ブログ総集編2(2007〜2008)
トップ
2004年〜2006年
2009年 2010年 2011〜2012年 2013〜21014年  2015〜2016年

■しきたりや年中行事をもっと大切にしたいものです(2007年1月1日)
今年は幸いなことに初日の出が見られました。
30日にも早く起きて日の出を見たのですが、
なぜか30日の朝と今朝では印象が違います。不思議です。
初の祝い膳の後、近くの子の神様に初詣をしました。

日本には古来、さまざまなしきたりや行事があります。
そうしたことが急速に失われたのが、この30年です。
驚くほどの速さで、なくなってきたように思います。
加速した人がいたのです。
そうしたしきたりの節目になる祝祭日も、いまや「連休」政策のもとで毎年動くようになってしまいました。
今年の成人の日は8日だそうですが、政府は成人の日を休日としか考えていないことが象徴されています。
成人の日に若者が荒れるのは当然のことでしょう。
歴史的な意味のある祝日はさすがにまだ勝手な変更はなされていませんが、時間の問題かもしれません。
歴史や文化、しきたりや慣習をおろそかにすることの意味をもっと私たちは考えるべきでしょう。

神仏の前での祈りの瞬間は、多くの人にとって「祈り」の時間であり、平穏な時間です。
少なくとも1年に一回、こうして自らの生き方を問い直し、懺悔し、祈りをささげることの意味は決して小さくないはずです。
1億人の国民が、もし初詣で、平和や安寧を祈るならば、ものすごいエネルギーになるはずです。
毎日のように起こる殺傷事件や不祥事件もなくなるかもしれません。

日本には、初詣に始まって、実に様々な年中行事がありました。
それに支えられて、世界から「美しい国」と讃えられた社会があったのです。
それを壊してきたこの数十年の政策や経済活動を改めることが大切です。
しかしそれは誰かがやってくれるわけではありません。
まずは、私たち一人ひとりが、そうした歴史や文化への関心を高めていくことから始めなければいけません。

初詣がまだの方は、ぜひ神社で手を合わせてきてください。
喪中の方は別ですが。

年中行事や古来のしきたりが回復してくれば、社会は変わっていくはずです。
私たちの生き方が変わるのですから。
年中行事や古来のしきたりをもっと重視していきましょう。
もちろん産業化や愛国心教育の対象としてではありません。
私たち一人ひとりの豊かな人生のために、です。

ちなみに、
靖国参拝などは、そうした文化に根ざす行事ではありません。
騙されてはなりません。
そうやって、古来大切にされていた文化が壊されてきたのですから。

■希望の年(2007年1月4日)
CWSコモンズのほうに、新年の挨拶として、今年は「希望の年にしたい」と書きました。私自身にとって、昨年は「希望」を見失いがちな年だったからです。
私だけではありません。
日本社会が見失ってきたのも「希望」だったかもしれません。

最近の日本に欠けているものは「希望」です。
「品格」も「成長」も「改革」も、希望の前には瑣末なことです。
希望があれば、学校も変わり、経済も政治も変わるでしょう。
この数十年、私たちは「希望」を壊し続けてきたのです。
自らの希望とコモンズの希望を。

全く予想していなかったのですが、何人かの方からメールをもらいました。
思いがけない反応で、半分うれしく、半分はやはり希望がなくなっている時代なのだと思い知らされて寂しい気分でした。

ある友人はこう書いてきてくれました。

”希望”という力づよい言葉を、久々に眼にしました。
誰にとっても、希望の1年でありますように。

“希望”とは、
hopeでもない、wishでもない、desireでもない、requestでもない、expectationでもない、prospectでもない、
名利とは無縁の、智恵子が望んだ、阿多多良山の上に毎日出ている青い空のようなものですか?
“品格”も“成長”も“改革”も、東京に空がないといった、智恵子の見たくない東京の空の一部かもしれません。

あまり会う機会はないのですが、私のことをかなり冷ややかに、そして温かく見守ってくれている、40年来の友人です。
彼は、ある時、思い立って百名山を短期間に踏破したのですが、こうも書いてきました。
無断引用ですみません。

ぼくも、山の上の青い空がすきです。
たった一人ではるか遠くの山の頂へたどりつき、水平線のかなたから、“勇気”というものを貰うことにしています。
夏バテした人間が、秋風をきいて、急にシャンとなるくらいの、ささやかな気力を貰うに過ぎませんが。
“希望”と“勇気”。  
しかし、その目指すところは同じような気がします。

そう思います。
希望と勇気とはコインの表裏のような気がしています。
昨年の私には勇気が失われていたのです。
小賢しくなっていたのかもしれません。
みなさんからのメールでいろいろと考えさせられました。

よかったら私のホームページ(CWSコモンズ)の新年の挨拶も読んでみてください。

■「安直な諦め」ではなく「希望」からの発想を(2007年1月5日)
3日のNHKテレビで、五木寛之さんと塩野七生さんの対談がありました。
ちょっと噛みあわない感じもしましたが、そこがまた面白かったです。
ところで、そこで、塩野さんが「パレスチナでは目の前に死があるから、親殺しもいじめも自殺もない」というような趣旨の発言をされました。五木さんもほぼ同意されていました。私もそうだろうと思います。
戦争における死も不条理な死ですが、戦争に巻き込まれていないにもかかわらず、今の日本には不条理な死が多すぎます。
塩野さんは、それは「平和のつけ」だと言い、五木さんは「見えない戦争」だと言いました。(記憶違いがあるかもしれません)
ここにも実に大きな示唆が含意されているように思いますが、
それはともかく、なぜ目の前に死があるかないかで、こんなにも違うのでしょうか。
パレスチナには「希望」があるでしょうか。
自爆テロに志願する人には希望があるのか、ないのか。

ある人からもメールをもらいましたが、
「希望」について考えた時に思い出したことの一つが、アウシュビッツです。
希望を持てた人は生き残り、希望を失った人は持ちこたえられなかったといわれています。
しかし、なかには自らが隣人のために死を選んだコルベ神父のような人もいます。
コルベ神父は希望を持っていたはずです。
この場合は、希望があればこそ、死を選べたのかもしれません。
自爆テロ志願者も、そうなのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99

「希望」という切り口から、時代の動きや世界の事象を見直してみると、
さまざまな気づきに出会います。
なんと「安直な諦め」が横行していることでしょう。
自らの生き方も、きっと同じなのです。
パンドラの箱の底に残されたという「希望」を、私たちはもっと大切にしなければいけません。

■ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク(2007年1月6日)
ホワイトエグゼンプションが日本でも導入されるというのでいろいろなところで話題になりだしています。
何をいまさらという気がしないでもありません。
この10年の企業経営の動きから考えれば当然の帰結であり、反対するのであればもっと早く対応すべきだったように思います。
ニーメラーの教訓は、平和だけではなく、こうした分野でもあてはまります。
もっとも、私自身はこの制度に必ずしも反対ではありません。
もちろんいまの状況の中での導入は賛成できません。
制度の発想の起点が違うからです。
日本の企業経営者や経営学者の間違いは、個別制度だけしか考えずに、その拠って立つべき全体のパラダイムを無視してきたことです。
これまでどれだけの欧米の経営制度が導入され、見事に失敗したかを思い出さなければいけません。
コンサルタントの仕事は失敗すればするほど、仕事が増えるという構造を持っていますから、それは彼ら(私も本業は経営コンサルタントですが)にとっては好都合なのかもしれません。
さて、ホワイトエグゼンプションのことです。
現在の雇用契約体制の枠組みの中でホワイトエグゼンプションを考えるか、ホワイトエグゼンプションを起点に雇用契約を再構築するかによっても、その意味合いは変わるでしょう。
私自身は、もはやこれまでのような管理型雇用労働の時代は終わり、個人を起点にした組織原理やマネジメントへと移行することで新しい事業主体が元気になってくると考えていますので、うまく設計したらそれこそ三方良しの経営のポイントになるのではないかとも思っています。
問題は、いまの企業経営の実態が「経営不在」であることです。
サルでも経営できるのが今の大企業の実態だと思いますが、経営者自らは管理だけで責任をとらず(管理責任は取りますが、そんなことは誰でもやることです)、個々の従業員にホワイトエグゼンプションという形で責任を押し付けて、経営の重点を移していくのはどう考えてもおかしな話です。
いまの大企業の従業員は、アントレプレナーシップはあまりないでしょうが、これからの企業を元気にしていくのは、社内アントレプレナーです。彼らは言われなくてもホワイトエグゼンプションをいまでもやっています。ただ、そのモティベーションはお金ではなく自らの夢の実現、希望の実現です。
ところが今の組織原理はそれが認識できませんから、たとえば青色ダイオード訴訟裁判のような、寂しい事件が起こるのだと思います。
ホワイトエグゼンプションが悪いのではなく、その展開の仕方が間違っているのです。
ところで、ディーセントワークという考え方が数年前から広がりだしています。
私もこれまで何回か言及してきましたが、これは仕事の価値を重視しようという考え方です。定訳はまだありませんが、私は「納得できる仕事」と読み替えています。
労働時間短縮は、仕事に価値がないという前提にたっています。
労働よりも余暇に価値があるなどという発想は、私には全く理解できませんが、これまでの労働実態を考えるとあながち否定はできません。だとしたら「余暇」などというひどい言葉を使うのはやめたほうがいいはずですが、余暇政策もまた労働政策であった日本では、何の疑いもなく余暇という言葉が広がりました。まあ、これはまた別の問題ですので、いつか書きたいです。
成熟社会では仕事の価値が問われなければいけません。
それが従業員のモチベーションを高め、社会にも受け入れられるはずなのです。
近江商人の経営の原点も、ここにあったはずです。
日本の企業人たちのモチベーションの低さは、仕事に価値が見出せなくなったからです。
ちなみに仕事の価値は社会状況によって変わってきます。
ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク。
この二つをつなげて考えていけば、新しい組織原理や経営の本質が少し見えてくるように思うのですが、どうでしょうか。
新しいマネジメントスキーム作りの仕事を私に任せてくれる会社はないでしょうか。
成長はともかく気持ちの良い会社を実現できると思うのですが。

■絶望を知っている人間が希望を語る資格がある(2007年1月8日)
私の新年の挨拶を読んで、ある人がメールで、
12月27日の毎日新聞の夕刊のインタビュー記事を教えてくれました。
「この国はどこへ行こうとしているのか」という題で、理論社の創業者で作家でもある小宮山量平さんのインタビュー記事です。
出だしの小見出しが、
「絶望を知っている人間が希望を語る資格がある。だから、絶望を感じないといけないんだ」です。
心がえぐられるようなメッセージです。
その記事によれば、90歳になった小宮山さんは、これから長編小説の執筆を始めるのだそうです。
題は「希望=エスポワール」。完成は2年先らしいです。
ぜひ読んでみた本です。
小宮山さんのインタビュー記事はとても刺激的です。
まだ毎日新聞のサイトで読めますので、ぜひお読みください。
http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20061227dde012040043000c.html

ところで、絶望を知らない人は希望を語れないのか。
私はそうは思いませんが、この言葉にも共感できます。
人は自分の体験した世界しか語れないことを最近痛感しているからです。
では、絶望を知った人は希望を語れるのか。
絶望と希望は、もしかしたら同義語なのではないかという気がしています。
うまく説明できませんが、いまの私には同義語に近いのです。
希望があるから絶望できる。
絶望したから希望が見えてくる。
なにやら禅問答のような話ですが、
私の今の心境です。
気楽に他の人に「希望」を持て、などとは言ってはいけないと改めて自戒しています。

今日はちょっと重くて暗い話になってしまいました。
我孫子の空はとても青くて美しかったのですが。

■郵政民営化の成果が見えてきました(2007年1月9日)
あまり利用されない郵政公社のATMが次々と撤去されだしています。
当然のことですが、その影響は極めて大きなものがあります。
昨年秋くらいから、マスコミでも問題にされだしていますが、困る人が増えていくでしょう。
しかし、そんなことは最初からわかっていたことですから、困った人のほとんどは自業自得です。
これからこうしたことが続出するでしょう。
最悪の内閣だった小泉内閣が残した負の遺産は想像を絶するほど大きいように思います。
小泉内閣を支持した人たちはみんな苦汁を飲まされることでしょう。
ざまあ見ろ、といいたい気分も皆無ではありません。
私も最近、かなり性格が悪くなりました。反省。

郵政民営化が時代に逆行していることは少し思考能力のある人なら誰でもわかることです。
以前も書いたように、民営化とは権力者と悪徳資本家が儲ける仕組みなのですから。
もっとも今までの郵便局も、これまた悪徳権力者と悪徳資本家が跋扈していた世界かもしれません。
つまり、問題の立て方は正しかったのですが、解決策で小泉某という悪質な人物に騙されただけの話です。

しかし問題は郵政民営化に賛成した無知な国民が不便になって、経済的に損失を大きくするというだけの話ではありません。
明治維新以来、先人たちが構築してきた社会の仕組みを壊してしまったということです。
民営化するくらいなら廃止して、完全に民間企業にすれば良い話なのですが、自分たちの利権世界を育てるために、社会的なインフラストラクチャーともいうべき郵便の仕組みを金儲けの世界にただ同然で投げ出してしまったのです。
この意味は極めて甚大です。
古来からの地名を変えた浅薄な官僚がいましたが、それと同じくらい罪深い行為です。
その被害の大きさを考えれば、世間に広がっている詐欺行為など可愛いものです。
もし彼らが罪に問われるのであれば、郵政民営化に加担した経済官僚や政治家は重罪に処すべきだと私は思ってしまいます。
歴史が苦労して創りあげてきた社会資本ともいうべき、そうした仕組みや文化が次々と金儲けしか頭にない人たちによって、壊されていくのがとても寂しいです。

それは経済システムや社会システム、伝統文化だけではありません。
平和も同じです。
憲法9条は日本の宝だという、かつては政界や財界で活躍した老人が少なくありません。
その発言は傾聴に値します。
しかし、まてよ、と私は思います。
あなたたちが、それを壊してきたのだろう。
何をいまさら寝ぼけたことを言っているのだ、と思ってしまうわけです。
最近、急に、日本はおかしくなってしまったと、テレビや新聞で発言する人も増えてきていますが、社会が壊れていく時の現象なのでしょうか。
今の社会に責任を持ってもいいだろうと思う人までそういう言葉を発しているのを聞くと、老人は信頼できないなと思ってしまいます。

と、こんなことを書いている私もまた、その一人かもしれません。
がんばってもっと権力や財力を持つ存在になっていればよかったと悔やまれますが、そうしたことに半分背を向けて生きてきたために、社会的にはほとんど影響力がありません。
しかし、その世界に入ったら、今のような納得できる生き方は出来ていないでしょうね。
やはり私もまた、自分のことしか考えずに生きてきた、悪質な老人の一人かもしれません。

あれれ、書き出した時に考えていた内容と全く違う内容の話になってしまいました。
当初はもっと大切なメッセージを書くつもりだったのですが、困ったものです。
このブログは、思いに任せて書きなぐっているために、こういうことが多いのです。
今日は実は、社会が壊れていくことへの警告を書くつもりだったのですが、老人批判になってしまいました。
すみません。
私も老人の一人なので、自己批判と受け止めてください。

■「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」(2007年1月11日)
最近、年賀メールにしています。
反応がビビッドで、やりとりができるからです。
ただあまり長いメールだと読んでもらえないので、メールそのものは短くし、私のホームページで少し長いあいさつ文と近況を読んでもらうようにしています。
今年はアドレス帳が壊れていたので、半分以上の人に発信できていないのですが、いまアドレス帳の修復に取り組んでいます。これがまた大変なのです。

ところで、年始メールでいくつかのことに気づきました。
まずアドレスを変える人が多いということです。
発信した5%くらいの人からアドレス不明で戻ってきました。
最近のスパムメールなどのためにアドレスを変えることも少なくないと思いますが、新しいアドレスの通知がなかなか徹底しないのだろうと思います。
かつての手書きの住所録管理の時とは違い、発信先が桁違いに増えているでしょうから、修正も難しくなっているでしょう。注意していないといつの間にか「つながり」が切れてしまっています。

次に、先方から連絡を受けたアドレスなのに、なぜか跳ね返されてくるものが時々あるということです。
これは理由がわかりません。繰り返し送るのですが、届きません。連絡の方法もないので困りますが、結局は放置です。
私のアドレスが受信拒否になっている可能性もあります。
私の所に私のアドレスで、スパムが届くことが以前何回かありました。
それでうっかり受信拒否手続きをしてしまったら、私が自己発信したメールも届かなくなり、あわてて拒否解除をしたことがありますが、自分のアドレスでなければ拒否したままになっているでしょう。
私と同じアドレスで発信できるということは最初理解できませんでしたが、プロバイダーの担当者に苦情を申し入れましたが対策不能ということでした。
メールアドレスでのつながりは、とても脆いものだということを感じました。
創りやすいが壊れやすいのがメールのつながりです。

もう一つ気づいたのは、多くの人が(私も含めて)発信に重点があるということです。
改めて年始メールは読まれないものであることを実感しました。
時代そのものが「情報発信の時代」になっていると思いますが(つまり情報共有ではなく、情報の一方的発信に偏重している時代という意味です)、そうした時代状況がここにも出ています。みんな発信したがっているのです。このブログもそうですが。

そんなことから、「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」を改めて実感しています。この2つは深くつながっています。

しかし悲観的なことだけではありません。
中にはていねいに読んでくれて、いろいろと生きた言葉を送ってくださった方もいます。これは年賀状ではなかなか難しいことです。もちろん電話を使えばいいことですが、電話とメールでは行動を起こすバリアは全く違います。
昨年一度しかお会いしたことのない人と何回かのメール交換ができたケースも3人もあります。思わぬことをお互いに気づきあうことも少なくありません。
情報交換コストがほとんどかからない時代になったことを実感します。

使いようによっては、開かれた対話の時代の到来を予感できます。
情報社会の本質はなかなか見えてきませんが、改めて情報リテラシーの大切さを痛感しています。

■「恥の文化」から「罪の文化」へ(2007年1月12日)
また企業の不祥事件です。
今度は不二家が期限切れの牛乳でシュークリームを製造していたことを隠蔽したという事件です。
雪印の時と同じく、「期限切れ原料の使用」とその隠蔽と二重の意味での反社会的行為が行われたわけです。
隠蔽の理由が、「期限切れの原料使用がマスコミに発覚すれば、雪印(乳業)の二の舞いとなることは避けられない」ということだそうですが、すでに「雪印の二の舞い」をやっていることに気づかないことに驚きを感じます。
しかし、これはいまの日本社会を象徴する事件です。

「見つからなければいい」という文化が日本を覆っています。
かつて「恥の文化」だった日本社会も、いまや「罪の文化」の社会に変質してしまったのでしょうか。
そういえば、複数の閣僚の事務所経費問題が話題になっていますが、当事者である閣僚の説明を聞いていると、これもまた同じ線上にあるように思います。
最近の政治家の不祥事をみるにつけ、健全な政治家などいないのではないかと思いますが、「マスコミに発覚しなければよい」というのが、いまの日本の権力者の常識なのかもしれません。
経済界も政界も、行政の世界も、です。

どうしてこんな社会になったのでしょうか。
私が子どもの頃は、「お天道様が見ている」ということが社会の規律を維持していたように思います。それこそがソーシャル・キャピタルだったのですが、いまやみんな「罪の文化」に逃げてしまっています。
しかも、それを先導しているのが、私と同じ世代の人たちだというのが、なんとも悔しくて哀しいです。

「罪」は受動的な概念であり、「恥」は主体的な概念です。
主体性のない人たちは「積み」を基準に生き、恥には関心を示しません。
企業のコンプライアンスが責任転嫁の論理であることに気づかなければいけません。
電車の中で化粧をする無恥な女性たちと同じなのです。

■猟奇的事件の過剰報道(2007年1月13日)
最近、いろいろな人と話していると、テレビのニュースを見たくない、という話がよくでます。
いまやテレビすらが、悪趣味の週刊誌のように、猟奇的な事件をしつこく報道するようになってしまいました。
テレビからも社会性が失われてきているのでしょうか。
自殺やいじめもそうですが、マスコミの報道は暴力的な効果を発揮することが少なくありません。事件を相対化するのではなく、突出させながら普遍化していくのが最近のマスコミの姿勢ですが、その刺激が状況をあおったり、判断を偏向させたりしていく可能性は小さくはないでしょう。
それにしても、どうしてこれだけ猟奇的な事件を、しかも画像で細かく執拗に報道するのでしょうか。
マスコミが取り上げる事件は、時代の象徴であるとともに、時代の解釈でもあります。
最近のテレビのニュース関連の編集に当たっている人たちは、すべてが偏執狂ではないのでしょうが(そうであってほしいと思います)、おそらくかなりの人たちは異常な事件に触れているうちに、少し異常値を高めているのだろうと思います。
そうでなければ、こうした事件にこれほどの社会的(報道的)意義を感じないでしょうし、執着しないでしょうし、報道の仕方もこれほどまでに犯罪支援的な視点を持ち得ないでしょう。
そうした人たちは、ぜひ家族との団欒を思い出してほしいと思います。
そして、自分がとりあげているニュースが、愛する家族たちに見せたいニュースなのですか、と自問してほしいです。

テレビに限りませんが、マスメディアは社会を動かしていく大切なものです。
人々を元気にし、生きる力を与え、社会的な問題を解決していくこともできます。
しかし、それは両刃の剣でもあります。
資本の論理(視聴率)や利権確保のために悪用されることがあれば、極めて危険な存在になるでしょう。
ヒットラーはそれで権力を掌握し、ベッカーは300億円を獲得しました。
猟奇的事件をこれほどしつこく報道することの背後に何があるのか。
いささかの恐ろしさを感じます。

テレビの報道局のみなさん。
1週間休みをとって、家族と一緒に自らの生き方を考え直してみませんか。
そして、もう少し、みんなを元気にするニュースに目を向けてくれませんか。
自分の人生もきっと楽しくなりますよ。

■ニーメラーの教訓と家永三郎さんの選択(2007年1月14日)
ニーメラーの教訓に関して、何人かの方からメールをもらいました。
それで思い出したのが、家永三郎さんです。
教科書検定が憲法違反だという訴訟を起こした、家永三郎さんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E8%A3%81%E5%88%A4
家永さんは、法廷で次のように語ったといいます。

「私は戦争中に、わずかに個人的両親を守ることにのみ専念して祖国の破滅を傍観するあやまちを犯した。私は力の弱い一市民ですが、戦争に抵抗できなかった罪の万分の一でも償いたいという心情から、あえてこうした訴訟に踏み切った次第であります」

3回にわたる家永教科書裁判はいずれも敗訴しましたが、この裁判のこともあって家永さんはノーベル平和賞の候補にもなりました。
家永さんの訴訟は大きな話題になり、大きな論争を起こしましたが、残念ながら時代の流れは変わりませんでした。
いま、家永さんがご存命であれば、何をしたでしょうか。

家永さんのような、行動を起こしている人は今も決して少なくありません。
しかし、なぜ流れを変えられないのか。
きっとどこかに間違いがあるのでしょうね。
それが何かがわかるといいのですが。

■戦争を直視する姿勢(2007年1月15日)
ドイツと日本の戦後教育の違いはよく指摘されることです。
子どもの教育は20〜30年後に結果として出てきます。
今の社会の状況は、20〜30年前の子どもへの教育の結果でもあります。

古い話ですが、1991年11月8日号のニューズウィーク誌は、真珠湾50周年特集を組みました。
そこに次のような記載がありました。
「ドイツが戦後の教育で自国の戦争犯罪を戒めてきたのに対し、日本では文部省の方針によりタブー視され、戦争を直視する姿勢がない。こうしたことの反省の弱さは若年層のナショナリズムをあおる土壌になっている」

最近、こうした指摘が日本人からよく出されていますが、遅きに失しています。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判がどう違っているのか、私は不勉強で知らないのですが、少なくとも東京裁判にも広田弘毅さんのような人もいました。
戦争をきちんと総括しようという人はいたのです。
しかし私たちはドイツのように現代史をきちんと教えることを避ける為政者の下で、教育を受けてきました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_ce4e.html
ニューズウィーク誌が予言したように、今の日本は危険な状況になってきているように思います。
私たちの親が体験した戦争の実態をもっと真摯に直視すべきだと思います。

ちなみに、雑誌「軍縮問題資料」ではいま、「法廷で裁かれる日本の戦争責任」を連載しています。学校では決して学ばなかった事実が語られています。
ぜひ読んでほしいと思います。
そうしたら防衛庁を防衛省にすることの恐ろしさも実感できるかもしれません。

ちなみに、教育改革が話題になっていますが、こうした視点をしっかりと入れて議論すべきではないかと思います。
「改革」には歴史観がなければいけません。
昨今の「改革」は、すべて欲得視点の小手先の詐欺でしかありません。
ちょっと言いすぎでしょうか。

■社会奉仕活動の義務化(2007年1月16日)
教育再生会議は、その第1次中間報告に、高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めたそうです。
子どもたちが社会との接点を体験するということはとても良いことですが、あえて「必修化」といわなければいけない現実が問題なのでしょう。
それに、「社会奉仕活動」と、あえて「奉仕」という文字をなぜ使うのかも気になります。「社会活動」ではいけないのでしょうか。
こうしたところに、問題の本質が見えているように思います。

子どもの頃から社会活動を「奉仕」の視点で義務化されてしまうことに危惧を感じます。
そこからは「楽しい」イメージはでてきません。
社会活動は本来楽しいものであり、喜びにつながる要素を持っています。
そうでなければ継続はしないでしょう。
教育再生会議のメンバーたちは、社会活動をしたことがあるのでしょうか。

私自身は「奉仕」という言葉が好きになれません。
「滅私奉公」の偽善を思い出してしまうのです。
「奉仕」は自らが「するもの」であって、他人に「させるもの」でも「勧めるもの」でもないと思います。ましてや素直な子どもたちに押し付けるものではありません。
大人たちが自らそうした行為をしていれば、素直な子どもたちは義務化されずとも自然とそうした行動をしていくものです。
必修化してできるものではありません。

企業はよく「社会貢献活動」と言う言葉を使います。
これも白々しい言葉です。
以前も書きましたが、「社会活動」で充分でしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/02/post_ce06.html
自分たちが、社会を構成している一員であることを自覚していたら、「貢献」とか「奉仕」などという言葉は使わないように思うのですが、どうでしょうか。

こういうことを20年前からいろいろなところで話しているのですが、なぜかほとんど理解されません。
私が間違っている可能性もありそうです。

■シニアライフをどう生きるか(2007年1月17日)
九州のKさんがまたどっさりと野菜を送ってきてくれました。
大企業に勤めていたのですが、定年退職後、郷里に戻り、百姓生活をしているのです。
今回は何と関鯵の天日干しまで入っています。
手紙によると自分で釣りあげた鯵を自分で干したのだそうです。
Kさんは毎年、アサリもどっさり送ってくれます。
これも自らが浜で採集してくるのだそうです。
CWSコモンズでも紹介したことがありますが、野菜も中途半端ではなく、実に立派です。女房が今回も感動しています。
いつもレシピまでついています。

Kさんは農業だけをしているわけではありません。
地域活動にも取り組み、行政とも付き合っています。
もちろんしっかりした主体的な視点をもってです。
こうしたシニア層が増えてきました。
お金のためではなく、仕事(人生)のために生きる人たちです。
私とは仕事の関係で付き合いが始まったのですが、仕事を離れてもこういうお付き合いができるのがうれしいです。

定年後にどういう生き方をするか、そこにその人のそれまでの人生が感じられるものです。
昨日お会いしたAさんの生活も感動的なほど、豊かです。
もう70才近いのですが、私の娘のスペインタイルの教室に通ってくださっているのです。
たまたま昨日、いらしていたのですが、私も自宅にいたので、教室終了後、コーヒーをご一緒しました。コーヒーが大好きなのです。
この人も大企業の役員だったのですが、そんなことは微塵も感じさせない、見事な人です。
退職後、仕事は一切やめて、自分の世界を楽しんでいます。
たとえばヘブライ語の勉強や陶芸などをやっているのですが、昨年からスペインタイルも学びだしたのです。そんなわけで、私の娘が「先生」なのです。
たまたまその人と私に共通の友人がいることがわかり、私もお付き合いさせてもらうようになりました。
お話をしていて、アッカド学などという話が、ごく自然に出てくるのです。
いま大学で学生たちと一緒に学んでいるのだそうです。
ともかくそういう学びの時間が至福の時間なのだそうです。
「社会には役立ちませんが」とおっしゃるのですが、実はこういう生き方をしていることこそが、もしかしたら社会に大きなお役立ちをしているように思います。
NPOだけが社会ではありません。自らの暮らしぶりからの情報発信もあるのです。
最近はシンプルな生活を目指し、自動車はもちろん自転車もやめたそうです。
歩いているといろいろなことがわかるし、いろいろな人に会えます、とおっしゃいます。
同感です。

高度経済成長時代を生み出し、そこを生き抜いてきた体験を踏まえて、どんな生き方をしていくか。
私の周りで、実に様々な生き方が広がりだしていますが、KさんとAさんの生き方は全く違うようで、私には同じ生き方のように見えます。
お2人は自らが納得した生き方をしているだけでなく、社会のあり方に強いメッセージを送り出しているように思うのです。
私はまだ、お2人の域には達していませんが、学ぶことがとても多いです。

■未開は文明から生じたもの(2007年1月18日)
文明退化論というのがあります。
ムー大陸を提唱したチャーチワードが有名ですが、他にも様々な論者が展開しています。
ムー大陸理論は大陸移動説など地球物理学の視点から今ではほとんど否定されていますが、全く否定されているわけではありません。
私は充分にありえる話だと思っています。
デニケンやウィルソン、最近ではグラハム・ハンコックなどの著作もまた、そうした論の一つといってもいいでしょう。
いい加減な話もありますが、すべてを否定する気にはなりません。
日本でも世界でも、超古代史の世界が大好きな私としては、いわゆる反「進歩主義」とは違う、文明退化論に大きな魅力を感じます。

私は、もっと短い私自身が実感できる「人生時間」においても、進歩よりも退化を実感しますが、進歩と退化は同じ事実の両面なのかもしれません。
チャーチワードは「未開は文明から生じたのであり、文明が未開から生じたのではない」と主張しています。
たしかに歴史的事実としても、アフガンやイランに見るように、あるいは南北アメリカに見るように、文明がある域を超えて破れると未開状況が発生しています。
一見、それは近代化の波に乗らなかった世界の状況との表層的類似点があるために、トルーマン以降の「開発」史観は、その文明を「未開」と一括してしまいましたが、表情の豊かさにおいては、そちらのほうがよほど豊かだったのかもしれません。
大文明が滅んだ時に、生き残った人たちが自分で生活する術を知らなかったから、わずかに残った道具にすがりながら、生き抜くしかなかった、というのがチャーチワードの考えです。
たしかに、各地に残るさまざまな遺跡を読み解く上では、こうした考えは有効です。
オーパーツという、歴史的にはありえない存在(たとえば古代ギリシア時代のコンピューターや南米の墓石に描かれた宇宙船、南極を正確に描いたピリ・レイス地図)もまた、その存在が納得できます。

パラダイムの転換とか発想の転換という言葉があります。
言葉はありますが、実際にこれを行うことは、そう簡単ではありません。
なぜならば、否定されている「非常識な前提」を受け入れるところからパラダイムシフトは始めなければいけないからです。
「常識」とは、思考を縮減するための知恵だと私は思っていますが、その「常識」を疑うことは行動の拠り所を自らが引き受けるということでもあります。
つまり自らが問われるということです。
それは結構大変なことなのです。
しかし、その一歩を歩みだすと、意外と新しい世界が開けることも事実です。
地球文明は私たち人類の祖先が育てたものという常識から自由になって発想してみると歴史がとても面白く見えてきます。いまの文明の危うさも見えてきます。

常識から解放される。
いま私たちに求められているのは、それではないかと思います。
そうすれば、不二家の問題も政治家の問題も、教育の問題も談合の問題も、すべてが素直に見えてきます。
裸の王様が素直に見えてくるのです。
そして社会が劣化し、私たちが退化していることもあながち否定できないことに気づくかもしれません。
そして、「進歩」に焦点を当てずに、「退歩」に焦点を当てると、新しい問題解決策が見えてくるように思います。
新しい文明は辺境から生ずるとよく言われますが、その意味もわかってきます。
常識の呪縛から解放されてみると、人生がとても楽しくなってきます。

ちなみに、コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」(角川春樹事務所)の表紙に湖沼に浮かぶスフィンクスの絵が描かれています。
この本には、古代エジプト文明の前に、エジプトで栄えた「新文明」の話も載っていますが、この絵を見ているだけで、かつての超古代の世界が見えてくるような気がします。
私は時々、この絵を見ては、超古代から元気をもらっています。
いささか危ない話ですが。

■2つの価格方程式と不二家事件(2007年1月19日)
不二家のように、コストダウンのための不適切な経営行動に陥ってしまう企業が最近増えてきていますが、この一因は商品(サービス)の価格決定の考え方にあるのではないかと思います。
現在のビジネスの根底には、顧客満足と市場主義がありますが、その影響が価格決定方式にも影を落としています。
いや、そこにこそ、現在の経済システムあるいは経済学や経営学の問題が象徴されているようにも思います。

価格とコストと利益の関係は2つの対照的な方程式が成り立ちます。
20年前まで一般的だったのは、
コスト+利益=価格(価格方程式1)
でした。
これはフルコスト発想という考え方です。
私が会社に入った頃の価格決定の主流がこれでした。
コストをかけるほど、良い品質のものができ、利益も上がるという時代でした。
コストをかけても売れなければいけませんので、コストパフォーマンスが重要になります。
つまりこの方程式は、価格が「価値」に見合うかどうかがポイントなのです。

ところがある時期から、この価格方程式は通用しなくなりました。
代わって登場した価格方程式は、
価格−利益=コスト(価格方程式2)
です。
価格はコストと関係なく、市場の厳しい競争のなかで所与的に決まります。
そしてそこから利益を引いた範囲で商品をつくらなければならなくなりました。
そうしないと市場での価格競争に敗れるからです。
そしてコストダウンが最重要の戦略課題になってしまったのです。
ちなみ、行政や公益事業でも経営発想が必要だといわれだした当初の「経営発想」はコストダウンでした。
今でもそう考えている人は少なくありません。
いうまでもありませんが、コストダウンと経営とは全く違う概念です。

価格方程式2の場合に、どのようなことが起こるでしょうか。
ここでは価格方程式1の場合と違い、コストとパフォーマンス(品質)は切り離されてしまいます。
ともかく安くすること、所定のコストに押さえることが至上命令になります。
そこに耐震偽装事件が起こる素地が生まれます。
雪印の時も、日本ハムも、今回の不二家のケースも、こうした枠組みの中で意思決定が行われてしまうわけです。

おそらく不二家の事例は氷山の一角です。
価格競争の対象になった商品やサービスの世界では、同じようなことが多くの企業で行われているのではないかと思います。
そこから抜け出すためには、価格方程式を2から1に戻すべきです。

適正なコストと適正な利益。
これをみんなで守ることが大切ですが、そのためにこそ企業は透明性を高めるとともに、社会の評価を受けやすくしていくことが必要です。
それこそが本来のCSRであり、ブランディングではないかと、私は思っています。
その仕組みを創ることは、そう難しいことではないと思うのですが。
残念ながら時代の流れは、どうも違う方向を向いてしまっているようです。
まもなくまた壁にぶつかるのでしょうか。

■司法権の独立と刑法のパラダイム(2007年1月20日)
最近、刑事事件などの刑が軽すぎるのではないかと思っている人が増えているように思います。
犯罪者が数年して刑を終えて、その直後にまた犯罪を繰り返すというようなケースも増えているように思います。
生活の苦しさを考えると軽犯罪を犯して禁固刑になったほうが良いというような冗談もあるくらいです。
国民の多くが納得できない刑罰の制度は規範性を持ちえません。
なぜそうなっているのかについて、しっかりと議論すべきではないかと思います。
それは「法とは何か」という問題につながってきますし、社会の構成原理にもつながっている問題です。
もっと平たく言えば、法は誰のためにあるのか、という問題です。
これに関しては断片的にですが、何回か書いてきました。
誰のための法かによって、解釈も内容も変わってきます。
刑法を例に取りましょう。
かつての日本では、権力的な官憲による不条理な処罰が少なくありませんでした。
その名残は今でもかなり残っています。
刑事事件における冤罪はかなり多かったはずです。
そうした状況の中では、「疑わしきは罰せず」の法理と容疑者保護の仕組みが必要です。
したがって、処罰の刑量も上限を決めることが望ましいわけです。
法は、権力者に対する規制になるわけです。
いいかえれば、刑の上限が決められている法体系は強い権力者が社会を牛耳っている社会のものであるといえるかもしれません。
しかし、司法権が独立し、権力者の所属物でなくなり、
社会のメンバーが自立した存在になっている社会では、法のパラダイムが変わります。
主眼は容疑者保護ではなく、被害者保護になるはずです。
そこでは刑の上限ではなく、下限が基本になるはずです。
死刑の意味も変わってくるでしょう。
そして同時に、司法の世界の透明性や公開性、公正性や開放性が重要になってきます。
余談ですが、その段階で初めて裁判員制度は検討課題になるのだと思います。
今のパラダイムの中での裁判員制度は百害あって一理なしです。
社会の構成原理との形式的類似性はありますが、
司法制度のパラダイムとは逆に食い違っていますから、
ホリスティックな整合性がないのです。
昨今の制度改革は、そうしたことが多いのですが。
おそらく現在は、そうした社会のパラダイム、あるいは法原理のパラダイムが過渡期にあるのではないかと思います。
そのため刑罰が軽すぎるというケースが増えてきているのです。
いま交通事故による傷害致死事件の刑罰の上限が少し重くなる議論が出ていますが、そうした小手先の対処では効果は出てこないでしょう。
法の規範性がますます失われるだけです。
法原理のパラダイム議論をしっかりとするべき時期に来ているように思います。

■政治的に正しい表現運動への違和感(2007年1月21日)
人にはさまざまな違いがあります。
平安な社会では「違い」は個性として活かされ、競争社会では「違い」は差別につながっていきます。
差別をするのは多くの場合、多数派です。
人は自らを基準にものごとを評価し、社会の意識は構成員の評価基準の集合ですから、多数派と違う少数派は多くの場合、垂直的な差別の対象になります。
しかし、少数派が、権力や資産、知恵を背景に差別する側になることも少なくありません。
政治や経済の基本構造は、むしろこうした少数派による差別構造に立脚しています。
そこではさまざまな手段によって、差別が不可視化され無意識化されます。
時には被差別者を差別側に取り込んでしまうこともあります。
むしろ「支配構造」はそうしてつくられます。
北朝鮮の政治体制はわかりやすい実例です。
日本も今、そうした構造が広がっています。
アンタッチャブル層の虚構の創出も政治家がよく使う手です。
かつての「部落問題」ほどではないですが、今の日本の格差社会化の背景にも、そうした動きが垣間見えます。

最近良く使われる差別を隠蔽する方法の一つが、言葉狩りです。
この数十年で、タブー語として排除された言葉は少なくありません。
排除すべきは言葉ではなく実体ですが、言葉が実体を持続させるという論理で言葉が捨てられています。
それによって問題は見えなくなりがちですが、一時の満足感は得られます。

アメリカでは1980年代にPC語運動が広がりました。
PCとはパソコンの意味ではなく、Political Correctness(政治的に正しい表現)の略です。人種、性、身体、精神などの差別につながると思われる言葉を正しい言葉にしていこうという運動です。
有名なのは人類をmankindではなくhuman-beingsに置き換えた例です。businessmanもbusinesspersonに代わりました。障害を持つ人はchallengeする人になりました。
幸いに日本語はそうした「差別性」の少ない言語ですので、私たちは単なる言葉の問題だと思いがちですが、これはおそらく文化の問題です。
もっとも日本でのタブー語批判は、言葉だけのような気もしますが。

文化の問題は言葉や文学に象徴されます。
童話に関する新しい解釈の本が最近いろいろと出ていますが、これはとても示唆に富んでいます。自らの価値観を問い直す契機にもなります。
たとえば「白」と「黒」という言葉と色があります。
童話では必ず「白」が正義を示し、「黒」が悪を示します。
白雪姫は決して黒雪姫にはなりません。
スターウォーズのダース・ベーダーは黒装束です。
暗黒という言葉はありますが、暗白という言葉はありません。
もしかしたら、黒人の世界では、暗白という言葉があるかもしれませんが。

ところで、政治的に正しい表現というときの「政治的」とはどういう意味なのでしょうか。
ピアスの「悪魔の辞典」によれば、政治とは「仮装して行う利害得失の争い」「私欲のため国政を運営すること」とあります。とても納得できますが、そうは思いたくありません。
私は大学では岡義武教授の政治学を学びました。試験は「優」でしたが、余りわかりませんでした。
政治とは何か、に関する議論はこれまでも何回か起こっているようですが、定義議論こそが政治をだめにするという論もあるそうです。
定義はともかく、政治、politicの語源が古代ギリシアのポリスにあることを考えると、人間の共同体を維持するためのものであることは間違いなさそうです。
英和辞書によると、politicには「賢明な」と「狡猾な」という意味が出ています。他にも「適切な」「便宜的な」「思慮分別のある」「策を弄する」などがあげられています。実に意味の深い言葉ですが、なにやら胡散臭さを感じます。それが政治の本質かもしれません。

長々と書いてしまいましたが、今回、私がメッセージしたかったのは、「政治的に正しい表現」ではなく「政治的に正しい実体」に関心をもっと向けるべきではないかということです。
CWSコモンズの「折口日記」の最新記事に、先日八尾市で起きた「幼児投げ落とし事件」についての報道についての言及があり、そこに折口さんが、

「知的障害」がなんであるのかを知らぬまま、また「知的ハンディ」を持つ人とのかかわりさえ持たぬ人達が平気で発言する言葉の一人歩きが心配です。

と書いています。
本当にこうしたことが増えています。
問題がノーマライズした結果かもしれません。
教育再生会議の中間報告にも、それを感じます。

今日は、差別意識を消すもっともいい方法は、自分がその立場に立ってみることだということを書こうと思っていたのですが、いつものように最初の思いとは違う内容になってしまいました。これだけ長く書いてもそこにたどりつきません。困ったものです。

■「司法改革」のドキュメントを読みました(2007年1月22日)
いま日本の司法制度が大きく変わろうとしています。
関係者によれば、明治維新、戦後改革に匹敵するほどの改革だそうです。
その改革に大きな影響を与えたのが日本弁護士連合会(日弁連)です。
日本の司法制度改革の幕開きは1990年だったそうです。
その5月に行われた日弁連の定期総会で「司法改革に関する宣言」が採択されたのです。
私は法曹界とは裁判官も検事も弁護士も同じ仲間だと考えていましたが、どうもそうではなく、その宣言のはるか前から、日弁連は司法権独立の強化と民主化促進に取り組んできており、しかも「法曹一元化」を提案しつづけていたようです。
これは私の認識不足でした。
日本の法曹界は裁判官を頂点にして、自らの権益を守り、汗して働いている国民のことなどは真剣に考えていない人たちが主流を占めているものとばかり思っていました。
日弁連が、戦後すぐに司法改革に取り組んできたとは知りませんでした。
反省しなければいけません。

上記のことを知ったのは、間もなく出版される「司法改革」(大川真郎著 朝日新聞社)を読んで知ったことです。
「司法改革」の著者の大川さんは、私の大学の同窓生です。
私は検事になりたくて法学部に入りましたが、司法試験の無意味さを、少し早とちりしてしまい、その道を早々と放棄した、いわば脱落生です。
その対極にいたのが、大川さんです。
大川さんと再会したのはつい数年前です。
当時、大川さんは日弁連の事務総長でした。
まさに司法改革の中心で激務に取り組んでいた時だったのです。
その時も「司法改革」に取り組んでいる話はでましたが、どうせ行政改革や政治改革のような実体のないものだろうと私は思っていました。
法曹界の既得権者たちが「改革」に取り組むはずがないと考えていたのです。

私は裁判官はもちろんですが、弁護士にもかなりの「偏見」を持っていました。
弁護士の友人知人は少なくないのですが、付き合いたくないという思いがどこかにありました。
しかし、最近、感動的な弁護士に何人かお会いする機会がありました。
どうも私の弁護士嫌いは学生時代からの先入観だったのかもしれません。
何しろ私は検事志望だったのです。

しかし、裁判員制度に関しては、私は反対論者です。
大川さんともそんな話をしたこともあります。
そのせいでしょうか、大川さんが「司法改革」を送ってきてくれたのです。
ちょうど受け取った日に、このブログ「司法権の独立と刑法のパラダイム」にトラックバックがありました。
裁判員制度徹底糾弾というブログです。
http://cgi.members.interq.or.jp/enka/svkoya/blog/enka/archives/2007_1_20_513.html
それもあって、ブログに「司法時評」というジャンルを新設しました。
過去に書いた司法関係の記事を、改めて自分でも読み直してみました。
よくまあ口汚く書いているなあと我ながら少し反省する一方で、大川さんにも一度読んでもらって感想を聞きたいと思っていたのです。
まさにシンクロニシティです。

そんな状況だったので、すぐに読み出し読了しました。
いかにも大川さんらしく、主観的評価を抑えて具体的かつ資料的な司法改革の経緯を誠実に書いています。
そのため、正直に言えば、法曹界以外の人には難解で退屈なのですが、その分、大川さんの情念や思いが見えてきます。
視点はいうまでもなく、日弁連の視点ですが、自らに対しても厳しい事実や資料もきちんと掲載しています。とてもフェアで好感が持てます。
司法改革の本質が少し垣間見えたように思います。
大川さんは、おわりに、こう書いています。

司法改革は、ある特定の組織や勢力がすべて計画し、遂行したのではなかった。(中略)司法にかかわる様々な組織・機関、さらには個人が、21世紀のあるべき司法を目指して、さまざまな立場でせめぎあい、最終的には妥協し、改革の中身が決まったのであった。(中略)しかし、日弁連が司法改革にこれほどの取り組みをしなかったとしたら、できあがった改革の中身は、相当ちがったものになったと思われる。

本書を読むと、その意味がわかります。
そして彼はこう続けています。

日弁連の目的は、すべての人々が個人として尊重される社会を目指し、そのために「法の支配」を社会の隅々まで及ぼすことにあった。この点で日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、抜本的な改革がなされ、「市民のための司法」がここまで実現したといってよいであろう。

本書の副題は「日弁連の長く困難なたたかい」です。
日弁連の中心になって、改革に取り組んだ弁護士の苦労は大変なものだったことがわかります。

「市民のための司法」。
それがどういうものか、私にはまだわかりませんが、
しかし、否定的に見るだけではなく、もう少し改革の実体を理解してみようと思います。
司法を私たち生活者のためのものにするには、肝心の私たちがその気にならなければいけません。
単なる批判からは何も生まれないからです。
ただ、今の段階では、これまで書いてきた司法批判は撤回する気にはなっていません。
裁判員制度も大反対であることには変わりはありません。

ちなみに、この本はじっくりと読むと面白いと思います。
大川さんの前著「豊島産業廃棄物不法投棄事件」(日本評論社)もそういう本でした。

■学校の先生をなぜみんな信頼しないのでしょうか(2007年1月23日)
私が物事の真偽を評価する時の基準は簡単です。
当事者が本当に関わっているかどうかです。
ですからたとえば、昨日の「司法改革」で、日弁連が「民の司法」と表現している時に、「民」のだれが直接参加しているかが、私の評価の基準です。
当事者が参加していない場合は、疑いを持って吟味します。
「○○のため」という輩は、これまでの私の体験ではほとんどが信頼できません。
「社会のため」「会社のため」もそうです。

そういう視点で考えると、いま話題の「教育再生会議」の議論は茶番劇にしか見えません。
教育改革を考えている人たちは、子どもたちのことをどのくらい知っているのでしょうか。学校のこともですが。
それにいくら立派な政策を打ち出しても、現場で子どもたちに接する先生たちに共感を持ってもらえなければ、実効はあがりようがないはずです。
そんなことすら考えずに、教育改革などを唱える人たちの目的は明確です。
子どもたちのためではないのです。
もし本当に学校を変えていきたいのであれば、学校の現実をしっかりと把握することから始めるべきです。
有名人であるだけで選ばれた委員は誠意があるのであれば辞退すべきです。
それこそがこの国をまともにするための第一歩です。

いじめが問題になると、決まって校長は否定しますが、いじめを直視している先生の声はきっと抹殺されているのでしょう。
現場でしっかりと子どもたちに付き合っている先生であれば、わかるはずです。
もし仮に本当に誰にもわからないのであれば、それはその学校の仕組みが悪いのです。
その悪い仕組みをなくすることから始めればいいのです。
仕組みを変えられるのは、それぞれの学校の現場の先生たちのはずです。
改革には難しい議論や仕組みは不要です。
しっかりした方向性を打ち出し、現場の人たちがその実現に向けて本気になれる状況をつくればいいのです。

しかし、親たちもなぜ子どもを預けている先生を信頼しないのでしょうか。
親と先生の間に信頼関係がなければ、学校が子どもたちにとって安心できる空間になるはずがありません。
学校改革、教育改革の主役は、親と先生です。
つまり昔風に言えば、PTAです。
PTAが出てこない教育改革案は実効性がないと思います。

私は日教組には特別の感情はありませんが、学校の現場で汗している先生たちが主役になっての改革でない限り、改革などは絵空事でしかありません。
現場情報を一番持っている先生たちが中心になって、子どもたちも参画したかたちでの教育再生プロジェクトが実現しないものでしょうか。
現場を知らない有識者たちの机上の議論は、そろそろやめられないものでしょうか。

日教組はもっとがんばってほしいものです。
もっとどんどん情報発信していってほしいものです。
どうせこれからは納得できる教育は行えなくなるのですから、解雇される前に学校の現実をもっと社会に公開していくことはできませんか。
社会のためでも、子どもたちのためでもありません。
あなた自身の人生のために、です。

タウンミーティングではなく、もっと開かれた公開フォーラムを毎週、学校で開催したらどうでしょうか。
PTAが協力したら、いくらでもできると思うのですが。
渦中の人が主役になって動き出さないと改革は起こりません。
「改革」もまた「自動詞」で語る言葉だと思います。

■そのまんま東さん知事就任への賛否(2007年1月24日)
そのまんま東さんが宮崎県の知事になりました。
出馬した時に私は大きな違和感を持ちましたが、
最近の報道情報から時間をかけてしっかりと取り組まれてきたことを知りました。
しかし、にもかかわらず違和感は消えませんでした。

今日、家族でテレビを見ながら、もし私が県の職員で突然に彼が知事としてやってきたら、おそらく辞表を出すだろうと、ついつい発言してしまいました。
テレビでは、東さんの挨拶を神妙に聞いている県庁職員の姿が映っていましたので、ついでにこの人たちも心の底ではそう思っているだろうなと、これまた余分なことを言ってしまいました。
その途端、女房と2人の娘から手厳しい反論が出てきました。
タレントという職業を差別している。
目線が高くて、自分だけが正しいと思っているのではないか。
この数年の彼のまじめな取り組みを知っているのか。
職員の気持ちまで決め付けるのは傲慢だ。
などなど。
いやはや、徹底的に3人からやり込められました。
30分近くの大論争になってしまいましたが、結論的には私が完敗してしまいました。
かなりむきになって反論してしまったのですが、女房からもう少し冷静になったらといわれました。
冷静になるまで10分くらいかかりました。
いやはや困ったものです。
わずかに賛成してもらったのは、お父さんなら辞めるだろう、ということだけでしたが、それも私への批判的な意味での賛成です。私の生き方への批判のようにも聞こえました。
父親の権威はどうやらまた大きくダウンしてしまいました。いやはや。

ところで、私の違和感の理由は、テレビで大きな影響力を発揮できる立場にいた時に、何をしていたかということと、これから立ち向かおうという仕事への思いの格差なのです。
タレントが悪いわけではありませんが、もし世直しや社会変革を考えるのであれば、それぞれの立場でできることはたくさんあります。
特にメディアでメッセージを送れる立場にある人たちが、もし「政治」への関心を持っているのであれば、自らのテレビでの言動に思いを込めるべきです。
そして行動を起こすべきです。
テレビの番組でも、充分に社会活動も政治活動もできると思うのです。
しかし、先ずタレントで知名度を上げてから、政治の世界に入るという発想は、どこかに違和感をもってしまいます。
タレントという職業を蔑視しているわけではありません。
タレントでも知事でも政治家でもキャスターでも、それぞれの分野でもっと誠実に、真剣に、社会活動をし、政治活動をしてほしいと思うのです。
娘が、タレントが政治家になるのよりも、政治家がテレビでタレントまがいをしているほうが問題ではないかといいました。もちろん私もそう思います。
タレント議員よりも、議員タレントのほうが、私にも違和感は大きいことは、これまでも書いたことがあります。
しかし、有名なタレントが選挙に出ることには大きな違和感があります。
どう考えてもフェアな選挙にはならないような気がするのです。
みなさんはどうお考えでしょうか。

ちなみに、宮崎県民の選択は納得できます。
私も県民であれば、そのまんま東さんに投票したでしょう。
しかし、県庁職員であれば、・・・・・。
冷静に考えると、迷いますね。
この文章を書き出したときには、まだ辞めると書ききるつもりだったのですが。

とここまで書いたところに、女房がやってきました。
辞めるよりも、新しい風を起こしたいのならば、
知事を活かす努力をすることこそが、あなたがいつも言っていることではないのか。
というのです。
はい、そうでした。忘れていました。
事実をきちんと受け止め、変えられない事実は活かしていくこと。
http://homepage2.nifty.com/CWS/keieiron12.htm#07
それが私の目指す生き方でした。
言っていることとやっていることが違うと、また娘たちから糾弾されそうです。

というわけで、今日は娘たちと女房に教えられました。
このブログも、どうやら私の一人よがり記事が多いかもしれませんね。
自信をなくしそうです。

ところがよくしたもので、夕方、ある大企業の部長からメールが来ました。
そこにこう書いてあるのです。

CWSプライベートを81歳になる私の父に読ませたところ、感激していました。
これからも思っていること、怒っていること、考えていることをどんどん載せてください。父とともに楽しみにしております。

すぐその気になるのが、私の良いところです。
懲りずに書き続けることにします。はい。

■学校を良くする方法(2007年1月25日)
一昨日の記事にコメントがありました。
コメントはなかなか読んでもらえないこともありますので、ここに勝手に再録させてもらいます

私も今ある学校の推進委員というのをしているのですが、そこで見る現場の先生は、仕事が多くて消耗しているサラリーマン、という印象でした。
こんなに余裕が無くて、一人ひとりの生徒に目配りする余裕があるものだろうか、と疑問に感じました。
さらに、たとえ先生にやる気があって、生徒のプラスになることをしても、それが必ずしも先生の評価につながらないような仕組みも問題だと思いました。
いろいろな「悪い仕組み」をどうやって作り変えるのか?とても難しい問題です。

そのヒントになることを、ある委員の大学の先生が教えてくれました。
ある風紀が乱れた学校で、親たちが立ち上がり、全生徒の家庭を訪問し、そこの親に一緒に子供の指導をしっかりやりましょうと話し込んでいったとか、それで数ヶ月で学校が見違えるようになった。というような話でした。
親が本気になること、というのが解決の糸口なのかもしれません。

とても納得できる話です。
こういう動きは、もしかしたら各地にあるのかもしれません。
しかしテレビではあまり報道されないような気がします。
私の見落としかもしれませんが、こういう事例こそをテレビはもっとどんどんと伝えていってほしいです。
悪い情報だけではなく、良い情報のほうを、最近みんなは求めているのです。
例外的な事件が多くの場合、ニュースになります。
例外現象と標準現象が、いまや今や逆転しているのです。
その変化に気づいてほしいです。

これは女房から聞いた話です。
女房の友人が娘の学校の授業参観に初めて参加したら、授業中に生徒たちが席を立って、勝手に動いているのだそうです。先生が注意しないので、驚いたそうです。
私は親が注意すればいいだけの話だと思いますが、親も注意しなかったのでしょうか。
もし私が、そうした授業に参観したとして、離席したのが自分の子どもでない場合、注意したでしょうか。
注意すると胸をはって答えたいですが、実際の現場になると100%の自信はありません。なにしろ電車の中での隣席の女性の化粧行為にも注意できないでいますので。
みんな問題の解決を誰か他の人に期待してしまう。
これが最近の動きかもしれません。

まずはそうした生き方から抜け出そうと思っています。
化粧行為への注意は今やできなくなってしまいましたが(今や車内の化粧は「常識」になってしまっているようですので)。

■介護の社会化の虚構(2007年1月26日)
高齢社会の到来に向けて20年ほど前から「介護の社会化」が主張されだしました。
その一つの成果が「介護保険制度の導入」といっていいでしょう。
介護問題はいまのような核家族社会の中での家庭では解決しようがなく、しかもその負担が女性に覆いかぶさるということで「介護の社会化」が勢いをつけてきたわけですが、それに関しては否定しようがないことだったと思います。
しかし、「介護の社会化」の唯一の方策が、今の介護保険制度や福祉制度であるわけではありません。そもそも「社会化」などというあいまいな言葉は気をつけておかないと危険です。
介護の社会化を大義にした介護保険制度に関しては、たとえばこんな意見もあります。

 実際に施行され、その全体像が浮き彫りになってくるにつけ、この介護保険は、われわれ国民を「介護の社会化」という幻想をダシに、高齢者や低所得者などの弱者を切り捨てたとんでもない制度であることが現場で介護に携わる者には明らかになってきた。ホームヘルパーをはじめ介護現場では江戸時代につくられた「生類憐れみの令」以来の悪法とさえ囁かれているというが、家族介護者にとっても近年にない不公平・非効率の悪法と言わざるを得ない。

「現金給付を求める家族介護者の会」世話人の松井省吾さんのホームページからの引用です。書かれたのは2002年です。
続きを読みたい方はぜひホームページにアクセスしてください。
http://www.fujinsya.co.jp/index.html

「生類憐れみの令」以来の悪法とは、さすがの私も驚きましたが、共感できるところも少なくありません。

「社会化」とは何か。
単なる問題解決をするために制度をつくることではありません。
「介護の社会化」に関して言えば、「介護問題を解決できる社会をつくること」だと思います。
社会は人の集まりです。
私の知人の川本兼さんは「2人いれば社会が生まれる」という視点で、新しい「新社会契約説」を唱えています。(「どんな世界を構想するのか」明石書店)とてもわかりやすい本ですので関心があればお読みください。
家庭も地域社会も「社会」です。
昔はそうした社会で、子育ても高齢者介護も障害支援も行われていました。
つまり福祉とか介護はもともと社会的に行われていたのです。
それが人間という種が他の生物を押しのけて大きな存在になってきた大きな理由ではないかと私は思っています。
つまり、愛を制度化したのです。
ところが、この50年の日本はそれを壊してきました。
徹底的に壊れたのはおそらく1990年ごろからでしょう。
最後まで何とか残っていた企業と行政が壊れてしまったのです。
1990年頃を境に、日本の企業も行政も変質してしまったような気がします。

「社会」を壊しながら、解決できなくなった個別問題に対処する制度をつくり、そこにビジネスを発生させる。まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。
最近、老老介護の厳しい現実が良く話題になりますが、その基本にあるのは、家族や血縁社会、地域社会などといった、人間的なつながりを軸にした社会の崩壊です。
その問題に目を向けることが大切です。
その問題から解いていけば、きっと他の問題、たとえば教育の問題も今とは違った「再生のシナリオ」が見えてくるはずです。
介護保険制度もきっと今とは違うものになっていくでしょう。
そういえば、学校もまた、本来は人間的なつながりを軸にしたあたたかな社会だったのではないかという気がします。

■鳥インフルエンザの犠牲になる鳥たち(2007年1月27日)
また、宮崎県で鳥インフルエンザによる大量死が起こりました。
調査結果次第では、殺処分するなどの防疫措置としてまだ元気な大量の鳥が処分されることになります。
この数年、病気を理由にした家畜の大量殺処理が頻発しています。
そのニュースを聞くたびに、悲しくなるだけでなく、恐ろしさを感じます。
人間の場合は罹病すると治そうと努力してもらえますが、家畜は処分されるのです。
身の毛の立つほどの恐ろしさを感じますが、それが堂々と報道されるのです。

まだ罹病していない鳥や牛が防疫のために殺される。
これをどう考えるべきでしょうか。
私には答が見つかりませんが、しかし、殺すことはないだろうと思ってしまいます。
同じ「生命体」として、生命を活かすことをベースに考えられないものでしょうか。

私がこうした大量の家畜の処分や野菜の廃棄に恐ろしさを感ずるのは、生命を粗末にする社会は、自らの生命をも粗末にすることにつながるのではないかと思うからです。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」という時の、「みんな」には鳥やキャベツの幸せは含まれないのか。

テレビでそうしたニュースをみる度に思い出すのが、モンクの遺作映画「パサジェルカ」の一画面です。
収容所のユダヤ人たちが列を組んで、静かにガス室に入っていく光景です。
人間も時には処分されてきました。
いや過去形で語るべきではないかもしれません。

アメリカ大陸の「開拓時代」に白人によってネイティブのアメリカ人の98%が殺されたということを昔呼んだことがあります。98%というのはいかにもすごい数字ですので、私の記憶違いかもしれませんが、かなりのネイティブ、いわゆるインディアンが殺されたのは事実でしょう。
南米でもアフリカでもオセアニアでも、かなりの人が殺害されました。
家畜の処分と同じだとは言いませんが、違うとも言い切れません。
私たちはいまもこういう、防疫処分行為を続けているのかもしれません。
ブッシュがその推進者というのは論理の飛躍でしょうが、何か無縁でないような気がして仕方がありません。

家畜の大量処分ニュースを聞くたびに、こんなことを考えます。
そして家畜や野菜を育ててきた人たちの哀しさに手を合わせています。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。
この先に、自分たち自身を処分する私たちの歴史が見えてくるのは、私だけでしょうか。

■希望と生命:「希望サロン」の呼びかけ(2007年1月28日)
今日はちょっと「暗い書き込み」です。
昨日、「パサジェルカ」に言及したのですが、正確だったかどうかが心配になり、確かめたくなりました。私の記憶はかなり最近危ういですので。
手元にあるDVDで画面を探したのですが、確かにユダヤ人たちは整然とガス室に入っていくのです。まあ、これは映画ではありますが。
希望がないと死は怖くはないのです。
だから自爆テロもできるのでしょうか。
そこでは「死」が「生」に転化するのかもしれません。

映画ついでに「ソラリス」のことも書きます。
ロシアのSF作家レムの作品「ソラリスの下で」の2回目の映画化作品です。
原作の小説は、私がSFに目を開かれた作品で、私には思い出深い作品なのです。
最近映画のリメイクが増えていますが、私の感覚がついていけないのか、退屈なものが多いです。リメイク版のほうが面白かったのは、「オーシャンズ11」くらいでしょうか。他は愚作としか思えないものばかりです。
「ソラリス」も最初の作品のほうが面白かったですが、最近、テレビで「ソラリス」が放映されたの、ついつい見てしまいました。ところが、見終わった後、またまたアウシュビッツを思い出してしまいました。いいかえれば「希望」の意味を考えさせられたということです。
私の勝手な解釈ですが、人は「希望」が見えなくなると「生命」への執着がなくなってしまうということです。その時点で「生命」の輝きも消えてしまうのかもしれません。
逆に希望が芽生えると、生命を超えて、生きてしまうというようなことが起こってしまうのです。
意味不明で何を言っているのかわからないという方は、ぜひリメイク版「ソラリス」を見てください。

今年は、「希望の年」にしようと決めたのですが、希望とは結局、生きるということではないかと気付きました。
言い換えれば、相手から「希望」を奪ってしまえば、自在に操作することができるということです。また、自らの「希望」を捨てれば、主体的には生きられない存在になってしまうということです。
どうも回りくどい言い方になってしまいましたが、もしかしたら、いま私たちは「希望」を奪われ、「希望」を捨ててしまっているのではないか、という気がしてきました。
どうやら私だけが「希望」を見失っていたのではなく、社会が「希望」を忘れてしまっているのではないか、そんな気がしてきました。
小難しいことを書いてしまいました。
「希望」を語り合うサロンをやはり開きたいと思います。
どなたか一緒にやりませんか。
しっかりと自らを生きるために。
連絡をお待ちします。

■「自分の意見を言う自由」のない政治空間(2007年1月29日)
角田義一参院副議長が政治資金不記載問題で副議長職を辞職しました。
国会が開催される、まさにその時という、絶妙のタイミングに問題が顕在化したわけですが、これは偶然ではないでしょう。
角田さんは、誰も引き受け手がいない連合赤軍事件の国選弁護人として彼らの弁護士役を引き受けた人だそうです。いわゆる「左派」に属する人です。
それはそれとして、国会議員にまつわる問題指摘は、実に見事なタイミングで行われることが多いように思います。
同じような問題を抱えている人が少なくないなかで、ある人に目標が絞られ、追い込められていく。つまり、これは社会操作の典型的な事例ではないかと思えて仕方がありません。
企業不祥事などでも、そういう印象を持つことは少なくありません。

ところで、久間章生防衛相の最近の発言が話題になっています。
24日にはイラク戦争を起こしたのは間違いだったといい、27日には普天間飛行場問題でアメリカ批判をしました。
この意味はなんなのでしょうか。
いろいろなことが考えられます。
昔、「陰謀のセオリー」という映画がありましたが、最近の日本の政治状況を見ていると、何かそんな裏話を疑ってみたくなることが多いです。

もしそれが考えすぎであるとすると、
また別の意味で、久間発言事件は考えさせられることが多いです。
一言で言えば、日本の政治空間には「自分の意見を言う自由」がないということです。
先の郵政民営化問題は、その象徴的な事件でした。
しかし自由の議論ができないのであれば、議員などは不要だと思うのですが。
毎日新聞によれば、安倍首相は「対米関係上、久間氏の発言を不安視している」そうです。
それもまた象徴的な話です。
自らの主張を述べることが、社会的抹殺や生物的抹殺につながるのが、今の日本社会だとは思いたくありませんが、そんな事件が増えているように思います。

ちなみに、考えすぎだと思われていた「陰謀のセオリー」の主役のタクシードライバーは、結局は正しかったのですが、私の考えすぎは間違いであることを願っています。

■死んだ学力と生きた学力(2007年1月30日)
たまには社会と無縁な世界の話を書きます。
今日、水谷千秋さんの「謎の豪族 蘇我氏」を読んでいて、葛城氏は「氏制度」が広がる前の豪族なので、その実態が把握しにくいという文章に出会いました。それで、鳥越憲三郎さんの「葛城王朝」を思い出しました。
もう30年以上前の本ですが、鳥越さんの著書「神々と天皇の間」のなかに出てくるのが「葛城王朝」です。この言葉に出会った時に、すごくわくわくしたのを今でも覚えています。王朝交代の歴史にはドラマがあります。
その本の数年後に、鳥越さんは「大いなる邪馬台国」という本を出されました。それは「物部王朝」の物語でした。大和朝廷以前に存在した、もうひとつの日本の王朝です。とても説得力がありました。
そして、その後、葛城王朝や物部王朝を統合した「蘇我王朝」があったと私は思っていますが、万世一系の天皇家の歴史と考えるよりも、こうしたさまざまな王朝の物語の集積として、日本の古代史を読み解いていくと歴史はわくわくするような輝きを感じさせてくれます。
しかも、その広がりは日本列島に留まるものではありません。
いま以上に、古代の日本はアジアとの交流が深かったという前提で考えると、古代史の物語はさらに壮大に広がります。
聖徳太子が突厥の人という説もありますし、天武天皇は高句麗の王子、天智天皇は百済の王子という説もあります。物語の舞台は、日本列島などには閉じ込められてはいないのです。言い換えれば、昨今のように国家などという枠にはこだわっていないのです。
これが世界の古代史になると、もっと壮大です。文明はシリウスから来たという話もあります。
こういう壮大な話を読んでいくと萎縮した頭脳が活性化されるのです。
私たちが学校で学んだ歴史は、その後、大きく変化しています。
大化改新の存在も危うくなり、志賀の島から発見された金印も偽造説が出ています。物部氏が仏教に反対したことも否定されだしていますし、山背大兄王の人格には疑問が出ています。スフィンクスの建造も1万年前にさかのぼりそうですし、シュメールの文化はまだまだ奥が深そうです。人類の誕生物語も変わってきています。
とまあ、こうして学校で学んだ常識的歴史観をはずしてみると、歴史の風景は大きく変わります。
それがどうしたといわれそうなので、蛇足をつけます。
学校で教える知識には行動を抑制する機能と行動を支援する機能があります。
試験のための知識は、与えられた正解に呪縛されるため世界を見る目を曇らせる恐れがあります。しかし、学び方を支援するための知識は、学ぶ面白さを教え、世界を見る目を輝かせます。
その好奇心を鼓舞し、世界を見る目を養うことを「学力」というべきではないかと思いますが、今の「学力」は呪縛される知識を覚えることなのです。
柳沢厚生労働大臣の言葉を借りれば、子どもたちは「知識を詰め込む機械部品」なのかもしれません。
学ぶことが楽しくなるはずがありませんし、学校は工場のようになってしまいます。
最近の教育再生会議の提案は、どこを目指しているのでしょうか。
およそ教育とは無縁の人たちが多いですから、今の学校からは「自由」になれるのかもしれませんが、視点において呪縛されているような気がします。
この提言を実現したら、きっと学校は効率の良い工場に変わるのかもしれません。彼らが目指している生き方のように。死んだ学力は向上するかもしれませんが、生きた学力はどうなるのでしょうか。
学ぶことの楽しさや喜びを広げていけない学びの場になっていることが、今の日本の最大の問題のように思えてなりません。
みんな、学力をはき違えているのではないでしょうか。

あれ、今日は社会と無縁な話をする予定でしたが、いつの間にかまた社会問題になってしまっています。
なかなか社会の呪縛からは自由になれません。

■法に違反していなければ胸をはれるのか(2007年1月31日)
相変わらず国会の議論では、違法なことはしていないとか、法の範囲でやっているとか、大の大人が恥ずかしげもなく、答弁しています。
柳沢大臣の発言は、別に法に反していたわけではありません。
だから許されるのでしょうか。
そうした実例が、いま目の前にあるにもかかわらず、事務所経費に関する答弁では、相変わらずそんな答弁が行われているわけです。
彼らの頭は一体どうなっているのでしょうか。
少しは知性とか思考力とかいうものがあるのでしょうか。
これは「恥の文化」とか「罪の文化」とかいう以前の問題です。

企業でもコンプライアンスとか遵法精神とか盛んに言われていますが、ともすると、それは法に抵触せずにどれだけ悪さができるのかということに知恵を出すことの意味になりかねないのが、いまの日本社会です。
だからこそ、今回の司法改革でも「大きな司法」が話題になっているわけですが、いかにも残念で仕方がありません。
遵法などという、いわずもがなのことをいう企業は信頼できませんし、違法行為はしていないと抗弁する人はそれだけで信頼に値しないでしょう。
法には反していないという言葉は、やましいことのある人の常套句でもあります。
やましいことがなければ、むしろ「法に反しているかもしれないが」というような気もします。
つまり、法とやましさの階層構造でいえば、本来は後者のほうこそが上位概念ではないかと私は思います。
それでは秩序維持が難しくなってきたので、やむを得ず判断のよりどころとしてルール化したのが法律ではないでしょうか。
その構造が逆転しているのが今の日本社会です。

それにしても、国会の議論は本当に無意味な時間の浪費ですね。
あんな形で意味のある議論ができると、一体誰が思っているのでしょうか。
小学校の話し合いでも、もう少しは真実味があるのではないでしょうか。
いや、最近の学校の議論は国会並みの低次元になっているかもしれませんね。
テレビの影響は本当に恐ろしいです。

■柳沢大臣の発言が意味すること(2007年2月1日)
柳沢発言事件をめぐる国会議員の発言で気になることがたくさんなります。
たとえば、首相は「不注意な発言をしないように」と閣僚に注意したそうです。
どこか違和感のある発言です。
大本を正すことなく、発言に注意せよというわけです。
言い方を変えれば、「うまく騙せよ」と奨励しているわけです。
ここにすべての問題が象徴されているような気がします。

柳沢大臣の辞任や解任を求める議員の発言も、私にはなにやら違和感があります。
たとえば、「女性を代表して」という辻本さんの発言には素直にはうなずけません。
わざわざ代表する必要はありません。
こういう発想が個人を傲慢にさせます。
彼女は前回の自らの事件の意味を全く理解していないのでしょう。
それに代表するにしても、なんで「女性」なのか。
つまりこの発言は「女性を侮辱した」発言だと受け止めているようです。
たしかにそうですが、それだけではないでしょう。
そうした発想と柳沢発言のもとにある発想はつながっているような気もするのです。

こういう大臣がいる限り、国会審議には応じられないというのもよくわからない議論です。
もちろん、議論するのにふさわしくない相手とは議論しない、というのは理解できますが、この場合は当てはまらないでしょう。
それにこの問題もただ「辞任」を唱えるだけではだめでしょう。
何が問題かが、明確にされていません。
こうした事件が起こると、野党は必ずといっていいほど、抗議的な姿勢で権力闘争に持ち込みます。
問題の議論はほとんどすることがありません。
与党もまた選挙対策の視点からしか問題を受け止めません。
いずれの側も問題の大本などは関心がなく、波風が立ったことを利用しているだけの話です。
ですから事態はなにもかわりません。
そして形式的な男女平等参画とか少子化対策とか、ほとんど意味もない法律や政策提言を出しつづけるわけです。
本気で、問題の大本を議論しようなどという人はいないのでしょうか。

ところで、こうした批判は、私自身にも向けられています。
娘から、男性たちで本当に怒っている人はどのくらいいるか。お父さんだって、こういう発想がゼロではないでしょう、といわれました。それも具体的な私の言動を例示してです。心外ですが、冷静に考えれば娘の指摘は正しいのです。
もしかしたら、女性だってどうかわかりませんね。

みなさんはどうでしょうか。
そもそも少子化問題の最初の取り上げ方は、労働人口と消費人口が企業経営にマイナスだというところからだったと記憶しています。
今もその延長で議論されていますから、柳沢さんの考えは決して特殊例外ではないのです。
長く男性社会といわれる状況が続いていましたし、実態としてはいまなおその要素はかなり残っています。
そうした環境で育っていると、どうしてもみんなの発想の大本に女性蔑視の視点がうまれるのかもしれません。
それをうまく使い込んで成功する女性たちも少なくないわけですから、それがすべて男性を利しているわけではありません。

しかし、たぶんそうした社会はそろそろ限界に来ているように思います。
少子化は、その一つの現れでしょう。
社会原理の大本から変えていかなければ少子化の流れは変わらないように思います。
児童手当を増額したり、保育支援の仕組みを充実したりすることも大切ですが、社会のあり様を真剣に考えることも大切です。

先ずは自らの生き方を見直してみることから始めるのがいいです。
さて今日は家の掃除から始めましょうか。

■自由の牢獄(2007年2月2日)
ミヒャエル・エンデといえば、「モモ」や「エンデの遺言」で有名ですが、彼の小品に「自由の牢獄」という作品があります。

インシアッラーという盲目の乞食が、イスラムの教主に語った体験談の話です。
彼は若い頃、ギリシャ哲学に心酔し、イスラムの戒律を守らず、ラマダンの最中も勝手気ままに飲み食いしていたために、召使たちに逃げられてしまいました。
その彼の所に、ある日、悪魔がやってきます。
そして気がつくと彼は丸天井に覆われた広大な円形の部屋の中にいました。
部屋には窓がなく、代わりに同じ形の111(オリエント数学で狂気を意味する)の扉で囲まれています。
そして悪魔の声が聞こえてきます。
「ある扉の向こうには楽園が、別の扉の向こうには財宝が、また別の扉の後ろには食人鬼がいるかもしれない。どの扉を開いて、外に出るかはお前の自由だが、どれかを選んだ途端に、他のすべての扉は永遠に閉ざされる。つまり他の扉の後ろに何があるか永遠に分からなくなる」

あなたならばどうしますか。
生命さえも賭けなければならない自由とは難しいものです。
インシアッラーは選ぶ決心がつかず、数日がたちます。
日がたつにつれて扉の数が毎日一つ減っていくことに気がつきます。
早く選ばなければ扉はどんどん減るぞ、という悪魔の呼びかけにもかかわらず、彼は決断ができません。
そしてついに扉は1つになってしまいます。
しかし、今度は開けるべきかいなかの決断ができません。
111であろうと1つであろうと、実は同じことなのです。
それに気づき、結局、インシアッラーは扉を選ばないで、その場所に残ることを決めるのです。
そして翌日、目覚めると、扉は一つもなくなっていたのです。
そして、彼は初めて彼はアッラーに帰依します。
たくさんの扉があれば選べず、一つしかなくても開くべきか留まるべきか選べず、ついに扉がなくなり選択の自由がなくなったときに初めて心の平安を得たのです。
インシアッラーはこう言います。
「完全な自由とは完全な不自由なのだ」
その次の瞬間、彼は盲目になってバクダッドの門の前にいる自分に気づくという話です。
紹介の仕方があまりうまくないのですが、10数年前に読んだ時からずっと頭に残っている話です。

私たちはいま、無数の扉のある「自由の牢獄」にいるのかもしれません。
扉を開く勇気を持たなければいけません。
もし神に帰依しないのであれば。

■裁判員制度よりも裁判の透明性の実現を(2007年2月3日)
内閣府の世論調査によれば、「裁判員制度について8割の人が制度が始まることを知っていたが、3人に1人が「義務でも参加したくない」と答え、参加に消極的な人が8割近くを占めた」そうです。
タウンミーティングの「やらせ」でも裁判員制度は多かったようですが、
産経新聞などのマスコミも同じようなことをやっていたようです。
まあ予想されたこととはいえ、そこまで落ちたとは哀しいです。。
裁判を職業裁判官の閉ざされた空間から引き出し、「開かれた裁判」にしていくということは極めて納得できることです。
官の司法から民の司法への司法改革にとっても重要な課題です。
しかし、だからといって、それが裁判員制度であるかといえば、もう少し真剣に考えるべきでしょう。
国民の多くが消極的なのには、それなりの理由があるはずなのです。

よくいわれるように、職業裁判官以外の人を裁判に参加させる方法には、陪審制度と参審制度があります。
私はこの前提がすでに間違っていると思うのですが、それはともかく、いま実現に向かっている裁判員制度は、一般市民である裁判員が裁判に参加する参審制度の一つです。その長所は、たとえば次のように言われています。
@裁判に国民の声が反映される。
A市民が法的責任感を強める。
B裁判をわかりやすくする。
C裁判(裁判官)をコントロールする。
D当事者が判決を受け入れやすくなる。
E司法に対する市民の信頼を確保する。
(平成法窓界サイトhttp://www.hiu.ac.jp/campus/club/heisei/sansin.html)

しかし、いずれもほとんど根拠がありません。
私などはむしろ、反対ではないかと思うほどです。その理由をお話しすることもできると思います。
逆に、もしこれらのことを実現したいのであれば、裁判員制度など導入しなくても簡単です。
裁判を公開にし、そこに傍聴者の意見が言える仕組みをつくればいいだけです。
複雑な裁判員制度など導入する必要など全くありません。
裁判の透明性が高まり、様々な目にさらされれば、裁判の公平性は高まるはずです。
これもまあ根拠はないかもしれませんが、たくさんの目でチェックされることで間違いは排除される可能性は高まるでしょう。

公開の場では自由な議論はできないとよく言われます。まして個人のプライバシーが問われる場ではないかという人がいるかもしれません。しかしプライバシーは何のために守る必要があるのかを考えなおす必要があります。
教育再生会議もそうした理由で、公開にはなっていません。
しかし、公開の場で発言できない発言というのは一体なんでしょうか。
たしかにそういうことが全くないとは言いませんが、もしあれば、その場合だけ例外をつくればいいのです。もちろん例外にする理由は公開にし、その理由も大方の賛成を得なければいけません。

冤罪の場合はどうなるのか。
報道被害や風評被害が加速されないか。
問題を挙げだしたらきりがありませんが、そうしたことも含めて透明性を高めることは可能です。隠すから報道被害や風評被害が起きるのです。
但し、「司法」の概念を広く捉える必要はあります。
警察行政や検察までも透明性の中に加える必要はあります。
司法は「裁判」に凝縮されますが、その前後の透明性も不可欠なのです。
捜査と透明性は両立しないといわれそうですが、
何でもかんでも透明にすれば良いという話ではありません。
反対者の使うゼロ100論理に騙されてはいけません。

今の裁判は、余りにブラックボックスが多すぎます。
第一、裁判官の服装自体も権威的でブラックボックスを演出しています。
よくまあ恥ずかしげもなく、あんな服装を続けていると私などは思いますが、自らを人を裁く神と勘違いさせなければ、自らも、そして被告や原告をも説得できないのかもしれません。そういう意味ではああした形式も意味を持つのでしょう。
しかし、もしそうであれば、そもそも裁判員制度には無理があるのです。
人は人を裁けません。
その前提で司法は構想されなければいけません。
国民の多くが裁判員制度に消極的なのは、とても素直な反応なのではないかと思います。
そこから出発することこそが、「市民のための司法」に向かう道ではないでしょうか。
その意味で、日弁連は勘違いしているような気がしています。
私のほうが勘違いしているのかもしれませんが。
弁護士の方が、どなたかご指摘いただければうれしいです。

■「産む機械」発言を生んだ問題の立て方(2007年2月4日)
先日、このブログに大西さんが次のようなコメントを寄せてくれました。

少子化が困るのは、経済成長にとってマイナスと考えられているからですよね。(ほんとうはプラスにできるかも)
それはそれとして、今求められているのは、人々がこどもを楽しく育てたくなる幸せな社会を創るにはどうしたらいいかということじゃないでしょうか。
それは「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」です。
女性就労のサポートだけじゃなく、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を、
みんなで考えなければならないと思います。

「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」。
問題の立て方が間違っているというご指摘ですが、全く同感です。
「問題の解き方」と「問題の立て方」とどちらが大切でしょうか。
それらは別の次元の話で、比較するべき話ではないという人もいるでしょうが、両者は深くかかわっています。さらにいえば、問題をどう設定するかをしっかりと議論していけば、その過程で答が見えてくることも少なくありません。問題を立てること自体が、実は問題を説くことである場合が少なくないのです。
私の本業は、企業や行政のコンサルティング、昨今の言葉ではソリューションビジネスですが、そこで一番重要なのは「問題の明確化」です。ところが残念ながら、日本の社会はそうしたところには対価を払う文化がなく、問題解決にお金を払いますから、私のビジネスはなかなか成立しないのです。困ったものです。
脱線してしまいました。すみません。

いずれにしろ、問題がなかなか解けないとしたら、それは問題の立て方が間違っているからです。
そう考えてみると、そもそも「少子化対策」などという問題設定が間違っていることに気が付くはずです。
「少子化」は何らかの問題の結果であり、あるいはシグナルなのです。
大西さんが指摘するように、「少子化対策」という問題設定をしてしまうと、「女性は産む機械」という考え方が出てきてしまうのはそれほどおかしなことではありません。
そして問題設定が間違っていますから、いつになっても事態は変わりようがないのです。

こうした事例は他にもたくさんあるように思います。
もし「少子化社会」を変えたいのであれば、大西さんが指摘されるように、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を考えていくことだろうと私も思います。
男女共同社会参画の「社会」は会社ではないのですから。

■国会審議拒否の是非(2007年2月5日)
多くの野党が欠席したまま、国会での補正予算審議が進んでいます。
この状況を国民がどう評価するかは、愛知県や北九州市の選挙結果などから読み解くのはとても妥当とは思いませんが、幸か不幸か、その結果は一勝一敗の終わり、いずれにも大義を与えませんでした。

わが国の最高決議機関は国会であることを考えると、野党の多くが審議参加をボイコットすることは、議会政治というか、わが国の政治体制の危機というべきだと思いますが、そうした危機感はどこにもないのがとても不思議です。
要するに国会は不要なのかもしれません。

たしかに、与党が過半数の議席を持ち、党議拘束という仕組みによって、その与党に意見は一元化されており、しかも、その与党を管理(代表というよりも昨今の内閣は与党管理型です)する内閣そのものが対話よりも主張を強行しようとする指向が強いという状況の中では、国会審議の意味はあまりないといってもいいかもしれません。
小泉政権以来、国会は変質しました。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

野党の審議拒否は論理的には説明可能ですし、戦術としては成立するでしょう。
しかし、今のような社会状況の中で、多くの国民の共感を得ることはできないように思います。
私はこの戦術は明らかにマイナスであり、
せっかく野党のほうに向きかけた風の流れをまた変えてしまったように思います。
党利党略ではなく、生活感覚で考える多くの国民は、野党のボイコット行為を頭では理解しても共感はしないでしょうし、せっかくの議論の場をみすみす無駄に捨ててしまっている野党への信頼感を低下させていると思います。

柳沢大臣の発言は決して個人的な思いの吐露などではありません。
批判している大勢の野党議員にしても、つまるところそうは大きな違いはないように思います。こんなことを言うと批判されるかもしれませんが、これは個人の問題というよりも、今の社会体制の根底にある考え方なのです。
そこを履き違えては、事実は見えてこないように思います。
私たちの頭のどこかにある経済優先の発想を、みんなで克服しなければいけません。
柳沢大臣個人の問題に帰すべきことではない、大きなパラダイム次元の問題なのです。

野党も含めて、今の政治家は国民の中には入ってきていません。
中学生の頃、「ナロードニキ」運動を知り、「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という言葉に出会ったときの感動が、今でも鮮明に残っています。
「人民の中へ」という発想がなければ、社会のパラダイムは変えようがありません。
いまの野党に欠けているのは、その発想ではないかと思います。

■再びの敗戦に向けての先制攻撃型国家への一歩(2007年2月6日)
野党不参加のままで進められている補正予算ですが、ここに重要な内容が盛り込まれているというメールが流れてきました。
要旨は次の通りです。

軍事費が合計711億円と過去最大規模となっていること。
特に、北朝鮮のミサイル・核実験を受けての対抗措を理由に、「専守防衛」の建前を覆し、先制攻撃型へと変質させる内容が含まれていること。そしてその詳細は、軍事機密を口実にブラックボックスに入っていること。

防衛庁が防衛省になり、日本も戦争をしかける「普通の国家」に変質する準備は着々と詳細は、「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」のサイトをご覧ください。
http://www.geocities.jp/nomd_campaign/

民主党の小沢さんはこうしたことには賛成なのでしょうね。
だから審議拒否しているなどとは思いたくありませんが、民主党の小沢さんや前原さん、あるいは岡田さんは、こうした予算は歓迎かもしれません。彼らのこれまでの言動は、安倍さんと同じく戦争支援者であることを示唆しているように思います。

みんなの目が違うところに向けられている間に、こうして着々と社会は変質していくのです。
そして気づいたら、再びの敗戦。
そんなことにならなければいいのですが。

■痛みを分かち合うための条件(2007年2月7日)
また、ブログへのコメントに触発されての記事です。
今日は小川さんのコメントです。

その作業がどんなにつらくても、その先に「希望」を抱くことができれば、それは耐えられるものなのでしょうが、
それを描くことができないから(あるいは信じることができないから)、きっと逃げ出したくなるのでしょう。

小泉首相は「痛みを分かち合って」とよく言いました。
痛みを分かち合うには、未来も分かち合わなければいけません。
それはセットのものです。つまり「痛みを分かち合う」ことは手段概念なのです。
痛みの先にある未来が納得できるものであれば、痛みは耐えられます。
つまりこの言葉は、「夢を分かち合う」ということがあって、成り立つ言葉なのです。
しかし当時、小泉首相は夢を語ったでしょうか。確かに抽象的には語りましたが、みんなが理解できるような形では夢も未来も語りませんでした。
ただ「痛みを分かち合う」ことの大切さを呼びかけたのです。

手段概念と実体概念の混同に関しては、これまでも何回か書きましたが、手段概念のほうが具体的なことが多いので、それが目的概念化されやすいのです。
そこにこそ統治や支配、管理のポイントがあるのですが。

似たことばに「協働」という行政が好きな言葉があります。
私も「協働のまちづくり」の活動に関わったりしていますので、いささか気が引けるのですが、「協働」もまた夢やビジョンがあってこそ成り立つ言葉です。しかし多くの場合、そうした夢やビジョンは抽象的にはともかく具体的な形では存在しないままでの協働が多いように思います。これでは単なる行政の下働きとしての住民活動になってしまいかねません。
ですから私は「協働」という言葉がとても嫌いです。

こうしたことから浮かび上がってくるのは、
お上(官)の指示で闇雲に働かされている民の構図です。
こうした「官民構造」を変えていくことこそが、これからの課題なのではないかと思います。

先がしっかりと見えていれば、私たちの生き方は大きく変わっていきます。
いま問題になっているかなりの問題が解決されていくように思います。
今の日本にないのは、未来に向けてのビジョンかもしれません。
それがないと組織は崩れます。
家庭も地域社会も崩れます。
みんなをわくわくさせるようなビジョンを打ち出さない限り、政権交代は単なる名前の変更だけになるでしょう。
自治体の首長選挙もビジョンがなければ、消去法の選挙になってしまい、結局は何も変わらないでしょう。
時代を変えるためには、ビジョンが不可欠であることを認識すべきではないかと思います。
それは個々人の生活においても同じです。
自らの生活の主役になっていくためには、自らのビジョンが大切です。
それも「希望」を生み出すビジョンが望まれます。
私が今年を「希望の年」にしたのは、そういう思いからです。
しかし「先」を描いて、ビジョンを持つことの難しさを、いま実感しています。
時にはめげそうになりますが、めげれば「希望」はさらに遠くに逃げていってしまいます。
小川さんの痛みがよくわかります。
小川さん。
めげずに前に進みましょう。
お互いに。

■柳沢発言と生権力と成長パラダイム(2007年2月8日)
柳沢発言に関して、問題の大本を考えなければいけないと書いたら、その大本とは何だという質問がありました。それは今の日本社会のパラダイム(基本枠組みの起点にある考え方:社会構成原理)です。
小難しい話ですが、少しお付き合いください。

近代に入り、権力のあり方が変わったといわれます。
ミシェル・フーコーによれば、「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという」新たな権力が登場したのです。
つまり、それまでの権力は人々の生殺与奪の権利を持っていました。
「いのちを奪い取る権力」です。
しかし、近代では「いのちを産出する権力」が重視されてきます。
いわゆる「生めよ増やせよ」です。

その根底には「成長」の思想があります。
国家権力(あるいは組織権力)を高めるためには、人口(組織メンバー数)を増やすことが基本です。
人口こそが国家(組織)の権力や富の源泉だからです。
国王が住民を殺すことは自らの権力を弱めることになる、という発見が行われたのです。
事実、過去においてもそうしたことで滅んだ国家は少なくありません。
以来、国力増強は人口増が基本になりました。
しかし、単に人口を増やせば言い訳ではありません。
働ける人口でなければ、余り意味がないからです。
そこで、「生き方」に関する働きかけが行われだします。
フーコーが「規律=訓練」と呼んでいる、個人を「従順な身体」と化すための管理テクノロジーの展開です。
ジェンダー論や男女共同参画論も、この問題につながっています。
また、「時間」が重要な意味を持ち出します。
時間の意味合いが変わったのです。

時間に関する書き込みが中断していたのを思い出しました。
また書きます。

いま問題になっている出生率などの人口政策や社会政策も重要になってきます。
個々人の問題ではなく、人口的に社会全体の「健全さ」(これも柳沢発言に出てきます)を保ちながら成長を確保していくことが目標になります。
健康管理も食育政策もそうですし、もしかしたら「介護の社会化」も、その流れとして捉えられます。少子化対策はそのものずばりです。

この二つを合わせて、フーコーは、「生・権力」と呼んでいます。

安倍政権の根底にあるのは「成長思想」です。
いや、今の日本は成長パラダイムの社会といって良いでしょう。
そこから出てくる生・権力の政策を象徴しているのが、柳沢発言であり、少子化政策であり、福祉政策と考えれば、その問題点も見えてくるように思います。

ちなみに、生・権力の権力者は誰かということです。
生殺与奪の権力を持っていた国王は、その原初的な段階においては、社会の仕組みとして権力の象徴である国王の生殺与奪の権利を持っていました。
状況次第では国王殺しが制度的に行われたのです。
権力の暴走を規制する仕組みが内在されていたのです。
しかし、新しい生・権力においては、権力の所在が見えにくいために、それが難しく、最悪の場合は、国民殺しになってしまいます。
つまり社会全体の自死現象です。

柳沢発言からは、こうした社会の実相が見えてきます。
それが悪いわけではありません。
それを好む人も少なくないでしょう。
でも、私にはなにか違和感があります。

だからどうするのか。
自らの生き方を確立することが出発点だと思いますが、
オルテガが言うように、
「私は、私と私の環境である」としたら、
こうした大きな時代状況に抗して、自らの生き方を全うすることは世俗を捨てるということになりかねません。
実質的な意味で、そういう生き方に転じている人たちも少なくありませんが、私にはどうもそれができません。
かといって、社会変革を志すわけでもなく、何とかこのブログなどで自己満足的な帳尻合わせをしているわけです。
生き方としては、あまり好ましい生き方ではありません。
いつかこの状況から抜ける日がくるような気はしているのですが。

今日は、ややこしい話を自己反省的に書いてしまいました。
すみません。

■「過労死は本人の自己管理の問題」(2007年2月9日)
言葉の問題で国会が機能していない現状を見ていると言葉を議論したくない気もするのですが、どうしてこう毎日毎日、責任ある人たちからとんでもない言葉が出てくるのでしょうか。
今度は奥谷さん(労働政策審議会分科会委員)の発言です。
「過労死は本人の自己管理の問題」
http://www.asahi.com/politics/update/0207/009.html
この発言は奥谷さんの発言全体を踏まえて理解すべきことかもしれませんが、これに関してすぐ思い出したのが、日本ヒーブ協議会の、たしか15周年記念フォーラムで講演させてもらった時のことです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_d08e.html
ある女性が、「過労死できるほど仕事に熱中できる男性がうらやましい」と本気で主張したのです。
つまり女性は、そういう仕事をやらせてもらえないという指摘をしたのです。
何のためのヒーブかと唖然としましたが、心の狭い私としてはその女性の会社も日本ヒーブ協議会も以来、全く信頼できないどころか、嫌いな組織になってしまいました。
哀しい女性が多すぎます、などと発言すると、私自身の良識が疑われますが、最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
しかし、彼らはジェンダー問題も男女共同参画に関しても、全くその本旨を理解できないでいるように思います。
悪貨が良貨を駆逐するような問題解決の道具にすることは許されることではありません。

人は一人では生きていけません。
昨日話題にした「生・権力」に関して、以前、一度ここでも書いたことがある「社会の喪失」(中公新書)の中で、
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/10/post_6452.html
著者の杉田敦さんは、
「一部の人間が死ぬことによって多くの人間を活かそうというのが、生・権力の核心ではないか」と書いています。
これを自動詞で語れば自爆テロであり、他動詞で語ればコラテラルダメッジです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/01/post_b149.html

さて、過労死とはなんでしょうか。
自死とどう違うのか。
果たして社会的な意味があるのか。
それに関してはいろいろな意見はあるでしょうし、状況によって違いもあるでしょう。しかし、それらが社会の問題を顕在化させる予兆であることは間違いありません。
せっかくの予兆を、個人の問題にしてしまう。
それこそが「組織起点発想」の落とし穴ではないかと思います。

社会のあり方を起点にして個人のあり方を議論するのではなく、
個人の生き方を起点にして社会のあり方を議論することが、大切です。
今はそういう時代なのだと思います。

しかし、こうした問題を議論する人たちのほとんどすべてが、既存の社会のあり方の上にのって成功した人たちですから、そもそも発想の起点も状況認識も違うのです。
社会の体制から落ちこぼれたしまった者の僻みなのかもしれませんが。

馬鹿は死ななきゃ治らないという言葉がありますが、
利口もまた、死ななきゃ治らないのです。
そして、利口は決して馬鹿の上位概念ではないのです。

■ 「戦争への道を許さない!」のリレートーク(2007年2月10日)
「諦めは戦争協力の第一歩!」を合言葉に、26年間、力強く、華やかに、反戦、護憲の祈りを花開かせるために活動している「戦争への道を許さない女たちの連絡会」というのがあります。
そのメンバーが中心になって、昨年12月16日に「戦争への道を許さない!歌い、語る  女たちのつどい」が開催されました。
新聞でも、ほんのわずか報道されましたので、ご存知の人もいるかと思います。
私の愛読誌である「軍縮問題資料」3月号に、そこでの参加者のリレートークが採録されていました。

昨日の記事の中で、
最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたら、早速、お叱りのコメントをもらいました。

さてまた同じ轍を踏みそうですが、昨日の記事の補足を込めて今回も女性問題です。
私は社会を変えるのは女性たちだと思っています。
いつかも書きましたが、
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/05/post_d384.html
映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親が言った「男たちは壊すことしかできない、創るのは女性たちだけだ」という言葉に真実を感じます。
しかし、もちろん「壊すこと」もまた「創ること」ですから、逆の言い方もできるわけですが、出産という現実と子どもとの一体感という点でのつながりという点では、やはりある種のハンディを私たち男性は持っているように思えてなりません。
だからこそ、
最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたのです。
無理かもしれませんが、主旨を読み取ってもらえれば幸いです。

私にとっては女性はそもそも信頼できるのです。
いや信頼したいというべきでしょうか。
何しろ未来を生み出している人たちなのですから。
そして、生活を基盤にしながら(つまり国家を基盤にするのではなく)言動している人たちがたくさんいるからです。
このリレートークの皆さんの発言を読みつないでいくと、大きなメッセージになってきます。
ネットで読めないかと探してみましたが、まだどこにも掲載されていません。
できれば多くの人たちに読んでほしいです。

この会に、山田邦子さんが入会したそうです。
マスメディアで活動している人が、政治家になるのではなく、こちら側で、つまり生活の側で活動し出したら、社会は変わるように思います。
山田さんの寄稿も同誌に掲載されています。
とても元気になれます。

■団塊シニアの地域デビューで思うこと(2007年2月11日)
ボランティアフォーラム2007TOKYOにパネリストとして参加してきました。
私が出た分科会は「第二の人生 あなたはどう描く」で、定年を迎える人たちのボランティア入門編です。いわゆる「シニアの地域デビュー問題」です。
時々、こういうセッションでの話を頼まれますが、いつも参加者のほとんどが当事者ではなく、団塊シニアの社会活動を仕組む側の人たちなのです。
今回もそうでした。
行政や社会福祉協議会、あるいはNPO支援組織などが、NPOやコミュニティビジネスに関わる研修セミナーを開催する場合も、集まるのは当事者というよりも仕掛ける側の人のほうが多いような気もします。
その多くは行政の助成金で行われますから、参加者を集めるために動員すら行われています。
これが多くの自治体で行われているNPO支援活動です。
税金の無駄遣いとしか思えないのですが、もしかしたら今度は価値のあるプログラムかなと期待して、時に参加を引き受けることがありますが、いつも失望して、また当分は参加したくなくなるわけです。
今回は行政ではなく、東京ボランティア・市民活動センターの主催ですから、ちょっと違うかなと期待していたのですが、残念ながら今回もまた、参加者の多くは「仕掛け側」の人でした。
まあ、それが悪いわけではありません。
ただそうであればテーマやスタイルを変える法が効果的でしょう。そういう意味では、ちょっと残念でした。
2時間のセッションのあと、何人かの人がやってきました。
いろいろとやっているが参加者が集まらない。どうしたらいいか。
これが多くの人の悩みです。
この問題は解決するのは極めて簡単です。
面白くなく、役に立たないから、参加しないのです。
それにそもそも「集めよう」などと思う姿勢が間違っています。
だいたい、あなたが企画側でないとしたら参加しますか?
と質問したいのですが、それでは実も蓋もありませんから、さすがの私も初対面の人にはいえません。
それにそういうひとたちはみんな誠実でまじめなのです。
ではどうするか。
自分がやりたいことをやるか、誰か楽しそうに遊んでいる人を見つけて、彼もしくは彼女を支援すればいいのです。それが出来なければやめたらいいだけです。実に簡単な話なのです。
小賢しい仕掛けや小手先の技法など約にはたちません。
団塊シニアを馬鹿にしてはいけません。
企画者たちよりも、よほど厳しい状況の中で仕事をしてきた人たちです。
甘言で騙されるような人たちではないのです。
しかし、みんなどうしたら人が集まるのかという技法論に走ってしまうのです。
昨今のボランティア活動やNPO活動のセミナーなどで話している人たちのほとんどが、そういう発想の持ち主のような気もしますが、それでは効果があがらないのではないかと心配です。
ともかく企画する本人が楽しいと思うことをやればいいのです。
参加者が集まるかどうかなど気にすることは全くありません。
その結果、誰も集まらなくても自分が楽しめればそれでいいのです。
そもそも「社会のため」とか「団塊シニアの第二の人生のため」などという発想自体、目線が高い「お上発想」なのです。
団塊シニアをお客様と考えるのは、行政が住民をお客様と考えるような傲慢さの延長なのです。ちょっと挑発的な言い方ですが。
とまあ、こういうことを伝えたいのですが、私の発想はちょっと論理的でないためになかなか伝わりません。
しかし、長野市のある若い男性が、「誰も集まらなくてもいい」という、私の言葉に感心してくれました。
今日はこの若い人に少し理解してもらえたことで、半日を費やした価値がありました。
ところで、こういう発想でありながら、私自身もこれから「団塊シニアインキュベーションコンソーシアム」のような緩やかな仕組みを創りたいと思っています。
どこかに自己矛盾がありそうな気もするのですが、そうでないような気もします。
この構想はCWSコモンズのサイトで時々書いていますが、仲間を探しています。
関心のある方はぜひご連絡ください。

■拉致問題と核問題のどちらが重要か(2007年2月12日)
北朝鮮による拉致問題の進展がとまっています。
そのうえ、6者協議では日本が拉致問題にこだわっていることが核問題解決の足を引っ張っているというような声もあるようです。
そこで今日は、生活者的感覚による、拉致問題と核問題のどちらが重要かについての私見です。

前にも書きましたが、私は重要なのは拉致問題解決だと思っています。
その理由はこうです。
「北朝鮮の核武装」はなぜ問題になるのでしょうか。
問題は「新たに核武装」することでしょうか。
しかし、米ソをはじめとした、いわゆる「大国」は核武装しておきながら、なぜ新たな核保有国を認めないのでしょうか。
核拡散条約そのものも、既存の核保有国が核廃棄するということがあればこそ意味を持つはずではないでしょうか。
その動きがない以上、ある国家が新たに核保有することを止めることは、論理的ではありません。
拠り所は核拡散防止条約ですが、国際法の規範性は保証されているわけではありません。現に地球環境問題に関わる条約は米国によって拒否されています。
先ずは自らが核放棄してから、新たな核保有に異議申し立てすべきです。
とまあ、その道の素人である私は素朴に考えます。

もしそうであれば、問題は「北朝鮮」が核保有することが問題ということになります。
ではどうして、北朝鮮であれば、これほどの反対が出てくるのでしょうか。
それは、北朝鮮は国際ルールを尊重しないし、第一、何をやるかわからない国家だから、そんな国家には核を持たせたくないということでしょう。

なぜ北朝鮮はそう思われるのでしょうか。
偽ドルを印刷し、麻薬を生産し、他国の人を誘拐するような国家だからです。
国家が、というよりも、そこの今の為政者ないしは政権がというべきでしょう。
つまり、北朝鮮の為政者ないしは政権が信頼できないということです。

もしそうであれば、その為政者を変えることが問題解決につながります。
つまり、核開発が問題なのではなく、拉致問題のような行為を改めようとしない政権が問題なのです。

となれば解決策は明快です。
金政権を倒せば良いだけの話です。
それは内政干渉だということになるでしょうが、そもそも他国の人を誘拐するのは内政破壊ですから、干渉どころの話ではないのです。
窮鼠猫をかむように、暴発するかもしれないという危惧もありますが、噛まれるマイナスよりももっと大きなプラスをこそ目指すべきです。ねずみに噛まれたところで、たいしたことではありません。予防策だって、いくらでもあります。

だんだんまた暴論になってきましたので、批判されそうですが、誘拐犯人や偽札作り犯人を放置しておいて、何が国際平和だと、素人で無分別な私などはどうしても思ってしまうのです。
しかし、何もフセインのように金正日を死刑にしろといっているわけではありません。
せめて政権維持につながるような支援はやめたらいいということです。
政権を支援しなくとも、北朝鮮人民を支援する方法はいくらでもあるはずです。

つまり問題の設定が間違っているのです。
拉致問題を正さずして、核開発をやめさせても、問題は何も解決しないのです。
拉致問題と核開発。核などという言葉に脅かされてはいけません。
私たちにとっては、拉致問題のほうがずっと深刻な問題ではないかと思います。

私の問題の立て方が間違っているのでしょうか。

■パノプティコン型社会とお天道様型社会(2007年2月13日)
昨日、このブログへのアクセス数が900に達しました。
毎日、100くらいのアクセスで、多くても200を少し超えるくらいなのですが、あまりの異常値にちょっといやな気分がします。
おそらく誰かが一挙にすべての記事にアクセスしていったのだろうと思うのですが、なぜでしょうか。

ある人からブログはいろいろな人がチェックしているから、気をつけたほうが良いといわれました。無防備すぎるというのです。
しかし、だからといって、書くのをやめたり、内容を自粛したり、実名を消したりすることは、私の信条に反します。
いま共謀罪や思想チェックの風潮が強まっているといわれます。
であればこそ、実名で堂々と意思表示していくことが大切です。
そうでなければ、共謀罪反対とか管理社会反対などという意味がありません。
自分で、そういう社会を呼び寄せているわけですから。
つまり共謀罪や監視カメラは、そういう人には不要なのです。そういう自己規制している必要とは、もはや自由を放棄しているわけですから、そうした法律や監視体制が出来ても何も困らないでしょう。
むしろそうした体制を支援している存在になっているのです。

これに関しては、パノプティコン(一望監視装置)の話がとても示唆に富んでいます。
ミシェル・フーコーは、ジェレミー・ベンサムが考案した「パノプティコン」を引き合いに出して、新しい権力観を説明しています。
「パノプティコン」に関しては、ウィキペディアに紹介されていますが、簡単に言うとこんなことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
パノプティコンは、円形に配置された独房で、入り口は円の中心に向けられています。その中央部は監視室になっており、そこから各独房の内部が見えるようになっていますが、独房からは見ることができません。そのため独房の囚人は常に監視されている気になり、監視の目を内面化して、自ら行動を律するような「主体」化に迫られています。そして自己規制して生きていくことになります。

なんだか、最近の日本社会を思わせます。
もちろんフーコーもまた、現代の社会を断じているわけですが。
私のまわりのほとんどの人が、すでにこういう意味では囚人化しているような気がします。もちろん私自身も、です。

実はこのブログやCWSコモンズのホームページは、こうしたフーコーのメッセージを少しだけ意識して、監視室の実態を探りたいという意図もあるのです。まあ、ささやかな囚人のあがきでもあります。

このブログは、書き手の私のことは読み手にはわかっているわけですが、
読み手に関しては私にはほとんど見えてきません。
つまり、私は「パノプティコン」の独房にいるような状況なのです。
そこに自らを置くことは、実は自分自身でもまた自らを監視することができるようになります。
管理室を気にする自分、自己規制しようという自分、など、さまざまな発見があります。

しかし、最近、もっと面白いことに気づきました。
日本文化には「お天道様が見ている」という文化があります。
最近はなくなってきたようにも思いますが、私たちの世代であればきっとどこかに埋め込まれているはずです。
この意識が社会の秩序を維持し、管理コストを縮減し、信頼関係を育ててきたように思うのですが、この「お天道様」と「パノプティコンの管理室」とはどこが違うのでしょうか。
私はパノプティコン社会に拒否感を持っており、お天道様社会に憧れているのですが、この二つは結局は同じなのではないかという気がしてきたのです。
なにをいまさら、と笑われそうですが、どうして今まで気づかなかったのか不思議です。

この問題はもう少し考えてみたいと思っています。

■「無知のベール」のもとでの視界の広さ(2007年2月14日)
アミネ一家の強制退去が決定したようです。アミネさん自身は、留学を目的にした再入国が検討されるようですが。
以前も書いたように、国家が法を根拠に、こうした平和な家庭を壊すことには不安がありますが、ブログにコメントしてくれた人のように、違法な入国者を認めることのほうが不安だという人もいるでしょう。
もっとも、このブログで何回も書いているように、違法かどうかはかなり恣意的なものですし、法の精神こそが重要だと思います。
法は問題解決のツールでしかないからです。
それはともかく、この報道を聞いて、改めてロールズの「無知のベール」のことを思い出しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog1.htm#mv

自分自身の位置や立場について全く知らずに(それを「無知のベール」と呼びます)判断を下すことで、自分だけの利益に基づいて判断することを避けることができ、それによって社会全体の利益に向けた正義が実現できるようになる、というのがロールズの正義論です。
もし自分の家族がアミネ一家と同じような状況に置かれたらどう考えるか。
そうした想像力が、さまざまな人が一緒に暮らしていく社会ではとても大切です。
国家や宗教は、そうした想像力を遮断しがちです。
内と外とを峻別してしまうからです。
敬虔なクリスチャンがアメリカのネイティブを殺害できたのも、逆に宗教のせいだったのかもしれません。
異教徒への想像力を抑制してしまうことで、仲間内の「無知のベール」の想像力を高め、仲間のつながりを強めることが出来たのかもしれません。
しかし、いま必要なのは、国家や宗教などのサブシステムを超えた、もっと大きな生命の想像力ではないかと思います。
アミネ一家の事件に限りませんが、私たちは国家や宗教などという人為的な制度に呪縛されずに、一人の人間として、「無知のベール」の世界を広げていくことができれば、きっと世界(人生)はもっと豊かになるような気がします。
テレビや新聞で、さまざまな事件が報道されますが、自分が被害者だったら、あるいは加害者だったら、どうするだろうかと時々考えます。
よかったら皆さんもそうした「無知のベール」ゲームをやってみてください。
事件の評価が、ちょっと違ってくることが、きっとあるはずです。

■「障害」を意識しない社会(2007年2月15日)
昨日、盲ろう者の星野さんからとても面白い話を聞きました。
盲ろう者(視覚障害と聴覚障害を持っている人)の集まりがあるのだそうですが、そこに行くと自分が盲ろう者であることを忘れてしまうというのです。
視聴覚障害に限って言えば、みんな相互に理解しあえるからだろうと思います。
つまり違いに違和感を持たないわけです。
日本人の中にいると、だれも自分を日本人と意識しないというのと同じことかもしれません。
おそらくそこで星野さんが意識する「違い」は、それぞれの個性や意識でしょう。
「盲ろう者」という抽象概念ではなく、表情のある「自分」なのです。
その「違い」はきっと肯定的な「違い」なのです。元気の素になる「違い」です。
この話にはとても大きな意味があるような気がします。
その話を聞いてから、その「大きな意味」は一体何だろうとずっと考えているのですが、のどまで出てきているような気がしながら、それが何かまだわかりません。

視覚障害や聴覚障害は、外部からも知覚できますから、客観化しやすいですが、知的な面や精神的な面になると、その違いはなかなか客観化できません。
発達障害や精神障害は、なかなか外部からは見えませんし、自らもまたそれを自覚しにくいはずです。
もし同じような仲間の集まりであれば、そうした障害を意識しないかもしれません。

しかしいずれの場合も、「障害」は存在しているわけです。
つまり「障害」の有無と関係なく、顕在化する場としない場があるということです。

このことを踏まえて視座を逆転させれば、「障害」を意識しない日常生活の中でも、私たちは言葉としては概念化されていないかもしれませんが、それぞれの「障害」を持っているといってよいでしょう。
その「障害」をある人は否定的に捉え、ある人は肯定的に捉えるわけです。
女は社会によってつくられるというボーヴォワールの発見は、障害にも当てはまるわけです。すべての概念は社会の産物です。

「障害」という表現を使ってきましたが、「違い」と置き換えても良いでしょう。
「障害」はどこに基準を置くかで変わってくるからです。
たとえば人は自力では空を飛べませんから、空を飛べないことは「障害」とは意識されません。しかしもし人間と鳥が同じ仲間として暮らすようになれば、空を飛べないことは「障害」になります。

「障害」はつまるところ「違い」ですし、個性や能力とつながっている概念です。
逆の言い方をすれば、人はみんな、何らかの違いを持っていますから、それぞれに「障害」をもっているわけです。
それを「個性」や「能力」と考えるか、「障害」と考えるか。
それによって世界は大きく変わってきます。

「違い」を活かしあう社会を目指したいと思っている私としては、星野さんの話がずっと気になっているのですが、まだそれが含意するメッセージに行き着けません。
しばらく悩まなければいけなさそうです。

■個人情報保護に関する勘違い(2007年2月16日)
あるところで、最近は個人情報保護で会員の名簿すら作れないという話を聞きました。
そういえば、こういう話が良く話題になります。
今週だけでも2回目です。
私自身もいくつかの体験をしています。
名簿を作ろうとすると誰かが大丈夫かというのです。
イベントなどをやった時も、参加者名簿は配布しないほうがいいのではないかと言われたこともあります。
学校からボランティア参加者の名簿を作りたいのだが、自治会内のボランティアの人に了解を取って名簿を提出してくれないかと頼まれたこともあります。私が自治会長だったからですが、最初から学校でボランティア登録してもらった、名簿を作ればみんなで協力できるはずなのです。
なにかおかしいです。みんな萎縮しているのです。
悪いことをしようというのならともかく、そうでない人が困ってしまうことはないのです。
もっと堂々と名簿を作ればいいのです。
個人情報とは、氏名や生年月日や住所など、個人を識別できる情報のことであって、プライバシー情報とは違います。
昔は電話帳に住所も載っていましたし、同窓会名簿や人名録で生年月日なども載っていました。氏名は人に知らせるためのものですから知られて当然のことなのです。
なぜ隠さなければいけないのか。
ITの発展によって情報社会になったからこれまでとは違うというのが大方の考えですが、問題は情報保護ではなく、個人保護であって、使い方の規制のはずです。
あるいは悪用する人たちの規制です。
個人情報保護法が出来たことで、悪用しようと思っている人たちはむしろ喜んでいると私は思います。いかにも中途半端な情報管理体制が現実ですから、その気になればいくらでも集められるでしょうし、その分、悪さは大規模化するはずです。管理統制すれば、必ずその抜け道を探した犯罪が起こるものです。

女性に歳を聞いてはいけないという、まさに女性蔑視の「常識」がかつてはありましたが、それ以外はすべて大らかに社会に出回っていた情報を、なぜ法律までつくって「保護」するようになったのでしょうか。その理由を考えてみる必要があります。
うがった見方をすれば、情報産業支援と行政の責任逃れです。
さらにいえば、犯罪者支援もあったかもしれません。

個人情報保護法が対象とすべきは、個人情報を集積している行政や公的機関であり、情報の悪用を考えている業者でなければいけません。
私たち生活者が、活動しにくくなるような個人情報保護の動きは本末転倒なのです。
しかし、現在の状況はその本末転倒が起こっているのです。

どんどん名簿を作りましょう。
イベント参加者の横のつながりを作るために、どんどん参加者名簿を流しましょう。
市民活動を規制するような法律は、つまるところ「個人情報」保護の名目で、「個人」保護を軽視しているのです。
個人情報保護などという名目での管理体制化の動きに騙されてはいけません。
個人情報は知られてこそ、意味があるのです。
山奥でこっそり暮らしたいのであれば別ですが、そうでないのであればどんどん個人情報は露出していくのが良いように思います。
それが「つながり」を育てることになるはずです。

それに、個人情報を隠そうとする人を、皆さんは信頼できますか。
私はあんまり信頼できません。
またまた暴言になってしまいました。

■不法と違法(2007年2月17日)
アミネ事件の決着は私にはなかなか納得できませんが、一家にとっては最悪の事態は避けられたのかもしれません。
アミネ一家を支援してきているAPFSから次のようなメールが届きました。

アミネさん一家のようなケースは後をたちません。
私たちAPFSは今後とも長期にわたり日本で暮らした非正規滞在者の合法化−在留特別許可取得のため全力を尽くしていく所存です。

「非正規滞在者」。
新聞などでは「不法滞在」と書かれています。

今朝の朝日新聞に、「違法スレスレ 銀行セールス」という記事が出ていました。
銀行は最近、定期預金の満期直前の顧客を狙って、年金保険などの販売をしているのだそうですが、これは顧客情報を保険販売に使うこと禁じている法律に違反していないのかどうか、微妙なのだそうです。
違反しているのは明らかだと思いますが、アミネ一家とは違い銀行は黒でも白といえるほどの力があるのかもしれません。

ところで、「不法」と「違法」とはどう違うのかが気になってきました。

集英社の国語辞典によれば、「不法」は法に反すること、人の道に背くこと。「違法」とは法律に背くこと。とあります。
「法」と「法律」の違いもありますが、どうやら「不法」のほうが実体的な生活概念、「違法」は規制的な管理概念のようです。
そういう視点で、改めてアミネ問題を考えると、やはり納得は出来ません。
不法行為なのでしょうか。

「不正」「非行」という言葉もあります。
これも前者は実体概念、後者は管理概念だと思いながら、辞書を調べてみました。
同じ辞書によれば、「非行」とは不正な行い、特に青少年の社会規範・法律に反する行為、とあります。「不正」は道義上または法律的に正しくないこと、とあります。
私は「非行」ということばは管理概念の言葉と思っていましたが、不正と同じような意味のようです。

どうでもいいような話を書いてしまいましたが、
こうした言葉を私たちはもっとしっかりと理解しておくべきではないかと、改めて思いました。
言葉で私たちの意識は大きく変えられてしまうからです。
言葉をたくみに操る権力者には注意しなければいけません。

■地域社会は自らを元気にする力を備えています(2007年2月24日)
青森県の三沢市で行われた住民主催の公開フォーラムに参加させてもらいました。
三沢市ではこれまで5年間、行政が補助金を出して、花と緑のまちづくり活動を展開してきたのですが、来年度から補助金がなくなることになったのです。
しかし活動を継続したいという住民たちと行政の一致した思いから、行政からの呼びかけで、どうすればいいかを考える住民委員会が作られました。
私は、その活動のアドバイザー役として、昨年2回、委員会に参加させてもらいました。
その活動発表会として、公開のフォーラムが22日に開催されました。
CWSコモンズにも書きますが、予想を上回る住民が参加し、これからの住民主役で活動が楽しみです。
私は、今回は3回目の参加ですが、その途中で、住民たちの表情と発言がどんどん変わってきたのが感動的です。
最初の委員会では行政への要望や陳情的な発言が多かったのですが、2回目には自分たちはこんなことが出来るというような前向きの発言が増えてきました。
それと同時に表情が輝きだしてきたように思います。
委員会の前後に住民の人たちと話しても、1回目とは違って楽しそうなのです。
そして今回。3つの部会に別れて提案をしたのですが、いずれも行政や誰かに何かを頼むのではなく、自分たちはこんなことをするという提案がほとんどです。
受付などをやっている住民たちも楽しそうでした。
会場からも前向きの発言が多かったのも印象的でした。
夕張市の事例もありますが、住民たちみんなは本当は自分たちのまちを自分たちでよくしたいと思っているのです。
それに住民たちの中にはさまざまな専門家もいるのです。
そうした人たちが、お互いに活かしあうつながりを育てていけば、お金などなくても、まちは育っていくのです。
極端に言えば、これまでの行政は、そうした自発的なまちそだちの力を押さえ込んできたのです。
私は、国土交通省の地域振興アドバイザー制度に基づいて参加したのですが、その国土交通省の勉強会でも、地域を元気にしたいのであれば、霞ヶ関は何もしないほうがいいという話をしてしまったことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#323
もちろん何もしないほうがいいというのは、今のような発想であれば、という意味です。
現場を支援するという視点であれば、いくらでもやることがあるのに、今やっていることは現場を支援する形にはなっていないような気がします。
それが漸く夕張市の事例で顕在化してきたように思います。
夕張市から、きっと新しいまちづくりの歴史が始まるでしょう。
これは何も地域を元気にするという分野だけの話ではありません。
学校もそうですし、NPOもそうです。
「支援」と「阻害」はコインの裏表であることを忘れてはいけません。
持続可能な楽しい活動は「支援」からは生まれません。
行政が助成金をばら撒いている状況は、とても寂しい気がします。

■結果としての格差社会、構造としての格差社会(2007年2月25日)
格差社会論や格差是非論が飛び交っていますが、そんな退屈な議論とは関係なく、さまざまな格差が不幸な事件を起こしていることは否定できません。
たとえば一昨日のあずみ野観光バスの死傷事故。家族経営による無理な過剰労働が起こした悲劇です。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200702240024.html
経営に問題ありと断罪するのは簡単ですが、過当な競争状況の中で事業を継続していくには身を粉にして働かなければならなかったのかもしれません。その一方で、不当労働で高利益を得ている人がたぶんいるはずです。
つまり仕事が二重構造になっているのです。
国際貿易の中でのフェアトレードが問題になっていますが、それと同じ構造が国内にもあるわけです。
問題は結果としての格差ではなく、構造としての格差があることです。

今月北海道で起こったフリーダム十勝の理事長夫妻の悲劇も同じ構造が見えてきます。
http://www.tokachi.co.jp/WEBNEWS/070220.html
この事件は、障害者の自立支援に誠実に取り組んできた夫婦が、自立支援法によって展開してきた施設の運営が継続できなくなり、その悩みから夫が妻を殺害し自らも死ぬという惨事です。
フリーダム十勝のホームページをみると、その悲劇がますます哀しく感じられます。
http://freedomtokachi.fc2web.com/index.html
自立支援法に限りませんが、最近の福祉行政にはいろいろの問題が付きまとっているようです。
そこではNPOが格差構造の一翼を担うことがないわけではありません。
サブシステムとして、NPOが便宜的に使われているわけです。
いずれの事件も、当事者たちが疲れきっていたことが象徴的です。

アミネ事件は少し違うような気もしますが、基準があいまいで、恣意的に結果を出せる不条理な権力構造があるということは、やはり構造としての格差を感じます。
その構造が経済的な格差を現出することはいとも簡単なことです。

力の格差を解消する方向で進んできた社会が、この数年、逆転してきていることに大きな問題があります。
所得格差などは結果としての瑣末な現象でしかないように思います。
ここでも多くの誠実な生活者は目くらましにあっているような気がします。

いずれにしろ、この国は誠実に生きている人にはとても住みにくい国になってきているのではないかと思わざるをえません。
誠実に生きることを放棄する人が増えてきても仕方がないのかもしれません。
誠実に生きることが難しくなってきているのですから。
もちろん私はそういう生き方が幸せだとはまったく思ってはいませんが。

■あなたは誰のために生きていますか(2007年2月26日)
みなさんは誰のために生きているのでしょうか。
「何のために」ではなく「誰のために」です。
「何のために」は手段概念であり、「誰のために」は「生きる」ことに内包された目的概念だと考えています。
生命や生活を支えるのは、きっと「何のため」ではなく「誰のため」です。

昨年、東尋坊で自殺予防の活動を続けている茂さんにお会いした時にもそう感じました。茂さんは著書「東尋坊 命の灯台」でこう書いています。(94ページ)

東尋坊で崖の上から身を投げようとするとき、人は孤独です。
でも、そこに辿り着く前に、とっくに人は孤独になっているのだと思います。(中略)
「あなたは孤独だ。あなたは生きる資格がない」 
一度その声が聞こえ始めると、容易には振り払えない。

孤独とは社会的な死かもしれません。
自殺する人は、その前に死を体験しているのかもしれません。
自殺予防の鍵は、そこにあるのかもしれません。

孤独のなかで社会的に大活躍している人がいるではないかといわれそうですが、その人の心の中にはきっと「誰か」がいるはずです。
そうでなければ活動は持続できないのではないかと思います。
あるいは、落語「粗忽長屋」にあるように自分が死んでしまったのに気づかないだけの話かもしれません。

「誰のために」の「誰」を見つけるのは簡単です。
うれしいこと、悲しいことがあった時に、みなさんは先ず誰に話したくなるでしょうか。
その人が「誰」その人なのです。
どんなに大成功しても、有名になっても、それを分かち合える人がいなかったら、喜びも半減するでしょう。
見ず知らずのたくさんの人が喜んでくれるよりも、身近な誰かが喜んでくれるほうがうれしくはないでしょうか。
分かち合ってくれる人がいなければ、悲しさも倍増します。
人は決して一人で完結しているのではありません。
自立とか自律とかいう言葉がありますが、人は関係性の中においてしか自立も自律もできないのです。

あの人のために生きているという思いこそが、人の生命を支えています。
それがなかったら、人はもっと簡単に死んでしまえるでしょう。
死を阻んでいるのは、死への恐怖ではなく、自分でない誰かへの優しさなのではないでしょうか。

自分の生命を支えてくれる誰かの先には、また同じようにその人を支えている誰かがいます。
そうして支えのつながりは、植物の根のように絡み合いながらどんどん広がっています。
そうしたつながりが育ってくると、社会から自殺も殺人も戦争も貧困もなくなるはずです。誰かを傷つけることは、結局は回りまわって自らの生命を傷つけることになるからです。

問題は、生命を支える、そうした「誰」かが見えにくくなってきたことです。
その一因は、お金かもしれません。
誰かのためではなく、お金のために生きる人が増えているのが寂しいです。
お金は決して、私たちの喜びや悲しさを分かち合ってはくれません。

私の生命を支えてくれているのは女房です。
私は女房のために生きています。
そして女房の先にあるたくさんの人たちのためにも、です。
そこにはおかしな話ですが、自分も含まれています。

みなさんは誰のために生きていますか。

■「社会のため」という大義の意味不明さ(2007年2月27日)
私には理解できない言葉がたくさんあります。
たとえば、「社会のため」という言葉です。
私の言動はすべて「私のため」です。
社会のためという意識はありません。
きわめて利己的なのです。
しかし、利己的であることは利他的に通じます。
近江商人が行き着いた商人道、あるいは宮澤賢治の「世界みんなの幸せがあって自分の幸せが実現する」という世界観のように、社会がたくさんの「私」で構成されているのであれば、「私のため」こそが社会を構成しているのです。
「社会のためにやっています」などという言葉は、私には理解しにくい言葉です。
第一、「社会」ってなんでしょうか。
見る視座や視野によって、全く内容は違ってくるでしょう。
そういう言葉が多すぎるのが現代かもしれません。

社会の最小単位は家族だろうと思います。
その原点はもちろん夫婦ですが、その夫婦や家族がいま大きく変わろうとしています。
男女共同参画は今の夫婦や家族関係を壊そうとしていますし、現代の経済システムもまた、これまでの家族関係が阻害要因になってきているのかもしれません。
いずれにしろ「家族」はいま、危機に瀕しています。
少子化の原因は夫婦や家族の制度の崩壊に起因していると私は思っています。
児童手当などはそれを加速するだけでしょう。
家族のあり方を、改めて考えなおすべき時期にきているような気がします。
家族を軽視して、社会のあり方は見えてきません。
もちろんここでいう「家族」は血縁家族に限っているわけではありませんが。

昨日、「女房のため」と書いたら、女房から「家族のため」ではないのかと指摘されました。
「女房のため」か「家族のため」か、あるいは「自分のため」か。
そうしたところから考えた上で、「社会のため」を語ることが大切ではないかと思います。
自分も家族も、社会の構成要素なのですから。

最近、人生について、いろいろと考えることが多いのです。
歳のせいでしょうか。
いや年甲斐もなく、でしょうか。

■お金で豊かさを買うのではなく、豊かさでお金を買う社会(2007年2月28日)
もう一度だけ、生き方について書きます。
お金と豊かさの関係です。
私たちは、豊かな暮らしのためにお金を稼ごうとしています。
確かにお金があれば、美味しい食事も楽しい旅行もでき、豊かな時間がすごせるかもしれません。
しかし、その一時の豊かさの時間のために、どれほどの豊かな時間や気持ちを注ぎ込んだことでしょうか。
豊かではないたくさんの時間を、わずかな豊かな時間を手に入れるために使っているのではないでしょうか。
お金で快適な家を手に入れることが出来たとして、その家でゆっくりと豊かな時間を過ごすことができている人がどのくらいいるでしょうか。

お金があれば何でも買えるという若者もいましたが、お金で買えないのが「豊かさ」ではないかという気がします。
まあ、「豊かさとは何か」という定義にもよりますが。
お金の多さこそが豊かさの高さを示すのではないかという人もいるでしょうが、豊かではない金持ちも、豊かな生活をしている貧乏人もいます。

私たちの最近の生活は、「お金で豊かさを買う」のではなく、むしろ「豊かさを犠牲にしてお金を稼ぐ」生活をしているのではないかという気がします。
いずれにしろ、お金と豊かさが交換されているわけですが、消費の局面ではなく、労働(生産)の局面で交換されていると考えると新しい風景が見えてくるような気がします。
お金がないから豊かではない、のではなく、本来は豊かな暮らしが出来るはずなのに、それを犠牲にして、その対価としてお金を得ているのが、最近の多くの人のワークスタイルです。
そして、その延長として生活的にではなく、経済的に消費行動をしているのが、若者たちの生き方かもしれません。私には、最近の消費もまた経済活動に組み込まれた貧しさを感じてしまうのです。つまり、消費の局面でも実は豊かさを犠牲にする仕組みが広がっているように感ずるのです。

お金で豊かさを買っていたつもりが、実は豊かさでお金を買っていた。
そう考えてみると、きっと違った風景が見えてくるような気がします。

■「君が代伴奏命令は合憲」という最高裁判決(2007年3月1日)
入学式で君が代を伴奏することを拒否して懲戒処分された小学校教諭が起こしていた違憲訴訟は、最高裁が「公務員は、思想・良心の自由も制約を受ける」とした1、2審判決を支持し、上告を棄却したため、合憲が確定しました。
一昨日の新聞で報道されています。
http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html

おそらく多くの人が、裁判長の「学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めた以上、音楽教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択。職務上の義務として、伴奏させることも必要な措置として憲法上許される」という判断にあまり違和感を持たないのではないかと思います。むしろ日教組の体制批判的なイメージを思い出すかもしれません。

「君が代問題」については、このブログでも何回も書いていますし、CWSコモンズでも書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132
私も4年前であれば、見過ごしていたかもしれません。
私は君が代も歌えますし、日の丸にも特別の違和感はないのです。
そんなことに目くじらをたてることはないではないか、と思っていたのです。
しかし、君が代を歌えず、日の丸の前では立てない渡辺さんの思いを知ってからは、考えが変わりました。
目くじらを立てていたのはどちらか、ということを改めて考えてみると、違った見え方がしてきました。
強制するのではなく、歌えない人、立てない人が、歌えるようになり、立てるようになるにはどうしたらいいかを考えるべきだと考えるようになりました。
サッカー選手が君が代を歌うのをやめさせようなどとは渡辺さんも考えてはいないはずです。
寛容でないのはだれなのか、答は明確のような気がします。
君が代問題の背後にある、私たちが背負っている歴史を、もっと明らかにしていくことが大切です。

この判決には反対意見が付されています。
5人の裁判官のうち、一人だけが、「原告の思想・良心の自由とは正確にどのような内容か検討し、公共の利益との比較についてより具体的に検討する必要がある」と述べ、審理を高裁に差し戻すべきだとしたのです。
敗訴した教師は、「上告して良かったと思っています。藤田裁判官の少数意見が付いたから」と語ったそうです(朝日新聞)。

先日、テレビ朝日の報道ステーションで、40年前の袴田事件の裁判官だった熊本さんが、自らが書いた判決に関して、自分は無罪だと思っていたと告白したことが報道されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
報道ステーションのホームページから引用させてもらいます。

「袴田事件」で、元裁判官が新証言
1966年、静岡県の旧清水市で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、味噌会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌死刑囚が逮捕された、いわゆる「袴田事件」で、担当した元裁判官が心境を語った。「事件の進行具合では無罪だと思った」と語る熊本典道・元裁判官。裁判は3人の合議制で行われ、無罪を主張したのは熊本氏だけだった。法廷に提出された自白調書は45通で、採用されたのは1通のみ。残りの44通は「任意性がない」として却下された。「袴田事件を一生背負っていかなければならない」と語る熊本氏は、袴田死刑囚の再審請求に協力する意向だ。

熊本さんは当時29歳。皮肉にも無罪を主張した熊本さんが死刑判決分を書かされることになったのだそうです。そして熊本さんは、判決の7ヶ月後に裁判官を辞職したのだそうです。袴田さんもですが、熊本さんも人生を大きく変えてしまったわけです。
ちなみに残りの2人の裁判官はもうなくなっています。
なぜ今頃になってと思いますが、熊本さんはその荷物を背負ったままでは死ねなかったのでしょう。いま言っておかねば、という熊本さんの思いが画面から強く伝わってきました。
もし当時、反対意見も併記されていたらどうだったでしょうか。

民主主義とは多数決ではありません。
少数の意見が大切にされることです。
法曹界の人たちが、もし司法の民主化というのであれば、そのことを忘れないでほしいものです。

ひどい裁判が多すぎますが、今回の反対意見の存在には少しホッとしました。

■自殺は卑怯という言葉(2007年3月2日)
先日の朝日新聞の投書欄に、「『自殺は卑怯』胸に残る一言」と題して、命よりも大切なものはないという信念を持って生きよう、という投書がありました。
それに関して、昨日、息子を自殺で失った母親から、「「自殺は卑怯」冷酷な言葉だ」と題して、「意見はもっともだが、私たち遺族にとってはつらすぎる」という投書が寄せられていました。
いずれの人も、何とか自殺を止めたいという思いでは一致しているはずですが、言葉の受け止め方は全く違ってきます。
立場が違うと同じ言葉が全く違った意味を持ってきます。
ですから、相手の立場になって考えることが大切ですが、実際には限界があります。
とりわけ自殺のような問題は、決して当事者にはなりえないのです。
そして、お互いの善意が、お互いの不幸を生み出してしまうことも少なくありません。
私たちは、気づかないうちに、まわりの人を傷つけていることがあるのかもしれません。
言葉とは、本当に難しいものです。
バベルの塔の教訓を、私たちはもっと学ばなければいけないのかもしれません。

昨日投書された方は、最後にこう書いています。
昨年10月、自殺対策基本法が施行された。年間約3万人の自殺者を出す日本の状況を直視することが、故人への批判よりも重要だ。

本当にそう思います。
毎年3万人以上の人が自らの命を絶つというような状況は何とかして変えていかなければならないと思います。
その状況を作り出しているのは、私たち一人ひとりの生き方だとしたら、変えられないはずがないのですから。

■マスメディアの捏造機能(2007年3月3日)
テレビ番組でのデータ捏造行為の発覚がまだ続いています。
まるで、「捏造!あるある大事典」のようですが、そもそもこの事件が最初に起こった時に、どの程度の人が驚いたのでしょうか。
私は何をいまさらという感じでした。
こんなに大騒ぎになるとは思ってもいませんでした。

「産業のジレンマ」と同じ構図がマスコミの世界にもあるように思います。
産業のジレンマとは、産業が新しい社会問題を起こし、市場を自己創出していくということですが、マスメディアもまた、自らが話題を自己創出していくという性格を持っています。
ですから、「捏造」こそがマスメディアの機能ではないかと、私は思っています。
そう考えていますから、何をいまさらと思ったわけです。

「捏造」はマスメディアにはよくある話です。
新聞も含めて、マスメディアに関わって、自らの関わる事実とは違った報道をされて、迷惑を受けた人も少なくないでしょう。
私も何回か体験しました。
マスメディアの「捏造」が犯罪事件を助長した事例もあります。
そもそもマスメディアにおける情報は、編集されるものですから、事実とは別のもう一つの世界になっているというべきでしょう。
ですからそこでの捏造などは日常茶飯事のはずです。
少し思い出してもらえれば、意図的な捏造ではないかもしれませんが、結果としての捏造の例には枚挙がないでしょう。
イラク戦争もサリン事件も、あるいは数々の冤罪も、マスメディアが捏造した(と思える)報道に支えられています。
時に権力は、そうした捏造をマスメディアを使って仕組むこともあるように思います。
マスコミのニュースには、多かれ少なかれ「捏造」の要素が含まれているといっても良いでしょう。
そもそも第二次情報はすべて「意図」と「編集」が入りますから、解釈情報であり、捏造的な要素が入り込むのは当然なのです。
そうでなければ、メッセージ性は高まりません。
「花伝書」を持ち出すこともないですが、事実以上に事実らしくしなければ、情報は伝わりませんし、説得力を持ちません。

そもそもマスメディアとは、そういうものだという認識が大切です。
目くじら立てて、捏造を暴き出していったら、テレビ報道などは成り立たなくなるでしょう。
今回程度の捏造などは、それこそいくらでもあるでしょう。
そんなことよりも、政府や企業や経済界が発信する情報の捏造性をチェックするほうが大切だと思えて仕方がありません。

しかし、捏造って一体なんでしょうか。
そうでないものがあるのでしょうか。
それすらも私にはいささかの疑問があります。

■患者だって医者の役に立っている(2007年3月4日)
今日、NHKで「百万回の永訣〜柳原和子 がんを生き抜く〜」が放映されました。
柳原さんのことは、CWSコモンズにも何回か登場しましたが、「がん患者学」の著書もあり、NHKのがんサポートキャンペーンにも同時進行的なエッセーを連載しています。
柳原さんががんばっている姿は私たちにも大きな力を与えてくれています。
こういう番組は、当事者にはかなり厳しいものですので、見たい気分が半分、見たくない気分が半分というのが正直なところです。
迷っていたのですが、見せてもらいました。
元気そうな柳原さんの姿を見て、とてもうれしく思いましたが、その後ろにある柳原さんの姿も垣間見えて、複雑な気持ちで見せてもらいました。
その番組のなかで、柳原さんがある集まりで、こんな主旨の発言をされています。
患者が喜ぶのを医師が喜んでくれる。患者でも医師に役立つことが出来るんだと思った。
この言葉にとても共感できました。
癒しているのは医師ではなく、患者かもしれない。
そんな思いが、最近強くなっています。
病んでいるのは医師ではないか、というわけです。
病院における医師と患者の関係は、双方向であり、ホスピタルの本質は実は患者が創りだしているのかもしれません。
柳原さんの主治医の一人は工藤医師です。
工藤さんが、自分の専門分野以外は最新の知見は知らないので、他の先生に相談する、というような主旨の発言をしていました。
これにも感激しました。
そんなことは当然なのですが、実際にはほとんど行われていないのも事実でしょう。
最近の医師は忙しすぎるのです。
このブログでも医療時評を始めようと予告したのですが、なかなか書けずにいます。
先週、CWSコモンズには病院の呼び方に関して書きましたが、そろそろこのブログでも医療関係の記事を抑え目に書き出そうと思います。
ところで、タイトルにした「患者だって医者の役に立っている」という言葉ですが、これにはさまざまな意味が込められているように思います。
それはともかあく、この言葉をひっくり返すと、こうなります。
「医者だって患者の役に立っている」
この2つの命題のどちらにより大きな真実があるでしょうか。
今の日本の医療制度の問題の本質は、この2つの命題のどちらに軸足をおいているかに関連しているかもしれません。
視点を変えると風景は全く変わってくることの典型的な一例がここにもあるような気がします。
ちなみに、これから書く医療時評は、そんなラディカルな内容は書かないつもりです。


■冤罪を生みだした検事や警察はなぜ裁かれないのでしょうか(2007年3月5日)
今朝の朝日新聞に富山冤罪事件の被害者への取材記事が出ていました。
http://www.asahi.com/national/update/0304/TKY200703040205.html
富山冤罪事件は、富山県警は1月19日、懲役3年の実刑判決を受け服役した県内の男性(39)が無実だったと発表しました。これが富山冤罪事件です。
いろいろなサイトで取り上げられています。
たとえばこのサイトをご覧ください。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1634184641/E20070201110429/index.html
こうした冤罪事件は、今もかなり多いような気がしますが、それを正す方策がほとんど行われていません。
それを放置しておいて、司法改革などはないと思いますが、警察の民主化は大きなパラダイム転換をしなければいけませんから、統治側、つまり政府は本気では手をつけないでしょう。
時代は暴力的な支配社会からパノプティコン型の自律社会へと向かっているとはいうものの、逆のそうした状況の中では暴力的な支配構造は見逃されやすくなります。冤罪はそうした典型的な事例の一つです。誰も、そんなことはあるまいと考えてしまうわけです。裁判員精度の前に、こうした状況にこそ目を向けるべきですが、そうしたことを隠すためにこそ、裁判員制度は話題にされているというべきでしょう。そこに法曹界の闇があります。司法の役割は、秩序維持ですが、それは正義論とは別の話です。
新聞報道では、県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示しているといいます。なんということでしょう。権力を傘にきた悪代官そのものの構図が今も存続しているのです。しかも彼らがおかした「犯罪〕の償いは、私たち税金から支払われることになっています。
彼らこそ犯罪者として断罪すべきです。
しかし彼らは重過失罪にも問われずに、これからも平和に生活していけるのです。
パサジェルカの世界です。
なかには熊本さんのような方がいるかもしれませんが、問題は構造の問題です。
権力に支えられた仕事とそうでない仕事は、恐ろしいほどに違うのです。
しかも、だれでもが冤罪の被害者になりうるのです。
恐ろしいと思いませんか。

■地球温暖化論議のむなしさ(2007年3月6日)
今年は暖冬でした。
一昨日、私の住んでいる我孫子市ではなんと20度近い温度になったそうです。
街中をTシャツ1枚で歩いている若者にも出会いました。
昨日は鶯が庭で鳴いていました。
どうなっているのでしょうか。
地球温暖化のせいでしょうか。

友人が「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを教えてくれました。
http://tanakanews.com/
そこに「地球温暖化のエセ科学」という記事があります。
http://tanakanews.com/070220warming.htm
昨今の地球温暖化説は政治的なキャンペーンだと言う指摘です。
それが正しいかどうかは私にはわかりませんが、こうした議論を聞く度に思い出すのが、「オゾン戦争」と言われる米国でのフロンガスをめぐる論争です。
これに関しては、三省堂から「オゾン戦争」という本が出ていますので、関心のある方はぜひお読みください。
私もある小論で、その話を書いたことがあります。

フロンガスに関しては今では決着がついているのではないかと思いますが、まだ決着のつかない問題に関しても、予防原則の立場に立てば、対応に仕方はおのずと明らかです。
日本では残念ながら「予防原則」は多くの場合、基準になっていませんが、取り返しのつかない間違いを犯す可能性が少しでもあるのであれば、経済的にも予防原則を採用するべきでしょう。
これは昨日書いた「冤罪問題」のようなことにも当てはまる話です。

私がこうした論争で残念に思うのは、しっかりした相互理解と共創の姿勢が欠落していることです。
たとえば原子力の問題での議論は、多くの場合、すれ違いです。
諫早湾開拓の話もそうでしょう。
みんなが目指す社会はたぶん同じはずなのですが、その判断の元になる材料(情報)と時間軸の取り方で価値基準がかわってしまうのです。
そのため情報のやり取りは行われても、相互に学びあい価値を創りだそうとするコラボレーション(共創)は起こらないことが多いのです。
地球温暖化が進んでいるのかどうなのか、またその原因は何なのか、その速度はどの程度なのか。
そんなことはまだわかっていないはずです。
しかし現実の自然の動きが変調を来たしている事実は否定できないように思います。
その事実をホリスティックに捉えて、さまざまな立場から誠実に議論していくことが大切です。
そういう姿勢がなかなか育ってこないのは残念なことです。
「対立」からは何も生まれませんが、「共創」からはきっと何かが生まれます。

科学とはあくまでもある前提からの論理帰結でしかないのですから、前提の事実が変われば結論も変わります。
そして全知全能の神でないかぎり、その前提要素は可変的なのです。
専門家はそうしたことを自覚しているでしょうが、中途半端な人は前提要素の世界の中でしか発想できません。そうした専門家や科学者が多すぎます。

■病院におけるコミュニケーションの出発点(2007年3月7日)
先日、朝日ニュースターの番組に出た時に、病院におけるコミュニケーションが話題になりました。
済世会関係の病院の院長や入院中の患者もいたので、話はリアルで具体的でした。
その病院では、先ず患者に「セカンドオピニオン」の話をするそうです。
私はこれまで経験したことがなく、セカンドオピニオンをどう切り出せばいいか、今も悩んでいますので、その話には感激しました。
しかしその病院に入院中の人が、「そういわれても実際にセカンドオピニオンを実行するのは難しい」と発言しました。
それもまた同感できます。きっとどこかに制度設計の欠点があるのです。もったいない話です。

以前、女房の主治医とインフォームドコンセントについて話しました。
主治医はとても丁寧に説明してくれますから、何となくわかったような気になります。しかし知識や情報に大きな差があり、立場も正反対ですから、現実には情報を共有するのは至難なことです。
要は医師を信頼できるかどうかというようなことになります。
幸いに私たちの主治医は、そのことがよくわかっていて、制度的なインフォームドコンセントではなく、ヒューマンなカウンセリングを重視してくれています。

コミュニケーションとは何かはいろいろな受け止め方があるでしょうが、単なる情報のやり取りではないということは間違いありません
私は、コミュニケーションとは共有する世界を広げることだと思っています。
そして、コミュニケーションの出発点は「信頼」であり、コミュニケーションの到達点もまた「信頼」であると思っています。

いま通っている病院では、毎回1〜2時間は待たされます。
しかし、医師が「長く待たせてしまい、すいません」と目を見ながらにこやかに言ってくれると、その時点で待たされた時間の不満は氷解します。
そこから効果的なコミュニケーションが始まります。
その一言がない場合は、それだけで疲れてしまいます。
コミュニケーションとはそんなものだろうと思います。
前者の医師は患者の視点で考えていることを感じさせますが、後者の場合は患者を対象物として考えているような気さえします。
医師の忙しさは理解できても、信頼感は生まれにくいでしょう。

病気に関する説明も、まずは患者の話や不安をきちんと聞くことから始めれば、患者が受け入れる話し方が見えてくるはずです。
コミュニケーションにとって大切なのは、「話すこと」ではなく「聴くこと」です。
いくら話しても、相手が聞き入れなければ意味がありません。
そのことを理解している人は決して多くはありません。

最近、病院でのコミュニケーションの問題が話題になってきており、様々な試みが行われだしています。
それはとてもうれしいことです。
しかし、多くの場合、制度的なところにばかり目が行っているのではないかと思います。人間のコミュニケーションは、機械の情報伝達とは違います。
コミュニケーションは、論理の世界の話ではなく、感性の世界の話ではないかと私は思っています。

病院は英語でホスピタルです。
ホスピタリティと同じ語源から生まれた言葉です。
ホスピタリティはサービスとは違い、心を開いた、対等の目線でのもてなしのことです。
病院のコミュニケーションの問題は、そうした視点で考えていくことが大切なような気がします。
そういう視点に立てば、空間設計も含めて、今の病院は大きく変わっていくはずです。

■「鹿児島地検が12人全員の控訴断念」という表現(2007年3月9日)
新聞を読んでいて、時々、あれっ、と思うことがあります。
たとえば、今朝の朝日新聞にこんな見出しがあります。
鹿児島地検が12人全員の控訴断念 
鹿児島県議選で公選法違反の罪に問われた12人全員が無罪になった事件に関する話です。
私が気になったのは「断念」という言葉です。
この事件の真実は、もちろん私には判断できませんが、
控訴を断念したという表現だと、本当は有罪なのだが証明できないので控訴を断念したというようなニュアンスを感じます。底に検察の無念さ、悔しさを感じます。
つまり、裁判では無罪だったのだが、本当は有罪なのだという意味が言外に感じられるということです。
それもそう強くではなく、無意識の次元での話です。
一種のサブリミナリー効果です。
同じ新聞に、この事件に関連して、「警察庁は、全国の都道府県警察に綿密で適正な捜査を徹底するよう通達を出した」という記事が出ています。
この記事は、警察による不適正な捜査の存在を認めているわけです。
警察による不適正な捜査が人権を踏みにじることがあれば、それは立派な犯罪ですが、権力の犯罪の多くは、秩序維持の大義のもとに見逃されるのがほとんどですから、実際には裁かれる犯罪にはなりません。
この2つの記事が含意することをつなげて考えると、いささか末恐ろしい未来が見えてきます。
いや、未来ではなく現在というべきでしょうか。

新聞の見出しは、現場記者ではない人がつけると聞いていますが、
見出しのメッセージの影響の強さを考えれば、もっと慎重であるべきでしょう。
どの視点で記事を総括するかで、メッセージは全く変わってくるはずですから。
ジャーナリストの視点は、常に権力批判的なところに置かれていないと、権力側にとってもその対象側にとっても、良い結果を生まないでしょう。
そうしたことをジャーナリストはもっと認識すべきではないかと思います。
この見出しは、「鹿児島地検控訴せず反省」としたいですね。

■おふくろさん騒動に思うこと(2007年3月10日)
森進一と川内康範のおふくろさん騒動がますます大きくなっています。
先日、川内さんが住んでいた三沢市に行った時に、その話を聞いたのですが、まさかここまで大きな問題になるとは思っていませんでした。
これもまた、今の社会を象徴しています。
私自身は、知的所有権という概念にはあまりなじめない人間なのですが、問題の本質はたぶんそんな話ではないのでしょう。
人と人との付き合い方の基本的な姿勢にあるのではないかと勝手に推測しています。
そういう視点では、川内さんの発言の後ろにあるメッセージに共感してしまいます。
世の中の争いの多くは、ちょっとした考えのずれから始まります。
その小さなずれが、バタフライ効果のように、大きな違いを生み出していきます。
その違いが小さなうちは、お互いに見過ごすか、自分に都合よく理解し問題視しないことがほとんどです。
しかし、その間にそのどちらかにストレスがたまっていきます。
それが閾値を超えると爆発してしまうのでしょう。
そうなるともはや論理の話ではないですから、論理的な解決策は逆効果です。

まあ今回の事件ほど大きくはなくても、こうしたことは誰もがきっと経験していることでしょう。
人の付き合いの範囲が拡大し、時間も忙しくなってくると、誰にも起こりえる話です。
決して他人事ではありません。
みなさんの周りは大丈夫でしょうか。
私の周りは、・・・・、かなり心配です。
私自身の生き方の粗雑さに、この頃、改めて反省をしているところです。

それにしても、日本の社会の支えであった「人のつながり」がどんどんと壊れてしまっている流れを早く反転させなければいけません。
いまの「構造改革」は社会を壊すだけの改革でしかありません。
この数年で失ったものの大きさに、そろそろ気づくべきでしょう。
そう思えてなりません。

■3大関と横綱が敗れました(2007年3月11日)
今日から始まった大相撲春場所で、3大関と横綱が敗れました。
そのテレビを見ていて、今場所の相撲は面白くなりそうだと思った人と退屈になりそうだと思った人がいるでしょう。
皆さんはどちらでしょうか。
私は後者です。
たぶん、今場所の相撲のテレビはもう見ないでしょう。

私は、弱い存在が強い存在を打ち負かすことに拍手を送るタイプです。
典型的な日本人かもしれません。
あるいは自分が強い存在になれない、負け犬的根性が染み付いているのかもしれません。
子どもの頃からいつもそうでした。
このブログの記事も、極めて攻撃的なものが多いですが、
常に攻撃の対象は「強い存在」に向けているつもりです。
もっとも「強さ」と「弱さ」は、コインの裏表ですから、時には弱い存在を批判しているかもしれませんが、私が攻撃して負けるような相手は攻撃をしていないつもりです。
負け犬の遠吠えかもしれません。

にも関わらず、強いはずの大関、横綱がそろって負けてしまうことに、なんとなく気分がスカッとしないのはなぜでしょうか。
別にそんなことに意味などないし、どうでもいいじゃなかいかといわれそうですが、
それで納得せずに、その理由を哲学してしまうのが、私の悪癖です。

きっと私の心のどこかで、
大関や横綱はもはや強い存在ではなく、弱い存在だと考えているのです。
強さと弱さが逆転してしまう。
そんな時代に私たちは生きています。
そんなことをテレビを見ながら感じていました。
先入観を外して考えると、強弱の風景はちょっと変わって見えてきそうです。

■うたごえ喫茶からカラオケへ(2007年3月13日)
女房と近くで開催されたボニージャックスのチャリティコンサートに行きました。
その一部が「うたごえ喫茶」でした。
会場のみんなと一緒に歌うコーナーです。
40年前を思い出して、女房と一緒に久しぶりに歌いました。

私はカラオケが好きではありません。流行していた時にも、仕事の付き合いでカラオケに行くのが苦痛でした。あまり行きませんでしたし、歌いもしませんでした。
会社時代に社長がカラオケというか生オケというか、ともかく好きで、それにつき合わされたのが本当に苦痛でした。全く歌わないわけにもいきませんでしたが、私が唯一歌ったのは、水谷豊の「カリフォルニアコネクション」でした。この歌はアップテンポなのでスマートに歌えるのです。情を込めずに歌えるということです。

カラオケは嫌いですが、うたごえ喫茶の文化は好きでした。
全共闘世代の前の世代なのですが、連帯とか共闘ということにはなぜか心がうずきます。
今でもそうです。

ソーシャル・キャピタル論の原点になった、社会学者パットナムの「ひとりでボーリングをする」という論文があります。
アメリカのボーリング人口はそう減っていないのに、なぜか一人でボーリングする人が増えてきたという問題提起の小論です。
そこから社会の大きな変質が示唆され、ソーシャル・キャピタル論が広がっていくのですが、日本では「うたごえ喫茶からカラオケへ」というのが、まさに社会の変質を示唆しています。
「カチューシャ」や「ともしび」などという、1960年代に大流行した歌を、うたごえ喫茶風に歌いながら、そんなことを考えていました。
コンサートには1500人くらいの人が入場していましたが、少なくとも私の周りの人はほぼすべて歌っていました。しかも1曲は、ボニージャックスは歌わずに、会場だけで大合唱になりました。共通の言語とつながる思いが、まだ残っているのです。
40年前の時代が良かった、などという気はありませんが、思い出すだけでも表情のある物語が際限なく浮かんできます。この30年の思い出とは全く違うような気がします。
日本のソーシャル・キャピタル論を考える視座が、ここにあるような気がします。

うたごえ喫茶で好んで歌われたのがロシア民謡です。
念のために言えば、ソ連民謡ではなく、ロシア民謡です。
ソ連が捨ててきた文化の一つだと思いますが、それもまた実に示唆に富むことです。当時はそんなことには全く気づきませんでしたが。

最近また団塊シニアたちがうたごえ喫茶を再開させているようです。
そのエネルギーは社会と未来に向けてではなく、仲間と現在に向けられているような気もしますが、もしかしたら、また社会が動き出すのかもしれません。
以前、書いた掛川で行われた嬬恋コンサート2006もそうですが、何かが動き出そうとしている気配はあります。
もちろん、それをつぶそうという動きのほうが圧倒的に強いですが、不敵の朝青龍が連敗したように、地盤変化が起ころうとしているのかもしれません。
まあ、私が生きている間には顕在化はしないでしょうが。

■都知事選に4人も立候補してしまいました(2007年3月14日)
都知事選に4人の候補者がほぼ出揃いました。
当選の可能性のあるのはおそらく石原さんと浅野さんだけでしょうが、にもかかわらずなぜ4人も出るのか。選挙はさまざまな意味をもっているのでしょうね。
ただ、上記の2人以外の人が当選する可能性は皆無かといえば、そんなことはありません。過去においても、本命の2人が争っているうちに、予想外の第三者が漁夫の利を得る結果になったことは必ずしも少なくありません。それが良い結果をもたらしたケースもあります。
しかし、今回の知事選に限って言えば、そうした結果にはたぶんならないでしょう。

選挙は啓発やPRの場として捉え、当選は二の次にする考えもあります。
共産党の選挙姿勢は、そうした考えで貫かれているようですが、今回の都知事選もその延長と考えていいでしょう。
もちろん長期的には当選を目指しているわけですが、目先の当選は目指さない考えです。
つまり、共産党にとっての選挙は、啓蒙活動であり、運動といってもいいでしょう。
それもひとつの見識であり、戦略でしょうが、その発想は自らの党利党略を優先していますから、社会の視点は乏しいです。
それが共産党の伸びない理由だと私は思っています。
政党としては、そして主張としては、共産党が一番しっかりしているといつも感じますが、共産党には先ず投票したことはありません。
私が考える選挙ではないからです。

黒川さんやふくろう博士の場合は、どうでしょうか。
まさか当選の可能性があるなどとは思ってはいないでしょう。
黒川さんは石原知事続投を防止するためといっていましたが、そうした選挙観にはとても私は共感できません。
結果的には石原続投を支援することになるでしょうから、その見識も疑わざるを得ません。
強いものに最も利するのは、そうした独善的な視野の狭い言動です。
反権力勢力を無節操に分断する効果しかありません。

もっとも黒川さんの場合は、それを承知でのことかもしれません。
国会議員選挙にも当選の可能性の全くない立候補者が毎回のように立候補しますが、その人たちの動機とそう違わないのかもしれません。
いずれにしろ動機は全く自分勝手で不純だと思えてなりません。
本人はそうは思っておらずに、純粋なのかもしれませんが。

問題は、都知事選で問われるべき課題と都民の判断が結果に的確に伝わることです。
そうした視点から、どういう姿勢で選挙に臨むかを考えるべきだと私は思いますが、そういう視点で考えている人はいないように思います。
おかしな言い方ですが、そういう意味では、石原さんが一番考えているような気もします。
もちろん私は彼のような人はリーダーには相応しくない人だと思いますので、石原さん以外の人であれば、だれでも彼よりはもっと良くなると思っています。

話は違いますが、「平和への結集をめざす市民の風」というネットワーク組織が、平和憲法を守るために、「憲法の平和主義を守り活かす」ことに焦点を置いて、政策の違いや組織の立場を超えて、統一候補に終結しようという活動を展開しています。
その理念に共感して、私も最初は呼びかけ人や運営委員に名前を連ねていましたが、「憲法の平和主義を守り活かす」という一点を基本に、大同団結することの難しさを実感しました。
問題意識の旺盛な方であればあるだけ、小異にこだわり、大同を設計しにくいということも体験しました。そして、活動の目標が、結局は盛りだくさんになったり、小異を捨てられなかったりしてしまい、結集は絵空後地になりかねないのです。
一時は成功したかに見えた沖縄でも、知事選では大同団結できませんでした。
都知事選でも、反石原での結集を働きかけましたが、実現できませんでした。
結果的には浅野さんが立候補したので、かなりの結集は出来そうですが。

体制を変えていくのは至難のことです。
現在の体制が抱える問題はさまざまであり、その批判勢力はどこに重点を置くかで政策や攻め方が変わってくるからです。
その結果、批判勢力はどうしても分散しがちです。
そして反石原の人が3人も出てしまうことになるわけです。
批判票が分散すれば、現体制、あるいは目標が明確な人が戦いやすくなるはずです。
反体制の分散した小さな動きが増えれば増えるほど、体制は強固になっていくのです。
そしてナチスは国家を掌握していったのです。
勢いがついてくれば、それを止めることは難しくなり、このブログのような負け犬の遠吠えは増えても、効果は出てこないでしょう。
困ったものです。

選挙って何なのかを書こうと思って書き出したのですが、どうも違うところに話が行ってしまいました。
最近の選挙って、何なのかについては明日、書くことにします。


■知事選におけるポジティブキャンペーンへの期待(2007年3月15日)
都知事選のことを昨日書きましたが、今日は最近の首長選挙での争点のことです。
最近の首長選挙では、すでに決まったことを中止することを掲げた人が当選することが増えているような気がします。
ネガティブキャンペーンが強い時代になってしまいました。
これは私にとっては、あまり楽しいことではありません。
ネガティブキャンペーンは、人を元気にしません。
人が元気になるのはポジティブキャンペーンです。
ネガティブキャンペーンが優勢になる時代は、決して健全とはいえません。

昨年の滋賀の知事の争点は、すでに工事が始まっていた新幹線駅の新設を中止することが争点でした。
今回の都知事選挙の争点はオリンピック招致中止です。
少し違いますが、長野県知事選の争点も、脱ダム政策の見直しでした。
多くの知事選がネガティブキャンペーンです。
明るい未来のイメージはそこからは見えてきません。

何か新しいことに挑戦するのがリーダーの役割であり、首長を選ぶ場合も、そんなわくわくするような未来への期待や思いがあればこそ、選挙への関心が高まり、そこに政治のハレの場が実現するというのが、私の首長選挙観ですが、そういう選挙は少なくなってしまいました。
ですからどうしても首長選挙には関心が低下しがちです。
それは私だけではないように思います。

どうしてネガティブキャンペーンが増えてきたのか。
それは現実への不満が高まっているということです。
しかも、その現実は未来も含めた現実です。
未来への不安の高まりといってもいいでしょう。

こうした状況が起こったのは、1990年代に入ってからです。
バブルがはじけてからといってもいいでしょう。
世界都市博覧会中止を掲げて青島さんが都知事に選ばれたのは1995年でした。

小泉内閣のキャンペーンもネガティブキャンペーンだったように思います。
わくわくするような未来への展望はありませんでした。
内容のない、小手先の表現で、巧みに言いくるめはしたもの、改革によって実現するビジョンは何も語られませんでした。
その時代がまだ続いています。

未来を語ることで、選挙がハレの場になる時代はいつ戻ってくるのでしょうか。
今回の都知事選で、浅野さんにはポジティブキャンペーンを展開してほしいと思っています。

■都知事選立候補者4人の討論会をテレビでみました(2007年3月16日)
昨夜の都知事選立候補者4人の話し合いをテレビで聴きました。
話を聞いていて、一番魅力的なのは残念ながら石原さんでした。
個人の人間性が出ているからです。好き嫌いはともかく。
それに論理を根底に置きながら、自分の感性で話しています。
黒川さんは論理的ではない上に、感性というよりも感情という感じでした。
浅野さんと吉田さんは話の内容は共感できますが、論理発想が勝っています。
つまり「正しすぎる」ような気がします。
一言で言えば、退屈なのです。
この2人のいずれかが知事になったら、きっと東京は良くなるだろうなという感じはしましたが、面白くはならないだろうなと思いました。
今のような時代には、「面白さ」はとても大切な要素です。

今回は浅野さんで決まりだと思っていましたが、昨日のテレビを見て、わからなくなりました。
石原さんはオリンピックで夢を与えたいと語りましたが、これはポジティブアプローチです。
結果として、夢は悪夢になりかねませんが、やはり心を揺さぶるのは夢とビジョンだと思いました。
皆さんはどう評価しているでしょうか。

■国会での議論のあり方(2007年3月18日)
都知事選候補者たちの討論はなかなか面白いです。
問題がしぼられているからかもしれませんが、議論の中でさまざまな政治課題とそれぞれの姿勢が見えてきます。
議論にも人間性が出ていますし、なによりも自分の言葉で議論されています。

ところが、国会での議論はいつも退屈です。
最近の例で言えば、松岡農水相の光熱水費問題の質疑を聞いているとまったく国会議員というのはどういう人間なのかと疑いたくなるばかりか、こういう議論のために税金を納めているのかと思うと納税意識はとても出てきません。
それにしても国会での議論はどうしてこうも無意味な内容ばかりなのでしょうか。
私は昨年春までは比較的国会実況はテレビで観ていたほうだと思いますが、腹立たしいことのほうが多かったです。
議論になっていないのです。質問するほうも、そうしたことを前提にしているのかもしれません。

せめて国会での議論も、いまの都知事選候補者の議論の水準にはしてほしいと思います。
そうでないと、国政への信頼感や納税意識は育たないのではないかと心配です。
自分の言葉でしっかりと語る政治家が出てきてほしいです。
都知事選に立候補した4人には、それを感じます。

なぜ国会議員にはそれができないのか、その理由はいろいろとあげられますが、おそらく議論すべき課題の水準が違うのではないかと思います。
その議論すべき課題に正面から向かうのが難しいために、問題を安直に摩り替えてしまうことが多いように思います。
松岡農水相の光熱水費問題はその典型例です。
わかりやすいが故に、盛んに取り上げられているようですが、本末転倒な話です。

それに、多額な光熱水費をはらって環境負荷を与えているのではないかというような質問は、テレビバラエティではいいでしょうが、国会で質問すべきことではないでしょう。質問者の見識を疑います。
最近の国会議員の質問は、アリバイ工作と国民の受け狙いに焦点が置かれているような気がしてなりません。

本当に大切なことは、いったいどこで議論されているのでしょうか。
議論はされていないのではないかと、いささか不安です。

それにしても、国会での審議よりも、テレビでの公開討論会のほうが面白く、内容があることが多いのは、どう考えるべきでしょうか。
国会での審議の方法を、そろそろ考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
党議拘束や組織起点発想の呪縛から、そろそろ自由にならなければならないと思います。

■日本の仏教界からのメッセージは何でしょうか(2007年3月19日)
最近、なぜか「仏教」の話題が、私の周りで増えています。
先月から毎日、般若心経を唱えだしたおかげでしょうか。
友人が仏教を学ぶために大学に入るという話を書いたら、それを読んだ友人が、私もすでに学んでいるとメールしてきました。
先週会った友人も、仏教を学ぼうと思っているというのです。
シンクロニシティが起こっています。
先週は2冊の本が送られてきました。
一条真也さんの新著「日本三大宗教のご利益 神道&仏教&儒教」(だいわ文庫)と五木寛之さんの「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)です。
CWSコモンズのブックコーナーで「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)のことを書きましたが、このブログでも少し書かせてもらうことにしました。
いろいろと考えさせられたからです。

たとえば、韓国の仏教界が社会に向けてしっかりとメッセージしているのに対して、日本の仏教界は何をしているのかという疑問が起こりました。
仏教への関心が高まっているのに、有効なメッセージを出せていないのではないでしょうか。もしそうであれば、とても残念な話です。

韓国仏教の根底には華厳思想があるそうです。
いわゆる「一即多・多即一」の思想です。
宮沢賢治の小品の題材にもなっている「インドラの網」も華厳経に出てくる話です。
現代風に言い換えると、ホロニックパラダイムと言っていいでしょうか。
個々の存在と全体像が再帰的に構造化されている世界観です。
近代の基軸になっている要素還元主義とは別の世界観です。
その世界観が、仏教の基本にあることを再認識することはとても重要なことだと思います。
多様性が世界を豊かにする思想が、そこにあります。
同時に、誰か、あるいは何かを傷つけることが、自らを傷つけることであり、自らを傷つけることが誰か、あるいは何かを傷つけることになるという「つながりの思想」が生まれます。
そこでは「自殺」の問題も見え方が変わってくるはずです。
そうしたことを起点にして、発想を広げていくと、おそらく最近の社会とは違った社会が見えてくるでしょう。
韓国が、そうした社会になっているわけではないでしょうが、韓国の仏教界のメッセージは明確なようです。
それに引き換え、日本ではどうでしょうか。
どんなメッセージが出されているのでしょうか。

最近の日本社会の実情を考えると、仏教界が果たせる役割は少なくないように思います。
仏教思想には、未来を解くためのヒントがたくさんあるからです。
いまこそ仏教界が社会に向けてメッセージを出す時期ではないでしょうか。
もっと社会の中に入り込んで、私たちの生き方を問い直す動きを出してもらいたいと思います。
いま動かずして、いつ動くのでしょうか。
宗教は滅びを慰めるものではなく、いのちを輝かすものではないかと思うのですが。

■イラク戦争がはじまって4年目(2007年3月20日)
イラク戦争が始まって4年たちました。
戦争とは不条理で嘘の固まりだといっていいでしょうが、イラク戦争は世界と歴史を壊すほどに大きな不条理と嘘の塊のような気がします。
それを利用した小泉首相の無血クーデター(法と国民の意思を否定しての暴走)によって始まった「日本改革」もほぼ定着してきました。いまや嘘と不条理は、世界を覆ってしまったような気がします。

イラク戦争が始まった時、CWSコモンズのメッセージに、こんなことを書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message17.htm

私は最初、とても悲観的でした。
強者による先制攻撃によって、この数百年、営々として築き上げてきた人類の平和への努力が一挙に崩され、暴力の時代にベクトルが反転したような思いがありました。シジフォスの苦行のように、哀しい奈落のそこへとまた戻ったような気がしたのです。
(中略)
暴力と不条理に向けて、歴史の軸を逆転しはじめたと、先週までは思っていました。
しかし、攻撃が開始されて、違った歴史の始まりを感じ出しています。
そう考え出したきっかけは、世界各地で個人が動き出したことです。テレビの映像がどれだけの真実を伝えているかはわかりませんが、かなり意図的に編集されていると思われるNHKのニュースですら、全国各地の市民の異議申し立てを伝えています。
国家の時代の終わりと個人の時代の始まりを予感させます。

残念ながら、そうはなりませんでした。
イラク戦争が始まる1年半前、女房とテロ対策特措法反対のデモに参加しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#demo
その時、期待と懸念を感じましたが、その後、ピースウォークにも参加したりして、期待のほうが高まっていたのですが、小泉クーデターの勢いには勝てなかったようです。

短絡的だと怒られそうですが、最近の松岡議員のことも電力会社の事実隠蔽も、こうした流れと無縁ではないように思います。
最近、明るい話として流されていることのなかにも、嘘と化粧を感じることが少なくありません。
嘘がはびこる社会になってきてしまったのが、哀しいです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m2

■隠すことのコスト(2007年3月21日)
原発の臨界事故隠しが毎日のように報道されています。
法律上の報告義務はないとしても、当の電力会社自身が、「臨界事故になる可能性も否定できなかった」というほどの重大な問題が発表も報告もされずにいることが「常識」になっているような状況に不安を感ずる人は少なくないでしょう。
電力会社にとっても、これは明らかにマイナスになるはずです。

日本ではまだ「隠蔽文化」が強く残っているようです。
しかし、情報の隠蔽はもはや「過去のこと」になりつつあります。
インターネットのおかげで、情報環境はこの5年ほどでパラダイムを変えたのです。
「情報公開の時代」はとうに終わり、いまや「情報共有の時代」になったのです。
つまり情報は公開されるのではなく、情報は最初からみんなに見えている時代になってきたのです。
情報を隠すことなど、できないのです。
そうした状況の中では、情報を隠すことには膨大のコストとエネルギーがかかりますが、それ以上に隠した情報が発覚した時点で発生するコストは、さらにそれを上回るはずです。
結果として、消滅した会社もありますし、人命すら失うこともあります。
目先のわずかばかりの利得を得るために、取り返しのつかない損失を背負うことは、経済的にも引き合わないはずです。
これは、何も今に始まったことではなく、長年の歴史が明白に証明しています。
水俣病もそうですし、アスベスト問題もそうです。
しかし、問題は利益と損失を受ける人が違うために、そうした不条理なことが起こるのです。
そこを正さなければいけませんが、いまの政治家も財界関係者も、むしろ目先の利益を優先しがちです。
心の貧しい人たちが増えてしまいました。これはたぶん「教育」のせいでしょう。

企業の危機管理の重要性が指摘されだしてから、もう15年はたちます。
しかし、日本の企業は全くといっていいほど、何も学んできていません。
危機管理の教訓は、隠さないことがコストを上回る利益をだすことです。
社会にとってはもちろんですが、当事者にとっても、です。
そのことをしっかりと学んでいれば、隠蔽行為は決して起こらないでしょうし、逆に危機を自らの成長に活かせていくはずです。

原発の臨界事故隠しは、日本のエネルギー政策に悪影響を与えています。
その損失はきわめて大きいことを踏まえて、断罪されるべきです。

ちなみに、私は原発反対論者です。
しかし、それは原発が技術的に危険だからではありません。
専門的な知識がないために、評価できません。
にもかかわらず、反対論者である理由は、原発関係者の情報隠蔽体質です。
当事者に確信があれば、情報は隠しません。
情報を隠すようなことをしている技術や事業には賛成しようがないのです。
素人にはわからないから隠すのだという言い訳は、通らないでしょう。
原発関係者は、自らの情報隠蔽体質や議論回避体質を見直すことが必要ではないかと思います。
電力会社の広報戦略は根本から見直すべきだと思います。
東電や電事連の広報戦略は、結果から見て、完全に間違っていたことは否めないでしょう。
まだ遅くはないはずです。
いまはまさに絶好のチャンスです。
危機管理の本質は、災い転じて福と成す、です。

■徳治国家・法治国家・金治国家(2007年3月22日)
松岡議員に関することで、一番気になるのは、法律(制度)にしたがってやっているのでいいという本人や首相の答弁です。
昨日書いた電力会社も、ホリエモンや村上ファンドもそうですが、経済的な「事件」を起こした当事者がよく弁解に使う理由の一つです。
日本は法治国家ですから、法に従えばいいということのようですが、これに関しては以前も何回か書きました。
「法治国家」とは何なのか。
大切なのは、言葉の定義ではなく、言葉の使い方かもしれません。

法治国家に対して、徳治国家という言葉があります。
しかし、これは対立概念ではありません。
徳が廃れた国家であればこそ、法に頼らなければいけないのではなく、徳があればこそ、法が生きてくると考えるべきでしょう。
言い換えれば、徳がなければ法は、徳を蹴落とす手段になりかねないのです。
最近の日本は、すでにそうなりつつあるのかもしれません。

徳治国家に対しては、金治国家という言い方があるかもしれません。
しかし金(カネ)もまた法と同じく、徳があればこそ生きてくる手段です。
徳を切り捨てた金の横行が目立つ社会は長くは続くことはないでしょう。

徳と法と金。
みなさんは何にしたがって生きていますか。
私はなんでしょうか。
いずれもどうもぴんときません。
人間の生き方を決める、もっと大切なものがありそうです。

■制度にあわせる生き方からの脱出(2007年3月23日)
昨日、最後に、生き方を決める基準はなんだろうかと書きました。
生き方の基準がない人が多くなってきているように思いますが、
そういう人にとっては「制度」(法律もその一つです)に合わせる生き方があります。
問題が生じたら制度のせいにしたらいいのですから、極めて都合のいい生き方です。
最近は、その生き方が大勢を占めているのかもしれません。
いや社会全体が「制度に合わせる生き方」を指向しているともいえるでしょう。
それが「近代化」の一つの側面なのかもしれません。

きのくに子どもの村学園という学校があります。
http://www.kinokuni.ac.jp/
「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに学校を合わせる」という理念に基づいて、創設され運営されている学校です。

ここには大きな発想のパラダイムシフトがあります。
近代の学校はすべて「子どもを学校に合わさせる」発想です。
それが「教育」であり、「教育施設」のミッションだったからです。
個性豊かな子どもたちは、そこで社会の一員として育てられるわけです。
個性が強すぎる子どもは逸脱せざるをえません。

ところが、この学校は子どもたちの多彩な個性を起点に発想します。
一人ひとりの子どもの育ちを支援するために、何が出来るか、何をするかを決めていきます。
そして、生徒である子どもたちの個性に合わせる形で、カリキュラムが設計され、プログラミングされます。
全体から考えるか、個から考えるかの違いです。
個から考えて、全体を構築するのは大変なエネルギーが必要になります。
しかし、全体がうまく構築できれば、管理コストは大幅に縮減できるでしょう。

そもそも個性豊かな子どもたちを一つの制度に合わせさせること自体、無理な話なのです。
かつてのように、管理がアバウトだった時代にはなんのとか矛盾は克服できたでしょうが、最近のように管理が追及され、親の目も届きすぎるほどに届くようになると、逸脱行為は許されなくなってしまい、矛盾は破綻へとつながります。
最近の学校の乱れは、そうしたことの必然的な結果です。
教育再生会議がいくらがんばっても解決できることではありません。
逆に状況を悪化させることになりかねません。

最近の企業も同じです。
企業の実態に合わせないと従業員はつとまりません。
おかしさに気づいても、それを自己納得させないと企業ではやっていけないことが多いからです。
企業は盛んに「企業変革」を口に出しますが、本気で変革しようなどということにはなりません。組織には根強いホメオスタシス機能が働いているからです。
もし本気で企業変革するつもりがあれば、企業を変えるのはいとも簡単なことなのです。企業のパラダイムを変えればいいだけです。
みんなが企業という制度に合わせてしまうと、その企業そのものがパワーを失ってくる時代になってきています。

しかし、制度に合わせた生き方から抜け出す動きも広がっています。
いわゆる「当事者主権」の動きです。
コムケア活動でさまざまな活動に触れる機会がありますが、障害を持つ人たちや社会的弱者といわれる人たちが、自らの声と行動で、制度を変えようとする動きの広がりです。
今のところ、必ずしも成功している事例ばかりではありませんが、制度に合わせて自らを抑えるのではなく、制度を変えようと働きかける人が増えているのは間違いありません。
そして、そうした動きこそが、制度そのものの価値を高め、制度を活かしていくことにつながりだしているように思います。

時代はどう展開していくのか。
それは私たち一人ひとりの生き方にかかっています。
時には制度に合わせることも大切ですが、時には制度から逸脱し、制度を変えるように働きかけていくことも大切です。
制度に合っているからなどという、主体性のない言い訳だけはしたくないものです。

■「病を治すものは自然である」(2007年3月24日)
昨日の朝日新聞の天声人語に、タミフルの問題に関連して、こんな文章がありました。

ヒポクラテスは「病を治すものは自然である」という説を立てたという。治療法として自然の回復力を重んじつつ、病人や症状についての注意深い観察の大切さを説いた。

ヒポクラテスは、ギリシャ時代の人で、医学を科学として確立した「医学の祖」と言われています。

現在の医療体制には大きな違和感があり、素人ながらいろいろと考えることが多いのですが、そうした関心から昨年春に私も「ヒポクラテスの会」を立ち上げて、公開フォーラムを開催しました。
しかしその直後、女房が胃がんを再発し、あまりに当事者になってしまったために、精神的余裕を失い、この会の活動はストップしたままになっています。
会づくりを少し急ぎすぎたため、組織体制ができていなかった結果です。

その後、女房の病気の関係で、当事者的にいろいろと病院体験をしており、いろいろと考える機会が増えました。
書きたいことが山のようにありますが、その反面で書く気力が出てこないという奇妙なジレンマに陥っています。
近代医学や現在の病院への大きな失望感と無力感を、ドサッと背負い込んでしまった感じです。

しかし、この文を読んで、「病を治すものは自然である」ということを私たちはもっと認識しなければいけないことを改めて強く思いました。
ヒポクラテスの会も再開したいと思っていますが、どなたか協力してもらえるとうれしいです。

女房の状況を見ていると、まさにこの言葉が当てはまります。
ちなみに、「自然」には人間の生活やふれあいも含まれていると私は考えています。
アガンペンの言葉を借りれば、ゾーエ(生物的にただ生きている存在としての「素直な生」)としての人間の関係性もまた、広義の自然に含まれると考えるからです。
自然と人間を分けて考えている限り、この言葉は真実味を持ってこないような気がします。
そうした人間さえも含む自然のなかで、私たちは生きています。
ですから病気になるのも病気を癒すのも、基本は自然であることは間違いありません。
そして「自然の治癒力」はとても大きく、時に「奇跡」を起こすはずです。
もちろんそれは、「奇跡」などではなく、小賢しい人智を超えた摂理なのですが。

天声人語は、続いてこう書いています。

ひとりひとりの患者の症状をよく診る。そしてその患者にふさわしい処方をすることを、現代のヒポクラテスたちには期待したい。

日本の現在の病院には「標準治療」という発想があります。
私はこの概念を知った時に、愕然としました。
もし患者の家族ではない時であれば、すんなりと受け入れられたかもしれません。
しかし、患者の視点で考えると、これは結構「冷たい」発想なのです。
昨日書いたことに重ねていえば、これは「制度に合わせた処方」と言えるかもしれません。
私も、天声人語に書かれているように、「その患者にふさわしい処方」を基準にした医療の仕組みが実現できることを願っています。
患者が求めているのは、検査や所見ではなく、治癒なのです。
触診さえしない病院や医院が増えています。
元気づける一言や心和らげる笑顔こそが、最高の治療かもしれないと、最近痛切に感じます。

■ガンジーの予言(2007年3月25日)
CWSコモンズにアンベードカルのことを書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#1227
そこで、アンベードカルに比べたらガンジーは小賢しいというようなことを書いてしまいました。
その後、ガンジー伝を改めていくつか読んで、後悔しました。
ガンジーの偉大さはやはり大きなものがありました。
小賢しさも感じないわけではありませんが、それ以上に大きな人だとも思いました。
私の記事は、その時々の気分で書いてしまうので、後悔することが少なくありません。間違いも少なくありません。知ったかぶる傾向があるからです。
しかし、嘘を書いたことは一度もありません。それが私の信条なのです。

ガンジーのことを書いたのは、昨日、病院のことを書いていて、思い出したからです。
ガンジーは反近代化論を展開していますが、病院に関して、こんなことを書いています。

医者は薬などで表的には病気の苦痛を取りのぞいてくれるが、その結果かえって病気の真の原因(不摂生や油断)を戒めることを人は忘れる。良い薬、良い医者によって、肉体的苦痛を、簡単に一時的に治して貰って健康になったと思っていることの繰り返しで、人は何を失うのか。それは不摂生の助長と自分の肉体に対する精神の支配カである。人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである。

実に核心をついています。
ガンジーが1907年に発表した「ヒンドウ・スワラージ」に書かれていることですが、その書にはこんな文章もあるそうです。
私は引用でしか読んでいないのですが。

「我々はいますぐ即座にあなた方の妄想を解くことはできそうもないが、あなたがたは遠からず、あなた方の自己陶酔が自殺に等しいものであり、あなた方が我々を嘲笑したのは理知の思い上りに他ならなかったことを悟るでしょう」

ガンジーは、近代の本質が、人間中心主義と人間の欲望の解放にあることを見抜き、それとは違う未来に向けての活動を重ねていくわけですが、それは近代化路線を走っている人たちには理解されなかったのです。
私もかなり勘違いしていました。

それにしても、100年前に書かれたこの文章は見事に現在を言い当てています。
「ヒンドウ・スワラージ」に書かれているガンジーの目線の確かさには感動します。
いまの私たちも、まだ妄想から抜け出していないのかもしれません。

■「貧乏はいただきもの」(2007年3月25日)
「貧乏はいただきもの」。
この言葉は、私の友人が創った言葉です。
彼女(その友人は女性です)は、たぶん貧乏なのです。
しかし、たぶん「豊かな人」でもあります。
病気を克服した人から「すごく大切なものを、病気から『いただいた』と思う」と聴いた時に、この言葉がひらめいたそうです。
それ以来、貧乏が一気に楽しくなってしまって、「もう一生貧乏でもいいや」と思ってしまったのだそうです。彼女は、「それはそれで、問題の多い人生哲学ですが」とシャイに語りますが、いやいやどうして、悟りに近い人生哲学ではないかと思います。
かのラスキンもきっと拍手してくれるでしょう。

この言葉の生みの親である「病気はいただきもの」の心境は、私たち夫婦の実感でもあります。
これに関しては、以前、CWSコモンズにも時々書きました。
柳原和子さんも同じような言葉を書いてきてくれたことがあります。
病気をプラスに転化させることは、そう簡単なことではありませんが、マイナスに受けとめてしまうと、その呪縛から抜け出られなくなり、免疫力を低下させかねません。
そうはいっても、柳原さんですら、時には嘆くこともあるでしょうし、女房は落ち込むこともあります。
いつもポジティブシンキングを維持できるわけではないのです。
しかし、少なくとも女房の病気のおかげで私たち夫婦の生活は大きく変わりました。
そして見えてきたことはたくさんあります。
人の優しさ(と時に忙しさ)も見えてきました。もちろん自分たちも含めて、です。
何よりも、これまでの生き方が良かったのかどうか、いささかの不安を持ちながら、いまの生き方を正したいという気持ちは高まりました。
非礼で傲慢な自分も少し見えてきました。

コムケア活動に取り組んで実感したことの一つは、ケアマインドは、ケアされる立場にある人ほど強いということでした。
自らがそうなって初めて見えてくることがたくさんなるのです。
この3年半、痛いほど実感しました。

「貧乏はいただきもの」。
この言葉で、1冊の本が書けそうですね。
いや、新しい歴史が始まるのかもしれません。
ガンジーの反近代化活動は、そこから始まったのかもしれません。

ガンジーの、自らの生命を脅かすまでの断食行為は、飢餓に直面している貧しい人たちとの壁を壊すためだったという人がいます。
そしてそれは見事に成功したわけですが、しかし不可触民との壁は破れず、アンベードカルに糾弾されました。
アンベードカルは「ガンジーは断食など止めた方がいい。無駄死にをするだけだから」と言ったそうです。
ガンジーほどの人でも、「いただきもの」としての「不可触民」との距離は越えられませんでした。

しかし、この世のすべては「いただきもの」かもしれません。
すべての人に「いただきもの」は与えられるのでしょうが、その中身はそれぞれ違うのです。
ガンジーとアンベードカルに贈られたものは違っていたのです。
「貧乏」もまた、それぞれにとって違うものなのかもしれません。

人生そのものも「いただきもの」だと思えば、きっと生き方が変わります。
粗末に扱うことなどできなくなります。

■病院の予約制度を変えませんか(2007年3月27日)
今日もまた病院で2時間近く待ちました。
予約時間よりも10分早く着きましたので、正確には1時間半強ですが。
担当医によりかなり違いがありますが、
今日の医師の場合はいつも最低1時間は待ちます。
それぞれ事情があり、医師が悪いわけではありません。
システムが悪いのです。
予約時間を設定しながら、1時間待たせるのが状態というのであれば、
予約制度は意味がありません。
それを病院経営責任者は気づいていないわけです。
もちろん医師もそうしたことに気づくべきですが、
現代の病院の医師はともかく文字通り忙しいのです。
つまり「心を失い」がちなのです。
医師に限らず、現代人のほとんどすべてがそうなのですが。

こうした基本的なことに気づいていないということは、
もっと大きな問題にも気づいていないことを推測させます。
組織の病理は、こうした些細なところに出ます。
私も一応、経営コンサルタントなので、そういうことは体験的にわかります。
もちろん解決策も、です。
組織の病理を正すのは、いつの場合も簡単です。
簡単すぎるのでビジネスにはならないために、コンサルタントは難しくして、解決しないです。
解決したらビジネス市場はなくなるからです。
少し言いすぎですが、まんざら嘘でもないはずです。

この病院(国立)はとても良い病院なのですが、この待ち時間だけは辟易します。
ご意見箱などがあるので、それに書こうとも思いましたが、患者の立場としては、なかなかその勇気が出てきませんでした。
おそらく多くの患者たちがそう思っています。
隣り合わせた患者とそういう話をすることもありますが、みんな一種の諦めと病院への「服従」感があるのです。
今日も、初めてこの病院に来た人が受付にまだかと訊きに行きましたが、こういうことも多いです。この人も、そのうち慣れるでしょう。
一人の患者としては、「納得」する以外には選択肢はないのですから。

こういう状況を毎週体験していると、人は無反応になります。
奇妙に納得するのです。
アウシュビッツを時々想像します。そんな風景なのです。
今朝も、また今日も最低1時間は待つのだろうと思って、出かけたわけです。

今日は2時間近く待ちましたが、
そのおかげで、やはりこの状況はおかしいことに気づきました。
おかしいと思ったのは、待たされるという状況ではありません。
おかしいと思いながら、おかしいと指摘しない自分の状況です。
おかしいことはおかしいと言おう、と以前に書いたことを思い出しました。
この件に関して、なぜこれまで言わなかったのかという理由は、実はいくつかあるのですが、それにしてもこの件に関する自分の行為はやはり恥ずべきです。
そういえば、最近、そうした妥協体験が増えているような気もしてきました。

辺見庸さんのメッセージ、鶴見和子さんの悔しさ、いろいろと鼓舞されたにもかかわらず、私は動かずにいる。恥ずべき話です。

さて本論の病院の待ち時間ですが、解決するのは簡単です。
予約システムを現実に対応してしっかり組み直せばいいだけの話です。
私に任されれば、1ヶ月で再構築します。
しかし、そんなことをしなくても、代替的な解決策があります。
しかも、それは病院のパラダイムを変えることにつながるかもしれません。

具体的にはこうです。
予約制度を踏まえて、銀行のように受付番号を発行し、その進行状況を表示します。
そんなことはすでにやっているところは少なくないでしょうが、今日行った病院にはありません。
大切なのは、その受付番号と進行状況表示と併せて、自分の番が回ってくるまでの時間をある程度わかるように、それまでの時間を効果的に活用できる仕組みをつくることです。
健康相談でもいいですし、ビデオライブラリでもいいでしょう。
待合室でのリラックス体操でもいいでしょう。
笑いが起こるような場にすることも考えられるでしょう。
ともかく、「病の場」ではなく、「元気がでる場」を創ることです。
それがうまくいけば、病院に行けば元気がもらえる場になるかもしれません。
「病院」などという、自己矛盾した名前からも解放されるでしょう。

どこかの病院で、こうした挑戦をするところはないでしょうか。
わが社(コンセプトワークショップ)でぜひ受託したいと思います。
3億円もあれば実現できます。
場合によっては、美味しいコーヒー一杯でも受託します。はい。

■自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望むことの意味(2007年3月28日)
全日本病院協会による延命治療アンケートの結果が25日の朝日新聞に出ていました。
アンケート調査の結果、「自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望む」という人が多かったそうです。
詳しくは次のブログが取り上げています。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-711.html

この結果をどう考えるべきでしょうか。
この3日間、ずっと気になって考えていました。
「人は誰のために生きるか」の根底には、「人は何のために生きるか」が、実はあるわけですが、生きることの意味が、このデータにも色濃く出ています。
延命治療もまた、家族のためなのかもしれません。
「家族のため」の意味もまた多様ですが、ここでは素直に「家族のため」と考えたいです。
家族の死を体験した人、死に直面した人にはわかってもらえると思います。
人の生命は、実は自分のものではなく、他の人のものという側面が大きいのです。

ある局面では、生きることよりも生きることをやめることのほうが簡単です。
しかしそうした場合でも、死を選ばないのが人間です。
それは「生命」は私的所有対象ではなく、みんなのものだからではないかと思います。
一昨日の言葉を使えば、「いただきもの」なのです。
そうしたことが生命には内在しているように思います。

「生命」はつながっています。
個人の死は、決して個人では完結していないのです。
だからこそ、「生物多様性」の重要性があるのです。
インドラの網のように、あらゆる生命が、私の生命とつながっており、関わっているわけです。

もう一つのメッセージも感じます。
それは、私たちは、家族を延命治療したくなるような生き方をしているのではないかということです。
しっかりと書かないとうまく伝わらないような不安がありますが、
もし毎日をしっかりと家族と暮らしていたならば、延命治療など選ばないのではないかということです。
家族の愛が強ければこそ、延命治療を望むのではないかという気もするのですが、これは悩ましい問題です。

人の生命にかかわる問題はいくら考えても、いつも結論を見出せません。
自らの延命治療の是非を、自らで決めていいのかどうかも、悩みます。

ところで、調査結果をこう読み替えることは不謹慎でしょうか。
「自分は自殺を望むが、家族は自殺を望まない」
これはたぶん事実でしょうが、では「社会」はどうなのか。
安直な延命治療の仕組みやその反対の自殺に追いやるような仕組みが、いまの社会には広がっているような不安があります。
哀しい社会になってきてしまったような気がします。
これも誤解されそうな文章ですね。

■沖縄密約事件請求棄却に思うこと(2007年3月29日)
毎日新聞の西山記者によるいわゆる沖縄密約事件はいまでも強く印象に残っている事件です。西山記者の歴史的なスクープは、国家権力とそれに追随するマスコミによって、矮小なゴシップ事件に貶められ、本質的な問題はいつの間にか忘れられてしまいました。私もすっかり忘れていました。
しかし、その後、西山さんが暴いた事実は、どうやら真実だったことが確実になってきました。そして西山さんは国家の嘘を暴くために、訴訟を起こしました。その裁判の結果が27日に出されました。不思議なことに毎日新聞にはあまり掲載されていないようですが。
判決は請求棄却でした。今回の訴訟は西山さん自身の損害賠償請求という民事裁判だったのですが、「不法行為から20年が過ぎているので、損害賠償請求権は自動的に消滅する」として請求は棄却されたのです。
西山さんの主張はJANJANの記事をお読みください。
http://www.janjan.jp/government/0703/0703202043/1.php

外交機密という言葉があるように、外交には密約は必要だと、私たちは何となく思っています。
国家防衛上、当然ではないかという人もいます。
本当でしょうか。
そもそも国民主権の国家において、国民に内緒での国家防衛戦略などというのがあるのでしょうか。
密約を締結する権限など、首相にもないはずです。
戦時中であれば、そうしたこともありえるでしょう。
それは古代ローマからきちんと制度化されています。
しかし平和時に、国民に隠してまで国家の根幹に関わるような密約があっていいでしょうか。
まさに、そうしたことが問われているのが現代です。
そうしたことを議論する絶好のチャンスでしたが、裁判官はそれを選びませんでした。

主権国家間の戦争の時代は終わろうとしています。
アントニオ・ネグりによれば、今や世界の日常は戦時状況になりました。
それを加速させたのがブッシュであり、小泉ですが、
それによって一見、主権国家の権力は強化されたようにも見えます。
しかし実際に強化されたのは人間を管理する体制です。
ネグりは、そうした国境を越えたネットワーク状の見えない権力を「帝国」と呼んでいます。
スターウォーズやターミネーターの世界がすでに始まっているのです。
小泉やブッシュは、その走狗でしかありません。

西山さんが暴こうとしている「国家の嘘」は、主権国家というものがどういうものなのかの本質を垣間見せてくれます。
しかし、その先にもっと多くの地平を感じます。
戦時状況の中で生きるのではなく、誰もが気持ちよく暮らせる社会にいきたいとのであれば、西山さんたちの活動を見習わなければいけません。
平安は、向こうからは来ないのですから。

■大統領の陰謀と首相の犯罪が存在した良い時代(2007年3月30日)
昨日書いた西山事件が気になって、昨夜、「大統領の陰謀」を観てしまいました。
ウォーターゲート事件を追って、ついにはニクソン大統領を辞任させたワシントンポストの記者を扱った実話に基づく映画です。
もう30年前の映画ですが、テンポのよい、しかも何となく尻切れトンボのような、まさに最近の映画に似た作品です。
最近の映画はますます尻切れトンボが多いですが、まあ、それは今日の話題ではありません。

ニクソンが大統領を辞任したのは1974年ですが、同じ年に日本では田中角栄首相がロッキード事件で辞任しました。
当時は日本にもアメリカにも、志と根性をもったジャーナリストがおり、司法も一応、良心を維持していたようです。
国家犯罪と大統領や首相の犯罪とはもちろん同じではありません。
しかし、昨今のような大政翼賛会的国家体制のもとでは、それらはかなりかぶさっているようにも思います。
これだけ格差が構造化してくると、強いものの側につくことの意味が極めて大きくなりますから、その流れがますます強まるでしょう。
そう思っていたら、まさにそれを象徴するような笑えない話が新聞に出ていました。

朝日新聞の記事の一部を引用します。

山梨県議選で、初当選したばかりの横内知事派が与党議員を増やすため、小泉前首相流に敵対する県議の選挙区に「刺客」候補を立てようとしたところ、その役を買って出る人が次々登場、標的となった県議の引退が続出している。有権者からは「オール与党体質の中で、勝ち馬に乗ろうとしているようにしか見えない」との嘆きも聞こえる。

勢力拡大に喜ぶ声はあるが、知事の選対幹部だった県議などは「誰も彼もが『知事選で応援した』と言うが……」と苦々しげだ。知事が立候補予定者に贈る「祈必勝」の張り紙の依頼は、知事選で敵対した県議からも絶えないという。
知事の後援会幹部の表情は複雑だ。「自称『刺客』まで当選すれば、オール与党で議会対応は楽になるが、議会のチェック機能は期待できなくなる。知事が裸の王様になってしまわないだろうか」

笑い話のような話ですが、こうした動きは決して少なくないはずです。
日本の地方政治は国政がモデルなのですから。
こうした動きが広まれば、選挙は意味を失います。

もっと残念なのは、もはや大統領や首相の犯罪は成立しない時代になってしまったことです。
30年前は、まだとても良かった時代だったのかもしれません。
あの程度の事件で、というとヒンシュクをかいそうですが、まああの程度の事件で辞任させられたのですから。

ところで、私の知人が熟議投票を広げたいと活動しています。
熟議投票とは、千葉大学の小林正弥教授が「熟議民主主義」の一環として提唱されている考え方で、平和への結集を目指す市民の風で話題になっています。
私も共感している考え方ですが、時代の流れはむしろ無議論投票に向かっているような気もします。ともかく「勝ち馬」に乗ろうとみんな動いているのです。
議論の結果の勝ち馬ではなく、議論以前の勝ち馬です。
私のように、勝ち馬にもなれず、勝ち馬にも乗れない中途半端な人間はどうしたらいいでしょうか。
時代を嘆きながら、思索にふけるのがいいかもしれません。
最近、ものすごく学ぶ欲求が高まっています。
今日からラスキンを読み出しました。

ところで、「大統領の陰謀」ですが、
アカデミー助演賞をとったジェーソン・ロバーズ演ずる編集主幹ベン・ブラッドリーの言動は、何回観てもワクワクします。
こうした上司は今の日本の企業にいるのでしょうか。
もしいたら、その職場のメンバーはきっとみんなモティベーションが高いでしょうね。
部下を元気にしたかったら、この映画を観るといいです。

■「女性の社会進出」は何だったのか(2007年3月31日)
自治会の会長を引き受けて1年。明日、会長役を引き継ぎます。
自治会長を引き受けた時は、いろいろとやりたいことがあったのですが、この1年は女房の体調の関係で、私自身極めて不安定な状況になり、秋以降は仕事もやめてしまい、様々な活動も最小限にせざるをえなかったような状況でしたので、結局、何もやれずに終わってしまいました。
しかし、いろいろな気づきはありました。
近くの小学校の学校評議員との合同会議に出て、最近の小学校のおかれている状況を垣間見たのも、地域の防災演習がいかに形式的になっているかを知ったのも、地域の祭礼が仲間内の閉じられた活動から抜け出られない理由が少しわかったのも、世代間の近隣社会に対する考えや位置づけが大きく違っていることがわかったのも、行政にとって自治会がどう位置づけられているのかが確認できたのも、社会福祉協議会や日赤や赤い羽根などの寄付が出資者の意思とは無縁に徴収されている仕組みに驚いたのも、すべて自治会会長を引き受けたおかげです。
自治会(町内会)がもっている可能性を、改めて確信できたのもうれしかったことです。
たまたま三沢市の花いっぱい運動に関わらせていただきましたが、それも合わせて、これからの社会の方向性を考える大きな示唆をもらえたのも、私には大きな収穫でした。
感謝しなければいけません。
近隣社会に顔見知りが増えたのもうれしいことです。
最後の役員会を終えた後、班長の一人が散歩がてらに家族みんなで、実家に咲いていたと言って、紅白の梅の花を持ってきてくれましたが、これが自治会の仕事をした最高の報酬でした。自治会活動以前は、全く面識のなかった人です。

173世帯の自治会なのですが、さまざまな人がいます。
忙しいので班長の仕事もそんなにできないと言ってくる「忙しい」人もいましたし、連絡をしてもナシのつぶての人もいます。
役所の職員と言い合ったこともないわけではありません。
しかし、基本的にはみんなの協力のおかげで、気持ちよく1年を過ごせました。
ただ、困ったことは、班長に連絡しようと電話をしても、なかなか連絡がつかないことでした。
昼間、不在の人が本当に多いことを実感しました。
多くの人が、かなり遅くまでの共稼ぎなのでしょうか。
地域社会が成り立たなくなるのがよくわかります。

1970年代から80年代にかけて、「女性の社会進出」という言葉が盛んに使われました。
当時、私はその言葉に大きな違和感を持っていました。
女性が会社に勤めることは、社会進出ではなく、会社進出であり、社会からの隔離ではないかと考えていたのです。社内レポートで、そんな報告を書いたこともありました。
ちなみに私が会社を辞めた時に雑誌に頼まれて書いた小論は「会社をやめて社会に入る」でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm
会社は決して社会に開かれた組織ではなく、むしろ社会の一員たる意識さえも欠落しているというのが、私の25年間の会社生活の実感でした。
会社の常識と社会の常識の乖離の大きさにはいつも戸惑いがありました。
会社人は決して社会人と同じものではありません。

女性の社会進出こそが日本の社会を壊したのだと私は確信しています。
つまり、会社という働く場に取り込まれていった男性たちの不在の中で、社会を支え、男性を支えていた女性たちまでをも、近代産業の規模拡大のために動員していく、政財界のキャンペーンこそが、「女性の社会進出」だったのです。
しかし、今にして思えば、男性の社会進出こそが必要だったのです。
そして、実際に今、そうした動きが出てきています。

こうした「常識」的ではない私の考えが、最近、正しかったのではないかと改めて思うことが少なくありません。
自治会活動から見えてきたことも、きっと数年後には顕在化していくでしょう。
1年間の自治会の仕事は、とても刺激的でした。

■嘘で覆われている時代のエイプリルフール(2007年4月1日)
関西テレビの「発掘!あるある大事典」のデータ捏造(ねつぞう)問題がまだ話題になっています。かなり厳しい処罰がされているようですが、どうも違和感があります。
以前も書きましたが、この程度の捏造などは、マスコミがよくやることではないかと思うからです。罰せられる人が本当にいるのでしょうか。
もちろん意図的な捏造はそう多くないかもしれませんが、未必の故意的捏造は、日常茶飯事ではないかとさえ思っていました。

捏造はマスコミだけではありません。
昨日の新聞でも電力会社の隠蔽事件の日常化が報道されていますし、松岡議員のようなお粗末な例も含めて政治家の捏造行為は数限りないでしょう。
極端に言えば、彼らの言動はほとんどすべて嘘か無知のかたまりです。

教科書での歴史の捏造も少なくありません。
従軍慰安婦問題や沖縄集団自決問題など、どう考えても真実は明らかです。
真実を明らかにした上で、間違いを正すのは難しいことではありません。
しかし嘘をつきだした人は、なかなか後戻りできないのでしょう。
結局は膨大なコストを国民に強いることになるのです。

裁判での犯人捏造や事件捏造も毎週のように報道が行われています。
今もって冤罪などという言葉が生きているのです。
もっとも沖縄集団自決冤罪訴訟なるものも起こされており、話はいささか複雑なのですが、二重三重の捏造が広がっているわけです。

日本社会はいまや嘘で覆われつつあるのです。
数年前に私が懸念したことは杞憂ではなかったようです。

今日は4月1日。
昔はエイプリルフールなどと言われて、嘘をついても許される日でした。
最近は、だれもエイプリルフールなどといわなくなりました。
毎日を嘘の中ですごしているせいなのでしょうか。
嘘に対して、もはやみんな何も思わなくなってしまったのかもしれません。
裸の王様という寓話がありますが、
嘘を嘘といってしまうと、大人の社会では生きにくいのです。
みなさんは嘘の世界に生きることにもう慣れてしまっていますか。

■統一地方選挙に思うこと(2007年4月2日)
統一地方選挙が始まりました。
私の友人知人が各地で立候補しています。
地元の県会議員選挙にも知人が2人立候補しています。
悩ましい問題です。
いずれもがんばってほしいと思う反面、地方議員選挙に関していつも思うのは、地方議会は本当に必要なのかということです。
結論的にいえば、私は今のような地方議会は全く必要ないと思っています。
いまや国会議員の予備軍育成や選挙対策としての役割しかないのではないかと思います。
こんなことをいうと、立候補している友人知人やすでに議員職にある友人知人には申し訳ないのですが、そもそも国会制度をモデルに地方議会制度をつくった時代状況は過去のものです。
それらは全くパラダイムが違うのだと思いますし、ベクトルも違うのです。
それに情報環境がこの数年で大きく変わりました。
代議制度でなければやれない情報環境ではなくなったのです。
古代ギリシアの直接民主主義や古代ローマの元老院制度のような仕組みのほうが、むしろ効果的かもしれません。
それに、国民主権国家の枠組みが壊れだしていますから、そもそも民主主義発想をベースにした議会発想がもはや機能しなくなっているのかもしれません。
議会の性格や役割が大きく変わってきているのです。
そうしたなかで、果たして今のような地方議会が必要なのかどうか。
自治体の財政立て直しの出発点は議会の廃止ではないかと思います。
議員の人件費の節約の効果もあるでしょうが、それは瑣末なことで、議会の廃止によって自治体職員の仕事が迅速になり効果的になると思います。
いまの地方議員は仕事を邪魔する存在になっているはずです。
首長の専横的執行になっては困りますが、インターネットなどの技術的環境整備とNPOなどの住民組織の成長により、そうしたことにはならないようにいくらでもできるはずです。
高齢社会の到来は、自分の生活だけではなく社会に目を向ける余裕のある人も増やしていくでしょう。
もはや地方議会の役割は終わったのです。

私は数年前に2つの自治体で、そうしたことを長期的に視野においた共創プロジェクトに取り組んだことがあります。残念ながら、その試みは見事に挫折しましたが、そこからいろいろなことを学びました。
まだまだ日本の自治体職員の意識は「お上」感覚や「公僕」感覚です。
そうした上下構造意識を持っている限り、地域主権の時代は来ないでしょう。
そして財政再建も実現しないでしょう。
どこかで議会を廃止する自治体は出てこないものでしょうか。

とまあ、こんなことをいいながら、実際には立候補した友人知人を応援しているのですから、困ったものです。

■地産地労の思想(2007年4月3日)
今朝、みのもんたさんのテレビを見ていたら、夕張市が話題になっていました。
みのさんが夕張市を訪問した時に、市役所を退職されて、まだ新しい仕事が見つかっていない人が、「30分くらいで通える仕事はなかなか見つからない」と話したそうです。
みのさんは、それに対して、東京では1時間から2時間かけて通勤しているのが普通なのに、30分以内で探すとは真剣さが足りないのではないかと怒っていました。
それに対して、コメンテーターの池上淳さんは、「1〜2時間かけて通勤するほうがおかしいのではないか」と発言しました。
少しすれ違った議論ですが、とても重要な問題を提起しています。

「地産地消」が流行になっていますが、私は「地産地労」こそが大切ではないかと思っています。地産地労が実現すれば、おのずと地産地消も進むはずです。
そういう視点からいえば、池上さんがいうように、通勤に1〜2時間かけることこそ問題です。
東京の悪しき常識を押し付けてはいけません。
発想のベクトルは逆転しているのです。
それに、環境問題も地域社会の荒廃も、たぶん子育て問題や介護問題も、すべてはここにつながってきます。
職住接近という言葉もありますし、ワークライフバランスも議論されだしています。
そうしたことも含めて、改めて私たちの働き方や「仕事とは何か」を考えるべきです。

よく地方には仕事がないといわれます。
そんなことは全くないというのが私の昔からの考え方です。
仕事がないという時の「仕事」とは「賃仕事」です。つまりお金をもらえる仕事です。
価値を生み出すということを仕事と考えれば、その気になれば、どこでも仕事はあるのです。いや創れるのです。
金銭の呪縛から解放されれば、仕事はいくらでもあります。
そして、すべての人が、子どももお年よりも病人も、価値を生み出す仕組みがある社会こそが健全な社会ではないかと思います。
私がコムケア活動で目指しているのは、まさにこうした社会です。
「お客様」のいない社会といってもいいでしょう。

私たちはいまの生き方にあまり疑問を持たずにいることが多いです。
みのさんは湘南の自宅からテレビ局まで自動車で送り迎えでしょうから、通勤時間の意味は実感されていないかもしれませんが、毎日往復に3〜4時間かかる生き方は、どう考えても異常です。無駄の多い、環境負荷の高い生き方です。
失業してもなお、30分のところで仕事を探す。そんな甘いことを言っていて良いのかという、みのさんの怒りはわかりますが、視点を変えれば、彼らのほうが豊かなのかもしれません。
第一、賃仕事しなければ生きていけない東京とは違って、たぶん彼らはどうにかなるのです。
それが実は社会が成り立っている証ではないかと思います。

地産地労を壊したのは、産業革命以来の資本主義です。
生活と切り離して仕事を工場に集めたのです。
そして、その先に生まれたのが、「消費」を「仕事」に優先させる経済の仕組みです。
さらに、それが「仕事」とは切り離された「金銭」によって主導される経済になってきたのです。
こうした流れの中には、個人の「生活」は見えてきません。
「生活」を基軸にした新しい経済の仕組みを再構築していくことはできないものかどうか。
それが私の関心事です。

■権力の民営化(2007年4月4日)
以前、駐車違反摘発の民間委託について異論を唱えました。

ところで、その後、違反駐車状況は変わったのでしょうか。
いつの間にかまたもとの状況に変わってしまったような気もしますが、みなさんの周りはどうでしょうか。もし何か変化が起こっていたらぜひ教えてください。

ところで、前と同じになっているなと思いながら、今日も歩いていたのですが、その時に「権力の民営化」という言葉が浮かびました。
書き出すと長くなるのですが、忘れると悪いので簡単に書いておきます。
フーコーのパノプティコンともつながってくる話だと思います。

いま進められているのは、国営事業や公益事業の民営化ではなく、権力の民営化なのだと考えると、また風景が違って見えてきます。
かつてのように、外部から見える絶対的な権力主体は少なくなりました。
主権国家といえども、アメリカは別かもしれませんが、それ以外はたいした権力も持っていません。ブッシュがその気になれば、先制攻撃を加えて、主権を踏みにじることができるのです。
その一方で、権力主体は分散し、見えなくなってきています。
9.11事件を起こした主体は見えてきません。
ですから、犯人はブッシュ政権ではないかという噂すら流れてしまうわけです。
絶対的権力ではなく、相対的権力、あるいは相互抑止力が社会を覆いだしています。
相互抑止力は相互支援力とも似ていますが、これは両刃の剣です。

「権力の民営化」は、こういう状況の中で進められているわけです。
パノプティコン社会の中で、権力を分散するほうが、メタ権力を生み出せるからです。
つまり、少数の支配が「民主主義」をテコにして成り立つわけです。
実は、そうしたところに「民営化」の本質があるのかもしれません。
「権力の民営化」という視点に立つと、社会構造原理も再考しなければいけないかもしれません。
ちょっと小難しいことを書いてしまいました。
こういう議論をしに来る人はいないでしょうか。

■多数決は民主主義とは無縁(2007年4月5日)
直接民主主義を追及しているリンカーンクラブ代表の武田文彦さんとは、民主主義と多数決原理について、よく論争します。
もっとも発想の起点が違うので、議論にならずに言葉の応酬になりがちで、平行線で実りの少ない議論ですが。

多数決は民主主義とは無縁だと私は思っています。
民主主義は「思想」であり、多数決原理は「手段」だと思うからです。
民主主義が実現しているところの多数決結果と情報操作が行われたり、強力な権力者がいたり、大きな格差があるような社会の多数決結果は全く違うものになるでしょう。
未練がましいですが、郵政民営化が多数決で決まりましたが、みんなが情報を共有し、熟議が行われていたら違っていたはずです。
あれは多数の声が実現したのではなく、少数の利権者が多数工作をしただけだと、私は今でも思っています。

民主主義とは「少数派の発言の機会が保証されていること」と言ったのは、ジョン・S・ミルだそうですが、私はそれに加えて、不条理な格差がないことが大切な要件だと思います。「保証」の意味に含まれているのかもしれませんが。
もっとも、「少数派」とは何か、「不条理」とは何か、も問題です。
民主主義は、一人ひとりから発想して全体を構築する思想だという捉え方もできます。
そうなると、社会の構造原理は今とは全く違ってきます。
繰り返し書いているように、これまでの社会構造原理は、全体(社会)を起点として発想しています。統治者や管理者や研究者の視点です。

個人起点で考えると社会の構築の仕方は一変します。
先日、地方議会不要論を書きましたが、コモンズ型の地方議会をモデルに国会を構想すると、たぶん新しい地方議会の存在価値が生まれてくるでしょう。

物事を考える発想のベクトルを逆転させなければいけません。
そして、いまはそうしたベクトルの転換が求められているように思います。
転換してしまうと、今の時代は住みにくくなりますが。

■2児拉致容疑事件と国家の暴力観の変質(2007年4月6日)
近代国家を成り立たせている考えの根底には「暴力の独占」という考え方があります。
国家は国内の暴力を規制し管理する、暴力の独占主体になったことで、主権を確立したわけです。
秀吉は刀狩によって暴力手段を独占し、徳川幕府は私的な仇討ちを禁止し、暴力を管理しだしたわけです。
現在、そうした意味では、近代国家の存在はいささか危ういものになっていますが、逆にそうであればこそ、暴力の管理機関(ということは実施主体でもあるわけですが)としての国家が改めて必要になってきているという言い方もできるわけです。
「国家」とは「悪」を「正義」に変えるフィルターですから。

昨日、新聞で北朝鮮の2児拉致容疑事件が報道されました。1973年の事件です。
捜査が本格化されるそうですが、いまさらなぜ、という気がします。
しかし、国家による暴力の独占という視点から考えると、そうおかしなことでもないわけです。いや、それこそが国家の本質だといってもいいでしょう。

北朝鮮の拉致事件は、国家の行為による「正当な暴力行為」です。
ついでにいえば、偽ドル札づくりも、「正当な行為」かもしれません。
これはもう少しきちんと書かなければいけませんが。

最近の風潮は、しかし、その国家暴力への異議申し立てが、人権思想を背景に高まってきているということです。
このことは30年ほど前に、「21世紀は真心の時代」という小論で少しだけ書いたことがあります。まだ状況認識は極めてあいまいでしたが。
そうした流れの中で、いま、北朝鮮の拉致問題が批判の対象になってきました。
つまり、国家が独占していた、暴力の正当性が揺らぎだしているのです。
大きな地殻変動の予兆を感じます。

ところで、2児拉致容疑事件問題ですが、おそらく事件発生当時から日本の当局は「事件」への疑いを持っていたでしょう。
しかし、そこに踏み込むべきかどうか、が議論されたのではないかと思います。
北朝鮮と同じように、日本という国家もまた「暴力」を独占していますから、それを「暴力」と認定するかどうかは考え方一つなのです。
言い替えれば、拉致行為も拉致への対処行為も、実は国家による坊量区行為の裏表だということです。
そこを覆せるのは、個人の生活や人権思想に立った「人間の異議申し立て」活動です。
暴力を正当化する仕組みは、克服されなければいけません。
しかし、まだ1世紀はかかるでしょうか。
せめて「正当な暴力」への批判力は持続していきたいものです。

■スクエアになった朝日新聞(2007年4月7日)
朝日新聞の紙面の構成スタイルが変わりました。
一言で言えば、「四角」になったのです。
題字の印象も変わりました。
毎日新聞や産経新聞と似てきました。
誌面割りは四角のユニットで切り刻まれてしまいました。
読みやすいのかもしれませんが、なにやら味がなくて、退屈です。
おそらくそれは内容にも通じているでしょう。
それぞれの記事が切り離されてしまい、しかも枠組みに合う分量になってしまったのですから、おのずと記事内容も変わっていくはずです。
読者もきっとお目当ての記事を「スクエア」に読んでしまうでしょう。
これまでの紙面構成に慣れているものにはとても退屈で味気なく、なにやらR21のコラム記事を読んでいるようです。
最近、街はまた「猥雑さ」が見直されてきたように思いますが、新聞雑誌はまだしばらくはスクエア路線なのかもしれません。
バーチャル空間とリアル空間の、こうしたタイムラグはもしかしたらつながっているのかもしれません。
新聞の性格もこの10年で大きく変わってしまったように思います。

■都知事選の常識的な結果(2007年4月8日)
8時からのテレビの報道で、東京都の都知事は石原さんの圧勝と言っていました。
開票前ですが、出口調査でほぼ確実にわかるようです。
他の県知事もすべてもう結果は判明しているような報道でした。
選挙ってなんなのでしょうか。
いつも出口調査報道を見て、納得できない気分になります。

予言の自己実現というのがあります。
予言が意識化されることで、関係者の行動が変化し、予言が現実のものになるということです。
予言は、予言することで実現するわけです。
そうしたことを言い出したR.K.マートンによれば、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」です。マートンは「自己成就的予言」と呼んでいます。
多くの占いは、こうしたことを背景に成り立っています。
私たちの多くの生活もまた、こうしたことで安定しています。

選挙に勝つ出発点は、勝つという予言を広げてしまうことです。
小泉さんも石原さんも、そうしたことが得意です。

ところで、出口調査ですが、出口調査で結果が読めるのであれば、出口調査的なアンケート調査でも結果は読めることになります。
その技術が精度を高めれば、選挙など不要になります。
それをもう一歩進めれば、予言によって選挙結果は変えられるかもしれません。
20世紀のドイツは、その実例かもしれません。
しかし、現代は当時以上に、そうしたことが簡単に出来そうです。
以前書きましたが、いまは誰もが競って「勝ち馬」に投票する時代なのです。
問題は、予言の神託は誰が発するかです。

私は、浅野さんが当選すると予言していました。
もちろん、そう確信していました。確信せずして、予言は出来ません。
予言は「いのち」を持ち出すからです。
しかし、残念ながらその予言は成就しませんでした。
そういう予言を強く持てる人が少なかったのでしょうか。
つまり、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」にはならなかったのです。
予言が成就する時と、成就しない時との、分かれ道は何でしょうか。

今回の知事選挙は全国的にみても、閉塞状況を打破するような、新しい風は吹かなかったようです。
予言が不在だったのでしょうか。
予測が勝ったのでしょうか。
いずれにしろ、流れは変わりませんでした。
どなたかから叱られましたが、最初から私の予言は流れから外れていたのです。

しかし、大切なことは、当てることではなく、思いを持つことです。
次回もまた、同じように、当たらない予言を確信するようにしたいと思います。
少し負け惜しみの感がありますが、私は負け戦や予言はずれが性に合っているのです。
そして、きっとまもなく、勝敗の関係は逆転するはずです。
まあ、これも私の強い予言なのですが。はい。

■裁判員制度の意味することの顕在化(2007年4月11日)
裁判員制度実施に向けて模擬裁判が行われていますが、そこから出てきた問題点が朝日新聞で報道されていました。
http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY200704090300.html
一部を引用させてもらいます。
市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させるために09年までに導入される裁判員制度で、プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念が強まっている。法曹三者が、全国で行われている模擬裁判の検討を進める中で、課題として浮上してきた。

もしこの文章が正しいのであれば、気になる点が2つあります。
まず、「市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させる」という点です。
市民の健全な常識と司法界の人たちの健全な常識は別だということを意味する言葉です。
市民の常識にはかぎ括弧がついているのも意味ありげですが、これは朝日新聞の書き手の勝手な考えでしょうか。
それはともかく、両者の「健全な常識」の違いこそが問題なのですが、それを正すには、どちらがどちらに合わせるかというのが次の課題です。

それに関して、「プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念」というくだりが問題を顕在化してくれています。
裁判員制度は、「市民常識」を「司法常識」に合わせることを「正す」ことが読み取れます。
そんなことは最初からわかっていたことだろうと思っていましたが、これほど露骨に行われるとは思ってもいませんでした。
意図的なリークとさえ、思えるほどです。
「賢い」司法界の人たちが、「馬鹿な」市民を啓発してやるというのが、今度の裁判員制度の目的だと私は思っています。
それこそが近代のパラダイムなのですから。
この制度は、制度起点パラダイムの延長であり、社会状況への認識において間違っているというのが私の考えですので、批判的に考えすぎているかもしれませんが、実際には模擬裁判によって、そうした真実が露呈してきているのだろうと思います。
発想のベクトルを変えなければいけません。
つまり、「馬鹿な裁判官や検事や弁護士」を「賢い住民」が啓発していく仕組みにしなければいけません。いつの時代も、額に汗して働き生きる人が一番賢いのです。
これはまさに「地方自治」の世界で進められてきたことと同じです。
そのために支払ったコストは膨大でした。
法曹界もまた同じことをやろうとしています。
こうした状況を変える方策がないわけではありません。
ファシリテーターが参加し、議論の外からバランスを取る仕組みを創ればいいのです。
こうしたことは、地方自治やコミュニティ活動などで多くの知恵と体験が得られています。そこから学ぶことは少なくありません。
それによって、裁判員制度導入による大きなダメッジは避けられるかもしれません。
しかし、もっと大切なことは、裁判や取調べの透明化です。
そこをおろそかにして、いくら形を整えても、流れは変わりません。
お金と時間の負担が増えるだけです。完全に時代に逆行しています.
流れを変える気が、もしあるのであれば、発想を一変させなければ、司法改革などできるはずがないのです。
その気になれば、企業を変えるのは簡単なように、社会を変えるのは簡単です。
しかし、誰も本気では変える気がないのです。
裁判員制度のようなことを考えて、ともかく延命を考えるわけです。
しかし、じわじわと社会が変わりつつあるのも事実です.
見えない変化が、見えてくるのはいつでしょうか。
そうした変化が、見え隠れしている時代を、私たちは生きているのだろうと思います。
しっかりした眼を持つことが大切です。

■無党派層から勝ち馬政党層への移行(2007年4月12日)
統一地方選挙の前半結果から見えてきたのは、政党政治が自治体にまで広がっていることです。当選者を見ると政党基盤に立っている人が多いのに、改めて驚きます。
政党離れが始まったのかと思っていた私には意外な結果です。
もっともそれが予想できなかったわけではありません。
私の友人知人がこれまでも何回か地方議員として立候補してきましたが、昨年あたりからみんな政党の公認を受けるようになりました。
私にはとても違和感がありますが、それが現実なのでしょう。
無党派層が多いのではなく、勝ち馬政党層が増えているのです。
政治の質が変わったのです。
個人が個人で社会的に言動することが民主主義の基盤ですから、民主的な社会は霧散したといっても良いかもしれません。

選挙に質も変わりました。
私の友人が立候補した時、応援してくれた私の友人から、何が何でも当選するという意気込みがなければ次は応援できないといわれました。
選挙は当選してこそ、意味があるというのです。
私はそうは思いません。
当選か落選か、選挙の意義はそこにはないと思うのです。
しかし多くの人はそう考えています。
白黒つける偏差値教育で洗脳されているからでしょうか。
そうした考えの延長に、当選すれば何でもできるというとんでもない発想が生まれます。

そうした状況が広がれば、みんな勝ち馬に乗りたくなるでしょう。
ともかく当選しなければならないのです。
それに今や議員は職業になってきました。
私自身は議員と政治家は別のものだと思っていますが、いまや議員こそが政治家です。
まあ、そんなこんなで、私の友人知人もほぼ例外なしに政党に入りました。
そして当選率は急上昇です。
後半に立候補する友人知人も、きっと当選するでしょう。
地方議員の友人が私には増えるわけです。
彼らの社会への影響力は高まり、私の住みやすい社会に近づくかもしれません。
でもどこか違うような気がします。

改めて今こそ、民主主義のあり方を考えてみる時期かもしれません。
硬い組織で成り立っている政党ではなく、やわらかなオープンネットワークのスタイルの仕組みが、政治の世界、とりわけ地方政治を民主化していくのではないかと思うのですが、時代の流れは正反対を向いています。
負け戦が好きな私としては、気持ちが悪くて仕方ありません。

■家事とビジネスとどちらが難しいでしょうか(2007年4月13日)
最近、女房や娘に任せていた家事をちょっとだけ分担しています。
そこで感じたのは家事に比べたら、ビジネスの仕事などいとも簡単だということです。
これには異論のある方もいるでしょう。
もう少しきちんと説明したほうがいいかもしれませんが、たとえば食堂での食事をつくるのと家族のための食事では、前者が簡単なのはお分かりいただけるでしょうか。
なぜ簡単かといえば、前者はつくりたいものをつくればいいからです。できたものを食べたい人が食べればいいのです。それに毎日同じものを作っていればいいのです。食べる人は変わるのですから。
しかし家族のための食事は、家族が食べたいものを、その家族の健康状況や人生を考えながらつくらないといけません。しかも毎日同じ人が食べるのです。毎日メニューを変えなくてはいけません。
先日、CWSコモンズのほうに百姓のことを書きましたが、百姓仕事、最近の言葉を使えば農民の仕事と工業関係の仕事を比べたら、これまた工業の仕事は簡単です。
これも異論があるでしょう。
しかし工業の世界はマニュアルがつくれますが、自然相手の農業はマニュアルなどあてにはなりません。自然は毎年同じとは限らないからです。
いまの時代には、家事はビジネス仕事よりも下位におかれ、農業も工業よりも下位に見られていますが、とんでもない話です。
世界に冠たる大企業の社長も、家に帰ったら奥さんに頭があがらない存在かもしれません。生活面では、たぶん自立していないでしょう。
そうした自立もできない人が現場で汗している自立している生活者に訓示を垂れている風景は、私にはとても滑稽に感じます。
百姓を見下す工業エンジニアにも可笑しさを感じます。
私はただいま、家事見習い中ですが、難しいものです。
最近は資格認定が多いですが、役にも立たない資格認定などやめて、家事資格というのを始めたらどうでしょうか。
目標を与えられるとがんばってしまう男性たちがこぞって家事を学びだすと、もしかしたらまた日本の家庭は世界に誇れる家庭になるかもしれません。
いや、ますます悪くなりますね。
どうせ資格制度をつくるのであれば、百姓資格認定がいいですね。
私などはまだ「十姓」くらいでしかありませんが。
現代社会の仕事観は根本から変えていかねばいけないと思っています。
本当に価値のある仕事をしたいものです。

■不幸と幸せはコインの表裏(2007年4月14日)
コミュニケーションの出発点は自らの弱さ(ヴァルネラビリティ)を見せることだということは以前、金子郁容さんから学んだことです。
金子さんが安積遊歩さんたちと一緒に東中野で障害のある人の支援活動をしている時のことです。
私もささやかに協力していました。
その時に学んだのは、ヴァルネラビリティとアファーマティブアクションです。
その二つは私にとっては、コミュニケーションのことを考える上で大きなヒントになりました。
以来、体験的にヴァルネラビリティ効果の確かさを納得しています。

この数年、私の弱さは見えすぎるほど見えていますので、逆に私もまた周りがよく見えてきました。
見るという行為は一方的な行為ですが、「見える」ということは双方向的な関係です。

昨日、友人から家族の「不幸」を曝けだすメールがきました。
その友人は、何か問題がありそうなのに、とても明るく振舞っているので、軽く考えていましたが、思いもしない問題を抱えていました。
その友人から「生きている気力って何?」と質問されて、驚きました。
そんなだったのかという驚きです。
気づかなかった私は友人失格かもしれません。
笑顔の後ろに、みんなそれぞれの問題を抱えているのです。

久しぶりに会った、幸せそうな家族的な友人が、後で離婚していたことを知りました。
あの幸せそうな素振りは、その裏返しだったのかもしれません。
それに気づかなかった私の感受性のなさにショックを受けました。
突然訪ねてきた人がいます。なんでもない話をして帰りました。
なぜわざわざ来たのかなあと思っていたら、知人から彼は結構切羽詰っているのだと聞きました。
その人は初対面だったこともあり、私はあまり弱みを見せませんでしたので、心を開けなかったのかもしれません。
反省しなければいけません。

自治会の会長をやっているといろいろなことに触れる機会があります。
良いことばかりではありません。
昨夜も電話がありました。もう自治会長は次に人に回したのですが。
お話を聞くといろいろあります。
わが家とはかなり離れているところの、会ったこともない人ですが、近隣社会が壊れていることから発生した問題の相談です。
自治会長時代には気づきませんでしたが、その気になれば気づいたはずの問題です。
自分の問題で精一杯だったので、見ないようにしていた自分がいたのでしょう。
恥じなければいけません。

長々と書いてしまいましたが、この半年、こういう話が毎週のように舞い込んできています。ここに書いた話は、いずれも深刻ではないほうの話です。
みんなそれぞれに問題を抱えていることを実感しました。
いつの時代も、こんなにみんな問題を抱えていたのでしょうか。

「生きる気力」を訊いてきた友人に、こう返信しました。

どこの家も外から見ると平和そうでも、中に入るといろいろ問題はあります。
わが家にもいろいろあります。
そうした悩みも含めて、それこそが人生です。

私よりも辛い状況にいる女房は、
みんなそれぞれにがんばっている。私もがんばらなくては。
といつも言います。
病気になってから身につけた、女房のポジティブシンキングスタイルです。
「病気はいただきもの」と考えるかどうかで、その人の幸せは決まります。

外から見える幸せと中にある悩みや哀しさ。
外から見える不幸と中にある幸せ。
不幸と幸せはコインの表裏かもしれません。

私は今年を「希望の年」と決めました。
昨年は、私のまわりから「希望」がどんどん消えていったように感じていたからです。
希望に満ちた人は、希望などという言葉は使わないでしょう。
3ヶ月経過しました。
少しずつ、「希望」を意識しないですむようになりました。

■新しいNPOのつながり育ての集まりがあります(2007年4月15日)
今日はちょっと趣向の違う記事です。
とても長いですが、ぜひお読みください。

日本のNPOの世界の動きには、当初から違和感がありました。
私は企業と行政が主役の管理主義、経済主義の社会、言い換えれば「公民の社会」から「共(コモンズ)の社会」に向けて、社会は変わっていくことをビジョンにしている人間です。
その視点からすると、日本のNPOは官が育て、経済主義をベースにした、公民の端役になりがちだという気がしていたのです。
そういう状況に、ささやかに新しい風を吹き込みたいと思って始めたのがコムケア活動です。
NPO(その名称が一番違和感のある言葉ですが)の役割や行動原理は別の所にあると思っているのです。
これに関しては、コムケア活動のホームページやこのサイトにもあるコムケア理念をお読みください。

そのコムケア活動も7年目を迎えました。
そこで、改めてコムケアの仲間と一緒に、これからのNPOや市民活動のあり方を考えるフォーラムを開催することにしました。
といっても難しいフォーラムではなく、いろいろな活動に取り組む人たちの、それぞれの「表情」を交換しあうフォーラムです。
そこに企業や行政の人たちにも参加してもらい、新しいつながりを生み出していきたいという思いもあります。
そんなことで1か月前に決断し、4月22日に東京の上野近くの廃校になった小学校の体育館でコムケアフォーラム2007を開催することにしました。
この案内は私のホームページでもコムケアセンターのホームページでも案内しています。

開催を決意してから全国のコムケア活動の仲間に呼びかけました。
急なことだったので、どれだけの人が参加してくれるか不安でした。
ところが、福岡や山口、福井や大阪など、遠方からの参加も含めて、20を超えるグループが展示に参加。30人近い人が会場で呼びかけを行ってくれることになりました。
うれしい話です。
会場では、ミニセッションもいろいろあります。
スタッピング平和展もあれば駄菓子屋もでますし、対話法のミニセッションもあれば、遠隔地介護のミニサロンもあり、ケアプランづくり体験や異文化体験などのコーナーもあります。
まだまだいろいろあります。

参加者による呼びかけもいろいろ出てきそうです。
昨年、「NPOが自立する日」を出版し、NPOの自立を問題提起した日本NPO学会副会長の田中弥生さんも呼びかけに参加します。
事業型NPOで話題になり、団塊世代問題でもテレビなどで活躍のイーエルダーの鈴木さんも来ますし、新しい社会事業モデルに取り組む田辺大さんも来ます。
交流時間もタップリありますので、いろいろとつながりを広げることができると思います。

参加するのはNPO関係者だけではありません。
大企業の部長も、中堅企業の社長も参加してくれます。
学生も主婦もホームレスも社会起業家も、ともかくいろいろです。

ともかく面白い場になりそうです。
できるだけたくさんの人に参加してもらいたいと思い、このブログでも紹介させてもらいました。
このブログを読んで、もし関心をもたれたらぜひ参加してください。
きっと目からうろこがおちます。

もし参加されたら、会場でぜひ声をかけてください。
一応、私はこの活動の事務局であるコムケアセンターの事務局長なのです。

詳しい案内は次のサイトにあります。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007.htm
だれでも歓迎ですので、気楽にご参加ください。まわりの人にもぜひお誘いください。
参加団体の一部を下記します。
もしお会いしたい人がいたら、当日お引き合わせさせてもらいます。

○日時 2007年4月22日(日)13:00〜17:00
○会場 台東デザイナーズビレッジ(新御徒町近く)

<参加予定者の一部>
福祉ビジネス・手がたりの会:新しい事業モデルを創出しだしています
コミュニティアートふなばし:アートのパワーを活かして社会活動をしています
日本対話法研究会:コミュニケーション力を高めるための方法を広げています
NPO法人パオッコ:離れて暮らす親のケアを考える会です。
龍の子学園:先日朝日新聞トップで紹介されたろう者の学校に取り組んでいます
全国マイケアプラン・ネットワーク:介護の世界に新しい風を起こしています
市民活動情報センター・ハンズオン!埼玉:新しいコミュニティビジネスモデル
NPO法人エルマーの会:発達障害児の家族の会です。
NPO法人ふぁっとえばー:障害を持つ人たちが自分たちで働く会社を作りました
NPO法人カドリーベア・デン・イン・ジャパン:ベアドールを活用した活動です。
NPO法人感声アイモ:独特な発声法で、病気や障害の克服を応援しています
共生支援センター:九州で新しい地域コミュニティづくりを進めています
団塊世代プロジェクト:団塊シニアのインキュベーションを支援する活動です
NPO法人デイコールサービス協会:孤独死や独居老人支援の活動です
NPO法人イーエルダー:事業型NPOのモデルを確立しました。
東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さん:ともかく人間的な人です
NPO法人ライフリンク:マスコミで自殺問題が取り上げられる契機を作りました。
ホスピタルアート:病院をもっと元気が出る空間にしようとしています
日本NPO学会副会長田中弥生さん:今のNPOを革新したいと思っています
ビッグイッシュー:ホームレス支援の活動をしています
GLI:世界中の社会起業家のネットワークづくりをしています
その他いろいろです。

22日、会場で会えるとうれしいです。
ありがとうございました。

■わくわくするほど気に入っている参加費方式(2007年4月16日)
前回、ご紹介したフォーラムに関する話をもう一度させてもらいます。
ちょっと気に入っている新機軸をご紹介したいのです。
この記事はコムケアフォーラム2007のブログにも書いたのですが、ちょっとだけ修正して再録します。

22日のフォーラムの参加費は1000円なのです。
最初は無料の予定だったのですが、実行委員会で無料はだめだとある人が主張しました。
そこで1000円の参加費になったのですが、単なる参加費ではコムケア的ではありません。
そこで新機軸を出そうということになり、会場で出会った共感できる活動に取り組む人に、その1000円を提供できるようにしたのです。
ですから、参加することで、ささやかに「社会参加」できる仕組みになっています。
この仕組みは、ケアップカードで行います。
http://blog.livedoor.jp/comcare/archives/50156839.html

参加費と引き換えにケアップカードをもらい、それが寄付の金券になるわけです。
しかし、これでは前回の公開選考会の時と同じです。
ちなみに、前回の反省を踏まえて、今回はコムケアセンターへの提供は禁止です。
前回は元締めのコムケアセンターへの寄付が多かったのです。

そこで新機軸の登場です。
もし共感できる人に出会えず、自分のほうが良い活動をしていると考えたら、自分に提供することも可能にしたのです。
つまり「自分への寄付」です。平たく言えば、参加費は取り戻せるのです。

自分への還元が多いと問題ではないかと思うかもしれません。
そんなことはありません。
自分に資金を提供すると、その分、責任が発生しますので、これからコムケア活動をしたくなるかもしれません。
そうすればコムケアの仲間が増えるのです。
こんな良いことはありません。

そんなわけで、自分に提供する人が多いといいなと思っていますが、たぶんそうはならないでしょう。
何しろ魅力的な活動がたくさん集まるからです。

私は、この仕組みがすごく気にいっています。
みなさんはいかがでしょうか。
1000円を自分に寄付できるかどうか、試しに来ませんか。
いまこのアイデアにほれ込んでいます。
すべての入場料や参加費がこういうようになると、きっと楽しくなるでしょうね。
そう思いませんか。
いや、社会の経済システムが壊れてしまうかもしれませんね。
しかし、NPOはそういうことも含めて、イノベーティブでなければいけない、と私は思っています。
社会を壊すほどに。

■国民投票法をつくって何が悪いのか(2007年4月17日)
憲法改正の手続きを定める国民投票法をめぐる論議が続いています。
多くの人は、単なる手続法だからどうでもいいではないか、それにどうせ必要なのであれば早く決めればいいではないかと思いがちです。
教育基本法改正だって同じです。
今の教育には問題が多いのだから、その改善のために基本法を見直すのは当然ではないかというわけです。
障害者自立支援法も、なぜ反対するのか理解できない人は多いでしょう。
障害者の自立を支援することのどこが悪いのか。
そうやって、次々と法律が生まれていきます。
法律ができるとそれを施行するための行政組織が必要になりますから、政府はどんどん大きくなります。

さて、法律が出来ると何が変わるのでしょうか。
いろいろあるでしょうが、間違いないことの一つは、法律に通暁している人が行動しやすくなることです。
法律に通暁している人は、たぶん法律が対象にしている普通の国民ではありません。
もしそうであれば、またそれを目指しているのであれば、現在の法律のように「難しい」「多義的な」条文ではなく、もっと短くわかりやすいものにするはずです。
そうでないということは、要するに法律専門家や法律を基準に行動する行政人や、法律を悪用する犯罪者が法律の一番の使い手ということになります。
ちょっと飛躍がありますが、まあ、そう大きくは違わないでしょう。
すくなくとも、法律は決して「国民」のためにあるのではありません。
国民を「統治する」ために、あるいは「統治される」ためにあるのです。

国民投票法は手続法といわれますが、法律はすべてが手段で、基本的には手続法といってもいいでしょう。
統治手続法ということです。
一般には、法律関係それ自体の内容を定める実体法と、実体法が定める法律関係を実現するための手続きを定める手続法、というように区別しますが、よく考えてみれば、法律は価値判断をするための拠り所であり、個人や組織の行動を律したり評価したりするためのものですから、実は実体法と手続法はつながっているはずです。
しかし、なぜか「手続法」と言われてしまうとついつい内容には目が向かなくなりがちなのです。

法律を変える場合、「改正」と「改悪」がありますが、変えようとする側は決して「改悪」とは言いません。
ですから法律を変えることは、いつの場合も「改正」です。
しかし、法律を変える場合、誰かにとっては有利になり、誰かにとっては不利になることは言うまでもありません。法律は価値配分の基準になるからです。
しかし、たとえば「教育基本法改正」という言葉には、状況が良くなるという意味合いが強くこもっています。
内容も読まずに、なんとなく賛成してしまうのが多くの人かもしれません。
ましてや「自立支援法」などといわれれば、反対のしようがありません。
そうした言葉の魔術のなかで、実は私たちを取り巻く管理環境は厳しくなる一方です。
それが法律を整備するという意味なのです。

憲法改正は何も憲法条文を変更しなくてもできることです。
法論理的にさえ、今回の国民投票法は憲法を変える内容になっていると思いますし、たぶん教育基本法「改正」もまた、憲法を実質的には変えてしまったのだろうと思います。

大切なことは「法律」そのものではありません。
その「法律」もしくは「法律の変更」を議論するプロセスです。
そこで実状が明らかになり、問題が共有され、意見が交わされながら、さまざまな考えが吟味されながら、問題が解決され、未来が開けていくことです。
真剣な議論の結果、法律が不要になるのが理想のはずです。
しかし、どうも最近の日本は、法律の制定がなぜか先ず日程を決めてから進められるようになってきました。

法律をつくることが目的なのではないのです。
もし法律の制定を急ぐ人がいたら、その裏にはきっと大きな私利私欲がうごめいているのだろうと思います。
もう少しきちんとした議論をする仕組みが必要なように思えてなりません。


■銃を撃ってしまう不幸(2007年4月18日)
昨日、アメリカと日本で銃による痛ましい事件が起こりました。
バージニア工科大学の乱射事件は死者が30人を上回る悲惨な事件ですが、その報道のさなかに起こった長崎市長銃撃事件は、日本での、しかも長崎での事件だったために、私にはそれ以上に衝撃的な事件でした。
大学乱射事件は銃社会の病理と考えられますが、長崎の事件は銃社会ではない日本での話です。
しかも、報道ではまだ読み取れませんが、本島市長に続いての事件であり、日本社会の行く末を感じさせるものがあります。

名刀をもつと人を斬りたくなる、という話があります。
私はまだ真剣を持ったことはありませんが、そうしたことは何となく納得できます。
人を殺傷する武器が容易に手に入ることは、決して幸せなことではありません。

アメリカの憲法修正第2条には、次のような「人民の武装権」があげられています。
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。
この条文は、アメリカがまだ近代国家としては未熟であることを表しています。
以前も書きましたが、暴力を独占するのが近代国家の特徴の一つですが、アメリカはまだ独占し切れていないのです。

9.11時件はこうした背景の下に行われたわけです。
武器は銃だけではありません。自動車も飛行機も、いうまでもなく武器の要素を持っています。日本の特攻隊やイラクの自爆自動車を考えればわかります。
アメリカは極めて未開な暴力社会を引きずっているわけです。
もっとも、条文には、さすがに「武器を使用する権利」までは書かれていません。
しかし、「保有」「携帯」と「使用」とは、実質的には同義語です。使用できない保有は無意味ですし、自己防衛は解釈問題ですから、いかようにも拡大できます。そこが「法律」の世界の恐ろしいところでもあります。
アメリカは決して先進国ではないのです。
基準を少し変えれば、遅れた国なのです。

もし銃がなければ、今回の事件は起こらなかったかもしれません。
起こったとしても、違った結果になったでしょう。
銃の殺傷力は大きいです。
それに、ナイフなど直接身体を使うものに比べたら、行動を起こすための自己抑制力は格段に低いはずです。ただ引き金を引き、返り血すら浴びないのですから。
銃が安直に入手できるが故に、銃を撃ってしまう不幸が起こってしまうわけです。
撃たれたほうはもちろんですが、撃つほうの不幸も否定できません。
銃のない社会を目指すことが大切です。

が、ちょっと視野を変えると、実はこの銃社会の構造は国際関係の基本なのです。
バージニア工科大学の乱射事件は、イラクやアフガニスタンにおける米国軍隊の行動に重なります。彼らは、銃よりももっと心理的抵抗の少ない武器を作り出しています。
長崎の事件は、日本の自衛隊のあしたの姿を思わせます。

期せずして起こった日米の事件は、とても不幸な未来を予兆しているような気がして、今朝は朝から気分が晴れません。

■「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」(2007年4月19日)
イラクにはなかなか平和が戻りません。
昨日もバグダッドで5件の連続爆弾テロがあり、170人以上が死亡したといわれます。
フセイン時代以上に、イラクはいま戦争状態です。

戦争は20世紀に入ってからも、2回にわたり大きな変質を起こしました。
最初は、いわゆる総力戦への移行です。
それまでの軍隊による戦争が国家全体の争いになったのです。
そこではもはや戦闘員と非戦闘員の区別はつかなくなります。
国家の戦争には否応なく巻き込まれてしまうようになりました。
良心的兵役拒否の動きはありましたが、それは感動的ではあるものの、どこかに裏切りのにおいがしなくもありません。
さらに悪いことに、被害者は非戦闘員のほうが多くなる傾向が出てきます。
先に問題になった沖縄での集団自決などはそうしたことの一つの表れです。
手を下したのは敵軍ではなく、自軍なのです。
対立の構図が変わったわけです。

そして20世紀末に戦争はさらに変質します。
戦争が「事件」から「状態」に変化してしまったのです。
20世紀前半までは、国家間の総力戦になったとはいえ、戦争は一時期の事件でした。
戦争が終結すれば、平和が訪れたのです。
1945年以降の日本の昭和時代は、まさにその最後の平和の時代だったのかもしれません。
しかし、次第に戦争は状況になってきます。

このあたりは、アントニオ・ネグリの「帝国」や「マルチチュード」にわかりやすく書かれています。
ちなみに、この「マルチチュード」は批判もありますが、現代を読み解く視点をたくさん提供してくれます。
その「マルチチュード」の表現を使わせてもらえれば、戦争と政治の区別はますます曖昧になり、「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」というのです。
とても納得できます。

イラク戦争は終わったといわれますが、その後も戦争状態は継続し、死者は決して減少していません。
「戦争とは別の手段による政治の継続である」とクラウゼヴィッツは言いましたが、最近では、「政治そのものが別の手段によって実施された戦争」とも言われるのだそうです。

戦争が変質したのです。
そして敵もまた変わったのです。
こうした文脈で、時代を読み解いていけば、さまざまなことに気づくはずです。
昨日起こった不幸な銃殺事件、イラクでの日常的な爆弾テロと軍隊による市民虐殺事件。
それらはつながっています。

戦争の変質を踏まえて、政治も変わらなければいけません。
そして平和運動も変わらなければいけません。
しかし、戦争を推進している日本の政治家もそれに抗して平和運動を展開している平和運動家も、これまでと同じ発想で、活動に取り組んでいるように思えてなりません。

ちなみに、私の平和運動はコムケア活動なのです。
4月22日に、その集まりがあります。
面白い実践者たちが集まるフォーラムになりそうです。
よかったらぜひ参加してください。
そして声をかけてください。

戦争状況から脱するためには、人のつながりをリゾーミックに育てていくしかありません。
それこそがこれからのソーシャル・キャピタルです。
政治はもちろん、経済のパラダイムが変わらなければいけません。
その一歩を私たちは踏み出すべき時期に来ています。

今日の朝日新聞の天声人語にノーマン・メイラーの言葉が引用されていました。
「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。
小さな一歩を積み重ねていければと思っています。
疲れますが。

■経営における道徳性(2007年4月20日)
夕刊を見ていたら、電力各社のデータ改ざんや隠蔽などの不正問題を調べていた経済産業省が計50事案を特に悪質な法令違反と認定した、という記事が出ていました。
経済産業省こそ問題なのではないかという気もしますが、それはともかく、いわゆる「公益企業」といわれる電力会社ですら、こういう状況が依然続いていることには驚きを感じます。
こうしたことが問題になってから、もう数十年もたつのに、事態は変わっていないのです。

そこには、「産業のジレンマ」の構造が、フラクタルに存在しています。
経営学やカウンセリングにも、また同じような「ジレンマ」があるのでしょう。
企業の目的は「顧客の創造」であるという定義(これこそが「産業のジレンマ」の出発点です)を読んで以来、どうしても好きになれない経営学の泰斗、ドラッカーは、現在の産業パラダイムの中では最高の経営学者だと思いますが、そのドラッカーは1954年の著書“The Practice of Management”のなかで、こう書いています。

経営層によい精神を生ましめるために必要なものは、道徳性(モラリティ)である。そして、道徳性は、人々の長所を強調すること、高潔を強調すること、正義を重んじ、高い行動の標準を創ることを意味する、

近代広報の父といわれる、アイ・ビー・リーは、広報の本質を「フランクネス」といっています。隠すことのコストは以前書きましたが、コストの問題以前に、それは道徳性に関わることです。

道徳性がなぜ必要かは2つの理由があります。
まずソーシャル・キャピタルの視点からの価値です。
ソーシャル・キャピタルが高まれば、さまざまな意味で経済的なコストは削減され、人間的な安寧さが高まります。道徳的であることが、現在の経済パラダイムにおいてさえ、実は最も経済的なのです。

個々人の立場からも、道徳性は価値があります。
道徳的であることは個人に生きやすい状況を提供してくれます。
人が一番、生きやすいのは周りの人の長所と付き合うことです。
これは私の体験からほぼ間違いないと確信しています。
長所だけ見ていたら、すべての人が善人に見えてきますから、毎日が幸せです。
自らが好んで嘘をついたり、明らかな不正義を犯そうとしたりする人は通常はいないでしょう。
そういう行為を行わざるを得ない事情が、それぞれにあるのです。
あるいは、自らの行為の意味が理解できていないのです。
最近の銃の事件も、その例外ではないでしょう。
念のために言えば、そうした考えであればこそ、私は犯罪行為には厳罰が必要だと思っています。
犯した罪よりも、重い罰が与えられなければ、人は救われないと思っています。
ですから、殺人を犯した人は、死刑以上の罰を受けるべきです。
雑な言い方ですみませんが、現代の刑の与え方はあまりにも軽すぎます。
それは冤罪なども含めて、裁判の監視の仕組みがないことと無縁でないようにも思いますが。

友人が始めた「経営道」運動に関わっていますが、どうもどこかで設計ミスがあるような気がしてきています。
そろそろ経済や産業のパラダイムを考え直す時期に来ているような気がします。
同じような企業不祥事のニュースを、いつまでも繰り返し読みたくはありません。
経済同友会が経営者の社会的責任を提言した1956年から、日本の企業の経営者は少しは前進しているのでしょうか。

そろそろ「企業のあり方」を考えなおす時期に来ているのではないかと思います。
経営論の時代ではなく、企業論の時代です。

■優先席には率先して着席という発想(2007年4月21日)
娘が、「リアルシンプル」という雑誌のコラムに載っていた表題の記事を教えてくれました。
一部を引用させてもらいます。

優先席に座るのは、なんとなくちゅうちょしてしまう人がほとんどでしょうが、生活総合情報サイトallaboutのガイドを務める筑波君江さんは、「優先席には率先して座りましょう」と話します。「優先席を譲ってもらえず困っている人はたくさんいます。だからこそ、あなたが積極的に座って“キープ”してあげるのです」。困っている人が乗ってきたら、すかさず声をかけて譲りましょう。

以前から電車の優先席にはどうも違和感を持っていましたが、この発想は気づきませんでした。最初、この話を聞いた時にはとても納得できたのですが、少し考えているうちに、どこかおかしいような気がしてきました。
これは痛烈な日本人批判なのかもしれませんが、奇妙に納得してしまいたくなるところが落とし穴ですね。

3月から私が利用している常磐線にグリーン車ができました。
これも私は違和感があります。
以前、「グリーン車をすべてシルバー車にしたらどうか」と新聞の投稿欄に投書したことがありますが、グリーン車も好きになれません。もっとも、体調の関係で長距離の場合には利用させてもらうことがありますが、それはそもそも長距離列車が疲れすぎる構造にあるからです。
優先席を設けたり、グリーン車や女性専用車両をつくったりすることは問題解決にはなるかもしれませんが、同時に問題発生を加速させているのかもしれません。

残念ながら最近では私も優先席を譲ってもらう年齢になってしまいましたので、筑波さんのお薦めにはどう対処しようか迷うところですが、少し心がけてみてもいいかもしれませんね。
しかし、どこかに抵抗があるのはなぜでしょうか。

■あなたはいつも笑顔でいられますか(2007年4月23日)
私がこの世で一番尊敬でき、信頼できる人は、いつも笑顔でいる人です。
宮沢賢治も憧れた「欲はなく決して瞋(いか)らず、いつも静かに笑っている」(雨ニモマケズ)、そういう人に私もなりたいと思っています。
しかし、私の現在は、それとは全く対極にあるような気がします。
ところが、今日、いつも笑顔の友人がやってきました。
友人というのには、まだ付き合いが短いのですが、不思議なことになぜか昔からの知り合いのような気がお互いにしているようで、その人もブログで私のことを友人と書いてくださったので、友人と呼ばせてもらいます。
その人は、いつも笑顔なのです。
その人を追いかけ取材した30分のテレビ番組を見せてもらいましたが、内容はかなり厳しいものなのに、いつも笑顔なのです。
番組の内容よりも、その絶えない笑顔のことが私の脳裏からは離れないほどの強い印象を受けました。
そういえば、これまで3回お会いしましたが、いつも笑顔が絶えたことがないのです。
そこで、今日は極めて不躾な質問をしました。
「***される前から、いつも笑顔が絶えなかったでしょうか」
実はその人は数年前に大きな事件があって、生き方を変えたことがあるのです。
その事件以来のことではないかと実は私は考えたのです。
人はとても辛いことを経験するとやさしくなれることを実感してきたからです。
ところが、答はそうではなく、事件の前からそうだったそうです。

どんなに苦労しても、笑顔が絶えない人がいるのです。
有名な人では、横田さんや河野さんがいます。
拉致事件とサリン事件の被害者ですが、いつも笑顔です。
この時代にも、笑顔を絶やさないことができるのです。

笑顔の友人と話していて、自分自身の生き方を今日はとても反省させられました。
笑顔を忘れないように、心の平安を維持できるように、今日から少し意識を変えたいと思っています。
いや、きっと、笑顔を絶やさないことこそ、心の平安を維持する秘訣なのでしょうか。
いじれにしろ、笑顔をもっと大切にしないといけません。
今日はたくさんのことを、友人から学ばせてもらいました。
もし、平和を望むのであれば、笑顔を絶やさないことから始めるべきかもしれません。

■コミュニティケアからケアコミュニティへ(2007年4月24日)
このブログでも書きましたが、22日にコムケアフォーラム2007という、全国の表情を持った全国のNPOの集まりを開きました。
急に決めたにもかかわらず、150人近くの人が集まってくれました。
その準備から当日の様子、またその後の動きなどは、コムケアフォーラム2007のブログに書かれています。これからも書き込みがある予定です。
よかったら読んでいただき、ぜひコムケアの輪に入ってください。

私は、その活動の事務局を6年やっていますが、そこで全国の述900のNPOやボランティアグループの活動にささやかに触れてきました。
そのおかげで、日本の社会の実相を垣間見ると共に、日本のNPOの問題点も見えてきました。
数は増えましたが、9割のNPOは自立していませんし、自立しようともしていないという気もします。しかし、新しい社会を創り出そうと健闘している人たちも決して少なくありません。
この活動を始める時に、キーコンセプトを「つなぐ」に決めましたが、6年間の活動を通して、ケアとはつなぐことだと確信しました。
それも表情のあるつながり方、遠心力を持った開かれたつながり方です。
いまの福祉行政には、そうした視点が弱いですし、多くのNPOもまたそういう発想をもっていません。
それはこの半世紀以上の経済至上主義のせいかもしれません。

かつての日本は「つながりの深い」社会でした。
人と人のつながりだけではありません。
自然とのつながり、文化とのつながり、物とのつながり、過去とのつながり、未来とのつながりです。
その「つながりの文化」は、近代化には不都合な側面がありました。
そのために、私たちはみんなで「つながりこわし」をしてきたわけです。
そして核家族社会や企業社会が生まれてきました。
社会は荒廃し、少子化が進みだしました。
そして、そうした状況に中で、産業はますます広がっているわけです。

そういう時代の流れに、棹をさしたい、というのが、私がコムケア活動を始めた思いでした。
その活動拠点が、コミュニティケア活動センター(コムケアセンター)です。
しかし、最近、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティという発想を軸にすべきだとようやく気づきました。
ケアコミュニティ。
ケアしあう文化の社会。
つながり、支えあう社会。
コミュニティケアとは視点や視野が全く違ってきます。第一、目線が違います。

いま私たちの周りで欠けているのは、ケアの仕組みや行為ではなく、ケアの文化です。
改めて私たちの先代たちが育て守ってきた「つながりの文化」を復活させることが必要です。
それができるかどうか、それによって、私たちの未来は大きく変わっていくような気がします。
全国のさまざまな実践者と話し合って、改めてその思いを強くしました。
今回のフォーラムで、コムケア活動から少し離れたいと思っていましたが、どうもそれは無理のようです。
人生はなかなか思うようにはなりません。

■不都合な結果は有権者の「誤解」のせい(2007年4月25日)
高知県東洋町長選で、放射性廃棄物最終処分場受け入れ推進派の現職が落選したことについて、甘利経済産業相が記者会見で「(有権者が)誤解をしたまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」と述べたというニュースには驚きました。
これは有権者を馬鹿呼ばわりしている話であり、受け入れが正しいと決め付けている話です。
馬鹿な住民たちが、理解もしないで反対していると甘利さんは考えているのでしょう。
類は類を呼ぶのでしょうか。
こうした人たちがいまの閣僚には多いように思います。

「住民参加」とか「住民参画」とかいう言葉があります。
この二つは違うらしいですが、そんな小賢しい議論に騙されてはいけません。
もっと大切なのは、そこでの住民は誰かなのです。
一時期、「住民」ではなく「市民」という、これまた小賢しい議論が広がったことがありますが、これもまた騙されてはいけません。
こうした瑣末な議論には共通した発想があります。

つまりこうです。
政府やお上や有識者の考えに楯突くのは、無知で誤解している馬鹿な住民という発想が、そうした議論の根底にあるのです。
ですから、予め「賢い」市民をあつめて、タウンミーティングを開催し、計画にまで参画させるスタイルをとってきたわけです。
市民は「賢い」ですから、無理は言わないのです。いや、無理を言わない人が「賢い」人なのです。
もし彼らが楯突くようであれば、目先の利益しか考えていない住民エゴと切り捨てればいいのです。
しかし、今回の事件は、むしろ受け入れが目先の利益論でしたから、この論理は通用しません。
ですから「誤解」という理由が考えられたわけです。

誤解しているのは自分ではなく、住民だと決め付けるのはなぜでしょうか。
甘利さんにはきっとたくさんの情報があるでしょうし、「頭の良い」官僚や貪欲な学者が取り囲んでいるのでしょう。
しかし、その情報は実際の生活や文化で培われてきた情報に比べたら、どれほどのものでしょうか。
間違いなくほんのわずかな情報ですし、身勝手な編集で集めたものでしかありません。
甘利さんの家族の住んでいる地域の首長が、受け入れを決めたら、甘利さんはどうするでしょうか。
今の政治家には、そうした視点が欠落しています。
学者たちも自らの生活と無縁なところで考えています。
それはいつの時代も変わりはありません。
水俣や四日市を思い出せばいいでしょう。
熊本大学にいた原田さんのような生活とつながった学者も、もちろんいますが、そうした学者は決してメジャーにはなれません。ましてや本当の意味での、政策形成にはかんよすることは出来ないでしょう。

書いているうちに、だんだん腹が立ってきました。
笑顔を忘れるなとつい一昨日書いたばかりなのに、困ったものです。
誰が一番賢いのか。
そして行政とは、どの視点で考えるべきなのか。
これまで何回も書いてきましたが、相変わらず甘利さんのような人たちが政治を押さえている現実を知ると、疲れがドッと出てしまいます。

■学力テストへの犬山市の異議申し立て(2007年4月26日)
24日に実施された全国学力テストに、愛知県犬山市の小中学校は予定通り参加しませんでした。
最後には崩れるかと思っていましたが、日本にも骨のある教育委員会があると感激しました。
犬山市の姿勢は次のサイトをご参照ください。
http://www.janjan.jp/area/0704/0704032972/1.php
今回の学力テストにかかった費用は77億円だそうです。
私は、この一事をもってしても、このテストに否定的です。
どこかの業者が利益を上げ、そこから寄付をもらう政治家が私腹を増やすだけのことでしょう。
教育産業で利益を上げている企業の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。彼らは教育を壊しているとしか、私には思えません。いささか言いすぎだとは思いますが。
今や教育はどんどん産業化されてしまっていますが、犬山市ではまだ教育の片鱗が残っているのかもしれません。
もっともテレビのインタビューでは犬山市の市民は不安を表明していました。
しかし、そのテレビ取材のディレクターの好みで住民を選んだのかもしれません。
まともに考えれば、学力テストなど無意味なのです。
なぜ無意味かといえば、テストで学力などわかるはずがないからです。
いや、テストでわかるような学力にはあまり意味がないのです。
そう思いませんか。
学力テストでわかるのは、たぶん「従順度」や「作業適性」や「創造力のなさ」くらいでしょう。
そういう子どもたちを育ててきた結果が、今の社会なのだということを、なぜみんな気づかないのでしょうか。
市町村合併に異を唱えた矢祭町の町長もそうですが、しっかりした活動を行っていれば、霞ヶ関の机上論には振り回されないはずです。
しかし、昨今はそういう自治の人は少なくなりました。
地方自治はいま、崩壊の危機にあります。
地方分権の時代とは、地方自治とは正反対の時代を意味することを認識すべきではないかと思います。
分権と自治は全く相容れない発想のはずです。
犬山市の教育委員会の勇気ある行動に、大きな拍手を送りたいと思います。

■飲酒運転者から免許を剥奪することがなぜ出来ないのか(2007年4月27日)
飲酒運転事故が後をたちません。
しかし、それを激減させるのは簡単なことです。
飲酒運転が見つかったら、即刻、免許運転を永久に剥奪すればいいだけの話です。
自動車は走る凶器ともいわれます。
もしそうであれば、それくらいの罰則が必要でしょう。
飲酒運転の罰則を強化したら、事故を起こしたり検問にかかったりしたら逃げて暴走する車が増えるという話もありますが、事故や検問で逃げた運転手は、飲酒運転以上に悪質だとして、運転免許剥奪に加えて、10年以上の懲役にしたらどうでしょうか。
無期懲役でもいいくらいだと、私は思います。
もちろんいずれも、原則であって、情状酌量は考えなければいけませんが。

そういうルールにして、なにか不都合はあるでしょうか。
まともに生きている人たちには、全くないはずです。
ではなぜそれが実現できないのか。
その理由も簡単です。
自動車が売れなくなるからです。
経済規模が縮小するからです。
雇用の場も減るという思いに縛られているからです。
それらはすべて、これまでの「古い経済」の論理でしかありませんが。
サステイナブルな経済からは、そういう論理は出てこないはずです。
つまり現在の私たちの経済的豊かさの根幹には、そうした「まともでない人たち」の思惑が蠢いているわけです。
まやかしの持続可能性愚論が多すぎます。

世の中の問題を解決するのは、本当はいとも簡単なのです。
それがなかなか実現できないのは、
問題が解決されないことを望んでいる人たちがたくさんいるということなのでしょうか。

■「騙された者の罪」(2007年4月28日)
マスコミではもうあまり騒がれなくなってきましたが、憲法改正が着々と進められています。
これは日本の問題である以上に、人類の歴史にとっての大きな問題ではないかと思います。
せっかく人類の英知が辿り着いた日本国憲法第9条を、私物化して改正しようと図っているのはいうまでもなく、小泉、安倍と続く日本国の首相です。
そして、それを首相にいだく私たち現代の日本人です。
哀しいことに私もその一人というわけです。
私はこの2人は卑劣な犯罪者であり、その罪は重罪だと思います。
小泉、安倍両名が、未必の故意をもった大量殺人企図者とすれば、私もまたその共犯としかいいようがないわけで、そう考えると新聞をにぎわすたかだか数人の殺人者を断罪する資格があるのかと思うこともないわけではありません。

私が、改めてそう思ったのは、「軍縮問題資料」5月号で、憲法学者の樋口陽一さんと土井たか子さんの対談を読んだからです。
郵政民営化で騙されたのは、当面は私たちがただ経済的な損失を受けるだけですが、憲法を変える話はそれではすみません。
金正日と同じような卑劣な人物が、紳士面をしてテレビで内容のない話をしているのをみると、それを放置している自分の生き方に嫌悪感を持ってしまいます。
なかなか辺見庸さんのようには行動できません。

ところで、その対談の最後に、樋口さんが伊丹万作の「騙された者の罪」の話を語っています。
「騙された者の罪」とは、伊丹万作(伊丹十三の父)が1946年、つまり日本が敗戦した翌年に書いた「戦争責任者の問題」のなかのメッセージです。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(中略)
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

さらに伊丹万作は、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と続けます。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
(中略)
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

60年以上前に、すでに現在の日本国民の犯罪は予告されていたのです。
「戦争責任者の問題」の全文はネットで読めます。
ぜひ読んでみてください。
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/itami_mansaku.html

ところで、5月6日(日)夜の10時からNHK教育テレビで、ETV特集アンコール「焼け跡から生まれた憲法草案」が再放送されます。
まだ見ていない人はぜひご覧ください。
騙されないためにも、罪を犯さないためにも、もっと真剣に時代と関わらなければと思っています。
そうでないと、昨日書いた飲酒運転者と同じ犯罪者になってしまいかねません。

■経済的な連休から精神的な連休へ(2007年4月29日)
大型連休のはじまりです。
資本主義経済の発展を支えているのは、いうまでもなく「市場」です。
つまり「消費」こそが経済の原動力です。「生産」ではありません。
しかも、「消費」と「生産」の意味は、資本主義経済の状況によって変質してきます。
たとえば「価値の消費」が「価格の消費」に変化し、「価値を創る生産」が「価値を壊す生産」に変化するようなことが起こるわけです。
大型連休は、過剰な生産を清算する消費にも、過剰な消費を清算する生産にも、大きな効果があります。ですから年々大型化していく傾向にあります。
言葉足らずで、わかりにくい書き方になっているかもしれませんが、ブログではなく、もっときちんと書かなければいけないテーマかもしれません。
しかし、20年前には生活(余暇)のためにあった連休が、いまや経済のための連休になってきていることは、もっと意識されるべきではないかと思います。

私は、この20年近く、連休とは無縁な生活をしています。
この数年でいえば、あるプロジェクトのおかげで、連休はいつも自宅で報告書づくりをしていました。「消費」の対象は、市場的なものではなく、私自身の時間だけでした。経済の発展には全く寄与してきませんでした。
今年の連休は、例年よりももっと無為に、女房との時間を過ごす予定です。
そして自らの生き方や社会との関わり方を考えてみるつもりです。

そろそろ経済的な連休ではなく、そうした精神的な連休のあり方が必要になってきているのかもしれません。
個人の話ではありません。社会全体の話です。

■教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」(2007年4月29日)
「ローマ・ヒューマニズムの成立」(小林雅夫/地中海研究所紀要第5号所収)という小論の中に、古代ギリシア人が「教養」と想定している学科構成というのが出ていました。
20人以上のソフィストたちの考える科目が一覧できるのですが、ほとんどの人が「音楽」をあげているのに興味を持ちました。
プラトンは、教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」としていたそうです。
古代ギリシアでは音楽と体育は重視されていたようですが、その音楽と体育は歌舞の中の統合されていたわけです。
そのいずれも私は得手ではありません。
楽器も出来ませんし、ダンスはフォークダンスですら不得手でした。
大学のころ、仲間たちと1週間、キャンプに行くことになり、新しいフォークダンスをやろうということになりました。私が選んだのが、ウェストサイド物語の挿入歌「アメリカ」でした。知り合いに頼んで振り付けをしてもらい、教えてもらったのですが、どうもそれが覚えられずに、重いテープレコーダー(当時はとても重かったのです)を山まで運んだのに、みんなで踊った記憶がありません。
体育も得手ではなく、苦労しました。運動神経もあまりよくないようです。
したがって、古代ギリシアでは私は「教育のない人」の典型です。
ところが、最近の「学力論議」では、このいずれも出てきません。
いずれも不得手な私にとっては好都合なようにも思えますが、その私でさえ、こうした要素が入らない学力には納得できません。
音楽と体育こそ、生きていくうえでの重要な要素だと思うからです。
さらにここにアート(創作)が加われば、もう人間としてはいうことありません。
それがあってこそ、物理や歴史の知識が意味を持ってきます。
日本の教育体系では、音楽、体育、図工(創作)、家庭科などは入試とは関係なかったが故に常におろそかにされてきました。しかし、人間が豊かに暮らしていくためには、これこそが大切な科目なのではないかと思います。
そこにこそ、学ぶ喜びもあるはずです。
必修科目と選択科目の配置を入れ替えなくてはいけません。
英語を必修にするかどうかの次元で考えている時ではありません。
もう機械のような労働者や技術者を育てる時代ではなくなったのです。
学校のパラダイム、教育のパラダイムを変えてもいいのではないでしょうか。
そういう議論が全くないのが、不思議でなりません。

■「いいことだけ日記に」騒動からの気づき(2007年5月1日)
先週、朝日新聞に私の女房の投稿記事が掲載されました。
「いいことだけ日記に」というタイトルの小文です。
実は女房はいま闘病中なのですが、夫である私が「いいことだけを書く日記」を勧めたという、ただそれだけの話です。
ところが、その記事に気づいた友人が、あるメーリングリストにそのことを書き込んでしまいました。
そのメーリングリストは、「大きな福祉」をめざすNPO関係者のメーリングリストでしたから、その小論は話題を呼びました。
たくさんの方々がメールを送ってきてくださいました。
入院中の女房に、それらをプリントアウトして毎日届けています。
なかには自分も同じ病気であることを告白する衝撃的なメールもありました。
その女性と女房は面識はないのですが、そのメールのやり取りで、心がつながっていくのがわかります。
しかも女房は、ケアされながらケアする立場に変われるのです。
つながりやコミュニケーションとは、こういうことなのだと目が開かれました。

ところが、送られてくるメールを読んでいて気づいたことがあります。
ほとんどすべてが女性なのです。
そして男性に関しては、3人を除いて、他はみんな闘病中の人なのです。
これは偶然でしょうか。
そうではないでしょう。
コミュニケーションを求めているのは、女性も含めて、社会の中心から外れたところにいる人たちなのです。

新聞を読んで、電話してきた女房の友人も少なくありません。
女房が一番感激したのは、20年前、ある趣味の教室で数か月一緒だった人から突然電話がかかってきたことでした。
女房よりもひとまわり年上の女性ですが、よくまあ電話番号を残していて、しかも電話してきてくれたものです。
しかも、女房はいま入院中なのですが、一時外出が許可されたわずか数時間の間に、その電話はかかってきました。

結論がとびますが、この投稿記事事件で、日本の文化の根底は、女性たちの人生的なつながりや痛みを持った人たちのやわらかなつながりがしっかりとあったことを改めて確信しました。
そのつながりが、日本の文化のしたたかさとしなやかさを支えていたのです。
それが、いま壊されようとしています。
「痛みを分かち合う」社会だった日本の社会は、「痛みを分かち合おう」という言葉に踊らされて、痛みを押し付けあう社会になろうとしているのです。
共済文化つぶしも拝金主義による働く楽しみ奪いも学力テストによる学びの場こわしも、すべてそうしたベクトルで動いているように思えてなりません。

■「病院」(sick center)から「健院」(hospital)へ(2007年5月2日)
CWSコモンズに先日、次のような記事を書きました。

今日も病院だったのですが、待っている間にすばらしいアイデアが浮かびました。
まあ、それほどのものではありませんが。
待合室で健康教室をやるのはどうでしょうか。
足裏マッサージコーナーや太極拳コーナーはどうでしょうか。
健康サロンもいいですね。
ともかく自分の番が来るのがもっと遅いほうがいいと思わせるような、
楽しい役立つコーナーを待合室で行うことが出来ないものでしょうか。
講師はもちろん患者自身です。
もし実現したら、「病院」は「健院」に変わります。

この記事に賛成してくれた人がいます。
こんなメールが来ました。

実現するといいなと思いました。
もっとも病院経営上は困るかもしれませんね。
でも私たちにとっては、とてもいいことです。
私たち一人ひとりが肉体的にも精神的にも健康になれますし、国の赤字を少しでも減らすことができるのですから。
また、西洋医学と東洋医学との融合ができないかなと感じました。
一部の病院では取り組んでいるところがあるかもしれませんが、どこの病院でも、極当たり前のように西洋医学も東洋医学も共存するというようなことにならないかなと思いました。
今回の病気をして特に強く感じています。
自然を克服する対象とするか自然の中にあることを求めるかといったように、基本的な自然観が異なるため、融和は不可能なのでしょうか。

この人は脳出血の後遺症をかかえ、いまリハビリに取り組んでいます。
実はその後、女房は入院し、1週間以上、私も半分の時間を病院の病室やロビーで過ごしました。
私も、ますますこの構想が必要だと実感してきました。

病院の設計は、外来の待合室だけではなく、病室も病棟も問題が多すぎます。
病院建設の取り組んでいる建築家は、きっと自分の入院を想定していませんね。
病院ではなく、健院発想で取り組んだら、きっと違った空間になるでしょうね。

まあ、そこまでは一挙に行かないとしても、今の空間でも、いろいろなことが出来ます。
残念ながら今の病院の多くの医師たちは、病人ではなく病気を診ていますので、おそらくそんな発想は出てこないでしょうが、西洋医学コンプレックスを捨てて、この人の指摘するように、西洋医学と東洋医学の共存を考えてほしいものです。
せめて古代ギリシアに起こった西洋医学の原点くらいは学んでほしい気がします。

■少子化になった理由(2007年5月2日)
昨日、テレビのニュース23で、「派遣労働者の権利を守れ!」という特集をやっていました。
私の身近にもたくさんある話ですので、途中からでしたが観てしまいました。
こういう実態を、格差拡大に向けて「改革」を進めている政治家や財界人は少しは知っているのでしょうか。
どんなきれいごとを言おうと、大企業のほとんどやっていることは、私には犯罪としか思えません。未来に向けての犯罪という意味です。
こうした問題の解決にこそ、経団連のトップは動くべきです。
動けば、すぐに解決できることはたくさんあるのですから。
何がCSRだと、私などはいつも苦々しく思います。
私には、奥田さんも御手洗さんも恥ずべき人間にしか見えません。

しかし、私がその番組で印象に残ったのは、最後に筑紫キャスターがポツリと言った言葉です。
私の聞き違いかもしれませんが、筑紫さんはこういったのです。
こうしたことが小泉内閣が進めてきたことの結果の一つであり、それが少子化など未来にどうつながるかは別の問題です。
かなり私的に表現が変わっている可能性が大きいですが、その時の筑紫さんの「ためいき」のような疲れが私にもドッと伝わってきました。
以前も書きましたが、日本の社会は20年ほど前から未来への希望が持ちにくい社会になってきたようです。次の世代が今より幸せになると感じている人が2割しかいないというのが、当自の調査結果でしたが、私がいろいろのところで同じ質問をしてきた結果は、年々むしろ希望の灯は消えてきているような気がします。
希望のない社会では子どもを生みたくなるでしょうか。
希望のために子どもを生むという倒錯現象は起こるかもしれませんが。

この状況がどこかで破綻しなければいいのですが。
そうならないためにも、「つながり」を広げていくことはとても大切なことだと、私は思っています。
つながりを育てるには、お金も才能も、もしかしたら時間も不要なのです。

■臓器移植報道と思いやる気持ち(2007年5月3日)
米国で心臓移植手術を受けた松田京大ちゃんが元気に帰国しました。
これはとてもうれしいニュースです。
テレビでお母さんが、「日本中の皆さんの暖かい気持ちがなかったら、今の京大はありませんでした」と話していました。
こういう風景はこれまでも何回か見てきました。
しかし、いつも少しだけ疑問に思うことがありました。
このブログでも書きたいと思いながらも、書けずにいました。
一昨日、ある方からメールをいただきました。
その方のメールを読んで、今回は思い切って書くことにしました。
2日間、迷ったのですが。

疑問の一つは、京大ちゃんの問題は解決したかもしれませんが、同じような状況にある人たちの問題はどうなるのか、です。
必ずしも同じ病気でなくてもいいです。
お金が不足しているが故に、受けたら助かるかもしれない手術や治療を受けられずにいる人は決して少なくありません。
いや、それ以前に、健康保険料を払えないために、病院にも行けずに苦しんでいる人も増えています。
医療法の変更で、苦しんだ人もいます。
鶴見和子さんも、その一人かもしれません。
すべてを一挙に解決することは難しいでしょうが、多くの矛盾を一つの美談によって見えなくしてしまうことに大きな疑問を感じるわけです。
仕組みとして、何か考えられないものでしょうか。
もしそうした状況に直面した時に、京大ちゃんの両親のように、誰でもがもし呼びかけられる仕組みがあれば、と思ったりします。

もう一つは、数年前に日本ドナー家族クラブの方から気づかせてもらった疑問です。
京大ちゃんが手術に成功した最大の功績者は、そして京大ちゃんのご両親が一番感謝しているのは、いうまでもなくドナーの方であり、その家族です。
その家族は、京大ちゃんと同じ年頃の子どもを亡くした家族かもしれません。
そうした家族の悲しみが、臓器移植の成功の陰には必ずあります。
しかし、テレビも新聞も、そうした視点がいつも感じられません。
そのために、私たちもまた、そうした報道の後ろにいるドナー家族の複雑な気持ち、悲しみと喜びに思いが向きません。
今回も、あるドナー家族の方から、どうして報道ではそうしたことを思いやる発想がないのか、残念ですとメールをいただきました。
それに続けて、こんなことが書かれていました。

秋には脳死移植法の改正が、臨時国会に上程されるそうです。その中にドナーのケアやサポートの文言はありません。

日本移植学会副理事長の大島伸一さんは、「いくら目の前の患者が生きる死ぬという状態でも、提供するドナーがいて始めて成り立つ。あくまでも、ドナーの人権や利益、意思や考えが第一優先でそれが侵されてはいけない」と発言されているそうですが、物事の後ろにある問題を、私たちはもっと思いやる気持ちが必要です。
意識しなければ、そうしたことはなかなか見えてきませんが。

■チビ太はいつもとても幸せそうに寝ています(2007年5月4日)
わが家の犬(私はチビ太と呼んでいます)はよく寝ます。
いつ見ても寝ています。
一人で読書したりテレビを見たりしている風景を見たことがありません。
若い頃は一人遊びをしたり、哲学したりしていましたが、最近はそうしたこともめっきり減って、散歩と食事以外は、寝ていることが圧倒的に多いです。
いま11歳ですので、人間年齢では私とほぼ同じです。
今日、その幸せそうに寝ているチビ太をみながら、もしかしたら生命の基本は寝ることではないかと思いつきました。
活動するための休養が睡眠の目的ではなく、睡眠のための手段が活動かもしれません。
疲れたから寝るのではなく、寝るために疲れる、というわけです。
働くために食べるのではなく、食べるために働く。
発想を変えると生き方が変わるかもしれません。

まあ、こうした「無駄なこと」を考えたりしているので、人間は寝る暇がなくなるのかもしれません。

私も若い頃は特に、寝る時間を惜しんで学び働き遊んできました。
今もそういう感覚はどこかに残っています。
寝る時間がもったいないと思うことは、さすがに最近は少なくなりましたが、活動できる時間がもっと多ければいいと、ついしばらく前までは切実に思っていました。
最近、それがなくなりました。
生き方がまた少し変わりつつあります。

それにしても、チビ太の寝顔はすばらしく幸せそうなのです。
私も寝ている時は、こんなに幸せそうな顔をしているのでしょうか。
チビ太と私は、どちらが幸せなのでしょうか。
でも、次に生まれる時も、やはり人間がいいですね。
なかなか解脱できそうもありません。

■多数決主義と民主主義と国民主権(2007年5月5日)
先日書いた国民投票法の記事に、予め民主的な手続きをしっかりと決めておくことは必要ではないかというコメントをもらいました。
そこで、少し私見を書きます。いろいろな人がすでに言っていることなので、書くまでもない話ではありますが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/04/post_b271.html

民主主義と多数決は次元の違う話であり、混同すべきではないということも前に書きました。
多数決は少数の人の意見を正当化する仕組みでもあるのです。それがまさに、いま話題になっている国民投票法のなかに仕組まれています。
「だまされることの責任」という佐高信と魚住昭の対談集があります。2004年に高文研というところから出版されています。私にはとても刺激になりました。
そこに、なぜ日本は負けるとわかっていた無謀な戦争を始めたのかに関して、魚住さんが取材した話が出てきます。そこでは「権力の下降」という言葉が出てくるのですが、ある思いをもった人が力のある上司を情念で説得し、それが次第に積み重なって、時代の流れを変えていくのです。リーダーシップの弱いリーダーはそれを止められません。そして最終的には天皇が利用されるわけです。そうした状況を2人は「無責任体制」と呼び、それがいまなお続いていると指摘します。
ここで重要なのは、ある考えの共感者が増えていくのではないということです。ある考えを実現するために、多数決方式が利用されていくということです。
たとえば、ある主張を持った人が同志を10人集めて、15人の集まりで、自らの考えを組織決定します。
その手法を繰り返していくと、いつか全体を制することが出来ます。
主体性のない人たちは、勝ち馬に乗りたがりますし、少なくとも反対はしなくなるのです。
そうしてナチスは大きくなったのです。
それが多数決主義の落とし穴です。
小泉内閣や安部内閣がよく使う手法です。

今回の国民投票法では、有効投票総数の過半数の賛成で憲法改正案は成立することになっています。最低投票率制度は設けられていません。
したがって、もし国民の半分しか投票しなくても賛成が多ければ成立します。国民の1/4でも成立しえるのです。いや、仕掛け方によってはもっと少なくても可能でしょう。
しかも国民投票することになったら、国会の中に「広報協議会」が発足し、国民に向けての情報提供(働きかけ)が行われることになっているのですが、その協議会のメンバーはその時の国会議員の議席数によって比例配分されることになっています。
情報は出し方によってかなり自由に印象を変えられますから、ここでの情報の出し方で国民の意見は大きく影響を受けることは間違いありません。
小選挙区導入や郵政民営化の時のことを思い出せばいいでしょう。
マスコミも有識者も全く機能しないでしょう。彼らもいまや職業でしかないからです。
新聞社の論説委員や編集委員が必ず政府に迎合し、終わった後で批判しだすのを、これまで何回か見てきています。私が信頼していた論説委員も、そうでした。
ここでも「無責任体制」は健在です。

多数決と国民主権は理念としては正しいし、その考えが社会を豊かにしてきたことは事実です。
しかし、同時に、その思想が悪用されて、あいまいな国民主権の実体を多数決手法で自らの考えを実現する道具に使ってしまう人が出てくるのです。その人も、おそらくそれほどの「悪意」はないのかもしれません。ヒットラーにしても、個人としてはそう悪意の人ではなかったように思います。
ただ、制度に利用されただけなのかもしれません。
だからこそ、日本国憲法は大切なのです。
瑣末なことに目を向けて、憲法改正賛成などといってはいけないのです。
憲法改正賛成だが、9条は変えたくないなどという論理は全くナンセンスなのです。
多数決方式を利用して、自らの考えを正当化する人たちに絶好の材料を与えるだけなのです。

手続きとは理念やビジョンや思想を具現化したものです。
手続きを決めることは、実体を決めることなのです。
気をゆるめて、ニーメラーのような後悔をしたくはありません。
テレビでの憲法特集が最近多いですが、その報道姿勢にむなしさを感じます。

■当事者主権の難しさ(2007年5月6日)
最近、「当事者主権」ということが言われてきています。
私も、そうした動きに関心を持っています。
私が会社時代に取り組んだCIプロジェクトの理念の一つでもありました。
その体験もあって、それがどのくらい難しいことであるかも実感しています。

私が最近取り組んでいるコムケア活動の理念も当事者主役です。
しかし、「当事者」は常にマイノリティであるところに難しさがあります。
その当事者が、自分よりも不幸な存在である場合は、同情し応援しますが、社会的に注目されだすと嫌悪感を持ち出す人がいかに多いかを私は身を持って感じてきました。
私の身近な友人知人や親戚でもそういうことは起こりますし、私自身のなかにも、そうした面がないとはいえません。
それに、「当事者」自身、注目されだすと言動が変わることもないわけではありません。
私の友人から、「社会的弱者はそれゆえに社会的強者である」と指摘されたことがあります。そうした面もないわけでありません。
同じ目線を維持することは、本当に難しいです。
目立つ釘は打たれてしまうのが、日本の社会かもしれません。

当事者主権で動き出した人たちが、社会から石を投げられた事例は枚挙に暇がありません。
私がそのことを意識した最初の記憶は水俣病でした。
最近では拉致家族会やハンセン病患者が、そうした目にあっています。
犯罪被害者の家族の話もよく聞きます。
弱いものほど弱いものをいじめることが多いですから、実は弱さと強さは逆転しているのですが、現実に「いじめ」の対象にされてしまうと辛い状況におかれます。
時に、自殺へとつながってしまう悲劇も起こります。
自殺は決して「自死」ではなく、犯人の姿が見えにくい殺人だという気がします。
しかし、犯罪の概念を変えない限り、この事件は罰することができません。

私が昨日書いた、難病の家族をもつ家族もそうかもしれません。
私自身にも、そうした当事者が苦労して自らの人生を開いていった姿に否定的な発言をしてしまったのかもしれません。
急にそんな気がしてきて、ついつい懺悔したくなりました。
「思いやること」の難しさを感じます。

■生産者主導から消費者主導の経済への移行の幻想(2007年5月8日)
経済の主導権が生産者から消費者へと動いてきていると、いわれます。
私が大学を卒業した時点では、産業構造の川上化か川下化の議論はまだ分かれていました。
私が入社した東レでも、それがテーマになっていました。
いうまでもなく、その当時も少し考えれば川下化は当然の流れでした。
しかし、そうはなりませんでした。
残念ながら東レは川下化路線を取りませんでした。
15年後に、私はトップに川下路線を再度提案しました。
それが結局は私が会社を辞める契機になるプロジェクトの始まりでした。

私が会社に入った1960年代に、すでに日本でもドラッカーは話題の人でした。
彼の本を読んで、私はしかし失望しました。
事業の目的は「顧客の創造」だと書いてあったからです。
以来、私はドラッカーは好きにはなれません。
しかし、企業経営に関して言えば、ドラッカーは的確でした。
「顧客の創造」とは、経済の起点は消費にあると明言しているわけですから。
当時はまだプロダクトアウトの経営観理論が全盛でした。
生産の起点をおいた経営論や産業論がほとんどでした。
しかし、資本主義の本質は「消費」にあることは、後知恵かもしれませんが、明白です。

1990年代になって、ニューエコノミー論が盛んになりました。
ITが大量生産体制の限界を克服し、柔軟な供給体制が可能になったのです。
カスタムメイドの経済が可能になり、ますます個々の消費者が主役になれるようになったのです。
とまあ、これがこの数十年の産業構造や経済システムの大きな流れです。
生産者主導から消費者主導の経済への移行です。

私は、しかし上記の議論には全く与しません。
表層的な動きに騙されていけません。
たとえば、こんな記事が今月号のハーバード・ビジネス・レビューに出ていました。
サプライチェーンを一般家庭まで延ばす、という記事です。
長くなりそうです。
この続きは、明日、書きます。
余計なことを書いてしまったので、肝心のテーマに行き着きませんでした。

■サプライチェーン・マネジメントの家庭への侵入(2007年5月9日)
昨日の続きです。
最近の経営戦略のひとつが、サプライチェーン・マネジメントです。
これも1960年代から議論されていた経営テーマですが、明確な戦略として意識されてきたのは1980年代からでした。
サプライチェーンとは、原材料の源泉から最終消費者にいたるプロセスを統合的につないで考えるということですが、その統合する範囲に「消費過程」までを組み込もうというのが、昨日、言及した記事(「サプライチェーンを一般家庭まで延ばす」DHBR)の内容です。

これまではサプライチェーン・マネジメントは小売店で終わっていました。消費者が購買した後は消費者の管理に入るわけです。しかし、そこで経済的には無駄が発生します。消費者の管理はいかにも気ままだからです。
たとえば、今朝、わが家では朝食のパンが不足しました。昨日、買い忘れたのです。私は違うものを食べましたが、パンのメーカーは売上げを減少させたことになります。パン1枚が何だと思うかもしれませんが、社会全体では大きな額になります。
イギリスでは、そうした消費者の買い忘れで、年間90億ドルの売上げ減少を引き起こしていると、その記事は書いています。
そこで、消費者が購入した後も、商品管理ができないかという戦略が出てきました。
その萌芽は、通販や宅配販売などではかなり前から試みられていますが、それをITで管理し、まさに企業によるサプライチェーン・マネジメントに組み込もうというわけです。
ICタグやIC組み込みの冷蔵庫が、それを可能にします。
記事にはこう書かれています。

未来の家庭では、ハイテクごみ箱が登場し、ICタグのついた日用品が捨てられると。自動的に注文したり、購入を促したりするかもしれない。

すでに冷蔵庫内の使用量がわかるスキャナー内蔵の冷蔵庫の試作が始まっているそうです。
その記事の最後はこうです。

サプライチェーンの概念で喜ぶのは企業だけではない。
言うまでもなく、消費者もそのメリットにあずかれる。

言うまでもなく? ・・・・
こういう発想を持つ人が、産業や経済を主導しているとしたら、私たちがケージに入った鶏に「進化」できるのも、そう遠い先ではないかもしれません。

先週、購入していた地下鉄の回数券の7枚が有効期限切れになっていました。ちょいちょい発生するこうした損失はなくなるかもしれませんが、それ以上に人生の面白さもなくなるような気がします。
ちなみに、私の今朝の朝食は、久しぶりのホットケーキでした。

■冤罪事件報道で感じた恐怖(2007年5月9日)
昨日のテレビ「報道ステーション」で、冤罪被害者の追跡調査の特集をやっていました。
報道ステーションのサイトから引用します。

2002年4月、富山県氷見市で、2件の婦女暴行事件に関わったとして当時34歳のタクシー運転手の男性が逮捕された。ところが出所後、別の事件で逮捕された容疑者がこの2件の事件について供述し、男性の冤罪が発覚したのだ。犯行現場に残された足跡に比べて男性の靴のサイズは明らかに小さく、さらには犯行の時間帯にアリバイがあったにもかかわらず、なぜ逮捕されたのか。そして、なぜ男性は自白に追い込まれたのか。当時の取調官に直接電話をかけ、問い詰める男性に独占密着。警察の杜撰な捜査の実態に迫る。

印象的だったのは、古館さんが心から怒っていたことでした。
私も感情を隠せない人間ですので、感情をあらわにする人が好きなのです。
古館さんの怒りは、そうした杜撰な処理をした警察、そして検察、さらには裁判に関わった人たちが、何の咎めもなく、今なお、冤罪被害者に非礼を重ねていることです。
この番組を見ていると、日本には公平な裁判はないのではないのかと思いますし、警察は暴力団以上に悪質な暴力団だと思わざるを得ません。暴力団でも、それなりに仁義があるでしょう。

しかし、私の周りにもとても誠実でまじめな警察官もいますし、弁護士もいます。
どうもそれがしっくりきません。

警察や裁判官たちが暴力団と同じだということは、ある意味では当然の話です。
彼らは暴力と人を裁く権限を法的に独占していますから、暴力団以上に暴力団になれるのです。両者がつながるのは当然の話です。

それにして、なぜこうした冤罪が繰り返し起こり、その冤罪に対して、常識的な対応ができないのでしょうか。
この2つは、実は深くつながっています。
企業の危機管理の歴史の中で、もはや常識になっていますが、危機に対する処理を間違っている限り、問題はなくなりません。
日本の企業や行政が繰り返し不祥事を起こすのは、それが犯罪だと認識されずに、しかもその処理がきちんと行われないからです。日本における企業不祥事も同じです。

冤罪を起こした警察官や検察官、弁護士が責任を問われない限り、冤罪はなくなりません。
今回の事件で、冤罪を意図的につくりあげた人たちは、免職ではなく、犯罪者として裁判にかけられるべきでしょう。しかも、少なくとも冤罪被害者よりは重罪にすべきです。
専門家とはそういうものでなければいけません。
裁判員制度などという無責任な制度を導入することができるのは、今の司法界の人たちに責任感も専門家意識もないからではないかと思います。

人の人生を狂わせておいて、心が痛まないような人が警察や司法界にいることが、とても恐ろしい気がします。
いや、そういう人でないと務まらないのが、司法界の真実かもしれません。

■「親学」よりも「主権者学」が必要(2007年5月11日)
チェチェンニュース(5月2日)に、
「侵攻」か「進攻」か?チェチェン紛争をめぐる各紙の視点
という記事がありました。
チェチェン紛争に対するロシアの行動に関して、マスコミの表現が違う話です。
朝日と毎日は「進攻」、読売と産経、それに日経は「侵攻」だそうです。
ではイラクの時はどうだったか。
2003年3月、米英軍がイラク領内に爆撃を開始したとき、朝日、毎日はこれを「侵攻」と呼び、読売、産経、日経は「進攻」と呼んで議論を巻き起こした。
と書かれています。
こうしたことの積み重ねが、私たちの意識に大きな影響を与えることはいうまでもありません。

どこから見るかによって、世界の風景は全く違ってきます。
事実はひとつでも、その事実が持つ意味はたくさんあります。
正しいか正しくないかの話ではありません。
しかし、そうしたことの積み重ねが歴史を分けていきます。
そして、自分にとって居心地の悪い社会に生きなければいけなくなるかもしれません。
そうならないために、しっかりした自分の視点で、世界の風景を見ていくようにしたいものです。自分だけの問題ではなく、同時代に生きる人たちや次に続く子どもたちに対して、「騙された罪」を犯すことになりかねません。

問題はチェチェンやイラクなのではありません。
私たちの身近にある問題についても、いま同じことが毎日起こっています。
言葉ではなく、その奥にある価値観を問いただすことが必要です。
言葉で操られる存在になっては、国民主権を定めた憲法が嘆くでしょう。

「親学」が問題になっていますが、「主権者学」こそ必要なのかもしれません。

■余命3か月(2007年5月11日)
今日、女房と2人で散歩していて出会った人から聴いた話です。
残酷な話です。
書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。

その人の親しい知り合いが、がんになりました。
気づくのが遅すぎたため、かなり厳しい状況でした。
医師から「余命3か月」というようなことを言われたそうです。
その方は、涙で話し続けられなくなりました。
他人事(ひとごと)ながら、ショッキングな話です。
なぜそんな話になったかといえば、私の女房も同じガンなのです。
そして、その人は、女房の投稿記事を読んで、女房のことを知っていたのです。

女房から、私もそういわれたのと詰問されましたが、
女房に関しては、これまで一度も、医師からはそうした話はありませんでした。
しかし、こうした表現で話されたという話を聞いたり読んだりしたことがあります。
信じられない言葉です。
そういう言い方をする医師は、医師の資格がないと思いますが、決して少ないことではないのかもしれません。

そういえば、私も信頼していたある医師から、女房に関してアドバイスを頼んだら、死に方の問題ですね、と言われて、その医師への信頼感を失いました。
これに関しては、以前書きましたが、それは医師の発想ではありません。
そんな医師にかかったら、殺されるのが関の山です。
こういう医師がいる限り、日本の医療は良くならないように思います。

がんの怖さは、先が中途半端に見えることです。
医学の知識は絶対的なものではありません。統計的なものでしかありません。
優等生の医学生が、生命体への畏敬の念(センス オブ ワンダー)を学ばずに、そのまま医師になってしまうと、その統計的な知識を具体的な患者に当てはめてしまいがちです。優等生的な医師ほど、恐ろしいように思います。
しかし、統計的な知識を信じてしまうのは、患者もその家族も同じです。
自己暗示にかかってしまうのです。
そして、先が見えてしまうような気がしてしまうのです。
そうなると、希望は失われます。
私たちも半年前までは、それに近かったのかもしれません。

それにして、「余命何か月」などという言葉は誰が言い出したのでしょうか。
創造主である神でも決していわない言葉でしょう。

女房は、自分がいま取り組んでいることをもっと話してやりたいそうです。
がん患者は、みんな同志になります。
自分の体験を分かち合いたいとみんな思うようです。
知的所有権などという小賢しい理屈は成り立たない世界なのです。
病になるとほとんどの人が聖者に近づきます。
病を治すのは、医師ではなく、患者たち同士なのではないかと私は思います。
医師ができるのは、その手伝いでしかありません。
手術などはもちろん別ですが。

自らががん患者と公表した民主党の山本孝史参院議員を民主党が公認する方向だという記事が今日の新聞に出ていました。よかったです。
山本議員は、遅れている日本のがん対策に取り組み、文字通り命をかけて、患者本位のがん医療を実現すべく、「がん対策基本法」の成立に尽力してきました。しかし、この7月の参議院選挙での再選が危ぶまれているそうです。
http://www.ytakashi.net/

そこで、がんの患者会メンバーや自殺対策支援団体メンバーなどでつくる「山本たかしさんを国会に残そう!有志の会」が主催して、下記の通り緊急集会を開くことになったそうです。私の友人から、案内が回ってきました。

日時:5月13日(日)14:00〜16:00
会場:日本薬学会長井記念ホール(渋谷駅から徒歩8分)
お問い合わせは、有志の会事務局bxs00035@nifty.com まで(5/13まで有効)

お時間が許せば、ご参加ください。
私たちは参加できないのですが。

■当たり前のことをやっていないのは誰か(2007年5月12日)
教育再生会議による「子育て指南欽急提言」は、あまりの不評に「待った」がかかりましたが、首相周辺からも「当たり前のことを言っているだけではかえって世論の批判を受ける」という声があがったそうです(朝日新聞5月11日)。
当たり前の例として、たとえば「子どもにうそをつかないように教える」ということがあげられています。
しかし、これは決して当たり前のことではありません。
CWSコモンズでも書いているように、小泉政権以来、日本では「みんなでうそをつきましょう」という風潮が広がっています。その見本を首相や閣僚は見事に果たしています。日本の最近の内閣の騙しぶりは、詐欺師集団より見事かもしれません。
それをつくろっているのが、マスコミと裁判所です。

日歯連の1億円裏献金事件で、村岡被告は逆転有罪になりました。この事件で明らかなことは、村岡、野中、青木、橋本といった自民党を支えていた国会議員のだれか、もしくは全員が嘘をついていることです。そんなことすら裁判が立証で企業なのであれば、裁判の意味がありません。いや、真実を糊塗するのが政治事件の裁判であれば、充分に意味はありますが。
松岡国会議員の国会での答弁はどうでしょうか。
あれは「嘘以前」ではないでしょうか。
そうした事例にいくらでもあります。
いまや嘘をつくことが、立身出世し、経済的に成功する社会になったのです。
それが成功しすぎたりすると、さらにその上の嘘つき者から指弾されますが。

今朝の朝日新聞の天声人語は、こんな文で始まっていました。
「橋のない川」を著した作家の住井すゑさんは、「子育て」という言葉を嫌った。子どもの管理に通じる意識を、そこに見たからである。

■野党は寝ているのですか(2007年5月13日)
10日の国民投票法にまつわる国会議論の実況を見ていて、とても情けなくなりました。
みんなまじめに議論してないのです。
だからこそ、国民投票法は成立してしまうのでしょうね。

それにしても、これだけ重要な争点があるのに、なぜ国会での議論は盛り上がらないのでしょうか。
国民の反対はかなり盛り上がっていますが、マスコミはいつものように、それには目も向けずに、つぶしています。お金で動くマスメディアの存在は有害無益です。

日本の不幸は、野党の存在がなくなってしまったことです。
二大政党制は野党をなくす構想ですから、それは仕方がないのですが、それにしてももう少しがんばってほしいと思います。
本来的な意味での野党とはいえませんが、民主党にさえも、もう少しはがんばってもらいたい気がします。
今の民主党は、自民党もどきの政党でしかありませんが、そこに所属する政治家には、少しは志のある人もいるはずです。私の知人も、そのはずなのですが、一向に何もしません。
立候補する時に、できる範囲で応援するといったら怒ってきた人がいます。
出来る範囲を超えて応援しろというのです。
その本人は、いま何をやっているのでしょうか。
時々、言葉だけのメールが来ますが、いささか寂しい気がします。
そういう人が多すぎます。
民主党は解党するか自民党と合体すべきです。

社民党と共産党は、野党といえる主張があります。
しかし、いずれも自己満足に陥っています。
本気で社会を変える意思があれば、国民の心を捉え、時代を変えていくためのイニシアティブを打ち出せるはずです。
護憲の問題にしろ、格差問題にしろ、福祉問題にしろ、国民はおかしいと思い出しています。
その国民の気持ちを束ねていけば、新しい風は起こるでしょう。
共産党も社民党も、これまでの組織原理や歴史にこだわることなく、新たな次元に向かって大同団結するべき時期に来ています。
政党の面子や利害にこだわっている時代は終わりにすべきです。
政治家は、いまこそ、自分の意志で動くべき時代です。
復党騒ぎに現を抜かす政治家はもういらないのです。
志があるのであれば、政党を離脱して、動き出してほしいものです。

参議院選挙が近づきましたが、政治家は一体何をしているのでしょうか。
保身のためにしか動いていないのでしょうか。
国民の思いに立脚した、本当の野党は生まれないものでしょうか。

■まずプロジェクト、原理はそれから(2007年5月14日)
「真なるものとは単に、信じるほうがより便利なものというにすぎない」。
アメリカのプラグマティズムを代表するリチャード・ローティの言葉です。
おそらく「正義」もそうかもしれません。
以前書いたような気もしますが、「常識」もまた「それに従えば便利なもの」です。

国民投票法が成立しました。
今日、改めてまた、NHKで放送された「焼け跡から生まれた憲法草案」を見ました。
何回見ても、やはり今の日本の憲法状況はおかしい気がします。
現在の日本国憲法は、米国からの押し付け憲法ではなく、私たち日本人が戦争という大きな代償を払って到達した成果なのです。
そして、今の社会は明らかに違憲行為の積み重ねです。
つまり少なくとも小泉前首相も安倍首相も犯罪者です。
それが、私にとっての「真なるもの」であり、「正義」であり、「常識」です。
しかし、どうもそれは間違っているようです。
安倍内閣の支持率が上昇しているそうです。
私にとっては、実に気持ちの悪い社会です。

ローティの定義は、まさに西部劇の世界の話です。
歴史も原理もなかった、アメリカであればこそ、現世的な功利主義が優先したわけです。
そして、そこにこそ、アメリカ型の民主主義が成り立つわけです。

ローティはまた、“FIRST PROJECTS, THEN PRINCIPLES”(まずプロジェクト、原理はそれから)といっています。プラグマティズムの政治スタイルを簡潔に説明しています。

文化は野蛮には勝てません。
インカ文化もアフリカ文化も、そして身近では琉球文化も、近代西欧の野蛮に破れました。文化と野蛮は、これもまた定義次第ですが、私は近代に野蛮を感じます。

日本の文化もそろそろ終焉を迎えるのでしょうか。
それともまだ歴史を大きく変えていく存在になるのでしょうか。
いま、その岐路にあるように思いますが、時代はプロジェクト先行に向かいつつあるようです。
気持ちの悪い時代になってきました。

■「憲法改正手続法」を「国民投票法」と詐称する犯罪(2007年5月15日)
昨夜の報道ステーションに国民投票法成立に取り組んできた自民党の保岡議員が出演していました。そこで、古館さんや加藤さんと議論していましたが、その話の内容に驚きました。古館さんは、最後の切れ味が悪かったものの、とても粘って質問していました。これがいまの「放送法」管理下での限界なのかなという気がしてみていました。
本を読みながら聴いていたので聴き違いかもしれませんが、最低投票率の議論に関して、保岡議員はこんな答をしていました。
35%の投票率で80%の人が賛成した場合、国民の28%が賛成したことになる。
40%の投票率で60%が賛成したら、24%が賛成だから、35%の投票率だったときよりも賛成者は少ない。
もし40%を最低投票率と定めたら、5%の人が投票をボイコットしたら、投票が無効になり、28%の賛成が活かされない。
とまあ、こんな説明でした。
この人は完全な詐欺師ですね。
さすがに加藤さんも古館さんも唖然としていましたが、めちゃくちゃな論理過ぎて、誰も反論する気になれないでしょう。ですから詐欺は成り立ちます。
オレオレ詐欺などはこういう人にかかったら可愛いものでしょうね。
そもそも国民投票法には大きな詐欺要素があります。
その法律名です。
この法律は、「国民投票法」ではなくて、「憲法改正手続法」と呼ぶべきです。
国民投票法と名づけたが故に、これが「国民主権の完成」などという意見が出てきてしまうわけです。
日本の政治はクリプトクラシー(盗賊政治)だと指摘している人もいますが、ますます大掛かりになってきました。なにしろ犯罪を取り締まり裁く側も、すべてが仲間の盗賊団、詐欺団ですから、困ったものです。
自己防衛しなければいけません。まあ、無理かもしれませんが。

■筑紫哲也さんの肺がん告白(2007年5月16日)
一昨日のNEWS23の冒頭で、キャスターの筑紫さんが、自らの肺がん告白を行いました。
「がん」は、実に哲学的な病気です。
思考回路を変えさせる言葉です。
ですから、付き合い方がとても難しい病気です。

私の妻ががんなのです。
家族で現在、闘病中です。
「闘病」という言葉は、少し正確ではないかもしれません。
「がんという言葉」に立ち向かっているというべきかもしれません。
昨日も病院でした。
私も、4年ほど、毎月、多いときは毎週、通い続けています。
妻ががんになったことで、その世界が少しだけ実感できています。
ほんの少しだけですし、もしかしたら間違っているかもしれませんが。

しかし、ともかく、生命に対してセンシティブになります。
健康な人の言葉は強く感じます。やさしい言葉ですら心を刺すことがあります。
同じ病気を体験している人の言葉はやさしく聞こえます。
会った途端に、仲間に感じられて、お互いに何かしてやりたいと思います。
状況が厳しい時には、その余裕がなくなることもありますが、女房をみていると、いつも誰かに役立とうという思いを感じます。
これは彼女の性格というよりも、置かれた状況の成せることだと思います。
彼女だけではないからです。
ほぼ例外なく、私たちが出会ったがん患者はみんなそうです。

一昨日も、自らもがん患者でもあるにも関わらず、女房のために「免疫ミルク」の情報を送ってくれた人がいます。女房の新聞投稿記事を読んで、手紙を送ってきてくれたがん患者からの手紙も昨日届きました。ほぼ毎日、こういうことがあります。
「がん」という言葉は、人をやさしくし、つないでいく言葉でもあることを実感しています。
「がん」という言葉には、心がつながるコミュニティを生み出す力があるようです。

今日、病院で女房の友人に会いました。
彼女の夫にやはりがんが発見されました。
同行していた私の娘も、病院で同窓生に会いました。やはり家族と一緒でした。
病院で時々知り合いに出会います。
おかしな言い方ですが、がんは、今や私たちにとって極めて身近な病気なのです。
筑紫さんも、2人に1人ががんになる時代と話していました。
にもかかわらず、「がん」といわれると心身ともに変調を来たします。
私は妻が「がん」といわれた途端に、世界が変わったのを覚えています。

もしかしたら最大の問題は「がん」という言葉ではないか。
「がんという言葉」で、みんな自己暗示にかかっているのではないか。
そんな気がしてきています。

希望を萎えさせると同時に、人をやさしくし、つないでいく、「がんという言葉」。
そこに何かとても大きな意味があるようなきがしていますが、それが何かまだ見えてきません。

■少し「危うい」話(2007年5月17日)
みなさんは死後の世界を体験したことがあるでしょうか。
私の友人には3人ほど、臨死体験した人がいます。
みんなその時に同じお花畑を見てきたという話で盛り上がったことがありますが、今日の話題はそうした話ではありません。
私の体験談です。

いまから10年ほど前なのですが、自分が死んだ後の現世の風景を2回見ました。
いや、正確には、見た気がしています、というべきでしょうか。
一度は私のオフィスの近くの湯島です。
いつものように歩いていると何か奇妙にあたりから人の気配が消えました。
そしてそこに私が子どもの頃によく見かけた質素な服装のおばあさんと2人の幼子が遊んでいるのです。
なにやら自分の存在が実感できずに、遠くからその光景を見ているような気がしました。音がないのです。ほんの数秒の話ですが、とても奇妙な感じでした。
しかし、なぜか立ち止まらずにそのまま歩き続け、3人は視界から自然と消えました。
その時はちょっと奇妙な感じだけでした。
ところが、そのたぶん数日後、同じ風景に出会ったのです。
私の記憶では、場所は大阪の梅田です。
なぜか記憶があいまいなのですが、少なくとも湯島ではありません。
同じ3人が、同じ服装で遊んでいるのです。
神仙に遊ぶような雰囲気でした。
なぜかそれに疑問を感ずることなく、通り過ぎました。
その数日後、その光景が思い出されて、とても奇妙な気持ちになりました。
ありえない話ですから、すべては私の夢かもしれません。

これはずっと気になっている体験です。
なぜか、その一瞬の風景は、私の死後の、湯島や梅田の風景のような気がしてなりません。

1週間前、近くのスーパーに娘と買い物に行きました。
その時に、この体験が急に頭をよぎりました。
私が死んだ後も、このスーパーは同じようににぎわい、そこに行く途中の街並みは何の変化もないのだろうという感慨が沸き起こりました。
3人組を探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、なにか私が死んだ後のスーパーの店頭のような気がしました。
一瞬だったのですが。
人は60代になると死語の世界とつながっていくのかもしれません。
最近、自分が死んだ後の、仕事場の風景が感じられるようになってきました。

両親が亡くなった後、私の生活はどうだったでしょうか。
いろいろと変化はありましたが、世界のほとんどは何も変わりませんでした。
死者にとって、世界はたぶん非連続になくなるわけですが、世界にとって死者の存在は連続的な自然の営みでしかありません。
この非対称の関係は驚きです。信じ難く非対称です。

また母親殺しという悲劇が起こりました。
信じたくない事件ですが、個人レベルではなく、社会レベルでも、死後の世界につながりだした結果の事件かもしれないという気がします。
地下鉄サリン事件が起きた時に、私たちの世界は終わったのではないかと感じましたが、その時の絶望感がますます現実化してきているような気がしてなりません。
人は一線を踏み越えようとしているようです。
すべてが夢であればいいのですが。

わけのわからないことを書いてしました。
ちょっと危うい話でした。

■過剰報道と過少報道(2007年5月18日)
今の日本の社会を象徴しているのはマスコミ報道の内容です。
最近の新聞やテレビは、まさに「パンとサーカス」の世界を感じさせます。

会津若松で起こった17歳の母親殺人事件は、猟奇的であるためか、克明に報道されています。
果たしてこれほど詳しく報道する必要があるでしょうか。
こうした報道が次の事件を生んでいくのか、防止するのか、意見は分かれるでしょうが、私は間違いなく生んでいくと思います。
その可能性がわかると選択肢に入れてしまうのが、人間の常ですから。
そういう意味では、いまのマスコミは私にはこうした事件を生み出す共犯者のような感じがします。
どう考えても過剰報道です。

娘に、そういう話をしたら、大きな事件がないからではないかといわれました。
とんでもない、いま大きな事件は静かに進行しています。
1人2人の死の話ではなく、大勢の人の生死にかかわり、さらには社会の死に関わる事件、がです。
たとえば、国民投票法、正確には平和憲法廃止準備法が成立し、教育関連法、正確には教育管理手続法が成立しようとしています。
これによって、どれだけ多くの人が実際に死に追いやられることでしょうか。
国家がやることですから、犯罪にはならないのですが、
そこに未必の殺意もあると思いますので、論理的には犯罪とほとんどかわりません。

そうした、新法の意味や、それを成立させるための詳しい手口こそを、マスコミは報道すべきです。
そうした動きに対する反対活動の報道も、過少報道になっています。
パンとサーカスの後ろで、何が行われているのか、マスコミに報道してほしいものです。
マスコミにとって、読者や視聴者は市場でしかないのでしょうか。

■basement ethicsとaspiration ethics(2007年5月19日)
相変わらず組織の不祥事がなくなりません。
組織を預かっている人たちにモラルもエシックス(倫理)もないのでしょうか。
科学技術倫理フォーラムの杉本泰治さんから教えてもらったことですが、全米プロフェッショナル・エンジニア協会(NSPE)の倫理規定には、“ don’t do” で始まる条文と“shall do”で始まる条文とがあるそうです。
前者は行動の最下層をきめたもので、このレベルより下のことは、何であれするなという、最下層倫理(basement ethics)、後者は、何かをする気にさせるもので、抱負倫理(aspiration ethics)と呼ばれているそうです。
そして、倫理規程の冒頭に、「公衆の安全、健康、および福利を最優先するようにしよう(shall do)」と明記されています。
日本ではまだコンプライアンスなどということが課題になるレベルですが、コンプライアンスはおそらくbasement ethicsよりも下位の概念でしょう。まともな大人であれば、あえて言うまでもない当然の遵守事項であり、決して免責のためのものではありません。

倫理というと、なにやらうっとうしい気もしますが、aspiration ethicsと考えると楽しくなりそうです。
発想を変えると世界が変わってくることの一例です。
日本の企業倫理論議で欠けているのは、こうした発想ベクトルの転換です。
それがない限り、現実は変わらないような気がします。
倫理を守ることが当事者にメリットになるように設計する知恵が必要になっているように思います。

■どこから考えるか(2007年5月20日)
とても美味しいジュースをコップで半分飲んだところで、
「もう半分しか残っていない」と思うか、「まだ半分もある」と思うか。
よく語られる話です。
物事は考えようで、全く違った風景になります。

話題のTOTOビッグを買うことにしました。
いま6億円あると、ちょっと面白いこともできそうですので。
で、何枚買うかという問題に直面しました。
論理的な私としては、当たる確率から考えることにしました。
確率からいえば、極めて低い確率でしょうから、
1枚でも10枚でもたいした違いはないでしょう。
だとしたら、1枚でもいいことになります。
そこで1枚にしようと思ったのですが、発想を変えると1枚よりも10枚のほうが当たる確率は10倍になります。
数千円の差で、確率が10倍になるのであれば、打算家の私としては、ここはやはり10枚にしたほうがいいと考え直しました。
ところが、10枚にしようと思った途端に、懐疑論者の私としては、どこかで騙されていないかと気になりました。
微小な数字が10倍になったところで、意味があるのだろうかというわけです。
やはり1枚でしょうか。
妥協好きな私として、真ん中をとって5枚にしようか。
いや、この場合、真ん中は5枚と考えるべきなのかどうか。
とまあ、こんなことを考えているうちに、結局、ビッグを買い損ねてしまいました。

風景が変わると決断できないことにもなりかねません。
自分の視点はしっかり持たなければいけません。

結局、優柔不断な私としては、6億円を失った後悔だけが残ったような気もします。
しかし、6億円失ったおかげで、構想していた苦労の多い仕事をしないですみました。
怠惰な私にとっては、6億円当たるよりも良かったのかもしれません。
それに、奇跡を信ずる私として、
もしかしたら買わなかったけれど当たるかもしれないという思いもあります。
それに当たった人がお裾分けしてくれないとも限りません。
ものは考えようでもあります。

ところで、みなさんは買いましたか。
6億円当たったらコーヒーをご馳走してくれませんか。
ドトールでいいです。

■団塊シニアの不安(2007年5月21日)
団塊シニアが会社を定年で辞めだしましたが、彼らは退職後の生活に経済的不安をもっているかどうか。今日、そんな議論をちょっとだけ、団塊世代の人としました。
リストラされずに無事定年を迎える団塊シニアは、何とかぎりぎりでバブル経済の恩恵を受けて、老後の経済的心配はないのではないかと、私は思っていました。
しかし、団塊世代である当人(大企業の役員です)は、そんなことはない、不安に感じている人が多いというのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。

私の意見はこうです。
団塊シニアの多くは、会社人間として目いっぱい「生産活動」言い換えれば「金儲け活動」に取り組んできました。その結果、お金を稼ぐことが仕事だと考えるようになってしまったのです。逆に言えば、お金を稼ぐことはできても、お金を使うことが出来なくなってしまったのです。
資本主義経済の発展の両輪は、生産と消費です。男性が生産を、女性が消費を担ってきたのです。20年前に会社を辞めてから、そうしたことを実感することが多かったです。
カルチャーセンターでも、旅行でも、百貨店でも、いつも主役は女性でした。
生産と消費はコインの裏表ですから、そのどちらも必要なのですが、あまりに役割分担が進みすぎて、生産生活を続けてきた男性たちは、お金を使うという発想がなくなったのです。
お金を稼ぐことは、彼らにとって、生きている証になってしまったのかもしれません。
ですから、お金が稼げなくなると自らのアイデンティティが否定されるような気がするのかもしれません。
つまり、経済的不安ではなくて、自己否定される不安なのです。
よく、私は年金生活者だからという人がいます。
あれもまた、稼ぐことしか発想できない男性の哀しさを象徴しています。

団塊シニアが不安に思っているのは、お金が稼げなくなることではなくて、お金の使い方がわからないことなのではないか。そんな気がしてなりません。
お金を稼ぐ点では女性に負けなかった男性たちも、お金を使う点では女性には勝てないでしょう。
したがって、家庭での主導権は女性に移るのです。
その先には熟年離婚が待っています。
稼ぐことでしか居場所がなかった男性たちの冬の季節が始まるのかもしれません。

そうならないために、みなさん、お金を稼ぐことの虚しさに早く気づきましょう。
お金は稼ぐためにあるのではなく、暮らすためにあるのです。
みなさん、もし6億円が当たったら、きちんと使うことが出来ますか。
まさか「貯金する」などという馬鹿なことは考えないでしょうね。
貯金するくらいなら、6億年は当たる必要はないのです。
そう思いませんか。

■不寛容の時代(2007年5月22日)
私の生活信条の一つは「わがままに生きる」ことです。
誤解されそうですが、本意は、「自分が納得できる素直な生き方」を大事にすることです。
この生き方を長期的に実現するには、他者の「わがまま」も尊重しなければいけません。
人間は他者とのつながりの中で生きていますので、そうした関係性の中で、自らの納得の内容を絶えず吟味していくことが必要です。そうしないと、井の中の蛙や裸の王様になってしまい、結局は「わがまま人生」がどこかで破綻しがちです。
ですから、「わがままに生きる」とは、実は自らにも他者にも「寛容に生きる」ことかもしれません。

先週、CWSコモンズの週間報告に「寛容について」を書きました。
そこで、村上陽一郎は「文明の死/文化の再生」の中に書かれている文章を引用しました。再録します。

自己が一つの選択肢としての、ある伝統に依拠していることを自覚することができ、それに基づいて、伝統に関して他の選択肢の可能性を認め、かつそれに依拠する他者の存在を認め、また、その可能性を自ら検討できる、という2つの能力を有するとき、その個人、あるいは共同体は、「寛容」であると定義できるのではないか。

こうした「寛容」な生き方に身を任せると、とても生きやすくなりそうです。
以前書いた、笑顔の人もまた、そうした寛容な生き方をしている人かもしれません。
しかし、残念ながら時代は、日本も世界も「寛容」でなくなりつつあります。

今日の朝日新聞に、全国特定郵便局長会(大樹の会)が、自民党支援か国民新党支援かで割れているという記事が出ていました。
結局は、政権党についていないと利権は守れないということらしいのですが、節操とか信念はどこにいったのでしょうか。主体性すらも失ったのでしょうか。
郵政民営化に反対したのにも関わらずに、自民党に戻った議員たちのように恥知らずの人たちの集団なのでしょうか。いささかの失望です。
信念のない人たちは、決して寛容にはなれません。
ともかく「勝ち馬」に乗るのが「政治」なら、そんな政治に存在価値はありません。
結局は価値議論のない、「勝てば官軍」の世界になってしまうからです。
そうした生き方は「寛容」とは似て非なるものであることはいうまでもありません。

寛容であるためには、自らの価値観をしっかりと持つことが必要です。
何でも受け入れることが寛容ではないように思います。
ましてや日和見的に状況に合わせていくことも寛容とはいえないでしょう。
自らの価値観との関係を踏まえながら、他者の言い分を理解し、その存在を支援することが寛容のポイントだと思います。
もしそうであれば、現代は「不寛容の時代」というべきでしょうか。

私のこのブログは、そうした点で、寛容には見えないかもしれません。
私自身はかなり寛容であることを大事にしてはいるのですが。
思いと言動はなかなか一致しません。困ったものです。

■死刑制度のない社会と死刑のない社会(2007年5月23日)
以前、弁護士の犯罪について書きましたが、またそれが繰り返されています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/03/post_4d71.html

光市母子殺害の被害者の家族、本村洋さんの発言が昨日の報道ステーションで取り上げられていました。
この裁判の大きな争点は、「犯行時18歳だった被告を死刑にすべきか否か」ですが、死刑判決が出る可能性が高まったことで、21人の「死刑反対論者」の弁護士が集まって、弁護団が結成されたようです。
悪徳弁護士の集団としか私には思えません。
「悪徳」というのはひどい言葉ですが、私にはそれ以外の言葉が見つかりません。

弁護士や検事や裁判官は、犯罪を起こさないと思いがちですが、そんなことはありません。
彼らは法の世界に詳しいですから、犯罪を起こしても法的犯罪にならない方法を知っているだけなのです。そうした事例はたぶんいくらでもあるでしょう。
弁護士は、弱い人を助ける人というイメージがありますが、そんなことはありません。
サラ金業者もまた、弱い人を助けるという名目で、弱い人を利用して利益を上げます。
たしかに弱い立場の人を支援する弁護士は、私の知人にも少なからずいますが、仕事として取り組んでいる人も少なからずいます。

死刑廃止はどうでしょうか。
私も学生の頃は、死刑廃止論者でした。
しかし、大切なのは、死刑になるような犯罪が起きない社会を作り出すことです。
制度としての死刑廃止ではなく、実態として死刑がなくなる社会が目指されなければいけません。
今回、集まった「悪徳弁護士」たちは、そうした努力をしているのでしょうか。
彼らは死刑になるような事件を助長しているだけではないかという気もします。
殺人ほう助罪と思いたくなるほどですが、まあこれは言い過ぎかもしれません。

木村さんの昨日の記者会見の話をぜひ多くの人に聞いてほしいと思います。
世間知らずの裁判官の判決よりはよほど説得力があります。
私欲に陥っている悪徳弁護士には通じないでしょうが。
本村さんの発言の記録をいろいろと調べたのですが、ネットでは見つかりません。
もし所在をご存知の方がいたら教えてください。
ちなみに、昔、まだニュースステーションだった頃に、本村さんが久米さんに語ったことに言及しているブログがありました。
http://critic2.exblog.jp/3251270/
市民の法論理と弁護士の法論理とどちらが説得力があるか、不勉強な悪徳弁護士たちに少し考えてほしいと思います。
いまの法科大学院で学んでいる人たちにも考えてほしいですね。
もっともそんなことを考えていたら司法試験には通らないかもしれません。
底にこそ、実は大きな法曹界の問題があると私は思います。
私が検事を目指していたことと、状況は変わっていません。
司法改革の方向性が問われなければいけません。

またかなりの暴言を吐いてしまいました。
どうも「寛容」にはなれません。
困ったものです。

■かなり「危うい話」(2007年5月24日)
先日、「ちょっと」危うい話を書きました。
今日は一歩進んで、「かなり」危うい話です。
どこかに書いたことがありますが、今から10数年前に、前世の友人から手紙が来ました。
その人は前世で私と親しかったようです。
岩手山によく一緒に登ったことがあるそうです。
その時に、来世のある時期が来たら、会いに来て、前世のことを話してくれと私が頼んだのだそうです。
そして約束通り、彼はやってきてくれました。
私がまだ会社にいたころです。
電話で会いたいといってきました。
どうして私のことを知ったのでしょうか。今では全く記憶がありません。
とにかく突然やってきて付き合いが始まりました。
数年後、そのことを手紙で伝えてきたのです。
そして、前世を思い出すヒントを私にくれました。
それはある場所に行くことでした。
私はちょっと迷ったのですが、行きませんでした。
ところが、数か月後、全く別の友人から、その場所の近くに転居するという電話がありました。なぜ私に電話してきたのか、わかりませんが、電話してきたのです。
ちなみに、その2人は全く面識がないはずです。
偶然だったのでしょうか。そのころ、ともかくいろいろなことが、その場所を示していました。たくさんのシンクロニシティが起こっていたのです。

それでも私は行きませんでした。
その話を信じなかったからではありません。
こだわりがあったわけでもありません。
前世を思いだしたくなかったからでもありません。
単に行かなかっただけです。
もしその時、そこに行ったら、前世が思い出され、人生は変わっていたかもしれません。

そして、また10年以上が経過しました。
その前世の友人は、もちろん今でも付き合いがあります。
私のホームページにも何回か登場しています。
今ではあっても前世の話はしません。必要ないからです。

ところで、その前世の話を軸にして、私のこれまでの人生を振り返ると、いろいろと面白い解釈ができることがたくさんあります。
奇妙に自分の人生が納得できるのです。
人生は、だれにとっても、自分が主役のひとつの物語です。
それをどんな物語にするかによって、これまでの生き方の意味が変わってきますし、これからの生き方も変わっていきます。
この話は、私にひとつの物語のテーマを与えてくれたのです。
もしかしたら、前世の私はそれを期待して、彼に伝言を頼んだのかもしれません。

前世の友人から教えてもらった場所が今でもあるかどうかはわかりません。
もう10年以上が経過しているからです。
でもそろそろ行ってみてもいいかなと思い出しています。
今生への未練はいまやほとんどありませんし、来世も少し見えてきたからです。
来世で、このブログに出会えるかどうか、それが少しだけ気になりますが、きっと出会えるでしょう。
もっとも来世は人間ではなく、蛙かもしれませんが。

■弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか(2007年5月25日)
光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が始まりました。
21人もの弁護士団の主張が断片的にしか報道されていないので、報道されている限りの情報からすれば、呆れた話としか思えません。
その発言内容は、まもなく週刊誌などで報道されるでしょうが、とても正常な人が話すような内容ではないと思いました。
彼らは殺人ではないと言い張った上に、殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為と主張したそうです。
何と都合のいい論議でしょうか。
精神的に成熟していないのは、犯人ではなく、21人の弁護士ではないでしょうか。
この人たちには家族がいるのでしょうか。
その家族はどう思っているのでしょうか。

こうした「おかしな人」が弁護士なのです。
それも21人がいとも簡単に集まってしまう。
これが日本の弁護士の実態なのでしょうか。

同じ弁護士たちは、なんとも思わないのでしょうか。
弁護士という職業に、もし誇りを持っている人がいるのであれば、なぜ声をあげないのでしょうか。
恥ずかしくないのですか。
「おかしいことをおかしいという」基本を失ったら、人を裁く資格などなくなります。
ということは、おかしいと思っていないのでしょうか。
生活者との大きな溝を感じます。
難しい法議論の前に、社会が積みかさねてきた文化の規範があるはずです。
人を裁きに関われるのは、そうした社会の規範の上に立っているからこそです。

21人の弁護士たちの言動が、それを壊そうとしています。
この事件の裁判以上に、大きな裁判が必要になってきています。
21人はそれを求めているのでしょうが、彼らは「原告」ではなく、「被告」になるべきです。
その罪の大きさを彼らは自覚しているのでしょうか。

せめて、こうした人たちには弁護士の資格を返上してほしいです。
裁判員制度導入の前に、こうしたおかしな法曹人の資格審査をする公開の評価機関の導入が必要だったのではないでしょうか。
この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています。
現れ方が違いますが、日本の司法体制の本質的な問題点が感じられます。

この弁護士団の言い分については、私の友人知人の弁護士にメールで感想を聞いてみようと思います。
弁護士の友人を、また何人か失いそうですが。
このままであれば、私は日本の弁護士はもう信頼できません。

■弁護士の反応(2007年5月26日)
昨日の記事の続きです。
7人の、私が信頼できるだろうと思っている弁護士の方にメールしたら、すぐに2人の方から返信がありました。
お2人とも誠実に回答してくれました。
ただ残念ながら論点がかみ合いませんでした。
私の昨日の記事はどうも誤解されているようです。
そこで念のため、昨日の主張の論点を整理しておきます。
もしかしたら他の弁護士の方が読んでくれるかもしれませんので。
読んでいただけたらぜひご意見をお聞かせください。
私に直接メールしていただければうれしいです。
個人名での公表などはもちろん一切いたしません。

昨日の記事の論点です。
@「殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為」などという発言の是非
これは思想の自由や発言の自由という問題ではありません。価値観の違いや異論を封じようというのではなく、単にその主張の内容を問題にしています。もちろん弁護活動という社会的地位を踏まえての是非論です。
A制度論争を個人の事件を利用して展開することの是非
もし死刑制度反対であれば、大きな社会運動にすべきです。司法制度は法曹界の人たちのためにあるのではありません。制度を独占している法曹界の発想を問題にしています。
B裁判に取り組む姿勢の誠実さへの懸念
弁護士というプロフェッションとしての職責をどう考えるかという問題です。人を「裁く」ということへの誠実さをもってほしいと思っています。

繰り返しますが、「死刑制度」の是非とは全く関係ありません。
それに関してはさまざまな意見があることは望ましいことです。

それと補足です。
昨日、「この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています」と書きました。
その意味は、今回の加害者を利用しての自己主張の行為と松本サリン事件も含めて冤罪が防止できないことは共通の原因を持っているということです。
そこにあるのは、真実を見ようとしない法曹界の姿勢です。それには人間の機微への感受性の弱さも含まれます。冤罪事件の弁護士に、そうした姿勢があれば、多くの冤罪は防止できるはずです。もしできないとすれば(そしてこれまではできなかったことが少なくないのですが)、それは現在の「裁判制度」に欠陥があるからです。それを正すのが、本当の意味での「司法改革」ではないかと思います。そこを怠っている弁護士たちに私は不信感をもっているのです。
弁護士と検事が対立しているような裁判には、人を「裁く」ということへの畏敬の念が感じられません。弁護士はもっと国民のなかにはいってこなければ、真実などは見えようはずがありません。
そういうことを私は、このブログの司法時評で言い続けているつもりです。


■「ホテル・ルワンダ」(2007年5月25日)
話題になっていた「ホテル・ルワンダ」をDVDで観ました。
気にはなっていたのですが、最近、この種の映画を見るのにはかなりの勇気が必要です。
どうしても滅入ってしまい、気力を吸い取られるからです。
5年前までは逆にこの種の映画で元気をもらえたのですが、最近は無力感のほうが強くなります。あまりに現実が、そうした悲惨な状況に近づいてきているからかもしれません。

最初は虐殺場面があったら、そこで観るのをやめようという程度の「逃げ腰」で見始めたのですが、ぐいぐい引き込まれてしまいました。サスペンスがあるわけでもなく、涙が出るほどの感動的場面があるわけでもないのですが、ぐいぐいと自分の心に入ってくるのです。自らの生き方を問いただされるような、そんな映画でした。
2つの場面が印象的でした。
一つは取材していたカメラマンと主人公ポールとの会話です。
映画のサイトのストーリーから引用します。
カメラマンのダグリッシュは狂乱と化した街で精力的に取材を続けていた。彼の撮ってきた映像を観てショックを受けるものの、これが世界で放映されれば国際救助が来ると確信するポール。しかしダグリッシュの答えは違った。「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける」。
それはまさに私の生き方です。
そうやって私たちは、事件を消費し、看過しているのです。そしていつか自らがその立場になった時に、世界を恨むのでしょう。
そこからどうやって抜けたらいいのか。
もう一つは、結局、世界はルワンダを見捨てて、外国人たちは退去するのですが、その時、雨の中を飛行機に向かうダグリッシュたちにポールの仲間が傘を貸そうとすると、傘などいらない、自分たちだけが退去するのが恥ずかしい、傘をさしてもらう価値などないとつぶやく場面です。
涙もろい私は、涙が出るよりも乾く感じだったのですが、この場面だけは涙が出ました。いま、こうやって書いていてもまた涙が出てきました。
人はみんなやさしいし、誇りを持っています。
にもかかわらず、なぜルワンダのようなジェノサイドが起きるのでしょうか。
いや、ルワンダの話ではありません。
最近のテレビのニュースは殺人事件ばかりです。
なぜ人は人を殺せるのか。
殺せるはずがないのですが、どこかで何かが壊れてしまっているのです。
そうした状況を変えるための一歩は、自らの近くにある人を愛しているかどうかだと思います。
あなたは家族を愛していますか。友人を愛していますか。隣人を愛していますか。
そして何よりも、自分を愛していますか。
そんなことを考えさせられた映画でした。
ぜひ多くの人に観てほしい映画です。

■多様な行動するネットワークへの期待(2007年5月27日)
先週、座談会でお会いしたことが縁で、早稲田大学の古賀勝次郎教授の「西洋の法と東洋の法」(「法の支配」研究序説)を読みました。
久しぶりに、「実定法の不法」という言葉に出会い、学生時代に憲法と刑法にはまっていた頃のことを思い出しました。
今日はちょっと時間があったので、いろいろとネット検索して、いくつかの論文を読むことができました。
ラートブルフのナチスへの言及が面白かったです。

このブログを読んでくださっている方はもうお分かりでしょうが、
私は法実証主義の立場はとっていませんし、
実定法には解釈による多義性がある以上、論理的にも実定法に規定されることはありえない、法とは関係性の中で浮遊する文化の表象でしかないと思っています。
やや危険な発想かもしれませんが、むしろ自らが住む社会の文化に根ざして生きたいと思っています。
ですからコンプライアンスという言葉には違和感を持つわけです。

また、私は最近のリベラリストほどには他者の言動に無関心ではありません。
その一言一言が私の暮らしに深く関わっていることを感ずるからです。
たとえ異質な意見であろうと、お互いにケアしあうことこそが寛容さの基盤と考える私は、
無関心と不寛容とは同義だと考えています。

先日、このブログに掲載した弁護士へのメッセージはやや言葉が過ぎたせいもあって、いろいろな批判ももらいました。
それは心して聴かなければいけないのですが、どこかで「全くわかってもらえないな」という傲慢さが私の内部にあることも事実です。
一番わかっていないのは私自身であるということかもしれませんが。

しかしネット上では同じようなブログ記事がかなりあることにも気づきました。
私は決して特異ではなく、また独創的でもないわけです。
いってみれば、よくある退屈な意見の一つとも言えます。

ある事件が起こると、ネットの世界ではワッというほどにたくさんの反応があるのです。
私のブログはマイナーですが、大きな影響力を持つブログもあり、
そこからのメッセージが大きなネット世論を形成しているようです。
それは私が予想している以上に大きいようです。

しかし、そこで私自身は萎えてしまうのですが、「だから何が変わるのか」ということです。
さまざまな問題で、テレビでもネットでも議論が活発に展開されますが、それで何が変わるのか。
個別の問題は解決することは少なくありませんが、大きな流れは変わっていないように思います。
もちろんその積み重ねが時代の流れを変えていくのでしょうが、
ナチス台頭の時期の世界も、昭和初期の日本も、もしかしたら同じだったのかもしれません。
そう思うとますます気分は萎えてきます。
テレビで古館さんが怒り、ネットで多くの人たちが声をあげても、時代は流れを変えることなく進んでしまう。
そしてある時に破局を迎える。
これがおそらく歴史の本質かもしれません。

しかし、と、そこで思うわけです。
そうした状況を変えられるほどの情報交流と価値創発の仕組みを私たちは持ったのではないか。
ITはビジネスツールではなく、社会のツールなのだと思うのです。
たとえば、古館さんがテレビで呼びかけて、ネット世論をつなげてビジュアライスするだけでなく、実際の行動につなげていったら、大きなことができるはずです。
これは両刃の剣ですが、そうした多様な行動するネットワークがたくさん生まれていけば、どこかで調和点が目指せるかもしれません。

こうした視点で時代を論じている、ネグリの「マルチチュード」論には賛否両論でしょうが、私には実に魅力的で刺激的な主張です。
なにやらスターウォーズの世界を思わせますが、帝国と共和主義連合との闘いが始まっているような気がします。

そんなわけで、最近は気持ちが揺れ動く毎日です。

■松岡農相の自殺(2007年5月28日)
松岡農相の自殺のニュースは衝撃的でした。
家族の方々には、心よりお悔やみを申し上げます。
キャリアから考えると、充分予想されたはずですから、おそらく周辺の人たちはかなり注意していたのでしょうが、事前に食い止められなかったことは残念でなりません。
こうした事件が繰りかえされるのが本当にやりきれません。
しかもいま、政府は自殺対策基本法に取り組みだした矢先です。
政治家は範を示す立場にいます。
それが、なぜ食い止められなかったのか、しっかりと考える責任があります。
本当に哀しいことです。

石原都知事は、彼もサムライだったのだ、とコメントしていましたが、こうしたコメントが、自殺を礼賛していることに気づかないのでしょうか。
また、安倍首相にはしっかりとその責任を受け止めてほしいものです。

自らの生命を軽んずることは決して許されることではありません。
死者に鞭打つことは避けたいですが、殺害者は非難してもいいでしょう。
自殺者は死者であるとともに、殺人者でもあります。
生命は、たとえ自らの生命であろうとも、自らだけのものではありません。
生命はすべてつながっているのです。
一人の死は、決して当人だけでは完結しないのです。

しかし同時に、いわゆる殺人事件と同じように、実行犯だけではなく、その背後にある「殺害に追いやった多くの人たちや社会の仕組み」を見落としてはいけません。
実行犯だけを罪に問うのではなく、もっと大きな状況の中で事件は裁かれなければ、同じ事件が繰り返されます。
自殺に関しては、特にそうだと思います。
その認識と展望がなければ、自殺予防対策は難しいでしょう。
グランドデザインのない構想は実効性が乏しいものです。

もう政治家の死はなくしたいものです。
政治に透明性を持ち込めば、不条理な死はなくなるはずです。
政治家はそうしたことを自覚してほしいものです。
政治家の死は、政治の死にもつながることを理解してほしいものです。
松岡農相が抱え込んだ政治家の「毒」を社会に公開したならば、松岡さんご自身の生命が失われなかったばかりでなく、政治の死も避けられたでしょう。
生物的に死ぬ前に、これまでの生き方のしがらみを捨てて素直に生き直せば、死に追いやられた状況を反転することができ、自らも、また自らが生きる社会も、甦らせることができるかもしれません。
自殺を実行する前に、まずはそれまでの生き方を捨てることに取り組んでほしいものです。
松岡さんには、その勇気を持ってほしかったです。
しかし、きっとそれ以上に追い詰められていたのでしょうね。
とても嫌な時代になってきているのかもしれません。

■Comfort isolates(2007年5月29日)
松岡農相の自殺から考えさせられることがたくさんあります。
そのひとつが、「人のつながりの多さは、人を幸せにするか」です。
私のこの十数年の活動は、ほぼすべて、「つながり育て」の活動でした。
しかし、「つながり」は両刃の剣かもしれません。

松岡さんは豊かな人脈により、社会的地位を獲得し、大臣にまでなったのでしょう。
しかし、その豊かだったはずの人とのつながりが、逆に彼を追い詰め、死に追いやったのかもしれません。
松岡さんが創りあげた「つながり」が金に支えられていたというだけのことかもしれませんが、しかし「つながり」そのものの持つむなしさや冷たさも感じられます。
それは松岡さんに限らず、私もよく体験することでもあるからです。
悪意や善意という話ではなく、「人のつながり」はもろく冷たいものでもあります。

Comfort isolates(安寧は人を孤立化させる)。
2002年に開催されたシンポジウム「この時代に想うー共感と相克」でスーザン・ソンタグが話した言葉です。
ソンタグは、精力的な批評活動を展開している米国の作家です。
このシンポジウムの記録は、「良心の領界」(NTT出版)として出版されています。

そのシンポジウムで、ソンタグはComfort isolates.と述べたのです。
「つながり」をテーマにして、さまざまな活動に取り組んでいた私にとっては、忘れられない言葉でした。ずっと心にひっかかっていました。前にもホームページで書いたかもしれませんが、否定したくなりながらも、うなずきたくなる命題です。

このブログでも、時に「安寧」という言葉を使ってきました。
「平和」という意味合いを込めて使ってきたつもりです。
「平和」という言葉は、私にはなかなか実感がもてないのですが、個人の安寧は平和を実感させる言葉なのです。
そして、私の平和観は、突き詰めると「つながり」を育てることです。

そこで、頭が混乱してきてしまうわけです。
「平和」→「安寧」→「孤立化」→「つながりこわし」→「平和の破綻」
という関係になってくるからです。
「安寧は人をつなげる」という、私のビジョンは、この命題とは相反します。
しかし、ソンタグの命題は、昨今の日本社会を見ると、あながち否定できません。
鍵は、「安寧」と「つながり」の定義なのでしょうが、悩ましい話です。

安寧を目指す中での孤立化の広がり。
松岡さんの事件には、まさにそれを感じます。
そして、それは松岡さんに限ったことではありません。
みんな「安寧」を求めすぎて、孤立している自分に気づいていません。
孤立していては決して「安寧」は得られないのですが。

松岡さんは自らの生命を絶つことで、安寧を手に入れたでしょうか。

■孤独から抜け出るのは簡単です(2007年5月30日)
一昨日、Comfort isolatesについて書いたら、
ある人から、現代はみんな孤独なのだというメールが来ました。
それに安直なつながりや連帯よりも、孤独であることの自覚と主体性も大事なのではないかというのです。
たしかに、一理あります。
昨日紹介したシンポジウムで、ソンタグはまた、
Solidarity corrupts solitude(連帯は孤独を堕落させる)
とも言っています。
堕落していない孤独とは何か、これまた難問ですが、でも何かわかる気がします。
私も安直な連帯やつながりは好きではありません。
功利主義的なつながりには嫌悪感すら持ちます。

まあ、しかし、それはそれとして、
現代はみんな孤独なのだと決め付けることもありません。
私が地方に行って感ずるのは、とても気持ちの良い「つながり」です。
外から見るからそう感ずるので、中に入ると結構冷たい、と地方に転居した友人は言いますが、きっといつか心を開きあう仲間になっていくでしょう。

私も決して孤独ではありません。
勘違いかもしれませんが、孤独と感じたことはありません。
孤独と感じていないから、孤独ではないのかもしれませんが。
孤独は自分で創りだすことかも知れません。
ソンダクが言うように、どこかで「安寧」にもつながっているのです。

生前の松岡さんはどうだったのでしょうか。
孤独だったのでしょうね。
孤独でなければ、少なくとも自殺や殺人は避けられるはずです。

ところで、孤独から抜け出るのは簡単なことです。
隣の人に(自宅の隣人に限りません)声をかけ続ければいいのです。
返事がないかもしれませんが、返事があるまで声をかければいいのです。
もちろん声のかけ方は充分に注意しなければいけませんが、素直に声をかけていけば、いつかは返ってくるでしょう。

人は決して孤独ではありません。
人間は幼児の時は母親や看護師に「依存する存在」であることから、他者と協働して、「共通善」を目指すことが必要な動物だとする、アメリカの哲学者マッキンタイアの考えに従えば、依存を受け入れる姿勢が人間には内在しているのです。
人間はみんなつながっているのです。
そう思えば、人生はずっと楽になります。
自分は孤独だなどと思うのはやめたいものです。
安寧は人を孤立化させるかもしれませんが、孤立した中での安寧は、決して本当の安寧をもたらしません。

■文化とは、一体何でしょうか?(2007年5月31日)
昨日の記事に出てきた、地方に転居した友人というのは大分県国見町の竹沢孝子さんです。
先月、東京に来たのでお会いしましたが、見事な百姓暮らしをしています。
農民ではありません。百姓です。まあ、私の勝手な定義なのですが。
彼女のブログがあります。これも以前、私のホームページ(CWSコモンズ)で紹介しましたが、竹沢さんの思考や行動の一部が、前後の脈絡なく唐突に現出するブログなので、ついていくのが大変ですが、面白いメッセージが書かれています。
よかったら読んでみてください。

そのブログで次のような問いかけがありました。
正確な問いかけの文章はブログを読んでください。
以下はその中の文章をつなぎ合わせたものでしかありませんので。

「文化は辺境にある」と最初に教えてくださったのは、鶴見俊輔さんでした。
すると、ここには文化が残っているのでしょうか? 
文化とは、一体何でしょうか? 
どうぞ、教えてください。

竹沢さんが私に問いかけているのが感じられたのですが、こんな問題に簡単に答えられるはずがありません。
放置していたのですが、竹沢さんからまたメールも来たので、ついつい答えてしまいました。
文化の問題はもっと考えなければいけないテーマだと、私も思っています。
なぜならいまや文化は死に絶えそうになっているような気がするからです。
そんなことはない、文化はますます高まっているといわれそうですが、私の生活の周りにはあまり文化のにおいがしません。
私の生き方が、文化的ではないのでしょうが。

文化とは何か。
悩ましい問題ですが、私はこう考えています。
文化とは、ある集団のメンバーに共有されている生き方で、変化する「生きたもの」。
それが制度化されたのが文明。
「文化鍋、文化包丁、文化住宅」は、その過程にある、文化の残渣、あるいは死んだ文化の象徴。
「文化」は言葉にした途端に、その生き生きしたダイナミズムを失いだすのだと思います。
文化は辺境、もしくは周縁にあるのは、一種のトートロジーで、制度化された死んだ文化の中心が、これまでの社会認識の底流にありましたから、そうなってしまうわけです。
視点を変えれば、東京などはまさに文化の辺境なのです。
統治者たちの視点で、私たちは歴史や社会を見ていますから、そうなってしまうわけです。
というのが、私の考えです。

以上は竹沢さんのブログにコメントしたものを少し変えただけのものです。
私が「文化は死に絶えそうになっている」と感ずるのは、文化が商業化されているからです。いま広がっているのは、「文化鍋」レベルの文化のような気がします。
「文化」という言葉もまた、浪費されてきているように思います。最近の都心再開発地域のおぞましさは、私には息が詰まります。新しい文化住宅でしかなく、経済遺跡にはなっても、世界遺産にはならないでしょう。
売り物にされた文化やアートは、私には退屈です。
もちろん文明として受け止めれば、それなりの魅力はありますが、あんな街に住んでいたら人間もまた死んでしまうのではないかと不安になるのです。
モヘンジョダロを思い出させます。
そうした、都会での文化の死が、地方にも広がっているような不安があります。

私の誤認であればいいのですが。

■知的成果の囲い込みの弊害(2007年6月1日)
アップルがインターネットを通じた音楽配信事業で、コピー防止機能なしの楽曲を配信する初のサービスを全世界で始めたそうです。
これが知的所有権とどうかかわるのか、よく知らないのですが、知的所有権に関して、今日は書きたいと思います。これにはかなり鬱積した思いがあるからです。

これまでも何回か書いているように、私は知的所有権制度には違和感を持っています。
私が大切にしていることに「コラボレーション」「共創」、つまりみんなで創りあげていくということがあります。その視点からいうと、知的所有権、つまり「知の囲い込み」は好ましいことではありません。

マルクスが整理した労働価値説によれば、商品の価値はそれを創った労働者にあります。そして、現在の私的所有権は労働者の労働に基礎を置いているといっていいでしょう。「自分の創ったものだから、自分のもの」というわけです。
これって正しいのでしょうか。私にはそうは思えません。
これは工業型生産社会の発想であって、農業型生産社会では出てこない発想です。
百姓(農民)は、自分で農作物を創ったなどとは思いません。
自然の恵みと考えるのです。ですからいつか書いたように、出来た農産物は気前よく、他の人にもあげてしまうのです。時には野鳥たちにも残します。

実は工業型生産においても、事情は同じです。
たまたま購入した原材料を使って商品を生産するので、自分たちだけで生産しているように勘違いしますが、原材料も廃棄物もすべては社会とつながっています。第一次産業の枠組みとかわらないのです。しかし、そのサブシステムとして捉えてしまうと、なんだか自己完結しているような気がして、「自分だけで創った」などと思ってしまうわけです。その結果が、たとえば資源浪費であり環境破壊です。
たとえば青色ダイオード特許訴訟の中村修二教授は、自分で発明したと主張していますが、彼の発明は人類が誕生して以来のたくさんの知の蓄積の上に実現したに過ぎません。
物財以上に、知識や情報はつながっていますから、知的発見はすべて人類全員のコラボレーションによって可能になるはずです。
科学の世界に限りません。
松本零士とマキハラの歌詞盗作事件も同じような話です。みんな勘違いしているように思います。

だれが「知的所有権」制度をつくったのでしょうか。
建前上の意図は、よく言われているように、創造的活動への動機付けでした。しかし、そんな動機付けなど本来は不要なのです。
本当の意図は、知的発見の囲い込みに過ぎません。
中村教授の問題提起は、まさにそれだったと思いますが、訴え方が間違っていたと私は思います。
知的発見の成果の還元は個人にではなく、広く社会に、あるいは歴史に向けて行われるべきです。
その最高の手段は、知的所有権の廃止であることは言うまでもありません。

知的発見の成果の囲い込みは、社会の進化を妨げるだけですし、中途半端な消化によって社会的弊害を引き起こすおそれがあります。

そういえば、数日前の新聞で報道されていましたが、「介護」という言葉はある企業が持っている商標だそうです。しかし、その会社はその知的所有権の独占を主張しないそうです。
そのおかげで、今では「介護」概念は日本国中に広がりました。
言葉を独占したり、知識を独占したりする制度は、愚かしい行為でしかありません。
そう思いませんか。

■市況商品の上に乗っかっている生活(2007年6月2日)
原油価格の上昇で、ガソリンがまた値上げになっています。
いやガソリンだけではありません。
いまや産業は原油の上に立っており、私たちの暮らしはその産業の上に成り立っていますので、原油価格上昇は私たちの暮らしに大きく影響を与えます。
工業製品だけではありません。
農産物もサービス産業も、いまや原油とは切り離せません。
まあこういうことはよく言われていることです。

問題は、今の経済の基盤ともいえる原油が、市況商品になっていることです。
つまり、誰かの操作と思惑で価格が決められる。
そのことの意味をもっとしっかりと認識する必要がありそうです。
今の経済は、つまり私たちの暮らしは、そうした誰かの思惑の上に展開しているわけです。
この経済システムを変えていくことが必要です。
50年くらいはかかるかもしれませんが、決して不可能なことではありません。
問題は、しかし、変えるどころか、そうした不安定さをますます強めようとする方向に時代が動いていることではないかと思います。

■国民主権国家という壮大な幻想(2007年6月3日)
年金保険料の納付記録が5000万件もなくなってしまったという報道があります。
本当に5000万件なのかどうかわかりませんが、判明後の政府の対応も含めて、国民主権国家という壮大な幻想の実態が見えてきます。

そもそも政府の役割は何でしょうか。
大きな役割の一つは、国民の財産の保護です。
そこには税金や政府主管の保険料も含まれます。
もちろん税金などで創られた施設も含まれます。
税金や保険料は国民から「政府」に財産権が移ったわけではありません。
しかし、そのあたりの仕組みや考えは、残念ながらあいまいのままできています。
なぜあいまいにしているかというところに、事の本質があるわけですが。

国民の財産の保護という場合、課題は3つあります。
「国民」とは誰か。
「財産」とは何か。
「保護」とは何か。
いずれも明白なように思うかもしれませんが、考えていくと全く明確ではありません。
たとえば「国民」。
日本ではまだ基本的人権すらしっかりとは保障されていない人たちがいますが、彼らは国民でしょうか。国籍も認められず、選挙権もなく、「棄民」のような扱いを受けた人もいます。いや、今もいないとはいえません。
税金を払っている人が国民という捉え方もできますが、税金を払っていても選挙権もなく保護対象にならない人たちもいます。
「財産」。
これも難物です。私的所有物と考えれば比較的簡単ですが、誰かに帰属しない財産はたくさんあります。むしろそうしたものがあるから、私たちは生きていけます。
たとえば、きれいな空気、人をつなげあう言葉や文化、心和ませる自然などの「コモンズ財産」はどう考えればいいでしょうか。
大切なのは「私的財産」ではなく、「コモンズ財産(共的財産)」です。
しかし残念ながら政府はどちらかといえば、それを壊すほうに重点がありそうです。
「保護」もまた多義的です。
単に「現状」を維持することではないでしょう。
先日書いた「知的所有権」制度は、短期的には特定の個人の利得を守るかもしれませんが、長期的には知的財産を活かし大きく育てることにはならないかもしれません。

また長くなりそうです。
今日、書きたかったことは、
政府が守ろうとするのは、一部の人の私有財産だということです。
その「一部」の範囲は時に変化しますが、決して全員ではありません。
つまり今の国民主権国家は「コモンズ国家」ではないのです。

保険金給付は、保険料名目での国民財産徴収のための見せ掛けのものでしかないのかもしれないと疑問さえ沸いてきます。
実際にこの数十年、所管部署の関係者はそれを好きなように浪費し、そのお咎めもなしに、今もかなりの浪費が行われています。
もちろんまじめに働いている人はいますが、かれらも収奪されるほうの人なのです。
まじめに働く人たちで外部との壁を構築するというのは、組織の本質です。
現状では、国民年金保険や厚生年金保険は、国民の財産を保護する仕組みではなく、収奪して一部の人たちの私欲を満たすための制度ではないかと思われても仕方がありません。
もしそうでないのであれば、保険金の計算根拠はもっと当事者に分かるようにすべきですが、そうしたことは全く行われていません。
少なくとも、契約に基づくものではなくお上による民の支配の仕組みであることは間違いありません。
自分がもらっている保険金額が正しいのかどうかなど、おそらく誰も分からないのです。
そうしたことの現われが、今回の納付記録不明事件です。
国民主権国家とは、大いなる偽装です。

しかし偽装とはいえ、理念があるのであれば、実体を育てていく契機にはなりえます。
そうしたビジョンとグランドデザインが不在なのが問題の本質だろうと思います。

■脱北者を人道上、受け入れるという発想(2007年6月4日)
北朝鮮から4人の脱北者が日本に辿り着きました。
「人道主義の原則に基づき、本人の意思を尊重して処理する」と日本と韓国の政府の関係者は語っています。
乗ってきたのは腐りかけた木船だったといいますが、無事、辿りつけたことを他人事ながらホッとします。どれほどの恐怖を味わったことでしょうか。

こうした脱北者のニュースが流れるたびに、「人道上」という言葉が気になります。
なぜ生命の危険をおかしてまで自らの生活地から脱出するようなことが起こるのでしょうか。
そこにこそ、「人道上」の目は向けられるべきではないでしょうか。

問題は2つあります。
「国境の存在」と「北朝鮮という国家の実状」です。
往来を制限する国境がなければ、人は自由に行き来できます。
国家を超えて自由に自らの住む場所を決めることができることこそ、私は基本的人権ではないかと思います。
今の基本的人権は国内での「許可された人権」でしかありません。
人道上というのであれば、そうした国境を越えて自由な往来をこそ議論すべきでしょう。
国家や国境があっても、自由に往来できれば問題はありませんが、なぜか近代国家は国民を囲い込むようになりました。
そこに国家の本質があるのかもしれません。

次の問題は死を覚悟で脱出しなければいけない北朝鮮という国家状況の存在です。
その存在を許しておいて、人道上議論をしても始まりません。
たまたま今回の4人はその世界を抜け出られましたが、大勢の人たちがその世界にまだいるわけです。
人道上というのであれば、むしろ脱出すらできない人たち、いや、そうした人たちが存在するような状況を問題にするべきです。
念のために言えば、これは北朝鮮に限ったことではありません。

人道問題は定義も難しい問題です。
いつも思うのは、問題を引き起こす原因というべき実態は問題にされずに、例外的な人だけが「人道主義的扱い」を受けて、何となく事が決着していくことが、いつも納得できないのです。
本当に関係者は「人道上」と本気で考えているのでしょうか。
もしそうなら、もっと能動的に動くはずではないか。そんな気がします。

「人道上」などという言葉は使わないほうがいいような気がして仕方がありません。
そういえば、イラク派兵も「人道支援」でした。

■「もうひとつの地産地消」(2007年6月5日)
枚方市発注の清掃工場建設工事を巡って、また談合の事実が発覚しました。
企業も行政も、よくまあ懲りずにと思いますが、これだけ根強く残るにはなぜでしょうか。

そもそも談合は、取引費用という視点で考えるとわかりやすいです。
いかにコストダウンを図るかが、事業を成功させる一つのポイントだと思われています。
その際の「コスト」は、当初、組織内部の生産費用が対象でした。
そこでトヨタ方式のようなものが考えられていきます。
そして1960年代後半から、コスト発想は組織の外に広がり、物流革命が起こります。
同時に、顧客開発やマーケティング戦略が重視されていきますが、そうした流れの中で、たぶん、談合もまた制度化されてきたのでしょう。
もちろん談合の事実はもっと昔からあったでしょうが、市場主義の流れを逆手にとって、取引コスト縮減の仕組みとして、各社に受け入れられ、企業を超えて組織化さてきたのだと思います。
そもそも「入札方式」そのものが、責任回避と利権発生を育てやすい仕組みですし、入札と談合はセットのものと考えるべきだと私は思いますが、もしそうであれば、談合だけをやめるのではなく、入札方式もやめるべきです。
入札でコストダウンしたことがあるのでしょうか。
入札信仰はそろそろ捨てるべきでしょう。

取引コストを縮減する方法は他にもあります。
それは信頼関係と業務遂行の柔軟性の回復です。
地産地消が盛んに言われますが、これは何も農残物だけの話ではありません。
地域で働く人たちに業務をやってもらう体制をしっかりつくれば、責任関係が育ち、信頼関係が高まっていくはずです。
そうなれば、取引コストだけではなく、さまざまな効果が出てくるでしょう。
不在企業の不労所得は縮減され、地元で働く人たちや地場企業の利益は増えていくでしょう。

しっかりと顔が見え、長い付き合いができる、地域の事業主体に頼んでいくことは、「もうひとつの地産地消」です。
つまり、地域の産業(地産)は地域の人たちで消化(地消)していくわけです。
少しこじつけ的ですが、考えは繋がっているはずです。
東京のコンサルタントやプランナーに仕事を頼むのは、そろそろやめていくのがいいです。
となると、私にも仕事が来なくなってしまいますが、まあそれが時代の流れなのです。
もちろん地域の外にいる人に関わってもらうのが良いことも少なくありません。
しかし主役はあくまでも地域の企業です。

「もうひとつの地産地消」が広がれば、談合などはなくなるでしょう。
いや反対だといわれそうですが、そうした動きに対処するのは、たぶんそう難しくはないでしょう。
地域の長老支配はもう終わろうとしています。
彼らは中央と繋がっているからこそ、生き延びているのです。

これは産業だけではなく、政治の世界も同じです。
ベクトルを反転させる時期がきました。
地方選挙で中央の議員を応援に呼び込むような立候補者を信じてはいけません。
いやこれも時代は反対のようですね。
どうも私の発想は時代に逆行しているのかもしれません。
困ったものです。

■平和か年金か(2007年6月6日)
7月の参院選の争点が「年金」になってしまいました。
平和につながる「憲法」が争点になるのかと思っていたので、なにやら「やられた」という気がします。
自民党と民主党が、まさか「つるんで」やったことではないでしょうが、両党の後ろで何かが動いているような気さえします。

国民は、平和よりも年金、それも自分の年金に関心が高いようなのも嘆かわしい話です。
戦争になったら年金などとんでしまいますし、第一、軍備にかけるお金をみんなの暮らしに向けたら年金など少しくらい少なくともやっていける社会はつくれるでしょう。
「平和」と「年金」は深くつながっているのです。

年金は本来ある意味での貯金でした。自分の老後のために積み立てて、そこに政府(国民すべてが預託した機関)が補助していくという仕組みだったはずです。
それがいつの間にか、世代間負担の話になり、高齢者を若者が支える発想が出てきました。
これは年金ではなく税の発想です。
保険庁の官僚たちと国会議員は、膨大な保険料を見事に好き勝手に使える仕組みに改変したのです。施設をつくる費用などは、おそらく些少な金額でしょう。陽動作戦でしかありません。もっと深いところで、その資金は使われたはずです。

資金を個人的に使った人も少なくないでしょう。
しかし彼らは一切の経済負担はしていません。せめてそれぞれが可能な範囲で賠償責任を負うべきだと思いますが、制度的には難しいでしょう。それよりも、今なお利得を得ている状況を即刻打ちどめにするべきです。
5000万件問題処理のために、彼らはまた働き場を確保できるわけですが、いま仕事がなくて困っている人にこそ、そうした仕事の場を提供するべきです。
不始末をすればするほど、雇用が確保されるという行政の仕組みを変えなければいけません。

この問題はまた項を改めるとして、今日は参院選の争点の話です。
国民が年金問題に目を奪われているうちに、平和憲法はどんどんと侵食されていくおそれがあります。
平和憲法を変えようという思いは、自民党も民主党も同じです。
民主党には「護憲派」がいるといわれますが、もしそうだとしても、彼らは「護憲」は中心の価値ではないと思っています。ですから本当の意味での護憲派ではありません。

せっかく盛り上がるかに見えた「平和論議」、憲法問題が、また見失われそうで心配です。
「日本の青空」の映写会が広がっています。
年金よりも大切な課題があることを忘れたくはありません。

■民主党の存在感のなさと新党への期待(2007年6月7日)
参院選が迫っていますが、民主党のパワーがなかなか伝わってきません。
自民党の支持率は低下していますが、ではその分、民主党が伸びているかといえば、そんなことはないようです。
二大政党などといいますが、そもそも二大政党のそれぞれの違いを明確に言える人はいないでしょう。
つまりは基本的には同じものであり、主流派と反主流派のような関係でしかありません。
昨日も書きましたが、政治思想に違いがあるのであれば、わかりやすいのですが、ほとんどの政策で自民党と民主党は入れ替わってもそう大きな問題がないくらい、政策や思想は連続的です。
たとえば、9条を守るとか、年金は税金で対応していくとか、教育のパラダイムを変えるとか、市場原理主義をやめるとか、民主党独自の政策があれば、自民党との違いが見えてきますが、今の争点は極めて技術論的な次元の話でしかありません。
日本の将来にとって、最大の課題は、9条問題だと思いますが、この点に関しては民主党も自民党も一緒です。
政策も細かな話になると私などは理解しにくくなりますが、その基本にある考え方であれば、明確です。
たとえば9条は変えないとか、学校は訓練の場ではなく教育の場にするとか、福祉には当事者の事情に合わせた共創思想を持ち込むとか、市場原理主義は見直すとか、ともかくコアバリューを明確にしていくべきです。今の自民党と民主党のアイデンティティはそう違わないように思います。逆に言えば、アイデンティティ不在です。
自由主義と共和主義といった思想の違いも感じません。
その点、思想を背景とした共産党や社民党は明確です。新党日本もメッセージが伝わってきます。しかし民主党は亜流自民党のイメージしかありません。それでは選挙でも勝てないでしょう。結果的に勝ったとしても、それは政治状況を変えることにはならないでしょう。
しかし、そんなアイデンティティもあいまいな政党になぜみんなしがみついているのでしょうか。不思議です。
ここは思い切って、新しいスローガンを掲げた政党は生まれないのでしょうか。
共産党と社民党と新党日本と、一部の民主党党員で、共和党を立ち上げたらどうでしょうか。
マンネリ化している既存政党の共産党、社民党、民主党などの有志が、新党日本に移籍したら、日本の政界は一変します。
今こそ「共和主義」が必要になってきているように思うのですが。

■弁護士の反応の報告(2007年6月8日)
いささか挑発的な弁護士へのメッセージ「弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか〕の記事のその後の報告です。
一度、簡単な報告をしましたが、残念ながらその後まだ残りの5人からの返信はありません。
あまりメールをされていなくて、まだ見ていないのかもしれません。
あまり長くなってもいけないので、とりあえずの報告と私見を書きます。

返信してくれたお2人のうち、お一人は個人的には「あきれはしました」と書いてありました。もうお一人は個人的な評価は読み取れませんでしたが、肯定的なコメントはありませんでした。
お2人に共通するのは、
いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮はあってはならない。
という点でした。
そしてまた、お2人とも、「死刑制度の是非」ということに、コメントの中心を置かれていました。
私が問題提起したのは前にも書いたように、死刑制度のぜひとは無縁だったのですが。

ところで、
いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮
ということを少し考えてみたいと思います。
そこにまさに問題の本質があると思うからです。

まず「いろいろな価値観の人がいることはいいこと」だというのは私も全く同感です。
問題は「いろいろな価値観」の範囲です。
人を勝手に殺してもいい、他人のものを勝手に奪ってもいい、という価値観も入るのでしょうか。私が問題にしているのはその点です。
ある社会を維持していくためには、その成員に共通した何らかの価値観の領界があるはずです。多様な価値観を許容することは何でもありということではありません。
自分以外の価値観の存在を許さないという価値観も認めることは、「自由のジレンマ」と同じようなジレンマに陥ります。
つまり結果的には、多様な価値観の存在を否定することになりかねません。

「主張すること」も悩ましい言葉です。
主張すると行動するとはどう違うのかです。
おそらく連続的です。
発言はいいが、行動はだめというのでは、犯罪教唆は成り立ちません。
さらにいえば、価値観を持つことも連続的というべきでしょう。

実際問題として考えてみましょう。
表現の自由が存在する状況においても、「許されるべきではない価値観」が存在することは否定できないと思います。
言い換えれば、ある範囲の中で、表現の自由は意味を持ってきます。
問題は、その範囲が狭くなっていくことです。
そして単一の価値観が支配しだし、価値観が意味をなくしていくことが結果として社会を壊してきた歴史は少なくありません。

価値観の許容範囲を狭くする道筋は2つあります。
一つは価値観が次第に収斂していく道筋です。
ナチスはその典型でしたし、いまの日本の経済システムはそれに近いです。
もう一つは、価値観の許容範囲が失なわれ、社会の自生的秩序が崩れる場合です。
どんな価値観も許容するというのであれば、おそらく価値観の意義そのものが失われていき、結局は一つの価値観に収斂していくことになりかねません。
今の日本がそうした入り口にあるようです。
社会が許容できない価値観は正さなければいけません。そうでなければ、社会の自生的秩序は維持できないでしょう。そのためにこそ、司法は存在しているはずです。

今回の弁護団の主張は、私には日本社会では許容範囲を外れるものだと思います。
しかも、司法を預かっているプロフェッションの主張です。
だから問題にしたわけです。

寛容に関しては以前も書きましたが、すべてのものを受け入れることが寛容ではないと思います。
社会を維持し、成員の多様な価値観の存在を保障していくためにも、価値観の許容範囲は大切なことです。
それを司るのが「司法」ではないかと思っていました。
だから問題は深刻なのです。

他の弁護士の方からの返信がないので、とりあえず中途半端な報告になってしまいました。
相変わらず独断的なコメントですみません。

お2人が「表現の自由」を書かれてきたことに異論があるわけではありません。
それはとても重要な問題です。
私が思い出したのは、立川テント村自衛隊官舎ビラ入れ裁判の東京地裁での内田雅敏弁護士らの弁論です。
その弁論と今回の弁護団の主張の、あまりの格差に驚きを感じます。
この裁判は、その後、思わぬ方向に向かっていますが、この弁論は多くの人、とりわけ多くの弁護士に読んでほしいと思います。
http://www.bund.org/opinion/20050115-1.htm
ニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のこともぜひ思い出してほしいものです。
問題が違うではないかといわれそうですが、私は通底していると思います。

いずれにしろ、ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。

■「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」(2007年6月9日)
昨日のニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のことが気になって、書庫にあった「ニュールンベルグ裁判」のビデオを引っ張り出して、観てしまいました。
この映画は、まだ私が検事志望だった大学生の頃に観た映画です。
私が司法の世界を志望したきっかけは、高校の時に観た八海事件を題材にした「真昼の暗黒」という映画です。
冤罪といわれた八海事件をドキュメント風に描いた映画で、私は場末の3本立ての映画館で観たのですが、映画館から自宅までの間、怒りで震えながら帰ったことを今でも覚えています。その時に法律を学ぶことを決めました。
そして、弁護士ではなく検事になろうと思った理由の一つがこの映画でした。
リチャード・ウィドマーク演ずる検事が、ともかく私には共感できたのです。その反面、マクシミリアン・シェル演ずる弁護士には「むしず」が走りました。映画ではシェルがアカデミー賞をとりました。

その「ニュールンベルグ裁判」を久しぶりに観ました。
20年ぶりでしょうか。前に一度だけ観ていました。だからビデオがあったのですが。

この映画は、ナチス首脳を裁いた有名なニュールンベルグ国際軍事裁判ではなく、それに続いて行われた各分野の政権協力者を被告とした裁判のうち、司法関係者の裁判をテーマにした法廷劇です。
実話を基本にしているようですが、実名ではありません。
被告の中心はナチ政権下で司法大臣などの要職をつとめたヤニングです。
ストーリーは映画紹介のサイトをご覧ください。
http://moviedev.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=6730
3時間を越える超大作です。
早送りして、最後のヤニング被告と判事の会話、つまり「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」という場面だけを観ようと思っていたのですが、観だしたらきちんと観たくなり、結局、観てしまいました。
いろいろと考えさせられることが多かったのですが、昨今の日本の司法界の人たちに見てほしいと思いました。司法研修所で、こういう映画を観ながらワークショップをしてほしいです。登場人物の発言は実に含蓄に富んでいます。
ヤニングは、自らの責任を進んで受けいれた上で、ナチスの暴挙に関して「私は知らなかった」と裁判が終わった後で判事に話すのですが、それに対して判事が即座に「ヤニング君、最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」と言い放つシーンは、上田弁護士が述べている通り、実に印象的です。
ヤニングはシュペアーのように、自らの責任を真正面から受け止める、正義の人として描かれていますが、正義とは何かを考える上でも示唆に富む言葉です。
「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」
これは決してナチ政権の時代の話ではありません。
同じような状況が、まさに今の日本で展開されています。

映画の中で、判事はこうも言います。
ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要なのだ。
狂気のヒトラーの個人的犯罪ではなく、ビジョンと信念を持った人たちが、狂気を膨らませ、歴史を誤らせた、というわけです。
こうしたことは決して少なくありません。
小さな事件ではオウム集団(宗教集団と呼ぶべきではないでしょう)、大きな事件ではポルポト政権。そこでの主役は、多くの人に信頼されていた人たちの組織なのかもしれません。
歴史を狂わせるのは狂人ではなく、信念を持った誠実な人たちなのかもしれません。
そこに恐ろしさを感じます。
いまの日本は大丈夫でしょうか。

■コムスン事件は民営化路線の氷山の一角(2007年6月9日)
訪問介護最大手コムスンの不正申請事件は、実態がわかるにつれて、問題が広がってきています。これに関しても、何をいまさらという気がしないでもないですが、耐震偽装事件と同じで、しっかりとチェックする仕組みがないままで、民営化してきた結果の一つでしかありません。
また書き出すと長くなりますが、「公私」ではなく「官民」と捉えること自体に問題を感じますが、同時に民営化は市場主義に乗せることという捉え方にはさらに大きな危惧を感じます。
これに関してはこれまでも何回か書きました。
現在の日本の経済の根底にある市場主義の原理は、「自立した個による自己利益追及」です。その結果、「見えざる手による」社会の効率化が達成されるというわけです。
小泉政権時代の「官から民へ」というスローガンに熱中した人たちが、推進してきたのは、この路線です。その路線の中で、公共サービスだった郵便局も福祉事業だった介護事業も市場化されました。いや学校さえもです。
市場主義の世界では、「自己責任」とか「自立」が叫ばれました。
そこではホリエモン事件やファンドの動きに象徴されているように、他者への配慮は軽視されました。
一方、福祉や暮らしの世界の原理は、「支えあいによる共同利益追求」であり、他者への配慮の重視、つまりケアです。
両者の大きな違いは、人をつなげるのが「金銭」か「愛」かです。
愛というと大げさに聞こえるかもしれませんが、人間はパンだけで生きられるわけでは在りません。
愛、ケア。ちょっと気にかける「人と人のつながり」がなければ、人間社会は成り立ちません。そのつながりを、心や愛ではなく、お金にしてしまったのが、昨今の市場原理主義です。
換言すれば、福祉の世界が市場化されたのです。
そこからこうした結果が出てくることは必然的とさえいえるでしょう。
「官から民へ」ではなく、「民から共へ」こそが、必要なのではないかと思います。
これが63歳までに書こうと思っていた私の本の題名「コモンズの回復」でしたが、怠惰なためにまだ1行も書けていません。
しかし、日に日に劣化する日本社会の中にいると、苦労して書くこともないかという気が強まります。
つまり、私自身が「劣化」しているということなのですが。

<民営化に関するこれまでの記事の一部>
民営化と私有化
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_4.html
民営化への不信感
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_0ce2.html
民営化再論
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/07/post_d5bc.html
民から共へ
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_290f.html
民営化コンプレックス
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_0991.html
民の本質
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/05/post_79fa.html

■価格の裏側(2007年6月11日)
昨日、私の住んでいる我孫子市はかなりの雨でした。
手賀沼沿いの道路の一部が水浸しになり、自動車が一時通れなくなりました。
自然の力のすごさを改めて実感しましたが、テレビなどで報道される集中豪雨はこんなものではないのでしょうね。
自然には勝てません。

昨日の朝日新聞の記事を思い出しました。
「リンゴ農家借金苦 作っても作っても返せない」という見出しの記事です。
今年2月、弘前市のリンゴ農家の奥さん(52歳)が一家心中を図った事件がありました。幸いに、間一髪で同居の義母が異変に気づき、未遂に終わったのですが、その裁判で、作っても作っても借金を返せない津軽のリンゴ農家の窮状が見えてきたのです。
台風などの被害続きで、5年に一度しか黒字にならなかったと被告は供述したそうです。そして、地元では寛大な刑を求める嘆願書の署名運動が起こったのです。
署名した男性の言葉が載っています。
「人ごとではない。1000万円単位の借金は半分以上の農家である。数年前も、仲間の一人が自殺した」

リンゴ御殿といったバブル時代の話もよく聞きますが、自然に依存した第一次産業の場合、豊作もあれば不作もあります。その収穫は不安定です。
それに最近は、豊作でも農家は喜べない仕組みになっています。
市況価格が下がり、農作物を破棄するおかしなことが起こるのが今の経済システムです。
一方では、中国に高い価格で輸出している知人もいます。農家の努力で状況は変えられるのではないかと思う人もいるかもしれません。それは正しいのでしょうが、問題は自殺を決意するほどの現実があるということです。

私はリンゴが大好きなので、今でもよく買ってきてもらいますが、いつも思うのは、さくらんぼの高価さとリンゴの安さです。
このリンゴをもう少し高く買えば、こうした悲劇は防げるのであるとしたら、高い価格を払いたいと思いますが、そうした「価格の裏側」は消費者にはなかなか見えません。
自然との関わりの中で営まれている農業が、工業化され、工業の発想で考えられているところに問題があるのかもしれません。
工業製品と農業製品は、似て非なる「商品」であることを私たちはもっと認識すべきかもしれません。
汗水流して働いても、生活が成り立たないような状況は、決して当事者だけの責任ではありません。どこかに問題があるはずです。

金融操作で莫大なお金を得ている人がいる一方で、こうした現実が「国内」にさえあることを忘れてはなりません。
国内のフェアトレード問題は、もっと注目されていいように思います。

念のために言えば、これは農産物だけの話ではありません。
同じ工業の世界でも同様なことが起こっています。
工業に内在する、そうした垂直構造の発想を経済学はもっとリアルに問題視すべきではないかと思います。それは実に刺激的なテーマのはずなのですが。

■裁判における弁護の意味(2007年6月13日)
福岡市3児死亡飲酒事故初公判で、弁護側は「飲酒は間違いないが、正常な運転が困難になるほどではなかった」と述べ、危険運転致死傷罪については否認したと報道されています(朝日新聞)。
この論理におかしさを感じないでしょうか。
しつこいですが、弁護士たちの発想のおかしさを、もう一度、書きます。

裁判における弁護とは、事実を明らかにすることによって、被告の人権が踏みにじられ、過重な量刑が課されないことだと思います。
決して、被告の罰を軽くすることではありません。
そこで目指されるべきは、多くの人たちが納得して受容されるような裁きがなされることです。
これは弁護士に限らず、法曹界に関わる人たちすべてに課されたミッションです。
それを実現することが、彼らのプロフェッションであり、そのために彼らには社会的権威と特権を与えられているのです。

そうした裁判の原点に戻って考えると、やはり先の論理には首を傾げたくなります。
もし家族が同じ事故にあったら、同じ論理を展開するでしょうか。
もしするとしても、問題は残りますが(いつか書きます)、
もししないのであれば、商売としての対応としか思えません。
私情とは別の判断をすることこそがプロフェッションだという人がいるかもしれません。
たしかにそういうことはあるでしょう。
しかし、この論理は、光市母子殺害事件の弁護団と同じレベルのものだと思います。

なぜこうした「ためにする論理」が横行するか。
それは裁判の役割がおかしくなっているからです。
ここでもたぶん、市場原理主義が蔓延しているのでしょう。
繰り返しますが、裁判は社会の安定のための仕組みです。
検事と弁護士が対立するのは本来はおかしい話です。
アメリカ型の法廷論争は決して正しい裁判の姿ではないはずです。
優秀な弁護士がついたら無罪になり、
優秀な検事なら死刑になったりする裁判が良いと思いますか。
弁護士と検事が力を合わせて、より正当な裁きを実現し、同じ過ちや不当な行動が繰り返されないことが、裁判の存在意義ではないでしょうか。

裁判とは何か。
それを弁護士たちには真剣に考えてほしいものです。
もちろん検事や裁判官にもですが。

■さくらんぼの憂鬱(2007年6月14日)
昨日、福島に行ってきました。
そこで乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。
話は最近のさくらんぼは高価だが、地元の人たちもあんな高いとそうそう食べられないでしょうと質問したことから始まりました。
60歳を超えた運転手の方は、私も他所の知り合いにお土産に持っていく時くらいしか買わなくなった、というのです。子どもの頃はいくらでも生っていて、よく食べていたが、最近は「ぜいたく商品」になってしまい、桃や梨とは違うものになってしまったというのです。
そして、果樹栽培は儲からないので、止める人が多いが、さくらんぼは儲かっているようだと続けました。
先日、書いたリンゴ農家の悲劇を思い出しました。
桃や梨は生産者には儲けが少ないようで、その時期になると1カートン1000円で売られているというのです。運転手さんによれば、仲買いだけが儲けているそうです。
なにやら最近の経済の問題点がたくさん示唆されているような話です。

ついつい同調してしまい、最近は汗して働く人は報われずに、汗しない人が儲ける時代になってしまいましたね、と言ってしまいました。
実は行きのタクシーの運転手とは、そういう話をしていたのです。
景気がよくなったというのはどこの話ですかね、とその運転手から質問されて、話しているうちに、そんな話になってしまったのです。
福島のタクシー運転手は、もはや生活を支える仕事ではなくなったと、毎回、運転手さんたちは言うのです。
汗している人たちが報われない社会。本当にそんな社会に向かっているような気がします。

横道にそれてしまいました。
話を戻します。

地産地消が叫ばれているなかで、さくらんぼは「高級商品」になってしまい、地元の人たちにも高嶺の花になりかけているのは、ちょっと考えさせられる話です。
その運転手によ拠れば、山形が福島のさくらんぼのお鉢を取って、そうした高額商品化戦略をとったのだといいます。それが福島にも戻ってきたというのです。
生活に繋がる食べ物から市場価値のある商品への変化。
市場主義に乗ってうまく「商品化」すれば、儲かるわけです。
「商品化」していない桃や梨は儲からないのです。

食べ物から商品になると何が起こるか。
さくらんぼ泥棒が出てくるのです。
食べるために盗むのではなく、売るために盗むのです。
地元の人はそんなことはしませんよ、と運転手さんはいいますが、私もそう思います。
商品になるとおかしなことが始まるのです。
食べ物の時代には、これもよく書くことですが、生産者は天地の恵み者として、ほしい人にはあげるものです。飢えた人には断らないのが生産者の常でした(反論はありそうですが)。時に1つくらい無断で失敬する人が出るかもしれませんが、それにはそれなりの理由があったのです。カラスにも収穫の一部を残すのが、生産者の知恵なのです。
しかし商品になると、そう簡単にはあげることにはならないでしょう。
生産者の意識もまた変わるわけです。
なにやらたくさん反論をもらいそうな舌足らずの内容になりましたが、自然や人間とともにある経済のあり方とはどういうものだろうか、帰りの新幹線ではいろいろと考えさせられました。
やはり今の経済の仕組みは、どこか私には違和感があって仕方ありません。

■社会保険庁の相談窓口対応(2007年6月15日)
年金記録消失に関する相談窓口対応がいろいろと問題になっています。
自分の年金がどう記録され、どう処理されているのか、気になる人は多いでしょう。
私も気にならないわけではありません。

社会保険庁の杜撰な管理にも問題があるでしょうが、本当の問題は制度の仕組みです。
制度の透明性や自分での計算が不可能になっているのです。
ですから調べてもらって、大丈夫ですよと言われても、何が大丈夫なのかわからないはずなのですが、なぜかみんなそこで安心してしまうわけです。
ですから仕組みの問題は全く改善されないのです。
こうした考え方を変えなければ問題は解決しないはずです。

個別相談に対応するのにどのくらいのコストがかかるか、保険庁が使う税金の問題だけではなく、問い合わせに向ける国民のエネルギーの損失もあります。
しかも個別問題に対応することに目がいってしまい、根本の問題の解決は先送りになりがちです。いやおそらく誰も考えていないでしょう。
各人の心配は大きいとしても、半年はともかく待ってもらい、その間に仕組みの透明性と自分である程度確認できる仕組みを構築し、そこから段階的に相談に乗っていくというような、解決策のプログラミングが必要だと思いますが、いまは目先の問題を対症療法的に解決するやり方です。
おそらくコストのかかり方も解決にかかる時間も桁違いに大きくなっているはずです。
こうした取り組みが最近の日本の多くの問題対処法です。

それでいいのか。
この問題の報道が連日続いていますが、それを見る度に、何か本当の問題から目がそらされているような気になってしまいます。
こんなお茶濁しに満足してしまうのは、国民の視野が狭くなったことの現われでしょうか。
みんなの関心は、自分の年金額だけに向いてしまっているのでしょうか。
社会保険庁の職員と私たちは、一体どこが違うのか、最近それがわからなくなりました。

ところで、国民年金(厚生年金)って、いったい何だったのでしょうか。

■あっちゃんの雑記帳(2007年6月16日)
知人のSさんから小冊子が届きました。
「あっちゃんの雑記帳」。38ページの手づくりの小冊子です。
手紙にこう書かれていました。

同封の冊子を家族みんなで作りました。
私の母の想いがつまっています。多いに個人的な内容なので、ご迷惑かもと思いますが、佐藤さんにお目にかけたいなあ・・・と、つい思ってしまいました。
いろいろな活動からの経験で、この冊子を作ることが出来ました。母にも喜んでもらえましたが、一番楽しんだのは私です。ちょっと(かなり)自慢のこの一冊、ご笑納いただければ幸いです!

Sさんはコムケア活動で知り合った人です。
実に多彩な活動をしていますが、その活動の広がりが絶妙なのです。地元での活動もあれば、全国的な活動もあります。自分の活動もあります。いずれにも共通しているのは「楽しむ姿勢」です。そしていつも「暮らし」につながっています。

そのSさんのお母さんが「あっちゃん」です。83歳です。
Sさんは全国マイケアプラン・ネットワークのメンバーでもあります。
そこで作成した「マイライフプランの玉手箱」を渡して、ともかく今までのことを気が向いた時にメモ書きしておいてね、と伝えていたのだそうです。
4月に実家に戻った時に、びっしりと書き込まれたノートを渡されました。帰りの電車で、それを読んだSさんは涙が出そうになったそうです。
そこには大正13年に東京の本郷で生まれたことから始まり、さまざまなことが書かれていました。それを読んでSさんは、母のメモリアルのための冊子にしようと決めたのです。そして姉妹と孫たちに呼びかけて編集会議が開かれ、みんなが楽しみながら完成させたのが「あっちゃんの雑記帳」です。
あっちゃんの両親のことも、あっちゃんの若い頃の友人のことも、もちろん娘のSさんのことも、孫たちのこともいろいろと書かれています。内容はいずれも個人的な話なのですが、逆にそのおかげで、当自の社会の様子が生き生きと伝わってきます。戦争の話もあれば、物価の話もあります。歴史が見えてきます。
Sさんが結婚した頃、我孫子に住んでいたことも書かれています。Sさんの祖母が新潟の西蒲原出身ということも知りました。

私が一番興味を持ったのは、「あっちゃん」という名前です。
Sさんのお母さんの名前には「あっちゃん」に続く文字がないからです。
それはあっちゃんのお父さんが、戸籍名をきらって子どもたちに、別の呼び名をつけていたのだそうです。戸籍名は喜美子、呼び名は昌子(あつこ)。それで戸籍名とはちがう「あっちゃん」とずっと呼ばれていたのだそうです。
戸籍名と呼び名。面白い話です。まさに言霊の文化が感じられます。
これに関した研究はあるのでしょうか。知っている人がいたらぜひ教えてください。

長々と「あっちゃんの雑記帳」のことを書いてきましたが、この冊子が示唆していることはとても大きいように思います。
認知症予防のための回想法というのがありますが、そのひとつの「自分史法」に、最近広がりだしている「物語」(ナラティブ)発想を入れて「物語法」と言ってもいいでしょう(もうあるかもしれませんが)。認知症予防という消極的発想から抜け出せるかもしれません。多世代交流もできます。
さらにこうした自分史作りが広がっていくと、それは膨大な歴史資料になります。平板な歴史書の時代は終わるでしょう。そして社会の認知症予防にもなるはずです。企業を離れだすだす団塊シニアの皆さんにはぜひ取り組んでほしい活動です。
いや団塊シニアに限りません。子どもの頃からこうした思考をもてば、子どもたちの育ちも変わっていくはずです。家庭も家族も変わるでしょう。
これはおそらく効用のほんの一部です。
「あっちゃんの雑記帳」から社会が変わりだしていくかもしれません。

Sさんは、そんなことは考えていないでしょうが、この小冊子の向こうにはとても大きな世界があるように思いました。
新しい歴史はいつも現場の小さな活動から始まるのです。

ちなみに全くの偶然なのですが、今日、我孫子でSさんに会いました。
実にフットワークがいいのです。コンサートを聴きに来たのです。

■がん対策基本計画の根底にある医療パラダイム(2007年6月17日)
がん死亡率を20%減らすことを目指す、がん対策基本計画が閣議決定されました。
日本のがん医療はアメリカに比べて、大きく遅れているといわれていますし、日本における「がん」への理解にも大きな問題がありますので、こうしたことが議論されることは歓迎したいのですが、どうも最近のこうした議論が「20%削減」というような数値目標に目が行き、その根底にある考え方があまり議論されないのが気になっています。
家族のがん治療体験から、がん対策の出発点は私たちの常識の見直しから始めなければいけないのではないかと、私は強く思っています。

トルコのベルガモンはアテネほど有名ではありませんが、古代世界の文化の中心地のひとつでした。塩野さんの「ローマ人の物語」にも何回も登場します。
私がベルガモンを訪問したのは10年以上前ですが、アクロポリスに残っているトラヤヌス神殿の遺跡はトルコ旅行で一番印象的だったもののひとつです。繁栄していた頃の文化の高さを感じさせます。
ベルガモンには医神アスクレピオスの神殿があります。アスクレピオス神殿は医学校でもあり、また療養所でもありました。私はそこで聖水を飲んできましたが、その診療所のことにはあまり関心を持ちませんでした。
ところが、その診療所を訪れて人生を変えた人がいます。
メキシコのオアシス病院の創設者アーネスト・コントレラスです。
その息子の書いた「21世紀の健康」(河出書房新社)に次のように書かれていました。

その療養所は、我々が現在知っている病院とはかなり違っていた。というのは、患者は3つの建物を通らなければならなかったからだ。最初の建物で、患者は、宗教上のカウンセラーに会った。彼らは、霊的に診察されることの必要性を信じていた。2番目の建物で、患者は、精神状態を診察する心理学者に会った。最後の建物で、患者は、身体的な診察を受けた。その考えに、父は愕然とした。ペルガムムの病院は、患者の身体だけでなく、人間全体を癒す所だったのである。ペルガムムを訪問して、父はこの考えに啓発されたのだ。それは、父が従うべき啓示であった。

これがオアシス病院の始まりだそうです。
息子のフランシスコ・コントレラスはこう書いています。

本質的に我々は、身体、健康、魂が統一された生き物として設計されている。しかし、むやみに忙しい現代社会では、全体的でバランスのとれた生活を営む余裕がない。我々は身体、精神、魂を持つ統一体であり、それぞれを分割することはできない。身体のみを重要視し、精神と魂を無視する医師は、充分な医療を実践できていないことになる。(同書231頁)

女房はいま、サプリメントとしてAHCCを飲んでいます。これはオアシス病院でも使っているものですが、その関係で私もオアシス病院のことを少しだけ話を聞かせてもらいました。そして、その院長が書いた本に偶然、先週出会えました。これはきっと意味のあることです。
並行して、いま、梶田昭さんの書いた「医学の歴史」(講談社学術文庫)を読んでいますが、医学に対する私のこれまでの常識がいかに浅薄なものであったかを思い知らされています。
しかも、ただ知らなかっただけではなく、ちょっと素直に考えれば気づいたことに気づかなかったことの気づきもあります。
病院や医学界への不信感は強まるばかりです。
そして、学校で学んだ知識が、世界を曲解させることがあることも、いま改めて実感しています。子どもたちのような清明な目と心が大切です。

がん対策基本計画の根底にある「がん」観はどういうものなのでしょうか。
昨今の病院や医療行政の不祥事を思い出すにつけ、この計画が悪用されなければいいがと思います。エイズの時のようなことがなければいいのですが。

ちなみに、ヒポクラテスはこのアスクレピオス派の流れをひく治療医でした。
そして重要なことは長生きだったことです。
彼はこう言っています。
「自然は病気の癒し手である」
とても共感できます。
医療と工業はやはりパラダイムが違います。

■事実(THE FACTS)が創られる時代(2007年6月19日)
米下院で審議中の従軍慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議案は、まもなく外交委員会で採決される見通しだそうですが、これに関連して、6月14日、ワシントンポスト紙に「事実(THE FACTS)」というタイトルの全面広告が掲載されました。4月末、同紙に掲載された「慰安婦に対する真実」という広告への反論です。
広告主は「歴史事実委員会(the Committee for Historical Facts)」。屋山太郎、櫻井よしこ、花岡信昭、すぎやまこういち、西村幸祐の5人メンバーです。
賛同者として国会議員44名、知識人14名が名を連ねています。

そこでの主張は広告を読んでいただきたいですが、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したという文書を見つけられなかったとし「日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやった」という慰安婦決議案内容は歴史的事実と違うと反論しています。
ワシントンポストに掲載された広告とその翻訳文(コメントもついていますが)は、ネットで読めます。
http://nishimura-voice.up.seesaa.net/image/thefact_070614.jpg
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-83.html
これに関するさまざまなコメントもたくさん出回っていますので、それを読んでほしいですが、私が気になったのはタイトルの「THE FACTS」です。

事実は一つでしょうか。
特にこうした広がりのある問題について言えば、さまざまな側面があります。
どこに焦点を当てるかで、全く反対の「事実」を描き出せます。
こうした手法はこれまで多くの人が意図的かどうかはともかく使っていました。

最近、こうしたことがとても気になっています。
たとえば抗がん剤の効果の説明もそうですし、住民参加の意見もそうです。
裁判における検察と弁護の主張のほとんども必然的にそうなるようになっています。
環境政策や福祉政策でも、環境運動や福祉の陳情活動でも同様です。

なぜそうなるのでしょうか。
そこに「対立」や「競争(勝敗)」の発想があるからではないかと思います。
もし「共創」や「共生」の発想で取り組むならば、状況は変わるはずです。

THE FACTS。
不寛容で傲慢な姿勢を感じさせる言葉です。
せめて「ONE FACT」というくらいにしていたら、コミュニケーションが成り立ったかもしれません。
「事実」が創られる時代がまた近づいているようです。

■朝鮮総連の会館売却問題の「事の本質」(2007年6月20日)
朝鮮総連の会館売却問題の主役は、元公安調査庁長官と元日弁連会長です。
2人とも弁護士です。つまり「法の専門家」です。
この事件は政治色が強いので、真理は藪の中かもしれませんが、最近、弁護士のあり方を問題としている関係で、横道ながら書いておきます。
多くの人は、なぜ弁護士ともあろう人がこんなことをするのかと思うでしょう。
弁護士だけではありません。
元公安調査庁の長官がなぜ在日朝鮮人の権利保護などという名目で、こんなことをするのか。
そこに実は「事の本質」があるように思います。

エドガー・アランポーに「盗まれた手紙」という有名な小品があります。
「隠し方」は探偵小説の大きなテーマの一つですが、その代表作がこの作品です。
隠すかわりに、わざと目も前に放り出しておくという、真理の盲点をついたものですが、これはチェスタートンの「見えぬ人」やクイーンの「Xの悲劇」、さらには筒井康隆の「48億の妄想」などに受け継がれていくトリックの始まりです。
目の前で堂々と犯される犯罪は、意外と見えないものですし、ましてやその人の肩書きなどで真実が見えなくなることも少なくありません。
それを巧みに利用する詐欺も少なくありません。

私たちはさまざまな先入観で世界を見ています。
学歴の高い人は賢い、法曹人は正義の人、NPOは公益のために活動、政治家は政策に詳しい、学識経験者は判断を間違わない、イスラム教徒は怖い、民営化すれば効率的になる、医師は病気を治してくれる、ピカソの絵画はすばらしい、クリスチャンは人道的・・・・
そうした概念を捨てると全く違った風景が見えてくるはずです。
しかし私たちは、そうした概念的な呪縛に閉じ込められて、言葉で考えることに慣れてしまいました。
いや、私たちの世界があまりに広がりすぎ、変化が大きいために、そうしないと生きていけなくなってしまったというべきでしょう。
すべて顔見知りの小さな世界で生きられた時代は、ほとんどの人にとっては、遠い昔になってしまいました。
そこに、現代社会の問題の本質があり、それを象徴的に顕在化させてくれたのが、この事件かもしれません。
今回の事件は、法の専門家であり、北朝鮮問題に取り組んできた人だから、成立した事件なのです。
「見えるものを見えなくしてしまう存在」が必要でした。
「ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要だった」ことを思いまします。
事件が起きた時に、そうした発想で考えると、事の本質が見えてくることが少なくありません。
どんな事件にも「意外性」などないのです。

■「裁判に絶望した」(2007年6月21日)
以前、ここでも取り上げた富山の冤罪事件の有罪取り消し再審の初公判が昨日開かれました。そこでまた「事実隠し」が堂々と行われるという、これまでと全く同じ繰り返しが展開されました。
弁護側が、取り調べを行った警察官の証人尋問を求めたに対し、裁判長が「証人尋問の必要はない」としたのです。冤罪を受けた男性は、「裁判には絶望した」とコメントしたそうです。
もし私が当事者だったら、同じ発言をするでしょう。
またまた裁判への信頼性を揺るがす事件だと私は思います。
「裁判には絶望した」
これはとても重い言葉です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/05/post_0a8d.html

今回は弁護士ではなく、検察や裁判官の側の問題のように見えますが、私は一番の問題はやはり弁護側にあると思います。被害者を守れないのでは、何のための弁護かといわれても仕方がないでしょう。
これほど杜撰な捜査や立件に対して、どうして冤罪を予防できなかったのか。
考えてみれば、この事件はそこから端を発しています。
先に問題提起した「弁護士への問題提起」に関しては、冤罪事件が起きないように、被告を守るのが弁護士の役割だと複数の弁護士の方からメールでもらっていますが、冤罪事件を引き起こした場合の責任は弁護士にも半分はあるはずです。その責任をとる覚悟がなければ、その役割(ミッション)は果たせないはずです。
今回の事件は、裁判官に批判の矛先が行くでしょうが、弁護士もまた同罪だと思います。
多いに恥じるとともに、自らの失敗を謙虚に振り返り、社会に公開すべきです。
そういう積み重ねの中で、ミッションは鍛えられ、制度の信頼性は高まります。

法曹界は、裁判の信頼性を回復する努力をもっとするべきではないかと思います。
その方法は明白です。
取調べや裁判の透明性を高めれば良いだけです。
もちろんその前に、「裁判とは何なのか」を再確認しなければいけませんが。

■議論しない国会と世論を育てない政府(2007年6月22日)
教育関連3法も改正イラク特措法も成立しました。
しかし、将来の日本に大きな影響を与えるこうした法律が、きちんと議論されたようにはとても思えません。
国会はさまざまな視点から意見を出し合い、国の方向性を議論していく場ですが、同時に国会での議論と並行して、国民が問題を理解し考え、世論を育てていくことが、代表制民主主義の限界を克服するためには重要な仕組みです。
つまり国会の議論と国民の議論はセットで考えることが大切なのではないかと思います。
選挙だけが民意を具現化する手段ではありません。
国民が日常的に、自分たちの意見を表明する仕組みや環境はかなり整いだしています。その気になれば国民による幅広い議論を引き起こすことがそろそろ可能になり出しました。しかし、現実は残念ながら、議論をさせでずに賛否を問う、まさに○×式の問いかけが行なわれ、国民もまた議論せずに、いずれかを選択するという姿勢を強めています。大切なのは議論であって、○×をつけることではありませんが、訓練型教育を徹底してきた学校制度が見事に効果を出しているとしか思えません。
世の中の問題の答えは一つではありません。

議論をしない、あるいは国民に考える刺激と余裕を与えない国会は存在価値がないように思います。多数派がいつも押し切るのであれば、国費をかけて議員職をかかえる必要はありません。考えることも必要ないですから、最近は誰でも議員になれます。所属する政党の指示に従って投票すればいいだけです。だからテレビタレントの弁護士でも世間知らずの若者でも議員になれるのです。

その結果、学校はますます管理思考を強め、税金の無駄遣いが高まるように思います。生徒に接触する先生よりも、管理者のほうが多くなるのです。
また教科書検定は強化され、価値観の画一化はさらに進みそうです。
沖縄での集団自決問題が話題になっていますが、「事実(THE FACTS)」の創造もますます進むでしょう。学校は息苦しい空間になりそうです。
自衛隊のイラク派遣を2年間延長する改正イラク特措法についても、イラクの現実を見た上で、9条憲法との関係を明確にしてほしいです。
こうした動きに対して、それを疑問に思う政治家や知識人が出てこないのも寂しい話です。

日韓併合に対して批判の声を上げない明治日本の知識人を痛烈に批判した沖縄の伊波月城の言葉を最近、「軍縮問題会議」で読みました。
こう言っています。
「権力の前に頭を下げて、憐れむべきものや、敗北者や、失意の人々のために一滴の涙さえ注ぐことができない」。
知識人だけの問題ではないでしょう。
これほど情報が公開されている時代であれば、この批判はすべての国民が受けなければいけません。
私はとても恥ずかしい気がしました。
皆さんは大丈夫ですか。

■希望のない医療、感受性の乏しい医療の見直し(2007年6月23日)
ベルガモンの古代診療所の遺跡を見て人生を変えた人の話を先日書きましたが、思い出したのが、「病院で死ぬということ」(文春文庫)の著者、山崎章郎さんです。
外科医だった山崎医師は、いまホスピスの活動に取り組んでいますが、その転機となったのが、本で出会った次の文章だそうです。

患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼をよく知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、2さじか3さじ液体がのどを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか」

キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に出てくる文章です。
私も『死ぬ瞬間』は読みましたが、この文章は覚えていません。
しかし山崎さんは、外科医の医師としての人生をやめてしまったのです。
ひとつの文章が、人の人生を変えることがあるのです。

「病院で死ぬということ」は読むのが辛い本です。
よほどの勇気がなければ読み続けられません。
しかし、そこからのメッセージは強烈です。

医師にとって何が一番大切かは私にはわかりませんが、患者の立場から言えば、感受性ではないかと思います。しかし医師の立場から言えば、感受性が強いと、医師は続けられないかもしれません。がんセンターに通いだしてから、そういう思いを強くしています。
感受性と医療体制。この2つを統合することで病院はきっと進化します。
そもそもホスピタルの原義は、そういう意味だったのですから、改めて原点に戻ることが大切なのかもしれません。

上記の本には、山崎さんが医師に成り立ての頃の体験が語られています。
末期がんの患者の延命に取り組む医師たちの姿です。

医師たちはだれ一人として、患者の病気が治っていくだろうなどとは思っていなかった。医師の使命と信じ込んでいる信念に基づいて、患者の延命に最大の努力を払っていたのだ。

この風景は、たぶん今もなお変わっていません。
いや、がんセンターのような病院では、この空気(がん=死)が病院全体を覆っているような気さえします。医師たちも、この呪縛に囚われているように思います。
私がいつも疲れてしまうのは、この文化に抗しているからです。
この文化を変えていくことが、がん対策の基本になければいけません。
延命と医療は全く別の行為ではないかと私は思っています。
希望のない医療、感受性の乏しい医療は、人の心と気を萎えさせます。

■偽牛ミンチ事件で嘘をついていたのは誰でしょうか(2007年6月24日)
また食品会社の偽装事件です。
ミートホープによる偽牛ミンチ問題は調べるほどに、そのひどさが明らかになってきます。
それにしても、なぜ同じような事件が繰り返されるのでしょうか。
昨今のような情報社会においては、必ずいつかわかってしまうことですし、わかった時の対処のしかたで会社の存続すら不可能になることもそろそろ経営者は学んでもいい頃です。
これまでのように行政や政治家が加担してくれる時代は終わったのです。
にもかかわらず、同じような繰り返しが続いています。

その理由として、「価格競争志向の経済システム」と「嘘を見逃すという文化」の2つを指摘したいと思います。それを変えていかない限り、いつになっても繰り返しは続くでしょう。

まず、価格競争志向の経済システム。
以前も書きましたが、原価とは無縁に価格が設定される仕組みを見直していく必要があります。価格は価値によって決めなければいけません。市場が決める場合には、その自由が自律的に、かつ情報共有が保障されていなければいけません。
消費者も意識を変えなければいけません。常識的に考えて、安すぎる商品はどこかに問題があるのです。
こうしたことの根底には、市場原理主義や自己責任原理があるように思います。
そのパラダイムを変えない限り、こうした事件は繰り返されるでしょう。
防止策として、内部告発や品質チェック機構もあるわけですが、そうしたものがほとんど機能していないことは、今回の事件でも明らかになりました。
いずれも制度の基本思想に間違いがあるのです。
設計者は、意図的にそうしたのかもしれませんが、市場原理主義のなかでは、防止策はあくまでもおまけのようなものです。

そして、嘘を見逃すという文化。
小泉前首相は嘘を奨励しましたが、そのせいか、日本は今や嘘の上につくられたような社会になってしまいました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message2.htm
毎日の新聞記事を読んでいると、いかに責任ある人が嘘をついているか、また嘘にかかる事件が多いか、嫌になるほどです。
日本では、いまや嘘をつくことは「恥」ではないのです。むしろ嘘をつくことが美徳にさえなっているのかもしれないと思いたくなるほどです。
沖縄の集団自決強要の話などは、政府が嘘を子どもたちに教えようということですし、先日の「有識者たち」の広告活動は「日本人は嘘つきだ」と世界に堂々と宣言しているわけです。
今回の事件でいえば、たぶん流通業者も購入者もその気になれば嘘は見つけたはずです。その分野で仕事をしている人であれば、見抜けるはずではないかと私は思います。
みんなうすうす感じていたのに、誰も声を上げなかったのだろうと思います。
そんな話はこの件に限らずよくある話です。

ミートホープ社の社長のやったことは決して許せることではありません。
しかし、例の耐震偽装事件もそうでしたが、嘘をついているのは彼だけではないのです。
もっと大きな嘘が、日本の社会全体を覆っているのです。
田中社長の嘘への怒りの、ほんの一部を自らの反省にも向けたいと私は思っています。

■嘘にかかるコストは、サラ金のように高利(2007年6月25日)
昨日の続きです。
日本の企業の多くは、なぜこうも「嘘」をつくのでしょうか。
嘘をつくコストの高さに、そろそろ気づいてもいいはずなのですが。
企業の広報活動や危機管理の基本は「フランクネス」です。
そしてそれこそが一番、組織およびそのメンバーにとってメリットがあるのです。

嘘は一度ついてしまうとどんどんと成長していきます。
嘘が嘘を呼び、その嘘を撤回することが難しくなり、逆に嘘を「真実」に化粧するために、さらなる嘘が必要になってきます。
そればかりではなく、その嘘の世界に周囲の関係者を引きずり込む力が出てきます。そして、そうした嘘の仲間に入ってしまうと短期的には「いい目」を味わうことができるのです。そして社会そのものも変質していきます。
しかし、嘘にかかるコストは、サラ金のように高利です。
時には松岡議員のように、自らの命でつぐなわなければならなくなります。

成熟社会におけるソーシャル・キャピタルは「信頼」だといわれます。
嘘が横行する社会では、信頼関係は育ちません。
そこで膨大な社会コストが発生します。
企業の広報活動は、私はそうした信頼関係を育てるためのものだと思っていますが、残念ながら日本の企業の広報戦略はそれとは逆なことが少なくありません。
私は、企業の広報問題のコンサルティングも仕事にしていますが、私のような発想はなかなか受け入れてはもらえません。
困ったものです。

ところで、信頼関係の不在が社会コストを発生させるということですが、社会コストを発生させるということは経済活動を発生させる、つまり市場を創出するということです。
ここに近代産業(経済)の出発点があります。
近代経済に埋め込まれている、こうした「ジレンマ」をどう止揚していくか、これがこれからの課題ではないかと思います。
政治経済的な発想から、生活経済的な発想へのパラダイムシフトです。
持続可能な発展が議論されていますが、このパラダイムシフトなくしては、持続可能性は実現できません。
経済パフォーマンスを評価するための現在の経済指標は根本から見直される必要があるように思います。

嘘をなくしていくための、もう一つの切り口は組織のパフォーマンスシフトです。
現在の多くの組織は、責任をあいまいにする仕組み、つまり嘘をついてもそれを見えなくしてしまう設計になっています。しかし逆に嘘を見つけやすくすることを目指した組織構造も可能です。
これは、組織間の構造や関係づくり、つまり社会構造原理にも当てはまります。
嘘のなすりあいは日本の社会の特長であり、問題が起こるとそれが見事に展開されますが、組織構造原理もまたパラダイムシフトすべき時代になっているように思います。

■ミートホープ従業員解雇と社会保険庁ボーナス自主返上(2007年6月26日)
事件を起こしたミートホープ社が全従業員の解雇を決めたそうです。
社会保険庁はボーナスの自主返上を職員に呼びかけました。
問題の性格は違いますが、責任の取らせ方として、どこか共通点がありそうです。
共通点はトップの勘違いと組織と個人の不条理な関係です。

ミートホープ社に関して言えば、私は従業員も全くとがめられない存在だとは思いません。既に内部告発した人もいますが、本気でやるのであればもっとやりようがあったでしょうし、現場の従業員も自分たちがやっていることがおかしいと気づいたはずです。それを受け入れていたのは、厳しい言い方ですが、共犯者のそしりは免れません。これだけ長く、また広範囲に不正をやっていたからには、おそらくみんなわかっていたはずです。
ですから、私は同社の従業員も責任を取るべきだと思います。
しかし、だからと言って、一方的に解雇というのはどこかおかしい。
完全にこの会社は田中社長の私物だったわけです。
会社とはいったい何なのかを考えさせられます。
同社にとって従業員は単なる労働力であり、従業員にとって会社はお金を稼ぐ仕組みでしかなかったのです。
これは極端な事例ですが、最近はこうした「企業」や「従業員」が増えてきているような気がします。

社会保険庁のボーナス返上に関連して、川崎前厚労相は「問題を知らなかったことの責任は取らざるを得ない」と話したそうですが、「知らなかったことの責任」は責任ある立場にいた人にはとても大きいです。しかし、この責任もまたすべての人に当てはまるでしょう。正確に言えば、「知ろうとしなかったこと」への責任ですが、ミートホープ者の従業員は、そのことをしっかりと認識すべきです。
いや、問題を起こしていない企業の従業員も、他山の石とすべきでしょう。
さらにいえば、私も含めて、この社会を生きるすべての人が「知ろうとしなかったこと」を恥じなければいけません。その上で、彼らを責めることができるはずです。

社会保険庁のボーナス返上に関しては、いまさら何をという気もします。
問題になりだしてから一体何年経過しているのかを考えれば、そんな話ではありません。この間、まじめに仕事をしていれば、ボーナス返上額とは桁違いの金銭的カバーが出来ていたはずです。問題が顕在化してからでも、おかしなことは山ほどあったはずです。それに末端の職員も含めて、やはり「知ろうとしなかったことの責任」は否定できません。
しかし、それはそれとして、やはり全員にボーナス自主返上を呼びかけるのは理解しにくい話です。強制減額するのであれば理解はできますが、トップが責任をとらない自主返上方式ではあまりに身勝手なことなのではないかと私は思います。制度的に強制はできないとしても、それは姿勢の問題です。
私が職員であれば、返上はせずに、同じ額をもっと効果的に活かすことを考えます。たとえば職員組合が有志の返上額を集めて、年金面で被害を受けている人を支援する仕組みを作ることはできないのでしょうか。電話で年金相談を受けるNPO活動ならできるような気もします。

いずれにしろ、この2つのニュースはただでさえ気分のよくない事件をさらに憂鬱なものにしてしまいました。
いずれも最高責任者が責任を取らずに、責任を分散したわけです。
組織は責任を分散しあいまいにする仕組みになりきってしまうのでしょうか。

■ミートホープと光市母子殺害事件弁護団(2007年6月27日)
この2つの事件はまさに今の時代の病根を示唆しているように思います。

ミートホープの田中社長が、食肉業界では同じようなことが他社でも行っていることを示唆する発言をしたと報道されていますが、そう考えてもおかしくないように思います。農水省も道庁も、ほかの事例を知っているような気もします。そうでなければ1年前の関係者の報告を拒否したり無視したりすることはないでしょう。
耐震偽装事件と同じく、これは「みんなでやった事件」かもしれません。
ミートホープ社は極端すぎただけかもしれません。
いま信頼を失っているのは、ミートホープ社だけではなく食肉加工業すべてです。
食肉加工業がもっと自分たちの仕事に誇りを持っていたら、自分たちでこのような事件を起こす企業を監視し事件を防止できたはずです。
いやそうしなければいけません。

同じことは弁護士にも言えます。
今日の光市母子殺害事件の公判の被告人質問の報道を見ていると、弁護士という資格への信頼感が大きく揺らぐような気がしました。
これは21人の弁護士たちの問題ではなく、弁護士という資格の信頼性、さらには裁判への信頼性の問題ではないかと思います。
この裁判はいったい何なのでしょうか。
そう思っている弁護士はいないのでしょうか。
弁護士や法曹界の仲間主義がもしあるとすれば、残念なことです。
自らが信頼性を維持できないような資格は、たとえ権力がお墨付きを与えても、決して本当の信頼性は保てないでしょう。
弁護士仲間から何の動きも出ないことが残念です。
日本の法曹界もまた、政治と同じく、正義を忘れてしまったように思います。

弁護士が事実を捏造することは犯罪です。
せっかく築きあげてきた裁判制度への冒涜は許されることではありません。
政治家やジャーナリストによる「事実の捏造」も許しがたいことではありますが。

■分かち合う文化の復活(2007年6月28日)
最近、いろいろな人が手づくり野菜を送ってくれます。
定年で会社や役所を引退した人たちの手づくり野菜は特に見事です。
鶏を飼って卵まで送ってくれる人もいます。
我が家でも近くの空き地で家庭農園をやっています。
私が毎朝、パンと一緒に食べるサラダ菜はプランターで育っているものです。
毎朝、自分でちぎってきますが、時に土がついていてじゃりじゃりします。
まあよく洗えばいいのですが、
近くのお宅に立派なびわの樹があります。
葉っぱをいつももらっているのですが、最近は実までもらってきます。そのお宅では食べないのです。我が家もこれまでびわはほとんど食べなかったのですが、そのお宅のびわの実はお店で買ってくるのと大違いで美味しいので、食べるようになりました。
最近はジャムも良く届きます。ゆずジャムやいちごジャムです。
そういえば、びわの樹のお宅には夏みかんもありますが、それをもらってきて、女房がジャムにして我が家とそのお宅とで食べています。
女房の友人がスイカをもらいました。夫婦2人では食べきれないので半分もってきてくれました。
果物も届きます。
高価なサクランボは我が家には縁遠いものですが、山形から年に一度、ドサッと送ってくれる人がいます。半分は近所や友人にお裾分けします。そうするとそれがまた違うものになって返ってきます。
つまらないことを書いていますが、みなさんのところでも、こうしたことが少しずつ増えているのではないかと思うのです。
食べ物だけではありません。
女房のところには実にさまざまな手づくり品が届きます。

こうした「お裾分け文化」「手づくり文化」が、昔は社会を育てていたのでしょうね。
私の両親の時代は、物が不足し、今よりはかなり貧しい時代でした。
しかし今よりもずっとお裾分けは多かったように思います。
自分が食べる量を少なくしてでも、周りの人にあげるという風習がありました。
人は貧しいほど、「分かち合うこと」を大切にするのかもしれません。
それは一種のセーフティネットでもあるのです。

みんなが、それぞれ得意なことを思い切りできるようになり、その成果をみんなで分かち合えることができれば、社会はもっと豊かになるでしょうね。
もしかしたら、お金がほとんどなくても暮らせる社会がまた戻ってくるかもしれません。
そんなことを最近よく考えます。

■緒方弁護士や田中社長の世界観(2007年6月29日)
朝鮮総連本部売買事件は緒方元公安調査庁長官による詐欺事件になり、緒方弁護士が逮捕されるという意外な展開になりました。
この事件に関しては、以前、「事の本質」と題して少し書きましたが、まさかの展開です。よりによって詐欺事件になるとは思ってもいませんでした。
詐欺事件といえば、「騙す人」と「騙される人」がいるわけですが、その構図がややこしくて、簡単には見えてきません。
しかし「肩書き」と「経歴」が大きな役割を果たしたことは明らかです。
緒方弁護士も被害者、などというつもりは全くありませんが、私が一番気になったのは、社会的職責に対する自覚の不在です。

それは昨日の光市母子殺害事件の弁護団の弁護士にも当てはまるわけですが、彼らは弁護士という社会的肩書きを私欲のために使っています。
表向きは「死刑制度廃止のため」といっていますし、多くの同業者もまた社会もそう思っているようですが、そんなはずはありません。
前にも書きましたが、もし彼らが「死刑制度廃止」を本当に目指しているのであれば、手段を間違っています。
そもそも今回の一連の発言を聞いていると、彼らにはその資格はないでしょう。誠実さが全く感じられません。
私欲のために制度議論をしてはいけません。最も恥ずべきことです。
小泉前首相が「自民党を壊す」と声高に叫んで国民の喝采を受け、日本の政治そのものへの信頼性やこれまで先人が積み重ねてきた政治体制を壊したのと同じ愚挙でしかないと私は思います。
裁判制度が愚弄され、信頼感は失墜しかねません。
あれ、また話がそれました。
戻します。

緒方弁護士の詐欺事件はなぜ発生したのか。
彼が意図的に詐欺を起こしたとは私には思えません。
たぶん結果的に詐欺に加担したのではないかと思います。
まあ、そんな「藪の中」を探っても意味がないのですが、私が感じたのは法曹界の人たちの世界の狭さです。これほどとは思っていませんでした。
彼らもまた、企業不祥事を起こす企業経営者、最近で言えば、ミートホープの田中社長のように、自分たちの小さな世界のなかでしか生きていないのではないかということです。いや小さな世界で生きていればこそ、その世界のトップになれたのかもしれません。
もし緒方さんの世界がもう少し広かったら、そしてもう少し見識を持っていたら、たとえば世間によくいる「おばさん」たちほどの世界の広さと見識をもっていたら、こんな馬鹿げた詐欺事件には巻き込まれなかったのではないかと思います。
私がいつも危惧するのは、人を裁く人たちが、そんな小さな世界で生きていていいのかということです。世界の広さが見識の深さを決めていきます。

意味がわからないとまたコメントされそうなので、少し補足します。
私は現場で汗している人たちの知恵が一番だと考えている人間です。それは体験からそう感じているのですが、世間の常識とは違うかもしれません。
また、いわゆる庶民の専業主婦の「おばさん」たちの生きている世界は、安倍首相よりも広い世界なのではないかと思っています。
何を根拠にそう考えるのかと質問されそうですが、これも体験からそう感じているだけです。
真実を素直に見る目がなければ、世界は広がりようがありません。
いわゆる有識者や知識人の世界の狭さには時々辟易します。
繰り返しますが、世界の狭さは見識の浅さにつながります。
ましてや自分の人生を生きていない人には、世界などないと等しいでしょう。
しかし、そういう人が世界を動かす時代になってきました。
世界そのものが「バーチャル」になってきたとしかいえません。

緒方弁護士、田中社長、安倍首相、安田弁護士。
みんな同じ種類の人たちに見えてきます。
私も、もしかしたらその系列の一人かもしれません。
だから見えるのでしょうか。
いやはや困ったものです。

■民営化が狂乱のごとく行われた時代(2007年6月30日)
議論することの出発点は、相手の意見を聴くことです。
それがなければ、議論ではなく主張でしかありません。
最近の国会は議論の場でなく、作業処理の場になってしまったようです。
そうであれば、高いコストをかけて、代議士を選ぶ必要はなく、人材派遣会社に議員を派遣してもらえばいいでしょう。国会議員もそろそろ派遣に切り替えたらいいように思います。
裁判もまたそうした方向に動き出していますし(裁判員制度はその一歩)、もはやすべては作業で処理できる時代になってきました。

というような「悪い冗談」は慎まなければいけませんが、最近の国会は一体何なのでしょうか。まじめさが感じられません。第一、私などの感覚では、ネクタイもせずに何が国会だと思います。ネクタイが良いわけではありませんが、もう少しけじめをつけてほしいです。クールビズには私は大反対なものですから。

まあそんなことよりも、問題は社会保険庁解体法が成立したというのには驚きを禁じえません。
これでまた問題の本質は見えなくなり、責任はあいまいになるわけです。
しかも「民営化」です。今度は誰が儲けるのでしょうか。
私は年金をもらう年齢ですが、まだ払うほうであれば、やはり払い続けるでしょうか。払うとしても、納得は難しいですね。
どうしてみんなおかしいと思わないのでしょうか。

民営化とは、何回も書いてきましたが、私有化のことです。
ミートホープのようなことが起こりかねない世界にゆだねるということです。

「マルチチュード」という本の中に、こんな記事がありました。
歴史のなかには、民営化が狂乱のごとく行われた時期もある。フランス革命後のルイ・フィリップからルイ・ボナパルトの治世にいたる長い時期がそうだし、ヨーロッパの福祉国家が危機に陥った後の1970年代や、ベルリンの壁崩壊以後、旧ソ連圏の官僚たちが資本主義的新興財閥として蘇った時代もそうだった。(下巻150頁)

そして後世の人は、このリストに日本の21世紀初頭の日本を加えるでしょう。
先日、テレビで銚子電鉄の紹介がありました。
あれは民営化ではなく、「共営化」です。
そろそろ官民の世界から「共の世界」へと発想を変えるべきではないかと思います。

■言葉狩りの時代(2007年7月1日)
「原爆投下はしょうがない」。
久間防衛相の原爆をめぐる発言が問題になっています。
野党にとっては格好な題材でしょうし、マスコミも話題にしやすい事件です。
私は「言葉」にはかなりこだわるタイプですが、この件に関してはあまり気になりません。たとえ防衛相の発言であっても、です。
むしろ最近の「言葉狩り」の風潮に嫌気を感じています。

このブログで、弁護士の発言を問題にしているではないか、それは言葉狩りではないのか、とお叱りを受けそうですが、私の中では全く別の話なのです。
勝手な言い訳と思われるかもしれませんが。

発言には必ず「意図」と「原因」があります。
問題にすべきは、意図と原因(発言を引き起こした実体)であって、単なる表現された言葉ではないはずです。
言葉は手段であり結果なのです。
久間さんの発言は、確かに適切ではありませんが、ある文脈の中で私ももしかしたら言葉に出してしまうかもしれない言い回しです。
繰り返しますが、原爆を認めるとか、戦争終結の手段として正当化しようというような意味では全くありません。
歴史の状況の中で起こってしまったこと、という意味で「しょうがない」という考え方を完全には否定できないということです。
久間さんに、原爆投下を肯定する意図はなかったと思いますし、もしかしたら表現を間違えたのかもしれません。表現の間違いはだれにもあることです。

内山弁護団の発言、つまり確信的な発言とは全く違います。
いや、柳沢大臣の「産む機械」とも次元が違う話です。

現代はポリミッシュな時代、抗議が横行する時代です。
私のこのブログも、もしかしたら、そうしたポリミッシュなメッセージと受け取られているかもしれません。
書き手である私としては、決してそういう意図ではないのですが、最近の内容はそう思われても仕方がないかもしれません。
しかし、単なる言葉狩りだけはしていないつもりです。

国会の審議を見ていても、言葉狩りやら言葉論争が多いのにがっかりします。
中身の議論ではなく、言葉をあげつらう応酬が少なくないのは、抗議者にも良い感じをもてません。民主党の支持が増えないのは、それが一因ではないかとも思います。
それにしても、昨今は言葉狩りが多すぎます。
そんなことよりも、もっと議論してほしいことがたくさんあります。
でも言葉だけの議論は、誰でも参加できるせいか、マスコミは大好きのようです。
それに乗せられないようにしたいものです。
目を向けておくべきことは何なのか。
それをしっかりと持っていたいと思います。

■新しいM&Aの時代(2007年7月2日)
今年の株主総会の時期も、大きな異変はなく終わったようです。
M&A時代の到来に大きな不安を持っている私としては、まあホッとしました。
昨今のファンド主導のM&A(企業の合併・買収)の広がりは、私の企業観、経営観には全く整合しないのです。
昨今の企業価値論やコーポレートガバナンス論にも大きな違和感があります。

ところが、これからはまさに「M&Aの時代」でなければいけないと言う人がいます。
一条真也さんです。
私が敬愛する企業経営者です。
一条さんの新著「龍馬とカエサル」のあとがきにこう書いています。

私は一人の経営者として、ミッション(使命)とアンビション(志)の二つを真の「M&A」として大切にしていきたいと思う。(中略)
これからは「ハード」よりも「ハート」、つまりその会社の思いや理念を見て、顧客が選別する時代に入ると確信している。そのときに、最大の武器となり資産となるものこそ、「M&A」なのである。

使命感(Mission)と志(Ambition)。
まさに企業の原点だったはずです。
昨今の企業がさまざまな問題を起こしているのは、その「M&A」が見失われてしまったからです。
企業の病理を正すのは、それを構成している経営者や社員です。まずは経営者や社員が「心」を取り戻すことです。初心に戻って、「M&A」を思い出すことです。
ミートホープの田中社長も創業の頃の思いを思い出してほしいです。
最初から「悪事」を働こうなどと思う人はいないはずです。
どこかで死刑判決を受けるほどの悪事にかかわらざるを得ない現実が多すぎるのが今の日本社会かもしれません。
それを正すことから、安田弁護士は構想すべきだったのではないかと思います。
最近、このブログで書いている事件は、すべて繋がっています。
小手先で「対処」するようなことの恐ろしさに、そろそろ気がつきたいと思います。

一条さんの「龍馬とカエサル」の紹介は私のホームページに載せました。
よかったら読んでください。
とても示唆に富む、読みやすい本です。

■儲け型経済から稼ぎ型経済へ(2007年7月3日)
株主総会シーズンも大きな波乱なく終わりました。
企業業績も好調のようです。
しかし、企業業績好調のわりには、社会はそれを実感できずにいるようです。

守田志郎さんは、私が学んだ数少ない経済学者です。
いや経済学者ではなかったかもしれませんが、私が若い頃に経済の刺激を受けたのは、守田さんと玉城哲さんです。
経済学が嫌いになったのは、大学で玉野井芳郎さんの経済学を受講したためです。
私には理解できなかったのです。
それから10年、この2人の著作に出会った時には、それこそ目からうろこでした。生きた経済学に触れた気分でした。ちょっと経済学アレルギーがなくなりました。
そしてその後、経済学に興味を持つ契機になったのは、また玉野井さんでした。
沖縄大学に移ってからの玉野井さんの著作は、実に刺激的でした。
私はそこで「コモンズ」の発想を学びました。

まあ、そんな思い出はともかく、今日、庭仕事をしながら、なぜか守田さんの言葉を思い出しました。
守田さんは、著書の「農法」(農山漁村文化協会)でこう書いています。

農業は稼ぐ業であっても、儲ける業ではない。

守田さんは「稼ぐ」と「儲ける」とを峻別しています。
稼ぐとは「家業に精出すこと。励み働くこと」。
それに対して儲けるとは「ひかえを置くこと、利益を得ること」だといいます。
農業では「余剰」を残しておくことはできないのです。
たとえば、先週、わが家にたくさんのトマトが届きました。
3か所から手づくりトマトが届いたのですが、我が家だけでは食べきれません。
しかし、保存は難しいです。腐らせるのが関の山です。
なくなったころに届けばいいのですが、自然に左右される野菜はだいたい同時期に収穫になります。ですから当然、同じ時期に重なってしまうのです。

ではどうするか。
お裾分けです。
農家の人たちはお裾分けが大好きです。
それはまた自らのセーフティネットでもありました。
そして、そこにはコモンズ型の経済理念が感じられます。
稼ぎではなく儲け中心の最近の経済とは全く違う枠組みが感じられます。

守田さんは、さらにこう書いています。
「稼ぐ」と「儲ける」という言葉は、反対のことをいいあらわしている、とさえいえる。「稼ぐ」は、「家業に精を出す」ということで、この言葉の中には、物を右から左へ動かしただけでの利益とか、人を働かせて得をするとかいった儲けの精神はひとかけらもない。

もっとも、百姓は「農業」とは別に「稼ぎ仕事」もしていました。
しかし、そうした稼ぎ仕事(「余稼ぎ」という言葉もありましたが)も、まさに余剰のためではなく、生活のためでした。
つまり、「稼ぎ」は自分が汗をかき、「儲け」は他人が汗をかくのです。

長々と書きましたが、最近の社会はどうでしょうか。
稼ぐ人よりも儲ける人が増えてしまいました。
今朝の新聞に政治家などの所得一覧が出ていましたが、彼らは稼いでいるのでしょうか。儲けているのでしょうか。

業績を上げている会社はどうでしょうか。
汗して働く人たちがしっかりと報われる経済システムが出来ないものでしょうか。
そうすれば格差社会などは解決するでしょう。
格差社会は、儲けることを基本とした経済社会の必然的な結果ではないかと思います。
儲け型経済から稼ぎ型経済へ、と戻っていくのはどうでしょうか。
その先にはきっと「働き型経済」があり、さらには「暮らし型経済」があるように思います。
経済の原点に戻って、パラダイムシフトすべき時期に来ています。

■死に向かう医療、生を目指す医療(2007年7月4日)
今日は暴論です。
まあ、いつも暴論かもしれませんが。

女房ががんになったために、がんを通して医療の問題を考えることが多いのですが、近代医学のありように関してもいろいろと考える契機になりました。
がんという病気が特殊なのかもしれませんが、特殊なものにこそ、本質が現出します。

がんの場合、医師と話していて感ずるのは「がん=死の病」という呪縛です。
その根底には、近代医学のもつ病気観があります。
医師はがんが治るとは考えていないことが伝わってきます。
昨日、緩和医療の医師と話したのですが、医師は病状がだんだん悪くなるという前提で話をします。つまり「死に向かう発想」で取り組んでいるわけです。
私たちのように、治ることを前提として立ち向かっている者には、とても違和感があります。
最近はそうした医師の姿勢に抗うのはやめることにしています。
近代医学というものの本質が理解できれば、それもまた受け入れることが大切だという考えにやっと私もたどり着きました。

ちなみに、「病気」という呼び方もそうですが、緩和医療(ケア)という表現にも、そうした発想の象徴的な現われです。

人間の人生の大半は「死」に向かっての歩みだという考えもあります。
いやそういう考えがむしろ普通かもしれません。
10歳を超えたら、生物的には滅びに向かいだすともいわれます。
しかし、それは一つの価値観に基づく評価でしかありません。
発達心理学の理論では、人間は死ぬまで発達するという捉え方もあります。

この4年、女房のがんを通して感ずることは、パスツール以来の近代医学は、結局は「死に向かう医療」の呪縛から抜け出ていないのではないかということです。
希望を根底におくことのない医療は、病気を治療しても人を治癒することはできません。
余命3か月などという、いかにも近代科学的らしい発想がでてくるのも、そのせいではないかと思います。

そうした「死に向かう医療」に対して、「生を目指す医療」があります。
私も最近知ったのですが、サイモントン療法というがんの心理療法があります。
その瞑想のためのCDがあるのですが、そのナレーションに次のような呼びかけがあります。
がん細胞は弱くて不安定な、混乱した細胞です。
がん細胞は私たちを攻撃したりしてはいません。
白血球は、常にがん細胞に攻撃をして、常に勝ちます。
あなたの体が喜びに導かれ、本質に気づき、ごく普通の働きをはたしはじめたとき、
あなたの白血球があなたの弱いがん細胞に働きかけて、正しい役割をはたします。
そして、そのがん細胞をどんどん取り除いていきます。

これはナレーションの一部ですが、そこには生に向けての希望を感じさせます。
こんなナレーションも出てきます。
病気が、何かを私たちに伝えようとしていることを思い出してください。
常に病気というものは、思いやりあるメッセージを発しています。

ヒポクラテスの医療とパスツール以来の医療とでは、何が変わったのでしょうか。
確かに病気を治す点では、大きな前進がありました。
しかし肝心の生命への意識やケアは、むしろ後退しているのかもしれません。

最近、医療訴訟が増えています。
その原因は、医療パラダイムに原因があるような気がしています。
病気は、医師が治したり諦めたりするものではありません。
治すのも諦めるのも、患者自身です。
病気に立ち向かっている患者にとって大切なのは、「治療」ではなく「治癒」なのです。

医師と患者のコミュニケーションではなく、医師と患者のコラボレーションが必要なのではないかと思いますが、近代医学のパラダイムはそれを拒んでいるように思えてなりません。

■産業のジレンマと医療のジレンマ(2007年7月5日)
昨日の記事はいささか舌足らずで、何を言いたかったのかあいまいなので、少し補足します。
死に向かう医療のパラダイムは、近代の産業パラダイムと同じで、結局はそのシステム自体が「死に向かう」ことになるのではないかというのが、言いたかったことなのです。
産業のジレンマに関しては、これまでも何回か書きました。
要は、現在の産業は、問題解決(社会ニーズ)のために存在しますが、ドラッカーが早い時期に指摘したように、顧客創造が目的になり、結果的に問題解決ではなく、問題創出(市場創出)というジレンマに陥る構造になっています。
生活に不安があるほど生命保険は売れ、自動車事故が多いほど自動車は売れます。
商品陳腐化戦略は成長戦略、競争戦略の基本の一つです。
その結果、持続可能性が問題にされるほど、社会は市場として浪費されかねません。
こうしたことはほんの一例でしかありません。
近代産業は、その内部に大きなジレンマをかかえています。
産業によって私たちは幸せや豊かさを得たということ自体、実はその産業のジレンマに内在されているわなの一つでしかありません。
産業は自己の内部に市場を拡大する手段を持っています。
環境問題に関して、昔少しだけこのことを書いたことがあります。
静脈産業論がまことしやかに語られていた頃のことです。
CWSコモンズに掲載しています。
そうした産業のパラダイム、さらには経済のパラダイムを変える必要があると、私は思っています。

ところで、医療ですが、現在の医療もまた、こうした近代の産業パラダイムに引きずり込まれています。医療費の高騰は必然的な結果です。それを回避するためには、一種の民営化発想がとられます。つまり、負担能力のない人は健康保険の対象から外し、医療制度は市場主義に向かい、医療の産業化が進みます。医薬産業や医療機器産業の市場拡大により、医療産業へと医療の世界は民営化していきます。
医療の基軸が「人間の暮らし」から「産業」へと移行してきているのです。
産業としての医療は、病人が顧客になります。
病人が病気を維持している限り、市場は確保されます。
このあたりは、すでにイバン・イリイチをはじめとしてさまざまな指摘がありますが、身近なことを考えても納得できるのではないかと思います。
たとえば、私の例で言えば、昔は1回で終わった歯医者がいまは半年かかります。
まあその分、徹底的に直してくれるので、私自身も納得はしていますが、これは患者にも見える事例です。
しかし、たとえばメンタルケアの場合や成人病などはどうでしょうか。
いささか大雑把過ぎる説明ですが、医者は自分で患者を作れるのです。
顧客を創出することが経営と考えている経営者と同じです。
かなり誤解されそうですが、そうした発想が今の社会を覆っています。

そのパラダイムを転換するにはどうしたらいいか。
生を目指す医療に発想を切り替えていくことではないかと、私は思います。
治療から治癒へと変えていくわけです。
それが昨日言いたかったことなのですが、補足になったでしょうか。
あんまりなっていないかもしれませんね。

最近、ナラティブという発想が医療の世界に入り込んできました。
まさにコラボレーション医療ですが、そこに大きな期待を感じています。

また舌足らずの書き込みになりましたが、昨夜、ベッドに入ってから、今日書いたことの意味は何だったのか自分で反芻してみて気になってしまったので、今朝早起きをして補足を書かせてもらいました。

ちなみに、福祉の世界も。教育の世界もまた、同じ動きにあります。

■今度の選挙は年金選挙でしょうか(2007年7月6日)
国会も閉会し、いよいよ選挙です。
7月の参議院選挙は「年金選挙」と言われているようです。
それでいいのでしょうか。
いま問われているのは、年金などではないように思います。
もっと大切な問題があるはずです。
いうまでもなく「憲法9条」の問題です。
私たちが再び戦争を行うようになるかどうかの瀬戸際なのです。

問題は単に軍備の問題ではありません。
国家としてのビジョンであり、国家の形の問題です。
憲法9条があってさえも、政府はそれをないがしろにして、イラク派兵を決め、軍備を増強してきました。
違憲審査など気にもしてこなかったわけですし、司法さえも取り込みにほぼ成功しているように思います。
ナチス前夜などとは言いませんが、どこか似ています。
映画「日本の青空」やNHKの番組などによって、現在の憲法の成立過程の実態もかなり情報公開されだしましたが、そうした動きに棹差すように、憲法を変える動きは強まっています。
今のままだと、前回の戦争での教訓は失われてしまいかねませんし、日本のアイデンティティもまた混乱しかねません。

久間発言は波紋を広げていますが、それが本当の問題(戦争放棄理念の危機)を隠すことになることを危惧します。まさに軍備派には思う壺です。
被爆者やその遺族の方々の怒りはわかりますが、目の向けどころが違うように思います。
その結果、むしろ本当の問題を見えなくしてしまい、気が付いたら自らもまた原爆に加担している国家になりかねません。
今の米国のように、原爆投下の正当性を言い出す国に向かわないとはいえません。
久間発言が瑣末なこととは言いませんが、問題はむしろ日本という国家が戦争のできる国へと移行しようとしていることであり、それをもっと問題視すべきでしょう。
いま議論すべきは、一人の人間の発言ではなく、政府の動きではないかと思います。
9条がなくなった時に、「しょうがない」などと振り返っても、それこそしょうがないのです。
年金などは、それに比べたら瑣末な問題に思えてなりません。
久間発言もこんなに大きな話題にすべき問題だとはどうしても思えません。
私の感覚がおかしいのでしょうか。

■国民をわくわくさせる政治家はいないのでしょうか(2007年7月4日)
これほど自民党の人気が低下しているのに、民主党の人気が盛り上がりません。
いや存在感すらありません。
自民党と民主党は双子の兄弟ですから、まあ仕方がないのかもしれませんが、この大事な時期に戦略が見えてきません。
それだけではありません。
新党日本の解党騒ぎや国民新党の日和見言動など、いずれもしっかりしていません。
政党の時代はもうとっくに終わっていると私は思ってはいますが、それにしても情けない状況です。
自民党は与党としてのリーダーシップを発揮できていませんが、民主党も野党としてのリーダーシップを発揮できていません。
いずれの側も、わくわくさせるメッセージが見えないからです。

いま政治への関心は決して高くはありません。
年金問題への関心は高いかもしれませんが、所詮は行政課題です。
政治への関心を高めるのは、問題解決ではなく社会創造的なビジョンや課題です。
日本はどこに向かうのかのビジョンでいえば、いまは「戦争が出来る国家」へというビジョンくらいでしょうか。それに代わるビジョンは何も見えません。

憲法を変えるというのも、憲法を護るというのも、国民をわくわくはさせません。
そもそも「憲法を変える」などというのは同床異夢の中身のいい加減な命題でしかありませんし、「憲法を護る」もこれまでを振りかえると虚しさがあります。
最近の政治家は「変える」「壊す」「改革する」「護る」などという手段用語しか語りません。積極的な実体概念が語られないことが多いのです。
ビジョンがないか知識がないかのいずれかの結果ではないかと思いますが、もっと国民をわくわくさせるようなメッセージはないものでしょうか。
これは国政に限りません。
地方政治に関しても、住民をわくわくさせるようなメッセージを打ち出す人がもっといてもいいように思います。

いま、私たちが直面している課題は何なのでしょうか。
国民がわくわくするような、そんなビジョンを打ち出す政治家はいないのでしょうか。
「ないものねだり」かも知れませんが、そう思います。
政治とは一体なんなのでしょうか。もう一度、原点にかえることも必要かもしれません。
政治家が政治を壊してしまったのではないかという気がしています。

■地方ごと、人ごとに時間があります(2007年7月7日)
久しぶりに時間の話です。
世界標準時なるものがありますが、これが世界の画一化の第一歩だったのかもしれません。
人間のリズムの数倍の速さで、物理的な距離を移動できる自動車や飛行機によって、あるいは瞬時につながる通信手段の実現によって、世界各地の時間はつながってしまいました。
そして自然に合わせて生きていた私たちは、時間に合わせて生きなければいけなくなってしまいました。
私は基本的に時計を持たずに暮らしていますが、時間から自由になったわけではありません。相変わらず時間に合わせながら暮らしています。
意識の上では文化の多様性が認められる一方で、世界標準時をベースにした画一的な時間を踏まえたライフスタイルが世界を席巻しているように思います。
エンデの寓話「モモ」を持ち出すこともないほどに、表情のない機械基準の時間は私たちの文化を画一化しているような気がします。
時間で管理されるということは多様な文化の存続には大きな障害になるでしょう。
どんな場所にいても、時間が来ると聖地を向いて礼拝するイスラムの人たちが異様に感じられることは、そのことの証左です。
日本国内においても、地域時間があるように思います。
私個人の体験においても、東京にいる時と地方に出かけた時とでは、明らかに時間の流れ方が違います。山手線の駅だと5分も電車が来ないとイライラしますが、ローカル線の駅ならば30分待たされてもなんとも感じません。
地方で会議などをやると、定刻になっても人が集まらないことがあります。
以前は、「定刻より30分遅れるのが**時間」(**にはその地域の名前が入ります)などと主催者が話すこともよくありました。最初は違和感がありましたが、それはそれで合理的だなと私は奇妙に納得していましたが、最近は残念ながらみんな時計通りに集まることが多くなってしまいました。
暮らしに時間を合わせるのではなく、時間に暮らしを合わせるようになったのです。
文化は退屈になるはずです。
時間意識は大きなソーシャル・キャピタルでもあります。
時間が共有化されていることが無駄をなくし、信頼のためのコストを削減しますから、論理的にはみんな暮らしやすくなるはずなのです。
しかし、何となく、それでいいのだろうかという気もします。

言葉は文化の本質です。
言葉をそろえることはコミュニケーション効率を高めましたが、そこで抜け落ちた文化や知恵はたくさんあるでしょう。同じことがきっと時間についてもいえるはずです。

よく時間だけはすべての人に平等に与えられているといわれます。
私は、全くそうは思いません。
機械時間はそうかもしれませんが、時間の長さは、実は人それぞれです。
介護や看護に取り組まれている方は、きっとそれを実感しているはずです。
それを無理やり、単一の管理時間に合わせる社会を作った結果が、いまさまざまなひずみを起こしているのかもしれません。
それぞれが自分の時間で暮らしていける社会。
自分たちの暮らしにあった時間をもてる地域社会。
時間というもののあり方を改めて考えてみることも大切なことではないかと思います。

■赤城事務所経費事件で気になること(2007年7月9日)
政治の世界は、相変わらずやりきれない報道が多く、選挙への関心も失いそうになる毎日です。
書いても愚痴にしかならないのですが、やはり書きたくなりました。

今日、残念に思ったのは赤城事務所経費事件に関する赤城農相の言動です。
毎日新聞のネットサイトには、こう書いてあります。

赤城農相は8日夜、記者団に「(父親の7日の発言は)単純な誤解。長年、後援会の方に集まってもらい、いろいろな会合を行ってきた」と述べた。さらに野党が要求している経費の詳細な公表については、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」と改めて拒否した。

顕在化している問題は、私にはあまり興味がありません。
そんなことみんなやっているでしょうに、と白々しさを感じてしまうわけです。
それにもっと大きなところでおかしなことをやっているでしょうから、この程度の額などは私には瑣末に思えます。
しかし、今回の事件は3つのことが気になります。

第1は、赤城農相は父親に嘘を強要しているのではないかという疑念です。
テレビで2回観た父親は善人そのものに見えました。最初は事務所などには使っていないと言い切り、発言撤回した後も、息子から事務所経費をとるバカはいないでしょう、と明言しています。まさに善人の顔です。顔で評価してはいけませんが。
その父親に発言撤回させる息子に哀しさを感じました。

第2は、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」という赤城農相の発言です。松岡農相と同じ論理です。正義や公正に関する自分の考えのないことを表明しているわけです。つまり主体性がないということです。主体性がないことが最近は閣僚になる条件かもしれませんが、日本の学校教育の成果をまざまざと感じます。優等生の悲しさを感じました。

そして第3は、その法律をつい先ごろ、強行採決した人物が彼を任命していたことです。ザル法とさえ言われた法が、まさにザル法であることを自分たちで証明したわけです。真摯な議論をせずに、強行採決するということの意味が多くの人に伝わるといいのですが、それをアピールする技も力も意志も、今の野党にはないでしょうから、これはあまり見えてこないいかもしれません。
両院の議長の国会終了のメッセージの意味を改めて思い出しました。
強行採決とは何なのかは、もっとしっかりと認識すべきではないかと思いますが、あまり誰も議論をしません。この事例をもとに、強行採決がどれほどの「犯罪」なのかを、どこかのマスコミが問題にしてくれないものでしょうか。
法律で禁じられていないから、悪いことではないと、みんな思っているのでしょうか。
私は「犯罪」以外の何ものでもないと思っています。
それをゆるした野党の責任も含めて、です。

■嫌いな民主党への提案(2007年7月10日)
私は民主党が嫌いです。
組織としてのアイデンティティが不在なのとビジョンが語れないからです。与党は守りでいいのですが、野党はビジョンを語れなければ、単なる反対政党になってしまいます。反対だけでは、新たな歴史は切り開けません。よほど現状がひどくなければ多くの人を吸引できないでしょう。
民主党が嫌いな、もう一つの理由は、野党としてのリーダーシップが意識されていないことです。党内では過ぎるほどの「大同小異」を受け入れながら、党外に対しては「連帯」の姿勢が感じられないからです。そこに歴史観の不在を感じます。

言うまでもありませんが、自民党はもっと嫌いです。犯罪者集団ではないかと思うほどに嫌いです。
もっとも個人的には共感できる人もいます。しかし自民党は好きにはなれません。聞いただけで虫唾が走ります。
ちなみに民主党には知人友人が数名います。それぞれに思いもある、良い人です。しかし民主党は好きではありません。

その二大政党が、今度の参議院選挙で覇を競うわけです。
前にも書きましたが、この2党は私には双子にしか見えませんから、政策ではなく権力で戦うとしか見えません。
いずれが勝つかは、私には興味がありませんが、国会や国民を無視して強行採決を繰り返しながら、格差拡大を進めている自民党政府には政権の座から降りてもらいたいと思っています。
このままだと、場合によっては、憲法さえも強行採決的手法で変えてしまいかねません。小泉内閣以来、自民党政府はクーデター内閣です。
ですから、ここは嫌いな民主党に勝ってもらいたいと思っています。

しかし、その民主党の掲げたマニフェストにはこれまでの延長でのメッセージしか感じません。しかも網羅的です。
これでは国民は吸引できないのではないか。
もっと具体的で単純明快なメッセージを出すべきではないでしょうか。
たとえば、「雇用を守り、格差を正す」とありますが、この「格差」是正だけに焦点を絞って、格差が縮小され、しかも活力のある社会を目指して、「格差を壊していく」というような呼びかけにしたらどうでしょうか。そのなかに具体的実践的なプログラムを打ち出せばいいのです。年金や児童手当などは行政の言葉であって、政治の言葉ではないように思います。年金不安や少子化の根底にある問題に焦点を当てるのが政治です。
あるいは、憲法問題に焦点を当てて、「戦争をしないで成功した歴史をまもっていく」でもいいでしょう。憲法を変えるかどうかではなく、戦争をするかどうかに焦点を絞れば、これも実際に戦争にやらされる若者たちを観方に出来るでしょう。
もっといえば、憲法9条を変えようとしている人たちをイラクに派兵するというスローガンはどうでしょうか。小泉元首相と安倍前首相にはイラクの前線に行ってもらうという公約はどうでしょうか。いや、そうなったら小澤さんも岡田さんもイラクに行かないといけなくなりますね。この提案は撤回です、はい。
いずれにしろ、もう少し魅力的な呼びかけメッセージを考えないと民主党への投票は増えないのではないかと、とても不安です。

■生活保護ってなんでしょうか(2007年7月11日)
今日の朝日新聞の夕刊の記事です。

北九州市小倉北区の独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たったとみられる状態で10日に見つかった。男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。

痛みに耐えた結果でしょうか。
この人はきっと「おにぎりを食べる」よりも働きたかったでしょうね。

同市では最近、毎年、こうした悲劇が起こっています。
いやこれは氷山の一角でしかないように思います。日本中に広がりだしている状況かもしれません。
みなさんにとっては、無縁の話でしょうか。
私には決して無縁の話ではありません。
私の周辺でも、最近はこれに繋がるようなことが少なからず起こっています。
いや、私自身も、いつ同じようなことにならないかとも限りません。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、不幸は突然に来るものです。
想像力の問題かもしれません。

北九州市は福祉分野では先進的な都市です。
北九州市が福祉の面でモデル的な展開をしたのは、それだけの事情があったからです。
数年前に知り合った北九州市役所の生活保護の仕事をしてきた職員から、その大変さを聞かせてもらいました。とても感激しました。現場での汗の多さが福祉行政を支えていることを実感しました。
その翌日、その課長がわざわざ1冊の本を持ってきてくれました。
「軌跡 北九州市・生活保護の30年」という本です。
帰りの飛行機の中で読ませてもらいました。
生活保護というのは、時代との闘いなのだなと知りました。
しかし私には縁遠い話に感じていました。

ところがです。
3年ほど前から、そうした話が決して縁遠い話ではない状況になってきました。
具体的には書きませんが、生活保護の相談に行ったらどうかというアドバイスをすることが立て続けに起こりだしているのです。
しかし実際に行政や社会福祉協議会に相談に行っても、なかなか相談には乗ってもらえないようなのです。
その現実が少しずつ見えてきたのです。

格差社会論も盛んですが、こうした現場の実態はもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
格差は活性化の要素であり結果かもしれませんが、困った人を救えないような社会が住みやすいはずはありません。
いまどき「平等」は流行らないようですが、行き過ぎた格差は活性化さえも損なうはずです。いや、社会そのものの安定性や効率にも関わってきます。そうしたことから無縁な人はいないはずです。その結果、絶対権力を持っていた大統領ですら殺されることもあるのです。

年金を心配するのもいいですが、セーフティネットにこそ関心を高めていかねばいけません。それこそが社会の基本なのですから。

改めて宮沢賢治の「みんな幸せにならないと自分も幸せにならない社会」を目指すか、「だれかの不幸せの上に自分の幸せを築く社会」を目指すか、を考える時期ではないかと思います。

あなたはどちらを望みますか。
そろそろ生活保護の考えも根本から変えるべき時期にきていると思います。

■生活保護と格差社会(2007年7月12日)
昨日、生活保護について書いたら、「生活保護の考えを根本から変えるべき時期にきている」というのはどういうことかと質問されました。
生活困窮者を保護すると言う発想を見直し、生活困窮者が増えていく社会のあり方を問い直す必要があるという意味だったのですが、うまく伝わらなかったかもしれません。
「保護」という姿勢に、私は大きな違和感があるのです。

ちなみに生活保護世帯数ですが、この10年、増加傾向にあります。このこと自体。いまの社会のあり方が間違っていることの証左ではないかと思います。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2950.html
生活保護世帯が増えていることと格差社会とはどうつながるのでしょうか。

貧しさには、絶対的な貧しさと相対的な貧しさがあります。
絶対的な貧しさとは、生存が維持できない状況のことです。
人はすべて繋がっているという発想に立てば、それは当事者の問題ではなく、社会の問題です。
相対的な貧しさは、実はこれとは全く違う話です。
生活は維持できるが、隣人の暮らしぶりなどに比較すると貧しさを感じてしまうというものです。
絶対的貧しさは「存在するもの」ですが、これは「つくられた貧しさ」です。
近代の産業は、こうした「つくられた貧しさ」に、その発展の源泉を置いています。
「顧客の創造」とは、そういうことです。
だからこそ、それとは別の視点で貧しさの問題に取り組むことが必要になります。
それが政治の役割です。

一見貧しそうに見えても、本人はむしろ豊かさを感じている場合もあります。
開発途上国の社会や、日本でもたとえば長崎県の離島での暮らしは、所得額は低くても一概に貧しいとはいえません。そうした人たちに、貧困感を植え付け、市場を拡大してきたのが、この数世紀の産業発展だったといってもいいでしょう。テレビは、そうした面で大きな働きをしました。いや、今もしています。

経済発展は貧富の差をなくすことではなく、貧困を利益がとれるかたちに作り直し、結果として貧富の差を拡大することだと言ったのは、イバン・イリイチです。
いわゆる「貧困の近代化」論ですが、おそらく近代産業は絶対的貧困層を、少なくとも数の上では増やしてきたはずです。
これは多くの人の常識には合わないかもしれません。

私たちは経済の発展を富の増加と考えがちです。
しかし、それは同時に、富の偏在を加速させることでもあります。
問題は、誰の富を増加させるかです。そして、その半面で誰の富を奪うかも視野にいれていかねばなりません。
南からの収奪が北を豊かにし、同じ国内でも富の偏在を進めることで、経済活動は活発になり、成長が実現します。
ブッシュ政権や安倍政権は今でも声高らかに「成長」を呼びかけます。
しかし、そうした成長の結果、貧しさもまた増幅しています。
格差がますます大きなものとなっているわけです。

その格差拡大は2つの種類の問題を起こします。
一つは相対的な貧困層の増大です。
しかし、実はもう一つ、絶対的貧困層もまた増大させていることを見落としてはなりません。
相対的貧困層は「清貧」な生き方になることで豊かさを獲得できるかもしれません。
しかし、絶対的貧困層はどうすればいいのか。現実に「ごはんが食べられなくなる」のです。
人のつながりが失われてしまった社会で、健康を害してしまったら、途方にくれてしまいます。その時に、果たして生活保護行政は支えてくれるのでしょうか。たぶん難しいでしょう。その証拠は新聞記事からいくらでも見つけられます。在留孤児だった人が日本に来て、みんながみんな暮らしがよくなったわけではありません。
今回の事例もそうですが、生活保護を受けることはまじめに生きてきた人にとっては、とても難しいことなのです。そういう人には、行政職員もあまり関わりたくないのです。財政状況も厳しいですから。
しかし考えてみてください。
難病の子どもの米国での手術のために億単位のお金が集まるほど「豊かな社会」です。同じ地域に住む生活困窮者を放置しておかねばならないほど、全体としては絶対的貧困状況にはないのです。つまり社会の設計のどこかに問題があるのです。
正確に言えば、その「問題」に依存して豊かさを享受している人がいるということです。
格差社会の問題は、異質の2つの問題が混在しています。
少なくとも、生活保護に繋がるような状況はもっと真剣に考えなければいけません。
私もあなたも、いつそうした状況に陥るかわからないのですから。

■患者を待たせる医師を育てたのは誰か(2007年7月13日)
病院で2時間半待たされてしまいました。
予約制の外来診察なのですが、いつも予約時間から1〜2時間は待たされます。
1時間程度であれば、我慢できますが、2時間を越えるとかなり精神的にも疲れます。
患者は女房なのですが、体調がかなり悪いので、身体にもこたえます。
低反発の座布団を持参したり、軽食を用意したりして、何とかがんばっていますが、2時間を超えると身体的にも限度を超えてしまうようで、私と違って我慢強い彼女も今回は何のための予約時間なのだと不満をいいながら、ソファにもたれたりしていました。
2時半の予約が、受診が始まったのは5時過ぎです。
さすがに今回は、女房も医師に「今日は待ち疲れました」とチクリと言っていました。
ちなみに診察時間は5〜6分です。
病院での2時間半の待ち時間のせいかどうかはわかりませんが、その後、あまり調子は良くなく、3日経過した今日もまだ元気がありません。

もちろん医師もさぼっているわけではありません。
昼食も食べずに診察を続けているのです。
医師もがんばっているのだから患者も待つくらい我慢しようというのが私たち夫婦の考えでした。
実は今回も、初めてこの病院に来たという老夫婦がいました。もう1時間以上待っている、受付の人に訊ねてみようかどうか、と話しているのが聞こえたので、ついついここでは1時間程度は普通なので、心配ないですよ、などと物知り顔に話してしまいました。
多忙な医師に対して、患者が出来ることは待つくらいかもしれない、と思っていたわけです。

しかし、こうした考えこそが一番悪いのかもしれません。
世の中をだめにしているのは、そうした中途半端な「良識人」かもしれません。
今日はそれを痛感しました。

前にも書きましたが、この問題を解決するのはとても簡単です。
私が仕事で相談を受けたら、すぐにでも解決できる問題です。
実は以前この病院で「患者と医師とのコミュニケーション」に関するアンケート調査がありました。そこに少し書いて提出したこともあります。
今回はその解決策を書きたいわけではありません。

今回、気づいたのは、こういう状況を創りだしているのは誰かということです。
病院は英語では「ホスピタル」です。
ホスピタリティにつながっています。
ホスピタリティとは「同じ立場で気持ちのよい関係を創る」ことです。
予約時間は「約束」ですが、その約束を守らずに2時間も患者を放置しておくことは、ホスピタリティとは正反対のことです。
そのことをおかしいと思わない医師は、医師として失格でしょう。
患者を診る資格などありません。
とまあ、ここまでであれば、私も以前から思っていたことです。

今日、気づいたのは、そうしただめな医師を増やしているのは、患者である私たちではないかということです。
ホスピタリティはサービスとは違い、双方向の関係ですから、予約時間の「約束」を守らないことを受け入れてしまう患者にも問題がありそうです。

忙しい医師は、病気を診ても病人を診る余裕はありません。
ですから待合室の風景など思いもよらないのかもしれません。
介護保険制度の設計者が、介護の現場の大変さに気づかないのと同じことかもしれません。こうしたことはさまざまなところにあります。

当事者が声を上げずに誰が現状を正すのか。
つまり2時間半待たされたのは、結局は自業自得なのではないかと気づいたのです。
おかしいことをおかしいと言おうと、数年前に書きました。
それが出来ていない自分に気づいたわけです。

現実を直すのはいつも自分からです。
人生は本当に疲れます。
直すよりも、その現実に馴染んだほうが楽に生きられます。
病院でいつも1〜2時間待っていたのは、そういう利己的な生き方の象徴だったのです。
いやはや滅入ってしまいます。

いろいろと反論が来そうですね。
責任は医師でも患者でもないといわれそうですが、まあ今回はここでやめます。

■政治生命を賭ける(2007年7月14日)
民主党の小沢代表は今回の参院選に「政治生命のすべてを賭ける」と言明しています。
時々、この言葉を聞きますが、いつも奇妙な気がします。
女房にどう思うか訊いてみたら、「いつもはあまり政治生命をかけていないってことじゃないの」といともあっさりと言うので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。
でまあ、そこからが短絡的なのですが、今回は民主党は負けるような気がしてきました。
もっとも、私の選挙予測は当たったことがありませんが。

しかし、選挙に政治生命をかけても、政治に政治生命をかけない民主党は信頼を得られないでしょう。
専門家はつねに専門家としての生命をかけて仕事をすべきです。
私でさえも、仕事であれば真剣に取り組みます。そうでなければ、仕事など継続してやらせてもらえません。それが個人の名前で仕事をするということです。
あえて、「政治生命を賭ける」と表明することは、いつもは手を抜いているということでしかありません。いや、そう思われても仕方がありません。
それに、小沢さんの政治生命などは日本の政治の行方に比べたら、瑣末な話です。
小沢さんの支持者にとっては意味のある言葉かもしれませんが、私などはどうぞご勝手にと思います。
この言葉には小沢さんの傲慢さと勘違いを感じます。
政治家としてはもう終わった人だと改めて思います。
それに政治生命をかけるなどというのは、公言すべき言葉ではなく、深く心に思うことではないかと思います。

日本の政治の流れが変わるのはもう少し時間が必要なのでしょうか。
その間に、どれだけのものが壊されるのか、不安でなりません。
せめて憲法9条だけは残ってほしいですが、野党のいまの状況ではなかなか安心もしていられません。

■東京大空襲集団訴訟のメッセージ(2007年7月15日)
狭山再審弁護団主任弁護人だった中山武敏さんが、東京大空襲集団訴訟に関わっていることはCWSコモンズでもご紹介しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action07.htm#naka
先月行われた講演会には私は参加できませんでしたが、今月の軍縮問題資料(8月号)で中山さんが「東京大空襲訴訟が問うもの」という一文を寄稿しています。
それを読んで、改めてこの訴訟のメッセージの大きな意味を再認識しました。

この裁判は、東京大空襲による民間人被害者が集団提訴したものです。
http://www.etmau.com/19450310/archives/2007/05/post_54.html
中山さんからのメールにはこう書かれていました。
改憲の動きが強まる中で、若い世代に再び戦争の惨禍の苦しみを与えてはいけないと東京大空襲の遺族、被災者112名が原告となり、被告国に対して謝罪と損害賠償を求める訴訟を提起されました。
原告らは高齢であり、「このままでは死ぬに死に切れない」との思いで国の責任を問う最後の機会として提訴を決意したのであり、この原告らの願いに答えることが法律家としての使命である」と考えて、中山さんはその代理人を引き受けたのです。
中山さんは「この裁判は「人間回復」を求める裁判なのです」と言います。

できれば「軍縮問題資料」8月号を読んでほしいのですが、とりあえずこの小論から2か所を引用させていただき、みなさんにもいろいろと考えてもらえればと思います。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-25/2007052514_01_0.html
今回は余計な私見は書きませんが、とても重要な問題が指摘されているように思います。
決して「過去の話」でも「東京の話」でもありません。

東京空襲は日本軍の国際法に違反した中国戦線での都市無差別爆撃が先行行為(原因) となり、アメリカの対日政策に大きな影響を与え、日本軍の撒いた種が、より大規模な無差別爆撃として東京、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下と繋がったものである。

平和のもとで平等に人間らしい生き方を保障している憲法のもとで、軍人・軍属と差別し、戦争の被害については、「すべて国民が等しく受忍しなければならない」ものといった戦前の旧憲法下の人権感覚の判決は司法の権威を失墜せしめ、何人をも納得せしめないものである。東京空襲の裁判は、これまで述べているように東京空襲被害当日の被害のみでなく、戦後も国が民間人の被災者を切り捨て、何らの救護、補償をなさず放置し、人間の尊厳を奪ってきたことに対しての責任を問うものである。

■投票率で選挙結果が変わるのでいいのか(2007年7月16日)
投票率で結果が変わってくる、とよくいわれます。
今回も盛んに言われています。
投票率が低ければ自民公明が勝ち、高ければ野党が勝つというのが、大方の見方ですが、これっておかしくないでしょうか。
もちろん事実は正しいかもしれません。
そうではなくて、投票率によって結果が変わること自体に問題はないのかということです。
さらにいえば、投票率を低くするために夏休みに入る7月29日に延期されたとか、地方選があったために組織票が動きにくいとか、その道の専門家はいうのですが、これっておかしくないでしょうか。
もしそういうことが在るのであれば、それはやはり糾弾されるべきことだと思います。

選挙で大切なのは、どの政党が勝つかではなく、どの政党の主張がより多くの国民の支持を得るかです。
投票率を高くするのは政府にとっての重要な課題です。
また個人をないがしろにするような「組織票」がこれほど堂々と語られていいものかどうか。
こうした一事をもってしても、日本の選挙制度は正すべきことが少なくありません。

選挙は何のためにあるのか、もっとしっかりと議論すべきではないかと思うのですが。
選挙は議員を選ぶことだけが目的ではないように思います。

■知の世界におけるホメオスタシス(2007年7月16日)
稲田芳弘さんの『「ガン呪縛」を解く』という本を読みました。
革命的な医学理論であるが故に学会から抹殺されてきた千島学説がわかりやすく紹介されています。千島学説については、以前からネットなどではサラッと読んでいたのですが、難解すぎてきちんとは学んでいませんでしたが、この本が面白かったという人がいたので、早速取り寄せて読んでみたのです。
いままで何となく抱いていた医学への疑問のいくつかが解消されました。この4年間の体験のおかげで、その内容がとても納得できる気がしました。
千島学説は、たとえば「血は腸がつくる」とか「がんは血液の浄化機能を果たすために生まれる」などという考えです。それは現在の医学の出発点にある常識への挑戦でもあります。ですから医学学会からはほぼ無視されてきたと、著者の稲田さんは書いています。たくさんの事例を引用していますので、とても説得力があります。
もう少し早く本書を信頼していたら、私たち夫婦のがんとの付き合いはかなり変わっていたでしょう。もっともがんとの付き合いが浅い段階では、本書のメッセージをうまく受け止められたかどうか自信はありませんが。
いずれにしろ、医学界は千島学説に関してもっと真剣に取り組んでほしいと思います。
もし千島学説にたてば、がん治療のあり方は一変するはずです。
千島学説が正しいかどうかは私には判断できませんが、少なくとも新しい主張には正面から取り組むべきです。

学会の常識をひっくり返すような考えが生まれた場合、それが抹殺されるか無視されることは少なくないように思います。その意味では、学問の世界は、まだ本当の「知の世界」にはなっていません。
その原因は、「知」の世界が市場化され、権力構造に組み込まれているからです。

たとえば、CWSコモンズで最近話題にした土壌菌の内水理論もその一つです。
発見者の内田護さんにお会いした時の彼の言葉はいまなお鮮明に覚えています。
彼の新発見をつぶそうとした動きがいろいろとあったようです。
その後、土壌菌は思わぬ形でブームになりましたが、しかし今なお正面から本格的に取り組まれているようには思えません。

こうしたことは技術の世界に限ったことではありません。
邪馬台国論争における古田武彦説はきちんとした反論がないと古田さんが言い続ける中で、いつの間にか忘れられたような形になってしまいました。

数十年たって、その考えが再評価されることもあるわけですが、なぜそうした新しい発見や発想は無視されがちなのでしょうか。
情報社会、知識社会と言われて久しいですが、どこかに問題があるように思います。

ちなみに、がん治療に関わっている方は、冒頭の稲田さんの本は読むに値すると思います。信ずるかどうかは別ですが。

■みなさんは私的な駐車場を横切りますか(2007年7月17日)
湯島のオフィスに行く途中に駐車場があります。
ちょうど道の角にあり、そこを横切るとわずかばかりの距離短縮になります。
しかし、そこは個人の私有地ですので、私は横切ることを避けていました。
その駐車場には自動車が駐車していることが少ないこともあって、ほとんどの人はそこを横切って近道します。
私も友人知人と一緒に歩いているとほぼ必ずみんな横断しようとします。
ここは私有地だからと、私は頑なに横切るのを避けていましたが、いつの頃からか私ひとりでも横切るようになりました、
ほんの僅かな距離短縮なので、近道しようなどという考えよりも、目標先がその先に見えるので最短距離を歩こうという自然な行動の現われなのかもしれません。
自然の流れに反するのは、私の考えに合わないと勝手な自己解釈に変わったのです。
さて、みなさんならどうしますか。
距離短縮のために横切るのが合理的か、私有地を勝手に横切らないほうが合理的か、どちらでしょうか。
くだらない質問をするな、その時の気分次第だ、第一、そんなことは考えもしない、と怒られそうです。
その通り、そんなことなど考えていたら、暮らしていけないのかもしれません。
しかし、そういうことを考えてしまうととまらなくなるのが私の悪癖です。

目的地が見えるところにあり、そこにいく具体的な方法もわかっている。
ただ、少しだけ法やマナーを犯すことになる。
そういう問題に置き換えたら、少しは意味があるでしょうか。
先の国会の強行採決はその一例かもしれません。

今日、久しぶりにオフィスに行きました。
曲がり角で考えましたが、駐車場は横切らないことにしました。
少しだけのマナー破りが、社会を壊していくことにもなりえます。
社会が壊れたら困るのは私ですから。

■将来に信頼を持てない働き方でいいのか(2007年7月18日)
労働政策研究・研修機構が行った企業従業員の意識調査結果が今日の朝日新聞に出ていました。次のところがとても気になりました。
http://www.asahi.com/life/update/0717/TKY200707170585.html

仕事や職業生活で感じている不安や悩みについてたずねた社員への調査では、73.2%が「将来の賃金水準」を挙げてトップ。「定年後の仕事、老後」(67.4%)、「会社の将来性」(64.8%)が続いた。

企業で働けている人たちですら、その2/3が、将来に不安を持っているというのです。
どう考えても異常な状況だと思います。
将来への不安は、もちろん現在の不安でもあるわけです。
一見、平和で豊かな今の社会のどこかに、きっと大きな落とし穴があるのでしょう。

20年ほど前にある調査機関が、「私たちの子どもたちは私たちよりも幸せになるだろうか」というアンケート調査を実施したところ、2割の人たちしか「はい」と答えなかったそうです。私はいろいろなところで講演をさせてもらう時に、同じ質問をさせてもらいますが、「はい」と答える人は年々少なくなってきているような気もします。

将来に希望と信頼を持てるかどうかは、その社会の本質を象徴しています。
しかし、明るいニュースもないわけではありません。
新潟中越地震の報道が毎日伝えられていますが、柏崎のある商店街で、商店街の人たちが中心になって、ご飯を炊き上げ、必要な人に自由に持っていってもらう活動を始めたことが先ほどのテレビで報道されていました。
自分たちも大きな損害を受け、その片付けに取り組みながらの活動です。
そうした「支え合い」の輪のなかに自分がいることに気づけば、きっと将来への不安はなくなるはずです。

語呂合わせではないのですが、競争原理が働いている社会と共創原理が働いている社会の違いを改めて考えさせられました。
それにしても、「将来への安心感」の大切さは、それを失って初めてわかります。
この意識調査結果は、企業関係者はもっと真剣に考える必要があるのではないかと思います。
そして、安定した働きの場がない人たちの思いやりもぜひ持ってほしいと思います。

競争原理ではなく、共創原理で考えれば、もっと多くの働きの場が生まれ、しかも競争の不安から解放され将来への展望も開けていくはずなのです。

労働政策研究・研修機構も少し発想を変えて、行動を起こしてほしいと思います。
調査は新しい風を起こすための手段なのですから。

■歯医者で目をつぶりますか(2007年7月19日)
みなさんは歯医者で治療をしてもらう時に目をつぶりますか。
私はいつも目をつぶるのですが、私の娘は目をあけているそうです。
だから医師や歯科技工士が何をやっているかがよくわかるのだそうです。
目を開けているとやりづらいんじゃないかと私は思いますが、目をあけているほうも結構疲れます。
歯科医の椅子に座って、目をつぶるということは医師たちを完全に任せるということです。毒を盛られても、ドリルで歯を傷つけられても気が付かない恐れはあります。

歯医者はいいとして、他の病院はどうでしょうか。
目を開けていても、何をされているか分からないことが少なくありません。
最近は薬の説明も丁寧にしてくれますが、だからといいて反論や異論は唱えにくいです。
なにしろ情報量が違いますから。

商品の購入時はどうでしょうか。
品質表示が最近はかなりやかましくなりましたが、注意して見ても、肝心の知りたいことはなかなかわかりません。確かに表示はされていますが、形式が整っただけで実態はそう変わっていないような気がします。
肉まんにダンボールのかけらが入っていてもたぶんわからないでしょう。
先日も近くの大手スーパーで購入した長いもがおかしかったので、よくみたら賞味期間の表示が無いので、家族が電話したら、その商品は表示しないのだそうです。全国展開している大手スーパーです。もっとも最近は表示があっても、あまり信頼は出来ません。

政治はどうでしょうか。これはますますわからない。マニフェスト選挙と言われていますが、あれで本当に何かがわかるのでしょうか。私にはあまりわかるようには思えません。

結局、私は歯医者の椅子に座っているのと同じことを生活すべてにおいてしているのかもしれません。
それではいけないと、今日は歯医者で目を開けてみました。
しかしやはり疲れます。
すぐまた目をつぶってしまいました。
まあ「目をつぶった」生き方のほうが楽なのです。
それに最近は目をあけていると身が持たないのです。
毎日、今日こそは目をあけていようと思うのですが、なかなかそれを継続できずにいます。困ったものです。

■やさしさへの気づき(2007年7月20日)
北海道の知人から電話がありました。
私はたまたま不在だったので、女房が出ました。
私よりひとつ年上の女性です。
体調があまりよくないことを知っていましたので、気になっていましたが、私自身も最近、事件が多すぎて、電話をかける勇気が出ませんでした。
しかし、数日前に女房と彼女のことを話していたところでした。
体調不良の原因がわかったのだそうです。
肝臓がんでした。
女房ががんであることは彼女も知っています。
同じ病気だと会ったことがなくてもすぐに心が通ずるのです。
2人は面識がないはずなのに、今や私よりも親しそうです。
彼女も自然療法に身を任せるそうです。

私の女房のために、毎朝6時に祈りを上げつづけている人がいます。
その人もたぶん私の女房には会ったことがありません。
しかし、女房のことを知って、それ以来、祈りを続けてくれているのです。
私よりもちょっと年下の男性ですが、なぜその人が毎朝祈りをしているのか、なかなか勇気がなくて質問できずにいます。きっと何か理由があるはずです。

先ほど、これもまた年上の友人から久しぶりのメールが来ました。
知らなかったのですが、1月に交通事故にあい、3か月入院していたのだそうです。
「自分がこうした身になってみると他人様の健康問題も大変気になるようになりました」と書かれていました。
女房のことを気遣ってくれていました。

女房の病気のおかげで、人間というもののやさしさを毎日実感しています。
しかし、そのやさしさに気づかせないようにする状況が、いまの社会を覆っているのではないかという不安も、一方では強くなってきています。
杞憂であればいいのですが。

■日本社会を襲っている「見えない地震」(2007年7月21日)
今朝の朝日新聞には2つの悲劇が並んで報じられています。
経済的に追いやられ、もう「ご飯が食べていけない」と書き残して一家心中した大阪市東淀川区の事件と知的障害のある息子を殺害した母親への懲役7年の判決の報道です。
最近、こうした報道が増えています。
私たちの社会は、とても大切な何かをいま失ってきているように思います。
自殺であろうと殺人であろうと、人の生命を奪うことは許されることではありません。
しかし、そこまで追いやられてしまっている人を放置していていいのでしょうか。
それこそが、政治が取り組む基本ではないかと私は思います。
他人のことなど気にせずに、ともかく蹴落としてでも競争に勝っていくことに邁進してきた政財界は、そろそろそうした行き方を見直すべきではないでしょうか。
彼らが浪費している、ほんの一部の資金を、そうしたことに向けるだけで、社会は変化への一歩を踏み出せるかもしれません。
ささやかなコムケア活動の体験を踏まえて、社会の実相を体験的に垣間見てきましたが、やりきれないことがあまりに多すぎます。
新潟中越地震も大変な問題ですが、日本社会を襲っている「見えない地震」もとても気になっています。

■いまの選挙制度って根本的に無理があるのではないでしょうか(2007年7月22日)
ある人の人物評を質問されました。
質問した人は、その人と接点を持っているかもしれないと私に訊いてきたのですが、私も全く面識がありません。
そこで余計なお世話と思いつつも、その人のことを知っているかもしれない複数の人たちに、その人物評を質問してみました、

5人の人から返事がありました。
それがみんなかなり違ったものでした。
それも全く正反対に近い評価が含まれているのです。
私には実に面白い体験でした。

当然のことかもしれませんが、いろいろと考えさせられました。
人のイメージはかくも違うのです。
人物評というのは難しいものです。

選挙が近づいてきました。
みなさんはどういう基準で投票する人を決めるでしょうか。
正直に言って、市会議員を別にすれば、いつも私には確信が持てません。
以前は年齢やキャリアや公約を重視してきましたが、最近は所属政党で決めるようになりました。
党議拘束の現実や議論しない国会を知るにつれて、議員の主体性への信頼が揺らいでいるからです。

選挙は「人を選ぶ」制度から「政党を選ぶ」制度になってきています。
そう考えていくと、そもそも地方区などというのは意味があるのかと思います。
さらに、国民みんなが直接的に国会議員を選ぶという、現在の選挙制度にも疑問を感じ出しています。
政党を選ぶ選挙は、本当に選挙なのだろうか、という気もします。
もし「議員」を選ぶのであれば、顔の見える範囲で代表を選ぶ仕組みにすべきです。
国民主権を実現したいのであれば、選挙制度の構造変革が必要です。

まず自治会の役員をみんなの合議で決めることから始めたらどうでしょうか。
100世帯程度の自治会であれば、だいたい顔が見えるはずです。
そしてそこで選ばれた人が市町村の議員を選ぶのはどうでしょうか。
市町村の議員が県会議員を選び、県会議員がブロック単位で代表を選ぶ。
そしてその中から国会議員が選ばれるというのはどうでしょう。
議員に選ばれたたら、4年間は仕事を休んで活動します。その間の所得保証は行われますが、辞退する権利も認めていいと思います。
もちろん今のような特権階層扱いはしないでいいでしょう。議員は主権者の代理人でしかないのですから、名誉職的な処遇でいいでしょう。

それでは地域エゴに立脚した代表しか出てこないではないかといわれそうですし、現実的でもないといわれそうです。
しかし、地域主権や代表の発想から言えば、これが正論ではないかと思います。
もう一度、原点に帰って考えるべきでしょう。

地域代表からの積み上げで構成されるのは衆議院で、参議院は全く別の仕組みで、むしろ全国から発想するのがいいでしょう。
地域から考える衆議院と国家から考える参議院との緊張関係の中で国家経営が方向付けられていくわけです。

あまりにも素朴すぎて、と笑われそうですが、いま必要なのはそうしたシンプルな発想ではないかと思います。
年金制度も難しく考えすぎで、誰もが分かる簡単の仕組みにすれば、今のような不正は発生しなかったはずです。
もっと単純に考えれば、おそらく世の中の問題はほとんど解決するはずです。
高速道路だって、税金で造っているのですから、原則無料にするのは当然ですが、なぜか日本では有料が当然だとみんな思い込んでいます。
複雑にすることで、だれかが得をしていることに気づかねばいけません。

人物評の話が、どうも思わぬ方向に広がってしまいました。
いずれにしろ選挙にはいきましょう。選ぶ人がいないとしても、です。

■選挙結果予測は投票に影響を与えます(2007年7月22日)
参議院選挙まであと1週間です。
しかしどうも選挙の実感が得られません。
私が住んでいるのは我孫子市ですが、立候補者の自動車もあまり来ません。
中央から政党の代表者が応援に来るという案内は時々回ってきますが、当の立候補者の演説の案内はあまりきません。
どこかでやっているのでしょうが、あまり耳には入ってきません。
私は中央から誰かに応援に来てもらうような人は、まず投票しないことにしています。
自分の言葉で語れないような人には期待はできません。
それに、議員はタレントではないのですから、誰かの応援に来る人の話などは聴きたくありません。
しかし、その基準で支持者を消していくと、いつもほとんど候補は残らないのが最近の状況です。
そんなわけで最近、選挙の意義があまり感じられなくなってきているのです。

ところで、新聞やテレビで選挙結果の予測調査がでます。
これをどう理解すればいいのでしょうか。
私はこれこそが選挙違反行為だという気がしています。
その予測記事が結果を変えることはかなり高い確率であると思いますが、
もしそうならば当然ですが、操作可能性があるわけです。

投票者は何を持って投票先を決めるのでしょうか。
「お灸効果」ということが最近よく言われます。
やりすぎの自民党にお灸をすえる気持ちで野党候補に投票する人がいてもおかしくないというわけです。
政治はパワーオブバランスの問題だから、そういう考えが出てきてもおかしくないと思いがちですが、私には違和感があります。
政策内容と無関係に、そういう基準で投票先を選んでいいのかと思うのです。
どこかにおかしさを感じます。

現在は野党優勢が多くの予測の結果です。
この報道を見て、お灸を据えようとしている人は、与党に投票しようと思うかもしれません。野党支援者は気を抜くかもしれません。
ゲームの世界の話であれば、その駆け引きは面白い問題ですが、それで日本の政策が決まっていくことを考えるとなにやら恐ろしさを感じます。ゲーム感覚で未来を決められたらたまったものではありません。
お灸効果などという言葉を抵抗を感ずる様子もなく語っている有識者を見ると、この人の「有識」って何なのだろうかと思ったりします。

きちんとした争点を明確にし、その判断を仰ぐことは出来ないものか。
たぶんできないでしょう。
それはそもそも今の選挙制度と政治制度には国民による政策評価機能はあまり期待できないからではないかと思います。
選挙って、本当に何なのでしょうか。
このごろ、選挙の意義が分からなくなってきてしまいました。
困ったものです。
もちろん投票には行きますし、もう投票する先は決まっていますが。

■国民の非武装権(2007年7月24日)
残念ながら今回の選挙では「平和」は大きな争点にはなりませんでしたが、振り返ってみると、今回の選挙は日本の平和にとって大きな意味を持った選挙になっているのではないかという気がします。
そんな時期に、平和の問題をライフワークにされている川本兼さんがまた新著を出しました。
『「日本国民発」の平和学』(明石書店)です。
CWSコモンズに紹介していますので、よかったら読んでください。
そこで紹介したことと重なるのですが、とても示唆に富むメッセージが込められているので、このブログでも少し紹介させてもらうことにします。

川本さんは以前から基本的人権の一つとして「平和権」を主張しているのですが、そこに「非武装権」という概念を提起しています。
これまでの平和論からは出てこない発想ですが、この非武装権発想が意味していることはとても大きく、ぜひとも多くの人に知ってもらいたいと思います。

「非武装権」とは、国家の兵員になることを拒否する権利です。
民衆による暴力を禁止し、暴力を独占することによって、近代国家は権力の基盤を確立しましたが、それは同時に「国民を暴力に狩り出す権利」の獲得でもありました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/04/post_c822.html
そのため、これまでの平和理論の中では「民衆の武装権」が問題になりました。
民衆が圧制からの自由を求めて、立ち上がる権利です。

その典型的なものが市民革命ですが、川本さんはそうした「民衆の武装権」はもはや必要なくなったといいます。
むしろそうした武装権は国家に組み込まれてしまい、実質的には国家に対する兵役義務に転化してしまったというのです。
最近起こったタリバンの韓国人ボランティアグループの拉致事件などを考えると、現実は必ずしもそこまでは行っていないと思いますが、大きな流れはそうかもしれません。

いずれにしろ国家による暴力行使の主体は国民です。
国家が戦争を遂行できるのは、兵員としての国民を自由に暴力遂行力として使えるからです。
ブッシュや小泉が戦争をするわけではなく、現地で戦いを担うのは兵隊や自衛隊員です。
つまり「戦争をさせる人」と「戦争をする人」は別なのです。
しかも「戦争をする人」は原則として戦場で人を殺すことも含めた暴力の行使を拒否することはできないのです。
そして「平和のために人を殺傷する」というおかしなことが起こります。
そこで、国家による暴力行使のために強制されることを拒否する権利として、非武装権が重要になってくるというわけです。

いいかえれば、非武装権とは「人を殺さない権利」なのです。
これまでの基本的人権は、当人だけで完結していましたが、非武装権は他人との関係性が対象ですから、人権思想のパラダイムシフトも含意しています。
さらにいえば、「非」ではじまる権利思想は、権利そのもののあり方への問題提起も含んでいるように思います。
そしてもちろん「平和」や「戦争」に深く繋がっていく思想です。
小泉さんや安倍さんが、そして小沢さんや岡田さんが、いくら戦争が好きでも、国民が非武装権を持っていれば、戦争などは出来ません。
もちろん彼らが戦場に行くことはできるでしょうが、それでは戦争にはなりません。

これはガンジーの非暴力主義とも違います。
非武装権。この考えを深めていくと国家暴力の矛盾が見えてくるかもしれません。
ぜひ皆さんにも読んでほしいと思います。
もちろんこの本は、非武装権のことだけを書いているわけではありませんが、他の主張も示唆に富んでいます。
私のサイトからもアマゾンでの購入が可能です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#070722

■デモサイド「民殺」(2007年7月25日)
昨日の記事に関連して、国家は自国の民を暴力から救うために武装し、国民は自らを守るために武装するのではないかというメールが来ました。
確かに国家の武装の大義は「自衛」です。
しかし、これも以前書きましたが、すべての戦争は「自衛」として説明できるでしょう。
問題は「自衛」の「自」とは何かです。

こんな報告もあります。
孫引きなのですが、ハワイ大学のR・J・ランメルという学者の書いた「政府による死」(1994年)によれば、国家によって殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いというのです(ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」に紹介されています)。
ランメルによればこの100年間に国家によって殺された人数は2億人を超えていますが、そのうちの約2/3は他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているそうです。つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない、というわけです。
彼は、非戦闘員を殺すという意味で、デモサイド(democide)という言葉を造語しています。
デモサイドの主体者は誰なのでしょうか。
20世紀のデモサイドの多くは共産国家や社会主義国家、あるいは軍部独裁国家、ファシズム国家などで主に行われていますが、「民主主義国家」でも起こっています。コラテラル・ダメッジは、まさに「民主主義国家の発想」かもしれません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013
ちなみに、コスタリカは、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったといわれます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html

デモサイドを遂行するのは誰でしょうか。
徴兵制のもとでは、だれでもが「戦闘員」に狩り出される可能性がありますから、結局は国民なのです。殺すのも殺されるのも同じ国民。それが現実なのです。
イラクやアフガンの現状はそのことを明確に示しています。

日本国憲法9条はたしかに不完全な条文です。
しかし、そこに込められた意味は大きい。むしろその意味を進化させるべき時期に来ています。
私たちも、コスタリカ人ほどの知性を回復したいものですが、それはすぐには無理としても、今度の選挙にはこうしたことを考えて投票に行きたいものです。
決して、年金選挙などではないのですから。

■放射性廃棄物の最終処分問題のメッセージ(2007年7月26日)
中越沖地震で問題を発生させた柏崎刈羽原発への不安が広がっています。
相変わらず東電にはしっかりしたコミュニケーション姿勢がないのが最大の問題ですが、原発問題はまさに「コミュニケーションの問題」だということを電力会社や政府は認識すべきではないかと思います。
しかし、コミュニケーション問題がすべてというわけではありません。
そこにもう一つ絡んでいるのは、お金の問題です。
いや「お金」の問題が出発点なのかもしれません。
コミュニケーション不足を金で解決してきたのが、これまでの原発政策でした。
それは地域関係だけではなく、内部の人事管理にも言えることだと思います。
さらにいえば、政策決定に取り組む当事者たちのコミュニケーション不足も目に余ります。ですからだれも全貌が見えずに、自信がもてないでいるように思えてなりません。

秋田県上小阿仁村が、原発の使用済み核燃料を再処理した時に出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場を誘致できるかどうかの検討を始めたことが話題になっています。テレビでは村民は不安を持っているようですが、村長は財政再建の切り札と考えているようです。高知県東洋町の騒動がまた始まりそうな気配です。

こうした騒動はどこかにおかしさがあります。
なぜこれほどに不安が高まり反対がでるのでしょうか。
なぜ調査費だけで毎年10億円という予算がつくのでしょうか。
いや10億円のお金を出さないと調査すらもしてもらえないということは何を意味するのでしょうか。
誰もが高レベル放射性廃棄物の最終処分に不安を持っているのであれば、その問題を解決せずに、原発政策は決めようがないはずです。しかし、そのことを真剣に議論し国民に話しかける科学者はいません。いるのかもしれませんが、国民にきちんと語りかけてはいません。
その事実一つとっても、原発技術はまともな技術体系として成り立っていないように、私は思えてなりません。
まともな技術体系でなければ、多くの人の信頼を得ることは難しいでしょう。

私が原発に不信感を持ったのは、皮肉なことに仕事の関係で電力会社のエンジニアに原発を案内してもらったためです。そこで現場労働者の働き方や扱いを知りました。
技術としての原発に対しては評価能力がありませんが、労働の現場を見れば、その産業の本質は見えてくるものです。
そして原発関連の企業不祥事が起こるたびに、その見学の時の説明を思い出します。
それは私には繋がって感じられます。
共通しているのは資金の配布に関する「専門技術優先主義」です。

これからの日本社会を支えていくといわれる原発産業であれば、各地が競って誘致を申し出るはずです。しかし財政難に苦しむ貧乏な市町村に向けて、巨額なお金をちらつかせても、なかなか手を上げるところが出てこない現実に、原発の本質が見ええてくるように思います。
もっとオープンな場で、しっかりと話し合う時期ではないか。
それこそがコミュニケーション戦略ではないかと思います。

■「経済成長を語ったことがあるか」(2007年7月26日)
「民主党から、小沢さんから経済を成長させる、景気を回復するという話を聞いたことがありますか」と安倍首相は演説で話したそうです。

一昨日、引用させてもらったダグラス・ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」にこんな話がのっています。

コロンブスが「新世界」で最初に着いたのはカリブ海の島でした。その島にはタイノ族という先住民が住んでいました。当時の記録によると、コロンブスたちは、もしかしてエデンの楽園に戻ったんじゃないかと思ったそうです。自然がきれいで、そこに暮らす人たちは聖書のエデンの楽園に描かれたような生活をしていたからです。
まず彼らは物をあまり持っていない。暑いから服もあまり着ていなくて、裸に近い状態。農業も非常に優れた農法で、いろいろな種類の作物を同時に一緒に植える。そうすると管理、手入れがほとんど必要ない。だから畑では一週間のうち数時間しか働かない。魚が欲しければ海に入ればすぐ獲れるから、それもあまり時間がかからない。
では何をしていたかというと、まず音楽がとても重要でした。歌ったり、踊ったりする時間、楽器で音楽を作ったりする時間がとても多かった。男女が愛しみあう時間も多かったそうです。
そこで、働かせるために奴隷制度をつくったのですが、彼らは奴隷に向いておらず、病気で死に、座り込んで死ぬまで動かなくなり、うつ病で死に、子どもつくらなくなり、100年間で全滅した、というのです。

この話が真実かどうかわかりません。たしかにタイノ族はいましたし、そういう生活をしていたようですが、反乱を起こしたというような資料もあるようです。
しかし彼らの豊かな暮らしは「経済成長」や「景気」とは無縁です。
いま必要なのは、「経済成長」とか「景気」という考え方そのものを問い直すことではないかと思います。
そういう意味では、「経済成長」や「景気」について語っていないのは、安倍首相自身ではないかと思います。
野党の主張にもっと謙虚に耳を傾けるべきでしょう。
もちろん私たちもです。
これまでのような「経済成長発想」はもう終わりにしてもいいのではないでしょうか。
上記の本はとても示唆に富んでいます。
平凡社から出ていますので、夏休みにでも読んでみてください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/commonsshotenn.htm#070617

■タリバンの韓国人ボランティア殺害事件(2007年7月28日)
タリバンによる韓国人ボランティアグループの拉致と殺害はやりきれない事件です。
事件を聞いて感じたことを2.3書きます。必ずしも正確な事実には基づいていないと思いますので、その前提でお読みください。

まず「善意」とは何か、です。
傷ついた人がいれば危険を冒しても救いにいくという「善意」は、誰にとっても「善意」で歓迎されると思いがちですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
「善意」は行動者の意志ですが、その行動の対象者の評価が同じとは限りませんし、大きな枠組みで考えるとおそらく評価は一様ではないはずです。
もっとも、ボランティア活動をしている人たちは「善意」などとは考えていないでしょう。やりたいからやるのがボランティアですから。
しかし、組織活動としてのボランティアになると意味合いはかなり変わってきます。
個人の主体性に立脚するボランティア行為と組織としての行為にはズレが避けられません。
結果として、そうした行為が全体の状況の問題解決にマイナスに働くこともありえます。
さらにいえば、自らの生命を賭して活動している人にとっては、おそらく緊急事態でしょうから、コラテラル・ダメッジの発想が出てくる可能性を否定できません。
もちろんそれを肯定するわけではありませんが、タリバンの側で考えるとそういう発想が出てくるということです。なにしろこれまでたくさんの仲間を不条理に殺害されているわけですから。

もちろん、私はタリバンの行為に何がしかの正当性を認めているわけではなく、どんな事情があろうと許されることではないと考えています。
彼らにも言い分はあると思っていましたが、こうした行動を起こすことは言語道断であり、彼ら自身にとってもマイナスでしょう。
しかし、彼らはそこまで追い詰められていることも示唆しています。
自己防衛行為とはいえませんが、その要素が全くないともいえません。

そこで思い出すのが、マルチチュードの発想です。
もしかしたら、全体の構造の捉え方がみんな間違っているのかもしれません。
タリバンとはいったい何なのか。
そして政府とは何なのか。
世界の紛争や連帯の構図が大きく変わり出している中で、問題の立て方を間違うと問題はさらに複雑になり、悲惨になるかもしれません。
そんなことを考えさせられる事件です。

これはなにも軍事紛争だけの話ではありません。
福祉や環境に関わるボランティア行為すべてにあてはまることかもしれません。
問題を解決するためには、構造をしっかりと把握し、問題を的確に設定しなければなりません。

韓国のボランティアグループの人たちの安全が守られることを心から祈念します。
個人の生命は国家の命運以上に大切です。
そのこと忘れた国家や革命や反乱は成功しないと確信します。

■光市母子殺害事件安田弁護士による死刑制度の私物化(2007年7月29日)
光市母子殺害事件の安田弁護士の発言は、法によっては守られているのでしょうが、社会の規範からは完全に逸脱しているように思います。
今回の彼の発言を聞いて、いつものことながら、これほど「おぞましい人」がなぜまともに取り上げられているのか、そしてどうして弁護士仲間が異論を唱えないのか、とても不思議な気持ちになりました。
常識が通らない場での裁判には不信感をもたざるをえません。
しかし、私の思いとは反対に、司法界から何の声も上がりません。
私は彼をとがめているのではなく、彼のような存在を放置しておく司法界を問題にしているのです。
日本の裁判制度はもはやあまり信頼できなくなりました。

この事件のことはもう書くまいと思っていたのですが、やはり書かないと気がすまなくなりました。

人の生き方には、「法によって権力に従う生き方」と「規律によって規制された生き方」と「愛を活かしあう生き方」があります。
法治社会では「法によって権力に従う生き方」が推奨されます。
法に従っていれば、お上からのお咎めはないからです。
お上にとっては、正義ではなく統治が最大の関心事です。
企業のコンプライアンス発想もそうです。
ですからたとえ「不正義」でも、時に一時期のミートホープ社のように黙認されることもあるのです。
赤城議員などの政治家の逸脱行為もその一例です。

フーコーは、法による生き方から規律による生き方に社会は変わってきているといいましたが、日本においては歴史の流れは逆かもしれません。
恥の文化では、法以上に「誇り」や「正義」が尊ばれます。
いまでも日本各地の村では、お上が決めた「法」よりも、規律が重視されているところもあるように思います。
フーコーをかなり独善的に解釈していますが、私自身は、その先に、あるいはその前に、真心の社会があると考えています。それが「愛を活かしあう生き方」です。
そこでは規律のベクトルの意味が反転します。
これに関しては、いつかまた書きたいと思います。

ところで安田弁護士の生き方は、弁護士らしく「法に従う生き方」です。
つまり権力に守られた生き方、言い換えれば心を権力に売った生き方です。
権力に従う生き方は楽な生き方でしょう。
安田弁護士は権力に立ち向かう反骨の志というイメージを持っている人もいるかもしれませんから、こういう論理展開をすると、私の常識が疑われそうですが、そういう捉え方もできるという気がします。
権力に抗することと権力に迎合することとは紙一重です。
そして、その紙一重は共感の広がりで見えてきます。
安田弁護士の言動が、いずれかであるかは明白です。
権力に抗う形での迎合と考えるべきでしょう。

そう考えると、すべての風景は一変します。
たとえば、安田弁護士と死刑制度の関係です。
多くの論者は、そして私の知人の弁護士たちも、安田弁護士は、死刑制度廃止を目指しているといいます。
そうでしょうか。
死刑制度廃止と死刑を無くすことは違うことだと思いますが、それはともかく、私には安田弁護士が死刑制度を本気で廃止しようとしているとは全く思えません。
もしそうならば、もっと誠実に取り組むでしょう。
死刑はいろいろな意味で、人の生命に関わる問題ですから、誠実さが基本になければたぶん前に進まないでしょう。
それにこの問題は暴力と権力の問題にもつながる組織原理の問題でもあります。
安田弁護士の取り組みは、どう考えても、誠実とは思えません。
むしろ彼は、死刑制度の存続に寄生して生きている人だと思います。
もし日本に死刑制度がなければ、彼は自らの存在を維持できないでしょう。
つまり、彼が守りたいのは死刑制度なのです。
論理の飛躍があるかもしれませんが、そう考えてもおかしくないように思います。

彼のような、あざとい生き方が広がっているのが、とても哀しいです。
司法界だけではありません。
政界も財界も、学会も医療の世界も、なぜこのような小賢しさが蔓延したのでしょうか。

今回はかなりの暴論で、いくらでも反論の材料はあると思いますが、暑さのせいの暴論だと聞き流してください。
しかし、私には腹が立って仕方がないのです。
まだまだ人間が出来ておらず、寛容にはなれません。
寛容になれないままに、人生を終えそうなのが残念です。はい。

■番外編:実に勝手な選挙結果予測(2007年7月29日)
自分のために書いておく番外編です。
今日は参議院選挙の日です。
今日の夜には結果はほぼ判明するはずですが、その前に少し書いておこうと思います。
私の選挙結果の予測はこれまで一度も当たったことはありませんが、結果を知る前に意見を書き残しておきたいと思います。
結果を知ってしまうと、おそらく自分の考えが微妙に変わりかねないので、私自身のための記録です。後で、これを掲載したことを公開するかもしれませんが。

投票率はそうあがらないでしょう。つまり選挙への関心は相変わらず高くはないということですが、それは政治への信頼が失われている結果だと思います。また日本人の政治意識の低さも一因でしょうが、それも含めて、これまでの政府がそう仕組んできたように思いますので、それが見事に奏功したということかもしれません。

結果は民主党が勝つでしょうが、新聞などの予想ほど大きな差は出ないと思います。
これはマスコミを通した政府の情報操作が成功したのだと思います。
今回は多くのマスコミは自民党に加担したと私には思えてなりません。
マスコミは大きな変化を望んでいないのです。マスコミを支配しているのは、いわゆる「勝ち組み」ないしは「勝ち組み寄生者」たちですから、当然です。
朝日新聞も自民党を応援しました。もっとも一般の見方は反対のようですが。

私は新党日本に期待していますが、田中さんも有田さんも当選すると思います。
国民新党もほどほどの成果を得るような気がします。
社民党ものびるでしょう。
つまり、二大政党への問い直しの動きが出てくるように思います。
しかし、それ以外の閉じられた仲間的な党はいずれもだめでしょう。
共産党は苦戦すると思います。記号価値を軽視しているためです。とても残念ですが、この党には未来は感じられません。私自身は一番期待している党なのですが、基本的な組織原理が時代にあっていません。公明党と同じです。

選挙後の政治はどうなるか。
残念ながら、何かが変わる展望が持てません。
自民と民主が実質的に国政を私物化し、国民不在の政治がもうしばらく続くような気がします。

めちゃくちゃな予想ですが、この予想がひっくり返ることを心から願っています。
私の不明が明らかになれば、とてもうれしいです。

もしまだ投票に行っていない人がいたら、行ってくださるととてもうれしいです。
私の明日の暮らしに繋がっている選挙ですので。

■参議院選挙結果に思うこと(2007年7月30日)
昨日の番外編の選挙結果予想は、またまた肝心なことでは完全に間違いました。
どうでもいいことでは、少し当たりましたが。
政治評論家などは、これほどの変化は予想もしていないといいますが、私には変化のない結果でした。
日本はどうやら動きそうにもありません。

まず投票率は、亥年現象は起きませんでしたが、投票率はあまり高くなりませんでした。要するに、これまでも選挙に行っていた人は行ったものの、選挙と無縁に暮らしている人たちは、相変わらず行かなかったようです。
つまり構造変化はおきなかったということです。これは残念ながら予想通りです。

民主党は大勝しましたが、それ以外の野党はのびませんでした。
これは私の期待を完全に打ち砕きました。
民主党と自民党は、私には同じ政党に見えますので、民主党の大勝は日本の政治状況を何も変えないというのが私の考えです。
相変わらず「二大政党論」が語られているのが残念でした。
日本の政治をだめにしたのは、小選挙区制度と二大政党論だと私は思っていますので。

選挙後の政治は変わりそうです。
安倍首相がいち早く続投を表明したからです。
これでたぶん続投はなくなり、国民の怒りは高まるでしょうから、民主党はやりやすくなるでしょう。波風がもう少し続きそうです。

結局、私にとっては、何も変わらなかった選挙でした。

■「法律1本、世論3年」と「何でも見てやろう」(2007年7月31日)
小田実さんの訃報を聞きました。

先週、技術と暮らしを考えるサロンに参加したのですが、そのテーマが昨年亡くなった宇井純さんでした。
参加した40代以下の世代は、あまり宇井純さんのことを知りませんでした。
参加者の一人が、別の人の名前をあげて、その人は形として実績が残っているが、宇井さんの実績は何ですか、と質問しました。
ショックを受けました。
宇井さんは、いまや忘れられつつある人なのですね。

その時、思い出したのが、実は小田実さんです。
私にとっては、この2人は、知のあり方を教えてくれた人です。
そして私が育ってきた時代を象徴している人でもあります。
しかし、最近、その2人のことを私自身が忘れていたことに気づきました。
その矢先の訃報です。

私は残念ながら、宇井さんにも小田さんにもお会いしたことがありません。
雑誌や本でしか、その言動に触れたことはないのですが、この2人の生き方からは大きな刺激をもらっています。
現場から発想し、柔軟に発想し、自分の言葉で考え、考えたことは行動する、という生き方です。
私がそれを実現できているかどうかは確信がありませんが、極力、そうつとめてきました。

宇井さんは、日本に新しい学びの場を創出し、そこで学んだ人は少なくないでしょう。
小田さんは、新しい学び方を提案し、それに刺激された人は少ないでしょう。
宇井さんの言葉で、印象に残っているのは、「法律1本、世論3年」です。
公害基本法が成立し、それから少しずつ具体的な内容を持った実施法ができ、そのたびに問題があいまいにされていくことを指摘したものです(私の記憶が不正確かもしれません)。
これは昨今また繰り返されています。
小泉・安倍政権は法律を作ることで世論をおさえ、その矛盾が出てくるとまた次の法律をつくるということを繰り返しています。
法律を作ることは、政府の役割であっても、目的ではありません。

小田さんの言葉は、「何でも見てやろう」です。
それも自分の身体で、現場に行って見ていくわけです。
その背景には「まあどうにかなるやろ」精神があります。
小田さんといえば、「ベ平連」活動ですが、その活動自体も今では忘れられているのかもしれません。

2人とも、常に「暮らし」の視点にたっていました。
しかし、「自主講座」も「ベ平連」も、過去のものになりつつあるようです。
時代は再び、新しい学びの場、新しい平和運動の場を必要としているような気がしますが、宇井さんや小田さんのような実践の人がまた現れてくることを思わずにはいられません。
小田さんは、彼岸で何を見ているのでしょうか。
その旅行記を読みたいものです。

■子どもたちを戦場に送るために狂奔する中高年女性たち(2007年8月1日)
予め断っておきますが、非常識な暴論を書きます。
小泉前首相や安倍首相に握手を求め、声援を送っている中高年の女性たちから参政権を剥奪するのはどうでしょうか。

銀座の街頭で安倍続投の是非を問うという番組をテレビでやっていました。
結果は100人中、44人が続投支持でした。
テレビで観る限りでは、中高年の女性が多いようでした。
彼らは息子や孫を戦場に送りたいのでしょうか。
韓国のスターを追いかけたり、ブランドを買いまくったりする程度であれば同情もできますが、ここまでくると腹がたちます。
男性が粉骨砕身して働いている一方で、彼女たちは家庭も育てずに壊してきたのではないかと怒りを禁じえません。
彼女たちから参政権を剥奪するのはどうでしょう。

と昨日は思っていたのですが、今朝の朝日新聞に、電話での全国世論調査(電話)の結果がでていました。
40%の人が続投を支持しているというのです。
しかし不思議なのは、安倍内閣の支持率は26%だというのです。
安倍内閣不支持だが安倍続投は支持するというのはどう考えてもおかしな話です。
まともな頭の持ち主ではないでしょう。
日本人がそこまで愚かになったとは思いたくないので、この調査の信頼性に疑問をもちますが、それはともかく、続投支持に関して言えば、テレビでみた中高年女性の意見とこの調査結果はそう変わらないのです。
ということは、参政権を剥奪するのは女性だけではなく、全国民から剥奪すべきかもしれません。
そう思って、この暴論は書き込みをやめようと思ったのですが、また考えが変わりました。
もしかしたら電話調査に出たのは、テレビと同じ、中高年女性が多かったのかもしれません。あるいは意識と生活において、中高年女性と同じ閑暇な男性たちや若い女性たちと言ってもいいでしょう。
いずれにしろ最近流行の電話調査なるものに疑問を感じだしたのです。
世論調査などと改まって新聞に書かれると、なにやら信用してしまいますが、要するに銀座の街頭調査と同じレベルなのではないか。そんな気がしてきました。
「全国世論調査」などという表現を使ってほしくないと思います。
不当表示ではないでしょうか。

社会を壊したのは、企業に「滅私奉公」してきた私たち男性たちだという思いが私には強くありましたが、家庭を放棄した女性たちの生き方も大きな問題です。
最近の女性政治家たちを見ていて、そう思うようになってきました。

3年間も投票にも行かなかった人がなぜ政治家になれるのか。
彼女は政治をどう思っているのでしょうか。
少なくとも丸川さんは立候補を辞退すべきですし、情報民主主義等は公認を取り消すべきです。
それこそがけじめです。
こんな無責任な不心得ものが政治家になり続けているのが、小泉・安倍政権時代なのです。赤城問題と丸川問題は同じ話ではないでしょうか。
それに、丸川さんには恥というものはないのでしょうか。
彼女を支援する女性政治家も同類です。類は類を呼ぶのがよくわかります。
彼らこそ、中高年女性の象徴のような気がします。
彼らの参政権も剥奪したいものです。年齢はともかく、その言動はまさに昨今の中高年世代と同じです。

中高年女性たちの選挙権を剥奪したら、小泉・安倍時代は終わるのではないでしょうか。
そして子どもたちを戦場に送るために狂奔する政治は終わるのではないでしょうか。

日本の女性たちは変質してしまいました。
男性たちが変えたのでしょうか。
いや、そうした女性たちが男性を変えたに違いないと、私はひそかに思っています。
みなさんは大丈夫ですか。
女性は怖い存在です。はい。

なお、この記事に対する反論には一切回答はしません。
ブログ上も個人メールにもです。
なにしろ暴論なのですから。

■テレビキャスターの皆さん、バラバラに疑問を呈していないで、一緒に安倍退陣への風を起こしてください(2007年8月2日)
朝日新聞に自民党の地方幹部の意見調査結果が出ていました。
7割が首相続投だそうです。
一方で、安倍首相に対しては「政治家として未熟」とか「時代遅れの手法」とか、批判は多いそうです。
昨日書いた「中高年女性現象」は自民党地方幹部にも蔓延しています。自分のことしか考えていないような気がします。政治家ではなく、政治屋です。

赤城大臣辞任には、何をいまさらという意見が多いです。
選挙が終わった後では無意味だという議員も少なくありません。
枡添議員もそう話していましたが、なんだか哀しくなります。
みんなの頭にあるのは「選挙」だけなのです。
選挙のために選挙前には行動も起こさずに、よく言うねという気がします。。
枡添さんも政治屋でしかないことが露呈されました。残念です。
発想の根本が間違っているように思います。

続投支持者には安倍首相に代わる人がいないという人もいます。
これは安倍首相に対する最大の評価です。発言者はそれに気づいていません。
なぜ「代わる人」がいないかといえば、その評価基準が私利私欲にあるからです。
安倍首相よりも首相にふさわしい人がいないということの意味をわかっているのでしょうか。
わかっていないのはお前だといわれそうですが、たぶんそういう人と私とは拠って立つ場が違うのです。いや政治の捉え方が違うのです。

テレビで石破さんが首相は辞めるべきだと発言していましたが、これは私には理解できる説明でした。こういう人も自民党にはまだいます。彼らがなぜ離党しないのか不思議ですが。

選挙とは何なのか。
選挙結果もわからないままに、続投を決めるというのはどういう意味を持つのか。
青木さんと野中さんが進化させた、「私物化された密室政治」が相変わらず続いているようです。
どうして誰も、その暴走をとめられないのでしょうか。
いや、どうして一緒になって暴走しているのでしょうか。

政治家がだめなら、政治に関わる評論家やマスコミで影響力を持つキャスターたちが立ち上がっても良いように思います。
個々バラバラに「批判」しているだけでなく、国民に呼びかけて、首相更迭の風を起こすべきではないでしょうか。
国民が安倍政権に「ノー」といった事実をこのまま放置していたら、日本の政治はますますおかしくなっていくでしょう。
そうならないために、テレビキャスターができることはたくさんあります。
信念があればですが。

■いのちの大切さと学びの面白さ(2007年8月3日)
わが家の庭の南東の角にアズキナシの樹があります。
そこはわが家の狭い庭では一番目に付く場所です。
植えてから5年、大きく育ったのですが、毎年アブラムシがたくさんつくのです。
アブラムシが樹液を吸ったアブラムシが出す甘い排液にアリが集まり、またアリの排液で樹木のみならず、周辺が真っ黒になります。鉢などもあつまってきます。時にカミキリなども来ます。そうして周辺の草木は大きな被害を受けて元気を無くします。
これが自然の流れなのでしょうが、庭木としては選定を間違ったようです。
大胆に剪定したり、防虫剤を使ったり、まわりの草花の種類を変えたり、女房と娘はいろいろ工夫して、何とか問題を解決しようと取り組んできました。
しかしうまくいきません。
植え替えも考えたのですが、樹が大きくなっているため場所がありません。
昨年、庭の花や樹木の手入れをしている娘からついに伐採の提案がありました。
しかし、私は生きた樹を切るのはしのびなく、たとえ1本の樹であろうと生きている樹は切りたくないと主張したのですが、現場を管理している娘はアズキナシ1本を犠牲にすれば、たくさんの草花が生き生きしてくるのだから、私の考えこそ、いのちを大切にしていないというのです。
女房も娘も、枯れかかった花でも大事の育てて元気にします。
彼女たちの手にかかると、廃棄寸前の処分品がわが家では大きく育っていきます。そのおかげで、わが家の庭にはたくさんの花があります。
その2人からの2回目の提案なので今回は私も賛同しました。
2年間、アズキナシを守る努力をしてきましたので、アズキナシもゆるしてくれるだろうと女房が言いました。
それで、今日、塩で清めてお祈りし、アズキナシを伐採させてもらいました。
庭木1本伐るだけでも本当に心が痛みます。
こうした思いは、しばらく前までは日本人であれば、だれでもが持っていた感情だったように思います。
そうした文化や「いのち」への畏敬の念は自然とのふれあいの中で、私たち世代は学んできました。
私が勉強好きになったのは、小学4年の春に学外授業で学校からかなり離れたところにある沼に自然観察にいったおかげです。そこでいのちのすばらしさを学んだからです。今でも勉強は大好きです。新しい気づきにはわくわくします。
私にとっての勉強は教室で先生から教わるものではありません。
自然とのふれあい、情報(書物)とのふれあいのなかで、自分で気づいていくものでした。
いまの学校教育がうまくいかないのは、教室に閉じ込めてしまい、教師が教える仕組みだからではないかと思います。
自然や社会のなかで学ぶ仕組みをつくれば、学ぶことは面白く魅力的になります。
それに、学びはいのちや暮らしにつながっていないと面白くはありません。
考古学も天文学も、すべて私たちの日々の暮らしやいのちにつながっているのです。

今日、アズキナシに感謝をしながら伐採して、子どものころのわくわくするような学びを思い出しました。
ちなみにわが家には沢蟹もカブトムシも放し飼いにしています。
もっとも放した後、見かけることはないので、いまはどこかに出かけているかもしれないのですが。

■延命措置は希望されますか(2007年8月3日)
書こうかどうか迷ったのですが、書くことにしました。
これは女房には内緒の記事です。

医師から「延命措置は希望されますか」と訊かれたら、みなさんはどうしますか。
仮の話ではなく、私の女房が最近受けた質問です。
女房は「希望しません」と答えました。
これだけだと何ということのない話で、どこにも問題がないように思えるかもしれません。
しかし、私は大きなショックを受けました。

国立病院の緩和ケア科にかかりだした最初の日の質問です。
緩和ケアは、いわゆる狭義のホスピスとは違うという認識で、いろいろと苦痛の緩和について相談しようと思っていた矢先です。
緩和には肉体的苦痛の緩和もありますが、患者にはそれ以外の悩みや相談事もあります。そうしたことは専門的な医師にはなかなか相談できませんので(相談に乗ってくれる医師は少ないです)、治療的見地からではなく、治癒的な見地で相談に乗ってもらえると思っていたのです。
症状を説明し、いろいろと相談を始めた時に、医師からその質問を受けました。
私も同席していましたが、突然だったので驚きました。
私の反応が少し良くなかったのか(私は感情を隠せないのです)、医師は、いざとなった場合のことも想定して、一応お聞きしておくのですと補足しました。
もしそうであれば、そう断ってから訊くべきです。
せめて信頼関係が芽生えてから質問してほしかったと思います。
がんの場合、患者も家族も微妙な精神状況なのです。
それをわかることが緩和ケアの出発点のような気がします。

たった一言に過剰反応ではないかといわれそうですが、そうした「一言」が重要なのです。
その一言で、医師や病院の評価をするつもりはありませんが、そうした一言で、病気が悪化することもあるのです。
そのことに気づいてほしいと思いますが、やはり自らがその立場にならなければわからないものかもしれません。

北九州市の生活保護の問題も、そうした一言が引き起こしたのかもしれません。
光市母子殺害事件の弁護団も同じかもしれません。

ところで「延命措置」とは何なのか。
これについてはまた書きたいと思いますが、この言葉には現在の医療観が象徴されているような気がしています。
医療の分野での「言葉」の見直しが必要ではないかと最近感じています。

■病気との対峙といのちへの眼差し(2007年8月5日)
昨日、治療と治癒に言及しました。
以前も一度書きましたが、もう一度書きます。
ある人から「大きな病院の医師は治療の対象にしか興味を持たない」という言葉を聞いたからです。その人も医師でした。

治療の対象は「病気」です。治癒の対象は「人間」です。
そして、病気の治療が病人を治癒するという前提の中で、治療方法の解明が医学の進歩と考えられています。そうでしょうか。
昨日紹介した緩和ケア科での体験とは対極の、もう一つの体験を先週したのです。

先週、近くの訪問診療に取り組んでいるクリニックを訪問しました。
女房のがんが再発して以来、国立病院にかかっていましたが、そこでの関心は病気治療であって、ケアではないことがよくわかったので、治癒を支援してくれる医師を探したのです。そして在宅診療をしているクリニックの医師に出会えました。
そして迅速な対応をしてもらうことが出来ました。
医学への信頼を少し回復しつつあるとともに、私自身がいかに医療に無知だったかを思い知らされました。

私が当の病人であれば、その体験を克明に報告したいところですが、患者は女房ですので、勝手には報告できません。夫婦といえども意識は微妙に違うからです。
しかし、彼女の通院にはすべて同行し、医師の診察もほとんど体験させてもらいながら、現代の病院や医療体制の問題についてはいろいろと考えることがありました。
違和感や不信感もかなり蓄積されました。
もちろん個々の医師の熱心な仕事ぶりや病気を治そうとする熱意には感心することが多く、私たちも何回も病院の医師の献身的な行為に救われていますし、感謝もしています。とりわけ看護師たちの献身的な活動には頭が下がります。

しかし、そうだからこそ、正すべきことを正す必要があるという思いも高まっています。
基本が間違っていると、熱心に取り組めば取り組むほど、結果は逆に悪くなることもあるのです。もしかしたら、今の日本の病院はそういう状況に陥っているのではないかという気もします。ホリスティック医療の発想が欠落しています。
病院や医学の世界は、思い切ったパラダイム転換が必要なのかもしれません。

在宅診療を受けることになって、これまでのやり方とはかなり違うことを実感しました。
そこには「いのち」への眼差しがあるのです。
現在の大病院での外来診察とはまったくと言っていいほど違います。

「病気を診るな、病人を診よ」はヒポクラテス以来の治癒の基本です。
これは言い換えれば、治療ではなく治癒に心がけよ、ということではないかと思います。
治癒のために治療があるのであって、治療のために治癒があるわけではありません。

たとえばこういうことです。
がん治療は近代医学だけではまだ十分な対応はできない領域です。
ですから多くのがん患者は、サプリメントや民間療法に関心を持ちます。
病院に通いながらサプリメントを服用する人も少なくないでしょう。
しかしほとんどの病院ではいわゆる抗がん効果を表明しているサプリメントには否定的です。
私たちの場合、抗がん剤を飲む時にサプリメントは止めて下さいといわれました。理由は、何が効果があったか分からなくなるからだというのです。唖然としました。
もちろん副作用への心配も説明の中にありましたが。
患者にとっての関心は「何が効くか」ではなく「治癒されること」です。
何が効いたかはもちろん大切ですが、まずはよくなることです。
相乗効果でもいいのです。

厚生労働省の認可していないものは危険だから責任をもてないという論理も本当は成り立たない論理です。
薬害事件から明らかなように、認可したから危険性がないわけでもなく、認可したから効くともかぎりません。かつては抗がん剤と評価が高かった抗がん薬が、その後、効果がないことが判明した事例もあります。
そもそも抗がん効果の評価基準も極めてあいまいです。
このあたりは書き出すときりがないのですが、要するに抗がん剤と医薬品認可の下りていないサプリメントは、その効用や副作用において、所詮は連続しているのです。

エビデンスがないものは使えないと医師はいいます。この言葉もむなしい言葉です。
「科学」としての医療でのエビデンス(効用証拠)は、実際に効果があるかどうかとはほとんど無縁かもしれません。そのエビデンスの評価方法も極めてあいまいです。
短期間の病状回復でも効果ありとされるのです。
市販の怪しいサプリメントと大差はないのです。

治療には熱心に取り組むが、治癒にはあまり関心がない。
国立や大学などの病院の医師は、そうでないとやっていけないという話も聞きますが、患者の立場からは大きな違和感があります。
抗がん剤を飲むのをやめた患者は、医師には興味のない存在になるようです。
とても分かりやすい話ですが、どこかにおかしさがあるように思います。
そう思いませんか。

もちろん、そうでない医師も決して少なくはありません。
今回の指摘は、個人としての医師への批判ではなく、文化、仕組みとしての病院への問題提起です。
念のため。

■憲法と政党マニフェスト(2007年8月7日)
選挙後の参議院議員を対象とした朝日新聞と東京大学の調査によると、改憲賛成派は53%に減少したそうです。憲法9条改正に関して、賛成31%、反対50%だそうです。
選挙前とは状況は大きく変わっています。憲法改定という大きな問題への意識が、こうも簡単に変わってしまう国会議員への不信感もありますが、これでひとまずは戦争を目指す国家への道は少し止められそうです。
しかし本当にホッとしていいのかどうか。

憲法は国家の基本理念やビジョンを示すものであり、国家のアイデンティティに関わるものです。日本の憲法は、政治家と財界と憲法解釈学者によってずたずたにされてしまっていますが、そこに込められたコアバリューは明確です。
それが9条だと思いますが、そうした国家のコアバリューへの真剣なマニフェストを表明する政党が少ないのが残念です。
昨今のマニフェスト論議は、どうも実現性とか評価可能性とか具体性に関心が移っていますが、政党のマニフェストはやはり国家の基本である憲法との関係をもっと重視するとともに、日本のビジョンや国家理念を明確に謳うべきではないかと思います。
政党のマニフェストと個人のマニフェストは次元の違う話だと思いますが、それが混同されているのが現状です。
今回もまた、マニフェスト選挙だったという人も少なくありませんが、私には自民党も民主党も日本のビジョンやコアバリューに関して明確に宣言しているようには思えません。彼らが考える「日本の形」の違いも見えてきません。
それは両党とも、結局は現在の憲法や平和の理念に共感しておらず、経済に従属した市場主義的政府を目指しているからです。
形の上では二大政党のスタイルをとっていますが、結局は「双子の兄弟」の内輪の権力争いでしかないのです。

政党政治を続けるのであれば、政党はもっとしっかりした国家のアイデンティティやビジョン、理念を明確に打ち出すべきではないでしょうか。
それがあいまいな政党のマニフェストは全く意味がないような気がします。
政界再編成は、権力再編成であってはなりません。
ビジョンと理念を基準に、政党そのものの再編成をすべきではないかと思います。

広島の平和式典に安倍首相が参列していることに、やはり私にはどうしても違和感があります。

■クールビズとノーネクタイ(2007年8月11日)
民主党の西岡議員が、国会での審議でのネクタイ着用を提案したというニュースが報道されていました。この提案は評判がよろしくないようですが、私はそもそもクールビズなどという発想には大反対ですので、拍手を送りたいと思います。
ネクタイを絶対しろとは言いませんが、もう少し緊張感を持って国会の審議をしてほしいものです。
国会議員の多くは、国会とは昼寝の場所と考えているようですから(国会中継を見ていて、いつもそう感じます)、たしかにネクタイはパジャマにはふさわしいとはいえず、邪魔なのはわかりますが、国会とは何なのかをもう少し考えてほしいものです。
「衿を正さずに」国会議員としての仕事ができないことは、さまざまな議員不祥事が証明しています。

この提案に対して、テレビのワイドショーでは、民主党は温暖化防止に反対なのかなどと馬鹿なコメントをわけのわからないタレントやキャスターに発言させていますが、ネクタイと温暖化防止とは全くと言っていいほど関係がありません。
それよりも、無意味な番組を作って放映しているほうが、よほど温暖化に役立っていることを反省してほしいですが、自らの生き方も含めて、そう発言している人ほど温暖化防止行為などとっていないはずです。

それにノーネクタイとクールビズは関係はありますが、本来は全く別のものです。
なぜ短絡的にクールビズとノーネクタイをつなげるのか、私には理解できません。
環境問題に取り組むのであれば、もう少し真剣に取り組むべきですし、そもそも審議の仕方それ自体も変えればいいでしょう。
ネクタイをはずせば涼しくなるわけでもなく、むしろ大事なものを失うような気がします。

服装は意識に大きな影響を与えます。
最近、国会議員の意識や規律がおかしくなっているのは、ネクタイをはずしたからではないかとさえ思います。

私の考えは古いでしょうか。

■政府の危機と国家の危機(2007年8月12日)
参議院選挙での自民大敗により、自民党および政府はかなりの危機感を持ってきているようです。
おそらく危機感を持っていないのは、裸の王様の阿部首相だけかもしれません。
首相続投の是非が相変わらずテレビなどで議論されていますが、これは是非を問うべき問題ではありません。
まともな常識を持っている人ならば、答えはおのずと明快です。
「続投」を肯定する国民がかなりの数いることは驚きですが、これがまさに日本の「民度」でもあります。

昨年亡くなった宇井純さんは、自主講座公害原論で、「政府は、公害の反対を封ずるための町村合併を進めたが、自治体の合併を許すほど、われわれ一人一人の自治権力意識というのは弱体だった」と語っていましたが、まさに日本人の自治意識(政治意識)や主体性は、いまや大正デモクラシー以前に戻ってしまったのかもしれません。
政府による、見事な国民教育の結果であり、パンとサーカス政策の成果です。
平成の市町村合併は、見事にまた国民の自治意識を奪い取りました。

今回の選挙結果は、国民の主体性あるいは自治意識(政治意識)の復活なのでしょうか。
そう思いたいところですが、そうも思えないのが残念です。
国民のなかに「風」は起こりそうもないからです。

ところで、自民党の危機と政府の危機とは別のものです。
そして、政府の危機と国家の危機もまた、別のものです。
それは少し考えたらわかることです。
国家をだめにした政府は私たちも体験したことがありますし、今なお世界各地には国家を食い物にしている政府は少なくありません。
極端にいえば、政府と国民の利害は対立することの方が、まだ多いかもしれません。

いまの政府の混乱は決して国家の混乱ではありません。
むしろ「国家」と「政府」を混同して考えることになじんでしまっている風潮を見直す好機かもしれません。
しかし、そうはいうものの、政府の混乱が国家の危機につながることがないとはいえません。政府の混乱は、国際関係においては政治をとめるからです。

政府の危機には、「殿、ご乱心」と諫言する志が出ましたが、国家の危機にはだれが声を上げるのでしょうか。

■家事やボランティア活動と賃仕事(2007年8月14日)
女房が病気になったおかげで、家事、あるいは仕事の意味のようなものを考える機会をもらいました。これまでも頭ではいろいろと考えてはいたのですが、実際に家事の一部を主体的にやってみると、また思いも深まります。
それにしても、私の人生は女房による「家事」に支えられてきたことがよくわかりました。
言い換えれば、資本主義経済は家事により支えられてきたにもかかわらずに、その「仕事」はシャドーワークでしかなかったわけです。

仕事というと最近では「賃仕事」、つまり対価をもらう仕事をイメージしがちです。
しかし、人類の長い歴史のなかでは、賃仕事は仕事の中のほんの一部だったはずです。
対価を貰う仕事が主流になったのは、20世紀になってからかもしれません。
それは「貨幣」の世界の広がりとつながっています。
世界が貨幣によって支配されだすとともに、仕事の効用は貨幣で測られるようになってしまいました。
商品に対する「貨幣の王権」(プルードン)は、仕事に対しても支配力を広げていったのです。
貨幣の呪縛から脱却しない限り、私たちは仕事の主役にはなれず、主体的に生きる人生は送れないのです。
お金は主体性を得るためのものではなく、主体性を奪うものです。

大切なのは、仕事の「貨幣的対価」ではなく、仕事の「生活(社会)への効用(役立ち)」です。
貨幣経済の発展と共に、仕事の中心は賃仕事に移ってしまったわけですが、賃仕事を支えているのは、私たちの暮らしを支えている、さまざまな、貨幣的対価のない「仕事」のおかげです。
とりわけ「日常生活」を支える家事が、私の仕事をどれだけ支えてきたか、女房が家事を出来なくなってから、痛感させられています。企業での仕事や自分のビジネス活動に専念できたのは、家庭という生活基盤があったればこそであり、モチベーションの源泉がしっかりしていたからです。
その視点に立てば、労働対価の算定方法は基本から考え直すべきでしょう。

やってみるとわかりますが、「家事」は大変です。
際限がなく、日々、新しく、創造的でもあれば、想像的でもあります。
私はこれまで家事をほとんどすべて女房や娘に依存してきました。
そのありがたみを、自分で家事の一部をやり出してようやく理解できてきました。
私がこれまでやってきた仕事などは、家事に比べれば瑣末で簡単なものでしかないのかもしれません。仕事は誰でもできますが、家事はそうはいきません。

みなさんも企業などで社会的価値ある仕事に取り組まれていると思いますが、時にそれを支えているさまざまな「仕事」に思いを馳せることをお勧めします。
そうすれば、家事やボランティアへの評価も変わるかもしれません。
地域活動や広域のボランティア活動は、賃仕事の合間に社会還元的発想で考えるべきものではなく、そうした活動こそが賃仕事を支えていることが実感できるかもしれません。


■シビリアン・コントロールの歯止めの喪失(2007年8月15日)
我孫子で、地に足つけた平和活動に取り組んでいる豊田さんから教えてもらったのですが、参議院議員になった元サマワ先遣隊長、佐藤正久さんが集団的自衛権の論議の中で、イラク在留中に、国民を騙して戦争状態をつくりだすつもりだったとTBSの報道の中で発言していたそうです。
そのことはTBSニュースのサイトに紹介されています。
http://news.tbs.co.jp/20070810/newseye/tbs_newseye3630843.html
この記事は時間がたつと削除されるでしょうから、一部を引用再録しておきます。

イラクに派遣された陸上自衛隊の指揮官だった佐藤正久氏は、当時現場では、事実上の「駆けつけ警護」を行う考えだったことをJNNの取材に対して明かしました。
(中略)
佐藤氏は、もしオランダ軍が攻撃を受ければ、「情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる」という状況を作り出すことで、憲法に違反しない形で警護するつもりだったといいます。
「巻き込まれない限りは正当防衛・緊急避難の状況は作れませんから。目の前で苦しんでいる仲間がいる。普通に考えて手をさしのべるべきだという時は(警護に)行ったと思うんですけどね。その代わり、日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」(佐藤正久)

「駆けつけ警護」とは、味方である他国の軍隊が攻撃された場合、駆けつけて応戦することですが、正当防衛を超えるとして憲法違反とされています。しかし、集団的自衛権に関する政府の有識者会議では、それを認めようという議論になっているようです。
佐藤正久さんはテレビでのニュースショーなどにも参加してきていますが、その発言にはかなりの危うさを感じます。戦争の現場を知っているといいますが、世界を知らなすぎるように思います。最近は、そういう人も増えました。

テロ対策特別措置法が問題になっています。
小沢さんの強い「ノー」の表明で、この問題がようやくみんなの関心を呼び起こしそうですし、その実態があぶりだされそうです。
アフガンやイラクで、自衛隊の人たちが何をしているか、私たちはほとんど知りません。
テロ対策といいますが、テロリストは誰なのかの議論すらあります。
見方によっては、私たち自身がテロリストに加担しているということもありえます。

シビリアン・コントロールの出発点は、実態を国民が知ることです。
そうしないと現場しか知らない人が独走してしまいかねません。
太平洋戦争もベトナム戦争も、そうでした。
国民の知らないうちに、戦争は始まるのです。
シビリアン・コントロールを壊すのは簡単なのです。

それにしても、小泉郵政選挙以来、おかしな人が国会議員になりだしました。
選挙に行かなかった丸川さん、国民を騙して戦争状態をつくりだすことに何の違和感ももたない軍人、こんな人たちが国会に紛れ込み出したのです。
国会はもはや権威を失墜しています。
平和憲法を捨てて、戦争に向けて動き出そうとしています。

ちょっと過剰反応でしょうか。
しかし、日本もドイツも、そうやって戦争に突入して行ったのです。
今日は終戦記念日です。虚しさで元気が出ませんが。

私は6年前に、テロ対策特別措置法が議論されていたときに、大学卒業以来初めて女房と一緒に反対デモに参加しました。あの頃から日本は急速に右傾化し、戦争に向かっています。平和を捨てようとしている人たちが政府を牛耳り出したのです。

その閣僚の一人が、原爆投下は「しょうがなかった」と発言して大問題になりました。
私は、その発言はそう大した発言ではないと思っていましたが、問題は大きくなって生きましたし、その発言は許せないと言う声はどんどん高まっています。
しかし、私は、核の傘のもとに入り、情報公開も不十分なままに原子力発電に積極的に推進する政府を許していることのほうがもっと深刻なのではないかと思っています。

■不戦の誓いの出発点は憲法9条の堅持でしょう(2007年8月15日)
62回目の終戦記念日です。
広島・長崎への原爆投下日は、おそらくだれもが意識し、意識させられますが、終戦記念日はあまり意識することもなく過ごしがちです。
知人が今日を「日本建国記念日」にしようという提案をメーリングリストで流してきましたが、今日が祝日になっていないのは確かに不思議です。
8月15日は、私たちの新しい歴史の出発点ですから、もっとしっかりと意識する仕組みがあっていいように思います。

今日の全国戦没者追悼式で、安部首相は「不戦の誓いを堅持」と表明したと報道されています。
この表現は、小泉前首相と同じものだそうですが、憲法9条を変えて戦争の世界に復帰しようということを実践している人が唱える「不戦の誓い」とは何なのか、私には理解しがたいことです。
言葉遊びはやめて、具体的に不戦への行動を起してほしいものです。
その出発点は、不戦を誓い、不戦の仕組みを明言した日本国憲法9条を堅持することの明言です。
そして、核の傘に守られるような国策の見直しです。
核の傘に守られながら、ノーモア広島を叫ぶことには大きな違和感があります。
その発想は、久間前防衛相の「しょうがない」発想と同じなのではないかと思います。さらに、私自身は脱原子力発電もビジョンとして掲げるべきだと思います。
核兵器と原子力発電は、結局は同じものです。

戦争終結から62年。
「終戦記念日」をいつまで続けられるのか、不安です。

■戦後レジームからの脱却の意味すること(2007年8月16日)
河野洋平衆院議長が、全国戦没者追悼式で「海外での武力行使を自ら禁じた日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んできた」と語りました。
安倍首相は、「美しい国」を目指して、「戦後レジームからの脱却」を標榜しています。
河野議長がいう「新しいレジーム」と阿部首相のいう「戦後レジーム」は同じものなのでしょうか。
これまでの2人の言動を踏まえて考えれば、同じものだと考えるのがいいでしょう。
そう考えていくと、安倍首相が壊そうとしているレジームが見えてきます。

レジームとは「体制」という意味ですが、体制は「理念」と具体的な「仕組み」から成り立っています。
戦後レジームの理念は日本国憲法です。
具体的にいえば、国民主権、基本的人権の尊重、そして戦争放棄です。
それを否定する動きが、この数年高まっているわけですが、「戦後レジームからの脱却」とは、そうした理念を否定し、憲法を変え、国民主権を骨抜きにして、基本的人権は抑圧し、国民を戦争に引き込もうと言うことです。
すでにそうした動きは、昨日書いた佐藤正久議員のようにかなり現実的な話になって来ています。
書きすぎだといわれるかもしれませんが、簡単に言えば、そういうことでしょう。
要するに、核兵器を使える国になりたいということです。
飛躍があるというかもしれませんが、素直に考えればそういうことではないかと思います。

ちょっと長くなりそうなので、今日はここまでにします。

■戦後レジームと整合しなかった政治の仕組み(2007年8月17日)
昨日の続きです。

「戦後レジーム」という言葉に込められている仕組みについて、考えてみたいと思います。
おそらく安倍首相が述べているのは、こちらのほうに重点があるような気がします。
多くの場合、体制は仕組みと考えられがちですから。
しかし、いうまでもなく、レジームの本質は理念であって、仕組みではありません。
ただし、レジームの理念は現実の仕組みによって実体化されます。

その意味では、戦後レジームは必ずしも「国民主権」「人権尊重」「戦争放棄」ではなかったかもしれません。
そこで、話はややこしくなります。
理念と整合していなかった「戦後レジーム」を正す、という考えが成り立つからです。
もちろん、安倍首相の提唱する「戦後レジームからの脱却」は、これとは正反対の考えです。

実はそこにこそ問題があります。
全く正反対のことが同じ言葉に含意されるために、本来的な意味での議論も合意も成り立たなくなり、同床異夢のままに思わぬ結果に到達することがあるのです。
これが、民主主義の落とし穴の一つです。
改憲も靖国も、民営化も年金もすべてそうしたなかで、問題の本質は何も問われないままに誘導されてしまうこともあるのです。
気がついた時には、多分、後の祭りというわけです。

どうも本論に入る前の話がいつも長すぎます。
すみません。

話を戻せば、仕組みと理念が不整合であれば必ずいつか破綻しますが、その破綻を回避するためには、仕組みを見直すか、理念を見直すか、です。
多くの場合、仕組みは見直されることはありません。
仕組みは段階的に育っていくものであり、育つ過程で膨大なしがらみ(利得構造)を形成していくからです。
しかも、多くの人は理念よりも現実から考えることが好きですから、理念など語っても関心を持ちません。
そこで学者や評論家、さらにはマスコミが、理念を現実の視点から小賢しく「解釈」します。
宇井純さんが生前に指摘していたように、解釈する人は例外なく現実主義者です。理念も良心もほとんどありません。いや、あったらそんなことはできません。

ところで、日本の戦後レジームの理念を実現するために、どのような仕組みがつくられてきたでしょうか。
コアになったのは、官僚主導の中央集権の仕組みと経済と政治が一緒になっての経済成長優先の仕組みです。
その仕組みは、実は「戦前のレジーム」とほぼ同じです。アメリカ型の金銭経済優先の考えが新たに追加されましたが、それはレジームの変革にはつながりませんでした。
金銭経済優先主義は、格差や環境破壊を必然的に帰結しますが、それは経済成長路線を支える条件でもありました。
幸いにまだ「対外的な侵略」や「戦争」にはたどりついていませんが、その方向に急速に向かっています。

戦前と違う仕組みはなかったのでしょうか。
多様性が許容される代議制がつくられ、新しい国家理念を教える学校教育もはじまりました。しかし、いずれも徐々に「戦前の理念」に侵食され、形骸化されました。
それを加速したのが、金銭経済優先の競争文化です。

安倍首相が脱却を目指す「戦後レジーム」の仕組みとなんでしょうか。
それはもう少し書き込まないと行きつけません。
また「つづき」にさせてください。

■「白い恋人」事件と食育行政(2007年8月18日)
また食品業界の表示不正事件です。
北海道の観光土産として有名なチョコレート菓子「白い恋人」が賞味期限改ざんを行っていたことが判明しました。
どうしてこうも繰り返し繰り返し食品企業の不祥事が起こるのでしょうか。
その基本に、食品業界と行政の癒着関係があるように思います。
先のミートホープ社事件では、そのことが明白に見えましたが、今回もおそらく一種の馴れ合いや依存関係があったように思います。
そうしたものがなければ、これほど繰り返し同じような事件が起きるはずはありません。

40〜50年前に、「公害」が話題になり出した頃、「公害発生源」の企業を守り、被害を増大させたのはいうまでもなく行政です。
最近でこそ「予防原則」なる発想が市民権を得始めましたが、当時は公害防止よりも産業成長が行政の役割でした。薬害の時もそうでした。
その姿勢は今もって変わったわけではありません。
そうした事例は、このブログでも何回か書きました。
企業は「コンプライアンス」を口に出すようになりましたが、明らかな法の抵触さえなければ「不正」や「責任回避」は今もなおコストダウンのための手段ですし、それを支援するのが産業支援行政です。
言い過ぎに思えるかもしれませんが、繰り返される企業不祥事をみれば、それは否定できない事実でしょう。

もちろん個人が意識的に「不正」を行っているわけではなく、仕組みがそうなっているのです。
今回の石水社長も、気がついたら犯罪者になってしまっていたのです。
10年前であれば、おそらく隠し通せたでしょうし、行政も援護したでしょう。
しかし、昨今の情報環境はそうしたことを不可能にしてしまったのです。

行政の産業支援は決して悪いことではありません。
しかし問題は、産業に対する理解と支援の方向性です。
そこを一歩間違うとおかしなことになります。
静脈産業支援が環境破壊を増幅するような事例がいかに多いのか、そこをもっとしっかりと認識する必要があります。

とりわけ、食はわたしたちの生命に大きな影響を与えます。
食で身体を非健康にさせ、そこに健康食品や健康産業を創出させ、さらには医療市場を拡大させることも不可能ではありません。
いや、すでにそうした産業コンプレックスが動き出しているのかもしれません。
その動きを感じているのは、私だけでしょうか。

しかし、食は産業のためにあるのではありません。
産業支援の視点ではない食産業の評価システム、たとえば生命的な評価システムが導入されるべきではないかと思います。
どうやってそれを作るか。今の行政では無理でしょう。NPOなら可能でしょうか。
この問題は、とても刺激的なテーマです。

ところで、私が最近危惧しているのは「食育」ブームです。
食育もまた産業支援のためのものでなければいいのですが。
食育に関しては、いろいろと思うことが多いのですが、いつかまた書きたいと思います。
食育は文化にかかわることだからです。

■世界への批判は自らへの批判?(2007年8月19日)
最近、私自身の「気」が沈んでいるせいか、元気が出るようなことを書けずにいます。
文章には、書き手の状況がしっかりと出てしまうものです。
このブログは、考えがまとまってから書くのではなく、書きながら考えているので、支離滅裂だったり内容がなかったりすることも少なくありませんが、それは私の状況がそうだからなのです。
まさにこのブログは、私のとっては日記なのです。

このブログを初めてから、いくつか気づいたことがあります。
たとえば、自らが置かれている心情が世界の風景を決めていくということです。
また自分が直接関わっている小さな世界と自分からは遠いところにあるものも含んだ時代的な大きな世界も、重なっていることにも気づかされました。
世界は本当にホロニックな構造にあります。
もしかすると、このブログに書かれている批判は、すべて自らへの批判と言ってもいいでしょう。人は自分のことしか批判できないのかもしれません。
そう考えると、あまり説得力が出てきませんね。

そんなことを考えたのは、この3週間、ほとんど自宅で自閉的に暮らしているからかもしれません。
いや、最近の酷暑のせいかもしれません。

「酷暑」もまた、自らの生き方と考え方の結果なのでしょうが。
どんなに暑くても、涼しく生きている人もいるのですから。

■膨大な声が抹殺されている現実(2007年8月20日)
今この時にも、イラクやアフガンでは不条理にも市民が生命の危機にさらされ、時に三桁の数の市民が殺害されています。
それに比べれば、日本はなんと平和なことでしょう。
言い方が悪いかもしれませんが、熱中症に気をつけないといけないと心配するくらいで、ゲリラの被害や対テロ対策のコラテラル・ダメッジの対象になる心配などする必要もありません。
「たぶん」ですが。

しかし、そうした平和の風景の背後で、実はさまざまな怒りや不安の声が語られています。
ネットの世界で情報収集したり、情報交換したりしている人たちには、そうした「もうひとつの世界」が見えているはずです。
そこでの議論を読んでいると、日本も決して安泰ではないことに気づかされますし、日本とイラクとのつながりも感ずることができますが、そうした声はなかなか大きな流れになって、現実化するまでにはいきません。
言説の世界での元気な議論で終わっているのが多くの場合です。
まさに「もうひとつの世界」になってしまっているわけです。
とてもむなしい話です。やりきれない気分がします。

時に、そうした声の一部はマスコミに取り上げられたりすることもありますが、あまり表面にはでてきません。
新聞やテレビを情報源にしている人たちには、そうした声やそれに伴う動きは見えないかもしれませんが、ネット上やオフラインの場で語られる膨大な声が存在していることはもっと認識されてもいいように思います。
市民ジャーナリズムも広がっていますし、メーリングリストなどでの意見交換の広がりは加速してきていますし、そうした声が実際の行動に育っていくこともないわけではありません。その動きはこれからもっと大きくなっていくかもしれません。

しかし、残念ながら膨大な声のほとんどは抹殺されているのが現実です。
そこで語られていることの多くは、私にはとても共感できるものが多く、テレビなどで語られている瑣末なニュースよりも重要なことに思えます。
にもかかかわらず、瑣末な事件もマスコミが取り上げると大きな事件になり、私たちの目はそちらのほうに向きがちです。
そうした声を伝えるべきマスコミなどのジャーナリズムやジャーナリストが、逆にそうした声を見えなくしている現実も皮肉な話ですが、誰の視点からのジャーナリズムかによって、情報の価値評価は変わってくるので、それもまた仕方がありません。
ニュースは「存在」するのではなく、マスコミによって「創出」されることはいうまでもありません。
マスコミの見識は国民の幸せを決めていきます。

いずれにしろネット上で語られている膨大な声が、ばらばらに仲間内の内部発信に終わりがちなのがとても残念です。
同じようなイベントも少なくありません。
これだけのエネルギーが、現実の行動として結集し、顕在化したら、歴史は変わっていくように思えてなりません。

しかし多くのそうした声は、それを目指していないのかもしれないという気もします。
私もまた、最近はそんな気分になってきています。
どうしてでしょうか。

■権力者の勝手な論理とそれに迎合する「有識者」(2007年8月21日)
数日前に少し反省したにもかかわらず、やはり悪態をつきたくなりました。

テレビ番組(TVたっくる)での自民党の舛添議員の発言が、その契機になりました。
民主党のマニフェストに掲げられた具体的な数字に対するコメントのなかで、「政権をとる気がないから無責任の数字を上げてきたのが民主党」というような発言をしたのです。
さらに、今回の選挙結果で、ようやくこうして緊張感をもって議論できるようになったと言うような発言もありました。これに関しては、出演していたタレントや政治家も同じような主旨の発言をしていたように思います。
なんということでしょうか。
自民党議員の本質とそれに迎合する有識者やタレントたちの人間性が垣間見えます。

私は、前にも書きましたが、民主党は嫌いですし、数字を中心にしたマニフェストにも違和感があります。
しかし、舛添議員のような御用学者の存在にはもっと虫唾が走ります。
こうした似非学者が日本や企業をだめにしてきたと考えているからです。

政権をとる気がないから無責任な数字が言える、という発言に関しては、政策を実行する気がないから数字をださずにごまかしてきた、という返答が成り立つでしょう。
これまでの自民党にはビジョンのある政策などありませんでした。
政策などなくてもやってこられたのです。膨大な国民の財産を浪費することによってです。
そして日本をだめにしてきたわけです。

よく自民党には実績があり、民主党には実績がないと言われます。
こんな馬鹿な議論はありえないと思うのですが(政権を担っていないでどうして実績がつくれるでしょうか)、多くの国民はそうした論理をなぜか受け入れます。
確かに自民党は政権としての実績はあります。
問題はその実績の内容です。日本を壊した実績というのもあるわけです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、数字に対して批判するのであれば、きちんと具体的に数字で反証すべきですが、舛添議員はなんと自民党は数字は出しませんというのです。

民主党が自民党に勝ったので、やっと議論できるようになったという発言も、民主主義の基本を逸脱しています。
J.S.ミルは、民主主義とはマイノリティの意見の尊重だと言っていますが、数の暴力主義を信奉する自民党には通用しないのかもしれません。
また一部の「有識者」や「タレント」が、国民は民主党に政権を任せようなどとは思っていない、などと知ったような発言をしていましたが、なぜそんなことが言えるのでしょうか。

ともかく最近の政治論議は、腹立たしいことが多いです。
なにしろ嫌いな民主党を応援したくなるのですから。
困ったものです。

■重要な問題と瑣末な問題(2007年8月22日)
今日は反省です。

1か月以上前の話です。
夜の11時過ぎでしたか、就寝してまもなく電話がなりました。
友人からでした。
あることで悩んでいて、それを聴いてほしいという内容でした。
その悩みとは私にとっては、よくある話で「瑣末なこと」のように思えました。
そこでついつい笑ってしまい、そんなことで悩むのはやめたほうがいいと話しました。
当時、私も女房の病気の「問題」に直面しており、毎日疲れきっていたために、何でそんな話でわざわざ電話してくるのかという気持ちもありました。
彼女は「やっぱり笑われたか」と(後で考えると)さびしそうに言いました。
しばらく話して、電話を切ったのですが、以来、彼女からは電話もメールもきません。
人生の大きな決断をしたのかもしれません。
瑣末に思えることが人生や歴史を決めることは決して少なくありません。
電話を切ってから、そのことが気になってきたのですが、私自身の問題も大きくなっていく中で、2週間もしたら忘れてしまっていました。

昨日、女房の病気の関係で何人かの病院の人に電話しました。
この数日、ずっと悩んでいた問題の相談です。
しかし、その問題は、専門家にとってはどうも「瑣末な問題」だったようで、相談には乗ってもらいましたが、結局は私の中では解決を得られない結果になりました。
具体的な内容を書かないと伝わらないかもしれませんが、私の不安に対して、そんなことよりも今はもっと大事なことがあるからその問題は先送りにしたらというようなことです。
悪くいえば、事務的に対応されたということです。
まあ、論理的には私も納得したのですが、私の不安はむしろ相談する前よりも大きくなってしまいました。
相談に乗ってくれた人たちから見放されたような気もしました。
その時に、なぜか1か月以上前の電話のことを思い出したのです。
そうだ、私も同じようなことをしたことがあったのだ、というわけです。

客観的に考えて「瑣末かどうか」などというのは、現実の問題に直面している者にとっては無関係なことです。
その瑣末な問題が大きな問題の本質につながっているのです。
すべては「瑣末なこと」から始まるのです。
そのことに気づきました。

ケアマインドで支えあう社会が、私のビジョンです。
しかし、どうもまだ私のケアマインドは自分しか見ていないようです。
自分が弱い立場に立つと世界はようやく見えてきます。
そのことを毎日のように気づかされています。

■危機管理能力って何でしょうか(2007年8月23日)
自民党や公明党は、今回の選挙の総括を行った結果、敗因は「危機管理能力の欠如」だったと言う結論に達したそうです。
なんだか問題の本質を摩り替えているように思います。
大敗したが政策は理解されたという安倍首相の発想と同じです。
「危機管理能力」を原因にするということは、「実体」には何の問題もないという意識につながりますから、本質は何も変わらないですませられます。
「政策」や「内容」で考えるのではなく、「手法」や「言葉」で考えていては、結局は何も変わりません。その根底には責任転嫁の発想があります。

もっともこうした見方はマスコミの論調でもあり、その影響で多くの国民もまたそう考えているようです。
そうした発想からは、このブログにも投稿があったように、国民は民主党に政権をとらせたいと思ってはいないというような推測が出てくるわけです。

しかしそうでしょうか。
もっと本質的なところで、つまり政策・施策内容や政治家としてのビジョンや思想に関わるところで、こうした結果が出たのではないかと思います。
私の周辺では、少なくともそうした意見の人が少なくありません。

それに「危機管理能力」ってなんでしょうか。
新しい言葉にごまかされてはいけません。
多くの人はカタカナ言葉にだまされるなといいますが、そういう人に限って、日本語にだまされるのです。言葉のごまかしは日本語でこそ行われます。
意味も内容も考えずに、民営化と言う言葉にだまされているように。

危機管理はリスクマネジメントの訳語です。
危機とリスク、管理とマネジメントは、微妙に違います。
それに関してはいろいろな場で話してきましたし、CWSコモンズにも関連した小論も掲載していますが、危機管理能力の欠如などと簡単に総括せずに、もっとしっかりと総括すべきだと思います。
危機管理能力の欠如は、あくまでも二次的な話です。

たとえばミートホープや白い恋人の社長が、事件を総括して、自社の危機管理能力が欠如していたと発表したら、みなさんはどう感ずるでしょうか。
問題が違うと思うかもしれませんが、問題はつながっています。
自民党の敗因は、危機管理能力の問題ではありません。
自民党の実体に原因はあるのです。

■月光族主導パラダイムからの脱却(2007年8月24日)
中国では月光族が経済を主導しているようです。
月光族とは、毎月の収入を毎月使い切って消費生活を楽しんでいる人たちだそうです。
資本主義の牽引力は、「生産」ではなく「消費」にありますから、遅れて参加した資本主義経済にとっては月光族育成は効率的なスタイルです。多くの国民が、消費機関となって経済を先導してくれるわけですから。
しかし、その効率性のゆえに、早い段階で破綻に向かうのではないかと思います。
中国経済はあまりに規模が大きすぎるからです。

日本の資本主義も「消費美徳論」が広がってから勢いを強めたのですが、その前に「貯蓄の文化」が支配していた時代がありました。
貯蓄文化は、しかし日本古来の文化ではありませんでした。
宵越しの金は持たない生き方、清貧の生き方は、日本人の生き方でした。
いや、もしかしたら、それが生命体としての自然な生き方なのかもしれません。
日本の資本主義、近代経済は、意図的につくられた「貯蓄の文化」によって育ってきたともいえます。
貯蓄が金融機関を通して、結局は「消費」されていたわけです。

要するに「貯蓄」と「消費」とはコインの表裏に過ぎません。
このことを象徴するのが年金財源の浪費です。
消費に駆り立てる資本主義のパワーは、行政の分野で大きな威力を発揮し、膨大な借金財政を実現しました。その流れの中で、年金財源が不正に浪費されていったわけです。
これを主導したのが産官コンプレックスに操作された「政治」なのではないかと私は思っています。
日本の政治には主体性が不在でした。ですから志も思いもない人が国会議員になれるわけです。サルほどの知恵もない国会議員が増えてしまったのはそのためです。
主体性を持てなかったのは、せっかく新しい平和国家というコンセプトを手に入れながら、それを活かす確かなビジョンがなかったからです。

日本はともかく、月光族に主導される中国の経済はどうなるでしょうか。
このままだと破綻は免れないと思いますが、それを補償し、次の段階に移行するシナリオはあるのでしょうか。
もしそれに失敗すれば、世界に激震が走り、混乱と不幸が広がりかねません。
それを回避するために、また新たな市場を創出するための戦争や環境破壊が意図的につくられるかもしれませんが、そうしたこれまでのような発想ではない、新たなシナリオが描かれないものでしょうか。
そのためにこそ、世界の知を結集しての取り組みが行われるべき時期だと思いますが、そうした「大きな物語」への取り組みは、最近、あまり聞こえてきません。
未来への関心は失われてしまったのでしょうか。
改めて未来を構想し、その実現に取り組む活動が期待されます。

■がんとの付き合い体験をお話します。必要があればですが。(2007年8月25日)
女房はいま、がんで闘病中です。
CWSコモンズで時々書いていますが、4年前に胃がんの手術をし、それが昨年再発、7月末に体調が悪化し、現在は在宅療養で、私もこの1か月はほぼ付き添っています。
状況はかなり厳しいですが、希望を持って、家族みんなで前向きに取り組んでいます。
私は女房が治って元気になると確信しています。

このブログにもその体験から感じたことを少し書いていますが、そうした記事へのアクセスが少なくありません。昨日も関連記事をまとめて読んでくださった方がいます。
私もそうですが、「がん」に関する情報はネット上に膨大にありますが、なかなか知りたいことが見つからないものです。情報発信者が見えないこともあり、読み方も難しいです。
同時に、自分が気づいたことや知ったことは知らせたくなります。同じ苦労をさせたくないという気持ちになるのです。
しかし、人間の身体はそれぞれ違い、自分たちの体験が正しいとは言えませんから、それを伝えることがいいのかどうかは迷います。多くの場合は、伝えずに終わりますが、でも心の中では話して伝えたいと思うことも少なくありません。

患者やその家族の会や集まりも少なくありませんが、私たちはそうした会には参加していません。しかし同病の人たちとの交流はあり、女房はその人たちに一番元気付けられています。
体験者の話は参考になることがすくなくありません。

そこで、もしこのブログを訪れて、もう少しこんなことを知りたいという方がいたら個別にメールをいただければ、知っている限りのことをお伝えしようと考えました。
がんに関することは極めて個別であり、それぞれの人によって表情も実情も違いますから、お役に立てないことがほとんどでしょうが、お役に立てることもあるかもしれません。
私たちは、ある情報をもう少し早く知っていたら良かったという体験を何回かしています。いずれも「後知恵」ですので、早く知っていても対応できたかどうかはわかりませんが。

がんは、一筋縄では行かない病です。
医学の知だけではなく、もっとホリスティックな対応が必要な気がします。
お答えできるかどうかはわかりませんが、メールをいただければ可能な範囲で返信させてもらいます。
ただ、現在も女房と一緒に闘病中ですので、女房の状況次第で返信が遅れることもあることをご了承ください。

女房の在宅介護のため、最近はあまり誰かの役に立つことができません。
こんなことで社会の役に立つなどとは思えませんが、役に立てれば本当に嬉しいです。

■一兵卒政権としてテロ特別措置法(2007年8月26日)
テロ特別措置法の延長に民主党の小沢代表が「ノー」と明言しました。
私は、この法律が議論になりだした時から、違憲立法であり、戦争を増長するものという判断で、反対でした。
それに「テロ」を対象にするという発想にもなじめませんでした。
テロは誰だという問題を明確にしないと恐ろしい法律に転化しかねないからです。
久しぶりに女房と一緒に反対のデモにも参加しました。
小泉クーデターによる軍事国家化につながる法律には賛成できません。
ニーメラーの教訓に学んでも、なかなかその教訓を活かすことは難しいです。

小沢代表が反対を言い出したときにはにわかには信じられませんでしたし、駆け引き的なものにも思えましたが、まあ素直に喜びました。
彼は、前原さんや岡田さんのような、戦争を知らない戦争好きな戦争ごっこ世代とは違いますから、もしかしたらなどとありえない期待までもしたくなりました。

まあ、それは夢なのかもしれませんが、この小沢民主党の行動に対する有識者やマスコミの論調には腹立たしさがあります。
たとえば、この法律を延長しないことは国際社会の一員としてはありえないなどという大学教授や政治家がいます。
最初、私は耳を疑いましたが、それはそれほど少数意見ではないようです。
どうしてそういうことになるのでしょうか。
歴史をもっと勉強してほしいものです。

さらに、この法律の延長を認めることが、政権担当能力があることの証だというような意味の発言もテレビで聞きました。
政権担当能力とはいったいなんのでしょうか。
アメリカのいいなりになって、世界の平和を壊す一員になる事が国際社会のメンバーシップの要件なのでしょうか。そして、その切符を手に入れることが政権担当の資格要件なのでしょうか。
なにかやりきれませんね。

小池防衛相は、次の政権では防衛相を引き受けず、自民党の一兵卒としてがんばりたいと昨日述べました。
「一兵卒」。驚きの言葉が出てきました。
軍国主義政府の担い手を自認しているのでしょうが、恐ろしい言葉です。
ブッシュ政権の一兵卒政権の一翼を担っていることを象徴しているのでしょうか。

■平和は輸出できません(2007年8月27日)
昨日書いたテロ特措法に関して、アフガンとイラクは違うと言う議論があります。
国連との関係で言えば、確かに違います。
しかし、もっと大きな枠組みで言えば、同じ話です。

イラクでもアフガンでも相変わらず死者が続出しています。。
いずれの場合も、日本は国際平和や人道支援を理由に関わっています。
しかし本当に関わることが平和のためなのか。
いまではもう昔の話ですが、イバン・イリイチが日本で行った講演で、次のように述べていたことを思い出します。

ある文化から他の文化へ平和を輸出することは不可能である。もし輸出したならば、その独自の平和は枯れてしまう。したがって平和の輸出なるものが行われたとしたら、それは実際には戦争でしかない。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)

平和に関する捉え方はいろいろありますが、平和とは本来、まじめに生きている人たちが自分たちの文化のなかで気持ち良く暮らし続けること、と考えていいでしょう。
そうした平和概念は、近代工業の勃興に伴い大きく変質しだすわけですが、1949年のトルーマン演説によって、加速的に変質しました。
経済成長志向に基づいた「開発」戦略が世界の主流になってしまうのです。

かつてキリスト教徒が宣教という侵略行為を行ったのと同じ発想で、資本主義経済が世界を「豊か」に「開発」しだしたのです。
そして、今や平和は開発によって達成されるという通念ができあがったとイリイチはいいます。
そうした平和を彼は「パックス・エコノミカ」と呼びますが、まさにそのパックス・エコノミカが古来の「民衆の平和」を壊してきたというのがイリイチの考えです。
この視点で、20世紀を振り返ると、まさに20世紀は「開発の世紀」であると同時に、「戦争の世紀」だったこの意味がよくわかります。
そして、そうした展望の中で、テロ対策やアフガンやイラクへの関わりを考えると、平和憲法を手に入れた日本の役割は、もう一つの選択があるのではないかと思われます。
「平和」という言葉は実に多義的な言葉なのです。
テロ特措法のもつ意味もまた、決して一義ではありません。

ちなみに、テロ特措法の延長と経済成長重視政策とは深くつながっているわけです。

イバン・イリイチの「暴力としての開発」は、ぜひ多くの人たちに読んでほしい論文です。
特に、いま「平和活動」に取り組んでいる人たちに、です。

■男女共同参画社会と男女役割分担社会(2007年8月28日)
昨日引用したイリイチの小論を引っ張り出して改めて読み直しました。
全く記憶に残っていなかった、次の文章に出会いました。
我が意を得たりという気がしました。
ちょうど数日前に書いた賃労働にもつながる話です。

社会にとって何が必要な仕事なのかということは、それぞれの文化が決定することであり、それぞれの社会によって異なる。また、どの仕事を男の仕事とし、どの仕事を女の仕事とするかについても、それぞれの社会ごとにユニークなパターンがある。

ところが、資本主義経済は、男女の役割分担に基づく仕事という発想を否定し、「労働の中性化」(イリイチ)を推し進め、表情のない貸金労働を仕事の主流にしてしまったのです。
そして、仕事の価値は、生活や社会の維持の視点からではなく、経済的な視点から評価されるようになってしまいました。
しかも、それが男性に有利に仕組まれたために、それまで共存してきた男女間に競争を持ち込んだとイリイチはいいます。

私が会社に勤めていたころ、「お茶汲み」は女子社員の仕事なのか、と言う議論が話題でした。
「お茶汲み」はもう死語になっただろうなと思ってネット検索してみたら、なんと今もなお問題になっているようです。
会社時代、私は、「お茶汲み」の仕事と経営戦略スタッフだった私の仕事と比べたら、「お茶汲み」のほうが大きな価値を持っていると思っていました。
職場の女性社員にもそう話していましたが、だれも賛成してくれませんでした。
しかし、会社の長期計画をたてたり、事業開発に取り組んだりする私の仕事よりも、人と人をつなげたり、人の気持ちを幸せにすることにつながる「お茶」を用意する仕事のほうが価値があると考えたのです。
それに仕事としても「奥の深さ」がありそうですし。
しかし、それはみんなには理解されないことでした。
なぜそんな「当たり前のこと」が理解されないのか、私は不満でしたが、そうしたことがたくさんありました。企業を辞めたいまも、たくさんあります。

そのひとつが、男女共同参画の動きです。
以前も書きましたが、私は昨今の男女共同参画の動きには大きな違和感を持っています。もちろんフェミニズムにも、です。
頑迷固陋な女性蔑視の人間のように誤解されそうですが、男女共同社会などという発想は、私にはそれこそ人間蔑視の象徴のような発想なのです。
なぜ私がそう思っているのか、イリイチはとても説得力を持って語ってくれています。
そう思いませんか。

大きなところでおかしな発想は、小さなところで正しければ正しいほど、おかしなことになるのです。
男女共同参画と発想は、参画に喜びを感ずるほどに自らを卑下している「臣民の発想」ではないかと思います。

地に足つけて主体的に生きている人たちは、しっかりと男女役割分担しています。
テレビの「鶴瓶の家族に乾杯」をみれば、そのことがよくわかります。
それに比べて、たとえば政治の世界の女性たちの動きを見れば、男女共同参画社会の本質が垣間見えてきます。小池議員は、そのことを明らかにしてくれているような気がします。
そろそろ男女共同参画などという侮蔑的な発想から自由になりませんか。

■「介護で苦労するくらいなら消費税は高くてもいい」(2007年8月29日)
言葉をあげつらうのではありませんが、ちょっと気になる発言があります。
厚労相に新任された舛添要一さんが、朝日新聞の取材に応じて、次のように答えています。

母親を介護した経験があるが、あんな苦労をするぐらいなら、消費税率が10%、15%になっても喜んで払うと言う気持ちはいまでもある。

いま、私は女房の介護をしています。
たしかに大変です。身体的にも時間的にも、そして経済的にも、です。
しかし、この発言にはなぜか違和感を持ちました。
舛添さんの思いも良くわかりますし、共感もするのですが、どこかでひっかかるのです。
女房の介護をする前であれば、違和感を持たなかったかもしれません。

それに私は消費税を中心にした税体系にすることには大賛成です。
15%どころか20%でも良いと思っています。
現在の社会の経済的基盤は消費だからです。
それに納税が公平である上に、見えるようになるからです。
税はある意味での「保険」ですから、個別の苦労を回避するために納税すると言う発想も理解できます。

なぜ違和感を持ったのでしょうか。
それはこの発言の奥にある、「介護の苦労はしたくない」「できれば消費税は低いほうが良い」という、舛添さんの深層意識への反応かもしれません。
それは舛添さん個人の意識というよりも、いまの日本社会が持つ集団意識、文化かもしれません。
そうであれば、私もまたそうした思いから、たぶん自由ではないでしょう。
どこかに同じ思いがあることは否定できません。

しかし、私が今、感じているのは、「介護」や「看護」は、経済主義では解決しないし、解決させるべきではないということです。
介護や看護は、実は人が生きていく上での中心的な課題、仕事なのではないかと言うことです。
生活そのものかもしれません。これは福岡の西川さんからも教えてもらったことです。
イリイチがメッセージしているのも、そういうことかも知れません。

家庭での「介護」や「看護」は、資本主義経済にはなじまないでしょう。
資本主義経済になじむのは、介護の社会化、福祉の産業化です。
しかし、改めてそうした流れを問い直すことも大切ではないか。
そこにこそ、新しい社会のあり方を考えるヒントがあるのではないか。
新しいライフスタイルや文化を考えるヒントがあるのではないか。
そんな気がしてなりません。

「介護を苦労と思わないような社会」
「できれば消費税をはじめ、税金をたくさん納めたくなる社会」
そうした社会は決して夢ではありません。
たとえば佐賀北高校野球部への寄付が広がっています。
自然災害地への応援や難病家族への支援も広がっています。
助け合いの文化は人類古来の文化だったのではないかと思います。
それが回復できないはずがありません。

ちなみに、この記事は決して舛添さんを批判しているものではありません。
念のため。

■もしかしたら「危うい話」(2007年8月30日)
「少し危うい話」「かなり危うい話」を以前書きました。
今回は「もしかしたら危うい話」です。

私は静電気を帯びやすい体質です。
空気が乾燥している冬季には、車や玄関のドアを開けようとすると火花が出て、身体にかなりの衝撃を受けるので、怖さを感じます。
身体の一部が振動し、静電気を放出しているのではないかというような気になることもあります。音すら感ずることもあります。
時には自分は電気仕掛けのアンドロイドではないかと思うことさえあります。
やや思考回路に欠陥があるアンドロイドですが。

静電気はたぶん生命エネルギーにつながっていると思いますが、そうした静電気が念力につながらないものかといつも思っています。
これまでいろいろと試みたことはありますが、残念ながらまだ効果を確認できません。

女房のがんが再発して以来、いろいろと挑戦をしています。
私にもし念力があれば、女房を元気にできるはずです。
呼吸が苦しい女房の胸に手をかざして、全宇宙のエネルギーを自分に集中させると、数分で私の手の甲が温かくなってきます。
そこで女房の患部に向けて、放出するわけです。
一度だけ、ちょっと呼吸が楽になったといわれましたが、その時以外は、苦しんでいる女房からそんなことよりマッサージをしてほしいといわれてしまっています。
そこで彼女に気づかれないようにやっていますが、残念ながら効果がでてきません。
時には女房から手で払われることすらあります。困ったものです。
しかし、手で払われるということはきっと何がしかの念力が出ているわけです。

女房がお腹のガスが出なくて苦しんでいる時にも同じように手かざしで念じました。
エネルギーを集中するのは結構大変で汗びっしょりになります。
その時もそうでしたが、おならが出たのは女房ではなくて私からでした。
力が入りすぎたのです。いやはや、女房からは笑われてしまいました。
ガスよりも笑いのほうが癒し効果はありますので、まあこれは成功です。
しかし念力の効果はなかったわけです。困ったものです。
そんなことで、女房からも家族からも私の念力は信頼されていませんが、繰り返すことによってパワーアップできるかもしれません。

最近は光明真言を唱えています。
最近ようやく本気で唱えることができるようになりました。
きっとそのうち、効果が出てくるでしょう。

人間には誰にも念力があるはずです、
すべての生命は宇宙につながっており、その生命力の源泉は宇宙です。
宇宙は無限に広がっていると同時に、インドラの網のように個々の生命体のなかに凝縮されています。ですから宇宙の全エネルギーは、本来、個人の身体にも宿っているのです。
その念力を思い出さなければいけません。
仮に私が出来の悪いサイボーグだったとしても、宇宙のエネルギーの一翼を担っているとすれば、必ず念力は持っているはずです。

いつもと違い、不真面目の記事だと思われるかもしれません。
そんないい加減な看病をしているのかと呆れられるかもしれません。
しかし、不真面目でもいい加減でもなく、私は極めて真剣に念力開発に取り組んでいるのです。

念力が奏功して、女房の元気が回復することを心底目指しています。
ですから、みなさんもぜひ私にエールを送ってください。
みなさんからの念力が私の力不足を、きっと補ってくれるでしょうから。
さて今日も汗をかきながら、念力を試みます。光明真言を唱えながら。
あまり皆さんには見せたくない姿ですが。

ちなみに、「もしかしたら危うい話」とタイトルをつけましたが、その意味は、この記事を読んだ人が、「もしかしたら」私を「危うい人」と考えて、このブログの説得力が一挙に瓦解する「危うさ」があるということです。
まあ、もともとこのブログには説得力などないよという人が多ければ、これは杞憂におわるのですが。はい。

■政治家と金の問題(2007年9月1日)
相変わらず「政治と金」の問題がテレビをにぎわしています。
しかも、その内容は、細かな事務的な問題や手続き的な不正などになってきました。

政治家と金の問題は、政治の根幹に関わる重要な問題です。
しかし、言い方を変えると、政治と金は本来が同じ話なのです。
少なくとも今のような近代政治の場合は、金銭(経済)に主導された政治システムであり、政治家になるモチベーションも金銭動機(私財消費も含めて)が大きいのだろうと思います。
権力動機や目立ちたがりは、現在の金銭万能社会においては、金銭動機と同義といっていいでしょう。
国際政治においては、「平和」や「人権」さえも開発という大義のもとに金銭経済に取り込まれたことは先に引用したイリイチが喝破したとおりですが、国内においても、社会の市場化の尖兵を、政治は担っています。
小さな事例ですが、クールビズなどもその典型例でしょう。

領収書の複数使用などは不正行為であって、単に法律に即して罰すれば良い話です。
大切なのは、そんな問題ではないだろうと思えてなりません。
そもそも政治の役割や位置づけを見直すべきです。
国会議員になったら高級車がもてて、新幹線のグリーン車に乗れるなどい馬鹿な仕組みを変えればいいだけです。
議員を権威づける仕組みが、議員と国民の距離を拡大しているのですから。
国会議員の報酬も国民の平均所得以下にすべきだろうと思います。
国会議員は、「お上」(資本)の雇われ人ではないのですから。

支離滅裂な議論のように思われるかもしれませんが、それは現在の政治パラダイムの呪縛のなかで考えるからです。
白紙から政治というものを考えていけば、こうした議論(各論ですが)が現実性をもつような、いまの政治とは全く違う、金銭に隷属せずにむしろその不都合を調整する形での政治のあり方(総論)があるはずです。

いずれにしろ、現象的な細かな問題に目を奪われて、構造的な政治と金の問題が見失われることを危惧します。

ちなみに、政治家になった途端に、過去現在の身辺が洗われ、金銭的なものに限らず、いろいろと「暴き出す」風潮にもとてもいやなものを感じます。
そんなことは最初からわかっているだろうにと思うことも少なくありません。
「有名人」や「出たがり人」を担ぎ出すということはそういうことなのですから。
それに人間は完璧な存在ではありませんから、その気になれば、攻撃する材料は見つけられるでしょう。
しかし、そんなことをしてどれほどの意味があるのでしょう。
そうしたニュースを歓迎する人たちにも失望します。

■私にとって人生で一番悲しい日(2007年9月6日)
CWSコモンズに書いたように、信じがたく、残念なことですが、私にとってはかけがえのない妻が息を引き取りました。
気持ちが落ち着いたら書き込みを再開します。
医療も葬儀も悲しいことが多すぎました。
私の妻は「花や鳥」になりたいと言っていたので、最後にその話をさせてもらいましたが、
葬儀社に頼んだら、いま流行らしい風にさせられてしまいました。
さびしい時代だと思いました。

■静かな1日(2007年9月8日)
妻が息を引き取って、6日目です。
やっと少し落ち着きました。
今日は4人の人が節子に会いに来てくれました。
お通夜、告別式には、あまりご案内をしなかったにも関わらず、たくさんの人が来てくださいました。
当初は、こじんまりとした見送りを考えていましたが、ちょっと大きくなってしまいました。
しかし、形だけではなく、心のこもったものになったと思います。
節子はきっと合格点をつけてくれるでしょう。
自宅に来てくださって、お見送りしてくれた方も少なくありませんでした。
告別式でお話したことを思い出しながら、私のホームページに再録しました。
よかったら読んでください。
妻の葬儀でしたので、私の知人友人には原則として連絡はしませんでした。
そのため、後から知った人も少なくないと思います。
ご連絡差し上げられなかった方々には、深くお詫びいたします。
これは節子の強い希望でもありました。
告別式が終わり、少しずつ訃報が広がっているようです。
今朝も花が届きました。
このブログやCWSコモンズのホームページを見て、知ってくださった方からのご連絡もあります。
それで、このブログも少しずつ書き続けることにしました。
しばらくは個人的な日記になるかもしれませんが、お許しください。
自宅で呆けています。
何かしていないと、涙が途絶えないのです。
お近くにきたらお立ち寄りください。
何も手がつかず、虚脱していますが、できるだけ自宅にいるようにしています。
11日はちょっとでかけますが。

■突然の死(2007年9月10日)
愛する人の死は、いつも突然にきます。
私の妻は4年前に胃がんの手術をしましたが、以来、常に死を意識していました。
彼女も、私も、です。
しかし、私自身は、絶対に死から守ろうと思っていました。
妻もまた、絶対に元気になると前向きに考える人でした。
ですから、2人とも死については一切考えないようにしていました。
特に私の場合は、冷静に考えれば、死がすぐ近くに来ている、その時まで、妻が元気になることを確信していました。念ずれば奇跡は起こる。
その確信が消えたのは、妻が息を引き取る数分前です。

突然に愛する人を失う事故や事件の報道を耳にするたびに、その無念さを、いつも思っていました。
最後の会話もできず、両者にとって、どんなにか無念だったことか。
しかし、長い闘病生活を耐えて、息を引き取った女房との別れもまた、最後の会話をする間もない、突然の別れだったのです。
愛する人との別れは、いつも突然なのです。

妻が、おそらく死を意識したのは8月の中ごろです。
死など、毛頭思いもしない、能天気な私のために、彼女はそれを意識の底に抑えたまま、生きる努力をしてくれました。
生きることは自分のためではない、愛する人のためなのです。
彼女がまだかなり元気だったころに、私にそう語っていました。
妻は私には人生の師でした。
生き方において、私はたくさんのことを教えてもらいました。
私が教えたことも決して少なくありませんが、本質的なことでは教えられることが多かったです。

妻が残してくれたさまざまなものを、むすめたちと少しずつ整理しだしました。
彼女もまた、突然の死だったことがよくわかります。
彼女の性格からすれば、死を予感して、きちんと身支度したかったのかもしれません。
しかし、あえてそれをせずに、思い込みが強い私に合わせてくれました。
治してやるなどという、できもしない約束に辟易しながらも、それが実現するように、がんばってくれたのです。
そして、突然の死。
突然だから耐えられているのかもしれませんが、無念でなりません。

■妻に風になってほしくありません(2007年9月11日)
「千の風になって」は好きな歌の一つです。
闘病中の女房も好きでした。
しかし、私は死んだ後、風になりたいとは思っていません。
女房がどう思っていたかは残念ながら確認しませんでしたが、やはり風にはなりたくないと思っていたと思います。
なぜなら私たちは、輪廻転生を確信しているからです。
私は、来世でも今生の女房だった節子にプロポーズするつもりです。
もっともそれが受け入れられるかどうかは、残念ながら確実ではありません。
女房は生前、私の数回の提案に対して、「考えておく」としか言わなかったからです。

解脱という言葉があります。
仏教では解脱が目的ですが、私たちは解脱よりも輪廻転生を望んでいます。
解脱の前に、まだまだやり残したことが多いからです。

女房は息を引き取る少し前に、家族にこう書き残しました。
「花や鳥になってチョコチョコもどってくる」
その話を告別式の挨拶で、私から皆さんに紹介しました。
ところが、その直後、司会の人はなんと、
「千の風になって・・・」と語り出したのです。
この葬儀は失敗だったと、女房にとても申し訳なく思いました。
私が司会をすべきでした。
参列者のお一人は、メールでこう書いてきました。
式場の“担当者”が「千の風になって」と言ったときに、
私の神経の束を無遠慮にはじかれたような、強烈な違和感を感じました。
「喪主のご挨拶」で「花と鳥」とおっしゃったのに、「それでもプロか!」と、
身体が熱くなるような思いでした。
一人ならず、何人かの人が同じことを言ってきてくれました。

今回、やや気が動転していたせいか、葬儀を葬儀社の人に任せてしまいました、
途中、いろいろとトラブルもあり、少しは進め方を変えましたが、大人気ないという思いもあって、大筋は任せてしまったのです。
しかし、この言葉を聞いた時に、反省しました。
節子にとって、とても大切な場だったのにとんでもないことをしてしまった、と悔やみました。

千の風になるというのは、本人が言うべき言葉です。
本人以外の人が言うべき言葉ではありません。
ましてや、故人のことを全く知らない「担当者」が言うべきことではありません。

花や鳥になる、と、風になる、とは同じようなものではないかと思う人がいるかもしれません。
そんなことはありません。
もちろん「風」になりたい人もいるでしょう。
しかし、何になりたいかは、その人の人生に深くつながっているのです。
そんなこともわかっていない人に、葬儀の進行を任せたことが悔やまれてなりません。
葬儀は、やはり自分でしっかりと企画しないといけないですね。
葬儀関係の仕事をしている友人から、佐藤さんらしくない失敗ですね、といわれそうです。恥ずかしいかぎりです。
言うまでもなく、今回の失策の責任は、私にあります。
妻に謝りました。
これからもまだまだミスが続きそうです。

■欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。(2007年9月12日)
欽ちゃん球団が、野球の全日本クラブ選手権で優勝しました。
欽ちゃんがテレビで嬉しそうに話しているのを見て、また節子のことを思い出しました。

欽ちゃんは今年の24時間テレビのランナーになって、走りました。
最後は辛そうでしたが、完走を果たしました。
そのテレビを闘病中の節子は見ていましたが、その終わりごろにフッとつぶやきました。
「欽ちゃんは1日がんばればいい。でも私は毎日がんばらないといけない」。
そう言って、テレビから目を話しました。
その言葉は、私には忘れられません。

毎日がんばっている人がいます。
欽ちゃんは完走できましたが、節子は完走できずに息を引き取りました。
節子さんも完走できたんだと慰めてくれる人がいるでしょうが、完走できたかどうかは一緒に走っていた私にはよくわかります。
無念で辛いことですが、節子は完走できませんでした。
その事実は否定できません。
しかし、完走できなかったから努力が報われなかったというわけではありません。
努力やがんばりは、その行為自体によって報われていると私は思っています。
節子もそう思っているはずです。

節子は医師たちが驚くほどに気丈夫でした。
弱いところがある半面で、辛さに耐える人でした。
耐えながらも、弱音を吐くという素直さもありましたから、私は節子の弱さと強さをよく知っています。
にもかかわらず、いろいろと誤った判断をしてしまったことをいま悔いています。

欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。
節子の、その時の思いを思い出すたびに、涙がとまらなくなります。
そして、そういう人たちが、節子の他にもたくさんいることを思い出します。
節子の言葉には、そういう人たちへの思いが感じられました。
節子はいつも、いろいろな人への思いを忘れない人でした。

節子は毎日をほんとうに真剣に走り抜けました。
完走はできませんでしたが、その毎日が彼女と私の誇りでした。
毎日がんばっている皆さんがもしいたら、ぜひとも節子のようにがんばってほしいと思います。節子もそう思っているはずです。
そして仮に完走できなかったとしても、完走以上の大きなものを得ることができるように思います。

いまは何を見ても、何を聞いても、節子のやさしい顔が私の頭を覆ってしまいます。
ほんとうに、やさしくて強い人でした。

■安倍首相に節子のつめの垢をせんじて飲ませたかった(2007年9月13日)
安倍首相が突然辞任しました。
そのことで節子と話し合えないのがとても残念です。
と言うのは、節子は安倍首相に不安を持っていたからです。
節子の小泉さん嫌いは私の影響がかなりありましたが、安倍さんへの不信感は私の影響は全くありません。
節子は安倍首相の言動に生活を感じなかったのです。
テレビでの話し方に最初から違和感を持っていました。
それは理屈ではなく直感でした。

節子は人生において、一度だけ、選挙を棄権しました。
それが先の参議院選挙でした。
病気で歩けなかったので投票所に行けなかったのです。残念がっていました。
当日の朝まで迷っていたのですが、とても行けるような状況ではありませんでした。
しかし、選挙結果には満足しました。首相続投には不満でした。

節子は選挙には必ず行きました。
選択基準は、生活感覚でした。そして、その人の誠実さでした。
節子はともかく「生活者」だったので、着飾った言葉は嫌いでしたし、実体を感じられない難しい言葉は好きではありませんでした。
理解できない言葉にはだまされませんでした。
私の話も横文字が多すぎるといつも批判していました。
生活者は言葉ではだませないのです。

節子は、安倍首相には首相としてのイメージが感じられないといっていました。
なぜ同世代の女性たちが安倍さんを支持するのかいぶかっていました。
節子は、安倍さんを首相として認めていなかったのです。
そして、その節子の予想通り、安倍首相は無責任に使命を投げ出しました。
生活者の直感は真実を見抜くものです。

私自身は、今回の辞任は何の驚きもなく受け止めました。
ただ政治が崩壊しているだけの話です。
自民党議員とそれを支援していた国民の共演でしかありませんし、予想されていたことですから。驚いてあなたたちが演出したことでしょうといいたいです。

ただ、節子の闘病のがんばりに付き合ってきた私としては、こんな安直な生き方をしている人間を見るとただ悲しくなるだけです。
節子に比べると、安倍首相はとてつもなく可哀想な人なのかもしれません。
安倍首相に比べると、節子の人生は誠実で立派でした。

■なぜ謝らないのかと節子はいうでしょう(2007年9月14日)
節子は正義感の強い人でした。
彼女の信条は、嘘をつかない、迷惑をかけない、でした。
節子はまた、「非常識」な行為が嫌いでした。
私はけっこう「非常識な言動」が多い人でしたので、よく注意されました。
けんかになったことも少なくありません。
もっとも私の行う「非常識」と彼女が嫌いな「非常識」とは少しニュアンスが違いました。
彼女が許さなかったのは、並んでいる列を乱したり、電車の座席に座り方が悪かったり、道に吸殻やゴミを捨てたりすることでした。
私もそうした行為は許せない性格です。
もっと大きな問題もありました。

うまく書けないのですが、ともかく正義の人でした。
その矛先は政治家やタレントなどにも向けられていました。
食べ物を粗末にする番組にはいつも怒っていました。
パイの投げあいの場面を見ると本当に怒り出しました。
野球の優勝チームのビールの掛け合いなどは彼女の受け入れるところではありませんでした。
おかしな格好をして出てくるタレントも嫌いでした。
言葉遣いもうるさかったです。

間違ったことをしたのに謝らない人は大嫌いでした。
それもただ謝るのでは満足しませんでした。
私は思い込みが強い人間なので、よく間違いを犯しますが、間違いに気づいた途端に言動が豹変し、すぐに「ごめん」というタイプです。
しかし、節子は、そんな軽い謝り方はだめだといつも怒りました。
謝るなら心を込めろというのです。

安倍首相の記者会見を見ていた娘が、お母さんが見ていたら、安倍さんはどうして謝らないのだろうと言うねと言い出しました。
そういえば、朝青龍も謝らないですし、最近はみんな謝らなくなりました。
謝る文化が消えつつあるのでしょうか。

テレビの安倍さんをみながら、できもしないことを引き受けたらだめだよね、と娘たちと話していて、実は自分もその過ちをしてしまったことに気づきました。
節子を治すといいながら、治せなかったのです。

私はいま、毎日、節子に謝っています。
節子を守ってやれなかったことを心から悔やんでいます。
取り返しのつかない間違いでした。
一生謝り続けるつもりですが、まあ以前と同じく、軽い謝り方なので、節子は怒っているかもしれません。
ちなみに、謝るのは節子のためではなく、私のためなのです。
取り返しのつかない間違いも、すべて節子は許してくれるはずですから。
それも私たちのルールでした。

■とても「危ない話」(2007年9月18日)
久しぶりに「危ない話」シリーズです。
今日は「とても」危ない話です。

CWSコモンズにも書きましたが、先週、二七日の前日に、節子の旅の様子が入ってきました。
節子は、たくさんの花に囲まれたところで、心和やかに過ごしているそうです。
そして家族に感謝してくれているそうです。
彼岸への旅は順調のようです。

そのことを教えてくれたのは、私たち夫婦の知人です。
その知人は、先に見送った彼岸にいる娘さんから今日聞いたそうで、急いで電話してきてくれたのです。

その人は節子のことを心から気遣ってくれて、最後まで奔走してくれた人です。
娘さんも、私たちはよく知っていますが、40代で、母親を残して先立ちました。
母一人娘一人だったので、母親の悲しみは大きかったでしょう。
しかし幸いにも彼女たち(母子)は、いずれも不思議な能力を持っています。
娘の死後も、ある人の助けを借りて、母子の会話が続いているのです。
今日、娘さんの話を聞きにいったら、節子と会ったことを話してくれたのだそうです。
たくさんの花に囲まれた明るい場所。
私は節子の祭壇の置かれた部屋で電話を聞いたのですが、まさにその部屋はお供えの花でいっぱいです。
節子はどこにいても花に囲まれているようです。
彼岸への旅に疲れて、戻ってきてほしいという気も、実は私のどこかにあるのですが、まあ節子が楽しく旅を続けているのであれば、それもまたいいでしょう。
それに節子のことですから、旅の途中でもきっとたくさんの友人をつくることでしょう。
いささかの嫉妬も感じますが、うれしいお知らせです。

ちなみに、葬儀が終わった後に花が届くのは嬉しいですが、一挙に届くのが問題です。
ですから、今度私が花を送ることになったら、葬儀から少し間をおいて送ろうと思います。
時間が少し立てば、白いお供え花でなくてもいいですし。
これも体験から気づいたことです。
節子が教えてくれたことかもしれません。

■自民党総裁選への民主党のコメントは暗いですね(2007年9月23日)
久しぶりにニュースを見ました。
自民党総裁選の報道です。
最近、節子の世界に浸りきっているためにニュースなどあまり見ていなかったのです。
久しぶりに見て、やはり一言だけ書きたくなりました。
それは民主党の反応です。
自民党は、もはや終わった政党だと思いますが、民主党も同じだと感じました。
たとえば鳩山さんのコメントをきいて、深い失望をおぼえました。
極めて暗く、ただ自民党をけなしているだけです。
今回の自民党総裁選では2人の候補は(勝敗が決まっていたからでしょうが)明るく、相手をけなすような発言はなかったように思います。それに発言がいつも平易で滑らかでした。自民党嫌いの私ですら、好感を持ちました。
闘いは明るくやらなければいけません。
それに比べて、民主党の皆さんのコメントはみんな暗くて楽しくない。
余裕のなさをそのまま見せています。
こんな人たちに政権は預けたくないと思いたくなるほどです。
民主党は、もっとしっかりしたCIO(広報戦略参謀)を置くべきですね。
そうでないと政権交替はだめでしょうね。
民主党嫌いな私には少し複雑な気持ちです。
自民党はもっと嫌いですので。

■定型文の豪華な弔電はやめませんか(2007年9月24日)
今日はちょっと社会時評の内容も含めて、節子への挽歌です。

節子の葬儀に関して、たくさんの弔電が届きました。
送ってくださった方々には感謝していますが、私はこの弔電の送り方にかなりの異論をもっています。
弔電にではなく、弔電の送り方やスタイルに、です。

せっかく弔電を送ってくださった方には大変失礼なことになりますが、今回はあえて書いておこうと思います。
問題は、弔電の多くが定型文だということです。
そして、弔電の文章を包むカバーが立派過ぎることです。
中には漆塗りのものもあります。
この2つは、私が最も嫌う文化を象徴しています。
せっかく送ってくださった皆さん、本当に申し訳ありません。
みなさんのお心遣いには微塵も疑いを持っていませんが、この文化は早くなくしたいと思っているのです。
お許しください。

今回、自分の言葉で電文を書いてきてくれた方はほんの数人でした。
告別式ではそのうちの2つを読み上げてもらいました。
しかし、郵政公社は、どうして定型文などを用意しているのでしょうか。
それさえなければ送る人は少しの時間、相手に思いを馳せるはずです。
商品を選ぶようなやり方は、弔電にはふさわしくありません。
郵政公社のコストダウンには寄与するでしょうが、日本の文化を壊すものです。
死者への冒涜ではないかとすら私には思えます。

さらに腹立たしいのが、電文を包むものが年々立派になってきていることです。
その一方で、電文が書かれる肝心の用紙は年々粗雑になってきています。
発想が完全に間違っています。
メッセージは軽視し、包装を立派にするのは、金銭至上主義の象徴です。
しかも、明らかに資源の無駄遣いです。
私はそうした弔電は廃棄しますが、その時にとても悲しい気分になります。
それを知っているために、弔電をもらった時にとても悲しくなります。

包装の立派さで弔意の重さが決まるのでしょうか。
そんなはずはありませんが、それがまさに今の社会の文化を象徴しています。
私が一番嫌悪する文化です。

意外だったのは、こうしたことに批判的なはずの信頼する友人が、一番立派な包装の弔電を送ってきたことです。
彼は女房のことを深く心配し、いろいろと応援してくれた人ですから、思いを込めたのだと思いますが、彼がまさかそんな選択をするとは予想もしていませんでした。
私のことを良く知っている彼なら、一番質素な包装を選べたはずです。
しかし、豪華さの段階がある以上、そうなってしまうのかもしれません。
私も一番質素なスタイルで送るのには躊躇するかもしれません。
他人のことをとやかく言える立場ではありません。

弔電のカバーは格差をつけずに、すべて同じにすべきです。
弔電に経済的な格差をつけるのは、極端に言えば、生命を差別化することです。
郵政公社の、そうした卑しい商売主義は正すべきです。
しかし民営化で、この方向はますます進むかもしれません。
心卑しい人たちが経営者になっていますから。
彼らの前歴を見ればそう思わざるを得ません。

弔電は喪主宛に届きます。
これにも違和感があります。
弔辞などは死者宛に読み上げられますが、弔電はなぜ家族に当てられるのでしょうか。
葬儀は死者のためのものではなく、残された人たちのためのものからかもしれません。
そのことにも私は違和感を持っています。
喪主宛には手紙がいいでしょう。急ぐこともありません。

今回の葬儀は、節子を親しく知っている人だけに伝えたのですが、こういう情報は見事に伝わるものです。
節子に会ったことのない人まで弔電をくれました。
それはうれしいことですが、私にはいささかの違和感があります。
こんなことをいうと、せっかく弔電を送ってくれた人は怒り出すかもしれません。
すみません。
送ってくれた人への不満をいっているのではありません。
そういう形になってしまう文化や仕組みを問題にしているのです。

2人の方から手紙をもらいました。
ご自分の言葉で、私への弔意を書いてきてくれました。
私にはとてもうれしい手紙でした。
女房に読みか聞かせました。
とても心が和みました。

弔電の文化は、そろそろやめても良いように思います。
少なくとも私は定型文の弔電は打ちません。

■日本の仏教界ができることはたくさんあります(2007年9月24日)
ミャンマー(ビルマ)で、一部の僧侶らが軍事政権の「打倒」を掲げ、市民にデモへの参加を呼びかけ、2万人規模のデモが行われたとテレビで報道されました。

朝日新聞はこう報道しています。
この日は数千人の僧侶らが、昼過ぎからヤンゴンの中心部で行進を始めた。AFP通信によると、僧侶らが「これは市民のための行進だ」と呼びかけると、市民らが相次いで列に加わった。

軍事政権下のミャンマーでさえ(そうだからこそともいえますが)、仏教徒は社会に関わろうとしています。
日本の仏教界は何をしているのでしょうか。
自殺者が毎年3万人を超え、生命をないがしろにする不条理な事件が続発し、人々が支えあう生活の基盤が壊されている現実を、仏教界の人たちはどう考えているのでしょうか。
ミャンマーの僧侶たちのデモ、それを支援する人たちの映像を見て、日本の仏教界の動きが見えないことを改めて残念に思います。

日本の政治も経済界も、いまや生命をないがしろにし、支え合い生かし合うよりも、騙し合い利用し合う方向にあるように思います。
企業の業績がよくなるのと従業員や顧客が幸せになるのとは、むしろ反比例にあるのではないかと思うような状況も感じます。
経済は明らかに生命さえをも浪費し始めました。
政治もまた、国民の安寧や幸せのためにではなく、一部の人たちの利得と栄誉のためにしか動いていないようにも思います。
それを支えているのは、国民自身なのですが、その構図を見事に作り上げました。
今回の自民党総裁選ですら、その構図が見えてきます。
格差、下流社会、セーフティネットなどといった言葉が流行語になり、それが大人だけではなく、子どもたちの世界にまで陰湿な形でしみこんでいる社会を見ながら、彼らは何をしているのでしょうか。
日本の仏教界が、やれることはたくさんあります。
しかし、仏教界からは何のメッセージも出てきません。
恥ずかしくないのかと思うほど、無口です。
どうしてでしょうか。
10年ほど前に、吉野会議というのを、比叡山、高野山、大峯山などで修行してきた市川覚峯さんたちと一緒に構想したことがあります。
仏教界の良心と経済界の良心に呼びかけて、社会に問題提起するフォーラムでした。
少しスケールを大きく構想したために、プレイベントをしたところで、終わってしまいました。
いまこそそうしたことが必要な気もしますが、エネルギーはその時よりも無くなってしまっていますから、動き出せずにいます。

節子の前で毎日、般若心経を唱えながら、仏教の力を少しずつもらっていますが、こうした力を求めている人は少なくないでしょう。
自らを支える力を求めている人たちの力をつないで、支え合う仕組みをつくれば、新たな力が生み出されるはずです。
そうした仕組みを構想することが求められているように思います。
いま必要なのは、市場依存の自由主義でも、高い目線からの福祉制度でも、管理された形だけの平和でもなく、支え合う生活の知恵の仕組みではないかと思います。

■先が見える愚かさ、先が見えない愚かさ(2007年9月25日)
節子の死は主治医たちにはほとんど自明のことだったでしょう。
医学的知識を持っている医師たちには、先が見えていたのです。
先が見えていなかったのは、私と家族です。
医学的にはどうであろうと、節子は治るんだと確信していたのです。

医師に対する私の不満は、見えている先を絶対視して考えることでした。
生命体である人間は、それぞれ違う存在であり、医学の知見が絶対ではないはずです。
それにまだまだ生命体の不思議は解明されたわけではありません。
わずかばかりの知識で、判ったような気になっている医師は、私にとっては「愚かな」存在です。

先が見えるからといって、必ずしも的確な判断につながるわけではありません。
それは病気に限ったことではありません。
「先が見える愚かさ」に陥らないようにするのが、私の生き方でした。

しかし、愚かだったのは私のほうでした。
先を見ようとしなかったのです。
先が見えるが故に愚かな判断をすることは少なくありませんが、
先が見えないが故に愚かな判断をすることは、きっともっと多いでしょう。
先を見すえて、なおかつその「先のこと」に呪縛されない生き方をしなければいけません。
私もそう思っていたのですが、節子に関しては「先が見えない愚かさ」に陥ってしまっていました。
先を見すぎる医師への反発があったかもしれません。

そうした私の小賢しさは今回に限ったことではありません。
そうした私の言動を、節子はいつも笑いながら諭してくれました。
それなのに、私の、その小賢しさが、節子に必要以上の大変さを強要してしまったのです。
今回は諭すこともできずに、節子は耐えるのみでした。
私もまた、その間違いを許してもらう機会を失ってしまいました。

先が見えない愚かな人を伴侶に選んだ節子の不幸かもしれませんが、
その点では私たちは似たもの同志でした。
先を見るのではなく、先を創ろうとするのが、私たちの生き方でした。
そして残念ながら先を創れなかった。
無念です。

■福田内閣は何に向けての「背水の陣」なのでしょうか(2007年9月25日)
福田内閣が発足しました。
閣僚はほとんど変化なしです。
国会会期中なので変えられないと言うのですが、この理由はもっともらしく聞こえてどこかおかしいです。
国会会期中にもかかわらず内閣が変わらなければならなかったのは、それなりの理由があったからなのですから。
同じでいいのであれば、首相代理を置いて対応すればいいのです。
また「難局を乗り切るための背水の陣」と、たとえば官房長官の町村さんはいいます。
町村さんが言うと何となく納得してしまいがちですが、「難局」の主語は何か、「背水の陣」の前に立ち向かうものは何なのか、言いかえれば「守るべきもの」は何なのかを明確にする必要があります。
難局に立たされているのは自民党、背水の陣の前にいるのは民主党、それが福田政権の考えていることだとしたら、それこそが問題です。
いま大切なのは、国民にとっての問題は何かを明確にするべきです。
自民党のために政治があるわけではありません。
そうした勘違いを福田政権に感じます。
節子は町村さんが好きでしたので、きっとだまされるでしょうが、私にはそうした勘違いがとても気になります。
何のための首相交代だったのか、それを忘れるべきではありません。

■危ういかもしれない話(2007年9月26日)
「危うい話」シリーズです。

長く死体と暮らしていたとか、愛する人を食べてしまったとか、猟奇事件といわれる事件が時々起こります。
そうした事件は、私にはただ「おぞましい」だけで、事件のことを知ることさえ生理的に受け付けませんでした。

節子が遺骨になってしまってから、私は毎日、その遺骨をベッドの横に置いて寝ています。私にとっては、なんでもない話ですが、たぶん他の人からは猟奇性を感ずるかもしれません。
節子がまだ荼毘にふされる前に、その安らかな死に顔に私は何回も触れました。
弔問客があると、顔を見て触ってやってくださいなどと言ったこともあります。
隣にいた娘が、注意してくれるまでは、それが「異常なお願い」である事に気づきませんでした。私には息を引き取った後も、荼毘にふされて遺骨になってしまった後も、すべてが生きていた時と同じ、愛する節子なのです。しかし、他の人にはそうではない事に気づかなかったのです。
それを一歩進めれば、世に言う「猟奇事件」になりかねないことだと、最近気づきました。
ようやく、そうした事件を起す人たちの気持ちがわかったのです。
私がもっと強く節子を愛していたら、荼毘になどふさずに、ずっと一緒にいたかもしれません。食べはしなかったでしょうが、類する行為はしたかもしれません。

今も節子の遺骨や遺影の前で一人で考えていると、世の中の「常識」などどうでもいい、ただ節子と一緒にいたいという思いに駆られます。
そうするといつも、「みっともないことだけはしないでね」といつも言っていた節子の声が聞こえてきます。
「そうだ、そうだ」といっている娘たちの顔も浮かびます。
その声が、猟奇事件を予防しているのかもしれません。

■時津風部屋の犯罪と仲間の犯罪を放置する文化(2007年9月26日)
どこの社会にも仲間の犯罪や恥を隠す文化があります。
しかしそうした文化が社会に大きな弊害を起こすのを防ぐ仕組みもまた、どこの社会にもありました。
そして、おかしなことを正す仲間が自己たちの浄化のために動き出すのです、
仲間がおかしな事をしていることは、結局は仲間みんなの問題だからです。
そうした自己浄化力が機能しなくなると、その仲間組織、さらには社会そのものが機能障害を起こし、崩れていきます。

私が日本の弁護士を信頼できないのは、自らのプロフェッションの自覚がないからです。
私の知っている弁護士には、個人としては魅力的な人が少なくないのですが、仲間のおかしさを黙認しているかぎりは、同じ仲間でしかありません。
個人的には信頼できますが、弁護士としては全く信頼できません。
すばらしい人であるからこそ、彼らは恥ずかしくないのかと思うのです。

牛タンメーカーが不祥事を起こしました。
賞味期限切れの牛タンを不正に再使用した事件です。
繰り返し繰り返し同じような事件が起こります。
食品業界は自らを浄化する能力を失っています。
やる気がないのかもしれません。
食品業界には信頼できる会社も少なくありませんが、同じ業界で事業展開している仲間の企業が、こうも繰り返し不祥事を起こしている状況をどう思っているのでしょうか。競争相手の失点などとは思ってはいないでしょうが、もっと自己浄化に関心を持ち、仕組みを創っていくべきです。
そう言う動きが見えてこないのは残念です。

こうした状況は現在の財界や経済団体の姿を象徴しています。
経済界は、仲間の企業が「犯罪」を犯しても、それを排除し予防する仕組みを失ってしまっているのです。
いや、正確には創出し育てることに関心を持たなかったのです。
それこそが財界のトップのミッションだと思いまが、あまり関心はなさそうです。

時津風部屋の時太山の急死は、暴行の結果だったことが判明しました。
これはれっきとした犯罪ですが、死に至ることがなければ相変わらず仲間うちで揉み消されていたでしょう。
事件発生時、親方も部屋の仲間も、そんなことはないと言っていました。
日本の相撲界もまた、自己浄化力を失ってしまっています。
国技としての自覚や誇りはどこにいってしまったのでしょうか。
朝青龍事件も、そうしたことの現われの一部でしかありません。
国技であることの名誉は返上すべきでしょう。

学校のいじめ問題がなくならないのも、そうした文化が大きく影響しているでしょう。
仲間をかばうことは、時には大切なことです。
しかし、本当にかばうということはどういうことか、そのことを考えなければいけません。

■「やつら」と「大衆」(2007年9月2日)
ミャンマーの僧侶のデモはついに死者を出すまでになってしまいました。
不幸なことです。
そのテレビを見ていて思い出したのが、フランスのパリ5月革命(1968年)でのドゴールの発言です。

NHKで放映された「五木寛之 仏教への旅」の第3回目に、パリ5月革命の回顧場面がありました。
学生運動から始まり、労働者によるゼネストなど、大きな民主化運動として広がったパリ5月革命は、世界に大きな影響を与えましたが、当時、学生として運動に参加していた女性の発言が印象的でした。

デモ行進している私たちに対してドゴール大統領は、「やつらが公共の秩序を乱すことは許されない」と糾弾した。そこでデモに参加している学生や労働者たちは、「私たちは、『やつら』ではない。『大衆』だ」と叫びました。「ドゴールは、私たちのことを公共のゴミのようなものだと言ったのです」。

「やつら」と「大衆」。
現代の世界を鳥瞰して時代を展望する時に、大きな枠組みを示唆する象徴的な図式です。
ここでの「大衆」は、ネグりたちがいう「マルチチュード」と考えていいでしょう。

1960年代は、世界各地でマルチチュード意識が芽生えた時期でした。
日本ではまさに安倍首相の祖父の岸政権に対して、学生たちの日米安保闘争が盛り上がった時代です。私が大学に入った年に、樺美智子さんがデモで亡くなりました。
70年代にかけて、世界は大きく動き出しそうな気配がありましたが、結局は逆に大きな揺り戻しの中で、世界はますます「開発」され、文化の時代には向かわずに、経済の時代へと邁進したように思います。
そして、すべてが経済に絡めとられた時代になってしまいました。
政治も文化も、スポーツもアートも、教育も友情や愛情さえも。

支配者たちにとって「やつら」でしかない大衆が、そうした経済社会を支えるために駆り出されました。
そして、表情のあった個人たちは、経済秩序の構成要素に組み込まれました。
そうした視点からみれば、経済格差は「秩序」そのものなのです。

ミャンマーの今回の事件は、そうした大きな歴史の一つの象徴的事件です。
それは決してミャンマーだけの事件ではありません。
同じことが日本でもまさに進んでいます。
そうしたことにも気づかず、日本では「やつら」扱いされた賢い国民たちが秩序にしたがっていじましく生きています。
ミャンマーの事件から学ぶことはたくさんあります。

■テロ特措法とミャンマー軍事政権(2007年9月28日)
ミャンマーの反政府デモはますます暴力的になり、死者が増えています。
この対立図式は、昨日書いたように、「やつら」と「大衆」に象徴されるような、権力と生活です。
テロ特措法の必要性が福田政権から「当然」のように語られます。
テロ特措法の根底にある構造図式もまた、「権力 vs 生活」のように思います。
短期的なテロと違って、これほどの長さと広がりを持つテロは、必ずその背景に「生活」があります。
パレスチナもアイルランドもそうでしょう。
生活を基盤にした反政府活動はテロと言えるでしょうか。
生活の基盤に立って考えれば、ミャンマーのデモ鎮圧こそ、テロ行為に感じられます。
同じように米国のイラク侵攻はテロ行為かもしれません。
テロは自爆や乱射のような直接的な暴力行為に限定されるわけではありません。
9.11事件の前の世界企業による生活の圧迫の手段はさまざまな形をとって行われたはずです。
追い詰められて僧侶が立ち上がった。
追い詰められて自爆者が立ち上がった。
共通点があります。
日本では年収200万円に満たない人が1000万人になりました。
テロ特措法の対象は、もしかしたら日本社会にも向けられているのかもしれません。
想像力が求められる時代です。
ミャンマーの軍事政権はまもなく崩壊するでしょうが、テロ特措法の発想は、ミャンマー軍事政権のやり方と同じだと私は思います。
テロなどという言葉で簡単に考えるべきことではありません。
格差図式のフラクタルな展開、ここに問題があるように思います。

■格差図式のフラクタルな展開(2007年9月29日)
昨日、最後に「格差図式のフラクタルな展開」が問題だと書きました。
少し敷衍します。

現在の成長志向の資本主義経済の根底にあるパラダイムは「格差」です。
格差の上に、「商品」が成立し、「取引」や「市場」が成立します。
小泉前首相が「格差は活力の元」といいましたが、その言葉に象徴されるように、格差がなければいまの経済は成り立ちません。
そして成長とは、その格差を増大させることです。
格差社会といわれるようになったのは、社会の価値観が金銭的なものに画一化され、固定化されたためです。
もっと経済格差が大きかった時代もありますが、その時は他の社会価値観がたくさんなりましたし、何よりも「アメリカンドリーム神話」が生きていました。
さらにはセイフティネットという言葉など不要なほど、支え合う仕組みや家族関係、近隣社会が存在していました。

経済格差をもっと極端化したのが、北朝鮮やミャンマーです。
そこまで格差を顕現させると、よほどの暴力機構を用意しないと国民は支配できませんから、そこまでの格差は避けるのが効果的です。
もっとも、格差を隠す手段はたくさんあります。
ローマの「パンとサーカス」もそうですが、スポーツ選手やタレントなどの国民栄誉賞的な人気者の報酬を吊り上げるのも、その一策です。

ミャンマーの軍事政権は今回の失策で変化するでしょうが、それを支えているのは実はミャンマー国内の力だけではありません。
ミャンマーの国内的格差構造は、さらにその上位の国際世界につながっていきます。
よく言われるように、天然ガスに対する中国の利害関係を通して、格差構造の維持は国際的にも支えられているわけです。
その上に国連や世銀があることはいうまでもありません。

いつ破綻してもおかしくない北朝鮮の格差構造がこわれないのも同じことです。
イラクもまた本来の意味で、つまり人道的な意味で復興されては困るわけで、その意味で格差を隠すための不条理な対立図式が持続されているといってもいいでしょう。
イスラエルやパレスチナも同じですし、ブッシュの足元のアメリカにさえ、そうした格差構図は現存しています。
格差があればこそ、支配は容易になりますし、格差の増大もやりやすくなります。
そうした事例は、日本の歴史の中にも見られます。

経済格差という切り口から見ると、実はいまの社会は、格差が階層を成して、絡み合っているわけです。
複雑系の経済の議論の時によく話題になった「フラクタルな構造」がそれを巧みに支えているわけです。
フラクタル。全体と部分とが自己相似形になっているということです。
華厳でいえば「一即多・多即一」、清水博さん的にいえば、ホロニックです。
ですから、どこかの一角が壊れると全体に大きな影響を与えます。
したがって、よほどのことがなければ壊す動きは体制側(現レジーム)からは出てきません。
出てきても、体制に内在する現状維持のための動き(ホメオスタティス)に妨げられます。
そこを突き破ろうとすれば、「テロ」になるか、「テロ」にされるかのいずれかです。

理屈っぽい議論をしてしまいましたが、要は私たちの生活もまた、ミャンマーの今回の事件につながっているということです。
そうした世界の対極にあるのは、宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」世界です。そこでは「格差」の不在、あるいは多様な価値観による格差の相対化が社会の構成原理になります。
金銭の意味合いは全く変わり、世界の風景は一変するはずです。

ミャンマーの不幸な事件は決して他人事ではありません。

■舛添厚労相と長妻議員の協力を期待します(2007年9月30日)
舛添さんの年金問題への取り組みはとてもわかりやすいだけでなく、生活感覚の言葉で、しかも具体的に言い切るところが信頼できます。
私自身は、これまでの舛添さんの言動には違和感があり、好きな学者でも政治家でもありませんでした。
しかし、厚労相就任以来の言動はとても好感が持てます。
目線と対象がしっかりしているからです。
「年金問題に関する政府(国)への信頼感を回復すること、それが自分のミッション」だという言い方も好感が持てます。
厚生労働省の官僚たちへの批判も辛らつですが、自らもその内部の人間だと明言するのも潔いです。

私は自民党も民主党も終わった組織だと思っていますし、そもそも二大政党制そのものが過去のものだと思っています。
価値観や問題が多様化し、しかも情報処理技術が一変しているいま、二大政党ではなく異質性を多様に包摂するダイナミックな意志決定システムが必要になっているからです。

舛添さんも所詮は、古い政治の枠組みの人でしょうが、その言動には新しい政治の可能性も感じられます。
いわゆるポピュリズムではない、生活者感覚の政治です。
それに生活者らしい、シンプルな怒り方もわかりやすいです。
小泉前首相との類似性を指摘する人もいますが、
言葉に実体がありとビジョンが明確なので、全く違います。
政治全体から考えれば、大きな欠落や不整合はあるのでしょうが、
生活者の怒りを具体的に代表してくれています。

もっとも、私は舛添さんが依然として好きにはなれませんし、その考えや提案にも必ずしも賛成ではありません。
「公を司る官より民が信頼できるというのはおかしいが、今はそれが実状だ」というような発言を昨日テレビで見ましたが、そういう発想は私には受け入れがたいです。
あまりに粗雑で、問題の本質を見失わせる議論だからです。

にもかかわらず、舛添さんの言動には新しい政治の可能性を感じます。
民主党も論争だけではなく、政党を超えて、ぜひ大きな目標にむけて、協力してほしいものです。
長妻昭議員と舛添議員が力を合わせれば、事態はもっと大きく変わるでしょう。
舛添さんも、政党の呪縛から解放されてほしいものです。
生活者視点に立つということは、政党を超えるということなのですから。
政党に呪縛されることなく、政党を使い込む主体性が必要です。
もちろん一部の政治家のように、自らのために政党を利用する事は許しがたいですが。

舛添さんのおかげで、政治への期待が少し出てきましたが、その一方で、鳩山法相のような政治家もまだ少なくありません。
私は死刑反対論者ではありませんが、鳩山さんの発言は許されるものではありません。
彼にはリーガルマインドも生命の尊厳への畏れも、権力への謙虚さも感じられません。

こうした両極端の政治家を包摂している福田政権は、もしかしたら多様性への寛容さを活かした、新しい政権のモデルを示唆していくかもしれません。
福田政権は短期政権だとは思いますが、これまでの政権とはちょっと違うようなものを感じます。
旧体質な政治に戻ったのではないと思います。
いやそう思いたいです。

■オウムを存在させる宗教界と「懲りない社会」(2007年10月1日)
昨日、TBSの報道特集で、オウム(現アーレフ)の最近の動きが報道されていました。
唖然とする内容です。
いつオウム事件が再発してもおかしくないような気がしました。
日本は本当に「懲りない社会」です。
犯罪も事件も、汚職も不祥事も、同じようなことが繰り返し起こります。
その根底には、被害者よりも加害者の人権が重視される文化があるように思います。

確かに加害者の人権も大切ですし、加害事件を起こす社会状況への配慮も大切です。
しかし、犯罪への対処は生活の立場で再構築すべき時期に来ています。
たとえば、現在の刑法は、罪の上限が決められています。
権力による横暴を防止するためのものですが、素直に考えれば、これは権力者による専制が行われている社会の発想です。
どう考えても今の社会にはあいません。
むしろ下限を決めるべき時代に来ているように思います。
もし裁判が本当に民主化され透明性が保証されていれば、それによる問題はそうは起こらないでしょう。
今の罪の法体系は生活者の感覚には全くあいません。

犯罪者の多くは、実は権力者と通低しています。
経済事件はその典型ですが、暴力を伴う犯罪も、多くの場合権力構造につながっていると私は思います。
子どもたちのいじめ事件も、その例外ではないでしょう。
このことも、上限を決める法体系が継続されているのかもしれません。

私の発想はいささか非常識かもしれませんが、飲酒運転を厳罰にしないことで得をしているのは誰かを考えれば、そう非常識ではないと思ってもらえるでしょう。
飲酒運転による不幸な事件を激減させることは、そう難しいことではありません。
飲酒運転によって事故を起こしたら免許を永久に剥奪すればいいだけの話です。
そんな無理なと思うことはありません。
なにか不都合があるでしょうか。
もし不都合があると思う人がいたら、その人は飲酒運転があることにメリットを得ているはずです。得ていない人がいたら教えてほしいものです。
飲酒運転に限りません。
こうした例はいくらでも上げられるでしょう。
時効制度も、そうした視点で考えれば、根本から見直されるべきでしょう。

少し極端に言っていますが、現在の刑法の体系は国民を支配する手段でしかありません。
国民が安心して快適な生活をできるための刑法であれば、いまとはかなり違ったものになるでしょう。

話がまたどんどん広がってしまいました。
すみません。
今日の問題はオウムでした。
こうした犯罪集団が相変わらず宗教組織として存続を許される責任の多くは、宗教界にあると思います。

なぜ宗教界はもっと行動を起こさないのでしょうか。
自分たちの仲間の不祥事ではないのでしょうか。
少し意味合いは違いますが、ミャンマーの事件にも日本の宗教界はまだ沈黙しています。
大相撲の世界と同じく、日本の宗教界はもう死んでしまっているのでしょうか。
立派な講話をされる高僧たちは、いったい何を考えているのでしょうか。
いま立ち上がらなくて、いつ立ち上がるのか。

最近少し気がたっているせいか、言葉がきつくなりました。
節子がいたら、書き直しを求められるでしょうが、今回は思いのままに書いて読み直さずに掲載します。

■相撲文化の終焉(2007年10月2日)
時太山の死亡に端を発した相撲業界の不祥事は、犯罪事件になってきました。
昨今のスポーツ業界には大きな違和感を持っている私も、まさかそこまでとは思っていませんでした。
相撲の世界の常識は、いまや社会の常識とは大きくずれてしまっています。
北の海理事長の記者会見も、時津風親方や高砂親方の話も、社会の常識から考えると大きな違和感を持ちます。
その常識のずれを彼らはおそらく全く理解できずにいるのでしょう。
国技である相撲の世界が、なぜこうなってしまったのでしょうか。

ある特定の集団とそれを含む大きな社会との常識(ルール)のずれは、どうして生じるのでしょうか。
それはほとんどの場合、社会の変化に特定の組織や集団が追いついていないからです。
多様な要素から成り立つ社会は開かれていますから、常に変化しています。
しかし、組織や集団は、閉じられているために、変化に対する抵抗力や現状維持の慣性が働きます。
したがって、組織や集団が、時代のなかで、生き生きと息吹いているためには、常に主体的に変化していかねばなりません。

相撲の世界はまさに閉じられた世界です。
しかし、社会の中で存続していくためには、ただ現状を維持すれば良い訳ではありません。
社会が変わる以上、現状を維持することは、社会との関係においては「変化」することなのです。
実体としての「維持」は関係における「変化」であり、関係における「維持」は実体における「変化」を要求するからです。
実体を維持することは「運営」であり、関係を維持することが「経営」です。
それに失敗した企業や老舗は倒産します。
制度や文化の場合は崩壊します。

今回、明確になった相撲の世界のずれは、2つの理由が考えられます。
ひとつは、時代の変化に抗し過ぎて、古い体質を改めることを怠ったため。
もうひとつは、時代の変化に惑わされて、自らの本質を失ってしまったため。
いずれというべきでしょうか。
私は後者だろうと思います。
相撲業界は旧体質の故ではなく、新体質への転換を間違ったのだろうと思います。
間違いを誘導したのは、たぶん金銭経済主義です。
そして同じような間違いを、日本の伝統ある世界の多くがおかしているように思います。
伝統もまた金銭には無力のようです。

■伴侶の死は自らの半分の死(2007年10月3日)
伴侶の死によって、私にとっては、2人でつくってきた私たちの世界の半分が失われました。
私が生きている世界の最も重要な要素は、私と節子でした。
その2人の心身の中に蓄積された記憶や体験が世界をつくっていました。
ですから、節子の死は、その半分が失われたことを意味します。
私の半分の死でもあるわけです。
もちろん節子の心身にあった記憶や情報は私の心身もシェアしています。
しかし、ホログラムがそうであるように、情報源の一部が失われると世界の全体像はそのままであっても全体に希薄になるのです。

これはとても不思議な感覚です。
一見、何も変わっていないように見えるのに、実際にはどことなくエネルギーやオーラが違うのです。
ですから普通に行動していても、ある瞬間に突然に力が抜けるというか、違和感が出てくるのです。まわりがぼんやりしてきます。

伴侶の死は自分の半分の死、ということは、いいかえれば伴侶の半分の生を意味します。
こう考えると、死とか生への考え方も変わってきます。
さらにいえば、そうした相関関係は、伴侶だけではなく、家族、仲間、社会へと広がっていきます。

華厳経にインドラの網という話が出てきます。
同じ題の宮沢賢治の小品もありますが、インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことです。
生命はそうしたインドラの網目だと私は思っていますが、個々の網目と網全体とはまさに一即多・多即一の関係にあり、網目に変化があれば網全体が変わり、そのためにまた網目も変わるというホロニックな構造にあるように思います。
この文章を読んでいる読者の変化が、回りまわって私にも影響を与えてくるというわけです。
その変化は、網目の距離によって増減するでしょうが、夫婦はほとんど同じように変化する不二の関係にあるのかもしれません。少なくとも私たち夫婦はそうでした。

自らが死んでも、伴侶の中に半分は生きている、と節子は気づいていたでしょうか。
いや、私自身が本当に確信できているのかどうか。
正直に言えば、まだ完全には確信できていないのかもしれません。
でも節子が私の中に生きていることは間違いありません。

■「小人の戯言」舛添発言の意味すること 仲間の問題は自分の問題です(2007年10月3日)
舛添大臣の発言がまた問題になっています。
「市町村は信用できない」という発言に、倉吉市の市長が反発し、それに対して舛添さんは「小人の戯言」という言葉を使いました。
今朝のテレビで、たとえば落合恵子さんは「使う言葉で人柄が出る」と批判し、鳥越憲太郎さんは「すべての市町村」という言い方を批判しました。また、ある人は「国に対して反論する勇気」をほめました。

数日前に、私も舛添さんの発言に違和感があると書きましたが、私の違和感は「官と民」の対立構造で捉える発想への批判です。念のため。

私は今回の一連の舛添発言に共感しています。
舛添さんがいうように、すべての市町村の役場は信用できませんし、倉吉市の市長の異議申し立ては小人の戯言以外の何物でもありません。
使う言葉で人柄が出るとは思いますが、使う言葉で真情も出ます。
真剣に生きている人は、思いも激しく出るものです。
無責任なコメンテーターとは全く違います。
大臣になる前の舛添さんは、コメンテーターのような理屈を述べていたので、私は好きになれなかったのです。

すべての市町村が信用できないのは、どうしてか。
仲間の犯罪や不祥事は、仲間全体にとっての犯罪であり不祥事だというのが、私の考えです。
どこかの市町村が問題を起こしているのを放置していては、そこもまた同罪だと思われても仕方がないということです。
それが制度というものです。
そうでなければ、その制度には正当性や権威は与えられないはずです。

その考えは、これまでも何回か書いています。
たとえば弁護士に関しては、光市母子殺害事件に関して書きました。
まともな弁護士ならば、恥ずかしく思って、行動を起こすべきですが、日本の弁護士のほとんどは動きませんでした。
ですから私は日本のすべての弁護士を信頼しません。
恥ずかしい職業の輩と考えています。
どんな立派な活動をしていても、共感はもてませんし、協力もする気になれません。
友人は少なくありませんので、とても残念ですが。
自浄作用がない職業は社会的にはいつか問題を起こします。
安住は許されません。

鹿児島県県議選買収にまつわる冤罪事件では、警察や検事の組織行動であることが明らかになってきていますが、個人の問題は往々にして組織の問題でもあります。
多くの場合、いわゆる「とかげのシッポ切り」で事件は収束されがちですが、それでは繰り返し犯罪や不祥事は起こります。
鹿児島の冤罪事件の最大の被害者は、全国の警察であり、検事のはずですが、彼らは対岸の火事と考えて、動こうともしません。要するに自分たちも同じだと言っているわけです。

社保庁の問題も、よくまじめな職員もいるので可哀想だという人がいますが、すべての職員がまじめであるはずがありません。
まじめであれば、仲間の犯罪を見過ごしはしないでしょう。
なにか行動を起こすべきです。できることはたくさんあります。

舛添さんは、市長の批判に対して、まずは自分たちの仲間の市町村にこそ目を向けろといっています。全くそうです。
仲間が不祥事や犯罪を起こしているのに、それには目を向けず、自分はやっていないからなどという神経が理解できません。
そうした人は公の仕事に取り組む資格がないと私は思います。
倉吉市の市長の目線は間違っています。

だんだん言葉が過激になってきました。
人柄が出てしまいますね。反省。

学校のいじめ問題、企業の不祥事、相撲業界の事件、すべてまずは仲間が一番真剣に取り組まなければいけません。
ニーメラーの教訓は、戦争にだけ当てはまるわけではありません。
家族の問題も近隣社会の問題も、すべては仲間のちょっとした行動で抑えることもできるのです。
平和の出発点は、そうした意味での仲間意識を持つことです。

きりがありません。
ところで、みなさんの仲間は大丈夫ですか。

■円天事件と現実の経済社会(2007年10月5日)
「円天」が出資法違反でやっと捜査の対象になりました。
それにしても遅すぎます。
テレビなどでは以前から問題にされていましたし、放置していたら被害は拡大する一方なのは明らかでした。
この種の事件に対して警察などの動きは、いつも遅れます。
偶然だとは思えません。

それにしても、少し考えただけでおかしいと思うはずなのに、なぜみんなだまされたのでしょうか。
かなり問題が明確になり、テレビなどで指摘され出してからも、テレビに向かって円天生活を満喫していると答えた女性たちは、経済感覚のない有閑マダムたちだあったのでしょうか。
そうであれば、所得の再配分が行われただけですから、気にすることはないのですが、なかにはなけなしの貯金をはたいた人もいるようです。
しかも、紹介システムがありますから、友情を壊してしまった事例も少なくないでしょう。お金はまあ仕方がないとしても、友情や信頼は一度失われたら回復は至難です。
そして、それが社会全体を壊していきます。

ちなみに、この事件では被害者が加害者になる構造にありますが、舛添発言の時に書いた、仲間の問題は自らの問題ということの典型的な事例です。
ここまでは極端に顕在化しなくても、この構図はすべてに当てはまります。
弁護士にも自治体職員にも。
なぜなら制度を支えているのは、みんなの意識と行動なのですから。

ところで、円天に関して、今日の朝日新聞の天声人語にこう書いてありました。
(エル・アンド・ジーは)ネット上などに独自の市場を開き、そこで使える疑似通貨を、「使っても減らない金」と宣伝して会員を募っていた。
使い切っても、また全額補充してもらえる。その疑似通貨を「円天」と称していて、天から降るカネを思わせる。眉唾(まゆつば)のカネを客寄せにして、巨額のカネ(本物)を集めていた。年利36%の配当をうたって、全国の5万人から1000億円を集めたというから驚く。

この文章を読んでいて、もしかしたらここで「本物のカネ」とされている「円」あるいは「ドル」も、結局は円天と同じなのではないかという気がしてきました。
通貨と擬似通貨の違いは何なのでしょうか。
紙幣発行権を持つ政府当局や日銀、大銀行のトップの顔とエル・アンド・ジー会長の顔がダブって見えてきてしまいます。
あるいは、社会保険庁や自治体の職員にとって、「円」は「円天」のようなものだったのではないかと思いました。

現在の経済システムは、円天のシステムと大きくは違わないのではないか。
そんなもろい土台に上に、私たちの経済は成り立っているような不安をぬぐえません。
円天生活ならぬ、円生活を楽しんでいて、いいのでしょうか。

■生命を殺めた人が生きながらえる社会の生命観(2007年10月6日)
万引き追跡のコンビニ店員が刺殺される事件が起こりました。
万引きされたのは、500ミリリットル入り缶ビール6本セットやアイスクリームだったそうですが、何だかやりきれない事件です。
先日も窃盗に入り、見つかったので再度戻って目撃者を殺害したという事件がありました。
最近報道される事件は、本当にやりきれない事件が多すぎます。
どうしてこうも生命が軽々しく扱われるのでしょうか。

死につながってしまった事件や事故のニュースを聞くと、なぜ生命を殺めることへの抑止力が働かなかったのか、と思います。
そうした抑止力が急速に失われています。
おそらくそれは私たちの生き方、ちょっと大げさに言えば、社会の文化の問題です。

殺人や傷害致死などの事件はなくさなければいけません。
それは単に被害者の死だけではなく、もっとたくさんの生命(生活)を破壊してしまうからです。
当然、加害者の周辺の人たちの生命(生活)も破壊します。

ちょっと飛躍はありますが、生命を殺めた人は少なくとも生命で償うべきです。
それこそが、生命をおろそかにしない出発点だと私は考えています。
残念ながら今の社会は、生命を殺めた人が生きながらえる社会です。
一見、生命を大切にしているようで、生命の尊厳を無視しているように思います。

みんなにとってかけがえのない生命を守る文化をもっと育てていけないものでしょうか。
改めて生命観についての議論をするべき時期です。
少なくともマスコミには、そうした意識を持ってほしいです。

生命を軽々しく扱うマスコミに、憤りを感じます。

■ウトロを知っていますか(2007年10月7日)
今朝の朝日新聞の記事が目にとまりました。
宇治の在日ウトロ地区が、住民に5億円で半分売却されることになったという記事です。
この地区は、戦時中に飛行場建設に関わった在日韓国・朝鮮人が住んできた所ですが、住民が立ち退きを要求され、問題になっていたのです。
私もCWSコモンズで少し紹介したことがありますが、詳しくは、「過去の清算がおわらない在日コリアンの町」のサイトをご覧下さい。
http://www.jinken.ne.jp/special/utoro/index.html
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#713

売却価格は5億円です。
ウトロに住む住民たちが集めた金額はまだ6000万円だそうです。
韓国政府も応援に乗り出すようですから、展望はかなり開けてきているようです。

こうした事件は日本国内にまだたくさん残っています。
それに頬被りして、北朝鮮の拉致問題だけを取り上げるわけにはいきません。
最近、少しずつそうした問題の掘り起こしが始まっていますが、私たちももっと関心を持つことが必要だと思います。
国家と生活という視点から考えれば、全く同じ問題なのですから。
拉致家族の支援活動も、こうした問題も視野に入れると全く違った展開になりますし、支援も広がって行くのですが、なかなかそうならないのが現実です。
それはたぶん、そうした活動がこれまでの発想の枠組みの中で構想されているからです。
マルチチュード発想を持てば、構想は違ったものになるのでしょうが。

節子の発病以来、さまざまな活動をストップしてしまっていたのですが、ウトロ関係もこの3年、フォローせずにいました。
久しぶりに「ウトロを守る会」のサイトを見たら、出てきませんでした。
活動の持続は難しいのでしょうね。
そんなわけで、どこにカンパしていいのかわかりませんが、こうした動きがあることだけでも多くの人に知ってほしいと思い、取り上げさせてもらいました。

■所有と無所有はコインの表裏(2007年10月9日)
節子が残していったものがたくさんあります。
まだ1回も着たこともない衣類や日用品も少なくありません。
そうしたものをどうしたらいいでしょうか。
衣服に関しては、娘にリサイクルショップに持っていくようにとお店まで教えていたそうです。節子らしいです。
しかし、残されたものを整理することはかなりの気力が必要です。
まだその気にはなれず、整理は手つかずです。
遺産のために親族の骨肉の争いが起こることもありますが、遺産のみならず、何事も残すものは最小限にしておいたほうがいいのかもしれません。

これは節子の問題に限りません。
私自身も身の回りの整理をしなければと思い出しました。
とりわけ仕事関係の資料や書籍は残しすぎですし、生活用品も過剰に所有していることは明らかです。
これまでも何回か整理しようと試みたことはありますが、廃棄できませんでした。
しかし、今なら思い切って整理できそうです。

韓国の法頂師の「無所有」という本があります。
そこにこんな文章が出てきます。
何かを持つということは、一方では何かに囚われるということになる。
そのことに気づいた法頂は、こう心に決めたそうです。
その時から、私は1日に一つずつ自分をしばりつけている物を捨てていかなければならないと心に誓った。
物を所有するということは、物に所有されるというわけです。
主客の転倒、このことへの気づきが、私が会社を離脱した大きな理由でした。

19年前に、私は勤めていた会社を辞めました。
その時に、少しだけこうした思いを持っていました。
いろいろと捨てたつもりですが、いまなお物欲の世界に安住しています。

法頂は、さらにこうも書いています。
何も持たない時、初めてこの世のすべてを持つようになる。
これはとてもよくわかります。
私が理想と考えていることでもあります。
所有とは無所有であり、無所有とは所有である、というわけです。

節子と一緒であれば、無所有の世界に入りやすかったと思います。
すべてを捨てても、節子さえいれば大丈夫だったからです。
節子とそうした話を始めたのは4年半前です。
その直後に、節子の胃がんが発見されたのです。
そして節子がいなくなった。
私の人生設計は大きく狂ってしまったわけです。

しかし、今であれば、むしろすべてを捨てられそうです。
節子がいないのであれば、それ以外の何に未練があるでしょうか。
法頂さんを見習って、私も一つずつ捨てていこうと思います。
最後に残るのは何でしょうか。

ちなみに、この「無所有」という本はとても読みやすく、示唆に富んでいます。
みなさんにもお勧めします。
わがコモンズ書店を通して、アマゾンから購入できます。
ぜひどうぞ。

■手続きの時代の働きの場(2007年10月9日)
今日の朝日新聞に、新宿区立小学校の新任の女性教諭(当時23)が昨年6月、自ら命を絶った事件が取り上げられています。
http://www.asahi.com/national/update/1009/TKY200710080324.html
詳しくはその記事を読んでもらいたいですが、こういう事件です。

念願がかなって教壇に立ち、わずか2か月後に、なぜ死に至ったのか。両親や学校関係者に取材すると、校内での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んでいた姿が見えてくる。

ただ本人が弱かっただけではないかという見方もできるでしょう。

しかし、こうした事件がさまざまなところで起こっているような気がします。
その背景には、「働くこと」の魅力が失われているという時代の流れがあるように思います。
以前、ディーセントワークのことを書きましたが、そもそも働くことはわくわくするほど楽しいものだったはずです。生きることとつながっていましたから。
しかし、近代化は、その働きを「作業」にしてしまいました。
その話は繰り返しませんが、昨今の「働きの場」が楽しくなくなった理由の一つは、現代が「手続きの時代」だからだと思います。

新聞にはこう書かれています。
まず提出を求められたのは食育指導計画、公開授業指導案、キャリアプラン……。離れて住んでいた父は娘と電話で話していて「追いまくられてると感じた」。午前1時過ぎまで授業準備でパソコンに向かい、そのままソファで眠る日が続く姿を姉が見ていた。
子どもたちのための生き生きした授業をしたいという彼女の夢の前に、きっとたくさんの作業の壁が立ちはだかったのでしょう。
ともかく、いまは手続きが重要なのです。指導計画、何とかプラン、実践よりもそうしたものが要求されるのは、「管理」のためといってもいいでしょう。
新聞記事はさらにこう続けています。
娘は姉や祖母に「保護者からクレームが来ちゃった」と話してもいた。
身勝手な父母が学校をだめにしている事例は決して少なくないでしょう。
管理志向はますます強まってしまうわけです。
昨日、書いた医療訴訟もその典型例です。

こうした状況の中では、働くことが楽しくなるはずがありません。
そうして「働きの場」はどんどんと崩れ出している。私はそう思っています。
教師の働きの場が壊れてしまえば、学校は成り立ちません。
いまの学校改革は視点とベクトルが間違っています。
社会保険庁職員や自治体職員の不祥事も、こうしたことと無縁ではないように思います。
そう言えば、国会の議論も「手続きの話」が多すぎて退屈でした。
しかし、たとえば今日の長妻さんの質問のように、実体に迫る議論が始まりました。
政府の答弁は相変わらず手続き論ですが。

■国会の品格(2007年10月12日)
角福戦争の再来かとはやしたてられた今日の田中真紀子さんと福田首相のやりとりをみていて、品格という言葉をついつい思い出してしまいました。
最近、国家の品格とか女性の品格とかが流行のようですが、国会の品格も問題にしてほしいものです。
今日の田中さんには興ざめです。

国会での議論の目的は何なのでしょうか。
相手を叩きのめすのが目的なのでしょうか。
議論の目的は「創発」(違う考えをぶつけあうことによって新しい考えないしは価値を創出すること)ではないかと私は思いますが、いまの国会にはそうしたものは感じられません。
これでは、議論などしないほうがいいという風潮を広げているようなものです。
もっとも最近の国会議員には、議論に価値を置く人は少ないのかもしれません。
この風潮は、建前的にも小泉時代に加速されましたが、その流れを変えようとしている福田政権に対して、今回の田中議員の姿勢は失望しました。

田中議員だけではありません。
民主党はまだ自らの立場を認識していないような気がします。
民主党はもう少し余裕を持って、前向きの議論を心がけないと、相変わらずの万年野党になりかねません。

最高の防御は攻撃ですが、最高の攻撃は寛容です。

■39:献花台 Flowers for Life が完成しました(2007年10月13日)
節子の告別式でお話させてもらった「献花台」が完成しました。
ちょうど今日から我孫子市の手づくり散歩市が始まるのですが、わが家のジュンのタイル工房もその会場になります。
そこで、それに合わせて、献花台もオープンさせてもらうことにしました。
献花台の主旨は、私のホームページ(CWSコモンズ)に書きましたが、ちょっと長いですが、一部を引用します。

告別式では、ただただ節子への愛惜の思いで、節子への献花をイメージしていました。
しかし、自らに「献花」してもらうのは、節子の考えにはなじまないことに気づいたのです。
節子が望んでいるのは、みんなと一緒に花を愛(め)でることであり、花がみんなを幸せにしてくれることのはずです。
そこで、献花の対象を、節子ではなく、花そのものにしようと思います。
「花を献ずる」のではなく「花に献ずる」。
私たちの人生や生活、そして生命そのものに、元気や喜びを与えてくれる花に感謝しようというわけです。
花を愛でながら、花が大好きだった節子と一緒に、
花が咲きこぼれるような、気持ちの良い社会になるようにちょっとだけ思いを馳せる時間をつくる場にできればと思っています。
そのついでに、ちょっとだけ節子のことを思い出してもらえれば、うれしいですが。

またホームページのお知らせに、このことも載せました。
そこにはわが家の地図も掲載しましたので、12日、13日は、私も自宅にいますので、お近くの方はお立ち寄りください。
我孫子市の手づくり散歩市もぜひ、ぶらっとおまわりください。
手賀沼もそう捨てたものではありません。

節子は、昨年、この散歩市でタイル工房に来てくださった方にケーキでおもてなしをさせてもらいましたが、今年もそれをとても望んでいました。
節子が心残しだったことの一つが、そのことかもしれません。
その遺志を受けて、今年はジュンがケーキを焼きました。
展示の準備などで忙しい合間のケーキづくりだったので節子のケーキよりはほんの少しだけ出来が悪いかもしれませんが、節子の思いは十分に入っています。

ちなみに、献花台はとても小さいので、お花はわが家の庭の花を1本手折って供えていただければ結構です。
それに花に献ずる献花台ですので、できるだけ切花は少なくしたいと思います。
おそらくそれが節子の気持ちではないかと思います。
一番供えてほしいのは「花のような笑顔」です。
残念ながら私にはまだ無理なのですが。

■栃尾駅保全運動への署名協力のお願い(2007年10月13日)
北九州市の折尾駅舎の保存活動に取り組んでいる知人から、その署名運動への協力要請がありました。
彼女は私が取り組んでいる、「大きな福祉」を目指すコムケア活動の仲間です。
大きな福祉にとって、こうした問題はとても重要なことだと私は考えていますので、早速協力させてもらうことにしました。

折尾駅は私も一度だけ乗り降りしたことがありますが、木造総2階建ての駅舎で、とても味のある良い建築物です。
その駅舎が、折尾総合整備事業によって取り壊されることになっているのだそうです。
こうした歴史的産業遺産は以前よりも大事にされるようになってきましたが、まだ壊されているのが現実です。

蒔田さんからのメールの一部を引用します。

折尾駅舎は、大正5年建築の90年を越える木造総2階建の駅舎で、「日本初の立体交差・待合室の丸椅子・高架下の赤煉瓦のトンネルなどがあり、訪れるべき価値のある駅」の全国7位に選ばれました。
折尾駅舎は、まちを愛する人にとっての誇りであり、シンボルです。
折尾のまちは、駅を中心に交通・産業・文化の拠点として繁栄してきました。
その中でも『折尾駅』は、石炭輸送によって日本の近代化に大きく貢献した重要な歴史的遺産です。
JRで現存する木造総2階建の駅舎は、折尾駅・門司港駅・日光駅・原宿駅の4つだけだともいわれています。
折尾地区だけでなく、日本中の方にも保存を呼びかけていただければと思います。

蒔田さんは、こうも言っています。
日本は、社会的資源(文化的、歴史的、空間的、、、)を 軽く感じすぎますよね。
まず、先人の思いや知恵などの経緯(歴史)を知らないから誇りも感じられないし、大切にすることもできないのかなとも思います。
折尾の開発は、利便性を良くするだけでなく、そういったものを次世代につなげていけるような開発であってほしいと思います。

全く同感です。
折尾だけの問題ではありません。
よかったら協力してください。

署名用紙は次のサイトにあります。
署名用紙のダウンロード
http://f17.aaa.livedoor.jp/~heritage/orio.html
また、折尾駅の今昔物語もサイトをご覧ください。
http://members.jcom.home.ne.jp/nittan3/Orio-index.htm

■亀田選手を育てたのは誰なのでしょうか(2007年10月15日)
ボクシングの亀田大毅の反則行為が話題になっています。
大勢として、多くの人が批判しているようです。
最近のスポーツ界はさんざんです。

しかし、これまでの亀田一家の言動をみていれば、そう意外なことではありません。
彼らをそう育てたのは、亀田親子ではなく、むしろマスコミやファンだったはずです。
ここに来て、手のひらを返すように、行き過ぎだ、品格がない、などと言う人の気が知れません。

私たち夫婦は、そもそもボクシングというスポーツを理解できていませんので(なぜ殴りあうのがスポーツなのか私は全く理解できませんし、妻はそもそも殴り合いを見るのが生理的にだめでした)、彼らの試合をあまり見たことはないのですが、わが娘の一人が、なぜか関心を持っているので、時々付き合わされていました。
その程度の知識しかないので、ピントはずれな意見しかもてないかもしれませんが、どうみても今回に始まった話ではないように思います。
行き過ぎだというコメントをする人には、もっと早く止められたろうにと思ってしまいます。
ここまできって、やっと「行き過ぎ」だというのであれば、コメントの必要などありません。誰でもそう思っているはずですから。

こういう話はたくさんなります。
最近の円天事件もそうですし、相撲業界の話もそうです。ヤミ金融もそうですし、自殺サイトも同じです。
問題が起こる前に事件を防止することは、だれにとってもあまり得にならないためか、みんな熱心ではないような気もします。

しかし、どんな「事件」も結局は必ず私たちに跳ね返ってきます。
私たちの生活の基盤である社会が崩れていくからです。
社会は健全な常識とルールがなければ育ちません。
そして、その常識やルールを育てるのは、私たち一人ひとりです。
亀田一家を育てたのは、私たちみんなだというべきでしょう。
まずは自分自身の生き方を問い直す契機にしたいものです。
社員を「タコ」と呼ぶような人が教育再生に関わる時代ですから、誰かに期待するのは難しいです。
まずは自分からです。

■世界における立ち位置も変わっていました(2007年10月16日)
昨夜、娘たちと買い物に行きました。
娘たちが買い物をしている間、私は売り場の外のいすに座って待っていました。

いすで待っていると、しばらくして節子が姿を現してくれました。
しかし、もうその場面はないのです。
そんなことを考えながら、周辺を見渡しているうちに、見ている場所や印象が今までとは何か違っているような気がしてきました。
どこがどう違うのか説明できないのですが、奇妙に違うのです。
まわりの風景にリアリティを感じられず、自分がどこか違う世界にいるような気がするのです。
もしかしたら、節子の目で風景を見ているのかなと思いました。

私たちをおいて、世界は何もないように過ぎている。
私たちのさびしさなどは、きっと誰も気づいていない。
すぐ近くにこれほどの悲しさがあるのに、みんなとても幸せそうなのはなぜだろう。
宮沢賢治の、あの言葉「みんなが幸せにならないと自分も幸せになれない」を思い出したりしていました。
そして、気づきました。
私はこれまで、誰かの悲しさやさびしさを本当にわかっていたのだろうか、と。
いや、これまでではなく、今もわかっていないのではないか。

そう思い出したら、まわりの風景が一変してしまいました。
それぞれに、私と同じような「さびしさ」や「悲しさ」を背負っているのだろうなという気が、奇妙にリアリティをもって、わきおこってきたのです。
わかっていなかったのは、他の人たちではなく、自分だったのです。
すべての人たちがいとおしく思え、話しかけたくなる気持ちを感じました。

奇妙な言い方ですが、そこを歩いている人たちの向こう側が感じられるのです。
自分の居場所が少し落ち着いたような気がします。
節子の死によって、空間的な立ち位置ではなく、
もっと大きな位置変化、それこそ位相的な変化が起こっているようです。

しかし、身体はまだその変化についていけていないような気がします。
息苦しいほどの疲労感があります。
誰かと話していると、その疲労感は不思議に感じなくなるのですが。

■「来年の4月辺りが一番わかりやすい解散の時機」?(2007年10月16日)
民主党の鳩山さんの発言が朝日新聞に取り上げられています。
鳩山氏は衆院解散について、「我々は予算本体、予算関連法案に賛成することはない。しかし、(政府が)『予算は上げてもらいたい』となれば、(民主党は)『分かった。それならば、解散しろ』という発想があるのではないか」と述べ、野党が参院の過半数を占める中、政府・与党との「話し合い解散」に触れた。さらに、鳩山氏は「来年の4月辺りが一番わかりやすい解散の時機になるのではないかと思っている」と語った。(朝日新聞2007年10月16日)。

まあ、別に新しい意見ではなく、多くの識者が語っている話です。
しかし、私には、「予算」を成立させて解散という発想がどうも理解し難いのです。
予算は内閣や国会の意思が集約されたものです。
予算を決めた国会や内閣が責任を持って執行すべきことです。
予算だけ決めて、その後で国会の構成が変わったり、政権交代があったりするということはどう考えても納得できません。
解散選挙で国民の意向を確認するのであれば、当然、予算審議の前に行うべきでしょう。
それが素直な常識です。
「来年の4月辺りが一番わかりやすい解散の時機」と鳩山さんはいいますが、私には全くわかりません。
どうやら私は政治オンチになってしまっているようです。

予算審議を政争の具にはしてほしくありません。
「政治」と「政争」とは全く別次元の話なのですから。

■あなたは待つのが好きですか、苦痛ですか(2007年10月17日)
妻が亡くなったため、これまで妻に任せていたことを自分で少しずつやりだしました。
そこで気づいたのですが、「待つこと」が多い社会になっているような気がします。
昔からそうだったのでしょうか。
私は長らくビジネスの世界に生きていたため、まちづくりやNPO関係の世界に入った時には、スピード感の違いにかなり戸惑ったものです。
しかし、それとは別の意味で、「待つ時間」の多さを最近、体験しています。

たとえば昨日、カードを作ってもらうために銀行に行きました。私の住んでいる我孫子にはその銀行の店舗がないので隣の柏駅まで電車で行きました。そこで1時間近く待たされてしまったのです。混んでいる時間帯だったようです。私は待つことにおいては、30分が限度です。そこで帰ろうと思ったのですが、同行してくれていた娘に諭されました。銀行で30分待つのは珍しいことではない、それに今まで待った30分が無駄になるというのです。なるほど、そういえば途中でやめて無駄にした時間は私にはかなりあります。実は今回、銀行に来たのは3回目だったのです。
結局、1時間近く待って順番が回ってきました。
ところが、ある理由でカードは作れませんでした。
どうも銀行の手続きは難しくなってしまいました。

私が会社を辞めた20年近く前には、銀行窓口でいかに待たさないようにするかが大きな課題でした。ある雑誌に依頼されて、そうした小論を書いた記憶もあります。
ところがその数年後に、ATMの機械の前に行列ができるようになりました。たぶん文化が変わったのです。
そういえば、郵便局でもけっこう待たされることが多いのに驚きました。
社会保険事務所も職業安定所も待たされるのが苦痛で、途中で帰りました。
そのため、失業保険をもらい損ねてしまいました。
今から思えば、何と馬鹿なことをしたことかと後悔しています。
女房には怒られました。

今日は百貨店に商品の配送を頼みに行きました。
混んでいたこともあって、少し待たされました。
我慢できないほどではなかったのですが、その時に、これが主婦の時間感覚なのだということに気づきました。
主婦のみなさん、言い換えれば「生活者」のです。

「生活者」と「生産者」はきっと時間感覚が違うのです。
私は長らく生産者の世界に軸足を置いてきたために、「待たされる」という感覚を持ってしまいますが、「生活者」はそう感じていないのかもしれません。

いつか宅急便に関して、すべてが翌日に届く必要などないのではないかと批判的に書きましたが、私自身の中にも、翌日到着願望があるようです。身勝手なことです。

待たされるといえば、ディズニーランドでは待つのが当然の文化が出来上がっています。
パソコンなどのトラブル問い合わせも電話で待つのが当然です。
見渡していくと、いまや「待つ」のは常識の世の中なのですね。

女房がいなくなったおかげで、社会の実態が実感できる毎日です。
待つことは疲れますが、待っていればいつかは解決します。
しかし、いくら待っても妻はもう戻ってきません。
あれ、いつの間にか「妻への挽歌」になってしまいました。
困ったものです。
待ったら私の悲しさは解決するのでしょうか。

■44:「普通に暮らせることが一番の幸せ」(2007年10月18日)
節子の口癖のひとつは、「普通に暮らせることが一番の幸せ」でした。
私も相槌をうっていましたが、いま思えば、その意味を全く理解していませんでした。
その一事をもってしても、私の生き方の不誠実さがよくわかります。

「普通に暮らせること」とは何なのか。
これは難しい問題ですが、節子の言いたかったのは、昨日と同じように今日もすごせるという意味でした。このことは節子には大きな意味を持っていました。
台所に立てる時間が少なくなってきた頃、節子はとてもさびそうでした。
私はその寂しさをあまり深く思いやることができていなかったように思います。
また前のように食事をつくれるようになれるから、と言っていました。
元気付けるつもりだけではなく、本当に私はそう思っていました。
その時の節子のさびしさを理解しようとしていなかったのです。

明日は今日よりも良くなるようにと、私たちはついつい思いがちです。
でも大切なのは、昨日と同じように過ごせることが大事なのだと、ようやく私も気づきました。
宮沢賢治の「雨にも負けず」を読み直してみました。
不思議ですが、涙が止まりませんでした。
やっと賢治の気持ちが少しわかったような気がしました。

■マスコミは何をベースに記事を書くべきか(2007年10月18日)
今日の朝日新聞の天声人語を読んで、やはり赤福事件も一言書いておこうと思い直しました。但し、赤福に対してではありません。マスコミに対してです。

天声人語の記事はこうです。
しばらくするとネットでは読めなくなるので、一部を引用させてもらいます。
「ここだけは安泰」と信じた旧来の和菓子ファンは、帰る所を失った心地ではないか。伊勢名物、赤福の偽装である▼包装ずみの商品を冷凍保存し、包み直して売っていた。品切れを防ぐため、70年代から続くやり方だという。解凍し、再包装した日を製造日と偽った品は、過去3年の出荷量の2割近くになる▼小欄にとって、赤福の後味はほろ苦い。8月、北海道銘菓「白い恋人」の賞味期限偽装を取り上げた。経営者が赤福の伝統を目標にしていたことを紹介し、こう書いた。「今年創業300年の赤福の餅は、ごまかせない『製造日限りの販売』だ。伝統にはそれぞれ、理由がある」▼読者の皆様から「赤福にはもちろん、天声人語にも裏切られた」というおしかりや、「天声人語も犠牲者だ」とのご意見をいただいた。いずれにしても老舗(しにせ)の看板に目が曇り、公式サイトの言い分をうのみにした不明は恥じるほかない。
最後の「老舗(しにせ)の看板に目が曇り、公式サイトの言い分をうのみにした不明」。
まさにこの点にこそ、最近のマスコミの最大の問題があると思います。

最近のマスコミ報道は、多くの場合、二次情報をベースにしていることが多いです。
そこに大きな落とし穴があります。
昔、「非情報化革命論」を書いたことがありますが、二次情報どころか三次、四次と現場からどんどん離れた情報が大手を振って闊歩しているのが現代です。
そこでは情報ではなく、バーチャルな現実が作られているといっていいかもしれません。
そのためリアルな現実が見えなくなってしまいがちです。
現実を報道すべきマスコミが、現実を見えなくしているわけです。

そうしたことを回避するにはどうしたらいいか。
それは第一次情報にしっかりとアクセスすればいいだけの話です。
真実は現場にしかありません。
そうしたことが昨今のジャーナリズムでは軽視されがちです。
長井さんのような存在は、国内でも必要です。
会社の現場をしっかりと見れば、事実はかなり見えてきます。
経営者に会えば、その企業の実体は見えてきます。
赤福の経営者が悪いと行っているのではありません。
しかし落とし穴は見えるものです。

赤福の事件を、ぜひともマスコミは自らの問題として考えるべきだと思います。
亀田事件も赤福事件も同根です。
氷見市の冤罪事件も郵政民営化もみんな同じかもしれません。
マスコミは影響力が大きいですから、自分の目で現場を見て、書いてほしいものです。

ちなみに、赤福は私も女房も好きでした。
先代の社長から「作った日にしか食べてほしくない」と言われて以来、私は赤福ファンになりました。
名古屋に行ったら、必ず買ってきました。
赤福は私も女房も好きでした。
冷凍であろうと、とても美味しかったです。

■権力や権威の犯罪を告発する動きが出始めました(2007年10月19日)
厚生労働省が、血液製剤フィブリノゲン投与者を知りながら、本人に告知しなかったことが漸く刑事告発の次元で検討されだしました。
権力ないしは権威に対する刑事告発は、これまではなかなか難しく、よほどのことがないと行われませんでしたが、最近ようやく「告発してもいいのだ」という意識が生まれだしたような気がします。
犯罪者の属性によって、犯罪が帳消しになる社会から、日本も漸く脱しつつあるように思います。
その反動があるかもしれませんが。

この事件に関しては、以前、「厚生労働省の犯罪」として書きました。
年金に関する公務員の犯罪も刑事告発が始まりました。
同じ仲間の自治体首長は異論を唱えていますが、告発されるべきは彼ら自身でもあることを知っているからかもしれません。
管理責任を厳密に適用したら、日本におけるほとんどすべての権力者は刑事告発の対象になるかもしれません。
それは組織原理に問題があるからだと思いますが、であれば、守りではなく一緒になって仕組みを変えていくべきだと思いますが、なかなかそうはなりません。
管理型社会における組織では管理するほうの犯罪は基本的には問われずに、ただ「革命」時や「延命」時に例外的に問われるだけでした。
田中角栄への告発も、その一つの事例でした。彼が裁かれたのは、その属性の故かもしれません。
これは私の思い過ごしかもしれませんが。
しかし、民主型の社会では権力者こそ厳しいチェックの目にさらされることになります。そうした社会のパラダイムが移行しつつある中での混乱がいま起こっているように思います。

「弁護士の犯罪」についても書きましたが、権力と同時に、権威もまた刑事告発の対象になっていくでしょう。
なぜなら、権威の多くは権力にお墨付きをもらっていますから、権力のバリエーションの一つでしかありません。
念のためにいえば、権威は与えられる権威と生まれてきた権威があります。
弁護士は前者の典型です。
司法界の独立などは現実には、そして論理的にも存在しないような気がします。
光市母子殺害事件の弁護団こそ、刑事告発されるべきだと私は思っていますが、彼らは与えてくれた権力のために奔走しているわけですから権力はなかなか告発しないでしょう。
それに法曹界の仲間意識は極めて強いようですから、内側からの自浄作用も起こりにくいようです。

学校における教師の犯罪、企業組織における上司の犯罪、スポーツや文化の世界における師匠の犯罪、そうしたことがどんどんと顕在化してきていますが、残念ながらそれを根本から解決して取り組みはあまりみられません。
結局は、防止のための管理装置をつくるだけですから、犯罪は進化しても無くなりはしないでしょう。

組織原理あるいは文化を変えていかねばなりません。
それに向かって動き出す一歩は簡単です。
すべてを透明にすればいいのです。
そしてすべての人間がつまるところは同じ尊厳さをもっていることを自覚することです。
実際には、それをどうやって実現するかが問題なのですが、先ずはその意識を持つことです。
1円から領収書を添付するかどうかなどという馬鹿げた議論ではなく、実態を見えるようにすれば、犯罪の素地は大きく変化するはずです。
事実を隠そうとしたい意識から犯罪は起こるのですから。

■人はどこまで犯罪を「進化」させられるのか(2007年10月20日)
昨日に続いて犯罪の話です。
信じがたい犯罪行為が毎日のように報道されています。
いったいこれからどうなっていくのか不安があります。

明らかに犯罪の質が変化しています。
一つには、これまでは隠されていた犯罪行為が露出してきたということもありますが、犯罪行為自体が変質してきたことも否定できないように思います。
人間が考えられる行動の閾値が変化してしまったのでしょう。
人間という存在すべてに、「ふた」がされていた領域(あるいは考え)が解き放たれたのです。
これもまた、ある意味での「発見」かもしれません。
たとえば、「動機なしに人を殺すことができる」ことが発見されてしまったのです。
「不特定多数の殺人」などは、一昔前には思いつかなかったことではないかと思います。

ただ、そうした事実がなかったわけではありません。
国家や宗教組織などによるジェノサイドは大昔からありました。
しかし、まさかそれを個人ができるとは誰も考えなかったでしょう。
ましてや自分でやることなど思いもしなかったはずです。
それが最近、「個人でもできること」として「発見」されてしまったのです。
ふたがはずされると、発想は一挙に広がります。
現在の犯罪事件の報道にふれていて、私にはそんな感じがします。

エデンの園で、イブにリンゴを食べさせた蛇は、まだどうも健在のようです。
心しなければいけません。

■戦争と犯罪はつながっています(2007年10月21日)
赤福事件やサブプライム問題など、気になることが多いのですが、犯罪に関することをもう1回だけ続けます。

戦争と犯罪はどう違うのか。
戦争は外部関係であり、犯罪は内部関係の話です。
その点を除けば同じものではないかと私は思っています。
そしてグローバル化された世界においては、戦争と犯罪を区別できなくなってきます。
ネグリが「マルチチュード」で語っているように、帝国主義の時代には国家間のぶつかりあいが戦争として現出しましたが、国境がなくなったグローバルな世界では内戦とテロが現実の形になってきます。
それらは似て非なるものですが、そこの認識の食い違いからイラクやアフガンの混乱は生じているように思います。いずれもベトナムの再来です。
日本の防衛戦略には、そうした整理が欠落しているように思います。
基本にあるのは古色蒼然とした国家論です。
語っているのは、その国家に寄生している人たちです。
ですから防衛省の事務次官(当時)の犯罪は驚くに値しません。
少し言いすぎかもしれませんが、戦争を管理する国家と犯罪は深く繋がっています。
同じことが、警察(検察や弁護士も)と犯罪の関係でも成り立ちます。
犯罪があればこそ、警察は存在意義を持ち、戦争があればこそ国家は存在意義を持ちます。

新しい暴力の対立軸は、国家対国家ではなく、個人対個人、もしくは個人対制度です。
ここで「個人」とは「一人の人間」という意味ではなく、個人という主体性のつながりの上にある個人です。ネグリの言葉をかりれば、マルチチュードです。
その構造に立脚すると、犯罪や暴力への対処の仕方が変わってきます。
飛躍した喩えですが、西洋医学と東洋医学の違いに似ているかもしれません。

さらに飛躍した話をすれば、問題解決のための仕組みは、それ自体を無くすことを目的にしない限り、いつか問題発生の仕組みになっていきます。
「産業のジレンマ」と同じように、「制度のジレンマ」は悩ましい問題です。

21世紀は、真心の時代になると期待していましたが、当分はまだ無理そうです。

■赤福はなぜ道を間違ったか(2007年10月20日)
赤福の問題は最初はわずかな行き違いだったような気がしましたが、その実態が見えてくるにつれて、そうではなくてこれまでの食品メーカーと同じく、意図的な行為だったことがわかってきました。
日本の老舗の経営理念を高く評価している私としては、残念でなりません。

数年前に先代の社長に何度かお会いする機会がありました。
赤福の事業に関連してではなく、伊勢のまちづくりに関連して相談を受けたのです。
企業経営に関しては、お話しませんでしたが、赤福に対する思いの強さは感じました。
その日にできたものを売り切ること、そのために東京には出荷しないこと、などをお聞きして、私も赤福ファンになりました。
まちづくりに対しても、しっかりした哲学と見識をお持ちであり、実践されていらっしゃいましたので、その点でも感心しました。
残念ながら、その時はいろいろとあって、お役には立てなかったのですが、3か月ほどのお付き合いの中で感じたのは、まわりの人との距離感でした。いいかえれば、世間、あるいは社会との距離感です。
トップがあまりにも突出しすぎてしまうと組織はおかしくなることを体験的に感じていましたので、危惧の念を持っていました。
しかし、今回のようなことが起きようとは思いもよりませんでした。
残念でなりません。
現場の人たちの思いがトップにもし伝わっていたら、こんなことにはなっていなかったはずです。
少なくとも先代の社長は、意図的に今回のようなことを認めることはなかったでしょう。
しかし、結果的に認めてしまったわけですが、ここに組織の恐ろしさがあると思います。

経営者こそしっかりした信念と社会性を持つべきだという「経営道」の活動にささやかに20年関わらせてもらっていますが、どうも問題は個人ではなく組織の原理にありそうです。
そんなことを改めて考えさせられています。

■ユンゲの懺悔(2007年10月23日)
今月号の「軍縮問題資料」(2007年11月号)はぜひ多くの人たちに読んでほしい記事が満載です。以前も何回か書きましたが、この雑誌の講読をお薦めします。

共感した記事の一つは、折原利男さんという高校の先生が書いた「教育はどうあるべきか」です。
そこに、2004年に制作されたドイツ映画「ヒトラー 最後の12日間」の話が出てきます。
たまたまこの映画は、一昨日、BSで放映されていたので、ご覧になった方もいるかもしれません。ヒトラーの秘書だったユンゲの回想録に基づいて制作された映画です。
その映画に言及して、折原さんはこう書いています。

この映画でくつきりと心に刻まれるヒトラーの言葉がある。破壊されていく首都ベルリンと、無残に殺されていく無数の市民について、彼は「(国民が)自ら選んだ運命だ。自業自得だ」と語るのだ。つまり、自分たちに国を委ねたのは国民であり、その国民自らが招いた報いだと言うのだ。そこにはヒトラーの冷酷さと責任逃れがあるというだけでは片づけられない、国民の責任というものが凝縮されて提示されている。「ヒトラーなるもの」を生み出したのは、紛れもなくドイツ国民自身なのだった。

映画の中では訪ねてきたシュペアに向けて話された言葉になっています。シュペアについては、以前、2回ほど書いたことがありますが、ヒトラーに信頼されていた人物です。

ユンゲ(本人が映画の最初と最後に登場します)は、ある時まではナチスのユダヤ人虐殺は自分とは無縁のことだったと思っていたそうですが、ある時にそうではなかったことに気づきます。
それは同じ歳のユダヤ人女性が、ユンゲが秘書になった、まさにその年に処刑されていたことを知ったからです。
その気になれば、ナチスのやっていたことはわかったはずだったと気づくのです。
そして、こう語ります。
「怪物の正体を知らなかった自分を今も許せない」
「若さは無知の言い訳にはならない」
ユンゲの懺悔は、彼女の人生をどれほど重いものにしてしまったことでしょう。

この話を紹介した後、折原さんは続けてこう書いています。
憲法改正をはじめとして、すべてはわれわれ国民の判断と選択にかかっていて、結局は国民の責任なのだということを再確認する必要があるだろう。ヒトラーの言葉のように、われわれ市民の自業自得としてはならないのだ。また、最悪の結果を招いてから、若者にユンゲのような懺悔をさせてはならないと思う。そのような意味でも、教育の責任は大きいと言えるだろう。

その教育が、国家によって壊され続けています。
新教育基本法の制定は、安倍政権の成果という人たちにはぜひこの映画を観てほしいと思います。
戦後レジームからの脱却とは、ナチスが目指した道につながることだと思いますが、どれだけのユンゲがこれから生まれてくるのか心配です。
学校教育はますます壊されていく気がします。

日本はもう角を曲がってしまったのかもしれません。
まあすべては自業自得なのですが。

■郵政民営化の現場事情(2007年10月24日)
郵政民営化のおかげで、いろいろと不便を感じている人は少なくないと思います。
ようやくみんなも「民営化」の意味がわかってきたのではないかと思います。
社会にとっては百害あって一理なしです。金儲けにはつながりますが。
金儲けにしか関心がなく、現場を体験していない「有識者」の人たちにはたぶん縁のない話でしょうが、現場の担当者も利用者も苦労しているはずです。

たとえば、パスポケットという仕組みがありました。
郵便小包の一種ですが、400円で全国に郵便物を送れ、その追跡調査が出来ます。
それで荷物を送ろうと郵便局(名前が変わっているのでしょうか)にその用紙をもらいにいったら、民営化のためまだ用紙が届いていないというのです。
民営化してもうかなりの日数がたっています。
信じられない話ですが、現物がないのであれば仕方がありません。
サービスの悪化は、いうまでもありませんが、民営化の必然的な結果です。
まあ、これは世の中の常識とは反対の私見ですが。

民営化に関する案内パンフレットは2回以上、わが家にも送られてきました。
そんなことより内部の対応をしっかりしてほしいものです。
新しい郵便会社のトップはほとんどが現場を知らない人で、いま流行のマーケティングとかコミュニケーション戦略にしか目が向いていないのでしょう。
JRもそうでしたが、民営化は「事業価値」などには無関心で、「事業利益」にしか目が向けられないのです。
地方の郵便事情が悪化するのはわかっていましたが、まさか都市部においてもここまでひどいとは思ってもいませんでした。

組織利益は重視しても、社会利益を無視するのが、昨今の民営化です。
少し言いすぎでしょうか。

■逮捕される人、されない人(2007年10月25日)
連行されるミートホープ社の田中社長の姿をテレビで見ていて、何かとても気の毒な気がして仕方がありません。
確かに悪いことをしたのでしょうが、どこかで同情してしまいます。
何が悪かったのか。
偽装が悪かったのであれば、いまやほとんどすべての商品は偽装ではないかともいいたいです。
偽証などとは無縁だという工業商品や建造物があったら教えてほしいものです。
最初の対応が悪かったとみんないいますが、素直だっただけかもしれません。

そのニュースに続いて、薬害肝炎と守屋前防衛事務次官の事件が報道されましたが、そこに関わっている人たちはいずれも逮捕されないのでしょうか。
逮捕する人は「民」であって、「官」と繋がっている人は逮捕されないのかなどと妄想を働かせたくなります。
薬害肝炎のニュースでは、厚生労働省の職員を前にして、被害者が、あなたたちは私たちが死んでもいいと思っているのでしょうと詰問していましたが、実際に彼らはそう思っていたはずです。生命の尊厳性など感じていなかったとしか思えません。
彼らにとって、「死」は統計上の数字でしかないからです。

守屋さんはどうだったでしょうか。
自らの行為が、どれだけ多くの人命に関わっているかは、全く思ってもいないでしょう。
しかし、防衛とは常に生死にかかわる問題です。
もちろん日本国民に限りません。
自衛隊のイラク派兵が、どれだけの人命を殺傷したかはわかりませんが、軍隊を動かすということはそういうことです。

その点で言えば、最近の日本で最大の殺人準備行為をしたのは小泉元首相でしょう。
彼は日本を「戦争国家」に変えました。憲法の理念を踏みにじったのです。
それによってどれだけの人がこれから殺傷されるのでしょうか。
考えただけでもぞっとします。
しかし彼らの行為を支援したのは、かつてのドイツ国民と同じく、私たち日本国民なのです。私も、その一人なのですが。

そうした大きな犯罪は見過ごされます。
小さな犯罪を起こした民たちだけが逮捕されます。
民も後ろ盾があれば逮捕を免れます。
金融業界の人たちは、たとえそれによって死者が出ようと見過ごされています。
ミートホープ社の田中さんの連行の画面を見ていて、憤りが再発してしまいました。
弱い者たちは、いつの時代にもいじめられます。
いじめを支えているのは、同じ弱いものたちなのです。
しかし、その弱い人たちが歴史を切り開いていく人たちでもあるのです。
田中さんの再起を期待します。

■舛添厚生労働相の奮闘(2007年10月26日)
フィブリノゲン問題が漸く明らかにされようとしています。
産官癒着の典型的な事例だと思いますが、生死がかかわる以上、これは犯罪だと思います。
戦争での殺人は許されるかもしれませんが、内政における殺人は許されるべきではないでしょう。
コラテラル・ダメッジの論理は民主国家では本来ありえないはずです。
これに関しては、先の福岡判決の時にも書きましたが、企業も国も責任回避が基本だったように思えましたが、舛添はまずは責任を明言しました。
フィブリノゲン問題のような話は、まだまだたくさんあるはずです。
舛添さんと野党とのやり取りを聞いていて、気になることがあります。
それは野党の相変わらずの「対立」姿勢です。
この種の問題は、本来、対立するはずのない問題です。
対立する前に、野党も一緒になって、問題の解決に取り組めないものでしょうか。
国会は「論争」の場ではなく、「議論」の場です。
もちろん裁判の場でもないので、犯罪者たちを裁くことはできないでしょうが、官僚に対する刑事告発や民事告発ができるのだということを早く示してほしいものです。
そのために、与野党などという枠を超えてほしいものです。
国会議員は、政党人である前に、日本国民であることを忘れないでほしいです。
日本は泥棒国家だといわれて久しいのですが、そこを毅然と正そうとしている舛添さんの言動を見守りたい気分です。
事態をややこしくすることで利益を得ているマスコミには邪魔してほしくないものです。

■浜岡原発判決の裁判官の責任の取り方(2007年10月27日)
中部電力浜岡原発の運転差し止め訴訟の判決は、「原発の安全性を認め、ことごとく原告の訴えを退けた」(毎日新聞)内容になりました。
おそらく多くの人たちの予想とは違うものではなかったかと思いますが、そもそもこのテーマそのものが裁判にはなじまないような気もします。
現在の日本の裁判の基本パラダイムは要素還元主義による論理整合性に立脚しています。ホリスティックな発想が入る余地は極めて少なく、入るとしても中途半端な「情状酌量」論しかないように思います。
さらに時間軸においても固定的で、関心は未来にではなく過去にあります。
刑事事件でも被告の更生はかかげますが、原告の未来軸には関心を持ちません。
まあ、そんな小難しい議論は別にしても、今回の判決は生活者の視点から考えればとても大きな違和感をもたざるをえません。

判決は、「指針見直しは旧指針の妥当性を否定するものではない。旧指針に適合していれば、耐震安全性は一応確保されたとみるのが相当」と判断したそうですが、この一文だけを見ると、裁判の立脚している論理にも疑問を感じます。
旧指針の妥当性が肯定されるのであれば、指針見直しは不要です。
それに、旧指針に適合していれば安全性は確保されるなどという馬鹿げた論理が世の中にあるとは思えません。
もしそうであれば、昨今の環境規制などは成立しません。
この裁判官には生きている時間というものがないのでしょうか。

まあ、あまり憤りだけ述べても意味がありませんが、いつも思うのは、なぜこうした事件が裁判ではなく、解決に向けて公開の場でもっと真剣に語られないのかです。
それが実現しないのはなぜでしょうか。
原発反対の運動者にも問題はあると思いますが、責任の過半は電力会社もしくは国家にあると思います。
エネルギー問題や環境問題(それらはいずれも生活に直結する問題です)を踏まえて、関係者が真剣に事実を徹底的に出し合って選択肢を模索するべき問題です。
すべての事業や商品に「絶対安全」などあろうはずもありませんから、問題は安全を高めるためにどういうシナリオがあるのかを考えればいいだけの話なのです。
対立する時間があれば、共創すればいいだけの話です。
原発は企業と社会の関係における象徴的なテーマだと思いますが、残念ながら現状ではまだコミュニケーション基盤さえできていません。
電力会社や行政は、莫大な資金をかけて「コミュニケーションまがい」の活動をしていますが、ほとんどすべては「天下り先の確保」や「企業を儲けさせる事業」に消えています。
原発広報のパンフレットの無駄遣いが話題になったことがありますが、その費用は半端ではありません。
ある電力会社の広報関係者から私たちはこれだけのことをやっているのにと、広報資料を送ってきてくれたことがありますが、そのほとんどは印刷業者の利益を生むだけのものでした。
そうした費用を社会との真剣なコミュニケーション活動に振り向けたら事態は一変するでしょう。お金などそうかからないでブレークスルーできるはずです。

それにしても、今回の判決を出した裁判官の責任は問われないのでしょうか。
裁判官という職業は誰からも裁かれない神のようなものなのでしょうか。
冤罪事件の裁判官がその辛さを告白した事件が最近起こりましたが、裁判官もまた間違いを犯すことはあるはずです。
それは犯罪ではなく、間違いだから罪には問えないということかもしれませんが、そうした常識を見直してみるべきではないかと思います。
間違ってもとがめられないような社会行為はあってはなりません。
それにどんな判決を出してもとがめられないような、緊張感のない仕事は腐敗する恐れがあります。
プロフェッションの誇りは、その緊張感の中から生まれるはずです。
守屋前事務次官は、そうした緊張感のない立場ゆえに犯罪者になってしまいました。
裁判官もそうならないとは限りません。
ニュールンベルグ裁判を思い出します。

■コケにされたのに、なぜもっと怒らないのか(2007年10月28日)
テロ特措法に関連して、給油量問題が話題になっていますが、常識的に考えれば、意図的な操作だと考えるのが普通だと思います。
これは制服組の反乱行為であり、犯罪というべきでしょう。
当然、刑事告発の対象にすべきでしょう。

首相も大臣も「コケ」にされたわけですが、なぜか福田首相も石破大臣もそれほど怒りません。
なぜでしょうか。
意図的な反乱ではなく、事務的なミスだとしたら、それはそれで大問題です。
国家の安全を担う防衛省としてはあるまじきことですから、その場合も大臣は即刻、責任者を更迭し、関係者を即刻入れ替えるくらいの大改革を行うべきです。
しかし、だれもそんなことは言い出しません。
さほどの怒りも聞こえてきません。
赤福やミートホープの問題よりも、ことは重大なはずです。
何しろ国家の安全政策を見誤らせかねない事件なのです。
その頂点にいた守屋前次官もせめて田中元社長や浜田社長のように謝罪すべきです。

官僚の不祥事が起きた時に、私がいつも不思議に思うのは、政治家が怒らないことです。
小池さんや田中真紀子さんは感情的に怒りましたが、感情的ですからたいした怒りではありません。
愛国心などを口に出して国を憂えるのであれば、大臣はもっと怒るべきでしょう。
どうしてミスが生じたのか、などという議論の前に、まずは関係者の名前を公開し、即刻処分するのが常識です。
年金問題もフィブリノゲン問題も、舛添さんになって初めて「怒った大臣」を見た気分です。
舛添さんの顔は、もともと怒っているような顔ですが、彼の怒りが伝わってきて好感が持てます。怒る時には怒らなければいけません。
本気になれば、怒りがもっと出てくるはずなのに、どうもみんな怒りを出しません。
そうでないと政治家はつとまらないのでしょうか。
もっと怒りをもって取り組む閣僚が増えてほしいです。

拉致問題も、みんな盛んに怒ったふうをしますが、行動にはほとんど現れてこないのが残念です。
本気で怒っているひとはいるのでしょうか。
関係者がいなくなってから解決しても意味がありません。

■テロ特措法と守屋事件とは別物なのか(2007年10月29日)
守屋前次官の国会召喚を終わって、政府はこれで一区切りつけようとしています。
まさに「手続きの時代」の発想です。
町村官房長官は、テロ特措法と防衛省の問題は別だと明言しましたが、法案に基づいて実際の行動を起こすのは防衛省です。
両者は決して切り離せる問題ではないと思います。
たとえが悪いですが、犯罪者に凶器になるものを与えるということになりかねません。
それにしても、なぜこれほどの大問題を政府は真剣に正そうとしないのでしょうか。
それは自らが仲間であるからではないか、と勘ぐりたくなります。
守屋前次官の犯罪は厳罰に処されるべきですが、しかし事の本質はそこにはないように思います。もっと大きな犯罪が見え隠れしているように思いますが、それを議論しているのはみんな同じ世界の人たちなのかもしれません。この分野にも枡添さんのような部外者が入ってこなければだめなのかもしれません。

喚問での守屋発言で、防衛大臣経験者も関係していることが明らかになりました。
食事を共にした人の名前も明らかにしなかったことで、それは明らかになったといっていいでしょう。
つまり守屋事件は政治家が一体となった犯罪の可能性があります。
日本の軍事費は世界で5番目に多いそうです。
ちなみに、1995年から2003年まではアメリカについで2番目でした。
憲法9条があり、軍隊もない日本の軍事費がなぜこれほど大きいのか。
これも納得しにくい話です。

喚問前には、守屋前次官は疑惑を否定していましたが、それが全くの虚偽であったこともまた明確になりました。
つまり彼は「悪質な大嘘つき」だったわけです。
しかも取材に対して、「殴るぞ、お前!」などと暴力的な発言をしている画面をみるとやりきれなくなります。
暴力団に武器を与えるような事はしたくないと、つい思ってしまいました。

よくまあ、こんな大嘘をつけるものだと小心者の私は思いますが、今や日本は嘘が奨励される社会ですから、仕方ないのかもしれません。
その嘘を奨励する社会に舵をきった小泉元首相と守屋前次官は活躍時期が重なっているというのも納得できます。
類は類を呼ぶものです。

本論から離れてしまいました。
テロ特措法よりも守屋事件の方が重要であること、そしてその解明がない限り、新たな軍事法案は議論しても意味がないということを書きたかったのです。
冗長ですみません。

■法も規律も破った人たちの責任の取り方(2007年10月30日)
読者の方からこんなメールが来ました。

「日本の企業病理は慢性化している」と書かれていましたね。
企業だけではなく、社会の仕組みのいたるところが、ボロボロと崩れ始めているような気がして、しょうがありません。

確かに、マスコミが伝える最近の報道を見ていると、そうとしか思えません。
地域社会や近隣社会が壊れてきているとよくいわれますが、壊れているのは社会全体というべきでしょう。近隣社会では、それが見えやすいだけの話です。
その一方で、新しい社会の芽が生まれ始めているような気もしますが、それにしても大きな規範性が失われてしまったのは恐ろしいことです。

「やりたい放題」という言葉が、守屋前次官には当てはまりますが、それは何も彼だけの話ではありません。
憲法違反行為を首相自身が簡単に行う国ですから、わが国はいまや「法治国家」とはいえないでしょう。ひどい状況になってしまったという気がします。
そうした与党政府に対して、野党側の攻撃はあまり効果的とはいえません。
守屋喚問を聞いていて、なんだこの茶番劇は、という気もしました。
もっとしっかりと追求すべきでしょうが、野党にも弱みがあるのでしょうか、甘い追及でした。年金問題よりも重大な問題なのですが。
それに喚問中に「補佐人」とかいう人が隣にいて、入れ知恵をしているのも気になりました。本気で喚問するのであれば、抗した制度はやめるべきでしょう。常に権力者は自らを守る仕組みを用意しておくものだと感心しました。補佐人には正義感や良識はないのでしょうか。

法も規律も破られました。
社会から名実両方の規範が失われだしたわけです。
規範を守る警察も法曹界も、自らが規範を否定し始めています。
「無法国家」というのはひどすぎますが、まあそうした方向に向けて動いていることは否定できません。
最初のうちは、みんな気づかないものです。

賞味期間など瑣末な問題になっていくでしょう。
吉兆もひどいですが、ひどさの質を見間違わないようにしなければいけません。
守屋前次官は自衛官には謝りましたが、国民には謝っていません。
罪の意識など微塵もないのでしょうが、そこに法治国家の本質を見る気がします。

彼らの責任の取り方に関心を持ち続けたいと思います。
いつもそれがうやむやになってしまいますので。

■トップの不祥事は組織の不祥事です(2007年10月31日)
仲間の問題は自分にも責任があると以前書きましたが、これに関しては納得してもらえなかった方もいるようなので、もう一度書きます。

防衛省の守屋前次官の常軌を外した行動はどう考えるべきでしょうか。
あれは守屋個人の問題だったのでしょうか。
そんなことはないはずです。
守屋天皇の下に、同じような小天皇がいたことは容易に類推されます。
つまり、組織というのは、必ずと言っていいほど、段階的にフラクタルな相似現象が生まれます。
不勉強のため論理的に説明することは、私には出来ませんが、常識的に考えれば納得してもらえると思います。
守屋事件はたくさんの小守屋によってそびえ立ってしまっただけの話です。
守屋次官の行為に批判的だった人がいたかもしれませんが、黙認した以上は同罪ですし、気づかなかったとすれば職責を果たしていないことになります。
シュペアー、ユンゲ、ヤニング、彼らの言葉には耳を傾けなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/06/post_d133.html

つまり、防衛省はおそらく現場の職員一人ひとりにまで、この文化が支配していたはずです。
現場の職員はまじめに働いていたのに、という同情の言葉は全く成り立ちません。
現場の職員も腐ってしまっているはずです。
それは年金問題を見ればよくわかります。
もちろんすべての職員が犯罪者だというわけではありませんが、良心は失っているはずです。
守屋事件は、周辺の人にはほとんどすべてわかっていたはずです。

御福餅が赤福と同じようなことをしていたことが発覚しました。
その社員がテレビで話していました。
赤福事件が起きてから、いつ発覚するか心配だったと。
赤福の事件は食品業界共通の事件です。
赤福でやっていたことはほとんどすべてのメーカーでやっていることだと考えるべきでしょう。それが業界の常識だからです。
そんなことは雪印事件の時にわかったはずですが、誰も業界刷新に動きませんでした。
つまり日本の食品業界は腐ってしまっているというわけです。
そんなことはおそらくみんな知っているはずです。

もちろん例外はあります。
しかし、次官とか社長とかトップメーカーとかが行っている不祥事や犯罪は、その組織あるいは業界にフラクタルに遍在していると考えるべきでしょう。

それにしても、マスコミは、毎日、よく飽きもせずに、食品不祥事ばかり報道しているものです。
偽装事件など追わずに、例外の企業を見つけて、そこを応援する姿勢にそろそろ変えるべきでしょう。
どこか正しい会社を見つけてほしいものです。
あるいはどこかまじめに仕事をしている役所を見つけてほしいものです。

■食べられるものを利用して何が悪い(2007年11月1日)
若い友人が次のような趣旨のメールを送ってきました。

一連の食品の消費期限に関する偽装について聞くたびに、何か間違ってる、と感じます。食べられるものなのですから、再利用して何が悪い!と思ってしまいます。
まだ食べられるものが、大量に捨てられる現実こそおかしいと思うべきです。
食品の再利用というのは、つい近年までそこらじゅうで行われていたと思います。上菓子がダメなら、その下のランクの菓子に。再利用がうまくできるというのも、技術の一つだったと思います。ほかの食品でもきっと同じです。焼いたものが売れなかったら揚げ物にするとか。今でもそれはやってるんじゃないでしょうか。(少なくとも家庭ではそのようにして食べていますね)
今後、これがダメということになって、大量に食べられるものが捨てられるとすれば大問題だと思います。
今回の、一連のお菓子業界での「偽装」発覚報道で、「おかしいねん!」と言う人がいないのを不審に思います。

彼女は、賞味期限とか消費期限ではなく、製造年月日を書いて、それを消費者が判断しながら食べるのがいい、といいます。
みなさん、いかがでしょうか。

私は賛成です。
次のような趣旨の返事を書きました。長いですが、要旨を書きます。

私も「賞味期限」という発想がおかしいと思います。
しかし、その仕組みを取り入れたのは、大量に消費させることを狙った食品業界です。古くなって廃棄されれば、それだけ消費が増えることになります。
メーカーにとっては、外部での廃棄は販売と同じです。
もし返品されるようにしても、その分は価格にのせればいいわけです。
商品を陳腐化させるというのがマーケティング発想の出発点です。
そうした発想をしている現代の企業の経営に私は違和感を持っています。

ミートホープの田中さんも含めて、食材をうまく活用するさまざまな工夫こそが食品産業の知恵であり、力の源泉だったはずだと私は思っています。
いいかえれば、ほとんどすべての食品会社は、その文化を持っていますから、再利用行為も日常的なはずです。
にもかかわらず、それを悪いことにしたのは、賞味期限論を持ち込んで売上げを高めてきた食品業界の人たちです。
行政が指導した、あるいは規制したというかもしれませんが、もしそうだとしても、それに賛成したのは食品業界です。
いまさら食材をうまく活用していて何が悪いのか、などと言うことはできません。
それに、鮮度を売りものにして、消費者をそう仕向けてきたのですから。
論理は一貫しなければいけません。いいとこどりはできないのです。

それに、賞味期限などを明記することの影響は大きいです。
消費者は自分の舌で確認せずに、データで食材の安全性を確認するようになってしまいました。これは大きい問題です。

しかし一連の偽装問題の本質は、まさに「偽装」したことにあります。
つまり、嘘をついたのです。
嘘を許したら、社会は成り立たなくなります。
嘘をつく卑しさが問題なのです。
いや、従業員にまで嘘をつかせる行為を強制しているのが許されないことなのです。
嘘から社会は壊れていきます。

さてみなさんはどうでしょうか。
昨日もミスタードーナツで偽装が発覚しました。
そろそろ問題の本質に目を移したいものです。

■薬害肝炎事件は当事者の視点で緊急措置すべきです(2007年11月2日)
薬害肝炎事件の報道は見ていて辛くなります。

私のようについ最近妻を病気で見送ったものにとっては、とくに辛いです。
事件は良い方向に向かっていますが、患者やその家族にとってはどう映っているでしょうか。

以前も書きましたが、当事者とそれ以外の人では時間感覚が違います。
枡添さんのおかげで、どうやら薬害肝炎事件は解決に向かったようだと私たちは思いますが、明日の生命にも不安のある当事者にとっては、みずからの状況が安堵できる状況になって初めて、解決への入り口に到達したと考えるでしょう。
7年間ですべて解決するというのは、論理の世界の話であって、当事者の視点ではありません。当事者は7年も待てません。

時間は実に残酷です。
私たちは、当事者の時間軸で問題を考えていかなければいけないと思います。
そう考えると、昨今のさまざまな事件への対応速度は実に遅いような気がします。
今回の薬害肝炎事件でいえば、7年間ではなく、やれることはすべて一気にやるべきでしょう。
軍事費を少しずつ先延ばしにすれば出来る話です。
そうした形での財政赤字であれば、国民は納得するはずです。
それに早く手を打てば、それだけトータルコストは削減できます。

法律づくりや予算の決定などの手続きも後でやればいいでしょう。
緊急措置的な発想で、問題解決に取り組めばいい話です。
薬害肝炎事件はすでに何年も議論し、事実はかなり明確になってきていますから、それが可能なはずです。
行政に迅速性を持ち込まなければいけません。
当事者の時間は待ってはくれないのですから。

■常識の復権への期待(2007年11月3日)
騙されているかもしれませんが、最近の政府の行動には「常識の回復」を感じます。
その典型は枡添さんの言動です。
最近の枡添さんはかつてとは全く違った印象を受けます。
福田首相もそうです。
政治家としてのリーダーシップや「キャラ」はないかもしれませんが、「常識」を感じます。小沢さんとは全く違います。もっともこれも戦術だといわれれば反論は出来ませんが。
鳩山法相の言動は「常識」とは全く反対のところにありますが、まあそれがこれまでの政治家の「常識」だったのかもしれません。それがちょっと度を越しただけかもしれません。
テレビによく出る与野党のタレント政治家たちは、鳩山法相とたいした違いはないように思います。

政治に、生活者の常識がもどってくるのは歓迎です。
昨今の福田さんや枡添さんの言動を見ていると、そんな気がします。
ちなみに、私はその2人も自民党もあまり好きではありませんが、好感を持ってしまうほどに他の政治家がひどすぎるのかもしれません。

それにしても現代の日本の政治家は問題が多すぎます。
ぜひとも、二世政治家禁止法と三選禁止法をつくってほしいものです。
政治の専門家は不要です。
その代わりに、政治家には官僚の人事権を与えるとともに、公務員をもっと簡単の告発し、解雇する法律もつくってほしいと思います。
時代は大きく変わってきているのですから。

■二大政党制は大政翼賛会体制の変種(2007年11月4日)
福田・小沢会談で、連立構想が出されたそうです。
自民党も民主党も、ディシプリンがあいまいで、どこがどう違うのかよくわかりませんので、連立しても一向におかしくない話です。
党利党略から言えば、重要な課題でしょう。
しかし、仮に大連立が成立すれば、まさに大政翼賛会への道になるといわれています。

両党の共通点は、「戦後レジーム」の否定かもしれません。
わずかの例外はいるでしょうが、両党のほとんどの党員は日本を軍事国家にしようと考えています。
もっと正確に言えば、すでに軍事大国の日本の軍事力を解放したいと考えています。
それは戦争の世紀だった20世紀レジームへの回帰と言ってもいいでしょう。
日本の憲法9条体制は戦後のあだ花でしかなかったという認識がそこにはあります。

テレビの国会議員のやり取りを聞いていると、たとえば安全保障や外交は現状の継続でなければ政権担当能力はないという認識が感じられます。
明確にそう話す議員もいます。
政治は現状の追認ではありませんから、そうした発想は行政の論理でしかないと私は思います。
政治においては、革命的な非連続発想も視野に入れるべきでしょう。
しかし、非連続の政策はよほどの状況でなければ国民は受け入れないでしょうから、民主主義を標榜する社会では革命は起こりにくいです。
そこに現代政治の限界があります。
民主主義を要素に持っている政治は革命にはなじめませんから、パラダイムは変えられないのです。

日本には財産としての憲法9条があります。
これを拠り所にすれば、もうひとつの日本の形がデザインできるはずですが、社会党も共産党もそれに成功しませんでした。
そしてなによりも国民がそれを選びませんでした。
ヒトラーが最後に口に出したように、結局は私たち国民が戦争を選んでいくことになるのでしょうか。

瑣末な戦術や利権主体の違いによる二大政党制など、大政翼賛会と同じようなものでしかないでしょう。
そもそも二大政党制というのは、大政翼賛会体制のバリエーションでしかない、と私には思えて仕方ありません。
そういう認識の下では、大連立の是非などはむなしい話でしかありません。

■小沢民主党代表を支持します(2007年11月4日)
民主党の小沢代表が辞任の意を表明しました。
最初は安倍さんと同じで、何と無責任なと思いましたが、記者会見を見て、とても納得できました。
最初から最後まで、きちんと見ました。
おそらくニュースなどでは、またその一部が編集されて報道されるのでしょうが、全部をしっかりと見ることが大事だと思いました。
小沢さんは会見で最後にマスコミの報道姿勢への憤りも表明しました。
これにも共感しました。
しかし、記者会見での質問は、ほとんどが的外れというか、興味本位の質問でしたし、それに関連したテレビの街の人の声などを見ていると小沢さんの憤りもよくわかるような気がしました。

私は小沢さんにはかなりの不信感を持っていますし、その考え、とりわけ安全保障に関する考えには賛同できませんが、今日の記者会見での発言は理解できました。

安全保障の基本方針の転換を小沢さんは強調しました。
一国の恣意的な方針への恣意的な対応ではなく、国連の方針を拠り所にするという原則を確立しようということです。
それができれば、政策協議をやるべきだという話です。
常識的に考えれば、極めて当然のことです。
大連立などと無責任なマスコミや有識者がはやし立てるので、事の本質が見えにくくなっていますが、この限りでは全く違和感は在りません。反対するばかりが野党の役割ではないと、みんな言っていたはずです。

小沢さんはまた、生活の視点での自分たちの政策も実現しなければ意味がないと話しましたが、全くその通りです。
政権交代ばかりが話題になりますが、自民党と民主党が交替することなどは、国民の生活にとっては瑣末なことです。
マスコミがはやし立てるほど、意味のある話ではありません。
大切なのは国民の生活の舞台の状況が変わっていくことです。
小沢さんの話には、「国民の視点」が感じられました。
もっとも、その国民が「国民の視点」を失っているのが日本の現状かもしれません。

即座に断らずに持ち帰ったことが問題だなどという人が多いです。
そういう人は、民主主義を否定する人でしょう。
どうしてそんな馬鹿な議論が出てくるのか不思議ですが、そうした状況を創ったのは政治を「サーカス」にしてしまった政治評論家やコメンテーター族などのマスコミ寄生者たちでしょう。

小沢さんの記者会見を見ての即座の反応ですので、明日になったら書き直したくなるかもしれませんが、第一印象として書き残すことにしました。

私は、小沢代表の支援の声が高まり、代表を継続し、当然の政策協議に入るのが一番だと思います。
その可能性は極めて小さいかもしれませんが。

■国民国家の偽装の露呈(2007年11月4日)
小沢さんが代表辞任の記者会見をした日の朝、中曽根元首相と読売新聞主筆の渡辺恒雄さんが話しあうのをテレビで観ました。
お2人が国の先行きを考え、憂いていることがわかります。
2人とも、大連立こそ日本を救う道だと考えているようです。
このままだと、国会のねじれ現象は6年続き、何も決められず、国際社会への責任も果たせないというのです。
そして、勝海舟と西郷隆盛の江戸開城の話まで出てきました。
聞いていると、なるほどと思ってしまうような気もします。

だが、どこかでおかしい気がします。
待てよ、この人たちは国家を私物化しているのではないのかという気がしだしたのです。

それは必ずしも否定的な意味ではありません。
「国家を私するものたちの志こそが、国家を動かしているのではないか」という思いがしたのです。
さらに言えば、国家とはそもそも私物化される存在ではないのかという気がしてきました。
近代において生まれた「国民国家(Nation State)」は、「自分たちの国」と思う「国民」によって成り立っている、「コモンズ」なのです。
だとすれば、私物化の原理が基本にあって当然です。
その「私」(自分たち)の範囲が広くなることで、国家の基盤は強くなり、意味を持ってきます。
だから国民国家の最大の課題は国民を育てることです。
そこに「教育」の意味があり、憲法や制度の意味があります。

しかし、ちょっと視点を変えると、国家を一番私物化しているのは国民なのです。
フリーライダーしながら、国家に異議申し立てをしていれば自分の存在意義を確認でき、仕事も生み出せるわけです。
国家は自分でもあり、他者でもある便利な存在なのです。

党首会談を働きかけたのは渡辺恒雄さんだという噂も出ています。
今回の騒動は、国家を私するものたちの志が生み出した物語であることは間違いありません。
その故にこそ、国民国家の「偽装」が見え出した象徴的な事件なのかもしれません。
偽装は最近の流行ですが、国家の偽装が見えてきたことは皮肉な話ではないでしょうか。

日本の社会では「偽装」を暴露した人は報われません。
耐震偽装事件も食品偽装事件もそうでした。
それもまた私物化原理による国民国家の必然なのかもしれませんが、小沢さんへの批判は留まることがないようです。
その事件も興味はありますが、その根底で動いている歴史の流れにも目を向けたいものです。
「マルチチュード」の岐路なのかもしれません。

ちなみに、私はまだ小沢さんの言動に共感しています。賛成ではありませんが。

■どの党が政権をとるかより、日本が良くなるかどうかが大切でしょう(2007年11月6日)
小沢さんの辞意表明に始まった騒ぎはさらに広がっています。
気になって、どうもテレビばかり見ているのですが、見るたびにどこか論点が間違っているように思えてなりません。
街中の人はいいとしても、テレビでコメントしているジャーナリストやコメンテーター、あるいは評論家の人の発言を聴いていると、改めて政治とは何なのかが気になります。

「もう少しで自民党を追い詰められたのに」とか「政権奪取が目前だったのに」とか「これでもう自民党への対決姿勢も強められない」とか、いろいろと言われます。
政権放棄した安倍さんと同じじゃないかと言う人までいます。
また「民主党に投票した国民は裏切られた」とか「民主党の信頼性が崩れた」とか「損をしたのは国民」とかいう議論にも呆れます。
もちろん国民の一人が自分の意見として言うのは全く異論はありません。
しかし、テレビでの発言は世論を創っていくのです。
国民がどう思っているかなどわかるはずがないことを、国民の代表のようなつもりで発言するべきではないでしょう。
信頼していたコメンテーターにして、そうです。
彼らにはたぶん理解できないことだったのでしょう。
ともかく、政権交替や二大政党論が議論の中心になることが多く、日本が良くなるかどうかという議論は全く出てきません。
それが気になるのです。
みんな、政治と言うものをどう考えているのでしょうか。

政治は確かにゲームの側面を持っています。
しかし、大切なことは「社会が良くなるかどうか」ではないかと思います。
政権奪取はもちろんですが、与党を追い込むとか対決するということも、政治の実体をよくしたいからのはずであり、それらはあくまでも手段でしかありません。
そういう意味では連立も手段であり、代表交替も手段です。
小沢さんの辞意表明は、もっと大きな問題提起をしているはずです。
それがわかりにくいのは事実ですが、それをわかりやすくするのがあなたたちの役割だろうといいたいです。

ほとんど例外なく、みんな政治の実体よりも、誰が政権をとるのかの権力競争に興味があるようです。
実体から議論している人はほとんどいません。
私がしっかりした議論をしていると感じたのは、民主党の原口議員だけです。
大きな失望を感じます。

党首会談が密室談合だと言う人もいます。
とんでもない話だと私は思います。
密室政治が悪いのは、その密室議論がまさに密室的に行われるからです。
今回の党首会談は、公然と行われましたし、不十分とはいえ、その内容の報告も行われました。
公開性こそが民主主義の本質だと私は思っていますが、だからすべてを一挙に公開の場で行わなければいけないというわけではありません。
それこそがオーウェルの「1984年」の世界であり、息苦しい世界でしょう。
公開とは何かを議論する必要がありますし、ましてや今のようなモンタージュ技法を駆使して情報を捏造し偽装するマスコミの横行の中で、公開にやることのマイナス面は大きいこともあります。
一方で監視社会を危惧している有識者であれば、それくらいのことは理解できるはずです。

政権どりごっこよりも、日本の社会が良くなることが大事です。
政治は亀田の試合とは違うのです。
なぜそんな基本的なことをみんな理解しないのか、不思議でなりません。

あるいは、私がよほどおかしいのかもしれません。
まあ、最近の私の行動を考えると、私がおかしい可能性は決して小さくはないのですが。

■法律の成立が国政進展の証拠でしょうか(2007年11月8日)
国政に関してはしばらく書くのをやめようと思うのですが、テレビを見ているとどうも書きたくなってきます。困ったものです。

たとえば、今朝のテレビで、ある人が「国民の政治への関心が高まっているので、それを低めることだけはしてほしくない」と鳩山幹事長に言っていました。
あなたたちのせいで関心の矛先が違うほうに向いているのではないかと、腹立たしくなりました。
小沢さんの苛立ちがよくわかります。
政治への関心と言ってもいろいろあります。
コメンテーターのみなさんの類の関心であれば、高くなったところで現実はよくはならないと私は思います。

まあ、こうした類の議論が盛んに行われているので、とても気分が悪いのです。
そのくせ、気になってテレビをよく見るようになりました。
私自身が、政治へのレベルの低い関心を高めているようです。
困ったものです。
政治はサーカス(見世物)ではないはずですが。

ところで、前から気になっていたことですが、ねじれ国会のために福田政権になってから法律が制定されず、国政が進展していないという話があります。
国政の進展が法律成立の数によって示されるという考えを聞いて、驚きました。
まさに手続きの時代、形式的な法治国家の時代です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/10/post_965f.html
法律は少なければ少ないほど良い政治だと私は思っています。
大切なのはリーガルマインドです。
これに関しては、これまでも何回も書いてきました。

また、法律がなければ国政を進められないのであれば、それこそ法律があればサルでも国政は進められることになります。
確かに国会は立法が使命ですが、法律を作ることは目的ではありません。

権力に対する刑事告発の動きが始まったことも書きましたが、その動きは鈍ってきているような気もします。
まさにパフォーマンスだったのでしょうか。
フィブリノゲンに関しては、私は未必の故意による殺人事件だと思います。
そのことは以前も何回か書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#5132
そうしたことを明らかにせずに、和解してしまう神経が理解できません。
もっともそれらは別の問題です。
被害者の救済は裁判とは別に進めるべきでしょう。
時間に余裕はないはずです。当事者の時間感覚で考えなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/11/post_d2a6.html

法律を創ることは必要かもしれませんが、法律が問題解決の障害になっていることも知らなければいけません。
年金問題でも医療問題でも、いや民間のさまざまな不正事件や犯罪行為でも、法律があるために処罰したり取り締まりできないことも決して少なくありません。
リーガルマインドを失った法治国家ほど恐ろしいものはないように思います。
法曹界の人たちは市場が増えてうれしいかもしれませんが、良心だけは失ってほしくないものです。

■国家を私するものたちの志(2007年11月4日)
最近、テレビのニュース報道にはまってしまい、よく見ています。
今朝のテレビ朝日のスーパーモーニングは面白かったです。
政治評論家の三宅さんが、コメンテーターや司会者の知ったような発言を鮮やかに切り捨てていて、胸がスーッとしました。
本当にコメンテーターと言う人たちのコメントはリアリティがありません。
論理演算だけのバーチャルな発言だといつも感じます。
今朝のテーマは、「幻の大連立水面下の極秘交渉80日…安倍辞任劇との点と線」というものです。
そこに含意されるのは、日本の首相さえ替えてしまう「ある権力グループ」の存在を匂わせます。
私もそう考えている一人ですので、見てしまったのですが、三宅さんの見事な対応振りに見入ってしまいました。

日本の悪しき密室政治は、森政権に始まると私は思っています。
森政権は青木さんと野中さんを中心に、財界も絡んでの密室協議で政治を、もっといえば国家を、私欲の次元で私したものではないかと勝手に想像しています。
あのあたりから日本は嘘を肯定する文化が生まれだしたように思います。

つい先日、「国家を私するものたちの志こそが、国家を動かしているのではないか」と書きました。
そして、そもそも国民国家とはそういうものではないかとも書きました。
ちょっと考えの途中で書いたので、論旨不明確な記事になっていたかと思います。

「国家を私するものたちの志」は、かつてはノブレス・オブレッジの発想がセットとしてついていました。なぜなら自分のものを守るためには自分が犠牲になることはなんら抵抗がないはずだからです。
しかし、昨今の「国家を私するものたちの志」にはそんなものはなく、単なるフリーライダーの発想なのかもしれません。
現在は過渡期であり、ノブレス・オブレッジ付きの志とフリーライダー的な志が混在しているように思います。

小沢さんの志は前者、渡辺さんや福田さんの志は後者という気がしています。
だからこそ多くのコメンテーターやジャーナリストは小沢さんに厳しくあたっているのではないかという気もします。
人は自分と同じ考えの人の考えに共感するものです。
小沢さんの政策理念には全く反対ですが、最近、何となく好きになってしまいました。
つまりもしかしたら、私も平和主義者ではなく、戦争主義者なのかもしれません。
いや、本当は小沢さんも平和主義者なのかもしれません。
そうであってほしいですが、まあ、そんなことはないでしょうね。

■脱貨幣社会の気分をちょっと味わっています(2007年11月10日)
政治問題はもう辟易しましたので、今日はちょっと体験的な生活時評です。

ちょっと大げさのタイトルですが、今週はいろんな人からいろんなものをもらいました。
今日は福井からたくさんの野菜が届きました。
義姉夫婦が農業をやっているので、定期的に届くのです。
一部を近隣や兄夫婦にお裾分けしました。
午後には近所の人が新鮮なカブをたくさんもらったのでとお裾分けしてくれました。
昨日は、やはり近くの人が実家に帰って庭の柿を採ってきたのでとお裾分けしてくれましたし、その前日は実家からわかめがどっさり届いたといって持ってきてくれた人もいます。
亡くなった妻が、お裾分けが好きだったのですが、そのおかげでわが家にはいろんなものが届きます。
お金がなくても暮らしていけるのではないかと思うほどです。

野菜だけではありません。
手づくりのジャムやきしめんが届くこともあります。
またわが家の家庭菜園からのお裾分けが虎屋の羊羹になったり、和菓子になったりすることもあるのです。
妻は近くの高齢者の家から夏みかんをもらってジャムにしてお返ししていました。
他の人からもいろんなジャムが届きます。
私には不得手なジャムもあるのですが、なかなかジャムは買うチャンスがありません。
他にも、古着を活用した裂き織のバッグだとか、妻はいろいろとリサイクルユースしていました。
ケーキもよく作っていましたが、ケーキ屋さんのよりも私の口には合いました。
娘もその文化を引き継いでいますが、そうしたおかげで、わが家の金銭支出はかなり低いはずです。

私は、百姓の生活が理想ではないかと思っています。
百姓生活にはさほど現金はいらないはずです。
女房と違って実践力がありませんが、亡き妻のおかげで、いまその恩恵を受けているわけです。
今日も来客があったのですが、わが家のつつましやかな家計と生活の質の正の相関について話をしていたところです。なかなか理解はしてもらえませんでしたが。

お金の使用を最小限にする生き方をみんなが始めたら、どうなるでしょう。
きっと経済は失速し、景気は悪化するでしょう。
不要な仕事を創出することによる経済の活性化は、それを知ったときには実に新鮮に思えたのですが、今では何という馬鹿げた話かと思います。
どこかで何かが間違っているように思います。

大切なのは経済ではなく、暮らしです。
経済が回復して暮らしが辛くなるようなことはどう考えてもおかしいです。
やはり、現在の経済システムは基本から考え直す必要がありそうです。
暮らしを良くするために現金は必要ですが、現金がなくても暮らせる仕組みを回復できないものでしょうか。
その視点で考えると、過疎問題や限界集落も違う捉え方ができるように思います。

■「みんな幸せになるなんてありません」(2007年11月11日)
妻が亡くなってから、時間をもてあまし、最近はテレビをよく見ます。
今朝も、吉村作治さん、曽野綾子さん、三浦朱門さんの鼎談を見ていました。
新聞を読みながら見ていたため、聴き違いがあるかもしれませんが、とても気になる発言がたくさんありました。

たとえば、格差社会に関して「みんな幸せになるなんてことは無理」というような話がありました。
そこで出てきたのは、鳥の子育てでも強いものを残していくというような発言が出てきました。
弱いものは捨てていくのが生物界のルール、人間だけが弱いものを生かそうとしているというような話です。
さすがに三浦さんだけは「さまざまな遺伝子を残すことが大切だ」と少しだけフォローしていましたが、曽野さんや吉村さんは反応もしませんでした。
恐ろしい話です。

ダーウィンの自然淘汰説や適者生存論には学生の頃から違和感がありました。
いずれも結果からみた現実正当化のための解釈学でしかないという気がしたのです。
それに社会ダーウィニズムにみるような、競争や対立を正統化する議論にはどうしても反発を感じました。
それに、自然界がそんなに生存競争に明け暮れているはずがないという思いもありました。
私は子どもの頃から自然の生き物が好きでしたが、彼らはみんな攻撃などはしてきません。こちらが邪魔しなければの話ですが。
自然の中の動植物は、それぞれうまく折り合いながら生きています。
いや、協力し支え合いながら生きています。

競争を強調するダーウィン進化論の見直しは進んでいますし、地球全体が支え合いの仕組みであり、ひとつの生命体だというガイア仮説もかなり認められだしているようです。
多細胞生物は、単細胞生物が協力したがゆえに生まれたという説もあります。
そもそも弱肉強食などという考え方は、権力抗争の中で生まれた発想ではないかと思います。
そうした先入観で自然や社会を見ている限り、真実は見えてこないでしょう。

近代は格差と競争の時代でした。
だからこそ、戦争や開発が広がったのです。
そろそろそうした呪縛から抜けなければいけません。

「みんな幸せになること」は決して難しいことではありません。
みんなが素直に生きれば、自然とそうなるのではないでしょうか。
生きていることはそもそも幸せなことなのです。
その原点に戻れば、その方策も見えてくるはずです。
小賢しい有識者の言葉に惑わされないようにしたいと思います。

■「国防は最大の福祉」(2007年11月12日)
私の平和活動は、大きな福祉を目指す活動です。
その一つが、コムケア活動であり、共創のまちづくりです。
いまはちょっと活動を中断していますが、みんなが快適に暮らせる社会の向けての行為こそが、平和の活動だと考えています。
私が行動する時にいつも意識しているのは、「大きな福祉」と「共創(一緒に創りだす、つながりの関係)」です。

先日、テレビである若手政治家が「国防は最大の福祉」と話していました。
私はこうした発想には思いもいたりませんでした。
ネットで調べたら、民主党の西村慎吾議員のホームページが出てきました。
国防なくして福祉なし、と主張されていました。
こうした主張はかなり多いのですね。
いや、もしかしたら福祉国家論の議論から始まっている、「常識」なのかもしれません。
私が知らなかっただけかもしれません。

フーコーに始まる<生政治学>の視点で考えれば、警察国家も福祉国家も同じものです。いずれも、「生」を守ることで権力の基盤を強めていきます。
そこで掲げられるのは、「安全で安心な社会」です。
その視点で考えれば「国防は最大の福祉」かもしれません。
但し、それを支える仕組みはブラックボックスに置かれ。さらに国民の自己管理、自己監視が基本に置かれます。

それでは「福祉は最大の国防」といえるでしょうか。
私は「福祉は平和につながる」と考えていますが、「福祉は最大の国防」という言葉には大きな違和感があります。
いや、そもそも「平和」と「国防」が結びつきません。

おそらく、「福祉」や「安心・安全」の意味が違うのです。
世の中には、2種類の「福祉」や「安心・安全」があるということです。
私は、国防によってもたらされる福祉には関心がありません。
どうも私が目指しているのは、そうした福祉とは正反対の福祉のような気がします。
まずは、「国防は最大の福祉」という呪縛から解放される必要があります。
人道支援の名の下に、住民の生活を壊すようなことが行われてはなりません。
国防と人道支援とは次元の違う話です。
同じように、国防と福祉も次元が違うのではないかと言う気がします。

実は、私がこの言葉をテレビで聴いたのは、民主党の原口議員からです。
私にはとても共感できる発言の多い原口議員にして、やはりそうした発想なのかと、いささか気になりますので、もう少し考えてみたいとは思っていますが。

■「国民のため」に、新テロ対策法を通したい人、反対する人(2007年11月15日)
衆議院で新テロ対策特別措置法が成立しました。
与党は「国民にため」にこの法案を早く成立させたいといい、野党は「国民のため」に反対しています。
いずれも「国民のため」なのですが、「国民」って一体誰のことなのでしょうか。
軽々しく使わないでほしいものです。

市町村でも、よく「市民参加」とか「住民参加」といわれます。
しかし、だれを「市民」や「住民」に定位するかによって、その意味合いは全く変わってきます。
したがって、この言葉はまさに「偽装」や「詐術」の常套句なのです。

日本は小泉首相時代以降、「偽装」に依存する国家に成り下がっていますが、政治家は「国民のため」などとあいまいな表現をするのではなく、価値評価できる具体的な言葉で国民に説明するべきです。
「国民のため」というのは、内容のないトートロジーでしかないからです。
そうした言葉にこそ、騙されるのが「国民」なのかもしれませんが、そろそろそうした世界から抜け出したいものです。

「テロ」の意味もろくろく考えずに、何がテロ対策だという思いが私にはあります。
拉致問題で、横田さんが「拉致こそテロ」と言っていますが、全く同感です。
江戸時代の百姓一揆の実態がかなり究明されてきたために、私たちが学校で学んだ百姓一揆の認識は大きく変える必要があります。
同じように、いま一般に「テロ」と見なされている活動も、もう少し広い視野で実態をみていけば、世界の認識は大きく変わるでしょうし、50年後にはテロに対する主客が転倒していることも充分ありえます。

話がまたそれましたが、「国民のため」とか「市民のため」とかいう言葉を聞くと、その人が考えている「国民」や「市民」って誰なんだろうかといつも考えてしまいます。
先日、朝日新聞に掲載された民主党の仙石議員の投稿記事に、「熟議民主主義」が少しだけ言及されていました。
また機会を改めて、そのことを書きたいと思いますが、「国民のため」の最初の一歩は、「熟議」です。
判断が分かれている問題を急いで決着するのではなく。みんながわかるように情報共有化を進め、異論をぶつけ合う中で、多くの国民が自らの頭で考え決めていくことこそが、「国民のため」ではないかと思います。

自らの意向を実現するために、「国民のために」などという詐術用語で正当化するべきではありません。
「○○のため」の○○には、自分ではない人間や人間集団を入れるべきではありません。
「アメリカの信頼を得るため」「アフガンの戦火をなくため」「自衛隊の訓練のため」などといった、もっと実体のある言葉を入れなくてはいけません。
そういう言葉を入れていくと、問題の本質が見えてくるはずですから。
そして、偽装や詐欺は成立しにくくなるでしょう。

同じことは、高齢者のため、障害者のため、過疎地のため、子どもたちのため、などという言葉にもすべて当てはまります。
本当に今の日本は、偽装が満ち満ちているのです。

■寄合民主主義と多数決権力主義(2007年11月16日)
民俗学者宮本常一の「忘れられた日本人」で語られている対馬の寄合の話はご存知の方も多いでしょう。
こんな話です。

「古文書を借りたい」という著者の申し出に対し、「そういうことなら寄りあいで話しあって」ということになり、「寄りあい」がもたれました。
ところが寄合が始まっても、いろいろな話題に話が広がり、なかなか古文書の議論になりません。
時々、古文書の話に戻るのですが、すぐまた話題はそれてしまい、著者はいらいらするのですが、結局、最後はみんなの話を踏まえたまとめ役の一声で決まるという話です。
決して結論を急ぐことなく話しあい(関連する話題も含めてですが)を繰り返しながら、それぞれが考え、みんなの共通認識を作り、問題の「落とし所」を見つけていくというわけです。
そうした話し合いは、時には何日も続くことがあるのだそうです。

著者は、こう書いています。
そういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいてき、体験したことによせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方も話しやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高費任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日讐きあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。

どんな難しい話も、このやり方だと3日もあれば、結論が出るのだそうです。

この話は、日本的な民主主義として、よく語られます。
現在の多数決原理からすれば、効率的でなく、合理的でもないということになるでしょう。
実際に、20年ほど前に、私が町内かの集まりに出た時にも、こうした名残があり、何と非効率な、といらだったものでした。

しかし、本当に非効率なのでしょうか。
単一の目的のためであれば、確かに非効率かもしれません。
しかし、「みんなが問題を理解し納得できる」こと、さらには世界を共有すること(それがコミュニケーションだと私は思っていますが)、という視点から考えれば、極めて効率的だとも思えます。
単一の目的を切り口にして、もっと大切な基本的な合意が育っているといえるからです。

最近の効率的な合意づくりは、実は近代的な効率性、言い換えれば、還元主義的な各論的効率性でしかありません。
それによって発生する社会費用を考えれば、決して効率的とはいえないはずです。

昨今の国会での法案議論を見ていると果たしてこれが合意形成なのかと思います。
対馬の寄合に込められている日本人の知恵を、私たちはもう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。

実は日本には、熟議民主主義の体験があったのです。
だからこそ、江戸文化のような成熟した社会が実現したのです。
その文化から私たちはもっと学んでいきたいものです。

■ビオスによる時評とゾーエによる挽歌(2007年11月21日)
しばらく自分の世界に埋没していました。
無意味な言説だけが飛び交う世間の事件に対して、関心を失ってしまっていました。
嘘を承知での形だけの応酬や報道、すべての人たちが演技をしている舞台には飽き飽きしてしまってきたのです。
いまさら額賀さんの金銭疑惑など馬鹿げていますし(誰でも知っていることでしょう)、防衛省の産業癒着などわかりきっていることでしょう。

国会議員が仲間であることを知っている官僚は動きませんし、官僚が仲間であることを知っている企業も動かない。
そのことが明確に現れているのが厚生労働省ですが、そこには「小悪人」しかいませんから、悪事を隠しきれなかっただけの話です。
大悪人は防衛省や厚生労働などにはいないでしょう。

言説が飛び交う世界とは別に、アガンベンがいう「剥き出しの生」の世界があります。
彼は前者を「ビオスの世界」といい、後者を「ゾーエの世界」といいます。
ビオスとは「それぞれの個体や集団に特有の生きる形式」であり、ゾーエは「生きているすべての存在に共通の、生きている、という単なる事実」です。
これまでの政治の主役はビオスでしたが、これからはゾーエが主軸になるというのが(かなり不正確な私流の解釈ですが)、「マルチチュード」の著者ネグリの意見です。

妻が死んでから、私はまさにゾーエの世界を体感しています。
そして「生きているものたち」のやさしさやつながりを実感すると同時に、「言説」や「文化」のつめたさやおそろしさを感じています。

1週間ほど前に、時評と挽歌はビオスとゾーエの現われなのだと気づきました。
このブログでは、「時評」と並行して「挽歌」を書いています。
つまり、「ビオスの世界」と「ゾーエの世界」を交錯させながら書いているのです。

世界をどう見るかは、身近な生活、とりわけ伴侶の死にも見事に繋がっていますし、逆に伴侶の死によって見えてきた世間は、世界観にも大きな影響を与えます。
もともと私は、生き方においては「剥き出しの生」であるゾーエを大事にしてきました。
妻が亡くなったいま、その姿勢はますます強くなっています。
いつか挽歌と時評が自然と繋がっていけばいいと思いますが、まだだめでしょう。

たとえば、ゾーエの視点で薬害肝炎問題を考えるとこうなります。
フィブリノゲン問題を知りながら、ミドリ十字を存続させ、問題を地下に潜らせたのは、官僚と政治家とマスコミですが、彼らも含めて、当時の企業関係者、加担した研究者や官僚、国会議員は、死刑を含む極刑に値します。
もし彼らが、大企業や官庁に属していなかったらどうでしょうか。
彼らがやったことは残酷な殺し方でしたし、未必の故意もあったはずです。
殺人事件になりえたのではないかと思います。
しかも恐ろしいのは、関係者は今もって罪の意識もなく、また同じようなことが官僚や企業人に引き継がれているということです。
素直に生きている者として、どうしても納得できません。
自分が被害当事者になったことを考えれば、結論は一つしかないはずです。

私にとっては正直な気持ちなのですが、たぶん亡くなった妻はこの記事を見たら削除しろというでしょう。
妻は私と同じ、ゾーエの人でしたが、ビオスで生きることを大切にもしていましたから。
しかし、今の私は「生きること」にはほとんど関心はなくなり、「生きていること」に関心のほとんどは移ってしまいました。

明日からまた時評も再開します。

■人身事故の意味すること(2007年11月22日)
昨日、久しぶりに大学時代の友人たちと会食したのですが、その帰路、千代田線が人身事故でダイヤが乱れていました。
ところがさらに車内放送で、日比谷線でも人身事故が発生したと放送がありました。
そういえば、会食の前に上尾の友人と会ったのですが、彼も人身事故で高崎線が遅れていたため30分遅れてきました。
今日は3件の人身事故に出会ったわけです。

年末になると毎年、こうした人身事故による電車の遅延をよく経験します。
先日、お会いしたツカサグループ会長の川又さんは、人身事故の件数をこまめに記録しているとのことでした。
川又さんのホームページには人身事故ニュースが取り上げられています。
たとえば、昨日のところにはこう書いてありました。
◆毎日全国で人が電車に飛び込んで自殺しています。(川又)
ほとんどが経済的理由で、借金清算の為に命を投げだしている方々のようです。
その方々への鎮魂の意味をこめて毎日人身事故の件数を拾っています。
友人たちとぬくぬくと食事をしていたことに少し罪の意識を感じました。
そうした生活はかなり捨てたつもりですが、まだまだ断ち切れずにいる自分がいやになります。

それにしても、「人身事故」という言葉は、とても他人事の感じがあります。
誰の視点で「人身事故」などという言葉を使っているのでしょうか。
こういう脱価値的な言葉が現実の生々しさを覆い隠し、問題を見えなくしているはずです。
最近、少しずつホームの柵を作る動きが出てきていますが、ホームは投身自殺しやすい設計になっています。
私でも、飛び込もうかという気が何時起こるかもしれません。
みなさんはいかがでしょうか。
そんなことは一度もないという人ばかりではないでしょう。
決して他人事ではないのです。

もし冷静な判断力が残っているとしたら、誰も電車への投身は絶対に行わないはずです。
残された遺族への損害補償を考えれば、とても出来ないはずですし、社会的な影響を考えても避けるでしょう。
たくさんの恨みを背負って彼岸に旅立ちたくはないでしょう。
しかし、多くの「人身事故」当事者は、そんなことを考える間もなく、突発的に吸い込まれるのではないかと思います。
いささか生々しく書いてしまいましたが、脳天気といわれる私ですら、疲れ切った時に電車が入ってきた時に引き込まれそうになったことが2回もあります。
最近は、ホームの縁には近づかないようにしていますが。

電車に乗っていると、そうした社会の実相が実感できます。
政治家や官僚、有識者の皆さんにも、ぜひ電車に乗ってほしいものです。
電車に乗らずに社会の問題を考えることなど出来ようはずがありません。
真実は現場にこそあるからです。
やや極端ですが、公共交通機関を使わない人の言説に、私は価値を見出せません。

電車も自動車も凶器なのです。
それを今のように安直に扱っているのは、社会の狂気ではないかと思えてなりません。
人身事故が増えている社会を支えている私たちの生き方をどこかで変えていかねばいけないと思います。
できることはいろいろあります。
周りの人への関心を高め、困っている人がいたら一緒に悩んでやることです。
宮沢賢治のように。

■「言葉の世界」と「身体の世界」(2007年11月22日)
大きな身の変化があると見えてくることがあります。
それは恐ろしいほどによく見えてきます。

25年勤めた会社を辞めた時に見えてきたのは、人のつながりでした。
以前もどこかに書いた記憶がありますが、人のつながりは「時間」ではないということです。
一度しか会ったことがなく、それもたった15分しか立ち話をしたことのない人との付き合いが始まる一方で、長年仕事で付き合っていたのにパタリと付き合いが切れるつながりなど、思っても見なかった経験をしました。
「踏み絵」のような言い方になるのが心配ですが、そうではなく、つながりには「手段としてのつながり」と「それ自体に価値のあるつながり」があることに気づいたのです。
良し悪しの問題ではなく、同じ付き合いでも全く意味が違うことを実感したのです。

また、新しい立場になると、いろいろな人が興味を持って訪ねてきてくれることも体験しました。
組織を離れて、たった一人で、しかも世間的な意味では「まともに」仕事をしない生き方を選ぼうとする私に「つながって」も何の利得もないはずなのに、たくさんの友人ができました。これも思ってもいなかったことでした。
しかし、「利益」を求めてきた人はみんな失望して来なくなりました。
それは本当に明らかでした。
その後、ベンチャーで成功して有名になった人もいますが、成功したら私は全く意味のない存在として忘れられます。
それは私にはとてもうれしいことです。
会社を辞めた時に、そうした生き方から離脱することを目指したのですから。
そして19年、なぜか私は会社を辞めた時のままの生き方を続けています。
経済的に困ると、つながりの中の誰かが支えてくれました。
「つながり」を手段にしなかった生き方のおかげだと思っています。

妻を亡くして、またたくさんのことが見えてきました。
誤解のないように繰り返しますが、それによって誰かを評価するとか嫌いになるとかいう話では全くありません。
多様な人がいればこそ、社会は豊かなのだと確信していますから、私はほとんどあらゆるタイプの人と付き合ってきました。
要するに八方美人だったわけです。
そんな生き方は馬鹿げていると諭してくれた友人も、いつの間にか、それがお前の生き方だよなと諦めてくれています。

今回、何が見えてきたか。
「言葉の世界で生きている人(言葉の人)」と「身体の世界で生きている人(身体の人)」がいるということです。
前に書いた「ビオス」と「ゾーエ」と言い換えてもいいかもしれませんが、ますます分かりにくいかもしれません。

最近またフーコーの入門者を読んで、「正常」と「狂気」の関係を改めて考えています。
以前、「ノーマイラゼーション」や「ユニバーサルデザイン」という発想への違和感を書きましたが、そうした漠然とした違和感の実体が垣間見えてきたような気がします。
そうした視点からいえば、「正常な人」と「狂気の人」です。
いうまでもありませんが、私は「狂気の人」といえるでしょう。

ますます分かりにくくなりそうですから、やはり「言葉の人」と「身体の人」にしておきましょう。
「言葉の人」はだいたいにおいて経済的に豊かで、社会の主流にいます。
「身体の人」の多くは、文化的に豊かで、社会の主流の周辺にいます。

「言葉の人」と「身体の人」とでは、妻を亡くした私への対応は、見事に違います。
繰り返しますが、どちらが良いとか悪いとかいう話ではありません。
いずれも私のことを「心配」し、「支援」しようとしてくれているのです。
いずれにも感謝しています。
しかし、大きな違いがあるのです。
前者の人たちは「自分の視点」で私を救おうとしているのに対し、後者の人たちは「私(当事者)の視点」で私に寄り添おうとしているのです。
このあたりの話はもっとしっかりと書かないと伝わりにくいですね。

しかし、世界を見る上で、私にはとても大きな示唆を与えてくれました。
私の生き方も改めて考え直さなければいけません。
「身体の人」として生きながら、これまで以上に「わがまま」に生きようと思います。
失礼があることが多くなると思いますが、お許しください。

■問題が多すぎて何も変わらないのではないかと心配です(2007年11月24日)
問題が多すぎると解決するためのエネルギーが分散するばかりでなく、問題そのものが相互に消しあって問題の本質を見えにくくしてしまうことはよくあることです。
全体が見えなくなるからです。
全体像を見せないままに、各論の解決を都合よい方向に向けて、それらを編集することで、結局、全体像を全く違った方向に落着させることも決して不可能なことではありません。
そうしたことへの対論として、複雑系の発想が出てきたわけですが、残念ながら社会の問題を「民主的」に解決するための効果的な方法論はまだ見つかっていないようです。

平和を願う人たちが、一昨年、「平和に向けての結集」に取り組みだしました。
私も参加させてもらいましたが、さまざまな人たちが集まったために論点は多岐にわたりました。
私自身は結集のために必要なことは、みんなが賛成できる、ないしは納得できる1点を見つけることではないかと思いますので、「憲法9条を変えない」を突出させるのが効果的だと思いましたが、残念ながらそうはなりませんでした。
大同小異はとても大切なことです。
むしろ「小異」は「大同」を支える重要な要素なのですが、そう思う人は少ないのだとその時に感じました。

最近の政治や経済の世界はどうでしょうか。
問題が多すぎて、目移りするばかりですが、それでは解決には向かいにくいように思います。守る側が有利になります。
対策は2つあります。
一つはシンプルな問題に焦点をしぼり、そこから解決していくことです。
たとえば、前者は国民感情が収斂しやすい「年金問題」から入り、政治と行政と経済の問題点を露呈させ、解決の波を広げてく方法です。
みのもんたの朝のテレビ番組が、しつこく年金問題を摘発し続けました。
そのやり方はともかく、問題を絞って継続的に追いかけていく姿勢は大切です。
いくつかの報道ニュース番組がありますが、みんな同じような形で「問題」に時間配分していますから、どれもこれもスタイルこそ違え同じような話が出てきます。
そうではなく、どこか焦点を定めてせめて半年くらいは追い続けてほしいと思います。
一つの問題にフォーカスしても、しっかりしたグランドデザインがあれば、大きな全体像を解決することにつなげられるはずです。
今の状況では、次々目まぐるしく出てくる問題に振り回されて、何も変わらないのではないかという不安があります。

もう一つはたくさんの問題の根底にある「クリティカルパス」を見つけてそれを変えていくこと、です。
たとえば、やや極端ですが、嘘をつき使命を果たさない(と大方の国民が考える)人は社会から隔離し、損害賠償の責務を課す方法です。時効など考える必要はありません。明白な悪事は時効になどなるはずがありません。
法律に反するなどと考える必要は全くありません。
法律は、所詮は社会を正常化するためのルールでしかありません。
法治主義と法律万能主義は全く違いますし、法の精神と法文とはこれまた全く違います。それに、すべての法律は、それ自身正当性などはもっていないことを忘れてはなりません。
法律を成立させるには、法律の前に法を支える文化なり社会の合意があるのです。
法はその一つの現われでしかありません。
そして平常時において内部社会で通用するだけのものでしかないのです。

問題が多発しているのは、決して偶然のことではないことにも気づくべきでしょう。
今の事件多発状況はなにやら背後に意図を感じますが、考えすぎでしょうか。
目くらましにあってはなりません。

■「暗殺 リトビネンコ事件」(2007年11月25日)
一昨日は、昨年暗殺された元FSB(旧KGB)将校、リトビネンコの一周忌でした。
東京では、チェチェン連絡会議主催の「追悼集会」が開かれました。
昨年のアンナ・ポリトコフスカヤさんの追悼集会にも参加できなかったのですが、今回も参加できませんでした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/10/post_e1df_1.html

昨日、日本テレビの「ウェーク」で、チェチェンの特集をしていました。
来年公開される映画「暗殺 リトビネンコ事件」の一部が紹介されていました。
そこには暗殺される前のポリトコフスカヤさんも出てきます。
彼女はこう発言しています。
「衝撃の事実よ、あの悲惨なテロがヤラセだったのに、政府も平気な顔よ」

チェチェンの事件は衝撃的でしたが、その真実を知ることはさらに衝撃的です。
この映画がすべて真実かどうかはわかりませんが、かなりの真実さがあるようです。
番組の中で、どなたかがまるで映画の世界だというような話をしていましたが、実際には映画の世界は常に現実の後追いなのかもしれません。
それが私たちには見えないだけです。
国家は国民を守る、国家は正義、国家に対する暴力はテロ。
そういった国家が創りあげてきた概念に、私たちは呪縛されています。
いや、そうした概念を定着させることで、国民国家は成立しているといってもいいでしょう。
国民の主体性は国家によって形成され、正当化されてきているのですから。

ロシアはまたスターリンの時代に戻っているようです。
国民国家というのは管理体制を強化する方向性を内在していますし、いわば正当化された暴力を自由に駆使して国民を統治する存在です。
とりわけロシアのような大国においては、中途半端ではない暴力装置が必要になってくるでしょう。

しかしチェチェン事件の顛末はあまりに疑惑が多すぎます。
国家への恐怖心が拭いきれません。
これはなにもロシアに特別な話ではありません。
中国でもミャンマーでもブータンでもイスラエルでも北朝鮮でもアメリカでも同じなのではないかと思います。
もちろん日本でも、です。
程度の差はあるでしょうが、それは私には瑣末な話にしか思えません。

国民国家はもはや役割を終えて、新しい世界の枠組みが生まれだしているという考えは少なくないですし、たぶんそうだとは思うのですが、しかし今を生きる私たちは国家から自由になることは出来ません。
せめて可能な範囲で、国家権力あるいは政府の言動を注視し、たとえ見えにくいものであろうとも見ようとする姿勢が不可欠だと思います。
もちろん、政権の透明性の向上やガバナンスの仕組みも大切ですが、国民一人ひとりが政府の言動を見据えていくことが一番大事です。
それにしても、日本の昨今の政権与党政治家の言動は、あまりにも不透明です。
その不透明さを糾弾し明らかにしていく役割を持っている野党の政治家やジャーナリストの姿勢にも、どうも及び腰さを感じます。
国家権力の前には、だれもが萎縮してしまうのでしょうか。

日本ではまだ、ポリトコフスカヤ事件やリトビネンコ事件は起こってはいませんが、起こってもおかしくないような状況が忍び寄ってきているような恐怖を感じます。
ロシアの事件ではありますが、同時にこれはグローバル化した世界の現代の事件です。
その意味で、私たちも決して無縁ではないのです。
チェチェンの教訓を肝に銘じておきたいと思います。
コラテラル・ダメッジを正当化できる国家権力はここまでできるのです。
私には、この事件が薬害肝炎事件に重ねて見えてきてなりません。

■パグウォッシュ会議と科学技術のシビリアン・コントロール(2007年11月26日)
今朝の朝日新聞の「ひと」欄に、鈴木達治郎さんの紹介がされていました。
科学技術政策、とりわけ原子力分野で活躍している鈴木さんの発言は私のような素人にも伝わってくるものがあり、名前だけは覚えていました。
記事によると、鈴木さんはパグウォッシュ会議の評議員に選ばれたのだそうです。

パグウォッシュ会議。
実は先週、友人たちとやっている「技術と暮らしを考えるサロン」で話題になった会議です。話題といっても、私が少し言及しただけですが。
パグウォッシュ会議は1995年にノーベル平和賞をもらいましたから、ご存知の方もいるでしょうが、最近はあまり話題にはなりません。
原子力の平和利用と核兵器廃絶を訴える科学者を中心とした会議体です。
核兵器開発が進むことを危惧した、バートランド・ラッセルとアインシュタインが中心になって、世界に呼びかけた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に始まったものですが、今でも毎年、世界各地で大会が開催されています。

私が科学技術のあり方に興味を持ち始めたのは、このパグウォッシュ会議と遺伝子工学に関するアシロマ会議です。
アシロマ会議は遺伝子を扱う生物学の倫理問題を議論した、最初の国際会議だと記憶していますが、その2つの動きがどこかで繋がっていることを感じていました。
自分たちが開発に関わった原子力という科学技術が原爆に応用されたことが、パグウォッシュ会議の根底にあると思いますが、同じことを繰り返したくないという分子生物学者の思いをそこに感ずるのです。
そうしたことから、科学技術と人間生活の関係が私の関心事の一つになり、会社を辞めた後、この問題に取り組みたいと思ったこともありましたが、残念ながら力不足で実現できませんでした。

原子力問題はいまこの時代を生きるすべての人にとって、その暮らしに深く繋がっている問題であるにもかかわらず、その情報は相変わらず専門家にしか開かれておらず、多様な眼にはふれていません。
もっと開かれた場での、事実に基づく議論が不可欠だと思うのですが、そうした状況は生まれていません。
とても残念です。
しかも、20年前に比べても、そうした議論はむしろ閉じこもりがちなような気もします。
コンセンサス会議なども思ったほどには広がりません。

軍事力のシビリアン・コントロールがいま話題のなっていますが、科学技術のシビリアン・コントロールも私たちにとって重要な課題ではないかと思います。
そんな問題意識もあって、いま友人たちと「技術と暮らしを考えるサロン」をやっていますが、関心のある方がいたらぜひご連絡ください。
テクノロジー・ガバナンスは軍事力のシビリアン・コントロールにも深くつながっている問題です。

■「戦争から学ぶことなどない」というオシムの見識(2007年11月27日)
昨日の朝日新聞の天声人語の記事です。
サッカー日本代表のオシム監督は、祖国ユーゴスラビアの解体や、ボスニア内戦といった辛酸をなめてきた。それゆえだろうか。口をつく言葉は奥が深い。民族の悲劇が、名将の人生に、深々とした陰影を刻んでいるように見える。動じない精神力と、異文化への広い心が持ち味である。それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、「(影響は)受けていないと言った方がいい」と答えたそうだ。「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が…」(木村元彦『オシムの言葉』)
最後の発言に感動しました。
私はサッカーには全くと言っていいほど興味はありませんし、オシム監督についてもほとんど何も知りません。
しかし、この言葉はすごいと思いました。心から共感します。
オシムのサッカーを見ていなかったことを悔やむほどです。

企業経営も政治も戦争用語が頻繁に出てきます。
私にはとても違和感があります。
「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツは「戦争とは政治の延長である」と述べていますし、フーコーは「政治とは別の形での戦争の継続」だと述べています。
ですから、政治の世界では当然のことかもしれません。
また経済の世界も、現代の経済は、まさに競争原理に支配されていますから、そこでも戦争と同じ活動が展開されているのかもしれません。
政治も経済も、いまやすべてが戦争の変形でしかないのかもしれません。
ですからみんな戦争から学びたがるのでしょう。
しかし、戦争から学ぶことがあるとすれば、オシム監督が言うように、戦争が存在価値を持ってしまうことになります。

そろそろ「戦争」から学んだり、戦争の知恵を政治や経済に応用したりするのは考え直すべきではないかと思います。
10年ほど前に私が翻訳した「オープンブックマネジメント」という本がありますが、そのあとがきの解説で戦争からゲームへとモデルを変えることを提唱しました。
もっと創造的なゲームへと発想を変えていけば、世界はきっと変わっていくでしょう。

フーコーも「真理のゲーム」ということを提唱しています。
「戦争」パラダイムから「ゲーム」パラダイムに生き方を変えるだけでも、人生は変わってくるかもしれません。
私は若い頃は、まさに「ゲーム」パラダイムで生きてきたのですが、いつの間にか「戦争」パラダイムの影響を受けてしまっているように、最近感じています。
このブログは、フーコー流のゲーム発想を大切にしているつもりなのですが。

■持続可能性を高めるための多様性(2007年11月28日)
グローバリゼーション、といっても経済中心のグローバリゼーションですが、その進展で世界の経済は深くつながってしまいました。
サブプライム問題で明らかになったように、世界のどこかで発生した経済問題が世界中に深刻な影響を与えるような状況になりました。
まさに、上海での蝶の羽ばたきがアメリカにハリケーンを起こしてしまうという、バタフライ効果が現実のものになりだしたのです。

世界の経済がつながっている以上、多かれ少なかれそれは避けられないことです。
1920年代にも、そうした世界同時不況はありました。
しかしそうした状況を克服する方向で経済政策が動いてきたかといえば、そうではありません。むしろ逆だったように思います。
しかも金融工学が異様に発展し、実体経済とは桁違いの大きな力を持ち出したのです。
てこの原理で損益を異常に拡大する仕組みが次々と開発され、まさに世界経済はカジノの場になってしまったような気がします。
その影響が、私たち生活者の生活という実体経済を左右するようになってしまったのです。おかしな話です。
金融エンジニアやベニスの商人たちには「堅気の世界」には入ってきてほしくないと思いますが、逆に「堅気の生活者」がその世界に吸い込まれているようです。
いうまでもありませんが、日本の財界はすでに魂をお金に売り飛ばしていますから、何の倫理観もありません。経団連や同友会も地に堕ちました。

文化の世界では、構造主義や文化人類学が世界の多様性を積極的に肯定することによって世界の豊かなビジョンを描きました。
しかし実際に起こったのは、多様な文化の消滅です。
異邦が発見されると、そこに強い文化が入っていき、結局は絡めとってしまうわけです。
いわゆる「文化人類学のジレンマ」ですが、今の時代においては、違法や多様性を維持することは至難なことです。
しかしこのままいくと、実体経済そのものが存立しえなくなりかねません。
汗して働くことが報われない社会になってきているのです。

それだけではありません。
世界そのものが極めて脆弱なものになりかねません。
多様性こそが組織の強さ、今様に言えば、持続可能性を保証するものです。
上海での蝶の羽ばたきが、異常に増幅されるような仕組みは見直されなければいけません。
さまざまな段階でリスクを回避し、ホメオスタシスとホメオカオスがバランスして、全体の持続可能性を高めていく新しい経済システムが構想されるべき時期に来ているように思います。その原理はもう見つかっているはずです。
なぜそうした動きが現実のものにならないのか。
この世界から自由がなくなってきているからかもしれません。

■自由人とは自らにとっての真理を語るものである(2007年11月29日)
自由人とは真理を語るものである。
これが古代ギリシアの自由人の定義だったそうです。
真理を語るのは、誰にも拘束されたり迎合したりしていな証です。
逆に真理を語れないのは誰かの、あるいは何かの奴隷だと言うわけです。

もっとも「真理」などというのは捉え方でいくらでも変わります。
「真理」は時代や文化のそれぞれに、存在しますから、唯一絶対の真理などあろうはずもありません。
ただ社会を維持していくためには、メンバーが共有する最小限の認識はが不可欠ですから、それを「真理」と呼ぶわけですが、それにしてもそれは絶対であるわけではありません。
「真理」は多様であり、生きています。
その認識こそが、「真理」を見るための出発点だと思います。
であればこそ、誰にも拘束されることなく、自由に「自らにとっての真理」を語り合うことが大切です。
先入観のない真理への思いをぶつけ合うことで、「真理」はいのちを与えられ、歴史は動き、社会は硬直化による死から解放されます。

こうした視点から考えると、日本では「真理」が語られることは少ないように思います。
多くの人、いやほとんどの人が「真理は与えられる物」と考えていますから、自らの違憲の根拠を誰かの発言に依拠しがちです。
そうやって、社会の「真理」は強固になっていき、そこから外れたものは多くの人には見えなくなっていく恐れがあります。

19年前、自由人になりたくて会社を離脱しましたが、以来、自由に考え語ることが私の自負の一つでした。
しかし最近、妻への妄念が強すぎて、真理が見えなくなってきているかもしれません。
いや、感受性が研ぎ澄まされて、真理が見えすぎて混乱してしまっているのかもしれません。

■人が人を殺めることの事情(2007年11月29日)
香川県の祖母孫殺害事件の犯人は親族だったことがわかりました。
親族同士の殺傷事件は少なくありませんが、妻を病気で亡くした私としては、いつもやりきれない気持ちになります。

そもそも「人が人を殺める」ということは、信じられないことです。
なぜそんなことができるのか、おそらくその瞬間において殺害者は、自分も相手も「人」ではなくなっているのでしょうね。
そう思わなければ理解できないことです。
しかし、親族の場合は心通わせた関係でしょうから、相手を「人」でないと受け入れるのは極めて難しいはずです。
頭ではそう思ったとしても、身体がそうは反応しないでしょう。
ですからその場合は、逆に極めて人間的な心情がそうさせるのではないかと思います。
つまりその底に、愛憎という極めて人間的な心情が作用するのだろうと思います。
ちなみに、愛憎はコインの裏表のように、私には同じものに見えます。

私はいつも、親族同士の殺傷事件が起きた場合、マスコミ報道の後にある、それぞれの事情に思いを馳せます。
殺すほうにはそれなりの事情があるはずです。
そうでなければ、できるはずがありません。
今回の犯人の奥さんががんで半年前に亡くなったことを知りました。
短絡的だと思われそうですが、急に犯人の心が伝わってくるような気がしました。
もし私が彼の立場だったらどうだろうか。
孫まで殺めることは絶対にないだろうか。
よその家庭の事情は私には知る術もありませんが、愛する妻を失った夫の心情は、実に悲しく不安定なものです。
ましてや、最近の世情を思う時、自暴自棄になり暴走することがあっても不思議ではありません。
不謹慎に聞こえると思いますが、私には犯人の哀しみがわかるような気がします。

個人的な事情だけではありません。
がん治療はお金のかかる治療です。
お金がなくて治療を断念する人もいるでしょうが、治療のためにお金を貸リてしまう、それも高利のところに頼ってしまう人もいるでしょう。
がん治療の世界には、そうした高価な怪しい商品や治療が蔓延していますし、いまの社会には犯罪的な高利金融業者が野放しになっています。
それらはいずれも政府と産業界の癒着の中で守られていますので、孤立した庶民には対抗出来るはずもありません。

マスコミは、こうした事件の詳細を報道しますが、その事情をしっかりと可視化してはくれません。
もちろん背景事情は面白おかしく詳細に伝えますが、そうした「事情」ではなく、社会的な「事情」こそを明らかにしてほしいものです。
先日、犯罪被害者の方の話も書きましたが、個々のエピソードの底にある「事情」です。
言い換えれば、現代の社会の構造と言ってもいいでしょう。
平たく言えば、個人が孤立化させられてしまっている「事情」「構造」です。

私がいま、フーコーやネグリに興味を持っているのは、彼らがそうした構造を考える視点を提供してくれるからです。
ネグリの「マルチチュード」。
あるいはフーコーの入門者である「生と権力の哲学」や「フーコー入門」(いずれもちくま新書)、あるいは「フーコー 主体という夢:生の権力」(青灯社)をお薦めします。
刺激を受けます。

■守屋事件をどう問題設定するか(2007年11月30日)
額賀大臣がどこかの宴席に出たかどうかが話題になっていますが、どうして日本のマスコミは問題の立て方がこうも断片的で表層的なのでしょうか。
肝心の問題を見えなくしてしまうだけです。
マスコミの役割は事実を明らかにし伝えることでしょうが、問題設定の仕方を間違ってしまうと事実は全く違った見え方をしてしまうことはいうまでもありません。
正しい解は正しい問の設定によって可能になります。
問題を解決するということは、実は問題を設定するということなのです。
そうした認識は日本では希薄です。
日本の教育は「問題を解くこと」に専念させられているからです。
昨今の教育再生議論にも、そうした視点は少ないように思います。

マスコミが世論を作り出すのは、そう難しいことではありません。
見出し一つで読者の印象を左右することができるからです。
世論の評価も意図的に操作することが可能です。
アンケート調査や電話調査も、質問項目や質問の仕方でかなり答えを誘導できますから、世論作りのために動員されます。
問題設定も、実は世論混乱のために行われているのかもしれないと思うほどに、昨今のマスコミの問題の立て方は扇情的です。
マスコミのトップが政治や経済に大きな影響を与える国ですから、そういう疑問も一概に否定はできません。

堀田力さんは、先週土曜日の報道ステーションで、守屋・宮崎事件は「せこい事件」として、構造的な問題の可能性に否定的でした。
とても意外な発言でした。古館さんもちょっと残念だったようです。
しかし実際のところ、そうなのかもしれません。
守屋夫妻の逮捕の報道内容を見ると、そんな気もしてきます。
守屋夫妻の異常さが余りにクローズアップされてしまっています。
確かに異常かもしれませんが、その周辺に同じような人たちがたくさんいたし、いるはずです。もしかしたら、本人も周りも気づいていないことだってあるでしょう。
言い換えれば、社会全体が「守屋化」しているのですから。

私は守屋事件は決して個人の話ではないと思っていますが、私の判断材料の多くもまたマスコミ情報に依存しています。
もちろん私独自の直接的な状況証拠もないわけではありません。
そうしたことがなければ、このブログの記事はすべて勝手な創作活動になってしまいます。
多くの記事は、私が直接見聞したことを起点にしています。
やや過剰に解釈し、過大に展開する傾向はありますが、それは私の性格ですので仕方がありません。
私がいろいろな形で垣間見た僅かのことですら、問題の立て方次第では、ここに展開しているような構造的な問題につなげていけます。
同じマスコミ情報も、認識の枠組みを少し変えるだけで違った風景になってきます。
マスコミが立てた問題の呪縛から自由になって、個々の事柄を見ていくと、もしかしたら違った風景が見えてきます。
多くの人たちが、そうやって自分の眼で世界を見ていくと、世界は大きく変わっていくような気がします。

■守屋非難の前に、先ず自らの身を正したい(2007年12月1日)
守屋前防衛次官の逮捕により、防衛省の実態が少しずつ見えてきました。
その「金銭汚染」の広がりは私が思っていた以上でした。
彼の周りにいた人たちはほぼ全員共犯と言っていいでしょう。
美鳩会のメンバーも、法的にはともかく、道義的には共犯を免れないはずです。

テレビ報道で、守屋問題の感想を訊かれた防衛省職員が、国民と同じ気持ちです、と応えていました。
このブログで何回も書いているように、組織の仲間の犯罪は組織全員の犯罪だと私は思いますから、あなたも「仲間」でしょうと言いたい気分でした。
こうした「まじめな職員」が、守屋事件を支えているのです。
その典型例が、ナチスのユダヤ人ジェノサイドです。

守屋さんはおそらく氷山の一角でしかありません。
それに何も守屋時代に始まったことではないでしょう。
私の認識では、あるいは体験では、少なくとも25年前から存在していたことです。
もちろん程度は今とは大きく違いますが、構造的にはなんら変わっていないのではないかと思います。
国際関係および日米関係と言う側面はかなり変わっているでしょうが。

そうしたことを垣間見ながら、何もしなかった自分を恥じなければいけませんし、恥じています。
もしそうしたことすべてに口を出していたら、時間がいくらあっても足りないという言い訳はありますが、所詮はそれは言い訳でしかありません。
「時間がない」はいかなる場合にも正当化の理由にはならないからです。
それに、このブログに最近投稿してくれた高校生が言うように、そんな事をしても何も変わらないという「小賢しさ」が私にもあったかもしれません。

これからは、「おかしいことはおかしい」という姿勢をもっと大事にしようと思います。
そうでなければ、私も結局は守屋さんと同じ仲間になりかねませんので。
守屋さんを非難する前に、先ずは私たちそれぞれが身を正すことが必要かもしれません。

■再犯防止できない刑罰制度のジレンマ(2007年12月2日)
大阪の郵便局で男が現金を奪い、追跡した人を包丁で刺し重軽傷を負わせた事件の犯人が「刑務所を出たばかりで、年を越す金がなかった」と供述しているという報道がありました(11月27日の各紙)。
それに関連して、読売新聞に次のような記事がありました。
法務省が再犯者の実態を取り上げた07年版の犯罪白書でも、再犯件数の多さが指摘されており、更生の難しさが改めて浮き彫りになった。
白書によると、昨年まで過去58年間の有罪確定者から無作為抽出した100万人のうち再犯者の割合は28・9%だったが、犯罪件数をみると、調査対象の約168万件の57・7%を再犯者による犯罪が占めた。(2007年11月27日 読売新聞)
再犯比率の高さには驚きます。
これに関連して、思い出すのが、私が最近はまっているフーコーの主張です。
フーコーは「監獄の歴史」のなかで、有名なパノプティコンを題材に現代社会の本質を見事に読み解いていますが、監獄に関しても次のようなことを主張しています。
刑罰の主要な目的は違法行為のつぐないをさせることであるが、それは同時に犯罪者を改心させるということを補足的な目標としている。そして、その装置としてつくられたのが「監獄」だが、監獄はむしろ犯罪を再生産する装置になっている。
フーコーは、監獄は法律違反者を拘禁し、矯正しているようにみえるが、実際はその厳しい行刑の技術を通じて危険な「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性をもつものとして社会に循環させている、というのです。
そして、彼は監獄制度は失敗だったといいます。
にもかかわらず、監獄がなくならないのは、それが、刑罰制度の必要性を正当化する「非行性」の概念と存在を生み出し、監獄を含めた刑罰制度の存在を正当化する基盤を、自らの効果として産出しているからだというのです。
あまりにも粗雑な紹介なのでわかりにくいかもしれませんが、納得したい方はぜひ「監獄の歴史」、もしくはフーコーの解説書をお読みください。
私はとても納得できます。
いまの刑罰制度が守ろうとしているのは何なのかも垣間見えてくるような気がします。
法曹界はもっと真剣に「再犯問題」を考えるべきではないかと思います。
それは何も刑事事件に限った話ではありません。
民事も商事もです。もちろん政治事件もです。
しかし、再犯防止に成功すれば、自らの職を失いかねませんから、彼らは再犯防止どころか、再犯奨励に熱心になってしまうのでしょうか。
ここの司法のジレンマが存在します。

詳しくは記憶していないのですが、今月初めに父親の暴力から家族を守るために父親を殺害した息子の裁判が報道されていました。
とても家族思いの評判の良い息子だったため、その地域で減刑嘆願運動が起こり、それもあって確か懲役15年の求刑に対して、半分くらいの判決が出たという記憶があります。
嘆願運動をしていた人たちは刑が軽くなって喜んでいましたが、私はこの事例は執行猶予にすべきだと思いました。
家族を支えてきたその息子が収監されることで、彼も家族もおそらく良い方向には行かなくなると思うからです。
彼のような場合は再犯の可能性は限りなくゼロですから、矯正の必要はないでしょうし、むしろ彼が守ったことをこそ守る判決でなければいけないように思います。
そうしたところに、日本の裁判の脱価値性を感じてしまいます。

監獄に限りませんが、こうした「自己準拠的な構造」をもつ制度は他にもたくさんあります。
いや、そもそも近代文化は、産業のジレンマに象徴されるように、そうしたジレンマをかかえたものなのだろうと思います。
再犯が多いことの意味はもっと真剣に考えなければなりません。
法曹界の人たちはそんなことは考えないでしょうから、社会問題にしていかなければいけないテーマかもしれません。

■模倣犯罪の刺激ではなく、模倣善行への刺激を(2007年12月3日)
最近のニュースはどうも楽しくありません。
というか、何だか内容のない話ばかりのような気がします。
世の中にはもう少し意味のある事件はないのでしょうか。

もう半世紀ほど前のことですが、西ドイツであった話です。
テレビで放映された犯罪ドラマ「えり巻殺人」が評判になりました。
ところが、放映の後、1週間とたたないうちにえり巻による殺人事件が起こり、結局8件のえり巻殺人事件が発生したのだそうです(「祝祭経済の時代」赤塚行雄)。
いわゆる「模倣犯罪」ですが、テレビの影響は強烈です。
そこで心配になるのですが、これほど毎日、殺人事件や放火事件が放映されることの影響はないのかということです。
学校のいじめ事件なども、私自身はかなり影響を与えているのではないかと思いますが、マスコミはもう少し考えたほうが良いのではないかと思います。

ニュースというと、どうも暗い事件が多いのですが、明るい話題、感動する話題をもっと取り上げることが大切だと思います。
心洗われる善意の行為や元気が出てくる楽しい話、自分もやって見たいというようなちょっと良い話、そういう話題は社会にはたくさんあります。
非日常的なことだけが事件なのではないのです。
テレビでそうした話題がもっと取り上げられれば、それに刺激された「模倣善行」が拡がって行くような気がします。
少なくとも「明るい気分」は広がるでしょう。

テレビでできることはたくさんあります。
ニュースの取り上げ方ひとつでもいろいろな可能性があるはずです。
不正を正し、悪事を暴くのも必要ですが、
真似をしたくなるような気持ちの良い話を広げていくことも大切ではないでしょうか。

■悪魔と天使が共存する経済システム(2007年12月4日)
原油価格の上昇で、さまざまな生活用品が値上がりしているようです。
最近の経済は石油の上に構築されている「油上の楼閣」のようなものですから、仕方がないのでしょうが、それにしても不安定というか、わかりにくい経済になっています。
しかし、それは実は「操作可能な経済」でもあることを見落としてはいけません。
問題は操作できるのは限られた人だけだと言うことです。

ところで、経済学の根底にある労働価値説によれば商品の価値は人間の労働によって生み出されます。
しかし経済的には商品の価値が顕在化するのはそれが売れた時です。
つまり「売れた価格」が、商品の価値を表します。
社会の実状に合わせて、的確に設計された商品は高く売れますから、それを実現した労働の経済的価値は高まります。
逆にいくら汗をかいても、社会に受け入れられない商品をつくっていては売れませんから、そのための労働は報われずに、経済的報酬をもらえなくなるおそれがあります。
同じ人の労働でも、ある時には価値を生み出し、ある時には価値を生み出さないということが起こります。

人間の労働を的確に活かし、社会的価値を生み出すことで、労働価値を創出することが企業経営の課題です。
しかし、昨今のようなグローバルに絡み合った経済システムのなかでは、外部要因によって労働の価値が左右されることも少なくありません。
そればかりか、汗をかかなくても高い価格を実現することも可能になってしまっているのです。
それが見えなくなっているのも現在の経済システムの特徴です。
いま話題の守屋事件のように、時に顕在化しますが、それは氷山の一角です。
システム自体に「悪魔」が内在しているのです。

原油価格の上昇で、さまざまな商品やサービスの価格が上昇しています。
これはそのまま、そうした商品やサービスの送り手である働く人たちの労働価値の上昇につながるわけではありません。
むしろ原油価格の上昇によるコストアップが働く人たちの労働への配分を減少させる恐れもないわけではありません。
自分たちが送り出しているもの以外の商品やサービスの価格上昇は、生活費の上昇につながり、労働を支えるコストを上昇させます。
そう考えていくと、おそらく原油価格上昇ということに限ってみても、原油に直接依存している商品やサービスだけではなく、結局はすべての商品やサービスの価格上昇の契機と理由になるはずです。

つまり「価格」というのは、さまざまな価格連鎖の中で成り立つものであり、必ずしも商品そのものの価値によって決まるものではないということです。
そうした不安定で人為的な価格に依存して労働の価値を決めることは危険です。
ましてや、そうして評価された労働価値を人間の価値と混同してはいけません。
経済的労働価値は、もしかしたら人間の価値と反比例しているのではないかという気さえします。
そういう考えを持つと、社会の風景はちょっと違って見えてきます。

原油価格の上昇による価格体系の変化をどういう方向にもっていくか。
これこそが国家の経済政策ではないかと思います。
価格上昇のポジティブな側面をしっかりと評価すべきかもしれません。
「悪魔」が内在するシステムには「天使」も当然住んでいるのです。

■学校って何のために必要なのでしょうか(2007年12月5日)
OECDが15歳を対象にした昨年の国際的な学習到達度調査結果を発表しました。
日本はまだ下がっているようです。
調査方法によって結果はかなり大きく変わりますから、結果だけで議論すべきではありませんし、株価ではあるまいし、上がった下がったなどと一喜一憂すべき問題ではないだろうと思います。
しかし、日本の教育行政はこうした結果にかなり敏感です。
そして結局は教師や生徒が振り回されることになりかねません。

小泉・安倍政権時代に、日本の学校教育は大きく壊されたような気がします。
そのことは、たとえば岩波新書の『誰のための「教育再生」か』にていねいに書かれています。私の愛読書「軍事問題資料」でもよく取り上げられています。
そうした指摘にほとんど私も同感なのですが、理念的なことはともかく、きわめて実務的な面でも気になることが少なくありません。
つまり「教師への管理」と「生徒への管理」が強化されたと言うことです。
「手続き」が増加し、「学力競争」が激化したということです。
子どもたちの「いじめ」のテキストが、まさに学校そのものにあるのかもしれません。
子どもの頃、いじめられてきた文部科学省の官僚たちがその仕返しをしているのかとさえ思ってしまいます。

OECDの調査を見るまでもなく、あるいは全国一斉学力テストの結果を待つまでもなく、学校教育が崩れてきていることは明白です。
学校の集まりに出てみればよくわかります。
なぜ崩れてきているのか。
それは社会が大きく変わってきているからではないかと思います。
改めて学校の役割とは何なのかを考え直す時期に来ています。
義務教育などという発想自体も見直すべきでしょう。
そもそも「学校」って何のために必要なのかも考えるべき問題です。
小中学校が無くなったら何が困るのか。誰が困るのか。
義務教育という発想は何のために、誰のために必要だったのか。

子どもを育てるのは社会です。
私たち大人の生き方が、次に続く子どもたちの生き方を決めていきます。
学力や達成度よりも、大切なものがあるはずです。
たとえば「あいさつ」をすることも、学力よりも大切なことだと私は思っています。
いま必要なのは、子どもたちの学校ではなく、大人たちの学校です。
60歳からの3年間を学校に通う義務教育制度をつくったらどうでしょうか。
私もそこに通ったら、もう少し常識が身につき性格がよくなるかもしれません。

■コストや価格で考える時代はもう20年前に終わりました(2007年12月6日)
久しぶりにタクシー料金が値上がりしました。
私はタクシーにはあまり乗りませんが、乗るとよく運転手と話をします。
とくに地方に行った時には比較的長い時間乗りますので、いろいろとお話を聞くのですが、汗して働いている運転手への料金の配分の低さが気になっていました。
ですから、運転手の収入を上げるための値上げは賛成です。
しかし、本当にそうなるのかどうかです。
テレビでは、料金値上げで客が減少するのではないかと話す運転手が少なくありませんでした。
中には1年は「忍」です、というような話をする人もいました。

利用者の金銭的負担の増加が汗している現場の人にきちんとつながるという構造は、実は見えていないことが少なくありません。
最近の医療費負担の増加も病院の利益や医師の処遇の改善にはあまりつながっていないのではないかと言われましたが、今回のタクシー料金はどうでしょうか。

運転手への配分比率を上昇させることが組み合わされているのかどうか知りませんが、単に料金値上げだけではなく、仕組みを考えなおすべきだろうと思います。
そうでなければ、結局は運転手の処遇改善の名目で、会社が儲け、利用者が損をするという結果になります。それは結局は運転手の損につながりかねないのです。
そういう「改悪」は少なくありません。
なぜそうなるかといえば、経済の仕組みが複雑になりすぎて、透明性や論理性を欠いてきているからです。
ですからさまざまな「悪意」や「不正」が入りやすいのです。

テレビで利用者の一人が、駅前で待っているタクシーがこんなに多いのに、何で値上げするのかと話していました。
もっともな疑問です。
規制緩和でタクシー業への新規参入は増えましたが、それがサービスや料金を下げるのではなく、むしろ運転手の稼働時間を下げることでコストアップとなり、料金を上げるというおかしな結果になっているのです。
稼働率を低下させている運転手の精神衛生にも悪影響を与えるでしょうし、第一、社会的損失だろうと私は思います。
たとえば、福島駅前にはいつもタクシーがたくさんいますが、いつも2時間くらい待つといっていました。
なんという無駄か、と私は思います。
その無駄は必ず料金に反映されます。
そうした状況を変えていくことこそが、本当の意味での経済政策であり、産業支援のはずです。
事実、仕組みや料金を工夫することで運転手の収入を大きく改善しているタクシー会社もあるようです。

儲からないから値段を上げる。
儲からないからコストを下げる。
この発想はいずれも見直さなければならないように思います。
行政と税制の関係においても当てはまることです。

コストや価格、言い換えれば「お金」で考える時代はもう20年前に終わりました。
大切なのは仕組みや価値です。

■当事者の危機感がない限り、組織の改革はできません(2007年12月7日)
先日、ツカサグループの川又三智彦さんとパネルディスカッションでご一緒した時に、川又さんが会場に向けて繰り返し言っていたことがあります。
「みなさんの何割かは10年後にはホームレスになっていますよ」
川又さんは日本の先行きに大きな危機感を持っているのです。
ホームレスはともかく、今のままだと経済的格差がさらに拡大し、社会が機能不全に陥る恐れは否定できないと思います。
一番の問題は、働かないほど収入が大きくなりがちな現在の構造です。

しかし、なぜかみんな危機感がありません。
先日、ある委員会で、松下の方が数年前に大幅な赤字になった時には、松下も倒産するのではないかと心配になり、履歴書を買いに行った、と話されていました。
その危機感が松下のその後のV字回復を実現したのだと言うのです。

考えて見ると、今の日本の財政状況は松下以上の赤字かもしれません。
にもかかわらず税金の無駄使いはなくなりません。
独立法人の見直しが話題になっていますが、議論の割には何も変わりません。
総論ではみんな賛成しますが、自分の利害が見えてくると途端に動きが悪くなります。
独立法人の職員がまじめに働き出したら、別に民営化する必要もありません。
今の仕事はほとんどが無意味なものなのでしょうが、その仕事の内容を当事者たちが本気で見直せば必ず社会的な価値を創出することができるはずです。
しかし、いまはそうした動きは全くありません。
そこで起こっているのは、組織の存続に関する攻防戦でしかありません。
しかも、話し合っている大臣の顔には真剣見は感じられません。
全く無意味な「行政改革活動」だと思います。

少なくとも、現在の職員の給料を真剣に動き出すまで至急停止にするくらいのことをやるべきです。
民間企業であればそうするでしょう。
今もなお毎日税金の無駄遣いが行われているわけですが、せめてその発生をとめることができないものなのでしょうか。
当事者に危機感が生まれない限り、組織の改革などできるはずがありません。
その基本的な認識が欠落している「改革ごっこ」はそろそろやめてほしいものです。

それにしても、天下りできた人は働きませんね。
これは最近会った独立法人的な組織に所属する若い人や新人の何人かの人に聞いた言葉です。
働かなくて高給を得ている人がまだまだたくさんいるようです。

■捨てることの難しさ(2007年12月8日)
友人からもらった「本来無一物」の掛け軸を見ていたら、急に資料や書籍の整理をしたくなりました。
今までも何回も挑戦して実現しなかった難題です。
亡くなった妻は、どんな資料も保存していく私の性癖には少し呆れていました。
書籍もそうです。私がお金を使う唯一の対象が本でした。
最近は違いますが、以前は読むためにではなく、いつか読めるようにしておくために新聞などで見ては書店に注文していました。ですから読んでいない本がたくさんあります。
資料もそうです。私が関わったプロジェクトの資料はほぼすべて残しています。
愛着があるということもありますが、いつかまた参考になるかもしれないと思っているのです。
ところが、妻が亡くなった後、彼女が残したたくさんの写真や手紙を前に、もし私が死んだらこの書籍や資料はどうなるのかと思ったのです。

資料や書籍は、所有者との関係においてのみ意味を持っています。
妻に来た手紙は、私にとってはあまり意味はありません。
「物」というのも「事」と同じく、個人に付属しています。
私の持っている書籍や資料は、私がもっているからこそ意味を持っている。
そうであれば、「思いを持って」それを廃棄できるのもまた、私だけです。
廃棄するのに、「思い」など関係ないのではないかと言われそうですが、そんなことはありません。
妻を亡くして、そういうことがよくわかってきました。
もちろん私は妻を「廃棄」したのではなく、「別れ」を体験したのです。
書籍や資料もまた私の一部だったわけですから、「廃棄」ではなく「別れ」と考えるべきです。
私の一部であればこそ、いつもは「廃棄」できなかったのですが、私の一部であればこそ、「良い別れ」が必要だと思ったわけです。
そう思ったおかげで、今回はかなりたくさんの資料との別れができました。

私もいま66歳ですが、そろそろ「人」や「物」との別れを意識的に進めていく時期かもしれません。
それでこそ、世界が広がり深まるのではないかと思うようになりました。

■産業の場としての学校と教育の場としての学校(2007年12月9日)
リクルート出身の藤原校長が次々と新しい試みに取り組み、話題になっている東京都杉並区の区立和田中学校が、来年1月から、大手進学塾の受験指導の場として、夜の校舎を提供するそうです。
主催するのは、保護者や元PTA、教員志望の学生たちが参加する、和田中応援団のボランティアグループの「地域本部」です。
今朝の朝日新聞は、その記事を1面のトップに書いています。
塾と学校の連携は各地で広まっていますし、硬直化した学校制度に新しい風を吹き込むという意味でも、こうした動きを評価したいと思いますが、どこかに違和感が残ります。

仕掛け人である藤原さんの言葉が、新聞で紹介されています。
「どんなにがんばっても、学校の授業ですべては教えられない」
やはり気になる発言です。
「すべて」とは何なのでしょうか。
こうした発言の背景にあるのは、「量的な役割分担」の発想です。
昨日の説明会で、藤原さんはこうも話したそうです。
「学校の授業についていけない生徒にはむしろ負担になる。無理に参加しないで」
ますます気になります。

要は受験勉強のための塾に行きやすい状況をつくるということ、と割り切って考えればすべては納得できますが、そうだとすれば、「学校の授業についていけない生徒」はますます格差をつけられていきかねません。
私には問題の設定が根本的に間違っているような気がします。

放課後の学校を使うのであれば、受験のためにではなく、むしろ「学校の授業についていけない生徒」のためのプログラムを考えるべきではないかと思いますし、それこそが「地域本部」に取り組んでもらいたい課題のようにも思います。
そして、一番大切なことは、時代の大きな変化を踏まえて、改めて「学校」とは何か、「教育」とは何か、を考え直すことではないかと思います。
教育産業の場としての学校と教育の場としての学校とは、似て非なるものです。

「改革」の出発点はビジョンです。
学校とは何なのか。
何のために何を改革するのか。
それを明確にしない「改革」が多すぎます。


■満月にうさぎの餅つきが見えますか(2007年12月3日)
子どもの頃からずっと気になっていることがあります。
満月をいくら見ても「うさぎの餅つき」が見えてこないのです。
みなさんはどうでしょうか。
見えると思えばいいのですが、気になりだすと忘れられなくなるのです。
なぜ私には見えないのか、子どもの頃からの大きな疑問でした。
かといって、それを「ライフワーク」にするほどではないのが、私の中途半端なところです。

昔の人たちは本当に月面に「うさぎの餅つき」を見たのでしょうか。
「うさぎの餅つき」は仏教にも出てくるインド古来の説話に拠っているそうですが、その話が、月面にうさぎの餅つきを浮かび上がらせたのでしょうか。
もしそうであれば、ウサギが見えない私は、心が濁っているのでしょうか。

それにしても、ギリシア神話の星座もそうですが、昔の人たちの想像力、あるいは創造力は、私たちとはかなり違うような気もします。
現在の私たちとは全く違う世界に住んでいたような気がします。
私たちが見えていないことが、いろいろと見えていたのでしょうか。
現前する事実の向こうにある、意味の世界も見えていたのかもしれません。

私たちは、もう一度、そうした能力、もしくは意識を回復しなければいけないように思います。
せめて個人レベルでもいいですから、現前に見えるものの向こうにある風景を見る努力をしたいものです。

■日本ライスのブランド米偽装事件と農水省の犯罪(2007年12月10日)
毎年、新潟の友人が魚沼産のコシヒカリを送ってくれます。
実に美味しいのです。
近くのお店で購入するコシヒカリとは全くの別物です。
それにしても、最近のお米の価格が安く、米作農家は本当にやっていけるのかも気になっていました。

昨日、TBS系列の「報道特集」で「追跡!偽ブランド米」を見ました。
先月18日深夜にMBS毎日で放映された「映像’07」が話題となり、全国ネットでの放送が決定したのだそうです。
「新潟産コシヒカリ100%」を謳いながら、実は中国米などをブレンドしていた「日本ライス」の偽装を明らかにしたものです。
その不正はすでに農水省にも情報が入っていたようですが、農水省はそれを見逃していたことも番組の中で取り上げられています。
そのやり取りを見ていると、まさに「守屋事件」や「薬害肝炎事件」と同じ構図が見えてきます。
取材に応じた農水省の職員の「責任への鈍感さ」も同様です。
まさに農水省の犯罪です。
「権力」を付与された「組織」は、犯罪を生み出す仕組みを併せ持っています。
ですから、ほとんど例外なく、中央省庁には犯罪が内在しています。
そうならないために、さまざまな仕組みがつくられるわけですが、日本の官庁にはそうした仕組みがあまりないのでしょうか。
基本的には政府観やガバナンスの問題です。

この番組で象徴的に描かれていたのは、組織の不正に対する個人の誠実さです。
組織の中の個人ではなく、組織に属さない個人の誠実さです。
生産農家の米つくりへの誠実さ、米穀販売店の商店主の誠実さが、組織の悪行に抗するように描かれています。そこから大きな救いを感じます。
そこから感ずるのは、米作農家が自立できないのは、農業政策のためだという私の勝手な思い込みへの確信でした。

ところで、偽装を組織的に行っていた日本ライスの社長はすでに逮捕されていますが、日本ライスはまだ営業を継続しています。
恐ろしい話です。
個人は罰せられても、組織は罰せられない。
この発想にこそ問題の本質があるように思います。
犯罪の温床こそ、厳しく問われるべきです。
組織犯罪は決して個人の問題ではないのです。

■ワーキングプア、あるいは働くことの意味(2007年12月11日)
いくら働いてもなお貧しい暮らしから脱出できないワーキングプアが問題になっていますが、この言葉そのものに、ある落とし穴があるような気がします。
プアでない者のたわごとと言われそうですが、念のために言えば、私はこの数年、仕事があまりできなかったため、国民年金が一番の収入源です。

ワーキングプアのどこが落とし穴かといえば、プアということが経済的な収入に直結していることです。
たしかに都会で暮らしていくためには金銭がなければやっていけませんが、人はお金がなければ生きていけないわけではありません。
金銭収入があまりなくても暮らしていける地域は、日本にもまだあるはずです。
そこでは「生活の仕方」や「働き方」が違うのです。

労働力、しかも安価な労働力の供給源を維持していくためには、経済的格差を拡大させていくことが効果的です。
そうした政策が生み出しているのが「ワーキングプア」という概念ではないかと思います。
やや極端かもしれませんが、いつの時代も、経済成長を支えているのはワーキングプアなのです。

安田喜憲さんの「一神教の闇」(ちくま新書)にこんな紹介があります(一部文章を要約)。
バリ島では農民たちが木の彫刻を作って売っている。こんなに作って売れるのかと訊いたら、それこそ市場原理に毒された考えだといわれた。農民たちにとっては、この美しい彫刻を作ること自体が喜びなのである。
私たちが忘れていたことを思い出させてくれます。
働くということは本来楽しいことだったのです。
働く喜びの結果、その彫刻が売れたとしたら、もう一つの喜びが得られます。
それがそもそもの「働くこと」の意味だったように思います。
しかし現在は、金銭を得るための行為が働くことになっています。
そこに大きな落とし穴を感じます。

労働は義務、これは近代資本主義の根幹にある発想です。
義務が楽しいはずはありません。
神が課した義務という形をとりながら、実はその神の仮面をかぶっているのは権力者だったわけですが、逆にそのために金銭が権力を持ち出してしまったのだろうと思います。そして、権力者たちもまた金銭に振り回される存在になってしまったのかもしれません。

ディーセントワークという言葉が少しずつ使われだしています。
定訳はありませんが、「価値ある仕事」とか「適正な仕事」「納得できる仕事」などと訳されています。
私は「喜びが得られる仕事」がいいかなと最近思っていますが、要は「仕事の質」が問われだしてきたと言うことです。

しかし、これまでの発想の枠組みで考えていては限界がありそうです。
一歩進んで、働くことの意味を問い直す契機に出来ないものか。
そうすれば、ワーキングプア論議も一歩進めることが出来るような気もします。
今の働き方をいくら続けていても、経済的プアからは脱却できないのではないか。
そういう発想の転換が必要かもしれません。

しかし、現実にワーキングプアに陥ってしまうと、そんなことを考える余裕さえなくなってしまうのでしょう。
そこに問題があります。
大きな問題の解決には、次元を変えた取り組みが必要です。
それをやれるのは当事者ではなく、当事者みんなのつながりなのかもしれません。

■「舛添さん、おまえもか」(2007年12月12日)
またまた不明を恥じなければいけません。
年金や薬害肝炎事件で、舛添さんが健闘していると思っていましたが、全くの演技もしくは思いつきだけの言動だったことが明らかになりました。
薬害肝炎事件への対応も少しずつおかしなことが見え出してきましたが、昨日の消えた年金の名寄せ作業に関する言い訳はあまりに非常識でした。
完全な居直りと言い訳に徹した記者会見でした。
それにしても何という言い草でしょうか。
「ここまでひどいとは想定していなかった」
これが責任ある立場の人がいう言葉でしょうか。
舛添さんにこそ向けられるべき言葉です。
まあ、それ以外の言葉も信じがたいものばかりですが。
「ブルータス おまえもか」という言葉を思い出してしまいました。

大臣になってからの舛添さんの言動は鮮やかに見えました。
舛添さんに対して不信感をもっていたにも関わらずに、私は見直したという記事を数回書いてしまいました。
またまた不明さを恥じなければいけません。
騙されてしまったわけです。
やはり舛添さんは舛添さんでしかなかったわけです。

しかし、なぜ騙されてしまったのか。
論理的に考えれば、最後の一人、最後の1円まで解決するというようなことは不可能に決まっています。
それでもみんな期待しました。
私も9割方は明確になるのだろうと思っていました。
いやそれ以上に、厚生労働書の犯罪体質が正されると思っていたのです。
庶民の常識を持った政治の素人がそこに乗り込み、庶民の感覚で状況を打破してくれるように見えました。
しかし、昨日の記者会見での舛添さんの立場は、明らかに「お上」の立場でした。
怒りを見せながらも、官に迎合し保身的でした。
舛添さんは「ないものはない」とも言いましたが、「ないもの」がこれまでどれだけ出てきたことでしょう。
それにないものを再現していくことが約束だったはずです。
資料があるのであれば、それは作業であって、誰にでもできるのです。
ないからこそみんな舛添さんの公約に期待したのです。
あれほど大きな公約を、事実確認もせず、できる見通しもないまま行ったのでしょうか。
「それほどひどいとは想定していなかった」というのが、私の気持ちです。

冷静に考えれば、しかし、名寄せ作業での解決は無理だとわかったのかもしれません。
しかし、みんな冷静には考えずに、期待してしまう。
まさに円天事件と同じ詐欺の構図があります。
つまり問題は騙される私たちにあるのです。
最近は自分の馬鹿さ加減がいやになります。

■古舘さんの怒りにとても共感しています(2007年12月13日)
最近の報道ステーションの古舘さんは怒っていますね。
それに表現も過激になりつつあります。
このブログの表現も過激なことがありますが、ほとんどそれと同じような言い回しのことがあります。
古舘さんももしかしたら、このブログを読んでいるのではないかと思うほど似た表現のこともあります。
読んでいるはずはありませんが。

このブログの読者はたかだか1日100〜200人です。
きちんと読む人は、実際には数十人でしょう。
しかし古舘さんのメッセージを受ける人は数百万人です。
その影響は大きいです。
ですからテレビキャスター、しかもメジャーな番組のキャスターはどうしても「中庸」を目指します。
だから退屈になり、中途半端になるわけですが、最近の古舘さんには人間を感じます。
あの怒りは国民の目線にあっているように思います。

もちろん感情的なキャスターを嫌う人もいるでしょうが、そんな「死んだ」国民は捨てておけばいいでしょう。
生きている人間は、怒り、喜び、間違い、失敗し、後悔するものです。
またいつか不明を恥じることになるかもしれませんが、最近の古舘さんの怒りにはうれしいほど共感できます。
厚生労働省は犯罪者の巣窟というような発言までしていたような気がしますが、私も前からそう思っています。
政治家の無責任さへの怒りも共感します。
古舘さんのいまの姿勢を高く評価し、応援したいと思っています。

にもかかわらず残念なことに、どう応援していいか分かりません。
古舘さん
そろそろ画面の外でも、何か動き出す仕組みを考えてくれませんか。

ちなみに私のまわりには古舘嫌いもいます。
そうした人たちも巻き込んだ、新しい公共空間としてのフォーラムや運動の仕組みができないものでしょうか。
怒っているだけでは新しい風は起きません。

ちなみに余計なことですが、古舘さんにはずっと活動を継続していただきたいので、言葉には留意してほしいと思います。
つまらない言葉尻を捉えて血祭りに上げるのは、御用ジャーナリズムの得意技ですから。

■企業不祥事続出の背後にあるもの(2007年12月14日)
日経ビジネスオンライン2007年12月10日に「このままでは成果主義で会社がつぶれる」という記事が掲載されています。
その中にこんな文章がありました。

高橋俊介教授は、かつて日本企業が競うように成果主義を導入した際に、人事戦略コンサルタントとして数多くの企業から相談を受けた。「本来の成果主義は、仕事の成果に応じて報酬に差をつけることで、仕事に対するやる気を高めてもらうもの。だが、相談を受けた企業の中にそういった狙いで導入しようと考えていたところは1社もなかった」と言う。

とても複雑な気持ちを持ちました。
あれだけ話題になった日本の成果主義経営とは一体何だったのか、それを進めてきた企業コンサルタントの功罪は何なのか。
オープンブック・マネジメントをもっと広げられなかったことを反省し、残念に思います。

そのアンケートの結果では、日本型チームワークの文化が壊れてしまってきていることが指摘されています。
日本型チームワークが良いかどうかは、一概には言えませんが、そこで指摘されているのは、「メンバーの信頼関係」の崩壊だろうと思います。
ちなみに、昨今の日本での成果主義はチームワークを壊しているようですが、オープンブック・マネジメントはチームワークを育てる成果主義です。
私は、オープンブック・マネジメントの発想で企業経営を再構築すれば、すべての企業は必ず元気になると考えていますが、出版元の編集者にそれを理解してもらえなかったのが悔いとして残っています。
しかし、この話は機会を改めましょう。

目的と手段。それを間違うと効果が出ないどころか、弊害が大きくなるのが普通です。
薬を間違って服用すれば、時に死にもつながります。
政策手段を間違えば、地域活性化するはずが地域を破壊します。
「手続きの時代」においては、しかし、目的との関係性よりも手段それ自体が議論の対象になりがちです。それも極めて「各論」で、です。
そして薬害が起こり、年金の無駄遣いが起こり、企業の不祥事が起こります。
そこで欠落しているのは「つながり」と「全体像」です。
企業はいまや全体像から発想されるのではなく、目先の各論から行動が起こされます。
つまりコーポレートデザインの発想がないのです。

企業がなぜ不祥事から抜け出られないのか。
「ホロニックな全体像」と「信頼によるつながり」という、組織の基本がおろそかになっているからです。
そこを正していけば、組織はまた輝き出すはずです。
それこそが企業経営のコンサルタントのミッションではないかと思います。

■赤福はまた「もう一つの不祥事」をやってしまいそうです(2007年12月15日)
表示偽装などで問題になっていた赤福が、改善報告書を保健所に提出したそうですが、そこには「売れ残り品などはすべて廃棄」という項目が入っていました。
やはりそうか、と思いました。
赤福は対応を間違っているように思います。
問題の本質がわかっていません。
私には、こうした対応もまた「もうひとつの不祥事」という感じがします。

食品業界の不祥事が続出していますが、そもそも何を持って「不祥事」と捉えるか、が問題です。
生産日に売れ残った商品を廃棄するというのは、社会の常識から考えれば、食材の無駄使いとして非難されるべき行為です。
これに関しては一度書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/11/post_d51f.html

企業不祥事の最大の問題は、問題の本質を捉えられない企業の文化にあるのだと私は思っています。
言い方を替えれば、社会の常識と会社の常識がずれており、考え方が根本から間違っているわけです。
そこを正さない限り、繰り返し不祥事は起こります。
せっかくの冷凍技術を持ちながら、それを活かさずに食材を無駄にする方向に向いてしまったのは、明らかに赤福の文化が社会の常識とずれていくことの証左です。
それだけでなく社会の声にしっかりと耳を向けていないことの現われでもあります。
そうしたことを正さない限り、赤福は繰り返し、問題を起こすでしょう。
船場吉兆と同じ状況を感ずるのは私だけでしょうか。

せっかくすばらしい技術をもちながら、こうした対応をしてしまう赤福の現状が残念でなりません。

■佐世保銃乱射事件を契機にすべての銃器の破棄を考えたらどうでしょうか(2007年12月15日)
佐世保のスポーツクラブでの銃乱射事件は2人の死亡者を出してしまいました。
最近、こうした銃を使った事件がまた増えているようです。
ニュース報道を見ていると銃社会といわれるアメリカに近づいているのではないかと思えるほどです。
いつも思うのですが、なぜこの時代に許可制とはいえ、銃の所有が認められているのでしょうか。
そのこと自体に私は大きな疑問を持っています。
もちろん警察官の銃所有も含めてです。

私の友人に猟友会の人がいます。
その人はとても信頼できる良い人なのですが、彼が猟銃を撃っている姿は想像したくもありません。
そのことを知ってから、彼へのイメージが一変してしまい、距離が出来てしまいました。
猟銃も認めるべきではないと思っています。
野生の動物が増殖しすぎて、被害が出ている時にどうするか、という問題がありますが、銃を使わなくとも解決策はあると思います。
言い換えれば、安直に殺傷する銃手段を認めることが、結局は銃乱射事件を起こし、原爆につながっていくというというのが私の発想です。
社会を形成していく上での基本原理につながっている話です。
ブログでは極めて短絡にしか書けませんが、紙面と時間があれば、論理的につなげられる話です。

銃の許可制度の見直しも進んでいるようですが、問題は簡単で、豊臣秀吉がやったように刀狩をやればいい話です。
つまり銃器類は一切破棄すればいいのです。
その覚悟がなくて、平和などは主張すべきではありません。
人を殺傷したくないのであれば、極めて残念なことではありますが、自らが殺傷されることのリスクは背負うべきでしょう。
その覚悟のもつパワーは、ガンジーが教えてくれています。

それにしても、散弾銃の私的所有が認められていることを知って驚きました。
所有を認めておいて、事件が起きないはずがありません。
事件が適度に起きることが権力維持には効果的ですから、あえてそうしているのかもしれませんが、時代状況や人々の意識は50年まえとは全く変ってきています。
そうした変化を踏まえて、今こそ、社会からまず銃器を廃棄することを考えるべきだと思います。
そうすれば、新しい社会構成原理の発見に気づくはずです。
新しい平和安全体制が見えてくるでしょう。
これは今バリで議論されている地球環境問題にも深く繋がっていきます。

また長くなりそうなので、やめます。はい。
ところで、あなたがもし銃を手に入れたら、撃ちたくなると思いませんか。
私はきっと撃ちたくなります。
その標的の具体的な名前をあげられそうです。
ですから銃を持つことはないでしょう。

■教員免許更新制に見る常識的判断の落とし穴(2007年12月17日)
世の中の問題は多くの場合、実に多義的です。
それは社会が複雑であり、さまざまな状況があるからです。
自分の狭い世界での常識的判断が、自らの意図に反した結果につながることも少なくありません。
たとえば、学校の給食に関して、週1度くらいは親が作った弁当の日にしたらどうかという話はどうでしょうか。
多くの方は賛成するでしょう。しかし実にさまざまな問題がそこには含まれているのです。これに関しては以前書きました。

こうした話はたくさんあります。
だからこそ、いろいろな立場で議論を交し合う場が大切なのです。
私のこのブログも極めて個人的な意見でしかありません。
実に唯我独尊的です。
光市母子殺害事件に関して弁護士への厳しい非難をしていますが、これも私の個人的な立脚点の枠内での意見でしかありません。
しかし、だからこそ私にとっては大事な主張であり、それを正すべき情報があれば正すことには何の抵抗もありません。
そうした主観的な考えのぶつかり合いに、私は価値を見出しています。

自分の考えや判断を主張する以上、常にそれを相対化させておくことが大切です。
それができれば、自分の主張を強く出せます。
所詮は多くの主張の一つでしかないのですから。
多くの人がそうした姿勢を持ち出せば、社会は変わるはずです。

多角的な見方が大切なことを教えてくれる事例をもう一つ書きます。
教育基本法が変化し、教員免許の更新制が導入されました。
これをどう評価するべきでしょうか。
不適格教師を排除するために望ましいことではないかと多くの人は思うでしょう。
私もそう思いましたが、ただ「不適格」という言葉にひっかかりました。
ここに落とし穴があります。
問題は、この制度の導入の意図と管理運営する主体です。
国歌国旗に関しては、前に書きました。
そうした事件に「不適格教師」の捉え方をイメージできます。
体制維持を望む人にとっての「不適格教師」と子どもたちの教育にとっての「不適格教師」は全く違います。いま学校で「不適格教師」と捉えられている人たちの実像は私たちにはなかなか見えません。
防衛省の守屋事件を思い出してください。
守屋さんの行動をおかしいと指摘した人は、おそらく「不適格職員」として排除されたでしょう。
偽装表示に異を唱えた人は企業やビジネスから排除されている事例は山ほどあります。
学校もその例外であるはずがないと思わなければいけません。
そう思わないのは、思いたくない心情の成せる技です。

常識的な反応と判断は大事です。
しかし、そこには大きな落とし穴があることも認識しておくことが必要です。

■迎撃体制の整備は自衛に繋がるのか(2007年12月18日)
朝日新聞の記事です。
弾道ミサイル防衛(BMD)の海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を搭載した海上自衛隊のイージス艦「こんごう」は17日正午すぎ(日本時間18日早朝)、米ハワイ沖で初の実射訓練を実施し、標的のミサイルを大気圏外で迎撃するのに成功した。
http://www.asahi.com/politics/update/1218/TKY200712180035.html

北朝鮮からの核攻撃に対する迎撃体制が前進したと言われています。
そうでしょうか。
詳しく書き出すと長くなるので、今回は問題提起だけです。

私は「迎撃」という概念に違和感を持っています。
つまりそれは、相手を信頼していないことだからです。
孫子の兵法を持ち出すまでもなく、「相手を負かせること」は「自衛」にはなりません。
迎撃戦略は発想の起点において戦いを目指しています。
かつて盛んに言われたエスカレーション発想では、戦いはなくならず、結局は自衛できない、というのが私の発想です。
代替案は、オスグッドの「一方的削減による軍縮」に見るような、デスカレーション発想です。
さらに考えていくと、「自衛」という概念の危うさに気づきます。
自衛とは所詮は攻撃の正当化理論でしかありません。

佐世保の事件、家族や親戚間の事件から始まって、安全保障や国防の問題まで、もしかしたら問題設定の根幹が間違っているのではないかという気がしてなりません。
そう考え出してから30年以上たちますが、まだ答を見出せずにいます。

今回は問題提起だけですが、このテーマを少しずつ考えていきたいと思い出しました。
「自衛」という概念そのものに、実はさまざまな問題が含意されていることに、漸く気づきました。

■自分でできることは何なのか(2007年12月20日)
今日、あるシンポジウムに参加しました。
テーマは「早期に転職したがる新社会人の急増」。NPO人材アカデミーの主催です。
官界、政界、財界、教育界と実に多彩なメンバーによるパネルディスカッションです。

「七五三現象」という言葉はご存知でしょうか。
卒業入社後3年以内に離職するほとんどとの割合は、中卒で約7割、高卒で約5割、大卒で約3割なのだそうです。
労働力の流動化という面もありますが、これは働きたい人と働く場とのミスマッチということであり、ここまで離職度が高いと経済産業的にも企業経営的にも問題があり、社会的損失と言っていいでしょう。
もちろん働く本人にとっても決して望ましいことではありません。
これは結局は「労働市場における取引コスト」の問題ですので、とても興味ある問題です。
「取引コストとコミュニケーション」は私の以前からの関心事です。
そんなこともあって、そのパネルディスカッションのコーディネーターを引き受けました。

その内容はCWSコモンズのほうで少し紹介する予定ですが、皆さんの議論をお聞きしながら、印象的だったのは、ほとんどの人が問題を対象化して考えていることでした。
つまり自分は当事者にはなっていないということです。
発言者のほとんどは、いずれも社会の要職にいる方で著名な方も少なくないのですが、聴いていてどうも「観察的」「評論的」なのです。
コーディネーターとしての私の責任もあるのですが、みなさん自分の問題としてなかなか語ってくれません。
時代の文化を痛感しました。
問題は、私たちのこの生き方なのかもしれません。
唯一の例外は、一番若い経済産業省の人でした。
彼は自分の問題として自分でできることを明確に語ってくれました。
久しぶりに、とても気持ちのいい霞が関の官僚に出会えました。

今回はかなり進行役に徹したつもりですが、最後に一言だけ感想を述べさせてもらいました。
この状況をよい方向に持っていくために、それぞれでできることは少なくありません。
自分でできることは何なのかをぜひお考えいただきたいと思います。

社会にはたくさんの問題があります。
問題と気づいたら、それを論評するのではなく、その問題に関して自分ができることは何かないかを考える。
そういうことに自分の時間を少しだけ割いて、できることが見つかったら、小さなことでもいいから実践してみる。
みんながそんな生き方をするだけで、社会のほとんどの問題が解決していくのではないかと思います。
もちろん時間はかかるでしょう。
しかし30年もたてば、きっと効果が出てきます。
そう信じて、小さな一歩をそれぞれに踏み出すべき時期に来ている、そんな気がします。

■薬害肝炎訴訟にみる棄民政策(2007年12月21日)
薬害肝炎訴訟の和解協議が最悪の結末に向かっているように思います。
国家と国民の本質をこれほどわかりやすく露呈した事件は、そう多くないでしょう。
かつて、国家により推奨された南米などへの移民政策が、戦後になって「棄民政策」だったことが露呈されましたが、私自身はまずそのことを思い出しました。
愛国心の強要と棄民政策が、コインンの表裏であることはいうまでもありませんが、改めて最近の国家政策を見ていくと、おそろしいほどに「棄民発想」が感じられます。

今回の和解協議の「和解」には、根本的に欠けていることがいくつかあります。
一つは理念です。
具体的なところでの考えや価値観は同じでないのは当然ですが、最終的なところで理念を共有していないのであれば、和解などは成り立ちません。
最終的な理念とは、今回のことでいえば、人間として、生命を最優先に考えていこうということです。
その出発点は人間同士の会見です。
思いの共有ですが、福田首相はそこから逃げました。
主体性を持った人間的な言動は、この件に関してはほとんど見えません。和解に取り組む一方の主体者にはなろうとしなかったということです。
まさに手続きの時代の首相です。
時代はきちんと時代にふさわしい人を選ぶものだと改めて感心しました。

理念が共有できない場合に出てくるのが「お金」です。
現代の「お金」は、異質な価値を一元的な価値に換算する「機械的」な仕組みですが、まさに価値代行機能によって、次善の手段として和解にはよく登場します。
政治決裁ならぬ、経済決裁、いや経済決済です。
これまた手続きの時代の決裁手段ともいえます。
お金は万能とみんな思っているのです。
ちなみに私はそうは思っていませんが、それでもそうした呪縛から自由かといえば、自由ではわりません。

しかし、お金で和解に乗ってしまった被害者側の当事者は、おそらく例外なく敗北感をどこかで持つことになるでしょう。
問題が、いまなお進行する「生命の問題」でなければ、それはまだ後悔で済むかもしれませんが、過去のことではなく未来にも繋がる問題であれば、お金の問題は全く別の議論となるでしょう。
そのことにすら政府は気づきませんでした。

福田首相や町村官房長は、自らの周辺に病身の人や障害のある人をお持ちではないのでしょう。愛する人もいないのでしょう。
いや、仮にいるとしても関心などお持ちではないでしょう。
つまり彼らは人間の原理に気づいていないのです。
そうでなければ、あんな表情であんな発言ができるはずがありません。
枡添大臣は論理矛盾の発言を繰り返してきているように思いますが、結局は自分を賭けていなかったと思います。
福祉とは何か、と言う基本的なことがわかっていない。
彼は本当に介護に関わったことがあるのか、そんな気さえします。

患者を線引きする、金で解決しようとする、直接のふれあいもしない、つまり資料上の事象としてしか受け止めない、そうしたことの根底にあるのは、国民を愛する気持ちではなく、棄民する思想です。
棄民の対象がいつ自分のところに回ってくるか、私たちももっと想像力を発揮しなければいけません。
ぜひ「マルチチュード」を読んでください。

■長崎新幹線と地方自治、そして社会のあり方(2007年12月22日)
長崎新幹線問題は興味ある話題です。
ご存知の方も多いと思いますが、九州新幹線西九州(長崎)ルートは、並行在来線の経営をJRから分離することへの沿線市町の反対で着工できないままになっていました。
整備新幹線の着工には、並行在来線の経営分離に対する沿線自治体の同意という法的規制があったためです。
そこで佐賀県などは反対する沿線自治体に地域振興のための資金支援を働きかけ、同意を求めてきましたが、在来線のJRからの経営分離は、いずれ廃線になりかねないということで同意はえられずにいました。
県からの資金支援にもかかわらず、沿線市町の首長は反対の姿勢を崩さなかったのです。
高齢社会においては、公共交通システムは地域住民には死活問題なのです。
ところが、着工を望む佐賀、長崎両県とJR九州は、JRが在来線を現状通り運行し、赤字が出た場合は両県が補填するという方策を考え出しました。
これで、沿線自治体の同意なしで着工できるようになってしまったのです。
フェアとはいえない、こうしたやり方には憤りを感じます。
小賢しい知恵は社会を駄目にしていくからです。
強気に転じた佐賀県の知事は、これまでの地域支援策の話は白紙に戻すと強気の姿勢に転じてしまいました。手のひらを返したようなテレビでの発言は気分が悪くなるほどです。
この半年の県知事と沿線自治体の市町の関係は逆転してしまったのです。
反対していた自治体の市長が、地方自治の実態はこんなものですとさびしそうに語っていたのが印象的でした。

整備新幹線が必要なのかどうか、私には判断は難しいですが、長崎に限らず整備新幹線にまつわる問題はいつもどこかで問題の立て方が間違っているような気がしています。
幹線道路建設の話も同じです。
いずれにおいても、公共交通という問題が、生活とどうつながっているのかという根幹の部分に関する考え方が重要です。
交通手段は、私たちが生きていく上でのとても重要な手段です。
そうした生活の視点から、国家全体の公共交通システムをどうグランドデザインしていくか、それが見えてこないのです。

以前どこかで書いた記憶があるのですが(探しましたが見つかりません)、公共交通システムは単なる移動手段ではありません。
その設計の仕方次第で、社会のあり方やみんなの生き方が決まってくるほどの大きな意味を持っています。
文化にも大きな影響を与えます。
公共交通システムと私的交通システムをどう配置するか、またそれぞれの速度やコストをどう規定するかは、社会のあり方、人々の生き方を決めていくのです。

社会の基軸は、いまや経済から生活へと移りつつあります。
産業のための交通システムを早急に整備すべき時代は終わり、生活を支え豊かにしていく生活システムとして考えていくことが必要になってきているように思います。
システムを設計していく起点を住民の生活に置くべき時代になってきました。
それこそが「地方自治」の出発点だろうと思います。
長崎新幹線問題は、さまざまなことを考えさせてくれます。

今日、公共交通の活性化のための予算が30億円追加されたそうですが、基本設計がしっかりしていないと資金の投入はむしろ生活システムとしての交通を壊しかねないかもしれません。

■あなたは握手を求めたことがありますか(2007年12月23日)
先週コーディネーターを引き受けたシンポジウムが終わった後、2人の人から握手を求められました。
敬愛するお2人からの握手だったので、喜んで応じましたが、私には自分から握手を求める文化がないため、握手を求められていささかたじろぐことも少なくありません。
それに、なぜ握手なんだろうと思うような場合もないわけではありません。
要するに、私は形式的な握手が嫌いなのです。

一説では握手とは相手に対して攻撃する意図のないことを示すことだといわれますが、もしそうであれば握手の前後では相手との関係が違うわけです。
たしかに親子や家族間では、握手はしませんから、握手はある感情の変化を表現しているのかもしれません。
関係を変える、つまり相手に対する評価を変えるということを潔しとしないことが、私の握手嫌いの一因かもしれません。

時に久しぶりに会った人が握手を求めてくることがあります。
これは会えてよかったという表現でしょうが、これもまた私には違和感があります。
なかには、そうしたことが極めて自然体の人もいますが、私のほうは決して自然体にはなれません。
しかし、握手を求められたら断るわけにはいきません。
握手をしてくる人は、私の経験では私よりも上の世代の男性で、海外での生活経験がある人が多いように思います。

初めて私に会いに来て、話しているうちに思いが通じ合ったのか、帰る時に握手を求めてくる人もいます。
これは比較的若い人に多いです。
彼の感動振りが伝わってきますが、その握手した時の気の高まりが持続しているケースは多くはありません。握手しながら、その後、ほとんど連絡がなくなる場合もあります。
握手する事で、気の高まりを解消してしまう機能も握手にはあるのではないかと、私は思ったりしています。

最近はあまり効果がないそうですが、選挙では握手した人の数が決め手となるといわれた時代もありました。
企業の経営者がボーナスを一人ひとりに握手しながら渡すことでモチベーションを高めたという有名なエピソードもあります。

たしかに、握手をすると何だか親しさが増すような気もします。
握手の効用は決して小さくはないようです。

自然体で握手できる人の多くは、実にコミュニカブルな人です。
握手によって、一瞬にして関係を構築してしまう人もいます。
日本ではお辞儀をしあうスタイルが基本でしたが、もっと直接的なスキンシップによるコミュニケーションスタイルが必要になってきているのかもしれません。
昨今の若者たちは握手をしあっているのでしょうか。
皆さんは握手する機会が増えていますか。

■司法、行政、政治、そして人間―薬害肝炎訴訟の顛末から学ぶこと(2007年12月24日)
薬害肝炎訴訟は、ようやく「一律救済」で決着しようとしています。
いかにも遅かった気がしますが、ともかくホッとしました。
しかし、首相の指示による議員立法というのはどこかにすっきりしない気もします。
今回のことはいろいろなことを考えさせてくれました。
いろいろな問題も生み出してしまったような気がします。

私が一番気になったのは、司法、行政、政治の責任逃れです。
三権分立といいますが、それはそれぞれがバラバラであっていいということではないはずです。
目的達成のために、それぞれが自立して考えることが、より公正な結果をもたらすというための枠組みでしかありません。

その場合の「目的」とは何か。
それに関しては、いろいろな考えがあります。
現在の権力構造を維持するという視点から考えれば、時には棄民政策、つまりコラテラル・ダメッジも必要になります。
一方、国民の生活を起点に考えれば、人間あるいは生命の原理が最優先されることになるでしょう。困っている人がいれば、みんなで「痛み」を分かち合うということが理念になるでしょう。
「押し付けの痛み」を分かち合うのではなく、「痛み」を支え合いにつなげる分かち合いです。
したがって、その前提として、ロールズの「無知のべール」が現実性を持っていなければなりません。
構造が固定化している場合には「無知のヴェール」論は機能せず、「生命」の広がりは限定されます。
アメリカ開拓時代、ネイティブが「人間」とみなされなかったことを思い出せばいいでしょう。

一律救済では補償の範囲が際限なく広がることを危惧したということがいわれていますが、その考えは前者の立場から出てきます。
そうした悲劇を際限なく発生させることを危惧すべきであって、補償の範囲を限定したいなどと考えるのはまさに統治コストという発想であって、生命の原理にはふさわしくはありません。

司法、行政、政治の根底にある「人間の原理」「生命の論理」を忘れてはいけません。
いうまでもなく、法の根底にも「人間の原理」「生命の論理」がなければいけません。
政治決断も、法治主義も、所詮は形式でしかありません。
そうした当然のことが、いまおろそかになっているような気がします。

薬害肝炎訴訟の顛末は、たくさんのことを教えてくれます。
生命をかけて、一律救済を貫徹した被害者の方々に心から感謝します。
私も、その生き方を学ばなければと思っています。

■「国の責任」(2007年12月25日)
私にはよく理解できない日本語は少なくないのですが、薬害肝炎訴訟事件や年金問題でよくいわれる「国の責任」も理解しがたい言葉です。
薬害肝炎訴訟事件では、国が謝罪するかどうかが問題になっていますが、国が謝罪するというのは首相が謝罪するということなのでしょうか。

似たような表現はたくさんあります、
今日も病院のカテーテルの再利用が発見され、テレビでは病院が謝罪したと報道しています。
この場合は、病院の経営者もしくは医師が謝罪したというような意味でしょう。
企業不祥事で経営者が謝罪しますが、それを会社が謝罪したと表現されます。
私自身、時にこうした表現を使っているかもしれませんが、厳密に言えば、とても違和感があります。
組織や機関が謝罪できるわけないだろうと思うわけです。
しかし、自分が所属していない会社のことであれば、まあ受け入れられる範囲です。
それに会社や病院は、法人格がありますから、擬似的な表現としては何とか理解も出来ます。

国の責任や謝罪はどうでしょうか。
問題は「国」「国家」です。
主権在民の国民国家の場合、国の主体はだれなのでしょうか。
主権が託されているのが政府であるとすれば、そのトップにある首相が「国」なのでしょうか。
国が謝罪するとは首相が謝罪することであり、国の責任とは首相の責任なのでしょうか。
企業不祥事ですら社長が辞めるのであれば、こんな大きな事件であれば、首相も辞めるのでしょうか。
刑事訴追はあるのでしょうか。
これだけの事件であれば、懲役は免れないのでしょうか。
そういえば死刑になった首相もいましたね。

国が補償するという場合の財源は、いうまでもありませんが、国民の税金です。
その使途の権限を委譲している状況では、どの程度の補償にするかはやはり首相が決められることなのでしょうか。
予算は国会で決めますが、やはり国会なのでしょうか。
とすれば、謝罪するかどうか決めるのも、国会議員なのでしょうか。
責任ももしかしたら国会議員でしょうか。

ぐだぐだ書いてきましたが、国の責任とか謝罪などという意味をみんなわかっているのでしょうか。
理解できないでいるのは私だけなのでしょうか。

もっとわかりやすい言葉で物事を考えていきたいものです。
国の責任や謝罪より前に、個人としての首相や閣僚、あるいは官僚の責任をこそ問うべきではないかと思います。
組織は責任の所在を隠すための仕組みではないはずです。

■ゼロ・トレランス発想にみるマイナスの循環(2007年12月26日)
教育再生会議の第3次報告の概要を新聞で読みました。
競争促進的な管理志向が少し弱まったような気がしますが、基本トーンはあまり変わっていないようです。
教育再生で目指している「再生」すべき価値は何なのでしょうか。
それがすべての出発点でなければいけません。
再生とか改革とかいう言葉が安直に使われる風潮に危惧を感じています。
理念や価値観もなく、そういう言葉は使うべきではありません。

今日は教育再生の問題です。
学校の荒廃を正して行くための、ゼロ・トレランスの流れが加速しています。
ゼロ・トレランスは文字通り、寛容さ(トレランス)を捨てて厳罰主義を貫くということです。
私が40年前に会社に入った頃、ゼロ・デフェクト運動(ZD)運動というのが始まっていました。品質管理技法です。
工業の論理が人間の世界、しかも教育の世界にまで広がっているわけです。
間違いなく失敗するでしょうが、それを正す動きはなかなかでてこないでしょう。
なぜなら管理側にとって失敗が見えてくるまでにはかなりの時間がかかるからです。
厚生省や農水省の犯罪と同じ構図があります。
これを文部科学省の犯罪というのにはいささかの躊躇がありますが、こうした流れを止められなかったという点では、彼らは小泉・安倍政権に加担したと言われても仕方がないでしょう。

しかし、今日の話題は、文部科学省の犯罪ではありません。
因果の逆流、あるいはマイナスの循環の話です。

ゼロ・トレランスの動きを支えているのが、子どもたちを甘やかすことが校内暴力や学級崩壊をもたらすという認識です。
この因果関係は必ずしも立証されていないと思いますが、さらに問題なのは、「甘やかす」の中身です。
それが子どもたちの自主性を尊重し、管理基準を緩やかにするということに置き換えられて、厳罰・規律・管理主義へとつなげられていることです。
厳罰主義は規律管理を強化するということと同義です。
創造力に富み感受性の高い、個性豊かな子どもたちを、大人たちの都合に基づいて管理し型に当てはめていく。
これは教育の対極にある訓練でしかありません。
産業社会の教育はそれでいいのだといわれればそれまでの話ですが。
しかし、教育によって主体性を確立していない子どもたちに訓練を施すとどういう結果になるか。
「ボーン・アイデンティティ」の世界の出現です。

学校の管理主義が校内暴力や学級崩壊の原因ではないかという指摘もあります。
因果のベクトルをどう捉えるかで、世界の見え方は一変します。
1980年代以降の管理教育の徹底と「内申書」重視の入試体制の強化が、学校を荒廃させてきた面は否定できないことでしょう。
そこから急速に「学びの場」の崩壊が始まり、管理と逸脱の悪循環が始まったのです。
こうしたマイナスの循環は、さまざまなところで起こっています。
9.11事件の始まる「報復の連鎖」も、その一つです。

イラクの事実が示すように、マイナスの循環を反転させるのは発想の転換しかありません。
つまり、因果のベクトルを変えることです。
私が30年前に書いた「21世紀は真心の時代」で考えていたのは、そうしたベクトルの逆転だったのですが、時代はますますマイナスの循環に陥っているような気がして残念です。
せめて私自身は、そうした循環を逆転させる生活をしようと心がけています。
因果の呪縛から抜け出すと、世界の風景は変わってきます。

■誰にとっての効率(2007年12月27日)
年末の風物詩はいろいろありますが、銀行のATMの行列もそのひとつかもしれません。
以前も書きましたが、本当に不思議な風景です。
数年後には、どうしてみんな黙って並んでいたのだろうかと思うことになるのではないかなと思いますが、いまは寒い中を何の疑問も感ずることなくみんな並んでいます。
もっともATMに限らず、銀行も郵便局もいまや待つのが常識のようです。
その原因のひとつは、さまざまな「保護条例」ができたことでしょうが、ともかく社会から「信頼」が失われたことです。
信頼関係の弱まりは、「取引コスト」を高め、効率性を阻害します。

その一方で、時代は効率性を要求しています。
物事の判断基準において、効率は大きなウェイトを占めています。
しかしよく考えてみると効率性は、誰にとっての効率性かで内容は変わってきます。
信頼関係が弱まったことで、効率性を享受している人もいるのです。
そこがややこしいところです。

銀行の最近の仕組みは、利用者の効率性や安全性ではなく、銀行の効率性や安全性が優先されています。
利用者は手数料まで取られて、長い時間待たされる。
仮に1人10分から30分としても、全国で並んでいる人数を掛け合わせたら膨大の無駄が発生しているはずです。

銀行にとっては無駄はなくなっているかもしれませんが、社会の無駄という視点で考えたらどうでしょうか。
国民がATMの前で待つ無駄な時間を合算した膨大なロスと銀行が手に入れた効率の総計とでは、どちらが大きいでしょうか。
もし前者が大きければ(間違いなく大きいと思います)、社会的な損失というべきです。
なぜそれが問題にならないのか。
銀行にとっての効率性と安全性だけで考えていいのでしょうか。

双方が満足できる方策はあるのでしょうか。
機械操作なのですから、勤務時間と関係なく、手数料は365日24時間一律とすれば行列はかなり解消されますし、銀行単位のATMではなく共有化すればいいだけの話です。
なぜそれができないのか。
それは、昨今の「食品偽装問題」と同じように、問題の設定が間違っているからです。
こうした事例が多すぎます。

ちなみに、並ぶことは無駄なことではないと言う人もいるかもしれません。
たしかに宝くじの発売前に並んだり、ディズニーランドで並んだり、並ぶことが好きな人もいます。
それに、日本の教育は、並ぶことを大事にしてきていますから、並ぶことへの抵抗はなくなってきているのかもしれません。
でも私は並ぶのが好きではありません。
みなさんはどうでしょうか。
並ぶことに慣れてしまう恐ろしさを思い出さねばなりません。

■「批判ばかりせずに代案を出せ」(2007年12月29日)
みのもんたの早朝の番組に各政党の人たちが政治論争をしていました。
最近、朝早く目が覚めるために、いつもこの番組をみていますが、今日はみんなエキサイトしていました。
政党による政治論争を聞いていると、与党側からよく出てくるのが、「批判ばかりせずに代案を出せ」という言葉です。
今日も自民党と公明党の人が盛んに連発していました。

与党に与する人たちも、よく「民主党には代替案がない」と言います。
私などは、自民党以上に民主党は政策を明示しているように思います。
自民党はたしかに具体的な法案や手続き明細はだしているかもしれませんが、それは政権担当政党としての作業でしかありません。
政策には理念やビジョンがなければいけません。
そういう意味では自民党よりも民主党の方に、私は政策や具体的な方策を感じます。
それに、独立行政法人見直しの動きを見ていると、現在の政府の政策のほとんどは官僚がつくったものかもしれないと疑いたくなってしまいます。
人によって見方は違いますから、どれが正しいというつもりはありませんが、少なくとも与党と野党の立場の違いを踏まえて考えなければいけません。
政府閣僚の「民主党には代替案がない」という言葉を鵜呑みにしてしまうことだけは避けたいものです

それ以上に大切なことは、批判の大事さが軽んじられていることです。
批判と代案提出とは別の問題です。
それに批判をよく読めば、ほとんどの場合、そこには代案が示唆されています。
それが読み取れないのは、官僚の案を鵜呑みにしているだけで、真剣に問題を考えていないからかもしれません。
批判は否定ではありません。
与野党が対立関係で考えると批判は否定になることもありますが、もっと大きな政治の目的からいえば、批判は建設につながるはずなのです。
代案を一緒に考える、それこそが民主主義に基づく政治のあり方です。

「批判ばかりせずに代案を出せ」
この言葉の恐ろしさを思い出さなければいけません。
そうした言葉が、どういう結果をもたらしてきたか、忘れてしまっているのでしょうか。

■製造年月日の違う商品が並んでいたらどちらを購入しますか(2007年12月30日)
これは誰からも賛同を得られずに、ついには自分もやめようかと思っている提案です。
でもちょっと捨てがたいかなと思っているので、紹介させてもらいます。
それは、お店でジュースや加工食品を購入するときにはできるだけ製造年月日の古い物を選びましょう、という提案です。
だれからも賛成されたことはありませんし、私自身、最近は家族から怒られてその行動を止めてしまいました。

なぜ古い物から選ぶのかですが、それは考えようによっては当然のことなのです。
もしみなさんの自宅の冷蔵庫に賞味期限が決まっている同じ種類の商品が複数入っていたら、みなさんはどちらから使いますか。
おそらく多くの方は、古い方から使うでしょう。
これはまだしばらくは大丈夫だから、先ずはこちらから使ってしまおう、というわけです。
そうしないと無駄にしてしまう恐れがあるからです。
ところが、その同じ人が、スーパーでは奥の方にある製造年月日の新しいものを選んでしまうのはなぜでしょうか。
当然だろう、できるだけ使える期間を確保して無駄にしないためだ、と家族からは言われました。
でもどうも納得できません。
そもそもそういう行動が昨今の食品偽装の根底にあるのではないか、という気もします。

自分の家での行動と社会での行動が、なぜ変わってしまうのか。
考えてみてもいい問題かもしれません。

■読者へのお礼と自己反省(2007年12月31日)
今年は私にとっては世界が一変してしまった年でした。
私に生きる意味を与えてくれていた最愛の妻が彼岸に行ってしまったのです。
しばらくは立ち上がれませんでしたが、このブログに「妻への挽歌」を書き続けたおかげで、気を鎮めることができました。
そんなわけで、一時はこのブログも挽歌一色になってしまいました。
しかし、妻との別れは生きるということの意味を改めて考える契機になりました。
そして、その生きるという視点から世界を見ることの意味も改めて知りました。
ゾーエとビオスという小難しい言葉を使って書いたことがありますが、挽歌と時評の2本立てで続けてきたこのブログのおかげで、自分の世界に埋没せずにすんだような気がします。
そして全く知らない人が、時評から挽歌に入り、読んでくださっていることも知りました。挽歌から私の時評の世界に入ってくれた方もいます。
また私たちを知っている人も、読んでくださり、メールや電話もくれます。
空虚になった自分の心の底に向けて書き出した挽歌が、こうしていろいろな人たちに読んでもらっていることに感謝しています。
ありがとうございます。
節子の言葉を使えば、「感謝感謝」です。
そうしたみなさんのおかげで、私たち夫婦はいまなお一緒に生きているという感じを持てるようになってきました。

しかし、時評はどうでしょうか。
相変わらず言葉が汚く、感情的で、時に読者を不快にさせているのだろうと思います。
実は、それでも最近は読み直してから掲載するようにしています。
ゾーエの視点を大事にする姿勢のために、原文はもっと激烈で社会的でないのです。
そうした私の直情性や独善性を戒める節子は、もういません。
自分で戒めるしかないのです。

戒めるべきは、表現だけではありません。
思い上がりや我田引水、浅はかな判断や知ったかぶり。
そうしたことは私自身を貶めるだけであり、そう問題ではないでしょう。
最大の問題は、読者の高校生が問いかけてきたように、自分はなにをやるのか、です。

来年は活動を再開しようと思います。
4年ぶりになるでしょうか。
気力も体力も半分に落ちていますので、何ができるかわかりませんが、考えるつもりです。

春からは毎月1回、土曜日の午後にサロンも始めようと思います。
時評をテーマにした、しかしテーマのないサロンです。
またこのブログで、あるいはCWSコモンズのお知らせのコーナーでご案内します。
ぜひお会いしたことのない人と会えるのを楽しみにしています。
ちなみに1月4日の午後1〜3時、湯島のオフィスにいる予定です。
よろしかったらお立ち寄りください。
どなたも、もちろん全く面識のない方も、大歓迎です。
湯島のオフィスの地図は私のホームページに出ています。

みなさんにとって、新しい年が良い年でありますように。
ありがとうございました。

■教育基本法よりもテレビのあり方を考えたらどうでしょうか(2008年1月1日)
年末年始を、体調も災いして無為に過ごしています。
体調不良で自宅にいると外部との接点はテレビになります。
これほどテレビの前にいたことはありません。

年末年始にはニュース番組はほとんどなくなり、お笑い番組と歌番組ばかりで占められることを知りました。
しかし、お笑い番組と歌番組も、一昔前のものとは全く違っており、お笑いも歌も実に中途半端で、笑えないお笑いや聴けない歌が多すぎるように思います。
こういう番組に囲まれていると一体どんな人間になってしまうのか、恐ろしささえ感じてしまいました。
教育基本法がどうのこうのという以上に、大きな問題がここにあると思えてなりません。
今のテレビ状況を変えずして、学校をいくらいじってもだめでしょう。
敵は意外なところにいるのではないかと思い知らされました。

わが家は喪中なので、門松も祝の膳もありません。
しかし世間はおめでとう一色です。
それが悪いわけではないのですが、年の始まりには、もう少し時代を見据えて自分たちの生き方を考えるような番組があってもいいような気がします。
それが全くといっていいほど無いことにも驚きました。
「めでたい」ということはただ笑えばいいということではないでしょう。

それにしても、昨夜の紅白を見ていて、こんな番組を作るNHKになぜ毎月視聴料を払わなければいけないのかと不思議に思いました。
ほぼ強制的に視聴料を取るのであれば、当然、その使途は公開すべきだろうと思います。

テレビ界の人たちはどう思っているのでしょうか。

ちなみに新聞も年々内容がなくなってきたような気がします。
日本はどんどん非情報化革命が進んでいるようです。

■グラディオ作戦(2008年1月2日)
このブログへのトラックバックで、「グラディオ作戦」なるものを知りました。
9.11事件に関連して、盛んに出回っている言葉のようですが、知りませんでした。

グラディオ作戦(Operation Gladio)をネットで調べてみてもよくわからないのですが、あるサイトによると、西欧の謀略機関が操る、自国民に向けたテロリズムとペテンという何十年も続いている秘密作戦なのだそうです。
その本質は、次の言葉に象徴されているといいます。
「民間人を、人々を、女性を、子供を、無辜の人々を、あらゆる政治的ゲームとは縁もない、名も無き人々を攻撃しなければならない。理由はきわめて単純だ。一般大衆を、より大いなる安全を求めて、国家を頼らせるようにする為だ」
これはトラックバックされたサイトの記事です。
詳しくはそのサイトを読んでください。

週刊金曜日のサイトの金曜アンテナ(2007年12月21日)に次のような内容の記事があります。
原文はぜひそのサイトを見てください。

イタリアのコシガ元大統領が、「9・11」事件は「米国政府の内部犯行だ」と発言し、注目を集めている。コシガ元大統領は1992年に辞職をしたが、きっかけは当時のアンドレオッティ首相が、米国とNATOが操っていた謀略活動「グラディオ作戦」の存在を暴露したため。この作戦は80年に起きたボローニア駅爆破事件を典型として「極左テロ」に見せかけながら、米CIAなどの諜報機関がイタリアの右翼集団を使い、反共の「強力な指導者」を国民が求めるようにし向けるための秘密工作で、それに自身も関与した事実を認めての辞任だった。

グラディオ作戦という名前はともかく、こうした謀略活動は歴史の中にはたくさんあります。
事件発生当時には信じられないことなのでしょうが、後から考えれば極めて納得できるのです。
なぜそれが見えないかといえば、それは、そんなことはありえない、という思考の呪縛のためです。
9.11事件は、その典型例かもしれません。
昨年末のブット元首相の暗殺事件も奇妙な事実がいろいろと見え出してきていますが、こうした事件は私たちの周りにたくさんあるのかもしれません。
それは何も、暗殺事件やテロ事件に限るわけではありません。
もっと広範囲に、グラディオ(剣)の刃先は向けられているのです。
強いものに巻かれる生き方から、今年はもっともっと自由になろうと思っています。

ちなみに、最近のテレビ番組の状況も、もしかしたらこうしたことと無縁ではないかもしれません。

■エコ・ウォーズと二酸化炭素排出権(2008年1月3日)
この数年、新年の新聞ではいつも環境問題がとりあげられます。
にもかかわらず、私の生活スタイルはあまり変わっていないような気がします。
学生の頃から一応、環境問題には関心があり、それなりのエコライフに努めていますが、年を取るにつれ、むしろ環境負荷を高めているような気もします。
若い頃はマイカー主義に反対していたのに、最近は自動車に乗るのに一切抵抗はありません。運転免許までとってしまいました。
ゴミの分別はもちろんやっていますが、生ゴミのポンコスト化はやめてしまいましたし、家を新築した時にソーラー発電も取り入れませんでした。
石鹸にこだわっていたのに、いまはあまりこだわりません。入浴剤まで使用しています。
今や世間の流れには逆行しているわけです。
反省しなければいけません。

しかし、最近の環境問題の取り上げ方にはどうも違和感があり、素直に対応できないのです。
それが良いとは思ってはいないのですが、昔のように心身がエコライフに向かわなくなっているというのが正直のところです。
というよりも、エコライフって一体何なのかが見えなくなってきてしまったのです。

今朝の朝日新聞に、
「温室効果ガスの排出権取引の関連業務に、大手信託銀行が本腰を入れ始めた」
という記事が出ています。
環境さえも経済化されていく風潮には、以前から違和感がありましたが、状況はますます私が思っているエコロジー思考とは違ったものに向かっているような気もします。
また、朝日新聞で元日から始まったシリーズ「環境元年」の第1部は、エコ・ウォーズですが、エコロジーに「ウォーズ」などという言葉が出てくることにも違和感があります。

そもそも、戦争モデルを基本にしている最近の経済システムが、環境問題への処方箋の中心になっているのが、どうしても共感できないのです。
いうまでもなく、エコロジーとエコノミーは、いずれも暮らしのためのものでした。
いずれの語源も、古典ギリシア語のオイコノミー(家政術)に由来するといいます。
エコロジーとエコノミーは双子の子どもなのです。
但し、性格は全く違います。
エコノミーは、価値観が一つのために戦いや競争を好みます。
エコロジーは、多様な価値観のもとに支え合いを楽しみます。
近代社会は、オイコノミーを思い切り前者に軸足を降ってしまったのです。
これはもしかしたらキリスト教と関係あるかもしれません。

1990年代にエコロジー発想の動きが強まってきた時に、私はエコノミーの理念が変わるのではないかと期待しました。
しかし、その後の動きは逆でした。
エコロジーの理念が変わったのです。
そんな気がします。
エコの理念にとって、最も大事なのは戦わないことです。競争しないことです。
そして、経済もまた、そうしたエコ発想のモデルがあるような気がしてなりません。
多様な価値観のもとに支え合いを基本とした経済システムが模索されても良いのではないかと思います。
私自身は、個人的にはできるだけそう行動しようと思っています。

■「戦略」という言葉(2008年1月4日)
このブログの読者からメールをもらうことも少なくありません。
情報の発信は、まさに情報の受信とつながっています。
昨日のエコ・ウォーズの記事に関して、こんなメールをいただきました。
ブログを読んでいる人には、誰かがわかってしまいかねませんが、引用してしまいます。

本来無一物を書いていただいた老師とお話しするとき、つい経営戦略などという言葉を使い、戦略なんていう言葉を使うようではだめだと、よく叱られました。30年前で、私も若く、一生懸命弁解に努めていましたが、「戦いはいかん!」で、終わりでした。私たちは、安易に、外来語や比喩語を使いますが、言葉を創る努力、言葉を考える努力をしなければならないのではと、反省しています。言葉を考えるのではなく、言葉で考えてしまうので、つい、うわすべりになってしまいます。

「言葉を創る努力、言葉を考える努力」
心にグサッと響きます。
私自身、その姿勢が最近、希薄になっていることが気になっています。
言葉を使わずに、言葉に使われている自分に時々出会うのです。

毎朝、般若心経と光明真言を唱えだしてから4か月たちます。
時々、真言の力を実感したという不心得な思いが心をよぎりますが、その度に、「声発して虚しからず、必らず物の名を表するを号して字という。名は必らず体を招く。これを実相と名づく」という空海の言葉を思い出します。聞きかじりなので、いい加減な理解なのですが、声明が異次元の宇宙につなげるメディアだと思っているのです。
声に出すことの意味は大きいような気がします。

ところで、「戦略」という言葉です。
ハートフル・ソサエティの著者の一条真也さんが、その著書で
「経営戦略」という言葉の産みの親はドラッカーだとされている。
と書かれています。
しかし、ドラッカー自身、軍事的色彩が濃い「戦略」という言葉が好きになれなかったそうです。
私自身は、この言葉を使い出したところに、大きな分岐があったような気がします。

一条さんは、ドラッカー経営学の体現者ですが、同時に日本文化の共感者でもあり、
大和言葉を大事にしていますし、自らの思いを込めた造語も少なくありません。
戦略も大和言葉に置き換えることもあるそうです。

日本構想学会で、戦略研究会なるものが発足しました。
私はメンバーではありませんが、周辺関係者として研究会のディスカッションには参加できることになっています。
ずっと気になっていた「戦略」について、改めて考えてみようと思っています。

■環境問題を真剣に考えるのであれば(2008年1月6日)
環境問題が毎日のようにテレビで取り上げられるので驚いています。
どうしたことなのでしょうか。
40年以上前から、一応、エコロジストを自称していた私としては、いささかの疑心暗鬼はありますが、とても歓迎すべきことだと思います。

ところで、さまざまな議論がありますが、もし国政として本当に環境問題に取り組むのであれば、私たち国民の生き方を考え直すことが必要ではないかと思います。
特に、生き方の基本、食を考え直すべきです。
以前書きましたが、海外から輸入してまで水を飲む必要は日本にはありませんし、世界各国から野菜や食材を輸入してそれを浪費するような生活から抜け出るべきです。
他にも個人でできることはたくさんあります。
改めて環境NPOに寄付するのもいいでしょうが、地産地消に心がけ、高くても近くで産出した食材を選ぶほうが効果的なように思います。

環境問題は農業問題です。
農業は私たちの生き方に深くつながっています。
日本の農業政策は、これまでずっと産業政策として発想されてきているように思いますが、本来は私たちの生き方から考えられるべきだろうと思います。
1999年に農業基本法が大きく見直され、食料・農業・農村基本法へと移りましたが、残念ながら産業政策という立脚点は変わりませんでした。
当時、私はある町の総合計画策定に関わっていましたが、そこで農業に対するパラダイム転換を働きかけて、少しだけ理念を埋め込ませてもらいました。
しかし市町村合併で、残念ながら発展はさせられませんでした。

農業政策は国家や自治体の行政府の方針転換が必要ですから、そう簡単なことではありません。
しかし、私たち生活者がどういう食材を選ぶかは、私たちが主体的にできることです。
まずはそこから始めることが、私にとっての最近のエコライフです。

それにしても、日本の食材の生産者にとっての価格は安すぎます。
食材は、工業製品の価格体系とは全く違うことを消費者はもっとしっかりと認識すべきだと思います。

食育の出発点は、そこになければいけません。
産業政策としての食育には大きな違和感があります。

■「資源を過剰に使用」した結果としてのスタグフレーション(2008年1月7日)
1970年代に世界を襲ったスタグフレーションの再来が危惧されています。
いや、もうすでに始まっているというべきでしょうか。
「スタグフレーション」とは、景気停滞(スタグネーション)と物価上昇(インフレージョン)の合成語で、要するに「不況なのにインフレ」という状況です。

私がこの言葉に出会った1970年代のはじめ、企業で経営戦略スタッフとして仕事をしていた時です。第1次オイルショックで、日本の社会が混乱していた頃です。
トイレットペーパーが入手しにくくなり、公衆トイレからトイレットペーパーが盗まれるという時代でした。経営戦略につながる仕事をしていた私には重要なテーマでした。
そのため、石油や景気の行方に関するセミナーやフォーラムによく参加しましたが、暖房が止められた寒い中で2日間もセミナーを受講した記憶があります。
みんな熱いコーヒーを飲みながら寒さをしのいでいたことを懐かしく思い出します。

その時に聞かされたのが、「スタグフレーション」という言葉でした。
うろ覚えですが、当時、聞かされたのは、不況は一般に需要不足によって起こるが、スタグフレーションは供給ネックが契機になるということでした。
1970年代初めのオイルショックが引き金だったのです。
うろ覚えだったので、ウィキペディで調べてみたら、こう書いてありました。
経済のダイナミズムから見れば、スタグフレーションは、経済上の資源を過剰に使用して経済成長した場合に、バランスをとるために発生する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B0%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
とても納得できました。
「経済上の資源を過剰に使用」。
まさに現在の私たちの経済ではないかと思いました。

いま、国会ではガソリン税の暫定税率を継続するかどうかが問題になっています。
税負担の公平性およびその使途という点から、私は躊躇なく廃止すべきだと思いますが、ガソリンが高くなったので自動車の利用を控えているという知人の話を聞くともっと税率を高めてもいいなとも思ってしまいます。
まぁ、これは問題が全く違うのですが、「資源を過剰に使用」する経済のあり方は変えなければいけません。
それこそ今流行の「持続可能な経済」にも反します。

「資源を過剰に使用」した経済を支えているのは、私たちの生き方です。
そして、私たちの生き方もまた、「資源を過剰に使用」しています。

スタグフレーションはまた、格差社会にもつながっています。
インフレは、資源を過剰に使用する人たちにも、資源を過少にしか入手できない人たちにも同じように影響を与えます。しかもその影響度は後者が圧倒的に強いのです。
一方、不況は格差を拡大する作用がありますから、後者の資源入手の困難度は高まります。
さらに、格差は資源の過剰消費に深くつながっているように思います。
スタグフレーションと格差社会、そして持続可能経済の欺瞞性が、すべてつながっているような気がしてなりません。

いずれにしろ、「資源を過剰に使用」する生き方は改めたいものです。
我が家のささやかな誇りの一つは、家族みんなが資源消費への節約意識が強いことです。

■福岡の3児死亡飲酒運転事件の判決への疑問(2008年1月8日)
会社時代に新たに異動した部署の上司から言われた言葉で、今でも覚えていることがあります。
「法学部出身者は、限られた前提要素に基づいて、論理的に考えて結論を出すが、前提となる要素の是非や前提要素以外の事情を考えない傾向がある」。
その人は経済学部出身でしたが、部下の多くは法学部出身でした。
私も法学部出身でしたので、予め注意してくれたのだろうと思いました。
奇妙に心に残ったのは、私が思っていたことと重なっていたからです。
もっとも私自身は、法学部に限らず経済学部のスキームもそうではないかと思っていましたが。いや、近代科学の発想はすべてそうだと思います。
それがよいこともありますが、その限界はしっかりと認識しておくことが大切です。

今日、福岡の3児死亡飲酒運転事件の地裁判決がでました。
注目されていた危険運転致死傷罪の成立はやはり認められませんでした。
法論理的には妥当なのかもしれませんが、法の精神(リーガルマインド)には沿っていないような気がします。
40年前の上司の言葉を思い出しました。
もしこの事件が、裁判員制度の対象になっていたらどうでしょうか。
そんなことも考えました。

この裁判では、「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」だったかどうかが争点だったわけですが、「正常な運転」「困難な状態」などというのは論理的な言葉ではありません。
判決では、「スナックから事故現場まで蛇行運転や居眠り運転をせず、衝突事故も起こさなかった」「事故直前、被害者の車を発見して急ブレーキをかけ、ハンドルを切った」ことなどを重視して、困難な状態ではなかったということになったそうですが、馬鹿げた議論だと思います。
もしそれが法論理的に妥当なのであれば、馬も鹿にできるでしょう。
と考えてしまうのは、やはり法律を知らない者の暴論なのかもしれません。
しかし、どう考えても、この論理展開にはリーガルマインドも価値理念も感じられません。
出来の悪い電算機の出す論理展開のような気がしてなりません。
誠実に論理展開をしたのでしょうが、前提として入れ込む要素に問題があるような気がします。
やはり暴論でしょうかね。
私はとても裁判員にはなれそうもありません。

罰の重さはともかく、こういう事件にすら危険運転致死傷罪が適用できないことが不思議です。
何のための立法だったのでしょうか。
何のための裁判なのでしょうか。

念のために言えば、重罰を科すべきだと言っているのではありません。
裁判や法律の意味や信頼性のことを言っているのです。

■対立の時代の様相(2008年1月9日)
党首討論を見ていました。
内容は物足りませんでしたが、初めて最後まで見ていられました。
日本の国政は、大連立か対立かで大議論がありました。
大連立の話を聞いた時に、とても意外でしたが、同時にとても納得できました。
しかし世論は、連立ではなく、対立を求めました。
そういえば、北朝鮮の拉致問題でも多くの人は対話ではなく圧力、つまり対立を求めているように思います。
政治の世界では、いまは「対立の時代」なのでしょうか。

ナチスドイツの法学理論を支えた一人が、カール・シュミットでした。
彼は「友敵理論」で有名なパワーポリティックス論者です。
政治の本質は「敵と味方の識別」だとし、味方の政策をともかく通すことを重視しました。
政治とは、異質の人たちが協力して合意形成していくことという考えもありますから、パワーポリティックスだけが政治ではありません。
しかし、昨今の日本の国民、つまり私たちは、どうも敵味方になっての対立思考が好きになっているようです。
これも何だか危険なシグナルのような気がします。

このブログに対しても、「佐藤さんは二元論や敵味方に分けて議論するのが好きですね」と批判されたことがあります。
私自身は二元論も敵味方論も克服すべきことだとずっと思っていますので、そういう批判を受けたときにはショックでしたが、読者がそう受け止めるのであれば、きっとそうなのでしょう。
その指摘以来、少しは意識しているのですが、自分ではなかなか見えてこないものです。

対立からは何も生まれない、という体験から、私は「共創」という姿勢を基本において、これまで活動してきました。
共創においては、敵味方や対立は決して否定すべきものではありませんが、克服すべきものです。
生き方においても、それを15年以上続けてきていますが、思わぬ誤解から嫌われたこともあれば、忌避されたこともあります。
しかし、それはまあ仕方がないことだと、自分では納得しています。

刺客が登場したり、ねじれ現象を活かさずに相変わらず力任せに法案を成立させたりことしか考えないような数の論理を優先させたりする政治は、まさに敵味方の戦争モデル政治です。
敵味方の争いになったので、政治が面白くなってきたと言う人もいるでしょうが、政治の目的は、戦いではなく、「みんなの幸福の実現」です。
しかし、どうもそう思っていない人が多いように思います。

ちなみに、司法も経済も、その目的は「みんなの幸福の実現」だと思うのですが、なぜかそうはなっていないような気がします。
まさに今は「対立の時代」なのかもしれません。

■競技としての政治、価値としての政治(2008年1月10日)
新テロ対策特別措置法案が明日にでも成立することになりました。
結局、憲法59条の2/3条項で、多数党の政府の意思が貫かれることになります。
パワーポリティクスの象徴的な行為です。
参議院での議論は全く意味を持たなかったということになります。
せめて参議院での議論を踏まえて、再審議するのが、最低の義務だと思うのですが、参議院での議論が始まる前から、否決しても2/3条項で成立させると独裁的発言をしていた政府を抑えることはできなかったわけです。
民意と政治をつなぐマスコミは機能していなかったことになります。
「議論する政治」の死を感じます。
いろいろと議論されたことの意味は何だったのか、むなしさが残ります。
競技としての政治への関心は高まっても、価値としての政治への関心はこれでまた低下するのではないかと危惧します。

自民党も民主党も、選挙に勝つか負けるかで、すべてを考えているのではないかとさえ思えるのが昨今の政治です。
それを支えているのが、私たち国民です。
いまや政治は競技になってしまいました。

報道ステーションの古館さんの発言には、いつも共感を持ちますが、しかしその無力さにおいては、私のこのブログとたいした違いがないようにも思います。
たしかに影響力においては、比べようの無いほどの差があり、政治への影響力もあるでしょうが、今のところ古館さんが手応えを感ずるような結果は出てきていないような気がします。
次々と起こる事件や問題に対して、無機質な報道とは違った人間の視点からの評価はしていますが、それが大きな世論を起こすところには届いていません。
薬害肝炎事件はマスコミの後押しが効果を発揮したかもしれませんが、拉致問題も年金問題もイラクやアフガン問題も、独法改革もテロ問題も、うやむやのまま既定の方向に進んでいるように思います。
古館さんの情念があれば、この閉塞状況を打開できると思うのですが、その仕組みを創った途端に、報道の中立性とか何とかという批判が起こって、番組自体が影響を受けるのでしょうね。
報道に中立性などあろうはずがないのですが、すべてが虚構の論理の上に立っている情報社会は、気がつけば恐るべき管理社会なのかもしれません。

新テロ対策特別措置法案成立の報道にはとてもやりきれない気がします。
予想されていたことではありますが、どこかで新しい風が吹くことを期待していました。
期待するだけではだめなことはよくわかっているのですが。

■「なぜ時代は人の懸命な苦労に報いることができぬのか」(2008年1月13日)
最近、届いた富士ゼロックスの社外誌「グラフィケーション」に、結城登美雄さんが「列島を歩く」という地域ルポを連載しています。
結城さんは東北各地をフィールドワークしている民俗研究家です。
結城さんの書いたものには、いつも人間が感じられます。
私も、ローカルジャンクション21というNPOでご一緒していましたが、とても魅力的な方です。その魅力が、文章にいつも出てきます。

今回は、新潟県の山北町の話です。
何気なく読んでいたのですが、とても気になることが出てきました。
昭和15年に、その山北町を民俗学者宮本常一が訪問した時の話です。
初めて訪問したそこで宮本が最初に出会ったのは、炭を負った若者でした。
その記録が宮本の著書に残っています。結城さんは、それを紹介してくれています。

「若い男は親切で何くれと話してくれる。
昔の人と今の人とどちらが働きが激しかろうかと聞くと『そりゃア今だ』という。
何もかも不便なように仕向けられて、その上仕事は倍加だ。
炭焼きにしても4、5年前の倍近くは焼いていようが、一体それでは足りぬというのはどうしたことだと若い男はいう」。
働いても働いてもよくならぬ暮らし。
昔より今のほうが仕事に余裕がないと宮本に訴える若者。
なぜ時代は人の懸命な苦労に報いることができぬのか、と問う若者に宮本は答えることができない。
その後姿を見送りながら、宮本は次のように書いている。
「われわれに背負わされた苦難はわれわれ自身が排除するよりほか途はないのである」。

当時、日本は紀元2600年で沸いていました。私が生まれる一年前です。
しかし、なにやら現在につながっているような気がします。
違うのは、この若い人がまだ16歳だということです。
いまの16歳とは全く違う若者が、そこにいます。

その若い男がなぜ16歳だとわかったかといえば、それこそが感動的な話なのです。
結城さんが山北町の山村で若い人たちと話し合っていた時に、一人の青年からこうたずねられたのだそうです。
「4年前に亡くなった俺のじいさんが『昔、宮本常一とこの村で会って話をしたことがある』と言っていたけど、本当だろうか」。
それが契機になって、結城さんは、そのことが記録されている文献を見つけ出したのです。
当時、山北町で炭焼きをしていたのは一人だけだったのです。

山北町は今も自然とともにある暮らしや生業をまもっているようです、
だからこそ、こうした感動的な出会いがあったのでしょう。

しかし、私が話題にしたいのはそういうことではありません。
「なぜ時代は人の懸命な苦労に報いることができぬのか」
そして、
「昔より今のほうが仕事に余裕がない」のはなぜなのか。
当時は「戦時中」でした。そのせいかもしれません。
では今の時代はどうでしょうか。
仕事はますます余裕がなくなり、「懸命な苦労」も報われないために、「懸命な苦労」をする人が少なくなった。
そんな気がします。

ちなみに、結城さんの連載が載っている「グラフィケーション」は無料で購読できます。
ネットから申し込めますので、ご関心のある方は申し込まれるといいです。
私が愛読している数少ない雑誌の一つです。

■家族同士の死傷事件と家族のあり方(2008年1月14日)
また徳島で4人家族同士の死傷事件が起こりました。
そうした事件が増えているのかどうか調べたことはありませんが、増えているような気がします。
私は数年前から、「大きな福祉」を理念に、さまざまなNPO活動に関わっていますが、それを通して感ずるのは、「家庭」の問題への取り組みが抜けているのではないかということです。

家族や家庭の問題への取り組みは、簡単ではありません。
DVや介護、難病、子育てなどといった課題からの取り組みも、もちろん家庭や家族につながっていますが、そうした個別課題からのアプローチではなく、むしろ家庭や家族問題を正面から見据えた取り組みが必要になってきているように思います。
「大きな福祉」の考えは、個別課題から発想するのではなく、生活の基盤から発想しようということなのですが、家族のあり方を根底から考え直すべき時期にきています。

日本の高度成長は、核家族化に支えられてきたように思います。
さらに加えて、女性の社会進出、あるいは生半可の男女共同参画思想がそれを応援してきました。
女性は社会に参画したのではなく、産業化や市場化に取り込まれただけではないかというのが私の考えです。
女性たちの多くが、男性と同じように、魂をお金や産業に売ったような気がしています。
それを主導したのもまた女性でした。
いつの時代も、裏切りは仲間から始まるのです。
この発想は30年前からの考えなのですが、賛同者はいませんでした。
しかし、最近ますますその感を強めています。
まあ、これは暴論でしょうから、みなさんのひんしゅくも買いそうです。

日本国憲法のもとでの民法の改定によって、明治時代以来の家制度は廃止され、夫婦と子という個人関係が標準的な家族モデルとなりました。
そして、妻が家事や育児、さらには介護を分担し、夫は後顧の憂いなく勤労者として全力を産業に投入するという、まさに経済支援型の家族モデルができたのです。
夫を「主人」とする家父長意識や男女差別感が残存していたために、基本的な問題は解決されないままでしたが、経済的には見事な成果を上げたというべきでしょう。

しかし、新たな問題も発生しました。
高度経済成長の中で、金銭経済志向が社会を覆うと共に、産業界の労働力需要と人件費削減の要請が、主婦層の取り込みを過剰化してしまったのです。
そして、格差の拡大や非正規社員の増加が進み、経済を支える社会そのものの劣化が進んだのです。

家族同士の殺傷事件、自殺やメンタルヘルスの増大などは、そうしたことと無縁とは思えません。
いまようやく、地域社会や近隣関係への関心が高まり出していますが、基本は家庭や家族のあり方なのではないかと思います。
家族とは一体何なのか、最近、妻を失って、改めて家族の意味をかみ締めています。

大切であるからこそ、きっと死傷事件が起こるのでしょうが、なぜそういう不幸なことになるのか、自分の問題としてみんなが考えなければいけない問題です。
その問題から無縁な人はいないはずです。
少子化問題も介護問題も、教育改革も環境問題も、すべてが家族や家庭からはじまっているような気がします。

■「バレンボイム氏にパレスチナ市民権」(2008年1月15日)
今日の朝日新聞の夕刊に、「バレンボイム氏にパレスチナ市民権」と言う記事が出ていました。
バレンボイムはイスラエル国籍のユダヤ人で、アラブ人とイスラエル人の混成オーケストラを結成し、危険を冒して実現した、感動的なラマラのコンサートが有名です。
その時の選曲が、ヒトラーが愛好したワグナーの作品だったことも話題でした。
私はエジプト在住の中野さんから教えてもらいました。
以前、このブログでも紹介しましたが、その記録のDVDは何回観ても涙が出ます。

そのバレンボイムが、パレスチナ自治政府から名誉の「市民権」が贈られたのです。
バレンボイムは、「イスラエルとパレスチナの人々の運命はつながっている。私が市民権を得られるのは、共存が可能だということを示している」と述べたそうですが、とてもうれしいニュースです。
イラクもアフガンも、パレスチナも、いやなニュースが続いていますが、こうしたニュースもあるのです。

平和は戦いからは生まれません。
時に闘うことは必要でしょうが、武力で平和は得られないでしょう。
テロ特措法の呪縛から抜け出ることが必要だとつくづく思います。
パレスチナ市民権という仕組みも、問題がないわけではないでしょうが、カントが提唱したように、みんなが世界市民意識を持てば、国家間の戦争の呪縛から抜け出せるかもしれません。

久しぶりにうれしいニュースに出会えました。
音楽は武力に勝るパワーを持っていますね。

■水から引き上げた魚から魚の真実は見えてくるか(2008年1月16日)
岩田慶治さんの「カミの人類学」に、こんな文章があります。

皿の上に乗った焼魚も魚の一だが、魚の立場からすれば、生き生きと水の中を泳ぐ魚だけが魚で、あとは魚ではない。鳥も同じで、空飛ぶ鳥こそが鳥の一である。

つまり、生きた魚を考える時には水と切り離せないわけです。
ある魚が存在できるのは水があるからであって、水がなければ魚は自らの生命を持続できません。
さらにいえば、その水は特定の魚にだけつながっているわけではなく、たくさんの魚とつながっています。
こうやって考えを広げていくと、すべての生命はつながっていることになります。
ですから、人は自らの生命を勝手に断ち切ることはできないのです。
もちろん誰かの生命を断ち切ることも許されません。

ちなみに岩田さんがこの本で言っているのは、こういうことではなくて、「一」という数字の意味を説いているのですが、この文章はさまざまなことを含意しています。
企業文化論にも通じますし、集合的無意識にも通じていきます。

生きた魚は水の中にしかいません。
水から引き上げた魚をいかに詳細に研究しても、魚の真実は見えてこないでしょう。

異常行動と思われる犯罪事件が報道されるたびに、岩田さんのこの文章を思い出します。
異常な行動を起こした当事者に、私たちは関心を向けがちですが、むしろそうした行動を起こした社会にこそ関心を向けるべきでしょう。
外部から見ると異常に見えても、当事者にとってはきちんと理由があり、決して異常なのではないのかもしれません。
そして、その社会は、実は自分自身の寄って立っている社会とつながっているのです。
だとしたら、自分が同じような「異常行動」をとらないとは限りません。
その恐ろしさにこそ、怯えるべきかもしれません。

異常事件ばかりを面白おかしく報道するテレビを見ていて、そんなことがとても気になって仕方がありません。
テレビ関係者は、私たちに異常行動をそそのかしているとしか思えません。
最近、私の気力が弱まっているから、そう感ずるのでしょうか。

■もったいない文化の基本にある「いのちへの愛」(2008年1月17日)
昨日の続きです。

岩田さんは木の話もしています。
木は土とつながっていてこそ木だというのです。
この机は木でできていると日本では言いますが、英語ではその場合の木は、 tree ではなく、wood だというのです。
日本でも「木材」という言葉はありますが、普通は「木材でできた机」とは言いません。

法隆寺の宮大工だった西岡さんは、木材は1000年以上生きつづけていると言いました。
机の木もまた生きつづけている、そういう文化が日本にはありました。
机にも生命が宿っていたわけです。
ですからそう簡単には廃棄できませんでした。

「もったいない」という言葉は、そもそも仏教用語ですが、「勿体(もったい)」は本来あるべき姿、つまり本来の価値だそうです。
本来の価値が活かされていないことが「もったいない」と言うことになります。
本来の価値とは、そのものの「いのち」です。

土から離れてなお生きている木。
そのいのちを守っているのは、それを活かしている人間です。
人間は、さまざまないのちを輝かす力を与えられた存在ではないかという気がします。
そのことは、同時に、さまざまないのちを奪う力を与えられたことでもあります。
与奪はコインの表裏ですから。

それぞれのもつ「いのち(価値)」を輝かす文化。
それがたぶん「もったいない」という文化の本質のような気がします。

最近、世界的に「もったいない」発想が広がり、「MOTTAINAI」は英語にもなりました。
とてもうれしいことですが、その基本にある「いのち」への愛こそが大切です。
それがなければ、環境問題も平和も、それこそが意味のないものになってしまうような気がします。
昨今の環境や平和への取り組みは、どうも「いのちを奪う」発想があるような気がしてなりません。

■小沢たたきへの違和感とキャスターの定見(2008年1月18日)
新テロ特措法の採決に参加しなかった小沢民主党党首が批判され、またそれに関する記者会見での発言も開き直りだと言われています。
私がもし小沢さんだったら、きっと同じことをするでしょう。
いずれにしろ瑣末な話だと思います。
マスコミは瑣末な話を大きくして先導するのが得意ですが、これもその一例のような気がします。
国会議員の最大の責務は国会議決への参加であり、ましてやこれほど重要な法案の議決に参加しないのは党首として問題だと言われますが、議決に参加しないこともまた意思表示の一つです。
法案に対する意志は既に明示されており、しかも2度も否決しています。
それに衆議院での議決は、ほとんど議論もなく、ともかく数の論理で可決するだけの話ですから、議決の意味は全くありません。数を背景にした暴力の発動でしかありません。
憲法に条文がある以上、正当な手続きではありますが、その精神からいえばいろいろと問題が有ることも否定できません。
法に反しなければいいというのは犯罪者の弁明でしかありません。
無駄な茶番劇に付き合う必要はないと私も思います。

むしろ、なぜこのやり方に反対の議員が採決をボイコットしなかったのか。ボイコットはともかく、なぜもっと再審議や異議申し立てが行われなかったかと言うことこそ、私は気になります。あれだけ異議申し立てしていた野党の人たちは一体何なのか、そういうことにこそ不信感を持ちます。
一番新しい国民の代表議員の反対にも関わらず暴力的に法案が可決される不条理こそ、問題にすべきです。

とまあ、以上の意見は論理的には破綻の多い感情論でしょうが、このところの小沢党首の言動は私の気分にはかなり合います。
念のために言えば、私は小沢さんの政策理念やビジョン、とりわけ国家観には反対です。民主党のマニフェストにも、こと憲法に関しては反対です。
にもかかわらず、他の政治家よりも親近感を感ずるのはなぜでしょうか。

まあ不器用に言動している小沢さんはともかく、気になるのはマスコミの報道姿勢です。
私は最近の古館さんの姿勢に共感を持っていますが、番組の画面構成やゲストの選択は古館さんの姿勢と必ずしも合っていないような気がします。
たとえば、先日、ガソリン税の報道の際に、暫定税率をやめると開かずの踏み切り工事が出来なくなるといわんばかりの解説画面が流れました。
さすがに古館さんはそれとなく皮肉を言っていましたが、古館さんの一言よりも画面編集によるメッセージのインパクトが強いはずです。
そういう意味で、最近の番組の作り方に安直さを感じます。
たぶんプロデューサーやディレクターに定見がないのでしょう。
したがって、大きな主張もないのです。
世間で問題になっていること世間の水準に合わせて面白おかしく、しかも無編集で話題提供しているように思えてなりません。

瑣末な話を取り上げるのもいいでしょうが、大切なのはそこに含意されるメッセージです。
最近の小沢民主党たたきの動きをみていて、日本のマスコミは権力や体制に絡め取られてしまったような気がしてなりません。
だからこそ、嫌われようと批判されようと、古館さんにがんばってほしいです。
降板させられるほどがんばってください。
小沢さんも古館さんも、小賢しさを感じさせないのが、私の好きな理由です。
もっとも古館さんが嫌いな人も多いでしょうね。
彼は「今様」ではありませんから。

■もはや経済一流ではない(2008年1月19日)
国会での太田経済財政相の経済演説が物議を起こしています。
そのひとつが「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」という発言です。
その発言時、森、小泉、安倍元首相たちは笑いながら手を叩いていました。
自分たちの責任を全く感じていないことを露呈している風景でした。
太田さんはその後、「政治は何流ですか」というマスコミの質問に、「それは私の範疇外です」とこたえていましたが、政治は3流といわれて久しく、今やさらに政治は不在なので評価しようがないとしか言えないように思います。

「もはや経済一流ではない」ということですが、問題は評価基準です。
太田さんの演説の基調は、1940年代に始まったアメリカ資本主義的な成長力路線です。OECDの中で一人当たりGDPは18位という言及もあります。
その成長志向経済が破綻に向かっていると私は思い続けていますので、その分野で一流でなくなったことの意味をしっかりと考え、新たな経済政策を考えるべきだと思います。
つまり、かつて一人当たりGDP2位だったことの意味の吟味です。
日本が経済一流といわれた頃、私は会社にいて、まさに経済成長に寄与すべき仕事をしていましたし、その後、バブルと言われる中で、経済的な贅沢の一端に触れて、ちょっとおかしいなという不安もあって会社を辞めた人間です。

経済一流ということがもたらしたものは一体なんだったのでしょうか。
一部の人たちが贅沢三昧できる社会をつくりだすために、また経済一流を目指すのでしょうか。
経済を評価する基準を明確にしてほしいものです。
経済の目的は成長なのでしょうか。
経世済民、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」という意味は過去のものなのでしょうか。経済政策は、世や民のためのものではなく、お上やお金のためのものなのでしょうか。
成長は手段でしかありません。
経済成長しなければ、10年後の日本の社会は良くならないのでしょうか。
まさに経済に寄生している日本の政治が露呈しています。

かつて経済は、political economics と言われましたが、今の日本の政治は、economical politics なのです。
経済の意味が大きく変わろうとしている歴史的時期にあるように思います。

■「エコ偽装」に見る企業の問題点(2008年1月20日)
再生紙偽装事件は、企業にとって「エコ」とは一体何なのかを象徴している事件です。
企業にとって「環境問題」は解決に取り組むテーマではなく、マーケティングに利用できる材料なのかもしれません。
「エコ偽装」などという言葉まで使われていますが、産業界の環境問題への取り組みはまさに「偽」と思われても仕方がない状況です。

10年近く前、各社が環境報告書を競って出し始めた頃、仕事で各社の環境経営担当役員の取材も含めて、いろいろと調査したことがあります。
その時の企業の対応姿勢にあまり「本気」を感じることができず、失望したことがあります。
その後、今度はユニバーサルデザイン(UD)が流行になり、UD商品なるものが発売されたりした時には、なんでこれがUDなのかと思うようなものが少なくありませんでした。時代の課題や流行を、販売促進やイメージアップのために「浪費」している企業の多さには失望を禁じえません。
各社のCSR関係の報告書を見れば一目瞭然です。
エコも、UDも、CSRも、ともかくマーケティングのツールでしかないのでしょうか。

私自身は、昔から企業の環境問題への取り組みには疑心暗鬼です。
環境対策と称しながら、環境負荷を高めていることもありそうです。
再生紙の問題に関しても、もっと総合的に取り組むべきですし、そもそも紙の使用量の削減こそに取り組むべきです。
産業のジレンマの中で、それは難しいでしょうが、滋賀県の新江州株式会社のように、包装資材の会社なのに会長が包装資材はできるだけ使わないようになどと言っている会社もあるのです。
環境問題への対応をいうのであれば、安直に言うべきではありません。
ましてや社会をごまかしてはいけません。

なんでも「儲け」につなげてしまう姿勢こそ見直さないと、企業そのものの未来も開けないのではないか。そんな気がします。
企業は社会の子です。その存立基盤は社会です。
その社会を揺るがしている環境問題は決してマーケティングの材料にすべきテーマではありません。

■医師の言葉の重さ(2008年1月21日)
昨夜、NHKの認知症の番組を見ました。
私は昨年、妻を亡くし、それ以来、医療や病院の番組は見ることができずにいました。ですからこの番組も見る気にならなかったのですが、たまたまテレビをつけた時、画面で患者の家族が「医師は絶望させることしか言わない」と発言していたのが気になって、ついつい見てしまいました。
案の定、見ているうちに妻の闘病のことが思い出されました。
妻は認知症ではなく、胃がんでした。
医師はとても誠実に治療対応してくれました。
私たちは世間的に言えばかなり良い医師に恵まれたことは間違いありません。

にもかかわらず、私は病院にはかかりたくないと思うようになりました。
病気になっても、病院にかかることなく死を迎えたいと思うほどです。

「医師が絶望させることしか言わない」。
妻の場合は、必ずしもそうではありませんでしたが、病状が深刻だったこともあり、「希望が持てること」は言ってもらえませんでした。
医学的な論理からいえば、希望などなかったのでしょう。
しかし、希望がなくて病気と付き合えるか、というのが私の考えでした。
嘘でもいいから希望を与える言葉がほしいと何回思ったことでしょう。

回復の可能性が高い場合は、そんなことはないでしょうが、回復不能とされる場合は、医師の言葉は患者や家族には凶器のように突き刺さるのです。
「もう手の施しようがありません」
それが事実かもしれませんが、その言葉が患者にどれほどの恐怖感を与えることでしょうか。

医師の言葉は、本人が思っている以上にパワーを持っています。
番組で、認知症の人と家族の会の代表の方が、
「医師が病気を悪くすることさえある」
というような主旨の発言をしていましたが、全くその通りです。
まさに医師の言葉は暴力にもなるのです。

しかしそのことは逆に、医師の言葉は奇跡を起こす治癒力も持っていることでもあります。
医師から希望を感じさせられる言葉をかけてもらった時の、妻の笑顔とその後の元気を思い出します。
医師の言葉は、まさに薬よりも大きなパワーを持っているのかもしれません。

番組での問題提起とは全くずれたことを書いてしまいました。
番組では、認知症の問題を切り口に、医療とか介護、さらには社会のあり方に関して、さまざまな問題が提起されていました。
とてもいい番組で、心に響いた発言もありました。
久しぶりに、テレビでできることはいろいろあることを改めて実感しました。

■警察民営化も進むのでしょうか(2008年1月22日)
「暴力団同士の抗争に巻き込まれて市民3人が射殺された事件の実行役の1人に、求刑通り死刑が言い渡されたという記事が新聞に出ていました。
まあそれはそれでいいのですが、いつも気になるのは「暴力団」の存在がなぜ認められているのかということです。

暴力を国家が独占管理すること、これが国民国家の基本の一つです。
これに関してはこれまでも書いてきましたが、もしそうであれば国家以外が行う暴力は本来許されないはずです。
家庭内暴力も問題になっています。
にもかかわらず、たとえ俗称であろうとも「暴力団」の存在が許されるというのは理解しがたい話ですが、どうして問題にならないのでしょうか。
たとえば「殺人団」とか「恐喝団」と言うのであれば、そもそも存在が許されないでしょう。
「暴力」と「殺人」「恐喝」は、言葉の種類が違いますから、暴力団は存在できるのかもしれません。
しかし私には理解できない話です。

警察はなぜ暴力団の存在を許しているのでしょうか。
警察は、国家が承認している「暴力装置」の一つですが、自らの仲間だとでも思っているのでしょうか。
最近流行の「民営化」発想で、いつかは警察民営化の動きの中で、暴力団が警察業務を受託することもあるかもしれませんから、その受け皿として育てているのでしょうか。
まあ戦時においては、過去においてそうしたことは起こっていますから、あながちありえない話ではありません。
それに、日本の国民は民営化が好きですから、戦時でなくともそういうことは起こりえるでしょう。
クーデターを起こした小泉元首相なら、そんなことは朝飯前のことかもしれません。
また口がすべりました。すみません。

しかし、「暴力団」という言葉を使っている人は、どういう思いでその言葉を使っているのでしょうか。
おかしいと思わないのでしょうか。
私にはどうも理解できないことなのです。
まずは、その言葉を使うのをやめるべきだと思います。
もちろん、その実体もなくさなければいけません。

■生活を支える経済から生活を壊す経済へ(2008年1月23日)
株価が大幅に下がっています。
私は株式投資には全く興味がなく、実際にも何もやっていないので、まさに対岸の火事なのです。
実体経済に影響を与えるといわれていますが、正直なところ、実はピンときていません。
経済がどんどんと金融化していることについていけていないわけです。
前に書いたこともありますが、そもそもテレビのニュースで、株価指標とか為替レートなどをなぜ報道するのかにも違和感がありました。
まさに国民を金融経済漬けしようとしているのではないかと不快な感じを持っています。
為替も株価も、私には無縁だと思っているというよりも、無縁になりたいと思っているのが正直のところです。
社会はすべてつなぎあっているのだから、無縁なはずはないのですが、そもそもお金でのつながりの輪からはできるだけ遠ざかりたいと思い続けています。

連日、マスコミは大騒ぎしていますが、株価の低下で損をした人のお金は、あまり生活のためのお金ではないでしょうから、無くなっても大きな問題は起こらないでしょう。
それに株価低下でなくなったお金はどこに行くのでしょうか。
どなたか教えてくれませんか。
私には、実体のない流動性が減少するので望ましいことだと思えてなりません。
株価がゼロになれば、名実共に企業は従業員のものになるかもしれません。
相変わらずめちゃくちゃの議論ですが、そもそも金融経済なるものこそ、めちゃくちゃな論理ではないかと私は思っています。

株価が下がって生活が困る人がいるのか。
最近は個人でデイトレードを仕事にしている人もいますし、FXなどという投機の仕組みもありますので、生活が破綻する人がいるかもしれませんが、私の偏った考えからすれば、そうした金融の世界に生活を委ねた時点で、すでにその人の生活は破綻していたのです。
お金がお金を生み出すなどという発想は、生活とか生きることとは程遠い世界です。

原油の値上がりもまた、金融経済の結果なのでしょうが、そのおかげでガソリンが高くなって大変だというのも、考えてみれば、国内では産出しない原油に依存する経済に移行した時に、覚悟しておくべきことだったのかもしれません。
同じように、食糧も海外への依存度を高めていますので、いつかきっとそのとがを受けることになるでしょう。

最近の経済は、生活を支えるのではなく生活を壊す仕組みになってしまっているような気がします。

■株価下落で消えた資金(2008年1月24日)
昨日、「株価低下でなくなったお金はどこに行くのでしょうか」と書いたのですが、それが気になってきました。
本当にどこにいくのでしょうか。
私には「消えた年金」よりも、興味のある話です。

ツカサグループの代表の三又さんが、金融政策の変化で、一夜にして、1000億円の資産家から1000億円の債務者になってしまったとお話になっていましたが、川又さんご自身は何も変わらないのに、資産が借金になるというのはどういうことなのでしょうか。
川又さんにとっては実体は何も代わらないのに、プラマイ2000億円の資産の変化があったわけです。
もしそうなら、現代の資産とは一体何なのでしょうか。

もし私が1000万円の現金を株式投資していたとします。
それが今回の下落で、その投資対象株価が2割下落したとすると、私の貨幣財産は800万円に低下します。
その時点で、株式を売却し、現金化すれば、現金は200万円減ることになります。
しかし、そのまま株式市場に入れたままであれば、実際には何の変化も起きません。
所有財産が減少したなという気分になるくらいでしょう。
もっとも現金を財産といっていいかは判断の迷います。
高率なインフレが起これば、紙幣はただの紙切れになります。

現金には何の価値もありません。
現金は、価値を交換するための手段でしかありません。
最近はその手段でしかない現金(通貨)に価値を見出す人が圧倒的に多いために、「価格」と「価値」とが混同されがちです。
たとえば、「高価」なものほど「価値が高い」ということになりがちです。
価値が高いから高価なのではないのです。

経済学や経営学の世界では、企業価値とは株式の時価総額だと言われていましたが(今もそうでしょうが)、馬鹿げた議論です。価値とはそういうものではありません。
私はそういう議論が起きだした20年前ころから、そうしたキャッシュフローベースの企業価値論とレゾンデートルとしての企業価値論とを分けて考えることを話し続けてきましたが、全く空しい主張でしかありませんでした。
前者のために、どれほどの企業が本来的な企業価値を損なってきたことでしょう。

株価の乱高下がいかに大幅であろうと、全体としては損得は発生しません。売買の双方が納得して売買していますし、何か実物が動くわけではないからです。
ミクロ的に個人の投機行為としてみれば、たしかに損得は発生するでしょうが、それは損得が発生するからこそみんな投機するわけですから、本来、問題は全くないはずです。

株価の下落が引き起こす意味は何なのか。
これまでの常識の呪縛をはずして、考えて見ることが必要ではないかと思っています。

■ガソリン暫定税廃止と道路建設の違い(2008年1月25日)
相変わらずガソリン暫定税をどうするかの先行きが見えません。
問題は「ガソリン値下げ」か「道路整備」か、という問題になっているような気がします。
その違いをもっと整理して議論すべきだと思いますが、最近のマスコミも政党もそういうことはやらないのが特徴です。
いずれも真剣に考えていないからでしょうが、政治家は「争点」が、マスコミは「話題」があればいいのでしょう。
その視点からは、むしろ問題が整理されないほうが、価値があるのです。

違いのポイントは何でしょうか。
配分の面から言えば、ガソリンはかなり広範囲の国民に、道路は一部の国民に、直接的なメリットを与えます。
効果が実現する時期は、ガソリンは即時に、道路は少し先でしょう。
またそれによる効果の効率性でいえば、ガソリンはほぼそのすべてが直接効果につながりますが、道路は途中でかなりの部分が誰かのポケットに入るでしょう。
道路建設賛成と運動している県議や政治家、業界団体なども含まれるでしょう。
かなり独断的な整理ですが、こうした整理に基づいて、経済効果や合目的性評価などをもっと明らかにしてから議論すべきではないかと思います。

これは何もこの問題だけではありません。
テロ特措法も、郵政民営化も、最近の争点と言えるもののほとんどすべてが、問題としての設定が極めて曖昧なような気がします。
極言すれば、誰も真剣に考えていないと言えるでしょう。
問題の構造を明らかにするべき国会は、むしろ曖昧なまま争点にしてしまうわけです。
おそらく明らかにしたら、自説を通せなくなるからではないかと勘繰りたくなります。

ともかく最近の政治は、問題の設定が粗雑過ぎる上に、細かすぎると思います。

■能動的な集中力と受動的な集中力(2008年1月26日)
この数年、相撲を見ていて思うのは、日本人とモンゴル出身者との「集中力」の違いです。
今場所も、両横綱は安心して見ていられますが、日本人の力士は何となく不安があります。
その違いは、集中力の圧倒的な差のように思います。

産業社会の行く末に強い懸念を抱いていたシュバイツァーは、産業社会における人間を「不自由で、不完全で、集中力がなく、病的に従属的で、全く受動的」であると指摘していました。
その正しさがいま、見事に証明されてきていると思います。

集中力は生命力に直結しています。
厳しい自然の中で身を守っていくには、集中力は欠かせません。
産業化が進み、豊かな物財と安全な環境が整備されるにつれて、集中力がなくても生きていけるようになったのは、好ましいことかもしれません。
その結果、私たちは集中力を低下させているのかもしれません。

集中力だけではなく、身体の感覚や機能も生きるためにはそう必要ではなくなってきました。
ヘッドフォンで外に向けた聴覚をスイッチオフして歩いている人も少なくありません。

しかし皮肉なことに、実は新しい危険が広がり、競争条件もある意味では過酷になってきました。
そうした中で、これまでとは全く異質の集中力を発揮している人が出始めました。
今回の株価の乱高下で、1日にして20数億円も利益を得たネットトレーダーがいます。
しかし、その集中力は生命力とは無縁なものでしょう。
シュバイツァーの発想で言えば、きっと「受動的な集中力」です。

さまざまな壁にぶつかっている産業社会に、新しい地平を開くのは、人間的な能動性であり、集中力です。
おそらくそれこそが「人間力」なのでしょう。
社会人基礎力とか受動的な集中力は、むしろ人間の根本を弱めていくような気がします。

それにしても、モンゴル出身の2人の集中力、あるいは生きる力には、感動すらします。
正月に朝青龍の帰国を許さなかった日本人に比べて、彼らのいのちは輝いています。

■「夕張希望の杜」を応援することの幸せさ(2008年1月27日)
CWSコモンズでも案内していますが、佐賀市長だった木下敏之さんが、「夕張希望の杜」を応援するためのメルマガを発行しています。
そのメルマガに、とてもいい話が載っていました。
お読みになった方もいると思いますが、一部を紹介させてもらいます。
書いているのは、大学病院を辞めて家族で夕張に移転した医師の永森さんです。
なぜ安定した生活を捨ててまで、夕張に移ったのかという質問への答に、次の歌詞で答えているのです。

そこがどこかが問題じゃない
そこに誰がいるかが大事だった
君のいるその場所が
僕の生きていく場所だ
どんなつらさも幸せに
かえながら生きてゆける  (槇原敬之 Anywhere)

そしてこう書いています。
こっちには僕を必要としてくれるスタッフや地域の人々がいます。
破綻した市のつぶれた医療機関を再生することはもちろん楽しいことばかりではないし、地域や組織がちゃんと先に進まないつらさもあります。
怒ったり、喜んだり、楽しかったり、悲しかったり。
でも、こんな経験のすべてをここで家族や仲間とシェアできる僕は幸せです。
みんな、ありがとう。

もしよかったら、みなさんもぜひ「夕張希望の杜」応援のために、このメルマガを申し込んでくれませんか。それだけで「夕張希望の杜」を応援することができるのです。
メルマガは次のサイトから申し込めます。
http://www.mag2.com/m/0000253983.html

■リサイクル論議よりも無駄遣いをやめるのがいいです(2008年1月28日)
再生紙偽装問題を契機に、リサイクル是非論がまた議論され出しています。
私自身が、この種の問題に興味を持ったのは、新聞に掲載された「一本のあきびんから」という山村硝子の広告でした。
そして山村硝子社長の山村徳太郎さんの同名の書籍「一本のあきびんから」を読んで感激し、早速、西宮市に会いに行きました。
社長はご自分で直接、回収選別再生の工場や現場を案内してくれました。
残念ながら山村さんは、急逝してしまいました。
山村さんがその後もお元気であれば、私の仁生は少し変わっていたかもしれません。

その前後に、廃プラスチック問題や容器のリサイクル(当時はむしろリユースのイメージでした)に関して、仕事としても調査をしていました。
日本でペットボトルが導入されようとして、ちょうどその時期でした。
最新の焼却場に取材に行ったりもしました。
当時の私の結論は、使用量を減少させることと効果的な焼却でした。
焼却炉は急速に改善され、高熱にも耐えられるようになっていました。
分別は消費者意識を変えるためには必要だと思いましたが、環境負荷の面ではマイナスではないかと思っていました。
これに関しては、その後、いくつかの小論を書きましたが、しっかりと調べたわけではなく、感覚論です。
しかし、環境ビジネスとか静脈産業という発想には大きな違和感を持っていました。今もその違和感は消えません。

リサイクル問題は、ほとんどの場合、全体像が明確にされませんし、またどの範囲で考えるかも曖昧ですので、議論がなりたちません。
昨日もテレビで議論が行われていましたが、前提を確認せずに議論するので、聴いているほうはどれが本当なのか分からないようになっています。
分別がいい、リサイクルはいい、という常識が広がっていますから、その視点で考えがちですが、その常識も所詮はある前提の中での話です。
無条件で良い訳ではありませんが、無条件で良い悪いと言い切る人が多いのには驚きます。

この話は、書き出すと切が無いほど話したいことがあります。
一応、私も10年くらいはそれなりに調べてきましたし、問題意識は学生の頃から持ち続けています。
それでも何が良いかは分かりません。
しかし間違いなく言えることはあります。
それは資源の使用量を減らすことが大事だと言うことです。
これだけ無駄な紙を使いながら(たとえば新聞、たとえば行政が作る小冊子類など)、何が再生紙だ、と思います。
その種の話はたくさんあります。
消費者も分別する前に、ペット容器の飲み物をやめるべきです。
ちょっと努力すれば、私たちの資源消費量は大幅に減らせるはずです。

まずはペットボトルを使うのを止めたらどうでしょう。
私は個人的には数年前からやめています。
自販機も使うのをやめて、かなりたちます。
あまり読むところがない新聞もやめたいのですが、これはまだ踏み切れずにいます。
家族の合意が得られれば、止めてもいいと思っているのですが。

■環境問題は暴力団と政財界、行政にとっての魅力的な市場(2008年1月29日)
リサイクル問題の続きです。
先日のテレビで、横浜市長の中田さんが、回収した資源ごみの渡し先もいろいろと付き合いの関係があって、そう簡単ではないというような話をしていました。
分別してもらっても、結局は処理の段階では一緒になってしまうこともあると環境先進自治体の職員の方から聞いたこともあります。
私は我孫子市に住んでいますが、ここもかつては分別の先鞭をきった自治体です。
今もかなりしっかりと行われているとおもいますが、にもかかわらずごみの出し方の説明書を読むと、たとえばプラスチックは一般ごみと容器プラスチックとは別々に出すようになっており、いろいろな背景を感ずることもあります。
この世界はまだまだ見えてこない部分が少なくありません。

ある環境問題の集まりで、ごみ問題に関わろうとしていることを話したら、交流会の時に、ある雰囲気を持った人がやってきて、「それだけの覚悟があって取り組もうとしているのだろうな」と言われました。
彼は、命を張ってやってきたというのです。気の弱い私などには、「おどし」にも思えたほどの迫力でした。

家電リサイクル法なども、それとは別の力が働いたようです。
本来、販売の段階で賦課すれば効果的だったはずの廃棄費用が廃棄時に使用者が負担するという馬鹿げた仕組みになってしまいました。
財界と政界が本気でないことが明らかです。
それにそこには、ともかく使用量を増やそう(つまり先ずは買わせよう)という、全くエコロジカルでない消費主義があります。
その発想を変えないかぎり、環境問題など解決するはずがありません。
流行の持続可能な成長の発想です。
暴力団と産業界・政界は、この問題ではたぶんつながっているような気がしてなりません。

環境問題を彼らから取り戻し、生活者の問題にしていく必要があります。
そのために、私たち一人ひとりができることをやれば、かなりのことができるはずです。
そんな思いで、私自身はささやかな生活の見直しに心がけています。

■道路になぜ駐車していけないのでしょうか(2008年1月30日)
一昨日の朝日新聞にこんな記事が出ていました。
http://www.asahi.com/national/update/0127/TKY200801270125.html

自宅で療養する末期がん患者などを支える訪問看護ステーションの車が、訪問先で駐車違反とされるケースが相次いでいる。

千葉県松戸市の訪問看護師(52)は、今も憤りが収まらない。駐車監視員が導入された06年の11月、駐車違反で反則金1万5000円を支払った。
末期がん患者の状態が悪化していると連絡を受け、すぐ自宅に駆けつけた。1時間ほど様子をみて車に戻ると、違反の紙が張られていた。警察署で事情を説明しても取り合ってもらえなかった。

道路は昔はみんなの「生活空間」でした。
それがいつの頃から「自動車通路」になりました。
駐車禁止は「生活空間」と「自動車通路」の両方につながっていますので、悩ましいですが、ここで紹介されている事例をみなさんはどう考えるでしょうか。

私は道路上の駐車にはかなり寛容な発想をしています。
それもまた道路の機能の一つだと考えるからです。
商店街だとか駅前だとか、駐車設備があるところなどの長時間駐車は禁止すべきですが、それも事情によっては認めてもいいと思います。
ましてや、生活道路的な側面をもつ住宅地域の道路であれば、先ずはその地域の住民の生活が優先されるべきです。
「道路になぜ駐車していけないのか」
そのことが忘れられて、ともかく駐車は罰金だという社会は恐ろしいですね。

わが家も昨年は訪問看護ステーションや訪問医師の車に来てもらっていました。
ですから事情がよくわかります。
緊急で来てほしい時には、駐車場のことまで気にしていられません。
こうした話を聞くと、制度というものが、目的を忘れて私たちの生活を苦しめていることが見えてきます。
制度には必ず目的があります。
その目的を目先の目的ではなく、もっと大きな目的で考える姿勢がどんどんなくなってきているような気がします。

私たちがつくった制度や仕組みが、私たちの暮らしを壊し出していることに、そろそろ気づいて行くべきではないかと思います。
法も制度も、その運用には「人間の心」が入らなければいけません。

■なぜ野党は国民に呼びかけてこないのでしょうか(2008年1月30日)
民主国家において政治を支えているのは国民です。
ですから政党は国民を向いていなければいけませんが、日本の政治において政党が国民のほうを向くのは選挙の時だけです。
しかしいうまでもなく、政党のパワーの源泉は国民なのです。
その認識が民主党には全く感じられません。
民主党にはそういう提案をしたこともありますが、1国民ではその声が届くはずもありません。私の努力不足でしょうが。

テロ特措法もガソリン税問題も、国民の多くは反対しています。
にもかかわらず自民党政府は、国民の意思に反して、自分たちの思いを無理やり通そうとしています。
十分な議論もなく、法案を可決するのは「無理やり」と言ってもいいでしょう。
反対する国民が多いにも関わらず、野党はその政府の暴走を止めることができません。
野党の責任を果たしていないと言ってもいいでしょう。
なぜ止められないのか、理由は明確です。
彼らもまた自民党政府と同じく、国民の方を向いていないからです。

国民に呼びかけて、その声を大きくしていけば、問題はもっと明らかになってくるはずですし、政治の場でも議論をせざるをえなくなるでしょう。
何よりも、こんな馬鹿げた「政治ごっこ」は止められるかもしれません。
国民の声は、いまはどこにも向けるところがありませんから、もし民主党なり野党が、国民集会を各地で開催したら多くの国民が参加するでしょう。
もちろん賛成論者も参加するでしょうが、それはむしろ好ましいことです。
大切なのはしっかりした議論がなされると共に、問題が見えてくることなのです。
しかし、国民に呼びかけようという野党はありません。
なぜでしょうか。
自分たちの味方は国民であることを忘れているからです。
もちろん与党も事情は全く同じです。

国民不在と言われていますが、まさに政治屋たちが内輪で権力闘争をしているような状況になっています。
もしかしたら、自民党と民主党の合意の元での演出なのかもしれません。

マスコミも、おかしいおかしいというだけで、行動を起こそうとはしていません。
みんなが見ているなかで、どんどんこうやって社会は壊れていくのかもしれません。

■国民とは誰なのか(2008年1月31日)
ガソリン税問題は、議論不在のまま進んでいます。
特徴的なのは、自民党も民主党も「国民のため」と言っています。
その時の「国民」とは一体だれなのでしょうか。
全国の知事が道路建設を要望しているということを盛んに話している自民党の伊吹幹事長にとっての「国民」は自治体の首長のようですが、民主党にとっての「国民」はだれでしょうか。
そう簡単に国民などという言葉を使うべきではないでしょう。
もし使うのであれば、しっかりと「民意」を調べるべきです。

かつて、あるいは今も、「住民参加」ということがよく言われました。
これほど無意味な言葉はありません。
私は講演の度に話していますが、「住民」は多様な価値観を持っていますから、どの価値観を持つ住民を参加させるかで、その中身は全く変ってしまいます。
ですから、個々のプロジェクトにおける「住民参加」とは政策に理由を与えるための手続きでしかありません。
しかし、だれでもが参加できる仕組みをつくれば話は変ってきます。
その場合は、参加する住民の参加を保証することが必要ですが、これが難しいわけです。
また、基本的には議会がそれを実現していたはずですが、それがなぜ機能障害を起こしているのかをもっと吟味することも必要です。

いずれにしろ、「住民」や「国民」という言葉は、無限の価値観を包含している概念ですから、ある価値決定を「国民のため」とは言えないはずです。
「国民のため」というのであれば、価値の押し付けではなく、「議論」することでしょう。
「国民のために議論する」というのであれば意味が通じますが、「国民のためにガソリン税を廃止する」「国民のために道路をつくる」という表現は、決して「国民のため」ではありえないのです。

テレビで政治家が「国民のため」などという発言を聞いていると、やはりまだ日本には「お上文化」が残っていると思えてなりません。

ちなみに、私は「社会のため」という理由づけの言葉もなかなか理解できません。
「社会」と言う言葉も、実に多義的で、危険な言葉のような気がします。

■素材メーカーの海外シフトとポーター仮説、または毒物混入餃子の遠因(2008年1月31日)
「素材メーカー、海外シフト加速」という記事が朝日新聞に出ていました。
二酸化炭素の国内での排出削減を求められている素材メーカーが、海外生産を加速させようとしている。
どう考えてもおかしな話だと思いますが、これが昨今の環境問題への取り組みの実態です。
簡単にいえば、形を整えるために環境負荷を高めているということです。
最近のリサイクル問題(30年前までのリサイクルは違います)や排出権売買、静脈産業論なども、そうした動きの一つだと思います。
これに関しては、20年近く前に、「脱構築する企業経営」で、エントロピー視点からの問題提起をしたことがありますが、その後の20年はそれとは全く反対の方向に進んでいるような気がします。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kigyoron00.pdf

素材メーカーが海外にシフトすることが一概に悪いことではありません。
もし生産拠点が市場の近づくのであれば、環境負荷は低下します。
しかし動機が排出抑制投資や排出枠購入などのコストを回避しようというのであれば、問題が出てきかねません。
排出抑制努力は緩和され、製品の移動に伴う環境負荷が高まることもあるでしょう。
排出権を企業単位に付与すれば、こうした立地による回避策は防止できます。

しかし、最大の問題は「コスト」から発想するか、「環境」から発想するか、です。
昨今の企業は。コストから発想することを基本にしています。
しかも、その「コスト」概念が、いかにも狭い視野でしか考えられていないのです。
問題が起きないはずがありませんが、それを支えているのは財界と政治です。

私は大企業こそが、環境問題に正面から取り組むのがよいと考えています。
1970年代後半、日本版マスキー法による自動車排ガス規制が技術革新を促し、燃費節 約などを進め、日本の自動車産業の国際競争力が高まったとされています。
戦略経営で有名な、マイケル・ポーターは、「適切に設計された環境規制こそが産業を進化させる」と言っています。
私はこれを「ポーター仮説」と呼んでいますが、企業の存在価値は、そうしたイノベーションを起こしていくことです。
欧州では、ファクター4などの動きで、それが具現化されています。

企業の経営発想の基本には「コスト」でなく、「価値」を置くべきです。
そのことは、私たち一人ひとりの生活においてもいえることです。
中国産餃子への毒物混入事件が発覚しましたが、これもまた私たちの「コスト重視の暮らし方」が生み出したことかもしれません。
すべては私たちの生き方につながっているのです。

■カーボン・デモクラシー(2008年2月1日)
先日のクローズアップ現代で「カーボン・デモクラシー」が取り上げられていました。
一挙には難しいでしょうが、環境問題を考える時に根底に置くべき理念だと思います。

カーボン・デモクラシーという表現には違和感がありますが、要は「世界中すべての人が排出する二酸化炭素の量を平等にすべきだ」という考えです。
ロンドンでは、このような考え方のもとにさまざまな規制が始まっているといいますし、すでに大きな成果を挙げた事例も紹介されていました。
こうした取り組みにおいては、分散型エネルギーの推進が効果的で、ロンドン市内に発電所を作り、地域での自給を賄おうとする計画もあるそうです。
以前、東京に原子力発電所を創ろうという運動があったことを思い出しました。

分散型エネルギーの主張は1980年代にかなり盛んだったように記憶しています。
きっかけはエイモリー・ロビンスの「ソフトエネルギーパス」でした。
シューマッハの「スモール イズ ビューティフル」も話題になっていた頃で、エネルギーにおいても小規模水力発電とかバイオマスが議論されていました。
私も当時、エネルギー問題の研究会をやったりしていましたが、その時に思いついたひとつが、歩行者の多いところで人々が地面を踏む力で発電できないかということでした。
最近、その実験が東京駅で行われるというニュースを聞いて思い出しました。
ソフトエネルギーパス発想ではエネルギー分散も大きなテーマでした。
それは同時に、廃棄物処理に関しても同じで、分散処理が議論されていました。
ともかく当時は、規模の経済ではなく、規模の不経済が議論されだしていたのです。

エネルギーや廃棄物問題だけではありません。
まちづくりにおいても「地域主義」が叫ばれ、地産地消や身土不二が話題になり、コミュニティへの関心が高まっていたように思います。
時代は大きく変わると私は思いました。

しかし、そうはなりませんでした。
バブル経済の進行が、人々の意識を反転させ、大規模経済が力を取り戻してしまったのです。
私は会社を辞めましたが、頭はともかく、身体的にはなかなか価値観を変えることができませんでした。
会社を辞めたのに(私は企業社会からの離脱を宣言したのですが)、実はその社会から離脱はできなかったのです。
そして気がついたら、経済はますます金銭効率主義になり、社会は管理化してきています。
幸いに私の場合は、ライフステージのおかげで、わがままに過ごせましたが、それは単に社会から脱落してしまっただけのことだったのです。
結局はお釈迦様の手から飛び出せなかった孫悟空の思い上がりの話を思い出します。

中国の野菜よりは地元の野菜を食べるようにしたいものです。
フードマイレージを考えれば、一見安価のようですが、結局は高い野菜を食べているのです。
自分でできることは自分で処理する。
そんな「百姓的生き方」を目指すように心がけたいと思います。
中国産餃子毒物混入事件は私たちの生き方への警告かもしれません。
禍転じて福としたいものです。

■日教組集会をつぶした無法者グランドプリンスホテル新高輪(2008年2月2日)
信じられない話ですが、日教組が主催する教育研究全国集会の全体集会が、会場が使えなくなったために、中止になりました。
この事件は、とても大きな意味を持っていると思いますが、マスコミはあまり大きな意味を感じていないようです。
「会場をいったん引き受けていた東京のグランドプリンスホテル新高輪が、右翼団体の街宣活動によって他の客や周辺の地域に迷惑をかけるといって、断った」(朝日新聞社説)結果ですが、
これには報道されているように経緯があります。
日教組は昨年5月にホテルと会場の契約をし、7月には会場費の半額を払ったそうです。
しかし11月になって、ホテル側は上記の理由で日教組に解約を通知しました。
東京地裁と東京高裁が日教組の訴えを認め、会場を使わせるよう命じたにもかかわらず、ホテルはそれを無視し、同じ会場を他の企業に貸してしまったのです。

繰り返しますが、信じられない話です。
偽装問題どころの話ではなく、もっと重大な犯罪です。
契約が無視され、裁判所の命令も無視されました。
経済のルールも政治のルールも無視されたのです。
これはもう立派な犯罪です。しかも極めて悪質だと思います。
もし犯罪として扱われないのであるとしたら、日本はもはや法治国家ではないということになります。

経済のルールを無視されて、財界はなぜ動き出さないのでしょうか。
教師たちの集まりを妨害されて、文部科学省はなぜ動かないのでしょう。
言論や表現の自由が侵されそうなのに、なぜマスコミはもっと早くから取り上げなかったのでしょうか。
右翼の示威行動に警察が無力なのは、なぜでしょうか。

問題はそれだけではありません。
この集会は、各地の教師が集まり、教育にかかわる様々な問題を話し合う場です。
教育が重要だと言っている人たちは、どう考えているのでしょうか。
日教組の集まりは、教育とは無縁だと考えているのでしょうか。

日教組は「教育の敵」という見方があります。
そう見つつも、学校を彼らに預けている文部科学省も卑劣ですが、
そう見られつつも文部科学省に従属している日教組も愚劣です。
その両者の対立が、政治や財界に利用されてきたわけですが、
そんななかで学校教育が問題を起こし続けるのは当然のことです。

日教組に対して、あまり良くないイメージを持っている人も少なくないでしょうが、
ほとんどの人は日教組の実態など知るはずもないでしょう。
そうしたイメージを構築してきたのは、マスコミかもしれません。
このあたりのことを書き出すとまたきりがありませんが、
ともかく今回のグランドプリンスホテル新高輪の行動は許されるべきではありません。
契約は勝手に破棄していい、裁判の命令には従わなくてもいい、というのであれば、社会の秩序は維持できません。

私ができるのは西武系のホテルを利用しないことぐらいでしょうか。
最近はホテルを利用する機会が少ないので、あんまり意味がないですが。

■科学技術信仰の高まり(2008年2月3日)
環境問題は科学技術の発展によって解決すると考えている人が増えているようです。
昨日発表された内閣府の「科学技術と社会に関する世論調査」によると、6割以上の人が「社会の新たな問題は科学技術で解決される」と考えています。
4年前の調査に比べてなんと3割近い上昇だそうです。
科学技術信仰がまた戻ってきているようです。
30年前を思い出します。

イリイチは、地域に根差した自律的な生活(ヴァナキュラーな生活)とそれを可能にする暮らしの基盤(サブシステンス)を近代市場経済が壊してきたと言っていますが、科学技術は近代市場経済のパートナーでした。
ですから、近代西欧科学技術は産業のジレンマと同じ構造を持っています。
科学技術の発展が新たなる課題を生み出しつづけるというジレンマです。
しかも、その課題は次第に人間のリズムとは無縁なものになり、人間のための科学技術がいつの間にか、科学技術のための人間という倒錯した関係を生み出していきます。
最近の日本はすでにそうした状況に入っているように思います。

私は、「社会の新たな問題は科学技術で解決される」などとは思っていません。
むしろ、「科学技術は社会の新たな問題を生みだす」と思っています。
もちろん、ある意味での解決は、科学技術がしてくれるでしょうが、それ以上の課題を生み出してしまうことの方が問題です。
ですから、イリイチが言うように、私たちは、ヴァナキュラーな生活、つまり大地に根ざした生活を取り戻すことが大切だと考えています。
そうした生活を通して、私たちの暮らしの基盤が再構築していけるかどうかが課題です。

だからと言って、科学技術を否定するつもりは全くありません。
その効用は決して小さくはないからです。
問題は誰が科学技術の主人になるか、つまりテクノロジー・ガバナンスです。
そこがしっかりしていないと、科学技術は無限に暴走しかねません。

そんな関心から、暮らしと技術を考えるサロンというのをやっています。
関心のある方がいたら、ご連絡ください。
次回は「原発問題」を考えてみる予定です。

■食事時間は生存のための必要時間でしょうか(2008年2月4日)
餃子中毒事件は私たちの食のあり方、あるいは生き方に大きな問い直しを求めているように思います。
単なる冷凍食品の安全性の問題と捉えるべきではありません。

食は生命の基本ですが、それを私たち日本人は海外に委ねてしまったということです。
動物園で飼育係から餌をもらって生きている動物と同じ状況と言うべきでしょう。
私たちにはその認識が全くないのが問題ではないかと思います。
第二次世界戦争が始まった時に、上野動物園の動物たちは、餌の中に毒物を入れられて「始末」されたという話を読んだ記憶があります。
記憶違いかもしれませんが、なんだか現在の私たちと似ているような気もします。
もちろん今回は毒物を入れられたわけではありませんが、そうしたことが警告されているような気がしてしまいました。

いま手づくりの食事を食べている人はどのくらいいるのでしょうか。
食材まで含めれば、ほとんどの人は顔も知らない人たちの作ったものに依存しています。
それを不安に思う人はあまりいません。
それが当然だとみんな思っているのです。
しかし、つい100年ほど前まではそんなことはありませんでした。

自分たちで作った食材を使って自分たちで料理しようというつもりもありません。
わが家は極力そうしてきましたが、そうするかどうかは考え方の問題です。
しかし、せめて今のように食材や食品を経済の論理に任せて、無節操に国外に求めるのは考え直すべきではないかと思います。
私たちの暮らしの安全と言う意味もありますが、それ以上に、たとえば移送に伴う環境負荷の増大、生産地の食糧事情への悪影響などの問題も大きいと思います。

念のために言えば、中国産が危険だと言うわけではありません。
食材を過度に海外に依存すべきではないと言う話です。
食料自給率が時々問題になりますが、それは私たちの生活の自立度であり、国家の自律性の問題でもあります。

この事件から私たちは何を学ぶのか。
問題の発端は私たち自身にあることを自覚すべきではないかと思います。
食生活のあり方を見直すことから、それは簡単に始められるのですから。

■ネット社会の恐ろしさ(2008年2月5日)
昨日、このブログへのアクセスが急増しました。
このブログは毎日200〜300のアクセスなのですが、1000件を超えるアクセスがあったのです。
不審に思って調べてみたら、ニフティの「旬の話題ブログ」に選ばれて、ニフティのトップページで紹介されていることがわかりました。
紹介されたのは、挽歌編の「誰かに褒められたいからがんばれる」でした。
いささか不満ですが、それにしてもこうしたところに取り上げられるとこんなにもアクセスが増えるものなのですね。

不満と書きましたが、2つの意味でちょっと残念でした。
まずはよりによってなぜこの記事が選ばれたかです。
挽歌編はそもそも読者相手ではなく、自分に向けた鎮魂歌であり、私たち夫婦を知っている人にだけ読んでもらえればと思っています。
どうせ選んでくれるのであれば、時評編から選んでほしかったです。
ほとんどは独善的で意味不明かもしれませんが、時には我ながらよく書けたと思う記事もあります。
まぁ最近は不発が多いですが、それでも今回取り上げられた記事よりは読んでほしい記事はたくさんあります。
でもそれらはきっと面白くないのでしょうね。

2つ目の不満は、「いちげんさん」には私のブログは向いていないですから、真意を受け止めてもらえないだろうという気がすることです。
いちげんさんでなくとも、真意は伝えられていないかもしれませんが、まあ何回か訪ねてきてくれていれば、私の癖が分かってもらえるような気がします。
もっと簡単に言えば、本当は「いちげんさん おことわり」と言いたいところなのです。

このブログの時評版は中途半端です。
最近、私もいろいろなブログを読ませてもらい出したのですが、実にしっかりしたブログがたくさんあるのに驚いています。
私の時評などは所詮は思いつきでしかありませんから読んでもらうほどのこともないという気になります。
しかし、このブログの良さは、ゾーエとビオスの両方が見えていることと実際にいつでも会いますと素顔を見せていることだと思っています。
ですからいいかえれば、あんまりたくさんの人に一元さんとして立ち寄ってほしくないわけです。

1年ほど前に、一度同じようにアクセスが急増したことがありますが、その時もきっとどこかで紹介されたのですね。
しかし、そのアクセスは2日で元に戻りましたから、定着した人はほとんどいなかったわけです。私にとっては、全く意味のない事件だったわけです。

ネット社会の恐ろしさを少し実感した気分です。
ともかく「振れが大きい」社会なのでしょう。
その振れに振り回されている人も、きっといるのでしょうね。
ネット社会では、これまでとちがって非連続な状況になれていかないと駄目なのかもしれません。
私には向いていません。
困ったものです。

■食事時間は生存のための必要時間でしょうか(2008年2月6日)
昨日、餃子事件に関連して食について書きましたが、思い出したことを書きます。

ある会で「人間が自由に使える時間をどう使うべきか」という議論がありました。
生存のために必要な睡眠と食事時間を外すと1日15時間、とある人が説明し出したら、異議が出されました。
食事は必要時間ではないのではないか。
みなさんはどう思われますか。

食は栄養補給の意味もありますが、それ以外の意味がたくさんあります。
家族一緒に食べる食事は家族をつなげる場でしたし、友人との会食は心を開いたふれあいの場でした。
子どもにとっては、それはまさに「教育」や「マナーを学ぶ場」でもありました。

しかし最近は、家族が一緒に食事をするのではなく、食べるものも時間も別々という家庭も少なくないようです。
子どもたちのお弁当も、いまやコンビニ弁当というような話も聞きますし、今回の報道でも冷凍庫にお弁当用の冷凍食品があふれている風景がしばしば流れていました。
なんだかとても心配になってしまいます。
餃子に農薬が混入されたことよりも,こうした食の実態こそが問題なのではないかと思うほどです。
みんな食の効用を忘れてしまっているのではないでしょうか。

もっと食を楽しむ余裕をもてないものか。
テレビで、餃子はまた手づくりにしますと答えていた人がいましたが、調理も含めて食は私たちにとって生存のための時間ではなく、生活文化そのもののような気がします。
食のあり方のなかに、私たちの文化の本質が秘められているような気がします。
今回の事件は、そうしたことを私たちに問題提起してくれたように思います。

■アメリカの大統領選挙への関心の高さはマスコミだけ?(2008年2月7日)
この数日のテレビの報道番組は、中国産餃子の話とアメリカ大統領の予備選挙でもちきりです。
ガソリン税も道路問題も、年金の話も、その陰に隠れてしまった感じがします。

餃子の話は、あまり進展はなく、毎日同じようなニュースです。
切り口を変える局が一つくらいはあってもよさそうですが、どこも同じです。

アメリカの予備選挙は、私自身はよくわかりません。
しかしアメリカの大統領選よりも、日本の首相の問題をもう少し取り上げてほしいと思っています。
毎日の首相の記者会見はあまりにもひどすぎると思うのですが、テレビではほとんど問題にされていません。
絵にならないからでしょうか。

それにしても連日のアメリカ大統領選の報道は、国民の関心とずれているような気がします。
民意とずれているのは、政治家だけではありません。
マスコミこそがずれているのかもしれません。
それが政治家の民意離れにつながっているようにも思います。
国民の関心は、アメリカではなく、日本国内にあるように思いますが、そう思うのは私だけでしょうか。

■私の生き方(2008年2月8日)
バタイユという変わり者の思想家が、ある本でこう書いているそうです。
「私は、悪意のある人にはほとんど語りかけておらず、そうではない人たちに私のことを見抜いてくれるように求めているのである。友愛の目さえ持っていれば、かなり遠くまで見ることができる。私は説教師の本を書いているのではない」

何だかトゲのある文章ですが、とても共感できます。
私は本を読むときに、自分が共感できるところだけを理解しているような気がします。
本は自分の中にある思いを具現化したり気付かせたりするだけのものなのかもしれません。
集合的無意識の世界で、人の知識や情報はすべてつながっているとしたら、そう考えてもおかしくはありません。

このブログの内容はかなり独断的であるばかりか、論理的にも破綻していることが多いと思います。
ですから、論理的な説明や、現実的な可能性を問われると応えられないのです。
時々、メールや電話をいただきますし、ブログへのコメントももらいますが、しっかりした質問に答えられないこともあります。
困ったものです。

昨日、こんなコメントをもらいました。
そこにも簡単に答えましたが、とても重要な問題なので、あえてここでも書かせてもらうことにしました。

>その発想は、どうすれば実現できるのでしょうか?
>正直に言って、全くの机上の空論としか思えないのですが…。

ご指摘のように、このブログで書いてあることのほとんどが机上論なのです。
ただあえていえば、そのほとんどが私の生活にはつながっているのです。
ですから私には「空論」ではなく、「実論」なのです。
そして、その発想を実現するのは「自分サイズ」で考えると簡単なことなのです。
「やればいい」のですから。
一挙にはできないとしても、その方向に向かって一歩踏み出せばいいのです。

「空論」と思う人には、それは確かに「空論」です。
しかし「空論」であろうとやってみようかと思う人も、いるかもしれません。
そうして歴史は変わってきた、と私は思っています。
歴史は変えるものではなく、変わるものかもしれません。

私の好きな西部劇に「荒野の7人」という映画がありますが、そのなかでスティーブ・マックィーン扮するヴィンが、こんな話をします。
裸でサボテンに抱きついた男がいる。なんでそんなことをしたのかと訊いたら、その時はそれが良いことだと思ったんだ、と答えた。
大学生の頃から、このせりふが好きでした。

良いと思ったことに向かって少しずつ生活を変えていくことは誰にでもできるはずです。「少しずつ」というところがみそですが。
それがみんなに広がるかどうかは分かりませんが、100匹目のサルという話もあります。
10年では実現不可能でも、100年では実現できるかもしれません。

要は、できるかどうかではなく、やるかどうか、です。
それも、「やらなければいけないかどうか」のではなく、「やりたいかどうか」です。
それが私の生き方でした。そして今もそれをできるだけ大事にしています。

開き直ったようで、すみません。

■日本相撲協会の対応は「組織の常識」かもしれません(2008年2月9日)
時津風部屋の力士急死事件は、知れば知るほど驚きが増しますが、相撲界に通じている人のテレビでの話を聞くと、こうした事件は以前にも起きていた可能性が高いようです。
過去の事件を調査することも話題になってきているようですが、どう広がっていくのか、いささかの不安を感じてしまいます。
もし今回のような事件が、これまでもあったとすれば、相撲業界と暴力団はどこが違うのかわからなくなりかねません。

組織内での暴力行為は、これまでの多くの組織原理に内在する必然的な結果ではないかと思います。
最近、さまざまな暴力問題が顕在化しつつあります。
家庭内のDV、企業内のセクハラやパワハラ、あるいはメンタルヘルス問題や過労死など、これまで組織内で隠蔽されていた暴力行為(構造的暴力や精神的暴力も含めて)が社会問題化されてきているのは、情報社会といわれる社会変化のひとつの結果だと思います。
もっとも情報社会は次の段階に進むと情報管理の時代に入り、オーウェルやザミャーチンの描いた社会の到来になります。
このささやかなブログを通しても、そうした社会の傾向を私自身生々しく実感できます。
管理社会を推進していくのは庶民であることもよく分かります。
この問題はとても興味深い問題です。

最近の食品偽装の問題も、ある意味では組織内暴力行為の一つの現れです。
最近の組織の多くは「人を活かす」のではなく、「人を壊す」場になってしまっています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/11/post_dc37.html
主役は「人」ではなく、「組織」や「制度」で、人はそれらに使われています。

私は、組織を「一人では実現できないことを複数の人が集まって実現する仕組み」と考えています。
問題は、組織に関わる複数の人たちの関係です。
その人たちが、「集まった」のか「集められた」のかの違いと言ってもいいかもしれません。
最近の人々は、組織を「一人では実現できないことを複数の人を集めて実現する仕組み」と考えているような気がします。
もちろんそれも「組織」の一つのあり方です。
この300年の世界は、そうやってつくられた組織が主流になってきた歴史だったかもしれません。

いずれの組織にするかが、本当の意味でのコーポレート・ガバナンス問題だと思いますが、昨今のコーポレート・ガバナンス論は「集めた人たちの組織」が問題にされています。

話が広がりすぎていますが、組織には「実態を見えるようにする効用」と「実態を見えないようにする効用」があります。
これまでの組織は、後者の効用の上に組織を成り立たせていました。
しかしこれからは前者の効用を活かしていくことが大切でしょう。
そこから発想すれば、新しい組織原理が生まれ、企業不祥事がなくなるばかりか、組織は生き生きしてくるでしょう。
そうなっては困る人たちが、組織原理を変えないようにがんばっています。
その動きに一番加担しているのは、「集められた人たち」かもしれません。
そこにこそ「集められた意味」があるのです。

日本相撲協会の対応は社会の常識には合っていないように思えますが、実は近代の組織の常識には合っているのかもしれません。
この事件を契機に、私たちが属している組織のあり方に関しても、また組織との付き合い方に関しても、ちょっと考えてみるのもいいかもしれません。
生き方が変えられるかもしれません。

■フェアショッピング(2008年2月10日)
油高騰で生活用品がじわじわと値上げしているようです。
私も最近は時々買い物に行くのですが、確かに値上げ傾向を感じます。
デフレからインフレへと経済の基調が変わろうとしているのでしょうか。
しかし私にとって不思議なのは、日によって商品の価格がかなり違うことです。

我が家の近くに、ライフというスーパーがあります。
そのお店はポイント制度があるのですが、日曜日はそのポイントが3倍になります。
土曜日はお菓子類が1割引きになり、水曜日には冷凍食品が4割引きになります。
曜日に限らずに、日によって特売品があります。
たとえば昨日はいつもは200円近くする白砂糖が99円でしたし、めったに安くならないヤクルトが1割以上安かったです。
こうしたことは多くのお店でやっているのですが、なぜ日によって同じ物が安くなるのか、それが私には昔から納得できません。
顧客サービスであるとともに、顧客を集め拡売する狙いをもった販促方法だということでしょうが、どこかに違和感があります。
それに4割引でも売れる商品の価格設定には不信感さえ持ちます。

日によって値段が違う、割引率が違う。
この販促戦略は今のような経済環境のなかで効果的なのか、という問題ではなく、そういう価格設定の考え方に問題はないのか、という話です。
答えは明確で、お店にも顧客にもメリットがあり、現在の経済の枠組みの中では、問題はないでしょう。
しつこいですが、にもかかわらず、私には納得できないのです。
豊作になったから野菜の価格が低下するというのも納得できませんし、不作だから高くなるというのも少し違和感があります。
阪神が優勝したから大特売といったものは、まあお祭り的な蕩尽行為ですから賛成できるのですが、その場合もむしろ高く売るべきではないかという気もします。
お祭りには物の値段は高くなるのが普通です。
価格を安くして販売を増やすというところに、私はなぜか抵抗があるのです。

それと全く違った価格戦略をとっているショップがあります。
100円ショップです。
そこに並んでいる商品は、いつでも100円です。
日によって変動することもありませんし、割引されることもまずありません。
それ以上に、コストとも関係なく、みんな100円なのです。

長々と書いてきましたが、特売とか割引制度というのは損をしたり得をしたりすることがあるので、フェアではないと思うのです。

むしろお金のある人には高く売り、お金のない人には安く売るというのであれば、納得できます。
めちゃくちゃな議論のように思われるかもしれませんが、消費税の設定の仕方でそうしたことは組み込めるでしょう。

何を言いたいのかわかってもらえないかもしれませんが、要は今の価格設定の考え方を変えたらどうだろうかと言うことです。
100円ショップの成功には、そのヒントの一つがあると思います。
ブランド商品の価格設定もヒントになるでしょう。
経済は新しい局面に入りだしています。
安ければ良いわけでもなく、安くすれば良いわけでもありません。

しかし現実に買い物に行くと、割引されているとついつい買ってしまいます。
頭では違和感をもちながらも、実際には私もまたそう動いてしまうのです。
特売品は、それを必要とする人に残しておくべきだと思うのですが、買ってしまうのです。
自分のいやしさがいやになりますが、自然とそうなってしまいます。
フェアショッピングは難しいものです。

■岩国市民は米軍機を受け入れたのでしょうか(2008年2月11日)
米軍再編計画への対応を争点にした昨日の岩国市の出直し市長選挙は、米軍空母艦載機移転を容認する新市長が当選しました。
76%という高い投票率でした。
思い出したのが、アメリカのネイティブに伝わるという「7代先の掟」です。
彼らは何か重要な問題を決める時に、7代先の人たちにとって良い結果をもたらすかどうかを基準にするといいます。

7代先はともかく、岩国の人たちは自分たちの子どもや孫のことを考えて、この決断を下したのだと思いますので、その結果を部外者である私がとやかく言う資格はありませんが、反対を唱えていた前市長との票数が僅差だったことがとても気になりました。
決断が難しかったことを感じますが、補助金などをちらせながらの政府や経済界の働きかけが容易に想像されますので、それが気になるのです。
移転反対なら新市庁舎建設金の補助金も交付しないという国のやり方には、何が何でも強行採決という政府与党と同じ姿勢を感じます。
「お上」の発想です。
それがどうも気になります。

一昨年、補助金問題が出る前の住民投票の結果は、移転受け入れ反対でした。
それに対して国がやったのは補助金停止でした。
お金で考えを変えさせる文化の広がりには恐ろしさを感じます。
格差社会づくりは、そうしたこととつながっています。

国策に抗うことは、大きなエネルギーを要求されます。
情報量も資金量も全く違うからです。
同じ国策に関わる与党と野党の間でもそうですから、国と自治体の構造でいえば、その格差は明らかです。
自治体は、所詮は国家から「分権」された下部機関でしかありません。

大阪府の橋下知事は、岩国市の住民投票について、「国の防衛政策に地方自治体が異議を差し挟むべきでない」と批判したそうですが、自治体の知事がこういう発想なのですから、推して知るべしです。
お金万能で育った世代、つまり権力依存世代が社会の中心になって来ているのです。
しかし、住民投票を否定して自治は成り立つはずがないと私には思えます。

今回の選挙は、岩国市民だけの話しではなく、私たちみんなの話かもしれません。
日本の社会の構造と方向が象徴されているような気がしてなりません。
何もしなかったことを悔いています。

■南大門の全焼崩壊は見えますが、見えないものの崩壊も気になります(2008年2月12日)
ソウルの南大門の全焼崩壊は衝撃的でした。
タリバンのバーミヤンの大仏破壊も衝撃的でしたが、こうした人類の遺産が消えてしまうことは、どうしてこんなに衝撃的なのでしょうか。
ソウルの南大門もバーミヤンの大仏も私とはなんのつながりもないはずですが、きっとどこか集合的無意識などといわれるところで、つながっているのかもしれません。
私の場合だけかもしれませんが、こうした歴史的遺産が失われると、私たち人類が営々として積み重ねてきた文化が立ち消えてしまうような、そして未来が変わっていくような、そんなおののきさえ感じます。

しかし、そこでいつも考えるのは、人類が残してきたものは、こうした目に見える建造物だけではなく、目には見えず、もしかしたら誰もが意識さえしていないような「文化」や「知恵」がもっとたくさんあるということです。
そして、そういう文化や知恵や仕組みが、最近、急速に失われているような気がしてなりません。
そうしたことは南大門と違い、消失したことがなかなかわかりにくいばかりでなく、南大門以上に修復が難しいように思います。
消失したことさえ、気づかれないわけですから、修復などという動きはなかなか出てきません。

しかし、歴史上、そうやって滅んでしまった文化や社会は決して少なくないでしょう。
最近の日本の社会を見ていると、なんだかとても大切なものが気づかれないままに失われているような気がして仕方ありません。
50年後の日本が末恐ろしい気もします。

岩国の投票結果、沖縄の不幸な事件、東京足立区の悲惨な事件、それらがすべて、そうしたことと無縁でないような気さえしています。
南大門の全焼崩壊は、決して他人事ではありません。

■統計データのまやかし(2008年2月14日)
話題の「10年間・59兆円の道路計画」は、2002年の交通量の推計値を基に作成されたそうです。
民主党議員の追及(その需要予測を下回る最新データの存在を指摘)に対して冬柴大臣は「(最新のデータは)まだ途中段階のもの。我々は完成した最新のデータで(道路計画を)作っている」と述べたそうです。

これはあまり大きな話題にはなっていないようですが、その意味はとても大きいように思います。
どのデータを使うかによって、実は先行きの見通しは「いかようにも」変えられます。
データでの説明は、さも客観的・科学的に見えますが、まやかしが入りやすい世界でもあります。
しかも、これまでこの種のデータは官僚がほとんどおさえていました。
官僚の力の源泉のひとつが、このデータ独占でした。
彼らは自分に都合のよいようにデータを編集して自説を合理化してきたのです。

近代国家の権力体制を構築する上で、統計学の果たした役割は極めて大きかったことはよく言われます。
統計学は、一見、政治のにおいのしない客観的学問のように考えがちですが、統計学こそ政治学の起点だったといってもいいでしょう。

民主党議員には、恣意的にデータ操作する官僚文化をもっと攻めてほしかったと思います。
そして、その官僚文化に乗って、手玉に取られている政府の議員にも、その事を気づかせてほしかったと思います。

もっともらしいデータが出てきたら、私はまずその言説を疑うようにしています。
多くの場合、そのデータは、逆に読めることも少なくありませんから。

■情報は生きており、自己創出していく(2008年2月15日)
情報について、もう1回書きます。
なかなか書きたいことまでたどりつかないからです。

最近感じていることなのですが、情報は生きているということです。
つまり情報は固定化されることがありません。
当たり前ではないかと言われそうですが、それがあまり意識されていないような気がしています。

情報は表現されたとたんに進化し変化します。
ある人から別の人に伝達されると、間違いなく、その情報の送り手にとっても、受け手にとっても、情報は変化します。
それだけではなく、情報そのものも大きく変化します。
そうして情報は常に変化する、つまり生きているのです。
しかも、情報そのものがパワーを持ち出します。
そして現実を変えながら、自らを変えていきます。
今回のアメリカの民主党の予備選挙は、そのことをはっきりと示しています。
その動きには恐ろしさを感じます。

情報は自己創出力をもっています。
ある閾値を超えると、おそらく情報を管理することは不可能になるでしょう。
もしかしたらヒトラーは、そうした自己成長力を持ち出した情報が生み出した存在だったのかもしれません。
みんなが生み出した幻像だったわけです。
「ヒトラー最後の7日間」の映画は、そのことを感じさせてくれました。
そうでなければ、あれほどの非人間的な行動ができるはずがなかったのではないかと思いたくなります。
また話が長くなってしまいました。
今日はここまでにします。

■現場から沸き上がる生きた情報活動への期待(2008年2月16日)
しつこく情報の話です。
もうあきたといわれそうですが、書くほうもあきましたが、今回は意地でも最後まで書くことにしました。

日本の話ですが、民主党は、なぜ国民大衆に呼びかけないのでしょか。
小泉元首相のようなやり方が、国民大衆に呼びかける唯一の方法ではありません。
もう少し知的に誠実に、そしてなによりもフェアに、呼びかけることはできるはずです。
それは国民の現場に入ってくることです。
現場に入っていくことで、生き生きした現場の情報に立脚した情報の創出ができるはずです。
その情報が自己成長力を持ち出せば政治状況は一変できるかもしれません。

政治家が、政治家の狭い世界でいくら対立していても、事態は動き出しません。
もし本当の信念があるのであれば、政治家は国民大衆の中に入ってこなくてはいけません。
いまの政党は、与野党を問わず、国民の現場を見ていないばかりか、現場への呼びかけに無関心のような気がします。
なぜなのか、そこに日本の政治の本質があるような気もします。

あれ?
これが意地でも書きたかったことだったのかな、ちょっと違うような気がします。
4日前に書き出した時には、もっと違ったことを書きたいと思っていたような気がしますが、書いているうちにそれが何だったかわからなくなってしまいました。
横道にそれてばかりいたせいかもしれません。
困ったものです。
ただ何となく「情報社会」の本質が、あまり議論されていないのが、ずっと気になっています。
また書きたいことを思い出したら、今度こそ、1回で書くようにします。

■「人の距離が近くなるほど言えなくなる」(2008年2月17日)
情報に関する記事に関して、こんなコメントをもらいました。
現場で見事な活動を長年されている方からです。
一部だけですので、真意は十分に伝わらないかもしれませんが、引用させてもらいます。

「情報構造が大きく変わってきている」のでしょうか?
本当に、「情報力が一番大きくなるのは現場」なのでしょうか?
そう思って、やってきたのです。
でも、現場は、国や自治体の無策や詐欺行為に翻弄されて、あまりにも“疲れ果てさせられている”ような気がします。

それが現実だと私も思います。
その疲労感に対して、元気を与えるコメントできないのが残念です。
でも、それにも関わらず、この方はめげずに活動を進めています。
前に進むしかない、たぶん方策はないのです。

同じ方から、以前、もらっていた話も紹介させてもらいます。
現場の疲労観がさらにわかってもらえると思います。
この方は、ある市の介護関係の委員会の委もされています。

会議の都度に、自分の声が、段々大きくなっていくのがわかります。
…でも、あんまりなんです。
霞ヶ関の、雲しか見えない部屋で議論している「介護」から、面つき合わせて相対している私達とでは、かなり「言葉」が異なります。
だって、「銭が無いからゴメンな!」という言葉は、人の距離が近くなるほど言えなくなるのですから。
「あぁ、そうね! 見捨てられん! じゃぁ、ボランティアでやらんね!」と、
平然として言える感覚は、少なくとも現場にはありません。

「人の距離が近くなるほど言えなくなる」
現場に足を踏み入れた人でなければ、実感できないことなのかもしれません。
私たちにいま必要なのは、「人の距離」をなくしていくことなのかもしれません。

■子どもを育てる前に、自分を育てたほうがいい(2008年2月18日)
文部科学省が発表した学習指導要領の改訂版が議論をよんでいます。
中途半端なせいか、教育基本法を変えたことに対する賛成派も反対派も、いずれもあまり良い評価を与えていないようです。

教育問題に関していつも思うのは、いま必要なのは、子どもの教育ではなく、大人自らの生き方の見直しではないかということです。
子どもは詰まるところ親の生き方から自由ではありません。
もし「愛国心」や「道徳心」をもつ人間に育てたいのであれば、親がそうした生き方をすれば良いだけの話です。社会への視野を広げたいのであれば、先ずは自らがそうしたらいいだけの話です。いじめられたりいじめたりすることから自由にさせたいのであれば、先ずは親がそうした生き方を貫けばいいのです。

もちろん、それで問題がすべて解決するわけではないですが、その出発点をおろそかにして、他人事に教育問題を語るべきではないでしょう。
自分の生き方が、次の世代の生き方につながり、それが結局、自分に戻ってくる。
そのことを毎日実感しています。
そうしたことにもっと早く気づいていたら、私の生き方ももっと違ったものになっていたかもしれません。

すべてが自分から始まっていることを、私たちはもっと自覚したほうがよいように思います。

■ちょっといい話を創る生き方が大事ですね(2008年2月19日)
妻への挽歌をいつも読んでくださっている方が、先日の「小さな不要のもの」を読んでメールをくれました。

このお話に感動しました。すばらしい方がいらっしゃりますね。人間嫌いといいつつ、やはり人恋しくなるのは、こんな人が本当はいっぱいいらっしゃるからなのです。でも社会としては、多くはないのでしょうか。

そしてこんなことも書いてくださいました。

スーパー等で買い物をするとき、賞味期限の近いものから買いますとおっしゃった女性がいます。すぐに食べられるのだから、期限切れになりそうなものから買えば、その他のものの捨てられる可能性が低くなり、環境にもやさしいし、ムダも(社会の!)省けるからと。子供は、古いものを買うことを不思議がりましたが、今はなんだか尊敬してくれているようですと、とても嬉しそうにおっしゃっていました。
考えてみれば当たり前のことですが、なかなか実践されていません。ぜひ、佐藤さんのプログ等で、こんな感動を多くの人に伝えてください。怠惰な私も、すこし前進できそうですから。

たまたまこのようなことを時評版にかいたところなのですが、我が家では残念ながら娘たちの尊敬は受けられませんでした。すぐに使うものに関しては、そうしているようですが、保存するものに関しては保存期間が多いほうが逆に無駄にならないというのです。確かに、一概に言える話ではありませんが、この発想は大事にしたいものです。

こうした「ちょっといい話」はいろいろあるのでしょうね。
テレビや新聞は、こうした話をもっとどんどん広げていってほしいものです。
そういえば、このブログも、以前ある人から、いつも悪い話ばかりではなく、楽しい話やうれしい話も書いてほしいとアドバイスをもらったことがありました。
私自身も、少し話題をいい話に向けないといけませんね。
もし見つからなかったら、自分で創ればいいのです。
他人事ではありませんでした。
創れるように生き方を変えなければいけません。

■伊奈輝三さんの生きざま(2008年2月20日)
昨日、記事を書いた後、なにか感動的な話を最近見聞していないか考えてみました。
そういえばと思って、探し出したのが日曜日の朝日新聞の「ひと」欄にでていたINAX名誉会長の伊奈輝三さんの話です。
伊奈さんは伊奈製陶からINAXへの社名変更を推進し、事業戦略や企業文化そのものを大きく変えた社長でした。
私が東レ時代にCIに取り組んでいたのと同じ時期に展開していましたが、その取り組みは見事でした。
私は会社を辞めた後、3か月、朝日ニュースターというCSテレビで、経営者にインタビューする番組をやったことがあります。
経営者10名ほどに会いましたが、一番感銘を受けたのが伊奈さんでした。
どこに感銘を受けたかというと、その生き方と考え方でした。
とても大企業の社長とは思えない、心の余裕がありました。
CWSコモンズで一度書いたことがありますが、私が犬を飼い出した時に、年賀状で「息子ができました、但し犬ですが」と書いたら、電話で「ほんとに犬なの」と訊いてきたことを思い出します。
そんな人でした。

その伊奈さんが、いま、地元の常滑市に開港した中部国際空港で案内ボランティアをやっているということが、「ひと」欄で紹介されていました。
学生や主婦などとまじって面接まで受けて、案内ボランティアとして受け入れられ、3年前からやっているのだそうです。
昨年秋には、すべての公職を返上し、偉い人扱いの一切ない、ボランティアを楽しんでいるそうです。
伊奈さんであれば、正真正銘、そうだろうなと納得できます。
海外旅行から帰ってきた昔の知人に会って、驚かれることもあったそうです。

ボランティア仲間の元会社員の人は、その記事の中でこう言っています。
「肩書や地位にしがみついていては、ボランティアはできない。うちの社長じゃ無理」。

社長の謝罪風景ばかり見ている昨今、私にはとても気持ちが明るくなる話でした。
こういう人にこそ、企業の経営を任せたいものです。

■「私たちの子どもたちの世代は、私たちよりも幸せになるでしょうか」(2008年2月21日)
先週、茨城NPOフォーラム2008でお話をさせてもらいました。
冒頭、いつも繰り返している質問をさせてもらいました。
「私たちの子どもたちの世代は、私たちよりも幸せになるでしょうか」
100人近い方が参加されていましたが、ほとんど手は上がりませんでした。
いつも体験することですが、年々、手の上がり方が少なくなってきています。
寂しいことです。
社会はあまり良い方向には向いていないのかもしれません。

「軍縮問題資料」3月号の対談で、辻井喬さんと澤地久枝さんがこんな会話をしています。
澤地 亡くなった鶴見和子さんにしても、希望を捨てちゃいけない、と言っておられたけれども、「もう日本はダメよ。私は死ぬからいいけど」っておっしゃってましたよ。
辻井 それを言うのは我慢して、我慢して・・・待て待て、それを言ってしまったらおしまいよ、と。責任はこっちにもあるんだから、と言って、何とか留まることにしているんですけど。
澤地 はい、私もやはりお役目だから、話すのが好きでもないし得手でもないけれど行って話をしますね。絶望を語るわけにはいかないから、何とかやっぱりみんなで一緒にやって行きましょう、って話をする。でもたいていその夜は落ち込みます。

社会の劣化の基本にあるのは、コモンズの喪失ではないかと思っています。
それが、私が共創型のまちづくりに取り組んだり、共創型支えあいの輪づくりに取り組んだりしている理由なのですが、この20年、むしろ社会の劣化、コモンズの崩壊はさらに進行しているような気がして、滅入ることが少なくありません。
たしかに現場では、新しいコモンズの動きはありますが、それと社会全体とのつながりがなかなか生まれないのです。
現場の地道な活動が、いつか社会を大きく変えていくしかないのかもしれません。

■異質な世界への感度の喪失(2008年2月22日)
私が大学を卒業した年に制作された映画「3匹の侍」を久しぶりに観ました。
「7人の侍」のように、なぜこの映画は西部劇にならなかったのだろうかと思っていたのですが、侍とは農民だったということが基調にありすぎるために無理だったのだと気づきました。ちょっと自分勝手な解釈かもしれませんが。

あらすじはこうです。
ある村で代官の厳しい取立てで疲弊した百姓が、参勤交代で村を通る領主に直訴しようということになり、それを邪魔されないように代官の娘を人質に取ります。
百姓などの世界に触れたことの全くない娘は、そこで自分を犠牲にしても支えあっている百姓たちの世界を垣間見ます。食べるものがないのに、自分たちは食べずに人質の自分には食べ物を提供していることに気付くのです。
そしてそうした百姓たちを、自らの生命を賭してまで味方する武士に惹かれてしまうわけです。
結局、武士は捕らえられ、直訴を企てた百姓の代表たちは刺客によって殺されてしまいますが、武士は代官の娘によって助けられます。
まあ、こんなあらすじですが、百姓たちの現場に触れることで、生き方が変わってしまった代官の娘が、その後、どうなっていくのか気になります。

最近の情報社会では、さまざまな世界が自分の世界の中にいながらにして見ることができます。
北朝鮮のこともチェチェンのことも、六本木族のこともホームレスのことも、テレビが映像で見せてくれます。
私たちは、代官の娘と違って、もはや「そんな世界のことは知らなかった」とはいえなくなってしまっているのです。
しかし、あまりにさまざまなことを知りすぎてしまったために、逆に代官の娘ほどの感受性を失ってしまっているおそれもあります。
あまりにも違う世界は、もしかしたらテレビドラマの世界と同じにしか感じられなくなってしまっているのかもしれません。
そうでなければ、もっとみんなやさしくなっているはずです。

「3匹の侍」に戻ります。
百姓に味方していた侍たち、それが3匹の侍なのですが、彼らは殺された百姓たちが生命を賭けて書いた直訴状を見つけます。そして道端で参勤交代の行列を送っている百姓たちに、それを届け、だれか領主に直訴するように呼びかけます。
しかしだれもそれに応じるものは出てきません。
直訴すれば自らの生命を失いかねないからです。
そのうちに行列は通り過ぎてしまいます。

結局、代官は侍に殺されますが、その農村は何も変わりません。
最後に「結局、勝ったのは百姓だ」と侍たちに言わせた「7人の侍」とは違い、陰鬱な結末です。
2つの映画の製作時期の社会状況が影響しているようですが、この映画はまさに東京オリンピックの年、高度経済成長に向かいだした1964年の作品なのです。
ちなみに「7人の侍」は1954年、まだ戦後状況が残っていた時代の作品です。

感性の鋭い人には表面に現れていない時代の流れの先が感じられているのかもしれません。
いまの時代は、どう見えているのでしょうか。
最近の映画やテレビドラマを見るのがとても恐ろしい気がします。
いえ、事実恐ろしいです。

■「横浜事件」に関する最高裁の姿勢への失望(2008年2月23日)
戦時下最大の言論弾圧事件とされる「横浜事件」の再審は、最高裁での弁論が開かれずに、結局、上告が棄却され、有罪か無罪か判断せずに公判を打ち切る「免訴」とした1、2審判決が確定する見通しになったと今朝の新聞が報じています。
横浜事件に関しては、2審判決の時にこのブログでリーガルマインドの感じられない無機質さに昨今の司法の本質を見ると批判しましたが、それでも最高裁への一抹の期待が在りました。しかし、それも期待はずれだったようです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/02/post_2d50.html

冤罪論争や検察の暴挙が問題になっていますが、そうしたことの根っこがこの事件にあります。
この事件をしっかりと検証し議論することの意味はとても大きいように思いますが、最高裁はそう考えなかったわけです。
手続き的な正当性は吟味しても、当事者たちの人間的な思いには関心がないようです。
免訴になっても、補償はできるからというような話もでてきていますが、当事者にとってはお金の問題ではありません。
そうした当事者たちのいたみを、最近の司法界の人たちは考えもしないようです。
しかし、法の適用は論理の問題ではなく、倫理の問題なのではないかと思います。
倫理不在の論理の展開は責任回避でしかないからです。

司法への批判が高まっていますが、それに対してどうしてもっと司法界は立ち向かおうとしないのでしょうか。
司法改革を標榜している弁護士会から、もっと声が上がってこないのも不思議です。
弁護士は自分が関わらない事件には、口を閉ざすのがルールなのかもしれませんが。

この問題の意味を、私たちはもっとしっかりと考えなければいけないように思います。

■そこのけそこのけイージス艦が通る(2008年2月24日)
19日に起こったイージス艦衝突事故ではさまざまなことを考えさせられました。
事故発生後5日も経過するのに、吉清父子がまだ見つからないことはとても心痛みます。
奇跡が起きないものかと他人事ながら祈っています。

この事件が突きつけている問題はたくさんあります。
テロ対策上の問題や国防上の危機管理体制の問題も議論され出していますし、防衛省の情報隠蔽体質も問題でしょう。大臣の統制力の問題もあるでしょう。
しかし私が一番感じたのは、民と官の意識のあまりにも大きな違いです。
まさに違う世界に住んでいる人たちを見ているような気がしました。
その溝はもはや埋められないところまで来ているような絶望感をもちました。
気持ちの往来が全くといっていいほど感じられません。

事故にあった吉清哲大さんは、毎年、ホームレスの支援団体に魚を届けていたといいます。
金は無いけど魚なら支援できると毎年数回、炊き出しに協力していたそうです。
その話を知った時、なぜか私は涙が出ました。
お金などなくても、できることはたくさんなるのです。
どうして神様は、こう言う人を守ってやらなかったのでしょうか。

哲大さんだけではありません。
同じ漁師町の仲間たちが、漁を休んで2人の捜索を懸命に続けているのにも感動しました。
新聞によれば、
現場まで往復6時間。5万〜7万円に及ぶ燃料代は各自の負担だ。しかも、いまは1年でも大切な漁期。
(中略)
漁港では毎夕、捜索を終えた船が戻るころに親族6人ほどが一列に並んで岸壁に立つ。沖から戻った漁師たちに頭を下げる。22日夕も親族が「どうもありがとうございました」と声をそろえると、漁師たちは「心配いらねい。気にしなくていいっぺ」。
テレビで見た海岸での女性たちの祈りの情景も心に残りました。
事故が起きてから毎朝続けている「御法楽」という儀式だそうです。
その中の一人、雷(らい)孝子さん(74)は、
「うちの父ちゃん(夫)の時も、みんなずっと捜してくれたんだ」
と語っています。
10年前、夫の乗った船が衝突事故にあった時に、漁師仲間が休漁して1週間、真冬の海で捜索を続けたのだそうです。
漁船による捜索で、形見のニット帽が回収されたといいます。

今回の事件の原因は、ただ一つ、「そこのけそこのけイージス艦が通る」という自衛隊関係者を含む「官」の姿勢だと思いますが、それとあまりにも対照的な「民」の世界のあたたかさを見せてもらいました。
そうした日本の民の文化が、官や公や金によって踏みにじられようとしていることがとても悲しいです。

イージス艦「あたご」がたくさんの漁船の存在を知りながら、直進して清徳丸を壊したことは、最近の「お上」がやっていることを象徴しているのかもしれません。

吉清父子に奇跡が起こってくれますように。

■移りゆく現実と動かない現実(2008年2月25日)
一昨日の朝日新聞の「夕陽妄語」で、加藤周一さんが、小田実さんが入院の直前まで、ホメロスの叙事詩「イリアス」の翻訳に取り組んでいたと書いています。
先日亡くなった評論家の高杉一郎さんも晩年に古代ギリシアに強い関心を持っていたそうです。
加藤さんはこう書いています。

高杉一郎と小田実。この2人の同時代人には共通の特徴があった。移りゆく現実に敏感な反応と、動かない現実(たとえば人間の条件)に対する深い洞察。

2人の場合、後者がギリシア文化への関心になっていたというのです。

移りゆく現実と動かない現実。それは対照的に在るようで、実は相補的に在るのだろうと思います。
加藤さんは、ギリシアの古代のどこが現代の発展に役立つかと設問したうえで、ギリシア神話にしばしば現れる、神と人間の争いの構造は、組織と個人が相対する現在の社会的現実に似ているからだといいます。
東北アジアには、そうした「古代」がないが故に、彼らは古代ギリシアに向かわざるを得なかったとも書いています。
これには異論がありますが、その前の対立構造に関する指摘にはとても共感できます。

移りゆく現実と動かない現実。
後者があればこそ、時代の動きが相対化でき、見えてきます。
移りゆく現実に乗ってしまえば、現実は見えなくなってしまいます。
人と人との対立と組織と個人との対立が、これに重なってきます。
加藤さんの文章からは、この両者が対応しているようにも読みとれます。

つまり、移りゆく現実としての人と人との対立、動かない現実としての組織と個人との対立という構図です。
この場合の「組織」の意味が問題ですが、とても示唆に富んだ指摘です。
古代ギリシアにおける神々の組織に代わる新たなる組織、あるいは「神々」が、いままさに生まれようとしています。

ギリシア神話では、神々との戦いは常に人間の敗北です。
新しい戦いにおいては、人間は敗北が避けられるのでしょうか。
小田実がどう考えていたのか、とても興味があります。
イリアスが描くトロイ戦争は神々の代理戦争ですが、それもまた示唆的です。
結局、戦うのは組織ではなく人間なのです。
組織は決して戦いません。組織はどれも深くつながっているのです。
それを忘れてはいけません。

■広告入りの無料のルーズリーフ(2008年2月26日)
最近、広告入りの無料のルーズリーフが大学で学生に配られているそうです。
費用は広告費でまかなわれる仕組みになっているそうで、文房具代を節約できるため、学生の人気は高いそうです。
これを考案した人は、「ルーズリーフは無料でもらえるということがスタンダードになる時代にしたい」と言っているそうです。
みなさんはどう思われるでしょうか。

新聞でその記事を読んだ時には、こういう環境の中で育っていく学生はいったい何を学ぶのだろうかということでした。
昔から「ただより高いものはない」といいますが、その警句は今では通用しないようです。

大学で講義を聞きながらノートをとる時、いつもそこに書かれている企業広告を目にするわけです。
その効果はきっと大きいでしょう。
なにやら恐ろしさを感じます。
それに、学びの道具を無料で提供されるような状況はなにやらぞっとします。
そのうちに教科書も広告つきになるのでしょうか。
先生たちも企業ロゴのついたユニフォームで教えるようになるかもしれませんね。
スポーツやアートの世界は、いまやかなり経済の世界に取り組まれてしまっていると私には思えますが、教育もそうなっていくのでしょうか。

私には、企業ロゴのたくさん入ったウェアを着て走るアスリートの感覚が理解できませんが、人間を広告媒体にしてしまう企業の発想にも驚きを感じます。
どんな立派なスポーツ選手も、企業の広告塔であるかぎり、私には哀れな存在にしか見えません。
私がスポーツ嫌いだからそう思うのでしょうが、彼らは恥ずかしくないのでしょうか。
これは暴言でしょうね。
またみなさんから批判されそうですね。はい。

しかし、子どもたちが集まってくる学校という場は、そういう意味では最高の企業広告の場なのかもしれません。大学から始まって、さらに高校、小中学校と広がっていくのでしょうね。

いずれにしろ、広告をつけることで無料にするという発想に、なにかとても「いやなもの」を感じます。
しかし考えてみると、私自身もそうした「無料」のものをたくさん使っています。
このブログには広告はついていませんが、ニフティの提供する無料の仕組みを使っています。
私がよく使っているメーリングリストの多くは広告つきです。
フリーマガジンも時々読んでいます。

要するに、いまや私たちはかなりの部分を企業に養われているのです。
しかし、結局はそうした私たちが企業の利益の源泉なのです。
「飼われている可哀想な鶏」はアスリートだけではなく、私自身もそうなのです。
いやはや恥ずかしい話です。

人間が鳥インフルエンザにかかるようになったのは、私たちが人間をやめつつあるからかもしれませんね。
これからは広告入りでない有料のものを出来るだけ使っていきたいと思います。
そういうものがあれば、ですが。

■ラルフ・ネーダーのコンシューマリズムは何だったのか(2008年2月27日)
米国の消費者運動家ラルフ・ネーダーがまた大統領選に立候補すると表明したそうです。
彼が起こした1970年代のコンシューマリズムは、私の人生観に大きな影響を与えました。
当時、企業の経営スタッフをしていた関係で、その動きを整理しトップに報告したことがあるのですが、その過程で「消費」という概念の持つ落とし穴に気づいたのです。
当時の彼の主張には共感していました。

そのネーダーはこの数年、毎回、大統領選に立候補しています。
彼の支持層は民主党と重なるため、2000年の選挙では、接戦の末に敗れたゴア副大統領(当時)の敗因を作ったと批判されました。
彼がもし立候補しなかったら、ゴアが大統領になり、イラク侵略は起こらなかったかもしれません。
環境問題への対応も少し変わったかもしれません。
その時から私のネーダーやコンシューマリズムの評価は一変してしまいました。
歴史を創ることはまた歴史を壊すことですが、壊すのは過去や現在ではなくて、未来なのだとやっと気づいたのです。

善意と悪意はコインの裏表です。
各論最適は時に全体にダメッジを与えることがあります。
コンシューマリズムの根底には、ホリスティックな発想があればこそ、私は共感したのですが、どうもネーダーにはそれが欠落しているようです。
善意の乱立こそが、悪意の最大の味方であることを、ネーダーには気づいてほしいです。
善意の乱立が、善意を悪意に転化させることを、いま民主党予備選挙は示しています。
ヒラリーも、オバマも、相手を間違っているような気がします。
アメリカに限りません。
日本のいまの政治状況もまた、まさにそういうことを明確に示しています。

ネーダーにはかつてのように、変革の風を現実的に起こしてほしいものです。

■「必ずしも適切ではなかったと考えております」(2008年2月28日)
「艦長である私に全体の責任はあると思います」
「周辺の状況を理解していないのは問題があったと思います」
イージス艦「あたご」の艦長の記者会見での言葉です。
艦長が吉清さん宅に謝罪に行った時の物腰などから、艦長の誠実さは伝わってきますが、この言葉にはどうも違和感が残ります。

いずれも記者会見でよく聞く言葉のパターンです。
石破大臣が、事件当日に「あたご」の航海長を呼び寄せて防衛省内で事情聴取をしていたことが今日、判明した事に対して、「必ずしも適切ではなかったと考えております」と話していますが、これもよくあるパターンです。

いずれの発言にも「主体としての自分」が感じられません。
観察者の言葉です。
言葉には、発言者の立ち位置が明確に出てきます。
観察者は責任に背を向けています。

こうした言葉は、政治の世界だけではありません。
いまや自分自らさえも、観察者的に見てしまう生き方が広がっているように思います。
その象徴は、いまの福田首相かもしれません。

しかし、その一方で、社会の現場では当事者主権の動きが広がっています。
当事者が自ら動き出してきたのです。
お上依存の民としてではなく、自分の人生を生きるひとが増えています。

世界が二つに分かれ出しているような気がしてなりません。
バーチャルな世界とリアルな世界への方向です。
その跛行現象の先行きに大きな不安を感じます。
私自身は一応、後者に軸足を置いているのですが、前者の世界からのノイズは予想以上に大きいです。

■杉本栄子さんのご冥福を祈ります(2008年2月29日)
新聞の訃報欄で、水俣の杉本栄子さんの訃報を知りました。
ちょうどテレビで原田正純さんの番組がさかんに予告されていたので、杉本さんのことを思い出していたところでした。
と言っても、私自身は杉本さんとは一度だけしかお会いしたことはありません。
お会いしたと言うよりも、ちょっとお話をしただけですが。
杉本さんの漁の船に乗せてもらえるチャンスがあったのですが、寝坊してしまい、チャンスを失してしまったのです。
きれいな水俣湾のきれいな漁場の前にある杉本さんの作業場で美味しいシラスをわけてもらいました。
とても美味しいシラスでした。

水俣病には大きな関心を持っていましたが、私の知識は新聞や雑誌での情報だけでした。
しかし、10年ほど前でしょうか、水俣を案内してもらえる機会に恵まれました。
案内してくれたのは水俣市の吉本哲郎さんです。
吉本さん(当時は水俣市の環境課長でしたでしょうか)の家に泊めてもらい、案内してもらいました。
それまで頭だけで考えていた環境問題は、吹っ飛んでしまいました。
吉本さんの見事な案内で、それまでの私の無機質な「知識」に生命を与えられたような気がしました。
その時の旅のおかげで、私の価値観や生き方は少しずつ変わりだしました。
吉本さんのおかげです。吉本さんにはとても感謝しています。

私にとっては、杉本さんは水俣病の物語のシンボリックな存在の一人でしたが、直接お会いした杉本さんは、まさに生活文化を感じさせる「土の人」でした。
実に生き生きしていました。
「これがあの杉本さんか」という感激よりも、これこそが現場なのだと言う感じでした。
事実は情報の中にではなく、現場にある、ということを、その時に教えられました。
私が水俣病に関してほんのちょっとだけライブに理解できるようになったのは、その時の旅のおかげです。

杉本さんは、水俣病第1次訴訟の原告になり、ご自身も患者認定されました。
水俣病資料館の語り部もされていました。
いつもメルマガを送ってくれる水俣病センター相思社の遠藤さんから、次のようなメールが届きました。

どれほど多くの人が、栄子さんの話を聞いて元気になり、生きる力を授かったか。
大げさな表現ではなく計り知れません。
栄子さんは多くの言葉を残してくれました。
「やっぱ悔しさとかいじめられたこつも、言わんばならんこつもあっとやもんなー。
市民の人たちや全国の人たちが、私たちの話しば聞いたっちゃ、
私たちの話が分かってもらえるのは苦労した人、壁にぶち当たっている人たちやもんな。
そん人たちは『アーこげんした生き方もあっとかいな』と、理解せられるばってんな。
何を求めてここまで私たちに会いに来てくれらっとか。
帰ってから、どげん使おうっちしとらっとやろかっち。
じゃばってん、聞きにくる人はですね、聞きにくる人は求めて来とらっとですから、聞かっとですよ」。
私たちはこれからは生きた栄子さんの言葉を聞くことはできませんが、遺されたその言葉を自分自身に活かしていくことが、栄子さんが私たちに残した課題だと思います。

かみしめたい言葉です。
水俣の教訓から学ぶことは本当にたくさんあります。

杉本さん
ありがとうございました。

■「無駄」という概念は昔からあったのでしょうか(2008年3月1日)
ある組織の事業構造の構造化に取り組んでいます。
あまりにも多岐にわたり、数も多いため、事業全体が見えなくなっているので、可視化しようと考えたのです。
予算がないため、私がエクセルデータを使って手作業で始めたのですが、途中でいやになってきました。
そこで友人に応援を頼んだのです。
そうしたら彼は即座に、私が2日かけてやってきたことを、それよりも正確に集計してくれたのです。
その方法を教えてもらい、後は私でもやれるようになりました。
知識がないと、とんでもなく無駄なことをしているのだと改めて知りました。

しかし、最近、「無駄」が発生するのは、人と人との世界、それも人がつくった「知識」の世界だけなのではないかという気がしてきました。
自然と付き合う時にも、知識不足で無駄が生じることはあるかもしれませんが、その時の「無駄」は、別の意味での「効用」を持っているのではないかという気がするのです。
自然との付き合いは、常に1回性のものです。
そしてその付き合いのプロセスに意味があります。
きっと毎回新しい発見があることでしょう。
ところが、エクセルデータの解析などというのは、結果にこそ意味があるわけです。

そう考えていくと、「過程を大事にする生き方」と「結果を大事にする生き方」がありそうです。
そして現代人は、どうも「結果を大事にする生き方」になってしまっているが故に、「無駄」という概念が発生したのではないか。

まただんだんわけがわからなくなってきました。
今日は、自然との付き合いには「無駄」という概念がないのではないか、「無駄」という概念は、「廃棄物」と同じく、近代が生み出した概念ではないか、ということを書くつもりだったのですが、いつものようにその「過程」で終わってしまいました。

今とても気になっていることなのですが、まだうまくまとまっていません。
すみません。
この項は「つづく」です。

それにしても最近の国会の「無駄」さ加減には呆れています。
無駄使いしているのは官僚だけではありませんね。

■道路が必要なのか、道路工事が必要なのか(2008年3月2日)
道路整備の問題はいろいろと議論が盛り上がりながらも、結局、衆議院ではこれまでの延長で決まってしまいました。
本当に不思議ですが、自民党独裁の体制の中では仕方がないのかもしれません。
それにしてもいろいろと問題が出てきても、結局は多数決の論理で決められてしまう状況は変えられないものなのでしょうか。

道路整備に関して、自治体がいろいろと要望を出していますが、これまでの道路建設の実態を調べれば、無駄な道路工事はたくさん出てくるはずです。
その実態は断片的には報道されますが、全体像が見えてきません。
政治のやることは、その全体像を可視化することだと思いますが、与野党いずれもそれをやりませんし、研究者や有識者もそれに取り組みません。
なぜでしょうか。
全体像が見えないままに議論できるのでしょうか。

ところで、道路建設が必要だといっている人たちの思いの真意には、「道路が必要」と「建設工事の仕事が必要」という2種類があるように思います。
その両者を峻別していく必要があるはずです。
後者の面からの必要論も少なくないと思いますが、工事仕事の面から言えば、極端に聞こえるかもしれませんが、無駄な道路をつくるほど工事量は増えるという構造があります。
現に工事途中で建設が中止された場合、例えば建設途中の橋の撤去解体という新たな仕事も発生するからです。
仕事が欲しいのであれば、無駄な道路ほど効果があるのです。
つまり「仕事」がほしい人にとっては「無駄な道路」ほど「必要」なのです。

これまでも何回も書いてきたように、近代産業は、無駄こそが需要の源泉というジレンマを内包しているのです。
そんなことはやるはずがないと思いたいですが、例えば河川をコンクリートで囲い込む護岸事業を進め、それが行き渡ったら今度は自然に戻そうという動きに変えるように、造っては壊し、壊しては造るのが税金を使って事業をする人たちの事業観なのです。
税金とはちょっと違いますが、社会保険庁の事業観はその象徴です。
巨額なお金でつくった立派な施設が安く処分されても、だれも責任を取らせられず、またとらないのです。

こうした発想の根底には、ニューディール政策的な失業対策事業発想があるように思います。
道路などつくらずに、お金を仕事のない人に支給したほうが効果的だと思いますが、それを正当化する論理がまだ構築されていないだけの話ではないかと思います。
仕事をつくることが福祉につながる、社会の活性化につながる、などといった貧しい時代の経済発想の呪縛から解放されるべき時期に来ています。
おそらくいまは、貧しさの意味合いも大きく変わってきているのです。

道路工事がほしいなら、単に仕事がほしいと言えばいいだけです。
さらに仕事よりもお金がほしいといえばいいだけです。
そんな気がしてなりません。
それに、地域活性化とは仕事を増やすことなどでは断じてありません。

■政権交替が遠のいてしまった気がします(2008年3月3日)
民主党の勢いがなくなってしまいました。
政権交替も政治改革も遠のいた気がしてなりません。
あれだけ盛り上がっていたのに、民主党の勢いは今や影が薄くなりました。
アメリカのオバマ旋風と違って、失速したというべきでしょう。
民主とは完全に戦略を間違っているように思います。
国民に目を向けず、国民を信頼していなかったことの結果です。

国民国家においては、政治の勢いは国民が創りだします。
もちろんそれを先導し、時には扇動するのは政治家ですが、ある段階で主導権は国民が持ち出します。
最近のアメリカの大統領選も、かつてのヒットラー旋風も、そうだったように思います。
おかしな言い方ですが、主権者である国民を制したほうが選挙に勝って、権力を獲得するわけです。
民主主義体制における選挙は、主権を奪取する仕組みです。
ですから、民主主義的な国民国家と神権主義的な専制国家とは、構造は同じなのかもしれません。
ロシアの今回の大統領選挙は、そのことを示唆してくれます。
教育や文化などの、さまざまなお膳立ても、似ているようにも思います。

そうした中での「変革」に、どのような意味があるのか、最近はわからなくなってきてしまいましたが、しかし昨今の閉塞状況を打破するには、やはり「変革」への期待はあります。
変革の方向性は重要ですが、少なくとも現状よりはよくなる可能性はあるからです。

いかなる状況においても、変革は勢いがなければ実現しません。
その勢いが昨年の後半には感じられました。
しかし、その勢いが今の政治状況には感じられません。
そして自民党も民主党も、結局は同じなのだということが見えてきたのです。
政権交替は、「政策の変化」ではなく、単に「権力所在の変化」でしかないのではないかとさえ、思われるほどです。

論理的には、大連立を契機にして、政治再編が行われるのが、現在の日本の政治状況には効果的です。
「変革」幻想に乗せられたマスコミと多くの国民は、それを拒否しましたが、権力志向によって組織化されている二大政党を、改めて価値志向によって再編成しようということは、それなりに意味があります。

しかし、「変革」を求めるのであれば、非自民・非民主に期待しなければならないでしょう。
その意識がない「変革」は、権力交替であって、政策交替にはならないからです。

日本が二大政党の状況から抜け出るのはいつのことでしょうか。
民主主義と二大政党体制は、全く相容れないことのように思うのですが、どうして二大政党体制願望が大勢になっているのか理解できません。
私の民主主義理解が普通ではないのでしょうか。

■日本の公務員は多すぎないでしょうか(2008年3月4日)
日本の現在の人口は約12800万人です。
そのうち、公務員と言われる人の数は、2年ほど前の数字ですが、400万人です。
400万人の人の給与は、基本的に12800万人の税金から支払われています。
公務員の給与は、最近は民間平均よりも高いと言われていますが、ある調査では年収で600万円とも800万円とも言われます。
公務員を除く12400万人が400万人の公務員を雇用していると考えると、約31人の国民(乳幼児を含めて)で一人の公務員を雇っていることになります。
年収700万円とすれば、一人22万円の負担になります。
かなりいい加減な数字ではありますが、3人家族であれば、60万円以上を負担していることになります。
どこかに間違いがあるかもしれませんが、私自身はこうした状況が前から気になっていました。
公務員が多すぎると思うのです。

公務員が国民のために仕事をしているのであれば問題はありません。
しかし昨今、明らかになっているように、必ずしもそうではないようです。
国民年金のお金がホテルなどに転用されたのは、おそらく仕事が暇だったからでしょう。
パーキンソンの法則ではないですが、人がいれば必ず仕事は発生します。
仕事があったから公務員が増えたのではなく、公務員が増えたから仕事が増えたのです。
そこには、国民のための仕事という意識は希薄だったはずです。
その証拠は、最近、山ほど出てきています。
彼らの仕事観は、民間とは全く違います。
公務員個々人が悪いというわけではありません。
仕組みが悪いのです。

財源がないなどという前に、そうした基本構造を再検討したほうがよいように思います。
財源がなければ公務員を半減すればいいだけの話です。
民間企業はそうしてきています。
もちろん半減要因には議員も入ります。
今の国会議員であれば、10分の1でも十分でしょう。

もちろん一挙にはできないでしょうが、10年かければできるでしょう。
そうした発想が、いま必要なのではないかと思います。
念のためにいえば、だから民営化が必要なのだということにはなりません。
それは全く別の話です。

以前、フォスタープランの里親をやらせてもらっていたことがあります。
ところが、里親の拠出金の大半は、その活動のスタッフの費用になることがわかって驚いたことがあります。
そうならないための仕組みを考えるべき時期に来ています。
IT技術は、そうしたことのために、大きな威力を発揮できそうに思います。

■中国が軍備増強と職場のいじめの広がり(2008年3月5日)
中国の軍事予算が20年連続で二桁の伸びをしているそうです。
そして日本よりも国防予算は大きくなったそうです。
ここが重要な点だと、私は思います。
つまり最近までは、日本の方が大きかったわけです。

テレビでは、中国の軍備増強が周辺国家に脅威を与えていると報道していましたが、脅威を感ずるのは誰なのでしょうか。
私自身は、軍備の銃先は他国にではなく、自国民に向けられていると思っていますので、中国の軍備には全く脅威など感じません。
むしろ自国、つまり日本の軍備強化にこそ脅威を感じます。

おかしな話ですが、一番脅威を感じているのは、軍備増強している当事者かもしれません。
いつ攻められるかもしれないから軍事力を増強しようという意識が、根底にはあるはずです。
守るだけではなく、攻めるために軍備増強するのではないかと思いがちですが、なぜ攻めるのかといえば、おそらく「こわい」から攻めることが多いでしょう。
つまり結局は守るためなのです。
攻撃は防衛の手段でしかありません。
ですから、戦争はいつも自衛戦争なのです。
自衛のための侵略戦争なのです。

攻撃的な人は、多くの場合、どこかに弱さを持っています。
悪いことをしている人は常におびえていますし、自信のない人は虚栄をはりがちです。
強い人は攻撃的になどなる必要はありません。
こうした個人事情は、国家においてもたぶん成り立ちます。

ところで、中国の軍備増強を報ずるニュースの後、NHKのクローズアップ現代では、職場に蔓延する同僚間のいじめを取り上げていました。
それをみていて、その2つは結局同じ問題なのだと気づきました。
世界平和と個人同士のいじめ。
それらは全く同じ問題だと考えると見方が変わってきます。
いじめもまた、その矛先は決して相手にではなく、自らに向けられているのです。
そして、そうなる原因は、個人にあるのではなく、仕組みにあるのです。

国家の仕組みも、最近の私たちの生き方も、どこか間違っているのではないか、
最近、そう思うことが本当に多くなりました。
直せるところから少しずつ直していきたいと思いますが、生き方の仕組みを変えるのは簡単ではありません。

■柳原和子さんへの追悼(2008年3月6日)
ノンフィクション作家の柳原和子さんの訃報を新聞で読みました。
予想はしていたものの、悲しい知らせでした。
杉本さんに続いての、私の価値観に影響を与えてくれた人の訃報です。

杉本さんの場合と同じく、柳原さんと面識があるわけではありません。
メールでの交流がわずかにあっただけの関係です。
私が柳原さんを知ったのは、彼女の「がん患者学」が契機です。
患者学という言葉に興味を持って購入しましたが、読み進むうちに辛すぎて、途中で放棄していました。
妻が胃がん宣告を受ける前の話です。
妻が胃がんになり、思い出して再読しようとしましたが、ますます駄目でした。

そんな時、NHKのテレビで「がんキャンペーン」が始まりました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#930
妻と一緒に見ました。
そこで「お元気そうな」柳原さんを見ました。
翌週も柳原さんが出ていました。
柳原さんの表情が少し曇っているような気がしました。
そのことをホームページに書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1014
そうしたら1週間くらいたった頃、柳原さんからメールが届きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1022
私のホームページの記事が彼女の目に入ったのです。

そのメールに書かれていたのは、テレビや本の柳原さんとは違って、悩み迷う患者そのものでした。
文章も作家の文章ではありませんでした。
すごく親近感を持ちました。
それ以来、時々ですが、メールのやり取りが始まりました。
柳原さんには中傷のメールも届いていたようです。
ネットで自分をさらけ出すと、本当に中傷的なメールが届きます。
暗い世の中になりました。

柳原さんの孤独さの深さも、ちょっとだけ垣間見た気もしました。
でも彼女は、私の妻のことも心配してくれましたし、妻ががんになった夫たちの支えあう仕組みをつくったらともいってきてくださいました。
病気に直面している人特有のやさしさが伝わってきました。
それに、柳原さんの「生きる意欲」に、私たちはとても元気付けられました。

ところが昨年の春頃からメールがなくなりました。
私たちも良いニュースを送れないため、メールしなくなりました。
ですからずっと気になっていましたが、調べる勇気が出てきませんでした。
そして昨日の訃報。

患者運動が広がるきっかけをつくった柳原さんの名前は、ずっと残るでしょう。
柳原さん
ありがとうございました。
柳原さんとの約束は守れそうもありませんが、許してくれますよね。


■三浦再逮捕と一事不再理の原則(2008年3月7日)
日本の裁判で無罪になった「ロス疑惑」の三浦さんがサイパンで逮捕された事件が話題になっています。
私には大きな興味がありますが、それは今のマスコミで騒がれているような意味ではなく、「一事不再理の原則」に関係して、です。
「一事不再理の原則」は今の時代に合わないルールだと思っていますし、国際的に考えれば論理的に納得できないルールです。
いまの司法、とりわけ刑法分野の司法の問題の本質が、そこに現れているように思います。

日本国憲法39条(「何人も、・・・既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」)が、いわゆる「一事不再理の原則」の根拠です。
また、同条には「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とも定められています。
この一事不再理の原則は、多くの国家で採用されている刑事裁判の大原則です。
「市民的及び政治的権利に関する国際規約」でも、「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない。」(14条7項)と定められています。
ある事件の犯人と疑われた人が、それ以後、ずっと逮捕の恐怖にさらされるという非人道的な事態が起きないようにするための制度だといわれています。
問題は、今回のように、事件が発生した国と判決が出された国が違うように、こうした原則が国境を越えた場合にどうなるかです。
グローバリゼーションのなかで、国境の壁はどんどんなくなり、一事不再理の原則は国境を越えていくという見方が多いかもしれませんし、いまでもすでに一事不再理の原則は国境を越えているという人も多いでしょう。
しかし、私には大きな違和感があります。

まず国境を越えるということに関していえば、たとえば国家による法体系が違うなかで、一事不再理の原則だけが国境を超えるということは論理的に整合しないはずです。
しかし、私にとってもっと大きな関心は、刑法体系のパラダイムです。
これは刑法に限ったことではなく、憲法についてもいえることだと思いますが、そのことが特に象徴的に出てくるのが刑法です。

国家の暴力に対して国民を守る、これが現在の刑法の「建前としての」パラダイムだと思います。
ですから被害者よりも加害者の人権が重視されがちだったのです。
一事不再理の原則もまた、そうした文脈の中で考えられるべきですし、時効制度もそうだと思います。
罰則の決め方も多くの場合、「○○以内」というように上限が極められています。
極端な言い方になりますが、そうした発想の根底には、「冤罪」の発生が予想されています。
実証することはできませんが、「冤罪」が予想されるシステムのもとでは、冤罪は発生しやすくなるはずです。
人が予想し想像したことは必ず実現するのが人の世ですから、いまの司法体系の中では冤罪は生まれるべくして生まれると、私は思っています。

一事不再理の原則の根底にある人権的な考えには異論はありません。
しかし、裁判も間違いのあることですから「不再理」を原則にすべきではないと思うのです。
もっと柔軟な発想が必要です。
最近の横浜事件の話と不再理原則は全く別の話かもしれませんが、私にはどこかで通底しているように思います。
光市母子殺害事件の弁護士団の動きに対して、法曹界の中からはほとんど何の動きも出なかったことも、そこに通じているような気がします。
裁判員制度への問題提起がやっと始まったようですが、司法のパラダイムの見直しこそ必要ではないかと思います。

■「いま何時?」(2008年3月8日)
フーテンの寅さんを演じた渥美清さんは物の所有から自由な人だったと何かで読んだことがありますが、腕時計も嫌いだったそうです。
こんな言葉が残っているそうです。
「時間も他人に聞いてすむ生き方をしたい。
おい、いま、何時だと、そういう生き方でいきたい」
渥美さんに比べると私はまだまだ物欲が強いのですが、この時間に対する感覚だけは少し似ています。
腕時計はこの40年したことがありませんし(一時、時間とは全く無縁な理由で半年ほど時々はめていましたが)、今でも「いま何時?」と周りの人にたずねる生き方をしています。
そのせいで迷惑をかけることもありますから、ほめられた話ではないのですが、自分としては全くといっていいほど不便は感じません。
これに関しては以前一度書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_6fb7.html

その時は、腕時計を外すと時間から解放されるというようなことを書きましたが、今から考えるとそう思うことこそが時間に拘束されていたのだと思います。
渥美さんのことを読んだ時に、そのことに気づきました。

時計を外した効用は、「いま何時?」と質問できることです。
質問できることが効用だというのもおかしな話ですが、要は自己完結していない弱みを持てるということです。
そのことによって、周辺との関係性を変えるこができるということです。

携帯電話にしろiPodにしろ、個人はますます自己完結的な方向に進んでいるように思います。
言い換えれば周囲との関係性を断ち切る生き方を目指しているようです。
誰かとのつながりを求めているような面もありますが、自らを隠したままの一方的な関係を目指していることが多いように思います。

ネット社会でのつながりは一方的なものも多いです。
しかし自らの正体を見せずにつくられた関係はほとんど意味がないような気がします。
そうした虚構の関係性の中で、さまざまな「人間関係もどき」が「コミュニティもどき」を構築していきます。
時にそれが「機能性」を発揮し、社会的パワーになることもあります。
ネットを通した署名運動は、そのひとつです。
しかし、そうした虚構のコミュニティや機能主義的コミュニティは、私自身どうもなじめません。

話が飛躍してしまいましたが、「いま何時?」と周りの人に聞いていた、渥美さんの生き方は、私たちが失ってしまいつつある何かを示唆しているような気がします。

ちなみに、街中で知らない人に「いま何時ですか」と訊ねるのは、意外と楽しいものです。

■日銀新総裁は人事の問題ではなく政策の問題(2008年3月9日)
日銀新総裁の後任人事が問題になり、そのおかげで国会が空転しています。
その現象だけをみていると民主党が悪者になっていくように思います。
審議拒否も、国民から見れば責任放棄であり、サボタージュに感じられます。
高級取りの国会議員が何もせずに国会で暇を持て余している状況を見ると、税金の無駄遣いだと思うのが普通です。批判は、民主党に向かいます。

そもそも私たち国民は、日銀新総裁の人事でなぜこんなに対立するのかと思いがちです。
所詮はテクノクラートであり、見識がある人がなればいいではないか、それに武藤さんは副総裁として今もやっているのだから不都合はないだろうと思うわけです。
あれだけ問題になった福井総裁だって結局は辞めさせられなかったわけですし、いまさら何だという気もします。

日銀新総裁とは何なのか。そしてなぜ武藤さんではだめなのか。
野党はそれに関して私たちに分かりやすい言葉で説明していません。
鳩山幹事長は「「財政と金融がつながってしまっているところに、この国の大きな問題が潜んでいる」と言いますが、財政と金融いずれにも詳しいのであれば、むしろ良いことなのではないかと思う人もいるでしょう。
過去の超低金利政策への批判から反対する人も多いですが、もう少していねいに説明してもらわないとその意味がわかりません。
拒否している理由がていねいに説明されないために、「政局」的反対ではないかと思う人も少なくないでしょう。
こういうところに、最近の日本の政治状況の本質があるような気がします。
ガソリン税も道路建設も、みんな説明不足ですので、そこに込められた大きな意味がなかなかわからないのです。

この数年の日本の経済運営が、昨今の格差社会を引き起こし、経済活力を低下させてしまったことは否定できないでしょうが、その責任の多くが日銀にあったとすれば、今こそ大きな政策転換が求められます。
もしそうならば、武藤さんは不適切ですが、では誰ならよいのか、です。

つまりこれは、人事の問題ではなく政策の問題なのです。
しかしなぜか人事の問題でしか語られません。
なぜでしょうか。
もしかしたら民主党も実はこれまでの財政政策や金融政策を認めているのかもしれません。
そういえば、福井さん問題ではあれほど世論が高まったのに追求は中途半端でした。

政策の時代は終わり、政争の時代になってしまったのでしょうか。
しかし、日銀総裁に誰を選ぶかはとても重要な問題です。
もっとたくさんの人たちの中から政策を出し合って決めていく仕組みが必要なのではないかと思います。
それにしても、民主党はなぜ国民に向かって話しかけてこないのでしょうか。
その姿勢をとっているかぎり、政権は取れないように思います。
いえ、取るべきではないように思います。

■自治体の裏金も表金にしたら輝き出すのではないでしょうか(2008年3月11日)
大阪市の巨額な裏金が問題になっています。
この数年、中央官庁や自治体の裏金が問題になっていますが、おそらくこれは「個人の犯罪」というよりは、「組織の文化」というべきものがほとんどのような気がします。
議会の了承を得て、正規の予算として使途する資金の他に、首長や業務責任者が独自の判断で使える予算を持つことは、流動的な現実への柔軟な対応として意味のあることではないかと思います。
問題は、その存在を「見えないようにしておく」ということです。
私もそうした事例はいくつか垣間見ていますが、それが悪いとはあまり思っていませんでした。
今にして思えば、その感覚が問題なのでしょう。
首長が自由に決済できる資金こそ、公開にすべきです。

市町村合併を前に、そうした「隠れ資金」を使いきろうとしていた状況も、いくつかの自治体で見聞しています。
その時はさすがにおかしいと思いましたが、深くは考えませんでした。
市町村合併で生じたさまざまな無駄に比べれば、小さなことだと思っていましたので。

しかし、ここまで巨額な「隠された資金」があるとなると、これは組織の病理につながる問題です。
結局は自らを滅ぼすことになりかねません。
私もNPOに対する資金助成プログラムの事務局長をやっていましたし、各地のまちづくり活動にも関わっていましたが、「お金」が入ってきたために駄目になってしまう活動や組織は少なくありません。
ですから私が事務局をやっていたプログラムでは、わずかなお金の助成で、しかもお金の使い方の相談にも乗るというスタイルを大切にしていました。
そのおかげで、そこで培われた「つながり」は、いまも続いています。

お金は使い方によって、両刃の剣のように作用します。
それに、ある額を超えると個人では対抗できなくなりかねません。
大阪市の裏金は個人の管理能力を超えています。
ですからきっと最近の関係者のほとんどは、「被害者」になっていたのかもしれません。
多くの組織にもきっと似たような状況があるように思いますが、そうした資金の存在を公開していくことで組織は元気を回復するはずです。

「裏金」は、たぶん「裏」にあるから問題なのであって、「表」に出せば、生き生きと良い効果を発揮するのではないかという気もしています。

「裏金」を活かす仕組みが必要です。
組織の中ではかなり知れ渡っていることが多いと思いますので、「裏金」を「表金」にする仕組みをみんなで考えたら、きっといい解決策が出てくるはずです。

■NPOの枠を超えたNPOフォーラムへのお誘い(2008年3月12日)
今日は3月23日に開催するNPO関係のフォーラムのお誘いです。
私が取り組んでいるコムケア活動では毎年フォーラムを開催していますが、いつもそれまでにないような新機軸に挑戦しています。
以前も一度、ご紹介したことのあるコムケアフォーラムです。
これまでも、バザール型やインキュベーション型などいろいろとやってきましたが、今回はテーマのないフォーラムを、2週間先に開催することにしました。
今回の新機軸は、2週間で創りあげていくスタイルです。

会場は友人が協力して提供してくれましたが、内容は参加者が育てていくというスタイルです。
参加してくれる人がどのくらいいるかわかりませんが、参加者が自由にセッションを企画し、運営するわけです。
こんな無責任なフォーラムはないと、友人たちは全く呆れていますが、それでも実行委員会のメンバーだけでも10人を超えました。
開催の案内は先ほど、メーリングリストなどで流し出しましたが、内容はまだつまっていないものです。
こうしたやり方は、私の基本的なスタイルですが、これほど日数もなく準備もしないフォーラムは初めてです。
さてどのくらい集まるでしょうか。
スリルがあります。

フォーラムの案内を下記します。
詳しくは私のホームページをご覧下さい。
たぶん毎日変わっていくと思いますが。

もしお時間とご関心があれば、遊びに来てください。
ちなみに、これから全国各地で、コムケアフォーラムを開催していく予定です。
パートナーを探しています。

<コムケアフォーラム2008のお誘い>

誰もが誇りを持って気持ちよく暮らせる社会に向けて、さまざまな活動に取り組む人を応援しているコムケアセンターでは、今年のテーマを「人のつながり」と決め、そのキックオフイベントとして、さまざまな出会いを生み出すフォーラムを開催いたします。

いくつかのテーマにそった「話し合いの場」やミニセッションが用意されていますが、参加された方が自由に情報発信したり、話し合えたりできるような場も用意しています。
このフォーラムから始まる、誰でもが参加できる新しいプロジェクトも発表される予定です。

フォーラムというと「テーマ」が設定されているのがふつうですが、このフォーラムはまさに古代ローマの広場での話し合いのように、集まった人が自由にテーマを選んで話し合い、思いを同じくする人との出会いを生み出すような、テーマのない広場型フォーラムです。
何が起こるかわかりませんし、何も起こらないかもしれません。

多様な人が参加してくれるほど、広場は豊かになります。
NPOやボランティアに取り組んでいる人、
企業の人や社会起業家を目指す人、
学生や研究者など、誰でも参加歓迎です。
何が起こるかわかりませんが、同じ思いを持った人同士の出会いを支援するコンシェルジェもいますので、新しい出会いと新しい物語が生まれるかもしれません。

場所は、東京のど真ん中の日比谷のオフィスビルのなかにある「相創の場」です。
ここは、「多様な人々が集い、相互に刺激し合い、相互に協力し、ビジネス、社会活動を創出する場」として昨年オープンしたところです。
その場所を体験するだけでも刺激を受けるかもしれません。

急なお誘いですが、ぜひご参加ください。
会場でお会いできるのを楽しみにしています。

<日時>2008年3月23日(日曜日)午後1時〜5時
<会場>「相創の場」日比谷オフィス
<プログラム>(予定:詳しくはホームページ)
・企業のCSRって何でしょう(ワークショップ)
・ケアプランから考えるライフデザイン(ワークショップ)
・最近の若者の悩みを知ってますか?(世代間トークセッション)
・アートとまちづくりミニ報告会
・スタンピング平和展(ワークショップ)
・NPOのコミュニケーション問題を解決するSNS
・「きっさろん」(喫茶店サロン)へのお誘い
<参加費>500円
<事務局>コムケアフォーラム2008実行委員会
                                      
■産業のジレンマの克服(2008年3月13日)
島根県にある木次乳業の配達用トラックには「赤ちゃんには母乳を」と大きく書かれています。
岩波新書の「地域の力」で、そのことを知りました。
牛乳を生産販売している会社が「赤ちゃんには母乳を」と言っているのに感心しましたが、すぐに、そんな当然のことにも感心する自分のおかしさに気付きました。
赤ちゃんには母乳を、というのは素直に考えれば当然のことであり、なんら感心するべき言葉ではありません。
しかし、その本の著者も、その標語に感心したのでしょう。その話を本のトップにもってきています。
そうしたことが起こるほど私たちの発想は「産業」社会の洗脳を受けているのです。

滋賀県の包装資材メーカーの新江州という会社の会長は、「環境に負荷を与える包装材は減らすべきだ」と言っています。
その著書「循環型社会入門」には、これからの企業は「環境負荷削減の為に毎年生産高を減らす」ことが必要だと書いています。
書いているだけではありません。
循環型社会システム研究所までつくって、実際に環境問題に取り組んでいます。

近代産業の発展の基盤は、20世紀中ごろから「消費の拡大」に変質してしまった気がします。
おそらくその段階で、経済パラダイムが変わってしまったのです。
にもかかわらず経済学や経営学はあいかわらずの発想で、経済や経営そのものを目的化してしまってきています。
そのため、「産業のジレンマ」が確立してしまったように思います。
つまり、「問題解決のための産業」が、自らの発展のために問題領域を無限に拡大させてしまう構造の確立です。
企業経営も同じです。
なんのために企業を経営しているのか、あるいは企業で働いているのか、分からなくなってきているような状況が感じられます。

そうした状況の中で、木次乳業や新江州のような企業が増えているのかもしれません。
最近、そうした企業の話を聞くことが増えてきました。
その一方で、しかし、大企業は相変わらずの方向を進んでいるように思います。
大きくなりすぎたがゆえに、複雑なつながりが育ってきてしまったために、簡単には舵をきれないのでしょうか。
なにやら先日のイージス艦と漁船との衝突事故を思い出します。

■円の価値が高まると日本企業は業績悪化という構造(2008年3月14日)
円の対ドルレートが、一時的とは言え、ついに100円を切りました。
その円高が企業業績に打撃を与えることが懸念されています。
この論理が、昔から私には理解できずにいました。
円高が日本の経済力の高まりを意味するのであれば、企業の活動はやりやすくなるはずではないか。
個人で考えれば、円高になれば海外旅行はやりやすくなり、輸入品は安く買えますから、歓迎です。
円高になって個人生活が直接に損失を受けることはないように思います。

企業の場合はどうでしょうか。
輸入は企業でもメリットのはずです。
同じ価格のものへの円の支払いは少なくなります。
しかし、輸出の場合は円貨建てであれ、外貨建てであれ、結局は海外での価格は上昇させざるをえないので販売量の減少が起こります。
ですから輸出企業の業績にはマイナスだというわけです。

為替レートの変化の影響は、その国の経済構造によって変わってくるということです。
そこで私が気になるのは、円高という国民にとっては嬉しいことが、企業にはマイナスになるような経済構造でいいのだろうかということです。

ジェイン・ジェイコブスは「経済の本質」のなかで、
「輸出とは、その地域の最終生産物であり、地域のエネルギーの放出である」と述べています。
放出されるエネルギーが「過剰なエネルギー」であれば、地域の健康を維持するために好ましい活動であり、マクロ的に言えば、そもそもそこから利益を得る必要はありません。
もしそのエネルギーが「なけなしのエネルギー」をやむをえずに(不足資源を獲得するための資金稼ぎのために)行うものであれば、獲得しやすくなった分だけ売れなくなることは好ましいことです。
円高になったのであれば、輸出が減ることはむしろ肯定的に考えても良いように思います。

個人で考えて見ましょう。
同じ時間でできる仕事の報酬が上昇したら、仕事の量を減らすのが、理にかなった働き方だと思います。
ところが、そうした働き方を選ぶ人はほとんどいないでしょう。
そこにこそ、この50年の私たちの働き方、あるいは産業や経済の仕組みの問題があるように思います。

なにやらややこしい議論をしてしまいましたが、要は円高になって困るような企業活動のあり方には、どこか問題があるのではないかというのが、今日の問題提起です。
経済のことをあまり知らない素人の議論なのでしょうが、30年以上前からずっと思い続けてきたことを、今日は未消化のまま書いてしまいました。

■「自らの間違いを認めない」文化の震源地(2008年3月15日)
「横浜事件」の再審で、最高裁は14日、有罪か無罪かに踏み込まないまま、裁判手続きを打ち切る「免訴」判決を確定させました。
要するに、裁判所が犯した罪を認めなかったということです。
自らを裁かない裁判所の本質を露呈させた判決でした。

この国では、検察も裁判所も、また弁護士も裁かれることはないのかもしれません。
裁かれることのない権威が、人を裁く構造とは、神権国家の構造です。
法曹界は「司法改革」に取り組んでいますが、基本にある裁判のパラダイムは全く変わっていません。
改革とは程遠い話です。
横浜事件で不条理で、正義に反する判決を下した裁判官が、戦後もその立場を失わなかった国ですから、ドイツとは全く違います。
その国で、そうした人たちが進める司法改革がどういうものであるかは明らかです。
裁判員制度も、その枠の中から出てきたものでしかないと思いたくもなります。


今回の判決は、要するに「自らの間違いを認めない」ということです。
この姿勢が、いまの日本の統治構造の根底にあります。
「行政の無謬」神話は決して過去のものではないのです。
いま問題になっている新銀行東京の都議会の議論を聞いていれば、それが露骨に感じられます。
「裁判の無謬」もまた強く残っています。

自らの間違いを認められない人間が、人を裁けるはずはありません。
裁判だけではなく、おそらく政治も同じでしょう。
後任日銀総裁の件に象徴されるように、自らは無謬だとしている福田政権の姿勢は、あまりにも露骨ですが、あまりとがめられずにいます。
国民に、政府無謬信仰があるのかもしれません。
産業界は、最近、ようやく自らの間違いを認めることの意味を理解しました。
しかし、日本の政治も司法も、まだその段階にいたっていないようです。

横浜事件の最高裁判決は、そのことの現れのような気がしてなりません。
遺族の方たちの無念さを思います。
裁判官のみなさんは、そのことを恥ずかしく思わないのでしょうか。

■新銀行東京の不幸(2008年3月16日)
都議会での新銀行東京に関する知事と野党議員のやりとりを聞いていて感ずるのは、どうしてこうしたことが何回も繰り返されるのかということです。
400億円投入したら新銀行は復活するかどうかの議論はほとんど見えてきませんし、それ以前になぜこうした事態になったのかが解明されているようにも思いません。
当事者には設立する前から見えていたのではないかという気もしますが、そうした現実の実態把握がなければ評価もできず、計画などたてられるはずもありません。
それにしても、小銀行にはあれほど厳しい金融庁は、どう考えているのでしょうか。

私も零細企業の経営者ですが、中小企業へのてこ入れの制度がいろいろ出来た頃、知人から「今は借りどくだよ」といわれたことがあります。
2000万円くらい借りても返さなくてもいい仕組みなのだというのです。
借りたまま会社を倒産させたり、返せない理由を説明したり、会社を変えてしまうのだそうです。
そんなことがあるはずもないと思っていましたが、新銀行東京ではまさにそういう事例がいろいろとあるようです。
以前聞いた話もまんざら嘘ではなかったかもしれません。

新しい制度が出来た時には、そういうおかしなことも起こるのかもしれません。
いや、そういうことを起こしたいが故に、新しい金融制度や助成制度をつくる人がいるのかもしれません。
そんな気さえしてなりません。
どさくさに紛れて、利益を得た人もいるでしょう。
まじめに汗する人が報われる社会の仕組みをつくるのは難しいのでしょうか。

管理中心ではなく、現場中心であれば、400億円のお金を活かしていく仕組みはつくれるはずです。
いまの「銀行制度」とはたぶん発想を変えないといけないはずです。
スペインのモンドラゴンのような、「協同」の原理が見直されてもいいのではないかと思います。
制度のパラダイムを変えなければ、400億円は活きてこないように思いますが、そうした発想は現体制からはなかなか出てこないでしょう。
発想における革命が必要な時代かもしれません。

■守るものと攻めるものの立場(2008年3月17日)
最近の政治状況とそれに関するさまざまな論評を聞いていて感ずるのは、「守るものの強さ」と「攻めるものの弱さ」です。
状況を変えることの難しさがよくわかります。
たとえば、日銀総裁人事に関しても、民主党は政権奪取のための「政局」にしてしまっていると批判されていますが、それがなぜ駄目なのか。
守る側にとっては、政局化は困るでしょうが、攻める側は政局は数少ない手段の一つです。
事象を評価する基準の多くは、どうも「守る側」にあるようです。
かつては逆のような気がしていましたが、社会が変質してしまったのでしょうか。

政策はさまざまな施策の全体像に関わっており、総裁人事もそれだけで考えればいいわけではありませんが、ニュースになれば、みんなそれだけで考えてしまいます。
ガソリン暫定税の一般財源化に関して、賛成だが時間が必要だと自民党の石原さんはテレビの討論会で「時間軸」を強調していましたが、これもまた守る側の論理です。
時間軸を長くするほど、守る側には好都合ですが、攻める側は時間が勝負です。
さらに個別問題で考えるのも守る側には有利です。

「変化に対する抵抗意識」は、人間の本性のひとつです。
「守る側」にとっては、当然、変化は忌避したいことですが、国民はどうでしょうか。
おそらくわが国の場合、ほとんどの国民が自らを「守る側」に位置づけているでしょう。
ささやかな平安を守りたいと思うのは、これまた人間の本性の一つだからです。
「ゆでがえる現象」というのがありますが、日本はまさに「国民総ゆでがえる」なのかもしれません。

そうでない国もあります。
チベットでは暴動が広がっています。
「暴動」という言葉が、すでに「守る側」の用語ですが、世界はそれを違和感なく受け入れています。
自分の生活に関わりの少ない地域での事件に関しては、みんな「守る側」の視点で考えがちなのも現実かもしれません。
攻める側が厳しい目で見られる現実の中で、改革をどう進めていくか。
そうしたところへの深慮が、いまの民主党にはかけているような気がします。
それは民主党の議員もまた、大きな意味では「守る側」にいるからかもしれません。

■有識者への信頼感(2008年3月18日)
日銀総裁人事に関する新聞の論調には驚きを感じています。
論者の「権威」や「キャリア」への信仰の強さがこれほどにも強いのかと思います。

私は時々、企業の経営幹部の研修プログラムの相談を受けることがあります。
教育問題に関する提言活動の相談を受けたこともあります。
たいていの場合、講師は大企業の経営(体験)者や経営学の先生、あるいは経営コンサルタントです。
いまの企業状況や経済状況、あるいは社会状況をよしとするのであれば、それでいいでしょう。
しかし現状に問題を感じ、それを変革していきたいというのであれば、そうした人選は間違いです。
いまの状況をつくってきた経営者の話を聞くことは「反面教師」の意味はあるかもしれませんが、とても有益とは思えません。
そもそも「有識者」や「権威」は、現在の社会を前提にして成り立ちます。
ですから社会の変革期や変革のテーマに関しては、評価は反転するはずなのです。
しかしそうはならないのが現実です。

たとえば第二次世界大戦で敗れた日本社会の価値体系は反転しました。
しかし、戦後においても、学校の教師や政治家や裁判官は、戦前と同じ人たちが相変わらず主流を占めていたようです。
テクノクラートや専門家には価値観が不要といわれますが、価値観から自由な人間などいるはずがありません。
かくして社会はなかなか変わらないわけです。

社会のエスタブリッシュメントに依存している生き方が一番楽な生き方です。
昨今の日本は、そうした生き方が広がりすぎています。
エスタブリッシュメントとは無縁に、自分の人生を生きている人にはめったに出会えません。
退屈な時代です。

■チベットと国家の本質(2008年3月19日)
チベット自治区におけるデモ弾圧事件は中国政府の鎮圧報道にも関わらず広がりを見せているようです。
こうした事件の報道に触れるたびに、社会契約説の虚構を感じるとともに、近代国家の暴力的な本質を実感します。
中国はいまだ専制国家的な要素を色濃く持っている非民主国家だから近代国家とはいえないという議論も成り立つかもしれませんが、そうではなくて近代国家なるが故の暴力性と考えるべきでしょう。

何回か書いたように、近代国家を支えているのは暴力の独占です。
その暴力には言説や情報の暴力も含まれます。
それを支えているのが治安部隊とマスコミと法曹界、それに学校教育システムかもしれません。
暴力を独占するそれらの権力支援体制やそこで活動する人たちは、同時に、寄生しているその体制を覆し反転させ、民主社会を構築していく原動力にもなりえるようになってきたのが、おそらく現在の情報社会状況です。
ネグリの「マルチチュード」は、そうしたことを整理してくれているように思いますが、残念ながらまだ機は熟してはいません。
それは生物としての人類の成熟度に関係しているような気がします。
イルカは個体の意識が全体につながっているというような話を読んだことがありますが、人類はまだそこまでの進化はしていないようです。

カントは、人間には善意志という「内なる良心の声」が備わっていると言っていますが、それをつなげる方向ではなく、分断する方向で、人類は歴史を進めてきています。
チベットの人たちの声を聴く善意志を切り捨てることで、近代国家は支えられているわけです。
近代国家は「自治」からではなく「支配」から構想されていますから、それは当然の帰結かもしれません。

しかし、チベットに限りませんが、デモを過剰暴力行為で鎮圧する治安部隊を構成している人たちが、なぜあれほどの凶暴性を発揮できるのかは不思議です。
それは私が学生時代に体験したデモでの機動隊の行動に感じたことですが、その暴力性は当時の比ではありません。
無防備な個人に発砲するのですから、まともな人間のやれることではないはずですが、それができる仕組みが育っているというわけです。
近代国家の恐ろしさを感じます。

今回の中国の報道はまた、国家は真実を隠蔽し事実解釈を独占する装置だということも見えてきます。
そこではまた責任概念が消滅しますから、所属する人たちの主体性や人間性もまた消滅するわけです。

中国と北朝鮮の同質性は垣間見えますが、おそらくその本質において、日本もまたそう変わらないのではないかと思います。
そう思って最近の政治や裁判、あるいは経済や教育をみるとまた違った見え方がするような気がします。
組織に依存している人の、なんと多いことか。
自治を求める動きをもっと大切にする世界になってほしいと思います。

■運慶の「大日如来像」には海外で活躍してほしかったです(2008年3月20日)
運慶の「大日如来像」が一昨日、ニューヨークでオークションにかけられました。
一部から海外流出を懸念する声が出ていましたが、結局、三越が落札し、日本に残ることになりました。
写真で見る限り、惚れ惚れするような気品と慈愛の感じられる仏像です。

私は、こんな気品のある仏像が日本にとどまったことを残念に思います。
海外、とりわけアメリカの人たちに、この仏像を見てほしいと思いました。
仏の慈悲で世界が変わるかもしれないからです。

日本の仏教界はもっと世界に働きかけるべきではないかと思います。
仏教徒の私としては、人類の未来に向けて、仏教はもっと大きな役割を果たせるように思いますが、そうはなっていません。
一神教の経典宗教と違い、仏教は昨今のような「時間軸が短くなってしまった世界」では本領が発揮できないのかもしれません。
その上、ミャンマーでもチベットでも、追いやられた僧侶の暴力行為すら生まれてきています。
とても残念な状況ですが、仏教界のリーダーが動き出しているようには見えません。
しかし、たとえばこの仏像を見ていると、心和み、これまでの生き方を自問したくなる人も出てくるでしょう。
これはイコンや西洋の宗教画からは生まれてこない感情ではないかと思います。

国家の貴重な文化財の海外流出に反対する考えがあります。
今回も署名運動まであったようです。
たしかにかつてあったような収奪による流出は許されるべきではありません。
しかし、貴重な文化財だからといって、国家が独占するのもおかしな話です。
ましてや公開もされずにただ独占するだけでは意味がありません。
むしろ多くの人たちに見てもらうことをこそ目指すべきだと思います。
文化財まで私有することには、たとえそれが個人の私有でなく、国家の「私有」であっても、私には違和感があります。

私は日本の仏像が大好きです。
その前に座ると心が和み、世界や歴史とのつながりを実感できるからです。
ですから公開されていない仏像は公開してほしいですし、世界にもどんどん出していってほしいと思います。

今回、三越が落札したことが残念です。
仏たちには、もっと大きな世界で活躍してほしいと思っています。

■金融制度の目的と実体経済の安定化(2008年3月21日)
サブプライムに端を発した投機資金が原油や農産品などの市況商品に向かったため、小麦などの値上がりが起こり、私たちの食材まで軒並み値上がりしてきています。
最近、私自身、スーパーに買い物に行きますので、その値動きは実感できます。

それにしても、投機資金が実体経済を動かし、余剰資金を持っている人が蓄えもない人たちの生活を不安定にする経済に大きな違和感を持ちます。
そもそも「お金がお金を稼ぎ出す」という仕組みが、なぜ実体経済とこれほど深くリンクしているのかが私には全く理解できないのです。
経済の知識がないといわれればそれまでですが、金融資本主義などといわれる現状は、どう考えても人間の生活を基本にした経済発想ではないような気がして、学ぶ気にもなりません。

自然に根ざした人間の暮らしは、天候により、また地域により、不安定になったり偏ったりすることは仕方がありません。
その不安定さや偏りを緩和するために、空間や時間を超えて安定さを高めるための手段として「通貨」が登場しました。
もちろん通貨が生まれた契機やその目的は、それだけではありませんが、少なくともその根底には人間の暮らしを安定させ、便利にしようという動機があったと言っても、そう不正確ではないと思います。

ところが、現状の通貨はどうでしょうか。
生活を支えていくために必要な量を桁違いに上回る通貨が世界を飛び回り、私たちの生活を混乱させる状況が生まれてしまっているのです。
そして、手段だった金融システムが逆に人間の暮らしや活動を手段として自己増殖し始めているのです。
金融工学は発達しましたが、その専門家たちさえ金融システムの全体像は把握できなくなり、変調を来たした状況にも右往左往するだけです。
今回のサブプライム騒ぎで、その実態が明らかになったわけです。

金融工学の専門家たちは、要するに自己進化した金融システムに隷属することによって、それが生み出した巨額な資金で養われている奴隷でしかないように思います。
金銭的に「豊かな生活」をしているとしても、人間としての豊かな生活とは全く違うように思います。
もちろんどちらがいいかは、個人の価値観によりますから、なんとも言えませんが、問題は汗して働く実体経済の担い手の生活を圧迫することです。
企業の役割は金儲けだと明言したミルトン・フリードマンのようなマネタリストがノーベル賞をもらう世界は、私には居心地の悪い社会です。

金融制度の目的は、生活の安定性を高めることであるべきだと私は考えています。
そのモデルは、頼母子講や無尽講であり、あるいは小規模な共済の仕組みです。
こうした仕組みは、何も日本に限った話ではありません。
人がつくる社会には、おそらく例外なく存在していたはずです。
お互いに支え合う感性は、おそらくすべての生命体に埋め込められているのではないかと思います。
その感性が育ててきた仕組みは、どこの社会にもあるはずです。

昨日、お会いしたさいたま市在住の人から、いまでも醤油が無くなると隣から借りてくるような近所づきあいがあるとお聞きしました。
それもまた、ある意味での金融システムの原型かもしれません。
大銀行に象徴される昨今の金融システムの役割は40年前に終わったように思います。
にもかかわらずむしろ金融システムは、そのまま突き進み、自己進化して、独自の世界を構築してしまいました。
最近問題になっている新銀行東京は、まさにその古い仕組みの枠から抜け出せずに、見事に金融工学の担い手たちに利用されてしまっただけの話です。
みんなわかっていたのに、新しい仕組みを創出しなかったのです。

講や結いは、誰かが利益を上げるのではなく、みんなが利益をシェアするシステムですので、お金持ちや権力者には興味のない仕組みでしょう。
みんなが一緒になってつくっていかなければならない仕組みを創るのは、本当に大変です。
私もそうしたことに関心があり、ささやかに取り組んできましたが、片手間では出来ないことがよくわかりました。
まずは周辺の仲間内でとも思ったのですが、それさえも難しいです。

実体経済を支援し、生活の安定を保証するはずの金融制度が、生活を壊しかねない昨今の金融システムの状況を変えていくことは出来るのでしょうか。
私の対処策の一つは、お金から出来るだけ離れた暮らし方に向かうことです。
都市部では無理かもしれませんが。

■信用できない社会の逃げ場(2008年3月22日)
昨日、発表された朝日新聞の「政治・社会意識基本調査」の結果は非常に興味深いものでした。
政治家や官僚を信用している人が1%(ある程度信用している人を含めても20%)というのは恐ろしい数字だと思いましたが、その一方で、家族への信用度がしっかりと残っていたのにホッとしました。
だが、よく読んでいくと、待てよという気がしないでもありません。

調査では、信用する対象が多いことと生活満足度や心のゆとりが比例関係にあるという結果が出ています。
どちらが原因でどちらが結果なのかは一概には言えません。
信用する人や事、機関が多い人ほど、ゆとりを持って満足度の高い生活を過ごせるとも考えられますが、心にゆとりがあって、生活に満足している人ほど、周りを信用する余裕があるともいえます。

ところが、生活に満足している人が5割を超えているのに、そして幸せだと思っている人が8割近くいるのに、なぜか「今の世の中には信用できない人が多い」という人が64%もいるのです。
正の相関はしていても、水準が違うのです。
雑な推論になりますが、上記の因果関係の方向性は、どうも前者のようです。
つまり、生活に満足しているからと言って信用度が高いわけではなく、信用度が高い人のほうが満足しやすいというだけの話です。
なにやらややこしいので、この推論は自信がありませんが、少なくとも生活に満足しているのに、信用度が低い人が多いことは確かです。
信用できない人の中で暮らすのは辛いことではないかと思うのですが、どうもそれほど辛くはないようです。
この点にこそ、現代の日本社会の本質があるような気がします。
つまり自分たちの世界に閉じこもっていればいいということです。
その延長で、家族への期待が大きくなっているのであれば、あまり楽観はできません。

ソーシャル・キャピタル論の契機にもなった、ボーリングを一人でやるアメリカ人が増えたという話を思い出しました。
家族が社会の逃げ場になっては困ります。
家族の問題を改めて考えていくべき時期に来ているように思います。

それにしても、たくさんのメッセージのある調査結果です。

■価値を創りだすのは感性か利得か(2008年3月23日)
友人と話していて、ゴッホの絵の価値が話題になりました。
私はゴッホの絵はほとんど好きではありませんので、たとえ1万円でも買わないでしょう。
数十億円の値段がつくのを、いつも不思議に思っています。
私にはあまり価値もない退屈な作品でしかありません。

芸術が貨幣換算されるようになったことは、私には不幸なことのように思われます。
それによって作品を見る目が曇らされたような気がします。
感性ではなく、知識で作品を見るようになってしまいました。

価値を与える仕組みは必ずといっていいくらい、権力や支配につながっています。
安物の茶器が、茶道の仕組みの中で高価な値がつけられ、権力の道具にされたように、物の価値は、その物自身によってではなく、外部から与えられるものです。
それが当事者との関係において語られているうちはいいのですが、支配の具にされるとおかしなことになっていきます。

その話で私が思い出したのは、最近テレビでみた、ゴッホの贋作を大量に作成し、安く売っている中国のある村の話です。
買うほうはもちろん贋作と知って買っていくのですが、その贋作でも心を豊かにする人がいるのであれば、それでいいのではないかという気がします。
私自身は「知的所有権」に違和感を持っている人間ですので、贋作にあまり違和感はないのですし、気持ちが豊かになるのであれば、贋作でもいいではないかと思います。
そのたくさんの贋作のなかに、ゴッホが描いた本物の作品があったとして、その中から一番好きなものを選べといわれても、私には本物を選ぶ自信はまったくありません。
もしそうならば、私にはどれでもいいわけです。

感性のなさを指摘されそうですが、感性は極めて個人的なものであり、外部から強制されるものではありません。
「感性がない」などという言葉の意味もよくわかりません。
そんなことをいうと、美意識は磨けないのかと叱られそうですが、もちろん磨けると思いますし、また磨くべきだと思っています。
ただ、「感性がないという感性こそが感性のないことではないか」
という気がするのです。
あれれ、これは、クレタ人はみんな嘘つきだと言ったクレタ人のように、パラドックスですね。

感性は、本当にパラドキシカルな概念です。
論じてはいけません。
ましてや価格をつけてはいけません。

■矢祭町の議員日当制に新しい自治の時代の予兆を感じます(2008年3月24日)
昨日、福島県矢祭町の町議会選挙が行われました。
議員報酬の日当制導入で話題になったところです。
日当制には賛否両論がありますが、私はやっと自治の時代が到来したかと感慨深いです。日本の自治文化が壊れたのは、地方議会や自治体行政の仕組みが国家をモデルにし、その参加に「分権的」に組み込まれたからだろうと思います。
このあたりは以前、自治体解体書という報告書を書いたときに少し触れましたし、自治体での講演などではお話させていただいていますが、統治のための国家や都道府県と生活支援のための基礎自治体は、発想のベクトルや構造原理を変える必要があります。
基礎自治体に統治の概念を持ち込んでしまえば、生活は見えなくなってしまうからです。

町議会議員は日当さえも不要ではないかと私は思っています。
もし活動に資金が必要ならば、きちんと予算を組めばいいです。
議会も議員が独占する必要はなく、住民に開かれた議会として、住民も議論に参加できるようにすればいいでしょう。
住民投票などということが特別扱いするようなことも起きないでしょう。
住民みんなの生活に大きな影響を与えるような事柄に関しては、出来るだけ多くの住民の意向を聞くほうがいいことは明らかなことです。

矢祭町の昨日の投票率は88%を越えています。
この高さは、住民たちの自治への実感ではないかと思いますが(矢祭町に言ったことが無いので確信はないですが)、投票率の低い自治体はなぜ投票率が低いかを真剣に考える材料を提供してくれているように思います。

新聞によれば、「報酬が安いと議員は自分の仕事も続け、政治活動に集中できなくなるのでは」という声もあるそうです。
しかし、「政治活動」ってなんでしょうか。
基礎自治体における政治活動は、国会とは全く違うはずです。

ちなみに、政治とお金を切り離すのであれば、議員報酬はゼロにするのがいいと私は思っていますが、これは自治体に限った話ではありません。
私は国会議員も報酬はゼロにすべきだと思っています。
但し、活動費はきちんと予算化する事を前提としてです。
非常識といわれそうですが、常識は時代によって大きく変わります。
小さな常識に囚われていたら、新しい風は起こせません。
もしかしたら、新しい日本は矢祭町から始まったと22世紀には言われているかもしれません。
大仰ないいかたですが、最近の矢祭町の動きにはいつもわくわくするような夢を感じています。

■新しい公共空間としての喫茶店ルネッサンス(2008年3月25日)
このブログでも案内させていただいた、テーマもゲストもない、参加者がみんなで創りあげるフォーラム(コムケアフォーラム2008)は70人を越える参加者があり、イスが足りなくなってしまうほどの盛況でした。
しかも、参加してくださった方々が、とても居心地が良く、自分の居場所のあるフォーラムだったと言って下さいました。
コムケアセンターのホームページをみていただくとわかりますが、9つのセッションはそれぞれに刺激的で、新しい出会いがたくさん生まれました。
新たな物語も生まれました。

2週間前に決めて動き出した時には、本当にやれるのかと心配していた知人は、参加して、こんな形のフォーラムもあるのだと感心してくれました。
そして参加者はみんなともかくよく話していた、まさにこういう場をみんな求めていると思ったそうです。
いま社会から失われているのは、こうした気楽に集まれて話し合える「コモンズ空間」です。

私は15年以上、オフィスを開放したオープンサロンをやっていましたが、そうした全く意味のない空間が社会には不可欠ではないかと思っています。
私がやっている会社の定款には「喫茶店の経営」が事業目的として書かれています。
単にコーヒーを飲める喫茶店ではなく、イギリスやフランスで、近代社会を切り開く拠点になったコーヒーハウスをイメージしていたのです。
少しずつ準備は進めていたつもりですが、5年前に思わぬ人生の変化で、取り組みを中断、昨年、完全に諦めました。

ところが、今回のフォーラムをみんなで考えているうちに、この思いが蘇ってきてしまあいました。
そんなこともあって、今回のフォーラムは、最初は喫茶店を借りる計画でした。
それが実現できなかったのは、そうした喫茶店に出会えなかったからです。

今回、このフォーラムを応援してくれた人から、自分たちで喫茶店をやったらどうかと言われました。
お金が無いしと言ったら、それは理由にならないと言われました。
全くその通り、お金を理由にしない生き方を目指しているのに、全くお恥ずかしいことです。

そんなわけで、喫茶店を目指すことにしました。
今回のフォーラムの参加費が約3万円集まったので、それを基金にして喫茶店開店プロジェクトを立ち上げたいとみんなに提案しました。
まだみんなの同意も得られていませんし、3万円で基金とはおこがましい気もします。
しかし最初の一歩は、いつもこんなものでしょう。
もちろん資金の目処はないですが、きっと時代が後押ししてくれるでしょう。

「新しい公共空間としての喫茶店ルネッサンス」プロジェクトのスタートです。
開店の目標は3年後です。
共感してくださる方はぜひ参加しませんか。
お店を提供してくれる方がいたら、教えてください。

■国家は暴力だけでなく窃盗や詐欺や脅迫も無罪化できるのか(2008年3月26日)
道路特定財源が違法な目的に使われ、年金財源が浪費され私物化されているということが次々と明らかになってきていますが、これほど極端ではないとしても、こうした事例はおそらくほかにも少なくないはずです。
なぜそう思えるかといえば、何か問題が起きて少し第三者が調べると、こうした事例がどんどん出てくるからです。
おそらく当事者の周辺では、みんなが知っていることなのでしょう。
それが「犯罪」と思われずに、「特権」とされているのが、実状なのかもしれません。

テレビで、キャスターのみなさんが「許しがたい」といくら怒ってみても、誰も裁けずにいるのも不思議な話です。
組織としての自浄活動も余り出てこないのも不思議です。
そればかりか、今もなお、同じようなことが行われているのでしょう。

近代国家は「暴力」を自らの「特権」として独占したわけですが(戦争の名目で殺人さえ容認されましたし、死刑もまた合法化されました)、それだけでなく、窃盗も詐欺も恐喝も、およそあらゆる「犯罪」もまた、近代国家は自らの特権として位置づけたことに、最近やっと気づきました。
一昨日の袴田事件や先日の横浜事件に対する最高裁の対応を見ていると、司法もまたそういう構造の一翼を担っているのがよくわかります。

暴力などが国家の特権とされたのは、いわゆる社会契約の考え方に裏付けられているのでしょうが、どうもその社会契約行為そのものが、政府による「詐欺行為」によって、実は成立していないのかもしれないのです。
公約遵守意識すらない人や嘘を奨励する人が首相になっている状況を考えると、そう考えたくもなります。

騙されてもなお誠実に生きている人たちを、テレビで見る機会も増えているように思うのですが、日本が二極化しているのはどうも収入や資産だけではないような気がします。

■議論とは自らが変わるためのもの(2008年3月27日)
ガソリン暫定税率の問題は、議論不在のまま時間切れになりそうです。
議論ができないのは与野党いずれにも責任はあるでしょうが、一番の問題はイニシアティブをとっている政府与党が、議論とは何かを理解していないことなのではないかと思います。
議論とは、考えの違いを出しあって、両者が考えていたよりも、より好ましい結論に達するためのものです。
「より好ましい」の判断基準は、双方にとっての好ましさの総和であるだけでなく、その問題に関わる当事者すべてにとっての好ましさの総和です。

問題の解決策は、立場によって「好ましさ」は変わります。
時に全く反対になることも少なくありません。
ですから、ある人にとっての「最善の策」が、別の人にとっては「最悪の策」になることも少なくありません。
そこにこそ、利害を異にする関係者が集まって議論する意味があるわけです。

ところが今回のさまざまな問題での与党政府の発想は、自らの策が「最善策」であり、他には策などあろうはずがないという姿勢を感じさせることが少なくありません。
その姿勢では議論など始まるわけがありません。
それは議論ではなく、「説得」であり「儀式」でしかありません。

コミュニケーションとは自らが変わることだと私は考えていますが、議論もまた自らが変わるために行うものです。相手を変えるために行うのは議論ではありません。
国会が空転して議論が行われていないのは、野党が議論拒否しているようにも見えますが、最初から議論する姿勢のない政府与党のせいかもしれません。

本来的な意味での議論が行われる場であれば、ねじれ国会は決してマイナスではありません。
むしろ議論が活発化し、最適解への到達はやりやすくなるはずです。
そうならないのは、国会は議論の場ではなかったということかもしれません。
そして国会議員は、議論などには関心がないのかもしれません。
国会中継を見ていると、そう思うことが多いのを最近改めて思い出します。

■家族の惨劇や不幸な無差別殺人事件は社会の実相の現れ(2008年3月28日)
不幸な事件が続いています。
若者の無差別殺人事件は、いずれもこの社会から逃げたいというのが動機だと報道されています。
いずれの場合もその直接の契機は家族関係ですが、家族内での惨劇も少なくありません。
今朝も文京区で衝撃的な事件がありました。

家族はさまざまな問題を内包した、閉じられた空間である上に、人間関係も固定した逃げ場のない社会ですから、歯車が狂い出すと大変です。
でも、一線を越えることなど思いもせずに、みんなが支えあいながら問題解決に取り組んできたわけです。
ところが、その「一線」が崩れ出してきているようです。

問題は家族にあるのでしょうか。
社会の原点は家族にありますが、家族はまた社会に立脚しています。
人の生活は決して限られた空間に閉じ込められるものではありませんから、家族と地域社会は再帰的な関係にあります。
そのつながりが最近はどんどん断ち切れているのでしょう。
断ち切れさせる言説もすくなくありません。

しかし、人は一人では生きていけません。
支え合うことによって、生きていくように生命は設計されています。
つながりが切れた存在は、工場の作業ロボットや商品の消費ロボットとしては最強かもしれませんが、生きる上では脆い存在です。

最近の不幸な家族の惨劇や家族外に向けられた無差別殺人や無節操な犯罪は、こうした「つながりが切れてしまった社会」の実相の現われではないかと思います。
そして、そうしたことが「可能」であるという心理状況を醸成しているのが、事件を克明に繰り返し報道するマスコミではないかと思います。
マスコミには、もっと明るい話題、希望を育てるような話題を報道してほしいものです。

暗い社会の実相を隠蔽しろということではありません。
社会には多様な事件がたくさんあります。
どの話題を選ぶかで、社会の見え方は全く変わってきます。
そしてマスコミがどの事件を中心に編集するかで、社会のイメージは全く変わります。
イメージが変われば、実体も変わるものです。
イメージと実体は、これもまた再帰的な関係にあり、相互に干渉しあっています。
社会の実相を構築するのもまたマスコミなのです。

人への信頼を回復し、つながりを取り戻すために、マスコミが出来ることはたくさんあるはずなのですが。

■善良で誠実な人生に訪れる不条理な事件(2008年3月29日)
先日の岡山駅での不幸な事件で、被害者、加害者双方の父親がテレビで語っていた様子がずっと頭に残っています。
事件そのものは、とても不幸な悲劇ですが、お2人の発言が救いになるとともに、同時にそれが悲しさを増幅させます。
加害者の父親は、苦労をしながら息子を育ててきたのだと思いますが、事件を知った時の衝撃はいかばかりだったでしょうか。
しかも前日に土浦の若者の無差別殺人事件を見ながら、こんなことはしてはいけない、と息子と話し合っていたというのも、とても哀しい話です。
どうしていいかわからないと、とつとつと口から出てくる言葉に、真実を感じます。
なぜこんな善良に生きている人に、こんな不条理な事件が起きるのか、やりきれない感じがします。

被害者の父親は、本当は腹の中は煮えくり返っているといいながらも、加害者には社会に役立つ生き方をしてほしいと語りました。
善良な人柄だけではなく、その生き方の誠実さが伝わってきます。
突然に遭遇した事件によって、人生は一変してしまったでしょう。

一変してしまって、しかもなお、強靭に善良さと誠実さを維持している人も少なくないでしょう。
いや、むしろほとんどの人がそうかもしれません。
不条理な事件を体験した人たちの、その後の生き方の報道に接すると、ほとんどの場合、その後もまた善良で誠実な生き方をされているのがよくわかります。
痛みを知ることで、それまで以上に善良で誠実な生き方を大切にすることのほうが多いのかもしれません。
人はみんな基本的には善良で誠実なのでしょう。

にもかかわらず、こうした不条理な事件が起きつづけるのはなぜでしょうか。
加害者は、なぜそうした行動を取るのか。
おそらく加害者を取り巻く環境、人間関係、心身的な状況などが、そうさせると考えるべきでしょう。
そう考えれば、加害者もまた被害者というべきかもしれません。

戦場で戦う兵士たちは、多くの場合、自分自身としては敵軍を殺傷したいなどとは思っていなかったはずですが、それが自らの役割だと動機づけられ、それが「愛国心」だと意識づけられるのです。
それによって戦場では合法的な加害者と被害者が殺傷しあうわけです。
戦場と日常の社会では状況は違いますが、連続的なつながりをもっています。
昨今のように競争を扇動する社会では、そのつながりは決して細くはありません。
そうした意識で事件を見ていくと、本当の加害者は実は私たちみんななのかもしれません。

私たち自身の生き方が、問われていることを痛感します。

■痛みを分かちあおうとなぜ言わないのか(2008年3月30日)
ガソリン税に関する首相や政府の発言の身勝手さと宮崎県知事などの自立心を感じさせない無責任さ、そして動物の戦争での「こうもり」のようなマスコミの報道姿勢に、大きな怒りと失望を感じています。

なぜ身勝手と思うのか。
自説を理解しようとしない人の考えを理解しようとしない勝手さ。
自説に異論を唱える人の主張は理解しようとしない勝手さ。
時間が無くなってから動き出して間に合わないのは相手のせいだという勝手さ。
突然に基本的な考えを相談もなく変えてしまう勝手さ。
混乱の原因をすべて相手のせいにする勝手さ。

なぜ無責任と思うのか。
国家の交付金に依存して、主体的な自治行政を放棄していることに気づかぬ無責任さ。
そのくせ国家全体の視野を考えずに自分の県だけの利益しか考えていない無責任さ。
どうしたらいいかを考えずにともかく予算獲得に走るだけの無責任さ。
足元の自治行政ではなく、テレビや宣伝にあまりにも時間を費やしている無責任さ。
道路行政の遅れの原因を国家政府のせいにする無責任さ。

まあ、主観的判断ですから、異論も多いでしょう。
このブログも同じではないかと言われそうですが、
このブログの「身勝手さ」や「無責任さ」と、責任と権限のある人の「身勝手さ」や「無責任さ」とは全く意味あいが違うのです。
政府与党と野党民主党とも全く違います。
その非対称性を無視しては、論理は成り立ちません。

民主党の小沢さんがいうように、改革には混乱や損失はつきものなのです。
小泉元首相も「痛みを分かち合おう」といいました。
彼が国民に押し付けた「痛み」は、その結果としての成果を「分かち合う」スタイルではありませんでしたが(その結果、格差社会は進行しました)、今回の改革はそれに比べれば成果を分かち合える度合いは大きいはずです。

改革には混乱も不公平な影響もつきものです。
だとしたら、その不公平さの回復に努めることにこそ、知恵を出し合うべきです。
対立から言い合っているだけでは何も生まれません。
意見の違いを超えて、不公平になることを最小限にするようにしながら、混乱を克服していくことが望まれます。

そうした状況に向かって進み出せるのは、野党ではなく政府与党です。
与野党の対立は、決して対等な構造における対立ではないことも忘れてはいけません。
マスコミもまた主体性を持って、この事態に建設的に立ち向かう必要があると思います。
勢いがついた側や国民の人気取りの視点で報道しているような気がしてなりませんし、さらにどちら側にもいつでもつけるように玉虫色の報道をし続けているのはやめたほうがいいように思います。
報道は「中立的」にはなれないのですから。

結局、だれも「改革」など望んでいないのかもしれません。

■イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていけるか(2008年3月31日)
テレビの番組で教育論議をやっていました。
たまたまその番組を見たら、「イラクや宮崎の場所もわからない子どもが増えているような教育は問題がある」というような発言に対して、「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」という反論が行われていました。
入浴する直前だったので、そのやりとりしか見ていないのですが、風呂につかりながら、ちょっと気になりだしました。
たしかに、「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」でしょう。
しかし、その人生と、イラクや宮崎の場所を知っている人生とは、明らかに違う生き方なのだろうと思います。
義務教育といわれる小中学校の教育は、その人の生き方を大きく規定していくでしょう。
どちらの生き方を前提に、カリキュラムが組まれるかは将来の社会のあり方を方向づける重大な問題です。
大げさかもしれませんが、この議論には「教育の本質」「子育ての本質」が含意されているような気がします。

「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」生き方が、いまや主流になっているようです。
学校がおかしくなりだした原因は、こんなところにあるのかもしれません。

私は、やはり「イラクや宮崎の場所がわからなくては生きていけない」ような生き方をしたいと思っています。
みなさんはどういう生き方を望みますか。

■学校教育への税金投入が少ないわけ(2008年4月1日)
昨日、教育関連のことをちょっと書きましたが、そこでタレントの大竹さんが「日本は国家財政での教育関係の歳出は少なく、家計での教育投資は大きいのが問題」だというような話をしていました(不正確かもしれません)。
教育再生がずっと問題になりながら、日本の国家予算の教育への配分は、先進国の中では最下位のグループのようです。
国家財政の配分構造を見るとその国の実態や先行きが見えてきます。
日本が明治維新を成功させ、急速な近代化を進められたのは、教育投資のお陰だと思いますが、なぜ戦後の日本では学校教育への予算配分が少なかったのでしょうか。
是も昨夜のお風呂の中で思いついたことですが、その原因は、日教組と文部科学省の対立構造が影響していたのではないかと言うことです。
つまり学校が、国家の管理を離れてしまったがゆえに、教育予算は増やさなかったということはなかったのでしょうか。
このことは、学校のガバナンスの問題、あるいは学校のミッションの問題にもつながっていきます。

先の日教組大会会場拒否事件や日の丸君が代事件に見るように、まだその発想や構造は続いています。
文部科学省の官僚にとっては、学校は憎い敵に占拠されてしまっていた存在だったのかもしれません。
それを取り戻すために、彼らは日の丸や君が代、あるいは愛国心に、異常に執着しているのかもしれません。
政界はそれに加担することはいうまでもありませんが、かくして学校は教育の場ではなくなってしまったわけです。
象徴的に言えば、宮崎県の場所など教えないほうがいいのです。
よけいなことを教えれば、知恵が生まれて、権力に反発してくるからです。
いささか大げさで、過激に聞こえるでしょうが、そうした意識がどこかにあるのかもしれません。
最近の都知事の言動に見るように、自信のない人は過剰攻撃するものです。

お金持ちは、公立の学校とは別の所で子供を学ばせますが、そういう構造の中では、公立学校の教育内容は全く違うものになっていきます。
つまり民の学校とは、管理に唯々諾々と従う意識を植え付ければいいのです。
なんだかどんどん過激になっていきますね。
誤解されそうですのでやめますが、こういう構造は格差社会と深く関わっています。

お風呂の中ではもっとやわらかく考えていたのですが、1日立って、パソコンに向かうと発想が先走ってしまいます。
最近、どうも被害者意識が強くなっているのかもしれません。

いずれにしろ、学校教育は社会のあり方を決めていきます。
この世界こそ、政府や官僚に任せずに、NPOが真剣に取り組むべきテーマかもしれません。

■新銀行東京に集まる人たち(2008年4月2日)
都議会は新銀行東京への追加出資を認めました。
いったん動き出すと止められなくなるのが、お金の世界です。
ここで追加投資しないとこれまでの投資が無駄になるといわれると、ついつい追加投資してしまうわけですが、これは詐欺事件の典型的なプロセスでもあります。

この銀行ができた直後、資金繰りに困っていた私の知人の企業経営者が融資を申し込んだそうです。
大量の書類を書かされたあげく、結局は融資を受けられなかったそうです。
それを知っていましたから、こんなに杜撰な融資が行われていたとは思ってもいませんでした。
その会社は空間デザイン系の会社でしたから、資金回収の判断が難しかったのかもしれませんが、その会社は、その苦境を乗り切れば大きな可能性が開けてくる状況でした。
おそらく杓子定規なマニュアルで彼の会社の融資は弾き飛ばされてしまったわけです。
しかしどうしてこれだけの短期間に、これほどの不良債権がたまってしまったのでしょうか。
その筋に人たちの狩場になってしまっていたのでしょうか。

■犯罪者のつくられ方(2008年4月3日)
昨日、いささか不愉快なことがありました。
警察官から「犯罪者の疑い」をかけられたのです。
事の顛末はこうです。

来客があるので、自転車でペットボトルを買いに出かけました。
途中、天神町交番の前を通りました。
そこで呼びとめられたのです。
私が乗っていた自転車に盗難防止関係の登録票が付いていなかったのだそうです。
この自転車は折りたたみ式のもので、自動車に搭載ていたのを、湯島に自動車で来た時、置いていったものです。
購入時には、特に登録を勧められませんでした。
来客の関係で急いでいたのですが、身分証明書の呈示を求められました。
少し待ってほしいというので待っていると、本署に電話しているようです。
何をしているのかと訊いても、ちょっと待ってくれと言うだけです。
5分ほどたっても電話はかからないようです。
出ないなと2人の警察官はつぶやいています。
私もいささかいらいらしてきて、電話番号を教えるから買いに行けせてほしいと言いましたが、ともかく待ってくれというのです。
若い警官に、登録票をつけないといけないのかと訊いたら、つけるのが義務ですが、罰金などはないですと答えました。
それで高齢のほうの警察官に、義務だったらなぜ自転車販売の時にそうなっていないのか、私は自転車を盗んだと疑われているのか、私のことを名前や電話を訊いているのに、なぜ自分は名乗らないのか、と少しきつく質問しました。
彼は「山下」だと名乗りました。
若い警官に、余計なことを言うなという感じで怒っていました。
対応は柔らかですが、答はともかく待ってくれ、協力してくれと言うだけです。
しかし警察署への電話は一向に伝わりません。
トランシーバーのようなもので、連絡を取り出しましたが、それも通じません。
まあ、こんな事件だからいいですが、緊急を要する事件であれば、大事です。
文京区元富士警察者はまじめに仕事をしてないのではないかと思いたくなります。
ますます腹立たしくなりました。
時間が無いのでともかくペットボトルを買って、また帰りに寄る事を再度申し出て、やっと了解を得ました。
帰りに寄りましたが、まだ連絡がつかないようです。
おかしいと山下警察官はつぶやいていましたが、おかしいと言って済む話ではないだろうと思いました。
警察官は気楽な職業です。
結局、電話と住所を伝え、何かあれば連絡してほしいと言って、オフィスに戻る事にしました。
来客を待たせては申し訳ありません。
謝罪の電話があるかと思っていましたが、結局、その後なんの連絡もありませんでした。
人間としての基本的なルールも知らない山下さんでも警察官は務まるのです。

いささかの腹立ちに任せて冗長に書いてしまいましたが、この15分の体験でいろいろな事を感じました。
被疑者の気持ちも少し実感しました。
呼びとめた理由も説明せずに、また何をしているかも説明せずに、「協力してほしい」ということは成り立たない話です。まさに「お上」の姿勢です。

今日のタイトルは「犯罪者のつくられ方」としましたが、今回、私は被疑者になったわけですが、そこから犯罪者に進むのはもう一歩です。
そして冤罪がつくられるわけです。
尋問した警察官から逃げて事故で死んだ若者がいました。
私ももう少し急いでいたら、自転車で走り去ったかもしれません。
その瞬間、犯罪者になるわけですが、警官は「犯罪者の生産者」でもあることを今日は実感しました。産業のジレンマの構造は、警察行政にも見事に存在しています。
深刻な問題を持ち込んでも対応してもらえない話をよく聞きますが、彼らの役割は何なのでしょうか。

念のために言えば、私は「交番」の存在は大事だと思っています。
山下さんの対応は形式的にはていねいでした。
しかし、先ず人を疑うことからはじめることは間違いだと思っています。
人を疑うことを基本にした治安行政は見直されるべき時期に来ているように思います。

■手段は目的を駆逐する(2008年4月4日)
悪貨が良貨を駆逐する、というグレシャムの法則があります。
今日は「手段は目的を駆逐する」という法則の話です。

私もささやかに関わった、企業活力研究所の人材育成研究会が「企業ミドルマネジメントが十分な役割を果たすために」というタイトルの調査研究書を発表しました。
ホームページなどで何回か言及してきたこともありますが、この研究会では今回はミドルマネジメントの活性化がテーマだったのです。
全国1000人の企業ミドルマネジメントのアンケート調査や事例研究などを踏まえて、具体的な提言も盛り込まれているので、関心のある方はぜひご覧下さい。
企業活力研究のホームページに掲載されているはずですが、まだ載っていないとしたらまもなく掲載されると思います。

私がこの研究会の議論で気づいたのは、日本の企業には相変わらずマネジメントが不在なのではないかということです。
組織のフラット化が流行ですが、フラット化によってマネジメント概念が軽視されてきているのではないかと思います。
ピラミッド構造で仕事をしている場合、マネジメントというよりも管理や統制(コントロール)が効果的ですが、フラットな人間関係の中で効果的な仕事をしていくためには、まさに異質を束ね活かしていくマネジメントが重要になってきます。
日本でマネジメントが軽視されてきた原因の一つは、プレイングマネージャーの普及です。
この研究会でも話したのですが、プレイングマネージャーは、人減らしの手段ではなく、現場を知ることがマネジメントにとって重要な要素だという認識に基づくものだったのではないかと思います。
しかしいつの間にか、基軸が逆転してしまい、マネジメントは不在になっていきます。
そのひずみが、今の日本企業に現れているような気がします。

目的と手段の基軸が逆転することはいろいろなところで起こります。
たとえば企業には昔、企画調査部と企画管理部というのがありました。
企画のために調査や管理が必要だという発想から始まったところが多かったと思いますが、管理や調査という仕事がわかりやすいために、ほとんどの場合、企画はおろそかにされました。

目的と手段の関係は、いつも手段がわかりやすいために、力を持ち始め、中心になりがちです。
企業も政治も、もっと目的に戻って何が優先されるべきかを考えなければいけない時期になってきているように思います。
人生も、そうですが。

■ホームレス社会とゼロトレランス社会(2008年4月5日)
今日、大阪の釜ヶ崎地区でホームレス支援をしているグループの人に会いました。
数年前に、ささやかに支援したグループです。
活動はいろいろと話題を呼んでテレビなどでも取り上げられましたが、活動の継続はなかなか難しいようです。

格差社会の進行の中で、最近、ホームレスのニュースがしばしばテレビで特集されます。
ホームレスというと、野外生活者のことを私たちはついついイメージしてしまいますが、たとえばアメリカなどではホームレスはもっと広義に捉えられているようです。
最近は日本でもネットカフェ難民などという言葉で、ホームレスの捉え方が広くなっているようです。

ところで、ホームレスの「ホーム」とは何でしょうか。
ハウスレスとは言わずに、なぜホームレスなのでしょうか。
それがちょっと気になりだしています。
手元の英和辞書を見てみたら、一般にhouseは建物を意味するのに対し、homeは建物のほかに家庭生活の場としての快適さ、暖かさを含む」とあります(New Century)。
ホームがもし「家庭」や「家族」を意味するのであれば、日本にはホームレスはもっとたくさんいるかもしれません。
いや日本の政治経済政策は、ホームレス増加に大きく加担してきたのではないかとさえ思います。

定義はともかく昨今のホームレス状況の増加は気になります。
以前、ある集まりでウィークリーマンションで有名になった川末さんが、会場に向かって、みなさんの何割かは将来ホームレスになります、と話していましたが、まさにそうした状況に向かって事態は進んでいます。
私は幸いに自宅があるので、大丈夫ですが、昨年の年収は年金を入れても、妻の医療費とほぼ同額でした。自宅と年金がなければホームレスになってもおかしくはありません。
決して他人事ではないのです。
そしてこれは世界的に進んでいる状況なのです。
経済や科学技術や政治が、私たちを豊かにしているなどというのは全くの幻想かもしれません。

そうした中での、ゼロトレランス政策やゼロトレランス世論の進行。
やりきれない気がします。

■お金がなければ活動ができないNPO(2008年4月6日)
昨日、大阪のNPOの集まりに参加しました。
開催前に発表する団体の人やスピーカーの人たちと打ち合わせも兼ねて食事をしました。
私もその集まりを応援していたため、そこにも参加しました。
集まったのはしっかりした活動をしているNPOに関わっている人たちでした、
一人を除いて、私は初対面でした。

ところがです。
最初に出てきたのが、お金の話でした。
一つの団体が助成金を獲得したので、それが話題になってしまったのです。
NPOとお金の関係には嫌なものを感じている私としては、ちょっと引いてしまう話でした。
休日に自費で大阪にまできたことを後悔しました。
気分が滅入ってしまい、たぶん初対面の人たちに対して冷ややかな会話をしてしまったのではないかと反省しています。

ところで、またところで、なのですが、
その人たちがスピーカーになってのフォーラムは、実に面白かったのです。
お金との関係もきちんと距離感をもって議論が進んでいきましたし、自分たちの活動体験から助成金頼みは駄目だということが説得力を持って語られたのです。
始まる前のお金談義は、大阪ならではの話であり、本当はだれも助成金頼みなど思っていなかったのです。
最近、金銭志向の強いNPO関係者の話に触れることが多いので、私が過剰反応してしまっていたのです。

NPO関係者の集まりには私は基本的に参加しません。
なぜかと言うと、お金の話ばかり出てくるからです。
こから助成金をもらえるか、どうしたら助成金をもらえる申請書が書けるか、そんな話が飛び交う場は、本当にいたたまれないのです。
お金に依存している限り、市民活動は期待できません。
現在のような金銭至上主義の社会のあり方にこそ、ほとんどすべての問題が起因すると思っている私にとっては、市民活動は金銭からいかに自由になるかが発想の根底になければならないのです。
お金がなければ活動できないNPOは、現在の社会を補強する機能しか果たせない。
極端にいえば、私には有害無益の存在です。

それに助成金で活動している組織と付き合っていて感ずるのは、お金の使い方が「自分の財布」とは違うような気もします。
税金を使っている官僚や政治家と同じ匂いを感じます。
そしてそこに奇妙な企業や似非社会起業家が入り込んでくるのです。

かなり過激なことを書いてしまいましたので、NPOに取り組んでいる仲間たちからはまた嫌われそうですが、それが正直な気持ちです。
お金から自由になる活動をめざさなければいけません。
そんな非現実的なことを笑われそうですが、具体的なシナリオはもちろんあります。
いわゆる地域通貨、コモンズ通貨を使えばいいのです。
悪貨は良貨を駆逐する流れの中で、それは繰り返し挑戦し失敗してきた歴史を持っています。
私もその小さな実験に取り組んだことはありますが、入り口で止まっています。
ジョンギです。どなたかやってくれる人はいないでしょうか。
しかし、たぶんまもなく市民セクターは自分たちのコモンズ通貨を持ち出し出すでしょう。そうしなければ市民セクターは自立できないはずですから。

その時にはお金がないからなどという市民はいなくなるでしょう。
昨日のフォーラムで、みなさんの話を聞いていて、改めてそう思いました。
実際に活動していくと、助成金などがどれほど「麻薬効果」を持っているかに気づくのです。
ですから、お金論議をしているNPO関係者はまもなくお金から卒業できるでしょう。
そうなって困るのは、誰であるかは少し考えればわかります。
金融資本主義は早晩破綻するでしょう。
お金がお金を生みだすなどいう不条理が長続きするはずがありません。

■民意とは何なのか(2008年4月7日)
「軍縮問題飼料」5月号の「読者の声」に、こんな記事が載っていました。

民意とはなんなのか。小泉政権下の衆院選では自民を圧勝させた。安倍政権下では民主を圧勝させた。

そして、他の事例もあげた後、その方は「民意に確かな視座はあるのでしょうか」と書いています。

政治家もよく「民意」という言葉を使います。
多くの場合、自分が考えている考えを裏付ける場合に使うことが多いようですが、人によってその内容に込めている意味合いは正反対の場合すらあります。
「民意」は、いつも多様なのです。

確かな視座ではなく、多様な視座が民意の実体です。
にもかかわらず、「民意」は合意形成しうるものと考えがちなところに大きな落とし穴があるように思います。
合意形成が必要なのは、個々の「民」ではなく、民を統べる「公」の側なのです。
「民意」とは政治家にとって便利な言葉でしかないように思います。

人々が持っている多様な意思を「民意」に収斂する必要はありません。
異質さを認め合う関係をどう構築していくかが重要です。
そう考えれば、二大政党制という政治体制が誰のものであるか明確です。
民主主義を目指すのであれば、克服すべきものです。
異質さの中から出てくる合意と異質さを合意させるのとは全く違ったものです。

ネグリの「マルチチュード」を民主主義のために結集するには、多様な意思を大切にしながら、多様さをまもるための行動力に顕在化させる仕組みが必要かもしれません。
ネグリの日本での講演会は実現しませんでしたが、マルチチュードから学ぶことは少なくありません。

ちなみに、冒頭の投稿の自民と民主の圧勝は、要するに自民も民主も同質だということの現われかもしれません。
多様な民意がもはや日本には存在しないのではないかと、この頃、思えて仕方がありません。

■オリンピックというのは一体何のでしょうか(2008年4月8日)
聖火リレーへの妨害事件は何やらやりきれなさを感じます。
善意の人たちが、なぜこんな形で争わなければいけないのかと思います。
世界で起こっているほとんどすべての争いの現場では、本来は争うべきでない人たちが争っていることが少なくありません。
自爆テロに巻き込まれるのは、いつも争う対象からは遠い人たちです。
戦場で戦っているのも、いつも戦争がなければ仲良くなれたであろう人たちです。
なぜそうした、本来は争う必要のない人たちが争わなければいけないのか。
そうした構図を象徴的に顕在化してくれているような気がします。

それにしても、オリンピックというのは一体何なのでしょうか。
選手のためにあるのでしょうか。
平和のためにあるのでしょうか。
娯楽のためでしょうか、金儲けのためでしょうか。
選手は、もしかしたら戦場の兵士のような存在なのでしょうか。
薬まで飲んで記録に挑もうとする活動がスポーツなのであれば、オリンピックは所詮はローマの剣闘士のレベルの話です。
こけおどしの開会式の演出には感動のひとかけらも感じないのは私だけでしょうか。

もっとおおらかなオリンピックというのはないのでしょうか。
それに勝利を独占しようとする選手も好きにはなれません。
1回優勝したら、後進にその喜びを譲るやさしさをもってほしいものです。
勝利を独占する発想は平和にはつながりません。
戦争している国の権力者たちが、殺しあう代わりに、走りあうような場にはできないものでしょうか。

■ガソリンの価格設定(2008年4月9日)
最近また書く気を少し失っています。
それで今日もまた「無駄話」の類です。

ガソリン暫定税の廃止によって、ガソリンスタンドは小売価格をどうしようか迷ったようです。
しかし、迷う必要は全くなく、対応策は一つしかありません。
それは「出来るだけ早く価格を下げること」です。
これは自明のことですが、必ずしもそうはならなかったようで、税金がかかっているガソリンの在庫がある間は値段を下げないという所もあったようです。
そんな対応策はありえないはずですが、現にそうした選択を取る会社があったのは驚きでした。

なぜありえないかは説明するまでもないでしょう。
価格据置にしておくといつになっても売れないからです。
その結果、税負担のないガソリンまで売れなくなります。
しかも価格は次第に安くなりますから、いつになっても売れ残ります。
値下げの決断が遅ければ遅いほど、損失は大きくなります。
そんなことは、少し経営を知っている人は即座に分かります。

いくら下げるかも簡単な問題です。
15円下げるのが正解です。
消費者は即座に25円下がるとは思っていません。
でもまもなく25円下がることを知っています。
そうした状況で、15円下げれば、下がったという印象と売り手が損をしていると印象が残ります。
丸々25円下げたところもありますが、それは下げすぎですので、消費者からは馬鹿にされかねません。事実、馬鹿なのですが。
ここは「痛み分け」でなければいけません。

万一また暫定税率が復活したらどうでしょうか。
今度はできるだけ値上げを遅くするのが正解です。
最後の顧客が継続客になりえるからです。

まあ、どうでもいい話を書きましたが、この例にわかるように、世の中の価格設定の仕方は、ちょっと冷静に考えると間違っていると思われることが多々あります。
特に開店○周年の特売などで慣れない割引販売をする時に奇妙な価格設定が行われます。
わが家の近くのケーキ屋さんの周年特売は設定を間違えて、早々と売切れてしまい、わざわざ来店した人を失望させました。
顧客感謝ではなく、顧客に不快な思いをさせてしまったわけです。
安くすればいい話ではないのです。

ガソリンスタンドは薄利商売で存続が難しいと言われますが、存続が難しいのは薄利のせいではなく、考えていないだけの話かもしれません。

■犯罪の作られ方(2008年4月12日)
犯罪者の作られ方に続いて、今度は犯罪の作られ方です.
立川反戦ビラ配布事件(立川ビラまき事件)の最高裁判決が出ました。
上告棄却で、有罪が確定です。
最近の最高裁の傾向から予想はしていましたが、実際にこうした判決が出てくると失望というよりも恐ろしくなります。
私たちは息苦しい時代に向かっているようです。
もしこの裁判に裁判員制度が適用したら、無罪もしくは軽い刑になると思いますが、裁判官たちはそうは思わなかったようです。

事件の概要はご存知かと思いますが、このブログでも2回ほど取り上げました。
事件をご存知ない方はウィドペキアをご覧下さい。

概要は、立川市の自衛隊官舎で自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配った3人が住居侵入罪に問われた事件です。一審は無罪、二審は有罪でした。
ポストへの投函が住居侵入に成るとは思ってもいませんでした。
郵便や宅急便、あるいは新聞を届けてくれる人は毎回住居侵入しているわけです。
おそらくこの官舎には、それ以外のビラも配布されていたはずですから、反戦ビラであることが有罪の大きな理由です。
わが家の自宅のポストにもいろいろなビラが配布されますが、訴えたらそれもすべて犯罪になるのでしょうか。
自治会の資料などを無闇にポスティングできませんね。

私が恐ろしさを感ずるのは、判決もさることながら、被告の3人は逮捕された後、75日間勾留されていたことです。
ポストにビラを投函しただけで、75日も勾留できる仕組みに恐怖感を感じます。
ちなみに、一審では、政治ビラの配布について「民主主義の根幹を成し、商業ビラより優越的な地位が認められる」と指摘し、刑事罰を科すほどの違法性はないとして無罪とされました。
私にはとても納得できる判決です。
ポストに投函して75日も勾留。北朝鮮ではなく、日本の話です。
最高裁には、まだ戦争に加担した老人が生き残っているのでしょうか。

悪質な商業ビラは不問になり、反戦ビラは犯罪に仕上げられる。
自衛官たちと警察や検察、裁判官の仲間の世界に異を唱えると犯罪者にされてしまう社会の司法とは何なのか、良く考えてみなければいけません。
これは他人事では決してないのです。
私もつい先日、被疑者扱いされましたが、反発しないでよかったです。
権力者に逆らうとろくなことにはなりません。
従順に家畜のように生きるのがいいのかもしれません。
ちょうど、裁判官や警察官がそうしているように。

いささか腹立たしさが限度を超えたため、品のない書き方になってしまいました。
すみません。

■権力の乱用(2008年4月13日)
いまさら取り上げるのもいかがなものかとも思うのですが、最近、自民党の福田首相や伊吹幹事長が発言した「権力の乱用」という言葉がずっと気になっています。
権力の中枢にいる人から、こういう言葉が出てくることをどう理解したらいいのか、おそらくそれは今の日本の政治状況の本質を読み解くための鍵ではないかと思うのです。
権力は上下関係を基盤にした概念です。
その上下関係を規定している価値基準を逆転させると、権力関係もまた逆転するのです。

最も弱いものが最も強くなることはよくあることです。
失うものがなければ被害は少ないわけですから、失うものという基準からは考えれば強くなれます。
こうした基準の転換が「革命」の出発点ですが、そうした発想の転換を封じ込めるのが教育の大きな役割です。
しかし、学習はそうした発想の転換を封じ込めはしません。
教育と学習の違いは大きいわけです。

日銀人事では4人も拒否されたといいますが、視点を変えれば、拒否しなければいけない人を4人も提案されたともいえるわけです。
しかし、権力者は自分の考えが正しいという考えをしますから、相手の反対だけが不条理に映ります。
そうした「自分の考えが正しい」という立場で、弱いものの立場を尊重しないことを、「権力の乱用」というのではないかと私は思っていましたから、権力の中心にある人から立場の弱い野党に対して「権力の乱用」などという言葉が発せられたことに、いささか頭が混乱してしまい、この数日、反応できずにいたわけです。
自らの権力の乱用の結果だという理解は、落ち目の権力者にはできないことなのでしょうか。
そして、本来の主権者である国民自体も、その発言をなんとなく受け入れてしまっている状況の危うさには、不安を感じます。

昨日書いた立川ビラまき判決や横浜事件判決などを思うと、権力構造が崩れ出す予兆を感じます。
裁判官は、いままた「ヤニングの過ち」を繰り返さなければいいのですが。

■国家による情報操作(2008年4月14日)
聖火リレーの報道に関して、中国のテレビ放送の報道と日本の報道との違いは興味深い材料を提供してくれました。
実況報道の場合は、画面と音声を消去したこともあったようです。
北朝鮮と全く同じです。
しかし、おそらくこれは北朝鮮や中国だけの話ではないでしょう。
日本においても、程度の差はあれ、同じことが行われていると考えるべきでしょう。
事実、それを疑わせるような事件もあったような気がします。
それは、国家、もっと一般的ないい方をすれば、組織の特徴かもしれません。
こんな原始的なやりかたで情報操作が行われているわけです。

こうしたことを見せられながらも、私たちは相変わらず自国の政府が提供する情報を信頼する傾向があります。
それは何かを判断の根拠にしなければ生活していけないからです。
そうであれば、自国の政府の提供する情報に従うのが一番好都合です。
論理的に正しいと言うわけではありませんが、ほとんどの人はそう思っているはずです。
私自身も政府や組織に批判的な論を展開していますが、どこか心の奥では、政府に対する安直な信頼感があることを否定できません。
そうでなければ、生きていけない面もあります。

フランス革命も、結局は恐怖政治に陥ってしまったように、多様な価値観を束ねていくことは、一歩間違えば不幸な結果に陥りやすい危険性を持っています。
ですから、たとえ間違っていようと、あるいは嘘であろうと、それを国民みんなの共通の前提にする擬制が必要なのかもしれません。
もしかしたら、それが「最大多数の最大幸福」につながる一つの道なのかもしれません。

なにやらいつもと違う論調なのですが、そんな気がしてしまうほど、最近は陰鬱です。
野生より家畜のほうが豊かな生活を送れるかもしれません。
時にはデモも許されるのですから。

しかし、聖火リレーの火はいとも簡単に消せるのには驚きました。
チベットの火も、あれくらい簡単に消せると思っている人もいるのでしょうね。

■後期高齢者保険と世代間対立論理(2008年4月16日)
ギリシア人は2000年以上前の遺産で生活しているとよく言われます。
古代ギリシア人たちがつくりあげた文化の遺跡が、今もなお世界中の観光客を呼び込み、それに依存して生活している人も多いでしょう。
人間の社会は連綿と続いており、どこかで切り取ることなど出来ません。
人間は「個」として生きていると同時に、「種」としても生きています。

後期高齢者保険が問題になっています。
ほとんどの人がわからないままに導入され、混乱が生じているわけです。
導入の仕方が、あまりにお上発想に従っているのに驚きましたが、もう一つ気になったのが、制度の目的です。
若い世代への負担を少なくしようというわけですが、こうした発想に以前から違和感を持っていました。
「世代間対立」という言葉にもどうも違和感があります。
あまりに時間的要素が無視されているように思うのです。

人はいつか高齢者になります。
誰にもまわってくる生活の段階です。
高齢者問題は、すべての人にとっての問題です。
そうした視点が弱いように思います。

若い世代が高齢者の生活を支えるというのは、本当でしょうか。
たしかに税負担は働いて所得を得ている若い世代に負担能力はあるかもしれませんが、それはフローとしての金銭基準での話です。
いまの社会が平穏で便利なのは、若者世代の努力のせいだけでしょうか。
そうではありません。
先代の人たちの営みの結果として、今の社会があります。
なかには負の遺産もあるでしょうが、私たちの今の生活を支えてくれる正の遺産のほうが圧倒的に大きいでしょう。

フローで考えるか、ストックで考えるかによって、世界は全く違って見えてきます。
ある時点だけを切り取って、損得や負担の多寡を考えるのではなく、人のつながりの中で考えていくと、若者が高齢者を養うなどという発想にはどうしても違和感が出てきてしまいます。
若者が働けるのは高齢者が創りあげた環境のおかげかもしれません。
まあ、その環境に問題があるというのも事実ですが、
大きく考えれば、今の生活は先人たちも含めて、みんなの営為で成り立っているのです。

世代間を対立させるような発想や言葉は使いたくないものです。
若者も後期高齢者も、みんな鏡の中の自分なのですから。
過去の遺産に感謝し、その使用料を負担するという発想はできないでしょうか。
その使用料を高齢者に後払いするだけの話です。
それはいつか自分に回ってくるのです。
少子高齢社会の進行で、それが成り立たなくなるというのであれば、仕組みを大きく変えるべきですが、それは決して世代間の負担配分の話ではないはずです。
対立ではなく、一緒になって新しい仕組みを考えればいいのです。
金銭の呪縛から自由になれば、方法はいくらでもあるはずです。
小さな実験はこれまでもいろいろとあったと思います。

■逃げ場の無い空間での身の処し方(2008年4月17日)
先日、久しぶりに超満員の電車に乗りました。
乗ってから後悔しましたが、もう出られません。
どんどん中に押し込まれます。
すぐ目の前の人は、それまでつりかわを掴んでいたのが押しやられ、手を離さざるをえなかったのですが、その手を下に下ろす隙間がなく、手を上げたままです。
知人がいつか話していましたが、満員電車では置換の疑いをかけられないようにするため、手は上に上げておかねばいけないのだそうです。
それが納得できるような混雑状況でした。

電車で閉じ込められたことも何回かあります。
もう数百メートルで目的駅に着くという直前で事故で止まり、1時間以上かん詰になったこともありますし、新幹線で東京を出た途端に事故でストップし、結局、新横浜まで2時間かかって着いたこともあります。
そういう状況にあうと、どうしようもありません。

先日、千代田線に乗っていたら、肌寒い日だったにもかかわらず、車掌が何を思ったのかファンを入れました。
私の車両はそれほど混んでいませんでしたが、車掌の乗っている所は混んでいたのかもしれませんが、千代田線は、前にも書きましたが、寒くても冷房をよく入れる電車です。
しかし、乗客としてはどうしようもありません。

車内放送の音が大きすぎたり、何を言っているのか聞き取れないような音量だったりすることもあります。
これもいらいらして降りたくなりますが、時間を気にして時には、我慢して乗っています。精神的にはよくないです。

先日、風が当たる車内で考えたのですが、電車内は閉じられた逃げ場のない空間なのです。
しかし、そこで気づいたのですが、逃げ場のない空間は車内だけではありません。
私たちは、そうしたさまざまな逃げ場のない空間に閉じ込められて生きているのです。
だとしたら、従順にその空間の条件を受け入れていくか、あるいは空間の条件を変えていくしかありません。

でまあ、今日は会社に意見を送りました。
しかし、こういう瑣末で勝手な意見が事業コストを上げているのかもしれません。
返信不要とは書いておきましたが、海外協力援助事業者は迷惑かもしれません。
個人の感想を伝えることは果たしていいことかどうか、迷います。
しかし、できるだけこれからは発言していくことにしました。
もちろん行動も含めてですが。

■憲法9条と平和的生存権(2008年4月18日)
「空自イラク派遣は憲法9条に違反」という判決が出ました。
昨日の自衛隊イラク派遣の差し止めや派遣の違憲確認などを求めていた、市民3千人以上による集団訴訟の控訴審判決(名古屋高裁)です。
原告が主張していた「平和的生存権」に関しても、判決は平和的生存権を「憲法上の法的な権利」と認定し、「戦争への協力の強制など憲法9条に違反する国の行為により個人の生命が侵害されるような場合には、裁判所に違憲行為の差し止めを請求するなどの具体的権利性がある」と明言しています。
日本国憲法の前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。
これが「平和的生存権」の根拠ですが、この判決文は何度読んでも感動します。
いまの9条がある限り、戦争への協力の強制などを拒否できるということですから。
しかし、この判決に対する政府のコメントは、この判決の無力さを予感させます。
違憲判決にもなんら反応しない政府の体質はいまなお続いています。

今回の判決では、多国籍軍兵士を空輸する空自の活動について「他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、武力行使を禁止した憲法9条1項とイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反すると判断していますが、小泉元首相の狂気に対して、ようやくまともな意見をいう裁判官が出てきたことは少し安堵します。
司法にもまだ何がしかの見識があるのかもしれません。
今回の判決をくだした青山邦夫裁判長のこれからに注目しておきたいです。

■橋下大阪府知事への共感(2008年4月18日)
一昨日の大阪での知事と市町村長との話し合いのテレビ報道を何度も見ました。
いろいろなことを考えさせられましたが、これまでどうも好きになれなかった橋下知事への共感度は一挙に高まりました。
彼の志に頭がさがります。

先ず考えたのが、「いじめ」です。
職場や学校での「いじめの構図」が象徴されていたように思います。
市町村長たちに傲慢な態度には驚きましたが、こうした人たちがのさばっていて、いじめの社会を作り出しているのでしょう。
目線の高さには呆れました。

次に感じたのは、自治会首長の誇りの無さです。
まさに支援に依存している生き方のために、現状をひきおこしてきたことへの責任感は皆無です。
社会を正そうなどという発想も皆無で、ともかくお金がほしいだけです。
お金があれば、サルでも職責は果たせるでしょうが、サルでももう少し自尊心はあるでしょう。

お金がもらえなければ、道はぼこぼこ、屋根も落ちると明言した人もいました。
呆れるどころか、笑い話です。

大阪府はだめになったのは、こうした市町村長にお金をむしりとられていたからでしょう。
お金をむしりとる人たちが行政を食い物にしていた結果が、現状です。

まちづくりにお金はそれほどいりません。
たとえばこんな事例もあります。
http://www.esd-j.org/activity/archives/000184.html

■データの取り扱いには注意しなければいけません(2008年4月19日)
今日は私の失敗の話です。
昨日、仕事で合宿に出かけていました。
出張時もメールの関係でパソコンを持参するのですが、移動時間の電車や滞在するホテルでブログやホームページの原稿を書くようにしています。
今回は時間が比較的余裕があったのでいろいろと書き込みました。
そしてうっかりそれをすべてフラッシュメモリーに移動させました。
いつもはパソコンにも残しておくのですが、今回は残しませんでした。

帰宅して書いた記事を自宅のパソコンに移して作業しようとしたのですが、メモリーが見つかりません。
どこかでなくして来てしまったのです。
この2日間、3時間くらいかかって打ち込んだ記事がなくなってしまったわけです。
一度書いた記事を改めて書くことほど退屈なことはありません。
全く面白くなく、確実に内容は劣化します。
幸いに他のデータは入っていなかったのですが、
時々、かなり重要な情報を入れて持ち歩くこともあります。
もしそれをどこかに忘れてきたらと思うとゾッとします。
実は先週はそうしたメモリーを持ち歩いていたからです。

データの流出が時々事件として報道されますが、私もまたいつその加害者になるかわからなかったわけです。
なにしろ小さなメモリーの中に膨大に情報が入るわけですから、仕事をしている人の中にはけっこう持ち歩く機会もあるのではないかと思います。
悪意がなくても情報流出の犯罪者になる可能性を多くの人が持ってしまっているのかもしれません。
自動車や電子機器の使用は、そうした加害者になる潜在的危険性を高めることにつながっていることは否定できません。
生きていくことに内包されている、そうした加害性を、私たちはもっと強く意識していくことが必要だと、今回の失敗から痛感しました。

今日のブログは挽歌は書き直しましたが、時評はこの記事に変えました。
明日の更新予定のホームページは書きなおす気力が出てきません。

■田母神空幕長の法を踏みにじる発言に耳を疑いました(2008年4月19日)
朝日新聞の夕刊で、とんでもない記事を見つけました。

航空自衛隊のイラクでの空輸活動をめぐり、活動の一部が憲法9条に違反するという判断を含んだ名古屋高裁判決に対し、田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長は18日の定例会見で、隊員らの心情を代弁するとして、お笑い芸人の流行のフレーズを使い、「『そんなのかんけえねえ』という状況」などと述べた。判決が隊員の活動に影響がないことを強調した。

これは明らかに犯罪的発言だと思います。
司法の判断を「そんなのかんけいねえ」とは、どういう心境でしょうか。
犯罪者そのものとしか思えません。
まともな法治感覚や順法精神など微塵も感じられない発言です。
この人の家族はどう思っているのでしょうか。
友人はいるのでしょうか。
もしいたら正してほしいものです。

シビリアンコントロールなど、「そんなのかんけいねえ」と思っているのでしょう。
こういう人は即刻懲戒解雇でなければ、おかしいと思います。
田母神さんのような良識など微塵もない人が、自衛隊では出世するのは、その性質上、仕方がないとしても、この種の発言に大臣が何も言わないとしたら、この国の防衛体制などは全く意味がないでしょう。
彼らが防衛しているのは、平和や国民の生活ではなく、自らの利権でしかないと思われても仕方がありません。
田母神さんのような人をのさぼらせた結果、どうなったか、ドイツや日本は体験してきました。
今の子どもたちの社会のおかしさも、田母神さんのような人たちが作り出しているのだと思います。
こういう人をとがめる仕組みのない社会は法治国家とはいえません。
法の権威を認めない人が、政府の要職を勤めているのは仕方ないとして、
この人の場合は、狂人に凶器です。
恐ろしい話です。

青山裁判官と田母神空幕長。
あまりの格差に驚きます。
彼が罷免されないようであれば、司法の権威は損なわれるでしょう。

■介護者を支援できない社会(2008年4月23日)
またいたたましい事件です。
老親の介護に疲れた58歳の男性が、老親を殺め、自らをも殺めてしまったのです。

ちょうど、その事件の報道のあった朝、志を強く持って介護の世界に身を投じていた知人からメールが来ました。
介護の現場を実感していただくために、そのメールの一部を紹介させてもらいます。

自宅を開放してのデイ。仕事・記録などが終われば母の介護。 
プライバシーもプライベートも
皆無の日々で鍛えられております。

自分の親を看病・介護するようになって、はじめて『自分は介護をなめていた』と思っております。

介護は地獄です。特に僕みたいに結婚もせず、一人身で親の介護をしている息子は。。。
我親に手を上げる息子の気持ちもよく分かります。
しかし、これも試練『人生は重き荷物を負て・・・』と自分に言い聞かせて、一日一日を堪えて、凌いでおります。

しかし、いたって気持ちは前向きで、体調も既に壊れ始めておりますが、自分で選んだ道ですので倒れてもこれでいいのだと思っております。

私たちの社会は、こうした人たちに支えられています。
今回の事件は、決して例外的な事件ではないのです。
なぜ福祉行政の方向を決める人たちに、こうした現実が見えていかないのでしょうか。
介護を体験している人はいないのでしょうか。

■社会が壊れ出しているのでしょうか(2008年4月24日)
福岡に行っていました。
いろいろと刺激を受けてきましたが、期せずしてお会いした2人の方から、社会が壊れだしているのではないかと思わせる話をお聞きしました。
一人は福祉の世界で活動している方ですが、福祉に関わる行政の人たちが仕事をしていないのではないかという話です。
もう一人は新聞社OBの方ですが、最近のマスコミはおかしくなっているというのです。

そういえば、最近、誰と会っても組織がおかしくなってきているという話がよく出ます。
みんなおかしさを実感しているようです。

最近の社会は一体どうなっているのかと不安ですが、身近な所を見ても、いたるところで組織や制度が壊れてきているような事象を指摘できます。

自然界の中では、全体と部分が相似的な構造になっている事例が多いといわれます。
それをフラクタルと呼んでいますが、その現象は自然界に限りません。
むしろそうしたフラクタル現象は、人間社会に多く見られるように思います。
身近に感じられるおかしさが、実は社会全体に蔓延し、社会そのものを壊し出しているのではないか、そんな気がします。

社会が壊れ出しているということは、社会の構造原理が壊れ出していることです。
おそらく個別の組織や制度の変革で対応できることではないでしょう。
社会のさまざまな組織や制度は、ホロニックにつながっているからです。
行政や企業が壊れ出しているのは、その表層的な現れの一部でしかありません。

社会を正す方策は、私たち一人ひとりの生き方を正すしかないように思います。
気が遠くなりそうな気もしますが、社会を正すのは自分の生き方を正すしかないのだという気がしてきました。
60年かかって壊れたものを直すには、その倍の120年くらいはかかるでしょう。
私のわずかな老後は、壊れた社会で生き延びなければいけないようです。
しかし子どもたちのために、せめてベクトルだけは変えて行く努力はしたいとは思っています。
これまでの60年、何をしてきたのか、全く無念でなりません。

■なぜここまでして聖火リレーをするのでしょうか(2008年4月25日)
聖火の火が日本に来ました。
長野での聖火リレーは、ものものしい警戒態勢の中で行われるようです。

なぜここまでして聖火リレーをしなければいけないのか不思議です。
いろんな人が走者に加わっていますが、なぜ辞退する人が少ないのかも不思議です。
チベットの問題と聖火リレーをつなげることには私も違和感がありますが、チベットの人たちの追い詰められた気持ちもわかります。
それを知っていたら走れないのではないかと私は思います。
どうしてこんな状況の中で走れるのでしょうか。

不思議でなりません。

■出るをもって入るを制する(2008年4月26日)
西部劇にはよく「おれが法だ」というボスが出てきます。
無法地帯だった西部には、法を語る権力者が生まれる素地があったのでしょう。

ところが、それと似た状況が今の日本にあります。
自民党の面々は、政府こそが法だといわんばかりの暴政を展開しています。
弱者がやっと手に入れた抵抗権を使えば、権力の乱用と非難します。
自分の思いが通らなければ社会に混乱を起こすといい、自分が起こす混乱は何も言いません。
税収入が少なくなり、無駄遣いができなくなれば、増税します。
弱者からは絞る取れるだけ搾り取ります。
たとえ自殺者が出ようと、一言もコメントしません。
これがいまの日本の政府のやり方のように見えて仕方がありません。

どんな暴政下でも、人々は生きなければいけません。
現場は身を粉にしてがんばっていますが、なかなか報われません。
個人の場合は、収入がなければ節約します。
「入るをもって出るを制する」わけです。
しかし政府は違います。
収入が減ってはならないのです。
「出るをもって入るを制する」わけです。
まさにパーキンソンの法則は守られています。

もっとおかしなこともあります。
会社に不祥事があれば、過去の不祥事であろうと現在の経営者が責任をとり、辞任します。
政府はどうでしょうか。
たくさんの人の生命に関わる事件を犯しても、巨額な税金を使い込んでも(使い込み続けていても)、誰も責任を取りません。
行政の長が政府であることは忘れられ、官僚と政府は敵対関係にあるようなイメージを巧みに作り出しています。
次々と明るみに出る、行政の不祥事を管理してきたのは歴代の自民党政府です。
相変わらず放任している首相は逮捕もされず、辞任もしません。
ルイ16世やマリー・アントワネットはうらやましがっていることでしょう。

不思議な時代になりました。

■そんなの関係ねえ政権と分離社会の進行(2008年4月28日)
山口県の衆議院補選は民主党が大勝しました。
しかし政府の対応は、まさに「そんなの関係ねえ」とばかりに、既定路線を走っています。
現政府には歳入確保と歳出削減が至上命題のようです。
幹事長は、「きちんと説明すれば、賢い国民はわかってくれる」と明言されていますが、彼らにとって「賢い国民」とはだれなのか。
この表現にこそ、「そんなの関係ねえ」発想を感じます。

最近、政権と国民がどこかで切れている感じがしていたのですが、どうもそうではなく、「切っている」のが実状かもしれません。
切らなければいけなくなってきたのでしょうか。
そういう視点で見ていくと、切り捨てることで成り立っていることが増えてきているように思います。
聖火リレーも「切った」おかげで何とか実行できました。

しかし「何かを切り捨てること」は、同時に「壁をつくって、その内部は結束すること」でもあります。
格差社会の進行も問題ですが、そうした分離社会の進行にも不気味さを感じます。
自分たちのことは過剰に防衛するのに、外部のことは「そんなの関係ねえ」と無視してしまう風潮は永続きしないでしょうから。

聖火リレーが長野で行われた日、善光寺ではチベット暴動の犠牲者の追悼法要が開かれました。チベット族か漢族かを問わず暴動で犠牲となった数十人の名前が読み上げられたそうです。そこでは「切り捨て」とは別の動きもあるわけです。
テレビで見る、リレー走者と追悼法要の僧との表情の違いがとても印象的でした。
切り捨てる側と切り捨てられる側を象徴しているような気がしました。

■「三匹の侍」の百姓と「7人の侍」の百姓(2008年4月29日)
ガソリン税がまた上がるようですが、それを見越してガソリンスタンドは長蛇の車の列だとテレビで報道されています。
その光景がとても不思議です。
お上には従いながらも、自らの生活だけは自衛しようとする、まさに「三匹の侍」が描いていた百姓のようです。
「7人の侍」の百姓とは大違いです。
こうしたいじましい生き方を私たちは何とも思わなくなりました。

ガソリンスタンドの前に並ぶよりも、
国会議事堂の前にデモをかけるのが効果的でしょうが、今ではだれもやろうとはしません。
私もその気にはなれません。
政治への期待を失っているのでしょうか。
自民党も民主党も、いずれも国民との共闘などは考えていませんから、まあ政治家も国民も、どっちもどっちではあります。
政権を倒すのは、野党ではなく国民なのですが、民主党にはそのことがわかっていません。
国民もまたそのことを考えもしません。
なにしろいまや政治は世襲の人たちの舞台でしかないのですから。
世襲政治家の発言には驚くことが多いです。

最近、政治問題を扱うテレビの報道番組のキャスター役は自民党に批判的な姿勢を見せています。
現政権を批判してもリスクがない状況になったわけです。
にもかかわらず自民党はあわてませんし、民主党も動きません。
不思議な状況です。
政治が壊れてしまっているのでしょうか。
少なくとも政党は壊れています。

国民がどんなに騒ごうと反対しようと、政府は考えを変えません。
彼らは国民に選ばれてはいないのですから当然なのですが、こうして昔、日本は戦争に突入しました。
いま私たちが突入しようとしているのは、何なのでしょうか。
何となく見えてきますが、だれも見ようとはしていないのかもしれません。
見たくないものは見ないのが、人間ですから。
私も見たくはありませんが、その予兆が身辺に増えています。
最近は人間嫌いになりそうです。

■ワーキングプアよりもプアなワーカーたち(2008年4月30日)
今年の連休は快晴に恵まれそうです。
私は会社勤めを辞めて20年もたちますので、連休には全く積極的な意味を感じない生活をしています。

今朝の朝日新聞の1面に、「細切れ雇用の果て 39歳、全財産100円」という大見出しの記事が出ています。
http://www.asahi.com/life/update/0430/TKY200804290254.html
ワーキングプアの実態報告です。
この人たちには連休はマイナスの意味はあっても、プラスの意味はないでしょう。
時給を中心に暮らしている人にとって、連休はうれしいはずがないのです。
連休がうれしいのは、そして経済的にメリットがあるのは、会社に所属する正社員たちです。
私は一応、個人会社を経営していますが、働かなければ収入は全くありませんので、時給生活者と実質的には同じです。
ですからワーキングプアの人たちの気持ちも少しだけわかるような気がします。
それに私の周りには年収200万円以下の人たちも少なからずいます。
もちろん私の世代ではなく、30代の人たちです。

彼らは決して働きたくないのではありません。
自立生活支援センター・もやい事務局長の湯浅誠さんは、「いまは、少し踏み外しただけでもすぐに貧困のどん底まで滑り落ち、なかなかはい上がれない」すべり台社会だと言っていますが、まさにそうした社会になってきているように思います。
その一方で、テレビでは相変わらず無芸な芸人たちが浪費を刺激し、社会の実相を隠すように虚構の世界を見せています。
彼らは経済的にはプアではないでしょうが、その働きの内容は、ワーキングプアの人たちよりももっとプアなような気がします。
浪費社会の手先として演じているのではないかなどと私は勘ぐりたくなります。
そうした人たちが「環境にやさしい」とか「持続可能な社会」とか「愛」を語っているのを聞くことほど不快なことはありません。

連休のさなか、世論の声などどこ吹く風とばかり政府はガソリン暫定税を復活させ、無駄遣いする官僚を守りました。
歳入が減らない限り、行政の無駄など無くなるはずはありません。
「細切れ雇用の果て 39歳、全財産100円」の人とは全く無縁な人たちが、税金を浪費しているわけですから、やりきれない気分です。
道路を造るのではなく、そうしたワーキングプアの人たちの生活を支援するのであれば、増税も歓迎できますが、高齢者や障害者と同じく、政府の関心対象ではありません。
再可決を強行した政府与党の政治家たち、それを許した(消極的に支援した)野党の政治家たちの仕事も、まさにプアとしかいいようがありません。
快晴続きの連休なのに、いやなことが多すぎます。

前述の朝日新聞の気所の最後は、こんな文章です。
男性はたびたび、自分のことを「私のような人間」と呼んだ。まじめに働いても、30歳で大学を出たというだけで貧困から抜け出せない。広がる「ワーキングプア(働く貧困層)」。1年間働いても200万円以下しか収入がない人は、06年に1千万人を超えた。

このまま何も起きずに連休が終わるでしょうか。
なにかとてもいやな気分がしてなりません。

■権力を持てばなんでもできる世の中(2008年5月1日)
暫定税率の復活で道路はまたつくり続けられることになりました。
世の中に「必要」でない道路などありませんから(道路はそれぞれの地域にあって、客観的な相対評価はできませんし、誰も通らなくても必要である理由付けをすることは簡単です)、どんどんできていくでしょう。
第一、道路が必要かどうかよりも、道路を建設することが必要だというのが、宮崎県知事をはじめとした人たちの考えの根底にありますから、誰も通らない道路を長い時間をかけてつくるのが政治家の手腕です。
宮崎県や和歌山県の政治家は見事に成功したわけです。
まあ、それはまた別の話ですが、視点を変えれば、道路族の本質が見えてきます。

道路が出来た頃には、私たち運送業者は倒産しているかもしれないと、ある人がテレビでコメントしていましたが、私の近くのガソリンスタンドも倒産しましたし(理由は違うかもしれませんが)、現実味のあるコメントです。
スタグフレーションの到来を危惧しますが、国民とは袂を分かった政治家たちには無縁な話なのかもしれません。

ガソリン税が上がるとどうなるでしょうか。
目先の歳入は増加し、行政や政治の無駄は継続できる条件が整いますから、行政改革はまた形だけのものになるでしょう。
ガソリンの上に成り立っている物価体系は上昇しますが、それにリンクしている消費税収入は上昇します。
この雰囲気の中でさまざまな商品の値上げが続くでしょう。
これまでがんばってきた生産者や販売者は、がんばるのが馬鹿らしくなってきているはずです。がんばっても報われないという現実が多すぎます。
今ならお客様は仕方がないと値上げを受け入れるでしょうから、いろいろな形で値上げが進みます。
スーパーなどに買物に行くと実感できますが、すさまじいほどの値上げが行われています。
にもかかわらず感覚的にはみんな麻痺してきているように思います。
かりに商品が10%値上がりすれば、消費税率1%上昇に相当します。
その増収分はまた政治家と行政の無駄に繋がっていくのかと思うと、彼らのしたたかさに感心してしまいます。

こうしたことの結果、社会は壊れていき、どこかでツケを払うことになるでしょう。
そのツケの払い方も、彼らは良く知っています。
20年前のバブル崩壊で見事にそれを逆手にとって、不良債権処理や産業再生でツケを払わせる仕組みをつくり、そのツケの中からピンはねすることに成功しました。
その結果が格差社会の顕在化です。
とまあ、こうやって議論を広げていくと際限がありません。

今回の暫定税率再可決は、政治の死、良識の死のように感じます。
権力を持てばなんでもできる世の中に戻ってしまったような気がしますが、それを支える構造ができてしまっているようです。

■世界中みんなが不幸せになれば、みんな幸せになれる(2008年5月2日)
昨夜の報道ステーションに与謝野馨さんが出演し、古館さんと対話しました。
呆れたというか、情けないというか、政治家というものの実態を改めて思い知らされました。

与謝野さんは「福田さんは善意の人だから」といいましたが、与謝野さんも「善意」の人です。
つまり実態を何も知らずに、現実を他人事として存在している人です。
リスクはとらず、実態にはコミットしないのが、こうした善意の人の特徴です。
無知の上に成り立つ「善意」は、意識的な悪意以上に、悪質な「悪意」と同質です。
不作為の罪があるとすれば、彼らは重大な罪を犯している人になりかねません。
「善意」の人が権力を握るとどれほどのことが起るかは、歴史が示しています。

画面から古館さんや加藤さんの怒りや失望が伝わってきました。
私には侮蔑や憐憫すら伝わってきましたが、「善意」の人は何も感じていないように見えました。
ここまで愚鈍だと幸せなのかもしれません。
「世界中みんなが不幸せになれば、みんな幸せになれる」と宮沢賢治のパロディが頭に浮かびました。

いささか品のない文章を書いてしまいましたが、なぜそう感じたかです。
与謝野さんの議論は現実不在の上に立論されているだけでなく、現実に向けても展開されていません。
そして異論に対しては、具体的に指摘してほしいといいますが、現実に立脚していないが故に、いくら具体的な指摘をしても、彼には理解できません。
つまり与謝野さんの世界は閉じられています。
これは、小泉首相以来、特に強まった政府の特徴です。
現実など全く気にせずに制度を作りますし、その制度の展開もまた現実とは無縁です。
その典型が後期高齢者医療であり、道路建設計画だろうと思います。
今日のテレビで話題になっている徳山ダムもその典型例です。

しかし、どうして現実を踏まえた立論をしないのでしょうか。
制度を実施して問題が起ってから実態調査をするというのが政府のやりかたですが、実態を把握してから制度はつくるべきです。
日本の政府はいまだ「お上」であって、国民の代表などでは全くないのです。
そして「お上」に寄生している官僚たちに、いいように利用されているのが、「善意」の政治家たちです。
つまり「お上」に寄生している官僚たちに寄生しているわけです。

昨夜、テレビをみている時にはもっと具体的に書こうと思っていたのですが、一夜たったら怒りと失望だけが残って、具体的なことが思い出せません。
困ったものです。
この怒りと失望はどこにもっていったらいいのでしょうか。
それにしても、古館さんは私以上に怒りと失望を感じているはずですが、それを抑えて、自らのミッションとして仕事を続けていることに心から敬意を表します。

昨夜の古館さんの発言は感動的でした。
日本にもようやく心を持ったキャスターが生まれてきたと私には思えます。
それがせめてもの救いです。
古館さんに感謝しています。

■「きちんと生活しているとみんないい人になる」(2008年5月3日)
女房がいなくなってから、買物やら郵便局やら銀行やら、いろいろのところに行くようになりました。
私の生活を支えてくれていた女房のありがたさを痛感しますが、同時に「生活」とはこういうことなのかという気づきがいろいろとあります。
昨日も郵便局に行きましたが、そこでの人のふれあいはとてもほのぼのするものがあります。
順番を待っている間にも声を掛け合ったりします。
私は機械での振り込みに行ったのですが、終わって機械を離れたら、機械が「取り忘れがある」というのです。
そのメッセージは機械のミスだったのですが、次の人が周りを探してくれて、大丈夫ですよ、と笑顔で伝えてくれたのです。
そして、通帳を取り出すのが遅かったのですよ、私も時々機械から怒られますと笑いながら話してくれました。
まあ、それだけの話なのですが、心があったかくなります。

今は思い出せないのですが、ともかく地元の我孫子で「生活」的行動をしていて出会う人は、本当にみんな「いい人」、「あったかい人」「平安な人」ばかりです。
人を裏切ったり、謀略を考えたりするような人には出会ったことがありません。
先週は、福岡に行きましたが、そこで会った人、街中で道を訊いた人やホテルのレストランの人など、みんないい人ばかりでした。
ともかく「生活」している人には悪い人はいないようです。
そこで気づいたのですが、
「生活」が「いい人」にしてくれているのかもしれません。
「きちんと生活しているとみんないい人になる」
これを佐藤修の法則と呼ぶことにしました。
世紀の大発見とはいえませんが、大発見です。
そう思いませんか。思わないでしょうね。

でもたぶんこれは真理です。
「いい人」でないと自分自身が「気持ちよい生活」ができなくなるからです。
しかも、この法則からさまざまなことが引き出せそうです。

ミートホープの元社長も比内地鶏偽装事件の元社長も、きっと最初はみんな「いい人」だったのでしょうね。
でも「生活の人」から「企業の人」になっていくにつれて、どこかで人が変っていったのではないかと思います。
政治家や財界の人、大企業の経営者や経営幹部の人たちにも、ぜひ「生活」をしてほしいものです。
せめて「現場を支えているいい人」と話してみてほしいです。

■庶民物価発想(2008年5月4日)
先週金曜日の報道ステーションは、相次ぐ生活必需品の値上げを取り上げていましたが、そのなかで山田昌弘さんが「庶民物価」と言う表現を使っていたような気がします。
ネットで調べたのですが、確認できないので間違っているかもしれませんが、たしか山田さんの発言だったと思います。

物価に関しては一般には消費者物価指数が基準になりますが、これが曲者です。
さまざまな商品価格の統合指数ですから、その設計の仕方でかなり変ってきます。
最近の指数は、時代に合わせるために、平成17年度に商品構成などの見直しがされていますが、すべての統計がそうであるように、指数には必ず設計者の意図が入り込んでいます。
私の感じでは生活起点というよりも、生産起点、金融起点で設計されているように思います。

平成5年以来、安定していた消費者物価指数は、それでも最近は上昇基調になっています。
今年の3月の速報値でも前年比1.2%の上昇です。
庶民感覚とはちょっと違った水準です。

生活という視点で考えると、世の中には2種類の商品があります。
すべての人にとっての生活必需品とそうでないものです。
山田さんは、庶民物価という捉えかたを主張されていました。
私も全く同感です。

生活者にとって大切なのは、パソコンの価格ではなく、毎日の生活に欠かせない食材や電気代、水道代です。
地方の人にとっては、ガソリン代も入るかもしれません。
消費者物価に大きな関心を持つ人は、それがなければ生活が成り立たないものの価格が問題です。
パソコンや大型テレビが値下がりしても、ほとんど関係はありません。
しかし、いまの消費者物価指数は生活必需品とそうでないものが混じっています。
ですから生活者の値上がり感覚といつもずれが出てきます。
そして経済政策は、そうしたいろんなものが総合された消費者物価指数の上につくられるわけです。

企業価格指数というものがありますが、なぜか生活必需品価格指数はありません。
定義が難しいからかもしれませんが、庶民の生活感覚を前提にした庶民物価指数を考えるのはそう難しい話ではありません。
2〜3日もあれば、私でもつくれるでしょう。
だれかが試算しているかもしれませんが、ネットで見た限りでは見つかりませんでした。

生活優先を標榜するのであれば、先ずはそうしたところから出発すべきです。
この区分は消費税の設計にもつながっています。
日本ではすべての商品やサービスに一律の消費税がかかりますが、国によっては生活必需品には消費税がかからなかったり低率になったりしています。
日本の消費税議論は常に一律ですが、それを改める必要があると思います。
すべての人が生活に必要な商品に関しては、消費税をかけるべきではなく、そうでないものにはむしろ20〜30%の高率の消費税をかけるべきです。
生活起点で考えるということは、そういうことではないかと思います。
道路建設も生産起点で議論している限り、何も変らないでしょう。

最近の日本は累進課税社会ではなく、逆累進課税社会になってきています。
長い歴史のなかで培ってきた「支え合い」の文化が、いつの間にか壊されてきてしまっています。
その結果が、後期高齢者医療かもしれません。

生活の視点から、改めて制度や政策を考え直すべき時期に来ているように思います。

■死刑について1「一人で撃て。一人で撃たれよ。」(2008年5月5日)
今日はちょっと重い話です。
いつか書きたいと思っていましたが、死刑制度の話です。
今日、辺見庸さんの「記憶と沈黙」を読み出しました。
冒頭は「垂線」というエッセイですが、こういう書き出しです。

だれにでもなく、自身にくりかえしいいきかせなければならない。(中略)みなともっと別れよ。みなからもっと離れよ。人をみなといっしょになって嘲ってはならない。(中略)みなといっしょの認識には、かならずといってよいほど錯視がふくまれているから。

いっそ一人で撃て。一人で撃たれよ。あの垂線を想いつづけよ。

そして、自分の未発表の小説を引用しながら、「垂線」が語られます。
その小説の書き出しは、こうです。
「昨日、あの男が吊るされた」

私が衝撃を受けたのは、垂線の話ではなく、その前文です。
「みなと別れよ」
辺見さんはこう続けています。
まったくの単独者として、孤絶のなかで、私だけの理由と責任で、自問し、嘲り、叫び、祈り、泣き、狂い、殺意を向けるのでなければならない。あるいは、むしろまったくの単独者として、孤絶のなかで、嘲られ誹られ殺意を向けられるのでなければならない。おそらく、そこからしか血や肉や、まして神性をおびた言葉など立ち上がらない。

辺見さんは私より3歳若く、いま63歳です。
驚きます。
この若さはどこからでてくるのでしょうか。
たぶん辺見さんは、たくさんの現場を生きてきたのでしょう。
たくさんの現場を見てしまうと、人は平安には生きられません。
現場で実感したことなど、誰にも伝えられませんし、事態を正すことなどできようはずがないのです。
それを知ってしまうとふつうは生き方が変ります。
私の場合は、誠実に生きていくことが難しくなりました。

上記の小論に続いて、辺見さんは永山則夫と大徳寺政司のことを書いています。
いずれも死刑囚です。

私は学生の頃は死刑制度反対でした。
いまは賛成です。
これに関しては以前書きましたが、最近、自信がなくなってきました。
明らかに私の論理には矛盾があるからです。
現在のようなあり方の国家を批判しながら、その存立の拠り所である死刑制度を受け入れることは全くの論理矛盾です。
その帳尻を合わせられずにいます。

ここまで書いてきて、疲れてしまいました。
何回かに分けて書くことにして、今回はその序にとどめることにします。

やはり私はまだ「死」を語るほどに正常化していないのかもしれません。
昨日、友人がブログを書いたと言ってきたので読みました。
「自死」についての記事でした。
自死と死刑と誠実な生き方。
その三大話に触発されて、書き出しましたが、まだ私自身のエネルギーが不足しているようです。

■自動改札のシャッターの閉まり方が怖くないですか(2008年5月6日)
今日、電車で出かけたのですが、スイカで自動改札を通ろうとしたら、出た瞬間にシャッターがバシッと閉まってしまいました。
スイカの当て方がわるかったようで、もう一度スイカを当ててくださいと表示されていました。
私自身は既に外に出ていますので、そのまま行けばいいのですが、きちんと処置しておかないと次の出口で出られなくなります。
幸いに隣の場所が開いていたので、途中まで入って外からスイカを当てることが出来ましたの、今回は大丈夫でした。

皆さんはこういう経験はないでしょうか。
私は3回目です。
一度は脚にシャッターが当たりました。
とても不快な感じでしたが、それ以来、自動改札を通るのがとてもイヤになりました。
できるだけシャッターが閉じているところを通るようにしていますが、あのシャッターの閉まり方は勢いが強すぎるように思います。
不正乗車防止のためなのでしょうが、それ以上に不快な思いをさせていることによって生じるコストのほうが大きいように思います。

これは自動改札が導入された時からずっと思っていたことです。
このシステムを開発した会社が、それ以来嫌いになっています。
それまでは私が大好きな会社だったのですが、このシステムに、その会社の開発姿勢が象徴されているからです。
人間不信に立脚していますし、何よりも高齢者への心理負担への配慮が欠落しています。
経営者がどんなに立派なことをいっても、私はその会社は信じません。
まあ、これはいささか極端な考えだとは思いますが、企業の提供する商品には、その会社の思想が明確に現れます。

いずれにしろ、自動改札を通るのがまた当分の間、怖くなってしまいました。
みなさんは怖くないですか。
機械を開発した会社もひどいと思いますが、それを使用しているJRや鉄道会社はどう思っているのでしょうか。
事故は起きていないのでしょうか。

■黒いスーツのイニシエーション(2008年5月7日)
先日、久しぶりに大学の行ったのですが、Tシャツの若者が多い中で、黒のスーツに身をかためた学生が何人か目に付きました。
不思議に思って聞いてみると、就職活動のためのマナー研修があるのだそうです。
それにしても男性も女性も、いずれも黒いスーツです。
どうしても喪服を想像してしまいます。

若い人たちの通勤服は、最近は黒一色になってしまった気がします。
娘になんでみんな黒ばかり着るのだろうと話したら、葬儀などの場でも使えるように最初のスーツは黒なのだそうです。
やはり喪服だったわけです。

カラフルで個性的な服装を楽しんでいた若者が、就職と同時に黒一色になる。
軍服と同じく、黒いスーツを着ると従順になるのでしょうか。
いえ、従順になる代替行為として、つまり自らの個性を葬る証として、黒いスーツを着るのでしょうか。
まさに黒いスーツは、イニシエーションの装束なのです。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。

子どもの頃(昭和26〜27年頃)雑誌で読んだ、佐藤紅緑(サトウイチローの父)の小説に、「日本人はふんどしをやめて、ネクタイをするようになってからだめになった」というような文章がありました。
佐藤紅緑は昭和24年に亡くなっていますので、私の記憶違いかもしれませんが、その文章がなぜかその後ずっと頭に残っています。
締めるところを間違っているというわけです。

ネクタイに加えて、黒いスーツ。
電車の中でも黒いスーツ姿の人が増えてきました。
時代の気分がみんなに喪服を着せてしまっているのでしょうか。
社会の終焉が近いのでしょうか。

ちなみに、黒は偽装の色ではないかと私はずっと思っています。
心を込めた葬送の色にはふさわしくありません。

■船場吉兆の「つかいまわし」の問題の所在(2008年5月8日)
またまた船場吉兆がマスコミをにぎわせています。
私には過剰報道に思えます。
もっと取り上げるべき問題があるでしょう。

食べ残しの使い回しは許されることではありません。
しかし、ほとんど手付かずのものを廃棄するのはどうでしょうか。
それは許されるのでしょうか。
地球上の飢餓人口が増えていることを思うと、それもまた許されないように思います。

わが家は、食べ残しを廃棄することはほとんどありません。
わずかばかり残ったものでも次の食卓に出てきます。
これは女房が育てた文化です。
私もそうした文化の中で育てられましたので、食材が無駄に扱われるのを見ただけで悲しくなります。
外食をして、食べ残した場合も、極力パックしてもらって持ち帰ります。
こうした文化の中では、自分が食べられる量だけ注文する姿勢がきちんと身につきます。
家庭農園で自作している野菜は、農家の人でも捨てるようなものまで料理に使います。
これも女房が娘たちに残した文化です。
ですから、今回のような問題には複雑な思いになるわけです。

問題の所在はどこにあるのでしょうか。
食べ残しを使いまわすこと自体には、衛生上の問題や顧客の期待の裏切り(一緒の偽装)という問題があります。
これはどんな理屈をつけようと許されることではありません。
以下は、それを前提としての議論です。

一番悪いのは、せっかくの料理を食べ残すお客なのではないかと思います。
出された料理をすべて食べなければいけないわけではありません。
私もどうしても食べられない場合があります。
味が受け入れられないとか苦手の食材がある場合