ですが、そもそも「働くとは何か」ということです。
子育て問題が待機児童数解消という数量の問題になっているように、働き方改革が労働時間という数量の問題になりがちなのが、私には違和感があります。
問題の立て方を間違うと、解決どころか事態を悪化させることにもなりかねません。
そういう意味でも、「電通社員過労自死問題」は大きなメッセージを与えてくれているように思います。

今回は報告の内容は一切省略しましたが、とても気づきや学びの多いサロンでした。
次回のテーマはまだ決まっていませんが、決まったらまたご案内します。
毎月開催していく予定です。
もしどなたかこんな問題で話し合いたいということがあれば、お知らせください。
ただし、具体的な「事件」や「事例」を切り口にするスタイルは大事にしたいと思っています。

■2つのエピソード(2017年1月29日)
塩野七生さんの「ギリシア人の物語U」がやっと発売されました。
毎年年末の恒例行事が、塩野さんの本を読むことですが、今年は年初発売になり、今朝届いたので、読みだしました。
読み終えたかったのですが、いろいろあって、残念ながらまだ第1部しか読めていません。
しかし、その第1部の最後にあるペリクレスのエピソードは、とても示唆に富んでいます。
簡単に紹介するとこんな話です。

ある時、公務中のペリクレスに付きまとって、口汚く非難を浴びせつづける市民がいた。彼は、夜遅くになって公務が終わって、灯りで道を照らす召使を一人連れているだけのペリクレスに向って、批判・非難・中傷の数々を浴びせつづけた。家に帰り着いたペリクレスは初めて口を開いた。それは、男に向けられたのではなく、召使に命じた言葉だった。「その灯りを持って、この人を家まで送り届けてあげるように」。

ペリクレスはいうまでもなく、民主政治と言われる時代のアテネのリーダーで、「ギリシア人の物語U」のテーマである「民主制の成熟と崩壊」の、成熟時代の主役です。
この話を読んで、もう一つ思い出した話があります。
韓国の禅僧の法頂さんが書いていた話です。

ある日、人里離れた山寺の老和尚が、夜中に用を足し、戻りがけに後ろの方に人の気配を感じた。みると、そこに、米蔵からお米を一俵盗み出して背負ったものの、その重さで立ち上がれない泥棒がいた。老和尚は後ろに回って泥棒がもう一度起き上がろうとした時、そっと押してあげた。やっと起き上がった泥棒がひょいと後ろを振り返った。
「何も言わずに背負っていきなさい」
老和尚は泥棒に低い声で諭した。翌朝、僧たちは昨夜泥棒が入ったと大騒ぎをしていた。でも老和尚は何も言わなかった。
それ以来、その夜のお客様はその山寺の熱心な信者になったという話である。

私が考える民主主義の理念は、老和尚の生き方です。
ペリクレスにもあこがれますが、私にはアテネには民主政治はあっても、民主主義はなかったと思っています。
ペリクレスは、ソクラテスと会いながらも友人になれなかったことも、塩野さんは本書で説明してくれています。
それを読んで、法頂さんの本を思い出したのですが。

■2つのリーダー(2017年1月31日)
塩野七生さんの「ギリシア人の物語U」を読みました。
第2巻のテーマは「民主主義の罠」。
本の帯に書かれているように、「黄金時代を迎えたアテネの崩壊の足音を手繰り寄せたのは、民主制に巣食うポピュリズムだった」ということが、とてもわかりやすく書かれています。
まるで、いまの世界を描いているような話になっています。
非常に面白かったのですが、なにか割り切れないものが残りました。
本書を読んだ多くの読者は、民主主義に対する評価を大きく減じてしまうのではないかという気がしたのです。
民主主義への信頼感を強く持っている私も、いささかアテネ市民の身勝手さにうんざりしました。

しかし、問題は、市民そのものではなく、市民を扇動する人です。
なぜ人は、人を扇動するのか。

私もある時、一緒に講演した人から、佐藤さんはアジテーターですね、と言われました。
意外な指摘でしたが、たしかに私は、議論よりも行動が大切だと思っていますし、同時に行動するためには議論が必要だと思っていますので、私の話はいささかアジテーションになっているのかもしれません。
ちなみに、その時のテーマは、ソーシャル・キャピタルの話でした。

先日、企業関係者の研究発表会に参加しました。
私がとても共感できる発表があったのですが、隣で聴いていた大学教授がその発表者に関して、アジテーターですね、と感想を話してくれました。
私には、思ってもいなかったコメントでしたが、こういう話もアジテーションなのかと思い知らされました。

塩野七生さんは、「ギリシア人の物語U」でこう書いています。
「デモクラツィア」(「民主(衆)政治」)と「デマゴジア」(「衆愚政治」)。いずれもギリシア人の発明になる言葉だが、一見するだけならば別物の政体のように見える。だが、この2つともが「衆」が主役であることに御注意を。
最高決定権は「民」(demos)にあるという点では、民主政治も衆愚政治もまったく変わらない。
「デモクラシー」と「デマゴジー」とは同じコインの裏表で、簡単にひっくり返る。

たしかに、「デモクラシー」と「デマゴジー」を区別するのは難しい。
さらに塩野さんは、民主政でも衆愚政でもリーダーは存在するが、そのリーダーの性質は違うと言います。
民主政のリーダーは民衆に自信を持たせることができる人。
衆愚政のリーダーは民衆が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を、煽るのが巧みな人。
つまり、前者は「誘導する人」、後者は「扇動する人」。
コインの表になるか裏になるかは、リーダーによって決まるというわけです。

プラス面に光を当てながら先導していくリーダー。
マイナス面をあばき出すことで不安を煽るアジテーター。
現在のリーダーである、トランプ大統領と安倍首相はどちらでしょうか。

ちなみに、塩野さんは、「今日ならば、デモの指導者もマスコミもウェブも、自覚していようがいまいが、には関係なく、立派に「デマゴーグ」(扇動者)になりうる」とも書いています。
さて、私はどちら的な生き方をしているのでしょうか。
本書を読んでから、少し悩んでいます。

■都政とトランプ政治よりも安倍政治をしっかりと報道してほしいです(2017年2月1日)
最近のテレビ報道は、都政とアメリカの話題に覆われています。
日本の国政の問題は、中心にはなっていないようです。
都政もアメリカの国政も大切でしょうが、私にはそれ以上に国政の動きが知りたいです。
しかし、多くの人は、そうではないのかもしれません。
そこから感じられるのは、いまや政治さえもが消費されるべき事件でしかないのだということです。

豊洲問題や小池知事と都議会の対立はドラマのように面白い話ではあります。
しかし、豊洲などは最初から本来築地の転居先にはなり得ないところですし(だから面白い物語になったわけですが)、議会と首長の対立はよくある瑣末な話です。
しかし、そうした話題が、ニュースショー的な番組で面白おかしく。詳細に報道されていて、しかもそこにコメンテーターという人たちが事情通のような解説をしていますが、それがどうしたという話ばかりです。

アメリカのトランプ発言はどうでしょうか。
相変わらずマスコミやコメンテーターは、反トランプの偏見に基づいて、酷評していますが、私には、トランプ大統領がやっていることは、日本の国政に比べて、それほど大きくおかしいとは思いません。
むしろ、問題の原点に戻って考えるという意味では、健全ささえ感じます。
たしかに人種差別的な大統領令には、共感できないものも多いですが、それとて今の日本の安倍政権やかつての野田政権がやっていたことと、そう大して違わないように思います。
沖縄や福島を見ていると、そう思わざるを得ません。
トランプ政権を批判する前に、まずは自分の国の国政をきちんと報道してほしいものです。

アメリカの最高裁判事の人事まで、日本では大きく取り上げられていますが、そもそも日本の最高裁の判事のことなどきちんと報道したり話題にしたことなどほとんどないのに、何でアメリカの新しい判事の良し悪しまで評価するのか、私には理解できません。
まあそうした都政とアメリカの政治に多くの人たちの目を向けさせている裏で、日本の国会は何を議論し、政権は何を進めているかが心配です。
沖縄はどうなっているのでしょうか。
共謀罪はどうなるのか。
安倍首相は海外に大盤振る舞いを続けていますが、国内の低所得者層にも少しは振舞ってほしいものです。
大学の学費の高さを知っているのでしょうか。
仕事がない若者たちの実態を知っているのでしょうか。
テレビももっとしっかりとした問題意識をもって取材し報道してほしいです。
ニュースはショーではないのです。

■TCH(Tooth Contacting Habit)(2017年2月2日)
今日はまた歯医者さんでひとつ教えてもらいました。
マウスピースを使いだしたのですが、寝ている時には自然と歯はかみ合っているのが普通ですか、と歯医者さんに質問しました。
何事も疑問に思ったことは質問するのが私の性癖です。
そうしたら、リラックスしている時、上下の歯は軽く接していると思いますか? と訊かれました。
接触していないのだそうです。
たしかに意識してみると、接触していません。
しかし、それは重力の法則に合わないので、進化の間違いではないか、類人猿もそうですか、と歯医者さんに場違いな質問をしたのですが、そうしたらTCHの話をしてくれました。
TCHとは、“Tooth Contacting Habit”(歯列接触癖)の略で、上下の歯を“持続的に”接触させる癖のことだそうです。

帰宅して、早速、調べてみました。
類人の話ではなく、TCHのことをです。
そこで知ったことを紹介します。

上下の歯は何もしていない時は接触しておらず、離れており、会話や食事をする際に接触する時間を含めても、接触しているのは1日20分程度が正常だと言われています。
上下の歯の接触時間が長くなると、筋肉の緊張や疲労、顎関節への負担が増え、起床時症状(顎の疲労感,歯の違和感,口が開きにくいなど)や顎関節症、様々な不定愁訴に関わっている可能性が考えられています。

マウスピースの効用がよくわかりました。
歯ぎしりはストレスが起こすと言われますが、歯ぎしりがストレスを起こす面もあるということです。
マウスピースは歯の寿命を延ばすだけではなく、人生を明るくするのです。
みなさんもいかがですか。
我孫子市のいしど歯科クリニックは、行くたびに何かを学べる楽しい歯医者さんです。
今日は血圧で、少しまた注意されましたが。

■世界をどう認識するか(2017年2月4日)
前にも何回か書いたことですが、世界の構造をどう認識するかで、世界の風景は変わってきます。
最近のトランプ現象も、たぶん少し変わって見えてくるでしょう。
TPPの問題もそうですが、世界の構造の把握によって、その評価基準は反転します。
非常に荒っぽい言い方をすれば、1%の視点で見るか99%の視点で見るかということです。
あるいは、マネタリー経済の視点で見るか、サブシステンス経済の視点で見るかです。

昨日の朝日新聞の「異論のススメ」で、佐伯啓思が「グローバリズムの時代に保護主義は本当に悪か」と書いていましたが、私もかなり共感できるところがあります。
世界の経済環境がこれほど大きく変わっているのに、なぜかまだ「自由貿易」信仰が多いのは不思議です。
そもそも「保護」とは「何かを何かから守ること」ですが、その2つの「何か」をきちんと理解して、保護貿易を語っている人はいるのでしょうか。
しかも、世界の構造は変質しています。
人々の生活を豊かにするための経済の成長や発展は、いまや資本の増殖のための経済成長になってきています。
貿易障壁をなくすことが、人々の生活を豊かにするとは限らなくなっています。
それは、経済行為がいまや文化や生活と切り離されてしまったからです。
自由貿易という時の「自由」とは、誰にとっての「自由」か。
そうしたことをわかりやすく可視化してくれたのがトランプ大統領です。
もっともトランプ大統領もまた、自由貿易主義者でしょうが。

自由貿易論も、保護貿易論も、その目的は人々の生活を豊かにすることだったはずです。
その原点に戻って考えなければいけません。

世界を、個人を主体として考えるか、客体として考えるかで、その構造は全く違って見えてくるでしょう。
私たちは、そろそろ、「個人の尊厳」を起点にして、世界を構想する時代に来ているように思います。
そういう思いでトランプの発言を受け止めると、そこに時代の流れへの大きな異議申し立てを感じます。
多くの報道はトランプの言動を「人権無視」と捉えているように思いますが、ほんとうにそうなのか。
これまでのオバマ政権はほんとうに「人権尊重」だったのか。
トランプ騒動は、そういうことを考える絶好の機会ではないかと思います。
これまでの枠組みで考えずに、枠組みそのものを考えることも、時に必要ではないか。

私の場合、その起点は常に個人の尊厳です。

■久しぶりの「みんカフェ」のお誘い(2017年2月4日)
久しぶりに、「みんなのゆる〜いカフェ」を開催します。
湯島では最近、みんカフェは開催していませんでしたが、新潟や千葉などで継続的に開催されています。
湯島では公開型の「みんカフェ」は久しぶりですが、今回はちょっとまた、少し新しい要素をいれたいと思っています。
実際にそうできるかどうかはわからないのですが、サロンの中心になる「話し合い」をできるだけしない試みです。
目指しているのは「リトリートカフェ」
ただただコーヒーか紅茶を飲みながら、1時間を過ごす。
もちろん話したい人は話すのは自由です。
自らを「放す」ように話すのも自由。
もちろん出入りも自由。
1時間ほどたったら、少しずつ話し合いも始めたいと思います。
もちろん話し合いたいひとだけで、です。
もしかしたら、私も最初に少しだけ話をさせてもらいます。
話すというよりも、ある本を読むことになるかもしれません。
私が、それを読んでとてもあったかくなった文章を、です。
そのあったかさを、シェアできればと思います。
まあ、そんなカフェサロンが実現できるかどうかはあまり自信はありませんが、少なくとも来てくださった方には、ほっとする時間を持ってもらえるように努力します。

よかったら、遊びに来てください。
もし何か相談ごとがあったり、サロンの途中で、相談したくなったら、喜んで相談を受けたいと思います。
サロン終了後も1時間ほど時間をとっています。

普段あまりお会いできない方や、これまで現世では一度も会ったことのない方に、お会いできるのを楽しみにしています。

〇日時:2017年2月12日(日曜日)午後1時半〜3時半
1時から部屋は開いています。出入り自由です。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○メニュー:コスタリカのコーヒー、またはダージリンティとささやかなお菓子
どなたでも歓迎の、ゆる〜いカフェサロンです。
○会費:お布施方式(どこかに箱があるので入れたい人は入れていってください。活動持続のために使わせてもらっています)

■子どもたちにとって、一番大切なのは何なのか(2017年2月6日)

今年4月入所を目指した認可保育所の選考結果通知が全国で2月から本格化し、落選ラッシュで親たちが悲鳴を上げている。ソーシャルメディア上には「このままでは共倒れ」「ショック過ぎる」と悲痛な声が全国から寄せられている。昨年、認可保育所を落選した母親が「保育園落ちた。日本死ね!」とブログに書いて注目されて間もなく1年。親たちの声を集める動きは今年も始まっており、怒りは大きなうねりとなりそうだ。

これは昨日の毎日新聞の記事です。
「保育園落ちた。日本死ね!」に関しては、以前も書いたことがありますが、こうした状況で育っていく子どもたちの行く末が、心配です。
念のために言えば、私は「保育園が不足している」という状況を憂いているのではありません。
むしろ、こうした声を上げる親の元で、そしてこうした声が運動にまでなってしまうような社会で、子どもたちが育てられていく、あるいは育っていく状況が気になるのです。
そもそも保育の問題を保育園待機児童の数の問題にしてしまう社会にも疑問を感じます。
そこに私たちの生き方の本質が象徴されているように思うのです。
私には、問題の捉え方が間違っているとしか思えないのです。

東京都の三鷹市では、子どもを認可保育園に入れられなかったのは自治体が責務を果たしていないためだとして、市に対して、無認可の保育施設にかかった費用の一部60万円の賠償を求める訴訟を起こした両親もいます。
「保育園落ちた。日本死ね!」の発想からは、当然出てくる行動です。
私にはとても理解しがたい話ですが、そうした親に育てられた子どもたちがどうなっていくのか気になります。

こう書いていくと、保育の大変さは親でないとわからないと言われそうです。
いま娘が孫を育てていますが、その大変さは見ていてわかります。
しかし、だからといって、その大変さを解決する方策は、認可保育園に依存するだけではないはずです。
保育園がなかった時代もありました。
こういうと、さらに2つの指摘が来そうです。
いまは家族形態も変わったし、近隣社会の状況も変わってきた、と。
つまり共稼ぎも増えたし、家族構成のも三世代ではなくなった。
それに近隣の付き合いも疎遠になって、地域コミュニティもなくなった。
たしかにそうかもしれません。
しかし、だとしたら、なぜそうした家族や親子や地域社会の変化を問題にしないのか。
なぜ子育て時期にまで共稼ぎをする生き方を選ばなければいけないのか。
そういう時代の流れに問題はないのか。

3歳児神話は今ではまさに「神話」になってしまった感があります。
私は20年ほど前に、保育のあり方を考えて、新しい保育システムを提案する活動に取り組んだことがあります。
その時の問題意識は、保育という切り口から私たちの生き方や社会のあり方を問い直そうということでした。
つまり、「子どもを育てる」のではなく「子どもが(社会)を育てる」という発想です。
私たちは、子どもたちから学ぶことがたくさんあると感じていたからです。
その時にも、委員のみなさんからは3歳児神話は否定されていたように思いますが、私は3歳児神話、つまり3歳頃までは両親が、あるいは親密な人間関係の中で育てることの意味を否定できませんでした。
もちろん現実はそれが難しいわけですが、もしそうならなぜ問題を逆転させて、3歳児までは両親が中心になって育てられる仕組みを育てていかないのかが私の疑問です。
子供は社会が育てるというのと保育園で育てるというのとは全く別の話です。

ヴェトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンはこう書いています。

みずからが幸せで平和でないならば、愛する人たちや、同じ屋根の下に住む人たちとさえ、平和と幸せを分かちあうことができません。
平和で幸せであるならば、私たちは微笑し、花のように咲き開くことができます。
家族全員、社会全体が、私たちの平和の恩恵を受けます。

子どもたちにとって、一番大切なのは、何なのか。
大人たちにとって、一番大切なのは何なのか。
「保育園落ちた。日本死ね!」という言葉には、幸せも平和も感じられません。
親の心が荒れていたら、子どもたちにも微笑みは消えていきかねません。

ティク・ナット・ハンは、こうも書いています。

人生は苦しみに満ちています。
しかし、人生にはまた、青い空、太陽の光、赤ん坊の目といった、素晴らしいことがいっぱいあります。

■リトリートに失敗した「みんカフェ」の報告(2017年2月14日)
12日に、ちょっとしたリトリートをイメージした「みんカフェ」(みんなのゆる〜いカフェサロン)を開催しましたが、残念ながら、というか私の心変わりで、普通の話し合い型サロンになってしまいました。
参加者の方には、失望させてしまったかもしれませんが、お許しください。
それでも楽しいサロンでしたし、最後のあたりはちょっと「話す瞑想」とも言えるリトリートも体験できた人もいたかもしれません。

参加者は10人、予定の時間を1時間も越えてしまったのに、まだ心残りの人もいた感じでした。
そもそも集まった顔ぶれを見て、はじめての人も多かったので、1分以内での自己紹介を始めたのが間違いでした。
みんな話したいこと、あるいは放したいことが、山のようにあるようで、しかも話を聞いたら質問したくなる人も多いようで、最初の数名はそれでも短く終わったのですが、だんだん長くなっていき、さらにそこからいろんな話に広がってしまい、気が付いたら予定の2時間は自己紹介で終わってしまったのです。
静かにコーヒーを飲むどころか、にぎやかなサロンになったのです。
湯島のサロンは、参加者次第で融通無礙なのです。

最初に来た人から、最近の湯島サロンはテーマが重すぎて敷居が高い、今回のようにテーマがないと参加しやすいと言われました。
それで、テーマなしの誰でも歓迎の「みんカフェ」をまた毎月開催することにします。
でもみなさん、わがままなので、そうすると今度はテーマがないと行く気にならないなどとまた叱られるのですが、まあ仕方がありません。

ところで、自己紹介を最後にやった方の話は、内容が重い割には、それまでの2時間の雰囲気づくりのおかげのせいか、みんなの話し合いを触発して、そこから1時間もサロンが続いてしまいました。
実は、今回はサロンの途中で私はティク・ナット・ハンのほんの一部を紹介する予定でした。
そして、ティク・ナット・ハンとは全く別なスタイルの1分間瞑想を呼びかけようと思っていたのですが、その最後の1時間の話のなかで、話し合いの瞑想というのもあるのではないかと感じました。
それが今回の私の感想です。

私が予定していたティク・ナット・ハンの本からの書き取り部分を添付します。
よかったら読んでみてください。
声を出して読むのがお勧めです。

3月の「みんカフェ」はたぶん3月12日に開催予定です。
確定したら改めてご案内します。

■カフェサロン「コスタリカのマクロミル革命から学ぶこと」のご案内(2017年2月15日)
湯島のサロンの特徴の一つは、テーマも多様なサロンがスタイルもメンバーもさまざまなサロンが、絡み合っているということです。
哲学の話があるかと思えば、パズルの話があり、経済の話も政治の話も、まちづくりの話もあります。
そうした多様なものが絡み合うことに心がけているのですが、今回はさまざまなサロンが絡み合うテーマのサロンの案内です。

中米にあるコスタリカ共和国は、軍隊を持たない平和の国として有名ですが、最近、コスタリカを訪問してきた熊本の宮田喜代志さんをゲストにして、コスタリカではじまっている「マクロミル革命」を切り口に、さまざまな話を展開させたいと思っています。
もちろん珈琲はコスタリカ産の、とても穏やかで飲みやすいコーヒーです。

「マクロミル革命」はご存知の方もいると思いますが、マクロミル、つまり小規模生産処理場を核にして、経済・企業のあり方やみんなの働き方を変えていこう、さらには社会のあり方を変えていこうという動きです。
世界的なソーシャルファームの動き、ディーセントワークにもつながっていることは言うまでもありませんが、宮田さんはそこから「小さいことはいいことだ!」という、これまでの価値観の転換にまで話を進めるだろうと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、宮田さんは農業と福祉の両方の分野で、しかも調査研究と実践の両方の分野で、長年活動している、めずらしい人です。
引き出しがたくさんなる人なので、どこに重点をおいた展開になるかは参加者次第です。
コスタリカの話もお聞きできればと思っています。

ぜひ多くのみなさんに、宮田さんの「小さいことはいいことだ!」のメッセージを浴びていただきたいと思っています。

〇日時:2017年3月22日(水曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「コスタリカのマクロミル革命から学ぶこと」
〇話題提供者:宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所所長)
〇参加費:500円
○参加申込み:comcare@nifty.com

■企業サロン「働き方を考える」のご案内(2017年2月16日)
企業経営をテーマにしたサロンの第2回目は、1回目で話題になった「働き方」「働かせ方」に絞って、議論を少し深めていくサロンにすることにしました。
そこで、長年、この問題に取り組んできた斎藤智文さん(組織と働きがい研究所代表)に問題提起していただき、働き方を切り口にした話し合いができればと思います。
斎藤さんは、いまこそ「働き方」を変えるチャンスだと考えています。
それには、誰かに期待するのではなく、ましてや時代の流れに任すのではなく、「国」「自治体」「企業」「個人」、それぞれが、それぞれでやらなければいけないことをしっかりと認識していかなければいけない、そして「社会全体の働き方に関する価値観」も変えていかなければいけないというのが、斎藤さんの思いです。

私は企業だけではなく、福祉の分野にもささやかに関わらせてもらっていますが、たとえば介護問題や自殺・メンタルヘルスの問題、保育や学校教育の問題などに取り組んでいくと、その根底に、私たちの働き方の問題が必ずと言っていいほど出てきます。
しかも、それがいまや、日本企業の弱点にさえなってきているとも思っています。
単なる制度論や時間管理の発想ではなく、斎藤さんが言うように、いまこそみんなの問題として、「私たちの働き方」(それは「私たちの生き方」でもありますが)を問い直していく必要を感じています。
できれば斎藤さんと一緒に、これからの「働き方」「働かせ方」を考える研究会のようなものも発足させたいと思っていますが、まずはその呼びかけも含めて、企業経営サロンで、斎藤さんの問題提起をお聞きして、話ができればと思っています。

多様な立場の人たちに集まってもらい、話し合いたいと思っていますので、企業関係者にこだわらずに、どなたでも参加歓迎です。
あまり堅苦しい議論ではなく、生活感覚をベースにしたカジュアルな話を大切にしたいと思っていますので、どうぞ気楽に遊びに来る感じでご参加ください。

〇日時:2017年3月20日(水曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「いまのような働き方・働かせ方でいいのだろうか」
〇話題提供者:斎藤智文さん(組織と働きがい研究所代表)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

■煙石博さんの窃盗容疑訴訟が逆転無罪になりそうです(2017年2月18日)
中国放送の元アナウンサーの煙石博さんの窃盗容疑訴訟に関しては、これまでこのブログで何回か取り上げてきました。
冤罪の可能性が極めて高いように思われる事件で、広島の友人からこの事件を教えてもらって以来、ずっと気になっています。 

煙石さんは5年前の9月、広島市南区の自宅近くの銀行で女性客が記帳台に置き忘れた現金6万6600円が入った封筒を盗んだとして逮捕・起訴されたのですが、しっかりした物証もないのに、そしてもちろん本人が認めたわけでもないのに、一審二審ともに有罪でした。
煙石さんは上告。その最初の弁論が昨日、最高裁で行われました。
その結果がどうなったのか気になっていましたが、やっとRCCニュースにアップされました
http://news.rcc.jp/?i=27371#a
逆転無罪の可能性が出てきました
よかったです。

私は煙石さんとは面識はありませんが、煙石さんを知っている人からお話を聞いています。
煙石さんにとっては、思ってもいなかった事件のようですが、なにやら不気味さを感じます。
他人事ではないなと思いながら、その行方に関心を持っています。

それにしても、この事件は、千葉にいてはまったく情報がありません。
今日も朝から、ネット検索をいろいろとしていましたが、ようやく先ほど、結果を知りました。
こういう事件が、私の知らないところで、多発しているのかもしれません。
金正男さんの事件よりも、私には関心があります。
こういう事件をきちんとマスコミは伝えてほしいものです。
と思って、いままた調べてみたら、NHKでもアップしてくれていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170217/k10010880691000.html
しかし、テレビでの放映は関東圏ではなかったようです。

事件の経緯などは次のサイトをご覧ください。
http://enseki.noor.jp/
逆転無罪を願っています。

■巻町原発誘致住民投票をテーマにしたサロンの報告(2017年2月21日)
2月19日のリンカーンクラブサロン「原発を葬った市民のスクラム 巻町住民投票をめぐって」は10人のサロンになりました。
今回は、あらかじめ折原さんの報告書を読んでもらっての参加でしたので、ちょっとバリアが高かったかもしれません。
その反面、関心の高い人が多かったので、それぞれいろんな示唆を受けたのではないかと思います。

折原さんは、巻町原発誘致住民投票の?末を3ページの表にまとめたレジメで説明してくれました。
とてもわかりやすい表です。
改めてこの?末を俯瞰するといろんなことが感じられます。

そもそも巻町で住民投票が行われるきっかけは、1994年の町長選挙で、原発推進派の人が当選したことでした。
選挙には、推進派、慎重派、反対派の3人が立候補したのですが、慎重派と反対派の投票数を合計すると、推進派への投票数よりも多かったのです。
そこで、町民はむしろ原発には反対なのではないかという思いを持った、巻町に長年住んでいる有志たちが、「住民投票で巻原発をとめる連絡会」を立ち上げ、自主管理の住民投票に取り組んだのです。
そうした取り組みの過程は、折原さんの論文に詳しいですが、住民が主役になれば、いろんなことができることがわかります。

しかしなぜ巻町ではこうしたことが成功したのか。
そこが昨日の話し合いの論点の一つでした。
私は、その最大の理由は、巻町にはまだしっかりしたコミュニティ、人の繋がりと自然とのつながりがあったことだと思っています。
そのことは、折原さんの報告からも読み取れる気がします。

他にもさまざまな要因が考えられます。
折原さんの報告には、住民たちが「事実」を知るにつれて変わっていったことが書かれています。
それも大きな理由だったと思います。
事実を知ることで、人の意識と行動は変わってきます。
それが、私が湯島のサロンを続けている理由の一つです。

原発という大きな問題だったから、住民投票にまで行ったのかという問いかけもありました。
巻町では、その後も、新潟市への合併を巡って住民投票が行われたそうです。
近隣に葬儀場やごみ処理場ができることで住民が動き出すことは、むしろ多いですから、原発という大きな問題だったことよりも、原発誘致と自分たちの生活の繋がりを見えるようにしていったことが、住民運動を実現した理由のような気がします。
集団的自衛権のような問題は、なかなか私たちの生活とのつながりが見えてきませんから、当事者意識を持ちにくいという意見も出されました。

巻町の住民投票は、原発問題として取り上げられることが多いのですが、私はむしろそうではなくて、住民が当事者意識を持って動けば、大きな流れでさえ変えられるということを示した事例として捉えています。
「与えられたまちづくり」から「創りだすまちづくり」へと変えていけるのです。
これに関しては、3月19日に「まちづくり」の公開フォーラムを予定していますので、関心のある方はぜひご参加ください。
継続してフォーラムを開催していく予定です。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#170319

巻町の住民投票活動は、たぶん巻町の住民たちに大きな変化を起こしたと思います。
私の関心はそこにあります。
当時、巻高校の高校生は、生徒会で原発誘致に関しての投票までやったそうです。
それを体験した高校生は、いまどうしているか。
そこに大きな関心があります。

まちづくりも、国政も、どんどん住民や国民の手を離れだしているような気がしますが、それは自治体や政府が悪いからだけではないはずです。
その気になれば、そして動き出せば、流れは変えられる。
その貴重な体験をした巻町の教訓から、私たちはたくさんのことを学べるはずです。
いつか、巻町の元高校生を呼んで、公開フォーラムができないかと思っています。
あるいは折原さんに頼んで、一度、巻町訪問ツアーを企画できないかと思っています。
そしてそうしたことの中から、実践的な活動が始められないかと思っています。

いつものように、偏った報告になりましたが、西坂さんが記録してくれていますので、もしかしたら報告の記録はお伝えできるかもしれません。

折原さんの誠実な報告に感謝します。
なお、折原さんは「脱原発社会への展望」と題した4部作を同人誌に載せています。
もし読まれたい方がいたら、ご連絡ください。
折原さんと相談したうえで、PDF版をお届けします。
できれば、折原さんはそれを出版したいと考えていますので、どこか出版の相談に乗ってくれそうなところがあればご紹介ください。

■カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」のお誘い(2017年2月22日)
子どもに焦点を当てたサロンをしばらく開いていませんでしたが、少しスタイルを変えながら、再開していこうと思います。
子どもをテーマにすると子育てを終わった人たちは自分とはあまり関係ないと思うのか、集まりが悪いのですが、子どもの世界からこそ見えてくる社会の実相があるばかりでなく、そこに私たちの未来が深く関わっていることを知ってもらえるように、子どもとは直接接点のない人にも参加しやすいような形で、サロンを設計していこうと思います。
さまざまな立場の人が参加することが、湯島のサロンの目指すところですので。

今回は、とてもユニークなこども園(京都の山科の岩屋こども園アカンパニ)の園長の室田一樹さんに話題提供をお願いいたしました。
室田さんは、長年、「エピソード記述」を軸にした保育活動に取り組んでいます。
「エピソード記述」という手法はご存知の方もいるかと思いますが、一種のナラティブアプローチで、個人(子ども)の主体性と関わる人との関係性の中で、子どもも保育者も豊かに育っていくことを目指しています。
この手法は保育の世界だけではなく、大人の世界においても効果的ではないかと思います。
室田さんはまた、「発達としての保育や教育」から「生成としての保育や教育」の場が、子どもたちには大切だと考えていますが、これもまた会社(人材育成)にとっても社会(市民性の涵養)にとっても、重要な課題だろうと思います。

そこで、今回は室田さんにそうした取り組みの概要をお話しいただくとともに、そうした活動から見えてくる社会の課題や私たちの生き方への問題提起もしていただこうと思います。
室田さんは、子どもたちが子ども時代を取り戻すことができれば、この国はかなり変わるだろうとおっしゃっていますが、室田さんが考える「子ども時代」、そして、室田さんが願っている「この国の未来」とは何なのか。
そうした問題提起を受けて、参加者みんなで話し合いができればと思います。
切り口は子どもですが、私たち自身の生き方にたくさんの示唆をもらえるサロンになるはずです。

保育や子どもと無縁な人たちも、ぜひ気楽にご参加ください。
もちろん保育に関わりのある人も歓迎です。
もし周辺に関心をお持ちの方がいたら、ぜひお誘いください。

〇日時:2017年3月13日(月曜日)午後6時〜8時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」
〇話題提供者:室田一樹さん(岩屋こども園アカンパニ園長)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

■煙石事件続報(2017年2月25日)
先日、書いた煙石博さん事件の裁判に関してですが、今日、最高裁から弁護士事務所を通して、3月10日(金)15時から最高裁判所第2小法廷で判決公判が開かれることが決定したと、煙石博さんに通知があったそうです。
友人からのメールです。

煙石博さんは2月17日、司法記者クラブでの記者会見で、次のように話されています。

私は煙石博です。66,600円を盗ってもいないのに、盗ったとさした。
私は無実です。この事件で、定年後の、人生の貴重な時間と仕事を失ってしまっただけでなく、長年、私の築いてきた信用と信頼を一気になくし、私の人権も社会的存在も失ってしまいました。さらに私の家族にも大きな負担をかけ続けてきました。私は無実です。
最高裁に上告して2年と2か月、ようやく2月17日に弁論となりました。
私は、今まで、警察、検察、裁判所に対して、これほど不信感をもった事はありませんでしたが、今は、警察、検察、裁判所に、大きな不信感と、激しい憤りを感じております。
最高裁においては、それを払拭して下さる様な、正義と真実に基づいた、公正なる判断をお願いするばかりです。

このことを教えてくれた、広島の私の友人は、次のように書いてきてくれました。

先日も、RCCラジオ番組で、先日の弁論について取材した記者が番組の中で説明しておられましたが、報道に対する危機感も感じておられるようです。
佐藤さんが、いつもおっしゃっているように、他人事と思っていると危機は目の前に迫って来ているのかもしれませんね、どうかご自愛下さいませ。

最後の「どうかご自愛下さいませ」という言葉はどういう意味でしょうか。
不気味な時代の足音が聞こえるような気がしないでもありません。
このままでいいのか。
今日も湯島でそんな話し合いをしていましたが、みんな何をしたらいいのかわからないまま、怒りと不安だけが募ってきています。
80年前の日本もドイツも、こんな感じだったのでしょうか。
煙石博さんの事件は、多くの人に関心を持ってもらいたい事件です。

フェイスブックにこの記事を書いたら、早速友人が書き込んでくれました。

不条理は誰の身の上にも大なり小なり起こることとはいえ、佐藤さんのお人柄を信じてこの方に降りかかった不条理をともに怒ります。

私はこうコメントさせてもらいました。

ありがとうございます。
ご指摘の通り、私も不条理は誰にも起こることゆえ、それを受けることには、最近そう大きな抵抗がなくなりました。
しかし、不条理を意図的に起こすことができるような社会には、やはり抗いたいと思っています。

■カフェサロン「パズルで楽しい人生を」報告(2017年2月26日)
「ハッピーパズル工房」代表のパズル療法士、細田和幸さんをお呼びしてのカフェサロンは、日曜日の午前中だったこともあり、参加者は7人でしたが、とても楽しいサロンになりました。
みんなで体験してみて、さまざまな効用を感じました。
当初、認知症予防ゲームの実践者を対象にした交流会での企画でしたが、なかなか日程が合わず、公開型のサロンにしましたが、子ども関係の活動に取り組んでいる人たちの参加がなかったのが残念でした。

今回は2種類のパズルゲームをみんなでやってみました。
まずは、2種類の形のピースをつかっての形づくりです。
正方形の木枠に入ったL字型の4つのピースをまず木枠から取り出して、ゲームがスタート。
最初の課題は、それをまた木枠にはめてくださいという課題です。
極めて簡単なはずですが、なぜかてこずります。
それができてほっとしていると、最初は市松模様になっていたでしょう、その状態に戻してください、と次の課題が出されます。
簡単なはずなのに、それがまた難問。
女性たちは速くできましたが、私はおたおたしてなかなかできませんでした。
それを基本にして、ピースをさらにたくさん使ってのさまざまなゲームを紹介してもらいました。
最後は全員で、順番に大きな形をつくっていくゲームです。
みんなで話し合いながら進めていきますが、みんな立ち上がって身体も使いながらのコミュニケーションが発生します。
チーム対抗にすれば競い合いが生まれ、チームの中では支え合いが生まれます。
よく考えられていますが、ここに細田さんの人柄と人生が込められているのです。

次は透明なプラスチックに何本かの直線が貼られたものを4枚ずつ配られて、その組み合わせで数字をつくるゲームです。
これも3人ずつがチームになり、支え合いと競い合いが組み込まれています。
その展開にも、物語性があって、みんなすっかり盛り上がってしまいました。

いずれもとてもシンプルなパズルですが、シンプルであればこそ、さまざまな展開が可能になります。
いずれも細田さんの手づくりですが、ピースは細田さんに頼むと購入できます。
広がっていけば、2番目のゲームツールも商品化されるでしょう。

細田さんは、パズル開発が大好きで、他にもいくつかのものがありますが、今回体験した2つのゲームでも、2時間は十分に楽しめます。
細田さんのパズルの魅力の一つは、「みんなで遊んでつながりを深める」というところです。
私は今回で2回目の体験ですが、前回は細田さんの紹介で一人での体験でしたので、みんなでというところを実感できませんでした。
今回、みんなでやってみて、その効用を実感しました。
ぜひとも、子どもたち、あるいは多世代交流、あるいはコミュニケーション下手な中高年男性に広げていきたいです。
今回好評だったので、少しバージョンアップしたパート2を細田さんと一緒に企画してみようと思います。

細田さんは「脳いきいき! 楽しい介護レク パズル遊び」という本も出版しています。
「https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%8D-%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%83%AC%E3%82%AF-%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB%E9%81%8A%E3%81%B3-%E7%B4%B0%E7%94%B0-%E5%92%8C%E5%B9%B8/dp/4262145867
よかったら読んでください。
そして一緒に広げていこうという方がいたら、ご連絡ください。
とくに、パズル療法士になりたい人は大歓迎です。

■コムケアサロン「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」報告(2017年2月26日)
昨年から始まった「看取り文化シリーズ」の第2回目は、小田原福祉会の潤生園の時田佳代子さんの話題提供をお願いしました。
申込者が20名を超すことになってしまい、会場を変えようかと思ったほどでしたが、何とか湯島で開催することができました。
関心の高さを知り、正直少しホッとしました。
葬儀不要論が広がる最近の風潮には大きな懸念を持っています。

時田さんは、小田原での長年の取り組みについて紹介してくれました。
潤生園では、「医療の死」とは違う「福祉の死」に長年取り組んできています。
医療や行政の「常識」にとらわれることなく、しかし、しっかりとした取り組みで、生きること、死ぬことに誠実に取り組んできているのです。
生活に立脚すれば、ある意味では当然のことながら、24時間365日、在宅での生活ケアが基本になりますし、生きるための基本は食になります。
医療技術の活用の仕方も変われば、食事のあり方も変わってくる。
しかも、それをきちんとデータを取りながら進めているのです。

時田さんの話は録音しておけばよかったのですが、あまりに引き込まれてしまい、記録も何もとりませんでした。
しかし多くの人たちに聞いてほしいと思いましたので、いつかまた講演会のようなものを開きたいと思います。
参加者のみなさんも、いろいろと思うことがあったと思います。
小田原に転居できるものなら転居したいと思った人もいるでしょう。

潤生園の取り組みや理念はホームページをご覧ください。
http://junseien.jp/corporate/
ホームページに書かれている次の文章に、潤生園の姿勢が感じられます。

潤生園が提供する「みんなの家」は、24時間365日地域での暮らしを丸ごとサポートいたします。「介護の安心」はもとより、「医療の安心」や「生活の安心」もおまかせ下さい。「みんなの家」は施設を利用される方だけでなく、地域で暮らす方々にとっても「安心」を提供したいと考えています。お困りのことがあれば「みんなの家」をお訪ね下さい。地域の方々の暮らしの拠り所として、みなさまのお役に立ちたいと考えています。

この文章だけだと、よくあるビジネスメッセージにしか聞こえないかもしれませんが、時田さんの話を直接聞けば、たぶん真意が伝わってきます。
ちなみに、潤生園の職員は「潤生園の原点」という小冊子をそれぞれが持っているようです。
昨日、時田さんから私も1冊もらいました。
潤生園を創設するに当たって、時田純さん(時田さんのお父上)は、戦中戦後の自らの体験を踏まえて、理念を掲げました。
「人は人として存在するだけで尊い。真の福祉は、人のいのちの尊さを知り、個人の人格を心から敬愛するところからはじまる」。
この理念を核に活動を展開しているのです。

昨日のサロンの内容報告にはなっていませんね。
すみません。
しかしたくさんの、しかもさまざまな立場の人が参加してくださったおかげで、話し合いからもたくさんの気付きをもらいました。
潤生園が目指していることは、これからの社会や福祉のあり方を考える大きなヒントが含まれています。
最近の福祉政策は方向を間違えていると感じている私にとっては、大きな元気をもらえるサロンになりました。
だれもが安心して暮らせる社会に向けて、個人でもできることはたくさんある。
改めてそのことにも気づかせてもらいました。

時田さんはじめ、参加して下さったみなさんに感謝しています。

長くなりますが、もう一つ感じたことを書きます。
時田さんの話の誘発されるように、両親を見送った時の自分の体験を話してくれた人が何人かいます。
看取りを語り合う、さらには伝え合うサロンがあるといいなと思いました。
考えたいと思います。

■湯島の部屋を売りませんか(2017年2月27日)
湯島に私のオフィスがあります。
ワンルームマンションの1室です。
昨年秋ころから、そこを売らないかという電話が頻繁にあります。
先週は1日起きくらいにありました。
いま使用しているので、売るはずはありません。
しかし、なぜかしつこく電話がある。
いま売ると高く売れるそうなのです。
あまりのしつこい電話に腹が立ってしまい、今日は、私を追い出そうとしているのですかと声を荒げてしまいました。
そうしたら、相手も負けずと声を荒げてきましたので、失礼しますと電話を切ってしまいました。
なんというひどい会社だろうかと思いました。
しかし電話お切った後も、何かすっきりしません。
バブル時はこうしたスタイルの地上げ屋が多かったのでしょうね。
どこでどう電話番号リストが流れているのかもしれませんが、実に不愉快です。

ネット回線の電話も相変わらず多いです。
あまりのしつこさに、ついつい承知してしまって迷惑を受けたことがありますが、承知しても別の会社からの勧誘がつづきますので何の解決にもなりませんでした。
明日からもまた電話はつづくでしょう。
人生には苦難が必要です。

■「看取り」という文化(2017年3月2日)
昨日、フェイスブックで「「看取り」という日本語に当てはまるような外国語をご存知の方がいたら教えてくれませんか。日本独特の文化でしょうか。ちなみに、「ケア」に当てはまるような日本語も、何かいい言葉があれば知りたいとずっと思っています」と書き込みました。
数人の人からコメントをもらいましたが、どうも私の問いかけ方が悪かったようなので、もう一度、きちんと問いかけをしました。
このブログでも、問いかけさせてもらうことにしました。
関心がますます高まってきてしまったからです。

私が知りたいのは、死に寄り添うという意味の「看取る」という言葉です。
看病するという意味での「看取る」ではありません。

昨年から、湯島で「看取り文化」シリーズのサロンをはじめました。
できれば、看取りサロンのようなものを始めようと思っているのですが、
そこで、「看取り」という言葉、もしくは概念、文化が気になりだしたのです。

看病という意味での看取りであれば、当然、nursing でしょうが、
最近の「看取り」という言葉は、死に寄り添うという意味になっていると思います。
30年程前の大辞林には、そういう意味は出てきません。
看取りが死を看取るという意味に限定されてきたのは、日本でもこの数年ではないかという気がしてきました。
古語辞典などで調べても、私にはまだそういう概念の存在を見つけられずにいます。
昨日、万葉集の研究をしている友人にも訊いたのですが、
どうも万葉集には、看取るという言葉は出てこないそうです。
少なくとも、英語圏には、あるいはキリスト教圏には存在していないように思います。

言葉には文化が凝縮されていますが、逆に言葉になってこそ、概念は定着する、つまり文化になると私は考えています。
死にゆく人に寄り添い、最期を看取るという行為は、海外にもあるとは思うのですが、
それを一つの言葉で表現しているところはあるのかというのが、私の関心事です。
いまのところ、なぜか中央アジアあたりにあるのではないかという人に2人出会いましたが、実際にはまだ言葉は見つかりません。
私の関心は、あくまでも「一言に凝縮した言葉」、言い換えれば文化です。

ちなみに、逆に、ケアという概念を日本語に置き換えるとどうなるか、20年ほど前にコムケア活動というのを始めるときに考えたことがあります。
ケアは、一方的行為概念ではなく、双方向に動く循環的な関係概念だと私はとらえているのですが、それがなかなか伝わらないことに違和感があったからです。
「ケアの本質」という、メイヤロフの本が私が考え出したきっかけですが、どうも言葉に結晶しませんでした。
いまもなお、見つかりません。
「旦那」という言葉がいいかなと思ったこともありますが、
当時、私が行き着いたひとつが、友人から教えてもらった「情宜」(じょんぎ)という言葉でした。
南朝鮮と日本海側の北陸・東北の言葉のようです。
そこで、コモンズ通貨の「ジョンギ」も作ってみましたが、そこで止まってしまっています。

「医療の死」と「福祉の死」の現場は全く違います。
死は怖いものではなく、幸せにつながるものというのが、福祉の現場での死の捉え方ではないかと私は思っていますが、
看取るには「ケア」と同じ、双方向の関係要素があり、そこがとても今重要になってきているように思うのです。

「看取り」に関連して、最近気になりだしたのが、日本古来の殯(もがり)の風習です。
死に行く生者を看取るのではなく、死に行った死者を看取る行為です。
チベットの「死者の書」には、49日間の彼岸への旅立ちを支えるバルドゥの儀式が描かれていますが、死後49日はまだ生と死の中間で死者は「生きて」いますが、日本の殯は死者との寄り添い文化だと思います。
最近、遠藤央さんの「政治空間としてのパラオ」という本を読みました。
そこに「遺体をめぐる概念」という一節があるのですが、それを読むと、死者もまた生きている社会があることがわかります。
近代化の波から逃れてきた島々では、まだ黄泉の国との通路が閉じられていないのかもしれません。
沖縄には、まだそうした文化があるのかもしれませんし、アイヌにもあるかもしれません。
沖縄の方やアイヌの方がいたらぜひアドバイスください。

「看取り」文化への私の関心は、いまのところ深まるばかりです。
私の生き方にも深くつながっているからです。
よろしくお願いします。

■「日本死ね!」ではなく「日本育て!」の姿勢を持ちたい(2017年3月3日)
今朝も朝日新聞を開いたら、投書欄に「日本死ね!」の文字が出ていました。
とても暗い気持ちになり、朝食をやめて、これを書いています。

相変わらず新聞を開くと「日本死ね!」の文字によく出会います。
先日もそれについて書きましたが、暗い気持ちを払うために、フェイスブックに投稿しました。

保育園をおちたら、日本死ね!とヘイトする親の気持ちがまったくわからない。
それを取り上げる新聞やテレビの関係者の気持もまったくわからない。
子どもが育っていく社会に「死ね!」とヘイトする矛盾。
「日本死ね」ではなく「日本育て!」と思って、この社会を変える一歩を踏み出したい。
リンカーンクラブや湯島のサロンでは、それを目指して、一歩を踏み出す人を探しています。

最後の1行はいささか言いすぎですが、その思いには嘘はありません。
少子化が問題なのではなく、少親化が問題なのだろうという気がします。
保育士が足りないのではなく、子どもを育てる親が足りない。
保育園が足りないのであれば、今ある保育園をもっと多くの人でシェアしようとすればいい。
いくらでも方策はあるはずです。
そうしたことをしっかりと考える親たちが、少なくなってきているのでしょうか。

ちなみに、湯島では3月に保育関係のサロンを2つ開きます。
3月13日は、カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#170313
3月25日はまちづくりサロン「保育力を活かしたまちづくり」
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#170325
があります。
よかったらご参加ください。

■豊洲をめぐる石原元都知事の記者会見(2017年3月3日)
石原さんの記者会見見ました。
痛々しい思いで。
問題をすり替えて小池知事を非難したところにみじめさを感じました。
しかし、豊洲移転の責任に関しては、同情したいところもあります。
知事は神様ではありませんから、すべてを知っているわけではありません。
記者会見で問われていた「知事の印鑑を誰かが押印した」ということも事実でしょう。
大きな組織ではよくあることです。
そして、一人の個人に責任がいかないように、有限責任の組み合わせで、大きな責任を個人に背負わせることなく大きな決断ができるというのも、組織制度の目的の一つです。
以前もブログに書きましたが、組織とは責任を分散させる知恵から生まれた制度ですから、責任の問い質し方に、私は違和感があります。
記者会見を見ていて、まさに弱い者いじめを見ているようで気持ちが悪かったです。
石原さんの勢いがあった時には何も言わずに、いじめても大丈夫と思ったら痛めつける。
悲しい話です。

都知事や副知事の責任は大きいでしょう。
しかし、それ以上に、私は都議会議員の責任が大きいように思えて仕方がありません。
前川さんから事情を訊いておけという質問もありましたが、石原さんに依存しないで記者自らで聴きだせばいいだけの話です。
それもやらずに、弱い立場になった石原いじめをしている記者が私には情けないです。

念のために言えば、私は石原知事時代に、きちんと声をあげなかった都民にも不信感があります。
週に何回かしか登庁しない知事を許していた都民やジャーナリズムが、いまさらなんだという気がしないでもありません。
おかしい時おかしいと言わなければいけないということを、改めて思いました。

■活動に悩んでいる人はいませんか?(2017年3月6日)
3月19日に、東京の湯島(アカデミー湯島)で、まちづくりフォーラムを開始します。
案内は、下記にあります。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#170319
まちづくり編集会議準備委員会の主催です。
ゲストに、鎌倉を拠点に全国のまちづくり活動を支援しているiikuni事務局リーダーの松本裕さんとカマコンのメンバーをお呼びして、地域クラウドファンディング(住民たちからの自発的な資金集め)とそれを支援するアイデア支援(知恵集め)の仕組みを紹介していただくことになっています。
先日、松本さんと事前打ち合わせをさせてもらったのですが、
いっそのこと、そのフォーラムで、カマコン方式のブレストワークショップをしようということになりました。
そこで、実際にまちづくりに関して解決した問題を抱えている人がいたら、その人に問題を出してもらい、参加者みんなでその問題を解決するワークショップをやろうということになりました。
もしみなさんの中に、ぜひ問題を投げかけたいという方がいたら、至急ご連絡ください。
まちづくりを広い意味で捉えていますので、みなさんのNPO活動やボランティア活動、さらには企業活動でも、大丈夫です。
ただし、問題提起者は今回は2人に絞っています。
時間がないのですが、もし3月8日までにご連絡いただければ、候補として検討させてもらいます。
よろしくお願いいたします。

そんなわけで、19日のまちづくりフォーラムは、いま話題のカマコン・ブレスト会議を体験できる、実践的なフォーラムになりました。
なぜ鎌倉の地域クラウドファンディングはうまくいっているのかの秘密がわかるかもしれません。
http://kamacon.com/

一般の参加者も募集中です。
よろしくお願いします。

■煙石博さんの冤罪が晴れました(2017年3月11日)
これまで何回か書いてきたことですが、広島の煙石さんという元アナウンサーの方の訴訟の最高裁の判決が起きました。
煙石さんは、66000円の窃盗の容疑で訴えられ、物証もなく、状況を知る限り、冤罪としか思えないのですが、有罪判決を受けてしまっていたのです。
昨日の最高裁の判決で無罪となり、冤罪が晴れました。
他人事ながら、うれしいことです。

この事件を知ったのは、広島の友人のおかげです。
広島の事件なので、最高裁に行くまでは関東圏では報道されることもなかったのですが、内容を知って驚きました。
警察の取り組み姿勢も含めて、まだこういうことが起こっているのだという、驚愕です。
私が中学生の時見た、八海事件を扱った映画「真昼の暗黒」を思い出しました。

冤罪を成り立たせているのは、司法制度にも問題がありますが、世間の関心の低さが、それを支えている面も否定できません。
多くの人がいまなお、司法の判断や警察の判断は正しいという前提で考えますから、自分ではきちんと考えようとしない傾向があります。
ですからいくら当事者が、あるいはその家族や友人たちが「冤罪」だと騒いでも、世間はなかなか耳をかしてはくれません。
それに、他人のそうした事件には関わりたくないという思いも、みんなどこかにあります。
ですから、冤罪はなくならないのでしょう。
そういう意味で、私にもまた責任があるわけです。

そういう思いもあって、このブログやフェイスブックなどに書きこんで、この事件の存在を私なりに広げてきました。
ですから、今回の無罪判決はとてもうれしいです。

実は昨日、このブログへのアクセスが急増しました。
その理由は、この判決でした。
話題になるとネット検索が増えて、私のブログにまでアクセスが増えるのです。
しかし、これも正直、ちょっと不安感もあります。
話題にならない限り、誰も関心を持たない。
話題になると過剰な関心を持つ。
それは結局同じことなのかもしれません。

マスコミの姿勢にも大きな違和感があります。
報道しても誰からも責められない事件を見つけると、最近の森友学園の事件のように過剰に報道する傾向が高まっています。
標的にされてしまうと、もう逃げようがないくらい執拗に追いこまれます。
世間もそれに同調して、そこに関心を集中してしまう。
その一方で、社会のさまざまなところで起こっている「小さな事件」は世間の目を逃れてしまう。
森友学園にまつわる事柄は、誰でもが「おかしい」と思うことですから、ただ罰して事態を質せばいいだけの話です。
ただただ詐欺罪として、あるいは官僚の背任事件として処理すればいいだけの話です。
ほんとうに恐ろしいのは、煙石事件のような話です。
私もそうですが、みんな最近は忙しすぎて、社会で起こっているおかしなことになかなか気づかないことが多い。
私は、そこに恐ろしさを感じます。

ちなみに、森友学園に関して言えば、マスコミは森友学園の見方であるような感じを私は受けています。
それに関しては、また別に書きたいです。

煙石さんの体験から、私たちは大きなものを学ばせてもらいました。
学んだことは、私も実行していこうと思います。

■森友学園騒動に見る問題のすり替え(2017年3月11日)
この数日、いやそれ以上、テレビは森友学園騒動で独占された感があります。
問題を発掘し、これほどまでの話題にし、森友学園の小学校を不認可に持っていったのは、森友学園の前理事長が記者会見で言っていたように、マスコミの力かもしれません。
しかし、私には、マスコミは、テレビも新聞も、いずれも森友学園を応援し、さらには政治家や官僚を守ったようにしか思えません。
昨日の、理事長会見を見ていて、改めてそう感じました。
記者会見会場にいた記者たちは、一方的な長い理事長の話をひれ伏したように聞いていましたし、報道ステーションはじめ、ニュースなども、その報道の仕方は理事長の意図を讃えんばかりのものでした。
私の誤読かもしれませんが、理事長の言い分だけを切り離して聞けば、彼は憂国の国士ではないかと思う人もいるでしょう。
鴻池議員の会見の一部だけを見た人は、彼に好意を持ったかもしれません。
籠池元理事長の奥さんと報道陣とのやり取りだけを見た人は、彼女がとても善意で無邪気な人に見えたかもしれません。
テレビ報道は、どの局面をどう見せるかで全く違ってきます。
理事長会見は、肝心の疑問解明に入る前に、籠池さんが滔々と持論を「情熱的に」語る部分だけを流しました。
呆れたのか、途中で放映を辞めたテレビ局もありましたが、長々と流していたテレビ今日のほうが多かったように思います。
さすがにその解説で、なんで記者は遮って質問しないのかと不満を公言する、たぶん同業の先輩記者もいましたが、同業者から見てもふがいない貴社ばかりでした。
報道すべきポイントが、まったく違っています。
完全に籠池さんの土俵に乗せられて利用された感じです。
情報時代には、情報の受け手がしっかりしていないと、相手の土俵に引き込まれてします。
情報時代とは、非情報社会、まさにポスト真実の時代なのです。

そもそも問題の本質はそんなところにあったわけではありません。
国家財産を私物のように扱う政治家や官僚、さらには公的な資格証明である自らの名前を安直に利用させるに任せておく有名人のあり方をこそ問題に