ブログ総集編5(2011〜2012)
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■2011年のはじめに(2011年1月1日)
新しい年が始まりました。
ホームページに年の初めの思いを書きました。
初日の出の写真も撮りました。
今年はどんな年になるか楽しみです。
■国家財政赤字の解消法(2011年1月2日)
昨年末のサロンで日本の国の借金が話題になりました。
850兆円を超えるといわれる国家の借金の意味が私にはどうも理解できません。
みんな大変だといいますが、どうもピンとこないのです。
一方で、日本の個人金融資産は1400兆円を超えています。
その多くは、富裕層が蓄財しているもので、おそらく流動性を失った資産でしょう。
ある本によれば、1億円以上持つ個人が世界中に950万人いて、そのうちの6人に1人、150万人が日本人だそうです。
最近の日本の経済の仕組みは、富裕層にお金がたまるようになっています。
日本では経済が好況になっても、まじめに働いている人にはお金は回ってきません。
それが証拠に、この数年、経済格差は広がる一方です。
法人税の減税などにより、その傾向はますます強まります。
消費税増税も、そうした傾向を加速させるでしょう。
日本の財界は、人間から生き血を吸うほどの強欲な経済人で占められだしていますから、その流れはなかなか変わりません。
そういう状況の中で、日本の富裕層の不労所得はどんどん増えているわけです。
国家金はいったいだれからお金を借りているのでしょうか。
国債ももっていない私は国にお金は貸していませんが、僅かばかりの銀行預金の一部が国に貸し出されているかもしれません。
先に述べた1億円以上の資産をもつ人たちの金融資産は400兆円だとも言われています。
日本の場合、国の借金の債権者の多くは国内にいるようです。
だとしたら、そうした国家の仕組みの中で蓄財した、特に使う当てもない人の持つ債権を放棄してもらったらどうでしょうか。
そもそもお金は使うところに本来の意味がありました。
使うことをサボっている人の資産はなくなっても困らないでしょう。
むしろ資産管理などに余計な気を使わないですみますから、感謝されるかもしれません。
めちゃくちゃな理屈のように思えるかもしれませんが、私にはとても納得できる発想です。
花見酒の落語をご存知の方も多いと思いますが、最近の日本の財政赤字は、それとどこか似ているような気がするのです。
それに、たかが人間が考えた取引決済手段の問題なのですから、ルールをちょっと変えればいいだけの話です。
実体経済よりも帳簿上の経済が幅を利かせているような、本末転倒の状況は変えなければいけません。
あまりに私が経済に無知なのでしょうか。
借金時計で危機感をあおる人もいますが、借金を放置することで不労所得を儲けさせている状況にこそ、目を向けさせるべきでしょう。
借金時計のまやかしに騙されて、その手先になってはいけません。
誤解があるといけませんが、私は借金を肯定しているのではありません。
借金は基本的に反対の立場です。
預金や蓄財にも、あまり良い評価は持っていません。
お金は使うためにあるのであって、貯めるためにあるのではないという考えの持ち主です。
私が問題にしているのは、借金漬けにしておくことで、そして借金の危機感をあおることで、ますます不労所得が増大する人がいることなのです。
そして、その仕組みによって、不労所得を増やす人たちに、その不労所得の一部を放出してもらったらいいのではないかということです。
国家財政赤字の利子の額の大きさには驚きます。
数字の裏づけがありませんが、その気になれば解決策はおそらくそう難しくなく設計できるように思います。
■政治への期待の喪失(2011年1月5日)
政治家が住んでいる世界はどうも私たち生活者とは違う世界のようだと、最近多くの人が気づきはじめたのではないかと思います。
最近の菅首相や小沢さんの発言を聞くにつけ、そう感ずる人は増えているでしょう。
何も考えてこなかったテレビのキャスターたちも、さすがに最近はそういう発言をし出しました。
まあ、かれらもまた生活者とは違う世界に生きているようにも思いますが。
学者が実際の世界とは別の世界に住んでいることはよく言われることです。
同じ世界に住んでいたら学問は発展しません。
実際の経済を全く知らない経済学者、経営を全く知らない経営学者の話は、もう常識でしょう。
実際の世界を知っていたら経済学も経営学も成り立ちません。
彼らの役割は、別のところにあるのです。
同じことが政治にも言えます。
実際の生々しい現実に立脚し、個々の事情を斟酌しだしたら、統治はできません。
そんなことをしていたら、コラテラルダメッジに対して躊躇してしまい、全体にもっと大きなダメッジを与えてしまうからです。
と、思っているのです。
もちろん私は違う考えを持っています。
小沢さんが「生活視点」という場合の「生活」と個々の生活者が考えている生活とは違うものなのでしょう。
マスとしての生活と表情のある個別の生活は、違う世界の話です。
にもかかわらず、同じ言葉で語られるが故に、私たちは勘違いしがちです。
そして、その勘違いをうまく活かしながら、政治は生活者の世界とのつながりをつくりだしてきたのです。
政治に不満があっても、生活者が期待を持てたのは、そのおかげです。
しかし、ここまでその違いがあからさまになると、政治への見方が変わり、政治への期待の喪失が起こるかもしれません、
期待が変わるとどうなるか。
その結果の不幸な事例は歴史の中にたくさんあります。
そんな事態が、いま日本で始まっているのではないか、そんな不安が拭えません。
首相がテレビキャスターに追い詰められている姿は、私はあまり見たくありませんでした。
質の悪いポピュリズムあるいは民主主義の崩壊の始まりを感じます。
時評へのモチベーションが維持できないでいます。
私自身の心が衰えているからでしょうが。
■政治におけるゼロサム発想の意味(2011年1月6日)
昨今の政治の問題は「ゼロサム発想」のないことかもしれません。
そのため結果的にバラマキ型になり次世代からの借金になっていきます。
その発想はまさに昨今の金融資本主義の発想の枠組みと同じです。
ゼロサム状況からいかに抜けるか、ガその発想の原型です。
それはいうまでもなく、持続可能性とは反対ですから、その発想の持ち主はみんな「持続可能性が大切だ」と言います。
しかしだれも本気でそんなことは考えていないでしょう。
もし考えていたら、ゼロサム発想に戻るべきなのです。
そしてゼロサム発想の中にいる人は、決して「持続可能性」など口にしません。
それは当然のことであり、意識する必要などないからです。
マクロでの発想はゼロサムを基本にすべきだと、私は思っています。
私たちは所詮は閉鎖系の世界に住んでいるのです。
宇宙開発を進めてもエントロピーの世界を広げることはありません。
しかし、個人の生活はゼロサム発想で考える必要はありません。
誰かを犠牲にするという良心の呵責を感じない形で、自らの世界を豊かにすることは十分に可能だからです。
社会や組織を統治する立場にある人は、ゼロサム発想を意識するべきです。
つまりそこで重要になるのは「選択」です。
それが「政策」「戦略」ということでしょう。
ところが、覚悟がない人は「選択」ができません。
私は「選択」ができるかどうかがリーダーの条件だと考えています。
政治家はリーダーでなければいけません。
にもかかわらず最近の政治家は選択できません。
大きな声に影響を受けてしまうのです。
私が、小沢さんに好感を感ずるのは、彼が選択しているからです。
国民から嫌われようとおかまいなしに、自らを通しています。
小沢さんの発想の根底に、私はゼロサム発想を感じます。
少しひいき目かもしれませんが。
それは国政に関わる政治家に限ったわけではありません。
いま地元の市長選挙にささやかながら関わっていますが、そこで気づいたのが「ゼロサム発想」の視点です。
なぜ政治に緊張感がなくなり、政策や戦略が不在になったのか、退屈な施策リストがマニフェストなどおかしな呼び方がされるようになったのか、行政評価などと言うごまかしがなぜ広がったのか、その理由が少しわかってきました。
住民の立場からのまちづくり、コンサルタントの立場からのまちづくり、行政の視点でのまちづくり、これまでいろいろな立場で地域の問題に関わってきましたが、今回、市長選にささやかに関わったおかげで、また別の側面が見えてきました。
立場によって、見えている世界が違うことの意味はとても大きいです。
■今年後半から景気は回復するそうですが(2011年1月7日)
経済3団体の新年祝賀会での経営者の発言をテレビで聞いていて、なんとまあこの人たちは能天気なのだろうと驚きました。
大方の人は今年後半には景気は回復するという考えのようです。
「アジア市場の果実を日本も享受する時代になった」というローソンの社長の発言も、「日本は高い付加価値のある商品の輸出や現地生産で対応していける」という昭和電工の社長の話も、印象的でした。
菅直人首相も国内の雇用や投資の拡大を呼びかけたようですが、これもまた私には印象的でした。
つまり、みんな自助努力をしようという気がないのと現実に貧困問題がこれほど広がっている現実には無関心なのです。
中国の市場が拡大すればローソンという会社は利益を上げるでしょう。
現地生産を増やせば、会社の業績は維持できるでしょう。
でもそれでいいのでしょうか。
私が会社に入った頃、経営者の責任は雇用の場を増やすことだという人が多かったような気がします。
わけのわからないメセナ活動や社会貢献活動などの話はあまり聞きませんでしたが、経済同友会も経営者の責任論を明確に議論し発表していました。
そして自らのリスクをかけて、技術的にもマーケティング的にも、イノベーションを進めていました。
数年前からまた財界が言葉だけのイノベーション論議をしていますが、いまの経営者には本気でイノベーションしようなどと思っている人はいないでしょう。
ただ自らの保身のために汲々している似非経営者が増えました。
だからこそ「イノベーション」を口にするのでしょう。
やっている人はそんな言葉を使いません。
若者が働きたくても働く場がない。
働く喜びを持てずに、むしろ働くことへの不安がある。
すでに企業に入って働いている人のメンタルヘルスは悪化している。
こういう状況を経営者はどう思っているのでしょうか。
せめてそうした現実への心遣いの言葉を発するべきではないかと私は思います。
つい最近まで経団連のトップだった御手洗さんのが経営していたキャノンの現実をマスコミはもっと報道すべきです。
どれだけの人が、そこで「モノ」のように扱われたかを、私たちはもっと知るべきです。
そういう実態を少しでも知っていたら、法人税減税などが「雇用の拡大」につながるなどという馬鹿げたことを考えないでしょう。
経済人は、新年祝賀会ではなく新年反省会を開催すべきです。
あまりの腹立ちに、1日、時間を置いて書いたのですが、やはり怒りがまた高まってきてしまいました。
ところで、今年後半から景気が回復するそうですが、だからなんだというのでしょうか。
私たちの暮らしもよくなるのでしょうか。
■市民の市民による市民のためのオペラ(2011年1月8日)
私はオペラを観劇したことがありません。
食わず嫌いなのかもしれませんが、どうも好きにはなれそうもないのです。
その私が、オペラを観に行くことにしました。
「スロバキア国立オペラ日本公演」です。
なぜ行く気になったかといえば、主催者の次のメッセージを読んだからです。
本場のオペラに惚れ込んだ一般市民が!
スロバキアの国立オペラに単独乗り込み!
まさかの直談判で超一流ソリスト達が奇跡の来日!
これは痛快な『市民の市民による市民のためのオペラ』。
奇跡を巻き起こすのは観客の皆さん一人一人です!
最初に案内をもらった時には全く行く気はなかったのですが、この言葉を読んで気が変わりました。
思い立って行動を起こした人は応援しなければいけません、
主催は東京スロバキアオペラ交流の会となっていますが、その代表はWonder Art Productionの高橋雅子さんです。
高橋さんとの出会いは、彼女が取り組んでいるホスピタルアート活動に共感したことです。
高橋さんは昨年末にこのブログでも紹介したハッピードール展の企画者です。
ちなみにこのオペラに思いを込めて取り組んだのは小樽の長谷川洋行さんです。
そのあたりの経緯は、高橋さんのブログと長谷川さんのサイトを読んでください。
http://wap.petit.cc/banana/20110105131439.html
http://morihiroko-stasys-museum.com/kantyou.html
長谷川さんも無謀なら、その東京公演を引き受けた高橋さんも無謀です。
しかし、その「無謀さ」が、私は大好きなのです。
ここは私も協力しなければいけません。
オペラが嫌いだとか好きだとかは、そんなことは瑣末な話です。
思いを持った人が立ち上がったら応援しなければいけません、
ちなみに東京は3会場で公演しますが、その座席数は1350だそうです。
高橋さんによれば、まだあまり売れていないようです。
どうでしょうか、みなさん。
公演を観に行きませんか。
オペラ嫌いの私でさえ行くのですから、ぜひご検討ください。
スロバキア国立オペラのすばらしさは高橋さんのブログを読んでください。
オペラ好きの私の友人が、こんな安い料金でスロバキア国立オペラが観られるなんて信じられないと言っていました。
観に行きたいという方はぜひ高橋さんにメールしてください。
私にでも結構です。
ちなみに先ほど無謀にも市長選に立候補した坂巻さんの事務所で会った横手さんにこの話をしたら、彼も行くことになりました。
実は横手さんもオペラは苦手なそうですが、思いを込めた人は応援しなければいけないという私の考えに共感してくれました。
横手さんも無謀が好きらしいです。
東京での公演スケジュールは次の通りです。
詳しくは高橋さんたちのサイトを見てください。
○東京公演スケジュール
1月19日(水) なかのZEROホール(小ホール)
1月21日(金) 文京シビックホール(小ホール)
1月22日(土) 成城ホール
○開演19:00(開場18:30)
第一部/オペラ「ラ ボエーム」(プッチーニ作)
第二部/オペレッタとミュージカルからの歌、他
○入場料3,500円(当日4,000円)全席自由
しつこいですが、私はオペラが好きではないのです。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
困ったものです。
■中国人による土地購入の広がり(2011年1月9日)
北海道の土地が中国企業に買われ出していることがまた話題になってきました。
この問題は数年前にも話題になった記憶がありますが、その後、報道が途絶え、昨年から今度は水不足問題とつながる形で報道されるようになってきました。
数年後の中国の水不足も話題になりだしました。
生命を維持するために不可欠なのは、土と水と光です。
それらはすべて個人所有の対象ではないはずですが、近代の所有概念はそれらさえ商品化するために所有概念を適用させつつあります。
もちろん日本でも土地の私有化は昔からありましたし、水争いの話があるように、水の所有権もありました。
しかし自然を切り取っての所有には、おのずと限界があります。
私が大学で最初に学んだことは、ローマ法的所有とゲルマン法的総有の発想でした。
あまりまじめな学生ではなかったので、私が大学で学んだのは3つほどしかありません。
リーガルマインド、総有、そして官僚制の3つです。
それだけ、といわれるかもしれませんが、その3つを学んだだけでも私の大学生活は意義がありました。
土地問題は総有に関わっています。
自然への所有権には限界があるという話です。
自然はつながっていますから、そのつながりの中で所有権の行使もおのずと制約を受けるはずです。
自分の土地だからと言って勝手に使えるわけではありませんし、その土地にある水源が土地所有者のものであるわけでもありません。
つまり、つながりのあるものは、本来所有の対象にはならないはずで(せめて区分所有というべきです)、それを便宜的に人工物に対する所有と同じ言葉を使っているだけの話なのです。
企業の経営資源は、人、物、金、情報とよく言われますが、それらは決して勝手に使っていいわけではありません。
すべてはつながっている物の一部だからです。
20数年前から、私はそうした話を話していますが、共感してくれる人はさほど多くはありません。
特に「金銭」に関してはほとんどいません。
しかし金銭は物ではなく、通貨システムという仕組みの一部なのですから、自然と同じように、すべてに影響があるのです。
それがなかなか理解されません。
水源目当てにもし中国資本が日本の土地を購入することができるのであれば、それは法制度に問題があるはずです。
いや、日本の社会のあり方に問題があるのです。
放置しているべきではないでしょう。
ベニスの商人の話を思い出します。
肉を切り取る権利は認めるが、血は対象ではないので、一滴たりとも流してはいけないのです。
私たちも、自らの所有権概念を見直さなければいけません。
すべては基本的にみんなのもの(コモンズ)なのです。
そこから一時的に借りているだけであることを忘れてはいけません。
お金を過剰に蓄財するなどは、もってのほかなのです。
■子どもを社会で育てようなどというのはポルポトくらいだ(2011年1月9日)
テレビで民主党の岡田幹事長と自民党の石原幹事長が話していました。
なにげなく聞いていたら、石原幹事長が驚くべき発言をしました。
「子どもを社会でそだてようなどいうのはポルポトしかいない」
耳を疑いましたが、それに岡田さんが反論しましたので聞き違いではありませんでした。
石原幹事長は、それに対して声を落として、社民主義だと言うようなことをいっていましたが、こういう人がまだ政治家には残っているのです。
私がコメンテーターであれば、異議申立てしたでしょうが、榊原さんと北川さんがいましたが、何の異議申立てもしませんでした。
もちろん司会役のアナウンサーはおそらあく意識さえしなかったでしょう。
やはり政治家のテレビ番組は精神衛生によくありません。
社会が子どもを育てるのは、に本のみならず生命体の基本的な姿です。
そこをおろそかにしたが故に、今の日本の社会があるのです。
昔、ソーシャル・フォスターリズムというのを考えたことを思い出しました。
子どもは社会の中で育つのです。
決して親の「所有物」ではありません。
社民主義の発明でもないのです。
あんまり書く意味もないことですが、書いてしまいました。
■手が荒れてしまいました(2011年1月16日)
体験してみないとわからないことはたくさんあります。
実は年末に娘が肺炎になってしまいました。
わが家は娘と私の父子家庭です。
娘は年末年始も点滴で病院通い、自宅では安静を求められていました。
そのため私が家事をやらないといけなくなりました。
といっても生活力のない私には調理などはなかなかできませんが、食器荒いとか掃除とか、まあそんなことくらいしかできません。
幸いにようやく娘の病状も回復し、もう大丈夫です。
この2週間、そんなわけで水を使う作業をかなりしました。
そのため、手指がかさかさになってしまったのです。
娘からそうならないようにハンドクリームをきちんとつけておくようにいわれていましたが、そんな面倒なことをする気にはなれません。
その結果、脂肪分が取れてしまい、手がかさかさになってしまったのです。
まあそれだけの話なのですが、家事の大変さを少し実感しました。
たかが食器洗いなのですが、手の荒れはかなりのものです。
何事も実際にやってみると大変さがわかります。
まあ家事くらいは大した事ではないのですが、世の中すべてそうでしょう。
体験してみないとわからないことはたくさんあるのです。
だからといって、なんでも体験できるわけではありません。
しかし、それぞれみんな大変なのだという意識があれば、社会は違って見えてきます。
批判するのは簡単ですが、まあみんなそれぞれに大変さがあるのです。
批判にも、そうした思いやりや配慮がなければいけないのかもしれません。
というようなことを考えていたから、この1週間、時評が書けなかったわけではありません。
単に時間がなかっただけのことなのですが、手が荒れたおかげで、忘れかけていたことをいろいろと思い出しました。
明日からまた時評もちゃんと書きます。
■政治は悪の実践、権力は義務(2011年1月17日)
昨日の新報道2001に民主党の小沢さんが出演していました。
実にわかりやすい、そして私には納得できる話をされていました。
なぜこのようにわかりやすい小沢さんがみんなから嫌われているのでしょうか。
不思議な気もします。
その一因は「政治とカネ」の問題とされています。
私には、それがなかなか理解できないので、困ります。
ジャン・ボードリヤールの最後の思想書と言われる「悪の知性」という本で、ボードリヤールはこんなことを書いています。
政治は悪の実践、管理の場である。
悪は個々人の魂と集合的形式のうちに、特権、悪徳、汚職、とあらゆるかたちをとって拡がっている。
この呪われた部分を引き受けるのが権力の宿命であり、またその犠牲になるのが権力の座にある人びとの宿命であるそれは、彼らがそこからあらゆる二次的利益を期待できる特権だ。
だが悪の実践は困難で、権力者はあらゆる手を用いてそれを放りだそうとしつづけていると考えられる。
ヨーロッパには、オブレス・オブレッジという考えがありますが、それはこのことを言い替えただけのこと話かもしれません。
しかし、では、そうした「投げ出したいほどの権力」をなぜ担わなければならないのか。
彼はこう続けています。
かつて権力は専制的で、そのことの対になっていたのが、権力の他所からくることであった。それは権力者の特性など考慮に入れず、上から割り当てられるものであって、いわば運命づけられていた。
権力は与えられるものであり、気に入ろうが気に入るまいが、それを行使することしかできない。
つまり、かつては権力は義務だったと、ボードリヤールは言うのです。
実にわかりやすいではないですか。
こう考えると、政治とカネの問題は、実は小沢さんに関して問題になっているような瑣末な話ではないのです。
ちなみに、ここで「権力」を「お金」と置き換えてもいいかもしれません。
お金を持つこともまた権利ではなく義務かもしれないと思うと発想がさらに広がっていきます。
私たちが見ているのは、世界のほんのわずかばかりの表象かもしれません。
■阿久根市の市長が変わりました(2011年1月17日)
昨日の阿久根市の市長選で独裁市長と言われていた竹原さんが敗れました。
私の予想とは違っていましたが、これまでも私の予想は外れることが多かったので、まだ時代が私の感覚とは違うことを改めて実感しました。
かなり自分勝手な考え方ではありますが。
しかし、職員と市会議員を相手にして、よく健闘したとも感じます。
結果は竹原さんの敗北になりましたが、竹原さんは政治の世界や自治体の世界に、一石も二石も投じたように思います。
国政における政治家や官僚のやっていることがこの数年かなり見えてきましたが、多くの人たちは自分たちが住んでいる自治体の政治(行政)にはほとんど関心がありません。
というか、関心をもたせない仕組みが出来上がっているからです。
最高の統治技術は、被統治者に統治に関する問題を気づかせないことです。
よく選挙の投票率の低さが問題になりますが、投票率を低くしておくこともまた、統治者の常套手段なのです。
それが証拠に、投票率が高まるだけで、体制が変わる事例は少なくないのです。
軍政国家のようなところでは、投票率が高くなりそうだと感じると統治者は管理選挙に踏み切るわけです。
また話が脱線しました。
竹原さんの敗北の理由はいくらでも出せるでしょうし、彼が何が何でも勝とうと思えば、その方策はあったでしょう。
しかし彼は会えてその選択をしなかったのだろうと思います。
私の好きな発想です。
名古屋では今日、市議会解散の是非を問う住民投票が告示されました。
竹原さんに比べると河村さんは強かですから、名古屋ではたぶん河村さんの描いた方向に行くでしょう。
まあまた間違う可能性は高いですが、少なくとも河村さんはマスコミと上手く付きあっていますから、竹原さんよりも現実的、つまり革命的ではありません。
それに大都市ですから、直接の利害関係者は決して多くはないのです。
1月23日に、私の地元の市長選があります。
現職に対して、市議会議員が立候補しました。
28人の市議のうち、16人が現職の応援で、チラシにまで顔写真で登場しています。
それに対して、新たに立候補した市議の側には5人の市議しか応援していません。
残りの市議は勝ち馬に乗ろうと旗幟鮮明にしていない主体性のない人たちです。
その選挙に関心を持って、ささやかに関わらせてもらっていますが(もちろん私は現職ではない挑戦者を応援しています)、その活動によって地域の民度とか文化が見えてきます。
そして気がついたことがあります。
アメリカの占領政策下での自治行政の仕掛けは、日本の自治文化を壊すことだったのだということに、です。
竹原さんもきっとそれに気づいたのでしょう。
我孫子の市長選は23日です。
さてどうなりますか。
結果は私には明確にわかっていますが。
■後悔されなかった我孫子市長選挙の公開討論会の映像記録(2011年1月18日)
我孫子市はいま、市長選挙の真っ只中です。
先日、候補者の公開討論会が開催されました。
多くの住民に見てもらいたい討論会でしたので、映像の公開を待っていました。
その映像がなかなか公開されません。
実は音声は公開されたのですが、音声だけでは聴く気にはなれないでしょう。
そこで映像がアップされるのを首を長くして待っていました。
ところが結局、映像はアップされないのだそうです。
この討論会を主催したのは、「2011年我孫子市長選公開討論会を開く市民の会」(代表 新保美恵子)です。
後援はこういう活動を全国に呼びかけているリンカーンフォーラムです。
当日は映像撮影禁止で、主催団体が映像を撮影していましたので、開催の趣旨からして当然、それが住民に公開されると思っていました。
ところが公開されないことになったのです。
当然、公開を要望する声は主催団体に届いています。
また候補者の両陣営も公開を了解しています。
そうした声に押されたのか、音声だけは公開されました。
ある人は、「手元の原稿を必死で読み聞かせていた現職の姿を見せたくないのではないか」と勘繰ったりしています。
それはともかく、少なくとも、そこには明確な「意思」が働いています。
私はこの団体も、その代表の新保さんも知りませんが、こうした主体性のない愚劣な市民団体や「市民」を自称する私利的な「似非住民」が地域を駄目にしてきていることをこれまでも体験しています。
こうした「選挙違反行為」は、しかし多くの場合、罰せられません。
むしろこの記事のような「権力」に抗う行為が選挙違反に問われることが多いのです。
法とは何かは、少しでも社会活動をして見ればわかってきます。
この記事はホームページの我孫子市長選挙のコーナーのために書いたのですが、だんだん腹が立ってきて、時評に公開してしまうことにしました。
日本の地域社会では、こうした中途半端なことがたくさん起こっているのです。
そのために、住民には自治体統治の実態は見えなくなっているのです。
それを見えるようにするのが、私はこれからの自治体議会議員の役割だと思っています。
いや国家政府の議員もそうなっていくでしょう。
これは20年ほど前に私も関わっていたリンカーンクラブのビジョンでもありました。
なかなかそう言う方向には行きそうもありません。
■傍観者たちの世界(2011年1月18日)
名古屋の河村さんは「独裁者」と言われだしているようです。
「独裁者」と一言で片づけるのは簡単ですが、昨日書いたように私たちの多くは「独裁者」を望んでいるとしかいえません。
なぜなら問題が自分に関わってこない限り、問題には関わろうとしない生き方をしているからです。
「独裁者」が悪いのではなく、独裁的なやり方を許す仕組みやそれを傍観していることが問題なのです。
昨日、テレビで「ニュールンベルグ裁判」をやっていました。
私が大好きな映画です。
繰り返し観ていますが、昨日も最後の部分だけ見ました。
そこでも「傍観者の責任」が問われていました。
ヒトラーを生んだのはドイツ国民であり、それを支えたのはたとえばイギリスのチャーチルであり、労働組合だったのです。
私の定義では、独裁者も傍観者も同義語ですし、権力者はすべて傍観者のなれの果てです。
竹原さんや河村さんは、私の定義では、そのいずれでもありません。
「ナラティヴ・アプローチ」という本に衝撃的な話が紹介されています。
アイヌであることを理由に子ども時代にいじめにあっていた女性の話です。
彼女はその後、ある大学の仕事につきますが、その関係でむかし同じ学校に通っていた少し年上の女性に会います。
その女性がこう言うのです。
「私はあなたと同じ小中学校に通いました。謝りたいことがあります。あなたがたがいじめられていることを知っていたのに止めることができませんでした」
それに対して、当の女性はこう言うのです。
「まだいじめられているほうがましだ。やり返すことができるから。私が嫌いなのはそれを横で見ているだけのあなたたちです。許すことはできません」
(「ナラティヴ・アプローチ」47頁)
私はこれを読んだ時、しばらく先に読み進めませんでした。
自分も傍観者の生き方をしているのではないか、そう思うと本など読んでいる場合かとさえ思ってしました。
私も傍観者が嫌いです。
子どもの頃からそういう生き方は意識的に避けてきたつもりです。
しかし実際にはどうでしょうか。
できることはたくさんあります。
小さくてもいいから、できることをきちんとやっていく、そんな生き方をさらにめざしていますが、時にそうした生き方から逃げたくなります。
大したことはやっていないのですが。
傍観者で構成されている社会は、私には退屈な社会です。
ちなみに、私は傍観者を信じません。
残念ながら私の友人知人の大半は傍観者的生き方をしています。
しかし、そうでない人もまた多いです。
私もそうならなければいけないと、いつも自分に言い聞かせています。
■「超就職氷河期」という認識でいいのか(2011年1月18日)
今年の大卒就職内定率は70%に達していないようです。
実際には公式統計以上に低いのではないかと思いますが、朝日新聞によれば、就職氷河期といわれた2000年よりも低く(当時は70%半ば)、まさに「超氷河期」には云っているようです。
私自身は、こうした状況を「氷河期」と捉えていいかどうかどうかには疑問を持っています。
いまの雇用システムや経済システムを前提にすれば、今の状況が改善されるとはなかなか思えないのです。
政府は「雇用増大」を目指して、法人税を下げようとしていますが、そんなことで雇用が増えるはずがありません。
オートメーション化やIT化により、人が担う仕事は大幅に減っています。
一説によると、この数十年で1/5になったということを本で読んだ記憶もあります。
1980年代には「ジョブレスの時代」の到来が話題になっていました。
しかもその間、人口は増えてきているのです。
そのため景気が回復しても働く場は増えず、失業率は改善されないというような状況が実際に起こっています。
つまり経済のシステムが変わってきているのです。
景気が悪いから就職内定率が改善されないと考えていていいのでしょうか。
もっとも、大きな流れからいえば、これからの日本は、いわゆる生産年齢人口は減少していきますから、逆に働く人がいないという状況も危惧されています。
話はいささか複雑なのです。
つまり2つの要素で、社会の構造変化が起こっているわけですが、
偶然にもその2つは反対の方向性を持っているため、現実には問題を隠しあう関係になっています。
そこが悩ましいところです。
しかし単に雇用を増やせ、景気を良くしろ、というだけでいいのでしょうか。
大きな構造が変わりだしているのです。
就職難の時代ではなく、もっと大きな枠組みの変化が起こっているのです。
しかし発想はなかなか変わりません。
むしろ構造変化が始まった30年前よりも、発想は保守化し、後退しているように思えてなりません。
発想を変えれば、問題の解決策は見えてきます。
長い視野で新しい状況に向けての動きをはじめなければ、何も変わりません。
経済はいま、枠組みから考え直すべき時期に来ているように思います。
■地方政治への無関心の理由(2011年1月19日)
私の住んでいる我孫子市の市長選挙が1月23日に行われます。
我孫子市の前回の市長選は、新人2人の選挙でした。
にもかかわらず投票率は43%と低い結果に終わりました。
それにしても低いです。
国会議員の選挙の投票率よりも低いというのは、どういうわけでしょうか。
おそらくそれは政治のあり方、あるいは国のかたちに起因しています。
本来、生活者の視点に立てば、生活にとって一番身近な基礎自治体の政治こそが重要です。
にもかかわらず自治体の首長よりも国会議員の選挙のほうがみんな重要だと思っているわけです。
その背景には中央集権の仕組みがあります。
いささか極端に言えば、中央官庁の職員は自治体の職員よりも偉いのです。
中央から地方に出向すると必ず職位が高まります。
課長職の人が自治体に行くと部長になるというわけです。
中央官庁の課長職が市町村や県の首長になっていく事例も少なくありません。
それと同じで、地方議会の議員は国会議員の下っ端に位置しているのです。
もちろん「意識の世界」の話です。
職員は当然ながら霞が関の方を向きます。
住民のほうなど向かないのです。
そうした枠組みの中にいると、住民たちも国家の統治機構のほうに目を向けてしまいます。
自治体の行政や政治には目が向きません。
ですから、地方自治体職員や議会議員、首長が、勝手気ままに振る舞えっても、よほどのことでなければ、誰もとがめません。
それに、彼らが何をしているか、どのくらいの給与をもらっているのかも、知らないでしょう。
そうした状況が今ようやく破られようとしています。
その動きが、阿久根市であり名古屋市であり、大阪府です。
さて今回の投票率はどうなるでしょうか。
投票率が上がれば、新人候補が有利になるでしょう。
現状を変えたいと思えば、これまで選挙に行かなかった人たちが投票に行きます。
今のままでいいと思っている人や無関心の人はこれまでと同じく投票には行かないでしょう。
これまで行かなかった人が投票に行くということは、現状を変えたいと思うからです。
政権は支持層と政府が一体化した体制です。
したがって、投票率と政権交代率は比例関係にあるわけです。
ということは、投票率の高低は、その社会の成員にとっての満足度に反比例しています。
我孫子市の市長選の投票率が低いのは、要するにみんな我孫子の現状に満足しているからなのかもしれません。
しかし、もし自分が住んでいるところを、もっとよくしたいと思うならば、投票率を高めなければいけません。
投票率だけではありません。
普段から行政や議会に関心を持たなければなりません。
地域主権とは、住民がそうした関心と責任を持つということです。
それには現在の基礎自治体は、どう考えても大きすぎる気がします。
地方分権体制ではなく、地域主権体制にするのであれば、平成の市町村大分解に取り組まなければいけません。
どうも私の発想は時代の流れに反しているようです。
困ったものです。
■期日前投票と投票整理券(2011年1月19日)
また我孫子市の市長選挙で気づいたことです。
私のホームページの「我孫子市の市長選コーナー」にも書きましたが、ここでも書いておきます。
他の市町村の事情を知りたいからです。
いま浴び腰は市長選挙の真っ只中です。
期日前選挙も行われています。
共稼ぎの友人が、もう1日早く投票整理券が届けば期日前投票に行けたのにと怒っています。
ご主人は火曜日が休みなのですが、それ以外は朝早く帰宅も遅いので期日前投票にはいけません。
ところが投票整理券が届いたのが水曜日だったのです。
なぜ期日前投票が始まる前に送ってくれないのか、これでは投票に行けないと怒っているのです。
たしかにこれはおかしいです。
そういえばわが家に届いたのも火曜日でした。
期日前投票は今週の月曜日から始まっています。
投票整理券が届くのが遅すぎます。
市報をみたら、投票整理券がなくても期日前投票はできるそうですが、投票整理券が来ないと忘れてしまってもおかしくありません。
まあ忘れる方が悪いといってしまえばそれまでですが。
我孫子市の選挙管理委員会が怠慢なのでしょうか、あるいはこれが全国の常識なのでしょうか。
すっきりしません。
怠慢というよりも、投票率を上げたくないという「意図」が働いているような気さえします。
日本の選挙管理委員会の不明朗さは、最近の名古屋市のリコール運動でも明らかになりましたが、お上の発想で取り仕切られているような気がします。
投票率が低いのは、選挙管理委員会の怠慢さの結果であることは間違いありませんが、それでもだれも罰せられません。
どう考えてもおかしい気がします。
我孫子市の選挙管理委員会にクレームしたいところですが、まあ我孫子市だけではないかもしれません。
他の市町村の実態をご存知の方がいたら教えてください。
■住民の勘違い(2011年1月22日)
娘から聴いた話です。
星野候補を応援している若い市議が、自動車で星野候補の名前を連呼してよろしくお願いしますと言っていたそうです。
それを聞いていた高齢の女性たちが、星野さんは若い市長なんだねと一緒に歩いている人に話したら、その人は、もう1人はもっと若いそうだと答えていたそうです。
星野さんは53歳、坂巻さんは40歳です。
たしかに現職よりも坂巻さんは若いのです。
ところが自動車で名前を連呼していたのは、本人ではなく支援する市議だったのです。
彼は20代ですので、それより若いとなると、いささか高齢者には不安になるかもしれません。
これはまあ笑い話のような話ですが、本人でない人が候補者の名前を言う時には気をつけないと誤解されかねません。
今日は最後の選挙活動日なので、両候補ともがんばっています。
しかし候補者が2人ですから、選挙が行われることを知らない住民がまだまだ多いのです。
昨今のように、市外で働く人が多く、しかも共稼ぎが多くなると、1週間の活動ではなかなか住民には投票日さえも伝わりにくいものがあります。
もし本当に住民たちに投票に来てもらいたいのであれば、今の仕組みを変える必要があるでしょう。
制度設計のどこかに問題がありそうです。
ところでみなさんはどちらに投票するか決めたでしょうか。
これからの自分の生活に大きな影響を与えるかもしれない選挙です。
どちらに投票するかどうかはともかく、4年に一度の機会ですので、無駄にする人がないことを祈ります。
先日配られたチラシや選挙公報を読めば、誰のための政治かということでの両者の違いはわかります。
もしお時間が許せば、投票に行く前にもう一度お読みください。
明日はぜひ周りの人にも投票をお勧めください。
それも大切な住民活動のひとつなのです。
■政治とカネより、政治と信(2011年1月23日)
民主党政権に入閣した与謝野議員の行動が多くの人のひんしゅくを買っています。
石原都知事は「軽蔑する」と公然と言い切りました。
平成の議席泥棒と揶揄している人もいます。
今日もテレビの番組に出ていた与謝野議員に手厳しく批判の声が向けられていましたが、与謝野議員の答弁はまさに自分のことしか考えていない発言で、性時にあまり関心のないわが娘でさえ、呆れていました。
私は、与謝野議員には見識も知性も、誠意も感じていないので、そもそもこういう人を政治家に選んだ国民の情けなさを嘆くだけでしたが、今回の件は社会的にも問題を含んでいるように思います。
そもそも選挙区で落選した候補者が比例区で復活するという、権力者が守られる選挙制制度には異論がありますが、与謝野議員(与謝野さんとは呼ぶ気がしません)はそれどころか、さらに比例区で拾ってもらった自民党を飛び出し、仲間と組んだ政党も裏切ったわけです。
そんな泥棒や詐欺師のような卑しい人を向かいれた菅首相の卑しさには呆れます。
生きるために、泥棒や詐欺をしなければいけない人と違って、与謝野議員も菅首相も、食べていくには十分な資産をお持ちでしょうに、哀しい話です。
いくらお金があっても、信がなければ生きていけないことの現われかもしれませんが。
しかし、今回の与謝野議員の行動は、日本の選挙制度を揺るがすほどの意味を持っているように思います。
こんな結果を引き起こす選挙に、誰が信頼感をもつでしょうか。
その意味で、与謝野議員と菅首相の罪は大きいはずです。
彼らには「信」というものがないのです。
もう一つ思うことがあります。
前の村山政権の時に感じたことですが、権力は自らの遠くにいる人を使って悪事を働くということです。
弱い人は、そうした権力とカネの誘いに乗って、自らの頸をしめていくのでしょう。
悪事の手先は、いつも心弱い、信のない人が受け持つのかもしれません。
ボードリヤールは、権力も金も同じで、自己増殖するために、一度取り込んだ人を解放しないといっています。
そうした権力や金の呪いが、この2人を呪縛しているのかもしれません。
石原さんが軽蔑という言葉を使いましたが、私はそれではとどまらないほどの悪事を働いた人ではないかと思っています。
石原さんのように、なぜもっとみんな明確な物言いをしないのか。
きっと自分も同じ仲間だからなのでしょう。
私にとっては、政治とカネよりも、政治と信の問題が大切です。
政治家にとって大切なのは「信」です。
お金の問題など瑣末な話だろうと思います。
■存在しない現実の消去(2011年1月23日)
また「殺処分」という言葉に出会うことになりました。
今日の朝日新聞の記事です。
宮崎県は23日、同県新富町の養鶏場で採卵鶏20羽が死に、鳥インフルエンザの簡易検査をしたところ、6羽中5羽の検体で陽性反応が出た、と発表した。遺伝子検査の結果、高病原性のウイルスが確認されれば、県は、この養鶏場の約6万6千羽を殺処分する。養鶏場は12棟が並ぶ養鶏団地内にあり、飼育されている全約46万羽が殺処分の対象になる可能性もある。
前にも書きましたが、なぜ5羽が病気にかかったことで、46万羽の鳥が殺処分されなければいけないのか。
その理由がまったくわかりません。
どなたか説明できる方がいたら教えてください。
「マイノリティ・リポート」というトム・クルーズ主演の映画がありました。
予知能力を持つ人たちの脳を活用して未来の犯罪を事前に防ぐという映画です。
これは未来の話として描かれていますが、実際にはこうしたことはすでに起こっています。
よく言われるのは、イラク戦争です。
フセインが大量破壊兵器を使用するという、未来の犯罪に対して、ブッシュはフセインを殺処分しました。
私たち日本人も、小泉首相のもとでそれに加担したのです。
私のわずかばかりの税金もフセイン殺害に使用されたというべきでしょう。
まだ存在しない犯罪は犯罪になり、それを防止するための、たとえば殺人は正義になる、これが現代の社会です。
家畜の殺処分は、そうした文化の中で行われています。
前にも書きましたが、その延長には人間の殺処分があるかもしれません。
ナチスのやったことは、大規模であるがゆえに問題にされますが、小規模であれば、決して特殊な事件ではないようにも思います。
これだけ大規模な殺処分が行われても、ほとんどの人がおかしいと思わない状況は、ナチス時代とそう変わらないのではないかと思うほどです。
時間軸の流れに関しては、私はかなり柔軟な発想を持っていますが、存在しない現実の消去はなかなか理解できません。
ここで重要なのは、すでにもはや「現実」というものは消滅してしまっているのではないかということです。
北朝鮮という国家は、実は存在しないかもしれないと、最近私は思い出しています。
存在しない現実を消去する人たちにとっての最初の仕事は、存在しない現実を創りだすことなのですから。
だとすると、拉致問題というのはいったい何なのか。
沖縄の米軍基地問題もその視点で考えると、いろんなことに気づきます。
鳥の殺処分と沖縄米軍基地問題、北朝鮮問題、すべてはつながっているのです。
■女性の生活の豊かさと行動力のすごさ(2011年1月23日)
面白い体験をしました。
このブログでも何回か書きましたが、私の友人が関わったオペラ公演をみんなにも見てもらいたくて、友人知人に案内をメールしたり、会った人に声をかけたりしてみました。
そこでいくつかのことを感じました。
まず誘った時の最初の反応が男女によってかなり違いました。
男性は関心をもつ人の方が少なく、なかには「オペラとは高尚な話ですね」と切り捨てられた人もいます。
傾向として、関心をもつ人は例外的でしたが、その代わり関心を持った人は予定を変えてまで行ってくれました。
それに対して女性の場合は、むしろ関心を持たないほうが例外的で、オペラが好きであるかどうかよりも、まずは興味を持つという感じでした。
組織、特に企業に属している男性はまったくと言っていいほど、興味を示しませんでした。
なかには「女房は関心をもつかもしれない」という人もいましたが、その人が奥さんに紹介してくれたかどうかはわかりません。
逆に会社を定年で辞めた人は数名が参加してくれました。
案内を受け取った後の行動も違っていました。
男性はだいたいにおいて当人で情報の広がりは終わりましたが、女性はそこからさらに先に延びました。
なかには7人以上の人のチケットを予約してくれた人もいます。
しかも実際に観劇した後、その情報が広がり、翌日の公演にまた友人を誘っていくというような人もいました。
女性の情報伝達力のすごさを改めて実感しました。
自分は行けないがと言って、自分のブログやツイッターで情報を広げてくれたのも多くは女性でした。
観劇した後、その感想を送ってくれるのもほとんどが女性でした。
女性でもいけなかった人がいました。
子育ての関係で行けないという人が3人ほど連絡をくれました。
男性にはいけない理由が子育てなどというのはもちろんありません。
今回は公演の直前になって、ある思いから20人ほどの人にメールさせてもらいましたが、メールした途端に数名の女性から反応がありました。
これには驚きました。
なかには前日にメールさせてもらった人もいますが、その人も予定を調整してまで来てくれました。
会場で久しぶりにお会いしましたが、テレビ関係の仕事をしている人なので超多忙なはずです。
男性である私の意見としては、男性たちが一生懸命に稼ぎ仕事をしている間に、女性たちは働きながらも豊かな生活をしているということです。
女性が自らの世界を豊かにしているのに比べて、男性はどんどん自らの世界を貧しくしています。
しかしそのことに男性はあまり気づいていません。
そうした男性の末路がどうなるか、考えただけでぞっとします。
今回のオペラ公演のおかげで、いろんなことに気づかせてもらいました。
結局、社会を動かしているのは女性たちなのです。
困ったものです。
■我孫子市長選の報告(2011年1月24日)
我孫子市の市長選が昨日、行われました。
2期目の現職に対し、若い世代の市議が挑戦した選挙でした。
当初、7対3で現職が勝つだろうと言われていました。
実際に市会議員の議員28人(何という多さでしょうか)のうち、16人が現職支持で、現職のチラシに顔写真までいれての応援ぶりでした。
それに対して、挑戦者側には若い市議を中心に5人が実際の活動に知恵と汗を出しました。
結果は55対45で現職の当選です。
私は途中から挑戦者側に加担しました。
挑戦者が必ず勝てると確信していたからです。
残念ながら勝てませんでした。
市長選のことは私のホームページにも書いていますが、特別のコーナーも作っています。
選挙が終わったのですが、常設のコーナーとして、我孫子市のコーナーをつくる予定です。
今回のささやかな体験で、地方政治や選挙の実態をいろいろと学ばせてもらいました。
少し中に入りすぎたので書きにくい部分はありますが、できるだけそこでの気づきも、そのコーナーで書いていくつもりです。
なぜ敗れたのか、なぜ投票率は低かったのか、市議会とは一体なんなのか、住民とはなんなのか、なども追々書いていくつもりです。
場合によっては、もうひとつブログをはじめるかもしれません、
阿久根市のような、地方政治の実態を見えるようにする動きがいろんなところにありますが、そうしたところでの体験知は当該地域に限らず、多くの示唆を与えるものです。
そうしたものがもっと共有化されていくことが望まれます。
我孫子市の今回の事例は、それほど大きな示唆は含まれていないかもしれません。
新市長が実現したら、それができたと思うのですが、残念ながら落選してしまいましたから、これまで通り、また見えない政治が行われかねません。
我孫子市に新しい風は起こりませんでした。
関わった者の一人として、反省すべきことが多々あります。
なによりも、挑戦者の役に立てなかったことが無念です。
■NHKは「無縁社会」を推進したいのでしょうか(2011年1月26日)
わたしは、いま、怒っています。
一条真也さんからのメールです。
NHKが「無縁社会」をテーマにした本を出したのですが、それを読んで、NHKに対して怒っているようです。
早速、一条さんのブログを読みました。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110126/1296010875
長いです。それだけで一条さんの怒りの大きさが伝わってきます。
それを知った以上、私も書かなければいけません。
私もNHKの「無縁社会キャンペーン」には憤っています。
最近、NHKの会長を誰にするかが話題になっていましたが、まともな人が会長になったら、こんな破廉恥なキャンペーン(発想が逆です)は見直すでしょうが、議論しているメンバーにはそんな感受性はないかもしれません。
現実を変えていくのがキャンペーンの意味であって、現実を追随し問題を固定化させることはキャンペーンというべきではありません。
少なくとも私の視聴料金は使ってほしくありません。
問題を創りあげて「利益」を得るのが、近代産業の常套手段です。
いわゆる「ソリューションビジネスモデル」ですが、社会の成熟化により、生(なま)の問題がなくなってくると、自分たちで問題を創り出すというおかしなことが起こり出します。
これは「産業のジレンマ」の典型例ですが、無縁社会論も、その言葉と事実をはやらせることで私服を肥やす人は少なくないのです。
一条さんの怒りは、そのブログを読んでもらうとして、要旨を少しフォローしておきます。
一条さんが読んだのは、『人はひとりで死ぬ』(島田裕巳著 NHK出版新書)です。
サブタイトルは、『「無縁社会」を生きるために』。
その内容は「無縁社会肯定論」「孤独死肯定論」のようです。
一条さんのブログには、それが引用文も含めて解説されています。
驚くべきことに、本書の「おわりに」は次のように結ばれているそうです。
「私たちは死ぬまで生きればいい。
その単純な事実に気づき、これからの生をどのように送っていけばいいかを理解できるようになる。
そのとき、無縁社会は恐れの対象ではなくなる。
無縁社会は、逆に自由で、豊かな可能性を帯びた社会にも見えてくる。」
(引用文は一条さんのブログからの間接引用です)
著者の島田さんは、オウム真理教を擁護した宗教学者で、そのことで社会からの厳しいバッシングを受けた人だそうです。
よりによってそうした人をNHKは選んだのです。
もし、「無縁社会や孤独死を肯定する本を書いてほしい」とNHK出版が依頼したとしたら、これは大問題です。
一条さんは、「本書がNHK出版から刊行されたことが非常に残念」と書いていますが、残念どころか私は悪意を感じます。
一条さんは、ただ怒っているだけではありません。
人の縁を育てる仕事に取り組みながら、社会活動としての隣人祭りの開催などにも熱心です。
一条さんは、NHKは「無縁社会」という言葉を流行させ人々に不安を与えるだけではなく、無縁社会を打開する具体案について報道するべきであると書いています。
同感です。
私もNHKの記者がいるイベントで同じことをお話したことがあります。
流行らせるなら「有縁社会」という言葉です。
前に書いたように、言葉は現実を創りだす力をもっているのです。
新しい会長にはぜひそうしたことを考えてほしいものです。
■我孫子市長選挙からの学び(2011年1月26日)
我孫子市の市長選挙が終わりました。
私が応援した候補者は残念ながら当選しませんでした。
ささやかに応援をさせてもらったおかげで、いろいろな事を学ばせてもらいましたが、選挙から2日経って気づいたことがあります。
選挙のどちらかに加担すると判断基準が偏ってしまうということです。
私自身がそうでした。
選挙にまつわること、そこで感じたこと、などを、この時評編でも、私のホームページでも何回か書いてきました。
ホームページには「我孫子市長選コーナー」までつくりました。
いろいろ書いてきましたが、選挙が終わって読み直すと、いささか偏っていることに気づきます。
これを書いた時には、こんなに腹を立てていたのだろうかと思うところもあります。
それで思い出したのが、スピノザの言葉です。
「人類の本質的な敵である憎悪のあとには、悔俊が続く」
選挙は一種の戦いです。
その一方の事務所に顔を出していると、さまざまな情報に触れることができますが、おそらくそれはその陣営の側からの情報ですので偏りがあります。
同じ「事実」も、それを見る立場で全く違ったものになることはよくあることです。
同時に、人間を介した生情報が多いので、そこに感情的な思いまで込められています。
その中にいると、まさにスピノザがいう「憎悪」が心を動かし出します。
憎悪は人に勢いを与えます。
戦いには重要な要素でもあります。
しかし、注意しないと、その勢いは暴走し出すのです。
そして、ある時、悔俊が首を持ち上げだします。
まさに私のこの数日の体験です。
おそらくスピノザも同じ体験をしたのではないかという気がします。
負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、その点では負けたほうが有利です。
謙虚になれる分だけ、世界が豊かになります。
勝者は、注意しないとますます小さな世界に内向し、相手や結果からの学びを忘れます。
この体験を通して感じたのは、選挙制度や政治制度への疑問ですが、
同時に、自分自身の主体性とかアイデンティティの問題です。
はたしてそんなものがあるのか。
あるのは状況主義的なアイデンティティだけではないのか。
フランスの社会学者 ボードリヤールは、スピノザの言葉を紹介した後、
「自己批判と悔俊は統治の様態にさえなりかねない」と書いています。
そうかもしれませんが、いまは思い切り自己批判しようと思っています。
とりわけ「憎悪」の問題をどう考えるかは、私には必要かもしれません。
もうひとつ、大きな教訓を得ました。
戦いには迷いがあってはいけない、ということです。
迷いと民主主義はどうつながるのか、これも刺激的なテーマです。
「憎悪」と「迷い」、この2つを視点にして、政治を考え直したいと思います。
■視点を変える(2011年1月29日)
視点を変えると世界は違って見えてきます。
同じ事件も、加害者と被害者とではまったく違って見えるでしょう。
今その両方を経験した人と話していたのですが、その人がつくづくとそういったのです。
政府の借金は1000兆円に近づいていると盛んに言われます。
しかし、その政府にお金を貸しているのはだれでしょうか。
そのほとんどは日本の個人や法人だろうと思います。
そしてそうした債権者は、お金を貸していることの成果を利子などの形で、いわば「不労所得」として、どんどんその金額を増やしているのです。
視点を借金ではなく、債権に移せば、1000兆円に達しようとしている資産家が日本にいると言うわけです。
政府と国家の関係はどう考えるべきかは、意見が分かれるでしょうが、君主国家でも軍事政府でもない、国民主権国家、国民主権政府であれば、債権と債務のかなりの部分は帳消しにできる関係ともいえます。
例えば家庭を考えてみましょう。
親から借りている子どもの借金、子どもに貸している親の債権。それがどのくらい多くなろうと、環境族と言う単位で考えると帳消しになるでしょう。
国民を家族と同じには扱えませんが、せめて利子をゼロにするだけも、状況は変わるでしょう。
かなり粗雑な議論ですが、借り手から貸し手に視点を変えると状況は違って見えてきます。
円高はどうでしょうか。
これも視点によって評価は反転します。
こうした事例はすべてのことに当てはまります。
しかし報道はどちらかに視点を置いている場合が多いです。
どちらに視点を置くかはかなり明確ですが、報道の裏には必ず別の評価があることを認識しておかねばいけません。
私たちは、このことをついつい忘れがちです。
悪い情報には必ず良い情報が含まれているのです。
どのくらいそう思えるかどうかが、もしかしたら「社会性」ということなのかもしれません。
そして、それこそが「コミュニケーション」の基盤かもしれません。
■トップの人はどうしても現実に疎くなります(2011年1月31日)
エジプトが大変です。
それに関連して、さまざまな情報がインターネットで駆け巡っています。
そうした情報を読むと、マスコミの報道がいかに偏っていて、遅いかがよくわかります。
テレビで世界の動きを知る私たちが、いかに現実とは違う世界にいるかがよくわかります。
まさにパラレルワールドの出現です。
日本の国際の格下げに関して、菅首相の「疎い」発言が話題になっていますが、情報がもっとも遅く届くのは権力の頂点にいる人かもしれません。
というのは、届くまでに正確さや詳しさを精査するプロセスがありますので、どうしても時間差が生まれるのです。
皮肉なことに、情報は常に動いていますから、実のところ正確さなど期待しようがないのですが、これまでの静態的な情報観に囚われている人にはそれが理解できません。
情報とは本来自己増殖性や情報創出性を持っており、常に自らの姿さえ変えていきますし、仮に事実無根の情報であろうと、その出現が、つまり虚なる情報が実なる現実を生みだすことも少なくないのです。
それがまさに情報社会なのですが、社会がそれを仕組みとして消化するにはもう少し時間が必要でしょう。
チュニジアの事件はツイッターから生じたとも言われていますが、それが事実かどうかはともかく、ツイッターが爆発的な人の動きを起こすという認識が生まれました。
認識が生まれれば、事実は間違いなく起こるでしょう。
エジプトが、その再現になるかどうかはわかりませんが、いまのところ双方がその認識を踏まえて動いているような気がします。
エジプトの現場を見たわけではないので、エジプトでどの程度の暴動的なデモが起こっているかどうか、私には確信は持てませんが、右にも左にも動くマルチチュードの力が感じられます。
それにしても、日本は完全に情報社会から脱落してしまっているような気がします。
日本は情報社会というよりも、情報管理社会と言うべきかもしれません。
トップにとって大切な情報は、管理された情報ななおかもしれません。
つまり宿命的に「情報に疎くなる」のがトップなのです。
パラレルワールドですから、それでなんの不都合も起こりません。
困ったら「事実」を創出すればいいだけの話です。
「消費税も仕方がない」と国民に思わせる事など、そう難しいことではないことは証明済みです。
私もまた、そうした管理された情報の世界で、今日もぬくぬくと安逸を貪っているのですが。
国会審議はあまりにも退屈です。
■フェイク・イベント(2011年2月1日)
日本ハムに入団した斎藤佑樹投手の人気がすごいです。
昨日の沖縄入りの那覇空港には1000人を越えるファンや報道陣が集まったそうです。そういう光景をテレビで流すことで、また人が集まってきます。
貧困問題や格差問題の深刻化が進む中で、どうもちぐはぐな感じがしますが、実際には両者はたぶんコインの裏表なのでしょう。
名古屋市の市長選で、河村さんが「汗を流す人が苦労し、汗を流さない人が楽をしているのはおかしいでしょう」といつも言っていますが、今の経済や政治の仕組みはそうした状況を加速させています。
そして多くの人は、それがおかしいとさえ思っていないようです。
斎藤投手の追っかけ女性たちは、自らがどういう影響を社会に与えているかをもっと認識すべきでしょう。
彼女たちが貧困を作り出す元凶だろうと、あまり論理的ではないかもしれませんが、私は考えています。
河村さんが言うように、この社会は汗をかかない人ほどお金を手に入れられるようになっている気がします。
それは悪いことではありません。
まじめに働く人はお金ではない、もっと価値のある報酬をもらえるからです。
汗をかかずに手にいれたお金は、マスコミに乗せられて消費するのがせいぜいで、その結果、生活は壊れていきます。
しかし、生活の壊れは個人の問題でとまりはしません。
汗しながら、金銭的には貧しくても、豊かな生活を送っている人たちをも巻き込んでいきます。
なぜならすべての人の生活はつながっているからです。
お金の無駄遣いがある閾値を超えると、社会の価格体系に影響を与えます。
商品の価格はその商品に内在する価値によっては決まりません。
人気が高まれば、ただの石ころだって際限なく高価になっていくのです。
その役割を担うのが、たとえば斎藤投手の追っかけ女性たちです。
すべてとはいいませんが、そんな気がします。
そうした動きが極端に進むのがバブル経済です。
実体経済とは関係なく、そこでは金銭が悪さをし始めます。
お金が人の心を壊していきます。
そしてお金がないと生きていけないと思わせてしまう社会が広がるのです。
貧困はたしかになくさないといけないとは思いますが、昨今の貧困の捉え方には違和感があります。
問題は「金銭的貧困」ではなく「貧困の条件」です。
「フェイク・イベント」とはボードリヤールの言葉だったと思いますが、
彼は、「情報のネットワークをつうじて感染する沈黙の伝染病」が実体のない出来事を創りだすと指摘します。
斎藤投手の追っかけ女性たちの映像を繰り返し見せられて、仕掛けられたフェイク・イベントのにおいを感ずるとともに、この人たちこそ貧困層ではないかと思いました。
そう思う私のほうが、よほど心が貧困だと怒られそうな気もしますが、昨今のフェイク・イベントブームにはついていけません。
生まれた時代を間違えてしまったのかもしれません。
■エジプトの住民たちの愛の表情(2011年2月3日)
エジプトの状況がかなり深刻になってきたという情報が、ネットでいろいろと配信され出しています。
日本のテレビで観ている情報だけだと世界を見間違うこともありそうです。
それはともかく、中近東に広がりつつあるマルチチュードの波には、戻ることのないような勢いを感じます。
その根底にあるのは、やはりネグリがいうように、「愛」かもしれません。
ネグリは「マルチチュード」でこう書いています。
愛の概念こそ、私たちがマルチチュードの構成的権力を理解するために必要なのである。
ネグリがいう「愛」は、近代が矮小化した「私的な愛」ではありません。
彼はこういうのです。
近代の愛の概念はほとんどといっていいほどブルジョアのカップルや、核家族という息の詰まるような閉鎖空間に限定されている。
私たちは近代以前の伝統に共通して見られる公共的で政治的な愛の概念を回復しなければならない。
テレビで見るエジプトの人たちの表情には「愛」を感じます。
銃を持った軍隊の前でさえ、彼らはおじけることはありません。
エジプトに限らず、そうした光景を見るたびに、私はネグリのこの言葉を思い出します。
彼はまた、そうした「愛」は「死」と同じくらい強力だとも書いています。
反政府デモをしているマルチチュードのなかにラクダや馬で突っ込む大統領支持者もしくはその傭兵たちの表情はどうでしょうか。
彼らを動かしているのは、愛ではなく金かもしれません。
そしてもう一つの違いは、彼らの行動は「管理された行動」なのです。
いずれの力が大きいかは、一概には言えません。
しかし、今回は前者、つまり「愛」が勝つだろうと思います。
ネグリはこうも書いています。
この愛がなければ、私たちは無に等しい。
果たして今の日本には、愛があるのか。
エジプトと日本と、どちらが平和なのか、時に迷うことがあります。
■八百長相撲(2011年2月4日)
以前から噂されていた八百長相撲が否定できない事実として暴露され出しています。
その報道があまりに多すぎるのに辟易しています。
相撲ジャーナリストと称する人たち(たとえば杉山さん)も、怒りを見せながら驚いていますが、私はその姿を見ながら、驚きながら怒りを感じます。
彼らが知らなかったはずがありません。
もし知らなかったとしたら、ジャーナリストとは言えないでしょう。
それも知らずに、何がジャーナリストだと言いたい気がします。
こうした事例は山のようにあります。
前にも書きましたが、官僚の居酒屋タクシー事件や年金横領の話など、その世界にいる人たちは少なからず噂などは耳にしているでしょうし、それを取材している人たちもまた見聞しているはずです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/06/post_465d.html
これまで広範に、しかも長期にわたって行われていることにもし気づいていないとしたら、よほどふまじめな取材をしていたとしか思えません。
もちろん正確には知らないとしても、裁判にもなっていることですから、もし少しでも噂が聞こえたら、調べるのが当然です。
それは相撲協会の関係者も同じことです。
調べなかったのは、彼らが知っていたからでしょう。
そう思うのが普通ではないかと思います。
野球賭博の時にも書きましたが、一蓮托生なのです。
八百長相撲裁判で判決を出した裁判官や弁護士も私には同じ仲間に感じられます。
ところで、今日のテレビで、こんな話が出ていました。
負け越すと100万円の給料がゼロになり、生活が一変する。だからこれはそうならないようにするための、助け合いの仕組みなのだ。
アメリカの経済学者の調査では、千秋楽に7勝7敗の力士と勝ち越しを決めた力士の勝負では、ほぼ8割が前者が勝って勝ち越すのだそうです。
私は感心しました。
不条理の世界には、必ず支え合い助け合う仕組みができるものなのです。
八百長は悪いですが、この話を聞いて私はとても感心しました。
私はスポーツのほとんどがいまや商業主義化していて、多かれ少なかれ、八百長的だと思っているので、それ自体にはあんまり怒りは感じないのです。
悪いのは一体だれなのか、問題はそんなに簡単ではなさそうです。
■人間という種の育ち方(2011年2月6日)
人間の持つ知性や言葉は、最終的には人間自身を支配し、不幸な状態へと追い詰める方向に機能することになる、と考えたのは、ホルクハイマーです。
昨今の国内外の政治状況を見ていると、その言葉を思い出さざるを得ません。
その一方で、テレビはその状況からみんなの目を背けるためか、知性や言葉の意味を嘲笑するような番組を増やしています、
そうした番組には腹立たしさを感じながらも、もしかしたらそこにも大きな効用があるのではないかなどと思ったりする昨今です。
言語は、成果志向型行為だけではなく、了解志向型行為のためにもあると言ったのはハーパーマスです。
そうした、理解しあうための行為を「コミュニケーション的行為」と呼んだのです。
ここでの「コミュニケーション」を私は「共創」と呼んできました。
この発想は最近さまざまなところで広がっているように思います。
ホルクハイマーが人間の知性に不安を持ったのは、自然支配を志向するキリスト教文化を根底にした近代西欧世界のパラダイムの中の人だったからだろうと思います。
もし彼が日本に生まれたら、たぶん違った発想が生まれたでしょう。
日本と近代西欧では「言葉」の持つ意味がまったく違うような気がします。
このあたりは、言語学者やコミュニケーション学者、あるいは社会学者のテーマというよりも、もっと大きな視点で考えないと見えてこない流れのように思います。
つまり、人間がどう育てられているか、ということです。
よく科学技術は大きく進歩したが、人間の理性そのものは進歩せず、変わっていないといわれます。
私はそう思っていません。
人間は大きく変わっています。
人間は環境との関わりあいの中で共進化していると私は思っているからです。
そのことは自分のことを考えただけでよくわかります。
生活環境の変化の中で、私の理性も欲求も大きく変わっているからです。
人間は間違いなく進化しています。
もちろんネアンデルタール人と現代人が同じ部分も多いでしょうが、非連続的なほど変質した部分もあるはずです。
但し、変質や進化が「良い方向」に向かっているかどうかは別の話です。
そもそもそうした価値判断は、どこに視点を置くかで逆転するものです。
ある意味では、科学技術の変化(進化)も良い方向だと思うのは、一つの見方でしかありません。
前置きが長くなってしまって、何を書こうとしたか忘れそうです。
書きたかったのは、どうしてみんなこうも、自らの成果志向型に向かうかと言う嘆きです。
与謝野議員の行動にその典型を見ますが、自らの小さな目的を目指すあまり、せっかくの一度きりの人生を汚し、不幸を招く人が多すぎます。
それが個人の問題だけにとどまればいいのですが、人の生はつながっていますから、決してそうはならないのが現実です。
エジプトの騒乱も日本の国会の騒乱も、どこか似ているところがあって、人間の育ち方が間違っていたのではないかという気がしてなりません。
間違った種は滅びに向かうはずですが、どこかで軌道修正できるのでしょうか。
私の個別の生を大きく越えた話ですが、その問題は私自身の生にも深くつながっているように思っています。
まだまだ自分自身の生き方に問題がありそうです。
■八百長社会(2011年2月6日)
相変わらずテレビのニュースのトップは八百長相撲です。
娘が日本は平和だねとつぶやきましたが、そうなのかもしれません、
平和って、こう言うことではないような気もしますが。
八百長相撲のモデルは、八百長政治や八百長企業にあるのかもしれません。
八百長相撲はないけれども、星の借り貸しはあると昔ある親方から言われたと、ある人が言っていましたが、おそらく相撲業界には星の貸し借りが八百長、つまり悪いことだと言う意識がなかったのかもしれません。
そもそも「八百長」の語源は、人間関係や商売をうまくやっていく「知恵」だった面もあるようです。
その「八百長」も含めて「国技」ではないかなどと言ったら怒られそうですが、見せ物のスポーツにどうしてみんなそんなに厳格な要求をするのでしょうか。
八百長をすべて否定するような社会は、実に住みにくそうです。
もしそうした社会を目指すのなら、もっと根幹的なところの八百長行為を正してほしいです。
その最たる所は政治や経済かもしれません。
最近、エコポイント認定の「八百長」が発覚してしまいましたが、そちらのごまかしのほうが私には大きな意味があるように思います。
ところで、春場所が中止になってしまいました。
私は、それを聞いてこう思いました。
八百長相撲で迷惑をかけた上に、春場所中止でさらにめいわくをかけるのか、と。
せめて罪滅ぼしに春場所を開催するべきではないかと私は思いますが、やはり私の発想はどこかおかしいのでしょうか。
それにしても相撲界の不祥事でいつも思うのは、小さな時から相撲界という特殊な世界に閉じ込められて、いつのまにかおかしな道に誘い込まれた、無垢な若者たちの人生を狂わせているのは、一体誰なのかということです。
歌舞伎もそうですが、私にはそうした世界をどう考えていいのかわかりませんが、悩ましい問題です。
■郵便事業の民営化の成果(2011年2月7日)
日本郵政グループの郵便事業会社は、相変わらず赤字を積みましているようです。
一度問題になった「ゆうパック」は毎年1000億円以上の赤字が出るおそれがあるとして、 大口顧客に対する割引料金を見直し、 値上げを検討することになったようです。
そもそも大口顧客に対する割引料金なるものがよくわかりませんが、赤字を続けているのは効率化が進まないためだそうです。
コストダウンできなければ、涼金を値上げすればいい、どこかで聞いた発想です。
そうです、国家財政の話です。
歳入が足りなければ、税金を上げればいい、まさに今の日本の「常識」です。
そうした中で、減税を掲げて議会との対決に取り組んだ河村さんは、話題にトリプル選挙の3つを圧倒的な有意差をもって勝ちました。
抽象的な行財政改革などは、いかようにもごまかせますが、減税は私のような生活者にもわかりますし、それを前提に仕事をするためには本気で改革に取り組まざるを得ません。
生活者にとっては、そんなことは当然のことなのですが、そんな当然なことを主張している河村さんが特別な人に思えるのですから、不思議でなりません。
名古屋から新しい風が吹き出すのを邪魔するのは、消費税増税は回避出来ないと言っている、ものわかりのいい市民たちなのでしょうね。
ところで、そうした「ものわかりのいい市民たち」は、少し前に圧倒的に支持していた郵政民営化についてどう考えているのでしょうか。
そうした人たちへの「怒り」を、私は感じます。
■「税引き後利益が過去最高」ですって?(2011年2月8日)
「家電量販店大手5社の2010年4〜12月期連結決算が8日出そろい、全社で経常利益と税引き後利益が過去最高となった」と新聞に出ていました。
家電エコポイント効果がかなり効いているようです。
私は、エコポイント政策には違和感を持っている人間ですが(要するに消費を加速するだけの税金の企業還元政策だと思うからです)、この大変な時期に、「税引き後利益が過去最高」などと聞くと、とてもおかしな気持ちになります。
そんなに利益を上げるんだったら、下請け業者に少しは利益を回してほしいですし、社員の時給アップや職場確保もしてほしいものです。
同じ新聞に、こんな記事もあります。
「民間調査会社の帝国データバンクが8日発表した1月の全国企業倒産集計(負債額1000万円以上)によると、倒産件数は前年同月比2・8%増の976件で、1年5か月ぶりに前年同月を上回った。」
私もいちおう零細な個人企業主ですが、実質的には倒産状態で、政府の企業支援策の対象にしてほしいのですが、その申請方法もわからないので、この数年、無給状態を続けています。
まあ、それは経営者としての私の能力と意欲の不足の結果なのですが、がんばっていても経営を持続できない中小企業も少なくないのです。
個人まで降りてくると、もっと状況は悪いです。
私は、自殺のない社会づくりネットワークに事務所を提供している関係で、その活動にもささやかに関わっていますが、時々、そこにまで電話がかかってきます。
私の周りには、年収200万円にも達しない、真面目な若者も少なくありません。
日本の社会は、まだまだ「大きいところにお金が集まる仕組み」のようです。
しかし、同時に、そこには「不幸」も集まっているのではないかと少し心配です。
不幸を担うのは、いつも人間だからです。
過去最高の税引き後利益は、企業減税でさらに増えていくわけですが、その利益を使う能力のある人はいるのでしょうか。
私にくれたら、うまく使ってやるのですが。
いや、お金がたくさん集まるときっとそんなことなどできなくなるのでしょうね。
あうことでかなりのお金が手に入った私の友人がこういいました。
「お金はあっという間になくなるものだ」と。
実際に、彼の、その大枚のお金は、もうどこかに行ってしまったようです。
せめて1000万円でも私にくれていたら、私ももう少し生活が楽になったのですが。
いや、反対かもしれませんね。
■人の表情(2011年2月11日)
その人の生き方や思いは表情にでるものです。
私はそう思っています。
と言う視点で、昨今の政治家の表情を見て、みなさんはどう思われるでしょうか。
同じ表情も、人によっては違って見えるかもしれませんが、私の場合はこうです。
まず、小沢さんですが、とてもさわやかな自信を感じます。
この人が悪いことをしているはずがないと、単純な私は思います。
一方で、不器用さや憮然とした心情も感じます。
話は基本的にぶれていないところも、私には好印象です。
マスコミ情報や「有識者」の人が、なぜこれほどに嫌っているかがよくわかりません。
菅さんですが、暗い上に、自信のなさを感じます。
自分を持っていない人だろうと思ってしまいます、
それに言葉にさわやかさがありません。
最近の政治の動きは、内容的にコメントしたくなるような気がしないので、表情を観察するくらいしかしていないのです。
そうすると、逆に、本質が見えてくるような気もします。
私は暗いリーダーではなく、明るいリーダーを選びたいです。
みなさんはどうでしょうか。
それとも、私の味方はみなさんとは反対でしょうか。
小沢さんのほうが暗いよという人もいるのでしょうね。
■八百長の定義の違い(2011年2月11日)
八百長相撲事件がいつになっても決着が付きません。
八百長相撲の実体などは1週間もあれば全容解明されるはずですが、なかなかできません。
時間がかかるのは当然だと言うような人を座長にしているのですから、もともとやる気がないのでしょうが、それにしてもひどすぎます。
その一方で、被害はどんどん広がるのですから。
問題はかなり明確です。
放駒理事長は「過去には八百長相撲はなかった」と断言しました。
としたら、過去にやってきたことの延長でやっていたことは「八百長相撲」ではないのです。
つまり、相撲界の「八百長」の定義と社会のその定義とは同じくないのです。
そこに気づかないといけません。
力士はどの定義で考えればいいかがわかりません。
だから問題は解明されないのです。
考えてもみてください。
多くの力士はまだ10代や20代前半であり、社会的には「八百長」でも「八百長」ではない世界で育ってきたのですから、混乱して仕方がないでしょう。
それに携帯電話にはそれ以外のさまざまな情報が入っていますから、出したくはないでしょう。
野球賭博から八百長相撲へと飛び火したように、さらに何に飛び火するかもわかりません。
もはや協会も警察も信頼を失っていると言うことです。
警察も協会もばかなことをしたものです。
この影響はとても大きいはずです。
八百長とは何なのかをしっかり共有した上で、議論しなければいけません。
放駒理事長がいうように、「過去には八百長相撲はなかった」のであれば、今回の件も「八百長相撲」ではないのです。
お金のやりとりがあったのが悪いといいますが、気持ちのやりとりとお金のやりとりとはそんなにも違うのでしょうか。
もっと本質的なところから考えるべき問題です。
不謹慎ですが、むしろ「八百長相撲協会」をつくったらどうでしょうか。
昔のプロレスではよく八百長が話題になりましたが、それでもみんな楽しんでいました。
年の一場所くらい「八百長場所」ってのも面白そうです。
プロのスポーツは、今やお金で埋もれているのですから、それを放置しておいて、無垢な力士をいじめるのはあまりいい気持ちがしません。
今回は全員特赦の対象にしてやったらどうでしょうか。
春日錦も含めて、です。
むしろ役員や関係者には引責辞任してもらうとして。
裁かれる人が間違っているような気がします。
すみません、また不謹慎な暴論で。
■名古屋銀行の快挙(2011年2月12日)
友人から教えてもらって「平等社会」という本を読みました。
公表されているデータを駆使して、経済的格差が社会問題や健康問題と深く関わっていることを検証しています。
そして、日本と北欧はまだまだ格差の少ない平等社会であることが示されています。
ところが、その日本の社会がいま急速に変質し、格差社会に向かっているといっていいでしょう。
格差を広げる要因はいろいろあります。
人口も工業生産額も右肩上がりに増えている時代には効果的だった仕組みが、右肩上がり状況から反転した途端に機能障害を起こしているものも少なくありません。
たとえば、企業の新卒者の一括採用システムもその一つです。
今年は大学卒業者の、少なくとも3人に1人は就職が決まっていないようですが、その人たちは社会に入る入り口でつまずいてしまった結果、格差社会の下層へと向かう確率がかなり高くなってしまうといっていいでしょう。
つまり学校を卒業した時点で、人生が決まってしまいかねない状況が、いまの若者を待ち受けているのです。
念のためにいえば、うまく企業に入社したところで、そう楽観はできません。
就職活動のためにきちんと学校では学べなかった人や企業の実態をじっくりと考えなかった人が、ミスマッチに気づいてせっかく入社した企業を辞めていく比率はかなり高いのです。
辞めずにがんばるためには、自らを捨てなければいけないというような状況もあります。
いま、人材育成研究会という場で、私もこうしたテーマを議論していますが、大きな仕組みを変えなければいけないと思っていました。
しかし、どうもそんなに大げさに考えなくてもいいかもしれないことを思い知らされました。
今日の新聞で、名古屋銀行が来年度から、卒業後3年以内の既卒者も、新卒扱いで採用すると発表したと報道されていました。
個別企業でもやれることはたくさんあります。
そのことを忘れていました。
こうしたちょっとしたことの積み重ねで、社会は変わっていくのかもしれません。
名古屋銀行が形だけではなく、しっかりと実質的に実行してくれることと、こうしたことが他の企業にもどんどん広がっていくことを期待します。
それぞれが持ち場持ち場でできることに取り組むこと、いま求められていることはそういうことかもしれません。
これは何も企業に限りません。
個人においても同じことです。
やれることをやっていく、改めて自分の生き方を考え直したいと思いました。
■権力の煩わしさ(2011年2月14日)
菅政権の支持率がさらに低下しているようです。
今日のNHKの調査によれば、支持者はいまや5人に一人、不支持者はその3倍を超えています。
エジプトのような革命が起こってもおかしくない状況かもしれません。
しかし、日本の場合、政権そのものの存在(機能)がエジプトとは違うのです。
政権支持者が急落するのは、菅政権に始まったことではありません。
最近は高い支持を得て成立した政権が、1年もたたずに支持されなくなり、政権が交替することが繰り返されています。
このことの意味を考える必要があるのかもしれません。
そこで思い出すのは、やはりジャン・ボードリヤールです。
彼は最後の著書「悪の知性」で、こう書いています。
民衆が政治家階級の管理に信頼を寄せるとすれば、それは代表制の意思からというよりも、むしろ権力を厄介払いするためである。
自由を得た民衆が感じたのは、おそらく「自由の煩わしさ」です。
権力を得た民衆もまた、「権力の煩わしさ」を感じているはずです。
もしかしたら、莫大なお金を手にした人も、お金の煩わしさを感ずるのかもしれません。
「無いと欲しい」が、手にはいると煩わしい、それが自由や権力かもしれません。
私はたぶんお金もそうではないかと思っています。
そして、実はこの3つ、自由と権力とお金は、もし貸したらみんな同じものの一面なのかもしれません。
ボードリヤールの本には、こんな話が出てきます。
反乱者が権力を欲していると聞き及んだとき、ルイ16世は狼狽した。
どうして権力を欲することなどできるのか。
ルイ16世にとっては、権力は神からの義務だったのです。それも逃げることのできない、煩わしい義務だったのです。
それを自ら担おうとする人がいるとは、彼には信じられなかったのでしょう。
断頭台の上に立ったとき、何が起こっているのか、彼にはわからなかったのかもしれません。
もしダントンやロベスピエールが、その煩わしさを引き受けてもいいと理解できるように話したら、フランス革命は起こらなかったかもしれません。
それにそもそも民衆の歴史には非連続な断層、革命などはありえないのです。
ルイ16世やムバラクと、日本の首相の違いは「代表原理」に基づく正統性です。
しかし、昨今の状況を見ていると、「代表原理」に基づく正統性ほど危ういものはありません。
この数年の日本の民衆は一夜にして、手のひらを返すことがあるのです。
それは驚くべきことです。
その理由は、私たちの首相の選び方が、代表原理ではなく、権力の厄介払い原理に従っているからかもしれません。
消去法で、他の人よりよさそうだから政権を支持する人も少なくないことに、その本質が垣間見えます。
もし首相とは権力の厄介払いの受け皿なのであれば、この数年の首相はミスキャストだったのかもしれません。
同時に、日本においては、首相の意味が変わってしまったのかもしれません。
昨今の政治状況をみていると、そんな気がしてなりません。
■法もルールも時代によって変わります(2011年2月15日)
八百長相撲問題は、出口のない袋小路を突き進んでいるような気がします。
発想を変えなければ、問題は解決しないでしょう。
前にも書きましたが、私はもっとおおらかに考えたらいいと思いますが、みんなの目は厳しいです。
相撲好きな人も多いでしょうか羅、本場所や工業を休むのであれば、いっそ「八百長場所」を開くのがいいと思いますが、たぶんまじめに聞いてもらえそうもありませんね。
私はかなり本気なのですが。
伊勢神宮で行われる奉納相撲は、本来、八百長相撲なのですし。
そもそも「法」は、時代によって大きく変化します。
前にも書きましたが、大切なのは「法の条文」ではなく、立法の精神や法の背景にある理念です。
大岡裁きという言葉もありますが、法は社会をスムーズに動かしていくための「方便」でしかないのです。
その方便に、呪縛されてはいけません。
法のために、相撲を壊すのは本末転倒なのです。
お金のやりとりは許せない、という人が多いようですが、私たちの生き方は「お金のやりとり」で成り立っています。
お金をもらうために、自分でも納得できない仕事をしたことがないという人はどれほどいるでしょうか。
私には、彼らを責める気は全く起きません。
今の日本の社会は「お金万能」です。
であれば、相撲界も「お金万能」が少しは許されてもいいのではないでしょうか。
それがいやなら、社会全体のお金万能の状況を変えるべきです。
もちろん私は後者の考えで、生きています。
自分の生き方で実現できないことを、若い無垢な力士に求めるような人間にはなりたくありません。
もういい加減、すべての力士を許してやったらどうでしょうか。
八百長が無かったと言い張っていた協会役員だけが潔く辞めたらいいでしょう。
一番悪いのは、そうした人たちだからです。
裁く人と裁かれる人が、まったく反対なのです。
まあよくある構図ではありますが。
■マトリックスな体験(2011年2月16日)
今日、久しぶりに朝の通勤時間に、大手町などの都心を歩きました。
久しぶりだったせいか、たくさんの人が黙々と歩いているのを見て、とても新鮮でした。
みんな急ぎ足に目的地に向かって歩いているのです。
それがどうした、といわれそうですが、最近、ある本で読んだこんな文章を思い出しました。
「大衆(マルチチュード)は、何らかの形で一つに結合しないかぎり、それ自体では統治するのに適さない。というのは、何らかの統一体に含まれないならば、大衆は存在できないからである。それゆえ、大衆がある程度の理性によって一つにならないならば、国家=市民社会は解体するであろう」(「市民社会とは何か」平凡社新書)
16世紀末に出版された「ヴェネツィアの為政者と共和国について」の本に出てくる文章だそうです。
同時に思い出したのは、つい数日前までのエジプトの広場の風景でした、
都心を秩序だって歩く人たちを支えているのは、それぞれの人に与えられた役割でしょう。
役割があるから、みんな黙々と歩いています。
私も今朝は、4月に予定しているフォーラムの会場の予約のために、飯田橋に向かっていたのですが、早く着こうと黙々と歩いていました。
役割がしっかりと与えられていれば、誰かから何か言われなくともみんな秩序を維持しながら行動します。
それが生命に組み込まれた本能なのでしょう。
しかし、実際に役割を与えているのは、何らかの統一体です。
それが国家なのか市民社会なのか、はたまたネットワークなのかは別にして、個々の役割と全体としての統一体は、再帰的な関係にあります。
エジプトにあふれ出した人たちは、どうだったのでしょうか。
大きな目的に向かって、役割を認識できている間は、秩序が維持できます。
それがなくなったり、達成されたりした後が問題です。
幸いにエジプトはうまくソフトランディングしたように見えます。
日本はどうでしょうか。
大手町を歩いている人たちは、幸か不幸か、みんなそれぞれの役割を与えられています。
だから機能的に行動できているのです。
しかし彼らから役割を奪ったらどうなるでしょうか。
秩序は維持できなくなるでしょう。
残念ながら、昨今の日本には、朝、大手町を歩けない多くの失業者がいます。
役割が見つけられないということは、居場所がないということです。
今回の事件の前のエジプトはどうだったでしょうか。
そうした役割のない人たちがたくさんいたのかもしれません。
それがツイッターで、ある時突然に役割を見つけたのです。
そしてデモの輪が広がっていったわけです。
そう考えると、エジプト的な事件が日本で起こっても不思議はありません。
都心の人工空間を黙々と歩いている大勢の人たちを見ながら、恐怖感を感じました。
自分もその一人なのに、とても恐ろしい気がしたのです。
まるで大きな機械の中に、自分も組み込まれているような感じでした。
こうした行動を日常化している人たちが創りだす、社会ってどんなものになっていくのでしょうか。
いささかの不気味さを、実感しました。
■変えてはいけない信条(2011年2月17日)
IBMを飛躍的に発展させたトーマス・ワトソン
Jr.は企業の成功の鍵として次の3つをあげています。
@しっかりした信条を持つこと
Aその信条を確実に守ること
B信条以外の全ては常に変えていく姿勢を持つこと
日本IBMの人に、「もし信条を変えなければならなくなったらどうするのですか」という意地の悪い質問をしたら、「その時はIBMが終わる時です」という答がかえってきたまし。
もっとも、昨今のIBMは、その変えてはいけない信条を変えてしまったような気がします。
民主党の比例代表選出の衆院議員16人が、党執行部が決めた小沢氏処分の方針に反発し、衆院の民主党会派からの離脱を表明しました。
菅政権がマニフェストの見直しを検討していることに対し「今の民主党は自分たちが考える党とは全く違う党になっている」と主張しています。
党執行部は、規則上、離脱はできないと言っているようですが、人を縛る組織の恐ろしさを感じます。
なぜきちんと対話できないのか、岡田幹事長の発言を聞いていると、亀井さんが話したという「連合赤軍」を思い出すのもわかるような気がします。
私も、今の民主党は選挙で国民が支持した民主党とは似て非なるもののような気がします。
ですから小沢さんや今回の会派離脱グループに共感をもてます。
もっとも国民の多くは、そうした変質した民主党を支持しているようですが、マルチチュードは御しがたい存在です。
人にも、組織にも、変えてはいけない信条があります。
民主党にとって、その信条とはなんだったのか。
沖縄基地問題にしろ子ども手当てにしろ、ダム建設にしろ消費税にしろ、高速道路料金にしろ、私が思っていた民主党の信条はすべて変わってしまったように思います。
にもかかわらず、政権政党として存在する民主党の大義はどこに所在するのでしょうか。
元祖民主党が生まれてほしいものですが、それは難しいでしょう。
そこにこそ問題の本質がありそうです。
■民主党議員グループの会派離脱事件に思うこと(2011年2月18日)
民主党の16人の会派離脱への批判が強まっています。
今朝のテレビ報道では、たとえばフジテレビ系の番組では、議員バッチがなければただのおじさんと表現したばかりか、みんな比例区の最後で滑り込んだ人たちの保身のための「造反」だと、いかにも彼らを馬鹿にした報道をしています。
他の番組も大同小異のような気がします。
聴いていて、きわめて不快です。
こういう「造反」の動きの中で、予算関連法案が通過しなければ、国民生活がますますひどくなると言う人も多いです。
今も見ていると、「こんなことをしている暇はない」と発言している人もいますし、「お家騒動」だという人もいます。
こうやって、脅かしながら、問題の本質的解決を避けて、事態をさらに悪化させていくのが「体制」(システム)の「変化回避機制」です。
新しい価値がうまれるには、あるいは枠組みを変えていくためには、創造的破壊は時には必要です。
エジプトの今回のデモは、その一つかもしれません。
無名であろうと議員は議員です。
議員に上下関係があるはずはありませんし(もしあるとしたら国民にも上下関係があるということになります)、流れに抗する動きには必ず何らかの意味があります。
それをしっかりと受けとめる感受性がなければ、組織は生きつづけられません。
「全く理解できない」と菅首相は発言していますが、理解できなければ理解しようとするのが常識です。
首相も、岡田幹事長も、その発言には権力者の意識を感じます。
権力に依存した発言をする人は、リーダーとは言えません。
国民生活は、すでに壊れだしています。
これほどの格差社会にしておきながら、さらにそれを進めるかもしれない予算を成立させることを絶対視する必要はありません。
歳入が途切れて、国家公務員の給料が遅配になるような事態も決して悪いわけではありません。
会社であれば、家庭であれば、そんなことはよくあります。
治安が乱れるかもしれませんが、いまも治安はかなり乱れていますし、治安のありかたを根本から考え直す契機になるかもしれません。
いまはそれくらいの大きな時代の変わり目にあるような気がします。
昨今の社会のあり方に辟易している私としては、問題の本質を問い質す契機になればと思います。
あまりに無責任な発言と批判されそうですし、私もそんな気もしますが、問題を器用に収めるのではなく、問題の本質を考えることも必要だろうと思います。
政治のあり方、行政のあり方、議会のあり方、政党のあり方、そうしたことを考え直す材料がいろいろと出てきています。
たとえば、政権がなぜ1年前後でくるくる変わるのか、そのことの理由をもっと考えたいと思います。
異議申し立てには、いつもそれなりの意味があるのです。
■拡家族(2011年2月20日)
今日、韓国の佐々木さんからホームページに「お祖父さんになった」という投稿がありました。
それで気がついたのですが、最近、「拡家族」の話がまわりで増えています。
「核家族」ではなく、「拡家族」です。
こう言う表現を最近は時々目にしますが、私が意識したのは20年近く前のことです。
日本リサーチ総合研究所の次世代住まい方に関する研究会の委員にさせてもらった時に提案させてもらったのです。
私は以前から、「血縁」と「地縁」は隣り合わせのものであり、かなり親和性のある概念だと思っていました。
遠くの親戚より近くの他人という言葉もありますが、その言葉が示唆しているように、両者には類似性があるのです。
私がいう「拡家族」は、血縁にはこだわらないものの、寝食を共にすることにより生命のつながりを深める関係性のことです。
共同生活家族や養子関係など、そういう「家族」形態は昔からありますし、今も各地に残る連や講も含めてもいいでしょう。
そうした人のつながりに共通するのは、無防備関係と論理を超えた信頼性です。
昨日、自殺のない社会づくりネットワークの交流会がありましたが、そこである人にシェアハウスの話をしたらとても興味を持ちました。
横浜では私の知人が3世代のコレクティブハウスのプロジェクトに取り組んでいます。
私の住んでいる近くでも、血縁のない人たちのシェアハウスの建設が進んでいます。
高齢者に関わるNPOや子育てに関わるNPOの人たちから、3世代の交流の仕組みや場がほしいという話もよく聴きます。
家族の崩壊が話題になる一方で、こうした動きが広がっていることをどう考えるべきでしょうか。
イギリスの道徳哲学者アダム・ファーガスンは、「人間は、自然に共同体の成員である」と言ったそうですが、人は一人では生きられません。
過剰に原子化された昨今の生き方に、みんながおかしいと思い出したのでしょう。
しかし、その一方で、血縁家族の仕組みは壊れだしています。
家族の構成原理として血縁は重要な要素ではありますが、絶対のものではありません。
新しい家族のあり方が、求められているように思います。
それが、血縁と地縁を軸にした拡家族ではないかと思います。
■知は力(2011年2月21日)
チュニジアからはじまった反政府運動はますます広がっています。
中東にとどまらずに、中国まで飛び火する可能性さえ出てきています。
その根底にあるのは、「やればできるという」ことを示す実例を示す情報です。
空想の世界の話が、急に現実の話になってしまうショックは大きいでしょう。
科学技術の世界ではよく語られますが、理論的に実現可能性が証明されると難問が解かれることが多いそうです。
誰かが実際にやってしまえば、「できるんだ」という確信が人々の心身に生まれます。
それが広がれば、巨大な力に育っていきます。
最近の中東の状況を見ていると、20年前の東欧革命を想起します。
1989年の1月にハンガリーで集会の自由が法制化された時、その年にベルリンの壁がなくなると思っていた人は多くはないでしょう。
しかし、あっという間に冷戦構造の世界は変わったのです。
最近、私もFACEBOOKを少しきちんと使おうと思い出しました。
やってみると確かにその威力は感じられます。
しかし、先ず感じたのは、この効用の裏表です。
誰が使うかによって、恐ろしいツールにもなりえると感じたのです。
まあ当然のことなのですが、物事にはすべてプラスとマイナスがあります。
中東の反政府運動は一人の若者のネット活動から始まったとまことしやかに語られていますが、私にはどうしてもそうは思えません。
必ずその裏にだれかの意図があるような気がするのです。
それがわからないと、最近の動きをどう評価していいかは難しい気がします。
情報の威力は、しかしある臨界点を越すと、個人では止められないほどのパワーを持っています。
つまり、ある段階からは、誰かの意図とは無縁になるわけです。
最近の反政府運動がどこまで広がるのか、気にはなります。
日本もまた無関係ではありません。
西欧型の資本主義社会では、もはや革命は起こりえないというのがどうも最近の通説のようですが、私にはまだ確信が持てません。
中東諸国とは違いますが、日本の社会もまた大きく壊れているからです。
知は力なりという言葉を最近また少し考えるようになりました。
■暴言の犯罪性(2011年2月21日)
私にはいささかの暴言癖があります。
時に言葉で人を傷つけることがあるのです。
最近はかなりよくなったと思いますが、思ったことを過剰に強調したり、気楽に反語を発して誤解されてしまうことが今でもあります。
困ったものです。
自分にそういう傾向があるので、他の人の暴言も気になります。
人間は誰かを批判する時に、大体自分の欠点と同じものに気づくものです。
他者の欠点に気づいたら、先ずは自分はどうだろうかと考えると、自分にも当てはまることが少なくありません。
まさに、人のなり見て我がなり直せ、です。
今日のテレビで、横領容疑事件の事情聴取に当たった大阪府警の警部補の音声が報道されました。
容疑者の男性に「殴るぞ、お前」などと暴言を浴びせている状況が、容疑者の持っていたICレコーダーに録音されていたのです。
それを聴いていて、言葉の暴力のすごさを改めて感じました。
特に権力をもっている人の暴言はものすごい殺傷力をもっています。
そして、言葉には、その人の本質が現れます。
和民の渡邉社長への私の不信のはじまりは、テレビで見た、彼の社員への言葉遣いでした。
それについては当時、このブログにも書きました。
文字にするのもいやなほどの暴言でしたが、それ以来、渡邊さんがどんなことを言おうと、どんな笑顔をつくろうと、私には信頼できません。
人を人と思わないような暴言をはく人に、人を語る資格はありません。
自分もそういう発言をしたことが昔あったがゆえに、許せないのです。
もちろん私は今も自分自身を許せないでいます。
しかしなぜ人は暴言をはくのでしょうか。
私の体験から言えば、思いが強すぎるからです。
思いをコントロールできないのです。
しかし、だからといって、暴言は許せません。
とりわけ人を裁いたり、育てたりする人は、相手が誰であろうと、人の尊厳は大切にしなければいけません、
東京都の知事にもなってはいけません。
私も最近は少し成長しました。
あまり暴言をはくこともなくなりました。
その一方で、相変わらずなくならないのは失言です。
幸いに、私が少しくらい失言しても、だれも迷惑をこうむらないようです。
まあ、それもちょっと寂しい気もしないではないですが。
■政治哲学の不在(2011年2月23日)
ニュージーランド地震を受けた政府専用機派遣に関し、前原外相は、国際緊急援助隊だけでなく、「うまくタイミングが合えば、現地に行きたい(被災者の)保護者も乗ってもらうよう段取りを今している」と述べたという報道がありました。
その迅速な発言に、思わず拍手を送りたくなりましたが、どうやら法律が制約になって、実現しなそうです。
北沢防衛相も「聞いていない」と否定したそうです。
やはりわが国の法治主義の主役は人間ではなく、法律条文のようです。
私のようにリーガルマインドしか学ばなかった法学部卒業生には理解できないことです。
最近話題のハーバード大学のサンデル教授だったらどう考えるでしょうか。
「正義」を優先させるロールズはともかく、サンデルであれば、まずは関係者にとっての「善き判断」を重視するでしょう。
法律はいかようにも読み解けるものです。
前原さんはともかく、菅首相がその気になれば、前原さんの思いは実現したでしょう。
とても残念でなりません。
ロールズの正義論は、私にはとても共感できるところがあります。
自分の属性や境遇を前提に生産年齢人口図に考えることから正義論を始めるという、ロールズの「無知のベール」論は、とても共感できます。
しかし、人間にはそれぞれの「生々しい具体的な生活」があります。
ロールズの「無知のベール」論をサンデルは「負荷なき自己」論として批判していますが、それもまた実に共感できます。
私たちは、それぞれの人のつながりやさまざまな具体的状況を背負って生きているからです。
そうした具体的な重荷から自由に「正義」を生きることは、難しいです。
歳のせいか、最近はロールズよりもサンデルに共感できるようになってきました。
しかし、今回の政府専用機事件で、両者は決して矛盾しないのではないかという気がしてきました。
「無知のベール」論でも「重荷を背負った自己」論でも、今回の件で言えば、前原さんを支援できます。
そして、この問題には、私たちの税金の使い方や国民主権の本質にもつながる問題のような気がします。
テレビで報道された、サンデル教授の白熱教室の解説をされていた小林正弥さんがおっしゃっているように、政治哲学がもっと求められてきています。
政治哲学がない政治家は、状況の中で際限なく揺り動き、マスコミ情報で右往左往する、無責任な私たち国民以上に大きく揺れ動きます。
首相がころころ変わることが問題なのではなく、政治哲学の不在が問題のような気がします。
■日本最古の人物埴輪(2011年2月25日)
今日は朝からかなり幸せな気分です。
新聞の朝刊に載っていた、日本最古の人物埴輪の写真が、実にほのぼのとしていて、心がとてもあったかくなったのです。
それに、今日は春のような暖かないい天気です。
読売新聞に載っていた写真(枡田直也さん撮影)を載せさせてもらいます。
新聞によれば、奈良県の桜井市の前方後円墳で出土した兵士の埴輪です。
人物埴輪としては日本最古だそうです。
被葬者の魔よけだったようです。
見ていて飽きません。
そして心があたたかくなりませんか。
石器時代の人たちは幸せだったという説があります。
私もそうだろうなと思います。
自然と共に、大きな生命の一部を生きていたでしょうから。
そこでは「正義」などという小難しい議論は考えなくてもよかったでしょう。
みんなが素直に、生きたいように生きていた。
きっとお互いに支え合いながら、善き生を生きていたのでしょう。
いや、どの時代から、善悪などという概念が生まれたのでしょうか。
この兵士には、そんな小賢しいことは無縁だったように思います。
しかし、彼は「兵士」だそうです。
にもかかわらず、こんな明るい顔をしている。
いったいどんな社会だったのでしょうか。
リビアのカダフィ大佐も、昔はこんな顔だったのかもしれないなとふと思いました。
■疲れている現代人(2011年2月26日)
昨日、埴輪の表情に幸せを感ずると書きましたが、その後、霞が関にでかけました。
企業の人事政策に関するある集まりに出かけたのです。
ところが、地下鉄に乗って、たまたま空いていた席に座って、前を見たら、埴輪の表情よりも印象的な風景がありました。
前の座席に6人が座っていましたが、全員、中途半端ではなく眠っているのです。
電車の座席で寝ている人はよく見ますし、私もねむることがありますが、これほど見事な眠りっぷりがそろっているのは、滅多にあることではありません。
写真に撮っておきたいほどでしたが、女性も男性も、それはもう見事なのです。
口をあけ、足を投げ出し、崩れるように隣に傾き、信じがたいほどに前に倒れ、まあ見事な組み合わせです。
それが6人見事にそろっていたのです。
みんな疲れているのでしょう。
もっともその光景は3つの駅の間だけでした。
貴重な映像を見せてもらった感じでした。
それと対照的な風景が、私の座った側でした。
4人が携帯電話で何やら操作をしていました。
立っている人も半数が携帯電話とにらめっこです。
みんな忙しいわけです。
もっとも隣の人はスマートフォンでゲームをしていましたが。
もっと驚いたのは、立ったまま、まつ毛の手入れをしている若い女性がいました。
私には名前さえわかりませんが、ホットビューラーとかいうものではないかと娘に教えてもらいました。
電車ががくんと揺れたらどうなるのでしょうか。
それにしてもその人はよほど忙しいのでしょうね。
電車内の風景は時代を象徴しているといつも思いますが、見ていると飽きません。
いろんな光景が展開されているのです。
しかし、残念ながら、昨日の新聞で見た兵士の埴輪ほど感動する表情には滅多に出会えません。
現代人は古代の兵士よりも、本当に幸せなのでしょうか。
実は昨日は2つの集まりに出ていたのですが、そこでの議論もそんなことを考えさせられる内容でした。
■中東の反政府運動と日本の企業の実態をつなぐもの(2011年2月27日)
今日は時間がないので、CWSコモンズの週間報告に書いた記事と重なる内容です。
一昨日、恒例のオープンサロンでした。
私も初対面の方が2人もやってきてくれました。
今回は最初からかなりハードなテーマで議論が走り出しました。
そもそものきっかけは、中東の騒ぎは日本にも飛び火するかという、ある人の問いかけでしたが、そこから大企業の現状と非正規社員の原状の話になりました。
このつながりがポイントなのですが、それは私には本が一冊かけるくらいの面白い話なのです。
最近までアラビアで仕事をされていた人が、アラビアの話をしてくれました。
それを同じく海外で仕事をされていた人がフォローしてくれました。
実は私は常々思っているのですが、古代のギリシアやローマの社会と石油で豊かなイスラム国家はどうも似ているのではないかと思っているのです。
しかも、それはもしかしたら、アメリカや日本が陥ろうとしている未来社会なのではないかという気もしていま。
一言でいうと、汗して労働する人と不労所得者で構成されている社会です。
前者が経済を、後者が政治を担うというイメージです。
ギリシア・ローマはそういう社会であり、イスラム産油国はその変形です。
まあかなり極端な独断的見方ではあるのですが。
そこで話が、日本の大企業の正社員は汗をする働きをしなくなったという方向に向いたのです。
たまたま派遣社員として大企業で働いている人が、実態を話してくれました。
正社員は仕事をせずに高給を取っているが、その立場を守るために会社の無理難題にも黙って従っている、そして肝心のハードな仕事は派遣社員にやらせている、というのです。
大企業で働いていた人がかなりいましたが、その人たちはそれは例外的な事例ではないか、また大企業とか中小企業ということではないのではないかと強く反論しました。
少なくとも4人はそういう意見でした。
一人だけその事例は決して特殊例ではないと発言しました。
私ももちろん派遣社員の人の話は決して特殊な事例ではなく、大企業が今陥っているかなり一般的な状況だと思うと発言しました。
最近の大企業の人たちとの付き合いの中で、まさにそれを確信してきているからです。
参加した大企業出身者の人たちが勤務していた頃は、たしかに大企業にはまだ「人間の要素」がありましたが、今はそんな余裕は経営者も含めてすっ飛んでしまっているのです。
この数年の大企業の変容はすさまじいです。
しかしみんな自らの経験から抜け出せないのです。
まあいろいろと話題は広がりましたが、いつになく議論型サロンになりました。
最後に中国から日本に留学できて、その後、日本の会社に入り、7年目だという女性が発言しました。
彼女も大企業に勤めている正社員ですが、派遣社員の人の話が自分のところでもすべて当てはまるというのです。
それはいいとして、その後の言葉がショックでした。
日本に期待していたが、日本の会社は元気もないし(たぶん会社の雰囲気が淀んでいるのでしょう)、楽しくない、このままだとおかしくなりそうだ、もう中国に戻ろうと思っている。
実に残念な話です。
日本の大企業も、日本の社会も、魅力を失ってきているばかりか、病理的になっているのではないかと思います。
翌日、派遣社員の人からメールが来ました。
やはり現場が一番リアルなのだということを感じました。
私もそう思います。
その現場の情報は、マスコミはほとんど伝えません。
たとえば、いま沖縄で何が起こっているか、だれも気にもしていないでしょうが。
■現場が見えない社会(2011年2月28日)
知識社会は現場が見えない社会です。
情報社会が情報のない社会だという展望を持ったのは、30年ほど前です。
その頃書いた「非情報化革命論」は未完に終わっていますが、その頃から視点を変えると世界は全く変わってくるということに気づいたのです。
25日の時評に、「現場の情報は、マスコミはほとんど伝えません」と書きました。
その一例が沖縄の辺野古の北の東村高江(ひがしそんたかえ)で起こっていることです。
私も最近まで知りませんでしたが、メーリングリストで関連情報が繰り返し流れてくるので、少しずつ知るようになりました。
高江は、約160人が暮らす沖縄の人たちの小さな集落ですが、その集落を囲むように米軍のヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)をつくる工事が始まっているのだそうです。
いまでも真横に米軍の訓練センターがあり、その関係で米軍へりが低く長く飛んでいるそうです。
これ以上ヘリが飛んだら住めなくなる、と考えた高江の人たちが、「自分の家で普通に暮らすため」に去年の7月から工事現場の入り口で、工事をやめてもらうために座り込みを始めたのだそうです。
これは、「やんばる東村高江の現状」というブログで知ったことです。
一時期、あれほど報道された沖縄の基地問題も最近はぱったり報道されなくなりました。
しかし、当然のことですが、現場では決して止まることなく事態は進んでいるのです。
今日も、そうです、いまこの時間も、高江では座り込んで抗議している人と建設作業者とのいざこざが起こっているわけです。
その動きが刻々とメーリングリストで流れてきます。
そこでの抗議活動に関して、スラップ裁判も起こっているようで、明日、その7回目の裁判が那覇地方裁判所で行われるそうです。
しかし、沖縄防衛局は前回1月の裁判日に住民が那覇地裁へ出向いている日を狙って、高江現地で工事を強行するという卑怯で愚劣な暴挙に出たそうです。
こんな悪質なことが現場で起こっているのです。
どんな事件かは次を見てください。
http://shunji.ti-da.net/e3290672.html
またスラップ裁判とは何かは次のサイトを見てください。
http://slapp.jp/slapp.html
こうした動きの中に、いま日本で進んでいる状況が示唆されています。
しかし、マスコミは報道しようともしていないような気がします。
もちろんこれは、ほんの一例でしかないのです。
みなさんのまわりにも、そうした不条理な事例はあるかもしれません。
それは決して例外的な事例ではないのです。
そこにこそ、すべての象徴がつまっているのかもしれません。
■石器時代の経済学(2011年3月1日)
先日、石器時代の人たちは幸せだったという説がある、と書いたら早速、誰が言っているのかと質問されました。
それで昔読んだ本を引っ張り出しました。
アメリカの文化人類学者のマーシャル・サーリンズが書いた「石器時代の経済学」です。
日本で翻訳が出たのは1984年ですが、私が読んだのは会社を辞めてからです。
当時、すでに湯島でオープンサロンをやっていましたが、そこでも話題にしたことがありますが、誰もまともには受け止めませんでした。
みんな学校で石器時代よりも今はとても幸せな社会だと洗脳されていますから、石器時代が豊かだったなどという話は受け付けないのでしょう。
日本の学校教育がどういうものであるかの本質がわかります。
「知的好奇心を封じ込める」のです。
そうした体験は何回もしています。
10年ほど前に、やはりサロンで、福岡市では14人の1人が保険料を払えずに健康保険証を返却したため病院にもいけないそうだという話をしたら、参加者全員からそんなに多いはずがないといわれました。
その後、そうした実態は明らかになってくるのですが、人は信じたいことにしか耳を傾けません。
そう言えば、先日のオープンサロンでも、企業でいかに人間が疎外されているかの話をしたら、佐藤さんが話を面白くするために大げさに話しているといわれました。
その数日前に見聞した話を、そのまましただけなのですが。
知識人はなぜ人の言葉を信じないのか、哀しい気がします。
私がよほど信頼できない人なのかもしれませんが、人の言葉はまず信じることから人のつながりは生まれていきます、
さて石器時代の経済学です。
詳しくは、その本を読んでもらうとして、一つの話だけを紹介します。
サーリンズは、「狩猟=採集民(とりわけ、限界的な環境にすんでいる人々)についての、昨今の民族学的報告によると、食物生産に彼らは、成人労働者一人一日当り、平均3時間から4時間しか費やしていないことが示唆されている」と書いています。
そして、石器時代の社会は、1日ほんの3〜4時間働くだけで、全員の欲求が充足される、まさに「始原のあふれる社会」だったというのです。
先週読んだ「社会的共通資本としての川」のなかで、高橋ユリカさんが、「熊本県の球磨川流域では戦後の食糧難の時代にも餓える人はいなかったという。しかし、荒瀬ダムができてからは、鮎だけでなく、ウナギなどの魚類はダム近辺の川からいなくなった」と書いています。
つまり流域住民たちの暮らしは、自然によっては支えられなくなったということです。
経済の発展とはいったい何なのか、考えなくてはいけません。
■入試問題ネット流出事件で考えたこと(2011年3月2日)
インターネットへの入試問題流出事件が話題になっていますが、世間で言われているほど、私は腹立ちを感じません。
情報社会とはそうしたものだろうと思っているからです。
たしかに犯罪なのでしょうが、どうも実行犯を憎めずにいます。
むしろそれに対する大学側の慌てぶりに、いささかの違和感を持ちます。
私は昭和30年代に大学で学んだものですが、税法の試験の時に、六法全書の持込が自由でした。
私には当然のことでしたが、他の科目では持ち込み禁止でした。
私には納得できず、それが司法試験を諦める最初でした。
法律なんか覚えられるはずがないからです。
それほど自分を無駄遣いしたくないと思っていたのです。
語学も苦手でした。
辞書の持ち込みを認めてほしいと思っていました。
何しろ記憶力がよくないのです。
興味のあることはいくらでも覚えられますが、法律とか言葉の意味などは覚えられないのです。
一種の発達障害ではないかと思うこともあります。
ところで、この事件が報道された時に、私が思ったのは、この情報社会の時代に大学は相変わらずの試験をやっているのだなということでした。
私たちが生きるうえで、インターネットを活用して、世界中の知を活かすことは、いまやとても大切なことです。
この受験生は、素直にそれをやっただけのような気がするのです。
法律の試験に六法全書を持ち込んだり、語学の試験に辞書を持ち込んだりするのと、私には同じように思えるのです。
まだそんなレベルの試験をしているのかと、京都大学のレベルの低さに驚いたわけです。
いや京都大学の問題ではなく、日本の大学すべての話です。
情報社会は、ありふれた形式知の多寡を問うのではなく、それを活かして創造的な価値を創り出すことを試験に取り入れるべきです。
インターネットで聞いたら、10分後に答がわかるような問題に、果たしてどんな意味があるのでしょうか。
そんなことばかりやっているので、大学卒業生の知のレベルは高まらないのではないかと思います。
知の評価システムは根本から変えなければいけません。
そうしないと、相変わらず知性のない有識者が増えていくでしょう。
まあそれが日本の教育の狙いなのかもしれませんが。
今回の実行犯をかばうつもりはありませんが、この事件が問うていることをしっかりと考えるほうが大切なような気がします。
■政治とカネ(2011年3月3日)
奇妙な話ですが、また前原さんや蓮舫さん、さらにはみんなの党の渡辺さんの周辺でお金の問題が指摘され出しています。
新聞はテレビほどには取り上げていませんが、テレビはかなり取り上げていました。
その影響は大きく、ブラフ効果は大きいでしょう。
だれが仕組んでいるのでしょうか、人為的なものを感じます。
要するに政界では目立つと問題が顕在化されるようになっているわけです。
言い換えれば、だれにでもある問題です。
それは「政治の成り立ち」を考えれば当然過ぎるほど当然のことのように思えます。
小沢さんの件も含めて、そんな瑣末なところばかりに目を向けさせられているうちに、何か大きなことが進んでいるようで、それがとても気になります。
急になぜかいろんなものが値上がりするそうですし。
たかが10億そこらで目くじら立てるのは止めたいものです。
■元気ですが(2011年3月6日)
書きこむ必要もないことの書き込みです。
この2日間、時評も挽歌も書きませんでした。
単に時間がなかっただけですが、時間ができてパソコンを開いたのですが、なぜか脳が拒否します。
書けません。
なぜでしょうか。
でも元気です。
せっかくパソコンを開いたので、これだけ書くことにしました。
■悪魔のささやき(2011年3月7日)
入試問題のネット流出事件が相変わらず大きく報道されています。
前に書いたように、私自身は問題の所在を違うところに見ていますので、マスコミの取り上げ方には違和感があります。
残念なことは、これでまた、若者の未来がひとつ消し去られたという事実です。
悲しい話です。
思い出すのは、加賀乙彦さんの「悪魔のささやき」論です。
精神科医として東京拘置所に勤めた経験を持つ加賀さんは、その著書の中で、「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にあるときに、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、「自分ではない者の意志」のような力、すなわち「悪魔のささやき」である」と書いています。
そうした「悪魔のささやき」を耳にしたことがない人もいるでしょうが、私はよく耳にします。
私がこれまでそうした「ささやき」に引きずり込まれなかったのは、単に運がよかっただけだろうと思います。
ですから、今回の問題を起こした若者は、決して他人事ではないのです。
最近、熊本で起こった大学生の女児殺害事件も、動機が全くわかりません。
おそらくここでも悪魔がささやいたのでしょう。
そう考えなければ、まじめな若者がこんな事件を起こすはずがありません。
前にも書きましたが、まじめであればこそ、悪魔は入ってきやすいのです。
小坂井敏晶さんの「人が人を裁くということ」(岩波新書)はとても考えさせられた本です、
小坂井さんは、犯罪者とそうでない者とを分け隔てる何かが、各人の心の奥底にあるわけではないといいます。
「実際に行為に走った者には、もともと殺人者の素地があったと我々は後から信じ、またそのように本人が思い込まされるのである。人間は意志に従って行動を選び取るのではない。逆に、行動に応じた意識が後になって形成される。警察の厳しい取調べの下、犯行動機が後から作られる。また、服役生活において罪を日々反省する中で、犯行時の記憶が一つの物語としてできあがる」。こう書いています。
犯罪や犯罪者は、行為によってではなく、処罰によって出来上がるというわけです。
以前も書きましたが、処罰された人の再犯率が多いことは、いまの裁判制度の欠陥を示唆していると思いますが、小坂井さんは「釈放されても、前科のある者は再就職に苦労し、伴侶を見つけるのも難しい。そのような生活の困難、将来への絶望、世間への恨みが再犯へと導く。ほとんどの人間は、犯罪者の素質があったから犯罪者になるのではない。まるで単なる出来事のように、本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる。しかしそこに社会は殺意を見いだし、犯人の主体的行為と認定する。お前は自由意志で犯罪を行ったのだと社会秩序維持装置が宣言する」と書いています。
とても共感できると共に、わが身に重ねて考えると、実に恐ろしい話でもあります。
「単なる出来事のように、本人の意志をすり抜けて犯罪行為が生ずる」。
普通に暮らしていても、明日、私自身が犯罪者になっているかもしれないということです。
熊本の若者のような事件は、私には無縁であると思いたいですが、決してそうではないでしょう。
どんなに異常に見える事件であっても、自分と無縁な事件などありません。
悪魔のささやきは、相手を区別などしないでしょうから。
そうした想像力を持って、昨今起こっているさまざまな事件を考えなければいけないように思います。
ただ声高に非難し裁けばいいわけではないのです。
■在日外国人の善意を切り捨てていいのか(2011年3月7日)
在日外国人からの政治献金受領問題の責任をとって前原外相が辞任しました。
まさか毎年5万円、4年で20万円の個人の寄付が原因で大臣が辞任するとは思ってもいなかったので、私には驚きです。
それが法治国家の論理なのでしょうが。
私が気になるのは、しかし、そうした政治の話ではなく、寄付した女性のことです。
京都に住む在日韓国人女性は、前原氏本人からの辞任の報告の電話に、「ごめん、ごめん。迷惑かけてごめんなさい」と何度も謝っていたと言います。
また、朝日新聞の取材に「前原さんの家庭は貧しく、苦労して議員になったので応援したかった。在日の献金がダメだとは知らず迷惑をかけた。私が日本国籍を得ていると思ったのではないか」と話したと、朝日新聞に書かれていました。
その記事を読んだ時、その女性に対して、私たちは大きな間違いをしているのではないかと感じました。
もし報道内容が事実であるとすれば、私には大きなものを失った事件ではないかと思います。
人が人を支えることの思いや大切さは、国や法律や制度を超えています。
苦労して毎年5万円のエールを送っている個人の善意を踏みにじるような社会に住んでいることにいささかの寂しさを感じます。
しかも相手は、日本の社会では決して恵まれずに「差別」されている立場の人です。
そうした人ほど、人の痛みも辛さもわかるのでしょう。
その行為に、私は大きな敬意を表します。
それを全く反対の意味で、大事件にしてしまったのは、たぶんにマスコミの責任でもありますが、最近のマスコミはただただ問題を起こすだけで、事柄の意味などは考えないような気がします。
法律はともかく、人間の社会にはもっと大事なものがあるはずです。
それがなくなったからこそ、社会は壊れだしているのです。
壊れた社会は、法律や政治では直りません。
大切なのは文化であり、私たち一人ひとりの生き方です。
そうしたことへの気配りもなく、ただ相手を責める政治家に未来は語れるはずもありません。
その女性のつめの垢でも煎じて飲ませたいものです。
前原さんが、その女性に電話をかけたということを知って、私の前原嫌いは少し変わりました。
もっとも彼の政治思想には賛成はしがたいのですが。
■悲しい習性(2011年3月7日)
先日、共済研究会のシンポジウムがありました。
以前書いたように、この数年、日本では共済事業に対する法規制が進んでいるのです。
当初は、不特定多数を対象とした共済の名を冠した悪質な保険的な行為を規制しようということだったのですが、いつの間にか共済すべてが保険業法の視点から規制されるということになってしまい、地道に活動していた共済事業が継続できないような状況に追いやられてしまっています。
金融資本主義の流れの中で、本来は別の思いや目的で始まった共済事業と保険事業が同一視され、共済事業が営利保険事業に飲みこまれる方向に動いてきているのです。
日本には、無尽講とか結いなど、古来、支え合う文化と仕組みがありました。
そうした、共に助け合い支え合う文化、共済の文化が壊されようとしているわけです。
しかし多くの人はそうした動きは知らないでしょう。
それに共済事業といっても、共済保険を思い出すだけかもしれません。
そのシンポジウムの話し合いの司会をさせてもらったのですが、会場から自分たちの活動を法規制の適用除外にしてほしいと霞が関に陳情しているがなかなか認められない。
任意団体だと相手にされないので法人化もしてきている。
どうしたら適用除外を受けられるか、というような発言がありました。
質問した人は、とても誠実に最近の共済規制の動きに対して行動を起こしてきている人の一人だと私が前から思っていた人です。
適用除外とはこう言うことです。
新しい保険業法によって、共済事業は保険事業と同じ土俵に立たされ、保険会社になるか、あるいは解散するかが義務づけられたのです。
しかし、多くの自主共済事業者の働きかけによって、その義務の適用除外が認められることになりました。
しかし、その適用除外を認めてもらうのは簡単ではないのです。
その質問に対して、私は司会役の領域を超えて感情的に反応してしまいました。
なぜまじめな価値ある活動をしているのに、適用除外の「お願い」をしなければいけないのか。そんな活動は最初から負けている。もっと自信を持って、自らの主張をしていくべきではないか、と。
いささか感情的に短絡に話したので、私の話は無意味な暴論にしかならなかったでしょう。
しかし、なぜみんな行政や制度のいいなりになるのか、それが私にはわからないのです。
おかしい問題があれば、広く世の中に訴えるべきであって、管轄の役所にお願いにいくなどというのは、被支配者の発想です。
それに自分だけ適用除外になろうなどと考えるのは、私には与しえない発想です。
どうして問題をもっとみんなの前にさらけ出さないのか、
国民主権とは一体何なのか。
共済に限らず、そう思うことがよくあるのです。
普段からそう思っている憤懣が、思わず出てしまったのです。
それにしても、日本の国民はよく飼いならされています。
それを「民度」が高いというのかもしれません。
私には、単に「悲しい習性」としか思えないのですが。
質問者が読んだら、気分を害するかもしれませんが、私は2年前に、その人の話にいたく感動したことがあるのです。
それも合って、あえて余計なことを書かせてもらいました。
■クラインのつぼ(2011年3月8日)
メーリングリストでの内輪もめは少なくありません。
幸いに私がマネージャーになっているメーリングリストでは起こっていませんが、参加しているメーリングリストでは時々発生します。
それぞれが真剣で、誠実であればこそ、発生するのですが、第三者として読んでいると、どんどんエスカレートしているのがわかります。
極めて瑣末な言葉尻が問題になることも少なくありません。
そうなると投稿しようにも投稿できなくなります。
まさに、かつての連合赤軍総括事件を思い出してしまいます。
前にも書きましたが、平和グループのメーリングリストでさえも発生します。
そのため最近は完全なROM(読み手専門)になってしまっていますが、読むのさえ苦痛になることもあります。
仲間内で争うような人たちに、平和を語る資格はありません。
いくら立派なことを言っても、私はそうした人は信じません。
もちろん「意見の違い」を出しあった議論は大事ですが、それは争うこととは全く違います。
そうした内輪もめが発生する原因は明確です。
目的がしっかりと共有されていないからです。
大きな目的さえ共有されていれば、小異を超えて団結できるはずなのです。
そして力は、小異を維持しながら団結することですが、大きな目的、志のない人には小異が一番気になるのでしょう。
しかし、それでは最初から大きな結集はできません。
メーリングリストに限らず、そうしたことは何かをやろうとした時によく起こります。
私の周辺でもよく起こりますし、お恥ずかしいことながら、私自身、時々、小異にこだわって大きな目的や思いを忘れてしまいそうになることもあります。
後で考えると、実に瑣末なことに不快感をもって、つまらない反応をしてしまい、自己嫌悪に陥ることもあります。
なぜ人は、もっと遠くを見られないのでしょうか。
政治の世界も全く同じようなことが起きています。
いまの民主党もそうですし、政界全体もそうです。
大きな目的、ビジョンを語る人がいないのでしょうか。
必ずしもそうはいえません。
鳩山由紀夫さんは「友愛革命」を掲げました。
評判はもう一つでしたが、私は共感し、実に嬉しく感じました。
それが音を立てて崩れていったのは残念でした。
その理想を一緒に育てようとする人が少なかったのでしょう。
民主党にはいませんでしたし、テレビなどで活躍している有識者にもいなかったように思います。
「クラインのつぼ」をご存じでしょうか。
外と内の区別のない、一度入ったら永久に出てこられないつぼです。
私はいろんな活動に関わらせてもらっていますが、多くの活動が、そうした「クラインのつぼ」には入ってしまっているような気がすることが多いです。
それでは運動は広がりません。
小異を超えて大同できる仲間を得ることは簡単ではありませんが、そうした仲間が大事です。
そのためには、もっともっと人と会わなければいけません。
心を開いて話さなければいけません。
しかし昨今は、そうした余裕のない人が多くなりました。
内輪もめを醸成する社会になっているのかもしれません。
これはじっくりと考えるべき命題のような気がします。
■スリーA方式の認知症予防ゲームの体験型フォーラムを開催します(2011年3月8日)
今日は私たちが主催する集まりの案内です。
最近、認知症に関する報道が連日行われています。
超高齢社会に入り、だれにとっても認知症が身近な問題になってきたのでしょう。
それに便乗したわけではないのですが、私が取り組んでいるコムケア活動として、4月7日に公開フォーラムを開催することにしました。
実は2年前から、京都でスリーA方式の認知症予防ゲームの普及に取り組んでいる高林さんに東京でフォーラムを開催することを約束していたのですが、この2年間、別のテーマに関わっていたため、延び延びになっていたのです。
それで1か月ほど前に、急にやろうと決めたのです。
それで友人知人に声をかけ、実行委員会を立ち上げました。
いつものように、むちゃくちゃな進め方ですが、実行委員会はすでに15人ほどになりました。
なかには韓国で活動している人までいます。
実行委員会といっても、まあできる範囲で知恵と汗を出すというのが、私たちのやり方なので、気楽に参加できるのです。
みなさんもよかったら、参加してください。
私に連絡してくれたら登録させてもらいます。
単にフォーラムを開催するだけではありません。
これを契機に、新しいネットワーク組織の立ち上げようと思っているのです。
自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいも、こんなスタイルで立ち上げたのです。
それはともかく、肝心のフォーラムですが、次のような形で開催します。
楽しいフォーラムになると思います。
定員50人なので、先着順ですが、もし参加をご希望であればコムケアセンターまでにメールください。
だれでも歓迎です。
comcare@nifty.com
<転載歓迎>
■スリーA方式認知症予防ゲームの体験フォーラムのご案内
−優しさのシャワーで 認知症の予防と改善を
超高齢社会に入り、だれにとっても認知症が身近な問題になってきましたが、
優しさのシャワーで脳を活性化し、本来その人が持っているさまざまの力を取り戻し、引き出していく『スリーA方式・認知症予防ゲーム』をご存知でしょうか?
実践の場で大きな成果をあげている、このゲームを広く知っていただきたくて、今回首都圏で50名を対象に体験型フォーラムを開催することにしました。
これを契機に首都圏を中心にした、やわらかなネットワークを育てていきたいと思っています。
スリーA方式・認知症予防ゲームの首都圏の活動のスタートです。
ご興味のある方はぜひご参加ください。
日時:2011年4月9日(土)午後1時〜4時半(12時半開場)
会場:東京しごとセンター 5階セミナー室
http://www.shigotozaidan.jp/map.html
参加費無料(資料代:500円)
プログラム(予定)
基調講演:認知症予防への思いとゲームの方法
NPO法人認知症予防ネット理事長 高林実結樹
ゲーム体験者からの体験と感想
脳リハビリのゲームと優しい気持ち・・・
ワークショップ パート1 〜 実際にやってみよう
ゲームと進め方を実際に体験しよう
ワークショップ パート2 〜 意見を交換しよう
体験の感想やアイデアの交換タイム
定員50名(先着順)
申込み先:comcare@nifty.com
氏名・年齢・所属(職業)・どうして知ったか を記入してお申込みください。
受付確認のメールを返信します。
*フォーラム開催を手伝ってくれる実行委員も募集中です。
主催:スリーA方式認知症予防フォーラム実行委員会
後援:コミュニティケア活動支援センター
■貧乏な人には悪い人はいない(2011年3月8日)
先日、共済研究会で公開シンポジウムを開催しました。
パネルディスカッションに反貧困ささえあいネットワーク代表の河添さんにも参加してもらいました。
そこで、河添さんからとてもうれしいお話をお聞きしました。
河添さんたちは2年前に反貧困ささえあいネットワークという、互助的な事業をたちあげました。
低額の掛け金で、困った時にお金が支給されたり、融資が受けられたりする仕組みです。
立ち上げの時に、ある人から融資が焦げ付いて借金がかさむのではないかと心配されたそうです。
しかし、実際にはうまくいっているようです。
河添さんは、こう言いました。
お金に困っているワーキングプア層はみんないい人なので、融資を受けても一生懸命がんばって返してくれます。
お金のない人はみんな善い人なのです。
少し不正確かもしれませんが、実に嬉しい話です。
河添さんも、善い人だから貧しくなるのかもしれないというようなことも話したような気もしますが、これは私の聴き違いかもしれません。
私のこれまでの生活体験でも、これはとても共感できます。
しかし、貧しい人に善い人が多いのはなぜでしょうか。
貧しいと善い人にならないと生きていけないからです。
なぜならば、みんなに支えてもらわないといけないからです。
こう言い換えてもいいでしょう。
善い人はお金がなくても、つまり貧しくても生きていける。
それに、お金と無煙だと悪いことを考えなくてもいいのです。
またいつもながらのめちゃくちゃな論理ですが、実践者の河添さんの実践からの話なので、説得力があります。
善き人生は貧しさと共にある。
そして、幸せもまた貧しさと共にある。
問題は、昨今の日本の社会は、貧しいと生きていけないような状況に向かっていることです。
貧しさと善き生が両立し、高め合う社会を回復したいと思います。
■東京大空襲と戦争の霧(2011年3月10日)
1944年の今日、東京はアメリカ空軍により大空襲を受けました。
当時、日本本土への無差別絨毯爆撃を指揮したのはカーティス・メイル少尉です。
戦後のアメリカでも活躍した人物です。
その部下だったロバート・マクナマラ(元アメリカ国防長官)の告白を映画にした「フォッグ・オブ・ウォー(戦争の霧)」を昨日、観ました。
マクナマラはフォードの社長からJ.F.ケネディに懇願されて、アメリカの国防長官になった人です。
ケネディが暗殺されなかったら、彼の評価もまた大きく変わったでしょうが、ケネディ暗殺後のジョンソン大統領にも仕えたために、彼はベトナム戦争の推進者のイメージができてしまいました。
ベトナム戦争はマクナマラの戦争とさえ言われました。
結局、ジョンソンの戦争拡大戦略に反対して、彼は辞任し、経済界に入ります。
私が企業に入社した頃は、マクナマラの経営戦略論が話題でした。
どうしても戦争とのつながりが見えてしまい、私は反感を持っていました。
そのマクナマラが、自らを語っている映画です。
東京大空襲のことも、淡々と語っています。
しかし、彼はルメイとの違いも強調しています。
ベトナム戦争への彼の考えも、言外に示唆されています。
それを理解するかどうかは難しく、私には2人は同じに見えてしまあいます。
マクナマラは、ルメイについてこう語ります。
彼はつねに国を救おうとしていた。
そのためなら、殺すことをいとわなかった。
繊細な人間には耐えられない考え方だ。
ルメイは、アメリカを救うために、東京を大空襲して、民間人まで大量に殺傷したのです。
マクナマラのベトナムはどうだったか。
そこに違いはありません。
マクナマラが繊細な人間だとは、とても思えません。
彼らのようなアメリカ人には、ベトナム人も日本人も、仲間ではないのです。
そのことを象徴しているのが、米国務省のメア日本部長の発言です。
「沖縄県民はゆすりの名人」というメアの発言をマクナマラは否定するでしょう。
しかし、私には、彼もまたそう考えて行動してきたとしか思えません。
日本もまた、アメリカの国のためにしか存在していないのです。
軍事力でだめだったことに気づき、経済や文化で占領しようとしているわけです。
彼はつねに国を救おうとしていた。
そのためなら、殺すことをいとわなかった。
ルメイの言葉は、マクナマラの言葉でもあり、アメリカ大統領の言葉なのです。
今の民主党政権は、小泉元首相と同じように、その走狗になっているように思えてなりません。
しかし、その走狗だと思っていた前原さんが追い落とされたのはなぜでしょうか。
単細胞の私は、簡単に構造化してしまう癖があるのですが、
政治の世界は、私にはまだまだわからないことが多いようです。
■死者の国(2011年3月11日)
挽歌に書いたことを時評にも書きます。
だぶっているのですが、挽歌を読む人は少ないでしょうから、時評にも書いておきたいと思ったからです。
岩波新書の「人が人を裁くということ」という、小坂井敏晶さんの本を読みました。
とても考えさせる本です。
裁判に関する本かと思ったのですが、そうではなく、「人を裁くこと」の意味が、とてもていねいに書かれています。
著者の思いが伝わってきて、何回か興奮したほどです。
そしてそれは、本論を読み終えて、「あとがき」を読んでいる時に起こりました。
突然、涙が出てきたのです。
理由はわかりません。
しかし、涙が出てきた文章は次の文章です。
小坂井さんはフランスに住んでいるそうですが、フランスで数年前に起こった事件を紹介しています。
引用させてもらいます。
強制退去処分を受けた不法滞在アフリカ人が、パリ・ドゴール空港に移送され、旅客機の座席に縛り付けられた。そのとき、来客十数人が警察のやり方に抗議して、シートベルト着用を拒否した。飛行機は離陸できない。結局、抗議者は全員逮捕され、警察署に連行される。その中に、パリ第八大学で勉強するマリ出身の女子学生がいた。それを知った学長は、彼女の救援活動を組織するよう全教員に要請するとともに、学生を警察署に引き取りに行った。
この文章に、なぜか涙が出てしまったのです。
なぜ涙が出るのでしょうか。
著者の小坂井さんは日本なら逆に、学生を叱責し、警察に謝罪する学長の方が多いだろう、と書いています。
おまえは、シートベルトを拒否できるか、そう問われているような気がします。
誰かが始めたら、私も賛同して加わる気がしますが、自らが始める勇気はないでしょう。
「始める勇気」、それがなければ生きているとは言えないのではないか。
最近、よく思うのです。
今の日本は、死者の国ではないかと。
もしそうであれば、私自身も死者ということです。
たいへん不遜で非礼な発言ですが、生きている人を感ずることが少ないのです。
みんな、せっかくもらった「生」を無駄にしているのではないか。
もちろん私も、です。
春は悩ましい季節でもあるのです。
生きることの意味を問われる時代なのかもしれません。
■大地震報道のニュース映像を見ていて感じたこと(2011年3月11日)
大きく長い地震でした。
今日発生した東北地方太平洋沖地震はM8.5.発生後、8時間経過した今も、かなり大きな余震を感じます。
幸いに在宅していたため、テレビの報道をずっと見ていました。
今も見ています。
津波のすごさを改めて実感しました。
遠景で撮影したテレビ画面を見ていて、何回か、早く退避したらいいのにと思うような情景がありました。
空からの津波の映像を見ていると、津波が向かう先の道路に、その津波のほうに向かって走ってくる自動車があったり、水位が高まっている近くでそれを見ている人がいたり、画面に向かって声をかけてやりたいほどでした。
そういう情景を見ながら、もしかしたら、これは他人事ではなく、私たちの姿ではないかとも思いました。
昨日、ナラティブサロンというのをやりました。
いろいろな問題が提起されましたが、みんなそのことに気づいています。
にもかかわらず、その流れに抗しきれずにいます。
生活があるからです。
そのやりとりを思い出しました。
海岸沿いに立っていた人はどうしたでしょうか。
津波の押し寄せる方向に向かっていた自動車に乗っていた人はどうでしたでしょうか。
津波の近くの道路のトラックの荷物台に乗って、津波を見ていた人はどうなったでしょうか。
みんなもしかしたら自分は大丈夫だと思っていたのでしょうか。
自動車を守るために自動車から降りて逃げることをしなかったのでしょうか。
津波を見物していたのでしょうか。
不謹慎ですが、その姿は、私たちの生き方を象徴しているようで、まるで自分自身を見ているような気がしました。
死者は500人に達しそうです。
まだ余震が続いています。
■地震と支え合い(2011年3月12日)
東北地方太平洋沖地震は、その被害の大きさがわかるにつれて、いかに大きな地震だったかがわかってきました。
今もなお余震を感じます。
昨夜はずっとテレビを見ていました。
この天災によって、改めて見えてきたこともあります。
テレビによれば、すでに50の国からの支援申込みがあったそうです。
韓国からはまもなく軍隊が到着し、支援作業に当たってくれるとのことです。
支え合う文化は、やはり人類の、あるいは生命が持っているものなのだと確信しました。
それにしても、こういう場にはサッと支え合うのに、なぜ戦争が起こるのでしょうか。
よく言われるように、もし宇宙人が地球を攻めてきたら、国家間の戦争はなくなるかもしれません、
同じように、国民の不満を抑えるために外部に敵をつくるのは国家権力の常套手段ともいわれます。
そういう意味では、自然環境問題は人類共通の「敵」になるのかもしれませんが、問題設定が「政治的」なために、それは支え合いにはつながりません。
それに関連して、もう一つ見えてきたのは、原発の危険性です。
福島原発周辺からの避難指示がでましたが、その意味はしっかりと考えなければいけません。
千葉の市原の石油タンクの火事もそうですが、どこかで私たちは生活空間の設計思想を間違っているのです。
都市計画家や建築家には、そうしたことをもっと考えて欲しい気がします。
最近の東京の都市空間は、明らかに非人間的になっています。
江戸時代の大工さんたちに比べたら、最近の著名な建築家のレベルは大幅に低下しています、
彼らに何が欠けているのか。
それは「つながり」と「支え合い」の発想です。
自然との、あるいは人間同士の、です。
その一方で、50の国が支え合いに動き出している。
この事実に、大きな希望があります。
私のところにも、インドネシアや韓国などから、大丈夫かというメールが届きました。
いくつかのメーリングリストでも、お互いに気づかい合うメールが流れています。
ちなみに、テレビで大きな被害をずっと見ていたためか、私は無事を祝い合う気持ちが出てこずに、そうしたメールを出せずにいます。
とても複雑な気持ちです。
しかし、支え合う文化は、間違いなく私たち人類の文化です。
そこには、自然との支え合いも含まれなければいけません。
いろいろなことに気づかせてもらえました。
■地震よりも原発(2011年3月12日)
地震の被害は甚大ですが、問題は確実に原発からの放射能漏出に移ったように思います。
夕方行われた枝野官房長官の記者会見は、あまりにお粗末というか、欺瞞的です。
完全に隠蔽的な記者会見だったと思います。
そのくせ、ネットで不安をあおるような情報を流すことをやめるような発言もありました。
慎重に話していましたが、そのこと自体に問題の本質があるように思います。
今回は地震によって起こった予想外の事故ですが、リスクマネジメントの視点からはやはり問題はあります。
最初からおそらくマネジメントが作動したでしょうが、時間的にかなりの余裕があったはずです。
しかも問題が外部に公表されてからも、後手後手での対応になっていたのが明らかです、
事態は明らかに危険な状況に向かっているように思います。
記者会見で、放射能のレベルさえ回答できないとは信じがたい話です。
リスクマネジメントの根本は、フランクネスです。
そして信頼関係の構築です。
不安をあおっているのは、ネットに投稿する人たちではなく、明らかに政府です。
とろろ昆布をたくさん食べるのがいいというメールも流れてきました。
もはや自衛しかないのかもしれません。
それにしても、テレビを見ていて、この国の政府の実態が見えてきた気もします。
消費税増税などありえませんね。
■地震と原発その2(2011年3月13日)
地震と原発に関する昨日の記事は少し感情的に反応し過ぎてしまいました。
ルール違反ですが、2行削除しました。
しかし、今も枝野さんの昨日の記者会見はひどいものだったとおもっています。
今朝の朝5時半からの経済産業省の記者会見をテレビで見ました。
誠実に対応する姿勢を感じましたが、話の内容は相変わらず私にはわかりにくいものでした。
もっと端的に話したほうがいいように思います。
フランクネスというのは、嘘をつかないと言うことではなく、問題を共有するということでもあるのです。
放射能被爆者の存在も明らかになりました。
それは炉心溶融とは関係ない話でしょうが、大切なのは全体像の説明です。
そこに不満が残ります。
私が不安を感ずるのは、全体が見えない場合です。
危機の存在は、生きていれば常にあります。
ですからそれが問題なのではなく、危機の存在が見えないことが問題なのです。
枝野さんが昨日話していたチェーンメールも、事実をきちんと伝えないが故に発生します。
事実を発表した後は、逆にネットでそのメールの否定が広がっています。
虚偽や不安に対する最も効果的な対応策は、フランクネス、事実の開示です。
そしてそれがリスクマネジメントの基本です。
なぜそれができないかと言えば、事実をしっかりと把握し管理していないからです。
おそらく今回の事件も、事実を示すデータはかなりあるはずですが、それが公開されていない、あるいは枝野さんのところにまで届いていないのかもしれません。
あまりに伝聞情報が多すぎます。
これほどの事件であれば、責任者は現場に飛んで、事実を把握するべきです。
それが行われていないところに、今回の政府の対応の限界を感じます。
それは原発の問題だけではありません。
現場から遊離した政府と政策。
そうでなければいいのですが。
反原発論者はこの事件を活用して、声を高めるでしょう。
そそれを否定する人もいるでしょうし、私もどちらかといえば賛成はできません。
しかし、そうした動きが起こる理由もあるのです。
これまでその意見があまりにも抑えられているからです。
今回の事件で、そのことも認識しておかねばいけません。
原子力資料情報室の記者会見はマスコミにはあまり流れませんが、なぜでしょうか。
USTREAMで流れていますので、ぜひご覧ください。
問題の本質の一部を垣間見えると思います。
原子力資料情報室は高木仁三郎さんが始めた信頼できる組織です。
■新しい出発にしなければいけないと痛感しています(2011年3月16日)
ネットにもキャパシティがあるので、不要不急のインターネットの利用は避けていたのですが、あまりにもテレビの情報には信頼性がありません。
それでまたネットを開いてみました
実にさまざまな情報が流れていますが、あまりにもテレビ情報とは違います。
どちらが正しいのか、判断できませんが、一つ言えることは、こういう「非常事態」にも関わらずに、専門家が集まって知恵を出し合うようにはなっていないということです。
テレビにもたくさんの専門家的な立場の人が出演していますが、テレビに出る前にやることがあるのではないかとも思います。
しかし、おそらく原発に批判的な専門家は、実際の対策検討に呼ばれもしないし、テレビにも出られないのでしょう。
しかし、批判的な目で考えている人こそが、現実を見えることもあるでしょう。
それにしてもテレビでの記者会見はあまりにも現場との距離があります。
伝聞情報ばかりで、データーもかなり時間のたったものしか発表されません。
ある、社会的にもかなりの活動をしている人が、
「幸いにして生き延びられたら、今度こそ原発をなくしましょう!」
とあるメーリングリストに流していました。
恐ろしいほどに哀しいメールですが、真実味を感じます。
しかし、今この時間にさえ、福島の原発の現場では、生命の危険を冒しながら、爆発防止に取り組んでいる人がいます。
その人たちは、決して好き好んで、原発の現場に関わっているわけではありません。
推進を決めたのは、決して彼らではないのです。
そう思うとやりきれない気がします。
日本政府の反応の遅さと対象的に、海外各国の反応は迅速です。
政府がまだ機能しているのでしょうか。
日本の政府は、国民の生活を守る姿勢が欠けているのかもしれません。
枝野官房長官は誠実に記者会見に当たっています。
その誠実さには頭が下がります。
しかし、大切なのは、誠実さではなく、あるいはすべてを引き受ける責任感ではなく、多くの人の生活を守ることです。
南相馬市の市長の怒りがよくわかります。
しかし、それはそれとして、私に何ができるのか。
この事件を、新しい出発にしなければいけないと痛感していますが、お恥ずかしいことに、まだ何をしていいかわかりません。
いまはただ祈るだけですが、「幸いにして生き延びられたら」、私ももう一歩生き方を進めようと思っています。
■「愚かな消費者」の反省(2011年3月16日)
新潟の知人から電話がありました。
千葉ではお米が無くなっているらしいので送ります、というのです。
お米が無くなった? そういえば、スーパーから食材が無くなったと娘が言っていたなと思い出しましたが、そんなことはありませんよ、と応えてしまいました。
娘が近くのイトーヨーカ堂に行くと言うので、実状はどうなのか見てみようと、私も同行しました。
驚きました。
開店間際に着いたのですが、もうお客様がずらりと並んでいるのです。
しかも進まない。入店制限をしていたのです。
10分ほど並んでいたら、お店の人が、お米は売り切れましたと大きな声で言うのです。
なんと新潟の知人が電話してくれた通り、お米がなくなる状況だったのです。
人口が急増したわけでもないの、なんという不思議でしょう。
こうして消費者は自らの首をしめているのでしょう。
店内に入ったら食材が予想以上にありましたが、たしかに空のタナも何か所かありました。
わが家は、普段と同じように買物をしましたが、不思議です。
ちなみに近くのカスミでは、昨日は恒例の全商品5%割引デイだったのですが、なぜか割引はなかったそうです。
こうした時のお店の対応で、そのお店の本質が見えてきますが、私たち消費者の本質も見えてきます。
私も反省しなければいけません。
砂糖が安く、おひとり1袋だったのですがあ、娘と行ったので2つも買ってしまいました。
今日は自宅で珈琲を4杯飲みましたが、そのおかげでとても甘い珈琲になりました。
反省しなければいけません。
私も完全に「愚かな消費者」なのです。
困ったものです。
■Never say never(2011年3月17日)
いま電話で知人と福島原発に関する話をしていて、思い出した言葉があります。
Never say never.
つい最近、知った言葉です。
先日、このブログに書いた、アメリカ元国防長官マクナマラの告白を描いた映画「フォッグ・オブ・ウォー」に出てくる、マクナマラの教訓の一つです。
今回の原発事故に関する政府および東京電力の記者会見でもそうですが、現在の放射線量では健康には全く影響がないという表現が時々なされます。
いつも大きな違和感を持って聞いていますが、「全くない」という言い方には事実を語るという姿勢はありません。
パニックを起こさないためにという理由があるのかもしれませんが、逆効果です。
ひと時代前の愚民政策の発想です。
ここで不安をあおろうとか、誠実に努力している関係者を揶揄しようというつもりはありませんが、マクナマラの教訓には耳を貸す必要があると思います。
人の世には、あらゆる可能性があります。
その可能性の世界を、どれだけ視野に置くことができるかが、リスクマネジメントのポイントです。
絶対とか、全くとか、決して、という言葉は、視野を狭めます。
問題の渦中にいると、それが見えなくなります。
その可能性の世界のずれが、共通理解の形成を妨げることが、今回の動きの中で示されています。
しかし、それはなにも今回の原発事故問題に限ったことではないでしょう。
Never say never.
私の生活信条に加えることにしました。
この言葉は、正反対のベクトルをもつ言葉ですが、教えられることは多いように思います。
■我孫子も被災地でした(2011年3月18日)
計画停電という、新しい仕組みが始まり、東電の管轄地域では地域に分かれて、3時間程度の停電が繰り返されています。
なぜかわが家はその対象の時間になっても停電されません。
不思議に思っていたら、我孫子も「被災地」になっているのだそうです。
たしかに我孫子のある地域はかなりの被害がありました。
しかし、わが家の周辺はさほどの被害はありません。
外壁が倒れたりしているところはありますが、わずかです。
行政からは節電の屋外放送で節電の要請があります。
しかし、その一方で、行政が以前設置した図書館近くの大型屋外テレビ(たぶん誰も見ません)が四六時中意味のない画面を放映し続けていました。
娘が市役所に電話しましたので、ようやく消されたと思います。
近くの柏や松戸は被災者の受け入れをはじめました。
友人たちもがんばっています。
我孫子はそういう計画はないのかと市役所に電話しました。
担当者の答は、我孫子は被災地なのでそう言うことは考えていませんし、考える予定もないと言われてしまいました。
どこかおかしいですが、残念ながらこれもまた我孫子の実態です。
行政は首長によって、まったく違ってくることを改めて知りました。
そして、その首長を決めるのは住民ですから、結局は自業自得です。
せっかくの計画停電に参加できずに、罪悪感が残ります。
せめて節電には努めようと思います。
テレビもパソコンも最小限にしています。
寒いので早く寝てしまいます。
生活のリズムが完全におかしくなってきています。
■基準とは何なのか(2011年3月19日)
枝野官房長官の記者会見を見ていて、枝野さんでないとしたら、もっと国民の不安は高まるだろうなという思いがします。
枝野さんの誠実さは、尊敬に値すると思います。
が、それはそれとして、気になることがあります。
こういう時期に、そんな細かなことをとひんしゅくを買いそうですが、やはり気になります。
今日、一部の牛乳とほうれん草から食品衛生法上の暫定規制値を超える放射性ヨウ素などが検出されたと発表されました。
枝野さんは、「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではないということを十分ご理解いただき、冷静な対応をお願いしたい」と呼びかけました。
その趣旨はよくわかりますし、風評被害が起こることは避けねばいけません。
しかし、「今回の検出と同量の放射線量のほうれん草と牛乳を1年間とった場合の被ばく量に関し、牛乳がCTスキャン1回分、ほうれん草が5分の1程度」と説明し、健康に影響を及ぼすレベルではないという話を聞くと、もしそうであるならば、なぜそんな低い基準値にしているのかという疑問が起きます。
自分で、異常値だと言い、でも大丈夫だと言う「おかしさ」に気づかない所に、不信かなんが生まれ、風評が生まれるのです。
放水作業などのために被爆上限値を高めたという報道もあります。
「基準値」とは一体何なのか。
私たちは何を「基準」にしたらいいのか。
こうしたことを何回も体験させられると、わが国の行政で使われている基準への不信感が高まります。
そういえば、先年の建築物の耐震基準の時にも不明朗感が残りました。
「基準」とは何かの本質が見えてきます。
こんな噂も流れています。
今回の地震のマグニチュード9.0というのは、気象庁がそもそも「マグニチュードのものさし」を勝手に変えてしまったからだ、という噂です。
基準を変えるのであれば、問題が起こっていない時に変えるべきです。
基準に振り回されることなく、私たちは本質を見なければいけません。
今回の事件で、そろそろそうしたことに気づいてもいいように思います。
■こんな時だからこそ1:浜岡原発の即時停止(2011年3月20日)
ますます深刻さを増している地震・津波の被災と原発事故に、すべての目が向けられているような状況に、いささかのおかしさを感じています。
テレビや新聞からは、ほとんどそれ以外のニュースはなくなってしまっていました。
最近少しずつ出始めていますが、テレビからは一般のコマーシャルも無くなりました。
私も一時期、いまは被災対策に集中すべきだろうと思っていましたが、それでは何も見えなくなってしまうのではないかという気がしてきました。
不謹慎と怒られそうですが。
なかなかそこから抜けだれずにいますが(見ないでしようと思ってもやはりテレビの現場報告を見てしまいます)、こういう時期だからこそ考えなければいけない問題もあると思います。
たとえば、中部電力の浜岡原発です。
20数年前の耐震設計審査指針のもとに作られた古い原発であり、予想されている東海大地震がきたらとても危険だということで、運転差し押さえ訴訟が起こっていましたが、判決では安全だということになってしまったのです。
これについては以前書きました。
今回の福島原発事故を契機に、またその浜岡原発の運転停止の署名運動が広がっています。
そうした動きに対して、こんな時期にと批判する人もいますが、こんな時であればこそ、そうした運動が必要なのだとも言えます。
私は、いまだから大切なのだと思っています。
この問題は翻訳家の池田香代子さんが熱心に取り組んでいます。
池田さんのブログを読んでください。
池田さんのブログには、原発に関する情報もたくさん掲載されています。
こうした時期であればこそ、浜岡原発も、いえ、原発そのものへの関心を深めなければいけない、と思います。
目先も大切ですが、未来も大切です。
■こんな時だからこそ2:広瀬隆さんと平井憲夫さん(2011年3月20日)
前の記事の池田さんのブログでも紹介されていますが、3月17日の朝日ニュースターで広瀬隆さんへのインタビューが放映されてそうです。
わが家のテレビでは見られないので、残念に思っていましたが、テレビを見た方が、その全文をノーニュークス・アジアフォーラムのホームページに掲載してくれました。
とてもわかりやすく、説得力があります。
広瀬さんのこれまでの原発関係の著作を読んできた者としては、すんなりと入ってきますが、みなさんはどうでしょうか。
また、もう30年近く前に書かれた、原発の現場で働いていた平井憲夫さんの手記「原発がどんなものか知ってほしい」が最近また話題になっています。
この手記に関しては私のホームページでも以前紹介したことがあり、その時は数名の原発関係にエンジニアの人にも読んでもらい感想をお聞きしたのですが、残念ながらどなたからも感想を聞かせてもらえませんでした。
まだお読みでない方がいたら、ぜひお読みください。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html#page1
■「原発を選んだ時に始まっていた」(2011年3月22日)
野菜や牛乳の放射能汚染が広がっています。
風評被害が懸念されていますが、現実にはすでに発生しているようです。
複雑な気持ちです。
むすめに茨城県のほうれん草を食べたいと頼みましたが、もう売っていないようです。
こういうことの処置は早いです。
テレビで、牛乳を廃棄した酪農家が、「酪農農家は何も悪いことはしていないのに」と話していました。
それを聞きながら、大きな違和感を持ちました。
本当にそうでしょうか。
確かに、丹精込めてきた原乳をこんな理由で廃棄せざるを得ないことはやりきれない気持ちでしょう。
しかし、事情は今回地震や津波で被災した人たちも、同じことです。
みんな「何も悪いことはしていないのに」という気持ちでしょう。
そうではない、と素直に反応したのが、石原都知事の「天罰論」です。
この発言は大きな問題になり、さすがの石原知事も謝罪しました。
私も、この発言をテレビで聞いた時には問題になるなと思いましたが、その半面で共感もできました。
私も天罰のような気がしていたのです。
もちろんそれは被災者に対するものではなく、私自身も含めて、日本列島に住むすべての人への警告という意味です。
今日、テレビを見ていたら、農家の人らしい人が、まずは私たちが原発を選んだことに責任があるというような発言をしていました。
感動しました。
その人は、その次に東電の責任をあげていました。
その言葉を聞いて、思いきって、この記事を書くことにしました。
昔、このブログにも書いた「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」という言葉を思い出したのです。
もしかしたら、今回の事件は、「原発を選んだ時に始まっていた」のかもしれません。
その責任は、もちろん私も背負わなければいけません。
これを契機に、原発への認識が深まることを念じています。
■電気に依存しすぎる生き方を見直しましょう(2011年3月23日)
久しぶりに都心に出かけました。
いつもと違ったのは、電車の駅のエスカレーターが止まっていたのと照明が半分くらい消えていたことです。
お店も照明をいつもよりおとしていました。
閉店しているお店も少なくありませんでした。
いつもと違うので、ちょっと違和感はありましたが、すぐになれました。
照明に関しては、むしろこれで十分ではないかという気もしました。
友人は、夜が戻ってきたとむしろ歓迎していました。
いままでの都心の夜は明るすぎたと言うのです。
彼の意見は、いままでの電気消費が多すぎたのではないかというのです。
同感です。
わが家は節電のため寒いので、早くお風呂に入って就寝するようになりました。
おかげで4時頃、目が覚めるので、生活のリズムが狂ってしまったのですが、そのうち慣れるでしょう。
もしみんなが、本気で節電すれば、そして伝機に依存した生活を少しずつ見直せば、電力消費量はかなり減ると思います。
以前書きましたが、電気をふんだんに使えるようになってから、私たちの生き方はおかしくなりだしたのです。
そして、結局はみんなが原発を望んだのです。
少なくとも原発が増えることに異議申し立てしたのはほんの僅かの人だけです。
私も反原発論者ですが、原発阻止のためにデモに参加したことさえありません。
ですから、いまの原発事故に対して、怒りを東電にぶつける資格はないでしょう。
今日も東電本社にデモをするという呼びかけが回ってきましたが、いまさら遅いのです。
浜岡原発の即時停止には賛成できますが、東電を責める気にはなれません。
これまでその恩恵を受けながら(原発の立地地域は大きな金銭的メリットを受けていたはずです)、なにをいまさらと福島県の知事の発言を聞いていて感じます。
悔い改めるべきは、私たち一人ひとりすべてであって、東電の社員だけではありません。
昨日も書きましたが、原発を受け入れた時に、今日のこの事態の発生は決まっていたのです。
その認識から考えなければいけません。
問題の設定を間違えると事態は決してよくはなりません。
■右往左往(2011年3月24日)
福島原発事故はなかなか先が見えません。
その上、野菜や水道水の汚染が明らかになり、その情報でミニパニックが起きそうな状況です。
あらゆる店頭から水がなくなっています。
水だけではなく、私が今日立ち寄ったお店にはジュース類もありませんでした。
1週間前にはガソリンスタンドに自動車が並んでいましたが、今日はガラガラでした。
なぜこうもみんな学ばないのでしょうか。
野菜は最初ほうれん草だけでしたが、常識的に考えて、ほうれん草だけが放射線と親和性があるわけではありませんから、すべての野菜や水道水に影響が出てくるのは時間の問題です。
騒ぐことはありません。
一昨日も書きましたが、すべては原発を許した時に始まっているのです。
いまさら慌てるのは、私には呆れるとしか言えません。
みっともないのです。
なかには海外に脱出するという人もいます。
がっかりしました。
もちろんその人を非難するつもりはありません。
人には人の生き方がありますから。
ただ、こういう人とは友だちであり続けたくはありません。
しかし、もう少しどっしりと生きて欲しいものです。
風評に振り回されて生きることほど、無意味な人生はありません。
私は原子力発電についてはその存在そのものに反対立場ですが、放射能の害などに関しては知識はありません。
ですから発表されている数値には全く興味がありませんし、それが許容水準かどうかもわかりません。
専門家がいろいろと解説していますが、だれもどうせわかってはいないはずですから、信頼はまったくしません。
水俣病の歴史を思い出せばわかりますが、最も無知だったのは専門の研究者です。
彼らは無知の上に、無恥でした。
安全だ、安全だと、なぜかテレビキャスターは説明してくれますが、そう言う人たちが福島の野菜を食べているとは思いません。
彼らはお金のためにただシナリオを読んでいるだけでしょう。
わが家は今日は茨城の野菜を夕食に調理してもらいましたが、あの人たちは食べていないでしょう。
家族にも同じことを言っているとは思いにくいです。
一方で、放射能が危険だ、政府は真実を述べていない、と言うような情報もたくさんまわってきます。
東電本社にデモをしようなどというのもまわってきます。
こう言う人たちも私には信頼できません。
というか、嫌悪感さえ持ちます。
私が信頼するのは現場で汗を書いている人です。
原発の現場で、今日、被爆したひとにも感謝しています。
彼らのおかげで、私たちは安楽に暮らせているのですから。
彼らのためにも、私たちはライフスタイルを変えなければいけません。
風評に影響を受けないように、もっとしっかり生きたいものです。
■秋葉原事件判決と買占めする消費者(2011年3月25日)
昨日、24時間営業の近くの西友に行ってみました。
予想以上に商品のタナが空いているのに驚きました。
これではおそらく採算はとれないでしょう。
飲み物関係がほとんど空だったのにも驚きました。
他のところもそうかと思い、今日は近くのカスミに行ってみました。
いつもよりも混んでいましたが、お米は山積みされていました。
1週間前が嘘のようです。
野菜もありましたが、やはり飲みものは少なく、ヨーグルト一人1個とありましたが、開店後1時間程度しかたっていなかったのに空でした。
ヨーグルトといえば、被災地で奇跡の救出された高校生を思い出します。
昨日も書きましたが、まさに右往左往社会が感じられます。
こうした動きは「複雑性の科学」でかなり構造が明確になってきていますが、個々人の思惑やちょっとした行動が、相互に反応しているうちに、突如、ベクトルが同調してしまい、大きな流れになってしまうのです。
そうなると、その流れに乗らないと、存在が危うくなることもあるのです。
それぞれは、そんなことをしたくないと考えているのにそうなってしまう。
そして逆にその流れを加速させる原因になるわけです。
そのエネルギーは、個人にはコントロールできないのです。
昨日、秋葉原無差別殺人の判決がありました。
彼もまた、そうした大きな流れの中で、自らを律しきれなくなったとも考えられます。
何が彼にあれほどの行動を引き起こさせたのか。
最近の消費者の行動を見ていて、そんなことを考えてしまいました。
今回、お米やガソリンや、水の買占めに走った人と加藤被告の違いは、極めて薄いものでしかないと思います。
いえ、今回は買占めには知らなかった私だって、そう離れているわけではありません。
加藤被告の死刑には同感できません。
彼の人生を壊したのは、一体何なのか。
私たちはもっと考えなければいけないように思います。
■過剰と不足(2011年3月25日)
民放テレビでACジャパンの公共広告が繰り返し放送されることが問題になりました。
とてもいいメッセージなのですが、この時期にはどうもそぐわない気がします。
これまでのACジャパンの公共広告活動に共感を持っていた一人として、とても残念です。
あの時間に流すべきは、よけいな説教ではなく、自然の風景と心和む音楽だったと思います。
ACジャパンにはコミュニケーションのことをしっかり考えている人がいなかったのでしょうか。
とても残念です。
過剰と不足は、いずれも「適正量」ではないという点で同じだということを忘れていたような気がします。
もう一つ過剰であり不足だと思うのは、原発事故の情報です。
人が知りたい情報は、さほど多くはありません。
たとえば、被爆への不安に関して言えば、数値などどうでもいいのであって、危険かどうかです。
マイクロかミニか、あるいはシーベルトかベクレルかなど、どうでもいいのです。
そんな説明は聞きたくもありません。
そういう専門的な数値があまりにも過剰に飛び交っていますが、それは同時に肝心な情報の不足を意味しています。
枝野官房長官や保安院や東電の記者会見も過剰にして不足です。
現場からの情報をどこかで流しておけばいいでしょう。
会見しても、話すほうも聞くほうの記者も、あまりに知識も情報も誠意もないので、あまり意味があるとは思えません。
記者のレベルもあまりにも低すぎます。
この数日で、過剰と不足とは同じことなのだと改めて実感しています。
さて、自分の暮らしの中から過剰と不足をなくしていこうと思います。
まずは何をなくすべきか。
このブログかもしれません。
しかしまあ、このブログは私の精神安定機能を果たしてくれているので、残します。
過剰と不足の拙文を読んでくださる方もおりますし。
いつもありがとうございます。
■報道者の目(2011年3月26日)
国内報道の姿勢に辟易して、海外のニュースはどういう報道をしているのかを見ようとBSにチャンネルを合わせた途端にイギリスのBBCのニュースが入ってきました。
実に的確に問題を捉えているのに驚きました。
日本の報道とは全く違います。
日本の最近の報道は、森を見ずに木ばかり見ているために、全体像が見えてきません。
しかも、報道対象のもつ意味の広がりに無関心ですし、報道の目的も短視眼です。
BBCの報道で感心したことの一つは、浜岡原発を取り上げていたことです。
日本のテレビ局は意図的に報道を避けているとしか思えませんが、報道者の頭はスポンサーを向き、目は目に付きやすい直接現場にしか向いていません。
最近のジャーナリストの知性はサルのレベルでしかありません。
目先のバナナにしか関心がないのです。
もう一つ興味を持ったのは、
日本人は東電の責任を問わないし、東電もそうした責任感を持っていないと報道していたことです。
昨日、私のオフィスでやったサロンでも、東電本者の前には日本の報道関係は誰も取材していない、しているのはロイターだけだと話していましたが、BBCの人にはそれが異様に感ずるようです。
東電本社前でデモも行われていますが、集まるのはほんの数名ですし、ネットで流れてはきますが、テレビや新聞では報道されません。
まあこれは今回に始まったことではありません。
いま日本で起こっていることは、極めてシンプルなことです。
私たちの選択の間違いが問題を起こしただけですから、それを正せばいいだけの話です。
難しいことではありません。
これからはむしろ海外の報道も見ようと思います。
マスコミの情報もネットで流れる情報も、重要ではありますが、何かが欠けているとずっと思っていたことが、やっと解決しました。
みなさんも、ぜひ海外ニュースを時々ご覧ください。
私たちが陥っている間違いに気づかされます。
■こんな時だからこそ3:テレビCMとサンデルの正義論(2011年3月26日)
ACジャパンの広告に、少なからずの違和感を持っていましたが、その違和感はますます大きくなってきています。
まるで、9.11事件後のアメリカの追体験をしているようです。
ショックソクトリンさえ思い出します。
どうもそう思っているのは私だけでなく、あるメーリングリストでもショックドクトリンへの言及が始まっています。
これに関しては、また日を改めるとして、今日の話題はサンデルの正義論です。
違和感は繰り返し聞かされる次のようなフレーズです。
「日本の強さは団結力」
「日本はひとつのチームなのです」
「日本の力を信じている」
個々のメッセージはさほど異論はないのですが、毎日聞かされ、しかもその背後で、
「日本!」「日本!」
という掛け声まであると、いやな予感を持ってしまいます。
友人の川本兼さんが、先月『日本生まれの「正義論」』という本を書きました。
地震騒ぎで、ホームページではまだ紹介していませんが、はじめに、で川本さんはこう書いています。
「サンデル氏の正義論が現在の日本の若者にとってあまりふさわしくないと私が考えるのは、氏がコミュニタリアンだからです。たとえ共通善の追究の必要を説いているとはいえ、サンデル氏はやはりコミュニタリアンです。ですから、氏は家族や自分の生まれ育った地域などに対する責務、すなわち連帯(あるいは成員)の責務を強調します。ところが、戦争や平和の問題に関しては、その責務は愛国心と結びつき、そして、その連帯の責務は同意によらない責務なのです。となると、その愛国心と結びついた連帯の責務は徴兵制とも結びつくことに成ります」
「私は、サンデル氏の正義論を通じてわが国における若者が愛国心を強調するようになり、さらに彼らは、いつかはわが国における徴兵制復活までをも主張するようになるかもしれないと感じたのです」
サンデル氏の正義論は、昨年「白熱教室」で話題になった、ハーバード大学の政治哲学者です。
私もテレビはすべて見ましたし、本も読みました。
私もどちらかといえばコミュニタリアンなので、共感するところは多いのですが、川本さんと同じ危惧を感じていました。
特にサンデル教授が東大で行った白熱教室の模様をテレビで見た時には、あまりのステレオタイプな議論に驚きました。
みんな予習していたような気がします。
しかし、なんと見事に符牒が合うのでしょうか。
サンデルの「正義論」ブームに続いての、「日本はひとつ」ブーム。
こんな時期に、こんなことを言うと不謹慎のそしりを受けかねませんが、
こんな時だからこそ、この違和感を多くの人に伝えたいです。
■原子力安全保安院の記者会見(2011年3月28日)
昨日、ある集まりで、
原発事故の話から電気への依存し過ぎの話となり、結局は私たちの生き方を問いなおす必要がある。
表現は悪かったが、石原都知事のいう「天罰」論(地震や津波のことではありませんが)も間違ってはいない。
というような話になりました。
私もうっかりその意見に賛成してしまいました。
そうしたら参加者のひとりが、表現はその人の価値観に関わっている、とかなり怒りを持って反論しました。
まったくその通りです。
安直に話し合いの流れに乗って、石原天罰論にも正しさがあると発言してしまった自分を反省しました。
表現は、たしかに価値観の現れであり、手段論ではありません。
最近、原発事故の報告で、原子力安全保安院の人が定期的に記者会見します。
むすめが、あの人たちはこの事故をどう思っているのか、まるで感情が感じられない、と言いました。
私もずっとそれが気になっていました。
どこか遠い世界の話を、淡々と述べているだけです。
まさにそこにこそ、その人の価値観が象徴されているわけです。
こんな無機質な記者会見に、誰が心を動かすでしょうか。
心を動かさなければ、情報は伝わりません。
伝わるのはデータだけです。
それにしても多くの人の生命や日本の未来に関わる重大な記者会見のはずですが、なぜみんなあんなに事務的に行えるのでしょうか。
もちろん聞いている記者の人たちもです。
福島原発事故は、もしかしたら火星で起こっている事件なのでしょうか。
本当に地球の、日本の、私の住んでいる近くの福島で起こっている事件なのでしょうか。
いやもしかしたら、これはドラマなかもしれませんね。
そう言えば、昔、オーソンウェルズの「火星人襲撃」騒動がありました。
今回の事故も、もしかしたら大仕掛けのドッキリカメラかもしれません。
あの記者会見を見ていると、そんな気がしてなりません。
第一、首相は出てきませんし。
そう言えば首相は被災地にも行っていないようです。
やはりこれはドラマかもしれませんね。
筋立てを知っているのはだれなのでしょうか。
■原発事故の責任の所在(2011年3月29日)
福島原発事故のおかげというと、語弊があるでしょうが、原発とはどんなものかがかなり明らかになってきました。
印象的だったのは、今朝の朝日新聞に出ていた双葉町の町会議員の言葉です。
見出しは大きく「原発選択 後悔の念」とあります。
双葉町では、2002年の原発トラブル隠し事件後、一時、増設を凍結したが、その後凍結を解除し、再び増設受け入れていたのです。
体験して初めて気づくのが人間なのかもしれません。
厚生労働省の村木さんもそうでした。
福島県知事や被災地の自治体の首長や住民が、東電や政府を責めますが、私には少し違和感があります。
こういう時期に、こんなことを言うと、憤懣ものでしょうが、それが私の正直な気持ちでもあります。
責任とは何か。
「責任という虚構」の著者、小坂井敏晶さんはナチスのホローコストに関連して、こう書いています。
「狂信的指導者が政治機構の中枢で決定するだけでは人は死なないという単純な事実を忘れてはならない。銃殺や毒ガスによる処刑に現実に手を汚したのはナチス指導者ではなく、ほとんどは警察官や役人を含む普通の市民だ」
つまり、実際にユダヤ人を殺害する人間がいなければ、殺害は現実化しなかったのです。
しかし、その人間をつくりだすのが権力者の、あるいは社会秩序の管理者の仕事でもあるのです。
いまのような情報社会になると、それはとても難しくなっているでしょうが、それこそ情報管理の本質です。
情報こそが力の源泉だったのです。
その状況はかなり変わってきました。
最近では、たとえば政府が米軍基地を引き受けても、その設置を受け入れる場所がなければ、それは実現しにくいように、状況は大きく変わっています。
では原発をめぐる環境はどうでしょうか。
その気になれば、数十年前からかなりのことがわかったはずです。
しかし残念ながら私たちは水俣の時と同じように、「権威者」を信頼し、真剣には考えなかったように思います。
そして、かなりの数の自治体と住民の多くは原発を受け入れ、その恩恵を受けていました。
そこに責任はないのか、そう思います。
自治体だけではありません。
同じことが国家レベルでもいえるでしょう。
私たちのほとんどは原発を受け入れたのです。
私は昔から原発には否定的でしたが、原発反対のデモにも行きませんでした。
だから、いまの事態の責任の一端は背負わなければいけません。
あるメーリングリストに、福島の農業者から、これまで原発で発電された電力を使っていたのだから、当然その事故で汚染された野菜も食べるべきだと言われたという話が流れていました。
私はかなり納得しましたが、しかしそうであれば、地域として原発を受け入れたのだから、今回の事故の責任も地域が負うべきではないかと思います。
原発の立地を引き受ける地域がなければ、日本に原発はできなかったかもしれません。
何かが起こった時、必ずそこには、実行した人がいます。
誰が加害者で、誰が被害者か、しっかりと考えなければいけません。
誤解のないように付けたしますが、私は福島の人たちを咎めているのではありません。
東京電力さえも咎めたくはありません。
今回の原発事故は、私たちすべてが選んだ選択の結果だったのです。
責任者探しではなく、みんなで受け止めて、とにかく先ずは問題を少しでもいい方向で解決することは必要です。
そうしない、この日本に住むすべての人が、人類への加害者になってしまいます。
私として、何ができるかを考えなければいけません。
とてもとても難しい難題ですが。
■ショック・ドクトリン(2011年3月30日)
福島原発事故の発生で、すべてのニュースは覆われだしました。
地震・津波の被災さえもが、見えにくくなっています。
ましてや、それ以外の社会の動きは見えてきません。
相撲界の事件も、いまや話題にさえなりません。
しかし、実際には世の中からそうした事件が消えてわけではありません。
私の周りでも、とても個人的な問題や生活の問題なども含めて、いままでと同じように、事件や問題が起こっています。
リビアでは相変わらずの内戦が続いているでしょうし、北朝鮮の拉致問題が解決したわけでもありません。
私たちの世界が、いかにマスメディアによって形成されたものであるかがよくわかります。
私たちは虚構の世界に生きているといってもいいでしょう。
今日も知人があるメーリングリストに「ショック・ドクトリン」の話を流していました。
前にもチラッと書きましたが、大きな事件が起こるとみんながそれに目を向けている隙をねらってとんでもないことをやってしまう人がいます。
さらに、意図的にそうした大騒ぎを起こして、やりたいことを実現してしまうということもあります。
これは、国家の戦略手段のひとつです。
金銭至上主義者のミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」と述べたそうですが、カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインは、これを「ショック・ドクトリン」と呼び、危険な思想と警告を鳴らしています。
クラインは、急進的な市場主義改革は、そうしたショックを利用して進められたと主張しているようです。
今回の事件は人為的なものではありませんが、みんなの目が地震・津波の被災と原発事故に奪われている時に、国会で何が決められているか、いささかの不安はあります。
こういう大事件の前には、細かなことを言い出すことは勇気のいることです。
しかしどんな事件が起きようとも、私たちの生活はその事件の対処だけで終わってはいけません。
こうした時期であればこそ、改めて日常に戻って考えることが大切なのではないかと思います。
ところで、ショック・ドクトリンですが、クラインは危険な思想と言いますが、危険なのはその命題自身ではなく、危機状況を自分のために利用する人、例えばフリードマンのような人が出てくることだろうと思います。
こういう時期だからこそ、見えにくいところで、悪事をたくらんでいる人への監視を強めなければいけません。
そのために、私たちは浮き足立つのではなく、しっかりと日常も生きる必要があります。
例えば、電力が不足しているのではなく、電力消費が過剰な生き方を問い直すことが大切です。
資源のない日本は原子力に頼らないといけないなどという主張に、安直にうなずいてはいけません。
いま必要な「変革」は、高木仁三郎さんが言っていたように、「脱原発」へと変えていくことだろうと思います。
もし日本という国が存続できたらですが。
■週刊朝日の佐藤栄佐久福島県前知事のインタビュー記事(2011年3月30日)
福島県の住民にも責任があると、昨日書きましたが、2011年4月11日号の「週刊朝日」に、前の福島県知事の佐藤栄佐久さんのインタビュー記事が掲載されています。
短い記事ですので、もしお時間のある方はぜひお読み下さい。
タイトルは「国民を欺いた国の責任をただせ」です。
彼が知事だった頃に、原発の事故が発生し、それを契機に福島の原発を止めさせた人です。
しかし、なぜかその数年後に、収賄事件で東京地裁特捜部に逮捕されました。
現在は、その事件に関して冤罪訴訟で戦っています。
ここでもまた特捜部が出てくるところがポイントです。
一時は原発に反対すると殺されるという噂が流れたことがありますが、恐ろしい世界です。
週刊朝日の記事を読むと、いまならきっと多くの人が受け入れられるでしょう。
しかし、当時は彼の発言はかき消されてしまっていたのです。
こういうことはほかにもたくさんあります。
前に紹介した平井憲夫さんの手記もそうですが、他にもさまざまな話がネット上を駆け巡っています。
事件が起きてからでは遅すぎると思われるかもしれませんが、こうした情報やメッセージは以前からたくさん出ていました。
にもかかわらず、社会が聴く耳をもっていなかったのです。
むしろそうした社会秩序にとってのノイズは覆ってしまうのが最近のマスコミやジャーナリストの役割ですが、それでも世間の関心が高まれば、利に聡い彼らは動き出します。
昨今の情報の流れに、それを感じます。
前から何回か書いていますが、人は見たいものしか見ません。
最近のネット社会では環境はかなり変わってきているようですが、それでも、その人に見える世界は、所詮はその人の知っている世界と僅かにその周辺でしかありません。
だから私たちは、世界を広げる努力をしなければいけません。
あるいは、キュレーターと呼ばれる情報のハブ役を探さなければいけません。
原発への関心は高まっていると思いますが、わけのわからない専門用語や難しい単位記号に惑わされてはいけません。
大切なのは常識的に、生命的に、考えることです。
理解できないことを理解しようとする必要もありません。
何が真実かは、この2週間の状況を見ていればわかることです。
私たちが犯してしまった間違いは、自分たちで受け止めなければいけません。
しかし、せめて間違いの繰り返しは避けたいものです。
相変わらず、原発こそが国の基本などといっている、みのもんたさんのような人にはテレビから退場してもらわなければいけません。
私はその番組のスポンサー企業の商品は金輪際購入しないつもりです。
■フェイスブックとスモールワールド(2011年4月1日)
昨日の挽歌編にフェイスブックのことを書きましたが、そこでは内言語と外言語に言及しました。
時評編では、スモールワールドの話につなげたいと思います。
スモールワールドは、このブログや私のホームページで何回か書いていますが、世界中の人は6〜8人くらいの人を介してみんなつながっているという話です。
それを検証したミルグラムの社会実験は有名です。
フェイスブックは、そのネットワークの中で思いもしなかった旧友に出会うことがあります。
このネットワークのおかげで、さらに世界は小さくなったかもしれません。
そこでこんなことを考えてみました。
だれかつながりたい人がいるとします。
その人の名前を入れると、その人にまで届く人のつながりがわかるという仕組みはできないものでしょうか。
技術的には簡単なような気がします。
どなたかその仕組みをつくってくれないでしょうか。
あるいはすでにあるのであれば、どなたかそのやり方を教えてくれませんか。
■危機を乗り越えるためには効力感が大切(2011年4月2日)
危機を乗り越えるためには、効力感(エフィカシー)が大切だと言われます。
効力感とは、「あることを達成するために自分が首尾よく行動できるという予期に関する正の心理的感覚」です。
「ある状況下において必要な行動を効果的に遂行できると個人が前向きに認知した状況」にあるとき、効力感がある、と言えます。
効力感の有無は、動機に影響を与えるだけでなく、その成否を左右するとも言われています。
また、問題解決に当たる人が、効力感を持っているかどうかを、周りの人がどう受け止めているかも、その結果に大きな影響を与えるだろうと思います。
効力感は、主観的なものであると同時に、周辺との関係性と深く関わっているからです。
いわゆる相互主観的なものだといえるでしょう。
効力感は個人だけではなく、集団にも存在します。
そして、その集団的効力感はメンバーの効力感の総和ではなく、それぞれの効力感の相互作用の結果として生まれてくるといわれます。
集団的効力感が強い組織のほうが、目的の達成率が高いことは言うまでもありません。
集団的効力感への周辺の期待が、大きな意味をもつことも、個人の場合と同じです。
こうした危機管理の研究として、オウムサリン事件の時の聖路加国際病院や、阪神淡路大震災震の時の住友電工のケーススタディを踏まえた高田朝子さんの「危機対応のエフィカシー・マネジメント」(慶應義塾大学出版会)はとても示唆的です。
福島原発事故への政府の対応は、高田さんが示唆していることの正反対の動きにさえ感じます。
私が一番残念なのは、記者会見の際の人たちに効力感を感じないことです。
さらに悪いことに、当事者感さえ持てません。
菅首相に関しては、もはや論外ですが、こうした時にトップを変える勇気も必要なのだろうということにも気づかせてもらいました。
しかし、その一方で、さまざまな各地では効力感を持った人たちが活動をしているのでしょう。
そこでの効力感が、次の世代を変えていくかもしれません。
そうした新しい動きを、テレビがもっと伝えてくれれば、社会そのものが元気になって行くかもしれません。
改めて、「危機対応のエフィカシー・マネジメント」を読み直しました。
世間に出回っている退屈なリスクマネジメントとは違って、わくわくします。
■「国家的犯罪に加担したくない」というジャーナリスト(2011年4月3日)
ジャーナリスト上杉隆さんがご自身のサイトで、一昨日、「無期限活動休止のお知らせ」を掲載しました。
お知らせによれば、休止時期は今年の年末ですし、4月1日の掲載なのでエイプリルフールかもしれませんので、私にはあまり意味のある発言とは思えませんが、そこに書かれていることに興味を持ちました。
彼は活動休止の理由として、こう書いています。
これ以上、国際的にフェアな仕事のできない日本のメディアに関わることは、畢竟、自分自身も犯罪に加担していると疑われる可能性もあります。私はジャーナリストとして、国家的犯罪に加担したくないのです。
「国家的犯罪」。
この文章の前に、上杉さんはこう書いています。
今回の東京電力福島第一原発事故の例が示すように、自らの既得権益にのみ汲々とした日本の大手メディア(記者クラブ)は、結果として、政府と東電の「合成の誤謬」に加担し、憐れにも、先人たちの築いてきた日本という国の信頼を地に堕とす「共犯者」の役割を演じています。
かつて在籍したニューヨークタイムズ紙などの世界の論調を眺めていると、私はひとりの日本人ジャーナリストとして、いま強烈な無力感に襲われています。それは、あたかも日本政府は原子力エネルギーをコントロールできない無謀な「核犯罪国家」であり、また日本全体が先進国の地位から脱落して、今後数十年間にわたって「情報最貧国」に留まることが決定付けられているような書きぶりだからです。
小賢しい書き方だと思いますが、それはともかく、上杉さんが言う「国家的犯罪」とは、原発にまつわる情報の隠蔽という意味のように受け止められます。
上杉さんが、そうした犯罪加担的な記者クラブを改革していこうとしていたことはよく知られていることですが、彼の立場を考えると、かなり先での活動休止ではなく、現在時点での活動拡大こそが必要なのではないかと思います。
しかし、私が関心を持ったのは、「核犯罪国家」、そして政府と企業とメディアによる「国家的犯罪」という指摘です。
そこで使われている「国家」とは何なのか。
国民主権国家時代における国家とは、私たち自身のことでもあるのです。
つまり、私たち自らが犯罪に加担しているということです。
国家的犯罪と言ってしまうと問題は見えなくなってしまうのです。
そもそも国家とは、ある意味での犯罪集団、あるいは犯罪手段です。
国家が行うことは、それがいかに暴力的かつ不条理なことでも国内法的には犯罪にはなりません。
国際法的には犯罪になりますが、それは国際政治の材料になるということでしかありません。
国家的犯罪と言う必要はないのです。
マスコミの犯罪なのです。
その認識がなければ、いま起こっている全体像は見えてこないでしょう。
生情報が引き出されず、情報があまりに編集されすぎているところに、最大の問題があるように思います。
封じ込めるべきものは、放射能であって、生情報ではありません。
私たちも生情報への感度を高めなければいけません。
■情報は家畜への餌ではない(2011年4月4日)
記録の意味でも書いておこうと思います。
昨日のテレビ朝日の「サンデーフロントライン」の「どうなる福島第一原発」特集で、東京電力の協力企業社長のインタビューが放映されていました。
顔にモザイクをかけた映像でしたが、モザイクはかなり粗く、誰であるかは容易に特定できる映像でした。
そこに、その社長の覚悟を感じました。
社長はいま、福島原発の現場で回復作業を行っており、いわゆる「フクシマ50」と言われだしている「ヒーロー」の仲間です。
社長は涙声で話していました。
「俺はずっとみんなに、『原子力発電所はルールに従って運転すれば安全だ』と言ってきた。お年寄りが俺に原発のことを聞くんだ。で、俺は『原発は安全だよ。そうでなきゃ原発から3キロ以内に住むわけないよ』と答えると、『そりゃそうだな』と納得してくれたんだよ。それがこんなことになってしまった。俺は地元を裏切り、ご先祖を裏切り、社員を裏切り、日本国中を裏切ってしまった。
でも、愚痴を言っている場合じゃない。ただ、俺たちは原発のヒーローにはなりたくない。当たり前のことをやっているだけなんだ」
この文章は、ある人が送ってきてくれたメールを転用させてもらいましたが、私の記憶と同じです。
その時の雰囲気から、社長は安全を信じていたわけではなかったように思いました。
かといって、疑っていたわけでもない。
要は考えていなかったのです。
私たちの多くと同じように、です。
それがこの数十年の日本の社会でした。
お金が最優先されたのです。
この社長が告白しているように、みんながお互いに原発の安全神話を創りだしてきたのです。
もちろん、そうした状況を仕組んだ人たちはいるわけですが、電気利用者はすべて例外なく、原発の恩恵を受けてきたのですから、よほどの行動をしてきた人以外は、自業自得なのだろうと思います。
前に書いたように、原発を許したときに、すべては始まっていたのです。
まずは自らの責任を自覚してから、他者の責任を追及すべきです。
東京電力の前でデモをする人たちには、その覚悟がありません。
原発事故に関する政府の発表とは違う情報が流れています。
その中には扇動的なものも少なくないですが、そうではないものもたくさんあります。
大切なのは、現場の情報です。
ネットを活用すればかなり見ることができます。
さまざまなメーリングリストでも流れています。
いま私たちができることの一つは、自分でしっかりと情報を見つけ出すことではないかと思います。
これを機会に、情報環境を見直し、広げることをお勧めします。
情報は与えられるものではなく、発見するものであることはいうまでもないからです。
情報は家畜への餌ではないのです。
■相撲界はこれでいいのか(2011年4月4日)
大震災騒ぎの陰で、八百長相撲問題がかなり強権的なやり方で決着しようとしています。
相撲協会は自らの責任を認めることなく、相変わらず弱い立場の力士の犠牲の上に生き残ろうとしているように思います。
相撲界以外から問題解決に参加した人たちの見識を疑います。
この問題は、私には非常に大きな意味を持っているようにもいます。
責任を問うべき対象が間違っていると、私は最初から思っていますが、実はそうした構造は相撲界だけに限りません。
これまでの数十年の日本社会の責任の取り方が、そこに象徴されているように、私には思えるのです。
何回か書いていますが、近代の組織原理は、ピラミッド構造を維持しながら、責任を曖昧にすることを一つの基本にしています。
であればこそ、組織に関わる人の責任感が重要になってきます。
あるいは問題が発生した時に、責任の所在を問う仕組みが重要です。
責任を考える人は、所在する問題の世界を超えた世界に生きている人でなければいけません。
問題が把握できないからです。
そうしたことは、最近の原発事故対応を見ているとはっきりとわかります。
相撲界においても、全く同じです。
解決に当たっている人たちの世界は、あまりに狭いように思います。
それは当初の記者会見を見ていて、わかりました。
詰まり当初から問題を解決使用などとは誰も思っていなかったのでしょう。
そして、結局は弱いものが切られてしまったわけです。
小さな正義感は大きな正義感を壊すばかりでなく、仕組みそのものを壊しかねません。
ここにも、今の原発事故問題と同じ関係が成り立っています。
原発事故対応と八百長相撲問題対応が、あまりにも似ているのには驚きます。
つまり、それが今の社会の基本構造なのでしょう。
世界はフラクタルなミクロの積み重ねなのだと、つくづく思います。
■現場との距離(2011年4月5日)
昨日、東京電力の福島支社の担当の方が記者会見で、声を詰まらせていました。
今回の事故に関わる記者会見で初めて見た、人の表情です。
その後、東京本社の担当の方の記者会見が放映されましたが、両者には大きな違いがあります。
表情を出せばいいということをいいたいわけではありません。
その違いに、大きな意味を感じるのです。
現場からの距離によって、現場の見え方は変わってきます。
しかも、現場からの距離は仕事の細分度(分業度)と比例しています。
いいかえれば、責任感が希薄になるということです。
あるいは物事を客観的に把握できるようになるという言い方もできるかもしれません。
実はそこにこそ「近代の本質」が象徴されているように思います。
客観性は、真実性とつながるわけではありません。
私は、人の表情の中にこそ、真実が見えると思っている人間です。
昨日の福島支社の記者会見のメッセージは、とても大きなメッセージだったと思います。
そろそろ近代は終わらせなければいけません。
■嘘をつくとどうなるか(2011年4月5日)
そろそろ福島原発事故の嘘が限界を超え出しました。
放射性物質の海への放出が始まりました。
いかにも唐突ですが、たぶん事態を知っている人にとっては予想されたことでしょう。
さらにその先のこともたぶん見えているのでしょう。
それをどう公表していくか、おそらくパニック回避の従来発想で検討されているはずです。
最近、私の住んでいる千葉県北西部では余震が頻繁に起こります。
それもかなり長く体感できるものです。
しかし、最近はまたかという感じで、あまり気にしなくなりました。
人の「慣れ」はすごいものです。
危険情報にも同じように慣れていくのでしょうか。
原発事故による放射線汚染は、しかし地震とは違います。
地震は秩序を回復しようという、いわゆるホメオスタティックなエネルギーです。
しかし、原発事故は秩序を破壊しようというエネルギーですから、ベクトルが正反対です。
この違いは極めて大きい意味を持っています。
つまり、収斂に向かうか、拡散に向かいかということです。
前者においては、嘘は次第に解消されますが、後者に場合、嘘は深化されがちです。
そして限界が来て、露呈するわけです。
私の数少ない生活信条のひとつは、嘘をつかないことです。
正直でありたいからではありません。
それが一番生きやすいからです。
なぜみんな生きにくい生き方を選ぶのか、私にはよくわかりません。
しかし、嘘をついていいことは何もないはずなのですが。
■私たちの知的怠惰さが、生を阻む原発を認めてきた(2011年4月6日)
ソンミ村虐殺事件の真相解明に関わったM・スコット・ペックは、アメリカが国をあげてベトナム戦争を推進したのは何故かということに関して、こう書いています。
一国の国民全体が理由も知らずに戦争に向かうなどということが、どうして起こるのであろうか。その答えは単純なものである。国民としてのわれわれは、あまりにも怠惰なために学ぶことをせず、また、あまりにも傲慢なために学ぶ必要すら意識していなかったのである。自分のものの考え方がいかなるものであれ、それが正しい考え方だと信じこみ、それ以上調べてみようともしなかったのである。(「平気でうそをつく人たち」草思社)。
最近の福島原発事故に関する動きを見ていて、この本を思い出しました。
ペックは、知的怠惰と病的ナルシシズムが、邪悪を生み出すといいます。
本書で「邪悪さ」と訳されているのは、英語では evil です。
evil のつづりをひっくり返すと live。
つまり、邪悪さとは生を阻むものです。
この本の中で、「邪悪さ」は病気であると主張しています。
しかもその「邪悪さ」はすべての人の心身の中にあると言うのです。
私は、この本を読んだ時、自分が邪悪な存在ではないかと反省しました。
今でも完全には、その思いを否定できてはいません。
私たちの知的怠惰さが、生を阻む原発を認めてきたと言ってもいいでしょう。
政府や東電を責めるなとは言いませんが、その自覚のない言動には共感を持てません。
福島はますます深刻になってきました。
■自然からのメッセージ(2011年4月7日)
東日本大震災の先行きはまだ見えてきません。
新しい始まりになるという「期待」を地震直後に書きましたが、それが現実性を持ち出しています。
そうした論調がマスメディアでも語られるようになってきました。
昨年、韓国にいる佐々木さんからのメールで、問題は「電気」なのだと気づいたことは、「コモンズを荒らした犯人」で書きました。
まさか、そのことがこれほど早く明白になろうとは思ってもいませんでした。
一昔前には、「石油の消費量」が文明の度合いに擬せられたことがありますが、昨今は電気が文明度のものさしだったわけです。
しかし、それがいま問い直されようとしている。
「電気が足りない」状況であれば、2つの選択肢があります。
発電量を増やすか、電力消費量を減らすかです。
しかし、後者の選択肢は実際にはありえませんでした。
経済の基本は成長だったからです。
その「ありえなかった」選択肢が、いまや語られるようになってきたのです。
にわかには信じにくいですが、これほど明確に言われ出していますから、もう「スローガン」で止まることはないはずです。
経済成長路線の見直しが現実の選択肢になってきたといっていいでしょう。
ちなみに、経済は成長しなくても雇用を増やすことはできます。
今日の挽歌編に書いたのですが、
地震のあった後、「絆」とか「つながり」という言葉がテレビから毎日流れてきます。
そうしたことを志向した生き方をしてきた一人としては、逆に大きな違和感があります。
素直でないのかもしれませんが、いかにも白々しく感ずるのです。
挽歌には、「功利主義的な、あるいは人間中心的な、絆やつながりへの呼びかけ」と書いてしまいました。
被災地に行って、すでに汗を流している友人もいますし、そうした人たちの純粋さも知っています。
しかし、お金稼ぎを奨励してきた人たちが、急に「絆」とか「つながり」とか言っても、ピンときません。
どこかに功利主義の匂いを感じてしまいます。
また「つながり」という言葉も、人のつながりだけが伝わってきて、そこにも違和感があります。
今回の地震や津波、そしてそこから発生した原発事故の基本にあるのは、自然とのつながり、自然との絆の軽視だったのではないかと思います。
要するに自然としっかりと付き合わずに、人間中心的で、自然を見下してきたことの結果だったのです。
挽歌にも書いたように、それこそが、今回、自然からもらった大きなメッセージだったのだろうと私は思っています。
だとしたら、人のつながりを越えた大きなつながりを考えなければいけません。
もちろん「人のつながり」も大事ですが、そのために自然や文化や歴史とのつながりを軽んじていいわけではありません。
最近のテレビの報道を見ていると、あいかわらず自然とのつながりや絆には無関心です。
そんな絆やつながりなら、またきっと今回と同じ繰り返しに見舞われるでしょう。
地震や津波は自然現象ですが、それによって起こされる災害の多くは「人災」です。
自然との付き合い方を忘れて、過剰な電力を求めすぎてきた、これまでの生き方を見直せるのは、私たち一人ひとりでしかありません。
そろそろ「経済成長期待」発想を捨てたいものです。
成長を追い続ける政府への期待は捨てなければいけません。
■情報のシャワー(2011年4月8日)
相変わらずテレビは原発と震災被災地の話で埋まっています。
新聞も同じです。
東京都知事選も統一地方選も、リビアも北朝鮮も、子ども手当ても特捜部の犯罪も、みんな見えなくなってしまっています。
私は最近、テレビをあまり見なくなりましたし、新聞はほとんど読まなくなりました。
同じような話が繰り返し、感動的に、あるいは告発的に、語られるのには辟易しています。
どうせ、感動的な報道をしたいという人がやっているのでしょう。
記者会見もそうですが、情報は流せば流すほど、意味を希薄化させます。
相手をごまかす最高の方法は情報の過剰提供ですが、まさにそれによって私たちの情報感度は擦り切れてきているようです。
原発や放射能の危険性や安全性に関して、いろんな人がいろんな話をしていますが、果たして見ている人がいるのでしょうか。
テレビのキャスター自身が「わからない」と言っていますが、わからないといいながら報道している姿勢が私には理解できません。
そんな報道なら、サルでもできるでしょう。
私にはなぜテレビが毎日、自分でもわからない技術的な話を繰り返し説明しているのか理解に苦しみます。
小学校の夏休みの宿題のように、きれいに図解するのは、最近の学校教育の成果でしょうか。
勉強はできても生活できない人が増えていることがよくわかります。
それにしても、毎日毎日、シャワーのように浴びせられる情報で、現実の世界は掻き消されそうです。
そしてある日、突然に現実の危険がやってくるのでしょうか。
いまやるべきは、原発からいかに抜けるかを考えることだと、私は思うのですが、まだ原発が発電コストが一番安いなどと思っている人がいるのが驚きです。
テレビの報道番組を元に戻して欲しいものです。
ただでさえ視野狭窄になってきている私たちの目が、ますます視力を落としているのが恐ろしいです。
■原発を選んだ時に終わった(2011年4月9日)
歴史の変わり目というのは、こういうものかなと、最近思うようになりました。
私が、社会の地殻変動を感じていたのは、1980年代でした。
当時はよく「地殻変動」という言葉を使っていました。
大企業の解体とか、地方分権ではなく地域主権、あるいは住民参加ではなく行政参加という発想で、拙文を書いたり、活動したりしていました。
しかし、いずれも見事に空振りでした。
2000年代に入り、ほかの人がよく使うようになる頃には、私自身にはその感覚はなくなり、地殻崩壊というイメージが強まりました。
NPOが動き出しましたが、市民社会論者への不信感のほうが強くなってきました。
そしていま、明らかに、日本社会は崩壊しつつあります。
文字通りの地殻崩壊まで起こってしまいました。
しかし、どうも社会の受け止め方は私の感覚とは違います。
ややこしいのは、今、2つの全く異質な問題が同時発生していることです。
地震・津波災害と原発事故災害です。
前者は、大勢の死者を出しましたが、まだ救いはあります。
未来があるからです。
改めようもあります。
しかし、後者には救いがありません。未来までを破壊したからです。
これまで語られてきた環境破壊とはまったく違います。
その違いの、あまりの大きさには言葉がありませんが、私自身、こんなことは起こるまいとどこかで思っていたように思います。
原発を選んだ時に始まった、と前に書きました。
正確には、原発を選んだ時に終わった、と言うべきだったかもしれません。
終わったのは、日本だけかもしれません。
スリーマイル島もチェルノブイリも、世界を壊したわけではないからです。
しかし、私にはこれが終わりの始まりのような気がしてなりません。
世界は、ほころびだすと急速にほころんでいきます。
滅びの渦中にいては、それはわかりません。
最近、私の心身がうまく現実に反応しません。
どこかに違和感が生じるのです。
報道されていることに、現実感を持てません。
自分がなにやら「虚ろな世界」にいるような気がしてなりません。
にもかかわらず、私自身これまでと同じ生き方の延長にいます。
今日は仲間と一緒に、認知症予防関係のフォーラムを開催してきました。
みんなと打ち上げをしていて、何でこれまでと同じ生き方をしているのだろうと、自分ながらにおかしな気がしてきました。
これは終わった世界の残像ではいのか、という気さえするのです。
しかし、人は、もし仮にそうであっても、生き方を変えることなく、生きつづけるのかもしれません。
社会(組織)がなぜ滅びるのか、最近わかってきたような気がします。
暗い記事ですみません。
最近いささか疲れきっています。
■被害者から加害者へ(2011年4月8日)
地震・津波被災への世界各国からの日本へのエールは、今月に入り、原発事故への対処の不手際から汚染を拡散するテロ国家とさえ言われるほどの非難へと変わりだしているようです。
いつの間にか、私たちは被害者から加害者へと立場を変えつつあるわけです。
被害者意識はだれもがすぐ持ちますが、加害者意識はなかなか自覚できないものです。
これはしかし、今回の大震災に限った話ではありません。
日常生活の上でも、よく起こることです。
加害者なのに被害者だと思い違いしてしまうことは、よく起こることです。
私も注意しなければいけません。
しかし、よく考えると、被害と加害は関係性の問題ですから連続しているのです。
加害者は被害者であり、被害者は加害者であるということが成り立つわけです。
言い方を替えると、加害者にも被害者の要素があり、被害者にも加害者の要素があるということです。
そしてそれが、お互いの関係における寛容さを生み出すのではないかと思います。
被災地支援は別にして、原発事故に対しては、いまそうした寛容さが求められているように思います。
政府や東電の姿勢には怒りを感じますが、いまはそうした小さな怒りにとらわれている時期ではありません。
最近は、自分にそう言い聞かせながら、誰かの加害者にならないように、ゆっくりと生きるようにしています。
■こういう時だからこそトップを変えるべきでしょう(2011年4月11日)
統一地方選では民主党は敗北してしまいました。
そのため、与野党から菅首相辞任の声が出ているようです。
そんなことよりも復興への取り組みが大切な時期だという人もいます。
「だれがではなくて、何をどうやるのかということで判断」すべきだと、枝野さんも今日の記者会見で言いました。
問題の立て方が、ここでも大きくずれています。
地方選で民主党が敗れたのは、いまの対応が悪いことが大きな影響を与えているはずです。
民意が、民主党から離れたのは、今に始まったことではありませんが、今回の地方選には明らかに震災や原発事故への対応の悪さへの批判の民意が働いています。
いまの菅内閣には、問題解決能力が期待できないと多くの人は考えています。
だとしたら、いまこそ日本のトップを変えるべきです。
「だれが」と「何をどう」は、決して別の問題ではないのです、
「何をどう」を決めるのがトップであり、結局は「誰か」なのです。
それが危機管理の基本です。
私利私欲を捨てて、問題解決できるリーダーがいま必要だろうと思います。
しかし、多くの人は、こんな時期にはトップは変えるべきではないといいます。
日本のトップがころころ変わるのはみっともないなどとおかしな論理を言う人も以前かなり多かったですが、ころころ変わるのが問題ではなく、そうした状況を変えられないのが問題なのです。
原発事故対応では初動での対応を間違えたといわれますが、同じ間違いをするべきではないでしょう。
しかし残念ながら日本の多くの人はそうは考えない。
どんな人でもトップの座についた人に従う躾ができているからです。
では誰がトップにつけばいいのか。
こう言う時期にこそ、ふさわしい人がいるはずです。
東京都民は、その選択を間違わなかったように思います。
ここは「好き嫌い」のこだわるべき時期ではないような気がします。
このままでは、何も動かないような気がしてなりません。
まあ、こんなことをいくら書いても意味はないのですが、今日は暇なものですから。
■「原発がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった」(2011年4月12日)
テレビを見ていたら、たぶん漁業関係者だったと思いますが、「原発がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった」と言っていました。
驚きました。
広島と長崎に原爆が落とされたことは日本人であれば知っているでしょう。
にもかかわらず、原発が安全だなどと思う人がいるのです。
いや、これまではそういう人のほうが多かったのかもしれません。
そう思うのは、原爆と原発は別物であり、原発は安全だというお上の言葉を信頼したからでしょうか。
しかし、お上(国家)が嘘をつくものであることは、戦争体験の中で思い知らされたはずです。
あるいは、大学教授が原発は安全だと保証してくれたのを信じたのかもしれません。
しかし、国家の雇用人である大学教授の言動は、水俣病などで明らかにされています。
彼らの多くは、雇用してくれている国家や財界には背きません。
マスコミの報道を信じていたのでしょうか。
マスコミがいかに間違った世論を作り出すかも、きちんと生きている人ならわかっているはずですが。
要は、自分では何も考えていないことの表れでしかありません。
「原発がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった」などと今さら言う人を見ると、蹴飛ばしたくなります。
ましてや、福島県の現知事が東電に怒りをぶちまけるのを見ると、蹴飛ばすどころか頭をかち割りたくなります。
せっかく前知事が抗議していたのを、あなたはどうしたのですか、と言いたいです。
政府はいまなお、安全だと言っています。
誰かが「安全だ」と言うのは、安全でないからです。
そろそろそれくらいは、私たちは学んでもいい頃です。
司馬遼太郎がいたら、何と言うでしょうか。
日本はまた「つまらない国」に戻ってしまったのだろうと言うでしょうか。
■水道水を飲んでいるのかと驚かれました(2011年4月14日)
犬の散歩で会った近所の人から、娘が水はどうしているのかと訊かれたそうです。
それで水道水を普通に使っていると答えたら、驚かれたそうです。
それを聞いて、私も驚きました。
みんな水道水を飲んでいないのでしょうか。
みなさんのところはどうでしょうか。
私の住んでいるところは千葉県北西部で、福島原発から200キロくらいです。
放射能汚染は間違いなく届いているところです。
それを心配した人から水も送られてきましたが、子どももいないわが家では基本的に水道水を使用しています。
なぜみんなそんなに浮き足立っているのでしょうか。
それは情報がきちんと共有化されていないからです。
情報がない場合、人は過剰に反応します。
過剰に反応すると、そもそもの問題とは違う問題が生まれ、情報はさらに見えなくなって、混乱が増幅します。
ところで、水道水が飲用に使われなくなったのは、今に始まったことではありません。
そもそも町のコンビニなどで水が売られるということが、私は最初、どうしても理解できませんでした。
それも海外からのものまであるのですから、大きな違和感があります。
以前書いたことがありますが、海外の水は基本的には飲みません。
地域の水を飲むことが、生きるということだと思っているからです。
節電の動きがありますが、ペットの水を飲まないことは、間接的な節電にもなります。
もちろん私は自動販売機も使いません。
みんなが使わなければ自動販売機は無くなります。
石原さんも自動販売機反対のようですが、都の施設から撤去すればいいだけの話です。
都の会議でペットボトルを出さなければいいだけの話です。
節電と言うと電気を消すことだと思いがちですが、それ以上に大きな効果がある節電手段はたくさんあります。
せめて大人たちは水道水を飲みましょう。
自動販売機は使わないようにしましょう。
電気は決して足りないのではありません。
使い過ぎているだけの話です。
水の話が電気の話になってしまいましたが。
■フェイスブックの面白さが少しわかってきました(2011年4月14日)
最近、パソコンの時間の合間にフェイスブックをチェックしています。
少しずつですが、その面白さがわかってきました。
友だちも少しずつ増えています。
友だちの友だちをチェックしていると私の知り合いにも出くわします。
また友だちからも友だち紹介があります。
20年近く音信不通の人から友だちリクエストが届いたりします。
共通の友だちも明示されるのも面白いです。
私は語学が不得手ですが、たとえば韓国の友人の書いたハングルも、翻訳してくれます。
ブログの機能もあります。
ですからこのブログもフェイスブックに移管することもできそうです。
いま一部の記事を試験的に転載したりしています。
おそらくメーリングリストの機能もあるでしょう。
もっともまだフェイスブックを活用するまでにはいたっていません。
それに友だちもまだようやく60人を越えた段階ですから、情報の伝播力は少ないです。
それに私が友だちになった人たちのほとんどは、私と同じように、さほど効果的にフェイスブックを活用しているようにも思えません。
そもそも「効果的に活用する」という、手段的なものではなく、日常の一部として位置づけておいたほうがいいのかもしれません。
そういう視点に立てば、逆に使い方はかなり出てきます。
参加するのは簡単ですので、みなさんもやってみませんか。
もしフェイスブックを始めたら、私にも友だちリクエストを送ってください。
このブログがどのくらい読まれているかもわかりますので、それもまた楽しみですので。
■原発の安全性(2011年4月15日)
先日、大学の時の同級生と久しぶりに会いました。
途端に原発事故の話になったのですが、原発の安全性に関して意見が食い違い、久しぶりにホットな論争をしてしまいました。
定年まで大企業にいた人と途中で脱落してしまった人との考えの違いの大きさを改めて実感しました。
友人たちは、今回は安全対策が不十分だったが、今回の教訓を活かせば原発は安全にできるというのです。
つまり安全を管理の程度の問題だと考えるのです。
私は、安全は本体の属性の問題であり、管理の程度ではなく制御の可能性の有無の問題だと考えます。
安全を管理の程度と考える発想は、「安全である場合は安全である」という無意味な発想でしかありません。
そこで、いざ安全神話が壊れてしまうと、想定外などと、これまたさらに無意味な言い訳をしなければいけなくなります。
しかし、問題は簡単です。
原発の基本は、「人為的に安全でないものを作り出すこと」なのです。
原発の運転を停止しても、あるいは廃炉にしても、ひとたび作ってしまったものは、存在するだけで安全でない属性を持っているのです。
安全でないものをわざわざ作り出しておいて、安全性を語ることは全く意味がありません。
人間の技術が生み出す物は、多かれ少なかれみんなそうではないかと反論されてしまいましたが、そこで制御可能性が次の要件になります。
ここでいう制御可能性は程度の問題や確率の問題ではありません。
できるかどうかの二者選択の問題です。
しかし考えても見てください。
原発は、たとえ事故を起こさなくても、存在そのものが安全ではないのです。
だから東京には原発はできないのです。
多くの人が原発を安全だと思う根底には、原発がないと困ると思っているからです。
なぜそう思うのかといえば、原発は経済の基盤となる大量の電気を低コストで生み出すと思っているからです。
いまでも原発が低コストなものと思っている人もいるようですが、少なくとも東電の関係者はそうは思っていないでしょう。
コストの計算方法が間違っていただけの話なのです。
原発を持っていないと核武装できないから困るという人もいるでしょう。
そういう人は、原発が安全だなどとは思ってもいないでしょう。
でも必要だと思っているのです。
原発は安全ではなく、またなくても普通の生活者は困らないのです。
電気がたくさんないと経済成長は難しいかもしれませんが、生活の不便さは、さほどないはずです。
そういえば、こんなブログがありました。
フェイスブックには書きましたが、哀しい話です。
http://d.hatena.ne.jp/ayua/20110411/1302526954
大企業の人も、まもなく気づくでしょう。
■権威主義から抜け出せない日本人(2011年4月16日)
友人の川本兼さんが最近出版した「日本生まれの「正義論」」にこんな文章が載っています。
権威主義にゆがめられた日本人の「正義」は、日本人が自分で行った行動の責任を自分自身で取ることができない「正義」でした。自分の行動のほとんどは、自分の判断で行ったわけではないのです。そのほとんどは、権威ある上官の命令に従って行ったものでしかないのです。つまり、日本人の信じた「正義」は、自分の行動のほとんどを権威のせいにするしかない「正義」でしかなかったのです。
これは戦前の皇国主義下の軍隊に言及して書かれている話ですが、この日本人の権威主義は戦後も、そして今もなお変わっていないと川本さんは言います。
私もそう思います。
私はいくつかの平和に関するメーリングリストに参加させてもらっていますが、そこでのやりとりを見ていると、権威主義コンプレックスを感ずることが少なくありません。
川本さんは、上記の本で、日本の革新勢力や護憲主義者が消滅しつつあるのは、彼らが権威主義から抜け出られなかったからだといっています。
そして、権威主義から脱却していない日本人は、近代的人間にはなれていないというのです。
近代的人間であるかどうかはともかく、最近の原発事故に関する動きを見ていると、多くの人が権威主義に呪縛されていることがよくわかります。
自分というものがないのです。
論理はいかようにも組み替えられます。
原発が安全だという論理もいくらでもつくれますし、二酸化炭素が地球環境を人間には住みにくいものにするという論理も簡単につくれるでしょう。
科学的データがそこで使われます。
しかし、科学的データのほとんどは、「ある見方」でしかありません。
しかし、神から科学に権威をゆだねた人たちは、科学を信仰します。
それが「近代」だと言われていたわけです。
自らの眼で科学的データを確認できれば、少しは意味があるでしょうが、それが難しいために「科学者」や「統計学者」に判断を任せます。
そうして、みんな、つまり近代的人間は、自らを失っていくわけです。
大震災や原発事故の被災者を支援する活動が広がっています。
私もいろんなことに少しずつ巻き込まれています。
昨日も2人の人から電話があり、来週会うことにしました。
そうした動きに棹さすつもりはないのですが、
最近ちょっと懸念を感じ出しています。
みんなあまりに一直線すぎないか。
たしかに被災者の方は大変ですが、他にも私たちはさまざまな問題を抱えているのではないか。
それが忘れられてはいまいか。
そんな気がするのです。
こうやって第二次世界大戦は始まったのかもしれないと、とんでもない妄想さえ感じ出しています。
どこか、何かが、おかしいのではないか。
でもこんなことを言っていたら、多くの人からひんしゅくを買うでしょうね。
さてまた被災者支援のためにできることをやりましょう。
でも、なにかが違うような気がしてなりません。
■自己総括してから変節してほしいです(2011年4月17日)
最近、急に反原発論者が増えてきました。
あの勝間和代さんまで変節したのには驚きました。
さすがに権威主義者は身代わりが早いです。
しかしもう少し自分がこれまでやってきたことをきちんと総括してからにして欲しいものです。
原発事故直後の集まりで、テレビで原発の安全性を盛んに主張していたタレントアナウンサーの草野さんはもうテレビに出られないのではないかとある人が話していましたが、草野さんは相変わらずメディアに登場しています。
こういう人たちには良心とか自分の考えというものがあるのでしょうか。
そんなものがあると、いまの社会では生きていけないのかもしれません。
まあ、何を以って「生きる」というかにが問題ですが。
原子力安全委員会に関わってきた科学者たちも、反省と陳謝を発表しだしました。
なんだか違和感があります。
反省と陳謝の発表をするまえに行動すべきです。
マスコミもようやく平井憲夫さんの遺稿を取り上げだしたそうですが、これも違和感があります。
違和感や異論があろうと、そうした動きは歓迎すべきかもしれません。
時代が変わろうとしている現われではないかとも思えるからです。
でもどこかに疑念が残ります。
もう彼らに惑わされずに、しっかりと生きたいものです。
■個人ではなく仕組みの問題(2011年4月17日)
大震災や原発事故の報道の中で、いろんな重大な問題がシッポ切り的な対応になっているような気がしてなりません。
たとえば八百長相撲ですが、下位の関取を中心とした個人的処罰で問題を終了させようとしています。
問題は仕組みだと思いますが、弱い個人が実質的な解雇措置にあっています。
裁判に訴えようといっていた多くの力士も、なぜか争わなくなり、わずかに争うとしている力士は極めて少数派のようです。
しかし、ぜひ裁判にして問題をきちんと解決すべきです。
たとえば前田元特捜検事の裁判も、個人レベルの解決で終わりそうです。
問題は個人の行為ではなく、そうした行為が起こってしまう組織のあり方のはずなのですが。
原発事故もそうならなければと思います。
改めてシステムの恐ろしさを感じます。
■無人島暮らし願望(2011年4月18日)
東日本大震災後、被災された人たちのために何かしたいという人が増えています。
この大震災が時代の流れを変えるのではないかという気がしていましたが、実際にそうなりそうな気配を感じます。
いろんな人がやってきて、そういうプロジェクトを話してくれます。
今日も若い女性が友人と一緒に飛び込んで来ました。
肝心の話が終わった後に、こんなことも考えているという話をしてくれました。
その話を聞きながら、ついつい妻がいたらなあと思いました。
それは五島列島の話です。
そこにかなり広い土地があり、そこを活かして何かできないかという話です。
被災者のためにということで話が出てきたのですが、私が考えたのは、被災者ではなく自分のためです。
妻が元気だったら、妻を説得して、残りの人生をそこで暮らせたのに、と思ったのです。
私は、人が大好きですし、人のつながりを育てるような活動もしています。
しかし、どこかで、すべての人のつながりを捨てて、妻と一緒に無人島で暮らしたいという思いも、ずっとあります。
人が大好きな反面、自分を含めて、人という勝手な存在への嫌悪感もあるのです。
ですから、誰もいない無人島に、妻と一緒にめたらどんなにいいだろうかと妻には時々話しました。
あなたにはそんな生活ができるはずがないと、妻は真に受けませんでした。
それに、私の飽きっぽさを知っていましたから、3日目にはやはり戻ろうといいだすだろうというのです。
確かに私は飽きっぽいのですが、このことに関しては私には自信がありました。
それに私は妻に飽きることはないのです。
それに、目移りするものがなければ、飽きることもないのです。
五島列島の写真を見ながら、こんなに美しい世界を、なぜ私たちは、見にくい都市に変え、息苦しい生活をしているのかと思いました。
生き方を問い直す機会にしなければいけません。
どんな復興をしようとしているのでしょうか。
いろんな人の話を聞きながら、だんだん冷めてくる自分に、また嫌悪感を強めています。
■それでもまだ原発に期待するのですか(2011年4月19日)
こういう状況になってもなお、これからも原発が必要だと考えている人が過半数をしめるというのが、最近の世論調査の結果だそうです。
これには驚きました。
私自身は、おそらく30年後には原発は日本からなくなっていると思っていましたが、むしろ若い世代に原発期待が多いと知ってぞっとしました。
人はひとたび洗脳されるとなかなか変わらないのでしょうか。
それにしてもいまもまだ原発は発電コストが安いという人がいます。
経済的に見ても、原発コストがいかに高いかは、今回の事件で明らかになったと思っていましたが、どうもそう思っていない人が少なくないようです。
電力不足もまだ危機感を持っている人が少なくありませんが、電力不足など起こるはずがないと私は思っています。
地震後の計画停電にしても、おそらく必要なかったように思います。
もちろん計画停電によって、節電意識や生活の見直し気運が高まったのはいいことです。
おそらく電力会社にとっては両刃の剣だったでしょう。
地震が起きた頃、時代の流れが変わるだろうと思っていたのですが、最近少し不安になっています。
むしろ時代は悪い方向に向かうのではないか、そんな気さえしてきました。
私が疲れてきているからでしょうか。
■アーツ・フォー・ホープ(AFH)への応援のお願い(2011年4月20日)
コムケアの仲間でもあり、長年、ホスピタルアート活動(病院の患者さんを対象にしたアートによる心のケア活動)に取り組んできている、WAP(ワンダーアートプロダクション)の高橋雅子さんが、東日本大震災の被災者を対象に、アートを通じた心のケアを目的とした活動を展開しはじめています。
アーツ・フォー・ホープ(AFH)というタイトルの活動です。
すでに被災地での活動も実施しています。
高橋さんたちは、この活動を中長期的な仕組みづくりにつなげていこうと考えています。
そのため、現地の人たちとの協力体制を重視し、高橋さんたちの活動の後、そこでケアを引き継いでくれる現地チームをつくることを目指しています。
みなさんも、被災地支援に関して、すでにいろいろな活動に取り組まれていると思いますが、心のケアに関する仕組みづくりを目指している、アーツ・フォー・ホープ(AFH)の活動を応援していただければうれしいです。
具体的には、次のような人や組織を探しています。
・被災地にお住まいの人で、こうした活動に協力してくれる人
・この活動に参加してくれる人(各被災地に入り、プログラムを実施する人)
・この活動を支援(資金的・人的問わず)してくれる人や企業、団体
またこの活動への寄付も受け付けています。
詳しくは添付の企画書をお読みください。
協力してくださる方は、直接、AFH事務局にご連絡下さい。
今月の29日に湯島で説明の場もつくりたいと思っています。
これに関しては、ホームページのお知らせに掲載しますが、関心のある人は連絡下さい。
現在、被災地応援のためのさまざまな活動が展開されていますが、そうしたものがゆるやかにつながっていくことが大切ではないかと思います。
こうした仕組みが育っていけば、他のさまざまな活動もそのネットワークを活用させてもらえます。
先に展開したスリーA方式のみんなを元気にする認知症予防ゲームも、そうしたネットワークのなかで被災地を元気にしていく活動として展開できるかもしれません。
みなさんの応援をよろしくお願いいたします。
詳しくは高橋さんが代表をされているワンダーアートプロダクションのホームページをご覧下さい。
■フェイスブックの広がりの予感(2011年4月20日)
2週間ほど前からフェイスブックを少し活用するようになったのですが、4日ほど前から何かこれまでと違う動きを感じだしました。
いろんな人から友だちリクエストが届くようになったのです。
数はさほど多くはなく、せいぜい1日に2〜3人ですが、異口同音に、フェイスブックにはまりだしたとか、積極的にやりだしたと言うのです。
私と同じで、使い勝手がわかっているわけでもないようです。
私の場合は、やり始めて数日して、とても面白くなり、友だち探しを始めました。
友だちの友だちを見ていくと、その人が最近どんな生き方をしているかが何となく見えてくるのです。
あるいは、そこに思いもしない知人を見つけることもあります。
昔の同窓生や会社時代の同僚、あるいは地方都市で知り合った知人なども探してみましたが、残念ながらあまり見つかりませんでした。
どうも私の世代はあまりフェイスブックには馴染んでいないようです。
60人ほどになったところで、友だち探しは一段落したのですが、この数日、先方から友だちリクエストが届くようになりました。
そこからまた新しい知人が見つかることもあります。
それにしても使い勝手がわかりません。
おそらく最近の若者たちは、使い勝手などということを考える前に、使いこなしていくのでしょう。
何に使えるかなどと考えること自体、彼らには縁のないことなのでしょう。
使い方は自分で創りだすのが彼らのやり方です。
私もそうしようと思ってはいるのですが、まだまだぎこちないのです。
他者の使い方にもあまり参加できずにいます。
一番の問題は、私がパソコンでしかやっていないことかもしれません。
そろそろタブレット端末かスマートフォンが必要のようです。
フェイスブックは思った以上に早く広がりそうです。
私の知人の中にはすでに1000人を越える友だちをもっている人もいます。
人数が多ければいいわけではないのですが、少ないと刺激も少ないことも事実です。
フェイスブックにも危険な落とし穴があるような気がするのですが、まあもう少しやってみようと思います。
■東北復興財源と財政改革財源は次元を異にしています(2011年4月21日)
東北復興のためには巨額のお金が必要になるという状況を背景に、増税議論が高まっています。
復興のための一時的な増税と財政改革のための増税とはまったく違うものです。
それが混同されないといいのですが。
このブログでは、国家の巨額な借金に関しては発想の転換をすればいいという論を何回か書いていますが、増税にせよ国債発行にせよ、これまでとは違ったスキームの中で考えることが必要だろうと思います。
これまでの枠組みと混同すべきではありません。
世界銀行で主席エコノミストをつとめたこともあるジョセフ・スティングリッシュは、その著書「世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す」で、こう書いています。
あらゆる融資には貸し手と借り手がいて、両者が自主的に取引に携わる。不良債権が発生したなら、そこには少なくとも、貸し手は借り手と同罪という一応の証拠がある。
続けて彼は、
「借りすぎ」ではなく「貸しすぎ」だと言えば、何が変わるのだろうか? どこに問題をみつけるかによって、どこに解決策を求めるかも変わってくる。
とも書いています。
これまでの財政赤字で誰が利益を上げていたかをしっかり認識すれば、問題の解決の方向は見えてくると思いますが、東北復興の財源を同じ次元で考えてしまうと、問題の本質が見えなくなってきてしまいます。
それは避けなくてはいけません。
火事場の泥棒ではありませんが、多くの人が汗して復興に立ち向かっている一方で、さまざまな悪事が企てられているような気がして、心配でなりません。
混乱の中では、何が善で何が悪かは、なかなか見えてきませんが、だからこそしっかりと事態に立ち向かわなければいけないと心するようにしています。
■2つの責任(2011年4月21日)
やはり首相と東電社長は辞職すべきだと思います。
問題への対処を間違った責任者が事件発生後も居座る口実に使われるのが、「事件の解決までが責任」と「責任者を変えるよりも問題解決が先決」という論理です。
この論理は当事者以外の人にも受け入れられがちです。
しかし、私には根本的な欠陥があるように思えます。
責任には2つあります。
過去に起こったことに対して負うべき責任とこれからの取り組みに対して追うべき責任です。
それは全く別のものであす。
過去に起こった問題の責任者が、これからの活動の責任者になることは、どう考えてもおかしいです。
発想を変えない限り、問題は解決しないはずです。
同じ発想で取り組んでしまえば、問題は隠蔽されるだけの話です。
たとえば、原発事故への対応のまずさは、菅首相と清水社長だったから起こったことですから、本気で問題を解決しようと思うのであれば、まずはその2人を変えなければいけません。
2人がトップである限り、事態は何も変わりません。
2人が辞職すると言うことは、責任から解放することではありません。
そうではなく、過去に起こったことに対する責任を明確にすることに専念し、そこから発生する責任を果たしてもらうということです。
創造的な責任ではなく、処理型の責任です。
これは原発事故問題だけの話ではありません。
日本の企業の危機管理も含めて、すべての問題に当てはまることです。
2つの「責任」を峻別することが大切です。
1日も早く、お2人には辞職していただきたいと私は思っています。
■シリアで何が起こっているのか(2011年4月23日)
最近、リビアはどうなっているのでしょうか。
シリアもいろいろと大きな動きがあるようですが、世界を変えるといわれていた中東で燃え上がった動きへの関心を最近忘れていました。
数年前の東欧革命が世界を変えたように、中東革命も世界を変えていくはずです。
しかし、最近の原発事故問題で、それをすっかり忘れてしまっていたのです。
福島原発事故は世界の流れを変えるでしょうか。
原発への見方は大きく変わってきているようですが、それが本当かどうかは確信が持てません。
そればかりか、緊急避難的に、むしろ無駄遣いの勧めも主張されていますし、この大事件を利用しようという「従来発想」の動きもあるようです。
変化は、いつもすべての人にとってのチャンスでもあるようです。
リビアの帰趨はどうも決まったようですが、シリアはまだ見えていないようです。
いずれにしろ、中東革命の行方は気になります。
日本の大震災や原発事故の実態が海外からは見えないように、中東革命の実態も、日本からはなかなか見えないのでしょう。
イラク戦争を起こす理由になった「大量破壊兵器」情報をテーマにした「グリーンゾーン」という映画をテレビで観ました。
フィクションなのでしょうが、情報が実体を創りだすことはよくある話です。
今回の原発事故は、正確な情報が隠蔽され問題を複雑にしたとも言われています。
情報の捏造と情報の隠蔽は、いずれも事実情報に基づかずに実体を形成していくという意味では、結果的には同じことです。
いずれにしても、一度、情報によって創られた実体は、その根拠になった情報がたとえ事実でないことがわかっても消えることはありません。
中東で起こっていることと日本で起こっていることはもちろん異質のことですが、「グリーンゾーン」を観ていて、どこか似ているなと思いました。
どこが似ているのでしょうか。
■IQからEQ、そしてNQへ(2011年4月24日)
IQ、EQという言葉はご存知の方は多いでしょう。
IQは知能指数で、20年ほど前まではこれが人間を評価する重要な基準のひとつでした。
私が会社に入る頃には、全員IQテストを受けさせられた記憶があります。
そういえば、ロールシャッハテストさえも受けさせられた記憶もあります。
心理テスト万能の時代でした。
EQは感性指数です。
20年前頃に一世を風靡しましたが、話題になった割には実践的には使われなかったような気もします。
ところで、NQというのを聞いたことはあるでしょうか。
これは Network Quotient の略です。
「共存指数」とか「思いやり指数」と訳されていますが、「周囲の人とどれだけ和やかな人間関係を作れるか」「人とのつながり豊かさ」というような意味です。
ここでいうネットワークは、単なる人のつながりではなく、お互いに支え合うつながりを意味しています。
韓国のキム・ムゴンという人が言い出したようで、その本(『NQ/人間を幸福にする「思いやり」指数』)は2003年に韓国で出版され、翌年日本でも翻訳出版されました。
残念ながら日本ではあまり話題にはなりませんでしたが、ちょうどソーシャルキャピタル論が広がりだした頃です。
私も読みましたが、ノウハウ的な内容だったので、私好みではなく、忘れていました。
ふと思い出して、読み直してもました。
IQやEQがどんなに高くても、NQが低ければ、他人とうまくつきあってくことができない。人は1人では生きていけないから、NQの高さこそが幸福を決定づける、というのが本書の主張です。
いささかの異論はありますが(そもそも指数化が私には馴染みません)、それはともかく、その主張には共感できることが少なくありません。
なぜNQなどということを思い出したかというと、今回の大震災後、いろんな人がいろんな取り組みを始めていますが、そうした動きにささやかに関わりながら、人のつながりって一体なんなのだろうかということがちょっと気になりだしたのです。
最近、人という存在が好きになったり、嫌いになったり、私自身の気持ちは大きく揺れています。
この歳になって、いまさらとは思うのですが。
■311で何かが変わったような気がします(2011年4月24日)
311から世界が変わってしまったと、若い友人が書いてきました。
私の世界も、変わってきています。
大震災発生後、すべての予定がほぼキャンセルになりました。
おかげで時間がたっぷり発生しました。
テレビに釘付けの何日かの後、その反動でテレビ離れが進みました。
時間はできましたが、何かをやる気にはなりませんでした。
そのうちに、みんな被災者支援で動き出しました。
私の友人知人も、それぞれに動き出しました。
相談も増えてきました。
引潮の後に、大きな波が寄せてくるのに似ています。
今日も日曜日なのに、みんな動き回っています。
私は在宅ですが、メールや電話が届きます。
ネットの発達で、いまでは自宅でもできることがたくさんあります。
最近、フェイスブックをはじめましたが、その威力を今日は実感しました。
プロジェクトの準備で仙台に行った友人に、仙台の知人を紹介したのですが、電話したが連絡が取れないというのです。
もしかしたらと思い、フェイスブックを開きました。
その人が現在いる場所と状況がわかりました。
千葉にいる私が仙台にいる3人の人をつなげられたわけです。
まるでテレビを見ているようです。
話がそれましたが、311以来、周辺の人の動きが変わったような気がします。
気のせいかもしれませんが、どうもおかしいのです。
ダウンした人もいますし、元気になった人もいる。
いずれにしろ、これまでの延長ではないような気がします。
なにやら「日常」のままではいけないと思い出しているのかもしれません。
被災者は全国にいるという人が増えました。
それを実感する毎日です。
29日に、東北応援をテーマにした集まりを開くことにしました。
若者や女性たちの行動力には驚くばかりです。
よかったらお越し下さい。
私は、私にできることに取り組もうと思います。
■若者たちの目が輝きだした(2011年4月25日)
大震災のために延期されていた人材育成研究会がありました。
メンバーの多くは大企業の人事部長なのですが、今日は提言をまとめる最終の集まりだったにもかかわらず、いつもになく欠席者が多かったです。
まだまだ大震災の影響が残っているようです。
委員からは今回の震災によって社会が大きく変化していくだろうというような主旨の話もでました。
リーマンショックの時とは違う受けとめがなされているようです。
今回の提言のテーマは、グローバル競争下においてどう人材を育てていくか、ということですが、最近の若者の仕事観が問題になりました。
もっとしっかりした仕事観、職業観を若者に植え付けたいというわけです。
「働くことは社会人の責務」という発想は、この種の議論ではよく出てきます。
私には、この発想がどうもなじめません。
私はむしろ「働くことは社会人の権利」と考えているのですが、これまでの経験で、こうした主張はなかなか賛同を得られませんので、それについては発言しませんでした。
しかしみんな最近の若者は「社会のために働く」という姿勢がないと思っているようです。
この数日、社会のために汗している若者たちと付き合っている私としては、委員の人たちの話が別世界のことのように感じました。
そこで気づいたのですが、要するに最近の日本の社会は、若者を魅了する「仕事の場」を大人たちがつくれないでいたのです。
だからデフレが続いたのかもしれません。
今回の大震災が、もしかしたらその状況を壊すかもしれません。
社会を意識した若者たちの目は間違いなく輝いています。
腐ったような目をしている、私たち大人とは大違いです。
新しい働き方やビジネスモデルが生まれだすかもしれません。
もしかしたら、原発事故もまた、新しい経済や産業の啓示なのかもしれません。
この1か月、発想が後ろ向きでしたが、ようやく前向きになれそうです。
発想を変えればいいのです。
ニーバーの祈りを忘れていました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/keieiron12.htm#07
■震災後失業者が7万人(2011年4月29日)
労働局のまとめによると、岩手、宮城、福島の3県での震災後失業者が7万人もいるそうです。
大変だなと思う反面、どこかにおかしさを感じます。
被災地にはボランティアが集まっているように、「仕事」は山のようにあるはずです。
にもかかわらず、仕事のない「失業者」が増えている。
前にも何回か書いてきましたが、このことのおかしさに気づかねばいけません。
どこがおかしいかといえば、「仕事とは給料をもらうこと」と考えている点です。
そこに瓦礫があれば、それを片付けるのが仕事です。
住宅がなければ、住宅を作るのが仕事です。
問題は、そういう仕事をした場合に誰が給料を出すかです。
私はこの20年間、仕事の定義を給料をもらうこととは考えずに、問題を解決することと考えてきました。
「問題を解決する」という定義は、あまりにも価値観に左右され、客観性を持ちませんが、それが誰かの役に立つことであれば、誰かから報酬をもらえますし、自分だけに役立つものであれば、自分で費用を負担しなければいけません。
しかし、私にとってはいずれも同じ価値を持つ「仕事」です。
友人たちにさえ理解してもらえないので、なかなか伝わらないと思いますが、こういう生活を実際に20年やってきているので、そういう生き方でも暮らしていけるのです。
たとえば7万人の人に、被災地に山積みの仕事をしてもらい、給料を20万円支給するとしても、月額140億円しかかかりません。
そのお金を払う雇い主を探すのは大変で、時間もかかります。
しかしそのお金を1年間、国家が支払ったらどうでしょうか。
7万人の人は、誰からも雇われることなく、周りの問題解決に自由に取り組むわけです。
たかだか2000億円弱ですから、いかに財政が厳しかろうと出せるはずです。
7万人の人がそれによって生活基盤を保証されて、仕事に取り組んだら、おそらく1年で生み出す成果はその数倍になるでしょう。
それどころか、その2000億円は消費活動にも回りますから、乗数効果で数倍の市場を生み出します。
あまりに粗雑な議論なのですが、「仕事」とは一体何なのか、を考える、良い機会なのではないかと思います。
「雇用労働」だけが「仕事」ではありません。
そろそろ「仕事観」を考え直す時期にきているように思います。
■新しい社会への予感(2011年4月30日)
昨日、東北応援をテーマに、さまざまな活動に取り組んでいる人たちの集まりを開きました。
14人が集まりましたが、企業に働く人が少なかったのが残念です。
女性と高齢者、それにNPOや社会起業家的な人が中心でした。
最近感じているのは、社会の分解です。
私が会社を辞めたのは、1984年です。
当時感じていたのは、みんな小さなタコツボに入っていることでした。
もちろん私も企業の世界に埋まっていたと感じました。
その後、そうした状況は少しずつ変化し、企業、行政、NPOの世界はつながりだしましたし、NPO同士のつながりも生まれてきているように思います。
しかし、その一方で、現場で汗する人とそうでない人との世界が、どんどん乖離しているような気がしています。
言い方を変えると、現実の世界、サブシシテンスの世界とシステムの世界の乖離が進んでいるような気がします。
以前も少しだけ書きましたが、それがこれまでの社会の構造原理を壊しだしているようにも思えます。
さらに言い方を変えると、新しい人たちの出現です。
新しい人たちは、大企業にも行政にもNPOにも地方議員にもいます。
そういう人に会うと元気をもらえますが、しかしそうした人たちとシステムの世界でまだ生きている人との溝を思うと、気が重くなります。
できれば私は、そのいずれかで生きたいのですが、中途半端にそれぞれに友人知人がいるので、その狭間で、時に小賢しく要領よく、時に不器用におろおろしながら生きています。
しかし、昨日の集まりでみなさんのお話を聞きながら、新しい社会が生まれだしていることを実感しました。
システムの世界からそろそろ転居すべきなのかもしれません。
たとえ落ちこぼれ気味の劣等生だったとしても、長年そこで生きてきた者としては、なかなか踏み切れないのが実状です。
しかし、飛ぶべき時かもしれません。
■地方議員の役割(2011年5月1日)
私は現在のような状況では、地方議会の議員は職業化すべきではなく、ボランタリーな意識に基づく市民活動にすべきではないかと思っていました。
もし職業化するのであれば、行政で何が行われているかを住民にしっかりと伝えるとともに、住民の生活や考えを行政にしっかりと反映させる役割にすべきではないかと思っていました。
しかし、残念ながら実際の地方議員は、あまり住民を見ていないような気がします。
しかし、一昨日、酒田市の佐藤丈晴さんという市議会議員の行動を聞かせてもらって、少し考えに変化がありました。
佐藤丈晴さんは、2009年に結成された全国災害ボランティア議員連盟のメンバーです。
この組織は、国・都道府県・市町村の災害ボランティア活動や防災に関心のある議員が、防災や減災、復興支援に関する調査研究を行い、それぞれの議会での活動に役立て、地域防災力の向上に資すことを目指して結成されたそうです。
佐藤丈晴さんは、今回の大震災の後、原発事故の陰になって救援が遅れがちだった福島県の被災地の支援に取り組んでいます。
フェイスブックで、その動きがわかるのですが、実に勢力的に、実践的に活動しています。
佐藤丈晴さんと知り合ったのは1年ほど前です。
私が取り組んでいるコムケア活動の「事業仕上げフォーラム」に参加してくださったのです。
そして一昨日の、東北応援コムケアサロンにも、わざわざ酒田市から参加してくれました。
佐藤丈晴さんといろいろとお話ししていて、市議会議員は自治体の横をつなぎながら、社会全体に大きな影響を与える役割が果たせるのだということに気づいたのです。
私はいままで議員が現場を見ずに、行政や上位の自治体、さらには国家の議員をみていることに批判的でした。
せめて市長をトップにした自治体政府と住民をつなぐ役割をしてほしいと思っていたのですが、そうした垂直軸ではなく、水平軸にこそ、地方議員の役割があるのかもしれないと思ったのです。
ネグリのマルチチュードを生かす役割と言えるかもしれません。
まさにこれから求められているのが、水平軸のネットワークです。
そうした視点で考えなおしてみると、新しい展望が開けそうです。
佐藤丈晴さんは、一昨日の集まりで、「誰が、ではなく、何を、が大切だ」と話していました。
とても共感できます。
マルチチュードのガバナンスのヒントが、そこにあるのかもしれません。
日本にも、まともな地方議員はいるのです。
我孫子市で付き合っている限り、そういう展望は持てませんでしたが、佐藤丈晴さんに会えて、これまでの先入観の呪縛を解くことができました。
我孫子の市議会議員には、どうしてこういう人がいないのでしょうか。
たぶん私も含めて我孫子市民の民度が低いのでしょう。
反省しなければいけません。
■読者から届いた1冊の本(2011年5月2日)
ホームページやブログをやっていると、いろいろな出会いがあります。
フェイスブックとはまた違った出会いです。
ホームページ(CWSコモンズ)に書いたのですが、先週、オフィスに1冊の本が届いていました。
郵送ではなく、直接届けてくださったのです。
郵送は時々ありますが、直接届けてくれた人は初めてです。
しかし、残念ながら私は不在でしたので、ポストに本とメモが残っていました。
本は安田好弘弁護士が書いた「死刑弁護人」です。
ホームページに少し詳しく書きましたが、私のブログの「光市母子殺害事件」記事に対してのアドバイスが、本を届けてくれた目的のようです。
マスコミ報道やネット情報だけでは偏っているとアドバイスしてくれました。
安田弁護士は光市母子殺害事件の弁護士です。
私は、ブログで感情的に安田弁護士を批判しています。
自分で書いたブログ記事を読み直してみました。
品格を欠く文章で、恥ずかしい限りですが、そもそもこのブログは、感情をできるだけそのまま書くことを心がけていますので、仕方ありません。
その時は、そう思ったのです。
私が大切にしているのは、いつも「その時の気持ち」です。
気持ちは時間と共にどんどん変わりますが、ツイッターのように、その時の気持ちを書いておくことが、私には大切なのです。
間違った自分、取り繕わない自分、そうした中にこそ、私がいるような気がするからです。
一度だけの人生ならば、できるだけ私の人生を生きたいからです。
「死刑弁護人」の序章は、光市母子殺害事件の安田弁護士からの報告でした。
特に新しい発見はありませんでしたが、安田弁護士の姿勢は少し理解できました。
残念なのは、もししっかりと真相を伝えたいのであれば、個人プレイではなく、制度的な対応をすべきだったと思います。
そうしたことのために日弁連はあるのだろうと思います。
わざわざこの本を届けてもらったのに、私の考えは変わりませんでした。
本を届けてくださった方に、そのことをお伝えしたいのですが、メモに書いてあったアドレスにメールしても戻ってきてしまいました。
もしかして、このブログを読んでもらえるかもしれないと思い、あえて記事にさせてもらいました。
ちなみに、フォーラム90の機関誌も同封されていましたから、その方は死刑制度反対の取り組まれているようです。
私も死刑制度は反対ですから、そうした活動には参加してもいいと思っていますが、残念ながら安田弁護士たちのやり方には参加できない気がします。
それに、死刑制度だけではなく、いまの司法のあり方を変えなければいけないと思っています。
司法改革は、裁判官のためでも弁護士のためでも検察官のためでもなく、誠実に生きている人たちのためのもの、平安な社会のためでなくてはいけません。
私にとっては、裁判官も検察官も弁護士も、みんな同じ仲間に見えます。
お互いに批判しあっている限り、司法改革は実現しないでしょう。
そんな気がします。
本を届けてくださったSさん、お会いできればと思っています。
■リンチの国(2011年5月3日)
昨日から実に憂鬱です。
原因は、昨日報道された「オサマ・ビンラディン殺害」です。
オバマ大統領は、そのことを発表する演説で、「ビンラディン容疑者を拘束または殺害することが就任以来の最優先課題だった」とし、その殺害を「アルカイダ打倒の戦いの中で、最も大きな成果」と強調したそうです。
なんということでしょうか。
西部劇の保安官の演説かと耳を疑いました。
まだアメリカには、リンチの文化が残っているのでしょうか。
そうは思いたくありませんが、フセインの時にふと感じたことがやはり事実だったのかと愕然としました。
前にも書きましたが、オバマ大統領にはどうも信頼感を持てないでいましたが、改めて失望しました。
チェンジとは、何に向かってのチェンジだったのか。
実は、最近、このブログで誰かを悪く言うのはやめようと思っていた矢先です。
リンチをした人を批判するのもまた一種のリンチだと思い出したからです。
残念ながらその決意は3日で終わってしまいました。
中近東で起こっているデモの映像を見て思うことがあります。
若い女性たちが顔を見せて、銃器の前でもたじろがずに、しっかりと自己主張しています。
最近そういう映像を繰り返し見ているうちに、これまでの私のアラブやイスラム社会の知識の偏りに気づかされました。
学生の頃から中東の歴史やイスラム関係の書籍はそれなりに読んできたつもりでしたが、やはりどこかに埋め込まれた先入観から自由ではなかったのです。
若い女性たちの輝く目をみて、驚くようではどうしようもありません。
9.11事件の真相は、私にはわかりませんが、少なくともアメリカ政府の発表のいくつかが嘘だったことは明らかになってきています。
フセインの裁判をしっかりとやったら、もう少し真相は見えてきたのでしょうが、それを恐れてか、フセインもまたリンチのようにして「殺害」されました。
そして、ビンラディン。
これで頭を高くして眠れるようになったのは誰なのでしょうか。
「テロとの戦い」とは「テロの戦い」のことなのでしょうか。
リンチを続ける野蛮国のアメリカに依存しなければならない日本の国民であることが、実に憂鬱で、言いようのない怒りを感じます。
余計なことですが、ビリー・ザ・キッドよりも、パット・ギャレットが卑劣だったのではないかと私は学生の頃から思い続けていたことを思い出します。
「銀の星」(シェリフのバッジ)を笠に着た行動は、私にはどうも信頼できません。
■「ガザのための交響楽団」(2011年5月4日)
今朝のテレビで最初に見たニュースが、「ガザのための交響楽団」のニュースでした。
オバマのような暴力的な人(人の殺害を目標にし、その実現を喜ぶ人)をもいれば、自らが危険を冒して平和を示す人もいます。
そのあまりの対称性は、偶然とは思えません。
心がやすまります。
以前、ラマラのコンサートの話を書いたことがありますが、「イスラエル国籍を持つ世界的指揮者ダニエル・バレンボイム氏が3日、初めてパレスチナのガザ地区を訪問、この日に向けて欧州の音楽家で結成した「ガザのための交響楽団」の指揮を執り、子供ら約700人の聴衆から拍手喝采を浴びた」とヤフーのサイトに出ています。
記事を引用させてもらいます。
AFP通信によると、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などが演奏され、聴衆は静かに聴き入った。バレンボイム氏は「親愛なる友人よ、あなた方は何年もここに閉じ込められている。これこそわれわれがやって来た理由であり、世界の人々が心配していることを理解してもらえるだろう」と呼び掛けた。
AFPによれば、英語教師ファトマ・シャヒンさん(28)は「子供の心の中で何かが変化し、人を判断する前にちょっと考えるようになるのではないか」と話した。
経済学者ケインズは、世界を支配するのは思想しかないといったそうですが、思想を変えるのは書物や教育からではなく、体験からです。
今回、コンサートを聴いた子どもたちの思想が結果をだすのは20年後かもしれませんが、間違いなく世界を変えていくでしょう。
人を殺しても、世界は変わりません。
ラマラのDVDを、もう一度観たくなりました。
DVDで観ても、とても感動的です。
■監察委員で八百長を封じ込めるという発想の蔓延(2011年5月5日)
日本相撲協会が昨日、評議員会で八百長再発防止策を決めたと新聞に出ていました。
内容は、携帯電話持ち込み禁止、八百長の告発を受け付けるホットラインの設置、支度部屋と土俵近くに監察委員を置く、東西の支度部屋への出入り制限などです。
どこかおかしい気がします。
こうして私たちは、自らを規制する仕組みを発達させ、家畜化していくのでしょうか。
相撲協会には力士を信頼するという発想はないようです。
それでは何も解決しないでしょう。
ユッケで死者が出るという事件が起きています。
厚労省の生食用の肉の衛生基準やその強制力が問題になっていますが、この問題と相撲協会の対応の問題は、どこか似ているところがあります。
責任を制度に押し付けるという発想です。
ルールの中なら何をやってもいい。
昨今の企業のコンプライアンスの取り組み姿勢にもつながっていきます。
監視委員が取り締まらなければならないような状況がどういう意味を持っているのかを理事長は理解していないのでしょうか。
この例でも明確にわかるように、組織のトップの役割は大きいです。
もちろん政府においても、です。
こういう時期だからこそ、トップを考え直すべきだろうと思います。
能力以上のことを期待することは悲劇です。
誰のことを言っているのか、と言われそうですが、もちろん日本相撲協会も政府もです。
■東電社長の土下座(2011年5月5日)
東電社長が被災地を回って謝罪している姿を見て、気持ちがまた暗くなりました。
土下座まで強要されているのを見たときは、とても悲しい気持ちになりました。
東北被災地を応援しようという気持ちは萎えました。
もちろんそうしたことは例外的なことなのでしょう。
被災地にボランティアに行った友人からは、東北人の高潔さに感動したというメールももらっていますし、私も基本的にはそう感じています。
被災地復興のために、私たち全員が応分の経済的負担をするのは当然のことだと思います。
そもそもこれまで私たちは「安価すぎる電力」の恩恵を受けてきたのです。
原発コストは社会的費用やライフサイクルコストを考慮しないで産出されたものです。
1970年代に、そうした議論は盛んにあり、原発コストは決して安くないという主張もありました。
しかしそれを無視して日本経済は、安くて安定した原発を選んだのです。
日本の経済発展は、したがって原発の恩恵を受けてきたといえるでしょう。
国民も当然その恩恵を受けてきたのです。
関西電力などが他人事と考えているようなのが不思議です。
明日はわが身なのではないかと思うのですが。
原発は安全だと言っていたではないかと清水社長に詰め寄る人もいます。
しかし原子力が安全などと思う人の気がしれません。
原子力爆弾のことを知らないわけはないでしょう。
同じ原子力、同じ放射線、それが無縁だと思うほうが、私には間違っていると思います。
そういう人たちは、きちんと子どもたちに原爆の体験を教えてきたのでしょうか。
テレビで、原発は安全だとPRするタレントやアナウンサーに、違和感を持ったことはないのでしょうか。
もしそうなら、そのことをこそ反省すべきです。
それがなければ、これからもまたそういう言葉を「利用」して生きていくでしょう。
それでは社会は変わりません。
いま大切なことは、誰が悪いかではなく、この事態をどう乗り越えていくかです。
言い争っている時ではないでしょう。
テレビの映像を見て、元気が出ることも多いですが、暗い気持ちになることも多いです。
テレビの報道のあり方に問題があるのかもしれませんが。
■東北被災地応援にこんなアイデアはどうでしょうか(2011年5月6日)
私のホームページで先月紹介した「隣人祭り」の著者の佐久間さんから、このブログの記事を自分のブログでも紹介したとメールが来ました。
佐久間さんは時々、ブログで私のことに言及してくださいます。
佐久間さんは社長という激職にもかかわらず、次々と本を出し、その上、ホームページやブログも毎日書き込んでいます。
最近、私のブログに言及してくれたのは、次の2つの記事でした。
「ビンラディン殺害」
「東電社長の土下座」
佐久間さんのブログはトラックバックを認めていないので、記事でご紹介します。
その一つ「東電社長の土下座」のなかに、こういう文章が出てきます。
「もう、福島での隣人祭りなどやめようか」とも思いました。
この文章から、佐久間さんが東北での隣人祭りを考えていることが伝わってきます。
これに関してはたぶん佐久間さんのブログで間もなく明らかになるでしょうから、私から言及するのはやめますが、この文章を読んでこんなことを思いつきました。
東北には今回の地震、津波、原発事故などで仕事を失った人がたくさんいます。
一方、東北にはボランティアがたくさん行ってもなお処理できないほどのたくさんの仕事があります。
前にも書きましたが、これをつなげればいいわけです。
それで東北被災地の人たちを東京電力が雇用します。
ボランティアがやっている仕事、あるいはボランティア活動を支援する仕事、さらには佐久間さんも構想しているらしい隣人祭りのような人のつながりの場づくりの仕事などを、東電が会社の仕事として受け持つのです。
東北の人が、いま求めているのはなんでしょうか。
仕事、地域の整備、希望、人のつながり、そうしたことでしょう。
少なくとも100万円の慰謝料ではないでしょう。
このアイデアを実現すれば、大きな問題解決にならないでしょうか。
明暗だと思うのですが。
東京電力は採用してくれないでしょうか。
■消費しないでもいいのだ(2011年5月4日)
連休になって、観光地にようやく観光客が戻ってきたといいます。
大震災後、自粛ムードが広がりましたが、その後、反自粛ムードも出てきました。
普段と同じ生活をするのが一番の被災者支援という話もあります。
ライフスタイルを変えなければという議論の一方で、急にライフスタイルを変えたら経済がますます縮小し、被災地支援さえできなくなるという議論もあります。
実際に、すでに経済は縮小の動きもあり、私の周辺でも問題はいろいろと起きています。
悩ましい問題だと思いますが、私にはそうした「べき論」はあまり興味がありません。
議論などするよりも行動すればいいだけの話ですし、そもそも大震災があったからといって変えるような生活態度はまたすぐに戻るでしょう。
しかし、そうした「べき論」とは別に、みんながあることに気づきだしたのではないかという気がしています。
その「あること」とは、消費しなくてもいいのだという気づきです。
客が来た割には財布の紐が硬かったという話も少なくありません。
「消費は美徳」キャンペーンをきっかけに、私たちは消費もまた経済成長のための義務だという意識を植えつけられてきました。
私のような反経済成長主義者でも、そうした文化からは自由ではなく、新製品だというとついつい買ってしまってきました。
「消費は美徳」キャンペーン、消費こそが経済を成長させるということの行き着く先は、リーマンショックになる前のアメリカのカード社会です。
そこでは、消費者自身が、消耗品として浪費されたといってもいいでしょう。
会社では労働者として、社会では消費者として消耗させられていたのです。
私たちは、生産活動と消費活動を対比的に捉えていますが、昔、「脱構築する企業経営」という連載記事で雑誌に書かせてもらいましたが、視点をちょっと変えれば、生産と消費は同じことなのです。
私たちは経済成長を持続させるために、消費しなければいけないという強迫観念を植え付けられているように思います。
最近はデフレ基調なので、消費を抑える作用が働いていますが、それでも「消費しなければ」という思いを、みんなどこかに持っているのです。
だから大震災で、「自粛」という大義名分を得た時には、実はホッとした人も少なくなかったように思います。
しかし、実に皮肉なことに、消費の自粛は経済成長を妨げます。
つまり消費の自粛は収入の減少につながるのです。
そして自粛はよくないというキャンペーンが始まりました。
ホッとする間もなく、またみんな市場に狩り出されました。
でもちょっとこれまでとは違うような気がします。
無理に消費しなくてもいいのだ、ということを実践しだしたのではないかという気がします。
ちなみに、私は自粛ムードには反対です。
矛盾していないかといわれそうですが、こういう時期にこそ消費は必要だと思うからです。
私の場合は、したがって「反自粛」ではなく、私の感覚ではむしろ「浪費」です。
被災者の生活を思いながらいつもよりも多く浪費し、被災者の経済が戻ってきたら、できるだけ消費しない、私にとっての日常的な生活に戻ります。
こういう暮らし方、つまりできるだけ物を買わない暮らしが増えていけば、経済成長率は低下するでしょうが、暮らしやすい社会になるように思います。
これを機に、消費から自由になり、逆に消費の主人になる生き方を志向することが必要になっているように思います。
消費者として生活するのではなく、生活者として消費したいものです。
■第三次インティファーダの動き(2011年5月8日)
中東の動きがなかなか見えてきませんが、先週、メーリングリストで次のような情報が流れてきました。
真偽のほどはわかりませんが、ネットで調べたらどうもそうした事実があるようです。
この3月末から4月にかけてイスラエルに対する「第三次インティファーダ」を呼びかけたフェイスブック・ページをイスラエルとシオニスト団体がその圧力によって削除させました。(出典:松元@パレスチナ連帯・札幌)
インティファーダ。
以前、ホームページで少しだけ書いたことがあります。
インティファーダはそもそも「蜂起」という意味ですが、パレスチナ問題においては1980年代後半に起こったパレスチナでの住民蜂起をさします。
「石つぶてで圧政者に立ち向かう住民」に対して、最新兵器で掃討するイスラエル軍」という構図が報道されたために、その蜂起は国際世論を起こしました。
まだフェイスブックなど広がっていない時代でしたが、イメージの強さはいつの時代にも風を起こします。
中東の民主化革命のはしりといえるでしょう。
今回、チュニジアから始まった中東の住民蜂起はエジプトでは大きな変化を起こしましたが、リビア、シリア、イエメンなどではなかなか成果をあげられずにいます。
これに関してもさまざまな論考がネットで流れています。
そこに新しい希望を見る人も少なくありませんが、対立は激化し、ますます暴力的な様相を呈しています。
それに対して、第三次インティファーダが呼びかけているのは、非暴力の住民蜂起です、
蜂起ですから、暴力的要素が全くないわけではないでしょうが、個人が主体か組織が主体によって、暴力の性質は全く異なります。
第一次インティファーダでは「投石 対 最新兵器」と言われましたが、そのことに住民蜂起の本質が象徴されています。
つまりインティファーダは、個人対組織の対立構造とも言えるのです。
そしてそれこそが「民主化」につながります。
住民蜂起のない「民主化」は、たぶん画に描いた餅でしかないでしょう
いまの日本を見ると、それがよくわかります。
こういう状況の中で、ビンラディンは暗殺されました。
インティファーダを呼びかけた人たちにとって、ビンラディンは敵だったのか味方だったのか。
それはわかりませんが、少なくとも蜂起する住民たちを支えているのは、憎悪ではないはずです。
そこに私は未来を感じます。
そして、同時にオバマの大統領就任演説が虚しく思いだされます。
■「資本主義はどこへ向かうのか」(2011年5月9日)
西部忠さんが最近出された「資本主義はどこへ向かうのか」(NHKブックス)を読みました。
西部さんとは面識はありませんが、以前から地域通貨に関する論考で、学ぶことの多い人でした。
本書のサブタイトルは「内部化する市場と自由投資主義」です。
久しぶりに知的興奮を感じながら読みました。
私がワクワクしたのは、「言語」と「貨幣」をつなげて考えている発想です。
これまでの西部さんの論考では、あまり読み取れなかったのですが、実に納得できました。
私が「ジョンギ」で目指したかったことがようやく自分でも理解できました。
ところで、最後の「おわりに」に書かれていた西部さんの言葉が、一昨日書いた記事(「消費しなでもいいのだ))に重なるような気がしたので、ちょっと長いですが、引用させてもらいます。
グローバリゼーションとは、わたしたち自身の内部における、無意識のレベルにおける価値や規範、思考習慣の変容を伴ってもいる。それはあたかも、わたしがペットボトルの水に小さな違和感を感じつつも、やがてそのことを忘れて、日々、貨幣でペットボトルの水という商品を買い続けたように。
それだけではない。わたしたちはあたかも資本家のように費用を節約し、より新しい技術や商品、有望な収益機会に投資して利潤を上げるように考え、判断し、行動することを強いられるようになっているのではないか。人々は、日々、先物やFXに投資し、自らの人的資本に投資する。それは必ずしも自ら望んだものではない。どこか外部から強いられた強迫観念のようなものである。わたしたちの意識はそれによって操作されているとも言える。それこそ、まさに内なる制度でないだろうか。
気楽に読めるという本ではありませんが、地域通貨(私はコモンズ通貨と呼んでいますが)にご関心のある人にはお薦めします。
■転向ブーム(2011年5月10日)
福島の原発事故以来、「転向」が続発しています。
「転向」というと否定的なニュアンスがありますが、昨今の原発評価に関する転向の動きは私は好意的に受けとめています。
転向を感じたのは、まずは新聞記者からです。
毎日新聞の大阪社会部の日野記者が、4月21日の「記者の目」で、「これまで不都合な警告や批判を封じ込め、「安全」を自明のものとして押し付けてきた業界の独善的体質が今回の事故の背景にあると思える」と書きました。
フェイスブックで、もう少し早く書いてほしかったとコメントしたら、ある人から「漸く書けるようになったのだから応援すべきだ」とたしなめられました。
その通りです。
私も、日野記者に拍手を送りました。
これまで原発を推進してきた学者にも転向が広がっているように思います。
たとえば、最近、内閣官房参与を辞任した小佐古教授がその典型です。
涙の辞任会見で話題になりましたが、あの涙は転向への迷いの涙だと思います。
小佐古さんは、これもいま話題の浜岡原発のアドバイザーだった人だと聞いていますが、原発推進派だったはずです。
だからこそ参与に任命されたのでしょう。
木さんや小出さんとは違って、時流の中で生きている人でしょう。
しかし、その小佐古さんも転向しました。
私は、複雑な思いではありますが、拍手したいと思います。
テレビのキャスターやコメンテーターの発言も微妙に変わりだしました。
まだはっきりと「転向」したと思える人はいませんが、少なくとも原発に批判的だった人の「物言い」は変わってきました。
おそらく発言できる雰囲気が生まれてきているのでしょう。
それに「教化」されるように、たぶん何も考えていないタレントの発言も変わりだしているように思います。
マスコミ全体の空気が「転向」しつつあるともいえます。
こうした動きは歓迎したいですが、気になる点があります。
それは、こうした「転向」が、「信念の転向」ではなく、「功利的な転向」なのではないかということです。
あるいは、「孤独の転向」ではなく「流された転向」ではないのかということです。
要するに「勝ち馬」に乗っただけです。
もちろんそれが悪いわけではありません。
負け犬の遠吠えよりも、勝ち馬のいななきのほうが良いに決まっています。
それに、勝ち馬と負け犬が逆転したということでもあります。
それはわかっていますし、浜岡原発の運転停止のように、私が望む方向に動き出していることは歓迎すべきなのですが、なぜか素直に喜べないのです。
喜べない理由の一つは、テレビで見る街頭インタビューの市民の発言です。
制作者の編集があるでしょうが、今の電気依存の便利な生活を手放したくないと考えている人が多いのには驚きます。
たぶんマタ「計画停電」をちらつかされただけで流れは変わりかねません。
電力が不足しているというはっそうそのものが、私にはおかしい発想だと思うのですが。
国民が「転向」するには時間がかかりそうです。
なぜならみんな何も考えていないからです。
テレビで街頭取材に答えている人の話を聞いていると蹴飛ばしたくなりますが、多分私も取材されたら同じような発言をするかもしれません。
かく言う私も、おそらく何も考えていない仲間の一人なのでしょう。
自分ではわかっているような気もしていますが、何も動いていないのですから。
まさに大勢に順応する生き方しか、私たちはしていないのだと思うとぞっとします。
そんな世界に生きている自分がおぞましくて、どんどん厭世的になってしまっています。
どうやってこの底無し沼から脱出すればいいのでしょうか。
私も改めて「転向」すべきで時期かもしれません。
■自己責任と他者責任は同義語(2011年5月11日)
被災地にまつわる報道には、考えさせられる話がたくさんなります。
一番考えさせられるのは、人と社会との関係です。
たとえば、昨日から始まった避難区域にある自宅に一時帰宅した住民に対し、国側が「警戒区域が危険であることを十分認識し、自己の責任において立ち入ります」などとする同意書に署名を求めたという話には驚く一方で、奇妙に納得できてしまいました。
一時期、「自己責任」が盛んに言われた時がありましたが、他社に対する「自己責任」という言葉は「責任回避」と同義語です。
みんな「自己責任」をとりたくないのです。
そういう意味では、この言葉は「他者責任」と同義語かもしれません。
こうまでしないと後で問題が起きた時に、責められることもあるのでしょう。
こうして、責任回避のスパイラル進化が始まっていくのかもしれません。
責任回避とは、人とのつながりを切るということでもあります。
人のつながりを切った社会づくりが進められているというわけです。
そのことが、いろんなところで見え出しました。
そもそも生きるということは、自己責任を引き受けるということです。
わざわざ他人から自己責任などといわれたくないと、私は思います。
今回のユッケ事件にも当てはまります。
生きるための自己責任への覚悟が希薄になっています。
誰かの保証してもらわないと生きていけないとは、まさに家畜の世界といえるでしょう。
家畜の群れには、横のつながりは不要です。
必要なのは主人とのつながりだけです。
私は、家畜としてではなく、自己責任を持った人間としていきたいと思っています。
しかし、そうしたことを許さない風潮があることも事実です。
いまや住む場所さえ行政が決めるという時代です。
決める行政も大変ですから、「自己責任」ルールを使わざるを得ないのかもしれません。
うれしい話もあります。
今朝のテレビで、津波被災地の住人たちが、自分たちの地域に戻って、みんなで支えながら暮らしているのを報道していました。
自分たちで発電機を持ち寄り、時間を決めて利用したりしていたそうです。
そこに漸く昨日、電気が通じたという話でした。
震災前には、挨拶をする程度の人たちが、しっかりと支え合う生き方をしだしたのです。
しかし、浸水の可能性の高い地域なので、行政は高台への移住を勧めているようです。
場合によっては、そこに住むことを許されないかもしれない。
そのため壊れている自宅の修理もままならないようです。
自然災害はどこでも起こりえます。
それを踏まえた暮らし方こそが、私は歴史であり、地域の文化だと思います。
確かに今回の地震も津波も大きかったですが、だからといって、ただ危険から逃避するだけの発想でいいのか。
自然と共に生きる生き方をこそ、考えるべきではないか、そう思います。
決めるのは、あくまでもそこに住む人たちではないかと思います。
行政ができるのは、そこに住むことに関する危険性の情報提供です。
みんなで支え合いながら、新しいコミュニティを育てだしている。
そうした人たちは、「自己責任」などという言葉を意識はしていないでしょう。
ただただ自然にそうしているのではないかと思います。
それこそが生きることだからです。
そうした動きが、東北の各地で始まっているのでしょう。
市町村合併でおかしくなった、暮らしの場が、原点に戻って問い直されているような気がします。
■「3.11以前と以後で世界が変わったと感じます」(2011年5月13日)
マスコミ報道を見ていると、原発事故への不安は収まりつつあるような雰囲気がありますが、事態はおそらく悪化しているように思います。
私の周りでもむしろ不安は高まっているような気もします。
今日は被爆による死者までが公表されてしまいました。
昨日、知り合いから故郷に転居しようと思うというメールが来ました。
昨日会った若者は、なぜみんなこんなに安心しているのか理解できないと言っていました。
たしかに、最近のテレビの報道にも緊迫感がありません。
1号炉の状況が明らかになるにつれて、工程表も破綻しつつあると思いますが、それを心配する声も高まりません。
「慣れ」が広まっているのか、慣れさせられてきているのか、あるいは諦めたのか、わかりませんが。
一時期、自重していたテレビも、何もなかったように、元に戻ってしまいました。
こうした状況を見ていると、ソドムとゴモラを思い出します。
神が、もう一度怒らなければいいがと祈りたくなります。
生活のあり方を本気で見直す動きはあまり感じられません。
むしろ節電と称した販売促進活動が呆れるほど増えています。
以前も書きましたが、すべてが収益活動に取り込まれていきます。
しかも規範が軽視されるのも、私には心配です。
クールビズでネクタイなしの姿も多いですが、政治家くらいはネクタイをしてほしいです。
国民の首を絞める前に自分の首をしっかりと絞めて、襟を正すべきです。
原発と原子力は、所詮は同じものだという、ただその一点から私の原発観はつくられていますので、いささか極端かもしれません。
福島はわが国の3番目の被爆地であり、しかも、じわじわと被爆している状況にある。
私には、恐ろしい話です。
わかっている人がつい口を滑らすと、よってたかってマスコミがそれを非難し撤回させます。
ですから真実はますます見えなくなっていくわけです。
毎日のように、原発の危険性を話しあう集まりが開かれていますし、その報告や映像がメーリングリストやユーチューブで広く流れてきます。
しかし問題は極めてシンプルです。
神奈川の新茶の汚染が話題になることで、それは一目瞭然です。
私たちは放射能とうまく付き合わなければいけない社会をつくってしまったのです。
その認識からはじめないといけないように思います。
昨日も友人から、「3.11以前と以後で世界が変わったと感じます」という手紙をもらいました。
その変わってしまった新しい世界にうまく入り込めずに、最近、いささか精神不安です。
何かを時評する気が起きてきません。
厭世観に襲われています。
気分転換に「運命のボタン」という映画を見てしまいました。
ますます滅入ってしまいました。
たぶん軽い「うつ」症状です。
困ったものです。
■原発事故を語ることの難しさ(2011年5月18日)
一昨日、NPO法人科学技術倫理フォーラムの交流会がありました。
10人の人が集まりましたが、後半、原発事故の話題になり、話が尽きませんでした。
技術倫理問題に取り組む技術者や大学教授、安全問題のプロ、市民科学的な視点から活動している人に加えて、技術者ではない人も数名います。
私もその一人です。
時期が時期だけに、原発事故の話題も出ました。
たまたま今回は、日本原子力発電株式会社の役員だった方もいたので、かなり生々しい話も出ました。
私が感じたのは、立場が違うと見えている世界が違うのだということでした。
どちらが正しいというわけではなく、あまりに世界が違うので、コミュニケーションが成り立ちにくいのです。
そこに不幸の一因がありそうです。
昨日、後術移転の仕事に取り組んでいる友人が来ました。
やはり原発事故の話題が出ました。
原発に関しては、なかなかかみ合う議論ができないのですよね、と彼も行っていました。
エネルギー関係の会社にいた人なので、きっといろいろと体験しているのでしょう。
昨日はもう一人、NPOに関わっている友人が来ました。
彼は少し前まで原発には関心がなく、安全を確保する対策がとられていると確信していたそうです。
ところがある講演会で、原発にはいろいろと問題があることを聴いたそうです。
そして大震災発生後、ボランティア活動のために福島にも行き、そこでもいろいろな体験と情報を得てきたようです。
そして彼の言葉を借りれば、人生が変わったのです。
原発事故も、小沢事件も、まったく違ったように見え出したといいます。
彼の話から、かなり過激な反原発に変わっているのを感じました。
原発情報の多くは、おかしな形で広報されています。
だから「安全」か「危険」の両極端におかれやすいのです。
これも不幸の一因です。
彼から聴いた話ですが、福島では子どもたちが授業で原発に見学に行き、そこで「きれいなおねえさん」から原発の安全性を教えてもらうのだそうです。
そのためみんな原発の仕組みなどの知識はあるそうです。
その子どもが、今回の事故の後、「おねえさんに騙された」と言ったそうです。
おねえさんとは、原発で説明してくれた人のことです。
本当は、原発の危険性も教えなければいけませんが、原発事業主体や政府は、それをきちんと教えてこなかったのです。
つまり、本当のコミュニケーション、広報活動をしていなかったということです。
情報が共有されていなければ、対話や議論は成り立ちません。
残念ながら、こうした状況はいまなお続いています。
いままで原発安全の基本に立っていたマスコミは、今度は原発の不安を煽る一方です。
事態はなにも変わっていない。そんな気がします。
■ハーバードの正義論への失望と日本生まれの正義論サロンのお誘い(2011年5月19日)
日曜日(2011年5月15日)にNHKBSで「ハーバードからのメッセージ 世界は震災から何を学べるか」というシンポジウムの記録を見ました。
シンポジウムが行われたのは4月22日です。
基調講演はサンデル教授でしたが、白熱教室的に学生とのやりとりもありました。
つづいて緊急医療、原子力、都市防災の研究者が講演しました。
期待してみたのですが、正直、失望しました。
もっと本音で言えば、サンデルやハーバードの本質を見た感じです。
コメントする気にもなれないほど、私には内容のない話ばかりでした。
昨日、東北応援をテーマにしたサロンをやったのですが、石巻市にボランティア活動で行っていた宮部さんから少しだけ現地での体験などを話してもらいました。
2時間近いハーバードのシンポジウムよりも、私には刺激的な20分でした。
サンデルは、こう問いかけました。
「この震災は、私たちを変えるのか」
私は、そもそもこの問題の立て方に違和感があります。
私なら、「この震災で、私たちはどう変わるべきか」です。
つまりサンデルの意識には主体性が感じられません。
白熱教室を聴いていて、いつも不満に思っていたことです。
観察的な議論は、20世紀の知ではないのかと思います。
啓蒙の時代は終わっています。
サンデルは、アダム・スミスの、遠くの人の不幸への共感は実践につながらないという指摘を紹介し、ユーチューブなどによって情報を継続的に共有できる現代では、それを変えられるのではないかと示唆します。
しかし、それに関しても、「今回の一連の出来事の意味についての対話」しなければいけないというだけで、何が当時と違うのかについての言及はありません。
地震前から取り組んでいたというグローバル教室の紹介もするのですが、私にはことさら新しい試みには思えませんでした。
つまり、スミスとどこが違うのか、私にはわかりませんでした。
ある学生が「ハイチやスマトラ沖の地震との違いは何か」と鋭い質問をしましたが、それに対するサンデルの回答はよくわかりませんでした。
要はあんまり考えていないのでしょう。
昨日の湯島のサロンでも、今回の震災で私たちの生き方が変わるのかというような話も出ました。
間違いなく変わるでしょうが、問題はどう変わるかです。
それを決めるのは、研究者や統治者ではありません。
私たち一人ひとりの生き方です。
震災が私たちを変えるのではなく、私たちが変わるのを応援してくれるのではないかと、私は思っています。
変わってもいいのです。
そろそろ生き方を変えてもいい時期なのです。
とまあ、こんな議論をサロンでしたいなと思っていますが、その前にまずは「日本生まれの正義論」サロンを開催することにしました。
5月29日1時半から湯島です。
案内はホームページに掲載しました。
関心を持ってもらえたら、ご参加ください。
■ボランティアはなぜみんな良い人なのか(2011年5月20日)
東北に何回かボランティア活動にいっている友人から聞いた話です。
連休にボランティア活動に行った時、一緒になった人の中に会社勤めの人がいたそうです。
その人が、「どうしてボランティアは良い人ばかりなんだろう」と言うのだそうです。
友人からみると、その人もとても良い人なのでそう伝えたら、
「会社には、自分も含めて良い人なんかいない」と言われたそうです。
こんなに人間関係が気持ちよく、仕事も楽しくやれることはないというわけです。
友人も、たしかにボランティアはみんな良い人ばかりだといいます。
だから彼はボランティアに行くのが好きなのです。
それに、わずか数日だけの付き合いなのに、被災地から戻ってきてからも付き合うようになっているようです。
それも単なる付き合いではなく、お互いに支え合うような関係が生まれています。
私はこう考えています。
世の中に「悪い人」などいるはずもない。
素直に生きれば、幼い子どもたちがそうであるように、人はそもそもが良い人なのです。
悪い人などいないのです。
ところが、組織に入った途端に、素直に動けなくなるのです。
だから良い人のままではいられなくなるわけです。
そして、権威や権力、立場を振り回すようになる。
それに組織に入って仕事をするとお金をもらえますから、組織のルールを優先させなければいけません。
困った人がやってきても、商品を無料で上げてしまうわけにはいかないのです。
ところがボランティア活動は、誰からもお金をもらいませんから、素直な自分の判断で行動できます。
だからみんな本来の「良い人」になれるわけです。
そう考えるとボランティアがみんな良い人なのは当然なのです。
良い人がボランティアに行くのではありません。
ボランティアだから良い人になれるのです。
もしかしたら組織に戻ったら人が変わってしまっているかもしれません。
そして疲労してしまい、メンタルダウンしていくわけです。
つまらないことを書いているように思われるかもしれませんが、
これからの私たちの生き方を考える上での大きなヒントがここにあります。
みんな「組織の呪縛」から抜け出れば、良い人に戻れるのです。
東電の人も本当はみんな良い人なのです。
もちろん「あなた」も良い人です。
万一疑いがあれば、被災地にボランティアに行ってみてください。
すぐに確信できます。
大震災は多くの人の心を救ってくれているのかもしれません。
■ペイフォワード(2011年5月23日)
東日本の大震災が起きた日、東京では帰宅の足を奪われた人がたくさんでました。
都内に残った人もいましたが、歩いて帰宅した人たちも多かったようです。
その人たちの通り道に出店していた八百屋さんが、お店の食材を使って、小さなおなべを2つ使ってお味噌汁を作りつづけ、疲れて歩いていた人たちに振舞ったという話を昨夜テレビでやっていました、
寒い日でしたので、みんな寒さに震えながら歩いていたそうですが、その八百屋さん(たぶん)は1000杯のお味噌汁を振舞ったそうです。
たぶん寝ずに作り続けたのでしょう。
なめこ汁を振舞ってもらった人がそのお店にお礼に行った話でした。
その人は、たしかこう話していました。
見ず知らずの人にお世話になるありがたさがほんとうにわかったので、自分も誰かの役に立つ行動をしたい。
こうやって、親切は広がっていくのですね。
不正確かと思いますが、そんな主旨の話でした。
これは「互酬行為」ではありません。
ペイフォワードなのです。
互酬にはともすると打算が無意識に作動します。
しかし、ペイフォワードは打算が入りこむ余地は少ないです。
お店の商品を使って、その人は疲れた被害者たちにお味噌汁を無料で振舞いました。
その時に、1杯100円で販売しても売れたかもしれません。
10万円の収入を得たかもしれません。
しかしその人は、おそらくそんなことなど思いつく暇もなく、お味噌汁を作り続けたのでしょう。
そしてたくさんの人の心と身体をあっためたわけですが、一番心身があったまったのはご本人だったと思います。
それに比べれば、10万円などどうでもいい話だろうと思います。
人にとっての最高の喜びの一つは、誰かの役に立つことだろうと思います。
喜ぶ顔が、最高の報酬です。
しかし、そういうことをやるのが、難しい時代になったのかもしれません。
それが今回の大震災のおかげで、やれる状況がいろんなところで生まれてきているように思います。
誰かに感謝できることもまた、最高の幸せの一つです。
感謝されることも感謝されることも、もっと増えてもいいでしょう。
その気になれば、いずれも自分でやれることです。
それは誰かのためではなく、間違いなく自分のためなのです。
感謝という言葉を、改めて大事にしようと思いました。
■事件の連鎖(2011年5月24日)
陸山会土地取引事件の公判で、水谷建設の元運転手が「社長をホテルに送った記憶ない」 と証言しました。
元運転手は検察がむりやり証言を改竄したと主張しています。
この事件は小沢事件につながります。
小沢事件がもしなかったら、今の政府は管政権ではなかったかもしれません。
あるいは菅首相の対抗馬として、小沢議員が考えられたかもしれません。
国民の小沢嫌いは、これほどまでになっていなかったかもしれません。
検察の不当行為が、私は今の日本の国難の出発点だと思っています。
昨今の原発事故対応の不手際もまた、この事件と無縁でないでしょう。
私は小沢さんの政策や政治手法は好きではありませんが、今の時期には首相になって欲しい人です。
小沢さんだったら沖縄も原発事故対応も全く違ったものになったように思います。
いずれも今はアメリカのいいなりのように感ずるのです。
孫さんのような儲け主義の人は歓迎するでしょうが、私にはやりきれません。
たとえ反原発であっても、孫さんの金銭経済至上発想は変わらないような気がします。
それを象徴するのは、孫さんのメガソーラー(大規模太陽光発電所)構想です。
いま見直すべきは、そうした「メガ発想」だと、私は考えています。
思想や技術の本質をどこに見るかは、人によって違うでしょうが、規模や速度は重要な視点ではないかと思います。
話を戻します。
同時代におけるさまざまな事件はつながっています。
これまで安全だと言っていた浜岡原発が突然停止されたりすることをみればすぐわかりますが、個々の問題は個々の世界で解決するのではありません。
浜岡原発反対のデモが原発の運転を停止させたわけではないでしょう。
もっと大きな構造の中で、事は動いています。
浜岡停止の背後にはアメリカ政府がいると言う人もいますが、それも含めて、大きな時代の物語や風潮が個々の事件の動きを左右します。
別個の事件だと思われる事件のつながりを考えると、世界はまた違った様相を見せてきます。
新聞の片隅に小さく載せられた事件から、大きな構造が見えてくることもあるように思います。
陸山会土地取引事件の裁判がどう進展していくかに注目したいと思います。
■ちょっと気になる太陽光パネル設置構想(2011年5月26日)
菅首相は、OECDで「日本中の設置可能な約1000万戸の家の屋根すべてに太陽光パネルを設置することを目指す」と述べたそうです。
自然エネルギーにシフトしていくことはとてもうれしいのですが、以前からちょっと気になっていることがあります。
太陽光をパネルで吸収して電力に転換することはいいのですが、それがあまりにも広がった場合、何らかの不都合が起きないかと言うことです。
太陽光は間違いなく気象に大きな影響を与えているはずです。
まったく無駄に降り注いでいるのではないはずです。
だとしたら、それを大規模に発電のために取り込んでいいのだろうかという、素朴な疑問を以前から持っています。
そういう視点から、メガソーラー計画もちょっと不安があります。
1000万戸の家の屋根すべてに太陽光パネル設置も違和感があります。
原子力か自然エネルギーか、という捉え方を多くの人はしますが、私の関心は、人間的なサイズかメガサイズか、です。
サイズをどう定義するかは難しいですが、まあざっくりと受け止めてください。
私の感覚では、原子力はその本質においてメガサイズなのですが。
太陽光パネル設置の拡大を否定しているのではなく、みんなが屋根で太陽光を取り込んでしまったら、地球はどうなってしまうのだろうかという、素朴な不安なのです。
どなたか教えてくれませんか。
しかしみんなどうして、エネルギー消費のほうに関心を向けないのでしょうか。
それも不思議です。
■ビジョンのない人の善意よりも、ビジョンのある人の悪意を(2011年5月31日)
君が代訴訟に関するはじめての最高裁判決が出ました。
起立を命じる職務命令は「合憲」とされました。
公立学校の卒業式で「君が代」を斉唱するときに教諭を起立させる校長の職務命令をめぐる訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)は30日、命令は「思想・良心の自由」を保障した憲法19条には違反しないとの判断を初めて示した。そのうえで、自由を侵されたとして損害賠償などを求めていた元教諭側の上告を棄却した。(朝日新聞)
大阪では国歌斉唱義務化の条例案が議論されていますが、この最高裁の判決は私には驚き以外のなにものでもありません。
日本はますます70年前に戻りだしている気がしてなりません。
大震災や原発事故の報道の陰で、じわじわと何かが進んでいるような気がします。
あえて顰蹙と批判をおそれずにいえば、大震災はそれに利用されているような気もします。
国民の意識も、「日本はひとつ」の雰囲気の中で、一つの方向に向けられています。
スポーツ選手やタレントは、その動きに、自らの利害を乗せて動いているようにさえ見えます。
ビジョンのない善意は、地獄に向かいかねません。
また手ひどい批判が届くでしょうが、あえて書いてしまいました。
強制しなければいけないほどに、日本の国歌や国旗は魅力がないのでしょうか。
魅力がなければ、その魅力を高めるようにするのが、為政者の役割です。
自らを正さずして、何を正すのか。
発想の方向が反対のような気がします。
また政府主導で、いわゆるコンピュータ監視法なるものも審議に入っています。
表面的には最近問題になっているコンピュータウィルス対策ですが、以前問題になっていた共謀罪につながるものだろうと思います。
名前の付け方一つで、人は簡単に騙されます。
これも「はじまり」のひとつかもしれません。
先日、ネットに詳しい人と話していたら、佐藤さんのネット行動はその気になれば完全に把握できるようになっているはずですと話してくれました。
幸いに私の場合は、「その気になる」対象ではないのですが、まさにそうした時代なのです。
情報社会とは「情報管理社会」であり、クラウド化とは私たち一人ひとりが制度に依存して、そのなかでの情報活動だけができる状況なのかもしれません。
少し遅れましたが、まさにジョージ・オーウェルの「1984年」の世界です。
ショック・ドクトリンのことは以前も書きましたが、毎日テレビでわけのわからない原発情報に触れさせて、みんなが怯えている間に、何かが着々と進行している。
そんな気がしてなりません。
それを可視化するためにも、小沢一郎に再登場して欲しいと思っています。
ビジョンのない人の善意よりも、ビジョンのある人の悪意を、私は歓迎します。
■首相不信任案の提出は一歩前進だと思います(2011年6月1日)
ついに首相不信任案が提出されました。
私は賛成です。
与党が首相不信任案に賛成するのはおかしいと政府の人はいいます。
国会と内閣は別の権力ですので、与党であろうと首相を不信任することは全くおかしなことではないと思います。
首相不信任案に賛成したら、与党を出て行くべきだという意見も私には理解できません。
私は、そもそも党議拘束の発想には賛成できません。
同じ党員だからといって、すべての考えが同じであるはずもないし、必要もありません。
人間は本来多様な存在なのです。
辞任要求だけでその後誰にするかをいわないのはおかしいという人もいます。
しかし、後任を誰にするかを提案することは辞任要求の意味を変質させます。
誰にするかによって全く辞任の意味が変わるからです。
テレビのキャスターやコメンテーターはそういいますが、後任を特定して辞任案を出すことこそおかしいです。
彼らもまた何も考えずにオウムのように理屈を並べ立てているように思います。
被災地の人は、現政府をスピード感がないという一方で、不信任案には余り好意的ではありません。
私には、それも全くおかしく聞こえます。
現政府に不満ならば、当然、首相を変えるべきです。
被災地の自治体の首長の発言は、私にはいつも受動的に感じます。
復興に全力で取り組むべきことが大切で、そんな政局がらみの話で時間をとるべきではないという人もいます。
首相を誰にするかは政局の話などではありません。
平常時はそうかもしれませんが、いまのような緊急時であればこそ、首相を誰にするかが最大の政策課題なのではないかと思います。
誰が首相かによって、事態は全く変わるはずです。
それが緊急時の意味です。
ここで数週間遅れることを嘆くよりも、根本を直すべきだろうと思います。
しかしいかにも遅すぎました。
小沢さんがもっとはやく動き出せば、自体は全く違ったものになったのではないかともいます。
それを封じたのはマスコミと私たちです。
さて明日の不信任案の結果はどうなるでしょうか。
不信任案が成立すると思っています。
まあ、政治に関する私の予想は当たったことがありませんが。
新しい首相は、小沢さんにお願いしたいですが、世論が邪魔して無理かもしれません。
となるとだれでしょうか。
原口さんはどうでしょうか。
また友人から批判されそうですね。
さらに会ったことのない読者からは、「馬鹿」「死ね」ときついお叱りを受けると思いますが。
■実に残念(2011年6月2日)
手術がおわりました。4時間ほど意識のない世界にいましたが、意識が戻って最初に入ってきた話が不信任案は否決されたという話でした。
5時に一般病棟の戻り、テレビを見ました。
がっがりして退院が贈れそうです。
またずるずるとした政府をつづくのでしょうか。
国民はみんな現状に満足しているのですね。
口ではいろいろと言いますが、変化をもとめていないということなのでしょうね。
そろそろ隠棲したほうがいいかもしれません。
どうも時代の流れから落ちこぼれてしまっているようです。
■常に後追いのテレビジャーナリズム(2011年6月3日)
入院しているので、朝からずっとテレビの政治の動きの報道を見ていました。
しかしあまりのばかばかしさに、やめてしまいました。
今頃になって管首相では復興は進まないなどいう報道姿勢に変えても、もう何の役にも発ちません。
もっと腹立たしいのは、被災地の人たちのインタビューの報道です。
今日になって初めて管首相では復興は進まない、変わってほしかったという発言がでていました。
今まではこんな時期に首相を変えるという話は現地不在だという発言ばかりでした。
そういう発言を聞くたびに、私は被災者に正直、がっかりしていました。
政府が動かなければ自分たちで真剣に動かないような人たちは自業自得だとさえ思いました。
しかし実際にはそうした発言は、政府や東電に意を受けたテレビ局の関係者の編集の結果、取り上げられなかったのでしょう。
不信任案が否決されたので、もう大丈夫と流しだしたとしか思えません
今日はあの田崎さんまで、管首相ではダメだと明言していましたが、もっと早くからテレビで明言しておくべきで、そうした実態がしっかり語れたら、マスコミのいうがままの素直な国民の世論が変わり、流れも変わったでしょう。
小沢さんに対する実像ももう少しみんなきちんと語ってほしいと思います。
私は小沢さんも石原都知事も、その考え方はまったく正反対ですが、好き嫌いで意思決定すべきでないのが、昨今のような非常時だと思います。
岡田幹事長は「うそはつかないのが信条」とテレビでいいましたが、そしてそれは事実だと思いますが、「うそを見抜けず、現実をしっかり判断できずに、言葉を正しく伝える発言」は結果的にはうそになることをご存じないようです。
ちなみに、東復興副大臣の発言に感動しました。
■居場所によって世界は変わる(2011年6月6日)
入院6日目です。
手術も終わり、術後も順調なので、身体的不自由はあまりありませんし、テレビも新聞もネットもできるので、情報環境はさほど変わったようには思えません。
むしろ時間がある分だけ、その気になればマスコミやネットへのアクセスは増えるはずです。
しかし、どうも何かが違うのです。
一言で言えば、テレビも見る気があまりしないし、新聞もあまり読む気がなく、ネット検索もほとんどしなくなっています。
なぜでしょうか。
なにか自分が閉じ込められている気分が強く、世間と分断されているようで、そのせいか外部世界への関心が変質しているような気がします。
テレビで報道される原発事故の話や政局の動きも、どこか遠い世界の話のように感じます。
どうもこれは、居場所への拘束性に関係しているようです。
もう一つの理由は、定刻に食事が与えられ、ベッドで食べていることかもしれません。
つまり居場所を指定された家畜そのものなのです。
食べ物も飲み物も帰省されていて、自由にはなりません。
それが、もしかしたら意識を変えているのかもしれません。
視野狭窄と意識の自閉化がかなりあるように思います。
実際には、自宅で生活しているのと、さほど変わらないのですが、どこかで制約されていると意識があって、心身が解放されていないのかもしれません。
一番意外だったのは、現実への関心が非常に薄れている気がすることです。
たった6日だけのことなのに、これだけの意識の変化が起きます。
ましてや、被災地で避難所暮らしをしている人たちはどうでしょうか。
たぶん自分の家で暮らしていた時とは全く違う世界になっているのかもしれません。
それが長く続くとどうなるのか、たったまだ6日の暮らしなのに、こんなになってしまった自分に気づいて、驚いています。
私はあと2日で退院です。
先がわかっているかどうかも、たぶん大きな違いでしょうね。
■東北文化の復権(2011年6月6日)
東日本大震災は、社会の流れを変えるかもしれないほどのさまざまな動きを生み出しています。
それは、東北の被災地だけの話ではないかもしれませんが、現地での体験談などを聞かせてもらうと、これまでとは発想を変えた動きの萌芽を感じます。
いま、悪性の親知ら歯の抜歯で、入院7日目です。
その病院のラウンジに、佐治芳彦さんの「謎の東日流外三郡誌」の本がありました。
私が読んだのは、もう30年ほど前の本ですが、懐かしくて読み直してみました。
読んでいるうちに、これは偶然ではなく、大震災後の希望を私に教えてくれたのではないかという気がしてきました。
「東日流外三郡誌(つるがそとさんぐんし)」は、東北で保存されていた古史古伝の一書です。
そこには、古事記や日本書紀とは違う日本の歴史が書かれていますが、日本には日向族と荒吐族の2つの社会があったというのです。
日向族は大陸からの征服民族、荒吐族は日本列島に土着していた民族です。
そして、荒吐族は東北に民主的な古代社会連邦を打ち立てていたというのです。
佐治さんの本には、その社会がこう紹介されています。
「一族の長を荒吐5王と称し、火司土司金司水司木司の5役を称して5役とす。
5王たる者は一族を護るための導者にして、倭国の天皇たるごとき君主に非ず。
5王は自ら導者として労し智覚を学び、常に一族の異変ありし時は自ら赴き是を鎮ましむ大責任の主なり。
5王は一族の長老が談義して定む。
亦長老は一族の中より一族諸居住地より選抜され、智の優れたる者を長老とし、その条は老若男女を問わず過去現在未来を智覚し一族隣栄のため諸義し相謀り決否して5王への司政をたすく者を長老とし、その数若干なり」 (荒吐神之瑞章第二)
その社会では、相互扶助の仕組みがしっかりと構築されていたばかりか、その精神が「民」だけではなく、指導者にも徹底していた、といいます。
そのため荒吐族には日向族のような甚だしい貧富の差は生じなかった、と佐治さんは書いています。
また凶作の年には、「荒吐5王は互いに救ひ合うて凶地の民を安住の地に移らしむ」という方法を講じたりできるように、5王間には災害時の相互扶助協定もできていたそうです。
そのうえ「一食一汁たりとも吾が己有の物なく5王の民共有の物なり」。毎日の食糧も自分のもの=私有ではなく,5王の民の共同財産だという徹底した考えだったといいます。
ローマとは違ったゲルマンの総有制を思い出します。
猛々しい日本武尊が後半、愛の人になったのは、東日流との出会いだったのではないかと佐治さんは書いています。
日本史を貫く2つの基本的原理、「縄文的なもの」と「弥生的なもの」は、ともするとイメージが逆転していると私は思っていますが、東北には古来、豊かな人の支え合う文化があったのです。
辺見庸さんは、これほどの規模の震災を経験して、日常に戻るとしたら意味がない、と言っていました。
同感です。それは、あまりに哀しい。
新しい社会原理の方向性が、荒吐の東日流にあるように思いました。
■人と人をつなぐマナー(2011年6月7日)
今回入院してちょっと驚いたことがあります。
6人部屋の空き室に、私と若い人が同日に入院しました。
その若い人に声をかけて、よろしくと伝え、お互いに少し話しました。
声のものすごくきれいな若者です。
さて問題は昨日起こりました。
新たに4人の人が入院してきました。
当然のこととして、みんな声をかけてくるかと思っていました。
ところが,声をかけてくる人がいないのです。
入院で緊張しているからでしょうか。
そうかもしれません。
みんなとても良さそうな人たちばかりなのですが、どうも落ち着きません。
真向かいの人が、ちょっと会釈をしてくれました。
大きな救いになりました。
声をかけないことを批判しているのではありません。
みんな本当は声をかけたいのではないかと想います。
それが証拠に、少しずつみんな挨拶やら話を始めたからです。
昔は、入院時には同室の人に挨拶だけでなく、何かを配ったようなことさえあった気がします。
しかし、そうした文化はもうないでしょう。
つまり、昔は「人と人をつなぐ、あるいは声をかけあう文化」が、ルールとして、また仕組みとしてあったのです。
それが最近なくなってしまいました。
そのために、みんな他者への声かけがしにくくなってきているのではないかと思います。
最近、みんな口をそろえて、「つながり」や「支え合い」が大切だといいます。
私は、そうしたものは「大切」なのではなく、生きやすくなるための知恵だと思っています。
私は、大切だから誰かとつながりたいわけでも、支え合いをしたいわけではありません。
ただ、そうすると生きやすいからだけの話です。
しかし、そうしたマナーやルールや仕組みが、社会から抜け落ちていっているような気がしてなりません。
入院して、改めて社会のマナーやルールの変化に気づかせてもらっています。
■報告:8日間の入院生活を終わりました(2011年6月8日)
ブログにも書いてきましたが、6月1日に入院し、本日、退院しました。
はじめての入院生活でしたが、実に退屈で、実に面白く、実に窮屈で、つかれました。
良いことも少なくありませんでした。
同じく入院していた若者世代のやさしさを知りましたし、病院というものを実感的に知ることもできました。
病気は、含歯性のう胞と親知らず歯の除去でした。
自覚症状は全くなかったのですが、歯はばかにしてはいけないと歯医者さんに言われ、1年前から早く行くようにと松戸の日大歯学部付属病院を紹介してもらっていたのです。
妻の入院という、かなり辛い体験をしていたので、なかなか病院には足が向きませんでしたが、やっと行ってきたわけです。
私がなかなか行かないので、早く行ったほうがいいと、いろいろな人が電話をかけてきてくれたおかげです。
友人はありがたいものです(まあ、ちょっと迷惑なこともありますが)。
手術は全身麻酔でした。
肩に注射を打ってもらった以降は、全く記憶がありません。
その間、付き添ってくれた娘や医師の話によると、私は「会話」していたそうです。
しかし、全く意識がないのです。
手術はかなり大変だったようで、手術開始後、出てくるまで2時間以上かかったようです。
術後も順調で、手術の翌日に、医師から元気ですね、といわれました。
元気だったら退院させてくれればいいと思うのですが、退院は予定よりわずかに2日早まっただけでした。
残念ながら年齢のせいでしょう。
しかし、手術も術後の処置も完璧でした。
痛みもなければ、手術の記憶さえない。
入院中の不満はただ一つ、毎日かなり薄いおかゆだったことです。
さすがに最後は受け付けなくなり、もう金輪際、おかゆは食べまいと決めました。
病院食に関しては、いろんな気づきがありました。
一言でいえば、ケアリングの発想がまだ欠落しています。
食事の意味がたぶん理解されていないのです。
どこかの病院で食事改善のプロジェクトがあれば、参加したい気がします。
医師たちから、退院しても無茶しないようにといわれたので、無茶はしないつもりですが、どこからが無茶なのかを確認するために、帰宅後、病院で止められたことを試みてみました。
まずはたっぷり砂糖を入れた珈琲を2杯と紅茶を2杯飲みました。
当分はとるなと言われていたのですが、思い切り甘いものを食べました。
シュークリーム、ケーキ、アイスクリーム、キャラメルコーン、・・・
さすがに胸がむかついてきました。
昼食は娘がやわらかいものを用意してくれていたのですが、わがままを言って、かためのご飯を炊き直してもらい、思い切り辛い塩鮭にしてもらいました。
入院中は塩分もずっと禁じられていたのです。
私が高血圧のせいか塩分のない食事でした。
私には納得できず、変更を申し込みましたが、だめだったのです。
おせんべいはやめろと医師にも言われていましたので、挑戦してみました。
ついでにピーナツまで食べてみました。
大体においてOKでした。
まあ、ちょっと治療したところから血が滲み出してきましたが、これは健康の証拠です。
さてだいたい試してみたので、どこまでが「無茶」かがかなりわかりました。
医師との約束を守って、無茶をやめるつもりです。
入院中、フェイスブックとメールで、いろんな人との交流はいつもよりも密でした。
点滴が止まった時には友人知人がアドバイスしてきてくれました。
改めてネットの威力を感じました。
病室では、パソコンとIPADが常時つながっていました。
退院時に、偶然、麻酔をしてくれた濱野医師に出会いました。
15000人に一人の危機を乗り越えてよかったですね、とエレベーターまでわざわざ見送ってくれました。
最後に、彼が「無茶はしないように」といったので、私は素直に無茶をしないことに決めたのです。
当分、毎週、通院です。
時々、さぼってもいいですかと確認したら、それはダメだといわれましたが、まあこれも一度、やってみなければわかりません。
世の中にある規範は、自分の心身で確認していかなければいけない。
改めて、そうした私の生き方を思い出させてくれた8日間でした。
娘が予定していた献立をほぼすべて否定したので、夕食は何にしようかと悩んでします。
そういえば、退院の時に、食事指導を娘は受けていたようです。
私も同席していましたが、全く興味がありません。
何を食べれば言いかを一番知っているのは私の心身だからです。
しかし、正直に言えば、長いおかゆ生活で、あまり食欲はありません。
味覚にも変化があったような気もします。
帰宅後、最初にかかってきた電話が任侠の世界の人からでした。
きっと、私のフェイスブックやブログを読んで、退院を知ってくれたのでしょう。
さすがに仁義に篤いと思ったら、食べ物は専門家の言う通りにせいや、というのです。
余計なお世話だ、食べ物の専門家は自分だよ、と切り替えしましたが、実は彼もそんなことはわかっている人です。
彼自身そういう生き方をしてきている人ですので、私は好きなのです。
専門家と言う人の専門知識も、問い直すべき時期だろうと思います。
改めてそう思ったのも、今回の入院のおかげです。
原発事故への対応の不幸は、中途半端な知識しかない原発の専門家にみんな依存していることだろうと思います。
長くなりましたが、この8日間の報告です。
ネットなどで応援してくださっていたみなさんに感謝します。
■原子力発電の捉え方(2011年6月12日)
「ほとんど起こりえない」と専門家が保証していたこと以上のことが、すでに現実に起きてしまったのだから、私たちは、「いつでも起こりえる」という前提に立って、あらためて私たちの生活を考え直す方がよさそうである。」
私よりも2歳年下の室田武さんの言葉です。
おそらくこの言葉に反対する人はいないでしょう。
こういう発言をする人も少なくないでしょう。
しかし、室田さんが書いたのは、1979年。今から30年以上前です。
その年に出版された「エネルギーとエントロピーの経済学」という本の序章に出てくる本です、
ここで、「ほとんど起こりえない」と言われているのは、スリーマイル島の事故のことです。
今回の福島原発事故のことではありません。
その本の副題は「石油文明からの飛躍」です。
室田さんが脱石油文明の先に見ていたのは、原子力ではありません。
最近流行でみんなが語りだした自然エネルギーです。
2年後の1981年に、室田さんは「原子力の経済学」を出版しています。
その本がもう少しきちんと読まれていたら、時代の流れは変わっていたでしょうか。
残念ながら、変わっていなかったでしょう。
時代が変わるためには、そこに生きる人一人ひとりの生き方が変わらなければいけません。
産業界も政治家も、そしてなによりもマスコミが、室田さんのメッセージを真面目に受け止めませんでした。
もちろん私たち生活者も、です。
その言葉に出会った時から、私は少しずつ生き方を変えてきました。
室田さんの「原子力の経済学」には、原発がいかに経済的にも高くつくのかがわかりやすく書かれています。
自分の目で確かめたくて、東海村の原発も見せてもらいました。
ちょっと時間はかかりましたが、10年後には会社も辞めました。
その間、取り組んだのは、自分の勤めていた会社の企業文化変革でした。
それには見事に失敗しました。
私にできるのは、まずは自らの生き方を変えることだと気づいたのです。
東京電力や電気事業連合会を責めるのは簡単です。
反原発デモも大切です。
しかし、私たちの生き方も変えないと、結局はまた、元の木阿弥になるでしょう。
最近の流れを見ていると、何も変わらないのではないかという気がしてなりません。
この人はと思っていた人までもが、本気で原発に対峙していないことに失望することも少なくありません。
しかし、失望していても、何も始まりません。
私自身の生き方を、もう一歩進めようと思います。
先があまりないのが。少し残念ではありますが。
■合意と排除(2011年6月12日)
政治の行き詰まりの中で、大連立が話題になってきています。
この国難に、党を超えて取り組まなければいけない、ということが大義になってきています。
ころころ首相を変えてはいけないという、私にはとんでもない大義と同じように響きます。
こうやって、社会は奈落へと向かいだすのでしょう。
民主主義政治で重視される「合意」には、必ず排除がつきまといます。
合意は、異質なものの排除があって成立します。
熟議民主主義では、合意よりも異質のぶつけ合いが重視されますが、現実の世界の合意は必ず排除を伴うはずです。
大連立すれば、事が迅速に進むという人がいますが、それはまた別の話です。
迅速に進むかどうかが手続きの問題であるのは、平時においてであって、異常時のことではありません。
異常時の実行体制と平常時の実行体制は、まったく原理をことにします。
その原理の組み換えと取り組みの意識の転換に、今の内閣は取り組んでいないだけの話です。
そこには、まさに「近代のジレンマ」があります。
問題を発生させることが経済を活性化させ企業が発展するというテーゼです。
政治もまた、問題があればこそ、首相は延命できるわけです。
矛盾しているようですが、平時における問題解決の先送りは必ずしも延命につながりませんが、緊急時にはなぜかみんな保守的になってしまいます。
たぶん発想に余裕がなくなるからでしょうが、それが問題をさらに深刻化させ、カタストロフィーへとつながります。
そうしたことが、ミクロでもマクロでも、重層的に、フラクタルに現出しています。
そうして、誰もが突出できなくなります。
極めて馬鹿げた話なのですが、それがいま起こっている政治状況のように思います。
大切なのは、排除した合意形成ではなく、あらゆる異質を包摂した多様な発想を踏まえた、展望を持った実践です。
合意のためにリーダーシップなどは不要です。
大切なのは、実践のためのリーダーシップであり、信頼感です。
それは、大連立などしなくても、いくらでもできる話でしょう。
合意に含意される排除の側面を軽く見てはいけないように思います。
■「東北を復興させる」のか、「東北が復興する」のか(2011年6月12日)
私がいつも気にしていることがあります。
何事かが語られている時に、それが自動詞か他動詞かということです。
そういう視点で、ずっと気になっているのが、東日本大震災の復興ビジョンを描く「復興構想会議」の位置づけです。
会議そのものを否定するつもりはありませんが、私にはほとんど無意味な会議だと思えてなりません。
その理由は2つあります。
いささか主観的過ぎるかもしれませんが、メンバーがほぼ全員「終わった人」あるいは「これまでの社会を推進してきた人」だというのが、第1の理由です。
政府が設置する諮問会議は、ほぼすべてがそうですから、今回に限って意味がないと思っているわけではありませんが、大きな「パラダイム転換」が求められている状況におけるメンバーとしては、あまりに保守的です。
復興は、パラダイム転換ではなく、過去に戻ること、という認識が政府にはあるのかもしれません。
この点は、ふたつ目の理由につながります。
そして私にとっては、そのことの故に、復興構想会議には何の期待も持てません。
それは、「復興」が自動詞か他動詞かに関わっています。
つまり、「東北を復興させる」のか、「東北が復興する」のか、です。
復興構想会議の視点、あるいは理念は、前者です。
政府のやることですから、それは当然です。
国家統治のための視点で、復興のビジョンと手段が構想されるわけです。
そうした視点からは、財源確保のための増税発想が出てきてもおかしくありません。
私は、今回の大震災で、時代の流れが変わり、社会の構造原理が見直されるだろうということを地震直後に書きました。
その後、復興が進むなかで、そうした予兆も感じました。
いま必要なのは、東北の人たちによる新しい社会の創造という視点です。
古い知識や体験に呪縛されている、いわゆる「有識者」は、そうした動きの中では、邪魔こそすれ、なんら創造的な構想など描けないでしょう。
新しい事態への対応にとって、「有識」であることは必ずしもいいわけではないのです。
少なくとも、素直に現実を見て、現実にある人たちと共に、構想していく姿勢が基本になければいけません。
おそらく東北の現場では、新しい知がどんどんと生まれてきているのではないかと思います。
これまでの社会が産んでしまった「被害の増幅」を謙虚に直視し、社会そのもののあり方、生活のあり方を問い直すという姿勢が求められているような気がします。
そして、そのことは、なにも直接的な被災者だけではなく、私たちにとっても必要な認識と課題ではないかと思います。
だれのための復興か、その認識を間違えないようにしたいと思っています。
■「原発の暴利をむさぼってきた人達」(2011年6月15日)
見えない放射線の恐怖が日増しに高まっています。
数日前に、挽歌編で、シャデラックスの「PPMのうた」の歌詞の一部を紹介しました。
再掲します。
PPMってなんのこと どこにかくれているのだろう
PPMってだれのこと どこからやってくるのだろう
(中略)
牛乳ビンにもかくれている
べんきょうしてても気になるの
ごはんのときも気になるの
夢のなかまで追いかける
にげてもにげても にげられない
このPPMを「放射能」と言い換えると、まさに今の状況です。
反原発の動きも、ようやくマスコミに取り上げられるほどに認知されてきました。
もっとも、イタリアの国民投票の結果に関しては「ヒステリー現象」という見方もあるようですから、日本の場合は、まだまだ脱原発には程遠いでしょう。
いま日本で国民投票をしても、脱原発にはならないように思います。
なぜでしょうか。
それはまだまだ多くの人が原発に依存している生活を捨てたくないからです。
反原発の人たちの発言をネットで見ていると、かなり過激です。
彼らの怒りは、「原発の暴利をむさぼってきた人達」に向けられています。
しかし、私には、そう言う人たちもまた、「原発の暴利をむさぼってきた人達」だと思えてなりません。
こんなことをいうと顰蹙をかうでしょうが、暴利はともかく、「原発の利益」であれば、この日本に住む人はほぼ例外なく、原発の利益に乗っかってきたのです。
もちろん私もその一人です。
その自覚のない、反原発論者にはどうも違和感があります。
それでは反対運動に勢いがつかないのですが、私自身がどうも大手を振って、反原発と言えない弱みを感じています。
12日に行われた、藤沢久美さんの司会の自然エネルギーに関する「総理・有識者オープン懇談会」をユーチューブで観ました。
ご覧になった方も多いでしょうが、なにか緊張感のない退屈な議論ばかりでした。
彼らには、3.11は何の変化も与えていないのだろうか、という感じさえ持ちました。
まあ言いすぎかもしれませんが、これが原発のおかげで豊かさを味わっている日本の現実なのでしょう。
福島県及びその周辺の人たちは別にして、多くの日本人は、まだまだ原発の安全性への不安が増しただけで、自らの生活を変えようなどとは思ってもいないでしょう。
放射線汚染は広がり、実際の危険度は高まっていると思いますが、多くの人たちの意識は、落ち着きだしています。
ですから、自分たちで放射線量を測定しようと言う母親たちや、子どもを疎開させようとしている福島の母親たちへの、世間の目は決してあたたかくはありません。
ほとんどの人の頭は、いまだに「原発漬け」になっているのです。
そこから抜け出たいと思います。
しかし、これまで恩恵を受けてきた原発への借りを、どう返したらよいのか、私にはわかりません。
また、原発からの利益をどう辞退できるのかもわかりません。
節電しろといわれますが、私はそんなことは昔からやっています。
脱原発と言いながらも、相変わらず原発の恩恵の中で暮らし続けることの気持ち悪さが、やりきれません。
私もまた、「原発の暴利をむさぼってきた一人」なのだという意識が数日前から、頭に入り込んで以来、どうも元気が出てきません。
■愛が欠けている社会(2011年6月17日)
昨日、企業の管理者の人たちにお話させてもらう機会がありました。
「経営道」を学ぶプログラムの中での一つのセッションです。
毎年、話をさせてもらっていますが、企業の世界とはかなり違った話をするので、聴いているほうには戸惑いもあるようです。
共感もあれば反発もある、事務局の人からはそう聞いています。
かなり手ひどく、昨今の経済や経営の在り方を批判しているから無理もありません。
昨日はちょっとトーンダウンして話させてもらいました。
話の入り口は、3.11です。
これだけの体験をしたのだから、意識の上でも大きな変化が起きるはずだと、私は思っています。
そこで、まず会社や仕事への影響から入り、それぞれが考え方や行動に変化がありましたかと問いかけました。
突然の問いかけなので、戸惑ったかもしれません。
しかしあまりはっきりした変化の発言がなかったのが意外でした。
私の話からの学びなど高が知れています。
しかし、これだけの大事件からの学びは大きいはずです。
それが言語化、あるいは意識化されていないのです。
そこに、正直、私はショックを受けました。
組織の中にいるとなかなか社会は見えてこないのかもしれません。
まさに主権国家の虚構が見事に構築されているわけです。
もう少し時間をかければ、さまざまな意見や気づきの発言があったと思います。
それに、そうした「生の声」を一人称で語ることに、企業の人は全く慣れていないのです。
付き合っていて、いつもそれを強く感じます。
今の社会に欠けているのはなんだろうという問いかけもさせてもらいました。
いろいろと出てきましたが、お一人が「愛情」だといってくれました。
「愛が欠けている社会」
まったくその通りだと思います。
そこから「愛」について議論を深めればよかったのですが、私の完全なミスで話題が違う方向に行ってしまいました。
発言者には悪いことをしましたが、後で少しフォローする機会がありましたので、よかったです。
まあ不十分でしたが。
その人が言ったように、まさにいま「愛」が欠けている。
私自身、その視点を最近忘れていたことに気づきました。
いま取り戻すべきは「愛」ですね。
愛を取り戻さなければいけません。
みなさんは、世界を愛していますか。
■自然エネルギーに関する「総理・国民オープン対話」への違和感(2011年6月19日)
自然エネルギーに関する「総理・国民オープン対話」のフォローを、いま菅首相も出演して、ユーストリームで生放送しています。
今まで見ていましたが、あまりのばかばかしさにやめてしまいました。
前回の放送も見ましたが、なぜいま、この時期にこんなところに首相が時間を割いているのか理解に苦しみます。
前回、出演したソフトバンクの孫さんと菅さんは気があったようで、その後、孫さんが菅首相に10年首相を続けてくださいといっている映像が何回もテレビで流れていますが、孫さんと言う人も救いがたい商売人だと改めて思いました。
やはりIpadを買ったのは失敗でした。
Ipadの使い勝手の悪さが最近よくわかりました。
自然エネルギーは、政策次第にコストはいかように変わります。
それは原発のコストと同じです。
最大に決めては、原発をどう考えるかと深くつながっています。
その原則を曖昧なままにして、無責任な自然エネルギーの夢を語ることにはどうも違和感があります。
それに菅首相の話していることは、ネットでもわかるような「知識」でしかありません。
いま必要なのは、原発をどうするのか、いまの福島問題をどう解決するかです。
菅首相に、そうした意識が感じられないことに怒りを感じます。
それを応援している、「市民活動家」たちにも失望しました。
■ミツバチが消えたのはネオニコチノイドのためではないのではないか(2011年6月20日)
2009年1月に書いた「ミツバチが消えたのはネオニコチノイドのためか」へのアクセスはいまも続いています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-dbaf.html
ほぼ毎日3〜5件のアクセスがあるのです。
なぜかよくわからないのですが。
しかし、ミツバチが消えたのはネオニコチノイドだけではないかもしれません。
最近、話題になっている「働かないアリにも意義がある」という本を読みました。
そこにこんなことが書かれていました。
少し前までは野菜のハウス栽培で、花を受粉させて結実させるのにミツバチが使われていました。ところが、そうやってハウスに放たれたミツバチはなぜかすぐに数が減り、コロニーが壊滅してしまうのです。ハウスではいつも狭い範囲にたくさんの花があるため、ミツバチたちは広い野外であちこちに散らばる花から散発的に蜜を集めるときよりも多くの時間働かなければならず、厳しい労働環境に置かれているようです。この過剰労働がワーカーの寿命を縮めるらしく、幼虫の成長によるワーカーの補充が間に合わなくなって、コロニーが壊滅するようです。実験的に検証された結果ではありませんが、ハチやアリにも「過労死」と呼べる現象があり、これはその一例なのではないかと思われます。
とても示唆に富んだ話です。
ミツバチが人口的な働きの場に取り組まれて、その生産効率を高めるための仕組みが整備されてくると、それまでにはたぶん存在しなかった「過労死現象」が発生するというわけです。
この本のタイトルは、「働かないアリにも意義がある」ですが、その「意義」とは何かというと、今様にいえば持続可能性の保全と言っていいかもしれません。
働かないように見えるアリも、決して働いていないのではなく、環境への反応感受性の違いから、「ある状況」では働かないだけの話だというのです。
著者の長谷川さんは、仕事があれば全員がいっせいに働いてしまうシステムのほうが生産性は高いが、実際のアリやハチの社会のように反応閾値(反応感受性)がさまざまな人がいるシステムのほうが、システムとしては長期間存続すると書いています。
詳しくは、あるいは正確には、同書を読んでもらうのがいいですが、さまざまな存在がいる組織のほうが、結局は生き残っていくわけです。
さて、ミツバチがなぜ激減したのか。
それはもしかしたら、ミツバチの世界が人間の効率主義発想で変質させられたからかもしれません。
もしそうならば、人間の世界でも起こりうる話です。
働きすぎるほど働く人が主流になっている社会は、もろい社会なのかもしれません。
■人間が創りだしたシステムに人間が使われている(2011年6月22日)
いささか暑すぎますが、さわやかな日です。
窓から入ってくる風に、心地よさを感じます。
しかし、その風も、残念ながら昨年までの風とは違います。
北風だと、大丈夫だろうかという不安が浮かばないわけではありません。
見えない放射線は、おそらくかなりの広がりで地球環境を汚染しているはずです。
子どもを持った母親たちは、戦々恐々として自衛策を取り出していますが、無策の政治に対してはどう行動していいかわからないためか、動きは鈍いです。
解決を先延ばしにしているとしか思えない管首相は原発推進の姿勢を崩してはいませんし、問題解決に取り組んでいるとは思えませんが、国民の多くはなぜか菅首相が好きのようです。
小沢さんを選べば、事態は大きく変わるでしょうが、そういう動きはテレビでは報道されません。
大震災の前に出版された「誰が小沢一郎を殺すのか」という、知日派のウォルフレンの本にこんな文章があります。
日本の人々は激しく怒るには、あまりに分別がありすぎる。
きわめて知的な日本人たちは、自分たちがたとえ体制に批判的であっても、それで世の中が変わるはずはないとわかっているのだ。
大震災の被災地でさえ、秩序が維持されてことが、海外から高く評価されました。
私もそれに感激しました。
しかし、それはほんとうに、誇るべきことなのかどうか。
最近少し迷いだしています。
私たち日本人には「分別」がありすぎるのかもしれません。
「家畜としての分別」が、です。
みんな「お金」という餌に釣られて、生命を売ってしまったのかもしれない、そんな思いが最近強くあります。
それにしてもなぜ政局は変わらないのか。
実に不思議です。
やはり個人はシステムには勝てないのかもしれません。
人間が創りだしたシステムに、人間が使われている。
私には何ともやりきれない時代の到来です。
やはり私たちの支配者はシステムなのでしょうか。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/09/post-0e17.html
■復興に名を借りた市場化への不安(2011年6月23日)
日本の政治はなかなか変わりません。
日本人は、見事に組織人になっていますから、仕方がないのかもしれません。
組織には、「変化に対する抵抗力」と「責任の回避システム」が存在します。
したがって、変化への対応力はもともと組織にはありません。
それを超えて、組織を動かすのは組織のトップだけです。
だからこそ、こうした時期には「トップ」の資質が問われます。
いまの日本は、誰がトップでもいい時代ではないのです。
国会延長に関して、自民党の河野議員は党の方針を批判しました。
その話の内容は、だれも反対できません。
この話に象徴されるのですが、テレビの報道はいつも各論での議論の報道です。
全体を長期的に見通すことは簡単ではありませんから、どうしてもそうなります。
そして私たち国民も、各論で考える文化にすっかり慣れてしまいました。
しかも発想は従来の延長のままです。
首相はころころ変わるべきではないというのは、「変化に対する抵抗力」の最たるもののひとつです。
今は誰を首相にすべきかではなく、どう復興を成し遂げるかだという議論は、まさに「責任の回避システム」の罠に陥っています。
今の政治に必要なのは、しっかりしたリーダーを選ぶことです。
それがなければ、いかなる各論最適解も効果は発揮しないでしょう。
国会を開いていればいいという話ではないはずです。
なぜ国会を開いていなければ、法律をつくらなければ、いけないのか。
私には、とてもばかげた話です。
国会を開いていないで、現地に行くべきですし、法律をつくる前にしっかりしたビジョンをつくるべきです。
政治は、いまや「官僚のアリバイ工作の具」になっています。
東北の復興は大切です。
原発事故の終息も大切です。
しかし、どう終息させるかが問題なのです。
たとえば東北の漁業の復興に関して、企業の導入を認めるかどうかでの議論が報道されています。
宮城県の村井知事も含めて、復興会議も、企業化に積極的のようですが、現地の漁民たちには不安も多いようです。
漁業に限らず、農業もそうですが、東北はまさに世界的な「市場化」の対象にされています。
復興が市場化であってはならないと私は思いますが、郵政民営化を望んだ国ですから、今の状況ではそういう方向に行きかねません。
最後に残っていた、豊かな東北文化が市場化され、孫さんのような人たちを通して、金融資本に取り込まれていくかと思うと、何が復興だと思いたくもなります。
他動詞の復興か自動詞の復興かについて前にも書きましたが、復興された東北が、これまでの東北とは違ったものになってしまうことに、大きな危惧を感じます。
東北の復興には、おそらく巨額な利権が群がっているのでしょう。
お金は社会をだめにすると改めて最近また思っています。
こんなことをいうと、被災者の人たちに怒られそうですが。
■報道は政府の愛玩犬になってしまった(2011年6月23日)
ダニエル・エルズバーグさんが、今朝の朝日新聞に「堕落した報道、政府の愛玩犬」と語っています。
エルズバーグさんは、いうまでもなく、米国防総省のベトナム戦争秘密文書(ペンタゴン白書)を内部告発した人です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/911_d094.html
エルズバーグの「ベトナム戦争報告」(1973年)を読んだ時はショックでした。
国家への不信感が確信に変わったのも、この頃からです。
久しぶりにエルズバーグの名前に出会い、そのメッセージを読みました。
彼はこう語っています。
今の米メディアは、政権批判をためらい、まるで政府の言いなりの「ラップドツグ」(愛玩犬)だ。70年代に見せた勇敢さはなく、「赤狩り」があった冷戦期の50年代に逆戻りしてしまったかのようだ。主な要因は9・11の米同時多発テロだ。米メディアは9・11以降、非国民や裏切り者と呼ばれることを恐れるようになった。その結果、イラク戦争で大量破壊兵器が存在するとウソをついた政府に操られた。
最近の日本のマスコミもまた、「ラップドツグ」(愛玩犬)になっています。
飼いならされるとは、こういうことなのでしょう。
わが家のチビタは、時に私にも牙を見せて怒りますので、性格の悪い犬だと思っていましたが、性格が悪いのは怒らせる私のほうが悪いのでしょう。
飼い主まで咬んでくるチビタをほめてやらねばいけません。
それはともかく、私が気になっているのは、3.11以降の日本のメディアの動きです。
どこか「気持ちが悪い」のです。
それに加担しているのが、市民活動やNPOのような気もしてなりません。
具体的に何がとはいえないのですが、心身が拒否反応を時々示します。
自然エネルギーへの転換というウソにだまされなければいいのですが。
同じ紙面で、米国のジャーナリストが、政府は「うそ」をつくものだと語っています。
どれほどの嘘を体験すれば、みんなそれに気づくのでしょうか。
■死刑制度と「赦し」(2011年6月24日)
4月29日に、私のオフィスに1冊の本が投函されていました。
ブログの読者からの投函でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action11.htm#0429
CWSコモンズの記事(「読者から届いた1冊の本」)を読んでもらえればと思いますが、私のブログの光市母子殺害事件に関する安田弁護士への私の批判には同意できないというというのが、本に挟まっていたメッセージでした。
手紙に書かれていたメールアドレスに連絡しましたが、アドレスが違って書かれていたようで、いろいろとトライしましたが、届きませんでした。
この話はブログにも書きました。
本は読ませてもらいました。
内容は基本的に共感できるものでした。
私も検事を目指した時期もあるほどですから、冤罪への怒りは大きいです。
きっかけは、中学のころ観た映画「八海事件」でした。
それ以来、権力への不信感が始まり、私の人生は大きく方向づけられたような気がします。
死刑制度には私も反対ですし、昨今の裁判制度にも違和感どころか拒否感があります。
ですから死刑制度反対に取り組む安田弁護士たちの活動には共感できます。
しかしだからこそ、光市母子殺害事件に関連しての安田弁護士の発言には大きな違和感があります。
それは今も変わっていません。
今日、時間があったので、思い出して、安田弁護士の講演録をネットで探して読ませてもらいました。
元プロボクサー袴田巌さんを救う会「キラキラ星通信」第61号に掲載されている記事です。
http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/yasuda0611.html
「日本の裁判はどこまで信用できるか」と題して、安田弁護士が講演しています。
とてもわかりやすく、とても共感できます。
講演時期は2006年の11月です。
私が安田批判をした前年です。
もしこの時に、この記事を読んでいたら、たぶん私の批判のトーンは変わっていたでしょう。
私が安田さんのメッセージに心引かれたのは、講演の最後の「赦しについての話」です。
ある事件で殺害された若者の父親は、加害者の謝罪の言葉に絶対に耳を貸しませんでした。
ところが9年目にして、加害者を赦すのです。
そして、父親は加害者に「頑張れよ」という手紙を出すのです。
その話を紹介した後に、安田弁護士はこう話しています。
彼を死刑にした場合に、この十年後の赦しはあっただろうか。お父さんは、もし彼の謝罪がなかったら、今のような気持ちになれただろうか。憎しみが残ってたかもしれない。僕は死刑は絶対なくさなければならないと思ってるんです。それは人道に反するだけじゃなくて、死刑によっては絶対にものを生まない。人間の信頼は回復しない。僕はそれを見て、人間はこんなにすごいものなのか、人間はこれほど信頼できるものなのか。
中途半端な引用なので、ぜひ本文を読んでください。
長いですから、最後の「赦しについて」のところだけでもいいです。
安田さんへのイメージが変わりました。
もちろんブログに書いたことを撤回するつもりはありませんが、いささか短絡的だったかもしれないと、そんな気持ちになっています。
本を届けてくれた人に会いたくなりました。
もしこの記事を読んでくださったら、メールをいただけないでしょうか。
湯島に来てもらってもいいです。
■「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」(2011年6月25日)
今日は涼しい1日でした。
太平洋側の高気圧と大陸の低気圧が競り合っているなかに、台風がやってきたので、暑さと涼しさが入れ替わってしまいました。
自然の力の大きさはいつも驚かされます。
「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さは、経済成長優先社会におけるわれわれの人間の条件の否定を現出させている」とフランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシェは「脱成長の道」の中で書いていますが、全く同感です。
そろそろ経済成長神話から、私たちは抜け出なければいけません。
しかし一度つくりあげられた「常識」からは、なかなか抜け出られないのも人間です。
その「常識」の中にいることが、「生きやすさ」を生み出してくれるからです。
そうしてみんな、自分で考えることをできるだけ縮減し、大きな流れに身を任せていくわけです。
それだけではありません。
社会全体を、個人が考えることを最小化するようなシステムに仕上げていきます。
そうした社会で生きるためには、今度は逆に、自分の考えが邪魔になっていくという、転倒現象が起きてきます。
ファシズムやポピュリズムは、そうした現象の一つですが、後から振り返るととてもおかしな社会であろうと、そこで生きていた人にとっては、もしかしたら快適だったのかもしれません。
東北の大震災は、「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」のゆえに、被害を大きくしたといえるかもしれません。
自然とともに生きる文化を、おそらく日本ではもっとも強く残していた東北でさえ、あれほどの被害が発生したのですから、もし他の地域だったら、おそらくもっと大きな被害を引き起こしたのではないかと思います。
しかし、気になるのは、その復興です。
「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」の延長で、復興が考えられているとしたら、それは3次災害とさえ言えるかもしれません。
節電がブームですが、節電しなければいけないような、あるいは節電が可能なような生き方をこそ、見直すべきかもしれません。
自然がちょっと動いただけで、これほど気温が変わることを、やはり謙虚に受け止めたいと思います。
■ふたつの豊かさ(2011年6月27日)
山口県の二井知事が、中国電力の上関原発建設予定地の埋め立て免許の延長を現状では認めない方針を表明しました。
上関原発の建設予定地は、最近、話題になっている映画「祝の島」や「ミツバチの羽音と地球の回転」の舞台でもある祝島のすぐ目の前です。
自然に恵まれて、豊かな暮らしをつづけてきた祝島の人たちにとっては、とんでもない話だと思いますが、二井知事はこれまで国の方針に従って原発建設を推進してきました。
今回、埋め立てをストップさせたのは、福島原発事故以来の流れの中で、知事にとっては「やむを得ずの決定」だったのだろうと思います。
しかし、もし仮に福島の事故が起きなかったらどうだったでしょうか。
祝島には豊かな文化があるといわれています。
しかしそれは、私たちが目指してきた「お金で構築された豊かさ」ではありません。
自然や歴史、あるいは人のつながりの中で育まれてきた豊かさです。
上関町はどうだったのでしょうか。
おそらく自治体としての財政的な理由で、原発の誘致を認めたのでしょう。
それによって、福島がそうであったように、巨額の原発マネーが入ってくるばかりか、これまでとは違った「働きの場」も生まれ、経済は成長したかもしれません。
しかし、それによってもたらされる「豊かさ」と地域が長年培ってきた「豊かさ」とは。まったく別のものと言っていいでしょう。
そのどちらの「豊かさ」を選ぶかは、そこに住んでいる人が決める問題です。
それをとやかく言うべきではないと思いますが、今回の原発事故が明らかにしてくれたことは、「そこで住んでいる人たち」とはいったい誰なのかということです。
技術の巨大化は、影響を与える地域を想像以上に広げているのです。
広がりは空間的だけではなく、時間的にもいえるでしょう。
福島の住民たちが被害者であると共に、加害者であるという事実は、決して忘れてはいけません。
地域を預かるということは、そういうことなのだろうと思います。
もちろん安い電気の恩恵を受けてきた私も、福島県民と同じように、加害者でもあります。
被害者として考えるか、加害者として考えるか。
それによって行動は変わってきます。
そして、そのことは、ふたつの豊かさのいずれを目指すかにもつながります。
最近盛んに言われる節電発想に、私は大きな違和感をもっています。
一時期盛んに放映されたACのCMのメッセージも、どうしてもなじめません。
何をいまさらと思いますし、そういう流行で動いている人たちはどうせまた元に戻ると思っています。
大切なのは、自らの生き方です。
東北復興の先に何があるのか。
復興すべきは、東北ではなく、私の生き方だろうと思います。
■原発をめぐる駆け引きとその本質(2011年6月30日)
原発を巡って電力会社の株主総会は賑やかだったようですが、基本的には原発推進の動きが強まるような気がします。
菅政権のうちに、原発路線を一歩でも進めておこうと言うように思います。
菅首相は自然エネルギーへの関心を語っていますが、おそらく陽動作戦としか思えません。
彼はもちろん、現民主党政権は原発推進派だろうと思いますが、なぜかそう思っていない人が多いのには驚きます。
九州電力の玄海原発の運転再開の動きは予想以上の早さです。
また巨額なお金が動いたとしか思えません。
これでさらに勢いがつくでしょう。
しかし、日本国民の多くは原発依存を変えていませんから、仕方がないことかもしれません。
マスコミの姿勢が変わらない限り、この事態は変わらないでしょう。
福島原発では、相変わらず、水漏れなどのお粗末なトラブルが続いています。
昨日、テレビの報道ステーションで「原発専門家」が、原発はキットとしては安全だというような話をしていました。
あまりにも馬鹿げた発言だったので、記憶が間違っているかもしれませんが。
こういう専門バカに私たちの生活は依存しているのかと思うといやになります。
「原発立地の安全性に関する科学者たちの議論を垣間見ると、往々に みして、安全性の問題が原子炉リスク管理という技術的な問題に収束される傾向がある」
こう書いているのは、国際基督教大学助手の中野佳裕さんです(「脱成長の道」)。
先日、湯島のオープンサロンで、ハイテクではなくローテクこそが大切だというような話が話題になりました。
どんな精度の高いシステム(キット)をつくっても、実際にそれは自然の中に設置され、人間が操作するのです。
実験室でおもちゃを作るのとは違うのですが、そのことがあまりにも軽視されています。
もっとも中野さんが言いたいのは、たぶんそのことではなく、生活の視点、人権の視点からの問題提起です。
彼はこう書いています。
原発のメカニズムの矛盾の科学的な検証は、もちろん重要である。しかし、より構造的かつ歴史的な観点から言えば、問題とされるのは、原発それ自体の技術的性能以上に、近代民主主義成立の根拠となる人権概念と照合した際の妥当性である。
前に何回か書いていますが、私の反原発の契機は、原発が人権を無視していることを知ってからです。
人間を基本にしない発想は改めなければいけません。
私は東レに勤めていた時に、会社の経営理念を見直させてもらいました。
新たに作成した理念のなかに、「人間を基本とする経営」という要素を入れました。
全社での議論を踏まえて、役員会でも議論してもらい、最後は経営会議で決定しました。
しかしある役員から、これまでの経営は人間を基本としていなかったのかと揶揄されました。
そして、私が会社を辞めてすぐに、新しい社長は経営理念を変えてしまいました。
これはほんの小さな事例ですが、時代の流れを象徴しています。
1980年代と同じく、企業はまた、大きな岐路にあるように思います。
今日は、ビジネススクールで話をさせてもらいますが、サブシシテンスから考える経済や経営の話を少しだけしてこようと思います。
伝わるといいのですが、もしかしたら状況は1980年代よりも悪いかもしれません。
原発論議は、人間の生活を起点において考えなければいけません。
そうすれば、議論の余地のないほど答は明確なような気がします。
■夏は暑いからこそ価値がある(2011年7月1日)
どんなに暑い夏でも、早朝は気持ちがいいものです。
朝、近くの農園に野菜をとりに行きました。
入院やら梅雨やらで、ずっと手入れにも行かずにいたために、せっかくかなりいいところまで復活していた家庭農園は、また雑草に覆われだしていました。
花畑は苗を植える前にまた雑草の楽園です。
それでもキュウリとトマトを収穫しました。
大震災からかなりがたちます。
大震災がその一因ですが、この4か月、生活のリズムが完全に崩れています。
何かをやる気もなく、しかし「やらない気」もなく、中途半端に流れています。
気になることは少なくないのですが、動こうという気になかなかなれません。
このまま世界が終わるといいのに、などという不謹慎な思いも、時に心にしのびこんできます。
いささか病的になっているのかもしれません。
そのせいか、時評編も書くモチベーションが起きません。
何を言っても、何を書いても、たぶん意味がないという思いもあります。
今朝、ふと思いました。
もうそろそろ戻ってもいいのではないかと。
それで畑に行ってきました。
少し生活を取り戻せそうな気がしてきました。
「節電」などというキャンペーンに取り込まれそうになっていた自分に気づきました。
大切なのは、節電ではなくて、生き方を変えることです。
生き方を変えずして、節電しても、事態を悪化させるだけの話です。
これに関してはまた改めて書こうと思いますが、自分をしっかりと生きようと思います。
今日も暑くなりそうです。
以前は、夏は暑いからこそ価値があると思っていました。
いつの間にか、暑さを嫌うようになっていました。
これは、私の生き方ではなかったはずです。
昨日はフェイスブックでいろんな人からいろんなコメントをもらいました。
いずれも他愛のないメッセージですが、そこからいくつかの気づきがありました。
あやうく時流に取り込まれそうになっている自分に気づきました。
注意しなければいけません。
今日は暑さを楽しみながら、身辺整理です。
あまりに周りが散らかっています。
もちろん「物理的な散らかり」だけではありません。
それに、片付けるのではなく、整理するだけですが。
整理すると先が見えてきます。
たぶん、ですが。
■自然との付き合いを忘れた生き方(2011年7月2日)
テレビで、山口県の祝島の生活を特集していました。
上関原発で話題になっているところです。
テレビの特集は短い時間だったこともあり、祝島の豊かさを十分には表現できていないように思いますが、それでもキャスターの辛坊さんが、この映像を見たら上関原発の決着は明らかですよね、と発言していました。
島民の一人が、「お金がないと都会では暮らしていけないが、ここではお金がなくとも(ある期間は)暮らしていける」と語っていました。
その言葉が印象的でした。
自然は、素直に受け止めれば、人を活かしてくれるようになっているのだろうと思います。
イソップの寓話に有名な金の卵を産む鶏の話があります。
毎日、1個しか卵を産まないことに不満を持った飼い主は、鶏のお腹の中には金塊があるにちがいないと、鶏のお腹を切り裂いてしまうのです。
もちろん金塊はなく、死んでしまった鶏は金の卵を産むこともなくなったという話です。
私たちの、自然との付き合い方を思わせる話です。
東北復興の話の多くに、私は自然との付き合い方を見直す発想を見つけられません。
いま必要なのは、自然との付き合い方を問い質すことではないかと思っています。
併せて、お金との付き合い方も問い質す必要があるように思います。
今回の大震災が教えてくれたことは、私たちが自然との付き合い方を忘れて、お金に依存しすぎてきたことではないかと思います。
前者への気づきは少しだけ広がっているように思いますが、後者に関してはますます強まっているようにも思います。
私の暮らしを守ってくれるのは、お金ではなく、自然や人です。
お金に支えられる生き方は、私には考えられません。
私はどうも間違った時代に生まれてしまったようです。
■なぜ誰も辞表を出さないのか(2011年7月3日)
日本の政治状況はますます悪くなっているような気がします。
菅首相に対する評価は日ましに悪化しているようですが、しかしだれも辞めさせられません。
閣僚になかにも批判的な発言をする人が増えてきました。
いまでもまだ、「ほかに誰がいるのか」などという人がいますが、まだ思考の呪縛から解放されていないとしか思えません。
問題の設定が間違っています。
しかし、これほどみんなが辞めるべきだといっているにも関わらず、本気で辞めさそうとしている人は見当たりません。
テレビで発言している人たちは、発言だけしかしないのでしょうか。
彼らの影響力を持ってすれば、横につながったら、いくらでも行動は起こせるはずです。
閣僚もそうです。
批判的な発言をしている閣僚は、即刻辞表を出すべきだと思いますが、誰も出しません。
その気がないなら、批判などするなと思います。
辞表も出さずに閣僚でいつづけることは菅首相と同じ仲間だということです。
本気で生きていない人が多すぎます。
納得できないことは続けるべきではありません。
そんなことよりも、まずは東北復興だという「大義名分」がよく語られますが、順序を間違ってはいけません。
首相とは、国政の最高責任者です。
首相を信頼できる体制を組むことが、すべての始まりでなければいけません。
私には、そんなことは「いろはのい」だと思います。
予算や制度や構想をいくらつくっても、それを生かすのか殺すかは首相次第です。
財源がないなどと馬鹿なことを言う人が多いですが、お金は人間が創る制度の一つでしかありません。
それに日本には、企業や個人が有り余るお金を抱え込んでいるのです。
国家予算を作らないと財源がないなどという、高利貸しのような発想は捨てなければいけません。
社会を変えていくのは、人間であって、お金や制度ではないのです。
お金に魂を売ってしまった人たちが、あまりにも多すぎます。
と、思い続けていましたが、国家政府がないほうが「新しい国のかたち」が生まれるためにはいいのかもしれないという思いになってきました。
さらにいえば、これを契機に「廃県置藩」がなされるかもしれないとさえ思います。
まあ、それは夢のまた夢ですが。
国家はパラダイムシフトすべき時期に来ています。
官僚や政治家を養うために国家があるわけではないのです。
そろそろ日本人も「お上依存」から抜け出さないといけないのではないかと思います。
■欲に目が眩んだ経済(2011年7月4日)
ガリヴァー旅行記を書いたジョナサン・スウィフトの人間的な評価はひどいものです。
中野好夫訳の同書の解説で、私はそれを知りました。
ガリヴァー旅行記もまた、持って行き場のないスウィフトの厭世観をぶつけた作品だったようです。
前半の小人国や大人国の渡航記はともかく、宮崎駿のアニメのタイトルにもなった、ラピュタの話から始まる後半のわけのわからない話からはスウィフトの失望感がたしかに伝わってきます。
英国の美風がくずれていく先にある世界を呪いながらも、自らもそれにまみれていることを、スウィフトは知っていたのでしょう。
みんな「欲に目が眩んで」せっかくの人生を貶めてしまうのです。
すべては、人が「欲」を持つ手段として「蓄財手段としてのお金」を発明したことから始まったのかもしれません。
ある意味では、近代西欧とは「欲に目がくらんだ時代」なのかもしれません。
そして、今の日本は、まさにその頂点にあるような気がします。
玄海原発が運転再開に向けて動き出しています。
菅首相は自然エネルギー派だという人もいますが、バカもほどほどにと思います。
人の考えは「言葉」ではなく「行動」に現れます。
それはともかく、今この時期に原発運転の安全を保証するなど「ありえない話」だと私は思いますが、何が何でも原発を推進していきたいという菅首相の欲が、そうさせているのでしょう。
この時期に、原発運転の再開に加担した人たちは、欲に目が眩んだとしか思えません。
欲は伝染するものです。
町長にも知事にも、そしてマスコミにも。
海外とのあまりの違いには驚きますが、これが日本の本質なのかもしれません。
原発の運転再開がなければ、経済が回らなくなるという人がいます。
「欲に目が眩んだ経済」は回らないほうがいいと私は思いますが。
原発の運転をもし再開するのであれば、「安全ではない」ことをしっかりと前提において、そのリスクをとる覚悟がなければいけません。
もし万一、事故が起こったら、運転再開を認めた住民たちがまずは責任を取るべきです。
その時になって、誰かに保証してもらおうなどという無責任な考えは捨てるべきです。
福島原発事故から学ぶべき事はたくさんあるはずですから。
■節電への違和感(2011年7月4日)
節電キャンペーンが、どうしても腑に落ちません。
節電に反対というわけではありません。
節電のキャンペーンの仕方に違和感があるのです。
それに「節電」とは「浪費」を前提にした発想のように思えて、私にはなじめないのです。
根本を直さない改善策は、長期的には問題の先送りでしかないからです。
政治権力者はそれでもいいいでしょうが、実際に生活している立場からは先送りは有害であっても益はないからです。
それに、私の電気の使い方は、無駄がないとは言いませんが、節電するほどの無駄はありません。
ところで、節電するということは東電の売上を減らすということにつながります。
私が腑に落ちないのはそのことです。
節電で東電の収益は低下します。
それが原発事故被災者への支援活動の妨げにならないのか、と思います。
電気料金と電力使用量の関係がどうなっているのかわかりませんが、ある相関関係があるはずです。
その相関係数を基準にして、消費量が目標分だけ減少するように、電気料金を高くするのがいいと、私は思います。
そうすれば東電の収益は減りません。
むしろ収益率は高まるはずですから、増えるかもしれません。
増えた分は被災者支援にまわせます。
節電とは別に、メーカーの土日創業の動きのような、消費量の平準化の動きはどうでしょうか。
これにも違和感があります。
たしかに消費ピークを低くする効果はあるでしょうが、全体の電力消費量は増えるだろうと思います。
神が日曜日に安息日をつくったのには深い意味があるように思いますが、それがくずれるのもなじめません。
しかし、平準化は電力会社にとっては大きなメリットのはずです。
電力は貯蔵できませんから、平準化されれば間違いなくコストダウンと売上アップになります。
しかし、繰り返しますが、社会全体にとっては電力消費量は間違いなく増加します。
つまり節電ではなく電力消費を増やすということです。
そうした2つのことが同一次元で語られています。
電気予報なども含めて、私たちはますます電気漬けに向かっています。
事故を起こした東電の商品は、すべての人の生活を支えるものであり、すべての産業の事業活動を支えるものです。
そこに問題の特殊性があります。
しかし、そこにこそ、問題解決の鍵があるだろうと思います。
発想を変えれば、その活動の、もう一つの意図が見えてきます。
■政治に期待しない国民がすべての出発点ではないのか(2011年7月5日)
その発言で批判されていた松本復興担当相が辞表を提出したそうです。
問題発言の場面をテレビで見た時に、私が最初に思ったのは、村井知事が怒らなかったことへの驚きです。
村井知事は、あとの記者会見で、国と自治体はパートナーだといっていますが、多くの県民を代表していると言う自覚がないと、私は最初のやりとりで感じました。
松本さんの態度は論外としても、それに対する村井さんの態度も私には残念でした。
こういう仲間内で、政治は進められているのだろうという失望感です。
この椿事を聞いた被災者の方が、「誰がやっても、何党がやってもいい」と嘆いていましたが、その発言も私には哀しい発言です。
「民主党政権には何も期待していない。誰が後任になっても変わらない」と語る人もいるとヤフーニュースに出ていましたが、政治に期待しなくなったら、すべては終わります。
たぶん最近の政治の混迷の起点は、国民が政治に期待しなくなったからかもしれません。
私は、政治は「誰がやるか」で大きく変わると思っています。
おそらく小沢一郎さんが首相になって国政を動かしたら、全く違ったものになったでしょう。
東北の復興も大きく変わったでしょうし、沖縄の基地問題も大きく変わったでしょう。
そう確信しています。
しかし、多くの国民はマスコミの情報に従い、検察というお上の意向にひれ伏し、小沢一郎を葬り去りました。
2年ほど前に書きましたが、小沢殺しが始まった時にせっかくの政権交代は無意味なものになってしまったように思います。
敵は実に強かです。
こうした事件が起こってもなお、管首相は居座ります。
それを許しているのは、私たち国民です。
誰が代官様でも状況は変わらないと思う人には政治を語ってほしくありません。
ちなみに、私は松本さんの言動は論外だと思う一方で、不思議な好感も持ちます。
なぜでしょうか。
しかし、その松本さんにしても自己の考えを貫徹できなかったわけです。
批判していた菅首相に従って、大臣を継続したのが理解できません。
大臣の辞任は遅すぎました。
復興担当相を引き受ける前に。6月3日の時点で、環境相への辞表を出すべきでした。
彼もまた、私には「欲に目が眩んだ政治家」に思えます。
■菅首相はなぜ持続しているのか(2011年7月6日)
松本復興担当相の辞任で、また菅首相にとっての「一定の目処」は先に延びました。
「問題解決」を起点にした発想が「近代の発想」だと私は考えていますが、問題解決型は注意しないと「一人芝居」になってしまいます。
その意味で、近代産業は「持続可能型」です。
生命保険の事業目的は生活の不安を取り除くことですが、生命保険事業を発展させるためには、生活の不安を広げることが必要です。
家電製品を売るには、故障やデザインの陳腐化を埋め込めば成長は持続します。
その限界が来たら、たとえば「地デジ化」のような枠組みを変えた技術展開をすればいいわけです。
事業そのものの中に、実は事業拡大の仕組みが組み込まれているわけです。
この構造を私は「産業のジレンマ」と呼んでいますが、そのジレンマは政治にも当てはまります。
権力を維持したければ、適度の不安をつくりつづければいいわけです。
恐怖政治はうまくコントロールできれば持続性が高いでしょう。
恐怖政治は、ある意味では民主政治以上に国民の参加度もしくは共演度は高いのです。
つまり、「問題を創りだすこと」が、顧客を生み出し、支配依存を醸成するわけです。
そこに、近代の政治や経営の本質があるように思います。
顧客の創造とは問題(不安)の創造でもあるわけです。
最近の菅首相の動きを見ていると、そのことが見事に出ています。
補正予算がすんなりと通り、復興がすんなりと軌道に乗れば、管首相が居座る理由はなくなります。
つまり、ほどほどの失政が政権を長続きさせるポイントなのかもしれません。
そんな気がしてきます。
解決の先送りは、まさに「延命」の最高の手段です。
そろそろ「近代のジレンマ」パラダイムから抜け出るのがいいような気がします。
菅首相が居座ることで利益を享受する人がたくさんいるのでしょうが、私は彼の顔を見るたびに気が萎えていきます。
最近はニュースもあまり見ません。
■サバルタンは自らを語ることができない(2011年7月10日)
「サバルタンは語ることができるか」という本を書いたガヤトリ・スピヴァクがブルガリアで講演した記録を読みました。
「ナショナリズと想像力」(青土社)です。
書名に惹かれて読んだのですが、難解でよく理解できません。
時をおいて、再読するつもりですが、読んでいて気づいたことがあります。
サバルタンとは下層民、従属民というような意味だそうですが、サバルタンは「自らを語ることができない」とスピヴァクは言うのです。
たとえばインドの女性たちは寡黙ですが、それは何を語っても外部に伝わらないからだと言うのです。
女性を解放するためには、先ず女性たちの言語と文法を育てなければいけません。
識字教育に取り組んだ「被抑圧者の教育学」のパウロ・フレイレも、言語が世界を創りだすと考えています。
言語は人の意識を変える最高の手段です。
方言を標準語に統一することで、日本人という概念が生まれたのかもしれません。
ところで、スピヴァクを読んで気づいたことですが、
もしかしたら東北の被災地の人たちもまた、自らを語ることができないでいるのではないかと言うことです。
あるいは、標準語もしくは「近代語」でコミュニケーションしなければいけない状況の中で、実は、その思いを具現化できずにいるのではないかと思ったのです。
こういう言い方をすると、被災者はサバルタンかと言われそうですが、私の認識は反対なのです。
世界に通用する「近代語」こそが、実はいまや「自らを語る言語」ではなくなってしまったのではないかということなのです。
とすると、東北復興のシナリオには、新しい未来は描けないおそれが強いです。
明らかに、主軸は他動詞の復興になるだろうからです。
フレイレは、抑圧者こそが実は被抑圧者だということを示していますが、スピヴァクもまた世界を支配していると思われている者たちこそ、実は言語を失ったサバルタンなのだといっているのではないか。
もしそうであれば、発想を変えなければ、新しい未来は開けてきません。
どの言語と文法でシナリを描くかは、歴史を分ける大きな問題です。
スピヴァク、フレイレ、東北復興。
この3つをつなげると、新しい未来が垣間見える気がします。
同時に、私自身の生き方に関しても、納得できることがありました。
これは挽歌編に書きます。
東北の未来は変えられなくとも、私の人生は変えられます。
■九州電力のやらせメール(2011年7月11日)
玄海原発の運転再開をテーマにした公開フォーラムに、九州電力の経営陣(の一部)が再開に好意的な意見を送るように関係者に働きかけたことが問題になっています。
九州電力はそんなことまでするのかとみんな怒っています。
しかし、私には何も驚くことではありません。
組織の行動として、当然過ぎるほど当然です。
もちろんだからと言って、それをよしとしているわけではありませんが、あまりにみんなの「驚き」が大きいので、逆に「白々しさ」を感じます。
自分に置き換えて考えれば、九州電力の行為はことさら騒ぐほどの話ではありません。
今は原発は悪者になっていますから、こういう意見が出てきますが、仮に1年前だったらどうでしょう。
反原発派のみなさんは、仲間に呼びかけて、原発反対の異見をメールしようという動きをしたはずです。
そうしたメールや投稿の呼びかけは、今もいろんな人たちが行っています。
また「やらせメール」と決め付けていますが、なぜ「やらせ」なのかもきちんと考えるべきです。
私は原発には反対ですが、だからと言って原発賛成の人たちの意見を封じ込めるつもりはありません。
人の考えはさまざまであり、絶対に正しいと思うのは個人の考えでしかありません。
私が危惧するのは、みんながきちんと考えることなく、大きな声に流されていく現実です。
原発が危険なことを指摘していた人は少なからずいました。
しかし多くの人はその声に耳を傾けませんでした。
そして自分たちの地域に原発を誘致し、その代償を得ていたのです。
おそらくその当時、原発誘致のために「やらせ発言」をしていた人もいるはずです。
いえ、原発に限りません。
諫早湾ではどうでしょうか。
道路建設ではどうでしょうか。
冤罪事件に加担してはいないでしょうか。
行政の無駄遣いに便乗してはいないでしょうか。
ともかく、「やらせメール」は充満しているのです。
九州電力の行為は、愚かな行為ではあると思いますが。取り立ててめずらしい行為ではありません。
みんながやっていることです。
私が大切だと思うことは、九州電力を責めるのではなく、自分の中にある、そうした「志向」、生き方を質すことです。
「識者たち」のテレビでの白々しい発言に、いささか過剰に反応してしまいました。
■不幸なすれ違い(2011年7月13日)
私が住んでいる千葉県の西北部は放射線のホットスポットのひとつとして、問題になっているところです。
昨日、柏市で、「子どもと安心して過ごすための放射線基礎講座」という公開講座が開催されました。
300人を予定していたところ、400人以上の人が集まってしまい、会場に入れずにお断りし、代わりに8月にもう一度、今度は1500人の会場を確保し、開くことにしたそうです。
開催したのは、柏市市民大学設立準備会という、行政と市民との協働組織です。
時宜を得たとてもいい企画だと思いますが、その後、開催された柏市市民大学設立準備会の集まりで、行政職員の人が、「市民から行政への批判や要望などが出るかと思っていたが、みんな真剣に聴いてくれた」という主旨の発言をされました。
その発言が、ちょっと気になりました。
行政はどうしても防衛的になります。
住民は実に勝手なことを言い、過剰な要望をしがちだからです。
時に感情的に行政に不満をぶつけ、批判することも少なくありません。
昨日も話したのですが、しかし、そういう行動にでるのも、情報が不足しているからです。
みんな事実を知りたがっているのです。
しかし、行政職員にとっては、「子どもと安心して過ごすための放射線基礎講座」を開催する場合にさえも、住民から不満や要請が出るのではないかという思いがでてくるということは、見過ごすべきことではありません。
そこにあるのは、「行政の住民への不信感」ではないかと思います。
自治体行政の出発点は「住民を信頼すること」だと、私は思っています。
実は、ちょうど同じ昨日、住民への信頼を出発点にしてつくりあげた、茨城県美野里町(現在の小美玉市)の文化センター「みの〜れ」の館長やスタッフと新しいプロジェクトの相談をしていました。
特定の住民を信頼することはそう難しいことではありませんが、不特定の「住民」を信頼することは簡単ではありません。
私の知る限り、信頼を出発点にして仕事をしていた自治体職員は、全国的にいっても、美野里町の沼田さんという人しか思い当りません。
彼はもう定年で退職しましたが、私が知り合えた最高の自治体職員でした。
ところで問題は、なぜ行政職員は住民を信頼できないかです。
その原因は、政府と住民にあると、私は思っています。
いささか品のない極端な表現をすれば、愚民思想に基づいて国民を管理しようとするお上の政府とそこに寄生しながら私欲を増やそうとする極めて一部の住民が、そうした状況をつくっているように思います。
不幸なのは、そうした一部の「住民」が、地域のオピニオンリーダーになったり、「住民参加行政」で活躍したりしていることです。
しかも、行政が意識する「住民」は、そういう特殊な住民なのです。
その結果、行政と住民は「協働」しても「共創」しない関係になっていきます。
誤解されるといけないのですが、柏の職員を批判しているのではありません。
そうした「不安」はあったものの、開催してみたら、住民はみんな真摯に耳を傾けてくれたことに気づけば、職員も元気が出ます。
公開された場で、住民と接すれば、行政は必ず「特殊でない住民」に出会えます。
柏はその一歩を踏み出しているのです。
多くの住民は行政を信頼したいのです。
美野里町は、その先を進んでいますが、そこにはそこに、また新しい課題が生まれてきているようです。
またそれに関してはいつか書きます。
■いま何が問われているのか(2011年7月14日)
核廃絶活動に取り組んでいた核物理学者の豊田利幸さんは、1983年に書いた「新・核戦略批判」のなかで、こんなことを書いています。
「核爆発の開発・製造のおぞましさから多少とも一般の人々の目を外らすために、「核エネルギーの平和利用」ということが喧伝されるようになったのと同様に、報道ミサイルや軍事衛星の研究・開発をカモフラージュするために、「宇宙の平和利用」が鳴り物入りで宣伝され、今日に至っている。」(同書31頁)
豊田さんは、「ラッセル=アインシュタイン宣言」に端を発する「パグウォッシュ会議」に早くから参加し、核兵器の危険性を訴えつづけてこられた方でもあります。
パグウォッシュ会議は、原子力開発に関する本質的な議論をした場だったと思いますが、その呼びかけ人の一人は、アインシュタインです。
この会議も結局は妥協の場だったようにも思えますが、バートランド・ラッセルやアインシュタインの誠実さと勇気には感動します。
「原爆の父」とさえ言われるマンハッタン計画の最高責任者オッペンハイマーにとっては、原爆の開発成功が悲劇の発端になりました。
彼の勇気には、さらに感動します。
アインシュタインやオッペンハイマーでさえ、最初のボタンがけの時には、未来は見通せなかったでしょう。
しかし、かれらは早い時期に、生き方を変えました。
福島原発事故の発生以来、元原発技術者が懺悔しながらも本を出版したり講演をしたりし始めました。
それは非難すべきことではなく、むしろ歓迎すべきことでしょう。
しかし、私には素直に受け容れられない気分があります。
時流に乗って発言することへの不信感が拭えないのです。
今朝の新聞にも、「原発をつくった私が、原発に反対する理由」という広告が本の掲載されていました。
こういう動きが増えてきていますが、どうも違和感があります。
菅首相までが「脱原発」と言い出したようです。
みんな見事に時流に乗ります。
その生き方が、一番の問題なのではないかと思う私には、その意図がどうしても素直には受け容れられません。
いま問われている本質的な問題は「脱原発」ではなく、私たちの生き方なのではないかと思います。
節電すればいい話でもなく、原発をメガソーラに変えればいいという話でもないでしょう。
私がすべきことは「懺悔」と「生き方の見直し」なのですが、生き方をどう変えればいいか、なかなか見えてこないのが悩ましいです。
先日テレビで、元原子力安全委員会のメンバーだった方が、放射線汚染地区で汗をかきながら自ら除染作業をしている姿を放映していました。
久しぶりに感動しました。
■社会のリフレーミング(2011年7月16日)
私のテーマは「コモンズの回復」です。
もっとも最近はあまり実践的には動いていませんが、自らの生き方においては今も実践しています。
そのテーマに行き着いたのは平成元年に会社を辞めて、いろんな活動にささやかに関わってからです。
「みんなのものやこと」(コモンズ)がなくなってきていると感じたからです。
そして同時に、そのコモンズの回復には枠組みを超えた取り組みが不可欠だと感じました。
みんな各論の枠組みで動いているばかりか、既存の枠組みを変える意識がないことに大きな違和感をもったからです。
既存の体制の中で、各論的最適解を追求することは、全体の未来を危うくするものだというのが私の考えです。
そんなわけで、いささか社会から脱落しながらの20年を過ごしてきました。
2000年に山形で全国地域づくり先進事例会議を、山形のJCの友人と一緒に企画開催しました。
まさに、行政と企業とNPOの枠組みを超えた、リフレーミングの企画で、2人で始めた実行委員会も最後は100人近くに膨れ上がりました。
2001年には「大きな福祉」を理念にしたコムケア活動を始めました。
NPOを支援する新しいスキームをつくりましたが、残念ながらリフレーミングには辿りつけませんでした。
2002年には福島県で話をさせてもらうことがあり、そこでも企業と行政とNPOの枠組みを超えていく、リフレーミングの必要性を話させてもらいました。
そこにパネリストとして参加してもらった経済産業省の浜辺さんが、私のメッセージに反応してくれました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubank1.htm#npof
しかし、これもリフレーミングの動きを起こすにはいたりませんでした。
いずれも私が途中で気力を失うからかもしれません。
形が見えてくると最初の私のイメージとは違っていくことが多いのです。
あれから10年経ちますが、状況が進化したのかどうかは悩ましい問題です。
先日、あるビジネススクールで「社会性企業」をタイトルに話をさせてもらいました。
そこで、状況はどうも20年前と変わっていないのではないかと気づきました。
たしかに、社会起業家という発想は広がっていますし、その実践も増えてきています。
でもどこかで、1980年代の気分の再来を感じました。
要するにみんなまだ「成長」や「金銭」から抜け出ていないのです。
「社会性企業」の講演では、最後に「マネーからケアへ」と話させてもらいました。
このブログでは何回も書いてきていることです。
しかし、やはりこうした考えは、特殊なのかもしれません。
東北の復興は、社会の構造原理の基軸を変えるチャンスかもしれませんが、どうもそうはなっていません。
相変わらず、金銭を基軸にした各論最適解が追求されています。
そうした動きに疑問を呈するには勇気がいります。
しかし、やはりどこか間違っているのではないかという気がしてなりません。
枠組みの延命に加担するようなことには関わりたくないと思います。
しかし、そうしていると、どんどん社会から脱落していく感じです。
昨日、企業の経営幹部の人たちのフォーラムがありました。
このフォーラムには20年以上関わっていますが、その最初からずっとほぼ同じメッセージを出しています。
最初はほとんど伝わりませんでした。
ところが昨日は、私のメッセージを聞いた某社の社長が、わざわざ私のところにきて共感しましたというのです。
昨日は、「失われた20年」が「30年」にならないように、もう「成長神話」を捨てる時期だというメッセージだったのです。
また私が関わっていた一つのチームの発表で、「リフレーム」という言葉も出てきました。
時代が変わってきたのでしょうか。
残念ながらたぶん違うでしょう。
しかし、変わる素地は高まっているかもしれません。
私にも暮らしやすい社会が来るかもしれません。
私にはたぶん間に合わないでしょうが。
ちなみに、私が使っている「リフレーミング」の意味は、枠組みの中で生きるのではなく、枠組みを使い込む生き方を起点にしています。
■国会審議は休日に行いテレビ中継したらいいと思います(2011年7月19日)
なでしこジャパンの快挙には拍手を送りたいと思いますが、その報道ぶりには少しだけ違和感があります。
なんだかこれでいろんなものが隠されてしまうような気がしてなりません。
決勝戦は日本時間の真夜中でしたが、起きて観戦していた人は少なくないと思います。
私は朝起きて優勝を知りましたが、わが娘もライブ観戦したそうです。
それだけの魅力があるのでしょうが、いまの日本の状況を考えるにつけ、もっと大事なことがあるだろうにと、つい思ってしまいます。
過剰に商業化されたJリーグなどとは違うので、基本的には好感は持てるのですが、これでまた商業化が進むのかと思うと、いささかげんなりもします。
もちろんみんなで快挙を祝い、楽しむことも異論はないのです。
むしろそれはとても大切なことですし、もっともっとあってもいいと思います。
なでしこジャパンの真夜中の観戦はしませんでしたが、先ほどまで国会中継を見ていました。
与謝野さんが寝ている姿も、真剣に応えようとしている若い世代の閣僚の姿も、誠意のない答弁をする首相の姿も見ていました。
そのやりとりを見れば、菅首相の「脱原発発言」の小賢しさも、たぶんわかるでしょう。
国会中継はできるだけ見るようにしていますが、そういう人は私のように暇な人だけかもしれません。
国会中継は、残念ながら会社などに勤めている人はほとんど見ることはできないでしょう。
不思議なことに休日には審議をしませんから、休暇をとらねば見ることはできません。
Jリーグやなでしこジャパンの決勝戦であれば、休暇をとっても見る人はいるでしょうが、国会中継はそれほどの魅力はないでしょう。
しかし、大切さにおいてはどうでしょうか。
国民がもっと国会中継をライブに見るようになったら、報道特集番組で語られていることや編集されたニュース報道と国会での議論での違いが、もう少しわかるかもしれません。
世論調査の結果も変わるはずです。
無党派層が多いことに現れているように、日本では国民の政治への関心は高くはありません。
無党派層といえば聞こえはいいですが、政党の政策や行動を読みもせずに、あるいは国会中継も見ることもせずに、無党派だといっている人も少なくないでしょう。
無党派層が多くなれば、政治はまさにその時々の人気投票の傾向を強めます。
ビジョンや構想など不要で、ノーロングタームのシングルイッシューで政治が進められていくわけです。
私たちの未来は、私たちの現在の関心の所在で決まっていきます。
なでしこジャパンへの関心もいいでしょうが、もっと関心を向けるべき課題があります。
それがとても気になって、なでしこジャパン快挙の報道にもいささかの違和感を拭えません。
しかし、それはそれとして、実に見事な快挙でした。
いままであまり知りませんでしたが、取り組みの誠実さと努力には学ぶべきことが多いです。
それに関しては素直の拍手を送ります。
その価値を、マスコミがおかしくしなければいいのですが。
■ツイッターの恐ろしさ(2011年7月22日)
なでしこジャパンの熊谷選手が参加した合コンに同席した男性が、ツイッターで熊谷選手の発言を「実況」投稿したことが騒ぎになっています。
監督批判の内容があったためのようです。
熊谷選手の謝罪記者会見をテレビで見ました。
ツイッターは、ある意味で、相互監視ツールになるということです。
まさにオーウェルが予告した監視社会そのものです。
そういえば私もある人と連絡を取りたかった時、彼が発信したツイッターのおかげで、その所在がわかり連絡が取れたことがあります。
その時は、その効用に驚いていたのですが、その効用の裏側にはこうした−側面もあるわけです。
もはや「オフレコ」などという文化は過去のものになったのでしょうね。
ツイッターをやっている人は世界を相手にした情報発信者になれるわけですが、そうした人が増えていくと、社会のあらゆる場所が観客が見ている舞台と言うことになります。
舞台では人は演技をします。
社会はすべて演技する舞台となり、人が生きるということは「演ずる」と同義になりかねません。
考えてみると、これは恐ろしいことです。
オーウェルの小説を読んだのは高校生の時ですが、日常的にだれかに監視されている社会、あるいは互いに監視し合う社会は、子どもながらに強い嫌悪感を持ちました。
まさかそんな社会は到来するまいとおもっていましたが、20年ほど前から急速に監視社会化が進み、最近では多くの人はそうした動きにあまり恐ろしさを感じていないようです。
むしろ監視カメラが街中に増えていることで、安心感を強めている人のほうが多いかもしれません。
私自身、最近少し感覚的に麻痺している気がします。
ベンサムのパノプティコンの話にも、どこか他人事で受け止めているところがありました。
しかし、今回の事件を知って、ハッとしました。
このまま行くと、私たちはみんな「ゾンビ」になってしまうのではないかという気さえします。
まあ既に多くの人は、そうなっているのかもしれません。
だから最近私はとても生きにくいのです(本音ですが暴言ですね)。
昨日、東電OL殺害事件に「冤罪」の可能性が出てきた報道がなされていましたが、監視社会の恐さは、冤罪が生まれやすい社会ともいえるでしょう。
監視側に立つと、人は往々にして裁く意識が生まれてきます。
裁く意識に立つということは、裁かれる対象とは目線を変えるということです。
裁かれたことのない人には裁くことはできるはずもありません。
その証拠はいくつもあります。
自らが裁かれる立場になった裁判官が、生き方を一変させた事例もありますし、最近では村木さんの発言が二重の意味で示唆に富んでいます。
他者が「その人の言葉」で勝手に自分の発言を実況報告することへの防衛策はありません。
みんなから関心を持たれている人は、次第に本音での発言はしなくなっていきかねません。
「コミュニケーションツール」の発達が、コミュニケーション阻害を起こすというジレンマがここにあります。
監視社会にしていくためには、法律など不要なことがわかります。
恐ろしい時代の幕開けです。
■八百長相撲事件で相撲界から去っていった若者たちが気になります(2011年7月22日)
大相撲名古屋場所はテレビで見る限り、空席が目立ちます。
私もあまり見ないのですが、見ていていつも思うのは、八百長相撲事件で相撲界から去っていかざるを得なかった若者たちのことです。
一時は訴訟を起こすといっていた人もいましたが、その後、全く話題にならなくなりました。
お金で口を封じられたとは思いたくありませんが、マスコミも報道しなくなりました。
相撲界を辞めて他の世界にうまく移れればいいですが、あまりに特殊な世界ですから、そう簡単ではないでしょう。
彼らの未来がとても気になります。
その一方で、役員関係者みんな安泰でした。
放駒理事長も含めて何の責任も感じないのか、不思議です。
特殊な人が起こした事件ではなく、相撲界の文化が起こしたことだという気がしますが、それにもかかわらず責任ある立場の人が引き続きトップにいることには大きな違和感があります。
要するに彼らもまた「八百長文化」の住人なのであろうとしか思えません。
そうしたことが空席の目立ちになっているのかもしれませんが、しかし相撲ファンは辞めさせられた力士たちになんの思いも感じなかったのでしょうか。
相撲ファンでない私としては、理解できない話です。
しかし、北朝鮮拉致事件でさえあれほどの盛り上がりを見せたにも関わらず今や忘れられてしまったように、八百長相撲事件で犠牲になった若者たちもまた、忘れられていくのでしょう。
そういう社会の一員であることが、情けなく恥ずかしい気がします。
日本の社会は、こうした若者たちの犠牲の上に立っているのでしょう。
それにしても、最近の組織のトップは、どうしてこうも自らの保身だけしか考えないのでしょうか。
たぶん「なるべきでない人」が最近はトップになるからでしょう。
そうした状況をつくりだしているのはいったいだれなのか。
もしかしたら、それこそが「民主主義」の宿命かもしれません。
「民」って、何なのだろうか、といつも考えます。
少なくとも、私は「民」にはなりたくありません。
■シンボルの効用(2011年7月23日)
ノルウェイの連続テロ事件は衝撃的でした。
島での大量殺戮は警察官を偽装した若者によって行われました。
「警察」への信頼感が禍したのでしょうか。
しかし、「警察」はある意味での「暴力」の象徴ですから、実は一番危険なシンボルでもあります。
そのことを、今回の事件は示唆しています。
「警察」だけではありません。
私たちの頭に刷り込まれたシンボルメッセージは強力です。
昨今の政治状況を見ていると、それを強く感じますが、
一度、「事件」を体験すれば、そうしたシンボルが持つメッセージが、いかに偏ったものであるかに気づきました。
日本で一番強いシンボルは「数字」かもしれません。
日本における評価は、多くの場合、「数字」で行われます。
最近の放射能汚染も「数字」で語られます。
しかしその数字の意味づけは、だれによって行われるかを考えれば、数字を基準にすることの限界はわかります。
ましてや、その「数字」を「創る」ことさえできることをしれば、「数字の意味」にも気づくかもしれません。
だからといって、数字を全く基準にしないわけにはいかないと多くの人は思うでしょう。
私も、正直なところ、「数字」に影響を受けることは少なくありません。
しかし、そうした生き方からこそ、抜け出ないといけないと思っています。
いうまでもなく、「数字」は管理のためのものです。
わが家の愛犬チビ太はたぶん数字に惑わされずに生きています。
それが証拠に、真夜中に起きてきて吠えたり、食事をしたり、私たちを悩ませます。
まあ半分は「ぼけ」のせいですが、誤解されそうですが、人間も呆けると「数字」から解放されます。
私の理想の生き方は、呆けないとできないかという気もしますが、もしかしたら「呆け」とは生きることの原点を回復することかもしれません。
しかし、周辺の人が「認知症」になると人生は変ってしまいます。
最近も91歳の母親が認知症になった長女と心中を図るという悲しい事件が起きました。
4月にスリーA方式の認知症予防ゲームの体験型フォーラムを開催しました。
好評だったので、秋にまた開催したいと思っています。
実行委員会募集中です。
よかったらご連絡ください。
書こうと思っていたこととは全く別の内容になってしまいました。
私の思考回路もかなりおかしくなってきているのかもしれません。
■いまは岐路なのか(2011年7月26日)
東日本大震災は未来に向けての岐路になるように思っていましたが、必ずしもそうではないようです。
いろんなメーリングリストを通していろんな話が流れてきますが、大きなパラダイムシフトを感ずるものは次第に少なくなってきています。
フェイスブックでのみんなのやりとりを読んでいると、あまりに平和すぎて驚きます。
何も変わっていないのかもしれません。
たとえば、被災地の食料品を買おうという支援の呼びかけが大型店舗でも行われていますが、
その一方で、流通業者が被災地の生産者の商品を買いたたいているという話もあります。
事実、被災地産の食材は概して安くなっている気もします。
支援するなら高く買うべきで、大型流通業者は「被災地産」のシールを貼って、支援地支援費として1割高く価格設定するのがいいように思います。
そうしないと「被災地支援」が販促材料に使われてしまうだけになりかねません。
「エコポイント」の再開もまた検討されていますが、
いうまでもなくエコポイントは販促運動であって、エコ活動ではありません。
クールビズも同じです。
こうしたことは始まった頃に書いていますので、繰り返しませんが、要するに生産活動を活性化するための、つまりは環境負荷を増大させる活動です。
そこにはパラダイムシフトはありません。
同じように、今回の「東北支援」も、結局はみんな自分たちのこれまでの活動を発展させたいだけなのではないかというような気もします。
活動している人たちの「善意」はもちろん受け止めての話です。
神戸の西側に住んでいる人からは、こんなメールも流れてきました。
「神戸の西側は、老齢ゴーストタウン化しています。震災復興の美名の下、行政が役に立たないハコモノ建設に邁進し、人間復興を忘れたためです。」
この人は、同じようなことが、その何百倍の規模で起こることを危惧しています。
被災地では、新しい活動も始まっていますし、これまでとは違った企業の活動も見られます。
しかし、同時に、被災状況をビジネスチャンスと捉えての、これまでの延長での活動もあります。
現実を考えれば、これまでの延長での取り組みが復興にとっても即効性があるかもしれません。
しかし、それではこの大事件を岐路にはできません。
あれだけの犠牲者の霊が報われないような気がします。
放射能汚染をした食材を、東電の社員が食べるべきだなどという「憎悪の発言」も、時にまわってきます。
大震災からは何も得ていないのだなと悲しくなります。
こうした「憎悪」や「対立」の世界から抜け出なければ、この大震災を新しい世界への岐路にはできないでしょう。
最近の世界は、ますますよどんできているようで、生き辛くなりました。
私自身の気持ちも、今までになくよどんでいます。
最近、どうもこのブログを書けずにいますが、よどんでいる自らをさらけだすのが恐いからかもしれません。
■トニーノ・ペルナの警告(2011年7月26日)
イタリアのトニーノ・ペルナの発言を、セルジュ・ラトゥーシュの「経済成長なき社会発展は可能か?」で読みました。
トニーノ・ペルナは、たぶん企業経営者だと思いますが〈調べたのですが確証が得られません〉、実に共感できます。
抗した知性がやはりヨーロッパには存在するのです。
トニーノ・ペルナの一部を紹介します。
「いわゆる資本主義市場の法則に適応し、その中で一時しのぎをし、宣伝広告やマーケティングなどの市場経済の道具を無批判に利用することを求めることは、数量的かつ短期的には何らかの結果を生み出すであろう。しかし最終的には、そのような道を選ぶことは敗北に帰することになるのである」
「フェアトレードが直面している課題とは、南側諸国の生産物を、結果的にこれら諸国の文化的資産を破壊するような現存の商品流通システムに参入させることではない。むしろ消費者の倫理的選択肢を本当の〈ニーズ〉に転換することである」
そこに、新しい経済の予兆を感じます。
前の時評の「いまは岐路なのか」で言及した経済のパラダイムシフトでいいたかったことは、こういうことです。
たとえば、私の周辺でもフェアトレードに取り組む友人は少なくありません。
しかし、私にはどうしても違和感があります。
視座が逆転しているからです。
トルーマンが考案した開発戦略の先に存在するように思えるからです。
しかし、そういってしまうと、実も蓋もありません。
収奪的なトレードに比べれば、フェアトレードがいかに望ましいものであるかはいうまでもありません。
それに異を唱えることなど、出来ようはずもありません。
にもかかわらず、ペルナの言葉にも学ばなければいけません。
これは問題を設定する時限の問題です。
パラダイムを変えるということは問題の次元を変えるということです。
いまこそ、ラトゥーシュやペルナから学ばなければいけません。
そして、実際にどう動けばいいのかを考えなければいけません。
そう思いながらも、なかなか動き方がわからないために、無力感に苛まれています。
悩まずに行動している人たちがうらやましいです。
彼らは間違いなく、大きな成果を生み出し、多くの人たちを元気づけていますから。
■過剰の時代の経済学(2011年7月27日)
ある雑誌の取材にも応えたことがあるのですが、経済学の前提がさまわがわり様変わっています。
いまは経済の牽引力になっている企業の経営資源について考えてみましょう。
企業の経営資源は「ヒト・モノ・カネ・情報」といわれますが、そのすべての状況が変わっています。
まずモノでいえば、物不足は解消され、物があふれています。
その反面を、モノを作る自然環境や資源が枯渇しつつあります。
同じ行為が、「生産」から「消費」へと移りつつあります。
カネも余っています。
実体経済に必要な通貨を上回る過剰流動性がいたるところで悪さをしています。
それに基づいて、企業の、したがって経済のガバナンスが金融支配へと移りました。
ヒトももちろん余っています。
これは言う前でもありませんが、生産性向上とは人の仕事を減らすことです。
景気はよくなっても失業率は改善されません。
情報も言うまでもないでしょう。
生産者よりも顧客のほうが情報をたくさん持てる時代です。
つまりいまは「過剰の時代」です。
不足を前提にした、これまでの経済学や経営学は役には立ちません。
むしろ危険な落し穴でしかありません。
貧困問題もまた意味が変わってきています。
不足の時代の貧困と過剰の時代の貧困は、内容も違っていますから対策も当然違います。
多くの人が、そんなことにはすでに気づいているでしょう。
しかし、実際の行動においては、相変わらず不足の時代の発想で動いているように思います。
こういう話を企業の人を相手に時々話させてもらいますが、聴いた人の行動は変わりません。
なぜなら部分的に変えてしまうと、企業を瓦解させかねないからです。
一度習得した知識体系は、なかなか変えられません。
それはエネルギーに関する知識体系が、原発事故が起こったにも関わらずになかなか変えられないのと一緒です。
最近、ケアリング・エコノミクスとか「分かち合いの経済学」という提唱が増えています。
経済成長に依存した経済学の呪縛から自らを解放するためにも、そうした主張は参考になります。
残念なのは、こうした「新しい経済」の文化は、日本にこそ強く存在したにもかかわらず、それらが急速に失われてしまったことです。
新しい経済パラダイム、あるいは経済パラダイムの転換のヒントは、私たちの生き方の中にあるような気がします。
もう一度、思い出さなければいけません。
■中国高速鉄道事故と福島原発事故の対応の違い(2011年7月27日)
中国高速鉄道事故に対する「当局」の対応は、実にわかりやすいものです。
あまりにわかりやすくて、情報がさほど出回っていないであろう中国でさえ、人々の反発は大きく、批判も高まっているようです。
また事故原因に関しても「人災論」が高まっているようです。
それにしても事故列車を十分に調べることもなく土中に埋めてしまうなど、そのやり方は信じがたいものです。
だが、待てよ、とも思います。
日本の福島原発事故への対応と中国の高速鉄道事故への対応と、さほどの違いはないのではないか。
たしかに、中国の対応は日本人から見れば「めちゃくちゃ」です。
しかし、日本の対応はどうだったのか。
私には、さほどの違いを感じません。
事故の複雑さの違いはあるでしょうが、構造的には何も違わないのではないか、そんな気がします。
両者が全く違って見えているのは、私たち日本人だけかもしれません。
日本の「常識」で見ているためかもしれません。
テレビの報道を見ていて感ずるのは、「中国だから」というような蔑視の眼差しも感じます。
放射線汚染という地球規模の事故を起こしておいて、日本人にはそんな資格はないでしょう。
野蛮で無知で、粗雑なのは、明らかに日本のほうではないのか、そういう気がします。
テレビで、中国を蔑視しているような発言をしている人に対しては、日本の権力者たちに対しても同じように発言できないのかといいたくもなります。
だからと言って、生存者を十分に確認もせずに列車解体作業をしてしまうことを受け容れるつもりはありません。
言いたい事は、それと同じようなことを、今、私たちもやっていないのかと言うことです。
他国の事故から、見えてくる自らの問題点もあるものです。
■収奪の経済(2011年7月28日)
あれだけ大きく動いていたリビアの状況は膠着状況のようです。
中東革命は東欧革命のようにはいかないようです。
アメリカ映画だと、CIAか何かが出てきて、事態を一変させますが、人を殺すことさえも「ミッション」としているおぞましいオバマ政権でもそれほど簡単ではないようです。
たぶんまだ「利害の一致」が十分ではないからなのでしょう。
利害の一致がなければ、主体性のない政権は動けません。
それにしても国際政治や国際経済は不思議な世界です。
この数日、円高が進展していますが、原発事故によって暗雲たちこめる日本の円が、どうして高くなり続けるのでしょうか。
先日、お会いした金融関係の人は、欧米よりもまだましだからと説明してくれましたが、そんな建前の説明は別にして、なにかの「意図」が存在するような気がします。
その意図は、あるとしたら「日本つぶし」のように思います。
この20年、日本はこれでもかこれでもかとつぶされてきました。
そのお先棒を担いだ政治家や経済人が、いまなお「人気者」なのが私には不可解ですが、その流れは一向に変わっていません。
日本のマスメディア報道は国内の原発事故で覆われてしまっています。
その向こうで、世界は様々な展開をしています。
いや国内でも、様々な動きが進んでいます。
それを危惧するネット情報も少なくありません。
たしかに原発事故報道は大事ですし、東北被災地の報道も大切です。
しかしあまりにそれが報道を覆いつくしているような気がしてなりません。
そこにも、「ある意図」の存在を感じます。
もちろんその意図もまた「日本つぶし」です。
いいかえれば、日本を「市場」にして、そこからいかに多くを収奪するかです。
収奪の経済は、まだ終わってはいません。
様々な不可解な動きの後ろにある「意図」は、「収奪者の意図」かもしれません。
社会を「市場」と捉えて、そこから「いかに多くを収穫するか」というような経済から脱却しない限り、持続可能な社会は実現しません。
「収奪者」が考えているような「持続可能な市場」幻想は捨てなければいけません、
誰にとっての何を「持続可能」にしたいのかを、よく考えないといけません。
リビアの状況と私たちの暮らしとは、決して無縁ではないでしょう。
■原発技術の輸出は認められるべきか(2011年7月29日)
新聞報道によれば、日本が受注を目指しているトルコの原発建設計画から東京電力が撤退することになったそうです。
経済産業省は諦めていないようですが。
また、官民で受注したベトナム向け原発事業に対しても、東京電力の立場は微妙のようです。
こうした動きには、大きな違和感を持ちます。
日本はまだ世界に原発を広げようとしているのです。
日本における脱原発や「減原発」の本意がよくわかります。
要するに政府は原発を推進したいと思っているわけです。
これほどの惨事を起こしてもなお、原発の意味がわかっていないとしか思えません。
ブラウン管テレビの不法投棄が急増しているようです。
日本の原発輸出政策は、どこかそれを思い出させます。
しかし、テレビの不法投棄は土壌の鉛汚染を起こし、結局は私たちの生活に戻ってきます。
原発をいかに海外に持っていっても、原発事故から逃れることにはなりません。
国内の原発を減らす事は、同時に原発輸出を止めることでなければ意味がないように思います。
マスコミは、こうした動きをもっと大きくとりあげてほしいです。
■不条理なことに抗議しない「美徳」(2011年7月30日)
東北の仮設住宅に入った人たちの中には、電力使用料を節約するために折角装置されているクーラーを使わない人がいることをテレビが報道していました。
今日テレビで見た仮設住宅の場所は福島県でした。
原発事故によって自宅を追われ、経済的にも厳しい状況になったにもかかわらず、その原因をつくった東電の電気を使えないのは、どう考えてもおかしいです。
被災者の電力料金は無料にするくらいのことが、なぜできないのか。
粗末な仮設住宅の内部は、暑い日には40度近くなるようですが、そうしたなかで生活費を切り詰めるためにクーラーをかけない高齢者がいることに、東電の経営者は何も感じないのでしょうか。
もしそうであれば、これからの展開には期待できません。
それにしても、被災者はなぜ声を上げないのか。
大震災の直後、日本人の協調性や我慢強さを讃える論調がマスコミで喧伝されました。
私も最初は、それをうれしく感じましたが、盛んに語られるうちに、胡散臭さを感じ出しました。
勘繰るならば、あれは被災者の言動を呪縛するための仕掛けだったのかもしれません。
不条理なことにさえ、抗議しないことが「美徳」にされたのです。
それに加担したのは、マスコミです。
海外では、我慢強さを褒めていただけではないのですが、日本のマスコミはそのことをあまり取り上げませんでした。
仮設住宅でなくても、「節電キャンペーン」の広がりの中で、クーラーの使用を控えている高齢者の話も話題になります。
これもまた、マスメディアの犯罪の一つだと私は思います。
高齢者が使用するクーラーの電力など知れています。
私は、日本の電力生産(電力消費もですが)は構造的にかなりの柔軟性を持っているはずなので、電力不足は電力会社が意図しなければ起こるはずもないと思っていますが(それが正しいとは限りませんが)、マスコミは、安易な「節電キャンペーン」の増幅活動で、まじめに生きてきた従順なお年寄りたちに電力消費罪悪感を植え付けてしまったのです。
つねに真面目で弱い人が犠牲になるということが、ここでも現れています。
テレビで、得々と節電の技などを語っているタレントやキャスターを見ると、蹴飛ばしたくなります。
そんなばかな番組を放映していることで、一体何人の老人のクーラーを止めているのかと思うのです。
そうした人たちこそ。電力消費量は高いように思います。
電力消費量はたぶん所得に比例しています。
そしてパレートの法則が打倒している世界です。
2割の金持ちが、8割の電力を使っている、と言ってもそう大きくは違わないでしょう。
節電などを広く強要する前に、自分たちが消費を抑えればいいだけの話だと、私は思っています。
■児玉龍彦教授の名スピーチ(2011年7月31日)
厚生労働委員会での「放射線の健康への影響」参考人説明での児玉龍彦(東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)のスピーチは感動的です。
私も28日にフェイスブックにリンクさせてもらいました。
様々な人たちから反響がありました。
ある大学教授は、「打ち震えました」とコメントを書き込んでくれました。
私も、東大にもこういう人がいるのだと感激しました。
実に感動的なスピーチです。
正直に言えば、話している内容の半分以上は専門的な内容なので、私には正直理解できない部分が多いのですが、児玉さんの思いとメッセージは心に入ってきます。
ともかく「心」がこもっているのです。
久しぶりに聴く名スピーチでした。
なかには聴いていて涙が出たという人までいます。
私もそれにほぼ同じ感動を感じました。
その後も、様々な人たちからその話題が回ってきました。
どんどん広がっているようでした。
ぜひ多くの人にみてもらいたくて、遅まきながらこのブログにもアップさせてもらいます。
よかったら見てください。
http://www.facebook.com/l/kAQAj2whp/vimeo.com/27072107
■最近の新聞はニュース記事が少ないような気がします(2011年8月2日)
最近、新聞を読む時間が大幅に減りました。
その理由は、報道記事の種類が少ないからです。
文字が大きくなったこともあり、文字数はかなり減少していますが、それ以上に解説記事が増えているので、ニュース報道記事は全体としても少なくなっています。
そのせいか、取り上げる「事件」や「事実」の種類が限られてきています。
そしてその大きな「ニュース記事」も解説的なものが増え、記者が汗を書いて現場取材したものは少なくなりました。
今日も共同通信の談話捏造が報道されていますが、その類の「読み物」が増えています。
しかしそうしたものは、テレビのほうが圧倒的に情報量が多いですから、新聞で読む気にはなりません。
解説記事も雑誌のほうが読みやすいので、これも私はほとんど読みません。
そのため、新聞を読む時間は大幅に減ったわけです。
しかしもっと大きな問題があります。
かつての新聞には、小さな記事がいろいろとありました。
つまり紙面の中で取り上げられている「事件」数は、今の倍以上あったように思います。
そうした「小さな事件」はテレビでは取り上げられませんから、新聞でしか読めません。
数年前までは、私のとっての新聞の魅力はそうしたマイナーな記事でした。
地方欄にはそうした小さな記事もつい最近まで残っていましたが、それも少なくなりました。
もしかしたら現場を取材する記者の数が減ったからかもしれません。
情報量は「多様さ」と「深さ」で決まってきます。
その多様性が新聞から大きく失われていますが、その意味は甚大です。
多くの人は新聞やテレビからの情報で世界を構成していきます。
そうしたメディアが限られた事実や事件だけに絞られたらどうなるでしょうか。
世界は極めて平板なものになります。
しかし世界は実に多様なのです。
現実の世界と私たちの描く世界は、こうして別のものに育っていきます。
前にも書きましたが、いまや現実の世界と私たちが社会的に構成した世界とは、似て非なるものかもしれません。
一時期、若者向けの情報誌が小さな文字で多様な情報に溢れていた時代があります。
今も文字は小さく、盛りだくさんですが、20年前に比べれば、多様さは失われているように思います。
若者さえもが単細胞になったからかもしれません。
最近の若者は好奇心においても知識においても、薄っぺらな若者が多いように思います。
何しろテレビに出ている若者たちは、脳みそがないような、私にはサルにしか見えない生き物に進化退化かな)しています。
こんな若者には未来はなくてもいいなと、時々思いますが、まあそういうわけにもいきません。
わずかとはいえ、私と同じ種の若者もいますから。
世界の多様さが大切だと思うのであれば、新聞もテレビも報道姿勢を根本から見直す必要があるような気がします。
■テレビ市況(2011年8月3日)
近くの八百屋さんに寄りました。
ほどほどの大きなスイカが600円で売っていました。
お店の若者に、何でこんなに安いのかと訊いたら、安く競り落とせたからだというのです。
そして、テレビで今年はスイカが高いと言いすぎるので、なかなか売れないというのです。
実際には例年とそう違うわけでなく、逆に高値噂が需要を抑えてしまい、市場でもなかなか売れていないというのです。
それが事実かどうかはわかりませんが、彼はテレビの報道が青果にも大きな影響を与え迷惑だと言っていました。
テレビの報道が日用品の価格に大きな影響力を持っているのは、よく感じます。
ある番組で取り上げられた食材が翌日売切れてしまったりその結果、高くなっていたりすることは、私も何回か体験しています。
妻がいなくなったので、私もよくスーパーに食材の買物に行きます。
たしかに安くなっているようにも思いますが、大企業のブランド品の価格は上昇しています。
ここでも「格差社会」を感じますが、全体としては、たぶん傾向的には、じわじわと物価が上がっているように思います。
テレビ番組のスポンサー企業の商品価格とそのカテゴリーの商品全体の価格の動きとの関係を比較したら、面白い結果が出てくるのではないかと言う気がします。
テレビの持つ経済への影響力は、極めて大きなものがあります。
テレビ関係者が原発への批判ができなかったのはスポンサーの関係だということが、よく語られます。
そうしたことは、決して原発だけではありません。
市況価格は需給関係で決まるのかもしれませんが、需給関係はテレビ報道で決まるのかもしれません。
私は、テレビの影響を受けやすいタイプなので反省しなければいけません。
ちなみに、600円のスイカはおいしかったです。
ちょっと安く買いすぎたという気がしないでもないですが。
■小さな理と大きな理(2011年8月4日)
近代を発展させてきた基本は「理性」と「論理」でした。
それらの「理」に適うこと、つまり「合理的」であることが大切な判断基準でした。
しかし、これから大切なのは、その「理」を超えることではないかと思います。
少なくとも「小さな世界の中での論理」や「個人の世界での理性」の限界を認識する事は大切なような気がします。
個人が考える「理性」や「論理」は、たかが知れているように思います。
日本の政治が迷走しているのは、内部的な「理」に呪縛されているからかもしれません。
そこには「大きな理」は感じられません。
昨今の原発論議に関しても、「小さな理」が不寛容にぶつかりあっているように思います。
私のところに配信される平和のメーリングリストを読んでいて感ずるのは、発言者の「思いの深さ」が逆に発想の根底となる「理」の世界を狭めているように思うことも少なくありません。
まあ俗な言葉を使えば、「内ゲバ」的な応酬さえ散見されます。
それではせっかくのエネルギーと知恵が、瑣末な相違で消耗し合いがちです。
しかしこうしたことは、組織活動の常かもしれません。
組織は「ノイズ」を嫌いますが、「大きな理」よりも「小さな理」のほうが、ノイズを起こしやすいからです。
「大きな理」は外を向いていますが、「小さな理」は内部の相互関係において顕在化しがちです。
「大きな理」は感情を支え、感情に支えられますが、「小さな理」は、時に「感情」に振り回されます。
私は感情を包含しない理性には信頼を持てませんが、感情に支配された理性もまた共感し難いです。
なにやらまた訳のわからないことを書きましたが、昨今のさまざまな動きに、昔考えていたことを思い出して、書いてしまいました。
「小さな理」を装った「私的な感情」が横行しているのが、どうにもやりきれません。
感情は、もっと大らかでありたいものです。
■広島での菅首相のスピーチに気分が悪くなりました(2011年8月6日)
今朝の広島での原爆死没者慰霊式・平和祈念式をテレビで見ていたら、最後に菅首相のスピーチがありました。
聴いていて、とても気分が悪くなりました。
私には間違いなく場違いなものでした。
だれからもブーイングが起きなかったのか不思議に感じました。
ネットで調べたら、こんな記事がありました。
今後のエネルギー政策について「原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指していく」と、改めて表明した。犠牲者の追悼が目的の式典でエネルギー政策に触れるのは異例。深刻な放射能漏れを起こした福島第1原発事故を受け、首相の強い意向で盛り込んだ。
昨日までの投稿では、菅首相が政治パフォーマンスに利用しようとしているのではないかとの疑念が被爆者から上がっている、という記事もありました。
私が見た限りでは、まさにそうとしか思えませんでした。
祈りの気持ちは、私の場合はまったく汚された気がして、実に不快でした。
被爆者の一人は「静かに祈らせてほしい」と訴えているという記事も読みましたが、私なら石を投げたいところです。
少なくとも退席します。
菅首相は脱原発を目指しているという論調が少なくありません。
私には全くそうは思えません。
脱原発であろうと減原発であろうと、そんなことはどうでもいいのですが、大切なことは原発をどう捉えるかです。
もし原爆と原発の繋がりを想像できるのであれば、原発を否定すべきです。
否定するのであれば、それを海外に輸出することなどありえません。
国内で稼動している原発を即座に止めることは難しいでしょうが、問題はそうした技術論ではなく原発をどう捉えるかです。
自らの政治的立場を守るために原発を利用することほど、許されないことはありません。
私は原発を推進する考えには反対ですが、その信念を否定することはできません。
どれが正しいかは、絶対的なものではないからです。
しかしかつては原発を支持していたのに、状況が変わったから否定するという人は許せません。
しかも国内では否定するが海外であれば認めるなどという、卑しさには怒りを感じます。
自分たちはのうのうとワシントンにいて、貧しい若者をイラクやアフガンに追いやったアメリカのブッシュやオバマとなんら変わりません。
いつもは、そこからいろいろと考えさせられる広島の式典が、私には汚された感じです。
不愉快な日になりました。
■ハンマーカンマー異変の再来(2011年8月7日)
昨日、私のブログにコメントがありました。
「先見の明ありですね 笑」
それでブログを開いたら、アクセスが異常に高いのです。
私のブログは面白さがないので、毎日のアクセス数は400〜500どまりですが、一昨日と昨日は連続して3000を超しています。
調べてみたら、「ハンマーカンマー」の記事へのアクセスが原因です。
「ハンマーカンマー」は2008年の7月にブログで記事を書きました。
その時も実はアクセスが増えました。
今回は、その時以上のアクセスです。
このブログの読者には、「ハンマーカンマー」ってなんだという方が多いでしょう。
知らなくて当然なのが、「ハンマーカンマー」です。
知っている必要もないし、調べることなど不要です。
しかし、そういわれると知りたくなるかもしれませんね。
よほどで暇であれば、私のブログを読んでみてください。
もっとも、それを読んでも肝心の「ハンマーカンマー」は相変わらずわからないでしょう。
でもまあ、そのあたりで忘れたほうがいいでしょう。
忘れられませんか。
それでは仕方ありません。
「ハンマーカンマー」のユーチューブを見るしかありません。
笑い転げるか、どこが面白いのかと怒り出すかの、いずれかになるはずです。
ではどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=plHCuM_NExg
どちらでしたか?
「ハンマーカンマーの法則」に納得した人がいたら、ぜひお会いしたいです。
そういう天才バガボンのお父さんのような人と、私は知り合いになりたいです。
いや、知り合いにならないほうがいいかもしれませんね、
なぜなら「ハンマーカンマー」ですから。
■システム時代の首相の座(2011年8月8日)
辞めるべき首相がまだ辞めずにいます。
辞めない首相も問題ですが、辞めさせられない政治家たちも問題です。
仕組みが悪いのでしょうか。
そうではなくて、辞めなくても事態はそう変わらないからかもしれません。
そう公言している人も少なくありません。
もしそれが当たっているのであれば、首相さえもが、誰がやろうと変わらない「歯車」になっているということです。
それが「システムの時代」の特徴かもしれません。
しかし、システムの外側には必ずシステムを動かしている人がいます。
それが見えなくなり、わからなくなることで、システムによる人の支配がはじまりますが、日本の政治のレベルであれば、そこまでは複雑ではないでしょう。
そこで「陰謀論」が横行するわけですが、陰謀があるかどうかはともかく、現在のシステムから「利益」を受けている人は、それが「割り勘負けしている利益」であったとしても、それに気づきませんから、不満は言いますが、本気で現状を変えようとは動きません。
それが「保守層」といわれる体制の基盤です。
「保守層」の多くは「割り勘負け」していますが、それに気づくためには、システムの全貌がある程度わからなければいけないのと一時的な利益の減少を受容できる余裕がなければいけません。
歴史を見ればわかりますが、変革を起こしたのは、そうした「余裕」がある人たちであって、システム(体制)の一番の犠牲者は、結果的には体制を維持する側から抜け出せません。
日本人の多くは、「余裕」をなくした「歯車」になってしまったのでしょうか。
そう思いたくなることはよくあります。
歯車は、不満を言いながらも結果として体制を維持する側にあることはいうまでもありません。
たとえば、菅首相に代わる人がいないと多くの人は思っているようです。
支持する政党がないと言う人も多いです。
こうした意見は体制を維持する作用を果たします。
そういう人に限って、たぶん国会中継も見ないでしょうし,政治についての集会にも出ないのではないかと思います。
そんな時間があれば、サッカーを観戦し、経済活動に注力するでしょう。
そういう発言をする人は、要するに政治への当事者意識を持っていない人と考えてもいいでしょう。
正しくは、「だれが次の首相に相応しいかわからない」「どの政党を支持していいかわからない」と言うべきです。
要するに、政治を他人任せにして、そうした問題を考える努力をしていないだけの話です。
しかし、そういう「生き方」が、いま問われているのです。
問題は、常に自らにあると考えると、世界は変わります。
昨日、ポーランド映画の「カティンの森」を観ました。
感動しました。
最近の私の生き方を反省しました。
生き方はまだ変えられそうです。
■イギリスでの暴動が示唆するもの(2011年8月10日)
ロンドンの若者たちの暴動のニュースには驚きました。
パリだったらそうは驚きませんが、何しろロンドンですから。
発端は、警察官による黒人射殺事件のようですが、おそらくイギリスもまた経済に暗雲が立ち込めているのでしょう。
いつの時代も、暴動の背景には経済があります。
国家への異議申し立てが世界的に広がったのは1960年代から70年代にかけてでした。
そこから「国家制度」の変化が起こるのかと思っていましたが、むしろグロバリゼーションの進行に伴い、国家体制は強固になったような気がします。
ただし、国家を統治するのは主権者の国民ではなく、金融に変わりました。
生活の経済から金融の経済への変質です。
そして、近代国家と資本主義は、実に相性がいい事が次第にわかってきました。
資本は国家を解体していくだろうと思っていましたが、資本は見事に国家制度を傘下におさめ、利用したのです。
そうした状況の中で、また1960年代のような動きになっていくのでしょうか。
その可能性は低いと思いますが、インターネットの広がりの中で何とも言えない気もします。
最近、読んだ坂本義和さんの自伝的記録「人間と国家」は次の引用で始まります。
君は川の向こう側に住んでいるではないか。友よ、もし君がこちら側に住んでいたら、僕は人殺しになるだろうし、君をこんなふうに殺すことは不正になるだろう。だが君が向こう側に住んでいる以上、僕は勇士であり、僕のすることは正義なのだ。
パスカルの文章だそうです。
暴動を起こした若者たちがいるのは、どちら側なのでしょうか。
燃え上がる炎をみながら、この文章が思い出しました。
中近東でも若者たちが生命をかけて戦っています。
あれは「国家」のためなのか、「国家」を超えるためなのか。
いずれにしても、その騒乱のなかで戦っている前線の若者たちは、どちらの側にいようと、たぶん「正義」を行っているのです。
でもどこかおかしい。
もしかしたら、岸を分ける線が違うのではないかという気がしてなりません。
「政治」ではなく「経済」の目で考えると、世界の騒動は違ったものになるのかもしれません。
ロンドンの暴動と円高は、どうつながっているのでしょうか。
■正義と悪行(2011年8月11日)
いま起こった事件です。
夜なのに、外でセミの鳴き声がします。
それも元気のない中途半端な鳴き方です。
なかなか鳴き止まないので外に出てみました。
探してみると暗闇の茂みでカマキリにアブラゼミが捕まっていました。
反射的にカマキリをたたいたら、セミを手放しましたが、セミは元気がなく飛べません。
それで離れた樹木にセミをとまらせました。
とまあ、こんなことなのですが、私がやったことは正しかったのか。
セミは一命を取り留めましたが、カマキリはせっかくの獲物を奪われたわけです。
セミにとっては私は命の恩人ですが、カマキリにとっては私は強盗です。
正義と悪行は立場によって変わるものです。
瑣末な事件なのですが、どうも気分がすっきりしません。
昨日のパスカルの正義論を思い出します、
しかし、私がカマキリをたたいたのは反射的な行動でした。
生命を奪われそうなものがいれば、誰もが起こす行動でしょう。
正義だとか強盗だとかは、まるっきり頭にはありません。まあ当然ですが。
しかし、相手がセミとカマキリでなかったらどうでしょうか。
9.11事件の後、ブッシュ大統領は、「やつらを捕まえるか、殺すかだ」と述べました。
ビン・ラーディンを国際裁判にもかけずに処刑したオバマ大統領は、「正義が執行された」と述べました。
そして日本の政府は、それに異議申し立てもせずに、応援したのです。
国家であれば、こんなことは日常茶飯事なのでしょう。
外交面だけでなく、内政においても、たぶんよくある話です。
そこに国家の特徴があるわけですが、どうもこうした国家の事件と先ほど体験したセミとカマキリへの私の介入事件との間にもまた、同じようなことが連続的にあることに気づきました。
つまり私はカマキリにだけではなく、人に対しても、あるいは組織や制度に対しても、同じようなことをやっているのではないかと思います。
注意しなければいけません。独善的な正義感に襲われかねないからです。
今回の「事件」の救いは、反射的行動だったことです。
反射的な行動は、たぶん生命に埋め込まれた自然な行為ですから、生態系的にたぶん合理的なのです。
小賢しい「正義論」は無縁な、自然の行動です。
みんなが自然に行動しだすと、カマキリは滅亡しかねませんが、たぶん人によっては、カマキリを応援するように仕組まれているのだと思います。
小さな事件ですが、実に多くのことを考えさせられます。
しかし、こういうように考えを広げていくのが、小賢しさなのでしょうね。
いずれにしろとても後味の悪い事件でした。
セミを助けたという気にはなれませんね。
■SNSの両義性(2011年8月12日)
中東反体制デモで「市民の新しい武器」と欧米で絶賛されたインターネット交流サイト(SNS)に対し、英政府が使用制限も辞さない姿勢を示している。
こんな記事がヤフーのニュースに出ていました。
英警察によると、神出鬼没の暴徒はSNSで「略奪スポット」を知らせ合い当局の裏をかくように破壊を繰り広げた。英紙ガーディアンによれば、SNSや携帯端末の登場で「街の不良は数年前には考えられなかった強力な通信手段を手に入れた」(野党労働党議員)と指摘する声も上がっている。
ただ、AFP通信によると、SNSを使って暴徒の写真を送信し合うなど市民が自衛に利用する例もあった、とも書かれています。
こうした英国のSNSの使用制限は成功することは難しいでしょうし、そうした動きへの批判も一方では広がっているようです。
この記事を読んで、私が思い出したのは、ネグリの「マルチチュード」です。
まさにマルチチュードにとっての岐路が見えてきたような気がします。
マルチチュードは、もともとは「大衆」に近い意味の言葉のようですが、ネグリはそれに現代的な意味合いを込めています。
異質な生活や価値観を持ったバラバラの存在としてある個人が、その特異性を保持したまま、ある意思を持ち出し、行動を起こし始める。
これが、私の理解している「マルチチュード」です。
異質な個人をつなげ、その全体に意思を与え、動きを方向づけるのが「誰か」(ネグリはそれを「政治的プロジェクト」といいます)によって、マルチチュードは、変革(反乱)の主体にも管理される搾取の客体にもなりえます。
前者の場合には、マルチチュードは能動的な社会的主体になりますが、後者の場合は無機質な機械的存在になりかねません。
しかし、いずれの場合も、マルチチュードを束ねていくのは、「言語」であり服装やしぐさです。
個人間のコミュニケーション様式も大きな影響を与えます。
前者の場合は、現体制の権力との対決の場面が必ずあります。
ネグリは、そうしたことこそが異質の存在であるマルチチュードの一体感を高めるといいます。
「催涙ガスの刺激臭が五感を鋭敏にし、路上での警察との衝突が怒りの血を全身にたぎらせ、もはやその強度を爆発寸前のところにまで高めるのだ。こうして極限まで強化された共は、ついに人間学的変容を引き起こし、闘いのなかから新しい人類=人間性が出現するのである」と、ネグリはその著書で書いています。
そして、「殉教」行為が始まります。
こうしたことは、イラク戦争で私たちは何回も映像に触れています。
イラク戦争の契機になった9.11そのものも「殉教」によって引き起こされたのです。
マルチチュードのメンバーが、自らの生活や価値観を変えずに一つの意思と行動を可能にしたのは、インターネットに支えられたこの数年のITの進化のおかげですが、もう一つ見落とせないのは経済の均質化です。
かつては多様な働き方、生き方がありましたが、いまや経済という枠組みの中で、労働は「雇用労働」になり、生活をつなげるグローバルな記号になってしまったのです。
つまり、つながり方はともかく、つながりやすくなったということです。
「労働」は、もう一つの「言語」なのです。
多種多様な異質によって行動的に創発される集合的知性、つまりその意味でのマルチチュードは、ある意味で「新しい生命」とも考えられます。
各地で起こっている「反乱」や「暴動」が、これからどう進化していくのか。
とても興味があります。
1982年に、「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
その書き出しは「反乱の時代」でした。
40年して漸く、21世紀が見えてきました。
私には、ですが。
■「最後の絆〜沖縄 引き裂かれた兄弟」を見ました(2011年8月13日)
フジテレビの終戦記念特番の「最後の絆〜沖縄
引き裂かれた兄弟」を見ました。
実話に基づくもので、途中に登場人物のインタビューなども挿入されています。
実際の映像とドラマ映像が、自然につながっていて、実に感動的でした。
「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出す物語です。
あらすじは次のサイトをご覧いただきたいですが、大筋は沖縄の熱血勤皇隊に入った16歳の少年兵と開戦前にアメリカに出稼ぎに行ってアメリカ兵になった兄とが、激戦の沖縄で出会うという話です。
テーマは、タイトルの「家族の絆」です。
たまたま昨日、このブログで「マルチチュード」について書きました。
マルチチュードは「言葉」(文化)と「通貨」(経済)という2つのメディアによって生まれる基盤がつくられていると書きました。
そして、マルチチュードは民主主義を進化させる主体にもなれば、従順な管理客体にもなりうるとも書きました。
表現はそのままではありませんが、そういう主旨のことを書いたつもりです。
しかし、重要なことを書き落としています。
それは、マルチチュードがそのいずれに向かうかを決める、もう一つの要素です。
このテレビドラマを見ていて、そのことをやはり書いておかないといけないと思いました。
その要素とは「愛」です。
愛はどこから生まれるかは、難しい問題です。
愛の原型は「家族」ではないかと思いますが、家族の愛には2種類あります。
親子愛や兄弟愛といった「存在する愛」と夫婦愛のように「発生する愛」です。
両者はいずれも家族関係に支えられていますが、その形成原理は異質です。
その両者を育む場としての家族、あるいは家庭を、どう位置づけるかによって、マルチチュードの方向性が決まってくるように思います。
このドラマは、国家を超えて、あるいは敵味方に立場は変わっても、家族の絆が勝るということを示しています。
私などは、それは当然だと思いますが、家族が敵味方に別れて戦った事例は日本の歴史の中にもたくさんありますから、当然とはいえないでしょう。
子どもたちを洗脳して親の思想を摘発したナチスの例に見るように、家族は使いようによっては、人を引き裂くための道具にもなるのです。
社会における家庭の位置、家族の役割をどう考えるか。
政治にとって、これはとても重要な問題です。
いま話題の「子ども手当」や以前さけばれた「介護の社会化」は、こういう側面から考えるとまた違って見えてきます。
経済においてはもっと重要な問題です。
これまでの市場経済から言えば、家族や家庭は無用の長物であるばかりか、市場拡大にとっては邪魔な存在でした。
ですからこの数十年、日本の家庭や家族は壊され続けてきました。
しかし、イリイチが提唱する生活のための経済、サブシシテンス経済にとっては家族や家庭がきわめて重要な意味を持っています。
このドラマは、戦争や平和だけではなく、さまざまなことを考えさせてくれたドラマでした。
しかもその主人公のお2人は、いまも健在です。
昨年は沖縄で再開しています。
とても考えさせられるドラマでした。
私は滅多にドラマは見ませんが、娘が見ていたので、ついつい見てしまいました。
たまにはドラマもいいものです。
■大連立発想への疑問(2011年8月14日)
ねじれ国会だと法案もなかなか成立しないし、政治にスピード感が出てこないということで、大連立への賛成者が増えているようです。
しかし、私にはあまり理解できません。
ましてや「救国内閣」などと言う言葉が出てくると、背筋が少し寒くなります。
昨今の被災地支援の言葉が「葵の印籠」のように感じられて、あまり気持ちがよくありませんが、「葵の印籠」はどうもそれだけではなさそうです。
私はねじれ国会にはむしろ好意的です。
違った視点で議論されることによって、問題がよりよく見えてきます。
もっとも今の国会の議論のやり方には改善の余地は大いにあります。
議論の目的が「国民の生活」や「国家の運営」ではなく、「党のため」「自分のため」の力の見せ合いのようになっているからです。
しかし、大連理政権になったら、国会での議論の意味は低下します。
国民の見えないところで政策論議がなされ、妥協されていきやすいからです。
政治がもっとスピード感を持って、的確に動いていくことは、もちろん大事ですが、法案が成立せずに事態がなかなか進まないのは、果たしてねじれ国会のせいでしょうか。
大連立政権にしないと改善されないのでしょうか。
私には、問題のすり替えのように思います。
何しろ現在は民主党だけでも党内調整に手間取り、閣僚の中でさえ大きな意見の不一致が力を削ぎ合っているのです。
それに「救国内閣」という表現には不快さを感じます。
「救国」とは何でしょうか。
時代錯誤もはなはだしいと思います。
長く自民党の一党独裁が続きました。
そのために、議論を通して、よりよい政策に高めていくという、本来の国会は日本にはなかったのかもしれません。
そもそも党議拘束などというのも、私には民主主義になじまないように思います。
大連立を求める人は、要するに反対する人のいない体制をつくろうとしているだけでしょう。
選挙の意味も大きく変わってしまうかもしれません。
そうやって、かつての日本はどこに向かったのか。
それを思い出すと不安になります。
どこかがおかしい、そんな気がしてなりません。
■恐怖の源泉(2011年8月15日)
渡辺謙さんがレポーター役をつとめた「9.11テロの立ち向かった日系アメリカ人」を見ました。
「9.11アメリカ同時多発テロと、70年前に開戦した太平洋戦争を結ぶ、知られざる物語がある」という話から始まるドキュメントです。
9.11テロ発生後、アメリカで、アラブ・イスラム系の人々に対する暴力や差別が広がりました。
そうした動きに厳然と異議を唱えたのが、テロ発生当時、運輸長官だった日系二世のノーマン・ミネタさんだったそうです。
そして、彼を中心にして多くの日系アメリカ人たちが行動を起こしたのです。
その背後には、太平洋戦争時にアメリカで起こった日系アメリカ人の強制収容所隔離という、自分たちの両親たちの体験がありました。
ノーマン・ミネタさんの両親も、その体験があったのです。
いまも、日系アメリカ人とアラブ・イスラムの若者同志の交流の場がもたれていますが、その集まりでミネタさんが話した言葉に感激しました。
彼は、若者たちに自らのルーツである宗教、言葉、芸術に誇りを持てと語りかけます。
そして、それを共有していくことが大切だと言います。
いうまでもなく、共有するとは「違いを認め合って、お互いに尊重しよう」ということです。
そして、ミネタさんはこうつづけます。
「何かについて、誰かについて、知れば知るほど、恐怖感はなくなっていく。」
疑心暗鬼という言葉がありますが、不安な状況の中では、「知らないこと」は恐怖の源泉になるのです。
正確に言えば、中途半端な知識が一番危険なのだろうと思います。
無垢な赤子は、おそらく何に対しても恐怖は感じないでしょう。
しかし多くの人は、自らが知っている世界の広さと恐怖感はおそらく反比例します。
「不惑」という言葉も、その人の世界の広さに関連していると思います。
「愛国心」もまた、恐怖心(コンプレックス)と深くつながっています。
しかし、恐怖に端を発する「愛」は、ありえないでしょう。
「何かについて、誰かについて、知ること」の大切さを、私たちはもう一度、思い出すべきです。
最近の教育は、それを忘れているように思います。
教育だけではありません。
私たちは、毎日の生き方において、もっと「何かについて、誰かについて、知ること」を心がけるべきではないか。
この番組を見て、改めてその思いを深めました。
アメリカにはまだ政治がある、とも思いました。
■医師免許の意味(2011年8月19日)
大震災被災地の石巻市などで、「ボランティアの医師」を名乗って活動していた米田容疑者が医師法違反の疑いで逮捕されました。
彼は医師免許を持っていなかったそうです。
こうした「偽医師による治療行為事件」は時々起こります。
その度に、私は、なぜこういうことが起こるのかと思います。
そして、どうしてみんな医師免許のない人の医療行為を非難するのか、不思議に思います。
わが家のむすめたちに話すと、医師免許を持っていない人に治療を受けたくない、といわれました。
同じ昨日、患者に誤った薬剤を与え、副作用で死亡させたとして、埼玉県薬剤師会の会長まで勤めた薬剤師が業務上過失致死容疑で書類送検されたというニュースが流れていました。
その話をして、たとえ免許を持っていても、こういうことは起こると話しても納得してもらえません。
わが娘にしてまで、「免許」や「資格」に依存しているようです。
育て方が悪かったのでしょうか。
社会学者の市野川さんがある本で語っていた言葉がとても私には納得できます。
プロフェッションというのは独占の一形態であって、それには名称独占(試験合格等の条件を満たさなければ、その資格を名乗れない)と業務独占(資格をもっていなければ、その業務に従事できない)の二つがありますが、外国人ケアワーカーの受け入れに対する反発は、賃金等が下がることへの反発であるばかりでなく、プロフェッションの独占体制、正確にはネイションをベースにした独占体制が、揺らぐことへの反発でもあると思います。(『「国家」は、いま』岩波書店)
フィリピンの看護師資格が日本でそのまま認められないことを、同国の看護師協会が問題にしたことに関連しての発言です。
私は、「資格」制度にはほとんど価値を感じていない人間です。
資格をひけらかすプロフェッションほど、内容のないプロフェッションはいないと思っているからです。
それに彼らの専門知は、実際の生活においては必ずしも有効ではないからです。
こんなことをいうと、いわゆる「士業」の友人たちに怒られそうですが、資格を否定しているわけではなく、その人の持っている技量や知識、あるいは機能を理解するための、「ひとつの要素」としては意味があると思っています。
しかしだからといって、それは万能でもなければ、それがなければ「当該行為」ができないということでもないでしょう。
今回の米田容疑者に関していえば、私には助成金目当ての何ものでもないとしか思えません。取り立て騒ぐような話でもありません。
むしろ、医師免許に騙されて安直に助成したり、免許の有無で行為の評価が一変したり、さらには、いい加減な「資格」や「免許」をすべての判断基準にしてしまう人たちの多さに恐ろしさを感じます。
この問題が発しているメッセージを、私たちは自分の問題としてしっかりと受けとめるべきでしょう。
「知的な仕事」は専門職の人でないとできないと思うことをやめなければいけません。
ほとんどの「資格」「免許」の獲得にはお金が絡んでいます。
そして、それが格差社会を維持していくための、かなり有効な手段であることは間違いありません。
自らが獲得した評判と管理者によって認定される制度としての資格とを混同してはいけません。
■リスクをとらない生き方(2011年8月20日)
この数年、いろいろな局面で、リスクをとらない人たちに出会います。
本人はたぶんあまり気づいてはいないのかもしれませんが、「安全で安心な社会」のなかで生きていると、そうした生き方が当然だと思うのかもしれません。
そういう生き方は、私の周辺にも増えています。
私自身、そういう傾向が強まっているのかと思うとゾッとしますが。
和牛オーナー制度で成長していた安愚楽牧場が、民事再生法の適用を申請しました。
7万人を超すオーナーからの出資の4200億円が返還できるかどうかが問題になっています。
老後の生活資金を投入した人もいるそうです。
こうした事件が起きると、いつも経営者が責められます。
たしかに経営者に悪意がある場合も少なくないでしょう。
しかし、私はいつも、出資した人の無責任さを咎めたくなります。
投資とは、リスクのあることです。
高利を求めるのであれば、リスクは覚悟しなければいけません。
それに老後の生活資金を、そうしたリスクのあるところに投資すべきではありません。
世の中には、そんな好都合の話などありません。
出資先が倒産したのであれば、潔く諦めるべきです。
仮に、それが「詐欺行為」だったとしても、諦めるべきです。
詐欺行為は許せませんが、詐欺にあうのも褒められたものではありません。
ましてや詐欺とわかって騒ぐのは、私の美学ではありません。
生きることには、常にリスクが伴います。
農業や漁業を生業にしている人たちは、常にリスクを負っています。
日照りが続けば収穫は減るでしょうし、台風が来て全滅することもあります。
漁師も、どの漁場に行くかは、自分で決めなければいけません。
漁獲も豊漁もあれば、魚群に出会わないこともあるでしょう。
御殿が建つこともあるでしょうが、津波に家をさらわれることもある。
みんなリスクと共に生きています。
老後のためにお金を蓄えるという生き方そのものが、私には違和感がありますが、それは仕方ないとして、お金を増やそうなどという発想はいったいいつから広がったのでしょうか。
「お金がお金を増やす」などということを信ずる人の気持ちがわかりません。
マジックではあるまいし、そんな事が起こるはずがない。
でも現代人は、みんなそれを疑うことはありません。
「お金がお金を増やす」ことが起こるとしたら、それは同時に誰かの「お金を減らしている(奪っている)」ことではないかと、私は思います。
それが、私の経済観のイロハです。
工業社会は、しかし、「安全神話」に守られた社会です。
自然の変化などには影響されないですむ仕組みをいろいろとつくりあげてきました。
ですから、そうした社会に生きていると、みんなリスクをとる生き方を忘れてしまいます。
ちょうど野生の動物が家畜になるのと似ています。
リスクを無視し、いいところだけを享受する生き方が、私にはどうしても違和感があります。
原発の問題を考える時に、どうしても引っかかってしまう問題でもあります。
■円高で海外企業を買収する事の意味(2011年8月22日)
円高が止まりません。
たしかにドルを支えるアメリカの経済状況を見れば、基軸通貨のドルがきわめて危うくなっているのは明らかです。
オバマ政権は、この事態を収束させられないでしょうから、円高はさらに進むかもしれません。
グローバル化の終焉は、大きな危機をもたらしました。
小泉政権がやってきたことを、しっかりと見直すべき時期に来ています。
しかし、日本では相変わらず方向を転じていないように思います。
その一つとして、円高のなかで、海外の企業の買収が増えています。
経済行為としては合理的なのでしょうが、私たちの生活にとってどういう意味があるのか、よくわかりません。
その行為で、誰が幸せになり誰が迷惑を受けるのか。
円高を活かして海外旅行したり、海外の商品を購入したりする動きは、メリットを享受する人が明確です。
円を使って生活している旅行者や購入者です。
海外旅行を斡旋している会社もメリットがあるかもしれません。
海外の企業を買収した場合はどうでしょうか。
買収した企業は利益を得るでしょう。
安い買物といえるでしょうから。
しかし、それで何が失われるでしょうか。
資本や企業が国境を越えて自由に行動するのが、経済のグローバル化です。
それによって、資本や企業は利益を得る選択肢が拡大します。
しかし、それは同時に、「国家」の意味を希薄化させることでもあります。
前にも書きましたが、グローバルな企業で活動するためには、国籍を捨てなければならないというようなことが、企業の人事部長から語られるように、グローバル化とは国家を超えることでもあります。
つまり、グローバル経済のもとでは、資本や企業の判断基準は、自らの利益だけです。
かつてとは違います。
企業はいまや、売買の対象です。
その発想を一歩進めれば、国家もまた売買の対象になりえます。
いいかえれば、市場主義の視点からいえば、国家の存在意義はそこにしかないともいえます。
資本や企業は、この20年でまったく変質してしまったとしか思えません。
円高が続けば、電力料金が高くなれば、海外に移転せざるを得ないなどという経済人には、生活というものがわかっていないとしか思えません。
「日本政府は、国民の利益のためではなく、企業や投資家の利益のためにグローバル化を推進する組織に成り果てた」と、経済学者の中野剛志さんは嘆いていますが、小泉政権以来の日本政府はそういわれてもしかたがありません。
もちろん今の民主党政権も、です。
小沢一郎さんは少し違うと思いますが。
得々として、海外企業の買収を発表する経営者には驚きます。
何のために企業なのか、原点に返って出直して欲しいものです。
■島田紳助さんの突然の引退会見(2011年8月25日)
島田紳助さんの突然の引退会見は、一見、潔さそうで、歯切れの悪い会見でした。
言い訳が多すぎました。
しかし、彼の人柄が感じられて、何回も見てしまいました。
それはそれとして、いつも思うことがあります。
付き合うだけで反社会的だといわれる組織や人が存在することへの疑問です。
社会には2つの暴力組織が存在します。
いわゆる暴力団と警察組織です。
両者はつながっていますが、その境界が私にはよくわかりません。
警察から暴力組織への天下りもあるのだろうと、私は勘繰っていますが、暴力組織から警察関連組織への「出向(応援)」もあるはずです。
少なくとも、1960年代にはあったはずです。
そうした繋がりを残したまま、普通の人が暴力組織と付き合うと非難されるのは、要するに「暴力組織」も含めて、暴力機能を政府が独占しようということの当然の結果かもしれません。
しかし、それは危険な賭けでもあります。
なぜなら、人が構成する組織は、閉じられてはいけませんから、暴力は必ず広がりだすからです。
それを管理するのは至難のことです。
暴力組織の存在を許しておきながら、そこと付き合うのはだめだというのであれば、もう少しきちんと論理付けるべきですし、管理の仕組みを構築すべきです。
警察はもう少し頭を使うべきでしょう。
暴力に依存していると、そういう志向はなくなるのかもしれませんが。
しかし、暴力をあずかるのであれば、もっと真剣に管理してほしいものです。
最近の日本社会の荒廃は、そうしたことがおろそかにされた結果だと思います。
「警察の民営化」も少しずつ始まっていますが、暴力管理(警察行政)のあり方は、そろそろ考え直すべきでしょう。
安直な監視社会化だけでは限界があるはずです。
民間の暴力組織を合法化した、その後の戦略が不在です。
橋下大阪知事が、自分が知事になれたのは紳助さんのおかげだと発言しています。
要するに、橋下知事もまた暴力組織の庇護の下にあるということです。
紳助が引退するなら、彼も責任をとるべきだと私は思いますが、もしそうであれば、責任を取って引退する人は、八百長相撲事件で多くの力士が引退させられたと同じように、膨大な数の人が連鎖していくでしょう。
政界にも、経済界にも波及するでしょう。
いささか過剰に考えすぎかもしれませんが、しかしそれが現実なのでしょう。
私には生きにくい時代です。
■暴力団のミッションの終焉(2011年8月26日)
島田紳介さんの突然の引退で見えてきたのは、暴力団対策法が10月1日からまた一段と厳しくなるということです。
その背景には、山口組系の組員が、最近の様々な犯罪事件に絡んでいるということがあるようです。
以上は、今朝のテレビで知ったことですが、もしそれが正しいとすれば、突然の動きも理解しやすくなります。
そこから感じた事が2つあります。
ひとつは山口組などの組織が壊れてきているということです。
組員が、普通の人を巻き込んで犯罪を起こすことを止められなくなったということは、以前の組織にはあまりなかったことではないかと思います。
堅気の世界と自分たちとは、別の世界だというのが、彼らの美学でありルールだったように思います。
しかし組員の管理すらできなくなったために、一般社会に様々な不都合をもたらすようになってきた。
そのため、治安維持にあたる警察側も放ってはおけなくなったようにも思えます。
これはリーダーシップの問題でもありますが、組織のミッションがなくなりつつあるということでもあります。
もう一つは、社会の管理の方法の変化です。
警察は治安維持のために「民営暴力組織」を使うことから「ITシステム」を使うことに、パラダイムシフトしたのではないかと言うことです。
監視カメラ、あるいはITシステムを使った個人言動管理の強化路線です。
これは一見治安を安定させるように見えますが、たぶん必ず破綻するでしょう。
それはもうずっと前にオーウェルが予言しています。
舌足らずですが、この2つが私が感じていることです.
いずれにしろ、暴力を独占している人は、暴力など使う必要はありません。
最高にやさしい存在になれるはずです。
しかしどうもそうなってきてはいない。
もしかしたら。暴力の独占が壊れだしているのかもしれません。
もしそうであれば、社会が壊れだしているということです。
であればこそ、自らをしっかりと律して生きなければいけません。
コンプライアンスの意味は、法令遵守ではなく、大きな秩序に従って自らを律することなのではないかと思います。
■民主党代表選に思うこと(2011年8月26日)
民主党代表選への立候補者がにぎわっていますが、私は今話題になっている人以外の人が代表になる可能性に賭けています。
いま名乗りをあげている人は、いずれも私には共感できないからです。
あえていえば、小沢鋭仁さんくらいでしょうか。
しかし彼は代表選からは降りるでしょう。
それはそれとして、
だれもが「政局より政策だ」といいます。
こんな時期に、代表争いではないだろうといいます。
あるいは、こんな短い期間にだれがどんな政策を持っているのかわからないとも言います。
少しは政治に関心があれば、別に選挙でなくても、そのくらいのことは簡単にわかります。
たとえば立候補者のウェブサイトを見れば、かなりのことはわかります。
それもしない人は、どんなに時間があっても理解など出来ないでしょう。
そもそも興味がないのか、理解するだけのしっかりした「生活」をしていないのか、のいずれかです。
そういう人が郵政民営化を実現し、経済自由主義を応援し、社会を壊してきたのです。
少し言い過ぎでしょうか。
1980年代までの企業経営学の関心事は、「戦略」と「組織」でした。
戦略が組織を決めるとか、組織が戦略を決めるとか、という事がもっともらしく語られていました。
しかし、うまくいきませんでした。
それは当然です。
戦略も組織も、それを実際に動かすのは「人間」だからです。
そして1980年代から1900年代にかけて、人間の行動や意識に影響を与える「企業文化」が注目されだしました。
残念ながらグローバル化という大きな波の中で、その動きは止まってしまいましたが。
このブログでは何回か書きましたが、大切なのはリーダーです。
リーダーの哲学やビジョンが、政策や施策の実体を決めていきます。
もちろん実現の速度もです。
絵に書いた餅のような政策論議よりも、誰がリーダーになるかです。
人柄、見識、国民生活への思い、世界の広さ、時代的役割の自覚、主体性、行動力、実現力、そうしたことでこそ、一国のリーダーは決めるべきではないかと、私は思います。
同時に大切なのは、官僚の文化や国民の文化です。
偉そうなことを言う人ほど、だれが勝つかに興味を持っています。
テレビの政治解説番組を見ていると、それがよくわかります。
文化は、みずからのしっかりした「生活」から生まれてくると、私は思っています。
■「僕が政治家になったわけ」(2011年8月29日)
今日は民主党代表選だったので、予定を変更してもらい、終日、わが家でテレビを見るつもりでした。
10時半くらいから見始め、11時からの5人の候補の演説はすべて見ました。
しかし、「青年の主張」のようで、退屈で、途中からフェイスブックでそうした感想を流しながらの、いささか真面目さを欠く視聴態度になっていきました。
一緒にテレビを見ていた娘は、まるで「僕が政治家になったわけ(理由)」のスピーチコンテストだねとか、中学生日記みたいだとか、私よりも辛らつでした。
予想通りの2人が残り、決選投票になりました。
その段階で、多分ほとんどの人が野田さんが勝利すると思ったと思います。
野田さんも、それを確信していたような力強いスピーチを最後にしました。
そこであまりにも退屈なテレビを見るのをやめましたが、しばらく外出して戻ってきたら、予想通り野田さんが代表になっていました。
またしても小沢さんは間違ってしまったわけです。
よりによって、なんで海江田さんを支持するなどといったのか。
一番傀儡政権にしやすいと思ったのでしょうが、残念ながら小沢さんには私も失望しました。
自信がなくなっているのでしょうか。
小沢さんが海江田さんを指示すると発表した段階で、私の小沢さんへの期待は終わりました。
日本はおそらく奈落に向かってもう少し突き進むのでしょう。
そんな気がします。
野田さんも馬淵さんも良い人なのでしょう。
そう思います。
前原さんのように、この国をおかしくするとは思えませんが、今日の最初の演説、「僕は政治家になったわけ(理由)」を聴いていて、なにやら力が抜けてしまいました。
そんな話はどうでもいいのであって、「私が政治家として目指したいこと」が語れない実務家は、官僚と同じです。
脱官僚は、まず自らの発想から始めなければいけないのではないかと思いました。
しかし、これで日本の政治には質感が少しは戻ってくるでしょう。
東北の状況も改善されるでしょう。
なによりもいいのは、管首相の顔をテレビで見なくてすむことです。
これでゆっくりテレビのニュースが見られます。
しかし今日は充実感のない1日でした。
■石川ともひろ講演会(2011年9月1日)
昨日、市民連帯の会(代表:三井環)主催の「石川ともひろ講演会」を聞きに行きました。
石川さんとは、もちろん小沢一郎さんの秘書の石川さんです。
タイトルは「政治の迷走を生んだ陸山会事件」です。
残念ながら陸山会事件そのものに関する話よりも、現在の政局の話などに話題が拡散したため、話は面白かったのですが、肝心の事件の真相につながる話はあまりありませんでした。
たぶん当事者にとっては、あまりにもばかばかしくて、話にもならないんでしょう。
検察審査会などは本当にひどい捏造としか、私にも思えません。
マスコミがたたかないのは、原発と同じく、たたいたら災難が降ってくるからでしょう。
元検事の三井さんは、検察はマスコミに意図的にリークして「風を起こすのだ」とご自身の体験を語っていました。
小沢事件は、明らかに政治事件だと思いますが、マスコミは完全に反小沢ですから、正確な情報は流れません。
例の厚労省の村木事件がはっきりと示していますが、当事者にならない限り、みんな検察は正義だと思っているのです。
石川さんは最近、「悪党」という、小沢一郎さんに関する本を出版しました。
政治評論家の岩見陸夫さんが褒めていますが、昨日、石川さんの話を聴いて、石川さんを見直しました。
彼は小沢さんをいまも信奉していると思いますが、したたかなに動いているような気がします。
かなりの人物です。
三井さんは検察の裏金を告発した元検事です。
後半は、三井さんと石川さんの対談でした。
面白かったです。
すべてを失った者の話には共感できるものが多いです。
光市母子殺人事件の安田弁護士が石川さんの弁護をやっているようです(間違っているかもしれませんが、そう聞えました)。
安田弁護士は、このブログで私は酷評していますが、きちんと本人の話を聴かなければいけないと思いました。
機会を見つけて、講演をお聴きするつもりです。
しかし日本の司法は腐っています。
改めてそう感じました。
■ハンマーカンマーと柳原和子(2011年9月2日)
昨日からまたこのブログへのアクセスが急増しています。
調べてみたら、「柳原和子」関連の記事へのアクセスへのアクセスが原因です。
昨日、柳原さんのドキュメントが報道されたのです。
前にも書きましたが、普段は安定しているブログへのアクセスが急増しているとなにがあったのかと驚きます。
アクセスした人の検索ワードが調べられるのですが、それを確認すると、なぜアクセスが増えたのかがわかります。
それにしても、テレビの影響はすごいものです。
しかし先日の「ハンマーカンマー」でのアクセス増よりも、柳原さんでのアクセス増がうれしいです。
ブログもそうですが、フェイスブックでも反応があるのは、多くの場合、概して毒にも薬にもならないような記事です。
それにいささかの不満がありますが、まさにそのことが社会の状況を象徴しています。
昨日、大学生がやってきました。
彼が言うには、同級生と話をしようと思っても、当たり障りのない話であればともかく、ちょっと内容のある話をしようとなると話さない人が多いのだそうです。
そういえば、そういう話は数年前からよく聞きます。
価値判断を含むような話は、なぜかみんなしたがらないのです。
そこで、当たり障りのない話に終始してしまいがちですが、それがフェイスブックやブログにも現れているのです。
自分の考えを明らかにするのが恐いのでしょうか。
それとも自分の考えがないのでしょうか。
実名を出したがらない人もいます。
実名を出さないで意見を言うことは、私にはまったく理解できません。
実名につながらない発言は、フィクションでしかありませんから、そこにはメッセージ力は生まれません。
少なくとも受け取る側には重みは感じられませんから、聞き流すだけでしょう。
実名を出すと被害を受けるという人もいます。
それが恐ければ発言しないことです。
発言するということは責任を引き受けるということであり、リスクを覚悟することです。
覚悟もなく発言するのは、私には無意味な行為です。
余計なことを書いてしまいましたが、テレビの影響力の大きさにはいつも驚きます。
その使い方を、もっと真剣に考えないといけません。
テレビは広告媒体であるだけではないのです。
■若者たちの不安感(2011年9月3日)
大学で教鞭をとっている友人の紹介で、大学生がやってきました。
合う目的はよくわかりませんが、ともかく会ってやってくれというのです。
とても誠実な友人なので、細かな理由など聴く必要もなく、ともかく会いました。
背が高く、声が大きい、元気な若者がやってきました。
彼の悩みも含めて、いろいろと話をしましたが、ちょっと驚いたことがあります。
彼の友だちの多くが、将来に向けて不安を強く持っているというのです。
若者らしい、夢のある不安ではありません。
社会に出て将来、食べていけるかどうかの不安です。
これが今の日本の実態だとしたら、恐ろしい話です。
自分のやりたい仕事があるのに、安定した収入の得られる仕事につこうとしている友人がいるそうです。
付き合っている女性がいて、彼女のためにも、自らの夢よりも安定を選ぼうとしているというのです。
彼もまた、自分のやりたい仕事を選んで、生活を自立させる自信が持てないという意味では、不安から自由ではありません。
生活の不安から、自分のやりたいことを選べないという若者が増えているとしたら、間違いなく社会は豊かさとは逆の方向に向かっています。
経済的な豊かさよりも精神的な豊かさを、などということは、時代錯誤な言葉になっているのかもしれません。
能天気な金持ちのたわごとと思われてもしかたないのかもしれません。
以前、やはり某女子大の先生が来て、卒業したら派遣社員に登録して、キャバクラで生活費を稼ぐという卒業生が増えていると話してくれましたが、昭和20年代に逆戻りです。
そのうち、身売りが始まるかもしれません。
いやもう始まっている気配も感じますが。
東北の被災地も大変ですが、むしろ問題は東北以外にあるのかもしれません。
前にも書きましたが、若者に働く場を提供できないような社会に未来はありません。
60歳を過ぎたら、働き場は後進に譲るべきであり、言葉の本来的意味でのワークシェアリングを進めるべきです。
経団連の米倉さんのような老人が、いまもって仕事にしがみついているような醜態は見たくありません。
もしどうしても仕事がしたいのであれば、マイナス給与を払って、若者の働く場づくりに役立つべきです。
いずれにしろ、若者がしっかりと暮らしていける経済基盤を持てるような社会をつくるべきです。
原発も環境も大切ですが、その前にまずは社会の基本を正さなければいけません。
食べていけるかどうかというような不安を、若者に持たせる罪をもっと真剣に考えたいと思います。
先日読んだ坂本義和さんの「人間と国家」にドキッとする言葉が出てきます。
「核爆弾で死ぬのと、飢餓で死ぬのと、何が違うのか」。
坂本さんが、ある貧困国の人から問われた言葉だそうです。
日本にも、同じ問題があるのかもしれません。
■台風12号とTPP(2011年9月4日)
台風12号の被害が広がっています。
すでに死者・行方不明者が70人を超えているようです。
テレビで見ていると、どうしても東日本大震災の映像と重なってきます。
自然の威力は、何も地震だけではないのです。
最近、こうした豪雨の被害の映像によく接するようになりましたが、被害が増えているのは、気候変動のせいでしょうか。
たしかに雨の降り方が少し変わってきたような気もしますが、どうも私は自然のせいにする気がしません。
私たちの暮らし方が、自然に沿わなくなってきているのが、最大の原因ではないかという気がします。
言い換えれば、経済のあり方につながっているように思います。
つい先ごろ、あれほどの被害が東北で起こりました。
にもかかわらず、死者がこんなに出てしまう。
テレビの映像を見ていて、いつも思うのは、映しだされている人たちの無防備さです。
東北の震災の時にも、それを感じました。
自然との付き合い方を、私たちは忘れたのでしょうか。
生き方そのものが自然に逆らっているということも含めて、やはりもっと自然を知らなければいけません。
私たちは学ぶべきことを間違っているのです。
子どもに英語を教える前に、自然の言葉を学ばせたいです。
金銭経済の知識よりも、自然経済の知識を学ばせたいです。
しかし、それを教える先生がいなくなりました。
同時に思ったのは、台風の被害で被災した人たちと東日本大震災で被災した人たちと、どこがちがうのだろうかということです。
たしかに東日本大震災は規模が巨大でした。
しかし、小さな規模で、被災者は各地で発生しているのでしょうね。
昔の日本にあったような、日常的に支え合う仕組みを改めて思い出す必要があるのではないかと思います。
しかし、その「共済の文化」も、TPPで壊されていくかもしれません。
鹿野さんや山岡さんにがんばってもらいたいですが、財務省かぶれの野田さんが相手では心配です。
TPPの破壊力は、台風12号なんてものではないのですから、もう少しみんな真剣に考えなければいけません。
郵政民営化の二の舞は避けたいものです。
■TPPと郵政民営化(2011年9月5日)
TPPに関連して、昨日、「郵政民営化の二の舞は避けたいものです」と書きました。
ある人から、TPPと郵政民営化はどうつながるのかと訊かれました。
私は、同じ軸の上の動きだと思っています。
そもそも郵政民営化は、アメリカからの「年次改革要望書」で、郵政省のような政府機関が、民間保険会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止するべきだと言われたことに端を発しているといわれています。
小泉元首相が、アメリカの金融資本に日本の国富の一部を売ってしまったわけです。
そしてオリックスの宮内さんが、その流れ(「グローバリゼーション」)に日本の企業を乗せて、日本の経済を壊してしまいました。
底から日本の企業は、それまでの「会社」とは似て非なるものになったように思います。
これに関しては当時も、その後も、何回か書きました。
そのとばっちりが、共済事業にまで及び、そのために私までが共済研究会に関わらせてもらう羽目になったわけです。
金融ビッグバンは、日本を変えると思っていましたが、働きかけた日経の論説委員は動きませんでした。
これに関してもどこかに書いた記憶があります。
いずれにしろ、すべてはアメリカのシナリオ通り動いているように思います。
さすがに数年前から、「年次改革要望書」は日本でも話題になりだしました。
そのせいか、いまはスタイルも変わり、「日米経済調和対話」などというわけのわからないものになっていますが、そのテーマも「農業と医療」に移ったといわれます。
郵政と農協はもうおそらくアメリカに飲み込まれだしたので、次は日本人の「生命」に標的が変えられたわけです。
農業と医療は、もちろん巨大な金融市場でもありますが、それ以上に「生命」につながっています。
産業や経済だけの話ではありません。
しかし、政財界の人にとっては、国民の生命は「要素」であって「目的」ではないのです。
BSE感染牛事件に対して、小泉政権がとった姿勢を思い出せばわかることです。
私は以来、アメリカ牛は基本的に拒否しています。
ともかくアメリカの金融資本の思いのままになっているのが、最近の日本の政府です。
その流れで、TPPが急にクローズアップされてきたような気がします。
菅前首相は、その私欲の強さから小泉元首相の後釜にされたのではないかと、私は当時、勘ぐりました。
政治の素人は、アメリカには操作しやすい存在なのかもしれません。
その意味では、野田さんも危険です。
TPPと郵政民営化は、私の認識においては、同じ話です。
日本の文化を壊しても、市場化したいだけの話なのです。
私には、TPP賛成論者の考えがまったく理解できません。
少しでも「生活」していたら、とても賛成できる話ではないと思っているのです。
■「テロの心」を捨てたいものですが(2011年9月6日)
9月11日が近づくにつれて、テレビで9.11事件の関連する番組(再放送も含めて)が増えてきました。
10年前の事件ですが、あの映像はいまだ鮮明に思い出されます。
ケネディ暗殺の映像と同じく、私の頭から離れることはありません。
あの事件は、世界の根底で進んでいることを可視化してくれたように思います。
9.11事件は陰謀だという説が根強くあります。
私にはわかりませんが、マスコミで報道されていることがすべてではないようには思います。
私がそう思うのは、フセインやビンラディンがまともな裁判も受けることなく、アメリカの大統領の指示で「殺害」されたからです。
事の真相は葬られたわけですが、そのことは「真相」が明らかになってはアメリカ政府が困ることを示唆しています。
そうでなければ、彼らを公開の場できちんと問い詰めて、自らの正当性を主張したはずです。
彼らが重要な言葉を残すことなく「殺害」されたことに対する、ブッシュ大統領とオバマ大統領のコメントは印象的でした。
国家は暴力を独占し管理下に治めたとはいえ、そこにはやはりルールがあります。
しかし2人の大統領がとった行為は、リンチに似ています。
まだアメリカは、ワイアット・アープの時代から進んでいないように思えます。
ネイティブズ暗殺の文化から抜けられないのでしょうか。
平和のために戦うという言葉ほど、虚しい言葉はありません。
たまたま今日、「6割の日本人が米軍基地を「歓迎」、中国への抑止力を期待」という記事に出会いました。
AP通信とアメリカの調査会社が行った世論調査の結果だそうです。
基地は抑止力になるかもしれませんが、同時に攻撃の誘引力にもなります。
この調査がどのようなものなのかはしりませんが、たしかに私の周りにも、中国や北朝鮮への恐怖からか基地や自衛のための軍隊を肯定する人が多いです。
しかし、軍隊や基地を認めた途端に、平和の世界を捨てることになるでしょう。
戦いで得た平和は必ず戦いで失うでしょう。
平和を得る唯一つの道は、すべての戦いを捨てることです。
10年前にも思ったことですが、9.11から学ぶべきは、テロ対策ではなく、自らの中にある「テロの心」を捨てることだろうと思います。
そう思いながらも、私自身いまも「怒り」や「恨み」からなかなか解放されません。
とりわけ権力を持つ人に対しては、ついつい怒りをぶつけてしまいます。
どう処すればいいのか、なかなか答がみつかりません。
怒りをぶつけることが、いかに無様なことなのかは、知ってはいるのですが。
■切り餅特許訴訟とプロ・パテント戦略(2011年9月7日)
切り餅特許訴訟事件の控訴審は一審の判決を逆転させました。
この裁判は、ご存知の方も多いと思いますが、佐藤食品の「サトウの切り餅」などの側面と上下の面の切り込みが、側面に切り込みを入れた越後製菓の切り餅の特許技術の範囲内かどうかが争われている訴訟です。
昨年11月の第一審の東京地裁は特許の侵害を認めませんでした。
ところが、意外にも逆転判決です。
今日の夕方のテレビのニュースでもアナウンサーが「意外にも」という形容詞で報道していました。
これまでも何回か書きましたが、私は知的所有権には消極的な考えを持っています。
折角の発明であれば、できるだけ広く使えるようにしたほうがいいという考えです。
どんなに斬新に見える考えも、似たようなことを考えている人が必ずいるものです。
DNAの二重らせん構造でさえ、同時に2人の人が気づいたといわれています。
切り餅の切れ目など、同じような事は多くの人が考えていたはずです。
それがちょっとだけ早く特許申請しただけで、ほかの人が自由に使えなくなるということに、私は違和感があります。
私が知的所有権に消極的なのは、そこに「知の独占」の発想を感ずるからです。
プロ・パテント(特許権の保護強化)戦略は、最近のアメリカの国策と言われています。
新自由主義に踏み出した、レーガン時代からの動きです。
それを加速させたのは、日本企業への対抗とも言われていますが、いまや日本は、そのプロ・パテント世界に飲み込まれてしまっています。
アメリカの強い働きかけがあったからです。
しかし、私にはどうしてもなじめません。
「知の独占」は「知の暴力化」につながるからです。
特許の利用ができないために、最貧国で子どもたちの治療ができないなどという事態は、その一つの現れです。
よく中国の特許権やアイデア模倣が話題になりますが、私はあれだっていいじゃないかと思っています。
この話もまた、最近話題のTPPとつながっています。
自由化を進めても、一方では「知の独占」でアメリカは自らを守れるのです。
知は、すべての人たちのものでなくてはいけません。
青色LEDの訴訟も、私には全くなじめませんでした。
知は、一人の人が発明するのではありません。
長い歴史の積み重ねのうえに、そして広い生活の広がりのうえに、知は生まれてきます。
たまたまある人の頭の中に顕在化したとしても、それはすべての生命の集合無意識と無縁ではありません。
最近、あまりお餅は食べないのですが、サトウの切り餅をがんばって食べることにしました。
越後製菓には訴訟を取り下げてほしいと思っています。
明日はわが身かもしれませんよ。
■2つの会見報道(2011年9月7日)
テレビで2つの会見報道を見ました。
一つは、大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠蔽事件で起訴されている大坪元検事と佐賀元検事です。
「有罪か無罪かは証拠で裁判所に判断していただく」という言葉が、いかにも白々しいです。
先日、検察の裏金を告発した三井元検事の講演も聞きましたが、みんな自分がその立場になるまでは「自分こそ正義」と思っていたのでしょう。
こういう事件が何回起きたら、検察の正義幻想は消えるのでしょうか。
日本の司法改革の実態は、もっとしっかりと見直すべきだろうと思います。
私は、そこに政治と経済の影を色濃く感じます。
もう一つは、中国漁船衝突事件現場の映像をインターネットに流出させた一色正春元海上保安官の取材報道です。
当時の民主党の対応はもっとしっかりと議論されるべきですが、うやむやになっています。
一色さんは、「私の役割は映像を投稿した時点で終わったと思っているが、事件の問題点、論点がそれてしまった気がする。今年8月には中国公船が領海内に侵入、一段階上の状態になっているが政府から何か手を打とうという意思は感じられない。民主党代表選でも外交・防衛には一言も触れていない」と嘆いていました。
彼の自らを犠牲にした警告を、民主党政権は受け止めていないままのようです。
また、司法への政治加入に関して、なぜもっと司法界から異議申し立てが出てこないのか、不思議です。
2つの報道を見て、さまざまな思いが浮かんできました。
日本の司法はどこに向かおうとしているのでしょうか。
司法界のみなさんにお聞きしたものです。
■住みやすい社会(2011年9月9日)
感心することがあります。
湯島に来る人には、あまり読まれたくないので、書くのを躊躇していましたが、昨日はあまりにも見事だったので、書くことにします。
湯島の私のオフィスではいろんな集まりを開きます。
決まったメンバーの集まりもあれば、その時限りの集まりもあります。
私の友人知人もいれば、初対面の人が参加することも多いです。
湯島の私のオフィスは、私の頭の中では「コモンズ空間」なのです。
私が参加しない集まりもあるのです。
昨夜は、技術者交流サロンと言うのをやりました。
参加者が面白がれば、継続しようと思っての、最初の集まりでした。
私を含めて10人が参加しました。
メンバーは、大企業の部長や中小企業の社長や個人起業者や、さまざまです。
私にとっては半分以上は友人ですが、初対面の人が4人もいました。
サロンは、はじめて知り合ったもの同士とは思えないほど、楽しく盛り上がりました。
遅くも9時には終わるとお話していたので、9時を少し過ぎた時に終わりました。
さて、そこからです。
私は何も言わないのに、みんなが自発的に後片付けだしたのです。
私が参加した人と話しているうちに、使われた珈琲カップやグラスは炊事場に運ばれ、なんと某大企業の部長が洗ってくれていました。
残った食べ物や飲み物は、これまたきれいに片付けられていました。
その見事さには、驚きました。
そういえば、会費制だったのですが、その会費も誰かが集めて箱に入れられていました。
一応、主催者は私だったのですが、何もしないまま終わりました。
昨夜はあまりにも見事でしたが、昨夜に限った話ではありません。
集まりをやると、だいたいにおいて誰かが片付けてくれるのです。
女性とは限りません。
不思議なのですが、女性がいると女性がイニシアティブを取りますが、女性がいないと男性がみんなで動くことが多いのです。
昨夜のように、思ってもいなかった人が洗いものまでしてくれるのです。
男性は家事をやらないという時代は終わったようです。
私のオフィスは、私だけしかいません。
だからみんな気配りしてくれるのかもしれません。
しかし、私にはなかなかできないことです。
昨夜の見事さには驚きました。
こんな人たちばかりだと、住みやすい社会になるはずなのですが。
■部下を守るのがリーダーの役割(2011年9月11日)
昨夜遅く帰宅して、テレビをつけたら、鉢呂さんの辞任が報道されていました。
まさかこんなに簡単に辞任するとは思っていませんでした。
辞意表明して野田さんが慰留して、留まると思っていました。
しかし野田さんは、慰留もせずに辞表を受け取ったようです。
驚きました。
私の考えでは、菅さんと同じく、野田さんはリーダーではありません。
リーダーは部下の失策を守らなくてはいけません。
ましてや自らがその地位に付けた人であれば、その責任は重いです。
目先の難問をかわすために、大きな使命をおろそかにしたとしか思えません。
それにしても、政治家の発言が厳しく詮索される時代です。
まさに「物言えば唇さみし」です。
誰も自由に発言できなくなってきています。
これは政治の世界だけではなく、すべてにおいてです。
w足しも昨日、ある集まりで、みなさんの発想は所詮は「業界の中の話」だと発言したら、一人の人から「業界」という言葉を使わないでくれと怒られました。
まさにそう思うのが業界発想なのだと私は思いますが。
それにしても私のように軽率に言葉を使う人間は、生き辛くなりました。
鉢呂さんの言動は、決して許されることでは在りません。
以前の松本さんの言動もそうでした。
ですが、それをことさら「大問題」にする前に、もっと大切なことがあるような気がします。
何しろいまは緊急事態なのですから。
人間であれば、その言動にミスはいくらでもあります。
それをいちいちあげつらっていたら、何も前には進みません。
言葉尻を捉えるマスコミも問題ですが、それに乗ってしまう政治家も問題です。
野田さんは自分が任命した鉢呂さんを信頼していなかったのでしょうか。
鉢呂さんと一緒に、素直に陳謝し、この言動の反省をテコにして、実体の問題解決に取り組むので許して欲しいと頭を下げれば多くの人は許したように思います。
もしそれがダメなら野田さん自身が辞任するほどの覚悟を示すべきでした。
リーダーとはそういうものだと思います。
部下を見捨てる人には、リーダーは務まりません。
最近はそうしたリーダーは流行らないのかもしれませんが、私はそう思います。
野田さんには失望しました。
功利主義者だとは思ってもいませんでした。
菅前首相と同じです。
それがいまの素直な気持ちです。
■楽しみを延期するパラダイム(2011年9月12日)
今の1000円と1週間後の2000円とでは、どちらに価値があるでしょうか。
「楽しみを延期するパラダイム」と呼ばれている有名な社会調査があります。
カリブ海のある島での、半世紀以上前の調査です。
その地域には、アフリカ系とインド系の移民社会がありました。
そのそれぞれの子どもたちに、1セントくらいの安いキャンディと10セントするちょっと高給なキャンディを子どもたちに見せて、1週問待てば10セントのキャンディをあげるが、今すぐ欲しい人には1セントのキャンディをあげる。どちらを選ぶかと問いかけたのです。
みなさんはどちらを選ぶでしょうか。
日本の子どもたちなら1週間待つほうを選ぶでしょう。
しかし当時の実験では、アフリカ系の子どもたちは3人に2人までもが1セントのキャンディ、つまり今すぐもらえるほうを選んだのです。インド系はちょうどその逆だったそうです。
これはその後、「マシュマロ・テスト」としていろんなところで調査されました。
この調査が示唆している事はたくさんありますが、もっと面白い調査結果があります。
「なぜ意志の力はあてにならないのか」という本で、最近知りました。
10年ほど前の調査ですが、124人の女性旅行者を対象に、賞品として85ドルの現金と80ドル相当のスパ体験のどちらを選ぶか、と質問したのです。
みなさんはどちらを選ぶでしょうか。
私はもちろん85ドルです。
85ドルあれば、スパを楽しんでも5ドル余ります。
スパ体験よりももっと楽しい体験を選ぶこともできます。
だれもが85ドルを選ぶと考えるのが普通です。
ところがです。
実際の調査結果では、なんと40人の人がスパ体験を選んだのだそうです。
理由はこうです。
「スパ体験を選べば贅沢ができる。お金を、たとえば食料品に使ったりせずにすみます」というものだったそうです。
これは間接的にきいた、某中小企業の社長の話です。
放射線汚染された瓦礫の撤去には日給10万円ほどが支払われるそうです。
20日単位らしいのですが、1回で200万円の高収入です。
それをそのまま社員に渡してしまうと無駄遣いしてしまうので、本人にはその一部を渡し、残金は家族に渡すようにしているそうです。
楽しみは延期するのがいいのかどうか。
みなさんはどう思われますか。
この3つのケースにどう対応するかで、その人の生き方が少し見えてきます。
ちなみに、私は10セントのキャンディを待ち、85ドルを選び、一気に200万円を貰うほうを選びます。
しかし、この選択は私の信条には合いません。
頭ではわかっていても、なかなかお金の誘惑には勝てません。
お恥ずかしい限りです。
■生き辛い時代(2011年9月14日)
八ツ場ダム建設の是非を検証してきた国土交通省関東地方整備局は13日、やはりダム建設が治水や利水で最も効果的とする検証結果を発表しました。
国土交通省は「戦い方」をよくご存知のようです。
新しい国交相が決まった直後に、政権交替後に行われた前原国交相(当時)の決断を否定したわけです。
さすがに前原さんは不快感を表明していましたが、野田政権は私には「笑いもの」にされた感じがします。
たくさんの御用学者(土木工学者ほとんどがお金に集まる御用学者だと私は思っています)を集めて、彼らに大盤振る舞いしたのでしょう。
公約破りの先鞭をつけた馬淵元国交相は喜んでいるでしょう。
野田政権はすでに骨を抜かれているように思います。
野田首相のスピーチも、実に虚しい内容でした。
余りのひどさに、私は言葉も出ませんが。
毎朝、朝立ち演説などせずに、少しは勉強してきてほしかったです。
あまり批判的な事は書くまいと思い出しているのですが、毎日、腹立たしいことが起こり、ついつい鬱憤を晴らしたくなります。
困ったものです。
昨日、友人から電話がありました。
横浜市長の会見がユーストリームで流れていると言うのです。
横浜市は、9月9日に全国では初めてだと思いますが、放射能が検出されている下水汚泥の焼却灰の投棄を決めました。
投棄先は、南本牧廃棄物最終処分場。海水面を埋め立て、新たな用地を作りだす処分場です。
つまり海洋に流れだす加納戦略が十分にあるわけです。
それを心配した市民たちが市長に申し入れたのでしょう。
しかし、今朝の新聞にはそのことが書かれていません。
そういえば、先日書いた、経済産業省前で行われている上関原発反対の若者たちのハンガーストも報道されません。
ちょうど昨日、そこを通った人から話を聞きましたが。まだ続いています。
原発にまつわる報道は見事なほど管理されているように思います。
そういえば、まだ電力不足を心配する人がいます。
これも完全に情報操作の結果だと思いますが、原発が止まっても電力不足など起こらないことはすでに10年前に体験しているのです。
どうもみんな忘れてしまっているようです。
電力不足を起こしたがっているのは、東電でしょうが、一番節電すべきは東電です。
仕組みを変えるだけでかなりの節電は可能になるでしょう。
最近、私が利用している湯島駅に電気需給率を示す映像が設置されましたが、これこそ無駄と言うものです。
ともかく節電と称して無駄遣いを奨励し、それにのった節操のない消費者は大騒ぎしているのです。
バカな生活経済評論家が、そのお先棒を担いでいます。
そういう人ほど無駄遣いをしているとしか私には思えません。
人に言われなくとも真面目に生きている人は無駄遣いなどしていません。
節電できる人は、生き方が間違っていただけです。
まあこんなことを書くと、私以外の人はみんな節操もなく間違った生き方をしているように聞えるかもしれませんが、私はかなりそう思っています。
すみません。
急いで付け加えれば、そうした人から見れば、私こそが節操もなく間違った生き方をしていると思っているでしょう。
まあ人の生き方はそれぞれですから、どちらが「真っ当」なのかはわかりません。
しかし、私にはとても生き辛い時代です。
■多様な異論をぶつけ合ったガバナンスへの期待(2011年9月16日)
増税に反対していた松原仁議員は、国交相副大臣として入閣したので反対論を主張しにくくなったというような記事が、今朝の読売新聞に出ていました。
それを読んで、党内融和とか閣内協力とは、要するに主張をしないということなのかとちょっと驚きました。
これは私がずっと思っていることですが、チームワークには2種類あります。
チームのために異論を唱えないチームワークと多様な異論をぶつけ合って考えを磨き上げていくチームワークです。
私にとって意味のあるチームワークは後者です。
言い換えれば、チーム全体から発想するからメンバー個々人から発想するかと言う、組織原理に関わる問題です。
私の時代認識は、前者から後者への組織原理のパラダイムシフトがいま起こっているということです。
したがって、松原さんは引き続き増税反対論を主張し続けなければ、入閣した意味がないことになります。
もちろん増税反対を貫けということではありません。
増税反対の視点で徹底的に議論したうえで、意見を変えることは、むしろ望ましいことです。
もちろん調和を乱さないためにではなく、議論のうえで認識が変わるという意味です。
ノーサイドで多才な人材を取り込んだのはいいですが、そこで真剣な議論が戦わされるのでなければ意味がありません。
TPPも、なんだか雲行きがおかしくなってきました。
アメリカ金融資本と日本の財務省の陰が色濃く感じられるようになって来ました。
TPPも経済の問題ではなく、文化パラダイムの問題だと思いますが、そういう認識はあまりないようです。
いまは個別問題で議論している時期ではないでしょう。
閉鎖的な原子力ムラの御用学者や御用ジャーナリストたちが原発事故の対応を遅らせたように、閉鎖的な専門家たちに議論させておくべきテーマではありません。
「国のかたち」に関わる問題だろうと思います。
日本にはまだ「ガバナンス」の思想は芽生えていないのでしょうか。
相変わらず上から目線の垂直構造の統治が、多様な意見を抑圧しているよな気がしてなりません。
原子力ムラの失敗を繰り返してほしくありません。
■税率を上げる増税と税収入を上げる増税は別物です(2011年9月17日)
増税論議がかなり具体的になってきました。
しかし、どう考えても私には理解できません。
「増税」とは何でしょうか。
その理解が不十分のように思えるのです。
念のために辞書を調べてみました。
増税とは「税率・税額をあげること」とあります。
しかし日本での増税論議はいつも「税率をあげる」ことになっています。
いうまでもなく、それは手段です。
大切なのは税収入を増やすことでしょう。
税率アップはそのための一つの手段です。
しかし税率を上げれば税収入があがるわけではありません。
それに、たばこ税を上げることに関して、小宮山議員が言っていたように税率を上げるのは、必ずしも税収入を上げるためだけに行われるとは限りません。
消費を抑える効果もあります。
日本は、目的と手段の構造があまり議論されません。
行政では縦割り行政が、経済界では金銭至上主義が、そうした文化を育ててきたように思います。
そしてNPOの世界もまた、そのいずれもの文化を継承しています。
税率を上げて経済が縮小することもあります。
江戸時代の悪代官がよくやったことですが、今の野田首相も同じ発想のように思います。
そういえば彼は悪代官に風貌が似ています。
性根は顔に出るものです。
いや、これは悪い冗談でした。撤回。口は禍の元です。
生活の現場や実体経済に立脚した増税論には賛成ですが、金融工学的な発想での現場を無視した増税論には反対です。
東電が原発事故の被災者への補償受付を始めました。
これが今の政府の基本姿勢だとしたら、現場などは完全に不在です。
快適なオフィスで立案し、問題が起きたら悪徳大寒やその岡っ引きに処理させる発想です。
これでまた「補償支援ビジネス」がはびこります。
エコポイントのときと同じです。
悪徳代官気質は、なかなか抜けないものです。
■お金がない生き方(2011年9月22日)
最近、面白い本を読みました。
安冨歩さんという東大の教授の「経済学の船出」です。
安冨さんの本は以前、「生きるための経済学」を読んだことがありますが、これも面白かったです。
たとえば、「自立とは、多数の他者に依存できる状態」というような、実際に自分を生きている人ならではの言葉がたくさん出てきます。
「経済学の船出」は、過激な本です。
私には1点を除いて、実に痛快でした。
最近の経済学に辟易している人にはお薦めですが、今日、取り上げるのは、その本に出てきたハイデマリーの実験の話です。
ハイデマリー・シュヴェルマーは、私とほぼ同年齢のドイツ人女性です。
彼女の実験とは「お金なしの生活の実験」です。
彼女は1996年に、ほとんどすべての所有物を手放し、アパートを引き払い、健康保険さえも解約し、仕事も辞めて、「お金なしの生活の実験」を開始したのです。
そしてそれから4年間、公衆トイレさえお金をとるドイツ社会で、お金をまったく使わないで生活し、その後も、お金をほとんど使わないで暮らしているのだそうです。
「経済学の船出」での紹介を読む限り、その考えは私と同じです。
もしそれが本当であれば、私が理想として実現できていない暮らし方をすでにやっている人がいるわけです。
理屈だけの私と違って、素晴らしい。
そこで、彼女の生活報告「食費はただ、家賃も0円!お金なしで生きるなんてホントは簡単」(角川書店)を早速取り寄せて読んでみました。
基本的にはとても共感できましたが、同時に私の考えとは違うこともわかりました。
というよりも、私よりは金銭に依存しているように思いました。
しかし「お金への執着」から解放されると実に生きやすく楽しくなるということにおいては、彼女の実践には魅力があります。
以前読んだ、韓国の法頂師の「無所有」にも通じてるところもあります。
コモンズを生きているハイデマリーの「強かさ」には共感しながらもどこかに違和感を持ちました。
少なくともそれは私には大きく欠落しているところです。
私は「金の切れ目が縁の始まり」という考えを大事にしています。
お金を基準にして生きている限り、心をつなぐ縁も、心からの歓びも得られないと思っているからです。
お金がない生き方を目指している方に、とりあえずお薦めの1冊です。
■山口県上関町の町長選挙の意味(2011年9月23日)
野田首相が原発擁護発言をしたとドイツでは報道されているようです。
この時期に、なにも国民感情を逆なでするような発言をする必要はないと思いますが、大きな力が働いているのでしょうか。
25日に山口県の上関町の町長選挙が行われます。
その結果には世界の注目が向けられているようですが、ここにきてもまだ、原発推進派は、町の問題なのだから町外の人には口を出して欲しくないなどとテレビの取材で話しています。
もし上関原発が事故を起こしたら、町外の人たちに補償してくれるつもりなのでしょうか。
私は福島の原発誘致を認めた地域の人たちには今回の事故で迷惑を受けた近隣の人たちへの責任感を持ってもらいたいと思っていますが、原発への情報がここまで周知のことになった今では、福島の人たち以上に上関町の住民は覚悟すべきです。
それほどの想像力さえ生まれないのは、いかに彼らがお金漬けになっているかを示しています。
もっと不愉快なのは、原発に関して取材を受けても多くの住民が顔を背けて、取材を拒否して答えない姿です。
意見を言えば、問題が起こるのでしょうが、自分の意見も堂々と言えないような生き方は、人間の生き方ではありません。
お金はまさに魔物で、人を卑屈にさせます。
そんな卑屈な生き方をしていて、子どもたちに顔向けできるのでしょうか。
そんな地域に育った子どもたちは、健全には育たないでしょう。
学校にどんな立派なプールができても、それを誇りには思えないはずです。
上関町でも堂々と意見を言い、汗して自分たちのまちを育てようとはっきり話している人もいます。
お金に依存して(つまり誰かを犠牲にして自分だけのことしか考えずに)生きていくか、汗しながらみんなと一緒に生きていくか、上関町長選挙は、私たちの社会の前途を占う一つの試金石だろうと思います。
事は山口県の小さな町の話ではありません。
私たちの生き方にもつながる、大きな話です。
■エネルギー不足が起こる理由(2011年9月23日)
「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」
以前このブログでも紹介しましたが、1949年エッソが出した雑誌広告のコピーです。
国連本部で開かれた原子力安全に関するハイレベル会合の報道で、原発がなければエネルギーが不足するという人の話を聞いて。このコピーを思い出しました。
エネルギーが不足するのは、エネルギーの供給不足とは同じではありません。
エネルギー需要が過剰になっても、エネルギー不足が発生します。
しかしなぜかみんな「不足」だからもっと必要だといいます。
その生き方が、今の社会をつくりだしたのですが。
エネルギー不足が起きると悪いので原発が必要、というのは、私には納得できない話です。
自らで不足状況をつくっておいて、原発が必要だから、原発の良し悪しは議論しないというように聞えるからです。
原発の良し悪しとエネルギー不足の問題は次元の異なる話です。
通念の呪縛から自由にならなければいけません。
エッソの広告コピーをもう一度しっかり読んでみてほしいです。
当時は、石油消費量が文化のバロメーターだったのです。
いやいまもまだそうかもしれません。
そこを問い直さなければ、何も変わらないのです。
野田首相は、その会議での演説で、「原発の安全性は世界最高水準を達成する」と言いましたが、それを聞いた福島の住民が、「その安全性が信頼できなくなっているのに」と話していました。
それにしても、野田さんの言葉は、実に虚しいです。
もう少しきちんと考えているものとばかり思っていましたが、やはりこの人は何も考えていないのでしょうか。
言葉が生活の言葉ではありません。
言葉だけの世界で生きてきたのかもしれません。
オバマ大統領にとっては、まさに、I can do business with him.でしょう。
残念ながら民主党は終わったようです。
アメリカに対峙できる政治家はいないのでしょうか。
そろそろ小沢さんに壊してほしいものです。
■エコノミック・アニマルの末路(2011年9月26日)
1970年ごろに流行語になった言葉に「エコノミックアニマル」があります。
最初は近代経済学のモデルでもある「ホモ・エコノミクス」(経済人)の模範例としての日本人を表現していましたが、次第に働き蜂、お金信奉者の日本人を揶揄する意味で使われるようになりました。
良い意味から悪い意味に変化したのは、お金の持つ魔力と無縁ではなく、当然のことだと思います。
私にとっては、エコノミックアニマルは仕事中毒と言うよりも、金の亡者というイメージです。
最近は、この言葉は、良い意味でも悪い意味でも使われなくなりましたが、昨日の上関町の町長選挙の結果を知って、その言葉がなぜか自然と浮かんできました。
エコノミックアニマルはまだまだ日本国民の多数派なのだと思いました。
福島原発のような事故を体験してもなお、変わらないのでは、もう骨の髄まで達しているのかもしれません。
しかし、海を挟んで立地している祝島では自然と支え合った豊かな暮らしが営まれています。
まだお金の汚染されていない地域は残っています。
残っているというよりも、見直されて、改めての発展をはじめているというべきかもしれません。
残念ながら両者は両立できません。
金の亡者たちは自然はすべて自分のものと考えており、自然がつながっていることな気にしません。
上関での原発建設は、祝島の生活を脅かすことになります。
さらにひとたび事故でも起こせば、福島原発事故が世界を脅かしたように、子孫の生活を及ぼすように、大変な事態になります。
現世代の上関町の住民は、お金が潤うかもしれませんが、彼らは独立した空間で生活しているわけではありません。
宇宙船地球号という認識が広がりだしてもう半世紀近くなりますが、上関町の人たちには届いていないようです。
エコノミックアニマルの末路は歴史が教えてくれています。
いや歴史などといわずとも、最近の日本の状況が示唆しています。
上関町の住民たちは、すでに長いこと原発建設を巡って二分されているようです。
国や電力会社が罪深いと言う人が多いですが、一番問題なのはそこの住民だろうと思います。
昨日の選挙結果にはショックを受けました。
そしてこれほどの大きな事件をテレビがきちんと報道しなかったことにも驚きました。
■仕事とお金を稼ぐことは分けて考えたほうがいい(2011年9月26日)
上関町の町長選挙のことをフェイスブックに書いたら、いくつかのコメントをもらいました。
そのなかに、「過疎地の切実な問題という側面もあると思います」という表現がありました。
私は過疎地に住んだことがありませんが、過疎地という言葉が30年まえから理解できずにいます。
それに言われているほど、マイナスだけではないと思います。
なぜならみんなそこに住み続けているからです。
地域の活性化という言葉も、あまり好きではありません。
なんだかとても人為的だからです。
いささか考えすぎかもしれませんが、お金が付きまとっているような気がするのです。
きっとそれによって被害を受けている人もいるはずです。
経済的に得をしている人がいるからです。
上関町は原発のおかげで仕事が増えたという人もいます。
原発で増えた仕事とはなんでしょうか。
自動車事故が増えても、戦争が起きても仕事は増えます。
私たちはお金を稼ぐことが仕事だと考えがちです。
そしてお金をもらわない仕事をボランティアなどといいます。
この発想が私にはなじめません。
昨日、高崎のささえあい交流会でも話させてもらいましたが、
仕事とお金を稼ぐことは分けて考えたほうがいいように思います。
もしお金を稼ぐことが仕事ならば、強盗も仕事になりますし、詐欺も仕事になります。
その違いをしっかりと認識していないが故に、詐欺まがいの、あるいは強盗まがいのビジネスが生まれます。
あるいは、仕事の中に、そうした要素が入り込みやすくなります。
私は20数年前に会社を辞めて以来、両者を切り離して考えるようにしています。
仕事観を変えると生活は変わります。
上関町の対岸にある祝島の人たちの仕事観や生活の仕方と上関町の人たちのそれとはかなり対照的のようです。
原発が建設されないと仕事がない、というお金まみれの仕事観を変えることが大切なような気がします。
ハイデマリーの実験は、そうしたことをメッセージしています。
お金を稼ぐことから生活を発想せずに、生活することから発想すれば、仕事は山のようにあるはずです。
雇われ仕事だけが仕事ではありません。
雇われることも社会を支えるためには大切ですが、心まで雇われてしまっては、悲しいです。
ある人が、エコノミックアニマルではなく、エコノミックスレーブだと書き込んできました。
そうはなりたくありません。
■国会中継を見ているといろんなことがわかります(2011年9月27日)
この2日間、できるだけ国会中継を見るようにしていました。
最近の議論はかなり密度が高いように感じます。
明らかに国民に向けた野党側のメッセージもあります。
多くの国民が、国会中継を見ていたら政治は変わるだろうなとよく思いますが、私のように時間のある人はそう多くはないでしょう。
しかし、「市民の責務」として、私はできるだけ国会中継を見るようにしています。
時にはDVDに録画して見ます。
中継を見ているとさまざまなことが見えてきます。
討議に対する姿勢には、その人の人柄も見えてきます。
ライブな映像はとても正直です。
今日の石破議員の質問は後進を諭すような話しぶりでしたし、みんなの党の江田議員の質問は挑発的でショー的でした。
どちらが効果的かは、全部見ている人と一部だけを見せられた人とでは多分異なるでしょう。
野田首相は誠実に耳を傾けていて、好感が持てます。
相変わらず野次はなくなっていませんが、だいぶ少なくなりました。
しかしまだまだ対立型の議論が多く、建設的な議論には程遠い気がします。
今日印象的だったのは、前田国交相の発言でした。
内なる自分に敗れていることを反省しているという趣旨のことを話されました。
うっかり聞き流してしまいましたが、これまでの私たちの考え方の間違いを自覚しなければいけないというような趣旨だったと思います。
こういう地味な発言はニュースなどでは報道されません。
しかし、そうしたメインではないエピソード的なところに真実があることもあります。
前田さんには私は全く関心を持っていませんでしたが、誠実さを感じました。
これまでの発想を見直すところから始めなければ、何も始まらないばかりか、ますます悪い方向に進むと私は考えています。
もし方向が間違っているのであれば、誠実さや真剣さは全く逆効果になるわけです。
だからこそビジョンが大切なわけですが。
前田さんは、それをご自分のこととして語られました。
社民党の阿部議員が、そういう発現の場を前田さんにつくりました。
今日の阿部さんの質問も面白かったです。
国連などでの野田首相の演説は画竜点睛を欠いたというのです。
欠けていたのは、福島原発事故の現状の真実を具体的に生々しく世界に伝えることです。
野田首相は誠実だが、きちんとした情報が流れていないのではないかとも話しました。
とても共感できました。
私の記憶力不足からどうもうまく書けませんが、中継を全部見ていると様々な気づきがあります。
毎日は無理でしょうが、時に1日、国会中継を見ることをお薦めします。
■「ナバホであるとはどういうことか」(2011年9月28日)
25日に高崎で開催された「食」をテーマにした交流会に参加しました。
地の野菜をつかった食事が出ました。
会を主催した高石さんが、「食と農と医」はみんなつながっている、と話しました。
それを聞きながら、昔読んだナバホの話を思い出しました。
どこかの本に書いてあったと思い、昨日、探してみました。
「ナバホへの旅 たましいの風景」という2002年に朝日新聞社から出版された本でした。
河合隼雄さんとぬくみちほさんの対談が出ていて、そこでぬくみさんが紹介している話でした。
どの本だったか探すのは大変でしたが、その本のその箇所に折り目がついていたのですぐわかりました。
少し長いですが、引用させてもらいます。
ナバホが運営している小学校の、農業の先生がおっしゃっていました。
先生が小学校4、5年生を谷へ遠足に連れていったときに、大きな枯れ木の下に子どもたちを集めて、「お前たちはアメリカ人か、インディアンか、それともナバホか」と聞きました。
子どもたちはナバホ、と答えます。
すると今度は、「ナバホであるとはどういうことか」と尋ねたんですが、子どもたちはわからない。
すると先生が「この谷でとれるものを食べることだ」と教えました。
この谷にどういう植物が生きているのか、どういうサボテンが生えているのか、どれが何に効く薬草なのかということをきちんと知っていることがナバホなんだと。
そして先生は子どもたちに、「君たちはインディアンにも、ネイティヴ・アメリカンにも、アメリカ人にもなるな」と言いました。
素晴らしい授業でした。
私も、それを聞きながら、「日本人であるってどういうことなんだろう」と考えさせられました。
私が「市民」という言葉よりも、「住民」という言葉を大事にしているのも、こういうことなのです。
地産地消もコミュニティビジネスも、その出発点はこういうことでなければいけません。
生活を支えてくれる自然を、自らの一部として生きることは、簡単ではありません。
残念ながら私にはもうできそうもありません。
しかしこうしたことをいつも意識して生きたいと思っています。
ゆいの家での交流会で、ふと思い出したので、紹介させてもらいました。
■朝霞公務員宿舎問題で思うこと(2011年10月3日)
朝霞の公務員宿舎がまた凍結になりました。
この問題の報道を見ているとつくづく発想の次元が私とは違っていることを感じます。
既存の公務員宿舎の売却額と朝霞の建設費用の差額が被災地復興の原資にできるなどと言う、もっともらしい話を財務省は主張していますが、これは詐欺と言っても良い話です。
財務省お得意の数字の詐欺です。
それを間に受けている新聞記者はどういう感覚をしているのだろうかと思います。
被災地支援を考えたら、この話の中にはたくさんの原資があります。
まず朝霞の建設資金は全額が原資になります。
次に、既存の公務員宿舎は、そんなに高額で売れるのであれば、すべて即刻販売しましょう。
それはすべて原資になります。
いま宿舎に入っている人はどうするか。
自分で民間の貸家を探せばいいでしょう。
経済活性化につながります。
東電の社員に社員住宅を売却しろという話と同じです。
公務員給与はかつてとちがい決して低くはありません。
次に、公務員宿舎の家賃を一般何に値上げしましょう。
すぐに上げるのが無理なら、4万円は利益供与の水準ですから、贈与税を賦課しましょう。
これは全国のすべての公務員に適用します。
一過性のものではないので、かなりの原資が得られます。
既存施設の売却費と新規建設費とを比べるというような、おかしな話に騙されてはいけません。
それに、この朝霞の話は一つの事例です。
ほかにもこれから着工されようとしている公務員宿舎もあるようです。
この問題で思うのは、問題の立て方がいつも間違っているように思えることです。
財務省が賢いのではなく、それを受ける人がただ単に愚かなだけだと思いますが。
政治家は本当に勉強してきたのでしょうか。
衆愚政治と言う言葉がありますが、今の日本は愚者政治になっているような気がしてなりません。
■サブガバメントとしての原子力共同体(2011年10月5日)
九州大学副学長の吉岡斉さんの科学技術観は共感できるところが多く、その著作には教えられることが多い方のお一人です。
いまから10年以上前に出版された「原子力の社会史」(朝日選書)は、日本の原発行政や原発研究への冷静な評価をしている本です。
この本を読んだことのある人であれば、今回の福島原発事故に関しても、想定外などという言葉は使わなかったでしょうし、管政権の枝野さんのような失策はしなかったでしょう。
もう一つの「政府」に対抗した対策をうてば、事態はここまでにはいたらなかったという気がします。
吉岡さんの議論は、日本の原子力開発が、国家政府と切り離された「サブガバメント」に牛耳られているという認識からスタートします。
しかも、そのサブガバメントは二元体制になっており、それぞれが互いの権益に必要以上には口を出さない構造になっているといいます。
さらに悪いことに、日本では大学の学者たちはそのいずれかを補佐する役割に甘んじ、結果的にはいずれかに組み込まれているというのです。
二元体制とは、「電力・通産連合」と「科学技術庁グループ」です。
その「2つのサブグループから成る原子力共同体が、原子力政策に関する意思決定権を事実上独占し、その決定が事実上の政府決定としての実効力をもち、原子力共同体のアウトサイダーの影響力がきわめて限定されてきた」と吉岡さんは上記の著書に書いています。
ではその原子力共同体は、どこと結びついていたのか。
それはともかく、こうした体制への舵を切ったのは、中曽根さんの時代です。
日本の現在の不幸は、私にはすべて中曽根政権から始まったような気さえしています。
原子力共同体は、それまでの日本の地域住民共同体を壊すことによって、原発を広げてきました。
そこでばらまかれたのは「お金」です。
いまも上関町でばらまかれていますが、「お金」は麻薬と同じで一度その味を覚えたら抜け出られずに、身を滅ぼします。
細野さんや枝野さんの原発事故対策にまつわる発言を聞いていると、いつも危うさを感じます。
彼らが、もう一つの政府の広報マンになりはしないかという危惧です。
まあ私の杞憂だとは思いますが、原子力共同体の強さは見くびれません。
吉岡さんの「原子力の社会史」は名著だと思います。
その改訂版がまもなく出版されるそうです。
ぜひ多くの人に読んでほしい本です。
私も今日、予約しました。
■ニューヨークの若者のデモに思うこと(2011年10月6日)
ニューヨークのウォール街から始まった、経済格差や高い失業率に異議を唱える若者たちのデモはさらに広がっているようです。
「富裕層に課税を! 貧困層に食べ物を!」というスローガンは、アメリカに限ったことではありません。
日本も、若者にとって働く場が見つけにくい社会になっていますが、アメリカも、たぶんEUも事態は同じでしょう。
ITの発展は、人の仕事を大きく減らしているからです。
景気が回復しても、雇用は回復しないのが、昨今の経済状況です。
ジョブレスリカバリーという言葉がありますが、好景気と雇用量とはいまや切り離されているのです。
それに気づかずに、「雇用を増やそう」などと騒いでも、何の意味もありません。
発想を変えなければいけません。
最近の就労支援予算が、どれほど馬鹿げた使われ方をしているかはご存知の方も多いでしょうが、本当に働きたい人のためにはなっていないことも少なくありません。
アメリカのデモのスローガンは私には間違っているように思います。
「富裕層に課税を! 貧困層には仕事を!」でなければいけません。
人は「パン」のみでは生きられないからです。
しかし、仕事は「与えられるもの」ではありません。
仕事を雇用と考えたり、お金を得るものと考えたりしていては、なかなか解決策は見えてきません。
そうした発想の呪縛から解き放たれれば、世界は全く変わってきます。
自由に生きていた人たちを雇われ人に変えたことで、近代産業は発展しました。
見事なほどにみんな飼いならされてしまい、仕事といえば、賃労働、雇用労働ということが常識になってしまいました。
しかも、女性の社会進出というきれいな言葉で、女性さえも賃労働者になってしまいました。
賃労働者はほぼ必ず、「金銭消費者」になっていきます。
その循環から抜け出たのが「富裕層」です。
富裕層の「仕事」概念と賃労働者のそれとは全く違うはずです。
人は弱いもので、最近の富裕層はちょっとばかし欲張りすぎてきました。
フランス王朝貴族やロシア王朝貴族ほどではないかもしれませんが、私には状況は似て見えてきます。
リビアのカダフィもそうでしたが、人はみんな弱いものです。
アメリカのデモの広がりはどうなるのか。
そのスローガンから、1960年代のデモとは全く違うように思います。
たぶんさほどの広がりは怒らずに、終息するでしょう。
ネグリのいうマルチチュードが前向きに動き出すには、もう少し時間がかかりそうです。
1960年代がなつかしいです。
■小沢さんの記者会見を見ました(2011年10月6日)
小沢さんの公判が始まりました。
罪状認否で、小沢さんは「この裁判は直ちに打ち切るべきだ。百歩譲って裁判を続けるにしても、私が罪に問われる理由は全くない」と述べました。
私も先ほど、テレビで全部聴きました。
すごい対決姿勢です。
これでまた小沢嫌いが増えるでしょうが、いかにも小沢さんらしいやり方です。
賢くありませんが、私の好きなやり方です。
言っている内容は、ほぼ私の考えと同じです。
日本の司法は自立していません。
たとえば、いま問題になっている原発にまつわる裁判の歴史を調べれば、すぐわかります。
日本初の原発立地裁判は四国電力の伊方訴訟です。
原発の安全性に関して初めて公開の公式の場で技術論争が行われました。
法廷では原告住民側が優勢だったといわれていましたが、判決は「原子炉設置許可は政府の権限」として原告の請求は却下されました。
1978年のことです。
以後、原発訴訟はほぼすべて原告敗訴です。
かなり深刻な原発事故が発生しても、裁判官は姿勢を変えませんでした。
なぜでしょうか。
自立していないからとしか私には思えません。
厚労省の村木さんの冤罪事件はどうでしょうか。
私には、単なる冤罪ではなく、裁判の立地点の問題だと思います。
小沢訴訟は、その同じ特捜部が取り組んだ訴訟です。
基本から問い直すべきだろうと思います。
検察審査会は裁判員制度と同じく、司法の手段化のための仕組みです。
透明性は確保されずに、むしろ管理下におかれているように思えてなりません。
私の意識では、問題は小沢さんが何をしたかなどという話ではありません。
裁判の根幹が問われているのです。
さらにいえば、日本の民主主義が問われています、
小沢さんが不正なお金のやりとりをしているかどうかなどは、私には瑣末な話です。
当時の時代環境から言えば、多かれ少なかれ多くの人が似たようなことをやっていたはずです。
小沢さんもいろいろとやっていたでしょう。
それこそが、日本の「政治」だったのですから。
それに数十億円などそんな金額は政治の誤差でしかありません。
原発事故がどのくらいの被害を出したかを考えれば、何が重要かはわかるはずです。
話がそれてしまいましたが、裁判が官僚や資本家の手段に使われすぎているように思います。
もちろん、裁判は「正義のため」ではなく「統治のため」の制度です。
政治がそれを利用するのは仕方がありません。
しかし、今の裁判を支配しているのはだれなのか。
私もウォルフレンの「誰が小沢一郎を殺すのか?」を読みましたが、衆愚政治やポピュリズムは恐ろしいです。
大嫌いな小沢さんではありますが、ここは頑張ってもらいたいです。
しかしちょっと無理そうな気配を今日の記者会見では感じました。
残念でなりません。
日本はまた80年前の繰り返しの局面に入りだすような不安があります。
■小沢さん報道で思うこと(2011年10月7日)
小沢さんのニュースで報道は覆われてしまいました。
大きな意味を持つ事件ではありますが、その取り上げ方にはいささかの懸念もあります。
また、その陰でいろんなことが進められてしまう事が多いので、それも気がかりです。
しかし最近の新聞は、前にも書きましたが、記事の数が少なく、小さな動きはわかりません。
そもそもこの事件は、マスコミが育て上げてきた事件でもあります。
国民の多くがなぜ小沢さんをこれほど嫌悪するのか、私にはよくわかりませんが、マスコミが関与している事は否定できないでしょう。
もし同じような嫌疑を私がかけられたら、逃げようがありません。
私も桁が大きく違いますが、少しばかりの貯金がありますが、その出所を聞かれても答えられません。
しかも無罪を自分で証明するなどと言うことは、私には到底出来ません。
裁判官の推断で有罪になるような裁判制度では、法治国家とはいえません。
ブログで書いたこともありますが、私も一度、自転車に盗難保険証が貼っていなかったために犯罪者にされるところでした。
事の顛末はブログをお読みください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_a6e5.html
文京区元富士警察署天神町交番の山下巡査はもう定年で辞めたかもしれませんが、一人の巡査にさえ疑われたら無罪を証明することは難しいのです。
疑われるようなことをするなと思われるかもしれませんが、自転車はいつもマンションの屋外に駐輪していてほとんど乗らないので誇りまみれで、しかも私の服装がカジュアルすぎて、ホームレスのようだったのかもしれません。
私だけでなく、村木さんのようなキャリア官僚でさえ、抗弁できなかったのです。
権力とはそういうものです。
村木さんが当事者になってやっと気づいたように、支配する側の論理は論理ではありません。
支配が目的なのですから、論理はいかようにもつけられるのです。
だからこそ権力を裁く司法の世界は自立して、しかも透明性を実現しなければいけません。
それが司法改革の基本でなければいけません。
4億円の説明を問われて、小沢さんは検察に訊くように答えました。
自分よりも良く知っているから、と付け加えて。
私もそう思います。
検察は知り合えた事実を公開すべきです。
そこにもし疑いがあれば、起訴すればいいだけの話です。
起訴もせずに、なんとなく怪しいという雰囲気を出しているのは、私には卑劣としか言えません。
それに加担しているのがマスコミです。
国会で証言するのもいいでしょうが、そんなことで国会の時間をとってほしくありません。
どうせ内容のないやりとりで終わるでしょう。
問題は小沢さんが有罪か無罪かではなく、この国の危機を乗り越えられるかどうかです。
小沢騒ぎの陰で、誰が笑っているのか、それが気になります。
■小沢一郎 VSフツ―の市民座談会(2011年10月11日)
10月2日に市民組織「ネットメデイアと主権在民を考える会」が、小沢一郎さんをゲストに「小沢一郎 VSフツ―の市民・第2回座談会」を開催しました。
そのすべてが、ユーストリームで公開されていますので、ぜひ多くの人に見てほしいと思い、紹介させてもらいます。
マスコミでもその一部が流れていたようですが、ぜひ全編を見てほしいです。
ちょっと長いのが難点ではありますが、それだけの価値はあると思います。
座談会が終わった後に、小沢さんとスタッフの方たちとのやりとりがありますので、そこもぜひ見てください。
1時間半と長いのですが、政治の主権者としては、決して長い時間ではないように思います。
この全編を見てもらうとわかるのですが、小沢さんのマスコミの捉え方がわかります。
マスコミに情報を提供することは、都合よく編集されて決してその先には伝わらないと思っているのです。
むしろマスコミに情報を提供する事は、事実を隠すことになるということです。
世間の常識とは反対なのです。
そして、私もその考えに全く共感します。
昔は私も少しは新聞の取材を受けたことがあります。
ところが新聞に出てくるのは、私が話したこととはほぼ無縁、あるいは反対の意味合いになっていることが少なくありませんでした。
あまりにひどかった、ある全国紙の記者には苦情のファックスを出しました。
当時はメールがまだほとんどなかった時代です。
そのファックスが彼女の上司の目にとまったのだそうです。
彼女は私に恨みのファックスを送ってきました。
反省の気など全くないわけです。
マスコミではないですが、ある雑誌の取材を受けました。
かなり長い特集記事にしてくれたのですが、送られてきた原稿を見て驚きました。
改ざんもいいところです。
編集者に連絡し、録音していたはずなので聴いてほしいといいました。
編集者はテープを聴いて納得し、。記事を全面的に書き直してくれました。
これは雑誌だから事前に見せてもらえたのでできたことです。
マスコミの新聞やテレビは、ますそんなことはしません。
彼らにとっては、自分たちが編集した結果が「事実」なのです。
ちなみに、私は一度だけ、事前に原稿を見せてもらったことがありました。
その記者とは、今も付き合いが続いています。
話がずれましたが、小沢さんはこの座談会で、陸山会事件の裁判や原発事故への対応について話しています。
対談の相手は、「フツーの市民」ですが、基本的には小沢さんを支持している人たちのようです。
そこに限界があるかもしれませんが、だからこそ小沢さんの考えを引き出しやすいという面もあります。
小沢さん嫌いな方も多いと思いますが、ぜひとも見ていただき、辛らつなご意見でも結構ですので。聞かせていただければうれしいです。
今回は4月の座談会以来、2回目の放映ですが、もしかしたら、これからはショートタイムのものが定期的に放映されるかもしれません。
■ネクタイをしない人が増えていますね(2011年10月13日)
今日、久しぶりに新宿から御茶ノ水まで中央線に乗りました。
背広を着ている男性の多くがネクタイをしていないのに気づきました。
ちょうど適度な混み具合だったのですが、私の観察では(場所も移動して確認しました)、背広を着てネクタイをしている人が2割程度でした。
予想外に少ないのです。
ネクタイをせずに、ワイシャツの2番目のボタンまではずしている人もいました。
もうクールビズの時期は過ぎたはずですが、一度、ネクタイをはずした人はノーネクタイの快適さをはなしたくないのかもしれません。
小学生の頃読んだ佐藤紅録か山岡壮八の小説に、日本人はふんどしからネクタイへと、締める場所を変えたためにおかしくなった、というような文章があったのが、ずっと忘れられないのですが、今度は「締めること」そのものを捨てるのかもしれません。
私はほとんどネクタイをしませんが、時に講演をさせてもらったりする時には、ネクタイをするようにしています。
悲しい話ですが、背広を着てネクタイを締めると、なぜか気分がしゃんとするのです。
組織人としての洗脳からまだ抜けていないようです。
人は着るものによって意識が変わります。
今年の夏は、Tシャツが多かったのですが、ある若者から、佐藤さん、まだ入院気分ですね、と指摘されました。
その直前まで入院していたのですが、たしかに入院中と同じ服装で、オフィスに通っていました。
少し反省しました。
おしゃれでなくてもいいですが、着るものへの注意は大切です。
私にはそれがあまりできていません。
勝手なもので、私はネクタイが嫌いですが、国会の中継を見ていて、ネクタイをしていない議員はとても気になります。
議員にとっては正式の職場とも言える国会ではせめてネクタイをしてほしいと思うわけです。
ネクタイは、たしかに首を締めるわけですが、それはある種の緊張感をもたらします。
そうしたメリハリをもっとつけるべきではないか、と思うわけです。
まことに身勝手でではありますが。
と書きながら、どこかに自分でも納得できない気分もあります。
ハカマであればともかく、欧米の文化であるネクタイをしないとシャンとしない、あるいはシャンと見えないと思う、自分の意識とはいったい何なのでしょうか。
もしかしたら、私自身すでに欧米文化の隷属しているのではないか。
文化を大切にすることは難しいことです。
■年金問題の再浮上(2011年10月15日)
最近、あまり話題にならなかった年金問題がまた浮上してきました。
支給開始時期をさらに先延ばしする案も厚労省から出てきました。
年金基金に寄生するゾンビ官僚はまだ健在のようです。
小沢裁判よりも厚労省官僚裁判をしてほしいです。
金額の桁が全く違います。おそらく兆円単位の犯罪でしょう。
それに新しい年金の構造はいつになっても見えてきません。
こうした厚労省案に対するテレビなどでの識者の議論を聞いていても、年金基金寄生族と発想はそう違わないように思います。
つまりはこれまでの経済の枠組みで考えていますから、雇用と年金の関係がどうのとか、成長戦略が必要だとか、老後も雇用労働する仕組みをつくれるのか、とかいうことが話題になります。
そういう発想が、年金を破綻させ、経済を破綻させたのではないかと思いますが。
私はベーシックインカムのような新しい仕組みや雇用されずとも生きられる選択肢を広げる経済(戦前までの日本はそうでした)への転換といった、広い視野で考えなければこの問題は解決しないように思います。
人口構造と経済の成長段階が大きく変わったのですから、従前の発想での仕組みは維持できるとは思えません。
昨今の生活費の多くは、都市部の場合は住宅費です。
住宅問題を根本から見直す必要もあります。
空き家が多くなっている住宅を開放して、1家族1住宅を無償で提供することはできないものでしょうか。
30年くらいかければ、そうしたことも可能だと思います。
住まいさえ確保できれば、200万人を超えた生活保護世帯も大幅に減少するでしょう。
もちろんベーシックインカムを導入すればゼロになります。
私は幸いに住居は自分のもので、ローンも残っていないので、住宅費はそうかかりません。
そのおかげで、年金以外の収入はほとんどありませんが、生活は豊かです。
経済的には豊かではないかもしれませんが(時々現金が不足します)、他者からお金をもらわないと豊かな暮らしができます。
豊かさとは何かの定義の問題でもありますが、私とは桁が違う高給を得ている人でも、豊かでない人はたくさんいるように思います。
自然に囲まれた農漁村地域はどうでしょうか。
都市部ほどにはお金がなくても豊かに暮らせるでしょう。
まだ日本には完全にお金に汚染され尽くされていない地域は残っています。
年金をお金だけで解決しようなどという発想を捨てないといけません。
大切なのは雇用労働から見捨てられた時にも、豊かに暮らせることなのであって、年金支給時期や支給額は、そのための手段でしかありません。
老後もお金漬けの暮らしをしたいなどと思わせるような政策には賛成しかねます。
しかし多くの、と言うよりも、ほとんどの国民はすでにお金の奴隷になっていますから、年金にすがりつくわけです。
こうした金銭中心の経済や生き方から抜け出る必要があります。
人はパンだけで生きているわけではありません。
パンがなければケーキを食べればいい、とマリー・アントワネットは言ったそうですが、彼女の発想にも真実が含まれています。
ちなみにTPPの議論にも全く同じ発想を感じます。
金銭中心主義の経済発想の世界の恩恵を受けている人たちの議論はみんなワンパターンです。
■TPPってなんでしょうか(2011年10月16日)
久しぶりにテレビの新報道2001を見ました。
いまの神奈川県知事の黒岩さんがやっていた時は面白かったのですが、最近は完全に政府御用報道になっていますので、見るのをやめていました。
久しぶりに見たら、亀井さんが出ていました。
この人も、私にはかなりまともな政治家に見えます。
今日はめずしく髪の毛がきちんとしていました。
TPP議論がありました。
コメンテーターたちはみんな立ち位置が「工業」あるいは「金融資本主義」にありますから、相変わらず自由化しないといけないと言っています。
工業は自由化できるかもしれませんが、生活や文化、自然に立脚した農漁業は、自由化といってもそう簡単ではありません。
その意味合いはまったく違うはずです。
亀井さんが日本総研の高橋理事長に、あんたはTPPの具体的な内容を知っているのか、と言うような質問を発していました。
高橋さんは答えられませんでした。
その前に、亀井さんが二国間協定の話をしだしたら、高橋さんはTPPは多国間です、と口を挟みました。
もちろん亀井さんはそんなことはご存知で、多国間ではなく二国間を基本にすべきだと説明しだしたところだったのですが、高橋さんの人を見下した態度が見事に出ていました。
無知の人ほど、人を見下すものです。
高橋さんはあまり広い知識をお持ちではないようにいつも思いますが、自覚はないでしょう。
「専門家とはすぐれた専門領域の知識をもっている人のことだと思っている人たちがいたとしたら、その人々はよほどおめでたい人間たちである。そうではなく専門家とは、専門領域でしかものを考えられない人のことである」と言い切ったのは、内山節さんですが(「文明の災禍」)、せめて専門領域の知識や判断力くらいはもう少し磨いてほしいものです。
話がまたずれだしました。
自由化の話です。
TPPは単に工業製品の貿易の条件設定の話ではありません。
文化に関わる話です。
数年前に金融ビッグバンが始まってから、何が起きたかを思い出さなければいけません。
あれは金融制度の話ではなく、間違いなく文化の話だったのです。
同じ間違いを繰り返してはいけません。
参加ではなく話し合いに参加だからいいではないかと多くの国民は思っています。
イソップ物語に、きこりがやってきて、森の木に、ナタの柄がないので、枝を1本分けてもらえないかと頼みました。
枝の1本くらいいいだろうと森の木はその願いをかなえました。
きこりは、その枝でナタを完成させ、すべての木を切ってしまったのです。
あまり適切なたとえではないかもしれませんが、交渉に入ること自体が、参加の第一歩なのです。
TPPの根底にある理念は、これまでの経済パラダイムの延長なのです。
そこから抜け出ようとしている時に、TPP議論とはとんでもないと私は思っています。
もし取り組むのであれば、現場も知らず、「専門領域でしかものを考えられない人」たちだけではなく、実際に生活している現場の人たちを中心にして議論すべきです。
ニューヨークに端を発したデモは欧州にも広がっています。
やはり新報道2001は御用番組でした。
■さびしそうな仏たち(2011年10月21日)
2日間、奈良を歩いてきました。
たくさんの仏たちに会ってきましたが、私が会いたかった仏たちの半分は地震や火事から守るための新しい空間に移っていました。
興福寺の阿修羅、三月堂の月光菩薩、法隆寺の百済観音、中宮寺の弥勒菩薩、みんな本来の場所にではなく、安全なところに展示されていました。
仏の気持ちになればわかりますが、とてもさびしい話です。
もはや昔のようなオーラは感じられず、ただ単に展示品でしかないような気がして、興ざめでした。
こうした動きは最近また一段と進んでいるようですが、民と共にあった仏たちも、いまや美術鑑賞品や歴史遺産としての「物」になってしまってきているのでしょう。
奈良に行く前に、京都の東寺に寄りました。
先日、空海展での立体曼荼羅を体験していましたが、それとの違いを実感したかったからです。
幸いにすべての仏たちが戻ってきていましたが、やはりそこから生み出される時間を超えた空気は、やさしさが感じられました。
仏たちも生き生きしていたように思います。
そう思うのは、懐古趣味なのかもしれませんが、仏たちは安置されていた場所とのつながりがあるはずです。
火事があったら燃え尽きてしまう。
大地震には崩れ去ってしまう。
それが仏たちの本望のように思いますが、そもそも「国宝」とか「重要文化財」などと決めてしまうことの意味はなんなのでしょうか。
これまではなんの疑問も抱いてきませんでしたが、考えてみるとそこから間違っているのかもしれません。
薬師寺の白鳳伽藍はまだ工事をしていました。
私の現世中には、平安な薬師寺はもう体験できないようです。
寺社とはいったい何なのか、いろいろと考えさせられる旅でした。
■「日本からお金が無くなったら、何が残ると思いますか」(2011年10月21日)
野田首相には失望しました。
この人の心の中には、やはり何もないのでしょうか。
昨夜のNHKニュースウォッチ9は、野田首相をゲストにして、視聴者からの質問に答えるという企画でした。
期待しました。
最初に届いたメールは、NHKのやらせを感じさせるほどの質問でした。
福岡の10代の女性からだそうです。
「日本からお金が無くなったら、何が残ると思いますか」。
素晴らしい質問で、これは期待できると思いました。
しかもその質問に、野田産は動ずることなく、淡々と語りました。
野田さんの答えは、「底力」でした。
お金がなくなっても回復する底力がある、と答えたのです。
私の考えからすれば、質問の意味を全く理解していません。
がっかりして、見るのをやめました。
こんな人の答など聞いても意味はないでしょう。
私の考えすぎかもしれませんが、質問の意味は、何が大切なのか、です。
そして日本のアイデンティティを問うているように思います。
仮にそうでないとしても、国家のリーダーはそれをこそ語るべきで、そこから希望やビジョンが生まれます。
お金にしか興味のない野田首相の世界観がよくわかります。
TPPに参加したがり、増税を目指すのは当然なのでしょう。
彼には理想もビジョンもないのでしょうか。
あまりにがっかりして、この文章を書く気さえ起こりませんでしたが、あまり話題になっていないようなので書き留めておくことにしました。
ますます政治報道を見る気力が萎えています。
見ると必ず心が乱れます。
3日ほど旅行していて、テレビと新聞にふれなかったため少し元気になっていたのですが、
帰宅してテレビをつけた途端に、不快さが戻ってきました。
困ったものです。
■世界が見えにくくなってしまいました(2011年10月25日)
最近、時評が書けません。
書こうと思うことが起きないのです。
私の意欲のせいかもしれませんが、社会そのものが見えにくくなっているような気もします。
見えないまま、言葉だけが横行しています。
こうした時には、見えないところで大きな地殻変動が始まっているのかもしれません。
楽観的な予想では、新しい民主主義の始まりです。
中国の体制は間もなく瓦解し、アメリカは弱体化し、国際政治のバランスは崩れ、混乱の中から新しい体制が芽生えるでしょう。
悲観的な予想では、金融主義の深まりです。
成長戦略という20世紀パラダイムが最後のあがきをし、歴史は終焉するかもしれません。
いずれになるかは、私はおそらく確認できないでしょうが、最近の世界の動きをみるかぎり、私は悲観的な予感を強くしています。
まあそれが人類の選択であれば仕方がありません。
原発コストの見直しが今日発表されましたが、いまもって現実を誠実に見ようとしていない科学者や産業人の多いことには驚きます。
政治家は原発の途上国への拡散に動き出しています。
何も変わっていないのです。
1960年代に、歴史の大きな分岐点がありましたが、あれは予兆だったのだと思い続けていました。
しかし、予兆を越える変化の兆しはなかなか見えてきません。
9.11で何も変わらなかったように、3.11でもやはり何も変わらなかったのでしょうか。
そうは思いたくないのですが、元気が出る話は最近またぴたっと入ってこなくなりました。
先週、奈良を歩いてきましたが、そこでもらえるはずの元気をあまりもらえずに戻ってきてしまいました。
その上、風邪までひいてしまいました。
人類の風邪がうつってしまったのでしょうか。
■「あの時のことを忘れないでいてほしい」(2011年10月28日)
昨日、東日本大震災後、いち早く被災地で移動喫茶店CAFE de Monkを開店して被災者と向き合ってきた宮城県の通大寺住職の金田さんのお話をお聴きしました。
金田さんの活動にも関わっている医療法人の岡部さんも話をしてくださいました。
とても共感できる話ばかりでした。
断片的ですが、5つだけ書き残させてもらうことにしました。
いつかたぶん金田さんのお話はどこかでもう少し詳しく読める機会があるでしょうから。
金田さんのメッセージは「あの時のことを忘れないでいてほしい」ということでした。
「あの時」とは震災直後の時期の私たちの生き方です。
被災された人たちは、心といのちとは一つになって、我を忘れて生きていた。
その被災地の様子を知った人たちも、被災者のみなさんと心といのちとは一つにしていた。
そういう意味だと思います。
金田さんは、しかし、時間がたつにつれてみんなそれを忘れて、また元の生活に戻ってしまう。
そうなってはほしくないというのです。
岡部さんは、合理的なものや人が作った建物や制度などで、自然が見えなくなってきていたが、その目隠しが大震災で壊されたと話されました。
そして「合理的思考」への疑問を提示されました。
全く同感です。
しかし被災地の復興が「合理的思考」で進められているようで、私もそれがとても気になっています。
3つ目は誤解されないように注意して書かなければいけませんが、文責は私にあることを予めお断りしておきます。
被災地の子どもたちは、大変な状況に投げ出されても、健気にがんばっている。
たしかに失ったものは大きいが、しかし得たもの、得つつあるものも大きい。
子どもたちを見ていると、そこに私たちの未来を感ずるというのです。
そしてこういう趣旨のことを付け加えました。
子どもたちを支援しようとたくさんの人たちがきてくれるが、
子どもたちは元気に走り回っている、この苦しみの中から得ていくものも多い。
余計なことをせずに、ほっといてくれともいいたい、と。
さらにこう付け加えました。
もしなにかやってもらえるのであれば、自分の地域の子どもたちに「いのちの教育」をしてほしい、と。
心に刺さりました。
4つ目も辛らつでした。
絆などと気安く言ってほしくないというのです。
絆の世界がどんなに大変なものか知っているのか、そんなに簡単にできると思うのか、というのです。
絆を壊してきたくせに、何をいまさら絆なんだというわけです。
私も昨今の「絆の合唱」にはうんざりしていましたので、拍手したい気分でした。
いままであまり大きな声ではいえなかったのですが、少し安堵しました。
最後は、現地の人たちの気持ちの中には、「あまりあおり立てないでくれ」という気分があるように思うという指摘でした。
これも考えさせられる言葉でした。
言葉を切り取っての紹介ですので、真意が伝わらない面もあると思いますが、私の心に響いた5点を紹介させてもらいました。
■TPP論議を聞きながらラスキンを思い出しました(2011年10月30日)
TPPの報道や議論を聞いていていつも思うのは、ほとんどすべてが「経済の土俵」でしか語られていないことです。
しかも、「お金の経済」の話です。
「開国」とはお金の世界での共通のルールを用意することだとみんな思っているようです。
私にはとんでもない話だと思えてなりません。
それは「文化」や「こころ」の問題です。
経済の活性化と生活の活性化とは、違います。
経済は「お金」の世界だろうと思われるかもしれません。
しかしそれは近代、それも近代後半の話かもしれません。
19世紀に、当時世界を覆いだしていた「経済学」の流れに異議申し立てしたのがラスキンです。
ラスキンの考える経済学は、私流の解釈では、「お金の経済」ではなく「愛の経済」です。
ラスキンは、当時主流となりつつあった経済学(ポリティカル・エコノミ−)を「商利経済学(マーカンタイル・エコノミー)」と批判し、社会を一つの家族とみなした、「愛」を基軸に置いた経済学を提唱しました。
価値論のない「手段的な経済術」ではなく、しっかりした「価値」を基本に置いた「目的的な経済学」といっていいでしょう。
ラスキンは、「価値とは生のことである」と言っています。
まさに「経世済民」の経済学です。
前者は権力とつながった金持ちになるための術ですから、その結果は格差社会ですが、ラスキンの目指すのは格差などのない「穏やかな社会」です。
私が経済を考える時の基軸は、ラスキンとイリイチ(サブシステンス経済)です。
ラスキンは、こう語っています。
「生なくしては富は存在しない。生というのは、そのなかに愛の力、歓喜の力、讃美のカすべてを包含するものである」
とても心に響きます。
当時の経済学(いまもそうですが)が前提に置いたのは「経済的人間」、ホモ・エコノミクスです。
そのもとで、「利己的動機」が公認され、それが「見えざる手」によって調和され、社会の冨は豊かになるとしたのです。
それが可能になるのは、根底に「愛」と言う人間性があるからだと私は思いますが(アダム・スミスもそう言っています)、その後の経済学を方向づける「経済的人間」からは「愛」は排除されていきます。
その結果、仕事も苦役になり、自然は資源でしかなくなります。
しかし、ラスキンの「この最後の者にも」や「「ごまとゆり」を読むと、そこにはそうした経済とは違った、「愛の経済」を感じられます。
TPPのことを書こうと思いながら、ラスキンの話になってしまいました。
ラスキンの話はまたいつか書くことにしますが、「お金の経済」のほかにも「愛の経済学」があることを知ってほしかったのです。
ちなみに、イリイチのいうサブシステンス経済においては、「愛」が重要な意味を持っていると思います。
お金持ちはともかく、多くの庶民は決してパンだけで生きているのではないのです。
また話がずれそうです。
TPPは決して産業や貿易だけの話ではありません。
文化や生活の話なのです。
前に、きこりに一本の枝をあげたために、山の樹木がすべて切られてしまったイソップの寓話の話を書きましたが、文化の崩壊は実に脆いものなのです。
ブータンもたぶん間もなく全く異質な国家になるでしょう。
開国の仕方を間違ってはいけません。
■前提になっている命題は正しいのか(2011年10月31日)
時代が大きく変わる時には、当然の「常識」も問い質す必要があります。
TPP議論では、みんなが「貿易の自由化」「経済の自由化」は反対ではないといいます。
これまで、貿易の自由化に反対と明確に発言した人に出会っていません。
TPP反対論者も、自由化の流れは必然だという発想のようです。
私は、そこに大きな疑問を感じます。
もちろん私は「自由化」が無条件にいいとは全く思っていません。
第一、無条件に正しい命題などあるはずがありません。
財政政策、経済政策の前提にも、「成長戦略」が置かれているようです。
「新成長戦略」などという無意味な形容詞をつけた言葉もありますが、これもまったくおかしい話です。
その一方で、「持続可能性」などというのですから、私にはなかなか理解できません。
もういい加減に、「成長信仰」から抜け出たほうがいいでしょう。
以前、引用した「経済学の船出」の著者の安冨歩さんは、その本のなかで、「激しい労働と激しい消費との組み合わせの自己増殖が「経済成長」と呼ばれるものの正体」だと書いています。
労働と消費のいずれにも「激しい」という形容詞がついているところがポイントです。
私もこの言葉に同感ですが、そこには「私たちの生活が豊かになる」という要素はありません。
経済成長は、生活を豊かにすることとは無縁の話であることは、みんなそろそろ気づいてもいいようなものですが、学者の権威という「常識」に、これまた惑わされています。
原発問題で学者の実態はかなり明らかになったような気がしますが、まだ一般化はされていません。
学者もまさに「ピンきり」なのです。
それに、そもそも「知」なるものが大きく変わりつつあります。
パラダイムシフトなる言葉も、最近使われるようになってきていますが、相変わらず発想の前提は変わっていないのです。
パラダイムシフトとは、発想の前提を変えることですが、だれも経済のパラダイムなど変えようとしていないのです。
こうした事は、この2つの例に限ったことではありません。
言葉だけの着飾った議論は多いですが、新しい発想をしている人には残念ながら滅多に出会いません。
新しい発想は、必ずその人の生き方に現れますから、少し話せばすぐに分かります。
私は、一人称で語る人に耳を傾けるようにしています。
■心の安らぎを得られる源は善き心(2011年11月1日)
一昨日、ラスキンの経済観を紹介しましたが、実はこれはダライ・ラマの哲学にも通じています。
挽歌編で書いていますが、ある偶然で、一昨日、20年近く前のNHKテレビの番組「チベット死者の書」を見ました。
そのなかに、ダライ・ラマへのインタビューが出てきます。
そこで、ダライ・ラマはこう語っているのです。
物質的な環境が整っていれば、肉体的には安楽です。しかし、金も機械も心の安らぎを与えてくれることはありません。心の安らぎは個々人自らが見いだし、培ってゆくしかないのです。
私個人の経験によると、心の安らぎを得られる主なる源は、善き心です。
心の安らぎを破壊する最も強力な力は、憎しみ、極端な執着、慢心、疑い、恐怖です。
いったんあなたが善き心、温かい慈悲の心、利他心をもつことができたならば、憎しみ、恐怖、嫉妬といった心の働きを弱めてゆくことになります。
そこで私は常々、幸せな人間となり、よい人生を送りたいと望むなら、善き心を培う必要があると人々に説いています。
温かい心をもった善き人間であるならば、あなたはもっと幸せに、心のやすらぎをもてるようになるでしょう。自然に友好的で調和的な雰囲気が醸し出され、その結果、あなたの家族だけでなく、近所の人間、犬や描、鳥といったペットまで、あなたの温かい心の影響をうけ、恩恵をこうむるでしょう。
ラスキンの思想とつながっています。
そして、ガンジーとも、さらには昨今のエコロジー発想ともつながっています。
みんなが善き心を持てば、大仰な地球温暖化対策など不要なのです。
昨今の地球温暖化対策は、善き心をむしろ追いやる形で進行しているように私には思えます。
経済の基本に、利益に目がくらんだような「ホモ・エコノミクス」を置くべきではありません。
人はみな、「善き心」をもっています。
それを忘れてはいけません。
自らの中にある「善き心」を確信しましょう。
そしてそれに素直に従って生きましょう。
自らが安らげば、回りも安らぎ、世界も安らいでいくでしょう。
しかし、それが難しいことも事実です。
私もまだ、安らげずに腹立たしくなったり、怒りをぶつけたり、失望したりすることばかりです。
困ったものです。
■BOPビジネスの両義性(2011年11月3日)
昨日、ナラティブサロンを開催しました。
自分の物語を一人称で語るとういう「ナラティブ・アプローチ」を基本にしたサロンですが、今回は本村拓人さん(--株式会社Granma代表)に話題提供をお願いしました。
本村さんはほとんどをアジア諸国を歩いている人なので、日本にはあまりいませんが、この数日だけが在日だったのです。
本村さんは昨年話題になった「世界を変えるデザイン展」を企画主催した人です。
その生き方に私は共感しています。
ともかく「行動」であり、しかも「誠実」です。
テーマは「グラスルーツ・イノベーションと途上国支援」です。
話は本村さんが取り組んでいる、BOPビジネスから始まりました。
BOPとは、Base of the Pyramidの略で、所得別人口構成の中で、最も収入が低い所得層を指す言葉です。
いわゆる「貧困層」です。
そこには絶対的な貧困層と相対的な貧困層がありますが、BOPビジネスには彼らを市場化する意味合いと彼らの自立支援の意味合いがあります。
昨日も問題提起させてもらいましたが、注意しないとBOPビジネスは俗に言う「貧困ビジネス」になってしまいます。
そうなれば、それは貧困層を救うのではなく、貧困層を増やす結果につながりかねません。
最近、ソーシャルビジネスとか福祉ビジネスなどと言われる動きが広がっていますが、ここにも全く同じ問題があります。
私もさまざまなNPOと接点がありますが、とても共感していたNPOが久しぶりに付き合ってみたら、貧困ビジネスの世界に陥っているというようなこともあります。
福祉の世界は昔からお金まみれの世界でもありますが、注意しないと初志とは違う活動になってしまう危険性があるのです。
本村さんのビジョンは、もちろん反貧困ビジネス発想です。
彼の話しぶりからそれが良く伝わってきます。
しかしだからといって気を許すわけには行きません。
純粋な、彼の活動には感服しますし、その構想や方針も共感できるものが多いです。
だからこそ、実は一抹の不安を感じもします。
世界の市場化に、結果的には加担することになりかねないからです。
日本政府の取り組み方は、間違いなくその方向を向いています。
本村さんの貧困の定義は「想像力が枯渇している状態」です。
お金ではありません。
とても共感できる定義です。
「世界のどこかで誰かが被っている不正を、心から悲しむことができる人間になりなさい。それこそが最も革命的な資質なのだから」という、チェ・ゲバラの有名な言葉が、どうも本村さんの信条になっているようです。
それを真情にしている限り、本村さんのBOPビジネスへの取り組みは、お金まみれにはならないでしょうが、それにはかなりの覚悟が必要です。
昨年、本村さんたちが主催した「世界を変えるデザイン展」の話もしてくれました。
これはそのサイトもありますので、ぜひ見てください。
近代技術ではない等身大の技術への関心は一時期高まりましたが、最近はあまり言われなくなっていたように思いますが、そうした活動は着々と進んでいるようです。
これに関しては、Techpedia というサイトがありますのでご覧ください。
この活動は、経済パラダイムの岐路を垣間見させてくれるように思います。
長くなってしまったのですが、BOPビジネスの両義性と言う問題を私たちはもっとしっかりと考えなければいけないように思います。
30の若者から、昨日は大きな刺激を受けました。
そして、世界を構想するのは老人にもできますが、やはり世界を創っていくのは若者だということを、改めて痛感したナラティブサロンでした。
ナラティブサロンは今回をもって終わります。
ナラティブの捉え方があまりにもバラバラなので、議論が進化しないような気がしてきたからです。
半年後に、ナラティブカフェを開始する予定です。
本村さんのような若者が中心になるようなカフェができればと思っています。
■再発抑止力(2011年11月5日)
福島原発事故で東電に巨額の損失が生じたのは、経営陣が地震や津波の安全対策を怠ってきたためだとして、株主らが東電に対し、歴代の経営陣に損害賠償請求訴訟を起こすよう求める書面を提出するという報道がありました。
提出後、60日以内に東電が提訴しない場合、株主代表訴訟を東京地裁に起こすそうです。
その請求額は1兆円を超えるようです。
訴訟対象者はたしか60人前後と報道されていましたが、もしその記憶が正しければ、一人当たり200億円近くになります。
歴代の経営者も対象にするというところに大きな意味があるように思います。
福岡市元職員の飲酒運転事故の裁判で、最高裁は上告を棄却し、懲役20年の判決が確定しました。
危険運転致死傷罪として認定されたわけです。
2つの報道を見て、「再発抑止力」という言葉を思い出しました。
後者でいえば、危険運転致死傷罪が認められたのはよかったです。
私にはあまりにも当然のことで、そんなことが論点になること自体に問題を感じます。
この国では、多くの人たちが飲酒運転を本気でなくそうとは思っていません。
飲酒運転を起こしても運転免許さえとりあげない制度に、それは現れています。
事故を起こそうが起こすまいが、飲酒運転が発覚したら、運転免許を永久に取り上げることにしていたら、たぶんこの事件は起きず、若い被告も人生を無駄にすることはなかったでしょう。
なぜ飲酒運転への厳しい目が育たないかといえば、多くの人が時に飲酒運転をしているからではないかと思います。
産業界の働きかけも大きいかもしれません。
その文化を変えない限り、危険運転致死傷事件はなくならないように思います。
最近、マレイシアへの麻薬持込で死刑判決を受けた日本人女性がいます。
死刑は重過ぎるとついつい思いがちですが、麻薬に対する覚悟を感じます。
飲酒運転に対してもそれくらいの本気を期待したいです。
この判決は飲酒運転への抑止力になるでしょうか。
ならないでしょう。
裁判で争われること自体に、飲酒運転をなくそうという本気が伝わってこないからです。
被告は、運の悪い犠牲者で終わってしまいかねません。
東電の経営者はどうでしょうか。
運の悪い犠牲者なのでしょうか。
そうしてはならない、と私は思います。
もしこれが認められれば、原発運転再開にも大きな影響を与えることになるでしょう。
万一事故が起これば、自分の訴訟の対象になると思えば、これまでのように安直に原発を認めたりはしなくなるでしょう。
電力会社の役員にさえ、なりたがらないかもしれません。
そのことの意味はとても大きいように思います。
しかし多くの人は堂思うでしょうか。
東電の役員に同情する人のほうが多いような気がします。
つまり私たちは、まだ本気で原発のことを理解していないのです。
原発は不安だけれど電力不足は困るなどと思っている人が多いのです。
あるいは東電の役員も原発の危険性を知らなかったのだと思っている人もいるかもしれません。
とんでもありません。
彼らは原発の危険性や使用済燃料の問題、自己の発生確率のことなど、十分に知ることのできる立場にいたのです。
なぜそう思うかといえば、そんなことは少なくとも40年前から言われていたことだからです。
責任がないなどと同情する必要はまったくありません。
企業の経営者になるということは、そういうことです。
抑止力を持つのは、裁判の結果ではありません。
世論であり、社会の雰囲気です。
一部の不幸な一人をスケープゴートにするのではなく、文化を変えなければいけません。
飲酒運転したら永久に自動車は運転できなくなる。
経営者として未必の故意をもった惨事を起こした場合は無限責任を追う。
それくらいの文化は。少なくとも必須なのではないかと思います。
いうまでもありませんが、東電の大口株主もまた、応分の責任を負っています。
原発は安全だといっていた技術者は自らを総括すべきです。
原発に賛成してきた株主の責任も見逃すわけには行きません。
抑止力が働いて、巨額な資金調達を不可能にすれば、原発はつくられることはありません。
日本は、原発技術を輸出しようとしています。
それにも今回の動きは抑止力になってほしいと思います。
輸出国で原発事故が起きたら、どうやって責任を取れるというのでしょうか。
考えただけでもおそろしい話です。
■技術者の総括(2011年11月5日)
テレビの街頭インタビューで「安全だという科学者は信頼できない」と発言している街の人がいました。
何気なく見過ごしそうな話ですが、これは恐ろしい話ではないかと思います。
現代社会は科学技術の成果の上に成り立っているといってもいいでしょう。
その科学技術への不信感が広がっているということです。
原発および原発事故に対する科学者や技術者の責任は甚大です。
科学技術倫理フォーラムというNPOの総会で、技術者がしっかりと自己総括することが必要ではないかと言いました。
2人の人が支持してくれましたが、結局、具体的な動きにはなりませんでした。
日本技術士会という組織がありますが、そこもまだ外に向けては動いていません。
これほどの技術不信が起こっているにもかかわらずです。
それにいまだに、元原子力委員会のメンバーと言う肩書きの人がテレビで原発事故や放射線対策に関してコメントをのべています。
厚顔無恥極まれりと思いますが、まずは自己反省と謝罪をしてから出直して欲しいです。
それにそうした人をコメンテーターに選ぶテレビ局もどうかと思います。
人は間違いを犯すものです。
それを咎めるつもりは、私にはありませんが、間違いがわかったらきちんとけじめをつけなければいけません。
そうでなければその人を信頼できるわけがありません。
原発事故のような大きな問題ではありませんが、私の小さな世界の友人付き合いでもそうしたことは時々起こります。
人の付き合い方がおろそかになっている証拠です。
それは決して他人事ではありません。
私自身そうした間違いを犯している可能性は大きいです。
絆とかつながりとか、言葉は広がっていますが、そうしたことのマナーやルールを回復しなければ、形だけの無意味なものになりかねません。
原発関係の技術者だけでなく、科学者や技術者は、原発事故に関して、きちんと総括すべきではないかと思います。
前回は、私自身、発言するだけで留まりましたが、もう一度、科学技術倫理フォーラムで問題提起しようと思いなおしました。
いま起こっている問題の責任は、いまを生きているすべての人間にとって決して無縁ではないのですから。
■どこを向いて言動するか(2011年11月6日)
野田首相がフランスのカンヌで開かれているG20首脳会合で、2010年代半ばまでに消費税率を段階的に10%まで引き上げる方針を表明したと報道されています。
国内での議論も十分ではなく、国民の合意もとれているようには思えませんが、報道によれば国際的に「公約」したことになるのだそうです。
野田首相は、国民ではなく、世界の権力者、とりわけアメリカ政府に向けて、言動しているようです。
どう考えても納得できません。
これは沖縄の基地問題を、沖縄住民とではなく、アメリカと話し合って決める姿勢と同じです。
国民主権とはまったく両立しない発想だろうと思います。
鳩山首相は沖縄住民の思いを素直に受けて、基地の県外移設を宣言しましたが、岡田外相(当時)の造反によってずたずたにされてしまいました(これは私の勝手な解釈です)。
岡田さんは優等生ですから、権威にはきわめて弱く、発想も政治的です(これも私の勝手な解釈です)。
同じように、最近の民主党政権の比較的若い世代の言動を見ると、国民の生活よりも世界の秩序(実際にはアメリカの指導力維持)がその判断基準のように見えてなりません。
日本の官僚は、長年壮叩き込まれていますからしかたがありませんが。
TPP交渉もそうですが、独創性のない人はみんな権力に寄生します。
そして独創性がなければ変革は難しいように思います。
独創力があるかどうかは演説の仕方で見えてきます。
原稿を読む人には独創性は期待できないかもしれません。
TPPで政党の再編成があるかもしれないという声が出始めました。
つまりTPPとは、それほど「国のかたち」につながっている問題なのです。
農業の活性化などという問題ではないのです。
TPP反対の急先鋒の山田前農水相はテレビで何回も議論の様子を見ましたが、かなり幅広く見ているようで好感が持てました。
それに離党も辞さないという潔さは私の好みです。
しかし、だからといって山田前農水相たちの説明がわかりやすいかといえば、そんなことはありません。
どうしてみんなもっと「わかりやすい説明」をしてくれないのでしょうか。
賛成派と反対派で議論するのもいいでしょうが、大切なのは世論を高めるために国民にわかりやすく説明することです。
ここでも政治家は国民を向いていません。
どこを向いて言動するか。
それが問題です。
■どこから発想するか(2011年11月7日)
ギリシアに端を発した経済危機はイタリアに飛び火しました。
おそらくこの危機の連鎖はさらに広がっていくでしょう。
というよりも、広がりが見え出していくといったほうが正しいかもしれません。
それはともかく、このニュースに関連して日本の財政危機が語られます。
財政の借金が1000兆円にもなっているからです。
もし利率が5%になったら、毎年50兆円を利子として負担しなければいけません。
これは現在の日本の税収とほぼ同じ額です。
まさに日本の財政は破綻し、ギリシアの二の舞かと思わせる数字です。
しかしよく言われるように日本の場合、お金の貸し手は日本の企業であり日本人なのです。
ということは、発想の起点を変えるとこうなります。
日本の人たちは日本国政府に1000兆円近いお金を貸している。
もし利率が5%になれば、税収に当たるお金が黙っていても入ってくる。
それを歳入に当てれば、日本は無税国家になるのではないか。
まあ私も、こんな議論をそのまま受け入れるほど能天気ではありません。
しかし、発想の起点を変えると物事は全く違って見えてくるわけです。
それに伴い問題の立て方も換わり、当然解決策も替わります。
すくなくともこの視点に立てば大企業への税制優遇などは出てきません。
円高や税率が高くなると企業は海外に転出するという議論も、発想の起点を変えれば全く違った問題になるでしょう。
どこを向いて考えるかと同じように、どこに立って考えるかで、問題も解決策もまったく変わってくるのです。
これはなにも国家レベルの話だけではなく、日常の私たちの生き方においても同じです。
「常識の呪縛」「固定的な視座」から自由になると生き方が変るかもしれません。
■数字の恐ろしさ(2011年11月8日)
こんな記事を見つけて、ドキッとしました。
全国の公立学校に勤める新人教員のうち、1年以内に依願退職した人の数が2010年度までの10年間で8.7倍に増えたことがわかった。特に心の病による退職が急増している。
教員が心の病にかかる場で、子どもたちが学んでいることに恐ろしさを感じたのです。
しかし、よく読んでみると、待てよ、という気がしてきました。
昨年度に公立の学校に入った教員は約25000人強で、1年以内に依願退職したのは約300人弱。つまり退職率は1%です。
退職率が8.7倍というと驚きますが、退職率1%と聴くと、逆の意味での驚きがあります。
人によって受け止め方は違うでしょうが、教員の世界はやはり「居心地のいい職場」なんだろうと思います。
しわ寄せは多分生徒たちに行っているのだろうなとさえ思いたくなります。
なにしろ10年前には退職率は限りなくゼロだったということですから。
こうした私の見方が正しいかどうかはあまり自信はありませんが、数字というものはかくも恐ろしいものなのです。
どこに焦点を合わせるかで、まったく正反対のメッセージも出せるわけです。
そもそも統計学は、説得のために発達した「嘘つきの科学」だと私は思っていますので、いわゆるデータは基本的にはあまり判断基準にはしないのですが、その私でさえ、数字には大きく影響されることは間違いありません。
困ったものです。
これに類した話はたくさんあります。
放射線汚染の話にこれを持ち出すのはいささか誤解されそうですが、汚染を示すデータが風評被害との関係でよく取りざたされます。
観測データなどは、極端に言えば、いかようにもつくれます。
そもそもそんなデータを安直に発表すべきでもないですし、そんなものに安直に依存してはいけません。
それに内山節さんも書いていますが、放射線汚染に関しては「風評被害」などという言葉は適切ではありません。
しかしどうしてみんな「数字」が好きなのでしょうか。
私には理解できません。
子どもの頃は結構、数学は好きだったのですが。
■TPPへの賛否でその人の立ち位置がわかります(2011年11月9日)
TPPへの参加交渉に入るかどうかがまもなく決まりそうですが、TPP議論を聞いていて、賛成側も反対側も、それぞれに論理は正しいように思います。
人によって価値基準は違いますから、どちらが正しいとはいえません。
説明のしかたがそれぞれに違うのですが、新聞の解説記事を読むと、それを書いた人の立ち位置もよくわかります。
賛成者が書いた解説を読むと賛成したくなり、反対者の書いた開設を読むと反対したくなります。
私自身は、TPP反対論ですが、だからといってTPP賛成論が間違っているとは言い切れません。
世の中に、何が正しいなどといった絶対基準はないと、私は思っています。
しかし最近つくづく感ずるのは、TPPはある意味では、その人の立脚点を示す「踏み絵」だということです。
その人のことをある程度、知っていると、その人が賛否のどちらかはかなり予想がつきます。
予想がはずれたことは、ほとんどありません。
もっとも「政治家」の場合は、必ずしも予想はつきません。
彼らには、まったく別の行動基準があるからでしょうが、あれっと思う人が反対しています。
では、その立脚点とは何かです。
私が思うには、経済観や文化です。
世界の経済や文化は大きな転換点にきています。
ギリシアの経済にしろ、オリンパスの経営にしろ、これまでの経済や文化の枠組みが引き起こした末期症状の象徴ではないかと思うのですが、そうした経済や文化はまだ修復して機能させられると思っている人たちは、TPPに賛成するでしょう。
そしてそれこそが、現下の危機を救うことになりと思っているのです。
ちょうど東北の被災地にこれまでの発想で都市計画や復興計画を立てるのと一緒です。
浸水地域ではなく高台に、人工的に安全な都市をつくる発想が間違っているとは言い切れないのと同じく、現在の経済の延長での生き残りを考えることが間違いだとは断定できません。
念のために言えば、私は主観的にはもちろん「間違い」だと断定していますが。
福島原発事故が起きた今でさえ、多くの人は原発に依存しようと考えています。
政府や産業界は輸出さえしようと考えています。
多くの、というよりも、ほとんどの科学者も技術者も、原発に反対しているようには見えません。
そうした人たちは、私には犯罪者に見えますが、だからといって私が正しいわけではありません。
犯罪者にも犯罪者の理があると、私はいつも思っています。
私も、このブログでは時にかなり過激に断定し、批判していますが、私自身が同じように批判されることもまた受け容れています。
ただし、社会に大きな影響を与える立場にある人は、自らの立ち位置を、時に相対化してみることも大切です。
それができるかどうかが、私には政治家の最大の資質ではないかと思っていますが、昨今の政治家にはあまり期待できないかもしれません。
そういう「大きな政治」は終わってしまったのかもしれません。
オリンパスが壊れ、ギリシアもイタリアも壊れ、ラダックもブータンも壊れていくのは、時の流れとして仕方がないのかもしれません。
TPP論争を聴いていると、思いはそんなところまで行ってしまいます。
■儀式としての手続き(2011年11月10日)
民主党の経済連携プロジェクトチームの提言を受けて、TPP交渉参加が発表されるといわれていた今夕の野田首相の記者会見が延期されました。
マスコミで報道されていたのは、どんな提言が出ようと野田首相の考えは変わらないという見方でした。
もしそうなら今盛り上がっている騒動は「儀式としてのアリバイづくり」でしかありません。
あまりにもひどい話です。
そうした観測に反して、首相は記者会見を1日、延期しました。
しかし、基調は大きくは変わっていないようです。
藤村官房長官は、その発表と同じ記者会見で、「首相の気持ちに変化は感じていない」とも強調しているからです。
これはどういうことでしょうか。
まったく逆なでするような発言です。
これも意図された「手続き」かもしれません。
代表民主主義においては、意思決定者が国民を代表する議員の議論に耳を傾けるということは、それによって自らの考えを問い直すということを意味しなければいけません。
単なる儀式としての手続きではないのです。
最近の野田首相の言動を見ていると、どうも「儀式としての手続き」主義者のような気がします。
官僚の道具になってしまったのでしょうか。
今日はTPPがどうなるかで、私には落ち着かない1日でした。
なにやら肩透かしを食ったようで、気分がすっきりしません。
もし明日、野田首相がTPP交渉参加を表明したら、山田前農水相は民主党を離党するでしょうが、それに契機に、いろいろな動きが出てくるかもしれません。
それでも野田政権が続くようであれば、がっかりです。
またもし交渉参加をやめることにしたら、別のほうから野田政権こわしが始まるでしょう。
やはり選択肢は、解散しかなさそうです。
最近の政治は、やはり私にはわからなくなってきました。
手続きをするための仕組みであって、やはり実際は官僚組織が動かしているのでしょうか。
政治家は官僚のための道具のように見えてなりません。
政治とは一体何なのか。
どうも国民の暮らしのためにあるものではなさそうです。
そんな失望感が、日に日に高まってきますが、そう思うこと自体が間違っているのでしょうね。
動き出す気力のない自分が情けなく、恥ずかしいです。
できるのは「署名」だけではどうしようもないですね。
反省しなければいけません。
■TPP国会中継は刺激的で面白かったです(2011年11月11日)
いまフェイスブックに書いたところですが、今日は朝からずっとテレビで国会中継を見ていました。
TPP関係の審議です。
1日仕事を休んでしっかりと国会中継を見るくらいの価値のあるテーマですので、理屈を言う前に今日は休んでテレビの前に釘付けになっていましたが、それだけの意味のある1日でした。
実にたくさんのことがわかりました。
編集された報道番組や偏った視点での解説を聴くほどにTPPはわからなくなってきますが、今日は実に面白い議論がたくさんありました。
圧巻は、最後の社民党の福島さんでした。
国会で交渉参加を表明せずに、海外で表明するとは国会を愚弄していると、怒っていました。
確かにその通りで、野田首相は国会を愚弄しているとしか思えません。
消費税もそうですが、彼にとっては国会や国民よりも、アメリカなのでしょう。
自民党の佐藤ゆかり議員の質問に対する野田首相の答弁は驚くべきものでした。
まともに回答できないのです。
そのため何回も中断しました。
私の嫌いな自民党が輝いて見えました。
その前の林議員の追及で、野田さんは思考力を失っていたのかもしれません。
しかし見ていて野田首相があまりに惨めに見えました。
閣僚では、鹿野農水相が面白かったです。
私の印象では、ほとんど資料など見ることもなく、憮然としていました。
鹿野農水相はTPPに反対だと思いますが、野田首相のやりとりを聴いていて、どう思っていたのでしょうか。
農業や共済などに関しての質問に答弁していましたが、きわめて良識的な回答でした。
そういえば、「共済」に触れたのは、公明党の西田議員です。
韓国の状況にも言及していましたが、鹿野さんもご存知でした。
今日の審議をきちんと見たら、少しは国民の考えも変わるだろうと思います。
舛添さんの発言も、私には好感が持てました。
TPPに参加しないと乗り遅れるなどと言うマイナスの発想ではなく、TPP参加の夢を語ってほしいといっていました。
野田首相は「参考になりました」と応えていましたが、これにも驚きました。
野田首相がTPPをどう考えているかがよくわかったからです。
「国民」の責務として、私はできるだけ国会中継を見るようにしていますが、初めてと言っていいくらい、充実した内容でした。
ただし政府側の答弁は、あまりにお粗末ではありましたが。
しかしそれでも野田さんはTPP交渉参加に向かって進むのでしょう。
金輪際、私は民主党は支持しないことにしました。
■WIN・WIN神話(2011年11月12日)
「ギニー貨の有する力の程度は、隣人がそれに対して有する必要ないしは欲望に正確に依存しているのである。それゆえ普通の商業的経済論者の意味において、みずから富裕になる術は、同時にまた必然的に諸君の隣人を貧乏にしておく術である。」
これは、今から150年前に書かれた、ラスキンの「この最後の者にも」に出てくる言葉です。
彼は当時の経済の考え方を、商業的経済と呼び、それに関する根源的な批判を試みています。
いま読んでも学ぶべきことがたくさんあります。
私がこの本を改めて読み出したのは、TPP論議の中でまた「商業主義的」議論が広がりだしているからです。
TPP賛成論者は、貿易自由化はみんなを豊かにさせるといいます。
地球という有限な世界で生活を営む以上、いまよりもみんな豊かになるなどと言うのは幻想に過ぎません。
誰かが豊かになれば、必ず誰かが貧しくなります。
そんなことは、ちょっと考えればわかるはずですが、経済成長の只中にいるとそれに気づきません。
パイが大きくなれば分け前も大きくなると、みんな思っていました。
私もその一人でした。
そうした神話への疑問が広がりだしたのが1970年代です。
そうした警告の書を読みながらも、私は経済成長や科学技術への期待の前に、その意味をしっかりと受け止めることができませんでした。
気づきだしたのは、1980年代に入ってからです。
そして1989年に会社を辞めて、生き方を変えました。
そして「お金」を基準にする生き方を捨てました。
1980年代には「持続可能性」と言う概念が生まれ、1990年代になってそれが広がりだしました。
しかし残念ながら、その言葉は流行語にはなりましたが、真剣に考えようとする人は決して多くはありません。
最近のわが国でもTPP論議には、持続可能性などという発想は微塵もありません。
民主党の若手閣僚の頭には、成長神話や自由経済信仰が色濃くあります。
そもそも「新成長戦略」などという古めかしいパラダイムを語っています。
商業的経済は、パイの奪い合い経済です。
関税をなしにしたら市場が大きくなるのではありません。
文化を市場主義に変え、社会を市場にしなければ、市場は大きくなりません。
市場が大きくなれば、必ず何かが小さくなります。
絆だとかつながりだとか壊れていくわけです。
大震災後の「絆」の大合唱は、要は絆まで市場にしようと言うことなのかと疑いたくなります。
そういえば、それをもたらしたのは企業が応援している公共広告に取り組む組織でした。
TPPで関税がなくなれば輸出しやすくなる人もいるでしょう。
しかしその意味をやはりもっときちんと考えるべきではないかと思います。
もうそろそろ誰かを犠牲にして金儲けしようなどとい言う貧しい経済から抜け出せないものでしょうか。
みんなそろそろ生き方を見直すべき時期です。
■小賢しき者たちの時代(2011年11月12日)
TPPに関する、野田首相の小賢しさは私には驚きでした。
言葉をこれほどに悪用する小賢しさは、かつての政治家の得意技でした。
野田首相はまさにその末裔です。
交渉参加と交渉参加に向けての協議はどこが違うのかわかりませんが、反端論をあれほどぶちあげていた山田前農水相も、その言葉に納得してしまいました。
なんだかがっかりです。
一人くらい潔い政治家がいてほしかったです。
しかし野田首相に追随するマスコミの多さにも驚きます。
昨日と今日のテレビ報道は見ていて驚いたのは、昨日までの報道のトーンと明らかに違って、もはやTPP参加支援報道になっています。
とりわけNHKはあからさまでした。
アナウンサーまでが加担していることにも驚きました。
勝てば官軍は、今もって変わらないようです。
そして、小賢しき者たちが「勝ち組」になる時代なのでしょう。
TPP参加が正義のような雰囲気が覆いだしています。
TPPへの反対論が影を潜めてしまいました。
山田さんはこのまま引き下がるのでしょうか。
毅然と行動した民主党の斉藤議員に拍手を送りたいです。
■うつし世の静寂に』の上映会のご案内(2011年11月14日)
今日は、ささらプロダクションの小倉さんたちが制作した『うつし世の静寂に』の上映会のご案内です。
この映画は、大都会のすぐ隣にまだ残っている「講」を切り口にして、自然と共に生きてきた私たちの文化の意味を考えさせてくれる作品です。
http://www.sasala-pro.com/film/u_detail.html
■11月17日(木)16時半から
会場:明治大学和泉校舎 第1校舎2F 208教室
会費:無料
■11月19日(土)13時から
会場:川崎市生涯学習プラザ 301(川崎市中原区今井南町514-1)
会 費:無料
問い合わせ:044-733-5590 (フェスタ実行委員会事務局)
■11月22日(火)18時から
会場:JAセレサ菅生支店 3階 (川崎市宮前区菅生1-2-22)
会費:500円
*東日本大震災復興支援映画会です。
ちなみに、この映画の感想を昨年、ブログに少し書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/11/post-f47d.html
年明けに、新しい講(結い)をテーマにしたサロンを考えていますが、なかなか参加者が出てきません。
関心のある方はご連絡ください。
■近世の商人の発想としての消費税増税(2011年11月16日)
「大きな財産をもっている人を毒殺するのは、中世において盛んに用いられた金持ちになる方法であり、わずかな財産をもっている人の食物に粗悪品を混入するのは、今日盛んに用いられる富を得る方法である。」
これはラスキンの「この最後の者にも」に出てくる言葉です。
中世と近代では金持ちになる手段が全く違うのです。
奇妙に納得できる文章です。
そして21世紀は、さらに近代の手法が効果的に展開できる時代です。
インターネットが、それを可能にしてくれます。
実際に、そうやって今の地位を得た富豪は少なくありません。
しかしラスキンの言い方を使えば、こうも言えます。
「大きな財産をもっている人から寄付を得るのは、中世において盛んに用いられた社会活動の資金作りの方法であり、わずかな財産をもっている人たちからわずかばかりの浄財を集めるのは、今日盛んに用いられる資金作りの方法である。」
東北復興のために短時間に巨額な寄付が集まりました。
それはこの一例です。
つまり私欲を増やすためか、社会を豊かにするためかによって、同じ手法は全く違った意味を持ってくるのです。
ラスキンは、「価値」についても語っていますので、それと重ねて考えていくと実におもしろいのですが、ここではただ「同じ手法も理念によって正反対になる」と言うことを書き添えておきます。
消費税は、手法においては、この発想に基づいています。
問題は理念ですが、消費税増税は前者でしょうか後者でしょうか。
前者と後者の違いは、お金を出す人が、喜んで出すか嫌がって出すかです。
そう考えると、最近の消費税増税は前者ではないかと私は思えてきています。
わずかの負担増だといって、気を許してはいけません。
新しい税体系を考えるに当たっては、みんなが喜んで税を負担するにはどうしたらいいかから考えていくのが効果的だろうと思います。
歳入が足りないから増税だというのは、近世の商人の発想でしかありません。
■オリンパスショックとOlympusgrassroots.com(2011年11月20日)
オリンパスの事件はいろいろと考えさせられました。
最初、社長解任のニュースを聞いた時、私の頭に浮かんだ最初の思いは、日本の経営を壊す外国人経営者が解任されたということでした。
日本の企業経営のよさが、グローバリゼーションという流れの中で、次々と壊されている昨今の風潮には怒りさえ感じていましたから。
しかしその内容を知るにつけて、逆におかしいのはオリンパスの旧経営陣ではないかと思い出しました。
そして実態が明らかになるにつれて唖然としました。
まさかのまさかですが、その一方で、これはオリンパスだけの話なのだろうかと思い出しました。
1980年代、私がまだ会社にいた頃、財テクブームが広がりだしました。
その時の悪魔が、まだまだ企業には住み着いているようです。
現在の社長は自分は知らなかったと言っていますが、知ろうとしなかっただけでしょう。
人は都合のいいことしか見ないものですから。
11月12日に、一つのサイトが立ち上がりました。
Olympusgrassroots.com。
「オリンパスの再生に向けて社員が立ち上がるサイト」と説明されています。
立ち上げたのは、同社の元専務、宮田さんです。
トップページにはこう書かれています。
オリンパス従業員の皆さん、
愛するオリンパスが消滅するかもしれない、このような状況をこのまま何もせず座視することに耐えられなくなりました。社外にいるからこそ見えてくるオリンパスの危機の深さ、深刻さをできるだけ正確に理解し、それをチャンスに変えるための方策を自分なりに考えてみました。それを皆さんと共有し、今こそ立ち上がろう、と呼びかけたいと思います。
宮田さんにも責任がなかったとは思いませんが、宮田さんもその事は自覚しているようです。
そして宮田さんは、だからこそ行動を起こしたのです。
言い訳ではなく、行動を起こした。
しかも広く社会に向けてであり、オリンパスの従業員に向けてです。
私が興味を持ったのは、こうした動きが出てきたことです。
その気になったら、当事者としてでも、一人の個人としてできることはたくさんあるのです。
論評よりもまずは行動です。
この話を一昨日、企業の経営幹部のみなさんの集まりで紹介させてもらいました。
企業も社会も、それを構成しているのは私たち一人ひとりです。
一人が動くことで始まることもたくさんあります。
最近の企業がおかしいのは、そこにいる社員の問題です。
立場によってできることはいろいろと違うでしょう。
しかしできることは決して少なくありません。
思ったら行動しましょう。
それは社会のためではありません。
自分が気持ちよく暮らせる社会にしていくためにです。
■お金を無駄遣いしていた人の増税要請(2011年11月20日)
今朝のTBSテレビの時事放談は民主党政調会長代行の仙谷さんともう引退された武村正義 さんでした。
お2人とも、消費税増税をしないと財政は破綻するから国民のためにも野田さんはぶれずに消費税増税に取り組んで欲しいといいました。
消費税の問題はすべての国民に影響を与えるからTPP問題よりも重要だといっていました。
私は消費税問題よりもTPPのほうが重要だと思っています。
たかが狭義の経済問題でしかない消費税よりも文化の次元の問題であるTPPのほうがよほど大きな問題ではないかと思うのです。
しかしそれはともかく、2人の政治家が消費税増税を語っている姿を見て、納得できないものを感じました。
私は、消費税は20%か30%でもいいと思っています。
昨今はともかく価格が安すぎます。だから安直に物やサービスを浪費しがちです。
それがなんとも私にはやりきれないのです。
ただし生鮮食料品のような生きるための消費には、消費税はかけてほしくないです。
ではどうして納得できないのか。
彼らが、財政破綻を救うために消費税増税は避けられないというからです。
それではそもそも今のような財政破綻状況にしたのは誰なのか。
言うまでもありませんが、それは政治家です。
つまり仙石さんや武村さんなのです。あるいは野田さんです。
決して官僚ではありません。
そういう認識が政治家にはあるのでしょうか。
まずは自分たちが責任を取って政治家を返上してこそ、消費税増税を主張できると私は思っています。
二世賛成の政治家などは論外です。
恥を知れといいたいです。
彼らの論理は、私には盗人の開き直りにしか聞えません。
自分で使い込んでおいて、その補填を居丈高に呼びかける。
その神経が私にはわかりません。
財政赤字をもたらしたのは自民党政権で民主党には責任がないという人もいるかもしれません。
とんでもない。政治家はすべて一蓮托生です。
イタリアの新しい内閣はすべて現在の職業政治家以外で構成されたそうです。
実にうらやましいです。
成功するか失敗するかはわかりませんが、その潔さがすばらいいです、
■忙しいことを良しとしない「までいな生き方」(2011年11月21日)
今日はいささか友人知人の気分を損ないかねないことを書きます。
これまでも何回か書いてきていますので、このブログの読者には伝わっていると思いますが、私の友人知人にはあまり伝わっていないことのようです。
私は「多忙」とか「忙しい」という言葉にはマイナスイメージが強くあります。
忙しい生き方ほど恥ずべき生き方はないと思っています。
それで先日、フェイスブックに「最近忙しい生き方になっているので、それを反省しなければいけない」と書きました。
そうしたらある人から「忙しいうちが花です。幸せだと思います」と書き込まれ、それにまた別の友人が「同感、同感」と書いてきました。
私は、そういう生き方に問題提起したつもりなのですが、まったく伝わっていません。
困ったものです。
私にメールをよくくれるある人は、自分の署名の上に、
「ご多忙の日々、ご自愛ください」と必ず書いてきます。
私にとっては、これほど失礼な言葉はないと思うのですが、本人はまったく悪気などあろうはずもありません。
ますます困ったものです。
挨拶でもよく「お忙しいですか」とか「お忙しそうですね」と言うことがあります。
私も使うことがありますが、私の場合には相手への「トゲ」を含めています。
性格が悪いのです。
集まりなどでの挨拶でも、「お忙しいところ」とよく使われます。
しかしそれは「ご多用のところ」と言うべきであって、「お忙しいところ」とは言うべきでないように思います。
「忙」とは「心を失う」という文字です。
あなたは心を失っているのですね、と言われてうれしい人はいません。
心を失っている人たちに集まってもらっても、形だけの集まりで終わります。
自分のことを「忙しい」というのは自戒をこめて言うわけですからいいのですが、ほかの人を忙しいと考えるのは失礼だと私は思っています。
経済成長を目指してきた日本においては、「忙しいことを良しとする文化」が育ってしまいました。
私はその文化を壊さなければいけないと思っています。
スローライフとかロハスは、その一つかもしれませんが、それらにも私は違和感があります。
東日本大震災の後、有名になった言葉に「までい」というのがあります。
飯館村がまちづくりの合い言葉にしていた言葉です。
以前、CWSコモンズには書いたことがありますが、私にはこの言葉がぴったりきます。
この言葉は、以前、福島の人に聴いたところでは、「心を込めてゆっくりと」というような意味だそうです。
「までいな生き方」
それが私が目指す生き方です。
忙しさは人をだめにします。
■被災企業の経営者の信念(2011年11月21日)
先日、東日本大震災で壊滅的な打撃を受けながら復興に向けて奮闘している3人の社長のお話を聴く機会がありました。
「希望を目指して踏み出す復興魂」というテーマでのパネルディスカッションをさせてもらったのです。
3人とも素晴らしいお話をしてくださいました。
「希望の缶詰」でテレビなどでも話題になった木の屋石巻水産社長の木村さんが、「まじめに仕事をしていたおかげで、今回もみんなから支えてもらえた」と話してくださったのが、心に響きました。
まさに「企業経営の真髄」ではないかと思いました。
9つの工場のうち8つを流されるという苦境にありながら、阿部長商店社長の阿部さんは毎月2000万円の負担を覚悟して従業員の雇用を守りました。
その決断の様子をテレビで見せてもらっていましたが、直接お話をお聞きして、自社だけでなく地域全体、さらには業界全体を見据えて、広い視野で構想していることがよくわかりました。
具体策も語ってくれました。
産業とはなにか、経済とは何かにつながるお話です。
こういう人にこそ、東北経済の復興を任せたいと思いました。
大正時代からつづく老舗企業のカネシメイチ社長の小山さんのお話も心に響きました。
今回の震災で社員との距離が変わった、社長だけでがんばっていてはだめだとわかったというのです。
言葉にしてしまうとなんでもないですが、ご自身の体験からそれを語ってくれました。
小山さんは、ともかく従業員を100%信じていると言い切っている人です。
これまた企業とは何かの真髄に通じています。
そこで語られているのは、経団連などの財界の経済人たちの語っていることとあまりに違います。
本当に汗しながら生きている人、企業を経営している人の言葉は、心に響きます。
自社でめちゃくちゃなことをやりながらきれいごとを並べる、厚顔無恥な財界人に聞かせたいお話ばかりでした。
私自身、とても心洗われる時間を過ごさせてもらいました。
日本の大企業のほとんどは腐っていますが、それを支えている中小企業の多くは、私にはますます輝いて見えてきました。
■経済的に豊かな家庭の子どもは「頭がいい」(2011年11月22日)
企業経営者の2代目、3代目が集まった研究活動の発表会での体験です。
溌剌とした若い発表者がこう言いました。
「私たち、2代目、3代目は、親のおかげで経済的にも恵まれ、教育にもお金をかけてもらっているので、頭が良いのですが、そのため、頭で考えがちなのです」と。
会場には爆笑が起こりました。
大王製紙の前井川意高会長も、多分同じように「頭が良い」のでしょう。
テレビで報道される前会長はなんら悪びれることなく、さわやかなのも印象的です。
私は、なぜか憎む気にはなりません。
最近、また読んでしまったラスキンは、こう書いています。
「普通に富裕だと考えられている人々の多くは、先天的にしかも永遠に富を得る能力がないのであって、実際にはかれらの金庫の錠とおなじように少しも富裕ではないのである。」
「経済的観点からみれば、そういう人々は国家にとっては停滞した水溜りか、流れのなかの渦巻か、さもなければ、究極のはたらきが堰自体によるのではなくて、水車小屋によらなければならない河のなかの堰のようなものか、さもなくば富として作用せずに「害物」として作用し、かつあらゆる方面においてかれらのまわりにさまざまな惨害と難儀をひき起こすような、単なる偶発的な抑制とか障害としての役目を果たすのである。」
つまり、富を蓄積している富者は、経済を循環させていく上では「害物」だというのです。
そして富者は「金庫の錠」と同じだとまで言います。
井川前会長は、富を得る能力はなかったかもしれませんが、富を使う能力はあり、しかも実践もしたのです。
井川家に死蔵されかねなかった富は、彼のおかげで、カジノを通して社会に回ってきたのです。
おかしな言い方ですが、経済にとっては好ましいことではないかと言う気がします。
問題は、そうした井川さんの行動に異を唱えなかった同社の経営陣です。
おかしいと思いながらも、唯々諾々と従っていた経営者たちの責任をこそ、わたしは問いたいです。
清武さんとナベツネさんの騒動が話題になっていますが、ナベツネさんのような人を育てたのも、同じような「唯々諾々と従う人たち」だったのでしょう、
「異を唱える」ことに意味があるわけではありませんが、「意を唱えない」人生は、私には理解できません。
そうした家畜のような人生は、折角の生を無駄にしています。
しかしそうした輩がはびこりだしている社会には戻りたくはありませんし、そんな生き方はしないようにしています。
それに徹すれば、それはそれなりにまた、生きやすいものです。
■現在の支配的な経済の仕組みを変えるために(2011年11月23日)
FTAをめぐり韓国の国会が荒れました。
明日の日本を見ているようですが、日本の最大野党の自民党はおそらく基本的にはTPP賛成でしょうから、ああはならずにTPPに参加して日本の壊すおそれのほうが強いでしょう。
ブータンの国王が来日し、国会でも大きな拍手を受けるスピーチをしました。
おそらくそのブータンも、まもなく大きく変質するでしょう。
お金には誰も勝てないのです。
人柄が発するオーラにも勝てませんが。
ところで、「自由貿易」や「経済成長」を多くの日本人は無条件に賛成しているようです。
おそらくその意味など考えていないのでしょう。
ラダックが壊れたように、そしてまもなくブータンが壊れるように、そのいずれもが「大きな毒」をもっています。
アダム・スミス以前の「奪い合いの重商主義の時代」に戻ったような気がしてなりません。
すでに報道されているように、アメリカはもはや自らを市場とはせずに、輸出拡大に向かうわけですが、そうした時期の貿易自由化は小泉元首相がやったように、日本をアメリカの市場に差し出すことにつながっています。
しかも魅力的な市場にするために、「新成長戦略」が画策されています。
日本が壊れていくのは残念ながら避けられません。
多くの日本人がそれを望んでいるのですから、仕方ありません。
最近また話題になってきている「懐かしい未来 ラダックから学ぶ」の著者、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは、2009年版のあとがきで、現在の支配的な経済の仕組みを変えることが必要だと書いています。
現在の経済システムの根底にある「公理」のような命題に対して、改めて問い直す必要があります。
本当に経済成長は必要なのか。
貿易自由化は本当にいいことなのか。
科学技術は生活を豊かにするのか。
専門家の言うことを信じていいのか。
お金は人生の支えになるのか。
問い正したい命題は、私には山のようにあります。
年が明けたら、湯島で少し真面目な読書会をやろうかと思い出しています。
あまりにみんな考えなくなってきているような気がしてなりません。
■システムと人間の対立(2011年11月24日)
挽歌編で書きましたが、先週、思い出して、改めて「懐かしい未来」を読み直しました。
日本ではしばらく絶版になっていましたが、今年のはじめに復刊されたのです。
2009年版の「幸せの経済学」というあとがきも追加されていました。
ますます説得力が高まっています。
それなのに、どうして時代の流れは、そちらに向かないのか、不思議です。
本編も私としてはめずらしくていねいに読み直しましたが、そこですでに自由貿易批判が行われていました。
TPP論者に読ませたいですが、呼んでも理解はできないでしょう。
改めて本書を読んで、「システムと人間の対立」という基本構造を再認識しました。
今日の時評は、共感した文章の引用です。
著者のヘレンさんは、こう書いています。
ラダックでの経験は、私たちの危機の第一の原因は、人間の本性でもなければ進化でもなく、この地球と人びとの双方を圧倒しながら執拗に拡張し続ける経済システムなのだ、ということを確信させてくれた。不幸なことに、このシステムはあまりにも大きく成長してしまったので、元々は人間が生み出したものと認識することが困難になってきており、逆らいようのない進化の力であるかのように捉えられがちなのだ。
チャールズ・ライクが「システムという名の支配者」で警告していた話と同じです。
ヘレンさんは、さらに続けます。
政策決定者たちは自分たちが自然で人間的なコミュニティにダメージを与えていることに無自覚である。私たちが直面しているのは、悪意のある陰謀ではなく、構造的な陰謀なのだ。換言すれば、絡み合うさまざまな構造が、生命そのものを脅かす開発の道筋を進めることによって、システム的に「陰謀を企てている」のである。
そのシステムは、人間的な見地からは根本的に不合理で、命そのものの関係性のつながりを圧倒し、破壊しかねない脅威である。まさにこれらの経済活動が、この地球上のいたるところで現実の生物の「成長」を危機に陥れているときに、現代の経済活動に関連して「成長」という用語が使われるというのは、まさに苦い皮肉といえるだろう。293
私の退屈なコメントを付け足す必要はまったくありません。
「懐かしい未来」は、NPO法人懐かしい未来から復刊されていますので、ぜひお読み下さい。
■放射線汚染のことがよくわかりません(2011年11月26日)
昨日の集まりで、放射線汚染や除染の話題が出ました。
いろんな数値が出ていたのですが、私にはどうもよくわかりません。
まず、最初の疑問。
原発や放射線科学に詳しい専門家たちが、テレビや新聞でいろんな話をしていますが、その話をなぜみんな信じるのでしょうか。
彼らこそ、これまで「嘘」をついてきた張本人たちでしょう。
そんな人が話す、いかにも「科学的なデータ」などを基準に物事を考える人の気持ちがわかりません。
次にデータの意味がわかりません。
たとえば「いつ」「どこで」「どのように」「どんな機器で」「誰が」測定したかで、データは変わってきます。
それに瞬間的なデータと期間的なデータが、混在されて語られていますから、私には全く理解できません。
みんなわかっているのでしょうか。
それに、データと人体への危険性に関する関係も私にはほとんど理解できません。
どこかにそういう蓄積データがあって、誰かが分析などしたことがあるのでしょうか。
あるとしたらこれまでなぜ出てこなかったのでしょうか。
第3に、これは批判されそうですが、数字のデータで考えている人の神経がわかりません。
データなどただの「数字」でしかありません。
誰かが「データ」で説明しだした場合、ほとんどの場合が「嘘をつこうとしている」と私は感じます。
それが70年生きてきた体験知です。
真実は、決してデータにはありません。
要するに、これまで嘘ばかり言ってきた(あるいはわからないことをさもわかったように言ってきた)専門家や行政関係者が、都合よく創作した、極めて多義的で、したがって無意味な数字で、安全だとか危険だとか騒いでいるだけの話に、いちいち付き合ってはいられないというのが、私の考えです。
科学の世界で使われる言葉に、known unknownsとunknown unknownsという、2つの「無知」があります。
かつて「オゾン戦争」というのがありました。
夢の化学薬品として生活を便利にしてきたフロンガスが、発売後30年ほどしてから、オゾン層を壊していることが判明したのです。
これはまさに「想定外のこと」、つまりunknown unknownsでした。
しかし原発に関しては、known unknowns、つまり「解明されていない危険」につながる不確かなことが山のようにあったのです。
にもかかわらず、科学者や技術者はそれに目をつぶって金儲けに加担したのです。
そしてほとんどの国民は、その危険性を考えようともしなかったのです。
だれもが原爆と原発がつながっていることは知っていたはずです。
そして少しでも考える気があれば、原発の危険は想像できたはずです。
しかしみんな科学者や技術者や統治者の言葉を信じて、原発は明るい未来を創りだすものと考えていたのです。
原発を誘致すれば立派な施設ができ、仕事が増えると喜んでいたのです。
何をいまさら危険だとか安全だとか騒ぐ必要があるでしょう。
第一、防御などできようはずがないのです。
こんなことを言うと、また非難のメールが届くでしょう。
ではどうするのか、という指摘もあるでしょう。
どうすればいいかは事故のあった直後にこのブログで書きましたから、繰り返しませんが、
昨今の除染だとか出荷停止だとか、放射線対策だとかの動きを見ていると、
原発が安全だと信じて行動していたのと同じ繰り返しが行われるような気がしてなりません。
私には放射線汚染に関するデータを読み解く力はないのですが、そんなデータの変動など気にせずに、以前とは全く違った世界に生きていることを認識して、自分の判断で暮らしていこうと考えています。
寿命が縮まったとしても、それは仕方がないことです。
それにしても、データでごまかすのは止めて欲しいとは思っていますが。
そして科学者や技術者は、きちんと自己総括して欲しいとも思っていますが。
■大阪のダブル選挙で橋下さんが戦った相手(2011年11月28日)
大阪市と大阪府のダブル選挙が終わりました。
いずれも維新の会の橋下さんと松井さんが当選しました。
メーリングリストで私のところに流れてくる意見の多くは、「失望した」というものでした。
どうも橋下さんには「独裁者」「ファシスト」というイメージがあるようです。
私も、橋下さんの政策や考え方の多くにはむしろ批判的ですが、彼はファシストではなく、イノベーターだと考えています。
このブログで何回も書いているように、私は社会の構造の基本軸を「人間 vs システム」と考えています。
個人としての独裁者は、システムの代表でしかありません。
これは今に始まったことでありません。
かつて平時においては絶対的な権力を持っていたように見える王様も、状況によっては自らの生命を投げ出すか、あるいは処刑されました。
フランス革命の話ではありません。
古代の王様の話です。
戦時の独裁者も、状況が変われば簡単に切り捨てられます。
権力は個人にその淵源があるわけではなく、システムが生み出して一時的に与えられるだけなのです。
そして、その独裁的ともいえる権力は、そのシステムに寄生している多くの人々によってつくり上げられています。
その一つの例が、原発産業です。
現体制からは、それを壊すエネルギーは出てきません。
これまで悲劇的な原発事故が3回も起こりながら、原発に寄生する人たちによって、いまだに原発は広がろうとしています。
読売新聞の渡辺さんはどうでしょうか。
これもみんながつくりあげた権力でしかありません。
みんなが、それを利用しているだけです。
そうした座は見識や志のない、呆けた老人であればあるほど、適役です。
昨今の日本の首相の座も、そうなっているのかもしれません。
話を戻して、大阪の橋下さんですが、彼がどこまでシステムを壊せるかはわかりませんが、システムに挑んでいるのは間違いありません。
対抗馬だった平松さんが戦ったのは橋下さんでしたが、橋下さんが戦っているのはシステムなのです。
平松さんとは格も次元も違います。
そしてシステムに挑んだが故に、すべての政党が反橋下になりました。
共産党は、ある意味では既存の体制の擁護者ですから当然、反橋下です。
こうした構図で見ていくと、昨今の政治状況も経済状況も、かなり違って見えてきます。
橋下さんは私には独裁者ではなく、システムに立ち向かうドン・キ・ホーテに見えます。
あと8年、頑張ってほしいです。
できれば、政策も「人間 vs システム」の視点から考え直して欲しいです。
たぶんこれから成長してくれるだろうと期待していますが。
■ポピュリストと独裁者(2011年11月29日)
今日はいつも以上にかなり粗雑な議論です。
大阪市長選は前回よりもかなり高い投票率でした。
おそらくいつもは投票に行かない人たちが投票に行ったのでしょう。
そしてたぶん橋下さんに投票したのではないかと思います。
政治に大きな変化が起きる時には投票率が上がります。
いや上げないと流れは変わりません。
政治はますますポピュリズム化しているといわれています。
それは間接民主主義の当然の帰結ともいえます。
政治の流れを変えるには、これまで投票に行かなかった人を投票に行かせるような呼びかけが必要です。
前回、地元の市長選に関わった時に、ある人が「特に不都合がないので今の市長でいいと思う」と言いました。
その人は、いま何が問題になっていて、これからどうしようとしているかの情報は全くと言って持ち合わせていませんでした。
関心さえありませんでした。
情報公開という言葉は盛んに使われますが、行政は国政も自治体も公開などしたいなどとは思っていません。
公開すれば必ず問題が起こるからです。
知らなければ誰も何も気づきません。関心を持たなければ不満も出てきません。
情報公開に積極的なのは現体制を変えたいと思っている人たちです。
政治には必ず「問題」はありますので、実態が見えるほどに不満も高まります。
あるいは「不満」を起こさせやすくなります。
特にその不満が「わかりやすい」ものであれば、投票に行く気にもなるでしょう。
多くの政治課題は、そんなに「わかりやすい」ものではありません。
しかし、ある一面を捉えるととてもわかりやすくなります。
郵政民営化、二重構造などは複雑な問題を含んでいますが、それをわかりやすい問題に編集してしまうのがポピュリストと言われる政治家です。
それは大きな力を生み出しますが、それゆえに危険性もまた大きいわけです。
ポピュリズムが悪いわけではなく(それが悪ければ民主主義も悪いと言えます)、その過程で「意図された編集」が行われることと結集した人々のエネルギーの暴走に振り回されがちなことが問題です。
前者の最近の例が、TPPです。
TPPの問題をどう捉えるかは人によって大きく違いますが、問題を単純化したほうがわかりやすいために、そうした表層的な事が論点になってしまっているように思います。
後者に関しては、その暴走を統治する仕組みが必要ですが、その一つは「聴く耳を持つ独裁者」かもしれません。
独裁者は「聴く耳」を持たないといわれますが、聴くのは「耳」だけではありません。
強い情熱や志は、世界を狭くもすれば広くもします。
とんがったところには情報は集まるものです。
ポピュリズムの末路は、歴史に語られている事例で言えば、あまり望ましいものではありません。
ナチスはその典型でしょうが、それは必然的な末路ではないように思います。
橋下さんは、ポピュリスト的独裁者の橋下さんの動きに期待したいと思います。
彼の「政策に関する変節」も含めてですが。
■COP17と一方的先導措置(2011年12月7日)
時間破産に陥ってしまい、時評を書く時間がありませんでした。
少し時間ができたので、書くことにします。
南アフリカでCOP17(開会中の国連気候変動枠組み条約締約国会議)が開催されていますが、2012年末で温室効果ガス削減の義務づけ期間が終わる京都議定書について、次の約束期間をつくる「延長」には加わらないことを日本政府は決めたようです。
その大きな理由は、温室効果ガスを一番たくさん排出しているアメリカと中国が京都議定書に参加していないからだとされています。
たしかに米中が参加しない限り、この議定書の効果は発揮されないかもしれません。
しかし、米中が参加しないから離脱するという、その発想は私には馴染めません。
多くの途上国やNGOが主張しているように、むしろ米中に参加を働きかえる姿勢こそ似信念やビジョンが感じられるからです。
小賢しい現実対応の姿勢は、私はどうも好きにはなれません。
これは沖縄の普天間基地問題やTPPに関してもいえることですが。
冷戦構造化の時代のことですが、各抑止力に関して、エスカレーション理論とデスカレーション理論がありました。
世間の多くは、各抑止力を高めあうことで戦争を回避できるという発想でした。
その発想はどんどんと核兵器保有量を増加することになります。
際限のない戦略、つまり資本主義的経済に馴染みやすい発想です。
デスカレーション理論(そんな言葉はありませんでしたが)は、アメリカの心理学者 チャールズ・オスグッドが主張したもので、一方的削減による軍縮戦略です。「一方的先導措置」とも言われますが、まずは相手を信頼して、自らの抑止力を削減するわけです。そしてエスカレーションとは逆のスパイラルを生み出していくわけです。
COP17に関する報道を読んでいて、このことを思い出しました。
多くの人が、無理なことには賛成しません。
なぜなら「負け馬」に乗ることになりかねないからです。
それが「勝つか負けるか」が行動の基準になっている哀しい現実です。
オスグッドの発想はあまり賛成は得られませんでしたが、しかし大きな流れから見れば、彼が考えたように歴史は動き、世界は破滅しないですんだのです。
米中が参加しないからCOP17から離脱と言うのは、どうも違和感があります。
米中が参加しなくても、やるべきことをやればいい。
ただそれだけのことではないのか、と思うわけです。
書いてきて、あんまりつながりがないかなという気もしますが、私にはやはりつながって感じられます。
米中が参加しないからこそ、COP17の枠組みを大切にすべきではないかと素朴に思います。
権力のあるところが反対していることには、多くの場合、正義がありますし。
■いばらき自然エネルギーネットワーク(2011年12月9日)
テレビで「いばらき自然エネルギーネットワーク」の活動を知りました。
茨城大学地球変動適応科学研究機関が中心になって、茨城県における自然エネルギーの普及に取り組んでいる活動をつなげていくプラットフォームです。
行政も積極的に関わっているようですが、まさにこうしたところに、これからの行政の新しい役割があるような気がしています。
茨城県では、県内それぞれの地域特性を活かした自然エネルギーの取り組みがさまざまに行われていますが、それを1枚のマップに落とし込み、そこから学びあいながら、様々な取り組みをしていこうと言う動きですが、これはまさに1970年代に日本でも起こったソフトエネルギーパスの活動です。
当時はかなり広がりを見せましたが、結局は原子力発電重視の行政に押されて主流にはなれませんでした。
あの時にもし、ソフトエネルギーパスを選択していたら、日本は大きく変わっていたでしょう。
熊谷に住む時田さんからも、大震災後の取り組みの一つとして、こうした構想をお聞きしていましたが、各地でこのような動きが出てくれば、自然エネルギーの意味が見えてくるでしょう。
自然エネルギーはコストが高いなどとよく言われますが、それはコスト計算の枠組みが工業発想だからであって、少し視野を広げれば、自然エネルギーのコストが安いことは当然わかるはずです。
自然にあるものを活かすことと自然にないものをむりやり創りだすことと、どちらのコストが安いかは、私には考えるまでもないことです。
コスト計算の基準の問題でしかありません。
いばらき自然エネルギーネットワークは、エネルギーの地域自立につながっていきますが、これは地産地消やCAS(地域が支える農業)などにもつながる発想です。
しかし、それ以上に、地域の文化を豊かにしていくことにつながっていくはずです。
そろそろグローバル経済の幻想から脱却しなければいけません。
■絆ブームへの違和感(2011年12月13日)
「今年の漢字」は予想通り「絆」になりました。
最近、絆とかつながり、支え合いといった言葉が、あまりにも安直に使われるのが気になっています。
そのことを以前、あるメーリングリストに書いたら、早速、2人の人から、共感のメールをもらいました。
しかし、その後、ますます「絆」ばやりです。
と思っていたら、今朝の朝日新聞に「絆」という言葉の持つマイナス面がていねいに書かれていて、少し安堵しました。
読んだ方も多いと思いますが、お一人のコメント部分を紹介させてもらいます。
広辞苑第6版の編集にかかわった山口明穂・東京大名誉教授(国語学)によると、「絆」にはもともと、語源から来るマイナスのイメージが強く、自由を束縛する「ほだし」の意味があった。しかし、最近ではプラスの意味で使われるケースが増えているという。「本来、深い関係がある時に使うもので、軽く使う言葉ではない。ただ、震災後に多用され、今後はプラスの意味で使われることが増えるのではないか」。
「絆」の語源は、「馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱」です。
つまり、「手かせ、足かせ」「人の自由を束縛するもの」という意味もまた、「絆」に含意されていることなのです。
そうしたことが、どんな結果を引き起こしたかは明治から昭和初期の歴史を読めば、よくわかります。
そこから解放されようと、この60年、私たちは生きてきたわけです。
しかし、その行きすぎが、社会を壊しだしているのも事実です。
私も20年ほど前から、「つながり」や「支え合い」を基本に置いた生き方をしてきていますが、その難しさもまた実感しています。
ちなみに、10年前には「つながり」や「支え合い」が大切だとNPO活動をしている人たちに話しても、あまり共感を得られませんでした。
それが一挙に「絆」です。
どう考えても理解できません。
なにやら「嫌な空気」も感じます。
もっとゆるやかな支え合う生き方を、私はしたいものです。
絆などという言葉は、軽々に口に出すべきではないと思っています。
■65歳再雇用と若者の働き場(2011年12月14日)
厚生労働省は65歳まで希望者全員を再雇用するよう企業に義務づける方針を固めたそうです。
年金の支給開始年齢引き上げが絡んでいるようですが、どうも違和感があります。
この数年、若者たちの働く場がないことが大きな問題になっています。
その理由は明らかです。
生産性の向上などで「仕事」そのものが少なくなってきているからです。
縮小する「仕事」を老若でとりあっているのが現状です。
若者にとっては、60歳を過ぎたら、もういい加減、会社や「仕事」から出て行って欲しいと思っているでしょう。
働かない高齢者は、若者が面倒を見なくてはいけなくなるので、高齢者は自分で働いて年金のお世話にならないようにしるというのが、大義かもしれませんが、それは本末転倒しています。
仕事は、お金だけのためにあるのではありません。
若い時代にきちんとした「働き場」を体験できない人が増えていけばどうなるのか、そのことを考えれば、安直な再雇用でいいはずがありません。
私の体験で言えば、60歳を過ぎたら基本的に生活費は減りだします。
私の場合、年収200万円あれば十分です。
実際には残念ながら200万円に達していませんが、何の不都合もありません。
自宅が持ち家だからかもしれませんが、食材もいろんな人たちが送ってきてくれますし、なにか活動をしようとすれば、必要なお金を寄付してくれる人もいますので、自殺予防や認知症予防の活動などもやれています。
そういう生き方ができるために20年かかりましたが、私自身は恵まれてはいたものの、決して特殊な例ではないでしょう。
要は、生き方の問題です。
たとえば、今回の大震災で無駄な生活に気づいた人は少なくないでしょう。
見直す余地は少なくありません。
60歳をすぎての再雇用も否定はしませんが、お金基準の働き方はやめるのがいいでしょう。
極端に言えば、働けるだけでも幸せなのですから、給料をもらうのではなくマイナス給料制度で授業料のように毎月給料を会社に払い込んでもいいくらいです。
事実、私は一時期、そうしていましたので、退職金はなくなってしまいました。
しかしそれは少し極端なので、にわかは受け容れられないでしょうが(将来はそうなると私は思っています)、少なくとも若い人たちの働き場を奪うことはやめるべきです。
具体的には、高齢者にはその知見とネットワークを活用して、企業と社会の橋渡し役になるとか、若者の働き場を増やし支援するとか、いろんな働き方があるはずです。
そろそろ「稼ぐ」から「働く」へと、意識を変えるのがいいでしょう。
年金がもらえないから働いて、そのおかげで年金掛け金も払えない若者を増やしていくのはどう考えてもおかしいです。
少しは若者たちの働き場に目をやってほしいものです。
そうしないと、結局は社会がさらに壊れてしまい、再雇用されてもあんまり幸せにはなれないかもしれませんし。
■「家に帰れればお金がなくても暮らしていける」(2011年12月16日)
原発事故の収束宣言が出されました。
とても違和感がありますが、テレビで被災者の方の発言が紹介されていました。
収束宣言が出されても、自分の家には帰れない、仕事もできないという怒りの声が多かったですが、そのお一人の言葉が心に残りました。
「家に帰れれば、米も野菜もつくれて、お金などなくても暮らしていける」
お金などなくても暮らしていけることを私たちは忘れすぎています。
慰謝料や損害補償のお金などいくらもらおうと、お金がなくても生きていける状況はもう壊れてしまったのです。
いまや東北のみなさんも、私のような都会人と同じように、お金がなければいけていけない「惨めな」存在になってしまったと言えるかもしれません。
お米を食べる存在ではなく、お金を食べる存在になってしまったのです。
そこからの先は、想像するに難くありません。
不謹慎かもしれませんが、東北は地震や原発事故で壊れるのではなく、義捐金や保証金などのお金で壊れるのかもしれないと思いました。
昔、4万円もあれば豊かな暮らしができると東北のある人からお聞きしましたが、もはやそういう理想郷はなくなろうとしているのかもしれません。
復興という名の破壊は、これから始まるのかもしれません。
■検察の本性(2011年12月17日)
昨日行われた小沢裁判の公判の証人尋問での、前田元大阪地検特捜部検事の発言は驚くべきものです。
国の根幹に関わるものだと思いますが、マスコミの取り上げ方は必ずしも大きくありません。
彼らも小沢潰しに加担したからでしょうが、検察のあり方は、国家の形の根幹に関わっています。
それにしても、醜い話であり、恐ろしい話です。
いつ自分の身に降ってくるかもしれませんが、それゆえに、みんなひっそりと目を合わせないようにしているのかもしれません。
毎日新聞の記事によれば、「検察は検察審査会に、石川議員の取り調べを巡る弁護人からの抗議に関する書類を提供していない。審査員が見れば(石川議員の)調書の信用性は減殺される。私が思っているだけだが、隠された証拠だと思う」と証言し、石川議員の調書を根拠とした強制起訴の議決に疑問を呈した」と発言したそうです。
これが事実なら、当該の検察官は明らかに犯罪者です。
国家転覆罪とまではいいませんが、暴力機構を私物化した犯罪者であり、極刑に値すると私は思います。
司法の根幹が壊れているとしか思えませんが、しかし、それこそが「検察の本質」であり、「司法の本質」かもしれません。
橋下前大阪知事は、日本は国の形を変えないといけないと盛んに言っています。
どう変えていくかは大きな問題ですが、その主張には共感します。
橋下さんが抹殺されなければいいのですが。
すでに魔手は動いているでしょうが。
■細野原発担当相の発言に象徴されていること(2011年12月19日)
福島原発事故の収束宣言をめぐって、現場と政府の感覚の違いが取りざたされています。
それは仕方がないことでしょう。
私も宣言には大きな違和感がありますが、細野原発担当相の行動や発言には、誠実さを感じます。
一番いいのは「わかりやすいこと」です。
しかし時々、気になる発現があります。
たとえば、昨日の報道ステーションSUNDAY
での発言で気になったのはこんな言葉です。
テレビ取材のビデオに、現場作業員の人が思いを語っていましたが、それに対しNPOT細野さんは「もし今の人が本当の作業員なら」と話しました。
この言葉には象徴的です。
「現場作業員」を称した「にせもの」がマスコミを通して語っているという、細野さんの体験と思いが含意されているからです。
報道に対する不信感が感じられます。
その一方で、私も「現場の人とも名刺交換」したので、現場のことはよく知っていると話しました。
細野さんの誠実さと行動力には、私は何の疑いも持ちませんが、この言葉は実に象徴的です。
本当の現場で汗している人は、名刺など持っていません。
原発の現場に限りませんが、名刺を持っている人のほとんどは「現場」の人ではない、というのが私の長年の体験知です。
つまり、細野さんの「現場」と私の考えている「現場」は、明らかに違います。
社会一般での「現場」感覚は、たぶん私と同じでしょう。
この2つの言葉が示唆している事は極めて大きなことだろうと、私は思います。
■「平和の碑」の少女像(2011年12月20日)
旧日本軍の元従軍慰安婦の支援団体が、ソウルの日本大使館前に慰安婦問題を象徴する少女像を設置したというニュースが1週間ほど前に流れました。
この像は「平和の碑」と名付けられていますが、この建立に対しては、日本政府は「国際的な儀礼に反する」として、支援団体が建立を思いとどまるように韓国政府に働きかけてきていました。
それが実現したのです。
韓国にいる佐々木さんが、その写真を送ってきてくれました。
ホームページ(CWSコモンズ)のほうには記事と合わせて掲載しましたが、ここにも再録しておきます。
写真と一緒に佐々木さんはこう書いてきました。
今朝は零下10度。肌を刺し、身を切る寒さでした。
朝のミホの散歩に、曹渓寺への参拝と多分日本でも問題になっているだろう日本大使館前の平和の碑を見てきました。
少女の優しい表情です。大使館の道路を挟んだ歩道に建てられました。
寒いからでしょう、毛糸のひざ掛けやマフラーはカーデガンが着せ掛けてありました。
(中略)
この少女の像を見て、胸が痛むから除去してほしいというなら、まだ良心が残っているとも思えますが、そのようなことで要求しているとも思えません。
せめて寒いからとマフラーをかけるのが大使の外交官としての仕事で、食糧費を使って呑み喰い接待ばかりするのが仕事とは思えませんが。
佐々木さんが、またメールを送ってきました。
佐々木さんは、こう書いてきました。
少女像は、新聞を読まれ、どの程度の大きさで、どんな場所に建てられていると感じられますか。
ノーダ首相自らその撤去を要請したようですが、そのようなものではないように思いますが、いくつかの社説や記事を読みましたが、実際に見てもいないのに書いているように思えます。駐在員がいるのに、彼らも見に行ってもいないのかもしれません。
行っているとしたら、彼らが意見を述べる前に、想像だけで書いてしまうのでしょうか?
むろん記者クラブで、行政職員の発表だけを元に書いていた癖は治らないのでしょうが。
ノーダさんも、像を想像さえしないで行政職員の振り付け通りに行っているのではないかと思えます。
韓国でも、像など建てて刺激をしない方がいいという意見もあります。
でも我々自身が忘れないためにも、あった方がいいと、私は主張しています。
少し集中的に読んで、気落ちしてしまいました。
日本の新聞記事は佐々木さんを落胆させてしまったようです。
佐々木さんは、「せめて寒いからとマフラーをかけるのが大使の外交官としての仕事」ではないかとも書いてきました。
同感です。
人の哀しさや思いに耳を傾けない為政者には人々はついていかないでしょう。
■八ッ場ダム建設再開(2011年12月23日)
野田政権は八ッ場ダムの建設再開を決めました。
基本がどんどん崩れていく。
そんな感じです。
私は日常生活の99%にはあまりこだわりを持ちません。
かなり融通の利くほうだと自任しています。
状況によって価値基準は変わりますし、多様な意見があることもいいことです。
変化しなくなった社会は息苦しいでしょう。
しかし物事の基本は大事にしなければいけません。
その根幹に関わることはどんなことがあっても守らなければいけないというのが私の信条です。
守らなければいけないことは、私の場合、3つ程度しかありませんが、その一つが「嘘をつかない」です。
ですから、マニフェストを勝手に変えてしまう最近の民主党のやり方には怒りを感じます。
約束は守らなければいけません。
それこそが、私にとっての「嘘をつかないこと」です。
民主党には、それまで政権与党を体験してこなかった若い世代の政治家が多くて、そこに期待をしましたが、彼らは旧体質の政治家よりも嘘をつくように思います。
八ッ場ダムに関しては、政権交代直後の前原さんの言動は見事でしたが、それもまた日和見の馬淵さんなどによって壊されました。
そしてついに建設再開になってしまいました。
それにしても、最近、私がその政策において受け容れ難い人たちの言動のほうに、私は共感できることが多いです。
前原さんもそうですが、小沢さんもそうです。
石原都知事も橋下市長も、みんなその価値観は私とほぼ正反対ですが、嘘をつかないところに好感が持てます。
小沢さんが嘘をつかないのかと怒られそうですが、私には小沢さんも嘘つきには見えません。
嘘をついているのはマスコミと検察です。
先日、ある会で、ある人からこんなに次々と首相が変わっていいと思うのかと質問されました。
私は逆にその人に、「なぜいけないのか」と質問しました。
そのひとはいつも、「なぜか」を問うことが大切だと言っている人だからです。
その人は答えられませんでした。
私は首相が毎年変わるのは良いことだとは思いませんが、悪いことだとも思いません。
要するに、日本の首相はそういう存在になったのです。
いいかえれば首相など、どじょうでもやれるのです。
にもかかわらず、みんな首相に期待します。
その期待を止めて、みずからがしっかりと生きることからやり直さないといけないと私は思っています。
そして、新しい政治の仕組みを作り出す必要がります。
橋下さんや河村さんが、それを始めるのであれば、ぜひとも応援したいと思います。
八ッ場ダム建設再開は、実に象徴的な決断です。
来春に新たに生まれるであろう新政権は、どうするでしょうか。
さすがにもう辞められないとしたら、国土はますます壊れていくような気がします。
国を滅ぼすのは、まさに政治家なのだと思いました。
創るのも政治家ですが。
■自らを律することから出発したい(2011年12月23日)
東京電力が電気料金の値上げに向かっています。
私自身は現在の電気料金は安いと思っていますから、値上げには賛成です。
しかし、ある人から、値上げもいいがその前に東電が従業員にボーナスを出すことには納得できないといわれました。
会社の利益がなければ中小企業ではボーナスなどは出せないよ、と言うのです。
全くその通りです。
電気料金を値上げするのであれば、まずはボーナスをゼロにし、かつ給料もそれ相当のカットはすべきだと私も思います。
少なくとも役員報酬はゼロにすべきです。
資金提供してもいいくらいでしょう。
私は自分の会社が赤字で経営を持続できなくなりそうだった時には、個人のお金を会社に提供しました。
まあ個人企業ですから当然といえば当然ですが。
会社の経営が立ち行かないから料金を上げると言っていますが、立ち行かなくした自らの責任を棚上げしていて、負担を顧客に押し付けるのは、私の常識では理解できません。
東電の従業員には責任はないという人もいますが、責任はないかもしれませんが、これは責任の問題ではありません。
まずは自らを律してから他者に負担を提案すべきです。
それをきちんとした上であれば、電気料金を現在の倍にしても私は賛成します。
政府の最近の消費税増税も、同じことです。
自らの無駄を削減せずに、消費税増税を主張するのは、これも本末転倒です。
自分だけは負担せずに、他者に負担を押し付ける人があまりにも多すぎますが、それを後押しする「専門家」なる種族が私には理解できません。
無駄のない行政で、しかし消費税増税をしなければならない理由が納得できれば、20%にしてもらっても、私は賛成です。
これはほんの一例ですが、ともかく自分に甘く他者に厳しい風潮が広がっているのが残念です。
他者に負担を強いる時には、まずは自らを律しなければいけません。
それができないのであれば、責任ある立場には留まるべきではありません。
それが私の生き方です。
■働くということの多義性(2011年12月24日)
高齢社会の中では、高齢者にも働いてもらわないと年金制度も維持できないという発想から、高齢者にどう働いてもらうかが、議論されだしています。
その発想に私は違和感がありますが、それはそれとして、先日、シニアの活性化をテーマにしたある研究会で、いろんな人の報告を聞いていて、思ったことです。
働きたいと思っている個人がいる。
働かせたいと思っている会社がある。
そして高齢者も働く社会にしないといけないという社会がある。
この3つがあるわけですが、実はそのそれぞれが考えている「働き」の意味や目的が違っているのです。
まず働きたいと思っている個人。
その目的は金銭的報酬でしょうか、生きがいでしょうか。
もちろん人によって違いはあると思いますが、後者の意味のほうが大きいように思います。
簡単に言えば、「稼ぐ仕事」ではなく「社会とのつながりを実感できる傍(はた)を楽(らく)にする仕事」です。
そのことを示唆しているのが、現在の東北被災地での状況のように思います。
そこで大切なのは、仕事の内容であって、対価ではありません。
働かせたい会社はどうでしょうか。
技能継承という面もあるでしょうが、コスト的には若い労働力が有利でしょうし、高齢者の労働は安全面でも問題が増えてきます。
従業員の福利厚生面的な意味もあります。
定年が長くなれば安心してモティベーションも高まります。
しかしその一方で、安直なリストラや非正規従業員比率を増やしている実態がありますから、基本的にはかつての日本的経営のような安心感や一体感は生まないでしょう。
それに次世代を担う若者たちが、きちんとした働きの場を体験していかないと、これまで蓄積されてきた「労働文化」が維持できなくなるでしょう。
それは日本の企業にとっても産業にとっても致命的なダメッジを与えかねません。
従業員のモティベーションのためであれば、その働かせ方はそれまでの働かせ方とは変える必要がありますし、その変え様似によっては新しい企業の発展が生まれるかもしれません。
社会はどうでしょうか。
そもそも高齢者を若者が支えるなどという発想がおかしいと思います。
相互に支えあっているのが社会です。
にもかかわらず、そう考えるのは、社会はすべてお金で成り立っていると考えるからです。
お金を稼ぐ壮年層を中心にした社会観を変える必要があります。
お金がなければ生きていけない社会になったのは、ほんのこの50年くらいでしょう。
消費市場から自由になれば、お金などなくてもいくらでも生きていける仕組みはつくることができます。
そのことも、今回の東北大震災の被災者の言葉に示唆されているように思います。
これまでも何回も書いてきていますが、働くこと、つまり仕事と、稼ぐこと、つまりお金とを切り離して考える必要を感じます。
■働くということの多義性(2011年12月24日)
高齢社会の中では、高齢者にも働いてもらわないと年金制度も維持できないという発想から、高齢者にどう働いてもらうかが、議論されだしています。
その発想に私は違和感がありますが、それはそれとして、先日、シニアの活性化をテーマにしたある研究会で、いろんな人の報告を聞いていて、思ったことです。
働きたいと思っている個人がいる。
働かせたいと思っている会社がある。
そして高齢者も働く社会にしないといけないという社会がある。
この3つがあるわけですが、実はそのそれぞれが考えている「働き」の意味や目的が違っているのです。
まず働きたいと思っている個人。
その目的は金銭的報酬でしょうか、生きがいでしょうか。
もちろん人によって違いはあると思いますが、後者の意味のほうが大きいように思います。
簡単に言えば、「稼ぐ仕事」ではなく「社会とのつながりを実感できる傍(はた)を楽(らく)にする仕事」です。
そのことを示唆しているのが、現在の東北被災地での状況のように思います。
そこで大切なのは、仕事の内容であって、対価ではありません。
働かせたい会社はどうでしょうか。
技能継承という面もあるでしょうが、コスト的には若い労働力が有利でしょうし、高齢者の労働は安全面でも問題が増えてきます。
従業員の福利厚生面的な意味もあります。
定年が長くなれば安心してモティベーションも高まります。
しかしその一方で、安直なリストラや非正規従業員比率を増やしている実態がありますから、基本的にはかつての日本的経営のような安心感や一体感は生まないでしょう。
それに次世代を担う若者たちが、きちんとした働きの場を体験していかないと、これまで蓄積されてきた「労働文化」が維持できなくなるでしょう。
それは日本の企業にとっても産業にとっても致命的なダメッジを与えかねません。
従業員のモティベーションのためであれば、その働かせ方はそれまでの働かせ方とは変える必要がありますし、その変え様似によっては新しい企業の発展が生まれるかもしれません。
社会はどうでしょうか。
そもそも高齢者を若者が支えるなどという発想がおかしいと思います。
相互に支えあっているのが社会です。
にもかかわらず、そう考えるのは、社会はすべてお金で成り立っていると考えるからです。
お金を稼ぐ壮年層を中心にした社会観を変える必要があります。
お金がなければ生きていけない社会になったのは、ほんのこの50年くらいでしょう。
消費市場から自由になれば、お金などなくてもいくらでも生きていける仕組みはつくることができます。
そのことも、今回の東北大震災の被災者の言葉に示唆されているように思います。
これまでも何回も書いてきていますが、働くこと、つまり仕事と、稼ぐこと、つまりお金とを切り離して考える必要を感じます。
■健全な老化は健康の証拠(2011年12月27日)
フェイスブックに次のようなことを書きました。
昨夜は小学校時代の悪がきたちと忘年会でしたが、相変わらずまた病気の話になりそうでした。そこで、最近私が気にいっている「健全な老化」論を持ち出しました。それに従えば、高齢者に伴う心身の問題は、ほとんどが「健全な老化」現象で、つまりは「病気」ではなく「健康の証拠」なのです。その言葉のおかげで、病気論を健康論に変える事ができました。これからどんな「健全な老化」が展開されるか楽しみです。
この書き込みにいろんな反応がありました。
なんと半日のうちに、30人近い人が「いいね」マークを押し、コメントも10件を超えました。
それで気をよくして、このブログにも書くことにしました。
最近、あまり「ブログねた」がないものですから。
イリイチは脱病院化社会を書き、現代の病気の本質を暴きだしましたが、「病原病」のウィルスはますます猛威をふるっています。
いまやほとんどの人は、病院に行きさえすれば、何らかの「病気」と診断されるでしょう。
様々な機関や人が、健康の定義をしていますが、「健康」ほど恣意的なものはありません。
家畜の健康ならいざ知らず、主体的に生きている人間の健康などというのは、本来、定義されるべきものでも、定義できるものでもありません。
健康を定義しようと、もし本気で考えている人がいたら、人間と言うものが全くわかっていない、異常なほどに不健全な病人でしょう。
健康の定義は、見事なほどに「産業」や「経済」とつながっています。
メタボ検診などという、余計なお世話が横行していますが、基準をちょっと変えるだけで、健康と非健康の差は変えられます。
そんなものに一喜一憂する、家畜のような存在にはなりたくありません。
加齢と共に、心身の機能的な衰えが起こるのは当然です。
それこそが、人間の価値です。
その速度や変化の仕方は、人によって違います。
標準などはあろうはずもないのです.
加齢による老化は、まさに健全な現象なのです。
と考えれば、健全な老化とは「健康の証拠」とさえいえるわけです。
そう考えれば、病気観は一変します。
老化だけではありません。
もし生命現象の多様性を素直に受け容れれば、風邪さえもが健康の証拠とも受け止められるのです。
人生観も変わってきます。
私は今、認知症予防の問題にささやかに関わっていますが、仲間たちにはいつもこう話しています。
「認知症は予防ではなく、健全な老化の一種ではないか」と。
認知症だって恐れることなどないのです。
問題は、認知症にしろ風邪にしろ、ちょっと心身に機能障害が発生すると、みんなが病気だと思うことです。
ほんとうに住みにくい社会になったものです。
■耳のないどじょう(2011年12月28日)
日本の危機管理関係の人事が話題になっていますが、それに関して、金正日の急死を予想される北朝鮮の放送があった後、野田首相も街頭演説をしていたという話をテレビで知りました。
今もって街頭演説などしているのでしょうか。
私の聞き違いかもしれませんが、首相になったのですから、もう売名行為でしかない街頭演説はやめてほしいものです。
野田さんが首相になった時に、毎日、近くの駅で演説をしていたことが好意的に報道されていましたが、私には呆れた話でした。
街頭演説で民意がわかるという人もいますが、わかるはずはありません。
民意を開きたいならもっとしっかりと聴く場や仕組みをつくるべきです。
それに政治家に成り立てであればともかく、少なくとも政治家を4年以上やったのであれば、話すよりも聴く姿勢に変えるべきではないかと思います。
もっとも駅立ちなどの街頭演説は「話す」にもあたらず、単に売名行為です。
そもそも見る人はいても、きちんと聴く人などいないのです。
通りがけに耳に入ったとしても、意味ある話しが伝わるわけではありません。
私は駅立ちで演説する政治家には、そんな暇があったら少しは勉強しろといいたいです。
自治体の選挙に少しだけ関わった経験からも、確信を持って、そういえます。
そもそも「危機管理」や「問題解決」は、事実や実態に素直に直面し、当事者や関係者の思いに素直に耳を傾けることからはじまります。
それがおろそかになっていることが、今回のことで露呈されたわけです。
どじょうには耳がないから、仕方がないといっている人もいるようですが、野田さんはそうしたことを含意して、自らをどじょうと称したのかもしれません。
真実はそういうところに出るものです。
どじょう鍋にして、どなたか食べてもらいたいと思っていますが、なぜか日本の政治は動きがないです。
マスコミも、いろんなことをはやし立てますが、みんな腰砕けです。
わけのわからないままに、政治が動いている、そんな感じがしてなりません。
政治とどう付き合えばいいのか、最近はどうもわからなくなっています。
付き合い方がわからないと、時評も書けません。
困ったものです。
■民主党から離党者が出てホッとしています(2011年12月28日)
やっと民主党から9人の離党者が出ました。
これだけマニフェストが無視されたら、心ある民主党員はみんな離党すべきだと思いますし、そういう動きがあれば、政府も変わらざるを得ないはずです。
前々回の選挙で私は民主党に投票しましたが、正確には「民主党」ではなく、「民主党のマニフェスト」に投票したのです。
ですから今の民主党は、私が投票した民主党ではありません。
まあ民主党を名乗る偽者でしかありません。
ですから心ある民主党員はなぜ離党しないのか、不思議でなりませんでした。
みんな本気でマニフェストを語っていたわけではないのでしょうか。
そう思っていましたから、9人の離党者が出たのでホッとしました。
しかし離党者に対するテレビの扱いはかなり意地悪なものです。
私が知ったのは今日のお昼のテレビの「ひるおび」でしたが、そこに出演していた中後淳議員への司会者やコメンテーター的な人たちの姿勢はかなり冷ややかでした。
与党を離党して、あなたたちに何ができるのですか、無責任でないですか、と言わんばかりです(そう言っていた人もいました)。
組織に隷属している人たちばかりだから仕方ないのでしょうが、もう少しあったかい目線で、その主張に謙虚に耳を傾け、なぜ離党せざるを得なかったのかをわかりやすく可視化してほしかったです。
特に司会者の態度は不快でした。
政治評論家の田崎さんは、マニフェスト政治は終わったと言っていましたが、では何が始まるのかが問題です。
代議制民主主義の場合、選び方は2つあります。
人を選ぶか、公約(マニフェスト)を選ぶか、です。
昨今の選挙制度は明らかに、人ではなく公約を選ぶ仕組みになっています。
二大政党制というのはそういうことです。
その公約が裏切られるのであれば、それは普通の世界では「詐欺」といえます。
にもかかわらず野田首相は詐欺師とは言われません。
その理由が私にはわかりません。
前にも書きましたが、私の数少ない信条のひとつは「嘘をつかない」です。
嘘も方便の嘘はともかく、マニフェストを変えるのであれば、やはり民意を問うべきでしょう。
そう思います。
私の感覚では、離党したほうにこそ、民主党の名前を冠したいものです。
■今年はいろいろありすぎました(2011年12月31日)
今年はいろんなことが見えてきた年でした。
見たくはなかったことが少なくありませんが。
しかし、人は、見たくないものは見ようとしません。
いや見たくない人には見えないのかもしれません。
私が見ている世界と、多くの人が見ている世界は、明らかに違います。
私の不幸は、見たくなかったものまで見てしまうことです。
ことさら見えてくるわけではありませんが、私の場合、常識の呪縛が少ないのです。
自分には常識がないと思うことは少なくありませんが、その反面、常識がさえぎっていたものが垣間見えてしまうこともあるのです。
それが時には未来だったりすることもあるのです。
私が昔書いた小論は、たぶん今でならもう少し理解者が多かったはずです。
私の時間感覚は、いささかずれているのかもしれません。
このブログを書き出した頃は、まだ予感が予感のままでした。
しかし今は多くの予感が現実になってきたような気がします。
現実になってしまえば、時評などは繰言でしかありません。
最近のこのブログは、繰言でしかなくなっているような気がします。
繰言に付き合ってくださった皆様にはお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
しかしこれから世界はどうなっていくのでしょうか。
流れは、反転するのか、加速するのか。
10年前なら、自分の考えに確信が持てましたが、最近は迷うばかりです。
言い換えれば、以前のようには、先が見えなくなってしまってきたのです。
常識に呪縛されたのか、知識によって無能化されたのか、気が萎えたのか。
確信を持てるのは、きれいな言葉の流行とは裏腹な現実が、世界を覆いだすだろうということです。
私にとっては、ますます生きにくい時代がやってくるような気がします。
その生きにくさをやわらげるために、来年も繰言にしかならない時評を続けるつもりです。
ますます退屈な記事になりそうですが、気が向いたらお読みください。
そして気が向いたら、湯島に話に来てください。
私は、本当は書くよりも話すことが好きなのです。
それに湯島には、時に美味しいコーヒーがありますし。
みなさまにとって、新しい年が、悪い年ではありませんように。
■想定外の大変化の予兆(2012年1月2日)
年末から年始にかけて、いろんな人にお会いしました。
そこで異口同音に話題になるのは、いまの社会はおかしいという話です。
政治も経済もおかしいとみんないいます。
報道もおかしいといいます。
でも何も起こらない。
よく聞いていると、みんな他人事で語っているのです。
おかしいけれど、自らは動き出そうとはしないのです。
例えは悪いですが、まるで日本全体がアウシュビッツになったような気がします。
そのおぞましさに気がついたためか、どうも新年早々気が萎えてしまいました。
テレビ番組も、例年以上にひどい番組ばかりです。
アウシュビッツの娯楽番組のように思えて仕方がありません。
新聞も中身がほとんどありません。
私の気のせいかもしれませんが、今年は極端に中身のない番組や記事ばかりです。
その一方で、初売りで1億円の福袋が出ているのだそうです。
福袋を奪い合っている姿がテレビでも報道されていましたが、完全に家畜のようなおぞましさを感じます。
気分はますます萎えてきます。
多くの人たちの不満は、しかし積み重なっているような気もします。
過冷却状態というのがあります、
零度以下になっても凍らない水です。
しかし、ある刺激を与えると瞬時に凍ってしまうのだそうです。
もしかしたら日本の社会はいま、過冷却状態にあるのかもしれません。
うまく説明できませんが、昨年までとは違った年明けを感じます。
何かが違っているのです。
非連続な何かが、見えないところで起こっているようにしか思えません。
何かのきっかけで、大きな津波のようなものが、社会を変えてしまうのかもしれません。
大きな混乱が生ずるでしょうが、むしろそうあってほしいと思います。
そうでない限り、経済や社会のパラダイムは変わりようもありません。
大津波、原発事故、それらはその予兆でしょうか。
いやそれらは予兆というよりも、前兆ではないかという気がします。
年初なので、ビジョンめいたもの、あるいは、少なくとも明るいことを書きたかくて、2日間考えたのですが、思いつきません。
今年は気が萎えたままの出発です。
35年前に書いた「21世紀は真心の時代」は、全くはずれてしまいました。
読み直す気にもなれません。
■「もはや政府が社会を代表するものとはいえなくなってしまった」(2012年1月4日)
タイトルの言葉は、今朝の朝日新聞に掲載されているアントニオ・ネグリの言葉です。
ネグリはイタリア生まれの政治哲学者で、「マルチチュード」の著者です。
「マルチチュード」は、実に示唆に富む本です。
日本では最近、毎年のように首相が変わります。
それを嘆く人が多いですが、前にも書きましたが、嘆くのではなく「なぜそうなるのか」を考えればなんでもない話です。
つまり首相とはそういう「地位」になったのです。
誰であろうと大した問題ではありません。
私自身は政権交代で、そうした状況を変えられると思っていましたが、やはりそうではありませんでした。
ネグリのメッセージは、思いのほか、現実的だったのです。
私にはビジョンに見えていたのですが、そうではなかったのです。
それが昨年、かなり実証されたように思います。
日本で、ではなく、中東や欧米で、です。
もしお手元に今日の朝日新聞があれば、ぜひネグリの対談記事をお読みください。
野田首相は「大義があれば必ずわかってもらえる」と語っています。
私もそう思います。
しかし、問題は「大義」とは何かです。
政府の大義と国民の大義とは違います。
さらにいえば、国民の大義と人々の大義とも違います。
私自身は「日本力」などという言葉を見ると虫唾が走ります。
まるで大東亜戦争前夜のようだからです。
「大義」を持ち出す人は信頼できません。
私は大義などという大げさなものよりも、目の前にいる困った人たちへの心遣いを大切にしたいです。
それでは国家は維持できないといわれるかもしれませんが、従業員をリストラ解雇して企業を維持するのと同じように、立脚点を変えれば国家の維持の意味は一変します。
多くの人が、これ以上、国家財政が赤字になれば国家が破綻するといいますが、破綻して何が悪いかがわかりません。
ネグリも話しているように、国家の破綻は、人々の民主的な権利が縮小され、生活は悪化するかもしれません。
しかし、それが避けられないのであれば、甘んじて受け容れたいものです。
少なくとも、よくわからない「大義」のためにではなく、困窮している隣人のために、私は苦労を受け容れたいと思います。
政府や行政に、過大な期待をするのはもうやめたいものです。
消費税をあげるということは、そこへの期待を高め、依存を強めるということではないかと思います。
増税はやむをえないとしても、大義のためなどとは言ってほしくありません。
■2つの経済システム(2012年1月7日)
今年の景気に関する企業関係者の見通しはかなり楽観的です。
生活者に対するアンケート調査結果と財界関係者のそれとは大きく乖離しているようです。
それもまた当然のことだろうと思います。
両者の経済観が大きくずれてしまってきているからです。
改めていま、カール・ポランニーの「経済の文明史」を読み直しているのですが、この本の書き出しは「現代以前には、原則として、経済システムは、社会システムの中に吸収されていた」という文章です。
私のとても好きなメッセージなのですが、ポランニーが言うように、そもそも「経済的秩序は、常態としては、それを包み込む社会秩序の一機能である」にすぎなかったのです。
それがいつの間にか、経済が社会を律するようになってしまい、擬制であったはずの労働や土地さえもが実体としての商品になってしまっているのが現代です。
社会システムのサブシステムではない経済システムが主流になってしまったわけです。
サブシステンス経済とは全く違う、マネタリー経済、あるいはカジノ経済です。
サブシステンス経済に関しては、何回か書いていますので、ご参照ください。
つまり私たち生活者が生きている経済の世界といわゆる「経済人」や「政府」が捉えている経済は、全く別のものなのです。
GDPがいくら上向こうが、それは生活とは無縁です。
しかし、みんななぜか両者を混同してしまっています。
経済が成長し発展すれば生活が良くなると思い込んでいるわけです。
しかし、そこに必然的なつながりはないでしょう。
学校で習う経済も、すべては「閉鎖空間」でのマネタリー経済です。
働くということは雇用されて、マネタリー経済に寄与することだということを習得させるために、義務教育としての学校は生まれたのですから、それは仕方がないことかもしれません。
しかし、もし家庭というサブシステンス経済の場がきちんと機能していれば、そうはならなかったはずです。
新しい経済パラダイムへの動きは少しずつ強まっていますが、パラダイム転換にはかなりの時間がかかるでしょう。
したがって私たちは、マネタリー経済社会の中で、しっかりと生きていく自分の経済観や生活スタイルを持たなければいけません。
マスメディアが報道する経済動向に振り回されることは避けたいものです。
4日のこのブログで、ネグリの言葉を引用して、政府の意味もまた変わりつつあることを書きました。
日本の首相は、要するに自治会会長のような存在になりましたから、毎年人が代わるのは健全なのかもしれません。
その発想で考えると、実は財政や行政の意味が全く変わっていくだろうことが想定されます。
そこでもまた、生活者から考える政治と統治者の政治とは全く別のものなのです。
生活者の経済や政治の動きも、広がっています。
今年は、そうしたところにできるだけ関心を向けながら、自分の生活スタイルをもう一度見直していくつもりです。
■新年のサロンのご案内(2012年1月9日)
いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。
今日はちょっと番外編の記事です。
私のオフィスは東京の湯島天神の近くにあります。
オフィスというよりも、いろんな人のたまり場といっていいかもしれません。
いろんな人がやってきますし、いろんな集まりもやっています。
最近は毎週のように、気楽な集まりであるサロンをやっています。
テーマも対象もさまざまですが、共通しているのは、いずれも開かれた集まりだということです。
つまり誰でも歓迎です。
私が主催者でないものもいくつかあります。
私は、こうした「誰でもが気楽に立ち寄れて、話のできる場」がいろんなところにあれば、みんな平和に暮らせるだろうなと思っています。
ところで、そうしたさまざまな集まりを超えた新年会的なサロンを開催したくなりました。
そして、このブログの読者にも、もし気が向いたら遊びに来てもらおうと思い出しました。
このブログの1日喫茶店の開店だと思ってください。
珈琲は500円です。
私が機械で淹れますので、味の保証はありませんが、気楽な場になることだけは保証します。
近くに湯島天神がありますので、珈琲を飲んだ後はお参りもできます。
狭い部屋ですので、あまりたくさん来るとパンクしますが、出入り自由ですので、まあ大丈夫でしょう。
もちろんお会いしたことのない人も大歓迎です。
開店時間は次の通りです。
○日時:2012年1月15日(日曜日)午後1〜6時
○場所:湯島のコンセプトワークショップのオフィス
文京区湯島3−20−9−603
電話:03−6803−2575
地図:http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○珈琲代:500円
サロンですので、特にテーマを持った話し合いなどはなく、珈琲を飲み会うだけです。居合わせた人のどなたかがきっと話題を出してくれると思いますが、気が向いたらそれに付き合ってください。
私は最初から最後までいます。
お会いできればうれしいです。
■小賢しさへの気づき(2012年1月10)
わが家の農園がずっと放置されていました。
ねぎやトマトなどいろいろと植えていたのですが、放射線汚染もあって、手入れに行かなくなってしまっていました。
ねぎやトマトなどは大きく育っていましたが、それ以上に雑草が茂ってしまいました。
ちゃんとした農園ではなく、空いている宅地で数年前から家庭菜園をしているのです。
宅地になる前は竹やぶだったようで、ちょっと油断していると笹が生い茂るのです。
もうやめようかと思うこともありますが、ここには亡き妻の思いがこもっていることもあり、続けています。
今日、思い立って、娘たちに声をかけて、雑草刈りをしました。
何しろ道具がないので大変でした。
農作業もそうですが、雑草刈りも、普段やっていない者にとってはかなりの重労働です。
私は2回ほど、立ちくらみで倒れそうになりました。
しかし、4人でやったおかげで、半分くらいは土が見えてきました。
それほど雑草が覆い茂っていたわけです。
ねぎは大きくなっていましたが、我孫子は残念ながら放射線汚染のホットスポットなのです。
先日、一応、放射線量の測定はしてもらい、まあ大丈夫とは言われているのですが、食べる気にはなりません。
この農園は、女房が、安全な野菜は自分たちでできるだけつくるのがいいとはじめたのです。
50坪もあるので大変なのですが、道路沿いの半分は道を散歩する人のためにと花壇にしていたので、野菜はそのうちの半分くらいです。
それでもわが家だけでは食べきれないほどの野菜ができて、時にはお隣さんなどへお裾分けができるほどです。
自然の恵みは本当にすごいです。
ところが放射線汚染で、家庭農園の野菜はいまや逆に安全ではなくなってしまったのです。
なんと皮肉なことか、と思いますが、そもそも自分たちだけ安全な野菜を食べようなどと思ったのが間違いだったことに気づきました。
そのことをフェイスブックに書いたら、同じように思っていた人がいることを知りました。
今の時代、自分(たち)だけ良い思いをしようなどというのは、できない話なのです。
ある意味では、平等の時代が来たと言うべきでしょうか。
やはり世界で起こっていることは、みんなで背負わなければいけません。
「自分だけはいいめをしたい」と思う人が少なくなれば、世界の資源も食糧もエネルギーも、決して不足はしていないのでしょうね。
それに気づいて、自分の勝手な思いを再考することにしました。
私にとって、これは実は大問題なのです。
さてさて困ったものです。
■「悪意」や「憎悪」を振りまくマスコミ(2012年1月11日)
最近のマスコミの報道にいささかの違和感があります。
なんだか「憎悪」が満ちているような気がするのです。
たとえばサリン事件の平田容疑者や斎藤容疑者の出頭の受け止め方です。
時期が時期だけに「深い意図」があるのではないか、嘘をついているのではないか、死刑執行を遅らせるためではないか、17年も捕まらなかったのは組織的支援があるのではないか、などなど、悪意が満ち満ちた報道が多いです。
それに平田容疑者の写真も、凶悪犯人をイメージさせるものばかりです。
たしかにいろんな人が疑問を持つのはわかりますが、それにしてもあまりに「悪意」があふれていて、気持ちが悪いです。
私がテレビで見た限りでは、国会議員の有田さんだけが客観的に話していました。
しかし、そのテレビ番組では有田さんの視点で話し合う場面はありませんでした。
他の人は、発言そのものに憎悪の念があふれていたような気がして、私には不快でした。
まさに西部開拓史時代のリンチを思わせます。
嫌な時代だと思いました。
そうした憎悪と悪意に満ちていた社会であればこそ、純粋な若者たちのなかにはオウムに走った人もいるのではないかと思います。
その繰り返しではないか。
こんな社会では、またオウムのような事件が起きてもおかしくないような気さえしました。
平田さんや斎藤さんをかばうつもりはありませんが、いまの多くの人を見ると、彼ら以上に醜い気がします。
思い込みを捨てて、まずは彼らの話を聞きたいものです。
それに、17年間逮捕されなかったのは、逮捕する気がなかったからです。
それが今回ははっきりと証明されたはずです。
それこそをもっと報道はしっかりと追求すべきでしょう。
同じことは小沢裁判の報道にも見られます。
報道の基本に悪意を感じてしまうのです。
ここにきて少しトーンが変わりだしましたが、基本的には悪意を持った報道が多いです。
4億円の出所の説明が変わってきていると盛んに言われていますが、私には大した違いは感じられません。
今日の朝日新聞によれば、「小沢氏は億単位の資金を現金で保管していたことについて、「私どもの感覚から離れていなし」などと答えたそうです。
見出しに「私どもの感覚」とありますが、小沢さんの感覚と多くの人の感覚が違うのかもしれませんが、私にはむしろ小沢さんの感覚のほうがわかりやすいです。
少なくとも、そういう感覚があっても非難すべきではありません。
4億円のお金は現金で保管してはいけないという法律があるのでしょうか。
収支報告書を見ないにもおかしいという指摘も、私には理解できません。
そんなことを一々見るようであれば、そもそも会計責任者などおく必要もないでしょう。
実際には見たとしても、内容を細かく吟味することなどできるはずもないと私は思います。
みんな自分の感覚で、人を裁くのです。
自分が絶対正しいと考え、そこから逸脱している人には憎悪を向けるのでしょうか。
恐ろしい時代です。
まさにコンフォーミティの時代。中世の魔女狩りとどこが違うのか。
平田さん、斎藤さん、小沢さん。
みんな自分の友達だと思って、善意にその言動を解釈するとどうでしょうか。
そうしたらマスコミ報道とは違った人間像や言動判断ができるように思います。
どちらが正しいかは、私にはわかりませんが、事実がもう少しよく見えるような気がします。
そして、悪意ではなく善意で物事を受け止める人が増えてくれば、きっともっと住みやすい社会になっていくでしょう。
少なくとも、悪意で生きるよりも善意で生きるほうが、人生は楽しいです。
それにしても「悪意」や「憎悪」を振りまくマスコミは好きになれません。
よほど悪い人たちの集団で、みじめな生き方をしているのでしょうね。
■道義的責任(2012年1月12日)
テレビを見ていたら、小沢さんに関して、また「道義的責任」が語られていました。
道義的責任って何なのだろうかとネットで調べてみました。
そうしたら、同じテレビを見ていた人たちの声が最初に出てきました。
その一つが、あまりに私の思ったことと同じだったので、引用させてもらいます。
無罪になっても北野大が道義的責任って言った(笑)本当にテレビしか見てないんだなこの人。興味がないから何も知らないんだろう。その点隣で室井さんがあれ程犯罪者扱いしてきたマスコミがどうするのか見てみたいとズバズバっと… スタジオはシーンと無視してた。
道義を知らない人ほど、他者の「道義的責任」を問うのでしょう。
私は、マスコミの道義的責任を問うつもりはありませんが、マスコミを使って発言している人の「道義」を問いたいです。
■新年会サロンの報告(2012年1月16日)
昨日はこのブログでもご案内した新年サロンでした。
参加申込者は30人近くだったのですが、1日喫茶店構想でしたので、混んできたら自発的に退出するというオープンサロンや喫茶店のルールを想定していたので、まあ大丈夫だろうと思っていましたが、申し込みのなかった人も参加があり、いささか混乱してしまいました。
入り口で余りの込み具合に入り口で諦めて帰った人まで出る始末でした。
また折角来てくださったのに、混んできたのであまり発言もしないまま、気を配って退席された方も何人かいて、申し訳ないことをしました。
本当はいろいろと話したい話題を持ってきてくださったと思いますので、
別途またそうした人の場をつくりたいと思っています。
最初に来てくださったのは某社の社長でした。
とても誠実な方ですが、いろいろとあって、バブル終了時には300億円の借金をつくってしまったのだそうです。
ようやく落ち着き、良い方向に動き出したようです。
それで今回の新年会サロンを契機に私のところに来てくださったのです。
実は10年以上前に、私もコーディネーターをしている経営道フォーラムに参加してくださった方なのです。
ようやく佐藤さんの言っていたことが現実になってきましたねと言ってくれました。
私自身は、ちょっと似て非なる方向に向いているような気がして、喜べないのですが。
次に来たのが新潟からの佐藤裕さんです。
この方も実にドラマティックな人生を送られています。
と言うわけで、次々とこられ、元山口組のヤクザや大学教授と学生たちといった面白いシーンもありました、
挽歌の読者の方も来てくださいました。
しかしかなり混乱でした。
多くの人が差し入れまで持ってきてくれた、終わった後、飲物などがありました。
お礼も申し上げませんでしたが、いろいろとお持ちくださった方、ありがとうございました。
しかし一時は25人以上が在室することもあり、イスがなくて、私はしばらく立っていたほどです。
しかし今回はいささか疲れました。
新年会サロンはきちんと設計しておかないといけませんが、それが私には苦手です。
まあたぶん来年になると、今回のことを忘れて、また新年会サロンをやろうなどと思いつく可能性が強いですが、しばらくはテーマサロンに集中することにします。
昨日のサロンからも、2つほどの集まりが生まれそうですので。
ところで、玄関に女性ものの手袋が残っていました。
どなたかの忘れ物です。
お心当たりの方がいたら、ご連絡ください。
今日もまた、夜、集まりです。
仕事する暇がありません。困ったものです。
■「信条に忠実であるほど心理的に追い込まれている者」(2012年1月17日)
君が代訴訟の最高裁判決が出ました。
処分への歯止めとなる内容と言われますが、私には違和感の残る判決です。
大阪市の橋下市長が、これによって少し動きを変えたのは歓迎できますが。
新聞で報道された判決要旨では、桜井裁判官の補足意見に共感できるものがあります。
次のような意見には「人間」を感じます。
不起立行為は、行為者の歴史観に起因してやむを得ず行うもので、式の妨害が目的ではない。保護者の一部に違和感、不快感を持つ者がいても、教育活動、株序維持に大きく影響している事実は認められない。
処分対象者は、自らの歴史観との葛藤を経て、信条と尊厳を守るためにやむを得ず不起立を繰り返すことを選択した。信条に忠実であるほど心理的に追い込まれている者がいることが推測できる。
私は、日の丸も君が代も受け容れています。
国歌斉唱には声を出して歌いますし、日の丸も嫌いではありません。
しかし、もし強制的に歌えといわれ、国家を祝祭日に掲げよといわれたら、たぶん従わないでしょう。
しかし、学校の行事で、教師がどうして君が代が歌えないのか、国旗の前で立ち上がれないのかという思いもないわけではありませんでした。
矛盾があったわけです。
私が、桜井さんの意見にある「行為者の歴史観」が、抽象的な理屈ではないことを知ったのは恥ずかしいことながら8年ほど前です。
ある方の文章を読んで、それを知りました。
それについては、ホームページ(CWSコモンズ)に書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132
歴史観は、理屈ではなく、体験知なのだと気づきました。
それを否定することは、その人の人生をないがしろにすることなのです。
それがわからない人には、教育などできようはずがない、と気づいたのです。
「信条に忠実であるほど心理的に追い込まれている者」という表現にも共感できます。
そこに感ずるのは、誠実な人柄です。
もし私が親であれば、そうした教師に子どもを預けたいです。
しかし最近の多くの親はどうもそうではないようです。
それが不思議でなりません。
信条は、人さまざまでしょう。
しかし信条をしっかり持った人は、自らとは異なる信条を持った他者を理解できるはずです。
信条と無縁な小賢しい者どもが、信条を持つ者を抹殺しようとする動きには抗いたいものです。
■自分ってなんだろうか(2012年1月17日)
人の顔の写真を裏表にするとかなり印象が変わるそうです。
自分で確かめればいいのですが、実はあんまり変わらないのです。
たとえばモナリザの絵を左右逆にしてみると、モナリザの表情が変わるというのですが、私にはあんまり違いがわかりません。
皆さんはどうでしょうか。
しかしまあ、左右反転させると違うものになるという前提で、話を進めます。
鏡に映る自分は、自分から見ると左右が反転しています。
ですから自分で見る自分と他者が見る自分とは同じではないのです。
鏡に映っている自分を、別の鏡に映してみた顔が、他者に見えている自分というわけです。
しかし多くの人は、左右反転した鏡の顔を自分の顔と思っているわけです。
写真写りが悪いと思っている人は多いと思いますが、こうしたことが一つの原因といえるでしょう。
私はほぼ白髪です。
1年ほど前から黒く染めました。
キチンとではなく、シャンプーした後のヘアカラーリンスで染めています。
なぜそうなったかを話し出すといろんな話があるのですが、今回はそこはどうでもいい話です。
先日サロンに出た人から、佐藤さん、髪の毛が紫、いや青いですね、といわれました。
娘からもよく言われます。
キチンとヘアカラーリンスを使っていないので、黒くなっていないのでしょう。
しかし、鏡で自分を写して見ると灰色にしか見えないのです。
鏡に映る自分と他者が見る自分は、やはり違うのでしょうか。
娘によく聞いてみました。
近くで見ると灰色だが、遠く離れると紫だったり青かったりするのだそうです。
それで理由が分かりました。
これからは定期的にカラーリンスを使うようにしようと思います。
実はもう一つ違いがあるように思います。
前に書きましたが、人間の目は画素の少ない粗雑な構造のようです。
それを自分の脳が補正しているわけです。
つまり脳の思いや先入観で見えてくる姿は違ってくるわけです。
自分が見ている自分の顔は、自分が思っている自分の顔というわけです。
しかし他者は違う自分を見ているわけです。
写真は他者の見ている自分に近いものといえるでしょう。
つまらないことをぐたぐた書きましたが、これは顔の話だけではありません。
きっと自分という人間自体もそうなのでしょう。
自分が自覚している自分と他者が見ている自分は、もしかしたら、似て非なるものかもしれません。
自分が発する言葉も、同じように、自分の意図とは全く違う受け取られ方をされているのかもしれません。
いやはや、自分に会うのは難しいです。
■ストレスがたまるストレステスト(2012年1月19日)
関西電力大飯原発のストレステスト(耐性検査)に関する経済産業省原子力安全・保安院の専門家会議の進め方が問題になっています。
アリバイ工作的な進め方は論外ですが、それに加えて、傍聴を拒否して相変わらずの密室談義を貫きました。
私のストレスはかなり上がって、机を蹴飛ばしたくなりました。
1日我慢して、怒りを抑えてから書き出したのですが、書き出すとやはり怒りが戻ってきてしまいます。
健康に良くありません。
その進め方を巡って、2人の委員は抗議を表明して会議を欠席したそうです。
たった2人しか、行動を変えた人はいないわけです。
相変わらず隠し続ける、つまり嘘を守る委員が大半と言うことです。
御用学者と言うか、犯罪者の片割れと言うべきでしょうか。
そもそも保安院は、すべての悪(嘘)の根源の一つだったのですから、「傍聴拒否」する立場などないはずです。
しかし、それを認めた経済産業省や政府は、嘘に加担しているということです。
私は彼らは殺人罪にさえあたるように思えてなりません。
もちろん事故後の行動のことを言っています。
その行為が今でも続いているのですから、何が法治国家だといいたいです。
元原子力プラント設計技術者の後藤政志委員は「傍聴者を締め出し、密室でやるような議論には参加できない」と述べたそうですが、ほかの委員はどう思っているのでしょうか。
一片の良識さえ持たないのでしょうか。
彼らは原子力に関してもたぶん「無知」でしょうが、良識くらいは持ってほしいものです。
まあこれ以上、書くとまた何を書き出すか心配なのでやめようと思いますが、科学技術者たちはこういう動きをなぜ放置しておくのか。
原子力関係ではないとしても、同じ科学者や技術者として、発言すべき事があるだろうといいたいです。
もっと自らの仕事に誇りを持ってほしいものです。
そういうお前は何をやるのかといわれそうです。
私もできるところで動こうと思います。
小さなことでしかありませんが、まずはある人に会う事にしました。
会ってもらえるといいのですが。
また書き込むようにします。
知行合一は私の生き方ですので。
■言葉の魔術(2012年1月20日)
民主党の行政改革調査会が現在102ある独立行政法人を65法人に減らし、17の特別会計(特会)を11にする統廃合案をまとめた、と報道されています。
新聞の見出しには4割減と大きく書かれています。
これだけ読んで、多くの人は行政改革が動き出すと思うでしょう。
そこに、言葉の魔術があります。
よく読めばわかりますが、本当になくなるのはほんの僅かです。
統合や移管で、ほとんどは残ります。
場合によっては予算が増えるかもしれません。
政府の事業仕分けを傍聴に行った知人が、あれは「焼け太り」ならぬ「焼かず太り」だと怒っていましたが、形は変わりますが、たぶんほとんど何も変わらないでしょう。
そういえば、つい2日前の新聞にはこんな記事も載っていました。
2012年度の政府予算案に盛り込まれた独立行政法人向けの支出は、11年度比4.1%増と発表した。野田政権は消費増税法案の提出を控え、独法の4割削減を検討しているが、新年度の支出は増える見通しとなった。
言葉とは便利なものなのです。
議員削減の場合は、もっと恐ろしい内容が込められています。
今の民主党の案は、与党が有利になるような仕組みになっています。
量が質に転ずる典型的な例です。
少数野党にはきわめて不利に働く仕組みですが、多くの人は定員削減に反対する野党を非難するでしょう。
言葉は同じでも内容が全く違う場合が少なくないのです。
「国を守る」も同じです。
国をどう捉えるかで、国を守るということが国を壊すことを意味することもあります。
「消費税増税」もそうです。
時間軸をいれずに語ることで、実態が見えなくなります。
さらに、前にも書きましたが、消費税増税と税収増かも全く違う意味の言葉です。
そうしたように、あまりにも言葉がいい加減に使われ、小賢しい人たちが言葉を使って魔術をかけている。
最近のマスコミの報道を見ているとそんな気がしてなりません。
言葉は吟味して使わなければいけません。
念のために言えば、これは「言葉の定義」をはっきりさせろということでもありません。
言葉とはそういうものだということです。
そして統計や数値を扱う人は信じてはいけないということです。
■「泥棒は物がうまく盗めれば成功だ」(2012年1月24日)
昨日、ある集まりで、ある人が「泥棒は物がうまく盗めれば成功だ」と言うような話をしました。
盗まれたほうは被害をこうむるわけですが、盗んだほうは喜べるわけです。
その話を聴きながら、果たして自分はどちらにいるのだろうかと、思ってしまいました。
同じ集まりで、その前にTPPの話が出ました。
農協はTPPに反対しているが、共済事業関係者はあまり反対の動きをしていないのは問題だとある人が言ったのです。
その集まりには共済事業関係者が多く、しかもみんなTPP反対の立場から行動をしなければいけないと思っている人たちでした。
私も、みんなと同じ立場なのですが、ついつい余計な発言をしてしまいました。
農協がTPPに反対するのは自らの立場が弱くなりかねないからではないか。
農業関係者にはTPP賛成の人も多い。
これまで農協や農水省が牛耳ってきた農業をTPPという外圧が壊してくれるという期待もある。
これではまるで私はTPP賛成論者みたいだなと我ながら思ってしまいました。
もちろん問題はそんなレベルの話ではないと私はおもっています。
TPPは経済の話ではなく文化の話だと考えているのです。
「泥棒は物がうまく盗めれば成功だ」という話は、この話題とは全く別に出されたのですが、私には奇妙につながって感じられました。
立場が違えば、評価は全く違ってきます。
ですから、どちらが絶対に正しいなどと言うことはありません。
そこが人間社会の悩ましさです。
他者の物を盗む泥棒は悪いとしても、他者の物が、その他者が盗んだものだとしたらどうでしょうか。
たとえば、いま私たちが浪費している自然環境は、誰のものでしょうか。
海外から輸入されてくる生活物資は誰かのものを盗んではいないのか。
もちろんお金を払っているとしても、本当に正当の対価を払っているのでしょうか。
もし正当な対価を払っているとしたら、貧富の差など生まれないのではないか。
そもそも私が住んでいる土地はどうして私のものなのか。
土地が誰かのものになった最初の理由は何でしょうか。
やはり最初は「泥棒的な行為」から始まっているような気がします。
だとしたら、今の泥棒は、ただ単に時代を間違えただけではないか。
とまあ、こう考えていくと、なんだか自分が泥棒のような気がしてきました。
消費税と泥棒とどこが違うのか。
これも悩ましい問題です。
いま改めて、カール・ポランニーの『経済の文明史』を読み直しています。
経済って一体何なのか、ますますわからなくなってきています。
困ったものです。
■コピーペーストした他人事の施政方針演説(2012年1月24日)
野田首相の施政方針演説をネットで読みました。
いつもならできるだけ映像できちんと見るのですが、今回はその気力が出ませんでした。
読んだ時にはあまり気にならなかったのですが、テレビのニュースを見ていて、気になったことがあります。
政治。行政改革に対する決意を述べた最後の言葉です。
「私もリーダーシップを発揮してまいります」
よく聞くフレーズのような気もしますが、なんとなく違和感があります。
気になったのは、リーダーの立場にある本人が自分で言うべき言葉なのだろうかと言うことです。
正しい使い方なのかもしれませんが、どこかにおかしさを感じます。
リーダーシップは指導力とか統率力と訳される言葉です。
その訳自体も私には少し違和感がありますが、まあそれに置き換えると、
「私も指導力を発揮してまいります」
ということになります。
やはりピンと来ません。
では、私が、「野田首相はリーダーシップを発揮している」と言うのだったらどうでしょうか。
「発揮」と言う言葉に少し抵抗がありますが、まああまり違和感はありません。
自分のことをいう言葉ではなく、他者から言われる言葉のような気がします。
「決意」として「リーダーシップを発揮」というのも違和感があります。
あまりに間接的、観察者的です。
決意すべきは、発揮ではなく、実現だろうと思います。
まあ瑣末な言葉の問題だと言われるかもしれませんが、
野田首相は「言葉」だけで生きている人のように思えてなりません。
つまり内容がないのです。
駅頭演説を長年やってきたからでしょう。
学ぶことをあまり軽視してきたのでしょう。
昨今は「プレゼンテーションの時代」ですので、私の周辺でもプレゼンテーションを学ぶ人が多いですが、そういう人は押しなべて内容がありません。
内容がないから技法や言葉で飾り立てるのです。
それにしても、歴代の首相の施政方針演説の言葉を取り込んで、コピーペーストした野田首相はまさに時代を象徴しています。
■歴史を学ぶことの落し穴(2012年1月26日)
私もそうですが、多くの日本人は虹を7色だと考えています。
しかしそれは世界的には極めて少数派なのだそうです。
アメリカでは6色、中国では5色というのが常識だそうです。
沖縄では、なんと2色だそうです。
沖縄の人が読んでいたら、ホントかどうか教えてください。
たしかに私も虹の色を数えたことはありません。
虹は7色、と思い込んでいるので、7色に見えるのでしょう。
私たちが見ている世界は、住んでいる世界の常識によって違っているわけです。
7色だと言われればそう見えますし、5色だと言われればそう見えます。
こういう例はいくらでもあります。
「新しい世界史へ」という羽田正さんの本を読みました。
最近出版された岩波新書ですが、読んでいて自分の世界観の偏りを思い知らされました。
羽田さんは、日本の「世界史」の記述は、次の3点に問題があると言います。
まずは「日本人の世界史であること」。
世界史の記述は、国によってかなり違うようです。
ですから、他の国の「世界史」とは違うという認識が必要だといいます。
当然のことでしょうが、改めて言われるとハッとします。
次に「ヨーロッパ中心史観から自由でないこと」。
これは私も大きな問題意識を持っていました。
一時、梅棹さんが生態史観を打ち出しましたが、これもヨーロッパ中心史観だという認識は私にもありました。
ところが3つ目の問題は、これまでまったく意識してきませんでした。
羽田さんは3つ目として、「自と他の区別や違いを強調すること」をあげているのです。
歴史は、歴史を語る人たちのアイデンティティの基本を形成します。
そのことは私も知っていましたし、体験したことでもあるのですが、「自他の違いを強調」という認識はありませんでした。
確かに、歴史が戦争を起こしているのかもしれません。
歴史を学びあうことで平和が到来するのではなく、歴史を創りだすことで平和が到来するのだと改めて思いました。
羽田さんの本はとても面白いです。
■安心させるためのデータ(2012年1月27日)
最近、テレビや新聞に地域別の放射線量データが表示されています。
ところが、千葉を代表しているのが「市原市」です。
私は千葉の我孫子市に住んでいますが、そこのデータと市原市のデータはかなり違います。
市原市のデータでは原発事故以前と今とではほとんど差がありません。
ところが我孫子周辺はホットスポットと言われるところで、大きく変化しています。
実際にわが家の周辺を測定した値と市原市の公表データとは数倍の差があります。
抗した問題の時に、私は以前から妻に感想を聞くようにしていました。
私は、千葉を代表するのがなぜ市原市なのかというような問題に、理由を見つけ出す習癖があるからです。
私に限らず、男性は往々にしてそういう習癖があります。
その点、女房は、あるいは女性は、そんな理屈をさがすことなく、生活感覚で答えるからです。
残念ながら、妻は数年前に見送ってしまいましたので、最近は娘に訊くようにしています。
娘は、生活者に不安を与えないためだよ、といともあっさり答えました。
娘も、権威が発表する数字には信を置いていないようです。
「安心させるためのデータ」
データには、いつもメッセージがあります。
一時期、これもテレビなどで盛んに流された電力需給予想などは、原発が必要だという一種の「洗脳行為」でした。
まあそれは言いすぎかもしれませんが、データは多くの場合、聴き手を操作するという発表者の意図がこめられているわけです。
それが悪いわけではありません。
的確に使われれば、正の効果を出すことも少なくないからです。
しかし、負の効果を出すこともあるのです。
データはほんとうに恐ろしいほどのパワーを持っています。
それに振り回されないためには、広い世界を持たなければいけません。
ちなみに、「安心させるデータ」が横行するという状況は、決して安心できない状況だと言うことです。
■「想定外」という言葉の示唆すること(2012年2月1日)
昨日、原発事故後の技術者の倫理に関して、NPO法人科学技術倫理フォーラム代表の杉本さんとかなり密度の高い議論をさせてもらいました。
杉本さんと私とは、原発に対する考え方は大きく違いますが、お互いに議論する基盤は共有しています。
また杉本さんは、私が尊敬する先輩でもあります。
このブログでも時々書いていますが、原発事故後の科学技術者の対応に関して、私はかなりの怒りと不信感を持っています。
原発の科学技術者という意味ではありません。
科学技術者すべてに対してです。
それで、技術者倫理に実践的に取り組んでいる信頼できる杉本さんに議論したいと申し込んだのです。
杉本さんの影響力は、私と違って大きいからでもあります。
私の問題提起のうち、ひとつだけ少し紹介します。
それは、「想定外」という言葉の無責任さになぜ科学技術者仲間たちは異議申し立てしないのかということです。
技術者は、「ある前提を想定した論理の世界」で仕事をしています。
それに対して科学は、「理解可能な世界」を広げようとする活動です。
科学は当然ながら、その世界を広げようとして、その周りにある「現在は理解不可能な世界」を想定しています。
現実には「理解不可能な世界」の周辺に、想像できない世界があることも多くの人は知っています。
私たちは、そうした4つの世界を生きているわけです。
技術者も当然、そうです。
つまり、技術者は「ある前提を想定した論理の世界」で仕事をしていますが、その世界でのみ生きているわけではありません。
「想定外」とは、その人の生き方を示す言葉です。
原発技術者が「今回の事故は想定外」と言うとき、その人は「前提に置かなかった」という意味で使っているように思います。
しかし普通の生活者は、「想定外」という言葉で「想像を超えた」という受け取りをするでしょう。
ここに科学技術者の、科学技術者らしからぬ、大きなごまかしを感じます。
実は問題は「起こりうるはずの条件を前提にせずに原発を設計し運転していた」ということなのですが、それが「想像を超えるような大きな災害だったので科学技術者の責任ではない」ということをほのめかす言葉に意図的に誤解させることになっているのです。
実際にそう思っている人は少なくないでしょう。
しかし、そこにこそ大きな問題があります。
もっと言えば、原発の安全を保証し、原発コストを安価にするために、その前提が決められたということです。
そこをしっかりと認めなければ、その後の発想も体系も変わりません。
ストレステストなどナンセンスです。
これはリスクの捉え方にもつながっています。
いま語られている安全議論は、「経済性を考慮して管理されたリスク」を対象とする「閉じられた安全性」でしかありません。
それに対して私たち生活者にとって意味があるのは、「実際に起こりえるリスク」を対象とした「開かれた安全性」です。
とまあ、こんな議論をかなり激烈にさせてもらいました。
いろいろと合意できたことはあるのですが、1回だけの議論では限界があります。
もう一度議論することにしました。
今度はもう少しメンバーも増やそうと思っています。
しかし、科学技術者は、科学技術のこれからのあり方を考えるためにも、こうした議論を起こすべきです。
そもそも「想定外」への挑戦が、科学技術の本質でした。
にもかかわらず、技術者が「想定外」と言い訳して、事実を総括しようとしない現状に、仲間の科学技術者が大きな声を上げないのは私には不思議です。
科学技術者がみんな腐っているかとしか思えません。
技術への不信感の広がりに大きな危惧を私は感じています。
■傭兵と義勇兵(2012年2月4日)
イギリスの人権団体「シリア人権監視団」が4日明らかにしたところによれば、反政府デモへの弾圧が続くシリアの中部ホムスで、政府軍による砲撃で200人以上の市民が死亡したということです。
こうしたニュースを見ていていつも思うのですが、なぜ兵士は同じ国に住む市民に向けて発砲できるのだろうかと言うことです。
兵士もまた市民の一員ですから、発砲の先にはもしかしたら知人がいるかもしれません。
常識的に考えると、発砲はできないはずですが、200人以上とはいかにも多い。
もしかしたら、傭兵が軍隊を構成しているのでしょうか。
そう考えたくもなります。
1930年代のスペイン戦争には、多くの義勇兵が世界中から集まったといわれています。
日本人も一人参加しています。
しかし、おそらくシリアの内戦には、そういう義勇兵は参加していないでしょう。
銃に向かって立ち上がっているのは、シリアの若者たちでしょう。
私には祈るだけしかできませんが、そうした人たちがいることに希望を感じます。
傭兵と義勇兵とは、全く違う存在です。
いわば企業の雇用労働者とNPOのボランティアとの違いです。
雇用されていたらお金で動きますが、ボランティアは大義で動きます。
傭兵は国家の権力者を守りますが、義勇兵は国民の生活を守ります。
銃の口先が正反対なのです。
いや義勇兵が向ける銃の先は人ではなく権力です。
マルチチュード革命を提唱するネグリは、最近の世界各地の抗議運動に、新しい民主主義を期待しています。
私もそれに共感していますが、もしそうであれば、スペイン戦争のような動きが出てきてもいいはずです。
しかし、そうした義勇兵の動きは、年々、後退しています。
それを考えると、ネグリに「新しい民主主義」は幻想のようにも感じられます。
何が一体違うのか。
若者の目が向いているところが違っているのかもしれません。
フェイスブックの上場が話題になっています。
その時価はなんと7兆円を越すそうです。
若者の目は、シリアよりも、そこに向いているのかもしれません。
義勇兵など、今の若者には興味がないのかもしれません。
フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグも、アップルのジョブズも、私は全く好きにはなれません。
私はほとんど誰とでも仲良くできる八方美人的な人間ですが、ザッカーバーグやジョブズは,好きにはなれません。
ああいう人たちが若者に人気があるような社会は、私には極めて住みづらい世界です。
彼らは、私には「新しい民主主義」の敵としか思えません。
しかし、その私の嫌いなザッカーバーグやジョブズが、新しい民主主義の地平を開くツールを創りだしているわけです。
それを考えると、彼らは間違いなく「新しい民主主義」の味方です。
彼らは、傭兵なのか義勇兵なのか。
なかなか悩ましい問題です。
■家庭を壊す裁判官(2012年2月6日)
子どもの連れ去り・引き離しが最近増えているそうです。
離婚によって、わが子との交流を一方的に断たれた親が悲観して自殺するケースも起こっているそうです。
そうしたことも踏まえ、離婚時に子どもとの面会交流の取り決めを定めることをうたった改正民法が今年5月成立しました。
当時の法務大臣江田さんは、国会で、
「たとえ別れた元夫、元妻との交流であっても子の健全な育成のためには重要」
「例外はどんな場合でもありうるが、(面会交流の実現に)努力をしようというのが家庭裁判所の調停または審判における努力の方向だ」と国会で明言しています。
最高裁の豊澤佳弘家庭局長も、「子どもの健やかな成長、発達のために双方の親との継続的な交流を保つのが望ましい」と答弁したそうです。
ところが、そんなことなどどこ吹く風かとばかり、子どもの連れ去り・引き離しを言い渡す裁判は後を断たないようです。
週刊朝日の2011年12月23日号に、『「子ども連れ去り」で飛び出した裁判官の“トンデモ”発言』と題した記事が載りました。
上記の文章は、そこから引用させてもらったものです(書き変えていますが)。
そこで取り上げられている裁判官は、若林辰繁裁判官です。
この分野では何回も問題を起こしている裁判官のようです。
ネットで調べるといろいろと出てきます。
週刊朝日の記事を、長いですが、引用させてもらいます。
自身の離婚審判に臨んでいた30代の父親は、改正案が審議された国会の会議録などを示し、
「子どもの利益を第一に考えた審査をしてほしい」と、担当の若林辰繁裁判官に訴えた。
ところが若林裁判官は、こう言い放ったという。
「法務大臣が国会で何を言おうと関係ない。国会審議など、これまで参考にしたことは一度もない」
父親は驚いた。司法は立法府から独立した存在であるとはいえ、裁判官は立法者、すなわち国会が定めた法律に拘束される。憲法にもそうあるではないか。
「立法者の意思をまったく無視して法解釈していいと判断する根拠はなんですか。司法は立法府より上の立場ということですか」
こう食い下がると、若林裁判官は、「あなたと法律の議論をするつもりはない」と、その場を立ち去ってしまったという。
この父親は昨春、3歳の娘を妻に突然、連れ去られて以来、妻側から身に覚えのないDVで訴えられ、疑いは晴れたものの、その後もわずか数時間の面会を何度か許されただけだ。もう1年以上、会っていない。
以下は週刊朝日の記事を読んでください。
先週、その若林裁判官によって、実際に家庭を壊されたMさんに会いました。
裁判時に提出した資料の一部も見せてもらいました。
Mさんは自らをDV冤罪の被害者だと言っていますが、見せてもらった資料などから、そのことがかなり納得できる話でした。
裁判所は正しい判断をしてくれると、Mさんはそれまで思っていたようですが、いまは裁判への不信と怒りで、自らの人生までをも壊されているようです。
話を聞きながら、私も若林裁判官に不信を持って、ネットで調べたら、同じような目にあっている人が他にもいることがわかりました。
Mさんは若林裁判官を起訴しましたが、棄却されています。
裁判官は多くの場合つるんでいますから、Mさんには勝ち目は少ないでしょう。
「正義」を語る人ほど、正義を私物化しているものです。
週刊朝日の記事に書いてありますが、若林裁判官は司法の世界でも問題になっているようですが、どうしようもないようです。
痴漢事件にしろDV事件にしろ、私は冤罪が多いのだろうと言う気がしていますが、泣き寝入りしている人は多いでしょう。
しかし確実に家庭と人生は壊されます。
Mさんは、裁判にはお金がかかるので続けられないと言っていました。
家も手放さざるを得ないようです。
制度で守られた裁判官の暴政に、弱い庶民はどう立ち向かったらいいのでしょうか。
私のできることは、そうした事件が起こっていること、そうした裁判官がいることを、一人でも多くの人に知ってもらうことくらいです。
そして、Mさんが怒りから解放されることを祈っています。
とんでもないことをして、若林裁判官と同じような人間にならないことを祈るばかりです。
■家族サロンのお誘い(2012年2月7日)
家族のあり方が、最近良く話題になります。
新しい家族のあり方を考えさせられるような映画やテレビドラマも増えているようです。
先月開催した湯島での新年会サロンでも、家族のあり方が話題になりました。
そこで、今度の日曜日に家族をテーマにしたカフェサロンを開催することにしました。
○日時:2012年2月12日〈日曜日)午後1〜3時
○場所:湯島コムケアセンター
○テーマ:あなたにとって家族ってなんですか
参加者それぞれから自己紹介も含めて、テーマに関しても話してもらい、
その後はカジュアルな話し合いで、これからの家族のあり方や社会のあり方を考える。
○会費:500円
抽象的な話ではなく、できれば参加者がそれぞれ、自分の問題として家族の問題を考えながら、これからの社会のあり方や家族のあり方を話し合えればと思います。
さまざまな活動をされている視点で問題が広がると、お互いに多くの気づきを得られるのではないかと思います。
開かれたサロンですので、誰でも歓迎です。
喫茶店に珈琲を飲みに行く感じで参加していただくとうれしいです。
ぜひ多くのみなさんの参加をお待ちしています。
周りに関心を持ちそうな方がいたらどうぞお誘いください。
お会いできるのを楽しみにしています。
■ささえあいカフェのお誘い(2012年2月8日)
昨日は「家族をテーマにしたカフェサロン」のご案内をしましたが、今日もまたカフェサロンのお誘いです。
何しろ湯島の私のオフィスでは毎週サロンをやっているのです。
おかげで仕事をする暇がありません。
困ったものです。
今日のお誘いは「ささえあいカフェ」です。
これは新装第1回目のカフェなのです。
これまで私が関わっている「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」と「コムケアネットワーク」の、いわば共催で、毎月、「ささえあい交流会」を開催してきました。
この1年は、どちらかといえば、「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」を主軸に開催してきました。
しかし、「自殺のない社会づくりネットワーク」というイメージが大きく影響したのか、なかなか「ささえあいの輪」が広がりません。
そこで、以前のように、「ささえあいの輪」に重点を移して、広がりを回復しようと思います。
そこで名前も「ささえあい交流会」から「ささえあいカフェ」に変えて、再スタートすることにしました。
交流と言うよりも、むしろ誰もが気楽にやってきて、珈琲を飲みながらホッとする場にしたいです。
話題も、自殺問題にかぎらずに、さまざまな支え合い活動をしている人に話題提供などもしてもらいながら、日常の生活での、あるいは仕事での、支え合いを自由に話せる場にしたいと思います。
そうした、何でも気楽に話せる場があれば、人の支え合いの輪も広がり、自殺もなくなっていくでしょう。
GKB47宣言などという馬鹿げたキャンペーンなどは不要になります。
そんなわけで、下記の通り、新装ささえあいカフェを開催します。
カフェですから、出入り自由です。
○日時:2012年2月13日〈月曜日)6時半〜8時半(遅くも9時には終わります)
○会場:湯島コムケアセンター
○話題提供者:自殺防止ネットワーク風の伊地智さん
○参加費:500円
○参加申込先:コムケアセンター(comcare@nifty.com)
話題提供者が自殺防止ネットワーク風の伊地智さんになっていますが、だからと言って、また自殺の問題に話を押しとどめる気はありません。
むしろ、そこから社会の実相がいろいろと見えてくる。
それを切り口に話を広げたいと思っています。
話題は参加者次第で、いくらでも、どちらにでも広げられます。
そんなやわらかなカフェサロンです。
できるだけさまざまな方たちにご参加いただき、「ささえあいの輪」を広げていきたいと思いますので、
まわりに連れてきたい人がいたら、ぜひお誘いください。
参加者がみんなホッとできるような場にしたいと思います。
これから毎月開催します。
よろしくお願いいたします。
参加される方は事前にご連絡いただければと思います。
もちろん当日の飛び入り参加も大歓迎です。
お会いできればうれしいです。
■金は天下の宝もの(2012年1月24日)
私は、できるだけお金から距離を置く生き方をしてきました。
そのおかげで、あまりお金がなくても豊かに暮らせるようになっています。
いろんな人に支えられてのことですが。
しかし、いま、お金を貯めておけばよかったとちょっと思っています。
金は天下の宝ものとはよくいう言葉であるが、悪人が金をもてば人を苦しめると同時に自分自身も苦しむのである。
それに反して善人が金をもてば人を助けることができるし、その人自身も人生を楽しむことができる。
これは、鎌田茂雄さんの「正法眼蔵随聞記講話」に出てくる文章です。
私が、ここでいう「悪人」か「善人」かは、自分ではわかりません。
お金を持てば、それがわかると思いますが、残念ながらその機会はありませんでした。
しかし、悪人の可能性も強いので、お金にはできるだけ近づかないようにしてきたのです。
実は、時々、迷いは生じるのですが。
ところが、数日前に、知人が会社の資金繰りで相談に来ました。
資金を貸してくれという相談ではありません。
私のことを知っている人は、そんな相談ではやってきません。
事業をやめてしまうかどうかの迷いを整理するために私と話したかっただけでしょう。
彼は、人生を思い切り変えてしまうシナリオも考えていました。
しかし話していて、お金があれば事業を諦めずに再興できる可能性があることを知りました。
しかもそのお金は、さほどの金額ではありませんでした。
そこで、お互いの周りの人に声をかけて、1口50万円ずつ集める案を出しました。
そしてさらに成り行き上、その半分を私が集めることを約束してしまったのです。
友人知人に声をかけました。
ある友人は、私のためならいくらでも出すが、私の知人のためなら協力はしない、お前もお金を出すな、と怒られました。
私の生き方をよく知っている友人なので、彼の言っていることはよくわかります。
事業が必ず再興できるわけではありません。
詳しいことを聞いても、私には評価能力がありません。
私はただその知人の苦境を聞いて、黙っていられなかっただけなのです。
冷静に考えれば、あまりにもリスクが大きいです。
娘たちは、お父さんはいつも思いつきで動くのでやめたほうがいいというのです。
娘たちは、私の過去のことを知っていますから、反論はできません。
しかし、成り行き上とは言え、決めたことです。
娘にも協力してもらい、私が集められるお金を集めました。
そして2人ほど協力してくれる人も現れました。
最低限の資金は集まりました。
鎌田茂雄さんは「正法眼蔵随聞記講話」でこう書いています。
金の魔力は金によって相手を縛る。
また自分も縛られる。
金を与えた者も受けた者もともに縛られてゆく。
そうなってしまっては、私の行為は意味がありません。
私の生き方が試されているような気がしてきました。
今回の知人の事業が再興したら、彼の協力も得て、事業応援結い基金を立ち上げたいと思っています。
数十万円、数百万円で、人生を狂わせてしまう人がでないような、そんな結い基金を実現したいです。
それができれば、私は善人であることが安堵できます。
まあそれが何だという気もしますが。
ちなみに、昨日、テレビで高額の詐欺事件である人が逮捕されました。
もしかしてと思って調べてみたら、20年ほど前にやってきた人でした。
付き合いが途切れていましたが、とても残念です。
よほどお金に困っていたのでしょう。
付き合いが途切れていたことが残念です。
今日は複雑な1日でした。
■原爆投下と原発事故の奇妙な一致(2012年2月11日)
昨年8月の放映されたNHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」の再放送を観ました。
ご覧になった方も多いと思いますが、私は初めてでした。
あまりにも衝撃的でした。
かなり過激にものを考える私にも、まさかと思える内容でした。
広島や長崎への原爆投下は、実は日本軍の上層部は事前に知っていたという話です。
しかも長崎の場合は、5時間前にその可能性を知った現場の諜報部隊が参謀本部に伝えていたのです。
その知らせに基づいて、的確な対応がとられていたら、広島の被爆者は激減し、長崎は投下さえ防げてかもしれません。
なぜ軍の上層部がその情報を握りつぶしていたかについても、明確ではないですが、示唆されていました。
当日、実際にその情報を受信し、上層部に伝えた当人が、番組に出ていました。
つい最近になって、その人は口を開き始めたのだそうです。
長い人生を、その人はとてつもない重い荷物を背負ってきたのです。
きちんと記憶していないのですが、その人は最後にこう話しました。
なぜ情報が活かされずに隠されたのか、そのことを明らかにしなければ、この国はまた同じことをするだろう。
その言葉は聞いて、私は昨年の原発事故をすぐに思い出しました。
この国は、まさに繰り返してしまっているのです。
その人だったか、別の人だったか、はっきりしませんが、敗戦後、上層部から、そうしたことに関する書類をすべて焼却するように指示されたそうです。
ここで灰になるまで燃しましたとその人は身体すべてを使って語ってくれました。
これも原発事故と似ているようにも思います。
もっと似た話もありました。
当時、軍は「想定外」の奇襲を受けたとして、原爆ではないと言い切っていたそうです。
「想定外」
この奇妙な一致には、不気味ささえ感じます。
最近、新聞などに「棄民」という文字が現れだしています。
日本政府はこれまでも「棄民政策」を繰り返してきました。
しかし、それはもう過去の話だろうと思っていましたが、どうもそうではないのかもしれません。
とても重いドキュメンタリー番組を見てしまいました。
世の中には、知らなかったほうがいいことがあるものです。
■責任を負うべき人(2012年2月13日)
「原爆投下と原発事故の奇妙な一致」の記事をフェイスブックに転載したら、ある人(中川さん)から次のようなコメントをもらいました。
日本はワイマール時代のドイツ、自分たちの歴史を総括する必要があると思いますが・・・。一般市民は米国のくれた民主主義に浮かれて、経営層は明治維新以来の産業資本の振興に浮かれ、そうしたバブルの負債だけが引き継がれていく。福島が提示しているのは、そういう問題なのだと思います。
そこで、ヴァイツゼッカーとニーメラーを思い出しました。
その2人はこのブログやホームページで何回か書いた記憶がありますが、最近は余り思い出さずにいましたので。
ヴァイツゼッカーは、ベルリン市長を経て、1984年に西ドイツの大統領に就任、翌年、ドイツの敗戦40周年に当たり、連邦議会で行った演説が話題になりました。
日本でも「荒れ野の40年」というタイトルで岩波ブックレットから出版されています。
多くの人に読んでほしい名演説です。
ヴァイツゼッカーは、そこで国家元首として、自国がかつて犯した罪責を具体的にあげて反省したのです。
日本では残念ながら、今もって、慰安婦問題にしろ南京事件にしろ、事実を隠そうとする、あるいは忘れようとする動きが強いです。
中川さんは、そのことを指摘しているのでしょう。
もちろんドイツでも、事態はそう違っていたわけではありません。
ヴァイツゼッカーは、こう述べています。
戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
しかし彼はこう言います。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人々、調べる気のある人たちなら、ユダヤ人を強制的に移送する列車に気づかないはずはありません。人々の想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
映画「ニュールンベルグ裁判」でのヤニングは、まさにそれを認識していました。
私が年金問題や薬害事件などを書いた時に、厚生労働省の職員全員が責任を認識すべきだと書いたのはこういうことなのです。
同じように、原発事故に関しては、責任を負わない人などいないのです。
ですから責めるだけの人を、私は信頼できません。
だからなかなか反原発にデモに参加できずにいるわけです。
知ろうとすれば、1980年代に知りえたはずです。
少なくとも私は知っていたと認識でしていますが、生き方を少し変えただけで、原発の恩恵を受け続けていました。
だから東電を責める気にはなれません。
この現実はまずは従容として受け止めるのが私の生き方です。
もちろん事故後の東電の対応は責めることはできますが。
話がそれてしまいましたが、この演説はヴァイツゼッカーだけの言葉ではありません。
たとえば、彼に多分大きな影響を与えたであろう、マルチン・ニーメラーがいます。
ニーメラーはナチスに抵抗したために強制収容所に収容させられていましたが、戦後そこを訪れた時に受けたショックを書き残しています。
その話は、明日、書こうと思いますが、ドイツにはそうした想像力豊かな人がいたのです。
そしておそらくそうした人が生まれる素地があるのです。
責めるべきは、まず自らであるという文化があるのかもしれません。
そしてもしかしたら、それはキリスト教のような神をいだく一神教の文化に関係しているのかもしれません。
だとしたら日本にはどんな文化があるのか。
社会のダイナミズムが違うのかもしれません。
■ふたたびニーメラーの教訓(2012年2月14日)
昨日に続いて、マルチン・ニーメラーの話です。
ニーメラーに関しては、以前もこのブログで書いたことがありますが、今日はもっと具体的な話です。
ニーメラーはナチスに抵抗したために1937年の7月から敗戦まで、ダハウの強制収容所に収容されていました。
戦後、夫を8年もの間つないでいた獄舎を見たいという妻と一緒にそこを訪れます。
そこを訪れた時のことを彼は書き残しています。
「その建物(死体焼却炉)の前に一本の木が立っていて、そこに白く塗った板がかけてあり、黒い字で何やら書いてありました。
『1933年から1945年までの問に、23万8756名の人々がここで焼かれた』。
それを読んだ時、妻が失神したようになって私の腕の中に沈み、ガタガタ震えているのに私は気がつきました。
私は彼女を支えてやらなければなりませんでしたが、同時に冷雨のようなものが私の背すじを走るのを覚えました。
妻が気分が悪くなったのは、25万人近くという数字を読んだためだと思います。
この数字は、わたしにはどうということはなかった。わたしはもう知っていましたから。
その時私を冷たく戦慄させたものはいくらか別のこと、つまり『1933年から1945年まで』 という2つの数字だったのです。
1937年の7月1日から1945年の半ばまでは、わたしにはアリバイがあります(強制収容所に捕らえられていたという意味です)。
しかし、そこには『1933年から』と書いてある。
1937年の半ばから戦争の終りまでは、お前にはなるほどアリバイがある。
だが、お前は問われているのだ。
『1933年から37年の7月まで、お前はどこにいたのか?』と。
そして私は、この間いからもう逃がれることはできませんでした。
1933年には、私は自由な人間だったのです……」
このことが彼のその後の生き方に大きな影響を与えていくわけです。
私にはニーメラーほどの峻厳な生き方はできませんが、その生き方をいつも思いだすようにしています。
他者を批判する前に、まず自らを正す。
その上で、おかしなものは素直に怒りをぶつけて生きようと思います。
もちろん行動も含めてです。
■アリス・スチュワートの信念(2012年2月15日)
胎児期のレントゲン検査が小児がんの発生を激増させることを証明したデータをアリス・スチュワートが発表したのは1956年でした。
多くの医師がそのデータに触れたにもかかわらず、妊娠中の母親たちへのレントゲン検査が行なわれなくなったのは、20年以上たった1980年に入ってからだそうです。
いま、読んでいる「見て見ぬふりをする社会」(河出書房新社に出ている話です
なぜ医師たちは、危険だと繰り返し証明されていた妊婦へのレントゲン検査を続けたのか? それに関して著者は、当時の医師界の権威だった人が、アリスを認めたくなかったことが一番の理由だったのではないかと書いています。
アリスは権力側の人でも、またアカデミズムの人でもなく、現場の人、実践の人だったのです。
いま、私は認知症予防ゲームの普及にささやかに関わっていますが、そこで感じていることを思い出しました。
しかし、著者はもう一つ重要なことを書いています。
アリス・スチュワートの小児がんに関する調査は、通常の診療に疑問を投げかけるだけにとどまらない過激で挑戦的な内容だった。彼女の発見は当時の科学界では主流になっていた、重大な説の問題の核心を衝いた。放射線のようなものは大量に被曝すれば危険だが、これ以下の値ならば絶対に安全だという閥値が必ずあるという閥値説が支持されていた。しかしアリス・スチュワートはこの場合、胎児にとって放射線はどんなに少量でも有害であると主張したのだ。科学界の権威の礎が攻撃されたのだ。
これを読んで思いだしたのは、最近の放射線汚染の報道です。
どこまでが危険で、どこまでが安全かという、私には全く意味のわからない議論が横行しています。
そこで問題になっているのが、まさに「閾値」です
いまもなお、「閾値説」は科学者の拠り所になっているのです。
ちなみに、アリスの主張に関しては、1977年に、アメリカの放射線防護委員会が胎児に]線検査をすればその胎児はがんになると発表したことによって、閾値説は斥けられました。
福島原発事故後、日本の科学者や政府の言っていることとのつながりはわかりませんが。
私は、閾値説は科学者の傲慢さと無知の表明以外の何ものでもないと思っています。
閾値説の悩ましさは、それこそが科学と思わせるところがあるからです。
白か黒かではなく、程度問題だというのも、何となく「賢さ」を感じさせます。
それに、程度論を取り入れれば、事態は自分の都合のいいように解釈できますから、だれにとっても都合がいいのです。
しかし、アリスはそんな似非科学やご都合主義には流されなかったのです。
それは、たぶん、アリスが現場の実践の人だったからでしょう。
それがアリスの信念を貫く力だったように思います。
科学技術のパラダイムは時代とともに変わります。
科学は絶対のものではありません。
閾値も時代によって変わります。
そんなものに振りまわれることなく、アリスのように、もっと物事の大きな意味を考えなければいけないと、改めて思いました。
ちなみに、わが家の放射線量はテレビなどで報道される千葉の平均値の数十倍です。
ここはホットスポットと言われていますが、それは、現代という社会を生きる者にとっての、不運の一つだろうと、私は受け止めています。
運が悪いか良いかは、人に生まれついたものかもしれません。
自らの不運をちょっとだけ嘆きたくなることもありますが、誰にせいにもできません。
■wilful blindness(2012年2月17日)
オリンパスの損失隠し事件で逮捕された菊川前会長や岸本元会長は損失隠しへの関与を否定しています。
知らなかったと言っているそうです。
それは事実かもしれませんが、正確には「知ろうとしなかった」、あるいは「知りたくなかった」というのがいいかもしれません。
しばらく前に、中国で自動車に引かれた血だらけの女児が、そのそばを何人もの人が通ったのに誰も介抱せずに死んでしまったという事件がありました。
あそこまで極端ではありませんが、通ずるところがあります。
こういう事件を見ると、私たちは、なんとひどい話なのかと思います。
とりわけ後者の事例であれば、自分なら無視はできないと思うでしょう。
しかし、心理学者によるさまざまな実験や調査によれば、それはかなり不確かなことのようです。
私もそれなりの自信はあるつもりでしたが、「見て見ぬふりをする社会」という本を読んでいて、自信をなくしたばかりか、すでにさまざまな「見て見ぬふり」をしていることに思い当たりました。
イギリスでは、そうした「見て見ぬふり」は、wilful blindness といわれて、犯罪構成要素になっているそうです。
つまりwilful blindness は法的に裁かれるのです。
同書にはwilful blindness のさまざまな事例が紹介されています。
それを読んで、全く自分が、そうしたことと無縁であるという人は少ないでしょう。
法的にはwilful blindness は有罪になったとしても、実際の日常社会ではwilful blindness のほうが心地よいことは少なくありません。
とりわけ企業や行政の組織に属していれば、あるいは地域社会でうまく暮らしていこうとすれば、事を荒立てるよりもwilful blindness のほうが安全です。
夏目漱石も「智に働けば角が立つ」と書いています。
その上、人間の脳の容量は限度がありますので、複雑な社会で生きていくためには思考を縮減しなければいけません。
見るところはしっかり見て、それ以外はwilful blindnessを決め込むのがいいのかもしれません。
それは「生きる知恵」でもあります。
子どもたちが学校で学ぶのは、そうしたことだと言う心理学者もいるようです。
「裸の王様」の物語が示すように、大人になるということは、wilful blindnessを身につけるということなのでしょう。
そうしなければ、うまく生きていけないのが、社会です。
しかしながら、昨今のさまざまな事件に触れるにつけ、どうも気分がすっきりしません。
本当はみんな知っているのに、普段は気づかない振りをしていて、あることが顕在化して、だれかが叩かれだすと、寄ってたかって非難しだす風潮も気に入りません。
みんな自分を棚に上げているのです。
管理できるのは自分だけだ、とよく言われます。
同じように、批判できるのは自分だけではないかと、最近思うようになって来ました。
まあ、その割には、このブログではけっこう他者を批判していますが、少し考え直さなければいけません。
そういう視点で、オリンパス事件を見るとさまざまな気づきがあります。
どんな事件も、自分と無縁のものはないのです。
■死刑確定になってしまいました(2012年2月20日)
光市母子殺害事件の差し戻し後の上告審判決は上告を棄却し、死刑が確定しました。
複雑な重いです。
この裁判に対しては、私は安田弁護士たちの言動に強い違和感を持ちましたが、それを読んだ見知らぬ人が、わざわざ私のオフィスまで、安田弁護士の書いた本を届けてくれて、私の考えへの疑問を呈してくれました。
安田さんのこれまでの活動もきちんと読ませてもらいました。
また、最初は私も自殺支持者でしたが、いろいろと考えているうちに、自殺反対に考えが変わりました。
私にとっても、とても気になる判決でした。
被告の育った環境も次第にわかってきました。
それを知らずに、考えていたことを反省しました。
誠実に考えれば、そうしたことは思いついたはずでしょう。
まだまだ私の視野は狭いです。
被告の生い立ちなどを知るにつれて、ますます死刑には反対になりました。
本当の犯人は、どうも違うところにあるような気がしてきたのです。
まさに先日書いた Wilfil blindness です。
しかし、安田弁護士たちのとった行動にはますます違和感が高まっています。
もっと普通の感覚で、そうした背景や情報を社会に誠実に伝えていけば、今のようなことにはならず、もしかしたら安田弁護士たちが目指している「死刑制度の是非」を議論できる状況が生まれたのではないかと思うのです。
安田弁護士の発言は、誠実に生きている生活者には耳を疑うものでした。
目線の高さも感じました。
私のように、素直に感覚的に生きている者には、嘔吐したくなるほどの嫌悪感を生む言葉でした。
それに専門家の傲慢さを感じさせるものでもありました。
安田弁護士の、本来の思いや誠実さは、残念ながら私には読み取れませんでした。
実に残念です。
最近は、死刑支持者が増えているように思いますが、これからも第2、第3の福田被告のような若者が出てくるかもしれません。
それがとても悲しいです。
被害者の家族の原告にとっても、死刑は本当に良かったのか。
考えることが多すぎる裁判でした。
裁判が結審しても、どうもすっきりしません。
■「見て見ぬふりをする社会」と「見ても見えない社会」(2012年2月23日)
米原子力規制委員会が一昨日公開した福島原発事故後のやりとりの記録が公開されました。
テレビのニュースで、3000ページを超える文書の映像とその一部の内容を見ましたが、そのすごさに感動しました。
しかし、これがアメリカのスタンダードなのでしょう。
記録さえ残さなかった日本政府とは大違いです。
小学校時代にアメリカの「知る権利」という考えを社会科で学んだことを今でもはっきりと覚えていますが、アメリカではその伝統がしっかりと残っているようです。
それにしても、その記録の仕方が人間的で実にいいです。
会話をそのまま再現していて、人の表情さえ感じられます。
これがアメリカの政府の「もう一つの顔」なのでしょう。
勝手な理屈で、密室の会議が行われる日本の政府とはかなり思想が違うのでしょう。
マスコミのミッションも全く違います。
公に従う文化か、公を監視する文化か。
もっともアメリカでも状況はそう楽観できないようです。
最近読んだ「見て見ぬふりをする社会」には、そうした事例がたくさん登場します。
お金万能のアメリカ社会にも、そうではない動きもまだ残っているようです。
ペンタゴン白書を内部告発的に公開したエルズバーグのような人が生まれる素地はなくなってはいないのでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_1.html
組織の一つの役割は、責任の明確化(構造化)ですが、現実には組織は責任を回避するための道具に利用されます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/12/post_6cfe.html
そうならないためには、よほどしっかりした情報管理が行われていなければいけません。
生々しい生きた言葉の記録をどう残し、どう検索できるようにしておくかは、私が会社に入った1960年代から話題になっていたテーマです。
情報技術は飛躍的に発達しましたが、管理思想はあまり変わっていないのかもしれません。
そのため、その後の「情報化」は、私には「非情報化」に見えています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/antiinfo.htm
それは「何のための情報」というテーマにおける「何」の議論が不十分だからかもしれません。
アメリカは日本以上にシステムの国で、主導権はもはやシステムに移っています。
1960年代に、それを予感した若者たちの反乱がありましたが、それをある意味で指導したチャールズ・ライクは、システムへの敗北傾向が強まる中で、痛々しい反撃の呼びかけを行いました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/09/post-0e17.html
しかし、金融システムに見るように、そのシステムの実体は人間には見えなくなり、もはや管理不能になっているわけです。
「見て見ぬふりをする社会」の著者マーガレット・ヘファーナンは、そうした事態に立ち向かうために、まずは現実をしっかりと見て、疑問を抱くことだと書いています。
米原子力規制委員会の公開文書は、その現実を見るための材料です。
この記録と公開を知って、アメリカにはまだシステムと戦っている人たちがいることを知りました。
アメリカ人ではないですが、少し前になったウィキリークスのジュリアン・アサンジもその一人です。
イラク戦争やアフガン介入、あるいは9.11以後の政府行動に関しても、こうした文書がきちんと残っているのでしょう。
アメリカには、第2、第3のエルズバーグが出てくる素地があるわけです。
日本では、現実を抹消するために記録を残さないようにしているわけですが、これでは「見て見ぬふりをする社会」どころか「見ても見えない社会」になっていくのかもしれません。
それが楽だと思う人が圧倒的に多 いのでしょうね。
私には生きづらい社会ですが。
■「他者の『人間の尊厳』に対する配慮」(2012年3月3日)
1週間ぶりの時評編です。
ホームページで明日、紹介するつもりですが、
友人の川本兼さんが「日本人は脱原発ができるのか」(明石書店)という本を出版しました。
川本さんは、近代を超える「新しい思想」として「新社会契約論」を提唱している人です。
国家から発想するのではなく、個々の人間の生活から発想した「社会契約」論ですが、その枠組みで「日本人は脱原発ができるのか」と問いかけています。
ぜひ多くの人に読んでほしいと思いますが、詳しくはホームページの本の紹介をお読みください。
ここでは、その本の「あとがき」で川本さんが書いている文章を紹介させてもらいます。
今回の大震災と大津波後の日本の状況は、日本人に対してもう一度、「他者の『人間の尊厳』に対する配慮に欠けた日本人」と「他者の『人間の尊厳』に配慮し合う日本人」のどちらを選ぶかを、私たちに問いかけているのかもしれません。
「他者の『人間の尊厳』に対する配慮」
これが川本さんの議論の重要な基準です。
脱原発ができるかどうかは、この配慮ができるかどうかと深くつながっていると川本さんは言います。
全く同感です。
そう思うと、最近の動きはあまり期待できません。
相変わらず、「他者の『人間の尊厳』に対する配慮」が欠けている活動が多いからです。
言うまでもありませんが、脱原発や反原発の活動においても、です。
挽歌編に書きましたが、先日、テレビで「日本人は何を考えてきたか」の第4回目「非戦と平等を求め」を見ました。
そこで幸徳秋水の「帝国主義」の文章が紹介されました。
長いですが、ぜひ引用させてもらいます。
思うに幼児が井戸に落ちようとするのをみたら、
誰でも走ってこれを救うのに躊躇しないだろうことは、
中国の孟子が言ったとおりで、我々も同じである。
もし愛国の心をして、本当にこの幼児を救うのと同質のシムパシー、惻隠の念 慈善の心と同様にならせることができるなら、愛国心は全く美しいもので、純粋で一点の私心もないのである。
私は、いわゆる愛国心が純粋な同情、惻隠の心でないことを悲しむ。
なんとなれば、愛国心が愛するところは自分の国土に限られているからである。
自己の国民に限られているからである。
他国を愛さないで、ただ自国を愛する者は、他人を愛さずしてただ自己の一身を愛する者である。
私が原発が嫌いなのは、その現場で「人間の尊厳」が踏みにじられていることを知ってからです。
それが変わらない限り、原発には反対です。
もちろん、その「現場」は国内だけではありません。
どうやって発電した電力かを使用者が選べるようになってきていることに期待しています。
■原発と原爆(2012年3月4日)
ホームページ(CWSコモンズ)に書いたものを、このCWSプライベートにも少し加筆して書かせてもらいます。
先日、「原爆投下と原発事故の奇妙な一致」という記事を書きましたが、その続きです。
その記事を読んだ一条真也さんから「原爆投下は予告されていた」という本のことを教えてもらいました。
一条さんは、その本について、すでにご自身のブログで取り上げていました。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110810/1312902090
一条さんからのお薦めもあり、私もその本を読みました。
軽い気持ちで読み出したのですが、その「まえがき」に書かれていた著者の古川愛哲さんの疑問にハッとさせられました。
「第二次世界大戦において、なぜ日本国内では、政治家や官僚、高級軍人の多くが生き残ったのか」
この疑問こそ、古川さんがこの問題に取り組みだしたきっかけなのだそうです。
あまり意識したことはなかったのですが、これは実に恐ろしい「疑問」です。
あまりに本質的な問いで、できれば問いかけたくない疑問です。
国家権力や支配原理ということから考えれば、答は明白だからです。
最近、「国家の犯罪」という言葉さえもが、NHKのドキュメンタリー番組でさえ、出てくるようになりました。
たとえば、シリーズで放映されている「日本人は何を考えてきたのか」の第4回で取り上げられた大逆事件について、解説者は「国家の犯罪」という言葉を明言されています。
私自身は「国家犯罪」ではなく「政府の犯罪」というべきだと思いますが、まあ同じようなものでしょう。
いつの時代も、国家政府は司法を使って「犯罪」を「正義」として遂行できます。
同書によれば、広島は西日本を統轄する第二総軍司令部がある「軍都」であったにもかかわらず、司令官と参謀は生き延び、高級将校のほとんども生き残ったというのです。
そして、「承知しながらも、原爆を投下させた人々」がいると書いています。
もしそうであれば、それは「政府の犯罪」です。
同書には、もっと生々しいイメージを感じさせる事実がいろいろと紹介されています。
そして、とても偶然とは思えぬようなタイミングで、本書執筆中に福島原発事故が起こります。
著者はこう書いています。
大日本帝国陸海軍の軍人の所業と、東日本大震災下における官僚の行動――この二つの点を結んだ線上に、本書が追い求めんとする事実はあった。
その事実とは、「強者が弱者を盾にして、あるいは強者が弱者を置き去りにして逃げを打った事実」です。
福島原発事故に関しても、同じような動きがあったことがいろいろと判明してきました。
実に悲しい話ですが、それこそが「強者」の本性ですから仕方ありません。
しかし、「この二つの点を結んだ線上」ではなく、その奥に見えるものもあります。
それは「実験」です。
文字にすることも躊躇しますが、私にはどうしても「実験」という言葉が頭にちらつきます。
原爆投下の前に、日本はすでに戦争終結に向けて動いていましたから、そもそも原爆は投下される必要はなかったはずです。
だとしたら、それは「実験」以外の何ものでもありません。
念のために言えば、「アメリカにとっての実験」(それは明白です)ではなく、「日本にとっての実験」です。
そして、今回の福島原発事故とその後の対応の動きはどうでしょうか。
そこに、とてもよく似た構図が感じられます。
「実験」などという言葉を使うのは不謹慎ですが、どうしても私にはその二文字がちらついてなりません。
ちなみに、私は原爆と原発は同じものだと考えています。
実際に深くつながっているのですから、分けて考えることなど出来るはずがありません。
しかし、原爆と原発の被災からの対応過程が、これほどまでに似ていることには驚きを感じます。
■インテリとは枠の中で行動するものではない(2012年3月4日)
先日紹介したテレビ番組「日本人は何を考えてきたか」の第4回目の案内役の一人は、フランス・ボルドー第三大学教授のクリスチーヌ・レヴィさんでした。
レヴィさんは、ユダヤ人の伯父をアウシュビッツで失った体験の持ち主だそうです。
日本に留学し、幸徳秋水の「帝国主義」に出会い、それをフランス語に翻訳されたそうです。
幸徳秋水や堺利彦へのコメントにはとても共感がもてました。
それはそれとして、もう一つとても興味深い指摘がありました。
もう一人の案内役は山地進さん(明大教授)でした。
山地さんのお話も私にはとてもわかりやすく納得できるものでしたが、山地さんの発言にレヴィさんが異を唱えたのです。
そもそもこういう番組ではっきりと「異を唱える」と言うのが新鮮でしたが、それ以上にその主張にハッとさせられました。
最近、私自身が忘れかけていることでした。
大逆事件の後、日本の社会主義は冬の時代を迎えます。
国家に対して異を唱えて行動を起こす人はいなくなり、日本はその後、どんどんと戦争に向かっていくわけです。
山地さんは、国家の考えややり方に反対していた人はいたが、当時の状況では行動は起こせなかった。
というのも、異を唱えるだけで懲役刑になったから動けなかったと発言しました。
つまり、統制が厳しくなり、行動しようにも行動できなかったというわけです。
私もそう思いました。
ところが、レヴィさんはそれは違うときっぱりと否定しました。
そして、インテリとは枠の中で行動するものではない、枠を超えて、つまり制度などに縛られずに行動するのがインテリだと言うのです。
極端に言えば、死を恐れるようではインテリとはいえない、というわけです。
たしかにそうです。
枠の中でいくら異を唱えていても、それはむしろ逆利用されるだけです。
最近の原子力関係の委員会に、まさにその典型例を見ることができます。
反対論を唱える学者を入れることで委員会は中立に装えるのです。
インテリとは枠の中で行動するものではない。
パラダイムを変えるパワーは、まさに知にあります。
いや、パラダイムを変えるパワーのない知などは、浅薄な知識でしかありません。
レヴィさんは、そういっているのです。
当時の社会主義者たちは、日本という枠の中でしか考えていなかったとも、レヴィさんは指摘しました。
そういえば、フランスがナチスに占領された時に、ドゴールは国外に政権を建てました。
ちょっと適切な例ではないかもしれませんが、レヴィさんの発言を聞いて、すぐにそれを思い出しました。
大逆事件以来、日本は社会主義の冬の時代を迎えました。
3.11以来、私たちにはどんなチャンスがあるのか。
冬でなければいいのですが。
死を賭した革命家がでなければ、春は来そうもありません。
■compassion(2012年3月5日)
10年ほど前から「大きな福祉」を理念にして、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて「自分の一歩」を踏み出している人たちのゆるやかな輪を育てる活動に取り組んでいます。
と言っても、これまた私自身の一歩という程度のささやかな活動です。
節子も一緒に取り組んでくれるはずでしたが、始めてしばらくして、節子が発病してしまったので、最初の展望とは違ったものになってしまいましたが、いまも「自分の一歩」として続けています。
それが「コムケア活動」です。
その活動を設計した時には、メイヤロフの「ケアの本質」に共感し、ケアを「関係性」として捉え、重荷を背負い合う関係を育てようと呼びかけました。
あるNPOに取り組む人からは、とても魅力的な言葉だが、重荷を背負い合うというと腰が引けると言われました。
私は、無理のない範囲で重荷を背負い合うことは生きることを楽にするだろうと思っていましたが、受け止め方はさまざまでした。
いま考えれば、「関係性」という発想が多くの人には弱いのだろうと思います。
昨年の3.11の体験は、そうした状況を変えたのかもしれませんが、まだ確信は持てません。
言葉としての「関係性」は広がってきましたが、実体としての「関係性」は必ずしも育っていないような気がします。
Compassionという言葉があります。
最近、出会った言葉です。
「神話の力」のなかで、キャンベルは「やさしさ」を考える鍵はcompassionだと言っているのです。
passionは「受難」であり、com は「共に」という意味ですから、「共に難に向かう」と言うことでしょう。
つまりは「重荷を背負い合う」ということです。
私が節子と会って、「結婚でもしない?」と誘ったのは、いかにも不謹慎のように響きますが、節子はその言葉の奥に、たぶん「重荷を背負い合う」関係性を感じていたと思います。
だからこそ、その不謹慎な誘いに乗ったわけです。
一緒に暮らしだしてから、どれほどの「受難」があったでしょうか。
たくさんあったようでもあり、なかったようでもあります。
重荷は、一人ではただただ辛いばかりですが、背負い合うと辛さと共に、希望や喜びが生まれるのです。
最近、被災地で生活再建に取り組んでいる人たちのドキュメントをよく見ます。
私など体験した事のないような過酷な状況からの再出発。
しかしそこに登場する人たちの表情には、時に喜びさえ感じます。
解決すべき重荷があり、背負い合う仲間がいる。
不謹慎ですが、時にうらやましくなります。
私は今、果たして重荷を背負っているのか。
その重荷を誰と背負い合えばいいのか。
それが最近わからなくなってきました。
片割れだった節子がいなくなると、思考が本当に混乱します。
■貨幣経済の本質(2012年3月7日)
もう数十年ぶりでしょうか、幸徳秋水の「帝国主義」を久しぶりに読みました。
先日、テレビで幸徳秋水の番組を見て、思い立ったのです。
そこにこんな文章が出てきました。
「資本家工業家が生産の過剰に苦しむと称する一面においては、見よ幾千万の下層人民は常にその衣食の足らざるを訴えて号泣しつつあるにあらずや」
現在の日本、あるいは世界の経済は、幸徳秋水の時代と何一つ変わっていないようです。
幸徳秋水の「帝国主義」に限りません。
たとえばラスキンやアダム・スミスなどの著作が最近実に新鮮に読めるのです。
もしかしたら時代は100年ほど前に逆戻りしているのかもしれません。
さてさて気の重いことです。
しかし、たぶん時代が逆流しているのではないでしょう。
ここにこそ、貨幣経済の本質があるのかもしれません。
「悪貨は良貨を駆逐する」というグラシャムの法則がありますが、貨幣の材質の悪化ではなく概念の悪化にも当てはまります。
地域通貨の世界では、よく「冷たいお金」と「あたたかなお金」と言われますが、貨幣はどんどん冷たくなる本質を持っているのかもしれません。
幸徳秋水の言葉を使えば、「資本家工業家」にとっては良い方向に、「幾千万の下層人民」にとっては悪い方向に向かわせるのが、貨幣です。
格差を生み出すためのツールが貨幣であることは言うまでもありません。
なぜなら貨幣によってこそ所有の限界が超えられたからです。
現物は、長期間保存すれば減価します。
富の保存手段としての貨幣が出現したことで、所有概念は変化し、格差を無限に増幅させられるようになったわけです。
経済の発展は「格差の縮小」と思いがちですが、「格差の拡大」と言うべきかも知れません。
しかし、それは「貨幣経済」の話です。
サブシステンス経済においては、たぶん格差の縮小が経済発展につながるはずです。
貨幣、つまり「お金」は実に悩ましいものです。
それにしても昨今の貧困現象は目に余ります。
今年になってどれほどの「餓死事件」がテレビで報道されたでしょうか。
飽食と餓死が並存することは決して矛盾はしないのでしょうk。
餓死があればこそ飽食がある。
これが貨幣経済の本質かもしれません。
こんなことを書き出したのは、どうも世論そのものが、「下層人民は常にその衣食の足らざるを訴えて号泣しつつある」方向に何の疑いも抱かずに動いているような気がするからです。
どうも昨今の経済理論には矛盾を感じます。
■知ることから生まれるものがある(2012年3月12日)
昨日、大阪で「自死を語り合える社会に」と言うテーマでのフォーラムがありました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info1.htm#120311
テーマには副題がありました。
「自死のこと、自死遺族の置かれた立場を知ることから生まれるもの」。
大震災が起こる前の年に流行した言葉の一つが「無縁社会」でした。
しかし、大震災後は、思いやり、絆、繋がり、支え合いという言葉がよく聞かれるようになりました。
社会が変わったようにも思いますが、しかし現実は相変わらず、支え合いとは程遠い事件がマスコミをにぎわしています。
流行語が無縁社会から絆に変わっても、そしてみんなの意識が変わり出しても、実際には何も変わっていないのかもしれません。
しかし、東北の被災地に行って、被災者と触れ合うことで、生き方を変えた人も少なくありません。
言葉だけでは私たちの生き方はなかなか変わりませんが、新しい世界を知ると、あるいは自分とは違った世界を知ると、生き方は変わります。
知ることから生まれるものがあるのです。
昨日は、そのことを伝えたかったのですが、思うように話を運べずに、とても無念さが残ってしまいました。
私の準備不足でした。
まだまだ知らない世界がたくさんあります。
この数年、自殺・自死のテーマに少しだけ関わっています。
そこから学んだこと、気づいたことはとてもたくさんあります。
自死遺族の世界を知るのが一番難しかったのですが、最近、少しずつその世界も見えてきました。
観察者的にではなく、私自身の思いに重なるものとして、です。
私は「病死」で妻を失いましたが、その体験が、それを可能にしてくれました。
「自死のこと、自死遺族の置かれた立場を知ることから生まれるもの」。
とても含蓄のある言葉です。
自死に限らず、気づかない世界、知らない世界に触れることで、人は変わります。
被災地に行かなくても、私たちは、周りの世界にちょっとだけ目を凝らすだけで、知らない世界が見えてきます。
それが生き方を豊かにしてくれます。
昨日のフォーラムで、もう一つ気づいたことがあります。
「知らせることで生まれるものもある」ということです。
知ることも、知らせることも、結局は同じだろうと思っていましたが、そうえではないことにも気がつきました。
昨日の話し合いの、まだ延長にいます。
「自死を語り合える社会に」というテーマの意味を、反芻しています。
フォーラムを開催する前に、もっとしっかりと考えておくべきでした。
めずらしく反省しています。
■障害者自立支援法改正案と分断の政治(2012年3月14日)
昨日の閣議で、難病患者を福祉サービスの対象にすることなどを柱とする障害者自立支援法改正案が決定されました。
障害者自立支援法は成立当時から問題が指摘されていましたが、障害者による違憲訴訟を受けて、一時は長妻厚労相(当時)が廃止を約束したこともありますが、結局は弥縫策で決着された感じです。
最近の立法界には、理念がなく、制度論で終始していることの一つです。
そして、肝心の当事者たちの声の多くは聞き入れられません。
制度がいくらできても、それで問題が解決されるわけではありません。
昨今のいたましい「餓死事件」は、もし制度がうまく機能していれば、防げたものも少なくありませんが、制度を生かすのは「人のつながり」です。
そして、注意しないと制度は「人のつながり」をこわします。
介護保険はそうした制度の一つかもしれません。
制度化の恐さは、人を分断することです。
今回の障害者自立支援法の見直しに関連して、制度の谷間のない障害者福祉の実現を求める実行委員会の共同代表の山本創さんたちは、厚生労働大臣宛に、「病気別で分断する過去を改め、障害手帳のないその他慢性疾患をもつ人も医師の意見書で補い、「制度の谷間」をなくすことを法律上、明確にしてください」と訴えましたが、今回の見直しではその声は届かなかったようです。
山本さんたちの要望書で私が印象的だったのは、「病気別で分断」するというところです。
今の政治はまさに「分断の政治」です。
お上の政治の要は「分断」です。
しかし住みやすさを目指す政治は「包括」でなければいけません。
そこに政治の本質が見えてきます。
テレビでも報道されていますが、難病に苦しむ人は少なくありません。
しかし、その難病に「名前」がつけられるかどうか、さらにどういう「名前」がつけられるかで、支援の対象になったりならなかったりします。
患者と接する医師の判断よりも、現場をしらない厚生官僚やお抱えの医師たちが支援対象に入れるかどうかを決めるのです。
おかしな話ですが、これは水俣病の時の構造から何も変わっていないということです。
現実は複雑で、難病も人それぞれです。
名前や中途半端な医学的見地からの知識などで、難病を分断する仕組みは、どう考えてもおかしいですが、残念ながら私たち自身も「分断の思考」から抜けられずにいます。
障害者自立支援法改正案には、いまという社会の本質が示唆されているような気がしてなりません。
■誰かをマネージしたいのなら、まず自分をマネージすることだ(2012年3月14日)
大阪の高校の卒業式で、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加え、実際に歌ったかどうかを管理職が口の動きでチェックして府教委に報告していたことが話題になっています。
これに対して、橋下大阪市長は「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送ったそうです。
私は橋下さんは何となく好きですが、彼の教育論はまったく受け容れられません。
まあ彼も徹底的に洗脳された優等生なのでしょう。
君が代がなぜ歌えないのか、に関しては以前書いたことがありますが、ここでの問題はそんなことではありません。
「これが服務規律を徹底するマネジメント」という発言です。
アメリカで20年ほど前に、メッセージ広告と言うのが話題になったことがあります。
ある企業が新聞にアメリカ国民に向けてのメッセージ広告を出したのですが、それが話題になり本になりました。
"Gray Matter"(翻訳書名「アメリカの心」)です。
そのメッセージ広告の一つに「脱管理のすすめ」というのがあります。
その最後は次のように書かれています。
もし君が誰かをマネージしたいのなら、
まず自分をマネージすることだ。
それに上達すれば、君ははじめてマネージを卒業する。
そしてリードしはじめるのだ。
マネジメントを強制と勘違いしてはいけません。
服務規律が徹底できないのは、必ず何らかの理由があるからなのです。
それへの想像力がなければ、経営はできません。
■経済と共済(2012年3月18日)
昨日、共済研究会のシンポジウムを開催しました。
テーマは「改めて共済のあり方を考える」でした。
この『改めて』には2つの思いを込めました。
この「改めて」という表現には2つの意味を込めています。
共済事業はいまマネタリーグローバリズムの流れのなかで、金融資本に絡めとられようとしています。
そのあたりのことはこれまで何回か書きました。
その動きは、TPPに象徴されるように、ますます強まっています。
今年は、国際協同組合年なのですが、日本の協同組合や共済事業は壊されようとしています。
しかしそれは身から出たさびかもしれません。
日本の共済事業の多くは、いまや「安い保険」と言われるように、自らが金融経済事業になってしまっているのです。
それではマネタリーグローバリズムを批判できません。
そうした認識に基づいて、ちょっと立ち止まって、改めて共済事業とは何なのか、共済の理念とはなんだったのか、を考えることが必要ではないか。
これが第一の意味です。
そうした流れの中で、昨年、東日本大震災が起こり、福島原発事故が起こりました。
そして、まさに支え合いや助け合いの仕組みや活動が求められています。
そうした状況の中で、共済事業がこれまで積み上げて来たノウハウやネットワークを活かして、いまここでできることはいろいろとあるのではないのか。
そして、そこにこそ、経済事業化している現在の共済事業とは違った、新しい共済事業の地平が開けてくるのではないか。
それが、「改めて」に込めた2番目の意味です。
こうした認識に基づいての話し合いをしたかったのですが、なかなかそこまでは議論を持っていけませんでした。
しかし何人かの方は問題の所在を改めて認識してくれたようです。
ところで、このシンポジウムに先立ち、共済のイメージをフェイスブックで問いかけてみました。
そのなかにハッとさせられるコメントがありました。
「経済=経国済民=国を治め人民を救うこと」です。それに対するアンチテーゼとして、「共同して助け合うこと」という「共済」があるのではないかと言うのです。
「経済」も「共済」も、いずれも「済」の文字がついています。
つまり、国による済度か共に取り組む済度か、なのです。
この一言で、共済の理念やビジョンがすべて見えてきます。
シンポジウムではその話も最後にさせてもらいましたが、残念ながら会場からの反応はあまり感じられませんでした。
この一言で、私にはすべてが解けたような気がしたのですが、いささか私の想像力が過剰なのかもしれません。
しかし私の姿勢はこれですっきりしました。
私にとってはとてもすっきりしたシンポジウムになりました。
■被曝か停電か(2012年3月24日)
テレビのニュースで、原発稼動を再開しないと停電の怖れがあるという発言を聞いて、娘が「被曝か停電だったら停電がいい」と言いました。
全くその通り、原発を再稼動しないと停電になるかもしれませんという電力会社や政府の発言は、ばかげた脅迫でしかありません。
しかし、それを真に受けている国民が多いのは不思議です。
両者は比較などできようもない話なのです。
同じようなシェーマはほかにも少なくありません。
原発のある地元の人がよく言うのは、原発は不安だが原発がなくなったら仕事がなくなるという発想です。
たしかに仕事がなくなっては生活は苦しくなります。
一見これは合理的な命題だと思いがちですが、今回福島で被曝した人たちはどう思うでしょうか。
両者は比較すべきものではありません。
他者に迷惑をかける仕事は許されないという視点に立てば、原発の仕事への見方は変わらないでしょうか。
しかしその渦中にいる人には、受け容れられない話かもしれません。
しかし、私たちはもっと勇気を持つべきです。
生活をしていく上で、お金より大切なものがあります。
それを忘れてはいけません。
ほかにもこうしたトリック的な二者択一の命題は少なくありません。
その罠にはまってしまってはいけない。
私はいつもそう自戒しています。
娘の「被曝か停電か」の言葉は、改めてそのことを気づかせてくれました。
■結局は何も変わらない原子力行政(2012年3月27日)
関西電力大飯原発の再稼動に向けての動きが着々と進んでいるようです。
すべての原発がとまってしまっても、電力不足にはならないという事実をつくりたくないのでしょうが、あまりにもひどい進め方です。
それにしても、3月23日の原子力安全委員会の臨時会議はひどいものでした。
「2次評価なしでやるのは無責任だ」という市民たちの声を無視して、班目委員長は文書を読み上げ、5分後に「これを本委員会の見解とします」と述べて会議を打ち切ったのです。
まともな感覚を持った人とはいえません。
お金で買われた御用学者と思われても仕方がありません。
福島原発事故に直接関わりのある学者たちが評価をしている異常さも含めて、怒りを感じます。
この発表を受けて、政府は大飯原発の再稼働に向けた検討を始めたそうです。
新聞報道によれば、今週中にも関係閣僚で安全性を確認し、再稼働可能と判断するようですが、彼らにとっての「安全性」とは一体何なのか。
昨年の事故直後には、日本の原子力行政への反省が関係者からも出ましたが、時間と共にそうした人たちは舞台からいなくなってきているように思います。
それにしてもなぜ班目さんのような人が今もって責任ある場所にいるのでしょうか。
不思議でなりません。
科学技術者への不信感はますます高まってくるばかりです。
■30年前の原発事故への警告(2012年4月6日)
最近の原発再稼動への動きに関しては、テレビなども疑問符を投げかけながらの報道が増えていますが、そんな事はお構いなしに既成事実をどんどん積み上げている政府のやり方には驚きを感じています。
福島原発事故のしっかりした事実確認ができないままに、なし崩し的に安全性確認の段取りを積み上げてきています。
古舘さんにしても、ほかのキャスターにしても、本気で異議申し立てをする気はないのでしょう。
アリバイ工作的な発言に終わっています。
そもそも日本における原発推進は、その「安全性神話」に依存して、学者や技術者やマスコミなどのほとんどが、それに疑問をはさまなかったことに大きな問題があります。
先日、ある集まりでかなり信頼できる技術者の皆さんと話し合っていた時に、今回の原発事故が起きるまで、燃料棒を原子炉から抜けば原発は停止し安全になると思っていたとある大学の名誉教授が話されました。
同席していた大企業出身の高名な技術者の方が、私もそう思っていて反省していたが、それを聞いて私だけではなかったとホッとしたと話されたのです。
お2人とも、とても誠実で見識があり、実践的な活動もされている研究者です。
その会話に私は唖然としました。
その気になれば、そんなことは1970年代の新書レベルの本でわかったはずです(たとえば武谷三男さんの岩波新書「原子力発電」)。
そこで、技術者の人たちはやはり他の分野には無関心なのですね、むしろ文科系のほうが知っているかもしれませんね、と余計な一言を発言させてもらいました。
そこに含意させた「とげ」はたぶん伝わらなかったでしょうが。
原子力発電のコストのほうが火力や水力よりも高いことも、1980年代にきちんと学ぶ姿勢があった人にはわかっていたはずです。
しかし経済学者は、技術者によるそうした問題提起は「想定外」の世界に葬り去りました。
そこまで考慮すると、原発は産業的には成り立たなかったからです。
まさに新古典派経済学の「論理の組み立てに都合のいい小さな世界での議論」の典型です。
そのあたりの経緯は、アメリカにおける原子力事故に関する賠償保険制度の検討の経緯をみればよくわかります。
これらの情報は1070年代には日本でも誰でも読める一般的な書籍で出回っていました。
たとえば、いま私の手元にある1冊は室田武さんの「原子力の経済学」(日本評論 1981年出版)ですが、そこにもそうした話は紹介されています。
長くなりそうなので、明日に続けますが、その本の「あとがき」で室田さんは次のように書いています。
さきに『エネルギーとエントロビーの経済学』という小著を出版した際、そのはしがきにおいて、私は、次のように書いた。
スリーマイルアイラソドで起こったこと、あるいはそれをはるかに上回る終末世界は、明日にでも、福島県で、あるいは茨城県で、また静岡県、福井県、島根県、愛媛県で発生しうることである。
「ほとんど起こりえない」と専門家が保証していたこと以上のことが、すでに現実に起きてしまったのだから、私たちは、「いつでも起こりうる」という前提に立って、あらためて私たちの生活を考え直す方がよさそうである。
30年前にすでにこうした警告が出ていたのです。
本当は「安全性神話」などもうとっくにこわれていたのです。
ちなみに、「エネルギーとエントロビーの経済学」は1979年の出版で、かなり読まれた本です。
きちんと物事を考えていた技術者や経済学者であれば読んでいなければおかしい本です。
原発の安全神話を否定しなかったことの問題を書こうと思っていたのに、話が違う方向に行ってしまいました。
その話は、明日書きます。
原発の話は、書きだすと際限なく、しかもどうしても感情的になってしまうので、うまくかけないのが問題です。
いやはや困ったものです。
■原発の「安全神話」は消えていないようです(2012年4月7日)
今朝の朝日新聞のトップの見出しは、「大飯原発、来週にも安全宣言」です。
記事によれば、来週中にも大飯原発の安全を宣言するそうです。
『安全』とは一体何なのか。
原爆を体験した日本人は、「放射能アレルギー」が強かったと思います。
しかし1970年代の日本人の前には、それを忘れさせるような「豊かな生活」の人参がぶら下げられました。
そして、「原子力の平和利用」という言葉で、原爆と原発を別物だと思うようになりました。
原発への反対運動は残りましたが、世論はなし崩し的に「安全神話」を信奉するようになってきました。
その上、原発が「エコ」などというとんでもない思いさえ植えつけられたのです。
テレビでは草野さんのようなアナウンサーが、それに加担しました。
その草野さんがまだテレビに出ているのを見ると、この人には脳があるのだろうかとさえ思います。
また話がそれそうですね。反省、
実は、私自身、「豊かな生活」という人参に魅了されそうになった時期がありました。
それに気づいたのは1980年代に入ってからです。
福島原発事故は原発の「安全神話」を壊したといわれました。
とんでもない、安全神話はもうとっくに壊れていたのです。
それについては昨日少し書きましたが、1970年代にはすでにそえは明らかになっていたはずです。
1980年代にはもしかしたら、エネルギーのあり方が変わるかもしれないという期待が生まれましたが、経済につながった技術者たちは、結局はそうした議論を脇に追いやっていきました。
そして、私は会社を辞めました。生き方を変えようと思ったのです。
1999年、茨城県東海村のJCOがウラン加工工場臨界事故を起こしました。
その事故野調査委員会の報告の冒頭には、「原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求められている」と書かれてありました。
そこでも原発の安全神話は否定されていたのです。
それを知らない技術者がいるということ自体、私には信じ難いことです。
そもそも「絶対安全」などという概念はありえません。
技術の安全性とは、安全でないことを前提にして、安全でなくなった時にどうするかを考えることだろうと思います。
安全神話は、安全性への検討を封じ込めるものでしかありません。
「想定外」という言葉が一時期よく使われましたが、安全でないことを想定の外部に追いやって、安全の状態の中で安全性を考えるような議論が横行していました。
発電コストの議論も全く同じ構図です。
そしてそれは、再稼動させるための「安全基準」を策定するという、今の政府の発想に重なっています。
つまり、あれだけの事故を体験しながら、まだ発想を変えていないのです。
そんなことをする人は、馬鹿と言うよりも、犯罪者と言うべきだろうと思います。
また話がそれそうですね。自重、
しかし、首相がそうした発想をするということは、まだ日本では原発の安全神話が消えていないということなのでしょう。
そして、同時に「豊かな生活」信仰も捨てていないのでしょう。
事実、脱原発か雇用か、とか、脱原発か停電回避か、などといったおかしな二者選択がなんの不思議もなく語られています。
次は脱原発か雇用(仕事)かの話を少し書きたいと思います。
それは決して対立構造にはないのです。
■原発の安全性と原発の危険性(2012年4月8日)
フェイスブックに載せたら、原発は安全かどうかで華苦、危険な存在ですとコメントをもらいました。
それでまずそのことを書こうと思います。
原発にはいくつかのタイプがありますが、たとえば現在のタイプの原発は運転するとプルトニウムが発生します。たとえば福島の原発一基を1年間運転すると200キロ以上のプルトニウムが発生するそうです。今回の福島原発事故も、そのプルトニウムの取り扱いが大変なわけです。
プルトニウムはあらゆる生物のDNAに変異を与え、しかもそれは半永久的に残ります。
さらにプルトニウムは10キロもあれば原爆がつくれるそうです。
ある技術者に原発が攻撃されたら防ぎようがないでしょうと質問したら、原発は攻撃されても原爆のように爆発はしませんよ、と軽く言われてしまいましたが、プルトニウムが飛散したら十分に大変なはずです。
プルトニウムが発生し、それを処理できないということだけでも、私は原発には否定的です。
つまり、フェイスブックである人が書き込んだ通り、原発の安全性以前の問題として、原発の危険性という問題があるのです。
この両者は、違う問題だと私も思っています。
プルトニウムがほとんど発生しないトリウム溶融塩炉というのもあって、最近またそれが話題になってきていますが、それに関しても私は懐疑的です。
ともかく原子力関係の技術者の視野は、あまりに狭すぎることをこれまで何回も見てきましたから、信頼はできません。
■吹田の合戦でのやりとり(2012年4月8日)
今日は、脱原発と雇用確保は対立したものではなく、むしろ脱原発は雇用拡大につながるということを書く予定ですが、どうもそこに行く前に書きたいことが出てきてしまいます。
昨夜、古い本がまた1冊出てきました。
武谷三男編の「安全性の考え方」(岩波新書)です。
出版されたのは1967年です。
その本の原子力の教訓と言うところに「吹田の合戦」という面白い話が出てきました。
1957年(昭和32年)に京都大学や大阪大学の学者たちが宇治や高槻に原子炉を設置するという動きがあったのですが、それを知った市民たちが反対運動を起こし、吹田市役所で京大・阪大の原子炉当事者と立大の武谷教授との立会討論会が開催されたのです。それが「吹田の合戦」と言われたのですが、その時の速記録の一部が引用されていました。
実に面白いので、長いですが、一部を引用します。
笑えます。
立教大学教授武谷三男氏
文明の利器、特に原子力というものは非常な危険を内蔵しているものであります。ですから、これを簡単に扱ってもらっては困るんです。原子炉は絶対安全というようなことをおっしゃっている方がどうやらいらっしゃるようです。安全ということも大変疑問であります。安全でないからこそいろいろの防御設備をして、鉄の容れ物に全体を入れてみたり、いろいろ苦心惨憺するのであります。ですから、それを軽々しい態度で、こうやれば絶対安全、ああやれば絶対安全というようなことを言うのは非常に間違った態度であります。それは原子炉の本質的な問題を御存じない、原子炉の構造をいろいろトレーシソグ・ペーパーでお描きになったことはあるかも知れませんが、原子炉の根本的な態度、本質的なことについては御存じないと言われてもしようがない。すくなくとも絶対安全とか、また安全とかいうような言葉は言うべきではない。あくまで安全にしたい、する努力をするという態度で何時も言う必要があるのであります。そういう点からいうと、原子炉を置く場所という点についても細心な注意を払わなければならない。こうやれば安全だからどこへ置いてもいいだろうというようなやり方はいけないのであります。一昨年のジュネーブ会議にアメリカの原子炉安全委員会から出しました報告書にも、「原子炉は十年間動かした人でも最初の一日のときのような細心の注意を忘れては危険である。原子炉は本質的に危険なものである。主な川の流域には置いてはいけない。」ということが書いてあります。それから水源地の近くなどというところは避けねばならんということは、大体多くの人も認めていることだと思いますし、私はたとえ人が認めていなくても、私はそういうことはやってはいけないというふうに考えております。それからまた、たとえ絶対安全でも、人々が心配しているというときにそういうものを置くべきではありません。
大阪大学助教授S氏
ただいまは武谷先生から有益なる精神訓話を拝聴いたしまして、まことにその通りでございまして、今後ともあのお話を肝に銘じてやるつもりであります。原子炉はもちろん核分裂を基礎とするものでございますから、原理においては原子爆弾と変るところがないのでございます。・・・以下略
武谷さんは反対派です。阪大のS教授は推進派です。
S教授が、「武谷先生から有益なる精神訓話を拝聴いたしまして」と話しているところに、事の本質を感じますが、その後の竹谷さんの反撃も実に面白いです。
まあそれはともかく、ここでは2つのことがすでに指摘されているのです。
絶対安全とか、また安全とかいうような言葉は言うべきではないこと。そして原子炉は本質的に危険なものであること。
原発の安全神話など、最初からなかったのです。
しかし、大阪市民や京都市民は、遠くの福井に設置したら自らが安心だと思ったのです。
東京都民は茨城や福島だったらいいだろうと反対の声を次第に立てなくなっていったのです。
当時の本を読めば読むほど、問題はみんな明らかになっていた気がします。
私たちは、それを「豊かな生活」のために、脇に追いやってきたのです。
まずは自らのそうした生き方を反省しなければいけません。
反対行動はそれからです。
■脱原発と雇用のスラップな関係(2012年4月8日)
前にも一度書いたことがありますが、「脱原発」したいが雇用の関係で原発運転は継続してほしいと思っている人が少なくありません。
そのため、原発の立地地域では、「脱原発か雇用か」という論議がなされているようです。
しかし、これは全くおかしい話です。
脱原発の選択が行われ、各地の原発の運転が止まったり、原発の増設がなくなったりするとします。
そうなったらそこで原発関係の仕事はなくなるのでしょうか。
原子力関係の技術者は不要になるでしょうか。
そんなことにはなりません。
原発は運転を止めたらそれで終わりではないのです。
脱原発していくために、原発の解体処理はもちろんですが、そこに残っている核燃料廃棄物をどうするかという重大な問題が残ります。
原発を安全に停止しても、その後、多くの仕事が発生するでしょう。
むしろ雇用は増えるかもしれません。
自動車工場を閉鎖するという話とは全く違います。
チェルノブイリ事故の対応でわかるように、膨大な仕事が残ります。
事故処理と平時の運転休止とは違うでしょう。
しかしプルトニウム処理で象徴されているように、原子力発電は開発途上の技術ですから、技術者が解決すべき課題は山積みのはずです。
発想を変えれば、原発立地地域にとって、脱原発で雇用拡大する可能性もあるはずです。
似たような事例では、八ッ場ダムが建設中止になると地域の経済は壊滅し、雇用もなくなるといわれました。
そうでしょうか。たぶんそんなことはありません。
仕事がなくなるのは、それに規制した汗しない人たちだけです。
つまり仕事の体系や構造が変わるだけです。
いささか抽象的に書いているので、あまり説得力はないかもしれませんが、仕事というのはビジョンや組み立てによって、いかようにも変わりうるということです。
脱原発したら雇用がなくなる、ダムをやめたら雇用がなくなるというのは、単なる恐喝に過ぎません。
裁判の世界にはスラップ訴訟というのがあります。
権力体制への異議申し立て行動をつぶすために、企業や政府などの優越者が起こす「恫喝・発言封じなどの威圧的、恫喝的あるいは報復的な訴訟」です。
私には、それのバリエーションのように感じます。
雇用という発想そのものが、そもそも「奴隷の発想」ですが、脱原発と雇用を同じ次元で考える過ちには注意しなければいけません。
脱原発で、脱雇用するくらいのビジョンが必要かもしれません。
■フラクタルな構図(2012年4月11日)
手塚治虫の「火の鳥」には、人間が作ったロボットがロボットを作り出し、人間に似せて作った第1世代のロボットとは違うロボットが生まれてくる話があります。
私の記憶なので、少し不正確かもしれませんが。
最近の社会状況を見ていると、まさにいまそうした状況に私たちはいるのではないかと思うことがあります。
ただし、「火の鳥」と違って、神が自らに似せて人間を作り、その人間が神とは違う人間を作り出したということです。
私は第1世代の人間だと自負していますが、最近、そうではない人間が増えているような気がします。
その典型は小泉純一郎や野田首相です。
彼らには「神の心」が感じられません。
まあそのあたりの話になると、とてもとても語りきれませんので、今日は別の話です。
第2世代のロボット、もしくは人間には、あるモデルが組み込まれています。
大量生産型のモデルです。
そしてその行動のベクトルは「ソリューション型」です。
ソリューション発想は、外部に問題を作り出すことです。
ですから、自己保存のために、問題を創出しつづけるという本能が組み込まれています。
こうしたことは、これまでも断片的に何回か書いてきましたが、こうしたことを前提に、今の社会の動きを見ていくといろんなことが見えてきます。
東電が電気料金値上げをしようとしていますが、電気使用者は、まずは東電がコストダウンに努力すべきだと主張します。
政府は消費税増税を打ち出していますが、国民はまずは無駄をなくすべきだといいます。
両者は全く同じ構図です。
実はこれが近代のパラダイムだろうと私は思っています。
問題は常に相手にある、そして問題を作り出すことに自らの存在価値を見いだす。
しかし、そこからは何も生まれていかないだろうと、私は思います。
昨日からジョーゼフ・キャンベルの「神々の沈黙」という大著を読み出しました。
副題に「意識の誕生」とあるのですが、人がいつ意識を持ち出したのかという話です。
神は、自らの意のままに動く人類を創ったのに、その人類が意識を持ち出してしまったのです。
そして、いま、その意識を持った人類が、自らの意のままに動くロボットを作りだした。
と、実は私は思っていたのですが、この本を読みながら、どうももう一つの大きな流れがあるのではないかという気がしてきました。
人類を意のままに動かす新しい人類(新しい神)が生まれだしているのかもしれません。
そしてその人たちによって、意のままに動かされている人間が増えてきているのが現在かもしれません。
野田首相や東電の社長や、経団連の会長を見ていると、そんな気がします。
そして彼らの言動は奇妙に似ているのです。
彼らがめざすのは、もしかしたら平安で持続可能な世界かもしれません。
言い換えれば、機械的な変化のない世界、エントロピーが極大化した死の世界ともいえます。
私はそんな世界には住みたくはありません。
それにしても、どうしてみんな紋切り型の思考しかできなくなってきてしまったのか。
そして思考と実践を切り離す生き方に違和感を感じなくなってしまっているのか。
実に不思議です。
かくいう私も、多分、その大きな流れからは抜けられずにいるのでしょう。
「神々の沈黙」は500頁を超す大著なので、まだ三分の一しか読んでいませんが、実に新鮮です。
■世界が見えなくなってきているような気がします(2012年4月18日)
最近、新聞を見ていて感ずるのですが、報道されているのは大事件や話題になりやすい記事ばかりで、実は社会で起こっているはずの、そうした「事件の萌芽」を予知させるような現場の動きはほとんど出てきません。
私は新聞の小さな記事が好きなのですが、最近はそうした記事も少なくなりました。
あっても芸能ニュースや生活情報のようなものが多いです。
それにどの新聞もほぼ同じようなものばかりです。
おそらく新聞社には現場を回る記者が少なくなったからでしょう。
テレビは、さらにひどく、新聞記事の紹介のような報道が多くなりました。
事実を発見するという報道の姿勢は薄れ、話題になったことの話題をさらに大きくするような報道や読者の好奇心に合わせたような記事ばかりです。
現実に何が起こっているのかが見えにくくなっているような気がします。
ネットを通じて流れている情報も、かなりの偏りがあります。
それにネットだとなかなか関心事以外の情報が目につきにくい気がします。
こういう情報環境にいると、何やら世界の成り立ちはいとも簡単に思えてきてしまいます。
その上、問題が複雑になってきているのに反比例して、その解釈は白か黒かのような単純化が進んでいます。
たとえば原発もTPPも賛否がわかれ、いずれの側もその論拠はかなりシンプルです。
ですから話し合いも成り立ちません。
もしかしたら自分では考えていないのではないかと思うくらい、紋切り型の賛成論や反対論が多いです。
みんな世論の歯車になってしまっているようです。
もう一つの「やりきれなさ」は、言葉と行動が切り離されていることです。
たとえば、テレビに出ている人たちは盛んに原発再稼動は急ぎすぎだといいますが、政府はそんなことなど気にしているようには思えません。
国際社会の呼びかけを気にせずに、「人工衛星打ち上げ」を決行した北朝鮮と日本の政府はなんら変わることはないと思えるほど、世論や識者の意見は無視されています。
時々、異論を唱える政治家もいますが、TPPの時のように結局はただ意見を言うだけでそれが無視されても行動を起こしません。
テレビで話している人たちも、本気でそう思っているのなら行動を起こせといいたいですが、そういう思いは感じられませんし、行動を起こす気配はありません。
ただただ観察し、他人事で賢く語っているだけです。
現場の声や重いなどとは全く無縁です。
言葉が力を失い、行動(現実)と切り離されてきているのです。
しかも、その言葉はもはや「個人の言葉」ではありません。
気をつけて聞いていると、ほとんどの人が「同じ言葉」を語っています。
先週、「神々の沈黙」と言う本を読みました。
その本によれば、人間が意識を持ち出したのは3000年ほど前だそうです。
そして今、私たちは、「その意識」を手離そうとしているような気がしてなりません。
意識は「言葉」によって育ってきました。
言葉の力が無くなってしまえば、意識がなくなるのは当然です。
そして、見えない世界の中で生きていくには、神々の指示に依存したくなります。
また「神々の時代」が到来するのかもしれません。
■当事者の時間感覚と社会の時間感覚(2012年4月19日)
消費税問題や原発再稼動などの騒ぎの中で、ともすると忘れられがちなのが、地道な政策実行です。
原発再稼動ほどのスピードで取り組むべき課題は少なくありません。
数少ない大型問題に目が奪われている背後で、何が行われているかをきちんと見ておく必要があります。
たとえば、一昨日、報道された、薬害を防ぐために医薬品行政を監視する第三者機関の設立法案をめぐる動きです。
長妻厚労相(当時)が薬害肝炎訴訟の原告団に今年の通常国会に法案を提出することを約束し、その後の大臣もそれを継承してきていますが、厚労省は反対しているようです。
昨日の記者会見で、小宮山厚労相は、今国会への法案提出の見通しは立っていないと話しました。
新聞記事によれば、政策を議論する審議会は新設しないとした1999年の閣議決定を理由に、厚労省は反対しているようですが、なんともまあおかしな話です。
つまり政府が機能していないということです。
これはほんの一部のことであって、実行力を失った政府に対して、霞ヶ関は集団サボタージュをしているようにさえ感じます。
しかし、そうした動きに関心を持つ人は少なくなってきています。
消費税問題や原発再稼動に目が奪われてしまっているからです。
その上、最近は尖閣諸島問題までが人々の耳目を吸い取りだしています。
長崎県西海市で2人の女性が殺害された、ストーカー殺人事件の被害者の夫が、3つの地域の警察にいくら訴えてもまじめに対応してもらえずに、ついには殺害されてしまった怒りをテレビで語っていましたが、それと同じ構図がここにあります。
当事者にとっての時間感覚と社会の時間感覚は明らかに違います。
切迫感も全く違うでしょう。
薬害の被害者にとっては、今まさに日々苦しんでいるわけです。
当事者にとっては、時間単位、時には分単位で考えますが、制度をつくろうなどという人は年単位で考えます。
当事者には個人が問題になりますが、制度を作る人は数量が問題になります。
そこに大きな意識の違いが生まれます。
昨夜も北朝鮮に娘を拉致された横田夫妻がテレビで語っていました。
お2人にとっては、世界は全くとまっているように思えるでしょう。
どんな問題も、当事者にならないと見えてはこないのです。
そこにこそ、大きな問題があるように思います。
当事者から発想して行動するか、社会から発想して行動するか。
国家のパラダイムを変える時期に来ているように思います。
ちなみに私は、この10年以上、前者の発想で生きようとしています。
■原発にとっての「地元」(2012年4月20日)
ブログでは時々書いていますが、「問題」をどう設定するかで、その人の立ち位置や世界が見えてきます。
日本の学校教育は、問題を解くことを目指しており、日本人の多くは問題を立てるこが苦手ですが、主体性を持って生きるためには問題は自分で立てていくとが不可欠です。
日本人に主体性や自主性がないのは、あるいは家畜のように従順なのは、与えられた問題を解く教育のせいかもしれません。
たとえば、大飯原発の再稼働に関連して、「どこまでが地元なのか」という議論があります。
私にはまったく馬鹿げた問題設定です。
昨年の福島原発事故で、少しは認識されたのではないかと思っていましたが、相変わらず「お上の設定した問題」の範囲でしか、みんな考えていないような気がします。
要は、みんな自分だけの生活を守りたいだけで、結局は家族を海外にいち早く避難させたという東電の前の社長と変わりません。
原発には「地元」などありません。
原発を立地する時には、たしかに「地元」概念はありますが、「地元概念」が権力の支配のための常套手段であることはいうまでもありません。
権力にとっては、「地元発想」はまさに「分断」発想だからです。
まもなくおおい町と小浜市がいがみあい、福井と滋賀、大阪がお互いを非難しだすでしょう。
地元発想とは、そういうことです。
枝野さんの言動は、まさにそれを意図しています。
大飯原発が事故を起こしたら、滋賀や京都ではとどまりません。
福島がそうであったように、立地地域の住民だけが当事者ではないのです。
お金を貰うのは立地地域の人だけですが、被害は全世界、さらには未来の世代にも覆いかぶさっていくのです。
そんな想像力も持たずに、地元がどのこうのと議論している状況を見ているとやりきれなくなります。
■荒れ地のなかで自分の軌道を見つけることの大切さ(2012年4月24日)
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、有名な聖杯神話は「荒れ地」と呼ばれる土地に活気を取り戻す物語だと話しています。
この頃、つくづく、いまの日本は「荒れ地」になってしまっていると思います。
人に会うことが少ない、荒れ地です。
こんなことを書くと友人知人から怒られそうですが、正直、そんな気がして、さびしいです。
キャンベルはこう話します。
「荒れ地」では人々が主体的に生きることを放棄して、義務的に行動しています。自分の手で獲得したのではない公的な役割や地位を継承している状態です。それが、誰もが偽りの人生を営んでいる「荒れ地」の姿です。
ますます、友人知人を失いそうですが、このブログを読んでくださっている友人知人は、そんな人生には満足していないでしょうから、わかってもらえると思います。
こういう私も、自信を持って、偽りの人生ではないと言いきるほどの自信はありませんし。
ヤンベルはさらに言います。
「荒れ地」とは、生きる活力のなくなってしまった場所です。人々は生活のために仕事をし、中年になって仕事が何の意味も持たないことを発見するのです。
私も46歳の時に、その問いを持ちました。
そして、仕事の概念を変えました。
昨日、知人の訪問を受けました。
そして「壁にぶつかった時、どうしますか」と問われました。
その人は、「自分の考えと社会のそれとをすり合わせるのが難しい」とも話されました。
私は、「壁の外で生きているのでぶつかることはないし、すり合わせなどしたこともない」と話しました。
もう一度、キャンベルを引用します。
聖杯にしても他のほとんどの神話に関しても、その意味するところは、人生の原動力を見つければ、その軌道は自分の中心から発するものになり、社会から押しつけられたものを軌道にしなくて済む、ということです。もちろん自分自身の良い状態や護りたい高潔さと、社会の物質性や必要性との、折り合いをつける必要があります。それでも自分の軌道を見つけることが先決で、社会との折り合いはそれからついてくるものです。
荒れ地が、表情のある世界に変わるのはいつでしょうか。
最近、めずらしく大きなストレスを感じ出しています。
■荒れ野の40年でのビジョンクエスト(2012年4月25日)
昨日、「荒れ地」の話を書きましたが、「荒れ地」で思い出すのはナチスドイツの戦争が終わって40年目の1985年に行われたドイツのヴァイツゼッカー大統領の演説です。
日本ではその記録が岩波ブックレットで出ていますが、タイトルは「荒れ野の40年」です。
ヴァイツゼッカーは演説の終わりのほうで、こう語っています。
イスラエルの民は、約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまでの40年間、荒れ野に留まっていなくてはなりませんでした.
この「40年」に2つの反対の意味があると言います。
けじめをつけるためには40年が必要だが、40年の時間は体験の教訓をも風化させ忘れさせてしまう、というのです。
そのため、ヴァイツゼッカーは、まさに戦争が終わった40年目にこの演説を行ったのです。
この演説のことは、前にも書いたことがありますが、何回読んでも新しい気づきがあります。
荒れ野で得られるビジョンクエストという儀式が、ネイティブアメリカンにあります。
ビジネスマンの意識変革研修などにも取り組まれており、サンフランシスコ在住の私の知人もそれを日本に導入したいと相談に来たことがあります。
いまもいろいろなところが、中途半端に取り込んでいますが、ビジョンクエストはネイティブアメリカンの通過儀礼でした。
自然の中で生命のビジョンを得ることで、自らの魂に気づくのです。
荒れ地をさまよったモーゼは「言葉」を求めましたが、ビジョンクエストは個人の身体を超えたものへの気づきを目指します。
つまり言葉にならない「言葉以前のもの」です。
それが、言葉につながっていくのが、生きるということかもしれません。
だから通過儀礼なのです。
それをきちんと通過していないと、誰かの言葉に従うだけの存在になってしまいかねません。
言霊に振り回されるか、言霊とつながるかは、大きな違いです。
ドイツが「荒れ野の40年」からどう立ち上がったかは、さまざまな事実が示しています。
たとえば、昨年の福島原発事故のあとのドイツの動きは見事です。
メルケル首相は、福島の事故が起きてからわずか10日間で、倫理委員会を設置し、倫理委員会は5月末に報告書を取りまとめています。
そしてエネルギー政策を転換しました。
日本は戦後の荒廃から20年で立ち上がりました。
いかにも早かったのですが、その咎がいま生じているのかもしれません。
原爆の体験も、これほど風化するとは思っていませんでした。
ヴァイツゼッカーが演説していた頃、日本は高度成長後のバブルの余韻に酔い、マネタリーエコノミーをさらに加速させようとしていました。
私が会社を辞めたのは、その4年後です。
■小沢さんのけじめ、検察のけじめ、マスコミのけじめ(2012年4月27日)
小沢事件の判決は無罪でした。
昨日は判決が気になって、ずっとテレビを見ていました。
無罪になって安心しましたが、裁判そのものが有効だとされたのは、がっかりでした。
報道されているように、小沢さんの言動にはすっきりしないものがあります。
それはそうでしょう。
しかし裁判は、人格や生活を裁く場ではありません。
ある特定の「事件」を裁くものです。
そうした視点から考えれば、小沢さんの言動以上におかしい言動はあります。
そもそも検察が嘘をつくことによって、強制起訴されたとも思えます。
それによって、どれだけの費用と時間が浪費されたことか。
それ以上に、日本の政治が停滞したことをどう考えるか。
そういう視点は忘れてはいけません。
小沢さんの政治家としてのけじめを説く人は多いですが、けじめをつけるべきは、検査とマスコミだろうと思います。
とくに文書捏造を行った検察関係者が起訴されないことに怒りを感じます。
そして、これほどの小沢憎悪状況をつくりあげたマスコミやそこに登場しているコメンテーターやキャスターも、少しは反省して欲しいものです。
日本では、いまや「反省」や「謝罪」の文化は消えつつあるのがさびしいです。
福島原発事故も、まだ何の総括も出来ていません。
にもかかわらず、原発再稼動に動き出しています。
そこには「反省」も「謝罪」もありません。
あるのは居丈だけな「恐喝」と「弁解」です。
昨日、敦賀の人と電話で話しました。
夕方大飯原発の説明会が行われる前です。
みんな仕事がなくなってきているので、大変だそうです。
再稼動しないと仕事はなくなると言われれば、反対もそうはできなくなりかねません。
原発を止めても仕事が生まれることを示す努力をすればいいだけの話ですが、その努力は意図的に行われていません。
自然エネルギーコストを高くするのと同じです。
コストなどは、どこまでを考慮するかで、いくらでも変えられます。
しかし、自ら考えることなく与えられた知識を覚えるのに慣らされてきた人たちは、相変わらず学者や管理者の出す数字に従います。
データなどは作られたものなのですが、知性のない人にはそれが大きな強制力を持っているのです。
小沢さんにけじめを要求するのであれば、同じように検察とマスコミにもけじめを求めるべきです。
ちなみに、私はいずれにもけじめは求めません。
けじめるのは、自ら、です。
けじめを求めるって、一体なんなのでしょうか。
けじめるべきは自分であって、他者にではないでしょう。
こんな社会に生きるのが、最近はとてもいやになってきています。
■安さを求める文化からの脱却(2012年5月1日)
最近、毎日のように悲惨な交通事故の報道に接します。
しかし、そうした事故の多くは、本当に「事故」なのでしょうか。
私たちの生き方が、問われているのではないかと思います。
最近の関越自動車道で起きた高速ツアーバス事故長距離バスの事故の場合、運転手の居眠りが原因とされています。
確かに直接的な原因は、そうでしょう。
しかし、果たしてその運転手を私たちは責められるのか。
なぜ彼は居眠りをしてしまったのか。
それは私たちの生き方と深くつながっています。
それはちょうど原発事故の責任の一端を私が担っているのと同じ構造です。
安さだけを求める文化の社会は、破綻します。
私は会社時代に、コストダウン反対論者でした。
大切なのは、コストダウンではなくバリューアップでなければいけません。
コストダウンは、バリューアップの一要素でしかないのです。
コストダウンではなく、コストパフォーマンスを高めることが大切です。
その発想は、今の社会から失われています。
安い電力を買おうとするために、私たちは原発を選びました。
事故があって当然とは言いませんが、事故が起こったらその責任は自分で取らねばいけません。
良いとこどりをする卑しい発想は、捨てねばいけません。
だから私は、今も原発反対のデモに行けずにいます。
原発には反対ですが、そこで発せられる発言には、どうもついていけません。
同じことは今回のバス事故にも当てはまります。
安いということはリスクがあるということです。
安さのしわ寄せは企業経営者や企業出資者には行きません。
必ずと言って良いほど、現場の労働者に行きます。
なぜなら利益を生み出す源泉は、現場の人間の労働にしかないからです。
運転手も無理を承知で引き受けざるを得なかった。
なぜそうしたことになるかといえば、労働力が買い手市場になっているからです。
なぜ買い手市場になっているのか。
それは政府の政策がそれを志向しているからです。
たとえば、脱原発で世論が一致しないのは、脱原発すると雇用がなくなると脅すからです。
発想が完全に間違っています。
脱原発して雇用が不足するなら、どうしたら雇用を増やせるかを考えれば良いだけの話ですが、雇われた人たちにはそんな余裕すらありません。
電力が不足するなら、供給を増やすのではなく消費を減らせば良いだけですが、政府にも消費者にもそんな発想はありません。
生活者であれば、そういう発想も出てきますが、いまやみんな「消費者」になってしまっています。
消費者と企業経営者は、私には「ぐる」にしか見えません。
大型連休でのテレビ報道を見ていると、どうしても「ソドムとゴモラ」の民を思い出してしまいます。
「消費者」にもなれない落ちこぼれの僻目かもしれませんが。
居眠りをした運転手も、癲癇を起こした運転手も、夜通し自動車を飛ばしていた若者たちも、すべて私たちが生み出しているのです。
その認識がなければ、いくら規制をつくっても意味がないように思います。
ストレステストだとか安全性基準だとか、そんなものに安心を託すわけにはいきません。
安全を目指したいなら、まずは自らの生き方を変えなければいけません。
生き方を正してなお、事故に合うのであれば、それは仕方がないことです。
運が悪かったことを嘆くしかありません。
事故の被害者には、いささか不謹慎な言い方かもしれませんが、私は運転手に大きな同情を感じています。
もちろん乗客には、それ以上の同情を感じていますが。
■4人に1人が自殺を考えたなどと軽々しく報道してほしくないです(2012年5月3日)
昨日の新聞やテレビで、大人の4人に1人は自殺を本気で考えたことがあり、20人に1人はそれが1年以内のことだった、という内閣府の調査が報道されていました。
特に20代では割合が高く、自殺を考えた人は28%、それも「最近1年以内」に自殺を考えた人が10%だったそうです。
内閣府は「自殺者数が多い中高年だけではなく、若い世代への対策も重要」としているそうですが、私は先ずこうした調査結果を無神経に公開する神経に憤りを感じます。
自殺の報道は、自殺を加速させかねないと常々思っているからです。
自殺だけに限りません。
ストーカー事件や殺人事件も、どうしてこうも詳しく事細かに報道するのか、その神経がわかりません。
報道の仕方というものがあるだろうと思うのです。
うつになった場合についても調査結果がでています。
もし報道する側に一人でも当事者がいたら、もう少し報道の仕方も変わるはずです。
調査結果を生データで公表するだけが真実を伝えることではありません。
数字は、所詮は数字でしかありません。
これでまた若い世代の自殺が増えなければいいのですが。
■「私の中の私自身よりも大いなる何者か」(2012年5月6日)
「マクスウェルの悪魔」で有名な物理学者ジェームズ・マクスウェルは、その臨終の床で友人に次のように語ったそうです。
「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」。
最近、意識の誕生とか意識の実体とかといった関係の本を数冊読んだのですが、この話は「ユーザーイリュージョン 意識という幻想」という本で知りました。
マクスウェルに限らず、こうした感想を述べた人は少なくないでしょうし、さまざまな偉業を達成した人の物語を読むと、そこに個人を超えた「何か」の働きを感じます。
私が、知的所有権を認められないのは、そうした思いからです。
東芝の社員時代に日本語ワープロの変換機能を単独で発明したのに、正当な対価を受け取っていないとして、元社員が同社に約3億円を求めた訴訟の和解が成立したという記事が一昨日の新聞に出ていました。
こうした訴訟はこれまでにもいくつかありました。
それが悪いとは言いませんが、何かとてもさびしい気がします。
誤解されそうですが、訴訟を起こした元社員を非難しているのではありません。
その人が訴訟まで起こすには、それなりの理由や状況があるのでしょう。
そうしたことも知らずに、無責任の批判はできませんし、どちらかといえば、現場で汗してがんばった元社員の応援をしたいと思います。
私がさびしいと思うのは、元社員も現在の会社経営者も、マクスウェルのような気づきがないのだろうかという「さびしさ」です。
知の発見は、お金では換算できないほどの大きな喜びではないか。
そしてそれをたくさんの人たちが使って喜んでくれることが最大の幸せではないか。
その喜び、その価値がどこかに行ってしまっている。
こうしたニュースを知るたびに、いつも思うことです。
知は、すべて人類のものであり、歴史が生み出すものだろうと私は思っています。
ニュートンにしても、マクスウェルにしても、天才的な発見をしていますが、「天才」という言葉がいみじくも示唆しているように、それは「天の才」がたまたま個人に宿っただけではないかと思います。
DNAの螺旋構造の発見のように、時に「天の才」は複数の個人に宿ることもあるからです。
その才が、宿る人は偶然にではなく、やはりそれだけの努力をしているでしょう。
天は、そうした人を見つけて「預言」してくるのだろうと思います。
科学技術の分野だけではありません。
イエスもムハンマドも、いずれも天が選んだ「預言者」です。
生きる知恵もまた、個人に「預言」されたのです。
しかもこれもまた複数の人たちにです。
今から2500年ほど前のことですが。
しかしこれまたさびしいことに、そうした大きな気づきも、宗教教団によって制度化され世俗化(経済化)されてしまったようにも思います。
さびしい時代ですが、それもまた「私の中の私自身よりも大いなる何者」かが仕組んだことです。
どこかにきっと大きな意味があるはずです。
■コミュニティケアと在宅ケアの深いつながり(2012年5月7日)
今日、あるメーリングリストで在宅ケアに関する集まりの案内がまわってきました。
その最後に、私への呼びかけがあったので、返信しました。
そこに書いたことを少し補足して掲載します。
最近どうも時評編を書くモチベーションがわいてこないのです。
先日、NHKの「こころの時代」で京都大学のカール・ベッカーさんが「理想の終焉」について話していました。
そこで、ベッカーさんは、
現在の日本人は、日本人らしくなくなった。
バブル以降、日本人の考え方が個々人の死について、看取りをしなくなったために、死を恐れない国民から、死を恐れ 怖がる国民になった。
と話していました。
とても共感できました。
私がコムケア活動に取り組もうと考えたのは、2000年頃です。
当時、「コミュニティケア」と言う言葉が広がっていましたが、その背後に、施設福祉を減らして医療費を削減しようという雰囲気を感じていました。
ですから私にはその分野の人たちが語る「コミュニティケア」という言葉が空虚に聞えていました。
そこであえて、「コミュニティケア」という言葉を使い、そこに「重荷を背負い合う関係」こそコミュニティケアの意味だと強調したのです。
当時の集まりなどで、そうしたことを話させてもらったりしました。
一部の人からは評価してもらいましたが、ほとんどの人は、私の意図にはあまり関心を持ちませんでした。
「重荷を背負い合う関係」の基本は、私は家庭もしくは家族にあると思っています。
家族と家庭とは、私の意識の中では必ずしも同じではありませんが。
しかし家族はなかなか話題になりだしませんでした。
私の記憶では5年ほど前から家族関係のNPO以外のNPOの世界でも家族問題を言葉にする人が増えてきました。
しかし、あまり盛り上がりませんでした。
みんなもう「家族」や「家庭」には期待していないのかもしれないと思うほどです。
今年、コムケアサロンでも一度、家族をテーマにしましたが、やはり難しいテーマでした。
コミュニティケアは日本の場合、脱施設発想だけで地域のあり方を問い直すところまでいきませんでした。
その一つの理由は、家族(家庭)の視点が弱かったからだと思います。
「コミュニティ」という概念も曖昧でした。
それでは「コミュニティケア」が実体化することはありません。
たとえば、介護の社会化ということ場が、介護保険導入時に盛んに言われました。
しかし結果は介護の市場化でしかありませんでした。
ここでも「社会」の意味が曖昧だったからです。
在宅ケアが問題になること自体に、私は大きな違和感がありますが、
逆に言えば、そこにこそ、今の私たちの生き方や社会のあり方の根本問題があるような気もします。
在宅ケアに含意されていることはとても大きいのです。
問題は介護や看取りだけではなく、普段の生き方です。
ベッカーさんの指摘も、私たちの生き方を問うているように思います。
在宅ケアの問題には、まさに今の私たちの生き方が凝縮されているように思います。
そして、それはこれからの私たちの社会のあり方を方向づけるでしょう。
一度、湯島で、在宅ケアと私たちの生き方について、サロンをしたくなりました。
■支援者の犯罪(2012年5月10日)
選挙の前に、「○○をよろしく」とか「○○事務所ですが、今日は投票日ですがもう投票に行かれましたか」というような電話があると、私はその候補に投票しようと思っていても、投票はしないようにしています。
理由は言うまでもないでしょう。
そういうことが毎回起こりますので、最近は市会議員選挙がとても憂鬱です。
それはともかく、数日前にメーリングリストで、小沢事件の控訴をしないように3人の検察側弁護士に電話しようと、電話番号まで書いた呼びかけがまわってきました。
その人は、自分は3人と電話で話したとも書いていました。
その人の、これまでのメーリングリストへの投稿記事は、私には共感できるものが多かったのですが、これからはもう読まないことにしました。
そのメールを読んだ時に、もしかしたら控訴されるかもしれないと思いました。
しかし、まさか本当にそうなるとは思ってもいませんでした。
今回の控訴の引き金は、たぶん小沢さんの支援者が引いたと思います。
小沢さんは不幸な支援者を持ってしまったわけです。
こうした事例はたくさんあります。
自称「支援者」の多くは、支援する人の存在に寄生している人ですから、主体性は皆無です。
支援する人の都合などは一切考えません。
「支援」されている人にとっては、実に迷惑な存在でしょう。
それが芸能や経済の世界であれば、まあ被害はさほどではないのですが、政権に関わるような政治の問題となると影響が大きいです。
しかし、そうした人を罰することは難しいでしょう。
その人は、自己の「正義感」をますます高め、活動はエスカレートしていくでしょう。
彼にとっては、挫折こそが好ましい結果を生むわけです。
これは「産業のジレンマ」と私が読んでいるものと通じています。
つまり「近代のジレンマ」なのです。
小沢控訴でがっくりしてしまい、どうもまた元気が出てきません。
たった3人の弁護士が国の命運を決めてしまう仕組みにも、改めて驚かされます。
3人はこれでしばらくまた仕事を得られます。
ここにも「近代のジレンマ」が存在しています。
近代の仕事は、見事にオートポエティックなのかもしれません。
なんだかクラインの壺にはまってしまっているような、不気味さを感じます。
■電力需給検討会の会議室が実体を象徴しています(2012年5月11日)
テレビニュースを見ていた娘が、「電力需給検討会」の会議室は電気がこうこうとついていたと言っていたので、次のニュースの時に私も気をつけて見ていました。
映像は会議室の天井の蛍光灯を映してから座席にアングルを動かしています。
この映像を撮った人も、間違いなく娘と同じ感想を持ったに違いありません。
カメラマンの怒りが伝わってきます。
それにしても電力が足りるとか足りないとか、馬鹿らしい議論です。
基軸がしっかりしていませんから、どんな議論もできるでしょうが、足りなければ使用量を減らせば良いだけの話です。
そしてどうしたら需給に破綻を起こさないですむかを考えればいいでしょう。
持続可能性とか環境問題とかいう理念はどこにいったのでしょうか。
まさか環境問題は温暖化問題だけだと思ってはいないでしょう。
二酸化炭素が温暖化を加速させることは証明されていませんが、原発事故が環境を破壊する事はすでに実証済みなのです。
供給不足だったら供給を増やそうと思っている人に、持続可能性は語る資格はないでしょう。
言葉だけで生きるのはやめてほしいです。
要は需給検討会ではなくて、原発再稼動作戦会議ですが、そこで古賀さんたちも怒る振りをするだけではなく、本質的な議論をしてほしいものです。
しかしそうしたことを私たちは笑ってはいられません。
私たちも、たぶん同じようなことを気づかずにやっているのです。
何回も書いていますが、それこそが「近代の罠」なのです。
ちなみに、電力会社は、電力を売って利益を上げています。
節電キャンペーンを本気でやれる仕組みにはなっていないのです。
電力が求められれば、そこに高品質な電力をできるだけ「安く」提供するのが、電力会社の使命です。
彼らの頭にあるのは、いかに供給するかです。
そして以下に需要を増加させるか、です。
それは決して悪いことではありません。
それが彼らの使命ですから。
つまり時代の変わり目と言うのは、企業のミッションと仕組みを変えないといけないということです。
それに取り組んでいる企業は、私が知る限り、大企業には皆無です。
そろそろドラッカー信仰から抜け出なければいけません。
いまの主流の経済学も経営学も、不足の時代のパラダイムに基づいています。
新しいパラダイムは生まれだしていますが、そこへのわずかばかしの想像力をもつ人がいたら、企業や経済は変わりだすかもしれません。
25年前から、そう思い続けていますが、なかなかその方向に向かわないのが残念です。
それにしても、多くの人は今の企業や社会のあり方に満足していないのに、どうして生き方を変えないのでしょうか。
よほど強い呪縛が世界を覆っているのでしょう。
■君が代と日の丸はトロイの木馬(2012年5月11日)
少し書くのが遅れましたが、先日、「大阪維新の会」の市議団が議員提案を予定していた「家庭教育支援条例案」は、反対が多かったので提案を見送ったという報道がありました。
この条例案は、たとえば、「児童虐待や子どもの非行などを発達障害と関連付け、親の愛情不足が原因」とするなど、私が読んでも首を傾げたくなる内容でした。
提案見送りでよかったですが、大阪維新の会や橋下市長の教育観は、私にはとんでもないもののように思えます。
たとえば、橋下時代になってからの君が代不起立の教師の処分の激しさは、常軌を失しているように思います。
先日、元教師の方が湯島に来ました。
20年以上前に教師から労働組合に転じた方です。
まったく別の話でやってきたのですが、少しだけ教育の話になりました。
その人が教師だった頃は、まだ教師が一目置かれていた時代でしたが、いまはその逆です。
教師も、親も、それぞれに権威が残っていた時代は、問題もいろいろとあったと思いますが、子どもたちは「あったかく」守られていたように思います。
今の学校はまったくそうではありません。
朝日新聞の記者を経て、ドキュメンタリーライターになった田中仲尚さんの「ルポ 良心と義務」(岩波新書)は、「日の丸・君が代」問題でいかに学校が荒廃してきているかを描き出しています。
田中さんは、これまでにも教育や憲法に関して、とても誠実なドキュメンタリーを書いていて、私はほとんど読ませてもらっていますが、いつも身震いしてしまいます。
大人たちが「資本のための経済活動」に取り込まれているうちに、その子どもたちが大切な時間を過ごす小中学校がとんでもなくすさんだ場所になっていることに多くの親は気づいていないのでしょうが、これは実に恐ろしいことです。
もし子どもたちのことを考えるのであれば、ぜひ読んでいただきたい本です。
新聞やテレビなどのモンタージュされた報道に触れるだけでは、事の実相はまったく見えてはきません。
原発もそうやって隠されてきたわけですが、実はその気になれば、見えたはずなのです。
それと同じことが、いま学校でも進んでいるのです。
シリアなどの紛争地では、子どもたちはどう育っているのだろうかと時々思います。
シリアでは今日も大きな爆発事件が報道されていますが、それを見ていて、なぜか日本の学校の風景が頭に浮かんできました。
今の日本の小中学校は、最近のシリアとどこか本質的にはつながっているのではないか。
大人たちがののしりあい争い合っている状況で育つ子どもたちは、どんな社会を作り出すのでしょうか。
君が代と日の丸は、トロイの木馬なのかもしれません。
「愛国心」もそうですね。
自信のない権力者にとっては、人が育たなければ権力保持は安泰です。
愚民政策がどんどんと深まっているような気がします。
それに司法とマスコミが加担している。そんな気がしてなりません。
■原発は安全か(2012年5月12日)
自らも原子力プラント設計技術者として「原子力ムラ」の一人だった、後藤政志さんの講演を聴いてきました。
タイトルは「そもそも原発の安全運転は可能か」でした。
主催したのは、私の友人の佐藤国仁さんです。
国仁さんは、鉄道関係の安全性の専門家ですが、昨年の福島原発事故を契機に、原発の問題に積極的に関わり、その活動の一環として「原発の安全性と縮小社会」をテーマにした3回連続講演会を企画したのです。
今日はその1回目でした。
私は基本的に、原子力ムラの人たちや大学の原子力関係の学者の話は信じていませんが、3.11以後の行動によって、少し信頼できる人もいるのだと思うようになってきました。
後藤さんは、3.11以後、いち早くユーチューブなどで情報発信してきた人です。
ユーチューブでは、何回もお話を聞かせてもらいましたが、やはり直接にお話を聴くとユーチューブでは伝わってこないものが伝わってきます。
後藤さんは、ストレステスト聴取会の委員の一人でもあります。
前にこのブログでも書いたような記憶がありますが、茶番とも言える委員会の流れに怒りの告発をした委員のお一人です。
後藤さんは、昨年末に、NPO法人APASTを立ち上げて、原発を含む現代科学技術のあり方と、適正なエネルギー消費社会実現に向けての調査研究や啓発事業に取り組みだしています。
それでも原発関係技術者への私の不信感はきわめて強いので、最初は少し斜に構えて聴いていました。
お話しになることは、ほぼすべて共感できるのですが、「何をいまさら」という思いがどうしても拭えないのです。
ところが、途中で後藤さんが「私にはもう原子力プラントは設計できない」と話しました。
こうした一人称自動詞の発言は、いつも私の心を開かせます。
そこでやっと私は、後藤さんの話を素直に聴きだせるようになりました。
そして、その後で、後藤さんは「原子力はなぜ危険か」を話しました。
原発は、実は本質的に「安全ではない」のです。
問題は、「安全運転」ではなく「存在の安全性」なのです。
ようやく私の関心事に重なりました。
土曜日の朝早くから、講演を聴きに来た甲斐がありました。
後藤さんは、まだ危険は去ってはいないといいました。
水蒸気爆発の危機も再臨界の危機も、依然としてあるのです。
そのことも明言されました。
安堵しました。この人は嘘は言わないと。
嘘を言わない人が増えていけば、原発問題は安全になっていくでしょう。
そして、原発は安全ではありえないことが見えてくるでしょう。
後藤さんはこうも言いました。
「外部に対して原子力プラントは安全だと言い続けてきた結果、自らも安全だと思い込むようになってしまった」と。明確ではありませんでしたが、これは後藤さんにも当てはまっているはずです。
反省がないところに真実はありません。
原発は、御用学者の斑目さんですら、安全とはいえないといったのです。
それを政治家が安全宣言して、海外に輸出するのです。
後藤さんは、海外で事故を起こした時にどう責任を取るのかと言いました。
財政再建などはまた吹っ飛んでしまうでしょう。
マネタリーエコノミーは政府もサブシステムに組み込んでしまったようです。
講演で聴いてきた話を書こうと思ったのに、また違う話を書いてしまいました。
でもまあ、これが今日の講演で、私が思ったことです。
■原発の安全廃炉計画の必要性(2012年5月12日)
先日、このブログで、脱原発しても原子力技術者も原子力関係の仕事も、減らないから、雇用か脱原発の問題は存在しない、と書きました。
今日の後藤さんの講演「そもそも原発の安全運転は可能か」の最後に質疑応答の時間があったので、2つ質問させてもらいました。
一つは、「そもそも原発の安全廃炉は可能か。どのくらいの時間がかかるのか」でした。
残念ながら明確な回答はありませんでした。
その代わりに、きわめて「原子力ムラ住民」的な答が返ってきました。
「原子力関係企業は数年前から廃炉ビジネスがこれからの大きな市場と考えており、これでまたしばらくは仕事が出来ると考えている」。
まさに「産業がさらに新しい産業の市場を拡大する」という「産業のジレンマ」がしっかりと取り込まれているわけです。
顧客の創造を目指すドラッカー経営学の思う壺ですね。
その回答にはいささか失望してしまいましたが、まあ思っていた通りのことを原子力技術者から聞けました。
しかし問題は、安全廃炉の道のりです。
かなりの時間がかかるでしょう。
しかもそこからは経済価値は生まれてこないのです。
そこに悩ましさがあります。
しかも「安全確保〕はかなり難しいでしょう。
今でも産業廃棄物の不法投棄が続発していますが、そんなことをされたら、とうてい「安全廃炉」とは言えません。
脱原発を唱える人たちは、安全廃炉計画を議論するべきかもしれません。
実はもう一つ質問しました。
原発に飛行機が衝突したらどうなるか。
後藤さんはすでにシミュレーションしていました。
しかし、その答も残念ながら私にはピント外れでした。
厚いコンクリート壁は大丈夫かもしれないが、扉が持たないと言う話でした。
私の関心事は、爆発するのか、放射線量はどのくらい拡散するのか、という現象的な話でした。
しかしやはり技術者はそういうところにはあまり関心がいかないようです。
生活者の世界と技術者の世界は、やはりかなり違うようです。
■繰り返し「問題の立て方」みついて(2012年5月14日)
何回か書いたことですが、また書きたくなりました。
それは「問題の立て方」のことです。
相変わらずほとんどの人が、問題を出してもらって、それを解く姿勢で生きています。
まさに「お上」に従う生き方です。
私は、大切なのは、自分で問題を立てることだと思っています。
問題を立てる時に重要なのは、発想の起点(視座)とビジョン(視野:問題の目的)です。
そもそも問題を立てることで、ほとんどのことは決まってきます。
問題を解くことを教える学校は、私には教育機関ではなく、訓練機関でしかありません。
たとえば小沢事件は、そもそも起訴された時に問題は立てられていました。
その問題でいえば、判決は副次効果にすぎないのかもしれません。
起訴だけで、問題の目的はかなり達せられていたからです。
問題を与えられた国民は、学校教育で学んだように、小沢さんのイメージを構築しました。
日本人は、問題を立てるのは不得手ですが、問題を解くのは得手ですから。
消費税増税もそうでしょう。
いまの立て方をされたら、消費税増税には反対できません。
つまり問題にはならない問題なのです。
せいぜいが「選択問題の選択肢」でしかありません。
訓練機関で叩き込まれた従順な訓練生は、それを問題だと後生大事に扱っているのですが。
そもそも時間軸もない、現場とは無縁な、数字の世界の問題設定には抗えないのです。
論理が完結しているからです。
そうしたスタティックな学問が世界を壊してきたはずなのですが、そのなかで訓練されてきた私たちは、なかなかそこから抜けられません。
電力需給がもっとわかりやすい事例です。
「供給が足りない」を起点にするか、「需要が多すぎる」を起点にするかで、問題は全く違ってきます。
「経済成長を目指すか」と「持続可能性を目指すか」でも、問題は全く変わってきます。
そして、どういう「問題」を立てるかで、行動は全く変わります。
もし、本気で私たち人間が住み続けられることを目指すのであれば、つまり地球環境を大事にし、持続可能性を重視するのであれば、供給が足りないなどという発想は出てこないでしょう。
もし、「絆」や「支え合う」「つながり」を本気で回復したいのであれば、電力需給が厳しい状況は実に望ましい状況として、それを活かす方向で問題を立てられるでしょう。
昨年も書きましたが、個人レベルにおいては、そもそも「節電」などという傲慢な発想を捨てて、自らの生き方を問い直していく契機にすればいいと思います。
できれば、併せて、産業のあり方も、そういう方向になればと思います。
電力を過剰に使う産業のあり方こそが、私には違和感があります。
昨年せっかく電力消費量が減って気持ちよくなったのに、また以前のような過剰電力消費社会に戻ってきています。
ちなみに常磐線(我孫子〜綾瀬間)の車内温調は、私にはいつも過剰で不快です。
メールで何回か提案しましたが、変わりません。
私が、異常なのかもしれませんが。
■原理原則はシンプルでなければいけません(2012年5月15日)
鳩山元首相が15日、沖縄県宜野湾市で講演し、米軍普天間飛行場の移設問題で「最低でも県外」と発言したことについて「ご迷惑をおかけしたことは申し訳なく、心からおわびしたい。同僚議員や官僚を説得できなかった不明を恥じる」と陳謝した、という記事が朝日新聞に出ていました。
「沖縄の皆さんが基地問題に悩まされ続けていることについて(解決策を)少しでも進めたかったが、自分の思いが先に立ちすぎて綿密なスケジュールを立てられなかった」と釈明し、さらに、「他国の軍隊が一国の領土に居続けるのは異常。独立国の姿を取り戻さないといけない」とも述べたそうです。
これに関して、自民党の溝手参院幹事長は記者会見で、「ちゃんちゃらおかしい」と話したとネットの産経新聞には書かれています。
私は、鳩山さんが「県外・国外」を言い出したことを、今でも高く評価しています。
もし当時の外相だった岡田さんや他の閣僚が本気でそれを支えたら、そしてマスコミや国民が、本気でそれを支援したら、実現しただろうとも思っています。
そうした「異常」な状況の上に居座っている利権集団が、鳩山さんの思いを壊したのではないかと勘繰っています。
それが事実かどうかは、もちろんわかりませんが、それにしてもなぜあの時に、国民はもっと鳩山さんを支持しなかったのでしょうか。
最初から、そんな事はできないと諦めていた人が多かったように思います。
それでは、成るものも成りません。
政権交代への期待や、友愛政治への期待も、裏切られました。
たしかに鳩山さんの責任は大きいでしょう。
しかしそれ以上に、それを支持しなかった私たちの責任を感じます。
「友愛」を笑っていた人たちが、絆とか支え合いとか言っても、私には虚しく感じます。
「友愛」精神を馬鹿にして、格差を拡大させてのは、私たちでしょう。
それにしても、「他国の軍隊が一国の領土に居続けるのは異常」ということが、なぜ鳩山節と嘲笑されてしまうのか。
原理原則に立脚しない政治は成り立ちません。
原理原則はシンプルでなければいけません。
それは私たちの生き方においても、同じことです。
原発の評価も、極めてシンプルに考えれば、だれもが同じ結論に達すると私は思うのですが、そうならないのが不思議でなりません。
今日、テレビで東電の役員の方が、節電のための夜間電力使用の仕組みを説明していました。
司会者が、最後にところであなたはそうするのですかと質問したら、なんと「私は申し込みません」と応えました。
聞いていて私は頭が混乱しましたが、もっとみんなシンプルに生きたいものです。
一人称自動詞で考えれば、物事はすべてシンプルに見えてくるはずです。
■原発と原爆は同じものではないのでしょうか(2012年5月18日)
昨日、技術カフェという集まりをやりました。
そこで原発の問題が少し出たのですが、参加者の一人から「なぜ原発をなくすべきか、誰にでもわかるように一言で話せしてほしい」といわれました。
「原発と原爆は同じ原理で成り立っているものだからです」と応えましたが、納得してもらえませんでした。
こんな簡単なことがなぜわからないのか、私にはどうも信じられません。
つまり、それだけ私たちの頭は先入観で埋まっているのです。
みんな学校教育で成績を上げようとした結果でしょう。
知識を身につけてしまうと、問題を複雑にしたくなってしまうのです。
そのあたりは10年ほど前に話題になったエンゲストロームの「拡張学習理論」が的確に指摘しています。
原発の安全運転など、どうでも良い話で、原発と原爆が同じだと理解すれば、問題は極めて簡単なのです。
学者には仕事になっても、実際には無意味な研究課題でしょう。
原爆の安全使用を考えているようなものです。
沖縄に基地がないと困るという人もいます。
日本が攻められるからだといいます。
基地がなければ攻められるのか。
私にはわかりませんが、さらに言えば、攻められて何が悪いのか、です。
今日、私のフェイスブックでそんな議論が盛んにされています。
でも私には、基地や軍隊は全く不要な存在のように思えます。
戦争が嫌いだからです。
問題はシンプルに考えれば良いと思いますが、どうしてみんな難しく考えるのでしょうか。
学校でいろいろと勉強してきたせいでしょうか。
それとも私の学び方が間違っていたのでしょうか。
どうも誰と議論していても、いつもどこか根本的なところでかみ合いません。
困ったものです。
■ハーメルンの笛吹き男に従う子供の群(2012年5月25日)
書庫である資料を探していたら「四番目の恐怖」という広瀬隆と広河龍一の共著の本を見つけました。
1988年に講談社から出版された本です。
ぱらぱらと見てみたら、あまりに昨年の福島原発につながる記述が多いので驚きました。
発電コストに関しても、1987年に通産省資源エネルギー庁によるコスト計算が紹介されていますが、この時の数字では原子力の発電コストはキロワット時あたりで12円、石油火力で10円となっています。
当時も原発のほうのコストが高いことがきちんと出ていたわけです。
それに電力需給のトリックもとてもわかりやすく書かれています。
あとがきに、こう書かれています。
原子力が危険すぎる事実を、すでに国民の誰もが知ってしまった。それでも一部の原子力関係者が強行論を吐き、1億2千万人を弾劾から突き落とそうとしている、私たちは、ハーメルンの笛吹き男に従う子供の群ではないのだ。
なんら当時と代わっていないことに唖然としました。
つまり20年以上前に、いまと同じ状況があったのです。
私もそれを忘れてしまっていました。
広瀬さんの思いとは違って、私たちはハーメルンの笛吹き男に従う子供の群だったわけです。
ちなみに、四番目の恐怖とは。青森県六ヶ所村の再処理工場の話です。
それまでの3つは、スリーマイル島、チェルノブイリ、そしてイギリスのウィンズケールのことです。
昨年の福島原発事故の後、1970年代から80年代にかけて書かれた原発関連の本を何冊か読み直しましたが、そうした本の中にすでに福島原発事故への不安や電力需給の話はかなり明確に書かれていることに驚かされます。
私は、そうした本を読んでいて、それなりに原発への評価は明確にしていたのですが、なんら行動を起こしませんでしたし、そのうちにそうした危機感さえも風化させていたわけです。
まさにハーメルンの笛吹き男に魂を抜かれていたわけです。
恥じなければいけません。
また20年後には、同じような状況になっているのでしょうか。
すでに、原発への不安感はかなり風化し始めています。
それにしても笛吹き男の笛の音は、実に快いのです。
こうしてみんなまたせっせと電力消費者に戻っていくのでしょうね。
心しなければいけません。
■生活保護とは「お金の問題」なのでしょうか(2012年5月26日)
お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんは、私の好きなタレントの一人です。
彼の生い立ちの話をテレビで見て、以来、彼が好きになりました。
彼の出る番組も時々見ていました。
しかし、その河本さんが、いま「生活保護」の問題で社会をにぎわせています。
なにかとてもいやな事件ですが、この事件のおかげで、生活保護の問題が話題になりだしたのは歓迎すべきかもしれません。
生活保護は、昨今の「生政治」の本質に関わる問題だろうと思っています。
私自身は、社会はすべての人の支え(役割分担)によって構成されているので、すべての人が安心して暮らせるようなベーシックインカムが導入されるべきだと思っています。
家庭でも、子供や年寄りや病気の人がみんな当然に支えられている構造を社会にも展開すれば、きっと社会は気持ちの良いものになるだろうと思っているのです。
もっとも最近の家庭は、必ずしもそうではないようですが、そこにこそ。まさに社会の縮図を見てしまいます。
言い換えれば、そうした支え合いの家族関係がきちんとあれば、社会もまたそうした構造になるように思います。
その逆も成り立つわけで、どこかの時点で、そのポジティブスパイラルは反転し、逆のいずれもが「支え合い」はなく「金銭契約」(取り合い)構造に向かっているように思います。
金銭的な生活保護政策は、あくまでも緊急避難的なものではないかと思いますが、いまや恒常化しつつあります。
生活保護とはお金を支給するということ、という考えにだれも何の疑問も感じることなく受け入れているのが、私にはおぞましいです。
これまで2回ほど、そうした話し合いの場に居合わせましたが、みんなやはりお金の問題にしか関心がないようで、驚きました。
生活保護は、断じて金の問題ではありません。
そもそも「保護」という言葉がおかしいのかもしれません。
福祉や医療の世界には、私には驚くような言葉が充満していますが、「保護」も安直に使われている言葉の一つだろうと思います。
河本さんの事件は、そうしたことを浮き彫りにしてくれています。
生活保護世帯よりも私の家族たちの年収はたぶん低いと思いますが、それぞれみんな豊かに暮らせているのは、それなりに生き方を工夫しているおかげです。
時々、自分のためではなく、お金が必要になることはありますが、そうした時に感ずるのは、お金の恐さです。
お金に依存しだした途端に、生活は「保護」されなくなるのかもしれません。
河本さんの事件で、そういうところまで話が広がるといいのですが。
■労働と生活(2012年5月30日)
「裏切った民主党議員には、報いをこうむってもらう」。東京電力労働組合の新井行夫・中央執行委員長は29日、愛知県犬山市であった中部電力労働組合の大会に来賓として出席し、そうあいさつした。
今朝の朝日新聞の記事です。
経営者が経営者なら労組幹部も労組幹部です。
裏切、報い、おどろおどろしい言葉です。
新井さんは、いわゆる労働貴族と言われる人なのでしょうか。
原発の現場で命を懸けて働いている人の生命を吸いとって太っている、そんなイメージがついつい浮かんでしまいます。
すみません、いささか感情的になってしまい。
それにしても、ひどい発言だと思います。
労働組合はもともと働く者たちの「生活」のためにありましたが、今では全く違うのでしょう。
新井さんにはたぶん「生活」よりも「お金」が大切なのでしょう。
民主党には組合出身者が少なくありませんが、組合の目的は生活を豊かにすることであって、仕事はそのための手段です。
どうも最近は本末転倒の議論が多すぎます。
東電の最大の問題は、組合かもしれません。
行政の最大の問題と同じです。
労働組合は、根本から作り直すべき時期にきているように思います。
■時限爆弾の上で遊び興ずるソドムとゴモラの民(2012年5月31日)
大飯原発の再稼動が決まったようです。
しかしテレビでは、みのもんたさんや古館さんが、反対論を唱えています。
みのさんは、今朝の番組で私は反対だと明言していました。
テレビで反対キャンペーンを展開したら流れは変わるだろうにといつも思います画、彼らは発言するだけで動きません。
彼らがいっせいに国民集会を呼びかけたら、流れは変わるでしょうが。
それにしても、福島原発を体験しながら、なぜ原発再稼動が実現するのか。
ここに「民意を基軸にする政治」のジレンマを感じます。
昨日、小沢さんと会談した野田首相が「消費税に関しては時間軸だけが違う」と話していました。
私は時間軸こそが問題だと思っていますし、小沢さんもそう言っていると思いますが、野田首相は軽く時間軸を受け止め、消費税増税に焦点を合わせて説明してしまっています。
このようにして「異論」は統合されていきます。
民意を束ねるということはそういうことでしょう。
どんな民意も形成できるということです。
そこに民主主義のジレンマがあります。
しかも民意は、「小出しの部分的情報」で形成されますから、いかようにも操作できます。
活断層の上の原発を稼動させるということは、テロリストが時限爆弾を仕掛けるのとそう違うようには思えません。
いささか言いすぎかもしれませんが、テロリストと政府とは、そう違うわけではありません。
それは9.11以降のアメリカ政府の動きを見ればよくわかります。
今朝も、メーリングリストでデモへの呼びかけが来ました。
しかし、もはや勝負は決まったような気がして、虚しさを感じます。
迷いましたが、用事を優先させて、デモには行かないことにしました。
こうやって、人は自らを滅ぼしていくのでしょうか。
それにしても、福島原発を体験したにもかかわらず、生き方を変えようとしない私たちは一体何なのか。
生きることを忘れた存在に向かっているのかもしれません。
もちろん、私もその一人であることは否定できません。
どうやって抜け出すか。いや、そもそも抜け出すべきかどうか。
それがなかなかふんぎれません。
抜け出そうと思わない自分がいやになることもありますが、
どこかにもう終わりたい(つまり人類の歴史の終焉です)という気が生まれてきているのも事実です。
まあ、時限爆弾の上で遊び興ずるソドムとゴモラの民は滅んでも仕方ありません。
神の裁きがまもなく来るでしょう。
■座軸の反転(2012年6月1日)
昨日、テロリストと政府とはそう違うわけではないと書いたら、怒られてしまいました。
少しきちんと書かないといけません。
テロリスト、テロする人という時の「テロ」は、もともとフランス革命の時の「恐怖政治」を指す語だったそうです。
ロベスピエールをはじめとしたフランス革命のリーダーたちは、「テロリスト」だったわけです。
19世紀になると逆に政府を倒そうとする人たち、とりわけアナキストたちがテロリストと呼ばれるようになり、20世紀にはレジスタンスがテロリストと呼ばれるようになったようです。
スーザン・ソンタグは、10年近く前に日本で行ったシンポジウムで、ナチスドイツ支配下のフランスでのレジスタンスがテロリストと呼ばれていたことを紹介しています。
そして、ソンタグは、そのシンポジウムで、「テロリストいう語については極めて注意深くなければいけない」と発言しています。
それを踏まえて、あえて私は昨今の政府をテロリスト集団と捉えたほうが世界の実相が見えやすくなるのではないかと思うことがあります。
死の恐怖を背景とした政治から、生かすことを起点においた生政治へと、政治の本質が変わってきていることと、それは無縁ではないように思います。
いや、生政治がいままた反転しようとしているのかもしれません。
その典型は、シリア政府です。
日本とシリアとどちらが健全なのか、私には俄かには判断できませんが、政府が国民の平安な暮らしを目的にしなくなったことは間違いない事実でしょう。
企業が従業員の暮らしを守る以上に儲けを高めることを目的にしだしたことに、それは尿実に象徴されています。
暴力を独占した政府が、その暴力のコントロールする仕組みを維持できなくなったらどうなるか。
中途半端ではない、テロリストになっていきます。
テロリスト政府のもとで生きるには、自らの感性を麻痺させなければいけません。
昨日書いたように、「活断層上の原発」は時限爆弾だといっていいと思いますが、福島原発事故を体験してもなお、その時限爆弾の恐さを想像できないほどに、私たちの恐怖感覚は麻痺させられています。
むしろ私たちに恐怖をもたらすのは「仕事」や「お金」がなくなることです。
そこにあるのは、過労死を引き起こすのと同じ、強迫観念が埋め込まれた構造です。
これまた表現が悪いですが、麻薬常習犯と同じような生き方を私たちは何の違和感もなく受け入れているのです。
安心して生きていくことよりも、マネタリーエコノミーを維持させていくために、労働と消費(昨今では消費もまた労働の一種です)にせっせと精出す、「モノ」に成り果てているのが、もしかしたら今の私たちです。
生きることも死ぬことも、さほどの違いもない、自爆的生活をしている人は少なくないでしょう。
自爆するイスラム教徒を非難することなど、できません。
座軸を反転させて、世界を見ると、新しい世界と未来が見えてきます。
どういう座軸の世界で生きていくか。
それこそがいま私たちが考えなければいけないことのような気がします。
■原子力は非倫理的なエネルギーである(2012年6月4日)
タイトルの言葉は、私のものではありません。
2日に講演をお聴きした、環境エネルギー政策研究所の山下紀明さんの言葉です。
原子力に関して組織されたドイツの倫理委員会の話を紹介するなかで、話されました。
まったく同感ですが、あまりに明確に言い切ったので、私自身はスッとしました。
私もそう思っているからです。
原子力開発に関わった科学者のなかには、その後、良心の呵責に責められて、人生を変えた人もいます。
パグウォッシュ会議もアシマロ会議も、そこから生まれたように思います。
科学技術は中立であり、それを使う人によって、良くも悪くもなるという人が多いですが、そんなことはありません。
世の中にそもそも「中立」などということはないのです。
山下さんのこの発言には、さすがに質問が出ました。
なぜ非倫理的なのか、と。
山下さんは原発廃棄物のことに加えて、プルトニウムが原爆に使われるからだと話しました。
全く同感です。
ラッセル・アインシュタイン宣言では、原子力の平和利用をうたっていますが、残念ながら物理学者たちも政策担当者も、本気で原子力の平和利用などは考えませんでした。
もし考えていたら、今とはかなり違った原発政策がとられていたでしょう。
プルトニウムを出す原発ではないトリウム原発というのが話題になった時期があります。
トリウム原発だと原爆には結びつかないので、それは誰も真剣に取り組まなかったといわれています。
昨年以来、このトリウム原発が話題になりだしていますが、山下さんは明確に、もしトリウム原発だったら各国はこんなに原発に精を出さなかっただろうといいました。
私もそう思いますが、その一点で、原発の非倫理性は明らかなように思います。
原爆につながればこそ、巨額なお金が原子力科学技術者に流れたのです。
そこで起こった事故死は、お金で隠蔽されました。
私も生々しい話を聞いたことがあります。
また使用済み燃料の廃棄先がありませんので、その点から原発はどこかで動かせなくなるだろうとも山下さんは言いました。
私は宇宙開発と核燃料廃棄物処理をつなげて考えていますが、もしそうであれば、この点からもまさに非倫理性は明らかです。
ドイツの倫理委員会は、原子力が必要かどうかは原子力の専門家が決めることではなく、社会が決めることだと明言し、委員会のメンバーもその方針で構成されています。
そしてその委員会は、市民に公開された場で議論されています。
もちろん市民も参加してです。
日本のように、社会性などあまり持ち合わせていない原子力技術者やマネタリーエコノミーの尖兵たちによって、閉鎖的な密室で、形式的な議論で終わっているのとは大違いです。
たとえば、今回の大飯原発の再稼動の理由は、電力不足などでは全くないことはかなり明確になってきています。
関電の経営支援です。
山下さんは、原発を動かさないと高価な原発炉が資産ではなく負債になるからだと説明していました。
注意深くマスコミの報道を読めば、それはすでに明らかになりだしています。
しかしマスコミのキャスターもコメンテーターも、一見反対を装いながら、こうしたことはあまり語りません。
彼らもおそらくマネタリーエコノミーの餌食になっているのでしょう。
その点からも、原子力は非倫理的なエネルギーといえるかもしれません。
いやもしかしたら、電力自体が非倫理的なのかもしれません。
これに関しては以前書きましたので、繰り返しませんが。
念のために言えば、私は非倫理的であることを理由に、すべてを拒否するつもりはありません。
私のなかにも非倫理性はあるからです。
大切なのは、それを自覚し、できるだけ誠実に生きることではないかと思います。
それが、非倫理的になってしまった私たちが、せいぜいできることなのかもしれません。
■倫理から安全へ(2012年6月5日)
先日の技術倫理シンポジウムで講演された杉本さんのお話の中に、「原子力業界は2005年の時点で、安全文化と引き換えに倫理への関心を失った」ということがありました。
杉本さんは、ハリスらの名著「科学技術者の倫理」を日本に紹介し、技術者倫理の動きを起こした人ですが、ご自身も原子力業界での技術倫理研修に関わられています。
私も、その本で目覚めた一人です。
原子力関係の事故は今回の福島の事故に至るまでも繰り返し発生しています。
自宅からあまり出ないほうがいいといわれたのも、別に今回が初めてではありません。
娘は、1999年の東海村JCO臨界事故の時のことをはっきりと覚えていました。
福島の今回の事故が例外的に考えている人が多いですが、そんなことは全くありません。
前回の時にもう少しみんながきちんと考えておけば事態は変わっていたかもしれません。
杉本さんは、いくつかの原子力関係の事故報告書を調べた結果を報告してくれました。
それによると、1999年の東海村JCO臨界事故調査委員会の報告では、倫理を重視し、「原子力分野では、大学等の教育の場も含め、技術者に専門職としての倫理教育を行うことが急務である」と明記されているそうです。
そして実際に、そうした活動が始まり、杉本さんもそれに取り組まれてきました。
ところが、「その後、原子力安全委員会の事故報告から「倫理」が消えて、「安全文化」へと移った」と杉本さんは言います。
原子力業界は全体として、2005年の時点で、安全文化と引き換えに倫理への関心を失ったというのです。
先ほどのJCOの事故報告書(1999)には「倫理」が30回、「モラル(ハザード)」が10回、「安全文化」が12回、登場しているそうです。
それが、2002年の東電のトラブル隠しの報告書では、「安全文化」が9回出てくるのに対して、「倫理」はたった1回だそうです。
さらに、2005年の関電の美浜発電所事故の最終報告では、「安全文化」が34回も出てくるのに、「倫理」という言葉は一度も出てこないそうです。
このことは、実に象徴的です。
「安全文化」という言葉も曖昧ですが、「原発は安全」とか「安全運転は保証できる」と言うところから出発してしまう「安全文化」は無意味です。
安全ではない、安全運転は難しい、というとこから安全問題を考えるのであれば、意味はありますが、この10年ほどの日本の原発は、安全から発想してきたのです。
つまり思考停止していたわけです。
言葉だけの「安全文化」が実態を見えなくしていたといってもいいでしょう。
そして、事故の後、原子力ムラには倫理のひとかけらも残っていなかった。
それは今もって続いていることです。
安全とは何かもおそらく考えたことのない4人の政治家が、安全だと口だけで言っている。
それをくい止めようとしない、小賢しい自分がただただおぞましいですね。
■身勝手な嘆き(2012年6月6日)
それにしても、と思います。
原発は再稼動、消費税は増税、天下りはそのまま、高速道路やダムの建設は次々に復活、TPPは参加に動き出す。
この国は結局、何も変わらなかった。
そう思わざるを得ません。
民主党には大きな期待をしましたが、結局はアンシャンレジームに完全に飲み込まれてしまった。
しかし、政治のダイナミズムは見事です。
社会党もそうでしたが、民主党も、ただ単に利用されたに過ぎません。
アメリカでよく言われているように、二大政党とは一つの政党にほかなりません。
しかし、若い世代が、それを内部から壊してくれるかもしれないと思っていました。
でも結局は、彼らはただ単に年齢が若かっただけで、発想はすでに飲み込まれていたようです。
少なくとも私よりは老化しているように思います。
最近の政府を見ていると、日本の政府はすでに壊れたとしか思えません。
国民を代表しているとは、とても思えない。
しかも、防衛大臣には、信じられないですが、民間人。
壊れた後に、何が始まるのか。
まあそれを見物するのも、余命少ないものには面白い出し物かもしれません。
少し長生きしすぎたようです。
■孤立死防止のためのデイコールシステム(2012年6月7日)
孤立死が増えています。
それはまさに社会の象徴と言ってもいいかもしれません。
その孤立死防止の活動に長年取り組んでいるのが、大阪のNPO法人デイコールサービス協会の松本敏さんです。
松本さんは、先ほど、テレビで放映されたドラマ「神様の女房」のモデルになった、松下幸之助の奥様のむめのさんから、直々に教えを受けた人です。
以前は、松下家の警備などを任されていましたが、むめのさんの言葉に動かされて、「人のいのち」を守ることをライフワークにし、そこから創案してきたのが、デイコールシステムです。
松本さんは、人を元気にするのは、会話の力だと考えています。
たとえ電話を通してでも、肉声で会話する事が、命を通わせあうことだというのです。
そこで、毎日、定時刻の自動発信で開始される短時間内電話交信により、人間同士の肉声を通して心の交流を継続実施するシステムを開発しました。
それが、デイコールシステムです。
停電になっても使える従来型の固定電話が基本になっています。
毎日の定時の肉声による呼び掛けが精神的刺激となり、人間の生体時計を調整し甦らせ「認知症予防」にも役立ちますし、高齢者や災害弱者など、「人の安否確認」もでき、独居高齢者の「孤独死防止」や核家族の「孤立死防止」に役立つ、と松本さんは考えています。
すでに枚方市で数年前にモデル的な事業展開もやっています。
その時は、在宅医療への導入を目指して、在宅患者154人を対象にして、デイコール問診用電話機を設置したそうです。
そうした社会実験から、松本さんは。デイコールシステムは在宅医療に限らず、予防的なものも含めて、人のつながりを育て、地域社会を元気にしていくために活用できるのではないかと考え出したのです。
しかしなかなか広がっていきません。
ハード的なシステムは完成していても、それを使い込む地域社会がなければ展開のしようがありません。
私はこれまで何回も松本さんからお話をお聴きしています。
ですから概念的には理解していますが、実際にどうしたらいいか、動けずにいます。
自分の住んでいる地域も含めて、いくつかの自治体行政に働きかけたこともありますが、私の説明能力の欠如から、なかなか関心を持ってもらえません。
そこで、今度、孤立死防止のためのデイコールシステムの活用を考えるフォーラムを開催することにしました。
私ひとりでは、いささか心もとないので、一緒にやってくれる人を集めることにしました。
仲間が3人集まったらスタートします。
ともかく小規模でもいいから、動き出そうと思います。
関心のある方、ぜひ参加してくれませんか。
私にメールをいただければうれしいです。
■仕組みと現実(2012年6月8日)
電力料金を値上げに関する公聴会が始まりました。
ここでの意見は、実際にはどういう効果をもたらすのでしょうか。
そう思うと、とても虚しい気分になります。
公聴会はほとんどのテーマで、賛否両論が出ます。
だからこそ公聴会の意味もあるのですが、そこでの多様な意見をどう受け容れるかで、全く結果は異なってきます。
最近、ある講演会で体験したことですが、同じ話を聴いてもその受け止め方は、正反対に近くなることもあるのです。
公聴会は、合意形成に向くよりも、自らの言い分を補強する材料になりかねません。
仕組みができてもそれが現実を変えるとは限りません。
仕組みと現実の社会は、最近はますます距離を広げているように思います。
大飯原発再稼動もそうでしょう。
これほどの反対があっても、政府はなんら影響を受けずに、当初のスケジュールを淡々とこなしています。
その鈍感さは驚くほどですが、反対を唱えるほうも、同じように鈍感になっています。
つまり生々しい生活ではなく、仕組みこそが社会の中心になってきているのかもしれません。
友人が、そろそろ原発事故の「記憶の半減期」になってきましたとメールをくれました。
私自身も、そうなりかねていることに唖然とします。
私は、政府に対してかなり批判的な思いを持っていましたが、最近はむしろ諦めに近い感情が勝っていて、まあ勝手にやってよ、という気分が強まっています。
みなさんはいかがでしょうか。
それではいけないとは思うのですが。
いまこそ、仕組みを撃つべき時期だと思いますが、どうやればいいか、わかりません。
私は、暴力には不向きな人間なので、やはり隠棲という逃亡生活しかないのかもしれません。
しかし逃亡生活も厳しそうです。
サリン事件の逃亡犯の報道も、いろんなことを考えさせてくれます。
住みにくい時代になったものです。
とりあえず、仕組みに拘束されたり、仕組みに信頼をもったりすることだけはやめて、これまで以上に、自分をしっかりと生きようと思います。
もちろん行動も含めて、です。
さまざまな意味で、汚染された社会の中で生きていくには、私にはそれしかないのかもしれません。
■「節電」という言葉の落し穴(2012年6月9日)
アマルティア・センは、飢餓は食料不足からではなく、食料配分の方法によって発生することが多いことを立証しました。
昨今の電力需給に関連して、いつも思い出すのは、このことです。
日本の現状は、おそらく今の生活や経済を維持する意味でも、電力供給不足ではないように思います。
無駄に使われているところが多いばかりか、配分の仕組みが問題です。
それを正すと、たぶん既得権益を壊し、損をする人が発生するのでしょう。
市場主義者は、市場が需給を調整し、最適解に導くといいますが、それはアダム・スミス時代の素朴な経済の時代の話です。
もっともその頃でさえ、それはモデル的な話でしかなかったわけですが。
最近明らかになったように、電力会社はコストアップと収益向上が正比例していたばかりか、電力の無駄遣いが進めば進むほど利益があったのです。
そんなことは少し考えればわかることですが、多くの人はその「少し考えること」すら、最近はしなくなっています。
そして、電力会社の電力需給データや不足率の数字におののくのです。
しかし、電力の供給不足の数字はほんの短時間の話であり、しかもいかようにも対応できるはずです。
昨年の計画停電時の電力需給のデータをきちんと検証すればさまざまなことが見えてくるはずですが、東電の元社長にさえ軽んじられている現在の政府にはそんな力はないでしょう。
原発を再稼動するかどうかの判断基準になるデータが、電力会社に握られているというのは、おかしな話です。
しかし、まあそんなことはいまさら言ってもどうしようもありません。
私が残念に思うのは、これまでの無尽蔵の電力消費文化から抜け出られる好機だったはずなのに、その好機を逸しつつあることです。
それは私たちの問題でもあるからです。
前にも書きましたが、「節電」という言葉がおかしいと、私は思います。
私の感覚では電力の過剰消費を見直すだけで、私たちの電力消費量はかなり減らせると思います。
「節電」というと、なにか「我慢」をイメージさせますし、そうではなく、電力消費のあり方を通して、私たちの現在の生き方を見直す好機と捉えたらどうかと思うわけです。
もし本気で「持続可能な社会」とか「温暖化対策」を考えているのであれば、そうすべきではないかと思います。
言葉を盛んに使う人ほど、自らの生活は、その反対をいっている場合が多いことは、私の周りの人を見ていてよくわかります。
言葉だけの人は、私は信頼しません。否定はしませんが。
「成長」も同じです。
経済成長がなければ生活は豊かにならないという人が多いですが、その考えこそ、見直すべき時期です。
最近、いろんな人と話していて、私はどうも自分が違った世界に済んでいるような気がすることが多くなりました。
「消費機関的存在」から抜け出て、自分の生活に立脚すれば、いろんなことが見えてきます。
■「正名」は現代社会が最も必要としている思想(2012年6月9日)
東大教授の安冨歩さんは、面識はありませんが、その主張には日頃、とても共感しています。
その安冨さんは、「生きるための論語という、実に興味深い本で、「正名」は現代社会が最も必要としている思想である、と書いています。
そして、論語に出てくる
「子曰く。觚(こ)、觚ならず。觚か、觚か」
という話の意味を解説してくれています。
それが実に今の日本の社会を思わせます。
觚は、祭礼に使う盃のことだそうです。
孔子の時代以前から、祭礼の最中に飲み過ぎないように盃が小さく作られていて、それを「觚」と呼んでいたそうです。
盃は大きさによって、名前が違っていたようです。
ところが、時代が経つにつれて、觚が次第に大きくなってきてしまったようです。
そうして儀礼でもみんなががぶがぶ飲んで酔っ払うようになってしまった。
それを怒っているのが、論語のこの文章だと安冨さんはいうのです。
孔子が怒っているのは、がぶがぶ飲むことではありません。
「觚」とよばずに、もっと大きな盃を指す名前(角とか散とかいったそうです)を使え、名前でごまかすなと怒っているのです。
言葉でごまかす小賢しさを諌めているのです。
安冨さんは、「原発危機と東大話法」(明石書店)という本で、いまの日本の社会に対して、あるいは日本人に対して、孔子と同じように怒っています。
いや性格には怒るというよりも、呆れているのかもしれません。
安全でないものを安全と言い、停止もしていないものを停止と言い、実態をごまかしているうちに、言っている本人も騙されてしまい、聞いているみんなも騙されてしまい、良心を失ってしまっている。
先日、元原発プラントの設計者だった人が、まさに自分もそうだったと告白していました。
私たちの多くも、みんな原発は安全だと信じてしまっていたのです。
あれほどの事故が起きなければ、きっとまだみんなそう思っていたでしょう。
安冨さんは、太平洋戦争の時と同じではないかと嘆いています。
原発の問題に限りません。
税と社会保障の一体改革などと、おかしな名前さえまかり通っています。
同じような言葉は山のようにあります。
私は、最近話題のほとんどの言葉に違和感を持っていますが、言葉と実体の違いには気をつけなければいけません。
安冨さんは、現在の日本では、あらゆる組織において、みんな「耐え難いほどの閉塞感に苦しんでいる」と書いていますが、それはみんな自分を失い、言葉に翻弄されたり、言葉でごまかしたりしているからだろうと思います。
まずは、身のまわりから「名を正していく」ならば、50年もしたら、社会は良くなるでしょう。
孔子やソクラテスのような人が、もっと増えていくといいのですが。
■「企業と行政による犯罪行為」(2012年6月12日)
水俣病にずっと関わっていた原田正純さんが亡くなられました。
原田さんの「水俣学」から学ばせてもらったことはたくさんあります。
感謝と共に、ご冥福をお祈りしたいと思います。
ところで、その原田さんの言葉が今朝のテレビで流れていました。
「水俣病は、企業と行政による犯罪行為で事件である」。
少し不正確かもしれませんが、原田さんはそう語っていました。
私も全く同感ですが、残念ながら、その犯罪行為を首謀し、実行した人たちは裁かれてはきませんでした。
企業と行政による犯罪行為は、常に隠蔽され、裁判になっても裁かれることはほとんどありません。
加担していた御用学者やマスコミ関係者は、十分に利得を得て、逃走しています。
彼らには良心は無縁ですので、罪の意識はたぶん最後までなく、謝る人もほとんどありません。
福島原発事故を起こした側の人たちが、いまその繰り返しを再現しています。
私は、原田さんの言葉に「司法」も加えたい気持ちですが、
それはともかく、この言葉で真っ先に頭に浮かんだのは、大飯原発再稼動です。
これはまさに、水俣病の繰り返しではないのか。
明らかに、電力業界と政府の犯罪行為であり、事件ではないのか。
実行犯は、野田首相ですが、首謀者はその後ろにいるのでしょう。
もし原発事故が起こったら、野田首相はどうやって責任をとるのか、だれも質問しませんが、責任など取れるはずがありません。
割腹自殺したところで、責任を取ったことにはなりません。
福島の原発事故の被害者への責任さえ、とれていないのです。
にもかかわらず、言葉の意味もわからずに言葉を使う「無責任」の人の言葉に国民のかなりの人たちが生活をゆだねています。
いまもって、再稼動を歓迎する人がいる。
その感覚が私にはわかりませんが、それほどいまの日本の社会は壊れてきているのでしょう。
みんな守銭奴になってしまったのです。
守銭奴が不穏当なら、マネタリー・エコノミーの信奉者と言うべきかも知れません。
どこまで社会を壊せば気が済むのか。
社会は市場ではなく国民は消費者ではないことを思い出してほしいものです。
私たちも、いい加減、そうした悪夢から目覚めねばいけません。
しかし、目覚めないほうがいいのかもしれません。
目覚めると、いまの社会は実に生きにくい社会ですから。
■廃墟を見ても学ぶ能力のない日本(2012年6月13日)
タイトルの「廃墟を見ても学ぶ能力のない日本」というのは、雑誌「世界」の今年の1月号で、ドイツの倫理委員会の報告書を紹介した。東京経済大学教授の三島憲一さんの言葉です。
三宅さんによれば、そうしたイメージが世界に広がりだしているというのです。
昨年末にこの文章を読んだ時には、そんなことはないだろうと思っていましたが、昨今の動きを見ていると、まさに子の言葉は真実を言い当てていたと思わざるを得ません。
そう思って、また倫理委員会の報告書を読み直してみました。
これは繰り返し読む価値があります。
最近はネットでいくつかの翻訳が読めますので、まだお読みでない方はぜひお読みください。
たとえば、
http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/3rd/3-82.pdf
にあります。
世界にとって、北朝鮮の核兵器と日本の原発と、どちらが大きな災いでしょうか。
もしかしたら日本かもしれません。
最近、北朝鮮を非難する気になれなくなってきました。
今日は国会中継を観ていましたが、現在の政権はひどいと感じました。
北朝鮮の政府のほうが、もしかしたら、優れているのかもしれない。
そんな気がする首相や閣僚の対応でした。
■貿易自由化は誰のためか(2012年6月15日)
どこかおかしいと思うことが、世の中にはたくさんあります。
それについて、少し書こうと思います。
6月10日の日曜日の、NHKのテレビで「トヨタピラミッド」という特集番組をやっていました。
厳しい国際競争の中で、トヨタが海外進出を余儀なくされ、その影響で、トヨタ傘下の関係会社が激震に襲われているというドキュメントです。
トヨタ自動車や関係会社の苦悩はよくわかりますし、そうした中で各社の経営者や従業員も頑張っているのがよくわかります。
しかし、見ていて、やはり、「どこかおかしい」と思い続けていました。
まずおかしさに気づいたのは、トヨタの豊田社長が立ったままペットボトルの水を飲んでいる風景です。
私なら座って珈琲を飲むのに、あるいは美味しいお茶を淹れて飲むのに、トヨタの社長ともいう人がペットボトルの水を直接飲んでいるのが、おかしく感じたのです。
たまたまの様子を、絵になるからといれたのかもしれませんが、しかしそれが象徴するいまの人々の働き方に、私は首を傾げたいのです。
真面目に働いてきた二次下請けの会社が廃業を決めたという場面も出てきます。
真面目に働いてきたのに、なぜ会社を締めなければいけないのか。
これもやはりどこかおかしいと思うのです。
真面目に働いている人たちが報われない社会は、どう考えてもおかしいのです。
登場する人の多くは、コスト競争力に勝っていかないと生き残れないといいます。
これは昨今の「常識」かもしれません。
しかし、なんで生き残りをかけるほどしのぎを削ってコストダウンしなければいけないのか。
「生き残る」とは、いったい何なのか。いやその前に、生き残るのは「何」なのか。
真面目に働いている人が、きちんと生きていけることこそ、大切ではないか。
戦争でもあるまいし(戦争と言う人もいますが)、生き残りをかけてなどという「物騒な言葉」を使わないでほしいものです。
一時下請けの会社の社長の苦悩も紹介されました。
リストラし、大きなリスクを背負いながら海外進出を決めた、その社長の最後の言葉は見ていられないほどでした。
涙をこらえていたようにさえ感じました。
その社長は本当に幸せなのだろうか。
そう思いました。
人件費の安い途上国に企業はどんどん進出しています。
しかし「人件費が安い」とはどういうことでしょうか。
その国の生活のために必要なお金と貿易自由化が実現したグローバルな市場で売買される商品価格のコストの要素になるお金とは、同じものでしょうか。
生活のためのお金と商品製造コストのお金とは、実は全く違うはずです。
前者はローカルな地域社会に立脚していますが、後者は世界単一の通貨的市場に立脚しているのです。
そして市場を世界的に画一化しつつあるのが、貿易自由化です。
貿易自由化は、ローカルな地域の生活社会を壊しこそすれ、支えてはくれません。
にもかかわらず、みんな貿易自由化がいいものだと思い込んでいます。
特に現場を知らない優等生たちは、そう思っているでしょう。
TPPの意味をみんなわかっているのだろうかと思います。
コストダウン発想は私たちを決して幸せにはしないでしょう。
このテレビ番組を見てから、どこかおかしいという思いが頭から離れません。
■大飯原発再稼動(2012年6月16日)
大飯原発再稼動が決定したようです。
1979年のスリーマイル島原発事故に関する大統領委員会(ケメニー委員会)の報告書の文章を思い出しました。
「我々が本当に肝要だと考えたことは、これまでと同じ組織、スリーマイル島事故前に支配していたのと同じ慣行と態度で、提案された改善策が行なわれるか否かである。改善策が日常的「ビジネス」の感覚で実施されるのでは、スリーマイル島事故が必然的に促してくる根本的変化は実現できない」
構造は何一つ変わっていないことに愕然とします。
■その先のない人(2012年6月21日)
最近、なぜか無性に腹が立っています。
その怒りの矛先は、実は私自身なのでしょうが、現象的にはあらゆるものに向いています。
怒りの中で生きるのは、それなりに辛いものがあります。
そのせいでしょうか、このところ、奇妙な不安感に襲われることもあります。
具体的に何かが不安なのではありません。
何かわからない、大きな不安感が襲ってきます。
こんな事はいままであったでしょうか。
それで、今日はすべての約束をキャンセルさせてもらい、少し自らの生き方を問い直してみようと思いました。
なぜ、これほどに腹が立つのか。
なぜわけのわからない不安に襲われるのか。
1日くらい考えたところで、わかるはずもありません。
むしろ、怒りと不安は、高まりこそすれ、おさまることはありませんでした。
でも、ちょっとだけこころに余裕が出来ました。
時に、立ち止まることは大切です。
少し逸脱して自分を見られたからです。
午前中、荒れ放題になっている近くの農園で雑草を刈りました。
息が切れて、注意しないと熱中症になりかねなかったのですが、身体的疲労は快く精神を癒してくれました。
午後は、数年前に読んだスーザン・ソンタグのエッセイを読みました。
なぜか数日前から読み直したくなっていたのです。
そのエッセイに、こんな文章がありました。
この文章を読みたくて、ソンタグを思い出したのだと確信しました。
2001年にソンタグが、エルサレム賞の授賞式で話した時の言葉です。
堕落が居座っているとひたすら驚くだけで、手をこまねいている人。
人間というものが、自分以外の人間たちに対して、どれほど陰惨で直接的な残酷な行為をしでかしてしまうものか、その証左を突きつけられても、幻滅するばかりで、その先のない人。こういう人たちは、道義的または心理的に大人になっていない。
ある年齢を過ぎたら、この種の無邪気さ、浅薄さ、ここまでの無知、好都合なだけの健忘症をかこって許される人は、誰もいない。
これは、まさに自分のことではないか!
この言葉の背景にあるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争であり、あるいはパレスチナの現実でしょうが、日本の現状にもまさに当てはまります。
あまりにも見事に重なります。
「その先のない人」といわれないように、もっと前に進まないといけません。
明日から、出直しです。
■責任をとるということ(2012年6月23日)
沖縄全戦没者追悼式での野田首相のスピーチをテレビで見ていて、大きな違和感を持ちました。
私には、そこに存在することが最も相応しくない人に見えました。
せめてもの救いは、広島や長崎でなかったことですが、まもなくその季節も来ます。
古代ローマの歴史家ツキディディスは、「結果の予測しがたい戦争を起こせば、これを立派に戦い収めることはまさに至難となる」と述べています。
その言葉を思い出します。
原発再稼動や原発輸出は、私には、まさに「結果の予測しがたい戦争」にほかなりません。
最近のように、原子力発電の実態がかなり明確になってきている状況の中で、いまなお原発を推進しようとすることの無責任さには驚きますが、にもかかわらず、野田首相は「責任を取る」と公言しています。
「責任を取る」という言葉は、あまり意味のある言葉とは思えませんが、責任を語る人が、だれのために活動しているかを明らかにしてくれます。
野田首相の上司は、国民ではなく、産軍官複合体を構築している「システム」です。
彼には、国民の生活の安寧など眼中にないでしょう。
彼が「責任」と言った時の相手もまた、国民ではなく、「システム」なのではないかと思います。
上司である財界人や財務省官僚は、国民を犠牲にしてでも経済を守れと彼に命じているように感じます。
小泉元首相が、郵政民営化で演じた役割とどこか似ています。
いずれも、国民の生活は収奪すべき市場でしかないのです。
作家のスーザン・ソンタグは、9.11事件が発生した後、狂気のイラク戦争を国民に呼びかけたブッシュ大統領を、「ロボット状態のアメリカの大統領」と呼びました。
最近の野田首相は、私にはまさに、ロボット常態の日本の首相に見えてきます。
さて、責任です。
社会が現代ほど複雑になってくると、責任の取り方も簡単ではありません。
多くの場合、人は組織や社会的立場によって、その役割を果たすようになってきます。
そして、個人では手におえないような、社会との関わりの中での新しい責任が発生します。
いわゆる「任務責任」です。社会的責任と言ってもいいでしょう。
ここで重要なのは、その責任の内容は、どちらを向くかでまったく違ったものになることです。
上司の命令に対する責任でさえ、命令を忠実に果たすことではありません。
ロボットは、ただただ命令を忠実に果たせば良いでしょう。
しかし、人間は違います。
第二次世界大戦後に行われたニュールンベルグ裁判で、「上司の命令に対する服従は違法性を阻却しない」という、いわゆるニュールンベルグ原則が認められました。
つまり、責任は状況に応じて、反対の側からも吟味されるということです。
「責任を取る」などと軽々に語ってほしくありません。
その前に、会場の沖縄平和祈念公園に残されている多くの人たちの手記を30分で良いですから、読んできて欲しいものです。
責任を取るとはどういうことか、少しは考える気になるでしょうから。
人が大切にすべきことは、一つしかありません。
■個人が自立して生きていけない社会(2012年6月29日)
政治が一向に動きません。
こういうだらだら状況は当事者には意味があるでしょうが、見ているほうはストレスがたまります。
コミュニケーションや信頼感のポイントは、「わかりやすさ」です。
小沢さんは、いつもそれが欠けているので、敵が多いのでしょう。
彼には「戦う勇気」がないのかもしれません。
小沢嫌いにも関わらず、今回、小沢さんに期待していた私も、つくづく呆れてしまいました。
みんなが言うように、やはり彼はもう終わっていたのかもしれません。
いや、政治が終わったのでしょう。
今朝のテレビを見ていて、小沢さんに近い東さんへの信頼感が高まりました。
東新党ができて、消費税増税延期、原発再稼動中止を旗印に動き出せば、新しい風が起こるかもしれません。
しかし、政治家がそうした動きを起こさないのが不思議です。
みんな組織に隷属しているのでしょう。
みんなから冷笑されていた新党きずなを、私は評価しています。
彼らは、まだ意志を持った人間でした。
今朝のテレビで、東さんの発言に対して、コメンテーターと言われる人たちは、東さんも民主党の一員であり、内閣にも関わっていたのに、なぜこの3年、自らの主張を実現できなかったのか、と責めていました。
実現できなかったから、彼は反対票を投じたのですが、テレビの常連たちはみんな権力に迎合したところに身を置いていますから、それが理解できないのでしょう。
太った豚たちのコメントは、いつも退屈です。
陸山会事件を巡る虚偽報告書問題の最高検による処分は、驚くことに田代検事の尻尾切りで終わり、当時の上司ら6人は不起訴になりました。この事件は限りなく組織犯罪の疑いが強いですが(もしそうでなければ検察の規律は壊れているとしかいえません)、結局、組織の論理が働きました。
司法界には、たぶんもう人間はあまりいないのでしょう。
電力会社の株主総会は見事に組織の論理で貫かれています。
壇上の人たちが人間には見えてきませんでした。
しかもなぜ真ん中に勝俣さんがいるのか。
彼が犯罪者である事は明らかでしょう。
水俣の時と同じです。
電力会社で働く真面目な社員やその家族はどう思っているでしょうか。
個人が自立して生きていけない社会になってしまっています。
システムや組織に隷属して生きなければいけなくなってきているような気さえします。
障害者自立支援や若者自立支援も大切ですが、自立すべき人は違うのではないかと思います。
私は、生活においては、あんまり自立できておらず、食事でさえまともにつくれないと、娘に怒られていますが、組織やシステムにだけは隷属したくないと思っています。
太った豚ではなく、痩せたソクラテスになれと、卒業式で訓示されましたが、それだけはきちんと守っています。
最近はお腹が出てきてしまっていますが。
■「なんと罪深いことをしてしまったことか」(2012年7月2日)
6月30日に福島大学で開催された「東北協同集会 in ふくしま」に参加しました。
福島で再生に取り組んでいる農業者や漁業者など、さまざまな実践の事例報告や話し合いの後、最後に、「福島からの提言」として、福島大学の塩谷教授が話されました。
感動しました。
基調講演も、福島大学の小山准教授でしたが、これも実に生々しい報告で聴き入りましたが。塩谷さんの話には涙が出ました。
その報告はまもなく「協同の発見」と言う雑誌に掲載されると思いますが、特に私が共感した言葉を紹介させてもらいます。
メモしていなかったので、不正確かもしれませんが。
塩谷さんは、福島でのさまざまな困難を語ってから、希望の話をしましたが、そこでこう語ったのです。
ぼくが生きている間には福島は元に戻らない。なんと罪深いことをしてしまったことか。
困難を語り希望を語るにおいて、塩谷さんは一人称で語っているのです。
誰かを責めるのではなく、自らの問題として引き受けている。
涙が出ました。
多くの人が忘れている視点です。
私が、反原発のデモに最近参加できないでいる理由の一つです。
集会の翌日、相馬や南相馬、飯舘村などをまわりました。
浪江の入り口まで行きました。
バスの社内で測定していた放射線量は、場所によって3マイクロシーベルトを超えました。
農業者、漁業者、就労支援者など、いろんな人の話を聞きました。
共通していたのは、「誰かを責めるのではなく、自らの問題として引き受けている」姿勢です。
そして、みんな悲しさと明るさを絡み合わせた表情をしていました。
感動すると共に、自らの生き方を考えさせられました。
いろいろと思うことがあり、追々、このブログでも書こうと思いますが、ともかく塩谷さんの言葉にはドキッとさせられ、涙が出たのです。
交流会で塩谷さんと話しました。
塩谷さんはこういいました。
福島にいると思いきり深呼吸できないので疲れます。福島の外に行くと思う存分深呼吸できる。でも人と話していると(世界が違うようで)疲れます。
当事者の世界は決して見えてこないことを、私も最近よくわかってきましたが、福島の人の気持ちなど、わかりようがないのです。
「なんと罪深いことをしてしまった」日本人の一人として、生き方を悔い改めなければいけません。
複雑な思いで、福島の被曝地から大飯原発反対のデモの映像を見ていました。
■政治家の資質(2012年7月3日)
小沢議員の去就が気になって、最近またテレビをよく見ています。
昨日、小沢グループが離党届を提出していた時間、テレビの「ひるおび」を見ていました。
消費増税法案に反対を表明した小沢グループの議員が4人出ていました。
離党するのかしないのかと一人ずつに質問している最中に、速報がテレビにも入ってきました。
離党するのかどうかいう司会者の質問に、辻議員は「離党するかどうかを議論する時ではない」と議員特有の質問に正面から向きあわない不誠実さで対応し、階議員は離党届に署名して預けたが自分は離党するつもりはないと、これまた普通の人ではとても理解できない回答をしていました。
見ていてとても不愉快でした。
番組が終わって、しばらくしてから2人が離党を撤回したという報道が流れました。
約束を反故にし、署名した責任は取らない。
政治家の約束とは一体何なのか。
私が生きている世界では通用しない話です。
しかし、これが政治家の常識なのでしょうか。
改めて驚きました。
それにしても不思議なのは、消費増税反対、原発再稼動反対の声がこれほど大きいにもかかわらず、小沢グループの離党を支援する人が少ないことです。
政治評論家の田崎さんは、今日のテレビで、「小沢さんの発言は正論だが、小沢さんは嫌い」という人が多いのだろうというようなことをお話になっていました。
私は小沢さんは嫌いですが、少なくともこの3年間、発言の内容においては、小沢さんの話はいつも納得できています。
それに、これほどマスコミや検察、他の国会委員やアメリカから小沢さんが嫌われるのは、それだけの意味があるのだろうと思います。
どうして、世論が大きく動き出さないのか、本当に不思議です。
日本の国民は、よほど「政局好き」なのでしょうか。
選挙はますます遠のいているようです。
■除染のために農地の表土を廃棄することなどできません(2012年7月4日)
福島の二本松で有機農業に取り組んでいる菅野さんのお話を聞く機会がありました。
その中に、グサッと心に響いた言葉がありました。
それがタイトルの「除染のために農地の表土を廃棄することなどできません」です。
私も、そのことが以前から気になっていました。
日本の農業は「作物を作るのではなく、土をつくるのだ」と言われてきました。
私も、これまでわずかばかりの家庭農園をやってきた体験から、土づくりがいかに大変であり、大切であるかは、少しだけ実感しています。
農家のみなさんにとって、農地の土は、祖先から営々と積み重ねてきた汗の結晶でしょう。
それをいとも簡単に「捨てる」ことなど、できないはずだと思っていたのです。
菅野さんは、まさにそう言ったのです。
とても納得できました。
もちろん菅野さんは、除染に反対しているわけではありません。
まあ今進められている「除染作業」の意味には私でさえ疑問を持ちますが、菅野さんは掘り返しとかいろんな方法で、土を廃棄せずに、放射線から作物を守ろうとしているのです。
たとえば、セシウムは粘土質の土が取り込んで押さえ込めそうだとか、そういう実験を繰り返しやっているのです。
そのデータも見せてもらいました。
まさにそこに、知のあり方を見せてもらったような気がしました。
汚染されたものは廃棄する。
これはまさに工業の発想です。
その発想が環境問題を引き起こしているわけですから、そこから抜け出なければいけません。
そうした「知の先進作業」は大学や研究所ではなく、やはり現場で行われているのです。
大学もしかし、知が失われているわけではありません。
わずかでしょうが、知を守っている人もいるようです。
今回、お話を聞いた福島大学の小山准教授は、農地の放射線量を細かなグリッドに分けて測定してマップをつくろうと努力しています。
いまの農地の除染の方法は、画一的に進められているようです。
まさに工業発想で、元受企業に利益が落ちる仕組みです。
対象の実態を把握もせずに、中和剤などをばら撒いているわけですから、無駄である上に、第二次汚染を引き起こしかねません。
土を育てる農業から環境を収奪する農業への流れが、反転するのか、加速されるのか。
福島の動きは、そうしたことを象徴しています。
有機農業をやっている大内さんは、ご自分の畑を案内してくれて、みんなにきゅうりを取っていかないかと勧めてくれました。
その笑顔が、今も頭に残っています。
本当の知はどこにあるか。私には一目瞭然です。
■「原発事故は人災」の欺瞞性(2012年7月6日)
福島原発事故を検証する国会事故調査委員会の最終報告書が公表されました。
新聞に報道には、大きく「原発事故は、自然災害でなく人災」と断定したと書かれています。
何という単細胞。委員会のメンバーは真面目に考えたのかと疑いました。
あまりにも明確なことを、さも仰々しく膨大な時間と費用をかけて行ったのかと議論していたのかと驚いたのです。
「自然災害」ではなく「人災」と談じたことを、多くの人が評価しています。
世間も、単細胞の人ばかりなのだなあと私は呆れ果てています。
そもそも、災害のほとんどすべては、「自然災害」と「人災」の両面を持ち合わせています。
それを、「自然災害」だ、「人災」だ、と決めつけることに違和感があります。
問題は、そのいずれでもなく、その両面をきちんと評価し、対策を打たねばいけません。
東電の事故調査報告書もそうですが、この報告書も真摯に原因を究明するというよりも、責任の所在の押し付けゲームの姿勢を感じます。
私が、「原発事故は人災」という見出しを見て驚いたのは、事故の原因が人間の操作ミスに押しつけられてと言うことです。
かつての原発事故の時と同じ繰り返しです。
言い換えれば、「原発事故は人災」とは、「原発は安全」だということです。
不手際な人間が、その安全な原発の操作ミスで、不幸な事故を起こしたということになるでしょう。
危険なのは、「原発」ではなく「運転」、というわけです。
果たしてそうなのか。
これは、「原発は安全でクリーン」と言っていた、「原子力ムラ」の論理の枠組みでの思考です。
つまり、国会事故調査委員会のメンバーも、「原子力ムラ」の雇われ人でしかなかったわけです。
唯一期待していた国会事故調査委員会が、こんなレベルのものだったとは、真に残念です。
まあ委員会の人選を見れば、これは十分に予想できたことですが、あまりにひどい。
そもそも「自然災害」と「人災」だけで考えることに問題がありますが、もし「人災」に、「原発をつくる」ということも含まれているのであれば、理解できないこともありません。
つまり、「原発をつくったことが事故の原因」だというのであれば、よくわかりますが、それでは事故の調査報告にはならないでしょう。
しかし、私には、その一言で、すべての問題は解決できるように思います。
言い換えれば、この報告書は原発をこれからも推進する、あるいは維持するためのものとしか思えません。
委員の人たちは、おそらくほとんどがそういう思いを持った人のように思えます。
そうでなけれ、委員の構成は変わっていたでしょう。
原発事故の原因は、原発そのものに内在されており、必然的に起こるものだと思います。
以前も書きましたが、武谷三男さんや木仁三郎さんは、それを警告していました。
いまこそ、原発そのものの安全性が問われるべきです。
大切なのは、運転の安全性ではありません。
原発に「非倫理性」です。
私は、そう思っています。
もっとシンプルに問題を考えるべきだろうと思います。
■実態を知らずに何ができるのか(2012年7月8日)
最近、複数の方から、「実態を把握せずに対策がとられてしまうこと」への憤りの言葉を聞きました。
お一人は、ホームページに書いた福島大学の小山准教授からです。
福島の放射線汚染農地の除染作業は、農地の汚染状況を把握せずに画一的に進められていることへの怒りです。
小山さんは、それに対して、怒っているだけではなく、農業者などとも協力しながら、汚染実態の把握作業を進めています。
その水田も見せてもらいました。
もう一人は、原子力関係者の方からお聞きしました。
事故が起きた時に、原因をきちんと調べることもなく、ともかく目先の問題に対して現場的に対処してしまいがちだというようなことに怒っていました。
報告書も、「○○という問題が発生したので、○○という対応をとって、問題を解決した」というスタイルが多いそうです。
そこでは「なぜ問題が起こったのか」という、原因追求が十分には行われずに、解決策が重視されているわけです。
今回の、国会による事故調査報告書は、原因追及が行われているでしょうか。
私は、朝日新聞の報告書要旨しか読んでいませんが、その限りにおいては、やはり〔原因〕はあまり追究されていません。
外部事象への配慮が不足していたとか、マニュアルや訓練が不十分とか、指示命令系統が混乱していたとか、書かれていますが、なぜそうなっていたのか、またどうしたらそうならないように出来たのか、などはあまり読み取れません。
私には、これが事故調査報告書だとは、やはり思えません。
一歩、突き進まなければ、意味が無いと思うからです。
そもそも、原発とは何かの議論さえ、読み取れません。
こうしたことは、おそらく「実態」をあいまいにして、対処療法的に行動してきた文化のせいではないかと思います。
こうしたこと事は、原子力に限りません。
大津で起こった中学生の自殺をめぐっての学校や教育委員会の対応にも、強く感じます。
彼らには、おそらく今もなお、罪の意識はあまりないでしょう。
実態を知ろうとしないし、知らない世界で生きようとしているからです。
実態を知れば、現場を知れば、人は変わります。
何をすべきかも見えてくるでしょう。
そう思っているのですが、実態を知ることはエネルギーが必要になります。
実態をできるだけ見ないですませたいと、多くの人は考えるのでしょう。
その一人でもある私も、大いに反省しなければいけません。
■汚染ということ(2012年7月8日)
「汚染」という言葉を、善悪や倫理の問題として認識している限り、環境問題の本質的な議論はできない、と惑星科学者の松井孝典さんは書いています。
ある生命にとっての「汚染」が、ある生命にとっての「恩恵」になることはよくあることです。
二酸化炭素で充満していた地球を植物が大量の酸素で「汚染」してくれたために、動物が生きやすくなったことを忘れてはいけません。
先日、福島でお会いした塩谷さんからメールが来ました。
3年ほど前から、大学に隣接する遊休農地を、地元の方にお手伝いいただき再生させ、学生もまじえて農作業をし、交流の場として活用してきました。
震災以降、そうした楽しみも奪われましたが、生き物は何事もなかったかのように成長しています
(実は放射能の影響がでているのかもしれませんが、まだ不明です)。
人類がいないほうがほかの生物にとってはよいのではないか、と思うこともしばしばです。
塩谷さんには、一度しかお会いしていませんが、その時のお人柄が改めて伝わってくるようなお話です。
放射線量が増えても、生き物は何事もなかったかのように成長している。
たしかに、わが家の周辺もそうです。
今朝、自治会の役員のみなさんが、放射線量測定に来てくれました。
我孫子市はいま、自治会が中心になって線量調査をしています。
わが家の庭の芝の上は、0.3マイクロシーベルト、雨水排出口周辺は0.5以上でした。
原発に近いいわき市と同じ水準ですね、と測定に来てくださった方は言っていました。
昨年の測定時とほとんど変わりはありませんが、雨水排出口はむしろ高まっているかもしれません。
さて、これを「汚染」と言うべきかどうか。
芝生は表土を排除したら、放射線量は下がるでしょう。
しかしその表土は、どこに廃棄したらいいのか。
先週、訪問した飯舘村のお地蔵さんの周りの放射線量はわが家とほぼ同じでしたし、福島大学構内に設置されていた測定器は0.2以下を示していました。
いずれも、かなりの「除染作業」が行われた結果です。
測定器が置かれているところだけ除染して、見えるデータを低くするという姿勢に、恐さを感じますが、そもそもこれだけ広域に放射線が拡散した以上、除染などは難しいでしょう。
むしろ0.3前後の放射線量の中で、どう暮らしていけばいいかを考えるべきでしょう。
問題は、この0.3が、さらに高まっていくかどうかです。
原発再稼動を進めるということは、それを加速させることです。
そうした選択がなぜ行われるのか。
そういう人たちに、「持続可能性」とか「生活第一」とか、言ってほしくはありません。
私には、野田首相は極悪な犯罪者にしかみえません。
犯罪者がどこにいるかは、今回の大津の中学生自殺問題で見えてきたように思います。
加害者の中学生を取り囲む大人たちの醜い構造が見えてきましたが、問題の構造は、私には同じく見えてなりません。
放射線量と違い、人間の生活の汚染ははっきりと「汚染」と言えるように思います。
■森まさこ議員と双葉町長と野田首相(2012年7月10日)
国会参議院での予算委員会の中継を見ました。
11時過ぎから休憩を挟んで行われた自民党の森まさこ議員の質問は感激しました。
これまで感じた事のない興奮を感じました。
森さんの対応も実に胸が晴れました。
わけのわからない対応が多い国会審議が多いのですが、森さんは相手を追い詰める技をお持ちです。
私が感動したのは、森さんの話だけではありません。
参考人として発言した、双葉町長の井戸川さんの話です。
とくに最後の話は、涙が出ました。
それを聞いている野田首相は、私にはゾンビのように感じました。
いささか言いすぎでしょうが、そう思いました。
そして、つくづく、今の政府は最悪だと思いました。
人間の心がない。そう思いました。
インターネットでその記録を見ることができますので、ぜひ見てください。
参議院インターネット審議中継の7月10日の予算委員会です。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
午前中は11時頃から、お昼の休憩を挟んで1時半頃までですが、お時間のない人は午後の開始後20分頃から28分までを見てください。
後半は井戸川町長の発言です。
野田首相は無表情でしたが、この1年、政府は何をやっていたのかと、私は改めて怒りを感じました。
井戸川町長の心痛が、私にも伝わってきます。
枝野さんや野田さんには、たぶん伝わらないのでしょう。
もし少しでも感ずる心があれば、発言も表情も変わるはずです。
長年、国会中継を見ていますが、こんな気持ちになったのは初めてです。
あまりのうれしさに、森議員にメールしてしまいました。
たぶんたくさんの人からエールが届いていると思います。
森さんは、小沢さんと違って、喧嘩の仕方、勝負の仕方を知っています。
小気味よいとまでは言えませんでしたが、明らかに勝負は明らかでした。
野田さんの半年振りの福島訪問は、完全に演技だけだったことがよくわかりました。
彼には「民の声」などには関心のないこともわかりました。
実に悲しい話ですが。
■なぜ人は嘘をつくのか(2012年7月10日)
また学校での「いじめ問題」が話題になっています。
新聞を読む限り、信じ難い話ばかりです。
大津の事例は、刑事事件としか思えない話です。
教育委員会も学校関係者も 私には犯罪者ではないかとさえ思います。
新聞やテレビの報道が事実であればの話ですが。
しかし、それよりも怒りを感ずることがあります。
私が一番嫌いなことは「嘘をつくこと」です。
人間がやることは、良いこともあれば悪いこともある。
ですから悪事を働く人も、私は時に許せます。
基準を変えれば、悪いことと良いことは反転することさえあるのですから。
そもそも、英語の悪(evil)のつづりの反対は「生きる」(live)です。
生きることと悪事とは、コインの裏表なのです。
生きていくためには、時に「嘘」をつくことも必要だ、と言う人がいます。
「嘘も方便」という言葉もあります。
そうしたことも、否定はしませんが、しかし、私は「嘘」が嫌いです。
特に、嘘をつくことを正当化する人たちです。
大津の事件の、その後の報道を見ていて、ますます明らかになってきたと思うのは、大人は嘘をつくが、子供は嘘をつかない、ということです。
嘘をつくことを身につけることが、大人になるかもしれないと、私は思っていた頃もあります。
今は、そうは思っていませんが、それにしても「嘘」をつく人が多すぎます。
それも、明らかに、嘘だとわかる嘘を、なんら恥らうことなく、話すのです。
日本から「恥の文化」はもうなくなってしまったのでしょうか。
嘘をみんながつくようになったのは、森内閣の時代からであり、小泉元首相が嘘を奨励したと、私は思っています。
これに関しては、私のホームページで何回か書いてきました。
しかし、最近、国会審議を見ていて、嘘をつく文化が定着してきたことを感じています。
学校では、先生たちが、子供たちに「嘘をつく」ことの見本を見せている。
テレビで記者会見する教育委員会の人たちが、なんであんなに堂々と語れるのか、実に不思議です。
もしかしたら、教育とは嘘をつくことを身につけさせることなのでしょうか。
そうかもしれないなあ、と今日もテレビで国会中継を見ていて、思いました。
今日の国会中継も、実に面白かったです。
■豊かな暮らし(2012年7月14日)
昨日、茨城県の小美玉市に住んでいる人たちとの集まりに参加しました。
そこに関わりだしてから、もう20年近くになります。
関わりだしたときは、まだ市町村合併の前で、美野里町と言いました。
「美しい野の里」という名前に惹かれて、底で始まっていた文化センターづくりに関わらせてもらったのが、きっかけでした。
田園風景が残っていたり、長屋門のある古民家が残っていたり、とてもホッとできるところでした。
そこの住民のみなさんとはかなりお付き合いさせてもらいました。
市町村合併する自治体とは、基本的には付き合わないという私の方針で、しばらく付き合いをやめていましたが、最近また、当時付き合いのあった人たちから声をかけてもらい、時々通いだしました。
昨日は、みんなで本を出そうという集まりでした。
全員手弁当であるばかりか、出版費用も自分たちで集め、取材や原稿書きも自分たちでやるのです。
その熱意にほだされて、私も時々、参加しています。
昨日は昼食をはさんでの長い集まりでした。
メンバーの一人が、手づくりのバラ寿司とお漬物や煮物を持ってきてくれました。
デザートにスイカとヨーグルトまでありました。
遠慮なくいただきました。
とてもおいしかったです。
みなさん、豊かな暮らしですねと言ったら、素直にみんな頷かれました。
いつも、ここに通って感ずるのは、その豊かさぶりです。
誤解のないように言えば、ただ単に自然が豊かだといっているのではありません。
芸術や伝統文化などの、いわゆる「文化的な豊かさ」も、都会の人たちよりもずっと豊かです。
昨日の会場は、私もささやかに関わらせてもらった文化センターで行ったのですが、いつ行っても、そこは生き生きとしています。
ここだと年収200万円もあれば、豊かに暮らせますね、と言ったら、100万円でも豊かに暮らせますと、手づくり料理を持ち込んできてくれた人がいいました。
食材はたくさんありますし、庭にはみかんとリンゴの樹が並んで育っていると言うのです。
私のように、お金を使わずに、物々交換や事々交換をする生き方をしたいと思っているものには、憧れです。
帰り際にメンバーの一人から、インゲン豆とトマトをもらいました。
豊かさとは何かは、人それぞれですが、お金が入った途端に豊かさは遠くに行ってしまうような気がします。
帰りの電車の中で、お金を使わないで、物々交換や事々交換の生活をしていたら、消費税とは無縁だなと気づきました。
これからは、ますますお金を使わない生き方を目指したいと、改めて思いました。
それにしても、お金って、一体なんなのでしょうか。
■安易に同調したり反発したりする風潮(2012年7月15日)
今朝の朝日新聞の「いじめている君へ」というコラムで僧侶の玄侑宗久さんが、「軽々しい同調やめよう」と呼びかけています。
大津の自殺事件に関連して、子どもたちへの呼びかけになっていますが、私はこの文章を読んで、まさに自分に言われていることのように感じました。
それで、フェイスブックでも、この記事を紹介したのですが、どうも私の紹介の意図は伝わらなかったようで、残念なので、ここでまた取り上げることにしました。
玄侑さんの文章は、しばらくの間は多分次のところで読めます。
http://www.asahi.com/national/intro/TKY201207140349.html?id1=2&id2=cabcahbf
あるいは、私のフェイスブックでも読めます。
http://www.facebook.com/#!/photo.php?fbid=2261172424680&set=a.1319286038109.34919.1709527228&type=1&theater
日本社会の「同調性」は、以前から良く指摘されていることですが、この10年の状況は、私には恐ろしいほどです。
小泉政権の時の郵政民営化の話が私には、悪夢の始まりでした。
世論が動き出すと、これほどまでに大衆は脆いものなのかと思いました。
以来、私たちは、強いものに加担して、弱いものを叩いてきました。
そして大きな声の影に隠れて、匿名の言動に逃げるような生き方をし始めました。
常軌のコラム記事の最後に、玄侑さんはこう書いています。
他人に安易に同調するのはやめよう。
誇りを持ち、君の意思で君らしい作品(人生)を作り上げていけ。
私は、一応、誇りを持って自分の生きたいように生きています。
お金のために、あるいは、社会のために、生きるようなことはしていません。
自分が誠実に生きることで、社会が良くなるようにしたいと思ってはいますが、定義も曖昧なまま「社会のために」などという無意味なことを基準にすることはありません。
「社会のために」という口実で、いかに多くの「反社会的」なことが行われてきたかは、少しでも歴史を学んだ人はわかるはずです。
たとえば、9.11以後のアメリカは社会のためにという名目で、イスラムの社会を壊しています。
「社会のために」という言葉もまた、一種の安易な同調主義だろうと思います。
自らの言動を「社会のために」という言葉で説明する人を私は信頼できません。
私は、根が天邪鬼なので、世論の大きな流れには背を向ける事が少なくありません。
しかし、それもまた「安易な同調主義」と同じことでしょう。
安易な同調主義とは、考えもせず勝ち馬に乗ることだけではなく、勝ち馬に安直に反発することも含まれるでしょう。
ましてや、自らには直接関わってこないような事柄に無関心だったり、無関心を装ったりすることは、同調と同じことだといっていいでしょう。
かつてニーメラーが後悔したように。そうした防衛的な「安直な生き方」こそが、社会を壊していくのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html
安易な同調の生き方が広がってしまうところに、いじめや犯罪がはびこる契機があるように思います。
大津のいじめ事件で、学校や教育委員会の関係者は許しがたい気がしますが、もしかしたら私もそう変わらない生き方をしているのかもしれません。
心しなければいけません。
■みどりの風に拍手を送ります(2012年7月17日)
参議院議員の3人の民主党議員が離党し、国民新党を離党した亀井亜紀子参院議員と合流して、「みどりの風」を立ち上げました。
基本方針として、「原発ゼロ社会」「反TPP」「本当の意味での一体改革」を掲げています、
しかも、党議拘束はかけずに、それぞれの判断を大切にすることも明言しています。
やっと出てきたかと私は拍手を送りたいと思います。
先にも、政策を基準として、新党きずなが立ち上がった時にも私は拍手を送りました。
小沢新党もいいですが、こうした動きこそが、新しい政治を切り開いていくと思います。
以前も書きましたが、党議拘束に支えられた政党政治はもう終わった政治スキームですし、ましてや二大政党などは民主主義とは無縁のものです。
それらは、いずれも「政局時代の象徴」でしかありません。
「みどりの風」が全員女性であることも象徴的です。
また亀井さん以外は、1回当選の新人議員であることも好感が持てます。
こうした議員たちを応援する声が意外と出てこないのが不思議ですが、私は、この動きに新しい政治を感じます。
いまこそ1年生議員たちが、自らの信念に基づいて行動を起こすべきでしょう。
腐った政治の中で政治をやってきた人たちには、もう退場してほしいと思います。
いま官邸前に大きなデモの輪が広がりだしていますが、こうした議員こそを応援することこそ、「原発ゼロ社会」「反TPP」への早道ではないかと思います。
集まった人たちの声はしっかりと聴いておくなどというふざけた感想しか述べない首相も腹が立ちますが、首相を笑顔で迎える被災者の人たちにも、私は腹が立ちます。
3人の離党は、久しぶりに私にはうれしいニュースでした
■言葉は実体を覆い隠すものでしかありません(2012年7月21日)
今月はじめに昨年津波に襲われた相馬のはらがま港に行ってきました。
港界隈の集落の住居はすべて津波に流されてしまっていました。
ところが、その一画に、墓地だけがきちんと修復されていました。
それがとても印象的でした。
後で、その地域に住む漁師の方から、自分の住む家よりもまずは先祖の墓を整備したという話をお聞きしました。
それが私たち日本人の生き方だったなあ、と納得しました。
今日、テレビで、今回の集中豪雨の被災地で、自分の家の整理もままならないのに、地域のお祭りに取り組んでいる人たちの話を見ました。
先祖から伝わってきている伝統の祭をおろそかにできないと言うことなのでしょう。
これも実に感動しました。
お祭りの結果、支え合う人のつながりによって、みんなが元気を取り戻してきたという話もついていました。
3.11以来、「絆」とか「つながり」とかが盛んに言われます。
その言葉を聞けば聞くほど、私は虚しくなります。
言葉が大切ではないからです。
言葉を多用する人ほど、実体は無いということを、私は長年の人生で実感しています。
言葉は実体を覆い隠すものでしかありません。
しかし、上記の墓地や祭の話には実体を感じます。
人のつながりを支えているのは、自然や先祖(あるいは子孫)です。
大きな生命のつながりのなかで、私たちは生きています。
つまり、その人の生き方に支えられているのであって、名刺交換したら生まれるようなものではありません。
それを勘違いしている人が多すぎます。
大切なのは、生きる実体です。
言葉だけで動いている最近の社会に、大きな危惧を感じています。
いまこそ「正名」が大切だという安冨さんの主張に。改めて共感する毎日です。
■言葉は実体を覆い隠すものでしかありません(その2)(2012年7月21日)
前の記事のつづきです。
先日、フェイスブックに、大津の「いじめ事件」について、「私は、そもそも「いじめ」と言う言葉に違和感があります。いじめ問題などと思ってはいないので、どうも話がかみ合わなくなりそうです。ここでも「正名」をしっかり押さえる必要があると思っています」と書いたら、「でわいじめは何と呼ぶか」と問われてしまいました。
もちろん、いじめはいじめです。
しかし、昨今、「いじめ」と言う名前で呼ばれている事件は、「いじめ」ではなく、「犯罪」です。
それはそれとして、これもフェイスブックで紹介したのですが、朝日新聞でいまも「いじめられている君へ」「いじめている君へ」というコラムが連載されています。
いろいろな分野の人が、毎回、書いています。
いつも示唆に富む内容だと思います。
しかし、どうも違和感があります。
みんな「いじめ問題」として事態を認識しているからです。
こういうやりとりはこれまでも何回も行われてきています。
しかし事態は悪化する一方です。
これも、このブログで何回も書いてきていますが、問題をどう立てるかで、答も変わってきます。
言い換えれば、世界の見え方も変わってくる。
つまり、「いじめ問題」とした途端に、見える世界や問題の実態は決まってしまうのです。
ですから、私には、このコラムで書いている人たちと私では、見えている世界が全く別だと思っています。
いささか極端に言えば、このコラムで語っている人たちこそが、問題を矮小化し、問題を深刻化させていくのだろうとさえ思うのです。
これは「いじめ問題」に限ったわけではありません。
多くの分野でこうした「言葉」が世界を見えなくしている動きが広がっているように思います。
そして、解決に取り組むことが事態をさらに悪化させていくことにつながりことさえ起こります。
まさに「近代のジレンマ」です。
■いまこそ、農業から学ぶ時ではないか(2012年7月23日)
先日、農業と福祉のつながりを考えるサロンを開催しました。
熊本で自らの生活を福祉施設に投じて、生活起点の福祉活動に取り組みながら、農業の実践的研究者でもある友人の宮田さんが、その機会をつくってくれました。
農業と福祉は、その本質において理念を共有していると考えている私には、このテーマは年来の関心事です。
こうした動きに関しては、私のホームページのほうではこれまでも何回か触れてきましたが、最近は少し遠のいていました。
しかし、時代的には「農福連携」という言葉も広がりだし、農業と福祉をつなげていく活動も増えてきています。
サロンには農水省の職員の方もお2人参加してくれたほか、園芸福祉活動や農福連携活動などに取り組んでいる人たちが集まりました。
最初に宮田さんが、農業と福祉作業所の実態を踏まえて、「福祉作業所は、農業を社会の根源的基盤として捉え直す大きな運動の重要な担い手だ」という問題提起をしてくれました。
それに基づいて、実態を踏まえた話題がいろいろと提供されました。
それぞれみんな、自らの実践の場を持っている人たちばかりですので、学ぶことの多い議論だったと思います。
私が「農業」に関心を持ったのは、1970年代です。
工業経済の限界が見え出してきた時代と言ってもいいでしょう。
衝撃的だったのは、守田志郎さんの「文化の転回」という本との出会いでした。
「転回」という文字が、以来、私の思考に大きな影響を与えました。
よく言われるように、工業は「リニアな経済活動」です。自然を原料にして生活のために消費していきます。ですから基本的に持続可能ではありません。
一方、日本古来の農業は「循環する経済活動」です。うまく仕組んで、循環に関わる要素を相互に良い方向に育てながらスパイラルアップしていく構造を育てれば持続可能なものになりえます。
ちなみに、ここでいう「循環」は、モノやエネルギーだけではなく、スピリチュアルなものも含みますし、関係性そのものも含みます。
もし本気で、「持続可能な経済」を志向するのであれば、日本古来の農業から学ぶことはたくさんあるように思います。
しかし、大きなベクトルは「転回」することなく、農業を第6次産業化しようなどという、あいかわらずの「経済パラダイム」が志向されているのが現実です。
ちなみに、1970年代には「農業の第三次産業化の推進」が盛んに言われていたのです。
それが何をもたらしたかは、歴史が示しています。
話が難しくなりましたが、工業は一方向的ですので、本質的に成長の限界を持っています。
それを打破するのが、農業だと私は感じていたのですが、残念ながら、そうはなりませんでした。
成長の限界を「打破」したのは、なんと金融を主軸にした「サービス産業」だったのです。
しかし、その路線は、短命な延命策でしかありませんでした。
最初からわかっていたことなのでしょうが。
いまこそ、農業から学ぶ時ではないかと思います。
「農業」という言葉は、しかし、今となっては極めて多義的です。
このブログでも何回も書いてきている「問題の立て方」によって、まったく位相が違ってきます。
たとえば、守田さんはすでに1970年代に、「文化の転回」のなかで、こう語っています。
農業問題という「問題」の立てかた、その発生の動機、それへの取組み方の推移、そして今日なぜかこれがしきりに口にされるについての契機、どれ一つをとってみてもそこに農耕する人はない。
人間の見えない経済と言われることがありますが、まさに農業においてもそうした農業論が当時も横行していました。
長々と書いてきてしまいましたが、まあこうしたことを踏まえて、改めて「農業から学ぶ」と共に、「農業と福祉のつながり」をテーマにした、緩やかなネットワークを立ち上げられないかと考えています。
関心のある方はご一報いただけるとうれしいです。
長くなったので、サロンでの議論の内容は項を改めて書くことにします。
■農業と福祉のつながりを考えるサロンの報告(2012年7月23日)
7月18日に開催した「農業と福祉のつながりを考えるサロン」の簡単な報告です。
最初に、農業と福祉の実践者である宮田さんから、「なぜいま作業所で農業なのか?」というテーマで話をしてもらいました。
福祉と農業がつながることによって、それぞれが抱えている問題が解決できるのではないか、そしてそれがさらに社会を変えていく大きな動きにつながっていくのではないかというのが、宮田さんからのメッセージです。
たとえば、日本の農業は「担い手の高齢化」と言う現実の問題に直面していますし、最近のグローバル経済の流れの中では「経済的競争力」を失いつつあります。
宮田さんは、「農業から外化した工業」がオイディプスのように農業を壊してきた。
しかしここにきて、それに抗する動きとして「市民農業運動」が始まりだしたといいます。
宮田さんは、農業こそを社会の根源的基盤にしなければいけないと考えているのです。
そして、こうした動きを加速するためにも、「福祉作業所農業」が大きな意味を持っているというのです。
実践したことのある人はわかるでしょうが、農業のリズムと福祉のリズムはつながっています。
いずれも生命のリズムにつながっているからです。
また福祉も農業も、その内容の多様性に特徴があります。
こうした生命(自然)のリズムや多様性は、効率性を追及する工業では排除されるべきものです。
宮田さんは、また、農業のもつ教育力や福祉力にも注目し、福祉的就労と農業のつながる意味を重視しています。
そして、「福祉作業所は、農業を社会の根源的基盤として捉え直す大きな運動の重要な担い手だ」という問題提起をしてくれたのです。
この問題提起に基づいて、行田や浦和や野田で活動されている参加者それぞれが実践していることの紹介もしながら、自由に話し合いました。
話題はいろいろと飛びましたが、大きな理念という点では共有が深まったように思います。
私にとっては、久しぶりの農業談義でした。
農水省の方もお2人参加していたので、いくつかの疑問を投げかけさせてもらいました。
答弁的でない話し合いができたのも、とても刺激的でした。
お2人とも、日本の農業が好きなのだと感じました。
これを契機に、ゆるやかなネットワークを立ち上げ、9月にまたサロンを開きたいと思っています。
できればミニフォーラムも開催したい気がしてきました。
■農福連携政策のパラダイム転換(2012年7月23日)
もう一度、農福連携の話を続けます。
「農福連携」の取り組みが広がっていますが、これは簡単に言えば、「農業者と福祉事業者の連携」ということです。
実際に、私の周辺でも、農作業に障がいを持つ人に就労してもらう動きは広がりだしていますし、福祉施設が農作業に関心を持ち出す事例も増えています。
それはとてもうれしい動きです。
農福連携政策がさらに広がっていくことを期待しています。
しかし、今回はあえて、その「限界」という視点を整理し、そこからもっと大きな「農業の福祉力」を考えてみたいと思います。
サロンで話し合われたように、農業には本来、福祉力とか教育力とかが内在されています。
と言うよりも、私は、日本古来の農業は「生きることの集大成」のような気がしています。
先の記事で書いた守田志郎さんは、農業は生活の手段ではなく、生活の結果だと書いていたような気がします。
農業は、決して「農作物」をつくるための営みにとどまるものではありません。
ちなみに、私は50坪の家庭農園にいまは作物は植えていませんが、時々、作業に行っています。まああんまり関係ない話ですが。
障がいを持った人でも農作業なら手伝えるはずだ、とか、人手が不足しているので障がいを持つ人に頼もう、とか、そんな発想で、農福連携が広がっているわけではありません。
しかし、現実には、「問題解決を抱えている社会的弱者」が相互に支え合うのが「農福連携」だと考える発想がまったくないかともいえないでしょう。
世間の見方も、そうした見方がないわけではありません。
しかし、それでは、せっかくの「農業の福祉力」が活かしきれませんし、社会を変える大きな風は起こせない。
ところで、この時代、「障がい」を持っている人は一体誰なのか。
大企業で働く人たちは、7人に1人がメンタルダウンしているとさえ言われます。
つまり、7人に1人は、ある意味での「障がい」をもっているわけです。
「障がい」ってなんでしょうか。
普通に考えれば、生活をする上での「障害」だろうと私は思いますが、もしそうであれば、それは時代の文化や制度や仕組みで変わってきます。
時代によって、克服されて「傷害」ではなくなった、かつての「障害条件」もあるでしょう。
「働くための障害」と言えば、もっとわかりやすいかもしれません。
さらにいえば、実は「障がい」とは、生き方や働き方に大きく関係しているわけです。
社会のあり方が、障害を生み出し、「障がいに悩む人」を増やしていくことだってある。
まさに現在は、そんな時代かもしれません。
話が大きくなってしまいましたが、私は、この数十年、私たちは生き方や働き方を間違ってきてしまったのではないかと思っています。
それで生き方を変えている人間です。
たしかに経済は発展し、社会は便利になり「豊か」になりました。
でも、毎日の新聞やテレビの報道を見ていると、どこかおかしい気がしてなりません。
私たちは本当に豊かになったのだろうか。
そんな気さえしてきます。
持続可能という言葉が盛んに使われますが、今のままでは持続可能であるはずがない。
私たちは生き方を変えないといけないのではないか。
そのヒントが、「福祉」とか「農業」に含まれているのではないかと思います。
そういう視点でこそ、「農福連携」を考えないといけないのではないか。
農業そのものに内在している福祉や教育の価値にこそ着目した、大きな意味での「農福連携」が構想されるべき時期ではないかと考えています。
宮田さんが主張されているように、農業には社会をパラダイム転換していくための、大きな力が秘められているように思います。
そうした意識で動き出している新しい農福連携の動きも散見できます。
そこをもう少し学ばせてもらおうと思っています。
■無駄遣いの時代から抜けられない無念さ(2012年7月25日)
また無駄遣いの時代が再開されそうです。
心しなければいけません。
今日、大飯原発4号炉が本格稼動しだしました。
これで、いわゆる「節電目標」は有名無実になりました。
名目の目標値も引き下げられていますので、また過剰消費が加速されることは言うまでもありません。
前にも書きましたが、「節電」の実体は、「過剰消費を押さえる」と言うことですが、この戦略的な言葉にみんな騙されています。
もし本気で持続可能な社会とか幸せ重視を考えているのであれば、電力の過剰消費を正す絶好の機会でしたが、私たちはその好機を活かせませんでした。
「節電」は「過剰消費」と同義語であることに気づかなければいけません。
同じ構図は、財政危機の克復にもあります。
財政赤字が巨大になり、財政構造を見直す絶好の機会でした。
しかし消費税増税の中で、財政構造は変えられず、行政の無駄もまた加速されるでしょう。
すでに昨日の国会では税金の無駄遣い政策が堂々と議論されだしています。
消費税増税が時代の流れなどと言っている人たちは、それに加担したとしか言えません。
国民の多くも、消費税増税はやむなしなどとバカ丸出しの発想しかできなくなっています。
電気料金も値上げです。
これもまた信じられませんが(私は電気代はもっと高くていいとは思っていますが)、電力業界の無駄遣いは止まることはなさそうです。
つまり、みんな相変わらず「無駄遣いの時代」に生きたいのですね。
わたしの周りの人の多くも、ほとんどが口とは裏腹に、そういう生き方から抜けられずにいるようです。
せめて、私だけでもと思って、今まで通りの生き方を守っていますが、それにしても今日は暑いですね。
暑い時には、無理をしないで昼寝をしましょう。
わが家の愛犬も、クーラーをつけていないのに熟睡しています。
彼を見習おうと思います。
■「知識」は現実を見えなくする(2012年7月26日)
「現実」からではなく、「知識」で語る人がますます増えてきました。
「知識社会」とはこういう社会だったのかと、最近は少し生き辛さを感じています。
「知識」は現実を見えなくするのかもしれません。
私も、おそらくそうした落し穴に陥っているのでしょう。
心しなければいけません。
昨日の「無駄遣いの時代から抜けられない無念さ」の記事を読んだ方が、フェイスブックでコメントしてくださいました。
誠実なコメントであり、コメントくださった方には決して他意はないのですが、とてもわかりやすいので使わせてもらいます。
お許しください。
コメントの一部を引用します。
大飯が再稼働したからといって、節電目標は取り下げられていません。なぜなら、関電は同時にコストが高い火力発電所を停止したからです。もともと再稼働の問題は、電気の需給問題ではなく電力会社の経営問題だそうです。
ここで気になるのは次の2つの文章です。
「コストが高い火力発電所」
「再稼働の問題は、電気の需給問題ではなく電力会社の経営問題」
よく言われていることですが、これこそが「知識からの発想」の好例のような気がします。
まず前者から。
原発よりも火力発電のほうは発電コストが高いと言われています。
制度的には正しいでしょう。
しかし、現実はどうでしょうか。
今回の福島事故で、かなり実体は見えてきたはずです。
いうまでもなく、発電コストは「制度的に算出」されます。
環境経営が叫ばれていた頃、社会的費用の問題も含めた、ライフサイクルコスティングの発想が少しだけ広がりましたが、どこまでを考慮するかで、算出結果は全く違ってきてしまいます。
原発のコストを高くするか低くするかは、極端に言えば、その時々の政策判断や産業界の利害に大きく影響されるのです。
1970年代でも、原発コストはそれまでの発電方式に比べて、かなり高くなるという算出結果は一般的な書籍でも発表されていました。
つまり、発電コストとは、制度や方針によって生み出された「知識」であって、現実の一側面なのです。
最近では、さすがに原発コストが火力発電コストより安いと思っている人はいないと思っていましたが、私の勘違いでした。
聞いてみると、意外と、そう思っている人が多いのです。
刷り込まれた知識が、現実を創り出していくという言葉を思い出します。
しかし、現実を見てもらえば、被曝地域の損失は経済計算できないほどに巨額です。
つまり保険さえ成り立たない世界に、従来と同じコスト概念を持ち込んで比較すること事態に問題があるような気がします。
「知識」としてのコストの概念を、「現実」に即して、変えなければいけません。
次に、後者の、「原発再稼動は経営財務の悪化を防止するため」という話です。
これも有名な話で、よく聞かれますが、これこそがこの数十年広がっている「金融工学主義」の罠の一つです。
極端な話をすれば、廃炉してしまうと資産計上できなくなりますが、再稼動すれば、資産になります。
資産計上できなくなると一挙に財務状況は悪化します。
廃炉しなくとも、稼動しなければ、巨額な資産が利益を生み出さずに、減価償却も含めて巨額な支出を出し続けます。
だから再稼動しないと企業経営が成り立たないというわけです。
この議論を聞いて、みなさんは納得するでしょうか。
制度的な論理、あるいは知識としては、納得するかもしれません。
でもどこかおかしいと思いませんか。
なぜそれが再稼動につながって議論されるのか、
会社経営を成り立たせるために再稼動するなどという発想が、ありえないことであるのは当然です。
会社経営を維持するために、賞味期限を書き換えて出荷するのと、どこが違うのか。
問題を摩り替える議論に、安直に納得してはいけません。
もし再稼動しないと財務的におかしくなるのであれば、その財務計算制度を変えればいいだけの話です。
実体と切り離された制度は、実体と関係なく、変更できます。
それが「知識人」の得意技なのです。
東大の安富歩教授が、昨年、「原発危機と東大話法」という本を出しています。
とても面白いですが、この2つの事例もまさに、安富さんが言う「東大話法」の例でしょう。
但し、そうした話法を「東大話法」と表現する安富さんもまた、同じ穴の狢だとわたしは思っていますが。
ただ安富さんのほかの本の主張には、心から共感しています。
「東大話法」で語る人の話にも、傾聴すべきものはあるものです。
蛇足の多い記事になりました。
すみません。
■問題だけを見ていても問題は見えてきません(2012年7月26日)
朝日新聞で毎日、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」というコメントコラムが連載されています。
私も時々読んでいます。
前にも言及しましたが、示唆に富んでいるものが少なくありません。
しかし、これも前に書きましたが、どうも気になって仕方がありません。
なんでみんなこうも「いじめ〕「いじめ」というのだろうかと。
いじめが良いとか悪いとか議論する人もいますが、悪いに決まっています。
いじめられたら誰かに言えといわれても、言えないから問題になっているのです。
君がやっていることは、いじめなんだよと言われても、戸惑うでしょう。
一部にそうでない話もありましたが、どうもみんな他人事で考えているのが、気になって仕方がありません。
今の問題は、「いじめ」ではなくて、私たちみんなの「生き方」でしょうと言いたいのです。
問題は、「いじめ事件」に関わっている関係者ではなく、「いじめ現象」を起こしている社会をつくっている私、自分なのです。
最近の「いじめ報道」を見ていて思うのは、問題の立て方の間違いです。
いじめたり、いじめられたりするところに問題があるのではなく、いじめが頻発し一般化するような社会のあり方、つまり今の社会を生きる私たちの生き方が問題なのです。
つまり、問題は「彼ら」にあるのではなく、「自分」にあるのです。
だから、いじめを語る時には、一人称自動詞で語らなければ、何も変わらないでしょう。
「自分」を語らずに、「彼ら」を語っている人が多いので、それが気になるのです。
何か問題が起こると、みんな、その問題をどうしたら防げるかを考えます。
それは間違ってはいないでしょう。
しかし、問題の理由は、多くの場合、顕在化した問題の周辺や奥のほうにあります。
ですから、たとえば、「いじめ」だけを見ていては、問題は見えてこないかもしれません。
そして、結果的には問題を封じ込めてしまう対策が取られてしまう。
それでは何も変わりません。
問題の立て方は大事です。
私は3年ほど前に仲間たちと一緒に、「自殺のない社会づくりネットワーク」というのを立ち上げました。
一緒に立ち上げた仲間の多くは、自殺防止活動をしている人たちです。
しかし、私は「自殺防止活動」がどうもピンときません。
それでネットワークの名前も「自殺のない社会づくりネットワーク」にさせてもらいました。
問題は「自殺」ではなく、自殺を多発させるような社会のあり方や私たちの生き方だろうと思ったからです。
自分の生き方を含まない社会活動は私には考えがたいのです。
私の活動のほとんどは、そうした発想で行っています。
いつも自分の問題として考え実践する。
そんな進め方では、あんまり実効はあがりませんが、みんながこういう生き方をすれば、60年もすれば、自殺もいじめもなくなるだろうと考えています。
■反オリンピック論(2012年7月31日)
私はオリンピックにあまり興味がありません。
これは昔からのことです。
勝った負けたで騒ぐのがどうも好きになれません。
一応、北島の競泳を見たり、体操を見たりしてはいますが、ほかの番組がないのでなんとなく見ているだけです。
それにしても、最近のテレビはオリンピック一色です。
古代ギリシアでは、オリンピックの時期は戦争も中断されたといいます。
それにも私は子どもの頃から疑問がありました。
戦争を中断してまでオリンピックをやるのであれば、そこで勝った負けたはないだろうと思っていたのです。
素晴らしいパフォーマンスを讃えることには異論はありません。
しかし、メダルの数を争う発言を聞いているといやになります。
銅では満足できない、次は金だという選手を見ると蹴飛ばしたくなります。
ファンの方には申し訳ありませんが。
表彰台でメダルを噛んでいる人も増えました。
こういう人は台から蹴落としたいです。
そういう人は、お金を食べて生きていけばいいと思います。
幸いに今回はまだドーピング疑惑は報道されていませんが、そうまでして勝とうとする状況が生まれているのは、嘆かわしい話です。
今回とても気になったのは、審判の決定が覆されることが増えていることです。
ここでも「科学的分析」が進んできているのでしょうが、とても違和感を持ちます。
人のゲームに機械が入ってくることに、私は大きな違和感があります。
そのうち、ロボットの大会になるだろう事を予感させる動きに見えます。
体操も柔道も、なんとなく後味が悪いです。
このオリンピック騒ぎの向こうで、何が進んでいるのかそれが気になって仕方がありません。
偏屈な意見で、すみません。
読者の方から、蹴飛ばされそうですね。
それにしても、オリンピックって一体何なのでしょうか。
そんな思いで、冷やかにテレビを見ていますが、なぜか日本人選手が勝つとうれしくなります。
私もやはりもう十分に洗脳されていますね。
困ったものだ。
■なぜ原子力規制委員会のメンバーは原子力発電に詳しくなければいけないのか(2012年8月2日)
昨日、福島で行われた。エネルギー政策についての政府の意見聴取会での発言の多くに、生々しい体験を感じました。
現場にこそ真実があるというのが私の信条の一つですが、原発の意味を本当に知っているのは、こうした人たちだと改めて確信しました。
同じテレビで、原子力規制委員会の初代委員長候補になっている田中俊一さんが国会での初心聴取で発言していました。
何と内容のない発言であることか。
そのあまりの違いに、政治とはなんだろうかと考えてしまいました。
原発事故後、田中さんは現地での除染活動に取り組みだしました。
最初、私はとても共感しました。
しかし、その後の発言を聞いているうちに、この人はただ器用に社会の風潮に迎合しているだけではないかとさえ感じ出しました。
そうした利にさとい保身の輩は、原子力技術者だけではなく、経済学者にも経営学者にも、実に沢山います。
有力な政治家はほぼすべてそうかもしれません。
私が不思議なのは、規制委員会の委員長は、原発に詳しい人でないといけないという「常識」です。
多くの人が、そうした認識でこの委員長人事が語られています。
しかし、委員長も委員も、原発に詳しい必要は全くありません。
的確な質問と公正な判断力さえあればいいのです。
それが「規制」という意味のはずです。
「原子力」は高度な技術という思い込みのおかげで、みんな原発は特殊のものだと考えすぎているのです。
しかし、原発は極めて簡単な原理で動いている仕組みです。
原子力工学は高度でしょうが、原発は大きなやかんでしかありません。
しかし、もし仮に「原発に詳しい人」が適任であるとしても、田中さんは決して、原発に詳しい人ではありません。
その証拠に、福島の原発事故さえ止められませんでしたし、そこから起こる被害の大きさについての想像力もありませんでした。
ただ沈没しそうになった船から、いち早く逃げてしまった船長のような人です。
そんな人をなぜ信頼できるでしょうか。
田中さんは、口では反省したと言いますが、何を反省したかは何も言いません。
反省するのであれば、サルでもできますが、彼は反省どころか「除染」活動をしています。
彼ほどに大きな責任を背負ってしまったのであれば、もっとやれることがあるでしょう。
最初は感激して見ていた田中さんの除染作業の姿は、今の私には狡猾なものにしか見えません。
彼は、福島の意見聴取会での住民の発言をどう聞いたのでしょうか。
誠実な人間であれば、反省も誠実にすべきです。
委員長を受け容れ彼の神経が全く理解できません。
ちなみに、田中さんは、自分は研究所にいたので、企業とは直接関わってこなかったといっていましたが、この発言もとんでもない発言です。
私が一番怒りを感じたのは、この発言です。
■原発推進者の首相が大きな顔をして座っている式典には失望しました(2012年8月7日)
野田首相は昨日、関係閣僚に「将来の原発比率をゼロにした場合の課題を整理し、どうしたら克服できるか検討してほしい」と指示したといいます。
驚くべき話です。
これまでそんな基本的なこともやっていなかったのか。
まさに現政権は、脱原発などまったく考えていないことの証拠です。
明日、首相は「脱原発」抗議行動の事務局と会うそうですが、いかにものタイミングです。
それにしても、政財界のさまざまな動きが示しているのは、原発復活路線です。
これだけの声があがっても、その姿勢は微動だにしません。
野田首相は仕方がないのですが、ほかの閣僚から、声が上がらないのも不思議です。
「民主」とはいったい何なのか。
最近公開された東電のテレビ会議の映像も驚きです。
東電にはまともな判断ができる人はいないのでしょうか。
嘘があまりにも明白な映像を出して騙せるとでも思っているのでしょうか。
東電は、日本における企業広報活動の普及を先導していた企業ですが、あまりの「無知」さには驚きます。
広報の基本は、フランクネスです。
正直こそが問題を良い方向に進めます。
もちろん社会にとっても企業にとっても、です。
そんなことは「広報」や「危機管理」の基本ですが、それがまったく行われていません。
もっと驚くべきことは、前回の国会事故調査委員会の活動においても、国政調査権が使われなかったことです。
それだけでも、私は国会調査委員会の報告書を信じませんが、今回の公開映像もまた見過ごされるのでしょうか。
だとしたら国会はもはや財界の御用機関でしかありません。
脱原発など考えていない人たちに、私たちは未来を託してしまったのかもしれません。
次の選挙には、判断を間違わないようにしなければいけません。
私が残念だったのは、昨日の広島の平和式典に野田首相を受け容れてしまったことです。
もっとも相応しくない人物のように思えます。
例年は式典の様子をテレビで見ていますが、今年は見ませんでした。
原発推進者の首相が大きな顔をして座っている式典には失望しました。
長崎はどうするのでしょうか。
現政権の閣僚をボイコットしてほしいものです。
それがまともな感性だと、私は思うのですが。
■「原発はコストは高く、リスクが高い」(2012年8月10日)
昨夜の報道ステーションで、城南信用金庫の吉原理事長が、原発に関して実に明確な発言をされていました。
城南信用金庫といえば、いち早く「脱原発」を宣言したところです。
それをもう一度観たいと思い、ネット検索しましたが残念ながら見つかりませんでした。
吉原さんの発言を再現できないのが残念ですが、彼は、このような発言をしていました。
財界は原発が必要だと言っているが、実際に現在の電力会社以外で、原発事業をやるところがあるのか。ないだろう。
原発事故の被害をみればわかるように、原発はコストは高く、リスクが高いから、そもそも融資をしてくれる金融機関などない。
自分でできないことをやらせてはいけない。
経団連のトップは間違っている。
実に素直な発言です。
しかし、こんなことは経団連のトップたちは百も承知のはずですから、彼らは「間違っている」のではなく、犯罪者でしかない、と私は思っています。
政治家もそうでしょう。
枝野さんや細野さんが、吉原さんほどの知性と勇気があれば、流れは変えられたはずです。
素直に考えれば、真実はそこにある。
今でも原発コストが安いと言っている人たちは、犯罪に加担しているか、買収されているだけの話です。
昨夜の吉原さんの発言には改めて感激しました。
ちなみに、その発言を受けた古館さんの応対は、あまりにひどかったと思います。
「それが吉原さんのお考えですね」と、いかにも人をバカにしたような応対でした。
この人もたぶん、お金の餌食になって、口だけの人になってしまっているのでしょうか。
■消費増税法が成立しました(2012年8月11日)
消費増税法が成立しました。
何でこの時期にと思いますが、多くの「識者」が推進してきたことを「良識」を持った国民が支えたからこその実現だったと思います。
「社会保障改革と一体」と、いまも呼ばれていますが、言葉だけで実体が見えません。
もっと大きなからくりは、野田首相が「増税分は社会保障に」と言っていることです。
理屈では成り立つかもしれませんが、現実にはありえません。
なぜなら税の歳出は、それこそ一体的に行われるからです。
増税分が仮に社会保障分野に使われたとしても、その分、ほかの税収入を財源とするところで見事に減らされるでしょう。
そんなことは、わずかでも思考力を持っていれば、わかることですが、多くの国民はオリンピックにうつつを抜かしても、まじめに考えることを放棄しだしています。
NHKがニュースのトップにオリンピックのことを長々と流す状況は末世としか思えません。
この国の国民は、消費税の動きや原発問題よりも、オリンピックに詳しいのです。
誰がそうしてしまったのでしょうか。
BSで放映されている中国の連続テレビドラマ「三国志」を観ているのですが、そこでは心底怒ったり悲しんでしまうと喀血して死に向かう場面が何回も出てきます。
名高い諸葛孔明も今週そういう状況で死んでしまいました。
最近は、私もそうなりそうです。
しかし憤死するほどの信念をもった政治家は今の日本にはいないでしょう。
困ったものです。
消費増税法にはいくつかの罠が仕掛けられています。
昨年、デジタルテレビが売れたように、これからは住宅と自動車が売れるでしょう。
増税前の駆け込み需要です。
そして、増税された後は、住宅産業はテレビ業界の二の舞を踏むかもしれません。
しかしそんなことはお構いなく、住宅を売り続けるでしょう。
そして国民は、オリンピック騒ぎのように、考えもせずに買ってしまう。
私には、聖書に出てくる、ソドムとゴモラを思わせる状況です。
その一員である事が、なんとも腹立たしいのです。
公明党の山口代表は、今の政府は政権担当能力がないと良いながら、不信任案に反対しました。
自民党もそうです。
民主党はうまく利用されました。
先の社会党もそうでしたが、巨悪には小役人の政治家は太刀打ちが出来ずに、ただただ骨の髄まで搾り取られてしまうのでしょう。
そうした状況が、実によくわかる1年間でした。
■「君の生き方」ではなくて「私の生き方」を問いたい(2012年8月11日)
前にも一度書きましたが、朝日新聞で連載されている、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」は、まだ連載が続いています。
その姿勢に大きな疑問を持ちます。
私だけではなく、ある人からは、いじめと無縁の世界の人たちが他人事で説教しているのに腹が立つと言われたので、朝日新聞に投稿しましたが、見事に不採用でした。
そこで少し書き直して、このブログに収録することにします。
この連載コラムで一番気になるのは、問題は、「君」にあるのではなく「私」にあるという視点が欠落していることです。
そう思って読み直してみると、みんな「他人事での発言」になっているように思います。
そもそも「君へ」という発想は、状況を他人事として受け止めている視点です。そこからは「いじめを放置している私」「いじめが広がっている社会の一員である私」という視点は出てこない。それでは、所詮、他人事でしかありません。
悪いのはみんな「君」や「彼」「彼女」と考えてしまえば、社会はなにも変わりません。
そうした姿勢こそが「いじめ問題」を生み出しているのかもしれません。
「いじめ問題」が問いかけていることは、「君の生き方」ではなくて、「私の生き方」ではないか。そして。私たちがつくっている「社会のあり方」ではないか。
社会は、私たち一人ひとりの生き方で変わっていきます。「君」に呼びかける前に、まずは自らの生き方を見直したい。
それがあってこそ社会は変わります。問題は、「君」ではなく「私」なのです。
朝日新聞の見識を疑います。投稿している人たちの見識も、ですが。
■国家は解散できないものでしょうか(2012年8月15)
橋下新党の方向性が次第に明らかになってきています。
参加の可能性がある現在の国会議員の名前も出始めました。
どういう人が集まるかで、組織の本質(基本思想)は見えてきます。
これまでの具体的な主張には共感できるところがいくつかありましたが、基本思想が見えてくるに連れて、その古い体質が強くなってきているように思います。
しかし、脱原発を主張している飯田さんもまた戻ったように、さまざまな立場の人たちが「変革」を目指して集まっているのでしょうが。
姿が見えてきた橋下新党は、私の世界とはどうも正反対にあるもののようです。
私でさえそう思うのですから、たぶん失速していくでしょうが、残念なことは、そうしたものも一度はパワーを得てしまうものですから、予断は許せません。
世論調査によると、自民党支持者が増えているようです。
いまのような中途半端な世論調査にどれほどの意味があるかは疑問ですが、少なくとも民主党は瓦解しつつあるというイメージは強まっているのかもしれません。
小沢新党は、その広報戦略において、時代錯誤に陥っているのか、なかなか見えてきません。
見えないものには、国民は反応できません。
せっかくのチャンスを活かせないまま終わる恐れもありそうです。
みんながオリンピックにうつつを抜かしているうちに、消費増税法は成立し、原発再稼動の路線も着々と進められています。
解散も、うやむやになりそうですが、仮にいま、解散して総選挙になったとしても、選ぶべき候補者がいないのが現実かもしれません。
野田政権には早く終わって欲しいですが、では次の選挙でどの党に投票するか。
そして政治状況は変わるのか。
こういう状況の中で、ドイツのナチは力を高めていったのでしょう。
昭和初期に日本もそうだったのかもしれません。
国会の解散ではなく、できることなら一度、国家を解散できるといいのですが。
■竹島問題(2012年8月15)
今日は終戦記念日です。
マスコミはいろいろと特集を組んだりしていますが、もう遠い昔の話になってしまいました。
しかし、過去ではなく未来を見れば、意外とそちらのほうが近いのかもしれないと思うほど、世界は乱れてきています。
統治する仕組みが壊れだしているような気がします。
そうした当地の緩みの中で、領土問題がいろいろとにぎやかになってきています。
土地を私的所有するという発想になじめない私としては、領土問題もまた、なかなか理解できません。
すべての土地は、地球からの借り物であり、所有地といえども所有者の勝手にはできないと私は思っています。
それはそれとして、竹島に関しては韓国大統領の言動が世間を騒がせています。
日本の所有権はサンフランシスコ講和条約でも確認されているようですが、1951年以降、韓国が軍事的に占有しているのも事実です。
半世紀以上にわたり、韓国の占有が続いていることを私は知りませんでした。
それにしてもなんで誰も住んでいない島を巡って、みんなこれほど騒ぐのでしょうか。
これはたぶん「国家」という制度のせいでしょうが、政府が騒ぐのはともかく、底にいったこともない人がどうして関心を持てるのかが私は理解できません。
韓国では、以前、そんなに問題になるのなら島を爆破してしまえという主張もあったようですが、なかなかいい案です。
そんな騒ぎで人身が怪我をしてはつまりません。
オリンピックで竹島は韓国のものだというメッセージをした選手が問題になっていますが、国家という制度はまことに恐ろしい魔力を持っています。
そろそろ「近代国家」の呪縛から自らを解き放さなければいけません。
反応が恐ろしいですが、終戦記念日に、私が思ったことのひとつです。
■個人の思いと閣僚の意見(2012年8月17日)
今朝の朝日新聞にこんな記事が出ていました。
古川元久国家戦略相は16日、原発事故の影響で福島県内で避難生活を続ける住民との意見交換会に出席した後、記者団に対し、「個人の思いとしては、原発のない社会をめざしたい」と述べ、脱原発の立場を鮮明にした。
いうまでもありませんが、古川さんは国家戦略相として大飯原発再稼動を決定した中心者の一人です。
また、「エネルギー・環境会議」の議長でもあります。
その古川さんが、政府閣僚としては初めて「脱原発」を口にしたことを評価する人もいますが、私にはとんでもない二枚舌だと思います。
こういう人間が、私は一番嫌いです。
新聞によれば、非公開の会合の中で、古川さんは、福島第1原発5、6号機と、第2原発1〜4号機の再稼働について「事故が起きたこの地であり得ない」と述べたとも書かれています。
この記事が本当だとすれば、呆れた話です。
非公開の場で話すのと公開の場で話すのと閣議で話すのと、使い分けているのも嫌な気がしますが、それ以上に「事故が起きたこの地であり得ない」という発言です。
大きな事故が起きたことのない大飯では「あり得る」と言うわけです。
そして実際に彼は、それを認めたのですが、いかにも迎合的です。
二枚舌族の典型的な発言スタイルです。
彼が原発のない社会を目指していないことは明白です。
しかし、私たちは、時にこうした小賢しい発言に騙されてしまいます。
それにしても、「個人の思いとして」という言い方は、いかにも卑劣です。
責任逃れとしかいえません。
靖国参拝でもよく使われる詐称行為ですが、個人でなければなんなのか。
要するに古川さんは自らの信念では生きていないのです。
長いものに巻かれて生きているのでしょう。
不思議なのは、有力な立場にある発言力の大きい政治家ほど、自らの信念で行動しなくなると言うことです。
普通に考えれば、逆のはずです。
有力な立場に立った人ほど、自らの信念で行動できるはずです。
しかし、どうもそうではない。
これは政治の世界だけではありません。
経済の世界でも、そうしたことが見られます。
要するに、組織の階段を登るに連れて、自らの信念を捨てていくという、奇妙な現実があるのです。
言い換えれば、いわゆるピラミッドクライマーは、信念のない人といえるかもしれません。
そこにこそ、組織の恐ろしさがあります。
私が組織を最大の危険物と考えるのは、そのためです。
しかし、そうではない組織原理もあるはずです。
そう思ってこの20年活動していますが、なかなか地平が開けてきません。
今日もちょっとそんな関係で、苦労してきました。
組織を使いこなすのは、実に大変なことなのです。
そのため、ほとんどの人は組織に使われることを好みます。
たとえ、過労死やメンタルダウンしても、です。
それでは、生きているとは言えないのですが。
■原発事故で経済成長が高まる理由(2012年8月19日)
昨日の朝日新聞の「記者有論」で松浦記者が、「内部被曝 自家栽培できる検査態勢を」と書いていました。
そこにこんな文章が書かれていました。
「事故前は1年中、ほとんど野菜を買う必要がなかった」と言う南相馬市の主婦(60)は「畑をやめて、野菜や果物を買っている。月に2万〜3万円は負担が増えた」と話す。
私のホームページ(CWSコモンズ)やこのブログでずっと書き続けていることですが、経済成長と生活の豊かさは決して比例関係にはありません。
成長がなければ大変だと多くの人は思っていますが、とんでもない間違いです。
以前、雇用が大切だという話が世間を覆ったこともあります。
その時にも、私は大切なのは雇用ではなく仕事だと書きましたが、それに対してはコメントでも個別のメールでも手ひどく批判され、それこそ「死ね!」とさえ言われました。
そういう手先を生み出している胴元にとっては(そしてそれに雇われている従僕たちにとっても)、経済成長がなければ困りますが、まじめに生活している人にとっては、経済成長など不要な話です。
そのことを、この松浦記者の文章は示してくれています。
松浦記者の文章をもう少し引用しましょう。
南相馬市で学習塾を経営する番場さち子さん(51)は「事故前は食べる野菜の半分くらいは親戚や友達からもらっていた」と話す。南相馬市の仮設住宅で中学1年の次男と暮らす星野良美さん(48)も「事故前、食べる野菜類の6割は近所の人たちが作ったものを分けてもらいました。春には山菜、秋には山のきのこももらっていました」。
福島原発事故以来、そうしたことができなくなり、みんな野菜を買わなければいけなくなったのです。
そしてその分、「経済成長」は高まるわけです。
お金を介さずに野菜をやりとりしていたら、経済成長率にはまったく反映はされません。
シャドーワークという言葉もありますが、お金のやりとりがなければ「仕事」とは言わないといつの頃から「有識者」やジェンダー論者が言い出したのです。
男女共同参画社会などというバカなスローガンで活動している女性たちの罪は大きいと私には思っています。
いまさら原発反対などと言う資格など彼女たちにはないとさえ、私は思います。
あなたたちが子どもを裏切ってきたのだろうと強い怒りを感じます。
中途半端な「有識者」が、この社会を壊してきたし、壊しているのです。
それは、おそらく先日のブログで書いたように、「いじめ問題」にもいえます。
いじめ問題を存続させているのは、そうした「識者」だと思います。
「識者」の会話の主語は、いつも「知識」で会って「自分」ではないのです。
そうした構図が相変わらずはびこっています。
松浦記者のコラムに書かれている、引用文の意味を私たちはしっかりと考えるべきです。
そして、東北復興のビジョンを構想すべきです。
「識者」や「専門家」たちの経済復興の話に惑わされなければいいのですが。
いま大切なのは、決して「経済成長」や「雇用の場」ではなく、安心して暮らせる生活の仕組みなのです。
■ボーンレガシー(2012年8月20日)
私のお気に入りの映画は、ボーンシリーズです。
この映画は3部作のシリーズですが、いずれももう10回以上は観ています。
リズムがとてもよく、何回観ても面白いのです。
もっとも最近は、全編通しでというよりも、DVDで気にいったシーンだけを早送りして観るというスタイルが増えていますが。
3作品のラストシーンは、明らかに続編を意識したものでした。
今年初めに、シリーズ4作目ができると知って心待ちしていました。
来月、第4作目の「ボーン・レガシー」が公開されます。
ところが、実に残念なことに、監督が変わり、それによって主役も変わってしまいました。
そうなるとシリーズ作品とはいえ、全くの別作品です。
期待が吹き飛んでしまいました。
ボーンシリーズは、CIAの特殊プロジェクトによって、記憶と感情を消された暗殺者に育てられたジェイソン・ボーンが、記憶と感情を取り戻していく話です。
その過程で、CIAとの闘いが繰り広げられるわけです。
そしてボーンと同じようにして育てられた暗殺者との死闘も繰り返されます。
なぜ私がこの作品が好きかといえば、そのリズム感です。
CGが使われていないのも好きな理由のひとつです。
最近のCGは目を見張る素晴らしさはありますが、現実のテーストを感じられません。
それにこの作品は、ディテールを巧みにモンタージュしています。
だから好きなのです。
筋書きは、よくある話です。
類似のストーリーの映画はたくさんあります。
ところで最近、私がこの映画に魅かれる理由に気づきました。
この映画は、まさに現在の社会を象徴しているからです。
記憶と感情を消し去ることで、国民を思考しない家畜に飼育する国家。
そうした状況に満足して、与えられた役割を果たすことで生きていると勘違いしている人々。
それに気づいて、記憶と感情を取り戻そうとすると社会から排除され、死の危険にさらされる社会の状況。
そう考えると、なにやら実に身近に感ずるのです。
この構図は私の周辺にたくさんありそうです。
私も今は社会から脱落していますが、20年前くらいまでは、それなりにさまざまな権威とも接点がありました。
そうしたものに触れてしまうと、正常な感覚を維持するためには離脱するしかないと思います。
そのまま階段を登っていくと、もう抜けられなくなるでしょう。
最近、あるところまで登ってから階段から外れる人が増えました。
しかし、そうした人の発言を聞いていると、何をいまさら、とどうしても思ってしまいます。
私のやっかみもあるかもしれませんが、基本的にはまだ階段の上にいる感じです。
ジェイソン・ボーンのような、痛みを伴う記憶と感情の回復には遠い存在です。
信ずるわけにはいきません。
それにしても「ボーン・レガシー」とは思わせぶりなタイトルです。
ボーン・レガシーの主役は、ボーンではなく、ケネス・キットソンという新たな暗殺者が主役です。
そして、いわば前3作品のストーリーの裏側で、並行して進んでいた物語を扱うようです。
ですから、もしかしたら第5作で、ケネスとボーンが出会うことになるかもしれません。
やはりこれは観に行くべきかもしれません。
■「終戦 なぜ早く決められなかったのか」感想(2012年8月21日)
先週の終戦記念日に、NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」が放映されました。
友人がフェイスブックで、ぜひ見るようにと勧めてくれました。
その日は見られませんでしたので、昨夜、再放映されたものを録画してみました。
その題名から、実はあまり期待していませんでしたが、勧めてくれた友人には大変心苦しいのですが、あまり面白くありませんでした。
問題提起があまりに陳腐ですし、ソ連参戦の情報を軍部は予め入手していた証拠が、さも新しい発見であるように大仰に描かれていました。
なによりも、タイトルへの答があまりにも陳腐でした。
情報が共有されていなかったとか、統治機構に問題があったとかいうことでは、これまでの指摘と同じです。
もう一歩突っ込めば、現在の原発事故対応への問題提起になったはずですが。
しかし、とても共感できる言葉が紹介されていました。
昭和20年の春から、終戦締結工作に取り組んでいた木惣吉海軍少将が戦後書き残した文章です。
一部を書きとめました。
太平洋戦争を熟視し感ぜられたことは、戦争指導の最高責任の将に当たる人たちの無為、無策であり、意思の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです。
反省を回避し過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過誤を繰り返す危険がある。
勇敢に真実を省み批判する事が新しい時代の建設に役立つものと考えられるのであります。
この言葉は登場者すべての人にとっては、聞き流されているような気がしました。
もしかしたら、この番組を創った人たちもまた、観察者ではあっても自分の問題としては捉えていないのではないかと感じました。
しかし、意思と感覚を持った人が、あの時代にはまだいたわけです。
いまの時代はどうでしょうか。
これも有名な話ですが、アメリカは真珠湾奇襲攻撃を事前に知っていました。
それと同じで、ソ連参戦も広島への原爆投下も、日本は事前に知っていたのです。
最高責任者に届いていなかったという論がありますが、それは最高責任者を免責しません。ただ知ろうとしなかっただけの話であり、知らないことのほうこそ責任は大きいのです。
そのことは、企業不祥事でよく話題になりますが、それと同じ話です。
知って行動しないよりも、知らないことのほうが重大です。
前者は個別問題の話ですが、後者は全体の問題だからです。
終戦はなぜ早く決められなかったのか。
その答は簡単です。
みんな本気で早く戦争を終わらせようとは思っていなかったからです。
それは現在の脱原発と同じです。
この番組では、そうしたメッセージが出せたのに出さなかったことの意味はとても象徴的です。
■ジャーナリスト山本美香さんの死(2012年8月22日)
内戦が続くシリアで、取材中の日本人女性ジャーナリスト山本美香さんが戦闘に巻き込まれて死亡しました。
衝撃的なニュースです。
私たちは、こうした人たちのおかげで、安全な日本に居ながらにして、世界で何が起こっているのかを知ることができるのですが、紛争地では毎日、生命を賭けて仕事をしている人がいることを忘れがちです。
山本さんは、単に取材していただけではなく、日本の若者たちにメッセージを出し続けていたといいます。
朝日新聞に、山本さんの次の発言が紹介されていました。
紛争の現場で何が起きているかを伝えることで、世界が少しでもよくなればいい。
報道することで社会を変える事ができる。
私はそう信じています。
すべては「知る」ことから始まります。
知らなければ、考えることも行動することもできません。
しかし、現場で起こっていることを正確に伝えることは難しい。
大変なエネルギーが必要であり、危険もまた大きいからです。
こうした事件が起きるとよく話題になりますが、山本さんもまたフリーのジャーナリストでした。
自らの責任で、リスクを背負って紛争地で取材してくるわけです。
フリーの身軽さはあるでしょうが、安全対策に関しては必ずしも十全ではなかったでしょう。
今回の事件は、予想外のものであり、避けようがなかったと言われていますが、フリージャーナリストは身の危険を一身に背負って真実を伝えようとしているのです。
それに対して、その情報を受ける私たちはどうでしょうか。
果たしてそうした情報に対してきちんとした接し方をしてきているでしょうか。
いかにも安全な環境の中で、オリンピック騒ぎにうつつを抜かしていていいのか。
私も、その例外ではありません。
シリアのパルミラ遺跡を見に行きたいので早く内戦が終わってほしいなどと思っていたりしているのです。
恥ずかしい限りです。
そういえば、今回のオリンピックの開会式にも登場したバレンボイムも、「互いを知らなければ、何も始まらない」と言っていました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_5897.html
お互いを知ることで、世界は良くなっていくだろうという山本さんの信念に改めて自らの生き方を問い質したいと思います。
報道は、現場で起こっていることを知らせるためにあります。
大切なことは、知らせるべき情報や事実の選び方です。
「報道することで社会を変える事ができる」という使命感を、報道関係者がもっと強く持ってくれれば、選ぶ対象も変わっていくでしょう。
その気の無い報道関係者に、山本さんのメッセージが届くことを願います。
そして、私ももう少しまじめに世界の紛争地の情報に接していきたいと思います。
山本さんが行っているように、世界で起こっていることはすべて、私の生き方につながっているのですから。
■話を聴くことから生まれる責任(2012年8月22日)
昨日、野田首相と官邸前で抗議活動を続けている市民団体代表との話し合いがもたれた。と私は思っていましたが、今朝の新聞によれば、どうもそうではなくて、「面会」だったようです。
藤村官房長官は、今後も会う計画はあるのかと聞かれて、無いと答え、「面会」で首相は政府の考えをきちんと説明したというような答をしています。
どうも、面会の目的は説明だったわけです。
相手の考えを聞き、話し合うつもりはなかったわけです。
まさに「お上」の姿勢です。
それが明らかになっただけでも、昨日の「面会」は意味があったでしょう。
野田首相は、アサド大統領と同じく、話し合いということができない人なのでしょう。
「馬の耳に念仏」ほどの効果もなさそうです。
しかし、たとえ「面会」であろうと相手に話をさせた以上、そこから生まれる責任というものがあります。
ただ「聞きおく」だけでは、人の道に反します。
聞いた以上はそれなりの責任が発生します。
前に書いたように、「知る」ことは世界を変えることなのです。
しかも直接聞いた以上、無視はできません。
無視することは、最近、話題の「いじめ問題」の出発点でもあります。
無視されないように、子どもたちは、「いじめの世界」に引き込まれていくのです。
一国の首相が、無視を頻発することは社会を壊していきます。
その自覚があればいいのですが。
面会に出席した市民団体代表の人たちはどう思ったのでしょうか。
国会周辺での抗議活動は続けると話していましたが、それは当然として、そろそろ次のステップに進む時期だろうと思います。
シリアとは違った進め方があるはずです。
しかし、シリアと日本と、どちらが人間的な社会か、最近、わからなくなることがあります。
今の日本は、まさに「ゆでがえる国家」のような気がしてなりません。
■「つながり」とはなにか(2012年8月24日)
福島県で有機農業に取り組んでいた人から先月、お聞きしたことですが、原発事故による放射線汚染で、それまで一番つながりの深かった人たちが最初に離れていったそうです。
それがとてもさびしかったと、その人は話してくれました。
有機農業による農産物を購入している人はなによりも「食の安全性」を重視していますから、放射線汚染の恐れのある食材はとても購入はできないでしょう。
ですから、たとえ有機農業によるものであっても、福島の野菜は買わなくなるのはわからなくはありません。
しかし、どこかにおかしさがあります。
たぶんそれは、このつながりが生産者と消費者の関係だけのつながりだったからでしょう。
私食べる人、あなたつくる人というわけです。
そこには、お互いの生活を分かち合うという視点がありません。
それはまさに「近代的なつながり」です。
私は、こうした「つながり」に根本的に疑問を感じています。
最近、絆とかつながりとか支え合いという言葉が流行していますが、そうした言葉が意味する関係性の持ち方がとても気になります。
肝心な時に切れてしまう「つながり」や、良いとこどりの絆は、ビジネス契約とそう違いません。
放射線汚染に見舞われた有機農業に取り組む人たちの生活を支え、一緒になってその再建に取り組むような関係性こそが、いま求められているように思います。
たとえば、福島の農家の方々が放射線汚染に襲われたのであれば、逆に安全な食材を送ってやるような関係です。
それが「支え合う」と言うことです。
支え合う関係は、問題を共有するということでしょう。
地域が支える農業(CSA:Community Supported Agriculture)という活動があります。
昔、北海道恵庭市の農政課長(当時)だった中島興世さんの教えてもらいました。
そこでは農業者と地域住民が一緒になって農業を守ろうとする思想がありました。
農業が不作であれば、消費者もまたその被害を分かち合うわけです。
福島の有機農業をやっている方の話を聞いて、そのことを思い出しました。
農業は自然とのつながりのなかで、自然と分かち合いながらの生業でした。
そこに、最近の流行語とは違う「つながりの精神」があるように思います。
そんなことを思いながら、農業と福祉を重ねて考えるネットワークを立ちあげることにしました。
今日は、その準備会を開催します、
ネットワーク構想がまとまったらまた案内させてもらいます。
どんな活動になっていくか、楽しみです。
■対立の構図は人と組織(2012年8月25日)
シリアの内戦のすさまじさをテレビで見るたびに、政府軍の軍人たちは、なぜここまでの破壊活動ができるのだろうかといつも思います。
抵抗する側は身を守るためですが、政府軍は職を守るためでしょうか。
大学時代、国会デモでもよく思いました。
なぜ機動隊の人たちと学生は乱闘をしなければいけないのだろうか、と。
戦う相手が違うのではないかと、いつも思っていました。
もし機動隊が組織として戦うべき相手を変えたら、それこそクーデターでしょうが、その場合は、単に権力者が代わっただけです。
そうではなくて、機動隊の一人ひとりが自らの意志と判断で動き出したら、世界は変わって生きます。
そうなっては困るので、たぶん当時の機動隊員もいまのシリア政府軍も思考停止させられた単なる労働力にされているのかもしれません。
シリアも最近の日本の原発問題も、対立の構図は、人と組織だと考えるとわかりやすいように思います。
たとえば、自由シリア軍は自らを生きる人の集まり、政府軍は政府の傭兵と考えるのは、いかにも安直かもしれません。
傭兵は、お金のために雇用主の意向に逆らうことはしません。
そう考えれば、問題の本質が見えてきます。
それは、さまざまな問題にも当てはまります。
まさに、日本は今、そうした文化が社会を覆っています。
自らを生きる人であれば、個人的に原発が安全だとは思わないでしょう。
ひとたび事故が発生すれば、孫子の代までも影響を与えますし、仮に事故を起こさずとも、処置方法もない廃棄物を抱え込まなければいけません。
そうした原発の現場や使用済み燃料という名の危険な廃棄物の近くに住んでも良いという人がもしいたら、知りたいものです。
少なくとも原発推進者の中には、いないでしょう。
原発の危険性をよく知っているからです。
しかし、生命のない組織やシステムの視点からは原発は極めて有意な存在です。
産業の視点からは市場を生み出す最高の存在でしょう。
近代の経済における市場とは、解決すべき問題ですから、問題を起こすことが経済成長の原動力なのです。
顧客の創造や市場の開発が経済成長の原動力。
私にはとんでもない馬鹿げた発想ですが。
組織にとって、望ましいのは生命のない労働力かもしれません。
シリア政府軍のアサド大統領にとっては、前線の兵士はロボットに変えたいところでしょう。
人は目覚めたり、生命の危険の前に行動を躊躇しますが、ロボットは組織を裏切りません。
もしこれからも、自らが人であり続けたいのであれば、組織と人の戦いに対して、どこに視点を置くかは明確です。
そういうことを、シリアの内戦は明確に示唆しています。
その構図は、最近の日本のさまざまな問題すべてに言えることです。
多くの日本人は、いまや意思のないロボットの生活を志向していますが、シリアと日本とどこが違うのかをよく考えてみる必要があります。
先日、フェイスブックに、「シリアと日本とどちらが人間的な社会なのか。私たちは生き方を間違っているのではないかと、最近時々思います」と書いたら、思いのほか、反応がありました。
それで少しまたその意味を書いてみました。
シリアの内戦を解決する方法は、戦っている前線の人たちが、人の心を取り戻すことです。
そういえば、国会周辺の抗議活動のなかで、警備に当たる警察官たちと抗議活動に参加している人たちの心の交流も始まっているようです。
本当に対峙すべきものに気づけば、社会は変わりだすでしょう。
■灰色のマトリョーシカ(2012年8月30日)
すでにさまざまなブログなどで取り上げられていますので、あえて書くこともないかと思っていたのですが、フェイスブックに書いたらかなり反応があったので、ブログでも書くことにしました。
一昨日のテレビ報道ステーションで作家の浅田次郎さんが、チェルノブイリで見てきた風景を「灰色のマトリョーシカ」にたとえて話してくれました。
とてもわかりやすくて、しかも原発の本質を示唆してくれる話です。
チェルノブイリでは、廃炉にした原発を覆ったコンクリートの箱が劣化して、そこから放射線が漏れ出すため、またそれをさらに大きなコンクリート箱で覆っていく作業をしているそうです。
さらに20数年経過したら、またその外側に、さらに大きなコンクリートの箱を覆いかぶせないと放射線は閉じ込められないかもしれません。
その風景を、浅田さんは入れ子人形のマトリョーシカにたとえたのです。
私は、思わず、未来永遠に続く苦行のシジフォスの神話を思い出しました。
放射線が出なくなった時には、もしかしたら地球よりも、その灰色のマトリョーシカは大きくなっているかもしれません。
しかもおぞましいことに、これから原発を稼動し続けていけば、チェルノブイリ以外にも、そうした「灰色のマトリョーシカ」は増えていくでしょう。
すでに2番目の「灰色のマトリョーシカ」は、福島に生まれつつあります。
この事実を知ってもなお、原発がないと不安だとか原発ゼロは現実的でないとかいう人がいます。
私が思うのは、全く反対のことです。
原発があることが不安ですし、原発の存在こそが現実的ではないのです。
その違いはいったいどこからくるのでしょう。
そこにこそ、私は人の生き方のすべてが見えてくるような気がします。
報道ステーションの画像も含めて、何人かの人がブログなどで記録してくれています。
ご覧になっていない方はぜひご覧ください。
たぶん原発の本質が、わかってもらえると思います。
いまは次のサイトが見られると思います。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2274.html
蛇足ですが、「灰色のマトリョーシカ」の話を聴いて、もしかしたら地球そのものが45億年前につくられた「灰色のマトリョーシカ」ではないかと、ふと思いました。
■日本の社会を支える過剰消費(2012年8月31日)
今朝の朝日新聞「天声人語」に、こんな文章がありました。
北九州市の節電実験で、値上げ世帯の使用が平均16%も減った。実験にかかわる関宣昭さんは「足りないと言うが、今までが必要以上に使うメタボ状態。適正値は、国や電力会社ではなく消費者が決める」。
節電実験をしなければこんな自明なことさえわからないのかと、本心では思いますが、まあこういう言葉がようやく涼しい部屋で過ごしている大新聞の編集委員などにもわかってきたかと思うとちょっとうれしいです。
前から書いているように、そもそも「節電」などという言葉がおかしいのであって、過剰消費をしなければいいだけの話です。
しかし、「過剰消費」は今の日本の社会の基盤を支えています。
過剰消費を生み出すこと、顧客を創造することが経済だという社会は、過剰消費で成り立っているといっても過言ではないでしょう。
電力は、まさにその文化のど真ん中に位置しているわけですから、過剰消費を覆い隠すために「節電」という言葉が広く使われているように思います。
過剰消費の「過剰」には、さまざまな意味がありますが、現在の日本の社会は世代を超えての過剰消費という面も強く持っています。
その現われが、資源枯渇であり、環境破壊です。
原発は、その象徴かもしれません。
灰色のマトリョーシカの話に示されているように、原発の恩恵など受けなかった世代が廃炉を管理しなければいけないのです。
しかも、人間的感覚で言えば、未来永劫です。
たとえ「首相」といえども、限りある命しかない個人に「責任」がとれるはずはありません。
もっとも「節約」という言葉は、電力に限らず、昔からよく使われた「美徳用語」です。
その視点に立てば、「節電」に異を唱えるのも間違っていると思われるかもしれません。
しかし、電力会社や産業界が唱える「節電」は、一方で電力の過剰消費を促進していることであり、それらは実はセットなのです。
エネルギー効率がよいからといって、どれだけの商品がまだ使えるのに廃棄されたことか。
省電力だからといって、どれだけの過剰消費が見直されずにすんでいることか。
おそらくみなさんも、心当たりがあるでしょう。
電気料金が上がることに反対する人の気持ちも私にはわかりません。
そもそもが安すぎるのです。
原発反対という一方で、電気料金値上げ反対という人は、私は蹴飛ばしたいくらい嫌いです。
しかし、首相官邸周辺に集まっている人の中には、そういう人も多いのでしょう。
そういう人が社会を壊してきた、と私は思います。
電気代が高いと思うならば、個人なら消費電力を減らせます。
中小企業は大変だと言われていますが、たしかに大変です。
それは大企業のための産業構造があまりにしっかりとつくられてしまっているからです。
主体性なくやってきたことの咎が出てきただけの話です。
大変さはわかりますが、これまで甘んじすぎていたともいえます。
すべては「身から出た錆」なのです。
問題は私たちの生き方であり仕事の仕方であり、事業活動していく組織のあり方です。
そう簡単に変えられるとは、私も思ってはいませんが、こうなることは1980年代から予兆はあり、警告も発せられていました。
それに気づかなかった、あるいは気づこうとしなかった人生を反省するほうが心休まります。
生き方を変えれば、消費税がどんなに高くなっても心配ありません。
金銭的消費をしなければいいだけのはなしです。
そろそろ「お上」の支配ツールである金銭からも自由になりましょう。
その一歩を踏み出す人が増えれば、100年先にはきっと社会は変わっています。
■シャープの経営不振に思うこと(2012年9月7日)
シャープの経営が揺らいでいます。
一時期、世界を制覇したかにみえた亀山工場の土地建物にも追加融資の担保としての根抵当権が設定されたことも明らかになりました。
金融資本の傘下に、シャープもまた組み込まれ、実体を失っていくでしょう。
実に残念です。
わが家のテレビはシャープの亀山モデルです。
私は以前からシャープファンだったのですが、亀山モデルあたりから実はシャープ嫌いになっていました。
しかし、娘が亀山モデルを買ってしまいました。
DVDレコーダーもセットのシャープ製品ですが、私が使っている体験では明らかに品質的に問題がありそうです。
世界の評判を受けていた時代の商品でさえ、すでに品質は落ちていたと、私は思っています。
まあそれはたまたまわが家の商品が「はずれ」だったからかもしれませんが。
それはともかく、かつてあれほど世界に評判だったシャープが、なぜこれほどひどい状況になったのでしょうか。
目先の管理はあっても、大きな経営がなかったからだと私は断言できます。
しかし、こうしや経営の乱高下は、シャープに限ったことではありません。
前にも書きましたが、業績がこれほど乱高下する企業のあり方、あるいは経済のあり方が問われなければいけません。
もし企業が社会としっかりとつながり、そこで働く人たちやお客さんともしっかりとつながっていたら、こんなことは起こりません。
経済が、実体とつながっていたら、こんな経済危機など起こりません。
まさに昨今の経済は、カジノ資本主義とさえ言われるように、金融資本の道具に成り果てているのです。
そして、人間から生活を取り上げ、「労働者」や「消費者」にしてしまっています。
「労働者」や「消費者」の理想形は「無産者」であることはいうまでもありません。
格差社会は必然的に起こり、いじめや不安は社会を覆いつくすでしょう。
経営者は、この流れを変えなくてはいけません。
一昨日、20年以上、経営道を説き続けてきている友人の市川覚峯さんが湯島に来ました。
私は、市川さんの経営道活動をささやかに応援させてもらっていますが、はじめてからもう25年ほど経ちますが、事態は悪化の一方です。
私から言わせれば、「悪貨が良貨を駆逐する」のたとえどおり、似非経営者が多すぎます。
金儲けが経営だと思っている人が多すぎます。
コストダウンのために、国外に生産拠点を移すなどと言うのは経営とは言えません。
そんな対策なら、コンピュータ計算ではじけばいいわけで、だれでも経営ができるでしょう。
戦後の荒廃した状況の中から、経済大国とまでいわれるようにしてきた時代の経営者は、全く違っていたように思います。
金儲けではなく、社会への使命感や未来へのビジョンをしっかりと持っていました。
今朝、テレビで、亀山工場のあった亀山市の状況が報道されていました。
一時は駅前にずらりと並んだタクシーも、いまは数台のみ。
商店街の人たちをはじめ、住民たちは世界からの亀山工場詣でが盛んな頃も、地元には何のいいこともなかったと言っています。
そういう発言は、自らの無責任さを露呈しているだけの話ですが、こうしただめな住民たちを育てたのも亀山人気だったのかもしれません。
亀山市の税収は増えたと自治体の人は言い。テレビのコメンテーターたちも誘致は成功だったとほめていましたが、私には違和感があります。
ただただお金に振り回されて、地域や地域住民をだめにしただけの話です。
そろそろお金を基準にした発想を捨てなければいけません。
テレビを見ていて、こういう地域が日本全国に増えていて、そこにまた「お金で地域活性化」などと言って、金の亡者たちが群がっていくのだろうなと、嫌な気分になりました。
お金を基準にする発想を捨てたら、どこの地域も、自然と元気になるはずです。
私が時々、うかがっている小美玉市は実に豊かです。
たぶん大企業の工場誘致などにうつつを抜かしてこなかったからだろうと思います。
豊かな文化がしっかりと育っています。
■なぜ倒閣運動が起きないのか(2012年9月10日)
日本の政治はほぼ完全に民主主義を裏切ってしまいました。
オスプレイ配置反対のデモの空からの映像を見て、そう思いました。
これまでの反対に、政府は何も感じないのでしょうか。
政権が守るべきは、国民ではなく、金融資本と言ってもいいように思います。
アメリカの政府と同じように、日本政府もお金の世界に制覇されてしまいました。
小泉元首相から始まった、金銭至上主義政治が国民の生命さえも、市場化しだしています。
当時の「民営化」発想は、「市場化」、つまり「金銭化」以外のなにものでもありませんでした。
お金優先の政治に変わったのは、小泉政権だったと私は思っています。
当時もそのことをブログには書きましたが、小泉さんには金銭欲はないと友人からは言われました。
とんでもない、視点をちょっと変えれば、彼こそ金の亡者のように思います。
郵政民営化は、その象徴です。
野田政権は、原発、TPP、オスプレイ、どれをとってもお金で動いています。
消費税増税も、その視点で捉えれば、国民の税をアメリカ資本に移動しやすくするだけの話かもしれません。
原発再稼動反対、オスプレイ配置反対、TPP反対などと個別の反対運動では、もはや事態は変わらないところまできています。
野田首相は、国民の生命や安全や文化になど関心はないのでしょうか。
毎週の国会周辺でも、沖縄の人たちの切実な声、それになぜ心が動かないのか。
不思議です。
個別問題に異を唱える段階は過ぎたのかもしれません。
もはや「倒閣運動」しかないような気が、昨日の沖縄の集会の映像を見ながらしました。
野田首相とアサド大統領の顔が重なって見えました。
シリアより、日本の状況が悪いような気がしました。
大学の卒業式で、総長が「太った豚になるよりも痩せたソクラテスになれ」と呼びかけてくれました。
共感しました。
しかし、残念ながら、昨今の日本は、太った豚たちに好き勝手やられているような気がします。
しかし、なぜこんな状況になっても、倒閣運動が起きないのか。
そこにこそ、今の社会の本質的な問題があるのかもしれません。
改めて、チャールズ・ライクの本を読み直したくなりました。
■富裕層は不労所得者(2012年9月12日)
先ほどテレビで「富裕層ビジネス」の話をしていました。
番組は見ませんでしたが、いわゆる「富裕層」が日本にも多くいます。
こういう話が出てくるたびに、思うことがあります。
富裕層は、ほとんど働いていないのだろうなと言うことです。
言い方を変えれば、働いていたら決して富裕層にはなれないでしょう。
人が真面目に働いて獲得できるお金は、そんなに差があるはずがありません。
スポーツ選手や芸能人が億単位の年収を貰っているのは、私には理解できませんが、それが彼らの働きに正しく対応しているわけではありません。
彼らは単にお金を集める集金装置の歯車として自らを売っているだけの話です。
誠実な人であれば、億単位の対価をもらえば悩むはずですが、なぜか彼らは悩みません。
私には理解し難いことです。
みんなそんな悪い人には見えませんが。
彼らは、生命を極限まで燃やして頑張っていますから、ある意味では許されるような気がしないでもありません。
しかし、彼ら以上に富裕な層はたぶん働きはしません。
誰かを働かせて、ぴんはねをするのが、彼らの働き方ですが、それは普通の「働き」とは違います。
たとえば、福島の原発事故の修復作業に当たっている労働者とその労働者に給料を払っている人の構造を少し考えてみれば、よくわかります。
給料の多寡と労働の多少とは、反比例しているでしょう。
除染費用はゼネコンにたくさん入るでしょうが、現場の労働者に配布される給料はそのほんの一部でしょう。
日当20万円という話もありましたが、仮にそうだとしても、会社の収入にくらべればわずかな額でしょう。
さらに全く働かずに、お金を貸して高利を貪っている人がいます。
日本政府は巨額な借金をしていますが、それに対して巨額な利子を払っています。
富裕層は、その巨額な利子に寄生しています。
言い換えれば、財政赤字であることのおかげで富裕になっている人がいるわけです。
そういう人は財政赤字が解消されたら困るわけです。
小泉元首相のように、巨額な政府借金の道を開いた人には感謝しているでしょう。
そういう不労所得をなくすために、政府は借金を返済しないでいいという法律をつくれば、財政赤字は1日でなくなります。
あるいは日銀券を借金分だけ印刷して返済してもいいでしょう。
お金に依存して生活していた人は困るでしょうが、多くの人は困らないでしょう。
経済が混乱するから失業者が増えて貧しい人ほど困るだろうと思うかもしれませんが、そんなことはありません。
貧しい人は、そもそもお金がないのだから、お金の経済が混乱してもどうという事はありません。
さて、この論のどこに間違いがあるでしょうか。
いくらでも指摘できるでしょう。
しかし、正しいことはまったくないでしょうか。
ひとつくらいはあるでしょう。
そのひとつから、論を組み立てていけば、世界は全く変わってきます。
こんなことを書いたのは、もう一つおかしいことがあったからです。
陸前高田の枯れた1本松が今日、切り倒され、来年また記念碑として立てられるそうです。
それはいい。
しかしその費用が1億5000万円だそうです。
周辺の被災者に1億5000万円を配って、みんなで工夫して松の伐採と記念碑づくりに当てられなかったものでしょうか。
1億5000万円はだれのポケットに入るのでしょうか。
危険をおかして伐採した作業員の今日の日当はいくらだったのでしょうか。
みんなお金の感覚が麻痺しています。
お金が単に交換のためのコミュニケーション手段でしかなかった時代に、私は生きたかったです。
■世界の脆さ(2012年9月15日)
アメリカ人によって創られた、イスラム教預言者ムハンマドを中傷する映像作品が、中東に再び嵐を起こしています。
2010年にチュニジアのジャスミン革命から広がった「アラブの春」のエネルギーは、まだまだありあまっているのかもしれません。
そのエネルギーをどう処理するかは、組織にとっても個人にとっても、そう簡単ではないでしょう。
しかし、その処理の仕方によっては、歴史が大きく変わります。
ネグリ&ハートは著書「マルチチュード」のなかで、マルチチュード(大衆)の持つ両義性について述べていますが、中東の状況は、まさにマルチチュードのエネルギーの恐ろしさと頼もしさを物語っています。
私が恐ろしいと思ったのは、マルチチュードを暴発させることのあまりの容易さです。
今回は、一人の人の映像作品でした。
つまり、いまや一人の人の力で、世界を壊すことができるのです。
核爆弾も恐いですが、情報技術はもっと恐いように思います。
もちろんこれは決して「偶発」ではなく、「意図」が働いています。
その「意図」に恐さを感じます。
ネグリは著書のなかで、「コミュニケーションを通じて動員された共は、ある地域での闘いから別の地域での闘いへと拡大していく。ある地域で起きた反乱が共通の実践や欲望のコミュニケーションを通じて、あたかも病気が伝染するように別の地域へ伝わるのだ」と書いています。
イスラム世界は、その理念における平和性にもかかわらず、「病気」が伝達しやすいつながりを持っています。
しかもその題材が、自分たちのアイデンティティの立脚点であるムハンマドであれば、小異を超えて大同してしまうでしょう。
まだまだ深く広がっていく可能性があります。
それは、イスラムの教義とは無縁です。
日中をめぐる尖閣諸島問題もまた、マルチチュードの爆発力の引き金になっています。
尖閣諸島がどこの国に属しようが、ほとんどの人にはあまり関係はないでしょう。
にもかかわらず、中国中の都市で暴徒化するほどのデモが広がっています。
デモに参加する人たちの怒りの向かう先は、たぶん日本ではないでしょう。
実際には尖閣諸島などどうでもいいように思います。
しかし、にもかかわらずそれは、だれかの「意図」に利用されるでしょう。
その「意図」は、しかしデモで騒いでいる人には見えないでしょう。
テレビでデモに参加した人たちは、いったいなんに怒りを感じているのか。
そして、何のために暴徒化しているのか。
見ていると、なんと馬鹿げたことと思いますが、冷静に考えれば、私自身もたぶん似たような行為をしているようにも思います。
デモの後に見えるものは何か。
デモの先に見えるものは何か。
その風景は、人によって違っているでしょう。
しかし、それらが間違いなく示していることは、世界の脆さです。
世界は実に脆くなってしまいました。
そして、その脆さを利用する「意図」が存在している。
実体を大きく超えてしまった世界の脆さこそ、情報社会の本質かもしれません。
■理念の政治か調整の政治か(2012年9月17日)
自民党総裁と民主党代表がだれになるかで、候補者が盛んにテレビで発言しています。
それを聞いていると、それぞれの候補者の政治観が見えてきます。
そして、聞けば聞くほど、私は政治への関心が失せていきます。
まるで学級委員長を選ぶような気がするからです。
日本の首相は毎年変わるといわれますが、このレベルであれば、毎学期変わったほうが良いようにも思います。
アリストテレスは、政治は善い社会を目指すためのものと考えました。
善い社会を目指すためには、理念が必要です。
それが明確でなければ、善いかどうかを評価する基準がつくれないからです。
したがって、理念を基本とする政治といってもいいでしょう。
ではいまの9人の人が語っている言葉の中に理念はあるでしょうか。
原発ゼロは理念かもしれません。
自民党の5人は、実現可能性を明確にせずに、原発ゼロを言うのはおかしいといいます。
しかし、理念を目指す政治とは、まずは理念からスタートします。
実現可能な政策を選ぶのではなく、理念を実現するための政策を考えるのです。
その意味で、自民党の5人は理念志向ではありません。
では原発ゼロを目指すことを匂わせている民主党の4人はどうか、
彼らの言葉には、なぜ原発ゼロかが全くと言っていいほど語られていません。
現に彼らは、原発再稼動や原発輸出を推敲している政府与党の幹部ですから、理念からではなく、世論への迎合からの原発ゼロ論でしかありません。
彼らにも理念は感じられません。
石破さんや安倍さんのように、戦争が出来る国家を目指すと言うのは理念と言えるでしょうか。
戦争放棄は理念ですが、再軍備は理念ではありません。
そのふたつは同じ次元の話ではないからです。
これに関しては、これまでも書いてきたので省略します。
民主党の争点のひとつはTPPですが、本来、TPPは理念から語られるべきテーマです。
しかし、4人で語り合っているTPP論は、理念とは全く別の次元です。
結局、民主党の4人も理念から政治を発想していないように思います。
1960年代以降、「善い社会」の理念を語った首相は、鳩山由紀夫さんだけです。
いうまでもなく「友愛社会」です。
しかし、取り巻きの政治家はみんな理念には関心なく、現実を基本にした調整の政治家でした。
そして国民もまた、理念を求めてはいませんでした。
理念よりも目先の問題解決が、多くの人たちの関心事でした。
ですから見事に鳩山さんは挫折しました。
なんともまあさびしい社会になってしまいました。
理念を目指さないのであれば、世論に迎合し、アメリカに迎合していけばいいでしょう。
そして、それならば、学級委員長方式で学期ごとに首相を変えればいいでしょう。
総理になるかも知れない9人の人たちの発言を聞いていると、いささか暗澹たる気持ちになりますが、学級委員長選びだと思えば、気も楽になります。
しかし、学級委員長を手玉に取るのは、官僚の得意とするところでしょう。
そして官僚は、何も決まらずに問題が山積していくことを望むものです。
それが近代のパラダイムなのですから。
■政府の「安全宣言」と工場の「安全宣言」(2012年9月19日)
オスプレイ安全宣言が出されるそうです。
そういえば、原発安全宣言も出されました。
野田政権はどうも「安全宣言」が得意のようです。
私が知っている「安全宣言」は、工場などで出されるもので、「みんなで安全に留意しよう」というものですが、最近の政府の安全宣言は、「安全を保証する」もののようです。
安全であるものに「安全宣言」は不要ですから、安全宣言を出すということは安全でないことを示していることはいうまでもありません。
最近の政府の「安全宣言」は、実際には安全ではないものを安全とごまかす政治手法ですが、その危険性は「原発安全神話」で、私たちは痛いほど学んだはずです。
にもかかわらず、野田首相は「安全宣言」が好きです。
安全宣言によって、安全でないものに対する注意がかき消されるわけですから、工場現場などでの安全宣言とは正反対の効果を発揮します。
つまり工場現場の安全宣言は安全への意識を高めますが、政府の政治的安全宣言は安全への意識を消してしまうのです。
工場の安全宣言は、自分たちで安全を守ろうという宣言です。
政府の安全宣言は、他者を説得するための宣言です。
また、前者は「安全を目指そう」ですが、後者は「安全だ」という意味合いです。
同じ「安全宣言」でもまったく意味合いは違うのです。
そもそも「安全だ」などと保証できるものは、この世には存在しません。
「安全です」と言い切るのは、安全でないモノやサービスを売りたがっている人か、むりやり自らの意向を押し付けようとしている権力者以外にはいません。
つまり、そこでは「安全」という言葉が実態隠しのために利用されているのです。
経済行為の場合は、しかし、安全と言われても、それを判断するのは購入者です。
安全と言われても、自分で納得できなければ買わなければいいのです。
しかし政府の安全宣言は、全く違います。
仮に安全を納得できなくても、原発が動き出したり、オスプレイが飛行しだしたりしたら、その危険から抜け出す事は極めて難しいでしょう。
そして、万一、危険が現実のものになっても、責任を取るのは個人ではありません。
野田首相は、原発事故にもオスプレイ事故にもたぶん何の責任も取らないでしょう。
彼は当事者ではないからです。
彼は政府機関というシステムの歯車でしかありません。
ちなみに「政治的生命」などと言うのは、本人には意味があるかもしれませんが、他者には何の意味もありません。
「政治生命を賭けて」などとまじめな顔で話している人を見ると滑稽でしかありません。
責任をとるのは、その決定を押し付けられた国民です。
福島原発事故に、中曽根元首相がなにか責任をとったでしょうか。
やりきれない気持ちです。
■政権交代へのトロイの木馬(2012年9月19日)
一昨年公開された「フェアゲーム」という映画があります。
日本にも報じられたことのあるプレイム事件を題材にした映画です。
プレイム事件というのは、イラクのフセインが大量破壊兵器を保有しているという情報を、それが虚偽であることを十分に承知した上で、チェイニー副大統領が国民に流し、イラク戦争を正当化していると批判した元外交官ジョゼフ・ウィルソンの妻がCIAのエージェントであることをチェイニーの補佐官がマスコミに漏洩した事件です。
それによって、ウィルソンは不信を買い、妻も職を追われました。
日本でも大きく報道されたのでご記憶の方もあると思いますが、権力者はみずからの虚偽を守るためには身内もコラテラルダメッジの対象にすることを如実に示した事件でした。
ウィルソンの妻の旧姓がプレイムだったので、プレイム事件と言われています。
アメリカでは、こうした政府の不正が、きちんと裁かれる仕組みと文化があります。
まあそれも「許される範囲」でのことですが、それを可能にしているのは「政権交代」の存在のような気がします。
しかし残念ながら日本では、政権交代は幻だったようです。
いま行われている民主党や自民党の代表選挙での発言を聞いていると、野田首相はまさに自民党権力(自民党ではありません)が送り込んだトロイの木馬だったことがわかります。
しっかりした日本語さえ話せない彼が、首相になれたのは、思考力と想像力がなかったおかげでしょう。
政権交代の仕組みはこうして、野田首相によって白紙にされたわけですが、それを告発する仕組みは日本にはありません。
長年の自民党独裁体制の構築した文化は、そう簡単には変わらないのでしょう。
今日は、民主党の代表選です。
まもなく誰が代表になるか決まるのでしょうが、野田さんが選ばれるとマスコミは決めています。
私は、そうなってほしくはありませんし、まだ希望は捨てていませんが、その一方で、誰がなっても変わらないという思いもあります。
しかし、そういう思いこそが、現状を支える最大のパワーになるのでしょう。
そう思ってはいけません。
4人のなかでは、私には最もまともに見える原口さんが選ばれることを念じます。
せめて会話のできる人に代表になってほしいです。
政権交代は、政治を浄化するためには不可欠な仕組みです。
それを壊してしまった野田政府を支える面々は、私には忘れようがありません。
政権交代の仕組みのない民主政治体制は、欠陥品でしかありません。
■「ある心臓外科医の裁判―医療訴訟の教訓」(2012年9月22日)
友人の弁護士の大川真郎さんが3冊目の本を出版しました。
1冊目の「豊島産業廃棄物不法投棄事件」は環境問題。
2冊目は、まさに本業の「司法改革」。
そして今回は医療訴訟の問題です。
題材は平成11年に起こった近畿大学付属病院での心臓手術による死亡事件です。
同病院の心臓外科部長だった奥秀喬教授が執刀した患者が、術後、死亡したのですが、遺族から奥教授が訴えられた事件です。
それをマスコミは真実を確かめることなく、大きく取り上げました。
特に「アサヒ芸能」は、告発キャンペーン「『医者』に殺される」シリーズを組み、「メスを凶器にした心臓外科教授を妻が断罪!」などと書きたてました。
新聞も、ほぼ同じように奥教授の医療過誤と患者無視の報道をしていたように思います。
当時、その記事を読んだ私も、憤りを感じたのを覚えています。
しかし本書を読んで、報道と事実とは全く違っていたことを知りました。
たしかに医療過誤はあり、そのため近畿大学付属病院は慰謝料を支払いましたが、被告となった奥教授に関する嫌疑は裁判でほぼ晴れたのです。
遺族も、そうしたことがわかって、奥教授への控訴を取り下げています。
しかし、奥教授は単に訴えられてだけではなく、事実を明確にするために、いくつかの訴訟を自らも起こしました。
マスコミ、窓口となった主治医、遺族代理人弁護士を告訴したのです。
ほかにも奥教授を追い落とそうとする同業医師との闘いもありました。
それらに対して、すべて正面から闘ったのです。
そのおかげで、改めて医療訴訟や医療の実態が見えてきます。
本書はその記録です。
裁判には勝ったものの、奥教授とその家族の生活は無残にも打ち壊されました。
心臓外科医として評判の高かった奥教授の医療行為も、その後は行われることはありませんでした。社会的にも大きな損失と言うべきでしょう。
裁判が終わった後に、奥教授は『虚構の嵐』という私家本を出版していますが、そこで彼が伝えたかったのは、「巨大組織の権力の前では、一個人が如何に脆弱な存在であるか」ということだったようです。
大川さんは、本件の背後に山崎豊子の名著『白い巨塔』のごとき背景のあったことをうかがわせる、と書いています。
実は、大川さんは奥教授と郷里が同じです。
そのせいか、第三者の私からみれば被告への思い入れを少し感じます。
しかし、大川さんは被告の名誉挽回のために本書を書いたわけではありません。
「奥の闘いは、世に知らせる価値のあるものだという確信」が、大川さんに本書を書かせた理由です。
そのことには私も共感します。
本書の最後に、大川さんは「この事件の教訓」として、医師、マスコミ、病院、弁護士と項目を分けて、教訓をまとめています。
そこには、これからの医療や医療訴訟を考えるためのさまざまな示唆が示されています。
医療訴訟は、医療の世界の現状を象徴しています。
医療訴訟の視点から、医療改革を考えていけば、たぶんいまとは違った医療改革が実現できるはずです。
このことは医療に限りません。
大川さんが前著で取り上げた「司法改革」にも言えることです。
司法改革もまた、「冤罪」や「司法不信」や「司法訴訟」(そんな言葉はないでしょうが)の視点から考える必要があるでしょう。
本書は、「改革」というものに取り組む視座を与えてくれます。
本書を読んで感じたことはもう一つあります。
大川さんは、あとがきで『奥は、決して「一個人として脆弱」ではなかった。さまざまな苦境を乗り越え、見事な闘いをした』と書いています。
「巨大組織の権力の前では一個人は脆弱な存在」だとしても、無力ではない。闘うことができるのだということを、奥教授は実践をもって示してくれています。
私が、一番考えさせられたのはそのことです。
とても考えさせられる本です。
できれば一度、本書を読んだ人たちで、医療訴訟についての話し合いの場を持ちたいと思っています。
ご関心のある方はご連絡ください。
■汚されてしまった千秋楽の勝負(2012年9月23日)
今場所の日馬富士は見事です。
昨日の14勝で、もう横綱は確実と思っていたのですが、横綱昇進に向けた審判部からの臨時理事会の開催要請に対し、北の湖理事長が「今日の一番が終わってからにしよう」と述べたために、横綱審議委員会への昇進の諮問は今日の取り組みを見てからになったようです。
その記事を読んで、とても不愉快な気持ちになりました。
また、あの北の湖理事長かと思ったのです。
最近は素直に相撲を見る事ができるようになっていたのですが、やはり相撲界のトップは変わっていないようです。
私は、北の湖理事長の顔を見たくないので、出てきたらチャンネルを変えるほどです。
この発言は、日馬富士には大きな心理的な影響を与えることになったでしょう。
これで今日の千秋楽の勝負は、汚されてしまった気がします。
実に残念です。
もし日本人力士だったら、北の湖理事長は同じ行動を取ったかどうかが気になります。
間もなく千秋楽の勝負が始まりますが、なんだか素直には見る気がしなくなりました。
もっともこれは、私の思いすぎかもしれません。
しかし、ともかく先の事件の時に、責任を取らなかった北の湖理事長が生理的にもう受け容れられないのです。
誠実な勝負の世界にいるべき人ではありません。
責任を取らなかった人が、トップに立つことが私は一番許せません。
だから、安倍さんが自民党の総裁に立つことも生理的に理解できませんし、輿石さんが幹事長を継続するなどはまったく理解できません。
小沢さんはどうかと言われそうですが、そこは悩ましいですね。
責任とは一体なんなのか。
責任を忘れてしまっては、生きる意味さえないと私は思っています。
すみにくい時代です。
ちなみに私は、白鵬に勝ってほしいと思っていましたが、いまは微妙です。
■「優勝より正しい生き方」(2012年9月24日)
昨日の大相撲千秋楽最後の日馬富士と白鵬との1番はすごい迫力でした。
勝ったのは日馬富士でしたが、白鵬も見事でした。
今朝の新聞に、日馬富士の話が出ていました。
「父が喜ぶのは優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」。
すごく気持ちの良い言葉です。
負けた白鵬の言葉もいいです。
「悔いはない」と言った後に、「体は小さいけれど、気持ちが大きい」と日馬富士を讃えていました。
久しぶりにスポーツのすがすがしさを感じました。
「勝つことよりも正しい生き方」。
オリンピック選手たちに聞かせたい言葉です。
いや、オリンピック選手だけではありません。
すべての人に聞かせたい。
もちろん私も含めてです。
日馬富士のように、まっすぐ生きようと、改めて思いました。
日馬富士と白鵬に感謝しています。
■大拙さんの知恵「それはそれとして」(2012年9月24日)
昨夜、NHKテレビで「領土問題」をテーマにした日韓の識者の話し合い番組をやっていました。
私は、竹島問題の部分だけ見ましたが、そこで知ったことがあります。
韓国では最近、テレビ放送の最後などに竹島の映像を流しているそうです。
日本では富士山を流しているのに相当するようです。
つまり、韓国にとって竹島は、日本による侵略の象徴なのだそうです。
日本の侵略が竹島から始まったからです。
番組に出演されていた神戸大学の木村幹教授と韓国の出演者が話してくれました。
韓国にとって、竹島は日本における富士山と同じような意味を持つということを、私は全く知りませんでした。
それを聴いていて、同じ日の朝、テレビで見たばかりの鈴木大拙さんの話を思い出しました。
大拙さんの秘書的な役割を長年されてきた岡村美穂子さん(鈴木大拙館名誉館長)が語っていた言葉です。
鈴木大拙さんのところには、さまざまな人たちが相談に来たそうです。
大拙さんは、双方の意見を十分に聞いた上で、「それはそれとして」としてと言って、話し出すことが多かったそうです。
お互いの「分別」をきちんと踏まえた上で、「それはそれとして」と次元を変えて、前に向かって進むことを促したわけです。
昨日の話し合いも、日韓いずれもが、過去は過去としてこれからどうするかが大切だと、言葉としては話していました。
しかし、その一方で、実際には「それはそれとして」ではなく、「それ」にこだわっているのがはっきりと伝わってきました。
櫻井よしこさんは、その姿勢が特に強かったのが印象的でした。
分別が邪魔をして、みんな「それはそれとして」にはなれないのです。
知識の弊害を、改めて教えられました。
領土問題は、利害関係者の双方の認識の上に成り立ちます。
民主党政府は、竹島にも尖閣諸島にも領土問題はないと言っていますが、そんなことはありえません。
領土問題は、一方が疑問を持つ限り、存在します。
「領土問題はない」という独りよがりの認識こそが、最大の問題なのです。
歴史事実をいくら重ねても、一方の正当性を証明する事は無理でしょう。
領土問題を論理的に解決するのは、戦争による決着か、一方的な放棄しかありません。
しかし、そのいずれも、おそらく本当の解決にはなりません。
だとしたら、「それはそれとして」という大拙さんの視点こそが有効ではないかと思います。
大拙さんのような、知恵者がでてこないものでしょうか。
「それはそれとして」。
実に平和な言葉です。
私も早く、その言葉が素直に言える心境に達したいものです。
■泗水町住民の決断(2012年9月25日)
日曜日の朝日新聞にこんな記事が出ていました。
「平成の大合併」をした旧町が再び分離独立しようとする動きが熊本県菊池市で起きている。2005年に当時の菊池市と合併した3町村のうち、旧泗水(しすい)町の住民グループが20日、分離の要望書と住民の半数を超える署名を福村三男市長と市議会議長らに出した。
総務省によると、平成の大合併でできた自治体から分離した例はないそうです。
しかし、もしこれが認められ、泗水町が再び分離されたら、同じような動きが出てこないとは限りません。
いうまでもなく、平成の大合併は国家統治の効率化のために進められたもので、住民の生活向上の視点は希薄でした。
しかも、特別な交付金をちらつかせての、お金まみれの方法で進められました。
そこでどれほど無駄なエネルギーとお金が使われたかは、その作業に関わっていた人なら誰もがわかっていることでしょう。
そして、合併してよかったと思っている住民や自治体職員は決して多くはないでしょう。
むしろ生活面では不便になった人も多いはずです。
にもかかわらず、多くの住民は泣き寝入りしました。
泣き寝入りというよりも、事実を知らされていなかったといってもいいでしょう。
私は自治体分割論者ですので、その動きには与し得ず、当時やっていた自治体の仕事も基本的には止めました。
私は以前、いくつかの自治体の仕事をさせてもらいましたが、その時に感じたのは、いわゆる小学校区、人口にすれば6000人くらいでしょうか、そのくらいの規模だと顔の見える自治が行えるだろうということでした。
ただそれが閉じられるのではなく、近隣につながり、世界に開けていくのがいいと感じました。
また、数年前に自治会長をやらせてもらいましたが、その時に改めて、いわゆる基礎自治体というのが、生活的にはつながってこないと感じました。
1970年代の自治省によるコミュニティ政策も、私には違和感があります。
私がいう組織パラダイムの典型です。
自治は、団体自治と住民自治があります。
そろそろ軸足を住民自治に移す時です。
住民自治に移せば、国家財政も自治体財政も状況は一変するでしょう。
ただ、そこに寄生する企業の利益は減るでしょうが。
最近、小熊英二さんの「社会を変えるには」(講談社現代新書)で、次の文章に出会って、驚きました。
復興・復旧事業の多くは、従来から公共事業に強かった、東京などに本社のある大手ゼネコンが請負いました。阪神大震災後の5年間で被災地に投じられた復興事業費のうち、約9割はこうして被災地の域外に流出したと見積られています。
自治のパラダイムを変えないと、この繰り返しです。
動機はともかく、泗水町住民の決断と行動にエールを送りたいです。
他のところも旗をあげてほしいです。
ちなみに、私の住んでいる我孫子市は平成の大合併には加わりませんでした。
■ニセ医者事件に思うこと(2012年9月26日)
今日はかなりの非難を覚悟で、暴論を書きます。
ニセ医者事件の関連して、です。
昨年も話題になりましたが、医師免許を偽造して健康診断医師として仕事をしていた人が逮捕されました。
そのことに関する暴論です。
こうした事件が起きるたびに、わが家で、なんでこんなに非難されるのだろうかとつい発言してしまって、娘から注意されています。
娘から、もしかかった医者がニセ医師だったらどうするか、と問われて、結果が悪くなったら運が悪かったと思うだけだとは答えたものの、実のところ、不安になるかもしれないなと思ったりしています。
ですから、我ながら歯切れは悪いのですが、それでも、まあ書いてしまいましょう。
なにしろいつも気になることですので。
私は、お上が認める「資格」にまったく興味がないというか、その意味をあまり理解できない人間です。
私が持っている資格は、自動車運転免許くらいですが、明らかに私は運転がうまくないので、家族からも止めろといわれて、もう10年ほど運転をしていません。
免許を更新するのも、次回はやめようと思っています。
ですから、たぶん資格なるもの者はこれでなくなるでしょう。
そういう資格を何も持たない人間のたわごとかもしれません。
医師免許がなければ医療行為ができないということの意味は、一応、理解しています。
しかし、医師免許なるものがあれば、それで医療行為が正当化されるかということには異論があります。
逆に、医療免許がなくても利用行為はできるだろうと思っています。
医師法で、看護師と医師との権限領域が決まっているようですが、これも全く理解できません。
資格とは専門職者による権益の囲い込みだという人もいますが、私は必ずしもそれには賛成しません。
しかし、百姓的な生き方を理想と考える私としては、人がやれることを制度で決めることには違和感があります。
だから資格にはまったく関心を持たずに、生きてきました。
つい最近、I-phone販売で、下取りをしたソフトバンクが下取り業の免許がないからと指摘され、手続きを変えた事件がありました。
これなども全く馬鹿げた話です。
ともかくこうやって、日本の官僚は権益を守り、民の汗と知恵から利益を取っているわけです。
勝手な掟をつくって、民を収奪していた悪代官の文化はまだしっかりと残っています。
実はこうした仕組みはたくさん残っています。
電力販売規制もそのひとつです。
あげていけばきりがない。
それが日本の官僚の力の拠り所です。
それをまねた仕組みは。文化やスポーツ、宗教など、さまざまなところに広がっています。
話をニセ医師問題に戻せば、医師免許がないのに医療行為をしたことを批判するのも、もしかしたら医師免許というお上のルールを後生大事にする文化のひとつではないかと思うわけです。
たしかに、医師免許を偽造したり、自らを偽ったりしたことは悪いことです。
なぜ悪いかといえば、「秩序」が壊れるからです。
秩序が壊れるのを恐れるのは、お上の側にいる人の発想です。
ニセ医師が広がることに賛成しているわけではありません。
資格詐称も賛成はしません。
しかし、「それはそれとして」、医師免許さえあれば医療行為ができる、あるいは医師免許がなければ医療行為ができない、そのことを当然だと思っている「常識」に、私は異議申し立てしたいと思います。
どうしてみんな、これほどにお上の権威に従順なのでしょうか。
それが私には一番不思議です。
また読者から辛らつなお叱りと非難が届くでしょうね。
書かなければよかったでしょうか。
でもまあ、今はすっきりしました。
■忙しさの罪(2012年10月5日)
最近、挽歌は何とか書けていますが、時評編が書けずにいます。
時評の意欲がわかないというのも一因ではありますが、なによりも「気分的余裕」がないというのが大きな理由です。
それで思い出したのが、アテネのデモクラシーです。
アテネでは、働く者には参政権がありませんでした。
働いていては学ぶ時間もなく、社会全体への関心も視野も育たず、政治のことはわからないという考えもあったようです。
私は、この考えに馴染めず、アテネが近代民主主義の正反対の政治体制だったとずっと思っていました。
民主主義が古代ギリシアから始まったという考えにどうしても馴染めませんでした。
いくら美化しようと、古代ギリシアは奴隷制度を持つ社会でしかありません。
たぶん子ども時代にたくさんの古代ギリシア関係の本を読んだハンナ・アレントは、『人間の条件』で、人間の行為を「労働」「仕事」「活動」に分けました。
「労働」や「仕事」とは別の「活動」に注目したのです。
極めて大雑把に言えば、宗教と芸術と政治に関わるのが「活動」です。
それこそが人間のつとめであるということにはとても共感できます。
ハンナ・アレントの主張には、共感できることが少なくありません。
アテネの問題は、それを「分業」化してしまったことです。
話を自分に戻しますと、最近どうも、労働に追われて、やるべきことをやっていないという罪の意識があります。
それがもしかしたら、最近の私の「不安感」の理由かもしれません。
時評を書いたからといって、活動しているとは言えませんが、しかし、少なくとも時評を書くことで何となく感じていることを表象できます。
それがまた私の思考に影響を与えていきます。
まさに考えを文章に書くという行為は再帰作用を起こし、自らの社会性を高めてくれます。そして行動にさえつなげてくれるのです。
しかし、書くこともせず、行動もせず、ただ社会の動きを感じているだけでは自らの社会性や市民性は薄れていきます。
最悪の場合は、労働にまみれて経済人になってしまいかねません。
最近、時々、時間破産してしまいます。
作業時間がないという意味ではありません。
自分では背負えないほどの重荷に、時に思考力や気力を失ってしまうのです。
そういうなかでは、時評を書こうという気は起こってきません。
問題意識や好奇心さえ萎えてしまいます。
忙しいことは良いことだと言う人は、私の周りにも少なくありませんが、やはり忙しさは罪多いことだろうと思います。
みんなが経済的困窮の中で忙しくなっていることが、おそらく今の日本の一番の問題でしょう。
そうした状況下で、財界も政界も好き勝手をやっています。
明日からまた時評を書くようにしようと思います。
■「どんなふうにふるまい、生き続けていくか」(2012年10月6日)
昨日、時評編を書き出すと書いたのですが、どうも批判的な記事しか思いつきません。
なにか明るいことを書きたいのですが、題材が思いつきません。
そこでハッと気がつきました。
それは私自身の生き方が、明るくないからではないかということに、です。
明るく生きている人には明るい話題が集まってくるものです。
まずは、自分の生き方を変えなければいけません。
先日、挽歌編に、アウシュビッツで虐殺されたエティ・ヒレスムの日記のことに触れました。
避け得ようのない死が身近に迫っていることを彼女は知っていました。
彼女は「神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます」と書いています。
しかし、その後のエティの言葉は予想外の言葉です。
「神様が私をこれ以上助けられないなら、私が神様をお助けしなくてはいけない」と書いているのです。
それにつづく言葉も、ハッと考えさせられる言葉です。
「大切なことは、ある特定の状況からどんな犠牲を払ってでも抜け出すことではない。大切なのは、ある状況の中でどんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この文章を読んだのは10日ほど前ですが、この言葉が頭から離れません。
10日前は、私自身が日本の政治状況に怒り心頭に達していた頃です。
メーリングリストやフェイスブックでも、批判的な意見が山のように回ってきていました。
共感することも多く、私自身、いささか品の無い非難を込めた文を書いていたかもしれません。
しかし、エティは言うのです。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
「ふるまい生きる」ということは、不特定な対象に向けて「書く」ことではないでしょう。
そう思うと、急に自己嫌悪に襲われていました。
他者を非難することに、果たして何の意味があるのだろうか、とさえ思えてきました。
その一方で、フェイスブックで友人たちの書き込みを読んでいると、逆の意味で、虚しさが高まってきます。
こんな危機的な社会状況なのに、なんで毒にも薬にもならない写真ばかり載せるのかと、腹さえ立ってきます。
自分のことを棚にあげてですから、自分ながら身勝手な怒りです。
私も、まあそんな写真を時々載せているのです。
エティほど、誠実に真剣に生きることは、今の私には到底出来ません。
しかし、エティを見習うことならできるでしょう。
「大切なことは、どんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」。
この言葉が、頭から離れません。
ブログが書けなくなったのは、この言葉のせいだと気づきました。
エティが「自分の神」に語りかけたように、私も不特定多数にではなく、これからは「自分の神」に向けて書こうと思います。
■政治が動かないことに腹を立てないために(2012年10月8日)
民主党と自民党の代表選挙が終わったにもかかわらず、わが国の政治は動き出しません。
こんな大変な時に、一体どうなっているのだろうかといぶかしく思いますが、まあ見方を変えれば、そんなものかとも思えます。
ウルリヒ・ベックの「危険社会―新しい近代への道」は、実に示唆に富む本です。
出版されたのはチェルノブイリ原発事業の直前ですが、事故後に書かれたのではないかと思わせられるほどに説得力があります。
福島後の日本の状況も、ベックのお見通しの通りです。
その本でのベックのメッセージの一つは、政治が分化し、サブ政治というべきものが社会にとって大きな位置を占めていくだろうということです。
サブ政治とは、本来政治の領域に属してはいなかった科学技術や経済が政治的な機能を果たしだすということです。
「公権力に裏付けられた政治」と「公権力の裏づけのないサブ政治」と言ったらわかりやすいかもしれません。
政治の方向を定め、執行力を持っている政治は、日本の場合、民主主義の原理が働いています。
つまり国民の選挙によって公権力が与えられ、しかもその意思決定は公開の場で行われます。
しかし、サブ政治の技術や経済の世界は、あくまでも私的な世界であり、民主主義的な意味での正当性は保証されていません。
したがって、サブ政治が大きな役割を果たすということは、明らかに政治の変質です。
ベックはこう書いています。
政治と非政治との間の不明確な転換が生じる。
政治的なものが非政治的になり、非政治的なものが政治的になる。
ベックは、こうした動きを「一種の革命」だと考えています。
こうした「政治の変質」を踏まえて考えると、今の日本の政治状況はわかりやすくなります。
以前、私は日本の首相は生徒会長のような存在になったのだから毎年変わってもおかしくないと書きましたが、いまや首相が決められることはそう多くはないのです。
生徒会の会長を思い出せば、わかってもらえるでしょう。
野田政権が脱原発方針に関して揺れているのは、野田首相の考えに起因しているわけではないでしょう。
決めているのは、あるいは決めかねているのは、技術や経済のサブ政治かもしれません。
内閣をはじめとした政治にあまり期待してはいけないのです。
首相はたかだか生徒会の会長のような存在なのですから。
生徒会の会長の大変さを思いやってやらねばいけません。
でもそろそろ生徒会会長の選挙をしたいものです。
せめてみんなの声を理解してくれる人に、生徒会をゆだねたいですから。
それに、これから寒くなっていきますし。
■誰が鳩山政権を潰したのか(2012年10月9日)
私は民主党の副総理の岡田さんがどうしても許せません。
私が期待した鳩山政権を潰した張本人だと、思っているからです。
最近また時々テレビに出るので、見たくない顔を見る機会が増えています。
昨日は腹を立てないでおこうと思っていたのですが、今日は腹を立てることにしました。
元外務省官僚だった孫崎享さんの「戦後史の正体」が話題になっています。
内容は、アメリカに対して日本の国益を主張した政治家はすべて葬られたという話です。
これではちょっと粗雑過ぎると怒られそうですね。
本書の帯には「元外務省・国際情報局長が最大のタブー「米国からの圧力」を軸に戦後70年を読み解く!」とあります。
出典を明確にしたしっかりした情報にもとづいて、孫崎さんは敗戦の時からの外交史を、自主路線と対米追随路線に分けて、わかりやすく解説してくれています。
読まれた方も多いでしょうが、内部告発本のひとつとして面白い本です。
私の周辺ではとても評判がよいですが、ネットなどでは賛否両論がまわってきています。
それがまた面白いのですが。
私も読んではいますが、そう面白かったわけではありません。
というよりも、そんなにていねいに教えてもらわなくても、大筋はわかっていることですし、現役時代に告発せずに、いまさら言ってもね、という気がして、あまり好意的には読めなかったのです。
もちろん現役時代にも、孫崎さんは内部では異を唱える存在だったでしょう。
本書にも、たとえば、小泉政権のイラク参戦時には反対をしたことが書かれています。
しかし、それで悪魔に手を貸した一員だったことが許されるわけではありません。
時世が変わり、自らの立場が変わると、大きな声でものを言い出す人は、私はどうも信頼ができません。
本書の価値は評価しながらも、何となくすっきりしないので、これまで本書を誰かに勧めたことはありません。
まあそうは言っても、この本は多くの人たちに読んでほしいとは思います。
特に最後のあたりに書いてある次の文章は、読ませたい人がたくさんいます。
私が友愛政治こそあるべき政治だというとバカにする人が多いですが、これくらいのことは知っていてほしいです。
鳩山首相が「最低でも県外移転」といったことに対して、政府内のだれも鳩山首相のために動こうとしませんでした。首相が選挙前に行なった公約を実現しようとしているのに、外務省も防衛省も官邸も、だれも動こうとしなかったのです。異常な事態が起こっていました。日本の政府が首相ではなく、米国の意向にそって動くという状態が定着していたのです。
鳩山さんの「県外移転」の決意を指示されながら、岡田外相(当時)はまったく動かず、むしろ「県外移転は難しい」と公言さえしました。
この卑劣な裏切行為は、私には許しがたいのです。
反対だったのであれば、外相を受けるべきではないでしょう。
彼もまた「トロイの木馬」だったのです。
第二自民党になってしまった民主党政権の支持率はまた大きく低下してしまいました。
憂鬱で仕方がありません。
■映画「ボーンレガシー」にがっかり(2012年10月10日)
私が何回見ても飽きない映画が「ボーン・アイデンティティ」から始まるボーン3部作です。
その4作目が出来るというので楽しみにしていましたが、監督も主役も変わってしまいました。
救いはボーンの役を違う俳優がやるのではなく、ボーンの戦いの裏側で繰り広げられていた、もう1人のスパイ アーロン・クロスの物語という内容です。
つまりボーンが出てこないボーンシリーズの作品なのです。
作品は「ボーンレガシー」。
主役はジェレミー・レナー。私の知らない俳優です。
あまり食指は動かなかったのですが、おなじみのキャストも再登場というので、観たくなって映画館に行ってきました。
前半では、これまでのボーンの映画のシーンも時々出てきて、シリーズのつながりを感じさせてくれます。
ちょっと期待はしたのですが、「おなじみのキャストも再登場」という触れ込みは羊頭狗肉で、ほんのワンカットか、あるいは前作のシーンが出てくるだけなのです。
脚本もよくありません。
これまでの3部作の脚本を担当した人が監督だと聞いていましたが、実に中途半端な脚本です。
それにアクションシーンも今までの作品の二番煎じです。
せっかく観に行ったのに、なにやら騙された感じです。
しかし、主役のジェレミー・レナーはなかなかいいです。
この作品は、間違いなく5作目を意識していると思いますが、まあボーン3部作を次につなげる作品だと考えれば、まあ許せます。
一種のプロモーション映画と言うわけです。
はやくきちんとした続きをつくってほしいです。
そして6作目で、ボーンとアーロン・クロスが出会うのではないかと期待したいですが、彼らは対決的出会いではなく同志的出会いにならざるを得ないでしょう。
だとしたら、その共通の敵は国家そのものかもしれません。
そこまで壮大な構想を期待できるでしょうか。
いずれにしろ、今日は期待を裏切られて、ちょっとがっかりしています。
次回作と次々回作が待ち遠しいです。
ちなみに、わざわざ映画館まで行くほどの作品ではないように思います。
■「誰も全体を見ていなかった」(2012年10月11日)
今朝の朝日新聞の「カオスの深淵」に出てくる記事です。
2008年11月、ロンドン大学政治学院の新築ビル開所式で、来賓のエリザベス女王が居合わせた経済学者たちになにげなく質問しました。
「どうして、危機が起きることを誰もわからなかったのですか?」
それに対して誰も十分は返答ができず、後日、学者や実務家が集まって討議し、手紙で女王に報告したそうです。
手紙に署名したティム・ベズリー教授の言葉が載っています。
「誰も全体を見ていなかった」。
現代世界の本質を示唆する言葉です。
私は、2008年の金融破綻は「誰も見ていなかった」とは思っていませんし、むしろ「誰かが意図していた」と思っていますが、しかし、学者や専門家にはそうした見識のある人はそう多くなかったことはよくわかります。
学者や専門家の関心は、世界ではないからです。
しかし、普通の常識的な判断力のある人であれば、2008年の金融危機は予想できたでしょう。
難しい理論などは不要です。
ただきちんと生活していれば、当時の金融状況は、どう考えても長く続くことには無理があるとわかったはずです。
学問のあり方が変わりだしているのです。
生命や生活から、改めて学の体系を構築し直すべきだと私は思います。
これは何も世界金融危機だけの話ではありません。
いまの日本の政治もまた、各論的な最適化を目指して進んでいます。
それは以前書いたように、理念ではなく目先の問題解決で動いています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/09/post-7345.html
おそらく「誰も全体を見ていない」のでしょう。
全体を見るためには、理念や価値観が不可欠です。
つまり全体を束ねる芯がなければ、全体は姿を現しません。
言い換えれば、どこから見るかで全体像は変わってしまうのです。
よく、新しい歴史は辺境から起こるといわれます。
辺境にいるほうが、全体を見やすいことはいうまでもありません。
しかし多くの人は、ど真ん中のほうが全体が見えるとつい思いがちです。
しかし、人間の目の視界は360度ではないのです。
全体が見えるはずがありません。
ただ辺境は、さまざまです。
東の端か西の端かで、これもまた全体の見え方は違ってきます。
どこに視座を置くかは、理念や価値観によって決まってくるのです。
それが定まっていないと、辺境から見る全体は多様すぎて、やはり見えてきません。
新しい風を起こす辺境とは、実は次の時代の全体の中心なのです。
理念やビジョンが、それを呼び込むのです。
そこを見定めている人には、全体だけでなく、大きな時代の流れも見えてきます。
今の政治は「中央制御室」がない、とよく言われます。
そのため、首相でさえ何もできないわけです。
しかし、そもそも中央制御室という発想が間違っているのかもしれません。
複雑なシステムを論理分解しても、全体は見えてこないでしょう。
いまこそ、ただ素直に「全体を見て感ずる」ことが大切です。
まずは今の自分の生き方を、素直に見てみることから、それは始めなければいけません。
ノーベル賞を受賞した山中教授のすばらしいところは、そうした全体像を見る感覚をお持ちのことではないかと思いながら、テレビでの言動をお聴きしています。
新しい研究者の登場を感じます。
■「成長が無ければ世界経済の未来は危うい」(2012年10月12日)
IMF・世銀年次総会が開幕されました。
その冒頭、ラガルドIMF専務理事は「成長が無ければ世界経済の未来は危うい」と述べました。
あいもかわらぬ「成長発想」です。
この発想をどう克服していくかが、未来を危うくしない道ではないかと思っている私には、とても違和感のある言葉です。
このまま(現在のような経済の)成長が続いていけるはずがありません。
そのことは40年前のローマクラブの「成長の限界」以来、盛んに言われ続けてきたことだったはずです。
しかし、実際には、世界の経済を主導する人たちはだれも本気で発想を変えることはなかったようです。
ローマクラブの「成長の限界」は、「全体」をシミュレーションして、そういうメッセージを出しましたが、昨日も書いたように、いつの間にかまた全体ではなくそれぞれの狭い専門領域でしか考えなくなったようです。
全体を見なければ、いうまでもなく無限の成長は論理的に可能です。
しかし、実際にはそんなことはありえません。
もちろん成長を否定するつもりはありません。
ただ「成長」がなければ未来がない経済ではなく、成長がなくても、みんなが幸せに慣れる経済を目指したいと思います。
IMFや世界銀行に、それを期待するのは無理なことはわかっていますが、経済は大きなパラダイム転換をする時期に来ていることを、私たちはもっと認識すべきだと思います。
お金だけが経済ではないのですから。
■我孫子の手づくり散歩市でカフェを開いてます(2012年10月13日)
今日と明日、私が住んでいる我孫子市では手づくり散歩市が開催されています。
以前は我孫子在住のアーティストたちが出展して、賑やかにやっていたのですが、残念ながら年々さびれてきています。
私も以前は少し関わったのですが、最近はまったく関わってはいません。
ただ、娘がスペインタイル工房をわが家の庭に開いているので、その関係でわが家も会場の一部になっているのです。
それで、私もそれに便乗して、タイル工房に来てくれたお客様に、庭で珈琲サービスをさせてもらっています。
今年もカフェを開店しています。
ただわが家はメイン会場からちょっと離れた飛び地なので、お客様は多くはないのです。
昨年はむしろ工房のお客様と言うよりも、私の知人が話に来ると言う感じでした。
そういう人は工房を見ることもなく、珈琲と私との話で帰ってしまうので、いささか娘には悪いなと思っていました。
それで今年は、ホームページなどにも案内は出さなかったのですが、むしろ娘のタイル工房へのお誘いを昨夜、我孫子界隈の人たち数名に送らせてもらいました。
ちょっと気づくのが遅すぎたので、あんまり効果は無いかもしれないと思っていましたが、今日は2人の方がやってきてくれました。
天気にも恵まれて、庭のカフェも好評でした。
居心地がいいので、だいたい1時間以上、居てくれます。
年に1回のカフェですが、なかなか楽しいものです。
明日はどんな人が来てくれるでしょうか。
もしよかったら、お越しください。
9時開店、5時閉店です。
場所は
我孫子市白山1−27−6。
手賀沼公園の近くです。
手づくり散歩市の案内マップに「スペインタイル工房 Taller de JUN」で出ているところです。
■森口尚史さんが憎めないのですが(2012年10月16日)
「iPS誤報問題」で森口尚史さんが連日テレビでたたかれています。
「肩書き」の多くは虚偽だったようですし、臨床事例の話もほとんどが嘘だったようです。
読売新聞の「スクープ」から始まったこの事件は、いったい何だったのか、理解し難いところがあります。
ただ連日テレビを見ながら、どうもこの森口さんが憎めません。
娘に、この人はきっと良い人だよと言ったら、嘘をついているんだよと言われましたが、どことなく私には憎めないところがあります。
彼の関わったプロジェクトへの助成金や補助金の洗い直しの話まで出てきています。
これから森口さんは大変ですね。
おそらく「いじめの対象」になるでしょう。
いじめ問題に偉そうなことを言っている人ほど、いじめが好きですから。
新聞社の対応にとても興味があります。
もっとも、この事件によって、行政による、形だけ整えば実効性がなくても何のお咎めも無い助成金や補助金の実体が見直されるのは、悪いことではありません。
そういう形で、どれほどの税金が無駄遣いされていることでしょうか。
被災地の復興予算が、さまざまな形で使われていることも問題になっています。
政府の閣僚が、テレビでおかしいと発言しているのを見ると、それこそおかしいのではないかと思いますが、自分たちがそれをやっているという認識がありません。
おかしいと気づいたら、すぐに予算執行をストップすればいいだけの話で、テレビで首をかしげているような暇があるのであれば、きちんと仕事をしろと言いたいです。
これからきちんと精査するなどと言うのも、おかしな話です。
その前に、反省し謝罪しろと言いたいです。
会社なら横領罪でしょう。
全く政治家は気楽な仕事になってしまいました。
復興予算横流しの件も、テレビで誰かが話題にしたからみんな調べるようになってきたわけですが、こんなものはおそらく山のようにあるのでしょう。
パーキンソンの法則ではありませんが、官僚の数だけ仕事は生まれるのです。
それをマネジメントする人がいなければ、予算使途はどんどん増えていくのです。
実体につながっていないところほど広がりやすい、というのは、パーキンソンの法則にはありませんが、間違いない法則です。
森口さんの話と復興予算の話は、奇妙につながっています。
森口さんを裁くのであれば、復興予算を復興とは別のところに使ってしまった官僚や政治家も厳しく罰して欲しいものです。
森口さんが使ったお金は微々たるものです。
しかし、われわれ生活者は微々たるお金ほど理解できるので、復興予算を何百億も横流しした人よりも、数百万円を横領した人のほうを責めがちです。
まあそこが、私たち貧乏人の悲しき習性です。
そのために、小沢さんは首相になれなかったわけですが、私たちのそうした貧しい根性を恥じなければいけません。
森口さんがいじめられなければいいのですが。
■人間が機械化しだしているようで不気味です(2012年10月17日)
美術評論家のジョン・バージャーは「20世紀の企業資本主義によって人間と自然を繋いでいた伝統はすべて壊されてしまった」と著書『見るということ』で書いています。
彼はまた、「そこかしこで動物が消えていく。動物園では動物が自らの滅亡の生きた記念碑となっている」と書いています。
まだ自然とささやかに繋がりを持ち、動物にも出会えている私としては、いささか言い過ぎではなかろうかと思いますが、大きな流れとしては、そうなのかもしれません。
もっとも、彼がいう「消えていく」というのは、実際に絶滅するという意味ももちろん含まれるでしょうが、人間が住む世界から周縁に追いやられてしまうという意味です。
彼はさらに恐ろしいことを書いています。
「今日動物に続いて周縁化が著しいのは、中・小作農階級である。彼らは、長い歴史にわたり動物と親しみ、それによって得た知識を維持してきた唯一の人々である」というのです。
これは、人間と動物(自然)とをつないできた存在がいなくなることを意味するのではなく、人間が動物(自然)から孤立しつつあるということでしょう。
デカルトから始まった近代の思想は、動物を機械と考えたわけですが、今や人間も機械化しはじたという話です。
そう言われて考えてみると、私たちは、もうかなりの程度、機械になってきてしまっているのかもしれません。
機械と言うよりも機械部品と言ったほうが正確かもしれません。
機械と言っても、全体ではなく部分でしかないのです。
自嘲的過ぎる気もしますが、機械になってなぜ悪いのかと言われると答えられません。
私は機械の部品ではなく自分の意思で主体的に生きたいと思っていますが。そんな思いは独りよがりの発想で、そもそもそんな生き方はもはや許されないのかもしれません。
何かわけのわからないことを書いてしまいましたが、最近のニュースを見ていると、心底、そんな気分になってしまいます。
それに最近、テレビで話している人が、どうしても「人間」に見えないのです。
もしかしたら、あれはみんな機械仕掛けの人形かもしれないと感じることもあります。
なかには私の知人もいますが、彼らも改造されてしまったのかもしれません。
そんな不気味さを最近よく感じます。
いまの社会は、どうも「生気」(いのち)を感じません。
みなさんはいかがですか。
私だけがおかしいのでしょうか。
機械の部品になってしまうと誰かの都合で廃棄されてしまうこともありますが、ややこしい「生気」(いのち)などないほうが、逆に部品としては重宝されるのかもしれませんね。
生きづらい時代になってきました。
■居座りの時代(2012年10月18日)
最高裁が参院選での1票の格差を「違憲状態」と認める判決を下しました。
これで、なんとわが国の立法府である国会は衆参いずれも今「違憲状態」とされたわけです。
司法が「違憲」と認めたことを立法府や行政府が、無視することはめずらしいことではありません。
これに関しては、このブログでも何回か書きました。
たとえば、「空自イラク派遣は憲法9条に違反」という判決もありましたが、無視されました。
しかし、考えてみると、国の基本事項を決める役割にある国会議員が違憲状態にある方法で選ばれているというのはおかしな話です。
要するに正当な代表とは言えないということですから。
5倍の格差はおかしいですが、なぜそれが簡単に変えられないかというほうが私にはもっとおかしく思います。
変えるのは極めて簡単だと思うのですが、変えようと思っている人がいないということでしょう。
私自身、おかしいとは思うものの、自らが変えるための努力をしようという気はおきません。
だから大きなことは言えませんが、当事者である国会議員はどう思っているのでしょうか。
国民に支持されなくなっても政権は維持できることもおかしいですが、まさに日本の政治体制がおかしくなっているのだろうと思います。
そこにあるのは「居座り」です。
一度獲得した利権の席には、ともかく長く居座りたいとみんな思うのでしょう。
そして当事者でない人たちは、おかしいと思いながら、自らの居座りのために(つまり生活を守るために)実際には動きません。
みんな忙しくて、ほかの事にまで時間をさけないのです。
さびしい時代になってしまいました。
それによって何が失われるかを考えなければいけません。
最近、次々と遺体がでてくるおぞましい事件がテレビで報道されています。
私は殺人事件などには全くと言っていいほど興味を持てない人間ですので、事件のことはあまり知りませんが、ここでも「居座り」を感じます。
この事件と野田政権が、私にはどうしてもだぶって見えてきます。
さらにいえば、私たち自身の日常生活においても、私たちは居座りの思考に陥りやすいのです。
しかし居座りから得られるものは、瑣末な利益でしかありません。
仮に100億円のお金が得られても瑣末であることにはかわりはありません。
私は居座らない生き方をしたいと思っていますし、これまでそうしてきたつもりです。
しかし居座りの誘惑は大きいのです。
心しなければいけません。
■「よき市民であるためには、悪しき《市民政府》に抵抗せよ」(2012年10月19日)
昨今の政府の動きには強い怒りを感じます。
にもかかわらずなにもしない自分に、さらに怒りを感じます。
思い出して、ソローの「市民的不服従」を読み直しました。
1849年に発表された時のタイトルは「市民政府への抵抗」(Resistance to Civil Government)だったそうですが、そのほうがソローの真意は伝わってきます。
「市民政府」と言う言葉が、マジックワードなのです。
今回は、最近、新訳された「ソローの市民的不服従」を読んだのですが、訳者の佐藤雅彦さんがあとがきでこう書いています。
ソローが160年前に、帝国主義戦争にのめり込み建国の大義を忘れつつあったアメリカ合衆国で発した「市民的不服従」のメッセージ、「よき市民であるためには、悪しき《市民政府》に抵抗せよ」という呼びかけは、いま現在の日本にもズバリと通用する。
ソローは、ウォールデン岸での2年間の「森の生活」を本にして出版していますが、うらやましいほどに、誠実な生涯を生きた人です。
彼は、「世に言う“資産”が増えれば増えるほど、“人間らしい暮らし”を営む機会が減る」とも書いています。
それにしても、ソローの言っていることは私には実に共感できます。
いくつかのメッセージを引用させてもらいます。
ちょっと長いものばかりですが。
この国の自由を守っているのは政府ではありませんよ。西部開拓を行なつているのも政府じゃないですしね。教育だって政府が行なっているわけではない。それらはすべて、アメリカ人民の国民性の賜物なのです。いやいや政府が邪魔することもあるけれども、そういう余計なことをしなければもっと多くのことが国民のカによってやり遂げられていたでしょぅ。だって政府なんてものは、そもそも世の人々がたがいに邪魔だてせずに生きていくために、当座しのぎで設けている方便にすぎないわけですから。
私たちはなによりも先ず「人間」として生きるべきなのですよ。「臣民」として何かに仕えるのは、そこから先のことでしょ。正義を大切にする心をなおざりにして、法律ばかりに敬意を払う心を育むなんてのは、望ましいことじゃないですよ。
私が当然の権利として引き受ける「義務」はただ一つしかありません。つまりいつ何どきであれ、自分が正しいと思ったことを行なうという「義務」のことです。
団体に「良心」が付け加えられることはあるでしょう。但しそれは個々の人々が良心を持っている場合に、そうした人々が作った団体に限られるわけですけどね。
大勢の人間が、もっぱら「人間」としてではなく、ただの「機械」として、自分の肉体を差し出して「おかみ」(state)に仕えているわけです。
そろそろ私たちも、政府を権威ある「おかみ」と思うのをやめたいものです。
首相などは前にも書いたように、学期ごとに代わる学級委員長のような存在ですし、政府が何かを出来るなどと言うのはまさに共同幻想でしかありません。
ソローはもっと手厳しいです。
政府なんてものは、どんなに好意的に見ても、しよせんは当座しのぎの方便です。
読み直してみて、改めて多くの人にソローの「市民的不服従」を読んでほしいと思いました。
■野田首相が詐欺師でなければ、誰が詐欺師なのか(2012年10月20日)
昨日の三党党首会談は思った通り決裂しました。
そもそも最初から成り立つ話ではありません。
なぜいまだもって自民党も公明党も同じ過ちを繰り返すのでしょうか。
野田首相とはきちんとした話し合いなど出来るはずがありません。
彼の言葉には信がないからです。
ただ詭弁を弄する詐欺師とさえ、私は言いたい気がします。
しかし、みんな、あの「独特の話し方」に騙されてしまう。
長年、ただひたすら駅立ちをしてきた成果かもしれません。
ちなみに、私は政治家の駅立ちほど馬鹿げた行為はないと思っています。
首相を詐欺師呼ばわりするとは何事だと言われるかもしれません。
しかし、民主党が政権をとった2009年の総選挙の時に、堺市で野田首相が街頭演説した話を読んでみてください。
詐欺師よばわりしたくなる理由がわかると思います。
たかが1000万円を得た森口さんなどかわいいものです。
しかし、マスコミは森口さんはいじめても、野田首相には寛大です。
不思議です。
「マニフェスト、イギリスで始まりました。ルールがあるんです。書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです。書いてないことを平気でやる。これっておかしいと思いませんか。書いてあったことは4年間何もやらないで、書いてないことは平気でやる。それはマニフェストを語る資格はないというふうに、ぜひ皆さん、思っていただきたいと思います。
その一丁目一番地、税金の無駄遣いは許さないということです。天下りを許さない。わたりを許さない。それを徴底していきたいと思います。消費税1%分は2兆5000億円です。12兆6000億円ということは、消費税5%ということです。消費税5%分の皆さんの税金に天下り法人がぶら下がっている。シロアリがたかっているんです。それなのにシロアリを退治しないで、今度は消費税引き上げるんですか。消費税の税収が20兆円になるなら、またシロアリがたかるかもしれません。鳩山さんが4年間消費税を引き上げないと言ったのは、そこなんです。シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。そこから始瀬なければ、消費税を引き上げを話はおかしいんです。徹底して税金の無駄遣いをなくしていく。それが民主党の考え方であります。
いかがでしょうか。
You
tube でも公開されています。
言葉に真実のない人の言葉に振りまわれてはいけません。
誰か、蹴りをいれてほしいですが、それができないのであれば、詐欺師を首相に選んだことをただただ嘆くしかありません。
■野田首相の約束は財務官僚との約束(2012年10月21日)
日本の政治はいまやほぼ関税に財務官僚に掌握されたような気がします。
テレビで、安住財務省がいまなお「野田首相は約束を守る人だ」と言っていましたが、野田首相が大事にしているのは「財務官僚との約束」なのでしょう。
谷垣さんとの約束でも、国民との約束でもないのです。
今朝のTBSの時事放談の藤井さんの発言もまさに財務官僚の約束を実現させるために野田首相に働きかけていることが感じられます。
彼もまたお金にじゅばくされてしまっているのでしょう。
違憲状態では解散はできないという自己否定の発言にさえ気づいていないのですから。
野田・藤井・安住。すべて財務省の洗脳を受けた人たちです。
そのことを踏まえて現在の政治状況を考えると、実にさまざまなものが見えてきます。
最近、話題になった孫崎さんの「戦後史の正体」は、対米追従という軸で戦後史をみることで問題を整理してくれていますが、どの軸で見るかはとても大切です。
軸がなければ、あるいは自らの視点がしっかりしていなければ、状況は見えてきません。
人はそれぞれに視点も視野も、価値観も違います。
同じものを見ても、全く違ってきます。
ジョン・バージャーは書いています。
「コカ・コーラはアメリカ人にとっては郷愁であり、ロシア人や中国人にとっては憧れであり、イスラム原理主義者にとっては悪魔のシンボルである」と。
まったくその通りでしょう。
アメリカのオバマ政権や日本の財界や財務官僚にとっては、野田政権は信頼できる政府でしょうし、小沢・鳩山ラインは悪夢の政府だったでしょう。
とても残念なのは、国民の多くが、お金まみれの状況の中で軸が見えなくなっていたことです。
もし真実をしっかりと見たいのであれば、お金まみれの生活から抜け出なければいけません。
財政危機論に騙されてはいけません。
財政が破綻して、困るのは誰か。
しっかりと生きている人には困ることなどないでしょう。
困るのはお金まみれの人たちです。
日本には豊かな自然があります。
広い国土にはまだまだ食料を生み出してくれる大地はたくさんあることを忘れてはいけません。
小沢さんたちの「生活」が何を意味しているのか、まだよくわかりませんが、生活を基軸にした経済生活に戻りたいものです。
イバン・イリイチは「幸福は、共に働き、互いをケアするなかに存在する」と言っています。
■信濃川への鮭の遡上が増えています(2012年10月23日)
私も関わらせてもらっているNPO新潟水辺の会の事務局の加藤さんから、信濃川への鮭の遡上が今年は増えているとメールが来ました。
JR東日本が改善してくれた宮中取水ダム魚道では21日現在でもう123尾の遡上が確認されているそうです。加藤さんは戦後最多の鮭の遡上も夢ではないと言っています。
信濃川に鮭を遡上させるプロジェクトは、長年、新潟水辺の会が取り組んできていますが、私は企業との接点をつくることにささやかに協力させてもらっています。
信濃川にはJR東日本と東京電力が、水力発電のためのダムをもっているのですが、そこで水の流れが途絶えたり、魚道が不整備だったりしていたのです。
たまたま両社には、私が経営道フォーラムで知り合った方がいるので、その人たちを通して、NPOと企業との「カジュアルな」関係を育ててきました。
JR東日本との関係は今ではかなり深いものになり、さまざまな面での協力関係が育っています。
改善された魚道の写真を載せますが、私が2年前に見に行った時に比べると大きく改善されています。
それが鮭の遡上の増加につなげっているわけです。
ところが鮭がそこからさらに上に行くためには、まだ課題が残っています。
その上流には東京電力のダムがいくつかあります。
実は、東京電力との関係も育ちだし、ダムからの放出水量も増やしてもらい、魚道の改善の話も進んでいました。
昨年春には鮭の稚魚の放流も一緒にやろうというところまでになっていました。
ところがその1週間前に、3.11の大地震が起こり、それどころではなくなってしまったのです。
震災後も、東京電力の関係者とのミーティングももちましたが、いまや同社は自由には動けない会社になってしまいましたので、関係者は協力的ですが、実際の活動は難しくなっています。
とても残念です。
しかし、少しずつですが、鮭の遡上は増えてきています。
東京電力も信濃川の水量や鮭の遡上には気遣いだしてくれていると思います。
北海道大学の帰山雅秀先生によれば、今年も海水温が高く、鮭の遡上が遅れ、あるいは回遊出来ずに減耗している個体も多いそうです。
私は、単純な地球温暖化論には与しませんが、こうした気候異常はさまざまなところで起こっています。
そういうことも含めて、私たちの生き方そのものを問い直す契機として、日本最長の川である信濃川への鮭の遡上を支援するプロジェクトには象徴的な意味を感じています。
しかもその上流には、東電が管理している尾瀬があります。
今回の原発事故の関係で、尾瀬もまた維持できるかどうかが問題になっていますが、いまこそ尾瀬の意味を問い直す時期にあり、第2の尾瀬プロジェクトにならないかというのが、私が信濃川への鮭遡上プロジェクトに関わらせてもらった動機なのです。
そのプロジェクトを発展させていくためには、全国的な支援体制が必要ではないかと思います。
原発反対のプロジェクトも大事ですが、信濃川への鮭遡上プロジェクトのような形での運動も必要です。
原発の問題は、私たち一人ひとりの生き方や価値観に根ざした問題です。
たしかに原発を推進しているのは政財界やアメリカ資本でしょうが、それを支えていたのは、私たちの生き方なのです。
それを問い質さずして、ただ反対していいのか。
イラク派兵には何のわだかまりもなくデモに行けましたが、原発反対のデモに行くのはどこかにわだかまりがあって、大きな声を出せずにいます。
みなさんはどうお考えでしょうか。
信濃川に鮭を遡上させるプロジェクトは、実に象徴的なプロジェクトなので、多くの人たちに知ってもらい、応援してほしいと思います。
関心のある人はぜひご連絡下さい。
■子どもとの付き合い方(2012年10月26日)
今日、街中でとても学ぶべき光景に出会いました。
いずれも外国の方ですが、2組の親子に出会いました。
一方は乳母車に乗せた幼児連れの母親、もう一方は3歳くらいの男の子を連れた母親でした。
私のかなり先を親同士話し合いながら歩いていました。
ところが道にとまっていた自動車に、その男の子が興味を引いて見入ってしまいました。
母親たちはそれに気づいて立ち止まりました。
相変わらず母親同士の話をしながらですが。
そして、その男の子が、自動車に見とれている間、何も声をかけずに待っていました。
当然私は横を通り過ぎましたが、気になって後ろを振り返りながら歩調を緩めました。
少したって男の子は観察を終えて動き出しました。
それを待っていたかのように、母親たちもまた何もなかったように歩き出しました。
まあそれだけの話なのですが。
もし私だったらどうするかと思いました。
せっかちな私は、同行者の手前もあって、「どうしたの、早くおいで」とせかしそうです。
あるいは、子どもと一緒に、自動車の話をしそうです。
しかし、この母親たちは何もせずに、ただただ見守っていたのです。
念のために言えば、「待っている」という感じでもありませんでした。
まあよくある風景かもしれませんが、横を通り過ぎるときに、とてもあったかな空気を感じました。
しかも、実に自然なのです。
男の子はなにもなかったように、またとことこと歩き出しました。
そのリズムに合わせて、母親たちもまた話しながら歩き出したのです。
子どもと付き合うとはこういうことなのかもしれません。
とてもいろんなことに気づかせてもらったような気がします。
■原発の廃炉は可能なのか(2012年10月26日)
昨日の技術カフェで、原発の廃炉が話題になりました。
原発の安全性が話題になりますが、私にとっては原発の運転の安全性は瑣末な問題だと思います。
これまでも何回か書いているように、原発はその存在そのものが危険なものなのです。
仮に北朝鮮が、あるいは日米同盟に反発を持つグループが、9.11のように、日本のどこかの原発に飛行機をぶつければ、日本はどうなるでしょうか。
つまり、日本はい自らの内部にたくさんの原爆をむき出しで用意しているようなものなのです。
そう考えると、日本はまさに自爆国家とさえ思えてしまいます。
昨日の技術カフェで参加者の一人から、そもそも「廃炉」は可能なのかと問われました。
たしかに、そう問われてみると答えられないことに気づきました。
2030年代までに原発ゼロなどというのは、原発推進と同義だと思いますが、もし廃炉ができないのであれば、そもそも脱原発そのものがあり得ない選択になりかねません。
そう考えたら、ゾッとしてきました。
脱原発とは、所詮は「脱原発運転」でしかないのです。
廃炉したところで、飛行機をぶつけられたら放射線を飛散させる原子炉も廃棄物も燃料も依然として残っているわけです。
それが安全に処理されてこその「廃炉」です。
これも前に書きましたが、以前、原子炉の設計者だった後藤政志さんに「安全な廃炉は可能なのですか」と質問したことがあります。
明確な回答はもらえませんでしたが、その時には私自身はそれができると何となく思っていました。
しかしきちんと考えれば、そう簡単なことではありません。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。
まだどこかに科学技術への信仰が私の中にも残っているようです。
なんとお粗末な知性でしょうか。
これでは原子力技術者の知性を笑えませんね。
しかし、廃炉という希望さえも残っていないとしたら、パンドラの箱よりひどい話です。
これはいったい、誰が仕掛けた罠なのでしょうか。
しかし早合点はいけません。
どなたか「廃炉」について教えてくれませんか。
私も少し調べてみようと思いますが。
■市民の政治談義は市民の政治参加を妨げる(2012年10月30日)
最近、テレビの番組で「政治」が話題になることが多いです。
しかし、その中身はほとんどが「政局」や「政権争い」の話です。
しかも扱われるのは、タレント性やいかにもみんなの話題に取り上げられるような、あるいは官憲を刺激しないようなものばかりです。石原さんと小沢さんの報道のされ方の違いにそれがはっきりと読み取れます。
石原慎太郎が都知事を投げ出して新党を作ることが大きな話題になっていますが、小沢一郎の動きに比べれば、話題性はありますが、瑣末な話です。老害という人もいますが、そんな話ではなく、挫折するに決まっています。ただマスコミが大きく取りあげているために,何か意味がありそうに感じますが、誰もついていかないでしょうし、ついて行く人がいれば,それはその人の本性が見えてくるだけの話でしょう。
アメリカの政治学者のロバート・ダールは、「政治に対する単なる興味や床屋談義は、自己満足を惹起することによって、かえって市民の政治参加を妨げるという」と言っています。
全く同感です。
日本の政治をダメにしたのは、テレビの政治報道かもしれません。
テレビの政治報道が悪いということは,実は私たちテレビ視聴者の問題でもあります。
私たち同調者がいなければ,テレビでいくら報道してもなにもおこりません。
テレビ番組は,いうまでもなく、制作者と視聴者との共同作品です。
私も政治評論家の田崎さんのファンで、田崎さんが出演しているとどうも見てしまうのですが、話はいつも痴話ばなしに近い政局ばかりです。
バラエティ番組の政治報道は、やはり有害でしかないのかもしれません。
■久しぶりの梅田(2012年10月30日)
久しぶりに大阪の梅田を歩きました。まず驚いたのは大坂駅がまったく雰囲気を変えていたことです。あまりにもモダンで戸惑いました。
東京と同じように、大阪も私には遠い世界になっていってしまいそうです。
時間があったので、阪急梅田の地下街にも行ってみました。
ところがここはほとんど変わっていません。
もう20年以上前になりますが、会社時代には時に毎週のように大阪に出張で来ていました。水が流れる地下街が好きだったので、よく梅田の地下街で食事をしたのですが、当時とほとんど変わっていません。
少しホッとしました。
最近どこに行っても自分の居場所が見つけにくくなって来ています。
この10年ほどで、都会の雰囲気は大きく変化しているように思うのは私だけでしょうか。
一言で言えば、女性化です。都会の風景として、女性のほうがなんとなく合うのです。
あるいは女性化したファッショナブルな若いビジネスマンもお似合いです。
いま京都に向かっていますが、京都駅も私にはちょっと違和感のある場所になってしまっています。
どうも時代について行き損なっているような気がします。
■京都の弘道館にぜひ行ってみてください、(2012年11月1日)
昨日、京都の有斐斎弘道館に立ち寄らせてもらいました。
挽歌編でも書きましたが、ここは江戸中期の儒者・皆川淇園が1806年に創立した学問所です。
長らく放置されていましたが、3年ほど前にそこにマンション計画が出てきたため、保存運動が起こりました。
その中心になったのが、伝統文化プロデュース連の濱崎加奈子さんと有識菓子御調進所「老松」の太田達さんです。
http://www.ren-produce.com/
http://souda-kyoto.jp/knowledge/shinise/oimatsu.html
心ある人たちの支援を得て私募債を発行、なんとかマンション計画は阻止し、残っていた建物と庭を整備しました。
いまは茶室での茶会やさまざまな講座などにも取り組みだしています。
しかし、その維持は時間的にも経済的にも大変です。
お2人の取り組みは、前からお聞きしていましたが、先月、濱崎さんが湯島にやってきて、その後のお話を聞かせてくれました。
お2人の無謀さに脱帽するとともに、弘道館を残さないといけないという思いが出てきました。
と言っても、私に何ができるか、悩ましい課題です。
しかし、何かやれることがあるはずです。
これから考えていこうと思いますが、まずはできるだけ多くの人に、京都の弘道館のことを知ってもらい、できればそこを一度訪れてもらうことだと思いました。
弘道館の詳しい案内は次のサイトにあります。
http://kodo-kan.com/profile.html
機会をつくって弘道館に訪れていただければ、とてもうれしいです。
周りの人に弘道館のことを話してくださったら、もっとうれしいです。
またもし、弘道館を応援できる良いアドバイスなどあれば、教えてくれませんか。
一緒に考えてくださる人がいたら、もっともっとうれしいです。
■仕事とお金の話(2012年11月2日)
「働くことと生きること」について書くといいながら、延び延びになっていますが、これまでこのブログに書いてきた、仕事とお金にまつわる記事をホームページに少しピックアップしました。
ちょっと長いですが、ご関心とお時間のある方はお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/work.htm
■「まちづくり編集会議」が出版されました(2012年11月5日)
茨城県の小美玉市にある文化センター「みの〜れ」は、私が知る限り、日本で一番と言っていいほど、地域にしっかり根づいている文化センターです。
http://minole.city.omitama.lg.jp/
企画・建設段階からささやかに関わらせてもらっていますので、いささか「ひいき目」かもしれませんが、いつ行っても住民たちで賑わっています。
「住民主役・行政支援」で進められた文化センターづくりのプロセスが面白く、それを住民たちに呼びかけて、みんなで本にしました。
「文化がみの〜れ物語」(茨城新聞社)です。
その「みの〜れ」もオープンして10年です。
先週末からこれまたにぎやかに10歳記念事業が、住民たちの手によって開催されています。
記念事業の一環として、また住民たちが本を出版したいと言っているので手伝ってくれないかと、「みの〜れ」の館長がやってきたのは1年以上前です、
10年前の苦労を思い出すと、あまり気が乗らなかったのですが、予算はいくらですかと質問したら、予算はないというのです。
その言葉で引き受けることにしました。
予算がないということは、資金集めから住民たちが汗をかかないといけないということです。
予算を消化するような仕事は、私には興味がありません。
だれか一人でもいいのですが、本気でやろうとする人がいないと、面白くなりません。
面白くないことは、余命少ない私としてはやる価値はありません。
そして、11月3日。まさに「もの〜れ」10歳の誕生日に本が出版されました。
「まちづくり編集会議 住民主導の文化センターにつどう人たちの物語」です。
本の紹介はホームページ(CWSコモンズ)に書きました。
この本にはたくさんの住民たちが登場しますが、文化センターの効用がよくわかるとともに、まちづくりとは何かもわかってもらえると思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#121104
早速、それを手にした住民の一人からメールが届きました。
本にも登場している人です。
その人とはもう15年ほどお会いしていません。
さてこの本をみんなで売らなければいけません。
1800円とちょっと高いのですが、たくさん売れれば利益が出るかもしれません。
湯島のオフィスにも在庫するようにしますので、ご関心のある方は遊び方々買いに来てください。
私の淹れた珈琲もサービスします。
「みの〜れ」でももちろん販売していますし、ネットでも購入できます。
しかし、それよりも、もし機会があったら、小美玉市の「みの〜れ」に行ってみてください。
とても魅力的な文化センターです。
お茶室まであるのですよ。
■なぜ人は繰り返し騙されるのか(2012年11月5日)
昨今の政治の報道を見ていて思うのは、「なぜ人は繰り返し騙されるのか」ということです。
野田首相にはみんな何回も騙されているのに、自民党はまだ相変わらず騙され続けようとしています。
なんでみんな振り込み詐欺にあうのだろうと不思議ですが、実はそう思っている人でも、いざ当事者になってしまうと、繰り返し騙されるのかもしれません。
私はかなり単純ですから、騙されることも少なくありません。
しかも、同じ手口で繰り返し騙されることもあります。
そもそも「騙されているな」と思いながら、騙されることさえあるのです。
もしかしたら、私自身まさにいま、その渦中にいます。
しかも複数の渦の中に。
ちょっと疲れだしていますが。
人はたぶん、「騙される」という本性を持っているだろうと思います。
そして「騙されること」が、生きていくうえで、たぶん有益なのではないかと思います。
そうでなければ、これほどみんな騙され続けることはないでしょう。
世の中で起きていることには、みなそれぞれに理由があるはずですから。
そう思って考えてみると、たくさんのことに騙されてきたことに気づきます。
もちろん今も、です。
あるいは、自分が誰かを騙してきたかにも思いが至ります。
そして、一番繰り返し騙してきた相手は、実は自分だということにも気づきます。
私の信条の中で、一番大事にしていることは、「嘘をつかない」「裏表を持たない」ことです。
もっと言えば、できるだけ自分を開いていくことです。
それが一番心身に、生命に、素直だからです。
嘘を言うのは疲れます。裏表の人生はもっと疲れるでしょう。
それにもかかわらず、私もたくさんの「騙し」を行っています。
それに気づくと少し気が重くなります。
意識的に嘘はつかなくとも、結果的に嘘になっていることは多いようです。
嘘も方便、という言葉もあります。
嘘の効用というのも、間違いなくあるのでしょう。
しかし、それにもかかわらず、いまの政府の嘘には受け容れ難い嫌悪を感じます。
あまりに騙しを安直に濫用しているのではないか。
それに迎合したマスコミも、同じです。
社会のよどみを感じる毎日です。
■活断層か地滑りかの判断で慎重になるのではなく、原発の稼動に慎重になるべきでしょう(2012年11月6日)
現在稼働中の大飯原発で、原子力規制委員会の現地調査の結果、活断層の疑いがさらに強まりましたが、見方は相変わらず分かれているようです。
昨夜のテレビでは、活断層だと考える渡辺東洋大教授と地滑りではないかとする岡田立命館大教授のやりとりが報道されていました。
いずれが正しいのかは、私にはわかりませんが、どうも言葉遣いのおかしさがとても気になりました。
しかし、それをコメントした人は私の知る限りではいませんでした。
どこかにおかしさを感じます。
テレビでは岡田教授が、「今回のような地層のずれは地滑りなどでもできるから、判断は慎重にすべきだ」というような発言をしていました。
私が違和感を持ったのは、「慎重に」という言葉です。
すでにその地上で原発が稼動しているのですから、最悪の事態を考えることこそ「慎重」ということのはずです。
岡田教授はよほど原発の稼動を応援したいのでしょうか。
そう思わざるを得ません。
そして、そういう言葉使いを見過ごす周辺の人もどうかなと思います。
たとえば報道ステーションの古館さんです。
活断層か地滑りかの判断で慎重になるのではなく、原発の稼動に慎重になるべきでしょう。
言葉は、正しく使わなければいけません。
こうした事例は、最近は事欠きません。
たしかに辞書的には正しい使い方でしょうが、でもどこかおかしい。
そうした体験は、みなさんにはないでしょうか。
■田中真紀子さんの失策は憎めません(2012年11月8日)
私は、田中真紀子さんが好きなのです。
評判はあまり良くありませんが、とても単純でわかりやすく、そのため何回も間違いを起こすところが、なんとなく好感が持てるのです。
そうした当然の結果として、またまた大失策でした。
どう考えてみても、思慮不足でしょうが、あるいは文科省の官僚にやられてしまったのかもしれません。
相手は田中さんほどの単純な頭で太刀打ちできる相手ではありません。
小泉首相(当時)に切られた時と同じように、悔しそうでした。
それが実にいい。
まあご主人とお似合いのカップルです。
これは皮肉ではなく、褒め言葉です。念のため。
結果的には良い結果になりました。
これくらいの波風が立たないと、流れは変えられないものです。
まあ今回のことが3大学には「よい宣伝」になったまどと、余計なことを話したのも批判されていますが、実に意味深い言葉でもあります。
アメリカは私の期待に反してオバマが当選しましたが、大統領選に投入された巨額なお金は、まさに現代のトポラッチです。
消尽することで、社会を持続させる知恵によるものではないでしょうが、結果としてそうなるでしょう。
しかしそこに投入された資金は、すべて金融資本と汗しない人たちを潤すわけです。
実に虚しさを感じます。
地方交付金の支払が遅れると自治体は金融機関からお金を借り入れなければいけないと指摘されています。
これも視点を少し変えれば、金融資本への不労所得の提供でしかありません。
財務省にとっては、良いことづくめです。
そうした視点での報道やコメントはまったくありませんが、政治の停滞が誰を利しているかは少し考えればすぐわかります。
田中さんには、そうした小賢しさは感じられません。
私は、田中角栄もどうしても嫌いにはなれないのですが、小賢しいよりも単純なバカな人のほうが好きなのです。
もしかしたら自分もそうだからかもしれません。
大学は自らが先ず大きく変わらなければいけません。
その方法は極めて簡単です。
新しいミッションに基づいて、自己設計しなおせばいいだけの話です。
お上に認可されなければいけないような、産業としての大学はもう不要ではないかと思います。
■ネットからはなれた生活(2012年11月11日)
いささかさまざまなことに疲れてしまい、先週後半、世間からの逃避行に出かけていました。
自然の中で、それなりにのんびりし、それなりにハードに身体を動かしていました。
携帯もメールもやめていたのはたった2日半ですが、それでもいろいろと自分の生き方を見直す契機にはなりました。
昨日の午後、パソコンと携帯を開き、留守電やメールへの対応をしましたが、なんとなく続ける気にならず、先ほどまで、また1日、パソコンから離れていました。
毎週日曜日に更新することになっているホームページは、先週更新せずに知人に心配をかけてしまったので、最小限の更新だけしておきました。
フェイスブックは4日間見ていないので、かなりたまっているでしょうが、私からの発信もしていないので、私に絡んだ記事はあまりありません。
フェイスブックのイメージも、ちょっと変わってしまいました。
この間、「構造災」(岩波新書)を読みましたが、そこに「逸脱の常態化」ということが書かれていました。
ルールの逸脱が常態化していくことが、安全に大きな影響を与えることを指摘しているのですが、生き方においても同じ落し穴があると思いました。
最近の私の生き方は、まさに「逸脱の常態化」が進行しています。
素直に考えて、生き方としてやはりどこか間違っていると感じ出したのです。
朝起きて先ず私がやることはパソコンの電源を入れ、メールをチェックすることです。
そして就寝前には、やはりメールチェックをして、パソコンを切るわけです。
これはやはりどう考えてもおかしい、そう感じたのです。
先日、大阪に出かけたときも、新幹線の中でアイパッドでメールやネットをやっていました。
そのおかげで、たしか米原近くまで外を見ることもありませんでした。
お金に呪縛される生き方からは、かなり自由になっていると思っていましたが、
気がついたらネットに呪縛されているようです。
実は「逸脱の常態化」に関しては、もっと大きな逸脱も感じてしまいました。
以前から私は、社会から大きく脱落していると実感しているのですが、そこにある「優越感」も感じていました。
社会そのものが、私にはひどく間違ったものになっているような気がしているからです。
しかし、間違っているのは自分ではないのかという気がしてきました。
もしそうだとすれば、それこそ私は正しく社会から脱落しているわけです。
優越感などではなく、反省をしなければいけません。
とまあ、4日ほど、社会の流れから少し外れて暮らしただけで、自らをそれなりに相対化することが少しだけできました。
かなり気が重くなってしまったのですが、まあ少しずつ軌道修正しながら、ネットもほどほどまた再開しようと思います。
たまりにたまった課題や約束は、明日から解消していきます。
それにしても、疲労はあまり蓄積させないほうがいいですね。
まだ回復できずにいます。
回復の方法がわからないので、仕方がないのですが。
■解散権は誰が持っているのか(2012年11月13日)
解散権は首相の専権事項であり、しかもその時期に関しては「嘘をついても許される」と言うのが、いまの日本の政治制度では常識のようです。
しかし、これはおかしいのではないかという気がしてなりません。
内閣支持率が20%前後になってもなお、政権の座にいられるというのも納得がいきません。
ルソーは著書の中で、「イギリス人が自由なのは選挙のときだけで、議員が選ばれるや、すぐにその奴隷に帰してしまう」と書いているそうですが、まさにそんな気がします。
つまり、近代民主主義に基づく選挙とは期間限定の独裁者を選ぶ「ハレのお祭り」ともいえるわけです。
でもそうであってはいけません。
昔の王国では、適切でない国王は解任され、時には殺されたそうです。
そうした危機感があればこそ、善政が期待できるわけですが、国民の8割が不支持になっても権力が維持されるのでは、危機感は生まれないでしょう。
将来のためにいまの世代に嫌われることをやるのだという説明も何となくもっともらしさがありますが、「将来のため」ということは独断でしかなく、まさに独裁者が好むセリフです。
実際には、せいぜいが「自分の将来のため」でしかありません。
それが言いすぎなら、「国家の将来のため」だとしても、その国家とはだれのものかという課題にすぐにぶつかります。
民主党幹事長は、「いま解散したら間違いなく政権を失う」から解散すべきではないと公言しています。
つまり自らの正当性のなさをみとめているわけです。
選挙になったら間違いなく政権を失うからこそ、解散しなければならないという視点がないことにこそ、問題の本質があるわけです。
組織のためにのみ生きてくると、そうなってしまうのでしょう。
解散権は、いうまでもなく国民がもっています。
それが国民主権の意味ですが、制度は時に「違憲」でもあるのです。
解散権は首相の専権事項などという俗説を信じてはいけません。
憲法学者が何も発言しないのは、彼らが完全な御用学者だからでしょう。
同情を禁じえません。
■自公民大連合体制への懸念(2012年11月13日)
国会は年内解散の方向に動き出しましたが、どうやらその背景には、自公民大連合体制が感じられます。
野田政権は、質の悪い自民党のようなものですから、それはひとつの帰結でしょう。
前にも書きましたが、野田首相は隠れ自民党のトロイの馬でしょうから。
しかし、そうした場合の対抗馬が石原新党や橋本維新の会ではいかにも救いがたい構図です。
なんだか80年前のドイツや日本を思い出します。
それにしても、離党しそうで離党しない民主党の党員にはイライラします。
「戦い方」を知らないかとも思いますが、たぶん「戦い方」を知らないのではなく、お金の呪縛のせいなのかもしれません。
ともかくお金がすべてをおかしくしています。
政党交付金などなくすべきでしょうし、国会議員の処遇は名誉職的にすべきです。
お金よりやりがいこそが、モティベーションになるようにしないと、お金の亡者だけが集まります。
そもそも新幹線でグリーン車にのっていたら社会は見えてこないでしょう。
私は30年以上前に朝日新聞に投稿したことがありますが、すべてのグリーン車はシルバー車に変えるべきだと思っています。
シルバーシートの思想ですが、料金はもちろん安くします。
私が利用する常磐線にもグリーン車はありますが、そこに若者が乗っていると、私は蹴飛ばしたくなります。
グリーン車の前後は逆に混んでしまい、高齢者は大変です。
二大政党制度は、右肩上がりの成長の時代にはよかったでしょうが、もはや時代遅れの制度だということも、これまで書いてきましたが、かといって、現在のようにわけのわからない小政党が乱立してしまうと、投票が難しくなります。
どのテレビを選ぼうかと迷うような状況ですが、テレビの時には家電販売店できちんと説明してもらえました。
選挙ではさすがにそれは難しいです。
それに約束事も守られないし、政党も移ってしまうし、もう手に負えません。
記名式投票にして、当選後の言動で支持を解除できるような制度だといいのですが。
しかし解散してほしいですが、今度の投票は難しそうです。
論点をしっかりと見据えておきたいと思います。
■「ホモマキナ」(機械人間)への進化の時代(2012年11月14日)
私たちはいま、「凶暴化することもあるマシンにかこまれて暮らしている」とアメリカの技術評論家のジェームズ・チャイルズは著書「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」で書いています。
そして、人類は、「ホモサピエンス」(知恵のある人)から「ホモマキナ」(機械人間)へと「進化」に向かっているといいます。
そうした新世界においては、いまや平凡なミスが莫大な被害を招きかねないことを認める必要があるし、その結果として、より高度の警戒が求められるとも書いています。
昨年の福島原発事故は、マシン事故による惨事のひとつです。
チャイルズは書いています。
たったひとつの災難、たったひとつの原因だけでは、なかなか大惨事にはいたらない。大惨事は、貧弱なメンテナンス、意思疎通の悪さ、手抜きといった要因が組みあわされることによって発生する。そうしたゆがみは徐々に形成されていく。
そして、こうした状況、あるいは現象を、チャイルズは「システム亀裂(クラック)」と呼んでいます。
最近の政治状況を見ていて(経済状況もそうですが)、社会そのものがいま、ひび割れてきていると感じていました。
今日の国会の党首討論を見ていて、ますますその思いを強くしました。
「ホモマキナ」(機械人間)の時代がやってきたのかもしれません。
政治の停滞は「惨事」とはいえないかもしれませんが、私には「形の見えない惨事」に感じます。
チャイルズの言葉をもう一度引用します。
「大惨事は、貧弱なメンテナンス、意思疎通の悪さ、手抜きといった要因が組みあわされることによって発生する。そうしたゆがみは徐々に形成されていく」
まさに最近の日本の政治体制に当てはまる気がします。
進化途中の現象なのでしょうか。
■大同小異の視点での政党再編成(2012年11月16日)
民主党からの離党者が続出しています。
なかには自民党に入党する人までいますので、いささか選挙対策ではないかと思いがちですが、すべてがそうであるわけではないでしょう。
誠実に考えての離党者は少なくないように思います。
民主党で選ばれたにも関わらず、勝手に民主党を離党するのは裏切りではないかと言う人もいますが、国民は「民主党」に投票したのではなく、「民主党のマニフェスト」に投票したわけであり、そのマニフェストが裏切られたのであれば、離党しない事がむしろおかしいというべきでしょう。
もっともマニフェストといっても、いまの日本のマニフェストは次元の違った雑多な内容が並べられているだけのものですから(したがって私は現在のマニフェスト選挙には以前も書いたように反対でした)、マニフェストに反したというだけでは十分ではありません。
最近「大同小異」という言葉が安直に語られていますが、その「大同」に相当するところ、つまりマニフェストの根幹を軸に考えなければいけません。
福田衣里子議員が今日、離党し、新党「みどりの風」入りを表明しましたが、その記者会見で、消費税増税や民主党の原発政策に関し「弱い人の視点が欠けている」と強調したことはとても納得できます。
私の考えでは、そうした「弱い人の視点が欠けている」というようなことこそが、マニフェストでなければいけないと思っています。
たとえば、「弱い人の視点から政治を進める」ということを根幹に置けば、いまの論点である、原発、消費税、TPPをどう考えるかは明確です。
たくさんの党が乱立していて、どこに違いがあるかわからず、どこに投票していいかわからないとテレビでは盛んに語られていますが、そんなことはありません。
自らの視点や視座が明確であれば、どの政党に投票するか、あるいは投票すべきでないかは、見えてくるはずです。
情報不足と言う人もいますが、少し努力すれば、情報はいくらでもあります。
投票が難しいなどと話すキャスターやコメンテーターを見ると、選挙をだめにしているのは、こういう輩ではないかと思います。
投票が難しいのはいつも同じです。
安直に投票した結果がどうなるか、もうわかっているはずではないかといいたいものです。
そもそも選挙で代表を選ぶということは難しいものなのです。
努力も必要です。
せめてマイカーやマイホームを購入する時くらいの努力はするべきでしょう。
それさえしないで、投票が難しいなどと言うべきではありません。
タレントの人気投票とは違うのですが、テレビ人はどうも同じだと考えているようです。
彼らの多くは、たぶん投票にさえ行かないのでしょう。
国会議員の候補者になったタレント稼業の人が、これまで投票に行かなかったと発言して話題になったことがありますが、必ずしもそれは例外的なことではないように思います。
人間には直観力がありますから、難しい政策などはどうでもよく、立候補者の顔を素直に見れば、だれに投票すべきかはわかる、ともいえます。
政党も代表や幹事長の表情と話し方をきちんと見ていれば、わかります。
もちろんそれで失敗することもありますが、それは仕方がありません。
そもそも人の行動には失敗がつきものなのです。
私は明確に投票基準を持っていますので、もう政党は決まっています。
私の基準からすれば、「投票してはいけない政党」が圧倒的に多いので、今回は選ぶのがとても簡単な選挙のように思います。
■ソリューション型贈与とクリエーション型贈与(2012年11月21日)
昨日、ソーシャルビジネス研究会を湯島で開きましたが、そこで話したことを少しだけ紹介させてもらいます。
テーマは「贈与」だったのですが、私は2つの贈与があると考えています。
ソリューション型贈与とクリエーション型贈与です。
ちなみに、このソーシャルビジネス研究会での私の大きなメッセージの一つは「ソリューション視点よりクリエーション視点を」です。
現在行われている多くの「贈与行為」は、体制維持のためのソリューション型贈与です。
そういっても伝わりにくいので少し説明します。
現在の工業型の資本主義の原理は大きな意味ではゼロサム的な競争です。
誰かが得をすれば誰かが損をすると言ってもいいでしょう。
大きな「ねずみ講」と言ってもいいかもしれません。
以前も書きましたが、「お金がお金を生み出す」というのは、原理的にありえませんから、誰かのお金を収奪しているに過ぎません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/12/post_20.html
工業活動によって価値が創出されていますが、これは自然を消費しているだけに過ぎません。
その結果、格差が高進します。
一方に過剰な財産を持った金銭的に豊かな人たちと私財を持てない金銭的にも貧困な人たちが発生します。
そこで2種類の贈与が発生します。
不足を解消するための贈与と過剰を放出するための贈与です。
たとえば、社会福祉施策や環境保護活動は前者の例であり、祭礼などの大盤振る舞いや有名なトポラッチは後者の例です。
企業のいわゆる「社会貢献活動」も後者と言っていいでしょう。
それらはいずれも社会体制を維持していくための問題発生を回避するための活動です。
不足の状況を克服するために、近代は「ソリューション」を理念においています。
しかし、ソリューションには2つのジレンマが内在しています。
まず、ひとつの問題を解決すれば、別の問題が発生するというジレンマです。
もうひとつは、解決すべき問題を自らが作り出していこうとするモチィベーションが生まれるというジレンマ(近代産業のジレンマ)です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm
不足の時代から過剰の時代へと地平が開けてきたいま、大切なのは、ソリューションの先にあるクリエーションです。
そのクリエーションをベースにした仕組みが、経済にも求められているように思います。
そうした経済が模索されだしています。
ケアリングエコノミーや分かち合いの経済です。
あるいは「産業を基軸にした経済」ではなく「生活を基軸にした経済」です。
そうした視点に立って、贈与を考えると、クリエーション型贈与が構想されます。
価値を創造する贈与と言ってもいいですが、問題はそれが「どんな価値」を創りだすのか、です。
生み出す価値は「ささえあうつながり」「分かち合いの関係」など、新しい経済や社会の仕組みの核となるものだろうと思います。
ちなみに、これまでのソリューション型贈与は、人の関係を階層化しがちです。
そもそも「贈与」という言葉が、「贈って与える」という上下構造を内在させています。
私は贈与に変わるべき言葉として、日本語ではないのですが、「ケア」という言葉をいまは使っています。
生物としてはひ弱な人類が生き延びてきたのは、お互いに支えあってきたからだという考えが広がっています。
アリストテレスは「人間は共同体的動物である」と言っています。
共同体の基礎にあるのは、相互に贈与しあう分かち合いの原理です。
ケアの心、支えあい分かち合う志向(友愛)は、本来私たちには埋め込まれているように思います。
その原点に立って、経済や社会を改めて見直していくことが必要なのではないかと思います。
大きな枠組みとして取り組むには、あまりに大きすぎるテーマですが、まずは自分でできる身のまわりから始めることは、そう難しいことではありません。
そういう人が増えていけば、100年もすれば世界は変わるでしょう。
昨日、鳩山由紀夫さんが政治から引退するという報道がありました。
鳩山さんの「友愛政治」に大きく期待したのですが、それは時代からは一蹴されてしまいました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/06/post-56c3.html
友愛の理念を語ってきて、帰宅してのこのニュースにはやりきれなさを感じました。
友愛への思いを込めて、少し長々と書いてしまいました。
■各論の議論への違和感(2012年11月22日)
会社時代、上司から指摘されたことがあります。
法学部出身の人は限られた条件を前提に結論を出しすぎると。
その人は経済学部出身でしたが、その指摘はいつも心に残っています。
それとはちょっと違うのですが、最近、気になる事があります。
各論としては正しいとしても、少し視野を広げて他の条件を加味すると途端におかしくなってしまう議論が多いことです。
先ほど、テレビで国会議員定数の話をしていました。
日本は国民から直接選ばれた国会議員が首相を選び国政を担うのだから、議員を減らしすぎるべきではないという主旨の発言をする議員がいました。
この発言は私もとても重要なポイントだと思っています。
しかし、その一方で、ではそうした多様な意見を持つ国会議員が選ばれたとして、彼らはその多様さを国会で発揮できるのか、です。
野田首相は党員である限り、党の決定に従ってもらわないといけないといい、選挙での公認の条件として、党の方針に違反しないという誓約書まで取ろうとしています。
それに署名できないとして、鳩山元首相は政界を引退しました。
「純化」といったナチスのような言葉さえ使われだしています。
そうした動きに、鹿野さんは独裁だと批判していますが、党員であれば党の決定に従うのは当然だと思う人は少なくないでしょう。
国民の多用な意見を代表させるために、議員の定数は多いほうがいい。
組織としての党の決定には党員は従うべきだ。
この2つは、それぞれとしては納得できる話ではあります。
しかし、それを合わせるとどうでしょうか。
そこからさまざまな問題が浮かび上がってきます。
大切な前提が抜けていることもわかります。
党議拘束が認められるとしたら、それは討議決定のために全党員が参加した十分な議論を踏まえて、党員たちがみんなで決定する必要があります。
いまの野田政権が、それをしているとは思えません。
蛇足的に言えば、選挙の時のマニフェストは立候補者全員の合意は不要です。
党が掲げたマニフェストに合意した人が、その党から立候補して議員になるからです。
しかし、鳩山民主党の元で当選したにもかかわらず、岡田さんや野田さんはその党議を無視しました。
私にはまったく信じ難いことです。信義のない人間に政治はしてほしくないです。
そのことをしっかりと言及しないマスコミにも愛想がつきますが。
こうしたおかしな各論的正論を、野田首相は演説で多用します。
そこだけ聞いていると納得してしまいがちです。
消費税増税も原発もTPPも、すべてそうした各論的議論ばかりが横行しています。
その繰り返しで、日本はいま壊れつつあるように思います。
対抗策はひとつです。
自らの生活の次元でしっかりと考えていくことです。
生活は各論では完結できません。
だから当然に全体的で時間軸も視野に入れた判断が要求されます。
男性と女性の違いは、生活から発想するか、各論的な個別課題から発想するかだと思います。
男性も生活をしっかりと踏まえなければいけません。
先週、お会いしたメーカーズシャツ鎌倉会長の貞末さんから、自分の着る服くらいは自分で買わないといけないといわれました。
まったくそう思います。
この週末にはシャツを買いに行こうと思っています。
■誰に投票すればいいか(2012年11月23日)
新しい党の統合が進んでいます。
それへの批判も多いですが、私はとてもいい動きだと思います。
もちろん新しい政党が出来ることも含めてです。
無党派層という言葉もあいまいな言葉ですが、そこには政治への無関心層(そのなかにも現在の政治への失望層と政治そのものへの無関心層があると思います)と支持政党が見つからない層がいるはずです。
後者にとっては、新しい政党の出現は望ましいはずです。
そうでないとしたら、ただ単に「無党派」だと言い訳しているだけの話です。
そういう人も多いと思いますが、それは「無党派層」であることが恥だと思われなくなっているからです。
無党派層という言葉を肯定的に使っているマスコミの責任です。
私は、恥じらいもなく自ら「無党派」「無宗教」を口にする人は信頼しません。
テレビでは、これだけたくさんの政党があるとどこに投票していいかわからないという人が多いです。
私も一時、そう思ったこともあります。
たくさんの種類のテレビがあって選ぶのに苦労したことがあるのを思い出したからです。
しかし、テレビと議員選挙とは違うことに気づきました。当然のことですが。
それに気づかなかったこと自体、世間の常識に呪縛されていたことを反省しました。
政党は多ければ多いほど投票すべき党が見つけやすくなる、私の考えからすれば、当然そう考えるべきでした。
そもそも政党には2つの意味があります。
投票者には誰に投票するかという思考を縮減するために、また選ばれた議員は政策決定の思考を縮減するために、存在します。
直接民主主義の実現に必要な膨大なエネルギーを縮減するための仕組みが代議制ですが、さらにその代議制が多くの「縮減の仕組み」を組み込んできていますが、そのひとつが政党です。
現在のようにITが発達し、コンピュータ処理能力が進化した段階では、そうした縮減機構は不要になっているのですが、できた機構はそれから利益を受ける人たちによって維持されるわけです。
少し横道にずれてしまいました。話を戻します。
私たちは、政党に投票するのが選挙だと思いがちです。
それはマスコミがそう仕向けているからでもあり、政治評論家やテレビに登場するコメンテーターなる人たちがそう思っているからだからです。
彼らは決して、一人称自動詞では語りません。
私たちは、政党に投票すべきではなく、人や政策に投票すべきです。
現在のように複雑な社会状況においては、すべての問題に賛成できる政党はないのが普通です。
しかし、もし自分が大事にしているものがあるとすれば(誠実に生きていれば、当然、それがあります)、その考えに合う主張をしている人に投票すればいいのです。
私のとってはきわめて簡単で明確なことです。
私は現在の最大の関心事は、原発ですから、脱原発を主張しているところに投票します。
政党が掲げる主張はただ選挙受けのためではないかと言う人がいます。
なかにはテレビで、新しい政党に関して公然とそう語る人もいますが、それは名誉毀損訴訟に該当する発言です。
そういう人に限って、マニフェストをないがしろにした野田首相や岡田副総理は批判しませんし、自民党は民主党に関しては、その種の発現はしません。
人を信ずるところから社会も政治も始まります。
主張を信じなければ何を信ずるのでしょうか。
権力の座にある人ほど、あるいは時代の流れに乗っている人ほど、主張は実現しやすいことは間違いありません。
しかし、新しい動きや変革は、主張を実現する力がなくて挫折しやすい人の主張から始まるのです。
私は、その意味で負け戦が好きなのですが。
最初はみんな負けるのです。その役割を引き受ける人がいなければ、社会は変わりません。
長々と書いてしまいましたが、どうも私自身が感情に流されてしまいがちで肝心なところに行き着きません。
今日はとても怒りを感じています。
それにしても昨今の政局報道に群がる「有識者」の発言はひどいものが多すぎます。
それに惑わされないように、自分が一番大事にしている課題ひとつに絞り込んで、ぶれない投票をしたいと思います。
政党が乱立し、再編成されている過程は、そうした自分の考えを整理するのに有益な材料をたくさん与えてくれます。
政治を変えていくのは、議員やマスコミではなく、生活者であり私(自分)なのです。
そう考えれば、投票先は簡単に決まるはずです。
もし決まらなければ、それは自分が誠実に生きていない証拠です。
生き方を変えるのがいいでしょう。
みんな自らの生活を守るために大変かもしれません。
しかし、その生活の基盤である社会がいま大きな岐路にある。
それを忘れてはなりません。
■まさかの胃腸炎(2012年11月30日)
まさかの感冒性胃腸炎になってしまいました。
26日の深夜に腹痛が始まり、次第にそれが強くなって、明け方にはひどい下痢と嘔吐が襲ってきました。
これまで体験したことのない症状でした。
食あたりかと思ったのですが、同じものを食べている娘は大丈夫ですので、食あたりではありません。
悪性の感冒かと思い、熱を計ったら36.8度とほぼ平熱です。
正露丸を飲んで横になっているうちに、少し腹痛は治まり、嘔吐感もなくなりました。
やることもないので、フェイスブックでアドバイスを頼んだら、いろんな人からメッセージが届きました。
http://www.facebook.com/cwsosamu?ref=tn_tnmn#!/cwsosamu/posts/2537636816117
医者に行くのがいいというお勧めが多かったのは少し心外でしたが。
食欲は皆無。
実は娘も気管支炎性の風邪でダウンしていますので、親子二人でダウンしていました。
お昼づくりに、下の娘夫婦が心配してやってきました。
峰行がお医者さんに行ったほうがいいと勧めるのを断っていたのですが、彼らが帰る時間になって突然に再び嘔吐してしまいました。
それで結局、辻中胃腸病院に運ばれてしまい、そこで診察。
念のために体温を計ったら38度でした。
急に元気が萎えてしまいました。
人間は暗示にかかりやすいものです。
結局、感冒性の胃腸炎だったのですが、しばらくかかりますよといわれました。
帰宅後も食欲はおろか、気力が出ません。
そして、そんな状況が4日目になる今日まで続いています。
それにしても下痢と胃腸炎はかなりつらいものです。
私は初めての体験ですが、ともかく思考力がないばかりか、なんとなく自分の心身に違和感があるのです。
この数か月、心身ともに少し疲れ気味でした。
それがわっと出てきたのかもしれません。
身体が健全に作動している証拠であり、まあ健康な証拠でもあります。
そんなわけでしばらくブログを休んでいましたが、今日から再開します。
毎日、読んでくださる方にはご心配をおかけしたかもしれませんが、申し訳ありませんでした。
■稼動ゼロと脱原発の違い(2012年11月30日)
選挙を目指して各党の政策綱領が発表されだしています。
マスコミでの取り上げ方は、どうも問題の捉え方が整理されていないように思えてなりません。
党首の頭も整理されていないようにも感じます。
たとえば、稼働率ゼロと脱原発が同じ時限で語られるのもおかしな話です。
一方は手続きの話であり、一方は理念の話です。
この点でまともな発言をしている人は、減税日本の代表だった河村さんだけです。
大切なのは稼働率の話ではなく、理念の話です。
稼働率ゼロを目指す人が海外への原発輸出を推進しているのを見ればわかるように、それは国内だけの政治的配慮でしかありません。
フェイドアウトなどと馬鹿な言葉を使ってごまかすのも論外です。
大切なことはただひとつ、原発を許容するかどうかです。
その視点で整理すれば、さまざまな意見はわかりやすく整理できます。
テレビでの原発論議で、そうした視点で話を進行する人は一人もいません。
要は問題の本質を見ようとしていないのです。
消費税もTPPも同じことが言えます。
問題の本質を明らかにすれば、議論は簡単な構造に持っていけます。
そして、そこの原点をしっかりと決めれば、その方法論は山のように出てきます。
しかし原点をしっかりと見極めないで議論していては際限なく小田原評定になるでしょう。
マスコミは、意図してかどうかはわかりませんが、小田原表情が好きなのです。
小沢さんの存在にも、このことは言えるように思います。
■福島の現実(2012年11月30日)
胃腸炎になる前日、福島の現実の話を聞く機会がありました。
放射線計を1年間、身につけて生活してきた立柳さんをゲストにしてサロンを湯島で開いたのです。
私の呼びかけの不手際もあって、参加者が少なかったのが実に残念ですが、参加してくださった方たちは一様に大きなショックを受けたと思います。
マスコミでの現地報道がいかに真実とかけ離れたものかは、福島の人と直接お話すればよくわかりますが、今回はそれをデータでしっかりと示してくれたのです。
ネットでも情報は流れていますが、やはり実際の体験者からのお話は衝撃的で説得力があります。
たまたま今回のサロンには、お2人の大学教授も参加してくれました。
私のところに来てくれるような大学教授ですから、いずれも批判精神旺盛で行動的な人ですが、それでも話は衝撃的だったようです。
立柳さんは福島での生活の拠点を大学の自分の研究室に置いています。
それはコンクリートに囲まれた部屋を外気遮断しておくのが一番被爆量を減らせることがわかったからです。
そういう生活環境を整えれば、東京の生活拠点とほぼ同じ被爆量に抑えられるのだそうです。
しかし、そんなことをしている人はほとんどおらず、多くの人は外気が入り込む家で過ごしています。
せめて保育園をコンクリート張りにしてやるだけで子供の被爆は減らせるのです。
しかし基本的には福島の子供たちは、一日も早く、県外に脱出させるべきだと立柳さんは言います。
脱出できる人はすでに出ているのも事実ですが、脱出を支援する仕組みをもっとつくる必要があるというのです。
そのためには親の働く場が不可欠だと立柳さんは言います。
前にも書きましたが、いま、福島市と飯舘村の放射線汚染度はほぼ同じです。
一方は6500人の住民が申すんでいませんが、福島市の30万人を越える住民は今もすんでいます。
これをどう考えるべきでしょうか。
そこから問題の本質と政府の対応のすべてが見えてくるように思います。
生活体験を踏まえた立柳さんのお話をもっと多くの人に聞いてほしかったと、返す返すも残念です。
■経済成長と生活向上(2012年11月30日)
選挙の争点はいつの間にか、原発、消費税、TPPになってしまいましたが、政策に関しての国民の最大の関心は経済成長にあるとよく言われます。
そうした結果を示す世論調査結果も紹介されています。
また多くの政治家も、意経済成長がなければ何も解決できないとよく言います。
私はその言説に真っ向から反対です。
そもそも「経済成長」とは何かをわかっていない議論だからです。
国民の生活にとって、経済成長がいいはずなどあろうはずがありません。
なぜなら経済成長といった場合の、経済は「国民の生活からいかに収奪できるか」を意味しているからです。
かつて、経済が「経国済民」といわれた状況はもうありません。
いつか書こうと思いますが、「産業視点の経済」と「生活視点の経済」はまったく論理を別にします。
現在の経済はいうまでもなく「産業視点の経済」です。
「産業視点の経済」にとっての関心は「経済規模の拡大」、つまり「経済成長」です。
しかし、その意味での経済成長は生活の豊かさには無縁です。
たしかに私たちは、「もはや戦後ではない」と経済白書が書いた1956年から1990年ごろまで、経済成長と生活の豊かさの向上を並行して体験してきました。
そのため「経済成長」と「生活向上」とを重ねて考えがちですが、それは正しくありません。
たまたま両者が並んで進行しただけの話なのです。
日本で、いわゆる「公害」が話題になりだしたのは、1960年代からですが、その動きにすでに「経済成長」と「生活向上」の関係はしっかりと示唆されていたはずなのですが、私がそれに気づいたのは、1970年代半ばを過ぎてからでした。
おそらく多くの人も同じでしょう。
多くの人はなんとなく経済成長が生活を豊かにすると考え続けました。
学校でもそう教えていたはずです。
その結果が今の状況です。
にもかかわらず多くの人は今もなお「経済成長」に期待を寄せているわけです。
昨今の経済成長は金銭市場の大きさで測定されます。
たとえば、私も兄もそれぞれが所有する持ち家に住んでいますが、それぞれ家を変えて、賃借契約を結べば、金銭のやり取りが発生し、金銭市場は拡大し、経済成長に寄与します。
しかし、そこから何か新しい価値が生まれるわけではありません。
経済成長とはそういうものです。
市場規模を拡大する経済成長を実現するポイントは、技術革新でも生産力増強でもありません。
ケインズが見抜いたように、需要の増大です。
そのためには、ドラッカーが提唱したように顧客の創造が必要です。
経済成長には顧客創造が不可欠なのです。
しかし顧客になったところで、生活が豊かになるわけではありません。
豊かになったような気分を味わえるかもしれませんが、それで失うものも忘れてはいけません。
ケインズもドラッカーも、生活の人ではないのです。
私は「顧客的人生」は送りたくありませんから、他者を顧客にしようなどとは思いません。
自らが望まないものを他者に押し付けるのは、私の信条に反します。
経済成長神話から、そろそろ抜け出なければいけません。
産業のための仕事ではない、生活のための仕事を探さなければいけません。
一昨日、茨城県の小美玉市の人たちと会いましたが、そこでは年収100万円もあれば、そして豊かに生きる意欲があれば、実に豊かな生活ができるそうです。
たぶん50万円でも大丈夫かもしれません。
経済成長などしなくても、豊かさは手に入るのです。
経済のパラダイムシフトが求められていると同様、私たちの生き方の見直しが求められているような気がします。
経済成長は生活向上とは別のものであると考えると、きっと生き方も変わっていくでしょう。
そう考えれば、いま話題の選挙の争点の答は明確です。
■選挙がなるとかかってくる電話に辟易します(2012年12月4日)
選挙活動が始まりました。
選挙が始まると決まってかかってくるのが立候補者の後援会からの電話です。
私はいずれの人の後援会にも入っていませんが、必ずかかってくるのが2つの政党からです。
一番不愉快なのは、前にも書きましたが、投票日にかかってくる電話です。
せっかくその人に投票する予定だったのに、電話が当日かかってきたためにほかの人に投票したこともあります。
私は電話が嫌いなのです。
その同じ政党の後援会の人から、早速電話がありました。
それで、逆効果ではありませんかと話しました。
それから話が広がり、ついに20分ほど話してしまいました。
その電話の主は65歳の女性で、1年半前からその当の活動に共感して後援会活動などに参加しているようです。
投票はともかく講演会に来てほしいと誘われました。
選挙時でなければ考えてもいいのですが、そういう集まりに行って、後悔しなかったことはまずありません。
虚しい言葉の乱立だけです。
ほとんどが現場での体験がないのでしょう。
選挙時に電話をかけることは、選挙活動の常套手段だといわれています。
私も以前、選挙活動に参加しましたが、駅立ち、ポスティング、電話がけが活動の基本だとされていました。
私は、そうした活動には批判的ですので、新しい活動方針を提案しましたが、結局は従来とおりの活動が主流で行われました。
私自身は、そうした選挙活動にはどうしてもなじめず、途中で意欲を失ってしまいました。
まさに「選挙屋」といわれるプロの人ががんばっていましたが、私には逆効果のように思えて仕方がありません。
もう従来型の選挙活動には関わるまいと決めました。
電話をもらって考えを整理できる人もいるかもしれません。
電話によって選挙への関心を高めることができるかもしれません。
しかし、私には生活の中にこちらの都合も考えずに電話を一方的にかけてくる人の神経が理解できません。
セールスの電話も少なくありませんが、あれとどう違うのか。
選挙に立候補した人には一度考えてほしいと思っています。
知らない人に電話をかけるのは、そう安直にすべきことではありません。
私の考えは特殊かもしれませんが。
■原発をほんとになくしたいと考えている政党(2012年12月4日)
選挙が始まりました。
争点が3つか5つとか言われていますが、私にとっての争点はたった一つです。
原発を許容するかどうかです。
人にはそれぞれ考えがありますから、原発をどう考えるかは人によって違うでしょうが、福島の現実を身近に体験すれば、原発を強要するなどと考える人はいないだろうと思っていました。
しかし日本国民のほとんどはまだどうも原発維持派のようです。
そうおもうとやりきれない気持ちです。
たぶんこれを読んでいるほとんどの人が、私から見れば、原発支持者でしょう。
なぜ私がそう思うかといえば、相変わらず民主党や自民党や維新の会を支持する人が多いからです。
彼らは間違いなく原発支持派です。
稼働率議論をしていることが、それを証明しています。
あるいは原発を輸出していることにも、それは明らかです。
原発を許容しないのであれば、輸出すべきではありませんし、許容できないものと20年も付き合うなどと言うおかしな結論にはなりません。
稼働率議論をしている人たちは、矛盾だらけの議論を展開していますが、ほとんどの国民とほぼすべてのテレビ人は原発支持でしょうから、その矛盾には目をつぶっています。
維新の会代表の石原さんは、日本の核武装まで示唆しながら原発必要論を公言していますが、その党のスローガンにさえ原発フェードダウンなどと書かれています。
茶番劇と言うか、どうしようもないほどの無責任さです。
橋本さんは、言うまでもなく私から見れば、原発支持派です。
共産党は原発反対の立場を明確にしています。
今日も共産党の人と話し合いましたが、その思いは嘘ではないでしょうが、実際には原発を無くそうなどとは考えていないでしょう。
ほぼ300選挙区に共産党は立候補者を立てています。
そのほとんどは当選しません。
しかし当選しないとしても選挙区の脱原発派の票を分散させる効果は発揮します。
市民グループが、共産党に働きかけて、脱原発派の人を結集するために候補者の調整を検討してほしいと呼びかけても、検討しようとさえしていないのが現実です。
共産党は、党利党略のために反原発を唱えているだけで、むしろ反原発の動きを阻害しています。
反原発に限りませんが、共産党の主張は正しくとも、実践面では逆の働きをすることが、少なくありません。
だから共産党も実際には反原発とはいえません。
実際に反原発の政党はどこでしょうか。
私には4つしかない気がします。
一人で立候補した山本太郎もいれれば、5つかもしれません。
ちなみに、選挙の争点が3つとか5つとか言いはやしているマスコミは、反原発を封じ込もうとしているとしか思えません。
テレビを見ているとやりきれない気分になるので、最近は見ないようにしていますが、どうしてみんな原発の呪縛から抜けられないのでしょうか。
■「非武装による平和」と「脱原発による平和」を捨てたくはありません(2012年12月8日)
フェイスブックには書いたのですが、改めてここでも書くことにします。
サバティカル休暇でロンドンで1年間過ごしていた知り合いの大学教授Oさんから聞いた話です。
Oさんは滞英中、日本の報道には触れず、現地の報道だけを見ていたそうですが、そこには日本の話題はほとんど出てこなかったそうです。
しかし、滞在中に一度だけ大きく話題になったことがあったそうです。
それは今週、日本の原発がすべて止まった時です。
ドイツはすぐに脱原発を決めましたが、しかし原発による電力をその後も使っています。
しかし、日本は原発によるエネルギーをすべてやめたわけですから、日本よりも原発に対する関心の強いヨーロッパでは、話題になるのは当然かもしれません。
日本では、すべての原発が止まっても大丈夫だということが当時あまり強く認識されず、相変わらず原発依存3割の認識でみんな考えていましたが(今もなぜかそうなっています)、その意味はとても大きいことをイギリスあるいはヨーロッパの知識人は認識していたわけです。
日本の「知識人」とはまったく違います。
Oさんによれば、当時、日本への評価や期待がとても高まっていたそうです。
憲法9条の平和宣言に続いての、第2の平和宣言というほどの、大きなインパクトがあったのかもしれません。
日本の国際的なステータスや発言力を高める絶好の機会だったのに、なぜすぐに大飯原発を再稼動してしまったのかとOさんは嘆いていました。
日本は絶好の機会を逃したわけです。
そういう情報を大きく流してくれたマスコミは、わたしの記憶ではなかったと思います。
日本のマスコミは、原発推進の政財界の中枢的な一画を担っていますから、当然だったかもしれません。
日本はいま、世界にとっては大きな未来への指針である、「非武装による平和」と「脱原発による平和」の2つの道を捨てようとしています。
自民党は国防軍(軍隊はすべて国防軍です)をつくることで、次の世代の徴兵を考えています。そのために、教育基本法もすでに変えてしまいました。
これも戦争好きなマスコミはあまり問題にすることはありませんでした。
民主党は原発輸出を進め、一時的な原発稼働率ゼロのお題目のもとに原発推進を目指しています。
そして国民の多くは、なぜかそうした政党を支持し、自らの子どもたちを戦争や被曝に向かわせようとしています。
私には、いまや日本は神に滅ぼされるソドムやゴモラになってしまったような気がします。
昨夜の地震は、その予兆ではないかと思ったほどです。
マスコミやテレビのコメンテーターたちの虚言に惑わされてはいけません。
今度の選挙くらい、論点が明確で、投票者を決めやすい選挙はありません。
にもかかわらず、マスコミは「選択が難しい」とはやし立てています。
お金まみれの彼らには、確かに選択は難しいでしょう。
しかし、生活の視点に立てば、選択はいとも簡単です。
経済よりも防衛よりも、生命をまもることです。
現世代の利便性ではなく、子どもたちの平安を願うことです。
子どもを思う親であれば、投票すべき相手は明確にわかるはずです。
それを混乱させるような、テレビの政治番組に騙されてはいけません。
子どもを戦争に行かせたくないなら、子どもを被曝させたくないなら、自民党や民主党、さらには維新の会に投票する気にはならないはずです。
これを書いている最中に、電話の無作為アンケートがかかってきました。
今度の選挙ではしっかりと原発反対に一票を投じます。
私が真剣に反原発に取り組んでいると思っている政党は、未来の党、新党日本、新党大地、社民党、それに山本太郎さんだけです。
共産党は理念としては反原発ですが、実際には原発推進派に加担していると思います。大義の前に小自にこだわっているからです。
■「かえるの王様」選挙(2012年12月9日)
前回の選挙は、よく言われるように「政権交代」が争点でした。
多くの人は「政策の内容」ではなく「政権の交替」に関心があったのです。
政治のことはよくわからないが(考える努力はしたくないが)、政権を変えたら良くなるかもしれないと、多くの人は考えたわけです。
今度の選挙も、同じような雰囲気で多くの人が捉えているような気がしてきました。
少なくとも、テレビの選挙関係の報道からはそういう雰囲気を感じます。
しかし、それでいいのかどうか。+
イソップの「王様を求める蛙」の話を思い出します。
それはこんな話です。
昔々大きな沼がありました。
そこにはたくさんの蛙が自由に暮らしていました。
ところが、蛙たちは自分たちには支配者がいないのに気づき、神さまに「自分たちの王様がほしい」と頼みました。
神さまは、彼等が馬鹿なのを見てとって、一本の木片を沼の中に落してやりました。
蛙たちは初めはその音に肝をつぶして、沼の底へもぐり込みました。
しかし、木が動くものではないのに気づくと、その木の上にあがってそこに坐りこむほどそれを馬鹿にするようになりました。
そしてこんなものを王さまに戴くことは恥かしいと思い出し、再び神さまに、もっとしっかりした王様がほしいと嘆願しました。
蛙たちの身勝手さに腹を立てた神さまは、水蛇を彼等の王様にしてやりました。
そして、蛙たちはみんな水蛇に食べられてしまいました。
沼は平和になりました。
日本にも平和は来るのでしょうか。
■民主党という幻想(2012年12月9日)
まだ選挙の軸は自民党と民主党の二大政党を前提に議論されています。
第三極という言葉が、それを示しています。
しかし、民主党は政党でしょうか。
もう瓦解した瓦礫の集まりではないかと思います。
政見放送を聞いているとそれがよくわかります。
原発に関してもTPPに関しても、全く反対の意見を同じ民主党員が演説しています。
まあ自民党も似たようなことはありますが、ここまで酷くはありません。
日曜日の時事放談で浜矩子さんが、これまでの枠組みで考えていてはいけないと何回も発言していました。
全く同感です。
私が知る限り、パラダイムシフトして発想している人は浜さんと藻谷さんくらいです。
その他のコメンテーターや学者たちは、みんな従来の発想の延長です。
12党の代表では、新党日本の田中康夫代表だけが、枠組みの呪縛を抜けています。
しかし、そのためにテレビでの討論会では浮いていて、司会者からは無視されがちです。
それにしても瓦礫になった政党の残渣が政権与党と言う現実には身震いがします。
それにしても、野田首相や安倍さんの演説はヒトラーの演説を思いださせます。
予想以上に、事態は深刻なのかもしれません。
■支持政党なしなどといって逃げるのはやめましょう(2012年12月10日)
今回の衆議院選挙は、私たちの未来を決める上でとても重要な意味を持っていると思っていますが、どうも多くの人はそう思っていないようです。
今もって、支持政党なしとか、誰に投票していいかわからないなどという人が半数もいるとは信じ難い話です。
みんなまじめに考えていないからです。
無党派層を自称する人を私は信頼しません。
自らを無宗教だなどといって、恥らうことのない人を信頼しないのと同じです。
政治と宗教は、人間にとって一番大事なことだと、私は思っているからです。
真面目に生きていたら、政治や宗教と無縁であるはずはありません。
たしかに、自分にとってすべてに納得できる政党などないでしょう。
しかしきちんとした自らの軸があれば、選ぶべき政党は必ず見えてきます。
支持政党がないというのは、自分の怠慢さ以外の何ものでもありません。
恥ずべきことだと思います。
原発よりも自分の会社の業績や不満の憂さ晴らしに関心がある人が多いような気がしてなりません。
私には信じられない話ですが、お金にしか依存できない人間に見事に育てられてしまっているようです。
選挙期間中くらいは、同僚と酒など飲みに行かず、また残業などはせずに、早く帰宅して政見放送や政治番組を観るべきです。
できれば家族や友人と政治問題を語り合うべきです。
もちろん政治番組は批判的に観なければいけませんが、そこに登場する政治家の発言を聴いたり見たりしていると、本性はかなりつかめます。
友人知人と話せば、みずからの視野の狭さに気づくはずです。
日本の現状はかなりの衆愚政治に堕していると私は感じていますが、このままだと日本のナチ化が進みかねません。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。
■敦賀原発活断層問題とロック・イン現象(2012年12月11日)
技術や経済の世界では、ロック・イン現象という事がよく見られます。
一度、ある状況が生まれると、その状況をベースにしてさまざまな展開が広がっていくので、最初の状況に問題が発見されても、なかなかそこから抜け出せなくというのがロック・イン現象です。
有名な話ではタイプライターの文字配列の事例があります。
初期の機械式タイプライターでは、高速に打鍵すると印字ハンマーが絡まってしまうために、連続打鍵されやすい文字をあえて離れた位置に配置したと言われていますが、その後、機械式でなくなった後も、配列は変わらなかったという話です。
こんな例であれば、そう大きな問題にはなりませんが、原発の問題になるとそうはいきません。
今の日本の社会は、原発依存度が大きくなっています。
そのため、脱原発したら雇用がなくなるとかエネルギーが不足するとか、電力コストが高くなるといわれます。
こうした発想は、まさにロック・インされた発想です。
重要なことがロック・インされると、そのシステムは進化できなくなります。
まさに今の日本は、そうした状況にあるように思います。
昨日開かれた原子力規制委員会の専門家調査団による評価会で、敦賀原発の敷地内の断層が「活断層」との見解が出されました。
それに対して、原発にロック・インされている日本原子力発電の経営陣やその関係者である技術者は大きな戸惑いとともに、反発を示しています。
敦賀市長も異論を唱えています。
ロック・インされた人には風景は違って見えるのは当然ですが、同じデータを見ても評価は全く異なってしまうわけです。
しかし、原子力規制委員会の田中委員長は、見事と言っていいほど、評価を変えています。
私は、そこに大きな不安を感じます。
田中さんは、これまではどう考えていたのでしょうか。
彼がにわかに、ロック・インの呪縛から自由になったとは思えませんが、もしかしたらロック・インの仕方が違っていたのかもしれません。
先日読んだ松本三和夫さんの「知の失敗と社会」(岩波書店)に、とても納得できる文章がありました。ちょっと長いですが、引用させてもらいます。
科学技術に関する政策をつくるという仕事には、本来の仕事で忙殺されていない科学者、技術者も含む学識経験者(ないし有識者)がかかわることが多い。
科学技術に関する政策の立案、実行には実のところ高度の専門的判断が要求されるにもかかわらず、そのような判断を体現する目利きが活用されることなく、政策の立案、実行の過程がもっぱら関係主体による利害調整の過程となる傾きにある。
とても示唆に富んでいる指摘です。
私は、田中委員長をまったく信頼できずにいます。
■ナチスの時代に向かいそうで心配です(2012年12月13日)
友人の田中弥生さんが「宣戦布告の書」を書きました。
書名は「ドラッカー2020年の日本人への「預言」」(集英社)です。
今回の選挙の前に、そのメッセージのことをきちんと書こうと思いながら、今日になってしまいました。
しかし、明日は投票日。
とりあえず、その本の一部を紹介させてもらいます。
政治を本質的に変えるとは、首相の首を挿げ替えることでも、政権交代でも、政界再編でもなく、有権者の当事者意識と責任感がどこまで育ち、政治にプレッシャーを与えることができるかということなのです。有権者の責任感と政策をみる眼が育まれなければ、政治に緊張感を与えることができず、政治の質は低下してゆくのです。
今回の選挙の結果は、おそらく日本の未来に大きな影響を与えるでしょう。
テレビで語っている人たちの影響を受けることなく、自らの心身で素直に考えて投票しなければいけません。
私の期待には沿わない方向に向かいそうな気配ですが、多くの人がそう願うのであれば、それもまた甘んじて受けなければいけません。
私が願う方向に向けて、私が頑張ってきたこともないので、その咎は受けなければいけません。
しかし、日本がナチスの時代に向かっているような気がしてなりません。
田中さんも、それを危惧しています。
仮に、そうだとしても、やはり一人でも多くの人に投票に行ってほしいものです。
私は明日、行けなくなるかもしれないので、今日、病院の空き時間に近くの市役所に事前投票に行ってきました。
多くの事前投票者がいたのに驚きました。
もしかしたら、みんな1日でも早く、政治を変えたいと思っているのかな、などと一瞬考えてしまいましたが、全国的には事前投票数は増えていないようです。
明日の結果を念じないわけには行きません。
ますます厭世観がつのりそうではありますが。
■会社と幸せ(2012年11月18日)
先月、「幸せ創造企業への道」をテーマにしたフォーラムのパネルディスカッションの司会をさせてもらいました。
最近よくテレビでも話題になっているメーカーズシャツ鎌倉の貞末さん、スワンベーカリーの海津さん、それに長野の中央タクシーの宇都宮さんと、3人の経営者に来てもらいました。
3人とも、まさに「幸せ創造経営」を実践している方たちです。
会社経営の目的は、関わる人に幸せになってもらうことだと考えているのです。
この人たちと話をしたら、そしてその会社の実態を知ったら、会社に対するイメージは間違いなく変わるでしょう。
しかし残念ながら、こうした企業は決して多くはありません。
そればかりか、むしろ企業の経営は金儲けが目的だと思っている人がなんと多いことか。
金儲けのために、自らの大事な人生を預けてしまう人の気持ちが、私には理解できませんが、なぜか経営の目的は金儲けではないという私の考えがおかしいといわれることが多いのです。
貞末さんに感動したことがあります。
貞末さんは、福島原発事故の後、福島の縫製工場への発注を増やし、しかも工賃を引き上げたのだそうです。
放射線汚染で福島で作られて商品への輸入拒否が海外で起こっていた時期です。
昨夜もテレビで貞末さんは「下請け」などと言う言葉は使えない、仲間だと話していました。
こうした貞末さんたちの実践は、もっと広く知られてほしいものです。
企業への不信感も少しは改善されるでしょう。
こうした企業の善行はたくさんあります。
経団連や同友会は、そうした活動をもっとしっかりと社会に知らせていくべきだと思いますが、そうした財界の中心にいる財界人たちの会社は、いずれも利益追求だけにしか関心はありませんから、そうした社会意識の強い会社はむしろ目の敵なのでしょう。
そうした企業の社員たちは、あまり幸せそうな顔をしていないような気もします。
自社の社員を幸せにできなくて、社会の問題に口を出すなといいたいです。
社員がみんな幸せな会社もあります。
長野の中央タクシーもすばらしい会社です。
長野に行ったら、ぜひ中央タクシーに乗ってみてください。
感動的なエピソードもたくさんあります。
スワンカフェは有名なので、説明するまでもないでしょう。
しかし驚いたことに、先日、大企業の経営幹部の皆さんの集まりで質問したら、ほとんどの人が名前さえ知りませんでした。
私は、企業関係者の人たちに新しい企業の動きについて話すこともありますが、あまりに情報基盤が違うので、これまで私の話は伝わっていなかったのかもしれないと最近ようやく気づきました。
どうも私は大きく社会から脱落してしまっているようです。
とてもうれしいことなのですが。
そういえば、最近ショックを受けたことがあります。
これも先日、あるビジネススクールでこれからの企業のあり方について話をさせてもらったのですが、後日、その受講者から、佐藤さんの話はほかの講義とは真反対のメッセージだったと言われたことです。
新しい思いを持った人たちが講師なので、私と同じベクトルだと確信していたため、ショックを受けました。
どうして相変わらずお金がこんなに大きな顔をしているのでしょうか。
住みにくい時代になりました。
明日からは、またもっと厭世観が強まると思いますが、壊れているのは政治だけではなく、企業も福祉も何もかものような気がします。
■今回の選挙の構図(2012年12月17日)
昨日の選挙結果は予想以上の自民党圧勝でした。
夕方の8時に結果報道が始まった途端に、自民圧勝が報じられ、テレビを見続ける気もなく、テレビを切って昨夜は読書でした。
そのことをフェイスブックに書いておいたら、今朝、それへの反応がたくさんありました。
同じようにテレビを切ってしまった人も何人かいました。
しかし、どうしてこんなことになったのか。
ある程度、想定していたことですが、ここまでとは思ってはいませんでした。
このブログでは何回か書きましたが、民主党はすでに瓦礫化していたにもかかわらず、マスコミは相変わらずの自民か民主かという二大政党構図を基本にしていましたから、政治のためには時間を割かない多くの日本国民は自民党に投票するか棄権したのだろうと思います。
自民党が勝ったのではなく、民主党が負けたのだという人が多いですが、その捉え方にこそ問題があるように思います。
今回の選挙の構図は、自民党や民主党(今の民主党は自民党の派閥的存在です)という従来型の政党に対する新しい政党による挑戦(言い換えれば二大政党制への挑戦)と捉えていますが、結局は新しい政党が自民党に負けたと考えています。
まだ機が熟していなかったのでしょうね。
というよりも、これまで10年かけてつくりあげてきた、小選挙区制と二大政党制という、実質的には一党支配構造体制が出来上がったということかもしれません。
それを壊すのは、政治の主導権を生活者に取り戻すことですが、あれほど盛り上がり持続している官邸前のデモのエネルギーはどうしてしまったのか。
どうも私は過大評価してしまっていたようです。
多くの国民は、やはり生活よりも経済、安らぎよりも利便さを選んだようです。
私には腐った根性のように思いますが、かくいう私も同じような存在なのでしょう。
なにやら気持ちが沈んでいますが、ある友人は、
「佐藤サン、新しい政治活動を始めたいと思っています。そのためにはこの結果は戦いやすい。頑張ります」
と書いてきてくれました。
たしかに、社会はそんなに簡単には変わりません。
60年スパンで考えろと昔、水俣の吉井市長に言われたことがあります。
それ以来、私もそう考えているのですが、今回の選挙にはかなり思いこみが強いのです。
せっかく脱原発によって日本が世界の平和に大きく寄与できる好機を、また失ってしまいました。
放射線汚染は、これからも続くでしょう。
そう思うと、なにか取り返しのつかない結果のような気がしています。
しかし、もっと長いスパンで考えなければいけないのでしょう。
新しい政治活動を始める友人を応援しようと思います。
それにしても、フェイスブックをみていると、こうしたこととは無関係な。平和の書き込みが多いです。
そのことに私は一番の驚きを感じています。
■現実をどう解釈するか(2012年12月18日)
今回の選挙結果に関するさまざまな分析結果などが出ていますが、いつも気になることがあります。
このブログでも何回か書いていますが、どこに視座を置いて現実をみるか、そしてどう問題を設定するかで、現実の捉え方はまったく違ってきます。
マスコミも多くの識者も、今回の選挙を「自民と民主の二大政党」のフレームで捉えていましたが、前にも書いたように、それはまったくの幻想でした。
民主党は、実はすでに解体され、野田総理を代表とする現在の民主党は、3年前の民主党ではありません。
3年前の民主党のコアバリューは、小沢さんと鳩山さんのマニフェストでした。
ですから、小沢さんが離党した時に、「元祖民主党」または「本家民主党」を名乗るべきだったのです。
残った民主党党員は、民主党という「権威」に依存した烏合の衆でしかありませんでした。
私はそういう認識で、今回の選挙で民主党は全くなくなるだろうと思っていましたから、50人を超える人が当選したことに、むしろ驚きを感じました。
「第3極」という呼び方も、二大政党の枠組みで考えている発想です。
石原さんが、「第3極」ではまずいと発言しましたが、全くその通りで、「第3極」を目指す政党は、私には存在価値を感じさせません。
「第3極」もまた、現実をゆがめる言葉の一つです。
今朝の東京新聞の一面の大見出しは、「自民 民意薄い圧勝」と書かれています。
今回の自民党圧勝は、民意を受けたものではないという人が多いですが、私は民意をしっかりと受けたものだと思っています。
たしかに、現在の小選挙区制度の元では、昨今の投機経済と同じく「レバレッジ効果」があるのですが、だからと言って、自民圧勝の結果を制度のせいにするのはおかしな話です。
この風潮もまた、昨今の風潮です。
悪いのはみんな制度のせいで、関係者は悪くない。
あれだけの悲惨な結果を起こした福島原発事故でさえ、政府の事故調査委員会は、そう言いのけました。
委員に名前を連ねている有名な人たちの小賢しさを呪いたくなります。
私の友人だったら、付き合いはやめるでしょう。
また言葉が走ってしまいました。これだから小人は困ります。反省。
今回の自民圧勝は、まさに民意そのものです。
口でなんと言おうと、みんな原発に懲りていないのです。
節電もしていなければ、浪費生活もやめていない。
政治家の横暴にも懲りていない。
官僚支配にもアメリカ従属にも、反対ではないのです。
そうでなければ、投票率もこんなに低いわけはないし、原発に反対なら、少しぐらいの脅しに乗ることなく自己主張したはずです。
自民圧勝をもたらしたのは、まさに私たちの民意なのです。
そこから考え出さなければ、現実は変わりません。
小賢しい議論はやめましょう。
多くの国民が、自民党を選び、決まらない政治よりも決められる政治を選んだのです。
時間をかけることの意味を忘れてしまったのです。
カエルたちと同じです。
カエルの分際で、小賢しい言い逃れはやめましょう。
ちなみに、私が取り組んでいるコムケア活動のシンボルは、ケアップくんというカエルですが、どうも私がモデルと言う話もあります。
私も典型的なカエル人なのかもしれません。
困ったものですが。
■東京新聞を購読してみて感じたこと(2012年12月24日)
また時評編を書かずにいます。
どうも書く気が出てきません。
困ったものです。
ならし運転に、まずは軽い話題からです。
東京新聞を購読してみました。
朝日新聞と比べると明らかに内容に違いがあります。
その主張や報道の視点は、たしかに馴染めます。
しかし、やはりどうも私には物足らなさがあります。
時代状況がむしろ見えにくくなってしまったような気がします。
なぜかというと、東京新聞の記事は「主張」が多いからです。
繰り返しますが、その主張はとても馴染めます。
また取り上げることも、朝日とは違い、新しい気づきを与えてくれることが多いです。
でも、どこか感覚的に違和感があります。
主張が多すぎる割には、事実の報道が少ないような気がするのです。
報道姿勢に違和感がある朝日新聞のほうが、私には講読する意味があると気づきました。
問題意識を刺激してくれると共に、主張ではない事実を提供してくれるからです。
1月からまた朝日新聞だけにしようと思います。
ちなみに、東京新聞がよかったのは、頁数が少なかったことです。
一番馴染めなかったのは、紙面のデザインでした。
■原発よりも景気という風潮(2012年12月25日)
今年の売れ筋のクリスマスケーキは、昨年よりも一回り大きなケーキだったそうです。
また来年のおせち料理セットも、今年のものよりもまた、一段と豪華になっているようです。
日本はますます贅沢な方向に動いているとしか思えませんが、その一方で、みんな「景気がよくなってほしい」といいます。
テレビで、ある有名人が、「景気がよくなるとは要するに給料が増えることだ」と繰り返し強調していましたが、みんなどこまで贅沢をしたいのでしょうか。
私は月額15万円強の年金で、豊かに暮らしています。
友人は、15万円ではやっていけないだろうといいますが、そんなことはありません。
冠婚葬祭などを別にすれば、十分やっていけます。
クリスマスケーキも娘の手づくりでしたが、美味しいケーキでしたし、おせちも娘たちがそれなりに用意してくれます。
会社を経営していますが、この10年ほど、会社から給与も報酬をもらったことはありません。
時に仕事をしてお金をもらうことはありますが、会社のオフィスを維持し活動を持続するために、すべてはつぎ込みます。
もちろんそれでも足りませんが、足りない部分は、不思議なことに友人知人がなにかと寄付してくれたりしています。
私はふだんは財布もお金もあまり持っていませんが、基本的にお金を使うことはありませんから、不便はしません。
時に、同情した友人が高い料理をご馳走してくれますが、高いからと言っておいしいものとは限らないなと思うだけです。
娘が、穴のあいた靴下ははかないようにというので仕方なく捨てますが、穴があいたからといって特に気にはなりません。
そんなふうに、実に質素に、そして日本の経済成長には寄与しない生き方をしていますが、貧しいと思ったことはありません。
そういう生活をしている立場から言えば、昨今の経済はもう十分に過剰消費です。
むしろ無駄が多すぎます。
仕事がないとみんな言いますが、私には山のように仕事があります。
もちろんお金をもらえるわけではありませんが、自らの人生は豊かになりますから、十分、報われています。
みんなが求めているのは、仕事ではなくて、お金なんだろうと私は思います。
今の人たちが、安全や生活よりも、お金を大事にしているのが、私には全く理解できません。
お金があっても、原発と共存するような生き方は、私には理解できないのですが、みんながそれがいいというのであれば仕方ありません。
わが家の庭の放射線汚染度はかなり高いですが、誰にも文句は言えません。
お金が好きな人たちの社会の、私も一員なのですから。
原発よりも景気という現在の風潮が理解できませんが、言い換えれば、景気よりも原発という私の考えは、多くに人には理解されないのでしょうね。
困ったものです。
■どうもすっきりしません(2012年12月27日)
どうもすっきりしません。
久しぶりにテレビの報道番組を見たら、安倍政権の原発政策や経済政策に批判的なコメンテーターやキャスターが多いようです。
従来型の公共投資重視の景気対策や原発推進への批判です。
すっきりしないのは、あなたたちがそれを支援したのでしょうという気がするからです。
どうせ言うなら選挙前からきちんと報道しておいてほしかったものです。
みんな詐欺師に見えてなりません。
いまや日本は詐欺大国ではないかと思ってしまいます。
私はホームページで、小泉政権時代にそれを予言していましたが、これほど社会を覆ってしまうとは思ってもいませんでした。
今回の選挙では日本の国民は増税と原発を選んだのですが、そういう状況を生み出したのは、私にはマスコミが大きく寄与したのだろうと思います。
それを非難はしませんが、選挙前と後で、報道姿勢を変えてほしくはありません。
キャスターもコメンテーターも、そもそも「中立的」などということはありえません。
体制になびいたり、権力を批判したりするだけが、その役割ではありません。
しっかりとした見識を持って、情報を選択し、評価すべきです。
いまになって「危機感」を唱えるのではなく、唱えるのであれば、選挙前にしっかりと主張するべきです。
目の前の雇用の危機をちらつかせながら、原発支持に持っていく、これまでのやり方と同じように、景気浮揚が大事だと思わせたのは、どこの誰でしょうか。
それにのった雇用者たちは惨めではありますが、それしか生きる術を学んでこなかったのだから仕方ありません。
しかし、生活に必要なのは景気ではなく、安全です。
どこで日本の国民は、命よりもお金が大切だと飼いならされてしまったのでしょうか。
そして電力の消費者になってしまったわけです。
空気や水よりも、電力とお金が大事になってしまった。
もうひとつすっきりしないのは、未来の党の分党への批判です。
小沢さんと嘉田さんは、選挙目当てで未来の党を結党したことがこれでわかったと、たとえば先ほど医師の鎌田實さんはテレビで語っていました。
鎌田實さんの発言を聴いていて、がっかりしてしまい、テレビを切りました。
ブルータス、おまえもか、です。
それのどこが悪いのか、選挙に勝つために大きな政策で共同戦線を組み、それで失敗したら組み替えるのは、何の問題もないと私には思えます。
それよりも、選挙に大勝した後、原発政策やTPP政策を変えたり、マニフェストを放棄したりするほうが、私には問題です。
鎌田さんは、そんなに原発が大事なのでしょうか。がっかりしました。
原発社会を変えようと、みんな頑張っていたのに、あるいは、いるのに、鎌田さんは原発推進を望んでいるのかとがっかりしました。
人はちょっとした言動に本音が現れます。これまでの信頼が崩れました。
私の判断基準が間違っているのでしょうか。
まあ、その可能性は大いにありますが。
しかし、最近は何もかもすっきりしません。
このブログの読者からも、悪口を浴びせられていますが、そんなことはどうでもいいのですが、事実がしっかりと報道されない日本の社会は実に居心地が悪いです。
30年以上前に予感していた「非情報化社会」になってしまいました。
ようやくテレビのニュースを見る気になったのですが、またしばらくはやめることにしました。
胃腸炎が再発すると良くありませんし。
しかし、これからのテレビは、ニュース以上に私には腹立たしい番組が続きそうです。
困ったものです。
■みんなそろって愚民化というかなしい現実(2012年12月29日)
気のせいでしょうか、大飯原発敷地内の断層を調べる原子力規制委員会の専門家チームの発言が変わりだしてきているように思います。
昨夜の官邸前の反原発デモには雨にも関わらず、多くの人たちが集まったようですが、大きな流れは反転してしまいそうで、かなしいです。
政府の原発推進論もかなり表面に出てきましたし、TPP参加の本音も出始めました。
安倍政権は急速に展開していく感じです。
安倍政権に与えられた使命は、「愚民化の推進」だと私は考えています。
前回の安倍政権で行った教育基本法の見直しは、私には恐ろしい予兆でしたが、その張本人がまた蘇ってくるとは思ってもいませんでした。
おぞましい話です。
教育はますます思考しない国民を増やしていくことになりかねません。
学校は教育の場ではなく、飼育の場になるのでしょうか。
しかも、本を読む人も少なくなり、そうした何も考えない人間同士の無意味な痴話話の交換が情報空間を覆いだしています。
実にかなしい話です。
ちなみに、「かなしい」とは、「愛(かな)し」という用法があったように、本来は後ろ向きの言葉ではなく、前に進む言葉だと私は捉えていますが、一応、ここでもそういう思いで使っています。蛇足ながら念のため。
愚民化は急速に進んでいます。
私がかなしまずにあわれむのは、いわゆる「知識人」やリーダーと言われる人たちの愚民化です。
しかし、リーダーが愚かであればそれに従う民が愚かになるのは当然です。
むかし「1億総中流化」という言葉がありましたが、まさにいまは「総愚民化」に向かっています。
すべての人が愚かになれば、愚かという概念はなくなります。
みんなで渡れば恐くないと同じく、みんな愚かになれば賢さが得られるのです。
愚かさが賢さに代置される時代になってきているのかもしれません。
口では原発反対を言い、投票では自民党に投票する。
その矛盾に気づかないほどの愚かさは、賢さにも通じています。
正義や真実を体現するのは、いつの時代も愚かな行為と言われていたことを考えると、愚民化ではなく相変わらずの愚民状態の維持が、安倍首相に与えられた使命かもしれません。
そういう強い役割がなければ、ゾンビのように彼が戻ってくるはずがありません。
天の力も、あまり期待できなくなりました。
人が個人としての主体的な判断力を持ち始めたのは、20世紀も、かなり後半になってからではないかと私は最近思いだしています。
そう考えなければ、歴史に書かれていることがどうしても理解できないからです。
インドで暴行された女性が自殺しました。
不謹慎な言い方ですが、愚民から抜け出す歴史の流れを感じて、少し安堵しています。
日本は、まさに逆行しだしているようには思いますが、
だから実にかなしいのですが。
■原発地域の断層議論の仕方(2012年12月29日)
大飯原発再稼動の前の短い期間でしたが、日本では原発稼動ゼロの期間がありました。
その時、イギリスでは大きな話題になり、日本の評価が高まっていたという話は以前書きましたが、安倍政権でまたもや原発推進国家に戻ってしまったことをイギリスの人たちはどう受け止めているでしょうか。
たしかに、昨日もそうですが、反原発デモは続いています。
しかし多くの国民は、原発推進を目指している自民党政権を選びました。
さらには、戦争を目指している安倍さんを選びました。
多くの母親たちは子どもたちをまた戦争に送りたいのでしょうか。
そんなはずはないと思いたいのですが、その確信を持てません。
戦争と原発は、いうまでもなく深くつながっています。
1万人のデモ参加者よりも、一人のテレビコメンテーターの言葉のほうが大きなパワーを持つ時代になっているのかもしれません。
そしてほとんどのテレビのコメンテーターは原発推進論者です。
うっかり聞いていると原発反対のように聞えますが、よく聴くと決してそうではない人が多いように思います。
大飯原発の下の断層が何なのかで議論が行われていますが、議論の仕方はとんでもなく馬鹿げています。
活断層であるともないとも言えなのは、当然のことです。
まともな科学者や技術者だったら、それくらいの知性はあるでしょう。
問題は、その可能性がどの程度あるかと言うことですが、少なくとも専門家と言われる人の間で議論が分かれるということは、可能性が高いということですから、その段階でまともな人なら稼動停止を決断すべきです。
青森の東通原発に関しても、馬鹿げた議論が展開されています。
専門家チームの全員一致の見解に、電力会社の経営者や技術者が異を唱えています。
専門家チームも馬鹿にされたものですが、これまでの活動や言動を考えれば、それも仕方がないでしょう。
要するに馬鹿だったのですから。
いずれの原発に関しても、馬鹿同士の議論が続いているのは、結局はお金がからんでいるからでしょう。
問題は、お金ではなく人のいのちなのだという認識は、昨今の専門家族にはほとんどありません。
そもそも学者は、御用学者として生まれた職業ですから、それもまた仕方がないのかもしれません。
しかし、そろそろ生活者の視点での学者が生まれてもいい時期です。
それ以前に、私たち生活者がもっと真剣に学ばなければいけません。
学ぶことも忘れた大人たちを見て、子どもたちはどう思っているのでしょうか。
■福島の原発被害者を支援する気が一挙に萎えてしまいました(2012年12月29日)
今日、福島に行った安倍首相に住民たちが笑顔で握手を求めているシーンがテレビで報道されていました。
この人たちは一体なんなのだろうかと唖然としました。
福島県民はまだ原発がほしいのでしょうか。
県知事だけかと思っていたら、福島県民も同じなのかとがっかりしました。
少しは他の地域の人も迷惑を考えてほしいものです。
こういう人たちが原発を推進してきたのでしょうね。
福島の原発被害者を支援する気が、一挙に萎えてしまいました。
実にかなしいシーンでした。
■政治家の無知さ加減への失望(2012年12月31日)
TPP参加に反対を表明し、結果的には民主党を離党した山田元農相は、私が比較的信頼していた政治家です。
ところが、最近、私のところにまわってきたメーリングリストで、とんでもない事実を知らされてしまいました。
それは鳩山グループの勉強会で、いま話題の孫崎さんが講演した時の記録映像の書き下ろし記事です。
いつの時点のものかよくわからないのですが、孫崎さんの「戦後史の正体」の本が席上、全員に配布されているようですので、少なくとも「戦後史の正体」が出版された後の集まりです。
と言うことは、今年の8月以降でしょうか。
いささか内容が意外すぎて、にわかには信じられないところもありますが、そこで山田元農相と孫崎さんのこんなやりとりが行われています。
山田:安保条約を詳しくは読んでないですけれども、あの中に破棄できるようになっているわけですね?
孫崎:そうです。
山田:どういう場合に破棄できるんですか?
孫崎:10年経ったら、通告すればいいんです。そしたら一年後に破棄できるんです。通告だけでいんです。それを岸(信介元首相)さんが盛り込んだんです。1970年以降はもうそれでいい。岸さんの時はまだできなかった。だから、1970年以降の政治家にできるように仕組んだんだと思います。
山田:それをずっと更新されてきたわけですね。
孫崎:いや、だから今も止めると言えばいいんです。
鳩山総理が「俺は1年後にやめる」という通告をすれば終わるんです。
山田:それが一番地位協定を変えるのに早いですね。
何をいまさらこんな初歩的な議論をしているのかと驚きました。
しかも、山田さんは「安保条約を詳しくは読んでないです」と驚くべき発言をしています。
臨時職員的な新人議員であればともかく、山田さんのようなベテラン議員の言葉とは思えません。
沖縄基地が民主党にとって最大のテーマになっていたのに、安保条約も読んでいない人がいたとは、衝撃的です。
それに安保条約10条のことは、少しでも日米安保に関心がある人なら誰でも知っているはずだと、私は思っていました。
私も2年前の4月にブログでそれについて書いていますし、友人は私のホームページにも投稿してくれています。
湯島のサロンでさえも、それは話題になっていました。
当時は、いろんな人がそれを語っていました。
鳩山さんが海外移転を発言した時にも、私はこの10条を発動すると思っていました。
発動しなくても、それを言い出せば、交渉の主導権は取れますから、鳩山さんの政策は実現すると思っていました。
それを邪魔したのは、岡田外相だろうと私は当時(今もですが)勘繰っていました。
岡田議員は日米の財界の代弁者と言うかトロイの木馬でしょうから、それを選んだ鳩山さんの責任でもありますが。
話が少しずれましたが、私が驚いたのは、山田さんの無知さ加減です。
議員は街頭演説する前にまずは学んで欲しいと私はずっと思っています。
政治家にとって大切なことは街頭演説ではありません。
しっかりと学び、事実を確認し、考えることです。
野田前首相のように、内容のない演説だけがうまくなる政治家が目指されているような気がしますが、大切なのは内容です。
山田さんのTPP反対も怪しくなってきました。
きちんと学び考えての反対ではないのかもしれません。
山田議員への信頼はなくなりました。
しかし、残念ながらそれは、山田議員への信頼と言うよりも、政治家全員に対してです。
政治家はもっと誠実に学んでほしいです。
演説術も大事ですが、それ以上に大切なものを忘れないでほしいです。
■水俣病は殺人事件なら福島原発事故はなんでしょうか(2012年12月31日)
今年亡くなった原田正純さんの取材番組をテレビで観ました。
原田さんは長年水俣病に取り組み、「苦海浄土」を書いた石牟礼道子さんと同じように、水俣病患者のみなさんたちと一緒に歩んできた医師です。
とても穏やかな原田さんが、
「水俣病は殺人事件。公害などという言葉でごまかしてはいけない」
と語っていました。
殺人を犯した犯罪者は誰か。
学者と企業関係者が実行犯でしょうが、その背後には政財界の悪者がひしめいています。
彼らは、水俣病患者とは対照的に、今もぬくぬくと贅沢三昧をしています。
原田さんは、こうも言っていました。
「化学工業を発展させるために、水俣の民は捨てられた」。
捨てたのは誰か。
国家であり、私たち国民です。
水俣の民の上に、私たちの豊かさが作り出されてきたのです。
10年ほど前に、水俣に行き、不知火湾に珊瑚が戻ってきたのを見せてもらいました。
もう亡くなってしまいましたが、漁師の杉本さんから獲ったばかりのシラスをいただきましたが、水俣産と聞いただけで、「こわい」と言う人がいるのに驚きました。
御用学者や政財界の人たちだけでなく、私たち普通の生活者も、水俣の人たちを捨ててきたのです。
原田さんはさらに言います。
「福島原発事故に対しては、水俣の教訓を生かした健康管理をしていかねばいけない」
と。
原田さんは、これが言いたかったのかもしれません。
私たちはいま、福島に対して、水俣と同じことをしているのかもしれません。
福島の人たちも、かつての水俣の人たちと同じことをしているのかもしれません。
それにしても、水俣病が殺人事件だと言い切った原田さんの思いを、きちんと受け止めている人がどれほどいるでしょうか。
政治家に、一人でもいれば、福島への対応も変わるはずです。
それほどの罪悪感を持った政治家は、私には見えません。
そして私たちも、もっと水俣の体験から学ばないといけません。
福島原発事故は私たち日本人みんなの問題です。
原田さんのメッセージを改めて考えたいと思います。