ブログ総集編3(2009)
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■生命を支えているのは「希望」と「信念」(2009年1月1日)
今年最初のブログ記事は、挽歌編と時評編の統合版です。

E.フロムは「希望の革命」の中で、こう書いています。

希望が失われたら、生命は事実上あるいは潜在的に終りを告げたことになる。
希望は生命の構造および人間精神の力学の本質的要素なのだ。
それは生命の構造のもう一つの要素、すなわち信念と密接に結びついている。
それはまだ証明されていないものを信じることである。

「まだ証明されていないものを信じること」
これは私の信条の一つでもあります。
だとしたら、希望は私の生活信条の一つだったはずです。

節子を送ってから、私の心身から「希望」が抜け出してしまっていました。
昨年の前半までは、希望の抜けた存在だったのかもしれません。
フロムに言わせたら、生命の抜け殻です。
希望ももたない抜け殻に、果たして時評する資格があるのか、これは大きな疑問です。
そして、時評している自分の中に、希望があることに気づいたのです。
社会との関わりのなかで、見えなくなっていた自分が少し見えてきました。
心身に「希望」が戻ってきたと感じ出したのは、昨年の11月頃からです。

ホームページの「新しい年のはじまりに」にも書きましたが、
今年を再び「希望の年」としました。
節子との別れを体験した2年前と同じです。
その時もそうでしたが、「希望」を見失っていたからこそ、「希望」にこだわりました。
しかし、「希望」とはなにかについての何も考えていなかったのが2年前です。
すでに、その時には私の思考力は極度に萎えていたのです。

フロムは同じ本で、カフカの『審判』の中に出てくる挿話を紹介しています。
有名な挿話なので、ご存知の方も多いと思いますが、概略を引用させてもらいます。

ある男が天国に入る門の所へやってきて、入れてほしいと門番に頼みました。
門番は、今はだめだと言います。
男は許可があるまで待ったほうがいいだろうと思い、待つことにします。
しかし門番はなかなか許可を出してくれません。
男は坐って何日も何年も待ちつづけます。
門はいつも開かれているのですが、門番に頼んでもいつもまだだめだと言われるのです。
この長い年月の問、男はほとんど絶え間なしに門番を観察し、ついには毛皮の襟についた蚤までわかるようになります。
それでも門番は許可をくれません。
とうとう彼は年をとって死にそうになってしまいます。
諦めた彼は門番にたずねます。
「こんなに長い間に、私のほかに誰も入れてくれと言ってこなかったのは、どうしてですか」。門番は答えます。
「お前のほかには誰もこの門から入ることはできないんだ。この門はお前の門と決まっていたんだからね。さあ、そろそろ閉めるとするか」

もしこの挿話を2年前に思い出していたら、節子を守ってやれたかもしれません。
自分の愚かさをいくら悔やんでも悔やみきれませんが、節子への懺悔も含めて、今年は「希望」を心にしっかりと刻んでいこうと思っています。

■お正月の風景を壊したのはだれでしょう(2009年1月2日)
元日の風景は一変しました。
私が子どもの頃は、いえ30歳くらいまでもそうだったと思いますが、元日に営業をしていたお店はほとんどありませんでした。
お年玉をもらっても、買いに行くお店が開いていなかったのです。
それがいつの間にか、今では元日からスーパーも百貨店も営業をしています。
便利といえば便利ですが、おかげで正月の静けさは感じられなくなりました。
24時間営業のお店もそうですが、ともかく季節とか曜日とか、祭日とか時間とか、そういうものの意味がなくなってしまってきています。
それは社会そのものの文化の否定に繋がっていくでしょう。

実は、私自身は15年前までは、そうした時間制約を克服することに価値を感じていました。
21年前に会社を辞めた時に、これからは「働くでもなく、遊ぶでもなく、休むでもなく」暮らしていきたいと友人知人に書いた時の思いは、時間の制約を越えて、自分基準での生活を目指そうとしていたのです。
24時間営業のお店は、当時の私には望ましい姿ですらありました。
考えが変わったのは、会社を辞めてしばらくしてからです。
沖縄から青森まで、各地の実態に少しだけ関わらせてもらった影響です。
東京の生活の貧しさを実感したのです。
これまでの生活はいったい何だったのか。
そこから考え方が大きく変わりだしました。

それはともかく、お正月の風景が大きく変わってしまいました。
最近、やっとその意味がわかってきたような気がします。
取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという気がしています。

生活文化は築き上げるのには時間がかかりますが、壊すのは簡単なようです。
女性の「社会」進出や男女共同参画社会の動きが、日本に育っていた家族の文化を壊してしまったことをとても残念に思います。

妻を失って、そのことがますますはっきりと見えてきました。
男女共同参画社会の意味をもっと真剣に考えて欲しいと思います。
「女性の社会進出」と同じで、男女共同参画の向かう先は、家族の「社会」化かもしれません。
もしそうなら社会を壊すお先棒を担っているとしか思えません。
女性の社会進出が、そうだったように。

今年も話が非論理的に飛躍してしまいそうです。
それに、年初早々、誤解されそうなことを書いてしまいました。
今日、書きたかったのは、お正月の風景が変わってしまったことへの寂しさだったのですが。

■「舌の記憶」とFOOD ACTION NIPPON(2009年1月3日)
身の丈にあった農作業を生活に組み込む動きをもっと広げたいと、自らも畑を借りて、菜園インストラクター講座などを手がけている、環境クラブ代表の増山康雄さんから年初めのメールマガジン「E-news」が届きました。
増山さんは、その生き方において、またそのパーソナリティにおいて、私には共感の持てる人物の一人です。

増山さんは、このお正月にレストランで「米粉のパン」を食べました。
研究熱心な彼は、小麦粉のパンと米粉のパンをいろいろな食べ方で比較したようです。
その結果、米粉のパンの方がちょっと「もっちりしているかな」と思ったそうです。
まあ、そんな比較実験しなくても、すぐわかることですが、そこが「科学者増山」のこだわりなのです。
それはともかく、その時、思い出したのが、ある本で読んだ東南アジアのモチ米文化の話だそうです。
増山さんはこう書いています。

何でもタロイモみたいな「もっちり感」のある食べ物を食べてきた人達が「稲作」に出会った時、モチ米の食感がやっぱり「もっちり感」を持っているので、受容されたみたいなことが書いてありました。考えてみれば、人間、何か新しいものが入ってきた時、無意識のうちに、今までの自分の感覚とか、経験とかと照合してしまうものですよね。

そうなのでしょうね。
増山さんは、こう続けています。

最近、自給率向上の議論の中で、米粉のパンも注目されているが、それが売れるかどうかに大きな影響を与えるのは、人々の「舌の記憶」ではないか。

「舌の記憶」。
これはとても興味があります。
食は文化の基本ですから、「舌の記憶」は単に食文化の問題だけではないでしょうから。

私自身は一時はパン派でしたが、50歳頃から米派に回帰しました。
おいしいご飯と漬物とお味噌汁があれば、ほかは何もいりません。
娘の一人はお米が嫌いですが、なぜか米粉のパンが好きなのです。
そういうことを考えると、やはり長年の食文化が国民の「舌の記憶」になっているのかもしれません。

増山さんは、こう書いています。

米粉と小麦粉の配合具合とか、
小麦粉も国産なのか、輸入なのか、
コメや小麦の品種の組み合わせとか、
「どんな米粉のパンが売れるか」と想像してみると、
ちょっと考えただけで相当奥行きが深い問題があるなと
新年早々、レストランで感慨にふけってしまいました。

いかにも増山さんらしいです。
彼は1月中旬にも、菜園インストラクター講座を3回やるそうです。
ほかにもいろいろな講座があります。
関心のある方は、増山さんの日本リトルファーミング協会のサイトをぜひご覧ください。
http://www.lf99.jp/

昨年10月に、食料自給率向上に向けた国民運動「FOOD ACTION NIPPON」推進本部が設置されたのはご存知でしょうか。
農水省のサイトによれば、その目的は「世界の食料事情の変化や近年の食料自給率が低い水準にあることを踏まえ、国民の皆様が問題意識を共有し、食料自給率向上に資する具体的な行動を起こしていくため」だそうです。

私たち一人ひとりが、自分の食文化を変えるところから変えていくべきでしょう。
いまの状況の中でも、できることはたくさんなります。
食文化を変えさせた人たちがまた元に戻すような運動を推進することには、いささかの抵抗はありますが、まあ否定する必要はありません。
もっとも、この推進本部は電通のなかにあるのが、ちょっと気になりますが。
私としては、増山さんのような人に推進本部をやってもらいたいと思いますが、まあ増山さんは嫌がるでしょうね。

■パイプ効果と景気(2009年1月4日)
今年はデフレで、物価がまた下がりだすといわれています。
物価が下がりだすと、皆さんはどうするでしょうか。
おそらく物を買うのを手控えるでしょう。
ぎりぎりまで買わないほうが得をするからです。
それぞれの家庭在庫は最小限になっていきます。
こういう状況を、日本はここ数年続けてきました。
その流れが変わりだしたのが昨年でした。
原油の先物価格が急上昇したのを理由にして、さまざまなものが値上がりしました。
物価が上がるとなると、みんなできるだけ早く買おうと思い出します。
そこで安いうちに買いだめしようという人が増えてきます。
そういう動きが出ようとしていた矢先の、デフレへの逆戻りです。
デフレからインフレへ、インフレからデフレへ、そうした状況変化が市場をかく乱する度合いは予想以上に大きなものです。

会社時代に繊維の需給構造を解析する仕事をしたことがあります。
その時に、気づいたのが、景気の流れが反転する際に、長い流通段階に在庫されているものが景気の振れを大きく増幅させる現象です。
「パイプ効果」と名づけました。
景気が上昇基調を続けている時には、全く出てこない動きですが、上昇が停滞するだけで、需給構造は大きく変動します。
コロンブスの卵のような話ですが、体験してみないとなかなか実感できません。
当時、そうした論理から減産を提案しましたが、ボスを説得するには至りませんでした。
しかし、その後、減産を余儀なくされたことを思い出します。
もっと自信を持って具申すればよかったと当時思いましたが、初めての体験には人はなかなか自信を持てないものです。

長々と書きましたが、最近の景気の急反落にはこうした現象があります。
それは「成熟社会」における経済の特徴といってもいいでしょう。
自動車会社が需要の落ち込みを過小評価していたことの一因に、こんな簡単な要因があるとは思いにくいでしょうが、評価の間違いの多くは実はこのような簡単なミスの累積なのです。
パイプ効果は、実需が減少する時だけのことではなく、実需回復期にも作動し、実需以上に景気のかく乱要因になるはずですが、意外に見えにくいのです。
特に輸出に依存している商品の場合は、それが見えにくくなります。

これはほんの一つの例ですが、経済は生きていますから、ちょっとした話題や動きが、実体経済を大きく変えていくのです。
まさにバタフライ効果が作動するわけですが、こうしたことを考えると、かつてのような金融政策や財政政策で景気調整しようなどという発想そのものが過去のものではないかと思います。

今朝のテレビ番組で、金子勝さんが、国民に希望を持たせることが大切だとお話していましたが、成熟社会においては、先が見えるということこそが、最大の景気対策ではないかと思います。
あまりにも先が見えなくなってしますし、先を作り出す財界人も政治家もいなくなってしまいました。
まさに金融資本家の思う壺です。

■イスラエルのガザ空爆とバレンボイムのコンサート(2009年1月5日)
今年の元日に行われた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートで、世界的なユダヤ人指揮者ダニエル・バレンボイムは、いつものように、指揮台から中東和平実現を呼び掛けました。
コンサート直前の大晦日にも、ガザ情勢について懸念を表明し、イスラエル、パレスチナ双方の共存を訴えました。
しかし、その願いもむなしく、空爆どころか、ついにイスラエルはガザへの地上軍侵攻を開始しました。
パレスチナにおける「報復の連鎖」は止まることがありません。

以前、バレンボイムについて教えてくれたエジプトの中野さんから手紙が来ました。

バレンボイム指揮による「WEST & EAST DIVAN オーケストラ」の演奏会が1月12日にカイロオペラハウスにて行われるという朗報を喜んでいたところ、公演が危ぶまれる事態に直面しています。まさに、2006年度演奏会直前にイスラエルのレバノン空爆により中止に追い込まれた二の舞になろうとしています。

バレンボイムの活動のDVDを見た時には涙がこみ上げました。
攻撃の爆音と音楽。
バレンボイムのコンサートを両国の指導者たちが一緒に聴くことができたら、爆音よりも音楽が自らの人生を豊かにし、誇りあるものにすることに気づくはずですが、彼らはコンサートに行く時間もないほど忙しいのかもしれません。
忙しさは自らの人生だけではなく、世界をも滅ぼす力をもっています。

しかし、もしかしたら、両国の権力者のみならず、私たちもまた、同じような生き方に向かっているのかもしれない、と中野さんの手紙を読んで、考えさせられました。
明日また、バレンボイムのラマラコンサートのDVDを観ようと思います。
時に、自らの生き方を問い直すことも大切です。

■国家の解体が進んでいるのかもしれません(2009年1月6日)
戦火が拡大する一方のガザの状況には、やりきれないものを感じます。
なぜこんな状況になってしまうのでしょうか。
そこで思い出したのが、昨年末に読んだ塩野七生さんの「ローマ亡き後の地中海世界」の文章です。

現代では「イスラム諸国」と言うようにイスラム教徒たちも国別に分かれ、イスラム教徒でないわれわれもそれを当然と思っている。
だが、イスラム教にはもともと、国家の概念が存在しない。
イスラム教を信ずる人々すべてを囲いこむ、「イスラムの家」の概念があるだけである。

もしかしたらユダヤもイスラムも、国家概念がないから、こんな状況になってしまっているのかもしれません。
長い間、国家を保持せずに世界を舞台にしていたユダヤ民族もまた、国家概念がないのかもしれません。
国家がないとどうなるか。
「国益」という概念も「国民」という概念もないでしょうし、なによりも暴力の管理体制がありません。

いや、パレスチナに限った話ではありません。
昨今泥沼化している紛争は、国家を前提としていないのではないかと思い出しました。
そう考えると、いろいろなことが見えてくるような気がします。
ネグリ=ハートの「マルチチュード」が、身近に感じられます。
国家を前提とした「国際関係」では、世界はもはや見えなくなってしまっているのです。
そして、もはや秩序だった戦争は難しくなってきているのでしょう。
そうした中では、秩序を大義とする国家が敗北することは明らかです。
もちろん国家からの解放を目指す活動もまた、大きな勝利は望むべきもありません。
勝者のない戦いは、手段から目的に転化し、泥沼に化していくわけです。

世界の紛争は、ますます泥沼化していくことが心配です。
そうしたなかで、国家に頼らない、新しい紛争防止の仕組みが必要になっているのでしょう。
NGOの開かれたネットワークが育っていくまでは、しばらくこうした時代が続くのでしょうか。
ともかく、国家の枠組みで考える時代は終わったのかもしれません。

さらに思いを広げていくと、アメリカも日本も国家体制が解体し始めているのがわかります。
ブッシュのアメリカとアメリカに住む2億人の人たちの集まりであるアメリカは、いまや別のものになっているといえないこともありません。
日本もまた麻生政権に象徴される日本と派遣村に象徴される日本とは別物なのかもしれません。
そう考えると、昨今の厳しい現実生活と権力闘争に明け暮れる政治の不作為との並存が理解できます。
それに、日本の政治家の発言を聞いていると、国家や国民は全く眼中にないようです。
自民党からの離党を取りざたされている渡辺議員は、政治家だった父親は、「派閥の前に党があり、党の前に国家国民がある」と言っていたと話していましたが、いまや「国家国民」がなくなってしまっているのかもしれません。
少し飛躍してしまいましたが、マルチチュードの時代はもうそこまできているようです。

■男らしさとバルネラビリティ(2009年1月7日)
新着の「ハーバード・ビジネス・レビュー」2月号を読んでいたら、興味あるタイトルが目に入ってきました。
「男らしさにこだわることの弊害」です。
海洋油田の掘削現場に従事する現場作業員の世界の話です。
この現場は、いわゆる3Kの典型的な職場で、伝統的に、腕力、度胸、腕前が誇示されてきました。
ところが、これまでの伝統的なガンバリズムとマッチョの企業文化を払拭したことで業績をあげている会社があるというのです。
その会社では、従業員の意識調査などから、次の2つのことが明らかになりました。
・男らしさを誇示する態度は、仕事をするうえでの障害になっていた。
・強力なリーダーシップの要件について、従来の考え方を改める必要があった。
リーダーたちのイメージには「男らしさ」が付きまとっていますが、実際に調べてみると、「仲間を気づかい、よき聞き手であり、学ぶことに前向きで、一生懸命な人物」がリーダーの特質だったというのです。
そこで、企業文化の変革に取り組んだのです。

その結果、「男らしさ」を誇示することを美学としていた文化は後退し、伝統的な男らしさからすれば、およそ受け入れがたい振る舞いも気にしなくなったといいます。
そして、自分のイメージ・ダウンにつながりかねない能力不足や弱点をさらけ出すことをいとわなくなったのだそうです。
その結果、会社の業績は向上したわけです。

「石油掘削現場というきわめて男性的な職場で働く男性たちは、マッチョを追求するのをやめて、そのパフォーマンスを改善することに成功した。ならば、アメリカ産業界の男性たちも、おそらく同じことができるはずだ」とその記事は書いています。
実は、男らしさを誇示することの負の影響を調べた調査は、航空会社から、製造業、ハイテク、法曹界に至るまで、多岐にわたっているそうです。
とても共感できる話です。
日本ではまだそうはなっていないように思います。

私は15年ほど前から、管理者教育などを頼まれると、リーダーシップやマネジメントの要諦は、自らのバルネラビリティを見えるようにしていくことだと話してきました。
バルネラビリティと言うのは、当時、一橋大学の教授だった金子郁容さんから教えてもらった言葉ですが、「弱さ」とか「脆弱性」を意味しています。
コミュニケーションの出発点も、まさにこのバルネラビリティではないかと思っています。

昨日、女性の活用をテーマにする研究会がありました。
そこで盛んに出てきたのは、これまでの日本の会社は男性文化だったという話です。
この話とつなげていくと、女性が企業で活躍しだす意味が見えてくるような気がします。

■定額給付金で啼ければ消費刺激にならないのか(2009年1月8日)
定額給付金に関しては、「消費刺激効果も大きく、GDP(国内総生産)を押し上げる」(首相)ので、閣僚もしっかりともらって消費するのが望ましいというようになったようです。
官房長官まで記者発表するのですから、笑い話のような話です。
消費刺激が大切だと思うのであれば、給付金をもらわずとも適切な消費をしたらいいでしょう。
給付金をもらわなければ消費しないような消費の仕方って何なのでしょうか。
おそらく国民生活とは程遠いところの誰かの懐に入るだけです。
それに、給付金で消費したからと言って、徳別に景気が刺激されるわけではありません。
全くもって、どうしてこんな発想しかできない人が閣僚になっているのか不思議です。
少しは生きた経済を学んでほしいものです。

大切なのは、GDPを高めることではなく、国民の生活を安定させることです。
みんながちびちびと消費したところで、状況は変わりません。
消費刺激などになるはずがないのです。
2兆円をいま生活に困っている人たちに100万円ずつ配っても200万人の人に配れます。
生活保護世帯は現在、100万世帯強ですから、全員に配布できます。
そういう世帯であれば、必ず消費に回りますし、しかも閣僚の一人が話しているような無駄な浪費には向きませんから、社会的弊害も少ないでしょう。+
念のために言えば、消費すれば何でもいいという話ではないのです。

高額所得者は辞退すべきかどうかなどという議論も馬鹿げています。
むしろ高額所得者はマイナス給付金を納入すべきでしょうか。
閣僚は各自、収入に応じてマイナス給付金を納め、それを生活困窮者に配布すれば、経済はかなり刺激されるはずです。
閣僚であれば、一人100万円くらいは出してもいいでしょう。
高額所得者に呼びかけたら、たぶんかなりの額が集まるでしょう。
そして、それなりの消費を刺激するはずです。

それにしても高額所得者の下限が税金控除後1800万円などと言うのは論外です。
大阪の橋下知事は400万円を提示しましたが、せいぜいそのレベルでしょう。
日本の政治が、いかに金持ちのためにあるかがよくわかります。
手取り年収400万円もあれば、それなりの無駄遣いも含めて可能なはずです。
もし消費が不十分であるとしたら、先行きに安心できないからです。
先行きの生活に不安がなければ、収入や貯蓄の考え方は全く違ってきます。
それを議論もせずに、消費刺激のために給付金をもらってしっかりと使いましょうなどと言う政治家にはあきれます。

その前に、まずは自分がしっかりと汗をかいて稼いだお金を使うか、寄付するかを考えることではないかと思います。
最近収入がない私ですら、できるだけ効果的な無駄遣いに心がけています。
給付金があろうとなかろうと、たぶん消費生活の実態は変わりません。
それにしても、こうした定額給付金騒ぎで、どれほどの国税が無駄にされているかを考えると怒りを感じます。

■ミツバチが消えたのはネオニコチノイドのためか(2009年1月9日)
一昨年、日本の新聞各紙で話題になったニュースがありました。
「米国でミツバチが消えている」というニュースです。
全米50州の中の25以上の州で、最近ミツバチの姿が消え、養蜂家や農業関係者の間で大騒ぎになっているという話です。
同じような現象が、ヨーロッパや日本でも起こっているのだそうです。
原因については、携帯電話などの電磁波や農薬など、諸説がありますが、まだいずれも確証は得られていません。
しかし状況証拠であれば、かなりたくさんあるようです。
状況証拠が示している原因は、ネオニコチノイド系農薬です。

最近、ネットで「沈黙の夏」という言葉を書名に使っている本を見つけました。
レーチェル・カーソンの「沈黙の春」を思わせるものですが、正式の書名は「悪魔の新農薬ネオニコチノイド」(三五館)、副題が「ミツバチが消えた沈黙の夏」です。
著者は環境ジャーナリストの船瀬俊介さんです。
早速読んでみました。
「沈黙の春」の紹介につづいて、こんな風に書き出されています。

世界中で、静かな恐怖が進行している。それがミツバチの大量死だ。
まずアメリカ。2006年10月からミツバチが一夜にして忽然と姿を消す怪奇現象が全米で多発している。
わずか半年間で、全米で養蜂されていたミツバチ四分の一が消え失せた。
全米で約240万群が飼育されてきた。
うち60万群もが消滅したことになる。
この突然の異常行動は「人類を襲う存亡の予兆では?」と人々を恐怖に陥れている。

人類の食糧の三分の一は植物に依存しているそうですが、ミツバチたちは、これら植物の80%の受粉に関わっていると同書には指摘されています。
つまり、これは決してミツバチの話ではないのです。
人類としての食糧自給率の問題なのです。

ネオニコチノイドは、強い毒性が判明した有機リン系に代わる農薬市場のニューヒーローとして、1990年代に登場しました。
しかし、21世紀に入り、ミツバチへの被害などが広がり、その結果、フランスでは2006年4月29日に最高裁でその使用が禁じられたそうです。
因果関係は必ずしも立証されなかったようですが、疑わしいものは使用せずという、いわゆる予防原則が適用されたのです。
オランダでも使用禁止になっているそうです。

そこからがよくある話なのですが、アジアが市場として拡大してきているのです。
同書によれば、いま、このネオニコチノイドを大量に使っているのは日本と中国。それも単位面積当たりの使用量は日本は中国の100倍だそうです。
しかも、ネオニコチノイドは有機リン系の農薬と違い、水溶性のため作物の中に大量に吸収されるそうです。つまり洗ってもダメなのです。
じわじわと体内に入ってくるわけですが、それが高度の神経障害を起こしかねないと著者は書いています。
最近、「切れる人」が多いのも、これと無縁ではないかもしれないとさえ、書いています。

この話をどう評価すべきか。
こうした話は往々にして過剰に書かれることが多いので、そのまま鵜呑みにしていいかどうかは確信が持てません。
しかし、著者も指摘していますが、こうした動きの陰に大手化学メーカーの利害とそれを守ろうとする官僚の姿が垣間見えてくることです。
オゾン戦争やフィブリノゲン問題を思い出すとこの話にも真実があるようにも思えます。
日本の農水省はほとんど動いてはいないようです。
そのあたりのことはもし関心があれば本書をお読みください。
取材記事が掲載されています。

食育や食の安全もいいですが、基本的なことをおろそかにしていますので、いずれもが要するに産業の利益に貢献する活動になっていて、それがこうしたことにも繋がっているように思えてなりません。

■早く来い来い高齢社会(2009年1月10日)
今朝のテレビで、会社を定年退職された方が札幌で無料の英語学習塾をやっているのが放映されていました。
動きながら聴いていたので、正確ではないのですが、とてもいい活動だと思いました。
高齢社会とは、こうした活動がどんどん広がっていくということかもしれません。
高齢者ができることはたくさんあるはずですから。
こうした高齢者のボランティア活動が広がっていくと、企業の収益活動にも影響が出てくるかもしれません。
いや、それに類したことは既にこれまでにもありました。

たとえば、リサイクルに関して、ボランティアグループがリサイクルに取り組むために、リサイクル産業が育たないということがいわれた時期があります。
ボランティアグループの金銭感覚と企業の金銭感覚が違っていることが、その一因でした。
当時、ボランタリー経済という概念で、金銭優位な経済システムと別の枠組みを提案する動きもありました。

もう少し想像力を拡げてみましょう。
途上国の給料は安いので、生産基地を海外に移す企業が増えました。
女性労働者が増えたので労働需給関係が変化し、給料が相対的に低くなったということもありました。
こうした動きも、どこかで最初の話に繋がっています。
最近話題の派遣労働者の労働需給市場への影響も、そうした枠組みで考えることもできます。

ボランタリー経済の広がりが挫折したのは、やはり金銭の力の大きさだと思います。
ボランティア活動さえもが、金銭主義の企業経済に飲み込まれてしまったのです。
NPO関係者も、残念ながらその枠から自由ではありませんでした。
NPOセクターは、金銭市場社会のサブシステムとして、その一画をしっかりと担う存在になってしまったのです。

しかし、今朝のテレビを観て、やはり高齢社会は金銭社会を超えていくのではないかと言う気がしてきました。
むかし書いた「早く来い来い高齢社会」の拙文を思い出しました。

未来はそう暗くはないのです。

■やくざを生み出す構造(2009年1月11日)
「山口組概論」(ちくま新書)を読みました。
こういうくだりが出てきました。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

組(注:山口組などのやくざの集団をさす)がなくならないのは、組を生み出す土壌があるからだ。
組に身を寄せるしかない若者を生む市民社会の構造を変えない限り、組だけを弾圧しても意味はない。
経済的貧困や愛情の欠如、差別や社会不信といった市民社会のなかにやくざを生み出す構造があるのであって、反対に組はつくろうとしてできるものではない。
幼少のころに父母を失い、貧しさが生む悲しみを身にしみて知っていた田岡一雄は、山口組のもとに集まる身内(家族)に対して、家長として彼らを守らねばならなかった。
そこから導かれたのは、若い衆に正業を持たせること、それで最低限の生活が保証されれば人間は悪事へ走らずに済むことであった。
貧しさが生む社会悪を最小限にくいとめる努力は、田岡にとって侠客の条件であった。

日本の高度経済成長期には、山口組などのヤクザの世界と政治家(政党)や財界人(企業)とのつながりが深いことはよく知られていることですが、この文章を読みながら、昨今の企業による不条理な従業員解雇や政治家の無策を思い出して、ついつい比較してしまいました。
もしかしたら、日本の大企業や政治がダメになってきたのは、後ろ盾のやくざ集団がいなくなったからではないか、とまでは思いませんが、

山口組3代目組長の田岡一郎は、巨大組織に成長した山口組の現状に対して、組をつなぎとめるものは何かと訊かれて、こう答えたそうです。

「ぼくからいわすと愛情ですね。それよりほかに、ちょっといいかたないんじゃないですか。お互いの思いやりというか、仮に正業持っても、心の奥で寂しいときがありますからね。そういうときの相談にものれますし、一緒に悲しんでもやれる。そういう心と心のつながりというもんじゃないですか」
麻生さんや御手洗さんに、聞かせたい言葉です。

■互恵的懲罰と利他的行為(2009年1月12日)
直接的には自分の得にはならないのに、というよりもむしろ損になりかねないのに、誰かに迷惑をかけるような行為をする人を注意したり、その行為を防止したりすることを「互恵的懲罰」と呼ぶそうです。
また、自分の利益ではなく、他人の利益につながる行為を「利他的行為」といいます。
この両者には、正の相関関係があるといわれます。
つまり、互恵的懲罰が増えれば利他的行為が増えるということです。
互恵的懲罰はある種の利他的行為ですから、これはトートロジーのような気もしますが、平たくいえば、みんながお互いに注意しあうことは、支えあうこととつながっているということです。
それが、社会の基盤をしっかりとしたものにし、社会を豊かにしていくことはいうまでもありません。

この視点で、最近の政治や経済、あるいは社会を見ると、いろいろなことに気づきます。
「支え合いの文化」や「注意しあう文化」が失われてしまっているために、みんな互恵的懲罰や利他的行為に無関心になってしまっているのです。
いや、その余裕がなくなっているというべきでしょうか。
そしてそれが社会の秩序を壊し、結局は自らのダメッジを大きくしていくという悪循環に陥ってしまっているのです。

大企業の業績悪化の一因はそこにあるように思いますし、政治における閉塞状況の原因もまた、そこにあるような気がします。

不条理な解雇が広がる中で、一部の企業が支え合いの文化、つまり雇用を守ることを起点とした動きを見せだしています。
そこから財界の中心にある大企業の人間軽視の流れへの見直しが始まることを期待したいです。
互恵的懲罰や利他的行為は、結局は自らの存在基盤を強めていくはずです。
大企業は、そうした動きのフリーライダーになるべきではないでしょう。

渡辺喜美議員が麻生首相に異議申し立てをして、自民党を離党することが確実になりました。
昨今の状況から何人かは一緒に行動を起こすと思っていましたが、誰も付いていかないようです。
今回の渡辺議員の行動は、互恵的懲罰でも利他的行為でもないかもしれませんが、なんだかつながっているような気もします。
ここでもフリーライダーがたくさんいそうなのが気になります。

しかし、新しい動きの予兆を、それぞれに感じます。
そう期待したいものです。

■環世界という捉え方(2009年1月13日)
先日、ネオニコチノイドの話を書きましたが、環境問題を考える時に「環世界」という概念が最近見直されつつあります。
20世紀前半に、ヤコブ・フォン・ユクスキュルというドイツの動物学者が言い出した概念で、「それぞれの動物に特有な世界」というような意味です。
つまり、「環境」とひとくくりに捉えるのではなく、生物ごとに環境を捉えていこうという考え方です。
たとえば、多くの生物は臭覚によって世界を見ているといわれますが、人間は視覚で世界を見ています。
視覚の世界も、犬が見ている世界と人間が見ている世界とは異なります。
ローレンツの「ソロモンの指輪」に出てきますが、クマルカラスは、動いているバッタは見えても、静止しているバッタは見えないのだそうです。

ユクスキュルは、生物は環境の中から自分にとって意味のあるものを選び出し、独特の世界を構築し、その中で生きていると述べています。
私たちは環境問題を、私たちが見ている世界を前提にして考えがちですが、私たちが見ている世界がすべてではないわけです。
環世界はそれぞれの生物によって違っていますが、そのベースは一つです。
だからこそ、生物多様性の保持が重要になります。
私たちに見えない世界が壊れていることに気づかないでいると、それが必ず自分たちの世界に影響を与えるからです。

人間の中でも、人によって世界の見え方はかなり違います。
私の娘は臭覚がとても敏感ですので、私が気づかない臭いに強く反応します。
昨今のように香りが充満してきた世界は、彼女にとってはかなり生きにくいのかもしれません。
子どもたちが見ている世界と大人たちが見ている世界もかなり違っているのかもしれません。
そこに気づかないでいると、とんでもない事件に繋がってしまうこともあります。
福祉の世界もそうです。
障害を持つ人の世界は、障害のない人の世界とはかなり違うでしょう。
そこを認識していない行為は、措置行為になりかねません。

それぞれの環世界を通底する共通なものがあれば、相互理解や共存は可能ですし、むしろ支え合いの関係が成立する可能性はあります。
自然界にはそうした「共生」の関係はたくさんあります。

人間社会の場合でいえば、昨日書いた利他的行為や互恵的懲罰の成立基盤は、それぞれの環世界を相互に理解する寛容さと能力です。
しかしそれが損なわれてしまうと、それすら成り立ちにくくなるわけです。
パレスチナの現状や日本の政界の状況には、そうしたものが失われているのではないかという不安を感じます。

環境や福祉の問題だけではなく、政治や経済の問題を考える時に、「環世界」の発想はとても重要な示唆を与えているように思います。

■自由に物言えぬ報道と自由に物言わぬ報道(2009年1月14日)
昨年、話題になった岩波新書の「貧困大国アメリカ」のなかに、2006年度に「国境なき記者団」が発表した「世界168か国における報道の自由度ランキング」によれば、日本は51位だったという紹介があります。
これには驚きました。
そんなに低いとは思ってもいませんでしたから。

報道における主体的判断と批判精神の不在は、そうした状況の結果なのでしょうか。
いまNHKのガザ事件の報道の偏向性が問われていますが、それには悪意ある意図さえ感じます。
イスラエルのガザ侵攻事件は、イラク侵攻事件と同じく、明らかな犯罪行為だと思いますが、イスラエル側の視点が多すぎます。
アメリカの圧力がかなりあるのでしょうか。
いや、どうもそればかりではないような気がします。

次元は違いますが、定額給付金やそれに異議申し立てした渡辺議員の行動に関する報道も私には偏見を感じます。
一方で、国民の7割が給付金に反対しているというアンケート調査結果を報道しながら、それを中和するように、支給されたら受け取る人数も多いなどという全く次元の違う話を付け足しているのは明らかに政府に迎合しています。
渡辺さんに関する行動も「弱いものいじめ」に見えますし、渡辺さんに続く人たちを抑える働きをマスコミは見事に果たしたように思います。
それほどまでして政府を守りたいのであれば、世論調査などしなければいいのにと思います。

渡辺さんは「国民運動」を起こしたいといいました。
それは、マスコミやそこに登場しているいわゆるコメンテーターに対する批判のような気がします。
7割の国民が無駄だと反対している給付金を、世論に反して強行採決する政府の暴挙に対して、なぜマスコミは「無力」なのでしょうか。
国民の税金を、国民の意思に反して湯水のごとく無駄遣いしている政府に迎合する報道をなぜ続けるのでしょうか。
そこに、現代のマスコミの意味を感じます。

報道の自由の不在は、2種類あります。
「自由に物言えぬ報道」と「自由に物言わぬ報道」です。
「報道の自由度ランキング51位」というのは、どちらに要因があるのでしょうか。

報道の自由の不在は、言動の自由の不在、さらには主体性の不在の結果なのかもしれません。
その逆ではないような気がします。
それにしても、政府自民党のなかに、給付金反対論が出てこないのが不思議でなりません。
これほどまでの世論との乖離は、どう考えても健全ではありません。

■「生き方」と「死に方」(2009年1月15日)
今日の読売新聞の記事です。

 がん患者の8割以上は、最後まで病気と闘うことを望みつつも、死を意識せずに普段通りに過ごしたいと考えていることが、東京大に よるアンケート調査で明らかになった。
 逆に、がん診療に当たる医師や看護師は、将来の病状の変化や余命を知って、死に備えることを重視する割合が多く、患者と医療関 係者の間で価値観のギャップがあることが浮き彫りになった。

妻のことで知人の医師に相談した時に、問題は「死に方」ですね、といわれたのはショックでした。
その医師は、統合医療研究会の中心人物だったこともあり、違った答を期待していたからです。
その後も医師に限らず、同じようなことを言われたこともありました。

日本の武士道でも「死に方」が問題にされますが、私には全く理解できない発想です。
人間は死に向かって生きているわけではありません。
生きているから死があるのです。
さもわかったように、「死に方が大切です」などという人を見ると、正直、私は蹴飛ばしたくなります。
生きようとしている人に対して、わかったようなことをいうな。
自分の生き方も少しは考えろ、といいたくなるわけです。

少し言葉がすぎたかもしれませんが、真剣に生きている人に、「死に方」などということが、どれほど残酷なことかわかってほしいものです。
「死に方」は、所詮は「生き方」の問題ですから、わざわざ言い換える必要はありません。
それに、生命はすべてつながっていると考える私にとっては、「死に方」は自分でどうこうできる問題ではありません。

こうしたことに関して書き出すと長くなってしまいますのでやめますが、妻は最後まで見事な生き方をしました。
妻は最後の最後まで、生き方を考え、生きることを放棄はしませんでした。
死への恐怖や不安は見事なほど、克服していました。
肩に力を入れて、そう思っていたわけではありません。
死から解放され、素直に、自然に、最後まで誠実に生きたのです。
弱音も愚痴も一切口にしませんでした。
告別式の挨拶で話したように、最後の1か月は凄絶な闘病生活でしたが、それはそれは見事な生き方でした。

それを「死に方」という人がいるかもしれませんが、断じてそうではありません。
心のある人であれば、決して死に方などという言葉は使わないでしょう。
一緒に体験しているとわかりますが、「生き方」なのです。
「死に方」で発想している医師には、生命への畏れが欠落しています。
病気は治せても、病人は治せないでしょう。
そういう人たちが、きっとイリイチの言う「病院社会」をつくってきたのです。
また言葉が激しくなりそうですね。
この件では、医師に言いたいことが山ほどあるので、どうしても感情的になってしまいます。
妻に怒られそうなのでやめましょう。

見事な生き方をした妻。
あまりに見事だったので、私は妻が死んだとは今でも思えないのです。
妻に比べると、今の私の生き方はいささか弱々しいかもしれません。
しかし、私もまた、素直に、自然に、誠実に生きています。
でも誰もほめてくれません。
妻だけはきっと彼岸からエールを送ってくれているでしょう。

■政党の時代は終わっています(2009年1月16日)
自民党を離党した渡辺議員が、公務員制度改革や地方分権改革などを推進する政策集団を立ち上げると発表しました。
ともかく具体的な動きが出てきたことは歓迎したいと思います。
この数か月、日本の国政は2大政党のにらみ合いのまま動きがとれずにいます。
民主党も、本気で政権を奪取したいのであれば、国民に向けて呼びかける姿勢を持たなければ動きは出てこないでしょうが、それをする気は感じられません。
所詮は自民党と同じなのです。
渡辺議員が国民の方を向いているかどうかはわかりませんが、少なくとも「国民運動」という言葉を使っていることには期待が持てます。

ところで、日本では相変わらず「無党派層」が多いです。
これは何を意味するのでしょうか。
私には明確に思えます。
政党の時代が終わったということです。
国民一人ひとりの政治意識が高まれば、政党の存在価値はなくなります。
ただそれだけのことではないかと思います。

党議拘束などという時代錯誤もはなはだしい管理の枠組みの中で、自らの見識も主張も主体性も持っていなくてもやっていける歯車政治屋の時代は終わったということです。
にもかかわらず、まだ2大政党とか小選挙区制度とかいう、対立構造を信奉している政治の枠組みが残っているわけです。
というよりも、そういう時代遅れの政治のスキームに向かって、いまだに政治制度整備がされているのです。
政治学者や政治評論家は、今もまだ政党政治の枠組みにしがみついています。
学者や評論家は常に時代の現場から遅れるものですが、いささかその遅れが大きすぎるように、私には思えます。

渡辺議員の行動は政党再編成の契機ではなく、政党の時代の終わりの契機になってほしいと思います。
それが無理であれば、せめて「固い殻のような政党」から「柔軟な生きた政党」への脱皮に繋がってほしいものです。

社会の成熟化の中で、組織の意味合いが変わってきています。
企業も行政体も組織構造原理が変わっているのです。
政治の世界も同じです。
渡辺さんには、ぜひそうした意識を持って、新しい政治のあり方を考えてほしいものです。

過剰な期待であることはわかっていますが、状況はかなり熟しています。
大きな変化の契機にならないとはいいきれません。
新聞やテレビの論説委員がいつものように潰さなければ、ですが。

■参議院予算委員会審議実況は久しぶりに面白かったです
(2009年1月19日)
今日は参議院予算委員会の審議の実況をずっと見ていました。
国会中継は可能な範囲で見るようにしているのですが、いつも何でこんな議論しかできないのだろうかと残念に思うことが多いです。
国会の議論であれば、技術的な制度議論ではなく、考え方を中心にするとともに、対立的ではなく異質な考えを持ち寄って一緒に最適な方策を創り出していくようにしてほしいと思います。
議論とは、相手を否定するためのものではなく、そこから価値を創りだしていくためのものだろうと思います。
そうではないような、茶番的な掛け合いがあまりにも多すぎます。
にもかかわらず見るようにしているのは、閣僚や議員の本音や姿勢、あるいは日本政府の主体性、さらには日本政治の実態が感じられるからです。
新聞やテレビニュースからは、私の場合は全く何も感じられません。

しかし、今日はなかなかいい議論を見られました。
民主党の蜂崎議員の発言の際のやりとりです。
蜂崎議員は、アメリカの働きかけによって、日本の経済や企業が壊されたことを指摘し、なぜアメリカに反論しないのか、
IMFに莫大な資金を提供して感謝状をもらって喜んでいるのではなく、IMFのガバナンスを変えなければいけないのではないか、
などとかなり厳しく追及しました。
残念ながら、それは最後のほうだったので、いささか中途半端な議論に終わりましたが、
麻生首相もかつての構造改革路線は見直すべきだという明言しました。
小泉・竹中コンビが日本の経済社会を壊した事実がやっと国会で明示的に語られだしたことは喜ばしいことです。

与謝野さんが、「金利を上げたほうがいい」という見解を明言したのも面白かったです。
その理由として、数字の裏づけも示しましたが、もちろんその後、麻生首相は婉曲に否定しました。
技術論でしたが、年金関係の具体的な提案に枡添厚労相が検討していきたいという姿勢を見せたのも好感が持てました。
麻生さんは、私は知識がないので口を出さないようにしているという発言をしていましたが、気楽な首相です。

しかしその後の蓮舫議員の質疑の時は、もうめちゃくちゃで、やはり議論にはなりませんでした。
小渕少子化担当相の答弁は、恥ずかしいほどに棒読みでした。
まさに操り人形なのでしょうか。
しかし、今日は少しだけ面白かったです。
昨日のそれぞれの党大会の馬鹿さ加減に辟易していましたが、少しだけ救われた感じです。

ところで、国会での議論は是非休日にもやってほしいです。
休日であれば実況放送も見やすくなります。
国会実況をもっと多くの国民がみたら、おそらく政党支持状況は変わるでしょう。
退屈でしょうが、ぜひ多くの人に国会中継は見てほしいです。

■時評をさぼっている言い訳(2009年1月22日)
時々、時評を書く意欲が消えてしまうことがあるのですが、この1週間、まさにそうで、何を見ても聴いても、まあ勝手にやったらいいんじゃないのと思ってしまうようになっています。
オバマのスピーチに世間は沸いていますが、20分のスピーチを聴いても心が躍動しません。
たしかに久しぶりにスピーチらしいスピーチのような気もしますが、なんだか私の心が麻痺してしまっているのです。
スピーチの一方で、ガザの惨劇は続き、アフガンやイラクの情勢は変化の兆しを感じられないのが、その理由かもしれません。
日本でも、政府や財界が言葉を並べ立てていますが、現実が変わる兆しは感じられません。
現実を変えているのは、当事者と当事者に繋がる人たちなのです。
閣僚たちの視線は、そうした現場には向いていません。

言説の時代は終わったといわれています。
大きな物語の時代も終わった、これからはローカルな身の丈にあった物語だという人もいます。
逆に言葉が現実を超えて、新しい世界を創りだしていくといっている人もいます。
いずれにも共感しますが、だからなんだとも思います。
いささか「うつ」状態なのかもしれません。

オバマのスピーチに世界は大騒ぎです。
あんなに大盤振る舞いして大丈夫なのでしょうか。
世界は本当に変わっていくのでしょうか。
そうあってほしいものですが、何だか方向は全く変わっていないような気がしてなりません。

すみません、無意味なことを書いてしまいました。
明日から少しまた書き出します。

■「病気の治療(cure)」と「患者への世話(care)」(2009年1月23日)
時評ブログをきちんと書き出そうと思っていたのに、今朝、目が覚めたら、めまいのために歩けない状況になってしまいました。
脳障害を心配しましたが、どうもそうではなく、内耳の三半規管の障害のようでした。
1日ほとんど寝ていたのですが、薬のせいかだいぶ良くなりました。
この症状は2回目なのですが、前回は死ぬんじゃないかと思うほど辛かったのですが、今回は軽くすみそうです。
しかし、今も胸がムカムカし、思考力は散漫で、気力にいたってはほぼ皆無です。
でもまあ、昨日再開と書いたので書こうと思って、パソコンに向かいました。
やはり何も浮かびません。

で、今日、行った柏市の岡田クリニックのことを書きます。
岡田医師は往診もするクリニックを数年前に開きました。
以前は私の近くの病院の医師で、母がお世話になった医師です。
女房が自宅療養するになった時に、とてもお世話になりました。
1年半ぶりに行きました。

午後の最後に行ったために、かなり混んでいました。
思考力なく、私はただ座っていましたが、こんな風景を見ました。
患者の一人が薬を調合してくれた看護師の方と、たぶん家族の話をしていました。
ぼんやりと聞いていたのですが、その人の病気とはあんまり関係のない話でした。
その人の洗濯機は全自動ではないこともわかりました(まあ、どうでもいいことですが)。

最初、私は、この患者の人は看護師の時間を占拠し、他の患者たちに迷惑をかけているのに気づかないのか、とちょっと批判的に感じていました。
看護師の方は混んでいることもあって、早く切り上げたいと思っているのではないかと思いましたが、どうも話を聞いていると看護師さんも親身になった楽しそうに話しているのです。
そこでハッと気づきました。
これこそが本当の医療のかたちではないのか。
それに、私がまだ時間効率意識が抜け切れていないことにも気づきました。

そして、ケアなき治療のことを思い出しました。
医療が、医学による「病気の治療(cure)」となってしまい、気持ちをこめての「患者への世話(care)」から離れてしまったことに、私は批判的だったのではないか。
病気だけを診るのではなく、病人を診よ、と医師にいいたがっていたのではないか。
自分の身勝手さに恥じいりました。

診察が終わって、会計をしようと思ったら、看護師さんが来てくれました。
女房が最期までお世話になった看護師の方たちです。
患者もいなくなったので、私も無駄話を少ししてしまいました。

岡田医師は、そうした人間の声が溢れるようなクリニックを目指しているのかもしれません。
きっとここに来るだけで元気になるお年寄りやお母さん方もいるのでしょう。
クリニックの裏の駐車場から診察室が見えるのですが、
私たちを見つけた岡田医師は、椅子からたちあがって、ていねいに私たちを見送ってくれました。
そのせいか、めまいは薬を飲む前にほとんどなくなりました。

医師と看護師と薬剤師と患者、さらには患者の家族。
それらが心を通わせあうことができれば、病気も少なくなっていくでしょうね。
病院と関わる勇気をこの1年半、失っていましたが、今年は少し関われればと思い出しました。

■「やっぱり首相はしっかりしてなくっちゃ」(2009年1月25日)
場所前には引退さえもささやかれていた朝青龍が優勝しました。
表彰式で、麻生首相が「やっぱり横綱は強くなくっちゃ」と朝青龍に声をかけました。
一緒に見ていたむすめが、すかさず「やっぱり首相はしっかりしてなくっちゃ」といいました。
麻生さんに、その言葉が届かないのが残念です。

■隣の人のたばこの煙で考えたこと(2009年1月26日)
先日、久しぶりに喫茶店に入りました。
久しぶりにというのは本当は不正確です。
というのは、時々は行っていますので。
しかし、今回は久しぶりに「喫茶」してしまったのです。
細長い喫茶店の両側のテーブルにヘビースモーカー(私とは無関係の人ですが)がいたせいで、たばこの煙を思い切り吸わなければいけなくなったのです。
席を替わりたかったのですが、相手の人と久しぶりに会って、やっと見つけた席だったので、動けませんでした。
ついでに余計なことをいえば、喫茶店やレストランがどこもかしこも満員で、席がないのにも驚きました。
日曜日の午後の上野駅界隈です。
どこが不況なのかと思うほどです。

それにしても横でたばこを吸う人の煙がこんなに辛いものだとは思いませんでした。
学生時代や会社にいた頃は、毎日、少なくとも2回は喫茶店にいました。
当時は禁煙席などあるはずもなく、しかも喫煙者は多かったはずですが、煙で辛かった経験はありません。
会社を辞めて、喫茶店に行く機会は激減しました。
それに行っても禁煙席を使わせてもらっています。
ですから、たばこの煙に対して抵抗力が大幅に落ちているのでしょう。

そんなたばこの煙に弱い人が隣にいるとは、喫煙者は気づくはずもありません。
彼らはルール違反をしているわけでもありませんし、悪意など微塵もないでしょう。
しかし、隣の人は辛い思いをしているのもまた事実です。
極力我慢はしましたが、煙が強く流れてくる時には、私は手で煙をよけるような仕草をしたような気がします。
喫煙者に気づかれなければよかったですが、もし気づいたら不快だったでしょう。
自衛のための仕草といえども、喫煙者にとってはせっかくのたばこが楽しめなくなったかもしれません。

こういうことは私たちの生活では、よく起こっていることなのかもしれません。
周りの人への気遣いは、ルールを守ればいいわけではないのです。
気づかないままに私もきっとたくさんの迷惑を撒き散らしているはずです。
今回の体験で、そのことを考えさせられました。
生き方や言動は、やはり常に周りの人の目でも考えなければいけません。
そうした視点で自分の言動を考えると、反省する点が少なくありません。

平和というのは、まずはそこから考えなければいけないのでしょう。
たばこの煙がもしかしたらガザの悲劇につながっているのです。
おそらくイスラエルの国民は、いつかどこかでもっと大きなしっぺ返しに合うでしょう。
イスラエル政府の暴挙を止めるのは国連でも国際世論でもなく、イスラエル国民であり、イスラエルの「愛国者」たちでしょう。
そう思ってまた日本の現状を見ると、やらなければいけないことが山積みです。
日本政府もまた、たくさんの迷惑を海外にも与えているような気がします。
私たちはもっと真剣に政府の言動に関心を持たなければいけません。

今朝の朝日新聞に、京浜ホテルの強制執行の様子を「カムイ伝」の一揆に重ねて論評していた記事がありました。
一揆が話題になるほど、今の日本の社会はひどくなっているような気がします。
いささか過剰な反応でしょうか。

■解散総選挙を求める国民運動はなぜ起きないのか(2009年1月27日)
ついに定額給付金が決まったようです。
これに伴う経費が800億円といわれていますが、それは単に直接経費ですから、おそらくその数倍の経費がかかるばかりでなく、それに伴った必要な業務がおろそかになることを考えると(すでに国会の議論を空転させていますので、それだけでもかなりの損失が出ています)、経済的な面に限っても膨大な無駄使いといえるでしょう。

昨日、報道ステーションで、夕張の年金暮らしのお年寄りたちが1回だけの給付金はいらないからもっと困っている人に回すほうがいいと話しているのを聞いて、麻生さんやその取り巻きの人たちに、そうした市井のお年よりほどの見識があれば、日本もかなり変わっていくだろうなと思いました。
森政権以来、私欲だけの見識のない二世政治家たちが首相の座に居座り、民意を無視した政治を私物化しているのを止められない日本の政治体制は、北朝鮮と同じであることを改めて知らされました。
「お上国家」日本はまだ続いているようです。
それにしても、麻生政権の「さもしさ」と「おろかさ」には驚くばかりです。

今日、友人から電話があり、政治の話になりました。
なぜ日本では解散の世論が起きないのかと話したら、その人から、そう思うならあなたはなぜ呼びかけないのか、と言われてしまいました。
たしかにそうです。
おかしいと思ったら、ブログで遠吠えの批判をしているよりも、署名運動でも始めるべきでしょう。
それをしないのであれば、あまり大きな口はたたけません。

しかし、テレビに出られる人のなかに、そうした呼びかけをする人はなぜ出てこないのか。
それがとても不思議です。
みんな何らかの形で絡めといられているのでしょうか。

民主党がもし本気で政治を変えたいのであれば、
自民党との駆け引きに現を抜かすのではなく、国民に呼びかけて、首相官邸に大きなデモを仕掛けるでしょう。
そこまでいかなくとも、世論にもっと解散の大義を呼びかけるはずです。
民主党がそうしないのは、基本的に自民党と同質だからかもしれません。
政権は奪取(嫌な言葉ですが)したいが、政治は変えたくないのでしょうか。

国民主権とは一体何なのか。
理念が踏みにじられているのは、憲法9条だけでありません。
日本を壊しているのは、他ならぬ首相と政府、そして政治家なのです。
そしてそれを支えている私たちなのです。
気が重い話ですが、でも署名運動を始める気にはなれません。
なぜでしょうか。

「第三の道」で有名なアンソニー・ギデンツは、「解放の政治」から「生活政治」への転換してきているといいます。
生活政治は生活様式あるいは生き方を主なテーマにする政治です。
政治の意味が大きく変質しているのかもしれません。

■首相への損害賠償請求はできないものでしょうか(2009年1月28日)
国家というのは、やはりよく理解できない仕組みです。

たとえば、企業経営者が株主の反対を押し切って、その利益を損なうような行為をした場合は、経営者に対するは委任訴訟が起こせます。
国家のトップである首相に対しては、そうした訴訟は起こせないものでしょうか。
おそらく起こせないでしょう。
なにしろ違憲判決が出ても、何の拘束力もないのが国家、少なくとも日本国家です。
政府は「統治する側」であって、「統治される側」ではないからです。

しかし、トップの暴走を止められない組織は欠陥がある組織です。
本来、組織にはホメオスタシスといって、均衡をバランスさせる機能が内在していますが、国家にはそれがありません。
国家は多様な主体によるガバナンスを封じ込める仕組みだからです。
多様な人々から成る社会は、本来は管理不能な複雑体です。
それを効率的に管理していくためには、その複雑性を縮減し、判断基準をできるだけ単純化するのが効果的です。
そこで使われるのが、貨幣と暴力です。
心を貨幣で、身体を暴力で抑えてしまえば、どんな複雑体も管理できるようになります。
そうした上で、国民主権を認めれば、いいわけです。
貨幣と暴力で仕組まれたガバナンスの制度ができていないままに、国民主権などに走れば、ロベスピエールの恐怖政治に陥ります。

近代は、管理できるガバナンス制度の構築のために、社会の複雑性を縮減する歴史だったと言っていいでしょう。
しかし、貨幣は1970年代以降、国家の手を離れだし、国家をも危機に陥れるまでの力を持ってきました。
いまや金融工学者を活用しながら、金銭は国家財政さえも操りながら、自己増殖をはかっています。

暴力はどうでしょうか。
最近のガザ攻撃をみればわかりますが、暴力もまた国家を手段化しつつあります。
国家体制を維持するために、国家は暴力を管理下においたはずですが、いまやそれが災いの元になってきています。
映画の世界では既に繰り返し描かれていますが、核兵器はいつまでも国家の独占的管理体制のもとに閉じ込めてはおけないでしょう。
核拡散防止などの発想は、そもそも矛盾があります。
実現可能なのは、廃絶であって、拡散防止ではありません。

つまり、貨幣と暴力という、国家を成り立たせてきた2つの柱が、国家の手を超えて、国家を壊しだしたのです。

定額給付金という巨額な無駄遣いをした首相と、
核兵器の発射のボタンを押す大統領は、実は同じものです。
いずれも主権者である国民が何の制約も与えられないのですから。
しかし、今ではアメリカでも核兵器のボタンを押すのは大統領だけではできないはずです。

日本が核兵器を持っていなくてよかったです。
「解散するかどうかは麻生が決めます」と得意気に言っている無恥な麻生首相は、きっと核兵器のボタンを押すのも、自分の勝手な判断でできると思うことでしょう。

今回の常軌を逸した行為は、たかだか2兆円程度の無駄遣いでしたが、せめてその無駄遣いに賛成票を投じた政治家に、返却を要求する訴訟は起こせないものかと思います。
次の選挙では、ぜひ全員、落選させてほしいものです。
彼らにとって2兆円はたいした額ではないかもしれませんが、血税を払っている国民には想像もつかない大きな金額なのです。
私は最近収入がほとんどないので税金をあまり払えないのですが、それでも税金を払う意欲が大きく損なわれたことは事実です。

賛成した政治家の名前は、死ぬまで忘れません。

■仕事とお金の関係の見直し(2009年1月29日)
地元で活動している(私以上に)シニアなTさんから相談があるので会いたいという連絡があったので、今日は出かけずに在宅していました。
たまたまスペインタイル教室をやっている娘のところに、その方とは別の(私以上に)シニアのBさんが来ていましたので、教室が終わった後、少し話させてもらいました。
お2人とも以前からの知り合いで、いずれもさまざまな活動をされています。

Bさんは、まさに遊学的生活を楽しまれています。
スペインタイル教室通いもまさにその一つで、タイル作りに専念している時は至福の時間だそうです。
Bさんのもう一つの至福の時間はアッカド語です。
アッカド語を学びながら、書き写しているそうですが、1行をマスターするのに1時間以上かかるのだそうです。
テキストを見せてもらいましたが、1冊を仕上げるにはかなりの時間がかかりそうです。
その時間感覚はまさに非日常的です。
ちなみにBさんは現役時代ある大企業の経営者でしたので、当時の時間とは全く違った世界にいるわけです。
Bさんは、しかし自分のためだけにそうしたことをしているのではありません。
地元の集まりの世話人もやっていますし、何よりもそうやってしっかりと学んでいる姿を次につづく世代の人たちに見せたいという思いがあるのです。

Aさんも現役時代は自分の企業を経営していた人です。
引退後、それまで培った豊富な知見を活かしながら、地元(我孫子市)のまちづくりに積極的に関わっています。
私が長らく関わっていた山形市の出身であることもあって、親しくさせてもらっていますが、ビジョンと夢をしっかりと持った方です。
今日はまた新しい構想を聞かされ、協力を要請されました。
面と向かって頼まれると断れないのが私の性格ですので、またまた引きずり込まれそうです。

(私以上に)シニアな人たちからの要請は、お2人に限ったことではありません。
先週も、先々週も、別のCさん、Dさん、Eさんから相談を受けています。
近くのFさんも相談したいと言っていましたので、近々相談に来るでしょう。

実は、社会には仕事が山ほどあるのです。
時間を持て余したシニアの人たちは、そうやって「仕事」を見つけ出し、創りだしているのです。
それはお金に余裕のある人の道楽だと言われるかもしれません。
それに対価ももらえず、むしろ持ち出しの活動は仕事とはいえないだろうという人もいるかもしれません。
しかし、そうでしょうか。

お金はなくても生きていけるが、仕事はないと生きていけない。
そして誠実に仕事をしていたら、お金は後からついてくるものだ。
これが私の信念です。
残念ながら、確信を持って誰にでもお勧めできるまでには至っていませんが、私はこの20年、その信念のもとに何とか生かせてもらっています。
まさに、信ずるものは救われる、です。

シニアの方たちが、なぜお金目的ではなく、活動をするのか。
そこに大きな示唆があります。
仕事とお金の世界を分けて考えるべき時代が来ているような気がしてなりません。

ガンジーは、「すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、すべての貪欲を満たすに足るものは存在しない」と言ったそうですが、私もそう思います。
本来、人の数だけ仕事はあるはずなのです。
たしかに、子育てなどでお金が無いとやっていけないライフステージはありますが、それこそ社会の仕組みで対応できる話ではないかと思います。
これに関してはいつかまた書くようにします。

ガンジーが指摘しているように、貪欲と浪費が欠乏につながっているのです。
2006年に公表されたデータによると、「OECDにおける相対性貧困率ランキング」は、日本はアメリカに次いで第2位だそうです。
どこかで私たちの意識を変えないと、この状況から抜け出せません。

■中谷巌教授の懺悔がもし本物であれば(2009年1月30日)
先々週、私が関わっているコムケア活動というNPO関係の人を中心にした集まりをやりました。
その報告はCWSコモンズ(ホームページ)のほうに書きましたが、
群馬から参加してくれた方が帰り際にこういいました。
NPOの集まりでは、どこから助成金をもらおうかとかいうお金の話がよくでるのに、コムケアの集まりってそういう話が全く出ないのでホッとします。

お金を基準に考えるのは企業だけではありません。
今のNPOの多くは、NPOの「有識者」たちの指導を得て、補助金をどう確保するかにばかり気がいっています。
そのことをコムケアのメーリングリストに投稿しました。
そうしたら、よく知っている人からこんなメールをもらいました。
私だけにとどめておくのはもったいないので、一部を紹介させてもらいます。

長年私学に勤めていましたが、助成(私学助成)は私学の教育を縛るもので、本当に良い教育をしようとすると、助成金は減らされることになるんです!
だから日本では本当に良い教育をしようと考えるなら私学助成に頼らないことを考えるしかない。
私は一時期「榛名山麓みどりの大学」構想を打ち出し、大学設立を考えていましたが、真っ先に考えたことは私学助成を必要としない・・・計算に入れない大学を構想していました。ホントの教育をするためでした。この計画は見事に破綻しましたが、今でもこの考えは変わっていません。
NPOを始めて、色々な企画を立ち上げたり構想したりしてきましたが、やはり助成を受けようとすると本当にやりたい・・・必要と思われる活動を薄めて助成団体の意向に沿う企画を作成するしかない。
それをしても助成を受けられるとは限らない。
今では助成金を受けることは念頭外に活動を考えています。
助成を受けるのではなく、同感していただける方々からの寄付を受けられることを中心に考えています。

「榛名山麓みどりの大学」構想。
以前、ホームページでご紹介しましたが、惚れ惚れするような構想です。
同じように、学びたい人たちがみんなで資金を出し合って学びの場を創ろうというプロジェクトも、日本構想学会で話題になったことがありますが、これも残念ながらストップしています。
情報発信力のある教育関係者たちの数名が、本当にその気なれば、いずれもできないことではないはずです。

いま日本の経済政策を主導してきた一人の中谷巌さんが、自らの間違いの気づき懺悔を始めたのが話題になっています。
中谷さんたちのやり方にはかなり学者仲間でも批判がありましたし、ましてや日本の企業経営や経済を少しでも学んだ人から見れば、馬鹿げた発想だと思いますが、今でもその発想に疑問を持たない人が少なくないのが驚きです。
中谷さんたちの影響力は絶大だったわけです。

中谷さんの懺悔は、何をいまさらという気がしますが、その勇気は評価したいと思います。
しかし、ただの懺悔で終わるのではなく、「榛名山麓みどりの大学」構想のような本当の学びの場づくりに取り組んでほしいと思います。
それがなければ、懺悔もまた時流に乗ったパフォーマンスでしかないことになります。

今こそ、しっかりした「学びの場」が構想されなければならない時代になっています。
「榛名山麓みどりの大学」構想がまた動き出すのを期待しています。
どなたかポンと私財を出す人はいないでしょうか。
たかだか数十億で、日本を支える人材が育てられるのですから、安いものです。
中谷さんは出してくれないでしょうかね。
一応、依頼の手紙を出す価値があるかもしれませんね。

■政治が語るべきは手段ではなく目的(2009年1月31日)
「今頃何を」という話は多いのですが、最近、鳩山総務相が強い疑義を表明して話題になっている「かんぽの宿」施設の一括譲渡問題も、そのひとつです。
小泉政権下で規制緩和の旗振り役だった宮内義彦さんが会長をつとめるオリックスの100%子会社オリックス不動産が、郵政民営化で売却される全国の「かんぽの宿」の施設を丸ごと買い取るということが問題になっています。
遅きに失している感はありますが、規制緩和の旗の下で何が行われているかを象徴的に示す問題であり、是非もっと見える形にしてほしいと思います。

私はこうしたことに関しては、過敏に反応しがちなのですが、有識者然として世論を指導していた宮内さんとその取り巻きには昔から怒りを感じています。
私が好きな、日本の社会や文化、経済や企業を壊した一人だと思っているからです。
宮内さんに関しては、以前、そのコーポレート・ガバナンス論に関して批判したことがありますが、私の友人でさえもが、それを担いでいました。
民営化や規制緩和の本質は、その時にすでに見えていたはずですが、なぜかみんな黙認しました。
日本の企業が方向を変えてしまったのは、たぶん1990年代の中頃からではないかと思います。
彼は、それに加担しました。中谷さんの同類です。
その行き着く先が、アメリカ型の貧困社会だったわけですが、宮内さんや中谷さんは、おそらくそれを知っていたはずです。
しかし、私欲に負けてしまった。
そこに怒りを感じます。

昨日、53歳の男性が仕事はないかと相談に来ました。
面識のない人ですが、友人の紹介です。
お話していて、その誠実さがわかります。
誠実に仕事をしてきたのに、53歳になって会社から放り出されたのです。
今はとりあえずラーメン屋で働いているそうですが、今までの大企業とは全く違うでしょうと質問したら、頷いて、これほど差があるとは思っていませんでしたといいました。
お金は無くても生きていけるが、心身を壊すと大変だから、限界を超えた無理はしないように、そして奥さんとこれからの生き方を考えるといいと話させてもらいました。
日本には、まだいろいろな生き方の選択肢があるのです。

よく言われるように、日本の経済や社会を支えているのは、現場で汗している人たちです。
その人たちが、いま追いやられています。
その人たちへの感謝の気持ちは、宮内さんはもちろん、財界人や政治家には感じられません。
それがアメリカ型の貧相な貴族社会なのでしょう。

いつものように、また話が拡散していますが、そろそろ郵政民営化や規制緩和の罠に気付かなくてはいけません。
それらはいずれも「手段」なのです。
大切なのは、目的です。
宮内さんや西川さんのような、志やビジョンの希薄な人に、そうした大雑把な手段を与えるべきではありません。
政治が語るべきは、手段ではなく、目的です。
その目的が不在であるが故に、手段のプロである官僚が跋扈しているわけです。

鳩山総務相には少しがんばってもらいたいと思います。
今は、自民党とか民主党とかではなく、大切なのは官僚と経済人に乗っ取られた日本の社会を取り戻すことが大事になってきています。
民主党もまた、選択を誤ってしまったように思えてなりません。

■NPOへの資金助成の甘味な罠(2009年2月1日)
一昨日、書き出したのに全く違った記事になってしまったので、もう一度、書きます。

前回、書いたように、「NPOの集まりでは、どこから助成金をもらおうかとかいうお金の話がよくでるのに、コムケアの集まりってそういう話が全く出ないのでホッとします」という感想は、私にとっては最高にうれしい感想でした。
CWSコモンズの方に書きましたが、
私は、お金につかりきった最近の社会から抜け出したいと思っています。
お金から発想している限り、事業型NPOとか社会起業家、コミュニティビジネスなどと言ってみたところで、これまでの企業(企業が悪いというわけではありません)と何も変わりません。
住民活動や市民活動は、そうした金銭の呪縛から解放されないといけないと思っています。
もちろんNPOにしろボランティア活動にしろ、「お金」は大切ですが、お金に振り回されてしまっては、何のための活動かと言うことになります。
お金がなくてもできることはたくさんありますし、お金があるためにできなくなることもたくさんあります。
ですから、NPO中間組織や行政の資金調達講座などには違和感があります。
日本のNPOにはファイナンスがわかるスタッフが不足しているという意見があります。
私もそう思いますし、ファイナンスは大切だと思っています。
しかし、だからといって、資金調達がファイナンスのすべてではありません。

私も数年間、NPOに対する資金助成プログラムの事務局長をやったことがあります。
そこで感じたのは「資金助成の甘味」です。
私が資金助成したNPOを訪問すると、まるで私が資金援助したように感謝されます。
私たちの助成資金額はそう多いものではありませんでしたが、10万円でも助成されると感謝されてしまうのです。
しかし、私の発想は全く反対です。
助成した資金を効果的に活かしてくれた資金先にこそ、資金提供者は感謝すべきです。
その関係は、本来、その資金を出してくれたスポンサー企業と私たち資金助成事務局との関係でもありますが、それを理解してくる企業はそう多くはありません。

「貧者の銀行」といわれるグラミン銀行の創始者、ムハマド・ユヌスは施しについて次のように語っています。

施しをすることは、貧しい人たちの抱えている問題を無視し、ただ彼らを堕落させるだけだ。
施しをすることは彼らをますます惨めな立場にし、やる気や、もっと大切な、自尊心を奪ってしまうのである。

支援学を提唱している今田高俊さんは、次のように書いています。

支援によって被支援者を甘やかし、かえって本人のためにマイナスの結果をもたらす危険性を持つことに注意が必要である。支援はヒューマニズムに基礎づけられるべきものではない。安易なヒューマニズムは支援にとって邪魔になる。ヒューマニズムは人間の心に訴える力を持っており、慈善活動そのものは賞賛されるべきことがらだが、社会運営の基本原理とはならないことを認識すべきである。

彼は、支援が成立する条件として、「被支援者が支援を当てにして自助努力を損なってはならず、支援者はそのような状況に至らしめる過剰支援を与えてはいけない」をあげています。
今田さんがいうように、支援はエンパワーのためであって、救済のための慈善行為であってはなりません。
支援するほうも、される方も、お金の魔力に負けてしまう恐れがあるのです。

■誠実に生きることを阻害する社会(2009年2月2日)
昨日、あるメーリングリストで「右派政治団体によるデモを撮影中に妨害される」という体験が投稿されました。
あまりにもうるさいデモ行進を路上で撮影していたら、「公安刑事(と思われる人)から取り押さえられた」のだそうです。
本人のブログで映像も紹介されていますので、ご覧ください。
http://www.n-yuki.net/blog.php?itemid=346
同じブログに、新宿東南口広場での街頭演説に対する警察の介入のことも紹介されています。

最近、金泰明(大阪経済法科大学教授)の「欲望としての他者救済」を読みました。
読み終えた時に、なぜか涙が出ました。
本を読み終えて、涙が出たのは初めての体験です。
その本の最後の「そのような自由な市民になりたいと、わたしは心から願う」という1行に、感動したのです。
著者の金泰明さんは、この本の中で、「ふとしたことで、苦境に陥った知人を助けたために、思わぬ難儀にあった」ご自身の体験を紹介しています。
もし書店で本書を見つけたら、その部分(185〜188頁)だけでも読んでみてもらえるとうれしいです。

「そのような自由な市民」
それは本書を読んでもらわないとわかってはもらえないでしょうが、誤解を覚悟で、最後の1行の前に書かれている文章を引用させてもらいます。

人に頼まれたからでもなく、いやいやするのでもなく、気がついたら、いつでも気持ちよく因っている他人を手助けできる、そんな「私」であるために、わたしは、つねに自分への配慮から出発し、良心にもとづき判断・行動し、市民としての自覚をもち続けたいと思う。

私が常々意識している生き方に重なっています。
私には「社会のために」という意識は全くありませんが(「社会のために」という意味が理解できないのが理由ですが)、自分を誠実に生きることが、みんなが快適に過ごせる社会に繋がっていくと考えています。
また、そうなるように、いつも自分の生き方を問い直しています。

誠実に、素直に生きている人が、事件に巻き込まれることは決して少なくありません。
事件に巻き込まれはしないとしても、あまり「いい目」にあうことはありません。
それに、今の時代は、誠実に生きることがとても難しいような気がします。

しかし、やはり、誠実に、素直に生きていかないと生まれてきた意味がありません。
残念ながら、私自身、そうした誠実さを最近失ってきているような気がしています。
なぜか以前のように心身が動かないのです。

昨夜、NHK教育テレビのETV特集で、辺見庸さんの独白が放映されました。
そこでもカミユの「ペスト」の主人公の「誠実さ」が言及されていました。
「誠実さ」とは何なのだろうか。
そのことがとても気になりだしました。
偶然にも昨年、40年ぶりに「ペスト」を読んだのは、何かの意味があるのかもしれません。

■辺見庸とカミユとシジフォス(2009年2月3日)
一昨日のテレビのETV特集でみた、辺見庸さんの話し方が、どうも気になっています。

辺見さんは、現在進みつつある“破局”は、経済だけのものではない。
人間の内面性も崩壊しつつあるのではないか、といいます。
そして、
「奈落の底で人智はどう光るのか、光らないのか、それが早晩試されるだろう」と語ります。
辺見さんの語り口は、静かに迫ってきます。
しかし、共感しながらも、どこかに違和感があります。
以前、読んだエッセーのような、強い波動が伝わってこないのです。

辺見さんは、後半でカミユの「ペスト」に言及します。
大学時代、私が最も感動した小説であり、私の生き方に少なからぬ影響を与えた小説です。
昨年、「異邦人」を読んだ後に読み直しましたが、なぜ学生の頃、あんなに感動したのか、不思議な感じがしたほど、静かに読めました。

「ペスト」のあらすじはこうです。
はじまりは、医師のリウーが階段でつまずいた一匹の死んだねずみでした。
やがて、死者が出はじめ、町はパニックになっていきます。ペストが流行りだしたのです。
町の司祭は、ペストを人間に反省と自覚の機会を与える神の恩寵だと考えます。
しかし、悲惨と苦痛を前にして、何もしないのは「狂人か卑怯者」だと考える医師リウーは、敗北を繰り返しながら、シジフォスのように全力でペストと戦いつづけるのです。
そのリウーに協力したのが、無神論者のタルーでした。
やがて多くの犠牲者を出したペストは、突然潮が退いたように終息します。
しかし、そのとき、タルーは感染し、息を引き取るのです。
そして、残されたリウーのところに、地方で療養中だった妻の死の知らせが届くのです。

こうまとめてしまうといかにも平板ですが、印象的なのはリウーの誠実さなのです。
辺見さんは、番組でもそれを強調していました。
私がこの本から学んだのは、無駄を誠実に生きる生き方と負け戦(いくさ)の価値です。
私が失敗の可能性の大きなプロジェクトが好きなのは、そのせいです。

学生の時読んだ本をまた読んだのですが、最後のほうに、赤線が引いている部分がありました。
赤線を引いたのはずっと覚えていたのですが、予想していた内容ではありませんでした。
その部分を引用します。

リウーには、究極においてタルーが果たして平和を見出したかどうかはわからなかったが、しかし少なくともこの瞬間、自分自身にとってはもう決して平和などありえないであろうこと、同様にまた、息子をもぎとられた母親や、友の死体をうずめた男にとって休戦などは存在しないことだけは、わかっているような気がした。

当時私は、この文章に何を感じて線を引いたのでしょうか。
それが全く思い出せませんが、今日突然に、一昨日テレビで感じた辺見さんのイメージと重なっているのに気づきました。
リウー医師も辺見さんも、平和、希望を失ってしまったのではないか。
しかし、誠実に生きるしかない人生に安堵してしまったのではないか。
それは、巨岩を山頂まで運んでは落とされるシジフォスを思わせます。
テレビで見る辺見さんの言動は、まさにシジフォスそのものでした。
それが、今回、鼓舞されなかった理由かもしれません。

ちなみに、
人智が試されているのは、「早晩」どころではなく、もう試され終わったのかもしれない。
そんな気がしてなりません。

■相撲界の不祥事から感ずること(2009年2月3日)
大麻所持で逮捕された若麒麟の解雇処分をめぐって、また相撲界への批判が高まっています。
なぜこうも同じことが繰り返されるのか不思議ですが、その根幹は、相撲界がお金に浸りきってしまったからではないかと思います。
相撲界に限りません。
スポーツ界全体が、そうなっているような気がします。

十両の若麒麟の月給は100万円強ですが、おそらく後援会にいる、スポンサーからの資金などを合わせると、これを大きく上回るものと思われます。
一方で、幕下になるまでの下積みの過酷な状況に比べるとあまりの格差に驚きますが、そうした「格差構造」は権力支配型の組織構造の特徴といっていいでしょう。
この点からも相撲協会の本質が見えてきます。
そうした体質の権力志向体質が、一連の事件の根底にあるように思います。

それはともかく、25歳の若者が毎月100万円を超える給与をもらうことの意味を考えるべきだろうと思います。
一方で、寝る時間を惜しんで過酷な条件で働きつめても、1か月20万円にも満たない人たちがいます。
所得の格差こそが、新自由主義経済の柱であり、それがあるから競争を刺激し経済が活性化するという考えもあるわけですが、やはり私には所得格差の限界というものがあってしかるべきではないかと思います。

力士の働きを考えれば、もっと給料を増やしてもいいのではないかという議論もあります。
給与の水準が適正かどうかは、考え方によって違うでしょうから、それを指摘するつもりはありません。
2つの価格方程式については書いたことがありますが、給与に関しても同じようなことがいえます。
つまり、投入負担の視点から考えるか、それが稼ぎ出した金額から考えるかです。
稼ぎ出した金額と市場側から考えた価格方程式を組み合わせると、まさに金融工学者の出番となり、バブル経済が実現します。
スポーツ経済は、まさにその先駆的な役割を果たしたのだと、私は思いますが、それは当然のことながら、金に文化を売ってしまったことになります。

この議論もとても大切だと思いますが、今回の事件で素朴に思ったのは、25歳の若者に毎月100万円も支給したらお金に振り回されるのではないかという危惧です。
お金は、人を幸せにしますが、また不幸せにもすることができます。
そして、その文化で育った人たち、たとえば相撲協会の親方たちも、たぶん金銭感覚は汗して働いている人たちとは違うでしょう。
パトロンであるタニマチ筋の文化も影響しているかもしれません。
タニマチ筋の人たちの金銭感覚は、自分自身の額に汗して働く庶民のそれとは全く違います。
税金や保険料を使うことに慣れている政治家や官僚ほどではないにしても、お金の価値は一桁も二桁も違うはずです。

若麒麟の言動は、私には日本相撲協会の役員たちの言動に重なってみえますし、さらにいえば、他のスポーツ界や芸能界の人たちの言動にも重なってみえます。
格差社会がもたらした、もうひとつの悲劇かもしれません。
おそらくその広がりはすでにかなりのものでしょう。
そのお金に汚染された社会を、若者たちがモデルにして生きているとしたら、未来は私が思うような世界にはならないでしょうね。
いささか悲しい話です。

■「冗談のような現実」を創りだすコミュニケーション的言説政治(2009年2月6日)
今日はいささか不謹慎なことを書きます。

麻生首相のこの数日の国会答弁はなかなか魅力的です。
あれほどの無邪気さやナンセンスさはなかなか演出できるものではありません。
最近少し好感を持ち出しました。

先日、民主党の前原さんが「やるやる詐欺」発言で物議を起こしましたが、
この時の2人のやり取りにも、奇妙な好感をもちました。
念のためにいえば、前原さんも麻生首相も、その考え方には全く賛成しがたく、2人とも私が最も嫌いな政治家に属します。
しかし、あの時の前原さんには初めて好感を持ちました。
詐欺し扱いされた麻生さんは最近逮捕された円天の社長以上の「詐欺師」だという気もしますが、一方ではさらにその上を行く詐欺師にして犯罪者(何回も書いているように、法律違反をいくつかしていると思っています)の小泉元首相に比べればたいしたこともないのかもしれません。
まあ、それは勝手な私の妄想ですが、最近の麻生首相の無邪気さに魅了されだしている自分に気づいて、いささか驚いています。

わが国の政治は、国民の心情に直接訴求する「コミュニケーション的言説」による政治へと変質していますから、むしろ小泉元首相がそうであったように、麻生人気が復活する可能性もゼロではないかもしれません。
国民の多くは、今の政治に信頼感を失っているといわれますが、その信頼できない政治を最高の政治責任者として茶化している麻生首相の言動は、まさにそうした民意を代表しているのかもしれません。
ともかく麻生首相は政治を過剰なほど楽しんでいます。
国民や国家のことなど考えておらず、潤沢な税金で豪遊しているような気がします。
駄々をこねる無邪気な、しかしちょっと大人の小賢しい知恵を植えつけられた子どものような振る舞いには、うらやましさも感じてしまいます。

それにしても、郵政民営化に自分は賛成ではなかったとよくまあぬけぬけと発言できるものですが、昨日の報道番組でのキャスターたちは、みんな絶句に近い感じでした。
1年後には、もしかしたら「定額給付金には反対だった」と麻生さんは言うかもしれませんが、何やら昨今の政治の本質を露呈しているような気もします。

こうした「冗談のような現実」は政治に限った話ではありません。
そう思って考えてみますと、企業や相撲界でも最近こういう話がたくさんあるようにも思います。
「冗談のような現実」を創りだすコミュニケーション的言説が、マスコミのおかげで蔓延しているわけです。
それを支えているのは「絶句」しているキャスターたちかもしれません。

まことにもって不謹慎なことを書いていますが、最近の素直な気持ちを書いてしまいました。

■福祉政治の視点で政治や経済を見ると問題が見えてきます(2009年2月7日)
「経済の安定的な成長のためには投資のみが過大であってはならない」
これは、1958年の経済白書の言葉です。
当時の経済企画庁は、「格差の是正を経済成長の要件とするという発想で、急速な成長から取り残されやすい農業部門や自営業者を社会保険に包摂し、格差の広がりを是正することが持続的な成長のために必要であるというものだった」(宮本太郎「福祉政治」)そうです。
政府は、生産重視の急速な成長戦略に慎重だったわけです。

宮本太郎さんの書いた「福祉政治」(有斐閣)は日本の政治経済の流れを俯瞰する上で、とてもわかりやすい本です。
経済も政治も、もしそれが国民生活のためにあるのであれば、福祉の視点から見ていくととてもよく見えてきます。
著者は、生活保障をめぐる政治を福祉政治といい、生活保障を雇用保障と社会保障に分けて整理しています。
日本が1980年代まで格差の拡大を起こさずに、経済を成長させられたのは、雇用保障が基軸にあったからだということが、本書を読むとよくわかります。
その大きな枠組みが変わったのは、1990年代の半ばからです。

昨今の派遣社員制度も、雇用保障をベースにして構想され運用されていたら、たぶん今とは全く違ったものになっていたでしょう。
しかし、派遣社員制度は、生産の急拡大と投資利益拡大のための労働力管理の手段になってしまいました。
そこには生活する側の労働者の就業の場という発想はありません。
つまり、働く人の生活が切り離され、見えなくなってしまったのです。
そこで雇用ではなく、福祉保障へと軸足が変っていったということになります。

そうした動きの背後には、家族制度、さらにはそれを支える文化の問題があります。
おそらく1980年代までと現在とでは、そうした文化が全く変質してしまったのです。
だから失業の問題が、即、住む場所の問題に直結してしまったのです。
極端に言えば、社会は壊れだしているわけです。
経済や政治が壊れだしているのではありません。

唐突に「福祉政治」のことを書いてしまいましたが、最近の政治や経済の動きを見ていると、何のための政治や経済なのだろうかと思うことがよくあります。
「福祉政治」や「生活政治」の視点で考えると、そうしたことも含めて、現実の問題が見えやすくなります。
経済は「文化の問題」であって、「政治の問題」ではないのです。
政治も「文化の問題」であって、「経済の問題」ではないのです。
肝心の「文化」が、今の日本から抜けてしまっているような気がします。

■お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない(2009年2月8日)
昨日、ボランティアフォーラムTOKYO 2009に参加しました。
お金も大切だけれど、もっと大切なものがあるのではないかというワークショップです。
そこでの話は、挽歌編に書きましたので、よかったら読んでください。
一番大切なのは「愛」。
「愛」と「お金」は同じ類の言葉かもしれないということも、そこに書きました。
よかったら読んでください。今回は挽歌編とワンセットです。

私と一緒にゲストで参加した姜咲知子さんの生き方は見事です。
9月から3か月近い韓国巡礼に出向くのですが、そのためには「仕事も家も邪魔になる」と、会社を退職し、借家契約を解約し、いまは茨城県の八郷の有機農園で住み込みの生活をして、韓国巡礼の準備をしています。
「仕事も家も邪魔になる」生活。
会場にいた契約社員の人たちはどう思ったでしょうか、

姜さんはまだ30代のシングルですから、こうした身軽な生き方ができるのだと思う方がいるかもしれません。
私も数年前まではそう思っていました。
しかし、いまはそう思っていません。
妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまったからです。

お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない、という人も少なくありません。
今回も、無所有とか本来無一物とかの言葉がでたのですが、それに対して契約社員の方から、そんな甘くはないのが現実だと指摘されました。
それはよくわかります。
何しろ明日の食事代もなければ、今夜宿泊するところもない状況が起こりえるのですから。

たしかにお金があれば、食事や宿泊の問題は解決できます。
しかし、なぜ毎日、そうした問題に悩まされなければいけないのか、です。
バラバラの生き方の中で、自己責任や自立が基準になってしまえば、いざと言うことを考えるとお金が不可欠になってきます。
しかし、大家族の中で隠居した高齢者はお金がないと生きていけなかったでしょうか。
自分では稼ぐ事のできない乳幼児はどうでしょうか。
そうした人たちは、ほかの家族に支えられてお金などなくても生きていけたのです。
その大家族を地域社会にまで広げた、下町生活は貧しいながらもお互いに支えあって生きてきました。
お金を稼げない人もいたでしょう。
稼げない時期もあったでしょう。
しかし地域共同体の中で、生きていけたのです。
その地域社会を、さらに広げていったらどうでしょうか。

しかし、今の世界はそれとは逆方向に行っています。
大家族は核家族に変えられ、夫婦は支えあうのではなく稼ぎあう関係になり、男女共同参画などという経済主義に汚染されたまま、支え合いの関係は金銭主義の中で競い合いの関係へと変質していきました。
地域社会は、市町村合併という「自治壊し」の動きによって、生活から切り離されていきました。
つまり、「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」社会が着々と構築されだしているのです。
そのために、みんな「お金の奴隷」へとならざるを得なくなっているのです。
「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」などという幻想をすてなければいけません。

また言葉が走りすぎていますね。
長くなったので、また明日続きを書きます。

■愛に支えられた社会とお金に支えられた社会(2009年2月9日)
昨日書いた「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられないのか」の話を、挽歌編と絡ませながら続けます。

お金がなければ生きられない社会は、考えてみれば不思議な社会です。
お金は食べられませんし、お金があっても、それを何か「生きるために必要なもの」に誰かが交換してくれないと、何の役にも立ちません。
無人島に流された人にとっては、2兆円のお金を持っていても何の役にも立ちません。
それ自体何の価値もないお金に、私たちの生活が振り回されるのは、どう考えてもおかしな話です。

挽歌編にも書きましたが、私は47歳で会社を辞めました。
何の不安もなく会社を辞めたのは、資産があったからではありません。
愛し合っている妻がいたからです。
愛とは信頼でもあります。
どんな苦境に立たされても、2人の知恵と汗を出しあえば、生き抜けるだろうと確信していました。
お金にしがみついていたら餓死することもあるでしょうが、お金にしがみつかなければ、今の時代、何とかなる。
そう開き直って、次の仕事のあてもないのに会社を辞めたのです。
お金がなくなって、娘から借金したこともありますが、それから21年、生き続けています。
とても悲しいことに、妻は病気で一昨年、旅立ってしまいましたが、お金があってもそれは防げませんでした。

妻がいなくなって、私の生命力は極端に落ちた気がします。
しかし、娘たちがいたおかげで、何とか生き抜けました。
娘たちを、私は愛しています。
生きるために必要な愛は、愛される愛だけではなくて、むしろ愛する愛です。
引きこもりがちだった私を引き出して、元気を与えてくれたのは、私を愛してくれているたくさんの友人知人たちです。
私も、そうした友人知人を愛しています。
ですから、私は確信しています。
「生きるためには、お金よりも愛が大切だ」と。

生きていくために「仕事と家」が邪魔だったという姜さんのことを昨日書きました。
「仕事と家」が突然なくなって、生きるのが不安になっている人がたくさん出ています。
同じもの(仕事と家)が、生きる邪魔をしたり、生きる支えになったりします。
この違いはどこにあるのか。
おそらくそれは「愛」に関係しています。
姜さんはきっとたくさんの愛を育みながら生きてきたのでしょう。
だからいま、そのたくさんの愛に育まれているのです。

愛に支えられた社会とお金に支えられた社会があるような気がします。
どの社会に生きるかは、それぞれの人の好みかもしれません。
しかし私はやはり「愛に支えられた社会」に生きたいと思います。
日本にはまだそういうところがたくさんあります。
お金がなければ生きていけないと思っている人に、そういうことを知ってほしいと思います。
「愛に支えられた社会」に生きたい人が増えていけば、きっと社会は変わります。
昨日のワークショップで、こういうことを話せばよかったなと反省しています。

でもやはり「甘い」と怒られるかもしれません。
67歳だから、こんなことがいえるのでしょうか。

■良識と非常識(2009年2月10日)
「良識とは、受け身に立たされた側が口にする言葉であり、行動の主導権を握った側は、常に非常識的に行動するものである」
これは、16世紀のベネチアの一外交官の言葉だそうです。
先週読んだ塩野七生さんの「ローマ亡き後の地中海世界」に出てきます。
塩野さんの作品は、いつも現代を考えるヒントに溢れています。
いくつか印象に残った言葉がありますが、この言葉には思わず笑えてしまいました。

麻生首相はまさに非常識な言動を続けていますが、野党はもちろん、閣僚も与党も、そして国民までもが、彼の良識を疑いだしています。
私もその一人でしたが、ちょうど最近、麻生首相の言動に少しばかり共感を持ち出したところなのです。
まさに、良識と常識を考えていたところなので、この言葉に出会った時には、あまりのタイミングの良さに笑ってしまったわけです。

今となっての郵政民営化反対発言は、野党は良識がないといいますが、麻生首相にとってはそんなことはどうでもいいのでしょうね。
そういえば、細川元首相も「良識」がありませんでした。
いえ、最近の首相はみんな良識もなく、非常識な言動を繰り返していました。
それに対して、周辺の人たちは、良識を口にしながら、やはり結局は非常識な言動を繰り返しているようにも思われます。

かんぽの宿をめぐる鳩山総務相の発言は良識的でしょうか。
日本郵政の西川社長にとっては、非常識な発言でしょうが、私から見れば、西川社長の発言は犯罪的に感じられます。
何かを隠そうとする人に善人はいないというのが、私の単純な評価基準なのです。
鳩山総務相の発言は良識的ではないかもしれませんが、素直な感情が伝わってきます。
麻生首相と同じ感じがします。
隠そうという姿勢が見えません。

麻生首相が郵政民営化反対発言をしたのに対して、民主党は良識対応すべきではありません。
大いに歓迎すべきです。
自らのやったことを反省したのですから、そこは大目に見てやり、やっと気づいたのか、やっと本音で話せるようになったのか、麻生君も成長したねとほめてやればいいだけの話です。
それができない野党側は、やはり「良識」レベルで発想している「受け身」の立場に甘んじているのでしょうね。
それでは主導権はとれません。

郵政民営化に反対したのに、その後変節して復党した人たちは、良識的だったのでしょうか、あるいは非常識だったのでしょうか。
人事院総裁の谷さんはどうでしょうか。

良識など気にせずに、非常識に行動する麻生首相。
麻生首相は時代状況と自らの地位の意味を勘違いしているように思います。
時代錯誤な人は、やはり見ていて面白いです。
彼をお笑い芸人と考えると実に納得できます。
ギャラが高すぎるのが不満ですが。
また今日も不謹慎なことを書いてしまいました。

■漢字検定ビジネス問題に思うこと(2009年2月11日)
漢字検定で高収益を上げてしまった公益法人が問題になっています。
まあ国家行政機関の高収益に比べれば、たかだか数百億円でしょうから高がしていますが、資格検定制度はまさに働かずに稼ぐバブル事業モデルだと思っています。
しかも、この事業モデルは華道や茶道のような、日本の伝統文化の中で育てられてきています。

私は「資格」の類を一切持っていませんが、子ども頃から資格に関しては生理的に馴染めませんでした。
それに資格を得るために努力することの出来ない人間でした。
高校と大学は受験しましたから、10代の頃までは徹底していませんが、20代以降は怠惰を決め込んできました。
同時に、資格ビジネスには大きな違和感を持っていました。
資格を与えてお金をとる。つまり資格の売買のようなイメージが私には強すぎるのです。
何だか、人間の豊かさ(個性や能力)が貶められているようで、嫌な気がします。

弁護士や公認会計士などの専門家としての資格は、信頼関係構築のための社会の複雑性の縮減のために必要ですし、それらは「資格」が目的ではなく、「仕事」をするための要件ですから、意味合いは全く違います。
しかし、漢字検定だとか英語検定とかいう話になると、どうも違和感があるのです。
ましてやそれがビジネスになるというのは不思議です。
まあ一種の化粧ビジネスと思えばいいのかもしれませんが、その化粧ビジネスも私には違和感がありますので、どうもだめなわけです。

検定ビジネスは「事業利益」という点では魅力的でしょう。
うまくいけば、働かずに定期的に利益が入ってくる仕組みが構築できるからです。
違和感はありますが、その一方で、私も不労所得が継続的に入ってくる「資格提供者」の立場になりたいと思わないわけではありません。
まあ、そこが私のいやしいところですが、もしそうなれば、その利益でいろいろなことができるでしょう。

それにしても最近は驚くほどさまざまな資格検定があります。
私の友人知人も、なんだかさまざまな資格を持っている人が多いです。
そういう話を聞くと、資格制度に違和感を持っているといいながらも、どこかで感心したりしてしまう自分に気づいて、やはり人間は資格には弱いものなのだと思ってしまうこともあります。
どうも私は、いやしいだけではなく、同調主義者でもあるようです。

しかも、こんな資格認定制度を作って儲けようなどという誘いがあると、ついついその儲け話に乗りたくなりさえします。
幸いに今のところは、実際には乗ったことはありませんが、それは主義のためよりも怠惰なためです。困ったものです。

時評のつもりが、懺悔になってしまいましたが、こうした資格検定ビジネスを強力に支援してきたのが政府であることを忘れてはなりません。
「検定」などの仕組みに飼いならされてはいけません。

そのことの意味を書こうと思っていたのですが、懺悔が長くなってしまいました。
また機会を改めます、

■非論理、無論理、超論理(2009年2月11日)
一昨日、「良識と非常識」を話題にしましたが、今日は「非論理、無論理、超論理」です。
岩波新書の「ジャーナリズムの可能性」は私には少し希望を感じさせる本でした。
まだジャーナリズムということにこだわっている人がいるのだという安堵感があったからです。
読みやすい本ですので、喫茶店で珈琲を飲む気分で、読んでもらえるとうれしいです。

その本にこんな文章が出てきます。

小泉式答弁は、合理的説明ができないときの窮余の逃げ口上であり、目くらまし戦法に過ぎない点を重視すべきだった。「非論理、無論理な言い方を論理的に論破するのは難しい」などと言っているだけでは、答弁者の思う壷にはまる。

全くそうです。憲法違反の犯罪者ともいうべき小泉元首相を担ぎ上げたのがマスコミですから、まあ「思う壺」に入るのは意図的だったのかもしれませんが、野党もまた同じ壺に入ってしまったように思います。
いささか事情は違いますが、いままた麻生首相に関しても、同じような懸念もあります。

非論理、無論理な発言に対しては、超論理で対応すべきです。
超論理とは、直感です。
論理に呪縛されない人は、実はもっと大きな論理の世界にいます。
小泉元首相は、演技された非論理・無論理だったように思えますので、別だと思いますが、麻生首相はもしかしたら天性の、あるいは育てられた非論理・無論理の人かもしれません。
最近、どうもそんな気がします。
いまこの大きな時代の変わり目に、彼のような人が首相になったのは、意味があるのかもしれません。

そう思って、最近の国政を見みるといろいろと気づくことがあります。
要するに論理合わせが限界に来ているのかもしれません。
フェーズを変えないといけない。
それができるのは、自らの主体性のない道化師です。
つまり、論理を超えないといけないわけです。
それも小賢しくではなく、おおらかに、です。
麻生首相は、大らかに見えますが、どうでしょうか。

それはそうと、この「ジャーナリズムの可能性」はお薦めの本です。
情報産業栄えてジャーナリズム滅び、ジャーナリズム消えて民主主義亡ぶ!
そういう危険な時代の戸口に今、われわれは立っている。
と著者は警告を発しています。
良かったらお読みください。

■「過剰反応社会」(2009年2月13日)
昨日の夕刊の記事から2つの話題です。
時津風部屋の力士暴行死事件の初公判で、前親方は「暴行を指示したことはない」と述べたそうです。
キャノンの大分工場建設に関連して御手洗会長の友人が下請業者などを指示した事件で、鹿島建設側は「キャノン側の意向と理解し尊重せざるを得なかった」と言っているそうです。

いずれも「権力に迎合するための過剰反応」ですが、権力は、本質的に、そうした「過剰反応」で自らを支えています。
多くの場合、過剰反応するほど権力に近づけますから、よほど注意していないと過剰反応が日常化してしまいます。
権力に過剰反応することは、私も身近で結構体験してきました。
過剰反応させるほうが悪いと私はいつも思っていますが、自らに関しては過剰反応しないように注意してきました。

時津風部屋の事件で言えば、「暴行の指示」は言葉で行われなくても、指示がなかったとはいえません。
言葉などは、指示の一部であるのが日本の文化です。
とりわけ「言葉の少ない相撲界」では、すべてが過剰反応で成り立っているともいえます。

鹿島の事例は、3人が見事に「権力迎合文化」に悪乗りしています。
御手洗会長は、そうした権力支配ではすでにいろいろと不正が取りざたされている人ですが、だからこそ大久保被告は利用できたのでしょうし、鹿島も信じてしまったのでしょう。
悪い人には悪い人と悪事が集まるものです。
そして権力もまた集まってくるものです。

こうした事件は、毎日の新聞をよく読んでいると、本当に多いように思います。
その背景には、思考停止する生き方の広がりを感じます。

過剰反応は権力迎合に限ったわけではありません。
広義では権力にもつながっているのかもしれませんが、その広がりは広範囲です。

たとえば、弱者救済や顧客サービスのための過剰反応も少なくありません。
最近は少なくなりましたが、専門店などでの過剰対応で買う気をなくすこともありますし、押し付け的な弱者支援が行われることもあります。
企業やサービス機関などへの電話で、相手があまりに丁重すぎて説明過剰な体験も時々します。
まさにマニュアル通りにやっていると感じますが、遮断するのも申し訳なく思い、当方が気兼ねをしてしまうという逆サービスが生じることもあります。
さらに、日常生活でもないわけではありません。

「過剰反応社会」
そこから抜け出るのはよほどしっかりした自分を持つ必要があります。
私もまた「過剰反応」しないようにしたいですが、その反動で、「過少反応」になっていなければいいのだがと、いささか心配です。

■小泉元首相の犯罪隠しと麻生首相の見識(2009年2月15日)
政治時評はもうやめたい気分でいっぱいなのですが(評論に値するような話があまりないからです)、にっくき郵政民営化と小泉元首相が話題になっていますので、やはり一言書きたくなりました。

引退を声明していた小泉元首相が、また政治劇の舞台に戻ってきました。
昨日の新聞は、小泉元首相が麻生首相を批判したという記事で持ちきりでしたし、テレビもまた連日、それを話題にしています。
小泉元首相は、麻生首相が「郵政民営化に賛成ではなかった」とした発言などについて「怒るというよりも笑っちゃうぐらい、ただただあきれてしょうがない」と話し、それにつづけて、定額給付金事業を盛り込んだ第2次補正予算関連法案については、「3分の2条項を使ってでも成立させなきゃならないとは思わない」と述べています。
それについて記者から質問された麻生首相は、「叱咤激励としてしっかり受け止める。本当に殺す気で殴る親はいない。親心だ」と語ったそうです。

さて、この一連の動きをどう考えるか。
私には、犯罪を暴露されそうになった犯人が共犯者を脅迫しているように見えてしまいます。共犯者は恭順の意を表したようにも見えます。

表現があまり的確ではないかもしれませんが、小泉元首相は憲法に違反してイラクに派兵しましたし、そうしたことができるように防衛関係の法律をあらかじめいくつか制定しています。
見えないクーデターではないかと書いたことがありますが、今でもそう思っています。
さらに、経済面では郵政民営化という、国民の財産を一部の資本家とその取り巻きに売り払って私物化させる行為を行いました。
これはあくまでも私の主観ですが、私はそう思っていますので、小泉元首相は顔を見ただけで寒気が襲ってくるほど嫌いなのです。
ですから、郵政民営化という、国民に大きな損失を与えた行為の意味を、麻生首相に暴かれそうになったために、焦って恫喝したのが、発言の意図ではないかなどと妄想してしまうわけです。
そういう構図で考えると、麻生首相の最近の言動になにか親しみを感じてしまうわけです。

しかし、その小泉元首相はいまだに国民に人気があるようですし、マスコミにも人気があるようです。
恫喝にめげることなく、麻生首相には本音で語ってほしいものですが、政治の世界は私のような生活者が考えるほど単純ではないのでしょう。
今からでも遅くないから、麻生首相や鳩山総務相に、郵政民営化の犯罪性を可視化してほしいと期待してしまうのですが、それもかなわぬ夢なのでしょう。

国民は、自らがどんなに状況に置かれようと、お上は正しいと思うようになっているのかもしれません。
そして、それが悪いことだとは言い切れないところが悩ましいところです。

■新しき村への期待(2009年2月16日)
このブログに、過疎地には仕事が山積みですと書いたら、それをよんでくれたひとがコメントをかいて質問してきました。

和歌山のあるまちについて詳細を知りたいです。
自然な営みに近い生活スタイルと家族移住を考えています。

ちょうど、2日前の朝日新聞の投書欄に、「職住困ったら,田舎においで」という投稿がありました。兵庫県の74歳のお年寄りの投稿です。
著作権などがあるのかもしれませんが、とても共感できる文章であり、できるだけ多くの人に読んでほしいので、少しだけ省略しましたが、ほぼ全文を引用させてもらいます。

100年に一度の不況で都会では職を失い、路頭に迷っている人が多いようです。この際、地方から出てきた人は、いったん田舎に帰ってはどうでしょうか。田舎の出身でない人でもいい。私の住んでいる周りには空き家や遊んでいる田畑はいくらでもあります。
 帰る家のない人はそこで寝泊まりし、米や野菜を作ります。栽培方法は老人たちが教えてくれます。食と住は確保されます。すぐ農産物から収入は得られませんが、集荷を手伝う道もあります。
 景気がよくなれば都会に戻ればいいし、農業が好きになれば、住み続けるのもいいでしょう。
一時的でも生活する場所を得ることが最優先。終戦直後は、疎開した多くの人が、国土の復興に貢献しました。不況時の疎開は、ふるさと活性化にも役立つでしょう。

私もそう思います。
意識をちょっと変えるとさまざまな生き方が見えてきます。
それにこんなに豊かで穏やかなところ(日本)は、今の世界にはそうはありません。
もっと平安に生きていく方策はたくさんあるはずです。
残念ながら私はその生き方ができていませんが、もう少し早く気づけばどうにかなったかもしれないと思うこともありません。
今となっては、その気は私には全くありません。
その理由は、挽歌編に書いているように妻がいなくなったからです。
それに娘たちには、その生き方を選ぶ育て方をしてきませんでしたから、もう無理のようです。

問い合わせのあった方には、早速、和歌山のことも含めて、情報をもっている友人を紹介しようと思います。
こうした思いを持った人は少なくないとしたら、今こそ、「新しき村」が実現できるかもしれません。
昨年、実は、そうしたことを少し考えたこともあるのです。
もしそんな村ができたら、生き方を間違ってきた私も移住できるかもしれません。
挽歌編に書いたように、「老いて」しまった私には、いささか荷が重く、作り手にはなれないのが寂しいですが。

■壁と卵、あるいは批判する勇気(2009年2月17日)
イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞を受賞した村上春樹さんが授賞式の記念講演でガザ攻撃を批判したことが話題になっています。
私もテレビでちょっとだけ見ました。
村上さんはイスラエルによるガザ攻撃に触れ、体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調し、軍事力に訴えるやり方を批判しました。
そのスピーチを見て、イスラエルで音楽賞を受賞したバレンボイムの受賞のスピーチの映像を思い出しました。
批判する勇気、信念を行動する勇気に感動しました。
拒否や無視からは何も始まりません。
チャンスは最大限に活かすべきですが、日本人はともするとゼロか100か、つまり受賞拒否か翼賛スピーチで対応しがちです。
村上春樹さんの作品は、評判が高いという、ただそれだけの理由で、私は1冊も読んでいませんが、読むことにしました。

村上春樹さんは、こうも述べています。
「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる。」
イスラエルが建設しているパレスチナとの分離壁の建設を指しているのでしょうが、もっと多くの示唆を含んでいるように思います。
たとえば、私たちの周りにもたくさんの壁がありますが、それは私たちを守ってくれているわけではありません。
人を守るのは人でしかありません。壁では人は守れません。

村上さんは、全世界に発信されるというスピーチの場を最大限に活かしました。
ちょうど同じ日、テレビで世界中に話題を発信した人がいます。
中川財務大臣です。
テレビでの情報発信が、どれほど大きいものか。
中川さんの事件も、そのことを教えてくれています。
テレビに登場できる人には、たくさんの手段があることを示してくれています。
もっとその手段を効果的に活かしてほしいと思います。

■経済成長とは何なのか(2009年2月18日)
日本経済は「戦後最大の危機」なのだそうです。
昨年の10〜12月期の実質国内総生産(速報値)が年率換算で前期比12.7%減となったことがマスコミで大きく取り上げられています。
そんな時にこんなことをいうのは不謹慎なのですが、わが家はその「戦後最大の危機」がどうも実感できずにいます。
お金離れの生活が少し定着してきているからかもしれません。

不況になった最大の理由は輸出の減少だそうです。
とりわけ自動車の輸出減の影響は大きいようですが、そもそも輸出に過大に依存している経済の構造自体がおかしかったわけで、それがようやく正常化に向かいだすことになったと思えば、歓迎すべきことかもしれません。
それに、円高不況などと言うことは、私にはどう考えても理解できません。
円高とは、日本の経済が高く評価されたことだろうと、素人の私は思ってしまうのです。

いやそれ以上に、国内総生産などという概念がわかりません。
実は一昨日、娘から改めて国内総生産って何だと訊かれたのですが、経済用語辞典的な説明をしている自分に気づいて、嫌気がさしました。
どこかに書いたことがありますが、自分で家事をやれば国内総生産には反映されず、家事サービスを外注すると国内総生産に反映するなどという馬鹿げた数字は、経済学者や資本家には意味があるかもしれませんが、私のような生活者にはどうでもいい話です。
国内総生産コンプレックスから抜け出ないといけません。

問題は雇用の場が急速に縮小していることですが、実際に仕事をしないと生活が成り立たない人にとっては、それは大きな問題です。
でも、それを国内総生産などという数字で議論してほしくないものです。
国内総生産など増えなくとも、限られたお金をうまく活かしながらお互いに支え合う仕組みを育てていけば、国内総生産などという、わけのわからない数字に振り回されることはなくなります。

かなりめちゃくちゃなことを書いていて、いま仕事がなくなった人に怒られそうですが、私が言いたいのは、今の経済の仕組みや私たちの働き方や生き方を、改めて見直していく必要があるのではないかということです。
経済学者の言葉ではなく、生活の言葉で、発想していくことが、今こそ求められているように思います。
国内総生産には寄与しないかもしれませんが、生きていく上では支えになる仕事は多分たくさんあるはずです。
一昨日紹介した朝日新聞の投書の記事は、そのことを物語っています。

ちなみに、和歌山県の話は、コメントくださった人にお伝えすることができました。

■政権担当能力とは何なのか(2009年2月19日)
つい半年前まで、多くの人たちは自民党には政権担当能力があるが、民主党にはそれがないと思っていました。
新聞論調もそうでしたし、政治評論家の多くもそういう世論に異論を唱えませんでした。
民主党議員は、それに対してどう思っていたかわかりませんが、もしかしたら民主党議員もそう思っているのではないかと思うほど、そうした世論への反論はおとなしかったように思います。
このブログでも書いたことがありますが、政権与党の政権執行力と政権担当能力とは全く違うものですが、多くの政治評論家は世論のそうした混同に異を唱えることなく、世論の大きな流れに乗っていたように思います。

国会中継を何回か見ていれば、どちらに政権担当能力があるかは見えてきます。
多くの人たちは、マスコミによって編集された情報にしか触れていませんから、政治評論家の発言にはいとも簡単に誘導されます。
政治におけるポピュリズムは小泉ブームに見るように情報技術を駆使して、いまや操作可能性を高めています。

官僚の支援を受ければ、政権能力などなくても、国家運営は可能です。
自民党は、行政官僚に支援されて、自らの政権担当能力を向上させる努力をしなくてもやっていける体制をつくりあげてきたのかもしれません。
自民党政府は官僚の傀儡政権なのはないか。
ですから公務員改革などできるわけでなく、渡りなどは禁じられません。
彼らがいなければ、政権能力がないことを暴露されるからです。
そうして毎年12兆円を超える税金を官僚OBに貢がざるを得ないのです。

とまあ、これは私の妄想物語です。
しかし、何がしかのリアリティを感じてしまうのが残念なところです。

最近のわが国の政治は、まさにバラエティになってきてしまいました。
私たちも振り回されないようにしなければいけません。

■「自分に正直に、自分らしくあるように」(2009年2月20日)
来日したヒラリー・クリントンが東大の学生たちとの話し合いの中で語った言葉が印象に残りました。
「どうしたらあなたのように強くなれますか」という女子学生に応えて、「自分に正直に、自分らしくあるように」と返し、会場を沸かせたというのです。
私もテレビで、そのシーンを見ました。

「自分に正直に、自分らしくあるように」
正直に生きていれば、たしかに「こわいもの」はなく、強くなれます。
自分らしくあることに価値を置けば、だれから誹謗中傷されても気になりません。
しかし、これは簡単なことではありません。
私も、こうした生き方に心がけていますが、満足できるものではありません。

さて、そこから話がややこしくなるのですが、
麻生首相や中川前財務省は、「自分に正直に、自分らしくあるように」しているような気がします。
その点では、私などよりもよほど根性が入っているようにも思います。

「自分に正直に、自分らしくあるように」という、私の生き方は間違っていたかもしれないと、最近、ちょっと気になりだしています。
自分には見えないのかもしれませんが、私の生き方も、外から見たら、麻生さんや中川さんのように見えるのかもしれません。
なんだかゾッとします。

■小泉発言は理にかなっていないのか(2009年2月21日)
「三分の二」条項を使う場合は決議に欠席するという小泉発言が「理にかなっていない」という意見があります。
昨夜、ニュース23を見ていたら、キャスターの後藤さんまでがそう明言しました。
驚きました。
本当に理にかなっていないのでしょうか。

このブログで私は小泉元首相を犯罪者扱いするほど酷評しており、顔を見ただけで寒気が襲ってくるほど嫌いです。
八方美人の私がそれほど嫌うことはそうは多くないのですが、それほど嫌いな小泉元首相の発言であっても、この発言は理にかなっているように思います。
むしろ問題は、こうしたことを理にかなっていないと思う発想に恐ろしさを感じます。

小泉元首相(「小泉さん」と書くのに大きな抵抗があるので、常にこう書きます)は、補正予算案に賛成しました。
しかし、その案が参議院で反対されたとしたら、そこで考えが変わることはおかしな話ではありません。
誰がなんといおうと意見を変えないというのであれば、議論する必要はありません。
賛成したものが、他の場で反対を受ければ、それを踏まえて再考するところに議論の意味があります。
ニュース23の後藤さんは、再議決の意味を理解していません。
さらに民主主義の要素をこめた政治とは参加者の多様性を統合する仕組みです。
ねじれ国家の意義も、そこにこそあるわけです。
概して否定的に扱われますが、ねじれ国会は議会制度の中では正常な形なのだと思います。

参議院が反対しているのであれば、もう一度自分たちも考え直してみよう。
歩み寄る、つまり合意形成に努めよう、というのがなぜ理にかなわないのか。
それをせずに、ただ機械的に三分の二条項で、原案を可決しよう。
こういう発想こそが問題ではないかと思います。

政治を「勝ち負けの単純な構図」にしてしまったのは、レーガン以来の新自由主義信奉の政治屋たちです。
そして小泉元首相は、郵政民営化という問題で、それを真似て人気者になったわけですが、それが日本の政治を壊してしまいました。
しかし、今回の欠席発言は「理にかなっている」のではないかと思います。
自民党議員が、理にかなっていないというのはいいですが、ニュースキャスターまでがそういうようでは、マスコミがいかに権力の番犬(本来のマスコミは権力に対する番犬でしたが)に成り下がってしまったかです。
私には、ニュース23は見る価値がない番組になってしまいました。

蛇足ですが、この発言からの妄想を書き加えます。
小泉元首相はレーガンのように、利用されただけでしょうから(日本の軍国化と郵政関連資金の市場放出の目的遂行のためです)、彼を操るブレーンが周辺にいたはずです。
今回ももちろんいるのでしょうが、少しだけ人間的な常識(「理」)が感じられるのは、その管理の縛りがゆるくなったのかもしれないと思います。
それが、「理にかなう発言」になったのかもしれません。
しかし、そこからまさに「消費物としての政治家」という姿が見えてきます。

さらに、「日本の国会の本質」という姿も見えてきます。
小泉元首相は、俺の人気で三分の二体制をつくったのだから、俺の意向に反して勝手に三分の二条項を使うな、という「国会私物化」を別の発言であからさまに言っています。
官僚の傀儡政権に与えられたおもちゃが、もしかしたら国会なのかもしれません。
民主党もまた、そうしたおもちゃの装置で、馬鹿げた質問を繰り返しています。

しかしまあ、そうした「理にかなわない言動」こそが、彼らにとっては「利にかなう言動」なのでしょう。
国民にとっては、理にも利にもかなわないのが、残念です。

■リバースレバレッジ政策(2009年2月21日)
オバマ米大統領は、公的資金約7兆円を活用して住宅ローンの借り手を支援することを検討しているようです。
日本の経済対策と違い、極めて納得できる方策です。
そもそも、現在の世界不況の発祥はアメリカの住宅ローン問題でした。
私が共感できるのは、問題の構造を踏まえた現場支援政策だからです。
そういえば、今週来日したヒラリー・クリントンは、現場に耳を傾ける姿勢を強くメッセージしていました。
日本の政治家にはこうした姿勢はほとんど感じられません。

そのニュースを聞きながら、思いついたのが「レバレッジ効果の逆転」です。
この数日、考えるでもなく考えていたのですが、いい言葉もいいアイデアも見つからないので、イメージだけを書くことにしました。
「リバースレバレッジ政策」などという、消化不良な言葉しか思い浮かびませんが。

レバレッジ効果とは、要するに「てこの原理」で、わずかな資金で大きな利益を上げるために使われる仕組みなどの説明に使われます。
有名になったのは、FX取引ですが、これはいうまでもなく、わずかな資金で大きな損失を生み出す仕掛けでもあるわけです。
レバレッジ効果そのものが悪いわけではありませんが、昨今のバブル経済は、こうしたレバレッジ効果を使いすぎて、実体経済を壊しだしているわけです。

レバレッジが作動するためには、最初に加える力がなければいけません。
その最初の力と結末に関して最近意識化されたのが、レバレッジ効果とバタフライ現象です。
この二つを軸にして、経済現象や経済政策を考えると実に面白い世界が広がるわけですが、その大元に注目し、発想を逆転させることはあまり行われていないように思います。
いわゆる逆システム発想ですが、オバマのスピーチを聴いて、その発想を感じたのです。
多くの経済対策は現象に対する処方です。それが「票」になるからです。
そのため、発想の起点が現場ではなく、サプライサイド(銀行などの制度運用者)に置かれ
ます。
貧困者支援であれば、直接、貧困者に届ける方策を起点に考えますが、そうではないので、一番の貧困者であるホームレスには届かなくなるわけです。
しかし、そもそもの根本から問題を発想し、そこからレバレッジの逆発想をすれば、必要経費はケタ違いに少なくすむでしょう。
その代わり、中間に入る人たちの利益には役立ちませんが。

日本の経済政策の多くは、支援予算が現場の当事者に届く頃には大幅に減少してしまっています。
その反面、景気対策で過剰に潤う人が出てくるわけです。
オバマの住宅ローン借り手支援が、具体的にどう行われるのかはわかりませんが、仮にローン返済を3年間無償延期するというようなことにすれば、資金のほとんどは直接的に効果を発揮します。
そのための間接コストはほとんどかかりません。

レバレッジ効果の前の段階で問題解決するか、後の段階で問題解決するかで、必要な資金は大きく違ってきます。
さらに、救済資金の効果をレバレッジの仕組みで大きくパワーアップしたら、現在のような巨額な資金など投入せずとも問題は収束できるはずです。
金融工学の専門家たちなら、そのくらいのことは朝飯前のことではないでしょうか。
発想を変えれば、金融工学者も社会に少しは役立てるはずだと思います。
どなたかいかがでしょうか。
そろそろお金の側ではなく、人間の側での金融工学に戻ってほしいものです。

■生産とは価値を創ることではなく、儲けを増やすことでしょうか(2009年2月22日)
昨日、NHKの「週間こどもニュース」を見ました。
時々、見るのですが、昨日は冒頭に「GDP」の説明がありました。
その説明のしかたがちょっと気になりました。
子どもたち(役)にお父さん(役)が説明するというかたちなのですが、お父さんは働いた成果を「儲け」と言う表現をし、その「儲け」の合計が「GDP」だと説明しました。
「売り上げ」と「儲け」を混同しているのが気になったわけです。

以前、「オープンブック・マネジメント」という本を翻訳したことがありますが、そこに「会社の従業員は売り上げと利益を混同し、売り上げの割には給料が安いと思いがちだから、会社のお金の動きをみんなに公開するのがいい」というような話があったのを思い出しました。
「GDP」の計算方法を、私は知りませんが、生産高と売上高、利益高は全く別のものです。

数日前にやはりテレビのニュースで、大田区の中小企業の経営者が、せっかく製造した機械部品が売れなくて在庫になっている山の前で、売れれば商品だが売れなければただのゴミ、と嘆いていました。
これは実に象徴的な話です。

セブンイレブン本部が、売れ残りそうになった弁当を値下げして売ろうとした加盟店の行為をやめさせたことが不正取引行為ではないかと問題にされています。
売れ残れば廃棄されますが、安くても売れればゴミにはなりません。
食べ物をゴミにするのは良くないとキャスターは話していました。

働いた成果は「儲け」ではなく、「価値」と考えたいですね。
その「価値」をむざむざゴミにはしたくない。
そうした経済原理が、昨今は極めておろそかになっています。
その出発点が、子どもたちへの教育になるような気がしてなりません。
私たちも、そう育てられてきたのでしょうか。

まだものが不足していた時代には、モノへの感謝の気持ちがありました。
「いただきます」「ごちそうさま」の経済が基本でした。
しかし、今はゴミを増やすことが経済を活性化するような時代になってしまいました。
生産とは価値を創ることではなく、儲けを増やすことなのです。
ゴミを増やすことで儲けは増えていきます。
それが今の経済の基本構造になってしまったような気がします。

以前、「儲け型経済から稼ぎ型経済へ」のことを書いたことがあります。
そこに「暮らし型経済」のことも書きましたが、できたらその記事を読んでもらえるとうれしいです。
ちなみに、わが家の数少ない自慢は、「暮らし型経済」を目指していることです。
これは、今は亡き妻の残してくれた文化です。

■日本の政治にデモクラシーはあるのか
(2009年2月23日)
デモクラシーをどう定義するかは、そう自明のことではありませんが、私は「多様な意見が社会を豊かにしていく社会原理」と考えています。
リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」がよく引き出されますが、そのアメリカ政府は、アメリカンネイティブを「人民」と考えずに殺戮していました。
そのアメリカで、黒人の大統領が出現したことの意味は、私自身まだうまく理解できずにいますが、まあ、話をもう少し限定して、日本の政治状況に関していっても、政府が「国民」をどう考えているのかは、関心のあるところです。

今の日本政府は麻生首相に乗っ取られてしまっています。
完了による傀儡政権としても、個人が乗っ取ってしまうことができる政治体制はどこかに欠陥があります。
政府与党の自民党が選挙タレント集団に成り下がっていなければ、あるいは、ジャーナリズムが大政翼賛会的な存在になっていなければ、どうにかなったのかもしれませんが、今はもう麻生首相は好き勝手をやっていますが、誰も止められません。
どれほどの税金が浪費されるか知れたものではないですし、領土まで外国にあげてしまうことだって、ありえるところがすごいです。
自民党議員が麻生批判をしていますが、批判ではなく行動すれば事態は変わるでしょうが、そうはなりません。
現在の自民党議員は、みんな「小麻生」でしかありません。

デモクラシーは自己修正的過程を内在させているシステムです。
多様な意見による議論で意見が変わっていきます。
同じ意見の人だけではデモクラシーは意味を持ちません。
多様な意見の討議にこそ、社会の豊かさを高める鍵があるというのが、デモクラシーの価値です。
合意形成のための手段ではなく、討議を通して多様性が役割分担しながら社会を豊かにしていきます。
多数決による意思決定は、デモクラシーにとっては瑣末な話です。
ですから、ねじれ国会は価値のあることなのです。
それを否定的に評価するのはファシズム思考につながる発想です。
三分の二条項による再可決もまた、ファシズム思考にほかなりません。
多数派の支配は、「人民」の内部社会でさえ「人民のため」には値しないでしょう。

政治学者の齋藤純一さんは、自己修正機能が作動するデモクラシーの要件として、「非排除性」と「特権化の禁止」をあげています。
アメリカンネイティブを排除したところには、デモクラシーは成り立ちません。
他者のことを考えずに自己を守れる特権者が存在する状況もまた、デモクラシーとしては欠陥があります。

現在の日本はどうでしょうか。
「非排除性」「特権化の禁止」、いずれも成立していません。
ヨーロッパと違い、日本やアメリカでは、「社会的排除」はあまり大きな問題にはなりませんし、特権化にいたっては、麻生首相に象徴されているように、暴走を止める仕組みはありません。
暴走を止める人もいません。同じ体質で発想しているからです。
日本郵政事件や公務員の不正事件、あるいは企業不祥事など、日本のこの数年の動きは、「非排除性」「特権化の禁止」とは逆ベクトルで動いてきました。
つまりデモクラシーを壊してきたのです。
ブラックボックスの中での民営化とか新自由主義とは、そういうことでしょう。

日本人がワーカーホリック的なライフスタイルになり、女性までもが「社会進出」の心地よいスローガンで企業に駆り出されたことで、政治への関心を失い、その一方で政治が一部の人たちに世襲的に独占されてきたのは、それを構想した意思がどこかにあったのではないか、と思いたくなるほど、整合性が取れています。
会社を辞めて以来、テレビで国会中継を見る時間ができましたが、私の周りの人たちは、政治をきちんと監視することはなく、マスコミの情報で床屋談義をする程度です。
まあ、私もそれに近いのですが、これではデモクラシーなどは夢のまた夢です。

ハーバーマスは、正義を目指す政治文化と善を目指す生活文化を区別していますが、せめて生活文化においては「自らが善いと思うこと」を大事にして、汗をかいていかねばいけないと、最近改めて痛感しだしています。

■言説の政治と実体の行政(2009年2月25日)
最近の政治は言説ごっこの様相を強めています。
言説を武器にするマスメディアに依存する政治になっているわけです。
劇場政治という言葉もありますが、派手な劇場演技だけではなく、実体ではなく言説が権力の所在を決めていきます。
そしてその権力を利用しながら、行政の実体が着々と、あるいは遅々と進められていくわけです。

政治は誰のためにあるのかは、そう簡単な話ではありません。
リンカーンを尊敬しているというオバマにとっての「人民」とはだれなのか気になりますが、政治は「人民」の部外者を生み出すことによって、求心力を高めてきました。
その「部外者」を見えなくするのが、言説の政治です。
「公務員改革」は言われだしてもう数十年ですが、実体はむしろ悪化しています。
「言説」と「実体」が反比例の関係にあることは、よくある話です。

政治家の発言を、その都度、取り上げていたら、それだけで政治は何もせずとも話題には事欠かず、いろんな議論が行われるでしょう。
しかし、そうした議論は、実体を覆い隠すだけで、何も変える力にはならないでしょう。
言説がにぎやかになればなるほど、行政は勝手気ままに動けるはずです。

年金の支給額の間違いが判明してもなお、支給実行しない行政官僚に何もできずに手をこまねいている政治家たちの言説とは一体何なのか。
怒りをぶちまけても何ができない言説だけのジャーナリズとは一体何なのか。

政治家の言葉の話題は、退屈でしかありません。
なにかもっと大切なものがあるのではないかと思いますが、自分の知の枠組みでしか事実は見えてこないのです。
事実をきちんと見せてくれるジャーナリズムがいなくなってしまったのでしょうか。
何も議論しない国会審議、何も報道しない報道番組には辟易します。
その背後で、行政は着実に税金を無駄遣いしながら、社会を壊しているような気がしてなりません。

■謝罪は自らに向けられた言葉(2009年2月27日)
やはりまた中谷巌さんのことを書くことにしました。
決して個人的な恨みなどなく、面識さえないのですが。
26日に中谷さんは大阪で講演し、「グローバル資本主義によって、日本の良さがどんどん壊されている」と話したそうです。
中谷さんに関しては前にも書きましたが、かつての新自由主義的な自説を懺悔し、話題になった経済学者です。

「いかなる過去への謝罪も、傷つけられた者や遺族たちが、集団として、現在もなお苦しみ続けているかぎり意味をなさない」。
ノーマ・フィールドの「戦争と謝罪」に出てくる一節です。
ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた、日本近代文化の研究者です。
昭和天皇が亡くなった後、彼女のルポ「天皇の逝く国で」が出版され、話題になった人です。
中谷さんの講演の報道を読みながら、この言葉を思い出しました。
この言葉は、日本の戦争責任に関するメッセージですが、企業不祥事にしろ刑事事件にしろ、あるいは行政に作為/不作為による事件にしろ、謝罪する人の姿をテレビで見る度に思い出します。
「謝罪」は、現状を変え、未来への働きかけがあればこそ、意味がありますが、謝罪だけでは何の意味もありません。
謝罪は、過去に向けられた言葉ではなく、未来に向けられた言葉なのです。
そして、相手に向けられた言葉ではなく、自らに向けられた言葉でもあります。

今日は雪が降っています。
格差社会の中で、居場所を失った人たちには無常な雪です。

■経済指標に振り回されていては事態はかわりません(2009年2月27日)
今日、発表された経済指標は「戦後最悪のペースで景気後退が進む現状」を示しているとマスメディアは報じています。
鉱工業生産指数は前月比10%の減少だそうです。

景気後退で、生活さえ壊されている人たちがたくさん出ている中で、こんなことを書くのは不謹慎かもしれませんが、だからこそ書いておきたいと思って、書くことにしました。
昨日も、ある人から、佐藤さんは自宅もあって生活が安定しているから、そういうことがいえるのではないかと指摘されましたが、まさにそうなのです。
しかし、こうなるためには、20年かけてライフスタイルを変えてきた結果でもあるのです。

ホームページ(CWSコモンズ)を書き出した年に、「今が不況だ、などと考えることをそろそろやめましょう」というタイトルのメッセージを出しました。
2002年2月10日のことです。
当時はバブルがはじけた状況で景気は停滞していたのですが、むしろ今は正常なのではないかと書いたのです。
よかったら読んでください。タイトルをクリックすると記事が出てきます。

この記事に、知り合いのエコノミストが批判してきました。
当時はまだ私もエコノミストの人たちといろいろと付き合いがありました。
私は経済をわかっていないといわれました。
まあ、それは事実なのですが。

っしかし、すでにその時点で、需要を大幅に上回る生産能力が日本にはあったのです。
その時点で「数量的な生産増を主軸にする成長戦略」は見直すべきでした。
しかし、当時を「不況」と考えた企業やエコノミストは、それまでと同じく、需要を増加させる方法を考え続けてきました。
それはそう難しいことではないのです。
世界中にお金をばら撒けばいいのです。
そこで金融工学者たちの錬金術がもてはやされました。
それに呼応した企業が、たとえばトヨタです。
トヨタの経営者には経営ということが全くわかっていなかったのです。
そうでなければ、これほどの大幅な減産などという事態にはならなかったでしょう。
経営不在といわれても仕方がないと、私は思います。
それを主導した人たちが、財界の中心になるのもこの間の事情を象徴しています。

生活の基盤を奪われた人たちの当面の生活支援は重要です。
しかし発想は変えなければいけません。
今でも、思い切って生き方を変えれば、企業に頼らなくても、いろいろな方法はあるはずです。

数字を使って「景気が悪いからがまんしろ」「そのうちまた不況から脱出できる」などという「アメとムチ」にだまされてはいけません。
2002年の不況を脱出して、戦後最長の好況になって、なにか「暮らしやすく」なったことはあるでしょうか。
不況や好況などというエコノミストの数字のまやかしは、生活とはあまり縁がないはずです。
そんな数字に振り回されるような生活からは、時間をかけて抜け出たいものです。
たぶん20〜30年はかかるでしょうが、そうしたビジョンに基づいた大きな経済政策が構想される時代ではないかと思います。

国民は経済のための労働力ではなく、生活者なのです。
それを忘れてはいけません。

■「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」(2009年3月1日)
昨日、「時効」制度の撤廃・停止を求めて、「殺人事件被害者遺族の会」(通称「宙(そら)の会」)が結成され、記者会見が行われました。
刑事事件でいえば、一定の期間が過ぎると容疑者がわかっても起訴できなくなるのが「時効」制度です。
私も、時効制度には大きな違和感があります。
社会状況や法の意味合いが変わってきたにも関わらず、相変わらず法論理は旧来の発想から抜け出ていないような気がします。

新聞報道によれば、会員は、制度の存続理由の一つとされる「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」という考え方を否定しているそうです。
私が、今回興味を持ったのはそのことです。
「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」
だれがそう言ったのでしょうか。
当事者ではない人が考えた「論理演算」としか思えません。

私は1年半前に、妻を病気で見送りました。
「時間が癒してくれる」などいう人がいますが、当事者でもないのに、なぜそんなことがいえるのでしょうか。
アーレントは「意見や行為は代表されたり委任されえない」といっていますが、ましてや個人の経験や感情は誰かにわかるはずもありません。

時効制度は、権力者の暴力から人々を守るための制度の一つであり、時間の経過が事実認定を難しくすることによって「冤罪」が起こることを避けるためのものだったのではないかと思います。
法に限らず、制度には必ず、「意図」や「理由」がありますが、それら波立場や状況によって変わってきます。
事実認定を難しくするという点では、今回も指摘されているように、DNA判定などのより時間がたっても事実を証明することが出来るようになったこともあります。
また権力者の暴力という点でも状況はかなり変わってきました。
冤罪は今なお決してなくなったわけではありませんが、裁判の透明性を高めればかなり減らすことが出来るでしょう。
残念ながらいまの「司法改革」はそういう方向に向いていませんが、それがもっと徹底されれば、冤罪という司法の犯罪は減らせるはずです。

刑法の基本的な位置づけや意味合いが全く変わってきているにもかかわらず、権力に仕える法曹界は発想を変えていません。
時効制度にしろ、死刑制度にしろ、あるいは保釈制度にしろ、量刑原理にしろ、向いているベクトルの方向が間違っているような気がします。
それを見直すには、「革命」が必要なのかもしれませんが、せめて時効制くらいは根本から見直していってもいいように思います。
どう考えても、いまの時効制度は素直な常識に合致しません。
常識に合わない制度は、やはりどこかに問題があるのです。
その問題をきっちりと見直していけば、法律のおかしさや司法制度の問題も見えてくるように思います。
「殺人事件被害者遺族の会」の主張に共感するとともに、殺人事件のみならず、時効制度全体(商事や民事も含めて)の見直しの必要性を感じます。

■「生きるための経済学」(ビオ経済学)(2009年3月2日)
とても刺激的な本を読みました。
安冨歩さんの「生きるための経済学」(NHKブックス)です。
書き出しは、今の経済学は物理学の原理に反していると指摘します。
そしていろいろと刺激的な議論が展開され、要するに今の経済学は、人類のみならず、すべての生態系を破壊する「死の経済学」(ネクロフィリア・エコノミー:ネクロ経済学)だというのです。
マクロ経済学でもミクロ経済学でもない、ネクロ経済学です。
その経済学から抜け出て、生を目指す「生きるための経済学」(ビオフィリア・エコノミー:ビオ経済学)に取り組まなければいけないというのです。
そのためには、創発的コミュニケーションを通じて価値が生み出され、それが人々に分配されるようにしなければいけないという処方箋は、とても共感できます。

これだけでは内容がうまく伝わらないでしょうが、私にとっては実に納得できる本でした。
しかし、この著者は「常人」とは言いがたく、かなりダメッジを受けてきているようです。
どういうダメッジかについても、あっけらかんと語っています。
半分は共感できますが、半分は違和感がありますが。
自分のことだけではなく、その「怒り」がアダム・スミスにまで言及するのはいささか異論はありますが、実に素直に書いていますので嫌味はありません。
私と同じタイプかもしれないというのは僭越ですが、親しみを感じます。
でもまあ、あんまり友だちにはなりたいとは思いませんが。

私にとっては、しかし初めて理念のところで共感できる経済学の本でした。
いや、経済学の本とはいえませんね。
家族論、人生論、まあ何の本かはよくわかりませんが、基調になっているのはフロムかもしれません。

文中、とても我田引水的に納得できる文章がありました。
「自立とは、多数の他者に依存できる状態をいう。
いつでも頼れる人が100人ほどいれば、誰にも隷属しないでいられる。」
この文章に従えば、私はかなり「自立」しています。
誤解もありますが、私には困ったら助けてくれるだろう友人がたくさんいるのです。
そう思い込んでいるので、あえて「自立」しなくてもいいと思っているのですが、この本によれば、それこそが「自立」なのです。
もっとも、私の友人がいざとなったら私を支えてくれる保証は皆無です。
大切なのは、その事実ではなく、私がそう思い込めていることなのです。
私は勘違いの多い人間ですから、事実でない確率のほうが圧倒的に高いでしょうが、まあそんなことは瑣末な話です。

これ以外にも、「目からうろこ」の示唆がたくさんあります。
昨今の社会にいささかの違和感をお持ちの方、お暇だったら読んでみてください。
面白さは保証しません。私の勘違いかもしれませんので。

■「陰謀の横行」の疑惑(2009年3月3日)
西松建設の不正裏金事件に絡んで、民主党の小沢党首の個人事務所への強制捜査が行われました。
民主党の鳩山幹事長は、「陰謀のにおい」を表明していました。
私も、報道に接して最初にイメージしたのは、「政府の陰謀」です。
今に始まったことではありませんが、国民の目を他にそらすのは権力者の常套手段です。
この時期に、こうしたことを行うことの「政治的意味」は大きいです。
政府、その後ろにいる官僚、さらにその背後にいるアメリカ資本は、保身のために国民の利益など全く関係はないのでしょうか。

いまこの時期になぜか、大きな疑惑を感じます。
日本の検察は、やはり権力のためにあるような失望を感じます。
これでまた、国民の利益の回復は大きく遅れたような気もします。

それにしても、この15年ほどの日本は「陰謀の横行」が目に余るように思います。
いよいよアメリカに似てきたのかもしれません。
まあ、これは私の「妄想」かもしれませんが。

念のためにいえば、小沢事務所に不正があったかなかったかは、私にはわかりません。
私が不審に思っているのは、なぜ「この時期」に「小沢さん」なのかです。
権力に抗するものは、いつもつぶされるのかもしれません。
権力に自信がないときだけかもしれませんが。

この記事は、後で書いたことを後悔するかもしれませんし、また嫌がらせメールが来るでしょうが、ともかく素直な第一印象を書いておきます。

■「景気浮揚のための無駄遣い」のすすめのおぞましさ(2009年3月4日)
定額給付金がいよいよ配布されだしそうです。
受け取りを表明した麻生首相は、景気浮揚のために受け取って、奥さんと相談して何に使うかを考える、と答えていました。
そういう答を聞くと、いつも「定額給付金」をもらわなくても、お金は使えるだろうにと思います。
同時に、そんな無駄遣いをするんだったら、そのお金を直接、不況に直面している企業や働く人たちのための基金として、困っている人の活動支援に提供すればいいのにと思います。

「貧者の銀行」と呼ばれるグラミン銀行のムハマド・ユヌスは、「施しは、彼らを堕落させるだけだ」といいますが、現下のような厳しい状況にあっては、わずかの資金で救われる人も多いのです。
中小企業や目先の生活に窮する人を緊急避難的に支援する基金にして、直接提供したほうが、景気対策にもなるはずです。
彼らは決して無駄遣いなどせずに、正統的な消費に資金を回しますから、持続的で堅実な経済効果があるでしょう。

お金の回転を加速させることで経済が活性化するのは、経済学の教科書に書いていますが、そこには時間軸がありませんし、消費の性格も吟味されていませんから、現実的な効果はあやしいものです。
地元で不要なものを購入して、果たして効果的な景気浮揚策になるかどうかは、疑問どころか、全く無意味としかいえません。
あんまり困っていない人が、儲けるだけの話です。
すでにそうやって儲けだしている人は少なくありません。
全く無駄な資源の浪費です。
それで浮揚する経済活動は、不要の経済活動でしかないでしょう。

それに、無駄遣いを奨励することが、どれほどの影響を与えることになるのか。
消費を金科玉条に掲げてきた金銭主義者には好ましいことかもしれませんが、持続可能性が議論されているこれからの経済を考えると、禍根を残すことになるでしょう。

今日は日本の経済観念が壊された日として記憶されるべき日かもしれません。
昨日の小沢事務所強制捜査事件とつながっているように思えてなりません。
2兆円と2億円と、その差はあまりにも大きいですが。

■小沢さんと二階さんの違いは何なのか(2009年3月6日)
同じ行為をやっても、権力側にいれば問われることなく、権力に楯突く側にいれば過剰に犯罪に仕上げられる・
これは国家のもつ、本性のひとつです。
国家だけではなく、権力を組織原理とする組織であれば、よくある話です。
それはまあいいでしょう。
秩序維持を最優先する組織とはそういうものですから。

陸山会に寄付していた政治団体の後ろに西松建設がいたことなどは、おそらくだれでも知っていたはずです。
小沢さんも二階さんも知っていたでしょう。
ですが、それと手続き論とは違います。
いわゆる「建前」と「実質」の違いです。
そうした「建前」と「実質」のずれは、おそらくほとんどどこにでもあります。

先の戦争の直後、食料不足の中で、米穀の闇取引で飢えをしのがないといけない時に、ある検事は一切の不正行為を家族に禁じたために餓死してしまったという話がありました。
本当かどうか知りませんが。
餓死してまでも守るべき法律はおかしいのです。
もちろん、そうして餓死した人の生き方は否定すべきではありません。
それは個人の生き方の問題ですから。
しかし、法律は、よく読めばかなり解釈の余地があるものです。
しかもその法の適用は、さらに多義的です。
スピード違反の自動車がすべて逮捕されるわけではありません。
時に恣意的に思えるほど、適用側の裁量に任されているのです。
特に日本の社会を支配するのは、西欧のような倫理的な責任原理ではなく、むしろ実用的な抑制原理です。
幅が大きければ大きいほど、抑制効果は発揮できます。
つまり、そうした解釈や運用の「幅」が、権力側、あるいは統治する側にとっては「交渉力」になります。
言い換えれば「利益の源泉」になるのです。
そして、今回はそれが見事に発揮されました。
これが私の今回の事件を知ったときの第一印象でした。
特捜チームが小沢事務所に入っていく風景が何回もテレビで流されましたが、あの種の風景にはいつも権力の卑しさを感じます。
歩き方から、権力をかさに来ている心情が伝わってきます。
そこには人間の表情がありません。
よくまあ当人たちは恥ずかしくないものだといつも思います。

検察の立場でなければ犯罪として罰せられる行為も、検察であればこそ見逃されることもあります。
それがひどすぎるときは、冤罪として罰せられますが、個人が罰せられることはほとんどないでしょう。
検察はいつも組織であって、個人ではないからです。
成功した時だけ、個人の成果になります。
そして有名人になります。
私が一番嫌いなことですが、そんな気がします。
しかし、問い正されるほうは、いつも「個人」です。
しかも一度疑惑の対象になると、その時点で回復不能なダメッジを受けることになります。

とても不思議なのですが、自民党の議員はみんなこう言っています。
「違法ではないがお金は返します」
そういうのであれば、小沢さんの秘書も「違法ではない」と弁護してやればいいのにと私は思いますし、返金する理由は何なのか明確に説明すべきです。
しかしそうしたことは問い正されません。

民主党議員の中にも、前原さんのような隠れ自民党議員がいますので、彼らがたぶん民主党のまとまりを壊していくでしょうが、誰と誰が戦っているのかの基本構造を見誤らないようにしないといけません。
現在の構造的問題の本質が、そこにあるように思います。
よく言われることですが、小沢さんへの嫌疑で誰が得をしているかです。
少なくとも国民ではないように思います。

税金の無駄遣いで、麻生首相こそを告発すべきではなかったかと私は思いますが、まあそれはあまりにも主観的ですね。
しかし国民の被害額は、どちらが大きいかは微妙な気がします。

■ファノンの法則(2009年3月7日)
小沢さんの秘書逮捕事件以来の、この時評は、いささか感情論に陥っていて、独善的過ぎるかと思いますが、もう一度だけ続けてしまいます。

アルジェリア独立戦争に参加したフランツ・ファノンは、支配される者同士の激しい暴力のぶつけ合いは、実は彼らを支配している者から加えられる暴力が原因だ、と指摘しています。
何かを支配する場合、相手と戦ってはいけません。
それは自らを消耗させることであり、持続できないでしょう。
持続的に支配するためには、つまり安定した支配構造は、戦いあう構造を支配するものの中につくりだすことなのです。
暴力が果てしない報復を生み、本来は仲間であるはずのもの同士が憎しみをぶつけ合うようになれば、真の問題が見えなくなってしまいます。
それによってはじめて、支配は安定するわけです。

このファノンの法則にしたがって世界を見ると、さまざまな現象の背後にある真実が見えてきます。
戦っているもの同士は、実は戦っているのではなく、戦わせられていることがわかります。
しかし、戦いに目を奪われている当事者は、そのことにはまず気づきません。
こどもたちの「いじめの構造」も、これがまさに当てはまります。
おそらくDVもそうでしょう。

戦いの構図だけではありません。
秩序の構造においても当てはまります。
報道においても、こうした構図が色濃く出ています。
テレビなどのキャスターの言動など見ていると、面白いほどにそれが良く見えてきます。
みのもんたさんがその典型ですが、要するに「弱いものいじめ」が得意です。
そして、世論もまた「弱いもの」いじめが大好きです。
判官びいきの文化はなくなりました。
日本も次第に一神教の文化になってきたのかもしれません。
近代の文化には、見事なほどに一神教の文化が埋め込まれていますから。

権力に楯突く側を一番強く攻めるのは、実は権力によって押さえ込まれている人たちなのです。
今回の小沢代表秘書逮捕に関しても同様な風景が広まっています。
ですから、現象ではなく、その奥にある問題の構造に気づくことが大切なのです。
まあしかし、気づけばどうなるかですが、胃が痛くなるだけかもしれませんし、自分の無力さにさいなまれるだけかもしれません。
最悪の場合は、人嫌いになってきます。
困ったものです。

■「人の幸せは自分の幸せ」(2009年3月9日)
昨日、ぐんまNPO協議会の集まりに参加させてもらいました。
そこでお2人の方からとてもうれしいお話を聞かせてもらいました。

おひとりは会社を定年退職された後、病院などで患者さんに楽しんでもらう活動を始めたのだそうです。
最初は、果たしてみんな喜んでくれているのだろうか、とても心配だったそうです。
ところがある人から、相手を楽しませるのではなく、自分が楽しむことが大切だといわれたのだそうです。
それ以来、気が楽になり、その活動がとても楽しくなったそうです。
もちろんみんなも楽しんでいることが伝わってくるようになったでしょう。

もうおひとりはこれまで13年間、カンボジアの学校の改築活動をされている方です。
ご自分で会社をやっているため、年金は生活には必要ないので、もらった年金を投入して、この活動を続けているのだそうです。
13年前には300万円あれば、校舎が改築できたそうです。
今は500万円かかるそうですが。
毎年1校が目標だそうです。
最初は、カンボジアの子供たちのためと考えていたそうですが、ある時に、これは自分のためなのだと気づいたそうです。
そこからますます楽しくなり、13年も続いてきたのです。
今では仲間も増え、NPOの代表も別の人がやっていますが、その人も含めて、お二人ともとても幸せそうでした。

「人の幸せは自分の幸せ」
私もそんな話をさせてもらったのですが、実際に活動されている方たちは、そんなことなどよくわかっているのです。
しかも心身で実感しています。
NPOの中間組織の人や行政のNPO支援部署の人たちとの温度差をいつも感じますが、「人の幸せは自分の幸せ」だと気づく人が増えてくれば、きっともっと住みやすい社会になっていくでしょう。
しかし、まだ現実は、「人の不幸が自分の幸せ」と勘違いしている人も少なくないのが残念です。

■やっぱりどこかおかしいように思います(2009年3月13日)
不法滞在で問題になっていたカルデロン一家は、結局、両親が帰国しなければいけないことになりました。
法理論的には合理的な判断なのかもしれませんが、どうにもやりきれない気持ちです。
森法務大臣は、子どもの利益も十分考えた温情溢れる処置だといっていますが、13歳のこどもが異国で両親と引き離されてしまうのは心痛みます。
温情などという言葉は使ってほしくないです。
親が不法入国したのが悪いというのは簡単ですが、10年以上も見逃しておいたのはどう解釈すればいいでしょうか。

家族を引き離す国家。
家族を引き離す社会。
そのメッセージがどれほどの影響を人々に与えるものでしょうか。
日本では家族が大事にされなくなってからもうかなりの時間がたちますが、こうも生々しく映像として何回も見せられると、国家とは一体何なのだろうかと思わざるを得ません。
勝手に国境をつくったのも国家ですし、労働力不足になれば海外から人を呼び込むのも国家です。
そして、労働力があまりだすと追い出すのも国家です。

国家が国民の生活を守ってくれるかといえば、決してそうではありません。
国家が国民を「棄民」するのは、昔も今も変わりません。
そういう国家の本質が、こうした事件には象徴されています。
アミネ事件もそうでしたが、状況はあいかわらずご都合主義です。
もし鳩山総務大臣が法務大臣だったらどうなっていたでしょうか。
日本郵政告発で見せているような「生活者の常識」を発揮すれば、結果は変わったかもしれません。

もちろん今回の結論が間違っているかどうかは、私にはわかりません。
ただ印象として「家族軽視」のメッセージが強く出されていることに不安を感じるのです。
前にも書きましたが、問題はカルデロン一家だけの話ではありません。
私たち家族が今や「風前の灯」のような状況に置かれていることがとても心配です。

こうした「やっぱりおかしいな」と思うことが、最近はたくさんあります。
ですから私自身もかなり麻痺してきました。
それに、おかしいと思いながらも何もしようとしなくなっている自分も「やっぱりおかしい」と思い出しています。
みんながそうなってくると、きっと「おかしいことも」が当然のことになっていくのでしょうね。
そして、企業の場合は不祥事なって企業が倒産してしまうわけです。
国家の場合はどうなるのでしょうか。
国家が倒産すると、住みにくくなるのでしょうか。
それとも住みやすくなるのでしょうか。

■緊張感のない毎日(2009年3月13日)
政治的にも経済的にも大変な状況なのに、なぜか緊張感のない毎日です。
政治も経済も、瑣末な話ばかりがニュースになっています。
結局、今はあんまり大変ではないのでしょうか。

先週、南紀白浜の三段壁で自殺防止活動に取り組んでいる人から、今日は2人の人を保護しましたとメールをもらいましたが、そうした現場では今の社会の実相を感ずることができるのでしょうが、どうもマスコミからは深刻感が伝わってきません。

定額給付金をもらった人が、テレビカメラに向かって、刺身を買って食べた、1万円なんかすぐなくなってしまった、と話していましたが、今日の生活をどうするかに直面している人の気持ちは逆なでされるのではないかと心配になりました。
私でもいやな気分でした。
1万円あれば、3人家族の我が家では1週間の食事が十分に賄えるでしょう。

政治は相変わらず小沢さんと西松建設の話題です。
検察はさすがに気が引けたのか、自民党議員に対して形だけの捜査を行いましたが、相変わらずターゲットは小沢さんですし、マスコミはほとんどがそれに迎合しています。
報道ステーションの古館さんは、果敢に抵抗していますが、彼にもかなりの圧力がかかっているでしょう。
どこまで持ちこたえるかは、日本のジャーナリズムのこれからに大きく関わっています。

小沢さんが西松建設をはじめとしたゼネコンと関係があったことを否定するつもりは全くありません。
関係があったに違いありませんし、小沢さんの古い政治体質を肯定するつもりも全くありません。
しかし卑劣な権力のやり方と権力に尻尾を振るマスコミには虫唾がはしります。
寄ってたかって不二家を追い詰めのとは違うかもしれませんが、手のひらを返したようなキャスターやコメンテーターの発言には、気が萎えてしまいます。
それに、小沢さんのそうした体質や行動を知りながら、自分たちの代表にしていた民主党議員の、いまさらの小沢批判にも不快感があります。
マスコミは民主党が壊れだすのをなぜかあおっています。
マスコミは、要するに問題が広がれば広がるほど、いいからでしょう。

毎日、とてもやりきれない気持ちです。
それにしても、緊張感がありません。
どこかに間違いがありそうですね。

■「対立」から価値を創発させる第三者の役割(2009年3月14日)
先日、東京で行われたあるシンポジウムに参加した人たちと会ったら、NPOの人たちはとてもいい活動をしてくれているのだが、現場で活動している自分たちにはどうも違和感があると嘆いていました。
その言い方の後ろに、たくさんの思いがあるのを感じて、改めて当事者たちの活動を外部から支援することの難しさを感じました。

多くの場合、現場外の活動をしている人たちも、善意で真剣に取り組んでいますから、良い関係ができるといいのですが、おそらく現場で見える風景とマクロ的な見地から見えてくる風景はかなり違っているのでしょう。
だからこそ、それぞれの取り組みに価値があるわけですが、そのつながり方が難しいようです。
どうしても現場よりも、マクロ的に活動するほうが大きな力を得やすいからです。
現場をどう支援できるのかが、マクロ的に活動する人の基本姿勢でなければいけません。
それさえ忘れなければ、マクロ的な視点での活動は、必ず現場を力づけることになるでしょう。

しかし、時に現場の人たちを邪魔したりすることも起こります。
たとえば、都立七生養護学校「こころとからだの学習」事件です。
新聞でもかなり大きくとりあげられましたので、ご存知の方が多いと思いますが、知的障がいを持つ子どもたちの養護学校で教員たちが創意工夫を積み重ねて行っていた性教育の実践が、東京都の都議会議員や教育委員会の介入によって壊滅に追い込まれ、教員が大量処分されたという事件です。
詳細については、「こころとからだの学習」裁判支援サイトをご覧ください。
http://kokokara.org/
この事件については、私自身はあまり関心をもっていなかったのですが、友人から話を聞かされて、その意味を改めて考えさせられました。
私が一番残念だったのは、都議会議員の言動ではなく、その際にも同席していた教育委員会のその後の行動です。
新聞によれば議員の攻撃が起こる前までは、七生養護学校の事例は高く評価されており、東京都教育委員会でも、そこの教員を講師に招く研修会も開いていたそうです。
議員の介入が行われた後は、態度が一変したといいます。
現場の人たちが営々と築き上げてきたものを「権威ある部外者」が壊してしまうことは少なくありません。
そして、それを守る人が最近はめっきり少なくなってしまいました。

ゼロか100か。
「権力ある人」が、ある判断をすると、とたんにみんな言動を豹変させる状況が急速に社会を覆いだしています。
いずれの側に対しても、当事者とは違った視点で評価できる「第三者」がますます必要になってきているように思いますが、そうした「第三者」がいなくなりだしているのです。
それでは社会はもろくなってしまいます。
社会をもろくしないためには、第三者の存在を大事にしていくことが大切です。

これからはそうした「対立」をつなぎ、そこから新しい価値を「創発」する存在を増やしていかねばなりません。
そういう人こそが、これからの時代を造りだしていく人だろうと思います。

■ベンジャミン・バーバーの市民観(2009年3月16日)
「労働から価値をしぼりとる長い期間が続いたため、民主主義をこっそりと盗まれ、姿が見えなくなっていた市民」
市民社会に関して示唆に富む論考を展開しているベンジャミン・バーバーは、国家と企業の狭間で、市民社会を創出していくためにはどうすればいいかをテーマにした著書「<私たち>の場所」で、こういう表現を使っています。
そして、そうした市民が、会社を退職し、自らのための人生を回復した時に、民主主義はようやく彼らを、その担い手として迎えられるのだというのです。
市民社会の主役になれるのは、経済資本への貢献を期待されている人たちではなく、むしろそうした世界からはもはや「必要とされていない」人たちだというわけです。
この視点に立てば、国家や企業に仕えている人たちは、市民社会の担い手ではないことになります。
逆に、シャドーワークの担い手である主婦(主夫)や企業を退職した(解雇された)人たちこそが市民社会を創出していく可能性を持っているというのです。
私が昔から持っていた思いに重なっています。
そうした思いから、私は安直な「女性の社会進出」論には批判的ですし、最近でいえば「女性活用」論にも違和感を持っています。
子供や学生たちはどうでしょうか。
いまや彼らもまた学校や教育産業に取り込まれてしまい、「経済資本への貢献」メンバーになってしまいました。
若い女性たちは携帯電話とブランドファッションに飼われだしているので、これまた民主主義や市民社会には無縁になってきています。
麻生人気や小泉人気は、そうした人たちが支えているように思います。

まただんだん言葉が走りすぎてきましたので、戻しましょう。
「生涯現役」ということがありますが、以上の視点から言い換えれば「生涯隷属」というような意味あいをもっています。
いささか表現がきついですが、要するに視点を変えるとさまざまなものの意味が反転するということです。

政治に関する最近の世論調査を見て、いつも感ずるのは、この数字の意味は一体何なのだろうかということです。
隷属者の意見と主体性を持った市民の意見とは、多くの場合、対立します。
それを足したところで、何の意味があるのかと思うわけです。

国家や企業を支える存在と社会を支える存在の分断は、どこかで逆転するのでしょうか。
最近の私の人間嫌いは、こうしたところに一因があります。

4月19日に、「NPO活動がはぐくむ市民性」をテーマに討議型フォーラムを開催します。
よかったらご参加ください。
定員がありますので、もし参加いただける場合は私にメールください。

■アサリに共棲しているカニ(2009年3月18日)
暖かくなりました。
昨年、わが家の庭に話した沢蟹が年を越して土の中から出てくるのではないかと楽しみにしています。
子どものカニがカマキリの子どもたちのように山のように溢れ出てくるかもしれません。

先週、福岡の蔵田さんが春を告げる恒例のアサリを送ってきてくれました。
ご自分で海から採ってきて、毎年、送ってくれるのです。
今年のアサリは大きくて立派でした。
そのアサリの中に、体長2〜3ミリの小さな蟹が含まれていました。
まだ生きているのを3匹拾い上げて、飼ってみることにしました。
5日ほど立ちますが、みんな元気そうです。
今年の秋になれば、大きくなって食べられるかもしれないと思って、飼い方をネットで調べてみました。
どうもこの蟹は、アサリとの共棲蟹のようで、大きくはならないようです。
食べられません。ホッとしました。

私は大きなカニは好きではありませんが、小さいカニは大好きなのです。
前世がカニだったのかも知れません。
そういえば、カニのように少しひねくれていますし。

カニとアサリを育てようと思います。
うまく育つといいのですが。

■被害者を救うことのない裁判の限界(2009年3月19日)
闇サイト殺人事件の被告3人のうち、2人が死刑、1人が無期懲役になりました。
被害者の母親は「無念さ」を語りました。
母親にとっては、全員の死刑が当然だったのでしょう。
私自身、最近は死刑反対論者ですが、母親の気持ちに共感してしまいます。
被害者の気持ちを鎮めることのない裁判はやはりどこかに問題があります。

もっとも、裁判とは被害者を救うものではありません。
全員が死刑になったところで、母親にとっては娘が戻ってくるわけではありません。
経済犯罪はともかく、それ以外、特に身体を殺傷するような事件の加害者は、実際には「責任」などとりようがないのです。
ですから被害者にとっては、どんな罰を与えようと救われることはありません。
そこに裁判の限界があるわけです。

罪と罰をどう扱うかは、文化によって違います。
キリスト教徒の場合は、罪は神への裏切りですから、罰は贖罪のためのものです。
つまり加害者の倫理的な責任が問われるわけで、裁判は加害者の問題でもあります。
そこでは、加害者の意識や反省は大きな意味を持ちません。
日本の刑法体系も同じですが、日本の文化に裏打ちされた私たちの感情は少し違います。
加害者が心底、反省しているならば、被害者にもまた情状酌量の気持ちが働きます。
ですから、むしろ罰は、再犯防止あるいは類似犯防止の意味合いが強いように思います。
明らかに法の思想と社会の文化は違っています。
ややこしいのは、「再犯防止あるいは類似犯防止」が政治的に悪用されることもあることです。
そのため、「冤罪」が少なくありません。
検察が権力者に使われたり迎合したりするようになりやすいのも、その結果です。

今回の裁判で、母親の気持ちを鎮める方策は何でしょうか。
裁判で示した加害者の言動こそが問題にされなければならないと思います。
人の更生は実際には極めて難しいです。
裁判官や弁護士は安直に「更生」という言葉を使いますが、認識を変える必要があると思います。
それと同時に、こうした事件の裁判で裁かれているのは、単に加害者だけではなく、そうした状況を作り出した関係者もまた裁かれるべきだろうと思います。
類似犯が出てこないような取り組みこそが、真剣に考えられるべき課題です。
裁判制度の限界をもっと真剣に考えるべきでしょう。
そうしたところに向けた司法改革に取り組むべきであって、裁判員制度などのようなばかげたごまかしをやっているべき時期ではありません。

そのことを今回の裁判の報道を見ていて、改めて感じました。
繰り返しますが、裁判の目的を考え直すべき時期に来ているのです。
問題の本質は、「死刑」かどうかではないはずです。

■企業献金はなぜ悪いのか(2009年3月20日)
小沢秘書事件は、ますます謀略性を感じさせるようになって来ていますが、それはともかく今回はまた暴論です。

企業の政治献金はなぜ悪いのでしょうか。
企業の政治献金は悪いものだと言う前提でみんな考えていますが、本当にそうなのでしょうか。
献金した企業に有利に仕事が発注されるではないかなどと言うのは、たぶん回答にはならないと思いますが、なぜかみんなそれで納得します。
不思議な話です。

企業の政治献金に関しては、すでにさまざまな論点が議論され尽くされていますし、判決もいろいろと出ています。
それを再整理したところで、何の意味もないでしょうが、大切なのは「問題の本質」は何かです。

たとえば個人献金と企業献金とはどこが違うのか。
企業のNPOへの寄付と政党への寄付とどこが違うのか。
企業献金と従業員の献金を集めての献金とどこが違うのか。
いずれも答は一つではなく、いかようにも答えられるでしょう。
つまり、この問いこそが「政治的」なのです。
「問題の本質」は、その外にあるのです。

では、与党への献金と野党への献金は同じでしょうか。
考えようによっては、全く正反対のものともいえます。
買収が絡んでくるのは、いうまでもなく権力の立場にいる与党議員です。

形式犯とか実質犯とかいう言葉が出ていますが、法で裁くのはあくまでも形式犯です。
しかし形式犯はすべてが罰せられるわけではありません。
権力は、罰したいときに罰します。
いつでも罰せられるのだぞと思わせておく事が、一番効果的だからです。
罰してしまえば、その効力は消滅してしまいます。

企業献金はどんどん認めていいと私は思います。
ソーシャルマーケティング活動と位置づければいいでしょう。
企業の社会貢献活動と同じです。
そうした献金や寄付が個別の企業に利益還元されることを避ければいいわけです。
その方法は簡単です。
事業の発注先を決めるプロセスを公開し、政治献金者と個別事業を直接つなげないようにすればいいわけです。
もちろん政治献金者の名前も公開すべきです。
すべてを公開すればいい話です。
すべてを公開しないがゆえに、さまざまな問題が起こります。
つまり問題は、行政の進め方にあるのです。
政治の問題ではなく、行政(官僚制度)や経済(産業政策)の問題です。

技術的には公開は難しい話ではないでしょう。
なぜ公開されないかと言えば、買収行為ができなくなるからです。
あるいは権力行使が出来なくなり、権力への反対行為をとめられなくなるからです。
つまりは、すべては循環的構造にあります。
その循環を好循環に変えていくことが大切なのであって、「企業の政治献金」に問題があるのではありません。
それに、献金してくれる人がいたらどんどん献金してもらえばいい。
それくらいの自信を持って、みんな仕事に取り組むべきです。

ところで私に献金してくれる企業はないでしょうか。
私はそれなりにいい仕事をしているという自負がありますので、いつでも歓迎です。
それに、検察に捜査される心配もありません。
ただし、献金してくれた企業にとっては、何の役にも立ちませんが。

■定額給付金の使い方(2009年3月21日)
テレビを見ていると、麻生政権はかなりの善政を行っているような錯覚に陥ります。
定額給付金をもらって嬉しそうにしているお年寄りや有料道路が1000円になったことを喜んでいる若い家族などが繰り返し報道されると、麻生さん本人でなくとも、なんとなく国民は喜んでいるという気になってしまいます。
何しろ国民からの税金を好き勝手に使えるわけですから(三分の二条項の乱用によってですが)楽な仕事です。集めたお金のわずかを大判振る舞いすればいいわけですから。
その一方で、与党の無責任な散財ぶりを批判している民主党に対しては、厳しい目を向けてしまいます。
やはりお金を持っていないとみんなからは好かれないのでしょうか。
昔は「勝てば官軍」などといわれましたが、今は「持てば官軍」なのです。
お金の威力はすごいです。

定額給付金に関しては、早速に詐欺事件が発生し、被害にあったお年寄りもありますが、詐欺まがいのような動きはこれからたくさん出てくるでしょう。
大学教授やNPOの有志が、定額給付金基金なるものを発足させたと言う話もあります。
すでにもう募金した人たちが出ており、マスコミでも取り上げだしていますので、きっとどんどん集まるでしょう。
http://www.charity-platform.com/
しかし、ささやかにNPOなどに関わっている私としては、その胡散臭さを強く感じます。
呼びかけ人には私の面識のある人が2人もいるのに驚きますが、やはりそうかと思わざるを得ません。
どこが胡散臭いかは、ホームページを読んでみてください。
もっとも胡散臭いと感ずるのは私だけかもしれません。

NPOにお金が絡みだすといいことはありません。
それはグラミン銀行のユヌスさんがいうように、「堕落への道」を開いていくからです。
投げ銭するように寄付をしてはいけません。
それに最近のNPOの多くは、金銭まみれで付き合っていて楽しくありません。
寄付をするのであれば、きちんと相手の目を見て、効果的に使ってもらえるかどうか見極めなければいけません。
たしかに定額給付金は降って湧いたような「あぶく銭」でしょうが、お金を使う倫理観は失ってはいけません。
そうやって規律を壊していくのが、ばらまき施策の目的だからです。

定額給付金をもらったら燃やすのが一番良いような気もしますが、私は最近、収入がないのでいささかいじましくなっており、燃やす元気がありません。
ちょうどいま関わっているNPO関係のプロジェクト費用が数万円ほど足りないので、それに充当しようかとも思いますが、もし私が充当すると同じく参加している人たちにもそこに寄付しないといけないと思わせるかもしれません。
誰にも知られずにこっそりどこかに寄付する方策もありますが、それもなんとなく抵抗があります。
受け取り辞退という案もありますが、昨今の政府の状況を見ていると、税金さえも払いたくない気分ですので、それも避けたいです。
そう考えていくと、結構、難問ではあります。
さて、みなさんはどうされますか。

なんだか自分の生き方を問われているような気がしますね。
麻生さんが自らの「さもしさ」を露呈したように、私も自らの「さもしさ」に気づかされそうです。

■100年に一度のチャンス
(2009年3月22日)
昨今の状況は、100年の一度の危機、だと言われています。
私は100年に一度のチャンスではないかと思います。

私の基本的な経済観は、私が会社を辞めた時から変わっていません。
当時はまだブログも書いていませんので記録はないのですが、ホームページ(CWSコモンズ)を書き出した頃にその発想を少しだけ書いています。
「今が不況だ、などと考えることをそろそろやめましょう(2002/2/10)」
当時も不況論が盛んに出ていましたが、問題は経済の枠組みの問題であって、目先の現象で考えては何も見えてこないのではないかと思っていました。

現在の経済の始まりは、1940年代のアメリカの経済政策の転換から始まったのではないかと思います。
つまり、市場(需要)拡大、いいかえれば消費主導の経済パラダイムです。
それに基づいて、企業の経営も変わりました。
ドラッカー経営学がその象徴ですが、「顧客創造」が起点に置かれたのです。

それが私たち日本人の生活を豊かにしてきたわけですが、その反面で豊かさを奪われた人たちは少なくありません。
なかなかそれが見えなかったわけですが、最近ではほぼ明らかになってきています。
しかも、市場拡大による豊かさの奪取は国内でも顕在化してきました。
いわゆる「格差社会」が見えてきてしまったわけです。
格差は限度を超えると、全体の安定性を壊していくことはいうまでもありませんが、それを管理する事ができなくなってしまったのが現状なのかもしれません。
もしそうであれば、「成長」や「経済」そのもののあり方を考え直すべきです。
景気浮揚が問題ではなく、経済のあり方が問題なのです。
そう考えると、問題の立て方は全く違ってきます。

昨今の状況は、これまでの経済のあり方の問題を顕在化させています。
だとしたら、また元に戻るのではなく、新しい経済を考えるチャンスにするべきではないか。
そうした「大きな物語」が今こそ必要なのではないかと思いますが、どうもみんなの関心は目先の景気建て直しです。
「大きな物語」の時代は終わったというのが大方の意見ですが、いま必要なのは「大きな物語」なのです。
長期に考える余裕などない、といわれそうですが、長期を考えてこそ、目先の問題への処方箋が見えてくるはずです。
いまこそ、私たちの「消費生活」を見直すチャンスではないかと思うわけです。
私たち一人一人ができることはたくさんあります。
それは、無駄遣いをすることでは決してないと思います。

私は20年かかって、自分の生き方を変えてきました。
しかし、自己評価的にはまだ目標の3割程度にしかたどりついていません。
50年先を見据えて、今ここでの生き方をどう変えていくか。
そういう時代を、私たちは生きているように思います。

■企業のお先棒であることを露呈した田原発言(2009年3月23日)
桝添大臣直属の「後期高齢者医療制度の見直しに関する検討会」(塩川正十郎座長)は3月17日に報告書を提出しました。
マスコミ報道によれば、委員の見解が一致したのは、「後期高齢者」という名称の変更のみだったようです。
マスコミもあまり報道しませんが、結局は原案がそのまま決まっていくのでしょうか。
あれほど大騒ぎしたのが嘘のようです。
もっともあれほど評判の悪かった定額給付金もいつのまにか実行されましたし、結局は「お上」には勝てないというあきらめのようなものが日本を覆っているのかもしれません。

公務員改革も天下りも騒いだわりにはもう話題の中心からは外れたようです。
こうやって、何も変わらずに、ずるずるとやってきたのが、この40年なのでしょうか。
そうしたことに加担してきたのはマスコミだと言ってもいいでしょう。
情報社会におけるマスコミの役割を改めて考えていかねばいけないように思います。

国民の多くが反対しても政府が方針を変えなかったことがこの数年、たくさんあります。
しかし、マスコミは国民のそうした意見を基本にして報道するのではなく、政府の意向に従って、世論を変える方向で働いているように思います。
マスコミは、いまや権力や企業のお先棒広報機能に特化してしまっていますが、それに抗して健闘している市民ジャーナリズムもなかなか世論に影響を与えるまでにはいたっていません。

テレビが企業のお先棒であることを垣間見せてくれたのが、昨日の田原総一郎サンデープロジェクトです。
出演している国会議員が、また報道ステーションで批判されるだろうが、というような発言をしたのに対して、田原さんが「古舘も朝日テレビからギャラをもらっているから大丈夫だよ」と発言をしたのです。
驚きました。
自らが企業からギャラをもらっているので企業や政府に不都合なことは言わないと告白したのと同じことです。
だれも注意しないで、笑っていました。
この番組に出演している人たちの本性が伝わってきます。

番組の最後に、アナウンサーが「先の発言に対して古舘さんから苦情の電話があった」と報告しました。
それを途中でさえぎって、田原さんは「古館には、それはいいことだ、がんばれと言った」というようなことを自慢げに話していました。
自分の発言の意味が、全くわかっていないのです。
やりきれませんね。

念のために言えば、私は古舘さんの誠実な言葉に共感しています。
しかし行動に移さない不誠実さにはいささかの失望を感じています。

■NPO法人「彩経会」が背負わされたこと(2009年3月24日)
入所者10人の犠牲者を出した群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」の火災は、実にさまざまなことを考えさせられる事件でした。
施設を運営しているNPO法人「彩経会」の理事長(84)が、今日、記者会見で陳謝していましたが、見ていて複雑な気持ちでした。
この事件だけをみれば、もちろん悪いのは理事長をはじめとした施設運営者たちでしょう。
彼らをとがめるのは簡単です。
こうした状況は、「たまゆら」だけの特殊事情なのでしょうか。
私にはそうは思えません。
問題はもっと根深く、社会のあり方そのものが象徴されているように思います。
私たちの生き方と言ってもいいかもしれません。
決して他人事とは思えません。
NPO法人「彩経会」が背負わされたことの重さは、かみしめてみることが必要かもしれません。

そうしたこととは別に、もうひとつ感じたのは、NPO法人というものに対する複雑な思いです。
NPO法人は、市民の自発的な組織のように思われていますが、必ずしもそうではありません。
政府は法人化という資格を与えている以上、その活動に関しては当然責任を持つべきですが、私が知る限り、行政が財政支出削減のための事業委託先として創設を働きかけたNPOもあります。
今回のNPO法人がそうだとはいいませんが、NPO法人があまりに安直にもつくられ、しかも大きな責任を付与されていることに違和感があるのです。
私もいくつかのNPOに関わっていますし、あるNPOの理事長も引き受けています。
しかし、NPOの組織原理や事業活動はどうあるべきかが、まだよくわかりません。
今回のような福祉施設の経営は、企業でもできるわけですが、なぜNPO法人として取り組むのかも理解できません。
NPOで取り組みのであれば、その基本には「人のつながり」といった、企業で行なうのとは違ったものになるはずだと思いますが、そうはなっていないようです。

最近は社会起業家とかコミュニティビジネスとかいう言葉が広がり、そうした事業体も増えていますが、これまでの収益志向の企業とどこが違うのだろうかと思ってしまうものが少なくありません。

NPO法人の法律ができたのは10年前ですが、その法律に目的は何だったのでしょうか。
そんなことも、理事長の会見を見ながら考えせられました。
どこかに間違い、もしくは不整合があるような気がしてなりません。

■小沢さんが辞任せずにホッとしました(2009年3月25日)
西松建設疑惑で小沢さんの秘書が起訴されました。
小沢さんの記者会見と検察側の記者説明会がありました。
前者は公開、後者はクローズドでの開催です。
テレビは入れなかったようです。
この一事を持っても、事の真相が見えてくるように思いますが、小沢さんが辞任しなかったことでホッとしました。
ここで辞任したら、事の真相はまたうやむやになるでしょう。
「冤罪」と言う犯罪を繰り返してきた検察の体質は変わりようがないでしょう。

さすがに最近では、検察の行為のおかしさに批判的な意見が出るようになりました。
このまま行けば、検察国家になりかねません。
検察がそのうちに福祉の世界や市民活動の世界にまで口を出し始めるでしょう。
検察の特権意識には、生理的に反発を感じます。

私は小沢さんの国家ビジョンや政策内容に関して、全く共感できません。
政治的な行動の仕方にも違和感があります。
総理大臣にはなってほしくない人の一人です。
しかし、今回の事件は、それよりも奥深い地獄を垣間見せられて気がします。

一番不快に感じているのは、テレビキャスターや「有識者」たちが、小沢さんは代表を辞任すべきだと言っていることです。
新聞も、朝日も産経も、社説でそう書いています。
個人であれば、そういう発言も自由ですが、立場として「辞任」勧告などすることは越権行為だと思います。
こうした「無識者」が世論を誘導しているのです。
先ずは事実をしっかりと歴史的、社会的な中で見えるようにすることがその人たちの役目ではないかと思います。

最近怒りを感ずることが多く、どこかに書かないとおかしくなりそうなので、私憤を書いてしまいました。
まあ、私憤の本の一部でしかありませんが。
しかし、きっとまた後日、書いたことを後悔するでしょう。
しかし、人生は後悔の積み重ねですから、それもまた仕方がありません。

■愛が奪われるとどうなるのか(2009年3月25日)
今日の挽歌編との二部作です。

「死刑になりたくて殺傷事件を起こした」
驚くべき動機を口にする加害者が増えています。
毎年自殺者が3万人を超えている世相とどこかでつながっています。

その世相とはどんなものか。
企業は利益を減らしたくなくて、非正規雇用者を解雇しました。
利益をあげたくて、非正規雇用者を増やしたのと同じ発想です。
そうした思いの根底には、「人の情」が欠落しています。
経済は「情の世界」ではないと思いがちですが、たとえば労働生産性を決めるのも顧客満足を決めるのも「人の情」、つまり「愛」です。
その認識が昨今の企業からは欠落しています。
それが、いまという世相を象徴しています。

世相を覆っているのは、「愛の不在」ではないか。
社会から「愛」がなくなってきている、そんな気がしてなりません。
働く人に対する「愛」があれば、業績が悪くなったからといって、簡単に解雇できません。
商品に対する「愛」があれば、偽装とか安全性軽視など起こるはずもありません。
会社を愛していたら、会社の不正を許してはおけません。
原材料を愛していたら、無駄な廃棄物などだしはしません。

社会のあり方を主導し、私たちのライフスタイルに大きな影響を与えてきた企業や職場から、愛がなくなってきてしまったのは、いつからでしょうか。
温かな第二の家庭とも言われていた職場は、もはや完全な利益社会になってしまいました。
そこを覆っているのは、金銭的損得や勝ち負けの論理です。
愛など考えている余裕はなくなってしまいました。

その文化は企業や職場に留まってはいませんでした。
家庭にも学校にも、地域社会にも友だち関係にも、急速に広がりました。
「愛」がないほうが、生きやすいのではないか、とみんな思い出したのです。
いえ、そう思うように仕向けられたのです。
そして、「愛」が商品になり、教材になったのです。

愛があればこそ、無味乾燥な環境世界が躍動してくるのですが、
愛がなければ単なる生活を閉じ込める壁や床でしかありません。
愛がなければ隣人の悲しさも辛さも読み解けません。
愛がなければ、生きている意味が見えなくなりかねません。
生きようとする元気さえも交換できないかもしれません。

いまの時代の生き辛さは、私たちが「愛」をおろそかにして、あまつさえ「愛」を商品にしてしまったからなのではないか。
そんな気がしてなりません。
もっと「愛」を取り戻さなければいけません。
そうしなければ、自殺者も殺傷事件も、減ることはないでしょう。
まず、家族や隣人を愛することから始めたいものです。

■戦いの放棄と官僚政権の勝利〈2009年3月26日〉
未練がましく、小沢さんのことを書きます。

本人の意思にもかかわらず、小沢さんは民主党代表にとどまれなくなりそうです。
これで日本の官僚政権は、また勝利したわけです。
検察は見事に勝ちを収めました。
マスコミも見事にそれを応援しました。もし今の日本に「対立構造」があるとすれば、自民対民主ではなく、官僚対政治(ないしは国民)だと思っている私にとっては

小沢さんは辞めたほうがいいと多くの人は思っているようです。
私の友人(このブログの読者)の多くもきっとそうでしょう。
小沢さんは古い政治体質を背負っているという意見もあるでしょう。
談合や政治献金が悪いと言う人も多いでしょう。
一般論で言えば、私もそう思います。

しかし、一般論で語ることの弊害を、私はこれまで何回も体験してきました。
時に談合も、時に政治献金も、時に「古い体質」も受け入れることが必要なこともあります。
そもそも、そうした言葉の持つ多義性や没価値性をもっと認識しなければいけません。
なぜか、それらはみんな「負のイメージ」を与えられています。
誰も内容を吟味しない。そうした言葉に支配されているのが、今の政治状況です。

もし今の日本に「対立構造」があるとすれば、私は、自民対民主ではなく、官僚対政治(ないしは国民)だと思っています。
二大政党を志向した段階で、政権は安定しました。
誰かも言っていましたが、2大政党制は7割は政策が同じだから成り立つ話なのです。
ですから、自民一党政治と二大政党政治は同じようなものです。
自民党も民主党も同じですし、民主党が政権担当能力ありとみんなが感じるようになったのは、小沢さんの持つ古い政治体質のおかげです。
民主的な政治過程のなかでは革命は起こりえません。
談合が悪い、公共投資が悪いと、私は思いますが、現場の人たちは本当はどうなのでしょうか。
無駄な公共投資もまた景気浮揚策だという議論とどう整合するのでしょうか。

マスコミ報道によれば、民主党はがたがたになりつつあるようです。
党首を信じられないような組織は戦いには勝てません。
民主党は戦い方を知りません。
官僚に負けてしまったように思います。
昨夜のテレビを見て以来、がっかりしてしまい、ついつい私憤をはいてしまいました。

民主党はついに政権を取れずに解党するでしょうが、選挙後の政党再編成は、相変わらず官僚の傀儡政権でとどまりそうです。
政治のパラダイム転換が、また少し延びそうな気がします。

小沢さんが辞めないことを祈るのみです。
すべてのマスコミが、いまや大政翼賛会のように思えてなりません。

■政治と金、マスコミと金、そして民主主義の危機(2009年3月27日)
どうも「怒り」が収まりません。
ですから暴論はますますエスカレートします。

挽歌では「悲しみ」が、時評では「怒り」がおさまらいので、精神状態があまりよくありません。
困ったものです。

今日の怒りは、やはりテレビです。
岩見さんという、それなりに評価の高いジャーナリストがいますが、その発言はもうどうしようもないほど、愚劣です。
念のために言えば、他の人は愚劣にも達していませんので、論外なのですが、岩見さんはそれなりに見識を持って実績を残してきた人です。
この人にして、この愚劣さ、そう思うと腹が立ってきます。

原口さんと大谷さんが、的確に対応していました。
岩見さんを「愚劣」だと思ったのは、原口さんが「民主主義の危機」だと発言したのに対して、「大げさだ」と言ったことです。
岩見さんには問題の本質が全く見えていません。
世論調査を操って世論操作しているマスコミの似非ジャーナリズムの仲間に完全に取り込まれています。
私の言葉を使えば、「買収」されてしまっています。

その議論で、反小沢側が発言したのは、「政治と金」の問題です。
しかし、政治以上に金に買収されているのはマスコミであり、ジャーナリストです。
テレビなどは金で動いています。
コメンテーターも有識者も、その多くは金で動いています。
みんな「やわらかな買収」のとりこになっているのです。
そして、私たち国民もまた、金に買収されてしまっています。
いったい、誰に「政治と金」の問題を小沢さんにだけ押し付けられるのでしょうか。
小沢おろしに動いている民主党の議員は、たぶん金に買収されているのでしょう。

小沢さんは西松建設からのお金であることをなんとなく知っていたと思いますが、それがなぜ悪いのか。
みなさんは説明できますか。
企業献金がなぜ悪いのか。
個人献金はなぜいいのか。
基本的なことを考えもせず、お上の尻馬にのって、弱いものいじめをしている国民の中に自分がいることがいやになります。

今日もまた「怒り」が収まりません。
怒りに任せて書いてしまうと後で後悔しますが、最近のこうした怒りはどこかに残しておきたいと思い、書いています。
まあ、私が怒ったところで何も変わりませんが。

話は全く違いますが、三島由紀夫の気持ちが少し最近わかってきました。
私が無名であることに安堵しています。
それなりのポジションにいたら、何か行動を起こしたくなるでしょう。
そんな時代です。
誰も行動を起こさないのが、むしろ不思議です。
金が時代を制覇したのかもしれません。

■マスコミの犯罪(2009年3月27日)
朝、私憤を書いたのですが、ますます腹が立ってきました。
小宮山洋子議員が小沢批判の中で、小沢さんのまわりにいる人と違う人の声もあると話しています。
怒りも限界を超えそうです。
こういう人が国家を壊していくでしょう。

数年前ですが、民主党の広報委員会のような集りに講師として呼ばれたことがあります。
確か委員長は小宮山さんでした。
そのときに正直あきれてしまいました。
民主党には国民の声を聞くということが全く理解されていないと思ったのです。
ポーズだけの広報勉強会でした。
そんな記憶を思い出しました。

今回の事件で思い出すのは、管さんが年金保険料の件で批判を受け、結局、代表を辞して、四国のお遍路参りをした事件です。
あれもまあ、いわば冤罪ですが、あの時のことを民主党の議員はもう忘れたのでしょうか。

しかも腹立たしいのは、キャスターやコメンテーターの発言です。
彼らにとっては、世論調査の結果は水戸黄門の印籠のようです。
ひどいもので、これではまさにマスコミファッショです。
この記事を書いていても、怒りで心筋梗塞を起こしそうです。
モンタージュ手法を使えば、テレビはどんな「事実」でも作り出せます。
白も黒に出来るでしょう。

ベンジャミン・バーバーの言葉を思い出します。

「公共的な放送電波」が国民に代わって政府によって民間の商業利益に賃貸され、今度は法外な代償を払ってアメリカ国民に売り戻される、という皮肉に私たちはすでに直面している。その代償とは、選挙過程を腐敗させ、公職につくのを金持ちの(あるいは際限なく資金を増やすことに身をささげている者たちの)特権にする。(「私たちの場所」)

念のために言えば、小沢さんは権力の場にはいないのです。
税金を無駄遣いしているのは、政府と与党と官僚です。
それに寄生しているのがテレビと新聞と、そこで活躍しているタレント有識者たちです。
小沢さんが出来るのは、そうした腐敗しきった政府を正すことなのです。

私の意見は、賛成してもらえないでしょうね。

■「政治とカネ」ではなく「自分とカネ」の話(2009年3月28日)
予想外のことが起こってしまいました。
私のホームページに掲載されているCWS基金に寄付があったのです。
初めての入金です。

誰からだろうかと思ったら、任侠の人、daxさんからでした。
12000円、定額給付金を寄付したのだと言われました。
ホームページに少し詳しく書く予定ですが、ここではこの予想外の入金で考えさせられた話を書きます。
「政治とカネ」「マスコミとカネ」ではなく「自分とカネ」の話です。

実は私も定額給付金をもらったら、ぼんやりとですがどこかに寄付をしようと考えていました。
ただ、どこに寄付したらいいか判断できないでいました。
寄付はするのは簡単ですが、もらったほうは結構大変だろうと思ってしまうわけです。
しかし、そういう風に考えること自体が、小賢しいのでしょうね。
daxさんから、お前も理屈を言ってないで行動しろ、といわれたような気がしました。
まあ、それは今回のテーマではありません。

今回のテーマは、実際にカネが回ってくると心が揺らぐという話です。
CWS基金は、実は私の個人口座に入金されるようになっています。
私のやっていることはすべて私の頭の中では「ひとつ」なので、意図もなくただそうなっているのです。
挽歌編で書いたように、「ひとつの財布」発想を勝手に広げてしまっていたのです。

そんなわけで、入金を知った時に、なんだか自分への贈与と勘違いしてしまい、
これで本が4冊買えるなと一瞬思ってしまったわけです。
まあ、これまでもそういう勘違いで、みんなのお金を使い込んでしまったこともないわけではありません。
ちなみに、CWSコモンズ村の特別会計資金は村長である私が困窮時に使い込んでしまいました。
コムケア基金も、本郷のコムケアセンター事務所経費に当ててしまいました。
幸い、関係者からの訴訟は起きていませんが、評判はきっと落としているでしょう。
しかし、本人には全くといっていいほど罪の意識がないのです。
金額はかなり違いますが、もしかしたら民主党の小沢さんと同じです。

どうも横道に入ってばかりで話が進みません。
要は、実際にそこにお金を見せられるとついつい使いたくなるのが人間で、私も例外ではないという話です。
そんな者に、「政治とカネ」の問題を批判できるのか。
そんな気がしてきたのです。

今回寄付してきたdaxさんは、金銭万能の世界に嫌気がさして生き方を変えた人です。
ですからたぶん金銭には未練などないのでしょうが、私は金銭にまだ勝てていないようです。
今でも宝くじを買いますし、お金をもらうとなぜかうれしくなります。
「渡り」的な人生をしている友人も何人かいますが、それに同情せずに反発する気持ちがあるということは、うらやましがっているのかもしれません。

12000円程度で心揺るがすようでは情けないとdaxさんに怒られそうですが、もし目の前に3億円積まれたら悪魔の仲間入りもしかねません。
いささか大げさですが、ちょっと卑しい自分に気づいてがっかりしました。

政治とカネが今話題になっていますが、この問題の出発点は、こうした私たち生活者とカネの関係の延長上にある問題でしかないということです。
定額給付金をもらってうれしがる人たちが、政治とカネの関係を作り上げているのです。
私は今のところうれしがってはいませんが、実際にもらうとどうなるでしょうか。
CWS基金に寄付したから言うわけではありませんが、daxさんに敬意を表します。

社会のひずみのすべては、社会を構成している私たち一人ひとりの生き方に端を発しています。
それに気づいたせいで、昨日までの怒りは漸く収まりました。
暴言を重ねてしまいました。はい。
今日は平安な1日になりそうです。

■明日は千葉県知事選です(2009年3月28日)
明日は千葉県知事選挙です。
今回は5人の新人が立候補しています。
選挙といっても知事選挙はいつも盛り上がりません。
実際には誰が知事になるかによってかなり変化が出るはずですから、もっと私たちは関心を持たなければいけません。

ところで、とても気になることがあります。
今日、新聞に折り込まれていた立候補者のビラのことを娘が教えてくれました。
そのビラには、肝心の立候補者本人の名前は出ていません。
もちろんビラを見ただけで、誰のビラなのかはすぐわかります。
しかし名前は書いていません。
なぜかという理由がビラの中に書かれています。

「この法定ビラでは、公職選挙法により名前や顔を出すことが禁止されていますので、ご了承ください。」

どう考えてもおかしな話です。
お金がある人が折込で配れるのかというのが理由なのだと娘が教えてくれました。
もしそうであれば一切やめればいいだけの話です。
名前と写真を入れなければいいのか。
まさに形式論です。
もちろんな今回のビラは、誰のことかはすぐにわかります。
私は公職選挙法がおかしいと思いますが、もしその法律を基準にすれば、このビラは実質的には選挙違反だと思います。

形式だけ整えれば認められる、こうしたやりかたは今回話題の企業献金問題事件にもつながっています。
いざ問題を起こせば、少し解釈を変えれば罰せられるようになっているわけです。

しかも私が気持ち悪いのは、そのビラには名前どころかビラを出した組織の名前もないことです。
不思議なのは、そのくせ、「応援します」として、8人の有名人の名前が載っています。
この人たちは誰を応援しているのでしょうか。
そもそも選挙に立候補した人がよく有名人の名前を借りることがありますが、あまり感じのいいものではありません。
何でそんなことをするのでしょうか。
どこかにおかしさがあるように思います。

実は私はこのビラを見るまでは、この人に投票するつもりでしたが、このビラを見て考え直しました。
有名人の名前に依存し、しかも自分の名前も出せない人は、典型的な「詐欺師」に属するというのが私の偏狭な考えなのです。
この人本人はとてもしっかりした人だとお聞きしていますが、きっと取り巻きがひどいのでしょう。
それでは県政を任せるわけにはいきません。
私の信条に反します。

それにここに名前をあげた8人の有名人たちは、なんと無責任な人でしょう。
えっ! この人がという人もいます。
残念です。
平安だった1日がまたさびしい1日になりました。

生きにくい時代です。

■「国家統治視点」から「個人生活視点」への転換(2009年3月29日)
何回か書いていますが、社会構造原理をパラダイム転換する必要があると、私は思っています。
組織起点発想から個人起点発想への転換です。
簡単にいえば、これまでのような「国家(組織)統治視点」ではなく、「個人生活視点」から発想しなおしていこうということです。
こういうように発想の起点を変えると、世界の風景は一変します。

たとえば経済です。
そもそも経済は、「政治経済学」といわれるように、国家統治のための学問としてスタートしました。
その発想からの経済は「交換価値」としての貨幣が主役になります。
つまりそこには必然的に金融資本主義への道が用意されています。
しかし、個人生活の発想からは貨幣は交換手段のひとつでしかありません。
一番大切なのは、生活のために役立つ「使用価値」が主役になります。
貨幣は、実際の生活には直接的には何の役にも立ちません。
しかし、組織起点発想に陥っている私たちは貨幣がないと生活できないと思い込んでいます。
前にも書きましたが、国内総生産は統治の概念であって、生活の豊かさとは無縁の概念です。
現在の景気浮揚策の欺瞞性が見えてきます。

企業はどうでしょうか。
業績が悪化すると企業は従業員を解雇して、業績の回復を図ります。
しかし、従業員を解雇して業績を回復した企業とは何でしょうか。
解雇された従業員にとっては全く意味のない存在ですし、残った従業員にとっても要するに今回は解雇を免れただけの話です。
そうした企業経営の発想には個人の生活視点などないわけです。
しかしそれでは企業は持続可能性をもちえません。
財界のトップたちは、経営というものを学んでいません。

福祉はどうでしょうか、
介護保険制度はたしかに介護福祉の世界に大きな光を当てました。
しかし、制度はすべて個人の事情を配慮できませんから、そこから抜け出たものは少なくないはずです。
制度を維持することが優先されて、個人の特有の事情は、制度に当てはめられることを強制されるでしょう。
しかし、そもそも福祉とか介護は個人的なものなのではないかと思います。
個人の生活視点から発想していくと、たぶん現在の制度とは違ったものになっていくでしょう。
制度が生活を壊すことは避けなければいけませんが、発想を変えなければそうなりかねません。

政治はどうか。
最近、熟議民主主義と言う考え方が広がっています。
そこでは合意形成さえも必ずしも求められません。
熟議の過程が重視されます。
多数決民主主義は統治のための制度ですが、そうではない政治の芽が出始めているようにも思います。
その発想からは小選挙区制や二大政党制などは絶対に出てきません。

他にもいろいろと見えてくることがあります。
勝つためのスポーツではなく、楽しむためのスポーツ。方向づけるためのアーキテクチャーではなく、個人を輝かすアーキテクチャー。あるいは訓練する現在の学校とは違った個人を伸ばす学校など、さまざまな地平が開けてくるはずです。

そして、その発想の基盤に立てば、私たちの生き方も変わってくるはずです。
自分の目で見、自分の言葉で語ることができるようになります。
小沢事件の本質もそこから見えてくるような気がしています。

■「人間として当たり前の判断」(2009年3月30日)
戦時下最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」の第4次再審申し立ては。またしても有罪か無罪かを判断しない「免訴」になりました。
つまり「無罪」にはしなかったということです。
3次判決では、「実質無罪」を示す証拠が判決で言われていましたが、今回はそれもなかったようです。
新聞によれば、「遺族が今後、改めて請求すれば進められる刑事補償手続きに、無罪かどうかの判断は先送りした形だ」そうですが、遺族にとっては、「無罪」として謝罪されることが最大の関心事だったのだろうと思います。
遺族の一人は、「私たちは親の名誉回復だけを願っていたのではない。司法は人間として当たり前の判断をしてほしい」と話しているそうですが、「人間として当たり前の判断」という言葉に、やりきれない無念さを感じます。

「人間として当たり前の判断」。

「無罪」と思うのであれば、法律的な形式論で責任を回避すべきではありません。
「免訴」などという「お上」の言葉をつかわずに、もっと素直に話せないものでしょうか。

裁判とは何なのかを、いつものことながら考えさせられました。

■「生活世界の植民地化」
(2009年4月1日)
地元のNPOネットワーク関係の方から電話がありました。
大会で行なうシンポジウムへの参加の打診です。
他のパネリストは県と市の職員の方だそうです。
私が入ると混乱するのではないかとお応えしましたが、そのやり取りの中で気になる発言がありました。
まさに昨今のNPOの実情を象徴しています。
念のためにいえば、電話を下さった方はとても誠実な方で、長年の企業勤務を卒業して、地元のNPOのネットワーキングの活動に取り組んでいます。

気になった言葉は次の二つです。
「最近は手弁当で参加してくれる人が少なく、何がしかの報酬がないとなかなか人が集まらない。それで佐藤さんが話していた事業型NPOの話をしてほしい」
「NPO活動の集りなどの動員をしても最近は集りが悪い」

実は以前も別の方から同じような話を聞きました。
こうしたことに関してはもう10年程前に各地で話題になったことでもあります。
我孫子の市民活動は行政主導できていますから、かなり遅れている感じがします。

最初の意見には、5年前に話した事業型NPOと昨今の事業型NPOとは、似て非なるものと思っていますので、何をいまさらといささか感情的に反応してしまいました。
「手弁当で参加するのが地元での市民活動の基本ではないでしょうか」
「昨今の事業型NPOと地場企業とはどこが違うのでしょうか」
後者に関しては、「動員などという発想を捨てないといけないのではないでしょうか」
「面白ければ、あるいは活動に意義があると思えば、自然と人は集まりますよ」

電話を終えた後、自己嫌悪に陥りました。
せっかく電話してきてくださったのに、失礼な対応をしてしまいました。

私には日本のNPO法への不信感があります。
NPOが開く市民社会は、市場経済や国家統治の世界とは別の活動原理を大事にしなければいけません。
行政の傘下にいる限り、NPOは育ちません。
「社会貢献」などと発想することは、所詮は国家行政(国益)への奉仕でしかありません。
そこには主体性が見えてきません。
ハーバーマスは、自発的な生活世界のなかに、国家の法システムや市場経済をとおした貨幣が浸透してくる状況を、「国家と市場の複合システムによる生活世界の植民地化」と呼びました。
昨今の日本のNPOの実情は、まさに植民地化されたサブシステムのような気がします。

しかしながら、今の社会状況をどうブレイクスルーしていくかと考えれば、私が違和感を持っているNPOにしか期待できないのかもしれません。
少なくとも違和感をもってイジイジしている私よりも、昨今のNPOは大きな役割を果たしています。
批判よりも行動、なのです。
そう思って、いろいろと活動を始めましたが、どうも疲れます。
最近どうも生き方を間違えているのではないかという気がして仕方がありません。

■これまでの仕事観や経営観からの脱却(2009年4月2日)
経済はますます悪化していくという報道が多いです。
みんな先行き不安感を強めています。
不安感を与えすぎだと思いますが、社会に不安感が広がる(広げる)ことの意味はよく考える必要があります。
マスコミの増幅機能に関しては以前も書きましたが、使い方によっては大きな弊害を起こしかねません。

景気の浮き沈みはいつの時代にもありましたし、悪い話の反対側には良い話があるのも経済の特徴です。
実体経済を「生活の経済の反映」と考えれば、そんなに大きな変動はありえません。
もし貨幣がなければ、私たちの暮らしの経済は変動しようがないからです。
金融機関のみならず、メーカーさえもがレバレッジ発想を持ったことが今回の変動を大きくしていますが、その発想そのものがすでに従来の実体経済発想をはみ出してしまっています。
トヨタの大幅生産減は、自動車を一種の金融商品にしてしまった結果です。
メーカーとしての経営を逸脱したといってもいいように思います。
いまそれがまた修正されている過程だと考えられます。

問題は、広がる雇用解雇です。
これもしかし、かなり前から問題としては明らかになってきていました。
つまり「労働の終焉」というテーマです。
技術の進歩により生産性は飛躍的に高まり、従来型の発想での「仕事」は減少してきています。
にもかかわらず、経済や政治は「仕事観」を変えていませんし、私たち自身も「仕事観」を変えていませんから、そのずれの中で、雇用解雇が問題として起こってしまうわけです。

私は21年前に、仕事観を変えて、会社を辞めました。
そして「働くでもなく遊ぶでもなく休むでもなく学ぶでもない」生き方にはいりました。
仕事をすることは「お金」をもらうことではなく「お金」を使うことだと発想を切り替えました。
もちろん結果としてお金をもらえることも多く、生活にはさほど支障はなく、いまもその生き方を続けています。

しかし、テレビなどを見ていると、たしかに深刻な話は増えています。
私は時間をかけて生き方を変えることが出来ましたが、一挙に変化の衝撃を受けたところは大変です。
もちろん実際にはじわじわと追い込まれていたのだと思いますが、現場の真っ只中にいるとなかなか変化は見えません。
誠実に生きている人ほど、見えないところが悩ましい話です。

そんななかで、「100年に一度のチャンス」などと脳天気のことを書いていると、怒られそうな状況がテレビでは報道されます。
たしかに企業をどうにかして倒産させないようにと日々苦労している経営者の人には私の発言は怒られても仕方がないでしょう。
それを承知で、しかし、生き方を変える契機にしてほしいと、やはり思います。

経営者が一人で悩むことの限界は明らかです。
しかし、企業に関わる従業員みんなで誠実に考えたら解決策はあるはずです。
解決策は現場にある、というのが私の考えです。
その基盤として、オープンブックマネジメントの発想が必要だと思い、以前、その本も翻訳出版させてもらいました。
当時は、オープンブックマネジメント発想さえ持てば、企業はすべて元気になると思っていましたが、残念ながらこの本は売れませんでした。

また長くなってしまいましたが、仕事観や企業経営観を変える時です。
従来型の発想の呪縛から自らを解き放せば、新しい解決策が見えてくるように思います。
大切なのは、支えあいながら生きることであって、仕事や企業ではありません。

■「経済成長あっての環境と福祉」なのでしょうか(2009年4月3日)
資本制社会下での行政においては、環境対策も福祉行政も「経済成長あっての」ものであり、それらは経済成長のサブシステムでしかありません。
そのことが昨今の「経済政策論議」で明らかになってきていますが、時限を逆転させると政策は全く変わってきます。
そして、それがたぶん可能なのだろうと思います。
フォードが断行した「5ドルの挑戦」は、そのことを示唆しています。

数年前に日本能率協会が環境経営の提言を出す際に、少しお手伝いさせていただきました。
私は「環境と成長のシナジーに向けてのイノベーション」に関心があり、環境と企業との共進化を構想しましたが、一人で考えていてもなかなか具体策が見えてこず、何となく見えてきた団塊で締め切りになってしまい、いささか中途半端な仕事をしてしまったといまも反省しています。
しかし、そのときに感じたのは、発想の枠組みを変えようとする経営者の少なさでした。
企業成長のために環境や福祉があるのか、環境や福祉のために企業成長があるのか、という問題です。
いうまでもありませんが、後者に決まっているのですが、多くの人はどうも前者で考えています。
それが先日書いた「組織基点発想」の落とし穴です。
仲間の従業員を解雇して、企業が生き延びる意味があるのでしょうか。
多くの人は「ある」というでしょう。
私は躊躇なく「ない」と断言しますが、ではその結果、企業が倒産したらどうするのかと詰問されそうです。
倒産したらそれはそれで仕方がなく、その先どうするかを仲間みんなで考えればいいだろうと思うのですが、たぶん受け入れられないでしょう。

映画などで、一人の生命を守るか多くの人の生命を守るかというような場面があります。
一人を犠牲にすることで、大勢の生命が救われるとしたらどうするか。
いわゆるコラテラル・ダメッジの問題です。
実際にそうした現実に直面することはあるでしょう。
しかし、勘違いしてはいけないのは、企業倒産はそれとはまったく別の話です。
第3の解決策があるにもかかわらず、問題を白か黒かにしてしまうのは危険です。

いま私たちは、あまりに景気浮揚とか消費拡大に目を向けすぎているような気がします。
ガソリンへの特別税を廃止するかどうかで議論になったときに、自動車利用を促進して環境汚染を進めていいのかという議論があったように思いますが、最近は高速道路料金を安くして自動車利用を増やすことに関しては誰も環境問題を言いません。

昨日は「仕事観」のことを書きましたが、問題は「経済とは何か」ということなのかもしれません。
「経済成長あっての環境と福祉」を逆転させて、「環境と福祉のための経済成長」を考えなければいけないように思います。

■経済とは自然を消費すること(2009年4月4日)
経済とは何か。
昨日の続きです。
書き出すと止まらないのも私の悪癖ですが。

経済時評では時々それらしきことも書いていますが、経済のシステムは実に思考の対象としては魅力的です。
一般に近代経済システムは、資本の自己増殖によって拡大していくオートポイエティック(自己創成的)なシステムといっていいでしょう。
しかし、私の経済学の定義はそうではなくて、もっとシンプルです。
自然を商品化すること、つまり自然を消費すること、それが近代社会の経済だろうと思っています。
20年程前に書いた「脱構築する企業経営」の記事では、「消費機関としての企業」という節を設けましたが、この単純な「経済観」に従っています。
こういう見方をすると、環境問題もよく見えてきます。

経済学では有名な労働価値説があります。
このブログでも時にその発想に従って書いていますが、労働が剰余価値を生み出すということを正確に言えば、自然の価値を貨幣価値に変換するのが労働だということです。
労働によって生み出された商品価値は、そのために投入された労働を支える商品価値を上回るということです。
しかし、そもそもの価値の源泉は労働にあるわけではなく、自然にあります。
そう考えると企業活動の生産性や社会的視点からの生産活動の意味は全く変わってくるはずです。
これも先の小論で書きました。

自然の持っている潜在的な価値、つまり自然そのものの価値を、顕在化する、つまり人間にとっての使用価値に転換するのが近代社会の「経済活動」です。
それによって貨幣価値に転換できる商品価値が生まれます。
このことが貨幣の自己増殖を意味するのでしょう。
しかし、貨幣が貨幣を生むわけではありません。
貨幣が産卵するのを、私は見たことがありません。
マジシャンのセロや前田さんが、1枚のコインを10枚に増やしたりするのを見たことはありますが。私の机の上にある紙幣が増殖するのを目にしたことはありません。

今までは存在しなかった商品価値を、自然の中から顕在化させると、世の中の商品価値の総量は増加します。
配分の仕方にもよりますが、人々の生活は豊かになりそうです。
しかし、そのときに、もし通貨量が変わらなかったらどうなるでしょうか。
商品の貨幣価値は下がります。つまり貨幣価値が高まります。
しかし、商品の総量が増えると通貨の流通速度は加速されます。
それによっては、時間軸を入れると通貨量が増えることになるかもしれません。
そうなると逆に商品の貨幣価値は上昇し、インフレに向かいます。
そうなると、人々の生活は貧しくなることも起こりえます。

とまあ、こういうように話はどんどん面白くなっていきます。
複雑になっていくといってもいいでしょうか。
そして挙句の果てに、金融工学の魅力に取り付かれていくわけです。

しかし、経済とは自然を消費することだという考えに立てば、経済を考える課題は簡単です。
経済成長はできるだけ避けるべきなのです。
経済を成長させないようにしながら、みんなが豊かになることを考えることが、これからの経済の課題でなければいけません。

マルクスは「資本主義経済の持続不能性」を見通していたようですが、経済とは自然を消費するものだと考えれば、私のような凡人にも経済には先がないことはよくわかります。
ですから無駄遣いは自然としなくなりますし、経済成長への共感もなくなります。

大学時代、私は経済学が全く理解できませんでした。
最近ようやく経済学の面白さを知りました。
来世では、ぜひ経済学を学びたいと思っています。
その頃の経済システムはどんなものになっているのでしょうか。
いささか心配です。

■世界を見る枠組み
(2009年4月5日)
昨日の話です。
JRの小田原駅のホームで、中年の男性が怒って、隣のたぶん知り合いでない男性に話していました。
「次の電車の発車まで15分もあるので、ゆっくり歩いてきたら、階段を下りたら前の電車のドアが閉まった。まだ前の電車がホームにいるのに、改札口の表示ではもう発車済みになっていた。まだホームにいたことを知っていたら、急いでホームに着て乗れたのに、15分もホームで待たないといけない。むかしはこんなことはなく、ホームの駅員が階段の上を見て下りてくる人がいないか確認したものだ。」

怒りが止まらなかったのか、次の電車が来るまでの15分近く、ずっと怒りをぶちまけていました。
私も似たような体験がありますが、最近は駆け込み乗車を避けるために少し早目に表示を替えるようです。

まあどうでもいいような話なのですが、その人の話を聞きながら(大きな声で話していたので耳に入ってきたのです)、私も最初内心で賛成してしまいました。
私も全く同じ行動をしていたからです。
表示がもし替わっていなければ私も十分間に合いました。
正直、ちょっとムッとしました。
もし彼が私に話してきたら、同調してしまったかもしれません。
しかし、やはりこれはJRの対応が正しいように思います。
むしろ、急いで乗ろうとして怪我をする危険から守ってくれたことを感謝すべきです。

この話はいろいろと考えさせられました。
まず、私たちはどうしてこうもせわしなくなってしまったのかということです。
次に、私たちはどうしてこうもわがままになってしまったのかということです。
まあ、これは私自身の生き方への反省ですが、もうひとつ気づいたのは、
みんなのために親切な仕組みをつくればつくるほど、みんなの不満は高まるということです。
つまり、満足と不満とは反比例の関係にあるのではなく、比例関係にあるということです。
これはとても示唆に富むことです。
満足も不満も同じことだということを示唆しているのですから。

私たちは往々にして、いわゆる対立概念は反対のものだと考えがちです。
しかし、もしかしたら、私たちが考える「対立構造」は根本から間違っているのかもしれません。
つまり私たちが世界を見る枠組みが大きく変わってきていることに気づいていないのかもしれません。
枠組みを変えると、きっと私たちの生き方も変わっていくでしょう。

■北朝鮮の存在価値(2009年4月6日)
北朝鮮のミサイル発射事件の直後、テレビの番組で、「日本の防衛費を増額すべきかどうか」という視聴者電話調査をしていました。
60%以上の人が、防衛費増額賛成でした。
この番組のディレクターのような人たちが、数十年前に日本を戦争に導いていったのでしょうね。
さすがに出演していたコメンテーターも、やや引き気味でしたが、キャスターたちは何とかして防衛費増額につなげたいと一生懸命話していました。
こういうことが多いので、最近はテレビを見るのがいささか憂鬱です。

最近、「社会をつくる自由」という、竹井隆人さんの本を読みました。
そこに、こんな文章が出てきます。

人民の直接的支持を得ているはずの数々の政権が、人民を虐げ、ろくでもない末路をたどったものは少なくない。
つまり、住民投票のような参加をいかに推し進めても、その場の「雰囲気」に押し流されてしまう可能性が高いのであって、人々が十分に議論を尽くす「熟議」が必要なのだ。

ナチスもまさに民主的な制度の中から生まれたことを忘れてはなりません。
世論調査なる代物が、最も危険なものなのです。
その気になれば、どんな世論もつくれることは、ナチスの歴史が示しています。
それに抗するには、自らのしっかりした見識を持つことです。
そしてそのためには、自らの世界を常に開いたものにしておくことです。

北朝鮮の現政府が存続しているのは、世界にとって「存在意義」があるからです。
そのことを、今回の事件は顕在化させてくれたように思います。

■機械的につながってしまった社会の脆さ〈2009年4月7日〉
オフィスに出かけようと我孫子駅に着いたら、またダイヤが乱れていました。
実は先週のダイヤの乱れた日に、あわてて電車に乗って、回送の電車に乗ってしまった経験があるので、今度はゆっくりと状況を判断しました。
原因は、代々木公園駅の信号トラブルでした。
人身事故でなくてホッとしました。
そのため、千代田線は我孫子と松戸の区間往復運転でした。
細かく言うと、途中の松戸・綾瀬間と表参道・代々木上原間の2区間が不通になっていたのです。
千代田線に並行して走っている常磐線は正常でした。

まあそれだけの話なのですが、こうしたことからもいろいろなことがわかります。
千代田線に乗ったこともない人には、場所の感覚がわからないでしょうが、代々木公園駅は千代田線の我孫子と反対側の終点の手前の駅です。
そこの信号トラブルにもかかわらず、なぜ遠く離れた松戸・綾瀬間(これは相互乗り入れのJR区間です)が不通になるのか、不思議です。
まあ、そんなことに頭を働かせていると、この厳しい社会は生きていけないような気もしますが、逆にそうしたことに気づかないために、みんな生きにくくなってしまっているのかもしれません。

遠く離れた東京メトロ管区の信号トラブルが、それとつながっているJR管区の電車の不通を引き起こしているということは、象徴的です。
社会はいまや実に複雑に絡み合っています。
関係は見えなくとも、すべてが連動しているのです。
世界にはもはや、自分の日常の暮らしと無縁なことはないのです。
いつ見えないつながりを通して、自分の暮らしに津波が押しよせてくるかもしれません。
北朝鮮のミサイル事件は、見えているだけ安全なのかもしれません。

さらにいえば、さまざまな仕組みのつながりは、それこそ自己創成的に、リゾーミックに成長しているのです。
したがって、もはや管理不能になりつつあります。
もちろん、その管理不能な仕組みを意図的に操作することは可能ですが、そのリスクは大きいです。
昨今の金融の混乱は、その現われだろうと思います。

ところで、今回は千代田線と並行して走っている常磐線が正常運転をしていたのですが、実はこれは珍しいことなのです。
いつもはどちらかがトラブルに会うと、他方もそれに付き合う構造なのです。
そうしたダブル不通に出会っていつも感ずるのは、JRの「安全」観への疑問です。
これは書き出すと長くなるので、また機会を改めます。

第一、千代田線の事故なんて、皆さんの関心事ではないでしょうし。

■浪費国家(2009年4月9日)
さらに15兆円の補正予算がでてきました。
まさに日本もアメリカ型の浪費国家になってきました。
その先鞭をつけたのは小泉政権ですが、そこから加速度的に浪費奨励が行なわれ、財政改革や公務員改革などというスローガンとは裏柄に、浪費は加速化しています。
しかも、その浪費行動を国民にまで広げようということが、あからさまに行なわれだしています。

その報道をしていた朝日新聞の別のところに、総理の海外出張の費用が出ていましたが、億単位というのにも驚きました。
まあ、私の金銭感覚が最近はずれているのかもしれません。

資本主義は、自転車のように動いていないと倒れる仕組みです。
しかもその動きは、拡大でなければいけません。
拡大していかない限り、「資本」は自己増殖しないからです。
そうした仕組みを支えているのが消費者ですが、生活者を消費者に変えることが資本主義の成功の出発点でした。
ですから一概に「消費」が悪いとは言えませんし、消費と浪費はどこが違うかと問われれば、明確に答える自信もありません。
しかし、なんだかちょっと違うような気がしています。

景気浮揚と称して、政府からさまざまな助成金や「消費要請」が各地に出回っています。
私の周辺でも、そうしたお金を活用して、ビジネスをしている人も少なからずいます。
やっている本人が、こんなにお金をもらっていいのかというほどなのですから、たぶん楽な仕事であり、あんまり意味のない仕事なのかもしれません。
私もそのおこぼれに預かりたいと思う気持ちもないわけではありません。
またそうしたお金で利益を上げている人たちを非難するつもりもありません。
そういう活動を通して、社会企業的的な活動に向かっている人もいるでしょうから。
しかし、そのばら撒き方のひどさにはいささか疑問を感じます。
お金をばらまくことに関心があり、その使われ方にはあまり関心がないように感ずるからです。
そうした姿勢は、まさに定額給付金に象徴されています。

最近は変わってきましたが、少し前までは、
行政職員に事業とは何かと訊けば、「お金を使うこと」と答えたでしょう。
企業に人に訊けば、「お金を稼ぐこと」と答えました。
事業のためにお金があるのではなく、お金のために事業があったのです。
その発想からいえば、「消費」は事業であり、浪費は「良い事業」でした。
行政が無駄遣いしてきたのには、それなりの意味があったのです。
企業の事業もまた、自然や人間の「消費」でした。そして、消費がお金を生み出したわけです。
こうしたことは、資本主義に内在する本質的なものです。

しかし、そうした資本主義の本質が、いまさまざまな問題を起こしています。
それは資本主義が悪いということではなく、資本主義がもたらす問題です。
問題があるからそれ自体が悪いなどということにはなりません。
すべてのものには、問題があります。
完全無欠なものは、神だけだなど言う人もいますが、神様もたくさんの問題を抱えています。
悪と善は常にコインの裏表です。

資本主義を否定するのではなく、つまり消費を否定するのではなく、その「あり方」を考え直すことが大切です。
私自身の生き方においては、それなりに納得できる消費生活を行なっています。
しかし、私が納めた税金が、政府によって、私にとっては浪費としか思えない使われ方をし、それが回りまわって私を生きづらくはしてほしくないと思っています。
未来の世代からの巨額な借金で、今の贅沢を維持したくはないものです。

政府が浪費するとどうなるかは、かなりはっきりしています。
誠実に汗をかいている人と浪費で欲をかいている人の、経済格差が広がることです。
一見、景気は良くなったような数字は出てきますが、誠実に暮らしている人にはわずかばかりのおこぼれがくるのが関の山でしょう。

■犠牲者が最大の支援者になる理由(2009年4月10日)
昨日、書いていて気づいたことがあります。
同じ1万円であっても、置かれた状況によって意味合いが全く違います。
それと同じように、同じ言葉でも置かれた状況によってインパクトは全く違います。
それがもしかしたら「犠牲者が最大の支援者になる理由」なのかもしれないということです。

当時、最も民主的だといわれていたワイマール憲法下のドイツで、ナチス政権が圧倒的な国民の支持を受けて成立しました。
そんな昔の話を持ち出すまでもなく、郵政民営化にしても、雇用法の改正にしても、それを圧倒的に支えていたのは、おそらくその被害を一番受けてしまった層の人たちです。
なぜそうなるのか、私はいつも不思議に思っていました。
人が良すぎてだまされたのか、あるいは知識不足が招いた不幸なのか、などと考えたこともありますが、それは私の独善的な考えに過ぎません。
彼らは、それが一番自分にとってよいと考えたと考えるべきでしょう。
なぜなら、そういう歴史がずっと続いているからです。

同じ1万円でも、麻生さんや御手洗さんにとっては、意に介するほどの金額ではないでしょう。
しかし、つつましく生きている人にとっては、1万円札は輝くように価値のあるお金に感じられるでしょう。
施策の効果は、その人の置かれている状況によって決まってきます。
つまり、経済政策の効果は、貧しい人にほど喜ばれるということです。
貧乏人にとっての1枚のパンと、金持ちにとっての高級自動車とでは、その喜びは貧乏人のほうが大きい。
極端に言えば、こういうことです。
景気浮揚のための歳出の10%程度を国民にばら撒いておけば、90%は自分たちの私腹に取り込める、というのは少し言いすぎかもしれませんが、それが真実ではなあいかと、最近思えて仕方がないのです。

言葉もそうです。
つらい立場に置かれている人は、本当に些細なやさしい言葉で涙が出るほど感激するものです。
この2年の私がそうです。
しかし強い立場にいる人には、他人の親切や思いやりなど、見えも聴きもできません。
ですからトップの言葉は、貧しい立場や弱い立場にある人にほど受け入れられることになります。
そして重要なことは、その言葉は内容がないほどいいのです。
内容のある言葉は、そうした人には受け入れられないからです。
つまり立場に応じて、勝手に解釈できる言葉のほうが、人を動かすわけです。

こうして格差社会は広がっていくわけです。
やっと納得できました。

■「自らの考えを善と主張する悪」〈2009年4月11日〉
友人からのメールに面白い話がありました。
息子さんが就職し、バイク通勤することになったのだそうです。
それまでつかっていたバイクを使用するというので、
せめてもの親心という思いで、汚れていたバイクを雑巾で綺麗に拭いてあげたのだそうです。
そうしたら、息子さんから「余計なことしないでよ」と怒られたというのです。

そのつづきは、その人から来たメールを引用させてもらいます。

彼らしからぬ物言いに、ちょっと驚いたのですが、
きれいな車やバイクだとイタズラされるとのこと。
わざと汚れるままにしていたのです。
子ども達をとりまく現場の厳しさは承知していたはずなのに、
あらためて現実を突きつけられた思いでした。

いろいろ考えさせられる話です。
おそらく私たちは、自分では気づかないままに、こうした「余計なこと」をいろいろとしてきているのでしょうね。

ヘーゲルは、近代の啓蒙社会には、それまではなかった新しい「悪」が現われたといいます。
「自らの考えを善と主張する悪」です。
神から解放された主体性をもった人間は、自らの考えを持つことができるようになりました。
ということは、世の中に多様な考えが発生したということです。
いわゆる価値の多様化ですが、そのことは自分の考えと違う考えを尊重するということが重要になってきたということです。
まあ、ヘーゲルを持ち出すほどの話ではないではないかと言われそうですが、私はこの話を聞いて、すぐにヘーゲルと多文化共生に取り組んでいる友人の顔を思い出しました。

自分の考えで人と関わるのではなく、人とのかかわりの中から自分の考えを育てていくことがますます大切になってきているような気がします。
私自身の直すべき点を教えてもらったような気がします。

■企業献金議論の限界(2009年4月12日)
企業献金に関しては、こういう議論があります。
いつも冷静に問題解析している日経の加瀬記者が盛んに話す論理です。

もし企業献金が何らかの見返りを求めるのであれば、買収につながる。
もし見返りを求めないのであれば、株主に対する背任行為になる。
だからいずれにしろ、企業献金は全廃すべきである。

おそらく多くの人は「なるほど」と思うでしょう。
しかし私は、1970年代に世界を席巻したフリードマンの亡霊を感じます。
私の考えでは、想像力の欠如です。
想像力の欠如は、社会を偏った方向に向かわせかねません。

フリードマンは、企業の社会貢献活動を否定しました。
裁判では時代の流れの中で、企業の社会活動は認められる方向で動きましたが、時代はそうしたフリードマンの経済思想で動いてきました。
そうして金融不況が発生したのです。

1960年代のアメリカで、「コーポレート・シチズンシップ」の議論が広がりました。
企業も社会の構成員として、しかるべき社会活動をすべきだという議論です。
日本でもその発想は紹介されましたが、大学教授の世界でしか話題にはなりませんでした。
私の記憶では、経営者の社会的責任を議論していた当時の経済同友会さえもあまり関心を持ちませんでした。

1990年代になって、コーポレート・シチズンシップは日本の企業にも広がりだしました。
そのきっかけをつくった一人は、当時、笹川平和財団にいた田中弥生さん(最近の「NPO新時代」の著者)です。
彼女が中心になって、「コーポレート・シチズンシップ」を出版するのに協力し、ささやかにその考えの広がりを応援しました。

そのときに、こうした活動の基本にあったのが、”Enlighten Self-Interests”(啓発された自己利益)という考え方です。
社会は企業の存在基盤です。
社会が健全で元気であってこそ、社会も元気になります。
決してその逆はありません。
1990年代、IBMは、企業の社会活動(コーポレート・シチズンシップ活動)は企業にとっての存続に関わる課題(サバイバル・マタ−)だと言っていました。
ところが、フリードマンのような「有識者」や「経営学者」が、その足を引っ張り、企業に短視眼的な儲け主義を植え付けたのです。

さて、企業の政治献金です。
目先の工事受注のための献金が問題なのはいうまでもありません。
しかし、長期的な視点で政治に献金していくことは、むしろ大切なことだと思います。
そうしたことを考えずに、何でもかんでも企業の政治献金はやめるべきだという人に、ぜひ考えてほしいものです。

■正しく生きることの大切さ(2009年4月13日)

「いまの世の中に生まれて、国をよくしようと思うものは、何もそれほど苦悩する必要はない。大事なことは、人としての当然の感情に基づいて、自分の行動を正しくし、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性をそなえることだ」

熊本に行く飛行機の中で、福沢諭吉の現代語訳「学問のすすめ」を読みました。
とても共感できるところが多かったのですが、130年ほど前に書かれた文章が、今もなお通用することにいささかの驚きを感じました。
たとえば、この文章です。
まさにいま、私がめざしている生き方です。

「信ずることには偽りが多く、疑うことには真理が多い」
この言葉にも驚くほどのリアリティを感じます。

「学問のすすめ」は、今の若者たちにも勧めたいとおもいます。
要するに「基本」が欠落しだしているのです。
明治時代には、国をつくろうという政府があったことがよくわかります。
それがあればこそ、福沢諭吉の存在があったのかもしれません。
いまはどうでしょうか。
国を壊そうという政府しか見えてこないのが残念です。
学問が失われてきていることも心配です。

■暴力と権力(2009年4月14日)
タイでの反政府デモなどの騒ぎを見ていて思いだすのはアレントの言葉です。
「力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない」

タイでの内争に関しては、何が問題なのかもよく理解しておらず、私にはその評価は全くできないのですが、同じ国民同士がここまで争わなければならないことへの悲しさと、その一方で、ここまで動けるほどの生きた社会があることへのうらやましさを感じます。
日本では、首相と政府が好き勝手にやっても、せいぜい国会周辺のデモ行進くらいなのです。
1960年代の日本には、まだいまのタイのようなエネルギーがありました。
半世紀たって、日本も成熟したのでしょうか、あるいは息の根を止められたのでしょうか。

アレントを持ち出すまでもなく、暴力と権力は全く違うものです。
アレントは、権力と暴力に関して、「一方が絶対的に支配するところでは、他方は不在である」と書いています。
おそらく、いまの北朝鮮には暴力はなく、フセイン政府下のイラクには暴力はなかったでしょう。
権力は、暴力を秩序化し、管理下におくとともに、暴力を権力維持のための効果的な手段に変えていきます。
そこでは暴力は見えないものになり、正当化され、発動せずとも暴力の目的を発揮できるようになるわけです。

逆に言えば、依然、死傷者が少なくならないイラクやアフガンは、権力がまだ確立できていないということです。
つまり、アメリカや日本による暴力行為やその支援行為は、権力を確立するものではなく、所詮は暴力のレベルでしかなかったといえるでしょう。
それは当然のことで、そこに生活の基盤を置かない「よそ者」や第三者が、納得させられる権力など樹立できるはずがないのです。
しかし、残念ながら、暴力の行く末には権力も平和もないのです。

タイの騒乱は、いろいろなことを考えさせてくれます。
しかし、もはや「暴力で権力を消し去る時代」は終わったような気がします。
そう思うのは、私が、年取ったせいでしょうか。

■マスコミの持つホメオスタシス機能(2009年4月15日)
最近の新聞やテレビを見てつくづく思うのは、マスコミは完全に社会の体制に組み込まれ、現状維持に荷担するホメオスタシス機能を強めているということです。

ややこしい書き方をしてしまいましたが、要はマスコミも体制にほぼ完全に組みこめられたということです。
ネットの世界はまだジャーナリズムが主体性を発揮できているようにも見えますが、マスコミの情報体系に対立するものとして、それへの批判勢力になっているとしたら、その世界もまた違う意味で体制に組み込まれていることになります。
体制とは、常に反対の主張を飼いならしておくものですから。

哲学者の東浩紀さんが、たしか、マスコミは国民国家のはじまりと共にはじまった、というようなことを書いていましたが、もしそうであれば、本質的にマスコミは体制のための情報管理や情報操作を内在させていますから、国家のホメオスタシス機能の一翼をになうのは当然のことなのです。
しかし、ここまで単純に翼賛会的報道をされると情報への興味さえ失ってしまいます。

それ以上に問題なのは、近代国家の限界がかなり明らかになり、それを超える動きが具現化してきていますが、そうした中での各論的な「小さなホメオスタシス」は各論を超えた「大きなホメオスタシス」を阻害しかねないことです。
以前書いたように、大きな変化が起こっている状況の中では、静態的なホメオスタシスではなく、動態的なホメオカオスが求められています。
先の表現をつかえば、小さなホメオスタシスから大きなホメオスタシスへの転換です。
大きいという言葉には、時間的な要素も入ります。

この視点でいま起こっているさまざまなことを見ていくと、事の良し悪しの基準が変わってきます。
たとえば、小沢問題への評価も全く変わってくるでしょう。
あの事件が、小さなホメオスタシスを発動させ、旧権力を温存させることになったことは間違いないでしょう。皮肉な話です。
小泉暴政と同じです。

「小さなホメオスタシス」は現状維持のために作動します。
しかし、「大きなホメオスタシス」は未来創造のために作動します。
「小さなホメオスタシス」を「大きなホメオスタシス」に拡げていくために必要なのはビジョンです。
つまり、今こそ「ビジョン」が必要なのです。

そのビジョンのヒントは、現場にありそうです。
一見、極めて論理矛盾なのですが、現場を離れたポストモダン論議が決め付けた「大きな物語」の終焉は、現場の知恵とは違うのではないかと、最近思うようになりました。

現場にある「大きな物語」の芽を見つけ出すべき時かもしれません。

■痴漢逆転判決が示唆するセキュリティ社会の落とし穴(2009年4月15日)
昨日の朝日新聞で大きく取り上げられていた記事です。

車内で痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた名倉正博・防衛医大教授(63)=休職中=の上告審判決で、最高裁は懲役1年10カ月の実刑とした一、二審判決を破棄し、無罪を言い渡した。

21世紀に入り、犯罪に対する日本社会の意識は大きく変わったといわれます。
被害者視点が一挙に高まり、ゼロリスク志向が高まったのです。
前に教育に関してゼロ・トレランスに関して書いたことがありますが、同じ流れです。
犯罪被害者支援の動きも広がってきました。
それに関しては、私も共感しています。
しかし、それに伴う落とし穴にも留意しておかねばなりません。
落とし穴とは、過剰なセキュリティ社会への動きです。

リスク社会議論は確率論の世界です。
リスクをミニマイズすることで、みんなが安全安心に暮らせる社会が目指されます。
しかし、私たち個人の視点に立てば、重要なのは確立ではなく、実際に起こるかどうかです。つまりそこでは、ゼロリスク発想になるわけです。
そこで何が起こるのか。
少しでもリスクを感じさせるものには排除の圧力がかかります。
やや極端に言えば、「疑わしきは罰する」社会の到来です。
しかも厳罰が求められます。
犯罪者の更生よりも犯罪者の排除や隔離が重視されます。
そうした流れの中で、少年法は変えられましたし、心神喪失者に対する保安処分さえ制度化されました。
いや、心神喪失者に限りません。
すべての人を監視する監視カメラも広がっています。
監視社会化に関しても以前書きましたが、私自身の意識も当時とはかなり変わってきています。
セキュリティ社会はいまや大きなうねりになってきており、そこでの生活に慣れてしまうと、さらなるゼロリスクを求めたくなります。

社会的排除が問題になっている、その根底のところで、実は社会的排除の流れが強まっているのは、いかにも皮肉な話です。
しかももっと皮肉なのは、排除する方がいつ排除される方に追いやられるかわからないということです。
社会的排除の理論は、常にその可能性をもっているからです。

今回の痴漢逆転判決は、そうしたことを考える上で大きな示唆を与えてくれます。
セキュリティ社会におけるセキュリティとは何かを考えてみるべき時期のように思います。
過剰なセキュリティ状況にある子供たちの未来は、間違いなく安全ではありません。

■298円のお弁当(2009年4月16日)
コンビニでの格安お弁当が、連日テレビで報道されています。
私がそこから感ずるのは、「食」を大事にしない文化です。
つい最近まで盛んにいわれていた「食育」とか「食の安全」はどこに行ったのかと思います。

それは違う話と言う人もいるでしょう。
しかし、大切なのは「食」をどう考えるかです。
それぞれが作っていたら、こんなには安く、こんなお弁当はできないとテレビの中で女性が話していましたが、そういう発想にこそ落とし穴があります。
どうしてみんな「価格」でしか、ものを考えなくなってしまったのでしょうか。

食は、食べるだけの「えさ」ではありません。
食をつくることも含めて、そこには私たちの生き方と深くつながっています。
「食」をもっと大事にしたいと思います。

珈琲1杯よりも安いお弁当。
どう考えても、私には納得できません。
食は生命の基本であり、文化の基本です。
私たちはもっと基本的な「食」にお金を払う姿勢を持つべきではないかと思います。
お米の価格の安さにも問題を感じます。
食は、安ければいいわけではありません。
大切なのは、私たちが「食」をどう位置づけ、どれほどの「価値」を置くかです。

商品の価格体系には、私たちの文化が現われています。
私たちの生き方の反映と言っていいかもしれません。

■「自殺ストップ! 自殺多発現場からの緊急集会」(2009年4月17日)
今朝の朝日新聞に、こんな小さな記事が出ていました。

水俣病の未認定患者の救済問題で、今国会に提出された与党の救済法案に反対する11の患者団体が15日、斉藤環境相と面会し、補償費用を確保するために原因企業チッソを分社化することや、患者認定の審査窓口を閉じることが法案に盛り込まれたことに抗議する声明を手渡した。

12日に熊本のNPOの集まりに参加したのですが、その主催者から、今日は水俣で水俣病関係の集まりがあるので、そこの人たちは来られなくなったという話を聞いていました。
そうか、まだ水俣病は動いているのだと思い出しましたが、もしその会話がなければ、この小さな記事は見落としていたでしょう。
水俣病の未認定患者の救済問題では、元水俣市長の吉井さんが異論を持って関係委員会を辞めてしまったというところまではフォローしていましたが、その後、頭からすっかり抜け落ちていました。
新潟水俣病患者救済の動きは、これも地元の知人が集まりに参加して、ライブな情報を提供してくれていたので認識してはいたのですが。

さまざまな問題が中途半端に対応されているために世の中は問題山積みで、とても追いかけておられず、ついつい報道がないと忘れてしまいます。
おそらく全国各地では、さまざまな問題が取り組まれていますが、全国ベースではそれらが見えなくなってしまっているわけです。
逆に言えば、全国ベースでは見えにくくなっている問題も、それぞれの地域では意識されて顕在化しているわけです。
熊本の人たちにはまだ水俣病は終わっていないわけです。
現場の世界とマスコミ情報の世界は大きく違います。

最近、自殺問題がかなり社会的関心を高め、マスコミでも話題化されてきました。
NPOライフリンクの活動もあって、自殺対策基本法もでき、行政の取り組みも大きく変化してきました。
ライフリンクの清水さんの働きは驚異的ですし、その成果もまた驚異的です。
しかしながら、自殺者の数は依然として3万人を超えたままです。
昨今の景気低迷の中で、今年はさらに増える恐れさえあります。
自殺多発現場といわれるところで、日々、自殺防止に取り組んでいる人たちにとっては、これはとても心外なことでしょう。
現場から見える社会の実相は、このまま放置できないようです。
そこで、現場に立脚した取り組みをスタートすることにしました。
私も、ささやかながらそれに関わらせてもらうことにしました。

4月25日、「自殺ストップ! 自殺多発現場からの緊急集会」を開催します。
これを皮切りに、現場起点での実践的な、しかしやわらかなネットワークを育てていく計画です。
現場活動者のネットワーク、自殺未遂体験者のネットワーク、そうした人たちを支援するネットワーク、そうした3つのネットワークを育てながら、「支え合い元気ネットワーク(仮称)」づくりをめざしていければと思っています。

またこうしたネットワークづくりの準備委員会も発足させます。
一緒に取り組んでいってくれる人たちを募集中です。
協力してくださる方がいたらご連絡ください。
このままでは、社会が壊れ続けそうです。

■農と業を分けて考える(2009年4月19日)
一昨日、ある会社の執行役員の人と、今の経済や企業の発想を変えなければいけないという話になりました。
そして、その人から、「じゃあ、どうしたらいいのですか」と訊かれました。
答は簡単です、といつものように答えました。

簡単なのです。
時代に誉めそやされている経済学者や経営学者は常に間違いますから、彼らの反対をすればいいだけです。
では反対とはどういうことか。
答は、たぶん日本の農文化にあります。

私が若い頃から刺激を受けていた、農に関する3人の賢者がいます。
以前も書きましたが、玉城哲さんと守田志郎さんと山下惣一さんです。
直接お会いして話をお聞きできたのは、玉城さんだけです。
いつか山下さんには会えるのではないかと思っていますが、まだ会えません。

机に積んでおいたエントロピー学会の学会誌をふと見たら、山下さんの記念講演の記録が載っていました。
読み出したら、やはり感激しました。
すべての答はここにあります。
この記事を多くの人に読んでもらいたいと思い、ネットで公開されていないか探しましたが、出ていません。
勝手に掲載するわけにも行きませんので、とても残念です。
そこで、特に私がハッとしたところを一つだけ紹介させてもらいます。

日本の農業は、効率が悪いとか生産性が低いだとか散々言われてきました。それで、農業を農と業に分けて考えてみます。直接金にならない仕事を農といい、ビジネスの方を業とする。農の部分が大きい例が、林業です。逆に卵をとる養鶏などは業が非常に大きい。作物を育てる農業は90%位が農の部分です。棚田の石垣や畦の手入れ、草刈り、こういう仕事は米の収量とも値段とも関係がないけれども、それがないと成り立たない。金にならない仕事を9割もしなければならないから、農業は分が悪いわけです。
ところが、金にならない農の仕事が日本の風景を作っているんです。日本人が自然と思ってみている風景は、決して自然ではなくて、実は農の風景なんです。これを百姓はただでやっている。

農と業を分けて考える。
こうして考えると、今の経済や産業の問題点がよく見えてきます。
私たちの生活を、同じように分けてみたらどうなるでしょうか。
大切なのは、業(金銭)ではなく農(生活)なのだろうと思いますが、多くの人はきっと「業」に時間をとられているのでしょう。
私は、最近は江戸の百姓と同じく、9割はたぶん農をしているつもりです。

山下さんの講演記録は、エントロピー学会の最新の学会誌(63号:2009年3月15日発行)に掲載されています。
学会事務局に問い合わせれば、500円でわけてもらえるかもしれませんが、学会に参加するのもいいかもしれません。
とても誠実な学会です。

■NPOの2つのミッション(2009年4月20日)
昨日、討議型コムケアフォーラムというのを開催しました。
私のホームページに案内が出ていますが、
テーマは「NPO活動(市民活動・住民活動)が育む市民性を考える」でした。
3時間にわたる熱心な議論で、私もたくさんの刺激を受けました。

問題提起者は田中弥生さん(「NPO新時代」の著者)です。
田中さんは昨今の日本の社会にかなりの危機感を持っており、その話しぶりにも「思い」を感じました。
田中さんは、NPOの役割には2つあるといいます。
「社会サービスの提供」と「市民性創造」です。
そして最近の日本のNPOの動きは、市民性創造の面が弱くなっているのではないかといいます。
その現われの一つが、寄付活動とボランティア参加者の停滞です。
社会的企業が最近話題になってきていますが、
それに関しても考えるべき点があるのではないかと、いろいろと具体的に話してくれました。
そして最後は、社会サービスとともに「市民性創造」という重要な使命をもった民間非営利活動(市民活動・住民活動)こそが、これからの日本社会を支えていくと締めくくりました。

とてもわかりやすくて、説得力がありました。
田中さんの問題提起に続いて、参加者が自らの体験者を踏まえながら話し合いをしました。
参加者が20人を超えてしまったために、じっくりと議論するまでには至りませんでしたが、刺激的な3時間でした。
田中さんの考えを詳しく知りたい方は、ぜひ「NPO新時代」をお読みください。

田中さんは講演者としてではなく、みんなの話に誠実に耳を傾けてくれました。
コムケアはみんな同じ目線で考えるということを大切にしていますが、
田中さんのような研究者と現場での実践者が仲間として交流できる場がもっともっとあるといいと思いました。

コムケア以外の参加者の方から、NPO活動になかなか人が集められないという発言もありましたが、多分、「集める」という発想に原因があるような気がしました。
価値のある活動は、人を集めなくても、人は集まるのです。
NPO活動、とくにNPO支援活動やネットワーク活動をしている人たちは、ともかく人を集めたがりますが、その発想こそが今の社会を創ってきたことに気づかなければいけません。
そうした拡大成長や形を整える社会で育ってきたシニア世代が、日本の住民活動を壊していかなければいいのですが。

人が集まらないのは、その活動に価値がないだけのことなのです。
それに気づかずに、唯我独尊の活動をしているNPOがいかに多いことか。
気づかないのはいいのですが、集まらないのは住民の意識が低いからなどと考える人が多いのが気になります。
この15年、各地のNPO活動にささやかに関わっていますが、市民性とか社会性が欠落しているところが多すぎます。
人としての付き合いの基本常識さえ欠落しているところも少なくありません。
そんなわけで、NPOに関われば関わるほど、NPO嫌いになってきていますが、それにも関わらずNPOに期待しなければいけないのも事実です。
そんなわけで、私もNPOを創ったりしているわけですので、悩ましいです。

市民性や社会性を育てていくこと。
私もそこにこそ未来を感じています。
昨今のNPOが、それとは違う方向に向いているような気がして、少し心配です。

■消費力開発が最大の企業の戦略課題という恐ろしさ(2009年4月21日)
日立グループの会社が「エコ偽装」事件を起こしてしまいました。
朝日新聞はこう報じています。

リサイクル素材を使った「省エネ」製品として売っていた冷蔵庫9機種に、実際にはその素材をほとんど使っていなかったとして、公正取引委員会は20日、日立製作所の家電子会社「日立アプライアンス」に景品表示法違反で排除命令を出した。消費者の誤解を招く不当表示にあたると認定した。

この冷蔵庫は、財団法人「省エネルギーセンター」の省エネ大賞で同センター会長賞を受賞していたそうです。
なぜかテレビで盛んに報道されていますが、日立は「開発部隊と宣伝部隊が持っていたデータの違い」などと「最悪の釈明」をしているのも気になりますが、こうした事件の奥にある問題をしっかりと認識する必要があります。
ここには様々な問題が示唆されており、おそらくきちんと書き出したら1冊の本になるでしょう。

今回は「消費力開発」に関してだけ書こうと思います。
現在の経済の枠組みが方向づけられたのは、1940年代のトルーマン米国大統領の「開発戦略宣言」だろうと思いますが、その後、経済は「市場創造」を最大の課題にしてきました。
それに呼応するように、経営学は「顧客創造」と「イノベーション」を中心にしてきました。
その象徴がドラッカーです。
私は、会社に入った年にドラッカーを読んで、企業経営というものに大きな疑問を抱き、それが私の「経営学」への不信を育ててきてしまったのです。
経済の目的は、市場の創造ではなく、生活を豊かにすることだろうと、素朴に思っていましたから。
それでもまだ当初は、生活と市場創造はつながっていました。
その乖離が見え始めたのは1970年代でした。
ラルフ・ネーダーのコンシューマリズムが、それを可視化していったのです。
日本でも、たとえば「消費者連盟」のように、それまでの主婦連型の消費者運動とは発想を変えた動きが出てきました。
しかし、大きな流れは止めようもなく、消費開発によって生産を増やしていくという、生活にとっては本末転倒な経済が肥大化してきます。

生活していくための消費は限界がありますので、そこで編み出されたのが「記号消費論」です。
これが1980年代のバブルを主導しました。
それが挫折すると、今度は通貨を商品に仕上げて、金融の大衆市場を創出しました。
その限界が露呈したのが、この数年です。

日立の「エコ偽装」事件は、こうした流れ、ちょっと遅れたエピソードの一つです。
つまり、「エコ」概念が市場拡大に使われただけの話です。
企業の世界でブームになる、環境経営やCSR、ユニバーサルデザイン、安全性、そうしたものは結局は市場拡大のための材料に終わってしまっているのです。
しかも、問題は、そうした「概念」さえもが「浪費」されてしまっているわけです。
漢字検定が問題になっていますが、省エネ大賞だって同じようなものです。
国民も企業もなぜか「資格」を求めますが、それは自らに内容もなく自信がないからでしかないでしょう。
省エネ大賞受賞などと大々的に謳っている商品にいいものなどあるはずがありません。
「いい」というのは誰か(企業や検定機関)の利益になるという程度の意味しかないのです。
少し言いすぎでしょうか。
資格や肩書きは内容のないことの補償行為ですから。

なんだかまた前置きで終わってしまいそうです。
「消費力開発」と言う言葉は、昨年、私が「発見」した(と思っている)概念なのですが、いつかそれを書きたいなと思っていました。
今日の早朝のテレビを観ていて、それを思い出して書きだしたのですが、項を改めて、明日、きちんと書くことにします。

一言だけ書いておけば、「消費力開発が最大の企業の戦略課題」という視点を持てば、昨今の企業不祥事はもとより、企業の言動の多くが理解しやすくなると共に、たとえば最近の派遣切りなどがいかに企業にとっても間違った選択なのかがわかってきます。
上海でのモーターショーにトヨタをはじめ、多くの自動車メーカーが積極的に取り組んでいますが、これまでの枠組みからまだ抜けられていないようです。
「消費力開発」に依存した企業経営や経済の恐ろしさを認識しなければいけません。

■スーザン・ボイルさんの歌は聴きましたか(2009年4月21日)
スコットランドのスーザン・ボイルさんが話題です。
英国の素人オーディション番組での歌唱映像が「ユーチューブ」で世界中に広がり、今や世界の人気者のようです。
昨日のテレビの報道番組でも各局取り上げていました。
海外のプロのミュージシャンも絶賛らしいです。
日本のキャスターもコメンテーターもみんなその素晴らしさを褒め称えていました。
報道ステーションの古館さんも絶賛し、大切なのは歌い手の見かけではなく、歌そのもので評価しなくてはいけないというような発言もしていました(かなり不正確な記憶なのですが)。
皆さんはいかがでしたでしょうか。

私は、音楽音痴なのか感動しませんでした。
テレビで聴いたせいか、みんなが大騒ぎするほど魅力的でもありませんでした。
もちろんいい声ですし、表情のある歌唱だとは思います。
しかし、この程度の、と言うと失礼ですが、よく聴いたような気がするレベルでした。
なんでみんなあんなに感動するのかと不思議でしたので、わが家の娘たちにも訊いてみましたが、彼女たちもまあそれほど感動していませんでした。
一家そろって音楽音痴なのでしょうか。

さらに私は思います。
やはり歌い手の歌う時の雰囲気はとても大事だと思うのです。
娘もそういう思いで、目をつぶって聴いたそうですが、やはり感動するほどではなかったといいます。
まあ、それとは意味が違うのですが、私はやはりどんな人がどんな雰囲気で歌うのかにはとても影響を受けます。
美人でなければいけないとはいいませんが、雰囲気は大切です。
大変失礼ですが、ボイルさんの雰囲気で歌われるのは感動につながりにくいです。

決してスーザン・ボイルさんをこき下ろしたいのではありません。
実際に、生で直接聞いたら、感動するのかもしれません。
いえ、「ユーチューブ」で聴いても、とても快いです。
ただみんなが騒ぐほどのことはないと思うのです。
そして、話題になるとみんなどうしてこうも同調してしまうのか、しかも感動まで同調してしまうのが気になるのです。

最近読んだ本にこんな文章が出ていました。

大勢の人々が価値と考え、賞賛し欲望するもの、これがどんな社会においても、人間の社会的欲望の一般基準である。

天才の創造力が美の模範を、つまり日の秩序の基準を作り出すと考えられるが、実際には、不特定の人々の美的感受性による批評こそが、天才とそうでないものの秩序を作り出すのである。

何だかその実例を見せられているような気がします。
私はスーザン・ボイルさんのコンサートに招待されても、たぶん行きません。
和田あきこさんのコンサートなら喜んで行きますが。

無粋な話ですみません。
まあ今回は音楽の話なのですが、これが教育や政治の話になると恐ろしいです。

■消費者(消費機関)から生活者(人間)へ(2009年4月22日)
昨日の、「消費力開発戦略」の続きです。
途中に、よせばいいのに、スーザン・ボイルさんのことを書いてしまいましたが。

誤解があるといけませんが、私は「消費力開発」を肯定しているのではありません。
その反対で、消費力開発に向かってしまった経済のために、社会は壊されてきていると考えているのです。
昨日も言及した、ラルフ・ネーダーのコンシューマリズムは、そうした経済に「生活」の視点を呼び起こすチャンスでした。
私はそこで経済に対する興味を初めて感じました。
まだ企業に在籍していましたが、コンシューマリズムの調査を行い、トップに報告しました。
その視点でいろいろと見ていくと、その時点(今から40年近く前ですが)でも社会の問題が見えてきました。
廃プラ、ゴミ問題、リサイクル、省エネ、ソフトエネルギーパス、バイオマス、工業の農業化など、いまなお問題のテーマを調べ、トップに提案していったりしました。
そして結局、会社を辞めてしまったわけです。

工業は「死に向かうパラダイム」の上に乗っています。
サブシステムとしてはいいですが、それがメインになると、主導権は人間から外れていくように思います。
たとえば、当時、盛んに言われたのが「静脈産業論」です。
いわゆるリサイクル産業ですが、それが「工業論理」に乗っている限り、結果はますますの環境汚染につながっていくはずです。
北九州市のエコタウンも2日間、じっくりと見せてもらいましたが、矛盾の集積でした。
大切なのはリサイクルでも省エネでもなく、省資源です。
リサイクル法はすべて消費力開発の視点で設計されていますから意味がありません。

資本主義の当初、経済はたぶん生活からの需要に合わせた「生産」が主導していたのではないかという気がしますが、それでは利益も少ないですし、成長も緩やかです。
そのため、ある段階から「需要創造」が始まりました。
それがトルーマン宣言からはじまる「開発主義」「進歩主義」なのでしょう。
しかし、「需要創造」とは「生活破壊」「環境消費」であり、「顧客創造」とは「生活者排除」なのです。

そしていまや企業のみならず、政治までが「需要創造」「顧客創造」を先導しているのです。
マスコミは、それに加担して利益を得ています。
新聞は、広告によって成り立っているわけです。

福祉政策や教育政策も、福祉や教育の世界までをも市場化し、消費機関にしていこうということでしかありません。

こうした動きへの対抗策は一つです。
消費力開発戦略を反転させることです。
それができなければ環境問題は解決せずに、持続可能性などは絵空事になるでしょう。
個人のできることは、消費者(消費機関)から生活者(人間)に戻ることです。
しかし今の社会の中に生きている人にとって、それは至難のことでしょう。
経済が縮小スパイラルに入ると大変だと脅されると躊躇します。
しかし、7代先の子供たちのことを考えたら、そうしなければいけません。
50年くらいの時間軸で、まずはできるところから一歩踏み出す。
それが今の私の生き方です。

■私たちの「食べ方」で農業の未来は決まる(2009年4月23日)
「農と業を分けて考える」を読んでくださった岐阜の佐々木さんが、中日新聞の4月19日の社説の文章を送ってきてくれました。

2つの言葉をぜひみなさんにも知っていただきたくて、引用させてもらうことにしました。

ひとつは、今春、中日農業賞の農水大臣賞に選ばれた、石川県能美市の岡元豊さん(39)の授賞式でのスピーチの言葉です。
「農業とは“いのち”を伝える職業です。これまでは、次世代のために農業の種をまくことを心掛けてきましたが、これからは、その種を育て、実らせていくことを考えたい」

もうひとつは、審査委員長の生源寺東大農学部長の祝辞の言葉です。
「日本の農業を支えているのは食卓です。私たちの“食べ方”で農業の未来は決まります」

50年ほど前までは、こうした言葉が現実でもあったように思いますが、今は残念ながら、こうした文化は消えてしまっています。
しかし、これからの私たちの生き方がここに示されているように思います。
2つの言葉をつなげれば、私たちの未来は、私たちの「食」のあり方にかかっています。

一時期、「食育」がブームになりました。
私も実は最初とても大きな期待を持ちましたが、所詮は「産業のための食育」のような気がして興味を失ってしまいました。
しかし、「食育」は本来、こうした「文化」につながらなければ、逆効果のような気もします。
言い方を替えれば、こうした文化の回復にこそ、「食育」の目的が置かれるべきだろうと思います。
食材の4割が廃棄されるような食文化には、未来もなければ文化もありません。

農や食の問題を考えることは、いのちと未来を考えることなのだと、この社説を読んで改めて思いを深めました。

ブログを書いていると読者の皆さんから、いろいろと教えてもらうことが多いです。
佐々木さん
いつもありがとうございます。

■草g剛事件(2009年4月26日)
非常識だといわれることをまた書きます。
俳優の草g剛さんが自宅近くの公園で、深夜裸になって騒いでいたことが大きな問題になってしまいました。
当初のテレビの報道は「わいせつ事件で逮捕」でした。
鳩山大臣は「最低な人間」だと吐き棄てるように言いました。
どうも最初から違和感がありました。
地デジのCMに起用していた人物を、そう言い切りました。

もう25年以上前の話ですが、日本IBMの宣伝担当の人と話していて、なぜ日本IBMはテレビ宣伝にタレントを使わないのかという話になりました。
その人は、会社のイメージを一人の人物に託するのは、よほどの注意が必要で、慎重な飢えに慎重にするのがIBMの方針だと説明してくれました。
その言葉で、私は日本IBMが好きになりました。
ちょっと人気が出たからと言って、お金に任せて宣伝の起用する企業の姿勢にはとても違和感があります。
人気を利用するのであれば、それなりの覚悟をすべきです。
「最低の人間」を起用した最高責任者の鳩山さんは、最低以下の人間だと反省すべきです。
その認識がなくて、人を最低呼ばわりしてはいけません。
そう思いました。

それにしても、テレビの報道はあまりにセンセーショナルです。
瑣末な事件とはいえませんが、もっと大きな事件があるだろうにと思います。

ここまでは、さほど「非常識」ではないと思いますが、
さらに私は思います。
彼が言ったように、「裸になって何が悪いのか」
電車の中や街中での日中の行為であればTも書く、夜の誰もいない公園です。
騒いだのは問題ですが、騒いだだけでは「わいせつ」などという言葉は使われないでしょう。
テレビで「わいせつ行為」と流されてしまうと、後では修正できないようなダメッジを受けてしまうでしょう。
本人が起こした事件だから仕方がないというかもしれませんが、やはり私には納得できません。

どうも割り切れない、嫌な報道事件です。
どうも最近、こうした違和感のある犯罪事件づくりが多いような気がします。
お前も公園で裸になりたいのかと怒られそうですが、私の場合は、その勇気もありませんし、お酒も飲めないので酔うこともないのです。
でも、なにか嫌な感じが残る事件です。
みなさんはいかがでしょうか。

■「自殺のない社会づくりネットワーク」設立準備会がスタートしました
(2009年4月27日)
このブログでもご紹介した、「自殺ストップ!自殺多発現場からの緊急集会」が4月25日に開催されました。
予想以上に参加者が増えましたが、さまざまな人が参加してくれたおかげで、とてもいい集まりになりました。
その報告は、私のホームページにも掲載しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/life/kickoffreport.htm
そこにも書いたのですが、自分の居場所から本音で話せてよかったと言ってくれた参加者が何人かいました。
私たちが取り組んでいるコムケアの集まりは、取り組んでいるテーマが違ったり、立場や職場が違ったりする人たちが、同じ目線で、お互いにケアマインド(共感)をもちながら自由に話し合えることを大切にしています。
それぞれの異質性を尊重しながら、少し無駄な時間も我慢しながら、気楽に本音で、楽しく話しえる場は基調です。
そうした場所が、いま一番求められているような気がします。

コムケアの集まりに参加してくれた人が、ここでは安心して何でも話せるからうれしいといってくれたことがあります。
逆に言えば、そういう場が少なくなっているわけです。
そういえば、昨日はあるNPOネットワークの集まりに呼ばれて参加させてもらいましたが、いささか私の発言が過激すぎたせいか、終わった後、いつもは声をかけてくれる人が何人か声もかけてもらえませんでした。
また友人を何人か失いました。
もっともその反面、新しい人とのうれしい出会いもありましたから、世界は広がりましたが。

緊急集会の後、希望者16人で居酒屋で懇親会をやりました。
実に面白かったです。
元やくざの人や元刑事の人、幽体離脱までしてしまった重篤のうつ患者、看護師やNPO支援プログラムのオフィサー、伴侶を亡くして夢を失った人(私です)やライフワークが見つかって夢をふくらませている若者、就職したてで疲れている人や疲れて休職しだした人、まあ実に多様な人たちが、年齢や立場を超えて、話を弾ませていたのです。

こうした場がもっともっと広がっていけば、社会はきっと暮らしやすくなるでしょうね。
集会でも話させてもらったのですが、「自殺」というとなにか特殊な問題と考えてしまいがちですが、自殺を引き起こすのは、私たちの生き方であり、それが支えている社会のあり方なのです。
自殺問題だけを見ていては、自殺はなくなるはずもありません。
これは、なにも自殺問題に限りません。
すべての問題は、私たち一人ひとりの生き方に繋がっているのです。
私は、そうした考えで、「大きな福祉」の理念の基に、コムケア活動に取り組みだしたのですが、今回のネットワークも結局は、そのコムケア活動と同じことなのです。
人は何をやっても、所詮は一つのことしかできないものなのです。

今回呼びかけた「自殺のない社会づくりネットワーク」は、自殺問題にあまりこだわることなく、私たちの生き方につながる問題として、誰にも開かれたネットワークをめざそうと思います。
誰でも歓迎です。
ホームページに設立準備会へのお誘いがありますので、もしなにかやりたいということがあればご参加ください。
特にすぐにでも参加してほしいのは、ホームページを作成してくれる人です。
お金は手に入りませんが、それとは違う何かあたたかなものが手に入るかもしれません。
どなたかホームページを作ってくれる人はいないでしょうか。
また、お金の使い方がわからないで困っている方がいたら、使うお手伝いはできるかもしれません。

いずれにしろ、秋には、このネットワークを正式に発足させる計画です。
そして、60年後には、だれもが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っています。
その頃はきっと、私にとっては、来世あたりでしょうから、楽しみです。

■人の噂も75日ですが、一度落ちた信頼は回復しない(2009年4月28日)
人の噂も75日、です。
いつの間にか、年金の話も日本郵政の話題も聞こえてこなくなってしまいました。

小沢さん秘書事件はどうなったのでしょうか。
検察は黙して語らず、です。
小沢さんの説明責任が今なお話題になっていますが、説明すべきはいつも「権力側」でなければいけません。
堀田元検事は、説明する必要はないなどといっていますが、権力側に長くいるとそういう感覚になるのでしょう。
こういう権力の寄生者は糾弾すべきだろうと思いますが、マスコミでは誰も批判しません。
堀田さんとは、ある研究会で何回かご一緒し、そのお人柄には少し触れましたが、であればこそ残念でなりません。

噂は消えますが、一度壊された信頼関係は修復できません。
それこそが権力の巧妙なところです。
小沢さんを失脚させる意図はすでに成功したのです。
あとはもう噂が消えるのを待つだけなのでしょう。
権力のおこぼれで生きていかねばならないマスコミは、そのお先棒を担いでいるだけなのでしょう。
ですから年金もかんぽ問題も、すべては何も変わらずに継続するのです。

小泉政権は55年政治体制を壊したといわれますが、結局は巨額な借金を残して、そのかなりの部分を一部の取り巻きの私腹を肥やしただけでしょう。
財政改革とは全く正反対のことをし、日本の社会を壊しただけです。
そして今また、それを与謝野さんがやろうとしています。
金で権力を維持するには膨大な金がかかるわけですが、それにしてもどこまで私たちの税金をつかえば気がすむのでしょうか。
ひどい人たちです。
ともかく未来の世代からの税金を勝手に浪費している悪人たちを毎日見ていると、つくづく近代国家の役割は終わったなと思います。

私は以前あるところに書いたことがありますが、戦後のシャープ勧告による税制の体系が地方自治を壊し、日本の社会の形をゆがめたのだろうと思っています。
近代主権国家は、その出発点において、一部の権力者のためのものに方向づけられてしまいましたが、改めて18世紀の世界に戻って、もう一つのシナリオだった、個人のつながりからの国家原理を考えなおす時期ではないかと思います。
トクヴィルの「アメリカの民主主義」には、新しい国のあり方のヒントがたくさんあるように思います。
もちろん反面教師的なものも含めてですが。

いずれにしろ、権力は、常に自らの行動を国民にきちんと説明しなければいけません。
説明すべきは検察であって、小沢さんではありません。
小沢さんを自分に置き換えてみれば、それは当然のことではないかと思うのですが、なぜか責められているのは小沢さんです。
まさに今の社会のいじめの構造です。
寄って集って権力に迎合して、被害者をいじめる。
悲しい人たちの集団に、日本は成り下がってしまいました。
その一人であることが、最近は息苦しくて仕方ありません。

■自殺企図者という言葉(2009年4月29日)
その世界には、その世界の言葉があるものですが、そうした言葉からその世界の本質が見えてくることは少なくありません。
人は言葉によって、思考が大きく影響されますし、外部とのコミュニケーションにおいても言葉の役割はとても大きいです。
言葉は文化や生き方を規定します。

私は20年近く前に保育の世界に関わりましたが、その時にショックを受けた言葉が「措置」でした。
保育にかける子供を「措置」する、といった表現が保育者から出てくると、その人の人格さえもが疑われましたが、当時の福祉の世界ではほとんどの人があまり違和感なく使っていました。
私が違和感を表明すると賛成はするのですが、やはり次もまたその言葉を使います。
私が、それぞれのタコツボの中で問題解決していても限界があると感じたのは、そういうことの積み重ねでもありました。
しかし、措置などという発想で扱われる子供たちが不幸に思えました。

自殺関係のNPOに関わりだしてからもう5年ほど経ちますが、最初に違和感をもった言葉は「自殺企図者」です。
自殺を企てる人という、文字通りの意味なのですが、私にはなじめない言葉でした。
しかし自殺防止に取り組んでいる人たちには違和感がなさそうです。
今回、「自殺のない社会づくりネットワーク」に向けての集まりをやったのですが、その案内などにはみんなの意向もあって「自殺企図者」という文字をそのまま使っていましたが、どうにもやりきれない気持ちがしてきて、最後の資料づくりの段階では勝手に「自殺を考えたことのある人」という表現に変えました。
たぶん、「自殺企図者」という言葉は、私の辞書からはなくなりました。

自殺とは無縁な福祉活動に取り組んでいる人たちに、「自殺企図者」という言葉の印象を聞いてみたのですが、ある人は「ドキッとしました」と言いました。
だからこそ効果のある言葉なのかもしれませんが、その人は私と同様にこんな言葉を使われると、このテーマには距離を感じて関わりたくないと思ったそうです。

私にとっては、「自殺企図者」は人間性を感じない冷たい言葉です。
こういう言葉を語っている限り、自殺問題の本質は見えてこないのではないかと思うほどです。
ちなみに、福祉の世界にはそういう言葉が少なくないように思います。

ある人と話していて、自殺は「するもの」か「させられるもの」か、という議論になりました。
彼は、自殺を企図するのであれば、それを止められるはずがないのではないかと言いました。
私は、自殺は「する」ものではなく、「させられる」ものだから止められるし、止めないといけないといいました。
私にとっては、自殺は「企図」の対象にはなりません。
「自殺問題」をどう考えるかの、本質的な問題がそこにあるように思います。

誤解のないようにいえば、私は「自殺企図者」という言葉を否定しているのではありません。
私には違和感があると言っているのです。
今でも「措置型福祉」を望んでいる人も少なくありませんし、行政の基本発想は法が変わろうと制度が変わろうと、措置発想が今なお強いように思います。
私は反対ですが、それはあくまでも私の個人的意見でしかありません。
様々な考えがあっていいのです。

この時評編では、私は自分の考えを断定的に言い切ることが多いので、誤解されがちなのですが、ここで言い切っている考えは、あくまでも私の個人的な意見であり、普遍性があるわけではありませんし、これが正解だなどというつもりもありません。
コメントやメールで時折私の考えを否定してくる人がいますが、そんなに買いかぶってもらう必要はありません。
いろいろな考えがあればこそ、社会は豊になるのです。

自殺の問題も非常に微妙な問題なので、考えを言い切ることへの反発があるでしょうから、あえて蛇足的にいいわけを書いてしまいました。
最近、不快な批判に答えるのが疲れてきましたので。

■警察のパラダイム転換の必要性(2009年4月30日)
今朝、某事件の特別捜査本部の刑事から電話がありました。
少し話を聞きたいことがあるというのです。
時間があまりなかったので30分の約束でお会いしました。
9年前の世田谷一家殺人事件の話です。
殺害された宮澤さんは、私の知人です。
事件当時は、何回か私のところにまで話を聞きにきましたが、久しぶりです。

いろいろとお話をしていて思ったのですが、警察の仕事は大変です。
9年も前のことなど、私もなかなか思い出せません。
事件当時、もっとみんなが情報を持ち寄って解決することができないものか、考えたくなりました。
しかし、実際には情報を持っていても、なかなか自らから警察に申し出る人は少ないようです。
その一因は、警察がそれほど親しみを感じられないからです。
町の駐在所さんやおまわりさんというイメージも、最近は次第になくなってきました。
一時期、近くの交番の人が各戸に話に来ていたことがありましたが、最近はそういうこともなくなったようです。

刑事の人が「消防署の人は自分たちの生活を守ってくれると思われているが、警察はむしろ取り締まる存在と思われている」というようなことを言いました。
確かに、そのイメージはあります。
私も昨年、近くの交番の人にあらぬ嫌疑をかけられましたが、警察は人を疑う本性があるのかもしれません。
しかし、警察もまた人を信ずるところから始めなければ、犯罪を減らしたり解決したりすることはできないでしょう。
警察行政のパラダイム転換をしなければならない時期なのでしょう。
しかし、なかなかそれは難しい。
だからこそ、捜査は難航するのでしょうが、現在のような成熟社会にはみんなで一緒になって事件を解決し予防する状況を育てていくことが不可欠です。
警察は、実は消防以上に私たちの生活を守ってくれているはずなのに、多くの人から好かれていないのは、お互いに不幸です。

今日の刑事さんたちには、とても好感を持ちました。
実は、湯島にはこれまでも3回ほど警察関係の方がきたことがありますが、いつも目線が高く、忙しいといっても帰る素振りもなく、長居していました。
そういう体験があると、協力したくなくなる人もいるでしょう。

警察は、社会から親しまれないものだという先入観があるように思いますが、そんなことはありません。
駐在さんやおまわりさんは、みんなの人気者だった時代はそう昔の話ではないのです。

この問題は、コミュニケーション問題を考える上で、とても魅力的なテーマです。
今日の刑事の方も、「割れた窓」の話をされましたが、パラダイム変化はほんの小さな変化からはじまるのです。
今日、お2人の警察官と話していて、そんなことを考えました。

■パンデミック?(2009年5月1日)
「パンデミック」と言う言葉を頭に刻んだのは、辺見庸さんのテレビ番組でした。
今年の2月1日のETV特集です。
彼は、カミユのペストの医師について語りました。
この小説は、私もかなりの影響を受けた小説ですので、思い出して読み直しました。
あまりの重苦しさに、実は途中を読み飛ばして、希望が見えてきたところを2回ほど繰り返して読みました。
歳のせいか、最近は思い内容の小説は読めないのです。
その時、辺見さんが使っていた「パンデミック」という言葉は、象徴的な意味だと受け止めていました。
まさかペストが再流行するはずもないと思っていたのです。

ところがそれから3か月しかたっていないのに、まさに言葉そのものの意味での「パンデミック」です。
マスコミ情報だけではなく、私の周辺でさえ、その騒ぎに巻き込まれている有様です。
恐ろしいほどの広がりです。
しかも、それが日本では一番の行楽シーズンに発生したのです。
そこに天の啓示をどうしても感じてしまいます。

しかし、どこかで「本当なのか?」という疑念もあります。
これまでも似たような話は何回かありましたが、いつもたいしたこともなく、75日で消えてしまう噂のような結末でした。
今回は、どうなのでしょうか。
テレビでは異常に感ずるほどの報道が続いていますし、薬局の店頭からはマスクが消えているようです。

でも、なんだかどうもおかしいです。
テレビで思い切り不安を高めているわりには、現実の対応策にはおかしさも感じます。
仙台方式、つまり熱が出たらいつものかかりつけに行くということを前提にした対策は効果的でしょうが、論理演算的に講じた国の対策は、どうも現実的ではありません。
絵空事にしか感じません。
リアリティが感じられないのです。

みんなが深々とマスクをしている風景も、違和感があります。
なんだかどこかで基本的に何かが違うような気がしてなりません。
何が違うのか、わからないのですが、テレビを観ていてともかく違和感があるのです。
なぜでしょうか。

流行しているのはインフルエンザではなく、違うものなのではないのか。
そういう疑念から抜け出られずにいます。

でもまあ、手洗いとうがいはちゃんとしています。
心は洗えませんし、うがいもできませんが。

■儲かる農業と暮らせる農業(2009年5月2日)
佐々木さんが、日経ビジネスの特集、企業発「儲かる農業」のことを教えてくれました。
日本の農業生産高8兆1927億円(2007年) は約247万人で作りだしているが、パナソニックの売上高9兆689億円(2008年)は約31万人で稼ぎ出しているという比較に基づいて、「日本の農業の生産効率はパナソニックの10分の1」という記事です。
その論調に対して、佐々木さんは、「農業の方が10倍の人間が仕事に携わることができているということの方が、今は大切なのではないかと思えます」と言うのです。
とても共感できる指摘です。

「生産効率」とは「生産」の「効率」ですが、工業における「生産」は自然の「消費」にほかなりません。
もともと自然から調達した原材料を人工物に加工するわけですが、商品からみれば「生産」でも、原材料の自然からみれば「消費」です。
一方、農業、正確にいえば、工業化された農業ではない農業の場合、「生産」には「消費」の要素はありません。
むしろ自然の循環の中で、自然を豊かにする営みと言ってもいいでしょう。
ですからそこからは「消費」の残滓としての「廃棄物」は生まれません。
同じ「生産」という言葉を使っていても、その意味するものは全く違うのです。

日経ビジネスの記事に出てくる「農業」は、工業化された農業でしょうから、生産効率論議は成り立つのでしょうが、生産性のあまりの大きな違いは、産業とは何か、あるいは生産性とは何か、という本源的な問題にも通じています。
もし廃棄物や環境への影響などの「大きな枠組み」で、生産性を考えたら、パナソニックと日本の農業のどちらが効率がいいかはわかりません。
佐々木さんはまた、「生産高と売上高を単純に比較していいのかもわかりませんが」と書いてきていますが、「生産高」と「売上高」を並べているところにも大きな落とし穴がありそうです。

生産性を高めて働く場から人を追い出していくよりも、多くの人の働く場を確保していく事のほうが大事ではないかという佐々木さんの指摘は含蓄に富んでいます。
「仕事」とは何かという本源的な問いかけでもあります。

最近、「儲かる農業」がもてはやされていますが、その議論には私は与したくありません。
儲かる農業ではなく、暮らせる農業に、もう一度、戻るべきではないかと思います。
さらにいえば、そろそろ「儲ける」などと言う発想は捨てていいのではないでしょうか。
そのことは、「消費する経済」から「生産する経済」への転換に繋がります。
そしてそれは、たぶん働くことの意味を一変させるでしょう。
働くことは稼ぐことや儲けることではなく、生きること、暮らすことになっていくように思います。

ネットで調べたら、同じ特集記事に、「主業農家の平均農業所得は約420万円」というデータも出ているようです。
自然豊かな地方であれば、420万円なくても暮らしは成り立つはずです。
私たちは、なぜかお金がないと暮らしていけないとか、生産効率は高めなければいけないとか、奇妙な思いに縛られていますが、そこから自由になれば、世界は全く違って見えてきます。
みんながお金の呪縛から抜け出せば、今の経済は成り立たなくなるでしょう。
恐慌どころの話ではなく、まったく想像もできないことになるでしょう。
想像できないからみんな踏み切れませんが、踏み切ったら意外となんでもないのかもしれません。
そう思いだした人たちが、少しずつ増えてきているように思うのですが、どうでしょうか。

■自己実現の落とし穴(2009年5月3日)
先日、地元のNPOネットワークの集まりに出たことはCWSコモンズに書きましたが、そこで千葉県のNPO担当の人が、NPO活動には「サービスの提供」と「参加する人の自己実現」という2つの役割があると話しました。
NPOの2つの役割。
前に紹介した田中弥生さんは「サービスの提供」と「参加する人の市民性の向上」と言っていますが、「自己実現」と「市民性の向上」には雲泥の差があります。
その集まりでも、私は一言述べておきましたが、真意は伝わったでしょうか。

「自己実現」
よく使われる言葉であり、私も一時期、それにプラスの価値を与えていました。
しかし最近、その言葉にどうも抵抗を感ずるようになってしまっています。
大切なのは、「自己実現」ではなく「実現しようとしている自己」なのだと気づいたからです。
たとえば先日裁判が行われたJR荒川沖駅周辺での通り魔殺人事件の犯人の行動も、自己実現といえないことはないでしょう。

たばこ総合研究センターが出している「談」という雑誌がありますが、その最新号に芹沢一也さんが次のように語っています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

生活世界の喪失を補償しようとするセキュリティは、それを実践する過程で一種の快楽を生み出しています。
たとえば、防犯パトロールに勤しむ住民たちは、そうした実践に参加することによって、生きがいや人とのつながりといった、とても具体的な生の充実感を手にすることができる。
その愉悦に満ちた振る舞いが、結果として弱者を排除していくわけですが、しかしながら現在にあっては、そうした住民もいつまで「内部」にとどまれるかはわかりません。
内部と外部を隔てている境界線は、住民たちが信じ込んでいるほど、現在にあっては堅固なものではないのです。
「外部」へと放り出された時、そこは生存への配慮が枯渇した不毛地帯です。
そして、善意と快楽に満ちた監視の眼差しに取り巻かれる。皮肉としか言いようがありません。

この15年間、私はさまざまな市民活動にささやかに関わってきていますが、ずっと感じてきたことを見事に表現しています。
こうした、自分の世界に浸ってしまっている「市民活動家」にたくさん出会ってきました。
彼らが一様に言うのは、しかし、「社会のために」と言う言葉です。
私は「社会のために」とか「社会貢献」などという言葉を自分の行動の説明に使う人にはとても違和感を持ちます。
それは、他者に言われる言葉であって、自分で言う言葉ではないだろうと思うのです。
しかし、私のところに来る人はなぜか、この種の言葉をよく使います。

もっとも、「市民性の向上」という言葉も、「社会のため」とそう変わらないような気もします。
私にとっては、そもそも「市民」などという言葉さえ、まだしっかりと理解できていないのです。
このことに関しては、これから時々書いていこうと思います。
とりあえず、「自己実現の落とし穴」だけを今日は問題提起しておきたいと思います。
その落とし穴に陥っている人が多すぎることに、最近、辟易しているのです。

■アリとキリギリス(2009年5月4日)
友人から長電話がありました。
電話が長くなったのは、脱線してしまった結果です。
そこで連休に何をしていたのかという話になったのですが、彼は仕事の関係で仕事をしていたというのです。
自分で会社を経営していますが、零細企業はたとえ休みでもそう簡単には休めないのです。
彼の仕事は毎日処理していないといけない種類の仕事なので休めないのです。

もうそろそろ会社をやめて奥さんとゆっくりしたらと話したところから、話題がおかしくなってしまいました。
彼の幼馴染も自分で事務所をやっているのですが、同じように働いていたのに、彼の友人は億を超える資産を貯めているそうです。
ですからもう後は奥さんとの悠々自適な生活も可能なのだそうです。
しかし彼は、おそらくそれ以上の収入があったはずですが、それをその時々に使ってきてしまっています。
なかにはかなり問題のある遊興費や趣味に投じているのではないかと思いますが、私が知っているだけでもたとえば500万円を投じて、自らの主張をテレビで放映するような活動もしています。
ともかくお金は貯めずに、その時々でお金を使っているのです。
そのためまだ借金もあり、仕事をやめられないのだそうです。
どこかで聞いたような話ではあるのですが、それはともかく、電話を切った後、この2人のどちらが豊かな生き方なのか少し考えてしまいました。

やや簡単に割り切れば、「お金を貯める人生」と「お金を使う人生」のどちらが豊かです。
なにやら、アリとキリギリスの話を思い出しますが、10年前までであれば、私はアリを称賛していましたが、最近はどちらかといえば、キリギリスの方が正しいのではないかという気がしています。
でも、そう簡単に割り切れない面もあります。
皆さんはどちらを選ぶでしょうか。

いまさら、アリとキリギリスでもないのですが、お金とは何かを考える上で、とても重要な何かを示唆しているようにおもえてなりません。
私は実は今日まで、自分はアリの生き方をしてきているという認識でしたが、もしかしたらキリギリスだったのではないかという気がしてきました。
自分の生き方は、なかなか本人にはわからないものなのかもしれません。

■「民」を統治する官、「官」を統治する民(2009年5月5日)
名古屋市長になった河村たかしさんの活動にとても共感をもっています。
読売新聞は、「そのたび右往左往」の1週間という見出しで、市職員や市議の反応を報道していますが、新聞やテレビで知り限り、河村市長の発言はとても共感できます。
国会議員時代の名古屋弁には違和感がありましたが、市長にあると名古屋弁がぴったりきます。
個性の強い人ですから、好き嫌いもあるでしょうが、私にはその言動がとても素直に入ってきます。
特に共感できたのは、非公開だった幹部会を報道陣に公開したことです。
情報の共有化が政治の始まりでないといけないと思っている私にとっては当然のことですが、その当然のことが行われていないのが「日本の官僚文化」です。
公開されないところで行われるのは「官」であって、「公」ではないというのが私の考えです。「民」を統治する官は、それで当然でしょうが、「官」を統治するという発想に立てば、「官」はすべて公開されて当然です。
河村市長は、局長ら幹部に対し、「テレビや新聞のカメラの向こうには、市民がいることを忘れないでほしい」と述べたそうですが、コムケアセンターの意識が日本の政治家にはありません。
もしあれば、こんな混迷した政治状況にはならないはずです。

読売新聞はこう報じています。

市の幹部は「普通は政策を煮詰めてから発表するが、市長は初めにアイデアをぶち上げて既成事実化する。そのたびに右往左往している」と話し、別の幹部は「政策を実現できなければ、われわれも堀川(名古屋市中心部を流れる川)に捨てられるのか」と冗談とも本気ともつかない言葉を口にした(2009年5月4日)。

当然捨てられて然るべきです。
そうした自覚がいまの官僚や行政職員にはほぼ皆無です。
政策を計画し実現するのが自分たちの役割だと思っている役人はどれだけいるのでしょうか。
もちろん「政策」とは、市民や国民のためのものであることはいうまでもありません。
そういう視点で考えると、「反政策」が横行しているような気がしてなりません。
マニフェストなどとカタカナ言葉は広まっていますが、何も変っていないような気がします。

■危険から逃げる社会と危険を克服する社会(2009年5月6日)
新型の豚インフルエンザの情報が連日、マスコミから大量に放出され、パンデミックの危機を煽っているような気がしてなりません。
もちろん十分な対策をとるために情報を積極的に出すことは必要ですが、その出し方やマスコミの取り上げ方にどうも扇動的なイメージを感じます。
「パンデミック」という言葉も、何か不気味さを感じさせます。
流行を食い止めるのは大切ですが、その反面で何かが犠牲にならなければいいのですが。

発熱症状のある患者が医療機関から診療を拒まれるという状況がすでに発生しています。
東京都の発熱相談センターには、すでに100件近い報告が寄せられているそうです。
海外への修学旅行の中止や延期も報道されています。

危機管理体制が整っている証拠という見方もできるかもしれませんが、どこかに「危険から逃げる社会」を感じてしまいます。
危険から遠ざけた環境に育った子どもたちのひ弱さや「無菌社会」の落とし穴が話題になったこともありますが、どこかそれに似たものを感じてしまいます。

こうした不測の事態に対しては、「逃げる」か「立ち向かう」かですが、いまの対応はどちらでしょうか。
報道を見ていると、どうもこれまでは危険から逃げてきたのではないか、という気がします。
なぜそう思うかといえば、これまでもサーズだとか鳥インフルエンザだとか、同じような体験があったように思いますが、その体験があまり活かされずに、同じような慌て振りをしているように感ずるからです。
特にそう感じたのは、医療機関の対応に関する厚生労働省の方針です。
テレビでしか見なかったので誤解があるかもしれませんが、一般の医療機関では対応しないことのほうが流行を防止するというようなメッセージを感じました。
机上論では間違いなくそうでしょう。
しかし、実際の現場の対応を考えるとそんな話は絵空事でしかありません。
現場から発想して取り組んでいる、たとえば仙台市のように、現実に立脚して、危険に立ち向かう真剣さを感じません。
現場に立脚すれば、危機を煽り立てることなど考えられません。
現場での選択肢は、危機に立ち向かうしかないからです。
そして、その体験は必ず体験知として社会に蓄積されていくでしょう。

今回の豚インフルエンザ流行の報道をみていて、「危険から逃げる社会」と「危険を克服する社会」があることに気づきました。
それはもしかしたら、「危険から逃げる企業」と「危険を克服する企業」というように、「社会」の部分を「企業」や「行政」や、「生き方」に変えてもいいでしょう。

私自身、若い頃は、危険を克服する生き方を少しは意識していましたが、最近はどうも、危険から逃げる生き方だけになっているのではないか、そんなことを気づかされています。
生き方を変えなくてはいけないと思いなおしました。

■手賀沼に「おしゃれな」なカフェはいりません(2009年5月6日)
コメント欄に、ちょっと書いたことですが、もう一度ここに書かせてもらいます。
私の住んでいる我孫子市には手賀沼があります。
沼というので泥臭いイメージを持つかもしれませんが、とても安堵する風景を私たち住民に与えてくれます。
写真集手賀沼というサイトもありますので、よかったら見てください。
http://tgn.sakura.ne.jp/

その手賀沼にある手賀沼公園の湖畔に沼に張りだす形で、おしゃれなウォーターカフェがあったらいいのにと前から思っていました。
思っているだけではダメなので動き出さなければいけませんが、その話をある人に話したら、その人がこういうのです。
私はこの我孫子が大好きです。
それは土と水と緑のにおいがするからです。
手賀沼の湖畔には着飾ったおしゃれなカフェはつくってほしくありません。

初めて異論をぶつけられました。
そして、ハッと気づきました。
「おしゃれなカフェ」というのは、そういうイメージなのだと。
安直に話していたことを反省しました。
私も、土と水と風が生き生きしている空間を描いていたのですが、どこかにモダンな小奇麗さもイメージしていたかもしれません。
その異論に対して、いささか苦しい回答をしましたが、実はこの異論がこれまで私が出会った一番の賛意なのかもしれないと思いました。
我田引水に考えるのが(ポジティブシンキングともいいます)、私の長所なのです。

「おしゃれ」というのは便利な言葉ですが、誤解を招きがちな言葉です。
注意して使わないといけません。
多義的なのに、反論しにくい言葉があります。
そうした言葉は、議論を封じ込めがちです。
「おしゃれ」もそうした言葉の一つです。
私が一番嫌いな言葉のはずだったのに、自分がそうした言葉を安易に使っていることに気づいたのです。

手賀沼に必要なのは、「おしゃれなカフェ」ではなく、「手賀沼らしいカフェ」です。
それがどんなカフェなのか、みんなで話し合うような場をいつか実現したいと思います。

■利他精神に基づいた超民主主義への期待(2009年5月8日)
昨日、NHKテレビで、ジャック・アタリのインタビューが放映されていました。
アタリはフランスの経済学者ですが、その多彩ぶりは経済の枠を超えています。
昨日のインタビューでは最近の著書「21世紀の歴史」について語っていました。

アタリが10年ほど前に書いた「21世紀事典」という本もあります。
そこに「日本」という項目があるのですが、その書き出しはこうです。

21世紀のはじめの3分の1における完全な敗者である。

こうまではっきりと言い切られるといささかムッとします。
そのせいでもないのですが、この本はそれ以来、読んでいません。
思い出して、またその項目を読み直してみました。
こんな記述もありました。

日本の民主主義はまだ成熟したものではなく、大方のところ腐敗した党派によって支配されており、没落を避けるためには、他国の思想、文化、産業に開放的になる以外、ほかの道はない。

私の意見とは正反対ですが、視点が全く違うのでしょう。

アタリは、金融資本の時代、超紛争の時代を経て、「超民主主義の時代」が到来すると考えます。
利他的精神(博愛精神)に基づいた民主主義秩序が実現するというのです。
利他的精神、言い換えれば「愛」の復権ですが、これはおそらく「近代の思想」とは全くパラダイムを異にします。
近代に埋め込まれている理念は「競争」ですが、利他の思想の理念は「共創」です。
「21世紀事典」で、近代人だと勘違いしていたジャック・アタリの新著「21世紀の歴史」を読んでみることにしました。

今日は自宅でだらだらと国会中継を見ていました。
今日の議論はかみ合っていて面白かったです。
日本の民主主義もそう捨てたものではないかもしれません。

■マスクつけず観光地巡ることは非難されることなのか(2009年5月10日)
とても嫌な感じの報道が最近は少なくないのですが、今朝の朝日新聞の次の見出しにはいささかの恐怖感を感じました。

マスクつけず観光地巡る

記事はこう書いています。

大阪府教委などは9日、感染が拡大するカナダで生徒らがマスクを着用せず、観光地などを巡っていたことを明らかにした。

語学研修でカナダに行っていた高校生たちが、昨日帰国し、新型インフルエンザに感染していたことが判明したのですが、それに関連した報道です。
テレビでも学校側がこの点を記者から追及され謝罪していましたが、とてもとても気になる風潮です。
マスクしなかったことがそんなに大きく取り上げられるほどのことかと思うわけです。
恐ろしい予兆を感じます。

マスクをしないことが非難される時代になってきた。
国旗に対して敬意を表しないと処罰され、国家を歌わないと非難される。
そうした時代気分は、どんどんと広がっているようです。

その一方で、電車の座席で化粧している女性を放任し、泥酔して電車に乗ることを禁ずることもない状況ですから、まあ何が非難され、何が許容されるのかが、よくわかりません。
しかし、マスクをしなかったことで非難するような文化は、いささかぞっとします。
こんな見出しをつける新聞社の意識を疑います。

もちろん、感染は防ぐにこしたことはありません。
それに誰だって病気になりたいなどと思ってはいないでしょう。
しかしだからといって、完全防御の生活をしなければいけないわけでもありません。
顰蹙をかいそうですが、ほどほどに感染し、ほどほどに病気になる社会のほうが、健全であり、健康であるような気がします。
パンデミックがどういうものなのかよくわかりませんが、かつてペストが流行したにはそれなりの理由があったように思います。
それが問うているのは、決して、一国の水際で病原菌が入ってくるのを食い止めれば事が済むというような話ではないような気がするのです。
水際で食い止めることにどんな意味があるのか、私には理解できません。

やはり私の常識は、どこかでずれているのかもしれません。
私は、もちろん時代のほうがずれていると思ってはいるのですが。

■小沢さんの辞任で希望はすべて消えた気分です(2009年5月11日)
むすめから小沢さんの辞意表明があったという連絡があったので、急いで帰宅しました。
やはり時代の流れには勝てなかったのでしょうか。
テレビでいろいろな人の話を聞いていて、怒りがこらえられなくなってしまいました。
権力の強かさを、改めて感じました。
さわやか財団の堀田力さんの顔を思い出しました。
あれが国家権力の顔なのでしょうか。

小沢さんの秘書逮捕事件を、私は国家権力と生活者の対立と受け止めていました。
問題の構図を「民の横軸」ではなく、「官と民の縦軸」で考えているのです。
ですから、検察の理不尽な横暴と考えています。
最近話題の冤罪とはちょっと違いますが、根は同じです。
権力は何をしても許されるわけですが、しかしその説明はしなければいけません。
それが国民主権の基本です。

今日になってもまだ「小沢さんの説明責任」を語る人がいますが、前に書いたように、明らかにすべきは検察の説明責任です。
一部の人が、検察の横暴と説明責任を口にしていますが、その議論は広がりませんでした。権力に抗うことの恐ろしさを知っている人たちは、口をつぐんでいます。
検察も、その後、驚くほどの黙秘を続けています。

その流れをいち早くつくった一人が、堀田さんだと私は思っています。
朝日新聞で、検察には説明責任はないと言い切ったのです。
堀田さんのような人が権力を補強していくのでしょう。
そうした人が福祉の世界やNPOの世界にいてほしくはありません。
いささか言い過ぎで、明日にはもう書いたことを後悔するでしょうが、その時の憤りは大切にしておきたいと思います。

政権交代などと言うのは、その問題に比べたら瑣末な話だといってもいいくらいです。
問題は、その政権そのものの位置づけです。
傀儡政権の中心がどこに動いても意味はありません。
そもそも西松建設と小沢さんの関係など、知っていた人は多かったはずです。
しかも同じような関係は自民党にもたくさんあります。
何がいまさら調査だと、私などは思いますが、権力はいつでも自らのためにしか、事件を起こさないのです。

政治と金の問題なども、その本質は違うところにあるように思います。
2兆円の税金を使って、全国民を金漬けにすることのほうが私にはよほど許せません。
麻生さんの卑しさは、小沢さんの比ではありません。
それに迎合している、テレビのキャスターやコメンテーターは、私には許せません。
みんな金の亡者にしか見えません。

政権交替はもうどうでもいいような気がしてきました。
日本はいまや70年前と同じ下り坂を下り出したように思うからです。
民主党は、やはり政党にはなれなかったような気がします。
この憤りが、私の見識のなさであることを願います。

怒りにまかせて書いたので、品格のない暴論になっているでしょうね。
しかし、書いたおかげで、少しすっきりしました。

蛇足ですが、私は小沢さんの政治思想は好きではありません。
どちらかといえば、嫌いな政治家でした。

■消費拡大から抜け出られないのでしょうか(2009年5月12日)
浪費の拡大はどうやって引き起こさせられるのでしょうか。
たとえば、一昨年までのアメリカは、収入に関係なく(収入を意識させることなく)クレジットで限界までお金を使わせる戦略がとられました。
消費する楽しさを体験させ、消費ブームを引き起こします。
麻薬の売り方と同じです。
しかもそこでは、お金を消費することがお金を得る手段ですらありました。
これはねずみ講の発想です。
そしてこれらがバブル経済の基本構造でもあります。
しかし、それはサブプライムローンの先をつくりだせなかったため挫折しました。

もう一つの方法は、消費しなければ生存基盤が危うくなるという危機感を煽ることです。
背に腹は換えられないですから、ここでも収入は問題になりません。
その典型は戦争ですが、自然災害も地球環境危機も、そして疫病の流行もそうしたときに使われやすい話です。
最近の(今回に限りません)インフルエンザや疫病の報道には、そのにおいを感じてしまいます。
今回もエジプトで大量の豚が処分されたというニュースがありましたが、鳥インフルエンザでたくさんの鶏は卵が処分されるニュースには、どこか大きな違和感があります。
一方で、地球上には餓死者が決して少なくないことが思い出されるからです。
もちろん処分する卵をそうした飢餓者に食べさせようなどというつもりはないのですが、でも心のどこかに、そうした考えが残ります。
処分するよりも、そこから危険性を除去する道はないかということです。

消費はまた廃棄と深く繋がっています。
消費させるには、まずは廃棄させることが必要です。
最近、百貨店やスーパーで下取りセールが流行ですが、このレベルではない廃棄の促進が必要になっているのです。
疫病不安や安全性不安は、そのためには極めて効果的です。
戦争もある意味では、大量廃棄戦略でもあります。

靴を履く文化のないところに、靴を売りに行った営業マンの話があります。
靴を履いていない社会には市場がないと考えるか、無限の市場があると考えるか、
むかし、よくマーケティングのテキストで語られました。
顧客は創造すればいいとドラッカーは言いました。
その発想がいかにおぞましいか、
最近改めて実感しています。

経済の基本を問い直す時ではないかと思います。
それなくして持続可能性など語るべきではありません。
最近のパンデミック論議は、やはりどこかおかしいように感じます。

■民主党の終焉と問題の本質(2009年5月12日)
一晩眠ったのですが、やはり怒りはやみません。
もちろん小沢さんを辞任させた私たち国民とそれを先導した有識者たちへの怒りです。
今朝、メールを見たら、私と同じ意見の人もいるようで、その種のメールがメーリングリストで何通か届いていました。
まあしかし、食い止められなかったのですから、私も含めてみんな口だけの人間です。
身から出たさびでしょう。

しかし、相変わらず前原議員の言動にはあきれます。
党内に、こういう人が少なくないとしたら、小沢さんも投げ出したくなるでしょう。

もっともこうした動きによって、検察への批判が高まるという意見もあります。
たとえそうだとしても、それがどうしたと思います。
検察は、その目的を達したのですから、その後はどうでもいいのです。
まあ逮捕劇を実行した検察官たちもまた消耗品でしょうし、国家権力は自らの行動がつねに正義ですから、その帰趨はどうでもいいはずです。

まだ荒れていますね。
一晩寝たのに、まだどうも冷静に慣れていないようですね。
困ったものです。

しかし、問題の本質だけは見誤りたくないと思います。
景気状況も大事ですが、それを決めているのはこうした社会の構造原理なのですから。

■ルポライターの仕事を支えることの大切さ(2009年5月13日)
一昨日、ノンフィクションを手がけるライターの方の取材を受けました。
取材が終わった後、少し雑談をさせてもらいましたが、最近はルポ記事などを掲載する雑誌が次々と廃刊になっているので、仕事が難しくなってきているのだそうです。
私の友人にも同じ仕事をされている人たちがいますので、私もそうしたことは何となく感じていたのですが、その人と話していて、しっかりしたルポルタージュが発表される活字媒体が減少することの意味をあまり考えたことがなかったことに気づきました。
発表の場がないということは、現場をしっかりと実査し評価する活動がなくなっていくことに通じます。
このことの意味は大きいです。
ますます社会は見えなくなり、マクロな視点でしか記録されなくなりかねません。
現場には必ず個々の表情がありますし、そういう現場をルポしているライターの表情ある目は、マクロ的な観察や報道からは違う、現場のメッセージを伝えてくれます。
そういうものがなくなっていくと、世界は平板なものになりかねません。

そういえば、私自身も最近は雑誌をほとんど読まなくなってしまいました。
若い頃は、毎月10冊程度のさまざまな雑誌を講読していましたが、今は、あまりメジャーでないものを数冊読んでいるだけです。
週刊誌は1冊も読んでいません。
ルポルタージュなどのノンフィクションは単行本として読むようになってきていますが、書き手の立場から言えば、最初から単行本を目指しての取材や原稿書きは大変なようです。
おそらく経済的にも引き合わないでしょう。
取材費さえ取り戻せないことも少なくないかもしれません。
それに比べ、雑誌に掲載していったものを、それがたまった段階で本にして残していくという方法は、書き手にとってはありがたい仕組みでしょう。

このブログを書きだしてから、気づいたことがあります。
たとえば昨日の小沢さん関連の2つの記事ですが、多分数日後であればかなり違った書き方になるでしょう。
ましてやまとまった本を意識して書きなおすとしたら、まったくと言っていいほど違う表現になると思います。
全体が見えるにつれて、文章は次第に小賢しくなっていくものです。
極端に言えば、真実から遠いものになりかねません。
ある事件に出会ったときの第一印象、それこそが現場の真実を伝える出発点だと私は考えるようになりました。
もしそうならば、中途半端であれ、できるだけ時間を経ずに雑誌などで書いているものを読んだ方が現実に近づけるように思います。
単行本として編集されたものよりも雑誌掲載記事のほうが、いろんな意味でライブなわけです。

「反社会学講座」(ちくま文庫)という、とても面白い本があります。
そこに出ていたのですが、60代以上の人は最近新聞を読む時間が急増しているのだそうです。
なんと1日40分です。
その一方で新聞以外の活字を読む時間は15分前後です。
もう少しみんなが雑誌を読む時間を増やしたら、ルポライターの人たちの仕事を支援できるかもしれません。
そう思いだしたのですが、ではどの雑誌を講読しようかと思うと魅力的な雑誌が思い浮かびません。
まあ、できるだけ早く書店に行って、読めそうな雑誌を探してこようと思います。

■問題の立て方(2009年5月14日)
題の立て方を間違うと答は全く違ったものになるという話は以前書いたことがあります。
大切なことは、問題を解くことではなく、問題を立てることなのです。
問題を解くのは技術や知識があれば可能です。
それはコンピューターにゆだねることもできるでしょう。
しかし問題を立てるのは人間、それも主体的に生きている人間でなければできません。

最近経済界では「イノベーション」が流行です。
イノベーションは技術革新と訳されますが、技術以前に発想の問題のように思います。
30年ほど前に光ファイバーのことを調べたことがあります。
そのときに、光ファイバーが技術的に実現可能だということが論証された途端に、開発が加速されたという話を講演で聴きました。
コロンブスが新大陸を発見したのは、そこに新大陸があるという確信だったはずです。
問題が的確であれば、その解決はそう難しい話ではないと私は思っています。

こんなことを書いたのは他でもありません。
今の政治における問題の立て方が適切なのかどうかということを言いたいためです。
テレビの報道は、その問題の立て方で情報の扱い方が全く変わります。
私が一時期、よく見ていた報道ステーションでは、映像情報とコメンテーターとビデオ情報が時に不整合なことがありましたが、これは明らかに問題の立て方があいまいな結果です。

インフルエンザ問題も小沢さんの秘書問題も予算編成の問題も、定額給付金の問題や年金の問題、解散時期の問題など、すべての問題において、私には問題の立て方への違和感があります。
問題の立て方を間違えば、問題を解くことさえ無意味になります。

問題の立て方の間違いは、経済や産業に関してもいえます。
それがしっかりしていないために、無駄遣いが景気浮揚策になり、格差問題や福祉問題が自立問題になってしまうわけです。
あるいは農業の見直しが農業の工業化、商業化になってしまうわけです。

私の考えが普遍性をどのくらいもっているかは保証の限りではありませんので、こうした考えを誰かに押付けようなどとは思いませんが、私自身はいつも「問題の立て方」に最大のエネルギーを向けています。
極端にいえば、問題の解き方など瑣末なことなのです。
問題をしっかりと立てて生きていれば、どんな状況になっても納得できます。
人生は、納得して生きることこそが一番幸せなことかもしれません。

もっとも私の場合、「問題の立て方」を間違ったことがないわけではありません。
むしろいつも間違ってきたと言えるかもしれません。
しかし仮に間違っても、それは自分の過ちですからその結果には納得できるのです。
まあ、そうも言っていられないこともないわけではないのですが。

私の立てた問題からすれば、政治も経済も状況は悪い方向に向かっています。
そのなかで、自分自身はどう生きるか、それはまた実に面白い問題です。
時に、生きるのが嫌になることもないわけではありませんが。

■マスコミに壊される国(2009年5月15日)
民主党の代表選挙に関連するテレビや新聞の報道を見ていると、この国はマスコミによって壊されるのではないかと不安になります。
最近の日本人のように、主体性を失った国民に対しては、映像の編集の仕方で、世論はいかようにも誘導できます。
それにしても、昨今のマスコミの思いあがった言動には驚きます。
マスコミを私物化した読売新聞の渡辺恒雄会長に、みんな続こうと思っているのでしょうか。
渡辺さんは、マスコミを私物化して、日本の政治を壊した極悪人の一人だと思いますが、小物の悪人は罰せられても、極悪人は罰せられるどころか、そのおこぼれに預かりたくてすり寄ってくる人が多いようです。
昨今のテレビに出てくる人たちを見ると、それがよくわかります。

こうした状況をみていて思いだすのが、ガザ戦争によってまもなく国家としては消滅するであろうイスラエルのことです。
勝手に消滅するなどと言いましたが、これは私の極めて主観的な判断ですのであしからず。
それに「まもなく」と言っても、たぶん20〜30年先です。

ヘブライ大学教授のユリ・ペネスさんは、イスラエルが引き起こしたガザ戦争(ガザ紛争)について、「最近のイスラエルの歴史の中でも最もメディアに誘導された戦争」だといっているそうです(〔軍縮問題資料2009年6月号「ガザ攻撃をイスラエルのユダヤ系市民はなぜ支援するのか」。
この言葉を紹介しているのは、ジャーナリストの土井敏邦さんですが、土井さんの書いた「沈黙を破る」(岩波書店)は読んでいて、とても悲しくなるとともに、その一方で希望を感ずる本でもあります。

土井さんはまたドキュメンタリー映画もつくり、それがいま中野で上映されています。
私はまだ観に行けていませんが、その映画の最後は、ガザの占領地での自らの加害体験を告白した元イスラエル軍将校の、ユダ・シャウールの次の言葉で締めくくられているそうです。

多くのイスラエル人は「セキュリティ、セキュリティ」と口をそろえて言います。自分たちの国を守らなければならない、と。しかしこの国がまもなく、まともな国ではなくなってしまうことに気づいていない。そのうち私たちすべての国民の魂が死んでしまうのです。社会の深いところが死んでしまいつつあるのです。そのことはここイスラエルで、社会全体に広がっています。

これと同じことが、日本でも起こっているように思います。
社会全体もそうですが、ちょっと言葉を替えると民主党や自民党の話としてもぴったりです。
そうした状況を引き起こす上で、マスコミが果たしている役割は大きいです。
逆に言えば、マスコミがちょっと報道姿勢を変えるだけで、社会は変わってくるようにも思います。
それが無理であれば、私たちのマスコミ観を変えるしかありません。

■民主党代表選挙の公開討論会(2009年5月15日)
テレビで中継された、民主党代表選挙の鳩山さんと岡田さんの公開討論会を観ました。
2人ともマスコミの手にのらずに、しっかりとマスコミを活用していたように思います。
民主党を少し見直しました。
私自身は数日前に短絡的にこのブログで書いたように、民主党は小沢さんの手を離れた途端に実質的に瓦解すると思っていましたが、見込み違いになるかもしれません。
私が一番安堵したのは、岡田さんが小沢さんと管さんの名前もあげて、みんなで取り組んでいくということを明言したことです。
2人のやりとりも、相互の信頼感を感じさせながら補完しあうような形で、効果的に進められたように思います。
民主党のマスコミ対応は、これまであまりにもお粗末でしたが、今回はその乱れを感じませんでした。

この公開討論会をもっと多くの人たちにみてほしかったです。
こういう番組こそ、夜の8時台くらいに放映すべきです。
それも一部ではなく、全部をです。
しかし、8時台でも多くの企業関係者はまだ帰宅しておらずに見られないかもしれませんが、それが日本の政治をおかしくしている一因であることも考えなければいけません。

討論の様子を見ながら、国会の議論もこのようであってほしいと思いました。
相互に信頼感があればこそ、本当の意味でのディベートができます。
信頼感のない議論は、おそらく何も生み出さないでしょう。
いつも国会中継を見ていて、嫌になるのはそのためです。

マスコミの報道とは違い、民主党には主体性を感じました。
もっともマスコミの評価はきっと低いでしょうね。
そこにこそマスコミの本質が見えてくるのですが。

今日は自宅にいた意味がありました。

■原宿の賑わいは何も変わっていませんでした(2009年5月16日)
2年ぶりに原宿に行きました。
といっても、BS朝日に行くために通っただけなのですが、地下鉄の明治神宮前駅から外に出たら、若者たちで歩けないほどごった返していました。
こういう若者の街にはこの数年ほとんど足を踏み入れていないので、歩くのが大変です。
朝のラッシュ時の駅構内以上の混み具合なのです。
この世界にはもうとてもついていけなくなっています。
交差点近くでは若者の一段が勝手にダンスをしています。
最近はこらえ性がないので、そうした一団を避けることなく、私はそのど真ん中を歩くようにしていますが、まっすぐ歩けませんので、だんだん不快になってきます。
それにしても人が多いので、車道を歩くことにしました。

そうしたら今度は歩道に長い行列です。
フォーエヴァー21という店に入るのに並んでいるのだそうです。
その長さがまたすごいのですが、たかが安物(値段ではありません)の服を買うのに長い行列に並ぶような若者が惨めに思えてきます。
まあ私はあまりファッション感覚がないので、最近の若者の流行の服は全く好きではないのです。
もちろん猫も杓子も着ている黒いビジネススーツよりはましですが。
黒いビジネススーツを着ている若者を見るとほんとうに哀れに感じます。
まあ彼らは私を哀れに感じるかもしれませんが。

余計な話を書いてしまいましたが、用事を終えて4時間後にまたその道を通ったら、何と行列はまだ同じ長さで続いているのです。
消費文化はまだ健在なのです。
こうした社会のどこが100年に一度の不況なのでしょうか。
こうした連中になんで私たちの税金の中から浪費のための給付金をださなければならないのか。
理解に苦しみます。

道路を歩けないほどふさいでいるのに、警官は交通整理もしていません。
デモ行進の規制をするくらいのエネルギーは割いてほしいものです。

消費大国日本の状況は、まだ何も変わっていないような気がしてきました。
最近またエコポイントなどという、わけのわからない浪費刺激策が登場していますが、そんなことをやるんだったら消費税など論外ではないかと思います。
ちなみに私は「高消費税論者」です。
消費を抑制することにこそ、持続可能な経済があると考えているからです。
経済とは何かを考えて見なければいけない時期になっています。

■烏合の衆と政党の違い(2009年5月17日)
民主党の代表は鳩山さんに決まりました。
私自身はホッとしましたが、世論はどうも歓迎していないようです。
私の周りでも、これで民主党は選挙が戦いにくくなったといいます。
私はそうした人の見識を疑います。
ちなみに昨日話した、かなり政治に詳しい人も含めての6人の人は全員そういう意見でした。
いやはや、私の周りには見識のない人が多すぎます。
いえ、あるいは私のほうが見識がないのかもしれません。

テレビでは、岡田さんの支持者は、選挙ではどちらが有利かという理由で岡田さんを選んでいると報道されています。
街頭でのインタビューでも、そう答える人をよく登場させていました。
小沢さんの院政と言う人もいましたが、その思いも多分同じでしょう。
政策論議などは出てきません。
いえ政策などはだれも理解していないのです。
最近の国民に、そんな気などありません。
ただ定額給付金のようなものにしか興味がないのです。

つまり岡田さん支持者は、政党とは選挙に勝つための組織だと思っているわけです。
そうした組織は、所詮は烏合の衆でしかありませんから、永続きはせずに、政党とはいえません。
自民党は今まさにそうなっていますから、次の選挙の結果次第では実質的な解党がはじまるでしょう。
相変わらず小沢さんの説明責任を責めますが、みずからの党員の説明責任には何もアクションを起こしません。
自らを正さずして、他者を責めてはいけません。

鳩山支持者は政策が根拠になっています。
世論(全体の気分)に迎合するのではなく、自らの政策信条を核にした、政策実現のための組織です。
政策実現のために選挙で勝つことが必要ですが、選挙に勝つことはあくまでも手段ですから、政策が優先されなければいけません。
これまでの民主党の政策は、小沢さんによって形成されてきました。
烏合の衆を「豪腕」といわれるやり方で政策集団に育ててきたのは小沢さんだと思いますが、もし政権交代が権力交替ではなく、政策交替であれば、小沢さんを軸にしていかなければ意味がありません。

世論は岡田さんを支持したとテレビや新聞は言いますが、支持したのはマスコミです。
世論は輿論と違うといわれますが、所詮は少ない情報によって誘導されて形成される気分でしかありません。
国民の声を聞くということは、世論調査とは違います。
それに、政党の代表をだれにするかなどということは、訊くべき事柄ではありません。
そんなことは気分でしか答えられません。
私たちが責任を持って答えられるのは、自分の生活につながるような問題です。
郵政民営化は、まさにそうした問題でしたが、マスコミはそれを「気分の問題」にしてしまいました。
それがどれほどの問題を引き起こしたか、マスコミは反省すべきです。
同じ繰り返しを、いまもなお続けていることが残念です。
今回の民主党代表にかかわる報道は、私には納得できないものばかりでした。

■ゼロサムゲームの世界の中での過剰対応の危険性
(2009年5月18日)
新型インフルエンザの患者数が日本でも100人を超えました。
きちんと検査したら、その数倍はいるという意見もあります。
学校が1週間休校になるなどという動きも出ています。
それにしてもどこもかしこも大騒ぎです。
騒ぎすぎではないかとある人に話したら、用心にこしたことはない、と怒られました。

でも、そうでしょうか。
みんな大切なことを忘れています。
それは、あることに限られた資源を注入すれば、必ずどこかで誰かがしわ寄せを受けるのです。
いささか極端のことを言えば、いまの新型インフルエンザへの大騒ぎでの対応の影響で、だれかが十分の対応を受けられずに、病気を悪化させ、差異枠の場合は生命を落としていることがないとは限りません。
まあそれは考えすぎだとしても、医療資源や検疫資源は限られていますから、どこかで被害を受けている人がいることは間違いありません。

その反面で、新しいことをやるわけですから、誰かが大もうけすることも間違いない事実です。
念のために言えば、マスクが跳ぶように売れているのでマスクを売っている人が儲ける、などという話ではありません。
もっと大きなところで、誰かが儲けているはずです。
と言うのは、それがこの半世紀の資本主義の本性だからです。
ビジネスとは市場を創造すること、つまり「問題(不幸)」を起こすことなのです。
アメリカの映画の観すぎではないかといわれるかもしれませんが、映画で描かれるようなことは実際にはどこかで行われているような気がします。
「事実は小説より奇なり」なのです。

いずれにしろ、私たちは限られた資源の中で生きています。
それを忘れてはいけません。
政治の世界もそうです。
まあ、最近の私たちは「朝三暮四」の話のサルのレベルに落ちていますから、まあ新型インフルエンザもがんばって十分に対策すればいいでしょう。
豚インフリエンザや鳥インフルエンザが最近、ヒトにうつるのは、もしかしたら私たちがサルに近づいているからかもしれません。
そう考えるといろんなことが納得できます。
いや、いささか失言が過ぎたかもしれません。
困ったものです。

■コンフォーミティ社会ではマスクをしないと異端者になりかねません(2009年5月19日)
今日、降圧剤をもらいに近くのクリニックに行きました。
いつもは混んでいるのに、何と誰もいませんでした。
窓口に人に、新型インフルエンザの報道のせいですかね、と訊いたら、それもあるかもしれませんね、という答でした。
まあ、たまたま私が行った時だけすいていたのかもしれませんが、毎月、通っているのにはじめてのことでした。

昨日、テレビで、街頭でマスクをしている人へのインタビューで面白い回答がありました。
最近はマスクをしていたほうが、「異端」にはなりませんので。
まさにコンフォーミティ社会の到来です。

アッシュの実験という、社会心理学の古典的な話があります。
数名のサクラの中に一人だけ本物の被験者をまぜたグループをつくり、そこに長さの違う3本の直線をみせて、それとは別の1本の直線と同じ長さのものを選ばせます。
普通の人であれば、かんたんに見分けられるような問題です。
しかし、サクラたちはわざと間違った答、しかし全員が同じ答をし、最後に被験者に答えさせると、被験者はサクラたちと同じ答をしてしまうことが多いという結果が出たそうです。
「同調(コンフォーミティ)効果」と呼ばれる現象です。
この観察から、他人に同調しない人はかなりのストレスを持つだろうことが示唆されています。

この実験は有名な話で、私も何回かホームページで紹介していますが、これと似た話に、フェスティンガーの実験というのがあります。
グループの中にサクラを一人だけ入れて、他のメンバーと違った判断をさせると、みんなの関心はそこに向かい、サクラに意見の転換を迫った、そうなのです。
「異端者」は組織の、つまり社会の安定を壊しかねないために、排除されなければならないというわけです。

こうした理論は、すべて安定的な秩序を志向する近代の知なのです。
しかし時代は、ホメオスタシスからホメオカオスの時代に動いていますから、最近ではまあそんなことはなく、組織ではむしろ「異端者」が評価される時代になってきていますが、実体のないふわふわした「社会」全体では、まだまだコンフォーミティ信仰が大勢を占めているのでしょう。

みなさんはマスクをして外出しますか。
マスクをしていなければ不安な社会には、私は生きていたくないので、マスクはしません。
もちろん自分が風邪を引いたりしたら、マスクはしますが。

■いつの間にか容量が減っていた騙し商法(2009年5月20日)
私は時々、スーパーに食材などを買いに行きます。
実際に購入するのは娘たちなのですが、私もできるだけ彼らに付き合って、実際に自分でも買物をかごに入れます。
基本は、わが家の近くにあるライフですが、比較するためにほかの店にも定期的に行きますし、新しい店が出来ればできるだけ早い時期に行くようにしています。
私の関心事は、食材や日用品を扱っている大型・中型店です。
その店頭を見ていると、社会の動きも少し実感できます。

最近とてもいやなことが増えています。
それは同じ商品なのに中身を少しずつ減らす動きです。
消費者を騙す方策に思えてなりません。
乳製品やお菓子類に多く見られます。
たとえば、明治乳業や森永乳業の商品です。
私がかなり高く評価していた企業ですので、とても残念です。
典型的なのはマーガリンです。
1年前までは400グラムが基本でしたが、今は何と300グラムです。
この間、時間をかけて、内容量と価格を操作してきていますので、おそらく中身がこんなに減少していることに気づかずに購入している人も少なくないでしょう。
明治乳業の人気商品のブルガリア・ヨーグルトも、いつの間にか容量が減少しています。
これはパッケージングを変えていないので、いささか悪質だと思います。
私には許しがたい行為です。

お菓子類はもっとあからさまです。
ビスケットなどは見るからに小さくなっています。
価格が変わらなくても、実質的な値上げと言うことです。
値上げ率はかなり高いはずです。

こうした「騙し商法」は昔からよくあります。
前に単に想定を変えただけで新刊書のように販売する講談社の話を書いたことがありますが、騙される方が悪いといってしまえば、それまでですが、そうした繰り返しでは、消費者はますます企業への不信感を高めるでしょう。
消費者が企業を信頼できないということは、双方にとって不幸なことです。

しかし、よく考えてみると、これこそがこの50年の企業戦略だったのかもしれません。
大量生産というのは、まさにそうした商品の質の低下につながっているのかもしれません。
工業化された農業もそうです。
50年前のほうれん草と今のほうれん草は、見かけは同じでも、栄養的には全く違うものだという話を聞いたことがあります。

食べるものが変わってくれば、食べている私たちも、もしかしたら変わってきているのかもしれません。
そういえば、最近の人は昔に比べて「小粒」になったという話もよく聞きます。
そう考えると、何やら昨今の状況が奇妙に納得できてしまいます。

■社会の組み立て方のパラダイム転換(2009年5月21日)
昨日、市民社会フォーラムというのに参加しました。
増田元総務大臣が「地方自治と市民社会」をテーマに話され、その後、質疑応答が行われました。
お話を聴いていて、問題はやはり社会の構造原理をどうとらえるのかということではないかと、改めて思いました。
簡単にいえば、社会の構造を「統治の視点」で考えるか、「暮らしの視点」で考えるかです。

自治というのは、本来、「暮らしの視点」での発想ですが、明治以来の日本の「自治」は「統治」の視点で考えられているように思います。
増田さんの話はとても誠実でしたが、やはりこれまでの「統治の枠組み」で語られていたように思います。
そこからは市民社会の論理は出てきません。

ところが、質問に応えながら、最後に増田さんは、これからはコミュニティをベースにして社会を組み立てていくのがいいというお話をされたのです。
コミュニティ、つまり「暮らし」から組み立てる社会像と「統治」のための分権型の社会像は、まったく正反対のところに位置するものだと思っている私にとっては、仰天するような話です。
もし近隣コミュニティを起点にして社会を構想するのであれば、まさにパラダイム転換しないと制度は構築できませんし、生活次元に向けての「分権」発想は出てこないでしょう。
選挙マニフェストも、いまのような目線の高いものにはなりません。
増田さんは、マニフェストを「住民との契約」と定義しましたが、これは統治、あるいは王様の論理です。
近代政治思想の出発点はいうまでもなく、社会契約論にあるわけですが、その契約を縦軸で捉えるか横軸で捉えるかによって全く違ったものになります。
昨今の「協働のまちづくり」は縦軸ですから、分権論議と同じく、構造を変えるものではありません。
行政内部の横の協働、住民同士の横の協働がないままに、各論的な縦軸の協働ができても、パラダイムは変わりません。
長年続いた「住民参加」と同じく、住民の暮らしの視点からは無意味な取り組みです。

増田さんの誠実なお人柄とビジョンをベースにしたら、おそらく新しい市民社会論が構想されるように思いましたが、やはり発想のパラダイムが近代の呪縛、あるいは統治の呪縛に陥っているような気がしました。

フォーラムには若い学生がたくさん参加していました。
若い行政職員も参加していました。
彼らが、いま育ちつつある、住民同士の横のつながり、市民同士の横のつながりの動きに気づいていくことを願っています。
アタリやネグリが展望している新しい動きが、少しずつですが、動き出していることに、救いを感じます。
分権論議が、それを邪魔しなければいいのですが。

■マスコミが騒いでいる後ろで行われていることが気になります(2009年5月22日)
裁判員制度が始まりました。
これだけ内容がわかってきて、問題も明確になったにもかかわらず、まだ裁判員制度の意味を国民に理解させていこうという動きが、ジャーナリストの中でも広がってきていることに驚きを感じます。
それにしても、憲法違反ではないかと思うほどの悪法です。
とりわけひどいのは守秘義務です。
裁判そのものの透明性こそが司法改革の本質だろうと思いますが、あいかわらずそれは中途半端にしたままで、守秘義務を国民に求めるとは言語道断です。
私のように、秘密を持たないことを生活信条にしているものには、耐え難い侮辱です。
今の政治家や司法界の人たちは、嘘や秘密を大事にしている人たちですから、そうした庶民の生活信条など理解さえできないのでしょう。
憲法違反など全く意に介さないのが、今の政府ですから、いくら不満に思っても仕方がありません。

新型インフルエンザは、さすがに対応のおかしさに気づく人が増えてきました。
パンデミックしていたのは。実は疫病ではなかったのかもしれません。
隠された実験は、どうやら一定の成果をあげたように思います。
おそらく、これからたくさんの報告書が出てくるでしょう。
しかし、生活の視点で考えれば、新型インフルエンザに関する膨大な情報発信の中で、何がうずもれてしまったかが気になります。
それに加えて気になるのは、魔女狩りのような不気味な動きです。
生徒が発病した学校の校長がなぜ謝らなければいけないのか。
どう考えてわかりませんが、実際にはもっとひどい現象が起こっていることでしょう。
発病者の出た家族に対して、世間がどう対応するのか、考えただけで気分が重くなります。
恐怖感を流布させれば、民を支配しやすくなることは言うまでもありません。
北朝鮮やタリバンの恐怖をばら撒くよりも、もっといい方法が地球環境危機やパンデミック危機であることはいうまでもありません。
まあ、こんなことをいうとひんしゅくをかうでしょうが、噂には必ず「意図」があります。

定額給付金やらエコポイントなどのアメ戦略とパンデミックや景気不安などのムチ戦略のなかで、何が行われているのか、それを考えなければいけません。
ともかく一度民主党に政権を交代して、官僚の傀儡政権体制を壊さなければいけません。
あるいはアメリカ金融資本からの自由を得なければなりません。
いまマスコミで活躍している御用有識者たちも一掃してほしいものです。
もう王様の道化はいりません。

■家族が新型インフルエンザにかかったらどうしますか(2009年5月23日)
今日の朝日新聞の夕刊に、次の見出しの記事が出ていました。

家で「隔離」1週間 感染の高校生、
電話でつながる家族

記事によるとこんな話です。
新型インフルエンザに感染した神戸市の女子高校生が、1週間、自分の部屋から出ないよう病院と保健所から指示され、同居の家族とも、電話の子機だけでのつながりだったというのです。
わが家では絶対にありえない話です。
と言うか、常識的に考えても、あってはいけない話ではないかと思うのですが、どう考えても恐ろしい話です。
念のために、わが家の娘たちに確認したら、やりすぎだろうというので安心しました。
ハンセン病を思い出すといったら、批判されそうですが、どこかに通ずるものを感じます。

家族の誰かが病気になったら、私は自らがたとえうつる恐れがあったとしても、生身で看病しますし、看病してほしいと思います。
もちろん伝染しないように細心の注意は払いますが、それでもうつってしまったら、それは仕方がありません。
法的に決められている伝染力の強い病気で、病院に隔離されるのであれば、それは受け入れますが、「隔離」の発想の恐ろしさを感じます。

大変失礼ですが、その家族の親たちの見識を疑います。
そうした発想が自然と出てくる人たちが増えていることに対して、不気味さを感じてしまいます。
鳥インフルエンザにかかった鳥を大量廃棄処分にする発想と同じではないでしょうか。
いや、これ以上、恐ろしい妄想を発展させるのはやめましょう。
しかし、こうした話は、決して笑い話ですますべきではありません。

私は家族からは必ずしも同意されていませんが、風邪菌にも場を与えていくことが必要ではないかという思いを持っており、毎年、風邪を引いています。
風邪を引いたら3日ほど、彼らに活躍してもらいますが、4日目からは彼らに退出してもらうようにしています。
今は亡き妻は、そうした私の発想をいつも笑っていましたが、私はかなり真面目にそう考えています。
大げさに聞こえるでしょうが、もし生物多様性論を口にするのであれば、それくらいの自己犠牲は甘んじて受け容れるべきでしょう。
まあ、あまり論理的ではなく、たぶん支離滅裂なのでしょうが、私は本能的にそう思っています。

今回のインフルエンザ対策はもちろんですが、最近の病気予防対策には違和感があります。
風邪が怖くて、生きていけるか、という気がします。
インフルエンザに罹るのも、また人生なのです。
風邪を引いたことのない人生よりも、私は引いたことのある人生が豊かなような気がします。
また支離滅裂になってきましたので、やめましょう。

みなさん
家族が新型インフルエンザにかかったら、親身に看病しましょう。
それでこそ家族です。
人間というものがわかっていない医師の言いなりになってはいけません。
治る病気も治らなくなりかねません。
但し、その結果、問題が起こっても私は責任は取りません。
それは皆さんの家族の問題だからです。

■北朝鮮の核実験で思うこと(2009年5月25日)
北朝鮮の核実験が大きな話題になっています。
本当に次々と世間を騒がす事件が起こるものです。

ところで、私ですが、どうも感受性が弱いのか、常識がないのか、視野が狭いのか、利己主義なのか、馬鹿なのか、今回も「それが何なの?」という程度の思いしか出てこないのです。
危機感など全くないのです。
新型インフルエンザもそうですが、大騒ぎになるような事件に対して、どうしても騒ぐ意味が理解できないのです。
困ったものです。

もし今回の核実験が成功したのであれば、北朝鮮は日本への核攻撃が可能になったとテレビは報道しています。
まあ攻撃されたら逃げようもなく、恐ろしいといえば恐ろしいです。

しかし、です。
アメリカやロシアは、北朝鮮とは桁違いの核爆弾を保有しています。
なぜそれは脅威ではないのでしょうか。
自分たちは核爆弾を有り余るほど持っており、もしかしたその管理の不備から誰かに盗まれるかもしれないような状況にあるにもかかわらず、ほかの国がささやかな核爆弾をもつことをなぜ非難するのでしょうか。
核拡散防止条約に反するといいますが、なぜ既に持っているところは許されて、新たに持とうとしている動きは非難されるのでしょうか。
まあ、こんなことを書くと、私が「非難」されそうですが、私にはこのことが昔からわかりませんでした。
全く理解できないのです。

アメリカやロシアは、自国で持っている核爆弾を全世界の国々に、人口に比例して無料配布したらどうでしょうか。
そうしたら北朝鮮も巨額なお金を使ってまで、核実験はしなくなるかもしれません。
ますます不謹慎だと怒られそうです。
しかし、もしそれが嫌ならば、自国の核爆弾をなくす努力をすべきです。
あるいは核爆弾を一国の管理下におくのではなく、国連的な機関に管理を任すべきです。
いいかえれば、核爆弾を所持することの意味をなくしていけばいいわけです。
その努力をせずに、弱い国家の核実験を非難することにどうも納得できないのです。
核爆弾を持つことの意味を存続させておいて、それへの動きを封ずるというのは、どう考えても私には公正だとは思えません。
公正だないものが非難するということは、その行為が公正であるからだ、などと言うつもりはありませんが、でも少し言いたい気もします。

なんとまあ非常識な議論だといわれそうですが、そもそも人類が核爆弾を持っていることが非常識なのです。
北朝鮮を攻める前に、まずは核爆弾を持っている国家は、自らを恥じなければいけません。
それがあって初めて北朝鮮を責める資格があるはずです。

■理念か現実か(2009年5月28日)
昨日の党首討論は、残念ながらすべてを見ることができませんでしたが、報道ステーションが比較的長く流してくれたので、それを見ることができました。
私の評価は、大方のマスコミ報道とは全く違います。
価値基準が違うのですから、それは仕方がないのですが、一番気になったのは、麻生首相が、友愛や絆を説く鳩山代表を「問題は理念、抽象論ではなく、現実問題」と切り捨てたことです。
理念がないから日本の政治は迷走しています。
1980年代に、日本の政治は崩壊し始めたと私は思っていますが、その基本は理念の欠如です。
それが明確になってきたのは、1990年代に入ってからだろうと思いますが、総理大臣の職そのものが次第に私物化されたように思います。
もし1980年代に日本の政治が理念を失うことがなかったならば、今のような世界の混乱もなく、日本の社会の状況も全く違っていただろうと思います。

ジャック・アタリは近著「21世紀の歴史」でこう書いています。

多くの人々は、東京が(世界の次の)「中心都市」になるのではないかと想像するようになった。当時(1980年前後)の日本には金融力があり、経済はよく統制されていた。また、日本には貧困に対する不安感があり、テクノロジーと工業力があった。

しかし、日本は結局、その可能性を活かせず、世界の中心都市はロスアンジェルスに移ったとアタリはいいます。
さらにアタリは、日本の経済力は2025年には世界第5位ですらないかもしれないと書いています。
私は地すべり的に経済力も政治力も崩壊していくような気がします。
それが私たちの生活にとって良いか悪いかは別問題ですが。

理念がなければ社会は崩れます。
1980年代はともかく、1990年代になって、理念のない、つまり政権能力(マスコミと定義は違いそうですが)のない自民党政権が日本を壊し続けてきました。
それに便乗したのが、日本の大企業経営者でした。

もし今が100年の危機なのであれば、理念なくしては乗り越えられません。
現実対応は所詮は官僚に任せなければいけないのですから、その傀儡政権には政治はできないはずです。
その基本が、すべての議論から抜け落ちているような気がします。
「理念ではなく現実」
政治家の言葉ではありません。

この点を議論しないマスコミには失望します。
有識者といわれる人で、こうした議論を以前からしているのは寺島実郎さんくらいでしょうか。

麻生首相はまた、「国民の最大の関心は西松建設事件」といいました。
本当かな、と思いますが、少なくとも私は西松事件に大きな関心を持っています。
しかし、その関心は小沢さんの関係ではなく、検察と政治の癒着と言うことです。
政治に理念がなくなった時に、政治を正すのはだれでしょうか。
三権分立の発想から言えば、司法しかありません。
しかしその司法もまた、おかしくなってしまっています。
司法は壊れつつあるように思います。
裁判員制度は、それを加速させるでしょう。

党首討論での唯一の救いは、私には鳩山さんの「友愛」の発想です。
なぜこの理念が評価されないのか残念ですが、少なくとも私はこの理念で67年間生き続けてきて、今も豊かに暮らせています。
運がよかったのでしょうか。

■無残な軽井沢(2009年5月29日)
昨日から軽井沢に行っていたのですが、タクシーの運転手さんと話していたら、最近は相変わらず客が増えないとこぼしていました。
そして、彼が言うには、なにしろ最近の軽井沢にはアウトレットしかないですし。
少し耳を疑いました。

軽井沢の駅近くに大きなアウトレットができてから、もう何年になるでしょうか。
その話を聞いた時、なんでまたアウトレットなどを軽井沢につくるのか、と私はあきれてしまったことを思い出します。
でもまあ、それはそれなりの成功をしたように聞いていますが、「今、お客さんを呼びよせるものはアウトレットしかない」という話には驚きました。
軽井沢の観光行政は完全に間違っていることがはっきりわかります。
これではすたれるはずでしょう。
自分たちの魅力を自分たちで育てずに、外部資本の流行頼みのアウトレットに身を任せるなどと言う愚行は、もうとっくの昔に終わったはずなのですが、まだそれが「観光」などという馬鹿げた発想をしている人がいるわけです。
せめて、そのアウトレットを活かした「軽井沢の物語」を育てていかねばいけません。
数年前に千葉の御宿の観光に少し関わったことがありますが、そこで驚いたのは観光開発支援を業とする人たちの発想です。
そしてそれに依存しようとする行政の姿勢です。
せっかくの地域資源を活かすこともなく、浪費している事例があまりに多すぎるような気がしてなりません。

タクシーの運転手さんのぼやきは、もう一つありました。
最近のETC全国1000円制度で、土日の軽井沢は自家用車で埋まってしまうのだそうです。
地元の人に迷惑をかけるような施策は本末転倒しています。
浅知恵の麻生政権の得意技ですが、それに対抗しない地元も地元です。
対抗策はいくらでもあります。
それを考えようとしない地元の行政や観光業者、あるいは住民たちは麻生政権と同じレベルなのかもしれません。

国民は自分のレベルにあった政権しかつくれないという話は本当のようです。
私のレベルもまあ、麻生さん並だと思うと何だか恥ずかしくなりますが、もしかしたら麻生さんにうまくやられているのですから、それ以下なのかもしれません。
若い頃にもう少し勉強しておけばよかったです。
そうすればきっと今頃左団扇の生活ができたでしょう。
なにしろ麻生さん並の人たちが創っている社会ですから、いかようにも騙せそうな気がします。
いや、すでに私は騙されているのかもしれませんね。
自分のことは、なかなか見えないものです。

■国王の処刑(2009年5月30日)
いささか穏当でない話を書きます。

自分たちを統治するために国王を選んだのであれば、その統治がうまくいかない場合、国王は追放されるのが論理的です。
国王が神から選ばれた場合、もし統治に失敗すれば、処刑という運命が待ち構えていたという話を本で読んだ記憶があります。
心当たりの本を少し探してみましたが、見つかりません。
ですから引用はできないのですが、この文化は多くのことを含意しています。
もっとも、その文化は、クロムウェルが英国国王を処刑し、フランスでは革命軍が国王を処刑したあたりが最後だったかもしれません。
ナポレオンは処刑されませんでした。

それに類した話は、今もなお続いていますが、多くの場合は、単なる権力闘争でしかありません。
しかし民の幸せを踏みにじるリーダーは追放ではなく処刑こそが相応しいと、私は思っています。
誤解される恐れがありますが、処刑に賛成しているわけではなく、自らの生命を賭けるほどの自覚がなければ、人を統治すべきではないということです。
統治の失敗は、多くの民の生命を損なうことにつながっているのですから。
事実、この10年、どれだけの人が政治の失敗で生命を失っていることでしょうか。
私は小泉元首相は凶悪犯罪者と考えていますが、私にとっては麻生首相も間違いなき犯罪者です。
いずれも近世以前であれば、処刑の対象者です。

彼らがもし企業の社長だったら、たかだかその会社を倒産させる程度ですんだかもしれません。
その息子は、借金に苦しんだかもしれませんが、まあ世襲の輪は切られ、彼も自分の人生を生きることができるようになるでしょう。
そうなる前に、殿ご乱心と社長を諌める人が出てくるかもしれません。
株主(最近の株主には倫理も良識もないかもしれませんが)も動き出したかもしれません。
しかし、国家の場合はそういう動きは出ないのです。
今の麻生政権を見ればわかるでしょうが、首相の犯罪は周りの人たちで守られているのです。
しかも首相は誰も辞めさせられません。
それを利用している官僚たちは、無能な人であるほど、辞めさせないでしょう。
首相の座を投げ出すほどの勇気も能力もない人が首相であることは、官僚にとっては実にうれしいことでしょう。

北朝鮮の金正日を独裁者と言う人がいますが、麻生首相はたぶんそれ以上の独裁が可能でしょうし、事実そうしているように思います。
国民の税金は湯水のように浪費され、自然環境も生活文化も壊され続けていますが、誰も止められません。
いまどき、クロムウェルは出てきませんので、彼はのうのうと絶対君主役を楽しみ、任期が終われば、処刑されることもなく、余生をさらに楽しめるのです。
未開社会の国王を処刑する文化のほうがいいのではないかなどと、この頃、つくづく思います。

ついでに言えば、人を裁く者もまた、その行為によって自らを裁かれるほどの緊張感がなければ、その任につくべきではないと私は考えています。
その自覚がないために冤罪が後を絶ちません。
そこが司法改革の出発点だと思いますが、それとは全く逆方向の司法改革が進められています。

韓国では前の大統領が自殺しました。
この事件から、こんな妄想を膨らませてしまいました。

■羽田空港検疫官木村もりよさんの疑問(2009年5月31日)
羽田空港検疫官の木村もりよさんが、テレビのインタビューで、新型インフルエンザ対策で行われた空港や機内での検疫を、明確な言葉で批判しているのを観て、厚生労働省職員にもこうした人がいるのかと驚いたのですが、数日後に彼女が参院予算委員会に参考人として発言しているのをニュースで見て、さらに驚きました。
木村さんは、そこで、「マスク、ガウンをつけて検疫官が飛び回る姿は、国民にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。利用されたのではないかと疑っている」と述べたそうです。
あの画面を見て、私が感じた第1印象と全く同じです。
表面的な広報技術を学んだどこかの広報コンサルタントの浅知恵が、また馬鹿なことをやらせていると思いました。
広報は、実体が基本ですが、昨今の広報コンサルタントのビジネスは本末転倒していることも少なくありません。
後で知ったのですが、木村さんは「厚生労働省崩壊」という著書もあるそうで、早速、アマゾンで注文しました。

木村さんは、テレビ取材の前に、省内でも上司にしっかりと反論していたと思いますが(もしそうでなければ、彼女自身の行動こそがパフォーマンスということになります)、そうした議論があったということだけでも少しホッとします。

組織では、「意思決定」と「行動」との距離が少なからずあります。
行動は、社会と接点を持つ組織の境界領域で展開されますが、意思決定は多くの場合、社会と切り離されたところで行われます。
組織が大きくなると、その距離が大きくなるために、組織は現実とは無縁の論理で動き出しますから、どこかで破綻します。
ところが、行政制度の場合は、破綻せずに、それぞれが別々の世界を形成していくことがありえるのです。

たとえば、厚生労働省の意思決定者にとっては、インフルエンザの流行を止めることは第二義的な意味しかなく、予防対策を展開していることを社会に示すことが目的になってしまうわけです。
これが日本の行政お得意のアウトプット型行政です。
景気対策は予算を増やして、歳出を増やせばいいのです。
だから何も考えていない麻生首相や与謝野さんにもできるのです。
それが効果的に活用されるかどうかは全く関心の外です。
たとえば、霞が関のさまざまな助成金は、それこそ湯水のごとくばら撒かれていますから、その恩恵を受けて不労利益までもらっている人ですら罪悪感や違和感をもつほどです。
その成果には関心はありません。
しかし、アウトプット方行政とは、そういうものです。

それに対して、アウトカム型行政というのが、一応話題にはなりだしています。
ちなみに、私のこのブログに立ち寄ってくれる方の、検索ワードのトップは「アウトカム」なのです。
私のブログではそれほど話題にはしていませんが、不思議です。

アウトカムから発想すると木村さんのような指摘が出てくるのでしょうが、アウトプット発想からは出てきません。
そもそも最初に「パンデミック仮説」があるわけですから、感染者が大量に出てくることを前提にして方策が仕組まれています。
ですから、大量感染という事態になっても、行政は何のお咎めもない大勢が最初から用意されているわけです。

そうした行政の本質的な仕事への取り組み方を、木村さんは問題提起しています。
おそらくそう遠くないうちに、木村さんは大学の先生に転身されるでしょうが(つまり厚生労働省にはいられなくなるでしょうが)、現場起点のアウトカム発想から霞が関を組み変えていかなければ、厚生労働省は生活に役立つ省にはならないように思います。
分割すればいいというような問題ではないでしょう。

■友愛の政治(2009年6月1日)
今朝、何かをしながらテレビから聞こえてきた大島自民党国対委員長の声が記憶に残っているのですが(間違っているかもしれません)、たしか「友愛などと言っている民主党に政権を任せられますか」というようなことを話していました。
私は、友愛といっているからこそ任せられると思いますが、多くの国民はそれを単なる抽象論だと冷笑しがちです。
それでいいのでしょうか。
そういうように考えている人には、格差社会が悪いなどということは全く理解できないはずですが、その認識さえない人が多すぎます。
みなさんは、まさか「友愛」をバカにしていないでしょうね。
いやこんな質問こそ、バカにされそうな質問ですが。

私は、経営コンサルタントがビジネスの本業ですが、私の経営観の基本は「愛と慈しみ」、つまり「友愛」です。
そのせいか、仕事には恵まれずに、まあ年中失業状態です。
しかし、そのおかげで、いろんなことができますので、人生何が幸せかはわかりません。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、私の周りでも「友愛」は評判がよくありません。
なぜでしょうか。
友愛が抽象論?
私には全く理解できないのです。

最近、このブログでも引用したジャック・アタリも、友愛のインテリジェンスが超民主主義を主導すると書いています。
友愛は、なにもマルクスや鳩山一郎さんの言葉だけではないのです。

アタリは「21世紀事典」で、友愛とは、「人間が自ら拒むものは何であろうと他人には許さないことが望ましいということを認識すること」だと説明しています。
そして、もっとも古い昔からの英知の重要なメッセージであるこの原則は、現在、過去、未来の、他の生命あるものと人間との関係にも広げられることになるだろうと書いています。
さらに、「友愛は、社会秩序の基本的な原則となり、それを基盤にして新しい権利のシステムと新しい政治の実践が打ち立てられる」ともいいます。

私は30年前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きましたが、そこでの「真心」は言うまでもなく「友愛」のことです。
マルクスにかぶれていたわけではなく、さまざまな人生体験の中からたどりついた私の結論です。
私が発見した、自分の生き方を支えてくれている価値観でもあります。

私は、大きな福祉を目指すコムケア活動や自殺のない社会づくりネットワークに取り組んでいますが、その原点は簡単な実践信条です。
となりの人に声をかけることを大事にするということです。
それこそが「友愛」ということであり、すべての生命体に埋め込まれている文化だと思います。
友愛政治が抽象論だなどと思わずに、まず自分で実践するようになれば、友愛社会の意味が実感できると共に、それが決して抽象論でないこともわかるような気がします。

友愛を批判する政治家がいることが、私にはとても信じられません。
そんな政治家たちに自らの生活の統治を任せられる国民も、私には不思議な存在でしかありません。

■友愛の経済(2009年6月2日)
昨日、「友愛の政治」について書きましたが、友愛は経済の基本原理にもなりうるものです。
事実、友愛をベースにした経済論は少なくありませんし、最近見直されだしている利他的経済はまさにその核に友愛の理念があります。
しかし、大きな落とし穴があります。
昨日と違って、今日はポジティブにではなく、その落とし穴のほうから少し書いてみます。
いうまでもありませんが、政治においてもそうした半面があります。
概念には必ず裏表があるものです。

私は20年ほど前からささやかに「福祉の世界」に接点を持ち出しました。
そこで驚いたのは、福祉の世界において、「福祉」を儲けの手段にしている人が決して少なくないことでした。
やや大げさに言えば、利得が渦巻いているのです。

その次に、環境の問題にかかわりだしました。
ここでもお金がちらついているのを感じました。
それなりに「若者の青くさい正義感」を僅かばかしですが、心に残していた私としては、衝撃的な話でした。
ですから、たとえば「環境や福祉の分野こそ、これからの企業の成長分野」などと高名なエコノミストや評論家が言うのが腹立たしく、僅かな機会を見てはその批判をしてきました。
その体験から、昨今のCSR論にも信頼が置けないのです。

さて、友愛です。
友愛もまた、市場の犠牲になりやすい概念です。
すでに友愛はビジネスの格好の対象になっています。
友愛を売り物にしたビジネスはすでにいろいろと出てきています。
昨日引用したジャック・アタリもその点を指摘しており、悪化としての友愛と良貨としての友愛を書いています。
もちろん彼は、後者が結局は勝つだろうことを期待しています。

友愛の経済論は、協同労働や共済文化の経済論にもつながります。
共済研究会でも、そうした議論が時に行われています。
6月13日に共済研究会もありますので、よかったら参加してください。

■御殿場事件と裁判官の犯罪〈2009年6月3日〉
御殿場事件に関しては、数年前に話題になったのでご存知の方も多いと思います。

ウィキペディアには次のように書かれています。
静岡県御殿場市の御殿場駅近くで2001年9月に発生したとされる集団強姦未遂事件。被害者の証言に数々の不可解な点があり、犯行がおこなわれた日時が裁判途中で被害者の供述のみにより変更され、検察側により「訴因変更」が行われるなど世間の耳目を集めた。被告人側は、強姦事件そのものが存在しない架空の事件であり冤罪であると主張している。

この問題は長野智子さんがご自分のブログも含めて、ずっと追跡取材していますが、一昨日(2009年6月1日)、テレビのドキュメンタリ宣言でまた取り上げていました。
番組サイトに動画も出ていますので、お時間があればご覧ください。
私にはこの事件の真相はもちろんわかりませんが、最高裁がまさかの上告棄却としたのには驚きました。
明らかに警察の捏造事実があり、また被害者の証言変更〈被害のあった日がつじつま合わせのためか後で変わったようですが、そんなことは絶対にありえない話です〉があったのですが、最高裁は事実の審理を拒否したのです。
私には特権を持っている裁判官の犯罪としか思えません。
こうしたことを残したまま、裁判に国民を巻き込むなどと言うことはありえない話なのです。
つまり冤罪隠しと裁判員制度は、深くつながっています。

この事件が冤罪かどうか、はともかく、その可能性は否定できません。
だとしたらもっとしっかりと審議すべきです。
新しい事実も出てきているのですから、審議すべき責任が裁判所にはあるように思いますが、もし法的責任がないとしても、これだけ疑義が突きつけられているのであれば、しっかりと事実を再調査し、その疑義、つまり不信感を解消しなければいけません。
それがあってこそ、裁判制度は持続できるのです。
国民に信頼されない裁判制度は国王(統治者)のものでしかありません。
そうした裁判に、統治される国民を狩り出して冤罪に加担させる仕組みこそが裁判員制度だろうと私は思います。
もし国民に裁かせるのであれば、裁判官は不要です。
裁判官制度や検察制度を変えることなく、裁判制度を変えることの可笑しさに気づくべきです。
前にも書きましたが、日本の裁判制度の基本構造は、民主主義には立脚していません。
明治憲法体制、つまり権力者支配体制に立脚しています。

堀田力元検事が、検察官には説明責任がないと発言したように、検察官は権力者のために事件をでっち上げるための存在なのかもしれません。
それはまさに堀田さんが検事時代にやったことです。
裁判官も警察官も、おそらくその国王の検察には立ち向かえないのかもしれません。
おそらくこうした仕組みは、もう30年もしたら瓦解するでしょうが、いまはまだ「権力者の不正義は犯罪にはならない」社会なのです。

いささか書きすぎていますが、
この事件に関しては、すでに刑が確定して、2人の若者はいま刑務所に収監されています。
もしこれが原告の狂言まわしだったとしたら、その2人の若者の人生をどう補償するのでしょうか。
気が遠くなるような話です。
しかし、こうしたことが今なお、決して少なくないのだろうと思います。
そして私たちもまた、そういうことと無縁ではないということです。

みんなが「マスク」をしたくなることがよくわかります。

■薬事法改正に思うこと(2009年6月4日)
薬事法が改正され。大衆薬市場も新たな競争段階に入ったようです。通信販売での購入が難しくなる一方、薬剤師の代わりに新資格「登録販売者」を置けば、店頭販売で大半の商品を扱えるようになりました。
早速、大手スーパーでもドラッグストアでも値引き競争が始まり、イトーヨーカ堂では大衆薬売上高が前年に比べ3割増えたという報道もあります。
なんでも反対と言うわけではないのですが、薬も値引き競争でどんどん安くなり、売り上げが伸びるというのがどうも気になります。

食材もそうですが、安ければいいというわけではありません。
ものには適正な価格があり、需要にも適正な量があります。
日本の経営者が好きな経営学者ドラッカーは、顧客創造こそ経営だという主張で評価を得ましたが、私からみれば、全くの間違いです。
まあ、しかしそんな意見はだれも耳を貸さないでしょうから、繰り返すのはやめます。
今回は「登録販売者」なるものへの違和感を書きます。

これも前に書いたような気がしますが、どうしてみんな「資格」を作りたがるのでしょうか。
資格があれば、安心できるのでしょうか。
「資格」のある人にだけ、権限を与えるという発想は、私には違和感があります。

話は違いますが、介護保険制度ができてから介護の現場はどうなったでしょうか。
資格がなければ介護さえできない社会って、おかしいと思いませんか。
「資格」を設定して、その資格のある人に生活のある部分を一任してしまう。
結局、生活力も生活の知恵もない、生きる力のない存在を増やしていくことにならないでしょうか。

「資格」ができることで、それまでは無償だった行為が有償になることも忘れてはなりません。
新たな市場ができますから、GDPには貢献しますし、お金儲けしたい人には歓迎されるでしょう。
でも、それによって生まれる膨大な無駄のことも忘れてはなりません。
貨幣経済量と実物経済量は、決して比例はしていません。

薬事法改正は、誰のためのものなのでしょうか。
なにか発想の起点が違っているような気がしてまりません。

■人を信ずるところからこそ人は裁ける(2009年6月5日)
足利事件で服役中だった菅家受刑者が再審開始を前に釈放されました。
その記者会見をテレビで見ましたが、17年の彼の人生は戻ってくることはありません。
彼の父親の死にも、警察や検察、あるいは裁判官は責任を感ずるべきでしょう。
その覚悟がなくて、人を裁くことなど引き受けてはいけません。
裁判とはそれほどのものであると、私は思いますので、裁判員制度にはついていけないのです。

この報道に対しては、さまざまなところで既に議論されていますので、付け加えることもないのですが、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
それは、「疑わしきは罰せず」の法理を、日本の裁判官は思い出せということです。

多くの冤罪事件は、警察や検察の中には、それが冤罪であることを知っているか、または疑っている人は少なくないと思います。
なぜならば、冤罪をつくりあげるのは、まさに警察や検察の人だからです。
もしそうであれば、裁判官はその気になればそれに気づくことは不可能ではありません。
それが見抜けないような裁判官は、誠実さにおいても能力的にも、裁判官になってほしくないものです。
しかし多くの裁判官に、そうしたことを期待するのは無理かもしれません。
そこにこそ、日本の裁判制度の問題があります。

「疑わしきは罰せず」の法理をもっと大事にするべきです。
そこから司法改革は始まるはずです。
人を信ずるところからこそ、人は裁けるのです。
司法界の文化を変えなければいけません。

■図書館民営化の2つの問題(2009年6月6日)
図書館の民営化が進んでいるようです。
しかしどうも私には違和感があります。
何回も書いていますが、「民営化」とは「私企業化」ではないかと、私は思っているからです。
図書館の民営化には2つの問題があります。

ひとつはいうまでもなく、行政がやっていた事業を民営化する場合のすべてに当てはまる問題です。
民営化を、もし企業に任せるというのであれば、論理的には必ずコストアップになります。
なぜなら企業の場合、出資者への利益配分が必要ですから、儲けなければいけません。
ですから当然ながら、図書館の本体業務に向けられる資金は減少します。
ややこしい言い方をしていますが、誰かが図書館経営を通して誰かが儲けることになりますから、その分が外部流出するわけです。
企業に経営を任せるという意味での民営化は、必ず誰かが得をするという仕組みになります。
そうなれば当然誰かが損をします。
言うまでもありませんが、損をするのは住民であり、国民です。
言い方を変えれば、行政事業の民営化は必ず質が低下するということです。
これは世間で言われていることと反対ですが、論理的には間違いないはずです。
間違っていたら指摘してください。
ちなみに、民営化したら無駄が無くなるというのは反証にはなりません。
民営化せずとも無駄をなくすことは可能です。
最近の実例では福島県の矢祭町の図書館の事例を挙げればいいでしょう。
次元が違う話を混同してはいけません。
またミッションの中から優先度の低いものを削除したということも別の話です。
これは次の問題につながります。

民営化するとミッションが見直されることになるはずです。
最近の事例では郵政民営化です。
ミッションが変わる理由は、発想の起点が変わるということです。
それまでは、全体の統治、あるいは住民たちの効用が発想の起点でしたが、民営化すると事業主体の効用に発想の起点が移ります。
住民のためが、顧客のためになるわけです。
ここで問題になるのは、「顧客」とは誰かです。
図書館にとって「顧客」とは誰か、これは悩ましい問題です。
多くの人は「図書館利用者」ではないかと思うでしょう。
そうでしょうか。
まさにその発想は、私企業が経営する図書館事業の場合の発想です。
そこでは受益者負担という発想が出てきますが、これもまた悩ましい問題です。
あまり深入りはやめましょう。
長くなりますので。

さて図書館を行政が各地につくった理由は何でしょうか。
あるいは、その社会的意義はなんだったのでしょうか。
なぜ民間の貸し本屋ではなく図書館だったのでしょうか。
つまり図書館を民営化するということは、ミッションが変わるということです。
この意味は、とても大きいですが、書き出すと長くなるので、今回はここで終わります。

いま必要なのは、図書館の民営化ではなく、図書館のミッションを佐藤修幾人し、それが果たせるように図書館のかたちやあり方を考えることのように思います。

■友愛の社会(2009年6月7日)
最近の社会の壊れ方に、私自身それなりに危機感を持っています。
もっともそうした意識を持ったのは中学生の頃からですから、この半世紀、一体何をしてきたのかと反省しなければいけません。
何もしなかったわけではなく、それなりにやってきたこともありますが、物事、成果が出なければ意味がないと最近は感ずるようになって来ました。
そうであれば、もっと活動しなければいけないのですが、根が怠惰なのとどこかに覚めた自分がいるのです。
困ったものです。

今日、地元の仲間たちとの集まりがありました。
地元に新しい風を起こしたいと、もう半年くらいやっているのですが、毎回のように少しずつ仲間が増えてきます。
みんな「何かをしなくては」という思いがあるようです。
怠惰な私は、本当はあまりやりたくなく、ある人から相談を受けたので断れずに参加しているので、本当はどこかで抜けたいのですが、新たに参加してくる人の話を聞いていると、抜けるわけにもいかなくなってしまうのです。
みんな地域を愛しています。

ホームページに書きましたが、元大企業の経営者だった友人と話していて、あまりにも私と同じ考えを持っているのに驚きました。
大企業の経営者も、もしかしたらまだ捨てたものではないかもしれません。
希望を感じました。
企業経営幹部の集まりにもコーディネーター役で関わっているのですが、これも最近は退屈でやめたいのですが、やはり続けようかと思いなおしてしまいました。
実は、そこでも最近、「愛」が語られることが増えているのです。

自殺のない社会づくりネットワークを立ち上げるために準備会を発足させました。
新聞やネットで知った方から参加の申し出があります。
若い人も決して少なくありません。
みんな、今の社会に違和感を持っているようで、何かしたいと思っているのです。
そういえば、これもホームページに書きましたが、先週は、60代から70代の数名の人にお会いしましたが、みんなそれぞれのテーマで無私の思いで、おかしくなってきた社会をどうにかしたいとがんばっています。
その根底には、隣人への愛を感じます。
怠惰な私としては、どれもこれも関わりたくないのですが、気がつくと勝手にコミットしている自分がいます。
どうしようもなく、困ったことなのですが。

テレビや新聞で報道される事件を見ていると社会はどんどん壊れるだけだと思ってしまいますが、そうした動きの一方で、さまざまな「希望の動き」も広がっているのです。
そんな動きには関わりたくないのですが、不思議なもので、希望は私のような怠惰な人間も引き込んでいくのです。

今日の「天地人」では、直江兼続が自らの「義」を表わすものとして「愛」を選んだ話でした。
この「天地人」はシナリオがめちゃくちゃで毎回イライラしてしまいますが、まあそれはそれとして、「義」と「愛」はつながっています。
勝手な解釈かもしれませんが、それらは「友愛」と置き換えてもいいように思います。

友愛の政治、友愛の経済、について書きましが、社会の根底にあるのも「友愛」です。
怠惰な私にさえ、それが見えるのですが、怠惰だからこそ見えるのかもしれません。
みんな忙しくなりすぎました。
友愛と忙しさは、両立しないのかもしれません。

■ラビエンヌスの信義(2009年6月9日)
「友愛」の話を何回か書きましたが、NHKの大河ドラマ「天地人」では、「義」と「愛」がテーマのようですので、「義」の話も書いておきます。
「愛」とともに「義」が失われてきているのが、いまの私たちの社会だという気がするからです。

私はそれなりに「義」を大事にしています。
「不義理」もたくさんしていますが、一応、意識的には「義」に生きたいと思っています。
「友愛」を語っているジャック・アタリは「義」(フィデス)に関してはあまり語っていませんが、彼の「21世紀事典」には「信頼」(confiance)の項はあります。
そこには、信頼こそがすべての分明の支柱だが、市場や契約の文化は信頼の倫理の価値を低下させ、信頼は徐々に権利と裁判制度に置き変わっていくだろうと書かれています。
「義」と「信頼」は別物ですが、義が失われていけば、自ずと信頼関係は成り立ちにくくなります。

塩野七生さんの「ローマ人の物語」によれば、ローマ人は義を大切にしたようです。
契約よりも法よりも、人間同士の義が優先されたようです。
しかし、これは何もローマ人に限ったことではありません。
日本でもしばらく前まで存在していた文化です。
武士道の話ではなく、庶民の世界の話です。
10年ほど前ですが、山梨に転居した人から聞いた話ですが、講のような組織があって、そこの行事が何よりも優先されるので、会社を休まなければいけないこともあるのだそうです。
その根底には、たぶん「義」につながるものがありそうです。

「ローマ人の物語」には、カエサルとラビエンヌスの話が出てきます。
カエサルがルビコンを渡ろうとした時、彼がもっとも信頼していた副官のラビエンヌスが、渡河の前夜、カエサルのもとから去ったのです。
ラビエンヌスは、カエサルの敵になるであろうボンベイウスと義を交わしていた関係柄だったのです。
ラビエンヌスがカエサルの許を去ったのは、ポンペイウスへの義からでした。
それを知っていたカエサルは、自分を裏切ったラビエンヌスを非難するどころか、彼の荷物をわざわざ送り届けさせたそうです。
私が大好きな種類の話なのですが、個人間の義よりももっと大きな儀があるはずだという意見もあるでしょう。
理屈では、私もそう思います。
小さな義のために自死する政治事件や経済事件の報道に接すると、私はいつもそう思って、死者は犬死ではないかなどと思ってしまいます。
しかし、もしかしたら、瑣末に思える個人間の「義」こそが、人のつながりの根源であり、社会の基本なのかもしれないと、いう気もするのです。
大きな義よりも小さな義のほうが大切だということです。

この話を書き出すとそれこそ、社会とは何かという大命題にまで至ってしまうのですが、義のない社会は存続できません。
つまり壊れるしかないのです。

大きな義が失われだしてからもうだいぶ経ちますが、私の周りでは、小さな義も急速になくなってきています。
おそらく自分では気づいていないのですが、私もまた「義」を欠いた生き方にどんどんなってきているのでしょうね。
今日はどうも自己反省、自己時評になってしまいました。

■鳩山総務大臣へのエール(2009年6月10日)
日本郵政の西川社長人事をめぐって、鳩山総務大臣と他の閣僚との間での不調和音が話題になっています。
与謝野大臣は、小さな問題などと言っていましたが、この人はどこまでも無責任な対応しかしないようです。

私は、これは決して小さな問題ではないと思っています。
民営化というものが意味する本質的な問題(それもありますが)が含意されているからではありません。
日本の国のかたちに関わる問題だからです。

官僚国家状況を脱するために、官僚の力をどう弱めるか、政治がどう主導性を取り戻すかが議論されていますが、官僚国家は官僚だけで完結しているわけではありません。
防衛省の守屋元事務次官の犯罪が明らかにしているように、あるいはC型肝炎事件での構成路プロジェクト同社の職員たちのおぞましい犯罪が明らかにしているように、官僚の背後には企業がいます。
官僚は、その手先でしかありません。
せいぜいが数億円程度の小銭しか分けてもらえないでしょう。

しかし産業界の得る利益は、そんな小銭ではありません。
もちろんすべての企業というわけではありませんが、財界や産業界の大きな枠組み悪用している経済人こそが、もしかしたら官僚政治の黒幕なのかもしれません。
その意味で、この事件は政治が主導性を回復できるかどうかに深く関わっている問題ではないかと思います。

私は、企業の経営者にも知人がいますし、素晴らしい経営者にも出会うことは少なくありません。
大企業の社長でも、素晴らしい人物はいないわけではありません。
しかし、昨今の財界を動かしている経営者には全くと言っていいほど信頼はもてないでいます。
まあ、最近はそんなに知っているわけではありませんが、常識的に考えて、公正さや誠実さを感じられないことが多すぎます。

問題は仕組みであり、責任の取り方だろうと思いますが、
しかし西川さんの対応振りを見ていると、こういう人が日本の財界のキャストとして利用されているのだなと少し哀れささえ感じてしまいます。
少し読みすぎかもしれませんが、この事件に、ことの本質が現われてきているように思えてなりません。
真の悪人は、いつも見えないところにいるものです。

■近代は自らを終焉させる仕組みを内在させていた(2009年6月11日)
日本農村情報システム協会の不正支出と自己破産申請がマスコミをにぎわせています。
こういう話は、それこそ山のようにありますし、おそらく霞ヶ関あるいは自治体と付き合いのある人なら、似た話を一つ二つはすぐ思い出せるのではないかと思います。
にもかかわらず、なかなかそういうものはなくなりません。
いや、もしかしたら増えているかもしれません。
私が知っている少ない情報でも、この数年、霞ヶ関が嘘のように「助成金」と称して税金をいろんなところにばら撒いている話はよく聞きます。
そうした文化のうえに、定額給付金は立案されたとしか思えません。
少しは全国民にもばら撒いて、自分たちの罪の意識を軽減しようという話です。
とまあ、こんな邪推をしたくなってしまいます。

それにしても、こうした天下り組織の実態は一向に明らかになってきません。
今頃こんな話が話題になるのは、その証拠です。
テレビのキャスターやコメンテーターたちも、もっとあるのではないかといつも言います。
1000万円もあれば、全国の天下り組織の実態調査はできるでしょうから、もしそう思ったら調査をしてほしいです。
それができる立場にいる人も少なくないはずです
しかし、具体的に全体を調査するという動きは聞こえてきません。
年金の時も薬害の時もそうでした。
責任者も報道者も、具体的には誰も動こうとしないのです。
なぜなのでしょうか。
それが明らかになったら困るので、残しておいたほうがいいと思っている人が多いのでしょうか。
批判者は、批判の対象がなくなることが一番怖いことなのですから、批判の対象をなくすようなことはしないでしょうし。

マスコミは、さまざまな不正や犯罪的行為を暴いてくれます。
しかし、そこから先はなにもしません。
不正行為がなくなれば、マスコミは報道する材料が減るからではないかなどと思ってしまいます。
まあ、そんなことはおそらくないでしょう。

と、ここまで書いてきて、ハッと気づきました。
産業と同じく、問題解決したら市場がなくなるというジレンマは、マスコミにもあるはずですから、こうした疑いはまんざらありえない話ではないのかもしれません。
そういえば、最近の報道ステーションは、ただ同じ批判を繰り返すだけの退屈な番組になってしまいました。
マスコミも、やはり「産業のジレンマ」「近代のジレンマ」の渦中にあるのです。
週刊誌がセブンイレブンを批判できないのと同じ構図が至るところに張り巡らされているのでしょうか。
批判が封じられれば、残るのは滅びの道です。

近代は、自らを終焉させる仕組みを内在させていたのです。
私にとっては、久しぶりの大発見です。
世界観が変わりそうです。

■日本の温室効果ガス排出量の中期目標が発表されました(2009年6月11日)
昨日、麻生首相は、2020年までに日本の温室効果ガスの排出量を「2005年比で15%減」とする中期目標を発表しました。
その実現のための具体的な方策についても触れています。
それを批判するつもりはありませんが、こういう話にはいつもどうも違和感があります。

基準年を変えることで、削減数値を大きく見せるといった方策は、権力維持のために働いてきた統計学者たちの常套手段ですから、それについても批判するつもりはないですが、こうした方策はあまりにも見えすぎるので、社会に与える影響の大きさは心配です。
しかし、それに関しても今回は目をつぶります。

問題は削減のための方策です。
クールビズに関してコメントしたように、エコビジネスはどう考えても環境負荷を高めます。
これに関しては、昔、「脱構築する企業経営」でも書きました。
よほどお暇な方は、その連載記事の「消費機関としての企業」の章をお読みください。
私のホームページに掲載されています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kigyoron00.pdf
太陽エネルギーの活用は悪いことではないでしょうし、そうした分野で世界に役立つ技術を開発することもいいでしょう。
しかし、相変わらずその根底にあるのは、産業の発展のような気がします。
そのことが、いま問われているのではないかと思います。

持続可能な発展という概念が出された時に、持続可能性と発展とは矛盾するという議論がありました。
あるいは、中国やインドの国民が、いまの日本人のような生活をしだしたら、地球環境は危機に陥るというような議論もありました。
そうした議論に示されるように、ことの本質は「産業の活動量」のような気がします。

日本の産業量を2割削減すれば、つまりいわゆるGDPを2割削減すれば、コミュニティの中期目標は実現できるでしょう。
2割削減すれば、いまでさえ大変な産業界は壊滅的な打撃を受けるだろうといわれそうですが、地球環境が壊滅的な打撃を受けている時に、何を馬鹿なことを言っているのだと私には思えます。
もちろんすぐに2割削減するということではありません。
そういう発想で、取り組まなければ、実質的な環境問題にはつながらないのではないかと言うことです。
30年かけて、日本の経済のパラダイムを変えていけば、問題はそうは起きないはずです。

幸いに、日本は少子化時代を迎えました。
世界の経済状況も、間違いなく、そうした経済のパラダイム転換に向けて追い風です。
陳腐な発想ではなく、長期のビジョンで、経済を変えていくチャンスかもしれません。
しかし、複雑に絡み合ってしまった今の経済のパラダイムを変えることなど簡単にはできません。
だとしたら、まずは私自身ができることからやるのが現実的です。

産業への依存度を低め、GDP発想の経済に寄与しないような生き方に向けての努力をしていくようにしたいと思っています。
もちろんあまり無理をしない程度に、です。

■遊ぶ人が働く人を邪魔する時代(2009年6月12日)
昨日、福島でタクシーに乗りました。
その運転手さんから聞いたのですが、タクシー運転手の収入はこの半年で3割前後減ったそうです。
この数年、収入は減り続けているそうですが、いまでは手取り月額が10万円に達するのが難しいようです。
それで運転手はお金の困っていない人か年金をもらっている高齢者でないとやっていけないというのです。

日本全国不景気なので、まあそれは仕方がないとしても、許せないのは高速道路の1000円制度だというのです。
なんで遊びに行く人だけが1000円で、仕事で高速道路を利用する人は高い料金を取られるのか。
反対ではないか。
おかげで飯坂温泉には観光バスが来なくなり、二本松の老舗温泉宿も倒産したし、と怒っていました。

そういえば、先月軽井沢でも同じような話をタクシーの運転手さんから聞きました。
高速道路が1000円になったおかげで、マイカーでの観光客が激増し、休日は仕事にならないと怒っていました。

いずれも、働く人よりも遊ぶ人のほうが優遇されることへの怒りです。
その怒りはよくわかりますが、それが消費主導の経済の本質なのです。
このブログで繰り返し書いてきたように、市場を創ること、つまり顧客の創造こそが経済の原動力になっているのです。
そのことが私自身は全く納得できないわけですが、ほとんどの人は納得してきたはずです。
福島の運転手さんには、自民党を応援してきたあなたたちが、そういう社会をつくってきたんじゃないのと言ってしまいました。
ちなみにまた、各地で建設業者が少しずつ仕事を増やしているようです。
昨日の運転手も、政治家につながっている土建業は最近元気になってきたようだと言っていました。

こうした経済文化は社会を壊す危険性を秘めています。
先進国の中でいまや最も働く意欲が低いのが日本だという調査結果もありますが、遊ぶ意欲を煽られてきた結果かもしれません。

遊ぶ面白さと働く面白さと比べたら、どちらが面白いでしょうか。
あるいは持続し発展していくでしょうか。
いうまでもなく、働く面白さだと思います。
しかし、働く面白さが奪われてしまい、遊ぶ面白さを強制されてきているのが昨今の日本かもしれません。
働くことも遊ぶことも、ともに強制されているような気がします。
まもなく、遊ぶことの面白さも失われていくでしょう。
それは、生きることの面白さや感動を失うことなのかもしれません。

地方に行って、タクシーに乗ると、いろんなことを感じます。

■「お上」依存意識からの脱却(2009年6月13日)
いま、地元の仲間たちと新しいLLP(有限責任事業組合)を立ちあげようと準備を進めているのですが、その設立登記書類を作っていて感じていることがあります。
規則通りにやろうと実に几帳面な人が少なくないということです。
私は、規則とか法規は、「善意を支援し、悪意を防ぐ」ためにあると考えている人間ですので、規則に書かれた文字の一字一句にはほとんど興味がありません。
たとえば、住所表示の仕方で、私の住所は「我孫子市白山1−27−6」ですが、ある人が「1丁目27番6号」と書かないとだめだと指摘してくれました。
たしかにその通りで、略式表記は契約書などでは嫌われます。
ですから住所表記を全部書き換えたのですが、そうした議論を通じて、日本人は徹底的に「統治される民意識」埋め込まれていることを実感しています。
民がきちんと忠実に従っていても、年金で見られるように、「お上」は全くいい加減に処理していることをこれだけ見せられても、国民の意識は変わらないのです。

私は21年前、自分の会社の設立登記を自分でやりましたが、登記所の人から書き直しや捨て印を押すことを強制されました。
書き直しは拒否しましたが、捨て印は結局、受けてしまいました。
捨て印を押すということは、「お上」に勝手にやってもいいという恭順の意の表明だと当時は考えたのですが、面倒になって受けてしまいました。
今から思えば、恥ずかしい話です。

最近、つくづくと思うのですが、資格をもった専門職というのは、お上に寄生する職業です。
その人たちの仕事を保証するのが法規(行政手続法)なのかもしれません。
昨年から、収入がないので、私の個人会社の決算作業や税務申告手続きを自分でやるようにしました。
それまでは税理士に頼んで月額5万円と決算手続き費用を負担してきました。
ところが自分でやってみたら、2日もあれば出来ることが分かりました。
但し、減価償却とかいろいろとややこしいことをやろうとするとわかりません。
幸いに最近は会社の売り上げがほとんどないため、まあ簡単にやれるのですが、いかにも難しい様式になっています。
大企業であればともかく、売上高の小さな企業であれば、もっと簡単に税務申告できる仕組みはいくらでもできそうです。
複雑にしているのは、税務署の権威を高め、税理士や会計士の仕事を創出するためではないかとさえ、思うほどです。
何でこんなことまで専門職に費用を払って頼まなければいけないのかと思うことは決して少なくありません。

私の友人知人にも、税理士や会計士や行政書士などもいますので、いささか言いよどみますが、本当にそうした職業は必要なのでしょうか。

そう考えると、私が会社時代にやっていた仕事は価値があったのだろうかという反省も起こってきます。
私は入社後6年くらいして、企画部門に配属されました。
そこで全社的な経営計画を立てたり、事業戦略のための調査活動をしたりする仕事に取り組んでいました。
いわゆる「戦略参謀業務」ですが、これって果たして会社に必要だったのだろうかという気がしています。
その疑問が当時から少しあって、ボスには現場に出してくれといっていたこともありますが、お前には無理だといわれて出してもらえませんでした。
つまり私にはお金を稼ぐ能力がないと評価されていたのかもしれません。

私が当時やっていた仕事は、いまの言葉を使えば「知識労働」です。
ところが最近は、その「知識労働」が主役になっていく時代なのだそうです。
「知識社会」なる言葉もあります。
これからは創造性をもった知識労働者が新しい事業を起こしていくとも言われています。
しかし、「知識労働」って何だか分かりにくい言葉ですね。
汗して生きている人が、ますます報われない社会にならなければいいのですが。
そのためには、私たちもそろそろ「お上」依存意識から抜け出さないといけません。
それは、結構むずかいいことなのですが。

■怒りが鬱積している時代(2009年6月14日)
鳩山総務大臣の辞任は、予想していたとはいえ、いささか失望しました。
郵政民営化路線はなかなか揺るぎません。
民営化とは私益化のことであり、税金を特定の個人もしくはグループに勝手に分け与えることであることが(つまり税金の恣意的な割り振りです)、なかなか認識されないようです。
かんぽの宿を1万円で購入して、福祉施設に6000万円で転売したという事例がありましたが、これはすべてに当てはまることなのです。
年金保険料を勝手に私的に浪費した構造と同じです。

それを許すのは、寛容な国民の知恵かもしれませんので、最近はまあいいかと思うようにしていますが、いまなおあまりいい気持ちがしないのが、こうした事件が起こるとみんな寄ってたかって悪口のいい合いをすることです。
このブログも、そんな側面があると指摘されそうですが、そしてされたことも何回もありますが、私としては一応節操を持って批判しているつもりです。
時々、勢いあまって口汚く個人をののしってしまいますが、反省しなければいけません。

いくつかのメーリングリストで、鳩山批判が飛び交っています。
現状の体制を批判している人たちのメーリングリストでも、です。
同じメーリングリストで、麻生首相が批判され、小沢元民主党代表が批判され、まあ批判の風が噴出すると、恐ろしいほどに批判は増幅していきます。
批判の内容は、実にさまざまです。
昔のことが批判されることも少なくありません。
対象は誰でも何でもいいのかもしれません。
その時に、目立つ行動をした人が、ともかく批判されることが多いです。
みんなきっと「怒り」を鬱積させているのです。
相手は誰でもいいのでしょうか。
しかし、そこには大きな危険性が潜んでいます。
つまり、批判は批判を削ぎあって、結局、現状を維持するようになっていくということです。

権力が自らの権力を持続させるためには、社会の外部に大きな批判の対象をつくることです。
ブッシュ政権はまさにその戦略をとりました。
体制維持のために、あるいは体制壊しのために、権力志向者が使う手法です。

もう一つの権力維持策は、批判を封じるのではなく、批判を巻き起こすことです。
これはむしろ不満を持つ側の人たちが、自らの暴発を回避する手段として、広げていく自衛策のような気がします。
四方八方に批判の嵐が起これば、社会に内在する不満は横の関係でエネルギーを解消していきますから、時に権力者も使いますが、持続はできません。
むしろ体制に不満を持っている人たちが、この手法を取りがちです。
そして、それぞれの怒りや不満を、相対化させ、自己納得してしまうわけです。
誰もが批判しあうことを許しあう文化。
一種の「寛容の文化」と言ってもいいでしょう。
これは、中途半端に豊かさを得た、いじましい人たちの知恵なのかもしれません。

どこか自虐的で、元気の出ない見方ですが、いろんなメーリングリストでのさまざまな批判メールを読んでいると、何だかそんな気がしてきます。
これもまた情報社会の落とし穴の一つかもしれません。

■過剰反応する事情の背景(2009年6月15日)
昨日更新したCWSコモンズの「武田さんの理想国家論」で、武田さんは最近核開発で騒いでいる北朝鮮への最善の対応策は「無視」ではないかと主張しています。
私も全くの同感です。

北朝鮮は、私たちが考えている以上に小さな国です。
人口は多いですが、国家予算規模は日本の県レベルではないかというデータもあります。
中国もアメリカも、まあちょっとしたノイズを起こす程度の、いかようにもコントロールできる存在と考えているのではないかと思います。
イラクやイランとは全く違うでしょう。
日本人が、パチンコを一切やらなくなったら、その利益の仕送りを受けている北朝鮮の財政はパンクするという意見さえあります。
だから国家として偽札ドルを印刷したり、麻薬ビジネスに手を出したりせざるを得ないわけです。
そうした、国家基盤も確立していない国が、少しぐらい騒ごうがどうでもいい話ではないかと思います。
軽くいなせばいいだけの話です。
行動論理が全く違うのですから、同じ論理で対応していたら、彼らの不正義を支援するのが関の山でしょう。

しかし、日本の報道はいつも加熱します。
なぜでしょうか。
それにはおそらく意味があるはずです。

新型インフルエンザ事件も過熱報道でした。
最初に騒がれだした時に、私は「もう一つのパンデミック」を予感しましたが、この過熱報道にもおそらく意味があったのです。

小さな事件が、小さな不安が、マスコミによって増幅される場合には、おそらくその裏に何かの事情があるように思います。
新聞各紙が一斉に同じ情報を流しだす時には、注意しなければいけないと言うのが、私の体験則です。

核開発の話など無視して、拉致問題こそ、真剣に取り組むべきではないかと思います。
核開発問題と拉致問題は、問題の本質が全く違うのです。
政治家や財界人は前者を重視するでしょうが、生活者にとって意味のあるのは後者です。

■「個人を破壊しようとする政治は、政治そのものを崩壊させてしまう」(2009年6月16日)
民主党の鳩山代表の政治資金管理団体の政治資金収支報告書に、すでに亡くなった人が献金者として記載されていることがわかった、という記事が新聞に出ていました。
小沢さんの次は、鳩山さんかと嫌な気分がよぎりました。
まあ、そんなことにはならないでしょうが、日本の新聞は政治家への個人攻撃が大好きです。

郵便割引制度不正使用事件で、厚生労働省の村木局長が逮捕されました。
事務次官候補とさえ言われていた「女性官僚の星」だったそうですが、その背後にも政治家の影が見え隠れしています。
目標が村木さんなのか政治家なのか、いささか疑念を感じますが、村木さんが明確に事実否認しているというのも気になります。

かつて閣僚人事で、身の潔白さを確認する「身体検査」が話題になりましたが、同じような動きは1990年代のアメリカでも横行しました。
政治家への個人攻撃が広がり、失脚者が相次いだのです。
その背景には、企業の資金が政治の世界になだれ込んできたという事情があります。
少し遅れて、日本も全く同じような状況になってしまったのです。
新型インフリエンザではないですが、アメリカは自国の病気をほぼ確実に日本に伝播させる力を持っているようです。

年金保険料の未納を批判されて、民主党の管さんは職を辞して、西国霊場めぐりに出かけました。
この事件でも、検察が活躍しましたが、そのおかげで年金問題の解決は大きく遅れ、政治状況は更なる混迷を余儀なくされました。
結局、そのつけは国民が負うことになります。
検察は一向に批判されません。
それは今回の西松事件でも同じことです。

政治家は潔白であらねばならないということには反論はできません。
しかし、潔白の人など、ほとんどいませんし、そんな人はそもそも政治の世界には入ってきません。
その気になれば、おそらくどんな人も批判する材料を持っているでしょう。
もし自分にはそんなものはないという人がいたら、お会いしたいものです。
自慢ではありませんが、私にはいくらでも批判される材料があります。

「個人を破壊しようとする政治は、政治そのものを崩壊させてしまう」とコミュニタリアンのエツィオーニは「ネクスト」という著書で述べています。
彼は、こう書いています。

あらゆるルールや規則を完全に守れなかったからといって−例えば公的に支給された切手代の管理を誤ったとか、オフィスから私用電話をかけたなど−そのことから、何年間にもわたる捜査や公聴会、納税者のカネの莫大な浪費、その後の政治生命の抹殺が正当化されるのはおかしい。公衆および政党の指導者たちは、そのように細かく詮索されたならば、ほぼすべての人が有罪となりかねないことを考えなくてはならない。公職の安定性を守り、法の尊重を維持するための、よりよい方法があるにちがいない。

政治を混乱させることで、誰が利益を得るでしょうか。
それは難しい問題ですが、明らかなことは損失を受けるのは国民だということです。
マスコミの悪質な個人攻撃にのせられないようにしなければいけません。

蛇足ですが、この時評ブログも個人攻撃が少なくないといわれないように弁解しておきます。
注意してもらえればわかるのですが、私が酷評しているのは、基本的に権力を実行できる場にある個人の言動を対象としています。
しかも公の立場における言動です。
こんな弁解は書きたくないのですが、ブログのサーファーの心ないコメントはあまり受けたくないものですから。

■どうも気になること(2009年6月18日)
不正確なDNA判定で有罪と結審されていた菅谷さんの無罪がほぼ決定されました。
事実確認もないままの無罪判決が予想されていますが、なんだかとても気になります。
きちんとした事実審議もなく有罪にした判決と、同じではないかと思います。
裁判官の恣意的な判断で、人を有罪にできるということの現われです。

栃木県の県警の責任者が菅谷さんに謝罪しました。
テレビで見ましたが、やはり違和感があります。
菅谷さんたちからの申し出とはいえ、謝罪するのに呼びつける姿勢は、どう考えても常識的ではないです。
形だけの謝罪であることは、実際に事件に関係した人たちの発言から明らかだと思いますが、形だけの謝罪は社会の規範を壊します。
菅谷さんは「許す」といいましたが、とても違和感が残ります。
警察の基本はなんら変わっていないように思います。

国会での党首討論で、麻生さんは民主党の財源について切り込みました。
マスコミの識者も、財源不足をいつも繰り返します。
しかし、財源がなくなれば、赤字国債を出し、増税し、というのが果たして財源論として正しいのでしょうか。
民主党と自民党と比較したら、財言論を考えているのは民主党のほうだと、私はこの1年ずっと思っていますが、これはどうも非常識な考えのようです。
しかし気になって仕方ありません。
赤字になったら五等をするというのとは違うかもしれませんが、なんだか私には同じに見えます。

日本郵政の社長人事に政府は口を出すべきでないと麻生首相は反論しました。
各論としてはいいかもしれませんが、税金をこれだけ不明朗に使い込んだ人を批判できないほうがおかしいです。
国家は私情と無縁ではありません。
まあしかし、それはそれとして、私が気になるのは西川社長です。
普通の民間企業であれば、とっくの昔に辞任し、いまごろは背任罪で告発されているかもしれません。
普通の常識があれば、自分で辞任すべきでしょう。
なぜ辞任しないのか気になります。

とまあ、最近は気になることがたくさんあります。
でもまあ、こんなことはいずれも瑣末のことなのかもしれません。
何しろ社会が壊れだしているのですから。
社会を再構築する理念が議論されるべき時期に来ているように思いますが、その有力な候補である「友愛」理念はどうしてこうもみんな冷ややかなのでしょうか。
友愛は理想であって現実ではないと、昨日の報道ステーションでは語られていました。
そうでしょうか。
どうも気になります。
報道ステーションは、以前は共感していましたが、いまはもう見るに耐えません。
まさに視点が大きくぶれてきているように思います。

■「敵は民主党」のプロパガンダ裁判(2009年6月20日)
西松建設の前社長の政治資金規正法違反の初公判が行われました。
その裁判のあり方と報道を観ていて、感ずるのは、コミュニティの裁判がプロパガンダ裁判ではないかと言うことです。
相変わらず検察と権力とマスコミが連携して、政治に関わる世論操作をしているという感じがします。
一方的な検察の話が報道され、それを吟味する反対意見はなく、しかも「敵は民主党」と言う感じです。
それに迎合した有識者の動きには不快さが残ります。

政治と金の問題で言えば、もっと大掛かりのことがまさに現政権によって行われていますが、それは不問にされています。
そこにも大きな不快感をもちます。
なにがエコポイントでしょうか。
単なる消費奨励策であり、それが環境負荷を高めるのは明らかです。
アンチエコポイントと称してほしいものです。

世間の目は、大きな本質的な事件にはなかなか向きません。
わかりやすい事件を単純化してしまうのが、プロパガンダのポイントです。
しかし、大切なのは、そうしたプロパガンダが壊していくものです。
裁判員制度も、司法改革というスローガンのプロパガンダの一翼を担ったものだと思いますが、よく考えればそれは、改革のベクトルは議論されていません。
国民に開かれたとか透明性が歌われていますが、私は全く反対方向を向いていると思います。
そろそろ権力のための司法制度は見直してほしいものです。

菅谷さん事件にしろ、横浜事件にしろ、これだけおかしなことが露呈されだしているのに、いまだ司法の世界には「責任」の概念が導入されていません。
もうプロパガンダは辞めて、司法の実体に「改革」の目を向ける時期ではないかと思います。

■ホーリー・アポストル教会(2009年6月21日)
先週、イスラエルのネタニヤフ首相が、条件付きながらも初めてパレスチナ国家樹立を容認する考えを示しました。
オバマ大統領は「重要な一歩前進」であると評価しましたが、条件が厳しすぎることからパレスチナ自治政府はむしろ発言を非難していますから、中東和平協議の再開にすぐに結びつくことにはならないでしょうが、ネタニヤフ首相が本心で語っているのであれば、一歩前進に向かう可能性はゼロではありません。

昔、「栄光への脱出」という映画がありました。
プロパガンダ映画ですが、その映画ですら、イスラエル建国前には、アラブとユダヤが仲良く一緒に暮らしていたことを思わせる様子が描かれています。

アメリカのコミュニタリアンのエツィオーニが、その著書「ネクスト」の中で紹介しているマンハッタンのホーリー・アポストル教会の話はとてもホッとします。
そこでは、毎週、金曜日にはキリスト教を象徴するようなあらゆる事物はきれいに取り払われ、その日は礼拝所を持たない地元ユダヤ教の信徒たちに教会を提供するのだそうです。
ユダヤ教徒たちは、その日は、そこで安息日の礼拝を来ない、礼拝が終わると、借りたときのままの状態に戻してキリスト教徒に返すのだそうです。
キリスト教とユダヤ教でそれができるのであれば、イスラム教とも可能でしょう。

イギリスの社会起業家の先駆者の一人として有名なアンドリュー・モーソンは、自らが預かった教会を地域に提供することで、貧しいブロムレイ・バイ・ボウを、豊かな地域にしました。
教会を地域みんなのコモンズ空間として活用したのです。

私は、ゲルマン法理の「総有」に共感しています。
すべてのものは、所詮は社会からの預かりものであり、預かったものは社会のために効果的にそれを活かしていく権利と責任があるのです。

地球はみんなのものという認識の下に、いま環境問題が語られていますが、その発想に立てば、土地もまたみんなのものです。
土地を囲い込むような、「国土」発想はそろそろ捨てられないものでしょうか。

パレスチナに限った話ではありません。
日本もいまなお領地問題を抱えていますが、発想を換えなければいけないような気がします。

■白浜バプテスト基督教会(2009年6月23日)
一昨日、アメリカのアポストル教会のことを書きましたが、今日は日本の教会の話です。
たまたか今朝のテレビ番組で、和歌山県にある白浜バプテスト基督教会の活動が紹介されていました。
この教会があるのは、自殺多発場所でもある白浜の三段壁です。
牧師の藤藪さんは、そこで自殺防止活動に取り組んでいます。
藤藪さんに会って、自殺を思いとどまった人は少なくありません。
藤藪さんは、自殺を思いとどまったものの行き場のない人たちに、自分の教会を提供し、そこでみんなで共同生活をしているのです。
藤藪さんの活動はホームページやブログで公開されています。
ぜひ読んでみてください。

日本では宗教があまり肯定的に受け取られていない文化がありますが、宗教界ができることはたくさんあります。
そして、やっていることもたくさんあります。
自殺防止活動に取り組んでいるお寺も少なくありません。
そうした活動がなかなか広がっていかないという面はありますが、教会や寺社は社会のコモンズ空間として、大きな意味を持っているはずです。

藤藪さんは、「自殺のない社会づくりネットワーク」準備会のコアメンバーのお一人でもあります。
東尋坊の茂さんもそうですが、各地で行われている、こうした活動がもっとつながっていくことで、問題の本質が見えてくるように思います。
もし皆さんの周りで、そうした「自殺多発場所」があれば、ぜひご連絡いただけないでしょうか。
また、そこで活動している人たちがいたら、ぜひ教えてください。
お伺いしたいと考えています。

ちなみに、6月27日の1時から3時の予定で、ネットワーク準備会の交流会があります。
自殺防止に取り組んでいる寺社の方も参加してくださっています。
もしよかったらご参加ください。
そしてこの活動に参加してください。

自殺問題は、個人の問題ではなく、社会の問題であり、私たちの生き方の問題です。

■衰退途上国(2009年6月24日)
昨日、匿名の方から、このブログに「なぜ、改革をするのか?構造改革の裏の主旨を疑います」というタイトルの長いコメントが投稿されました。
お読みになっていただけたでしょうか。

コメントとしては、いささか異質なのですが、そこにはさまざまなデータが満載されていますので、できれば多くの方に読んでもらいたいと思い、投稿された方に、お願いして、私のホームページの方にも掲載させてもらう予定です。
読みようによってはかなり過激ですし、本人も認めているように「糾弾的な論調」です。
それに匿名ですから、私の「実名主義」のルールには反します。
ネットで調べてみた結果では、いささか危ういところがありますが、まあそれはこのブログもたいして違わないので、今回はルールを超えることにしました。

当然ながら、この論調と私の意見は同じではありませんが、同感できるところが少なくありません。
最初の投稿記事の冒頭に、「所得再配分という名の搾取がまかり通っている」という、竹中平蔵さんの言葉が書かれていますが、昨今の構造改革の本質が、この言葉に表わされています。
投稿者は、こう書いています。

戦後、ながきに渡って作られてきた『一億総中流社会』を破壊した為に、一部の者達の所だけにお金と仕事が集中してしまって異常に豊かになり、そのせいで残りの者達が失業貧困に至り、総体としての国家は途上国化して衰退しています。

大筋、同感です。
この文の「途上国化して衰退しています」というのが、最近の日本社会の実態かもしれません。
発展途上国ならぬ、衰退途上国というわけです。
ジャック・アタリも、逆行しだした日本の経済を指摘していますが、みんなが汗して構築してきた日本の社会は壊されつつあるように思います。
社会が壊れれば、当然ながら、経済指標は下がりますが、社会を育てながら経済活動を縮小していくシナリオもあるはずです。

偶然なのですが、昨日、技術者倫理に関わる集まりに参加していましたが、そこで久しぶりにお会いした技術士の方から、ポジティブな意味での「社会縮小」という言葉を聴きました。
本気で持続可能な世界を構想するのであれば、いまの経済を根本から見直さなければいけません。
時代は大きな変わり目にあります。
発想を変えなければ、私たちの未来は立ち行かなくなるのではないか。
そんな気がしています。

いささか煩雑な記事で、読みにくいとは思いますが、大きなメッセージを受け止めてもらえればうれしいです。
もちろん異論もあるでしょうが、時代の変わり目には、さまざまな視点や意見をしっかりと見回していくことが大事だと思います。

■地方の反乱と国家のかたち(2009年6月27日)
いまから30年ほど前に書いた「21世紀は真心の時代」という小論の書き出しは、「反乱の時代」でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/magokoro.htm
1960〜80年代は、各地でさまざまな「反乱現象」が起きていたのです。
つまりそれまでの仕組みのひずみが、露呈し始めていたということです。
しかし、その矛盾は、見事なまでの金銭経済主義の「アメとムチ」の仕組みによって、いずれも牙を抜かれたようにおとなしくなっていきました。

この数日、国政に対する「地方の反乱」が取りざたされています。
国政の仕組みが壊れだしていることの現われでもありますが、そうした動きをマスコミも世論も歓迎しているように思います。
しかし、果たして歓迎すべきことなのかどうか、いささか気になります。

20世紀後半の「反乱」が挫折した理由は、「反乱」側に総論としてのビジョンが弱かったからではないかと思います。
反乱は「各論的問題解決」から始まりますから、プロローグでしかありません。
本編が用意されていないプロローグほど、無意味なものはありません。
小泉政権に始まる「構造改革」も、ビジョンなき改革ですから所詮は反乱の一種でしかなく、その行きつく先は現体制の延命策でしかありません。
ちなみに、企業の世界でも「企業変革」とか「経営改革」がよく叫ばれますが、ビジョンがなければ一過性のお祭りで終わり、成果などあがるはずがありません。

地方分権を掲げる、橋下大阪知事、中田横浜市長の国政政党への働きかけは、各論としては評価できますが、肝心の国家のビジョン、社会のビジョンが曖昧です。
それでは「権力闘争」でしかありません。
そこに「志」を見出すことは難しいような気がします。
「地方分権」は現体制の中の小さな「改善運動」でしかないと考えている私には、「地方分権」という言葉を聞いただけで、ビジョンの欠落を感じてしまうのですが、まあそれはそれとしても、問題は「地方分権」ではなく「全体のビジョン」でなければいけません。

政治の世界は、往々にして、課題が単純化されます。
不幸なことに、国民がそれを望むからです。
郵政民営化の是非で選挙を争うなどという馬鹿げた衆愚政治が行われたのは、つい最近のことです。
「地方分権」を選挙の中心テーマにしてしまうことは、そうした愚行の繰り返しでしかありません。
郵政民営化がそうであったように、地方分権が含意する内容はあまりに多義多様で、そのどこに焦点を合わせるかで、その意味合いは全く変わるでしょう。

橋下さんや中田さんの思いが、おかしな方向にいかなければいいのですが。

■行政の不作為犯(2009年6月27日)
現場で汗している人の言動を私はほぼ無条件に信頼します。
なぜなら現場から見えてくる世界は、確かだからです。

今日は、自殺のない社会づくりネットワーク準備会の交流会でした。
テレビなどで最近良く紹介されている、東尋坊の茂さんと川越さんが参加してくれて、とても示唆に富むお話をしてくれました。
また交流会には若い世代の医療関係医者もたくさん参加してくれました。
いつも感ずるのは、まさに自殺が増えている層の参加が少ないことです。
実はそこにこそ問題の本質があるのだろうと思いますが、まあそれはまたいつか書かせてもらいます。

茂山さんや川越さんの話は何回聞いても、その都度、いろいろな示唆を受けます。
しかしそれ以上にいつも私が共感できるのは、茂さんが指摘する「不作為犯」の話です。
茂さんが自殺防止活動に入ったきっかけは、まさにそこにあります。
その話は有名ですので、ご存知の方も多いでしょう。
詳しくは既にいろいろと報道されていますので、それを読んで欲しいですが、簡単に言えば、こういうことです。

警察官だった茂さんは、自殺を図ろうとしていた年配の男女を保護し、自殺を思い留めさせて、その後を行政の福祉部門に託しました。
警察は自殺の恐れのある人を思い留めさせられますが、規則により、その人をしかるべき行政部門に引き渡し、あとはそこに任せるというのが責務です。
しかし、残念ながら福祉行政は2人を救えなかったのです。
警察官だった茂さんは、それまでも問題が起これば、警察官としての責務を果たし、その後の問題解決はそれぞれの役割を担うところにお願いしていたのです。
ところが、信頼していたはずの他の行政部門は、形だけの対応しかしてくれなかったのです。
茂さんは、そこで、「行政の不作為」の現実を思い知らされます。
役割分担しながら、国民を守っているとばかり思っていた行政への不信が高まったのです。

茂さんは、こういうのです。

過度のストレス障害をもった人が東尋坊の岩場にやってくる。
そうした「自殺多発場所」であっても、何の対策も講じずに放置されている現状は、まさに「保護責任者遺棄罪」の不作為犯そのものであって、地方自治体は、殺人犯の行為を組織的・構造的に敢行している被疑者ではないか。

私もかなり過激な発言をしてしまう人間ですが、茂さんの過激さは私の比ではありません。
しかし、茂さんは批判するだけでなく、自らがその不作為の補償に取り組んでいるのです。
あまりうまく書けませんでしたが、茂さんの本や茂さんの講演などには、そうした茂さんの思いがよく出ていますので、ぜひ読んでください。

今日、あえてこのことを書いたのは、茂さんが指摘している「不作為犯」は、行政だけではありませんし、自殺問題だけでもありません。
そのことを書きたかったのです。
私も含めて、今の社会は不作為犯が多すぎます。
作為犯と不作為犯。
果たしてどちらが罪深いものか、考えてみる必要がありそうです。

茂さんはいつもとても明るいです。
それは、彼が不作為犯ではなく、いつも心が晴れているからではないかと、私は思っています。

■国を変えるための地方の乱の目指すところ(2009年6月28日)
地方から国を変えようという取り組みをしてきた宮崎の東国原知事は、どうも本気でそうは考えていなかったような気がします。
自民党の総裁になって国を変えるのであれば、これまでの手法と全く同じです。
ただ、国を変える権力と権限がほしいといっているだけで、そこには「国家」のパラダイム転換はありません。
これまでの地方分権主義者は、例外なく、所詮は中央集権国家を前提としていたのです。
これは「お上国家」で育ってきた人たちには無理からぬことかもしれません。
東国原知事は、話題にはなっていますが、おそらく政治的には何の成果もあげていないでしょう。
彼のような政治家が評価されるような政治には、未来はないと私は思っています。
もう少し真面目に県政に取り組むべきです。

しかし、最近、アレッと思う発言がいろいろと聞かれるようになりました。
たとえば、横浜の中田市長が、税金を基礎自治体が徴収していかないと自治はできないというような話をされていました。
私の聞き違いかもしれませんが、国税を中心とした租税制度は中央集権の象徴です。
これについては、大昔、ソフト化経済センターでの研究会でまとめた「自治体解体新書95」に私も書いたことです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jititaikaitaisinnsho.htm
内容はいささか粗雑ですが、そこでこう書きました。

「自治」の原点に立って今後の自治体行政のあり方を考えるためには、まず発想のベクトルを「統治」から「自治」へと反転させなければならない。発想の起点は国家ではなく、個人の生活ということになる。行政は個人生活を管理するものではなく、支援するものであるという本来の役割が改めて確認される。
権限の流れも反転し、個人から自治体経由で国家に向かうことになる。生活の基本は個人の自己責任と相互扶助であり、それでは対応が難しい問題が自治体組織に委ねられ、さらにそこでも難しい問題が機関委任事務として国家へと委託される。税金もそれに応じて流れることになる(中央交付金)。

地方交付税ではなく、中央交付税と言う発想に象徴されているように、発想のベクトルを反転させるということですが、これは中田さんの発言と同じ主旨です。

もう一つは、民主党の岡田幹事長の発言です。
橋下大阪府知事の、「民主党の地方分権論には道州制が組み込まれていない」という批判に対して、岡田さんは「基礎自治体を起点にして国を再構築していくなかで、下からの道州制を具体的に考えていく」という主旨の話を今日のテレビ番組でしています。
岡田さんもまた、ベクトルの反転を想定しています。
もっとも、岡田さんのいう基礎自治体は規模が大きすぎて、基礎自治体としてはほとんど意味がないと私は思っていますが。

国(世界)のつくり方が、いま大きく変わろうとしている。
そんな気がします。
当然ながら、国家のパラダイムが変わるということです。
近代主権国家は、そろそろ役割を終えつつあるような気がします。

■友敵戦略と友愛戦略(2009年6月29日)
政治では多くの場合、有名な「友敵理論」にしたがって、相手を批判することで自らのアイデンティティを高めていく手法がとられます。
敵がいればこそ、みんなを一体化させられ、支配されやすくできることはいうまでもありません。
ブッシュは自らの求心力のなさを、9.11事件で克服しました。
実にわかりやすい「敵」が発生したからです。
あまりのタイミングのよさに、9.11事件はブッシュの演出ではないかという説まで生まれました。

日本の民主党のリーダーの発言を聞いていて、いつも残念に思うのは、友愛を掲げながら、友敵理論で発言していることです。
民主党としては、今の状況では、あえて自民党を非難するのではなく、同情するほうが効果的です。
もう相手を批判することはありません。
勝負は決まったのですから。
今こそ、余裕を持って敵さえ愛する「友愛精神」を高らかに歌い上げる時期なのです。
弱いものをいじめたり非難したりするのは、見ていてあまり気持ちのいいことではありません。

オバマが、なぜあれほどの人気を得たのか。
その一つの理由は、オバマの演説には「敵」がいないことです。
ヒラリーと争っていた時には、オバマも「友敵理論」を踏まえていましたが、その優位性が揺るぎなくなるにつれて、次第に批判するメッセージは消えていきます。
そして、大統領就任演説では、まさに「友愛」が基調をなします。
彼は、敵を想定しなくても、アイデンティティを確立できたのです。
そのアイデンティティとは、すべてを包摂するアイデンティティです。
Yes, you can.というメッセージは、みんな「友」なのです。

民主党のリーダーは、もっとオバマのスピーチから学ぶべきでしょう。
「友愛」を口にしながら、相手を非難しては、いけません。

しかし、政治の世界で、「友敵」が「友愛」に変わることは手ばなしでは喜べません。
私は、オバマ大統領に大きな「胡散臭さ」を感じていますが、それは彼から感ずる「創られたカリスマ性」への違和感です。
彼は、時代の「悪」や「不善」に対置される存在です。
私は「胡散臭さ」を感じますが、ほとんどの人は、かれに「善」や「正義」を感ずるでしょう。
「愛」を感ずる人もいるかもしれません。
しかしそこにこそ大きな歴史の落とし穴があります。

ドイツをファシズム国家にしてしまったヒトラーのデビューも、もしかしたらオバマと同じだったのかもしれません。
私は、いまこそ「友愛」だと思っていますが、明らかな「友愛」でなければ、そこには大きな危険性が含まれていることも否定できません。

民主党のリーダーでは、岡田幹事長が一番信頼できますが、しかし、まだ岡田さんの目には、「愛」がありません。
岡田さんの表情は変わってきていますが、早く「愛の眼差し」を感じさせてほしいと思っています。
民主党に欠けているのは、「友愛」の心かもしれません。

■イランの大統領選挙は特殊なのか(2009年6月30日)
イランの大統領選挙は、結局、最初の集計結果のままになったようです。
おそらく不正があったことは間違いないと思いますが、一度、公表されたことを見直すのは、そう簡単なことではありません。
それし、そもそも「選挙」とは多くの場合、手続きでしかありませんから、不正などいくらでも入り込ませられます。

アメリカでも前回のブッシュとゴアの大統領選挙では、集計疑惑が問題になりました。
それに関連して、選挙制度の幻想について少し書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/12/ha.html
いまでも本当はゴアが勝っていたと思っている人は少なくないでしょう。
今回のオバマに関しても、民主党の予備選挙に関して、疑念を出している人もいます。
すでにゴアとブッシュの時点で不正が疑われる状況だったことを考えれば、今回もまた同じような不正があったと考えてもおかしくありません。

この点に関して言えば、おそらく日本の選挙の集計の仕組みほど、信頼性の高い国はないように思います。
北欧諸国のように、人口が少ない成熟した市民社会国家を別とすれば、集計プロセスにおいて日本は例外的に信頼性の高い国だと思います。

しかし、だからといって選挙の信頼性が高いわけではありません。
全く別の手法で、選挙結果を操作することが可能になってきているからです。
郵政民営化選挙は、その一つだと思います。
選挙という儀式の背後で、すでに結果は決められている、というのが、もしかしたら情報社会における選挙かもしれません。
つまり選挙は「選ぶ」ことが目的ではなく、「選んだ人」に正統性を与える儀式というわけです。
では「誰が」選ぶのかと言うことですが、ここにこそ問題の本質があるような気がします。
コモンズ書店では、以前、さりげなく紹介しておいたのですが、「オバマ 危険な正体」という本があります。
よかったら読んでください。
世界の見え方が少し変わってきます。

■「お手伝いしてください」(2009年7月1日)
近くのTさんの子どもが、スモモを届けてくれました。
小学校に上がったばかりのその子は、こういってスモモを届けてくれました。
「(スモモを)たくさんもらったのでお手伝いしてください」
彼女はいつもそういって、お裾分けしにきてくれるのです。
スモモよりも、ソーシャルの気持ちがいつもうれしいです。

かつての日本の文化が象徴されている言葉です。
小さな頃からそうした文化の中で育てば、きっと「分かち合う精神」が育つでしょう。

分かち合うことは、双方を幸せにします。
取り合うことは、双方を惨めにします。
そんなことは誰も知っているはずですが、世間からは「分かち合う生き方」は失われ、「取り合う生き方」が広がっています。
経済的に豊かになるほどに、分かち合う文化よりも取り合う文化が広がってきているといってもいいかもしれません。
そこに、今の経済のおかしさがあるように思います。

今の経済システムでは、取り合う関係を基本にすることによって経済は発展し、分かち合っていたら経済は停滞するのです。
まさにおかしな話ですが、そうしたことを前提にして、経済の論理や仕組みが組み立てられていることにほとんどの人は違和感を持ちません。

今日のテレビで、どこかのスーパーの「10円セール」を報道していました。
その10円商品を取り合う主婦たちの映像が流れていましたが、それを見ていて、「10円」に意味があるのではなく、「取り合い」に意味を見出しているのではないかという気がしてきました。
小さな頃から「取り合い競争」の文化の中で育ってきたことの結果を、そこに感じてしまったのです。
そして、その人たちの子どもたちも、きっとまた「取り合い競争」に追いやられているのだろうなと思いました。
そうした親たちが多い中で、「お手伝いしてください」という文化を守っている家庭があることが、私にはとてもうれしいのです。
まさにホッとする感じです。

「お手伝いしてください」
とてもいい言葉だと思いませんか。
私もその精神を守りたいと思っていますが、時に「取り合い競争」の思考の中にいる自分に気づいて恥ずかしくなることがあります。
心しなければなりません。

■「厚生労働省崩壊」と新しい芽(2009年7月2日)

崩壊した厚労省に代わって新しい厚労省が生まれるためには、再生する力が必要です。その力は決して本省のある霞が開からは生まれてきません。どこから生まれるかというと、実際の問題を見ている現場からです。

以前、このブログでも取り上げた木村盛世さんの書いた「厚生労働省崩壊」(講談社 2009)を読みました。
上記の文章は、その本の最後に出てくるものです。

私は、厚生労働省はそもそもの「ミッション」に違反している違法集団だと考えていますが、それにしてもこれほどなのかと思うほどの実態がそこには赤裸々に書かれています。
ここで書かれていることがすべてではないでしょうが、こうした組織がいまなお残っているのが不思議です。
日本の医療制度や保険制度がおかしくなるのは当然です。
日本の政治は、官僚の違法行為を防ぐこともできないほど、劣化しているのでしょうか。
この本は、たまたま厚生労働省のことが書かれていますが、おそらく他の省庁も大同小異でしょう。

その本を読んでいていささか憂鬱な気分になっていたのですが、最後に上記の文章に出会って、ホッとした気分になりました。
「実際の問題を見ている現場」から新しい厚労省が生まれてくる。
その言葉に、明るい先を感じます。

私の生活信条の一つは「解決策は現場にある」です。
現場で活動している人たちが健全なのは、そのせいだろうと思っています。
木村さんの救いは、現場に仲間がいることなのでしょう。

いまの日本の政府は、国民の生活現場から遠く離れています。
選挙を経ずに、内閣がこれほど変わっていては、国民の生活現場ともつながりようがありません。
いま選挙を行ったら、果たして郵政民営化は国民の支持を得られるでしょうか。
私には疑問です。

支配的統治のための官僚制度から、国民生活支援のための官僚制度に変えていくためには、木村さんが書いているように、「実際の問題を見ている現場」から制度を再構築していく必要があるでしょう。
そうした思いで行動している官僚(公務員)は決して少なくないと思っていますが、そうした人たちが柔らかなネットワークを組んで、実態を社会に公開していく仕組みができないものでしょうか。

昨日は佐藤優さんの有罪も確定しましたが、崩壊しつつある官僚制度にイノベーションを起こす人が出てきてほしいものです。
個人で鬱憤を晴らしているだけでは、おそらく何も変わらないでしょうから。

■メタボ検診(2009年7月2日)
先ほど、NHKテレビのニュースを見ていたら、メタボ検診の特集をしていました。
午前中に紹介した「厚生労働省崩壊」の本での指摘を思い出しました。
こういう指摘です。

厚労省に限らず、本省の課長は偉いのです。どれくらい偉いかというと、大企業の社長くらい偉いのです。担当の課長になれば、「メタボ対策のための体操を考えたので、全国の病院で毎日やるように」ということを命令できるくらい偉いのです。ちなみに、メタポリック・シンドローム予防は医療費を削減できるから、健康診断でメタボ検診をするようにという、あまり科学的根拠のないことを全国に知らしめたのも1人の課長でした。たぶん、自分でそう信じたからです。医学界では、少なくとも″メタポリック・シンドローム″なるものが存在するのかどうか世界的なコンセンサスは得られていませんし、メタボ対策が医療費を抑制するなどという研究は、ごく小さなもの以外お目にかかったことがありません。
(木村盛世著「厚生労働省崩壊」講談社より)

テレビのニュースでは、実際にメタボ検診を受けもたらせる医師の言葉として、たとえば、この検診のおかげで本来やるべき検診ができなくなってきているとか、メタボ検診の効果への疑問がかなり明確に出されていました。
またそうしたことから浮かび上がってくる疑問に関して、厚生労働省に問い合わせた回答も照会されていましたが、驚くほどの無責任な内容でした。
木村さんが著書で書かれていることが立証されているような気がしました。

メタポリック・シンドロームなどと言う、あやしい言葉を流行させて、特定の企業を儲けさせたマスコミもひどいと思いますが(もちろんマスコミも大きな利益を得たはずです)、そうした詐欺まがいの活動が、厚生労働省の1課長によって始まったとは情けない話です。
実名は調べればわかるでしょうが、どなたかご存知の方は教えてください。
メタボ検診の陰で、悪性の病気の発見が遅れ(テレビではメタボ検診をやらないといけなくなったのでがん検診ができなくなったというような話も紹介されていました)、それが死につながったとしたら、その行為は犯罪以外の何ものでもありません。

腹立たしくなってきたので、書くことにしました。
この数日、腹立たしいことが多すぎます。
報道ステーションも、私の感覚とは合わなくなってきましたし。
またどんどん自分が社会から脱落してきている感じがします。

■臓器移植法改正について思うこと(2009年7月3日)
臓器移植法の改正が話題になっています。
衆議院では「脳死は人の死」との前提に立つA案が可決され、法案は参議院に送られました。
昨日、ご自身も次男の腎臓を移植のために提供した経験をもつ柳田邦男さんが、臓器移植法改正案を審議する参院厚生労働委員会で参考人として質疑に応じた様子が新聞で報じられていました。

私も、ドナーの家族の方とささやかな交流がありますが、この問題は悩ましい問題をたくさん含んでいます。
柳田さんは、臓器を提供するドナーや家族と、提供を受ける患者や家族。それぞれの生と死に寄り添う議論の必要性を訴えた、といいます。
第三者では思いも及ばない問題が、そこにはあるはずです。
とりわけ「死」を現実に受け容れることになるドナー家族の心情への理解が、出発点にあるべきではないかと私は思いますが、そうしたことは議論の過程からはなかなか伝わってきません。
柳田さんも指摘されていますが、ドナーの家族が置かれた厳しい状況への配慮を感じられないのです。

私自身は体験者ではありませんが、伴侶の死を体験した時に感じた気持ちのおかげで、そしてささやかにお付き合いのあるドナー家族のみなさんのお話で、臓器移植議論の中から何かが欠けているような気がしています。
それが何であるか、自分でもよくわからないので、この問題には意見を言えないでいましたが、柳田さんの記事を読んで、無関心でいてはいけないと反省しました。
と言っても、まだ自分の考えはまとまりませんが。

問題は、たぶん「生命」のつながりへの想像力ではないかと思います。
これに関しては、もう少し考えてみたいと思いますが、ドナー家族の方がおっしゃっていた言葉がずっと私の頭から離れません。

臓器提供を受けて元気になった人の後ろには、臓器を提供した人たちがいるのです。

柳田さんも指摘していますが、その人たちの問題をまず解決することが、大切なように思えてなりません。

■あんまり問題が多すぎて、思考停止したい気分です(2009年7月4日)
人の慣れとは恐ろしいものです。
あれほど騒いでいた年金問題もかんぽ問題も、派遣切り問題も裁判員制度問題もいつの間にか静かになってきました。
散発的に話題にはなりますが、かつてのような「国民の怒り」はなくなりました。
こうして私たちは、さまざまな問題を勇ましく糾弾しながら、許してきたわけです。
そのことをどう考えればいいのでしょうか。
政府に問題解決能力がなくなったと考えるべきなのでしょうか。
いや、問題があまりにも多すぎて、問題が問題ではなくなったのかもしれません。

問題が解決されたと思っていても、ある時、突然また問題が噴出することがあります。
アスベスト問題が再燃した時には驚きました。
もう終わったかと思っていた熊本水俣病の認定問題もまだ終わっていないのです。
基本的な原則さえ決めれば、現場が問題を解決するというほど、問題が簡単でないことはわかりますが、どこかに仕組み上の欠陥があるような気がしてなりません。
仕組み上の欠陥を直すのは仕組みを直す方法もありますが、仕組みを構築する理念を見直すほうが効果的でしょう。
しかし、そう思う人はあまりいないようです。
これも、あまりに問題が多すぎるからでしょうか。

政策の財源問題が相変わらず議論されていますが、私には馬鹿げた議論のように思えます。
財源を問題にする人たちは、要するにお金を使うことが政策や事業と考えている人です。
財源があれば、サルでも善政はできるでしょう。
問題は財源ではありません。
何をやるか、本気でやるのか、です。
言い換えれば、ビジョンであり目指すべき社会の理念です。
それが国民に理解され支持されたら、その財源を得ることはそう難しくないでしょう。
発想の順番を間違えているのは、金銭至上主義におかされているからでしょうか。

問題が多すぎるのは、問題の設定の次元が間違っているからではないかと思います。
これは、自らの生き方においてもそうです。
私は最近、自らのビジョンや信条に迷いがあるため、過重な問題に潰されそうになっています。
今の日本の社会も、そうなのかもしれないと、ふと思いました。

■静岡県知事選挙と時間工学(2009年7月5日)
今日は静岡県知事の選挙投票日です。
いま6時30分ですが、おそらく結果を知っている人はいるでしょう。
もちろんまだ開票していませんので、絶対正確とは言えませんが、昨今の「出口調査」でおそらくほぼ正確な結果はもう出ているはずです。

投票が数日にわたって行われるような国の場合は、出口調査結果で世論を誘導することもあるといわれていますが、幸いに日本の場合それは難しいでしょうが、その差は絶対的なものでもありません。
おそらく選挙結果をかなりの確度で操作可能にすることは、時間の問題です。
出口調査の結果の信頼性は既にかなり高くなっていますから、その延長である事前調査の信頼性を高めることは可能なはずです。
そう考えていくと、選挙とは何なのかということになります。
すでにアメリカの場合は「儀式」あるいは「権力闘争の場」になっているという意見もあるようですが、そもそもが「選挙」とは儀式なのです。

その儀式には、社会にとっての有用性があったはずですが、最近はそれがどうも危うくなってきています。
国民の過半数が、政府に不信感を持っていても、選挙を実現できないという昨今の状況を考えると、選ぶ人のためのものではなく、選ばれた人のためのものだという気がしてきます。

それはともかく、いまこの時点で、すでに静岡県知事選挙の結果を知っている人たちがいるということは、いささかの不気味さを感じさせます。
与党もしくは民主党が、もし知っていたら、その結果に従って何らかの動きを起こすはずですから、注意していれば、動きは見えるはずです。
正確な出口調査はかなりの資金がかかるでしょうから、知事選挙ではあまり行われないかもしれませんが、今回のように国政につながる要素がある場合には、資金をかけた調査が行われているように思います。

これはほんの一例ですが、数時間先、もしくは数日先の結果は、その気になれば、知ることが出来るのが「情報社会」の特徴です。
タイムマシンとまでは行かないでしょうが、ITは、時間を克服しつつあるのです。
そう考えると、いまの政治経済システムの基本設計を変えていくことが必要になってくるはずです。
金融工学者はある意味で「時間」を克服しましたが、これからはもっと本格的な時間工学が注目されてくるはずです。
時間の呪縛から解放された社会は、ますます住みにくい社会になるような気がします。

静岡県知事選挙の結果は、私にはわかりませんが、たぶん強烈な働きかけが、今日の午後には双方の陣営からあったのではないかと思います。
その結果から、さまざまなことが見えてくるはずです。

■選挙とは何のためにあるのか(2009年7月6日)
もう10年近く前になると思いますが、友人が東京都のある区の区議会選挙に立候補しました。
彼は以前から政治に興味を持っており、勉強会などにも参加していましたし、しっかりした意見も持っていました。
それでささやかに応援させてもらうことにしました。
私にとっては初めての体験でしたが、彼の街頭応援演説にも同行させてもらいました。
街頭演説と言うものが、勇気のいるものだということを体感しました。

私の友人にも応援を頼みました。
ところが、彼自身は何でもかでも当選したいと思っていなかったのです。
もちろん当選を目指しましたが、彼にとって大切だったのは区政への問題提起だったのです。
そのため応援した人たちからは、本気で当選しようとしていないのではないかという批判が生まれました。
結果として、彼は当選しませんでした。
その次の選挙にも立候補しましたが、この時はある党の公認をもらい、その気になれば多分当選できたと思うのですが、彼はどうも「その気」にならずに、わずかの差で落選しました。

この体験は、私にはとても考えさせられるものでした。
選挙に出たら当選しなければ意味がない、と私の友人たちは一様にいいます。
でもそうでしょうか。
選挙とは「当選」が目的でしょうか、さまざまな意見を出し合って「選択」することが目的でしょうか。
私は後者だと思っていますので、当選しなくても立候補した意味は十分にあると思います。
ですから、彼がまた立候補したら応援させてもらうつもりです。

静岡県知事の選挙は、私が想定した通りになりました。
私の関心事は、誰が当選するかではありません。
投票率と自民党候補への投票数に関心がありました。
川勝さんが負けるかもしれないとは思っていましたが、自民党支持は大きく減少すると思っていました。
不幸にして民主党支持は実質的に2人に分裂していましたが、最後の土壇場で鳩山さんが公認を絞ったのが影響して、川勝さんは当選しました。
もし、自民党政治を本気で終わらせたいと思っていたら、野党が連携して、立候補者を一人に絞り込んだら、多くのところで自民党は敗退するでしょう。
そうならないのは、選挙とは「当選」が目的ではないということの現われではないかと思います。
選挙は、勝ち負けだけの「競争」ではないのです。

都議選も含めて、民主党支持者の当選者が多くなると、自民党は解散できないのではないかという議論が大勢です。
しかしここには大きな矛盾があります。
政府支持者が少なくなればなるほど、政府は選挙をしなくなる。
どう考えてもおかしな話です。
いったい何のための選挙なのでしょうか。
軍政国家の選挙とどこが違うのでしょうか。
そのおかしさを、だれも問題にしません。
政府を乗っ取られても誰も異議申し立てしないマスコミは、もはや言論の自由を捨ててしまった存在でしかありません。
テレビの報道を見ていると、毎日、嘔吐感さえ感じます。

■ウイグルで起こっているのは「民衆の暴動」か「デモの暴圧」か(2009年7月7日)
中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区で5日に発生したでも暴圧事件は、予想されていたにもかかわらず、何の手も打てなかった国際社会の限界を象徴しています。
この問題に関しては、私はほとんど知識がありませんが、感覚的にその意味に対して関心があります。
これまでも少しだけ言及したことがありますが、まさに中国という国家の本質を示唆しているように思います。
あるいは、国家制度そのものの意味を考えるヒントが込められているというべきかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/05/post_bc8b.html

今回の不幸な事件に関してはコメントは差し控えますが、多くのマスコミが「暴動」と報じているところに、大きな違和感をもちました。
そう表現する人たちの意識には、ウイグル民族を抑圧する意識が内在していると思うからです。
世界を表現する時に、どういう言葉を使うかは、その人の視座と価値観を表わしています。
私は、ここでは「デモ暴圧」と表現しましたが、ここにも私の視座と価値観が現われています。
世界を語る言葉は、すでにある世界観に呪縛されているわけです。
そして、それが異なると世界は全く違ったように見えるのでしょう。
「言葉」を使っている人間の宿命を感じます。
バベルの塔の完成に惧れを抱いた神の戦略は見事に成功したのです。

これはウイグル事件だけの話ではありません。
昨今のマスコミの言葉には、いろいろ違和感を持つことが少なくありません。
事実をしっかりと見据え伝えるというジャーナリズムの目が失われているような気がします。

■首相への背任罪告訴はできないものでしょうか(2009年7月7日)
麻生首相への背任罪告訴はできないものでしょうか。
小泉元首相も国民の財産(有形無形含めて)に大きな損失を与えたという点で告訴できるものなら告訴したいですが、まあ彼を支持したのもまた多くの国民ですから、それは難しいでしょうが、最近の麻生首相の首相権限の乱用は目にあまります。
彼のおかげでどれだけの財産が浪費され壊されたことでしょうか。
告訴したい気分です。

ナチスの高官も戦前の日本政府の高官も、戦後、処罰されました。
なぜ彼らは処罰され(死刑にもなっています)、麻生首相は裁かれないのか、納得できませんが、現職だからなのでしょうか。
韓国のように、人気終了後、告訴される仕組みは日本にはあるのでしょうか。

国王の処刑でも書きましたが、処刑できない支配者をつくってしまう仕組みは、どう考えても主権在民とはいえません。

■事件の表層と深層(2009年7月8日)
中国新疆ウイグル自治区での騒乱の動きは、ウイグル族と漢族住民の対立へと発展しているようです。
昨日、暴動か暴圧かと書きましたが、問題はさらに深刻化しています。
つまり、縦の対立構造から横の対立構造に変わってきているわけです。

しかし、横の対立構造も、ほとんどの場合、その深層には「縦の対立構造」があります。
縦の対立構造を覆い隠すために、むしろ「横の対立構造」の表象が生み出されるわけです。
横同士、争わせておけば、その上にいるものは安心です。
これは「支配」や「管理」の常套手段です。
第三者は、表象に目を取られるのでなく、深層にこそ目を向けるべきです。
なぜなら、表層は自分には無縁の別の問題であっても、真相は自分にもつながっている問題であることがほとんどだからです。
今回の事件も、ウイグル族と漢族住民の対立と捉えれば、勝手にやってくれということになりますが、国家(組織)と個人(生活)の関係の問題と捉えれば、いままさに日本で起こっている格差問題そのものの構図が読み取れます。

事件の表象は、映像化されやすいので、伝わりやすくわかりやすいですが、深層は見えにくく、多様な解釈もできるため、力を持ちにくいのが現実です。
ですからつねに、表層は消費され、深層が維持されていきやすいのです。
日本の最近の政治状況は、まさにそうした中で、政治の劣化が起きています。
同じ状況を体験したアメリカが、今どうなっているかを考えると、少しはその危険性が理解できるかもしれません。

表象よりも深層を伝えるメディアがもっと育っていく必要を感じます。
問題は、表象にはお金がつきやすいですが、深層にはお金はつかないことかもしれません。
そういう状況を支えているのは、私たちの意識なのでしょうが。

ところで、今回のウイグル自治区での騒乱ですが、テレビ映像がもしあまり編集されていないものであるとしたら、これまでの動きとはちょっと違うかもしれないという感じを持ちました。
新しい世界は、チベットとウイグルから始まるのではないか、などとふと思いながら、テレビを見ていました。
この両地区は、歴史の主流の中にある辺境なのかもしれません。

■なぜ不特定多数の人への殺意が生まれるのか(2009年7月8日)
大阪のパチンコ店放火事件は4人の死者を出してしまいました。
やりきれない思いがします。
やりきれなさは、もちろん、この事件の「表象」に対してもですが、むしろ事件の「深層」にある社会状況に対してです。

犯人は、「仕事も金もなく、人生に嫌気がさした。通り魔みたいに誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いるところにマッチで火をつけた」と供述しているそうです。
本来、生命はお互いにつながりあって支えあって成り立っているはずです。
他者の生命は、自らの生命に深く関わっていますし、他者(人間に限りません)の生命なくして、自らの生命は存在しないことは、おそらくすべての生命(人間に限りません)に埋め込まれている本性だろうと思います。
したがって、自らの生命との直接的なつながりを感ずる時以外、他者(しつこいですが人間に限りません)を殺したいという思いは、本来、生まれるはずがないと私は思っています。
つまり、不特定多数の人に対する殺意は成り立たないのです。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時、私のこうした考えは見事に打ち破られましたが、あれは「戦争」だったのだと思えば、納得もできました。
だが、その後も、そうした「不特定多数の殺人」は、むしろ広がってきています。
国家がそれを遂行するのであれば理解できるのですが、国家権力とは全く対極にある個人が、「不特定多数の殺意」を抱き、それを現実のものにしてしまうということの意味は、考えれば考えるほど恐ろしくなってきます。
これが広がれば、社会は成り立たなくなるでしょう。
前項の「表層と深層」につなげていえば、もしかしたら、すべての他者が「不特定多数」になってしまっているという社会の実態が、その深層に感じられるのです。

この50年、私たちは「つながり」を壊すことで、経済を発展させ、生活の利便化をはかってきました。
かつては濃密に張り巡らされていた「支え合い」の仕組みは壊され、「セーフティネット」などというわけのわからない機能主義的な仕組みが人為的につくられようとしています。
人為的につくったセーフティネットは、これまでの近代発想の延長にしかありませんから、結局は、さらなる「つながりこわし」になっていくでしょう。
つながりを失った個々の生命は、「自分」対「不特定多数」の世界に投げ出されるわけです。
言い方を変えれば、個人が見えなくなることでもあります。
そんな社会状況に、やりきれなさを感じてしまうわけです。

いささか考えすぎかもしれませんが。

■生産の無駄と生活の無駄(2009年7月9日)
CWSコモンズのほうには書いたのですが、先月、パソコンが壊れてしまいました。
メーカーのサービスセンターの人の指導を受けて修復に努めましたが、ダメでした。
そのことをホームページの週間報告に書いたら、それを読んだ友人が修理に来てくれました。
そして、一度は諦めて買い換えようと思っていたパソコンを直してくれたのです。
その上、今日また来てくれて、今度はメモリーをパワーアップしてくれました。
ゴミになりそうだったパソコンが見事に復活し、さらに成長したのです。

ついでにもう1台、ノートパソコンも壊れていましたが、それまで直してもらいました。
商品のことをどれだけ知っているかで、こんなにも違うものなのです。
友人は自分で部品を買ってきてパソコンを組み立てていたのだそうですが、そのため、どこをどうすればいいかよくわかっているのです。

知識があるかないかでは、商品との関係は全く変わってきます。
一時期、「消費者教育」という言葉がさかんに使われましたが、その言葉自体に象徴されているように、消費する教育でしかありませんでしたから、その商品のことをよく理解してもらい、修理方法も含めて「付き合い方」を学ばせるものではありませんでした。
商品の実態はどんどんブラックボックスになっていき、ただ「機能」だけを享受できればいいという発想が広がりました。
つまり「無知な消費者」を増やす「市場拡大活動」です。
こうした活動は、生活に無駄を増やそうということなのだと、今回の体験で改めて気がつきました。
つまり、「経済」を発展させるということは、無駄を増やすことなのです。
企業は、自らの活動(生産)においては「無駄」をなくそうと努力していますが、市場においては「無駄」を増やそうとしているのです。
故障した商品は修理してもらっては困るわけで、修理できないようにして廃棄させ、新しい商品を購入してもらうのが、「顧客の創造」という美名に隠れた実態です。
それに加担したのが、近代アメリカの経営学です。

生産における無駄をなくすのか、消費(生活)における無駄をなくすのかで、経済のかたちは全く変わります。
そのどちらが悪いと決め付けることはありませんが、その意味だけはしっかりと認識しておく必要があります。

商品の電子化は商品の構造を見えなくしていきます。
そのため、商品の修理が難しくなってきていますが、消費の無駄はそのせいだけではありません。
最近のエコポイントやクールビズなどは、まさに消費の無駄の促進策です。
にもかかわらずエコなどというごまかしの言葉を振りまいているのは、経済の倫理につながる問題です。
政治経済学という言葉があるように、まさに政治と経済はつるんでいるのです。
個人の顔が思い出されてきて、ますます腹立たしくなるので、このあたりでやめますが。

今回の体験で、たくさんの気づきがありました。
生産の無駄と生活の無駄という言い方をしましたが、さらに言えば、「無駄の生産」を増やすことが経済の発展なのだと気づきます。
もっといえば、生活における無駄の概念が、そうした「経済の視点」で規定されていることにも気づきます。
そろそろ、「無駄」とは何かを考え直す時期なのかもしれません。

経済の本質を垣間見たようで、また私の生き方が変わりそうです。
さいわいなことに、ますます「お金」から離れることができるかもしれません。

■外務官僚の犯罪(2009年7月10日)
今朝の朝日新聞のトップ記事は、「核密約文書、外務省幹部が破棄指示」という見出しの記事でした。
記事にはこうありました。

日米両国が、60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を日本が容認することを秘密裏に合意した「核密約」をめぐり、01年ごろ、当時の外務省幹部が外務省内に保存されていた関連文書をすべて破棄するよう指示していたことが分かった。複数の元政府高官や元外務省幹部が匿名を条件に証言した。
01年4月に情報公開法が施行されるのを前に省内の文書保管のあり方を見直した際、「存在しないはずの文書」が将来発覚する事態を恐れたと見られる。

2001年といえば、小泉第一次内閣のできた年で、外務大臣が田中真紀子さんでした。
関係があるかどうかはわかりませんが、奇妙に納得できてしまいます。

それにしても、国家の機密文書を個人の判断で破棄するというのは明らかに犯罪です。
国家を私物化した行動と言うべきです。
破棄せずに、その官僚がそれを持ち出し、悪用したらどうなるでしょう。
国家の安全を危うくするおそれがあり、重罪になるでしょう。
言うまでもありませんが、「破棄」と「私的悪用」とは本質的には同じです。
それに個人的な判断で「破棄」できるとしたら、個人的に「悪用」できるということでもあり、情報管理体制に致命的な欠陥があるというべきです。
この事件は、決して見過ごすべきではありません。
指示を出した官僚の名前は公開し、もしそれが事実なら彼は重罪に処せられるべきです。
死罪とはいいませんが、死を持ってもなお償えないほどの重罪だと私は思います。
国家政府の高官の行動に、この国の人はあまりにも寛大すぎます。

霞が関の政府官僚が、ともかく好き勝手に私欲のために動いている現状をこうもしばしば見せつけられると、いやになってきます。
マスコミには、この事件をしっかりと追及し、事の重要性を彼らに思い知らせてほしいものです。
私の中での外務省への信頼性は、最近少し回復してきていたのですが、とても残念です。
そして、当の外務省の今の官僚たちがどう言動するか、とても心配です。
誇りと使命感を持った官僚が、まだ残っているといいのですが。

■自分に与えられた任務を全うできないことを恥辱とする文化(2009年7月12日)
「ローマ人にとって、自分に与えられた任務を全うできず、敗戦の責任者になることは、ローマ市民としては最も重い恥辱に他ならない。これが当時のローマ社会の常識であったのです。」

これは塩野七生さんの「ローマから日本が見える」に出てくる文章です。
自分に与えられた任務を全うできるかどうか、そして全うできない時にはどう身を処すか、それは武士道の国、恥の文化の国といわれた日本でも大きな問題でした。
そして、少し前まではこうした「社会の常識」があったように思います。
少なくとも私は、そうした文化の中で育ちましたので、政権を途中で投げ出した安倍さんや福田さんが、いまなお政治の世界にいること自体が理解できません。
政治家という職業がかつてのそれとは一変してしまっていることが、そのことでよくわかります。
しかも、その責任を投げ出した人が、次の首相にアドバイスまでしているのですから、何をかいわんやという気分です。
政治の世界は、いまや愚劣なテレビのバラエティのような世界になってしまっているのでしょうか。
事実、政治家はバラエティ番組によく出るほど出世しますし、バラエティ番組のタレントもまた政治家からも秋波を送られる存在です。
彼らのおかげで国民の政治への関心が高まったという人がいますが、そんなことで高まった関心がどこに向いていくかは、歴史が明確に示しています。

今日は都議選投票日です。
静岡知事選の時も書きましたが、もう結果は麻生首相とその取り巻きは知っているでしょう。
新聞記事によれば、最後にはしっかりと首相の責任を果たしたいお積りのようですので、まだ前任者たちよりは救いがありますが、問題はそれができるかどうかです。
もし本気でやる気があれば、結果が公表された時点で動くべきです。

今日は久しぶりにテレビの報道番組を見ようと思います。
今日初日の相撲は番狂わせなしのスタートです。
たぶん都議選も予想とおりでしょう。
民主が過半数をとるだろうと私は思っていますが、さてどうなるでしょうか。

■都議選結果から感ずる不安(2009年7月13日)
都議選は、めずらしく私の予想と同じ結果になりました。
もっとも、「政権交代」という単細胞的な呼びかけに応じた思考停止の都民が多かっただけではないかと思わないこともありません。
もしそうならば、小泉郵政選挙とそう変わらないのかもしれません。
しかし、郵政民営化と違い、政権交代は、それ自体に大きな意味がありますから、それが争点になったのは悪いことではありません。
でもなにかすっきりしません。

私がとても残念なのは、民主党以外の野党が後退したことです。
つまり、都議会までもが二大政党体制を受け容れてしまったことの不安です。
最近の社会状況を考えれば、二大政党以外の小政党、とくに共産党への投票がもっと増えるのではないかという期待はありました。
しかし、忙しくてニュースも新聞も見ない人がどれほど多いかを最近思い知らされていますので、その期待は裏切られるとは思っていました。
いまや、ただ馬車馬のように働き、馬車馬のように遊ぶ人が社会の中心を占めているような気がします。
みんなまじめに政治のことなど考えていないのです。
話していて、よくわかります。
日本にはそもそも「民主政治の基盤」がないのかもしれません。

私は政権交替を望んでいますが、それは現状を打破するためです。
政権から犯罪者を追い払うためです。
しかし、二大政党の体制では、民主主義は実現されるはずもありません。
所詮は、同じような体質の大政党が、政権を私物化して、やったりとったりするのが二大政党だからです。
そうならないようにするには、多様性のある議会を育てなければいけません。
少数野党がいなくなれば、大きな意味での独裁体制が完成します。
それが今のアメリカです。

今回の都議選は、私には恐ろしい未来を感じさせます。
地域主権など、すっ飛んでしまうほどの不安です.
民主党が圧勝したのは歓迎ですが、その向こうにある、暗い未来を感じます。

言葉足らずになっていますが、改めて少しずつ敷衍するようにしたいと思います。

■解散予告宣言(2009年7月13日)
麻生首相が解散宣言をしたというので、急いで自宅に戻りました。
その後の動きをしっかりと見ておかないといけないと思ったのです。
最近、オフィスにはテレビがないのです。
夜の報道番組で見ればいいではないかといわれることもありますが、編集した番組は意図がこもっていますので、退屈なのです。
そういう番組だけを見ていると、民主党は政権能力がないとか財源論議がないとか、という御用ジャーナリストの罠に陥ってしまいかねません。
国会での審議をしっかりと見ていれば、自民党の論理がいかにおかしいかはよくわかります。

自宅に帰ってテレビを見ましたが、解散予告宣言でした。
あきれてものも言えません。
解散と解散予告とは似て非なるものです。
最後まで情けない首相でした。
真面目さが欠如しています。

その一方で、臓器移植法が成立しました。
涙を流している傍聴者がとても気になりました。
人の生命を救うとはどういうことか、それは難しい問題です。
無責任な第三者は、移植される人の生命の視点で考えます。
しかし、移植する臓器を提供する人の生命もあるのです。
単なる物のやりとりではないのです。
ここでも、議論における真面目さの欠如を感じます。
国会議員たちは、ほんとうに議論していたのでしょうか。
なにやらあっさりとA案に決まってしまったのが、すっきりしないのです。
選挙や政局にばかり目を向けずにしっかりと政策の議論してほしいものです。

都議選に関連して、これまで何期にもわたって議員として真面目に取り組んでいた現職が、体験もない若い民主党議員に負けてしまったのは、残念だと、石原自民党都連会長が話していました。
これまで真面目に取り組んでこなかったから、審判を受けたことを理解できないわけです。
こういう老人(まだ若いですが、発想は老人そのものです)が、若者を潰してきているのでしょう。
そういえば、政治の世界では50代でも若造扱いなのだと聞いたこともあります。
私には40代の老人がたくさんいるように思いますが。

今日は暑いので、八つ当たりの記事になってしまいました。
内容もありませんね。
すみません。
明日はもう少し真面目なものを書くように努力します。

■不幸な1日(2009年7月13日)
このブログでも八つ当たりしていますが、最近、とても機嫌がよくないのです。
ともかく周辺に問題が多すぎますし、自分自身もそれなりに問題を抱えています。
周囲の問題は、無視すればいいだけの話ですし、自分の問題は腹をくくればいいだけの問題です。
この蒸し暑さも、クーラーをかければ逃れられます。
しかし、性格上、どうもそうした生き方ができないのです。

まず最近、滅入っているのは元気が出てこない相談が多すぎることです。
それもなぜか、結構、不義理されている人からの相談が多いので、何でいまさらと思うことも少なくないのですが、そういう「不義理な相談」でも、いざ相談されるとなぜか受けてしまう習性が私にはあるのです。
決して、その人のために、などと思うわけではないのです。
むしろ自業自得だろうと、どこかで思っている自分さえいるのです。
でも、なぜか相談を受けたら、過剰に反応してしまう。
これは、おそらく私に限らず、すべての人の持つ、生命の本性です。
そういえば、以前、このブログでも「欲望としての他者救済」の話を書きました。
もっとも、その本性に気づかない人が多いのですが、私は気づくタイプなのです。
一度気づいてしまうと、変えようと思っても変えられないものです。

昨日は、あるプロジェクトで私の知人同士を引き合わせる日でした。
私は同席しないでもよかったのですが、いささか心配で、頼まれてもいないのに、暑いのにわざわざ交通費まで払って出かけました。
ところが、肝心のその人が突然の休暇になってしまっていたのです。
嘘だろうと思いましたが、嘘ではありませんでした。
疲れきって湯島のオフィスに寄りました。
そうしたら、なぜか次々と電話です。
うれしい電話もひとつだけありましたが、なぜか昨日は疲れる電話ばかりでした。
なんでこうも問題が多いのでしょう。
もしかしたら、ほんとうに不況なのかもしれないと、危なく信じてしまうほどでした。
念のために言えば、私は今が不況などと思っていないのです。
今日も長電話で相談のあった危機的な事業でいえば、景気などの問題ではなく、無責任な行政と事業を引き受けた企業の経営者の無責任さが原因です。
倒産してしかるべきですが、ある程度事情を知っていることもあって、私の気分も複雑です。
あまり詳しく書くと何の話しかわかる人にはわかってしまうのでやめましょう。
しかし、腹立たしいです。
無責任だった人が、今はのうのうとしているからです。

ところで、帰宅したら、突然休暇だった人からメールが届いていました。
入院されていたお母さんが大変だったのだそうです。
連絡のつけようがなく、すみませんという謝罪のメールでした。

非常識な行為の背景には、必ずそれなりの事情があるものです。
「迷惑をかけた人」と「迷惑をかけられた人」と、どちらが「大変だった」かというと、多くの場合、前者の人のほうが辛いことが多いのだ、という体験則を最近忘れてしまっていました。
それを忘れて腹を立てていた自分がいやになりました。
昨日、電話などで相談に乗った人にも、もしかしたら、失礼な対応をしたのではないかと気になりだしたら、さらに不幸な気分になりました。

不幸とは、結局は自分にその原因があるものです。
困ったものです。
それに腹を立てたところで、何かが解決されるわけでもありません。
今日、1日、また相談に乗ったりしていたら、少し頭が冷やされました。

明日は幸せな1日にしようと思います。

■自民党に寄生していた農水省官僚(2009年7月14日)
今日の朝日新聞の夕刊のトップ記事です。

昨年2月、日本鶏卵生産者協会の生産者大会に来賓として民主党議員を招待したところ、自民党農水族議員の意向に配慮した農林水産省の幹部から大会を中止するよう繰り返し要請されていたことが朝日新聞の調べでわかった。農水幹部は「自民党が怒っている。中止しないなら卵価予算(補助金)を切らざるを得ない」とまで発言していた。

招待した議員は、もちろん民主党だけではなく、自民党もいました。
協会は、こうした理不尽な要請は跳ね除けたそうです。

こういった事件は、それこそ日常化していたのだろうと思いますが、こういう事件が表面に出てきても、名前が出ることは少ないです。
もし事実だとしたら、懲戒解雇すべきだと思いますが、公務員は上級職になればなるほど守られていますから、いわば犯罪者であるこういう人もまた天下り先で仕事もせずに高給をもらうことになるのでしょう。
こういう人を処分していたら、霞が関から人がいなくなる惧れもありますから、まあそれは無理として、せめて実名は発表してもらいたいものです。
そして自らがやったことの意味を知らせてほしいものです。

公務員は匿名で仕事をする文化がありますが、そこにこそ問題があります。
職位で仕事をするのではなく、実名で仕事するようにしなければいけません。
そして、問題を起こした場合は、職位ではなく実名でしっかりと公表すべきです。

未成年者が犯罪を起こした時には実名が出ませんが、官僚はそれと同じく、主体性を持っていないということでしょうか。
そう考えれば、少し納得できます。
しかし、仲間として恥ずかしいと思う人はいないのでしょうか。
仲間の行動は自分と無関係ではないことをわかっているのでしょうか。

■ボランティアとは権力や金銭に惑わされない姿勢(2009年7月15日)
会社を辞めてNPOを創りました、という人が時々やってきます。
でもよくよく聞いてみると、会社で取り組んだ方がいいのではないかと思うようなことも少なくありません。
あえてNPO法人にしなくてもいいと思うことも多いですが、なぜかみんな法人格を目指します。
手段である法人格が、目的になっていることが少なくありません。
私は、法人格を取得することは純粋さの放棄だとさえ思っていますので、相談があってもよほどのことがなければ法人格取得は勧めません。
国家のお済付けをもらうような姿勢がある限り、現状維持のためのサブシステムにしか成れません。
そういう人は、ミッションが曖昧ですから、所詮は時間つぶしでしかありません。

「ボランティア」という言葉も、その使い方に違和感があります。
「ボランティアでやっています」という言葉は、「無償でやっています」という意味であることが多いようです。
そもそも「ボランティア」とは「自発的」という意味であって、無償かどうかは無関係のはずですが、日本ではどうも「無償=ボランティア」というイメージがあります。
ボランティアの人に謝礼をやろうとすると、怒る人がいるという話を聞いたことがあります。
そういう人もまた、お金を基準に考えているわけで、私には卑しい金銭主義者に見えます。
「ボランティア」という言葉を発する人は、現状維持のために奉仕しているだけなのかもしれません。
それは悪いことではなく、むしろ評価すべきだろうとは思いますが、私にはほとんど興味はありません。
その姿勢では、私的行為の世界を超えることはないからです。

以上は、私の独断的考えです。
ボランティアとかNPOとかに、どういう役割を見出すかは、人によって全く違うでしょう。
しかし、いずれの言葉もあまりに安直に使われている現状には反発を感じます。
だからあえて意地悪く、上記のように考えたくなるのです。
私の考えは、特異かもしれません。

ある本で、「ボランタリーということは、権力からも営利発想からも自由であるということだ」と読んで、とても共感しました。
それ以来、私のボランティアの定義は、権力や金銭に惑わされない姿勢ということにしています。
NPOに関しても、この考えを延長させて考えています。

政党も、広義にはNPOだといわれることがあります。
しかし、少なくとも日本の政党は、権力と金銭がその組織原理のすべてかもしれません。
国民もまたそれを受け容れています。
ですから、「友愛」という理念を打ち出した民主党をみんな馬鹿にしたのです。
友愛は、権力や金銭とは別の次元のものです。
しかし、今回の無様な政局の動きを見ていると、権力と金銭に呪縛された政治家の惨めさが良く見えてきます。
そして、その向こうに、権力と金銭に汚染されつつある市民活動の姿が見えてくるような気がします。
法人格の目指すところは、友愛に支えられたコンヴィヴィアルな世界ではないのです。
そんな組織に、未来は託せません。

■背広を着ることの意味(2009年7月16日)
今日、私よりもかなり若い知人が相談にやってきました。
彼は自分で会社を起こし、その社長なのですが、誠実を絵に書いたような人なのです。
私のところに来る時でさえも、背広でやってきます。
今日は真夏のような暑さでしたが、やはり背広を着てきました。
私のところに来る時には、気楽でいいからと話しましたが、彼にとって私は二回りも年上なので、礼を失してはいけないと思っているのです。

最近、私はめったに背広を来ませんが、それでも時々着ることがあります。
会う人や行く場所によって、服装を変えるのはおかしいのではないかと思いながらも、自然とそうしてしまいます。
背広を着るのと着ないのと基準は何でしょうか。
そこに、自分の生き方や価値観が現れており、自分の小賢しさを知ることができます。

自分が何を着ているかで言動は変わります。
ですから、長年、着ているものによって人間の生き方や価値観は決まっていくはずです。
小学生の頃、たしか佐藤紅録の小説だったと思うのですが、こんな文章がありました。

昔の日本の男はふんどしで下半身を締めていたが、最近の男たちはネクタイで首を絞めているから、根性がなくなったのだ。

子どもながらに、とても納得しました。
私は、ふんどしをしたことはありませんが、ネクタイだけはしないでしようと思っていました。
しかし、会社に入る頃には、そんなことはすっかり忘れてしまっていました。
そんなわけで、私は根性のない大人になってしまったわけです。
いや、子どもの頃から,あんまり根性はなかったですが。

話がそれてしまいましたが、服装は意識に大きな影響を与えます。
和服を着ていた時の日本人と洋服になじんでしまった日本人とは、たぶんかなりの違いがあることでしょう。

私は最近、Tシャツでオフィに行くことも少なくありません。
自宅とオフィスでは、ほとんど、同じ服装をしています。
生活にメリハリがなくなってしまったのは、そのせいかもしれません。
やはり仕事をするのであれば、背広をきちんと着るべきなのでしょうか。
最近、企業の仕事に縁遠くなったのは、そのせいかもしれません。困ったものです。

日本の社会をおかしくした一因は服装にある、というようなことを書くつもりだったのですが、まあそんな偉そうなことをいう前に、自分の服装を点検すべきですね。

今日もまた、意味のないことを書いてしまいました。
政治の話を書くと何を書くかわからないので、しばらく政治時評は避けたいと思っているのです。
はい。

■コンビニ強盗が急増している社会(2009年7月17日)
先月、防犯活動に長年関わってきた人から、これからコンビニ強盗が増えていきますよ、と聞いていましたが、昨日の警察庁の発表によれば、今年前半のコンビニ強盗は、前年同期比65・6%増の487件だったそうです。
まさに、彼が言っていた通りの状況になってきているようです。
万引きや引ったくりも増えているようですが、「素人でもできる犯罪が増えている」のだそうです。
社会が壊れつつあることの、ひとつの現われかもしれません。
これまで、このブログやCWSコモンズなどで、繰り返し書いているように、こうした状況は政府が先導してきたのではないかとさえ思いますが、それを支えてきたのは私たち国民一人ひとりの生き方です。
私は、運よくコンビニ強盗をしたことはありませんが、大きな目でみたら、そうした状況を生み出す動きに全く無縁だったとはいえません。
郵政民営化には反対でしたし、ビジネスを潤すだけの環境対策にも反対でした。
そして、せめて自分の生き方だけは変えていこうと務めてきたつもりです。
しかし、大きな動きに対しては、デモをするわけでもなく(2回ほど参加しましたが)、運動に投ずるでもなく、自分の小さな生活に安住してきてしまっています。
経済的格差の進展にさえ、何もできずにいるわけです。
ですから、コンビニ強盗にまで追いやられた人に対しては、なにやら申し訳ない気持ちはしますが、咎める気分にはなれません。
咎めたいのは、今なお税金を私的に流用している、私の友人知人たちです。
しかし彼らも決して悪意があるのではなく、社会を良くしようとがんばっていることも事実です。
そのあたりが、とても悩ましいのです。

ところで、コンビニ強盗ですが、その話をしてくれた冒頭の知人は、その防止策として、強盗が外部に持ち出せないレジスター金庫をすでに実用新案までとっているようです。
方法は簡単です。
自動車のエアバッグのように、金庫を移動させようとするとエアバッグが開いて持ち運べないようにするのです。
金庫メーカーに提案したそうですが、金庫が盗まれないと金庫は売れないということで、取り上げてもらえなかったそうです。
金庫メーカーが、本当にそんなことを言ったのかどうか、少し疑わしいですが、真剣に考えようとしなかったのは間違いないような気がします。
なにしろ企業の論理は、顧客の創造なのですから。
本当に馬鹿げた話ですが、経営学者はそれを推奨しているのです。

社会のひずみは、いろいろのところに現れてきます。
個別の動きの背後に、大きな構造的な問題、原理的な問題が存在しています。
この数年、増加している事件や事故を見ていくと。問題の本質は見えてくるでしょう。
私たちの社会の根幹が崩れだしていることに、不安を感じます。

■政治は週休2日制なのですね(2009年7月18日)
私は21年前に会社を辞めて自営業になって以来、土日だとか夏休みだとかいう感覚がなくなってしまいました。
私の娘たちも、ほぼ同じような仕事のスタイルなので、土日が休みなどと言う感覚はあまり強くありません。
いつかも書きましたが、連休だからと言ってうれしいことはありません。
会社に雇用されていた時には、休日は「働かなくても給料をもらえる日」ですから、多いに越したことはなく、連休だと得をした気分さえありました。
しかし、自営業は自分が働かなければ収入はありません。
自営業だけではなく、たとえば派遣社員やパート労働者も同じでしょう。
そうした人にとっては、土日もきちんと働く日なのです。

実際に、土日も社会は同じように動いています。
鉄道は動いていますし、コンビニは営業しています。
宅急便も届きます。
そうした社会を支えるインフラストラクチャーは土日だからといって休むことはできません。
休んでしまったら、国民の生活はうまくまわらなくなるでしょう。

ところが、政治の世界はどうも違うのです。
議論が山積みで時間的余裕がなければ、企業であれば土日出勤して、対応します。
しかし、国会は土日は休みなのでしょうか。
しかも今回のように、解散とか両院協議会とか、重要で緊急なはずなのに、度にとはもとより、7月20日の祝祭日も外して考えられています。
こうしたことがどうも納得できません。

こんな大変な時期であれば、連休の最中であっても、議論すべきは議論し、解散も日曜日にやっても良いのではないかと思います。
しかし、そんなことははなから頭になく、土日や祝日は政治活動(裏活動は別にして)もお休みなのです。
政治もまたカレンダーに従うルーティンワークになっているのです。
要は高級取りの勤め人です。

政治というのは、そんなものではないはずです。
明日の食事に困っている人にとっては、休日などはないのです。
週休2日の政治はやめてほしいものです。

■二大政党制は20世紀政治モデルです(2009年7月18日)
解散が決まり、またまた「政治の季節」になりました。
政治家や政治評論家がテレビで盛んに発言していますが、私にはどうも基本的な間違いがあるように思えてなりません。

まずは、二大政党制ですが、みんな「やっと定着してきた」ので、それを枠組みにして考えていきたという姿勢です。
以前も書きましたが、二大政党制度は20世紀の政治モデルです。
それを後生大事に考えている政治家は、私は全く信頼できません。
政治学者がそう考えるのは、彼らが御用学者だから仕方ありません。
しかし、時に在野の人までそういう発言をするのでやりきれない気持ちです。
少しは、歴史を学べといいたいです。
まあ、私がさほど学んでいるわけではありませんので、私が間違っている可能性もないわけではありません。
しかし、アタリやネグリの著書を2冊でも読んだ人なら、二大政党制が内在させている、「支配の論理」「対立の論理」「不寛容の論理」「多数決暴力の原理」などに気づくはずです。
アシュビーの最小多様度の法則を持ち出すまでもなく、二大政党制は多様性を縮減し、効率性を増強します。
今回の都議選で、その弊害は見えてきたはずですが、それを弊害ではなく、効用と考えるのが、御用学者や権力志向者の発想です。
もちろん小選挙区制などは近代の申し子ですから、論外です。
政治学者や多くの知識人は、その導入に賛成しましたし、彼らは近代に寄生しているが故に、その呪縛から抜け出られないのでしょう。
それは、最近のマスコミで活躍しているオピニオンリーダーにも共通している、惨めさです。

生物多様性の大切さはかなり浸透してきましたが、なぜそれが人間社会にも当てはまるとみんな思わないのでしょうか。

その延長で言えば、昨今のマニフェスト論議も、極めておかしな話だと私は思っています。
これはまた日を改めて書きます。

■マニフェストもまた20世紀政治モデルです(2009年7月19日)
みなさんは政党のマニフェストを読まれたことはありますか、
私は自民党と民主党だけですが、2回ほど読みました。
政党マニフェストの評価する活動を誠実にやっている友人が何人かいますが、前にも書いたように私は基本的にマニフェストに違和感を持っています。
ですから、昨今のような、「ともかくマニフェスト」というような動きには疑問を感じます。
この話を書き出すと長くなりそうですので、断片的になりますが、最近、気になることだけを書きます。

先ず、マニフェストと選挙公約とはどこが違うのでしょうか。
最近は、それらが同じ意味で使われていることが少なくありません。
政治家自身が、マニフェストといった後に公約と言い換えることが増えてきています。
なぜでしょうか。
言い換えるくらいなら、最初から公約とか信条といえばいいだけの話です。
ごまかされてはいけません。

次に、今回、自民党は複数のマニフェストが出されるといわれています。
個々ばらばらに堕されるものはマニフェストとは言わないのではないかとあるテレビタレントが話していましたが、それを受けたキャスターも同じことを言っていました。
たしかに党としての公式のマニフェストは一つでしょうが、個人が出すのも当然マニフェストです。
私自身は、個人のマニフェストが大切だと思っています。
個人のマニフェストと組織全体のマニフェストは当然次元が変わります。
私が政党のマニフェストを読んで、退屈だったのは、それが混同されているからです。
もし政党のマニフェストに、具体的な政策課題や事業が書き込まれていて、しかもそれが個人の公約に置き換えられるのであれば、選挙は個人を選ぶのではなく、政党を選ぶことになります。
そうであれば、今のような大騒ぎの選挙は不要です。
詳細なマニフェストに従って、評価する作業で十分です。
しかし、そんなことはありえません。
マニフェスト全体を評価して、どちらがいいかどうかを決めることは現実的ではないのです。
○×教育で育った橋下知事は、そう考えるかもしれませんが、現実の生活や社会はそんなに単純ではないのです。
テーマや課題によって、どの政党の政策構想がいいかは変わってくる可能性があります。
それを一括して評価することなどできないはずです。
もし政党を全体として選ぶとしたら、マニフェストの根底にあるビジョンや理念です。
自民党のビジョンは利権国家であり、民主党のビジョンは友愛国家であるとマニフェストに書いてくれれば、とてもわかりやすいでしょう、
ちなみに、利権国家が悪いわけではありません。
国民の多くは利権国家のおかげで物質的豊かさを得てきたのですし、今も利権国家を歓迎する人は少なくないでしょう。
これは決して皮肉ではなく、私の周辺の実状からの意見です。

選挙が、もし個人を選ぶのであれば、党議拘束などといったばかなルールは止めなければいけません。
しかし、残念ながら日本の政治は、個人を選ぶ政治ではなくなってきているのです。
それを進めたのは、二大政党制と小選挙区制です。
今自民党の議員が、個人として行動できないのは、この制度のおかげです。
自民党から離党してしまえば、議員にはなれないという呪縛がかけられているのです。
それは、個人の叡知が基本になる政治の終焉を意味します。
ですから、私は日本の政治学者や政治評論家を全く信頼できないのです。

最後に一つだけ蛇足を加えます。
今朝の朝日新聞に同社の世論調査が出ています。
それによると、自民党と民主党の政策には大差ないと答えた人が59%もいるそうです。
まあ当然のことですが、回答者のほとんどは両党の政策などほとんど知らないでしょう。
マニフェストなど、どうでもいいのです。
大切なのは、その人の生き方や信条なのです。

はやく20世紀モデルから抜け出さないといけません。
それは簡単なことで、まずは自分が生き方を変えることです。
目先の利権で発想するのではなく、理念で発想することです。
そうしたら、誰を選ぶかは見えてきます。
どの政党が20世紀モデルから抜け出そうとしているかも見えてきます。
もちろん、その評価は人それぞれです。
異論が生き生きと飛び交うことで、未来は開けてくるのだろうと思います。

やはり長くなりました。
その割には内容がないですね。
肝心の、マニフェストが20世紀政治モデルだという説明がないですね。
また改めて書きます。

■2つの民営化(2009年7月19日)
今朝はテレビ各局での政治関係の議論をみてしまいました。
基本的にやはり違和感があります。
たとえば、「民営化」に関する議論を聞いていて、やはり基本にすべき認識の不揃いを感じます。

民営化には2つのタイプがあるといわれます。
私の考えとはちょっと違いますが、それは「営利民営化」と「非営利民営化」です。
前者は、営利企業に資産を売却し、市場原理の中での営利行為に変えていくことです。
平たく言えば、誰かに儲けさせる利権を売るということです。
ですからそこで、儲け主義(代行)者の宮内さんや西川さんのような人が暗躍するわけです。
後者の非営利民営化は、たとえば、NPOや協同組合などに資産経営を任せるということです。
ここでは資本家が主役ではなく、理想的には国民すべてが主役になります。
平たく言えば、国民の財産の経営管理を国民に戻すということです。
両者の最大の違いは、その経営管理の実態を透明にするということです。
そして、もしおかしなことがあれば、だれでもが異議申し立てできるようにするということです。
一時期、流恋した「第3の道」政策がこれに当たります。
小泉郵政民営化は前者の典型です。
つまり政府がみんなの財産を勝手に誰かに格安で提供したということです。
格安で売ることを正当化するのは、彼らにとってはいとも簡単なことです。
この問題こそが、政治と金の核心です。
政治献金など、こうした政商的行動に比べたら、瑣末な話とさえ思われます。

私は、後者のものを「共営化」と呼びますが、それは「共」という概念が、私の基本的な生き方の根底にあるからです。
ですから、名称にはまりこだわりませんが、両者は、その基本において全く異質なものです。
つまり、「誰かのものにするか」「みんなのものにするか」という、対極のものなのです。
国民財産を奪取されるか、守るかの違いなのです。
にもかかわらず、それらが同じ言葉で語られているのが、私には理解できません。

民営化を語るのであれば、もっと概念を明確にして議論してほしいものです。
これは、ほんの一例です。
同じような無意味な議論が多すぎます。
テレビの政治関係の討論は、百害あって一利なしかもしれません。

■21世紀政治モデルの基本は異質の価値観の調和(2009年7月20日)
二大政党政治やマニフェストは20世紀型の、もう終わった政治モデルだと書きました。
さらにいえば、「政党政治」そのものが20世紀型のモデルではないかと思います。

これに関しては、ブログで書くようなテーマではありませんが、
明日からまた政治の茶番劇がにぎやかになるでしょうから、
その前に基本的な私の考えを書いておくことにします。

私の友人の武田文彦さん(私のホームページに国家論を掲載しています)は、代議制は民主主義にあらずと主張します。
そこまで言わなくても、代議制と直接民主制は全くといっていいほど異質なものだと私も思っています。
なぜ異質かといえば、原理が違うからです。
私の言葉で言えば、「個人起点」か「組織起点」かの違いです。
民主主義は実は独裁政治への入り口を用意します。
ナチスも民主主義を標榜する代議制から生まれたものです。
大衆民主主義の恐ろしさは、よく指摘されています。
私たちも、郵政民営化選挙でそれを体験したばかりです。
つまり、民主主義は演出の仕方で、大きな流れを、それも熱狂的な流れを産むことができるのです。
議会は、そうしたことを加速させる、いわば「増幅」機能を持っているのです。
「民主主義のジレンマ」といってもいいでしょう。

しかし、そうしたファシズムへの動きを阻止する役割を担っているのも、議会です。
つまり、議会は、本来は民主主義の暴走をチェックする存在でもあるのです。
しかし、それが可能になるのは、議会でしっかりした「対話(コミュニケーション)的行為」が成り立っている時です。
対話的行為とは、ハーバマスが言い出した概念です。

ハーバマスは、成果を志向した目的合理的な行為一辺倒の近代がもたらした人間悲劇を克服するために、まずはお互いの違いをしっかりと認め合って、相互肯定的な対話によって、了解の世界を広げていくことが大切だというのです。
なんでもないように聞こえるかもしれませんが、これはそれまでの「コミュニケーション」観とは全く違ったものです。
そこには「勝ち負け」などという発想はありませんし、目的達成が第一義的にあるわけでもありません。
世界を、一元的な価値で覆いつくそうなどという発想もありません。
あるのは、異質を相互肯定しあうことで、自らの世界を、したがってお互いの世界を豊かにしようという姿勢です。
急いで「合意形成」する必要もありません。

対話的行為の先にあるのは、新しい社会原理です。
私が考えている21世紀政治モデルもまた、こうした発想に従っています。

この基準から考えれば、今の政治状況の行き先はかなり見えてきます。
組織に従属している議員は、存在価値がないのです。
政党も、全く違った役割を果たすものになるでしょう。
政党政治はもう終わったのです。

8月30日の選挙結果は、私には明らかです。
しかし、これまで私の予想が当たったことがありませんから、また裏切られるかもしれません。
私にとっては、あまりに明らかなことがなかなか現実のものにならないのは、どうしてでしょうか。
その答もまた、よくわかっています。
私の時間軸が間違っているのです。
時間軸の違う世界を生きることは、疲れますが、面白くもあります。

■生活者と同じ給与でないと生活者の目線になれない(2009年7月21日)
テレビの取材に応じていた河村たかし名古屋市長に共感しました。
共感したのは、自分の給与を800万円に減給したことです。
それまでの規定では、2000万円を超えていました。
800万円とは河村さんと同世代の名古屋市民の平均給与なのだそうです。
生活者と同じ給与でないと生活者の目線になれないというわけです。
これが、すべての出発点かもしれません。

昨年、隠岐の海士町に行きました。
町長からお聞きしたのですが、町長は、まず自分の給料を半額にしたのだそうです。
そうしたら、町会議員が自分たちは4割減にしようと言い出し、役場の管理職は3割減を言い出したのだそうです。
そして一般職員も残業代などを辞退しだしたといいます。
それを知った住民たちは、行政依存ではなく、自分たちもがんばろうと、自発的なまちづくりに取り組みだしたといいます。
お金万能の時代であればこそ、こうしたお金の効用が生まれてきているのです。

河村さんは、市民税1割減を公約に掲げました。
それは難航しているようですし、批判もあるようです。
しかし、歳入が減っても、歳出を少し減らせば、収支はバランスします。
収入に合わせて家計支出を削減するのは、生活者の日常生活でしょう。
生活者の感覚からいえば、なんでもない話です。

さらに河村さんは、自分が総理になったら消費税を1%削減すると話していました。
財源がない時代に、そんなことができるはずはないとみんな思うでしょう。
今でも、民主党が何かしようとすると財源があるのか、と批判するのが最近の日本の「良識者」たちです。
私には、彼らはすべて守銭奴にしかみえません。
お金がなければ何かができないと思うのは、守銭奴の哲学です。
「まずお金」と考えるような発想に洗脳されているわけです。
その発想を、私たちは先ず捨てなければいけません。

河村さんに総理になってもらいたいと思いました。
与謝野さんとは違って、河村さんには知性を感じます。
鳩山さん兄弟とは違って、河村さんには生活を感じます。
東国原さんや橋下さんとちがって、発想の転換があります。
いまのところの、私の気持ちですが。

■マニフェストについての(補足のならない)補足(2009年7月21日)
先日書いた「マニフェストは20世紀型モデル」の話ですが、論理の展開があまりに粗雑でした。
それに、マニフェストが「選挙公約」ではなく「政権公約」として使われていることにも、きちんと言及せずに、個々ばらばらのマニフェストでいいなどと言ってしまうのは、フェアではありません。
私自身が、言葉の多義性を悪用しているきらいがあります。
舌足らずであることはもちろんですが、ちょっとマニフェストについて考えたことのある人からは、フェアではないと指摘されそうです。
政権公約であれば政党として一本化すべきであることは、いうまでもありません。

しかし、繰り返せば、そもそも政権公約を具体的な政策あるいは施策ベースで、さらには制度ベースであらかじめ宣言することに違和感があるのです。
政権をとった場合の基本方針や価値観はあらかじめ出しておくべきですが、最近のマニフェストで要求されるような数値目標や工程表は、政権を取ってから実務的に考えるのが誠実な態度ではないかと思うのです。
財源論などはマニフェストには不要です。
それはまさに政策の全体性の中で議論されればいい話です。
そういうことを言いたかったのですが、なにやら話の矛先が前回は違った方向にすべってしまいました。

これからの政治は、情報を国民に公開し、国民に考えさせながら、理念を具現化していくプロセス、つまりコミュニケーション的行為が政治の本質になっていくという私の展望には、いまのマニフェストはなじめません。
選挙は終わりではなく、始まりにすべきなのです。
それが、20世紀モデルと21世紀モデルの違いです。

なんだか補足につもりが、そうなっていませんね。
しかし、やはり今日は疲れきっているので、これでまた「続き」にします。
あまりにも不正確に書いてしまったので、翌日から実はずっと気になっていたのですが、書き直すのも面倒なことに気づきました。
自己満足と自己弁護のために、この記事を書きました。
すみません。

■知的所有権などという小賢しい発想は間もなくなくなるでしょう(2009年7月22日)
上田昌文さんの主宰する市民科学研究室では、『市民科学』という機関誌を毎月発行しています。
以前は、40頁ほどの雑誌で、1部200円だったそうです。
その後、記事や論文の導入部分だけをホームページで公開し、全文は会員がIDとパスワードを使ってダウンロードするというスタイルに変えました。
この方式はいま広がってきており、紙媒体の雑誌を郵送・配達する定期購読システムは減少する傾向にあるようです。
私が参加している団体でも、そうした動きが増えていますが、最初は紙媒体がないのが物足りませんでしたが、慣れてくるとむしろとても便利です。
また、たとえば私が比較的よく読んでいる(最近ちょっと退屈になりましたので、以前ほど精読していませんが)「軍縮問題資料」も、この記事はもっと多くの人に読んでほしいと思う論文があるときなど、ネットで読んでもらえればと思うことも多く、ぜひそうした記事はネットで公開してもらえないかと編集部にお願いしたこともありました。
残念ながら実現しませんでしたが、雑誌販売を事業と考えると無料で読めるようになれば収益性を低下させますので、難しいのかもしれません。
しかし、社会に向けてのメッセージ性の高い論文は、多くの人に読まれることが目的ですので、無料であろうと読者が増えることが書き手のモチベーションにつながるはずです。
たぶん活動資金をメッセージの購読者から得るという発想を変えなければいけないということです。

そうした問題を克服するためでしょうか、市民科学研究室では理事会での検討の結果、記事論文は無料で全文をウェブサイトで公開することに踏み切ったそうです。
私はこれを市民科学研究室のホームページで知りました。
私が思い描いていた方法そのものです。
ただそれを持続させることは簡単ではないでしょう。
ホームページには、なぜそうしたかに関して、「情報自体に対価をいただくのではなく、そうした情報を生み出す活動全体に対して支援をいただく」との考え方に基づいている、と書かれています。
上田昌文さんの活動は以前から関心を持っていましたが、最近忘れていました。
たまたま友人が、そこに掲載されている論文を教えてくれたのですが、そこで思い出してホームページを見て、こうした動きを知ったのです。

私は、以前も書いたと思いますが、知的所有権の発想が理解できずにいる人間です。
どんな素晴らしい知の発見であろうと、一人(1グループ)で発見することなどありえません。
知はすべてつながっていますから、その発見は個人や特定のグループの成果ではなく、人類の成果なのです。
利益配分をめぐって裁判などが時々起こりますが、私にはなかなか理解できない話です。
知は、誰かに属するのではなく、人類すべてに属しているはずです。

市民科学研究室の英断は、情報メディアや情報創造の問題にも大きな示唆を与えてくれます。
とても共感できる動きです。

もしよかったら、みなさんもこの運動を応援してください。
時々、そのサイトを開くだけでも応援することになるはずですので。

■「デュヴェルジェの法則」と「レイプハルトの確信」(2009年7月22日)
政権交代には2つのタイプがあります。
政党間の政権交替と、政権基盤の交代です。
今回の日本の選挙での政権交代は前者であり、二大政党間の権力争いともいえます。
その背後で、もっと大きな政治の変化の潮流が動き出しているように思いますが、ほとんどの人は「二大政党制論」の呪縛の中で、政権基盤の交代の動きにはむしろ棹差すことになるでしょう。
ここが実に悩ましい問題です。

フランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェは、政治対立は必ず二者の対立になるものであって、二党が対立することが良いと考えました。
また、小選挙区制が二党制を生み、比例代表制が多党制を生むという「デュヴェルジェの法則」を提唱しています。
日本はこの政治観で政治改革を進めてきたわけです。

こうした二大政党制論に対して、二大政党制を多数決型民主主義とし、多党制を合意形成型民主主義(コンセンサス型モデル)とし、多くの面において合意形成型民主主義が優れているという主張したのが、アメリカの政治学者アーレンド・レイプハルトです。
私は、民主主義の本質は多数決という「量の問題」ではなく、「少数者の尊重」という「質の問題」だと考えていますので、当然、「レイプハルトの確信」に共感しています。
ネグリの「マルチチュード」もまた、その多様性に力を見出しているように思います。

但し、レイプハルトの「合意形成」という言葉には、いささかの注釈が必要かもしれません。
合意というと、「一つの結論」と多くの人は考えますが、そんなことはなく、「複数の結論」での合意もありえます。
それは、時間幅をどう捉えるかという、まさに「生命のリズム」にもつながる問題です。

日本の政権交替選挙は、どう展開していくか、まだわかりませんが、私の希望的観測は「民主党は過半数をとり、自民党は解体する」というものです。
つまり結果的に、二大政党の崩壊です。
しかし重要なのはそのことではなく、共産党、国民新党、社民党が伸びるかどうかということです。
私はいずれの政党も好きではありませんが、論理演算でいえば、伸びるべきです。
しかし、それもまたなかなか難しいかもしれません。
論理はともかく、感性がどこかで間違っているからです。
社民党の福島さんの「物言い」には誠実さが感じられません。
実体もあり誠実なのでしょうが、言葉づかいが的確ではないように思います。
共産党は、実体もあり、誠実さも感じますが、「共産党」という名前の呪縛に負けていますので、コミュニケーションできない体質を持っています。
それに気づかないのは、彼らに知性がない現われでしょう。
未来を託そうと思う人は増えないでしょう。
国民新党は終わった人たちのルサンチマンでしかありません。
しかし、彼らが提起しているメッセージはとても大切で本質的なように思います。

伸びるべきだといいながら酷評してしまいました。
田中さんの新党日本はどうでしょうか。
これは面白いですが、伸びようがありません。

そんなわけで、結局、民主党しか伸びないことになるのですが、自民党を解答して生まれた新しい政党郡が意外と伸びるかもしれません。
そうなれば、二大政党制の流れが変わるかもしれませんし、小選挙区制の見直しの運動(既にあります)が高まるかもしれません。

政治の大きな流れの転機(後者の政権交代の始まり)になる可能性は十分あります。
そうした大きな目で、この選挙を見ていこうと思っています。

■人の悪口を言う人に良い人はいない(2009年7月23日)
今回のタイトルは私の生活基準のひとつです。
この奥には、もう一つ大きな基準があります。
それは「人は自分が持っているものしか気がつかない」というものです。
ここから出てくる、いくつかの系(下位命題)があるのですが、タイトルはその一つです。
同じ類のものに、「他者に対する批判はほとんどが自分に対する批判としても当てはまる」というのがあります。
だから、誰かの批判をしている人がいたら、それはその人(批判している本人)のことだと思うとだいたいに納得できるのです。
これらは、私が子どもの頃から感じていたもので、そのおかげで私は誰でも好きになれるようになったように思います。
どんな人にも、自分を見つけられるからです。

とても辛くて残念なのですが、この私の基準からすると、このブログで他者を結構口汚くののしっているのは、実は私自身に対するものということになります。
つまり、私もまた「良い人」ではないということであり、無責任で無道徳で、厚顔無恥で強欲で、無能で犯罪者で、・・・・いやはや嫌になりますね。
しかし、私の60年を超える人生体験からも、これは否定できない事実なのです。

とまあ、断った上で、今日はまた人の悪口を書きます。

日本の政界の話です。
どうしてみんな、こうも悪口ばかり言い合うのでしょうか。
謙信ではないですが、敵に塩を送るような政治家はいないのでしょうか。
私自身が、悪口を言っているのですから、こんなことを言うのはおかしいのですが、成熟社会における政治では「対立」ではなく「相互支援の共創」が望ましいです。
そろそろ「対立の政治」の概念から解放されてもいいような気がします。

日本人の文化から言っても、たぶん敵をけなすのではなく、たたえたほうが共感を得るかもしれませんし、第一、友愛を標榜しているのであれば、相手を許し、応援して当然です。
自信のある人や無私の人は悪口など言わないでしょう。
私がこのブログで悪口を言うのは、自らに自信がないのと私欲が強いからでしょう。
最近つくづくそう思います。

というわけで、このブログではこれからはできるだけ人の悪口を言わないようにしようと決意しました。
さて本当にできるでしょうか。
こえはたぶん「表現力」の問題です。
内容のない相手を褒めることは、最高の悪口に通じますので。

■ビジョンと現実(2009年7月24日)
民主党の政権公約が現実路線に向けて変化してきています。
これに対して批判も少なくありません。
こうした動きを先導したのはマスコミだと思いますが、注意すべきことは、ビジョンとアクションとは次元が違うということです。

政権公約にはビジョンとアクションの2つが必要です。
前に書いたように、私はビジョンだけでいいと思いますが、それはアクションになった途端に個別論になってしまい、多様な解釈の元に現実的な選択肢ではなくなるからです。
個別論は、個別に国民の意見をきちんと問う仕組みをつくればいいのであって、議員を選ぶ、あるいは政党を選ぶ選挙の判断基準にはすべきではないと、私は思っています。

政治は理念ではなく、現実だという人がいます。
しかし、理念のない現実にどれだけの意味があるのか。
理念の代わりに、金銭や権力を置いて考える生き方から抜け出ないと、現実の意味さえ消失しかねません。
その予兆は、いろいろなところで出始めているような気がします。

■ネット情報の広がりの恐ろしさ(2009年7月24日)
一昨日から昨日にかけて、ネットでの情報伝達の効用と恐ろしさを体験しました。
4月に仲間たちとあるイベントを企画しました。
その案内文をつくり、メーリングリストやホームページで告知しました。
ところが、そこに1か所、ミスがあったのです。
後援の許可をとっていなかった組織の名前が掲載されていたのです。
その情報は、当日の配布資料にも「後援」として掲載されました。
その人は、終了後、確認が十分ではなかったことに気づいたようなのですが、終わったことなのでいいだろうと思ってしまったようです。

イベント終了後、3か月して、突然、私のところに苦情の電話が届きました。
そのイベントの連絡先に私の携帯電話の番号が掲載されていたのです。
相手の人は「私は許可したことはない、すぐ掲載されているものからすべて削除してほしい」と厳しい口調で要求されました。
怒りはよくわかります。
私は、ほとんどすべてにおいて「まあ良いんじゃない」と受容するタイプですが、名前を勝手に使われることだけは絶対に許せません。
ですから、その方のお怒りはよくわかります。
すぐ対応することにし、私が掲載したネット上のものからはすべて削除しました。

ところが、翌日、また電話です。
消えていない、というのです。
話しているうちにわかったのですが、私が書いた記事が私の管理範囲を超えて、転載されていたのです。
グーグルで調べてみたら、確かにまだいろんなところに残っていました。
気が遠くなる気分でした。
一つずつ調べて、その関係者に電話して事情を話して削除してもらいました。
冷や汗が出つづける1日でした。

この事件で、改めてネット環境での情報の伝達の広がりの凄さに気づかされました。
まさに、リゾーミックな広がりです。
しかも、その広がりの過程で少しずつ変質し、他の要素を取り込みながら創発していくことがよくわかりました。
こんなところにまで引用されているのかという、驚きもありました。
情報社会とは、まさに情報のガバナンスが社会に移行してしまう社会なのだとわかりました。

ネットに掲載する時は、慎重にしなければいけません。
私には一番苦手のことなのですが。

もっとも、この事件でよかったこともあります。
訴えるとまで怒っていたその方と仲良くなれたことです。
その方は、メールでこう書いてきてくれました。

今回のご縁も、何か必然性があるかも、等と勝手に考えてます。

人の出会いは不思議です。

■物語報道(2009年7月27日)
「強いられる死 自殺者三万人超の実相」という本を読みました。
読もうかどうか迷っていたのですが、自殺防止関係の活動に少しだけ関わっている以上、読んでおくべきかなと思ったのです。
読み始めて、やはり読まなければよかったと思いました。
でも結局は最後まで読んでしまいました。

読まなければ良かったと思ったのは、具体的な自殺者の物語が中心だったからです。
たしかに具体的な事例を知らないと問題の本質は見えてこないかもしれません。
しかし、他者の生活を覗き見しているような居心地の悪さと共に、作られた舞台を見せられているようで、どうも好きになりません。
同じことはテレビでも言えます。
自殺をテーマにした報道番組が最近多いのですが、どうもどこかに覗き見志向を感じてしまうことが少なくありません。
もっと違った報道の姿勢があるのではないかと思うわけです。

これは自殺問題に限りません。
報道に生々しさを出すためでしょうか、ヤミ金融やDV、あるいは振り込め詐欺なども具体的な事例の追跡レポートが増えています。
しかしどこかに「作為」を感じることもありますし、もしこれが本当ならば、報道するよりも警察に通報するべきではないかなどと思うこともあります。
事実、あとで「やらせ」だったことが判明することも、時にあります。

事件はいうまでもなく、それぞれみんな「表情」が違います。
それに事件には必ずドラマがあります。
報道の仕方で、いかようにも面白さはつけられるでしょう。
報道の目的は、そうした具体的な事例の物語を面白く描くことでしょうか。
しかし、そのためにむしろ問題の本質が見えなくなってくることも少なくありません。
事例は、「目的」ではなく「手段」です。
その手段が、あまりに詳細に興味本位でと思われるような取り上げ方が、私には気になります。
大切なのは事件の詳細ではなく、事件から学ぶべき問題の意味です。

こうした報道の姿勢は、テーマ報道に限った話ではありません。
個別の事件報道のニュースも、本来の意味に無関係な詳細すぎる報道姿勢を感じます。
こんなことまで報道しなくていいだろうと思うことが少なくありません。
事実の詳細を報道すればするほど、事実の意味が見えなくなることは、政治報道の分野を思い出せば、すぐわかるはずです。

「物語報道」という言葉は、勝手に私がつくったのですが、どうも報道においても「物語意識」が強すぎるような気がします。
生活が興味の対象になる、生活不在の時代になってきた現れの一つかもしれません。

ちなみに、冒頭の「強いられる死」ですが、だからどうすればいいのか、と言うメッセージが私には残念ながら伝わってきませんでした。
残ったのは、奇妙に後味の悪い気持ちでした。

■選挙協力の落とし穴(2009年7月27日)
衆議院は解散されましたが、なにやら政治の世界は静かです。
時評しようにも評すべきことが起こりません。
喜ぶべきことでしょうか。
日本のマスコミは「政局」しか報道してくれないことが少しわかったような気もしますが。

選挙制度こそ問題だと考えている友人がいます。
最近、会っていませんが、メーリングリストで彼の意見はよく回ってきます。
彼は、最近、野党がもう少し効果的に選挙協力すれば、選挙結果は変わると、具体的な数字を用いて政党に呼びかける活動をしています。
とてもわかりやすく説得力があります。
たとえば、こんな記事を書いています。
民主党の比例区勝ち過ぎを修正することで、政権交代が確実になる
http://kaze.fm/wordpress/?p=275

権力を持つものはまとまりやすいですが、権力を批判するものはまとまりにくいことは、否定できない事実です。
ここに問題の悩ましさがあります。

しかし、問題を政権打倒と設定すれば問題は簡単です。
反自民票を、複数の野党候補に分散させないように野党で一人だけ立候補を立てればいいのです。
そうすれば、小選挙区制のほとんどが今回は反自民で勝利するでしょう。
その視点で考えれば、野党の選挙協力は効果的な戦略になりますし、政権打倒はそう難しい話ではありません。
要するに、「勝つか負けるか」ですから、問題は簡単です。

政権打倒ではなく、政権交代という視点で考えると問題は複雑になります。
勝敗という二元論ではなく、どのような政権という、もう一つの構造要素が入ってきます。
つまり二次元問題ではなく多次元問題になるわけです。
よく勘違いされるのですが、交代とは「交代した後の実体」に意味があります。
「打倒」は目的概念ですが、「交代」は手段概念です。
たとえば「構想改革」も手段概念であり、みんな「改革」とはよくなることだと考えがちですが、大切なのは「誰にとって良くなるか」です。
小泉構造改革は金持ちと官僚とアメリカ資本にはよくなったでしょうが、多くの貧しい国民には悪くなりました。
つまり、改革や交代は両刃の剣なのです。
大切なのは「交代」ではなく、交代後の政権の「政策理念」なのです。
自民党から民主党に政権交代しても、共産党にとってはほとんど意味のないことです。
ですから選挙協力というのは難しくなります。

国民のほとんどは、しかし「政権交代」を目的概念化しています。
それほど自民党政権がひどいものになってしまっているという事実がそうさせているのかもしれませんが、「交代」の仕方もきちんと考えなければいけません。
そろそろ私たちも「交代」や「改革」という言葉だけで発想することから抜け出ないといけないように思います。

■財源論争とばらまき論争(2009年7月28日)
民主党のマニフェストが公表され、それがテレビなどで取り上げられだしています。
しかし相変わらず、その内容ではなく、財源が話題の中心になりがちです。
財源などは瑣末な問題だと考える私には、そうした状況に苛立ちを感じます。

麻生首相は「民主党は財源も説得力を欠くし、まるで打ち出の小づちがあるかのような表現になっている」と批判し、河村官房長官は「定額給付金の上を行くばらまき政策だ」と指摘したそうです。
笑い話のような気がしますが、それは自分たちのことだろうと思えてなりません。
2兆円の定額給付金の財源はどこから出たのでしょうか。
政策を重点化することとばらまきは意味合いが全く違います。

民主党の財源はかなり明確に示されていますが、識者も含めて、それが気に入らないようです。
17兆円程度の財源は、私は無駄の削減で簡単に出てくる額と思いますが、みんなよほど増税にもっていきたいようです。
日本の国民も豊かになったものだと私は思いますが、私のようにつつましく生きている者には、行政の無駄遣いは目にあまります。
身近な我孫子市の無駄遣いも、私には結構気になりますが、千葉県になれば、桁がまた一桁上がります。
国なれば2桁も3桁も上がるでしょう。

行政の費用の実態がもっとみんなに見えるようになったら、17兆円などは簡単に削減できる金額だとみんな思うはずです。
庶民の感覚とは桁が3つも4つも違うのですから。

それに前回の補正予算も、元官僚がテレビで「おおむね半分は無駄だ」と語っていましたが、半分どころかほとんどが無駄のように思います。
私の周りでも腹立たしいほど無駄な助成金プログラムの話が聞こえてきますし、それを取り込もうと動いている知人も少なくありません。
しかもその部分はほんの一部で、大部分は既得権の流れの中で消えていっているという話もあります。
新聞記者たちは多分知っていると思いますが、記事にはできないのでしょう。
なにしろ、麻生首相の道楽で、国民の多くが望んでいなかった給付金で2兆数百億円を無駄遣いできるほど、日本の政府は潤沢な財源を持っているのです。
それを思い出さないといけません。
財源は、政策論議の次に議論すべき課題です。
入りをもって出るを制する政治は、もうとうの昔に終わったのです。
それを知りながら、ことさら財源論に目を向けさせる真意にこそ、問題があるのです。

■建設的野党―競争から共創へ(2009年7月29日)
この時評編の基本的な視点の一つは、「競争から共創へ」です。
たとえば、「将来に信頼を持てない働き方でいいのか」で書いたように、競争原理の社会から共創原理の社会に変わっていけば、ずっと住みやすい社会になるでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/07/post_a492.html
しかし、ほとんどの人は「競争原理」は人間の本性と考えているようです。
そんなことはないと言い切る生物学者がいないのが、私には不思議です。
生命の本質は「競争」ではなく「共創」でなければ、こんなに長く生命は持続できなかったと思うのですが。
しかし、ダーウィンの淘汰説に惑わされて、弱肉強食や自然淘汰といった意味のない言葉(この言葉は単なるトートロジーで学問的価値のある言葉ではないはずです)に惑わされているわけです。
私は中学生の頃から、この概念は全く理解できませんでした。

なぜこんなことを書いたかといえば、民主党のマニフェストが手厳しく批判されているからです。
批判ではなく、そこから評価すべき点を学びあうことが大切ですが、競争の政治においては、相手をけなすことに勢力が向けられます。
前に書いたように、相手を批判することのほとんどは、自らの自己批判でしかないのです。
麻生首相や細田幹事長の民主党批判は、よく聞いていると自分のことを言っているのがよくわかります。
まあみんな自分のことは見えないもので、相手の中に自分を見出して批判するわけですから、ほとんどの場合が自己反省なのです。

相手をけなすよりも、一緒になって新しい価値を創りだすという、共創の政治に移るのはいつになるのでしょうか。
相手の政党の政策の良い所を認め合う姿勢がなければ、共創の政治は始まりません。
と思っていたら、日本共産党が「建設的野党」と言い出しました。
これに対しても評価はさまざまですが、私は「共創の政治」への希望を感じます。
競争に明け暮れる政治ではなく、共創に取り組む政治に移らなければ、事態は何も変わらないでしょう。

■人はなぜ集まるのか(2009年7月30日)
昨日、支え合いをテーマにして続けているサロンをやりました。
ある程度のテーマを決めて、予め頼んだ人に最初に話題提供をしてもらいますが、あとは自由に話し合うだけの、気楽なサロンです。
会費も500円もとられてしまいます。
まあ、払える人だけでいいのですが、忘れてしまう人は別にして、みんな払ってくれます。
なかにはビールまで持ってくる人もいます。
昨日は15人も集まりました。

私はサロンが好きですから、この20年、こういう集まりをいろいろやっていますが、時々、ふと思うことがあります。
みんなどうして集まってくるのだろうか、と。

まあ、こんなことを言うと、実も蓋もなくなってしまいますが、これが私の昔からの疑問です。
一時期、サロンをやめていた時期がありますが、いろんな人から再開の希望が伝わってきました。
なぜ人は集まりたがるのか、いや、集まるのか。

ホスト役の私も、時々、思うことがあります。
なんでこんなサロンをわざわざ開くのだろうか、と。
準備もそれなりにしないといけませんし、一応、ホスト役だと気遣いもあります。
果たしてどういう意味があるのかなと思うこともあります。
もうやりたくないなと思うこともしばしばですが、気がついてみると、またサロンを呼びかけているのです。
意味もなく集まって、意味もなく話すのが、もしかしたら人の習性かもしれません。

今日はこれから福井まで、まあサロンの延長ではないかとも思われる集まりに出かけます。
しかも、夜行の自動車で行くのです。
この歳で夜行の自動車は疲れるのでやめたほうがいいとみんなから言われましたが、明日、新幹線で一人で行くよりは、同行者がいるほうが楽しいかなと、ついつい思ってしまったのです。
しかし、同行者は、このブログの読者であれば、知る人ぞ知るミスターdaxです。
彼の運転で行くのです。
福井に辿りつくかどうか心配です。
天気もあまりよくありません。

私は自分の運転でない自動車の長旅は好きではありません。
自分の生命を預けることになるからです。
私自身、運転をやめてから10年以上たちますが、自分の生命を預ける他者の運転の自動車の長旅は好きではありません。
例外は女房と娘で、彼らであれば、自分の生命を預けても何の不安はありません。
今回は、生まれて初めての例外です。
しかし、初めて生命を預けるのがミスターdaxとは、これまた奇妙な話です。
付き合いも長いわけではありません。
なぜミスターdaxの誘いを受けたのか、自分でもわかりません。
わかっているのは、結局は、1人より2人、2人より大勢のほうが楽しい、ということだけです。
ミスターdaxとの旅は楽しいでしょうか。
もしかしたら、これでこのブログは最後かもしれません。
長いこと読んでいただき、ありがとうございました。
このブログが今日で終わっていたら、それはミスターdaxの責任です。
いやはや遺書めいてきましたね。
困ったものです。
そろそろ出かけます。

■今年は手賀沼花火大会がありません(2009年8月1日)
毎年、8月の第一土曜日は、私が住んでいる我孫子の手賀沼の花火でした。
手賀沼に面した我孫子市と柏市とが一緒に花火を競い合うようにあげるのです。
ところが今年は財政事情から中止になってしまいました。

先日、「入りをもって出るを制する政治は終わった」と書きました。
以前、最近の政府は「出るをもって入るを制する」発想になっている、と書いたことを思い出しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_ce34.html
誤解されそうなので、花火大会中止の例で補足しておこうと思います。

「出るをもって入るを制する」で指摘したのは、予算が足りなくなったら借金もしくは増税をするという政府の姿勢を批判したものですが、「入りをもって出るを制する政治は終わった」で指摘したのは、「運営」発想から「経営」発想への転換の必要性です。
運営は与えられた予算を消費してある課題に対応することです。
これまでの行政のやりかたです。
それに対して経営は、資金調達を含めて必要な課題に対応することです。
資金調達と課題対応(事業)がつながっている点が、運営とは違います。

花火大会はどうでしょうか。
行政予算がなくなったから花火を辞めるというのは「運営」発想です。
経営発想ではどうするか。
花火を継続することを住民が望んでいるかどうかを評価し、もし望んでいるのであれば、住民にも声をかけて継続の方策を考えるということです。
平たく言えば、住民や見物客にも資金負担をしてもらうということです。
近くの松戸市では、住民たちが資金負担も行いながら、住民たちみんなの花火大会になっていると、先週わが家に来た人が話していましたが、それが私の考える「共創型まちづくり」です。
お金がなければみんなで知恵を出し合えば良いのです。
みんなで知恵を出し合えば、お金の問題は克服できることが少なくないでしょう。

「入りをもって出るを制する政治は終わった」というのは、そういう意味で書きました。
国政における財源問題にも同じことが言えます。
政策が価値があるのであれば、財源問題はいかようにも解決できるはずです。
なぜならば政策の優先順位の問題だからです。
それを二の次にして、財源に関心を向けさせるのは、これまでの既得権を守ろうとする政治家の発想でしかありません。

■日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか(2009年8月3日)
今日から裁判員裁判が始まりました。
日本の裁判制度が魂を売った日になるだろうと思いますが、本当にこんな制度が実行されるとは驚きです。
この制度は数年で終わるだろうと法曹界の友人が話していましたが、そうはならないでしょう。
裁判制度の方向は、建前とは反対に国民不在の方向へ振り子を振ったのですから。

私がなぜそう思うかは極めて簡単です。
これまでの行政の得意芸だった「住民参加」思想と同じからです。
住民参加もアリバイ工作だったように、この制度も明らかにアリバイ工作です。

裁判員制度が適用されるのは、第一審の地方裁判所での裁判です。
多くの刑事事件は上告されます。
上告審では裁判員制度は採用されません。
つまり第一審でどんな判決が出ようがいかようにも変えられます。
つまり裁判員制度はアリバイ工作の制度でしかないのです。

もし本当に国民の参画を目指すのであれば、最終審に国民を参加させなければ意味がありません。
専門家による判決が、国民常識から見ておかしいかどうかを、「常識を持った生活者」の多様な目で吟味するのであれば、それなりの意味があるでしょう。
この一事をもってしても、裁判員制度の無意味さがわかるはずです。

今日のテレビの報道を見ていると、相変わらず瑣末な手続き論ばかり報道されています。
唯一つ、裁判員の最終決定するくじ引きが、当事者の前ではないところで行われたということが、私には印象に残りました。
それが事実であれば、実に象徴的な話です。
日本の司法改革の本質とベクトルが垣間見えます。

最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」の記事を思い出しました。 l
日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか。
それとも、郵政民営化のように、5年後にはまともな議論が始まるのでしょうか。

■緊張感の不在(2009年8月4日)
選挙に向けて、もう少し政策論争が賑やかになるかと思っていたのに、どうも盛り上がりません。
これほど緊張感のない政治状況は珍しいように思います。
既に自民党は政党の体を成しておらず、政府も死に体になっているので、選挙といっても気がでてこないのでしょうか。
結果は、ある意味ではもう明白です。
自民党がまだ解体しないのが不思議ですが、みんな「ゆでがえる」のような状況におといっているのでしょう。
自民党の議員がこれほど、世間音痴になっているとは驚きです。
政策が大切だとか言っていたマスコミも通り一遍の報道で終わっていますが、これはまあ予想通りですが。

自民党は、相変わらず、財源を確保するには経済成長を続けなければいけないといっています。
いま求められているのは、これまでのような経済成長を基軸にした政治でいいのかということです。
それは防衛問題にもいえることです。
集団的自衛権やイラク給油法で議論すべきは、その根本にある防衛の基軸に何を置くかです。
政権能力とは現状を肯定することではないのですが、日本のマスコミは不勉強ですから、現状肯定を政権能力と同一視しています。
だれも時代の変わり目であるという現実を受け容れていないのです。

裁判員裁判の報道を見ていて、つくづく、この国は終わったと思います。
時代は大きな変わり目にあると、私は20年前から話し続け、自分の生き方も変えてきました。
しかし、どうやら私の目指していた方向には歴史は行かないようです。
それがこの頃、やっと受け容れられるようになりました。
おそらくみんなもそうなのでしょうね。
馬鹿げていると思っていても、それに抗うことはもっと馬鹿げていることを知っているのでしょう。
時代に流されていれば、まあ楽にいける時代でもあるのですから。

だからといって、私自身は自分の生き方を変えるつもりはありません。
納得できる人生を送りたいからです。
私を支えてくれていた伴侶がいない今、ますます私には生きにくい時代が来そうです。

■「自殺予防対策」という言葉になじめません(2009年8月5日)
先週、福井で、自殺を試みたことのある人たちの集まりに参加しました。
テレビでもよく報道されている東尋坊の茂さんたちに出合い、思いとどまった人たちが中心でしたが、南紀白浜の三段壁や青木が原樹林で自殺を考えた人も参加していました。
こうした集まりは、たぶん、初めての試みだと思いますが、どういう展開になるか、正直、少し不安はありました。
最初は、私自身のなかに少し「自殺を試みたことのある人」という特別視する意識があったのですが、時間が経つにつれて、一緒の仲間と実感できるようになりました。
そのせいか、実に気持ちの良い2日間を過ごさせてもらいました。

ところで、私は「自殺予防対策」という言葉にどうしてもなじめません。
自殺を対象化し、目的概念にしているからです。
もちろんそうした取り組みが大切であり、功を奏していることも理解していますし、そうした活動をこれまでもささやかに支援してきました。
しかし、「自殺予防対策」という言葉の意味がうまく理解できないのです。
否定しているとかそういうことではなく、ただ理解できないでいるということです。

私の関心は、「自殺」ではなく「だれもが気持ちよく暮らせる社会」です。
「だれもが気持ちよく暮らせる社会」では、自殺は起こらないような気がします。
「自殺のない社会」とはどんな社会だろうか。
そうした社会での生き方はどんなものだろうか。
それが私の関心事であり、それを目指した活動に長年取り組んでいます。
そうした活動の流れの中で、4月に「自殺のない社会づくりネットワーク」を仲間と一緒に立ち上げました。
それに関しては、何回かここでも書いてきました。

「自殺のない社会」での生き方は、そう難しいことではありません。
今回の集まりでも改めて確信を得たのですが、隣の人と仲良くしようということです。
それができれば、気持ちよく暮らせるはずです。
なぜそれが難しくなっているのか。
たまたまいま話題になっている裁判員裁判の事件も、「隣人殺人事件」です。
なぜ隣人を殺めてしまうようになってしまったのか、
みんな(犯人だけではありません)の生き方のどこかに、問題があるのです。

政府は今、100億円以上の予算を自殺予防活動に助成しようとしています。
しかしなかなか効果的な対策は見えてこないようです。
先週の集まりで、みんなの話を聴いていて、この人たちが中心になってその資金の活用を考えたら、きっと効果的な仕組みをつくるだろうなと思いました。
みんなでシンクタンクをつくろう、と提案したかったほどですが、まあそういう仕組みを作ると、また「識者」や「業者」が集まってきてしまうので、失敗するでしょう。
世の中をおかしくしているのは、「識者」や「業者」かもしれません。

この集まりの後、敦賀の小さな集落で3日過ごしました。
いつもながら、集落の人たちの支え合う関係にとても幸せな気分になりました。

自殺は今年も3万人を越えるでしょう。
実際には、統計には現れない自殺も少なくないはずです。
それはおそらく「病んでいる社会」の一つの現れです。
社会が病んでいるのは、私たちの生き方が病んでいるからです。
だとすれば、私にも出来ることはいろいろとあるはずです。
そして、みなさんにも。

■つながりを育てる金融、つながりを壊す金融(2009年8月6日)
私に、ライファウゼンの信用組合のことを教えてくれたのは、農林中金の田中文章さんです。
田中さんが渡仏する直前にお会いしたのですが、帰国後、気になりながらも連絡をとらずにいました。
6月の支え合いサロンで農業の話がさかんに出ました。
それで思い切って、田中さんにまた会いに行きました。

どうやら田中さんはフランスの農業金融に引き込まれてしまい、それがライフワークになってしまったようです。
フランスの生活は、田中さんを変えてしまったのかもしれません。
田中さんは、話したいことが山のようにあるようです。
しかも、少しお話を聞いただけでもすごく刺激的な話がどんどん出てきます。
一人で聴きに来たことを悔やみました。
もっと多くの人に聴かせたいと思ったのです。

私は今の日本の農業政策には大きな違和感があります。
10年ほど前に茨城県の美野里町で都市計画マスタープランを策定するお手伝いをしましたが、その時に、農業を基軸に置いた都市計画を目指しました。
当時はまだ「思い」が強いだけで、農業の本質を必ずしも把握していませんでしたから、おそらく住民の人たちにも強くは響かなかったかもしれません。
しかし、政府の方針の間違いだけは確信していました。
自給率の問題は、当時から明確でした。
農業総合研究所の有名人にも会いに行きましたが、残念ながら期待はずれでした。

当時は、農的社会に関心がありました。
ところが、今回、田中さんから農業金融の話を聴いて、金融に関しても農的金融というのがあることに気づきました。
ライファウゼンの信用組合を、やはり学ぶ必要がありそうです。

田中さんと話しながら、いろいろなことに気づかせてもらったような気がします。
消化不足になりそうなので、控え目にして、改めて田中さんの話を聴く会をつくることにしました。
テーマはいろいろありそうですが、「つながりを育てる金融、つながりを壊す金融」というのはどうかと思っています。
私は「金融嫌い」ですが、考え直す必要があるかもしれません。
お金は、人や社会を壊す存在でもありますが、人をつなげ社会を豊かにする存在でもあるのです。
そんな話を、支え合いサロンで話し合える時がくればいいのですが。

田中さんの「フランス農業金融からのヒント」の話を聞きたい方はご連絡ください。
5人集まったら、会を開催します。

■完全にショー化している裁判員裁判(2009年8月6日)
裁判員裁判は、やはり気になります。
これほど「ひどい制度」がさも新しい価値を持っているように報道されていることに恐ろしさを感じます。
裁判が、完全に「ショー」になっています。
裁判員が記者会見をやるなどと言うのは、正気の沙汰ではありません。
それに法曹界関係者のコメントにはあきれてものが言えません。
こういう人たちに、私たちは自らの生命と生活を預けていたのかと愕然とします。

今日、お会いしたアジア女性資料センターの関係者から、「裁判員制度における性犯罪被害者の安全とプライバシーを守るキャンペーン」の活動の話を少しお聞きしました。
すでに気になっていることが実際に起こっているようです。
こうした問題提起をマスコミはきちんと理解しているのでしょうか。

私の友人の弁護士は、裁判員制度は4.5年もすればなくなるよ、と言っていましたが、もしそうであっても、その4,5年のうちに、日本の裁判制度はぼろぼろになりかねません。

ストーカー不安を訴えても警察は誠実に対応してくれない状況はいまなお続いているように思いますが、この国の治安はいささか危うくなっています。

政治がおかしくなっているのではありません。
すべてがおかしくなっている。
そんな気がしてなりません。

■パソコンはただの部品の組み合わせた箱(2009年8月7日)
ノートパソコンのキーボードが一部、動かなくなってしまいました。
キーボードを外して掃除したら直るかもしれないと、パソコン通の坂谷さんが教えてくれました。
坂谷さんは、先月、私のパソコントラブルを解決してくれた恩人です。

坂谷さんに教えてもらって、パソコンのキーボードを取り外してみましたが、今回は残念ながら直りませんでした。
しかし、どうも病み付きになってしまい、今日も2台のノートパソコンのキーボードを外してみました。
パソコンを分解するのは気分がいいものです。
いま使っているメインのパソコンも一度分解してみましたが、万能に思えるパソコンも分解してみれば、何のことはないただの箱でしかありません。
それがわかるだけで、パソコン信仰はなくなります。
これから時々、意味もなく、パソコンを分解したくなりそうです・

パソコンはモジュール化していますから、その構造を知ってしまえば、組み立てや改造もできるのでしょう。
誘惑的な魅力を感じます。
もちろん今の私にはそれは無理ですが、そうやっている人の気持ちが少しわかったような気がします。
そうした魅力に勝てずに、以前はいろんなものを壊してきましたが、パソコンは極めてシンプルな構造なので壊しようがないかもしれません。

まあどうでもいい話なのでが、実はこういう行為にとても大きな意味があるような気がしています。

私たちはいろいろな制度や専門家に関わりながら生活を成り立たせていますが、そうした制度や専門家も要するに中身を知ったらたいしたことはないということを言いたかったのです。
そもそも大昔は、そんな制度もなく、専門家もいませんでした。
百姓的な生活に憧れる私としては、自分でできることは自分でしたいと思っているのです。
それが、昔からのわが家の文化でもありました。
必要なことを市場から調達せずに、自分たちで対応すれば、前にも書いたように経済成長にはつながりません。
ですから、私の生き方は、極端に言えば、反経済成長路線の生き方なのです。

制度もそうです。
制度は、それに関わる人が気持ちよく生きるための仕組みですから、制度に合わせなければいけないなどと発想する必要はありません。
制度をつくる人は、難しい制度をつくりたがりますが、その制度も分解してみたら、わずかなルールで成り立っているのです。
有名なボイドの話を思い出します。
しかし、私たちは多くの場合、複雑さを装う目くらましの制度にがんじがらめにされているような錯覚に陥りがちです。

今回の裁判員裁判は、裁判官も検事も弁護士も、所詮は普通のおじさん、おばさんなのだということを見せてくれた効用はあったのかもしれません。
普通以下ではないかと気づいた人も少なくないでしょうから、その弊害もまた大きいのですが。

時にパソコンを分解するのは、そうした錯覚的人生の呪縛から解き放たれる効果があるように思います。

■芸能界も株式投資の世界も基本から間違っているのではないか(2009年8月8日)
今朝の朝日新聞の朝刊に「ネット投資家、ひっそり株価操作 摘発相次ぐ」という記事が大きく出ていました。
その記事がどうも気になっています。
読んだ方もいるかもしれませんが、リード部分だけ引用させてもらいます。

安く買い、高く売る。株式投資で利益を上げるための基本だが、値動きを予想して買い時・売り時を見極めるのは難しい。こっそり株価を動かせたら――大勢の投資家が参加する株式市場を舞台に、たった1人で上場企業の株価を不正に操作したとされる事件が、証券取引等監視委員会に相次いで摘発された。

どうして気になったかといえば、株価操作はその世界の日常だろうという気がしているからです。
なぜ一人でやっている個人が摘発されるのか。
それに一人で動かせるような仕組みそのものが問題だとどうして思わないのか。
「株価を不正に操作」と書いてありますが、「不正」の基準は何なのだろうか。
こうした疑問が次々と浮かびます。

話はとびますが、酒井法子さん事件です。
芸能界における覚せい剤の使用実態などはもっと広範囲で知られているように思いますが、実際にはあまり問題化してきません。
なぜかといえば、多分、日常化しすぎて、あまり犯罪行為意識がないからではないかと思います。

ゴキブリを1匹見つけたら50匹はいると思えという言葉がありますが、芸能界における覚せい剤使用状況はどんなものでしょうか。
50匹どころではないでしょう。

さて、ネット投資家のほうはどうか。
投資という行為は、本来、株価操作の要素を持っています。
嘘の売買操作はよくないという言葉には反論しにくいのですが、そもそも先買い先売りなどの行為はどこまでが実体につながっているのでしょうか。
そもそも株の売買そのものが、私には嘘の行為にさえ感じます。
あまりに粗雑な議論なので怒られそうですが、株式売買の世界は虚構の世界、つまり嘘の世界とも言えるように思います。
どこまでが不正の株価操作なのかは悩ましい問題です。
投機的な株式投資の世界がある以上、それはなくなるはずがありません。

さて芸能界の覚せい剤事件です。
芸能界の番組と覚せい剤の世界とどこが違うのか。
私にはよくわかりません。
スポーツの世界のドーピングも私にはよくわかりません。
どこまでが許されてどこまでが不正なのか。

何を書いているのかわかってもらえないかもしれませんが、
私が言いたいことは、昨今の芸能界やスポーツ界、そして投資の世界は、いずれもその基本から間違っているということです。
そこに関わっている人たちが悪いのではなくて、その文化が間違っているのではないか。
それが私の考えです。

かなり独善的で、それこそ間違っている考え方なのかもしれませんが。

■株式会社「下請けの底力」(2009年8月9日)
群馬県の中小製造業者らが株式会社「下請の底力」を昨日(2009年8月8日)立ち上げたという記事が朝日新聞に出ていました。
とても共感できます。
新聞によれば、大企業では応えられない、客の「困った」を見つけて新しい仕事を作る事を目指しているそうです。
呼びかけたのは東京でコンサルティング業を営む登内義也さんという人だそうです。
とても共感できますし、きっと成功するでしょう。
現場にこそ本物の力があると考えている私にとっては、とてもうれしい動きです。
30年前に思い描いていた「現場の反乱」が広がっていけば、日本の経済は全く違ったものになるでしょう。
それに現場の経済は、さほどお金は要らないはずです。
せいぜいが数十億でしょうから、みんなで力を集めたら手の届く額でしょう。
数十億といえば、かなり大きな額に思うホームページともいるでしょうが、個人企業である私でも数千万円の借金がありましたし、しっかりと仕事をしていれば、そしておかしなところから借りなければ返却可能な額なのです。
まあ10年はかかりますが、そのこと自体が仕事の進め方を誠実にしていくというメリットもあります。

仕事での協力だけでなく、資金的にもかつての無尽講のようなものを復活させていけば、おかしなファンドや金融機関からも自立できるでしょう。
それに無尽講のつながりは、単にお金だけのつながりではなく、支えあう関係を必ず生み出すはずです。
そこでは「お金」の意味は一変します。

社会や経済が壊れだすと、必ずその一方で新しい動きが起こります。
そうした中から、どれが私たちにとって豊かな未来を生み出してくれるのか、しっかりと判断する目を持たなければいけません。
株式会社「下請けの底力」には、たくさんのヒントが含まれています。
私たちにもできることを教えてくれているように思います。

■休日の都心での白昼夢(2009年8月9日)
今日は日曜日です。
午後からNPO関係の打ち合わせがあるので、湯島のオフィスに出てきました。
地下鉄の駅を降りて表に出ると人の気配が全くなく、いつもとは違った風景です。
「アイ アム レジェンド」という、地球に最後に生き残った男の映画がありましたが、まさにあんな風景です。
休日にオフィスに出てくることは時々なのですが、今日は暑いのと夏休みなのでとりわけ人気がないのかもしれません。

とても不思議な気分です。
大通りに自動車も通っていないのです。
もちろんいつもは開いている店も閉じています。
こんな雰囲気は初めてです。

歩いているうちに、人が向こうからやってきました。
いつもは閉まっているシャッターの閉まったお店までから、たぶんお店をやっていないような高齢な方まで出てきました。
この廃屋にまだ人が住んでいたのかと思いました。
しかも事務所に近づいたらいろんな人に出会いました。
ちょっと安堵しましたが、少し残念でした。

私が地球最後の男になれたら、いろんなことができたのになと思ったわけです。
やりたいことは、それなりにあるのです。はい。

まあ誰にも合わなかったのはたぶん1分ほどでしょうが、私にはとても新鮮な、そして長い時間でした。
まあ、しかし、それだけの話です。
読んでいただくほどのことではないのですが、暇にあかして書いてしまいました。
ちょっと早目にオフィスに着いてしまったものですから。
そろそろ集まりのメンバーがやってきそうな時間になりました。
まだ誰も来ません。遅いですね。
そういえば、今もオフィスの外の音がしませんね。
やはり地球は滅んでしまったのでしょうか。
そういえば、オフィスのビルに入る時にすれ違った2人づれは見たこともなく、宇宙人とも思える風貌でした。
いやはや。

疲れているので、冷蔵庫にあるリポビタンゴールドを飲むことにします。
暑さのせいでちょっと思考の配線がずれてしまっているのかもしれません。
困ったものです。

■政党マニフェストの採点という愚行もしくは犯罪(2009年8月10日)
政党マニフェストに関する採点が新聞の1面に取り上げられています。
マニフェストの採点?
私には信じられない愚行です。
点数主義で育ってきた優等生たちの考えることでしょうが、愚考どころか危険な要素を内在しています。
すべてを合計点や平均点で考える生き方をしている人の発想ですが、合計点や平均点で考えることの危険性を私たちはいろいろと体験してきているはずです。

個別問題に関しても採点は大きな危険性を持っています。
採点において重要なのは、採点基準、つまり採点者の価値基準です。
それが違えば、当然、採点結果は違ってきます。
それを示さずに採点結果だけを示すのは、一種の詐欺行為ではないかと思います。
採点結果は中立的な定量的な数字になってしまいますから、そこで高得点が良いイメージをつくりだすことは否定できません。
質的な多様性が単一の量に転換されてしまうわけです。

しかも、そうした個別問題の採点を合計してしまうとどうなるのか。
合計点の持つ意味が、私には全くといっていいほど理解できません。
ただ一ついえることは、マニフェストを採点するということは、採点者自身の価値基準や行動姿勢を露呈することであり、実は自らの評価をしているということです。
私は、政党マニフェストの採点(評価ではありません)をしている団体はまともな団体ではないと思いますが(要するに権力に寄生する御用団体です)、残念ながら、そうした団体の「不誠実な」(悪意を伴っているとさえ私は思いますが)採点が深層心理的に選挙に影響を与えるとしたら、それは大きな問題ではないかと思います。

マニフェストを評価するとは、採点することではなく、その整合性を解説し、実現可能性を検討し、政策としての意味、とくに政党間のマニフェストの違いを解明することではないかと思います。

それにしても、なんでマニフェストなどという言葉が使われるのか、胡散臭さを感じます。
多岐にわたる政策が具体的に書き連ねることは、その党の政策理念を見えにくくするだけの話です。
サブプライムローン問題が明らかにしたように、担保証券の仕組みによって問題を見えなくしてしまうような金融工学者たちの犯罪的行為と同じものを、私は最近の政治工学者たちに感じてしまうのですが、これは杞憂なのでしょうか。

■ノリピーの虚像と実像(2009年8月11日)
ノリピーこと酒井法子逮捕によって、次第に明らかになりつつある「ノリピーの現実の姿」は、あまりにもイメージと違います。
しかし、テレビでも報道されだしていますが、その実像は周辺には知られていたようです。
清純なイメージは、完全に演出された虚像だったわけで、そうでない酒井法子を知っていた人も少なくなかったということです。
こうした世間的につくられた虚像と実際の生活での実像の違いは、多かれ少なかれだれでもあります。
その違いを増幅させ、両者を乖離させていくのが、マスメディアであり、タレントビジネスです。
ここでいう「タレント」とは広義のタレントで、有名な政治家や財界人、学者や文化人もさします。

私も完全に騙されていました。
事件が起こった時に、むすめたちに自殺するんじゃないかなどと、自分の無知をさらけ出していました。
しかしおそらく関係者はみんなノリピーの実像を知っていたのでしょう。
事件に関して、あるベテランタレントが、アイドルは包装紙で包まれているが、その包装紙が破れただけのこと、と話していましたが、おそらく関係者知っていたのでしょう。
ただ知らないふりをしていなければいけなかったわけです。

多くの人にとっては、実像などはどうでもいいのかもしれません。
大切なのはつくられた虚像のほうで、みんなその虚像と付き合っているわけです。
それが「大人の世界」なのかもしれません。
そこでは実像などはどうでもいいことです。

ノリピーほど極端ではないとしても、私たちはそうした「建前」で生きているのです。
仮面(ペルソナ)がいつの間にか実体になってしまうことさえあります。
しかし、仮面で生きることは、なぜか社会は許しません。

医師免許も持たずに、医療行為して、多くの病人を救ったにも関わらず逮捕された人もいます。
学歴詐称で国会議員を辞めなければいけなくなった人もいます。
資格などに全くの価値を認めない私にとっては、いずれの事例も社会的な損失だと思います。
免許や資格で仕事ができるかと思います。

また話がおかしな方向に逸脱しそうですが、今回の事件で学ぶべきは、看板と実体はかくも無縁だということです。
騙されるのであれば、騙され続けるほうがいいでしょう。
騙すのであれば、騙し続けるほうがいいでしょう。
虚像と実像とは、尺度を変えれば、逆転する概念なのですから。
騙し続ければ、それが現実になることもあるでしょう。

最近、いろいろのことが「暴露」されますが、これこそ「情報社会」の本質なのでしょう。
しかし情報社会における実像とは一体何なのでしょうか。

■先生たちがつくる奨学金制度と新しい無尽講(2009年8月12日)
とても良い話を朝日新聞の夕刊で読みました。
深刻な不況の中、独自の奨学金制度をつくろうと、私立高校の教員が各地で事業団を立ち上げているのだそうです。
すでに北海道や熊本で設立、新潟でも計画が進んでいるといいます。
そして、生徒も加わって募金を集め、早いところは年末から無利子で貸し付けを始める計画だそうです。
大口の寄付を申し出る企業も出てきていると新聞に書かれています。

とてもうれしい動きです。
政治の世界でも奨学金の拡充や学費の無償化などが話題になっていますが、それとは全く違った意味で、私にはとてもうれしい動きです。
何がうれしいか。
問題を一番良く知っている現場のみんなが動き出したということです。
まさに「コモンズの回復」です。
10年以上前に書いた「コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう」がようやく動き出したうれしさなのです。
世界を変えるのは政治ではなく、こうしたコモンズのかぜなのだろうと思います。

何回かここでも書いていますが、保険法の改正により、日本古来の「共済の文化」が壊されてきているなかで、こうした動きが出てきたことに大きな希望を感じます。
日本にはまだ「ケアコミュニティ」の文化がしっかりと残っているようです。

実は私も最近、ささやかな「無尽講」をつくれないかと思い出しています。
幸いに私はお金持ちではありませんので、その必要性を実感できます。
みんなが可能な範囲で、少しずつお金を出し合って、コモンズ基金をつくり、メンバーの誰かが必要な時に無担保で活用できる制度があれば、と思うことがあります。
それを少し考えてみようと思い出しています。
コモンズ通貨(ジョンギ)で構想したこともあるのですが、中途半端に終わってしまい、メンバーには迷惑をかけてしまいましたので、今度はそうならないようにしなければいけません。

まずは周りに呼びかけて、毎月1万円程度を積み立てる無尽からはじめてもいいのですが、最近の私の状況では、集まったお金を使い込んでしまう惧れがありますので、ちょっと躊躇しています。
どなたか使い込む気のない人で、胴元をやってみようという人はいませんか。
関心のある人は、ご連絡ください。
秋には、これをテーマにした「支え合いサロン」も開催する予定です。

■気候が文化をつくるというのは真実ですね(2009年8月13日)
すごい湿度でした。
クーラーのない私の仕事部屋の湿度計は95%を超えていました。
除湿機がほしいです。
とても何かをしようという気にはなりません。
それにこのところ、どうも疲労が蓄積です。

お盆で女房は戻ってきているのですが、これでは彼岸に帰りたくなっているかもしれません。

いろいろと時評したい話題は多いのですが、それどころではありません。
気候が文化をつくるというのは真実ですね。
快適で、季節の変化のある日本で生活する立場で世界を見ていては間違うかもしれません。
そう思い続けた1日でした。

今日は湿度に負けてしまいました。

■障害者虐待防止法に反対する施設団体(2009年8月14日)
福祉実践に関わっているOさんから久しぶりにメールが来ました。
そこに書かれていることが気になりました。
「どうも障害者虐待防止法に対して親の会や施設団体が反対しているようだ」
その人が福祉現場の大先輩から聞いた話だそうです。
Oさんは、「とうとう本性を現してきたなという感じです」と書いています。

Oさんのメールにかかれていたサイトから、日本知的障害者福祉協会が反対を表明していることを知りました。
反対理由の最後にこう書かれています。

「障害をもつということのみで、障害者と差別して、保護しなければならない弱き者として障害者を捉え、安易に法律案を作成したことには納得できません。」

これだけ読むとなかなかわかりにくいですが、いろいろ現場で体験されてきているOさんには、この言葉の意味はすぐわかったのでしょう。
Oさんのメールから少し引用させてもらいます。

過去の福祉現場においては、親や施設や行政がいくらハンディを持つ人達に実力行使をしようとしても、どこかに歯止めとなる人材がいて均衡を保っていたようにも思うのですが、小泉改革以降は社会保障全てがなし崩し的となり施設経営の名の下に次第に障害者を商品化してきたように感じています。

この2つの文章をつないでいただければ、Oさんが懸念する「施設団体の本性」の意味がわかってもらえるかと思います。

20年ほど前に福祉の世界に関わった時には、私は驚きを感じました。
福祉とは金儲けの世界なのかと思ったほどです。
同じことは環境問題に関わった時にも思いました。
ですから、当時、これからは福祉や環境の分野が成長産業の分野だなどと言う経済エコノミストに反発を感じていました。
もちろん今でもそうした輩は少なくありませんが、残念なことです。
いくつかの小論でもそうしたことを書きましたが、最近はそれがさらに露骨になってきたような気がします。

もっとも今回は、そうしたことを書きたいのではありません。
私自身が「障害者虐待防止法」のことをほとんど知らなかったので、もしかしたら知らない人も多いのではないかと思い、書いておこうと思ったこともあるのですが、それ以前に、今時「虐待防止」などということを法律にしなければいけないということに改めて驚きを感じたのです。
情けなくなったというのが正直な気分です。

防止法が検討されるということは、虐待が日常化しているということです。
法律によらなければ虐待を防止できない社会に、自分が住んでいることに気づいたのです。
覚せい剤もたぶんかなり日常化しているのでしょうね。
事ほど左様に、私は今、自分がどんな世界に住んでいるのかあまり知らないのではないかという気がしてきたのです。
幸いにまだ、殺人防止法などというのは聞いたことがありませんが、まもなくできるのでしょうか。
そういえば、そんなニュースも昨日テレビでやっていましたね。
どうやら私は、社会からやはりかなり脱落しているようです。

法律は、その社会の実相を象徴しています。

■靖国をどう考えるか(2009年8月15日)
靖国参拝に対する言動で、その人の発想の視点や方向が見えてきます。
人の考えはさまざまですから、終戦の日に靖国を参拝するかどうかは、他者がとやかく言うべきではないでしょうが、その人の生き方や価値観、あるいは国家間や人間観は明確に出てきます。
国家防衛とか人権に関する百の原論よりも、それは明らかです。

私は、このブログでも何回か書いていますが、国家による英霊思想には共感できませんから、政府の要職にある立場での靖国参拝には違和感があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/08/post_94c0.html
現閣僚では、消費者庁担当の野田大臣だけが靖国を参拝しましたが、消費者庁の理念を素直に反映しているような気がしてしまいました。

選挙があるせいか、今年はあまり話題にはなりませんが、靖国をどう考えるかは、もっとしっかりと議論すべきテーマではないかと思います。
選挙に向けてのマニフェストが賑やかですが、私にはマニフェストの細かな項目を読むよりも、靖国をどう位置づけているかが重要なような気がします。
おそらくそこからそれぞれのテーマに対する政策方針が読み取れるからです。
ただし、いまの政党は靖国との関係でまとまっているわけではありません。
いずれの党にも、靖国参拝賛成派と反対派がいるはずです。
つまり政党を束ねる理念や基準は、そこにはありません。
私は、そこにこそ大きな問題があると思っています。

政界再編成とは、理念体系の見直しでなければいけません。
そうした意味での再編成は、もう少し先になるのかもしれません。
いや、そういう政治は終わってしまったのかもしれなません。
マルチチュードの政治が、それに変わっていくのかもしれません。
そんな予兆も、わずかばかり感じます。

英霊という言葉を鳩山邦夫議員は明言していましたが、その意味を知っているのでしょうか。

■政府に必要な「経営」とは何でしょうか(2009年8月16日)
新報道ステーション2001で、各党の幹事長が討論していました。
政権与党側の幹事長にいろいろと気になる発言が少なくありませんでした。

自民党の細田幹事長は、政権には経営は必要だといっていました。
彼の言う「経営」とはなんなのでしょうか。
まさか奥田さんや御手洗さんが考えているような「金儲け」ではないでしょうが。
経営とは、原理原則をしっかりと持つということです。
単に収支を合わせるというような財務管理の話ではありません。
ビジョンやミッションの話なのです。
最近の政権にそれがないから、いま問題になっているわけですが、その認識が皆無なのが驚きです。

公明党の北側幹事長は、社会保障費がこれから毎年1兆円程度ずつ増えていくことを考えると、消費税増税を考えないなどというのは政治家として失格だといっていました。
「失格」とはきつい発言だと思いますが、社会保障費が毎年増えていくのが当然という発想は、経営とは無縁の発想です。
そうした右肩上がりの発想が政治をだめにしてきたことはいうまでもありません。
福祉国家戦略の限界はもう明らかになってきているように思います。
それに、問題に応じて出費を増やすという発想は、私の嫌いな、経済を成長させるためには市場(顧客)を創造することだという、ドラッカー経営学に通じますが、その時代はもう卒業すべきです。
それに、それは「政治の発想」ではなく「行政の発想」です。

民主党の岡田幹事長の発言はいつもながらしっかりと考えていることがよくわかります。
民主党に限らず、野党の主張はいずれも共感できます。
しかしなぜ野党は連携できないのでしょうか。
部分的な連携は生まれだしていますが、大きな構想に基づく連携はできていません。
いま必要なのは、大きなビジョンでの連携なのです。
野党側の幹事長が中心になって、日本の国のかたちを考えるプロジェクトを起こしたら、きっと良いものができるなと思いました。
そうした動きが出てきてほしいものです。
野党連合にこそ、マルチチュードの時代の新しい息吹がこもっているような気がします。
政権に近い民主党は、岡田さん以外はかなり曇りだしているような気もしますが。

議論の最後に、各党が考える選挙の勝敗ラインの質問が出されました。
愚劣な質問ですが、質問に応えてちまじました答を各党が出したのにも失望しました。
岡田幹事長だけは答えませんでしたが。

かなり独善的なコメントになってしまいました。
8月30日に何が起こるか、期待よりも不安が大きいような気がします。

■核兵器にどう向き合うか(2009年8月16日)
昨夜、NHKの「日本のこれから 核」を、後半だけ見ました。
大きな絶望感と疲労感に襲われてしまいました。
何か書きたいと思うのですが、どうも気力が出てきません。
私にとっては、答えは明確な問題なのに、なぜこれほどまでにややこしい問題になるのか。

時評を書くほどの気力がまだでないのですが、メーリングリストで関連したyou tubeのことがまわってきました。
以前から話題になっているものですが、その時はまあそれが日本の防衛省だと軽く納得してしまっていました。
改めてもう一度見ました。
昨日のNHKの番組では、この映像は流されたのでしょうか。

その映像は、「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・カラキーさんのメッセージビデオです
それによると、「オバマ大統領の核廃絶プラハ演説にもかかわらず、我が国の外務省・防衛省がアメリカの核兵器政策変更に反対している」そうなのです。
「世界で唯一の被爆国である日本の国家機関が核廃絶の動きに「ノー!」と言っているんですから、信じられませんね」と、メールを送ってきた人は書いています。
そして、「みなさんお一人おひとりがさまざまなところに働きかけてください。メディアにお知り合いのある方、記者さんたちに伝えてください」と書かれています。
もちろんメールは「転送・転載お願いします」です。
気力のない私にも、転載くらいは出来るので、急遽、その記事を紹介させてもらいます。
4分の映像です。
ぜひ見てください。
http://www.youtube.com/watch?v=itFI87hixy0

映像でのメッセージの内容は概略以下のとおりです。
「米国は外交政策の基本として『核態勢見直し(NPR)』に入っており、重要な局面を迎えている。米国は9月から10月に新しい核政策を決定しようとしているが、米政府部内、国務総省、国防総省、国家安全保障会議のメンバー、特にアジア専門家の間に、オバマ氏の構想に反対の人たちがいる。その理由は、日本政府の『懸念』で、日本の外務省、防衛省など安保外交政策を担当する官僚が、『米政府は核政策を転換しないように』と訴えている。人類史上初めて核兵器の攻撃を受けた国の政府が核政策の転換に反対するのは皮肉であり、悲劇だ。日本国民はオバマ氏の核廃絶ビジョンを支持する声をあげて欲しい」

ちなみに、昨日のNHKの番組ですが、広島から参加した人が、ともかく一度広島や長崎に来てください。そこで被爆の実態を見てください、と訴えていたのがとても印象的でした。
唯一、私が共感できた言葉です。

■無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいのか
(2009年8月16日)
今日はある集まりに出かけていたのですが、帰宅してパソコンを開いたら、昨夜のNHKの「核兵器」の番組に対する非難のメールがたくさん届いていました。
どうも呆れたのは私だけではなかったようで、いろんなメーリングリストで怒りの声が流れてきます。
私も投稿したいのですが、私自身が何もしていないことの負い目を強く感じているので、投稿できずにいます。
それで、まずはこのブログに私の姿勢を書くことにしました。

私は核武装とか核抑止力とかいう発想を完全に拒否します。
では、もし核攻撃されたらどうするか。
甘んじて攻撃を受けます。
国が滅びるではないかという人がいますが、核攻撃されるような国は滅びても仕方がありません。
誤解されそうな書き方ですが、それが私の信念です。
世界にとって存在の価値がある国であれば、攻撃などされないと思うのです。
もし攻撃されるとしたら、それは価値がないことなのです。
それが私の、すべてにおける考え方の基本です。

もし核攻撃の危険を感じて、それを防止するために核攻撃したらどうなるか。
間違いなく核攻撃は広範囲に影響を与えますから、必ず無垢の生活者を巻き込むことになります。
無垢の生活者を核攻撃の危険にさらす側に、自らを置きたくはありません。
それをするくらいなら、危険にさらされる側に自らを置きたいと思います。
その覚悟がなければ、核廃絶などを口にすべきではないでしょう。
それが私の基本的な考えです。

被爆された人の前で、核武装論を説く人にはわかってもらえないでしょう。
昨日のテレビの討論は、嘔吐すべき内容でした。
いまなお怒りを収められずにいます。

みなさんは、無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいですか。
昨日の参加者にそういってやりたいです。

■政策よりも人物で政治家は選びたい(2009年8月19日)
韓国では、金大中元大統領への追悼ムードでいっぱいだとマスコミが報じています。
それを読んでいて、果たして日本の場合はどうだろうかと思いました。
その訃報を聞いて、国民が嘆き悲しむ政治家がいるだろうかということです。
置かれている状況は違うとはいえ、日本の政治家は国民から敬意を受けていないように思います。
いまいなくなって困る政治家を思いつくでしょうか。
私にはほとんど思い当りません。
これは、政治が成熟化したことを意味するのでしょうか。

価値観が多様化し、政治課題が複雑化してくると、重要になってくるのは全体像ですが、それは機械的論理的なアプローチで解が得られるようなものではありません。
政治学者の佐々木毅さんは最近の著作「政治の精神」で、丸山真男の「政治的統合」概念を基軸にして論じていますが、この概念は一筋縄ではいきそうにもありません。
であればこそ、ますます人間として信頼できる政治家が必要になってきているはずです。

政策で政治家を選ぶというような発想は、時代遅れの発想ではないかと思いますが、世間ではむしろそれこそが新しい発想だといわれています。
私には全く馬鹿げて感じますが、政策で選ぶなどということは、動いている社会を前提に考えれば、論理的にも不可能です。
それは前回の優勢選挙で明らかになったはずです。
郵政民営化の是非で選ばれた政治家たちが、勝手にすべての政策をいじくりまわし、格差社会を加速させ、軍国国家への道を加速させたのです。
その結果、郵政民営化の公約も無残に変質されたのです。
その体験を忘れてはいけません。

政策で選べば、無能な政治家でさえ首相になれるのです。
やはり政治家は人で選ばなければいけません。
若いから、女性だから、新鮮だから、そんなことは政治家の重要な条件にはなりえないのです。

まただんだん本論を外れてきてしまいました。
書きたかったのは、私たちは政治家への敬意を回復すべきであり、そういう人を選挙では選びたいと思ったということです。
政治家が尊敬できないと嘆かないですむように、今回の選挙では、しっかりと「人物」を見極めたいと思います。
その材料がとても少ないのが残念ですが。

■無所属で選挙に立候補した友人(2009年8月20日)
衆議院選挙はおそらく民主党の圧勝になるでしょうが、その選挙にあえて無所属で立候補した友人がいます。
兵庫3区から立候補した黒江けんじさんです。
黒江さんに関しては、CWSコモンズでも書いたことがありますが、いまの医療制度を変えなければいけないと思っている人です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action08.htm#1122
その思いには共感しますが、今回の選挙は民主党に過剰な風が吹いていますので、無所属での立候補は大きなハンディを負うことになるでしょう。
黒江さんが民主党や自民党から立候補したら、私は一切応援はしませんでしたが、そのいずれでもない新たな立場で出るという黒江さんの姿勢に共感して応援することにしたのですが、現実には勝ち目は少ないでしょう。
しかし、黒江さんはもう待ってはいられなかったのでしょう。
黒江さんのような人にはぜひとも当選していただいて、政治の世界に新風を吹き込んでいただきたいですが、なにしろ二大政党制のもとでは難しい話です。
前にも書きましたが、二大政党制は政党間の選挙であって、個人を選ぶ選挙ではないのです。
思いのある個人にはあまりにもハンディの大きい制度なのです。

しかし、黒江さんはめげることなく、明るく立候補しました。
30日までの間、黒江さんは演説を続けているようです。
黒江さんの深い思いが多くの人に届けばと思っています。

ちなみに「無所属」という表示は不思議な表示です。
これはおそらくいまの選挙制度の決まりからのものでしょうが、よく考えてみるとおかしな表現です。
しかし、さらによく考えてみると、自立した主体性を表現している言葉かもしれません。
政党に所属している候補者は、所詮は組織の歯車に過ぎませんが、無所属というのは自分で責任をもって政治に取り組むという姿勢の現われでもあります。
まあなかには、政党名を出せなかったり、出さないほうが得だという、偽無所属もいますから、一概には言えませんが、無所属というのは積極的な意味を持っているような気もします。
そもそも政治家は無所属であるべきでしょう。

もしよかったら黒江さんのホームページを見てください。
こういう人もいるのだと知ってもらえればうれしいです。
そして、もし兵庫3区にお知り合いがいたら、ぜひ黒江さんのことを教えてやってください。
http://www.kuroe-kenji.net

そういえば、サンテレビの明日21日(金)17時30分からのニュースシグナルで、3区立候補者の全員を紹介するそうですので、神戸界隈にお住まいの方は黒江さんの明るい笑顔も見られるでしょう。

■ネット販売の向こうにあるもの(2009年8月21日)
インターネットを使った「ネット通販」が好調だそうです。
この10年、毎年、6〜7%の伸びで、昨年度の通信販売は推計で4兆円を超えたそうです。
とまあ、こういわれても、あまりピンときませんが。

実は最近、私はようやく、ネットで購入することの利便性と効用を知りました。
まず探している商品をみつけることがこれほど簡単だとはしりませんでした。
それもかなり条件を指定できます。
さらに驚いたのは、安いことです。
また消耗品はリサイクル製品がたくさん出回っていることを知りました。
卓上複写機のトナーを探していましたが、古い形式なのでなかなかありませんでした。
ところがネットで探したらすぐ出てきました。
しかもリサイクル品で頼んだら、大型電器店の新品に比べて、半額以下でした。

それに味を占めて、いろいろと調べてみました。
実に面白いです。
かつての消費者が百貨店めぐりをしたり、今の若い女性たちがアウトレットめぐりをしているのとは違うかもしれませんが、いろいろな発見もあります。

もうひとつわかったのは、さまざまなポイント制があるということです。
これも不思議なのですが、あるサイトを経由すると二重にポイントがつきます。
なにやら三重に付くような気がするものもありますが、だんだん複雑になって、要するに訳がわからなくなってしまいますが、うまく活用したら、メリットは大きいでしょう。
いやそれ以上にたぶんゲーム感覚にはまってしまうのかもしれません。

そういえば、私のホームページにある「コモンズ書店」を経由して本を買うと金額の3%が私の講座に振り込まれるのですが、それはなにも書籍に限らず、要するにアマゾンからであればなんでもが対象になることがわかりました。
残念ながらコモンズ書店はほとんど売り上げはないのですが、それでも時々、ここを経由して書籍やDVD、ゲームなどを購入してくれる人がいます。
その結果、私のところに数十円のマージンが入るわけですが、これは私にとっては「不労所得」です。
こうした「不労所得」がおそらくいろんなところで発生しているのでしょう。
おそらくそれを累計するとかなりの規模になるでしょう。

不労所得を排除していくことで経済は効率的になっていくのではないかと私は思っていたのですが、どうも事実は反対のようで、不労所得を増やしていくことが経済を効率化するのかもしれません。
ここでの問題は、「不労」とはなにか、「効率」とは何か、なのですが、それらは悩ましい問題です。

それにしてもネット販売の広がりは、産業のあり方や流通構造を変えるだけではなく、市場というものをまた変えてしまうような気がします。
少なくとも「売る人」と「買う人」とが別々にいる市場ではなく、それぞれが保有しているものの価値を創発させていくような市場です。
アマゾンは参加者の自宅の書棚を市場のための商品庫にしたと言われていますが、やっとその意味するところが理解できました。
そこからこれからの新しい経済の姿が垣間見える気がしますが、まだそれを見据えることができません。
どうもその市場においては金銭も小売店もいらないような気がするのですが、どうでしょうか。
私的所有という概念もなくなるかもしれません。
私的所有発想がなくなれば、この世界はとても豊かになるでしょう。
何しろ世界そのものすべてが自分のものになるのですから。

■最高裁判事の国民審査に先立って(2009年8月22日)
先日、NHKのBS放送で「ニュールンベルグ裁判」が放映されました。
その関係で、「ヤニング」などという検索ワードで、このブログへのアクセスが増えていました。
この映画は大きなメッセージを出している映画で、多くの人に観てほしいですが、こうした映画が少なくなったように思います。

この映画で、検事と弁護士がやりあう場面で、「裁判官は国家を守るべきか、国民を守るべきか」という議論が出てきます。
国家を守るのも国民を守るのも同じではないかと思う人もいるでしょうが、これは全く正反対の発想です。
ちなみに、このブログの時評編の根底にある考えは、まさにその違いから出ています。
組織起点で発想するか、個人起点で発すするかの違いですが、いま、その社会の構成原理がパラダイム転換しようとしていると考えているのが私です。

8月30日の衆議院選挙に合わせて、最高裁判事の国民審査が行われます。
おそらくほとんどの人は、これに関してはあまりしっかりと考えていないでしょう。
しかし、ある意味では、国民生活から考えれば、こちらの方にこそ大きな意味があるともいえます。
映画「ニュールンベルグ裁判」は、そのことも示唆しています。

審査の対象になる判事の言動は、ほとんどの人は知らないでしょう。
私自身もほとんど知りません。
しかし幸いにそれぞれの判事のこれまでの判決姿勢や発言などを簡単に整理してくれているサイトがあります。
Matimulog―北の国から見る法・裁判・民事、そしてサイバー法というサイトに、「vote:最高裁判事の国民審査下調べ」という記事が出ています。
ぜひお読みください。

今朝の朝日新聞に、今年1月に最高裁判事を辞めた泉徳治さんのインタビュー記事が大きく出ています。
そこで泉さんはこう発言しています。

「日本に『和をもって貴しとなす』という言葉があるように、裁判官の間では伝統的に、自分の個性を出さないで判断するのがよいと考えられてきました。これまでの判例の枠の中で答えを出すことが、法的な安定性、公平性につながるという考えが根強いのです」

ここにまさに、日本の司法の根本理念が感じられます。
その記事でも触れられていますが、裁判官出身の最高裁判事(比率的には一番多い)は、違憲判断することが少ないと指摘されていますが、それは憲法解釈の視座を国家(政府)においているからです。
つまり「勝てば官軍」の精神があるのです。
その精神が法治原則の対極にある考えであることはいうまでもありません。

8月30日の選挙では、国民審査も重視してほしいと思います。
なかには、いつも全員×にしているという人もいますが、それでは全員○と同じ効果しか持ちません。
審査には、それなりの汗をかかなくてはいけません。

■改めて「ニュールンベルク裁判」を観ました(2009年8月23日)
昨日、映画「ニュールンベルク裁判」に言及しましたが、書いたことが気になって確認のために映画を観てしまいました。
3時間の大作ですので、途中でやめたかったのですが、記憶していた以上に現代の日本につながっているようで。結局、最期まで観てしまいました。

この映画を観たのは私が大学生の頃ですが、当時、私は検事を目指していました。
当時私が理想としていた検事像が描かれており、当時を思い出してしまいました。

それはともかく、この映画の中で語られる一言一言がとても示唆に富んでいます。
今の日本がナチスが勢いを持ち出した当時のドイツと同じだとはいいませんが、どこかつながるところを感じますし、司法の本質も感じます。
50年ほど前の映画ですが、機会があったらぜひ観てください。
このブログでもまた取り上げていきたいと考えています。

■地方分権の欺瞞性(2009年8月23日)
選挙を目指しての政治議論が盛んですが、やはり批判合戦が多く、政党代表の議論を聞いていても、虚しさだけが響いてきます。
今回の最大の論点は「政権交代」ですが、タレント政治家の東国原さんと橋下さんの活躍もあって、「地方分権」も大きな論点とされています。
しかし、地方分権がなぜいいのかという議論はあまりありません。
4年前の郵政民営化がなぜいいのかがしっかりと吟味されなかったことと非常に似ています。

私は、現在進められているようなかたちでの地方分権には違和感があります。
そもそもこの10年の地方分権は、団体自治という面での取り組みでしたから、国との関係において、その出先機関である地方自治体(地方行政)の権限をどこまで認めるかと言う発想でした。
これは中央集権体制の改善策でしかありません。

宮崎県知事や大阪府知事が主張しているのは、要するに国と都道府県との権力闘争でしかありません。
そこには、肝心の住民は不在と言っていいでしょう。
知事たちの反乱と住民たちの反乱は、似て非なるものなのです。
大阪の橋下知事は県政に変化を起こしたようにも見えますが、宮崎県の東国原知事はおそらく県政にはマイナスの影響を残すことになりかねません。
おそらく10年後には宮崎県の人たちも気がつくでしょう。

民主党は、地域主権を標榜しています。
ここには住民自治の発想があると期待しますが、全国知事会の要請に迎合するような姿勢にはいささか失望してしまいました。
大切なのは「地方分権」ではなく「地域自治」ではないかと思いますが、自治を標榜する人はあまりいません。
自治を基本にする社会を目指すのか、分権によって統治する社会を目指すのかは、全く違った国の姿や財政制度を求めていくでしょう。
自治を基本とすれば、財政規模はおそらく桁違いに縮減できるはずです。
そうしたパラダイム転換が必要な時期に来ていると思いますが、行政の継続性などという表層的な言葉で、そうした発想は切り捨てられていくことが予想されます。
そうして社会はいつかカタストロフィーを迎えるわけです。

「地方分権」は一つの例です。
今回の個別争点の多くは、もっと言葉を吟味しないと危険です。
なにしろ環境政策とは、時に環境市場化政策であるというのが昨今の日本なのですから。

■原発と二酸化炭素の関係(2009年8月24日)
エントロピー学会というのがあります。
この学会は関心を持った人たちの自発的な会費によって成り立っていますが、目安の会費は年間5000円程度ですので、気楽に入れます。
もし環境問題に関心をおもちであれば、入会されることをお薦めします。

この学会で出している機関誌はとても刺激的です。
7月号では「原子力発電の新局面」が特集されていました。
今日、ようやく読みました。
「原子力の場から見た地球温暖化問題」という京都大学の小出裕章さんの論文が面白かったので、少し紹介させてもらいます。

「原子力は二酸化炭素を出さず、環境にやさしい」と言うのが、おそらく多くの方の認識です。
政府も電力会社もそう言ってきましたが、最近は「原子力は発電時に二酸化炭素を出さない」という言い方に変わったそうです。
そう言い換えざるを得なかったことの意味を、小出さんはデータを示して説明してくれているのですが、併せて、「原子力は発電時に二酸化炭素を出さない」ということにも疑問を示しています。
少し冷静に考えれば、おそらく誰にもわかることでしょうが、私たちはついつい「白か黒か」の議論のなかで、二酸化炭素を出さない原発という呪縛に絡めとられているのかもしれません。

小池さんはまたこうも書いています。

自然は複雑な系で、地球の温度も地球誕生以降大きな変動を繰り返してきた。新生代に入っても、大きな氷河期を4回も経験し、それぞれの氷河期とそれが終わった温暖期の気温には約10度もの違いがあったが、それでも、北極の白熊が絶滅したりはしなかった。

この論文の前にある、藤田祐幸さんの論文も刺激的です。
原発が生み出す電力の特性を整理してくれています。

原発は巨大で繊細なシステムであるため、激しく変動する負荷に追随することが出来ず、運転を開始したら一定の出力を維持しながら運転を続けねばならないという宿命を持っている。このような特性があるため、原発は深夜でも使い続けている電力(ベースロード)をまかない、変動分は火力や水力が担当するという役割の分担がなされている。従って、原発はベースロードを越えるものは、建設しても運転することはできない「はず」である。
しかし、べ−スロードの限界を超えて原発は次々と建設されてきた。

そして、だからこそ、国内のベースロードの電力需要を高める施策が進められているというのです。
見えなかったものが一挙に見えてくる気がします。

いささか説明不足の記事になってしまいましたが、日本のエネルギー政策には何か胡散臭さを感じている私には、実に面白い2つの論文でした。
他にも考えさせられる原発関係の論文が出ています。
よかったらお読みください。
私のような感覚で原発批判をしているのとは違って、説得力があります。

■政権交代の2つの次元(2009年8月25日)
政権交代の意味については、山口二郎さんがとてもわかりやすく整理してくれています。

日本は長年、自民党が唯一の政権政党だったために、本来自発的結社であるはずの自民党と、公的な制度としての政府との間の境界が曖昧になり、官僚も、メディアも、政府というよりも、自民党の意向で動くようになっている。それを改めることが政権交代の意味だというのです。
政府と自民党の、いわば「公私混同」が、さまざまなひずみを起こしているわけです。
山口さんが指摘しているように、官僚は自民党の利益のために行動することが常態となり、警察や検察も、自民党が支配する状態を守るべき秩序と考えるようになります。
たとえば、鶏卵生産者大会事件麻生首相宅拝見ツアー事件、あるいは最近の西松建設による献金事件に関する不公平な立件などに、そうしたことがはっきりと出ています。
テレビを初めとしたマスコミの、自民党への迎合ぶりもつい最近までは見事なほどでした。

政権交代は、自民党から民主党へと政権党へと政権が変わることではなく、私的な自民党から公的な政府へと、政権が変わることを意味するわけです。

しかし、もう一つ大きな政権交代が垣間見えるような気がします。
それは、政治家による政権から世論による政権へということです。
郵政民営化はその先駆的な動きでしたが、国のことを考えていた政治家は郵政民営化に反対していた人も少なくないはずですが、国民世論がそうした政治家を切り捨ててしまい、政治の世界から議論や調整の文化を排除していったのです。
それを煽ったのは一部の政治屋たちと彼らに雇われた「にわか政治家もどき」たちですが、私たちはそれを歓迎してしまったのです。
そして、良識的にいえば、とても乱用などすべきではない、三分の二制度が繰り返し使われてしまい、政治は完全に数の暴力の世界になってしまったわけです。
世論による政治は、一見、国民主役の政治のようでいて、決してそうではありません。
それは両刃の剣のような危険なものなのです。
残念ながら私たちにはまだそれを使いこなせないことは、この数年の政治状況で学べたように思います。

もし仮に、民主党が圧勝し、4年前の郵政民営化のように三分の二以上の議席を得たならば、もう一つの危険な政権交代がかなり定着してしまうかもしれません。
デモクラシーからポピュリズムへの移行であり、政治の経済化がさらに進むことになりかねません。

今回の政権交代は単に政権政党が変わるだけではないわけです。
そこがとても悩ましいわけです。
自民党と民主党は、結局は同じ体質の政党ですから。まあどちらが政権をとろうと国民にとってはたいした問題ではないかもしれませんが、その選挙結果は国民に大きな影響を与えかねません。
社民党や共産党が主張するように、民主党の一人勝ちは避けなければいけませんが、そう思っているとすでに役割を終えた自民党のゾンビ政治家たちが漁夫の利を得るかもしれません。
今度の選挙の投票はしっかりと考えてから投票しなければいけませんが、なかなか難しい選挙であることは間違いありません。

■国会議員定数の削減(2009年8月26日)
今日の朝日新聞の日本財団の笹川会長が、国会議員定数の削減を提言しています。
この問題はあまり大きくは取り上げられていないように思いますが、極めて重要な問題のように思います。
私は反対でも賛成でもありません。
問題はそう単純ではないと思うからです。
削減賛成の人の理由はコスト削減です。
今朝の笹川さんの提言でも、国会に1000億円の予算がかかっているが、まずはその削減からはじめるべきだと書いています。
しかし、そのために議員定数を削減する必然性はありません。
笹川さんの提言は全く論理が成り立っていません。
予算削減するのであれば、定数に手をつける前に、たとえば報酬を半減すればそれで終わりますし、削減可能な関連費用はたくさんあります。
議員宿舎などもその一つです。
問題はお金ではないでしょう。
なぜみんなお金でしか考えられなくなってしまったのでしょうか。

反対論者は少数意見の人が議員になりにくくなるといいます。
議員定数の削減により二大政党以外の人が当選しにくくなるというのです。
たしかにそれは否定できないことです。
少数政党が議員定数に反対している理由はよくわかります。
この理由で、銀定数削減に反対する意見には、私も賛成できます。
でもだからといって、いまのような国会議員の数が必要なのかは疑問です。

第一、猫も杓子も戸は言いませんが、これほど多くの人たちが国会議員になりたいと思う状況にこそ、私は違和感があります。
それほど国家議員職は利得があるのでしょう。
その状況こそがおかしいように思います。
国会議員特権などはとんでもない時代錯誤の制度です。
名古屋市長になった河村さんが首相になれば、きっと見直されるでしょう。
特権を持った人には、代表など出来るはずがありません。

まあそれはそれとして、問題は定数にあるのではありません。
議員制度そのものにあります。
二大政党制とか小選挙区制度と国会議員定数は深くつながっています。
二大政党制度の下では、そして党議拘束や政党公約が支配している状況の中では、国会議員は歯車でしかありませんから、少なくてもよいかもしれません。
そうしたなかで議員定数を削減したらどうなるかは明確です。
少数意見は代表者を持ちえなくなるでしょう。
現状維持が政治の目的であるのであれば、それでも良いかもしれませんが、政治は変化への対応がむしろ目的です。
国会では、多様な意見が交わされる熟議の場であり、創発の場でなければなりません。
そうなると選挙区制度そのものの見直しも必要になるかもしれません。

国会議員定数は、決して財政問題ではありません。
多ければ良いわけではありませんが、少なければ良いわけでもありません。
私たちの生活をきちんと代表する仕組みができているかどうかの問題です。
今の制度が出来ていないことは言うまでもありません。
そこをどう変えるかが問題のような気がします。

■全国学力テストの正解に異議あり(2009年8月27日)
4月に実施された全国学力テストの問題と結果が発表されました。
大阪では小学校の順位が上がったのに中学校の順位が上がらなかったので、橋下知事がまたひどい発言をしていました。
こういう人が日本の教育をだめにしていくのでしょう。
順位が上がることにどれほどの意味があるのか、

それはともかく、テレビで取り上げられた問題がとても気になりました。
NHKも民放も同じ問題(小学校用算数Bの3)を紹介していましたから、出所は文部科学省でしょう。
その問題は正解率が40%でした。
私は最初「正解」を出しましたが、問題を読んでみて、「正解」が正解ではないような気がしてきました。
みなさんはどう思われるでしょうか。
こういう問題です。

よう子さんたちは,港博物館に行くことにしました。
よう子さんたちは,バスに乗って港博物館に行きます。
このバス停には,午前9時40分に集合します。
港博物館までは,バスで20分かかります。
午前10 時20 分までに,港博物館に着くためには,午前何時何分に発車する予定のバスに乗ればよいですか。その時刻をすべて書きましょう。

そしてバスの時刻表が出ています。
時   分
6   10 40
7   10 40
8   10 30 50
9   10 25 45 55
10 10 25 45 55
11 10 30 50

「正解」はみなさんがお考えのように、9時45分と55分だそうです。
私も最初はそう考えました。
でもよく読んでみてください。
集合時間に集まった人たちが一緒にバスに乗るとしたら、という条件はどこにもありません。
もしかして、みんな9時20分に集まってしまったらどうするのでしょうか。
45分まで待っているのでしょうか。
あるいはみんなと一緒にバスに乗りたくないので、早目に行きたいという人はいないでしょうか。
私には条件が不十分だと思います。
多胡さんの「頭の体操」であれば、おそらく正解は9時55分の前のバスならどれでもいいということになるでしょう。
そして、実は正解率が低かったのは、そう答えた人が多かったからなのだそうです。

どう思いますか。
たぶん私が回答者だったら、そう答えて、但し、集合時間以後に限るのであれば、9時45分と55分だけと下にメモして置くでしょう。
わたしは、そういう素直でない子どもでした。
いえ、それこそが素直なことだと思っている子どもでした。
そしてその「良さ」は今もなお少しだけ残していると自負しています。
まあ言い方を変えれば、大人になりきれなかったということですが。

中学校では、答が一つしかないのはおかしいといって怒られました。
大学の政治学の試験には、問題の不適切さを指摘して優をもらいましたが、いまの大学では無理かもしれません。
通信教育では、採点されてきたものを逆採点して送り返して、受講をやめてしまいました。
考えを枠にはめるような教育やテストは断固拒否しなければいけません。

学校の成績と知的水準は別物です。
むしろ逆比例しているかもしれません。
私は、これでも学校の成績は良いほうでしたが、娘からは頭が悪いといわれつづけているので、最近はそうかなと思うこともあります。
この問題の正解率が4割だというのは問題だとテレビはいっていますが、こんな問題を出す文部科学省の官僚が問題なのではないかと思います。
きっと私以上に優等生だったのでしょう。
しかし、あまりにレベルが低すぎます。
いえ、こんなことを指摘する私のレベルが低すぎるのでしょうか。

国旗問題にしろ、最近の学校は活躍できる場がたくさんありそうなので、もう一度子どもになりたいくらいです。
学力テストは大幅に見直すべきです。
無駄どころか弊害が多すぎます。
儲ける人は少なくないでしょうが。

■明日は選挙ですね(2009年8月29日)
明日は衆議院選挙の投票日です。
実は投票する人はもう決まっていたのですが、いささかあやうくなりました。
その人の応援者から電話があったからです。
私は選挙活動期間に電話があった人には原則投票しないことにしています。
さてしかし、今回はその人しか投票したい人はいないので、いささか困っています。

まあ私のような偏屈者はそうはいないでしょうが、選挙前日の電話はしてほしくないです。
この政党は選挙当日にも選挙に行きましたかという電話をかけてくることがあります。
動員ということに生理的な反発を感ずる私は、その政党の主張に共感することが多いのですが、いつもこうした理由でその政党には投票できたことはほとんどありません。
困ったものです。
そんな瑣末なことで投票先を考えるなと言われそうですが、そうした「瑣末なところ」にこそ、本質が現れるというのが私の考えです。

今回の選挙は投票率が高まるといわれています。
しかし何となく気の抜けた選挙になってしまったような気もします。
郵政民営化選挙の時のような勢いがありません。
マスコミは、選挙報道を抑えて、酒井法子覚せい剤事件を報道しています。
おそらく誰かの意図が働いているのでしょうが、異常なほどの報道です。
まるで覚せい剤普及キャンペーンのような気もします。
郵政民営化選挙の時は、マスコミは郵政民営化キャンペーンを張りましたが、そのしっかりした反省も分析もないまま、たまたま話題になった覚せい剤事件に逃げているだけなのかもしれませんが、いかにも無責任なマスコミの姿勢です。
私にとっては、まともな選挙報道番組がないような気がして残念です。

さて明日は誰に投票しましょうか。
これ以上、電話がかかってこないことを祈ります。

■「会話が成立していないことに対する鈍感さ」(2009年8月30日)
タイトルは、このブログも読んでくださっている福岡の西川さんの言葉です。
心しなければいけないという自戒の言葉として、この言葉に出会ってから日に何回かは心の中で反復するようにしていますが、これは情報社会の落とし穴かもしれません。
私だけではなく、多くの人が、その鈍感さに陥っているような気がします。

西川さんがこの言葉を送ってきてくれた契機はちょっとした事件のおかげです。
西川さんをある人に紹介させてもらい、2人の間でメールのやりとりが始まりました。
ところがしばらくして、紹介した人から西川さんからの返信がないのだがという連絡がありました。
西川さんから、その人への返信の一部は私にもCCで入っていたので、そんなはずはないと不思議に思いながらも西川さんに確認したら、メールのやりとりがどうもかみ合っていない気がしているというのです。
調べてみたら、紹介した人のパソコンが、なぜか西川さんからのメールを迷惑メール扱いにして受信排除していたのです。
しかし、お互いにそれに気づかずに、それぞれにメールしていたのです。
海外との交流だったこともあり、お互いにおかしいと思いながらもやり過ごしてしまっていたわけです。

実は、私も同じような体験を最近2回しています。
1回は私が受信排除、1回は相手が受信排除で、トラブルが起こりそうになった体験です。
たしかに、メールは相手に必ず届いているとは限りません。

西川さんはこう書いてきました。

相手からメールが来ます。
私が返信します。
コミュニケーションが成立しているという前提に立っています。
良く考えてみれば、当然、色々な原因で相手に届いていない場合があるのですね。
(中略)
超近代のマシーンで、言語や文字だけで、コミュニケーションが成立していると思い込んでしまうことに、危うさがあるなと思いました。

そして、

そういう意味で、改めて振り返ると、
「会話が成立していないことに対する鈍感さ」を痛感しています。

と書いてきました。

もう30年ほど前になりますが、「非情報化社会論」というのを書いたことがありますが、情報社会はどうやら大きな落とし穴を用意しているようです。
会話が成立していないのに成立していると思い込んでしまうことに注意しなければいけません。

今日は衆議院選挙です。
この選挙でも、多くの人たちが「会話が成立していないことに対する鈍感さ」のなかで悲喜劇を重ねているのかもしれません。
せめて新しくできる政府には、国民との「会話が成立していないことに対する鈍感さ」だけには気をつけてもらいたいと思いますが、あまり期待できないでしょう。
もしかしたら、情報社会とは会話が成立しないことを特徴とする社会なのかもしれません。
この数日、この言葉を反芻しているうちに、何だかそんな気がしてきました。

蛇足ですが、皆さんも一度、迷惑メールボックスを調べてみたらどうでしょうか。
私は毎週、1〜2件、誤って迷惑メール処理されているメールを発見します。
パソコンは、時に恣意的に反逆もするものです。

■衆議院選挙結果への失望(2009年8月31日)
衆議院選挙は民主党の一人勝ちに近い結果になりました。
予想とは同じでしたが、期待とは全く違う結果でした。
これまでの10年の選挙も毎回ほぼすべて期待に反した結果でしたが、今回は一縷の望みを抱いていました。
今朝起きて新聞を見てがっかりしました。

4年前の郵政民営化選挙の二の舞です。
少数野党がいずれも伸び悩みました。
所詮は「自民党」という看板から「民主党」という看板に変わっただけかもしれません。
たしかに官僚や企業との関係は変わるでしょうが、既存の組織やシステムに勝つにはよほどのエネルギーが必要です。
二大政党制という「罠」の中では、システムという支配者には勝ちにくいでしょう。
紆余曲折があるでしょう。
それをまた、マスコミとその雇われ人のコメンテーターが、寄ってたかって餌食にしかねません。
いずれにしろ、この2年が正念場です。
2年もすれば、みんな時の権力に従順になります。
自治体の首長が代わった時によく起きる現象です。

それにしても、もう少し少数野党が伸びるのではないかと思っていました。
あまりにもひどい結果です。
良識を感じさせてくれていた、数少ない政治家まで落選しています。
その一方で、首相経験者およびその息子の自民党議員が当選しています。
肩書きに弱い日本人の本性が感じられますが、政権を勝手に投げ捨てた福田元首相や安倍元首相までもが当選したのには驚きました(恥もなく立候補したことも驚きでしたが)。
そうした地域では、まだまだ民主政治は機能していないとしか思えません。

投票率の低さにも驚きました。
事前調査などでは、9割近い人が投票に行くようなことをいっていた記憶がありますが、嘘をつくのは政治家だけではないようです。

しかし、こうした状況を見ていて感ずるのは、誠実に政治に取り組もうとしている人たちへの、改めての敬意です。
この時評では、政治家に対してかなり辛らつに書いていますが、私が尊敬し感謝している政治家もいます。
私にはとてもできないといつも思っています。
政治家のレベルは、国民のレベルに合っているとよく言われますが、誠実に政治に取り組んでいる人を見ると感謝よりも驚異を感じます。

今回もまた、小沢チルドレンと言われる政治とは縁のなかった人たちが、当選しました。
彼らの新鮮で誠実な目が新しい動きを起こしてくれることを期待したいと思います。
前の小泉チルドレンとは、志と価値観の面でかなり違うと思います。
それくらいにしか期待できることがないのが残念です。

■知床無情(2009年9月1日)
「知床旅情」はとても哀しい歌です。
恐ろしいほどの孤独感を感じます。
この歌とは全く無縁であることは知っていましたが、この歌を聴くたびに知床開拓の失敗を思い出していました。
自然の地を開拓することの厳しさは私にはわかりようがありませんが、30年ほど前にブラジルのサンパウロで日本からの開拓民の方に会って、その厳しさを実感したような気になった体験があります。

「GRAPHICATION」という雑誌で、栂嶺レイさんが寄稿していた「知床:消えた村の記憶を訪ねて」を読みました。
全く知らなかったことが書かれていました。

知床の開拓のために入植が本格的に始まったのは、大正3年だそうです。
その後、昭和20年からは食料・就業対策のため農水省により開拓事業が計画され、入植者はさらに増加。昭和30年には約60戸(200〜300人)が入植していたそうです。
ところが、昭和41年に政策の変更によって開拓は中止され、入植者たちも集団離村したのです。
この記録を読めば、過酷な自然条件の中での開拓の失敗と思いがちです。
事実、知床の観光地にはいまも「開拓は失敗しました」という説明文が立っているそうです。

ところが、栂嶺さんの記事によれば、開拓はとても順調に進んでいたようです。
入植者も希望に燃えていたようですし、そこでの生活はとても希望に満ちたものだったようです。
ではなぜ集団離村したのか。

昭和39年に知床は国立公園に指定されました。そして、高度経済成長に向けて、全国各地で離農が促され、国の開拓事業を終結させようとしていた、と栂嶺さんは当時の時代背景を書いていますが、それに併せて、入植者だった人の言葉を紹介しています。
「役人が来て、離農資金をあげるから開拓は終わりにしましょうと言ったんだ」。

栂嶺さんはこう続けています。

開拓の終焉はあくまで政策だった。しかしまるで開拓者の取り組みに問題があったかのような風潮の中で、人々は自らの半生を隠し、口を閉ざしてきたのである。

栂嶺さんのブログがあります。
http://blog.goo.ne.jp/reitsugamine/c/a9fb2f70d98c2ada82712f8edf9f950d
ぜひお読みください。
そこに「GRAPHICATION」の入手方法も書かれています。

棄民政策は国家にとってはコラテラル・ダメッジでしかないのかもしれませんが、私たちは最近「棄民」された側で考えることの意味を最近学んできています。
今回の選挙で、薬害肝炎の被害者福田さんが久間さんを破って当選したのは、そうした動きのひとつかもしれません。
戦後の競争原理の広がりの中で、最近の私たちは、決して「困っている人たち」の味方ではありませんでした。
それが少し変わり出したのです。

政治はどこに発想の起点を置くかで全く変わったものになります。
自民党がどこに起点を置いているかは明確です。
では、民主党はどこに起点を置くのでしょうか。
それがまだ必ずしも見えません。

■鳩山政権への期待(2009年9月2日)
政権が変わるというのに、相変わらず多くの人の発想は従来延長型です。
とりわけ新聞の社説の論調がそうです。
骨の髄まで現体制の発想がしみ込んでいるような気がします。
そうでなければこの厳しい競争社会を生き抜けないでしょうから、行き抜いた「勝ち組」の人はみんなそうなのでしょう。
競争社会の持つ、それが宿命です。

いうまでもなく、競争社会はどこかで破綻し、別のパラダイムに移っていきます。
今回の「政権交代」は、その小さな契機になりえるように思いますが、どの程度、パラダイム議論になるかはまだ見えてきません。
しかし、「宇宙人」とさえ言われる鳩山さんは、もしかしたら大きな歴史の転換につなげてくれるかもしれません。
地球人にとって、宇宙人は辺境的存在ですから。
昨日のテレビで、松原民主党議員が、変化という点では鳩山政権の実現はオバマ政権を超えるのではないかと話していましたが、そうであればうれしい話です。
ちなみに、オバマ政権はたいした変化をもたらさないで終わるような気がします。

「近代になると経済発展と社会変動の速度を調整する必要があるということが忘れられてしまった」
これはカール・ポラニーが『大転換』に書いた言葉です。
彼は、経済と社会の関係が逆転したといいます。
つまり社会的諸関係のサブシステムの一つだった経済関係が、市場システムの発展によって
社会的諸関係を飲み込んでしまい、経済が社会を破壊するようになったと言ったのです。
この本が書かれたのは1957年です。
見える人には歴史は見えているのです。
しかし見えない人には事実が終焉を迎える段階になっても、まだ見えないのです。
人は見たくないものは見えないからです。

経済成長だとか仕事づくりのためのダム建設だとかの呪縛から自由になって、社会変動の速度こそを考え直すべき時なのです。
それこそが「分かち合うべきいたみ」ではないかと思います。
そして「分かち合う仕組み」こそ、新しい時代の始まりなのかもしれません。

友愛を説く鳩山さんに期待します。

■脱官僚への期待と危惧(2009年9月3日)
政治の権力構造が変わるとさまざまなことが見えてきます。
とりわけ「本性」が見えてくるような気がします。
この1〜2か月は、そうしたものが見える時期かもしれません。
安定すると見えなくなってしまいますので、しっかりと見ておきたいと思います。

今朝の朝日新聞には、民主党に対する官僚の態度の豹変ぶりが書かれています。
官僚は時の政権の手足ですから、政権には従順で、政権に対立するところには厳しく対処するのが当然だというのが常識かもしれません。
しかしこれもよく考えてみるとおかしな話です。
国民主権を標榜する政府にとっては、官僚が仕えているのは時の政府ではなく国民だとも言えます。
政府は国民を代表するわけですが、民に反する政府が生まれることもあります。
麻生政権は、明らかにそうでした。
そうした時にも官僚は政権に従うべきかどうかは悩ましい話です。

政府とはなんだという話でもあります。
野党は政府の一部なのか、政府に楯突くものかという問題です。
私は野党も広義の政府ではないかと思いますが、これは政治機構をどう考えるかに関わってきます。

政治の機構が反対論を封じ込めるための仕組みであれば、野党は抑圧されるべき存在かもしれません。
しかし、政治の機構とは多様な国民の価値観を活かしていく仕組みであれば、野党も与党も政府を構成する重要な要素ですから、官僚は野党にもきちんと接するべきです。
長年の自民党独裁体制は、そうした文化を壊してしまいました。
政治の機構は大きく変化すべき時期に来ています。

多数派になった民主党は政府をどう考えるか。
これまでの自民党のような、私利私欲だけを考える発想はしてほしくないものです。
「友愛」の理念を大切にして、野党にもしっかりと情報を提供し、私利私欲に堕した官僚を厳しく諌め、政権にさえ不利な情報をも野党議員や国民にしっかりと公開していく姿勢をこれまで以上に大事にしてほしいと思います。
特に、権力に迎合していた検察や警察、法曹界に対して、大きな意味での国のための主体性を育てるようにしていってほしいものです。
私欲のための「愛国心」ではなく、自発的な愛国心を育てることこそ、友愛の精神につながることです。
石原都知事はある意味では憂国の志であり、愛国者ですが、基準を変えれば、反国、亡国の輩であり、国を滅ぼし民に禍をもたらす暴君です。
時に、愛国は亡国と同義語かもしれません。

権力に尾を振るような官僚ではなく、権力に対峙するような官僚を、ぜひ評価し、日本の官僚制度を本来の姿に戻してほしいと思います。
脱官僚が民主党の政策の一つですが、脱官僚は決して官僚否定ではなく、官僚を活かすことと民主党の議員は説明しています。
それを短絡的に報道しているマスコミが、またおかしな風を吹かせなければいいのですが。

今朝の新聞記事によれば、これまで挨拶に来たこともなかった官僚たちが民主党議員に擦り寄ってきているようですが、そうした官僚はすべて排除し、誠実に仕事をしている官僚をこそ、評価し活用してほしいものです。
しかし、こうした記事を読むと、日本の官僚制度はもう壊れているのではないかというような気がしてきます。

■改革するということの意味(2009年9月5日)
鳩山さんの論文や発言が日米関係に亀裂を起こすのではないかということがアメリカの新聞に書かれだしていると日本のマスコミは報じています。
日本のマスコミはそうしたアメリカのマスコミの記事を紹介するだけで、自らの考えは一切報じません。
自分の考えがないのでしょうか。
まるで自民党の日米政策のようです。

問題のきっかけは、NYタイムズ電子版に8月に掲載された論文だそうですが、その中で鳩山さんは日米同盟の重要性を強調しつつ、「冷戦後、日本は米国主導の市場原理主義、グローバリゼーションにさらされ、人間の尊厳が失われている」と主張されているそうです。
このことに関して、異論を唱える人がいるとは私には思えませんが、現実はどうもそうではないようです。
これまでの日米関係から考えれば、波風を立てることが心配なのかもしれません。

群馬県の八ツ場ダムの建設中止に関しても、これまでの投資は無駄だという人も多いです。
私は継続した場合のほうが桁違いに無駄は大きいと思いますが、工事が途中でストップしているのを見るとそれをまた壊すのは偲び難いと思うのが普通の感覚でしょう。
しかし、流れを変えるということは、そういうことなのです。
「無駄」の基準を変えなければいけません。

いまだに自民党の再生を基本に考えている論調が基本ですが、私には全く理解できません。
自民党はもう終わったのですから、自民党を再生させるのではなく、新生自民党を構想すべきです。
自民党をダメにしてきた人たちが自民党を再生しようとしても、できるはずがありません。
自民党再生のチャンスはこれまでも何回もありましたが、だれもそのリスクをとりませんでした。
自民党がこれほど大敗しても、新生自民党を構想する人が出てきません。

変革という言葉は盛んに使われますが、どうも世間の論調はこれまでの延長で発想しているように思えてなりません。
友愛の理念で、ここは思い切り大きな変革に挑戦してほしいものです。
「米国主導の市場原理主義、グローバリゼーションによって、人間の尊厳を失ってしまっている」マスコミや有識者に惑わされないようにしてほしいものです。

それにしても、テレビなどを見ていると、それぞれの本性が見えてきます。
失望の連続です。

■手賀沼が好きな人たち(2009年9月5日)
私が住んでいる近くにある手賀沼は歴史のたくさんある沼です。
行政区で言えば、主に我孫子市と柏市で囲んでいます。
行政区単位にこだわらずに、手賀沼を軸にした発想したら、いろんなことができるはずです。
そんな思いから、SCALE DesignというNPOとコモンズ手賀沼というLLPの立ち上げに関わらせてもらいました。
その仲間でもある松清さんが、手賀沼ガイドボランティアというグループの世話役をやっています。
そのグループが満月を水上で満月をめでながら手賀沼産のうなぎを食べる会を企画しましたので、そこにこの2つのメンバーにも参加してもらうように声をかけました。
今日は満月。先ほどまで、みんなで満月を満喫させてもらってきました。

みんなとてもボランティアを楽しんでいるのがよくわかります。
もしかしたら、NPO法はこうしたボランティア文化を壊してしまっている面もあるのではないかという気がしました。
とてもいい会でした。
もっとも、手賀沼のうなぎは収穫不足で、みんなで少しずつ分かち合って食べましたので、あんまり食べた気がしませんでしたが。
でも湖上に浮かぶ満月は素晴らしかったです。

社会の変革は、国会からではなく、こうしたところから始まっていくのでしょうね。
改めてそう思いました。

■暮らしの変化は私たちを豊かにしているのか(2009年9月6日)
生活の変化がこれほどまでに加速されたのはいつの頃からでしょうか。

今日、テレビの世界遺産の番組で、イギリスのアイアンブリッジ峡谷を紹介していましたが、とても印象的だったのはその住民たちは300年前と同じ暮らしぶりを大事にしているということでした。
アイアンブリッジができたのが230年ほど前ですから、世界初の鉄橋ができたにもかかわらず、生活は変わらなかったのです。
もう一つ感激したのは、お金などなくても豊かに暮らせると住民たちが居酒屋のようなところで歌っていた場面です。
同じ暮らしぶりを続けていれば、さまざまなノウハウが生まれ、お金などほとんどいらなくなるのかもしれません。

この2つはつながっています。
昨日と同じ暮らしを続けていくのでれば、たぶんお金は不要です。
顔見知りの人たちで支えあって暮らしている社会では、おそらくお金はほとんどなくてもいいでしょう。
お金は生活を変えるためには必要でしょうが、生活を変える必要がなければそう必要ではありません。

そう考えていくと、いまの経済は完全に間違っているような気がしてきました。
新しい民主党政権に、経済成長やお金を使う政策(つまり財源が問題になるような政策)を私たちは期待していますが、それでいいのでしょうか。
私はささやかながらまちづくり支援に関わらせていただくことがありますが、お金がなくてもできることはたくさんあります。
むしろ、お金があるためにダメになっている「まちづくり」は少なくありません。
同じことはNPOにも言えます。
資金助成はNPOを育てるように見えて、NPOを壊しているような気もします。

アメリカ主導の金融資本主義のもとで生み出された「通貨」が世界中を飛び回り、社会を市場にしてきているわけですが、その通貨は私たちを豊かにしてくれたでしょうか。
アイアンブリッジ峡谷のまちの人たちの言動をテレビで見ながら、そんなことを考えていました。

お金がないと豊かになれないという思い込みを私たちは捨てなければいけません。
お金から解放されれば、私たちの生き方はきっと豊かになります。
しかし、みんながそうしてしまったら、困る人も出てくるでしょう。
だからそうならないように教育が施されているのかもしれません。
そう考えていくと、経済の本質が見えてくるような気がします。

経済のために私たちが存在するのではなく、私たちの暮らしのために経済は存在するはずですが、果たして今の経済はそうなっているでしょうか。

■庭の沢蟹(2009年9月7日)
このブログに以前何回か沢蟹のことを書いた関係で、今でも「沢蟹」の検索ワードでアクセスしてくれる人がいます。
しかしおそらくそうした人たちに役立つ情報はこれまで全くありませんでした。
なぜなら池に放した途端に、蟹はいなくなるからです。
念のために言えば、我が家の庭の池はとても小さいのですが、周辺はそれなりの草薮になっているので、探しようがないのです。

先日、敦賀の姉夫婦が法事で来てくれたのですが、蟹を持ってきてくれました。
敦賀は越前ガニの産地で、時々、送ってくれるのですが、私は越前ガニよりも沢蟹の方が格段にうれしいのです。
そんなわけで、今回は6匹の蟹が先日、庭の池に放されました。
これまでは未練がましく、水槽に入れてしばらく室内で飼っていましたが、今回はすぐに池に放しました。

その池の通路にある石の下に1匹の蟹が棲みつきだしました。
棲みにくそうなところなので、場所を変えてやりたいのですが、以前、転居させたらどこかに行ってしまったことがあるので、今回はそのままにしています。
さてうまくそこに棲みついてくれるでしょうか。
その場所は、わずかばかり水がたまっている石の下です。
3日もたつのに場所を変えずにいます。

池とその周りには、蟹が身を隠すうとろはたくさんあります。
餌をどうするかが問題ですが、池には金魚やメダカがいますので、まあ小さなビオトープとして循環構造はそれなりにできていると思います。
時々、蟹のえさとして売っていたものを蟹が来そうなところに置いていますが、食べた跡はありません。
ともかく自然がいいような気がしてきました。

他の5匹はその後、再開していませんが、また出会ったら書くようにします。
沢蟹の生態が、今回は少し学べるかもしれません。

■友愛は空疎な理念か(2009年9月9日)
昨日の日経新聞のコラム「大機小機」に、民主党に対して「友愛などと空疎な理念をもてあそばずに」という文章がありました。
おそらく書き手は「お金という空疎な私欲」にうずもれた経済人でしょうが、まだお金の空疎さに気づかない人が財界を仕切っていることにため息がでます。
アメリカではすでに「強欲な」金融人が復活してきているようです。
理念のない手段ほど、空疎なものはありません。

お金がないと生きていけないというみんな思いこんでいますが、お金がなかった時代にも人は生きていました。
名前はともかく、最近のような権力をもたらすような、そして自己増殖するような「お金」が生まれたのは、そう遠い昔ではありません。
そのことを、みんなもっと思い出してほしいものです。

毎月、湯島の私のオフィスでやっている「支え合いサロン」では、支え合う生き方を取り戻すことで、お金の役割を見直すことが時々話題になります。
9月24日には、「結い」をテーマにした話し合いをする予定です。
関心のある方はご連絡ください。

いまの日本の社会に欠けているのは、「友愛の精神」です。
民主党はこの理念を大事にしてほしいと思っています。
もちろん、私も大事にしていますし、実践しています。

■公共的理性パースペクティブに基づく熟議の価値(2009年9月9日)
民主党と社民党、国民新党の連立政権に向けての協議が続いています。
なかなか合意に到達しないことを否定的に報道するマスコミや解説者が多いですが、私はとてもいいことだと思っています。

民主主義の捉え方はいろいろありますが、「決定」に重点を置くか、「討議」に重点を置くかで全く違った民主制度が組み立てられます。
私は、合意形成とか決定にはあまり価値を置きませんので(それらは常に変化しうることが大切だと思っていますので)、当然、後者の考えです。

アマルティア・センはデモクラシーには2つあるといいます。
「公共的投票パースペクティブ」と「公共的理性パースペクティブ」です。
前者は、選挙の実施と多数決による統治・支配としてのデモクラシーであり、後者は、多様な価値観を持つ個人による相互的な公共プロセスと捉えます。
後者を言い換えれば、開かれた討議が公共的判断を育て、決定に向かうということです。
その理想は「無為にして治まる」古代中国の舜の政治です。
これに関しては、佐々木毅さんの「政治の精神」(岩波新書)で語られている「政治的統合」論がとても示唆に富んでいます。
いまの日本の政治状況を見る基準を与えてくれます。
いまの政治状況に関心をお持ちの方にはぜひお薦めしたい本です。

熟議民主主義については書いたこともありますが、民主主義の本質は、異質の価値観を自由闊達に語り合い、お互いに自らの考えを問い直しながら、新しい価値観を創りあげていくことではないかと思います。
意見の相違がなければ、議論する意味もありません。
私が、二大政党制度に反対なのは、こうした民主主義観からです。
二大政党は権力闘争のスタイルであって、討議のスタイルではないからです。
二項対立、二元論、対立構造。
こうしたことから自由にならない限り、デモクラシーの価値は活かせないように思います。

民主党と他の2党とは議員数において全く違いますが、だからこそ討議する価値があります。
そこに数の理論を持ち込んだ途端に、公共的投票パースペクティブ的なデモクラシー、つまり「支配としてのデモクラシー」になってしまいます。

これまで勝ち馬の尻を追いかけていた、マスコミや評論家は、相変わらず公共的投票パースペクティブ論で発想しています。
そこから抜け出ないと未来は見えてこないような気がします。

ちなみに自民党はもう消滅したに等しいと思いますが、まだそこにしがみついている政治家には失望します。
なぜ新たな政党を創りだそうとしないのか。
それもまた公共的投票パースペクティブに乗っ取っているからでしょう。
時代の変わり目に大切なのは、量ではなく質、新しいパラダイムだと思うのですが。
さらに蛇足を追加すれば、民主党も来年には分割されるべきだろうと思います。

■お金は家畜の餌なのか(2009年9月10日)
リーマンショックから1年。
また金融経済学者たちが動き出しているようです。
彼らが変質させた「お金」を元の形に戻していかなければいけません。
もしそれができないのであれば、その「お金」から離脱していくのがいいかもしれません。
私は10年ほど前から、その路線を選び出しています。
心理的には呪縛から解き放されましたが、まだかなりお金のお世話にはなっています。

金融経済学者たちは、お金をどう「変質」させたか。
それに関してはさまざまな議論がなされていますが、一番重要なことは、実体物や人間の労働との「つながり」を切ったことではないかと思います。
その始まりは、金本位制から離脱したニクソンショック(1971年)です。
当時、私は東レという会社にいましたが、その影響を調べるためにアメリカに出張しましたが、まだ問題意識が乏しく、その意味さえ理解できませんでした。
金本位制を捨てた意味がおぼろげながら理解できたのは、会社を辞めて土地投機に関わる人と出会ってからです。

工業は自然を克服し、自然から経済を自由にしました。
しかし、それもまた「環境問題」という手厳しい反発を受けています。
ローマクラブがそのことを警告したのは1972年です。
1970年代は、歴史の岐路が見えてきた時期だったように思いますが、その後の実際の政治や経済の動きはむしろその「見えたもの」を封じ込める方向で動いてきたように思います。

私は、人が生きるとは「働くこと」ではないかと思います。
働くとは社会につながることであり、機会の部品が果たすような作業の意味ではありません。
ましてや、対価としての「お金」をもらうことではありません。
しかし、なぜかみんな「働くこと」でお金をもらうことに喜びを感じます。
女性たちは、家事労働を働くことと実感できなかったのでしょうか、それを捨てて、お金をもらう作業に向かっていきました。
そこでは、「お金」と「働くこと(労働)」が過剰なほどにつながっていました。

つまり、金本位制を離れて自由に作りだすことができるようになった「お金」も、まだ「労働」を通して、「実体」の制約を受けていたのです。
ところが、金融経済学者は労働の対価としてのお金を労働から切り離し、別の世界をつくりだしてしまいました。
すべての制約から自由になったお金は天井のない増殖を始めました。
1995年以来の15年ほどで、世界の金融資産は100兆ドルも増えたといわれます。
おそらく倍増以上の増加です。
ですから年収何百億などという馬鹿げた高給取りが生まれたわけです。
それを促進したのが、いわゆる新自由主義者たちです。

また長くなってしまいましたが、要するにいまや「お金」と「労働」が切り離されようとしているということです。
それはどういうことかといえば、主客が変わるということです。
「お金」を生み出す主役だった労働は、いまや「お金」のためのものになったということです。
高給取りたちは、そのうちに、家畜に餌をばらまくようにお金をばらまきだすでしょう。
すでにベーシック・インカムの議論が広がりだしています。
そこに潜む罠に、私たちは気づかねばいけません。

リーマンショックの意味を私たちはもっとしっかりと総括すべきです。
日本の経済学者は、そうしたことにあまりに無関心なのが気になります。
みんなお金に絡めとられてしまったのでしょうか。

■見えてくるものをしっかりと見て考えましょう(2009年9月13日)
政権が交代することで、これまで見えてこなかったことがいろいろと見えてきました。
そこには驚くようなことも含まれています。
政権交代によってこれからできなくなってしまうことを「駆け込み」でやってしまおうという動きもいろいろと報道されていますが、そこからもこれまで見えていなかったことが見えてきます。
もっとも「見えるか見えないか」は、その人の価値観にもよります。
私が見ていることも、すべての人が見ているわけではありませんし、見えるはずなのに私には見えていないこともたくさんなるでしょう。
しかしこういう時ですから、できるだけ先入観を捨てて、見えてくるものを素直に見ていくことが大切です。
また、問題の渦中にいる人にとっては、あまりに日常的なことなので見えているのに「意識」していないこともたくさんなるでしょう。
新聞やテレビで問題になることにより、問題が意識化されることも少なくないでしょう。
企業不祥事や行政不祥事の多くは、そうではなかったかと思います。
自分が「渦中」にいる問題については、一度、「常識」を捨ててみることも大切です。

たとえば、数日前の朝日新聞にこんな記事がありました。

厚生労働省所管の独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」が、同省OBの天下り先の公益法人「雇用開発協会」に対し、天下りOBらの年収額を決め、事業の委託費から支払うよう指示していたことがわかった。朝日新聞が入手した同機構の作成文書などで判明した。

この記事はトップ記事でした。
ということは、マスコミにとっては「大発見」だったわけです。
しかし、ここで書かれていることは関係者にとっては日常業務だったわけです。
だれも「おかしい」などとは思わなかったでしょう。
いえ、いまでもおそらくおかしいとは思っていないでしょう。
天下りがこれほど大きな問題になっていても、誰も何とも思わなかったわけです。
これは決して他人事ではなく、おそらくほとんどの人が、自らが渦中にいることに関しては、そう大きくは違わないようなことをやっているように思います。

次々と見えてくるものを、素直に見ていくことが、とても大切なような気がします。
多くの国民が選んだ民主党政権を、せめて半年は肯定的に見ていきたいと思います。
民主党や民主党政権は、まだまだ批判の対象となるほどの位置にはたどりついていないような気がします。

■補正予算の未執行分を回収するということ(2009年9月14日)
総額15兆円規模の経済対策を盛り込んだ09年度補正予算のうち、5割を超える8兆3千億円分が「未執行」であることが10日分かった。民主党は補正の一部を新規事業の財源とする方針。党内には地方自治体に渡った資金は「回収が難しい」との声が強まっており、この未執行分の回収を急ぐ。

これは数日前に出た朝日新聞の記事です。
何回読んでも、その意味がわかりません。

まず緊急経済対策だったはずの補正予算がまだ半分も執行されていなかったことの不思議です。
次に、一度、国会で決まったものを回収することの不思議です。
さらに、未執行のものを回収できないという不思議です。

個人の問題に置き換えて考えてみましょう。
@困っている人がいるのでお金を用意したが、半分しか貸さずに様子を見ている。
A貸したものについても、その後、考えが変わったので返してもらうようにした。
Bしかし相手はなかなか返してくれなさそうだ。

@が起こるのは、相手を信用していないか、貸すことが相手のためにならないかのいずれかですが、要は「貸すことの効果」に確信がないということです。
緊急経済対策としての補正予算の本質が見えてきます。

Aは賃貸関係の当事者の権力関係を示しています。
その権力関係は「お金」に支えられています。
個人間の場合はいいのですが、国家政府と地方政府の場合はどうでしょうか。
そもそもそのお金は国民の税金です。
ここに「地方分権」の本質が見えてきます。

Bは国家の本質に関わることです。
国家の場合、返してくれない人に対して強制的に取り立てることができます。
個人間の場合はそれをやると「犯罪」になりますが、国家がやれば犯罪にはなりません。
まさに「国家」の本質が見えてきます。

昨日も書きましたが、いろいろなことが見えてきています。
それに基づいて、いろいろなことを見直していく、とても良い機会なのかもしれません。
もちろん政府の話ではなく、私たちの生き方のことなのですが。

■法事の風景(2009年9月14日)
先週、滋賀の湖北のある妻の実家の法事にいったのですが、そこでとても面白い話を聞きました、
お葬式に声をかけるところは、必ずしも血縁関係にあるところではないのだそうです。
昔からのしきたりだそうで、隣関係と言うわけでもないのです。
お互いになぜ声を掛け合うのか、今ではわからなくなっているところも少なくないようです。
結婚式とはまた違って、法事だけのことなのだそうです。
4つくらいの近在の集落の人たちの話でしたが、いずれも同じようです。
ちなみにみんな浄土真宗です。

私は40年ほど前に妻と結婚してからはじめてその地域の法事に参加しました。
妻の父は早く亡くなったのですが、その葬儀はとても印象的でした。
まだ土葬でしたが、親戚や近隣の人たちが集まり、2〜3日かけての葬儀でした。
雪の日に白装束でお墓まで行列を成して葬送しました。
孫のわが娘が先導役だったような気がします。
ちょうど通りがかった人がさかんに写真を撮っていたのが記憶に残っています。

葬儀の読経が迫力がありました。
10畳の部屋を2つつなげた部屋やその周りの廊下などに集まった人たちが、僧侶と一緒に読経するのです。
私には初めての体験でしたので感動しました。
葬送の後、女性たちがつくった料理が山のように出され、次から次へと酒が出てきました。
下戸の私にとっては辛い宴会が続きました。
亡くなった人のために、それこそトポラッチのように、無駄な消尽が行われていたような気がします。
若い世代の人たちが、もっと無駄をなくして合理化しなければと話していたのも記憶に残っています。

それから何回も法事に出ましたが、年々大きく変化してきています。
土葬から火葬へと変わり、葬送の行列もなくなりました。
料理も次第に仕出し屋のものになってきました。
先日の法事は4時間ほどで終わりました。
消尽する雰囲気はなくなっていました。

変わっていないことが少なくとも一つありました。
みんなご仏前とは別に、品物を参加者分だけ持ち寄るのです。
そして、それをみんなで分け合って持ち帰るのです。
このスタイルは残っていました。

参加者は激減していました。
そこで冒頭の話が出てきたのです。
代替わりを契機に、声を掛け合うことをお互いに自重しだしているようです。
法事でしか付き合うことのないところは、徐々に呼びかけあうことをしなくなっているようです。
たくさんの家に声をかけるということは、たくさんの家の法事に行かなければいけないということです、
そうなれば、年中、法事に出なければいけなくなり、会社に勤めだすとそんなことはできなくなります。
つまり、いまの時代の生活にはあわないわけです。

長々と書いてしまいましたが、いつもとてもいろんなことを考えさせられるのです。
都会での生活と違って、地方にはまだまだ文化があります。

■温室効果ガス25%削減で家計負担36万円増?(2009年9月15日)
温室効果ガス25%削減が話題になっていますが、これによる家計負担が36万円などという数字までが話題になっています。
誰が出した数字でしょうか。
こうした各論的な数字の操作で世論を誘導するのは最も悪質な情報操作です。

温室効果ガスの排出を削減することは、経済成長の質的転換をはかるか、あるいはこれまでのような経済成長路線を見直せば実現できるはずですが、それはおそらく家計負担も軽減することになるだろうと私は思います。
要は、過剰な工業依存をやめるということですから、これまでのような意味での経済成長路線は見直されるべきです。
これまでのやりかたを続けながら、持続可能な社会づくりなどできないのです。
それに気づくかどうかの岐路に、いま私たちはいます。
「環境規制は、技術革新をもたらし、生産性向上にも寄与する」という、ハーバード大学のポーター教授の主張です。
事実、それによって日本の自動車メーカーは世界の勝者になりました。
しかし、技術革新は実現しましたが、経営革新は実現できませんでした。
ポーターが言っているのは、正確には「適切に設計された環境規制こそが産業を進化させる」ということですが、「進化」はできなかったのです。
いえ、その意志がなかったというべきでしょうか。

環境を考えるということは、私たちの生活を見直すということです。
単に産業を見直すことではないはずです。
これまでの産業の枠組みから抜け出ようとせずに、環境問題までをも市場化しようとしている財界人の発想からはとても出てこない発想です。

この時評編でも度々書いていますが、お金基準の生活をやめるだけで、温室ガスは削減できるでしょう。
でもそれでは企業活動は拡大していかないわけです。
しかし、言うまでもなく、企業は生活あってのものです。
生活を壊すようになった企業の経営者たちの意見に惑わされてはいけません。
ましてやその寄生者たちがつくりあげた「36万円負担増」などという無意味な数字に驚かされてはいけません。
みなさんの金銭出資を1割抑えて、自らの汗をかき、あるいは我慢すれば、その目標はそう遠い先のものではないように思います。
それに健康にもいいので、メタボ症候群などというおかしなレッテルもはられないですむかもしれません。

■自らは何ができるかを考えることから社会は変わります(2009年9月16日)
民主党政権が発足しました。
今日は以前から予定を入れないようにしていたので、自宅で過ごすことができました。
それで国会での総理指名投票から鳩山新首相の記者会見までほぼすべての報道をテレビで見ていました。
いろいろと気づくことが少なくありません。
いろいろのことを感じましたが、テレビの前にほぼ4時間半いて最後に到達したのは、「競争」を原理とする社会ではない、「共創」を原理とする社会の可能性です。
もっとも、テレビを見ていて感じたのは、ほとんどの解説者の人たちは「競争」の原理で語っていることです。
「共創」を口にするのは、鳩山さんだけかもしれません。
だからこそ、「共創」を原理とする社会の可能性を感じたのです。

いまの日本の社会はどうみても健全とは言い難いです。
その社会をよくしていくために、それぞれ自らは何ができるかを考えるべきだと、いろいろな人の話を聞きながら、改めて思いました。
ケネディが大統領に就任した時に、「国家に何をしてもらうかではなく、国家に何ができるのかを考えよう」と国民に呼びかけたスピーチを思い出しました。
鳩山さんは、そういう言い方はしていませんが、鳩山さんの言動と表情からはそういうメッセージが聞えてくるような気がします。

もうすでにテレビ人たちは鳩山さんの足を引っ張り出していますが、いま大切なのは、自分に何ができるかを真剣に考えるべきです。
そして行動を起こすことです。

さて私に何が出来るのか。
いま取り組んでいることは本当に意味があることなのか。
政権が交代するのを観察するだけではなく、自らの生き方も見直そうと思います。
そうしなければ、鳩山政権の公約は良いけれど本当にできるのか、などと他人事に批判している人と同じく、結果的に申請件の足を引っ張る存在に成り下がってしまうでしょう。
良いと思ったら、その実現に向けて、自分でもできることを果たさなければいけません。
「できる」と確信することも、必ず実現へのエールになるはずです。

今日の4時間半は、私には決して無駄にはなりませんでした。
さてまた少しがんばりましょう。

■国とは何か(2009年9月18日)
政権交代で八ッ場ダムの建設中止が打ち出されました。
これに対して、地元の人が「私たちの反対を押し切ってダムを作り出した国が、一転して中止するのは勝手過ぎる」と怒りをあらわにしていました。
その気持ちはよくわかります。

そのテレビを観ていて、「国とは何なのか」と思いました。
昨日、自殺のない社会づくりネットワーク準備会の交流会をやりました。
どうしたら自殺を減らせるのかと言う話し合いの中で、「自分たちの活動では限界がある、国に取り組んでもらわないといけない」とある人がいいました。
いつもの悪い癖が出て、「国って何ですか」と口を挟んでしまいました。
そのことを思い出したのです。

国が自殺対策に取り組んでどのくらいたつでしょうか。
その間、自殺は減ったのか。
減っていません。
国が悪いのでしょうか。
そしてそもそも国とは何なのか。

国は、つまるところ私たちそのものではないのか。
主権在民とは。その意識を持つことではないのか。

問題が起こると誰かのせいにするのは人の常ですが、それで問題が解決するわけではありません。
問題の解決はすべてが自分から始まります。
会社員が、問題を会社のせいにするのと、国民が問題を国のせいにするのとは同じ構造です。

沖縄をめぐる密約がないと言明していたのは、国家ではありません。
具体的な名前をもった政治家と官僚です。
国家のせいにして責任を逃れることはできません。
嘘をついたことがもし明確になれば、彼らは断罪されるべきです。
そうしたことがなければ国家の秩序は保たれません。
韓国のように前の大統領に死刑を言い渡すことは極端だとしても、政治に関わるとはそれくらいの覚悟があってしかるべきだと思います。

新政権の閣僚の厳しさにさわやかさを感じます。
それにしても厚生労働省の官僚の態度には笑えました。
悲しい集団です。

■オードリーの「春日」のファンです(2009年9月19日)
オードリーというお笑いコンビがありますが、私はその一人の春日のファンです。
私はあんまりお笑いコンビが好きではないのですが、春日は最初見た時からなんとなくホッとする感じになったのです。
その理由がわかったのは、しばらくたってからです。
春日さんは生まれてこの方、怒ったことがないというのです。
怒りやすい私としては、驚嘆しますが、たぶん「怒ったことのない人生」のなかで育ってきたオーラが、私を引き寄せたのでしょう。

もうひとり、おそらく怒ったことがない人がいることに気づきました。
娘の友人のSMさんです。
この人も怒ったことがないようです。
娘によれば、あまりに「天然」なので怒るということを知らないのだそうです。
しかし、これまた娘によれば、だから周りの人は大変で怒りたくなってしまうのだそうです。
もしそれが事実なら、いうまでもなく怒りたくなる周りの人が悪いです。

天然であるかどうかはともかく、「怒ること」を知らない人というのは凄いです。
そういう人ばかりだと、世界は平和になるでしょうね。
私もこれまで何回か、「怒るのをやめよう」と決意したことがあります。
しかしせいぜい1週間しか続きませんでした。
人間ができていないというか、自信がないというか、ともかく思うようにならないと怒ってしまうのです。
その理由は、後で考えると実に瑣末なことです。
他の人がそんなことで怒っていることをしったら何とまあ未熟な人だと笑いたくなるようなことが原因で怒ってしまっているのです。
春日さんをみて、学ばなければいけません。

そういえば、鳩山新首相ももしかしたら「怒る」ことをあまり知らないのかもしれませんね。
そんなオーラを感じます。
もしそうであれば、私たちはいい人を首相に選んだと思います。

蛇足ですが、オードリーの芸は私にはあんまり面白くありません。
ただ春日から出ているオーラが好きなのです。
ああいう人が近くにいると元気が出るでしょうね。
もっとも娘は、元気が吸い取られているようですが。
テレビで見ているのがいいのかもしれません。

■自民党総裁選での河野太郎の勇気(2009年9月20日)
次々と物事を明確に語りだした民主党閣僚の発言は、政治が大きく変わりだす期待を膨らませます。
最近は新聞を見るのが楽しみになりました。
今日は障害者自立支援法廃止や八ツ場ダム自治体負担金返還などが報道されています。
いずれも明快で、方向にも共感できます。
ようやく日本にも政治が戻ってきた感じです。

その政治がおかしくなってきたのはいつからでしょうか。
私は一挙に曲がりだしたのは、森政権からだと思っています。
小渕さんが急死した後の森政権の成立はとても不明朗でした。
青木幹夫さんと野中広務さんと森さんの密室の談合で成り立ったような印象を持っています。
そこから日本の政治はおかしくなってきました。
その後の政治も、この3人が大きな役割を果たしました。

自民党総裁選での河野さんの発言は、民主党閣僚の発言と同じく、驚きました。
ここでもはっきりと問題を指摘する人が出てきたからです。
昨日の総裁選討論会での河野さんの発言は明快でした。
青木幹夫さんや森さんを名指しで批判し、「あしき体質を引きずっている人はベンチに入れるべきではない」といい、そうした体質を引き継いでのし上がってきた町村さんには「派閥の親分でありながら、小選挙区で当選されず比例代表で上がった方は、比例の議席を次の順番の若い世代に譲って頂きたい」と挑発したそうです。
さらに「町村さんが私の推薦人に電話し、河野太郎の推薦人になるなとやった」と暴露したというのですから、見事というほかありません。
河野さんはすでに離党を決意しているのでしょう。

それにしても、西村さんのような人までも惑わしてしまう自民党の文化はおどろおどろしい気がします。
個人が生き生きとしていない限り、組織の健全性は維持できません。
健全でない組織を維持するためには、お金が基本になります。
それは経済の流れにもつながっていきました。

河野さんの発言は小泉さんを思わせると記事に書かれていましたが、全く違います。
河野さんはリスクをとっていますが、小泉さんは自分ではリスクをとらなかったように思います。
常に自らを「いたみ」の及ばない場に置いていました。
理屈で闘うのは簡単ですが、実名で闘うのはよほどの勇気と信念が必要です。
自民党にも、身を捨てて立ち上がる政治家が戻ってきたように思います。
久しぶりに、ちょっとさわやかな気分になりました。

■メールをやっていないのに名刺にアドレスをかくのは辞めましょう(2009年9月21日)
前にも書いたことがあるような気がしますが、もらった名刺にメールアドレスが書かれているので、メールを出しても、なんの音沙汰もない人がいます。
以前はそういう人が多かったのですが、最近は少なくなってきました。
それでも今もなおそういう人がいます。
一番不快なのは地元の行政の職員にも、そういう人がいることです。
ある人に今年の初めから3回もメールをしましたが、何の連絡もありません。
まあ忙しいのかもしれないと見過ごしていましたが、昨日、久しぶりにテレビに出て、そんな話が出たこともあって、やはりおかしいことは見過ごしてはいけないと思い、当の本人と上司に指摘することにしました。
そのうえ、さらにこのブログにまで書くことにしました。

いろいろのところと接点を持つと、そこの良さと悪さがよく見えてきます。
それを自分だけで留めていいのかどうか、迷うところです。
よく言われるのは良い情報はなかなか伝わらないが、悪い情報は急速に伝わるそうです。

一昨日、地元のグループの集まりをやりました。
ある人が私の近くの行政が絡んでいる産直センターのことで怒りまくっていました。
そして参加者みんなに、そのことを周りの人に教えてほしいというのです。
私もかねてからそのセンターには違和感を持っていましたので、ほとんど使わないのですが、その話を聞いたので今日、立ち寄ってみました。
一昨日聞いた話を立証する証拠はありませんが、さもありなんという感じでした。

こういう身近にある「おかしなこと」を指摘しだしたら身が持ちません。
それに場合によっては、いわゆる「近隣関係」にまで発展しかねません。
どうしたらいいでしょうか。

政治を変えるにはかなりのトラブルを覚悟しなければいけないという人が多いです。
同じように、生活を変えるのもトラブルはつきものです。
それを逃げていては、政権交代についていけないでしょう。
政権交代に期待するのであれば、私たちも言動を見直しましょう。

さて心を鬼にして、メールの返信のない職員にクレームをつけることにしようと思います。
でもまあ、メールは発信してしまうと取り返しが付きません。
友人を失うことにもなりかねませんし、私の評判を落とすことにもなりかねません。
こんな小さなことですらそうですから、民主党閣僚や河野太郎さんの勇気は見上げたものなのです。
彼らに比べると自分の小賢しさが恥ずかしくなります。

でもまあ、メールは明日にしましょう。
気弱な小市民は度し難いものなのです。
いやはや。

■報道の偏りへの自衛、たとえば八ッ場ダム問題(2009年9月21日)
民主党政権発足以来、再びテレビ報道を見るようになったのですが、やはりどうも違和感があります。
政権は変わってもマスコミは変わっておらず、まだ旧来の延長で発想しています。
情報の出所もおそらく同じなのでしょう。

たとえば、八ッ場あしたの会という組織があります。
私の知人も何人か関わっていますが、2006年から活動を続けています。
もし八ッ場ダムの中止に疑問をお持ちの方がいたら、ぜひその会のサイトを読んでください。
「八ッ場ダムについて流されている情報の誤りについて」が、この連休前に掲載されました。

そこでは、次の6つのことがしっかりと説明されています。
○八ッ場ダムを中止した方が高くつくという話の誤り
○八ッ場ダムはすでに7割もできているという話の誤りについて
○八ッ場ダムの暫定水利権がダム中止に伴って失われるという話の誤り
○大渇水到来のために八ッ場ダムが必要だという話の誤り
○八ッ場ダムは利根川の治水対策として重要という話の誤り
○ダム予定地の生活再建と地域の再生について

ここで書かれていることがすべて正しいとは言いませんが、最近のマスコミの報道の偏りはいかにもと言う気がします。
ともかく建設が中止になったら大変だという方向での映像が繰り返し放映されるのは世論の誘導と言われても仕方がありません。
テレビでは、メッセージよりも「絵になる」ものが優先されるのかもしれません。

これはほんの一例です。
たとえば、鳩山首相や民主党に関して、私たちのイメージはどうだったでしょうか。
政権党になり、首相になってからの報道で、イメージはかなり変わったはずです。
つまり、私たちが持っているさまざまな評価は、そのほとんどがマスコミによってつくりだされているのです。
言い換えれば、私たちは「ほんとうは何も知らない」のです。
周りの人の評論を聞いていると、ほとんどがマスコミや有名人の言葉をなぞっているだけです。
自分の考えなどなく、誰かの言葉をなぞっているうちに、それが自分の言葉になってしまっているのです。

もうひとつ、たとえばですが、予算策定に関して、管さんと藤井さんとにそんなにずれがあるでしょうか。
私には全くと言っていいほど感じません。
企業のスタッフを経験した人なら、違和感は全くないはずです。
新政権に対して「悪意」をもっている人が、無理やりつくりだしているように思います。

そろそろ私たちは気づくべきです。
外から届く情報には、すべて発信者の意図があることを。
もちろん、この時評もまさにそのものなのですが。
情報に振り回されないためには、自分の視座と複数からの情報が大切です。

■裁判員制度が好評ですって?(2009年9月22日)
今日は「私憤」をこめて。

19日に朝日ニュースターのテレビ番組での体験なのですが、キャスターのばばさんが「裁判員制度も始まるまでは反対者が多かったのに、始まったら好評ですね、日本人の習性ですね」という話をして、裁判員制度を推進してきた小林元弁護士に話をふりました。
小林さんも、始まる前は半分以上が反対でしたと答えました。
裁判員制度に大反対の私は心中穏やかならずにムッとしていましたが、その話の後、突然にばばさんは私に別の話題で話を向けてきました。
正直、とても不愉快な気分でした。
もちろん、ばばさんも小林さんも私が裁判員制度反対なのを知っているはずです。
裁判員制度が始まる前に、この番組でも私は批判したことがありますし。

まあそれだけの話なので、こんなところに書くつもりはなかったのですが、昨日、八ッ場ダム問題を例にして報道の偏りについて書きましたので、もう一つの例として、裁判員制度を書くことにします。
まあ、いささか「うっぷんばらし」でもあるのですが。

最近の新聞は、裁判員制度を既成事実として肯定し、その普及啓発活動に移っていますが、マスコミの報道しないところでは、「裁判員制度はいらない!大運動」も起こっています。
http://no-saiban-in.org/
各地での抗議運動も始まっていますが、あまりマスコミでは取り上げられないでしょう。
民主党政権になって変化があるかもしれませんが、いまの段階では話題にはされていません。
それにどうも千葉景子法相はいまの裁判員制度に(私が知る限り)反対ではないようです。

マスコミの報道だけで思考しているとばばさんや小林さんのような発想になるのでしょう。
見たいものしか見えなくなるというわけです。
お上に飼いならされることだけは注意しないとまた80年前の繰り返しになりかねません。

■住民とはだれか(2009年9月23日)
八ッ場ダム建設中止に関しては、前原大臣の現地視察にもかかわらす、「住民側が出席しないことになった」と報道されています。
国政に翻弄されてきた住民の怒りはよくわかります。
しかし、ここでちょっと気になるのは、「住民」とはだれなのか、です。

私が「住民参加」に違和感があるのは、だれを選ぶかによって「住民」の実体はどうにでもなるからです。
概念としての住民参加はありますが、現実としての住民参加は多様な意味を持つものであり、実際にはありえないものだと思っているわけです。

ところで、今回の八ッ場ダム問題での「住民」とは誰なのでしょうか、
テレビでは、ともかく住民は建設中止に反対しているといいますが、本当でしょうか。
そもそも「反対」の内容は何なのでしょうか。
そうしたことに全く触れられることなく、テレビは建設中止を決めた政権を批判し続ける影像を流しています。

数年前の諫早湾の事件を思い出します。
この問題に関わっていた友人から聞いた話ですが、地元の漁民の多くは反対だったにも関わらず、公式の場での反対集会にはわずか3人しか参加しなかったそうです。
せまい地域共同体社会では、大きな流れに従っていかないと暮らしてはいけないのでしょうか。
自治体の首長や建設推進組織の人の背景に、本当に生活者としての住民がいるのか、とても疑問があります。
大切なのは、ダムを造るとか止めるとかいう話ではなく、生活をどうするかという話のはずです。
ダム建設中止を前提としている限り話し合わないというのは考えてみればおかしな話です。
問題設定が間違っているのです。
それに民主党政権は、ダム建設中止をマニフェストに掲げて政権を得たわけです。
テレビで憤りを語っている現場「住民代表者」たちはそうしたことが全くわかっていないのです。
そうしたことが、おそらくこれまでの八ッ場ダム建設にまつわる歴史の根底にあるような気がします。
そうした社会構造をこそ変革していかねばいけません。

八ッ場ダム周辺の住民たちを批判しているのではありません。
それは決して、彼らだけの話ではないからです。
私たちの周りにも、同じような問題があるのではないか。
そんな気がします。

問題の設定を間違えると、すべてが無駄になるような気がします。

■生きた言葉のパワー(2009年9月24日)
民主党政権の閣僚の発言は、生きているような気がします。
それに比べると、これまでの政治家の言葉は、みんな生きていませんでした。
たとえば、自民党の河野太郎さんの発言に対して、町村さんは「「固有名詞を出して、いろいろと批判するのはいかがなものか」と言ったそうです。
「いかがなものか」は、麻生前首相の口から何回も出た言葉ですが、生きている言葉とはいえません。
もっとはっきり自分の考えを直裁に言ってほしいものです。

「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」の事務局スタッフである私のところに、会ったことのない人から何回かメールが届いていますが、彼は「言葉は大切です」と3回も言ってきました。
おそらく「言葉」に裏切られたことのある人です。
ですからその人とのメールのやり取りは緊張します。
私自身、その人への言葉に一度間違いをしてしまいました。
危うく私への不信感をもたれそうなところまでいきました。
その後、幸いに信頼関係を回復しましたが、誤解を与えるような言葉は、何を引き起こすかわからないからです。
言葉のパワーは思った以上に大きいです。

あるプロジェクトに一緒に取り組んでいる人から、私の言葉が頭を混乱させるといわれました。
軽い気持ちで話したことが相手にダメッジを与えることに注意しなければいけません。
その人からは、佐藤さんの言葉遣いは普通とは違うと注意されました。
もちろんあまりよくないと指摘されたのです。
反省しなければいけません。
私の言葉にはあまり悪意はないのですが、かなりきついのかもしれません。
まさに言葉のハラスメントです。
注意しようと思っています。
これまで付き合ってきた友人たちにも不快感を与えてきたのかもしれません。
思い当たることは、多々あります。
言葉のパワーは、本当に大きいです。

民主党政権の閣僚の言葉に戻ります。
彼らの言葉は新鮮ではつらつとしています。
私が政策的に大嫌いな前原さんの発言も聞いていて気持ちがいいです。
それに比べて、八ッ場ダム界隈の住民代表たちの言葉は、私には死んでいるように聞こえます。
彼らは、私の感覚では住民ではありません。
言葉を聴けば、その人の世界が見えてきます。
ああいう住民たちが政治を私物化してきたとさえ思います。
もちろん彼らが政治に翻弄されてきたことはわかりますが、死んだ言葉を語る人には共感をもてません。

自民党総裁選はどうでしょうか、
河野さんの言葉は大きく跳んでしまっていますが、生きているように思います。
まあ総裁選では負けるでしょうが、政治への影響はあるでしょう。
自分が発した言葉によって河野さん自身が影響されるでしょう。
しかし、それはきっと彼を豊かにするでしょう。
政治にも生きた言葉が活躍しだしたことは、実にうれしいことです。

鳩山首相が、まずは「信頼関係」と言っているのは、とても共感できます。
政治は言葉の世界の話ですが、基本に信頼がなければ、言葉は生きてきませんから。

■ものわかりのよすぎる国民(2009年9月25日)
先日開催した「支え合いサロン」でお呼びした方が、以前、頼母子講を検討していたのでそれがどうなったかにとても興味がありました。
ところが、法制度的にこれからは難しくなりそうだということで止めてしまったということでした。
とても残念です。

共済制度ですら存続が難しくなってきています。
この30年くらいで、「通貨」の意味が大きく変質しましたので、通貨が中心にある仕組みは軒並み影響を受けています。
ですから、その世界から自らを抜け出させないといけません。
その試みの一つが、もう一つの通貨である「地域通貨」です。

期待していた頼母子講の動きが、実施の前で中止になったのは私にはとても意外でした。
なぜなら、法制度の世界から抜け出ようというのが住民の活動ではないかと思っているからです。
無茶な議論に聞えるかもしれませんが、法制度を絶対視する必要はありません。
所詮は人間がつくったものです。
であればこそ、おかしな法制度には抗って行動しなければいけません。
住民の支え合いの文化は、そうした表の経済とは違った文化を志向しなければ、単なるサブシステムに終わります。
ですから規模などは別にして、志向においては法制度を利用するという姿勢が大切で、法制度に従ってはいけないというのが、私の考えです。

たとえば、私が裁判員制度に指名されたら、私は拒否します。
拒否が受け容れられずにやることになったら、私が知ったことは私の判断で公開します。
法制度で罰せられたらそれは仕方がありません。
私もこの社会のおかげで平安を維持できているのですから、罰は受けねばなりません。

さて頼母子講の話です。
私たちは少し「ものわかり」がよすぎるのではないかと感じました。
お上が頼母子講がダメだと考えているようなので、頼母子講は止めよう、といっていたらなにもできなくなりはしないか。
共済制度の関係者の動きを見ていると、どうも法制度を前提に動いているように見えます。そこから自由になって、まずは自分たちが取り組んでいることの価値を自信を持って世に問うことです。
ロビー活動で社会が変わる時代はもう終わりにしなければいけません。
そんな気がします。
自分たちの独自の仕組みを考え出す時期かもしれません。

具体的な頼母子講の提案は項を改めます。

■新しい頼母子講「みんなの貯金箱」の提案(2009年9月26日)
頼母子講の話の続きです。
頼母子講がダメになりそうであれば、ますますやる価値があります。

たとえばこんなのはどうでしょうか。
毎月1万円ずつを2年間出資する仲間を募ります。
24人集まると毎月24万円集まります。
出資した人は2年間に1回だけ、そのお金を購入する権利を持ちます。
そして毎月集まった24万円の買い手を募ります。
おかしな言い方ですが、24万円をいくらで買うかの入札をします。
一番安い価格で購入する申し出をした人が購入します。
但し、一度、購入した人は以後購入権を履行できません。
つまり、2年間で24万円出資した分を2年間に1回だけ取り戻せるというわけです。

急いでまとまったお金が欲しい人は、1万円の出資で24万円近いお金を入手できます。
但しその後、毎月、1万円ずつ返却することになります。
24万円を買う時の対価は24万円以下になりますが、その差額はいわゆる手形割引のようなものです。
もし買う人がいない時はどうするか。
これはさまざまな仕組みが考えられます。
2年後の満期時にはどうするか。
これもいろいろ考えられるでしょう。

こんな仕組みをぜひ実現したいと思っています。
興味のある方はご連絡ください。
信頼関係がないといささか不安がありますので、発足は1年後です。
1年間、付き合えば信頼関係は育つでしょうから。
毎月の出資額や参加人員数によって、金額規模は変わります。
困った時の、みんなの貯金箱のような話です。
どうですか、やってみませんか。

■ソクラテスは毒を飲みたかったのです(2009年9月27日)
今日、地元の友人たちの集まりからの帰りに歩いていて、突然思いついたのですが、ソクラテスが逃げることなく「悪法もまた法だ」と言って、毒杯を飲んで死を選んだ理由がわかりました。
これまでいろいろと考えたことはあるのですが、なかなか理解できませんでした。
その気になれば逃げられたのに、なぜ自ら死を選んだのか。
ソクラテスの警告に関して、書いたことがありますが、その時も実は「逃げるべきだったのではないか」と思っていました。
なぜソクラテスは逃げなかったのか。
中学校以来のその謎が解けたのです。

理由はただ「飲みたかった」のです。
難しく考えることはない、ただ飲みたかったのです。
なぜか、その気分が急にわかったのです。
もし私が同じ立場だったら、やはり飲むだろうなと思いました。
3年前であれば、飲まずに逃げましたが。

50年考え続けてきた謎が解けたのですから、私には大発見です。
まじめに読んでくださっている人には怒られそうですが、私もとても真面目に書いています。
人生が変わってしまうほどの大発見なのです。私にとっては。

ソクラテスの毒杯問題だけではありません。
最近、子どもの頃からの難問が次々と解け出したのです。
小気味よいほどに社会が見えてきたのです。
少し危ないのではないかと思うほどです。

今日、友人の武田さんから電話がありました。
武田さんは私の「脳機能」をけっこう高く評価してくれています。
ところが最近、佐藤さんの脳はどこか配線がおかしいのではないかと言い出しました。
たしかにおかしいでしょう。
論理が大きく飛躍してしまっていて説得力がないのでしょう。
しかし、見えてしまうと論理など瑣末なのです。
なにしろ「見える」のですから。

世界が見えてくると、「もういいか」という気になってきます。
なにしろ見えてしまうのですから、もういいかとしか言いようがない。
人は、こうして毒を飲む準備を進めていくのだと気づいたのです。

ソクラテスは幸せだったに違いありません。
最近、自らの不幸さを嘆きたくなります。
わけのわからないものになってしまいましたが、まあそのうちきっと、皆さんも「見えてきます」。
もう見えている人もいるかもしれませんが。

明日はもう少しまともな記事を書きます。
見えるものに目をつぶりながら。

■政治家と政党(2009年9月29日)
自民党総裁選の結果を見て、青木・森体制はまだ健在だと思いました。
組織の生まれ変わりは難しい課題です。

そもそも政党とは何なのか。
私は前にも書いたように、政党政治は20世紀モデルだと思っていますが、政党は権力維持のコスト削減とエネルギー縮減のための仕組みです。
その視点から考えると、今回の自民党総裁選の結果はとても納得できるものです。

政治家は、そのミッションの故に権力(社会への影響力)を追求する存在ですが、それを効果的に展開するための仕組みが政党だといっていいでしょう。
田中真紀子さんが、政党に属しなければ何もできないといったのは、まさにその通りです。
河野太郎さんが、あそこまで森体制を批判しても、そこから抜け出られないのは、政党政治の呪縛のためでしょう。
渡辺喜美さんも政党政治の呪縛から解放されていなかったが故に、行動が中途半端でした。
要するに、みんな20世紀型政治家なのです。

基礎自治体の選挙にまで、政党が顔を出してきています。
政党に身を置く政治家は、住民発想にはなりにくいでしょう。
政党に身を置くようにした地方政治家は一切応援しないのが私の基本姿勢ですが、なぜかみんな政党に依存しがちです。
こうした「地方分権型自治」も20世紀型モデルです。
住民主役や地域主権とは似て非なるものです。
そんな政治家は、私には全く関心がありません。

これまでの政党と政治家に共通するのは、競争の原理です。
いいかえれば権力志向であり、影響力拡大志向です。
これはいささか整理しないと危険ですが、自らが信ずる志を実現し、社会をよりよいものにするためには、権力を高める必要があります。
しかし、社会をよりよいものにするための方法や考え方は一つではありません。
いろいろとあるはずです。
ですから、さまざまな価値観が多様な政治家や政党を生み出していくわけです。
そしてその政党、あるいは政治家の間で「競争」が発生します。
切磋琢磨する競い合い、多様な視点で熟議し共創する競い合いであれば、あまり問題は起きないのですが、多くの場合、相手を潰すための競争が覆いだします。
生き残るためには組織化が効果的になります。
そして気づいてみると、みんなその組織の呪縛に囚われてしまっているのです。
そうした人たちの志など、とるに足りません。

でも社会の片隅で、どんなに素晴らしいことを提案していても、そのメッセージが社会の多くの人々に届かなければ社会は変わらないではないかと思うかもしれません。
たしかにそうでしょう。
しかし、社会は「変えられる存在」ではなく、「変わっていく存在」なのです。
そういう視点で、最近の社会の動きを見ることが大切なのかもしれません。

この1か月の政治の動きは、いろいろな問題を可視化してくれたように思います。

■「待て」と「お手」(2009年9月30日)
わが家にはチャッピーという老犬がいます。
人間にたとえたらおそらく70過ぎの老犬で、散歩に行ってもちょっと長くなるとくたくたになって自宅にたどり着くのがやっとです。
まあ老人の私といい勝負ですが。

そのチャッピーが、いまなお守っていることがあります。
ご飯やおやつの時に、「待て」というと待っていることです。
あるいは手を出すとお手をしてくることです。
その姿を見ていて、最近、何だか自分を見ているような気がしてきたのです。
いえ、正直に言えば、自分というよりも、多くの日本人というべきでしょう。
私もその仲間だと思うのはかなり辛いことではありますが、認めざるを得ないでしょう。

チャッピーに「お手」を教えた記憶はあるのですが、「待て」はあまり教えたことがありません。
もしかしたら、チャッピーがわが家の養子に来る前にしつけられていたのかもしれません。
それにしても、そのあまりの従順さに哀れさを感じます。
なぜ哀れさを感ずるのだろうかと不思議に思って気がついたのが、自分たちの生き方との類似性だったのです。

私たちはどこで誰に「待て」とか「お手」とか教えられたのでしょうか。
私はあまり記憶にありません。
でも周りを見ているとみんな本当に忠実です。
偉そうなことをいっている私も、かなり忠実です。
私の人生は、かなりわがままそうに見えても、所詮は「待て」と「お手」の人生でした。

「待て」と「お手」を身につけた人が、たぶん大人なのかもしれませんが、最近はどうもかなり若い世代まで、その躾が進んでいるような気がします。
一見、勝手気ままにやっているようで、所詮は家畜のような生き方をしています。
先日、渋谷や原宿を歩いた時の光景を思い出しました。
みんなよく飼いならされています。
そういえば、原宿では家畜が餌を求めるように、餌場のようなお店の前はいつも行列です。
わが家のチャッピーよりも「お行儀」はかなり悪いですが。

さて私もその一員なのでしょうが、小賢しい学びよりも、チャッピーに学ぶべきかもしれません。
そういえば、チャッピーは一見待っているような振りをして、時々、飼い主の目をごまかします。
見習わなければいけません。

人生すべて師ですね。はい。

■日本航空再建への懸念(2009年10月1日)
前原国土交通相の迅速な対応で、JAL再建に向けて専門家らによる特別チーム「JAL再生タスクフォース」が設置されました。
まず徹底した資産査定を行い、早急に再建計画の骨格を固めるという動きは私にもまあ納得できるものです。
しかしタスクフォースのメンバーや基本姿勢には、少し違和感があります。

タスクフォースのメンバーには、旧産業再生機構OBがずらりと並んでいます。
産業再生機構はカネボウ、ダイエーなどの再建に取り組んだチームですが、このブログで私はかなり酷評した記憶がありますが、彼らはいったい何を「再生」したのか、要するに金融工学と権力を駆使して、かたちを整えただけではないかという気がしてならないのです。
カネボウもダイエーも再生したでしょうか。
「企業再生」ではなく「産業再生」だというのかもしれませんが、産業再生とは一体なんでしょうか。
要するに彼らは私欲のためにしか働かなかっただけではないのか。
庶民にとってはかなり巨額なお金が動きましたが、そのかなりに部分はかなり不透明で、いろいろと裁判まで議論されたほどです。
またカネボウやダイエーで誠実に働いていた人たちの多くは、かなりの苦労を強いられたはずです。

私もほんのささやかにですが、少しだけそうした実態を垣間見る機会がありました。
なぜ彼らがあれほど評価されるのか。
そこにこそ、大きな問題があるようにさえ思います。
彼らは要するにこれまでの新自由主義経済の掃除屋なのではないのか。
その存在を否定するつもりはありませんが、つまるところ、今のような社会をつくってきた考えの申し子たちなのです。
その掃除の仕方は「友愛」精神とは無縁のものです。
彼らにとっての価値は「お金」です。

真の再生ができるには、その現場にいる人たちだけです。
もちろん現場の人、つまり当事者だけでは再生はできないでしょうが、再生の中心に当事者がいなければ、再生などは意味のないことです。
再生せずに、新しいものをつくればいいのです。
企業の再生とは、企業の機能の存続とそれを支えている人たちの生活の持続が目的でなければいけません。
企業の再生は、そう難しい話ではありません。
徹底した資産査定という場合、その「資産」には何が含まれるのでしょうか。
そこが問題ですが、企業にとっての最大の資産はいうまでもなく「そこで働く人」ではないかと思います。
しかし旧産業再生機構OBたちには、そんな発想は微塵もないでしょう。
お金のことしか関心のない人たちですから。

いささか極端に書きましたが、JAL再生タスクフォースには民主党の経済政策理念が象徴されているとしたら、これまでの自民党の経済政策理念と全く同じなのかもしれません。
新しい経済理念は、やはり次の政権の仕事なのかもしれません。

ちなみに、前原さんの言動を批判するつもりは全くありません。
むしろとても好感をもっていますが、これはそうした次元を超えた話です。

■政権交代と検察の動き(2009年10月3日)
政権交代で私が一番関心を持っているのは、検察の動きです。
西松事件は誰が何と言おうと「政治性」を背景にした政権による捜査だと思いますし、検察や警察が権力のために動いていることは明らかです。
新聞に載っている事件だけでも、整理分析したら、そんなことはすぐに実証されるでしょう。
権力に楯突けば、どんな小さな事件でもいくらでも膨らませられますし、冤罪をつくることなどそう難しい話ではありません。
コラテラル・ダメッジは、社会の秩序を維持するためにはなくすことなどできません。
フーコーは法は戦争と言っているようですが、法と暴力は同根であり、法によってひどい目にあうことは当然あるわけです。
秩序とは誰かの犠牲の上にしか成り立たないのですから。

以前も書きましたが、違法行為は必要に応じて黙認されますし、合法的ではない暴力もまた黙認されることはよくあります。
近代法の本質は、その解釈の多義性にあります。
カフカが示唆したように、ある日、突然、わが家に警察がやってきて、私を犯罪者にすることは簡単なことであり、実は私たちはそうした危険性と隣り合わせに暮らしているのです。
それが法治国家です。
足利事件の菅谷さんのようなことは、いつだれに起こってもおかしくないのです。

処罰の対象となる違法行為や非行性は、時代によって、状況によって変わっていきます。
違憲行為ですら、時の権力者が行えば許容されます。
行政に寄生している日本の司法は、違憲判決を出しても、その行為を正すことさえできません。
つまり正式の裁判によって「違憲」とされた犯罪行為も黙認されるのも、法治国家の特徴です。

法治国家において権力の核にあるのは「正義」ではありません。
フーコーは「非行者は法の外にいるのではなく、法の中心そのものに位置している」とさえ言っていますが、その非行者と検察や警察はつながっています。
念のためにいえば、だからダメだというつもりはありません。
その自覚や理解がないことが問題なのだす。
アメリカのサスペンス映画では、まさにそうした構造がテーマになっているものが少なくありませんが、権力を監視する目が社会の中にどれだけあるかがとても重要です。

鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる虚偽献金問題で、東京地検特捜部が動き出しました。
どう展開するのか興味がありますが、西松事件も含めて、検察のあり方に政治がメスを入れていってほしいと思います。
験され正されるのは、検察自身ではないかと思っています。

八ッ場ダムの建設中止も、補正予算ストップも大事ですが、検察の本性を暴きだすこともとても大事だと思います。
抗っている非行者たちをなだめるために、検察を正さなければいけません。
マスコミにはあまり出てきませんが、権力に翻弄されているおかしな事件は山のようにあります。
政権交代によって、そうした事件がもっと見えるようになってほしいと思っています。

■緑字決算表(2009年10月4日)
環境経営が話題になりだした頃、私も各社の環境経営に関する実態を知るために、各社の環境報告書を取り寄せて読ませてもらったり、各社の環境経営のトップにインタビューさせてもらったりしました。
もう10年以上、前のことです。
それを踏まえて、日本能率協会の環境経営提言の策定にも参画させてもらいました。
その時の感想を正直に書かせてもらえれば、形だけの対応が多いなという感じでした。
環境報告書もIR向けのものばかりで、作成の意図を疑いたくなるものばかりでした。
その後、環境報告書はCSR報告書に発展してきていますが、あまり実態は変わっていないように思います。
基本姿勢が間違っていると思えてなりません。

そうしたなかにあって、最初から共感できる会社がありました。
宝酒造です。
同社は「緑字決算」という概念を創りだし、それを軸にして、とてもわかりやすく実効性のある報告書と活動を続けています。
先週、今年度の「緑字企業報告書」が送られてきました。
感心するのは、年々、実践活動の内容が進化していることです。

環境経営に関心のある人にはぜひ読んでほしい報告書です。
宝酒造のホームページから読めます。
冊子が入手したければ同社に申し込めば送ってくれます。

緑字報告書は1998年から始まっています。
同社の吉田さんという若い課長から情熱的にその思いを聞かせていただいたのを今でも思い出しますが、とても残念なことに吉田さんは若くして急逝してしまいました。
もし吉田さんが健在だったら、私はもう少し環境経営に関心を持ち続けられたかもしれません。
しかし、宝酒造以外の環境報告書は私には退屈で、その後は読む気もしませんでした。

今回、久しぶりに緑字報告書を読ませてもらいました。
ちょっと化粧が濃くなったかなという気がしないでもありませんが、吉田さんの蒔いた種が順調に育ってきているようなうれしさを感じました。

温室ガス25%削減が話題になっています、その実現のヒントはこの報告書の中にたくさんなるように思います。

■国民の自由な声を抑圧する国家とは何なのか(2009年10月5日)
読まれた方もあるかもしれませんが、昨日、このブログに寄せられたコメントにこんな文章が書かれていました。

>本当のことを言うと、このコメントはウェブ上に公開されてしまいますので、
>ちょっと怖い気がしたのですが、敢えて小さな声として発信します。

みなさんはどう思われるでしょうか。
考え過ぎではないかと思う人もいるかもしれません。
でも、そう思っている人も少なくないでしょう。
実際にこのブログを読んでくださっている人から、私信としてそういう思いを伝えられたこともありますし、ネットでの発信はすべてチェックされているから注意した方がいいといわれたこともあります。

以前書きましたが、私が友人に送ったメールを読んだ警察の人から電話があった時にはさすがに私もゾッとしましたが、後でそれは友人の遺品の中のパソコンから読み取られたものであることを知って少し安心しました。
しかし、実際にはネット上でのやりとりは、おそらく監視されているのでしょうから、その気になれば、権力をもつ人はいかようにも利用できることは否定できません。

一時期、共謀罪が話題になっていましたが、最近はどうなったのでしょうか。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/09/post_1.html
今の情報環境で共謀罪が成り立つようになれば、映画「マイノリティ・レポート」の世界が現出しかねないと危惧していましたが、実は既にもうそういう社会は実現しているのかもしれません。
私たちはいまや見事に自己規律化されてきているのです。
オーウェルの「1984年」やザミャーチンの「われら」の世界は、すでに現実のものになってきているのです。

しかし、意見を素直にいうことが「怖い」社会は決して健全ではありません。
そうした「会社」が、問題を起こして破綻してしまった実例を、私たちは最近、何社も見てきていますが、「社会」そのものがもしそうなっているのであれば、これは由々しき問題です。
社会が壊れだしているとしかいえません。

そんな社会で、どう生きていけばいいのか、悩ましい話です。

■忙しいと暇になれる(2009年10月8日)
最近、時評が書けていません。
心に余裕がないと、時評も書けないことがわかってきました。
最強の支配原理は、忙しい状況をつくればいいことがよくわかります。
昨今の日本は、いたるところで、忙しさが蔓延していますが、それはこうしたことと無縁ではないでしょう。

最近、私自身もかなり忙しくなっているのです。
恥ずかしい限りです。
忙しさを口にするのは恥ずかしいことです。
しかし、忙しい人は、「心を失っています」から恥ずかしいなどとは思わないようです。
私にはまだ恥ずかしいという気が残っていますが。

忙しいとどうなるか。
なにか気になることがあっても、まあいいかということになります。
なにしろ忙しいのですから、考えている暇はありません。
そうして無関心の世界が増えていきます。
そして、いろんなことが気にならなくなります。
余計なことを考えなくてすみますので、忙しさも緩和されます。
なにしろただ目の前の与えられたことだけをやっていればいいのですから。
自分であれこれ考える必要はありません。
つまり「忙しい」と「暇」になれるのです。
「忙しいと暇になる」
これは目からうろこが落ちるほどの大発見です。
そう思いませんか。

要するに、忙しい人はみんな暇だということです。
こんなことを書いているお前はよほど暇だなと怒られそうですが、
それがまさにこの大発見が正しいということなのです。

久しぶりの時評がこれでは困ったものです。
でもまあ、この数日、暇だった、いや忙しかったものですから。
読んでいるみなさんもきっと暇ですよね、いや忙しいですよね。
なにしろ忙しい時代ですから。

■問題の立て方(2009年10月10日)
問題をどう設定するかで、見えてくる世界は全く変わってしまうことは、前にも書いたことがあります。
世界を見る姿勢によっても、世界は全く違ったものになります。
そのことが、最近の動きを見ているとよくわかります。
政権交代や金融不況で、多くの人の問題の立て方や意識が揺らぎだしているので、新しい世界が生まれつつあるような気がします。
しかし、まだまだこれまでの流れが主流であることは間違いありませんが。

ダムに象徴される公共投資の凍結はいろいろな波紋を広げています。
変化には混乱はつき物ですから、波紋は大きいほどいいようにも思います。
公共投資の捉え方は2つあります。
生活環境整備のための公共投資と生活資金還元のための公共投資です。
平たく言えば、生活づくりか仕事づくりか、です。
仕事で稼いで生活を豊かにするのだから同じではないかと、マクロでは捉えます。
しかし、ミクロでは、つまり現実には、両者の対象は同じではなく、そこに「儲ける人」が入り込んできます。

話が小難しくなりましたが、大切なことは、その地域やそこで住む住民にとって何が大切かを考えることです。
ダムを造ること、公共投資の仕事を続けることは、手段でしかありません。
ダム工事をやめたら住民の生活基盤整備を止めるというのは、お上の発想であって、住民の発想ではありません。
問題が混在しています。いや、本末転倒しています。
意図的に混在させたり転倒させたりしている人がいるわけです。
住民にとって何が一番良いのか、と言う原点から話し合っていけば、問題は簡単に解決するでしょう。

今の日本では、何が一番大切か、という議論の原点が軽視されています。
その原点さえ明確にしておけば、問題は難しくはありません。
沖縄の基地の問題も例外ではないはずです。

問題の立て方を考え直さなければいけません。

■オバマ大統領のノーベル平和賞(2009年10月11日)
オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したというニュースに、とても複雑な気持ちになりました。
私のノーベル賞のイメージはそれほど高くないですが、それにしてもと思いました。

核兵器のない世界を目指すと呼びかけた姿勢は共感できますし、それを応援し、期待を示すという意味で、ノーベル賞受賞は素直に喜ぶべきかもしれません。
しかし、受賞の直後にも、アフガニスタンに派遣する兵を増強すると言っている人と「平和」は私の中では全くつながりません。
それに、タリバン支援者はどう思うでしょうか。
タリバンも決して好きで戦っているわけではないでしょう。
言うまでもありませんが、オバマさんは他国への軍事行使をしている責任者なのです。

戦争と平和は同義語ではないかと、以前書いた気がしますが、ノーベル賞の選考委員のメンバーにとっての「平和」は、その反対側にいる人にとっては、決して「平和」ではないでしょう。
むしろ「平和賞」に相応しいのは、選考委員たちの反対側にいる人たちを支援している人なのではないかというのが私の素直な気持ちです。
戦争や「創られた平和」の現実を、写真などでしっかりと世界に示してくれている無名の写真家がいます。
少数民族のために生命をかけて、支援活動をしている人たちがいます。
難病で苦しんでいる人たちを誠実に支えようとしている人たちがいます。
どんなに悲惨な状況にあっても、笑顔を忘れない人たちがいます。
オバマ大統領よりも、そうした人たちにこそ、私は大きな尊敬の念を感じます。
ですから、ノーベル平和賞にはいつも違和感を感ずるのです。

もっとも今回のオバマ受賞への違和感は、私がオバマ大統領への信頼感をどうしても持てないからかもしれません。
平和に関しては、私はどうも「素直」になれないのです。
困ったものです。

■ウイグル暴動の決着のつけ方(2009年10月12日)
先日のウイグル暴動の引き金となった事件の裁判で、ウイグル族2人を集団で殴って死亡させたとして、傷害致死などの罪に問われた漢族の被告の一人が死刑判決を受けたという報道がありました。
小さな記事ですが、いろいろなことを考えさせられます。

処罰の対象は、ウイグル族ではなく漢族です。
何だか政治的意図を感じます。
そして判決は「死刑」。
傷害致死で死刑というのはちょっと過重な気もします。

ウイグル暴動について詳しく知っているわけではないので、判決の妥当性などは全く評価できませんが、なにやら国家との本質を感じます。
国家の本質は「カネと暴力」というのは、いささか不謹慎かもしれませんが、先日読んだ、萱野稔人さんの「カネと暴力の系譜学」をついつい思い出してしまいました。

萱野さんは、こう書いています。

「法に違反するということは、もともとはといえば、法を制定し布告する人間への挑戦を意味している。いいかえるなら、法は、それを制定した人間の意志や人格と切り離せない」

王国の場合、違法行為は正義への挑戦ではなく、国王への挑戦なのです。
そのため、見せしめのための公開処刑が行われた時代もありました。
国民主権国家の場合の違法行為は、やはり正義への挑戦ではなく、秩序への挑戦です。
しかし実際には、時の権力者への挑戦になるわけです。

新疆の自治区を抱え込んでいる中国の国家原理は、早晩、破綻するのではないかと思いますが、この判決の行方にはちょっと興味があります。
国家のあり方を考える上でいろんなことを気づかせてくれるような気がします。
「死刑」ということの意味を考える上でも示唆に富む判決です。

■前原国土交通相を見直しました(2009年10月13日)
前原国土交通相の一貫した姿勢にとても共感を持ちます。
私は前原さんの政治姿勢には極めて批判的でしたが、閣僚になってからの彼の言動は実にさわやかで共感できます。
やっと政治が機能しだしたとさえ感じます。

八ッ場ダムの住民の意識調査が新聞に出ていましたが、こうした意識調査は設問の仕方で全く変わります。
要するにマスコミは、政府の姿勢の変更を咎めるという一番安直な姿勢をとっているので、こういう調査をしてしまうのでしょうが、無駄な話です。

有名なマキャベリが「君主論」で書いているように、制度を変える場合、既存制度の利益を享受していた人々はすべて敵にまわります。
一方、新しい制度の受益者と思われる人々はすぐには味方にはなりません。
人間は変化に対しては過剰に懐疑心が働くからです。
新しい制度によって、実際に利益を手にするまでは信じないのが、主体性のない多くの人の本性です。
ダム建設工事をやめた方が良いに決まっていますが、これまでだまされてきた住民たちは、騙されることの方が安心できるのです。
それは何も彼らだけではありません。
私も含めて、ほとんどの人がそう思うはずです。
だから社会は続いてきたのかもしれません。

社会を変えるなどということは、本来引き合わないことなのです。
若者でなければ、そんなことはできません。
前原さんはまだ若者なのです。
いつも颯爽としているのも、好感が持てます。
嫌いになると袈裟までにくくなりますが、好感をもつとあばたもえくぼになるものです。
どうやら私も八ッ場の住民と同じようです。

■閣僚の異論反論を歓迎します(2009年10月14日)
たとえばエコポイント制度を来年度も継続するかどうかで、閣僚の意見がわかれているという報道がありました。
今日は子育て応援手当てをめぐって、長妻さんと原口さんの意見の違いが報道されていました。
マスコミは、新政権の閣僚の意見の不一致を批判するのがお好きのようです。
しかし、閣僚の意見の不一致は悪いことなのでしょうか。
もちろん最終的には政府として決定しなければいけませんが、それまでは閣僚の意見の違いがあることは望ましいことではないでしょうか。
それがないのであれば、首相が勝手に決めればいいわけです。

日本の政治は、議論をおろそかにしてきました。
利益配分のみに関心を持つ利益政治化の弊害の一つです。
反対していても異見は言わない、それが万年与党の自民党政権の文化だったといってもいいでしょう。
お上に従わない党員は排除されますから、異論など言いようもないわけです。
そのくせ、非公式の場では異論を唱え、状況が変われば意見を変えてしまうわけです。

政治では決定までは異論をどんどんぶつけ合うべきです。
閣僚の中にも、異論を歓迎する文化を持っている人と持っていない人が、その表情から見えてきますが、異論を出しあって議論を尽くすべきです。
自分の担当領域以外の問題にも、どんどんと発言すべきでしょう。
つまらない縄張り意識を捨てられない人もいますが、政治は各論でやることではありません。
各論だけの発想は官僚の発想です。

さまざまな意見を言う閣僚がいる文化に、私たちは慣れなければいけません。
自民党のように、長老が決めたら神の声のようにそれに従うような政治はもう過去のものにしなければいけません。
テレビのキャスターやコメンテーターの言うことなど気にせず、新政府の閣僚はどんどん異論反論をぶつけ合ってほしいものです。
それによって私たちは、事の本質を理解できるようになるでしょう。
キャスターやコメンテーターがいかに事の本質から離れた議論をしているかも、見えてくるかもしれません。

いずれにしろ閣僚が多様な意見を持っていること、そしてそれを堂々と披瀝できること、そのことの価値を理解しなければいけません。
ようやく新しい政治が始まったような気がします。
マスコミがそれをつぶさなければいいのですが。
ひどいマスコミが多すぎるのが心配です。

■もっと前向きの捉え方はできないのかという反省(2009年10月15日)
新聞を読んでいると、新政権に関連して、相変わらず小沢さんや鳩山さんの個人的なあら捜し記事が多くて、いやになります。
もう少し新政権の取り組みを支援するような記事は書けないものかと思いますが、どうも足を引っ張る記事が多くて、気分が沈みます。

と思って、私のこの時評のことを間がたら、この時評もどうも否定的な内容が多いですね。
結局、人間は自分がやっていることを他社に反映して、批判しているのかもしれません。
そう思うと、ますます気が沈みます。

そういえば、以前も読者の方から、もう少し明るい内容にできないものかといわれたことがあります。
どうも私の性格や心境がくらいのかもしれません。
困ったものです。

さて元気が出るようなものはないでしょうか。
そう思って新聞を読んだりネットニュースを探したりしましたが、読めば読むほど、調べれば調べるほど、明るい気分にはなれません。

それで、こんど新しいカテゴリーとして「元気時評」を設けることにしました。
その第1号を書ける日が早くきてほしいです。

しかし「元気が出るような明るいニュース」を探していれば、きっと見つかるでしょう。
みなさんも、なにか元気が出そうな話があったら教えてください。

■支え合いと思いやり(2009年10月17日)
このブログでも何回か書いてきていますが、10月24日に、自殺のない社会をめざして「自殺多発場所での活動者サミット」なる集まりを開催します。
ところがなかなか参加者が伸びません。
まだ50人ほどですが、このお誘いをしていていくつかのことに気づきました。

まず「自殺」という問題は、日常生活とは離れた「特別の問題」だと考えている中高年者が多いということです。
あるいは拒否的に反応してしまうのかもしれません。
それに対して、若い世代はむしろ生活とのつながりを感じて、比較的関心を持ってくれるということを知りました。
タイトルに「自殺」の文字を2度もつかい、しかもチラシには大きな文字で「自殺」をうたったのは後から考えると失敗でした。
世間の人たちが、これほどまだ「自殺」の問題に距離を置きたがっていることは予想外でした。

それとは別に感じ入ったことがあります。
参加者が少ないので、友人知人に誘いのメールを送りました。
そうしたら数名の人たちが即座に反応して、それぞれの参加しているメーリングリストや自分のブログなどで次々と紹介してくれるのです。
その見事な展開ぶりに感激しました。
10年近くも会ってもいない人が、自分の主催するメーリングリストで流してくれ、それがまた回りまわって私にも届くと言うわけです。

今回の集まりの基本テーマは「支え合い」です。
今の社会には「支え合い」の文化がなくなってきているという意識からの取り組みですが、支え合いの文化や心遣いは、まだたくさんあることを実感しました。
何人かの方は、わざわざメールや電話をくださり、告知に協力してくれています。
私は時々、こうした集まりを主宰していますが、考えてみるといつもこうした「支え合い」によって実現してきたことを思い出しました。
準備がなかなか進まないので、いささか気分が沈んでいたのですが、何だかとてもうれしくなってきました。
当日はどういうことになろうと、もうこれで私は十分にやって良かったと思えそうです。

誰かが行動を始める。
それに共感する人が、自発的に動き出す。
そしてそれが次第につながっていって、大きな波になっていく。
そうやって社会は動いてきているのでしょうね。
まずは動き出すこと。
それが気持ちよく生きていく秘訣なのだと改めて思いました。
私も、見習わなければいけません。
できることはたくさんあるはずです。
もっともっと心身を軽くしなければいけません。

■国家が破産しないのはなぜなのでしょうか(2009年10月21日)
ちょっと疲れたので、無意味な無駄話です。はい。

予算編成に関連して、景気対策か財政の健全化という問題がまた浮上しています。
私自身は将来世代の資源を使い込むような財政赤字制作は反対ですし、借金をしてまで楽をしようなどと思わない生き方をしていますので、赤字国債を発行する発想には賛成できません。

しかし、景気対策にも賛成できません。
このブログの経済時評の基調には、景気対策発想から抜け出ようという、経済に対する私の考えがあることを読んでくださっている人には伝わっているかと思います。
お金で測定する景気には全く興味がありません。

一応、そういうことを前提にして読んでもらえればうれしいのですが、最近、財政赤字は何で悪いのだろうか、わからなくなってきました。

財政赤字と景気対策とは対立するものでないことはいうまでもありません。
企業で考えれば簡単にわかります。
業績が停滞していた企業が、銀行から巨額な資金を借金して、業績を建て直して、それによって借金を返済していくことは、よくある話です。
赤字埋め合わせの国債ではなく、もっと積極的な国債を出したらどうでしょうか。
銀行券をどんどん印刷して、国民にばらまいたらどうでしょうか。
1万円程度の給付金ではなく、国民一人当たり3億円ずつ配ったらどうなるのでしょうか。
要するに国民全員が当たる3億円ジャンボを発行するわけです。
とんでもないインフレになるのでしょうか。
でもその前に、みんなとても幸せでうれしい気分を味わえるでしょう。
3億円も当たったら、もうお金などほしいと思わずに、ついつい隣人に大盤振る舞いをしたくなるでしょう。
意外とインフレにならないのではないか。
ただお金に対する信仰が消えるだけかもしれません。
でもまあ、とんでもないハイパーインフレの悪夢で混乱するかもしれませんね。

代わりに全ての借金を返済無用にしたらどうでしょうか。
亀井さんの案どころではなく、全ての借金を返さなくても良くするのです。
国家の赤字も自治体の赤字も帳消しです。
だれがこまるのでしょうか。
銀行やローン会社が困りますか。
でもまあそれらはこれまで異常に儲けてきたのですからもういいでしょう。
それでもそこでまじめに働いている人はどうなるのか。
やはりこの案もだめそうですね。

しかし私は不思議に思うのです。
これほど巨額な赤字を生み出しながら、国家はなぜ破産しないのか。
そいえば、巨額な借金をしたカエサルはローマを豊かにしたのです。
なぜでしょうか。
お金の活かし方を、つまり使い方を、私たちは間違っているのではないか。
最近、そんな気がしてならないのです。

■日本郵政社長人事(2009年10月22日)
しばらくは新政権の動きを好意的に見ようと思っていたのですが、今回の日本郵政社長人事には驚きました。
それはないだろうと愕然としたのです。
でも考えてみれば、亀井さんですからこういう人事でも仕方ないのでしょうが。

何人かの企業経営者の名前も挙がっていました。
その時にも少し違和感がありました。
ともかく昨今の経済状況を引き起こした責任の大半は財界トップの経営者ですが、政治家が知っているのはそうした企業経営者だけでしょうから、出てくる人たちも、私からすれば、すべて「戦犯者」なのです。
せめてもの救いは、その中にバンカーではなく、メーカーが多かったことです。
金融の世界にいた人たちの罪は私には許せないほど大きいのです。

官僚が全て悪いわけではありません。
それに金融の世界での経営ですから、それなりの知識がなければいけません。
ですから大蔵省出身に目が向くのも自然の成り行きです。
しかし、問題はこれまでの金融資本主義を変えるということでしょう。
その路線を志向した小泉・竹中路線の見直しのはずが、それと全く同じ世界の人を選んでしまったのです。
しかも大蔵省です。
さらにさらに、よりによって斎藤さん。
唖然とする人も少なくないでしょう。
民主党政権への期待は大きくしぼんでしまいそうです。

経営は運営ではありません。
経営の基本は「経」、つまり理念です。
西川社長のような理念のないバンカーには経営はできません。
金儲けはできるでしょうが、それは経営ではありません。
理念がなくても金儲けはできます。
いや、昨今は理念のないほうが金儲けができるようになってきました。
それを主導したのが西川さんであり、斎藤さんであり、小泉・竹中チームです。
もちろんJALの再生チームも、そうした世界のプロです。
彼らには理念など全くないというべきでしょう。
ですから専門家になれたのです。

日本郵政の理念は何であるべきか。
言うまでもありませんが、私は「友愛」だと思います。
「友愛」で経営ができるかと思うかも知れませんが、「友愛」の思いがなくて経営ができるかと、私は言いたいです。

私の経営観は「経営とは愛と慈しみ」なのです。
だからコンサルタントのお客様が付かないのかもしれませんが。
どうやら生きる時代を間違ったようです。

ちょっと残念だったので、また批判的なことを書いてしまいました。
すみません。

■「元官僚という意識ない」(2009年10月22日)
朝書いた政治時評の蛇足的補足です。
朝読んだ新聞のトップ記事の見出しがどうにも忘れられないのです。

「元官僚という意識ない」斎藤・次期郵政社長が会見

朝はぐっと我慢して、言及しなかったのですが、やはり書くことにしました。
蛇足ではあるのですが。

この言葉は斎藤さんの人物を象徴しています。
私の判断では彩父さんは次のいずれかです。

「嘘を平気でつく人」
「認知症が始まった人」
「官僚の仕事をやっていなかった無責任な人」

さてどれでしょうか。
いずれにしろこの人は信頼できません。
しかしどうしてこういう人ばかりが偉くなるのでしょうかね。
一度でいいから真面目に働けといいたいです。

■具体策シンドローム(2009年10月27日)
昨日の首相所信表明に関して、「もっと具体策を」というコメントがマスコミでよく取り上げられています。
だいたいにおいて、「もっと具体策を」などとコメントする人は、コメント能力のない人です。
「もっと具体策」などというのではなく、それこそ「具体的」にコメントしなければ、自分も同じことをしていることになってしまいます。
何も考えずにあら探しをしている人がよく行う発言です。
マスコミが、それを良く取り上げるのは、マスコミ自信も全く何も考えていないという証拠です。

24日にあるイベントをやり、そこにNHKの報道チームが取材に来て、7時のニュースで流してくれました、会の意図など全く理解しようとしていないので、放映内容は全くの主旨違いで、主催者としては極めて不愉快でした。

昨日、ある人材育成をテーマにした委員会に参加しましたが、そこでも人材強化の短期的な具体策だけが議論されていました。
あまりに馬鹿げているので、少しやんわりとコメントしましたが、明確に賛成してくれたのは一人だけでした。
みんなほとんど考えていないので、私の発言はたぶん伝わらなかったのかもしれません。
みんな「具体策シンドローム」に陥っているのです。
ノーロングタームの嵐は、まだ吹き止んでいないのです。
みんなもう考えるのを止めてしまったのでしょう。
それが一番楽な生き方ですから。

いまこそしっかりと理念やビジョンを考えなければいけません。
それが明確になって共有されれば、具体策など簡単に出てきます。
それがない具体策の積み上げは、徒労と言うしかありません。
今の日本社会は、徒労を再生産する仕組みになってきてしまっているような気がします。

今日はちょっと機嫌がわるいので、いささか身勝手なことを書いてしまいました。
はい。

■モンスターの悲劇(2009年10月29日)
「モンスターペアレンツ」が学校を徘徊しているという話はかなり前から聞いています。
理不尽な要求を学校に突きつける父兄のことを「モンスターペアレンツ」と呼ぶようです。
しかし、理不尽な要求を突きつけるのは、何も学校の父兄だけではないようです。

福祉の世界でも、そうした「モンスター」に悩まされている行政は少なくないようです。
企業のお客様にも「クレーマー」と呼ばれるモンスターがいるようです。

先日、介護保険関係の研究調査プロジェクトの集まりがありました。
介護保険の自己作成をもっと広げたいという思いをもった人たちの研究会なのですが、そこで介護保険の世界でもモンスターといわれる人たちに窓口が振り回されて、それが健全なケアプラン自己作成者の広がりを妨げているのではないかというような議論がありました。

私自身は、そもそもモンスターなどという発想には大きな違和感があるのですが、福祉の世界も少しだけ知っている立場からいえば、モンスター議論に関しても、さもありなんと納得してしまっていました。

私は、住民主役のまちづくりにささやかながら関わっています。
一昨日も、あるまちで住民たちと行政との話し合いの場に同席する機会がありました。
そこでいろいろと話を聴いていて、そうした「まちづくり」の場にも、モンスター発想が行政にあることに気づきました。
さらに気づいたのは、モンスターを生んでいるのは行政だということです。

ゴジラはモンスターでしょうか。
もしそうであれば、ゴジラを生み出した核爆弾をもった世界はモンスターの生みの親ということになります。
モンスターを生み出すスーパーモンスター。
大企業や行政こそ、実はモンスターの源なのです。

モンスターが悪者扱いされる風潮が広まっていますが、モンスターを生み出す状況こそが問題なのだとやっと気づきました。

かつてはモンスターだったゴジラは、次第に世界の救い手に変化してきました。
これは実に象徴的な話です。
モンスターは何も好き好んでモンスターになったのではありません。
そういう視点でさまざまなことを見ていくと、もしかしたらモンスターはモンスターを非難している私たちなのかもしれません。

自らがモンスターなのに、誰かをモンスターと呼んで、自らは健全だと思い込んでいるのは、喜劇ではなく悲劇です。
私はこれからはもう2度とモンスターなどという言葉は使わないようにしようと思います。
人をモンスターなどと称することの傲慢さは、持ちたくないものです。
あやうくその傲慢さを身につけるところでした。
まさにモンスターを生み出す世界に私たちは生きているのです。

■「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」(2009年10月30日)
八丈島近海で転覆した漁船「第1幸福丸」の真っ暗な船内で4日間をがんばった船員の一人、宇都宮さんが、
「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
と語っていました。
とても考えさせられる言葉です。

転覆事故のあった24日、私は「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」のキックオフを兼ねた「自殺多発場所での活動者サミット」を開いていました。
この半年、準備を重ねてきたものですが、このテーマへのかかわりを深めれば深めるほど、自殺のない社会とはやはり「大きな福祉」の実現ではないかと思うようになりました。
「自殺対策」はもちろん大切ですが、自殺を引き起こすような「真っ暗な社会」での私たち一人ひとりの生き方こそを問題にしなければいけないという思いを強くしました。

真っ暗な社会でも、そして希望が見えにくい時でも、3人いれば支えあえる。
この事件は、そのことを教えてくれています。
「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
すべての人に聴いてほしい言葉です。

人は決して一人では生きていません。
たくさんの人に支えられています。
そのことに気づけば、先ず自らが周りの人を支えようという気が起こってきます。
支えることは一方的な行為ではありません。
誰かを支えれば、必ずそのことで自らが支えられるのです。
支えることは必然的に支え合う循環を生み出します。
そのことに気づけば、とても生きやすくなり、世界は平和になるでしょう。

「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
これは真っ暗な船室だけの話ではありません。
私たちの日常生活にとっても、大きな示唆を含んでいます。
私たちも、ちょっとだけ生き方を変えましょう。
それが、「自殺のない社会」「孤独死のない社会」「子どもの笑顔の溢れる社会」「だれでもが気持ちよく暮らせる社会」につながっていくはずです。
そうした、大きな「支え合い社会」は、まずは自らの小さな一歩から始まる。
そのことを、今回の宇都宮さんの言葉で改めて確信しました。

最近疲れたので、コムケア活動を止めたいと思い出していますが、元気がまた出てきました。

■近くのスーパーの閉店(2009年10月31日)
道路整備の関係で、近くのスーパーストア「ライフ」が閉店になります。
とても良心的なお店で、いつも賑わっていました。
わが家にはとても大きな影響があります。
生活費は1割くらいアップするかもしれません。
それほど他店と比べて安かったのです。
もちろん同じものが安いという意味です。
それにお店の規模が大きすぎずに、手ごろでした。

今日が最後だというので、見に行ってきました。
商品はもうあまりありません。
ほとんどがすでに撤収されています。
ところが、なぜかお客様でいっぱいでした。
私のように最後のお店の様子を気にきている人もいるかもしれません。
なぜかわからないのですが、駐車場の自動車もいっぱいでした。

お店の人に、とても良いお店でしたね、と感謝の気持ちを伝えました。
そういう会話は私だけではなく、いろいろのところで交わされていました。
ライフはとても良心的な良いお店です。
利用されている方は、多分わかってもらえると思います。

ライフの閉店に代わって、先週、その近くに「カスミ」が開店しました。
行ってみました。
最近の中規模店舗で、私にはやや大きすぎます。
商品数も多すぎます。
それに雰囲気が、最近の店舗のように、冷たいのです。

私にとっては、ライフは世相を感ずる一つの定点観測場所でした。
商品の価格の動きもよくわかりました。
マスコミの報道と現実の違いも、ライフのおかげで知ることができていました。

新しいカスミはわが家からは歩くと10分以上かかります。
わざわざ定点観測に行くことも少なくなるでしょう。
また一つ私が社会を感ずる場所が減りました。

妻が元気だったころは、近隣のショッピングセンターやスーパーに一緒に行ってもらっていました。
そういう場所に行って、座っていると、世間の動きがよくわかるのです。
妻がいなくなってからはそういう機会も少なくなりました。
一人ではなかなか行く気にもなれませんし、長居はできません。
こうしてだんだん世間から疎くなっていくのでしょうか。
近くのライフの閉店は、私には大きな生活変化になりそうです。

■変えることができることとできないことを峻別する知恵(2009年11月1日)
日本航空の再建に対する政府の方針が変わりだしています。
自主再建は放棄されたようです。
つまり、日本航空の経営陣は「経営」を放棄したのです。
いえ、すでに経営は行われていなかったことの責任を放棄したというべきかもしれません。
しかし、そのことは「日本航空はつぶさない」と前原さんが明言した時に決まったような気がします。
あげくのはての「専門家」と称する冨山さんたちのチームへの検討依頼。
前にも書きましたが、冨山さんたちは国税を私用して会社を整理してきた、ただの金融の使い手ではないかと思っている私には、これで日本航空の経営は終わったとさえ思っていましたから、ある意味では当然の帰結です。
経営再建とは、キャッシュフローを建て直すことではありません。
冨山さんたちには、経営などは縁遠い世界の話でしょう。
経営とは「倒産」も含めた真剣勝負でなければいけません。

なぜ日本航空はつぶしてはいけないのか。
つぶすには大きすぎて、社会への影響が大きいとみんないいます。
そうでしょうか。
日本航空がつぶれて、何が変わるのか。
路線の運行は、会社がつぶれても継続は可能です。
会社がつぶれても事業を継続しているところは実際にあります。
会社と事業は分けて考えることができるはずです。
事実、冨山さんたちはそうしてきたのです。
経営など知らなくとも、それくらいのことはできるのです。

八ッ場ダムもそうですが、私たちは大きな存在は否定できないと思いがちです。
しかしそんなことはありません。
国家でさえも、果たして存在する価値があるかどうかは、時代によって吟味されるべきです。
変えることができることとできないことを峻別する知恵を私たちは持たなければいけません。

■ガンジーの平和国家論(2009年11月2日)
「ガンジーの危険な平和憲法案」(C・ダグラス・ラミス 集英社新書)を読みました。
軽い気持ちで読み出したのですが、衝撃を受けてしまいました。
前にも書きましたが、私はどうしてもガンジーが好きになれないでいたのです。
そのあげくに、このブログでも以前、アンベードカルに言及してガンジーに批判的なことを書いたことがあります。
その後、それを後悔したものの、やはりどこかでガンジーが好きになれないでいたのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/03/post_87df.html

この本を読んで、今度こそその気持ちを一掃できたような気がします。
本書は、これまでの私のガンジー理解が極めて表層的なものであったことを気づかせてくれました。
これまでの私の読み方が間違っていたのかもしれませんが、本書に書かれているガンジーの思いは、私が目指していること、そのものでした。
しかも、ガンジーは、その視点で歴史を見据え、現実を生きていたのです。
そして一時的にとはいえ、歴史を変えたのです。
ガンジーが暗殺されたのは、必然的な結果だったのだとやっと納得できました。
自らの不勉強さをこれほど悔やんだことはありません。

この本のどこが衝撃だったのか。
それはガンジーが、「個人起点の発想」のパラダイムに立脚していたということです。
ホリスティックなシステム発想ではなく、まさにホロニックな生命論なのです。
そしてインドが独立して、結局はそれまでと同じ「国家」の道を歩みだした時に、それに関わることをせずに、ただただ失望の哀しみの気持ちに素直に殉じたという生き方です。
自分をガンジーと比べようなどとは思いませんが、まさに私が求めている生き方に重なっています。
どう重なっているかと聴かれると、とても答える自信はないのですが、国家観にしても運動論にしても、とても共感できるものです。
生き方も、です。

ダグラス・ラミスの問題提起は、いつもラディカルです。
だから、私にはわかりやすいのです。
言葉ではなく、実体で語っているからです。
小さな新書です。
よかったら読んでください。

■終わった人たちの相手をすることの虚しさ(2009年11月2日)
自宅にいる時間が少なくて、国会中継をなかなか見られなかったのですが、ようやく時間ができてテレビを見ました。
なかには中身のあるものもありますが、自民党議員の質問はよくまあこれほどひどい内容になっているのか呆れました。
そのくせ、相変わらずの目線の高さです。
自分たちが撒き散らした問題を一生懸命に解決しようとしている新政府に対して、よくもまあこんなことが言えるものだと思います。
少しはまともかと思っていた加藤紘一さんにいたっては、何をかいわんやです。
こういう人がよく政治家をやっていられるものだと思います。
人間としての人格を疑いたくなります。

政権交代に関するNHKの特集番組を見ていると、自民党がいかに政権不適格政党だったかがよくわかります。
私利私欲しかない人たちの集団になってしまっていたようです。
その番組で、とくとくと話している人たちの話を聞いていると、この人たちには自分がやってきたことの意味など全く理解していないことが伝わってきます。
小沢一郎さんは、好きな政治家ではありませんが、彼が20年かかってやってきたことの意味、そして今のようなやり方をしている理由が最近ようやく理解できるようになりました。

国会審議はもう少し意味のあるものになるかと思っていましたが、相変わらず見ていてさびしくなりました。
途中で見るのをやめてしまいました。

■がんばっている人がいたら応援しないといけません(2009年11月6日)
最近また時評が書けなくなりました。
マスコミの取り上げる話題は瑣末な話ばかりです。
国会の議論も、どうしようもないほどに瑣末です。
自民党の若手議員の質問を見ていると哀しくなります。
若さの特質である「志」が全く感じられません。
そうした瑣末な話題に一喜一憂し、時評しているなどというのは、さらに瑣末なことです。
そんな瑣末なことをしているくらいなら、何もしないほうがいいのではないかと思いたくなります。

昨日も夜まであるNPOの話し合いがありました。
帰りは、その事務局長と一緒だったのですが、本当はこんなことをやりたくないし、Fさん(事務局長)にも会いたくなんかないんだと、話してしまいました。
そのNPOの立ち上げは、私もコアメンバーで、その事務局長をお願いしたのも私なのですから、Fさんがムッとするような発言です。
事実、そういう話をするといつもFさんはムッとします。
しかし事実なのだから仕方がありません。
できるならば、社会のことなど関わることなく、空でも見ていたいです。

こんな活動をしようとしまいと、朝になれば太陽は上がってくるし、夕方には沈んでいく。
時期がきたら人は死んでいく。
今やっていることは、余計なことなのではないか。
まあ、時々そんな気になるのです。

今日、あるNPOのメンバーと大企業の人たちとの出会いの場をつくりました。
まあ、上記の流れでいえば、瑣末な、しかも余計なお世話かもしれません。
しかし、そのNPOの代表の人がこんなようなことをいいました。
仲間にがんばっている人がいると、その人を応援するのが私たちのやり方なんです。
その方は、私も尊敬する高名な方です。
その言葉を聞いて、ハッとしました。

私もそういう生き方をすると10年前に決めたはずなのに、歳のせいか、最近は楽をしようとしがちです。
瑣末なことかもしれませんが、やはり空だけではしっかりと現実をみるようにしましょう。
明日からまた時評を毎日書きます。
たぶん。

■情報の非対称がもたらす無駄(2009年11月7日)
社会が抱える問題はあまりにもたくさんあるため、なかなか一つひとつにきちんと向かい合うのは難しいです。
しかし、当該地域の住民たちには切実な問題ですから、真剣にとりくまなければいけません。
しかし、それが可能になるためには「情報の非対称」を克服する姿勢が、情報をたくさん持っているほうになければいけません。

たとえば、宮崎県の川南町の「切原ダム」の報道を見ると、むしろ「情報の非対称」が国や県によって利用されているように感じます。
宮崎県の知事には私は全くと言っていいほど信頼感を持っていないので、いささか厳しすぎる評価かもしれませんが、県による詐欺行為としか思えません。

私が、民営化や市場システムに立脚する考えに懐疑的なのは、あるいは民主主義制度に懐疑的なのは、情報の非対称を克服することは現実には不可能だからです。
むしろ「近代社会」の諸制度は「情報格差」によって支えられているというべきです。

情報の非対称性が存在する場合、取引の当事者のいずれか一方だけの不確実性が高くなる。情報の非対称性は、情報優位者にとって有利な結果をもたらし、市場の取引が円滑に進まなくなってしまう場合がある。

2001年にノーベル経済学貧を受賞した経済学者アカロフは、情報の非対称性が存在する市場システムでは非効率性が発生することを証明しました。
アカロフの指摘を待つまでもなく、そんなことは生活は百も承知です。

切原ダムの事例では、当該地域の農民たちは国や県が少しずつ出す情報に振り回されて、少しずつ妥協してきました。
しかし、そうした行動が自らの子孫たちに大きな負担を残すことにようやく今気づいてきたのです。
しかしすでに時は遅いのです。
資本の道化役の東国原知事の本質は、前回の衆議院選挙立候補で露呈したはずですが、まだまだ農民は従順な生き方から抜け出られません。
明治維新以来の学校教育の成果の凄さを感じます。
私たちはまだ「お上」の声にはどこかで従順になる心根を持っているのです。
こんなことを書いている私も、おそらくいざとなると同じでしょう。
お上に反発することとお上に従順なことは同義です。

この「情報の非対称」がもたらす大きな無駄は、しかし、時に社会を大きく壊しかねません。
今の国会議論を見ていると、それを感じます。
脱官僚を成し遂げるには、この「情報の非対称」に対して、別の舞台設定が必要なのですが、そうしたことを考える知恵者は民主党にはどうもいないようです。
その理由は、情報の非対称の構造の中で、彼らが権力を勝ち取ってきたからです。
情報構造のパラダイム転換ができないのです。
私は、唯一、情報構造のパラダイム転換をしているのは鳩山首相だけのような気がします。
まあ、気がする、だけですが。

■罪を償わない政治家と経済学者の厚顔無恥(2009年11月8日)
今朝、テレビの時事放談に自民党議員だった野中広務さんが出ていました。
日本の政治を私物化して破壊した張本人の一人ですが、よくまあこんなことが言えるナラティブと思うことを毎回発言しています。
彼は警察官僚ですから、自らが正義で、敵を執拗に破壊知る姿勢を餅と同時に、自らの正義を実現するためには手段を選ばない狡猾さに長けています。
細川政権の攻撃の際の姿勢は、国のことなど全く考えない暴力団の抗争のようなやり方でした。

とまあ、時評を再開しだした途端に、過激になってしまいましたが、国会での議論などで、議論されているさまざまな問題を起こし、解決するどころか問題を増幅させてきて、破綻直前まで持ってきた自民党の政治屋たちが、熱心に問題解決に取り組もうとしている新政権の行動を、自らのしたこと、してこなかったことを棚にあげて、お気楽に避難している無責任佐藤修ぶりに、心底、腹が立っています。
まさに「盗人の開き直り」。自民党の政治家は全員、罪を償えと言いたい気分です。
しかし、ジャーナリストも有識者も、そうした罪の片割れを担っていますから、そういう発言をする人は少ないです。
テレビのコメンテーターに関しては、もうどうしようもありません。

金儲け主義で経済をダメにしたことに加担した経済学者や経営学者も、私には腹立たしい限りです。
要領のいい中谷巌さんのような小賢しい人はともかく、多くの人はだんまりを決めていますが、今なお自分のやったことの意味などわかっていないのかもしれません。
まあ、人ごとではなく、私も偉そうなことは言えませんが、一応、1980年代に会社にいて、このままではどうやらおかしな方向に行きそうだと感じて、会社を辞めて以来、それなりに少しは自らの生き方を変え、活動もその方向でやってきました。
おかげで、自分自身の生き方にはあまり悩むことはありません。

人は間違いを犯すものです。
ですから政治家も経済学者も、この30年をきちんと総括して、もし間違いがあれば(間違いがなければ今のような日本にはなっていないはずです)。底を正し、これからの視点で、新たな努力をしている人に加担していくべきです。
野党だから与党に反対しなければいけないわけではありません。
間違いを犯した経済学者や経営学者も、私欲を捨てれば、新しい状況を生み出す働きはできるはずです。

時評を書くのは、やはり精神健康上、よくありません。
しかし、誠実にがんばっているように思える。長妻さんや岡田さんを見ていると、やはり時代から離脱するのは恥ずべきことだと思います。
自分のできることをやっているだけではなく、
時代の動きにはきちんと対峙していくべきだろうと思います。
そうしないと、生きている意味がありません。

■なんでそんなに詳しく、何回も報道するのですか(2009年11月9日)
最近、あまり知りたくもない殺人事件の詳細がなぜか毎日、繰り返し繰り返し報道されています。
しかも、遺体の一部が発見されたとか、それはどういう状況だったとか、それを知ってどうなることでもないような話をテレビは得々と報道しています。
NHKのニュースまでもが、この数日、最初の10分近くがそのニュースです。
あまりにひどさに、チャンネルを変えて、もう終わっただろうとチャンネルを戻すとまだやっています。
最近のNHKの報道のディレクターは、猟奇事件マニアなのでしょうか。

こうした事件に関する報道ルールというのがあるはずですが、最近の報道の仕方は、同じような事件の誘発を誘っているのかと思いたくなるほどです。
どうしてこんなに詳しく報道するのでしょうか。
何かから目をそむかせるためなのでしょうか。

国会議論で、みんなの党の渡辺さんが、新党結成のその日に、酒井法子の事件が起こり、そのため報道はその事件ばかりで結党がかすんでしまったと、冗談を話していましたが、これは必ずしも冗談ではありません。
誰かがやらせたなどと言うつもりはないですが、そういうことがあっても不思議ではありません。

NHKも含めて、いまやマスコミはほぼすべてお金次第でしょうから、真実を伝えるよりは、無意味な情報や刺激的な情報で、私たちの感性をコントロールしているというべきかもしれません。
それにしても、この3日間のニュースはひどいです。
殺人の方法や逃亡の方法、あるいは詐欺の方法を教えるよりも、もっと大事なことがあるはずです。
NHKの視聴料は払いたくないですね。
実際に、この数日、テレビのニュースは見なくなっています。

何を報道すべきか、その目利きが今の報道機関には不在なのでしょうか。
そのことが社会に与える影響は甚大です。

■企業が変わりだす予兆(2009年11月10日)
昨日、経営幹部の方々を対象としたあるフォーラムで少しお話をさせてもらいましたが、かなり過激な話だったので、おそらく中には反発を感じた方もいるでしょう。
まあ、いつも私が話していることではあるのですが、今回は「金融資本の跋扈」などという、言わなくてもいい表現までついつい言ってしまいました。
金融関係の企業の人も少なくないので、いささか刺激的過ぎたかもしれません。
しかし、最近はこうした私の発言も少しずつですが伝わるようになりました。
同世代の知人たちは、ますます遠のいていくような気配は感じますが、まあそれも仕方がありません。

昨日の集まりは、経営道フォーラムという、25年前からの活動の発表会でした。
発表会の冒頭に少し話をさせてもらい、そこでもまた余計な一言を言ってしまいました。
バブル期の企業のあり方に危惧を持ってはじめたこの経営道フォーラムも、残念ながら成功していない、と言ってしまったのです。
私がやっているわけではなく、山城経営研究所というところがやっているのですが、考えようによっては大変失礼な発言です。
しかし、25年も企業経営者に「経営道」(経営の心と道)を訴える活動をし、既に1000人を超える受講生が出ているのに、日本の企業は決してよくなっていませんから、私の評価には反論できないでしょう。
しかし、折角の努力を否定するような発言はよくないかもしれません。

なぜ成功しないか。
私にはもちろん理由はわかっています。
それも事務局には何回も言っています。
要するに講師が悪いのです。
これまでの経済を支えてきた経営者を講師に呼んでいる限り、経営道などは身につきません。
私はそう考えています。
変革は辺境から起こる、その基本を忘れてはいけません。

1980年代ころから、日本の企業は変質しだしました。
「財テク」という言葉が生まれた時代です。
私が会社を辞めたのは、1989年です。
時代に抗して、会社で起こした企業文化変革活動は残念ながら挫折しましたが、そのおかげで会社を辞める決断ができました。

以来、20年、外部から見ている日本の企業の変質には大きな失望があって、仕事をするモチベーションが起きないまま、今になってしまいました。
しかし、もしかしたら、ここに来て、日本の企業は変わりだすのかもしれない。
昨日の集まりで、そうしたわずかな予兆を感じました。

このブログでも、そうしたことを少しずつ書こうと思います。
やはり企業がどう動いていくかが、社会の状況を変えていくことは間違いありませんから。

■八ッ場ダム建設問題と住民の生活保障問題(2009年11月11日)
朝日新聞の夕刊に乗っていた小さな記事です。

八ッ場ダムを巡って、民主党群馬県連所属の7人の衆参議員団は、11日、中止後の新たな生活再建策について提言をまとめ、前原誠司国土交通相に手渡した。国、県、地元の長野原町などと住民で新しい生活再建案と補償案を策定する協議機関を設け、地元住民の意向を踏まえて、国が再検案を示していくことを求めている。

ダム建設はマクロ的な問題です。
それに対して生活保障は住民一人ひとりのミクロ的な問題です。
次元も違えば、問題の性質が全く違います。

日本のこれまでの政治は、マクロ優先でした。
それが中央集権・地方分権の政治パラダイムです。
つまりマクロ(お上)に個々の住民(民)が合わせられていたのです。

それに対して、生活起点での政治はミクロから発想します。
それが地域主権・住民主役の政治パラダイムです。
住民(主権者)の生活を支えていく政府という発想です。

ダム問題がやっと生活視点で語られるようになったことを、この小さな記事は教えてくれます。
ダムが問題ではなく、仕事や生活が問題なのです。
問題の設定を変えるだけで、新しい解決策は見えてきます。
これはダム問題に限りません。
沖縄の基地問題も、問題の設定の次元から考え直したら違った展望が見えてくるかもしれません。

それは全ての問題にいえることです。
自民党政権とは違った発想で問題を立てている新政権の姿勢を私たちはもっと肯定的に評価すべきではないかと思います。

■「私の話も聞いてください」(2009年11月12日)
政府による「事業仕分け」作業が始まりました。
その様子をテレビで見た友人からメールが来ました。
一部だけ引用します。

私もネット配信で少し見ましたが、暴力的な印象は否めませんでした。
地方での事業仕分けもこの傾向があったとは聞いています。
佐藤さんはどのように思われますか?

産経新聞の記事にこういうのがありました。
文部科学省の所管事業を担当した第3ワーキンググループでのやりとりです。

蓮舫参院議員が「女性教育会館の稼働率は?」とたたみかけると、同館の女性理事長は「44%…」と小さな声で答えるやいなや反撃に転じ、「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外だ」と声を荒らげた。

この場面はテレビでも流れました。
友人はおそらくこの理事長に同情したのでしょう。
そういう人も少なくなかったのではないかと思います。
テレビは、映像のモンタージュ効果を今回も効果的に利用しています。

その場面を見て、私は、その理事長はこれまでずっと自分が「私の話」だけを話していたのだろうなと思いました。
誰かの話を聞く謙虚な姿勢があれば、決して、事業仕分けの対象事業にはならなかったでしょう。
「私の話」だけしか話し続けずに、自己正当化だけで生きてきた人の貧しさを感じました。
それに、今回は質問に答える場であることを彼女は全く理解していませんでした。
状況の理解力やコミュニケーション能力がまったくないのでしょう。
そういう官僚は少なくありません。
なぜなら彼らにとってのコミュニケーションは、お上の伝達でしかなかったからです。
「私の話も聞け」だったのです。
それはコミュニケーションではありません。

専門家と市民が一緒になって技術評価をするコンセンサス会議に取り組んできた小林傳司さんがその著者で書いています。
「専門家は市民が学ぶことに驚く。しかし市民は専門家が学ばないことに驚く」
とても示唆に富む言葉です。
そしてこの主語を他の言葉に置き換えると、いろいろなことが見えてきます。
「行政と住民」「企業と顧客」などなど。

仕分け作業の場合はどうでしょうか。
学ぶべきは誰か。
何のための作業なのか。

私は、上記の女性理事長のような人が無駄遣いの元凶だと思います。
彼女たち、彼らたちが、「善意」でこの国をだめにしてきたのです。
それに気づいてほしいものですが、彼女はおそらく生涯気づかないでしょう。
私の周りにもそうした人たちがたくさんいます。
私が人生を途中で降りたのは、そうなりたくなかったからです。

しかしそうなっていないかどうかには自信はありません。
まだまだ私憤が残っているのは、やはり同じ土俵で生きているということかもしれません。
困ったものです。

■お上の目線と民の実状(2009年11月13日)
今日もまたいろいろな人が湯島にやってきました。
最近また、いろいろな人が集まりだしています。
人が来るとライブな情報が集まってきます。

今日は、午前中は子育て、夕方は介護予防の関係の人たちでした。
いずれでも共通の話がでました。
東京や大阪と地方とは全く状況が違うのに、行政の取り組みの枠組みは東京で作られるため、無駄や無理が生じているという話です。

午前中は保育に関する待機児童の話とベビーシッター支援の話が少し出ました。
いま事業仕分けでこども未来財団が問題になっていますが、その設立時に、厚生労働省や日本生産性本部などの職員にも参加してもらい、ファミリーサポート研究会なるものをやっていた関係で、その取り組みの目線には違和感を感じていました。
しかしまあ、私が知る限り行政が作り出すもののほとんはそんな感じでしたから、気にもなりませんでした。
当時、経済的に大変な私立保育園に関わっていましたが、みんなが使えないほどの補助金が流れ出したので、その分野から私は抜けさせてもらったのはその少し後です。
こども未来財団は、子供の未来を壊しこそすれ、未来に役立ったことはしていないと、今でも思っています。
子育て環境は首都圏を前提にして画一的な制度を立ててはいけないと私は思っています。

介護予防に関してはもっとひどい状況が起こっているはずです。
介護予防政策が、むりやり介護予防該当者を作り出す構造があるというのは言いすぎでしょうが、そうならないとは言いきれません。

介護予防も子育ても、つまり福祉問題は全て、地域の生活文化に深くつながっています。
そのことを無視して、中央で制度を構築し、それを「分権」するというようなやりかたでは問題を複雑にするだけかもしれません。
今日は、そんなことを改めて考えさせられる話が多かったです。
しかし、そうした中から、その2つのテーマに関して、新しいプロジェクトに関われそうです。
楽しみですが、いささか心配です。

行政の福祉政策には全く興味を持っていないため、何一つ勉強していなかったのですが、少しは勉強しなければいけません。
この歳になって勉強でもないのですが。

■農的に生きることへの思い
(2009年11月14日)
この頃、なぜか「農」の話が私の周りでとても増えています。
まあ農業ブームですから当然なのですが、どこに行っても出てくるのです。

たとえば、今日、地元のある集まりがありましたが、そこのメンバーからも「地産地消の事業」に取り組もうという提案がありました。
昨日は、子育て支援の関係のグループと話をしていたのですが、京都の丹波に大きな土地があり、そこに「新しい村」のようなものができないかという話が出てきました。
つい先ほどは、私が自殺のない社会づくりネットワークに関わっていることを知った友人が、「人間らしい、生き方を求めて、コンクリートから土と、ともに生きる。そんな生き方をすれば、自殺願望者も、減ることでしよう。ぜひ提案を聞いてくれ」とメールが来ました。

火曜日には「半農生活をはじめよう」の著者がやってきましたが、彼のところには問い合わせがたくさん来ているようです。
ぜひ「農的に生きる」をテーマにしたフォーラムをやろうと提案しました。
来週の土曜日には、埼玉の浦和で「農と食、そして居場所」をテーマにしたコムケアフォーラムを開催します。
認知症にも少し接点が生まれだしていますが、その関係の話をしていたら、土とのつながりや農的生活の話が出てきましたし、ともかくいろんなところで、農の話が出てくるのです。

みんな土が恋しくなってきたのでしょうか。
私も来年のテーマの一つに「農」を置こうと思っています。
しかし、昨今のブームには乗りたくありません。

今年の春に、支え合いサロンで農をテーマに2回ほど話し合いをしたのですが、どうも思うような方向には持っていけませんでした。
農とは何か、を一度、じっくりと考えてみたいと思っています。
どなたかそうした話し合いの相手になってくれませんか。
そして、来春にでも「農的に生きる」をテーマにしたフォーラムを一緒にやりませんか。
「百姓として生きる」でもいいのですが。

■政治家の誠実さ(2009年11月15日)
岡田外相がテレビの討論番組で沖縄米軍基地の問題について話していました。
その話し方の誠実さに感心しました。
これほど誠実に話している政治家はそう多くはいないように思います。

少し雰囲気は違いますが、その誠実さを鳩山さんにも感じます。
誠実な政治家がまた日本にも生まれだしたように思います。

10年以上前、私が事務局長をやっていたリンカーンクラブというグループの集まりに鳩山由紀夫さんをお呼びしたことがあります。
50〜60人ほどの集まりで、もちろん政治をテーマにした集まりです。
少しお話をしてもらい、あとは会場の参加者と自由に話し合うという、私好みのカジュアルなスタイルでしたが、その時に感心したのは、鳩山さんが人を選ばずに全ての人に誠実に対応しようとする眼差しでした。
その集まりでは、毎年、いろいろな人をお呼びしましたが、鳩山さんの、素人っぽい対応がとても印象的でした。

当時は、自民党や社会党などの政治家とも少し接点がありましたが、普通の目を感じたのは鳩山さんだけでした。
目線が高かったのは、自民党と社会党でした。
社会党の目線の高さには驚きました。
もう昔の話ですが。

ところで、政治家の誠実さとは何でしょうか。
長いこと自民党の政治家をテレビなどで見慣れていたせいか、民主党の政治家の多くはみんな誠実に感じますが、しかし岡田さんと鳩山さんは私には別格に映ります。
鳩山さんの意見がぶれているという人もいますが、私にはぶれは感じません。
岡田さんと鳩山さんは、たしかに違いますが、私にはそれぞれの誠実さを感じます。
もしかしたら、眼差しがポイントなのかもしれません。

人の誠実さはどこに現れるのか。
岡田さんと鳩山さんを見ていると、なにやら安堵できるのは、私が贔屓目すぎるからでしょうか。
人としての誠実さと政治家としての誠実さは違うのかもしれませんが、この2人を見ていると政治への信頼が戻ってきます。
勘違いでないことを祈ります。

■「世の中を治め」る経済と「人民を救う」経済(2009年11月16日)
7〜9月期の国内総生産(GDP)は年率換算で4.8%増となったそうです。
4〜6月期に続き2期連続のプラス成長です。
経済は着々と良くなっているそうです。
でも、そうでしょうか。

経済統計は果たして実態を反映しているかどうか、などという問題提起をするつもりはありません。
そもそもどんな「実態」も、視点や見方によっていかようにも変貌するからです。
それに、そもそも経済という概念そのものも多義的です。

ウィキペディアによれば、経済という語は、「世の中を治め、人民を救うことを意味する経世済民を略したもの」とされています。
しかし、「世の中を治め」と「人民を救う」とは、決して同質な概念ではありません。

最近、さまざまなところで、生活目線の視点での仕組みづくりが進んでいます。
たとえば市民ジャーナリズムの試みや市民バンクの試みがあります。
生活のための通貨の試みもあります。
そうしたものは必ずしもうまくいっているわけではありませんが、一定の成果を出していることは否定できません。
さほど成功していないとしても、じわじわと広がっているからこそ、「世の中を治め」る立場の人たちからは目の敵にされるようになっているともいえます。

経済指標に関しても、幸福指標の試みはありますが、今のところまだ「世の中を治め」る視点が強いようにも思えます。
ブータンの国民総幸福量(GNH)も、そんな感じを受けてしまいます。
もっと私たち住民の暮らしやすさを示すような指標を考えることが大切なのかもしれません。

そもそも経済や暮らしやすさを数字量で示すこと自体がおかしいのかもしれません。
そんな気もするのですが、しかし、そうしたことを考えるプロセスはとても重要です。
私たちの(私の、ではありません)暮らしやすさこそが経済の中心となるべきテーマであれば、その構造を考えることこそが、経済の出発点でなければいけません。
私たちの暮らしぶりが一変してしまっているいま、経済学は根本から見直されるべきではないか。
そして生活ぶりを示す経済指標も、根本から考える時期にきているのではないか。
そんな気がします。

生活につながった、新しい経済指標づくりはとても魅力的なテーマです。
どこかでそうした議論は始まっていないでしょうか。
もしどなたかご存知であれば、教えてくれませんか。

■魔女狩りを感じさせる新聞(2009年11月17日)
小沢さんの宗教関連の発言がまた新聞に出ていました。
それにしても、マスコミはなぜ瑣末な話題を仰々しく取り上げて、大事な話題を見過ごすのでしょうか。
しかも、政権関係者の落ち度や発言を見つけるとそれを増幅しがちです。

政府閣僚の不協和音とか政府と与党民主党の不協和音とか、ちょっとした発言の違いを捉えては、不協和音と叫び続けます。
どこが不協和音なのか、私には時にわからないこともありますが、新聞やテレビから何回も不協和音だと聞かされると、そういう気になってきてしまいます。

この頃、つくづく感ずるのは、最近の新聞の魔女狩り的役割です。
マスコミの影響力の大きさは甚大ですから、風評被害などで打ちのめされた人の話はよくありますが、実は打ちのめされているのは社会そのものかもしれないと思うことが増えてきました。

自民党政府の時もそうだったとすれば、これは私の偏見かもしれません。
権力に対して批判的なのは決して悪いことではないからです。
しかし、どうも自民党政権時代と、最近の民主党政権時代とは、マスコミの動き方が違うように思えます。
私が少し民主党に贔屓目のせいでしょうか。
そうであればいいのですが、何か権力の構造がパラダイム転換しているような気がするのです。
まだうまく説明できませんが、マスコミの批判は民主党ではなく、あるいは政府でさえなく、そうしたなかに芽生えてきた、新しい民主主義の萌芽に対する悪意のように感じられてなりません。
「魔女狩り」が始まった。
私の勘違いであればいいのですが。

■グローバル人材になるには祖国を捨てなければいけないのか(2009年11月18日)
昨日、ある会で、衝撃的な、しかしとても納得できる言葉を聞きました。

人材育成をテーマにしたある研究会にずっと参加しています。
主なメンバーは大企業の人事関係の部長です。
そこで今年は、「グローバル人材」の育成がテーマの一つになっています。
昨日の会で、ある会社の人が、グローバル人材の育成の状況を説明してくれました。
前回もこの種の話が出たのですが、私には肝心のグローバル人材の意味がわかりません。
そこでドミナントの人材とグローバルの人材との違いは何なのかと質問しました。
その答えのなかに、「祖国を捨てること」という言葉が出てきたのです。
その一言で、私にはすべてが理解できました。
そもそもグローバルというのは、国境概念を超えることですから、当然のことなのですが、それが示している意味はとても大きいです。

実は、その前の話し合いでは、韓国のサムソンが一つのモデルになっていました。
ご存知の方もあるでしょうが、サムソンの事業モデルの根底にも、祖国を捨てる発想があります。
しかし同時に、強烈な祖国愛も感じます。
この問題は、これからの企業のあり方を考えるうえで、実に多くの示唆を含んでいます。

工業の根底にあるのは、土から離れるということです。
それが農業とは本質的に違うことです。
そして。土から離れる発想は、当然ながら「国を捨てる」ということなのです。
ここで大きな問題が出てきます。
国家制度と資本主義の関係です。

資本主義のグローバル化は国家を壊すという意見もありますが、そもそも資本主義は国家のサブシステム(手段)だという意見もあります。
私は後者の意見に賛成ですから、国家を捨てるという言葉に安易には賛成できません。
ありえないことだからです。
そこで思い出すのが、冷戦時代の諜報活動です。
諜報活動をしていた人たち、いわゆるスパイと言われた人たちは、国家を捨てたのでしょうか。
自国を裏切ったといえるかもしれませんが、所詮は別の国のために活動したのです。
平和や理念のためという人があったかもしれませんが、それは全く無意味な話です。
実際には、どこかの国家を利するだけでした。
思い上がってはいけません。

だんだん話が大きくなってきてしまいました。
時評編には無理がありますので、関心のある方はどうぞディベートしに湯島にお越しください。

それにしても「祖国を捨てる」とは衝撃的な言葉ではありませんか。
ちなみに、私は、「祖国を捨てるグローバル化」ではなく、「祖国(郷土)を起点にしたグローバル化」こそが大切だと思っている人間です、
日本企業は前者の意味でのグローバル化を志向しているようなのが、とても残念でなりません。

■経済状況をマクロに把握するための仕組みの見直し(2009年11月21日)
政府の月例経済報告で日本は再びデフレ状態に陥ったと認定されました。
確かにさまざまなところでの価格低下がみられます。
ともかく商品が売れないという商業関係者からの話もよく聞くようになりました。

今日は自宅にいたので、娘と一緒に近くのスーパーに買い物に行きました。
これまで通っていた近くのライフというお店が、道路拡幅のために閉店したので、ジャスコ系のお店に行きました。
価格帯があまりに違うので驚きました。
たとえばUCCのレギュラーコーヒーは300gで100円以上の差があります。
私が毎日飲んでいるアセロラジュースも1割以上高いです。
と、私でも比較可能な商品(工場で製造されている商品)が総じて1〜2割高いのです。
ジャスコ系のお店も低価格化を進めているといわれていますが、それでもこんなにも違うのです。

テレビなどでは小売店が価格を下げるために大変な努力をしていると報じています。
しかし、こうしてライフとジャスコの価格差を見ると、実際にはもっと安くなるのだろうと思います。
商品の価格とは何なのでしょうか。

そう思うようになったのは、100円ショップの出現です。
工業製品の価格は、あってないようなものだと思うようになりました。
そう思って考え直すと、商品の価格というものが全くわからなくなりました。
たとえば農産物。
複雑な経路でスーパーに並ぶ農産物と生産者が直接販売する産直店の野菜の価格が同じなのが全く理解できません。

職人が心と時間をかけてつくったものもどうやって価格をつけるのか不思議です。
私の娘は職人的な仕事をしています。
娘は2〜3日、根をつめて1枚の絵皿を完成させます。
それが1万円というのは、安いのか高いのか。
材料費や電気窯での焼成、デザインのための細かな打ち合わせ、時に焼成がうまくいかずにやり直したりしている姿を見ると、私が2時間講演して10万円をもらうことに比べると安すぎます。
しかし、1日中それこそ食事をする暇なく働き、1円ももらえないばかりか電話代や交通費さえ自己負担しながら働いている、もう一つの私の仕事の立場からすれば、3日で1万円近くもらえる仕事は高給取りに感じます。

昨日、熊谷で乗ったホテルの送迎車の運転手さんは、私もよく知っている有名企業の社員でしたがリストラにあったそうです。
それから就職しようにも仕事がなく、給料などいくらでもいいからともかく働きたいと今の仕事についたそうです。
同じく退職させられた仲間たちは、今も仕事を見つけられない人も多いそうです。
給料の多寡ではなく、やはり仕事はしたいと彼はいっていましたが、給料とは何なのでしょうか。

話が広がってしまいましたが、要は商品の価格とか仕事の報酬に関して、これまでの固定観念で考えることをやめてみることも大切かもしれません。

経済状況をマクロに把握するための仕組みが大きく変わってきているような気がします。
消費者物価指数などで社会の実態がわかるはずもないのです。

■サロンの効用(2009年11月23日)
私はサロンが大好きで、湯島のオフィスでも、いろんなスタイルのサロン(気楽な話し合いの場)をやっています。
その一つがコムケアサロンといって、みんなが気持ちよく暮らしていける社会になるといいなと思っている人たちの気楽なサロンがあります。

いつもは湯島でやっていますが、今回、出前コムケアサロンというのをやってみました。
ちょうど、コミュニティカフェ(レストラン)を開こうとしているコムケア仲間がいたので、その開店直前にそこを会場にして、昨日、「食と農、そして居場所」を少しだけテーマにしたサロンを開催しました、
雨にもかかわらず15人ほどの人たちが集まってくれました、
私も会場まで1時間以上かかりましたが、同じ我孫子や近くの柏からも参加してくれた人もいます。
コムケア仲間ではなかったのですが、熊谷から参加してくださった方もいます。
こうした集りをやると、いつも必ず新しい人が参加してきてくれるのです。
今回は、実際に思いを持ってコミュニティカフェをやっている人も数名参加してくれました。

4時間の長いサロンでしたが、なかなか終わらずに、実に中身の濃い話し合いが実現しました。
はじめて会った方のほうが、みんな多かったはずですが、心が通じた気がします。

実際にコミュニティカフェをやっている人の話は感動的でした。
幸手市で、介護予防型コミュニケーション喫茶「元気スタンドぷリズム」をやっている小泉さんは、経済的にはかなり厳しいと思いますが、楽しそうでした。
形式にこだわる行政への対応にかなり疲れている感じもしましたが、行政に依存することなく、さまざまな試みに取り組んでおり、間違いなく小泉さんの試みは成功するでしょう。

大宮で、アレルギーっ子のための「おひさまカフェ」をやっている久間さんからは、アレルギーを持つ子どもたちの親の大変さを気づかせてもらいました。
こうした活動はまだ全国的にもほとんどないようです。
忙しいなかをわざわざ参加してくださいました。
久間さんの話を聞くと、時間がないなどという言い訳の不誠実さがよくわかります。

サロンの報告は、またホームページなどで書くつもりですが、
ともかく気楽に話し合う場の効用を改めて感じました。
こういう集まりが気楽にどんどん広がっていくといいなと思いました。

私がささやかに関わっている自殺のない社会づくりにしても、子育て支援にしても、まちづくりにしても、本業の企業変革にしても、出発点は現場を持っているいろいろな立場の人たちが、一緒にになって本音で語り合うことだろうと思います。
当事者が誠実に話し合えば、おそらく解決できない問題などはないはずです。
もちろんきちんと話し合うためには、基本的な情報は共有されていないといけませんが、情報の共有もざっくばらんな話し合いを通して実現するように思います。

コムケア活動で標榜している「大きな福祉」は、まずはいろんな人が気楽に立ち寄れるサロンづくりから始まるという思いを、ますます強くしました。
そういうサロンがどんどん広がると社会は変わっていくように思います。

私のオフィスでは、今月28日には「自殺のない社会づくりネットワーク」の交流会、12月2日には認知称予防をテーマにしたサロン、12月16日には農をテーマにしたサロンを予定しています。
私のホームページのお知らせに掲載されています。
他にも12月中に2つほどのサロンを計画しています。12月16日には農をテーマにしたサロンを予定しています。
他にも12月中に2つほどのサロンを計画しています。
ホームページのお知らせに案内を出す予定ですので、もしよろしければ気楽にご参加ください。

■政府の連続性と責任(2009年11月23日)
韓国では大統領が後退すると、評価は一転し、時に死刑宣告まで受けることがありました。
そのことが全く理解できずにいました。
しかし最近、ようやくそれが理解できるようになりました。

事業仕分けは賛否両論ありますが、これまでの自民党政府が何をしてきたかが少し見えてきたように思います。
言い方がきついかもしれませんが、犯罪ではないかと思います。
今日もテレビで北海道の東郷ダムの報道をしていましたが、本体完成後15年経過しても欠陥ダムのため稼動できずに、逆に地域住民にとっての危険な状況が放置されていると言います。
放置といっても、それに伴うかなりの費用が浪費されて続けているということです。
http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20091115hog00m040004000c.html
こんなダムが全国に少なからずあるという話を聞くと、政府の本質がわかります。
「盗賊国家」といわれてきた意味がここにきてやっと実感できたといってもいいでしょう。

しかも政権交代がほぼ見えてきた時点で、内閣機密費が2億円も引き出され、勝手に政府によって使われたというのですから、これはもう完全な詐欺罪あるいは窃盗罪でしょう。
もうやりきれない感じです。
政治家には損害賠償請求はできないものでしょうか。
いま話題になっている鳩山首相の資金問題などは、それに比べたらまあ瑣末な事件にさえ思えてしまいます。

それにしても、これだけ税金の無駄遣いをしていた過去の政府閣僚の責任が問われないのはなんともわりきれません。
判断ミスで無駄をしてしまったのであれば、仕方がありません。
しかしそうではないのです。
そんなことをし続けてきた自民党に席を置くことになぜ若手議員は恥を感じないのか。
まずは自らを正さなければいけません。

残念なことに、そうした自民党と同じ道を民主党も歩きかねません。
機密費に関していえば、平野官房長官の言動はあまりにも噴飯ものです。
これでは河本自民党前官房長官と同じだと思われても仕方がありません。
事実、同じなのでしょう。

そうした絶望的な政治状況の中で、しかし、新しい風を感ずることも少なくありません。
政治の世界は間違いなく世代交代が始まりました。
詐欺師のような政治家は、次第にいなくなるでしょう。
この20年、私たちは大きな授業料を払ってきたのです。
その税金でぬくぬく太った豚たちが世間を闊歩しているのが腹立たしいです。

大学の卒業式で、大河内総長から「ふとった豚になるよりは、痩せたソクラテスになれ」という告辞を聴きました。
そのメッセージを、私はきちんと守ってきたつもりです。
まあ少し太り気味のソクラテスではあるのですが、毒杯を仰ぐ決意だけはいつも持っています。

■国会議員の資格(2009年11月24日)
残念なことに国会での野次はひどいものです。
今日は特に民主党の新人議員の野次がひどかったそうですが、なるべきでない人たちが国会議員になるのは、自民党も民主党も同じようです。しかし国会で野次を飛ばすなどというのは、信じられない態度です。
新聞報道によると、党から〔センスの良い野次〕をとばすように指導されたそうです。
しかし国会で野次を飛ばすなどというのは、信じられない態度です。
野次を飛ばす議員は党員資格剥奪というくらいのルールがあってしかるべきだと思いますが、どうもそうはならず、野次は相変わらず勲章なのでしょうか。
その文化は、やくざから議員まで(やくざと議員は同質の世界です)相変わらず維持されているようです。
そのおかげで、学校でもどこでも、人の話をきちんと聴かない文化が浸透しだしているのはいささか不本意な話です。

国会は本来議論する場です。
議論は、異質な意見があればあるほど、豊かになります。
しかし異質な意見を排除したりする人には、そもそも議論する気はないのです。
議論するためには、自らの意見をもたなければいけません。
おそらく野次をいう人は、自らの意見がないので、相手の発言を野次るしかないのでしょう。
それに、今の国会議員には、自らの意見を持っている人はそう多くはないでしょうから、野次られるほうも野次られることしか発言できないのかもしれません。
しかし、たとえそうであっても、国会という話し合う場が野次で肝心の発言が聞きにくくなるようなことになれば、放っておくべきではないように思います。

企業を良くするのは難しいことではないという人がいます。
私もその一人ですが、その方法は「基本をしっかりと実践する」ことです。
イエローハットの鍵山さんは「凡事徹底」と言いましたが、まさにそれこそが経営です。
その「基本」がいまの企業から失われているのと同じく、あらゆるところから、「基本」が失われているのです。

私のオフィスにはさまざまな人が来ます。
その人たちの行動を見ていると、社会の実相がよく見えます。
言葉ではなく、実際の行動です。
言葉は着飾れますが、行動は簡単にはごまかせません。
「基本」をしっかりと身に付けているかどうか、それは自然と見えてくるものです。

話し合う場であれば、静かに話し合うべきです。
質問に応える場であれば、質問に応えるべきです。
そんなこともできない人が女性教育会館の理事長になっているのです。
そういえば、挨拶もできない学校の校長先生や教育長を私は数人知っています。
そんな人たちに子どもを任せてきた私たちが悪いのですが、せめて家庭で元気よく挨拶し、異論を話し合うことを体験させていたら、今のような社会にはならなかったでしょう。

国会中継を見ていて、この人たちの育った環境はさぞ貧しかったのだろうなと少し同情してしまいました。
さて、わが家はどうだったか。
あまり大きなことはいえませんが、挨拶と話しあいは、まあきちんとやっているつもりです。

■「問題の立て方」再論(2009年11月27日)
前にも書きましたが、もう一度書きます。
「問題の立て方」が大切だという話です。

昨日、八ッ場ダムの地元住民たちが、ダムの早期完成を求める5万人以上の書名を集めて国土交通相に陳情にいったそうです。
私は地元住民ではないので、あまり強くはいえませんが、ダムを完成させたら住民の生活はよくなるのかということが気になります。
ダム工事のための仕事はなくなりますし、造られたものを壊すのは無駄に見えるかもしれませんが、自然を壊すことに比べたらそのダメッジは桁違いに小さいはずです。
住民の生活という視点で考えずに、目先のことでしか考えていないのではないかという気がします。
思い出すのは「7代先の掟」です。
アメリカのネイティブの人たちは、何か大切なことを決める際に、7代先の人たちにとって、良いことかどうかを判断の基準にするそうです。
この「7代先の掟」は、数十年前までの日本にもあった掟です。
そうした掟はもう忘れられたのでしょうか。
八ッ場ダムの地元住民たちは、問題の建て方を間違っていると思うのです。
大切なのはゼネコンの下請け仕事を続けることではないでしょう。
自分たちの子孫の生活を考えることでしょう。
その視点から考えれば、ダム工事を一時やめて、考え直す絶好のチャンスなのです。

事業仕分けに関して、科学者や大学関係者が騒いでいます。
これも私には問題の立て方が間違っていると思います。
大学は、問題の解き方しか教えていないので、大学の学長や総長には問題の立て方など関心がないのかもしれませんが、それにしても記者会見での話は内容が乏しく、がっかりしました。
ノーベル受賞者の発言も同じです。
発言していることはもちろん正論ですが、ではこれまでのままでいいのかという話です。
全体を見る目が彼らには全くありません。
近代の要素還元主義の中で、全体を見失っている優等生の姿がはっきりと見えてきます。

事業仕分けは、まずは無駄の発見です。
そして効果的な予算配分です。
一見、科学技術の分野に予算支出されているようで、しかし実際には途中でおかしな使い方がされているからこそ、事業仕分けの対象になり、議論されたのです。
国際協力という名目で、どれだけの予算が、相手には届かない使われ方をしているか、それと同じことが科学技術の分野でもいえるのですが、彼らはそれを無視して、要は八ッ場ダムに巣食っているゼネコン業者と同じように利権を失いたくないだけの話です。
どうしたらほんとうに科学技術分野で成果をあげられるか。
それを考える絶好のチャンスと捉えるべきではないのか。
そう思います。

もちろん事業仕分け人の質問や判断がすべて正しいと私は思ってはいません。
そんなことは当然のことでしょう。
彼らの判断は、所詮は一つの判断です。
しかしこれまで全くなかったことをはじめたのです。
その意味が大学の学長や総長にもノーベル賞受賞者にもわかっていません。
彼らが「知」というものをどう捉えているかが露呈されています。
近代の知に埋没し、偏差値教育を推進してきた人たちには理解できないことなのかもしれません。

今の時代、大切なのは、「問題の立て方」です。
間違った問題設定すると、がんばればがんばるほど、おかしな方向に行きかねません。
まあ、そのことは私自身にも言えることです。
この文章自体も、間違った問題設定に従っている可能性は否定できません。
もちろん私はそうは思っていませんが。

■「新型インフルエンザ」と「ワクチン接種」の謀略(2009年11月27日)
私には真偽のほどはわからないのですが、私が最初から感じていたことに符合する内容なので、紹介しておきたいと思います。
真偽に関しては確証をもっていませんが、可能性だけはあると思っています。
ご判断は読者に任せますが、こうした見方もあることを知ってもらえればと思います。
詳しくは《ダルマ通信》2009年11月18日をお読みください。

こういう話です。

大騒ぎされている新型インフルエンザは取り立てて特殊化するほどのものではなく、死亡率もこれまでのインフルエンザと同じレベルであること、にもかかわらず、大量の死亡者が出る恐れがあるなどと言明することには、何らかの意図があるのではないか。

上記のブログでは、こんな言い方がされています。

日本では、当初から医療機関やマスコミが当局の言いなりで大騒ぎして無知な民衆の恐怖心を煽ってきた。この国の権力支配者らは、これでもって、大不況でますます困窮する庶民の関心をそらし必要な社会変革に向かう大衆の勢力をそぐことを狙っているのであろう。

切迫したワクチン接種の必要と逼迫したワクチン不足が宣伝されて接種優先順位を争わせる奇妙な悲喜劇が演じられている。これは品不足を大げさに宣伝して買いを煽り競わせる狡猾な市場操作商法(?shortage marketing?)である。
厚生労働省犯罪集団観さえもっている私にも、にわかには賛成できかねる話ですが、この仮説を受け容れるといろいろな疑問が氷解するのも事実です。

さらに同ブログは、次のように述べています。

○「新型インフルエンザ」は、自然発生したものではなく「生物兵器」として人工的に開発製造されたウイルスによるものである。
○今後これを世界中に蔓延させて、その「予防」対策として世界保健機関が主導する形で諸国政府に巨大製薬会社が製造した「ワクチン」を庶民大衆に強制的に接種させようとしている。
○この「ワクチン」の「接種」により人体の免疫作用が奪われて種々の病気にかかり易くなる。これは、まさに国際連合の機関と諸国政府による大量殺人であり、既に米国などでは人類に対するジェノサイドとして刑事告発されており、又各地でこの「ワクチン接種」の差し止めが提訴されている。

どうですか、恐ろしい話でしょう。
みなさんは荒唐無稽の話として一蹴するでしょうか。
私には、一蹴する気にはなれません。
もちろんこの記事に出会う以前から、私はワクチンを受けるつもりもありません。
これまで一度も受けたことがないのです。

■なぜ飢饉が起こるのか(2009年11月29日)
アマルティア・センは、インドの実態を克明に調査した結論として、飢饉は、利用可能な食物が社会的に不足していたためというよりも、合法的・合理的に取得できる財の範囲が極端に狭まったことが最も主要な原因だったと考えました。
そこから、彼の主要な経済や政治を見る概念が生まれてきたわけです。
思い込みを捨てると、全く違った風景が見えてくるということです。

日本の今の状況は、もしかしたらセンの指摘するような「飢饉状況」なのではないかと、最近、思うようになりました。
物財もお金も住居も、ありあまるほどある。
にもかかわらず、ホームレスや生活苦が発生しているのです。
センの議論からもっと学ばなければいけません。

日本の国家財政の赤字は巨額になっており、国民一人当たりにすると700万円を超えているそうです。
自治体財政まで含めると、さらに大きくなります。
そうしたなかで、もうこれ以上、借金を増やすべきではないという議論が多いです。
しかし、そうした議論は、お金を価値基準にしている人の発想かもしれません。

お金は私たちみんなの生活を良くするための手段です。
センの議論につなげれば、世の中にあり余っている財の合法的・合理的な活用につなげていくための手段だと考えれば、違った風景が見えてきます。

それに国家が巨額な借金をしているとして、私にはなんの不都合も感じません。
統計的には3人家族のわが家では2000万円の借金をしているということになるのでしょうが、そんな実感はありません。
お金がもっとあれば、マニフェストが実現でき、みんなの暮らしが良くなるのであれば、この際、無限にお金を増刷して100兆円程度の財政出動をしたらどうでしょうか。
おそらくインフレが起こり、円安が進行し、多くの人たちの借金は解消されるでしょう。
そんなことになったら大変だと専門家は言うでしょう。
でも何が大変なのでしょうか。
そうした変化が一挙に来たら経済や社会は混乱しますから、確かに大変です。
しかしそれを10年かけてやれば、どうでしょうか。

そんなに借金して将来世代に申し訳ないという意見もあるでしょう。
でも、たかが紙幣です。
ダムや高速道路を造るために自然を壊したら、将来世代には影響を与えるでしょうが、紙幣をどんなに増刷したところで、なんの影響があるというのでしょうか。
お金は単なる紙でしかないのです。
大切なのは、その意味と使い方です。

相変わらずの暴論ですが、そろそろお金信仰の呪縛から抜け出ないといけません。
もっとも、私が一番良いと思うのは、全ての借金を無効にする徳政令です。
トポラッチの効用を思い出すのもいいかなと思うのですが。
借金は一切返さなくてもいいということになれば、私の生活もだいぶ楽になりそうですし。

■葛飾政党ビラ配布事件判決と「表現の自由」問題(2009年11月30日)
政党のビラを配るためにマンションに立ち入ることは住居侵入罪にあたるかどうかで、最高裁に上告されていた「葛飾政党ビラ配布事件」の最高裁判決は、有罪になりました。
最高裁は弁論を開かずに判決言い渡しを決めていたのですが、やはり思ったとおりの判決でした。司法の流れはいまだ変わっていません。
飼い主が変わったことに気づかないのか、それとも変わっていないのか、わかりませんが、どう考えてもおかしな判決です。
少し前までは一向にお咎めがない行為が、ある時から犯罪として摘発されて有罪になるのは、司法の主体性が確立されていないことの証左ですが、最近は裁判官もまた正義ではなく金と権力にまみれていることの結果でもあります。
裁判官は正義の人と思っている人は少なくないでしょうが、正義をまとっている人ほど悪人はいないのです。
もちろんな正義に取り組む裁判官は決して少なくありませんが、この判決は、私が法学部で学んだ法理論からしてもおかしいです。
そもそも昨今の専門家は勉強をしていませんから(つまり資格で仕事をしていますから)、仕方がありません。

しかし問題はもっと深いような気がします。
こうした訴訟で取り上げられるのは、いつも、共産党なのです。
相変わらず日本では「共産党」は非合法の政党なのでしょうか。
ビラ配布事件で、自民党が起訴されたことはあるのでしょうか。
いまでも「共産党」に恐怖感をもっている同世代人は決して少なくありません。
みんなまじめな勉強家だったのです。
みなさんはどうですか。

今日、わが家に来客がありました。
その人は自民党支持派で、今の政権に大きな反発を持っています。
政治の話になるといつも大喧嘩になりますので、最近はお互いに政治の話はしないようにしていますが、その人の評価は、このブログで書いている私の意見とは完全に反対なのです。
まあ東大の総長やノーベル賞受賞者の意見に共感していますし、鳩山首相は資金問題に責任をとって自認すべきだと思っているようです。

この時評にも見ず知らずの人から私の考えを批判するコメントをもらいましたが、まあその人が言うように、みんな「色眼鏡」をかけてみているのでしょう。
みんな「精神病院」に行くのがいいかもしれませんが、まあ社会全体が最近は精神病棟のようなものですから、行かなくても大丈夫でしょう。

あれ、話題が変わりましたね。
やはり精神病なのかもしれませんね。
困ったものです。

■ラディカル・デモクラシー(2009年12月1日)
この時評でも紹介した「ガンジーの危険な平和憲法論」の著者のC・ダグラス・ラミスが10年ほど前に書いた「ラディカル・デモクラシー」(岩波書店)を読みました。
もっと早く読めばよかったと思いました。

いろいろと示唆に富んでいますが、一番共感できたのは、次の文章です。

重要なエコロジーは、自然保護区のエコロジーではなく、むしろ何世紀にもわたって生産活動に従事する人々が自然との対話を通して発展させてきたエコロジーである。農民と土壌と季節の間で、大工と道具と森の間で、陶工と土と火の間で、漁師と海と天候の間で交わされてきた対話である。

最近のエコロジーブームにどうも違和感があったのですが、この文章を読んで少し安堵しました。
違和感を持っているのは私だけではないと思ったのです。
エコロジーとは「つながりと対話」なのだと、改めて思いました。

もう一つとても納得できた指摘がありました。

ローマの市民は一つの組織体に組織されていたのではなく、2つの組織に属していた。共和国と軍隊である。

その仕組みは近代国家に引き継がれたと著者は言います。
そして、いまの日本では軍隊の代わりをしているのが経済だとしています。
そう考えると実にいろいろなことが納得できるような気がします。

そしてこういうのです。

ちなみに、近代国家という体制そのものが軍と共和制という二重性を持つ事実こそ、女性にこの体制内で全面的平等を与えることを困難にした一要因でもあった。

目からうろこが落ちました。
この本は面白いです。
この時評ブログも、まんざらとんでもない意見ではないという気がしてきます。
もしよかったら読んでみてください。

■生活保護の捉え方(2009年12月3日)
今日はなぜか「生活保護」について、2人の人と話すことがありました。
一人は生活保護から程遠いところのいる人、もう一人はすぐ近くにいる人です。
いずれも、とても誠実な人です。
しかし立場によって、同じことも見え方が違うものです。

一生懸命に働いても、生活保護でもらう金額とほとんど同じ収入しか得られない人がいる。
それはフェアではないのではないかと、最初の人はいうのです。
そう思っている人は少なくないかもしれません。
しかしそう考えることに、私は問題の本質があるように思います。

働かなくても150万円の収入がある人と、働いても150万円の収入しかない人と、あなたならどちらを選びますか。
私は躊躇なく後者を選びます。
働くことの報酬は金銭だけではありません。
そう考えることができるかどうかが、生き方を分けていきます。
21年前に会社を辞めた時、私は後者の生き方に人生を変えました。

生活保護を申請したらと言われるが、生活保護を受けるくらいなら死んだほうがいいと思うことがある。
これが次の人の話です。
その人は、かつては企業の経営幹部でしたが、いろいろとあって、いまは仕事をしたくてもできない状況にあります。
家族とも別れ、今は貯金もなくなってきたのです。
しかし生活保護を受けることに躊躇があるのです。

仕事をするだけが働くことではありません。
生きつづけること、そのこと自体が「働く」ことではないかと私は思います。
その人がいなくなって悲しむ人がいるとしたら、いるだけでその人は社会を支えているのです。
それにかつてはその人は企業で仕事をし、日本の経済も支えていました。
病気で今は仕事ができなくなったのだから、胸をはって生活保護を受けるのがいい。
その人にそういいました。
生活保護は胸をはって受けなければいけません。

そういえば、先日、お会いした方は、名刺に大きく「生活保護制度利用中!」と書いてありました。
実に堂々としています。
私にはとても好感が持てました。

■認知症予防ゲーム(2009年12月4日)
一昨日、認知症予防に取り組む高林實結樹さん(NPO法人認知症予防ネット理事長)を囲んでのコムケアサロンを開催しました。
今年の春、高林さんから認知症予防ゲームの活動のお話を聞き、とても共感しました。
現場ではさまざまな成果をあげているにもかかわらず、「科学的な実証」がされていないために、いわゆる「権威」からは認められず、思うように普及できないということでした。
それで普及活動を応援しようと思ったのです。

高林さんが認知症予防に取り組みだしたのは、ご自身の母親の認知症介護の体験からです。
そのきっかけは、静岡市の看護師増田末知子さんが開設された「認知症予防教室」との出会いでした。
その教室のモットーは、「あかるく あたまを使って あきらめない」であり、その頭文字、3つの「あ」、「A」をとって「スリーA」と命名されていました。

この方式は「科学的な実証」データが十分でないせいか、主流の人たちからは受け容れられませんでした。
日本では、現場の知よりも学者の知のほうが、一般に評価される風潮があります。
現場の知に勝るものはないと考えている私にとっては、世間的な「権威」はほとんどが「似非専門家」に思えますが、世間はどうもそうではありません。
私たち生活者にとって大切なのは、現場の知です。
権威や名声にだまされてはいけません。

集りでは、高林さんがどういう経緯でこの活動に取り組んでいるかも話してくれました。
とても心に響く話でした。
いま私はさまざまなNPOや市民活動に関わらせていただいていますが、自分の体験を出発点にした活動には共感することが多いです。
頭で考えてはじめた市民活動はなかなかうまくいきません。
専門家といわれる人たちへの信頼感は、今の私にはほとんどありませんが、知の体系が大きく変わってきていることを実感しています。
集りに参加してくれた高齢者福祉に取り組む専門家の方たちもとても共感してくれました。
サロンには、お母さんのことを心配している方が参加してくれましたが、ゲームを体験した後、自分のお住まいの地域で活動を行いたいと言ってくれました。

認知症予防ゲームを体験してみて、これは認知症予防に限らずたくさんの効用があるように思いました。
うつ病対策にもいいでしょうし、元気をなくしてきている企業従業員の活性化にも効果がありそうです。
もちろん普通の人のコミュニケーション環境を向上させるためにも効果的です。
ゲームの概要は高林さんのまとめたテキストがありますので読んでほしいですが、やはりその価値は実際にゲームを体験してみないとわかりません。
もしお近くで、高林さんがお話をされる場があれば、参加してみてください。
高林さんたちの研修会や講演の予定は、認知症予防ネットのサイトに書かれています。
多くの人たちに、高林さんたちが広げようとしている「スリーAゲーム」の考え方に触れてほしいと思います。

私が取り組んでいるコムケア活動は「大きな福祉」を理念にしています。
福祉の根底にあるのは「つながりと支え合い」という発想で、個別問題から発想するのではなく、人の生き方から考えるという姿勢を、大事にしてきました。
実践や現場の場にいる人たちは、個別問題に取り組んでいるようで、実は問題の背景にある社会のあり方や人の生き方に取り組んでいることは、コムケア活動を通して知りました。
高林さんが取り組んでいる認知症予防ゲームも、決して認知症予防だけのものではありません。
高林さんは、このゲームで本人や家族はもちろんですが、地域社会も日本も世界もよくなっていくと確信しています。

高林さんたちの活動は、最近、関西を中心に西日本で広がりだしています。
しかし東日本ではまだほとんど知られていないのです。
これを契機に拡がってほしいと思っています。
広げていくことに汗と知恵を出してもいいという方がいたら、ご連絡ください。

■新潟水俣病のこと(2009年12月6日)
新潟水俣病資料館に行ってきました。
新潟にいる金田さんの案内で、アポイントもなく立ち寄らせてもらったのですが、
塚田館長にお会いでき、しかも2時間以上にわたってじっくりとお話を聞かせてもらいました。
改めて、水俣はまだ終わっていないと痛感しました。
そして若い頃感じたアカデミズムへの憤りを思い出すとともに、その中で誠実に取り組んでいる人たちへの敬意の念も思い出しました。
軽い気持ちで立ち寄ったのですが、私にとってはずっしりと心に応えた日になりました。

塚田さんから新潟水俣病が確認された当時、厚生省から出向していた新潟県衛生部長の北野博一さんの話をお聞きしました。
感動しました。
厚生省にもこういう人がいたのだという話です。
見事な対応でした。
しかし、その後、動きは鈍くなります。
大きな経済が、小さな生活に勝ってしまったのです。
コラテラルダメッジの一例でしょうか。

北野さんの名前は私の頭の中にしっかりと入りました。
帰宅してネットで調べたら出てきました。
お時間があれば読んでください。

この記事に出てくる坂東弁護士がエントロピー学会で昨年話された講演の記録を以前読ませてもらいましたが、その坂東さんが書かれた「新潟水俣病の三十年―ある弁護士の回想」を読もうと思います。
久しぶりにまた水俣病に関心が戻ってきました。
つながりと支え合いが壊れだした原点が、もしかしたらそのあたりにあるのかもしれません。

塚田さんが、北野さんの原点はハンセン病療養所に関わったことらしいです、と教えてくれました。
その話しぶりがとても説得力がありました。
現場を知っている人は本当の人生を生きられる、という私の仮説に合っています。

塚田さんは最後に、私が管理している宝物をお見せしますといって、書庫を案内してくれました。
訴訟に関する克明な記録、原告の日記などが積まれていました。
塚田さんは、それを時間をかけてパソコンに入力されているようです。
こうした人によって社会は支えられているのだ、と改めて頭が下がりました。
自分の生き方の軽さを反省させられた1日になりました。

■漢字がなくなる?(2009年12月7日)
昨日、「サケ」ではなく「鮭」と書くことにしたと書きました。
漢字の持つ意味を大事にしようと思ったからです。

今日の朝日新聞の夕刊の「ニッポン人・脈・記」は、漢字などやめてしまえという人たちがいるという書き出しで始まっています。
登場するのは、漢字廃止論者の梅棹忠夫さん、22世紀末には漢字は滅亡すると予測する安本美典さん、それに感激したという日本語学者の野村雅昭さんです。
なんだか悲しくなる人たちです。

安本さんは統計好きな学者で、邪馬台国論争も退屈にしてしまった人だというのが私の人物評ですが、近代の申し子のような単細胞の人だと思います。
彼の論拠は、泉鏡花の「高野聖」から三島由紀夫の「潮騒」までの小説100作品を分析して、作中の漢字の数の減少傾向を延長して、そういう結論を出したわけです。
子どもでもできる研究です。
まあこういうのが「専門家」の研究というわけです。
安本さんは文章心理学者といわれていますが、私にはとても不思議な気がします。
安本さんには「意志」とか「創造性」とかはあるのでしょうか。

かくいう私も、実は昔は「かな文字愛好者」でした。
会社に入社した時、漢字の多いビジネス文書に反発して、かな文字中心で書いたら上司から怒られました。
そこで、私はかな文字論者なのですと、開き直って、さらに怒られました。
まあ入社時には、そういうことが少なからずありました。
それでも自発的に会社を辞めるまで、25年間、仕事をさせてもらいました。
良い時代だったのです。

私はかな文字が好きですが、漢字も好きです。
漢字の持つ表情が好きなのです。

梅棹さんが漢字嫌いな理由が、その記事に書いてありました。
「漢字から脱却しなければ、日本の未来は危うい。漢字のしがらみが文明の進歩を邪魔しています。」
私がこの時評で展開している暴論よりも、よほど悪い冗談のように思えるのは、私だけでしょうか。
こういう人が日本のこの50年の文化を先導してきたのです。
私には、「困ったものだ」としか言いようがありません。
私が、権威や専門家を信頼しないのは、こうしたことがあまりに多いからなのです。
視野がいかにも狭いのです。

■政府間合意に拘束性(2009年12月9日)
昨日、電車の中で前の人が読んでいた日刊ゲンダイの見出しが気になり、ネットで読んでみました。
こういう記事です。

<大新聞が報じない 沖縄米軍移転のウラ事情>
米軍・普天間基地の移設問題は、鳩山政権のモタつきばかりがクローズアップされているが、実は米国側も揺れている。日本の大新聞は連日「米国は怒っている」の大合唱で、「日米合意を破ったら大変なことになる」と鳩山政権を追い詰めているが、日米合意を破るのは、米国側かもしれないのだ。沖縄の海兵隊は5年後にグアムに移転することになっているが、グアムでは不具合が生じることが分かったという。米国のホンネは、鳩山政権の混乱に乗じて海兵隊移転を白紙に戻し、沖縄に居座ることだと指摘する声もある。(日刊ゲンダイ2009年12月8日)

高名な学者や専門家たちは、「国家間で一度できた合意は破っては継続性が保たれない」と言います。
テレビのキャスターやコメンテータも、そういう発言をよくします。
しかしこの発言が正しい根拠は何でしょうか。
過去にしばられることを正義とすれば、40年前に政府が決めたダム建設にまつわる契約も正当化されます。
しかし過去は絶対的なものではありません。
そんなことは生活レベルではみんなわかっているはずですが、なぜか政府の約束は変えられないといわれればそれに納得してしまいがちです。
そこには主体性はありません。
私はそれこそが「臣民の本性」だと思います。
システムに隷属している人の発想です。
システムは、生きた生活のためにこそ、あるべきです。

そもそも政府とは何でしょうか。
その時の住民の意思を超えた政府があるのか。
それに、政府としての契約主体も所詮は、ある個人でしかないのです。
沖縄密約の存在が、そのことを証明してくれています。
そんなものに縛られることはありません。

継続性とは何でしょうか。
関係性の概念を入れると、実は継続性とは変わることともいえるでしょう。
そんな言葉にだまされてはいけません。

いまこそみんなで日米関係や基地のあり方などを根本から考えなそう時期だろうと思いますが、
どうもマスコミはそうはさせたくないようです。
マスコミは完全に米国のための存在になっています。
少し前までの日本政府と同じです。

最大の敵は、味方面した根無し族という教訓を思い出します。
主体性を持たねば、いい人生は送れません。

■オバマ大統領に象徴される現代の平和の恐ろしさ(2009年12月10日)
オバマ大統領への「ノーベル平和賞」に関して、異論が高まっています。
ようやくとは思いますが、当然のことが報道されだしたことに少し安堵しています。
どう考えてもオバマは平和賞には値しないでしょう。

ところでアフガニスタン戦争ですが、これは一体どことどこの戦争なのでしょうか。
不覚ながら、あまり考えたことはありませんでした。
タリバンとアメリカ金融資本の戦争でしょうか。
そんなことはないでしょう。
戦争ができるのは国家しかいません。
後はみんな犯罪やテロといわれます。
ではアフガニスタンとアメリカの戦争なのか。
そうだとして、ではなぜアメリカはアフガニスタンに戦争を仕掛けたのか。
そして守るべき国益は何なのでしょうか。

ベトナムに続いてイラクでもアメリカは泥沼に入り込みつつありますが、アフガニスタンでも同じでしょう。
アメリカという国家は、どこかで「戦争」を続けていなければ持続できない国家なのでしょうか。
オバマ大統領に象徴される現代の平和の恐ろしさを垣間見る気がします。

そのアメリカに守ってもらっている日本とはいったい何なのか。
考えていくとますます訳がわからなくなってきます。
こう考えていくと、普天間基地問題の見え方も変わってきます。

■ジハード、聖なる戦争(2009年12月12日)
オバマ大統領のノーベル平和賞受賞スピーチは、ジハードを認める事が平和だというメッセージです。
平和がもし暴力によってもたらされるのであれば、平和は暴力の一過程でしかなくなります。
なぜなら暴力は暴力を必ず生み出すからです。
この論理では、いうまでもありませんが、9,11事件も正当化されます。

多くの人に、ぜひとも「ガンジーの危険な平和憲法案」を読んでほしいです。

■普天間基地問題への鳩山首相の取り組みを評価します(2009年12月13日)
普天間基地問題に対する鳩山首相の取り組みにとても共感しています。
私の鳩山首相への信頼感は世論とは反対に高まっています。

鳩山さんはともかく沖縄から、さらにいえば日本から米軍の基地を少しでもなくしたいと思っているのではないかと思います。
それが普通の感覚だと思います。
少なくとも私は大学に入って少し洗脳された1960年からずっとそう思っています。
その視点から考えれば、鳩山さんの発言は違和感なく受け入れられます。

閣僚の意見がばらばらだといいますが、私はホメオカオスの典型的な状況のように感じます。
最初から決めるのではなく、動きながら決めていく。
多様な意見がぶつかり合う過程でしかるべき方向に収まっていく。
一言でいえば、きわめてエコロジカルなアプローチです。
よほどの信念のある人でないと出来ない取り組みです。

静態的な均衡モデル発想では、ノイズは除去されるべき存在ですが、動態的な自己組織化発想では、ノイズ(ゆらぎ)は自己触媒的にゆらぎを育て、状況を新構造へ進化させます。
「創造的な個の原則が集団の原則を凌駕する」というわけです。
その際、進化の到達点は、どのくらいの異質なノイズを包摂しているかによって決まります。

ダーウィン進化論に異を唱えた今西錦司は、「生物と環境のあいだのバランスが保たれている限り、その生物にとっては突然変異を必要としないが、環境との問にアンバランスが生じ、それによって生物がテンションを感じるようになれば、その解消のために生物はそのレパートリーの中からこれに適した突然変異をとりだし、自分をつくりかえることによって環境とのバランスをとりもどし,再適応をとげていく」と著書に書いています。
昨今の普天間基地問題の議論の動きを、まさにそんな枠組みで見ると、現状のホメオカオティックな状況は輝いて見えてしまうわけです。
一見、混乱しているようでも、そこには見事なまでの「進化的に安定した戦略」があるのです。

かなり買いかぶっているといわれそうですね。
たしかにその通りです。
鳩山さんが救世主だと思っているからです。
彼は毒されていないのが信頼できるのです。

母親からの9億円の提供は、たしかに行政手続的には違法行為でしょうが、母親が子供を応援するのは自然の情理です。
たまたま9億円などと金額が大きかったのですが、鳩山家にとっての9億円はわが家にとっての100万円程度でしょう。
そう考えれば、私は娘が困っていたら100万円くらいは工面します。
親子の情とはそんなものです。
しかも、鳩山親子は私たち国民のために9億円も使ってくれたのです。
もっとも、その9億円に集まってきた人がしっかり役立ててくれたかどうかはわかりません。
しかし、その善意には私は感謝したい気分です。

またきっと辛らつなコメントがくるでしょうが、私は鳩山さんの純粋さに期待しています。

■相談には乗ってくれないのですか(2009年12月14日)
湯島にある私のオフィスを「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」の事務局に提供しています。
電話も事務局に使ってもらっています。
事務局といっても普段は誰もいません。

そこで私がいるときには私が電話に出ます。
電話はお金がないので私のオフィスとも共有していますので、最近は何と言って電話に出ればいいか迷います。
いまは「佐藤です」と電話に出ます。
一瞬、相手が戸惑い躊躇する雰囲気が伝わってくる場合があります。
それが「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」事務局あての電話なのです。
そこで、「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」事務局と言い直します。
電話口の向こうから、ホッとしたような安堵感が伝わってきます。
電話は声だけではなく、気持ちもしっかりと伝えるものだと最近わかりました。

「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」事務局は、自殺に関する電話相談は受けていません。
中途半端な相談はマイナスだというのが理由ですが、実際は相談を受けるまで私自身が腹を決めていないだけかもしれません。

今日もオフィスで仕事をしていたら電話がなりました。
友人からの電話を待っていたので、彼からだろうと電話に出ました。
違いました。すぐにわかります。

自殺に関する相談は受けていません。
相談であれば、こういうところに電話したら相談に乗ってくれるかもしれません。
そう答えます。
いや、そう答えていました。
相手はそれでもとても感謝してくれます。
しかし、電話を切った後、いつもとても自己嫌悪に陥るのです。
これこそ中途半端ではないか。

今日の電話は緊迫感がありました。
自殺しようという電話ではありません。
不思議なのですが、相手の気持ちはなぜか伝わるのです。
それだけ相手は真剣だということなのでしょう。
今日の電話の相手はたぶんDVがらみではないかと思いますが、シェルターを探していました。
つまり身を隠すところです。

私が紹介した場所の多くには彼女はもう既に電話したようです。
行政にも相談に行っているようです。
そして、そのすべてに失望感を持っていることが伝わってきました。
彼女と話していて、シェルターを紹介してくれるかもしれない人を思い出して伝えました。
すぐに電話するといいました。
ともかく切迫しているのです。
電話が切れなくなりました。
さてどうするか。

余計なことを言ってしまいました。
死のうなどと考えてはいけない、必ず道は見つかりますよ。
思わず出てしまった言葉ですが、話しながら自分の気持ちが動き出しそうなのがわかりました。
出来ることなら、相談にいってあげたいという気持ちです。
相談者としては失格なのかもしれません。
それをこらえて、何かあったらまた電話してください、と言いました。
その言葉が出るまでに少し間がありました。
そのため、相手の人は話が終わったと思い、電話を切ったのです。
相手の人にその言葉が伝わったかどうか、微妙です。

たかだか数分のやりとりでしたが、終わった途端にまた自己嫌悪に襲われました。
もし私が電話の向こう側にいる立場だったらどうだったか。
そう思うと心が痛みます。

この1か月で、こういう電話を何回受けたでしょうか。
電話などで見ず知らずの人にではなく、近くの人になぜ相談することができなくなってしまったのか。
こういう社会はどう考えてもおかしいです。
近くにちょっと様子のおかしい人がいたら、声をかけましょう。
そうしたら自分がそうならずにすむはずです。
それに支えあいながら解決策を考えたら、必ず道は開けるはずです。

そう思うのですが、最近はあまりに問題が多すぎます。
テレビの自殺関係の報道番組には、わたしはとても違和感があります。
自殺対策への基金もできたようですが、現実はそんなに悠長ではないのです。
現場は本当に切迫しているのです。

■手続き論より実質的な意味が大事でしょう(2009年12月15日)
中国の習近平中国国家副主席と天皇との会見に関して、小沢民主党幹事長と宮内庁長官とのやりとりが話題になっています。
この大変な時期に、そんなことは瑣末な話だと思うのですが、天皇を利用してきた宮内庁の官僚たちには保身上、重要な問題なのでしょう。
宮内庁などは全く時代錯誤の無駄の典型だと思いますが、無駄な人ほど自らの正当化を主張したくて手続きや制度に依存することになります。
彼らにとって大切なのは、「価値」ではなくて「手続き」なのです。
それしか拠り所がないのですから。
しかし、大切なのは、その会見が私たち国民にとって価値のあることかどうかです。
そういうことを議論しているのは、民主党だけでしょう。
読売新聞を筆頭にして、ほとんどのマスコミはそんなことなどどうでもよく、ともかくかつての利権構造の回復に向けて世論をあおっているだけのように思います。
最近のマスコミは、せっかくのスキームチェンジの芽をつぶす役目しか果たしていません。

いささか品格のない書き方になりましたが、「国家の品格」の著者の藤原さんのこの件に関する発言に比べたら、まあ許されるでしょう。
藤原さんのような人と比べられたくはありませんが。

羽毛田長官の発言には、事業仕分けで本性を見せた女性教育会館の理事長を思い出します。
自分の仕事の相対化が出来ていない、最悪の官僚です。
そういう人たちに私の税金が使われていると思うとやり切れません。
彼らは「ミッション」などどうでもいいのであって、ともかく「保身」にしか関心はないのかもしれません。
念のためにいえば、その「保身」とは「個人の保身」ではありません。
そこにややこしさがあります。
「体制の保身」です。
貧しい人たちの汗の上に、安楽な暮らしの出来る人たちを守る体制です。
つまり自らを安楽に暮らせる体制を維持したいということです。
個人の保身よりも悪質です。
何しろ自分では汗をかかないのですから。
またいささか過激になりました。

自殺しか選択肢がないと思う人が増えています。
昨日も就職活動をしている大学生に会いましたが、30代の若者たちの仕事環境のきびしさも一向に改善されません。
中小企業の経営の厳しさの話も聞こえてきます。
これまでの蓄積で楽をしている高齢者は少なくありませんが、そうでない高齢者の不安も高まっています。

そうした社会にしてしまった官僚と政治家と財界人の責任は大きいです。
科学者の責任も例外ではないでしょう。
予算が削減されたぐらいで文句を言う前に、自らの責務をもっときちんと果たせといいたいです。
あてがわれた税金を当てにする前に、自分たちでしっかりと基金活動でもすればいいのですが、日本の科学者はそんなことは全くしません。
ただ税金に期待するだけです。

まただんだん怒りがこみ上げてきました。
最近、すべての人に腹が立つのです。
もちろん自分自身も例外ではありません。
困ったものです。

■半農生活と農的生き方(2009年12月17日)
昨日、半農生活をテーマにしたサロンを開催しました。
20人ほどの人が集まりました。
農業への関心の高さを改めて感じました。

一昨日、NHKのクローズアップ現代で「農業ビジネス」が取り上げられていました。
イオンが茨城県に農園をつくったとか、自治体が地域活性化のために企業を誘致して農業に取り組んでもらうというのがテーマでした。
いわゆる儲かる農業、アグリビジネスです。
これに関する私の意見は前にも書きましたが、儲かる農業という発想自体に限界を感じます。

番組では牛久市の市長が、もう10年もしたら農業をやる人はいなくなるといっていました。
以前からずっと言われ続けている警告です。
だから企業に農業の担い手になってもらうということでしょうか。
それこそ農業をなくすことではないかと私は思います。
農業は決して「産業」ではないのです。
文化です。
その文化がなくなるはずはありません。

農業は「農」と「業」のどちらに重点を置くかで全く違ったものになります
業としての農業ではなく、農としての農業は、人間がいる限りなくなくなりはしないでしょう。

昨日のサロンは実にさまざまな人たちが集まりました。
小作料を増やしたい、相続した農地を有効活用したい、農業分野で起業した人を応援したい、企業の社会貢献活動として農業にかかわりたい、地域史の研究の関係で農業を学びたい、職位句を考えるためにも農業を知りたい、まちづくりの切り口に農業を活かしたい、などなど実にさまざまな動機で集まっています。
実際に農業活動をして、その魅力に取り付かれた人も少なくありませんでした。

思いや動機はさまざまですが、話を聴いていて、基本的なところでは通底していることを感じます。
みんないまの生き方を変えたいのです。

ここが重要なポイントです。
業としての農業を考えていては、それは実現しません。
発想の基点を変えなければいけません。
そして発想の基点を変えれば、別に農業をしなくてもいいのです。
大切なのは、農的生き方ということです。
そこをあいまいなままにした「農業ブーム」は百害あって一利なしです。
この私の考えが間違っていればいいのですが、

私の今の生き方は、かなり「農的生き方」なのですが、なかなかみんなにはわかってもらえません。

■「会話のない社会」と土浦連続殺傷事件(2009年12月19日)
土浦連続殺傷事件で水戸地裁は26歳の被告に死刑判決を下しました。
その事件で息子を失った被害者家族の方が、「本音を言うとね、彼がかわいそうな気もしたんだよ」と事前の取材で語っていたと昨日の朝日新聞に報道されていました。
彼とはもちろん被告のことです。
被告が「会話のない家庭」で育った生い立ちに同情することもあったというのです。

「会話のない家庭」。
そういえば、秋葉原事件の被告は「会話のない職場」で孤立していたのかもしれません。
いまはまさに情報や言葉はあふれていますが、「会話のない社会」になってきているのかもしれません。
みなさんの周りはどうでしょうか。
会話があふれているでしょうか。

私のオフィスではよくサロンをやっています。
そこに参加した人が時々、安心して本音で話ができて居心地がよかった、というようなことをいいます。
ということは、そういう場がいまは少なくなっているのかなと思います。
私のような歳になると、どこでも本音でわがままに話せますが、それが一般的ではないのかもしれません。

私の知人が「対話法」を独自に開発し、それを広げる活動をしています。
私も以前「対話の時代」という連載記事を雑誌に寄稿していましたが、いまは「対話」よりも「会話」が大事ではないかと思っています。
しかし、会話以前に「対話」すらできなくなっているとしたら、こうした事件はこれからも起こりそうです。

「本音を言うとね、彼がかわいそうな気もしたんだよ」。
その気持ちはとてもよくわかります。
この事件意外でも、そう思うことが私も時々あります。

ではどうしたらいいか。
会話のない社会を変えていくことが大事です。
私が取り組んできた「自殺のない社会づくりネットワーク」というのがあります。
いま少し関わりだしている子育て支援の活動があります。
信濃川に鮭を遡上させるプロジェクトがあります。
そうした活動に関わっていて、改めて感ずるのは「話し合い」「会話」の不足です。
根底にあるのは「会話のない社会」です。
それを変えていけたら、解決する問題はたくさんあります。
そうであれば、変えなければいけません。
それは簡単なことです。
会話をはじめましょう。
まずは家族、そして隣人、さらには仕事仲間。
表情のある会話を取り戻しましょう。
一人でもできることはたくさんあります。
だれかに同情しなくてもいい社会を目指したいです。

■現状を批判しても、未来を語る人は少ない(2009年12月19日)
鳩山首相の評判はかなり悪いようです。
指導力がない、説明能力がない、母からもらった小遣いの管理もできていないのに国家財政を管理できるのか、お人好しで人の意見を聞きすぎる、小沢さんに頭が上がらない、マニフェストに縛られすぎだ、まもなく小沢さんに切られるだろう、・・・・

まあそのほとんどは否定できないのもまた事実です。
しかし、そうした世論を作ってきたのはマスコミです。

マニフェストとちょっとでも違うことを言うとマスコミが批判し、それに乗じて世論も騒ぎ、
マニフェストを守ろうとするとまたマスコミに叩かれ、それに乗じた世論が騒ぐ。
マスコミも国民の多くも偏差値教育のせいか、理解力が極端に乏しくなっていますから、融通とか言葉の多義性とかは全く通用しませんし、価値の大小を判断する視点もありません。
前にも書きましたが、そうしたなかで一部の政治家はよくやっています。
おそらく自民党議員が政治よりも金儲けになったのは、そうした状況に嫌気がさしたからではないかという気もします。
民主党議員はまだ少しは政治をやろうとしているように思います。
無責任なマスコミや国民のためにがんばっている政治家には頭が下がります。

昨日、20代の若者がやってきました。
オマーンに行った時、現地の若者たちが目を輝かせて、未来を語っていたのに感動した話をしてくれました。
日本の若者とはまったく違うというのです。
その違いは、たぶん若者の違いではなく、私たち大人の違いなのでしょう。
いま私たちは思いを持って未来を語っているでしょうか。
現状を批判しても、未来を語る人は少ないです。

未来は見通すものではありません。
自分で創るものです。
しかし、未来を語る人が少なくなりました。
みなさんはどうでしょうか。
自分が目指す未来をイメージしているでしょうか。
私はそれなりにイメージし、この50年、それを基軸に生きてきました。
小さなところでは変化はしましたが、大きなビジョンは高校生以来変わっていません。

現状を批判するためにも、未来を語るビジョンがなければいけません。
未来ビジョンのない現状批判などあるはずがないからです。
私が鳩山さんを信頼するのは、鳩山さんには未来のビジョンを感ずるからです。
みんなから嫌われている小沢さんにも、未来のビジョンを感じます。
私が信頼できる人は、共感できるかどうかは別にして、未来を語っている人です。
現在を語るのであれば、私にも語れますから。

鳩山いじめをする社会が、とてもさびしいです。

■「介入」という言葉の語感(2009年12月20日)
私は思い込みが強いために、よく失敗をしているのですが、つい最近の「失敗」の事例です。

ホームページには書いたのですが、先週、介護予防に関するある小さな委員会がありました。
私も場違いながら、その委員になったのですが、事務局の説明を聞いていて引っかかった言葉がありました。
その言葉は「地域介入」という言葉です。
介護予防プログラムが効果的に展開知るために、地域に介入するというような表現で話されました。
ドキッとしました。
まさに「生政治」の恐ろしさを感じてしまったわけですが、あまりにそのインパクトが強かったため、介入って凄い言葉ですね、というようなことを言ってしまいました。
みんなきょとんとしていたのにさらに違和感を持ってしまい、こうした用語に研究の姿勢が出ていますね、などと少し感情的な発言をしてしまったのです。
私以外は専門家なのですが、そのお一人が「インターベンション」の訳語ですよ、と教えてくれました。
インターベンション。確かに私がささやかに関わっている自殺対策でも「危機介入」と訳されて使われています。

しかしどうもすっきりしません。
介入という言葉には植民地主義を感じさせます。
私が会った福祉の専門家は、ほぼ例外なく、目線が高かったのですが、まさに介入も目線の高さを感じます。
辞書的にいえば、文字の形が示しているように、間に入ることなのでしょう。
しかし、私にはなぜか権力のにおいを感じます。
過剰反応かもしれません。

私が保育の世界に関わりだした時に驚いたのは「措置」という言葉でした。
保育に欠ける子どもを措置するなどと語っている保育者にあうと、それだけでもその人を信頼できなくなりました。
しかし、驚くべきことにみんな「措置」というのです。
その後、社会福祉の基本構造が法的には変わり、措置から契約に変わりましたが、今もって福祉の世界は「措置」の世界です。
最近、介護保険関係の研究会にも参加させてもらったのですが、形式はともかく実態は措置の世界です。

言葉は人の意識を規定していきます。
私は自らが使う言葉にはかなりこだわりを持っています。
「措置」に関しては、多くの人が否定的に捉え、最近はあまり使われませんが、「介入」はどうでしょうか。
権力や差別を感ずるのは私だけでしょうか。
ちなみにインターベンションには、調停とか仲裁とかいう訳語も当てられています。
そこには垂直構造ではない水平構造の感じがします。

■地球温暖化問題への不謹慎な意見(2009年12月21日)
地球温暖化の問題がどんな意味を持っているのか、私にはどうも理解できずにいます。
コペンハーゲンのやりとりの報道を見ていると、要するに損得の話であって、誰も本気で心配していないのではないかという気もします。
損得の話には、私は興味がありません。

そういえば、「地球温暖化論に騙されるな!」という本も講談社から出版されています。
すでに温暖化の時代は終わり、地球は寒冷化の時代に入ったというのです。
その本によると、2007年1月と2008年1月の平均気温を比較すると0.6度も下がっているというのです。
私はまだその本を読んではいませんが、その本は、だから大丈夫だなどとはいっていないようです。
問題は地球の水と空気の汚染です。
本来自然には存在しないはずの人口的な物質が毎年6000種類のペースで増えているのだそうです。
恐ろしい話です。

私には温暖化よりもそのほうがリアリティを感じます。
温暖化は、暖かくなっていいなと思う程度なのです。
見識のある人たちからは嘲笑されそうですが、それが私の実感です。

環境負荷を少なくすることには異論があるわけではありません。
しかし環境問題を口実に、企業も政治も環境負荷を高めているようにしか、私には思えません。
環境問題を論じている人で、本気で行動している人にはめったに出会えません。
難しい議論をする前に生活を見直すだけでかなりのことはできるのです。
自民党政府が始め、民主党政府までもが継承したエコポイントなどは愚の骨頂というか、環境負荷を高めるだけのものでしょう。
しかも仕組みが環境負荷を高めるようになっています。
目的は産業活性化なのですから当然の話です。

言説の時代の問題は、物事が大げさになることです。
それを否定はしませんが、それでは問題は解決しないというのが私の基本姿勢です。
たとえば自殺者を減らすためには自殺問題解決に取り組んでもだめでしょう。
介護保険制度をつくれば要介護者が減るわけではありません。
子ども手当てを増額すれば子どもが増えるわけでもないでしょう。
持続可能な経済を考えようとすれば、ますます持続可能性を損なうことにもなりかねない。
そんな気がしてなりません。

ではどうするか。
自らの生き方を変えることです。
まずは自分自身の生き方を変えていく。
それがすべての出発点です。

アメリカの森林管理官だったA.レオポルドは、人間と自然とを分けて考えるのではなく、ある土地に生きる人間と自然の関係全体を「生命共同体」と捉えて考えようと提案しました。
キリスト教の国からこういう発想が出てくるのはすごいと思いますが、これが日本人の昔からの生き方だったのではないかと思います。
私にはなかなかそういう生き方はできませんが、せめて意識だけはそうしようと心がけています。
そのためにも、自分で実感できない言説にはあまり振り回されないようにしています。
温暖化にしろ寒冷化にしろ、私の手には負えません。
できるのは極力無駄な電気を使わず、お金を使わず、食材を大事にすることです。
それなら私にも、それなりにできますから。

■スリーA方式による認知症予防ゲームの講演会を東京で開催したい(2009年12月23日)
昨日、自殺のない社会づくりネットワークの交流会を開催しました。
今年はこのネットワークの立ち上げにかなり時間を割いてきましたが、その始まりは1通のメールからでした。
東尋坊で自殺予防の活動をしている茂さんから1通のメールが届いたのです。
自分の活動を東尋坊だけにとどめることなく、日本全体で考える仕組みをつくりたい。
そして、自殺多発場所とされるところで防止活動をしている人たちのネットワークをつくりたい、自殺を考えた人たちの体験を交流しあい支え合う場を開きたい、自殺を思いとどまって自立に向かってがんばっている人たちを支える人たちのネットワークをつくりたい。
この3つが、茂さんの夢だというのです。
そのメールを読んで思いました。
夢は実現しなければいけない、と。
それで茂さんに「夢は実現しましょう」と連絡しました。

そのネットワークはようやく実現し、動き出しました。
コンセプトデザイナーとしての私の仕事は、かたちを作り出し、そこに「心」を入れることなのです。
昨日の交流会で、ネットワークに心が入って動き出したことを確信しました。
少しさびしい気もしますが、そろそろ私の役割は終わったのだろうと思います。

ところがまさにその翌日の今日、認知症予防ネットワークの高林さんという人がメールをくれました。
高林さんは、スリーA方式という認知症予防ゲームを広げることをライフワークにしています。
残念ながらスリーA方式はその道の権威には認められていないのですが、現場ではさまざまな効果を上げているそうです。
しかし、高林さんの尽力で最近少しずつ西日本では広がり出していますが、東日本ではほとんど知られてもいないのです、
その高林さんが昨夜見た夢は、東京で大きな講演会を開催している夢です。
昨年末と同じく、また「夢を見た人」からの夢の話です。
また「夢は実現しなければいけません」と返信してしまいました。

どなたか応援してくれませんか。
できれば春に高林さんを中心にした、スリーA方式による認知症予防ゲームに関するシンポジウムを開催したいと思います。
手伝って下さる人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いいたします。

夢の実現に取り組んでいる人は応援しなければいけません。

■亀井静香さんのこと(2009年12月24日)
亀井さんや小沢さんは、いかにも昔の政治家という感じのイメージが共通していますが、2人ともとても善人なのではないかなと言う気がします。
私はどちらかと言えば、亀井さんが好きなのですが、それは口調のしです。
記者会見で、「政府ってだれのこと? 私が政府です」と言っていたのは、実に傑作でした。

私は小沢さんの政策は好きになれませんが、それはそれとして、その仕事ぶりには敬意をもっています。
私の考えには全く合いませんが、信念を感ずるからです。
小沢さんは国家を考えているように思います。

亀井さんが好きになったのは、10年近く前に出版された岩波新書の「ダムと日本」を読んでからです。
この本は公共事業、とりわけダムに対して厳しいチェック活動をしていた天野礼子さんが書いた本です。
この本がもう少したくさん読まれれば、日本のダム政策はもう少し早く変わったでしょう。
いまもなお毎年おそらく数千億円の税金が全く役に立たないダムのために使われているような自体は起こらなかったでしょう。
前原さんも、今のように苦労はしなかったはずです。

この本に亀井さんは登場し、天野さんとの関係が出てきます。
立場や意見は違っても、しっかりと意見を聞き、行動の材料にする。
それが亀井さんの信条のようです。
亀井さんは自分では「悪いのは顔だけ」と言っていますが、彼の目は社会をみているように思います。

今日、テレビで大塚耕平内閣府副大臣(郵政担当)が、亀井さんには問題の本質をしっかりと見えている、というような発言をしていたので、こんなことを思い出してしまいました。
それにしても昨今のニュースキャスターやコメンテーターは、もう少し問題を本質を考えて欲しいものです。

■来年はもっとポジティブな時評を目指したいです(2009年12月30日)
最近、時評が書けていません。
単に時間不足なためですが、不思議なもので時評を書かなくなると社会の動きもあんまり気にならなくなります。
時評していると時評したくなるテーマが次々と出てきます。
時評しなくなると時評したい話題も出てこなくなります。
いろいろなことが気になるから時評するのか、時評するから気になるのか。
時評しないで世間の動きなど気にせずにのんびり生きるのが幸せなのかもしれません。

それに最近つくづく思うのは、世上、ネガティブ・コメントが多すぎるということです。
ジャーナリズムのエトスは、批判精神ともいわれますが、相手を貶める批判ではなく、相手を正す批判でなければいけません。
これは結構難しく、私にはなかなかできません。
この時評もネガティブ・コメントが多すぎるので、時に自己嫌悪に陥ります。
他者を時評することは自らをさらけ出し、結果的には自己時評することでもありますので、時々深い嫌悪感に襲われるわけです。

対象がどんなものであろうと、ネガティブな評価は極めて簡単です。
この世に完璧な動きなどあろうはずもありませんから、いかようにも酷評できるのです。
その一方で、褒めるのは難しい。
この時評でも褒めることを書く努力は何回か試みましたが、うまくいきません。
それはおそらく自らが自立していないことが影響しているように思います。
自らに自信のある人は、決して人を見下したり、ネガティブ評価はしないでしょう。
どんな対象の中にも、価値を見出せるのです。
残念ながら、私はそうした心境には程遠いことが、時評を書いていてよくわかります。

このブログは、時評と挽歌から構成されています。
全く異質に見えるこの2つのことが、書いている立場から言えば、深くつながっています。
挽歌の中に時評があり、時評の中に挽歌があることを、最近痛感します。
当初は「心で書く挽歌編」と「頭で書く時評編」と自分でも別のものと意識していたのでしたが、実際に書き続けていると、そんな違いはありません。
結局、いずれにも自分の生き方や気持ちが形になるだけなのです。

来年はもっとポジティブな時評を目指したいと思っています。
前にも一度、同じ事を書いたような気もしますが。

■友愛の動きの広がり(2009年12月31日)
今年は、身の回りでの「社会の壊れ」を強く実感する一方で、私にとってはうれしい方向への大きな変化の予兆をいくつか感じました。

一番大きな期待は、「友愛」の発想が政治の世界でさえ語られ出したことです。
あまり評判が良いわけではありませんが、政治の基本は友愛であるべきだと思っている私には嬉しい話です。

選挙は人が死なない戦争だ、などという話を昨日のテレビで多くの総理に仕えた飯島さんが話していましたが、とんでもない話だろうと思います。
そんな発想はもうそろそろ卒業してほしいものです。
企業経営の世界もよく戦争にたとえて語られますが、これもそろそろ卒業すべきだろうと思います。
数年前に私が訳させてもらった「オープンブック・マネジメント」(ダイヤモンド社)を訳す気になった一つの理由は、企業経営のモデルを「戦争モデル」から「ゲームモデル」へと転換するメッセージが含まれていたからです。

人がいるかぎり、戦争はなくならないと多くの人は思っているかもしれませんが、そんなことはないはずです。
私たち一人ひとりの心身のなかには、むしろ「友愛」あるいは「ケアマインド」が埋め込まれているからです。
隣の人が危険に直面したら、反射的に助けようとする、それが人間ではないかと私は思っています。
生命の連続性に関して、挽歌編ではしばしば書いていますが、その生命の連続性の名残がまだ残っているはずです。

しかし、そこに一瞬の時間が入り込むと、途端に私たちは迷い出します。
連続した生命の一部を「個人」として自立させてしまった人間は、自我を持ち出し、全体の生命よりも自分を守るという知恵を身につけてしまいました。
そのため、本能的に反応してしまっては、もしかしたら、個としての生をまっとうできないという、おかしな状況が発生したように思います。

しかし、その知恵を持ちながらも、なお「友愛」と言い出した鳩山首相に、私はとても感謝しています。
なぜならどんな動きも「言葉」を与えられて初めて定位し、実体化するからです。

年末になって、実はそうした、とても心温まる動きが私のまわりでいくつか起こりました。
来年は、そうした私の回りで始まった、いくつかの「友愛」の動きを紹介していけるような気がします。
今年よりも、もう少し建設的な時評を書きたいと思っています。

今年もお付き合いいただき感謝します。
1月5日のお昼過ぎから8時まで、私の湯島のオフィスでぼんやりしている予定です。
もし気が向いたら、コーヒーを飲む気分でお立ち寄りください。
案内をホームページのお知らせに掲載しています。