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■見てしまった者の責任(2013年1月2日)
私が住んでいる千葉県我孫子市では、雲のために初日の出は見られませんでしたが、気持ちの良い日差しの元日でした。
今日の日の出は、とてもきれいでした。
きれいな日の出を見て、ようやく時評編のブログをはじめる気分になりました。

昨年末にテレビで、水俣病患者とともに生きていた医師の原田さんの番組を見ました。
なぜ一生を水俣病とともにしたのかと問われた原田さんは、「見てしまったものの責任」だと答えました。
その言葉が、年を越えても頭から離れません。

現実を見ようとしない人があまりにも多いことを、私はずっと不思議に思っていました。
昨年、私の認識の間違いに気づきました。
見ようとしないのではなく、見えないのだと気づいたのです。
10年ほど前に、CWSコモンズというホームページを開き、今も毎週更新してきています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/
最近は自分の記録に留まりがちになってしまっていますが、当初は、社会へのメッセージを意識していました。
そこで時々書いていたのが、「人は見たいものしか見えない」ということです。
見えないのは、「見たいもの」の呪縛のためです。
「常識のため」と言ってもいいでしょう。

子供たちの見ている世界と大人の見ている世界は違うというのが、子どもの頃からの私の思いでした。
大人たちは、なぜか視野を狭窄にしています。
学校で学ぶということは、視野を狭くし、世界をわかりやすくすると共に、他者との付き合いを容易にすることだと私は考えました。
だから、勉強は好きでしたが、学校は嫌いでした。
そのため私はたぶん「まともな大人」にはなりそこないました。
しかし、いつの間にか、私もまた「見たいものしか見ない」ようになってきてしまっていたのです。
幸いなことに、その「見たいこと」が常識とは少しだけ違っているような気がしますが。

見たいものだけを見続けていると、見たくないものは見えなくなります。
見ようと思っても、見えないのです。
そして見えない幸せの世界で平安に生きられるようになります。
しかし、不幸なことに、時に、見たくないものが見えてしまうことがある。
その時、どうするか。
原田さんは、「見てしまった者」には責任があるといいます。

「見えなくなっているものを見る努力」と「見てしまった者の責任」。
これが私の今年のテーマです。

■ショッピングモールでは売っていない福袋を買うことにしました(2013年1月2日)
外出の帰りに、近くのショッピングモールに立ち寄りました。
靴がかなり傷んでいるので、買おうと思ったのです。

モールはものすごくにぎわっていました。
日本の景気のどこが悪いのか、といつも思っている疑問を改めて感じました。
お店をいくつか歩きながら、多くのお店の店先に「福袋」が並んでいるのに気づきました。
なかには「福袋完売しました」と張り出されているところもありました。
中身が見えるものもありますが、見えないもののほうが多いようです。
その代わりに、5万円相当のものが1万円、とか、金額比較で表示されているものも多かったです。
売り手が勝手に決めた「希望価格」を「客観的な価値価格」と感じさせるこうした表示は、私には「詐欺行為」と思えてしまいますが、まあ判断基準を失っている人たちにはわかりやすいのでしょう。
5万円相当品を1万円で買えることに顧客満足があるのでしょう。

たくさんの福袋を前にして思うのは、「何を買っていいかわからない人」や「買うことが目的になっている人」の存在です。
生活者から消費者へと変質させられている段階を超えて、いまや多くの人は「顧客(購買者)」に飼育されてしまっているのです。
私が嫌いな「顧客の創造」「顧客満足」です。
そこには生活はありません。

政府への期待として、ほとんどの人が「成長戦略」を期待しています。
「成長」とはなんでしょうか。
買いたいものもなく、しかし買わなければ経済がまわらないので、中身もわからない福袋を買いあさる人たちに、さらに何かを買わせようとするのが成長戦略なのでしょうか。
そうではないでしょう。

そうした福袋を朝早くから並んで買うような、飼育された購買者がいる一方で、生活に必要なものも買えずに困窮している人も増えています。
その人たちへの所得配分を少し変えるだけで、実は市場(経済)は大きく「成長」します。
いま議論されている「成長戦略」には、そうした視点がまったくありません。

つまり、現在議論されている成長は、産業の成長でありお金持ちの成長です。
しかし、それとは別に、意識の成長、生活の成長があります。
これから必要なのは、どちらの成長戦略でしょうか。

どうせ買うなら、ゴミになるような過剰商品の入った福袋ではなく、それを買うと生活に困っている人へのプレゼントになるような、そんな福袋を買いたいものです。
福袋を買うお金があったら、そうしたところに寄付すれば、きっとすばらしい「福袋」が手に入るでしょう。
福袋会場に殺到して怪我をしたりすることもないでしょう。

私も、今年はそうした福袋を買おうと思います。
そのため、靴はもうしばらくお預けにしました。
靴を買う程度のお金なので、ほんのわずかばかりなのですが、それでもきっと大きな福がもらえるでしょう。

■原発事故はもう終わったのでしょうか(2013年1月3日)
今年も穏やかな年明けでした。
年末年始のテレビや新聞を見ていると、2年前の原発事故のことをみんなもう忘れてしまったような気がしてきます。
それほど穏やかです。
その穏やかさに、私自身は滅入っていますが、元気づけられた記事もあります。
元日の朝日新聞の「福島 私たちが伝えたいこと」です。
原発事故後の若者たちの不安を題材にした演劇「今 伝えたいこと」の公演活動をしている相馬高校の高校生たちと新しい福島を目指す「ふくしま会議」代表理事の赤坂憲雄さんの座談会、そして赤坂へのインタビュー記事です。
まだ読まれていない方がいたら、ぜひ読んでいただきたいと思います。

読まれていない人のために、2つだけ、高校生の発言を引用します。

「これから未来がどうなるかわからない。でも、誰かが犠牲にならない、そういう社会ができたらいいなと思います。専門家に任せるのではなく、国民がどんどん意見を出す、みんなでつくっていける社会が理想です」
「私たちはいつまでも子どもじゃない。大人になったときに「意見を聞いてくれない」という子どもを出さないために、もっと学んで、他人の意見を聞ける柔軟な人に成長したいです」

返す言葉がありません。

彼らの演劇の中に、こんな場面が出てくるそうです。

舞台で生徒の一人が考え込む。「私はいままで原発周辺の地域は原発のおかげで潤ってきたと思うのね。リスクと引き換えにね。でも、それって、私たちの世代が決めたことじゃないよね?」

ますます言葉を失います。

赤坂さんはインタビューに答えてこう発言しています。

「追い詰められているからこそ、自ら選び取るしかないという状況が生まれているのだと思います。政治には期待できない、政権交代しても棄民的な状況は変わらないと、多くの人が感じている。福島の普通の女性たちが『これって自由民権運動よね』って言い始めているんですよ」
「福島は自由民権運動発祥の地の一つでした。困難な状況下で地域が何とか自治と自立を求める、21世紀型の自由民権運動がここで始まろうとしているのかもしれない」

この記事だけが、私に元気を与えてくれました。
この元気を無駄にはしたくありません。

■「need- to-know」から「need-to-share」へ(2013年1月4日)
今朝の朝日新聞は、除染作業の手抜きについて大きく取り上げています。
こうした行為は許されるべきではありませんが、こうしたことの背景には、そもそも現在の除染作業の有効性そのものへの疑問があるような気がします。
除染作業そのものの信頼性はどのくらいあるのか、そもそも現在の除染作業そのものが「悪質な手抜き作業」なのではないかという不信感が抜けません。
現在の除染は移染でしかないという話はよく聞きますが、除染作業に関して科学者や技術者はどう評価しているのか、そうした人たちの大きな声が聞えてこないのが不思議です。

分都留学者の池内了さんが、近著「科学の限界」で、こう書いています。

福島第一原子力発電所において炉心溶融(メルトダウン)という過酷事故が発生したのだが、原子力の専門家は当初からそのような事態に気づいていたはずなのに一言も口にせず、人々に安全を保証し続けていたのである。その結果として放射能汚染地域からの住民の避難が遅れ、多くの被曝者を生み出してしまった。原子力の専門家が見ていたのは政府や東京電力の顔色ばかりであり、災害を被るであろう市民の顔を思い浮かべることなく、真に市民の参考になる情報を提供しなかったのである。その事実は、かれらが原子力ムラと呼ばれる閉鎖的な集団を形成し、市民のための科学・技術であるという認識に欠けていたことを意味している。かれらは社会的責務を放棄した専門家集団となり下がっていたのである。

9.11事件以降、米国情報組織における情報処理のあり方が抜本的に変わってきていると、外務省にいた孫崎亨さんが以前、本で書いていました。
その方向は、「need- to-know」から「need-to-share」への変化です。
「知るべき人へ」の情報から「共有」の情報への変化と孫崎さんは訳していました。
この話を思い出しました。
need- to-knowだったが故に、アメリカ政府は9.11事件を阻止できず、さらにイラクにまで戦争を仕掛けることになったわけです。

科学者や技術者は、自らの得た情報を誰に向かって提供していくべきか。
科学も技術も、社会に大きな影響を与えます。
池内さんと孫崎さんのメッセージを組み合わせると、答は明らかです。
科学者や技術者の目が、生活に向きだせば、世界は変わっていくでしょう。
科学者や技術者の大きな責任のひとつは、自らの知識や知見をみんなとシェアしていくことではないかと思います。
それは同時に、自らの生活を取り戻すことでもあります。

除染活動についての、しっかりした議論が起こってほしいです。
悪質手抜き作業者の問題になってしまわなければいいのですが。

■年賀状とフェイスブック(2013年1月5日)
今日、はじめて年賀状を読みました。
数年前から私は年賀状を前年に出すのをやめ、年が明けてからの年賀メールを基本にしていますので、届く年賀状は年々少なくなってきています。

年賀状は、その人のお人柄がメール以上に感じられます。
私の友人知人も、考え方はさまざまです。
たとえば「日本も今年はやっとまともな方向に向かって行けそうです」と安倍政権を歓迎している人もいれば、自民党の改憲論に怒りを書いている人もいます。政治に失望している人もいれば、今年こそ頑張りたいという人もいます。
しかし、概してみんな「平和」で、幸せそうです。
それが年賀状なのかもしれません。
いろいろとあったけれど、あるいはいろいろとあるけれど、まあ年も越せるし、先行きは今よりも良くなるだろうと、自らを納得させるために年賀状というのはあるのかもしれません。
それに、年賀状は、普通の人にとっては、数少ない個人的な情報発信手段でした。
ふだん交流のない人への定期的な報告でもありましたが、同時に社会に対する気持ちの発散効果もありました。
毎年、1回、こうやって自らを振り返り、明日に向かって気持ちを吐き出すのは、見事な社会安定装置なのかもしれません。

ところが最近は、フェイスブックがそうした役割を果たすようになって来ました。
そう思って考えると、フェイスブックの持っている社会安定機能に気づきます。
アラブ世界ではフェイスブックが社会を変革したといわれていますが、どうも現実は逆なのではないかという気がしています。
フェイスブックの持つ保守効果を、もう少し考えたいと思います。
アラブの風は、実は保守活動だったのかもしれないという気さえしてきました。
マスコミの報道には注意しなければいけません。

■組織のホメオスタシス装置としてのSNS(2013年1月8日)
今朝の朝日新聞で、「ソーハラ」という言葉があるのを知りました。
ソーシャル・メディア・ハラスメントの略称で、フェイスブックやツイッターなどSNSを通じた嫌がらせの意味だそうです。
何でもかんでも「・・・ハラスメント」と名付ける風潮には賛成できませんが、実際にそうした被害を受けている友人知人も知っていますので、まあかなりあるだろうなと思います。
私も、以前から、それなりの「嫌がらせ」を受けています。
しかも、私自身も、もしかしたら「嫌がらせ」をしているかもしれません。
最近は言葉遣いには気をつけていますが、メールなどでのやりとりでは思わぬ効果を相手に与えてしまうことがあるからです。

私はメールをやりだしてから20年以上たちますし、自分の個人ホームページを開設してからも10年以上たちます。
その過程でかなりの免疫がついていますので、最近は「死ね!」「バ〜カ」とか「お前も同じ穴のムジナだ」とか言われても、さほどこたえなくなりました。
そういう発言をする人には、それなりの事情があるのでしょう。

しかし残念なことがあります。
「ソーハラ」ではありませんが、メーリングリストなどで些細な表現が契機になって、お互いに悪口雑言の言い争いになることです。
いわゆる「炎上」というものですが、第三者的に読んでいると、言い争う双方のエネルギーが全く無駄に消尽されてしまっているのが、実に残念に思えます。
おそらく面と向かって話し合っていれば、何ともないのでしょうが、ネット上での記号だけのやり取りだとちょっとした気分の違いが極端に増幅されてしまうようです。
そこにSNSの恐ろしさを感じます。
このことの意味は、もっと真剣に考えられなければいけないように思います。

内ゲバという言葉が昔ありました。
大辞林によれば、「組織内で行われる暴力的な闘争」という意味です。
1960年代に盛り上がった学生運動は、この内ゲバで自己崩壊していくわけですが、私は昨今のSNSに、それと同じ危険性を感じます。
つまり「私的暴力の処理装置効果」です。
ここでの「暴力」は、身体的な暴力ではありませんが、すでにいくつか事例があるように、結果的に人を殺したり仕組みを破壊したりすることもできます。
「暴力」という言葉ではなく、「エネルギー」とか「怒り」「不平」という言葉を使えば、もっとその効果が見えてきます。
「社会的な課題」や「社会的矛盾」に向かうはずの「エネルギー」が、横に向いてしまい、お互いに帳消しあっていくという効果です。

社会における「革新のエネルギー」を、サブシステムの中で、うまく処理することに成功した社会は安定するわけですが、SNSはまさにその機能を内在させています。
アラブの風のような事例で、SNSは変革をもたらす装置だと思いがちですが、その本質は極めて保守的なものなのではないかと、最近思い出しています。
みんながフェイスブックをやりだしたら、社会に変革など起こらないだろうと、この半年、フェイスブックをやりながら感じています。
みんな実に「平和」です、
高校生の頃読んだオーウェルの「1984年」の世界に生きているのは、けっこう居心地が悪いものです。

■言葉の魔術(2013年1月10日)
また高校生が、教師の「体罰」で自殺するという事件が起こりました。
その報道を見聞きして、やはり大きな違和感があります。
違和感のひとつは「体罰」という言葉です。
報道の内容を聞いた感じでは、明らかに暴力行為、暴行です。
その事実が「体罰」という言葉で、ごまかされています。
「教師が生徒に暴行をふるった」と「教師が生徒に体罰を与えた」とでは、そのイメージはまったく違います。

またバスケット部の2人の副顧問が、その行為を見ながらも、「顧問の教師の実績を考えると口を挟めなかった」というようなことをはなしているようです。
ここで気になるのは「教師の実績」です。
何を持って実績というのか。
この言葉からは、暴行した教師は立派な教師だというイメージを生み出してしまいます。
暴力行使が教育の実績を上げるという、おかしな話です。
たぶん彼らもまた、暴行を怖がって暴力教師に取り入っていただけの話です。
しかし、この言葉は暴力教師を助けるこうかをもっています。

「暴力」を独占するのが国家権力といわれます。
国家が使う暴力は「戦争」として肯定されますが、国家の内部においては、その下部組織がさまざまな形で「暴力」を正当化しています。
「体罰」や「死刑」は、そうしたもののひとつです。
あるいは、正当化しないまでも、脱暴力化することも多いです。
組織が行う「いじめ」は、その典型的な事例です。
最近、企業の「追い出し部屋」が問題にされだしていますが、これも国家をまねた私的組織の暴力というべきでしょう。

白を黒と言いくるめることは、そう難しいことではありません。
言葉にだまされてはいけません。
表現されている言葉ではなく、自分の頭で、事実をしっかりと考えなければいけません。
最近、つくづくそう思います。

■起きていても寝違いはするそうです(2013年1月14日)
最近、整体に通っています。
脊椎と腰椎が固まっているそうなのです。
特段、何か異常な症状があるわけではなく、何となく行ったら、矯正したほうがいいと勧められて、断る理由もないので通うようになってしまったのですが、いつも混んでいるので驚いています。
その整体院のすぐ近くにはカイロプラクティックのお店もあります。

そこで聞いたのですが、最近はパソコンをやっているうちに寝違い状況になって、首が回らなくなる人が増えているのだそうです。
私の隣で施術を受けていた女性は、今日は8時間も座ったまま、パソコンをやっていたと話していましたが、まさにそういう状況の中で寝違い症状を起こすようです。
人間はどんどん機械(システム)の部品化してきているようです。
無駄な動きは極力避けているうちに、身体が固くなり、時々、こうやって整体などで心身を解きほぐさなければいけなくなっているわけです。
どこかがおかしいと思いながら、私も同じような状況にあるわけです。

整体院からは、自宅でもストレッチ運動をするようにと言われています。
しかし、これもどうも違和感があります。
生命は無駄なく設計されているはずですから、わざわざストレッチ体操をしなければいけないというのは。どこか生き方が間違っているというのが、私の考えなのです。
人間以外の生物が、そうした「目的的な行為」をしていることを聞いたことがありません。
私は、自然に素直に生きることを心情にしていますので、目的的な行為は極力したくないのです。
しかし、どうやら最近の私の生き方だと、身体が固くなってしまうようです。
困ったものです。

整体に通いながら今の生活スタイルを続けるか、生活スタイルを変えて整体通いをやめるか。
さてどうしたものでしょうか。

■成人式での東日本大震災復興支援の募金活動(2013年1月15日)
今朝の朝日新聞に、ちょっとうれしくなる記事がありましたので、紹介させてもらいます。

私が住んでいる我孫子市でも、昨日、成人式が行われました。
あいにくの大雪で参加者は大変だったでしょう。
ところで、その成人式で、同志のグループが、東日本大震災復興支援の募金を参加者たちに呼びかけたのだそうです。

新聞の記事の一部を引用させてもらいます。

午前と午後の2回に分かれて開かれた式の終了後、市内6中学校の卒業生らによる「成人式企画運営会議」のメンバーが、新成人の仲間たちに「募金をお願いします」。募金箱には、メンバーの飯田祐子さんが手賀沼のカッパをモチーフに措いたキャラクターをあしらった。
晴れ着姿などで華やいだ雰囲気の中、募金に応じる新成人は少なかったが、募金を発案した小川款さんは「我々新成人が募金活動をすることに意味がある。来年の成人式でも後輩たちに活動を受け継いでほしい」と願っていた。

とてもうれしくて、飯田さんや小川さんにエールを送りたく、共通の知り合いがいないか探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。
どなたかお知り合いの方がいたら教えてください。
やはり若い者たちは信頼していいですね。

■「これ以上、何が必要だ」
(2013年1月20日)
今日の挽歌に書いたのですが、むしろ時評編のテーマかもしれないと思い、少し重複しますが、ここでも書くことにしました。
BS日テレの長期番組に、「小さな村の物語 イタリア」というのがあります。
イタリアの小さな村で暮らすさまざまな人の人生の物語が毎回語られます。
私のお気に入りの番組です。
そこで語られているのは、華やかなドラマではありませんが、人生の深い意味を示唆してくれる感動的な物語です。
毎回、生きることの喜びや豊かさが、生き生きと語られます。
その人の具体的な人生を背負った言葉なので、涙が出てくることも少なくありません。
プロデューサーの田口和博さんがある雑誌に、「村の人たちが言葉の一言一言は、どんな著名な哲学者でさえ唸ってしまうほどの、人生の箴言だ」と書かれていましたが、まさにそう思います。
人はみな哲学者なのです。

昨日の138話の主人公の一人は木材会社をやっているアルド・パインさんです。
1年前に独立したばかりですが、村人たちに頼りにされています。
休みの日には、3人の子供たちも一緒に、自分が子供のころ住んでいたところによく行くのだそうです。
子どものころ寝泊りした牛小屋は、今ではもう廃墟になっています。
当時はまだみんな生活は貧しく、生活も厳しかったのです。
末っ子が言います。
「ここに住むのもいいね、昔もよかった?」
アルドさんは答えます。
「よかったけど誰とも遊べなかったよ。自然のもので遊んだよ、ミニカーも作ったな。」
末っ子は「すご〜い」と叫びます。
最近は、こんなやり取りにさえ涙が出ます。

それにつづくアルドさんの言葉は、とても感動的です。
長くなるので引用は差し控えますが、もし機会があったらぜひこの番組を観てください。

家族みんなでの豊かな食卓を前に、アルドさんは「昔はスープだけだった」と子どもたちに話します。
アルドさんは18歳のときに、厳しい両親に一度だけ反発して、「なぜわが家は貧しいのか」と訊いたことがあるそうです。
その時、両親は「これ以上、何が必要だ」と応えたそうです。
その言葉を今も忘れないと、アルドさんは語ります。

「これ以上、何が必要だ」。
心にぐさりと響く言葉です。
「これ以上、何が必要だ」。
私自身、自らに問い続けたい言葉です。

番組を観ていて、アルドさんの今の暮らしは実に豊かだと思いました。
しかし、もしかしたらアルドさんの子供のころの生活もまた、貧しいどころか、豊かだったにちがいなと思います。
そして残念ながら、私の生き方は豊かさとほど遠いような気がして、どこかでいき方を間違ったような気がしてなりません。
番組を観てからずっと、「これ以上、何が必要だ」と問われ続けているような気がしてなりません。

■教師や警察官の駆け込み退職とプライミング効果(2013年1月23日)
制度改革による公務員の退職手当減額を前に、教員や警察官の駆け込み退職が全国に広がっているようです。
そのために現場への影響もあり、特に年度末を向かえる学校では担任や教頭までもが辞めてしまい、不在になる事例も起こりそうです。
よりによって、教師や警察官までも、と驚きです。
差額はたかだか100万円程度のようですが、そんな価格で、自分の人生を貶めていいのかと他人のことながら同情したくなります。
この話をテレビで知った時、すぐに思い出したのが、昨年読んだダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」です。

こんな実験があります。
学生に5つの単語のセットから4単語をつかって短文をつくってもらうのですが、その時に、高齢者を連想させるような単語を混ぜておくと、文章作成後、学生たちの歩く速度が遅くなるのだそうです、
これは有名な実験ですが、「ファスト&スロー」でも「フロリダ効果」として紹介されています。フロリダは高齢者の住む地域のようです。
こうした高齢というプライム(先行刺激)を受けると、老人らしく行動するという現象をプライミング効果と言いますが、それに関して、同書にはこんな記述が出てきます。
思い出したのは、この記述です。
少し短くして紹介します。

お金を想起させるものは、いささか好ましくない効果をもたらす。
お金のプライムを受けた被験者は、利己心が強まった。
また、お金のプライムを受けた被験者は、一人でいることを好む傾向が強かった。
この注目すべき研究を行った心理学者のキャスリーン・ヴォースは、お金を想起させるものに取り囲まれた今日の文化が、気づかないうちに、私たちの行動や態度を形作っている可能性を示唆した。

現代の日本社会は、まさにキャスリーンが指摘する、「お金を想起させるものに取り囲まれた社会」です。
同書にも出てきますが、無作為の刺激の反復がそのものへの好意を生み出すという「単純接触効果」というのも曲者です。
物や情報に取り囲まれている私たちは、自分では意識していないうちに、「意思」を方向付けられている可能性が大きいのです。
最近の選挙の大きな触れは、そうしたことの表れではないかと私は思っています。
そして何よりも気になるのは、「お金」です。
いつの間にか、私たち日本人は「1億総守銭奴」になってしまったのではないかという気がします。
それが、教師や警察官にまで及んでいることを、今回、まざまざと思い知らされました。

体罰事件の報道が過熱していますが、駆け込み退職もまた、学校崩壊の象徴なのだろうと思います。

■アルジェリアやマリで何が起こっているのか(2013年1月24日)
アルジェリアの惨劇は、ただただ悲しいです。
人は、なぜこんなことができるのか、と悲しくなります。

しかし、私が一番、ショックだったのは、その背景にあるマリの内戦とそこへのフランスの軍事介入を知らなかったことです。
たぶん新聞やネットをきちんと見ていたら、知ることができたことなのでしょうが、私の関心事には全くなかったと言うことです。
人質をとった武装グループには、いうまでもなく、そうしなければならない理由があったはずです。
彼らを一方的に責める気にはなれません。

日本人はアルジェリアのために尽くしてきたのに、何でこんなことになるのかと、みんな言いますが、私はそういう発想に違和感があります。
もちろん犠牲になった日揮の人たちには、悪意などあろうはずもありません。
危険を承知で、しかし現地のためになろうと誠実に活動してきたことは疑いもありません。
にもかかわらず、こんな事件が起きてしまった。
感情的になりがちですが、ここは冷静に考えなければいけないと思います。
これほどの事件に、それを引き起こす原因がないはずがありません。
ただ金銭のために、こんなことが起こるでしょうか。
それに、もし本当にアルジェリアに役立っているだけだったとしたら、施設に働く人のなかに通報者が出るはずがないようにも思います。

構造的暴力と言う概念があります。
30年以上前に、ノルウェーの政治学者、ヨハン・ガルトゥングが提唱した概念です。
行為主体が不明確であり、その間接的・潜在的なアプローチで行われる暴力のことを指します。
私たちは、暴力と言うと、ついつい直接的な暴力行為を考えますが、それは表層的な結果でしかありません。
その背景には、この構造的暴力があります。
「システムと言う支配者」もまた、構造的暴力のひとつです。
私は、そうした見えにくい構造的暴力こそが問題だと考えています。
このことを踏まえて世界の紛争を見ると、風景は一変します。
多くの報道は一方的な言い分を代弁しているにしかすぎません。
行為の善悪は、そう簡単には決まりません。

念のために言えば、今回の人質事件を正当化しようなどとは全く思っていません。
許せない卑劣な行為です。
しかし、なぜ彼らは、そんな行為を起こしてしまったのか。
そうしたことへの想像力が大切です。

管官房長官は、「暴力を使うことは絶対に許されない」と強く話していましたが、その暴力の概念に、ぜひ構造的暴力も含めたいと思います。
暴力を使わせるような状況をなくしていかなければいけません。
このことは、桜宮高校の事件にもいえることです。

■ブログがどうも書けません(2013年1月27日)
最近ブログが書けません。
いま整体に通っています。
身体が実に硬くなっているといわれています。
それで毎回、ボキボキと身体の矯正をしてもらっているのですが、どうも硬くなっているのは身体だけではなく、精神もです。
思考は働くのですが、考えたことを実践するところで、止まってしまいます。
私は、誰かと約束した課題を書き出しているのですが、それがどんどん増えています。
一向に減らないのです。
1時間もあればできることも多いのですが、それができない。
電話一本ですむかもしれないことも電話ができません。
あきらかに一種のメンタルダウン状況です。
しかも悪いことに、私は心身に素直に従うということを大事にしていますので、心身が動かないのをいいことに、ボーっとしているのです。
何かを埋めるために、本を読み出そうと思っていますが、それもできません。
昨年末に出版された、ネグリとハートの「コモンウェルス」を読みたくて、すぐに購入し、机の上においてあるのですが、まだそのままです。
不義理をしている多くの方には、申し訳が立ちませんが、はやく自らの心身が動き出してほしいものです。

■「プロシューマー」ってご存知ですか
(2013年1月29日)
時々、愕然としたことがあります。
企業の経営幹部の人たちとのミーティングで、「プロシューマー」という言葉を出したのですが、6人もいたのに、誰もその言葉を知らなかったのです。
その数日後に、今度はソーシャルビジネス研究会という集まりがあったのですが、そこでも誰も知らなかったのです。
みなさんはいかがでしょうか。

「プロシューマー」は、1980年代に未来学者のトフラーが言い出した言葉です。
「プロデューサー(生産者)」と「コンシューマー(消費者)」を重ねた言葉で、これからは消費者がどんどん自分で物を作り出すという展望の下で提案された概念です。
もう普通の日常用語になっているとばかり思っていましたが、逆に言葉としては存在を薄くしているようです。

言葉は概念のみならず、現実の世界を創出します。
私は、語彙の豊富さが世界の豊かさを示すと思っていますので、新しい言葉には関心を持っています。
カタカナ言葉が多いと言われることもありますが、カタカナ言葉もまた、間違いなく世界を広げてくれます。
もちろん世界を広げることの少ないカタカナ言葉は、私には興味はありません。
日本語で言える概念は日本語を使います。
ちょっとその気になってもらえれば、私の文章には、その種のカタカナ言葉はほとんどないはずです。

ところで、「プロシューマー」の話です。
濱野智史さんが、ある対談で、この言葉を使っていたのです。
そして、トフラーは「消費者の生産者化」と言う方向で、「プロシューマー」と言っていたが、最近のITの世界では、それと並行して、「生産者の消費者化」が進んでいると言うのです。
その事例として、最近話題の初音ミクをあげています。
なるほどと思いました。

このブログでも何回か書いてきましたが、私は「顧客」という概念はまもなく、なくなっていくだろうと思っています。
サービスからホスピタリティへと発想が変わりつつあることは、その一例です。
生産者も消費者も、一緒になって価値を生み出していく、それこそが成熟社会ではないかと思うわけです。
いずれにしろ、多角的な「プロシューマー化」が進展しているのは否定できません。
生産者と消費者の境界が溶け出しているように思います。
実態は進んでいるのに、それを表現する言葉は忘れられてしまいつつある。
私が愕然としたのは、そのことなのです。

現実が日常化したので、言葉が不要になり、消えていくということはあります。
しかし相変わらず、「顧客概念」が市場を覆っている。
顧客創造とか顧客価値とか、私には前世紀の遺物のような概念が闊歩している。
そのことにも、いささか愕然とします。
もちろん、世間が間違っているという意味ではなく、自分が違う世界に生きていることへの愕然さなのですが。

■暴力の配分システム
(2013年2月7日)
柔道界での暴力・パラハラ問題がむしろ広がりを見せていますが、解決に向かっての方策はなかなか出てきていないように思います。
桜宮高校の体罰問題と同じように、私には問題の捉え方が違っているように思えるので、コメントする気にもなりませんが、いつもこうした問題が起こると気になることがあります。

近代国家の存在基盤のひとつは、暴力の独占です。
つまり、リンチ(私刑)は禁止されたのです。
個人的な暴力は禁じられ、国家のみが戦争や刑罰で、暴力を「合法的に」に行うことができるようになったのが、近代国家です。
しかも、国家の主権は国民にあるという場合には、国家の行う暴力は、つまりは国民の行う暴力と言うことになり、責任の所在は国民になっていきます。
つまり国民主権の国家における暴力は、国外に対してはすべて防衛的なものになり(戦争はすべて防衛の名目で行われますので、すべて「自衛」戦争です)、国内においてはすべて自虐行為になります。
そこでは多くの場合、個人としての人間ではなく、国家という「システム」が発想の起点です。
そうした状況の中で、コラテラルダメッジが行われ、冤罪が引き起こされます。
また一部の「代理人」に暴力行使権が配分されます。
つまり暴力は「パワハラ」の一つの手段でしかありません。

ところで、国家はその内部構造にさまざまなサブシステムを持っています。
学校も、家族も、企業も、全柔連、山口組も、宗教組織も、そうしたサブシステムです。
そうしたサブシステムに、国家は自らが独占している暴力を配分しているわけです。
そのため暴力団体やあまり宗教とは思えないような宗教組織が、国家の法律によって存在を認められ、暴力の行使さえもが許されているわけです。

たとえば、最近でこそドメスティック・バイオレンスとして外部の干渉が合法化され、犯罪行為になるようになりましたが、かつては家族内での暴力(身体的な暴力だけではなく、身売りなども含め)は国家のそれと同じようにある段階まではとがめられませんでした。
そうした構図は、今もなお、いたるところにあります。
学校では体罰として受容され、スポーツ界では指導として受容されています。
桜宮高校の顧問も柔道の監督も、学校やスポーツ界という国家のサブシステムに守られていればこそ、逮捕さえされません。
普通であれば、逮捕されるような事案だと私は思いますが、国民の多くもまた、体罰や指導として許してしまっています。
それに相変わらず、「体罰」とか「指導」などという言葉が使われ、事実を覆い隠しています。
そこに、私は国民がいかに深く国家に呪縛されているかを感じます。

国家による暴力管理は、サブシステムにおける暴力管理の上に成り立っているわけです。
銃社会のアメリカは、少し構図が違うように思いますが、そこでは時々、個人の暴力の暴走があります。
しかし、これもまたひとつの暴力管理構造かもしれません。
こうした状況を生き抜くためには、自らが暴力に依存しないことでしょう。
そういう生き方をしていきたいと思っていますが、時に抑えがたい邪悪な怒りが心に芽生えるのが悲しいです。

■「現在の法律ではそうなってしまう」(2013年2月20日)
なんともやりきれません。
亀岡市で昨年4月、集団登校中の児童らの列に車で突っ込み、死傷事件を起こした19歳の少年の判決があまりにも軽いために、テレビで多くの人がおかしいといっています。
にもかかわらず、最後にはこういう言葉で切り上げられます。
「現在の法律ではそうなってしまう。法律を変えなければいけない」。
なんとばかげたことでしょう。
手段としての法律が目的になり、基準としての法律に規制されているわけです。
そこには、微塵も「リーガル・マインド」や「法の精神」は出てきません。

もっとおかしいのは、犯罪が奨励されていることです。
判決では、運転免許を持っていなくても無免許運転を続けてきたから運転技術はあるという判断がなされています。
この裁判官は、運転は技術だけで成り立つと思っているようですが、一度、自動車教習所に行きなおすべきでしょう。
運転は単なる技術ではありません。心構えも重視されています。
この論理は、無免許運転という違法行為を繰り返すことがプラスに評価されています。
ここでも「リーガル・マインド」や「法の精神」は無視されています。

法は、一種の社会契約です。
近代法は、解釈が実に柔軟にできるようになっています。
ですから、非武装と言いながらイラクにまで派兵できるのです。
だから人間が法廷で解釈する裁判制度ができているわけです。
同じ事実が、無罪になったり有罪になったりもするわけです。
そうでなければ、機械に評価させ執行させればいいだけの話です。
税法や行政手続法では、そうなっているかもしれませんが、それは関わる人間が機械を代行する仕組みになっているからです。
人の生き死にが関わっている事件まで、機械もしくは機械のような代行者に担当して欲しくないと思います。
いささか短絡的に書いているので、またお叱りのメールが来るでしょう。
しかし、それにしてもやりきれない判決です。

被告の19歳の少年も、これでは報われないでしょう。
法律は守らなくてもいいという生き方を認められたことで、彼はまた過ちを犯しかねません。
起こした過ちは、正しく償われてこそ、意味があります。
たった3年の差で、彼の不幸は増してしまったように思います。
このことは、被告の少年の責任ではありません。
まわりの人たちの責任だろうと思います。

昨今の裁判の本質の一つを垣間見た気がします。
この事件だけではありませんが、法律や制度のせいにして、責任をあいまいにする風潮が、ともかくやりきれません。

時評を書く気にならなくなってだいぶたちますが、あまりにやりきれないので衝動的に書いてしまいました。
きっと感情に任せた、支離滅裂な文章でしょう。
それほどやりきれない気がしています。

■自殺を切り口にして、私たちの生き方や社会のあり方を考えるフォーラム(2013年2月23日)

私のホームページにも案内していますが、3月2日に、タイトルのような集まりを開催します。
福井県の東尋坊で長年自殺防止活動に取り組んでいる茂幸雄さんと最近話題の記録映画「自殺者1万人を救う戦い」を制作したレネ・ダイグナンさんの話(映画上映もあります)を受けて、いまの社会のあり方や私たちの生き方を、みんなが同じ目線で話し合いたいと思います。
急に開催することにしたので、なかなか参加者が集まらずに苦戦しています。
場所は東京の青山学院大学ですが、誰でも歓迎の公開フォーラムですので、お時間とご関心のある方はご参加ください。

案内は下記のとおりですが、タイトルに「自殺」の文字があるために腰が引けてしまう人も少なくないようです。
しかし、切り口は「自殺」ですが、テーマは「自分の生き方」「社会のあり方」ですので、だれでも歓迎です。
以下、ご案内です。

<「自殺の問題にどう立ち向かうか」公開フォーラムのご案内>

自殺のない社会づくりネットワーク代表の茂幸雄さん(NPO法人心に響く文集・編集局代表)は、長年、東尋坊で自殺防止活動に取り組んでいます。
自殺のない社会づくりネットワークでは、これまでも公開フォーラムや交流会などで、茂さんのお話をお聴きしていますが、今回はただお話をお聴きするだけではなく、茂さんのこれまでの現場体験やご自身の気づきをじっくりと話していただき、それを踏まえて、参加者全員で意見をぶつけ合いながら考えあう集まりを開催することにいたしました。

できれば、これを契機に、「自殺に追い込まれるような状況を生み出す社会をどうしたら変えていけるか」をテーマにした、さまざまな立場の人が参加するラウンドテーブル・ディスカッションを定期的に開いていければと考えています。

今回は、いわばそのキックオフ・イベントと位置づけていますが、ゲストに、最近話題になっている記録映画「自殺者1万人を救う戦い」を制作したレネ・ダイグナンさんをお呼びし、その作品も上映させてもらう予定です。
なお、テーマに「自殺の問題」とありますが、むしろ「自殺の問題」を通して、いまの社会のあり方や私たちの生き方を考えていければと思いますので、できるだけさまざまな立場の人にご参加いただき、多面的な視点から話し合いができればと思います。
急なご案内ではありますが、社会のあり方や私たちの生き方に問題意識をお持ちの方にはぜひご参加ください。
参加人数に限りがありますので、参加ご希望の方は事務局までご連絡ください。

日時
  2013年3月2日(土曜日)午後1時から5時(12時半開場)
場所
  青山学院大学青山キャンパス17号館 17308号教室
青山学院大学(東京都渋谷区渋谷4-4-25)
東京メトロ(銀座線・千代田線・半蔵門線)「表参道駅」より徒歩5分
http://www.aoyama.ac.jp/outline/campus/access.html
青山キャンパスの地図
 http://www.aoyama.ac.jp/outline/campus/aoyama.html#header
参加費
  500円
プログラム(予定:検討中のため変わる可能性があります)
茂幸雄さん(NPO法人心に響く文集・編集局代表)からの現場報告と問題提起
記録映画「自殺者1万人を救う戦い」(監督:レネ・ダイグナンさん)上映
茂さんとダイグナンさんのショート対談
参加者全員での話し合い
それぞれが自分の問題として話し合いが進められればと思います。
  *記録映画「自殺者1万人を救う戦い」の紹介サイト
     http://eumag.jp/spotlight/e1012/
主催
  自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい+コムケアセンター
申込先(事務局)
コムケアセンター(担当:佐藤):comcare@nifty.com

■「自殺者1万人を救う戦い」上映会
(2013年2月25日)
記録映画「自殺者1万人を救う戦い」を観ました。
最近、新聞各紙で取り上げられてきていますが、駐日欧州連合代表部の経済担当官であるレネ・ダイグナンさんが時間の合間を見て、3年間かけて制作してきた映画です。
レネさんはもう日本生活暦15年以上で、といても日本が好きなのですが、若者たちと話していて、日本人の「自殺」への寛容さを感じたと言います。
そして、毎年3万人を超える自殺者の多さ(昨年は統計上3万人を下回ったと言われますが)に疑問を持ち、「せめて1万人は救いたい」と、友人と一緒に映画づくりに取り組んだのです。

映画は明らかに、日本人が制作する自殺関係のドキュメンタリーとはタッチが違います。
細かなことを言えば、違和感を持たないわけでもありませんが、そこからは強烈なメッセージが伝わってきます。
彼に会いたくなりました。
先週、仕事帰りの彼と会いました。
その思いと活動にとても共感しました。

そんなわけで、3月2日にレネさんにも来てもらい、加えてその映画の最初と最後に出てくる東尋坊で長年、自殺防止活動に取り組んでいる茂さんと一緒に公開フォーラムを開催することにしました。
前にもご案内しましたが、急にスタイルを変えたのでなかなか集客できません。
当日は、映画上映を軸にしていきたいと思います。
そこから日本の社会のあり方が見えてくるからです。
茂さんも、それを問題にしています。
昨日も、東尋坊で2人の人を思いとどまらせたと今朝、連絡を受けました。
茂さんがいくらがんばっても、日本の社会は自殺に追い込まれる人を生み出し、東尋坊に送り込んでくる。
それでは茂さんはいつになっても活動をやめられません。
社会のあり方を変えないといけない、私たちの生き方を変えないといけない、茂さんはそう訴えています。

レネさんと茂さんの誠実な活動に触れると、自然と、では自分は何ができるだろうかと思います。
そういう人が増えていけば、きっと社会は住みやすくなるでしょう。
その第一歩を踏み出すために、もしお時間があれば3月2日の集まりにご参加ください。
会場でお会いできれば、とてもうれしいです。

ぜひチラシをご覧ください。

■自殺の問題は、特別の人の話ではありません(2013年3月4日)
一昨日、公開フォーラム「自殺の問題にどう取り組むか」を開催しました。
3週間前に開催を決めての、急な呼びかけでしたが、最近話題になりつつある、記録映画「自殺者1万人を救う戦い」の上映も合わせて行ったこともあり、55人の人が集まってくれました。
映画を制作したレネ・ダイグナンさんも参加してくれましたし、東尋坊で長年、人命救助活動に取り組んでいる茂さんと川越さんも参加してくれました。

主催は私も事務局を引き受けている「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」だったのですが、むしろ今回はネットワークのメンバー以外に広く呼びかけを行いました。
しかし、やはり「自殺」という言葉にひっかかる人が多く、案内も読んでもらえなかったような気がします。
そこで直前に、映画を観に来ませんかという呼びかけに変えさせてもらいました。
ある人が、「自殺という重いテーマで躊躇していたが、思い切って参加することにしました」と申し込んできてくれました。

そのフォーラムの冒頭で、私は挨拶の中で、次のようなことを話させてもらいました。

日本では最近10年以上にわたって、ずっと年間3万人を超える人が自殺に追いやられています。昨年は3万人を下回ったといわれますが、いずれにしろ3万人前後の人が毎年自殺に追いやられている。しかもその後ろには、その数十倍、数百倍といわれる自殺未遂者や自殺を考えた人がいます。いまや日本は、「自殺」ということを内部に抱え込んだ社会になってしまっているといってもいい。あるいは、自殺の問題は今の社会のありようを象徴しているといってもいい。社会は、私たち一人ひとりの生き方でつくられている。だとしたら、その社会で生きている以上、自殺の問題は私たちの生き方と無縁であるはずはない。深くつながっているのです。
しかし、「自殺」という言葉の響きのせいか、多くの人は、自分とは別の世界のことだと思いたがっているように思います。こうして「自殺」をタイトルに入れた集まりを企画すると、いつもそのことを強く感じます。
しかし、自殺の問題は、決して特殊の人の、特別の話ではなく、社会そのものを象徴する問題です。私たちの隣にある問題です。

だから今回は幅広い人に呼びかけたのです。
自殺に特別に関心を持った人や、身近に自殺を体験しただけで、問題をいくら話し合っても、なかなか前に進まないような気がします。
そうした思いで4年間、ささやかな活動をしていますが、今回、少しですが、手応えを感じました。

このフォーラムを契機に、「自殺に追い込まれるような状況を生み出す社会をどうしたら変えていけるか」をテーマにした、さまざまな立場の人が参加するラウンドテーブル・フォーラムを開催できればと考えています。
テーマを設定して、参加者が丸く輪になって、意見をぶつけ合いながら、学びあい、それぞれの実践に取り組んでいくようなフォーラムです。
少人数でもいいので、じっくりと話し合う場を、誰かの呼びかけで、時々、開催できないか、そのために、そうしたことに関心を持った人たちで、その実行委員会を立ち上げられないか、と考えています。

一緒に取り組んでもいいという方がいたら、私(qzy00757@nifty.com)にご連絡ください。
ご一緒に取り組めれば、うれしいです。

■もう原発事故の怖さを忘れたのか(2013年3月4日)
最近なかなか時評を書く気が起きません。
テレビのニュースもあまり見なくなりました。
理由は2つありますが、日本のテレビはあまりに殺傷事件や殺傷事故を事細かに報道しすぎます。
見ていて気持ちがよどみます。
テレビのそうした行為は私には、犯罪的にさえ感じます。
殺傷事件や殺傷事故をあんなに繰り返し、細かく報道する意味は何なのでしょうか。

しかしそれはまあ、テレビを見なければいいだけの話です。
もう一つの理由は、報道される政治や経済の話が、あまりに私にはばかげたものだからです。

私は1989年に会社を辞めました。
日本の社会がお金依存になり、生活が表層的に華美になっていくことに荷担したくなかったからです。
バブルがはじけて、少しはみんな意識を変えるかと思っていました。
しかし、結果的には何も変わらず、相変わらずの経済成長志向です。
経済成長すればみんなの生活が豊かになるなどという、私には全くばかげた考えは、いまなお健在です。
このブログで、そうしたことへの疑問を書くと、嫌がらせのコメントやメールがきます。
それはあまり気持ちのいいものではありません。

一昨年の原発事故で、今度こそ経済至上主義や科学万能主義は見直されるだろうと思っていました。
しかし、原発反対が叫ばれたのは1年だけでした。
世論調査などによれば、いまや多くの人は原発再稼動賛成です。
もっとも、こうした報道にはいささかの疑念はありますが、前回の衆議院選挙の結果を見れば、まんざら嘘でもなさそうです。
あれほどの原発事故を体験しながら、どうしてこんな短時間に、それを忘れてしまうことができるのでしょうか。
実に不思議です。
みんな本当に生きているのでしょうか。
なにやらゾンビの国に住んでいるように、恐ろしくなることもあります。

■オリンピック招致騒ぎへの違和感(2013年3月7日)
連日報道される「オリンピック招致活動」には、大きな違和感があります。
そもそも「招致」という発想がなじめません。
これだけの招致合戦になるということは、招致したら「大きなメリット」があるということでしょう。
そのメリットが、どうも経済的なメリットである点に違和感を持ってしまいます。
招致した場合の経済効果などという話を聞くと、とてもいやな気持ちになります。
オリンピックは、いまやショービジネスであり、アスリートたちはその商売材料のように見えてなりません。
私のスポーツ嫌いは、ますます高まるばかりです。

そもそも私は、記録を0.1秒単位で競うことにも違和感を持ちます。
これはたぶん「工業化」の発想であって、「生命」の発想ではないと思うのです。
そのわずかな記録を目指して、ドーピングやスポーツ用具が開発されるのも、私には悲しさや滑稽さを感じます。
スポーツはもっとおおらかに競い合ってこそ、オリンピックの理念に合うように思うのです。

テレビで、首相が歌を歌い、メダリストのアスリートたちが招致を呼びかける姿を見ていると、ドイツのナチが国威高揚のためにオリンピックを利用したことを、どうしても思い出してしまいます。

多くの国民は、オリンピックを招致したがっているのでしょうか。
私だけが、そうした流れについていけていないのでしょうか。
なんだか自分だけが、落ちこぼれているような気もしないでもありませんが、やはり私は最近の華々しいオリンピック招致活動にはついていけません。
招致するにしても、もっと大切なことがあるだろうと、どうしても思ってしまうのです。

オリンピックを開催することで、経済的に儲けるのではない、もっと人間的な意味を生み出すところが、東京以外にはたくさんあるはずです。
そうした国でオリンピックを開催するように働きかけることこそ、日本の役割のような気もします。
小さな我欲だけで動く人たちが、どうしても受け入れられないのです。
金儲けのためのオリンピック招致には、私は共感できません。
アスリートたちにも、商売道具になるなよといいたいです。
金メダルをかじるメダリストの姿をつい思い出して、哀れささえ感じています。

■原発再稼動の是非を決められるのは誰か(2013年3月7日)
脱原発への取り組みが反転しだしています。
原発再稼動の是非に関しては、賛否両論がありますが、いずれが絶対に正しいとはいえないでしょう。
技術には事故はつきものですし、いまや生活には欠かせない自動車にしても、あいかわらず事故は多く、毎日、自動車事故で数名の死者も出ています。
電力が不足すれば、それによってこうむる被害も大きいかもしれません。
経済的な理由や雇用の視点から、原発再稼動を歓迎する「生活者」がいることも事実です。
どんなものにも、メリットとデメリットがあるものです。

しかし、そこには大きな落とし穴があります。
メリットとデメリットを受ける人が違うという落とし穴です。

原発を再稼動させた時の利益は誰のものでしょうか。
もちろん、現在の社会で生きているすべての人が、何らかの利益を享受することは言うまでもありません。
福島原発で発電した電力は首都圏で使われているから、地元にはメリットがないというような議論もありますが、そんなことはありません。
地元は原発という産業を「誘致」したことで、多大な経済的メリットを受けてきています。
いまさらそんなことを住民たちに言ってほしくはありません。
立地を引き受けるところがなかったら、原発はできなかったのですから。

では事故が発生した時の損害は誰が受けるのでしょうか。
これもまたすべての人といえるでしょう。
事故発生地に近いほど、被害は大きいでしょうが、長い目で見たら、被害者は広範囲に広がっていくでしょう。
しかし、それだけではありません。

放射線汚染に関しては、時空間を限定できないことが問題なのです。
被害は国境を越え、世代を超えて、広がっていくことになります。
事故の元を解決すれば、事態はかなり抑えられます。
しかし、福島原発事故の経験からは、元を解決することはかなり難しいでしょう。
福島原発事故はいまなお収束などしておらず、いまだに放射線を発散しているわけです。
そして、その影響は、次世代にまで及びます。

そうしたことが明らかになったいま、原発再稼動の是非は、一国だけで決められるものではないように、私には思います。
私たちは北朝鮮の原発実験を非難していますが、私たちと彼らとどこが違うのか、私にはよく理解できません。

原発を稼動させることの、利害得失の非対称性をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
そして再稼動は一国の政治だけで決めるべきテーマではないことを認識すべきです。
にもかかわらず、一国どころか、その一国の一部の人たちで、再稼動への流れが加速されていることに、悲しさを感じます。
国民の多くが原発依存社会を望むのであれば、そうした社会にうまれたことを嘆くしかありません。

■ペイ・フォワード方式で映画「自殺者1万人を救う戦い」を広げていきませんか(2013年3月10日)
このブログでもご案内した3月2日の公開フォーラム「自殺の問題にどう取り組むか」で上映した映画「自殺者1万人を救う戦い」は、You Tube でも観られるようになりましたが、DVDがほしいという方も多いようですので、映画制作者のレネさんの協力を得て、まず100枚を希望者にお配りしようと思います。
ただ、せっかくなので、ちょっとお願いを加えることにさせてもらいました。

もう10年以上も前になりますが、『ペイ・フォワード』という映画がありました。
人から受けた好意をその相手に対して返す(ペイ・バック)のではなく、他の誰かに好意を向けることで善意を広げていく「ペイ・フォワード」。映画では「次へ渡せ」という言葉で翻訳されていました。 好意を受けた相手に返すのではなく、『次へ渡す』ことがペイ・フォワードです。

このDVDをお届けするのが、「好意」であるとは思ってはいませんが、このペイ・フォワードの考えを参考にさせてもらって、この映画を広げていけないかと考えました。
幸いに、映画制作者のレネさんにも賛同を得ました。
そこで、「ペイ・フォワード方式」で、この映画を広げていく活動を始めます。
もしよかったら、皆さんにもこの活動に参加してもらえればと思っています。

参加の方法は、簡単です。
お届けしたDVDを観て、もし共感してもらえたら、ご自分でDVDを複製(コピー)して、それを周りの人に差し上げてくれませんか。もし人が集まる場があれば、そこでみんなでこの映画を観てくれませんか。そして希望者があれば、このDVDを差し上げてくれませんか。
そして、ここに書いたことを、その人たちにも伝えてくれませんか。
そうやって、この映画を観てくれる人が広がり、自殺問題への関心が広がり、それぞれができることを始めたら、社会が少し変わるかもしれません。
誰も自殺に追いやられることのない社会に、一歩、近づくかもしれません。

日本ではいま、3万人前後の人が毎年、自殺に追いやられています。さらに、その背後には、その数百倍もの、自殺を考えたり試みたりした人がいるといわれています。日本は、いまや「自殺」を内部に抱え込んでしまった社会になってしまっているのです。
「自殺の問題」は決して、特別の人の特別の問題ではなく、私たちが生きている社会を象徴する問題なのです。そういう社会に生きている以上、私たちは「自殺の問題」から決して無縁ではありえません。

もしご賛同いただければ、お名前と送付先住所をメールで私(qzy00757@nifty.com)までご連絡ください。
レネさんのご協力も得て、DVDを100枚用意しましたので、先着100人まで、ご連絡いただいた方に送らせてもらいます。
希望がどっときたらどうなるか、いささか心配ですが、その時にはまた考えます。
DVDのコピーや発送作業などのお手伝いをいただける方がいたら、とてもうれしいです。
最初の100枚が、ペイ・フォワード方式で、数倍、数十倍に増えていくとうれしいです。

ちょっとした汗をかくことで、だれもがこの活動に参加してもらえます。
そして、もしできるならば、周りにいる、ちょっと気になる人にも、声をかけていただければ、さらにうれしいです。そうしたことが広がっていけば、自殺に追いやられる人がなくなる社会に近づくような気がします。
そして、何よりも、私たち一人ひとりが、気持ちよく暮らせる生き方に近づけるのではないかと思っています。

なお、この映画を話題にした、ラウンドテーブル・フォーラムも開催していく予定です。
これに関しても、一緒に取り組んでいる人を探しています。
できれば、定期的に、テーマを決めて、輪になっての話し合いです。
目標は、「誰も自殺に追いやられることのない、みんなが安心して暮らせる社会づくり」です。
関心のある方は、私にご連絡ください。

ちなみに、レネさんたちの制作した映画「自殺者1万人を救う戦い」の紹介サイトは次の通りです。
http://eumag.jp/spotlight/e1012/

■社会が荒れているようです(2013年3月12日)
フェイスブックに書いたのですが、昨日、地下鉄で2つのトラブルを身近に体験しました。

私の横に座っていた女性にそばに立って盛んに小さな声で話しかけている女性がいました。
ところが隣席の女性は返事をしません。
もしかしたら独り言かと思っていたら、2駅ほど過ぎたところで、隣の女性が私に話しかけてきました。
「隣の人がずっと私のことを非難しているのですが、どうしたらいいでしょうか」と言うのです。全く知らない人だそうです。
たしかによく聞くとひどい言葉を浴びせています。
この人もきっと大変な状況なのでしょうから、まあだまって聞き流すのがいいのではと答えました。
しかし立っている女性は一向に話やめずに、エスカレートしてきます。
隣席の女性は不安そうだったので、私も話を続けることにしました。
そして私たちが話しつづけていたせいか、呪い続けていた女性は次の次の駅で降りていきました。
隣席の女性は、ホッとしたように握っていたスマートフォンを私に見せて、刺されるかもしれないのでずっと録音していましたと言って、録音を消去しました。
いずれの女性も30〜40代。今の社会を象徴しているように思いました。
20年前であれば、立っている女性の話を聞いていたかもしれませんが、最近はどうもその気になれません。
彼女は、持って行き場のない怒りを内に溜め込みすぎてしまったのでしょう。
隣席の女性が、刺されるかもしれないと思ったのも、理由のないことではありません。
とてもとても不幸な時代になっているように思います。

その帰りの地下鉄でも、不穏な体験をしました。
この時も座っていたのですが、隣の隣が空きました。
大柄の男性が座ったのですが、狭いところにドンと座り、両側を力で押したようです。
私の隣席の男性もどっしりした男性でしたが、私のところにまでその余波が来ました。
音楽を聴いていた隣の男性はイヤフォンを外し、その隣の人に「譲り合ってすわれよ」と言いました。
いずれも屈強な男たちだったので、もしかしたら喧嘩が始まるかと思いましたが、隣の隣は黙っていたので、それで終わりました。
注意した隣の男性に拍手をこっそりと送りました。
彼はとても礼儀正しかったのです。
こういうことも、20年前であれば私もやっていましたが、今はやりません。
社会が悪いのか、私が悪いのか。
たぶん私が悪いのでしょう。反省しなければいけません。

このことをフェイスブックに書いたのですが、何人かの人がコメントを書いてくれました。
そのなかに、こんなコメントを書いてくれた人がいます。

隣席の女性は、佐藤さんの存在に救われたでしょうね。
誰かの力になるとは色々な形があると思う今日この頃です。

本当にそう思います。
つまり、すべての人は「存在する」だけで、十分、誰かの力になっているのです。
そのことを、実は伝えたかったのですが、この方は、それに気づいてくれました。
とてもうれしいです。
彼女は、OMUSUBIというグループの人です。
3月2日の集まりで初めて会いましたが、無縁化の流れを止めようと活動されているようです。

今日は、社会を見直す契機になった東日本大震災から2年目です。

■企業価値とはなんでしょうか(2013年3月12日)
西武HDの再上場をめぐる同社と筆頭株主の投資ファンド、米サーベラスとの対立が泥沼化してきているようです。
今朝の朝日新聞によれば、サーベラスは「コーポレート・ガバナンスと内部統制を強化し、企業価値を向上させる」と説明しているそうです。
「企業価値」と言う言葉は、1980年代から90年代にかけて盛んに使われました。
しかし、その言葉には全く別の2つの意味が込められていました。
「キャッシュ・フローとしての企業価値」と「レゾン・デートルとしての企業価値」です。
平たく言えば、会社財産の売買価値と会社活動の社会的意義と言う違いです。
当時は、前者での企業価値が全盛でした。
私が、会社を辞める気になった理由の一つは、そういう風潮でした。
みんなお金に目がくらんでいたような気がします。
私自身も、多分にそうだったので、そこから逃げ出したかったわけです。

私は会社を辞めてから、いいかえれば1990年前後、企業関係者に講演する機会がある度に、そのことを強調しましたが、残念ながら焼け石に水でした。
私のホームページにも、そうした記事が残っているでしょうが、感心してくれる人はいましたが、誰もその方向での行動はしませんでした。

サーベラスが述べている「企業価値の向上策」を見れば、その意味する事が一目瞭然です。
儲からない事業はやめるということです。
つまり、経済学者や産業界で使われる「企業価値」とは、資本家にとっての儲けのことなのです。
そこには、生活者の視点での「社会価値」はありません。
昨今の企業の、それが実態かもしれません。
だから、企業は「社会貢献」とかCSRなどということに取り組んでいるわけです。
全くの本末転倒。

今の経済の本質が、こうした動きの中で、よく見えてきます。
原発やTPPの動きも、まさにこうした「価値」の視点から賛成論は組み立てられているように思います。
言葉にだまされないようにしないと、とんでもない結果を背負わされます。

■税理士への不信感(2013年3月14日)
最近、極度に財務状況の悪い2つの企業の再建の相談に乗っています。
それぞれ両者の確定申告書を見せてもらって、ある判断をしたのですが、実態に触れていくとあまりに実態と違うので唖然としました。
いずれも、税理士が指導して税務報告している会社です。

そういえば、数年前、子育て支援の市民活動を長年やっている代表の人から、やはり経営上の相談を受けました。
その時も実情を聞いて唖然とし、すぐに長年、その活動を税務的に支援している会計事務所の税理士に会いました。
その方は、とても誠実な方だったのですが、お聞きすると助言はしていたが、最終的な決断は当方ではできないので、と説明されました。
その時には、別に不正なことがあったわけでもなく、問題は経営者側にあることがわかり、経営者とかなり議論したのですが、理解してもらえなかったの、手を引かせてもらいました。
長年、その活動を高く評価していた人だったのですが、いまの実態を知って、とても悲しい思いをしました。
税理士がきちんと厳しい指導をしてくれていたら、ととても残念です。

また昨年、ある有名なNPOの理事の方が相談に来ました。
そのNPOは著名な方が代表になっており、一時は行政からもかなりの助成金が出ていたはずです。
理事や関係者には私の知人も多かったのですが、かなりの債務を抱えてしまい、動きが取れなくなったのだそうです。
いまは、往時の代表者は跡形もなく(いわゆる有名人は責任をとらないことが多すぎます)、これまた唖然としましたが、このNPOにもきちんとした税理士がついていたはずです。
税理士がきちんとアドバイスをしていれば、そんなことはおきなかったはずです。
相談に来た理事の方は、私の知人なので、ささやかに復活を支援しています。

まあ、こういう話がいろいろとやってくるのです。
だから疲れるのです。

さて、税理士の話ですが、最近の2つの会社の事例は、明らかに税理士の不正行為です。
ひとつの会社の税理士とは電話で話しました。
そうしたら、こういわれました。
脱税になるような不正行為はしませんが、税が増える方向ですからいいでしょう。
絶句に違いですね。

友人の公認会計士から言われた言葉を思い出しました。
税理士は税務だけを考えているので、経営など何もわからないのですよ。

私の周りには、誠実で経営のこともしっかりわかっている税理士も少なくありません。
しかし、最近は、税理士への不信感が高まっています。
ちなみに、いま関わりだしている2つの会社の経営者の一人は人生を狂わせ、その余波を私も受けています。
もうひとつのほうもいささか危うい状況で、娘からは関わらないほうがいいと言われていますが、友人が困っていたら関わらないわけにはいきません。
2人も、とても善意の人だったと思いますが、そういう人をおかしくした税理士は、私には許せません。
誠実な税理士の方には申し訳ないですが、税理士協会のようなところできちんと倫理規定を作るべきではないでしょうか。

■福島の放射線汚染の実情を立柳さんにお聞きする会のお誘い(2013年3月14日)
湯島で定期的にやっている「技術カフェ」という集まりで、ウェザーマップ方式で全国のライブな放射線汚染度マップをみんなで作り上げていく仕組みができないかという話題がでました。
そこで、まずは実際に福島に行って、自分たちで汚染の実情を実感してこようということになりました。
マスコミ報道のデータから考えるのではなく、自分たちの実感から考えようということです。
しかし、どの線量測定機を買えばいいかも良くわからないので、この2年間近く、福島と東京を往来している生活の中で、実際にご自分で線量計を装着して、それを記録をしつづけている立柳聡さんに改めてお話を聞こうということになりました。

立柳さんの話は、すでに2回ほど、湯島でお聞きする集まりをしていますが、生々しくて毎回刺激を受けます。
せっかくであれば、できるだけ多くの人にも聞いてもらいたいと思い、技術カフェのメンバー以外にも声をかけさせてもらうことにしました。

放射線汚染度マップづくりプロジェクトというと、ちょっと腰が引けるかもしれませんが、福島の実情とそこに深く関わっている人の思いを聞くという気楽な感じで、もしよかったらご参加ください。
子育ての関係で、放射線の拡散を気にされている方も参考になると思います。
気楽な集まりですので、コーヒーを飲む気分でお越しください。
誰でも歓迎ですが、できれば参加される方は事前にご連絡いただけるとうれしいです。
また周辺にこのプロジェクトに関心を持ってもらえそうな人がいたら、お声がけしてください。

○日時:2013年3月19日 午後7〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円

TPPを考える視点1〜3

■TPPを考える視座1:自由貿易をどう考えるか
(2013年3月19日)
TPP参加交渉が規定の路線となってきました。
過半数の国民が、それに賛成のようです。
もともと「TPP」とは何かがわかっていない状況での世論調査は意味がありませんが、そうした数字が発表されると、それは実際の動きに大きな影響を与えます。
世論調査ほど、危険なものはありません。

テレビでのTPP報道を見ていると、賛成したくなる人は多いでしょう。
確かに、経済や産業の視座から考えると、合理的かもしれません。
それにそもそも、「自由貿易」は「良いこと」だと思っている人には、最初から肯定的な心情が存在します。
「自由」というマジックワードに、私たちはいつもだまされるのです。

下の文章を読んで、どう思われるでしょうか。

一方には、経済成長を重視し、そのために市場経済の自由化を進めようとする、経済的に恵まれている人びとの政党がある。彼らは政府による介入を嫌がり、なるべく政府の役割を小さくしようとするでしょう。他方では、産業化が進み、企業活動が活発になる中で、一向に生活が楽にならず、貧困にあえぎ、労働問題や都市問題に苦しめられている人たちがいる。彼らの政党は政府による所得の再配分を求めます。この対立関係こそが政党政治の原型でした。

これは杉田敦さんの「政治的思考」(岩波新書)の一説です。
この短い文章の中に、たくさんの示唆が含まれています。

このブログでも何回も書いていますが、経済成長と生活の豊かさはまったく別のものです。
さらにいえば、「生活の豊かさ」は、その社会の中でどういう位置に置かれているかで、穂と様々です。
当然のことながら、ゼロサム社会にあっては、誰かの豊かさは誰かの貧しさによって成立します。
自由貿易とは、経済的な格差を平準化させるものではなく、むしろ構造的に格差を固定化させるものです。
これについては、すでに多くの分析調査があります。
にもかかわらず、多くの人は静態的な論理モデルの経済学に教えにより、自由貿易肯定論者なのです。
自由貿易が、どれほど南北の格差を拡大し、貧困を発生させたか。
自由貿易の「自由」は、力あるものの自由以外の意味はありません。
そのことを忘れてはいけません。

自由貿易を推進させるTPPは、私にはそれだけで十分反対なのです。

■TPPを考える視座2:生活の視点から考えることの大切さ(2013年3月19日)
TPP参加の是非をめぐる議論のほとんどが、「経済」や「産業」の視点から行われているように思います。
最近の経済や産業は、システムとして論じられることが多く、生業を基本とした経済とは似て非なるものになってしまったために、そこでの視野には「人々の生活」が欠落しています。
主役であるはずの人間が、どうもそこには見えません。

サブシステンス経済という言葉があります。
このブログやホームページでも何回か使っていますが、私自身まだ消化しきれていない言葉です。

私はイリイチの本でこの言葉を知りましたが、翻訳者である玉野井さんは「地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味」と訳しています。
人が生命として本来行っている「生命の維持や生存のための活動」といってもいいでしょうか。
このブログでも紹介した「アンペイド・ワークとは何か」の翻訳者の中村陽一さんは、サブシステンスを、単なる生命維持や生存にとどまらず、人々の営みの根底にあってその社会生活の基礎をなす物質的・精神的な基盤のことと考えます。
さらに視野を広げたのは、阪神・淡路大震災からサブシステンス社会へというメッセージをこめた西山志保さんの「ボランティア活動の論理」です。
彼女は同書の中で、サブシステンスを「身体性をそなえた人間が、自己存在を維持するために他者に働きかけ、支えあうという、生存維持の根源的関わり」と捉えます。
とても共感できる捉え方です。
いずれにしろ、資本に雇用された賃労働とは違って、生活そのものとのつながりを感じさせる活動です。
いささかややこしい話をしてしまいましたが、私自身は極めて簡単に、サブシステンスを「自らを生きるための活動」と捉えていますが、そうした視座から、最近の経済や産業を考えると、それらがサブシステンス、つまり私たちの生きる基盤を支えるどころか、壊す方向に動いているのではないかと思えてなりません。
つまり、最近の経済は、人間までをも無機質な要素にしてしまった、死の経済だと思えてならないのです。
そのわかりやすい例が、日本の農業です。
これに関しては、すでに1970年代に坂本慶一さん(「日本農業の再生」)がこう指摘しています。

「農」を排除した工業化社会は既に「死」の論理を内包しつつある。
「農」とは, 農業・農村・農業社を包括するとともに, 農業の本質である「生」の論理を意味している。
「生」は生存, 生命, 生活を包含する。

このメッセージは、私が会社を辞める一因にもなったものですが、残念ながら時代の流れは、ますます私が懸念した方向に向かっています。
TPPの議論を見ていて、それを改めて感じます。

長々と書いてしまいましたが、数字だけの資本のための経済ではなく、人間が主役のサブシステンスな経済へと、私たちは意識を変える必要があります。
経済成長が目的ではなく、みんながそれぞれに生きやすい社会を支えてくれる経済こそが、いま大切です。
TPPの問題も、そうした視座から見直してみると、新しい見え方がしてきます。
医療や福祉の世界での影響は、比較的わかりやすい分野です。
それをきちんとテレビは報道してほしいですが、しかしそれを観る時間がないほど、賃労働者は働かされています。
そして、そうした人たちが、TPP賛成に一票を投じているのが現実でしょう。
一番被害を受ける人たちが賛成するという、悪魔の方程式が、ここでも成り立っているのです。

■TPPを考える視座3:太平洋かアジアかの違い(2013年3月19日)
TPPを考える視座として、もうひとつ気になるのは、テレビでのTPP解説によく出てくる、太平洋を真ん中に置いた地図です。
その地図を見ると、多くの国が参加しているなかで、日本も参加しないわけにはいかないとメッセージが迫ってきます。
ほとんどの国が参加している普遍的なシステムのように見えてきますから、参加して当然と思いたくなります。
しかし、地図をアジア中心に変えれば、図柄は大きく変わります。
ど真ん中の中国はTPPの埒外に置かれていますから、TPPはサブシステムでしかないことが可視化されます。
物事の見せ方によって、印象は全く別のものになります。

なぜ私たちに見慣れたアジアの地図ではなく、太平洋の地図を使うのか。
これは、悪意があるわけではなく、TPPを説明するためには当然のことなのですが、だからこそ視界を規定していく効果があるわけです。
こうしたことは、たくさんあります。
しかし、私たちはほとんどの場合、それを意識したことはないでしょう。
こうした、無意識のうちに行動を方向づけられることを「ナッジ」といいますが、私たちは、知らず知らずのうちに、判断や行動を外部から規制されているのかもしれません。

話を戻して、TPPの話ですが、これは大きくは、中国と共に生きるかアメリカと共に生きるかの選択肢かもしれません。
そのことからわかることは、これは「ブロック経済化」の話ではないかということです。
つまり「世界に開く行為」ではなく「世界を閉ざす行為」ということです。
その視点がまったくないのが、気になっています。

ちなみに、中国は大きすぎて、よくわからない国です。
それに日本では、中国関係の情報は報道者の「悪意」を感ずるほど、マイナス情報が多いので、中国への信頼は低いように思います。
これもまた、私たちは実に巧妙に意識づけられているような気がしてなりません。
同じことは、北朝鮮にも言えるのですが。

TPP関係はここまで

■65歳定年制発想への違和感(2013年3月26日)
今年4月から「改正高年齢者等雇用安定法」が施行され、実質的な「65歳定年制」が義務付けられることになりました。
私が会社に入った時には55歳定年が一般的でしたが、私自身は「定年」という発想が理解できず、早晩、なくなるだろうと思っていましたが、50年も経つのにまだなくなっていなかったのかと驚きです。
人間に定年を決めることにどうしてみんな疑問を持たないのかと不思議です。
まあそれはそれとして、やはりいくつかの点でおかしな発想だと思います。

3年ほど前でしょうか、経済産業省もつながりのあるある研究会で、このテーマが取り上げられました。
最初に聞かされたときには、耳を疑いました。
若者たちに十分に働く場を用意できない状況なのに、さらに高齢者たちが働く場に座り続けるのかという、怒りさえ感じました。
その委員会では、その種の発言をしましたが、たぶんその怒りは伝わらなかったでしょう。
反対する企業の人事部長の反応は、それがコストアップにつながるというものでした。
そういう問題ではないだろうと思いました。

テレビでは、日本の年功序列制度が、こうした議論を引き起こすという人もいます。
ヨーロッパ型の勤務形態だと、働きに応じた賃金体系なので、定年があまり意味を持たないというのです。
とても論理的で、わかりやすいです。
年齢ではなく働きに応じた処遇体系であれば、定年制度はまったく不要です。
それはそれで納得できる議論です。

しかし、私自身はこうした議論を聞いていていつも感ずるのは、「働くこと」と「稼ぐこと」が混同されているということです。
働くことと給料とはまったく別のことというのが、私の基本的な考え方です。
そして、人が生きるということは「働くこと」であり、定年などはあるはずもないと思っているのです。
日本では働くというと「雇用労働」だと思いがちですが、組織に依存して働くだけが「働き」ではありません。
自分で仕事を起こすこともあれば、仲間と一緒に「協同労働」で働くこともあるのです。
そうした自分が主役で働くのであれば、誰かが勝手に決める定年などあるはずもありません。
丁稚奉公から暖簾わけしてもらって自立していくという、日本にあった働き方では、定年はむしろ「自立的な働き」への出発点でした。

65歳まで働くのはいいでしょう。
しかし組織の働きの場は、できるだけ席を空けて、若い世代に譲っていってほしいものです。
それに組織で金銭を稼いできた経済的に恵まれている高齢者は、むしろお金を社会に放出して行く働き方に身を移してほしいです。
そうすれば、お金では得られない生きる喜びを体験できるはずです。

働くことは決して稼ぐことではないのです。
雇われ人の世界から抜けないと、誰かのために働かされ続けることになりかねません。
それに、企業は単に稼ぐ場ではなく、若者が働き方を学ぶ場でもあるのです。
それに多くの人が気づいて欲しいと思います。

■一票の格差訴訟の判決への反応(2013年3月27日)
一票の格差訴訟の判決が次々と出ています。
すべてが「違憲」もしくは「違憲状態」で、選挙結果そのものに関しても2つの判決が無効としています。
この「選挙無効判決」に関する報道では、「画期的」とか「非現実的」とかいう形容詞をつけての報道が多いのが、私には驚きです。
そもそも「違憲な制度だがそれにしたがった結果は違憲ではない」などということを「現実的」だと受け止めてきたこれまでのマスコミがおかしいのです。
それを「非現実的」と考えないほど、マスコミ関係者の考え方はゆがんでいます。

選挙制度に限らず、たとえばイラク派兵などに関しても、違憲判決はこれまでも政治家や政府によって無視されてきています。
もちろん権力追従型の日本のマスコミはそれを黙認してきました。
選挙制度に関しても、政治家が何も動かなかったのは、マスコミの報道姿勢に一因があったように思います。
何が「画期的」で、何が「非現実的」なのか。
現実の世界に生きていない人たちの論理は、私には理解しがたい気がします。

そもそもこの訴訟の意味は何でしょうか。
選挙結果を否定するところにあるわけではないでしょう。
ましてや選挙のやり直しを目指すものでもない。
その意味は、日本の選挙制度はきちんとした民意を代表する制度になっていないということです。
今日の朝日新聞にそうしたことを訴える一面広告が出ていますが、ゼロ増5減とか国会議員数の削減とかといった、そんな話ではないのです。
しかしそうした視点から選挙制度をきちんと考えようという報道はあまりありません。

私自身は、いまの社会状況においては、政党政治はもう機能を終了したと思っていますので、いまさら中選挙区制度でもないでしょうし、比例代表制でもないように思いますが、国会議員が国民の代表として信頼されるためには、やはりしっかりとした制度の見直しが必要だと思います。

この「違憲判決」が、これからどう進んでいくのか。
私自身が、司法への信頼を取り戻す契機になるといいのですが。

■「良いことをしたら忘れ、悪いことをしたら覚えておけ」(2013年3月31日)
私の好きなテレビ番組の「小さな村の物語 イタリア」の143回は、ナポリの南の山の中にある、ピアッジーネという村の話でした。
登場人物の一人は、村役場の職員のカルメーロ・ペトローネさんです。
「村の人たちのために働くのは気分がいい」と話していました。
その仕事振りも、とてもあったかさを感じるものです。
日本では地方分権とか、相変わらずのお上依存の思考が染み付いていますが、カルメーロさんの仕事振りには本来の「住民自治」の文化を感じます。
それは、日本からどんどんなくなってきているものです。

そのカルメーロさんが、大事にしている言葉があります。
お父さんから聞いたお祖父さんの言葉です。
「良いことをしたら忘れ、悪いことをしたら覚えておけ」。
この言葉は、ペトローネ家に伝わっている文化なのでしょう。

生活者の言葉には哲学者より深い含蓄があると、この番組のプロデューサーの田口さんはエッセイに書いていましたが、全く同感です。
「良いことをしたら忘れ、悪いことをしたら覚えておけ」。
実は、これは私の信条の一つでもあります。
私も、ずっとそう心していますが、これはなかなかできないことです。
良いことは繰り返してもいいですが、悪いことは繰り返してはいけません。
それに良いことをしたという意識が残っていると、人は卑しくなります。
恥ずかしいながら、いまも時に、私はその卑しさに気づくことがあります。
良いことは「した」のではなく「させてもらった」と思うようにしていますが、当の本人の言動で心が逆なでられてしまうことがあります。
要するに、「良いことをした」という卑しさがどこかに残っているわけです。
いつになっても、その卑しさから抜け出られません。

「良いこと」は、他者や自然にとってだけ「良い」のではありません。
必ずといっていいと思いますが、「良いこと」は、何よりもまず、「自分にとって良い」ことなのです。
良いことをしていると、なによりもまず、自分が一番幸せになれます。
それはよくわかっているのですが、なかなかそれに徹しられないのです。

日本ではこの数十年、なにかとても大切なことが捨てられてきたような気がしますが、私たちが捨ててきたものが、この「小さな村の物語 イタリア」の番組では、いつも気づかされます。
お薦めの番組です。

■社会の痛みが腰痛を起こしている?(2013年4月1日)
最近、なぜか週に2〜3回、近くの整体院に通っています。
お試し券なるものをもらって立ち寄ったのがきっかけで、もう3か月以上、通っています。
私は腰痛もなければ、脚も痛くありません、
どこといって悪いところはないのですが、腰椎と脊椎を矯正したほうが良いといわれて、まあ明るい感じの整体院なので通っているわけです。
そろそろ飽きてきましたが、若い整体師が毎回次はいつ来ますかというので、その言葉に乗せられてしまって、今もって通い続けているわけです。

まあそれはいいのですが、そこではまず腰を10分ほど遠赤外線で温めます。
その間、他の人と整体師の話を聞くでもなく聞いているのですが、腰痛の人が多いのに驚かされています。
それも比較的若い人も多いのです。
腰痛の経験のない私にとっては、その痛みの辛さはわかりませんが、かなり大変そうです。
それにしても、腰痛の人がこんなに多いとは思ってもいませんでした。

そんなことが刺激になって、「痛み」という問題に興味を持ち出しました。
身体的な痛みと社会的な痛みとがつながっているという話を何かで読んだ記憶があったからです。
そのなかで、とても面白い本に出会いました。
大阪大学大学院准教授の篠原雅武さんの「全−生活論」です。

篠原さんは、私たちは世界が壊れるかもしれないことを、「痛み」という感覚を通じて予見しているのではないかと言うのです。
つまり、「痛み」が生じるのは、私たちの生きている状況が脆くて、壊れやすくなっているからで、壊れそうなところに「生じる」のが「痛み」なのだというわけです。
そういう認識に基づいて、篠原さんは、「痛み」を起点にして、生活や社会を問い直していきます。
「この世に生きていることの痛みは、生活という組織体の綻び、解体から、生じるものである」から、綻び、壊れつつある生活を作り直し、「痛み」の生じることのないものへと仕立て直さないかぎり、痛みは決して軽減されず、むしろ、いっそう深刻になる、と考えるのです。
とても共感できます。
そして、腰痛に悩む人が多い理由がよくわかります。
腰痛が広がっているのは、実は社会が壊れているからだと考えると、奇妙に納得できてしまいます。

ちなみに、この考えは、私がこの10年以上、取り組んできた活動と見事どに重なります。
人を不幸にする問題を個別に捉えるのではなく、生活全体のつながりのなかで捉え直していかなければいけないというのが、私の取り組んでいる「大きな福祉」の考え方です。
社会のあり方を、言い換えれば私たちの生き方を変えない限り、自殺も認知症も腰痛もなくなってはいかないだろうというのが、私の考えです。
逆に言えば、私のような生き方をしていれば、認知症にもならず自殺にも巻き込まれず、腰痛も起きないというわけです。

とはいうものの、最近、私は腰痛ではありませんが、体調も気力も不調が続いています。
これもやはり、社会の壊れのせいなのでしょうか。
たしかに昨今は、私も居心地の悪さや住み難さを感ずることが増えています。
私自身の生き方に自己満足していてはいけませんね。
さて、どうしたらいいでしょうか。
人並みに腰痛になったほうが、楽かもしれません。
もう少し整体院に通ったほうがよさそうですね。

■病気を完治させようと思うことはありません(2013年4月2日)
昨日書いた腰痛の話の続きです。

「腰痛は〈怒り〉である」も面白かったです。
著者の長谷川淳史さんは「腰痛は不快な感情との直面を避けるために生じる心身症である」という考えから、独自の腰痛治療プログラムを開発した人です。
その長谷川さんが、ある雑誌で、自分も腰痛に苦しんでいるジャーナリストの粥川準二さんのインタビューの最後にこう話しています。

完治にこだわる必要はありませんよ。
レッドフラッグがなければ、腰痛で命をとられることはありません。
腰痛を治すために生まれてきたわけじゃないんですから、腰痛はあってもいい。
あってもいいから、人生というゲームを楽しみましょう。

腰痛の辛さをしらない人のたわごとだといわれそうですが、長谷川さんもインタビュアーの粥川さんも、いずれも腰痛で苦しんだ人だそうです。
だからこそ言える言葉であり、受け入れられる言葉なのかもしれません。

私は腰痛とは無縁の人間ですが、「完治にこだわる必要はない、人生というゲームを楽しみましょう」という考えにはとても共感できます。
そもそも「病気」という概念にさえ、最近は違和感を持ち出しています。
「病気」「障害」、なんとも違和感のある言葉です。
長谷川さんは、そのインタビューの冒頭でこう話しています。

さまざまな病名をつくつて医療の対象にしてはならない。ただのカゼのようなものにも病名をつけて、患者さんを取り込んで商売にするのはやめようというのが、現在の中立公平な立場からの見解だと思っています。

私は健全に老化してきていますが、病院で何か言われたら、健全に老化しているということですね、と言うようにしています。
否定されたことはありません。

長谷川さんは、病気を人生にとって「マイナス価値」しかないと考える必要はない、と言っているわけですが、病気にとどめずに、少し広げて考えてみましょう。
トラブルや心配事もまた、人生というゲームにとっては大事な要素なのだと考えると世界は違って見えてきます。

有名なシャクルトンの求人広告という話があります。

探検隊員を求む。至難の旅。わずかな報酬。
極寒。暗黒の長い月日。絶えざる危険。
生還の保証なし。成功の暁には名誉と称賛を得る。 
   アーネスト・シャクルトン

これは1900年にロンドンの新聞に掲載された探検家シャクルトンによる南極探検隊員募集の広告です。
みなさんは応募されますか。
最近の金銭的条件だけにしか興味のない経済人たちは応募しないかもしれませんが、当時のロンドン人のあいだでは大騒ぎになったそうです。

考えを変えれば、アベノミクスで雇用を増やしてもらわなくても、仕事は山のようにあります。
あれ、いつの間にか、話が全く変わってしまっていますね。
すみません。

■第三者委員会ってなんでしょうか(2013年4月4日)
最近気になる言葉があります。
「第三者委員会」です。
問題が起こると「第三者委員会」に調べてもらおうというのが流行のようです。
そのほうが「客観的」で、説得力があるということでしょうか。
しかし、私には完全に、責任放棄に感じます。
「第三者」でなければ見えてこないこともあるでしょうが、「当事者」でなければ見えてこないこともあります。

しかも問題は、第三者委員会の結論や指摘が、当事者によって守られるわけでもありません。
聞き流されるとまでは言いませんが、それが遵守されたり、当事者の言動を変えるとは限りません。
第三者委員会の結論や提言に強制力があるわけではありません。
私には単なる「儀式」にしか思えません。

そもそも「第三者」とはおかしな言葉です。
利害関係がない人という意味でしょうが、利害関係のない人でなければ真実が見えないと思う発想が私には理解できません。
そうした人も参加する委員会であれば、その存在の意味も理解できますが、第三者に果たして踏み込んだ思考ができるでしょうか。
ただただ「形を整えた、見える要素を前提にした論理的な思考」しか出来ないでしょう。
そこには現場とのつながりはありません。

そうした流れに一方で、「当事者主権」とか「当事者研究」という動きも強くなってきています。
当事者と第三者は、姿勢と目的が違います。
なによりも、コミットの度合いが違いますから、真剣みが違います。
私は10年以上、さまざまな市民活動にささやかに関わっていますが、その体験から、活動の中心にいる人が、何らかの意味で「当事者」である活動は信頼できます。
私の表現では「社会のため」ではなく「自分のため」に活動を始めた人は信頼できます。
当事者から教えられることはたくさんあります。

一時期、「痛みを分かち合おう」という言葉がはやったことがあります。
しかし、痛みを分かち合えるのは当事者だけです。
そもそも当事者でない人は、痛みを理解すらできません。
「痛みを分かち合おう」などという言葉は、権力者の言葉でしかないのです。
当事者は、決して「分かち合おう」などとは言いません。
黙ってただ「分かち合う」のです。

安直な第三者委員会の動きには、違和感があります。
当事者が自分の問題としてしっかりと事実を見直し、言動を省みる仕組みこそが必要です。
第三者は不可欠な存在だと思いますが、主役ではありえません。

ちなみに、いまの国会は国民の生活にとっては「第三者委員会」かもしれません。
そう考えると、奇妙に納得できることが少なくありません。

■「みなの口にはいることがまつりごと」(2013年4月5日)
最近、韓国歴史ドラマを時々見ます。
いま見ているのが百済の最後の将軍を主人公にした「ケベク」です。
昨日の録画を見ていたら、こんな言葉が出てきました。
「みなの口に(食べ物が)入ることがまつりごと」。
とても納得できます。
北朝鮮では「まつりごと」が不在なのです。

では日本ではどうでしょうか。
一応、みなの口に食べ物は入っているのでしょう。
だから、みんなの政治(まつりごと)への関心が低いのかもしれません。
いいかえれば、「みなの口に入ること」を目指す「まつりごと」は実現できている。
まつりごとは、次の段階に進む段階に来ているといっていいでしょう。
しかし多くの人は、まあ「口に入る生活」を維持しているのだから、これでいいと思っているようです。
消費税増税が必要だと言われればそれに従い、原発も必要だと言われればそれにも従い、円安は良いことだと言われれば喜び、どんどんと自らの生活を窮屈にしながらも、まあ「口に入る生活」ができるからいいと「小さな生活」に閉じこもっているような気がします。
あれほど危機感を募らせ、反原発だと騒いだにもかかわらず、選挙では原発推進者たちを支持し、暮らしが苦しいなどといいながら消費税増税や円安を支持しているのですから、もう、何をか言わんや、です。
口に入れられる生活を実現してくれたお上には従順なのです。

昨日、テレビでホームレスになりながらも、生活保護を申請していない人が、取材に応じて、「生活保護費はみんなの税金から支払われているのでしょ、みんなには迷惑をかけられない」と話していました。
お上の言いなりになっている人たちの、これが末路かもしれません。
見ていて、なにかとても悲しくなりました。

政治は、次の段階を目指すべき時期に来ています。
みんなが口に入れられる状況に甘んじていてはいけないのではないか。
その一方で、まだ口に入れられない生活をしている人たちが、地球上にはたくさんいます。
あるいは、このままで行くと、日本でも将来、そういう状況が生まれるかもしれません。
そうした想像力を高めていくべきではないかと思います。
それに、みんなの口に入るものが、どんどんと汚染されてきていることも忘れてはなりません。
口に入るからといって、そこに安住せずに、自らの生き方を見直していくことも大事なような気がします。

■利子がマイナスになる利子率革命はどうでしょうか
(2013年4月8日)
日銀新総裁の黒田さんの発言は、経済界からは好感を持って受け容れられているようです。
私には、何やら時代錯誤のような気もしますし、生活者にはなにひとついいことはないように思いますが、多くの人は歓迎しているようです。
実に不思議な話です。
日本ではみんな資産家になり、貧しいのは私だけなのかもしれません。

ところで、アベノミクスをいとも簡単にばっさりと切り捨てている人がいます。
証券アナリスト出身のエコノミストの水野和夫さんです。
民主党政権時代には、内閣審議官もつとめた人です。
それもあってか、かなり辛らつで、たとえば、
「陳腐化しているとしか思えない「成長戦略」や規制緩和を未だに言い出す」
「(インフレ信仰に基づいて)今だってさかんにインフレ期待を唱えている」
とばっさりと切り捨てます。

水野さんは視野狭窄を特徴とする経済学者ではないようです。
社会学者の大澤真幸さんとの対談集の「資本主義という謎」(NHK出版新書)を読むと、それが良くわかります。
この本は気楽に読める新書本ですが、とても面白いです。

その本にも出てきますが、水野さんは「利子率革命」という視点から経済の大きな流れを読み解きます。
「利子率革命」とは長期にわたって超低金利が続くことで、そうなると既存の経済・社会システムはもはや維持できなくなるので、そうした時期を歴史学者は「利子率革命」と言うのだそうです。
いままさに、日本においても世界においても、そうした状況が起こっているわけです。
この話はとても示唆に富んでいるので、関心のある人はぜひ「資本主義という謎」をお読みになるといいと思いますが、私はさらにその先を考えてみたいと思います。
つまり、低金利ではなくマイナス金利の経済・社会システムです。
「資本主義という謎」という本の副題は、「成長なき時代をどう生きるか」ですが、もしかしたら、マイナス利子革命が新たなる成長社会を生み出すのではないかと思います。

マイナス利子の発想はすでにさまざまなところで具現化されていますが、お金がお金を生み出す社会は、やはりどこかおかしいと思えてなりません。
そういう状況の中では、生活はお金には勝てないでしょう。
お金がお金を生み出す経済の通貨とは一体何なのかも理解しないといけませんが、さらにパイを大きくしたらみんなの分け前は大きくなるなどと言う話にまだ騙されるようなことがあってはいけません。
アベノミクスで社会はさらに壊されていくような気がして不安です。

それにしても、日本人は変わってしまいました。

■資本の力に対抗するには土俵を変えないといけません(2013年4月9日)
TPPのISD条項は企業に国家並みの権力を与えるということで、米国でも問題になりだしているそうです。
EUでも大きな問題になり出しているようです。
しかし、考えてみれば、資本と国家との戦いはもう勝負はついています。
資本の勝ちです。
それはそうでしょう。
資本にとって、いまや国家は邪魔をする存在ではなく、使い込む存在になっているように思います。
なぜなら国家もまた「経済的存在」になってしまっているからです。
経済的存在としては、国家の枠にとどまらず、しかも純粋に金銭的思考だけをすればいい資本が有利なのは言うまでもありません。
企業はすでに資本の軍門に下ってしまっています。
従業員よりも資本を優先する存在になってしまっているのです。
国家もそうなりつつあります。
立ち行かなくなった大企業に公的資金が流入されることに象徴されるように、国家は、資本に都合よく使われてしまっています。

このままでは、人間もまた資本に使われる単なる労働力や消費力になっていくでしょう。
それでも幸せな生活は送れるかもしれません。
そうした「生き方」にも誰かが「生きる意味」を与えてくれるでしょう。
しかし、私はそういう生き方は避けたいです。

資本に対抗するには、土俵を変えなければいけません。
つまり「金銭」を捨てなければいけません。
経済成長ではなく、生命としての成長を目指さなければいけません。
私は、そうありたいと思っています。

昨日、マイナス利子率を書きましたが、お金を捨てるということは、お金が減価するようにしないといけません。
お金が価値を創造するなどということを拒否しなければいけません。
お金が創造した価値など、ありがたがってはいけません。
私は、そうありたいと思っています。

資本に負けない土俵とはなんでしょうか。
それは、お金にはできないが人間にはできることが中心になる場です。
「お金にはできないが人間にはできること」。
そういうことはたくさんあります。
お金で買えないものはないといったホリエモンも少し考えが変わったようですが、お金で買えないものは山のようにあります。
生き物にしかできないことを大切にして生きる人が増えていけば、資本などこわくない社会が育っていくように思います。
国家のあり方も変わっていくように思います。
そして、資本主義とは違った経済が開けてくるような気がします。
社会全体がそうなるには、100年ほどの時間が必要でしょうが、個人の生活であれば、そう難しい話ではないかもしれません。

■未来の他者を念頭に置いた社会(2013年4月10日)
社会学者の大澤真幸さんの、次の言葉はとても心に響きます。

僕らは震災が起きたとき、さまざまな差異を超えて人々が連帯する可能性を直感できた。
でも、それはやはり、今一緒に存在しているからなんです。
まだ存在していない他者と連帯できるか。
声を上げることができない未来の他者を念頭に置いた社会が、人間にとって可能かどうかを、僕らは突き付けられている。

大澤さんは、もちろん、未来の他者を意識した社会は実現可能だと考えています。
そして、なによりも、そうしなければ、この社会は破綻するのではないかと言っているように思います。
しかし、大澤さんは、未来の他者は不在の他者でもあると言います。
不在の他者のために、実際の生活を変えることができるかどうか。
これは難しい問題だと大澤さんは言います。
しかし、そんなことはありません。
少し前までの日本の社会では、存在することのない未来の他者や過去の他者を意識した生活が普通だったのです。
それが壊れたのは、たかだかこの50年でしょう。

私がそういうことを強く実感するのは、5年ほど前に妻をなくしたからです。
この記事は、時評にするか挽歌にするか迷って時評にすることにしましたが、少しだけ妻のことを書きます。
妻を亡くしてから、ずっとこのブログで挽歌を書き続けていますが、そのおかげで、生と死、あるいは彼岸と此岸のことをいろいろと思いめぐらすことがふえています。
そうした中で、人は、いまはいない人に支えられて生きていることを強く実感できるようになってきたのです。
「いま、ここ」にはいない人たちによって、私たちの生活は支えられている。
私が子どもの頃までは、その「いま、ここにはいない人」は、お天道様とかご先祖様とか、あるいは7代先の子孫たちとかいう言葉で表現されていました。
その言葉は、今も私の生活を支え、あるいは規制しています。
「いま、ここにいる人」がいなくても、悪いことや恥ずべきことはできないのです。
規制と支援は、コインの裏表です。

伴侶を亡くして自ら生命を絶った人もいますが、相手を心底、愛し信じていたら、たぶんそうはしないでしょう。
「いま、ここ」からはいなくなったとしても、その存在を実感できるからです。
まあ、私の場合は、そういう心境になるまでに5年近くかかりましたが。

挽歌ではなく、時評なので、話を戻しましょう。
大澤さんの「未来の他者を意識した社会」は、たとえば未来世代のために環境や資源の浪費はやめよう、世界を壊すのはやめようということを意味させているでしょう。
しかし、そのことは同時に、未来の他者の存在こそが、「いま、ここ」での私たちの生活を質してくれることによって、私たちを豊かにしてくれているのです。
私たちが、未来の他者を意識するのではなく、未来の他者が私たちを意識していると言ってもいいかもしれません。
これは、ロゴセラピストのフランクルの「私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに意味を問うているのだ」というのと構図が同じです。

ちょっと時評と挽歌の中間的な記事になってしまったばかりでなく、話がいささか大きく広がっていきそうです。
短絡的にまとめてしまうと、未来の他者のためではなく、未来の他者のおかげで、私たちの豊かさが「いま、ここ」にあることを書きたかったのです。
そう考えると、生き方を少し変えられるような気がします。
私が、そうであるように、です。
挽歌を書き続けているおかげで、私の意識は大きく変わってきています。
未来の他者とのつながりも実感できるほどになっています。
いや、未来と言うよりも、時間を超えた他者というべきでしょうか。
やはり書いているうちに、だんだん挽歌に引き寄せられそうで寸。
挽歌編にも再録してしまいましょう。
もう少し発展させられるかもしれません。

■番外編:時評と挽歌をつなぐもの(2013年4月11日)
昨日と今朝、時評と挽歌に同じ記事を掲載しました。
このブログは、時評編と挽歌編から構成される、いささか奇妙なブログです。
私にとっては、そのことはとても意味があるのですが、まあかなり内容の違うものが混在しています。
しかし、両者が重なることもあります。
それは「生き方」に関するものです。

時評編には「生き方の話」というカテゴリーがあります。
私は、一人称自動詞で語ることを大切にしていますので、自分の生き方を起点にして書いているつもりです。
一方、挽歌のほうは、思い切り私の生き方につながっています。
妻を偲ぶのが挽歌でしょうが、5年も続けていると、その内容はかなり変質してきています。
妻を見送ってから、生きる意味や生き方について考えることが多くなり、挽歌もまた生き方への気づきのような内容になってきています。

昨日今日と時評と挽歌に書いた記事のキーワードは「未来の他者」です。
これは大澤真幸さんの言葉ですが、まさに生き方に関わるものです。
生き方というよりも、生きている世界といってもいいでしょう。
その世界が、どのくらい「いま、ここ」という現実の生きる場を超えられるかが、大切なのだろうと思います。
みんなの世界が大きくなれば、つまらない小競り合いや対立はなくなっていきます。

たとえば、ごみの焼却場を巡って日野市と小金井市がもめています。
小金井市の生活ごみの焼却を日野市に頼んだことが問題になっています。
他の自治体のごみまでなんで引き受けるのかという話です。
しかし、日野市と小金井市が合併したらどうなるのでしょうか。

年金を巡って世代間戦争などという話もあります。
時間的にも空間的にも切り分けられると対立が発生します。
ご先祖様と子孫たちというように、自らとのつながりが確信できれば、その対立は緩和されるでしょう。

いまの時代の不幸は、地域社会の空間的な横のつながりも、家庭を軸にした時間軸での縦のつながりも、希薄になってきていることです。
希薄というよりも、むしろつながりが切られている。
つながりを切ることで、産業は拡大し、統治もしやすくなるからです。
しかし、人は個人で生きているわけではない。
横にも縦にもつながって、支えあうのが人間です。
その原点が失われてしまってきているわけです。
それが自殺を多発させ、精神障害を起こし、格差を拡大しているわけです。
もし顔の見える付き合いをしていたら、年収1億円と200万円の格差など起こりようがありません。
たとえ生じても、1億円の人は200万円の人に支援をしたくなるでしょう。
それにお互いに知り合ったら、どちらが豊かで幸せかは一概には言えなくなるでしょう。
しかし、そんなことをしていたら、経済は成長できず、オリンピックで金メダルも取れなくなる。
経済成長に価値をおかず、金メダルなどにも価値を感じない私のような人は、例外でしょうから、それではみんな喜ばないのでしょう。
だから、世界を広げるなどというのは、あんまり共感を得られないのです。

「未来の他者」は二重の意味で、私とは切り離されています。
現在ではなく、しかも到来が不確実な「未来」とどこかよそよそしい感じのする「他者」という、2つの要素が距離感を広げてしまっています。
「未来の他者」のことを考えていくと、そんなことにも気づいていきます。
そして「彼岸の他者」ということにまで思いが行きます。
「彼岸」と「未来」は、どちらが身近でしょうか。

未来を語る時評と彼岸を語る挽歌とは、こうして私のなかではつながっていうるのです。
しかし、読んでくださっている人には、そんなつながりは実感できないでしょうね。
ただ、いずれもの根底に「大きな愛」があることを感じてもらえるとうれしいです。
口汚くののしっているような時評の記事でさえ、書いているときの私には、愛が書くことへのモチベーションになっているのです。
それに、今の私には、「未来」も「他者」も、そして「彼岸」さえも、「いま。ここ」とつながっているのです。

そんなわけで、もうしばらく、このスタイルを続けようと思います。

■世の中を変えるためにできること(2013年4月12日)
ホームページに書いたのですが、私は最近、邪馬台国畿内説に考えを変えてしまいました。
変えた後で、ちょっと気になって、安本美典さんの「大崩壊「邪馬台国畿内説」」を読もうと思い、図書館から借りてきました。
はじめにに、興味深い指摘がありました。
邪馬台国の所在地とは関係ない話ですが。
引用させてもらいます。

なんだか、「邪馬台因=畿内説村」の論理は、「原子力村」の論理に似てきているように思える。あなたは、自説の根拠をほんとうに自分の眼や耳で、確かめてみましたか?グループ内の、規格化された考え方にすがっているだけではないですか?
(中略)
官や、学や、マスコミなど、一見巨大ともみえる組織がつくりだした蜃気楼のような、夢のような不確実な情報に、乗ってしまっていることはありませんか?一部の人たちが国家などから、金をうけとるのに都合のよい、ということでつくりだした情報に、のっていることはありませんか?

まさか邪馬台国関係の本で原発が出てくるとは思ってもいませんでした。
安本さんは続けます。

外部情報を遮断し、その世界内だけの情報だけをうけいれていると、外部からみて、いかに奇妙な、事実にもとづかない情報でも、奇妙とは、思えなくなってくるものです。諸説を、比較し、考えてみることこそが、重要です。
(中略)
外部情報はうけいれず、自説に都合のよい情報だけをうけいれて行く。このようにして、グループ内の多数意見とはあっている。しかし、客観的事実とはあっていない。「事実」が、提出されていても、それは単なる「意見」であると解釈してしまう。そのようなことになりがちなのです。

とても共感できます。
原子力関係の仕事をしている知人から、まさに同じような状況の話を聞いたことがあります。
彼自身は、そうならないように、さまざまな意見を持っている人たちの場に顔を出すようにしているそうです。

さてどうするか。安本さんはこう言います。

あなたにも、できることがあります。あなたが、自分でしらべ、考え、確認した情報を、インターネットででも、発しつづけましょう。そのようなことが、すこしずつ、世のなかを変えて行くと思います。それが、この本を書いた動機です。

とても納得できます。
現場を直接見て、自分で体験し考えたことを、自分で発信していくことが、大事になってきました。
できることは、しなければいけません。

■ペイフォワードと恩送り、そして未来への配慮(2013年4月15日)
このブログでも書いたことがありますが、レネ・ダイグナンさんの制作した映画「自殺者1万人を救う戦い」のDVDをペイフォワード方式で広げていこうと呼びかけたところ、今日までにほぼ100枚のDVDが私から出て行きました。
その先にはそれを上回る数のDVDが生まれ、動いているようです。
なかには100枚、複製してくれて配布してくれた人もいます。

ペイフォワードは10年ほど前の映画で知った言葉ですが、うれしい気持ちを先に送っていくということです。
DVDを送らせてもらった3人の人から、日本にも「恩送り」という言葉や文化があると教わりました。

ウィキペディアで調べてみると、次のような説明がありました。

恩送り(おんおくり)とは、誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ること。
「恩送り」では、親切をしてくれた当人へ親切を返そうにも適切な方法が無い場合に第三者へと恩を「送る」。恩を返す相手が限定されず、比較的短い期間で善意を具体化することができるとしている。 社会に正の連鎖が起きる。
江戸時代では恩送りは普通にあったと井上ひさしは述べている。

ペイフォワードは日本の文化でもあったのです。
そう思いながら、どこかでこういう文章を読んだことがあるなと気がつきました。
いろいろと探していましたが、見つかりませんでした。
ところが昨日、やっと思い出しました。
ドイツの哲学者イマヌエル・カントでした。
彼は「世界市民という視点からみた普遍史の理念」という論文で次のようなことを書いています。

奇妙なことがある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のための土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、みずからの素質を完全に発達させる域にまで到達することができるのである。

この本を思い出したのは、1年前に読んだ大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醒へ」を昨日、再読したおかげです。
大澤さんはカントを引きながら、こう書いています。

人は、しばしば、その成果として得られる幸福を享受できるのがずっと後世の世代であって、自分自身ではないことがわかっているような骨の折れる仕事にも、営々と従事する。これは不思議なことではないか
我々は、過去の世代に対する負債があるのだが、それを過去の世代に返さずに済んでいる。その過去の世代への負債の感覚が、「死者の遺志を受け継がなければ」という義務感のベースになっている。

そのために、人間には、未来の他者へと配慮を向けてしまう本来的な性向があるのではないか、と大澤さんは言うのです。

ペイフォワードは、そもそも人間の本性のひとつだったのです。
そこに戻れば、みんなが気持ちよく暮らせる社会に向かうでしょう。
残念ながら、どこかでその「正の連鎖」が反転させられてしまっているような気がしますが、まずは私一人からでも本性に沿った生き方をしようと思います。
きっとますます生きやすくなっていくでしょう。
みなさんもご一緒しませんか。

■水産業復興特区とショックドクトリン(2013年4月23日)
東北復興庁は、今日付けで、宮城県が申請していた「水産業復興特区」を認定しました。
漁業への企業参入を促すために、漁協に優先的に与えられてきた漁業権を開放して民間からの投資を呼び込み、東日本大震災からの復興につなげるのがねらいだそうです。
こういう発想には大きな違和感があります。
「復興推進の主役」は企業でないといけないのでしょうか。
県の漁協は強く反発しているそうですが、なぜ反発しているのでしょうか。
漁業の主役が反対しているのに、それを特区として実現してしまう。
なにやら「ショック・ドクトリン」を思い出してしまいます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/03/post-04ed.html

前にも書きましたが、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という考えがあります。
たしかに、それは半面の真理ですが、危険な思想でもあります。
ジャーナリストのナオミ・クラインは、これを「ショック・ドクトリン」と呼びました。

有名な話では、2004年のスマトラ沖大地震の後に、津波で流されてしまったことを契機にして、スリランカの沿岸地に大資本による富裕層向けリゾート開発が一挙に推し進められたという事例があります。
それまでも観光地として狙われていたのですが、多くの零細漁民が生活しており、また土地の所有関係も複雑だったため、開発が実現できなかったのだそうです。
まさに、「惨事便乗型資本主義」です。
こうしたことが、東北被災地で起こっていなければと思いますが、すでにそうした動きは広がっているという人もいます。
新聞を読んでいるだけでも、そうではないかと危惧する事例はたくさんあります。
そうした視点で、しっかりと報道するマスコミは、日本の現状では存在しないのが残念です。

宮城県の今回の特区は、いろんな意味で私にはとても違和感があります。
現場でしっかりと働いている漁民のみなさんが主役にならずに、いつの間にかみんな「雇われ漁師」になる歴史が始まったような気がします。
そうではない「ささえあいの新しい漁業」の姿だ、一時、見えてきたような気がしますが、やはり大きな流れには勝てないようです。

アベノミクスが、日本を壊していくことは、ほぼ間違いないでしょう。
ますます住みにくくなりそうです。

■誰を犠牲にして経済成長するのですか(2013年4月23日)
今日は午前中、自宅にいたので国会中継を時々見ていました。
相変わらずの「成長戦略」議論が続いています。
みんなどうして懲りないのか、実に不思議です。
たぶんだれもが、自分は成長の恩恵を受けると思っているのでしょう。
安倍首相は、「ともかくパイを大きくしないといけない」と30年前のような発言をしていました。
弱い人たちの、大切な小さなパイを奪ってつくったパイなど、美味しくはないでしょうに。

誰のパイを奪うのか。
パイを奪われる存在にもなりたくはありませんが、しかし、それ以上に、パイを奪う存在にはなりたくありません。
海外からのパイも、もうこれ以上、奪う経済にはしてほしくありません。

経済成長しないと社会は停滞していくという人は多いです。
たしかに「成長」は重要です。
しかし、成長の中身は、経済規模が拡大するだけではありません。
それに、今のような形での「経済成長」が社会の軸になったのは、そう古い話ではないように思います。

この50年、日本は経済は大きく成長しました。
しかし、人間の生き方という意味での社会のあり方はどうでしょうか。
果たして「成長」したといえるでしょうか。
社会のあり方としては、少なくとも、私の好みではなくなってきました。
精神的におかしくなってきている人が増え、自殺者も増え、貧しささえも増えている。
私には、私たちが、あるいは日本の社会が「成長」しているなどとはとても思えません。
誰かから、何かを奪っていることは、間違いないでしょう。

いま国会で議論している「成長戦略」は、私には、ますます社会を壊していく戦略にしか見えません。
人にとって大切な「成長」は、決して収入の額では決まりません。
にもかかわらず、なぜみんな、社会の成長を経済で考えるのでしょうか。
私のどこかが、狂っているのかもしれませんが、経済成長の意味を問い直す時期に来ているように思います。
誰かから奪う「成長」ではない「成長」を考えることはできないでしょうか。

■向こうから見た風景(2013年4月23日)
ボストンの爆弾爆破事件は痛ましい事件です。
事件を起こした兄弟には同情の余地はありません。
と、頭では思うのですが、どこかにひっかかるものがあります。
なぜこうした事件が繰り返し起こるのか。

北朝鮮の威嚇外交には毎度の事ながら怒りを感じます。
国民を飢餓状況に置きながら、巨額なお金を使っての国家行事にも呆れます。
北朝鮮は存在そのものが危険だ。
と、頭では思うのですが、これもどこかでひっかかるものがあります。
なぜこうした姿勢を彼らは続けるのか。いや、続けられるのか。

尖閣諸島問題に対する中国の外交姿勢には納得できません。
船舶や、時には航空機もつかっての領海侵犯は許せません。
中国は不気味な国だ。
と、頭では思うのですが、やはりどこかにひっかかるものがあります。
なぜ彼らはこうも強硬にでてくるのでしょうか。

同じ事件も、こちらから見るか、あちらから見るかで、まったく違ってきます。
それは当然のことです。
あるいは、見える範囲によっても、まったく違うものになります。
いずれの側も見えるような、そうした場所があればいいのですが、それは無理かもしれません。
昔は、お天道様や神様がいましたが、いまはもうどこにもいません。

ではどうするか。
想像力を発揮するしかありません。
想像力を発揮するのは、そう難しいことではありません。
思い切り素直になればいい。
兄弟には、それをしなければならなかった理由があった。
金正恩さんにはそうしなければいけない理由がある。
中国の人たちにはそうするのが当然だと思う理由があった。
そこから考え出すと、少しだけ頭が冷やせます。

これはすべてのことに当てはまります。
まずは相手の側に立って考えてみる。
そうすると問題の本質が見えてくることも少なくありません。
それによって、怒るべき相手が違っていることに気づくこともあります。
特に、原発事故に関しては、そうです。

違った風景は、人生を豊かにします。
しかし、時に人を不幸にします。
他人のせいにはできなくなるからです。

■水俣病認定対応から見える原発事故被災者の救済(2013年4月24日)
数日前にこんな記事が新聞に出ていました。

熊本県水俣市の溝口チエさんの遺族が県を相手に、水俣病患者としての認定を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(寺田逸郎裁判長)は16日、県の上告を棄却し、原告勝訴とした。2012年2月、女性を患者と認めなかった県の処分を取り消し、認定するよう県に義務付けた二審・福岡高裁判決が確定した。

溝口チエさんが手足などに感覚障害があると診断されて、県に水俣病認定の申請を行ったのは1974年です。
それから40年近い月日が経っています。
チエさんは1977年に亡くなりました。

報道でご存知の方も多いと思いますが、水俣病の患者認定は、1977年に国が定めた基準に基づいて行われています。
複数の症状が組み合わさっていることが条件とされているため、「本来認定されるべき人をも切り捨てている」との批判が多く、認定されなかった人による訴訟が繰り返されてきました。
この判決は、その一つです。
チエさんの息子さんは判決が出たあと、「(認定は)私だけの問題じゃない。後に続く人に少しでもプラスになってほしい」「基準の見直しは当然。国は姿勢や考え方を変えるべきだ」と話しています。
しかし、残念ながら、環境省は水俣病認定基準の見直しを拒否しました。
判決を、基準を否定しているわけではない、運営で対応できると受け止めたのです。
西日本新聞は、社説で、「自分に都合のいいように解釈し、物事を進めようとする。まさに「我田引水」のような国の反応ではないか」と指摘しています。
この環境省の姿勢には、統治の本質がうかがえます。
西日本新聞の社説は、こうも書いています。

行政が認める患者と、司法が認める患者。本来、「二つの水俣病」があっていいわけがない。

今年は、水俣病の公式確認から57年目。5月1日には水俣市で慰霊式が開かれ、石原環境相も出席の予定だそうです。
そこでどんなやり取りが行われるか。
そこに、原発事故保障の未来が垣間見えるような気がします。

ちなみに、溝口さんは判決後、記者団に「どうしてこんなに長引いたのか説明してほしい」と話しています。
ほんとうにそうです。
当事者と行政や司法などの統治者との時間間隔はまったく違うのです。

■水俣のしらすは美味しいです(2013年4月24日)
水俣病認定のことを書いたので、思い出して、関連記事を書きます。
いま水俣の海には、サンゴが復活しています。
それほどきれいになったわけです。

先日、水俣出身の人と会いました。
なんと水俣病に縁のある知人の友人でした。
それで水俣病の話になりました。
その人が、いまも水俣はイメージが悪いままだといいます。
しかし、もう水俣病をきちんと知っている人はいないでしょうというと、その人は、忘れられかけた時に、テレビが水俣病の悲惨な映像を報道するのです、というのです。
テレビは、時間を超えていますので、そのイメージがいまの水俣にかぶさってくるというわけです。
いまでも水俣の海産物は嫌われるというのです。

もう10年以上前ですが、水俣の杉本栄子さんの作業場を訪問し、杉本さんからシラスを分けてもらいました。
とても美味しいシラスなので、おすそ分けしたいと思いました。
ところが、水俣のシラスはちょっと恐ろしいと素直に言ってくれた人がいるのです。
いまもなお水俣の海産物は、危険だと思われているのか、驚きました。
その事態は、そう変わっていないと、その人は言うのです。
水俣の人が言うのですから、事実でしょう。
彼は、なんで10年ごとに水俣の悲惨な映像を流すのかといいます。
水俣を忘れてはいけないというのであれば、映像の流し方や編集の仕方をもっと工夫すべきです。
テレビ映像の制作者には慎重に考えてほしいことです。

悲惨な映像は視聴者の目を引きます。
しかし、大切なのは、そこからです。
悲惨さを売り物にした安直な映像づくりは止めてほしいと思います。
いまの水俣をもっと伝えることのほうがメッセージになるはずです。
それは3・11の関してもそうです。
同時に、視聴する側の私たちも、映像に振り回されるのではなく、映像の向こうにあるメッセージを読み解きたいと思います。

水俣のシラスは、とても美味しいです。
もう一度、食べたいと思いますが、なかなか手に入りません。

■カウンターカルチャーと民主主義(2013年4月27日)
フェイスブックに「アメリカの民主主義は、皮肉なことに1960年代のカウンターカルチャーの興隆を契機に反転し、今では「失われた民主主義の時代」という人もいます」と書いたら、もう少し詳しく説明してほしいといわれたので、ここに書くことにしました。

アメリカ社会が変質したのは1960年代と言われています。
当時は、カウンターカルチャー全盛の時代でした。
ブログ(CWS Private)でも何回か書きましたが、チャールズ・ライクの「緑色革命」が当時のアメリカの動きを紹介しています。
ライクは、「意識」の革命こそが新しい世界の創造に必要と説き、それを基盤に置いた共同体の設立を提案していました。
同時に、公民権活動などの少数者の権利確立型の動きも活発化していました。
いずれの動きにも、20代だった私は共感しました。
そして、アメリカでの民主主義はさらに前に向かって進化すると思っていました。

しかし、皮肉なことに、そうした動きが、トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」で描いた、生活する人が主役の、実にライブな民主主義を変質させていくのです。
このあたりの分析は、アメリカの社会学者のシーダ・スコッチポルの「失われた民主主義」という本に詳しく書かれています。
彼が標榜しているのは、「メンバーシップからマネジメントへ」という流れです。
ちなみに、この本は、5年ほど前に書かれた本ですが、昨今の日本の状況を考えるうえでもとても示唆に富んでいます。
何となく私が感じていたことを整理してもらえたので、私が取り組んでいる活動にも確信が持てました。
これに関しては、いつかまた書きたいと思いますが、今日は、カウンターカルチャーと民主主義のことです。

トクヴィルの時代から1950年ころまでのアメリカの社会の主軸は、草の根市民に根を張るメンバーシップ型の自発的結社でした。
メンバーシップ型の自発的結社への参加を通して、多くのアメリカ人は「自治に関する最良の教育」を学んできたといわれています。
それだけではありません。
それを通して、アメリカの民主主義が育ってきたのです。
スコッチポルが実証していますが、自発的結社は自閉的ではなく、国家につながる形で、国家の代表制ガバナンスに、普通のアメリカ人を架橋していったのです。
こうした構造は、アメリカという国の成り立ちに起因していますが、西部劇(特に1970年代までに制作された西部劇)などを観ると、その始まりの姿がよくわかります。

しかし1960年代に広がった新しい運動は、そうしたメンバーシップ型自発的結社を一気に後退させていきます。
代わりに姿を現したのが、テーマ型の新しい市民運動です。
それを主導したのは若者たちであり、とりわけ知的エリートと言われる人たちでした。
そして、メンバーシップ型の社会活動は、マネジメント型のアドボカシー活動や社会貢献活動へと変化したといわれます。
生活者から専門家、あるいは市民起業家たちに主役の座が移ったのです。
今やアメリカの市民活動組織は会費で成り立つというよりも、外部からの資金で成り立つプロ組織へと変質してしまいました。

長々と書きましたが、実はこれは日本においても展開されている図式です。
私は30年ほど前から、こうした動きに関心を持っていますが、ビジネスの世界のみならず、市民活動の世界でも、お金と「専門性」が力を高め、みんなで一緒に取り組むというコモンズの感覚が希薄になり、テーマが細分化され、気が付いたら「人間の生活」が脇に追いやられてしまっているという状況は、ますます加速されているように思います。

民主主義の話が出てこないといわれそうです。
民主主義は人間一人ひとりが主役だと考えてもいいでしょう。
そして、個々人の生活と国家の政治との距離感が短くなることが、民主主義の進化ではないかと思います。
もしそうならば、1960年代以後のアメリカの動きは、明らかに民主主義の後退です。
スコッチポルは、このままだとアメリカは「民主的市民の国民共同体ではなく、管理者と操作された観客の国」になると懸念しています。
観客は主役ではありません。
さらに、スコッチポルは、最近のボランティア活動は、仲間と「ともにする」ことよりも、他の人の「ためにする」ことに向かっているというのです。
誰かのための行動は、どんなに着飾ろうとも、人と人との関係に上下構造をもたらしますから、私には民主的とは思えません。

私が、昨今のNPOや社会起業家の動きに全幅の信頼を持てず、最近の社会のあり方に違和感があるのは、こうしたことがどうしても気になるためです。
かなり舌足らずですが、私には「コモンズの回復」に向けての、ゆるやかなメンバーシップが大切なように思えます。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その1(2013年5月2日)
先月のオープンサロンで、自民党による日本国憲法改正草案が話題になりました。
参加者の一人、武田文彦さん(慶応大学大学院講師)が、ちょうど、その逐条批判を書き上げたところで、その原稿を持ってきてくれたからです。
その批判文は、まだ了解を得ていないので、私のサイトには掲載できませんが、掲載したところで、長文なのでなかなか読んでもらえないでしょう。
400字詰め原稿用紙で300枚以上です。
私もまだ読んでいません。

私にとっては、安倍政権のもとでの自民党改正案は、まともな批判の対象にさえならない亡国の書だと思っていますので、このブログでも採りあげるつもりはありませんでしたが、なにやら現実味を帯びてきたので、少しは書いてみる気になりました。
論点はいくつもありますので、何回かに分けて書こうと思います。

96条の改正が、どうも目先の問題になっているようです。
これは、要するに、政権にとって憲法改正をしやすくしよう、つまり「私物化」しようということです。
安倍政権は「日本を取り戻そう」と呼びかけて選挙に大勝しました。
私の娘は、選挙のころ、主語は誰なのか、と言っていました。
友人からは、主語は安倍さんだよ、と言われたそうです。
なるほど、国民から安倍さんが日本を奪ったというわけです。
そう考えると、憲法の私物化は、その当然の帰結です。

もっとわかりやすく言えば、泥棒に家の鍵を渡すようなものですが、もし仮に、二大政党制度が定着すれば、国政の軸としての、憲法の意味はなくなります。
時の政権政党が勝手に変えられるようになるからです。
国民投票が歯止めとしてあるという意見もありますが、泥棒に鍵を渡すような国民の投票など無意味です。
選挙制度は、うまく仕組めば、いかようにも結果を出せるのかもしれません。
原発再稼働支持の前回の選挙結果を見て、つくづくそう思いました。
国民投票に甘い期待はかけられなくなってしまいました。

主権が認められない時期に、押し付けられた憲法ではないか、という人もいます。
たしかにそうかもしれませんが、その憲法を多くの国民は、歓迎し、その憲法のもとに新しい日本を創りあげてきたことを忘れてはいけません。
もし主権者に支えられた憲法を創りなおすのであれば、国民投票は、すべての国民の過半数の賛成がなければ改正できなとしたほうが、理にかなっています。
いずれにしろ、憲法は、そんなに簡単に変えられるようになっては、そもそも憲法の意味がありません。

とまあ、いささか月並みの退屈なことを書いてしまいましたが、まあ96条の改正は実現はしないでしょう。
そう思います。それほどまだ、日本は壊れてはいないでしょう。
むしろこれを契機に、憲法を多くの人がきちんと読み直し、その意味を考えてほしいです。
サロンに参加した武田さんのこんな本があります。
「赤ペンをもって憲法を読もう」(かんき出版)
http://homepage2.nifty.com/CWS/book-kiroku.htm#takeda
よかったらお読みください。
もし読みたいという方がいたら、先着2名様に贈呈しますので、私にご連絡ください。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その2(2013年5月2日)
今回は、これも話題になっている21条です。
21条は「言論の自由」の条項です。
現憲法では、次のようになっています。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

自民党の改正案では、これに加えて、次の項が新設追加されています。
2  前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

これはその運用によっては、実に恐ろしい条項です。
その危険性に関しては、すでに多くの人が指摘しているので、あえて追加する必要はないでしょう。
ただ一言だけ、指摘しておきたいのは、「公益及び公」というマジックワードの恐ろしさです。
今日も、この問題を解説していたテレビ番組で、「個 対 公」という構図で説明していましたが、この二項対立で社会をとらえると、そこには上下関係がどうしても生まれます。
なぜなら、個と公とは次元の位相が違うからです。
公には私が、個には共が対置されるべきではないかと、私は思います。
しかも、「公」ということばには、なにか威圧感を感じます。
私の関心事は、「コモンズの回復」ですが、共(コモンズ)という3つ目の視点を入れると、世界の風景は変わって見えてきます。

自らをアナリストとする弁護士の遠藤誠さんは、遺作になった『道元「禅」とは何か」の第6巻で、次のように書いています。

いわゆる「新しい歴史教科書を作る会」の言っている公益とか公ということは、「何でも政府の言いなりになれ」という日本の国家権力礼讃論にすぎません。だから、日本の国家権力が惹きおこした日清戦争・日露戦争・韓国併合・満州事変・日中戦争・太平洋戦争を、正しい行動だったと言っているわけです。

これは多くの人が持っている「公」とか「公益」のイメージとはかなり違うでしょう。
そこに、言葉の恐ろしさがあります。
これに関しては、また改めて書きたいですが、日本人は、そうした言葉のまやかしに弱いように思います。
誰も真剣に、言葉の意味を考えずに、安直に使っているからです。

話を戻して、21条の第2項を読み直してみると、私が生まれた年に全面的に改正された治安維持法をどうしても思い出してしまいます。
治安維持という言葉も、実に恐ろしい言葉です。
シリアや北朝鮮をみればわかるように、誰にとっての「治安」かで「秩序」の意味はまったく違ってくるからです。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その3(2013年5月3日)
前回書いた「公益及び公」という表現は、ほかにも出てきます。
第12条、第13条、そして第29条です。
それぞれ、「国民の責務」「人としての尊重」「財産権」を定めたものですが、現行憲法では「公共の福祉」とあるところを「公益及び公の秩序」に変更しています。
「公共の福祉」も意味があいまいな、危険な言葉ですが、公より公共が、秩序より福祉が、私には「より良い」ように感じます。
ちなみに、現行憲法では、このほかにも「公共の福祉」は第22条の「居住・職業選択の自由」にも「公共の福祉に反しない限り」自由だと書かれていましたが、なぜかその条文では「公共の福祉」も「公益及び公の秩序」も削除されています。

公共の福祉や公益などに関しては、議論しだしたらこれまた際限がない言葉ですが、私には発想の基本的な視点が違っているように思います。

私は、時代の大きな流れを、「組織(制度)起点発想から個人起点発想へ」と捉えています。
「個人」というと誤解を受けそうですが、ここでは「つながりの中での個人」と捉えています。
これに関しては、私のホームページでも最初のころに立場を明確にしていますが、私のこれまでの生き方は、この姿勢で貫いてきています。

公共には、人の生活をぶつけ合いながら共通の道を探っていくという、草の根からの、そして水平的な関係を感じます。
そこには、生きた人間のさまざまな表情があります。
それに対して、「公益」とか「公の秩序」は、個人とは別の次元からの、つまり個々人を超えた全体から個人を見下ろす姿勢を感じます。
そこには、生きた人間の息吹や表情は感じられません。
そこにあるのは、つめたい秩序です。
こう感ずるのは私だけかもしれませんが、そんな気がしてなりません。

現在の憲法で、私がとても重要だと思っているのが第13条です。
個人の尊厳をうたっている条項です。

第13条 [個人の尊重と公共の福祉] 
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。

この「公共の福祉」も「公益及び公の秩序」に変えられています。
私にはとても違和感があります。
まさにコラテラル・ダメッジの強調です。

憲法に限らず法律は、自然科学の法則と違い、数式で一義的にきまるようなものではなく、文字で表現する以上、変化する社会に柔軟に対応していける多義性を持っています。
しかし、そうした表現の背後にある「思想」や「発想の枠組み」、あるいは「目指す国家像」は、注意すると見えてきます。
96条は、あまりにも露骨にそれが見えますが、「公益及び公の秩序」は、それ以上に、大きなパラダイム転換を暗示しています。

万一、これが通るようであれば、私にはとても生きづらくなることは間違いありません。
私は、社会のためや国家のために生きたくはありません。
自分が納得できる人生を送りたいですし、そのためには表情のある人たちに囲まれていきたいです。
個人の笑顔の上にこそ、秩序は成り立つべきだと、私は考えています。
そうすれば、憲法や権力から強制されなくても、この国が好きになり、いま生きている社会を大事にしていけます。
国民を私物化するための憲法は、論理矛盾な存在です。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その4(2013年5月3日)
「憲法を改正すべきかどうか」という問いは、まったく意味のない問いかけのように思います。
意味がないどころか、危険です。
なぜならば、その問いが意味していることは人によってまったく違った意味を持つからです。
たとえば、第9条ですが、国防軍を持って海外の戦争に参加したい人も、いま以上に戦争に参加できなくなるようにしたい人も、改正すべきだと回答するかもしれません。
その答が多義的である質問は、意味のない問いなのです。
数の上での結果が出たとしても、その意味が一義的に決まらないからです。
その結果の数字を、どう使うかは、使い手の意向次第ということになります。
「改正」の対象と方向をあいまいにしたままでの問いは、危険です。

しかも、完璧な法律などはありえません。
現行憲法も、条文の表現でおかしな文章はたくさんあります。
これについては、前回紹介した武田文彦さんの著書に詳しく指摘されています。
ですから、どんな法律も、変えたほうがいいという表現は必ずあります。
にもかかわらず、「憲法を改正すべきかどうか」などという問いかけで世論調査が行われます。
改正するほうの意見が大きくなることは当然ですが、その結果が、見事に利用されるわけです。

大切なのは、「改正すべきかどうか」ではなく、「何を変えるか」です。
少なくとも、条文ごとに、しかも条文の背後にある思想についての賛否を問うべきです。
しかし、最近の電話による世論調査はそんなことはできないでしょう。
思想は、そう簡単には理解を共有化できないからです。
私も一度、回答者に選ばれたことがありますが、極めて簡単な選択肢からの直感的な判断が求められます。
昨今の安直な世論調査は、あることを意図している人にとっての、単なるマーケティング手法でしかありません。
広い意味での社会にとっては、百害あって一理なしです。

手続法と違って、憲法を変えるということは、思想を変えるということにつながります。
96条から議論していくということは、ともすれば手続き論の話にされかねません。
そこにも「悪意」を感じます。
国家の大本の憲法の議論は、フェアに取り組まなければいけません。

それにしても、いまの憲法改正論議を見ていると、憲法をあまりに軽く、位置づけています。
憲法は、すべての法体系の拠り所なのです。
法律改正と同じような発想で、憲法を改正することは、どこかに違和感があります。
アメリカ憲法のように、修正条項を追加していくのであればともかく、憲法そのものの精神を変えていこうというのであれば、そのことを国民にもっときちんと理解させた上での、時間をかけた、しっかりした議論が必要だと思います。
自民党だけではなく、広く議論を重ねていく、新憲法起草委員会を国家レベルで立ち上げるべきだろうと思います。

安直に国会で決議すべき事項ではないように思います。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その5(2013年5月4日)
日本国憲法の3原則として、「国民主権主義」「平和主義」「基本的人権尊重主義」があげられています。
これは中学校で学んだことです。
おそらく最近も変わっていないでしょう。
自民党の憲法改正草案は、この3つの原則に関する見直しを含んでいます。
もちろん「前進の方向」ではなく「後退の方向」での見直しです。

基本的人権に関して見てみましょう。
現行憲法では、12条や13条の前に、「基本的人権の享有」として11条が置かれています。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

これが次のように変更されています。

第11条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

ほとんど変わっていないように見えますが、「享有を妨げられない」が「享有する」に、「権利として、現在及び将来の国民に与へられる」が「権利である」に変わっています。
瑣末な違いのように見えて、そこには深い意味が含まれているように思います。
つまり、一般論を語るだけにとどめて、それを妨げるとか守るという姿勢は削除されています。

この条項は、現行憲法では第97条につながっていきます。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

自民党草案では、この条文は削除されています。
確かに、条文としてあまりふさわしい条文ではないかもしれませんが、この条文は基本的人権を制限するような後戻りは、もうしないという、現行憲法の根本思想の一つでもあります。
権力が、国民個人の基本的人権をおろそかにすることは、よくあることです。
だからこそ、屋上屋を重ねるような形で、この条文が加えられているのです。
しかも、その位置は、「第10章 最高法規」の冒頭です。
この条文の後に、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」という第98条があるのです。

こうした改正草案から、何が見えてくるでしょうか。
私には間違いなく見えてくる未来があるのですが。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その6(2013年5月4日)
憲法の存在意義は、国家権力の暴走を抑えることだといわれます。
つまり、憲法を守るのは国家権力だというわけです。
中学校で習った、マグナカルタ(大憲章)は国王の権限を制限するためのものでした。
マグナカルタは、現在もなお、イギリスの憲法の一部を構成しています。
憲法は国家が守るもの、法律は国民がも守るもの、という人もいます。
ところが、自民党憲法は、憲法は国民が守るべきことだと明言しています。

次の条文が、「憲法尊重擁護義務」の冒頭に新設されているのです。

第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

この条文は、現行憲法の第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」の第1項として追加されています。
そして、この条文は、「天皇又は摂政」が削除され、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」と修正されて第2項にされています。
「天皇又は摂政」が抜かれていることの意味も非常に大きいのですが、それはまた項を改めることにします。
ここで強調しておきたいのは、憲法の意味がまったく変わっているということです。

権力の私物化の姿勢が、ここにもはっきりと示されています。
13世紀のイギリスのジョン王も、こうした憲法ができたら、大喜びだったでしょう。
この自民党憲法で喜ぶのは、誰なのでしょうか。

この憲法が実現したら、日本は大きく変わっていくでしょう。
立憲国家ではなくなりかねないのです。
立憲主義に基づかない法治国家の意味を問い直さなければいけません。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その7(2013年5月4日)
自民党の憲法改正草案の大きな問題は、第9条と天皇の位置づけです。
いずれも、さまざまな人がすでに語っていますので、それに付け足すほどの私見はありません。
天皇に関して言えば、なぜオランダの皇室のようにならないのかという気はしますが、私の手におえるテーマではないので、書き控えます。
皇族のみなさまには、ただただ同情し、感謝するだけです。

第9条ですが、これもあえて付け加えることはないのですが、問題のとらえ方には大きな危険性を感じます。
それは、解釈改憲によって進められてきた結果としての現状と憲法条文のずれがあるから、現実に合わせるのだという論理思考への危惧です。

現実と条文が違うのであれば、現実を正すのが、憲法の存在意義です。
憲法を変えることによって現実に合わせるという発想は、憲法の規範性を否定するものです。
放射線汚染が広がったので、安全基準を変えてしまおうというのと同じです。

テレビで自民党の議員が、北朝鮮がミサイルを発射するというのに、日本の攻撃力を高めないでいいのかというような発言をしていましたが、これこそ冷戦時代に流行ったハーマン・カーンの「エスカレーション発想」です。
私は、当時もオスグッドの「一方的削減発想」に賛成でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm#es
歴史は、そのほうが効果的だったことを示しています。
北朝鮮にとっては、第二次世界大戦前の日本と同じく、攻撃の包囲網の中で、いたたまれなくなっているのかもしれません。
北朝鮮の好戦的な姿勢が、だれを利しているかを考えると、私は北朝鮮だけを批判する気にはなれません。
北朝鮮の水際外交と日米の軍事力の存在はセットで考えなければいけません。

防衛軍の設置は愚策だと思いますが、それ以上に私が危惧するのは、「現実と規範が違っていたら現実に合わせて規範を変える」という発想です。
こうした安直な発想が、さまざまなところで広がっていますが、国家の大元の憲法にさえ、それが行われるのかと思うと、恐ろしさは高まります。
いうまでもなく、この発想は憲法は「変えやすくする」という発想とつながっているのです。
つまり規範の私物化あり、憲法の否定です。

国民の手に憲法を取り戻すのではないことは、明らかです。
この発想が、日本を滅ぼしていくでしょう。
悪貨が良貨を駆逐する。
社会の崩壊は、ここから始まります。
規範がなくなれば、社会は壊れるしかないのです。

■原発の輸出を認めて、原発再稼働反対はありません(2013年5月4日)
新聞によるとトルコに対する原発輸出がほぼ決まったようです。
大きな後ろめたさを感じます。
原発再稼働ほどの話題にならないのも気になります。

原発反対にはいくつかの立場があります。
原発そのものの存在に反対なのか。
自分の住んでいる地域、あるいは国家に原発があることに反対なのか。
安全運転できない原発に反対なのか。

私は、第一番目の立場です。
原発の安全性は、運転の安全性の問題ではなく、存在(原理)の安全性だと思っています。
ですから、国内での稼働であろうと海外での稼働であろうと同じことです。
自分の生活地域の範囲に原発はあってほしくはありませんが、だからと言って、ほかの地域ならいいという話ではありません。
原発を輸出することと国内の原発を稼働させることは、私にはまったく同値です。
原発輸出を認めるのであれば、国内の原発再稼動には反対できません。
危険なものを他者に押し付けて、自分たちだけ利益を得るのは、気持ちの良いものではありません。

憲法改正をやりやすくしてから、憲法9条を改正するというやり方と同様、原発輸出を行い、原発への恐怖感を緩和してから、国内原発を稼働させる。
いずれも狡猾なやり方です。
原発輸出とは、実に気分の悪いニュースです。

原爆も原発も、企業本は核分裂であり原子力です。
Nuclear という英語には、核兵器と原子力と言う二つの意味がありますので、英語圏の人は原爆と原発は同じものだとすぐわかるでしょうが、日本では核兵器と原子力発電とは言葉が違います。
ですから、あの大江健三郎さんでさえ、原子力発電を肯定してしまったのです。
彼の想像力はいかにもお粗末だと思いますが、しかし、大方の人は同じ落し穴にはまっていたはずです。
そういう間違いは、アインシュタインにしてもバートランド・ラッセルにしても、陥っています。
その愚を繰り返したくはありません。
原発稼動と原発輸出とは同じことなのです。
そのことをしっかりと認識しておきたいものです。

このままだと、日本はまた、原発大国になりそうです。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その8(2013年5月5日)
多くの人はあまり意識していないでしょうが、現行憲法は大日本帝国憲法第73条の改正手続きに従って改正され、昭和天皇によって公布されています。
その公布文には、
「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名 御璽」
と記されています。
しかし、主権が天皇から国民へと移ったことで、両憲法は法的には連続性がないとする考えもあります。
そうした考えのひとつとして、8月革命説もありますが、私の友人の武田さんは、もし日本国憲法の成立が革命であれば、自民党の憲法改正案は「反革命」を目指すものだと言います。
武田さんの小論は、私のホームページに掲載していますので、お読みください。
私は、両憲法に法的連続性のみならず、意味的連続性もあるように考えています。
確かに、発想のベクトルは反転していますが、しかしなお、国民主権を統治する権力を想定しているからです。

現行憲法の条文の主語はかなり粗雑ですが、「国」が主語にはなっていません。
多くは「日本国民」または「国民」です。
ところが、自民党改正草案では、新設された条文の一部の主語は、「国」になっています。
たとえば、第9条の3は「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」とあります。
よく読むとおかしな文章です。
どこがおかしいか、ぜひお考えください。
ちなみに、平和主義をうたう現行憲法第9条の主語は、次の通り、「日本国民」です。

第9条(現行) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

自民党草案では、最後の「永久に放棄」が「使用しない」に変わっています。
また、新たに2項として、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と明記されました。
念のために言えば、戦争は常に「自衛権の発動」だと、私は思っています。
どんなに「侵略目的」と見えても、当事者にとっては「自衛」の要素があるはずです。
この条項に続いて、「国防軍」の条項が出てくるのです。

今回、問題にしたいのは、そうした国防軍のことではありません。
新たな条文の主語に「国」が使われだしていることです。
国民が主語の憲法から、国家が主語の憲法への指向がでているということです。

前に書きましたが、私は、主語が組織や制度から人間へと移っていくのが、歴史の流れだと思っているのですが、まさにそのベクトルには逆流しているのです。

それにしても、国民主権である国家における、行為主体としての国家とは、いったい何なのでしょうか。
国家に協力する?
頭が混乱してしまいます。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その9(2013年5月5日)
主語の話をしたので、それにつなげて、もうひとつ、気になることを書きます。
憲法にはめずらしい主語がひとつ、自民党改正草案には登場しています。
「家族」です。

第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

2項には、なんと婚姻は夫婦相互の協力によって維持されなければならないともあります。
家族は、互いに助け合わなければならない。
すらっと読めば、まあなんともないのですが、国家が主語になりだした憲法において、ここまで書かれると、いささか不安になります。
明治時代の「家制度」が復活するわけではないでしょうが、いやな感じがします。
憲法で、家族や婚姻にまで「義務」を指示されるのは、私には馴染めません。
「生‐政治」へと権力の支配様式が変化しているとはいえ、ここまであからさまに言われてしまっては、まさに「家畜」視されている気になります。
この発想は、皇室観にも、さらには地方自治観にも、さらには愛国主義観にも、つながっていくように思いますが、まあそこまでは勘ぐるのはいきすぎかもしれません。
しかし、こうしたちょっとしたところから、大きな権力犯罪は始まるのです。

たかが「家族」ではありません。
家族が「社会の基礎的な単位」であるとすれば、それをどう位置づけ、どう扱うかで、国家のあり方が決まってくるのです。
恐ろしさをぬぐえません。

■自民党憲法改正草案による亡国への道:その10(2013年5月6日)
今回で一応、このシリーズを終わります。
その9で、家族への介入に関して書きましたが、その先にあるのが「愛国心」です。
明確な条文があるわけではありませんが、よく指摘されているように、「国旗及び国歌」が憲法に明記されました。

第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
 2  日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この条文だけを見れば、何もおかしいところはないように思います。
しかし、そこに含まれた意味は。この数年の「日の丸・君が代訴訟」がはっきりと示しています。
これについては、このブログでも何回か書いてきています。
何の変哲もない条文が、その運用によっては、大きな「やいば」になるのです。
自殺に追いやられて人もいるほどです。

私は、日の丸も君が代も好きでした。
私が、認識を改めたのは、10年ほど前に雑誌で読んだ、「良心、表現の自由を!」声をあげる市民の会の渡辺厚子さんの「私は立てない、歌えない」という文章です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132
以来、私自身もどこか素直に君が代を歌えなくなり、日の丸には愛着を失いました。
それらが、この国を愛することなく私物化している一部の人たちのものだという気がしてきたのです。

自らの「愛国心」を語る人には好感が持てますが、他者に「愛国心」を強要する人には嫌悪を感じます。
そういう人は、おそらく自らは「愛国心」など微塵もないのでしょう。
だから他者もそうだと思い、強要してくるのではないかと思います。
自らの国に、誇りと自身があれば、形式的な愛国心など強要する必要はないはずです。
強要された「愛国心」などに、いったいなんの意味があるのか。
「愛」が強要できるなどと思っているのでしょうか。
愛とは、愛したくなるようなものがあってこそ、生まれるものです。
愛国心を強要する前に、愛される国になるようにならなければいけません。
そのための指針が憲法です。
愛国心を強要する為政者の下では、愛国心は育ちません。
日の丸や君が代を、これ以上、けがして欲しくないと思います。

「愛」にまで介入してくる憲法が、思想及び良心の自由(第19条)をうたっても、あんまり説得力がありません。
その先に見える風景が、とても不安です。

■黄柳野高校が話題になっているので期待したのですが〈2013年5月9日〉
最近、このブログへのアクセスが急に増えることがあります。
中途半端なブログなので、ふだんはさほどアクセスは多くはないのですが、急に1000件を超えたりしているのに気づくと何事だと思います。
それぞれに、あるキーワードが話題になっているようです。
最近で言えば、「グラディオ作戦」「野田風雪」そして昨日からは「黄楊野高校」です。
いま確認したら、今日もアクセスが2000件を超えています。
一番アクセスが多いのが、2008年12月に書いた「黄柳野高校はなぜこうなってしまったのか」の記事です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/12/post-b4ab.html
実は、この記事へのアクセスは時々、急増します。
また名に買ったのかと調べてみたら、どうやら昨日、同校の学生寮が火事になり、死者が出たようです。
教育そのものでまた話題になりだしたのかと思ったのですが、火事とは残念です。

黄柳野高校は愛知県新城市にある私立高校ですが、大きな期待をもたれて設立された「コモンズ型の学校」でした。
全寮制だったと記憶していますが、新しい教育哲学とビジョンをもった学校でした。
しかし残念ながら、その理念は必ずしもうまく育たずに、挫折してしまったことを知って、勝手な私見をかいたのが、前日のブログ記事です。
久しぶりに読み直してみました。
5年ほど前とは言え、当時はまだ、私の頭の中に学校教育への期待と関心が残っていました。
いまはまったくと言っていいほどありませんが。

先月、湯島で高校における教科「福祉」をテーマにしたカフェサロンを開きました。
神戸の六甲アイランド高校で「福祉」を教えている知人に来てもらって、話題提供してもらいました。
とても感動的な話でしたが、学校への期待はなかなか戻ってきませんでした。
というよりも、普通の感覚が感動するほど、高校は崩れてしまっていると感じたのです。

25年前、日本から公立の小中学校がなくなったら、日本の未来は明るくなるだろうなと思ったことがあります。
学ぶことが楽しくないような「学びの場」は、私には理解できません。
少し前に、学校での体罰が問題になった時に、プロ野球の桑田さんが、体罰ではうまくならないと明言していましたが、体罰が運動能力や芸術能力を妨げるのと同じように、学ぶことが楽しくならないどころか、学校に行くのさえ楽しくないような学校は、子どもたちをだめにするだけです。
事実、管理教育の広がりは日本の子どもたちをだめにしてしまっています。
いじめだけではありません。
当の学力さえ、だめにしているのです。

学校を「いじめの場」ではなく「学びの場」「喜びの場」にしていく試みは、数年前までいくつかありました。
しかし、昨今は、そうした話をあまり聞かなくなりました。
教育基本法が改悪され、学校はますます楽しくない場になっているのではないかといささか心配です。

火事ではなくて、黄柳野高校がもっと話題になってほしいです。
学校の先生たちには、まずは自らが楽しくなるような学校をつくってほしいです。
先生が楽しくなければ、生徒が楽しくなるはずがないのですから。

■円安を喜ぶ理由がわかりません(2013年5月9日)
4年ぶりに 1ドル100円台が実現しました。
円安のおかげで、輸出企業の業績は好調のようです。
それを歓迎する風潮が高まっていますが、以前も書きましたが、「円安」を喜ぶ人の気持ちがわかりません。
単に「儲かる」だけで喜んでいるのであれば、それは納得できますが、みんながみんな、そんな守銭奴やホモエコノミクスであるようには思えません。
もし国家の役割が国民の財産を守り、生活を豊かにすることであれば、当然ながら「円高」をこそ目指すべきです。
私たちの労働の価値が、それだけ高く評価されるということですから。

最近のアメリカでは、再び、「強いドル」政策が支持されているようです。
為替問題は、経済問題というよりも政治問題になってきていますので、政策的に強くしたり弱くしたりすることが行われがちですが、そうした動きはまさに political economics であり、生活視点のエコノミクスではありません。
また、過剰な操作は、クリントン政権下のアメリカでの「強いドル」政策が過剰資金を大きく動かしてアジア通貨危機やロシア危機を起こしたように、金融工学者によって悪用されかねません。
しかし、ドルと円とは違うように思います。
私の知識では、なかなか説明はできませんが、素朴に考えて、輸出しやすいために円安を指向するという発想は、なじめません。
国民の生活を貶め、海外の企業に打撃を与え、海外の人たちに被害を与えるからです。
political economicsと生活のための経済は、まったく違います。

私の乏しい知識で感ずるのは、アメリカの経済に依存するスキームが、1990年代のクリントン政権時代に生まれたということですが、輸出に依存する経済は、決して国民を豊かにはしないでしょう。
今の日本の政財界の動きを見ていると未来が全く見えてきません。
過剰消費をあおっても、実体経済はもろくなるだけです。
経済成長は短期的なカンフル剤でしかありません。
この20年、もう十分にそんなことは体験してきたのではないかと思いますが、そうしたことに対して、みんな異常に無防備です。

私には、円安は憂えるべきことであって、喜ぶものではありません。
為替レートが1円安くなっただけで、トヨタは400億円の利益増になるとテレビで報道していましたが、そんなことで本当にいいのでしょうか。
1980年代に日本の企業に「財テク」ブームが来ました。
私が会社を辞めたのは、そうした動きに大きな違和感を持ったことが一因でしたが、当時はメーカーでさえ、ものをつくるよりもファイナンスで利益をあげたほうが儲かったのです。
そうしたことがどれほど経済の健全性を損なうか。
そして抜け出せないほどのバブルの崩壊を引き起こしました。
昨今の日本企業は、1980年代から何も学んでいません。
その後に起こった金融ビッグバンが、日本の経済をだめにするだろうと予感していましたが、まさにその方向に動いているような気がします。
私には、到底、正気とは思えません。

■円安を喜ぶ人もいました(2013年5月12日)
円安を喜ぶ人の気が知れないと、ついつい書いてしまいました。
しかし、昨日、テレビを見ていたら、浅草の商店街が円安で増えた海外の観光客のおかげでとても繁盛しているという報道をしていました。
小売店の人は、円安の利益を生活面で受けているわけです。
物事をあまり一面的に見てはいけないと思いました。

経済に、もし「利潤」という概念が必要なのであれば、価値体系の差異こそが利潤の源泉であると、岩井克人さんは書いています。
実に新鮮な指摘です。
為替制度は、そうした価値体系を標準化していくのでしょうか。
岩井さんの本はもうかなり前に読んだので、あまりはっきりと覚えていませんが、また読み直してみる必要がありそうです。

実は、私の娘も、円安を喜んでいます。
海外預金をしているのですが、リーマンショックで円高が進んだため、円に直すと元金を大幅に割ってしまったのだそうです。
その元が取れるかもしれないと言っていますが、まあ預金する余裕のある人の損得は、私には余り関心はありません。
むしろ預金などもぎりぎりで、生活している人の視点で考えなければいけません。

海外の観光客が増えてお土産がたくさん売れるようになったことは、喜ばしいことです。
しかし、逆に日本人が海外に行きにくくなっているわけです。
その分、国内旅行が増えているという報道もあります。
となると、みんなハッピーですね。
ということは、やはり円安もまた喜ぶべきことでしょうか。
それに、円高で資源が高くなれば、省エネが進むかもしれません。

いやはや経済は難しいです。
昨日は円高支持を強調しましたが、もう少し考えてみる必要があるかもしれません。

■メンタルヘルスをテーマにしたサロンのお誘い(2013年5月13日)
私のオフィスでは、毎月、フォワードカフェというのをやっています。
ちょっとつまづいてしまったけれど、前を向いていこうという人やそういう人を支えていこうという人が気楽に本音で話し合える場としてスタートした集まりですが、最近は、参加者の幅も広くなり、要するに、誰でも歓迎のホッとできるカフェサロン(コーヒーを飲みながらのサロン)になってきています。

時々、ゲストを呼んでテーマ型のスタイルもあるのですが、今回は「うつ病」をテーマにしました。
企業向けの研修講師などで活躍されていた浜田幸一さんが数年前に、うつになり3か月入院しました。
もうすっかりいいのですが、その体験を踏まえて、「うつな人ほど成功できる」という本を書きました。
先日、その浜田さんとその本を読んでうつを克服しつつある人がやってきました。
話をしていて、浜田さんの話を多くの人に聞いてもらいたくなり、今月のサロンにお招きしました。
講演会スタイルではなく、気楽に浜田さんと本音をぶつけ合うサロンにしたいと思っています。
最初に、浜田さんに、「うつ体験からのメッセージ」を話していただき、それを材料にみんなで話し合う予定です。

実は、先週、「認知症予防」をテーマにしたサロンを開催しました。
このサロンに初めて参加してくれた企業の現役管理職の人が、1年前にここでのお話を聴いていたら、母への対応を変えていられたのにと話してくれました。
認知症の予兆は、初めての人には意外と見過ごされてしまうのです。
同じことは「うつ病」にも言えます。
今回のサロンでは、浜田さんに、その当たりの話もしてもらう予定です。
ですから、できるだけ多くの人に聞いてもらいたいと思って、このブログにも案内を書くことにしました。
もしお時間とご関心があれば、ご参加ください。
もう少しだけ席に余裕がありますので。

○日時:2013年5月18日(土曜日)午後1時半〜3時半
○場所:湯島コムケアセンター(文京区湯島3−20−9−603)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○話題提供者:浜田幸一さん(イン・フロンティア代表)
○会費:500円

■アメリカ史だけではなく現代世界史の風景が変わりました(2013年5月13日)
この週末に、「オリバー・ストーンが語るアメリカ史」の第1回から第7回までを一気に見ました。
思っていた以上にはっきりと語られているので、見ていて、気持ちがすっきりしました。
これまでの認識が根底から問い直されるような気がしました。
なんとなく感じていたことに、確証も得られました。
しかし、だからと言って、気が晴れたわけではなく、逆に気が重くなって、元気がまた失われましたが。

ソ連が悪者になりすぎているという気は、どことなくしていたのですが、それでもソ連とアメリカを比べると戦争を終結に導き、戦後の平和をもたらしたのは、アメリカだという認識がずっとありました。
CIAの暗躍は、映画の世界ほどではないだろうとも思っていました。
しかし、ストーンのドキュメンタリーを見れば、現実は映画以上だったのかもしれません。

それにしてもアメリカの政府の酷さは驚くほどですが、それをこういう形で報道するジャーナリズムを存続させているアメリカの社会の健全さは、これまた驚きます。
日本の報道関係者とは大違いです。

私が一番認識を変えたのは、ソ連の役割であり、フルシチョフの勇気です。
フルシチョフに比べれば、ケネディはまだ腰がぶれています。
それに不用心でした。

それと、歴史はちょっとした偶然で大きく変わるものだとも思い知らされました。
トルーマンやフォード、ニクソンが大統領になったのは、ちょっとした事故の結果です。
もしトルーマンではなくウォレスが大統領になっていたら、世界の歴史は一変したかもしれません。
核兵器はもちろん、原発も実現していなかったかもしれません。
歴史に「もし」はないと言いますが、その道もあったと知る事はとても大切です。
歴史に「必然」はないと思えば、少しは元気になれます。

まだご覧になっていない方は、ぜひご覧になることをお勧めします。
NHKのオンデマンド放送で見られます。
また6月には最後の第8〜10回が放映されるそうです。
今の世界の状況に危機感を持つ人には、ぜひお勧めの作品です。

■人にレベルはありません(2013年5月14日)
昨日、企業経営幹部の人たちの公開フォーラムがありました。
そこでいささかムッとする発言がありました。
私の知人からの発言ですので、あまり具体的に書くと角が立ちますが、やはり書かなくてはいけないと思い、書くことにしました。
実は同じような発言は、これまで何回も聞いています。
私が敬愛する中小企業の社長までが言うのですから、私にはやり切れません。

どういう発言か。
昨日は、経営道フォーラムという活動の発表会でした。
そこで、これからは「危機」を新しい機会へのチャンスと捉え、新しいビジネスモデルにつなげていくという報告がありました。
それに対して、会場にいた、某大企業出身で定年後、中小企業のコンサルティングなどをされている人が発言しました。
「ここにいる大企業の人たちと違って、中小企業で働いている人たちはレベルが低くて、危機意識さえもってくれない」。
私がひっかかったのは「レベルが低い」ということです。

親しい友人の社長と話していた時に、同じようなことを言われたことがあります。
「佐藤さんが言うようなことは私の会社では難しい。うちのような中小企業の従業員は、佐藤さんが所属していた大企業の人たちとは全く違うんですよ」
私には意外な発言で、ついついその後、かなり言い合ってしまいました。
私からすれば、その会社の顧問的な人よりも従業員の人たちのほうがよほどしっかりしているように感じていました。
会社の顧問とかコンサルタントが、会社をだめにしている事例を私はいくつか感じています。

こういう話は、何も今にはじまったことではありません。
ブログにも書いた事があったなと思い出して調べてみたら、2004年にも、同じ経営道フォーラムの発表会で同じ発言を受けていました。
社会貢献活動に関してです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_7.html

人にレベルはありません。
あるのは違いです。
そして大切なことは、偉そうな理屈ではありません。
その違いを活かしあってこそ、組織活動の意味はあります。
もしレベルがあるとすれば、レベルが低いと言って、人を見下すような人です。
その人は、自意識の上ではきっとレベルが高いと思っているのでしょう。
自分は、他者とは違うと思っているわけです。
そんな人に現場の実相は見えません。
しかも、基準を変えたら、上下関係は反転します。
大企業が壊れだしているのは、こういう意識の蔓延のせいかもしれません。
現場で汗している人のレベルが、低いはずがないのです。
その汗に寄生している人たちは、もっとそういう人を見習わなければいけません。
少なくとも敬意を払うべきです。

■ヘンリー・スティムソンの信条(2013年5月15日)
先日、書いた「オリバー・ストーンが語るアメリカ史」の話ですが、その3回目に、トルーマン政権の陸軍長官だったヘンリー・スティムソンの話が出てきます。
彼は、ソ連を威圧するために水爆開発に積極的なトルーマン大統領に対して、異を唱えるのです。
1995年の9月の閣議で、ヘンリー・スティムソンはこう言います。

私が長い人生で学んだ教訓。
それは、ある人間を信頼にいたる人間にする唯一の方法は、こちらが彼を信頼することである。
こちらが不信感を示せば、相手は信頼できない人間のなる

極めて真っ当な発言ですが、なかなか言い切れないことです。
しかもそう主張したのが、陸軍長官の職にあった人です。
もうひとつのアメリカを感じます。
この延長上に、以前書いたオスグッドの戦略があるわけです。
そして、世界はその方向に転じて、トルーマンの路線を越えたように思います。

このドキュメンタリーを見ると、シビリアン・コントロールよりも、実際に危険をおかすことになる軍人のほうが信頼できるような気もします。
私は、「当事者」の判断が基本になるべきだと考えている人間なので、どうしてもそう思いたくなります。
もちろん、そういう軍人は少ないでしょうが、それは育て方や仕組みが大きく影響しているように思います。

残念ながら、トルーマンはヘンリー・スティムソンの意見を却下し、水爆の開発に取り組みます。
そして米ソは泥沼の核開発競争に進んでいくわけです。

ヘンリー・スティムソンの信条は、あらゆる場面に有効だと私は思います。
企業においてもそうですし、福祉においてもそうです。
いやそれ以前の問題として、まわりを信頼するか、しないかで、生きやすさが全く違うでしょう。
しかし、最近のアンケート調査では、周りの人は信頼できないと思っている日本人は、他国に比べても多いようです。
どこで何が変わったのか。

悪いアメリカに、日本の社会が近づいていなければいいのですが。

■橋下大阪市長の戦う姿勢に共感を覚えてしまうのはなぜでしょうか(2013年5月19日)
最近物議をわかしている大阪市長の橋下さんの発言は、どう考えても、賛成はできません。
とんでもない薄汚れた話だと思っています。
本人も言っているように、四面楚歌状況になってしまってもおかしくないでしょう。
そもそも橋下さんの政治思想は、私とは正反対のものです。

にもかかわらず、です。
テレビで話している橋下さんの姿を見ていると、なぜか親しみを感じます。
たとえば、記者会見で、そんなこと言うなら、もう会見はやめますと、駄々っ子のような発言をする橋下さんは、私の好みです。
マスコミのレベルが低いと言い切るのも拍手を送りたいです。
本当に日本のマスコミのレベルは低いし、記者の多くは根性も誠意もありません。
まあ橋下さんにとっては私たち日本人はみんな馬鹿に見えるのかもしれませんが、それもかなり同意したい気もします。
もちろん私も含めてです。
彼は、私を馬鹿呼ばわりしても許されるほど、がんばっています。

昨日か一昨日でしたか、みのもんたさんの番組で、橋下さんがコメンテーターたちの質問にかなりていねいに応えているのを見ました。
それを聴いていて、やはり橋下さんに理があるなと思いました。
繰り返しますが、橋下さんの考えには私は全く賛成しませんし、呆れてものがいえないほどにレベルの低い考えだと思っています。
にもかかわらず、いわゆる有識者たちとの質疑を聞いていると、なぜか橋下さんのほうに共感したくなるのです。
民主党の長妻議員もその一人でしたが、あの冷静で理にかなっている長妻さんでさえ、橋下さんとは相手にさえならないほどでした。

そのやりとりを聴いていて、橋下さんが好きになりそうです。
私には、薄汚く無知な知識と思想しかないように見える橋下さんが、輝いて見えるのはなぜでしょうか。

それにしても、政治思想や価値観が私とは正反対の小沢さんや橋下さんに、親近感と期待感を持ってしまうのはなぜでしょうか。
実に困ったものです。

ちなみに、こうもみんなからたたかれてしまうと、橋下さんを応援したくなりますね。
彼が誠実に生きているからでしょうか。

■あなたの帽子はかぶり心地がいいですか(2013年5月23日)
福井県の敦賀原子力発電所について、国の原子力規制委員会は「2号機の真下を走る断層は活断層である」という専門家会議が取りまとめた評価結果を了承しました。
しかし、事業主体である日本原子力発電は、それに異を唱えています。
原子力規制委員会の判断に異を唱えるということの意味も、いろいろと示唆することは多く、その是非については私自身にわかには評価し難いですが、ひとつ言えることは、統治秩序を維持する権威の構造が揺らいでいることです。
そしてその背景には、原発を許容し、積極的に推進しようとする国家政府の意向が大きく影響していることもうかがえます。
いやもしかしたら原子力規制委員会すらも疑いたくなります。
担当委員の島崎さんと委員長の田中さんとの話し方には、大きな温度差を感じます。

まあそれはそれとして、この報道を見ていて、思い出したのが、アメリカのチャレンジャー号の悲劇です。
1986年1月、スペースシャトル「チャレンジャー号」は打ち上げから73秒後に、地上でみんなが見ている前で爆発し、7名の乗組員が犠牲になりました。
これに関してはさまざまな教訓が語られていますが、実は打ち上げ前日に技術者たちは問題を発見していたのです。
技術を提供したチオコール社の主任技師のロジャー・ボイジョリーは、打ち上げ延期を主張しました。
しかし、NASAとの新規契約を強く望んでいたメイソン副社長は、技術陣の責任者であるロバート・ルンドに、「技術者の帽子をぬいで、経営者の帽子をかぶりたまえ」と言ったのです。
そして、帽子をかぶり替えてしまったルンドの見ている前で、チャレンジャー号は爆発してしまったのです。

日本原電の経営者たちには、「経営者の帽子をぬいで、生活者の帽子をかぶりたまえ」といいたいです。
いや、彼らだけではありません。
多くの人たちに、「自分の帽子を一度見直してみたらどうでしょうか」とも言いたいです。
かぶり心地が悪かったら、自分に合った帽子を探すのがいいです。

■チェルノブイリとフクシマ(2013年5月27日)
福島原発事故について、国連科学委員会が報告書案をまとめたと今朝の新聞に出ていました。
朝日新聞によれば、「集団でみた日本国民の総被曝(ひばく)線量(集団線量)は、甲状腺がチェルノブイリ原発事故の約30分の1、全身は約10分の1と推計した」とあります。
健康影響は「(6千人の甲状腺がんが出た)チェルノブイリとは異なる」とも書いてありました。

チェルノブイリとフクシマの事故は、どちらが大きいのか、私にはよくわかりませんが、事故後の安全対策や政府による管理は、チェルノブイリよりもフクシマのほうがしっかりしているような気がしていました。
ソ連やロシアの原発管理への不信感が、頭のどこかに強くあります。
ところが、最近、宗像良保さんが自費出版した「フクシマが見たチェルノブイリ26年目の真実」を読んで唖然としました。
以下のようなことが書かれていたのです。

ウクライナ法では、移住義務ゾーンが毎時0.57マイクロシーベルト。移住権利ゾーン(自主避難地域で、これも政府が避難先の住居を提供)が毎時0.11マイクロシーベルト。
2013年1月1日の郡山市は毎時0.55マイクロシーベルト、福島市は毎時0.63マイクロシーベルトでした。ウクライナ法を適用すれば福島市は強制避難地域、郡山市は自主避難地域です。そこにいまだに多くの市民が暮らしているのです。

ウクライナのほうが、日本よりも、安全基準が厳しく、しかも政府の対応もしっかりとしているのです。
先入観でしかチェルノブイリを考えていなかった自分を反省しました。

この本は、2012年9月に宗像さんが仲間たちと一緒に、26年前に原発事故を起こしたチェルノブイリに行って、現地を見て、現地の人たちから聞いてきたことをまとめたものです。
宗像さんは、こう書いています。

いくつもの衝撃的な事実を目の当たりにしました。ファインダーを通して切り取った写真には、悲しい真実が見えます。
原発事故から26年がたつ現在でも、チェルノブイリの特別区域は「ゾーン」と呼ばれ、有刺鉄線のフェンスで区切られ、立ち入り禁止となっています。加えて原発から北東350kmには約100カ所のホットスポットが点在、この高濃度汚染地域では農業や畜産業が禁止されています。

写真からたくさんのメッセージが聞えてきます。
私だけでなく、多くの人に、そのメッセージを伝えたいと思いました。

500円で、宗像さんが自分で販売しています。
私も数冊入手しました。
関心を持った方は、ご連絡ください。

今日はちょっとばたばたしているので、落ち着いたらまた入手方法などを書き込みます。

■作られたショックドクトリン(2013年5月31日)
私は災害に対しては、ほぼ無防備な生き方をしてきています。
性格が天邪鬼のせいか、最近特にその傾向が強まっています。

連日、新聞やテレビで、南海トラフ巨大地震の被害想定が報道されています。
最近の報道をみるたびに、しらけてきます。
なにやらショックドクトリンを思わせるからです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/03/post-04ed.html
いささか不謹慎のそしりを覚悟しなければいけませんが、これは一種の「作られたショックドクトリン」のような気がします。
それに、もし南海トラフ地震の危険性がわずかでもあるのであれば、原発再稼動などと言う話はありえないはずです。
まずは対象地域の原発を安全に廃炉する準備にとりかかるべきです。
それもせずに、恐怖をあおっても、その後にある強欲な人たちの顔が浮かんでくるだけです。

万一に備えて、家庭用備蓄を「1週間分以上」などという話も笑止千万です。
ともかくまた「無駄をあおる政策」がどんどん出てきています。
孫への教育資金相続などは、あまりにも露骨です。
日本はすでにある種のバブルになっています。
ソドムとゴモラを思い出します。
南海大地震が起こったとしても、仕方がないような気もします。
私たちの生き方が間違っているのですから。

連日の報道を聞いていて、どこかで何かが間違っているように思えてなりません。
なにがいま大切なのかを、もっと考えて生きようと思います。
少なくとも、私には南海トラフよりも原発が関心事です。

また一度、湯島で原発をテーマにしたサロンを開催したいと思います。

■災害に備えて備蓄すべきものは何か(2013年6月1日)
昨日、「作られたショック・ドクトリン」のなかで、「私は災害に対しては、ほぼ無防備な生き方をしてきています」と書いてしまいました。
それは事実なのですが、舌足らずでした。
舌足らずだけではなく、視野の狭さもありました。
その点は反省しました。
いつの間にか少し忘れていたようです。

読者の草庵さんから
『イザ』という時に、国や政治家や地方自治体は全く助けの役に立ちません。
その時に、佐藤様と佐藤様のご友人を守る為には、自助や互助がやはり重要になってくるかとも思います。
私もそのつもりで備えをしております。
自分のみならず、友人や近所の方を助ける為でもあります。
とコメントをいただきました。
「自分のみならず、友人や近所の方を助ける為」というところは、まったく同感です。
しかし、最近、私自身、その視点が薄れていました。
もちろん、そうしたことが起これば、わが家の在庫はすべて提供することになるでしょう。
それも踏まえて、舌足らずの点を少し書こうと思います。

私が目指している社会は「無防備でも快適に暮らせる社会」です。
だから、少なくとも自分自身はできるだけ無防備な生き方を実践しようと思っているのです。
それで昨日のような表現になってしまいました。

ところで、家庭用備蓄を否定しましたが、非常時用に備蓄するまでもなく、普段からそうした生き方をしています。
一方で、コンビニがわが家の備蓄場所などというような考えを呼びかけているマスコミや経済界が、ことさらに家庭用備蓄は1週間などと、しゃあしゃあと言うのが許せないのです。
あるいは、そういう生活をしている人が、私には不安なのです。
わが家は基本的に1週間ほどは買い物をせずとも生活できる体制はいつも出来ています。
それは昔からの生き方だったはずです。
そういう生き方を壊してきたのは、企業行や経済界、政府やマスコミ、評論家や生活アドバイザーたちだったのではないでしょうか。
私は、そういう生き方には違和感があります。
隣の人がお醤油がないと言ってくれば、お裾分け可能な生き方をしています。
そういう近隣との付き合いを目指していますので、いつでも歓迎です。

水道や電気が止まったらどうするか。
電気は1週間くらいはどうとでもなりますが(ロウソクや電池は常備されています)、水はかなり困るかもしれませんが、飲料用はどうにかなります。
それくらいの自然知識は私たちの世代にはあるでしょう。
ペットボトルの水を飲む文化は、私にはありませんので、自然界から水をもらうようにします。
問題は水洗トイレとお風呂です。
しかし、これも解決策はいくらでもあります。

長々書きましたが、要は生き方の問題なのです・
大震災を予定しての家庭ごとの過剰なストックは、消費至上社会を守るためのものであり、自分だけの生活を守ろうとする生き方につながり、むしろ好ましくないと思っています。
それよりも、近隣の人たちとの関係を育てておくことこそが、最大の備えになると思います。
備蓄すべきは、物質ではなく、支え合う人の関係です。
そのためには、日頃から挨拶し、日頃から何かできることをやっておくことです。
草庵さんがいうように、「友人や近所の方」、さらには「困っている方」への心遣いや支え合いが大切ですが、それはいざとなろうがなるまいが、いつでも大切なのです。
草庵さんは、そういう生き方をされているから、こういうコメントを下さったのでしょう。
その発想や関係性が育っていれば、いざとなっても乗り越えられるでしょう。
いざとなったら、トイレットペーパーを買い締めするような生き方こそ、見直さなければいけません。

大災害に備えて、備蓄よりも大事なものがあることを、むしろ広げていきたいものです。
それは「作られたショック・ドクトリン」とは正反対の、「作られた災害ユートピア」の発想です。

■冬のトマトと原発輸出(2013年6月1日)
阿部首相がテレビのインタビューで、「各国より、わが国の原子力技術への高い期待が示されている」から原発を輸出する責任があるというようなことを話していました。
それを聞いていて、むかし書いた「冬のトマト」のことを思い出しました。
冬にもトマトを食べたいと思っている消費者に、冬に温室でトマトを育てて販売することは好ましいことか、という話です。
むかし書いた小論を引用します。

冬にトマトを食べたいという消費者に対して、エネルギーを多消費する温室栽培でトマトを生産するべきかどうかという問題を考えてみよう。工業化技術の成果を駆使すれば、冬にトマトを作ることは難しいことではない。それが工業化の成果だと考えられてきた。だが、地球環境に与える影響は決して小さくない。消費者に我慢してもらうのが地球環境保全の見地からは望ましい。しかし、その結果、その企業は消費者ニーズを満たしてくれない企業として厳しい競争から脱落してしまうかもしれない。少なくとも事業機会を失うことは否定できない。こうした問題はどの事業にも存在する。事業本体を地球環境保全の見地から一挙に設計変更することは容易なことではない。
http://homepage2.nifty.com/CWS/r&d%20eco.htm#tomato

これを書いたのはもう20年以上前のことですが、残念ながら状況は未だに当時と変わっていないような気がします。
別の小論で書いたのですが、冬にトマトを提供するのは「小さな消費者満足」、冬のトマトを拒否するのが「大きな生活者満足」だと私は思っています。
もし持続可能性を主張するのであれば、企業は「大きな満足」を目指すべきでしょう。

言葉としては、持続可能性とか環境意識はあふれてきていますが、企業も消費者も意識を反転はさせませんでした。
その象徴が原発ですが、まさにその原発で、同じようなことが繰り返されています。

ほしがる国があれば、原発を売るのです。
欲しがる人がいれば、トマトを売ればいい、と同じ発想です。
この発想は、欲しがる人がいれば、脱法ハーブを売ればいいという発想にもつながります。

日本は原子力に関しては先端的な体験をし、先駆的な知見を獲得しました。
阿部首相は、同じ新聞報道で、こうも言ったと伝えられています。

「事故の経験と教訓を世界と共有し、世界の原発の安全に貢献することが、わが国の責務だ」

「安全」を「廃棄」に置き換える発想は出てこないものでしょうか。
まあ冬のトマトを食べ続ける国民が選んだ首相であれば、期待するのが無理なのかもしれません。

ところで、庭のトマトが実を付けだしました。
旬の野菜こそが、美味しいです。

■株価の乱高下するのは株式には価値がないからです(2013年6月11日)
株価の乱高下が話題になっています。
しかし、生活にとって、そんなことは全く無関係の話です。
第一、ちょっとした情報で価値が乱高下するようなものは、もともと価値がないからです。
価値がないからこそ、それによって、損得が発生するわけです。
なにもせず株式を持っているだけで、短期的に損をしたり得をしたりすることが、そもそもおかしいと思うべきでしょう。
株価の乱高下が、もし景気につながっているとしたら、そもそもそういう景気観が、生活とは違う次元の話なのです。
にもかかわらずマスコミは、まるでそれが生活につながっているように報道します。

アベノミクスなどとマスコミは持ち上げていますが、生活がじわじわと壊れだしているような不安が拭えません。
作られた好況によって、消費税も上がるでしょうが、円安効果と誘導されたインフレで、生活はますます苦しくなりかねません。
生活が苦しくなれば、さらに金銭への依存を高めていくことになるでしょう。
アベノミクスが、そうしたマイナススパイラルを加速しなければいいのですが。

これを機会に、お金に依存しない生き方へと、それぞれが少しだけ生活姿勢をシフトできないものでしょうか。
もしそれができれば、禍転じて福となすです。
お金に依存しないとしたら、何を頼りにしたらいいでしょうか。
いま必要なのは、自分の生活にとって、何が大切かを考えることではないかと思います。
私には、少なくとも、それはお金ではありません。

自分にとって、何が一番大切か。
そんなテーマで、カフェサロンを開きたくなりました。
一人でも賛同者が出てきたら、開催したいと思います。
どなたか「よし、やろう」と言ってくれる方はいないでしょうか。

■他者に守られている安全(2013年6月12日)
アメリカ政府によるネット上の個人情報の極秘調査活動を国家安全保障局の職員(29歳のエドワード・スノーデンさん)が内部告発したことが大きな話題になっています。
「テロ対策を名目に、メールなどのネット上の個人情報を収集していた」と朝日新聞に書かれていました。
私が驚いたのは、こうしたことが政府によって行われていたことではありません。
そんなことは当然行われていると思っていました。
私が驚いたのは、まだこういうことが問題にされる程度に、アメリカ社会にも健全性が残っていたということです。

しかし、ほんとうにそうだろうかとと思っていたら、案の定、不安材料がでていました。
事実が報道された後の世論調査によれば、「テロ捜査の方がプライバシーの保護より重要」とする意見が62%にのぼったと、同じ新聞記事に書かれていました。
テロ対策のためなら、メールなどのネット上の個人情報を収集することも認めようと言う人が過半を占めているのです。
スノーデンさんの行為は、決してエシュロン(映画にもよくでてくるアメリカの国家安全保障局の情報収集システム)の牙城は崩すことにはならないでしょう。
そういうシステムは、政府を信頼できる限りにおいては、国民を守る方向で働きますが、政府次第では牙をむき出して国民を襲ってきますから、そのマネジメントやガバナンスは民主的でなければ危険です。

今回告発された極秘調査は、テロ防止策の一環としてブッシュ前政権下で始まったそうです。
オバマ政権は、それを継承し、拡張したといわれています。
私自身は、前にも書いたようにオバマ政権が人権重視しているなどとはどうしても思えませんが、せめてこういう活動はもっと開かれた管理下で行われるべきだろうと思います。

私たちの「安全」を守るために、管理社会化はますます進展するでしょう。
管理されるとは守ってもらうことだと考える人も少なくないでしょう。
しかし、他者に守られている安全は、私には違和感があります。
私が望みたい「安全」とは、どうも違っているような気がします。
個人情報の極秘調査に取り組む政府には不気味さを感じます。
同時に、個人情報を隠そうとする人たちにも、私は不気味さを感じます。
あっけらかんと自らを開いていく生き方を、みんながするような社会を目指したいものです。

東北の被災地の沿岸で、高い防波堤が築かれ、生態が変わり、シラウオが取れなくなるかもしれないという報道をテレビでやっていました。
高い防波堤に守られてまで、海沿いに住んで、漁業をやるという感覚が私には全く理解できません。
個人情報とは違う話ですが、ここにも同じような違和感を持ちます。
私には繋がっているように思えます。

生活には常に危険はつきものです。
危険がない世界での、守られた安全な生活は、とんでもなく安全でない世界のように思えてなりません。

■原子力規制委員会は原子力寄生委員会?(2013年6月12日)
朝日新聞の夕刊を見て驚きました。
1面トップの大見出しが「原発40年超なら特別点検」なのです。
やはり原子力規制委員会は、原子力寄生委員会だったのかと、愕然としました。
「運転延長に新規制」とサブの見出しに書かれていますが、要は運転機関が40年と定められている現実を厳しくするどころか甘くしたわけです。
福島の事故は、むしろ原発推進を加速させているのかもしれません。
参議院選挙で自民党が勝てば、もう好き勝手ですよ、とその分野の人から聞いたことがありますが、まさにもう流れは戻っているようです。

このブログではもう何回も書いていますが、そもそも原発はその存在において、安全ではないのです。
しかし、あの大江健三郎さんでさえ、原子力の平和利用などという言葉にごまかされたように、多くの人は問題を「運転の安全性」だと受け止めているようです。
大江さんも、一度でも原発施設の現場に行き、きちんと説明を聞いていたら、そんな間違いは犯さなかったと思いますが、大江さんから平和利用などと言われてしまえば、多くの人はそこに希望を感ずるでしょう。
それに、ほとんどの人は電力会社が用意した見学コースでしか原発を見ていません。
それに、科学技術神話がまだ生きている日本においては、科学技術性善説がまだまだ常識なのでしょう。

いま必要なのは、原子力発電が必要かどうかではありません。
ましてや、原発の安全性の問題ではありません。
福島の事故で明らかになった現実をしっかりと見て、原子力とは何かを改めて考えるべき時期だろうと思います。
原爆は国と国、あるいは人と人の間の暴力行為の手段ですが、原発はすべての生命と非生命との間の暴力行為の手段ではないかと思います。
いかに被曝されたところでも、非生命のコンピュータは作動し続けるでしょう。
原発に依存した世界の先は、非生命の不気味な、しかしおそらく平和な世界なのでしょう。

今日のトップ記事を読みながら、そんな未来を感じてしまいました。

■みんなで汗をかいて働く豊かさ(2013年6月15日)
昨日、栃木県の足利にある、こころみ学園に行ってきました。
重い知的障害を持つ人たちが共同生活しながら、ぶどうを育て、今では有名になったココファームをやっているところです。
50年以上の歴史があるところです。
事務局長の佐井さんからお話をお伺いし、施設を見せてもらい、最後にレストランで食事をしてきました。
前から気になっていたところですが、やはり現地に行って、知りえたことがたくさんありました。

一番驚いたのは、ブドウ畑が急勾配な山腹にあることでした。
前から写真でも見ていましたし、話にも聞いていました。
急なところは38度だとも知っていました。
しかし、いざそこに行ってみると、やはり驚きました。
上まで登るだけでも私には無理そうです。
どうしてこんな急勾配な斜面にしたのかと質問したら、佐井さんは、厳しさの中で汗をかいて働くことも大事なことですからと言われてしまいました。
こころみ学園の方針は、汗をかいて働く、そして、みんな家族のように一緒に暮らすということなのです。
創立者の川田さんは、貧乏でもいいから、昔のようにみんなで汗を流していこうと言っていたそうです。

もうひとつ印象的だったのは、みんなそれぞれに自分でできることを見つけて、自分のできる範囲でがんばっている。そのできることを繰り返し繰り返しやっていると、それに関しては誰にも負けないプロになる、という佐井さんのお話でした。
たとえば、草むしりのプロ、石ころ探しのプロ。
石ころ探しのプロとい捉え方に、豊かさを感じました。

ほかにも学ばせてもらったことはたくさんあります。
食事の後、ぶどう畑を見ながら30分ほど、いろいろと考えました。

みんなで汗をかいて働く。
それこそが働くことの原点です。
畑や瓶詰めなどを手作業でしているみなさんを見ながら、今の私たちの社会は逆転しているような気がしてきました。

そういえば、瓶詰めのところに外国人が一人混じっていました。
技術指導ですか、と佐井さんに質問したら、あの人は世界各地のワイナリーを勉強で回っているフランス人なのだが、2年ほど前にやってきて、ここに定着してしまったと教えてくれました。
障害をもつ人たちと一緒に、ゆっくりしたリズムで、違和感なくなじんでいました。
豊かな時間を過ごしているのだろうなと思いました。
私ももっと、人生を豊かにしなければいけません。
そうしないと社会そのものが貧しくなっていくような気がします。

■「悲しいね」(2013年6月19日)
今朝のNHKテレビの「あさイチ」は、福島の飯舘村をテーマにしていました。
飯舘村は「までいらいふ」を掲げ、美しい農村風景と豊かな暮らしで有名でした。
その飯舘村は、一昨年の原発事故で全村避難を余儀なくされてしまいました。
美しかった農村風景はもうそこにはありません。

事故前の飯舘村の写真展が各地で開催されていますが、それを見た人が、こんな美しい村の暮らしが失われてしまったことに対して、「悲しいね」と話していました。
本当に「悲しい話」です。
しかし、私が思った「悲しいね」というのは、最近の原発再稼動への動きです。
写真を見た人たちが感じる「悲しさ」が、そうした動きにはつながっていません。
一昨年の原発事故は、いったいなんだったのか。
情緒的な悲しさだけで完結してしまっているのです。
悲しさが胸をふさぎます。

また政府は原発再稼動の動きを加速させてきています。
多くの人も、マスコミも、それにあまり違和感を持っていないように思います。
それがとても「悲しい」です。
「原発事故で死者がでていない」と高市議員は発言しましたが、もう少し現実をしっかりと見て、真実を語ってほしいと思います。
マスコミもきちんと報道すべきですし、知っている人はもっと発言していくべきでしょう。
しかし、そうした情報は闇の中に紛れてしまいます。
その結果、相変わらず「原発」とは何かをきちんと知ろうとする人は多くはありません。
情緒的な情報を流す前に、テレビは原発とは何かをきちんと解説すべきだと思いますが、多くの人は「核の平和利用」などというわけのわからない言葉の呪縛から抜け出せずにいます。

私は昨年の夏に飯舘村に行きました。
テレビに出ていた、かーちゃんの力プロジェクトの渡邉さんのお話もお伺いし、かーちゃんたちが作ったお弁当や料理も食べてきました。
テレビでも話していましたが、渡邉さんはともかく現場を見てほしいとその時も話されていました。
政府関係者が現場に行けば、そしてそこで住民たちと話をしたら、原発再稼動という気持ちには、そう簡単にはならないでしょう。
生活の安定のために原発再稼動を望むと、福島以外の原発が立地する自治体の首長たちが語っていますが、その論理のおかしさにも気づくでしょう。

こんな「悲しさ」が福島周辺には充満しているのに、なぜそれが全国に広がらないのか。
やはり放射線汚染が広がらないと、みんな自分の問題として受け止められないのでしょうが。
それが、悲しくてなりません。
テレビでできることはもっとあるのではないかと、あさイチを見ながら思いました。
司会の井ノ原さん以外の人の発言には、どこかに違和感がありました。

■「沈黙の抗議」からサッティヤーグラハが伝わってきます(2013年6月19日)
トルコでの市民のデモ活動に対する政府の強制排除はとても残念なニュースでしたが、それに対して、一昨日からイスタンブールのタクシム広場で、市民たちが静かに立ち並んで、政府に対する「沈黙の抗議」が自然発生的に広がっているようです。
グーグルで調べたら、「集まった人々は、ただじっと立っているだけ。警官隊は、広場へのデモ隊の立ち入りは規制していたが、一般歩行者の通行は自由となっており、仕事帰りの市民らが続々と加わった」と書いてありました。
1000人ほどの人が参加したそうです。
その記事によれば、「強い日差しの中、丸1日広場に立ち続けた大学生のイート・ユルマズさん(18)は「叫んだり暴力を使ったりしなくても、政権に圧力をかけられることが分かった」と満足そうな表情だった」とありました。
テレビで、その映像を見ましたが、若者たちが、カジュアルな服装で、ただただ立っている風景は、実に感動的でした。
ガンディーのサッティヤーグラハを思い出しました。

ガンディーは非暴力市民的不服従運動で有名ですが、その基本にあるのは、真実と愛だといわれています。
愛や真実を意味する「サッティヤ」とぶれないとか説得とかを意味する「アーグラハ」と言う、2つのサンスクリット語を合わせた言葉が「サッティヤーグラハ」です。
ガンディーは、非暴力不服従運動に関して、次のように言っています。

サッティヤーグラハは、真実と愛すなわち非暴力から生まれた力である。
私たちがサッティヤーグラハの人々であるならば、私たちは強くなるだろう。
私たちは毎日だんだん強くなって生きている。
力が強くなっていく中で、私たちのサッティヤーグラハもより効果的になる。

シリアでは、暴力に対して暴力で抗っていますが、アメリカやロシアに利用されてしまい、事態は悪化の一方です。
トルコでは、それとは違う動きが出てきました。

暴力に対して暴力を行使するには、さほどの勇気は要りません。
もちろん、愛も真実も要りません。
ただ止むにやまれず身体的に反応するだけです。
その先には展望は開きにくいでしょうし、外部に利用されるだけかもしれません。

しかし、暴力の前に立って「沈黙の抗議」をすることは、勇気だけではなく、愛と真実が不可欠です。
その先には展望があります。
だから感動したのですが、さて振り返って、私たちがいま向き合っている原発再稼動という暴力にも、やはりこうした行為が必要ですね。
なかなか動けないでいる自分がいますが、やはりこのままでは悔いを残しそうです。

サッティヤーグラハな人に、もう一歩、近づこうと思います。

■富士山が世界遺産になって、なぜうれしいのか(2013年6月24日)
どうも私は性格が歪んでいるのかもしれません。
最近のテレビを書けると、富士山が世界遺産になって、みんな大喜びしています。
その気持ちが全く理解できないのです。
観光客が増えて喜ぶ人もいるでしょうが、迷惑する人も多いでしょう。
遺産になって保全活動が増えるかもしれませんが、破壊も加速されるかもしれません。
なによりも、世界遺産に認定される経過を見ていると、また巨額なお金が動いたのだろうと思います。
テレビ映像を見ていて、とても違和感があります。
そんなにしてまで富士山を金儲けの手段にしたいのかと、実に嫌な気持ちです。
オリンピックと同じで、こうした活動に税金が使われるのは不愉快です。
そんなお金があれば、福島の人たちに提供してほしいです。

富士山は大好きですが、とても汚されたような気がします。
古都鎌倉は、世界遺産になろうがなるまいが、私は好きです。

これは富士山に限りませんが、何でもかでもが経済につなげられるご時世には嫌気が差す一方です。
しかもそれを支えているのは、私たちです。

いま25年ほど前に出版された。藤永茂さんの「ロバート・オッペンハイマー」(朝日新書)を読んでいます。
オリバー・ストーンの「もうひとつのアメリカ史」のテレビドキュメントに思い出して、何冊かの本を読み出していますが、その1冊です。
その序文に、こんな文章が出てきます。

「私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれる。これは女性物理学者リーゼ・マイトナーを「原爆の母」と呼ぶのと同じく愚にもつかぬ事だが、あえてこの比喩に乗りつづけるとしたら、オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物にすぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である」。

みんなと共に、浮かれることだけはやめたいと思っています。

■責任を取る社会から責任を押し付ける社会へ(2013年6月25日)
全柔連の上村会長の記者会見を聞いていて、当事者主権という言葉を思い出しました。
福祉の世界で使われだした、当事者が主役になるという考えです。
私にはとても共感できる考えですが、しかしそこには大きな落し穴があるのではないかと、ちょっと思ったのです。

それは、当事者をどう捉えるかということです。
言い換えれば、問題をどう設定するかということです。
途中で投げ出すのは無責任だから、問題を解決してから辞任すると上村会長は言っています。
要するに、当事者として最後まで自分でやるということでしょうか。
私には、「当事者」の捉え方が違っているように感じました。
彼にとっては、自分の問題なのであって、みんなの問題ではないようです。
もしかしたら、福祉の世界の「当事者主権」にも、そうした落し穴がないかと、ふと気になったのです。

窃盗事件の当事者は、犯人でしょうか、被害者でしょうか、あるいはそれを取り締まる警察でしょうか、さらにはそれによって生活の平安を脅かされる社会でしょうか。
当事者をどう規定するかで、対応も解決策も全く違ったものになります。
上村会長が考えている「問題解決」とは、いうまでもなく自らにとって都合のいい解決です。
上村会長は、辞任して別の人に解決を委ねれば、おそらく自らの都合の良いようには事は進まないと感じているでしょう。
自分が加害者である意識が皆無のように感じます。
最近の相撲や野球で発生した不祥事の時のトップの対応と同じです。
スポーツ界だけではありません。
これは最近よく見る風景です。
原発事故を起こした(「事故が起きた」のではありません)東電の対応もそうでした。
被害者としての当事者意識さえ感じたほどでした。

そこで発生するお金の流れを見ると、そうしたことはさらによく見えてきます。
全柔連のトップたちが不正使用したお金は政府に返済するそうですが、ソーシャル・キャピタルの返済金は自分たちで負担するようにはなっていないようです。
それは東電が原発事故による被災者に払う賠償金を電気料金で賄うのと同じです。

それにしても、どこもかしこも、おかしくなってしまったのはなぜでしょうか。
ちなみに、第三者委員会なるものがよく登場しますが、これもわけのわからない仕組みです。
ともかく、誰も責任を取らない時代になってきました。
自己責任ブームが示したように、責任を取る社会から責任を押し付ける社会へと変わってしまったのでしょうか。
せめて自分で取れる責任はきちんと取りたいともいます。

上村会長の話を見ながら、自分の生き方を改めて問い質しました。

■イワシの群のように(2013年6月26日)
ブログを読んでくれた「草庵」さんから質問が届きました。
日本では政権与党の対抗勢力となる野党が育たないという事についてです。
草庵さんはこう書いてきました。

これは『長いものには巻かれろ』『右へならえ』的な、日本人の国民性ゆえでしょうか?
『強い野党』が居てこそ、政権与党による政治の暴走を防ぎ、国会に適度な緊張感と程よいバランスをもたらすと私は思っているのですが、残念ながら日本にはそういった土壌が根付かない様子なのです。
これは、かつて戦中国民が『鬼畜米英』『アメリカに擦り寄るのは非国民』『一億火の玉だ』と連呼しておきながら、敗戦の際にはダグラスマッカーサーを救世主であるかのように手のひら返しで歓迎し、戦中の考えを都合よく綺麗さっぱり忘れ去った事とも無関係ではないように思うのです。
野党、反対意見、少数派を許さない国民性が日本人にあるように私は感じます。
今の与党による、がむしゃらな原発推進・弱者切捨て・少数派否定の政策が強引に推し進められていく様は、非常に怖いものがあります。

草庵さんのお考えにも、また今の与党独走への怖さにも、共感します。
日本に多様性が育たないのは、自然条件が大きな影響を与えているような気がします。
地理的な分離性と自然の豊穣性のなかで、自給自足性の高い環境だったということです。
また集団生活が基本になっている農耕社会、さらには近代工業化社会というのが、その風潮を高めてきたようにも思います。
日本においては、近代化は個人の主体性を育てるよりは、集団主義的な生き方を強めたといっていいでしょう。

もうひとつは、私たちの精神世界を支える、人のつながりを大事にする日本型仏教思想も影響しているかもしれません。
長年、緩和ケアに取り組まれていた医師の岡部健さんは、一昨年の東日本大震災で多くの人がみんなを助けようとして自らを犠牲にしたことを目の当たりにして、みんな、「イワシの群」の一匹なのだと話しています。
岡部さんは、あるインタビューに答えて、こう話しています。

イワシの群れは、一匹一匹が意思を持って群れの動きを決めてるわけではない。群れ全体はどこかへ向かっているのだが、一匹→匹はどこへ向かっているかを知らない。でも、イワシの群れは、意思を持って動いているように見える。人間も同じようなものではないか。所詮、私もイワシの群れの一匹なのだ、と。

岡部さんの指摘は、私の人生体験からもとても納得できます。
いろいろな魚がいますが、日本人はイワシ的なのかもしれません。

問題は、草庵さんも書いている「どこに向かっていくかわからない怖さ」です。
行き先が見えてきた時には、もう遅いのかもしれません。
そこにクジラが大きな口を開けて待っていたとしても、勢いづいたイワシは、そこに飛び込んでいくのでしょうか。
そういえば、ある水族館で、イワシの群が一瞬にして大きな魚の餌食になったこともあります。

どうすればいいか。
私が25年前に選んだ選択は、社会、つまりは「イワシの群」から離脱することでした。
生き方を変えたのですが、結局は、離脱は出来ず、今もって中途半端な生き方をしています。
ただひとつだけ言えることは、自分としては納得できる生き方をしていると言うことです。
社会のためや、他者のためではなく、自らが納得できる生き方を心がけています。
それこそが、社会のためや他者のためになると確信しているからです。

草庵さんは、オッペンハイマーのことに言及されていますが、愚者としてのオッペンハイマーの生き方は、私にはとても共感できます。
残念ながら、オッペンハイマーの場合は、自らにも、社会にも、非劇的だったように思いますが、すべてがうまくいくわけではありません。

草庵さんの質問にはあまり答えていませんが、たとえ行き先が地獄であろうと、私は従容とそれを受け容れるつもりです。
悲しいことに、私もまた、イワシの一匹であることは間違いありません。

■「物理学者は罪を知った」(2013年6月27日)
昨日の電力各社の株式総会では、原発再稼動の動きが急速に加速されていること、また原発の見直しへの株主への提案は一顧だにされないことが明らかになりました。
予想はしていたことですが、もう少し誠実な話し合いがあってもよかったのに、とさびしい気持ちになりました。
この不条理な流れが、このままで終わるとは、私には思えませんが、いずれにしろ悲しい顛末が予感されてなりません。

藤永茂さんの『ロバート・オッペンハイマー』(朝日選書)を読みました。
1996年に出版された本です。
副題が「愚者としての科学者」となっています。

オッペンハイマーは、アメリカの原爆開発の立役者ですが、戦後の冷戦時代の赤狩りの波に襲われ、公職を剥奪されて、不遇の晩年をすごしました。
スパイ容疑を問われた法廷で、オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った」と繰り返し述べたそうです。
この言葉の意味の深さは、哲学者ホーキンスが「彼は既存の道徳の言葉で語っていたのではなく、宗教の言葉、あるいは哲学倫理の、エデンの園の、失われた純潔性の言葉で語っていたのである」と述べているそうですが、物理学者のみならず、私たち生活者にもするどい指摘になっているように思います。
そのくらいの想像力は、持ちたいものです。

藤永さんの本には、唐木順三さんが残した言葉も引用されています。

「科学者たちは〈核兵器は絶対悪なり〉という判断、価値判断を、社会一般に対して下しながら、科学者自身に対しての、或いはその研究対象、研究目的に対しての善悪の価値判断を表白することは稀である。物理学者が己が社会的、時代的責任を表白する場合、単に善悪の客観的判断ばかりでなく、自己責任の問題、〈罪)の問題にまで触れるべきであるということが、現在のむしろ当然であり、そこから新しい視野が開かれるのではないか」。

私がずっと不思議に思っていることは、原発事故の後、科学者も技術者も組織的な発現や活動をしていないことです。
個人的に意見を言う人はいますが、組織として動こうとしたり、組織的な呼びかけをしたりしている科学者や技術者が見えてきません。
同じことは、テレビのキャスターやコメンテーターにも感じます。
報道ステーションの古館さんは、昨日もかなり批判的な発言をしていましたが、だからといって、行動を起こすわけではありません。
まさか報道の中立性などという絵空事を信じているわけではないでしょう。
私には、今の原発問題は、人生を賭けてもいいテーマではないかと思います。
社会的に影響力ある人たちは、ぜひとも旗幟鮮明にし、信念を形にして欲しいと思いますが、やはり社会的な地位を得てしまうと、それが難しくなるのでしょうか。
改めて、オッペンハイマーの誠実さに敬意を感じます。

「原爆を生んだ母体は私たちである」という藤永さんの言葉は前にも引用しました。
狂気の時代の到来としか思えません。
狂気に立ち向かえるのは、愚者しかいません。

■「従容と死を受け入れる森」再掲(2013年6月27日)
昨日の「イワシの群れ」の記事に、「たとえ行き先が地獄であろうと、私は従容とそれを受け容れるつもりです」などと見栄を切ってしまいましたが、前にもこの言葉を使ったなと思い、バックナンバーを検索してみました。
時評編ではなく、挽歌編に書いていました。
3.11の前の記事です。
読み直してみて、3・11の後、いささかうろうろした後の、これが私の落ち着き先だったことに気がつきました。
それで、今度は時評編にほぼ同じ記事を再掲させてもらいました。

昨日、テレビの「地球の目撃者SP風の大地へ南米チリ縦断3700キロ」を観ました。
写真家の桃井和馬さんの撮影紀行です。
世界最南端の町の話が出てきました。
ぶなの原生林が、人間が連れ込んだビーバーにかじられて大量に倒れている光景がありました。
それをみて、桃井さんが「従容と死を受け入れる森」というような表現をしました。
「従容と死を受け入れる」
その言葉が心に響きました。

先日、沖縄に行きました。
沖縄でも琉球松が松食い虫にやられて枯れていました。
その時にふと思ったのです。
松食い虫が松を枯らすと騒いでいるが、松に代わる植生が、それに代わるだけではないのか。
そのどこが悪いのだろうか、と。
地球温暖化に関して先日暴論を書きましたが、最近私は、環境対策こそが環境問題の真因ではないかと思い出したています。
昨今のエコブームにはやりきれなさを感じます。
どこかに「近代の落とし穴」を感じます。
これは環境問題に限った話ではなく、福祉も教育も、すべてに言えることですが。

さて、「従容と死を受け入れる森」に戻ります。
生命はつながっているという発想からすれば、一部の樹が枯れることは森が生きている証なのかもしれませんし、生きるための方策かもしれません。
最近、そんな気が強まっています。

妻は従容として死を受け入れたのだと思うようになってきました。
もちろん「生」を目指して、全力で抗うのと並行してです。
全力で生きようとすることと従容として死を受け容れることとは対極の姿勢ではないか、と私は最近まで考えていました。
しかし、桃井さんの発言を聞いて、それは決して矛盾しないことに気づきました。
誠実に、真摯に、全力で生きていれば、どんなことでも受け容れられる、そう思ったのです。

それは自らの生命の永遠性を確信したからかもしれません。
自らが愛されていること、いやそれ以上に、自らが愛していることを確信できたら、生死を超えられるのかもしれないとも思えるようになってきたのです。
書いていて、どこかに無理があるのは承知なのですが、にもかかわらず、妻も私も従容として死を受け止めていた一面があったと思い出したのです。
もちろん一方では、受け容れ難いという事実はあるのですが。
妻との出会いと別れは、私に多くのことを考えさせてくれます。
今年もきっと、妻との思いは私の生きる指針になるでしょう。
そして私も時期が来たら、抗いながらも従容と死を迎えたい。

そう思えるようになってきました。

■「苦しみはそれを見た者に責任を負わせる」(2013年6月28日)
前の記事で、オッペンハイマーのことを書きましたが、私がオッペンハイマーに誠実さを感じたのは、原爆を開発しておきながら、広島や長崎の惨状を知った途端に生き方を変えたことです。
それを予想しなかった愚かしさや軽薄さ、あるいはそこからくる不誠実さを指摘することもできますが、私はやはりそこにオッペンハイマーの純粋さを感じます。
人は人である以上、過ちから自由ではありません。
しかし、過ちに気づいたときに、それをただすかどうかの自由さはすべての人が持っています。
そこが、オッペンハイマーと現在原発事故にかかわる科学者や技術者の違いです。
もちろん反原発で動いている科学者や技術者は少なくありません。
オッペンハイマーは、原爆開発のど真ん中に存在し、大統領にさえ会える立場の人でした。
ですから、在野の科学者が遠吠えしているのとは全く違うのです。
そこに誠実さを感ずるわけです。

フランスの哲学者P・リクールは、「苦しみもまた義務を生み出す。苦しみはそれを見た者に責任を負わせるのだ」と言ったそうです、
そして、その責任を人生をかけて果たした人は少なくありません。
たとえば水俣病に出会ってしまった医師の原田正純さんは、間違いなく、その一人です。作家の石牟礼道子さんもそうでしょう。
古い話では、宮沢賢治がそうだったに違いありません。
この人たちは、歴史にも名を残しましたが、名前を残すことなく、誠実に生きた人も少なくないでしょう。
いやむしろそうした人たちが多いに違いありません。
そのことのすごさに、私はいつも身が小さくなります。

原発事故の現場に接した人は決して少なくないはずです。
私の知人が、今回の原発事故での直接的な死者が2人いる。なぜそれを公表しないのか、というような記事をフェイスブックで書いていました。
元国会議員だった知人です。
もし彼が本当にその事実を知っているのだとしたら、彼こそが発言すべきです。
こういう形での批判は、何も生み出しません。

原発事故の事実は、まだ「藪の中」です。
「それを見た者」が、責任を果たしてくれることを期待します。

CIA元職員のエドワード・スノーデンさんの勇気と誠実さに敬意を表します。

■参議院選挙に思うこと1:反原発だけが争点ではないのか(2013年7月5日)
参議院選挙がスタートしました。
たぶん日本のこれからを決めていく重要な意味を持っている選挙でしょう。
これから数回にわたって、選挙戦の報道を見ながら感ずることを書いていこうと思います。

昨日、各党首の最初の演説があり、また党首討論会もありました。
そこでいささかがっかりだったのは、相変わらずアベノミクスがスターだったことです。

今回の選挙は争点が多すぎるとよく言われます。
しかし、争点が多いのはいつの選挙でも同じことです。
ただその時々の選挙にイニシアティブを持っている人やマスコミが争点を絞り込むことで、争点化がされるだけであって、今回の選挙がとりわけ争点が多いわけではありません。
ただ単に、みんなが「争点が多い」と思い込んでいるか、思いこまされているだけの話です。
そのほうが都合がいいと思っている人がいるからです。
マスコミや識者やテレビキャスターは、多分みんなそう思っています。

あえていえば、今回の選挙では「経済成長」「憲法改正」「原発」が大きな争点だろうと私は思いますが、最初の党首の該当での呼びかけでは、ほとんどが「経済成長」が中心でした。
原発にきちんと触れたのは、9人の党首のうち、みんなの党、共産党、社民党、みどりの風くらいでした。
これは意外でした。

上記の3つの争点のうち、ひとつだけといわれれば、みなさんはどれを選ぶでしょうか。
私はちゅうちょなく、原発を選びます。
3・11を経験した人であれば、当然そうだろうと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
ほとんどの人はもう原発事故は起こらないと思っているのでしょうか。
どんなに経済的に発展しても、原発事故が起こったら、すべては無に帰します。
幸か不幸か、今回のフクシマ原発事故は、いろんな形でカバーされたように見えますが、次はそうはならないかもしれません。
それだけではありません。
フクシマ事故の影響は、見えない形でじわじわとの日本の国土と日本人の生命を蝕んでいます。
その事実は、今は隠しおおせても、次第に明らかになっていくでしょう。
その時にはいまの原発再稼動を決めた人たちはいないかもしれませんが。
しかし、私たちの責任はなくなるわけではありません。

健やかに生きることと物質的に豊かな暮らしをすることとどちらを選ぶか。
それは人によって違うかもしれません。
いまの日本は、後者が圧倒的に多いようです。
そうでなければ、「反原発」の一点に焦点を当てて、選挙できるはずですが、前回の選挙で明らかになったように、それは日本人には通用しないようです。
まさにお金や経済成長の道具になってしまったようにさえ思われます。

そう点はたくさんありますが、いま何が一番大切なのかは決められます。
お金のためではなく、いのちのために、私はそれが何かを決めたいと思います。
私には、争点はひとつ。脱原発を基軸にするかどうかです。
脱原発を基軸に置けば、ほかの問題も解けてきます。

■参議院選挙に思うこと2:投票したい人がいないという無責任さ(2013年7月5日)
最近、無党派層が増えています。
それは政治意識の成熟の現れです。
そもそもすべての問題で、ある政党を支持するということ自体、ありえません。
課題によって、別の政党の主張に共感することは当然あって然るべきことです。
それは「代議制」を考える上で、極めて重要なことですが、昨今のように、党議拘束なる発想が当然視されるような状況の中では、党員以外、つまり党議に影響を与えられる人以外は、無党派層になるのは不思議なことではないでしょう。

しかし、投票する立候補者がいないというのは、おかしな言い分です。
自分と同じ意見の人などいるはずがありません。
自分の考えに近い人を、限られた選択肢の中から選ぶことです。
代議制とは、そういうことです。
逆に、自分が大切だと思っていることに関して、同じ意見を持つ政党や立候補者がいないということも、多分ないでしょう。
きちんと立候補者の意見や党の主張を調べたのでしょうか。
たぶん調べてはいないでしょう。
単に自らやるべきことを放棄して、言い訳をしているに過ぎません。
その言い訳が大義のように通ってしまうのは、みんなで渡ればこわくないと同じく、その言い訳を利用する人が増えているからでしょう。

私の選挙区の千葉では改選数3人に対して、9人が立候補しています。
少なくとも私が許容できる立候補者は3人はいます。
しかし、その3人や3人が属する政党の考えにすべて賛成ではありません。
全く反対のものもありますが、私が絶対に正しいわけではないので、これを機会に、その私の考えを改めて考え直そうと思っています。

つまり、選挙とは自らの考えも問い質す機会なのではないかとも思います。
もちろん問い質す前に、課題の気づきや課題を学ぶことも大切です。
昨日の朝日新聞に、56歳のコラムニストが、堂々と「僕が初めて投票したのは昨年の衆議院選です」と顔写真入りで語っていたのには驚きましたが、この人は、これまで学ぶことなく、社会に寄生してきたのでしょう。
私はそういう人にだけはなりたくないので、3人の中の誰がいいかを真剣に考えたいと思っています。
投票すべき立候補者がいないのは、立候補者側の問題ではなく、投票する自分の問題なのです。

■参議院選挙に思うこと3:ねじれ国会がなぜ悪いのか(2013年7月5日)
公明党の山口代表が、ねじれた紐を両手で持って、それを強く引っ張ってねじれを解消させるパフォーマンスをしていましたが、この人はまともな人なのかと不安になりました。
しかし、これは「人」の問題ではなく、選挙ということが、そういう行為を引き起こしてしまうのかもしれません。
おかしくなるのは立候補者側だけではありません。
それを見ていた聴衆が拍手をしているのを見て、娘が呆れていました。
その場にいると、人はここまでおかしくなるものなのでしょうか。

実は、娘も投票したい人がいないと嘆いている一人ですので、きちんと発言や資料を読めば、誰かいるはずだといっているのですが、与党の政党の代表がこのていたらくでは、あんまり強くもいえません。
まじめに耳を傾けようとする人を愚弄するような行為はやめてほしいものです。
愚弄されたら腹を立てるくらいの良識も、私たちは持ちたいものですが。

愚弄するといえば、テレビの政治番組で、争点が多すぎるので、ねじれ解消が大きなテーマになっているというような説明をしていました。
私には、これも選挙民を愚弄した発言としか思えません。
争点をしっかりと整理する苦労や責任を放棄して、ねじれが良いか悪いかなどということを論点にしてきたのは、マスコミと「有識者」です。
日本が二院制であるのは、慎重に事を決しようと言うことですし、衆参で多数派の政党が違うからと言って、それがそのまま「決まらない政治にはなりません。
ねじれが悪いという人は、議論する能力のない人でしょうから、もともと議員には向かないのです。
かなり荒っぽい書き方をしていますが、「ねじれ」があるから決定できないと言うのは、無能な議員や政党リーダーの無責任な発言を応援するために、これまた無責任なマスコミが創りあげた話でしょう。
議論とは、いろいろな意見をまとめ上げることなのです。

そもそも二大政党制というのは、支配者側にとって都合のいい制度です。
日本で導入した時に、きちんと反対したマスコミの論説委員はいたでしょうか。
導入後に反対した人は知っていますが、彼も導入前に反対してほしかったと思ったものでした。
アメリカがそうであるように、二大政党制は大きな意味では一党独裁と同じです。
単に看板を替えるだけです。
日本でも民主党と自民党は同じです。
いずれの飼い主も同じだと思えてなりません。

ちょっと品のない文章になってきました。
今回、言いたかったことは、ねじれ解消が、さも大切なことだというような論調に惑わされてはいけないということです。
ねじれなど気にせずに、大切な争点をしっかりと見すえたいものです。

■エジプトで何が起こっているのか(2013年7月6日)
エジプト軍のクーデターに対する市民の抗議行動はますます拡大し、死者が増えています。

こんな文章を思い出しました。

R・J・ランメルの調査(1997)によれば国家は20世紀に1億3475万人の自国民を殺している。それは他国民を殺した6780万人を凌駕する数になる。万人のための万人による戦争状態を制圧し、平和に至らしめるために警察、制裁の権力や軍事力といった暴力を国民生活の安定のために正当に用いる国家を作るべきだとホッブスは述べた。このホッブスの国家観こそ近代国家を生み出す原動力となった。しかし実際には近代国家は万人による万人のための戦争状態こそおおよそ終結させ得たが、国家による暴力を防ぐことが出来ていない。(武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』)

エジプト軍は、「国家の中の国家」と言われるほどの存在ですが、軍隊出身でないムルシさんでは多分不都合があったのでしょう。

戦争がなくなれば、一番困るのは軍隊です。
世界の戦争を起こしているのは、現在では政府ではなく、アイゼンハワーが大統領を辞める時の演説で告発した通り、軍産複合体です。
もっと端的に言えば、産業界のリーダーたちと言ってもいいでしょう。
もちろん戦争に反対の経済人もいないわけではありませんが、そういう人は財界トップにはなってはいないでしょう。
経団連のトップたちの顔ぶれを見ればわかります。
エジプト軍は、経済活動も行っています。
まさに軍産複合体そのものなのです。
私たちは、マスコミの報道を信じがちですが、表層的な報道には慎重でありたいです。

最近、藤永茂さんの『「闇の奥」の奥』という本を読みました。
7年前に出版された本ですが、コンゴ自由国と植民地主義に関する本です。
ヒトラーによるユダヤ人虐殺よりもひどい虐殺の事実が忘れさられていることに我慢できず、藤永さんはこの本を書いたのでしょう。
最近読んだ本の中で、最も衝撃的な本でした。
そこに出てくる衝撃的な事実は、夢でうなされるほどです。
そうしたことを行っていたベルギー国王レオポルド2世は、当時、世界で最も高貴な君主とさえ言われていたのです。

エジプトで何が起こっているのか。
その真実が知りたいです。

■参議院選挙に思うこと4:あなたにピッタリな政党を診断(2013年7月7日)
娘から、ヤフーのサイトに「ピッタリな政党を診断「参議院選挙2013」」というのがあると聞きました。
こういうのが、一番、選挙をだめにするものだと思っていますが、まあ知った以上はやりたくなるものです。
争点ごとに質問があり、それに答えていくと、私の回答との重なり度が、全ての政党および立候補者ごとにでてきます。
その結果は、まあ私が考えているものとほぼ一致しました。
しかし、だからといって、これを評価する気にはなりません。
この発想こそが、問題だと思うからです。

これは悪しき「科学主義」「客観主義」の仕組みです。
こういう仕組みで、みんな自ら考えることを捨ててきました。
科学者や客観主義者は、いずれも小さな世界で、論理整合性を考えているに過ぎません。
だから原爆さえ開発してしまうのです。
大切なのは、もっと「大きな」論理であり、整合性です。
要素ごとの回答を総和しても、全体が見えてくるわけではないのです。

たとえば、争点には、人によって優先付けがあるはずです。
原発問題と消費税問題とを同じウェイトで足して、何がわかるでしょうか。
そこには大きな落し穴があるのです。
生活は、様々な問題の総和で成り立っているのは事実ですが、要素ごとに同じ比重で総和されているわけではありませんし、問題の組み合わせで新しい選択肢が創発されることもあります。

今回、書きたかったのは、クイズを解くように正解を求める発想を若者に植え付ける風潮が、選挙にも広がりだしていることへの不安です。
選挙は、自分にとっての正解である立候補者に投票することではありません。
そんな正解者はいないと思うべきでしょう。
総花式のチェックリストで、投票者を選ぶのではなく、自分がいま最もこだわっていることに関して、共感する人を選ぶのが良いように思います。

さらにいえば、これだけは絶対避けたいと思うことがあれば、それ以外では完全に共感できたとしても、その点で考えが反対なら、投票対象からは除外するべきでしょう。
平均点や合計点で、評価する時代は、終わったのです。
そういう選挙もまた、見直すべき時期に来ていると思います。

■参議院選挙に思うこと5:なぜ野党は受け皿をつくれなかったのか(2013年7月7日)
前回の選挙で、「死に票」の多さが問題にされました。
今回もまた、多くなりかねません。
投票するところがないので、仕方なく与党に投票する人もいるでしょうが、そういう人は白紙投票すべきだろうと思います。

私のすんでいる我孫子市の市長選挙の時に、関心がないから現職に投票したという若い人がいたのには驚きましたが、その一票は大きな意味を持っていることに、本人は気づいていないのです。

今の自民党は支持できないが、野党に入れても、政権との距離が大きすぎて、投票しても意味がない、と言う人もいます。
たしかに、野党は乱立しすぎていて、民主主義の考えに不慣れな日本国民には無意味な存在に見えるかもしれません。
小さな野党が、大きな流れを変えることもあるのですが、そうした展望を持っている人は少ないようです。
長いものに巻かれろ、寄らば大樹の陰、寄生的人生が、日本人の中にはあるようにさえ思います。
それを否定しても仕方がありません。
それこそ長い歴史の中で培われてきた文化ですから。

それを踏まえて考えれば、野党は国民の気分を大きく受け止める受け皿体制の構築に心がけてほしかったです。
滋賀県の嘉田さんが前回小沢さんと組んだ時には、その可能性を感じましたが、見事にマスコミに壊されました。
今回も、みどりの風が独自に立候補しましたが、自民党に利するだけでしょう。
その主張は、私は共感するところが多いですが、彼女たちは「死に票」を増やすだけかもしれません。
せめて、ゆるやかなネットワーク連合をつくってくれれば、投票しやすくなりますし、思いを集めていくことができるはずです。

選挙制度を支える人々の意識が変わってきている中で、選挙制度そのものも変えなければいけませんが、政党や立候補者の考えも変わらないといけないように思います。

■絶望的な無知無関心と選択的忘却能力(2013年7月9日)
数日前の「エジプトで何が起こっているのか」の中で、紹介しましたが、藤永茂さんの『「闇の奥」の闇』(三交社)という本は、私には衝撃的でした。
藤永さんは、「闇の奥」という本の評価に関する論考を進めた結果、「そこに見えるものは、私たちの絶望的な無知無関心と、私たちが歴史的事実を選択的に忘却する恐るべき能力である」と書いています。
藤永さんの嘆きは、まさに昨今の日本で、繰り返されていることです。
フクシマ原発事故は、発生からいまだ2年少ししか経っていませんが、すでに忘れられつつあるようです。

原発再稼動の加速化は急速に進んでいるとしか思えません。
「原発の安全性」は、完全に原発の「運転の安全性」に、すりかえられてしまい、多くの人は相変わらずの「絶望的な無知無関心」へと逆戻りです。
テレビで、「再稼動しないと生活が出来ない」などと発言している人を見ると、悲しくなります。
いのちよりも暮らしが大切だということのおかしさにさえ、気づいていません。
雇われてお金をもらうことを、みんな「仕事」と思っているようですが、その考えを見直すことをフクシマの原発事故は教えてくれたのです。
しかし、そんなことはもう被災者以外の人たちは忘れてしまったようです。
自分だけがよければいいのでしょうか。
なんともはや情けない人たちばかりです。

もちろん、原発がすぐにすべてなくなるわけではありませんので、原発の運転の安全性は重要なことです。
しかし、それと再稼動や原発前提の経済成長は別の話です。

井戸から高濃度の放射性物質が検出されたニュースも報道されていますが、まあそれもまた「選択的忘却」の対象になるでしょう。
自分にとって都合に悪いことは関心を持たずに忘れてしまうのは、人の常です。
しかし、忘れていいことと忘れてはいけないことがある。
忘れてはならないことを、藤永さんのように書き残し、注意を喚起していくことにこそ、ジャーナリストの責務はあると思いますが、情報があふれかえるほどの昨今の過情報社会では、そうした情報はなかなか見えてきません。
注意しないと、都合よく加工された情報に振り回されてしまいます。

原発の再稼動を止めるにはどうしたらいいのか。
迂遠なようですが、今度の参議院選挙に反原発を心から主張している人や政党に投票するしかないでしょう。
投票したい人がいないなどという人に会うと、蹴飛ばしたくなります。

今度の選挙はとても重要な意味を持っていると思っています。
しかし、「絶望的な無知無関心」が広がっていて、投票率が危惧されているようです。
ぜひ周りの人に、その大切さを伝えようと思います。

■参議院選挙に思うこと6:投票率がなぜ低いのか(2013年7月9日)
今回の参議院選挙の投票率は50%を切るかもしれないと言われだしています。
まさかそこまでは行かないとは思いますが、投票率が低下傾向にあることが気になります。
投票率が低いのは、選挙や政治への関心が低くなったということも含めて、今の選挙制度に起因しているはずです。
一票の格差の問題は大きな問題ですが、投票率の低さの原因をきちんと調べて、選挙制度を再設計することが大切だろうと思います。
もちろん、投票率という「数字」を高めると同時に、投票の質も高めていくことも必要です。

投票しても、結果に影響を与えられないと思っている人も多いですが、それもまた否定できない事実です。
当選後、所属政党を変えたり、政党そのものがマニフェストを破ったりしてきたことが、投票へのモティベーションを下げていることも否めません。
しかも党議拘束によって、国会議員は単なる「頭数」になっているような風潮もあります。
選挙では、人を選ぶのか政党を選ぶのか、わかりにくくなっていますが、最近の状況では人ではなく政党を選ぶようになってきています。
それでいいのかどうかも、きちんと考え直す時期でしょう。

選挙制度は政党制度と深くつながっています。
少なくとも30年ほど前までは、人を選ぶのが選挙でしたが、いつの間にか、政党を選ぶようになってきています。
政党に属していないと、所詮は泡沫候補として相手にもされません。
そうした動きは、民主主義の方向に逆行していると思いますが、そういう流れを受けて、いまや立候補者はタレント化してきています。
選挙に投票に行く意味が、私にも次第にわからなくなってきています。

もちろん民主主義を個人が実行できる唯一の機会が選挙ですから、選挙に行かないのは論外です。
しかし、正直に言えば、投票に行く時の虚しさもまた、年々高まっています。
政権交代したところで、結局は変わらないのであれば、投票所への足も重くなるでしょう。
それではしかし事態は変わりません。

どうしたら投票率を高めることができるのか。
その問題をもっと真剣に考えること大切です。

エジプトの若者たちの発言を聴いていて、とても感動します。
私たちがなくしてしまったものを、彼らは強く持っています。
政権交代してもまた元に戻されてしまう。
しかし、それでも命さえ懸けて、彼らは行動しています。
エジプトと日本はどこが違うのか。
権力は腐るとよくいわれますが、権利もまた腐っていくのでしょうか。

超党派で、投票率を高める方策を真剣に考えていってほしいものです。
そのなからきっと、現在の政治の根本的な問題点が見えてくるはずです。
投票率が低いのは、決して選挙民の問題ではありません。
選挙に行くことの意味をしっかりと実感させられない、政治家たちの問題です。
先日、投票率がある水準を超えなければ住民投票は無効というところがありましたが、投票率が70%を切るようであれば、選挙は無効というくらいのことはできないものでしょうか。
せめて、70%を超えるまで投票を締め切らないようにはできないのでしょか。
半分の人しか投票に行かない選挙って、どう考えても、私には納得はできません。

■福島第1原発の元所長の吉田さんが亡くなられました(2013年7月10日)
福島第1原発の元所長の吉田さんが亡くなられました。
58歳。いかに無念だったことでしょうか。
深く冥福をお祈りします。
吉田さんがいなかったら、今の日本はなかったかもしれません。
いくら感謝しても足りません。
吉田さんの証言を書き残した「死の淵を見た男」の著者、門田さんは「戦死」と表現しています。

しかし、にもかかわらず、私には疑問が残ります。
なぜ事故の前に、吉田さんは事実をもっと明かさなかったのか。
そもそも、なぜ原発に関わっていたのか、です。
こんなことを書くと非難されるでしょうが、どうしてもその疑念が残ります。

吉田さんの「戦い」はさらに話題になり、映画にもなるかもしれません。
私自身、吉田さんの物語はそれに値すると思います。
しかし、それと同時に、それによって最も大切なことが見えなくなっていくのではないかという不安があります。

戦争や大災害といった非常時には、英雄が生まれます。
たぶん、どこにもっていっていいかわからないやり切れなさが、英雄を待望するのでしょう。
しかし、本当の英雄は、平常時にこそ生まれてほしいものです。
木仁三郎さんは、そうした存在だったように思いますが、英雄にはなりませんでした。
英雄になる意味は、情報発信力が飛躍的に高まるということです。
論理を超えて、あるメッセージが広がります。
理解ではなく共感が、世論を形成していきます。
木さんが英雄になったら、日本から原発はなくなっていたと思います。

吉田さんの物語は、どういうメッセージを形成していくでしょうか。
私が危惧するのは、原発の世界はこうした人たちによって、安全が守られているというメッセージです。
何か大切なことがすりかえられているように思えてなりません。
死の淵から世界を救うことよりも、死の淵を生み出すようなものを世界に持ち込まないことのほうが大切であることは、いうまでもありません。
しかし、そのこと(「原発の安全性」)はどこかにいってしまい、「運転の安全性」を守ることに多くの人の目がいってしまう。
どんなに安全に運転しようと、安全でないものは安全ではないのですが、そんな当然のことさえ、みんな忘れてしまいます。
そんななかで、吉田さんの行動の意味が、矮小化されてしまうような気がします。

事故後の吉田さんの行動には頭が下がります。
しかし、だからといって、事故前の原発の運転状況や情報発信が免責になるわけではありません。
もちろん吉田さんを責めているわけではありません。
原発を取り巻くシステムこそが問題なのです。
吉田さんでさえ、それができなかったのです。
吉田さんの行動や死は、そうしたことへの問題提起としてこそ、受け止めなければいけないのではないのか。

しかし残念ながら、東電のみならず、原発を取り巻く仕組みは何ひとつ変わっていません。
その象徴は原子力規制委員会の委員長に、田中さんが存在することです。
田中さんは、事故後いち早く、身を呈して除染活動に取り組みました。
しかし、だからといって、田中さんの何が変わったのか。
事故後、「変節」した人は少なくありませんが、変節はともかく、身の処し方はあるでしょう。
まさか田中さんが就任を受け容れるとは思ってもいませんでした。
その不安は、その後の規制委員会の行動に現れているように思います。

問題は個人ではなく、システムなのです。
テレビ報道を見ながら、とても複雑な気持ちになります。
吉田さんは、原発再稼動をどう考え、どう行動しようとしていたのでしょうか。

しかし、それがどうであろうと、吉田さんの行動には感謝します。
その行動を無駄にはしたくありません。
せめて今度の選挙での一票は、反原発の立場を誠実に示しているところに投じます。

■参議院選挙に思うこと7:今回は当選しそうな人に投票します(2013年7月10日)
昨夜もテレビで党首討論会をやっていました。
途中まで見ましたが、あまりの内容のなさに見るのをやめてしまいました。
司会のまずさもありますが、話し合いになっていません。
それ以上に、野党側のバラバラさに辟易します。

ある意見に対する反論は決して「一つ」ではありません。
反対の視点は多様に存在するからです。
ですから与党に対して、野党は多数になりがちです。
それでは与党が有利なので、政権交代は起こりにくく、そのため二大政党制が考えられました。
しかし、前にも書きましたが、二大政党制度は形を変えた一大政党制なのです。
それはアメリカでは証明済みですが、日本でも民主党によって証明されました。
流れを変えようとした鳩山政権は、みごとに内部の反対で瓦解しました。
彼は、エジプトのムルシ大統領と同じく、国民ではないもうひとつの政権を支える権力に従う仲間に阻まれたように思います。
鳩山さんの友愛革命が成就していたら、世界は変わっていただろうと私は夢見ます。

しかし、いまはもうそれは期待しにくい状況です。
野党を結集する仕組みは見事に破られました。
そのため、せまい自己主張にこだわる小党や無所属での立候補が相変わらず多い状況です。
世論を喚起するには良いかもしれませんが、与党を利するだけで、国民の政治離れはさらに加速するかもしれません。
つまり、世論喚起さえできないかもしれません。
そうであれば、投票者が心しなければいけません。
無駄な死票にならないように、当選に繋がる人に投票することが必要な選挙かもしれません。

それにしても、なぜみんな立候補するのでしょうか。
自分の意見を社会に発信したいからでしょうか。
自分が思う政策を実現したからでしょうか。
それとも自分が議員になりたいからでしょうか。

自分が思う政策を実現したいのであれば、立候補を取りやめ、同じ意見の人の応援をするほうがいい場合もあります。
日本の選挙制度には、そうした仕組みがありません。
その仕組みが政党だったともいえますが、今の政党はそうではありません。
政党制度も大きく変わっていくべき時代です。
ネットの活用が進めば、今の政党制度は壊れるか大きく変質するか、いずれかでしょう。

立候補を取りやめてほしい人が少なくありませんが、彼らは自らの意図と行動が相反していることに気づいているのでしょうか。
あるいはあまりも渦中にいて、見えなくなっているのでしょうか。

■ツイッターハガキ(2013年7月10日)
私のところに、週、2〜3回、ハガキをくれる人がいます。
毎回、それぞれに思いを込めた絵はがきで、古い記念切手で送ってきます。
とても几帳面な人なので、万年筆できちんと書いています。
インクの色は複数なので、たぶん万年筆も数種類を使い分けているのでしょう。
1日に2通、届いたこともあります。
内容は、いろいろですが、ツイッターハガキと言っていいような、いわゆる「つぶやき」です。

私もハガキにすればいいのですが、無粋なことに返信はメールです。
しかも、頻度においてはたぶん3回に1回くらいでしょうか。
ちなみに、その人は時々、メールも送ってきます。

その人は私よりもずっと若い人です。
私よりも年上の人から、手紙をもらうことは少なくないのですが、若い人からのハガキは、ほぼこの人だけです。
もうどのくらい続いているでしょうか。
最近は、数日来ないだけで、あれどうしたのかなと思うほどです。

以前、女房が絵手紙の交換を何人かとやっていました。
絵手紙も一種のつぶやきですので、どこか似ています。

メールの情報量とハガキの情報量はまったく違います。
ハガキの場合は、書かれている文字情報以外にもたくさんのメッセージが含まれています。
例えば、昨日届いたハガキは「鳩居堂製」のナスのハガキでした。
そこから来るメッセージもあります。
私だけにわかる特別のメッセージですが、そのメッセージを私が正しく受け止めているかどうかはわかりません。
しかし、私たちの間には、ある思いが往来しているのは事実です。

メールのやりとりは便利なために、私はどうもメールに依存しがちです。
しかし、その結果、何か大切なものをメッセージできていないのかもしれません。
それを感じたのは、実はフェイスブックをやりだしてからです。
メール以上に、フェイスブックは便利で、わがままになれます。
しかしもしかしたら、コミュニケーションというものを変質させてしまうのかもしれないという気がしだしました。

ちなみに、昨日とどいたハガキには、内田樹さんの「コミュニケーションは贈与である」という話が気になっていると書いてありました。
今日のハガキが楽しみです。

■参議院選挙に思うこと8:投票に関する私のルール(2013年7月11日)
私は、時に共産党の候補に投票しようと思うことがありますが、最近は実際に投票したことはありません。
その理由は、瑣末といえば瑣末ですが、私にとっての重要なルールに従っているためです。
それは、選挙活動期間中に、自宅に直接電話があった候補者には絶対に投票しないというルールです。
このルールの良し悪しはともかく、ルールとして決めたので仕方ありません。

ルールはもう一つありましたが、それはもう守れなくなってきています。
地方議員と参議院議員は、政党所属の人には投票しないというルールです。
ある候補を応援したことがありますが、彼は結局、政党に所属し、今回は別の政党から出ます。
最初の当選時に、市民を代表するので、政党には所属しないといっていましたが、やはり政党に所属しなければやっていけなかったのでしょう。
以来、残念ですが、私は彼の応援を止めました。

ところで、直前の電話の件です。
昨日も、留守電に長々と入っていました。
共産党の立候補者の事務所の女性です。
最初にかかってきたのは数年前ですが、その時には市会議員の応援でした。
その時には、私はその共産党の新人に投票しようと思っていました。
それが投票日の前日に電話がありました。
いつもは「はい」とかわすのですが、その時はムッとして、この電話で投票をやめましたと応えました。
その一言がきっかけで、長電話になりました。
高年と思われる彼女は、以前は「共産党」と聞いただけで嫌悪したくらいだったそうですが、最近、時間が出来たのでいろいろと調べてみたら、共産党が一番共感できるので、共産党の人を応援しだしたのだそうです。
それはいいことですが、だからと言って、選挙の時だけ、共産党をよろしくではないでしょう、普段からそのよさをみんなに伝える活動をするほうがいいでしょう、と言うと、そういう集まりもあるのでぜひ参加してください、といわれました。
もっとも、その後、その種の案内は一度も来ていません。
その電話以来、選挙の時に懲りずに電話があります。
素直に考えれば、私が共産党の人に当選しないように仕向けているわけですが、本人は気づいていないでしょう。

頼んで投票に行ってもらったり、頼んである人に投票してもらうということの意味をしっかり考えなければいけません。
中途半端な政治意識の目覚めほどやっかいなものはありません。
そうではなく、自発的に投票に行き、だれかに投票することに喜びを感じるような状況を創らなければいけません。
私の場合は、そうなのですが、なぜ、そうではない人が多いのかが不思議です。
それは、もしかしたら、投票に行くのは国民の義務だという発想や投票に行こうという、余計なお世話の呼びかけのせいかもしれません。
おそらく、ここでも問題の建て方が間違っているのです。

ちなみに、私にはもう一つルールがあります。
自分の選挙なのに、政党の代表を呼ぶ人には投票しないと言うルールです。
このルールも守れなくなりました。誰にも投票できなくなるからです。

最近の選挙は、実に退屈です。
それに、私が思うような結果にはなかなかなりません。
しかし、4年前の政権交代のような事が起こりうるのです。
だから、今回もわくわくしながら投票に行きます。
投票する人はいま2人にしぼりました。

■参議院選挙に思うこと9:政党代表の話し合いテレビ番組を見ましょう(2013年7月13日)
テレビでの選挙関連の報道の内容が、少しだけ変わってきているように思います。
少しまじめになってきたということです。
当初は政権翼賛会的な報道が多かったように思います。
とりわけ、いわゆる「政治評論家」たちは、論点をぼやかし、安倍政権にへつらっているように感じていました。
もちろん今もそうですが、各党の代表による討論会の内容は、進化しているように感じます。
国会での議論も、こういうスタイルでやればいいのにと思います。
現在の国会の議論は、議論とは言えません。
質疑応答とさえもいえないものが多いです。

また立候補者の政権放送もありますが、これもどのくらいの人が見るでしょうか。
もう少し工夫して欲しいものです。呆れるほど退屈です。

それにしても、なぜ与党政治家は嘘をつくのでしょうか。
民主党の政治家は与党時代には無知のために嘘をつきましたが、自民党の政治家は知っていて嘘をつきます。
政治家とは嘘つきだというイメージが少しずつ弱まっているようにも思いますが、相変わらず政権与党の政治家は嘘といわないまでもごまかしを乱発します。
今日の、みのもんたさんの番組で各党の代表がさまざまな問題を話し合っていましたが、与党の代表者の発言は、それは酷いものでした。
私にはあきらかに「嘘」としか思えません。
「内閣の考えと閣僚の考えは違うのか」と問われて、その人がしゃあしゃあと「違う」と答えて失笑を買っていました。
さすがに、野党の数名の人からも「ごまかし」とか「嘘」と指摘されていましたが、それがなければ視聴者は自民党の人の発言に納得したかもしれません。

これはほんの一例です。
街頭演説でも政見放送でもそうですが、話の内容は耳障りよく出来ています。
しかし、所属政党の主張とはかなり食い違っていることもあります。
その矛盾やごまかしは、一人の人の話を聞いていてもなかなか見えてきません。
ネットでの情報が増えていますが、それはさらに偏っています。
このブログの記事も、思い切り私の偏見ですから批判的に読まないといけません。

立候補者が、「・・・します」と断言するのも気になります。
どこかで発想を履き違えているように思えて、蹴飛ばしたくなります。

テレビで各党の代表者が話し合う番組はもっと増やしてほしいです。
問題が見えてくるからです。
この3連休は暑いですから、自宅で、ぜひそうした番組をできるだけ見たいと思います。
よかったら、みなさんもぜひそうしてみてください。
政治評論家の論調が、いかに観察者的で先入観に呪縛されているかが少しわかるかもしれません。

■参議院選挙に思うこと10:現状満足の呪縛を抜け出せないものか(2013年7月14日)
選挙まであと1週間です。
しかしなかなか盛り上がりません。投票率はかなり低くなりそうです。
要するに、多くの国民は現状に満足しているのでしょう。
満足していなければ、投票に行くはずです。
政治に関心がないとか、投票しても何も変わらないと思っているとか、言われますが、それはたぶん「現状満足」と同じ意味でしょう。
もし本当に不満ならば投票に行くはずですし、政治を変えようと本気で動くはずです。

私自身のことを考えてみましょう。
私自身は、現状への不満はありますし、政治を変えたいと思っています。
しかし、エジプトやシリアの国民とはまったく違い、不満を言いながらも現状を受け容れていることは否定できません。
原発を止めてほしいと思いますが、原発の前で焼身自殺をするほどには至っていません。
だから、このブログで時に過激なことを書いても、言葉だけと非難されても反論できません。
権力批判などサルでもできますから、そんな記事は何の力も持ちません。
あまりにも納得できないことを、書くことによって、自己を慰めているだけのことです。
要するに、私もまた、今の状況にほどほどの満足を感じていると言えるわけです。

しかし、私以上に満足している人のほうが多いように思います。
フェイスブックの書き込みを読んでいると、みんな現状に満足しているなと思います。
現状を告発したり行動を呼びかけたりする人もいますが、ほとんどの人は、蹴飛ばしたくなるくらい、平和な記事を書いています。
現状告発の情報を回してくる人もいますが(私も時にやります)、だからと言って、自らが行動を起こすわけではありません。
私が一番不愉快なのは、観察者的に批判したり、べき論を述べたりする人です。
一人称自動詞で語らずに、私の書いたことに解説してくれる人も不愉快ですが、そういう人も時にいます。
そういう人は、多分、権力を批判しやすい現在の社会を満喫しているのかもしれません。

要するに、みんな現状に満足しているのです。
だから消費税も上がり、TPPに参加し、原発依存を続け、犬のように働く生活を続けるわけです。
そして、茹でガエルのように、死んでいくのでしょう。
それもまた人生です。

しかし、人として死んで生きたいのであれば、どんなに忙しくても、誰に投票するかを真剣に考えて、投票に行くのがいいです。
でも、人よりも犬のほうがいいと、最近の人は思っているのでしょうね。
生き辛い時代です。

私は来世も人として生まれたいと思っていますので、今生は人として全うしたいです。

■「助け合いの文化と仕組み」を考えるサロンのお誘い(2013年7月15日)
私のオフィスは東京の湯島天神の近くにあります。
「コモンズ空間」を目指した時期もあり、いまもいくつかのNPOに場所を提供しています。
そこでさまざまなサロンを開催しています。
このブログでも時々案内していますが、サロンをできるだけ開いたものにしていくために、これからこのブログでもできるだけ紹介していこうと思います。

今月の17日(木曜日)には「協同組合を切り口にした助け合いの文化と仕組みを考えるサロン」を開催します。
長い名前ですが、「助け合いの文化と仕組み」をテーマにしたサロンは、これまでも何回かやってきました。
しかしなかなか継続化できませんでした。
そこで今回は、具体的な議論にしていくために、「協同組合」を切り口にすることにしました。

第1回は5月に開催しましたが、この時には協同組合の父と言われるライファイゼンと世界の農業協同組合事情に詳しい農林中央金庫の田中さんに話題提供してもらいました。
田中さんの思いは深いものがあり、長年、調査研究活動を重ねてきていますが、もう10年以上前にある研修会でお会いしたのが契機で付き合いが始まり、時々。私は刺激をもらっている人です。

今回は、最近また広がりが加速化されてきているワーカーズコープにずっと取り組んでいる菊地さんをゲストに、農業協同組合とはまた違った展開をしている「助け合いの文化と仕組み」を考えたいと思っています。
急な案内ですが、もしよかったらご参加ください。
とても気楽な集まりですので、どなたでも歓迎です。

○日時:2013年7月17日(金曜日)午後7〜9時
   6時半には入場可能です。
○場所:湯島コムケアセンター
○話題提供者:菊地謙さん(ワーカーズコープちば)
○参加費:500円
○申し込み先:comcare@nifty.com

■参議院選挙に思うこと11:世論がつくられていくことへの危惧(2013年7月15日)
相変わらず現状維持の方向で状況は進んでいるようです。
しかし、新聞の論調が少し変わってきたようにも思います。
たとえば、今朝の朝日新聞の社説に「ねじれは問題か」と書かれていました。
これまで「ねじれ解消」を煽っておいて、なにをいまさらと思いますが、日本のマスコミの論調は基本的に大勢に同調的です。
それを痛感したのは、小選挙区制の導入でした。
テレビでご一緒した某紙の高名な論説委員が小選挙区制を批判したのです。
その新聞はそれまでは小選挙区制導入を煽っていたように思っていましたので、唖然としました。
そういうことが多すぎます。

マスコミが同調する「大勢」とはなんでしょうか。
世論調査を考えてみましょう。
現在の選挙期間中にも、支持政党だと何を重視するとかに関する世論調査なるものが定期的に発表されます。
そこでの「大勢」が、マスコミの参照基準のような気がします。
しかし、こうした世論調査は、デルファイ法のように繰り返されることによって、大政翼賛会的に意見を集中させていく傾向があります。
多くの人がそう思うなら、それがいいのだろうという大勢依存型の判断を、私たちは無意識にしがちです。
世論調査が繰り返し行われることによって、意見は収斂しがちです。
そこに、ある「意図」が入ったらどうなるか。
つまり、その大勢こそは、マスコミが自ら作れるものでもあるのです。
そこに、大きな危惧を感じます。

誰もが意見表明できる選挙は、世論を育てていく絶好の機会です。
問題は、だれが形成の主役か、です。
選挙民一人ひとりが、さまざまな意見に触れて自らの考えを整理し、それを投票で表明し、それが結果として政治の方向を決めるのが望ましいことはいうまでもありません。
しかし、「さまざまな意見に触れて自らの考えを整理」するほど、多くの人は時間がありません。
だから「みんなはどう思っているのだろうか」という発想に陥りがちです。
平均からはずれない生き方を叩き込まれてきた最近の私たちは、自分の意向よりも、「みんなの意向」を重視しがちです。
なかにはまだ、「有識者」の意見に依拠する人もいるでしょう。
「有識者」ほど自分のない人はいないのですが。
そうした状況を利用して、世論を育てるのではなく、世論を誘導する動きには注意しなければいけません。
世論調査結果やマスコミの論調に惑わされることだけはしたくありません。

まだ2人からしぼりきれていません。政党もまた迷いが出てきました。

■参議院選挙に思うこと12:選挙結果を誘導する報道が多すぎます(2013年7月15日)
新聞ではもう選挙結果予想の報道が始まりました。
たとえば、今朝の朝日新聞によれば、「与党、過半数は確実 自民、改選議席倍増の勢い」だそうです。

投票日に投票が締め切られると、その途端にテレビでは「当選確実」が報道されます。
投票所の出口調査の結果なのですが、これは選挙への冒涜行為だと私は思っています。
選挙活動期間中に結果予測をして大々的に発表するのも、同じことだろうと思います。
投票所の出口調査が結果を言い当てるのであれば、投票日前の調査もまた結果を言い当てる水準になっていくでしょう。
そうなれば、選挙は茶番劇化します。
マスコミはよってたかって、選挙制度の真髄を壊してきていると、私は思います。

選挙の投票に行くと言う行為は、単に代表を選ぶだけではありません。
これは国民が主権者であることを思い出す一種の儀式であり、結果以上に、投票行為が意味を持っていると思っています。
そうした選挙の意味を、集計作業の始まる前に結果を発表していいものなのか。
とても違和感があります。

事前投票でも出口調査は行われているのでしょうか。
統計学的に言えば、事前投票の出口調査で、結果をかなり精度高く予測できるでしょう。
もしそうならば、投票に行くのは、なにか虚しくなります。
出口調査の結果は投票終了までは発表は出来ないようですが、終わった途端にテレビで発表されるということは、事前にかなりの人たちが知っていると言うことです。
私には、どう考えてもフェアなことではありません。

投票日前のアンケート調査は、さらにフェアとはいえません。
しかも、調査結果はおおっぴらに発表してもいいようです。
それは必ず投票予定者に影響を与えます。
にもかかわらず選挙違反にはならないのは、これもおかしい。

しかも、選挙に関する番組で多くの人は「今回の結果はもう分かっている」と口にします。
自民党が圧勝するというわけです。
こうした行動はたぶん投票率を下げる方向に働くでしょう。
そういう発言には、私は蹴飛ばしたいほど不快になります。
神様ではあるまいし、やってもいないのに、なぜわかるのか。

選挙はやってみなければわかりません。
知ったような政治評論家にだまされてはいけません。
事前調査など信じてはいけません。
真剣に考えた1票あれば,必ず無駄にはならないはずです。

■参議院選挙に思うこと13:私は「人を殺す」ことが好きではありません(2013年7月15日)
このシリーズは、今回で最後にしようと思います。
それで、私自信の選択基準を書きます。
それは極めてシンプルです。
「人を殺すことを強要する人に投票しない」
「人を殺すことに鈍感な人には投票しない」
「嘘をついて生きている人には投票しない」
この3つです。

「人を殺す」とは、いささか物騒な言葉ですが、たとえば、戦争や軍隊を認めることは政府が敵国の人を殺せといった時に拒否するのが難しくなります。
たとえば、原発は人を殺しかねない危険な存在です。だから私はその存在を許せません。
つまり、反原発と平和憲法維持が、私にとっては絶対的な判断基準です。
「嘘をつかない」は、所属政党の主張と矛盾した主張をしていないことです。
これは、その人の生き方の本質を象徴しています。

この3つの基準で考えると、投票候補者(投票政党)はすぐに絞れます。
運よく複数の該当者(政党)がいたら、候補者の場合は年齢の若い方です。
政党の場合は、少し複雑ですので、省略します。

ただ次の補足基準があります。
選挙期間中に電話をかけてきた場合は、無条件に対象から外します。
私の場合、共産党は、その理由でいつも投票できません。困ったものです。

ところで、多くの人たちは、「人を殺す」ことに違和感を持たない政党や政治家が好きなようです。
殺したり殺されたくなかったら、自民党に投票するはずがないからです。
なぜ多くの人が、自民党政権を歓迎するのか。
私にはそれが全く理解できません。
しかし、新聞やテレビが、殺人事件を好んでよく取り上げる風潮を見ていると、そういう人たちがきっと多いのでしょう。
テレビのニュースの編成局の人たちは、どうしてあんなにしつこく報道するのでしょうか。
もしかしたら、これもまた選挙とつながっているのかもしれません。

参議院選挙に思うことを気の向くままに書いてきましたが、いまの世情が見えてきます。
やはり、まずは自分の生き方を問い質さないといけません。

■新しい働き方と新しい協同組合(2013年7月19日)
17日に協同組合をテーマにしたサロンを開催しました。
前回は、農業協同組合の父ともいわれるライファイゼンからの流れを農林中央金庫の田中さんに話してもらい話し合ったのですが、参加者からぜひこうした話し合いの場を続けたいという声があり、第2回目を開催しました。
今回は、ワーカーズコープちばの菊地謙さんに、ロッチデール原則の流れから「協同労働の協同組合という働き方」というテーマで話題提供してもらいました。
今回は、以前、私も参加していた共済研究会のメンバーが数名参加してくれました。
その研究会の代表でもある青山学院大学教授の本間さんも参加してくれましたが、本間さんは現在の日本の協同組合に関して強い危機感をお持ちです。
昨年、韓国で協同組合基本法が成立しましたが、菊池さんはそのスタディツアーにも参加しています。
今回は韓国のそうした動きにも詳しい佐々木さん(今は帰国していますが)も参加してくれましたので、韓国の話題も少し出ました。
日本でも以前から「協同労働の協同組合」法制化の動きがあり、2000年には法制化市民会議も設立されました。
私もそれに参加させてもらいましたが、一時は大きく盛り上がりましたが、なかなか実現せずにいます。
私自身は、その後、法制化を目指すことが間違いではないかという思いが強まり、最近は全く興味を失ってしまいました。

今回、菊池さんは「協同労働の協同組合という働き方」ということで、たくさん刺激を与えてくれました。
菊池さんは、さまざまな実践にも関わっていますので、1日かけて、それぞれを議論してもいいような話題ばかりでしたが、サロンですので、深掘りできずに残念でした。
いつか1日かけてのラウンドテーブルセッションを開催したいと改めて思いました。

議論は多岐にわたったので報告しにくいですが、私は協同組合がいま大きなパラダイム転換の時期に来ていると思っています。
農協や生協などのこれまでの協同組合は企業経営をモデルにしすぎたように思いますが、それは時代の状況からみて、やむをえなかったと思います。
不足の時代の協同のあり方と言っても良いでしょう。
しかし、昨今の時代状況は「過剰の時代」です。
そこでの経済学がパラダイム転換を求められているように、新しい働き方が問われていると思います。
ワーカーズコープは、そのひとつに切り口です。

主体的に働くこと(つまり雇用関係をとらないこと)、働きを金銭で評価しないこと、生活と対比させるのではなく生活の重要な要素にすること(ワークライフバランスなどという発想を捨てること)などが、私が考える働き方です。
会社を辞めた後、雑誌に「脱構築する企業経営」という連載記事を書かせてもらいました。
毎回、考えながらの連載でしたが、1年後の結論は、協同組合こそがモデルではないかということでした。
その結論に失望したとみんなから言われましたが、今はますますその思いを強めています。

新しい働き方が新しい社会をつくっていくでしょう。
新しい社会が新しい働き方をつくるのではありません。
しかし、現状は、たとえば「ニューエコノミー」といわれる社会においては、開発的な創造的仕事と作業的な歯車労働(非正規労働で対応可能)とに分かれるように、働き方が強制されていきかねません。
そこでは「働くこと」の本質が損なわれています。
働く主体は、常に個人でなければいけません。

25年前に会社を辞めた時、そういう問題を考える必要を感じ、2つの組織の立ち上げに関わりましたが、いずれも私の思いとは全く別のものになってしまいました。
それぞれが軌道になった段階で組織を離れましたが、その後は、まずは私自身がそういう働き方とゆるやかなネットワークづくりをしようと生きてきました。
私の怠惰さもあって、私だけでとどまっていますが、せめてもう一度、そうしたことを考える場があるといいなと思いなおしつつあります。

そんな思いもあって、この集まりは継続することにしました。
メーリングリストも立ち上げる予定です。
一緒にやろうという方がいたら、ご連絡ください。
次回の集まりは9月9日の予定です。

■生活を忘れた日本人(2013年7月21日)
今日の参議院選挙の投票結果がわかりだしてきました。
その結果は、私には嘔吐したくなるほど醜いものです。
特にショックだったのは、原発事故を体験した福島県民が原発を再稼動させようとしている自民党を選んだことです。
これまでの福島県民への私のシンパシーは消えました。
やはり原発を誘致した県民でしかなかったような気がして、怒りを感じます。
あまりに衝撃的だったので、いまはかなり勘定的になっていますので、明日になったら、この記事を削除したくなるかもしれません。
しかし、いまのこの感情はどこかに残しておきたいとも思います。
それは、自分への怒りでもあるからです。

今日、テレビで放映していた「小さな村の物語 イタリア」を観ました。
そこで、次のような言葉に出会いました。
誠実に生きている村人の発言です。

生きていれば退屈なことが多い。
でも、退屈なことを続けていると、大切なことも見えてくる。

この番組には、毎回、生活者の深遠な言葉が出てきます。
日本の政治家が選挙の時に語るような空疎な言葉ではありません。
実に深さを感ずる言葉です。
福島の選挙結果速報を見て、この言葉を思い出しました。
福島の県民たちは、原発に惑わされて、退屈なことを続ける暮らしを捨ててしまったのではないかと、ふと思ったのです。
だから、大切なものが見えなくなってしまった。

しかし、これは福島県民だけではないでしょう。
私自身もそうなのです。
いまの日本人は、だれもかれも同じかもしれません。
生活を忘れてしまった日本人。
イタリアの「小さな村の物語」に出てくる豊かな暮らしぶりが、少し前まで、日本にもあったはずですが、それがなくなってきている。
それを壊してきたのは、私たちの世代だと思うと、福島県民だけを呪うわけにもいきません。

今日の選挙結果をテレビで見ながら、自己嫌悪に襲われています。
これからどうなるか、憂鬱です。

■煙石事件への疑惑(2013年7月22日)
昨日、書こうと思いながら、選挙のことが気になって、書くのを忘れてしまいました。
昨日の読売新聞の記事です。
ちょっと長いですが、引用します。

大阪府警北堺署が1月に起きた窃盗事件で男性会社員(42)を誤認逮捕し、大阪地検堺支部が釈放していた問題で、犯行を裏付ける有力な物証とした事件現場の防犯カメラ映像で、男性が映っていた時刻が犯行時刻とずれていたのに、同署が確認を怠っていたことがわかった。
府警は、20日午前、大村喜一・刑事総務課長が「誤認逮捕はほぼ間違いないだろう。恥ずかしい話だ」とずさんな捜査だったことを認め、事実関係の確認後、男性に謝罪する考えを明らかにした。
男性は「身に覚えがない」と一貫して容疑を否認。男性の弁護人が調査したところ、男性が犯行時刻の1分後、GSから約6・4キロ離れた阪神高速堺線堺入り口を通過したことを示す自動料金収受システム(ETC)の利用記録が見つかった。
府警が改めて防犯カメラの時刻を調べると、正しい時刻とはずれがあったことが判明。弁護人によると、防犯カメラの時刻は約8分進んでおり、男性が給油したのは午前5時34分頃だったことがわかった。

私がこの事件を知ったのは、朝のテレビのニュースです。
それを知って、すぐに「煙石事件」を思い出しました。
これに関しては、CWSコモンズに書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action13.htm#0714
とても理解し難い事件です。

しかし、多くの人はみんな、これは「自分とは関係ないだろう」と思いがちです。
厚生労働省のキャリアだった村木さんの事例もあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/02/post-03f9.html
そこに落し穴があります。
ニーメラーの反省は、他人事ではないのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

不当逮捕で、人生は簡単に壊れます。
そして、それによって社会も国家も壊れていきます。
すべての始まりは、ちょっとした小さな事件からなのです。
煙石事件に関心を持つのは、そう思うからです。
もし時間が許せば、みなさんもぜひちょっと気にしてもらえればうれしいです。
ネットでいろいろでてきます。

■山本太郎さんの主張はしっかりと聞く価値があるように思いました(2013年7月22日)
今回当選した山本太郎さんがテレビでインタビューを受けているのをいくつか見ました。
質問者側の質問が、いかにも陳腐でしたが、彼の回答には好感が持てました。
歯切れよくきっぱりと発言しています。

今日のお昼の「スクランブル」では、山本さんの発言に司会者がひやひやしているのがよくわかりました。
あきらかに画面がディレクターを意識していました。
早々に山本さんのインタビューを切り上げた後、次の話題が大阪の同級生殺害事件の詳細レポートだったのにも唖然としました。
コメンテーター役の一人、なかにしれいさんだけは、山本さんにエールを送りました。

その後の「情報ライブミヤネ屋」では、経済産業省出身の岸さんはともかく、宮根さんはやはりかなり難癖をつけている感じを受けました。
ともかく生出演といいながら、話を聞くのではなく、話を抑える感じが強かったのが不快でした。
痛快だったのは、宮根さんの質問に、山本さんが「そういう刷り込みこそが問題だ」と切り替えしたところでした。
宮根さんが、誰の代弁者かを如実に示していますが、宮根さんはそれにさえ気づいていないでしょう。
この番組は原発再稼動応援の方向でずっときていますから、仕方はありません。

日本では、やはり出る杭は打たれるようです。
山本さんはまたテレビでは声がかからなくなるでしょう。
少なくとも日本テレビには呼ばれなくなるでしょう。

私はこの2つしか見ていませんが、山本さんに思い切り話させてやる番組を期待しています。
もちろんネットでは、そうした山本さんの映像は見ることができます。
だからこそ、あれだけの風が起きたのですが、たぶん大人たちの多くは冷やかでしょう。
たかがタレント上がりと思っているかもしれません。
たしかに、山本さんの発言はソフィストケートされておらず、先入観に呪縛されている常識人たちには反発されるかもしれません。
あまりに表現が単純化されているのも、現代人の嫌うところです。
現実はそんなに簡単ではないというのは、似非知識人の常套句ですが、しかし真実はシンプルなのかもしれません。

今回の選挙結果は私には大きな失望でしたが、山本太郎さんが当選したのは、もしかしたら大きな風の予兆かもしれません。
そういえば、沖縄では、糸数さんが当選しました。
まだ未来は諦めなくてもいいかもしれません。

■選挙が終わったら原発事故関係の報道が増えてきたような気がします(2013年7月23日)
気のせいかもしれませんが、選挙が終わったら、原発事故関係の報道が増えてきました。
福島の井戸水の汚染データも詳細が発表されましたが、記者が選挙が終わったので出したのですかと質問していたのが印象的でした。
除染の費用も発表されました。
もっとも、この数字はかなりいい加減なものであることは、私のような素人にも明々白々です。
テレビのニュースで、「最大で5兆1300億円(百億円単位の数字が間違っているかもしれません)」と言っていましたが、「最大で」などといえるわけがないでしょう。
ともかく原発事故関係では、いい加減な数字が出回りすぎです。
まともな良心を持った人がいないのか、知識不足かのいずれでしょう。
テレビのレポーターやキャスターも、原発事故に関する表現が変わってきたような気もします。
かなり突っ込んだ発言も出てきました。
何をいまさらと、私には不快感がありますが、まあそれは歓迎したいです。

除染のために一人当たり3000万円の除染費用を使うよりも、その金額を個人に支給して欲しいという人の発言をテレビで取り上げていました。
除染費用の大半は、企業を通して、おそらく被災者とは関係ない人たちに行くでしょう。
それよりも被災して困っている人たちに、全額を渡せば、効果的に使われるはずです。
除染だとか帰宅可能だとか、まやかしはやめて、事実をきちんと開示して、当事者に判断させるのがいいだろうと思いますが、そうはなっていません。
なにやら昨今の動きには違和感があります。
しかし、福島の人たちは選挙結果を見る限り、これまでと同じ政府を選びました。
まだ原発を続けたいと思っているわけです。
自民党は原発依存を主張し、民主党は大飯原発を現に再稼動させた人たちです。
福島の被災者たちの視点にはまったく立っていないような気がしますが、福島県民はそれを選んだのです。
それがどうしても理解できません。

昨年、福島の飯舘村で、かーちゃんの力プロジェクトの代表の渡邉さんが「ここに来てくれた大飯の人たちの考えは変わりました」と話してくれましたが、肝心の福島の人たちの考えは変わっていなかったわけです。
それがとてもショックです。

人はなかなか変われないのかもしれません。
しかし、原発事故に関する事実は、みんなもっと真剣に知ろうとする必要があります。
「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」はぜひ読んでほしいです。
宗像良保さんの「フクシマが見たチェルノブイリ26年目の真実」もお勧めです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#130526

■決められる政治の意味(2013年7月24日)
国会のねじれが解消されて、これからは「決められる政治」が到来するといわれています。
しかし、肝心の「決められる」とはどういうことかの議論はありません。
決められなかったのが、ねじれのためだったとマスコミはさかんに言っていましたが、マスコミは大政翼賛会的な方向づけに加担していただけです。
「決める主語」に関しては、関心はあまりないでしょう。

たしかにこれからは、政府はどんどん決めていけます。
反対勢力は弱小になったからです。
原発再稼動もいまや簡単な話です。
誰に気兼ねすることもないからです。
消費税も上げられるでしょうし、大企業減税も出来るでしょう。
言論の自由を制限することも、憲法を変えることも出来るかもしれません。
なにしろ国民は「(政府が勝手に)決められる政治」を望んでいるからです。
私には狂気の沙汰です。

最近の政治が決められないのは、生活に立脚していない、無理なことを決めようとしているからではないかと、私は思います。
いろんな利害を紛れ込まそうとしていることもあるでしょう。
あるいは国民の考えがまとまっていないからかもしれません。
国民の意見がばらばらなのは、価値観の違いもありますが、情報が共有されていない事が大きいように思います。
これにはマスコミの報道の仕方に問題を感じます。
いずれにしろ、決して国会のねじれだけが問題ではないでしょう。
そもそも、国会のねじれで決まらないようなことは、急いで決めなくてもよいのではないかと思います。

民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」と言う本があります。
そこに収録されている『対馬にて』に、有名な寄り合いの話が出てきます。
時間をかけて、みんなが納得できる結論を出していくという、日本的な民主主義の文化として、よく取り上げられる話です。
そこではだれも、急いで決めようなどとはしません。
話し合いの過程をともかく大切にするのです。
相手を説得しようという話し合いではなく、みずからの世界を豊かにしていく話し合いです。
そういう文化を、私たちは忘れてしまいました。

昨日、「生活を忘れた日本人」というのを書きましたが、私たちが忘れてしまったのは生活ではなく、日本の文化かもしれません。
だからTPPもみんな受け容れられるのでしょう。
TPPを受け容れることは、日本人であリつづけられなくなることだろうと私には思われますが、それを嘆く人は、そう多くないのかもしれません。
しかし、私は、日本人であることをこれからも大事にしたいと思っています。

■善意の人を追いやる闇(2013年7月26日)
山口県周南市の集落で5遺体が見つかった連続殺人放火事件は、最初は猟奇事件のような印象がありましたが、状況が分かるにつれて、現代の社会を象徴するような悲しい事件に見えてきました。
63歳の犯人のイメージも大きく変わりました。
そういう視点で、集落の住民たちの発言を聞いていると、最初の印象とは全く違うような気がしてきます。
犯人を、そこまでの行為に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。
そこに深い闇を感じますが、その闇はいまや社会を覆いだしているような気がします。
その闇は、「善意の人を追いやる闇」です。

人はみな、善意なのだと、私は思います。
しかし、善意を貫いて生きていくのは難しいと思いがちです。
なぜなら、善意は多くの場合、裏切られるからです。
裏切られても、善意を貫いて生きることは難しい。
どこかで「折れて」しまいがちです。
いや、折れる前に、自らで自らの善意を押さえ込んでしまうことも少なくないでしょう。
それが生きるために必要だと思いこまされているからです。
でもそんなことはありません。
やってみなければわからない。

それに、善意がすべて良いわけでもありません。
「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている」という言葉もあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/02/post-e723.html
善意には実は「魔性」も同居しているのです。
魔性を押さえ込む「大きな善意」は、だれもが兼ね備えているわけではありません。
その魔性を呼び起こし、その魔性が善意を手玉にとってしまうのが「社会の闇」です。
善意が集まっても、必ずしも善意が広がるとは限りません。

周南市の事件は、そうしたことを考えさせられます。
被害にあった人の立場で考えることも大切ですが、むしろ今、私たちに欠けているのは、加害者に追いやられた人の立場で考えることではないかと思います。
加害者と被害者は、紙一重です。
加害者への善意も、忘れてはならないように思います。
そして、加害者の立場をちょっとだけでも理解しようとすれば、世界は違って見えてくることもあります。
これが、最近、私が心がけていることです。

弱い人いじめは、私の一番避けたいことですが、ネットの世界ではそれが広まっています。
しかし、弱いものいじめをする人こそ、実は追い詰められているのかもしれません。
社会の闇からネットを守りたいものです。

■面倒くさいことが多すぎます(2013年7月26日)
挽歌編に書いた記事ですが、生き方編にも残したくなりました。
ほとんど同じ内容です。

今日も暑いです。
妻がいなくなってから(出て行ったのではなく亡くなったのです)、やらなければいけない仕事がいくつか増えました。
その一つが、銀行通いです。
通帳の印鑑がわからなくなったり、通帳がいっぱいになったり、残高が不足したり、振込やらいろいろあります。
カードのパスワードを間違えて、再発行してもらいにも行きました。
しかし、銀行は面倒です

今日は、新しい銀行口座を開設に行きました。
私の口座ではなく、私が関わっている会社の口座をもう一つ開くことにしたのです。
前にも一度行ったのですが、書類が不足していました。
実に面倒です。
ただし、銀行の人たちはみんな働き者で、親切です。

面倒なのは銀行だけではありません。
生活のためにはさまざまな手続きが必要ですが、それらがすべて面倒です。
どうしてこんなに面倒な仕組みを作ってしまったのでしょうか。
しかし、そうした面倒な仕組みをみんな受け入れているのも不思議です。
私のように、老人性痴呆が進行しだしたものには、手続きのための書類を読んでもよくわかりません。

書類だけではありません。
昨日は、ネット接続の料金が安くなりますよと電話がありました。
説明を聞いてもわからないので、それでいったいいくら安くなるのですかと質問したら、毎月5500円くらいになりますと言われました。
質問の答えにはなっていません。
今はいくら払っているのでしょうか。
それもわからないので、判断ができません。

私は、以前はクレジットカードの仕組みが理解できませんでした。
それで長く使用しなかったのですが、一度、使ってみたらとても便利です。
一番気にいったのは、お金を持ち歩かないですべてお金なしでいいのです。
お金を落とす心配も、お金を忘れる心配もありません。
第一、お金などなくても不便をしないのですから、私の目指す生き方に重なります。
それで気にいって、一時は加入のお誘いがあるとみんな入ってしまいました。
その結果、今は自分が何を払っているかさえわかりません。
整理したいのですが、それもまた面倒くさい。

以前であれば、妻に、「やっておいてくれない」の一言で済んでいました。
そのころ、妻がこんなに苦労しているとは思いませんでした。
でもまあ、私の妻でさえやりこなせていたのですから、世の中の人はみんなうまくやっているのでしょう。
尊敬します。
それにしても、自分のだめさ加減がいやになります。
すべてカード決済にして、支払いは政府がしてくれるようにならないものでしょうか。

たぶん今もそうしている人はいるのでしょうね。
そういう人になりたかったです。
宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくる、おろおろ生きる人もいいですが、そういう人もいい。
銀行で待たされている間に、そう思いました。
銀行は涼しくていいです。
我が家よりずっと涼しい。なぜでしょうか。

■日本の協同組合の現状への嘆き(2013年7月30日)
社会保障問題に誠実に取り組んでいる青山学院大学の本間教授と電話で話しました。
先日お会いした時に、全共連と東京海上日動の業務連携の話に大きな危機感をお持ちだったので、それをテーマにした話し合いの開催を頼んだら、断られてしまったことが気になっていたのです。
その時に、本間さんの無力感が伝わってきたからです。
この問題は、日本の協同組合の危機だと本間さんは考えています。
だからこそ話し合う場をつくりたかったのですが、その時には本間さんは孤軍奮闘につかれきっていたのでしょう。
協同組合や共済の分野から、だれも異論を発しないというのが本間さんの怒りです。
怒りとい言うよりも、疲労感と無力感と言ったほうがいいかもしれません。
それが痛いほど伝わってくるので、ずっと気になっていました。
本間さんがあまりに嘆くので、日本の協同組合や共済事業体はもう滅んでしまったのではないですかとついつい言ってしまいました。
私には正直そう思えるからです。
大きな協同組合は、今やみんなお金の亡者に成り下がっているようにしか、私には思えません。
しかしこの発言には、さすがに本間さんは私を叱りつけました。
それはそうでしょう。叱られて当然です。
そう思うことこそが、最大の落し穴なのですから。
終わったといっても、まだまだ社会的な影響力はあるのです。

本間さんは怒っているだけではありません。
数年前に自らが中心になって「共済研究会」を立ち上げました。
それはかなりの役割を果たしたと思います。
このブログでも何回か書きましたが、私も一時期参加しました。
しかも、大きな期待を持って参加したのです。

しかし、2年ほど前に、本間さんからの強い慰留にも関わらず退会してしまいました。
本間さんには共感したものの、そこで議論していても何も変わらないと思ったからです。
組織は、状況に合わせて、自己変革していくべきですが、組織はできた途端に組織維持が目的になりますから、運動という意味では、制約にさえなりかねません。
電話では、そんな話さえしましたが、本間さんの行動方針と私のそれとはなかなかかみ合いません。
私は、共済研究会とは別の、本間さんの理念に基づく運動体を立ち上げて欲しいと思っています。
2年ほど前から本間さんにはお願いもしています。
しかしなかなか本間さんとは意見がかみ合いません。

そんなわけで、今度新たに「支え合い共創ネット(仮称)」を立ち上げることにしました。
本間さんにとっては、物足りない活動でしょう。
でも快く参加してくれました。
そのネットワークの集まりでも、本間さんの思いを込めた危機感を披露してもらう集まりを持つ予定です。
またここでもご案内しますが、支え合い共創ネットのメーリングリストもつくりますので、参加ご希望の方は登録アドレスを私に送ってください。
登録させてもらいます。

腐った協同組合はなくなってもいいですが、協同組合の原点に戻って、改めて生活の観点からの協同組合をルネサンスする動きには少しでも荷担したいです。

■気がついたら蓋の中(2013年7月31日)
相変わらず福島第一原発では、放射能汚染水が海へ漏出しています。
業を煮やした規制委員会は自らが作業部会をつくり、対策の検討に乗り出すことになったと報道されています。
新聞記事にはこうあります。

規制委は、東電が海への漏出を認める前から、福島第一原発の坑道にたまった汚染水が土壌にしみだして海に漏れ出ている可能性を指摘。東電に速やかに対策をとるよう指示していた。

規制委員会が動き出したのは歓迎すべきです。
でも遅すぎないでしょうか。
坑道の汚染水が海に漏れ出ている可能性は、別に規制委員会でなくともわかります。
それを、東電に速やかに対策をとれというだけでいいのか。
そこに大きな疑問を感じます。

これは原発事故対応だけの話ではありません。
全柔連の騒動も、同じ疑問を感じます。
昨日の結論は、誰が考えてもおかしいと思いますが、終わった後でみんな批判します。
きちんとした形で次に譲りたいと上村会長は辞職時期の引き延ばしの理由をいつも述べますが、要するに自分の都合のいいようにすることが「きちんとした形」であることは明白です。
しかし、多くの人はそれを批判はしても結局は受け入れます。

なぜでしょうか。
それは、その問題にはコミットしたくないからではないかと思います。
福島原発事故の真相があいまいにされているのも、いまの汚染実態があきらかにされないのも、それに取り組むと排除されるからではないかと思いたくなります。
テレビのキャスターたちがしっかりと突っ込んでいかないのも、同じかもしれません。
知ってしまうと動かなければいけないからです。
だから遠巻きにはいろいろというのですが、決して事実を知ろうとはしない。
知ってしまったことも、決して口外せずに、知らなかったことにする。
おそらくこうした状況が広がっているのではないかと思います。

亡くなった吉田所長のメッセージを青山繁晴さんがテレビで紹介した番組の書き起こしを読んで、改めてそう思いました。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1409.html
しかし、大切なことは「事実を知ること」です。
そして、「知った事実を伝えること」です。
臭いものに蓋をしていたら、いつか社会全体に蓋をしなければいけなくなってしまいます。
気がついたら蓋の中、などということにならなければいいのですが。

■「失言」には必ず「真実」が含まれています(2013年8月2日)
また麻生元首相の失言が問題になっています。
今回の失言は、現在の自民党トップ層の本音を鮮やかに露呈しています。
マスコミは「失言」と騒ぎますが、これは失言などではまったくなく、本音が素直に出ただけの話です。
にもかかわらず「失言」などと言う表現がとられるために、問題の本質が曖昧になってしまいます。
マスコミは、いつも事の本質には近寄りたがりません。
だから、それを読み解くのは、私たち一人ひとりの問題です。
麻生元首相は、間違って表現したのではなく、素直に正直に正しく表現したことを前提にして考えなければいけない問題です。

これは今回の発言に始まったことではありません。
これまでも繰り返し行われてきたことです。
「失言」した人の言葉が問題なのではなく、「人」が問題なのですが、多くの場合、言葉の問題として処理されてしまいます。
ですから何も変わらないわけです。
「言葉」の問題は「言葉」で解決されてしまいがちなのです。
これは「言葉の魔力」です。

以前、安冨歩さんの「正名は現代社会が最も必要としている思想である」という指摘を紹介したことがありますが、すべての出発点は「正名」にあると思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2012/06/post-f9d2.html
マスコミは、言葉を操って、結果的に、事実を改ざんし、読者を方向づけます。
「意図的」では必ずしもないでしょうが、「未必の意図」は感じられます。
言葉を使う以上、やむをえないことではありますが、だからこそマスコミは姿勢を明確にしなければいけないのと、自らの言葉で表現していかねばならないと思います。

しかし、麻生元首相の今回のナチ発言はいま日本で起こっていることを垣間見せてくれました。
失言などといって問題を矮小化せずに、大きな流れを見るための契機にできればと思います。
「失言」には、必ず「真実」が含まれています。

■核廃絶と原発の存在(2013年8月8日)
広島と長崎の市長の話には、いずれも核廃絶への切実な呼びかけがありました。
これまで何回、繰り返されてきた願いでしょう。
その話を、安倍首相はどういう気持ちで聞いていたのでしょうか。
心に響いていないことは間違いありません。
とても悲しい気持ちで、テレビの中継放送を見ていました。

長崎大学核兵器廃絶研究センター長の梅林さんが、インタビューに応じて、核兵器の被害を実際に受けた国として、核兵器不使用の条約に調印しないのは、恥ずかしいばかりか、罪深いことだと話されていたことにとても共感できます。
実に罪深い。

さらに、私には、こういう動きと、脱原発がなぜつながらないのかと不思議です。
私には、原発も間違いなく核兵器の一種です。
たしかに能動的な核兵器ではないかもしれませんが、その存在自体が、人類を含む生命への危険な暴力源だからです。
それらを別に考えている限り、核廃絶は進まないような気がします。
そういう想像力が、いま求められているように思います。
「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」の先に、「ノーモア・フクシマ」があることを、なぜ見ようとしないのか。

毎年、この平和式典には、違和感がどうしてもあります。

■ウェルフェアからデットフェアへ〈2013年8月11日〉
「マルチチュードの民主主義宣言」と副題のある、ネグリとハートの「叛逆」(NHKブックス)は、ネグリの本にはめずらしく、実に平易で、具体的です。
彼らのマルチチュード論には異論も多いですが、この本に限って言えば、あまり異論は出ないのではないかと思います。
私には、まるで私が長年考え行動してきたことを支援してくれるような気がして、とてもうれしく読みました。

そこに、こんな言葉が出てきます。

社会のセイフティネットは「福祉(ウェルフェア)」〔=安寧に暮らしていくための〕システムから「負債(デットフェア)」〔=借金を背負って暮らしていくための〕システムへと移行した。(25頁)

「デットフェア)」。
始めて出会った言葉ですが、とても実感できます。
借金できるかどうかは、人の社会的評価を決める重要な基準でしたが、いまや逆に借金を背負うことで、消費単位としての存在価値を認められ、社会で生きていく場所を見つける手段になっているのかもしれません。

ネグりは言います。
人びとは借金を作ることで日々の生活を生き延び、負債に対する責任の重圧を受けながら暮らしている。そして、借金は人びとを管理する。
負債の効果は、労働倫理のそれと同様に、休まず精を出して人びとを働かせることにある。
労働倫理が主体の内部から生まれるのに対し、負債は外的な制約として現れるが、すぐに主体の内部に入り込み、巣喰っていく。

とても納得できます。
つまり、借金があればこそ、社会の中で暮らしていけるといってもいいのです。
借金だけではありません。
ネグりは、さらに3つの、人々が生きていくことを支える「外的な制約」を示しています。
メディア、セキュリティ、そして代表者です。
それらに共通するのは「恐喝」です。
借金がそうであるように、危険をあおりながら、メディアや権力の庇護や代議制政治に依存しなければ生きていけないような状況が広がっていると指摘します。

問題は、その恐喝が見えるかどうかです。
そして、その脅しに立ち向かえるかどうかです。
いまは「岐路」なのです。
日本では、2011年は大震災と福島原発の年ですが、世界的な文脈では、2011年は別の意味を持っているようです。
新しい歴史の幕開け。
最近の日本の状況を見ていると、いささか難しいようにも思えますが、大きな時代の流れは間違いなく、反転に向かっているのでしょう。
それがこの本を読むと実感できます。
お薦めの1冊です。

■不安を煽り立てるマスメディアの役割(2013年8月8日)
行方不明だとか恨みによる殺人だとか、普通に生活している人が、思いもかけずに巻き込まれてしまった事件の報道が毎日、ていねいに報道されます。
私は、こうした報道姿勢に「悪意」を強く感じます。
そうした報道を毎日見せられていると、多くの人は不安になるでしょう。
不安を駆り立てることで、何が起こるでしょうか。
防犯意識が働き、社会の安全度が増す、などということは起こらないでしょう。
むしろ、この社会は不安で満ち満ちていると洗脳されかねないからです。
人のつながりが大事だといいながら、人を信ずるなと言っているようなものです。
それがm何を意味しているかは一目瞭然だと、私は思います。

人々の不安を煽ることで、得をする人はたくさんいます。
生活の安全を守る活動に取り組む業界はいうまでもありませんが、情報産業も利益活動につなげられるでしょう。
しかし、なによりも得をするのは政府かもしれません。
いわゆる「生政治」の立脚点は、そこにあります。
あるいは、金銭経済の反映の立脚点も、そこにあるかもしれません。
不安があればこそ、みんな組織に従属していきます。
その不安があるために、上司の不条理な指示にも反対できません。
危険だとは思いながらも、原発から離れられません。
そうした生き方は、不安が充満しているからこそ、ますます強まっていくわけです。

最近のマスメディアの報道姿勢には、強い悪意を感じます。
もっと報道してほしいことがたくさんあります。

■日本とエジプトとどちらが「平和」なのか(2013年8月15日〉
今日は終戦記念日です。
エジプトのデモにまた軍隊が排除行動を起こし、たくさんの人が亡くなりました。
実に痛ましいことです。
黙祷をしながら、そう思いました。

さらに思ったのは、日本とエジプトとどちらが「平和」なのかということです。
閣僚が2人、靖国参拝をしました。
私にはあまり興味のないことですが、この人たちの「平和観」ってどうなっているのかなと思いました。
戦争を起こした人が、特に厚く祀られている靖国神社に行くのではなく、エジプトの平和も祈ってほしいとも思いました。
一国の政府の閣僚であれば、エジプトの平和に対して、私よりもできることはいろいろとあるだろうなとうらやましく思います。

エジプトに比べれば、日本のほうが平和だとは、私には断言できません。
原発事故のことを思えば、エジプトに比べて日本が安全だとさえ言えないような気がします。
エジプトの人たちは、自らの未来が見えているのに対して、日本の私たちには未来が見えていないような気もします。
安全と平和とは程遠いところに向かって、私たちは進んでいるような気もします。

先週、ネグリとハートの最新作「叛逆」(NHKブックス)を読みました。
そこに出てくる文章を思い出します。

2011年初頭、徹底した不平等を特徴とする、社会的・経済的危機が深まるなか、「これ以上の災厄が身に降りかからないようにするためには、支配権力者たちが決めたことを信じ、その導きに従うべきだ」という常識が幅を利かせているようにみえた。むろん実際には、金融と統治の支配者らは圧政者にほかならなかった。彼らにこそ危機を生みだした主たる責任があったのだろうが、私たちには何の選択肢もなかったのである。
だが、2011年に生じた一連の社会的闘争は、この常識を粉砕し、新たな常識=〈共〉的感覚を構築し始めた。

「叛逆」はネグリの本にしては、読みやすく平易で具体的です。
多くの人にぜひ読んで欲しい本です。

■エジプトが気になります(2013年8月17日)
エジプトが気になります。
もし私がエジプトの国民だったらどうするだろうかと、いつも思います。
エジプトに限りませんが、これが私が報道に接する時の、基本的な姿勢です。
それに、自分と無縁な事件など、あるはずもありません。

こうした報道は、常に権力側の視点で報道されます。
たとえば、デモを排除する人たちは「治安部隊」と表現されます。
「正義」は軍部にあるという意識を、生み出すことになります。
デモ隊は、広場を「占拠」と表現されます。
それは事実ですが、「占拠」という言葉に、「秩序」を壊す行為であることを感ずる人がいるかもしれません。
占拠した人たちは、もちろん「秩序」を回復したいと思って集まっているのですが。
こうして、「言葉」が大きな影響を果たしています。
私たちが報道を通して得る情報は、すべて価値付けされています。
だからこそ、自らの価値軸をしっかりともって、報道を通して与えられる情報を相対化する努力を怠ってはいけません。
価値軸を持つということは、広くさまざまな動きを包括的に捉えるとともに、できるだけ多様な価値観や解釈に触れるということですが、それには限界があります。
ですから、自らの受け止め方が、いかに断片的で、偏ったものであるかを自覚しておくようにしていますが、その一方で、自らの直感を大事にもしています。

多くの死傷者を出しながら、しかも、それをすぐ隣に見聞しながらも、そこを退こうとしない人がたくさんいるのはなぜでしょうか。
彼らは、なんのためにそこまでがんばれるのか。
彼らの国家観と軍部の国家観とは全く違うのでしょう。
あるいは、その違いは「いのちへの愛」の有無かもしれません。
阿部さんのように愛国心を強調する人たちの愛は、自己愛でしかありませんが、しっかりと汗して生きている人たちを支えているのは、大きないのちへの愛です。
エジプトの動きを見ていると、それを強く感じます。
「大きないのち」という視点で捉えると、治安部隊による暴力行為で、自らの生命を失うことの意味が、単なる個人の死ではないことは明らかです。
行動を共にすることで、「大きないのち」を実感できるようになれば、自らの死など厭わなくなるのでしょうか。

もし私が、デモに参加した一人だったら、そうなるのだろうなと実感できます。
しかし、問題は、デモに参加するかどうかです。
そこに出かけていくためには、何が契機になるのか。

同じようなことが日本でも見えない形で起こっているのかもしれないのに、それが見えてこない、あるいは見ようとしなくとも、なんとなくやっていける。
それが問題かもしれません。
日本で起こっていることを、やはりもっとしっかりと見ようとしなければいけない。
エジプトの報道を見ながら、そんなことを思いました。

回路在住の中野さんが、メールで「当方、何とも言えない脱力感に苛まれております・・・」と書いてきました。
その言葉が、心に響きます。

■マルチチュードが主役の運動が広がりだした?(2013年8月17日)
エジプトの話をもう一度書きます。
気になって仕方がありません。

昨日のNHKテレビ「時論公論:強制排除 どうなるエジプト」で、解説委員の出川さんが次のように話しています。

「ムスリム同胞団」は、軍と暫定政府による一斉摘発で、巨大なピラミッド型組織の指導部が軒並み逮捕され、意思統一を図れなくなる可能性があります。
「ムスリム同胞団」は、イスラムの教えに基づく社会や国家の建設を目指し、エジプト社会に深く根を下ろしている組織です。
これまで、暴力を否定してきましたが、指揮命令が混乱に陥った場合、武装闘争を主張する強硬派グループが台頭し、テロや暗殺など過激な行動に出る可能性を否定できません。
一方で、組織内の穏健派グループが主導権を維持し、軍や暫定政府との正面衝突を避け、勢力の温存を図る可能性もあります。
 
非暴力のグループを暴力に走らせるのは、多くの場合、国家権力による暴力です。
不幸にして、そうなってしまうと、解決のための時間が長期になります。
歴史は、「急がば回れ」の正しさを示していますが、多くの場合、「回る余裕」を与えてはくれないのが現実です。
したがって、今回のエジプトも、そうなる可能性は大きいかもしれません。

しかし、そうならない可能性もあります。
出川さんがいう「ピラミッド型組織の指導部が軒並み逮捕され、意思統一を図れなくなる可能性があります」は同感ですが、その一方で、そうならない可能性もまた大きいのです。

国家権力の視点で発想するとピラミッド型組織による指導管理が当然だと思いがちですが、ネグリが主張している「マルチチュード」の運動形態は違います。
ネグリは、上から押しつけられた強制的な原理ではなく、多様な人たち〈マルチチュード〉自らが創発させていく「構成的権力」によって、下から水平的に築かれる民主的な社会を期待しています。
そして、それが、2011年に各地で始まった新しい闘争によって、リアリティを持ち始めたというのです。
つまり、2011年に始まった世界各地の広場占拠運動や抗議集会は、水平的でリーダーがいないところに、強かでしなやかな強みがあるというわけです。
私にはとても説得力があります。
これこそが、閉塞状況にあるさまざまな組織を蘇らせる、これからの組織原理だと思っています。
だから、エジプトの動きに関心があるのです。

ネグリはまた、「構成する権力」が「構成された権力」として固定化され、規範化されてしまうことを、強く危惧します。
エジプトにおけるモルシ体制は、その典型例かもしれません。
私は、エジプトの状況をほとんど知らずに、最近のマスコミ報道程度の知識しかありませんが、ネグリのマルチチュード論があまりに見事に当てはまるのに驚きを感じています。
そして、これは、私が大学生の頃に広がっていたアメリカの緑色革命状況にとても似ているのです。
あの時には、まだ環境が整っていませんでしたが、いまは違います。

エジプトの軍部政治は今度こそ終わるでしょう。
その影響は、想像を絶するほど大きいように感じます。
オバマの化けの皮もはがれるのではないかと期待したいところです。
私は、オバマ大統領がどうしても信頼できません。
世界が大きく変わろうとしている。
そんな気がしてなりません。

■特別な時間が積み重なった場所を捨てる覚悟(2013年8月20日)
昨日、福島で仕事をしている友人に会いました。
その人に会うと必ず出るのが福島が今後どうなるかの話題です。
その人は放射線汚染の危険性をずっと唱えている人で、湯島でもその人の話を聞く集まりを2回やっています。

私自身も、いわゆるホットスポットと言われる我孫子に住んでいますので、よくわかるのですが、放射線で汚染されていようと自分が住んでいる地域には深い愛着があります。
だから当事者としては、そこに住めなくなるということは、聞きたくない話です。
しかし、当事者としてではなく、子孫という観点から考えると、それではいけないでしょう。

情を捨てて考えると、福島はもはや人が住める地域ではなくなったように思います。
除染活動が行われていますが、常識的に考えて、ひとたび広範囲に汚染された地域を除染することなど不可能です。
にもかかわらず、住民を安心されるために、あまり効果があるとは思えない除染活動デモンストレーションが行われているような気がします。
その一方で、福島原発まわりの危険な状況はあまり変わっていません。
汚染水の海への流出などが、いまなお問題になること自体、そのことの現れです。
私には、専門家たちは、問題を解決できないことを知っているように思えます。
にもかかわらず決断を先延ばしし、被害をじわじわと広げている。
これは犯罪以外のなにものでもありません。
東電という会社の問題ではなく、政治が決断を下すべき問題ですが、責任は一会社にすぎない東電に背負わされています。
東電もおそらく解決できないことを知っているので、本気になれないのかもしれません。
記者会見を見ていても、本気さはまったく感じられません。
みんな、自らが属する組織や自らの保全しか考えていないのです。
そして事実が見えないように、あるいは見ないように、情報が隠蔽されています。
隠すだけの隠蔽ではなく、見たくない結果からの隠蔽も広がっているように思います。

私は、福島を中心にした汚染地域は国家が買い取り、人の住まないままに放置する地域にするしかないと思っています。
そこに汚染物質は集中し、禁断の地にするしかないでしょう。
それ以外の未来はないように思います。
福島の住民たちにとっては、厳しいことですが、長い目で見れば、それが一番、住民たちのためになるように思います。

昨日話した人も賛成でしたが、その人は、地域を守るよりも住民を守る発想が行政の首長にはないのですよ、といいました。
まったく同感です。
大切なのは、組織や土地ではなく、いのちです。
手段と目的を間違ってはいけません。
飯舘村の菅野村長の話も出ました。

にもかかわらず、土地の持つ意味は大きいです。
観光客にとっては、単なる風景でしょうが、そこに住む人にとっては、暮らしやいのちに深くつながっています。
しかも、先祖の人々の営みも含めて。そこには表情のある「特別の意味」を持った時間が積み重なっています。
つまり、私たちが住んでいる地域は、単なる空間ではなく、長い歴史的な時間が折り重なるように織り込まれた時間の集積でもあるのです。
だから、そう簡単には離れられないのです。
そう考えると、福島を捨てることの辛さがとてつもなく大きいことがわかります。
にもかかわらず、そこを捨てなければ、子どもたちの未来が守れないかもしれません。
これまで培ってきた時間をとるか、これから広がっていく未来の時間をとるか。
こう考えれば、判断は簡単です。
問題を起こしてしまった世代が、その苦難を引き受けなければいけません。

一刻も早く、福島は「廃県」し、人の入り込めない自然林にし、そのできるだけ中央に、私たちが生み出した放射線汚染物質を隔離するしか方法はないように思います。
当事者でないものの、無責任な意見かもしれませんが、私が住んでいる地域も、いつ、「廃県」の対象になるかもしれません。
原発を維持するとは、そういうことだと、私は思っています。
その覚悟もなく、原発再稼動に加担している人が、私には理解できません。

■マット・デイモンのオバマ大統領批判(2013年8月21日)
今朝の朝日新聞に、マット・デイモンさんがオバマ大統領批判の発言をしたという記事がありました。
彼は、ハリウッドにおけるオバマ支持の中心的存在でしたが、この報道には拍手を送ります。
私自身は、大統領になってすぐに、オバマ大統領には違和感を強く感じましたが、私の大好きなジェーソン・ボーンもようやく自らを取り戻したかとうれしい限りです。
今回の発言は、かなり具体的なことに踏み込んでいるようです。

アメリカでは俳優も政治や宗教への態度がはっきりと語るような感じがします。
日本とは対照的です。
もちろん日本でも俳優やタレントが政治的主張をすることはありますが、ほとんどの人は中立を守っています。
言い方を換えれば逃げています。
主張すると、山本太郎さんのようになるのを恐れているのかもしれませんが、私には政治的立場を表明しない人は、全く信頼できません。
時に利休のような人も出ますが、元々芸人は、権力に寄生する人です。
私には、そうした人はいかに見事な俳優でも、全く評価できません。
権力に追従する人ほど、卑しい人はいないというのが、私の考えなのです。

10年ほど前、NPO支援の資金助成プログラムの事務局をやらせてもらいました。
資金提供会社の全面的な理解があり、プログラムの設計は自由にさせてもらいましたが、ただ1点、コメントをもらいました。
「宗教や政治に関わるもの」は支援の対象にしないほうがいいということでした。
それは当時の常識でしたが、私には違和感がありました。
宗教や政治に関わらない市民活動など、私には考えもつかないからです。
まあ、宗教や政治に関する私の理解の仕方が、一般的ではないこともありますが、NPOとはまさに「政治活動」であり「生き方の問題」に関わらなければ、意味がないというのが私の考えでした。
しかし、宗教や政治を外すのは、資金提供者からだけの意見ではなく、一緒にやろうとしていた仲間たちからも当然のように出てきました。
他の論点も多かったので、その時には妥協して、そうしてしまいましたが、ずっと残っている悔いのひとつです。

社会に大きな影響を与える立場にある人たちは、政治への態度を明確にすべきだと私は考えています。
道化役のタレントであっても、道化の精神は持ってほしいです。
もちろん、爆笑問題などのスタイルは、私には論外です。

アメリカでは、ジェーン・フォンダをはじめ、政治的活動をしているスターは少なくありません。
もちろん、立場は正反対の人もいますが、いずれにしろ立場を明確にし、行動もしっかりしています。

日本の俳優たちも、もう少し政治活動をしてほしいと思います。
その影響力は大きいからです。
できることはたくさんあります。
東北被災地にボランティアにいくのも悪いとは言いませんが、もっとやるべきことがあるように思います。

■サブシステンス経済とマネタリー経済のどちらを基本にするか(2013年8月25日)
中国の習政権の困難は、格差是正と成長持続のどちらを選ぶのかということにありそうです。
格差是正は生活文化次元の問題であり、成長持続は貨幣経済次元の問題ですから、この関係は、生活文化を目的とするか、貨幣経済を大切にするかの問題だろうと思います。
言い換えれば、サブシステンス経済とマネタリー経済の、どちらを基本に考えるかです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/07/post-f533.html
そこをしっかりしない限り、問題は正しくは設定できないでしょう。

エジプトがムバラク時代に戻ろうとしているのも、こうしたことと無縁ではありません。
もちろん今の日本が、原発経済を捨てられないのも、同じです。
要するに「経済とは何のためにあるのか」です。
その問題をきちんと考えなければ、時代の流れは変わりません。

生活の次元で、豊かさを考えてみる必要があります。
自分の生活を豊かにしてくれるのは、一体なんでしょうか。
中国の薄熙来裁判の報道を読みながら、そんなことを考えさせられています。

■太陽光発電装置を自宅で手づくりしようワークショップの報告と参加呼びかけ(2013年8月26日)
昨日、湯島で「太陽光発電装置を自宅で手づくりしようワークショップ:パート1」を開催しました。
技術の問題を話題にした技術カフェというネットワークがありますが、その仲間が、自宅用に太陽光発電装置を手づくりしてしまいました。
その作り手に実演を含めて、ミニワークショップを開催することになったのです。
ところが、肝心の技術カフェのメンバーが日程の関係もあって、ありがとうございました。つまりが悪かったので、フェイスブックも含めて、公開型で案内を出しました。
おどろいたことに女性から応募がドッとありました。
一時は14人になってしまい、心配したのですが、そこはうまくしたもので、当日は結果的に10人の集まりになりました。
しかし、女性に関心が高いことは意外な発見でした。

最初に手作りをした佐藤岳史さんとその協力者の櫻井さんが、システムについての説明や材料費、また発電状況などをていねいに説明してくれました。
直流と交流の違いは何だとか、インバーターってなに? などという極めて素朴な質問もありましたが、そんな質問にもていねいに説明してくれましたので、とてもよくわかりました。

後半は実際に組み立てて発電です。
あいにく曇天だったので心配していたのですが、見事に発電成功でした。
小型扇風機が回った時には、思わず歓声が上がりましたが、もっと感動的だったのは、アナログのレコードが回った時でした。
発電を何で実感してもらおうかを岳史さんと櫻井さんはいろいろと考えてくれたのです。
2人ともライブなどもやっているミュージシャンなので、やはり音楽になりました。
それも、ちょっとこだわっての懐かしいアナログレコードをもってきてくれました。
その中に、ビートルズのホワイトアルバムを見つけた一人が、そのレコードを選びました。
あのアナログの、とても心安らぐ懐かしい音質です。
しかも太陽光でなっているのです。感動するしかないでしょう。

参加者も多様な面々でした。
北海道からたまたま戻っていた荒井さんも突然来ました。
北海道ではメガソーラービジネスなどの動きが話題になっていますが、たぶんそんな思いもあって、久しぶりの帰郷の合間に参加してくれたのです。
なぜか介護関係の活動をしている島村さんまで来ました。
参加の理由は、案内が届いた日がたまたま太陽がぎらぎらの時だったからだそうです。
実にわかりやすい理由です。
ねりま自然発電株式会社を立ち上げようと構想している平田さんも参加して、構想を紹介してくれました。
他にも、それぞれ思いを持って、活動している人たちです。
折角集まったのだから、ゆるやかなネットワークをつくることになりました。
そしてどこか現場を探して、みんなで太陽光発電システムをつくって、何かをやろうということになったのです。
自分で使うエネルギーはできるだけ自給しようと言うわけです。
10月にある研究会で、ソーシャル・ガバナンスの話をすることになっているのですが、ソーシャル・ガバナンスや市民社会の実現には、エネルギー自給は不可欠の要素です。
東電のお世話になってばかりいるかぎり、いかに原発反対を唱えても、なかなかうまくいきません。

まずは例によって、メーリングリストを立ち上げます。
興味のある方はご連絡ください。
また今回好評だったので、きっとパート2があるでしょう。
今回の話題提供者の一人、櫻井さんは「凄いことになる」と予言しています。
もうひとりの佐藤岳史さんは、フェイスブックにこう書いてきました。
とても楽しいサロンでした。

企画者と参加者のコメントをぜひ読んでいただきたいので、項を改めてその紹介をさせてもらいます。

■太陽光発電装置を自宅で手づくりしようワークショップのからのメッセージ(2013年8月26日)
前項の続きです。
まずは今回のサロンの企画者の佐藤岳史さんのメッセージ。

例えば家庭菜園を楽しんでいる人はたくさんいますが、採算性を考えてやってる人は少ないんじゃないでしょうか。土や肥料や苗を買うよりスーパーで野菜を買ったほうが安いですから。でも自分で手間をかけて野菜を育てるのは楽しいし、収穫した物を味わうとちょっとした満足が得られます。電力もそんな感覚で試行錯誤しながら自作するのは楽しいし、実際けっこう気軽に出来るものだということがわかっていただけたんじゃないかと思います。食料にしてもエネルギーにしても自分で生産してみると、今の世の中に出回っているものの見方も変わってくると思います。それに生きることにちょっとした自信がついて、大きな流れみたいなものに乗り遅れないようにしなきゃいけないような強迫観念から自由になって、もう少し冷静に世の中をみられるようになるんじゃないかと自分自身期待しています。ちょっと話が大きくなりましたが、つまりは生きるために必要なものを自給することをもっと楽しもう!ということです。今回私は太陽光パネルで電力を作りましたが方法は他にもたくさんあります。みんなでアイディアを出し合い、それを実際に作成して成果をわかちあいましょう!

つづいて、参加者のお一人である、全国マイケアプランネットワーク(マイケア)の島村さんの感想。

私も本当にそう思います。そこがマイケアの原点ですから。これまで、生産できる量も考えずに、いろんなものが開発されてきたし、電気の需要が増えれば新しい発電方法を開発してきたんだと思います。私たちもそれに乗っかってきてしまいました。で、電気がなければ何もできない人間になり果ててしまった。でも自分で制御できないところでつくられている電気に暮らしを丸投げするのはどうも違和感が。かといって昔のような箒で掃除、たらいで洗濯の生活は私には無理。それで電気を自分でつくる仕組みを知りたいと思いました。恨めしいギラギラ太陽を、どうやったら電気に変換できるのか知りたかったし、また、このギラギラから電気が作れれば、朝起きた時に「あ―また暑いのか〜」が「今日も電気が豊作だ!」に変わるでしょうし。自分で使う電気ぐらい自分でつくれたらいいなー、と、オバサンたちは結構考えていると思いますよ。とても楽しかったです!交流、直流もよくわからないけど、私にもできるかもしれない、と思いました。

感激しました。
まさにその通り。
付け足す言葉がありません。

■幸せを届ける小さなタクシー会社(2013年9月6日)
遅れていた挽歌を書き込むために時評編はしばらく書けませんでした。
ようやく追いつきましたので、時評編を再開します。

昨夜、テレビで「幸せを届ける小さなタクシー会社」として、長野の中央タクシーの乗務員の仕事振りが紹介されていました。
同社の乗務員は、お客様が困っていることを知ると、仕事を中断してまでも、その解決に取り組むのです。
たとえば財布がないことに気づいたお客様を目的地で降ろした後、財布を捜して届けたり、渋滞で飛行機に間に合いそうもない老夫婦を、タクシーを有料駐車場に止めて電車で空港まで送ったり、という活動が3つ、紹介されていました。
詳しくは次のサイトをご覧ください。
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/130905_2.html

とても良い話だと、番組に出ていたタレントのみなさんは話していました。
とても良い話には間違いありません。
困っていた人がいたら手を貸してやるというのは、一昔前までの私たちの生き方でした。
しかし、昨今の企業社会では、そういう文化は薄れてきました。
そしてほとんどの企業は、そういう活動を「合理化」してきています。
そうした流れに抗う中小企業は決して少なくありません。
長野の中央タクシーもそのひとつです。

いま、「仕事を中断して」と書きましたが、同社の宇都宮会長は、そうしたお客様の問題を解決する活動も「仕事」だと位置づけています。
コストや生産性を度外視して、お客様の問題を解決することこそ、会社の仕事であり、それによって、「小さな損」はするかもしれないが、お客様からの信頼感や好感度を得て、会社を支えてくれる人が増えていく。それこそが会社を存続させ発展させていくことにつながると確信しているのです。
一時期、経営の世界でもよく語られた「啓発された自己利益」(enlightened self-interest)を思い出しますが、残念ながらその議論は一時のブームで終わってしまいました。
しかし、それこそが経営の王道であり、それをしっかりと守っている中小企業は少なくないのです。
同社は、まさに地域に支えられた会社です。
長野オリンピックで、長野県がお金まみれになった年(1998年)を除けば、同者は長野で売上bPのタクシー会社です。
当時も書いたような気がしますが、1998年の長野は、知事を初め腐っていたとしか思えません。
オリンピックは、金銭経済では儲けを生むとしても、生活社会を壊すのです。
まあその話は改めてとして、ともかく中央タクシーも、それを支える長野県民も私には輝くような存在です。

昨年の秋、中央タクシーの宇都宮会長にパネルディスカッションのパネリストをお願いしました。
食事をご一緒させてもらいましたが、ただのおじさんの風格をしっかりと持っていました。
肩肘張らずに、しっかりと生活している。
宇都宮さんの「仕事観」「経営観」に感動しました。

日本の企業も、まだ捨てたものではありません。
宇都宮さんは、最近のオリンピック招致の騒ぎをどう思っているでしょうか。

■会社名や商品名が書かれたユニフォームへの違和感(2013年9月6日)
オリンピック話題に関連して、長年持っている違和感を書きます。
スポーツ選手がスポンサーの企業名の入ったユニフォームを着ている姿が、私にはどうしても馴染めません。
宣伝道具のような姿で、恥ずかしくないのかと思うのです。
自分が所属する会社の名前であれば、なんとか理解できますが、ただ資金援助だけしてくれているスポンサー企業の名前が書かれたユニフォームを着ていることに違和感がないとしたら、私とは全く別の世界の人間としか思えません。
私が一番恥ずかしいと思う生き方をしている人たちです。

この「不快感」を話したら、オリンピックに出場するためにはお金がかかるから仕方がないと言われたこともありますが、そういう状況が、そもそもおかしいと私は思います。
まあ書きだすとだんだん過激になるので、この程度にとどめますが、彼ら選手は宣伝道具にされていることに不快感はないのでしょうか。
それがどういう意味を持っているのかを、少しは考えてほしいです。
力のある選手なら、毅然と拒否できるはずです。
それがなぜできないのか。
あるいは、そういう意識が全くないのか。
オリンピックで金メダルをもらうようなヒーローであろうと、私には哀れな存在にしか見えません。

スポーツ選手に自社の名前を書いたユニフォームを着せている会社の経営者たちにも、恥ずかしさはないのでしょうか。
私には、心身売買しているのとさほど変わらないように思うのですが、最近話題のブラック企業とどこが違うのかもわかりません。

私自身がスポーツ好きではないので、これはかなり歪んだ考えかもしれませんが、ずっと抱いている違和感なのです。

それにしても、この数日のオリンピック招致騒動とその報道振りには、辟易しています。
東京には招致できないと思っていますが、もし東京開催などと言うことになったら、私のオリンピック嫌いはさらに高まりそうです。

■オリンピックとフクシマ問題(2013年9月7日)
一昨年のフクシマ原発事故以来、私の生活はかなり変わりました。
オリンピック招致会見などで、竹田さんや猪瀬さんが、「水や食べ物は安全」「住民は普通に生活している」「東京は全く問題になっていない」などと話していますが、驚きの発言です。
私が住んでいるのは千葉県ですが、わが家の家庭農園はまだ除染されていないために、食用野菜の栽培には今もほぼ使えません。
私の周辺でも、小さな子どもをお持ちの方は、転居されました。
これまでと違って、庭の草木も普通の生活ゴミとは分別して処分しなければいけません。
池の魚が全滅したのが、放射線汚染のせいかどうかはわかりませんが、いろんなことが起こっています。
猪瀬さんや竹田さんは、事故があっても、前と同じように安心して暮らしているかもしれませんが、少なくとも私の生活は変わりました。
オリンピックのことだけしか見ていないので、現実が見えていないのではないかとさえ思いたくもなります。

韓国が日本の東北からの水産物輸入をやめることになりました。
オリンピック招致への嫌がらせなどと言う人もいますが、そもそもこの現状でオリンピック招致を考えていることが正気の沙汰ではないのです。
責められるべきは韓国政府ではなく、ここまで放置している日本政府と日本国民です。
現実を見ようとせずに、必要な対策さえ怠り、外部から批判されて初めて、汚染水対策に動き出す。
オリンピック招致に向けた費用をもっと早くフクシマに向けていたら、汚染水漏れなど起きなかったでしょう。
チェルノブイリの時に、あれほど騒いだのに、いざ自らの国が事故を起こすと隠そうとする、これも驚きです。
原発輸出するために原発事故の現実を隠すというのでは、悪徳商法と言われても仕方がないでしょう。
昨夜の報道ステーションで、猪瀬さんは、事実を示すデータは開示されていると話していましたが、そのデータが信頼されていないのです。
それにしてもお粗末な説明で、巧に相手に迎合する古館さんも呆れているのが感じられました。

フクシマ原発事故の現実は、もっと事実が共有されるべきです。
私も最近、現実を「見たくない」思いが強くなり、報道にだまされたくなってきていますが、それでは事故を起こした私たちはいいとしても、世界や次世代への責任は果たせません。

オリンピック招致での海外記者の質問は、そのことを改めて思い出させてくれました。
しかし、日本のジャーナリストが、誰一人こうした質問をしなかったのは情けない話です。
いまさらテレビで何を言っても、新用はできません。

オリンピック騒ぎも、もう少しで幕引きになるでしょうが、2回にわたり、無駄な税金が使われたことに怒りを感じます。
その騒ぎに借り出されたアスリートたちには、全く同情はしませんが、まともな選手になってほしいです。

■水曜どうでしょう祭が朝日新聞夕刊のトップに(2013年9月7日)
オリンピック招致報道の過熱ぶりに嫌気がさしていましたが、今日の朝日新聞の夕刊のトップ記事には驚きました。
なんと「水曜どうでしょう祭」の記事が大きく取り上げられているのです。

「水曜どうでしょう」は、17年前に始まった北海道テレビ放送の深夜番組で、定期放送はすでに11年前に終わっています。
ところが人気が続き、時々、新企画でまた、同じようなものが放映されています。
それがまたすごい人気らしく、いろんな局でいまなお放映されています。
私がいる千葉県では、現在は2局の再放送が見られます。

内容はといえば、これがまた全く無意味なのです。
画面には、いまや有名になった大泉洋さんと彼の所属事務所の社長の鈴井さんが出ていますが、筋もなければ工夫もない、ただの行き当たりばったりの画面です。
シリーズで多いのは、自動車での旅番組ですが、せっかくヨーロッパまで行っても、映像のほとんどは社内の無意味な会話風景です。
まあ内容は説明する価値もないのですが、しかしなぜか私は大ファンなのです。
私の娘が、私以上の大ファンで、もうそれぞれ何回も見ています。
その影響を受けて、私も録画までしてしまい、いまなお毎週観ています。

その番組の藤村ディレクターが大魔神といって、大の甘党で、甘いものを大量に食べ切るゲームなどと言う、これまた馬鹿げたシリーズがあるのですが、反パラダイムではない甘党なのです。
彼はほとんど映像は出ませんが、会話はしょっちゅう出ています。
彼と大泉さんの会話が、この番組の魅力なのです。

さて、その番組人気があまりにもすごいので、今度、北海道で「水曜どうでしょう祭」が開催されることになったのです。
なんとその祭に全国から5万人を超える人が集まるのだそうです。
いったいどうなっているのでしょうか。

それにしても、「水曜どうでしょう」は最高です。
特に、ヨーロッパ21か国完全制覇編に始まる3シリーズは最高です。
よほどお暇の方は、いまチバテレビで放映しているので、ぜひご覧ください。
TOKYO MX でも別のシリーズを放映しています。
これは原付で日本縦断というものです。
こちらは、ある程度の「水曜どうでしょう通」でないと、面白さが分からないでしょうから、ここから入るのは危険です。

半沢さんもいいですが、「水曜どうでしょう」は実に心が豊かになります。
朝日新聞を読んでいて、初めて「でかした!」と思いました。

■社会からの落ちこぼれ(2013年9月8日)
私にとっては、まさかのオリンピック東京招致が決まりました。
今日は1日、不愉快でした。
私にはオリンピック招致そのものが冗談としか思えていませんでしたが、テレビでは大喜びしている人たちがほとんどなのえ見て、目を疑います。
被災地の人まで喜んでいるのですから、唖然とします。
さすがに、福島の人で喜んでいる人はテレビでは見ませんでしたが。

やくみつるさんの、かなり控え目でしたが反対姿勢を示すコメントが、せめてもの救いでした。
それ以外のタレントや評論家で、批判している人はいないのでしょうか。
みんなよろこんでいるのでしょうか。
それとも、すでに報道管制がしかれているのでしょうか。
あるいは、フーコーがいうパノプティコン監獄にみんな収容されてしまったのでしょうか。

わが家には、読売新聞が号外を届けに来ました。
これを材料に読売新聞を取ってくれと言うわけです。
もちろん号外も不要だとお断りしました。
すでに金儲けのためにいろんな人が動き出しています。
浅ましい限りです。

オリンピックは、その昔、戦争を行っていても、その期間は休戦し、スポーツと交流を楽しみ、戦いを見なおす契機にしたと学びました。
その精神からすれば、争いの頻発する地域に位置するイスタンブールこそ、開催地としての資格がありました。
猪瀬さんは、45億ドルの基金があるから財政的に大丈夫だと胸を張っていますが、私には呆れた発想です。
それだけの資金があれば、福島対策に供与してこそ、都民の安全は守られます。

テレビを見ていると、私は社会から大きく落ちこぼれているようです。
ますます友だちも減りそうです。

■オリンピック・消費税・福島事故の三題噺(2013年9月10日)
今日の朝日新聞の1面は、オリンピック招致の話と消費税増税の話と福島事故全員不起訴の3つの大きな見出しになっています。
それぞれ別の話のようで、深くつながっていることを示唆しているような気がしました。
私たちは、そうした想像力をもっと強く持たなければいけないと思っています。

とても違和感があるのは、オリンピック招致が決まった途端に、異議申し立ての発言をしだす人が少なくないことです。
反対だったらもっと早く言ってほしかったです。
いまさら言っても遅いわけで、それを承知で言い出しているのではないかとさえ勘繰りたくなります。
福島の人のコメントも、少しずつテレビにも出てきてホッとしています。
テレビは、もっと早く報道すべきでしょう。
それにしても、もう福島はコントロールされているというような発言をする首相も、それを指示する政府も、驚きの対象でしかありません。

今回のオリンピック招致劇に登場した人たちの顔は、私にはたぶん死ぬまで忘れられないでしょう。
そのエネルギーを福島原発事故の対策に向けてほしかったです。

■夏ばっぱの生き方は大事なことを教えてくれました(2013年9月10日)
NHKの朝ドラの「あまちゃん」は、第3部に入りました。
東日本大震災後の北三陸に舞台がまた戻りました。
今朝、いつものように見ていたのですが、夏ばっぱの言葉に心から共感しました。
被災者ではない、第三者の視点からの勝手な思い込みかもしれませんが、私がずっと思っていたことです。
いささか不正確かもしれませんが、再現します。

 海が荒れて大騒ぎしたのは今回が初めてではない。
チリ地震のときも、大変な騒ぎだった。
まさか生きているうちに、もう一回、怖い目にあうとは思わなかった。
だからといって、海は怖いと決めつけて、よそで暮らす気にはならない。
だから、みんなに、ここにいたら危ないよ、海から離れて暮らせよって言えるか?
おら、言えない。

文章にしてしまうと、なにか感じが違うような気もしますが、とても心に響きました。
私が、東北被災地の復興に抱いている違和感は、まさにその気分なのです。

いや、これは東北復興だけの話ではありません。
私の生き方の話でもあるのです。
とても大切なことを、夏ばっぱは示唆しているように思います。
私自身の生き方も、問われています。
生きることは逃げることではないのです。

■水曜どうでしょう効果(2013年9月11日)
最近、このブログへのアクセスが増えています。
理由は「水曜どうでしょう」の検索ワードでのアクセスのためのようです。
いま北海道で、「水曜どうでしょう祭」が開催されているのですが、その記事が朝日新聞に掲載されて以来、ずっと普段の2〜3倍のアクセスが続いているのです。
オリンピックやフクシマなどの記事へのアクセスが増えているのかと最初は思ったのですが、理由は「水曜どうでしょう」だったわけです。
嬉しいような嬉しくないような、そんな気分です。

おそらく「半沢直樹」の記事を書けば、アクセスはまた増えるかもしれません。
自分のブログへのアクセスを増やす方法はいろいろとあるのでしょう。
書きたいことを書くのが目的であって、読まれることが目的ではないですから、そんなことをやったら本末転倒だと、私などは思ってしまいます。
読まれなければ書いても意味がないではないかと言われるとそれまでですが、読まれればいいというわけでもありません。

私はツイッターはやっていませんが、フェイスブックやブログやホームページ、あるいはメーリングリストやSNSはいくつかやっています。
そういう意味では、ソーシャルメディアなるものの恩恵も多少は受けています。
フェイスブックにも一時期、面白みを感じていましたが、最近は少し退屈しています。
私は、メッセージ型や案内型の記事を書くことが多いのですが、どんな記事にも「いいね」を押されると、なにやら違和感を持ってしまいます。
反対!とかいう反応もぜひつくっておいてほしいと思います。
いささか小難しく考えすぎているかもしれませんが、「いいね」の仕組みは、同調化社会を助長するのではないかと心配です。
いや、それがフェイスブックの目的かもしれません。
いずれにしろ、フーコーが指摘していた、本音を隠した相互監視の監獄社会へと向かっているようです。

それでもブログの場合は、心穏やかではないほどの辛らつな批判のメールが届きます。
匿名のメールは無視しますが、それでもやはり心が歪むようなものもあります。
読まなければいいのですが、やはり気になって読んでしまうのです。
大澤真幸さんが、「見られている不安」と「見られていないことの不安」とよく言っていますが、まさに私もそういう感覚になっているのだろうと思います。

ところで、「水曜どうでしょう」の番組ですが、登場する大泉さんや鈴井さんは、視聴者を意識していないというスタイルで、たぶん無意識に意識しています。
ややこしい表現ですが、ともかく2人とも、地の自分を楽しんでいるのです。
それが実に面白いのです。
へんに工夫されたところは、私には全く面白くありません。
過剰すぎるからです。

実は人間はみんな、本来、お2人のように面白い存在なのでしょう。
にもかかわらず、それぞれの役割を果たさなければいけないとばかり、無理をしてしまうので、自らもまわりも面白くなくなるのかもしれません。
この番組を見ていると、要するに素直に生きていれば楽しいのだということに気づかされます。

まだご覧になっていない方がいたら、だまされたと思ってぜひ一度、ご覧ください。
まったく面白くないと思ったら、ともかく見ながら笑ってみてください。
それで面白くなかったら、もう一度だけ、見てください。
それを繰り返していると、多分そのうち、面白くなってきます。
どのくらいかかるかは、保証の限りではありません。
面白くなる前に、腹がたってくる可能性もありますが、その時は、だまされたと思って、あきらめてください。
まあ、人生にはだまされることもよくあることです。

■支え合い共創ネットを立ち上げました(2013年9月9日)
仲間たちと新しいネットワークを立ち上げてしまいました。
これまで2回、協同組合サロンをやってきましたが、そこから生まれたネットワークです。
とりあえずの名称は「支え合い共創ネット」です。
支え合いの文化や仕組みをみんなで一緒に創っていこうという思いを込めました。

これまでの集まりでは、協同組合に焦点を置いてきましたが、ほかにも共済活動や相互支援の市民活動、最近では、地域通貨による新しい動きも広がっています。
また日本には、これまでも「頼母子講」とか「もやい」とかといった仕組みもあります。
フランスから始まった隣人祭りのような動きも広がっています。
そうしたものも視野に入れて、これからの私たちの生活のありかたや社会のあり方を意識しながら、「支え合いの文化と仕組み」を考えていく予定です。

当初は学びあいの場になるかと思いますが、できるだけ早く、何らかの実践にまで持っていければと思います。
メーリングリストをつくり、毎月、東京でミーティングを行う予定です。
その顔合わせも兼ねて、先週、第1回のミーティングをもちました。
最初からかなり具体的な話題が出てきて、議論が盛り上がりすぎてしまいましたが、面白くなりそうです。

メーリングリストにはすでに25人の方が参加してくれました。
若い起業家の方もいれば、お百姓さんやお坊さんもいます。パン職人もいれば編集者もいます。ともかくいろんな人がいますので、だれでも主役になれます。
参加ご希望の方は、登録アドレスを私までご連絡ください。
きわめてカジュアルで、フラットな、誰でも歓迎の、開かれたプラットフォームを目指しています。
当面は私が事務局役です。

次回は10月10日に、モンドラゴン協同組合をテーマにします。
よかったら気楽に参加してください。
ホームページのほうに案内を出す予定です。

■第2回箸ピーサロンのお誘い(2013年9月16日)
箸ピーゲームに関しては、これまでも何回か書いてきました。
要するに、箸を使ってピーナツを1分間にどれだけ移動させられるかを競うゲームです。
これまでもいろんなところで行われてきていますが、それを標準化して、みんなでコミュニケーションしあおうと考えたのが小宮山栄さんです。
小宮山さんは、箸の文化の魅力に取り付かれて、数年前に国際箸学会も立ち上げていますが、子どもたちが箸使いを学ぶ場をつくったり、箸の文化を深めていく活動をするなかで、この箸ピーゲームがさまざまな効用を持っていることに気づいたのです。
箸ピーゲームに関しては、国際箸学会のホームページをご覧ください。

小宮山さんにそそのかされて、7月に箸ピーゲームサロンを開催しました。
とても好評で、そこからいろんな動きが始まりだしました。
神戸からわざわざ参加してくれた六甲アイランド高校の吉田さんは、8月に開催されたアジア・ユース・サミットで、アジアから参加された高校生を対象に、箸ピーを使ったリレーゲームをやったそうです。
とても盛り上がり、吉田さんはその様子をビデオ記録してくれました。
11月には、東京でその報告会もやってくれることになっています。
多文化交流にも効果的のようです。

養護施設での活用で効果をあげていることは、小宮山さんが前回のサロンで紹介してくれましたが、福祉施設での展開も少しずつ取り組まれだしています。
また福岡などにも新たに支部ができそうです。

そんなわけで、東京でも定期的に箸ピーサロンを開催することになりました。
ただゲームをやるだけではなく、時には箸の文化や食の文化も話題にできればと思っています。
また箸ピーゲームをこんな形で活用したという方の体験もお聞きできればと思います。
しかし、あんまり難しいサロンではなく、ともかく単純に箸ピーゲームを楽しもうというのが一番の狙いです。
話すのが不得手な方も、箸ピーゲームをやれば、元気が出て、人とのつながりが広がっていくはずです。
話すよりも、まずはゲーム。
そんなスタイルの集まりです。
これまでとはちょっと違ったサロンですので、どうぞ、気楽にご参加ください。
初めての参加の方には、箸ピーゲームセットを贈呈させてもらいます。

周りに興味を持ちそうな方が居たら、ぜひお誘いください。
ともかく気楽なサロンです。
箸ピークラブが立ち上がるかもしれません。
今回は参加できないが、次回は参加したいと言う人もご連絡ください。
また案内を差し上げます。

○日時:2013年9月25日(水曜日)午後6時半〜8時半
途中での出入りも自由です。
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○内容:箸ピーゲームの実施のほか、国際箸学会理事長の小宮山さんから、30分ほど、「箸の話」を話してもらう予定です。
○参加費:500円

■サリン兵器を持つことの意味(2013年9月17日)
シリア関係の報道を見ていて、なんともやりきれないのは、国連のチームによって化学兵器の使用が確認されたにもかかわらず、実際にはなんの動きも出てこないことです。
むやみに武力行使するのはもちろん避けねばいけませんが、武力か交渉かという「二者択一」発想ではなく、何か方策はないものかと思います。

ところで、化学兵器を所有すると使用するとは、違う概念でしょうか。
ちなみに、核兵器に抑止力(と攻撃力)があるということは、核兵器の所有と使用とがつながっていることを意味します。
使用しなくても、兵器としての効果を実現できると言うことです。
同じように、化学兵器もまた、所有することに意味がありそうです。
サリンを持っている人には、手を出せません。
所有するだけで「脅迫効果」があります。
つまり所有すること自体が、暴力の行使に当たるともいえるわけです。
ブッシュのアメリカがイラクを攻撃したのは、その論理からです。
もっとも、イラクの時は、相手は所有さえしていなかったのですが。

サリン兵器を所有する国家は正常な国家とはいえません。
しかし、もしそうなら、核兵器をもつ国家も正常とはいえないでしょう。
さらに論を進めれば、原発を持つ国家も正常ではないように思います。

それはともかく、現在の世界では、犯罪かどうか、つまり正常かどうかは、国家が決められます。
国家が命ずる殺人は犯罪にはなりません。
国家とテログループの違いは、そこにあります。
その非対称性を考えないと、世界で起こっている不幸な戦いは理解できません。
国家は、いいとこ取りができるのです。

世界から殺し合いをなくすためには、国家視点で考える時代は、もう終わったように思います。
テロと言われるような活動も、あるいは内戦も、終わったものかもしれないと、この頃、つくづく思います。

■さみしい社会(2013年9月19日)
まだお会いしていない方からのメールが、心に深く残ってしまいました。
その方には了解を得ていませんが、一部を紹介させてもらいます。
とても重要な問題提起を含んでいると思うからです。

私は、子どものいない50代のシングルで、仕事中心の、地域社会とは縁遠い日常を送っています。会社をやめたら、どこでだれとどう生きていくかという問題が、まだ少し時間はありますが、ひたひたと迫ってきました。
こうしたリタイア後の課題は、家事も子育ても妻まかせで生きてきたサラリーマンが抱えているものとほぼ同じといっていいでしょう。結婚しない女性、子どものいない女性が増えていますが、これからは女性の課題でもあると思います。
また、介護が必要になったときの不安もあります。財政状況の厳しいなかで、高齢者福祉もだんだんと先細りになっていくのは明らかで、家族がいてもいなくても、公的な介護に頼れないとしたら(現在も、家族あっての介護保険制度ですが)、経済的資源もソーシャル・キャピタルももたない高齢者は耐えて死ぬのを待つしかなくなってしまいます。それはやはり、さみしい社会ですね。

この文章につづいて、この方が、その解決に向けてどうしようとしているかの話が書かれていますが、それは省略します。
私が今回書いておきたいのは、ここに書かれた「さみしい社会」と家族の話です。

現代の社会では、結婚しないと家族からはじき出されかねません。
この方も、シングルですので、仕事がなくなると社会との接点が断ち切られかねないわけです。

鷲田清一さんは、「家族は〈自然〉と〈制度〉の接点であり、交点である」と、「〈ひと〉の現象学」という著書で書いています。
そしてまた、「家族は、民を管理する国家組織の最小単位であると同時に、そうした権力ヘの民の抵抗の拠点ともなりうる場所である」とも書いています。
しかし、家族は今、大きく変質してしまい、おそらく「権力ヘの民の抵抗の拠点」とはなりえないまでに壊されたと思います。
壊したのは言うまでもなく、経済至上主義です。
鷲田さんは、こうも書いています。
「近代という時代は、家事というかたちで家族のメンバー(とくに女性)に負わされてきた家族の機能を、家庭外のサーヴィス機関に委託する傾向を推しすすめた。つまり、メンバーの生命機能にじかにかかわる世話を、金銭をもって外部の専門職に委ねるようになった」。
家事の市場化です。日本では、「女性の社会進出」とも言われました。
こうした動きを多くの人は歓迎しました。
私は1970年代から、このことに大きな危惧を感じていました。
女性の社会進出は、単に女性の経済機関への取り込みでしかなく、社会からの略奪であり、汎市場化の入り口になるだろうと考えていたからです。
会社時代には、そう主張し続けていましたが、だれからも相手にされませんでした。
私が会社を辞めた、たくさんの理由の、それは一つです。
最近では「介護の社会化」などという言葉で、介護の市場化が進められました。
そういえば、「文化産業論」が言われだした時にも、恐ろしさを感じました。

話が外れてしまいましたが、家族や家庭は市場化の流れの中で壊されてしまったのです。
そして、生活の不安があふれ出しました。
不安があればビジネスのチャンスがあります。
それが近代のパラダイムなのです。
だから「さみしい社会」はある意味での近代の到達点かもしれません。

「さみしい社会」から抜け出すためには、家族を取り戻さなければいけません。
それは別に血縁家族である必要はありません。
共時的だけではなく、通時的に、寄り添いながら、支え合いながら、しかも開かれたかたちで変化していく、ゆるやかなつながりの新しい家族を、どうやって創りだすか。
これは私のテーマでもあります。

■家族をどう考えるか(2013年9月22日)
今日のテレビで、自民党の憲法案の24条が話題になっていました。
24条は、「家族、婚姻等に関する基本原則」が書かれています。
問題はその第1項に「家族は、互いに助け合わなければならない」という文章が追加されたことです。

先日、「さみしい社会」で、「さみしい社会」から抜け出すためには、家族を取り戻さなければいけません、と書いたこともあって、ちょっと気になったので、私見を書くことにしました。
先日も書きましたが、私が考える「家族」は血縁家族ではありません。
同じ住まい(家)を共にする仲間というような感じです。
現行憲法も、自民党憲法案も、家族の定義はなされていません。
しかし、そこで前提とされているのは、血縁家族です。
そこに私は問題を感ずるのです。
最初に家族があり、そこでは互いに助け合わなければならない」というのは、発想が逆転しているように思います。
むしろ、「互いに助け合う人たちの集まり」を家族と定義したらどうでしょうか。
私は、そうあるべきだと思っています。
もちろん、血縁家族が、そういう意味での「家族」になってもいいでしょう。
大切なのは、「家族」は固定的な閉じられた集団ではないと言うことです。
核家族ではなく、拡家族というのが、35年前からの私の「家族観」です。

いずれにしろ、家族とは何なのかを、きちんと捉えなおすことが大切だと思います。
そして、家族まで憲法で規制されるような事態は絶対に避けねばいけないと思います。

■数字信仰の呪縛から解放されたいです(2013年9月22日)
今年度の全国学力テストで全国最下位となった静岡県では、知事が下位の成績の小学校長名を公表する方針を出し、話題になりました。
結局、上位の校長名を発表するにとどまっていますが、この話はいろいろと考えさせられることが多いです。
川勝知事のやり方には賛否両論があるでしょうが、私が問題に感じたのは、相変わらず「学力」がテストの点数で語られていることです。
なんとまあお粗末なことかと思います。

先日の大雨で、特別警報などが出ていましたが、娘が数字で表示してくれたほうがピンと来るといいました。
私は、最近のように、「これまで経験したことのない」とか「十年の一度の」とかのほうがわかりやすい気がしていたのですが、どうも今の人は数字のほうが実感できるようです。
せっかく言葉での表示が増えていたのに、結局また5段階のレベルに翻訳されてしまうようで、私にはとても残念な気がします。

そういえば、原発事故のときも、数字でレベルが語られていました。
ともかくみんな「数字」が好きのようです。

数字で示されるものなど、ほんの一部です。
それに数字は、それぞれの事象の表情を消してしまいます。
おそらく視野を狭める効果もあるでしょう。
私には、事態を見えにくくするのが数字だと思えてなりません。

とりわけ「学力」は、その典型です。
点数で表示される能力や知識などは、ほんの一部の話でしょう。
ましてやテストの点数など、本当に意味があるのか。
もし意味があるとしたら、こんなおかしな社会になっているはずがないでしょう。
いま必要なのは、テストで高い点数を取れる人ではないように思います。

経済成長も同じです。
数字で経済を評価するのも、そろそろ見直すべきでしょう。

そろそろ数字信仰を見直す時期です。

ところで、昨日と今日、NHKのスペシャル番組で「神の数式」をやっていました。
数字で世界のすべてが見えるという話です。
まったくばかげた話ですが、番組はとても面白かったです。
でも、それとこれとは違う話だろうと思います。

■半沢直樹を私も見てしまいました(2013年9月23日)
テレビドラマの「半沢直樹」が大人気で、視聴率も高いそうです。
娘からこのドラマのことを教えてもらい、毎回録画して、見ていました。
昨夜が最終回でした。

ストーリーが極めて単純なので、まあ面白かったのですが、最後は人気にあやかって続編をつくるためという感じがいかにも強く、興ざめでした。
もやもやが残ったという感想がネットでも盛んに流れているようですが。

このドラマは、悪い銀行マンをあばく正義の銀行マンの話ですが、銀行に勤めている人たちはどんな思いで見ているのだろうかといつも気になっていました。
娯楽ドラマですから、目くじら立てることではないかもしれませんが、しかし、こうしたテレビのドラマやアニメが、それを見ている人たちにどれほど大きな影響を与えているかと思うと心配にもなります。
それに毎回、うらみの「倍返し」とかいう言葉を聞いていると心が荒れてしまいそうです。
見終わってあまり心があたたまることは少なかったような気がします。

話題になっているドラマと言えば、朝ドラの「あまちゃん」があります。
これは見ていて実に心あたたまります。
現実感がないようで、実に現実感を感ずるのも不思議です。
朝ドラは、あんまり好きではないのですが、「あまちゃん」は毎日見ています。

最近、2つの映画をテレビで見ました。
「ブロンコ・ビリー」と「怪盗グルーの月泥棒」です。
久しぶりに心あたたまる映画を見ました。
実に心があたたまりました。
人はみんな、みえないところでは善意の塊なのです。
こういう映画を見て育った場合と半沢直樹を見て育った場合は。かなり違った人生になりそうです。
テレビや映画の影響は実に大きい。
学校教育などの比ではないでしょう。

ちなみに、半沢直樹にも「こころあたたまる場面」はたくさんあります。
私も涙が出そうになったところもあります。
しかし、根底に流れているのは「うらみ」に始まる陰湿な心です。
「倍返し」は、やはり「感謝」や「善意」だけにしてほしいです。
仇討ちは、誰も幸せにはしないでしょうし。

すっきりしないドラマをみてしまいました。
しかし、続編が出来たら、また見てしまうでしょう。
悪の道は、一度染まったら抜けられなくなるのです。
困ったものです。

■DVの相談を受けての体験(2013年9月24日)
昨夜、関西の友人から東京にいる知人がDV被害にあっているが、どこか信頼できる相談場所はないかと連絡がありました。
残念ながら私にはすぐ頭に浮かぶところがありませんでした。
それで一般的な相談場所やアドバイスを受けられるところなどを連絡しましたが、同時に心当たりのありそうな友人や「支え合い」を理念にしているコムケアのメーリングリストに情報提供のお願いを投稿しました。
そうしたら、たくさんの人から具体的な情報がすぐに届きだしました。
私が思っていた以上の速さでした。

順次、相談を受けた人に情報を届けていますが、とても複雑な気分です。
どう複雑かと言うと、まずはうれしい気分です。
やはり社会には、お互いに支え合おうという意識が充満していることを実感したうれしさです。
わざわざ具体的な相談先まで調べてくれて、自分の名前を出せば通ずるとまで言ってくれる人までいたのです。
先日、大雨の日に、川に流された子どもを命がけで救った中国の留学生が話題になりましたが、人がいる限り、支え合いの文化はしっかりとあるのです。
メーリングリストからの反応もたくさんありました。
あまり反応がないことも多いので、読んでいてくれるのだろうかと不安になることも多いのですが、返信はなくても読んでいてくれていることがよくわかりました。

しかし、ただうれしいだけではありません。
これだけ反応があるということは、DVがかなり広がっていると言うことかもしれません。
もしそうだとしたら、やはり社会は壊れてきています。
また、相談のメールをくれた人は、こう書いていました。

「相談を受けた私も、警察に相談するのがよいかと思いましたが、
脅迫や犯罪行為に及ばない限り、警察では相手にしてもらえないかと思いました。」

警察が信頼されていないわけです。
これもまた大変大きな問題です。
しかし、やはり警察には相談したほうがいいと伝えました。
まずはみんなが信頼しなければ、信頼できる警察は育ちません。
それはともかく、DV問題がかなり一般化し、しかもその対応に有効な手立てが見つかっていないことが、みなさんの迅速な反応に示されているように思いました。
これはとてもかなしいことです。

そればかりではありません。
最近、家族のことについて2回ほど書きましたが、それとの関係で言えば、支え合いとDVは、もしかしたら、繋がっているのかもしれない、という気もしたのです。
それが私のいまの複雑な感想です。

■JR北海道の安全問題にふと考えたこと(2013年9月26日)
JR北海道の安全問題が大きな話題になっています。
相次ぐトラブルに、地元の人は不安と不信を強めていることでしょう。
私は北海道には当面行くこともないので、自分には降りかからない問題だと考えることもできます。
最近の企業の経営規律が崩れているというように、企業の問題にしてしまうこともできます。
しかし、どこかに別のメッセージを感じます。

北海道の人たちは、JR北海道に不信感を持っても、遠距離移動の場合には利用しないわけにはいかないでしょう。
いわゆる社会のインフラストラクチャーとは、そういうものです。
そうした社会のインフラストラクチャーが信頼できなくなったとしたら、どうなるでしょう。
信頼できなくとも頼らなければいけません。
ということは、社会のインフラストラクチャーは、誰かに任せてはいけないということです。
自分たちでつくり、整備していかなければいけない。
だから昔は、住民体がみんなで「道普請」していたわけです。

電力も社会のインフラストラクチャーです。
水道もそうでしょう。
そうしたものを、私たちは最近、みんな誰かにゆだねてしまったわけです。
それも多くの場合、「民営化」の名の下に企業に、です。
そこに大きな間違いがあったのではないか。
そんな気がします。
生きるために不可欠ともいえる、水やエネルギーを、私たちはもっと自給することが大切かもしれません。

鉄道の問題に戻れば、鉄道などに乗って遠出することをやめれば良いのです。
乗る時には、高額な料金を払い、鉄道を守っている人たちに感謝すれば良いのです。
そうすれば、安全問題は大幅に改善されるでしょう。
悪いのはJR北海道の、少なくとも現場の人たちではありません。
その話は、実は原発にも繋がっています。
言い換えれば、どこかに私たちの生き方の問い直しが、メッセージされているような気がします。

ちょっと消化不足ですが、なんとなく気になったものですから。

■前に進むということ(2013年9月29日)
昨日、フォワードカフェという集まりをやりました。
私が事務局役をやっている、自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいから始まった集まりです。
「フォワード」とは自殺を考えたり、自殺未遂をしてしまったりした人たちを表現するものとして、4年前に公開フォーラムをやった時に使い出した言葉です。
しかし、そういう活動を通して、「自殺」に無理につなげるのではなく、もっと広く捉えたほうがいいと考え直しました。
大切なことは、「自殺」から考えるか、「生き方」から考えるかです。
私の関心は、「自殺防止」にあるのではなく、「人を自殺に追いやるような社会のあり方や人(自分)の生き方」にありますから、当然、生き方から考える必要があります。
そこで、フォワードを広く捉え、「前に向かって進みたいと思っている人」としました。
進みたいけど、まだいまはゆっくり立ち止まっている人もフォワードです。
いいかえれば、すべて人はフォワードです。
人類が直立して歩き出した時、たぶん例外なく、前に進んだはずです。

昨日は、自殺未遂者の知人の話を中心に、明るく話し合いました。
彼は、私に会った時には「自殺未遂サバイバー」を名乗っていましたが、最近は「フォワード」を名乗りだしています。
ただ、なかなか「前」には進み出せません。
昨日は、なぜ前に進めないかを参加者も一緒になって考えました。
そこで、気づいたことがあります。
「前」とは、「目が向いているほう」でしかないのではないか、と。
つまり、間違ったほうを目が向いていると、ほかの人からみると後にすすんでいることになりかねないのです。

顔をどこに向けるか。
それが大切なのです。
昨日の知人は、明らかに顔の向け方が間違っていました。
話し合いで彼も漸くそれに気づき、顔の向きを変える決断をしました。
ここまでくるのに3年かかりましたので、私にはうれしいことでした。

しかし、考えてみれば、これは他人事ではありません。
果たして私自身の顔の向きはどうなのか。
目の先にある、遠くの風景を見極めないと、前に進んでいるようで、後に進んでいるかもしれません。

前に進むとは、どうもそう簡単なことではないと、やっと気づきました。

■我孫子 アートな散歩市でまたカフェをやります(2013年9月29日)
一昨年まで、我孫子手づくり散歩市の名前で行われていたイベントですが、最近は名称が変わってしまいました。
名称の変化は、内容の変化でもありますが、今年も娘がわが家にある工房で参加します。
スペインタイル工房の Taller de JUN (タジェ−ル デ ジュン)です。
http://homepage3.nifty.com/td-jun/

会期は2013年10月5〜6日です。
わが家はメイン会場から少し離れていますが、よかったらお立ち寄りください。
場所は当日、駅前のインフォメーションセンターで地図を配布していると思いますが、手賀沼公園から歩いて5分ほどのところです。
娘の工房はわが家の庭にあるのですが、雨が降らなければ、その庭のテーブルで、例年のように、私が珈琲サービスをしています。
時間は10時から午後4時までです。
タイル工房に寄らずに、珈琲だけのみにくる人もいますが、まあ仕方がありません。
時に面白い人に出会えます。
よかったら気楽にお越しください。

■消費税増税はやりきれない話です(2013年10月2日)
消費税増税が決まりました。
私の友人は、こうフェイスブックに書きました。

歴史的な日です。政府与党が消費税増税を決め、一応?野党の民主党がやむなしとこれに呼応し、日本の政府は中小企業を見殺しにするつもりだと分った日です。が、、、おっとどっこい、そうはいかねェ。とことん生きてやる。そう覚悟を決めた日となりました。
わが社は、従業員13人の零細企業。年間3000万の売り上げのうち、3分の1が人件費、3分の1が借金返済、3分の1がその他の経費です。もうギリギリなのに、消費税が3%上がるだけで、え〜〜〜っと、計算できない。
ひと言でいうと、パート一人の人件費が吹っ飛びますな。
いや〜、歴史的な日バンザイ、平成万歳事件ですなこりゃ。

彼の日頃の取り組みを少しはわかっている者として、彼の怒りに心から共感できます。
しかし、「日本の政府は中小企業を見殺し」とありますが、見殺しにしたのは、私たちすべてかもしれません。
そうでないなら、日本の政府は私たちを代表していないことになります。
選挙で消費税増税に賛成したのは、まちがいなく私たちでした。

見殺しにされそうなのは、中小企業だけではありません。
非正規社員や失業者も同じです。
先日、非正規社員の平均年収は、正規社員のそれの1/3だという調査結果が出ました。
アベノミクスで、企業で働く人たちの給与を上げると盛んに言われていますが、おそらくその主な対象は正規社員になるでしょう。
あるいは非正規社員の給与を上げたとしても、正規社員の比率を低くすれば、そう人件費は抑制できます。
そうした構造の変化を無視しての論議が多すぎます。

要は、まじめに汗して働いている人たちが、「見殺し」の危機に直面しているのです。
そういう人は、選挙に行けないほどに労働させられているのかもしれません。
しかし、そういう人も含めて、選挙では消費税増税が支持されたわけです。
それがなんともやり切れません。

もっとやりきれないのは、低所得者層に1万円程度のお金を支給するという話です。
私も低所得なので、それをもらうことになりますが、なんとも嫌な気分です。
前回もこんなことがありましたが、私の友人がそのお金を私にくれたので、私の分を乗せて、ある集まりのために使ってしまいました。
しかしどうもすっきりしません。

マスコミは、今ごろになって、増税の危険性を叫びだしていますが、終わってから言うのは私には不愉快です。
友人のように、「そうはいかねェ。とことん生きてやる。そう覚悟を決めた日」には、私の場合はならずに、「社会からさらに離脱する覚悟を決めた日」になりました。
お金を使わない生活をさらにもう一歩進めます。
そうすれば、消費税はあんまり関係なくなりますから。
さてどうやって、それを進めるかが、問題ですが。

■情報麻痺のなかでの「まあ仕方ないか」の生き方(2013年10月3日)
東京電力は、福島第1原発で2日に貯蔵タンクからの漏れが確認された汚染水が海に流出したことを明らかにしました。 
毎日のように、こうした情報が流されます。
その結果、どうなるでしょうか。

消費税増税が決定しました。
1年前を思い出すと、最初は反対していた人たちも、消費税増税が必要だと毎日、マスコミが情報を流すうちに、なぜか「まあ仕方ないか」と思い出して、増税を推進する自民党に投票してしまいました。
何回か聞いているうちに、洗脳されてしまったわけです。
本当に必要かどうかなど、わかるはずもなければ、正しい解があるわけでもありません.

TPPはどうでしょうか。
これも何回も情報に触れているうちに、もう参加するのが当然のようになってきてしまっています。
マスコミによる情報洪水の前には、みんな洗脳されてしまいます。

原発はどうか。
いつの間にか原発再稼動も「まあ仕方ないか」と多くの人が思い出しているようです。
汚染水漏洩の情報にも、だんだん感覚が麻痺してきました。
もちろんそれによって実際に行動を制約される漁業関係者などは、「まあ仕方ないか」などとは思ってはいないでしょう。

情報社会とは、「まあ仕方ないか」の社会かもしれません。
みんなやけに物分りがよくなってしまうからです。
しかし、それでは現場は壊れていくでしょう。
本当の情報は『現場』にしかないからです。
そして、私たちは、実は『現場』に支えられて生きています。
経済成長は財政健全化のために、生きているわけではありません。
私も、現場から考える姿勢をさらに強めたいと思います。

■洗脳されることの恐ろしさ(2013年10月11日)
みなさんは次の問いにどう答えるでしょうか。
「協同組合で働く人の給料と株式会社で働く人の給料とどちらが高いだろうか?」

昨夜、湯島でスペインのバスク地方の「モンドラゴン協同組合」をテーマにした集まりをもちました。
モンドラゴン協同組合は労働者協同組合ですが、労働者主権に基づいたビジネス・モデルに従って運営された仲間的な会社を約250社も展開しています。
社会的な支え合いとビジネス的な手法を両立させた、ソーシャルビジネスのモデルの一つではないかと私は思っていますが、最近はかなり変化もあるようです。
フェイスブックなどでは少し紹介しましたが、とても面白い議論が展開されました。
もっと多くの人たちに聞いてほしい話がたくさんありました。

そのなかで、昨年、モンドラゴンを視察してきた人から、最近はアメリカの大企業の経営トップをハンティングしているという話が紹介されました。
モンドラゴン系の企業は、アメリカの企業とは違い、経営者と従業員の報酬格差は3倍くらいで、多くても6倍だそうです。
そうするとアメリカからハンティングされた人の報酬は大幅に下がることになります。
参加者の中から、それでモンドラゴンに移る人がいるのだろうかと疑問が発せられました。
そして、表には出ていないだけで何か裏でメリットを得ているのではないかというのです。
参加者のみなさんもそれにうなずく始末です。
いやはや困ったものです。
さすがにムッとして、発言をしてしまいました。
どうしてそんなに疑うのか、みなさんはすでに金銭資本主義に洗脳されているのではないですか、と。

こうしたやりとりが1回ならずあり、私も1回ならず、みなさんにいやみを呈したことになります。
そしてみんなにも理解してもらえるように、話題提供者に質問しました。
「モンドラゴンでは協同組合で働く人の給料と株式会社で働く人の給料とどちらが高いんですか?」
もちろん前者です。そして話題提供者もそう答えてくれました。
おそらく多くの人たちは、無意識に協同組合で働く人の給料は株式会社で働く人の給料より低いと思っていたはずです。
それで念のために余計な発言を重ねました。
当然ですよね、だってモンドラゴン協同組合では働かずにピンはねする人たちはほとんどいませんからね、と。
うまく参加者に私のメッセージが伝わっていればいいのですが。

ともかく私たちは洗脳されて今や守銭奴に成り下がっているのです。
そして、雇用労働が良いのだと思いこまされているのです。
雇用を増やすという甘いささやきに、みんな騙されているわけです。

改めて洗脳されることの恐ろしさを実感しました。
モンドラゴンはそのうち立ち行かなくなるだろうという発言もありました。
しかしどう考えても、その前に立ち行かなくなるのは日本やアメリカの金融資本づけの株式会社でしょう。
ただし、洗脳された雇用労働者が、いまのままの「常識」を持ち続ければ、ですが。
それに雇用される事の居心地の良さは、慣れてしまうともう捨てられなくなるほどの魅力もありますし。

失礼があったらお許しください。
はい。

■洗脳されることの恐ろしさパート2(2013年10月12日)
昨日、洗脳されることの恐ろしさについて書きましたが、私が思っている以上に、事態は深まっているようです。

今朝、NHKテレビの「ニュース深読み」を見ていたら、なんとテーマは「儲ける」でした。
最初に、日本の企業はB to B で収益を伸ばす段階にきたという報告があり、そこからどうしたら「儲かるか」という話ばかりでした。
NHKのアナウンサーが開口一番「みんなが好きな『儲ける』が今日のテーマ」などと明るく話すのを見て、ああこの人はもう完全に洗脳されているなと不快になりました。
と思っていたら、1〜2人を除いて、参加者はみんな「儲け愛好者」でした。
社会はすでにかなりの深度で変質しています。

企業からスピンアウトして岩佐琢磨さんという若者が、B to Bは儲かるかもしれないが、汗して働く人の働く場を減らすという主旨の発言をしましたが、司会者は全く無視してしまいました。
いやはや問題の所在にさえ気づいていない。

最後は、消費者も「儲かる頭を持ちましょう」などとわけのわからない結論になっていました。
いささか不快な気分で見ていたので、表現は不正確かもしれません。

前にも書きましたが、働くとは生きること、稼ぐとは家族を支えること、儲けるとは余剰を生み出すことです。
農業経済学者の守田志郎さんは、「工業は儲ける業になってしまった。工業が儲けの業だといっても、それは経営者だとか株主だとかいう人の立場についてのことである。そこで働いている人たちはといえば、みな儲けられている方であって、決して儲けている方ではない」と45年前に著書に書いています。
アメリカのA.H.コールは、さらに70年近く前に、「米国においては、最も高い地位を与えられるのは、彼自身の事業活動によって極貧から巨富へ成り上がった人物である。ある意味で皮肉なこうした社会観はなにも米国の発明ではない。〔中略〕しかし、この病気〔金儲け〕に対する米国の感染度はより深刻であり、ビジネスにおける成功で人を凌ごうという欲望がこれほど熾烈であった国はほかにない」と書いています。
この病気〔金儲け〕は長い歴史を持っているのです。

儲けることから稼ぐことへ、さらに働くことへ、と生き方をもどしていければ、社会は大きく変わるでしょう。
そう思いながら、まずは自らの生き方を問い直し続けています。
なかなかうまくはいきませんが。

■モンドラゴンもいろいろと変わってきているようです(2013年10月12日)
前の記事でも少し言及しましたが。生活クラブ共済連の伊藤さんが昨年、モンドラゴンに行ってきたということを聞いたので、伊藤さんに頼んで、先週、モンドラゴンについて話し合うサロンを開催しました。
湯島の集まりの特徴として、実に多彩な人たちが集まるので、話は広がり刺激的でした。
モンドラゴンは協同組合や社会的経済などに関心のある人には有名すぎるほど有名ですが、昨夜は名前も初めて聞いたという人もいて、それが議論を深くしたように思います。
伊藤さんの報告はとても示唆に富むもので、モンドラゴンに憧れていた私には、がっかりする話もあったのですが、批判的な視点を得ることができたのはよかったです。
私はほれ込むとすべてが良く見えてしまうタイプですので。

株式会社は資本(金)が主役で労働(人)は道具だが、労働組合は労働(人)が主役で資本(金)が道具ですが、モンドラゴンはそこがまったくぶれていないと伊藤さんは話してくれました。
組合員の雇用を良質両面で守るために、株式会社の手法も貪欲に取り組んでいるのだそうです。
そして、バスク地方はもちろんスペインを超えて、いまや多国籍企業化しているといいます。
モンドラゴンの経営するエロスキ生協は、いまやウォルマートに次ぐ世界第2の規模だといいます。
そういう話を聞くと、「モンドラゴン、おまえもか!」と言いたくなりますが。

特にそう思ったのは、モンドラゴンは反原発運動やバスク独立運動などには中立的なのだそうです。
そういう政治的な問題に関わると、組織そのものが影響を受けるからだそうです。
組織と個人の生活のどちらを基軸にするかは、私の大きな関心事ですが、その意味ではモンドラゴンはもう理念を失っているかもしれません。
言い換えれば、モンドラゴンは生活共同体ではなく経済共同体になっているのかもしれません。
資本と人間の関係では、主客正常化しているとしても、組織と人間との関係では、相変わらず主客転倒しているように思います。

またモンドラゴンは仲間と外部を峻別する、狭い協同組合主義のような側面も感じました。
と言うのは、労賃の安い地域で部品をつくり、それを自国で組み立てて高く売るという、他国籍企業のようなことまでやっているようです。
つまり開かれた社会性ではなく、自分たちだけの社会性というわけです。

これまでのモンドラゴン信仰がかなり崩れました。
改めてまたモンドラゴンをもっと知りたくなりました。
ところで、ブータンやラダックはどうなっているのでしょうか。
とても気になります。

■雇用経済的な働き方と生業的な働き方(2013年10月16日)
ある事業に取り組まざるを得なくなり、会社の社長になりました。
ということを何人かの人に伝えたら、こんなメールや手紙が来ました。

「報酬はもらえるのですか?」
「どこかのオフィスに常駐するのですか?」

当然と言えば、当然の質問なのですが、私には思ってもいなかった質問です。
その時点で、私がいかに世間的な発想体系から脱落しているかがよくわかりました。
ちなみに、この2人はいずれも私の生き方を良く知っている20年来の友人です。

社長もまた「雇用される存在」と、みんな思っているわけです。
ここでも「雇用経済」が多くの人の常識を形成しています。

中小企業の経営者と付き合っているとよくわかりますが、社長は報酬をもらう側ではなく、報酬を与える側です。
働いて、さらにお金をつぎ込むというのは、どこかおかしい気もしますが、それはたぶん雇用経済発想に陥っているからです。

私も、これまでコンセプトワークショップという会社の社長をやっていますが、報酬をもらったのは、会社を設立してからの5〜6年です。
その頃はまだ、私も雇用経済発想だったので、社長は毎月報酬をもらうのが当然だと思っていたのです。
社長は報酬を与えるほうだと気づいたのは、しばらく経ってからです。
そして会社を持続させるには、報酬を与える発想を捨てることだと考えました。
会社の社長の報酬は、仕事ができることなのです。
会社に利益が出れば、社長がやりたいことを行う活動費に充当すれば良いわけです。
生活費はどうするか。
そこは問題ですが、以前は講演料などでカバーしていました。
いまは年金でカバーしています。

雇用経済発想に陥ると、働くとは「雇用されること」と考えたり、仕事とは対価をもらったりという発想に繋がります。
たしかに雇用経済における雇われ社長は高額の報酬をもらっています。
雇用されない創業者の社長で高額な報酬をもらっている人もいますが、彼らは雇用労働の利得を得ているに過ぎません。
そういう生き方から抜け出たくて、会社を辞めたのです。
できれば、生業的な仕事をしたかったのです。

私の娘の連れ合いが、まさに生業的に、イタリアンのお店をやっています。
驚いたことに、青色申告制度では事業主への報酬という概念がないのです。
彼は、雇用している人よりも実収入は少ないのです。
これは私には大いに示唆に富む話です。
私的には、実に良い働き方をしているわけです。

つまりこういうことです。
世間には、雇用経済的な働き方と生業的な働き方がある。
企業の世界と生業の世界。
そのいずれかの世界にいるかで、たぶんものの考え方が反対なのです。
コストが利益になったり、利益がコストになったりするわけです。
現在の経済には、異質な発想体系が混在しているということに、最近漸く気づきました。

さて、私の今度の社長業は、一体どちらなのでしょうか。
悩ましい問題です。

■放射線汚染水の流出に思うこと(2013年10月18日)
伊豆大島での台風の大きな被害が報道されている中で、福島原発の汚染水の放出が小さく報じられていますが、こうした毎日のように報道されると、感覚が麻痺してきます。
日常化してしまうと、なんとなく見過ごしてしまうのが人の習性です。
それが良いことなのか悪いことなのか、にわかには判断できませんが、私にはかなり気になります。

汚染水はどんどんたまっています。
それをどうするのかという案は検討されているのか、なかなか見えてきません。
しかし、汚染水のセシウムを粘土に固着させ、体積を減らすとともにコントロールしやすくするという取り組みがなぜ進まないのか、実に不思議です。

柏崎刈羽原発の再稼働に関して、放射性物質の影響を低減させるフィルター付きベント(排気)設備の二重化が話題になりました。
「放射性物質の影響を低減させるフィルター」というのがあるとしたら、汚染水処理にも使えるような気がします。
汚染度の次元が違うとしても、所詮は量的な違いですから、原理的には汚染濃縮はできるはずです。
これは、高度な技術の問題ではなく、生活レベルで考えられる簡単な原理です。

放射線科学というと、高度なように考えがちですが、所詮は簡単な原理の積み重ねのはずです。
そのことは、福島原発が事故を起こした直後の対応を考えれば、よくわかります。
放射線科学の専門家は、小学生が知っているような簡単なことをおろそかにしています。
そして今もそれは続いています。
汚染水の流出は、それこそ小学生でもわかることがやられていないだけの話であって、原子力規制委員会に所属する専門家にも気づかない話なのです。
難しい知識があればよい話ではありません。
専門家は難しい話は知っていても、簡単な話は知らないことが多いのです。
それを忘れてはいけません。

汚染水が毎日何百トンも増えているといわれますが、それ以上の速度で減らすことを考えないといけないと思いますが、なぜそうならないのか。
どこかにボタンに掛け違いがあるのではないか。
台風の被害報道の片隅で報道された、汚染水の放出のニュースを聞きながら、そんなことを考えていました。

■「産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇」(2013年10月21日)
台風の被害に目を奪われているなかで、私たちの未来を方向づけるような、さまざまな動きが加速されているような不安を感じます。
テレビに出ている、いわゆるコメンテーターや解説者などの発言を聞いていると、その不安は強まる一方です。

夏に読んだ「ナショナリズムの復権」に出ていた文章を思い出します。
著者の先崎彰容さんは、こう書いています。

全体主義は、産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇であって人間精神の本質的な変化のことである。それは精神の空白、とでも呼ぶべきものであった。個人がすべての法的な保護や社会の役割を奪われ、裸の自分、きわめて困難な自由へ放り出されることである。全体主義は、こうした孤独な個人の集合体=大衆が主役の運動である。

なにやら近未来の日本が全体主義化することを予告しているような文章です。
いや、すでにもう、それは始まっているかもしれません。

最近、何回か書いていますが、私たちはかなりの深さで、産業化に順応するように思考を方向づけられています。
そして、政治システムでは権力への従順さを身につけ、経済システムでは金銭への依存に浸りきっています。
言い換えれば、生活を政治と経済にゆだねてしまっているわけです。
いわば、政治と経済のための生活になってしまっているのです。

一昨日、ソーシャル・ガバナンス研究会に呼ばれて、お話をさせてもらってきました。
私が考える「ソーシャル・ガバナンス」は「コモンズの共創」、つまりみんなが支えあって生きる仕組みをつくることです。
ソーシャルをガバナンスするのではなく、ガバナンスこそがソーシャルだと、パラダイム転換するのが私の発想です。
生活を起点で考えると、経済も政治もまったく今とは違ったものになります。
しかし、現実はますます権力と金銭とが生活を統治する条項へと進んでいます。

「産業化・近代化のはてに人間の心に宿る暗闇」「精神の空白」。
いずれも、とても気になる言葉です。
しかし、それは私の周りにも、いや私自身の中にさえ、存在しています。
私たちには、自由など、いまやほとんどないのです。

先の著書で、先崎さんは、それに抗うために、ナショナリズムの復権を提唱しています。
ナショナリズムは、また地域と歴史にこだわることでもあります。
地域と歴史のない生活など、存在し得ないからです。

全体主義が何をもたらすかは、私たちは歴史から学ぶことができます。
しかし多くの人たちは、学ぶことさえ忘れています。
いや、学ぶ余裕がないと言うべきでしょうか。
ニーメラーの嘆きを思い出します。

■「人と人をつなげる仕組み」としてのNPO(2013年10月22日)
先日、最近、会社を辞めて個人で起業した40代の女性に会いました。
話しているうちに、彼女がシングルであることに話題がいったのですが、彼女が、老後は快適な老人ハウスに入るのが目標です、と言うのに、ドキッとしました。
その資金を貯めたいので起業したというわけです。
その言葉を真に受けていいのかどうかは迷いますが、かなりの真実味を感じました。

実はその数日前に、ある集まりで、やはり同世代の女性から、今は仕事をやっているが、老後の自分の居場所を考えると不安になるという話を聞いた直後でしたので、特に気になりました。
そういえば、このブログの「かなしい社会」でも、同様な話を紹介したことがあります。
共通しているのは、みんな仕事が大好きな女性たちです。

最近お話を聞いた2人の女性は、いずれも仕事の傍ら、NPO活動にも関わったりしています。
そこで気がついたのですが、NPOは「人と人をつなげる仕組み」としても存在しているということです。
言い換えれば、いまや「仕事」は、「人と人をつなげる機会」を生み出してはいないということかもしれません。
さらにいえば、社会そのものが、人のつながりを育てるようにはなっていないのでしょう。
事態は、私が考えているよりもずっと深刻なのです。

「快適な老人ハウスに入る」というのも、実は「雇用経済発想」あるいは「消費経済発想」です。
私は、彼女に、仲間と一緒に快適なシェアハウスを創るのを目標にしてもいいですよね、と話しました。
「雇用経済発想」や「消費経済発想」に呪縛されていると、そうした協同で創造するという発想が出てこなくなりかねないのです。
いうまでもありませんが、モンドラゴンの記事で書いたように、老人は巣に入居するよりも、仲間と一緒にシェアハウスを創るほうが金銭的なコストはかからないでしょう。

お金が生活を支えるのではなく、人のつながりが生活をさせるのだという発想に変えていけば、みんなもっと住みやすくなるでしょう。
NPOがそういう方向に進んでいくことを期待したいと思います。
それは、現在のNPOの捉え方とはかなり違っているのですが。

■国会幻想(2013年10月22日)
久しぶりに短い時間でしたが、国会の予算委員会の中継を見ました。
ちょうど共産党の笠井さんが福島原発事故の汚染水の問題を取り上げていました。
茂木経産相と安倍首相が応えていましたが、全く質問に答えずに、延々と違う話を繰り返していました。
こういう場面をぜひ多くの人に見てもらいたいですが、安倍政権はともかく事実を語ろうとしません。
そうした体質が現政府の提案する法案に通底しているような不安が拭えません。

国会中継を見るたびに思うのは、政府側の出席者の表情がみんな死んでいることです。
質問者の意見を聞いて、何かを考えるとか、一緒に議論するとかいう様子は皆無です。
義務として、そこに参加し、質問をかわすことにしか関心がないように見えてなりません。
実にもったいない話です。
折角の議論の場であれば、与党野党を問わずに、真剣に問題解決に向けての話し合いをするべきですが、そういう姿勢は政府閣僚にはほとんどないといっていいでしょう。
ですから見ていて虚しくなるわけです。
これは、どこかで大きく間違っているというべきでしょう。

言葉遊びをするのではなく、立場を超えて誠実に話し合う。
それがなければ国会は存在意義がありません。
そろそろ国会幻想は捨てなければいけません。
しかし、国会でなければ、どこで国家の方針は決められているのでしょうか。
政治の枠組みそのものが、組み替えられる時期に来ているように思います。

■組織起点から個人起点へ(2013年10月24日)
今朝の朝日新聞に小さな記事でしたが、こんな記事がありました。

自民党の村上誠一郎・元行政改革担当相が、機密を漏らした公務員らの罰則を強化する特定秘密保護法案を了承した22日の自民党総務会を途中退席した。村上氏は朝日新聞の取材に対し、「基本的人権にかかわる法案であり、いろいろなケースを想定して熟議すべきだ」と述べた。衆院本会議での法案採決への態度は、審議を踏まえて判断する考えも示した。

最近の議員は、党の大きな流れに身を任せるだけで、自分の主張を失っている人ばかりだと思っていましたが、きちんと自分の考えで行動する議員がまだいることはうれしいことです。
昨今の社会を生きる多くの人は、自分の主張などしていては、生き残れないとばかり、魂を売るような生き方をしがちですが、その典型が政治家だろうと思っています。
ですからこういう動きは大歓迎です。
しかし、村上さんにしても、たぶんここまでが限界かもしれません。
村上さんの動きに同調する人が出てくればいいのですが、そういう主体性のある人は議員にはならない時代なのでしょう。
民主党から離党者が続出した時に、少し期待したいのですが、そうはなりませんでした。
やはり組織に寄生しているのが、生きやすいのでしょう。

私は、組織から離脱して25年ほどたちます。
組織から離脱すると「自由」になると思っていましたが、それは半分は正しいですが、半分は間違っています。
組織の中で実行できることと組織を離れて実行できることとは、大きく違うのです。
組織という所属拠点を持たないと、行動はなかなかしにくくなります。
いまの日本の社会は、まだ組織起点で発想されています。
だから、自らの考えとはずれていっても、多くの議員が民主党に残ったのでしょう。
組織に残るか離れるか、どちらがいいかは、一概に評価できません。
わがままな私は、組織を離れる道を選びますが、それが良いとは限りません。
組織に残る決断をした人を責めることはできないでしょう。

しかし、組織で仕事をするか、個人で仕事をするかは、いま大きく環境が変わってきています。
個人でも大きな仕事ができる時代になったわけです。
組織と個人の関係は、特に仕事をする上では大きく変わりつつあるように思います。

ようやく組織起点の社会から個人起点の社会へと変わりだしたような気がします。

■「農業は人々の暮らしの根源的基盤」(2013年10月25日)
昨夜のアグリケアサロンを開催しました。
農業と福祉を重ねて考えようという主旨で昨年立ち上げた集まりです。
今回は、農業と福祉のいずれの分野で、長年、実践と研究を重ねている熊本の宮田喜代志さんが「農業はなぜ根源的基盤と言えるのか」を「水」を切り口に話してくれ、それを材料に話し合いが盛り上がりました。
宮田さんは、私が取り組んでいるコムケア活動に最初から共感してくれた方で、いまもいつも新鮮な刺激を与えてくださいます。

この集まりも、最初は、農水省や農協関係の人や福祉施設に関わる人が多かったのですが、最近はむしろ新しい視点で農業に関わりだした人の参加が多くなってきました。
私が考える「大きな農業」の発想からは、とてもうれしいことですが、問題はそれをどう具体的な活動へとつなげていくかです。

今回は、医療機器関係のお仕事をしているうちに食の安全性の問題に行き当たり、いまは坂戸の自分の畑で栽培したウコンなどを素材にした無添加の健康錠剤ウコッピーをつくっている宮澤聖市さんという方が初めて参加してくれました。
宮澤さんは、医療機器業界に関わりながら、たとえば人工透析の患者が増えてくるとか、アレルギーに悩む人が激増しているという事実を知り、私たちの食のありかたに問題があるのではないかという思いを強めて、結局、みずからで安全な食に関わる活動を始められたのです。
こういう人が、最近は増えています。

宮田さんの話は、実践を踏まえての話なので、いつも説得力があります。
「農法」という言葉も今回、宮田さんから出てきました。
日本の農業の歴史にも詳しい平田さんは、専業農家は最近のものだと話してくれました。
また最近の農業はお金をかけすぎではないかというまた最近の農業はお金をかけすぎではないかという話も出ました。
それに関しては、農業の工業化により、農という文化を金銭の市場にしてしまうことだったのではないかと私も意見を言わせてもらいました。
そうした動きをつくったのは、まさに「産業化志向の教育」の成果だろうと私は思っています。
その意味で、宮田さんのいう「農業は人々の暮らしの根源的基盤」という指摘に共感します。
問題は、その基盤である農を基軸にした社会の組み替えです。
福祉も教育も、今とは多分、まったく違うものになるでしょう。
そうした動きをどう生み出すか。
今各地で起こっている新しい動きを束ねる「理念」や「スローガン」が必要になってきているように思います。

いつもながら、刺激の多いサロンでした。
メーリングリストもあります。
関心のある方は、参加を歓迎します。

■貧しくもなく、富めることもなく、ただ平安に(2013年10月26日)
今日はフォワードカフェという集まりをやりました。
面白かったのですが、そこで聞いた話がとても気にいったので、そのことを紹介させてもらいます。

参加者の一人が、今月40万円が必要になって、そのことをクリスチャンの奥さんに話したそうです。
奥さんがどうしても必要なのかと言うので、どうしても必要だと答えると、奥さんはそれでは私も祈るのであなたも祈りなさいと言ったそうです。
そこで彼は「40万円が手に入りますように」と祈りました。
そうしたら奥さんが、そうではなく、「貧しくならないように、富めるようにもならないように、ただ安泰に暮らせるように」と祈りなさいと言ったそうです。
残念ながら、まだ40万円は手に入っていないそうですが、とても共感できる話です。

私の祈り方が、最近、いささか不純だったなと反省しました。
みなさんはいかがでしょうか。

■ヘレヘレじいさん(2013年10月27日)
昨日の「祈り」の話のように、ハッとする話です。
今朝のテレビ「こころの時代」で、「幸せの形と向き合う」というのを再放送していました。
長年、ブータンの研究に取り組んでいる宗教人類学者で僧侶の本林靖久さんが、お話の中で、ブータンの民話「ヘレヘレじいさん」を紹介していました。

あるおじいさんが、畑を耕していて、大きなトルコ石を発見しました。
「これを売ればお金持ちだ」と思ったおじいさんは、大喜びで市場に向かいます。
ところが、その途中で次々と村人に出会い、そこで交換を重ねていきます。
まずトルコ石を馬と交換し、その馬を年老いた牛と、つづいて羊、鶏と交換してしまうのです。
次に出会ったのが、楽しそうな歌を歌っている村人です。
そして、その歌を教わったお礼に鶏を渡してしまいます。
しかもそれで終わりません。
おじいさんは、その歌を歌いながら楽しく帰路につくのですが、途中で転んでしまい、その歌を忘れてしまいます。
結局、村に戻ってきた時には何もなかった。
しかし、その後も、貧しくとも楽しく暮らしたというお話です。

みなさんもそうでしょうが、私はすぐに日本の「わらしべ長者」の話を思い出しました。
ところが、それとはまったく反対の話です。
今の私たちの価値観からすると、ヘレヘレじいさんは損をしたことになりますが、そうではないのです。
モノやお金ではなく、他者を喜ばすことこそが喜びであり、人と人とのつながりの中で生きていくことが何よりも幸せであるということを教えてくれているのです。
ヘレヘレじいさんは、豊かで幸せな人生というものを知っていたのです。

昨日のフォワードカフェで、最初にそれぞれが自己紹介しました。
そこでコミーという会社の社長の小宮山さんが、私との出会いの話をしてくれました。
ビジネス関係の集まりで、私が講演をしたのだそうです。
みんな「オレのものを増やそう」と騒いでいるのに、佐藤さんは「みんなのものだ」という話をしたというのです。
どうも私は場違いの話をしてしまったようです。
しかし、そのおかげで小宮山さんと出会えたのです。
小宮山さんの話を聞きながら、最近の私はやはりちょっと私欲が出てきているのではないかと反省しました。
ヘレヘレじいさんのように、豊かな人生を過ごすことを忘れてきているのではないか。

2日間にわたり、自らの生き方を問い質す話を耳にしたことに感謝したいと思います。

■「望む」「できる」「知る」(2013年10月27日)
「生き方」に関わることを2つ書いたので、どうせなら3部作にしようと思います。

バルザックの「人間喜劇」の一編に、『あら皮』という小説があります。
その作品のことを思い出しました。

野心に燃えた若者が、骨董屋の老人から、なんでも望みをかなえてくれるという「あら皮」(なめしていない皮)をもらいます。
その時、その老人はこう話すのです。

ひとつ手短に、人生の大きな秘密というものを教えて進ぜよう。
人間というものは、本能でやらかすふたつの行為によって命の源をからし、身を弱らしてゆくものだ。この死の原因となるふたつのもののさまざまな姿は、みんな「望む」と「できる」というふたつの動詞によって示されている。
この人間の行為の両端のあいだには、賢い人だけがつかむことのできる、もうひとつの言葉がある。このわしも、そのおかげで幸せになれたし、長命もできたというわけだ。
「望む」という気持はわれわれを焼き、「できる」という気持はわれわれを滅ぼす。ところが「知る」というやつがあって、それがわしらの弱い肉体を常住不断にやすらかにしてくれる。

これまた含蓄ある話です。
私たちは、多くの場合、「知る」とついつい「望む」「できる」へと行動を起こしてしまいます。
しかし、「知る」先にあるのは「望む」「できる」だけではないというのです。
では何があるのか。
みなさん、何だと思われますか。

これで「生き方3部作」は終わります。

■知識のあとからくる博学の無知(2013年10月28日)
昨日の時評編で、「「知る」先にあるのは「望む」「できる」だけではない。では何があるのか」と質問を投げかけました。
読んだ人から、「感謝」ではないかというコメントがありました。
たしかに、知ることで感謝の念が起こることよくあります、
しかし、私が考えている、「知る」の先にあるものは、やはり「知る」なのです。
つまり「知る」は無限に続いていくわけです。

モンテスキューは、その作品「エセー」にこう書いています。

無知には、知識の前にある初歩的な無知と、もうひとつ、知識のあとからくる博学の無知がある。

最近では、東大の安冨さんが同じような発言をされています。
大学教授にも、そういう人が現れたことが実にうれしいです。
大学教授ほど、無知な人はいないのではないかと、私はずっと疑ってきましたから。

何かを知るということは、その先にさらにたくさんの知らないことを知ることです。
知の好奇心は、こうして無限に広がっていきます。
しかも、その広がり方は指数関数的に加速されます。
つまり、知るということは、知らないということに気づくことでもあるのです。
さらにいえば、知ると知らないとは実はコインの裏表でもあるわけです。
博学と無知とは、同義語なのです。

木原武一さんは、「快楽の哲学」のなかで、「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」という自覚こそ、知的快楽の最大の原動力ではなかろうか、と書いていますが、知的快楽などと言わずとも、「私は何を知らないか」という自覚をもつことこそ、豊かで平安な人生の基礎だろうと思います。
しかし、人は、知ってしまうと、ついつい知識を振り回したくなる。
小賢しい私などにはよくあることですが、知識を振り回した後の自己嫌悪感を何回味わったことでしょう。
そんな時間があれば、さらにその先の無知な世界へと進むのがいいのです。
無知に安住したくなる自分がいやになるわけです。

ところで、知ってどうするのかと問われそうです。
それにも応えておく必要もありそうです。
知ったら、自ずと自分の行動は変わってきます。
「望む」「できる」と他人事で思考せずに、一人称自動詞で動き出しているはずです。
時には、おろおろすることもありますが、知らずにおろおろするのではなく、知った上でのおろおろなのです。

知ることこそ、人が人らしく生きることだろうと思います。
念のために言えば、ここで「知る」とは学問的な知識に限った話ではありません。
むしろ現場における体験の知こそ、最高の知だと思います。
人生は知ることの積み重ねです。
そうした人の生き方を、なぜかいまさえぎるような社会になってきているような不安を感じています。
もしその不安が正しければ、人が人でなくなろうとしているのです。

人が人でなくなったら何になるのか。
さてまた問題が生まれてしまいました。
その答はあまりにも明白ですので、書くのは控えます。
それにこのブログの時評編では、繰り返し書いてきたつもりですので。

■隠蔽と偽装で覆われた社会(2013年10月29日)
「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」が公認されて、広がりだしたのは、小泉政権からだと私は思っています。
それについてはホームページで書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m2

あれから10年以上が経ちましたが、社会の隅々までその文化は広がりました。
そして、いまや隠蔽と偽装が社会を覆いだしています。
阪急阪神阪急ホテルやリッツ・カールトンのメニュー偽装は、そうしたことの一つの現れでしょう。
相変わらず経営者には罪の意識はありませんが、それは「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の中でのビジネスとしては、許される逸脱だと思っているからでしょう。

秘密保護法やTPPも、「隠蔽と偽装」で覆われています。
原発事故や原発再稼動に関する動きも、「隠蔽と偽装」が幾重にも重なっていて、当事者でさえ、どこまでが「隠蔽と偽装」かわからなくなっているはずです。
秘密保護法の議論で明らかになってきたことは、隠蔽が隠滅に向かっていることです。
偽装はめんどうなので、隠蔽したくなるわけですが、隠蔽も面倒になって、すべてを隠滅してしまうと言う動きになっていくわけです。
こうなるともう防ぎようがありません。
社会は歴史によって支えられますが、記録の隠滅は歴史の隠滅につながります。
それは未来の隠滅でもあるわけです。

多くの人は、しかし、真実よりも偽装や隠蔽を好みがちです。
余計なことを考えずに済むからです。
せっかく高いお金を出して味わった料理が偽装だったと知ったら悲しいでしょう。
騙されていたほうが幸せなこともあるわけです。
たとえがメニューなので納得し難いでしょうが、原発事故はどうでしょうか。
どこかで「騙されていたい」という心理は私たちにないでしょうか。
経済成長が自分の生活を豊かにしてくれるということを信じたいと思う人も多いでしょう。
そんなことはまったくないことを、統計は教えてくれていますが、それを調べるよりも、有名なエコノミストの言葉を信ずるのが楽でしょう。
「成長とは99%の国民の賃金・所得が停滞することである」という経済学者の声よりも、経済成長で給与も上がるという甘言を弄する経済学者のほうに期待してしまうのが、多くの人です。
甘言は耳に優しく、真実は耳に痛いのです。

隠蔽や偽装が広がり、日常化した理由の一つは、責任の所在が曖昧になってきたからです。
隠蔽や偽装は、かつては責任を問うことが可能でした。
しかし、いまはその責任を問うのはきわめて難しくなりました。
組織や制度が、個人の主体性に大きな制約を与えるようになってきているからです。
そのおかげで、責任回避することが簡単になってきているのです。
隠蔽や偽装、さらには隠滅の文化は、さらに広がっていくでしょう。
それが、社会を構成する人間、あるいは人間性を隠滅していくことにならなければいいのですが。

せめて私自身は、偽装には惑わされずに、隠蔽の向こうを見据えながら、隠蔽や偽装とは無縁の生き方をしようと思っています。

ところで、こうした流れをつくった小泉元首相は、最近「脱原発」を叫びだしました。
私には、極めて不快です。

■「知る勇気をもて」(2013年10月30日)
博学の無知と偽装と隠蔽の社会と書いてくると、やはりカントの警告を思い出さないわけにはいきません。
引用が多くなりますが、書いておきたくなりました。

カントは、「啓蒙とは何か」という小論の中でこう書いています。

啓蒙とは、人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。

偽装と隠蔽の広がりは、無知での安住と裏表です。
隠蔽や偽装は無知によって支えられているからです。
原発に関しては、それが40年も続いてきているのです。
そこに立ち返らない反原発は虚しいスローガンでしかありません。

カントは、自らの身を例にして、わかりやすい説明をしてくれています。

わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。

今の私たちの暮らしは、あまりに多くの外部のものに依存しています。
たとえば、健康のためにサプリメントに依存することへの違和感を持つ人はそう多くはないでしょう。
依存が日常化しているからです。
そして、それこそが「経済成長」に基礎だからです。

カントはまた、こうも書いています。

ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

ではどうしたそこから抜け出せるか。
カントは、「知ることに果敢であれ」ということだと言います。
以前も書いたことがありますが、「自分の理性を使う勇気をもて」ということです。
それこそが、人間だからです。
それは決して楽なことではありませんが、自分を生きることこそが人生であると思えば、自ずと生まれてくる勇気です、

カントは「後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者にする」と書いていますが、まるで現代の状況を予見しているようにも思えます。
愚か者から抜け出るように、反省しなければいけません。

■効果的な放射性セシウムの除染法(2013年10月31日)
以前、私のホームページに書いたことがありますが、株式会社オクトの社長の田中さんから教えてもらった土壌中の放射性物質の除去方法の話です。

オクトが開発した「パワーパーク」は、硫酸イオンを多く含んだ酸性の土壌改良材です
それが、土壌中の放射性物質の除去にとても効果的なのだそうです。
なぜ除染効果があるかは、学理的に解析されているわけではないのですが、田中さんが実際に試験したところ、明確に効果があったそうです。
その後、独立行政法人産業技術総合研究所で評価してもらったところ、効果ありの評価結果をもらったそうです。
その書類も見せてもらいました。
「パワーパーク」は土壌改良材なので、処理土壌が無害になり、有効に利用できるそうです。

ところが、それを採用してくれるところが見つかりません。
福島にも働きかけていますが、霞が関のお墨付きがもらえないと、助成の対象にならないので、なかなか取り上げてくれる自治体が出てきません。
それが田中さんの悔しさです。
せっかく効果があるとわかっているのに、使ってもらえない。

前にもこんなことがあったなということを思い出しました。
土壌菌がいまほど認知されていなかった20年ほど前に、内水護さんという人に会いました。
実際にそれを使った酪農家も見せてもらいました。
理屈はわかりませんが、その効用を実感しました。
しかし、なぜか内水さんの活動は表に出てきませんでした。
いろんな噂やいささか物騒な話が耳に入ってきました。
内水さんとお会いする時は、スパイ映画のように、身を隠しながら会った記憶があります。
当時は、まだ私も政府や財界がまさか命まではとらないだろうと思っていましたので、大げさだなと思っていました。
しかし、話を聞くにつけ、恐ろしさが伝わってきました。

私は、それ以来、霞が関のお墨付きや、いわゆるエビデンスなるものは、まったく信頼しなくなりました。
本当に効果があるものは、消される運命にあるのだとも思うようになりました。
それこそが、近代のジレンマなのです。
それに気づくと世界はまるで違って見えてきます。
そして、すべての価値観が反転するのです。

そんなことがあったので、田中さんの「パワーパーク」を信ずることにしました。
そして、応援することにしました。
田中さんから頼まれて、「パワーパーク」の効果を実際に体験してもらう場をつくりたいと思っています。
幸いに、私が住んでいる我孫子市はホットスポットと言われるほど汚染された地域です。
我孫子のクリーンセンターには、汚染度の高い汚泥が保管されているそうです。
それで市に協力してもらい、田中さんによる実験を開催することにしました。
11月中旬を予定しています。
関心のある方は、どうぞ一緒に体験してください。
ご連絡いただければ、日程が決まったらご連絡します。

それと、もし福島の農業関係者のグループで、そういう場を持ちたいと言うところがあれば、ご連絡ください。
今友人にお願いして、少しずつ接点を取り始めていますが、どうせならドンとやりたいです。
もし関心を持ってくれる人たちが集まってもらえるようであれば、田中さんと相談して、現地での実験ができるように考えてみます。

私自身、まだこの目で確認したわけではないので、「パワーパーク」が本当に効果があるのかどうかは保証はできません。
しかし、もし可能性があるのであれば、試す価値はあります。
本気で放射性汚染の解決を取り組んでいるのであれば、それくらいのことはすべきでしょう。
であれば、自分でがんばらないといけません。
また時間破産しそうですが、知った以上は動かなければいけません。
だから本当は、新しいことを知りたくはないのですが、どうにも心身が動いてしまいます。
困ったものです。

■所有財産の共和制(2013年11月2日)
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「コモンウェルス」をようやく読み出しましたが、彼らの思考がかなり具体的になってきているのが読み取れます。
その出発点にあるのが、次の考えです。

三大ブルジョア革命から今日にいたるまで、あらゆる共和制は所有財産の共和制である。

同時に、所有財産は「貧者のマルチチュード」の存在に支えられていることを明確にしています。
本書の副題は、「〈帝国〉を超える革命論」ですが、その革命の主体はまさに所有財産の共和制(言い換えれば〈近代〉あるいは〈帝国〉)の中に潜んでいるわけです。
これは刺激的なメッセージです。

それはともかく、最近のアベノミクスにまつわる報道は、まさにこのことをわかりやすく示しています。
たとえば、企業を税制面で優遇し従業員のベアをしてもらい、給与が上がった従業員が消費を増やし、企業の売上を高めて、企業の収益が上がるという「好循環」が盛んに言われていますが、それは「所有財産の共和制」の世界の話です。
大企業の正規社員だけで社会が構成されていれば、その循環は成り立ちますが、社会の多くの人は、その循環の枠外にいます。
その昔、自動車会社のフォードは、従業員の日当を倍にし、従業員でも自動車を買えるようにし、一挙に自動車市場を拡大したといわれます。
これは、枠外にいた人を「所有財産の共和制」の「所有者」にした話です。
一方、サブプライムローンによって住宅購買者を増やしたのは、「所有財産の共和制」を維持するために枠外の人を利用しただけの話です。
アベノミクスの思想は、後者に近いでしょう。
にもかかわらず、テレビの解説は「所有財産の共和制」の内部の話を、さも社会全体の話のように報じています。

経済成長によって生活が豊かになるのは、一部の人です。
逆に経済成長によって生活を貧しくさせられる人たちがいることを忘れてはなりません。
資本主義経済の成立と発展は、近代奴隷制の存在を重要な要素にしていたとネグリは書いていますが、「所有財産の共和制」もまた経済成長の犠牲となる人たちによって支えられています。
その構造を変えなければ、世界は豊かにならないとネグリたちは考えています。

ちなみに、雇用労働こそが「所有財産の共和制」を支える仕組みです。
そして、「所有財産の共和制」には見事なほどに見えにくい「階層構造」が形成されています。
アベノミクスの報道を注意深く見ていると、その階層構造が垣間見えてくるように思います。

アベノミクス報道のおかげで、「コモンウェルス」がとても理解しやすくなりました。

■砂上の上の経済(2013年11月2日)
以前も書きましたが、最近の大企業の業績の動き方は異常です。
大赤字の会社が一転して過去最高の黒字になるとかいうことがよくあります。
パナソニックが6800億円の赤字から過去最高の1700億円の黒字になったという報道がつい一昨日ありましたが、どう考えてもおかしな話です。
東電の黒字も理解し難いですが。

わが家の収入が、そんなに「乱高下」したら、家庭はめちゃくちゃになるでしょう。
もっとも、個人の家で、大幅な収入増があるとしたら、その理由は、宝くじが当たるか、ギャンブルで勝つか、巨額な遺産が入るか、あるいは銀行強盗するか、くらいしか理由は考えられませんが、いずれにしろ家庭はおかしくなりかねません。

最近のように、利益が乱高下する大企業は、なぜ乱高下するのでしょうか。
例えば、今回のパナソニックはリストラ効果が大きいようです。
だとしたら、誰かの犠牲の上に、公収益は実現したわけです。
そういえば、JTは業績改善のために2000人のリストラをすると報道されていました。
どこかおかしくないでしょうか。

企業の利益が乱高下するのはまじめに仕事をすることで利益をあげていない仕組みになっているからだろうと思います。
まさか銀行強盗はしていないでしょうが、もしかしたら同じようなことをしているのかもしれません。

それはそれとして、企業収益の報道をみていると、どうも最近の企業の収益構造は砂上の楼閣ではないかという気がしてなりません。
さらに言えば、最近の経済そのものが、砂上の楼閣になってきているのかもしれません。

お金に振り回される生活から早く抜け出さないといけません。

■国家の再登場―権威や権力になぜ依存したがるのか(2013年11月3日)
「ナショナリズムの復権」の著者、先崎彰容さんはこう書いています。

震災以前、多くの人は、原則的に戦後という舞台を動きまわり戦後的価値観とでも呼ぶべきものを肯定していたのではなかったか。にもかかわらず、震災と原発事故が起こるや否や、一転して自分の所属していた空間を忘れ去り、今度は戦後そのものを批判し、国家に問題解決を行うべきだと迫り、国家の再登場を促しているのではないか。

とりわけ原発事故への対応に関しては、東電では対応できない、国家が中心になって解決に取り組むべきだという声が強くなっています。
私もそういう意見に傾いていましたが、この文章を読んで、ハッとしました。
私もまた、無責任な時流迎合主義者だったわけです。
国家の再登場の誘いに、あまりに無防備でした。

福島に皇太子夫妻が行かれました。
夫妻に会った人たちは間違いなく感動したでしょう。
テレビでそうした映像を見るたびに、いつも不思議な感覚に襲われます。
そして、もし私が被災してそこにいたらどうだろうか、と考えます。
やはり感激して、すべてを水に流すでしょうか。
そうならない自信はありません。
水俣を訪問した天皇夫妻に、石牟礼道子さんも感激したそうです。
複雑な気持ちで、その報道を聞きました。

園遊会で天皇に手紙を渡した山本太郎議員が話題になっています。
どうも評判がよくないようです。
私も彼の行動は支持しませんが、どうでもいい瑣末な話のように思います。

ただ、残念なのは、彼もまた、国家や権威、権力に依存する人だったと知ったことです。
彼には、新しい人間像を期待していましたので、がっかりしてしまいました。
天皇に何を期待していたのか。
お上依存では、新しい社会はつくれません。
せいぜいが、サブシステムでしかありません。

いまネグリの「コモンウェルス」を読んでいます。
ネグリのマルチチュード発想は、上下構造を前提としたものではなく、多彩な活動の横の連携からこそ、新しい動きが起こるとしています。
彼らは、新しいパラダイムにもとづく「別の近代性」という言葉を使っていますが、それに関して、こう書いています。

私たちは「別の近代性」という語を、近代性とそれを規定する権力関係からの決定的な切断を指し示すために用いている。というのも、私たちが考える別の近代性は、反近代性の伝統から出てくるものであると同時に、対立と抵抗を超えた拡がりをもつという点で、反近代性の通常の経路からはずれるものでもあるからだ。

新しい風は、お上に依存している人たちからは生まれません。
山本さんには、ネグリをきちんと読んでほしいものです。
時代の大きな動きをしらなければ、新しい価値は生み出せません。
知っているだけでも、生み出せませんが。

■「小さな満足、大きな不満」(2013年11月5日)
今朝の朝日新聞の朝刊に、「クール便、現場は悲鳴 「時間指定」も負担大に」という大きな見出し記事が出ていました。
そういえば、最近、ヤマト運輸のクール便の保管方法が問題になっていました。
ヤマト運輸は、とても素晴らしい会社で、私も知人が多いのですが、この事件はある意味では予想されたものでした。
私の友人が、昨年だったと思いますが、同社の「ベース」という運送品の集積場所でアルバイトした話を聞かせてもらいました。
それによるとどうも管理システムが整備されていないようでした。
その話を、お付き合いのある同社の人に話したことがありますが、私自身はいつか問題が起きなければいいなと思っていました。
会社の事件の予兆は、必ずあるものです。
もちろん予兆に気づいて解決される場合が多いのですが。

そんなことがあったので、問題が発覚した時には、とても残念な気がしました。
あの時に、もっと強く言っておけばよかったとも思いました。
しかし、多くの場合、そうしたことは後知恵なのです。

ヤマト運輸は、顧客重視のとても誠実な会社だと思っています。
しかし、今朝の朝日の記事を読んで、20年前に書いた小論を思い出しました。
消費者としての「小さな満足」から生活者としての「大きな満足」に私たちの生き方を変えなければいけないのではないかという話です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cs-ronnbun.htm

ヤマトの宅急便システムは、とてもありがたい、便利な仕組みです。
しかし、急いで翌日に届けるために、どれだけの負担がドライバーにかかっているのか、と思うと、宅急便を使っていいのだろうかと思うこともあります。
たしかに、早く着くことで、生鮮食品の鮮度は維持できるでしょう。
でもどこかに疑問が残ります。

ヤマト運輸を非難しているのではありません。
自分自身を含めて、私たちの生き方が、ヤマト運輸をそうさせているのですから。
私たちは、あまりにも過重なことをヤマト運輸に期待しているのではないか。
そんなことを思います。

これはなにも宅急便だけの話ででは、ありません。
食材の偽装も含めて、問題の源泉は、私たちの生き方にあるような気がしてなりません。

■第3回箸ピーサロンでは「福祉」教育のつながりもテーマです(2013年11月6日)
第3回箸ピーサロンのご案内です。

○日時:11月9日(土曜日)1時半から3時半(遅くも4時には終了)
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○参加費:500円
○ゲスト:吉田高子さん(六甲アイランド高校福祉科主任)
○申し込み先:comcare@nifty.com

今回は、六甲アイランド高校で「福祉」を担当されている吉田さんが、また神戸から参加してくださいます。
吉田さんは、第1回目の箸ピーサロンに参加され、箸ピーゲームの効用を実感されました。
そして、それを夏に開催されたアジアユースサミットで実際に参加者にやってもらったところ、大好評で、吉田さんもその効用をさらに実感されたようです。

それで当日の記録を携えて、その報告をしていただけることになりました。
当日は、アジアユースサミットでの盛り上がりの様子をDVDで見せてもらえることになりました。
あわせて、吉田さんが六甲アイランド高校で取り組んでいる、「福祉」教育のお話もしていただきます。

その理念と箸ピーゲームがどうつながるかも興味がありますが、高校生の福祉に対する考え方などもお聞きできると思います。
箸ピーという、具体的な実践から「福祉のあり方」を考える、とても興味深いサロンになるのではないかと楽しみにしています。
さまざまな活動をされている、いろんな方たちのご参加をぜひお願いしたいと思います。
気楽な会なので、気楽にご参加ください。
お会いできるのを楽しみにしています。

■ATMから出てきて、並んでいる人がいたら声をかけますか(2013年11月6日)
今日、ATMでお金を下ろしてきました。
終わって、出てきたら、何人かの人が並んでいました。
それで、当然ながら、私は待っている人に、「お待たせしました」と声をかけました。
その人は軽く会釈してくれました。

私もATMの前で並ぶことがあります。
しかし、残念ながら、前の人から「お待たせしました」とか「お先に」とかいう言葉をかけられることはほとんどありません。
それにとても違和感を持っています。
みなさんはどうでしょうか。

こうした、ちょっとした「声かけ」のことを、文化人類学者のマリノフスキーは「スモールトーク」と名付けました。
そして、そうしたスモールトークの「声かけ」が頻繁に行き交う社会ほど、人のつながりは深く、安定していると報告しています。
これに関しては、以前、挽歌編で書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2011/11/post-d697.html

いまの社会でかけているのは、スモールトークではないかと私は思っていますが、過剰なほどにスモールトークが行き交っている世界もあります。
ネットの世界です。
アップルが普及した理由の一つとして、パソコン操作にスモールトークを持ち込んだことがあげられます。
そして、ネットの世界では、いろんな形でスモールトークが盛んです。
それが若者たちのネット依存症にも無関係ではないでしょう。

とくにフェイスブックでは、「いいね」というスモールトークが重要な役割を果たしています。
私は、「いいね」がとても嫌いです。
私のフェイスブックの記事は長い文章が多いのですが、たぶん読まずに「いいね」をしてしまう人が少なくないのです。
とても違和感があります。
「いいね」は、軽いスモールトークであり、「見ているよ」くらいの意味だとは理解していますが、どうしても過剰な反応は無反応と同じだと石頭的に考えてしまうのです。

ネットではスモールトークが広がっているのに、どうして実際の生の現場でのスモールトークは消えだしているのでしょうか。
そこに大きな不安を感じています。

フェイスブックで「いいね」を押すくらいの軽さで、生で人と触れ合うリアルな世界でも、気楽にスモールトークを増やしていければ、社会はもっと住みやすくなるでしょう。
もし共感してもらえるようであれば、まずはATMからスモールトークをはじめてもらえるとうれしいです。

■すべてが経済成長支援を向いている(2013年11月8日)
昨日、日本子どもNPOセンターの代表理事の小木さんと久しぶりにお話しました。
日本子どもNPOセンターは、全国の子育て支援関係のNPOをつないでいく発想でつくられたNPO法人です。
一時はかなりの助成金が支給されて、有給スタッフもいれて活動も華やかでしたが、助成金が減少するとともに、財政難になり、資金的に立ち行かなくなったため、暫定的に私の湯島のオフィスを事務局に提供しているのです。

小木さんと2人だけでゆっくりお話しするのはこれがはじめてです。
いろいろとの話をした後、現在の子育ち環境に関する話になりました。
一番共感し合えたのは、昨今の子ども政策に子どもの視点がないと言うことです。
要するに、子どもではなく、働く両親の支援に偏っているのではないかということです。
働く両親を支援すれば、子どものためになるだろうと思いがちですが、私はまったくそうは思っていません。
うれしいことに、小木さんも同じお考えのようです。

経済成長支援のための子育て支援発想では、子どもたちは幸せにはなりません。
政府の施策だけではありません。
私が感ずるのは、NPO関係までもが同じような方向を向いているように思います。
子どもの視点で考えない子育て支援は、子どもを幸せにはしないでしょう。
これは、何も子育て分野に限りません。
最近の社会福祉政策は、どうも経済成長支援発想に陥っているのがとても気になります。
まさに、いまや経済成長市場主義です。
経済成長の意味をもう少し生活者の立場できちんと考えなければいけません。

介護保険も、介護の社会化といいながら、実際は介護の市場化を進めました。
子育て分野は、どうでしょうか。
子育ても社会化すべき分野ですが、たぶん市場化がどんどん進みそうです。
むかし、学生たちと一緒に取り組んだ、ソーシャル・フォスターリズムに基づく、保育園システムのことを思い出しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#sf1

子どもの問題は、最近縁がなくなっていますが、やはり考えて見なければいけないと思いました。
12月15日に、日本子どもNPOセンターでは全国交流会を開催します。
また案内を書かせてもらいます。

■「福祉」という言葉のイメージ(2013年11月12日)
先週、箸ピーサロンで、六甲アイランド高校で教科「福祉」の先生である吉田高子さんが話題提供してくださいました。
それに関しては、私のホームページなどでも少しだけ紹介していますが、そこで話題になったことの一つを、書いておきたいと思います。

現在、高校で、「福祉」という教科があることをご存知の方はどのくらいいるでしょうか。
私は今年のはじめに、吉田さんからお話を聞くまで、知りませんでした。
おそらく多くの人は知らないでしょう。

1999年に、文部科学省は、「福祉」という教科を新設しました。
その目的は3つありました。
「国民的教養としての福祉教育」「進路選択の一つとしての福祉教育」「福祉人材の養成としての福祉教育」です。
おそらく、後者の2つが真の狙いだったと思われます。
ところが、六甲アイランド高校では、最初の目的に正面から取り組んでいるのです。
同校の目指す福祉教育は、「すべての科目に底通する理念としての、「自由」「平等」「参加」「和平」を基本に置いて、生徒たちが、「普通に暮らすしあわせ」とは何かを探求し、その実現を志向すること、さらに、すべての人の「人間としてのしあわせ」の実現を目指すことなのだそうです。
吉田さんは「福祉」を広義に捉え、「幸せづくり」と考えています。

サロンでは、こうしたことと「福祉」という言葉が多くの人にはつながらなかったようです。
つまり、「福祉」という言葉がイメージするのは、介護であり、子育てであり、障害者支援でありということなのです。
同時に、吉田さんたちが目指すことの大切さには、みんなとても共感しました。
そして、吉田さんたちのような「福祉」の学習が、多くの学校に広がってほしいというのが大方のご意見だったように思います。
それがなぜ広がらないのか。
その理由の一つは、「福祉」という言葉がよくないのではないかということになりました。
何か「適切な言葉」はないでしょうか。

吉田さんたちの教科を選んだ生徒たちは、卒業後もとても豊かな生き方をしているようです。
もちろん「経済的な」という意味ではありません。
そして、卒業後も、なにかあれば、学校に立ち寄ってくれているようです。

教育とは何か、学校とは何か、を考えさせられるとても大きな問題提起があったような気がします。
吉田さんたちの活動をもっと多くの人たちに知ってもらいたいと思います。
だれか力を貸してくれませんか。

■近代的な共済事業と協同組合の終焉(2013年11月14日)
一昨日、長らく共済事業にかかわり、共済事業の研究に取り組んでいる相馬健次さんのお話をお聞きしました。
共済事業の歴史に関して、最近本にまとめられたそうで、それを踏まえてのお話でした。

2005年の保険法改正を契機に、日本の共済事業はその存続が危ぶまれる状況になっています。
そのことを友人知人から教えてもらい、私もそれに異を唱えていた共済研究会に参加させてもらいました。
そこで知り合ったのが相馬さんです。
共済研究会(私は今は退会しています)は、緊急避難的にある一定の成果を挙げましたが、基本的には流れに押されてきています。
その理由は、明確です。
自らの思想性や運動性を大事にせずに、経済事業性を軸にしてしまったからです。
日本の共済事業陣営は、ある人に言わせると、新自由主義経済に傾いてしまったのです。
そのあたりのことは、これまで何回か、書いてきました。

共済事業や協同組合(共済とは協同組合保険であるという捉え方がされていました)は、今こそ、その価値を再発見すべきですが、残念ながらそうはなっていません。
自らの手で自らを葬り去ろうとしているように思えてなりません。

相馬さんは、今春発行された「協同組合研究」に「共済事業とは何か」を寄稿しています。
共済に関心のある方は、ぜひ一読されることをお勧めしますが、そこで対象とされているのは、「近代的な共済事業」です。
私自身は、そもそも共済とか協同組合は近代に馴染まないものと考えています。
その視点から考えると、それらは近代に埋め込まれた「進化の種子」と考えられます。
つまり、近代がある限界に行きついた時に、新しい道を開く起爆剤になりうる要素です。
その意味で、企業は協同組合から、保険事業は共済事業から、まなぶべきことが多いだろうと思っていました。

ところで、近代的な共済事業を類型化する時に、「先駆的共済の残存形態」という表現が出てきます。
相馬さんの類型図にも出てきますが、たぶんここに大きなヒントがあります。
というのは、「先駆的共済の残存形態」というのは、たぶん日本の生活文化の中で育ってきた、頼母子講とか結い、舫い、あるいは講だろうと思いますが、それらの組織原理は水平的なプラットフォームです。
それに対して、近代の組織原理は、階層的な分業構造なのです。
しかし、そもそも「助け合い」とか「支え合い」と言う概念は、階層とは無縁です。
つまり、近代共済事業は所詮は事業主あるいは事業経営者のための制度になっていくのです。
それは協同組合も同じことです。
組合員が主役という建前はともかく、組織原理が違いますから、そこからは「助け合い」「支え合い」の「合い」が抜けてしまうわけです。

そもそも共済や協同組合は、近代性を象徴する「所有財産」をベースにした仕組みではなく、生活をベースにした仕組みだったはずです。
それが見事に、近代化の流れの中で、経済事業へと変質していったわけです。
そして、金銭経済と同じように、規模の利益が追求され、成長発想がでてきたわけです。
生活の装置ではなく、経済の装置に変質したわけです。

こうした事例は、何も協同組合や共済に限ったことではありません。
様々な分野でみられることです。
近代は、さまざまな分野に、近代を超える予想を埋め込んでいるのです。

「先駆的な残存形態」という表現には、「先駆」と「残存」という、いささか矛盾した言葉が混在しているところに、大きな意味を感じます。
最近の共済事業や協同組合の動きを見ていると、近代は終わったと感じますが、その一方で、「先駆的な残存形態」から学んだ、新しい共済事業や協同組合が生まれだしているように思います。
いま、必要なのは、そうした「先駆的な残存形態」をもう一度、しっかりと学ぶことではないかと思います。

私の25年前のビジョンは大企業の終焉でしたが、その先に協同組合をイメージしていました。しかし、その協同組合もまた大企業と同質化してしまい、同じ道を歩み出しているような気がします。
協同組合や共済事業から新しい動きが出てこないものか。
アメリカでは、ケアリング・エコノミクスやシェア・エコノミクスが唱えられだしました。
ネグリとハートは、「もうひとつの近代」を構想しています。
まだ遅くないような気がします。

■公と共(2013年11月15日)
昨日、共済のことについて少し書いたので、改めて、「公」と「共」について書きたくなりました。
「新しい公共」という言葉が一時はやりましたが、私にはわかりにくい言葉でした。
なぜなら、「公」と「共」とはまったく別のものだと考えているからです。
最近の言葉を使えば、「公」はガバナント発想、「共」はガバナンス発想だと思います。

私は我孫子市に住んでいますが、20年ほど前、我孫子駅北口前の開発のために、そこにあった市有地の周りに、誰も入れないように網が張り巡らされました。
どうせあいているなら、自転車置き場にしたらいいのにと、私は思いました。
市有地は市民みんなのものだろうと思っていましたが、市有地とは市民のものではないのだと思い知らされました。

建築家の大学の先生から聞いた話ですが、たしか入谷のある住宅地の真ん中に都の所有地があったそうです。
近くの住民が勝手に野菜や花を植えるので、ある時、やはり周囲に網が張られ、誰も入れなくなってしまいました。
ところが、手入れが十分でなかったために雑草が生い茂り、近所迷惑な存在になったそうです。
周辺の住民が奪還策を考えました。
雑草を刈るためにという口実で、住民が都からカギを借り、草刈りをした後、こっそりカギを複製してしまったのです。
そして、その後は、そのカギでそこに出入りし、みんなできれいな花畑をつくったというのです。
もちろん管理者である都には内緒です。
20年ほど前の話なので、不正確かもしれませんが、大筋は間違っていないはずです。

公有地は勝手には使えない土地です。
つまり私有地と同じ、排他的な空間です。
共有地はみんなが使える土地です。
もちろん、だれでも使えるとは限りませんが、それは「共」をどう考えるかの問題です。
「開かれた共」という概念もあります。

この2つの事例が、「公」と「共」の違いを示しています。
「公」は「大きな家」という意味ですから、「組織を起点」にした概念で、統治概念です。
それに対して、「共」は「仲間同士」という「個人を起点」にした概念で、生活概念と言っていいでしょう。
発想の視点と発想のベクトルが違うのです。
それを一緒にして「公共」と言ってしまうのは、おかしい話です。

もちろん、「公共」という言葉は、昔からありました。
それは「公が統治する共」と言う意味だろうと私は理解しています。
「公共」と言う言葉が、「共」を排除していたわけです。
そのことを、2つの話は教えてくれています。

私が「新しい公共」という言葉が嫌いなのは、そういう理由からです。
そして、「共」という言葉にこだわっているのも、そういう理由からです。

■会社は仲間たちの挑戦の場(2013年11月17日)
昨日、「経営に夢と大義を」をテーマにしたフォーラムに参加し、パネルディスカッションのコーディネーター役をしてきました。
そこで3人の経営者に会いました。
未来工業の山田雅裕さん、ダイヤ精機の諏訪貴子さん、日本レーザーの近藤宣之さんです。
いずれも初対面です。
3人とも社長ですが、実に魅力的な人たちでした。
3人に共通するのは、「働く現場」「働いている人たち」としっかりつながっていることです。
昨今の、「言葉」だけの経営者とは違います。
それに会社を「仲間たちの場」と位置づけています。
久しぶりに気持ちの良い経営者と会えて、元気が出ました。

仲間たちが育てる場として、会社を捉えれば、会社は赤字になどはなりません。
近藤さんの会社は、経営者と社員が自発的にお金を出し合って、会社の経営権を獲得しました。
そして1億円以上あった借金もすべて返しています。
近藤さんは、会社の経営権を獲得する際に、ファンドの出資を全て断りました。
もちろん近藤さんは株式上場など考えていません。
会社は社員とお客様のものだからです。
近藤さんは改めて日本的経営を再構築し、それを世界のグローバルスタンダードにしたいと話してくれました。
おそらく50年後にはそうなっているでしょう。

諏訪さんは、職人の技能継承に力をいれ、町工場であることに誇りを持っています。
日本1、世界1の町工場が目標です。
そこに「ものづくり」の原点があるからです。

山田さんは、とても人間的で、魅力的です。
未来工業は最近では有名なのでご存知の方もいるでしょうが、創業者の先代からつい最近、社長を引き継ぎました。
創業者の血が色濃く流れているのを感じました。
なによりも共感できたのは、初対面の私にさえ、弱みを見せたことです。
自信がなければ弱みは見せられません。
それだけ私は、山田さんが好きになりました。

パネルディスカッションはぶっつけ本番だったのですが、とても楽しいものになり、皆さんに喜んでもらいましたが、聴いていたある大企業の社長だった人が、終わった後にやってきてくれました。
自分がこれからやるべきことがわかったというのです。
私自身は、25年前に大企業には見切りをつけていましたが、大企業が変わらなければ社会が変わっていかないのも事実です。
もう企業との付き合いは止めようかと思い出していたのですが、もう少し付き合うことにしました。
企業の業績を上げ、楽しい働きの場になっていくための処方は、社長がその気になれば、簡単です。
どうしてみんなそれをしないのか不思議でなりません。

■古代天皇の長寿説に関心のある人はいませんか(2013年11月19日)
日本書紀の記載では、古代天皇は極めて長寿だったとされています。
たとえば、初代の神武天皇は、52歳で即位し、在位期間は76年、したがって崩御した時には127歳と言うことになってしまいます。
神武から崇神までの10代まではその実在性も問われていますが、11代以降の天皇もその年齢にはいろいろと疑問があり、以前はよく話題になっていました。
それに関するいろんな解釈や説明もなされていました。
もっとも、最近はそういう話題はあまり聞きませんが。

その問題に果敢に取り組み、2つの仮説で編年を検証した結果、最古代の編年が600年も引き延ばされていることに気づいた人がいます。
いまからもう40年ほど前の話です。
その仮説は、古代史の泰斗である上田正昭さんや三品彰英さんに評価されながらも、ご本人の事情もあって、世に出る機会を失していました。
その方は、今はまったく別のテーマをライフワークにされていて、ご高齢にも関わらず、寝食を犠牲にしてまで、東奔西走されていますが、もう一度、40年前の仮説を誰かに聴いてほしいと思っています。

最近、私はそのことを知りました。
知った以上、見過ごすわけにはいきません。
その人に、話をしてもらう場をつくることにしました。
その人は京都在住ですので、東京に出てきてもらわなければいけません。
となると、私一人でお聞きするのは、申し訳ありません。
それで関心のある方を、少なくとも5人は集めようと考えました。
その研究者とは、現在、認知症予防ネット理事長の高林実結樹さんです。

お話をお聴きしたいという方がいたら、ご連絡ください。
5人の希望者が集まり次第、会を企画します。
よろしくお願いいたします。
連絡先は下記の通りです。
qzy00757@nifty.com

■常識を問い直す1:社会貢献という発想の傲慢さ(2013年11月19日)
先日、公共性に関して私見を書きましたが、他にも私の理解し難い言葉がたくさんあります。
たとえば、先日の経営者を対象とした公開フォーラムで盛んに使われていた「社会貢献」という言葉です。
この言葉は、使われだしてから30年近く経ちますが、私はまだ馴染めません。
「社会に貢献する」主体の立ち位置が見えないからです。
ましてや、自分で「社会に貢献する」とか「社会のために」などという人に会うと、ついつい、その目線の高さに違和感を持ってしまいます。
貢献しているかどうかは、相手が決めることです。
「私は良いことをしている」などと言う人がいたら、みなさんはどう思いますか。
私は、それは良かったねと言って、そういう人は敬遠します。
私には、そんな不遜な言葉はとても使えません。

それに「社会」って一体何かがよくわからない。
キリスト教を信奉する白人社会のために、アメリカンネイティブズを殺害し、その社会を壊したような歴史は山のようにあります。
そもそも、近代の戦争はほぼすべて「国家」という社会のために行われています。
会社を倒産させないために社員を解雇するのも、「会社」という社会のための活動です。
解雇されたほうはたまったものではありませんし、社会の捉え方を少し広げれば、「社会のため」が「社会を壊す」ことも少なくないのです。

社会を、自分もそのメンバーの一人である「人のつながり」であると私は考えていますので、自らの活動が、そのつながりをより良いものにするように、常に考えています。
それは「貢献」ではなく、その「社会」を構成しているものとして、当然のことですから。
そして、そのことが、自らの生きやすさや豊かさに繋がってくることを知っているからです。

「社会貢献」という言葉が、こんなに使われる時代には、大きな違和感を持ちます。
企業であれば、「社会貢献活動」などといわずに、「社会活動」でいいでしょう。
そして、その「社会活動」の内容が、その企業が「社会」をどう捉えているかを示唆しているはずです。
ちなみに、CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ)には、いうまでもなく「貢献」などという発想は含まれていません。

■常識を問い直す2:ワークライフバランス(2013年11月19日)
「ワークライフバランス」も違和感のある言葉です。
ワークとライフは同じ次元の言葉ではなく、むしろ「ライフ」から「ワーク」を切り取って、分割してしまったところに、大きな問題があります。
これまでの経済学では、たしかに「労働時間」と「余暇時間」、あるいは「労働時間」と「生活時間」は対比して捉えられていました。
しかし、そういう捉え方は、昨今の経済状況の中ではあまり有効ではありません。
工場での9時〜5時労働という働き方は、いまでは決して大勢ではないでしょう、
ワークは、いまや工場からも会社からも飛び出してしまったのです。
ワークとライフは、いまや分割しにくくなっています。
それをネグリとハートは「生政治的労働」と呼んでいます。

私にとって、ライフの中で仕事はとても大きな意味を持っています。
仕事をどう捉えるかによって意味合いが変わってきますが、ディーセントワークという言葉(働きがいのある仕事)が広がりだしているように、昨今では仕事の質が問われだしています。
モンテーニュは、自らの体験から、「仕事なしには、人間は心安らかに日日を送ることはできない」と書いているそうです。
みなさんの周りにも、仕事を引退して、一気に老け込んだ人がいるでしょう。
つまり、仕事は生活の核になっているのです。
クリエーティブなワークをしている人たちは、ワークそのものがライフかもしれませんし。ライフそのものがワークかもしれません。
そして、そうした人が増えていくでしょう。
ライフとワークはバランスをとるようなものではないのです。
それぞれがお互いに支持的に関わりあう概念なのです。

大切なのは、量的バランスではなく、ワークの中身です。
あるいは、「働き方」ではないかと思います。
ワークは嫌なもので、時間が短いほどいいという捉え方があるとしたら、その常識を破らないといけません。
時間を忘れるほど楽しいワークもあるのです。
そして、楽しいワークであればあるほど、ライフは生き生きしてくるのです。
ワークが楽しくなければ、どこかに間違いがあるのです。
そうは言っても、食べていくためには楽しくないワークもしなければいけないと言われるかもしれません。
それを否定するつもりはありませんが、そういう状況が日常化してしまえば、生きることの意味が問われることになりかねません。
これに関しては別途書きたいと思いますが、ここにこそ、問題の本質があるように思います。

ワークライフバランスという言葉が前提にしている状況にこそ、目を向けなければいけません。
あるいは、ワークライフバランスという言葉が、意図している企てに気づかなければいけません。

■常識を問い直す3:「ボランティア」という言葉に感ずる違和感(2013年11月20日)
私は、「ボランティア」という言葉が好きでしたが、いまはほとんど使わなくなりました。
私の理解では、「ボランティア」は「自発的な志願者」という意味だったはずです。
それがいつの間にか、「お金の対価なしで活動すること」というような意味になってきています。
つまり、金銭的対価を得るか得ないかを区別する言葉になってきてしまっているのです。
本来、金銭報酬とは無縁だったと思うのですが、いつしかこの言葉も、金銭との結びつきを深めてしまったわけです。
言葉には時代の、あるいは社会の文化が色濃く出てきます。

社会活動をしている人が「ボランティアでやっている」と言えば、無料奉仕ですというアピールに聞こえてしまいます。
つまり、私はお金などもらっていませんよと言うわけです。
そうした発想の根底には、活動は基本的に対価を得るものという考えがあるわけです。
だから、お金をもらわないで活動することに、何か価値を感ずるのでしょうか。
なんとなく、そこに「卑しさ」を感じてしまいます。
それで、私は「ボランティア」という言葉が嫌いなのです。

また「ボランティアでやってくれないか」という呼びかけは、無料奉仕してくれないかと言うことでしょう。
ボランティアが自発的なものであるならば、自発性を要求するという、おかしなことになるわけです。
これもやはり発言者の卑しさを感じます。

唯一私が理解できるのは、あの人はボランティアでやっているらしいよ、という表現です。
それは、あの人は頼まれてもいないのに自発的にやってくれているという賞賛の意味が含まれていますので、気持ちよく聞こえます。
また、ボランティアが来てくれたとか、ボランティア活動という表現には違和感はありません。
私が違和感を持つのは、自分のことをボランティアと言い、あるいは、相手にボランティアを要求したりすることだけです。
むしろそういう意味では、大災害の時は別にして、最近は本来的な意味でのボランティアは日常生活の中では減っているかもしれません。
私は、それが気になっています。

昔は(今も使われているかもしれませんが)「有償ボランティア」という言葉がありました。
それはそれで私には馴染めます。
自発的にやっている活動だが、対価をもらっているという意味ですから。
しかし、「有償ならボランティアしてもいいです」とか「有償でボランティアしてくれないか」などという表現になると、私には理解できなくなってしまいます。
それはボランティアではないだろうと思うわけです。

ボランティア活動している人のなかには、私はボランティアでやっているのだからお金をもらうわけにはいきませんと言う人もいます。
これも私には理解し難いのです。
対価と関係なく自発的にやっているのであれば、それに感謝して誰かがお金のお礼をしてくれたら、受け取ることも礼儀だろうと思うからです。
お金を出す行為にも「ボランティア」はあるはずです。
自分のボランティアは主張しながら、相手のボランティアは拒否するのでは、論理が一貫していません。
そういう人は、結局、金銭対価とボランティア活動をつなげて考えているとしか思えません。
それはボランティアとは言うべきではないでしょう。
お金を受け取ることとお金の受け取りを拒否することは、私には同じに思えます。

ボランティアという言葉が、どうも汚されてきているようで、残念です。

■常識を問い直す4:知的所有権には納得できません(2013年11月20日)
知的所有権という概念があります。
平たく言えば、表現、アイデア、技術などに関する独占使用権です。
物質に対する所有権は、他者が同時に使用することが難しいので、排他性を持っていますが、アイデアや表現は複数の人が同時に使うことが可能です。
ですから、それに排他性を与えるには制度が必要になります。
特許や著作権、商標権などがその代表です。
以前の中国は、そうしたことを無視して、勝手に類似品を作ってしまうと評判がよくありませんでした。
知的所有権を理解できない私には、何が問題なのかよくわかりませんでした。
しかし、知的所有権という概念は「常識」であって、中国のやり方は非常識な許されない行為なのでしょう。

知的所有権は、歴史的にも、古代からずっと守られてきたようですから、私の常識がおかしいのかもしれません。
しかし、私にはこの概念がどうしても納得できないのです。
知はみんなのものだろうと思うからです。
知の発見者も、できるだけ多くの人に使ってほしいのではないかと思ったりします。
それでこそ、知が活かされるはずだからです。

これは私だけの考えではありません。
アメリカの法学者ヨハイ・ペンクラーは、「われわれが開かれたコモンズとして統御するもっとも重要なリソース(それ抜きには人間という存在を考えることができないもの)は、20世紀より前のすべての知識と文化、20世紀前半の科学的知識の大部分、そして現代の科学と学術研究の大部分である」と書いているそうです。

知的所有権を財産権として認めなければ、新しい技術や作品を生み出すモチベーションが高まらないと、よく言われます。
そうでしょうか。
開発者や創造者は、お金のために取り組んでいるのでしょうか。
お金のためを考えているのは、そうした人たちを使って、利益をあげようとしている人たちなのではないでしょうか。
つまり、知的所有権制度で利益を上げているのは、創作者というよりも、それを独占して、利益を貪る人たちです。

知的成果が独占されるとどうなるか。
以前問題になりましたが、アフリカでの子ども死亡率が高まるようなことが起こるのです。
せっかく、問題を解決する方法があるのに、知的所有権の壁の前で、使えないことが少なくないのです。

ネグリとハートの「コモンウェルス」にはこう書かれています。

情報経済と知識生産の領域では、〈共〉の自由が生産に不可欠であるのは明らかだ。ネットワーク環境での〈共〉へのアクセスは、創造性と成長に欠かせない重要なものである。知的所有権による知識やコードの私有化は〈共〉の自由を破壊し、生産や革新を妨げる。

つまり、知的所有権の制度は、知的創造活動にとっては邪魔な存在だと言うのです。
全く同感です。
最近、産業界ではイノベーションという言葉がまた使われだしていますが、その一方で、技術や知識の囲い込みが進んでいます。
大企業の技術者たちの開かれたプラットフォームを作りたいと思って試みたこともありますが、技術者自体が閉じられた会社装置から出られずにいます。
それではイノベーションなど起こるはずもないでしょう。
イノベーションは、異質な出会いからしか生まれません。

このシリーズを書く気になった「公と共」にも繋がる話なのですが、ネグリたちは、「公」は「共へのアクセスを規制する存在」であると言い切っています。
本来、知識や文化は「共」の世界の財産なのです。
それを独占しようとするのが、近代経済の基本、つまり「市場化」です。
市場化するためには、所有者を特定し、金銭尺度の価値づけをしなくてはいけないのです。
それが、知的所有権制度だろうと思います。
だから私は、知的所有権が納得できません。
知的成果は人類すべてに還元されるべきです。
つまり知的財産は、人類すべてのものなのです。
それはそうでしょう。
知的財産は、個人が創りだしたわけではなく、これまでの人類の歴史の中で培われた、知の集積の上に実現しているのです。

もちろん、知的所有権制度をなくしたら、いろいろと不都合が起こるかもしれません。
でも中国で商標権もないのに、ミッキーマウスが模造されて、誰が困るのでしょうか。
偽ブランド品が横行して、何か不都合があるでしょうか。
幸いに、私には全く不都合がありません。
商標権を持っている会社や人は、利益が損なわれるかもしれません。
でも汗もかかずに、商標権だけで利益をあげることが、ほんとうに幸せなのでしょうか。
最近は何かと「資格」とか「検定」とか言って、知的所有権で不労所得を得ている人が増えていますが、そういう風潮に私は大きな危惧を感じています。

■常識を問い直す5:代議制民主主義における「代表」の意味(2013年11月22日)
世論調査によれば、まもなく成立するといわれている特定秘密保護法に関して、半数を超える人が反対しているそうです。
消費税増税も原発再稼動も、多くの世論調査によれば半数以上の人が反対でした。
しかし、国民を「代表」する議員から構成される国会では、賛成者が過半を占め、法案は成立していきます。
こうした現実を踏まえれば、「代表」とは、いったい誰を(何を)代表しているのかを、考え直す必要があります。

カール・シュミットは「代表制の特徴はまさにこの「民主制」のなかに非民主主義的な要素を導き入れる」と言っています。
ネグリとハートも、「コモンウェルス」のなかで、「代表という行為は、アイデンティティの構築において諸々の特異性を侵蝕し、均質化する」ことを指摘しています。
私が20年前に関わっていたリンカーンクラブでは代議制民主主義は民主主義に非ずという考えが根底にありました。
民主主義と民主制政治とは、私にとっては、似て非なるものです。

代表制という仕組みは、異質な多様性を大数的に束ね、特定の存在に代表性を付与する仕組みです。
新たな「代表」が生み出された途端に、「代表されるもの」と「代表するもの」は切り離され、代表の「生きた」関係は消えてしまいますが、その残存効果が「代表されるもの」の意識に作用するとともに、「代表するもの」が「代表されるもの」に能動的に働きかけ、代表のベクトルが逆転します。
つまり、「代表」という仕組みは、異質なものの連続性を「擬装」する手段ともいえます。
あるいは、多様性を縮減するために均質化を促す手段ともいえます。

それが悪いわけではなく、それは一種の「生きていくための知恵」と言っていいでしょう。
しかし、その仕組みによって選ばれた「代表」は、選んだ人を代表しているのではなく、「代表する権限」を与えられたということです、
お互いに、そこをしっかりと認識しておかないといけません。
したがって、代表する人は、代表される人たちへの説明責任を果たすとともに、その意向を常に把握していかねばなりません。
また代表される人は、代表する人の動きをきちんと把握し、自らの思うところと違う方向の場合は異を唱えていかなければいけません。
現代の代議制には、そのいずれの仕組みもつくられておらず、選挙だけが民意を実効的に発動できる機会なのです。
でもなんとなく、自分たちが選んだ議員なのだから仕方がないという思い込みがちです。
つまり、代表制は代表される側の多様な考えを封じ込める作用があるわけです。

ちなみに、昨今、話題になっている「ガバナンス」という発想は、そうした状況を踏まえての議論ですが、それは両刃の剣でもあります。
その視点で考えると、「代表」もまた違って見えてくるように思います。

■常識を問い直す 番外編2:放射線汚染の除染実験の報告その1(2013年11月22日)
以前ここでもご案内していましたが、我孫子のクリーンセンターで、道路側溝汚泥の放射線除染実験を開催しました。
市役所からも4人の方が参加してくれたほか、私の声掛けに応じて、5人の方が参加してくれました。
それぞれに社会発信力のあるみなさんです。

3500ベクレルほどの放射線量をもつ汚泥が実験材料です。
実験と言っても、極めて簡単なもので、実験者の田中さん(神戸から来てくれました)にいわせれば、中学校の理科実験のレベルで、すべてを田中さんがやってくれました。
除染実験というので、かなりの大掛かりのことを予想していた方もいましたが、あまりに簡単なので気が抜けたかもしれません。

実験はこういう方法です。
まず汚染土壌をビーカーに入れ、そこに田中さんが以前開発した土壌改良材「パワーパーク」液を加え、それを100℃近くのお湯の中で2時間、暖めます。
それだけの話なのです。
すべてをみなさんの前で行い、2時間後に試料の土壌からどれだけの放射線量が低下したかを測定します。
みんなの目の前で、温めながら、田中さんの説明と質疑応答でした。
参加者は、たぶん拍子抜けしただろうと思います。
実は私も拍子抜けてしまいました。
しかし、物事はシンプルであるほど、真実が見えてくるものです。

田中さんは、自分で確かめたことだけをベースに説明しますが、それがなぜそうなったのかは一切説明しません。
別に隠しているわけではなく、わからないからです。
そこが、私のほれ込んだところです。
わかったような気になることほど、物事を見えなくしてしまうことはありません。
田中さんは、「知識」的な理屈には呪縛されないのです。
知識は実際にやってみてしか納得しないのです。

しかし、その底にある信念は明確です。
元素は変化するという信念です。
水素から生まれたセシウムならば水素に還ってもおかしくないという極めて単純な信念です。
仮に戻らないとしても、最初から戻らないと決め付ける必要もない。
机上の余計な知識が、私たちを呪縛していると考えているのです。

そうした田中さんの発想と参加者の発想は極めて対比的です。
田中さんが体験的に発見した、「パワーパーク」液が汚染土壌からセシウムを溶融させるということを前提に、ではどうしたらその発見を活かせるかという発想をする人はほとんどいません。
まずはきちんとした「効果データ」がないとみんな動かないという意見もありましたが、科学が測定する事ができる範囲などたかが知れています。
目の前で効果があると確認できれば、それを信ずれば良いだけの話ですが、誰か権威のお墨付きがなければ認めないというのは、現場で活動していない人の言い訳でしかありません。
それにしても、みんなどうして、そういう、だれかがつくった「エビデンス」に依存するようになってしまったのでしょうか。
自分の心身で生きてほしいものです。

また水に溶かしても、その後、その水をどうするのかという質問が必ず出ますが、それはまた別の問題として考えればいいわけですが、そういう発想もまた多くの人はしません。
まずは拒否する、そして受け容れない理由を探す、という姿勢がこれほどまでに強くなってしまった社会には未来はないでしょう。
一挙に除染問題が解決するはずもなく、まずは素朴な発見を活かせば良いのです。
これはすべてのことに言えることです。

ともかくみんなと田中さんとのやりとりから、私はたくさんのことを気づかせてもらいました。
終わった後、松戸から参加してくれた石井さんが、田中さんとの参加者のやりとりが面白かったといってくれました。
石井さんは田中さんの活動を応援できないかと、考えてくれたようです。
そうでなければいけません。
石井さんは、楽しんだようですが、私は田中さんの世界と参加者の世界をどうつなげるかで、疲れきってしまいました。

さて実験結果はどうだったか。
それは午後に書き込みます。
あまりに天気が良いので、ちょっと畑仕事に行ってきますので、それから戻ってからになりますが。

■放射線汚染の除染実験の報告その2(2013年11月22日)
放射性汚染で野菜を作れなくなっていた、わが家の農園に行ってきました。
山のような枯れ草の整理です。

さて、前項の続きです。
実験結果の評価方法は次の通りです。
「パワーパーク」液を加えて暖め続けた土壌を、液体と土壌に分離します。
本来はきちんと分けるべきですが、今回は単に布で水をこして、分離させました。
それによって、3つのものができます。
「最初の土壌(A)」「処理された土壌(B)」「処理後の液体(C)」です。
この3つの放射能濃度を測定するのです。

田中さんの方法は次のやり方です。
その3つのセットを2つつくります。
そして、一つは実験に協力してくれたところ〈今回は我孫子市役所です〉、もう一つは自分で持ち帰り、正式の検査機関で評価してもらいます。
できれば、国家が定める評価基準で測定していきたいからです。
ちなみに、正式の測定を公的機関に頼むと、1試料2万円以上かかるそうです。

今回は、協力者の我孫子市はクリーンセンターに測定器がありましたので、終了後、それで測定してもらいました。
試料の量が今回は少ないので、正確な評価は難しかったのですが、要は変化するかどうかが、今回のポイントです。

結果はこうなりました。
A:最初の土壌   3500ベクレル/kg
B:処理後の土壌  2750ベクレル
C:処理後の液体  1370ベクレル

今回は実際にはAに関しては、改めて測定しませんでしたので、ちょっと簡便法です。
BとCを合計すると4100ベクレルと言うことになりますので、おそらく最初の土壌の汚染濃度は3500ではなく4100以上だったと思われます。
それはともかく、この結果から言えることは、土壌の放射性物質の30%が液体に溶融したということです。
ちなみに、パワーパーク液は特別の化学物質が入っているわけではありません。
土壌改良材としての安全性が認められている液体です。

この数値では少しインパクトにかけるかもしれません。
私自身、もう少し溶融するだろうと思っていました。
しかし、今回の実験は、温度も100℃以内に収め、時間も短く、まさに手づくり実験でした。
条件を整えて、たとえば、200℃で熱すれば、効果はかなり変わります。
Bの処理後の土壌も、たんに布で絞っただけですから、かなりの液体が含まれたままでした。

判明したことのポイントは、パワーパーク液には放射性物質を溶出させる効果があるということです。
田中さんが、かなり条件をそろえて公的機関で実験した時は、9割の溶出に成功しているそうです。

この結果をどう受け止めたか。
昨日の参加者はそれぞれでしたが、私は納得しました。
問題は、このことをどう活かしていけるかです。
昨日の参加者で前向きに受け止めた人は、私と田中さん以外では石井さんだけだったかもしれません。
みなさんはどう受け止めるでしょうか。

もう一度だけ、今日か明日、報告を続けます。

■放射線汚染の除染実験の報告その3(2013年11月25日)
放射線汚染の除染実験の報告その3です。

田中さんは、もし土壌改良材「パワーパーク」に土壌から放射線物質を除去する効果があるのであれば、まずは保管されている汚染土壌にパワーパークを浸透させ除染を行い、最終目標として、汚染地域の森林や平地に上空からパワーパーク液を散布し除染を行うことを提案しています。
最初のバッチ処理は短時間で効果が出ますが、空中散布は効果が出るまでは時間がかかります。

この提案に対しては、いろいろと質問や疑問が出ました。
土壌は除染されても汚染液が残ります。それをどうするのか。
空中散布したら、地下水に汚染水が入り込んでしまい、汚染が拡散されるのではないか。

これに対する田中さんの考えは明確です。
汚染液の処理に関しては、別の技術開発を考えればいい。
今回の課題は「土壌の除染」。
土壌の除染が必要なのであれば、まずはその方策を考えて実践すべきではないか。
効果を高めるために加熱を200℃にすれば、沸騰して汚染物質が気化して空中に出るかもしれないが、それもまた柏崎原発で話題になっているようなフィルターで処理する技術に任せればいいと言うのです。
つまり、できない理由を探して拒否するのではなく、パワーパークの効用を活かせるところで活かしていこうと言うのです。
現場の人の実践的な発想です。

地下水の問題は放置しておいても同じことが起こります。
空中散布による広域土壌除染は、あくまでも土壌の除染なのです。
まずは表面土壌から除染し、そこで暮らしていける状況をつくりだす。
それが緊急課題ではないか。
もしそうなら早急にそれを行うべきではないか、というのが田中さんの考えです。

もちろん費用対効果の面で実行できないということはありますが、田中さんはもし実践に進むようであれば、自社の技術は開示すると言っています。
いま必要なのは、汚染土壌の除染ではないか、効果があるものがあれば、それを活用するという発想で取組むべきではないか。
そういう思いで、自費でさまざまな活動をしているのです。

私はこの姿勢に共感しているわけです。

今回の実験に参加してくれたお一人から協力の申し出がありました。
その人も含めて、もう少し先に進もうと思います。
実験の場を持ってよかったです。

■常識を問い直す6:仕事の意味(2013年11月25日)
土曜日の朝日新聞に、見覚えのある人の写真が大きく出ていました。
大阪府豊中市市民協働部の西岡正次さんです。
まちづくり活動の分野から就労支援活動に取り組んでいる人です。
いくつかの活動を見聞させてもらっていますが、その取り組み姿勢には確かさを感じます。

大きなインタビュー記事を読んでいて、次の発言に出会いました。

「生活保護受給者も参加する交流会でのことです。一人が『実は働くことになって』と言うと、みんなが『ええなあ』『税金、払えるやん!』と、すごい反応でした。受給者に『怠けてるんじゃないのか』といったイメージを持つ人はいるかもしれません。でも、福祉サービスを受けていても、自分で働いて収入を得たいと思っている方は多いのです」

よく聞く話ですが、西岡さんの言葉からは現場の生の声を感じます。
そういえば、もう25年近く前になりますが、大分のオムロンの太陽の家の工場を見に行った時、聞いた話があります。
そこは障害を持つ人たちが中心の工場でしたが、税金の源泉控除がかかれた給与明細書を宝のようにして持っている人の話を聞きました。

税金はともかく、この西岡さんの話は「働くこと」の意味を考えさせられます。
先日書いた「ワークライフバランス」の話にも通じますが、もう一度、「働く」ということの意味を問い直したいと思います。

「スモールイズビューティフル」で話題になったシューマッハーは、「人生の中心に据えられているのは仕事である」と書いています。
そして、仕事の目的として、生活に必要な財やサービスを得ることに加えて、他人と協力しながら行動して、自己中心主義から自らを解放することをあげています。
このブログでは何回も書いていますが、仕事はお金をもらう活動ではなく、人と触れ合う活動、あるいは社会の中での自らの役割を確認する活動です。
仕事の最大の意味は、対価をもらえることではなく、人とつながり、社会とつながることにあるのではないかと思います。

そうした視点で、仕事を問い直す必要があります。
A.カミユは、「労働のない人生はすべて腐敗するが、労働に魂が入っていなければ、人生は窒息し、息絶えてしまう」と書いているそうです。
仕事は、人を育てもすれば、壊しもするようです。
仕事を「お金」だけで考えるのは、避けたいと思います。

■常識を問い直す7:経済成長は生活を豊かにはしない(2013年11月25日)
経済成長と生活の豊かさはどうつながるでしょうか。
多くの人は比例関係にあると考えているように思います。
しかし、そうでしょうか。
たしかに、ある状況においては、それは比例関係にあります。
昭和20年代から50年代にかけての日本はそうだった人が多かったでしょう。
しかし、それがずっと続くとは限りません。

経済成長の恩恵を受ける人もいれば、経済成長の犠牲になる人もいます。
そのどちらに身を置いて考えるかで、関係は大きく変わってきます。
基本的に「経済」は「富の移転」です。
自然から人間へ、あるいはある人からある人へ、という資源配分の組み替えです。
時に、双方向の移転隣、新しい価値が創出されることもありますが、それでも視野を広げて考えれば「移転」でしかないでしょう。

その移転によって、豊かさを得る人もいれば、貧しくなる人もいる。
さらに、その活動によっても、豊かになる人も貧しくなる人もいます。
それも、そうしたことを考える基準(金銭はそのひとつですが、一番大きなのは個人の価値観)によって、豊かさや貧しさは変わってきます。
そこに問題の難しさがあります。

経済成長の基本は、「市場化」によって、金銭が媒介する分野が拡大することです。
それが難しくなると、いわゆる「ゼロサムゲーム」になり、格差の拡大が経済成長を支えることになります。
世界経済は、アフリカという最後のフロンティアを市場化すればもう成長はないと、エコノミストは言っています。
日本では「民営化」「や「社会化」ということばで、市場化が進められていますが、それで私たちの生活が豊かになったとは思えません。

経済には2種類あります。
資本の視座を置く経済と生活に視座を置く経済です。
経済は「経世済民」という言葉から生まれていますが、「経世」に重点を置くか、「済民」に重点を置くかで変わってきます。

サブシステンス経済という考え方は、生活に視座を置いていますし、エコノミーの語源である、古代ギリシアのオイコノミスも生活視点です。
しかし、昨今の経済成長を支える経済は、生活の視点はありません。
成長を支えるのは、ある意味での収奪です。
一時期、よく言われた「勝ち組み・負け組み」という言葉が、それを象徴しています。
そこに気づけば、安直に経済成長を歓迎は出来ません。

私が望むのは、経済成長ではなく、平安な生活です。
みなさんはどちらでしょうか。
もっとも、経済成長と縁を切るのは、それなりに勇気がいります。
私は、それを決意して25年経ちますが、今も未練が断ち切れていません。

■映画『ハンナ・アーレント』を観ました(2013年11月26日)
岩波ホールで上映している映画『ハンナ・アーレント』を観ました。
日本でも人気のある政治思想家ハンナ・アーレントを題材にした映画です。
満席でした。ホールの人に聞いたら、連日、満席だそうです。
若い人もいましたが、多くは私と同世代の、しかも女性たちでした。

この作品は、私の周辺でも話題になっていますので、少なからず期待していました。
結果は完全な「肩透かし」でした。
もちろん駄作などとは言いませんし、感動しなかったとも言いません。
終わった時に、え!これで終わりはないだろうと思ったのです。
つまり、メッセージが感じられない映画でした。

話は、アーレントがアイヒマン裁判傍聴記を発表した頃に焦点を当てています。
アーレントの記事が、ユダヤ人の反感を買い、彼女は2回目の生活破壊に直面します。
しかし、それに屈することなく、彼女は最後の講義をします。
この講義は迫力があります。
アーレント役のバルバラ・スコヴァの熱演がすばらしい。
涙が出ました。

しかし、その講義を聴いたユダヤ人の友人は、アーレントに共感せずに、去っていきます。
そこで、映画は終わってしまいます。
問題は、そこからだろうと、私は思うのですが。
もっともアーレント自身、実はそこから先にあまり行けていなかったのかもしれません。
私自身の不勉強のせいかもしれませんが、どうもアーレント自身の思索そのものも、知れば知るほどに、「肩すかし」を感じるようになっています。
それはアーレント自身の「思考」に関する論考を私が学んでいないからかもしれません。
この映画では、アーレントに「思考の精神」を与えたハイデッガーが登場します。
ハイデッガーにまつわる2つのエピソードは、私にはノイズに感じ、ますますハイデッガー嫌いになりましたが、もしかしたらこの2つの挿話は深い意味を持っているのかもしれません。
そこまで読み取れなかったために、私は「肩すかし」をくらったのかもしれません。

映画の最後は文字で「根源的な悪」がアーレントのテーマだったと映像に出てきます。
映画の途中で、アーレントは「正義」という言葉も口にしますが、正義と根源的な悪は私には通底する概念ですが、そのあたりをもっと掘り下げてほしかったです。
というような意味では、アーレントの思想はこの映画からはほとんど伝わってきません。
むしろ反ユダヤ的な感じ(アーレントが反ユダヤ的という意味ではなく、映画の意図が反ユダヤ的という意味です)が残ってしまう映画でした。
それはアーレントの意図ではないだろうに、と私は思います。

アーレントは家族のようにしていた友人から、「ユダヤ人を愛していないのか」と問われて、彼女は「一つの民族を愛したことはないわ。私が愛するのは友人よ」と応えます。
この言葉には感動しましたが、映画でのその後のアーレントの行動は、さらに友人を裏切ってしまうのです。
映画のシナリオや構成としては、いかがなものかと思います。

アーレントにとって「愛」とは何か。
それもまた、この映画のテーマの一つかもしれません。
ただこの映画からは、思わせぶりなシーンやセリフはあっても、明確なメッセージは伝わってきません。
アーレントの処女作である「アウグスチヌスにおける愛の概念」を読んでみようと思います。
たぶんまったく面白くはないでしょう。
なぜなら、それを書いたのは、アーレントがまだ1回目の生活破綻、つまり強制収容所を体験していない時だからです。
アーレントは、最初の生活破壊で、思考を実践したのだろうと私は思っています。

これからアーレントの名前を聞くと必ずバルバラ・スコヴァのアーレントが出てきて、私の思考を邪魔するでしょう。
困ったものです。

■スリーAゲーム×箸ピーゲームのジョイントサロン(2013年11月27日)
私がささやかに関わっている2つのゲームを組み合わせた、ちょっと長時間のサロンを開催することにしました。
一つは、京都のNPO法人認知症予防ネットが取り組んでいる「スリーA方式認知症予防ゲーム」です。
その効用はいまや関西だけではなく、全国ベースで広がりだしています。
認知症予防が入り口でしたが、私自身はむしろもっと広範囲の効用があると思っています。もう一つの箸ピーゲームは、最近も時々、ここでも紹介しているので、ご存知の方もあるでしょう。

今回は、その2つをつなげてしまうことにしました。
しかもそのつなぎの合間に、それぞれの推進者の高林さんと小宮山さんのミニトークショーをやることにしました。
高林さんからは、先日、紹介した「古代の天皇はなぜ長生きにされたのか」。小宮山さんからは「なぜ、なぜなぜと問い続けないといけないか」が予定の話題です。
詳しい案内は私のホームページに掲載しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info1.htm#131217

平日の午後なので、そんな時間にはいけないよと言う人が多いでしょうが、そんな時間だからこその企画です。すみません。

どういう展開になるかは、企画者の私にも確信は持てません。
違うものをつなげることで、何かが生まれてくるという、私の好きな発想に基づく、思いつき企画なのです。
長時間なので、どこかに重点を置いて参加していただければと思います。
ゲームを体験した事のない人も、これを機会にぜひ気楽に遊びに来て下さい。
1回の参加で、これから世界に飛び立とうとしている2つのゲームを体験できます。

○日時:2013年12月17日(火曜日)午後2〜6時
    遅れての参加も含めて、途中の出入り自由です。
○場所:湯島コムケアセンター
  http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○参加費
  500円
○申込先
  comcare@nifty.com

■だれもかれもニーメラー(2013年11月27日)
これまでも何回か書きましたが、やはりどうしてももう一度、ニーメラーのことを書いておきたいと思います。
ニーメラーの時代と、全く同じ状況が再現されているような気がするからです。

ニーメラーの話はご存知の方も多いと思いますが、ある本からの引用がわかりやすいでしょう。

「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(「ルポ戦争協力拒否」184頁)

特定秘密保護法が成立しそうです。
その動きに危惧の念が多くの人から発せられています。
テレビでは、ジャーナリストやコメンテーターなどが、盛んに批判的な意見を繰り返し述べています。
日本ペンクラブの浅田さんも反論を唱えていました。
これほど多くの人が反対しても、法案は着々と成立に向かっています。

しかし、テレビのキャスターやテレビによく出る有名なコメンテーター役の人が、もし本気で危惧しているのであれば、行動を起こすべきでしょう。
そしてテレビを通じて、行動を呼びかけるべきでしょう。
テレビのスタジオで、反論を唱えていてすむだけの危惧だと思っているのでしょうか。
もし本気で、心配なのであれば、行動しなければいけません。
単に言葉で批判するだけであれば、もうやめてほしいです。
「アリバイ工作」のような適度の批判は、動きを加速させる効果も持っているからです。

もちろんそれは私のようなただの市民でも同じことです。
反対ならば、せめてデモには行かなければいけません。
しかし、マスコミを通して世論を呼びかけ、行動を呼びかける立場にある人であれば、立場は全く違います。
オピニオンリーダーは、ただ発言していればいいわけではありません。
ツイッターでつぶやいていればいいわけでもありません。
納得できない動きを止めることが目的であって、動きを批判することが目的ではないでしょう。
もしそうであれば、テレビのなかのぬくぬくした世界から、外に飛び出さなければいけません。
とびだしたらどうなるか。
結果はほぼ見えています。
個人の生活は大きな影響を受け、仕事は続けられなくなるかもしれません。
そこで動けなくなるわけです。
そして「ニーメラー」と同じ後悔の中で死んでいくことになる。

最近のジャーナリストには「覚悟」もなければ、ビジョンもない。
そんな気がしてなりません。
1人くらい行動を起こす、「有名」なジャーナリストがいてほしいと思いますが、「有名」になるとそれが財産になって、みんな守る姿勢になるようです。
「有名」になるのは、その立場を活かして、社会を変えるためなのではないかと思いますが、最近の有名人は、みんな資産家発想になってしまっているようです。

ニーメラーの後悔は、どうも繰り返される運命にあるようです。

■シリアとタイと日本、どの国が一番、民主的だろうか(2013年11月28日9
最近、テレビを見ていて、思うことがあります。
シリアとタイと日本とで、どの国が一番、民主的と言えるのだろうかということです。
これまでずっと私は日本はとても民主的な国だと思ってきました。
今もかなりそう思ってはいるのですが、タイやシリアで国家政府に対して、果敢に異議申し立てを行っている人たちの様子をみていると、「民主的」とは何だろうかと考えてしまうのです。

日本は民主的な国だから、シリアやタイのような騒ぎを起こさなくてもいいのだとも言えますが、もし民が主権者なのであれば、政府の意向に異論があれば、行動を起こすはずです。
異論があっても政府の決定に従うようであれば、それは「国民主権」とはいえません。
つまり「民主的」ではないのではないか、と思うわけです。

■流行語大賞に思うこと1:「おもてなし」(2013年12月5日)
今年の流行語大賞は4つになりました。
それに関して、少し思いを書こうと思います。
今回は「おもてなし」です。

昨日、フランスのジャーナリストが書いた「ロング・マルシュ」と言う本を読みました。
ロング・マルシュとは「長き歩き」という意味だそうです。
著者は4年かけてシルクロードを歩いたのですが、これはイスタンブールからイランに入るまでの1年目の記録です。
そこにトルコ人のおもてなしに関わる記述が出てきます。
トルコではおもてなしを意味する「ミサーフィル」という言葉があるそうです。
とても示唆に富んでいますので、長いですが、引用します。

私は世界のあちこちを回ったけれども、自分の家に他人を迎えるさいのこれはどの熱烈さ、これはどの飾り気のなさにはトルコ以外ではお目にかかった覚えがない。村では、接待する人の誇りがはかの住民たちにも共有されることに、いつもながら驚かされた。われわれのような「文明化した」国々では、もてなしという観念がしだいに忘れられたり、歪められたりしてきた。
われわれは親戚や友人という狭い範囲の人々をもてなす。その他の人については、それ専用の家、すなわち世界共通で個性のないホテルというものがある。
自分の家でもてなす人々は、ごく親しい人たちでなければ、たいていは「礼儀の応酬」(私はきみにもてなし一回分の「借り」がある)の枠内でか、「週末はうちに来てくださいよ、例の件をまた話しましょう」というような計算ずくの利益のためである。見返りや利益を期待せず、無条件にドアを開け放つことは、繁栄以前の時代の、いまではまれな遺習にすぎない。発見、交流、会話の喜びのために開かれたテーブルは、われわれのもとでもまだ可能だろうか? 368

いうまでもなく、日本でもミサーフィル的なおもてなしの文化はありました。
四国のお遍路さんや伊勢参りは、そうした文化で支えられていました。
今も残っているところはあるでしょう。
しかし、この本の著者がいうように、「「文明化した」国々では、もてなしという観念がしだいに忘れられたり、歪められたりしてきた」という点においては、日本も例外ではありません。

ところで、この言葉が流行語になったことを喜ぶべきかどうかは迷うところです。
オリンピック招致の時の滝川クリステルさんのプレゼンテーションには大きな違和感がありましたが、改めて「おもてなしの文化」が意識されるのであれば、いいことだと思っていました。
しかし、それが流行語大賞になってしまうと、どうしてもまたかと思わざるを得ません。
「おもてなし」の文化が「文明化」され、「商業化」されていくのは間違いないでしょう。
そもそも「おもてなし」は自らがいうべき言葉ではありません。
そこにオリンピック招致のプレゼンテーションを演出した人の「卑しさ」を感じますが、それをこともあろう「流行語」にしてしまうとは、「文明化」の恐ろしさを痛感しないわけにはいきません。

おもてなしの文化は、難しい話ではありません。
出会った人に笑顔で挨拶し、困っている人には親身になって相談に乗るということです。
それは「生き方」の問題であり、自らを豊かにする知恵の一つです。
「ホスピタリティ産業」という言葉もありますが、おもてなしは「産業化」してほしくはないものです。
おもてなしは与えるものであって、受けるものでもはありません。
徳洲会からのおもてなしを受けるようなことは、決して人を豊かにはしませんから。

■流行語大賞に思うこと2:「今でしょ」(2013年12月6日)
今回は「今でしょ」です。
この言葉を聞いた時には、私自身は思考停止のメッセージと感じました。

アウシュビッツを経験した精神心理学者のフランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」には、次のような文章があります。

人生が一回きりでひとりひとりの人間が唯一であること、しかもあるものにとつて唯一であること、つまり他者にとって、共同体にとって唯一であることを一つの公式にまとめてみましょう。それは、人間の「おそろしくもすばらしい」責任、人生の「重大さ」に私たちの注意を促すような公式です。
そうすると、タルムードの創始者のひとりであるヒレルがおよそ2000年前にモットーにした言葉を引き合いに出すことができると思います。その格言というのはこうです。
「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
 しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、私は何であろうか。
 そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。」

「いましなければ」というところに、その時々の状況が一度きりだということが合意されているとフランクルは書いています。
流行語としての「今でしょ」は、決断を促すスタイルをとっています。
難しく考えずに、ともかくやってみたらとそそのかしているわけです。
つまり、思考停止、即ち決断放棄を促しているメッセージです。
情報過多の中で、自分では何も決められなくなってきている現代人の生き方に対して、考えて迷うのではなく、言う通りに行動を起こせといっているのです。
その言葉の先にあるのは、消費の誘導、あるいは権威や権力、大勢への盲従でしかありません。
さらにいえば、「オレオレ詐欺」を仕掛けてくる人たちとも、どこか似ているような気がします。

大切なことは、「今しなければいけないことは何なのか」ということです。
そして、それはするとしたら、「今」しかない。
だから、まさに、「今でしょ」なのです。
大切なのは、「思考」と「選択」を前提にした「行動」なのです。
いささか理屈っぽいのですが、「今でしょ」は思考剥奪のおまじないに聞こえて仕方がありません。

何をするべきかが考えられ、決断できたら、それこそ「今でしょ」というメッセージは生きてきます。
それに対して、思考しない人々にとっての「今でしょ」ブームは恐ろしい気がします。

今日、特定秘密法案が強行採決されるようです。
政府はまさに「今でしょ」とばかり強行採決行為を繰り返しています。
そこに、「今でしょ」のメッセージが含意するものが見えてくるような気がします。
「今でしょ」を流行語にする愚かさを危惧します。

■流行語大賞に思うこと3:「倍返し」(2013年12月6日)
「倍返し」を流行らせたテレビドラマ「半沢直樹」は私も楽しく観ていました。
最終回の最後の場面を除けば、面白いドラマでした。
半沢直樹シリーズは、現代を舞台にした痛快時代劇と言われていましたが、そう思ってみていれば、納得できる話です。

ただ「倍返し」という言葉も、まあドラマと思えば、痛快かもしれませんが、ドラマをよく観ていれば、何がいったい「倍返し」なのだろうかと思えなくもありません。
ドラマでは「十倍返し」などという言葉も出てきましたが、要は、不満が溜まっているだろう視聴者には耳障りの良い言葉だったのでしょう。
自分では何もできない哀しい者たち同士(制作者と視聴者)の鬱憤晴らしと考えるのは、いささかひねくれているかもしれませんが、あまり気分の良い言葉ではありません。

慶事のお返しは「倍返し」と言われます。
慶びを分かち合うことで、さらに慶びが増していくわけです。
凶事のお返しは「半返し」です。
悲しみを分かち合うことが含意されています。
こういう意味での「倍返し」は、はやってほしい言葉ですが、今回の流行語大賞の「倍返し」はそれとは似て非なる言葉です。

ところで、「仕返し」の相場と言うのはあるのでしょうか。
そこで思い出すのは、東西冷戦時代の抑止力議論です。
一方に核兵器増強につながるエスカレーション理論、一方に軍縮を目指すオスグッド理論がありました。
結果的には、後者が歴史の主流になりました。
相手への「返し方」を、報復ではなく、支援へと変えたのです。
しかし、その教訓はなかなか定着はしません。

9.11に始まるアメリカ政府の報復は、倍返しだったかもしれません。
「負の倍返し」は、根深い欧米の文化かもしれません。
人権解放の象徴とされるフランス革命はジェノサイドだったと渡辺京二さんは「近代の呪い」で書いています。
そこにも「負の倍返し」を見ることができます。
日本の仇討ちには、それをどこかで終焉させるルールがあったように思います。
決して、倍返しなどしなかったでしょう。

話がそれだしていますが、半沢さんのような「負の倍返し」は社会を荒廃させるだけでしょう。
社会だけではありません。
自らをも壊していくでしょう。

喜びを倍返ししあう社会には住みたいですが、恨みや災難を倍返しするような人が喝采を浴びる社会には住みたくないものです。
この言葉が流行語になること自体に、さびしさを感じます。

たかが流行語大賞。
小難しく考えすぎているのではないかと笑われそうですが、いじめや自殺問題にもつながっている風潮でもあるので、生真面目に書いてしまいました。

■流行語大賞に思うこと4:「じぇじぇじぇ」(2013年12月6日)
最後は「じぇじぇじぇ」です。
あまちゃんの朝ドラは私も観ていました。
「じぇじぇじぇ」は楽しい言葉で、抵抗なく、はいってきました。
無理のない、生活の場で育っている自然の言葉だからです。
つまり、「創られた言葉」ではなく「使われている言葉」です。
しかも、たくさんの人たちの心をつないできた言葉です。

これはいわゆるスモールトークの一種でしょう。
頭脳の言葉と言うよりも、身体の言葉でしょう。
生理的な感情用語と言ってもいいかもしれません。
驚きが素直に表現されるわけです。

「じぇじぇじぇ」と言っている人を見ると心が和みます。
「じぇじぇじぇ」という言葉が飛び交っている場の雰囲気も伝わってきます。
間違いなく、みんなが気持ちよく生きている場だろうなと勝手に思ってしまいます。
そこに「文化」や「しあわせ」を感じます。
ともかく気持ちの良い言葉です。

流行語になってしまったと言っても、さほど広がることもないでしょう。
なぜなら、この言葉は生活や文化と深くつながっているからです。
私が「じぇじぇじぇ」と言っても、場違いもはなはだしい。
他の3つとは違って、私には使えない言葉です。
そういう意味では、ほかの3つの流行語対象の言葉とは違います。
でも、「じぇじぇじぇ」の精神は私にも育てられます。

こう考えていくと、言葉は生活や社会のあり様と深くつながっているのがよくわかります。
言葉は、その人の生き方を象徴し、社会の流行語は社会の実相を象徴しています。
言葉は意識を育て、意識が言葉を育てます。
「じぇじぇじぇ」が頻繁に発せられている社会では、感動や感激や好奇心が満ちていることでしょう。
人のつながりも深いはずです。

たかが流行語ではありますが、流行語には大きな意味があるように思います。
「じぇじぇじぇ」のような言葉をもっと育てていく生き方をしたいと思います。
東北の人たちが「じぇじぇじぇ」(違う表現のほうが多いようですが)と言う場面で、みなさんは何といいますか?
私は「えっ!」「ほんと!」くらいしか浮かびません。
語彙の貧しさに、改めて反省しました。

■この問題をどう考えますか(2013年12月7日)
先日、放射性汚染土壌の除染実験を行ったことはこのブログでも書きました。
その結果報告もかなり詳しく書きましたが、実験をしてくれた田中さんが大阪の環境総合テクノスというところで、正式にセシウム量を測定してもらった結果が届きました。

前の記事を読んでいない人のために、簡単に説明しますと、汚染土壌(A)にパワーパークという土壌改良材の液体を入れ、2時間、100度弱の温度で温め続け、2時間後、土壌(B)と液体(C)を分離させ、それぞれのセシウム量を測定しました。
常識的に考えれば、Aのセシウム量がBとCに分かれるわけですが、もしかなりの割合がCに移行すれば、土壌の除染効果があると考えていいでしょう。
今回、国家が決める方法で測定してもらった結果、次のようになりました。

A 4600ベクレル/kg
B 1700ベクレル/kg
C  910ベクレル/kg

いずれもセシウム134と137の合計です。
問題は、この実験の結果、セシウムの総量が大幅に減ってしまったことです。
BとCを合計すると2610ベクレルですので、もとの土壌の比べ、2000ベクレルほどのセシウムが無くなってしまっていることになります。
考えられる理由は2つです。
一つは、実験の過程で2000ベクレルのセシウムがどこかに散逸したということです。温めている間に空気中に気化されて逃げたか、温めた後、土壌と液体を分ける過程での器材(たとえば漉し布)に移ったか、です。
もうひとつは、セシウムが別の元素に変換し、セシウムとしてはなくなってしまったということです。放射性物質ではなくなったとも考えられます。

私は、化学的な知識はありませんので、理解できないでいますが、田中さんによれば、これまでの実験でも総量が減る、そして実験途中で他のものに静止有無が移ることは考えにくいというのです。
とすれば、セシウムが脱放射性化するという後者の理由しかありません。

この話を理系の人にするとみんなそんな馬鹿なことはない、実験が不完全なのだと一笑に付されます。
私自身は、その実験を目の前で見ていますし、測定も立ち会っています。
理屈と現実が違えば、私は現実を基準に考える人間ですので、セシウムが消えてしまったという説明を一笑にはできません。

そんなわけで、いまちょっと困っています。
どなたかアドバイスしてくれませんか。
実験をもっと密閉空間でやることも可能ですが、施設や費用がありません。
どなたか支援してくれる人はいないでしょうか。

■無知はカである(2013年12月7日)
特定秘密法が昨日、成立しました。
私は風邪で、デモにも参加できませんでした。
未来よりも現在を選んでしまったわけです。

50年前、岸政権は国民の反対を振り切って日米安保条約を更新しました。
最近のテレビで、何人かの方が、それでも今は、その決断で良かったと思っている国民が多いと話していました。
この判断そのものに「現状主義」の落し穴がありますが、それは別としても、こういう発言は強引な政治を認めることになります。
政治評論家は、基本的には体制の道化役だなとつくづく思います。

この日を忘れないようにしようと言う人も多いです。
覚えていてどういう意味があるのか、私にはよくわかりませんが、その日に何もしなかった自己反省として、忘れないようにしようと言うことでしょうか。
それならよくわかります。
でも、たぶん、みんなすぐに忘れてしまうだろうと思います。
もちろん私もです。
そして、自分が、何かのトラブルに巻き込まれた時に、ようやく思い出すでしょう。

全体主義体制によって支配される世界を描いたオーウェルの「1984年」の舞台であるオセアニア国のスローガンは次の3つです。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知はカである。

シュバイツァーの警告も思い出します。
シュバイツァーは、産業社会になってから「多くの人は人間としてではなく、働くものとしてのみ生きてきた」ために、人間的実質は発育不良となり、このような発育不良の親によって子供が育てられるために、子供の人間的発達に必要な本質的要因が欠けることになってしまったといいます。
それを避けるために、シュバイツァーは仕事を減らすことを提唱し、過剰消費とぜいたくを戒めていますが、同時に、私たちは新しい信条と態度によって自己革新をしなければならないとも警告しています。
そして、「もし私たちが考える人間となる決心をすれば、この革命が起こる」とシュバイツァーは言っています。

しかし、「考える人間」には、ますます生きにくい時代になりそうです。
マルチチュードが革命の主体になるのは、いつでしょうか。

風邪は一向に治る気配がありません。
ほんとうに風邪でしょうか。

■「農業から考える支え合いの文化と仕組み」をテーマにしたサロン(2013年12月10日)
「農業から考える支え合いの文化と仕組み」をテーマにしたサロンを開催します。

農業の「支え合い」には、人と人の支え合いもありますが、同時に人と自然との支え合いという意味もあります。
そんなことも踏まえて、支え合いの文化や仕組みを考えるとともに、農業の持つ効用への理解をさらに広げられればと思います。

問題提起は、アグリケア フェラインの事務局をやってくださっている、サンバッカス農場の遠藤さんです。
遠藤さんの体験的なお話をお聞きして、参加者で自由な話し合いができればと思います。
年末の迫った時期ではありますが、よかったらご参加ください。
誰でも歓迎の気楽なサロンです。

○日時:2013年12月19日(木曜日)午後7〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:農業から考える支え合いの文化と仕組み
○会費:500円
○申込先:comcare@nifty.com

■死刑はやはりショックです(2013年12月13日)
日本において2人の死刑執行がなされ、ショックを受けていたのですが、今朝、北朝鮮では金正恩の叔父の張成沢が反逆罪で死刑判決を受け、即時に死刑が執行されたというニュースが報じられました。
なんだか中世に戻ったような気分です。

これは、しかし、時代に逆行した特殊な事件ではないのかもしれません。
日本でも特定秘密保護法の成立に続き、共謀罪が議論されだし、北朝鮮の後を追いかけるような動きが続いています。
このブログでも以前、日本と北朝鮮とどこが違うのかと書いたことがありますが、その類似性を最近改めて強く感じます。

秘密保護法が成立し、共謀罪を成立させようとしている政府にとっては、死刑制度は不可欠な存在でしょう。
この時期に、死刑が執行されたのは、実に象徴的なことです。
あの温厚な谷垣法相が、高市さんと同じような顔に見えてしまいました。
つまり、魂を抜かれた表情です。

それにしても、人によって人の生命が奪われることが、「国家」によって行なわれることの不気味さは、隣国の事件にしても、実際に起こってみると身震いするほどです。
死刑に関しては、以前、シリーズで書いたことがあります。
私自身は、ある時から死刑を受け容れる考えになっていましたが、そのシリーズを書いている中で、また以前のように死刑制度反対に戻りました。
今は、死刑に強く強く反対です。
なぜなら、国民主権の政府が死刑を執行するということは、私自身が人の殺害(死刑)に加担するということですから。

生物学的な意味での死刑と並んで、社会的な生命や人格的な生命を奪うような仕組みも広がっています。
かつては、生命の安泰を守るための司法制度も、生命の安全を脅かすような存在になってきています。
こうした動きに抗おうと異議申し立てをする勇気は、なかなか持てないようになっていくでしょう。
そうした勇気を押さえ込む「見せつけ」的な事件も、増えていくことが予想されます。

しかし、これは現在の体制の最後のあがきと考えることもできます。
歴史には必ず「大きな流れ」と「小さな流れ」があって、結局は大きな流れに移っていくように思います。
小さな流れの反対が、大きな流れだと考えてもいいでしょう。
今は、大きな流れ(近代)が変わろうとしている最後の段階で、近代の悪しき部分が最後のあがきをしているように思います。

北朝鮮の動きは、そうした小さな時代の流れに沿った動きだと思いますが、あまりにも粗雑にやってしまいました。
そのために、おそらく金正恩政権は、来年には崩壊するでしょう。
日本はどうでしょうか。
安倍政権はもう少し続きそうです。
金正恩政権と安倍政権を並べて書くことには、共感はしてもらえないでしょうが、私にはどうしても同じ「臭い」を感じてしまいます。
北朝鮮の今回の政変は、特殊なようで、特殊ではないような気がしてなりません。

■猪瀬都知事は「いい人」ではないでしょうか(2013年12月13日)
猪瀬都知事は「いい人」ではないかという思いがしてきました。
何を持って「いい人」というかは難しいですが、私には「悪い人」とは思えなくなってきています。
もちろん徳洲会がらみの報道を通してです。

私は、つい最近まで猪瀬さんがどうも好きにはなれませんでした。
いつも暗い顔をして、あまり相手の目を見ない感じで、ぼそぼそと話すのが好きになれなかったためです。
私の若い友人が、作家時代の猪瀬さんの信奉者で、会社が終わると猪瀬さんのオフィスによく応援で通っていました。
彼から、猪瀬さんの「すごさ」は何回も聞かされていました。
彼は若くして急逝したため、いまの猪瀬さんの事件をどう思っているか聞けませんが、彼ならきっと猪瀬さんを弁護するでしょう。
いまなら、私の猪瀬さんのすごさを素直に聞けたかもしれません。
当時は、私は猪瀬さんには全く興味がなかったため、一方的に聞き流すだけでしたので、
彼と猪瀬さんについて話したことはありませんでした。
いまなら話せそうです。

先日、猪瀬さんが都議会議員から2日にわたって問いただされているのをテレビで見ました。
耳から汗が背広に滴り落ちるのを見ていて、なぜか、猪瀬さんへの親しみの念がわきました。
そして、この人は「無邪気ないい人」だと勝手に思ったのです。

正直に事実を話せば、なんということはない事件だったと私は思っています。
選挙資金がほしかっただけでしょう。
結果的にはそれは不要だっただけの話です。
もらっておけばよかったのに、返してしまった。
だから「いい人」なのです。
私なら、少しだけくすねて、どこかにそっくり寄付しますが、それもやらなかった。
ちなみに、寄付は決して「善行」とは限りません。
事実、猪瀬さんは徳田さんからの「寄付」で、すべてを棒に振ったのですから。

事件の発覚で、来年の知事報酬を辞退するというのも、いかにも「いい人」らしい発想です。
私には、そういう発想は思いつきませんが、猪瀬さんは自分の価値観や人生観を、隠すことなく公開したわけです。
そこまで素直に自分を公開できる人は、そうはいません。
無邪気でいい人にしかできないでしょう。

ある人がテレビで言っていましたが、都議会議員に応えてる猪瀬さんを見ていたら、早く知事を辞めて、精神医に行ったほうがいいと勧めたくなります。
このままだと、猪瀬さんは精神的におかしくなり、東京オリンピックは病室で見ることになるでしょう。
その病室にテレビがあるといいのですが。

猪瀬さんが知事を辞めても、オリンピックは開催されるでしょう。
それが、むしろ私には残念です。

■政治の本質(2013年12月19日)
ハンナ・アレントの「人間の条件」文庫版の解説で、政治学者の故阿部齊さんは、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示することに、政治の本質があるといえよう」と書いています。
阿部さんは数度しかお目にかかっていませんが、私が最初に「民主主義」について学んだ人の一人です。

猪瀬都知事が辞職を決めたようです。
徳洲会との関係疑惑が表面化してからの猪瀬さんの言動から、いろいろなことを学ばせてもらいました。
そして、思い出したのが、冒頭の阿部さんの言葉です。
「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示する」場で、人の本性は現れます。
そして同時に、人の本性は磨かれます。
磨かれる可能性があるというべきかも知れませんが。
そうした場で育っていくのが、そして広がっていくのが、「健全な常識」だろうと私は思っています。

アレントが「人間の条件」で危惧していたのは、そうした人の本性の「現れの場」としての公的な場が、消滅していくことでした。
人の現れの場がなくなれば、隠れた人の行動が社会を支配しだします。
そして、開かれた場でも、自分を開示せずに、取り繕い、装う人が増えました。
それでは、「現れの場」にはならず、世界全体が「私的な場」になっていく恐れがあります。
「社会」と言う概念は、時に〈公的〉であり、時に〈私的〉です。
アレントは、「社会」という言葉にあまり肯定的ではありません。
それは定義次第で意味が変化する言葉ですから、言葉を吟味しながら独自に使い込むアレントには好ましい言葉ではなかったはずです。
私も、その点に共感しています。

猪瀬さんの著作は好評のようです。
しかし、文字に書く行為は私的な行為です。
そしてそれを読んで解釈する行為もまた私的です。
ただ書き手と読み手を媒介する著作物は、極めて社会的な存在であり、公的な場への影響も大きいです。
今回の猪瀬騒動が教えてくれたのは編集された著作物とライブな言論とは別物だと言うことです。
万人に見られ聞かれながら、ライブに展開される言論によって公示される自己と、編集された著作物によって自己を公示される自己とは、似て非なるものだということです。
そして、政治とは、前者が軸になるべきだと言うことです。
書物では、主体的には政治は変えられません。

国会での審議の状況を、私はよくテレビで見ます。
退屈なことが多いのですが、そこに人の本性が垣間見られます。
高名な政治家や評判のいい政治家も、本性が見えてくるとイメージが変わることがあります。
国会での議論が、茶番劇ではなく、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示する」場になれば、日本の政治も変わるでしょう。

醜態を見せる政治家と醜態を隠しおおせる政治家とでは、私は前者を好みます。
醜態とは無縁な、健全な政治家を育てていく場は、今の日本には欠落しているように思います。

最近、ある高齢者から、私の考えは「健全だ」とほめられました。
このブログの読者には共感できないでしょうが、私はそれを真に受けることにしました。
その理由を考えていたのですが、それはもしかしたら、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示」しているからではないかと思いつきました。
「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示」していると、行動も健全になれるように思います。
猪瀬さんが、健全に戻れそうなので、よかったです。
私には、猪瀬さんと同じ種族のように見える安倍さんは、いつ健全に戻れるでしょうか。
場違いの世界にいることは決していいことではありません。

■日本の防空識別圏って広すぎませんか(2013年12月19日)
前にアップしたつもりが、アップできていないのに気づきました。
タイミングが悪いですが、少し修文してアップします。

中国が勝手に自国の防空識別圏を変更したことが問題になっていました。
そのころ、盛んに日中韓の防空識別圏の地図がテレビや新聞で報道されていました。
それを見ていて、いつも感じたのは、日本の防空識別圏がなんでこんなに広いのだろうということでした。
こんなことを言うと非国民だと怒られそうですが。
みなさっもぜひ地図を見てください。
https://www.google.co.jp/maps/ms?msid=218294890998368837964.0004ec165dd6ee5eb5245&msa=0

いかがでしょうか。
それに尖閣諸島って、こんなに中国に近いのです。
中国に寄付したらいいのではないかと思うのは不謹慎でしょうか。
第一、だれも住んでいないのですし、漁業権や資源の問題はあるでしょうが、それは解決できるような気がします。

領土を寄付するなどというのはとんでもないと思うかもしれません。
しかし、ソ連で北方4島を日本に寄付しようという議論があったことをご存知でしょうか。
あの有名な佐藤優さんの「国家の罪と罰」の冒頭に出てくる話です。

 2011年3月19日付東京新開夕刊が興味深い記事を伝えた。
ロシア大衆紙「モスコフスキー・コムソモーレツ」は18日、東日本大震災を受け、人道的見地から「北方4島を日本へ引き渡さなければならない」とするコラムを掲載した。北方領土問題でロシアメディアが日本への返還を主張するのは極めて異例。執筆したのはロシアジャーナリスト連盟の「黄金のペン」賞を受賞したこともある著名女性記者のユリヤ・カリニナ氏。日本の領土返還要求の主張は認めていないが、日本の悲しみをやわらげるため「今すぐ無条件で渡そう」と提案。/福島第一原発の事故で人が住めない土地が増え「日本の小さな領土がさらに小さくなる」などとしたうえ、「(ロシアが)わずかな国土を慈善目的で寄付することは不可能だろうか」と訴えた。返還により、ロシアは奪い合いではない新時代の外交をアピールできるとメリットも説いている。
「モスコフスキー・コムソモーレツ」(MK)紙は、大衆紙であるが、政局にも影響を与える重要な新聞だ。また気骨のある記者が多い。

これを読んだ時、私は驚くと同時に、とてもあったかな気持ちになりました。
返還はいやだが、寄付ならいいのではないか。
とても納得できる話です。
つまり損得や駆け引きではなく、人間的な気持ちの次元で考えようという姿勢です。
私は、それこそが「政治の本質」だと考えていますので、とてもうれしかったのです。

日本もそろそろ損得や駆け引きの政治から、人間の政治へと変えられないものでしょうか。

それにしても、日本の防空識別圏って広すぎませんか。
尖閣諸島の国有化って、間違っていると思いませんか。
私の考えがやはり脱落しているのでしょうか。

■政治の方向を決めているのは誰か(2013年12月20日)
都知事が変わることになりました。
もし私が都知事になったら、最初にやりたいことは、オリンピック開催権の返却です。
さて、それは実現可能でしょうか。

今回、誰が立候補するかわかりませんが、オリンピック開催に反対の人はどうするでしょうか。
立候補しないでしょうか。
オリンピック開催に尽力しなければいけないのなら、都知事はやりたくないという人はいないものでしょうか。
笑い話のような話かもしれませんが、とても大事な話のような気がします。

原発は首相が反対したら、辞められると小泉さんは話しています。
本当でしょうか。
トルコに売ろうとしている原発はどうするのでしょうか。

つまり問題は、政治の決断は、ロングタームで考えなければいけないと言うことです。
アメリカのネイティブズには、大切な掟があります。
何かを決定する時には、7代先の人たちの視点で考えると言うことです。
私は、それを「7代先の掟」と称しています。
これはアメリカのネイティブズには限りません。
たぶん日本人の文化の中にも長らくあった文化です。
しかし、この50年、私たちは7代先はおろか、次世代のことも考えずに、ノー・ロングタームの姿勢で、目先のことだけを考えてきています。
その結果、先行き不安な社会になってきてしまいました。

人間社会は連続的ですから、現在の決断は必ず未来世代に影響を与えます。
ですから、政治が未来を制約していくのは当然です。
問題は、その決断の時に、どの程度、7代先の視野を持てるかです。
それと同時に、どのくらい、決定内容に可塑性を持たせられるかです。

ところが、7代先の掟は実は、政治化の常套句でもあります。
消費増税やTPPなど、多くの国民の反対を政府が押し切る時の決まり文句が、「次の世代のことを考えて」とか、「今は苦しいが長い目で見たら必要」です。
一見7代先の掟のような感じです。
でも本当でしょうか。
言葉とは裏腹に、それがごまかしの言葉であることも少なくありません。
そうでなければ、いま現在、こんな状況にはなっていないでしょう。

さて、オリンピックですが、オリンピックは7年くらい前から場所を決めておかないと間に合わないようになってしまったのでしょう。
私は、そのこと自体が問題だと思いますが、それはともかく、やはり気になるのは、政権交代によっても大きく事態を変えられない政治構造になっていることは、先の民主党政権でよくわかったわけです。
では、東京都の場合はどうでしょうか。

都知事が変わって、何が変わるのでしょうか。
熊本県の知事の名前は知りませんが、くまもんは私も知っています。
知事って、本当に大きな力を持っているのでしょうか。
同じことは首相にも言えます。
北朝鮮の第一書記にも言えることです。
歴史の方向を決めているのは、いった誰なのでしょうか。

■内政干渉の呪縛を解いて、もっと高次元で考えるべき問題(2013年12月21日)
北朝鮮は残忍でひどい国だ。
今なおこんな国家があるとは驚きだ。
テレビの中でも(つまり公言として)こういうことを言う人が増えてきました。
今回の政治的処刑の動きは、それほど衝撃的なのでしょう。
私には、無辜の人を他国から拉致することのほうが、よほど衝撃的ですが。

そういう発言を、社会的にも発言力のある人たちがするのを聞いていて、それではなぜ、そういう国家を放置しているのかと思ってしまいます。
そこで出てくるのが、たぶん「内政干渉」という言葉でしょう。
他国の内政問題だから、口を出せないと言うわけです。
しかし、これはおかしい論理です。

近くの家で、家庭内暴力(DV)が行なわれていても、それは他の家のことだと見過ごしていていいでしょうか。
この数十年、日本ではむしろ人権よりもプライバシー保護というわけのわからない論理で、放置される風潮が広がりましたが、最近、漸くその考えが見直されだして、昔に戻りだしているように思います。
他家の話には口を出さないと言うのは、人間よりも家(システム)を優先する発想です。
もっと言えば、システムの支配者、家で言えば「家長」が、そのシステムの所有者と考えることです。
もし、人間の尊厳性を基軸にするのであれば、虐待されている個人がいれば、たとえそれが隣の家であろうと助け出すのが当然です。
もちろん虐待の度合いを評価するのは難しいので、度を越したという条件の吟味は必要ですが。

それと同じことが、国家でも言えるはずです。
シリアやスーダンで起こっていることはあまりよく見えてきませんが、日本の隣国である北朝鮮の場合は、かなり見えていて、その度合いも度を越しているばかりか、日本に住む人にも被害(拉致問題)が及んでいます。
にもかかわらず、放置していいていいものなのかどうか。
ただ「残忍だ」「非常識だ」というだけでいいのか。
そんなはずはありません。
即時処刑はおかしいと正式に抗議するべきだと、私は思います。
内政干渉だと言われたら、それは内政の問題ではなく、人間の尊厳の問題だと言えばいい。
北朝鮮の立場で行なわれたことを、世界全体、人類全体で行なえばいい話です。

そこでアレントの「イェルサレムのアイヒマン」を思い出します。
アイヒマンは凡庸な人間で、ただシステムに従っただけ、裁かれるべきはシステムであるというのが、アイヒマン裁判を傍聴したアレントの結論でした。
アイヒマンも被害者だとも言えるわけです。
つまり金正恩もまた、被害者なのかもしれません。

そこをどう正すか。
そこに問題の本質があるように思いますが、まずは北朝鮮の内政に干渉することから、世界は動くべきではないかと思います。
「内政」は、実はいつか外部にもつながってくることを、ニーメラーは教えてくれています。
ハリウッド映画であれば、いとも簡単に問題は解決するはずですが、それはともかく、それぞれの場で、できることは少なくないはずです。
感想を述べるだけでなく、動かなければいけません。
テレビで情報発信できる立場の人には、ひどい、非常識だと思ったら、感想ではなく、もう一歩、言動を進めてほしいです。

■社会の実相と幻想(2013年12月21日)
組織のトップが拳銃で殺害されるという事件が京都と北九州と立て続けに発生しました。
特に、餃子の王将の社長の事件は、今もって、動機につながるような話は出てこないようです。
そこに私は、時代の不穏さを感じます。
事件は、社会の実相を反映しています。

社会契約論の考え方では、「社会秩序は人々の自覚的で意図的な営為の産物」です。
社会を構成するメンバーが、その言動によって創りあげているのが、社会と言えるでしょう。
その社会で、不可解な、そして悲惨な事件が起こるとしたら、それは社会そのものを作り上げている私たちの言動が、その原因です。
もちろん、関係者の特殊性によって発生する事件もありますが、それにしても社会の風潮と無縁であるものは、たぶんないといっていいでしょう。
そう考えるのが、社会の一員である者の出発点でなければいけないと私は思っています。

ところで、時代の不穏さですが、陰湿さと言い換えてもいいかもしれません。
たとえば、今回の猪瀬事件です。
一時期流行した「陰謀論」をどうしても思い出してしまいます。
猪瀬さんのような、不器用で無害な人間が狙われるとは思いにくいのですが、〈個人〉ではなく〈立場〉が狙われたと思えば、納得できる話でもあります。
餃子の王将の大東社長も、そうかもしれません。

宮台真司は、病理的症状を強めている今の日本社会を「社会の底が抜けた」状態と呼んでいますが、底が抜けた社会はどうなるのでしょうか。
私たちが生活の拠り所とする安定した社会(アレントはそれを「社会」とは呼ばずに「世界」と呼んでいます)はどんどん壊れてきているということでしょうか。
もしそうであれば、壊れた社会で暗躍する人が出てきてもおかしくありません。
言い換えれば、そうした人の暗躍を許しているのもまた、私たちだとも言えるわけです。

いじめ問題にしろ、自殺の多発にしろ、生活保護対象者の増加にしろ、振込み詐欺の横行にしろ、深刻な問題はたくさんあります。
その一方で、忘年会の単価が上昇したとか、高価なおせちが増えたとか、浮かれた報道も増えてきました。
報道は、相変わらず「幻想」ベースです。
社会は「実相」よりも、そうした「幻想」が支配する場でもあります。
「幻想」はバブルを生み、勘違いした人たちによって実相が作りだされます。
そして、壊れていくわけです。

ハーバーマスは、生活世界はどんどん「植民地化」されると警告をならしていました。
私は、そうした動きに抗して「脱植民地化」していこうとしていますが、どちらが幸せかはわかりません。

何を書こうとしていたのか。
時代の不穏さは、私たちがつくっているのだということを書こうと思っていましたが、ちょっと話が違う方向になってしまいました。

■汚れを正す仕組み(2013年12月23日)
今日は天皇の80歳の誕生日です。
今日に限っては、私自身の意見は書かずに、上山春平が四半世紀ほど前に、朝日新聞主催の座談会で述べていた言葉を紹介します。
日本という国が守ってきた巧みな仕組みに就いての言及ですが、四半世紀も経った今も、現代の政治構造や社会状況を考える上で、とても示唆に富んでいると思います。
しかし、自民党の憲法改正案を読むと、自民党の人たちは、この仕組みでは満足できないようです。

今の日本は国家組織の中枢に近い人々がけがれた印象を与えている。その中から選ばれた人が国の中心にいたのでは、やりきれない思いになる。しかし幸い、われわれはそういう汚さから無縁で真っ白な方を中心におくことができる。これは国の姿として実にありがたいことだ。(朝日新聞1989/1/16)

また、翌年、上山さんは雑誌「思想」で、こう書いています。

天皇制は、国制の頂点に聖域を設け、権力競争に汚れやすい政治家たちをシャット・アウトする。その聖域から権力とのかかわりを最大限に排除したのが、今日の天皇制である。非権力という点では、世界の君主制のなかで最も徹底したケースといえるかもしれない。

■都知事選挙50億円(2013年12月24日)
猪瀬さんの辞職で、年明けに都知事選が行われることになりました。
そのための費用が50億円もかかるそうです。
その金額の大きさに驚きますが、この50万円は「無駄な出費」でしょうか。
ここが悩ましい問題です。

税金を納めた都民にとっては、やはり無題に思えるでしょう。
知事選がなければ、その50億円が生活の利便性を高める用途に使われることが期待されるからです。
しかし、の50億円は、予期されていなかった「新しい仕事」を生み出します。
つまり、多くの人が大好きな「雇用の場」を生み出すのです。
選挙のために機材も消費されるでしょうが、それは市場を拡大すると言うことでもあります。

つまり、経済計算の世界では「無駄」などはないのです。
それどころか、「無駄な消費」の発生は、経済成長を押し上げるのです。
経済成長という概念が、いかに生活経済と無縁なことかは、この一事をもってしても明確です。

このブログでは、時々、書いていますが、同じことも見る側によって大きく変わってきます。
何を「無駄」と考えるか、何を「利益」と考えるか。

もう一度、猪瀬さん辞職による都知事選挙について考えてみましょう。
お金が動くので、経済成長にはプラスです。
金銭以外の面ではどうでしょうか。
大きなプラスがあります。
都民が、都政とは何か、知事を選ぶとは何かを考える機会が得られることです。

政治をきちんと考えようとしている人には、選挙の機会は多ければ多いほどいいでしょう。
それは「学習の機会」だからです。
愚民政策を取りたい人たちには、好ましいことではないでしょうが、そういう人たちにとっても、先の選挙で損をした人たちは、挽回のチャンスになるかもしれませんから、喜ぶでしょう。
すでに先の選挙で落選した立候補者たちは、動き出しています。

都民だけではありません。
多分今回の都知事選挙は、暴走しはじめた安倍政権の動きにも影響を与えるでしょう。
国政選挙はしばらくありそうもない状況の中で、都知事選挙は大きな意味を持っています。
安倍政権も、その結果に無関係ではいられないでしょうから、今回の選挙は国政へのメッセージも生み出せるのです。

マスコミにとっては、うれしいかぎりでしょう。
話題が増えれば、それだけ仕事もやりやすくなるでしょう。
地道な仕事などしなくても、一緒になって騒いでいればいいですから、。〈

他にもいろいろとありますが、ともかくこれは経済的には「特需」効果があり、政治的には「修正」効果があり、文化的には「学習」効果があるといえるでしょう。
都知事選挙、万々歳です。

いささか茶化し気味に書いたので、また誤解されるといけませんが、
もちろん私は、50億円の選挙費用は全くの無駄で、都民はもしかしたら「学ぶ」どころかまずます「投げやり」になっていくのではないかと、心配しているのです。
「オリンピックの顔になる人」などという言葉に惑わされなければいいのですが。

■12月27日、よかったら湯島にお立ち寄りください(2013年12月25日)
今年もいろんなサロンを開催しましたが、12月27日が今年最後のサロンです。
最後の金曜日は、毎月、テーマなしのオープンサロンですが、
今回は時間を繰り上げて、午後4時から8時まで、カフェを開店します。
いつも通りの気楽なサロンです。
まだお会いしたことのない人も大歓迎です。
もし時間があったら、可能な時間に、珈琲を飲みにお立ち寄りください。
珈琲は、友人の神崎さんが、大好きな宮本珈琲の美味しい珈琲を提供してくれるそうです。

開店時間は、4時から8時ですが、私はずっといます。
お会いできるのを楽しみにしています。

○日時:2013年12月27日(金曜日)
○開店時間:午後4時〜8時
○スタイル:好きな時に来て好きな時に帰る
○珈琲:500円
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf

■驚くことの多い年の瀬です(2013年12月26日)
昨日テレビで、沖縄の仲井真知事が安倍首相に話している言葉を聞いて驚きました。
話し合っているのを見て驚きました。
「格別のご高配を賜りましたことに深く感謝申し上げます」
私は耳を疑いましたが、他のチャンネルのニュースでも(当然ですが)、同じでした。

知人が早速、知事宛に「戦後初めて基地を受け入れた沖縄県知事とならないように」とメッセージを出しました。
http://unitingforpeace.seesaa.net/article/383631042.html
それに関連して、メーリングリストで次のようなことを流してきてくれました。

球新報東京支社報道部長の島洋子氏は12月21日の都内での集会で、「沖縄県が普天間飛行場の名護市辺野古への移設を受け入れてしまえば、沖縄県が戦後初めて基地を受け入れてしまうという、歴史の岐路に立たされています」と語っています。

まさかのまさかです。
仲井真知事のこれまでの言動には、拍手を送っていたのですが、最後の最後でこれまたどんでん返しです。

と思っていたら、今日のテレビは「安倍首相、靖国参拝」でもちきりです。
これも驚きました。

支持率が低下し、しばらくは言動に留意するだろうと思っていましたから、このニュースにも驚きました。
まあしかし、安倍首相としては当然の行動というべきかも知れません。

そういえば、つい最近の韓国への弾薬の提供も驚きました。
いろんなことが、どんどんなし崩し的に既成事実化していることに、気持ちの悪さを感じますが、それが加速化されているようで不安です。

今年は、いろんなことがありましたので、政治の動きには驚かなくなってきましたが、驚かなくなることが一番危険なのでしょう。
驚かなければいけないと、改めて思います。

驚くことの多い年の瀬です。

■バングラディシュのブロックエイド(2013年12月28日)
昨日は湯島で今年最後のオープンサロンだったのですが、鷹取さんが来てくれました。
鷹取さんは不思議な人で、多くの時間を海外で過ごしているようなのですが、年に1回くらい、突然飄々とやってきて、そのつど、刺激的な話題を提供して場を盛りあげ、さらにとてもいいタイミングで退席されるのです。
そのスマートさは、感動的でさえあるのです。

つい最近まで、バングラディシュに仕事だったそうですが、首相選挙の関係で内戦状況に陥り、仕事もできないので帰国されたようです。
私はまったく知らなかったのですが、いまバングラでは、反政府グループによって、各地の交通封鎖や暴力的なデモが行なわれ、連日10人前後の死者が出ているのだそうです。
現地の新聞も持ってきてくれましたが、そこには交通事故死を報告するように、デモなどによる死者数が掲載されていました。

タイでの内戦状況のニュースは日本のテレビでも盛んに報道されていますが、そのすぐ近くのバングラでのこうした状況は気づきませんでした。
今日は気を付けて、BSの海外ニュースを見たのですが、そこではたしかに報道されていました。
死者もすでに200人を超えたと報道されていました。

タイと日本の関係は深いですが、バングラと日本も近い関係にあります。
鷹取さんが教えてくれましたが、今でもバングラのある世代の人たちは、この国の独立を最初に認めてくれた国として日本には感謝しているそうです。
私も、バングラがパキスタンから独立する時に、ささやかに応援しました。
その関係で、定期的に情報をもらっていましたが、その後、シャプラニールが生まれました。
いまは会員も止めていますので、まったく無縁なのですが、バングラがそんな状況とはとても残念です。

しかし、マスコミで報道されている世界の動きは、ほんの一部なのだと、改めて思いました。
そんなことは当然のことなのですが、ついつい報道で知ったことだけで構築した世界像がすべてだと思い込みがちなのです。

昨日のサロンでは、ヘイトスピーチの話も出ました。
しかし、ヘイトスピーチの広がりはどうなのでしょうか。
機能もかなり議論になりましたが、ヘイトスピーチの報道が逆に事実を増幅する効果もあります。
私の周りには、ヘイトスピーチなどしている人はいませんので、実感が持てないのですが、たとえば中国の過激な反日デモも、現実のほんの一面でしかありません。
小さな出来事にこそ本質が現れるとも言われますが、それはそうだとしても、世界を知るためにはやはりもっと広い視野を持たなければいけません。

昨日はいろいろな話が出ましたが、改めて私自身は、視野を広く持つことの大切さを感じました。

■「流れに身を任す」生き方から「流れに抗う」生き方へ(2014年1月1日)
またひとつ、年が明けました。

妻を見送ってからの7年間、亜空間のなかを浮遊するような感じで過ごしています。
それに気づいたのが一昨年ですが、昨年もそこから抜け出られずに、いや抜け出ようという気にならずに、過ごしてしまいました。
しかし、そうして浮遊している間に、社会はますます住みにくくなってきました。
それは、あまり時代にコミットせずに、浮遊する私にも伝わってきます。
時評編で、時折、嘆きを書いていますが、社会の多くの人たちは、むしろそれを受け容れているような気もします。
私には、実におぞましい光景ですが、それこそが現代の幸福かもしれません。
なにが幸福かは人それぞれで、私が嘆くのは傲慢かもしれませんが、残念ながらそうした風潮が私と無縁であるわけでもありません。

昨年は、浮遊しながらも、そういうことに身震いし、時評編を書く気さえ萎えがちでした。私が社会から脱落しすぎているとしたら、まずはわが身を正さなくてはいけません。
自らの気を起こすためにも、後半は久しぶりにかなりの本を読みました。
時代を相対化するには、あるいは、自らの考えを修正するためには、さまざまな人が書いた本は視野や視座を広げてくれます。
そこに、自分とは違う、もうひとつの思考の軌跡をたどることができるからです。
そして、改めて、時代の先ゆえは、常に誰かに見えているものだと思いました。
社会が壊れだしている今の状況を予見していた人は、昔から決して少なくないのです。
私が以前から見ている未来も、もしかしたら、ありえるかもしれないと思い出しています。
それは確かめようもないことではありますが、そう思えるようになったことは、私にはとても大きな意味があります。

以前、「見た人の責任」と言うようなことを書いたことがあります。
そこに困っている人がいたら、手を差しのべなければいけません。
少しでも未来が見えたのであれば、何かをしなければいけません。
しかし、見た事の、あるいは知った事の、どれを選ぶかはとても大切なことです。
だれにも手を差し出せば良いわけではない。
どれにでも行動を向ければ良いわけでもない。
昨年、学んだことが、このことです。
私はむしろ、物事に優劣の判断をつけない生き方を志向してきたのですが、それは間違っていたかもしれないと思い出しています。

昨年は「流れに身を任す」生き方を意識しましたが、今年は、「流れに抗う」生き方を意識したいと思っています。
それが、もしかしたら、浮遊状況から抜け出す契機になるかもしれません。
よどんだ世界に安住している生き方は、そろそろ終わりにしないと前に進めません。

ただ、今年も、正直に、誠実に、そして自分らしく生きようと思います。
カミユは、「自由とは嘘をつかぬ権利のことだ」と書いています。

今年もできるだけ東京の湯島天神の近くのオフィスには出かけようと思います。
この数年、「コモンズ空間」を目指して、湯島のオフィスをできるだけいろんな人たちに開放してきましたが、空間を開放することとコモンズを育てることは、別のことだと学ばせてもらいました。
今年は、私もできるだけ顔を出し、珈琲を淹れたいと思います。
近くに来る機会がありましたら、ぜひご連絡ください。
お会いしたこともない方も含めて、どなたでも歓迎です。
珈琲のおもてなししかできませんが。

いつかお会いできるのを楽しみにしています。

■政治と市民(2014年1月2日)
元日の朝日新聞の社説は「政治と市民」と題されていました。
そこに、オーストラリアの政治学者のジョン・キーンさんの「モニタリング民主主義」が紹介されています。
投票日だけの有権者ではなく、日常的に主権者として、政治への関心を持ち続けようという考えです。
その社説では、哲学者の國分功一郎さんの、日本の政治の主導権はいまや行政機関に握られているという指摘も紹介されています、

政治における主導権は、権力者から権力組織へと移ってきていますが、今の日本でいえば、行政組織の道具になっているような気がします。
選挙は、そうした実態を覆い隠すための儀式となっていますが、そうしたなかでも、市民の意識は啓発され、さらに市民のつながりが育ち、市民組織や市民運動が行政組織への異議申し立てをするほどに育ってきているのが、現在なのではないかと思います。

私は、社会を形成する個人にとって大切なことは、「宗教(信仰)」と「政治(連帯)」ではないかと思っています。
10年ほど前に、ある企業から頼まれて、市民活動への資金助成プログラムを企画し実施させてもらったことがあります。
その会社は、私が思うようにやっていいと全面委任してくれたのですが、私の気配を感じてか、ただひとつだけ何となく条件を伝えてきました。
それは、資金助成する条件として、「宗教や政治に関するものではない」活動ということでした。
私にはとても不満でしたが、一緒に企画していた仲間も誰一人例外なく、それを当然のことと受け入れました。
それで、異論を唱えることなく、受け容れてしまいましたが、私自身は意識的には、選考段階では宗教性や政治性はむしろ積極的に考慮しました。
宗教や政治に無縁の市民活動など、なんの役にも立たないというのが私の考えでした。

「宗教」や「政治」の捉え方が、私の場合、特殊なのかもしれません。
宗教とは自らの生きるよすがを考えること、政治とは他者との関係を考えること、というのが、私の理解です。
いずれも、自らの生き方を考えることといってもいいでしょう。
あまりに特殊すぎるといわれるかもしれませんが、でわ、みなさんはどう理解されているでしょうか。
どこかの教団宗教に帰依することが宗教を持つと言うことでしょうか。
どこかの政党に属することが政治意識を持つと言うことでしょうか。
無宗教で無党派と言う人が多いのですが、その言葉ほど、私には違和感のある言葉はありません。
誠実に自らを生きようと思うのであれば、宗教や政治はとても重要なテーマだろうと思います。

モニタリング民主主義ですが、行政や政治をモニターするためには、まず自らの主体的な生き方をもつことが大切です。
一人称自動詞で語る生き方といってもいいでしょう。
自分一人ではなく、さまざまな人たちと支え合いながら生きていれば、自らの判断基準や他者との関係の折り合いの付け方は、日々、考えざるを得ません。
それは実にわずらわしいことですが、みんながそのわずらわしさに正面から立ち向かっていくことが、言葉だけのモニタリングではない、実体を育てていくことになるでしょう。
モニタリングの仕組みを構築することでは、全くありません。

大切なのは、パブリックコメントや住民投票の制度ではなく、日々の私たちの生き方です。
今年は、私もそういう意識をもっと強めたいと思っています。

■ヘイト・スピーチは特殊な話ではありません(2014年1月3日)
昨年最後のオープンサロンで、ヘイト・スピーチが少しだけ話題になりました。
あまり議論は盛り上がらなかったのですが、翌日、参加者の一人から、「私の今年の印象ではヘイト・スピーチが最重要に思えました」というメールが届きました。
それで、もう少しきちんと問題を理解しようと思い、最近出版された岩波新書の師岡康子さんの「ヘイト・スピーチとは何か」を読みました。
さほどの認識違いはないなと思って、さっと読み終えたのですが、「あとがき」を読んで自らの勘違いに気づきました。
勘違いと言うよりも、問題の捉え方が根本的に間違っていたのです。

あとがきの最初の部分を引用させてもらいます。

ヘイト・スピーチの問題について話をすると、あの排外主義デモをやっている人たちは、一体どんな人たちなのかとの質問をしばしば受け、違和感を覚える。
ヘイト・スピーチとは差別であり、まず、そして何より考えるべきは、差別によりもたらされるマイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみをどう止めるかということではないだろうか。未だ多くの議論が差別の実態を離れた机上の空論になりがちである現状に対しては、要点がずれていると言わざるを得ない。

つまり、私は、ヘイト・スピーチ現象は社会状況の一つの現われと捉えていましたが、師岡さんが言うように、要点がずれていました。
問題は、私の心身の中にもある「差別」だったのです。
ヘイト・スピーチ現象は、私とは無縁の話ではなく、まさに私の生き方であり、考え方なのです。
一人称自動詞で生きるといいながら、どうもまだ徹底できていません。
ヘイト・スピーチ活動をする人への差別も含めて、自分とは別の世界の話だと思いたがっていたわけです。
まさに、ニーメラーの間違いを繰り返していたのです。

師岡さんの「マイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみ」という言葉が、特に心に沁みました。
まだまだ私の感受性は、底が知れています。
そして、昨年末の最後のサロンの場でも、「ヘイト・スピーチ」が存在していたことにも気づきました。
その時は、私自身の直感的なもので、その発言には生理的な嫌悪感を持ち、思わず異議を唱えました。
しかし、なぜ異議を唱えたかの理由が自分でも理解していなかったのです。
ヘイト・スピーチの話題を出した人(翌日メールをくれた人ですが)も、それに気づいていなかったかもしれません。

ヘイト・スピーチは、実は特殊な話ではなく、私たちの日常の生活につながっている話なのです。
私も、もしかしたら、同じようなことをやっているのかもしれません。
直接発言せずとも、そうした発言を見逃していたら、差別に加担することにもなりかねません。
自分の心の中にある「差別の感覚」を、できるだけ意識化しようと思います。

世の中には、「特別の事件」などないのです。
これが今年最初の私の気づきです。

■「現在の人工知能は「子ども使い」が不得手」(2014年1月4日)
昨日の朝日新聞に、人工知能を東大に合格させるプロジェクトのリーダーの、新井紀子さんのインタビュー記事が出ていました。
すでに、私大579校のうち403校で合格可能性80%になっているそうです。
そこにこんな発言がありました。

現在の人工知能は、チェス王者に勝てても子どもの使いもできない、とよくからかわれています。

現在の人工知能は、人間にとって簡単なことほど不得手なのだそうです。
そして、こんな例が紹介されています。

(現在の人工知能は)小学校入試で「次の絵の中で仲間はずれは?」という質問には答えられません。答えるには人間の総合判断能力がいるからです。

よく聞く話ですが、とても考えさせられる話です。
私たちの価値基準を反転させることの大切さを示唆しているように思います。
つまり、容易さと難しさの判断基準や、教育における進歩(向上)基準を変える必要があると思います。
極端に言えば、今の学校教育は、人間の持つ大切な知恵や能力を、封じ込めるためのものかもしれません。
知識に対する評価基準や「有識者」の認定基準も、見直すべきかもしれません。
そう考えると、昨今の社会の壊れの原因が思い当たります。
大切な知識や技のない人が、組織(社会)のトップに立ち、制度やシステムを統治しているからかもしれません。
そうした人たちは、簡単なことを(人工知能のように理解できないために)難しい話に作り変えているのかもしれません。

人の付き合いは、実はいたって簡単なのかもしれません。
それを、私たちが身に付けてきた小賢しさで、ややこしくしているのかもしれません。
専門家たちに自らの生活を預けてしまい、単なる経済機関になってしまっているとしたら、もはや「子どもの使い」能力などは不要になるでしょう。
社会という機械の末端部品になってしまうのは、果たして幸せなのかどうか。
私は反発したいですが、私の次の次の世代は、そうした人生を選びそうな気配がしないでもありません。

私が次にまた、この世に生まれ変わった時の社会は、どうなっているのでしょうか。

■「自分の面倒は努めて自分でみる」ことに反対(2014年1月5日)
五木寛之さんが「新老人の思想」という本を出しました。
その新聞広告のキャッチコピーは、とても私には不快なものでした。
一番大きな文字は「老人こそがすべての主役」とあります。
まともな物書きの言葉とは思えません。
まあ、私は五木さんの最近の作品があまり好きではないので、そう思うのかもしれません。
しかし、広告批評ジャーナリズムの天野さんがいたらどう言うでしょうか。

ところで、その広告に、新老人の生き方として、最初に「自分の面倒は努めて自分でみる」があげられていました。
私は娘から、自活できるように、少しは料理や買い物ができるようになってよ、といつも言われています。
時勢がら、そうなのかと思う反面、そうはしないぞとも思っています。
それで娘とは時々、論争になります。
そういうこともあるので、この言葉に反論したくなりました。

「自分の面倒は努めて自分でみる」という生き方には、私は反対です。
私が理想とするのは、「自分の面倒は努めて他者に見てもらう」です。
ただし、同時に、「他者の面倒は努めて見るようにする」ことにも心がけたいと思います。
これが私の、長年の実際の生き方です。

前に書きましたが、面倒を見ることと面倒を見られることと、どちらがうれしいでしょうか。
私は前者です。
病人の看病をした体験のある人なら、みんなそう思うでしょう。
だとしたら、面倒を見てもらうということもまた大切なことなのです。

「自分の面倒は努めて自分でみる」という生き方を推し進めていくと、孤独な生き方に向かい、孤独死にさえつながりかねません。
人は一人では生きていけません。
面倒を見合うことによって、生きていけるのです。
いや、面倒を見合うということこそが、生きることではないかとさえ思います。

「自分の面倒は努めて自分でみる」という生き方のできる人は、五木さんのように、恵まれた人だけでしょう。
しかし、そういう生き方は、何か冷たくて、豊かさを感じません。
困ったらまわりに救いを求め、まわりに困った人がいたら手を貸すという生き方こそ、豊かで幸せな生き方のように思います。

しかし、他者に面倒を見てもらうことはそう簡単なことではありません。
困った時に面倒を見てもらえるのは、それまでの生き方と無縁ではありません。
大切なことは、面倒を見てもらえるような生き方をしようということです。
つまり、日頃から他者の面倒を見る生き方をするということです。
私は、「自分の面倒は努めて自分でみる」という生き方だけはしたくありません。

ところで、娘には、親孝行のチャンスを与えるという親心だと説明していますが、納得してもらえません。
困ったものです。

■都知事選を政治への関心を高めるために活かしたい(2014年1月8日)
都知事選への立候補者が出始めています。
宇都宮さんと舛添さんの立候補には驚きませんでしたが、なんと田母神さんが立候補し、しかも石原元知事が推薦するとは思ってもいなかった驚きです。
しかも悲しいことに、前回の都知事選で宇都宮さんを押していたグループは割れだしてしまい、公開の場でも争いだしています。
大義の前に大同することが良いことかどうかは迷いますが、悲しい話です。

それ以上に残念なことは、争点が見えないことです。
選挙というのは、国民が政治の論点を考えて、自らの政治意識や社会意識を高める場といわれますが、今回の都知事選は、そういう考える論点が話題になりません。
しかし、その気になれば、いろんなことが見えてきます。
田母神さんが立候補したこと自体、日本の現状が示唆されていますし、宇都宮陣営の内部論争も今の社会の本質を象徴しています。
自民も民主も、公認候補を選びたくても選べないというのも、国政を考える上でも興味深い話です。
ほかにも、いろいろと考えると、これからの政治や社会を考えるヒントがたくさんあるような気がします。

マスコミも評論家も、知名度が大切だと言いますが、選挙とはそういうものではないでしょう。
そんな人気投票型選挙にしては、それこそもったいない話です。
誰が知事になるかといった興味本位の選挙ではなく、私たち自身の政治意識や社会意識を高める契機にしたいものです。
そのためにも、マスコミは、しっかりと論点や都政の問題点を報道し、解説してほしいですが、都民でない私も、他人事としてではなく、いろいろと考える契機にしたいと思います。

■マララさんのメッセージに感動しました(2014年1月8日)
テレビのクローズアップ現代で、「16歳 不屈の少女 〜マララ・ユスフザイさん〜」を見ました。
16歳で、ここまで語れるということに驚きましたが、見ているうちに、そう思う私自身が問題なのだと気づきました。
世界を動かし、世界を変えていくのは、やはり若い国の若者たちですね。
そして、そういう若者が、パキスタンやシリアなどで、どんどん増えているのでしょう。
日本にいると、やはり世界を見間違うような気がしてきました。

都知事選なんか、瑣末な話だなと反省しました。
問題は、だからどうするのかということなのですが。

元気をもらえた番組でした。
再放送があると思いますので、ぜひご覧ください。
ひとりの少女でも世界は変えられるという、ウガンダの、やはり若いジャーナリストの女性の発言に、目を覚まされました。

■人と人をつなぐもの(2014年1月9日)
今年は年賀状をまだ書いていません。
はがきだけは購入してあるのですが、どうも書く気になれません。
つまり、「新年おめでとう」という気分が出てこないのです。
受け取ったまま、返信もしないのは失礼なので、メールなどで連絡できる人には、年賀状ありがとうございました、というメールだけは発信しました。
しかし、メールをやっていない人にはそれができません。
寒中お見舞いにして、出そうかと思いますが、それもどうも気が進みません。
困ったものです。

毎週、1〜2回、はがきをくれる友人がいます。
それも必ず記念切手を貼った、絵葉書です。
はがきをもらうとやはりうれしいものです。

昨年末に、会社時代に一緒に仕事をしていた人から手紙が届きました。
私よりもひとまわり若い人で、会社時代は私の仕事を手伝ってくれていた人です。
そろそろ身のまわりの整理をしだしたそうです。
その途中で、私の手紙を見つけたようです。
「佐藤さんは、よく手紙をくれていましたね」と書かれていました。
その手紙が残っていたようです。
昔は、私もよく手紙を書いていたのを思い出しました。

私自身は、最近はあまり手紙を書かなくなりました。
電話は今でもあまり好きではありませんので、メールでの連絡が中心になってしまいました。
メールは実に便利なので、だんだん手紙を書かなくなってしまったわけです。
手紙を書く場合も、パソコンで打ちこんで、印刷するようになりました。
今は亡き妻は、パソコンでつくったものは手紙ではないと言っていましたが、たしかにそうかもしれません。

メールよりも簡単なのはフェイスブックです。
フェイスブックに何かを書くと、いろんな人が「いいね」を押してくれます。
私も最初は、誰かの記事を読んで共感したり、関心を持ったりしたら、「いいね」を押していました。
なんとなくそれでその人とつながっているような気がしたものです。
しかし、考えてみると、それで何かが伝わったわけでもありません。
最近は、「いいね」を押せなくなってきました。
それと、フェイスブックは、いささかストーカー的な要素があって、気が進まなくなりました。
それで最近は書き込みも少なくなりました。

人と人がつながるというのは、どういうことでしょうか。
最近は、どうも形式的なつながりが増えているのかもしれません。
形式的なつながりが増えることは、もしかしたら、心を込めたつながりはむしろ減っているのかもしれません。
つまり、功利主義的なつながりは増えても、支え合うつながりは減っているかもしれません。
機能的で功利主義的なつながりがいくら増えても、忙しくなったとしても、生活は豊かにはならないでしょう。

そんなことを考えているせいか、なかなか寒中見舞いも書けません。
今年もまた、郵便局に使用しなかった年賀はがきを引き取ってもらいに行くことになるかもしれません。
困ったものです。

■「TPPを先取りする共済の危機」(2014年1月10日)
「TPPを先取りする共済の危機」という論文が、岩波書店の雑誌「世界」の昨年12月号に掲載されました。
副題は「協同組合はどこに行こうとするのか」。
書いたのは、青山学院大学教授の本間照光さんです。
とてもわかりやすい論文で、「事の本質」を的確に捉えている論文だと思います。
書き出しの部分を紹介させてもらいます。

TPP(環太平洋連携協定)を特徴づけるのは、その秘密主義と強権だ。交渉の経緯も妥結内容も、人びとには秘密にされる。それと連動したアベノミクスは、規制を次々となくし、「企業が世界一活動しやすい国」(安倍首相)にする。米国の巨大企業など、「資本の組織」の利潤追求の野放しである。それは、主権、国民経済と生活、社会と社会的存在である人間と自然の全分野に及ぶ。自分たちでいのちとくらしを支え合い、リスクに向き合って「社会」を運営することを許さないということだ。
 TPPの入り口ですでに、保険や共済をめぐる大きな動きが起きている。

本間さんは、社会保障や共済、協同組合論などがご専門です。
私は、日本の共済の仕組みがアメリカからの圧力により壊されそうだということを知って、共済研究会というのに参加させてもらったのですが、本間さんはその代表のお一人でした。
それが契機になって、私も共済について少し学ばせてもらいました。
以来、ささやかなお付き合いがあります。

とても刺激的な論文なので、共済研究会などでも話題になり、話し合いが始まっているかもしれないと思い、もしそうした場があれば、参加させてもらおうと思い、本間さんに電話しました。
ところが、残念ながらそういう場はまだ生まれていないようです。
であれば、ぜひとも、湯島で一度、話し合いの場をつくりたいと提案させてもらいました。
残念ながら、大学の学期末のため、春になってからということになったのですが、本間さんはかなり疲れているようでした。
疲れの原因は、たぶん、本間さんの主張にきちんと耳を貸す人がいないということではないかと思います。
本間さんは、中途半端に現状を憂いているのではありません。
誠実に、真剣に、TPPの弊害を説き続けているのですが、それに呼応して行動を起こす人がなかなか出てこないことに危機感を高めているのです。
本間さんの嘆きは、以前からも少し感じていましたが、今日の電話では、それがさらに高まっているようでした。
世間の流れに迎合すれば疲れないのでしょうが、本間さんは、そういう人ではないのです。
だから私は好きなのです。

それで私もこの論文を一人でも多くの人に読んでもらう努力をしようと決めました。
それで、こんな記事を書いてしまったわけです。
もちろんTPP賛成の方もいるでしょう。
しかし、そうした人にも、ぜひこの本間論文を読んでほしいと思います。
特に、協同組合関係の人に読んでほしいです。
もう書店にはないと思いますが、図書館でぜひ読んでみてください。
とても考えさせられる論文です。

ちなみに、この論文の特徴は、抽象的にTPP反対を唱えているのではありません。
上記引用文の最後にあるように、「TPPの入り口ですでに、保険や共済をめぐる大きな動きが起きている」という事実を実証的に示してくれているのです。
そしてそれは、このブログで私が時々書いている、「産業のための経済」と「生活のための経済」の違いを示唆してくれているのです。

本間さんを囲むサロンは春には企画したいと思います。
関心のある方は、ご連絡ください。
案内を送らせてもらいます。

もう一つだけ、本間さんの論文から引用させてもらいます。

人の世である限り、人びとの協同と支え合い、相互扶助は不可欠である。

■話し合うことの難しさ(2014年1月12日)
最近、首相の靖国参拝を話題にしたテレビでの議論をよく見ます。
つくづく「話し合うことの難しさ」を感じます。
多くの場合、話し合いというよりも主張試合のような感じです、
話し合っているうちに意見が変わるという人をほとんど見たことがありません。
振り返ってみるに、自分もそうなのかもしれないと気づきました。
自らの意見を変えることのない話し合いは、話し合いとはいえないでしょう。
私は、話し合いがとても大切だと思っている人間で、これまでもそう心がけてきたつもりですが、どうもそうではなかったようです。

議論を聞いていて、いつも思うのは、冷静で穏やかな話し方をする人のほうにどうしても好感を持ってしまうということです。
しかし、思いが深いと、どうもそうはなりません。
私は、自分の感情がすぐ身体に出る人間なので、話し合いではいつも信頼を勝ち得られずにいるのかもしれません。

今日は、西尾幹二さんが議論に参加していましたが、彼は自分の主張を話すだけで、議論には参加していない感じでした。
しかし、少数派だったからか、自己の主張を感情的に発言していました。
知性が感じられない、ただの無知な老人にしか見えませんでした。
そうなると説得力はなくなります。
自説に呪縛されると、人はこうなるのだと、改めて自分をみるような気がしました。
知性とは、自らの考えや視点を柔軟に変えられることなのかもしれません。

昨年末だったかもしれませんが、やはり靖国などをテーマにした議論の中で、よくテレビに出ている著名な専門家の人が中国人の参加者に、声を荒げて勉強不足だと批判しました。
参加していたひとりの、なかにしれいさんが、声を荒げて非難するのはやめましょうと、発言していたのがとても印象的でした。
普通は司会者やコーディネーターがそう正すべきですが、テレビではあまりそういう場面を見ません。
なかにしれいさんの見解は別にして、なかにしさんが「話し合い」をしようとしているのにとても好感を持ちました。
彼に知性を感じました。

数日前に、やはり靖国問題で、櫻井よしこさんと中野晃一さんが司会者を挟んで議論していました。
お2人の考えは全く違っていましたが、とてもいい議論でした。
櫻井さんの考えや主張は、私には共感できないものですが、相手の意見を聞こうとする姿勢を強く出していました。
反対論に耳を傾ける人の意見は聴くに値します。
これまで私は、櫻井さんの主張にはまったく関心はありませんでしたが、これからは聴こうと思い直しました。
ちなみに、この番組は櫻井さんのほうが評判がよかったようです。

ところで、知性とはなんでしょうか。
私は、やさしさだと思っています。

■相変わらず自分の生活しか考えないコメンテーターが多いですね(2014年1月13日)
都知事選に細川さんが出馬声明を出しました。
脱原発が争点になることは間違いないでしょう。
細川出馬へのいろんな人の感想を聞いていて、呆れるのは、相変わらず、「脱原発を言うのは、いいが、原発なしで本当にやっていけるのかをきちんと説明しないと無責任だ」という意見です。
正論だと思う人がいるかもしれませんが、私には唾棄すべき意見です。
「原発を前提にした社会の是非」が問題になるべきなのに、そうした人たちは、現在の利便性や利益に相変わらず固執しているとしか思えません。
もちろん脱原発が絶対正しいと言うわけではありません。
私は、正しいと思っていますが、そうでない意見もあっておかしくはありません。
その賛否をしっかりとぶつけ合って、原発を理解する契機にすべきです。
問題の立て方が違うのです、
現状を前提に考えている限り、未来は変えられません。
自分のために考えるのではなく、次世代のことも視野に入れて考えてほしいです。
それが、社会をここまで壊してきた現代人の責務だろうと思います。

脱原発にしても、即ゼロか暫時ゼロかで違うという論者も多いですが、これも私には違和感があります。
即ゼロなどありえないでしょうが、即ゼロでなければ意味がないでしょう。
つまり即ゼロはあくまでも思想です。
思想を現実化するには時間も政策も、手順も技術も、雇用保障も不可欠です。
それを混同して議論している人が多すぎます。
大切なのは思想です。

他にもいろいろと思うことはありますが、
ともかく「問題の立て方」を正すべき時です。
そして、未来の世代に顔向けできる生き方をしたいです。

■島は神様のもの(2014年1月14日)
文科省は、教科書の編集指針となる学習指導要領の解説書に、尖閣諸島と竹島を日本の領土と明記する方向を検討しているそうです。
子どもの頃から、領土意識を植え付けようと言うわけです。
おそらく多くの人は、そうしたことを肯定するでしょう。
しかし、私が思い出したのは、エリッヒ・ヤンツが「自己組織化する宇宙」で紹介している、次の話です。
ちょっとわかりにくい文章ですが、そのまま引用します。

インドネシア、バリ島の住民たちは自分たちを島の持ち主と見ない。「神の島」に招かれた客人として見るのだ。生きるために日々苛酷な労働に耐えねばならぬ客人と見る。にもかかわらず、この神の客人であるという精神的感覚は衰えることがない。それは幸福感の汲めどつきせぬ源泉であり、かぎりない感謝とすべての生命への贈りもの、水や火や食物やありとあらゆるものに供物を捧げつづけさせる。

島は神様のもの。
私たちは、そこに招かれたお客様。
とてもあったかなものを感じます。
領土争いなどという考えは、決して出てこないでしょう。

もう一つ思い出すのが、ゲルマン法理の「総有」という考えです。
たとえ私有地であっても、すべて勝手に使えるわけではなく、そもそも土地はみんなからの預かりものという発想が、そこにはあるように思います。

領土意識を持たせる時代は、もう終わったように思うのですが、みなさんはどう思うでしょうか。

■世論調査結果に感ずる不安(2014年1月15日)
世論調査の報道を見ていて、気になることがあります。
二者択一の質問に対して、「どちらともいえない」とか「わからない」という回答が多いことです。
わからなかったら、少しは調べて考えろ、と私は言いたいです。
原発のような大きな問題に関してさえ、そうなのです。
そう答える人を見ると、この人はまじめに生きているのかなあ、と疑いたくなります。
自分の家の隣に原発が建つという問題であれば、賛否を決めないわけにはいかないでしょう。
しかし、それが自宅から離れていれば、決めなくてもすむのです。
沖縄の基地問題もそうです。
自宅の近くに米軍基地が出来るのに反対する人も、沖縄の辺野古であれば「どちらともいえない」で済ませてしまうのです。
そういう人は、私には真面目に生きているとはとても思えません。

そういえば、支持政党に関しても「支持政党なし」と言う人が多いです。
これを「無党派層」と呼ぶのが一般ですが、私には違和感があります。
完全に自分の考えに合致する政党がある可能性は極めて少ないでしょう。
しかし、政治を真剣に考えるのであれば、やはり支持する政党を探す努力はすべきです。
それをせずして、簡単に「支持政党なし」というのは、誠実さを欠くように思います。
要するに「考えていない」のではないかと思いたくもなるわけです。

昨今は、安直な世論調査が多いことも、その一因かもしれませんが、それだけが原因でもないでしょう。
「どちらともいえない」とか「わからない」と言う人は、結局は多数派を応援することになります。
そういう人が増えることは、社会を不安定にさせていくように思います。
社会が不安定になれば、それを利用する人が出てきかねません。
世論調査の数字を見るたびに、いつも不安を感じます。

■都知事選に「脱原発」を争点にする意味(2014年1月18日)
都知事選で「脱原発」が争点になることに対して、巻き返しが強まっているように思います。
今朝も日本テレビの「ウィークアップ」で話題にしていましたが、その議論を聞いていると、脱原発を争点にしたことへの批判がかなり出ていました。
宮城県知事だった浅野さんなどは、「知事選への冒涜だ」と怒っていました。
こんな想像力のない人が知事だったのかと思うと日本の自治体行政がおかしくなるのは当然だなと思ってしまいます。

番組では、都民への街頭での争点アンケートもしていました。
5項目のうち、脱原発が一番低くなっていました。
コメンテーターたちは、原発問題よりも、子育て支援とか、防災が都民の関心事であって、原発を争点にすることは拒否されているように思えるなどといっていましたが、100人にも満たぬ街頭アンケートでそういう結論を出すことに、私は「悪意」を感じます。

そもそも「脱原発」を争点にする意味とはなんなのか。
その視点が、浅野さんのような人には理解できないのでしょう。

防災問題といえば、地震が問題になりますが、仮に原発が事故を起こせば、その被害は地震の比ではありません。
防災に本気で取り組むのであれば、まずは脱原発だと私は思います。
子育てに関心があるのであれば、子どもにとって安全な生活環境を作り出すことが最大の課題でしょう。
働くための保育施設や子育て手当てなども大切ですが、子を持つ親であれば、原発問題にこそ関心を持つべきだろうと思います。

原発の是非を問うということは、社会の基本的なあり方を問うということです。
日本は「経済的」には豊かになりました。
しかし、それと同時に、社会は底が抜けたといわれるくらい、壊れだしています。
一昔前に比べて、私たちは幸せになったのか。
次の世代は、私たちよりも幸せになれるのか。
いずれの問いにも、幸せだと胸をはって言える人は多くはないでしょう。
社会のあり方、経済のあり方、あるいは私たちの生き方が、問われているのです。
そして、原発を基本において考えるかどうかは、それらに深く関わっています。
つまり、「脱原発」を争点にするということは、私たちの生き方を問い直すということです。

原発問題には、様々な問題が包含されています。
たとえば、そこには人権問題も秘密隠し問題も象徴的に存在しています。
私が反原発になったのは、30年ほど前に原発を見せていただき、そこでの労働の実態を知った時からです。
秘密保護法が問題になっていますが、原発の世界での隠ぺい活動はこれまでも何回も話題にされています。
さらにいえば、経済における外部性の問題も象徴的に存在します。
原発による電力コストが安いという論理は、外部負担や未来負担をどうコストに反映させるかということによって成り立っています。
つまり、そこには現在の産業を成り立たせる、短視眼的な経済学があるわけです。
そうした経済学に立脚する限り、経済成長はしても多くの人たちの生活はますます貧しくなるだけでしょう。
経済学のパラダイムが変わらなければいけない時期に来ているのです。

原発問題を争点にするということは、私たちの生き方を問い直すということです。
それを前提にして、都政を考えるかどうか、そこが大きな争点だろうと思います。
基本を正さずに、個別争点を正すことは難しいのです。

こうしことは、明日、投票が行なわれる名護市の市長選挙にも当てはまります。
そこでも、私たちの税金を使って、市民を愚弄する醜いことが自民党によって行なわれています。
名護市の市民がどう判断するかどうか、明日にはわかりますが。

■「基地か経済か」は争点か(2014年1月18日)
都知事選に先立って、沖縄の名護市の市長選が明日、投票です。
ここでも基本的な問題が争点になるはずですが、それが巧みに変形されています。
朝日新聞の今朝の記事を一部、引用します。

本土復帰から42年。米軍基地は沖縄に註中したままだ。政府は「基地か経済か」と選択を迫り、市民の対立を深めているように見える。2020年にまた東京五輪がある。日の丸への思いは、あの当時と違うかもしれないが、もう一度、聖火リレーを迎えたい。だから地域がひとつに−。その思いを市長選に託す。

ちなみに、1964年の東京五輪の聖火リレーは米軍統治下の沖縄から出発したのだそうです。
その時に、沖縄では「日の丸」がデビューしたのかもしれません。
それはともかく、ここでもオリンピックの影が出てきます。
オリンピックとは何なのかを考える材料が、ここにもあります。

名護市の住民たちが、選挙のたびに分断されてきたことは繰り返し報道されています。
要するに、名護市の住民たちの生活は米軍基地の存在で壊されたのではなく、それにまつわる金銭のばらまきによって、壊されたのです。
それが今回また、あからさまに可視化されました。
新聞によれば、「自民党の石破幹事長は1月16日、名護市長選の基地推進派候補者の応援で街頭演説に立った際、新たに500億円の「名護振興基金」を作ることを明らかにした」といいます。
これは選挙違反ではないのかと私には思えますが、こんな形で、私も負担している税金が使われることに大きな違和感があります。
名護振興基金に反対しているのではなく、その発表のタイミングに違和感があるのです。
前の記事で、「私たちの税金を使って、市民を愚弄する醜いことが自民党によって行なわれています」というのはこのことです。
金銭で賛同を得ていく方法は、原発とまったく同じです。
そこにこそ、本当の争点はあるのです。

名護市市長選挙の争点は「基地か経済か」なのでしょうか。
問題の立て方が間違っているように思います。
米軍基地に依存するかどうかは、まさに地域社会の根底を決める大問題です。
基地を前提にした経済もあれば、脱基地を前提にした経済もある。
まさに「原発問題」と同じ構造がここでも見られます。
問題は、経済との対置ではなく、社会のあり方、経済のあり方、人々の生き方なのです。
「基地か経済か」「脱原発か経済か」という問題の立て方に惑わされてはいけません。
問題の根底にある意図への想像力が求められているのです。
どう問題を立てるかで、実は答えは見えてくるものです。
これに関しては、これまでも何回か書いてきましたが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/10/post-c2d7.html

明日、名護市の市民はどう判断するかどうか。
原発問題と同じく、その結果は、私たちの社会の方向を大きく決めていくことになるでしょう。
山本太郎さんががんばっていますが、何もしていない自分を恥じながら、彼に拍手を送りたいと思います。
結果はどうであれ、名護市の住民たちには感謝しなければいけないと思っています。

■犯罪もののテレビドラマが圧倒的に多くなった(2014年1月18日)
最近のテレビドラマは、犯罪ものが圧倒的に多くなってきているそうです。
犯罪を取り締まる側の不正がテーマになっているものも少なくありません。
こうしたこともまた、時代を象徴しているのでしょう。

今朝の朝日新聞で、特定秘密保護法をめぐって、賛成派の長谷部東大教授と反対派の杉田法政大教授の対談が掲載されていました。
お2人に共通しているのは、日本の立憲主義を守るというところから出発していることです。
しかし、それにもかかわらず、秘密保護法への評価は正反対になっているのです。
たぶん時代認識の違いなのでしょう。
対談で、杉田さんは「立憲主義とは通常、憲法を使って権力を制限するものではないか」と問いかけていますが、長谷部さんはその問いをそらして、「憲法の定める自由で民主的な現在の政治体制を守らなければならない」と返しています。

立憲主義は国家を安定させるものですが、「権力」の所在をどこに見るかが重要になってきます。
最近、長谷部さんのような憲法学者は少なくありませんが、昔、東大で小林直樹さんに憲法を学んだ者としては、時代の違いを大きく感じます。

権力には2種類あります。
現実的な暴力執行を正当化された権力とその権力の淵源となる権力です。
国民主権である日本で言えば、前者は政府であり、後者は国民です。
制限すべき権力がいずれであるかは、明々白々です。
しかし同時に、後者の国民という概念そのものも、主体概念にはなりえませんから、長谷部さんのような立場の人が危険な存在だと思うのも仕方ありません。
政府の暴走と同じく、国民の暴走もまた、歴史の事実として存在するからです。

現在の日本はどういう状況かは、テレビドラマの流行と無縁ではありません。
犯罪ものが多いということをどう受け止めるかです。
しかもその犯罪の主役が、個人ではなく、組織、それも警察や検察、あるいは大企業といった、社会の秩序を維持する側であることも少なくありません。
アメリカほどではありませんが、反体制的なメッセージが少しだけこめられるようになって来ています。
この点が、再放送されている一昔前の犯罪ドラマとはまったく違うところです。
社会が変質しているのです。
いや、政府が変質しているというべきかも知れません、

長谷部さんが言う「自由で民主的な現在の政治体制」とは、程遠い現実の中で、多くの人たちは生活しています。
しかし、国民としての主体化は、もはや遠い夢になっています。
あまりにも分断されてしまっているのです。
連帯などは、夢のまた夢かもしれません。
そうなれば、もう政府はいかようにも動けます。
イソップ物語の、かえるの王様を思い出します。

しかし、ここに来て、少し流れが変わろうとしているようにも感じます。
権力批判的な犯罪ドラマ人気は、そうしたことの予兆でしょうか。
あるいは、そうした世論の無意識な不満のガス抜き活動なのでしょうか。

いずれにしろ、犯罪ドラマで、鬱憤を晴らしている時ではありません。
「自由で民主的な現在の政治体制」を守るためにではなく、「自由で民主的な現在の政治体制」を創りだすためにこそ、市民活動は取り組まれなければいけないと思います。

■大学入試センター試験を2科目だけやってみました(2014年1月20日)
大学入試センター試験の「世界史B」をやってみました。
70点くらいは取れるだろうと思って、あまり考えずに、10分もかけずに解いてしまったのですが、なんと58点でした。
4択問題ですので、めちゃくちゃに解答しても25点は取れそうなのに、58点。
名誉挽回に、少し時間をかけて「現代社会」に取り組んでみました。
現代社会なら70点は取れないと社会人としては恥ずかしいと思ったのです。
ところが、ともかく問題文が長くて、読んでいるうちに疲れてしまいました。
結果はかろうじて71点。
正直、80点は取れるだろうと自負していたのですが。
甘く見てはいけません。
理系関係の科目であれば、25点までいけるかどうか心配になりました。
今のところ、挑戦する気にはなれませんが。

しかし、今回、やってみて、センター試験の意味がわかりました。
これもまた一種のメッセージなのです。
問題文と設問は必ずしもつながっておらず、問題文を読まずに設問に答えることもできます。
そして、問題文には、受験生へのメッセージ、もしくは意識づけが感じられました。
試験をきちんと受けるだけでも、ある見識を得られるようになっているのです。
問題を作る人のご苦労と意気込みを感じます。

しかし、「現代社会」でさえ70点とは、問題です。
今の私は、センター試験には合格しないでしょうが、せめて現代社会くらいは、80点は取りたかったです。
もう少し、社会の問題への関心を強めなければいけません。

もうひとつ思ったのは、「現代社会」の試験をみんな毎年受けてみたらどうかということです。
問題文をきちんと読むだけでも、世界が少し広がります。
そして、日本の教育がどういう方向を目指しているかも、垣間見えるような気がします。

■流れは変わるでしょうか(2014年1月20日)
名護市の市長選挙は、基地移設反対派の現職、稲嶺さんがかなりの差をつけて当選しました。
選挙活動中に自民党の石破さんが言い出した500億円基金創設は、むしろ反発を買って、稲嶺さんに有利に働いたという意見もありました。
同じ日に、福島県の南相馬市の市長選も行なわれ、脱原発を主張する現職が当選しました。
流れが変わりだす予兆かもしれません。
お金や権力に振り回されるのではなく、自らの生活から考えていく流れが広がるといいなと思います。

私が日本社会の地殻変動を感じたのは1980年前後です。
当時の年賀状に、いつも書いていたのが、「地殻変動の予感」でした。
当時は企業にいて、そこから見えていたのはまだ予感でしたが、会社を辞めて各地の住民活動や市民活動に触れて、予感は予兆の実感に変わりました。
しかし、1990年代の後半に入り、予兆は消えてしまい、金銭至上主義が世界を覆い出した気がします。
それからもいろいろとありましたが、今もなお、お金万能の神話は消えていないように思います。

沖縄の前の知事である太田さんが、最近よく語っているのが、辺野古への基地移設によって、日本の国家財政負担はこれまでの90倍になるという話です。
あまりマスコミには出てきませんが、辺野古への基地移設は大きな利権が絡んでいるのでしょう。
なぜその問題が大きく話題にならないのか不思議です、
しかしそれは私たちの想像力の限界を超えているのでしょう。
猪瀬さんの5000万円は想像できても、兆を超える金額は、私たちの想像力を超えてしまっています。

いずれにしろ、沖縄と福島で、新しい動きが起こり始めている。
ちょっと元気づけられています。
さて、東京都民は誰を選ぶのでしょうか。
お金の力しか実感できないでいる人の多い東京ですから、大きな不安があります。

■ヘイト・スピーチで一番不幸なのは誰なのか(2014年1月21日)
ヘイト・スピーチに関して、以前、一度書きましたが、それを読んだ人から、ヘイト・スピーチ関係の情報がよく送られてくるようになりました。
現場は、どうもますます醜くなってきているようです。
私はまだ深刻な場面には直面していませんが、送ってもらった動画情報を見ていると、実に悲しくなります。

今日、送ってくれたブログ記事にもありますが、どう対応していけばいいか、実に悩ましい問題です。
http://ameblo.jp/tyoo-o/entry-11754016092.html
みなさんは、どう考えますか。

人は、なぜ人を悪く言うのか。
今朝、解いた入試センター試験の「現代社会」の問題にも、こうしたことが話題になっていました。
正解は、「代償行為」だそうです。
まあ、それほど問題は簡単ではないでしょうが、ヘイト・スピーチの矛先は、実は発している本人なのでしょう。
幸せな人は他者を悪し様には言いません。
また自らよりも不幸な人にも、人は悪口をなげつけません。
ヘイト・スピーチの当事者は、実にさびしく悲しく、不安におののき、明日への展望など持てない人なのでしょう。
だから他者を巻き込みたい。
でも、巻き込みようもないし、自分たちのみじめさに理解を示してくれる人はいない。
秋葉原無差別殺傷事件の加害者もそうでしたが、もうヘイト・スピーチするしかないのかもしれません。
もしそうなら、そういう人をさらに追い込むのは避けるべきかもしれません。
ヘイト・スピーチする人たちの、痛みもまた思いやることも大切かもしれません。

しかし、どうしてそこまで彼らは追い込まれているのでしょうか。
どこか、今の社会がゆがんでいるのです。
その社会を作り出している、私たちの生き方にも一因があるはずです。
だとしたら、ヘイト・スピーチの火種は、私の中にもあるのかもしれません。
もしかしたら、私自身、このブログでも「ヘイト・スピーチ」しているのかもしれません。
そういえば、時々、私も品格を欠く表現を意図的にすることがあります。
人のなり見て、わがなり直せ。
まずは、自分自身を問い質そうと、改めて思います。

■正解があれば解けない問題はない(2014年1月21日)
入試センター試験にことを書きましたが、娘からいま話題になっているパズル(1158→10)のことを教えてもらいました。
ご存知の方も多いと思いますが、1,1,5,8の4つの数字を計算記号の、+,−,×,÷の4つで算式化し、その答が10になるようにするという問題です。
簡単そうなパズルなので、センター試験に続いて取り組んでみました。
ところが10分考えても解けないのです。
難しい問題ではないので、10分も考えて解けないのであれば、正解はないのではないかと疑いたくなります。
それで諦めてしまいました。

ところが、昨日、帰宅したら、娘が間違いなく正解はあるというのです。
それで再考することにしました。
正解があるのであれば、解けないはずはありません。
そして、今度はそう時間をとられずに正解に辿り着きました。
ちょっとしたことに気づけば、簡単に解ける問題でした。
私の思考を狭めていたのは、絶対に正解があるということを確信していなかった思いです。

そこで思い出したのが、光通信の話です。
今でこそ光ファイバーによる大量高速通信は一般化していますが、光ファイバーが通信用に実用化されるまでにはかなりの時間がかかりました。
しかし、その実用化が加速化されたのは、理論的な可能性が実証されたからだそうです。
あまり正確に記憶していないのですが、40年近く前に光ファイバーの研究者の講演でその話をお聞きしました。
可能性が確信された途端に、実現への速度が加速されるのが技術の世界です。
科学の世界では、理論が先行し、その理論は、必ずいつか実証されるのです。

これを少し広義に受け止めてみましょう。
たとえば、原発問題ですが、原発がなくてもエネルギー供給は大丈夫だと確信して取り組むかどうか、自然エネルギーで将来のエネルギー需要をまかなえると確信してその開発に取り組むかどうかで、技術開発の展開は異なっていくということです。
「原発ゼロ」と決めて、スタートする意味がここにあるように思います。
原発ゼロという起点が大切なのであって、それをどう実現するかは、二の次の話なのです。

技術の世界だけではありません。
沖縄の米軍基地に関しても、「国外移転」に確信を持つ人が多かったなら、鳩山さんの思いももう少し前に進んだように思います。
あの時、多くの人は疑心暗鬼でした。
鳩山さんの思いに信頼を寄せる人が、あまりに少なかったように思います。
そして、鳩山政権の内部から、そのビジョンや目標は瓦解しました。

都知事選の原発ゼロ。
稲嶺さんの辺野古移設拒否。
大切なのは、それがどれほど、時代の大きな意識になっていくかだろうと思います。

■コミュニケーションの不在(2014年1月22日)
昨日の朝日新聞夕刊の「時事小言」に国際政治学者の藤原帰一さんが、歴史問題を巡る最近の日韓、日中の対立に関して、こう書いています。

これらの議論は、変わるべきなのは相手のほうだ、自分の側は毅然として立場を堅持すればよいだけだと考える点で共通している。逆に言えば、自分のほうが変わる必要があるとは思っていない。問題の責任が相手にあるとお互いに考え、どちらも自分の立場を変えようとしないのだから、紛争の長期化は避けられない。

同感です。
コミュニケーションとは自らが変わることという捉え方をしている私としては、実に納得できる話です。
対話や交渉、さらに広く外交というもののポイントは、自らがどれだけ変わるかにかかっているように思います。
藤原さんの論考には、いつも共感することが多いのですが、こうした視点をもっと多くの人が共有するようになれば、未来は開けてくるように思います。

沖縄の基地問題も、あるいは都知事選での脱原発候補者の一本化の問題も、残念なのは、いずれにも「コミュニケーションの不在」があることです。

コミュニケーションを問題にする人は多いですが、話していると、コミュニケーションができていないのは、ご自分であると思うことが少なくありません。
コミュニケーションは相手を変えることであって、自らは変わらないということを当然のように前提にして、コミュニケーションを語っているのです。
企業にも、行政にも、住民にも、NPOにも、そうした人は多いように思います。

藤原さんの指摘は、歴史問題や領土問題に限ったことではありません。
私たちの日常の暮らしの中でも、とても大切な視点です。

自らが変わるためのコミュニケーション、という視点に立てば、間違いなくコミュニケーションは楽しくなります。
何しろ新しい考えへと世界を広げることなのですから。

ぜひそうした姿勢で、今日は周りの人と「コミュニケーション」してみてください。
私の体験では、とてもわくわくするような会話が生まれだします。
ただし、自らを守ろうなどと思っていると、うまくいきませんが。

■ケネディ駐日大使にも「小さな村の国際紛争」を見てほしいです(2014年1月23日)
昨日、私のブログのある記事へのアクセスが急増しました。
「なんと罪深いことをしてしまったことか」という2年前の記事です。
なぜかわからなかったのですが、今朝、理由がわかりました。
アメリカのケネディ駐日大使が日本の太地町のイルカの追い込み漁に対して、「なんと罪深いことか」とツイートしたことの影響でした。
私の記事は、福島の原発事故に関連したものですので、内容的には全く関係がないのですが、今日は太地町のイルカ漁の話を書こうと思います。

太地町のイルカ漁が問題になったのは、今回が初めてではありません。
2009年にも大きな問題になりました。
ご覧になった方もいると思いますが、反捕鯨活動をしているシーシェパードが「ザ・コーヴ」という大地町非難の映画を制作し、ネットやDVDで広げたのです。
「ザ・コーヴ」の映画は、実に悲しい事件を起こします。
太地町とオーストラリアのブルーム市の間に波風を立ててしまったのです。

大地町は、日本捕鯨の発祥の地と言われています。
オーストラリアのブルーム市は、日本の捕鯨によって育った都市でした。
いまも日系の住民が少なくありません。
そして、太地町とブルーム市は姉妹都市でした。

この映画が契機になって、ブルーム市と太地町の姉妹都市関係は中断され、それまで続いていた子どもたちの相互ホームステイもうまくいかなくなりました。
そればかりでなく、なんとブルーム市の日本人のお墓が破壊され、墓石が廃棄されるという事件が起こったのです。
さすがに、そうした行為には批判が起こり、日系のブルーム市民たちが動き出したのです。

その騒動をNHKが「小さな村の国際紛争」という記録番組にまとめました。
オーストラリアで環境問題に取り組んでいた知人からその番組を教えてもらい、DVDに残していたので、今朝、改めてそれを観ました。
とてもいい記録番組です。
NHKのアーカイブスで観られると思います。
ぜひ多くの人に観てほしいです。
今回もNHKが再放送してくれるといいのです。

ちなみに、その番組によれば、ブルーム市と太地町の関係は回復し、住民たちの交流が再開されています。
ブルーム市のキャンベル市長が太地中学校に来て、子どもたちに話します。

みなさんの心を傷つけたことを謝りたい。
太地町とブルーム市が歴史的文化的に深いつながりの中にあるということを忘れないでほしい。

ケネディ駐日大使にはぜひ太地町を訪ねてほしいと思います。
「罪深いこと」とは何なのか。
私たちは、まず自らの「罪深さ」に気づく賢さを身に付けたいものです。
キャンベル市長のスピーチには、未来を感じます。

■閑話休題:挽歌と時評のクロス現象(2014年1月24日)
吉本隆明の芸術言語論によれば、言語には、コミュニケーションのための指示表出と、沈黙が溢れ出る自己表出とがあるそうです。
極めて粗雑に、しかも独断的にいえば、ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいい。
しかし、いずれにしろ表出(表現)することにより、世界は動き出します。
吉本隆明は数年前の最後の講演で、「表現とは自然や他者との交通路」と言い、「表現すると自然も他者も自らも変化する」と語っていました。
独り言のような自己表出もまた、自らを変化させると言うことです。
そして、その話を聴いた時、表出は自らを変化させるための仕組みなのだと思ったのです。

このブログは、挽歌と時評によって構成されています。
吉本の言葉を借りれば、挽歌は自己表出、時評は指示表出です。
ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいいでしょう。
数年間、書き続けてきて思うのは、実はそのふたつは深く深く重なっていると言うことです。
書き手としては、時々、どちらがどちらなのか迷うこともあるのです。

挽歌は、6年以上続けていますが、最初の頃と最近とでは、内容も書き方も大きく変化していると思います。
情緒的にいえば、最近は書いていてとても「渇き」を感じます。
言い方を変えれば、「生気」が希薄になっているのを感じています。
挽歌を書こうとしている自分を見ている自分が、書いていると感ずる時さえあります。

時評は、書く時の気分で大きく変わります。
「生気」が希薄な時には、書くことが思いつきませんが、生気が満ちていると書きたいことがどんどん見えてくる。
思いがふくれてくると、ついつい感情をぶつけたくなる。
そして、自己嫌悪に辿り着くこともあるのです。

つまり、ゾーエとビオスの逆転が起こっている。
しかし、指示表出の挽歌や自己表出の時評は、読者には意味がないでしょう。
挽歌でコミュニケーションしたくなったり、時評でうっぷんを晴らすのは、どこかが屈折しています。

まさに、こうしたことに、吉本のいう、「表現すると自然も他者も自らも変化する」ということがあるのかもしれません。
書き続けていると、変わってしまう。

しかし、挽歌や時評を書き続けることが、何とか私の生きる拠り所を落ち着かせてくれています。
身体が反応して、思わず嘔吐してしまったり、病気になったりしてしまったりすることと、同じなのです。
挽歌的に言えば、以前は節子がその役を引き受けてくれていましたし、時評的に言えば仕事がその役を引き受けてくれていた。
いまは、節子もいないし、仕事もやっていない。
私のメッセージを引き受けてくれる仕事は、残念ながら見つかっていません。

いずれにしろ、挽歌と時評が重なってきていると言うことも、それなりに確信できた。
いや、重なり合わせて生きることが可能だということが確信できました。
ですから、このブログを続けようかどうか、最近少し迷いが出てきています。
挽歌を書くとしても、なにも公開のブログで書くこともないですし、時評を書くよりも仕事をした方が良いのかもしれません。
しかし、もう少し書き続けたい気持ちの方が、今は少し強いですが。

■日本古代史をテーマにしたサロンのお誘い(2014年1月24日)
今回は少し風変わりなサロンのお誘いです。
テーマは日本古代史、それも日本書記編年考です。

現在、スリーA認知症予防ゲームの普及に取り組んでいる認知症予防ネット理事長の高林さんは、以前(40年ほど前です)、古代史の研究者でした。
それが認知症予防の活動に入ったため、研究は止められたのですが、当時、書かれたいくつかの論文には鋭い指摘が含まれています。
「日本書記編年考」もそのひとつですが、なぜ日本書紀の記載では天皇が長寿になっているのかという疑問を解く仮説を提案したものです。
その仮説は、当時、古代史の泰斗である上田正昭さんや三品彰英さんに評価されながらも、ご本人の事情(研究を中断しなければいけなかったため)もあって、世に出る機会を失していました。
最近は、そもそも編年に対する関心がなくなってしまったので、話題にはならなくなっていますが、なぜ高林さんがその問題に関心を持ち、仮説を構築していったかも私には示唆に富む話だと思っています。

専門的になりすぎると話し合いも難しくなりますが、
今回は、高林さんから40年前の話をお聞きしながら、それを材料にして、話を広げていきたいと思っています。
日本の古代史に関心のある方は、持論を披瀝していただくのも歓迎です。
参加した人にも、古代史に関する話題提供や思いなどを、気楽に出してもらい、滅多に話し合うこともないような、ちょっと夢のある古代史サロンにしたいと思っています。

どうぞ気楽にご参加下さい。

○日時:2014年1月30日(木曜日)午後5〜7時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com

■宇都宮さんの正義感が脱原発の流れを妨げる皮肉さ(2014年1月25日)
都知事選の行方は予測が難しいですが、おそらくその結果は、都民のみならず、都民ではない私にも大きな影響を与えることになるでしょう。
ですから、気が気ではありません。
もちろん私の場合、細川さんが当選するかどうかに関心があります。
都市防災も子育て支援も、社会保障も、私には「脱原発」があればこそ、です。
もちろん経済成長も、です。
そう思わない人がどうして多いのか、私には理解不能です。

細川さんを支援する小泉さんは、日本をここまでひどくした張本人の一人だと思っていますので、その小泉前首相の影がちらつくことに不快感がぬぐえません。
小泉前首相への私の不快感はきわめて大きく、私のホームページやブログで、思わず口汚くののしっていることも少なくありません。
一時は、写真を見るだけで気分がおかしくなったほどです。
雨宮さんのブログの記事を教えてもらいましたが、私も「絶対に忘れてはいけない」と思っています。
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/10293/#com-head

にもかかわらず、今回は小泉前首相の言動に救われる思いです。
彼の言動がなければ、今の状況を変えることはできなかったでしょう。
残念ながら宇都宮さんには問題が多すぎますし、共産党の結びつきが強すぎます。
日本共産党は、前にも書きましたが、選挙においては、これまでほとんど自分たち(党勢拡大)のためにしか動いていません。

決して多数派ではない脱原発グループが占拠で勝つには、候補の一本化が効果的です。
しかし選挙において立候補者を一本化するほど難しいことはないようです。
いかに「大事」とはいえ、なかなか「無私」にはなれないようです。
数年前に、沖縄で糸数さんが当選した時くらいしか、私の記憶にはありません。
小選挙区制では、与党に対等に戦うには、立候補者の一本化が不可欠です。
しかし、それはそう簡単なことではないでしょう。
誠実な人ほど、妥協しようとはしないでしょう。
何が大切なのかを考えてほしいと思いますが、だからといって、批判することはできません。
しかし、その結果、流れを変えられないとすれば、やはり悲しいことです。
宇都宮さんは、細川さんと違って、まだ自分を捨てられないのでしょう。

宇都宮さんの正義感が、脱原発の流れを妨げることほど、不幸なことはありません。
しかし、どうも事態はその方向に向かっています。
誠実であればあるほど、権力に加担することになるのは、実に皮肉な話です。
善意や誠実さの上に、不幸は積み重ねられていくものです。
私の思いが外れるといいのですが。

■「迷わないこと」と「確かなこと」(2014年1月26日)
今朝の朝日新聞の読書欄に、売れている本として、櫻井よしこさんの「迷わない」という文春新書がとり上げられていました。
著者が櫻井さんということで、私には全く読む気が起きなかったのですが、精神科医の斎藤環さんの紹介記事を読んで、興味を感じました。
斎藤さんの紹介記事の書き出しはこうです。

櫻井よしこは、私が知る限り、もっともたたずまいが美しいニュースキャスターだった。その上品でもの柔らかな口調で語られると、つまらないニュースも貴重なものに思えたものだ。
しかし論客としての彼女は、時に過激なまでのウルトラ右派である。

まったくその通りだと思って、ついつい紹介記事をすべて読んでしまいました。
本書は、そうした彼女のエッセー風半生記だそうです。
それを読んだ斎藤さんはこう言います。

彼女の生活には、私たちがイメージする理想の「日本女性」のエートスが集約されている。うらおもてなく凛然として、背筋のまっすぐな、それでいてうるおいのある暮らし。彼女に憧れるファンの気持ちはよくわかる。
しかし、と人の悪い評者は考える。「迷わない」彼女の楽観主義は、ひとたび保守と融合すると、内省を欠いた歴史修正主義に結びつきはしないか。親孝行から愛国心までを地続きで考えるタイプの保守主義は、個人主義の抑圧と弱者の排除を繰り返してしまわないか。

どうも私も、評者と同じく「人が悪い」ようで、ここも同感です。

同じ読書欄に、「白洲正子」(挟本佳代著)の紹介が出ています。
白洲さんは、1964年の東京オリンピックの年に、かくれ里や観音仏を求めて、全国行脚に旅立った人です。
「ひたすら確かなものを見たいと」という思いが彼女を突き動かしたと言います。
そして、土地に沁み込んだ言葉や文化を書き残していきます。
当時、私はオリンピックには全く興味はありませんでしたが、白洲正子の観音巡礼の連載記事は毎月、興味深く愛読していました。
私が十一面観音仏ファンになったのは、白州さんの本のせいです。

保守主義とはなんでしょうか。
あるいは、「迷わない」とはなんなのか。
ニーバーがいうように、「変えてはならないもの」をしっかりと見極める英知が、いま求められているように思います。
いま私たちが次世代に引き継ぐべきものは何なのか、あるいは引き継いではいけないものは何なのか。
それを見極める重要な時期に、私たちは生きているような気がします。

迷わないためには、大いに迷わなくてはいけません。
迷いを知っている人だけが、迷わないといえるはずです。
やはり、櫻井さんの本ではなく、「白洲正子」のほうを読もうと思います。
いま私たちに必要なのは、迷わないことではなく、私たちの生活に沁みこんでいる「確かなもの」を知ることだろうと思います。

■過剰なものを生産する社会(2014年1月29日)
極めて個人的な事情からなのですが、今年になってから、あまり社会と関わらずに、少しひっそりと時を過ごす時間が増えました。
ほぼ1か月、そういう生活を過ごしていますが、動いていると見えないものがよく見えてきます。
これまでの自分の生き方への疑問も出てきます。
昨日、挽歌では「生きがい」を話題にしましたが、生きがいが話題になるような社会はやはりどこかおかしいのだろうと、改めて思います。

湯島のサロンで、時々、私は、石器時代の人のほうが、私たち現代人よりも豊かな暮らしだったのではないかと発言して、ひんしゅくを買っています。
しかし、これは私の考えたことではなく、経済人類学者マーシャル・サーリンズの本で学んだことです。
湯島のサロンでは、誰も相手にしてくれませんが、サーリンズの言葉を受け入れると、社会の見え方は変わってきます。
しかし、誰も石器時代人よりも今の私たちのほうが幸せだと思いこんでいます。
こうした思い込みは、ほかにもいろいろとあります。

ジョルジュ・バタイユの指摘は、もっと刺激的です。
生命体は、地表で、自らの生命の維持に要する以上のエネルギーを受け取っている、というのです。
この1世紀、私たちのエネルギー消費量は飛躍的に増大しましたが、それでもなお、地表には使われていないエネルギーが満ち満ちている。
別に原発など開発する必要などまったくなかったということになります。
バタイユは、経済とは過剰なエネルギー処理の仕組みだというのです。
その議論においては、消費や遊びも労働と同値になっていきます。
人口爆発が資源や食料の不足を惹き起こすといわれますが、バタイユが正しければ、そんなことはありえないでしょう。
そして、バタイユはたぶん正しい。

こんな話もあります。
生存のために費やす労働時間は石器時代人よりも現代人のほうが長い。
このことに異論を唱える人は、そう多くはないでしょう。
私の子ども時代は、今よりも物質的には豊かでなかったと思いますが、働く時間は少なかったように思います。
いまもたぶん第一次産業に従事する人たちのほうが、時間に余裕があるでしょう。

何のために私たちは、労働時間を増やしてまでも、過剰なものを生産する生き方を受け入れてしまったのでしょうか。
過剰なものを生産してしまえば、その過剰分を消費する労働まで引き受けなくてはなりません。
立ち止まって社会を見ていると、何でみんな忙しく動き回っているのだろうという気がしてきます。
もしかしたら、私たちは、貧しくなるために働いているのかもしれません。

まあ社会と距離を置いて、一人で考えていると、こんなことを考えてしまうわけです。
おかしいのは社会か私か。
悩ましい問題です。

■フェイスブックはどこか落ち着かなさを感じます(2014年1月29日)
最近フェイスブックに違和感を持ち始めています。
ある意味では面白いし、便利なのですが、なにかどこかに「落ち着かなさ」を感ずるのです。
私自身もやったことがあるのですが、食事の写真を出すことにどういう意味があるのでしょうか。
自分の生活実態をさらけ出すことで、世界とのつながりを感じたり、コミュニケーションを深めたりできるのでしょうか。
できるかもしれませんが、何か少し落ち着かなさを感じます。

自分をさらけ出すことで、自らを鼓舞するという意味もあるかもしれません。
あるいは、自らの活動への共感者や理解者を増やすことが期待できるかもしれません。
私自身、集まりを企画した場合、フェイスブックで誘うことによって、参加者を得ることも少なくありません。

自分が共感したことをフェイスブックでシェアし、自分の立場を表明したり、情報の拡散に寄与したりすることもできます。
その効用は小さくはありません。
しかし、フェイスブックはあまりに簡単にシェアできるので、自らが思考したり行動したりする姿勢がなくなってしまう恐れもあります。

書き手の生活ぶりが見えすぎてしまうのも、少し抵抗があります。
覗き見るような気がして、落ち着きません。
自分と比べて、羨望の念を持ったりすることだってあります。
無意識のうちに、人間関係に影響を与えることもあるような気もします。

まあいろいろとありますが、最近一番気になっているのは、なんだか社会が平板になっていくような気がしてならないことです。
要するに画一化の深化です。
それに、自分もまた、ネット世界の住民になっていくようで、少し不気味なのです。

そういいながらも、私自身、ネットやフェイスブックでの付き合いが増えてきています。
これからどうなっていくのか、どうも落ち着きません。

フェイスブックとどう付き合えばいいか。
これもまた悩ましい問題です。

■最近のマスコミ報道に思うこと(2014年1月31日)
特定秘密保護法が問題になっていますが、それとは別に、社会の動きが最近、見えにくくなってきているのが気になっています。
このブログの時評も10年以上続けていますが、マスコミ報道の内容が大きく変わってきていることを感じます。
ひとつのテーマに関する情報量が増える一方、新聞に掲載される情報の「種類」が大幅に減少しています。
また解説的な記事が増えていますが、事実の報道は減少しています。
簡単にいえば、新聞がどんどん週刊誌化しているわけです。
解説も事実の解説であればいいのですが、むしろ解釈の解説が増えてきています。
そうした解説はある意味での世論誘導につながりますし、読者の思考を怠惰にさせていきますので、これも注意しなければいけません。
「わかりやすい○○○」というような池上彰さんの解説番組が人気のようですが、あれほど怖い番組はないと私は思っています。

大きな事件や動きには、必ず前兆があります。
それは、最初はそれと気づかないものですが、たくさんの数の事例に触れていると、大きな流れが見えてきて、その先にあるものにも気づくことは少なくありません。
しかし、最近はそうした動きがまるで見えなくなってきています。
そしてある時に、わっと大きな事件として眼前に現れてくるのです。

NHK会長の発言が話題になっていますが、そこで明確に語られているように、NHKの報道はすでに権力支援型になってきています。
ニュースを見ているとよくわかりますが、NHKと民法の報道姿勢は違います。
特集報道番組に関しては、NHKは民法よりも事実に基づく問題提起的なものが多いですが、新会長の下では変わっていきかねません。
今日の朝日新聞によれば、すでに原発関連の報道に圧力がかかっているようです。

テレビと新聞を比べれば、新聞の方が主体的に報道に接しられます。
その新聞を読まなくなった人が増えていることにも危惧を感じます。
まだ朝日新聞を読んでいるのですかと、以前、読者から罵倒されたことが何回かあります。
「朝日新聞を読む自信がないほど自分がないのですか」と答えたかったのですが、そんなことをやればとんでもなく炎上しかねないのでやめましたが、報道は家畜の餌ではありません。
食べる必要はないのです。
その餌の中にも、しっかりした栄養素が見つかるかもしれません。
しかし、餌を毎日与えられていると、いつの間にか飼いならされてしまいます。
そこにマスコミ報道の怖さがあります。

大きな事件や問題が発生した時の新聞の片隅に掲載される小さな記事が、だんだんなくなってきたことがとても残念です。
新聞の作り手たちが、大きく変質してきているのがよくわかります。

■精神のエントロピー(2014年1月31日)
先日、挽歌でエントロピーに言及したのですが、それを読んだ読者から自分も同じような状況だというようなメールをもらいました。
エントロピーは言うまでもなく、熱力学の第2原則で、エネルギーや物質にまつわる話ですが、精神のエントロピーという捉え方もあります。
私の記憶では、最初に言い出したのは経済人類学者の栗本慎一郎さんです。
エントロピーとは簡単にいえば、「無秩序度」ですが、そもそも「秩序」という概念が多義的ですので、いささかの混乱が生まれやすいです。
私は、無構造化ということだと理解しています。
すべてが単一化し、構造が消えてしまうということです。
わかりやい例で言えば、水にインクを落とすと、最初はインクと水が模様を形成しますが、次第にインクがすべての水と融和し、インク色がかった一様の水になってしまいます。
完全に融和した段階がエントロピーの極大化状況で、そこからは何も動きは起こらなくなります。
熱力学で言う「熱死」状態です。

この話は、確かに社会を考える時に、比喩的に使えます。
多様な文化や考えを持つ社会は、その違いのぶつかり合いの中から、新しいものが生まれてきます。
しかし、考え方や価値観が、さらには成員の言動が画一化されてしまえば、議論も生まれなければ、思考も育ちません。
逸脱した言動は、社会が寄ってたかって押さえ込み排除していきます。
今朝のNHKの朝ドラで、戦時中の話の中で、「おかしいことをおかしいといわなければ、ますますおかしくなる」と主人公の娘が言っていましたが、まさにその通りです。
しかし、「おかしいことをおかしいという」ことは、そう簡単ではありません。

生命体や組織には、現在の秩序を維持しようとするホメオスタシスという均衡機能が発生します。
しかし、その一方で、成長を目指すカオスを求めるダイナミズムも組み込まれています。
多様性を持ちながら動的な安定性を保つのが、ホメオカオティックな秩序です。
それに対して、画一化されて逸脱行為を排除し、静的な安定を求めるのが、ホメオスタティックな秩序です。

「秩序」には前者のような「生きた秩序」と後者のような「死んだ秩序」があるのです。
しかも、それらは社会一様にあるわけではなく、社会の階層や地域によって、それらが巧妙に組み合わされています。
だから社会の一部だけを見て、どちらが支配的かを断定するのは危険です。
ホメオスタティックな秩序社会も、必ずどこかに、ホメオスタティックな秩序を管理していることが多いですし、逆もまたあります。

最近の日本はどうでしょうか。
私には、多くの人は、画一化された死んだ秩序を求めているように思えてなりません。
ある意味では、それは幸せなことかもしれません。

NPOと付き合っているとよくわかるのですが、ホメオスタティックな秩序に陥って、袋小路に入ってしまうところが少なくありません。
もしかした、人はみんな結局はホメオスタティックな秩序、つまり「死んだ秩序」を目指すのかもしれません。
そのために、組織や社会も、同じように、死を目指すのかもしれません。

そういえば、それを打破するのが、蕩尽行為だと、栗本さんは言っていました。
日本人はかなり蕩尽していると思いますが、エントロピーを低下させられないでいるのは、なぜなのでしょうか。
精神の蕩尽ではなく、経済物質的な蕩尽に留まっているからでしょうか。
あるいは、秩序の組み合わせに失敗しているからでしょうか。

まもなく日本でも、「反乱の時代」が来るかもしれません。
そうした予兆は、注意して見ると少しずつ見え出しています。

■知は人を無知にする(2014年1月31日)
昨日、古代史をテーマにしたサロンを開催しました。
そこで、弥生時代には大きな船はあったかなかったかという話になりました。
縄文時代には、それこそ南米までも行きつく船があったようですが、弥生時代の遺構からは大型の船は発見されていないのだそうです。
大型の船がないと成りたたないことを話題にしていた時の話です。
私は、「そのうちきっと発見される」と発言して、叱られてしまいました。
発見されてから、それをベースに話をしないと議論ができないと言われました。
これには残念ながら反論できませんでした。

物事の存在を認めるかどうかには、ふたつの姿勢があります。
「存在が証明されたこと」のみを存在するものとして考えるか、「存在しないことが証明されないかぎり」存在することを受け入れるかです。
科学万能、学問万能主義者、あるいは支配権力者は、当然前者ですが、生活者や庶民の多くは、後者でしょう。
いうまでもなく、私は後者です。
知を支配する権力側には立ちたくないからです。

ところで、知の世界は、確立した知から逸脱する知は排除するのが基本です。
ところがそれが否定された途端に、手を返したように態度はひっくり返ります。
いま話題のSTAP細胞も、その例の一つです。
これはとてもうまく認知されましたが、多くの場合は、そうはなりません。
知の権力から押しつぶされた知は、おそらく山のようにあるでしょう。

昨日はスリーA認知症予防ゲームのワークショップを認知症予防ネットの高林さんに来てもらって開催しました。
高林さんは早くから「認知症は予防できる」という思いで、このゲームの普及に取り組んできました。
当初は、厚労省から呼ばれて、痴呆(当時は認知症とはまだ言われていませんでした)は予防できないものだと叱れたそうです。
それもあって、なかなか理解されずに広がりませんでしたが、現場での実際の効果から、今は広がりだしています。
それよりも、認知症予防学会までできているのです。

20数年前に、土壌菌による水の浄化に取り組む内水護さんに会いました。
利権関係者からの邪魔立てでやはり普及せずに、嫌がらせも多かったようで、私に会うのも目立たないところでこっそり会うことを指定してきました。
まるで映画のようでしたが、どうやら内水さんの過剰防衛ではなかったようです。

最近、放射性物質の除染に取り組む人から協力要請がありました。
このブログでも書きましたが、多くの人ははなから相手にしてくれません。
放射線量が減少することなどないというのです。
しかし、放射性セシウムが非放射性化することがあるという実験報告は、現にあるのです。
この研究会は、友人と2人でスタートさせますが、放射線科学に詳しい人ほど否定的です。
つまり、知は人を無知にするのです。

私のように、組織や社会の枠組みから外れた生き方をしていると、こういう話はたくさんやってきます。
私は法学部の出身ですが、裁判では「疑わしきは罰せず」です。
それをもじって言えば、「疑わしきは信ずる」が、私の生き方の基本です。
だから私の世界には、宇宙人もいれば、UFOもあの世もあります。
科学的ではないと言われそうですが、私は現代が到達した小さな科学ではない、もっと大きな科学の信奉者なのです。
少し図に乗ってしまいました。
すみません。

■もうひとつのキリスト教(2014年2月4日)
私は、子どもの頃から、協会にある十字架で喘ぐキリストに違和感があり、どうしてもキリスト教にはなじめませんでした。
血を求める残虐な神のイメージが植えつけられてしまったのです。
遠藤周作の「沈黙」は、さらにその違和感を高めました。
一方で、クリスチャンの人たちの善意と誠意を感じながらも、どうしてもキリスト教には共感できないでいます。

昨年末に河出書房新社から翻訳が出版された「『ユダ福音書』の謎を解く」を読みました。
そこに、「もうひとつのキリスト教」が示唆されていました。
とても共感できるものであり、長年の疑問が払拭された感じです。
1冊の本で、イメージが変わってしまうというのも軽率に感じられるでしょうが、私が長年求めていたことが、まさにそこに書かれていたからです。

「ユダ福音書」は、ユダの復権などという瑣末な話ではなく、贖罪論というキリスト教の根本教義に真っ向から反論する福音書です。
著者(もちろんユダではありません)は、当時(2世紀)の正統キリスト教が、礼拝において、犠牲と見なされる十字架上の死を再現し、それを聖餐において「祝う」ことに異を唱えます。
それは決して、イエスが望んだことではないというのです。
イエスは、ローマの生贄儀式を拒否しましたが、12使徒たちの司祭集団は、イエスの死は人間の罪を償う犠牲であると断言し、殉教は神に喜ばれる犠牲であったと主張することにより、結果として生贄の犠牲をキリスト教の礼拝式の中心に戻してしまったのです。
イエスは、弟子たちが聖餐儀礼を行なおうとしていることに対して、それは真実の神ではなく、間違って「あなたたちの神」を礼拝していることだと指摘しますが、その意味を理解したのはユダだけだった、と『ユダ福音書』の著者は述べています。
そして、イエスは、真実の神への信仰を、ユダに託したのです。

以上が、ユダ福音書の概要ですが、そこに大きなメッセージが込められていると、本書の翻訳者は書いています。
たとえば、犠牲という名のシステムの隠された仕掛けへの気づきです。
「「神のために死ぬ=殉教」という論理は、民衆が国家のために華々しく散っていくという論理に通じるものがあり、これは危険きわまりない論理です」と訳者は書いています。
それは、9.11後の世界や3.11後の日本の人々の意識にも、大きな影響を与えているというのです。

では、真実の神への信仰とは何か。
本書にはこう書かれています。

『ユダ福音書』は、新約聖書の福音書と同様に、永遠の命にいたる道筋を示しているが、その道筋への手がかりは、肉体としての体で生きることではない。それは、神にたいする人間の霊的なつながりの理解にかかっている。つまり、天地創造の秘義を理解し、人間が神の「似姿において」創造されていることを自覚した者だけが、聖霊の領域に住まうことができるというのである。

これだけではよくわかりませんね。
ヒントは、『創世記』にある「人間が神の「似姿」において創造された」ということです。
つまり、真の神が宿る光のなかに宿る人間の原初の本質(霊的本性)に気づくということです。
それは、いわゆる「堕天使」たちよりも、神に近いのです。
神は、私の中にいる。
仏教の思想とつながってきます。

本書で知ったのですが、人類の母であるエヴァは、ギリシア語では「ゾーエー」と言うのだそうです。
私には、実に腑に落ちる話です。

訳者の山形さんは、『ユダ福音書』の福音を「もうひとつのキリスト教」と言っています。
このキリスト教であれば、私も抵抗なく共感できます。
以前、アウシュビッツを体験したフランクルのキリスト教理解を知って安堵したと書いたことがありますが、そのことが思い出されます。

訳者のお2人が書いているように、本書は贖罪論の危険性への警告の書でもあります。
昨今のNPOブームにも気持ちの悪さを感じている私としては、ぜひ多くの人に読んでいただきたくて、紹介させてもらいました。
できれば、クリスチャンの方に、いつか本書の解説をしていただき、話し合いをもてればと思います。
問題提起してくださるクリスチャンの方がいたら、ぜひご連絡下さい。

■「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」(2014年2月4日)
私が関わっている、自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいとコムケアと共催で、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」をテーマにした連続ワークショップセッションを企画しています。
少しずつ準備を進めていますが、いつものように、実行委員会方式で開催できればと思います。
急ですが、2月6日の夜、準備会を開催することになりました。
もし開催に賛同し、一緒に取り組んでくださる方がいたら大歓迎です。
ご関心のある方は、ご参加ください。

今回は参加できなくても、もし協力してもらえる方がいたら、引き続きご案内しますので、ご連絡ください。
会場の提供や開催への支援なども歓迎です。

今回は、開催目的や方針などを話し合えればと思います。
テーマは重いですが、本音で安心して話し合える場にしますので、気楽にご参加ください。

○日時:2月6日(木曜日)午後7〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
参加される方はお手数ですが、私にメールください。
qzy00757@nifty.com

■何が優先すべき問題でしょうか(2014年2月6日)
フェイスブックに書いたことを少しだけ加筆して、掲載します。

都知事選の投票日が近づいてきました。
今日もまた、知人から「宇都宮けんじさんを応援しています」というはがきが届きました。
私が、宇都宮さんを応援していると思っている知人からです。
とてもいい活動をしている若い女性からのものです。

私が、細川さんや小泉さんの側を応援するはずがないと、たぶん私の周りの人は思っているでしょう。
普通であれば、間違いなくそうです。
しかし、だからと言って、宇都宮さんを応援するとは限りません。
私が日本の法曹界に全く信頼を置いていないことは、このブログを読んでいる人ならわかってくれるでしょう。
都知事選に出る前に、弁護士としてまともな司法改革に取り組んでほしいと思います。
しかし、だからと言って、宇都宮さんを弁護士であるという理由で忌避することもありません。

前回は、私も宇都宮さんを応援しました。
猪瀬さんに比べたら、問題なく宇都宮さんがいいと思ったからです。
しかし、今回の都知事選に関しては、前に書いたように、だれが当選するかよりも、脱原発の流れがつくれるかどうかが、私の関心事なので、宇都宮さんと細川さんの一本化を望んでいます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/01/post-be6d.html
そして、この際、可能性が少しでも多い、細川さんに希望を託して、宇都宮さんには立候補をおりてほしいと思っていました。
しかし、残念ながら、それは実現しませんでした。

各論的最適解は全体の最適解にはつながりません。
敵はまさに味方の中にいるのです。
そこに悲劇があります。
問題が何かを見据えないといけません。
私にとっていま大切なことは、脱原発の流れをどう回復するかです。
そういう意味では、気が気ではありません。
福島原発の事故は、いったいなんだったのでしょうか。

■オリンピックより脱原発でしょう(2014年2月8日)
雪のために自宅に閉じこもっています。
風もあって、吹雪いている感じで、このままだとかなり積もりそうです。
わが家のリビングからは外がよく見えます。
雪の降る様子を見ていると、とても無心になります。
寒々として心身が冷えるような気がする一方、邪念が消えて、平安な気分にもなります。
そして、突然に、いまの生き方はやはりおかしいなと反省させられます。
社会もおかしいですが。

今の私の関心事は、都知事選です。
最近のオリンピックにはまったく関心がありません。
選手たちはがんばっていると思いますが、私にはほとんどまったく感動する気にはなれません。
もっとやることがあるだろうと思うのです。
金メダルなど、私には卑しさの象徴でしかありません。
金メダルをかじったり食べたりする種族は、私とは別世界の人たちなのでしょう。
数年後に、そうした騒ぎが日本でも行われるというのが、なんともやりきれません。

雪を見ていると、心は少しだけ清浄になったような気がしていましたが、パソコンに向かうと、その反動か、自分の心の邪悪さが出てきます。
たとえば、上の文章のようにオリンピックを非難したくなってしまうのです。
何かを非難することは、邪悪さ以外の何物もありません。
いやな性格です。
それが見えてきてしまうとは、困ったものです。

しかし、私はいま、かなり腹立たしい思いを持っています。
都知事選に関して、です。
このままだと、原発推進勢力が知事になりそうな気配です。
脱原発候補は2人に分かれて、お互いの支持票を削ぎあっています。

脱原発に向けて、たぶん今回が最後の選挙になるだろうと私は思います。
次はもうない。
しかし、やはり脱原発側は、候補を一本化できませんでした。
これが実は選挙のマジックです。
権力やお金で一本化できる与党と違って、野党、つまり反対勢力は、多様な反対論理が生まれるために一本化できないのです。
実に腹立たしい。

雪はますます吹雪いてきています。
先が見えなくなってきているほどです。
天も、こうした動きに腹を立てているように思えてなりません。

脱原発こそが、今回の都知事選の唯一の論点だと思う私としては、本当に気が気ではありません。
オリンピックなど、見る気にはなれないのです。

■「うまくいかない人生」(2014年2月8日)
3年前に湯島を訪ねてきてくれた若い女性の方からメールが届きました。
ご本人の許可を得ていないのですが、一部引用させてもらいます。

東京を離れ、3年が経とうとしています。
相変わらず、うまくいかない人生を迷走中です。
佐藤様が時評で書かれている世の中の不条理を、残念ながら体現しております。
(中略)
一度レールを外れると、もう終わるんだなと、つくづく疲れ果てています。
(中略)
今は積極的に死へ向かおうとは思いませんが、結局ご縁もなく、雇用も不安定な自分の選択の稚拙さに、未来など全く考えられない自分がいます。

以前、「さみしい社会」を最初にして、中年の女性の方の不安についての話を何回か書いたことがありますが、若い世代にもそういう不安感が広がっているようです。
こういう不安の渦中にあると、原発問題などの問題にまで視野がいかないかもしれません。
不安を広げ深めれば、人は簡単に管理できるのかもしれません。
いまの都民は、みんな不安を背負っているのかもしれません。
脱原発がすべての基本だなどと考えている私のメッセージなどは、能天気な発言に聞こえるのかもしれません。

この2週間、「支え合いの仕組み」を自分たちでつくるしかないという思いを持った比較的若い人たちが、湯島に来ました。
おひとりは、まだ構想段階ですが、2人は既に動いている方たちでした。
活動の内容は、それぞれ違うのですが、お話を聞くかぎり、根底にある思いは通じているように思いました。
みんなをお引き合わせしたいと思っています。
しかし、なぜみんな私のところに来てくれるのかわかりませんが、そういう話をできる場が少ないのかもしれません。

いうまでもありませんが、私もまた「人生はうまくいかない」と思うことが多いです。
しかし、人生はもともと「うまくいかない」ものです。
だからおもしろい、そして、だからこそ、その人だけの人生なのだろうと思っています。
人生のレールはいろいろとあるのです。

社会のレールに乗って、充実して働いてきた人たちが、ある時に、レールの先を見て、「さみしい社会」の現実に気づくこともあることを知ってほしいと思います。
私も25年前にレールから降りた一人ですが、大切なのは、そもそもレールなどないのが人生だと気づくことかもしれません。
それに気づけば、生きやすくなるかもしれません。
そして、人はそもそも一人ではさみしいものだと考えれば、さみしい社会での生き方が見えてくるかもしれません。

こういう思いをぶつけ合って、自分たちの生き方を見直すサロンを開きたいと思っているのですが、なかなか実現できません。
やはりみんな、「うまくいく人生」の呪縛から抜けられないからかもしれません。

うまくいっていようがいまいが、自分の人生は、他の人の人生とは違う、それこそたった一つのものです。
そこにこそ、私は価値をおきたいと思っています。
さみしいのは社会ではなく、自分の生き方かもしれません。

我孫子では、雪は吹雪に変わっています。
吹雪も人生には必要だと言われているような気がします。

■あまりの積雪に途方にくれています(2014年2月9日)
関東地域は45年ぶりの大雪でした。
千葉県の我孫子市のわが家の庭は、40センチ以上の積雪でした。
朝から家の前の雪かきをしていましたが、あまりの雪の多さに、持って行き場がないために途中で放棄したほどです。

雪が積もると、2つの変化が起こります。
まず音が雪に吸収されて、静かさが戻ってきます。
自動車の通行がほとんどないこともありますが、それ以上の静寂さが覆っています。
また風景から色彩が消えて、墨絵とまでは行きませんが、無彩色の世界になっています。
この2つのことのせいだと思いますが、いつもとは違った心境になります。
無垢な世界に投げ込まれたような気分で、とても居心地がいいです。

テレビでは、けばけばしい彩色の雪景色が映っています。
ソチでのオリンピックの風景です。
同じ雪景色でも、まったく違います。

雪だらけの世界は、物理的には温度は低く、寒いはずです。
しかし、不思議に雪に包まれていると暖かさも感じます。
陽射しにかがやく雪の白さは心を優しく、そしてあたたかにします。
表通りに出てみると、みんながそれぞれに雪かきをしています。
普段よりも会話が弾むのも、あたたかさにつながります。

東京も雪で大変でしょう。
心配なのは、今日が都知事選の投票日だということです。
投票率が下がらなければいいのですが。
雪で大変でしょうが、都民の皆さんはぜひ投票に行ってほしいです。
多くの人たちの投票の結果であれば、たとえ結果がどうあろうと少しは心がやすまります。

しかし、奇跡が起こってほしいものです。
そうでなければ、もっと大きく、途方にくれざるを得ないでしょう。
雪は時間が溶かしてくれますが、原発からの放射性排出物はそうはいきません。

■都知事選に関する私の不見識(2014年2月10日)
都知事選は舛添さんの圧勝に終わりました。
原発再稼動に向かうことになったことが何よりも残念です。

この選挙に関しては、私の判断は反省すべきことが多かったです。
私自身まだ従来型の発想や個人的な思い込みや希望的観測の呪縛に惑わされていることの多さに気づかされました。
このブログで書いたことも、かなり反省しなければいけません。

私の予想と違っていたのは、次の点です。
@細川さんよりも宇都宮さんの得票が多かったこと
A田母神さんへの投票が60万票を超えたこと
B投票率があまりに低かったこと

特に@に関しては、私の不見識として大いに反省しました。
脱原発候補としては、細川さんのほうが得票数が多いと考えていました。
有名人依存が私の中にも残っていた結果かもしれません。
私の娘は、立候補段階から、いまさら出てきてもと2人の元首相を無視していましたが、その感覚が私にはありませんでした。
加えて、私には、法曹界と共産党への不信感が強くありました。
私の知人たちには、宇都宮さん支持者が多かったのですが、私はそれを苦々しく思っていました。
一本化するなら細川さんへの一本化だろうと思っていたのです。
このブログでもそう書きましたが、これは私の完全な間違いでした。
見識のなさを恥じなければいけません。

Aは私には驚き以外の何物でもありません。
田母神さんの言動は、とんでもないものと私は思っています。
田母神さんの言動のひどさを最初にこのブログで書いたのは2008年です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_755a.html
その後も、ブログで何回か書きましたが、私にはその言動を許せる人ではありません。
ですから立候補すると知っても、泡沫候補だろうと思っていましたが、マスコミは主要候補に祭り上げました。
しかし、まさか若者に人気が出るとは思ってもいませんでした。
時代の状況を読み取るべきでした。

Bは、大雪の影響もあるかもしれませんが、これほど低いとは思いませんでした。
都民にとっては、原発問題はもう少し大きな関心事だと考えていました。
私は、いわゆるホットスポットといわれる我孫子市に住んでいますが、東京都も状況はそう変わらないように思いますが、やはりこれほどに違うのかと驚きました。
原発の上での豊かさなどありえないという、私の原発の捉え方が一般的ではないのかもしれません。
これに関しては、改めてまた書くつもりです。

いずれにしろ、都知事選は終わってしまいました。
原発の上での豊かさを求めて、オリンピックだ、成長戦略だ、と騒いでいる世情を見るに付け、「ソドムとゴモラ」を思い出します。
原発は、実に象徴的な存在です。

■問題を構造化することの大切さ〈2014年2月10日〉
私は一応、経営コンサルタントを自称しています。
しかしどうも私の経営観は、時流に沿っていないようで、仕事はほとんどきません。
困ったものです。
それでも企業を変革したいと言う経営幹部の人たちと議論することがあります。
社会活動やNPOに関わっている人もよく相談に来ます。
社会を変えたいとみんな言います。

そういう人たちと話していると、ほとんどの場合、現状の問題点もうまく進んでいない理由もみんなわかっているように思います。
それなのになぜ前に進まないのか。
最大の理由は、本気さの欠落だと思いますが、「問題の立て方」も大切だと思います。
問題の立て方に関しては、このブログでも何回も書いていますが、問題の立て方さえ間違わなければ、問題解決はうまくいくはずです。

現状を変えていくには、現状をどう把握するかが重要です。
多くの場合、問題の「構造化」が行なわれていないため、様々な問題は並列的に捉えられてしまい、結局、全体像が見えなくなることが多いように思います。
ですから、私のところに相談に来る人には、「構造化」を勧めることが多いです。
構造化とは、様々な問題や事柄のつながりを、静態的にではなく動態的に図式化することです。
そのためには、構造化する基準としての「価値観」や「ビジョン」が必要になります。
それがなければ、各論的最適解を求めて、解決しやすい問題や緊急の問題から解くことになりがちです。
それでは、対症療法はできても、変革はできません。

ところで、今回の都知事選は、「原発問題」を争点にすることへの反発が多かったように思います。
今朝の新聞にも、「脱原発という理想論は私には響かなかった」と言うような意見が出ていました。
脱原発が理想論? 私には驚きですが、そう思う人は少なくないのでしょう。
原発よりも、福祉を選んだという人も多かったようです。
それにワンイッシュー選挙批判もあります。
こうした意見が出るのは、問題の構造化がなされていないからだろうと思います。

原発ゼロというだけではなく、具体的なシナリオが必要だという意見もありますが、これも問題が構造化されていないための意見です。
原発ゼロの方針か脱原発化のシナリオかは、並列の問題ではなく、目的と手段の関係にありますが、そうした動的な構造関係も並列で語られているのが最近の原発論議です。
ここでも構造化されていないがゆえに、問題が意図的に解釈されがちです。

原発について言えば、原発の上に経済や生活を考えるのかということだろうと思います。
原発と自然エネルギーは、決して二者択一の問題ではないのです。
同じように、原発と子育て支援や高齢者福祉も、二者択一の問題ではないでしょう。
福島の子どもたちや仮設住宅の高齢者を考えれば、そんなことはすぐわかるだろうと私は思いますが、どうもそうではないようです。
多くの人にとっては、はっきりと構造化してやらないと、問題が理解できないようです。
マスコミは意図的ではないかと思うほどに、問題を構造化しません。
それはどう構造化するかで、問題の見え方が変わるからです。

前にも書きましたが、大切なのは、問題の優先順序です。
私たちの生活の基盤をどこに置くのか。
今回の都知事選での結果は、やはり多くの人たちは、自分の生活保全を重視し、次世代のことなど頭になかったように思います。
7代先の掟は、もはや過去のものになってしまったのでしょうか。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog6.htm#7dai

3年前に会った人がメールをくれました。

一度レールを外れると、もう終わるんだなと、つくづく疲れ果てています。
最近特に、自分に合う人との出会い、愛情の有無が、どこにいようが何をしようが、全てではないかと思うようになってきました。

個人の生き方においても、何が基本かは重要です。
これもまた、問題の構造化につながる話ではないかと、私は思っています。
何を基点に考えるか。
その基点がしっかりしていれば、判断に迷うことはありません。
今回の都知事選では、改めて私自身、それを考え直す契機になりました。

■高句麗が好きになりました(2014年2月10日)
時々、韓国の歴史ドラマを見ます。
小学校の学芸会のような作品が多いのと、回数が多いのが問題ですが、とてもわかりやすいので、ついつい観てしまいます。
ところが、気づいてみると、私が見たものは、いずれも高句麗と関係があるものばかりです。
最初に見たのが、「チュモン」です。
私が韓国の歴史ドラマを見始めた最初の作品です。
韓国に行った時に、あんまりテレビなど見ないはずの佐々木さんが知っていたくらいなので、韓国でも人気のドラマなのでしょう。
それでその後もずっと見続けてしまいました。
たしか80回ほどの連続作品でした。
チュモンは、古朝鮮を復活させる高句麗の初代の王です。

次に見たのが、「タムドク」です。
タムドクは有名な広開土王です。
途中から見だしたのですが、広開土王の話だと知って見つづけてしまいました。
またまた高句麗の話でした。
そこに、百済と倭の連合軍が登場し、タムドクは倭、つまり日本にまで攻めてくる話もあります。
広開土王といえば、日本が攻めていったというイメージしかなかったのですが、朝鮮には倭を攻めたという認識があることを知りました。
ドラマにまで出てくる以上、全く根拠のないことではないでしょう。
そういうことを教えてくれるのも、私が韓国歴史ドラマを見る理由でもあります。

そして、いま見ているのは「大祚栄(テジュヨン)」です。
高句麗が滅亡する時代の人物で、渤海を起こす人です。
今月初めに偶然に見たのですが、どこか見覚えのある名前だと思って調べたら、渤海を起こした人でした。
まだ3回しか見ていませんが、130話ほど続くそうです。
長すぎると思うのですが、仕方ありません。

それにしても、なぜかいずれもが高句麗の話なのです。
私の高句麗のイメージは、あまり良いものではありませんでした。
学校で習った歴史では、百済が一番イメージが良く、次が新羅で、高句麗はなぜか悪いイメージがありました。
しかし、チュモンを見てイメージが変わりました。
百済は高句麗の王族の一派が建国したことも知りました。
その上、渤海まで高句麗の流れだったことを再認識しました。
今や私の中では、朝鮮半島の古代の歴史の中心は高句麗です。
ドラマの効果は実に大きいです。
外交政策上も効果的なツールです。
私はまさにその罠にはまっているのかもしれませんが。

韓国ドラマに限らず、最近の映画やテレビドラマや報道が私たちにどれほどの影響を与えているのか、自覚しなければいけません。
それにつけても,NHK会長の籾井さんや運営委員の百田さんは、どう考えても適任ではありません。
NHKの職員のみなさんはどう考えているのでしょうか。

■竹富町を応援します(2014年2月11日)
世間が都知事選やオリンピックで騒いでいるなかで、こんなことも進んでいます。
昨日の朝日新聞から、長いですが、一部要約して、引用します。

沖縄県八重山地区で他の2市町と異なる中学公民教科書を使う竹富町に対して、文部科学省が3月上旬にも地方自治法に基づく是正要求を出し、教科書の変更を求める方針を固めた。実施されれば、国が市町村に直接、是正要求を出す初の事態になる。

文科省は昨年10月、県教委に対して竹富町への是正要求を指示したが、「教育現場に大きな問題は生じていない」などとして、県教委は応じていない。文科省は、県教委が今月12日の会議でも方針を変えない場合、新年度に「違法状態」が続きかねず、直接の措置が必要と判断した。

八重山地区では2011年夏、教科書の採択地区協議会が「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版の採択を答申。しかし、竹富町は「手順がおかしく、答申に法的拘束力もない」と東京書籍版を独自に採択した。
このため、文科省は教科書の無償給付を中止。竹富町は、各市町村に採択権限を認めている地方教育行政法を根拠に、独自採択は「合法」と主張。民間からの寄付金を元に、東京書籍版を購入して使っている。

文科省が直接、是正要求をしたとしても、竹富町が従う可能性は低く、教科書採択をめぐって今後、国と町が法廷で争う事態も想定される。

以上が朝日新聞の記事です。

私が安倍首相に対していだいている一番の不信感は、彼の教育観です。
2006年に教育基本法は壊されましたが、それを主導したのが安倍首相です。
その時に、憲法を変える準備が始まったように思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/12/post_af79.html

国の未来を決めるのは、教育と報道だろうと思います。
そのいずれもが、明らかなにある方向を目指しだしているようです。
それに抗う竹富町を応援します。
東京都民には見えていないものが、竹富町民には見えているのでしょう。
この動きはもっと多くの人たちに関心を持ってもらいたいと思います。

■富国とは「人民が概して貧しい国」である(2014年2月12日)
寒気が首都圏の上空に居座ってしまったようで、今日も寒い日になりました。
寒さは、心身を萎縮させます。
原発反対の立場にいる以上、寒いからといって、エアコンを使うわけにもいきません。
外出するのが一番いいのですが、あんまり体調もよくありません。
今日は大事をとって、在宅です。
コタツにもぐりこむしかありません。
そんな時に読む本としては、「石器時代の経済学」ではないかと思い(あんまり論理的ではありませんが)、書棚から探し出して、読み始めました。
20年以上前に読んだ本ですが、なぜか最近読んだ2冊の本に、言及されていたのです。
それに前回は、たしか途中で挫折して読了していないのを思い出したのです。
読み出したら、最初の頁に、以前読んだ時に蛍光ペンでマークした文章がとびこんできました。
こういう文章です。

あふれる豊かさへ至る道は2つ可能だ。欲望は、多く生産するか、少なく欲求するかによって、〈たやすく充足〉できる。

その先に、もっと刺激的なフレーズがありました。

貧国とは「人民が安楽に暮している国」であるが、これに対し富国とは「人民が概して貧しい国」である。

ある経済学者の言葉のようです。
だれの言葉か気になって調べましたが、わかりませんでした。

この文章に出会っただけで、もうこの本は読み終わったような気になりました。
たぶん、前回もそうだったのかもしれません。

少し暖かくなりました。
コタツの電力を節約して、動き出すことにします。
こうやってまた風邪をこじらせていくわけですが、石器時代には風邪などなかったでしょう。
しかし、気づいたらもう正午すぎです。
今日は家には私一人なので、食事を作らねばいけません。
さてどうするか。
石器時代人なら、「少なく欲求することで飢えを充足」したかなあと思いながら、やはり冷蔵庫を探すことにしました。
困ったものです。はい。

■2種類のお金(2014年2月15日)
昨夜はまた大雪でした。
私は雪の中を湯島に出かけましたが、昨日は心底、疲れてしまい、帰宅後、何もする気になれず、お風呂に浸かったまま寝てしまいました。
まあ溺死はまぬかれましたが。

一昨日のサロンで、お金が大切か、愛が大切かというような話が少し出ました。
帰宅したら、お金がなくなって、もう一緒に生きていけないので、相手を殺害してしまったという事件が報道されていました。
お金の意味も、愛の意味も、なにやら私の理解とは大きくずれてきているような気がします。

そういえば、朝ドラの「ごちそうさん」で、おにぎりがあって、それを食べないと死んでしまうが、隣にも同じような人がいたら、そのおにぎりを挙げられますか、などというセリフがありました。

愛もお金も、本来は人をついでいくための、あるいは生きやすくするための、ものだったのだろうと思います。
生まれたばかりの子どもの笑顔は、愛が人間に生来的にそなわっている本性だということがわかります。
お金を落として、帰りの交通費がない人がいたら、たとえ財布の中にわずかばかりのお金しかなくとも、多くの人は財布の口を開くでしょう。
理屈ではそんなことはないと思うかもしれませんが、実際にそういう場面に遭遇したら、そうするのが人間です。
現実は知識で動いているのでありません。
赤ちゃんの笑顔を奪うことが学校教育であってはなりません。
ましてや、学校で投資の話などしようと思うのは、子どもたちから生きる力を奪うことでしかありません。

また話がずれてきてしまいました。
一昨日のサロンで、お金には2種類あると話させてもらいました。
つながりを育てるお金とつながりをこわすお金です。
つながりを、「愛」に言い換えてもいいでしょう。
お金は、「おにぎり」に言い換えてもいい。

急にお金の話を書いてしまいましたが、
最近、私自身がお金で苦労しているせいか、お金のことがこれまでとは違って、少しわかってきました。
お金とは「愛」の別名なのかもしれません。
だから、愛があればお金は不要、お金があれば愛は不要というわけです。
誤解されそうな表現ですが、誤解もまた理解の別名ですから、いいでしょう。
いずれにしろ、愛もお金も、自分の生き方に、鋭く突き刺さってきます。

最近、経済人類学の本を何冊か読み直しました。
以前読んだ時にはあまり理解できていなかったのですが、今回はお金の話がとても興味深かったです。
お金は、人をつなげていくために生まれてきたのです。
金融工学者の手から取り戻さなければいけません。
どうしたらいいでしょうか。
一度、支え合い共創サロンで、コモンズ通過について問題提起しようかと思います。

■韓国の歴史教科書を読みました(2014年2月16日)
韓国の歴史教科書を、日本語訳で読みました。
明石書店から出版されている、世界の教科書シリーズです。
読んだのは、「初等学校国定社会・社会科探求」「中学校国定国史」「検定版高等学校韓国史」の3冊です。

まず感心したのは、それぞれの段階での内容の配分が違うことです。
特に感心したのは、高等学校では、近現代の部分が多く、8割の部分が19世紀以来の歴史に割かれていることです。
また、韓国がいまの領域で、国家形成されたのは900年ごろの高麗だと思いますので、日本のように歴史を語るのは簡単ではありませんが、国家意識を高めていくための工夫も、いろいろと見られます。
もうひとつ感心したのは、高等学校の教科書では、東アジアの中での動きという視点が多かったことです。

いずれにしろ、たしかに日本の教科書とは違います。
特に高等学校の教科書について言えば、たとえば「日帝」(大日本帝国)という言葉が、盛んに出てきます。
「慰安婦」も含めて、当時の日本への否定的な記述も多いです。
私には、その記述内容はさほど大きな違和感はありませんでしたが、記述の姿勢には感情的なものも感じました。
とりわけ写真が刺激的なものが多く、これで学んだ高校生たちには大きな影響を与えるだろうと思いました。
竹島(独島)問題も明記されていますが、大日本帝国による朝鮮の国権剥奪との流れの中で記述されています。
その意味では、明確な政治的意図を強く感じます。
それは北朝鮮への言及にも感じられます。

こうした姿勢は初等学校も中学校も、基本的には同じですが、下に行くほど、たとえば「日帝」言及は少なくなり、表現も少しおだやかになります。
しかし、「ごろつき」などという言葉がでてきたりして、ドキッとはしますが。

3冊を読み終わって感じたのは、自国の歴史教科書だけ読んでいると視野も発想も偏ってしまうという、当然の事実への再認識です。
日本の歴史教科書(私が最後に読んだ高校の教科書は30年ほど前なのですが)だけでは、私たちの歴史観は、どうしても偏ったものになるでしょう。
たとえば、私たちは、日清戦争、日露戦争と読んでいますが、韓国の教科書では、清日戦争、露日戦争と表現されています。
あるいは、朝鮮半島は「韓半島」とされています。
「朝鮮戦争」は「6・25戦争」です。
最近話題の「東海」は当然ですが。
これに関しては、とても納得でき、私の認識の限界を大いに反省させられました。
共同の歴史教科書という話がありますが、その前に大人たちが、それぞれの国の教科書をもっと読みあうことが大切ではないかと思いました。

最近、話題になった「伊藤博文暗殺」に対する評価ですが、韓国の教科書で学んだ人たちにが、この暗殺行為を「快挙」と受け止めるのもわかる気がしました。

もっとも韓国でも、高校の教科書や教科の設計に関しては、いまなお流動的で、変化しているようです。
年次によって、かなり変わっているようです。
その意味でも、韓国の教育は極めて「直接的に」政治的なわけです。

ところで、中学校の教科書に、こういうのがありました。
「両親や知り合いを通して1960年代はじめと1980年代後半の政治的、社会的、経済的状況について調べてみよう」。
これは2000年からの教科書に登場したのだそうです。
日本の教科書にもあるのかもしれませんが、とても共感できます。
もし日本の教育指導要領にないのであれば、ぜひいれてほしいです。
いや入れる前に、私たちはもっと子どもたちに伝えていく必要がありません。

3冊の教科書を読んでいろいろと気づかされました。
次は、日本の教科書を読み、つづいて中国の教科書を読もうと思います。
日本の歴史の学校教科書はどうしたら読めるのでしょうか。
図書館にあるでしょうか。

■ソーシャル・ガバナンスと成長する政策(2014年2月16日)
友人が、フェイスブックにソーシャル・ガバナンスの記事を載せ、そこに私の考えを紹介してくれたのですが、どうもうまく伝わっていなかったようなので、修正コメントを書きこみました。
私の考えは、なかなか伝わらないことが多いのですが、それはきちんと説明をしていないためです。
たまたま今朝の朝日新聞に論説委員の大野さんが「日曜に想う」で、私の考えるソーシャル・ガバナンスにつながる話を書いているので、それを紹介しておきたいと思います。
ちょっと長いのですが、少し省略して、引用させてもらいます。

 「政策がないってどういうことだ」
 「それじゃ、ただの空っぽじゃん」
 東京都知事選挙への立候補を表明したとき、家入一真さん(35)は、そんな批判をたくさん浴びた。
 というのも、政策はこれからつくります、と言ってのけたからだ。確かにこれまでの立候補の作法からは大きくはずれている。とくに50代、60代の人たちから「お前は知事になったら何をしてくれるというのか」と迫られた。
 「だけどそれには違和感を感じました」と家入さんは話す。「今は政治に対してお客でいられる時代でしょうか。人々も政治といっしょに何をやれるか考えないといけないのでは」
 だから、立候補にあたっては、まず人々との対話が必要だと考えた。守れない公約を掲げるよりも、都民の声を集める。それをもとに政策を練る。
 家入さんの呼びかけに、選挙期間中提言や課題を記したツイッターのつぶやき4万件近くが寄せられた。からかいや冷やかしを除いての数だ。

まさに、これが私の考える「ソーシャル・ガバナンス」です。
もう15年ほど前になると思いますが、茨城県の美野里町(いまは小美玉市になっています)の都市計画マスタープラン策定に関わらせてもらいましたが、その時にまさにこの発想を導入しました。
住民から意見を公募し、それを編集したものを「都市計画マスタープラン」にしたのです。
最初は県の担当課も戸惑ったと想いますが、結局、そのスタイルを受け入れてくれました。
さらにそれをベースに、常時、住民の意見を受け入れ、計画に追加していくという、「成長する計画」を目指していたのですが、市町村合併で挫折してしまいました。
それが私の最後の本格的な基礎自治体関係の仕事です。
市町村合併は私のビジョンとは正反対ですので、以来、自治体の仕事をやめました。

昨年末に、ソーシャル・ガバナンス研究会で話をさせてもらいました。
その時に、こういう質問をしました。
「ソーシャル」と「ガバナンス」をつなげる助詞は何でしょうか。
みなさんはどう考えるでしょうか。
多くの人は、「を」というでしょう。
ソーシャルをガバナンスするスキームをソーシャル・ガバナンスというわけです。
私は、そこに「で」をいれます。
ソーシャルでガバナンスするというわけです。
しかし、もっとぴったりするのは、「ガバナンスがソーシャル」という、要素の反転です。
つまり、ガバナンスを通してこそ、社会は育っていくというわけです。

政治もそうでなくてはいけません。
原発ゼロには具体性がないなどという人は、私には典型的な主体性放棄者としか思えません。
まさか、みなさんはそうではないでしょうね。

■「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドセッション(2014年2月16日)
自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあいとコムケアとの共催で、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」をテーマにした、連続ラウンドセッションを開催することになりました。
ラウンドセッションとは、みんなで輪になって話し合いをするというイメージのフォーラムです。
20〜30人を想定していますが、テーマや集まり具合で、規模は増減させていく予定です。

以前、実行委員会への参加の呼びかけもさせてもらいましたが、10人を超える人たちから参加申し入れがあり、何回かの準備会などを行なってきました。

そして、まずは次の2つの集まりを開催することになりました。

〔セッション1〕 3月12日(水曜日)午後6時半から9時
○テーマ:「生き生きと働ける職場を実現するー組織で働く人の自殺を考える」
○会場:山城経営研究所会議室(東京:飯田橋)
○主たる対象:企業関係者
○問題提起者:佐久間万夫(株式会社Eパートナー代表)

〔セッション2〕 3月22日(土曜日)午後1時半から4時
○テーマ:「家族関係や人間関係の破綻にどう対処するか」
○会場:未定
○問題提起者:茂幸雄、中下大樹

詳しい内容は、追ってご連絡しますが、これまでと同様、実行委員会での話を通して内容を深化させていくスタイルをとっています。
実行委員会は、週1回程度、参加可能なメンバーでの話し合いを行なっていく予定です。
もし実行委員会に参加ご希望の方はご連絡下さい。

また2つのセッションに参加ご希望の方はご連絡下さい。
いずれも、講演会ではなく、参加者による話し合いの場です。
といっても、難しい話し合いではなく、いつものサロンの延長のように、参加者が安心して本音で話し合える場にしていきますので、気楽にご参加下さい。
話したくはないが、聞き役に徹したいという方も、もちろん歓迎です。
ただ、評論や愚痴や情報交換だけの場にはしたくないので、それぞれが「自分の問題」として、何らかの意味で、次の行動につなげることを目的にしていきたいと思っています。

定員には限りがありますので、お含みおきください。
詳しい案内は、でき次第、このメーリングリストで流させてもらいます。
まずは日程をご予定いただければと思います。
引き続き、セッション3以降も考えていく予定です。

よろしくお願いします。

セッションおよび実行委員会への登録ご希望の方は、私にご連絡下さい。
qzy00757@nifty.com

■社会は生きるための生活の場なのか、稼ぎのための市場なのか(2014年2月17日)
記録的な大雪で、各地で深刻な被害が多発しています。
その報道を見ながら、日本の社会は壊れていると思っていましたが、そんなことはないと思い直しました。
高速道路で動けないでいるトラックの運転手に、お弁当を配ったり、近くの公民館を開放して、住民のみなさんがみんなでおにぎりをつくったりしている姿を見ると、つくづく日本は良い国だと思ってしまいます。

その一方で、浜岡原発が再稼動に向って動いているという報道を見ると、やはりおかしいのではないかなどとも思うわけですが、どうも頭が整理できません。
とても住みやすい社会があり、その社会を市場と考えている人がいる。
つまり、ふたつの別々の社会がある。
もしかしたら、そういう構造になっているのかもしれません。
この構造は、どこか「振り込め詐欺」の構造と似ています。
別の社会の人が、ちょっかいを出して、住みやすさの邪魔をする。

もしかしたら、今回の大雪でも、利益をあげている人もいるかもしれません。
浜岡原発を再稼動しようとしている人たちは、原発事故とは無縁の社会に住んでいる。
そういえば、3.11福島原発事故の後、関西のマンションがよく売れたという話を京都の人から聞いたのを思い出しました。

社会を市場と考えている人には、問題発生はビジネスチャンスと見えるのかもしれません。
そこで生きている人には、みんなで解決する課題と見えるのでしょうが。
そして、その解決の過程で、人のつながりが育ち、幸せになれるかもしれません。
市場と考えている人たちは、お金が儲かって幸せになれるのでしょうか。

どちらの人が「幸せ」でしょうか。
やはり前者でしょうが、感情的にはちょっと納得できない気もします。
お金を稼いで、湯水のように使ってみたいという誘惑は、やはりどこかにある。
困ったものです。

それにしても、社会を市場と考えている人たちは、いったいどこに住んでいるのでしょうか。

■経済成長と格差(2014年2月21日)
昨日、日本地域開発センターの50周年記念の交流会に参加しました。
パーティの最初にあいさつされたのが、伊藤光晴さんでした。
と言っても、ご存じない方も多いでしょう。
市民社会派の経済学者で、もう80代の後半のはずです。
マルクス経済学にも近代経済学にも偏ることなく、さらに狭義の経済学にも閉じこもることなく、技術や経営や社会にも視野を広げて議論し、しかもとてもわかりやすい本を書かれています。
私に、経済学に関心を持ち出すきっかけを与えてくれたおひとりです。
残念ながら直接お会いしたことはなく、正直、今はもうお名前さえすっかり忘れていました。

日本地域開発センターは、フォード財団と日本の経済同友会の資金提供を受けて、活動していた組織ですが、創立50周年ですから、できたのは1960年代半ばでしょう。
私が大学を卒業したころです。
当時、伊藤さんも、日本地域開発センターに関わっていたようですが、その回顧談を少しだけしてくれたのです。
そこに、当時は、格差を解消することで経済成長が実現できた、という話がありました。
ハッとしました。
経済成長は格差を拡大することで成り立つと、最近は思い込みすぎていました。
交流会の後、若い世代のアントレプレーたちにお話しさせてもらう予定でしたが、その大きな筋立ての一つが、脱経済成長論でもあったからです。

1950〜60年代は、たしかに格差是正と経済成長が共存していました。
生活を豊かにする経済成長というのもあるわけです。
とすれば、経済成長と格差の問題は、もっとしっかりと考えなければいけません。
言い換えれば、同じ「経済成長」という言葉でありながら、たぶん、その意味は違ってきているのです。
いや「経済」の概念それ自体がやはり違っているのでしょう。

昨夜の私の講演は、そうした経済学が全く変質してきたことも筋立ての一つだったのですが、もう少し整理する必要がありそうです。
伊藤さんは、格差是正が経済成長につながることに関して、フォード財団の思想にも一言だけですが、言及しました。
フォードが自社の社員が自動車を買えるように、日給を倍増させた話です。
ところで、もう一人、お話しされた98歳の某長老は、名古屋のオリンピック招致を止めるために尽力した話をしてくれました。
当時は、経営者も経済学者も、みんなまともだったように思います。
どこでどう流れは変わったのでしょうか。

経済成長批判よりも、格差是正につながる経済成長論を考えなければいけません。
やはり時には昔の人の話を聞くのもいいものだと思いました。

■『いまさら訊けない放射能について』サロンの報告(2014年2月22日)
昨夜、湯島で『いまさら訊けない放射能について』をテーマにサロンを開きました。
技術カフェのメンバーの石井さんの呼びかけです。
FBでも呼びかけましたが、結局、技術カフェのメンバーだけになりました。
しかも参加者は4人だけでした。
以前は、原発や放射性汚染のテーマだとかなり関心を持ってもらえましたが、最近はどうも「終わった話」なのかもしれません。
石井さんが、問題を少し整理してくれましたが、情報が多すぎて資料は完成していないようでしたが、それを材料に少しみんなで話し合いました。
しかし、情報が多いということは、逆に事実を見えなくします。
さまざまな数値はありますが、それがどういうものかよくわかりません。
藤永さんは、このサロンのために放射線などに関する本を5,6冊購入して読んでいるようで、その本も持参してくれました。
しかし、今回はそこまで議論が行きませんでした。

私も、わが家で放射線量を2回、測定しましたが、ちょっとした場所の違いや高さの違いで、データは変わります。
どれを使うかで、測定値は全く変わります。
あるいは、10ミリシーベルトが果たして人体にどういう影響を与えるかも、専門家といわれる人によって評価はさまざまです。
私は、福島原発事故の半年後ほどに、日本原電の役員だった技術者から、「佐藤さん、飯舘村だって人が住んでも大丈夫なんですよ」とはっきり言われました、
その人が悪意を持って「嘘」をついたとは思えません。
その人は、そう確信しているのです。
ことほど左様に、事実は見えません。
セシウム134は半減期が短いので、もうたぶん1/3くらいになっており、農業関係者に聞くともう大丈夫だと言います。
私が住んでいる我孫子市はホットスポットになったところですが、農地の除染は解決したと農業をやっている人も行政職員も言います。
そんな馬鹿なと私は思っていますので、わが家の家庭農園への取り組みのモチベーションは高まりません。
セシウム137は半減期は長いのでまだ残っているはずですし、さらに半減期が長いプルトニウムはどうなっているのでしょうか。
ただただ半減期の短いセシウム134だけが話題になります。
福島の除染活動にも接点のある人も参加していましたが、実際にはなかなか実態は見えてきません。
結局、話し合いの結果、わかったことは、実態が見えていないことでした。
放射線科学に関するさまざまな知識を得ても、結局、何も見えてこない。
やりきれなさが残ります。

日本ではまだ二酸化炭素が地球温暖化の主原因だという説(原発を後押しする主張です)や原発こそが発電コストが安いという話がまかり通っています。
いずれも事実ではないことは、少し調べればわかることですが、ほとんどの人は調べる気もありません。
福島での汚染水の漏洩にも、もうだれも驚かなくなりました。
お金の威力には驚かされます。

これでいいのかとみんな思いました。
自分たちはいいけれど、子どもたちに顔向けができないのではないかというのが参加者みんなの思いでした。
そして、その意識が、私たちのいき方の問題へと繋がっていきました。
放射性汚染問題にどう取り組むかは、まさに私たちの生き方の問題なのです。

もう少しこういう話を続けたい。
それが呼びかけ人の石井さんの結論でした。
継続開催する予定です。
この問題に動き出さない技術者たちには私は強い怒りを感じていますが、技術者だけの問題ではないことを改めて自覚しました。

■オリンピックの特殊な雰囲気(2014年2月22日)
最近のテレビはオリンピックの報道で埋め尽くされているような気がしますが、そのため、オリンピックに無関心の私でさえ、見る機会が増えています。
しかし、感ずるのはやはり、スポーツの痛々しさです。
「オリンピックの特殊な雰囲気」というような言葉がよくつかわれていますが、それはどういう意味なのでしょうか。
みんなを異常にさせる何かがあるのでしょうか。
その言葉からは、単に大きな大会だから緊張するというような意味を超えたものを感じます。

メダルを獲得した人はいいのですが、獲得できなかった人の痛々しさも感じます。
浅田選手のショートプログラムとフリーのあまりにも大きな格差は、なぜ起こったのでしょうか。
SPは責任感を背負ったあまり動けなくなり、フリーはメダルから解放されてのびのびと滑れたからでしょうか。
どこかにおかしさと痛々しさを感じます。

アクロバットのような種目も増えました。
これが何でスポーツなのかと思うのは、私の偏見でしょうか。
それに人間の感覚では識別できないようなわずかな時間差で優劣が決まるのも私には馴染めません。
もっとおおらかにスポーツを楽しむことはできないのでしょうか。

メダルを獲得すると報奨金が出るところが多いそうですが、今回もある国の選手は、金メダルを3つ獲得した結果、普段の年収の64年分の賞金を得たという報道が今日のテレビで流れていました。
どう考えてもおかしいように思います。
もっとも田中将大選手への年収に比べたら、大したことはないのかもしれません。

オリンピックが政治に利用されるのは仕方がないとしても、スポーツそのものが変質してしまっているような気がしてなりません。
これも「汎市場化」という流れのひとつなのでしょうか。

やはりオリンピックは好きになれません。

■「貧困は文明とともに成長してきた」(2014年2月23日)
タイトルの「貧困は文明とともに成長してきた」は、経済人類学者のマーシャル・サーリンズの言葉です。
少し前の記事で、「経済成長と格差」についての2つの関係を書きました。
そのことからいえば、格差をなくす文明と格差に支えられる文明があるのかもしれません。
サーリンズの代表的な著作「石器時代の経済学」の第1章は、「始原のあふれる社会」です。
それは石器時代の社会が、豊かさであふれる社会だった意味です。
しかし、それに続く章で、その豊かさは現代の私たちが考える豊かさとは違うこともまた書いています。
おそらく石器時代の文明と現代の文明は、価値基準が違うのでしょう。
実際には、私たちは石器時代には「文明」がなかったと考えているわけです。

その著書からいくつかの象徴的な話を引用してみましょう。
たとえば、サーリンズはこう書いています。

一人当りの労働量は、文化の進化につれて増大し、余暇量は減少したのである。

狩猟=採集民(とりわけ、限界的な環境にすんでいる人々)についての、昨今の民族学的報告によると、20世紀の狩猟=採集民は、食べ物の生産のために、成人労働者一人一日当り、平均3時間から4時間しかついやしていないのだそうです。
では、それ以外の時間はなにをしていたか。
睡眠時間が多かったことだけは事実です。

また、サーリンズは、狩猟民にとって「富は重荷」だと書いています。
移動することが多かった彼らにとって、文字通り「重荷」になるからです。
サーリンズは、こう書いています。

狩猟=採集民は、何ももたないから、貧乏だと、われわれは考えがちである。むしろそのゆえに彼らは自由なのだと、考えた方がよいだろう。「きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは、日々の必需品にかんする心配からまったくまぬがれており、生活を享受しているのである。

それでも当時は安定した食べ物が確保されずに、飢餓に陥ることが多かったのではないかと私たちは考えがちです。
たしかにそうだったでしょう。
しかし、サーリンズは、こう鋭く指摘します。

今日の世界においても、人類の3分の1あるいは2分の1もが、毎晩空き腹をかかえて、寝につく、といわれている。石器時代では、その比率は、もっと小さかったにちがいない。前代未聞の飢えの世紀、それが現代なのだ。いま、最大の技術力をもっているこの時代に、飢餓が一つの制度となっている。古ぼけたあの定式を、いまやこう転倒させよう。文化の進歩につれて、飢えの量は、相対的にも絶対的にも増大してきた、と。

人類は、富みながらかつ同時に貧しくなってきた、という、サーリンズの言葉に、私はとても共感しています。
この流れからぬめることは可能でしょうか。

格差をなくすことを経済成長と考える経済学が生まれれば、それができるかもしれません。
アメリカでは、すでに「ケアリング・エコノミクス」なる発想が生まれています。
経済成長の意味を変える時代が来ているように思います。

ちなみに、サーリンズが指摘していることは、日本社会においても、この50年間の変化のなかにも読み取れることかもしれません。

■「自分が何をやっているか、もっと見ろ」(2014年2月24日)
タイトルの言葉は、映画「ボーン・アルティメイタム」に出てくる言葉です。
屋上に追われた主人公のボーンに銃を向けた「殺し屋」に向って言う言葉です。
その殺し屋は、その少し前にボーンに助けられのですが、彼の「なぜ殺さなかったのか」という問いかけに、ボーンが応えた言葉です。
この映画は、DVDで、もう10回以上観ていますが、なぜか、いつもこの言葉が引っかかっています。
その理由が、今日、初めてわかりました。

昨日、「石器時代の経済学」について言及しましたが、先週、その本を読み終えてから、何か自分の生き方が基本的におかしかったのではないかという気がしてきました。
なんでこんなに忙しく生きてきたのだろうかという思いが強まってきています。
なんとなく、そのおかしさには気づき、25年前に会社を辞めたのですが、結局、その後も生き方は変わりませんでした。
主体的に生きる姿勢は強まりましたが、逆にさまざまなことに好奇心をかきたてられ、時間破産を続けるようになりました。
ハッと気づいて、生き方を変えようと思った矢先に、妻の胃がんが発見され、4年半後に妻を見送る羽目になってしまいました。
それ以来、いまだに立ち直れずにいます。

このブログには、挽歌編が並行して書かれていますが、それを読むとわかりますが、がんばっているようでも、どこか「腑抜けな生き方」になっていると思います。
妻がいるときに、なぜあんなに忙しく生きていたのかと思うと元気が出ないのです。

ボーンの言葉は、私自身に向けられた言葉だったのだと、今日、気づきました。
いや、私だけにではありません。
現代を生きる多くの人に向けられているのです。

私は「殺し屋」ではないのですが、もしかしたら、たいした違いはないのかもしれません。
誰でもよかったと自動車を歩道に乗り上げた若者が、また報道されています。
実に悲しい事件ですが、その責任は、こんな社会にしてしまった私たちにあることは否定できません。
「自分が何をやっているか、もっと見ろ」。
そして、
「自分が何をやっていないか、もっと見ろ」。

自分の生き方が社会をつくりだしているのです。

■気温の上昇が先で二酸化炭素の増加が後である(2014年2月25日)
相変わらず福島の原発事故現場では、「コントロール」を逸脱したトラブルが頻発しています。
にもかかわらず、一方では、避難地区の解除の動きも報道されています。
今朝の朝日新聞には、60年たっても故郷に戻れないビキニ島民たちのことが1面のトップ記事になっていますが、そんな間接話法はやめて、福島の問題をもっときちんと報道すべきだろうと思います。
最近のマスコミは、二枚舌を使うようになってきた感じがします。
だから、読者はわけがわからなくなりかねません。

ところで、先日、「いまさら訊けない放射能」というサロンをやった時に、二酸化炭素による地球温暖化仮説の話を少しだけさせてもらいました。
原発推進の根拠とされたのが、脱二酸化炭素のクリーンエネルギー論であり、発電コストの安さでした。
いずれも、ほんの一部だけを取り出した議論ですが、マスコミがそれを増幅したために、いまもなお多くの人はそれを信じているようです。
一度、思い込んでしまうと人はなかなか考えを変えられません。
学んだことを前提に、自分の世界をつくりあげていくからです。
知とは無知のことだといったソクラテスは、アテネの市民によって死刑にされましたが、同じようなことが現代の日本においても相変わらず行なわれています。

ところで、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)といえば、ノーベル平和賞を受賞した組織ですが、商業主義に魂を売ったノーベル賞の化けの皮をはがしたとして、話題にもなったところです。
私は、オリンピック同様、ノーベル賞も、いまや完全に金銭儲け主義者たちに乗っ取られてしまったという「偏見」を持っていますが、まだ日本ではIPCCは「権威」ある存在なのでしょう。
そのIPCCの最近(といってももうかなり前ですが)の報告書に、「気温の上昇が先で二酸化炭素の増加が後である」と明言されているようです。
私は、その報告書をネットで拾い読みしかしていないので、「ようです」としかいえないのですが、これはたぶん多くの人の常識には反するでしょう。
つまり、地球温暖化は二酸化炭素の増加のためではないということです。
天文学的な大きな流れの中で、地球の温暖化が進み、その結果、地表の二酸化炭素濃度が増えているというわけです。
もっとも、以前も書きましたが、私自身は地球の温暖化にも疑問を感じています。
仮に温暖化しているとしても、それはもっと長期的な問題として把握すべきで、少なくとも数十年の単位であれこれ騒ぐ話ではないだろうと思っています。
科学の話と日常生活の話を混同してはいけません。

むしろ問題の構造化が、あまりにも短絡していることに、作為を感じます。
二酸化炭素増による地球温暖化の危機 → 二酸化炭素を出さない原発はクリーンなエネルギー → だから原発を推進しよう。
つまり、原発の発電コストが水力や火力より安いということが、原発推進のために作られた「嘘」だったように、二酸化炭素問題を広げたのは、原発指針のためだったのかもしれません。
もしそうならば、原発を進めたのは、核兵器のためだったという見方も、あながち否定できないかもしれません。

世間で喧伝される話には、どうも大きな「裏」がある。
そう思って、マスコミの報道に対峙しないといけないようです。

私自身は「権力」や「権威」が明言する話には、いつも懐疑的です。
しかし、現場の名もない人の発する話には、いつも共感を持つようにしています。
そこに、間違いのない「真実」を垣間見るからです。

■人には共存できないものもある(2014年2月26日)
今日の朝日新聞の朝刊のトップ記事は、「再稼動進める」明記、という見出しで、新たなエネルギー基本計画の政府案に、原発の新増設までもが盛り込まれたことを報じています。
ところが、その隣に、福島原発事故で全町民が避難を続けている、福島県双葉町の役場の写真が掲載されています。
見出しは、「時は止まったまま無尽の役場」となっています。
事故後、初めて朝日新聞記者が入って、撮った写真だそうです。

この紙面を見ながら、人間の思考の柔軟性に、改めて感心しました。
この2つの報道記事を見ていたら、普通は頭が混乱してくるはずです。
しかし、その2つの記事が、何の違和感もなく、そして関連付けられることもなく、ただただ並んでいるのです。
そして、たぶん多くの人は、それぞれを違和感なく読み流すことでしょう。
そういえば、つい最近の高汚染度の水が200トンも漏洩したことが報道されましたが、もう多くの人は驚きさえしないでしょう。
人は、現実に慣れていくものです。
まったく正反対の事実でも、違和感なく、受け入れてしまうかもしれません。
原発事故の恐ろしさを体験したにもかかわらず、その原発と共存しながら生きていくことができるのが人間なのかもしれません。

しかし、同じ新聞の39面に、60年前にビキニ環礁での水爆実験で被曝した第5福竜丸の乗組員だった大石又七さんの「語り部活動」の記事があります。
大石さんは、「放射能の恐ろしさを政治家たちは隠している」と言います。
大石さんが、80歳の高齢で、しかも脳出血を起こした後までも、その恐ろしさの講演を続けているのは、「核兵器も原発も、人類とは共存できない」という信念を、一人でも多くの人に伝えたいからだそうです。

エネルギー基本計画を決めた政府閣僚の人たちの「信念」と大石さんの「信念」は大きく違います。
私は、やはり、大石さんの信念を支持します。
どんなに柔軟であろうとも、人には共存できないものもある。
いや、共存してはいけないものがある、と私も思うからです。

■ビットコインと通貨(2014年2月27日)
仮想通貨と言われているビットコインの取引所のひとつが、取引を停止し、その危うさが問題になっています。
朝日新聞に、ビットコインと通貨の違いの表が出ていました。
ビットコインに関しては、新聞やテレビで報道されていることしか知らないのですが、ちょっと気になったのは、「仮想通貨」という言葉です。
私自身は、円やドルという通貨も、「仮想通貨」だとずっと思っていたからです。
いや、通貨とは、そもそもが、仮想上の概念であり、その仮想が崩れれば、まったくといっていいほど価値のないものなのだろうと思います。
そして、問題は、その「仮想」を管理するのはいったい「誰か」ということです。

円に関しても、私はそう考えていますので、現在の「円やドルの上に構築されている金銭経済」を基準にして、生活を成り立たせることに、身を任せられないわけです。
だれかが管理する仮想の世界に呪縛されたくないからです。

ビットコインではありませんが、最近、私もスイカとかIDなどのカードを多用するようになりました。
たしかに利便性が高く、しかもお金を使った気分にならないので、相手への感謝の念も高まります。
それが問題だとも言われていますが、通貨を介さないことが、私には合っています。
なぜかといえば、そうしたものは、いわゆる交換手段にしかならず、決してそれ自体で価値を生み出さないからです。
そこには、複雑な金融工学の魔手は及びません。

私たちはともすると、通貨に価値を感じてしまいます。
眼の前に100万円の札束を積まれたら、私でもクラクラっとしてしまいかねません。
そして、その通貨で利殖したいと思うかもしれません。
そこからたぶん通貨を管理している人たちの思う壺に入っていってしまうのでしょう。
でも、スイカであれば、そんなことはありません。

通貨とはいったい何なのかを改めて考えてみる材料を、ビットコインは教えてくれているように思います。

■「人間に鈍感なシステマチックな世界」(2014年2月28日)
ちょっと体制を刺激する文章を引用します。

警察では何事も「待たせる」ということが平気になっていて、恐ろしく時間に鈍感過ぎる、と思った。接見の弁護士さんや家族には情報を与えず延々と何時間でも平気で待たせる。あんなにも人を待たせることに鈍感になっているのは、警察官自身が警察内部で何も考えずにひたすら上からの指令を待つことに日常的に馴らされているからなのだろう、とその時思った。そう言えば、日本の官僚制システムとは、この「人間(他人)への鈍感さ」(つまり「人権感覚の無さ」=「思いやりのなさ」)によって上から下まで習慣化されている「鈍感なシステマチックな世界」なのだということに改めて思い至った。

いささか物騒な発言ですが、まだ現在は、これくらいの発言は見過ごされているようです。
これは、昨年、デモに参加しようとして逮捕された多辺田政弘さんの報告記事の中の文章です。
多辺田政弘さんといえば、「コモンズの経済学」という本もお書きになっている元沖縄国際大学教授です。
私もその本を初めとした多辺田さんのお書きになったものから、多くのものを学ばせてもらい、忘れられないお一人です。
心臓の手術をしたとお聞きしていましたが、それが昨年、エントロピー学会の機関誌に、ご自身の逮捕劇の顛末を報告してくれました。
驚愕しましたが、同時に、想定される近未来の日常風景でもありました。
ちなみに、その報告は、ネットでも読むことができます。
http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&order=ASC&topic_id=1931&forum=1&move=next&topic_time=1366945834
お読みいただければうれしいです。

多辺田さんはもう70歳近いはずで、しかも持病を抱えているにもかかわらず、デモに参加しています。
こうした人たちによって、今の社会はかろうじて、維持されているのだろうと思います。
私は、妻がなくなってから、デモには参加したことがありません。
脱原発に関する国会周辺の集まりには、何回か参加しましたが、単にそこに行っただけで、何もデモらしいことはしていません。
それではいけないとは思ってはいるのですが、気力が出てきません。
ですから、多辺田さんの行動には刺激されます。
自己嫌悪にも陥りました。

1年も経って、いまさら多辺田さんの手記を思い出したのは、最近、テレビを観ていて、官僚システム(それは、良し悪さは別にして、ある意味では人間への鈍感さに支えられている面があると私は思っています)だけではなく、官僚システムを活かしていくべきリーダーにも、「人間への鈍感さ」を、強く感じるからです。
そして、それが生活の場である社会全体にも、広がっているような気がするからです。
つまり、私自身の生き方も、そうなってしまっているのかもしれません。

私たちの生き方から、もしかしたらいま、人間への思いやりがどんどんと消えている。
そもそも「絆」とか「つながり」とかいう言葉が、これほど使われるということ自体、そのことを象徴しています。
「人間に鈍感なシステマチックな世界」は、決して警察や官僚の話ではなく、私たち、生活者の世界のことなのかもしれません。
多辺田さんが指摘している、「ひたすら上からの指令を待つこと」は、多くの日本の現代人の習性になってしまっているのかもしれません。

そう思って、1年前の機関誌を引っ張り出して、読み直してみました。
そして、多くの人にも読んでほしいなと思った次第です。

今日は金曜日、久しぶりに国会に行こうかとも思いましたが、あいにく最終金曜日なので、湯島でオープンサロンです。
こんな話を今日は私から話させてもらおうかと思っています。
念のために言えば、体制批判ではなく、自己批判として、です。

■産業経済の基本である工場現場への不安(2014年3月1日)
最近、湯島で話題になることのひとつが、日本の企業現場での基本的な技術・技能の劣化の話です。
会社を定年退職した人が、最近の化学工場や原発の事故を見ていると、高度な技術の問題ではなく、ねじの締め方とかパイプの接合とか、基本的な機器操作とか、そういうレベルでのミスが増えている。日本の工場は壊れだしているようで、心配だと嘆いていました。
やはり同世代の企業OBの人は、非正規従業員が多くなってきているので、現場のしっかりした基本動作が継承されているかどうか、とても不安だと言っていました。

福島原発では、そういうことが頻発してきていますが、どうもそれは福島原発だけのことではなく、日本の工場全体に広がっていることなのかもしれません。
だとしたら、とても恐ろしいことです。

厳しい競争の中で、高度な技術や新しい技術が必要だということもわかりますが、もっと大切なのは、ものづくりの基本動作だろうと思います。
事故調査によって、事故の原因を把握することはとても重要ですが、そうした原因の個別要素と同時に、全体の生産技術や管理技術の劣化をどうするかが、重要な課題ではないかと思います。
それはひとえに、働く人の意識の問題、モチベーションの問題であり、職場におけるコミュニケーションの問題です。
いまの企業の体制で、それがきちんとできるのかどうか、とても不安に感じます。

工場の話だけではありません。
社会そのものからも、基本的なものが失われている不安もあります。
当然のことが、当然でなくなってきているのです。
前にも書きましたが、銀行のATMで並んでいる次の人に「お先に」とか「お待たせしました」とか、言うのは、私は誰もが知っているルールだと思っていましたが、どうもそういう文化はなくなっているようです。
いつも怪訝そうな反応しかなく、気が滅入りそうになります。
レストランで食事をしたら、支払いの時に、「ごちそうさま」というのも、もう昔の話かもしれません。
商品は買ってやるのではなく、分けてもらう、つまり売ってもらうという文化も消えてしまったのかもしれません。
感謝の気持ちがなくなってきた。
お金を払えばいいという話ではありません。

家族からも地域社会からも、組織からも電車の中や街中からも、何かとても大切なものが消えてしまっています。
事故を起こしているのは、原発や化学工場だけではありません。
家庭でも、集合住宅でも、地域社会でも、最近は爆発事故が絶えません。

それをなくすためには、難しい技術や知恵はいりません。
基本動作の習得と誠実ささえあれば、会社から事故は減らせるはずです。
基本マナーと感謝の気持ちさえあれば、社会から事故を減らせます。
そう思っていますが、間違っているでしょうか。

■「人間に鈍感なシステマチックな世界」(2014年2月28日)
ちょっと体制を刺激する文章を引用します。

警察では何事も「待たせる」ということが平気になっていて、恐ろしく時間に鈍感過ぎる、と思った。接見の弁護士さんや家族には情報を与えず延々と何時間でも平気で待たせる。あんなにも人を待たせることに鈍感になっているのは、警察官自身が警察内部で何も考えずにひたすら上からの指令を待つことに日常的に馴らされているからなのだろう、とその時思った。そう言えば、日本の官僚制システムとは、この「人間(他人)への鈍感さ」(つまり「人権感覚の無さ」=「思いやりのなさ」)によって上から下まで習慣化されている「鈍感なシステマチックな世界」なのだということに改めて思い至った。

いささか物騒な発言ですが、まだ現在は、これくらいの発言は見過ごされているようです。
これは、昨年、デモに参加しようとして逮捕された多辺田政弘さんの報告記事の中の文章です。
多辺田政弘さんといえば、「コモンズの経済学」という本もお書きになっている元沖縄国際大学教授です。
私もその本を初めとした多辺田さんのお書きになったものから、多くのものを学ばせてもらい、忘れられないお一人です。
心臓の手術をしたとお聞きしていましたが、それが昨年、エントロピー学会の機関誌に、ご自身の逮捕劇の顛末を報告してくれました。
驚愕しましたが、同時に、想定される近未来の日常風景でもありました。
ちなみに、その報告は、ネットでも読むことができます。
http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&order=ASC&topic_id=1931&forum=1&move=next&topic_time=1366945834
お読みいただければうれしいです。

多辺田さんはもう70歳近いはずで、しかも持病を抱えているにもかかわらず、デモに参加しています。
こうした人たちによって、今の社会はかろうじて、維持されているのだろうと思います。
私は、妻がなくなってから、デモには参加したことがありません。
脱原発に関する国会周辺の集まりには、何回か参加しましたが、単にそこに行っただけで、何もデモらしいことはしていません。
それではいけないとは思ってはいるのですが、気力が出てきません。
ですから、多辺田さんの行動には刺激されます。
自己嫌悪にも陥りました。

1年も経って、いまさら多辺田さんの手記を思い出したのは、最近、テレビを観ていて、官僚システム(それは、良し悪さは別にして、ある意味では人間への鈍感さに支えられている面があると私は思っています)だけではなく、官僚システムを活かしていくべきリーダーにも、「人間への鈍感さ」を、強く感じるからです。
そして、それが生活の場である社会全体にも、広がっているような気がするからです。
つまり、私自身の生き方も、そうなってしまっているのかもしれません。

私たちの生き方から、もしかしたらいま、人間への思いやりがどんどんと消えている。
そもそも「絆」とか「つながり」とかいう言葉が、これほど使われるということ自体、そのことを象徴しています。
「人間に鈍感なシステマチックな世界」は、決して警察や官僚の話ではなく、私たち、生活者の世界のことなのかもしれません。
多辺田さんが指摘している、「ひたすら上からの指令を待つこと」は、多くの日本の現代人の習性になってしまっているのかもしれません。

そう思って、1年前の機関誌を引っ張り出して、読み直してみました。
そして、多くの人にも読んでほしいなと思った次第です。

今日は金曜日、久しぶりに国会に行こうかとも思いましたが、あいにく最終金曜日なので、湯島でオープンサロンです。
こんな話を今日は私から話させてもらおうかと思っています。
念のために言えば、体制批判ではなく、自己批判として、です。

■産業経済の基本である工場現場への不安(2014年3月1日)
最近、湯島で話題になることのひとつが、日本の企業現場での基本的な技術・技能の劣化の話です。
会社を定年退職した人が、最近の化学工場や原発の事故を見ていると、高度な技術の問題ではなく、ねじの締め方とかパイプの接合とか、基本的な機器操作とか、そういうレベルでのミスが増えている。日本の工場は壊れだしているようで、心配だと嘆いていました。
やはり同世代の企業OBの人は、非正規従業員が多くなってきているので、現場のしっかりした基本動作が継承されているかどうか、とても不安だと言っていました。

福島原発では、そういうことが頻発してきていますが、どうもそれは福島原発だけのことではなく、日本の工場全体に広がっていることなのかもしれません。
だとしたら、とても恐ろしいことです。

厳しい競争の中で、高度な技術や新しい技術が必要だということもわかりますが、もっと大切なのは、ものづくりの基本動作だろうと思います。
事故調査によって、事故の原因を把握することはとても重要ですが、そうした原因の個別要素と同時に、全体の生産技術や管理技術の劣化をどうするかが、重要な課題ではないかと思います。
それはひとえに、働く人の意識の問題、モチベーションの問題であり、職場におけるコミュニケーションの問題です。
いまの企業の体制で、それがきちんとできるのかどうか、とても不安に感じます。

工場の話だけではありません。
社会そのものからも、基本的なものが失われている不安もあります。
当然のことが、当然でなくなってきているのです。
前にも書きましたが、銀行のATMで並んでいる次の人に「お先に」とか「お待たせしました」とか、言うのは、私は誰もが知っているルールだと思っていましたが、どうもそういう文化はなくなっているようです。
いつも怪訝そうな反応しかなく、気が滅入りそうになります。
レストランで食事をしたら、支払いの時に、「ごちそうさま」というのも、もう昔の話かもしれません。
商品は買ってやるのではなく、分けてもらう、つまり売ってもらうという文化も消えてしまったのかもしれません。
感謝の気持ちがなくなってきた。
お金を払えばいいという話ではありません。

家族からも地域社会からも、組織からも電車の中や街中からも、何かとても大切なものが消えてしまっています。
事故を起こしているのは、原発や化学工場だけではありません。
家庭でも、集合住宅でも、地域社会でも、最近は爆発事故が絶えません。

それをなくすためには、難しい技術や知恵はいりません。
基本動作の習得と誠実ささえあれば、会社から事故は減らせるはずです。
基本マナーと感謝の気持ちさえあれば、社会から事故を減らせます。
そう思っていますが、間違っているでしょうか。

■二酸化炭素地球温暖化説と原発代替エネルギーに関する補足(2014年3月2日)
先日、ブログに書いた「気温の上昇が先で二酸化炭素の増加が後である」をフェイスブックで紹介したら、友人から質問があり、補足を少しだけ書きました。
そのうちの一つをここにも紹介しておきます。
少し内容を省略していますが。
メッセージというものは、なかなか伝わらないものです。

私がブログで書いたのは、二酸化炭素地球温暖化説が唯一の考えではないということです。
科学技術は万能ではなく、〈見える世界〉だけの論理です。
自然も生命も、むしろ見えない部分が多いと思いますが、その一部の因果関係を捉えて絶対視してくるドグマに陥ることがあってはなりません。
ソクラテスではないですが、知者は知っていることは一部であることを踏まえて、謙虚でなければいけません。
二酸化炭素増加と地球温暖化を、一義的に決めるのではなく、世界にはさまざまな議論があることを、私はもっと知りたいと思います。
ひとつの物語を押付けられて、それにしたがって、政治や経済が動くことに、私は危惧を感じます。
物事にはプラスもマイナスもある。
それをきちんと議論することが大切だと思います。

有名なクライメートゲート事件やゴアの「不都合な真実」に関しても、もう少しきちんと評価すべきですが、どちらが正しいかは私には確信はもてませんが、いずれもなにやら〈政治的なにおい〉を感じます。
クライメートゲート事件は、日本のマスコミはあまり報道しませんが、化学同人の「化学」の2010年の3月号と5月号に詳しく出ています。5月号はネットで購入できます。
IPCCに関しては、これを読んでもらえればと思います。
評価は分かれるかもしれませんが、赤祖父さんの書籍や講演も、私には納得できるものがあります。
いささか刺激的ですが、広瀬隆さんの著作や講演も示唆に富んでいると思います。

ところで、化石燃料に代わるエネルギー源は何かという問題ですが、これは私のブログの議論とは関係ありませんが、問われたので少しだけ回答します。
私は1970年代のソフトエネルギーパス議論の時と10数年前の企業の経営環境ブームの時に、それぞれかなりエネルギーに関しても調べました。
1970年代のことからいえば、既に現在の代替候補はすべて出揃っていました。
バイオマス関係では当時はブラジルが騒がれていて、私もサンパウロに行ったついでにフォードの工場を見せてもらいました。
その時に感じたのは、工業パラダイムにはあわないのではないかということでした。
それと対照的だったのが、当時、日本の通産省が取り組んでいた太陽熱発電です。
香川県での実験現場を見に行きましたが、見た途端に、これはまさに工業パラダイム型だと思い、生理的に拒否感を持ちました。
太陽熱発電は失敗に終わりました。
昨今のメガソーラーは、それと同じですので、私には拒否感があります。
最近は、分譲ソーラーという仕組みもできているようですが、私には全くなじめません。
つまり、エネルギーとは生活や社会の構造と深くつながっており、そこから議論しないといけないのだろうと思います。
ソフトエネルギー、代替エネルギーといっても、同じではありません。
問題は、エネルギー源だけではなく、それをどう活かすのかという仕組みも大切です。
1980年代の議論は、今と違って、そういう視野を踏まえていたように思います。

10年ほど前に、日本能率協会が環境経営提言をまとめる仕事に関わらせてもらいました。
その時に感じたの、エネルギー源の問題だけではなく、生活や産業のあり方の見直しまで来ているという事実でした。
ソフトエネルギーパスを提唱したエイモリー・ロビンスも、その実践に取り組んでいることを知りました。
しかし、大企業の環境経営への取り組み方は、省エネといいながらも、あんまり変わっていないことにがっかりしました。
しかし、そうであればこそ、私自身の生き方を考え直さないといけないと反省しました。

知人が、九州でエネルギーの自給を基本とした仕組みづくりに取り組んでいます。
そうした動きが各地で広がりだしています。
つまり、資源がないから代替資源を探すという発想ではなく、資源をできるだけ消費しない生活や社会のあり方を探ろうという発想に変えたいというのが私の思いです。
ご指摘のあった、化石燃料は後何年しか持たないという話は30年前から、いやローマクラブの「成長の限界」提言の時から聞かされていますが、どんどん枯渇時期は延びています。
ともかく実態がよくわからないまま、つまり、それを否定することも肯定することもできない状況で、ある「意図」をもって、数字が使われることに、私は慎重になりたいと思います。

問いかけにきちんと答えているかどうか不安ですが、こんなところでお許し下さい。
書き忘れましたが、エントロピー学会というのがあります。
とても誠実な議論が交わされています。

■ホームズはなぜ死ななかったのか(2014年3月2日)
イギリスのテレビドラマ「シャーロック」のシリーズ3が、5月に日本でも放映されることが決まりました。
英米では4月には放映されるようですが、実に待ち遠しいです。
http://bbcsherlock.jp/casts-staffs/

ご覧になっている方もあると思いますが、2年前から毎年3作品が放映されています。
コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に基づくものですが、時代を現代に置き換えているので、ドイルの作品とは違います。
しかし、タイトルも含めて、ドイルの作品を踏まえていますので、シャーロキアンにはなんともいえない魅力的な作品です。
と言っても、私は最初に見た時には違和感を持ちましたが、次第に、その魅力に引き込まれ、今となっては、これこそホームズだと思っています。

この番組が刺激になったのか、アメリカでも現代版のホームズものがドラマ化されましたが、これは最初の作品で、見るのを辞めました。
また昔放映されたホームズものの映画やテレビドラマも、よく再放送されるようになったので、録画して見直していますが、「シャーロック」を見てしまったものには、物足りなく、退屈です。

「シャーロック」のホームズ役とワトソン役の俳優は、いまや売れっ子です。
ホームズ役のベネディクト・カンバーバッチは、先日、来日しましたが、日本でも大人気のようです。
このドラマ以前にも、映画で彼を知っていましたが、まさか売れっ子になるとは思ってもいませんでした。

それはともかく、実はシリーズ2の最後の作品("The Reichenbach Fall")で、シャーロックは高層ビルから飛び降りて自殺するのですが、実は死んではいないのです。
そのからくりが、わからないため、私はこの作品を何回も繰り返し見たのですが、やはりわかりません。
ドイルの小説でも、滝から落下して死んだはずのホームズが生還して、小説が続くのですが、それと同じ趣向です。
ただし、からくりがわかりません。
ヒントはいくつか示されているのですが、わからない。
「シャーロック」ファンの中でもかなり話題になっていますので、もし誰かが謎解きをしたら、ネットで回ってくるはずですが、私はまだ目にしていません。
英国でのテレビ放映が一番早いと予想されていますが、それを見た誰かがネットで、タネをバラスのではないかという話は、すでに回ってはいますが。

できれば、シリーズ3の作品を見る前に、何とかからくりの骨子を見つけたいと思っていますが、そのためにはあと何回、見ればいいでしょうか。
実に困った話ですが、気になって仕方ありません。

それはともかく、このドラマはお勧めです。
これまでの作品は、4月にNHKBSで再放映されます。
ぜひチャレンジしてみてください。

■人類を統合する思想(2014年3月5日)
2年前に、エントロピー学会誌「えんとろぴい」に掲載されていた、山内友三郎さんの「人類を統合する思想は可能だろうか」という論考を読み直しました。
山内さんは、同誌に、数年前から「環境倫理覚書」を連続して発表しています。
幅広い視野からの論考なので、教えられることが多く、いつも読ませてもらっています。
今回、思い出して読み直したのは、先週、お会いした向坂さんが、最近は「世界観」をもたない人が多いと嘆いていたからです。

「世界観」とは、世界をどう捉えるかということですが、大切なのは、その捉え方の基本となる視点といっていいでしょう。
たとえば、神の視点で世界を捉えるか、仏の視点で世界を捉えるかは、大きな違いがあります。
さらに、人の視点で捉えるとまた違ってきますし、その「人」の捉え方もさまざまです。
私は一神教の世界観にはなじめませんが、現実の世界は一神教を信仰する人も多く、なじめないからといって、拒否することはできません。
それに一神教を信仰しているからといって、友人関係に支障が起こるわけではありません。
先週も、キリスト教の洗礼を受けたことによって人生を豊かにした友人とも会いましたが、共感しあえることが多かったです。

ところで、山内さんは、一神教には厳しい見方をしています。

この思想は、人類に普遍的に当てはまると見倣されていて、論理的で緊密な一枚岩的な体系を誇り、他の思想と妥協せず、その一部が正しく一部が間違いということを認めないから、他の思想と折衷・融合することが不可能になる。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教は、現代に至っても死闘を繰りかえしている点では、他にどんな長所を持とうが、世界に平和をもたらして緑を回復するという点では失格である。

では、キリスト教的近代思想と「草木国土悉有仏性」と考える東洋思想とは共存できるのか。山内さんは「できる」と言います。
そして、そのために、世界観の基本になる価値観の三層構造を提案しています。

レベル1:人間生存の土台になる自然との共生を支える「全体論」
レベル2:社会幸福を目指す「ヒューマニズム」
レベル3:実際に生活のよりどころとしての「制度と教え」

西洋近代の倫理学、特に20世紀の主流となった倫理学は、レベル2の上に構築されていますが、これからはレベル1から考えなければいけないと、山内さんは書いています。
まさに、このレベル1の全体論(エコロジー)が「世界観」ではないかと思います。

こうした話は、抽象的に聞こえるかもしれませんが、発想の転換を私たちに求めます。
日常の行動にも深くつながってくるはずです。
たとえば、原発問題の位置づけなどは、明らかに変わるでしょう。
世界観などというと、難しくなりますが、要は、生きるうえで、何を一番大事にするかです。
一人ひとりが、生き方を問い直す時期にきているように思います。
25年前から、私は自らの生き方を変えてきましたが、まだまだ変えきれずにいますが。

■会社人から社会人への、次の生き方(2014年3月5日)
勤務していた会社を辞めてからまもなく満25年です。
私が会社を辞めた経緯は、ある雑誌に書いた記事に書いてありますが、会社勤務が四半世紀になるのを機に、会社人から社会人へと生き方を変えるためでした。

人生80年とすれば、多くの人の人生には3つの四半世紀(25年間)があります。
私の場合、人生の第1期、つまり最初の四半世紀は、大学を卒業するまでの22年間と少し短かったですが、「社会に育てられる生き方」でした。
そして、第2期の25年間は、東レという会社で仕事をさせてもらいました。
つまり、「会社人として」生きていたわけです。
東レという会社の自由闊達な文化に支えられて、とても楽しい25年間でした。
そして、25年間が終わった翌日に会社を退社し、それまでとは違った「社会人」としての第3期の生き方を選びました。
翌日参加したのが、地元で起こっていた住民活動の集まりでした。
会社にいた頃とは全く違った世界は、実に刺激的でしたが、今月末で、その第3期が完了するのです。

第2期から第3期への以降の体験(全くの準備なしで苦労しました)を踏まえて、第3期が15年ほど過ぎたところで、少し生き方を見直し、もしかしたら「あるであろう」第4期の生き方の準備を始めようと思って行動を起こしだした矢先に、妻の進行性胃がんが発見されました。
その時点で、私の生き方は大きく変わってしまいましたが、「社会人」として生きる基本は、かろうじて継続できました。
友人知人に支えられたおかげです。
そして、このみんなに支えられることそのものが、私が目指した「社会人の生き方」でした。
しかし、その第3期も間もなく終わります。
さてどうするか。

一番簡単なのは、自分の世界に埋没することです。
幸いに自宅があり、年金を毎月15万円もらっていますので、付き合いを最小限にし、活動をやめれば、生活はできるでしょう。
病気になったら、素直にそれに従えば、医療費もさほどかからないでしょう。
しかし、たぶんそういうことにはならないでしょう。
妻がいなくなったことが、その大きな理由ですが、世界が見えてくると、そう簡単には自分の世界に引きこもるわけにはいかなくなります。
もう少し考えたいと思っています。

ちなみに、私の寿命に関しては、2つの説があります。
20年ほど前にある占い師が93歳と占ってくれました。
しかし、わが家の10年ルールだとあと3年半です。
さて、どちらが正しいでしょうか。
後者だとしたら、長い第3四半期になって、第4四半期は私にはないかもしれません。

■会社で働く人の自殺の問題を考える話し合いのご案内(2014年3月6日)
先日予告した、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドセッションの第1回目の案内です。
さまざまな形での自殺防止対策の取り組みによって、日本での自殺者はようやく減少に向かいだしていますが、いまだ毎年3万人近い人が自殺しているという状況は大きくは変わってはいません。
企業においても、働く人たちのメンタルヘルスが大きな問題になってきており、自殺の問題も無視できない経営課題になってきています。
問題が問題だけに、正面から議論するのは難しい面がありますが、まずは一度、問題意識を持っている人たちで、問題を共有化し、働く人が自殺に追い込まれるのはどういう時なのか、またそれを思いとどまる契機は何なのかなどを、オフレコで話し合う集まりを企画しました。
できれば、継続的な話し合いの場につなげていければと思っています。
企業の人たちに声をかけましたが、「自殺」というテーマに腰が引けてしまうようで、なかなか参加者が集まりません。
私の予想では、定員をオーバーするだろうと思っていたのですが、やはりまだテーマとしては早すぎるのかもしれません。
しかし、だからこそ開催しなければいけないという思いを強めています。
まだ予定の定員に5人ほど足りません。
ご関心のある環境他の参加をぜひお願いします。
テーマは重いですが、気持ちの良いカジュアルな集まりを目指していますので。。

○テーマ:「生き生きと働ける職場を実現するー働く人が自殺に追い込まれないように」
自殺というテーマは重く、ともすれば後ろ向きの話にもなりかねませんが、そこからむしろ、みんなが元気に、生き生きと働ける職場のあり方などを議論できればと思います。
○進め方(目安)
最初に、長年、こうした問題に取り組んでいる鰍dパートナー代表佐久間万夫さんから問題提起していただき、後は参加者による話し合いです。。
○日時
  2014年3月12日午後6時半〜9時
○場所
  山城経営研究所5階会議室(東京都千代田区飯田橋4-8-4)
   http://kae-yamashiro.co.jp/outline/access.html#gnavi
○参加費
  1000円(軽食を用意します)
○主催:
  ネットワーク・ささえあい「ラウンドセッション実行委員会」
   (事務局:コミュニティケア活動支援センター 佐藤修)
○申込先
  所属とお名前を次のところにご連絡ください。
   comcare@nifty.com

よろしくお願いいたします。

■子どもたちをうまく育てられなくなっている(2014年3月7日)
私の住んでいる我孫子市の隣の柏市で、通り魔的な悲惨な事件が起こりました。
20代の若者が、通りがかりの4人の人に次々と危害を与え、そのうちの一人は生命を失いました。
現場のすぐそばに住んでいる若者が犯人でした。
犯人は、どうも子どもの頃から問題を起こしていたようです。

こういう事件が起こると、どうしても加害者の親のことを思ってしまいます。
もちろん親に第一の責任があると思いますが、そうはいっても、親の衝撃はいかばかりかと思うと心痛みます。
もちろん殺害された人の親の心情は、それ以上でしょう。
なにしろ何の理由もなく、突然、愛する子どもを失うのですから、これもまた耐えられないことでしょう。
いずれの両親も、おそらく人生を失うほどの影響を受けることは間違いありません。

しかし、私にはもう一つ気になったことがあります。
犯人が子どもの頃書いた学校の文集に、大きくなったら「人のために生きたい」と書いてあったということです。
そう思ったことがある子どもが、こういう事件を起こしてしまった。
そこになんとも「やりきれなさ」を感じます。

私たちの社会は、子どもたちをうまく育てられなくなっているのでしょうか。
今回の事件の犯人は、いささか特殊の例かもしれませんが、こうした事件の犯人が、良い子どもだったと報道されることは少なくありません。
子どもはみんな「良い子」なんだろうと私は思いますので、それは当然のことと言ってもいいでしょう。
しかし、その子どもたちが、うまく育っていけないとしたら、やはりこの社会は壊れています。
そして、私たち、つまり私の生き方は、どこか間違っている。

しかも、犯人は「社会に復讐する」と言っているそうです。
24歳の若者が、復讐したくなる社会って、一体何なのでしょうか。
私には、異常な若者の、異常な感情と片づける気にはなれません。

この事件も、特殊な事件と片付けることなく、自らの生き方を問い直す契機にしなければいけないと思っています。
だからこそ、とてもやりきれない事件で、気が滅入ります。

■手賀沼終末処理場(2014年3月7日)
前の記事に続いて、もうひとつ、私の住んでいる地域で起こっている話を書きます。
昨日の朝日新聞の夕刊の1面は、いずれも私の住んでいる地域に関連した話題でした。
一つは、柏の連続殺傷事件の犯人逮捕ですが、トップ記事は、「行き場失う汚染ごみ」という見出しで、首都圏で発生した放射能汚染廃棄物の最終処分場が決まらないために、一時的な置き場からの撤去を求める住民訴訟が起こっているという話です。

私が住んでいる我孫子市を含む千葉県北西地域は、いわゆるホットスポットで、汚染されたごみの焼却によって出される高レベルの焼却灰問題がどんどんたまっています。国による最終処分場が決まるまで、我孫子市と印西市の境にある「手賀沼終末処理場」に「高レベル焼却灰の一時保管」ができ、一昨年末から搬入が始まりました。
我孫子市でも反対運動が起こっています。

これに関して、私は複雑な思いを持っています。
搬入を拒む運動もあり、私の知人も参加していますが、私は参加する気にはなれません。
これまで原発の恩恵を受けていたことを忘れるわけにはいかないからです。
事故が起こってから大騒ぎするのであれば、最初から原発に反対しておくべきだったのです。
以前も書きましたが、原発事故が起きた以上は、その被害は極力避ける努力はすべきですが、受け容れる責務もあると思うのです。

従容として受け入れることも、時に必要だと思っています。
私たちは、もはや被曝からは逃げられないのですから。
それがいやなら、反原発のデモに行くにがいいでしょう。
アベノミクスに踊らされるのもやめたほうがいい。
人はそんなに都合よく、良いとこどりはできないのです。

この記事は前の記事につながっています。
念のため。

■自殺する権利と生きる責任(2014年3月8日)
このブログでも書きましたが、12日に「会社で働く人の自殺」をテーマに、話し合いの場を持ちます。
その準備会を4回ほど開催していますが、私自身はそういう準備会でたくさんのことを気づかせてもらっています。
先週も開催しましたが、そこで「自殺する権利」が話題になりました。
これは時々話題になる話です。

私はこの5年ほど、自殺のない社会づくりネットワークの事務局を引き受けていますが、自殺防止よりも、自殺に追い込まれる人がいるような社会のあり方や私たちの生き方に関心があります。
ですから、自殺する権利に関しても、否定する気にはなれません。
しかし、自殺することで、周りにいるどれほどの人が影響を受けるかを考えれば、「生きる責任」の方が優先するのではないかと思っています。

今日、知り合いの若い僧侶からメールが来ました。
そこにこんな文章がありました。

私は自殺者の死に顔を数えきれないほど見ていますが、多くは、ホッとしたような、今までの苦しみから解放されたような顔を結構、多く見てきました。
その顔を見ていると、自殺が必ずしも悪とは言い切れなくなってきました。

この言葉は実に説得力があります。
今月は毎年、自殺防止月間なので、各地で自殺対策のイベントが開催されています。
講演会も多いのですが、私はそうしたものに違和感を持っています。
その違和感から、講演会ではなく、参加した人が自分の問題として話し合う場を毎年開いてきましたが、なかなか実行していく仲間が増えません。
「自殺」ということを、当事者として考えることは、それなりに重いからかもしれません。

メールをくれた僧侶は、こうつづけています。

人はひとりで生きているのではなく、様々な関係の中で生きていると言われますが、それは万人に通用する言葉ではなくなってきていることを痛感しています。
(中略)
そして、私たち一般人が死をタブー視する限り、死は隠蔽され続けます。死から学ぶという観点が、今の時代に欠けている点も無視出来ません。
高齢化社会がますます進む現代。今を生きる日本人の死生観そのものが問われて
いると、私は思っています。

全く同感です。
自死遺族の友人は、自死ということがもっと抵抗なく話し合える社会にしたいと活動していますが、彼女の思いも通じています。
12日の集まりが、会社の中で、「自殺問題」が隠されることなく、話せる状況への一歩になればと思っています。

なお、この僧侶の方にも参加していただく、ラウンドセッションを3月22日に予定しています。
近々、このブログでもご案内しますので、よかったら参加してください。

また、彼からのメールに、次のブログの紹介がありました。
彼の知人が、友人が(大学時代に)自殺したことについて書いたブログです。
最後の数行に涙が出ました。
http://apartment-home.net/column/201206-201207/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

■3.11と3.14(2014年3月11日)
3年目の3.11です。
当然のことですが、3.11といえば、東日本大震災であり、地震と津波によりたくさんの人が人生を大きく変えてしまった日です。
いまだ避難者が26万人もいて、しかも現地の仮設住宅でも10万人を超える人たちが生活されています。
3年間の仮設住宅暮らしで、病気を悪化させた人も多いでしょう。
復興は、なかなか進んでいないようです。
被災された方々の無念さに心が痛みます。

それを踏まえての、私の違和感です。
大きくは2つあります。

ひとつは、被災者の語りや暮らし、現地でのさまざまなイベントの報道に対する違和感です。
どうしても私にはピンと来ないのです。
被災者のお話は見ていて辛くなるほど悲しいし、心にも響くのですが、いつもどこかに違和感があります。
具体的に書くと誤解されそうなので、今回は控えます。
読んだ人に不快感を与えかねませんし、たぶんたくさんのお叱りを受けるだろうからです。
この問題に関しては、私自身、非難に耐えられる自信がありません。
それに、ともかく辛い話ばかりで、それ自身に違和感があるわけではないからです。
私の違和感は、あくまでも「報道姿勢」です。
ついでに非難されるのを覚悟で言えば、各地での追悼イベントにも大きな違和感があります。
もちろん追悼はとても大事なことで、私も今朝、ささやかに心を込めて、思いを馳せました。

ふたつ目の違和感は、津波の被災者のわかりやすさのせいか、福島原発事故の被災者が見えにくくなっていることです。
隠されているとは言いませんが、原発事故のその後や被曝の報道が少ないのが気になります。
今朝の朝日新聞も、ほとんどが津波被災の話です。
福島のことはほとんどでていません。
唯一の救いは、『東北を「植民地」にするな』と題した、東北復興取材センター長の坪井ゆずるさんのメッセージです。
記名によるこのメッセージは、報道姿勢への自分への怒りも含意されているように感じました。
多くの人に読んでほしいメッセージです。
福島における原発事故被災の報道は少ないだけでなく、全体像が見えにくいです。
その背後に、どうしても私は「意図」を感じてしまいます。

そもそも地震や津波と原発事故は、全く異質なものです。
3.11の中には、そのいずれもが入るのでしょうか。
入れてしまえば、見えやすく報道しやすい津波被災の背後に、福島原発事故が隠されてしまいかねません。
それが私には気になります。
福島原発3号機の爆発が14日でしたが、3.11とは別に3.14を私たちはもっと意識すべきではないかと思います。
14日の爆発は水素爆発ではなくて、核爆発だったという意見もあります。
しかし、そうしたことをきちんと調べることも、事実情報を開示することもなく、3.14は忘れられようとしています。
東日本大震災の自然災害が、原発事故という人災を覆い隠すことが恐ろしいです。

原発とは何なのか、福島の被災者たちの声こそ報道すべきです。
そして、自分の生き方を問いただすことです。
それが伴わない追悼には、私は全く興味をもてません。
追悼とは、過去のためのものではありません。
現在の生き方を問うとともに、未来の子どもたちへの責任も果たしたいと思います。

■組織にとって働く人の自殺問題をどう捉えるか(2014年3月14日)
このブログでも案内を書きましたが、一昨日、「生き生きと働ける職場を実現する−組織で働く人の自殺を考える−」というテーマのラウンドテーブルミーティングを行いました。
これは、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドセッション の第1回目です。
会社の役員の方も含めて、24人が集まりました。

この連続セッションには、私なりの思い入れがあります。
3月は全国的に、自殺予防月間です。
各地で自殺対策に関連したイベントが開催されています。
私も数年前から、仲間と一緒に「自殺のない社会づくりネットワーク」というのを立ちあげて活動してきていますが、毎年3月に公開フォーラムを開催してきました。
毎回、それなりの思いを込めて、単発的なイベントとは違う、参加者が話し合い、そこから新しい動きが始まるものになるように心がけてきました。
実際に、そこから小さな動きもいくつか出てきています。
毎月の集まりも始まって、もう4年以上続いています。
しかしどこかで何かが違うなという思いがありました。
そこで、今年から少人数で話し合う連続セッションを始めることにしました。
幸いに賛成してくれる人が手を上げてくれて、ゆるやかな実行委員会ができました。

その第1回目のセッションのテーマを「会社で働く人の自殺」にしました。
これは私がずっと前から気になっていたテーマだからです。
これまでも企業の経営幹部の人と、この話をしたことが何回かあります。
私との信頼関係がある人でも、私が切り出すと、一瞬、考えてから、話しだします。
それも、佐藤さんだから話すけれど・・・・というのがほとんどでした。
私自身は、メンバーが自殺にまで追い込まれるような状況がある組織には、何か大きな問題があるはずだと思っています。
どんなに業績が上がっていようとも、どんなに競技に勝ち続けていようとも、どこかでダメになると思っています。
仮にダメにならないとしても、成員が自殺に追い込まれるような組織は、私は肯定できません。
「自殺」とはきわめて刺激的な話題ですが、そこから組織が考えなければならない本質的な問題が見えてくるはずです。
しかし、当の企業の経営者たちは、自殺は恥ずべき不祥事で蓋をしたいと思っているようです。
しかし、不祥事に蓋をしていても、何の解決にもなりません。

当日、話し合いの途中で、組織における自殺問題の捉え方として、2つの視点を話させてもらいました。
A:自殺を経営にとってのマイナス(コスト要因)と捉え 隠蔽し、再発防止に努める。
B:自殺に追いやられた状況を把握し、生き生きと働ける組織にしていくことを考える。
残念ながらほとんどの企業はAの視点で「自殺問題」を考えているのでしょう。
これは、メンタルヘルへの企業の取り組み姿勢にも通じています。

私は、経営道フォーラムという企業の経営幹部の研修プログラムに長年、アドバイザー役で関わらせてもらっています。
私が担当しているのは「企業理念・経営理念」と「企業文化」の2つです。
そのいずれにとっても、「自殺問題」は本質的な問題を突きつけています。
しかし、なかなかそれを理解してくれる人はいません。
今回、このセッションで、ようやくそういう話し合いの端緒が開けたような気がします。

セッションの内容を書くつもりが、そこまでいきませんでした。
項を改めて、書くことにします。

■STAP細胞論文の査読は誰がやったのか(2014年3月15日)
つい数か月前に、世界を驚嘆させたSTAP細胞論文が、その真偽が問われだしています。
論文を撤回することになりそうです。
このSTAP細胞の登場は、あまりに突然だったのと主役が無名の若い女性だったこともあり、私はとても感動しました。
とりわけ「常識の呪縛」を克服したことに、わが意を得たりと思ったところでした。
ところが、その論文の内容のずさんさが、今は指摘されています。
世界的に権威がある科学誌「ネイチャー」の掲載記事だということに、私自身が「常識の呪縛」に捉われていたことを反省しなければいけません。
前に書いたブログ記事も考え直さなければいけません。

「ネイチャー」への論文掲載は、かなり厳しい査読を経ていると思っていました。
論文でない論考などは、査読の対象ではないでしょうが、論文は査読をかいくぐってきたはずです。
なぜこんな「ずさんな論文」が、それをすり抜けたのか、いろんなところで制度が壊れだしていることのひとつの事例かもしれません。
それで思い出すのが、クライメートゲート事件です。
以前、「一酸化炭素地球温暖説」に関連して、言及したことがありますが、
この事件は二酸化炭素による地球温暖化という世界的な痛切の欺瞞性を暴いた事件です。

2009年、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の技術者たちの電子メールのやりとりが流出したのですが、そこに気候温暖化を捏造していることを疑わせる内容が示されていたのです。
これにより地球温暖化に関する議論の信頼性が否定され、二酸化炭素地球温暖化説はほぼ否定されたのです。
日本では、相変わらず、二酸化炭素地球温暖化説が主流になっていますので、その背後にある資本家や政治家(たとえば『不都合な真実』で有名になったゴアはこの主張で巨額な利益を得たといわれています)にとっては、今もって「良い市場」になっています。
この事件に関しては、フェイスブックで一度書きましたが、化学同人が出している雑誌「化学」の2010年の3月号と5月号に、東大教授の渡辺正さんが詳しく解説しています。
関心のある人はぜひお読み下さい。
学会の論文がどのように利用されているかが垣間見えてきます。

その論考にも書かれていますが、最近の学会の査読制度は、かなり偏ったものになっているようです。
ある論文に関して、広く査読でチェックするというよりも、その学会にとって好都合な、論文賛成者で査読してしまうような動きが出ていて、実際にさまざまな不祥事まで起こっているようです。
現在のように、学会がどんどん小別れしてしまう状況では、それがとてもやりやすくなっているわけです。
いささか極端に言えば、いまや学会は金儲け主義者に私物化される危険に直面しているということです。
いや、自然科学そのものが、そうなりだしているのかもしれません。
原子力ムラは、そのひとつでしかありません。

科学技術者の倫理の問題には私も以前から関心があり、何回かそうしたテーマの集まりやサロンも開催していました。
そうした動きを日本で広げてきた杉本泰治さんは、NPO法人科学技術倫理フォーラムを立ち上げています。
私も、そのNPOの理事でもあるのですが、3.11の後、とても無力感を感じています。
それを今回また、思い知らされました。

ちなみに、小保方さんは被害者ではないかと思っていますが。
きちんとした査読が行われていたら、こうはならなかったはずです。
とても残念です。

■エスカレーターの片側をあける文化(2014年3月16日)
先日、大阪に行った時に気づいたことがあります。
地下鉄駅のエスカレーターを歩く人が少なくなっていました。
今回、大阪にはあるNPO関係者の集まりに出るのが目的だったのですが、その事務局をやっている人が、以前、大阪の地下鉄の駅をすべて生活者の目でチェックするという活動に取り組んでいたグループの代表なのです。
そのプロジェクトは大きな話題になり、地下鉄側も誠実に対応してくれたようです。
私がそのグループと付き合いだしたのは、そのプロジェクトがほぼ終わる段階でした。
今は3代目の代表ですが、ささやかにずっとお付き合いがあります。
地下鉄の話は、その後、聞いてはいなかったのですが、当時のメンバーの一人の酒井さんが、今はエスカレーターの片側をあける習慣をやめる運動を起こしたいといっているようです。

エスカレーターの片側をあけるのは、大阪の万博から始まったそうです。
その当時は、急ぐ人のために、片側を開けましょうと働きかけていたそうです。
それですっかり定着してしまったわけです。
しかし、今は流れは逆になっています。
片側だけに乗ることで重力の負荷が偏り、故障の原因にもなりますし、事故も起きやすい。
それで最近はむしろ両側に乗ったほうが良いという意見が強まっているようです。

そんな話を聞いて、地下鉄に乗ったら、駅内放送で、エスカレーターでは歩かないでくださいと数か所で放送していました。
そういえば、東京でもそんな放送を聞いたような気がします。

この話は、社会の状況を象徴しています。
かき分けてでも先を急いだ時代から、ゆっくりと並んで動きに身を任す時代へ。
高度成長期の社会と成熟した高齢社会との違いを実感させます。

私は数年前にエスカレーターを歩くのはやめようと決意したのですが、気がついてみると、いまも時々歩いてしまっています。
気を付けようと思います。
歩いたところで、数秒の違いなのですから。
時代に合わせて、変えなければいけない生きたもあります。

■組織にとって働く人の自殺問題をどう捉えるか(2014年3月14日)
このブログでも案内を書きましたが、一昨日、「生き生きと働ける職場を実現する−組織で働く人の自殺を考える−」というテーマのラウンドテーブルミーティングを行いました。
これは、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドセッション の第1回目です。
会社の役員の方も含めて、24人が集まりました。

この連続セッションには、私なりの思い入れがあります。
3月は全国的に、自殺予防月間です。
各地で自殺対策に関連したイベントが開催されています。
私も数年前から、仲間と一緒に「自殺のない社会づくりネットワーク」というのを立ちあげて活動してきていますが、毎年3月に公開フォーラムを開催してきました。
毎回、それなりの思いを込めて、単発的なイベントとは違う、参加者が話し合い、そこから新しい動きが始まるものになるように心がけてきました。
実際に、そこから小さな動きもいくつか出てきています。
毎月の集まりも始まって、もう4年以上続いています。
しかしどこかで何かが違うなという思いがありました。
そこで、今年から少人数で話し合う連続セッションを始めることにしました。
幸いに賛成してくれる人が手を上げてくれて、ゆるやかな実行委員会ができました。

その第1回目のセッションのテーマを「会社で働く人の自殺」にしました。
これは私がずっと前から気になっていたテーマだからです。
これまでも企業の経営幹部の人と、この話をしたことが何回かあります。
私との信頼関係がある人でも、私が切り出すと、一瞬、考えてから、話しだします。
それも、佐藤さんだから話すけれど・・・・というのがほとんどでした。
私自身は、メンバーが自殺にまで追い込まれるような状況がある組織には、何か大きな問題があるはずだと思っています。
どんなに業績が上がっていようとも、どんなに競技に勝ち続けていようとも、どこかでダメになると思っています。
仮にダメにならないとしても、成員が自殺に追い込まれるような組織は、私は肯定できません。
「自殺」とはきわめて刺激的な話題ですが、そこから組織が考えなければならない本質的な問題が見えてくるはずです。
しかし、当の企業の経営者たちは、自殺は恥ずべき不祥事で蓋をしたいと思っているようです。
しかし、不祥事に蓋をしていても、何の解決にもなりません。

当日、話し合いの途中で、組織における自殺問題の捉え方として、2つの視点を話させてもらいました。
A:自殺を経営にとってのマイナス(コスト要因)と捉え 隠蔽し、再発防止に努める。
B:自殺に追いやられた状況を把握し、生き生きと働ける組織にしていくことを考える。
残念ながらほとんどの企業はAの視点で「自殺問題」を考えているのでしょう。
これは、メンタルヘルへの企業の取り組み姿勢にも通じています。

私は、経営道フォーラムという企業の経営幹部の研修プログラムに長年、アドバイザー役で関わらせてもらっています。
私が担当しているのは「企業理念・経営理念」と「企業文化」の2つです。
そのいずれにとっても、「自殺問題」は本質的な問題を突きつけています。
しかし、なかなかそれを理解してくれる人はいません。
今回、このセッションで、ようやくそういう話し合いの端緒が開けたような気がします。

セッションの内容を書くつもりが、そこまでいきませんでした。
項を改めて、書くことにします。

■統計上でさえ3万人前後の自殺者がでる社会(2014年3月16日)
12日の「組織で働く人の自殺を考える」ラウンドテーブルミーティングの続きです。

私自身の関心は、自殺防止というよりも、自殺に追い込まれてしまう人が、毎年、統計上でも3万人前後いるという社会のあり方やそうした社会をつくっている私たちの生き方にあります。
発表される統計では、自殺者の数は減少してきていますが、実態はそう変わっていないどころか、むしろ深刻化しているような気もします。
自殺だけが問題ではなく、「自殺に追い込まれるような状況」こそが問題なのです。
そこを間違うと問題が摩り替えられるだけに終わりかねません。

今回、従業員支援プログラム(ESP)を企業と契約して、従業員のメンタルサポートや自殺防止に取り組んでいる会社の代表の佐久間さんに問題提起してもらいました。
ESPは契約した企業の従業員であれば、会社には全く知られることなく、直接に契約会社の用意するカウンセラーにすべての問題の相談に乗ってもらえます。
仕事の話だけではなく、家族の相談ももちろん大丈夫です。
相談場所も従業員が指定できるそうです。
佐久間さんによれば、相談してきた人の自殺はこれまで皆無だそうですが、契約している会社でも従業員が自発的に相談してきてくれなければ対応できません。
ところが日本の企業の場合、米国などと違い、従業員の相談率が低いのだそうです。
5%未満のようです。
その理由は、もし相談したら会社に伝わるのではないかという心配があるからではないかと、佐久間さんは言います。
もちろん佐久間さんの会社ではそれは絶対ありえませんが、日本の場合、従業員は会社を信頼していないのかもしれません。
実にさびしい話です。

自殺を図った場合、家族から「自殺」という事実は隠してほしいといわれることも多いという話はよく聞きます。
日本では、「自殺」はまだ「事故死」とは違って、「不名誉なこと」なのです。
しかし、好き好んで自殺する人はほとんどいないはずです。
追い詰められて、自殺してしまうとしたら、個人の問題ではなく社会の問題です。
問われるべきは個人ではないでしょう。
問題の設定を間違えてはいけません。

統計上でさえ3万人前後の自殺者がでる社会。
それどう考えてもおかしい社会だと私は思っています。
そして、その社会をつくっている私たち一人ひとりが考えなければいけないことだと思います。
そこから、私たちにとって、気持ちよく暮らせる社会のあり方が、見えてくるかもしれません。
多くの人が多くの時間を費やす会社でも、できることはたくさんあるはずです、

■ネット社会のもろさを実感しました(2014年3月17日)
山梨市主催の上野千鶴子さんの講演会が、一部の人の抗議を理由に、中止になっていましたが、上野さんの逆抗議もあって、一転、開催されることになったそうです。
新聞でも話題になっていますので、ご存知の方も多いと思いますが、これは実に気になるニュースでしたので、ホッとしました。
上野さんがどうのこうのということではなく、一部の反対で、予定されていたことが中止されるような動きには、恐ろしさを感ずるからです。
そんないい加減な講演会は、最初から企画すべきではありません。

学校でも、一部の特殊な人の理不尽とも思える強い反対で、行事がなかなかうまく行なえないという話もよく聞きます。
私も、自治会の会長を引き受けていた時に、近くの小学校の集まりに参加して、先生たちがとても萎縮していた印象があります。

主催側は、そうした一部の反対に屈することなく、自らのビジョンと信念に基づき、覚悟を持って初志貫徹してほしいものです。
もちろん、一部の人の反対でも、それが納得できるものであればいいのですが、今回の山梨市の事例では、上野さんが問題視すると再開に戻ってしまうというのは、いかにもいただけません。

といいながらも、必ずしも、初志貫徹することは難しいこともあります。
実は、たまたま今日、同じようなことを身近に体験しています。
私自身のことではないので、詳しくは書けませんが、ある人の活動に対して、活動を止めろというメールが何通も届きました。
相手は一人ですが、かなり感情的なメールです。
おそらく最初はちょっとした行き違いだったのでしょうが、ネットの時代は、そうしたちょっとした行き違いが増幅されたり、ツイッターなどで後半に拡散されたりしやすいですから、あっという間に元に戻れなくなりかねないのです。
しかも、ストーカー殺人事件にみるように、いとも簡単に、殺傷事件にまでいきやすいのが現代です。
メールの非難は、受ける方にとっては、過剰に傷つき、時に恐怖感を生み出すものです。
大丈夫だよ、などとは、誰にもいえない時代なのです。

今朝、ある人から、予定していたフォーラムに参加できないと連絡がありました。
たくさんの非難メールが連日届くだけで、おかしくなりかねません。
そのため、彼は、予定していたフォーラムに参加できないと連絡してきたのです。
彼はそのフォーラムをとても楽しみにしていたのですが。
それどころか、活動をやめたいとまで言うのです。
彼の活動が広がりだしているので、とても残念ですが、彼の心配も無視できません。
さてどうするか。

情報社会は、一人の思いや志が、社会を変えていける時代でもありますが、逆に、たった一人の異常な言動が、大きな流れを止めてしまうことがある時代です。
情報社会をどう生きるかは、実に悩ましい問題です。

■ベビーシッター事件で思うこと(2014年3月19日)
ベビーシッターに預けた子どもが死亡するという、痛ましい事件が起きました。
これに伴い、いろんな指摘がでています。
それぞれがもっともな意見です。
ただ私が思うのは、ただひとつです。

乳幼児を見ず知らずの人にお金と引き替えに預けなければいけないような社会は、おかしい。

念のためにいえば、今回、子どもを預けた母親を非難しているのではありません。
彼女にそうさせてしまった社会のあり方や私たちの生き方に疑問を呈しているのです。
そのおかしさが問われださなければ、結局は何も変わらないのではないかという気がしてなりません。

不都合な状況(社会問題)が生まれたら、それを解決するビジネスが生まれます。
それがコミュニティビジネスとかソーシャルビジネスといわれることもあります。
たしかに、困っている人の救いになるでしょう。
しかし、それでいいのでしょうか。

近代における産業のコンセプトは、問題解決です。
それは当初、大きな効果を発揮しました。
しかし、だんだんと行き過ぎてきたような気がします。
問題解決を基本とするビジネスは、持続可能です。
常に新しい問題を生み出せばいいからです。
そこで、市場創造とか顧客創造が経営のポイントになりました。
でも、それはどう考えてもおかしい。
創造すべきは、顧客や市場ではなく、価値でしょう。
私は、それを「産業のジレンマ」と呼びました。
問題解決するべきビジネスが、どこかで問題創出へと向いかねないのです。

そうした背景の中で、乳幼児を預けてまで金銭収入のための仕事をしなければいけない人が増えています。
彼女たちを働かせて金銭的な利益を得ている人たちがいるのです。
子育て支援のための制度や施設を整備してほしいと、多くの母親たちは言います。
そこにも大きな違和感があります。
子どもにとって、一番大切な子育て支援は、親たちが子どもと一緒にいられる状況づくりだろうと思うのです。
そして、それはその気になれば、お金もかけずにできることかもしれません。
私たちの生き方を変えればいいだけですから。
もちろん、すぐにというわけではありません。
地域社会を壊し家族を壊してきた文化を変えるためには、30年はかかるでしょう。
しかし、30年などはあっという間です。

今月から、「自殺に追い込まれることのない社会」を目指して話し合う連続セッションを始めました。
これもこうした考えからです。
問題は、自殺そのものにあるのではなく、自殺までしてしまうような状況に人を追い込む社会のあり方です。

さまざまな事件が起こりますが、それらの多くは、社会のあり方、つまり私たちの生き方に起因しています。
どこかで大きく考え方の基本にある基準を問い直す時期に来ているように思います。

今度の土曜日の22日に、家族関係や人間関係の破綻を切り口に、自殺に追い込まれることのない社会をテーマに話し合う場を持ちます。
よかったら参加してください。
まだ数人、余裕があります。

■今度はみんなの党つぶしでしょうか(2014年3月27日)
みんなの党の渡辺さんが資金問題で窮地に立たされています。
次々といろんな人がこうした問題で糾弾される風潮が、私にはやり切れません。
まるで、だれかに「狙い撃ち」されているようなのも、気になります。

いつも不思議なのは、話題になる人が、微妙に権力の中枢から外れていることです。
そして権力の中枢を危うくしているほどに力を持ち出すと、頃合を見計らったように『狙い撃ち』が始まります。
ある役割を終えると消されるのでしょうか。
どうもそんなことを考えてしまうほど、見事です。

その一方で、権力の中枢にいる人は見逃されます。
権力の腐敗を暴く人たちも、大きくは権力維持のための装置の一員でしかないとしたら、それは当然のことですが、それにしてもなにやら割り切れないことが多いです。
アメリカの映画を観すぎているからでしょうか。

今回は8億円が問題になっていますが、もっと巨額なお金がオリンピックや原発や東北復興で不明朗に使われているのではないか。
そんな気がしてなりません。
渡辺さんを弁護する気はありませんが、私にはどうでもいいような瑣末な話です。
田中将大さんの年収の方が、私には大きな違和感があります。
そう思うのは、やはりおかしいでしょうか。

政治とお金の問題は重要な問題だとは思いますが、こういう事が頻発すると、とても嫌な気分になります。

■「一つの見方」に方向付けられてしまうとなかなか抜け出せない(2014年3月27日)

いつの間にか「一つの見方」や「一つの考え方」に方向付けられてしまうと、そこからなかなか抜け出せない(マスコミは、そのことに大きな責任がありますが)。

最近、読んだ品川正治さんの「激突の時代」に出てくる文章です。
とりわけ同質性の高い日本の場合は、一つの見方が継続されやすいように思います。

その一つの例が、前にも書いた二酸化炭素地球温暖化説だろうと思います。
先日、発表されたIPCC報告書に関して、日本のマスコミの報道姿勢は変わっていません。
さすがにNHKのニュースには出てきませんでしたが、某民放では北極の氷が崩れ落ちる映像が相変わらず流れていました。
二酸化炭素地球温暖化説が、どれほど経済市場(一部の人への金銭利益)を生み出したかを考えると、腹立たしくなりますが、今もってなお日本のマスコミは姿勢を変えていないようです。

二酸化炭素地球温暖化説が正しいかどうかは確証がありません。
IPCCの主張は、あくまでも「一つの見方」です。
しかし、それを否定する事実の報道が少ないのが気になっています。
IPCCの報告書の内容も、修正が繰り返されています。
それもあまり報道されていないため、いまも太平洋上の小さな小国が水没の危機にあると思っている人も多いでしょう。

二酸化炭素地球温暖化説に否定的な2冊の本を紹介したいと思います。
まずは赤祖父俊一さんの『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社 2008)です。
その本の要旨は次の2点です。

@ 現在進行中の温暖化の大部分(約6分の5)は地球の自然変動(現在は小氷河期からの回復期)によるものであり、人類活動により放出された炭酸ガスの温室効果によるのはわずか約6分の1程度である可能性が高い。
A 地球で炭酸ガスが急激に増加し始めたのは1946年頃だが、温暖化は1800年前後から現在まで連続的に進行している。
B 地球温暖化対策は、原因の種類によって異なるはずである。自然変動の部分が大きいので、対策は自然変動に順応することを第一とすべきである。

もう一人、クライメートゲート事件を日本に詳しく紹介してくれた渡辺正さんの『「地球温暖化」神話』(丸善出版 2012)には、こんな記述(一部表現を変更)があります。

・ 京都議定書以来、2010年度までの7年間で、ほぼ20兆円が、「二酸化炭素排出を減らすため」に使われました。そのうち3〜4兆円くらいは、研究や技術開発をする人々が受けとりました。いまも省庁は競うように研究を公募します。
・ 20兆円とは、どれほどのお金なのか? 東日本大震災の被害総額は約17兆円でした。
・ しかし、その20兆円は、CO2排出を減らした形跡はありません。

渡辺さんの本にはこんなことも書かれています。

人々は「温暖」という言葉をプラスのイメージで使ってきた。けれど1980年代のいつか誰かが、温暖は「悪いこと」だといい始めた。

一つの見方に呪縛されると世界の見え方が変わってくるようです。

冒頭に引用した文章につづけて、品川さんはこう書いています。
全く同感です。

「人の立場」、「人が生活する立場」、つまり、「人間の眼」で見る・考えることに徹すれば、人間社会に調和した「解答」に達するでしょう。

品川さんの言葉に共感します。

■袴田事件の奥にあるもの(2014年3月28日)
袴田事件の再審が決定しました。
それに関して2つのことを思いました。

まず心に響いたのが、拘置停止を決行した村山裁判長が話した、「これ以上拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」という言葉です。
村山さんは、職権で拘置を続けるようとした地裁の動きを阻止しました。
日本の裁判所への信頼を失って久しい私には、とても感動的な言動でした。
その一方で、地裁や検察の反応には、昨日書いた「一つの見方の呪縛」を感じます。

もうひとつ強く感じたのは、マスコミの白々しさです。
報道ステーションの古館さんも神妙な表情で話していましたが、自分たちの役割を放棄しておいて、なにをいまさら白々しくという思いがどうしても捨てられません。
ほとんどすべてのコメンテーターやキャスターにも、同じ思いを持っています。
再審が決定されたから、袴田被告を袴田さんと呼ぶことにしたというマスコミの姿勢も、とても嫌な気がしますが、彼らの権力依存に吐き気がします。

もし本当に、袴田さんの冤罪を信ずるのであれば、同じような冤罪に苦しむ人たちを徹底的に調査すべきでしょう。
マスコミには、その能力があるのですから。
権力が冤罪だとほぼ認めたことだけを取り上げてほしくはありません。

マスコミが、そうしたことを全くやってきていないというわけではありません。
さまざまな番組で、これまでもかなりとりあげられてきています。
しかし、ニュースとして採りあげるのではなく、構造として採りあげなければ、事態は変わりません。
それはたぶんテレビ局や新聞社でも1社では難しいでしょう。
コメンテーター一人では難しいかもしれません。
社会運動を起こしていく必要があるかもしれません。
袴田事件の奥にあるものこそが、問題なのです。
そうしてこそ初めて、「耐え難いほど正義に反する」ことが起きないような社会が生まれていくはずです。
今回のことを、週刊誌ネタで終わらせないようにしないといけません。
少なくとも、いつか自分にも「耐え難いほど正義に反する」ことがおそってくるかもしれないという当事者意識を持ちたいと思います。

日本の司法改革は、まずはこうしたことから取り組むべきでした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/01/post_ec03.html
それがない制度改革は、むしろ問題の本質を見えなくさせています。
それが私が司法改革に違和感を持つ理由です。

■「猫も杓子も捏造」社会(2014年3月29日)
袴田事件に関しては、検察側はまだ再審を止めたいという動きが報じられています。
ここまで事実が共有されてもまだ、組織を守ろうとする検察とはいったい何なのでしょうか。
言うまでもありませんが、検察は本質的に暴力集団ですから、暴走を止める仕組みがないと恐ろしい組織になります。
日本では、韓国と違って、「違憲判決」が出ても、かつて田母神さんがそうだったように、権力者は、当然のように無視します。
私には、それは犯罪行為だと思いますが、そう思う人はいないようです。
権力の暴走をとめるはずの法が、むしろ権力の暴走のための道具になっているような気さえしてしまいます。
そして、そうした「権力に飼われた犯罪者」を増やしているのではないかと、「被害妄想」に陥りそうになります。。

ところで、最近、「捏造」がブームのようです。
袴田事件の証拠材料は捏造らしいですし、STAP細胞も捏造らしいです。
特捜が起こした裁判でも捏造がかなり報じられました。
原発関連でも捏造が少なくありません。
しかも、そうした「捏造」があまり厳しく罰せられません。
そのせいか、最近の日本社会は、まるで「1億総捏造社会」のような感じです。

もし袴田裁判での検察の捏造が事実ならば、捏造に関わった人は裁判にかけてほしいものです。
司法界の人は、権力側の論理で行動している限り、あまり裁かれる側には立ちませんが、今のような状況では、「人民裁判」でもしてほしくなりそうです。
権力の陰に隠れた犯罪者を許す風潮は世界の常かもしれませんが、あまりの行きすぎは恐ろしい結果を生むでしょう。
厚労省の村木さんも、何か一言ぐらいコメントしてほしいものです。

そうしたことがないために、捏造行動はどんどん広がっています。
マスコミの捏造も、許すべきではないでしょう。
猫も杓子も捏造、と言うような社会にはあまり住みたくありません。

■人間を起点とする社会哲学(2014年3月30日)
友人の川本兼さんが「右傾化に打ち克つ新たな思想」を出版しました。
川本さんは長年、平和のテーマに取り組んでいますが、新しい社会契約説や平和権など、新しい思想体系を積み上げてきている人です。
川本さんの取り組みは、個別論ではなく、ホロニックな議論であり、しかも価値観が基本になっているところに、私は共感しています。
もう20年以上、川本さんの著作は読み続けていますので、川本さんの思想の進化がよくわかります。
今回の本は、タイトルからわかるように、昨今の日本社会の「右傾化」への警告書です。

川本さんは、「右傾化の流れの中に身を委ねることによって、日本人は「誇り」や「心の安定」を得ることができるかもしれない」が、そうした右傾化の誘惑に打ち克たなくてはならないと主張しています。
そうした議論の根底に、川本さんは「人間を起点とする社会哲学」を置いています。
この視点は私の視点と全く同じですが、私と違って、川本さんはそれをしっかりと論理づけています。
そして、ルソーとは違う、さらにはホッブスやロックとも違う、新しい社会契約説を提唱するのです。
川本さんがそうした新社会契約説を提唱しだしたのはもう15年ほど前だったと思いますが、最初は私もなにやら小難しい議論だなと、その意味をしっかりと受け止められずにいました。
しかし、次第にその考えは思想的に深められ、今回は「人間を起点とする社会哲学」として、かなり全体像が見えてきたように思います。

実は、先日このブログでも紹介した品川正治さんの「激突の時代」に出てくる日本人の平和憲法観を読んでいて、すぐ思い出したのが、川本兼さんでした。
それでその本の私が感動した箇所を書き出して、川本さんに送りました。
財界人にも、こういう発想の人がいたと知ったら、私がそうだったように、元気が出るだろうと思ったのです。
それと入れ違いに、川本さんからこの本が送られてきたのです。

「人間を起点とする社会哲学」については、ぜひとも本書を読んでほしいのですが、そこから引き出される重要な帰結を2つだけ紹介します。

「平和権」を基本的人権である。
「戦争ができる国家」はアンシヤン・レジーム(旧制度)である。

川本さんは、また、「人間を起点とする社会哲学」に基づいて社会のあり方を変えていくことを、「人権革命」と呼びます。
あまりにも簡単な紹介なので、伝わりにくいかもしれません。
ぜひ読んでみてください。
本書を読まれた方を中心にして、できるだけ早い時期に、川本さんを囲むカフェサロンを開催しようと思っています。

■第3の死
(2014年4月7日)
しばらく時評を書かずに来ました。
書きたいことが山のようにあったのですが、書いたところでどうなるのかという気分が強まっていました。
あまりにおかしなことが、続いていたからです。
時評を書くことは、ある意味で、自らの感覚を高め、自分の価値観を問い質しつづけることです。
ですからそれなりに疲れますし、その価値観に反することが、どんどんと増え続けていくことに疎外感が強まります。
時に共感したというメールが来ますが、だからと言って何かが変わるわけでもありません。
その一方で、時代はどんどんと大きな流れに沿って進んでいく。
その流れに抗うことは、居心地のいいものではありません。

でも、だからといって、何も言動しなければ、自らに素直でないことにもなります。
隠棲という生き方には、憧れはしますが、私の主義にはやはり合いません。
人の生は全てとつながっているからです。
自分だけ止まっていては、私の価値観では、フェアではありません。

たとえば武器輸出禁止3原則が破られてしまいました。
事実的には、原発輸出した時に、武器輸出は始まりました。
最近ようやくその認識が出てきましたが、原発は武器以外の何物でもありません。
だからそう驚きませんが、しかし胸を張って武器を作り出すことが奨励され、日本もアメリカのような産軍癒着の向うのかと思うと、気が重くなります。

たとえば函館市の市長が国を訴えました。
それにつづく市町村はないのかと不思議に思います。
いやたぶん拍手を送っている市町村の首長は少なくないでしょう。
でもなんで声を上げないのか。

STAP細胞事件はいつの間にか小保方事件になってしまっていますが、それでいいのか。
理化学研究所の人たちの記者会見を見ていると、3年前の東電の記者会見を思い出してしまいます。
全くも、何もかも変わっていない。

最近は新聞やテレビのニュースを見る気も起きません。
こうやって人は死んでいくのでしょう。
社会の動きへの関心を失い、目先の問題にのみ目を向けるようになってしまったら、それは社会に生きているとはいえないでしょう。
クリスチャン・ボルタンスキーは、「人は2度死ぬ」と言っています。
生命的な死が「第1の死」、その人の存在を記憶する人がいなくなってしまう時が「第2の死」です。
しかし、どうも「第3の死」があるようです。
それは、社会への関心を失った時です。

ボルタンスキーの「第二の死」は、生命の死の後もなお、人は生きつづけていることを示唆していますが、私が気づいた「第三の死」は、生命が続いていても、人は死ぬことができることを示唆してくれています。

これがこの数日、ネットから離れていて、気づいたことです。
私の第4四半期の生き方が、少し見えてきた気がします。

■STAP細胞事件に関する小保方さんの会見(2014年4月9日)
STAP細胞事件に関連して、小保方さんの会見がいま終わりました。
予定では2時間だったようですが、2時間半になりました。
この問題はとても重要なことだと私には思えたので、今日は予定を変更して自宅でずっと見ていました。
見ていて、理化学研究所のひどさが垣間見えてくると同時に、アカデミアの世界やマスコミのひどさも感じました。
予想に反して、私自身の小保方さんへの印象はかなり変わりました。
もちろん小保方さんに大きな問題があることを前提として、ですが。

一番の問題は、小保方さんと理化学研究所、小保方さんと取材者(マスコミ)とのやりとりが、予想以上に不十分であることが見えてきていたことです。
それにしても、小保方さんに対しては、ほぼすべての人がいまや、否定的というか、悪意で接しているのには驚きました。
今日の会見の質問にも、悪意を感ずるものも少なくありませんでした。
それとともに、小保方さんが、独力で(会見場の費用だけでも35万円ほど個人負担したそうです)がんばっている姿には、たくさんのことを学ばせてもらいました。
権威や権力に抗うとはこういうことだろうと思います。
見習わなければいけません。

私には、なにが正しいかは判断できませんが、権力的に切り捨てたような理化学研究所の発表には、生理的になじめません。
野依理事長も私にはどうしようもない非科学者にしか思えません。
これが現在の科学者たちの現状かとさえ思えます。
まあそれはいささか言いすぎかもしれませんが、まずは自らを問い質すことからはじめてこそ、人を問い質すことはできるはずです。

もっとも、小保方さんが、根っからの嘘つきだとしたら、私も見事にだまされているわけですが、しかし、仮にそうだとしても、可能性がゼロではないSTAP細胞の研究に小保方さんの思いを向けてほしいと思います。
問題の立て方を間違ってはいけません。
こうして失ってきたことが、たくさんあるように思います。
小保方さんを支える研究者が、理化学研究所には一人もいなかったはずはないと思いますが、その人たちが動き出さないような組織は、さびしい組織だなと、改めて思いました。
組織のボスができることは、メンバーを守ることだけでしょう。

それにしても、勝てば官軍の文化は、相変わらず強いようです。
判官贔屓の文化はどこに行ったのでしょうか。
この風潮に、私はどうしてもなじめません。

■「ネットワークささえあい・新潟」がゆっくりと動き出しました(2014年4月10日)
私が取り組んでいるコムケア活動は、ゆるやかなオープンプラットフォーム、ネットワークを目指しています。
そこから生まれたサブネットワークもいくつかありますが、さらにそこから生まれてサブサブネットワークもあります。
もっともサブでもサブサブでも、みんな同じ関係で捉えています。
ネットワーク構造よりも、ほんとはリゾーム構造にしたいからです。

まあそんなややこしい話はともかく、ネットワークささえあい・新潟がいよいよ具体的に動き出しました。
そのキックオフも兼ねて、次のようなカジュアルな集まりを開催します。
私も久しぶりに新潟に行く予定です。

よかったら参加してください。
だれでも歓迎のカフェサロンです。
会場でお会いできるとうれしいです。

○ 日時:2014年4月15日(火曜日)午後1時半〜3時半
○ 会場:新潟市関谷地区公民館
○ 会費:500円

詳しくは下記をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/niigatasalon.jpg

■原子力信仰から抜けられない日本(2014年4月11日)
政府が、新たなエネルギー基本計画を閣議決定しました。
それによると、原発は「重要なベースロード電源」とされ、民主党政権が打ち出した「原発ゼロ」から方針を大きく転換し、原発再稼動が進められそうです。
あれだけの原発事故によって、これほどの甚大な被害を受け、今なお、収束の目処さえ立っていないにもかかわらず、いったい閣僚たちは何を考えているのだろうかと驚くばかりです。

これに関して、最近、読んだ大澤真幸さんの指摘が、とても納得できます。
大澤さんは、「原子力国家」として、日本の行く末を危惧しているネグリの講演記録をまとめた、「ネグリ、日本と向き合う」(NHK出版新書)のなかで、こう書いています。

端的に言えば、「原子力」は、どこか神のように、あるいは救世主のように崇められ、信じられてきたのだ。「それ」があることによって、われわれの基本的な安全や幸福が保証されるような何かとして、「原子力」は、この地上に降臨した。日本人は、はっきりとした自覚をもたずに、原子力を信仰してきたし、今でも、その信仰を棄てられずにいるのだ。

原発ゼロになると、雇用も失われ、エネルギー価格が高くなり、成長もできなくなる、という、まことしやかな俗説に洗脳された日本人は、口にするのもおぞましいほど、邪教の信者に成り下がっているとしか私には思えません。
論理の組み立て方が、全く逆なのですから。

同書に詳しく書かれていますが、「原子力国家」はnuclear stateの訳で、原子力発電を推進する産官学メディアの癒着構造が国家体制の中核を支配し、主権を乗っ取っている国家のことです。
ネグリは、こう書いています。

高度な原子力技術は単に産業政策の帰結ではない。それは、その物質的な機構の維持を挺子として、テクノクラート組織とメディアによって資本主義の支配を保障し、民主的なプロセスの「例外状態」をつねに強制する「原子力国家」の絶対的なオプションにほかならない。

重要なことは、原子力は経済の問題ではないということです。
また、以前も何回か書いていますが、原爆(核兵器)と原発(核の平和利用)はコインの裏表です。
同書で、白井聡さんが指摘していますが、核の平和的利用とは、実質的に「核兵器をつくる技術」にほかならないフロントエンド事業(ウラン濃縮等)・バックエンド事業(使用済み燃料再処理、プルトニウム抽出等)なのです。
私たちはこのあたりをもっとしっかりと理解しなくてはいけないように思います。

ちなみに、この本で白井聡さんは、ネグリの科学技術変質論を踏まえて、国家による科学技術の包摂による「原子力−主権国家体制」論を展開しています。
とても共感できます。

マンハッタン計画に代表されるように、そこでは科学技術の営為は国家の全面的な支援を受けて、第一線の科学者が大量に動員される巨大プロジェクトとして展開された。言うなればそれは、国家による科学技術の包摂であった。

主権国家体制が崩れだしているなかで(これがネグリの時代認識ですが)、原発〈=核兵器〉にしがみつく主権国家とは何なのかを、私たちはしっかりと考えたいものです。
エネルギー計画は、主権国家の存命のためにではなく、人々の生活の視点で考えられなければならないと思います。

原子力信仰からの解放を、私の周りの人から働きかけていますが、なかなか呪縛は強いです。

■沖縄の竹富町の教育委員会に拍手しています(2014年4月12日)
もう30年以上前になりますが、ある懸賞論文に応募するために「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/magokoro.htm

その論文の書き出しは、「1980年代は、再び反乱の時代である」でした。
1968年に象徴されるように、1960年代から70年代にかけて、世界は多くの反乱を経験しましたが、それがもう少し社会化された形で、1980年代には大きな運動になっていくのではないかと、私は期待していました。
それを踏まえて、21世紀は、真心と寛容が広がっていく時代になるだろうと期待したのです。

その期待は見事に裏切られ、近代を食い尽くした亡霊たちが復活し、金銭至上主義者たちの巻き返しが始まりました。
それが見えてきたので、私は1989年に、その舞台である企業を辞めました。
以来、お金とはできるだけ無縁に暮らす方向へと生き方を変えてきました。

その後も世界はますます人間にとっては住みにくくなってきているような気がします。
しかし、時々、元気が出るようなうれしい話に触れることがあります。

たとえば、今月初めに、青森県で建設中の大間原子力発電所に対して、函館市が「事故になれば大きな被害を受ける」と主張し、国と事業者に 原発の建設中止を求める訴えを東京地方裁判所に起こしました。
たとえば、今朝の新聞に報道されていますが、長崎県の諫早湾干拓事業に関して、漁業者たちが先の裁判で確定したはずの開門を要求する訴えに対して、佐賀地裁が国に対して、2か月以内に判決を実行するように命じました。

細かく言えば、いろいろとありますが、こうした「権威」や「権力」に異を唱える動きが、また広がりだしているように思います。
そうした動きの中で、私にとって、とてもうれしいのは、竹富町の教科書問題への対応です。
前にも取り上げたことがありますが、中学公民教科者の変更を国から求められていた沖縄の竹富町の教育委員会が、国への不服審査を申し立てずに、しかし要求にも応じないと発表したのです。
これは反乱のフェーズが変わったことを意味します。
つまり、民がお上から自立したということです。
私には、そう感じます。
権威や法や制度は、みんながそれに従えばこそ、意味があります。
お金もそうで、みんながその仕組みにしたがっているからこそ、意味があります。
お金はみんなが価値があると思うから1枚の紙切れで商品が買えるわけですが、お金への信頼感がなくなれば、何の役にも立たない紙切れになってしまいます。
先月話題になったビットコインは、そうしたことの脆さを実際に感じさせてくれました。
つまり、制度や仕組みは、それが仮に民を支配し制約するものであっても、いやそうであればあるほど、それを支えているのは被支配者なのです。
被害者が実は加害者になっているというのが、世界の実相です。

権力にとって、あるいは秩序にとって、それに抗う存在は、実は好都合な存在です。
タリバンがいればこそ、アメリカはアフガンやイラクを攻撃できました。
戦力を増強するには、北朝鮮の存在や領土問題での顕在化は好都合です。
ですから、権力に抗い反乱を起こすのではなく、権力の支配や管理から自らをはずせばいいだけの話なのですが、これがなかなかできません。
あまりにさまざまなしがらみに、がんじがらめになっているからです。
しかし、それもまた「思い込み」かもしれません。

権力で何が一番恐ろしいかといえば、実体のない「場の空気」です。
みんなで議論していたら、参加者の誰も考えていなかった結論になってしまったという話はよく聞きます。
とりわけ最近は、「場の空気」を読まなければ非難されるという、馬鹿げた社会になってきています。
私も会社時代に自分で経験しましたが、禁止もされていないのに、組織人としてはこれはやってはいけないだろうとか、上司にはこれは言うべきではないとか、と自己規制することがありました。
しかし、それを吹っ切ってしまうと、意外とできてしまうものです。
もっとも、私の場合、それをやってしまって、役員に呼ばれて、辞表を書けと言われたことが2回ありましたが、書かずにすみました。
つまりやろうと思えばできるのです。
しかし、それは結構疲れます。
それも私が会社を辞めた理由の一つです。

話が拡散してしまいましたが、竹富町の教育委員会に共感しています。
まだそこで問題になっている2つの教科書を読んでいないので、内容的なコメントはできませんが、きちんと読んでみようと思います。
なかなか入手できずにいるのですが。

■「一人ひとりの声が集まれば、世の中は変わる」(2014年4月12日)
「憲法9条を保持し、70年近く戦争をしなかった日本国民」にノーベル平和賞をという、ひとりの子育て中の女性の思いから始まった動きが、ついに現実味を持って動き出しました。一昨日、「ノーベル委員会は2014年ノーベル平和賞の申し込みを受け付けました。今年は278の候補が登録されました。受賞者は10月10日に発表される予定です」という連絡があったそうです。

この話を最初聞いた時には、まさに「眼からうろこ」でした。
過去にもEUが受賞したこともあります。
ですから、憲法9条を守ってきた日本国民が受賞しても、形式的にはおかしくありません。
それに、もし受賞したとなれば、現在の日本政府の動きを抑えていく効果もあるでしょうし、世界の歴史が変わるかもしれません。
それ以上に、ノーベル賞の意味合いが変わるかもしれません。

私自身は、ノーベル賞の「経済賞」と「平和賞」には、なにやら不純さを強く感じていて、どちらかといえば、ネガティブな思いを持っているのですが、もし憲法9条が受賞したら、認識を改める必要がありそうです。
まあ、いささか日和見的ではありますが、制度は利用する人によって、全く違う効果も発揮するものです。
制度や仕組みは、誰にとっても使い方次第で生きてくるものだという認識を改めてもたねばいけません。

これを思いついたのは、座間市の主夫の鷹巣直美さんという人だそうです。
子育てに追われていて、集会やデモに参加できず、自宅でできることを考えた結果のことだそうです。
「参加できないこと」、つまり制約条件があればこそ、生み出されたプロジェクトです。
「できないこと」を嘆くのではなく、「できること」を考えれば言いのですが、私も含めて多くの人は、そうはなかなかならないのです。
しかし、誰にも、できることはあるのです。
その点も大いに学ばせてもらいました。

鷹巣さんの動きに共感した人たちによって、昨年8月に「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が発足しています。
そのサイトで、賛同者の署名活動がいまも行われています。
http://chn.ge/1bNX7Hb
鷹巣さんは、「一人ひとりの声が集まれば、世の中は変わる」と考えているそうです。
心から共感します。

■見事な防災マニュアルづくり(2014年4月13日)
内閣府は4月8日に、平成17年度に策定した「避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドライン」を全面的に見直し、新しいガイドライン(案)を発表しました。
平成17年度にガイドラインを策定した時には、まだ自治体そのものにもあまり現実感はなく、形だけのマニュアル作りが多かったような記憶がありますが、3.11以来、状況は大きく変わってきているように思います。

最近、その作成者から直接教えてもらった2つの防災マニュアルをご紹介します。
マニュアルというものの意味を示唆している事例でもあります。

一つは、茨城県龍ヶ崎市の南が丘自治会の自主防災会が作成した「災害時の防災活動マニュアル」です。
南が丘自治会では、以前から自治会活動として防災に取り組んでいましたが、自治会役員は毎年変わるために、防災知識や自薦的な技術を習得できないということもあって、自治会活動とは別に継続的な組織を立ちあげました。
提案したのは女性たちでした。
提案した理由はもう一つありました。
それまでの防災担当は主に男性でしたが、男性は仕事で昼間はいないため、いざとなると、女性と子どもと高齢者で対応しなければいけません。
しかも、多くの男性たちは大震災が起こると帰宅困難者になってしまいます。
それで、自主的に参加してくれる人たちで、自主防災会を立ち上げたのです。
そして、自分たちで独自に防災マップを作成したり、「防災通信」を発行したり、行政とは別に防災台帳を作成したりしだしました。
そして、みんなで「防災マニュアル」も作成しました。
そういう活動を通して、地域住民同士の付き合いが密になったといいます。
つまり、防災マニュアルを作成する過程で、コミュニティが育ってきたわけです。
それが一番の防災かもしれません。
「防災」の概念も広がり、「まちづくり」にまで発展しつつあるように思います。
そのおかげで、東日本大震災が起こった時には、大きな威力を発揮したようです。
もちろん、出来上がったマニュアルも、常に見直されているでしょう。
まさに「生きたマニュアル」といっていいでしょう。

もう一つは、取手市のとりで障害者協働支援ネットワークが作成した「障がい者のための防災マニュアル」です。
障害者関係のNPOなどが、以前から「要援護者の防災マニュアル」作成の要望を市役所に要請していましたが、なかなか実現しませんでした。
そうした時に、東日本大震災が発生しました。
幸いにこの時は大きな問題は起こりませんでしたが、行政だのみではなく、自分たちで作ろうということになりました。
そこで、「要援護者の防災マニュアル検討委員会」を立ち上げ、障害を持つ人たちへのアンケート調査を実施、それをもとに、市役所、自治会、民生委員、消防署などの関係者とも話し合いながら、2年近くかかって完成したのが、この防災マニュアルです。
大震災以降、各地で要援護者の防災マニュアル作りの動きはありますが、障害者自身が中心になって作成したところは私の知る限りではありません。

いずれも、作成の中心になった人から、お話を聞いたのですが、2つの事例に共通しているのは、次の3点です。
@ 当事者が中心になって、自分たちの防災活動として取り組んでいること。
A マニュアルづくりの過程の中で、人のつながりが育っていること。
B マニュアルができた後も、常に見直しが行なわれていること。

マニュアルは、生きたものでなければいけません。

■日本にある大量なプルトニウムを、さらに増やすのか(2014年4月15日)
一昨日の新聞に、「原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す青森県六ケ所村の再処理工場の稼働について、米国が「懸念」を日本に伝えてきている」と言う記事が出ていました。
お読みになった方も多いと思いますが、この動きは、原発がいかに核兵器と隣り合っているかを明示しています。
記事には、「日本がすでに保有しているプルトニウムは44トンあり、数千発の核兵器に相当する」とも書かれています。
44トンのプルトニウムは、数千発の核兵器に相当するそうです。
米エネルギー省のダニエル・ポネマン副長官は昨年4月、「プルトニウムを消費する予定のないまま、再処理で新たな分離プルトニウムの在庫が増えることにならないか、大いに懸念を有している」と話していたそうです。
日本に大量のプルトニウムがあるということの意味を、しっかりと考える必要があります。
それは、明らかに、「テロリストの格好のターゲット」になるわけです。

11日に閣議決定されたエネルギー基本計画には「六ケ所再処理工場の竣工」が盛り込まれています。
私にとっての脅威は、北朝鮮や中国よりも日本国内の原発関係施設です。

■新潟に向かっている途中の無駄話(2014年4月15日)
久しぶりに新潟に向かっています。
新潟で友人たちが、「ネットワークささえあい・新潟」を立ち上げているのですが、その第1回目のサロンが開催されるので、久しぶりの新潟に行くことにしました。
会いたい友人もいますし、なによりも最近、出不精になってきている状況から抜け出たいのです。

私はサロンが大好きです。
だから面白い話題を持ってきてくれた人には、軽い感じで、じゃあ、サロンでもやってみたらとそそのかします。
それで開かれたサロンもいろいろあります。

ところが、何か集まりをやろうとすると、みんながんばってしまいます。
参加者をたくさん集めようとか、参加してくれた人に満足してもらおうとか、ついつい考えてしまいます。
だからおっくうになります。
私も、集まりをやる時に、そういうことを全く考えないわけではありません。
しかし、それよりも、ともかく「開く」ことが大事だと考えています。
考えるよりも実践です。
動き出せば、必ず何かが始まることを経験しているからです。
今日の集まりから、新潟でもきっと新しい物語が動き出すでしょう。

来週は大阪で、集まりがあります。
これも参加しようと思います。
関西の人がいたら、ぜひ参加してください。
なんの集まりか、知りたい人は、私にご連絡ください。

このブログやフェイスブックで、小保方さんの会見に関して感想を書きました。
いくつかの反応がありました。
それで、私もメンバーである、NPO法人科学技術倫理フォーラムで話し合いの場を持ちたいと提案しました。
そうしたら、どうせなら公開フォーラムにしようと、代表の杉本さんが言い出しました。
杉本さんと私は、考え方がかなり違います。
しかし、杉本さんは私が尊敬する大先輩なので、思想面では反対できても、こうしたことに関しては、なんとか対応したいと思っています。
それに杉本さんには、たくさんの借りがあるのです。
困ったものです。

杉本さんは、やり方やゲストは任せるから、と言ってくれていますが、カジュアルなカフェサロンというわけにはいかなくなりました。
さてどうするか。
開催は会場の関係で、6月19日の夜になりました。
しかも70人も入れるところだそうです。
今回はちょっと気軽く考えてはいられないです。
まあ、しかし、人間はそう簡単には変われません。
どういう集まりになるでしょうか。
実行委員になる人はいないでしょうか。
いやはや、人生は思うようにはなりません。

■なぜ精神障がい者には責任能力がないのか(2014年4月17日)
社会活動をしている知人に攻撃メールが届きました。
書き出しに、自らが精神面で障害をもっていて、これまでも自傷行為を起こしていることなどが書かれていました。
その後も続いたたくさんの攻撃的なメールで、彼は活動をやめてしまいました。
とても残念です。

殺人事件などを起こした場合でも、責任能力があるかどうかが問われることが少なくありません。
そうした状況に、私は大いに異論があります。
なかには、精神面で障がいがあれば、罪に問われないと思っているのではないかとさえ思うこともあります。
さらに言えば、冒頭のメールの送り手のように、精神障がいを逆手にとって、脅かすことさえしてしまう人もいます。
私には、許しがたいことです。
精神面でなにがしかの障がいがあっても、誠実に生きている人への。まさに犯罪行為だろうと思います。

非難されそうですが、私は犯罪行為の責任能力と精神障がいをつなげて考えることに反対です。
それは、逆に、精神障がいをもつとされる人の人権を認めないことだと思うからです。
私には、許しがたい差別発想でしかありません。
しかも、精神障がいは、医療界が「勝手に」に病名をつけて、「病気」にしてしまうことができます。
どう考えても私には馴染めないのです。

精神に障がいがあろうとなかろうと、罪は同じように問われるべきです。
仮に、精神障がいと特定されていない人であろうと、殺人などのようなとんでもない事件を起こす場合は、一時的な精神障がい状況になっているというのが、私の考えです。
ですから、責任能力があるかどうかを、精神科医の勝手な判断にゆだねるのは恐ろしいです。
いささか過激な言い方をすれば、薬をばらまいている精神科医にこそ、罪を負わせたいですが。
昨今の精神科医の混雑状況を考えると、あれは精神科医が精神障がい者を生み出しているとしか思えません。
薬がまったく意味がないとは思いませんが、私には、多くの、いや、ほとんどの精神科医は自らのミッションを忘れて、病気づくりに励んでいるような気がします。
これは精神科医に限りません。
医療界での自浄能力は、もう失われてしまったように思います。

いずれにしろ、精神鑑定で、犯罪の責任能力の有無を決める風潮には、恐ろしさを感じます。
精神障害者の人権をしっかりと認めるべきだろうと思います。

反論が恐ろしいですが。

■国家はだれのものか(2014年4月21日)
韓国のセウォル号の沈没事故は、言葉がないほどに、痛ましい事件です。
船内に閉じ込められた高校生たちのことを考えると、やりきれなさを感じます。

報道を見ていて、毎回感ずるのは、国家というものの「おぞましさ」です。
事故が発生した時に、日本政府もアメリカ政府も、韓国政府に対して、救援活動への協力を要請したと言います。
しかし、なぜか断られたそうです。
なぜそんなことが起こるのか。
これは、しかし、韓国政府だけの話ではありません。
福島原発事故の時には、日本政府はアメリカ政府の支援の申し入れを拒否しました。

近くにいた人が駅のホームから落ちてしまったら、自らの危険を顧みることなく、その人を助けようとするのは、「人の常」です。
もし何かできることがあれば、国籍が違っていようが、人は助け合う本能を持っているように思います。
実際に、公海上での海難事故の場合、そうしたことが起こるはずです。
しかし、領海内の場合は、そうはならない。
「国家」と言うものが、邪魔をしているわけです。
私たちは、その意味を、しっかりと認識すべきです。
「国家」は国民を守る存在ではないのです。
国家が守るのは、「国家」なのです。
そのことを今回の事件は、まざまざと示しています。

もし、韓国政府が、国家の面子や政治的な駆け引きとは無縁に、すぐに全世界に救援活動への協力を頼んだら、あるいはどこかの政府が協力に馳せ参じたら、事態は変わったかもしれません。
それができなかったのは、なぜでしょうか。
日米からの協力要請を受け入れなかった韓国政府は、国民を見殺しにしたと責められても仕方がありません。
しかし、同時に、協力を受け入れられないことに甘んじた日本はどうでしょうか。
責められることはないでしょうが、後味の悪さは残ります。

国家関係ではなく、隣人との関係で考えてみたら、もう少し実感できるかもしれません。
DVのような問題の場合は、勝手に隣家には干渉はできないといわれますが、私はそれもおかしな話だと思います。
そこに、家族制度のおぞましさを感じます。

国家は国民を守るのではなく、国家を守るということをしっかりと認識すれば、政府の言動の意味がもう少しはっきりと見えてくるはずです。
そして、国家がなければ、戦争もなくなるでしょう。
コラテラル・ダメッジというような、おかしな正当化理論もなくなるでしょう。
個人が生きていく上で、国境はないほうがいい時代になったような気がします。
近代国家の意味を、根本から考え直す時期にきています。
家族制度もそうですが。

■じわじわと値上げが起こっている気がします(2014年4月21日)
消費税増税を契機に、価格の見直しが広がっています。
消費税増税は、私たち国民が決めたことですから、受け入れることにはなんの抵抗もないのですが、それに伴う価格の見直しの動きには、大きな違和感があります。
しかも、インフレターゲットという大義のなかで、値上げへの抵抗がなくなってきています。
それにも危惧を感じます。

驚いたのは、近くのお店に映像記録用のブルレイのディスクを買いに行ったのですが、3月30日に行った時には1980円だったのが、翌週に行ったら、なんと2800円近くに変わっていました。
3月30日に行った時に買えばよかったのですが、その時には寄り道する予定だったので次にまわしてしまったのです。
急に高くなったので、買う気をなくしてしまいました。
似たようなものは、他にもあります。

私は、時々、娘の買い物に同行します。
これは会社時代、エコノミスト的な仕事をしていた時の習慣です。
統計では見えてこない実態の動きを、定点観測していたのですが、その習慣がいまも続いています。
特に、スーパーでの食材の価格の動きは、さまざまな気づきを与えてくれます。

昨年前半までは、たしかにデフレ基調で、これって安くなりすぎではないかなどと思うことが多かったのですが、昨年秋くらいからは、統計的な数字とは別にじわじわと実勢価格の上昇を実感しています。
もちろん価格が上がることは、決して悪いことではありません。
働くことの価値や素材の価値が高まることですから。
しかし、円安で高くなるというのは、私にはうれしいことではありません。
円安とは、私たちの活動の価値が下がるということだと思うからです。
もっとも、円高のおかげで、海外の商品を安く買い込んでしまうということには反対です。
相手先の国の人たちの働く価値や素材を低く評価してしまうからです。
つまり、私は人為的な為替制度を背景にした自由貿易には違和感があるというわけです。
いやそもそも行き過ぎた自由貿易に違和感があるのですが。
ですからTPPには心底反対です。

それはそれとして、消費税増税を契機にした価格見直しの風潮に違和感があります。
5%の消費税が8%になっただけではなく、増税分を自己負担しなければならない零細企業や個人商店がある一方で、どさくさにまぎれて安直に価格が見直されてしまうのは、どうも納得できません。
それ以上に納得できないのは、増税前に購入にあおるような風潮でした。
8%から10%に上がる時にまた、そうしたことが起こるのでしょうか。

エコライフなどという名目で、商品を買え換えさせることにも違和感(エコと反対だろうと思うわけです)がありますが、消費をあおる風潮に抗うことは結構難しく、わが家でも冷蔵庫を買い換えてしまいました。
困ったものです。
しかし、スーパーに定期的に通っていると、どうしても安いものにひかれる傾向が生まれます。
金銭的にはかなり貧しいわが家では、賞味期限が近づいて割引された黄色いラベルがついた商品が冷蔵庫によく入っていますが、私もついついそれでいいかと思って、娘と一緒に行った時に、娘の買い物籠に入れてしまうことがあります。
安く買うのは作り手に失礼ではないかと思うのですが、なかなか言行一致にはなりません。
デフレがいいのかインフレがいいのかも、なかなか判断ができません。
困ったものです。

■ゲーム・サロン(「スリーA&箸ピー」を楽しみながら体験する集まり)へのお誘い(2014年4月23日)
4月26日(土曜日)の午後、スリーAと箸ピーという2つのゲームの体験会があります。
いずれのゲームに関しても、これまで何回かこのブログでも言及してきました。
大阪で、2つのゲームを一緒に体験する集まりははじめての企画です。
私も参加しますが、関西界隈の方でも塩時間があれば、どうぞ参加してみてください。
いずれもとても楽しいです。

○日時:2014年4月26日(土)13:30?16:30(受付:13:00〜)
○場所:大阪ボランティア協会 会議室 
http://www.osakavol.org/10/access/index.html
大阪市中央区谷町2-2-20 市民活動スクエアCANVAS谷町2階  
○参加費(資料代込):500円
○主催:コムケア関西(大きな福祉の実現を目指した、コミュニティケア活動の共創型相互支援の輪づくりを関西で広める活動をしています)
○申込先: コムケア関西事務局(担当:水野)
comcarekansai@gmail.com

■土から学ぶことは多いです(2014年4月24日)
今日は久しぶりに畑に行ってきました。
4日間ほど行けずにいたのですが、途中、雨も降ったので大丈夫だろうと思っていましたが、先日植えたきゅうりが枯れかかっていました。
ナスもトマトも、あんまり元気がありません。
慌てて、水をあげましたが、きゅうりはダメかもしれません。
ともかく少し手を抜くと結果に出てきてしまいます。
生命はとても素直です。

こうして自分で野菜を育てていると、手間暇がかかることがよくわかります。
野菜を育てるよりも、スーパーできゅうりを買ったほうが安くなるでしょう。
もっともミニトマトの場合は、育ちやすいので、育てたほうが安くなるかもしれません。
ですから一概には言えないのですが、お店で売っている野菜は、安すぎる気がします。
野菜を自分で育てると、そのことがとてもよくわかります。

もうひとつわかることは、農作物にとって、土壌がいかに大切かということです。
日本古来の農業は、「野菜を育てる」のではなく「土壌を育てる」ことだと言われていますが、その意味がよくわかります。
しかし、最近の工業型農業は、土壌ではなく野菜を育てる仕組みに変わってしまいました。

土が生きていることも、よくわかります。
2〜3年放置しただけで、土壌は一変します。
毎年、少しずつ手を入れて、育てていかないと、土はとんでもないものを引き込んできます。
表面ではわかりませんが、わが家の農園はなにやらたくさんの根が張りめぐってしまい、鍬で耕すのが大変です。
私などは、1坪をていねいに耕すだけで、死にそうなほど疲れます。
近くの元農家の人は、こんな空き宅地は農地にならないと笑っていますが、たしかにそうなのでしょう。
しかし、その元農家の人の両親や祖父母がやったように、ていねいに土を耕して、そこに植えた野菜を大切にしていけば、土壌もよくなり、野菜もきちんと育ちだします。
私自身、数年前にその体験があればこそ、まあ開墾のような作業をしているわけです。

土を育てると言う発想は、農業に限りません。
会社も社会も、個人の暮らしもそうです。
社会ももっと耕していかないと、ますます住みにくくなりそうです。
私にはあんまりエネルギーはありませんが、せめて私の周りは、畑の土を育てるように育てていこうと思います。
それはまた、けっこう疲れることかもしれませんが。

土と触れていると、いろんなことに気づかせてもらえます。

■不作為の殺人罪(2014年4月25日)
韓国でのセウォル号沈没事件は、事故後の対応の不手際によって、多くの死亡者を出してしまいました。
そのため、韓国では船長に対して「不作為の殺人罪」をという声まで出ているようです。
これまでの報道を聞いている限りにおいては、それも納得できるものがありますが、まだ事実が必ずしも明らかになっていないので、即断は控えるべきかもしれません。
問題はもっと根深いような気もします。
それに、不作為の殺人罪は、船長だけのことではないでしょう。
怒りの矛先を間違えてはいけません。

それはともかく、韓国には「不作為の殺人罪」というのが法に定められていることを知りました。
不作為の犯罪は、ある意味では、暴走しがちな論理を内蔵していますが、昨今のような時代状況においては、とても大きな意味を持っているように思います。

私が、この言葉を最初に聞いたのは、もうかなり前のことです。
韓国とは関係ありません。
福井の東尋坊で、投身自殺を防ぐために10年前から見回り活動をしている、NPO法人心に響く文集・編集局の理事長の茂幸雄さんからです。
茂さんは、テレビや新聞で時々報道されていますので、ご存知の方も少なくないでしょう。茂さんの活動には頭が下がりますが、これまで500人ほどの人と遭遇し、相談に乗ってきています。
茂さんは、自分たちがやっている活動は、自殺防止活動ではなく、人命救助活動だと言います。
東尋坊には投身自殺する場所は3か所しかない。
そこに何らかの策を講ずれば自殺は防げる。
それをしないのは「不作為の殺人罪」だというのです。
茂さんの思いはよくわかります。
ある意味で、「不作為」は「作為」よりも犯罪の本質に繋がっているように思います。

しかし、不作為犯はなかなか難しい問題もあって、日本の場合は、積極的には法定化されていません。
立証も難しいですし、なによりも多様な解釈が可能ですから、小さな論理に呪縛される現代の刑法パラダイムでは、難しいのでしょう。
特に最近のように、司法の独立性が損なわれ、しかも法の牙が国民や弱いものに向いてしまっている状況の中では、不作為犯を取り入れることには危惧もあります。
しかし、対象を権力や体制維持派に向けるのであれば、これは本質的な問題提起を含意しています。
そういう意味では、この事件を契機に、日本でも改めて「不作為犯」の考えが議論されることを期待したいと思います。

自殺の問題にささやかに関わっていると、茂さんと同じく、「不作為の殺人」ではないかと思うことが少なくありません。
その不作為を引き起こす背景に、個人を超えたシステムや制度があるのですが、それでも個人でできることは少なくありません。
先週、新潟で聞いた話ですが、精神医療に関わる薬剤師の皆さんが、薬を渡す時にきちんと説明して、薬依存が広がらないように、それぞれが自分でできることをやろうという研修などに取り組んでいるそうです。

どんな場合にも、個人でできることはあります。
一人でやっても何もできないなどと諦めて、不作為に陥ることは避けたいものです。
そうでなければ、セウォル号の船長を非難することはできないことに気づかないといけません。
自らの不作為の罪を、この事件は改めて思い知らせてくれました。

■スパイクを買ってやろう(2014年4月28日)
今朝のNHKの朝いちで、子どもの貧困が取り上げられていました。
そこで、サッカーをやっている子どものためにスパイクを買ってやれない母子の話が出てきました。
ゲストの室井祐月さんが、その報告映像を見終わった途端に、「スパイクを買ってやろう」と思わず発言しました。
同席していたほかの人が、「そういう問題ではない」「そう言っていたら切りがない」と室井さんをなだめていました。

でも、本当に「そういう問題ではない」のでしょうか。「切りがない」のでしょうか。
もしかしたら、そうした発想が問題なのではないか。
そう思いました。
室井さんの発言は、ほかの番組でも時々、お聞きしますが、私には的確なご意見だと思うことが多いです。

隣に困っている人がいたら、先ず自分でできることをはじめることが大切です。
そういうことをやっていたら、肝心の構造が変わらずに、問題は先延ばしになるだけだと言うのも一つの意見です。
しかし、だからと言って、隣の問題を解決しないで良いわけではありません。
それに、仕組みを作って、問題の根本から変えようなどという思いが、教育ローンのような奨学金制度や育児助成金のような制度を作り、そこに寄生する職業を増やしていくこともあります。
制度や仕組みも大切ですが、「スパイクを買ってやる」ことも大事です。

室井さんは、きっとテレビで紹介された母子にスパイクを買って送ってやったと思いますが(そうでなければがっかりです。言葉に出した事は実行しなければいけません)、私もそういう室井さんに見習おうと思います。
できることからやっていくこと。
それこそが、社会を変えていくはずです。
問題は「子どもの貧困」ではなく「○○ちゃんの具体的な問題の解決」なのかもしれません。

■ブラック企業とホワイト企業(2014年5月4日)
ブラック企業からホワイト企業へという動きが出てきているようです。
今朝のテレビで、その違いは、「長時間労働の有無」と「多様な人材がいるかいないか」と報じていました。

昨日テレビで映画「釣りバカ日誌」を観ました。
この映画は有名なのでご存知の方が多いでしょう。
主人公のハマちゃんは鈴木建設の社員ですが、「会社か釣りか」と問われれば、即座に釣りと答える人です。
そのハマちゃんが、偶然に自社の社長の鈴木さん(スーさん)と、釣りを通して師弟の仲になるのですが(もちろんハマちゃんが師匠です)、鈴木社長はまさにホワイト企業を目指す経営者です。
鈴木建設は、まさにホワイト企業のモデルでしょう。
もっともホワイト過ぎて、今のご時世ではたぶん倒産してしまいますが。

象徴的なエピソードがあります。
ハマちゃんがある事件を起こし、懲戒委員会にかけられます。
地方支社に左遷させようという案が出ますが、そこで釣りができると大喜びするだろうということで不採用。
結局、懲戒解雇しかないということになりかけますが、それこそ釣り三昧できると喜ぶだろうということになり不採用。
そこで名案が出ます。
彼を懲らしめるには、出世させるしかないというのです。
出世して役職に付ければ釣りができなくなるというわけです。
これは冗談のようですが、最近の会社を見ていると、笑い話ではなくなっているような気もします。
ちなみに、ハマちゃんの懲戒に対しては、社員からハマちゃんを守ってほしいという分厚い嘆願者が届きます。
ハマちゃんは、生き方においてもモデルにしたいです。

ほかにも、さまざまな学ぶべきエピソードが出てきます。
スーさんが自社の社長とも知らないハマちゃんは、月給15万円の気楽な仕事を紹介してやります。
その電話を受けた鈴木社長は、感激して、奥さんにふともらします。
「(社長業よりも)そっちのほうがいいかな」と。

企業の経営幹部のみなさん。
経営学の本も良いですが、この映画は経営学の最高の教材かもしれません。

企業から人がいなくなってしまったら、企業がつぶれるよりもおそろしいです。

■「美味しんぼ」騒動(2014年5月13日)
人気漫画の「美味しんぼ」の描写が波紋を起こしています。
福島原発事故後、
被曝で鼻血/「福島に住んではいけない」 抗議相次ぐ
抗議を受けた小学館発行の「美味しんぼ」  
漫画に登場する人物が放射線被曝と鼻血の因果関係を指摘したり、「福島に住んではいけない」と述べたりする場面が風評被害に通ずるとされて抗議が起こっているようです。
漫画には双葉町の前町長だった井戸川さんも実名で登場し、鼻血をめぐる発言をしているそうですが、こうした騒動に対して、「本当のことをしゃべっただけだ。県が慌てるのはおかしい」と記者会見で話したそうです。
その一方で、菅官房長官は、「住民の放射線被曝と鼻血に因果関係はないと、専門家の評価で明らかになっている」と記者会見で発言しています。
騒動はいろんなところに飛び火しているようですが、原作者の雁屋哲氏は、自らのブログで福島に関する作品が続くことを明らかにし、「取材などはそれから後にお考えになった方がよいと思います。書いた内容の責任はすべて私にあります」とコメントしているそうです。

私は飯舘村に行った時に、「かーちゃんの力プロジェクト」の代表の渡邊さんから、娘さんの鼻血が止まらずに、ティッシュペーパーの箱を丸まる一つ使うほどだという話を聞いていました。
それに現場で問題に直面して奔走していた井戸川さんの言葉にも嘘はないと確信します。
現場で体験もしない学者や専門家の話などは、そうした現場の人の体験の前には、説得力はないはずですが、日本のお上文化の社会では、どうもそうではないようです。
この問題はメーリングリストでも盛んに議論されていますが、読むに耐えない投稿が多すぎます。
問題は簡単で、現地に行って、みんなの話を聞いてくればいいだけです。
余計な専門家は必要ありません。
事実はいつも「現場」にそのままあるのです。

それにしても、この種の話が多すぎます。
先日の理研のSTAP細胞論文事件もそうですが、現場や当事者とは無縁の世界での専門家がお上にあわせて議論し、「事実」を創り出していくのが最近の社会です。
「捏造者」と「捏造対象」を見間違えてはいけません。

「風評被害」などという名目で、自由な議論が封じ込まれがちな昨今の状況には、言論の自由などもう失われてしまったのかと思うほどです。
福島の人たちも、もっと気兼ねなく、本音を発言すべきだろうと思います。
それこそが、未来の子どもたちへの責任ある態度のように思います。
福島の人たちの苦労はよくわかりますが、最近の福島の人たちの言動には、私は違和感を持っています。

発言すべきことを発言しなければ、結局は原発依存だった昔と同じだろうと思います。
被害者であると共に、加害者でもあることを忘れてほしくはありません。
もちろん私も同じなのですが。

■農業には「殺生」と「信仰」がつきものです(2014年5月14日)
先日、わが家の農園を、2メートル以上もあるしま蛇が畑を悠々と散歩していました。
その前日、草が茂っていたところを刈り取ったのですが、どうもそこにいたようです。
こんな大きな蛇がいたとは思わずに、手袋もせずにかなり藪の奥まで鎌を入れていました。
安眠を邪魔したのかもしれません。
それにしても大きな蛇です。

そういえば、今年は蛙に出会っていませんが、この蛇に食べられちゃったのかもしれません。
この農園は、山林が住宅地に造成されてまだ10年ほどですが、両隣はすでに家が建っています。
南面は道ですが、その反対側は大きな家の庭につながっています。
この蛇は、普段はその大きな家の庭に住んでいるのかもしれません。
その家は、今は空き家になっていますが、昨年までお年寄りとお手伝いさんが住んでいました。
そのお手伝いさんが、蛇は家の守り神だと言っていました。
お年寄りもなくなり、お手伝いさんも故郷の東北に帰りましたので、いまは空き家になっています。
それで、蛇も隣のわが家の畑に遊びにきたのかもしれません。
時々、その家を相続した家族の方が来て、庭で遊んだりしていますが、人が住んでいないと家もどんどん「老化」します。
お手伝いさんがいる時には、毎日、草刈りや植木の手入れをしていましたが、今では庭も草に覆われてきています。

わが家は少し高台にあって、その大きな家と庭が見下ろせますので、その変化の状況がよく見えるのです。
自然の成長力がよくわかります。
成長と破壊は同じことだということも、です。
人間が自然と仲良くやっていくということは、それなりに大変なことなのです。

私は、最近、「雑草」という言葉を使わないようにしました。
草にもそれぞれ名前があると友人に指摘されたのがきっかけですが、たしかに雑草と一括りにしてしまっては、自然の豊かさを否定することになります。
そのおかげで、今年は、畑に生えていたノビルを料理することができました。

ところで、蛇の話ですが、蛇がいるのはまだそこが豊かだからだと友人が教えてくれました。
ところが畑を耕していて、幼虫が少ない気がします。
これも放射性汚染の関係でしょうか。
そんなことはないと思いますが、気のせいか、生き物が少ないのです。
てんとう虫(それも少ないです)以外にあまり会えていません。
その代わりと言うわけでもありませんが、アリにはよく襲われています。
アリの巣を耕してしまったからですが、大きなアリに咬まれるとかなり痛くて、反者的につぶしてしまうこともあります。

この農園は数年ほぼ放置していました。
そのせいで、畑の地下は篠笹の根が張りめぐっています。
いまはそれを根扱ぎ用の鎌で断ち切っている作業を続けています。
そうしないと花も野菜も負けてしまうからです。
そんなわけで、最近は自然と格闘しつづけています。

蟻退治や植物の抜き取りは「殺生」ですが、農業には「殺生」はつきものです。
でも、その分、信仰心も強まります。

■自殺を防止する「人命救助活動」シンポジウムのお誘い(2014年5月15日)
福井県東尋坊で自殺防止活動をしている「NPO法人心に響く文集・編集局」の活動が10年目を迎えました。
これまでに486人の自殺企図者を発見・保護・生活支援をしてきています。
そこで、この10年の節目として下記の通り公開シンポジウムを開催することになりました。 
盛りだくさんのプログラムですが、この10年の思いがつまっています。
場所は福井ですが、茂さん初め、実践者のみなさんとの交流会もあります。
私も参加させてもらいます。
もしお近くの方がいたらご参加ください。

○日時:2014年5月17日(土曜日)10時半〜17時半
○会場:JR福井駅・東口の目の前にある「アオッサ」ビル8階
○プログラム
【第1部】 講演「悩みごとを解決するための法律」(茂呂信吾弁護士)
 【休憩時間】映画上映「自殺者1万人を救う戦い!」
【第2部】 演劇「還るところはみないっしょ」(市民劇団「合掌座」)
【第3部】 講演「つながりの中で生きる」 (永平寺僧侶 川上宗勇)
【第4部】 パネルディスカッション (人命救助体験者)
【第5部】 懇親会 (参加自由・会費1,000円)
○主催:NPO法人心に響く文集・編集局
○申込先:NPO法人心に響く文集・編集局 担当者 : 茂 ・川越
FAX 0776-58-3119 メール shige024@mx2.fctv.ne.jp

■「私らは侮辱のなかに生きている」(2014年5月15日)
いまさらタイトルにするのも気が引けますが、2年前の7月、東京の代々木公園で行なわれた「さようなら原発10万人集会」で大江健三郎さんが、引用された言葉です。
出所は、中野重治さんの短編小説にある文句だそうです。
大江さんの引用で、この言葉は有名になりました。

今日、この言葉で始まる本を読みました。
白井聡さんの「永続敗戦論」(太田出版)です。
読み始めた途端に魅了され、一気に読み上げてしまいました。
白井さんは、その本のあとがきでガンジーの言葉の引用と合わせて、読者にメッセージを送っています。
心から共感しましたので、長いですが、引用させてもらいます。


「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(ガンジー)
3・11以降2年の月日が流れたが、ガンジーのこの言葉は私を支えてくれているし、この間、この言葉を実践している有名無名の少なからざる人々の姿は、私に勇気を与えてくれている。
「侮辱のなかに生きる」ことに順応することとは、「世界によって自分が変えられる」ことにほかならない。私はそのような「変革」を断固として拒絶する。私が本書を読む人々に何かを求めることが許されるとすれば、それは、このような「拒絶」を共にすることへの誘いを投げ掛けることであるに違いない。

世界に変えられそうになっている自分に気づきました。
元気が少し出ました。

中野重治は福井のご出身です。
明日から「命の大切さ」をテーマにしたシンポジウムに参加するため、福井に行きます。
「変えられる生き方」ではなく、自らを「変える生き方」に戻らなくてはいけません。

■「1185 → 10」(2014年5月16日)
某大企業の役員の友人からメールが来ました。
もう長い付き合いですが、会社での仕事もすばらしければ、社会活動にも取り組み、さらに自分の時間もスポーツと音楽と、実に豊かな生き方をしている友人です。
しかも、それらがバラバラではなく、つながっているのです。
この友人が、その会社の社長になれば、会社も社会も変わるだろうなと大きな期待を持っていたのですが、なかなか現実はそうなりません。
まだわかりませんが。

それはともかく、彼のメールに、ゆとり教育世代の基礎学力不足がひどいということが書かれていました。
1/3+1/5=2/8と答える人がいるというようなにわかには信じがたいことがあるそうです。
私は、ゆとり教育肯定論者ですので、いささか残念なのですが、しかし、1/3+1/5=2/8と応えて、何が問題なのだろうとも思います。
こういう話をしてしまうと誤解されそうですが、私自身は「知の体系」と「学びの体系」を見直すべき時期だろうと思っています。

ところで、その一方で、学校を離れたところでは、さまざまな動きがあるようです。
たとえば、「1185 → 10」という問題があります。
ご存知の方も多いと思いますが、1,1,8,5という4つの数字と、+、−、×、÷の4つをつかって、10になる等式を創るという問題です。
同じような問題がいろいろとあるようですが、私が取り組んだのはこの問題です。
何とか解けたのですが、苦戦しました。
あることに気づけば、簡単に解ける問題ですが、最近は私の頭もかなり固くなっているようで、一時は諦めたくなったほどです。
まだ試したことのない方がいたら、是非解いてみてください。
正解はいつでもお教えしますが。

1/3+1/5の問題が解けなくなったのは、電卓などの普及のせいでしょうか。
いまやかなりの知が、ブラックボックスに取り込まれだしました。
そうしたなかで、「1185 → 10」のような「クイズ」や「知の遊び」が広がっています。
両者の違いは、たぶんモチベーションの違いです。
学びに対するモチベーションが大きく変わってきています。
教育の再生は、まずはそこから考えないといけないような気がします。

私は学ぶことが大好きでしたし、いまも大好きです。
働くことも大好きです。
周りの人たちからは、私の人生には遊びがないねとよく言われますが、
働くことと学ぶことと遊ぶことが、私にはほとんど重なっているのです。
どこかおかしいのかもしれませんが、そのおかげで、それなりに楽しい人生になっています。

■責任のない者の責任(2014年5月18日)
昨日、福井でNPO法人心に響く文集・編集局(東尋坊で自殺防止の見回り活動に取り組んでいます)の10周年記念シンポジウムがありました。
朝の10時半から午後5時過ぎまでという長時間で、しかも講演あり演劇あり、映画あり、法話あり、話し合いあり、表彰式あり、といった、盛り沢山のプログラムでした。

東尋坊の現場で見回り活動をしている5人の方のパネルディスカッションもありました。
5人からは、それぞれ実に生々しい話が出されました。
せっかく東尋坊で投身を思いとどまらせた母子の話は、とても悲しい話でした。
母親の異常さを感じた小さな姉妹が、母親に早くお家に帰ろうと泣きすがっていたのに気づいた事務局長の川越さんが声をかけ、なんとか現場から引き戻し、NPOが開いているおろし餅やに連れて来て、話を聞き出したそうです。
迎えに来た家族と一緒に戻ったのですが、悲しいことにハッピーエンドにはならなかったのです。
東尋坊で頑張っても、限界があるのです。
そうしたなかで、毎日、見回り活動をしているモティベーションは何なのか。
古屋さんは、自分の世界が広くなったと言います。
川越さんは、悲しいこともあるが、自分が元気づけられることが多いとも言います。
人助けは、実は自分助けなのだと、実践者のみなさんは言うのです。

話し合いでは、警察や行政の人たちの活動と市民の活動との違いも話題になり、
警察や行政の動きが遅いというような話が出ました。
元警察官の茂さん(心に響く文集・編集局理事長)が、それに関して、とてもわかりやすく話をしてくれました。
茂さんは行政の世界もNPOの世界もよく知っています。
警察や行政は、責任があるために、逆にいろんな制約があり、自由に動けない面があるというのです。
それを聞いて、私は「責任のない者の責任」に気づきました。
責任がないからこそできることがある。
それが市民活動なのだと思ったのです。

昨日のシンポジウムでは、他にもたくさんのことに気づかせてもらいました。
実践者の話は、いつもたくさんの気づきをくれます。
引き続き、何回か昨日学ばせてもらったことを書いてみようと思います。

■NPO法人認知症予防ネット設立10周年記念講演会のお誘い(2014年5月20日)
今度の土曜日の5月24日は、スリーA認知症予防ゲームに取り組んでいるNPO法人認知症予防ネットの設立10周年記念講演会が京都で開催されます。
スリーA認知症予防ゲームは、私も何回か体験し、その実効性の確証を得たので、その普及にささやかに協力しています。
東京では、数回、公開フォーラムやゲーム体験会や研修を開催し、仲間もだいぶ増えてきました。
また、最近は東北でも広がりだしています。

今回は、ゲームの体験はできませんが、
韓国や東北での展開状況や「新人?」の取り組み体験の報告もあり、「スリーA」の広がりを実感できると思います。
講演されるお2人は、いずれも私の友人たちです。
私も、スリーAゲームに魅了されて、ソーシャルの普及に取り組みだしている10人の人の報告をファシリテートする役割で参加します。

概要を下記します。
ご関心のある方はご参加ください。
元気をもらえます。

○日時:2014年5月24日(土)1時半〜4時半まで(1時開場)
○会場:京都市国際交流会館 (京都市左京区粟田口鳥居町2−1 
    地下鉄東西線「蹴上げ駅」Aから北へ(都ホテルを背にして)徒歩4分
○プログラム
講演@ 『韓国における「スリーA」韓国支部報告』
講師:佐々木典子さん(韓国支部支部長 韓国江南大学教官)...
 講演A 『東日本大震災被災地に於ける「スリーA」の役割』
       講師:小林康子さん(全国社会福祉協議会中央福祉学院教官)
 活動発表『スリーA一年生 新人からのメッセージ』
       コーディネーター:佐藤 修さん(コムケアセンター事務局長)
○参加費:1000円 
○主催:NPO法人認知症予防ネット(npo@n-yobo.net)
○後援:京都府、京都市、宇治市、京都新聞、KCN京都
○申込先:npo@n-yobo.net

■「企業は人なり」から「企業はカネなり」へ(2014年5月20日)
昨日、経営道フォーラムという集まりがあり、私がささやかに関わったチームの発表会がありました。
そのチームが行き着いた疑問は、「会社に“人”がいなくなっていはしないか」ということです。
人がパーツになってしまっているのではないか。

発表の前に、こんな話をさせてもらいました。

一昨年4月、関西経済同友会の中堅企業委員会が「企業は人なり」という提言を出しました。
「企業は人なり」という言葉を、私は久しぶりに聞いたような気がしました。
日本的経営が盛んだった頃には、「企業は人なり」はまるで合言葉のようでしたが、最近はあまり聞きません。
経営における人の位置づけは大きく変わってしまった気がします。

現在の企業経営において、人はどう考えられているのか。
もちろん、企業の成長発展を支えるのは人材であるという認識がなくなったわけではなく、どこの企業も優秀な人材を確保したり、あるいは人材育成に力を注いだりしていることは言うまでもありません。
しかし、非正規社員の増加や即戦力になる人材の中途採用の広がりなど、人に対する企業の考え方は大きく変わってきているように思います。
同時に、社員の意識も大きく変わっています。

今の会社は、社員の持っている力を十分に引き出す状況になっているかどうか。
会社の元気とそこで働く人たちの元気とはどうつながっているのか。
人を育てるという名目で、人が押さえつけられてしまっていて、自発的に育つ環境がむしろ損なわれていないか。
企業はやる気のある若者たちにとって魅力的な場になっているのか。
そうしたさまざまな問題が、改めて真剣に考えられなければならない時期にあるように思います。

企業経営にとって、戦略も組織も大切ですが、それらを実践につなげるのは「人」です。
その「人」がいなくなっては、経営は成り立たないでしょう。
その大切なことを、最近の日本の大企業は忘れています。
このままでは、日本の企業は衰退の一途だろうと思います。

そうした認識を踏まえて、チームの行き着いた課題は、「人が育つ企業をどうやって実現するか」です。
答は実に明確でした。
それはまた明日。

■人が育つ企業をどうやって実現するか(2014年5月21日)
昨日の企業時評のつづきです。

人が育つ企業をどうやって実現するか。
「人を人として扱えばいい」というのが、結論です。
それじゃ、答えになっていないと思われるかもしれません。
しかし、私にはそれこそが唯一の、しかも極めて具体的な答だと思います。
発表したメンバーも、この明快な回答を必ずしも意識していないようでした。
しかし、彼らは間違いなく気づいていました。
発表の合間に、「パーツは育たないが、人は育つものだ」と明言していましたから。

人は人として認められれば、育ちだすのです。
ちなみに、「人を育てる」と「人が育つ」とは、似て非なるもの、全く違うことです。
これまでの企業は、人材育成と称して、人を育てようとしていました。
高度経済成長期には、それでもよかったでしょうが、これからの成熟社会においては、人が育つ会社でなければ会社は育たないでしょう。
私はそう思っていますが、昨日、発表会に参加していた企業の経営幹部のみなさんは、どうもそう思っていないようです。
まあそういう人が経営している会社は、役割を終えて、静かに退場していくでしょうから、それはそれでいいことですが。

会社とは本来、人を育てる場でした。
しかし、最近の企業は、「人を壊す(消費する)場」になっているといってもいいでしょう。
メンタルヘルス問題の増加という状況を考えると、そう考えざるをえません。
これに関しては、以前も書いたことがあります。
もちろん、どこの企業も「人材育成」とか「社員研修」に力を入れています。
しかし、人を育てるとは単に労働力としての技能や効率性を高めるだけではありません。
社会性や人間性を高めることだったはずです。
つまり、人を育てる過程で、企業文化や信頼関係も育ててきた。
会社としての一体感や社員の愛社心も、です。
労働力をコストとして考えるようになれば、そんなものへの関心はなくなるでしょう。

しかし、コストとして扱われていたら、人は不安になって、安心して仕事に打ち込める余裕がなくなりかねません。
自らの存在が脅かされていないと信じられてこそ、人は仕事に集中でき、周囲との信頼関係も育てられるといわれます。
今の会社には、そうした「存在論的安心」がなくなってきているのではないか。
もしそうなら、そこでは人は育ちにくいでしょう。
むりやり「育てて」も、身にはつきません。

発表を聞いた後、コメントをしたのですが、そこでこんな話をしました。

フランスの政治思想家トクヴィルは、19世紀初頭のアメリカを旅行して、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすかを、「アメリカの民主政治」と言う名著で報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
彼は、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大していることに注目します。
そして、奴隷制のない北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、奴隷制度が残っている南部では働いている人が見つからないと報告しています。
「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」というのが、トクヴィルの結論です。
この話は、昨今の日本の企業の実態と無縁ではないような気がします。

私の言いたかったことが、伝わったかどうかは確証が持てません。
いや、チーム発表のメッセージさえ、どの程度伝わったか不安です。
発表後の質問は、すべて相変わらずの「企業は金なり」「人材はパーツ〈コスト〉」発想でした。

人が育つ会社を考えるということは、会社そのもののあり方を考えることに他なりません。
会社に人を呼び戻さないと、企業の未来は、ますますおぞましくなります。

いや、もしかしたら、これは企業に限った話ではないのかもしれません。
社会からも、人がいなくなりつつあるのかもしれません。
おぞましい時代になってしまったものです。

■人間的に真っ直ぐ向き合うことの大切さ(2014年5月21日)
18日の「責任のない者の責任」で、福井で開催された「自殺を防止する人命救助活動シンポジウム」での気づきの、その2です。

弁護士の茂呂信吾さんが、東尋坊で活動している茂さんを、人間的に真っ直ぐ向き合っている人だといいました。
まだ茂呂さんが茂さんと知り合う前に、ある事件を通して、茂さんと接した時の感想だそうです。
18日のシンポジウムでは、茂呂さんは「悩みごとを解決するための法律」というテーマで講演してくれました、
その話を聴いていて、茂呂さんもまた、「人間的に真っ直ぐ向き合っている人」だと感じました。
茂呂さんは、相談に来た人の立場から、法律をどう活かしたらいいかを考えています。
そういう人柄がはっきりと伝わってきました。
茂呂さんが、生活保護関係の相談を引き受けることが多くなっているのも、そのせいかもしれません。
生活保護関係の話をする時には、茂呂さんの人間的な熱い思いも伝わってきました。

ちなみに、福井県の生活保護受給者比率は日本全国で下から2番目に低く、1000人当たり4人程度だそうです。
一番比率の高い大阪は1000人当たり32人ですから、いかに少ないかがわかります。
これは、福井県の人たちの価値観に大きく影響していると茂呂さんは言います。
生活保護の申請を勧めても、生活保護を申請するくらいなら、死ねと言ってほしいと涙を流す人もいるそうです。
不正に生活保護を受けている人もよく話題になりますが、こういう実態もあることを私たちは知らなければいけません。
そして、「生きる」とはどういうことかを、お金からではなく、考える必要があると思います。

話を戻して、「人間的に真っ直ぐ向き合う」ということです。
最近、日本では自殺防止対策にかなりの予算が組まれています。
自殺防止活動も広がっています。
しかし、何かが欠けているような気がしています。
それこそが、「人間的に真っ直ぐ向き合うこと」ではないかと、茂呂さんの話を聴いていて、気づきました。
東尋坊の茂さんたちの活動が、ぶれずに10年も続いているのは、「人間的に真っ直ぐ向き合う」姿勢を守っているからです。

人として真っ直ぐに付き合う。
これこそが、自殺に追いやられることのない社会を実現するための出発点です。
人として扱われなくなった段階で、人はすでに生きることをやめているのかもしれません。

この前の記事で、企業から人が消えつつあることを書きましたが、
社会においても、気をつけないとそうなりかねません。
人として生きる前に、まずは周りの人に、人としてしっかりと向き合うことが大切です。
それがおろそかになっていないかどうか、私自身、大いに反省させられました。

■年金生活者の責務(2014年5月22日)
年金生活者という言葉があります。
そこにはさまざまなニュアンスがありますが、年金生活者だから経済的な余裕がないという意味合いが込められています。
そこに、私は大きな違和感をいつももっています。

年金生活者といっても、月額6万円の人もいれば、50万円の人もいるでしょう。
それを一括して「年金生活者」と括ることに、まずは大きな違和感を持ちます。
つまり、年金生活者を理由にして、なにかの説明にすることは、「まやかし」を感じます。
「年金生活者だから経済的余裕がない」という文章は成り立ちません。
同時に、「年金生活者だから悠々自適だ」という文章も成り立ちません。

あえていえば、「年金生活者だから不労所得者だ」という文章は成り立つかもしれません。
というわけで、私は「年金生活者」という言葉は、不労所得者だといっていることなのだろうと思います。
泥棒でも汗して労働していますから、ある意味では、泥棒よりもずるい生き方かもしれません。
つまり、私には「年金生活者」と自分で発言する人は、泥棒に見えてしまうのです。

不労所得で生活するのは、私の趣味ではありません。
私の価値観からすれば、それは快適なことではありません。
所得があるのであれば、やはりそれなりのことをしたくなります。
そうでなければ、家畜のような気分になってしまうからです。

というわけで、年金生活者は、年金をもらう代わりに、やはり社会(年金は社会からもらっていると考えられます)に、お返しすべきだと思うのです。
今の若者が年金受給者になる頃には、支給額も少なくなるでしょうから、たぶん年金生活者なる存在は少なくなる、つまり年金では生活できなくなるでしょう。
しかし、いまは違います。
年金だけで十分に余裕ある暮らしのできる人は少なくありません。
そういうことを考えれば、若い世代からずるいといわれても、仕方がありません。
そう言われないように、年金分くらいは、社会に、いや若い世代のために、働かなければいけません。

私は年金を毎月15万円強もらっています。
それ以外にも、仕事をしてお金をもらうこともありますが、それは会社に入り、会社の活動費や事務所経費として使われます。
個人会社ですので、会社の活動と個人の生活が重なっている面も少なくないため、一部、私の生活費にも使われています。
しかし、会社からは報酬はもらっていませんので、私の生活は毎月15万円の年金で賄われており、私もまた客観的には「年金生活者」と言ってもいいでしょう。
私にとっては、毎月15万円は決して少ない額ではありません。
お金がなくて、仕事が出来ないことが、時にはありますが。
(昔は仕事をするとお金をもらえましたが、今は仕事をするとお金が掛ります)その年金は、今の若い人たちの負担で支給されていることを考えれば、やはりそれなりにお返しを社会にしなければいけないと思っています。
たぶん年金分はお返しできていないと思いますが、そういう認識で、いろんな活動をしています。

高度経済成長期に企業に勤めていた人は、たぶんかなりの年金をもらっています。
先ほど、テレビで、年金長者なる番組をやっていましたが、そこに登場した年金生活者は毎月50万円でした。
自分で積み立てた分もあるでしょうから、それが多すぎるとは言いませんが、「年金生活者の責務」というのがあるのではないかと思いながら、その番組を見ていました。

一生懸命に働いても、年収が100万円くらいにしかならない若者たちがいることを知らなければいけません。
年金をもらえるありがたさを、受給者はもっと感じてもよいのではないかと思います。
そして、年金で生活ができるのであれば、年金制度を支えてくれている若者たちのために何かできることをやりたい。
私はそう思っています。
もちろんそれが私のためになるからなのですが。

■右傾化に打ち克つ新たな思想の話を聴きませんか〈2014年5月23日〉
私の友人の川本兼さんは、長年、独自の「新」社会契約論に立って、「平和」の問題を考察してきています。
川本さんにとっては、最近の日本の右傾化の動きは気になることでしょう。
その流れを変えていくためには、「人間を起点とする社会哲学」が必要だと、川本さんは考えています。
私も全く同感です。
このブログもそうですが、私のホームページも、基調は「人間を起点とする社会哲学」です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m6
ですから、川本さんの活動には共感しています。
これまでも何回か、川本さんの考えを発表してもらう場をつくってきました。
しかし、それはなかなかうまくいきませんでした。

川本さん自身も、いろんな場で考えを発信してきてはずです。
つい最近、川本さんからもらったメールです。

この頃私は、わが国において私の考え方を多くの人に知ってもらうことがどんなに困難なことかをつくづくと感じています。それは、わが国ではほとんどの人がわが国の現状を変えるには世界史的変革が必要であるとは考えていないからであり、それ以上に日本人にそんなことが出来るはずはないと考えているからです。
出来ることなら私は、私の生きている間に私の考え方を多くの人々に知ってもらえたらと思っています。

川本さんが、そう思う気持ちは良くわかります。
私も、同じように感じているからです。
いや、私は川本さんよりも悲観的です。
それで私自身も最近滅入っていたのですが、先日、紹介した「永続敗戦論」の最後の文章を読んで、滅入ることは逃げることだと気づきました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/05/post-2350.html
それでは、私が最近強く感じている「責任」が果たせません。
私も生きている、などとはいえません。

そこで、川本さんの考えを学び、それぞれが考えるサロンを開催することにしました。
議論を効果的にするために、川本さんの新著「右傾化に打ち克つ新たな思想」(明石書店)を読んだ人だけを対象にしようと思います。
書籍「右傾化に打ち克つ新たな思想」は、私のサイトに紹介しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#140420
もし関心を持ってもらえたら、同書を読んでいただき、さらに関心を持ってもらえたら、ぜひ川本さんと一緒に話し合う会を開きませんか。
参加者が5人集まったら開催します。

このまま行くと、日本は恐ろしい社会になりそうな気がします。
そうしないために、怒りだけではなく、学びも行動も必要です。
川本さんには、基本的に了解を得ています。
ぜひ実現したいと思っていますので、一緒にやろうという方は私にメールでご連絡ください。
よろしくお願いいたします。
私のメールアドレスは、Qzy00757@nifty.com です。
本をお読みになって、ご判断いただけるとうれしいです。

■右傾化に打ち克つ新たな思想をテーマにしたサロンは実現しそうです(2014年5月26日)
実にうれしい話なのですが、先日、「右傾化に打ち克つ新たな思想の話を聴きませんか」とこのブログで呼びかけるとともに、昨日、フェイスブックにもその呼びかけを紹介しました。
そうしたら参加したいので本を買ったという連絡が次々と入ってきました。
先ほどで8人の方から開催希望の連絡をもらいました。

なかには「右傾化しているとは思わないが」と言う人もいましたし、「右傾化する人の気持ちがわかる」と言う人もいました。
それだけでも開催する意味があると思いました。
最近は、この種のテーマは、議論よりも実践だという風潮が強いのだろうと思いますし、私自身もそう思うのですが、議論のない実践の恐ろしさもまた、間違いなく存在します。

川本さんの本は2500円を超える本ですが、ある人は「高い本」だけど注文したと連絡がありました。
彼には、スタバのコーヒー4杯分でしょうと応えましたが、こういうところにも、私は時代の危機を感じます。
正直に言って、私自身、2500円の本は高いと感じてしまうのですが、そもそもその感覚を問い質さないといけないのでしょう。

そういえば、昔、本を買うことで思想を支援しようと言う呼びかけを行ったことを思い出しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m21

呼びかけにも、川本さんの「この頃私は、わが国において私の考え方を多くの人に知ってもらうことがどんなに困難なことかをつくづくと感じています」という言葉を引用しましたが、私自身はほぼ諦めていました。
あきらめてはいけないことを改めて知らされました。

参加したいと言う方がいたら、ぜひご連絡ください。
テーマの関係で、敷居が高いと思うかもしれませんが、私が主催しますので、いつもながらのカジュアルな気楽な会です。
本を読むのは大変かもしれませんが、まあサラッと読もうと思えば、サラッと読めますし。

■スリーA認知症予防ゲームの広がりを確信しました(2014年5月26日)
一昨日、京都でNPO法人認知症予防ネットの10周年記念講演会が開催されました。
10年以上前から、「認知症予防」ということを主張し、当時の厚労省の担当官から、「認知症の予防はありえない」と声高に怒られたそうですが、数年前に「認知症予防」が認められ、いまは雨後の筍のように予防策が出現しているそうです。
そうした認知症予防に先鞭をつけた「スリーA認知症ゲーム」も、今なおバウチャー(効果確認の証拠データ)づくりが課題なのだそうです。
私自身は、そうした発想が基本的な間違いだと思っていますが、そうした風潮に背を向けるわけにもいかないのでしょう。

しかし、一昨日の集まりに参加されれば、スリーAゲームの実効性は確信できるはずです。
なによりも、全国からたくさんの人たちが集まりました。
そのほとんどが、スリーAゲームの凄さを実感している人たちです。

講演会では、韓国でいち早くこのゲームに着目し、仲間と一緒に韓国での展開に取り組んでいる、韓国江南大学教官の佐々木典子さんが「韓国におけるスリーA」と題して、その広がりと効果を話してくれました。
続いて、全国社会福祉協議会中央福祉学院教授の小林康子さんが「東日本大震災被災地におけるスリーA」と題して話されました。
お2人とも私のよく知っている人ですが、とてもエネルギッシュな人です。
参加者の多くの元気と気づきを与えてくれました。

それにつづいて、最近、スリーAをしって実践に取り組みだした11人の人からの活動報告をしてもらいました。
限られた時間での11人の発表は、それなりにファシリテーターが必要だということになり、私がその役割をさせてもらうことにしましたが、いずれの取り組みも示唆に富むものでした。
いずれにしろ、実践者はみんな元気になってしまうのです。

発表者には、マスメディアの方にも参加してもらいました。
京都新聞の日下田さんとKCN京都テレビの村瀬さんです。
お2人のお話もとても説得力がありました。

会場には全国から大勢の方が参加してくれました。
私の知った方も少なくありませんでしたが、驚いたことに私が住んでいる千葉県の我孫子市からも2人の参加者がありました。
その人たちの反応を見ていると、間違いなく、スリーAは、これからますます広がっていくでしょう。
理事長の高林さんは、全国にポストの数ほどスリーAの教室を広げたいと言っていますが、どうやら実現しそうです。
講演会の報告はNPO法人認知症予防ネットのサイトをご覧ください。
そしてぜひともみなさんも体験してみてください。
ちなみに、スリーAの精神は、「あかるく、あたまをつかって、あきらめず」です。
スリーAは、認知症予防だけではなく、社会の壊れ防止にも間違いなく効果があります。
それに関しては、また別途書かせてもらいます。

関心のある方はご連絡ください。

■幸せな1日(2014年5月28日)
今日の東京は夏日ですね。
某社の社長が湯島に来るので、一応、Tシャツの上にジャケットを着てきましたが、そんな場合ではありませんでした。

午後、税務署に会社の決算申告書を届けに行きました。
昔は税理士に頼んでいたのですが、最近はほとんどお金の動きがないので、私が自分でやっています。
休業か廃業にしようかと思ったのですが、借金があるのでだめだと前の税理士から言われてしまっているので、やむを得ず会社を続けています。

ところがやってみると、税務会計はとても面白いのです。
確かに面倒ですが、とてもうまく組みたてられています。
会計ソフトがありますが、私はすべて手作業です。
なにしろシンプルの会社ですので。

税務署は少し離れたところにあります。
良い天気なので自転車で行くことにしました。
今朝までパンクしていたとばかり思っていましたが、器具の一部(ムシ)を交換したら、大丈夫でした。
税務署は自転車で20分ほどのところです。
真ん中に東大がありますので、そこを突っ切れば、15分ほどでしょう。
ところが新しい入口から入ったら、道に迷ってしまいました。
久しぶりなのでキョロキョロしすぎたためかもしれません。
しかし何とかたどり着けました。
申告は、何しろ内容が簡単なのですぐ終わりました。
ところが、昨年まで出張受付してくれていた都税事務所の方がいません。
今年から出張受付はやめたので、都税事務所に行ってほしいと言われました。
ここからまた自転車で15分、しかもかなり長い坂があるのです。
しかし、天気も良かったので、意を決して行くことにしました。

受付に行ったら高齢の女性の方が、親切に受け付けてくれました。
最近の税務署の方はみんな親切です。
ところが納めるべき事業税のお金の持ち合わせがありませんでした。
いやはや困ったものです。
残念ながら、持ち合わせがないのなら、税金はいいですよとは言われませんでした。

帰りのエレベーターに杖をついたおばあさんが乗ってきました。
都庁の方が、エレベーターまでその人を見送っていました。
エレベーターのドアが閉まると、そのおばあさんが、だれにともなく、最近の都庁の人は親切で見送ってくれるんですよ、と話しました。
誰も反応しなかったので、私が、「昔とは大違いですよね」というと、いろいろと話しかけられてしまい、エレベーターを降りても勝手に帰れなくなりました。
まあ、しかしそれが人の社会でしょう。

帰りは長い上り坂をミニサイクルの壊れそうな自転車を引きながら帰りました。
あまりに汚い自転車なので、以前、警察の人に盗難車と疑われたことがあります。
それ以来、私は本郷警察の人は大嫌いになりました。
登り切った本郷3丁目の交差点で、自転車マナーの呼びかけを、嫌いな警察の人たちがやっていました。
私の壊れそうな自転車に、夜中に光るミラーをつけましょうかと親切に声をかけてくれましたが、夜は自転車に乗りませんと、ていねいにお断りしました。
信号が赤だったので、そこでもまた「余分な会話」をしてしまいました。
それを聞いていた、高齢の警察官が私の蛍光性のキーホルダーをくれました。
なんだか警察官が好きになりました。
スモールトークの効用は大きいです。

まだ実はほかにも出会いがいくつかありました。
東京でも1時間ほど、自転車で走ると、いろんな出会いがあるのです。
とても幸せな気分になったので、目についた宝くじ売り場で、ジャンボ宝くじは発売していますかと訊いたら、売っていますと教えてくれました。
めずらしくポケットに5000円札が入っていたので、宝くじを買いました。
これが当たるともっと「いい仕事」ができるのですが、さらに忙しくなるかもしれません。当たったほうがいいかどうかは迷うところです。

まあお金がなくても、今日は気持ちのいい日になりました。
汗びっしょりになってオフィスに着きました。
次の来客まで3時間あります。
さて、なにをやりましょうか。

■同じものに触れても、人は違ったものを見ています(2014年6月2日)
先週末、企業の経営幹部の人たちとこれからの企業経営について話し合いの合宿をしていました。
もう20年ほど、毎年4回、こうした合宿を続けています。
そのおかげで、企業の実相の変化を感じさせてもらっています。
正直に言えば、企業の劣化を痛感しています。

その前の2週間の週末は、NPOの集まりに参加させてもらっていました。
いずれも現場重視の誠実なNPOで、双方とも設立10周年を記念した公開の集まりでした。
NPOの世界も、もう20年以上、関わらせてもらっています。
そこでも大きな変化を感じています。
これも正直に言えば、大きな危うさを感じています。

その2つの世界は、大きく違います。
しかし、いずれにおいても、大きなベクトルは感じます。
それは「お金の役割」が大きくなってきていることです。
25年前に会社を辞めた時に、私が念じていた方向とは大きく違います。

どういう社会がいいのかは個人の価値観に寄りますから、私がとやかくいうことではありませんが、私の好みではありません。
そうした私の価値観のせいか、経済的には格段に恵まれているであろう企業の人たちよりも、NPOの人たちの方が幸せそうに感じます。
少なくともどちらの人たちの集まりのほうが居心地がいいかと言えば、後者です。
それも、あんまりしっかりしていないNPOのほうが、私は落ち着きます。

先週、若いビジネスマンと話していて、今はいいけれど将来が不安だと言う発言に驚いたことがあります。
さらに驚いたのは、将来が不安だから貯金をしていると言うのです。
驚く私の方がおかしいと思われるかもしれません。
しかし、お金では幸せも安心も買えないのです。
先週末の企業の人たちの話し合いでも、年収が200万円にも満たなければ生活はみじめになってしまうと言われました。
むしろ私は収入が高くなると生活はみじめになりやすいだろうなと心配していますが、人によって見えている風景は全く違っているようです。

企業の皆さんとの合宿では「里山資本主義」の話題を少しだけしました。
14人の人がいましたが、ほとんどの人が知りませんでした。
その本を読んだけれど、極論だと思って読み流していたと、後でメールをくれた人もいました。
言葉は流行っているが、「極端な特殊事例」だと考えるのが、「知識人」の特徴です。
同じものに触れても、人は違ったものを見ているのです。
さらに言えば、その情報を裏づけてくれるメディアの影響も大きいです。
昨夜、NHKで里山資本主義の番組をやっていたので、共感者が増えたことでしょう。
もし企業の人たちとの話し合いが1週間先であったら、反応は違っていたかもしれません。
私たちの考える判断基準は、そんなものなのです。

何を見るかを方向付けるのが、学校教育や企業の人材育成の役割です。
マスコミの影響が、それに輪をかけて大きいでしょう。
そういうことを、最近ますます強く感じています。
社会は壊れてきているのではなく、誰かによって壊されてきているのです。
社会が壊れれば、そこで生きている人もまた、壊れます。
壊れないまま、人生を全うしたいと、最近思い出しています。

■「支え合いー迷惑と遠慮」をテーマにしたサロンのお誘い(2014年6月3日)
6月14日に、「支え合いー迷惑と遠慮」をテーマにしたサロンを湯島で開催します。

先月、福井の東尋坊で自殺防止活動をしているNPO法人心に響く文集・編集局の10周年記念シンポジウムに参加しました。
その時のパネルディスカッションで、見回り活動をしている川越さんが、人命救助を通して、自分自らが救われているのを感ずるとお話になっていました。
助けることと助けられることは、コインの裏表かもしれません。
しかし、「助けて」と言える国へ、と言う本も出ていますが、
今の社会は、なかなか「助けて」とはいえないのかもしれません。
なぜそうなのか。
困った時に、助けてと言えればもっと生きやすくなるはずです。
助けてと言わせる前に、ちょっと手をさしのべるだけで、もっともっと生きやすくなるかもしれません。
そんな話ができればと思っています。

できるだけさまざまな立場の人たちに参加していただければと思っています。
ちなみに、テーマは大きいですが、気楽なカフェサロンですので、コーヒーを飲みながら話を聴くだけでも結構です。たぶん、話したくなるでしょうが。
語関心のある方はどなたでも歓迎です。
どうぞ気楽にご参加ください。
参加できそうな方はご連絡いただけるとうれしいです。

○日時:2014年6月14日(土曜日)午後1〜3時(予定)
○場所:湯島コムケアセンター
 http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:迷惑と遠慮について考える(「支え合い」とは何なのか)
○問題提起者:笹和紀さん
○会費:500円
○参加申し込み先:comcare@nifty.com

ちなみに、私は、「助けて」と言える国より、「助けて」と言わなくてもいい国に住みたいです。

■「自発的隷従論」(2014年6月4日)
今から500年近く前の16世紀半ばに、20歳にも届かない青年が書いた小論を読みました。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」です。
昨年、ちくま学芸文庫から出版されました。
その書名が気になって購入したまま、忘れていました。
薄い文庫本なので、書棚に埋もれてしまっていたのです。
今朝、ある本を探していて、見つけました。
ページを開いたら、こういう書き出しで始まっていました。

「主君が複数いても、なにもよいことはない。頭(かしら)でも王でも、たったひとりが望ましい」と、ホメロスの作中のオデュッセウスは言い放った。
彼が、「主君が複数いても、なにもよいことはない」としか言わなかったとすれば、至言となったことだろう。

その言葉に魅了されて、一気に読んでしまいました。
なぜオデュッセウスの言葉は至言になりそこなったのか。
それに興味を感じたからですが、読み終わって、とても納得できました。
そして、なんでもっと早く読まなかったのだろうと思いました。
この本を読んでいれば、最近の私の厭世観も少しは緩和されていたかもしれません。

本書で、ラ・ボエシは、隷従こそは人間の「第二の本性」と指摘しています。
そして、隷従状況、つまり奴隷や家畜の状況から逃れたいのであれば、それは簡単なことだ、「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ」と言うのです。
つまり、圧政者を支えているのは、圧政を受け容れている被支配者たちだというのです。
権力は、それを認める人がいればこそ成り立っているというわけです。
まさに昨今の政治状況そのものです。

人は生まれながらに自由ですが、その自由の故に、奴隷や家畜になって、実に惨めな人生を送ることになるわけですが、ラ・ボエシは、圧政者(権力者)やそこに群がる人たちを哀れみます。
彼らの人生を評して、「生きていると呼べるだろうか。こんなふうに生きるよりも悲惨な状態があるだろうか」と言うのです。
そして、その生き方は、同時にまた、隷従者たちの人生でもあるといいます。
圧政者と隷従者は、共犯者なのです。

中途半端な紹介ですが、「自発的隷従論」は、家畜的な生き方をしたくない人には、必読書のような気がします。
薄い文庫本なのに1200円ですが、1200円どころではない大きな価値のある本です。
まあ隷従を好む人には、価値のない本ですので、あんまり売れないでしょうが。

■兵士は戦場で何を体験してくるのか(2014年6月5日)
集団的自衛権に関する報道を見聞きしていると、論点がどんどん肯定的な方向に進んでいるような気がします。
これはTPP論議も、最初は是非論だったのに、いまでは内容論に変質しています。
集団的自衛権も、いまや憲法9条はどこかにとんでいるような気さえします。

一昨日の朝日新聞のコラム「終わりと始まり」に池澤夏樹さんが「死地への派遣 国家に権原があるのか」と題して、政府の動きに異議申し立てをしています。
その最後に、驚くべき数字が出ていました。
引用させてもらいます。

イラクに派遣された自衛隊は1人も死なず、(たぶん)一人も殺さずに戻った。憲法第9条が彼らを守った。それでも帰還隊員のうちの25名が自殺したという報道がある。一般公務員の1.5倍と普段から自殺率の高い職場ではあるが、イラク後はそれが一桁上がった、戦場の緊張の後遺症が疑われる。

帰還隊員に、そんなに自殺者があったとは知りませんでした。
もしこの報道が事実であれば、私たちはそこから学ぶことがあるはずです。
自殺は氷山の目に見える一角だけかもしれません。
その背後にあるものも見なければいけません。

イラク派遣の第一陣の隊長だった佐藤正久国会議員は、一体、何を見てきたのでしょうか。
彼の発言を聞きながら、いつも思うのはそのことです。
私はもう徴兵はされない歳ですが、仮に若くても、国家政府に命じられて、人を殺したくはありません。
それに戦争は常に「自衛」のためのものです。
問題は、同盟でも自衛でもなく、人を殺す戦争です。
問題の本質を見誤っては、答えは出てきません。
500年前の若者の感性を取り戻したいものです。

■常識と良識(2014年6月6日)
私は、かなり「常識」が欠落している人間です。
そのことに気づいたのは、この数年ですが、あまりにも「常識」が欠落しているので、逆にまわりには気づかれないようです。
付き合いの深い娘たちは、かなり前から、私の常識のなさを口にしていましたが、やはり娘たちが正しかったようです。

今日、ビジネス絡みの話をしていて、相手の人に「私は常識が欠落しているから」と発言したら、相手の人がそうは思えないと応えました。
以前、その人とビジネス上のトラブルを起こした人が、私が仲介してくれるのであれば話し合うと言ってきたことがあります。
私は双方を知っていたので、仲介はしないが話し合いの場に同席はすると言って、話し合いが実現し、問題も解決しました。
その時に、相手の人が、「佐藤さんはしっかりした常識ある人だからそれぞれの言い分を聞いてほしい」というようなことを言ったのだそうです。
そういえば、そんなことを言われた気もします。
そのことを言いだして、「私の常識のなさ」を彼は否定したのです。

しかし、繰り返しますが、私は常識がありません。
そしてそれは決して、謙遜しているわけではありません。
ただ事実なのです。
それに、常識があればいいというわけでもありません。
むしろ私にとっては、「常識」という言葉は、あんまりいい意味を持っていないのです。
そもそもこのことからして、私は「常識」がないのです。

アントニオ・グラムシは、国民みんなが持つ共通した感覚や判断基準を「常識(コモンセンス)」と言いました。
それは、「地域的ないし国民的な伝統にしばしば深く根ざした文化的社会化の長期的な慣行の中から形成される」ものです。
そうした常識に対して批判的に対峙し、形成される感覚や判断基準を「良識(グッドセンス)」としました。
例えば、原発再稼働や尖閣は日本の固有領土は常識であり、反原発や国家固有の領土などないは良識です。
常識と良識は違うのです。
私が大切にしているのは、良識です。
最近の記事につなげて言えば、隷従者は常識の民です。

しかし、グラムシの定義では、常識のない良識はありません。
常識があればこそ、良識が育つのです。
常識のない良識は、いささか危うさがあります。
独りよがりの「良識」は、「常識」よりも悪性かもしれません。
だから、私ももう少し「常識」を持たねばいけません。
妻がいた時には、妻がその常識をある程度、教えてくれましたが、最近は誰も教えてくれないので、ますます常識がないと娘から叱られています。
このブログを読んでくださっている方は、私の独りよがりの良識に辟易することもあるでしょう。
そうならないように、常識を身につけなければいけません。
しかし、その方法がなかなかわからない。
実に困ったものです。

■オメラスとヘイルシャムの話その1(2014年6月10日)
いま放映されている「MOZU」というテレビドラマのなかで、「オメラス」の話が登場しています。
それが、そのドラマの一つのモチーフになっているようです。
「オメラス」は、数年前に、マイケル・サンデルの白熱教室でも話題になったことがあります。
こんな話です。

オメラスは幸福と祝祭の美しい町です。
しかし、オメラスにある地下室に一人の子供が閉じ込められています。
その子は知能が低く、栄養失調で、世話をする者もおらず、惨めな生活を送っています。
オメラスの住民たちは、みんなそのことを知っています。
そして、もしその子を不潔な地下から救い出したら、その瞬間にオメラスの町の繁栄、美しさ、喜びはすべて色あせ、消えてなくなる、ということも知っています。

この話を紹介して、サンデルは、あなたならどうするかと問います。
あなたならどうするでしょうか。
その子を救い出すでしょうか。
これは、決して私たちの生活に無縁の話ではなく、むしろ私たちの生活そのものを象徴している話です。
「コラテラル・ダメッジ」の問題にもつながる、政治の話でもあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013
ちなみに、この話は、『ゲド戦記』の原作者 アーシュラ・ル=グウィンが1975年に出版した短編小説集『風の十二方位』の中にある『オメラスから歩み去る人々』に出てきます。
私自身、オメラスから去ることができるかどうか自信はもてません。
だから思い出したくない話です。
しかも、その子どもは、時々こう訴えかけるというのです。
「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」。
耳をふさぎたくなります。

先日、「自発的隷従論」を読みました。
西谷修さんの解説が掲載されていますが、そこにカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』が言及されています。
これに関しては、先日、挽歌編で書きました。
あまりに哀しすぎて、とても読むことができないだろうと思っていました。
ところが「MOZU」で「オメラス」まで出てきてしまったので、気になりだしました。
それに今まさに私が住んでいるこの社会は「オメラス」そのものだという感じが日増しに強くなってきています。
それで思い切って、昨日、『わたしを離さないで』を読んでしまったのです。
やはり読まなければよかったと思いました。
これほど哀しい小説を読んだのははじめてです。
筋を知ってしまっているために、最初から胸が苦しく、辛かったのですが、ナイーブなオプティミストと言われるだけあって、カズオ・イシグロの文章は、深い哀しさの中にも、どこか人間味のあるあたたかさを感じさせ、終わりまで一気に読み終えることができました。
しかし、読後の疲労感は、半端ではありませんでした。
気を紛らわせようと思って、テレビをつけたら、子どもを放置して死なせた父親のニュースが報道されていました。
なんと父親が子どもを遺棄した時に、聞いた言葉が「パパ」。
「オメラス」そのものではないか!
昨夜は眠れない夜を過ごしました。

あまり自信はないのですが、オメラスとヘイルシャムの話を少し書こうと思います。
ヘイルシャムは、『わたしを離さないで』の第1部の舞台です。

■オメラスとヘイルシャムの話その2(2014年6月10日)
オメラスの話は前回紹介しましたので、ヘイルシャムの紹介をします。
カズオ・イシグロはイギリスで活動している作家ですが、両親は日本人です。
10年近く前に出版された『わたしを離さないで』は、移植用臓器を供給するために育てられたクローンたちが、自らの運命の枠内で定められた短い生をまっとうしてゆくという物語です。
西谷さんが引用しているように、彼らはまさに「隷従」の生を生きています。
挽歌編では一度、引用していますが、西谷さんのクールな文章をもう一度引用させてもらいます。

彼らは成長するとまず「介護人」にそしてやがては「提供者」となり、何回かの「提供」を経てそれぞれの生を「まっとう」してゆく。そこにはこの理不尽な運命に対する抗議や抵抗はほとんどなく、それが自分たちの自明の生の形であるとでもいうかのように、彼らは従容として枠づけられた階梯をたどり、成長しそして短い生を終えてゆく。彼らは、自分たちの生がいわば他者たちの道具の地位に限定されており、その枠内でしか生きられないという条件をそのまま受け入れ、その限界のこちら側に留まって生を終える。その気があれば越えられるとも思われるこの不条理で理不尽な限界が、魔法の結界ででもあるかのように、彼らはそれを越え出ようとはしない。

恐ろしいほど、哀しい話であることがわかってもらえるでしょう。

このクローンが子ども時代を過ごす場所がヘイルシャムです。
ヘイルシャムには、さまざまな意味が含意されているようです。
「カズオ・イシグロ」の著者である平井杏子さんによれば、ヘイルシャムとは、〈健康であれ〉という意味のヘイルと〈まがい物〉〈見せかけ〉という意味のシャムとをつなげた言葉です。
さらに平井さんは、英国における原子力ステーション、ヒーシャムを連想させるとも書いています。

クローン人間を作り出す話は、手塚治虫の「火の鳥」を初め、たくさんあります。
映画もたくさんあって、最近では映画「オブリビオン」があります。
いずれも哀しい話が多いです。
そもそも遺伝子操作やクローンは、哀しい話なのです。

もしクローンが、移植用臓器用につくられるのであれば、それはあくまでも「物体」であって、魂をもったら、臓器を取り出すことができなくなりかねません。
SF映画では、溶液の中に培養した生体物として描かれることも多いですが、『わたしを離さないで』では、効率性を考えて、臓器を別々に培養するのではなく、「ヒト」として育て、必要に応じて、臓器を摘出するのです。
そうして生まれた「ヒト」は魂、知性、感性をもつものかどうか。
クローン人間は魂を持つか、それが『わたしを離さないで』のテーマです。

そうして生み出されるクローン人間は、いったい何なのか。
気が遠くなるような話です。
私が遺伝子工学に不気味さを感ずる事の、まさに本質がここにあります。
原子力科学と遺伝子科学は、私には全く受容できない科学です。

それはともかく、「劣悪な環境のもとに飼育されている移植臓器生産用クローン」への流れに反発を持った人たちが、クローンの情操がどこまで育ちうるかということで、子どもたちの創造力の育成に取り組むためにつくったのが、ヘイルシャムです。
そこで育てられた子どもたちの「人生」が、本書で描かれています。
彼らは、魂の核と言ってもいい「愛」にたどりつきます。
それが愛かどうかは、私にはよくわかりませんが、少なくともこの作品に登場する、クローンではない人たちよりは純粋な愛のような気もします。

まだ考えが整理できていませんが、現代の私たちの生活は、やはりどこかで何か間違っているような気がしてなりません。
なぜそこまでして生きなければいけないのか。
もっと自然に生きることに素直でありたいと思います。

■オメラスとヘイルシャムの話その3(2014年6月10日)
ヘイルシャムは、オメラスの町の地下室といってもいいでしょう。
ヘイルシャムの子どもたちは、オメラスの場合と違って、一見、大切に育てられていますが、それこそが最大の悪事かもしれません。
ことの本質を見えなくしてしまうからです。
小説では、ヘイルシャムの秘密が最後に、その活動の推進者だったエミリー先生によって明らかになるのですが、その時のエミリー先生の態度がはきわめて他人事なのです。
読んでもらうとわかるのですが、彼らの活動はクローンの人生への共感からではなく、自らの気休めのためとしか思えません。
著者は、それをあまりにも赤裸々に示唆しています。
著者の、同時代人への怒りを感じます。

私はこの数年、いわゆるケアの世界にささやかですが、関わっています。
そこで一番やりきれないのは、支援側にいる人たちの人間観です。
もちろんすべてがそうだとはいえませんが、どこかに「支援してやっている」という雰囲気を感じてしまうのです。
それが悪いとは言えないでしょうが、私にはやりきれません。

この小説の中で、ヘイルシャムを構想し、実践したエミリー先生は、真実を知りたいと訪ねてきた子どもたちにこう語るのです。

わたしたちがしてあげられたことも考えてください。振り返ってごらんなさい。あなた方はいい人生を送ってきました。教育も受けました。もちろん、もっとしてあげられなかったことに心残りはありますけれど、これだけは忘れないで。

私が最も嫌いな発想です。
大切なのは、みんな同じ仲間なのだと思うことです。
自らの出来ないことをこそ、悩むべきです。
それがなくて、相手を支援しようなどと思っては、どうしても観察者的になる。
それでは、一番大切なことが抜けてしまいます。
関わる問題が、自殺であろうと認知症であろうと障碍問題であろうと、それが自らの人生の問題であると思えるかどうか、です。
それがなければ、オメラスの地下の子どもに同情し、彼に衣服やパンを贈ろうとするのと同じです。
つまりは、オメラスの幸せを享受しつづけようというわけです。
自らの生き方につながらない社会活動はありえないのです。

■オメラスとヘイルシャムの話その4(2014年6月11日)
オメラスの人たちが幸せでなかったことを知っていたのは、宮沢賢治でした。
賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と、「農民芸術概論綱要」に書いています。
地下室の子どもの犠牲の上に、自らの幸せはないとわかっていたのです。
そして彼はそれに基づいて生きました。

ヘイルシャイムのエミリー先生もまた、それに気づきました。
しかし、彼女は子どもたちを自分の仲間とは考えませんでした。
そのために構想は挫折し、彼女もまた自らの世界に引きこもりました。
子どもたちは同情の対象でしかなくなってしまったのです。
つまりは自分とは違う、地下室の世界をつくりあげたのです。

しかし、誰かの犠牲の上に、幸せな国は創れるでしょうか。
これは、おそらく「問題の立て方」が間違っています。
「問題の立て方」によって、世界はまったくちがったものになることは、このブログでも何回か書いてきました。
どんな難問も、問題の立て方ひとつで解けることもありますし、ことの本質を隠蔽することもできます。
ヘイルシャムをつくれば、問題が解決するわけではありません。

宮沢賢治の考えによれば、誰もが犠牲にならないことが「幸せになること」なのです。
コラテラルダメッジなどあってはなりません。
生贄を求める宗教と苦楽を共にする宗教との違いでもあります。
ここでも日本古来の宗教観と現代世界の宗教観が異質であることがわかります。

日本人は無宗教という言葉ほど、私の嫌いな言葉はありません。
熊野が世界遺産になった頃に出版された「熊野 神と仏」(原書房)に、熊野本宮神社の九鬼家隆さんと金峯山寺の田中利典さんと宗教人類学者の植島啓司さんの鼎談が載っていますが、そこで熊野の意味、宗教の意味がわかりやすく話されています。
田中さんは、「私は無宗教です」というのは「私は倫理観をもっていない恐ろしい人間です」というのと同じことになるとまで言っています。
前にも書きましたが、私もそう思っています。

話がそれてしまいました、地下室の子どもを仲間だと思えるかどうか。
それが大切なことです。
それがないといま裁判になっている韓国のセウォル号の船長と、結局は同じになってしまいます。

話が次から次へと拡散しますが、そこにこそ問題の本質があります。
オメラスもヘイルシャムも、まさに現在の社会と私たちの生き方を象徴している話なのです。
大切なことは、それに気づくかどうかだろうと思います。

■オメラスとヘイルシャムの話その5(2014年6月11日)
宮沢賢治とは違う意味で、ことの本質を感じていたのは、トミーです。
トミーは、ヘイルシャムで育てられた「できのわるい」子どものひとりです。
癇癪を起こしては問題ばかり起こしていました。
主人公のキャシーと、エミリー先生の話を訊きに行くのですが、エミリー先生がいなくなった後、2人はこんな会話をします。

「ヘールシャムで、あなたがああいうふうに癇癪を起こしたでしょ? 当時は、なんで、と思ってた。どうしてあんなふうになるのかわからなくて。でもね、いまふと思ったの。ほんの思いつきだけど…。あの頃、あなたがあんなに猛り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかと思って…」
  トミ−はしばらく考えていて、首を横に振りました。「違うぜ、キャス。違うな。おれがばかだってだけの話だ。昔からそうさ」でも、しばらくしてちょっと笑い、「だが、面白い考えだ」と言いました。「もしかしたら、そうかも。そうか、心のどこかで、おれはもう知ってたんだ。君らの誰も知らなかったことをな」

小説の登場人物のことを詮索するのもおかしな話ですが、キャシーの考えはとても納得できます。
トミーは知っていた、いや、感じていたのです。

最近、子どもたちの世界がおかしくなっているような気がしますが、もしかしたらそれは子どもたちが地下室の子どもの存在を感じているからではないかという気がずっとしています。
あるいは、ヘイルシャムの外の世界を感じているといってもいいかもしれません。
そう考えると、ここでも「問題の立て方」がまったく違ってくるはずです。

人の心は、時空間を超えてつながっています。
言語や文字や知識を通して、人はつながっているわけではありません。
地下室の子どもの声は、聞えているのです。
しかし、聞きたくないために聞こえないのかもしれません。
新しい知識を学ぶことは、ある意味では現有する知識を捨てることでもあります。
知ることは、実は知らないことを知ることなのですが、いまの教育観や学校制度はそうなっていないように思います。
疑うための知識ではなく、疑うことをやめることの知識が横行しています。
学校で学ばなかったことはすべて切り捨てられます。
疑うことのない人間を創りあげていくのが、もし教育であるとすれば、教育ではなく飼育というべきでしょう。
知識は力にもなりますが、力を削ぐこともできるのです。

トミーの癇癪に話を戻します。
大きな変動の前には予兆があります。
昨今の子どもたちの世界に、何かの予兆が含まれているのではないか。
そんな気がしてなりません。

いささかテーマから逸脱しすぎたかもしれませんが、子どもたちの世界は、時空間を超えているような気がします。
私自身がそうだったような気がしますので。

■オメラスとヘイルシャムの話その6(2014年6月11日)
オメラスの話に戻ります。
「オメラスから歩み去る人々」の題名にある人たちはどういう人でしょうか。

その短編の最後はこうです。

彼らはオメラスを後にし、暗闇の中へと歩みつづけ、そして2度と帰ってこない。彼らがおもむく土地は、私たちの大半にとって、幸福の都よりもなお想像にかたい土地だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。彼ら……オメラスから歩み去る人びとは。

先が見えなくとも、進まなければいけない時がある。

若い頃読んだアーサー・C・クラークの「都市と星」を思い出しました。
アーサー・C・クラークは、話題になった映画『2001年宇宙の旅』の原作者です。
『都市と星』はなんと10億年後の地球の話ですが、そこに建設された都市ダイアスパーは完璧な都市と言われるほどの理想郷で、住民たちはオメラスのように、何不自由なく幸せに包まれて暮らしていました。
しかし、ひとりの若者がその理想郷から外部への旅に出かけるという話です。
実は、「外部に出たい」と思うと言うことは、「幸せではない」ということなのですが、ほとんどの人は先が見えない道に歩みだすことよりも、現状にとどまることを望みます。
その結果、現状を幸せだと思い込むことになるわけです。
確かに外部はこれまでの安住の世界とは違います。
踏み出すことによって失うことも多い。
得るものも多いでしょうが、それは確信が持てません。
そうやって、みんな現状に甘んじてしまう。

これは現在の原発依存社会そのものです。
しかし、先が見えなくとも、進まなければいけない時がある。

オメラスの幸せもダイアスパーの幸せも、実は「小さな幸せ」でしかありません。
「幸せ」とは比較概念ですから、「大きな幸せ」から見れば、「小さな幸せ」は「不幸」だともいえます。
念のために言えば、どちらがいいかは人それぞれです。
餌にこと欠かない動物園で暮らすのも幸せならば、餓死の危険のある野生の生き方も幸せです。

私は25年前に会社を辞めました。
それで幸せになったかどうか。
数年前までは幸せだったと確信していましたが、最近は迷いがあります。
しかし、「迷い」こそが、幸せの本質なのかもしれません。
ちょうど、知れば知るほど知らないことを知るのと同じように。

■オメラスとヘイルシャムの話その7(2014年6月12日)
カズオ・イシグロは、「わたしを離さないで」に最初に取り組みだしてから、いろいろと題材を変えて書き直したそうです。
最初は『原発』をテーマにしたそうです。
考えてみると、原発社会はまさにオメラスそのものです。

今朝の朝日新聞に、福島原発事故時に内閣官房審議官(広報担当)だった元TBSアナウンサーの下村健一さんの当時の記録ノートの内容が紹介されています。
相変わらず真相は藪の中ですが、こうして少しずつ見えてくる事実もあります。
見えてくるたびに、私はいつも「なぜ少しずつなのだろうか」と思います。
そして、みんな本気で事実を見たくないのだろうな、と思ってしまいます。
人は見たくないものは、できるだけ見ないようにしてしまうものです。

私が「反原発」になったのは、35年ほど前に東海村の原発を見せてもらってからです。
そこで「季節労働者」の作業員が被曝しながら作業をしている話を聞きました。
それを知って以来、原発反対ですが、にもかかわらず原発でつくられた電気に依存する生活はつづけています。
もちろん節電はしていますが、東電の電力にわが家の暮らしは依存しています。
結局は、オメラスの人たちと同じわけです。

エミリー先生は、キャシーやトミーに向かってこう言います。

癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます? 不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます? そう、逆戻りはありえないのです。
あなた方の存在を知って少しは気がとがめても、それより自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。それで、長い間、あなた方は日陰での生存を余儀なくされました。

一度、知ってしまった利便性は捨てられなくなります。
皮肉なことに、他者の利便性をもたらすために自らは一層惨めになろうとも、いつかその利便性が自分のものにもなるという勘違いも横行します。
なぜか多くの人は、幸せのトリックルダウンを考えてしまうのです。
幸せを得ている人とのつながりは、実際にはありえないのですが、あると思う一方で、地下室の子どもとのつながりは、実際にはつながっているのに、それが見えなくなります。
エミリー先生もこう言っています。

世間はなんとかあなた方のことを考えまいとしました。
どうしても考えざるをえないときは、自分たちとは違うのだと思い込もうとしました。
完全な人間ではない、だから問題にしなくていい。

想像とは、往々にして、ご都合主義的なのです。

■オメラスとヘイルシャムの話その8(2014年6月13日)
STAP細胞論文事件はまだごたごたと尾をひいています。
報道によれば、小保方さん側に不正があったとされていますが、虚実はまさに藪の中です。
そもそも遺伝子工学は、私にはおぞましい世界です。
生命を物質と同じように対象化する発想にはどうも馴染めないのです。

生命は「考える存在」です。
考えているのは脳だけではありません。
細胞一つひとつが考えている。
クローンによって生み出されるものも例外ではないでしょう。
もし移植臓器が不整合を起こすことがあるとしたら、それは機械的なパーツではないからです。
つまり、ヘイルシャムで実験するまでもなく、細胞も臓器も「感情」や「意思」を持っているのです。

その「感情」や「意思」は、しかし時間によって進化します。
人間は科学を発展させたが、自らの精神はあまり変わっていないとよくいわれますが、そんなことはないと思います。
人の感情や精神は、大きく変わっているように思います。
人間に「意識」が芽生えたのは3500年ほど前という説に私はとても納得できますし、この100年の日本の歴史を見ても、「感情」や「意思」は明らかに「進化」しています。
人間観や生命観は大きく変わっています。

たとえば、500年ほど前には、南北アメリカ大陸のネイティブたちは、ヨーロッパ人たちにとっては同じ人間とは思われていませんでした。
だからこそ、バッファローと同じような殺戮が行われたわけです。
そしてそれから300年以上にわたって、アフリカ大陸から1000万人のアフリカ黒人が貿易の対象にされ、商品として輸入されたのです。
キリスト教徒の国であるにもかかわらず、です。

さらに、100年ほど前にコンゴで行われたおぞましい事件も思い出します。
ジョセフ・コンラッドが『闇の奥』で描いていますが、黒人は人間の形をしているが、自分たちとは違う存在だという考えが、燻製にした手首の山ができるほどの凄惨な現実を生み出したのです。
そして、そのことが。コンゴ自由国の所有者であったベルギー国王を富ませたのです。

しかし、いまや「人間の形をした別の人間」という概念は否定されました。
であれば、どうするか。
これ以上考える勇気は、いまの私にはありませんが、見えてくる未来には戦慄を感じます。

■オメラスとヘイルシャムの話その9(2014年6月13日)
オメラスの話もヘイルシャムの話も、いうまでもなく、幸せとは他者の不幸の上に成り立つものであることを示唆しています。
その意味では、「幸せ」という概念を持った途端に、「不幸」への不安が発生するというわけです。
概念を持つということは、そういうことですから、仕方がありません。
しかし、そのことに大きな「落し穴」があるような気もします。

私は何か集まりをやる時に、いつも関係者にいうことがあります。
それはどんな結果になっても、結果がベストなのだということです。
それでは「進歩」がないではないかと言われそうですが、体験を重ねることが進歩なのだろうと思います。
もしかしたら、「生きる」ということもそうなのかもしれません。
「生きること」が、そのまま「幸せ」である時代もあったはずですが、いまの私も、残念ながらそうは思えなくなってしまっています。
しかし、「不幸な人生」など、本来、あるはずがありません。

オメラスとヘイルシャムが問いかけてくることは、際限なく、深まります。
またいつか考えたいと思います。
今日は、それどころではない大きな事件がまた起きてしまいました。
こうやって、オメラスとヘイルシャムも忘れられていくのでしょう。
どこかで流れが変わるとは思いますが。

■「「助けて」と言える社会と言わなくてもいい社会(2014年6月15日)
昨日、「迷惑と遠慮」をテーマにしたサロンを開催しました。
このサロンを開くきっかけは、あるメーリングリストで、「助けてといえる社会」に関連した、ある人の投稿です。

その人は、「支え合いの街づくり」をテーマにしたイベントを企画していたのですが、その取り組みを通して、「迷惑と遠慮」を考え出したといいます、そして、こう投稿してきました。

『迷惑をかけたくないので遠慮します』という日本人特有の「美徳的感覚」が、
福祉の大きな障害になっているような気がしてきました。
特に、高齢者になればなる程、その傾向は強いと思います。
そこで、『迷惑をかけたくないので遠慮しません』という感覚を広めることにより、
「助けて!」と言いやすい環境が整い、何が必要とされているのかを具体的に把握することができ、
強いては、それぞれのニーズに対応した、ハートフルなソサエティができるのではないかと思いました。
『迷惑がかかるので遠慮しないで下さい』という働きかけではなく、
自主的に堂々と言える、『迷惑をかけたくないので遠慮しません』という感覚を
広めたいと思っているのですが、佐藤さんはどう思われますでしょうか?

『迷惑をかけたくないので遠慮します』ではなく、『迷惑をかけたくないので遠慮しません』という感覚は、あまりに真実に近いので、私にはかなり抵抗があります。
それで、このサロンを開催したのです。

肝心のこの方は九州在住ですので、参加できませんでしたが、13人が集まりました。
とても刺激的な話になり、予定の時間を1時間も過ぎても終わりそうにない状況でした。

困った時に「助けて」と言えるかどうか、私の世代はもとより、今回参加していた30代の若い女性も「言わない」「言えない」そうです。
周りの若い人たちも、言わないだろうといっていました。
それどころか、そうした私的な悩みなどを普段から話し合う関係性が希薄になっているとも発言されました。
また「助けて」という状況を感じて、声をかけても、なかなか素直には受けてもらえないというような話もありました。
そのくせ、自分のことをわかってもらいたいという思いは強く、誰もわかってくれないという孤立感から自殺まで考えてしまうという話も出ました。
日本では「他人に迷惑をかけてはいけない」という教育やしつけ文化があり、それが「助けて」と言えなくしているのではないかいう話もでました。

話を聞いていて、私は、「助けてと言える社会」というのは、要するに普段からお互いに分かり合える状況が育っている社会だろうと思いました。
言葉としての「助けて」にこだわると、逆に問題が見えなくなってしまうかもしれません。
「つながり」とか「関係性」という言葉も盛んに出ましたが、大切なのは、もしかしたら日常的に「迷惑をかけあう関係性」の回復かもしれません。

「助けて」と言い合おうと最初に出だしたのは、私の記憶では住民流福祉研究所の木原さんです。
もう20年ほど前のことですが、当時、私が馴染める「福祉」概念を語っていたのは木原さんだけでした。
木原さんは、私が取り組んだコムケア活動にも共感し、立ち上げ当初はいろいろと支援してくれました。

「迷惑」に関しては、こんな議論が出ました。
自殺に関して、「自殺する権利」が話題になりました。
自殺は自分だけの問題ではなく、それによって多くの人たちや社会に迷惑をかけるから、そうした権利には反対だという人が少なくなかったのですが、ある人が、「自殺は迷惑をかけるからだめなんですか」と発言しました。
この発言に、迷惑と遠慮を考える大きなヒントがあるように思いましたが、その発言が出た時にはもう予定の時間をかなり超えていたため、話し合いを深められなかったのが残念でした。

ほかにもいろんな議論がありました。
参加者からのお話で、次のサロンのテーマもいくつか見えてきました。
「支え合いー迷惑と遠慮」を根底に置いて、具体的な問題を考えるサロンをしばらく継続したいと思います。
もし問題提起したいと言う方がいたら、ご連絡ください。
サロンの場を用意します。

■破滅への一歩は反転への一歩でもある(2014年6月16日)
世論調査によれば、集団的自衛権を指示する人たちが増えてきているそうです。
こうも毎日、「集団的自衛権」と言う言葉を聞いていると、みんな無意識の中で、それを受容する方向に動くことになりやすいですから、報道が集団的自衛権支持者を増やしているともいえるでしょう。
昨今の報道の恐ろしさが、そこにあります。

イタリアの思想家アントニオ・グラムシは、支配にとっては政治的経済的強制力よりも知的文化的指導が効果的だと喝破していました。
覇権を確保するためには、政治的活動だけでなく、国民の合意形成を促進する知的文化的活動が不可欠だと考えたのです。
政治的覇権は知的文化的活動によって覆すことが可能だと言うことですが、同時に、いわゆる市民社会における知的文化的活動を掌握することによって、覇権(支配権力)を確固たるものにもできるわけです。
そこで、いわゆる知識人の言動が重要になってきます。
おそらく必然的に、知識人は「御用学者」と同じように、現体制を守る側に回るでしょう。
なぜなら、そもそも「知識」のほとんどは現体制のもとで形成されているからです。
知識を発展させていくためにも、現体制に依拠していることが効果的です。
いわゆる「原子力ムラ」の知識人たちが、それを明確に証明しています。

グラムシは、注目すべきは「(新聞や雑誌などの出版全般」であり、「図書館、学校、様々なタイプのサークルやクラブ」であると言っていますが、ここに間違いなくNPOも入ります。
こうした「知を創造する」メディアや組織を誰が抑えるかで、社会の命運は決まってきます。
どうやら日本では、グラムシの期待する組織や人たちは、体制のためのものになってしまっているようです。
多くのNPOもまた、いまやサブシステムになってしまっています。
そうした状況をどうすれば、反転できるのか。

間もなく流れは反転するだろうと確信している私にとっては、実に興味深い問題です。
まあたぶん私が生きている間には、その反転は見られないでしょうが、その予兆を感ずることはできるだろうと思っています。

集団的自衛権は、破滅への一歩に間違いありません。
しかし破滅への一歩は、必ずその反作用を引き起こしますから、反転にも通ずる道なのです。
歴史の皮肉さを思わないわけにはいきません。

■戦争を想定すれば戦争が、平和を想定すれば平和が実現する(2014年6月17日)
私が生きている間には、日本は戦争に巻き込まれないだろうと思っていましたが、最近の動きを見ているとどうもそう安心してもいられないような気がしてきました。
安倍首相の言動は、まさに戦争に向かってまっしぐらで、しかも国民の半分はそれを支持しているのですから、私には信じられない状況です。

集団的自衛権は、いうまでもなく「戦争」を想定しての発想です。
なにかを「想定」して動けば、ほぼ例外なく、その「想定」は現実化する、と私は思っています。
戦争を想定すれば戦争が、平和を想定すれば平和が実現する。
甘いと思われるかもしれませんが、私はそう確信しています。

1週間前の朝日新聞の投書欄に東大名誉教授の石田雄さんが投稿されていました。
タイトルは「人殺しを命じられる身を考えて」でした。
20代の時に石田さんの「平和の政治学」を読んだことが、多分私が「平和」への関心を強く持ったきっかけになりました。
石田さんはもう91歳なのだと、その記事で知りました。
投書は次の文章で終わっていました。

殺人を命じられる人の身になって、もう一度、憲法9条の意味を考えてみて下さい。

おそらく「命ずる人たち」には届かない言葉だろうなと思っていました。
今日の朝日新聞の夕刊に、石田さんの取材記事が出ていました。
何かとても救われた気がしました。
最近の朝日新聞もまた戦争への大きな流れに同調しているように感じていたからです。

「政府は、最も大きな犠牲を払わされる人の身になって、政策を考えるべきだ。声を上げてそれを促すのが、主権者である国民の責任だ」と石田さんは語っています。

なぜか声をあげる元気が出てきません。
体調が戻ったら、集会に出て、元気をもらおうと思います。
しかし間に合わないかもしれません。
みんなどうして、そんなに死に向かって走るのでしょうか。
とても理解できません。

■霞を食べて生きましょう(2014年6月17日)
挽歌編に「霞を食って生きる」ということを書いたのですが、これはちょっといい話ではないかという気がしてきたので、時評編にも書くことにしました。
一部重なっていてすみません。

私の生き方を見て、周りの人が、佐藤さんは霞を食べて生きているわけではないだろうが、どうやって生計費を稼いでいるのかとよく質問します。
霞を食って生きるとは、言うまでもなく、一般的には「浮世離れして、収入もなしに暮らすこと」のたとえです。
会社を辞めた時に、金銭収入と仕事とは切り離して考えることにした関係で、無償で引き受ける仕事が多かったのかもしれません。
たしかに収入は少なかったですが、お金に困ったことはあまりありません。
食事も、質素とはいえ、それなりのものを食べてきました。
決して、中国の仙人のように、霞を食べて生きているわけではありません。

最近、小倉美惠子さんの書いた「オオカミの護符」を読み直したのですが、そこに、「霞」には「修験道での信頼関係の縄張り」という意味があると書いてありました。
小倉さんはこう書いています。

「カスミ(霞)」とは、修験道で「縄張り」を意味するといい、山伏が開拓した檀家・講中(講社)を指す。この「カスミ」は、奉納や布施を受ける経済基盤でもある。

自然とともに生きる修験者たちは、まさに霞を食って生きていたわけです。
信頼関係に支えられて生きていたと言ってもいいかもしれません。
だとしたら、私も、霞を食って生きていたといっても、大きな間違いではありません。

これからは誰かに「佐藤さんは霞を食べて生きているんですか」と言われたら、胸を張って「そうです」と答えることにします。
そして、その人にも、霞を食べて生きることを勧めようと思います。
みなさんもぜひ「霞の味」をお楽しみください。

■STAP細胞と小保方さんのがんばり(2014年6月18日)
STAP細胞をめぐっての「小保方さん事件」は、いまなおマスコミをにぎわせています。
今もって、小保方さんはSTAP細胞があるという姿勢で、発言しています。
さまざまな検証にもかかわらず、あるいはさまざまな疑惑が次々に出てくるにもかかわらず。STAP細胞がないとは言い切れないような「新しい事象」があったことは間違いなさそうです。
それにしても、「権威」や「階層」でしか動かない「科学業界」(それは最近の原発事故への対応の状況から考えても明らかです)での、孤立無援に近い小保方さんの言動を見ていると、小保方さんの言動を信じたくなります。
STAP細胞がどんなものか、私には理解できていませんが、これまでの常識とは違ったなにかの現象に、小保方さんが直面したと考えないと、小保方さんの頑張りは理解できません。
なぜ小保方さんと一緒に、真剣に再現実験をやらないのか、真実を求める科学者であればやりたくなるのが普通だと思うのですが。
それにしても、これほどの逆風にもかかわらず、挫けずに発言し続けている小保方さんには感心します。
見習わなければいけません。

■霞(カスミ)の話のつづき(2014年6月19日)
先日、「霞(カスミ)を食べて生きる」話を書いたら、2人の方からメールをもらいました。
お一人は、挽歌編にコメントを寄せてくださいましたが、その方も「カスミ」族のようでした。
もう一人は、その話の大元である小倉さんからでした。
この記事が彼女の眼にとまってしまったわけです。
いやいやお恥ずかしい。
でも、とがめるのではなく、彼女らしいやさしいコメントでした。

久々に佐藤さんのブログを拝見したら、修験者の「カスミ」について、
とても素敵な読み解きをされていて、思わず大きく頷きました。
こんな風に、拙書からご自身の発想を豊かに立ち上げて下さるものなのか…と知り、気持ちが大きく膨らむように思いました。

「オオカミの護符」を読んでいただくとわかりますが、彼女もある時から、会社勤めを離れて、自らの生き方を始め、今はご自分の映像プロダクションを主宰されています。
小倉さんは、さらにうれしいことを書いてくれていました。

会社組織から離れ、ささやかな自分の場を持ってみると、
佐藤さんが地道に人を繋ぐ場を続けておられることの意味の大きさがわかりかけてきました。

私が25年間、続けている湯島のサロンが初めてきちんと評価してもらえたようで、とてもうれしく思いました。
湯島を閉じようと思った時に、いろんな人が継続してほしいと言ってくれましたが、ほんとは継続をさほど望んでいなかったことはその後の関わり方で私にも伝わってきました。
私が落ち込まないように気遣ってくれたのでしょうから、それはそれなりにうれしいのですが、こんなに苦労して湯島を維持することもないかなと、時々思うこともあります。
でもこうして小倉さんからメールをもらうともう少し続けようと思えます。

ところで、今朝、湯島に来る電車の中で、「高齢者が働くということ(原題RETIREMENT ON THE LINE)」(ダイヤモンド社)を読みだしました。
アメリカにあるヴァイタニードル社を紹介した本です。
ヴァイタニードル社は社名通り、針のメーカーのようですが、従業員の半分は74歳以上です。
「年金生活者株式会社(Pensioners Inc.)」という映画やテレビドキュメンタリーなどで世界中に報道されている会社です。
ぜひ多くの人に読んでほしい本ですが、それを読みながら、カスミの中で生きていたら、人は最後まで働くことができ、幸せであり続けられるということに気づきました。
つまり、カスミを食べて生きることこそ、本来の生き方だったのに、それがいつの間に、カネを食べて生きるようになってしまったのです。
説明不足で伝わらないでしょうが、その本を読み終わったら、少し時評編で紹介させてもらいます。

■カスミ人生論はなかなか通じません(2014年6月20日)
昨日、湯島のオフィスでカスミの記事を書いて、さて帰ろうと思ったら、最近会社を辞めた友人から、近くにいるので寄っていいかと電話がありました。
会社を辞めた後、どうしているかも聞きたかったので、来てもらいました。
非常に行動力のある人で、これまでもさまざまなプロジェクトに関わっていた人です。
しかし、組織での活動と組織を離れての活動は全く違ってきます。
多分そういうことを実感しだした頃だろうなと思っていました。

お話を聞くと、やはりいろんなプロジェクトに取り組んでいるようです。
そうした話をしてくれた上で、でもお金にはならないのですよ、と言うのです。
そこで、まさに「カスミ」の話をさせてもらいました。
実は、その友人も、私の生き方に関して「カスミではなくもっと金銭を得るように考えたほうがいい」といつもアドバイスしてくれていた人です。
ですから、彼にはあんまり新鮮でない話になったようで、「佐藤さんだからできるんですよ」と笑いながらいなされてしまいました。
私としては、お金はいざとなったら無力で、人生を支えてはくれないが、カスミは支えてくれる。それに、カスミもいつかお金になると言いたかったのですが、だめでした。

多くの人がやはり、金銭的に生きることを骨の髄まで滲み込まされていることに改めて気づきました。
ちなみに、その友人は実に柔軟で行動的で、さまざまな世界にも関わっている人です。
困ったものです。

■「集団的自衛権」と「集団的殺傷権」(2014年6月21日)
集団的自衛権の報道を見ていて、いつも感ずるのは、「自衛権」という言葉への違和感です。
多くの人は、この「自衛権」という文字に影響されているだろうなと思います。
いうまでもなく、すべての戦争は「自衛」のために行われます。
一見、単に侵略ではないかと思われるものも、侵略を始めた人の意識には「自衛」の要素があるように思います。
それがいかに自分勝手な論理であろうとも、です。

「集団的自衛権」を「集団的殺傷権」と呼び変えたらどうでしょうか。
ほとんどの人は、それには反対だというでしょう。
しかし、「集団的自衛権」と「集団的殺傷権」とどこが違うのか、私には同じように思います。

いま、パリで陸上兵器の国際展示会ユーロサトリが開催されています。
安倍政権が武器輸出3原則を緩めたために、日本の軍需産業も今回初めて出展しているそうです。
報道ステーションでも一昨日、報道されていて、さすがに古舘さんもコメンテーターも、批判的なコメントをしていましたが、今日のNHKのニュースは好意的に報道していました。
ユーロサトリには、日本の防衛産業を担う13社が参加しているそうです。
ニュースに出た人は、海外でのビジネスチャンスは大きいと喜んでいましたが、この人たちはどういう思いで、武器を売っているのでしょうか。
「防衛産業」という表現を「殺傷機器産業」と呼び変えたら、もう少し悩むでしょうか。
「武器」というのも「殺傷器」と呼びかえたらどうでしょうか。

言葉は、真実を暴くとともに、真実を隠します。
注意しなければいけません。

集団的自衛権は、武器の市場を拡大するために必要なのでしょう。
この2つの動きは、決して無関係ではないのでしょうが、あまりにすべてが急展開しているのがおそろしいです。

■戦争の記憶(2014年6月22日)
私の日曜日は、朝6時からの「こころの時代」と「時事放談」から始まります。
といっても、いずれもテーマや顔ぶれを見て、パスすることも多いのですが、今日は、久しぶりに2つとも見ました。
時事放談は野中さんと古賀さんだったので、見るのを止めようと思ったのですが、見てしまいました。
主要テーマは、集団的自衛権でした。
私はお2人への信頼感をどうも持てないでいるのですが、今日のお2人の発言はすんなり心に入ってきました。
野中さんはもっと過去の戦争のことを学んでほしいと言い、古賀さんはいじめと同じで、被害を受けたほうはなかなか忘れないと言っていました。

上垣外憲一さんの『「鎖国」の比較文明論』(講談社選書メチエ)を思い出しました。
この本は20年前に出版された本ですが、最近たまたま目にすることがあり、先月読んだところなのです。
そこに秀吉の朝鮮出兵が、どれほど酷いものだったか、そして朝鮮にどれほどの被害を与えたが書かれていました。
文禄・慶長の役から100年後に書かれた「朝鮮太平記」を引用して、100年を経ってなお、戦争の惨禍の記憶は生々しかったと上垣外さんは書いています。
文禄・慶長の役は、韓国では「和乱」とよばれているそうで、20年ほど前に韓国のテレビの大河ドラマにもなったようです。
そのドラマのもとになった「和乱」も当時、読みましたが、私の理解していた文禄・慶長の役とはかなり違ったものでした。
私たちの歴史認識は、自虐的であろうとなかろうと、一つの見方でしかありません。
相手には相手の見方がある。
しかし、見方はともかく『事実』は一つです。

数日前の朝日新聞でハーバード大学名誉教授の入江昭さんが、こう話していました。

「本当に日本に誇りを持つなら、当然、過去の事実を認めることができるはずです」
「様々な角度から深掘りして見ることは大切だが、いつ何があったという事実そのものは変えてはならない。例えば日本人でもトルコ人でもブラジル人でも、世界のどの国の人が見ても歴史は一つしかない。共有できない歴史は、歴史とは言えないのです」

都議会での野次や石原大臣の金目発言も、すべて自らの「自信のなさ」からのものだと思いますが、安倍首相ももっと自信を持ってほしい気がします。
ヒトラーもそうでしたが、劣等生が自信のなさからとんでもない事態を引き起こすことは、なかなかおさえきれないおそれがあります。
野中さんが今朝語っていたように、「人を殺す」ことを強要されることになることへの理解が広がっていないのが残念です。

私には戦争体験はないのですが、改めてもう少し本を読んでみようと思います。

■煙石事件の控訴審初公判後の記者会見(2014年6月22日)
煙石事件に関しては、以前、ホームページやブログで書いたことがありますが、
中国放送の人気アナウンサーだった煙石博さんが、銀行で客が置き忘れた現金66600円を盗んだとして、窃盗容疑で逮捕された事件です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2013/07/post-0e63.html
煙石さんは無罪を主張しており、冤罪ではないかといわれている事件です。

先月行われた控訴審初公判後の煙石さんと弁護団の会見がyou tubeで公開されていることを広島の友人が教えてくれました。
ちょっと長いですが、ぜひ見てください。
もうここまできていると思うと、恐ろしさにおそわれます。
http://www.youtube.com/watch?v=trPDzSDlpuE
いつわが身に起こってもおかしくありません。
おそろしい時代に戻っているような気がします。

■2つの暴言に思うこと(2014年6月23日)
都議会議員のセクハラ野次と石原大臣の金目発言は、いずれも発言者が謝罪することで一つの節目を越えました。
謝罪は最低限当然なのに、ここまで来るまでに数日経っていること自体に、今の社会の壊れた実態を感じます。

この問題に関しては、ほぼ同じ論調がマスコミにあふれています。
私の感想は、それとは少しだけ違います。

暴言や失言には、事の実相があらわれるでしょう。
つまり、その背後にこそ、問題がある。
その実態こそを問題にしてほしいと思うのです。
暴言はひとつの現われでしかありません。
そんな発言が出なくても、きちんと取材していたら、そういう実態が見えるはずで、その実態こそを問題にしてほしいと思うのです。
暴言や失言がなければ、問題にできないことにこそ、問題を感じます。
暴言や失言を問題にするのではなく、そこから見えてきた実態や実状を問題にしなければいけません。
それこそがジャーナリズムだろうと私は思います。

もうひとつ感ずることがあります。
お2人の言動は、論外で、悲しくも寂しいものです。
しかし、私たちのなかにも、そういう思いはまったくないのか。

正直に言えば、私は、この2つの発言と同じ思いが全くないと、胸をはっては言えません。
相手が女性であろうと男性であろうと結婚はしてほしいと思います。
住民に犠牲を強いるのであれば、それを補償する十分な金額を提示するべきだと思います。
ですから、お2人の発言(都議会の野次はそれ以上の許しがたいものもありますが)は私にはさほど意外なものではありません。

念のために言えば、だからいいという話ではありません。
状況を考えると、その発言の意図や背景に卑劣なものも感じます。
それは、議員を辞めるほどの暴言だとも思います。
しかし、その一方で、彼らだけを責めていいのだろうかと思うのです。
少なくとも私としては、まずは自分の中にわずかに残っている、そうした思いを問い質したい。
そう思います。
お金では解決できないほどの大きなものを失った被災地の住民たちの怒りへの思い。
結婚は、それぞれの個人にとっての問題であるという認識。
それが、私にはまだまだ欠けていることを、反省しながら、お2人の謝罪を聞いていました。

もっとも、お2人とも、私には「謝罪」しているとは感じられませんでしたが。
でも彼らを非難するだけならば、私自身も彼らとそう変わらないなとも思います。
滲み込んだ「常識」を「良識」に変えるのは、実に至難です。

■「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか:企業で働く人編」パート2(2014年6月24日)
ここでも何回かご案内してきましたが、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドミーティングの第2期が始まります。
その第1回目は、3月に続いての「企業で働く人編」パート2です。

画期的なのは、今回の実行委員メンバーは全員、大企業の経営管理者の3人です。
3月にも参加してくれたのですが、もっときちんと話し会いたいといって、今度は自分たちで企画開催すると言い出したのです。
これほどうれしいことはありません。

そのメンバーは、私が25年関わっている経営道フォーラムのメンバーです。
経営道フォーラムは、経営には心と道が必要だという思いで、友人の市川覚峯さんが始めた活動ですが、私はその第1期から関わらせてもらっています。
毎回、いくつかのチームのアドバイザー役をしていますが、私の姿勢は25年間変わっていません。
企業の世界だけ見ているのではなく社会全体に視野を広げないといけないということです。
できるだけ広い世界に、それも自分の生き方と重ねながら、触れてほしいと思っています。
今回、自ら実行委員に手を上げてきた3人は、そういう私と付き合ってしまったために、超多忙のなかを手弁当で活動してくれているのです。

ラウンドミーティングの案内は次のところにあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info1.htm
テーマは、「40歳代・50歳代の企業戦士の自殺問題を考える」です。
自殺の問題と言うと、いささか腰が引けると思いますが、メンタルヘルスの問題やモティベーションの問題と捉えていただければ、逆に切迫した経営課題にもつながっていくはずです。テーマは重いですが、カジュアルな雰囲気になると思います。
こじんまりしたミニセッションですので、定員に限りがありますが、まだ2〜3人の席があいています。
もし参加されたい方がいたら、ご連絡ください。
ただし、定員に達した場合はご容赦ください。

○日時:2014年7月5日(土曜日)午後2〜4時(終了時間は予定)
○場所:且R城経営研究所5階会議室(東京都千代田区飯田橋4-8-4)
     http://kae-yamashiro.co.jp/outline/access.html#gnavi
○参加費:500円
○申込先:ラウンドセッション実行委員会事務局(comcare@nifty.com)

■年金生活者株式会社のヴァイタニードル社(2014年6月25日)
ケイトリン・リンチの「高齢者が働くということ」(ダイヤモンド社)を読みました。
これはアメリカで80年も続く家族的経営のヴァイタニードル社の紹介です。
著者のリンチは、その会社で実際に働くことまでやって、このドキュメンタリーを書き上げました。
同社は、2008年制作の映画『年金生活者株式会社』で全世界に紹介され、大きな話題になった会社です。

ヴァイタニードル社は販売部門と向上に分かれていますが、その工場は40人のパートタイマーで構成されています。
しかも従業員の平均年齢は74歳、100歳近い人まで働いています。
勤務時間を決めるのは、従業員自身です。
もちろん会社を辞めるか辞めないかを決めるのも従業員です。

高齢者ですので、すでに年金受給者であり、メディケアという医療保険に自分で入っていたりしているので、会社側はその分負担は少なくなります。
ですから、一部には、悪名高いウォルマートのように、低賃金と年金や医療保障の公的費用低負担で高齢者を搾取しているのではないかという批判もあるようです。
そういう批判や捉え方は、従業員も社長もよく知っています。
社長のフレッドは、高齢の従業員を雇用しているのは、社会の利益のため、すなわち孤立している高齢者の健康への悪影響に対抗するためだと述べていますが、一方で、高齢者を雇いたいと考えるのは、自分が善人だからではなく、それがいいビジネスになるからだとも述べています。
従業員もそうした噂を知りながらも、フレッドがやっているのは搾取ではなく公共サービスだと言っています。

パートタイムの、しかも作業効率が低く勝手な勤務時間にしても、不都合なく生産活動が行われているのは、それなりの仕組みや従業員の意識があるからです。
それは本書を読んでもらえばわかります。
2つだけ、そうしたことを示唆する、従業員たちの間で語られている言葉を紹介します。
「フレッド(社長)のために働こう」
「もし働くのをやめざるを得なくなったら、ローザはきっと死んでしまう」
ローザは、同社の最高齢の女性で、本書が書かれた時には99歳でした。
この2つの言葉が、ある意味ではヴァイタニードル社のすべてを語っているかもしれません。

『年金生活者株式会社』であるヴァイタニードル社の魅力が伝わったでしょうか。
私は、そこに、これからの企業のあり方、そして私たちの働き方にとっての大きなヒントを感じます。
長くなったので、もう一度だけ書くようにします。

■働くことには給料よりももっとたくさんの意味がある(2014年6月25日)
ヴァイタニードル社のつづきです。

社長のフレッドは入社したいといってくる人たちについて、ほとんどの人が、「自分が役立っていることをもう一度実感したいとか、単調で寂しい老後の生活から抜け出したい」と考えていると話しています。
「高齢者が働くということ」の著者リンチは、働くことには、支払われる給料よりももっとたくさんの意味がある。働くことによって、社会とかかわることができ、自分が社会に貢献している感覚が得られ、家庭内のゴタゴタから一時逃避することもできる、と書いています。

ヴァイタニードル社の従業員の言葉〈表現は変えています〉を紹介しましょう。

「労働とは人に尊厳を与え、社会とのかかわりを与えるものだ。高齢者がテレビ漬けになっておかしくなってしまう世の中ではなく、人々が年齢を重ねても富の創造に参加し続ける世の中を、そしてそうすることで人々が経済全体を支え、かつそれぞれに経済的・心理的な利益を得られる世の中になってほしい」
「世の中の企業のCEOは、フレッドとは違って従業員のことなど気にかけておらず、自社の株価の上昇だけを望んでいる」

以前勤めていた会社では、従業員は名前のない「匿名の存在」だったが、この会社は家族のようにみんなに名前がある、というような話をしている従業員もいます。
いうまでもなく、社長も「社長」などと呼ばれることなく、「フレッド」と呼ばれているわけです。
働くものたちにとって、「働くことの意味」や「職場の位置づけ」を考えさせられる言葉です。

経営者にとってはどうでしょうか。
社長のフレッドは、高齢の従業員たちは仕事に強い倫理感を持ち、頼りになり、会社が当てにできる経験も豊富だと言っています。
たしかに作業効率は低いかもしれません。
しかし、それを組織として解決し、逆に強みにしていくことこそが、経営です。
この言葉からわかるように、フレッドは優秀なビジネスマンでもあるわけです。
そうしたフレッドが経営しているヴァイタニードル社に出資を要請してきた人もいるそうです。

メディアの見方は、さまざまですが、ヴァイタニードル社の労働をたびたび「セラピー(治療)」と形容し、従業員たちは「同じボート」にこのまま一緒に乗っていくことを高く評価する人たちだという捉え方も少なくないようです。
たしかに、ヴァイタニードル社で働いているから生きていられるんだと認めている従業員も多いようです。

「働く」とは「傍(はた)を楽(らく)にする」だけではなく、「自分をも楽しくする」ものなのです。
最近の日本人の多くが、働くことを忘れているのが残念です。

■エルダーソーシング(2014年6月25日)
「高齢者が働くということ」という本に書かれていたことがとても共感できたので、2回にわたって少しだけ紹介してきましたが、もう一度だけ書くことにします。
それは同書で初めて出会った「エルダーソーシング」と言うことについてです。

エルダーソーシングという言葉は聞いたことがありませんでした。
私が知っていた言葉は、「アウトソーシング」くらいでしたが、それとはなにやら発想のベクトルが真逆のような気がしました。
思い込みのせいでしょうが、エルダーソーシングには敬意が含まれているのに対して、アウトソーシングにはどこか切り捨てる発想を感じてしまいます。

著者のリンチは、こう書いています。

アメリカの製造業者は、コスト削減の圧力に耐えかねて国外に生産拠点を移していったが、ヴァイタニードルのオーナー一族はこの圧力に対し、高齢者を雇用する「エルダーソーシング」という解決策を講じているように見える。

ヴァイタニードルの高齢従業員たちへのエルダーソーシングは、自宅にいながらにしてパソコンや電話でパートタイムのサービスを柔軟に提供するアメリカの(特に女性の)労働者たちへの「ホームソーシング」に似ている。ホームソーシングの労働者たちは、所得を得ながら家事をこなせる柔軟性を享受できる。一方でエルダーソーシングの労働者たちは、自分の時間を自由かつ柔軟に使いたいという、高齢者として追求しているライフスタイルを働きながら維持することができる。

そしてこう続けます。

ヴァイタニードルがエルダーソーシングで成功しているのは、ヴァイタから支払われる給料は「補足的」なものだという考え方のおかげである。それと同時に、同社はこの仕事の「補足的」という性質を多数の従業員が評価する長所にしている。つまり、従業員のスケジュールや価値観に合致する柔軟な労働環境をつくり出している。

同書には、「ヴァイタの管理職は、従業員たちがお互いのつながりや一体感を強める取り組み、各種のケアワークなどを是認していると同時に、従業員の柔軟な働き方を頼りにしている」とも書かれています。

ちょっと書き疲れたので、ここの読み解きはみなさんにお任せですが、いずれにもとてもたくさんの示唆があります。
それをどう読み解くかは、さまざまでしょうが、私はこれらの言葉に企業の未来を感じます。

日本にもきっとこういう会社はあるのでしょうね。

■言葉には敏感でありたい(2014年6月27日)
私たちの思考は、基本的に「言葉」で行われます。
ある意味では、「言葉の世界」に私たちは生きています。
ある新しい言葉との出会いが世界を広げることもあれば、言葉に対する固定観念が邪魔をして現実が見えなくなってしまうこともあります。
しかし、にもかかわらず、私たちは「言葉」にあまり敏感ではないような気がします。

先日、医療に関する話をしていて、相手が「介護予防」という言葉を使いました。
とても抵抗がありました。
「介護の予防?」と思ったのです。
それで思わず、「介護予防」ってなんですか、おかしな言葉ですね、と言ってしまいました。
ところが、その数日後、介護関係の資料を読んでいて、「介護予防」という文字が出ていた二に、何の違和感も持たずに、読み過ごしている自分に気づきました。
さらにその数日後、私自身が「介護予防」という言葉を使っているのに気づきました。
私も、以前から「介護予防」という言葉を受けいれていたわけです。
しかし、考えてみるとおかしな言葉です。
予防介護ならわかりますが、介護を予防するとはどういうことでしょうか。

言葉で失敗したことがあります。
地域包括支援センターの新しい役割をテーマにした委員会の委員にさせてもらったことがあります。
その初顔合わせの時に、事務局の人が「介入」という言葉を使ったのです。
福祉の世界で「介入?」、あまりに権力的で福祉の思想に合わないのではないかと、そう思ってその言葉にかみついてしまいました。
事務局の人やほかの委員は、私が何を言っているのか、理解できなかったでしょう。
私の主張を聞いて、ある大学の教授が、インターベンションの訳語でよく使われるでしょうと私をなだめてくれました。
そういえば、自殺防止の活動を話し合っている時に、事後介入とか事前介入とか、「介入」という言葉を私自身使っていたことを思い出しました。
投身自殺をとめるために「介入」という言葉が違和感なく私の頭に入っていたのです。
いささか気色ばんでしまった自分が恥ずかしくなりました。
事務局には悪いことをしたと反省しました。
そのせいかどうかはわかりませんが、その委員会は2度と声をかけてもらえませんでした。

しかし、やはり「介護予防」にしても「介入」にしても、考えてみるとやはりおかしいような気がします。
私たちはもっと「言葉」(表現)に敏感でなければいけないのではないか。

都議会議員のヤジや政治家の暴言が問題になっていますが、決して他人事ではありません。
私ももっと言葉に敏感でありたいと改めて思っています。
このブログも、かなり粗雑な言葉づかいをしていることも反省しなければいけません。

■現実にはさらに敏感でありたい(2014年6月27日)
言葉に敏感でありたいと書きましたが、言わずもがな、ながら、言葉のもとにある現実には、さらに敏感でなければいけません。
言葉の世界で終わってしまっては意味がありません。

福祉の世界で大切なのは、「介入」が象徴しているような、力の関係ではなく、あるいは一方的な行為ではなく、支え合う関係性ではないかと思います。
そうでなければ、措置型福祉になってしまいます。
もっとも、「措置」から「契約」になったところで、問題は解決しないでしょう。
契約もまた、力の関係だからです。
対等の立場で契約は行われるというのはあくまでも言葉の問題であり、まさにその言葉で、その背景にある現実の力関係や本質的な問題を見えなくしてしまいかねません。

原発事故はコントロール下に置かれたとか、事故は収束したとか、そんな言葉が現実を隠してしまうことを私たちは何回も経験してきました。
集団的自衛権に関する、きれいに仕上げられた解説や条件も、すぐに無意味になるでしょう。
ここでも大切なのは、政権が何をもくろんでいるかの「現実」に思いをいたらせることです。

話題になっている「社会保障亡国論」のなかで、鈴木亘さんはこう書いています。

正しい情報というものは、無料でその辺に転がっているものではない。むしろ極めて入手が難しい希少財です。なぜなら、国民が正しい知識を得て、改革の原動力となることを「不都合」と考える既得権者が正しい情報の普及を拒んでいるからです。むしろ、「今のままで安心だ」とか、「政府や厚生労働省に任せておけば、何も問題はない」「誰もが皆、年金で得をする」といった間違った情報を大量に流布します。今日では、正しい情報でさえ、コストを払って努力しなければ獲得できないものなのです。

言葉に敏感であると同時に、私は現実(「正しい情報」)を知るために、コスト(時間とお金)をきちんと負担しようと思っています。
しかし、これはなかなかの難事です。

■ニーメラーの後悔を思い出します(2014年6月28日)
何回かこのブログでも言及した「ニーメラーの後悔」ですが、最近、毎日思い出します。

ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。
次にナチスは社会主義者を攻撃した。
自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。
それからナチスは教会を攻撃した。
自分は牧師であった。
そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった。

■祈ることの意味(2014年6月28日)
私の一日は、数年前に先立たれた妻への祈りから始まります。
最近その祈りの内容が変わってきました。
以前は妻への感謝の気持ちとともに、ちょっと辛い立場に置かれている身近な友人知人の平安を祈っていましたが、最近は社会の平安への祈りが中心になってきました。
妻に祈ったところであまり意味がないのですが、妻を祀っている仏壇には大日如来が鎮座しているのです。
娘が手づくりし、家族3人で開眼し、お世話になっているお寺で魂を入れてもらった大日如来です。
大日如来の向こうに、私は神がいると信じています。

日本の寺社では毎日、膨大な祈りがささげられています。
伊勢神宮でも春日大社でも、あるいは出雲大社でも、それぞれ毎年1000を超す神事や仏事が行われていると聞きますが、その多くはおそらく社会の平安、人々の平安を祈るものだろうと思います。
私が特に不思議に感ずるのは、神社の神事です。
神社関係の親しい友人がいないので性格には知らないのですが、神社では氏子でさえ見ることのできない神事があると聞きます。
以前、テレビで見た春日大社では、誰も見ることのない神事が、1000年以上にわたって、毎日行われているそうです。
まさに私たちに代わって、神(といっても一神教の神ではなく、自然とかお天道様とかいう意味でしょうが)への祈りをしてくれているわけです。
それによって、私たちの生活の平安が守られていると、私は思っています。

祈りは、私にもできることです。
祈りだけではなにも変わらないといわれそうですが、私の体験では、祈りは確実に自分を変えてくれます。
まずは自分から。
それが私の生き方のです。
まだまだ祈りが足りません。

■一人称自動詞で考える(2014年6月29日)
私が大切にしている事のひとつに「一人称自動詞で考える」ということがあります。
これに関しては、これまでもホームページやブログで何回も書いてきていますが、何か判断に迷う時には「一人称自動詞」で考えると決断しやすいのです。

たとえば、私が死刑に反対なのは、自分が死刑を執行する立場になりたくないからです。
もちろん自らが死刑になるのもいやですが、それはかなりの程度、自分の努力で避けることができます。
しかし、裁判員制度ではないですが、もし仮に死刑執行者になるようなことを命じられても、私には死刑執行はできません。
あんまり論理的ではないといわれそうですが、これが私の判断の仕方です。
同じ意味で、私は裁判員制度にも反対です。
いまの司法制度の枠組みで、人を裁くことをしたくないからです。

集団的自衛権の議論に反対なのも、人を殺したくないからです。
集団的自衛権に賛成する人は、それを覚悟しなければいけません。
安倍首相も石破幹事長も、一人称自動詞ではなく、三人称他動詞で考えているように思います。
集団的自衛権に賛成する人は、ぜひ一人称自動詞で考えてほしいです。

「正義論」で有名なロールズは「無知のヴェイル」という枠組みで、一人称自動詞で考えることを基本にして「正義」を論じています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/blog1.htm#mv
自分自身の位置や立場について全く知らずに(それを「無知のベール」と呼びます)判断を下すことで、自分だけの利益に基づいて判断することを避けることができ、それによって社会全体の利益に向けた正義が実現できるようになる、というのがロールズの正義論です。
いいかえれば、すべての問題を自分の問題として、つまりは一人称自動詞で考えるということです。

この発想を基準にすると、自らの世界が広がるという効用があります。
しかし、その一方で、生きづらくなるということもあります。
たとえば、裁判員制度ですが、嫌いだからと言って、拒否するのは、これまた辛い話です。
ソクラテスは、法に従い自ら毒杯を飲んで死を選びましたが、できればそうしたくありません。
私なら毒杯を飲まずに、逃げただろうと思いますが、逃げた後の人生は毒杯を飲むよりも辛いかもしれません。
一人称自動詞でいきていると、どこかで社会との不整合を強め、破綻しかねません。
そうならないように、現代の学校では、一人称自動詞ではなく、三人称他動詞で考える生き方を勧めているのかもしれません。
そしてそれが「社会人」になることなのかもしれません。

しかし、私はやはり「一人称自動詞で言動していきたいと思っています。

■ちょっとハードなテーマカフェを始めたくなりました(2014年6月30日)
このブログでもご案内しましたが、昨日、川本兼さんの新著「右傾化に打ち克つ新たな思想」を読んだ人たちの少しハードなカフェサロンを開催しました。

川本兼さんは、この30年ほど、高校の教師を続けながら(今は退職されています)、ずっと「人間を起点とする社会哲学」の視点で、人権や平和に関して考え、著作を通じて社会にメッセージを出してきました。
その基本にあるのは「人間を基点とする社会哲学」です。

参加の条件として、川本さんの本を読むことを条件にしました。
どのくらいの人が反応してくれるかと思っていましたが、10人以上の人が本を購入して読んでくれました。
しかも昨日のサロンには9人の人が参加してくれました。
私はそれだけも大きな感激でしたし、川本さんも感激してくれました。

川本さんのお話は、本の内容解説ではなく、なぜこうした考えに達したのかを、個人的な体験談や思考方法などのお話を切り口にして、語ってくれました。
川本さんのお人柄が伝わってきて、それ自身も興味深かったですが、それによりこの社会哲学への親しみも感じました。
私たちは、「基本的人権」とか「社会契約」という言葉をわかりきったように使っていますが、ちょっと考えてみただけでも、そのあいまいさに気づきます。
川本さんは、「与えられた知識」からではなく「自分で考えた後に知る」と言うスタイルで、長年かけて、自らの考えを体系化してきたのです。
実に多彩な人たちが参加してくださり、しかもみんな、知識ではなく思考で話し合う人でしたので、話し合いの幅も多面的で刺激的でした。

社会保障を専門としている本間教授は、線を引きながらしっかりと読んでくれていましたし、昨日、私の隣にいた小林教授も持参された本にたくさん付箋がつけられていました。
いまは教育学を教えている折原さんは、関連した資料やご自身の論考も持参してくれました。
埼玉の地元でしっかりした地域活動に取り組んでいる若林さんは、「社会」をどう捉えるかという問題意識を最初に明確に表明してくれました。
川本さんの思想につながっていると私が思っている品川正治さんの秘書役だった大田さんも、また私の知らなかったことを話してくれました。
いつも辛口の大島さんは、これから議論のためのロゴスを手に入れたと、続きをご自分でもやろうというほどの熱意を語ってくれました。
ロゴスといえば、久しぶりにやってきた桐山さんも。その言葉に反応されていましたが、演劇ワークショップをやっている桐山さんの話をぜひお聞きしたいと改めて思いました。
これまでの自分の発想の枠組みとは違う発想で触発されたと最初に話してくれた西坂さんは、その言葉は使いませんでしたが、ガバナンスの論点を出してくれました。
少し前に富山から首都圏に戻ってきたジャーナリストの飯田さんは、最近、取材した太平洋戦争末期の沖縄戦で「沖縄県民斯(カ)ク戦ヘリ」との電文を残し、自決した大田実中将のご家族のことを紹介してくれました。

参加者のみなさんの共通の思いは、このままでいいのかという危機感です。
3時に終わる予定が、4時半を過ぎても終わらず、しかたなく打ち切りにさせてもらったほどでした。
また発展的なパート2を開催したと思っています。
こんな議論を、こんなスタイルでカジュアルに行う場が、今はほとんどなくなってしまったように思います。
だからこそ、また開催できればと思っています。
事務局を一緒にやってくれる人を募集します。

■「戦わない権利」と「戦わない義務」(2014年7月1日)
集団的自衛権が閣議で合意されました。
私自身は、これで営々と積み重ねてきた平和への新しい挑戦が崩れ去ったと、とても残念に思います。
しかし、私が絶対に正しいとは限りません。
多くの人たちは、発言はともかく、本心ではむしろ喜んでいるのかもしれません。
そんな気がしてなりません。

平和のために「武装する権利」や「戦う権利」を認めている国が、現在は圧倒的に多いでしょう。
アメリカは、そのわかりやすい国の一つです。

日本では「豊臣秀吉の刀狩りを嚆矢とする政策によって、日本の民衆からは「武装する権利」が奪われたと理解されている。だがそれは、民衆に対して「戦わない権利」を保障するものでもあった」と歴史学者の牧原さんは言っています。
兵農分離制は住民たちに「兵士に取られない権利」を認めていたというわけです。
これは日本に限りません。
古代ギリシアも、あるいは最近私がよく観ている韓国の歴史ドラマにも明確に示されています。

皮肉なことに、大正時代の自由民権運動は、そうした民衆たちを「国民」に仕上げることに荷担しました。
「国民」とは、国家に対して権利と義務を持つ存在です。
国家と無縁には暮らすことが許されません。
そして徴兵制が導入されました。
国の戦いに参加できることは、国民の権利だったわけです。
国の戦いに参加することに喜びを感ずる人間を育てるのが、学校教育の大きな目的でした。
そういう流れを再び反転させたのが、憲法9条でした。
国民であっても戦争に行かなくてもいい。
これは、まさに人類の壮大な実験だったと、私は思います。
しかし、やはりどこかに無理があったようです。

「戦わない権利」と「戦わない義務」。
「戦わない権利」はもはや失われそうですが、「戦わない義務」であれば、個人の信条として守ることができるかもしれません。

■国は民のもの(2014年7月2日)
最近私が観ているテレビドラマに、「テジョヨン」という韓国歴史ドラマがあります。
私が、韓国の歴史ドラマを観るようになったのは、韓国の人たちの歴史観、特に日本との関係に関心があったからです。
ですから、日本とのつながりがある、百済や新羅、高句麗などを舞台にしたものです。
ドラマとしてはあんまり面白くはないのですが、並行して韓国の歴史の本も何冊か読みました。
韓国の学校の歴史教科書も、小学校から高校までのものを読んでみました。
私の持っていたイメージとはかなり違っていました。

「テジョヨン」は、高句麗の滅亡から渤海の起こりまでをテーマにした全134話の大作です。
最初は、シナリオがお粗末だし、演技も中学校の学芸会のようだと思いながらも、それなりに有名な歴史上の人物が出てきますので、歴史を学ぶつもりで観ていました。
ところが最近、次回を見るのが楽しみになってきました。
主役のテジョヨンが、苦労を重ねながら、実にまともになったからです。
何がまともかといえば、人を信ずるようになったのです。
それに、信義を破ることがありません。
テジョヨンの息子のコムは、生まれながらにして、人を疑わず、信義を重んずる若者です。
嘘は言わず、真実をごまかすこともなく、弁解はせず、他者を利用せず、もちろんパフォーマンスなどすることなく、正々堂々と生きています。
観ていて、実に元気が出ます。

もう一つ、2人に共通したことがあります。
2人とも、政治とは「民」を守ることだと考えているのです。
国が滅んでも、そこに民がいれば、国は滅びないという考えです。
国があって民がいるのではなく、民がいて国があるのです。
もちろん「国民」などと言って、民に戦いを強要することはありません。
ただ、民がテジョヨンやコムのために立ち上がることはありますが。
もちろん戦いにおいては、自らが先陣を切ります。
民を逃がすために、自分が残って、敵を防ぎます。
その、民への誠実な姿勢を知った、敵の将軍がテジョヨンを生かす場面もあります。
戦いとは無縁のところに自分を置いて、国民に人を殺せと命ずるようなことはしません。

敢えて蛇足をつけ加えれば、2人とも、まずは相手を信じます。
だから相手もまた2人を信じてついてくる。
単細胞な敵は、だからみんなテジョヨンの味方になります。
そこには力による抑止論ではなく、まずは信頼して一歩を踏み出すオスグッドの精神があります。
ただし、小賢しく小欲に毒されている権力者たちは、力依存の抑止戦略から抜け出せず、結局は自らを滅ぼしていきます。

いささかドラマにほれ込みすぎですね。
しかしコムを演じている役者は実にいいです。
役者の名前も知りませんが、私が役者に惚れたのは初めての体験です。

■「ずれた間抜けな人」(2014年7月3日)
世の中にはちょっと「ずれた間抜けな人」がいますが、どうやら私もその一人です。

集団的自衛権反対の激しいデモが官邸周辺で行われていたのは2日前です。
にもかかわらず、閣議決定されてしまいました。
テレビのニュースでは、居ても立ってもいられずに参加したという母親やお年寄りが取材に答えていました。
私はそれを自宅のテレビでぬくぬくとみていました。
罪悪感を少し持ちました。
その前日から体調を崩していたなどというのは、たぶん理由にはならないでしょう。

昨日もやはり出られませんでした。
どこか体調に違和感があり、ダウンしていました。
そして夜になって気がつきました。
因果は逆ではないのか、と。
行くべきところに行っていないので体調不良になっているのではないか。

今日はとても蒸し暑く、朝から相変わらず身体が重かったのですが、官邸前に行くことにしました。
一種の厄落としの気分です。
もう人は集まってはいないだろうと思いましたが、やはり集まってはいませんでした。
警察官が多かったですが、道路をはさんだ官邸前の道路に、一人の女性がプラカードを胸に持って立っているだけでした。
声をかけようかと一瞬迷いましたが、何やら瞑想しているような雰囲気に押されて、声をかけずに、その前を通り過ぎてしまいました。
そして、自分が「ずれた間抜けな人」なのだとますます恥ずかしくなりました。

それにしても一昨日の雰囲気はどこにも残っていませんでした。
反対からやってきた子連れの若い夫婦が、たかだか2日前なのに嘘みたいだね」と話しながらすれ違っていきました。
この3人は一昨日のデモに参加したのだろうかと思いながら、ではどうして今日もまた来たのだろうかと思いました。
ますます自分が「間抜け」に思えてきました。

霞が関のビジネス街と官庁街を少し歩いてみることにしました。
不思議なほどに、全くいつもの通りです。
みんな忙しそうに歩いていました。
それが不思議だと思うことが、そもそも「ずれた間抜けな人」の証拠かもしれません。

この界隈は、以前はよく歩きました。
歩いていて知り合いに会ったことも少なくありませんでした。
しかし、今はもう私は完全に場違いな存在になってしまいました。
近くで働いているだろう知り合いに電話をして食事も誘おうかと思いましたが、それはやめました。
終わった人の誘いは迷惑なことでしょうから。
ましてや「ずれた間抜けな人」とは、人は付き合いたくないでしょう。
カフェでコーヒーを飲もうかとも思いましたが、なぜか気おくれしてしまいました。
こうやって、人は社会から去っていくのだろうなとなんだか奇妙に納得してしまいました。

暑かったせいか、やはりどっと疲れが出てしまいました。
厄払いに来たはずなのに、体調は回復していないようです。
もしかしたら、因果は逆ではなかったのかもしれません。
「ずれた間抜けな人」は、なかなか間を埋められないのです。
困ったものです。

でもまあ、なんとか湯島のオフィスに宿りつきました。
着いた途端に初めての人から電話がありました。
実にいいタイミングでした。
もしかしたら、間が埋まったのかもしれません。
やはり因果は逆だったのです。
いやそんなことはどうでもいいですね。
「ずれた間抜けな人」にも困ったものです。

■オメラスとヘイルシャムの話その10:10羽のニワトリ(2014年7月4日)
先月、オメラスとヘイルシャムに関するシリーズ記事を書きましたが、それを思わせる「10羽のニワトリ」の話を知りました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm
私が大学を卒業した年に、茨城県の千代田村に、脳性麻痺者自身の共同体「マハラバ村コロニー」をつくった大仏空さんの生涯を記録した「脳性マヒ者と生きる」のなかで、大仏さんが仲間に語っている話です。

10羽のニワトリがいる。9羽の調和をよりよく保つためにはどれか1羽を犠牲にしなければならない。その1羽が餌でもとろうものなら他の9羽が一斉に寄ってたかっていじめる。むろんたまごなど産めるわけがない。そんなニワトリでも「つぶして」しまうわけにはいかなかった。その1羽をつぶしてしまえば他の9羽は円満にいくかというとそうはいかない。9羽のうちからまた新たなスケープゴートが生まれるからだ。

20対80の法則というのがあります。
たとえば、アリの集団では2割がとても勤勉だそうですが、その働き者の2割のアリだけで集団をつくると、8割のアリが怠け者になるのだそうです。
逆に怠け者の8割のアリだけの集団にすると、その2割が勤勉になるのだそうです。

生命体の集団には、そうした構造があるようですが、それは個体と全体とが完全には切り離されてはいないということを示唆しています。
10羽のニワトリの話も、そうした構造の一つと考えられます。
1羽を犠牲にしても、また次の1羽が出てしまう。
そして最後には、「誰もいなくなってしまう」わけです。

こうした問題を解くのは難しいように思えます。
事実、オメラスを壊さずに、地下室の少年を救うことはできません。
しかし、実はそう思うところにこそ、大きな落し穴があります。
それは、構造を規定する軸が「一つ」だということです。
価値軸を多様におけば、構造はダイナミックに動き出します。
地下室が高層ビルの最上階になるかもしれません。
金銭軸での大富豪が、友人軸での最貧困者になるかもしれません。
犠牲になる1羽のニワトリが、実は状況主義的に変動するかもしれません。
つまり問題は、現実を固定しようとする私たちの発想にあるのです。
地下室は一つではなく、犠牲になるニワトリも特定される1羽ではないのです。

しかし、そうしたダイナミックな社会に生きるには、かなり大きなエネルギーが必要です。
だから多くの人は、特定の1羽を決めてしまうのでしょう。
学校という仕組みが、子どもたちにそれを教え込んでいるとしたら、恐ろしい話です。
そろそろ学校制度は根本から見直されるべき時期に来ています。
しかし、どうもその反対の動きがいよいよまた強まりそうです。

■社会の埒外で生きられるか(2014年7月6日)
今日、関川夏央さんの「二葉亭四迷の明治41年」という、ちょっと古い本を読みました。
この本は、明治20〜30年代の文壇で活動した青年たちの話です。
そこにこんな文章が出てきます。

明治20年頃「官」たるの道を余儀なく、また意図してはずれ、そして政客でも学者でもなく実業家でもないなにものか、一般に社会の埒外にあるものと見られた文人あるいは言語による表現者となろうとした一群の青年たちが出現した。

それがたとえば夏目漱石であり、二葉亭四迷なのですが、彼らの生き様は見事に無頼漢的です。
社会から少し外れたところから、社会を見、社会に働きかけていた様子がよくわかります。
そしてその人たちが大きな役割を果たしたことも感じられます。

現在はどうでしょうか。
「官」たるの道を余儀なく、また意図してはずれ、そして政客でも学者でもなく実業家でもないなにものか、一般に社会の埒外にあるものと見られた存在になろうとした一群の青年たちは、いるのでしょうか。
いるとしたら、彼らはどこに向かうのでしょうか。
そして、社会は彼らの存在をどう見るのでしょうか。

いや、そもそも、今の日本では、「社会の埒外」に生きることが許されるのでしょうか。
昨日、お会いした人のお兄さんは、どうやらそうした「生き方」を選んでいるようです。
しかし、いろいろと生きづらいのではないかと思います。
今の時代、社会の埒外と言うことそのものが、存在を許されないのかもしれません。
そうしたなかで、埒外を生きつづけていることを支えているのはなんでしょうか。
私のように、中途半端な生き方をしている者にとっては、感心するしかありません。

人がすべて国家の管理対象になってから、日本では150年程が経過しています。
そして義務教育で個性は抑えられ、型にはめられてきました。
それは社会を平和にし効率化するためには効果的でした。
したがってそこに住む私たち一人ひとりにとっても、生きやすさを与えてくれたと思います。
もちろんそういう生き方を望まない人もいるでしょう。

「社会の埒外」の世界というと、あまり良いイメージは持たれないかもしれませんが(たとえばオメラスの地下室)、「社会の埒外」の世界の存在はとても大事なのではないかと思います。
埒外の存在しない社会は、やはり埒内の人にとっても、生きづらいのではないかと思います。

そろそろ社会からはじき出されそうな年齢になったせいか、そんなことを時々思うようになりました。

■自殺は個人の問題か社会の問題か(2014年7月7日)
一昨日、「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」連続ラウンドミーティング「企業で働く人編」パート2を開催しました。
と言っても、私は事務局役を少し手伝っただけで、主催者はパート1に参加してくれた大企業の現役の経営管理職の任にある人たちです。
その経緯は、案内させてもらった時に書きましたが、私としては大感激の集まりでした。
当事者たちがその気にならなければ、問題は見えてきませんし、解決にも向かいません。

そこでの議論はオフレコなので報告はできませんが、参加した人からのメールを少し引用させてもらいながら、少しだけ雰囲気を紹介させてもらいます。

参加者からの感想の一部です。

自殺が、個人の問題か、社会の問題か。
これは、企業が自殺対策を考えるうえで、最初の大きな壁と思われます。
○○さんが途中で、「・・ということを認めると、自殺は個人の問題だと認める事になってしまい、それは避けたいんですよ・・」とおっしゃっていましたが、そのあたりから本音を出し合い、考えを深め合えればと思いました。

少なくとも、その話し合いの入り口までは到達したということです。
ちなみに、参加者は14人、ほぼ半数は大企業の関係者ですが、この集まりに参加するまでは「自殺」の話など自分とは無縁と思っていた人も少なくないはずです。

この集まりのタイトル「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」からわかってもらえると思いますが、私の認識は、自殺は個人の問題ではなく社会の問題として捉えないと実態が見えてこないということです。
しかし、自殺とは個人の問題ではないかと思っている人も少なくないでしょう。
自殺を防止するための仕組みづくりや活動が広がっていますが、問題をどう捉えるかで、対策は変わってきます。
自殺は、個人の問題ではなく、社会の問題、つまり今の社会を形成している私たちみんなの問題と捉えることが、大切ではないかと思います。

今回の集まりではまだ、そうした議論は入り口に到達しただけですが、引き続き話し合いたいというメールも届いています。
それにしても、自殺に関する集まりに、休日にもかかわらず、参加してくれたことにも感激しています。

先のメールの送り手は、最後にこう書いていました。

日本の企業は、日本社会の大きな位置を占めています。
企業にできることは決して少なくないと思います。
この会が立ち消えにならず、小さく育っていかれることを願っています。

ぜひともパート3を開催したいと思っています。
一緒に取り組もうという方がいたら、ぜひご連絡ください。

■若者たちの気晴らしはどこに向かうのか(2014年7月9日)
イラクの過激派ISISがイスラム国家の樹立を宣言したというような情報がなされていますが、テレビのニュースによれば、ISISにアメリカの若者たちが参加しているようです。
スペイン戦争を思い出します。

皮肉屋のパスカルはこう書いているそうです。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。
部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。
そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

人が一番辛いのは、何もやることがないことです、
とりわけ若者はそうでしょう。

スピノザの研究者の國分功一郎さんは「大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だ」とある本に書いていました。
昨今のアメリカのように、大義が失われている社会では、そう思う若者が出てきてもおかしくはありません。

1960年代は若者たちが大きく動いた時代でした。
しかし、その体験を踏まえてか、若者たちのエネルギーを管理する仕組みが進化しました。
若者たち自身もまた、生き方を学んだのかもしれません。

アメリカに劣らず、日本はもっと平和で大義を問う状況は少ないように思います。
私のような高齢者からすれば、大義を質すべき課題は少なくありませんが、若者たちにはそれはまり魅力的ではないようです。
大義を質す場合も、それがわくわくするようなものでなければ、向かう気にはなれないでしょう。
部屋に閉じこもっているほうが快適かもしれません。
それに部屋自体も、いまや世界に通じていますから。

日本の若者たちは、集団的自衛権にも自発的なISISへの参加にもあまり関心がないようですが、どういう世界に住みたいと思っているのでしょうか。
私はやはり、「集団的自衛権の世界」ではなく「自発的なISISへの参加の世界」に住みたいと思いますが。

■「先生」という呼び方(2014年7月16日)
昨日もある人からメールが来ました。
ある人の紹介で私に会いたいというのです。
その宛先に、「佐藤修先生」と書かれていました。
正直、ムッとしました。
まあ「先生」と呼ばれることに、私はとても強い反感があるためです。
これは私の偏見でしょうが、先生でもない私に対して、気安く「先生」と呼ぶ人の人間観を疑いたくなるのです。
その人と会うことにはしましたが、その返信に「先生」ではなく「さん」にしてくださいと書きました。
またメールが来ました。
佐藤先生、早速返信いただき、ありがとうございました、と書いてありました。
この方は、私のメールを読んでいるのでしょうか。
哀しくなりました。

昨日、あるッ地方都市の職員の方から電話がありました。
一度お会いした方ですが、あいかわらず「佐藤先生」と呼びかけてきました。
発言を遮断して、「先生ではなく佐藤さんです」とつい言ってしまいました。
幸いに彼はその後、佐藤さんというようにしてくれたので、コミュニケーションが成り立ちました。

あるプロジェクトで、私はコーディネーター役をしていますが、そこでも事務局の人たちが「佐藤先生」と言う事が今でもあるため、受講者も最初は「佐藤先生」と呼びます。
最初に私はあなたたちの先生ではないので、佐藤さんと読んでくださいと明言するのですが、なかなかすぐには変わりません。

「先生」にはさまざまな意味がありますから(なかには馬鹿にしたニュアンスもありますし)、、私のように目くじらを立てることもないかもしれません。
それにみんな私を馬鹿にして「佐藤先生」と読んでいるのかもしれません(そうであれば素直に受け容れられます)。
しかし、人の呼び方はとても大事なのです。
その人との関係性や距離を象徴しているからです。

大企業の経営幹部のグループ活動に長年参加していますが、最近増えてきたのが、まずはメンバーの呼び方をみんなで決めるという風潮です。
私にはまったく馴染めませんが、なかには「・・・ちゃん」と呼び合おうというルールを作ることがあります。
私には信じられないことですが、私に対しても「さとチャン」と呼ぼうと勝手に決められました。
もちろん私はそう呼ばれても返事はしませんが。
しかし私には信じられない話です。
幼馴染であれば、そう呼ばれても抵抗はありませんが、親しくもない人からそんな呼ばれ方はされたくありません。
それに「さんづけで呼び合おう」というのであればともかく(しかしそんな事はわざわざ決めることもない当然のことでしょうが)、ニックネームで呼び合おうというルールをつくれば親密なコミュニケーションができるという発想の貧しさが気になります。
コミュニケーションは「技術」ではないのです。

この記事を関係者が読んだら気分を害するでしょう。
ほんとは一番読ませたいのですが、読んでほしくない気もします。
そこが私の中途半端なところです。
困ったものです。

でも、人の呼び方は、気をつけたいと思います。
先生と安直に呼ぶのではなく、その人との本当の関係性をしっかりと考えることが誠実な生き方です。
その結果、先生と呼ぶことにしたのであれば、それはそれでいいでしょう。
しかし、そう呼ぶのであれば、それなりの関係性を志向しなければなりません。

いずれにしろ、人の尊厳は、名前に象徴されていることだけは忘れてはいけないと思います。

■「天然の森のようなソーシャルファーム構想」サロンへのお誘い(2014年7月18日)
今日はサロンの案内です。

長年、作業療法士として精神医療に取り組んでいる桐木さんの夢は、「病気や障害があってもなくても、誰もが活き活きと自分らしく生きることのできるまちづくり」です。
そんな桐木さんの前に、その出発点になるかもしれない、自然の中にあって、あんまり活用されていなかった施設を使ってもいいという話が飛び込んできました。
そこで、長年の夢が実現できるかもしれないと、夢に向かっての第一歩として「天然の森のようなソーシャルファーム」構想を描きました。
まだ十分に練られているとはいえませんが、少しだけ夢の形が見え出しました。

そこで、今回、その構想を語っていただき、それを材料にして、「病気や障害があってもなくても、活き活きと自分らしく生きることのできるまちづくり」をテーマに話し合う、カフェサロンを開催することにしました。
そこからまた新しい「物語」や「活動」が生まれるかもしれません。
桐木さんは、実際のある場所を活かして、ご自分たちの夢を実現したいと考えています。
とりあえずは湯島でのサロンですが、そこでの話し合い次第では、その延長で、桐木さんがいま少しずつ活用しだしている施設での合宿サロンに発展するかもしれません。

みなさんのご参加をお待ちしています。

○日時:2014年7月26日(土曜日)午後1時半から3時半
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○話題提供者:桐木純子さん
○テーマ:病気や障害があってもなくても自分らしく生きることのできるまちづくり
○会費:500円
○参加申込:comcare@nifty.com

■公開フォーラム認知症予防ゲーム「スリーA」− 韓国の実践から学ぶのお誘い(2014年7月19日)

昨日に続いてもう一つのお誘いです。
今日は認知症予防ゲームの紹介のフォーラムです。
実践体験もあります。

「認知症予防」という概念が、行政や医療の世界で「認知」されたのはつい最近のことです。
それが認知される前から、しかし、生活者の世界では「認知症予防」が行われていました。
理論や証拠発見(エビデンス)よりも、常に現実は先行します。
認知される以前から「認知症予防」に取り組んでいたNPO法人認知症予防ネットの高林さんと韓国で実践されている佐々木さんによるフォーラムを開催します。
佐々木さんは韓国でスリーAゲームを実践しています。
そこで驚くべきことが発見されました。
スリーAゲームは、「予防」だけではなく、かなり重度な認知症にも効果があるのではないかと言うことです。
そのお話をお聞きすると共に、日々、ゲームの実践に打ち込んでいる法人認知症予防ネット代表の高林さんによる、最新のスリーAゲームの体験会を開催します。
8月5日という平日の午後ですが、ご関心のある方はご参加ください。
元気をもらえます、

詳しいご案内は、次にあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/3a2014.jpg

■たえず棒や石を持ち歩く人類の宿命(2014年7月21日)
英国のテレビドラマ「シャーロック」人気のためか、昔放映されていたテレビドラマ「シャーロック・ホームズ」が再放映されています。
時々見ているのですが、いつも2つのことを思いながら見ています。

先ず、昔の「犯罪」は、なんともまあ「のどか」です。
もちろん、殺人も傷害も誘拐もあり、「のどか」という表現は適切ではありませんが、最近の「犯罪」に比べると、あまりの違いに驚かされます。
犯罪者にも、同情すべきことが多く、また犯罪者もとても「素直」です。
捜査のスピードも、ゆるやかであり、もう少し急いだら犯罪防止も犯人逮捕もできたのではないかと思うようなことも少なくありません。
最近のサスペンスドラマを見たものにとっては、のんびりしすぎて面白くないのです。
しかし、そうした違いは、さまざまなことを気づかせてくれます。
そこに興味を持って、私は退屈な、このドラマを時々見ています。

ところで、当時の紳士たちがみんなステッキを持ち歩いているのも興味深いです。
シャーロックもワトソンも、いつもステッキを持っています。
たぶんこれは「武器」なのだろうなと感じていました。
「のどかな犯罪」と「武器の携帯」。
この2つのことが、どうも私の頭の中でつながりませんでした。

最近、西田正規さんの「人類史のなかの定住革命」という本を読みました。
そこにこんな文章が出てきました。

人類の祖先が、中型類人壊とすべき大きさの動物であったことを考えれば、人類誕生の背景として、大型化してきたオナガザル類との社会的関係はなによりも重視されるべきである。人類は、たえず棒や石を持ち歩くことによって、大型化してきたオナガザル類との共存に成功し、生き残ることのできた中型類人猿の子孫である。

人類は、最初から武器とともに誕生したわけです。
とても納得できました。
たえず棒や石を持ち歩くのは、人類の宿命だったのです。
言い換えれば、人類は、「攻撃する生物」だったのです。

棒や石という武器は、しかし、中型類人猿などの外部に対するものでした。
それがいつの間にか、仲間にも向けられるようになったわけです。
武装する権利は、多くの国の基本的人権になっているのかもしれません。
しかし、日本ではなぜか400年以上前に、刀狩りと言われる「武装解除」が行われ、武装する権利は否定され、平和憲法によって「武装しない権利」が保証されました。
これはまさに、武器とともに誕生した人類の宿命を克服する革命でした。

その輝かしい革命が、いま捻じ曲げられようとしています。

■声を出すことの大切さ(2014年7月29日)
喉に炎症を起こし、先週の月曜日に声が出なくなりました。
キャンセルできる用事はキャンセルしたのですが、自分で主催している集まりとか遠くからの来客とか、急ぎの相談はなかなか断りがたく、無理して声を出していたら、気管支にまで来てしまい、悲惨な週末から週明けを過ごしていました。
今日はようやく声が戻ってきました。

そんなわけで、この数日、極力、声を出さない生活をしていたのですが、話せないことはけっこう辛いものです。
声が出なければ、書けばいいという考えもありますが、自分が体験したことから言えば、声が出ない時には書く気にもなりません。
今回の体験で、話すことと書くことはつながっていることを知りました。
もう一つ、意外だったのは、声が出ないのであれば、静かに本でも読もうと思ったのですが、これがまただめでした。
テレビもあまり見る気になりません。
喉をやられたのは、風邪のせいかもしれませんから、書いたり読んだりする気にならないのかもしれません。
しかし熱はなく、身体のしんどさはないのです。
いささかこじつけですが、声が出ないとコミュニケーション志向が弱るのではまいかと思いつきました。
つまり身を隠したいという気分です。

声や言葉は、他者との関係性の潤滑油です。
私たちは、読んでいる時も書いている時も、頭の中で会話しています。
声が出なくなると、そうした会話もしたくなくなるのかもしれません。

この数日、声を出すことの大切さを、改めて実感しています。
今日はこれから人に会いに行きますが、うまく話が出来たら、時評編も再開します。
出なかったら、もうしばらく休みません。
辺野古にしても原発にしても、声を出したい事が山積みですが。

■集団的自衛権と佐世保の同級生殺害事件(2014年7月30日)
社会のすがたは、そこで暮らしている私たち一人ひとりの生き方によって、決まってきます。
同時に、社会のすがたはまた、そこで暮らしている私たち一人ひとりの生き方に大きな影響を与えます。
最近では、そのつながりが見えにくくなってきていますが、つながりの深さはむしろ増しているかもしれません。

たとえば、佐世保で起こった同級生殺害事件は、自分とは無縁の世界の出来事だと思いたいですが、大切なのは自分の生き方との繋がりを考えることだろうと思います。
同じ社会に住んでいるのであれば、無縁であるはずがありません、
社会が壊れだし、変質してきていることを、最近強く感じます。
壊れた社会には平和な暮らしはありません。

「積極的平和」のためには集団的自衛権が必要だという議論があります。
「積極的平和」は、そもそもがヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」に始まった議論ではないかと思っていましたが、現在の安倍政権にとってはむしろ「構造的暴力」政策を隠蔽するための手段のような気がします。

政治の常套手段の一つは、外部に敵を作ることです。
それによって、内部の「構造的暴力」を覆い隠すことができるからです。
とりわけ、「国民化」された大衆は「与えられた敵」を素直に受け容れます。
電力不足だと言われれば原発を受け容れ、中国が脅威だと言われれば憲法9条を投げ出します。
マスコミと結託すれば、「敵」を作り出すことなどは、簡単な話です。
最近は気象さえも、それに利用されていると私には感じられます。

しかし、その一方で、じわじわと進んでいる社会の変質や格差の拡大、人権の軽視への感度は落ちていきます。
いじめの問題は、学校の世界の話だと思い込んでいます。
要は、自分とは問題ないと。
しかし、ニーメラーが後悔したように、すべての問題は自分につながってきます。

中国や韓国から戦争を仕掛けられることよりも、私は、私自身の暮らしの足元である日本の社会が、壊れてきていることにこそ、脅威を感じます。
子どもたちの世界に何が起こっているのか。
若者たちは幸せなのか。
それは、実はすべて、私自身の世界に起こっていることとつながっています。
危険ドラッグとようやく呼び名が変わりましたが、「脱法ハーブ」などと危険物さえもが商品にされてしまう社会には、脅威を感じます。
中国の脅威よりも、私にはそちらのほうがよほど恐ろしいです。

平和とは何でしょうか。
たしかにガザやウクライナやシリアは平和ではないでしょう。
では日本は平和なのか。
集団的自衛権で平和を議論するのもいいでしょう。
しかし、他国との関係だけに「平和」があるわけではありません。
生活という点でいえば、むしろ国の内部の「平和」こそが大切です。

微力とはいえ、個人の生き方が社会のあり方につながっていきます。
平和に生きたければ、まずは自分の生き方を問い直すことからはじめなければいけない。
改めて、そう思い、そう行動しようと思います。

■競争を強いられる働き方と競争とは縁のない働き方(2014年7月31日)
最近知り合った三尾さんは、東日本大震災後、気仙沼大島で1年程活動されていましたが、その時感じたことをある機関誌に連載していました。
それを読ませてもらったのですが、そこに「ボランティア」について言及している、こんな文章があります。
ちょっと長いのですが、とても共感できるので引用させてもらいます。

今.私は被災地で会社からも社会からも競争を強いられこることなく働いている。
組織の中で自分の地位保全のために競争心を奮い立たせる必要もなく、社会的なプレスティージに悩まされることもない。
しかし物心が付いた頃には競争社会にガッチリと組み込まれて、「自分もいつつか神経衰弱かうつ病になるのだろうか」と心配したものだ。
 被災地のボランティア活動は上記の様な「競争」とは縁のない働き方なのではないだろうか。

三尾さんは、被災地でさまざまなボランティア活動に触れてきたようですが、ボランティア活動と言っても実にさまざまであることを実感されたそうです。
そして、ある活動に出会ったことから、私との縁も生まれました。
そして、三尾さんは今、自らの生き方についていろいろとお考えのようです。

勝手に三尾さんのことを紹介してしまいましたが、三尾さんは「ふたつの働き方」を体験したわけです。
競争を強いられる働き方と競争とは縁のない働き方。
三尾さんにとっては、被災地を元気にしていくための大島での活動は、おそらくとても新鮮だったことでしょう。
そしてたぶん、働くとはこういうことなのだと実感されたのではないかと思います。
競争と縁のない働き方は、ボランティア活動に限ったものではないのです。

引用した文章に続けて、三尾さんはもっと本質的な指摘をされています、
続けて引用します。

ILO憲章となったベルサイユ条約の国際労働条項に大変興味深い一節があるという。
そこには「多くの人々に不正義と困苦と貧困をもたらす労働の条件が存在し、それによって引き起こされる競争がしばしば世界の平和と調和を危くする」と書いてあるそうだ。
約百年前の理想主義的時代背景で生まれた文言である。
この文言はボランティア活動の動機を説明するために書かれたモノではないのだが、正義が行われないことに対する「怒り」、困難と苦しみに対する「同情」、他人の貧困に対する「慈善」、そしてあなたの不安は私の平和を脅かすかも知れないという「自己利益」は、ボランティア活動の動機そのモノのように思える。

とても多くのことに気づかされます。
ぜひ多くの人に読んでもらいたくて、長々と引用させてもらいました。

■自分を殺す者の共犯者とならないにはどうしたらいいか(2014年8月2日)
挽歌編で、ラ・ボエシの言葉を引用したので、時評編にもラ・ボエシからのメッセージを紹介します。
この数年、私が感じていることを見事に表現している言葉です。

あなたがたが、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。

原発も戦争も、お金まみれの社会も、すべてそれを引き起こした主役は私たちです。
ラ・ボエシは、10代の若さでそのことを喝破しました。
圧政者を生み出していたのは、ほかならぬ大衆だったのです。
若いラ・ボエシには、それが見えたのでしょう。
若さとは、そうした本質を見抜く洞察力のかたまりです。
そういう意味で、最近は「若者」はいなくなってきました。
相した若者に、ぜひ湯島に来てほしいと思いますが、最近はなかなか出会えません。

むしろ子どもたちに期待しなければいけないのかもしれません。
子どもたちの輝きは、さすがに変わってはいないでしょう。
しかし、その子どもたちの世界が大人たちの暴力によって壊されてきています。
いったいどうしたらいいのか。

私は73歳ですが、若者や子どもの洞察力には負けますが、それを維持しようと生きてきました。
そのために、26年前に勤めていた会社を辞め、「社会からの離脱」を心がけてきました。
そして、「自分を殺す者の共犯者」にならないように、自分自身に誠実に生きてきました。
ですから私には自分自身の生き方には悔いはありません。
しかし、自分はよくても、また自分の周りはよくても、それでは十分ではありません。
要は、社会から逃げただけだったのかもしれません。
逃げられるはずなどないのですが。

福島原発の事故で、わが家の畑は汚染され、野菜もつくれなくなりました。
わが家の庭もかなり汚染され、池の魚は全滅しました。
しかし、除染する気にはなりません。
この地域全体、さらには東日本全体がじわじわと放射性汚染に曝されているなかで、自分の庭や畑を除染することに何の意味があるのか、と思うからです。
世界に原発を輸出する国の国民であれば、脱原発ということさえ最近は気が引けます。
だからといって、日本国民をやめることはできません。
原発や戦争行為を推進する政府には税金を納めたくはありませんが、そういうわけにもいきません。
電気をまった使わない暮らしには、恥ずかしながら戻れませんし、戻る気はありません。
やはり私もまた、「自分を殺す者の共犯者」になってしまっていると言わざるを得ません。

どうしたら「自分を殺す者の共犯者」にならないようにできるのか。
ずっと考えていますが、答が見えてきません。
できることは、「自分自身を裏切る者」にならないことだけです。
しかし、それだけでも最近は疲労姜が大きいです。
それに、毎日の報道に、やりきれなさが限界です。
今年の夏を超えられるといいのですが。
暑い夏になりそうです。
もちろん気温の話ではありません。

■「暑いですね」は便利な言葉です(2014年8月2日)
数日前のブログで、次のように書きました。

平和に生きたければ、まずは自分の生き方を問い直すことからはじめなければいけない。
改めて、そう思い、そう行動しようと思います。

それで、それから自分の生き方を問い質すことを意識して、何回か書いてきていますが、数日前の記事を書いた後ですぐに行動に移していることがひとつあります。
隣り合わせた人に声をかけることです。
エレベーターで「暑いですね」。
信号待ちでも「暑いですね」。
最近は、「暑いですね」という誰にも共通の会話があるので、声をかけやすいです。
こんな一言でも、その場が和らぐのを実感します。
やろうと思えばやれることはいくらでもあるわけです。

自分が意識して話しかけるようになって改めて気づくのは、多くの人が自らを閉ざそうとしていることです。
目を合わせるのを怖がっているのでしょうか。
前にも書きましたが、せめてATMから出てきて、もし並んでいる人がいたら、声をかけなくとも会釈くらいはしてほしいですが、ほとんどの人は、目も合わせないようにしています。
私は必ず、「お待たせしました」と会釈しますが、それにも半数以上の人が無反応です。
みんな魂を売ってしまったような表情のない顔をしています。

残念ながら私はサルの表情が見分けられませんが、最近は人間の表情もあまり見分けられなくなってしまいました。
だんだん人間がいなくなってきているのかもしれません。
それで、まずは自らも出来るだけ表情豊かにしようと思ってもいます。

まあ、そんな極めて簡単なところから、自分の生き方を改めて問い直しています。
この2回ほど、ちょっと小難しく書いたので、伝わらないといけないので、今日は誰にも伝わる生き方の問い質しについて書きました。
余計なお世話とは思いながら。

■受付の大切さ(2014年8月5日)
人は一人では生きていけません。
さまざまな関係の中で「生き合っている」というのが適切でしょう。

今日は認知症予防をテーマにした公開フォーラムを開催します。
参加者受付を引き受けたのですが、この仕事がとても大切だと思っています。
受付の連絡だけでも、その人の人柄や状況が感じられます。

だから、直接連絡してきた方には全員、直接、連絡させてもらいます。
始まりの時間に間に合わないという人には、できるだけ便宜を図るように相談に乗っています。
まあ当然のことですが、イベントなどをやる場合、私が一番大切にしていることです。

しかし、なかには極めて失礼な電話もあります。
不快な時もありますが、たぶんそれは「受付」とは単なる事務作業だと思っているからなのでしょう。

事実、そうした事務的で機会的な受付もあります。
だからこそ、私はそうならないように努力しています。

フォーラムは今日開催ですが、直前になっての申し込みもあります。
極力参加してもらうようにしています。
一方、急に参加できなくなったという連絡もあります。
親の体調が悪くなったとか、娘が熱を出したという理由です。
無断で欠席する人もいますが、受付をていねいにしているおかげで、理由も含めて欠席を詫びてきてくれます。
そこからまた新しい付き合いが始まることもあります。
だからこそ、受付は大事なのです。
そこにお互いの生き方が現れるからです。

今日は受付のことを書くのではなく、親や娘の体調で人の行動は大きく左右されることを書く予定でしたが、話がずれてしまいました。

いま会場に向かっていますが、そろそろ着きそうです。
中途半端ですが、投稿します。
なお今日の公開フォーラムは、午後1時半から衆議院第2議員会館で開催です。
ゲーム体験もあり、とても楽しいフォーラムです。
よかったら参加してください。
定員は超えましたが、いかようにもなるでしょう。

■死なせてはいけない(2014年8月7日)
STAP細胞論文事件に関連して、笹井さんが自殺しました。
衝撃的でした。
死んではいけないし、死なせてはいけないと、ずっと思っていました。
笹井さんが、自殺を考えるように追い込まれることは、周りの関係者にはわかっていたことでしょう。
しかし、誰も止めようとしなかった。
理研という組織の本質がそこに見えます。
以前、野依さんのことを少し厳しく指弾しましたが、私が一番予感していたことは、小保方さんか笹井さんの自殺でした。
組織を束ねるトップの人が守るべきは、組織ではなく組織に集まっている人間です。
野依さんは、それがわかっていなかった。
それがわからない人は、たとえノーベル賞をもらおうと天才的な研究者だろうと、その任を引き受けるべきではありません。
一番の被害者は、野依さんになるかもしれないと、その時は、思いながら書いていました。
それが現実になってしまいました。

自殺は、最後の選択肢ではありません。
しかし、多くの場合、そこに追い込まれてしまうのでしょう。
自殺は主体的に選ぶ行為ではなく、追い込まれて強制された選択ではないかと思います。
そしてそれは一番悪い選択であることが多いのではないかと思います。

自死遺族の方から、自殺が悪いと言わないで欲しいといわれたことがあります。
自殺した父親が咎められているように感ずるからと言うのが、その理由でした。
自殺した人を責める気はありません。
しかし、自殺に追い込んだ人は責任を感ずるべきです。
寄ってたかってこの事件を話題にした私たちも、責任の一端を担っていることを忘れてはいけません。

それにしても、なぜ笹井さんの周りの人は「死なせない」努力をしなかったのか。
佐世保市で、殺人動機を持つ娘を放置した父親が責められていますが、結局はその父親と同じことをしたわけです。
その自覚が野依さんにあるでしょうか。
組織を預るとはそういうことです。
笹井さんの同僚たちはどうだったのか。
自殺は、当然予想されたことの一つですが、考えたくない、関わりたくない、だったのでしょうか。
実に哀しくさびしい。
そんな社会や組織でいいのか。

自殺予防対策費として、政府は毎年かなりの予算を投じています。
自治体もいろいろと取り組んでいます。
しかし私には全くとは言いませんが、瑣末な取り組みのように感じます。
ささやかに関わらせてもらうたびに、何か違うものを感じます。

大切なのは、近くの人を死なせないようにすることです。
死ななくてもいいことをわからせればいいだいけです。
それは決して専門家の仕事ではありません。
友人知人の仕事です。
いや広義の意味での隣人の勤めです。
それが生きるということです。
理研には、それが欠けていたように思います。
友人も知人も隣人も、さらには「生きている人」もいない組織と社会。
そんな社会にしてしまったことを、私たちは懺悔しなければいけません。

笹井さんのご冥福を、心から深く深く祈ります。
小保方さんいじめをしている皆さんも、ぜひ言動を変えてほしいです。

■「毎朝泥棒に感謝している」(2014年8月9日)
一昨日、声を出さないようにするために「自宅謹慎」していたのですが、退屈なので本を読みました。
フェイスブックで誰かが最近一番世界で読まれた本と紹介していた、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」です。
上下の600頁ほどの本なので、ますます退屈しました。
例によって、30分ほどで跳ばし読みをしてしまいました。
2つだけ共感した話があります。

まずはその一つの紹介です。
こんな話です。

2006年秋、イスラエルの友人ヤアロン・ユズラヒに訊きたいことがあったので、連絡をとろうとした。携帯電話に何度もかけるのだが、応答がない。ようやく自宅に電話して捕まえた。「ヤアロン、携帯電話はどうしたんだ?」「何か月か前に盗まれた」ヤアロンが答えた。始終、鳴って集中を乱されるので、代わりを買わないことにしたのだという。「それ以来、毎朝泥棒に感謝して、長生きしろよと祈っているんだ」。

私は携帯電話をあまり「携帯」していないのでみんなから叱られています。
自宅でも携帯電話は手元にあまり置いていません。
生活に分けいってこられるのは気分が良いものではないからです。
それに、そもそも電話が嫌いなのです。
顔も見えない人と声で話すのがどうも苦痛なのです。

それでもある時から携帯電話を使うようになりました。
受信を考えずに、発信だけを考えると、実に便利だからです。
まことにもって身勝手なのですが、実に便利です。
しかし、最近は、受信する自分の迷惑のことを考えて、極力使わないようになりました。
よほどの緊急でなければ、メールにしています。
メールは受発信ともに自分で時間管理できるからです。
毎日、朝と夜、そして日中も数回メール確認しますので、基本的にはそれで不都合はありません。
ただフェイスブックのメッセージで連絡してくる人への対応は時々忘れます。
フェイスブックもまた、私はきちんと対応していないからです。
というか、私のなかでは、フェイスブックはそういう位置づけなのです。

さて携帯電話の話です。
いまちょっと迷っています。
ヤアロンのように、携帯電話を捨てようかどうかです。
残念ながらまだ決断が出来ません。
私も相当、現代の生き方に依存してしまっているようです。
もう少し考えようと思っています。

■「台風が来るから海が洗われてきれいになる」(2014年8月12日)
台風11号がまた日本列島に大きな爪痕を残しました。
気象異常はますます酷くなってきています、という思いをどうしても持ってしまいますが、はたしてこれは「気象異常」の話なのだろうかと、最近思うようになってきています。
言い換えれば、「異常」なのは「気象」ではなく、私たちの「生き方」や「住まい方」なのではないかと思うのです。
もっと言えば、正すべきは「私たちの生き方」や「住み方」だと考えたほうがいいように思います。

そう思っていたら、こんな文章に出会いました。
先日、送られてきた佐久間進さんの「人間尊重のかたち」と言う本の一節です。
ちょっと長いですが、そのまま引用させてもらいます。

私は、年に数回、石垣島に行きます。毎年行くのが楽しみなほど大好きな場所です。海がとてもきれいで自然豊かな素晴らしい島です。その海がとてもきれいであるということで、おもしろいことを聞きました。「沖縄(石垣島)は、毎年大きな台風が上陸して大変でしょうね」と私が心配すると、「いや、台風が来るから、海が洗われてきれいになるんですよ」と地元の方に言われました。
北海道の登別で大きな地震・噴火が起こった時、私は現地の旅館やホテルのお見舞いのために登別を訪問しました。建物の中は火山灰などで真っ白になっている状態で、「本当に大変ですね。こういった場所によく住んでいられますね」と私が言うと、「そんなことはありません。温泉は長年経過すると湧水量が低下してきます。この噴火は45〜50年周期で起こっていますが、この噴火が繰り返されるおかげでまた温泉が湧いてきます。それによって温泉観光地として商売ができているのです。ですから、むしろありがたいものなんですよ」と言われました。

最近、もやもやとしていたことが、この文章を読んですっきりしました。

■問題は瑣末なところに原因があるものです(2014年8月19日)
この1か月、いろんな意味で「不幸」に覆われたような生活をしています。
しかし、実はその「不幸」は「瑣末なこと」が原因であることも少なくありません。

たとえば、今月の5日に認知症予防ゲームの公開フォーラムを開催しました。
資料づくりや受付名簿などを作ったり、参加者との連絡などを私のパソコンでやっていたのですが、開催の3日前からパソコンがおかしくなり、時々ダウンしたり、データが急に文字化けしてプリントできなくなったりしだしました。
一番大変だったのは、連絡先を入れておいた参加者名簿を作成した途端に、パソコンが固まってしまい、データが消去されたことです。
開催日の直前日は、パソコンが20分単位でダウンし、いささかストレスがたまってしまいました。
私のパソコンはもう10年ほど使用しているXPですので、ハードがもう限界を超したのだろうと思っていました。

ところが、5日のフォーラムのスタッフメンバーの内村さんにその話をすると、ゴミがたまっているのではないかと言われました。
私のパソコンのサポーターでもある坂谷さんも同意見です。
それで翌日、パソコンの掃除をすることにしました。
たしかにファンの前にゴミがたまっていました。
それを取り除いたら、それ以来、パソコンは何の支障もなくなったのです。
マシンが壊れたのではなく、原因はゴミのために冷却が出来なくなっていただけなのです。
またパソコンを買い替える機会を失してしまいました。

このように、かなり深刻な問題であっても、気づいたらその原因は実に瑣末なところにあることは、時々経験します。

パソコンの場合は、まあそれに気づかなくても、買い替えによって問題は解決しますが、そうでない場合も少なくありません。
その最たるものは、人間関係です。
殺人や自殺にいたる不幸な人間関係も、その出発点は瑣末な行き違いであったかもしれません。
早い時期で、それに気づけばいいのですが、瑣末であるが故に見過ごしてしまいかねません。
私のように、中途半端に「寛容」で、しかも論理的でない人間は、特に心しなければいけません。
考えてみると、最近の「不幸」の一因は、私のそうした性格にあることに気づきます。

原因が瑣末なことにあることは、イノベーションにも当てはまります。
大発見やヒット商品の開発には、そうした物語がたくさんあります。

「瑣末なこと」をもっと大切にしなければいけません。
それはわかっているのですが、なかなかそうはできません。
それを反省して、生き方を変えれば、山のように積み重なっている不幸から解放されるかもしれません。
さて、パソコンの掃除の次は、何に取り組みましょうか。

今日も暑いですが、さわやかな朝です。
しばらく書かなかったブログをまた書き出そうと思います。
世間が嫌いだからと言って、そこから無縁で生きることはできませんので。

■「海の神様が怒るよ」(2014年8月19日)
辺野古の基地づくりが始まりました。
いろいろと騒がれますが、結局、大きな流れにそって、すべては動いているような無力感に襲われます。
原発もそうですが、なぜ政治の流れは止められないのでしょうか。
テレビでも、批判的な論調が盛んに言われながらも、いつも結局は何も変わらない。
やりきれない気分です。
自分で変えられるのは自分でしかないと、改めて思いますが、その自分でさえ、なかなか思うようには変えられません。

今朝の朝日新聞に、辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前で反対の座り込みをやっている島袋文子さん(84)の怒りの声が載っていました。

「とうとう海を傷つけたね。私たちがこれだけ反対しているのに。海の神様が怒るよ」。

辺野古の海が掘削されだしても、地元のお年寄りたちは「まだあきらめない」と思いを新たにしているそうです。
戦争を体験してきた人たちから、私たちはもっと学ばなければいけませんね。

異常気象だと騒がれていますが、誰が異常気象を起こしているかはあまり大きな話題にはなりません。
二酸化炭素犯人説のような話はありますが、島袋さんが言うように、要するに犯人は私たちです。
自然を傷つけて、神様を怒らせているのです。
昔の人にはそれがわかっていました。
科学の発達のおかげで、私たちにはそれさえもわからなくなってきたのです。

最近のテレビでは異常気象の解説や報道は多いですが、島袋さんのような解説が私には一番納得できます。
神様を怒らすような生き方は、もうやめたいものです。
海神様の怒りを鎮めるために、安倍さんに辺野古の海の人柱になってもらっても効果はないでしょうね。
なにしろ辺野古の海は、神様のように美しく、生命を育んでいる海ですから。

しかし、異常気象は、神様の怒りであることを忘れたくはありません。
私たちはもっと神様に祈らないといけません。

■携帯電話の一般使用を止めることにしました(2014年8月21日)
先日、携帯電話が故障したことを書きました。
喉の不調で声が出なくなったのに合わせたように、携帯電話が故障したのです。
声を使わないように、天が配慮してくれたようにしか思えません。
結局、修理はやめて新しいものを購入したのですが、これを契機に携帯電話の使用を極めて緊急時のみに限定することにしました。
つまり基本的には携帯電話を携帯せずに、携帯する時には電源を切っておくことにしたのです。
ですから、私に携帯電話をかけてもほとんどつながらないと思いますし、私から電話することは緊急時以外はありませんので、ご容赦ください。

もっともこれまでもそういう使い方で、友人たちはほとんど私には電話してこなかったですし、コールバックしなくても何の問題も起こりませんでしたが、どうもそうはいかなくなってきたのです。
それで止める決意をしました。

問題は、「緊急時」とはなにかです。
これは簡単で、「私が固定電話やメールが出来ない状況で電話したくなった時」および「私が関わっているイベントの当日」で電話してくれてもいいと公言した時」です。
いかにも自分勝手なルールですが、私的な時間に勝手にかかってくる電話そのものが、私には勝手なルールに思えるので、まあ許してもらえるでしょう。
ちなみに、固定電話も私は嫌いですが、これはもうしばらく使用する予定です。
ある段階で、これもやめようかと思っています。

その一方で、メールはこれからも継続します。
毎日、数回はチェックするようにしていますが、実はこれも結構煩わしいこともあります。
フェイスブックは、気が向いた時だけですが、もう少し使う予定です。

まあ私のことを長々と書きましたが、こういうややこしいことをいっていると友人知人はどんどん少なくなっていくでしょうね。
それもまた仕方がありません。

■誰の人生も透けて見える時代(2014年8月21日)
トーマス・フリードマンは、世界的なベストセラーになった「フラット化する世界」のなかで、「誰の人生でも、レントゲン撮影のように透けて見える」時代になってきたと書いています。
そのため、いまや昔のような個人が書く「経歴書」は不要になったと書いています。

確かに今ではネット検索すると、さまざまな情報を見つけられます。
今はまだ、社会的な活動をしている人が中心かもしれませんが、多くの人がフェイスブックやツイッターを通して、ネットの世界にデータが蓄積されだしていますので、そのうち、誰ものデータがネット検索で出てくるかもしれません。
友人関係も調べられるでしょうし、食事の好みさえわかるでしょう。
しかもそこには、本人さえ知らないデータが含まれていたり、事実ではないデータが含まれているかもしれません。
そうなると、生きている生身の本人とネット世界で構成された本人との、どちらが本当の本人かわからなくなってくるおそれもあります。
自分は一体誰なのかを、ネット検索するような時代が来るかもしれません。

そうした認識から、未来社会に関する、さまざまな映画が制作されています。
そこでは、自分さえ知らない自分の未来を、膨大なデータをベースにして、コンピュータが予測してくれるような話も少なくありません。

不気味といえば不気味ですが、生きやすいといえば生きやすい。
すでにそうした生き方を志向している人たちも、少なからず出てきているような気もします。

人類は、科学技術を発達させてきたが、人間そのものは歴史時代になってからはそう変わっていないと言われますが、そんなことはないような気がします。
私が生まれた70年ほど前と比べても、今の人類は果たして同じ生物かと思うほど、私には異質に見えます。
そして、この数年、さらに「変態」が進んでいる。
そんな気がしてなりません。

誰の人生も透けて見えるようになれば、おそらくこれまで積み上げてきた人類の文化は異質なものに変わっていくでしょう。
その予兆を感じます。

■森の神様へも祈りましょう(2014年8月21日)
先日、今の私たちの生き方に対して神様が怒るという話を書きました。
昨日の広島などの土石流事故の報道を見ていて、複雑な思いを持ちました。
被害のあった地域の、空からの風景を見て、やはりどこかにおかしさを感じました。
こんなことを言うと、被害にあった人たちを非難するように思われるかもしれませんが、そうではありません。
私自身をふくめて、いろいろと考えさせられたのです。

わが家も、かつては手賀沼の斜面林と言われるところを造成した土地に建てています。
ですから斜面の途中に建っています。
今回被害にあったところと違い、斜面の上は昔からの宅地ですので、土石流事故の心配はないでしょう。
しかし、自然を壊したという点では同じです。
一番の被害者は、ここに住んでいたモグラかもしれません。
庭に花木を植えても、モグラに荒らされてしまいます。
いささか腹立たしいですが、モグラにとっては、わが家こそ腹立たしい存在でしょう。

もうひとつ神様に迷惑を与えたことがあるかもしれません。
それは風です。
わが家のあたりは昔は、風の道に当たっていたようです。
手賀沼から吹き上げる風です。
たしかに風当たりが強く、庭の花はいつも大変です。
ちょっと風の強い日は恐ろしいほど風が走ります。
もっとも、わが家の隣に家が建ったので、風のあたりは一部に限られていますが。

ここが風の道だと知ったのは、転居してきた頃に近くに長年住んでいた人がやってきて教えてくれたのです。
地元の人との付き合いは大切です。
誰だったか覚えていないのですが、たしかに風当たりは凄いです。
風にとっては、わが家は迷惑な存在なのです。
ちなみに、それを聞いて、その風の道に木造の仏様を置かせてもらっています。
ただ置いただけで、放置しっぱなしでスノで、今日から朝の水遣りの時にお礼を言うことにしました。

こうやって私たちは自然を変えてきています。
もちろんそれが悪いわけではありませんが、それを常に意識しておくことは大切です。
単なる土石流事故として捉えるのではなく、魚付け林の知恵のように、私たちの生活を守ってくれている森の神様にも祈りをささげなければいかないように思いました。
そういう意識がなければ、こうした「事故」は、これからも続きそうです。

■0.1秒の差は私には理解できません(2014年8月21日)
娘に付き合って、水泳のパンパシフィック選手権をテレビで見ていました。
最初の男子200メートル自由形では、萩野公介が0.1秒の差で銀メダルでした。
娘も含めて、テレビの解説者たちも、惜しい、残念だ、悔しいと乱発していました。
どうも私には、その感覚がわかりません。
0.1秒の差なんて、それは運であり測定誤差であり、人間の感覚からは違いとは言えまいと思うのです。
それで、1秒以内の差は無視して、2人とも金メダルにすればいいのにと娘に言いましたが、無視されてしまいました。

でも、0.1秒を争うなどと言うことは、私には馬鹿げたことで、そんなつまらないことを大仰にとりあげる世間の風潮はやはりおかしいなと思います。
0.1秒も差があるという人もいるかもしれませんが、もっと大らかに、楽しい競い合いにしてほしいものです。
スポーツの世界も、いまや工業化されてきているようにも思います。
最近のアスリートたちは私には理解できない人たちです。
あの人たちは本当に人間なのであろうかと、時々思うことがあります。
まあ失礼な話ではあるのですが。

0.1秒で思い出すのは、西部劇の「荒野の7人」です。
ジェームズ・コバーンがからんできたガンマンと、ナイフとガンで真剣勝負をするのです。
標的を別にした競い合いでは、決着がつかなかったので、お互いを標的にした勝負をするわけですが、結果はジェームズ・コバーンのナイフが相手の心臓に突き刺さり、ガンマンは死んでしまいます。
ジェームズ・コバーンにとって、どうでもいい競い合いでしょう。
わずかの差を競い合うスポーツを見ていると、あんまり関係なのですが、いつも思い出す場面です。

0.01秒単位までいまや測定されるようですが、それにどういう意味があるのでしょうか。
アスリートたちは、たぶんまだ人間なのでしょうから、人間らしい競い方をしてほしいものです。
機械が支配する世界から脱却して欲しいものです。

羽田空港への乗り入れ路線の改善で、都心から空港までの所要時間が数分短縮されるというニュースが流れています。
リニアモーターカーの報道もそうですが、どうしてみんなそんなに時間短縮信仰が強いのでしょうか。

この2つの話は、私には深くつながっているように思えます。

■「瑣末さ」のずれの拡大(2014年8月22日)
この数日、「瑣末なこと」を少し意識して、ブログを書いてきました。
瑣末なことは、「たかが」という存在ですが、同時に「されど」なのです。
それは、価値観によって変わります。
価値観が違えば、「瑣末なこと」が「重大なこと」になり、その逆も起こります。

以前、私の友人から議論を吹っかけられて、よく「そんな問題は瑣末なことだ」と一刀両断していたことがあります。
例えば憲法条文解釈の話なのですが、私には全く興味のない話なので、ついついそういってしまうことが多かったのです。
しかし、その人にとっては、それは決して瑣末ではなく重要なことだったのです。
そのせいか、最近はその人は私に議論してこなくなりました。

そもそも相手の論点を「瑣末なこと」と言うのは傲慢です。
そうは思いますが、そんな瑣末なことよりも大事なことを議論しようという自分の思いが先行しがちです。
私が大事なことと思っていることは、相手にとっては瑣末なことかもしれないという思いには至っていないわけです。
これを、「ドングリに背比べ」というのでしょうか。

最近、いろいろな問題に関わって感ずるのは、人によって「瑣末さ」の対象がまったく違っていることです。
私にはとても大切なことで、いろいろと考えに考えて相手に伝えると、いとも簡単にそんなことはどうでもいいというような返答が返ってくることも少なくありません。
逆の場合もあります。
それが多分、他者と付き合う煩わしさかもしれません。
時にやりきれない気分になります。

何が本当に重要なことなのか。
それは、その人の生き方に大きく影響されます。
社会が多様になってくると、生き方もまた多様になってきます。
「瑣末さ」のずれは、ますます広がり深くなっていくでしょう。
生きづらい社会になってきました。
「瑣末さ」のずれを、創発的な方向で良いものに変えていく仕組みが育つといいのですが。

■ちょっとハードなカフェサロン第3回のご案内(2014年8月24日)
以前、このブログでも書きましたが、湯島で「ちょっとハードなカフェサロン」を始めました。
2回目は、マハラバ村に関連したサロンを予定していましたが、参加者が多くなってしまい、実際には話し合いのサロンにはなりませんでしたが、たくさんの刺激をもらいました。
3回目からまた、本来の話し合いをベースにしたサロンに戻ります。

9月は、小児外科医の松永正訓さんに、話題提供者になってもらう予定です。
松永さんは、長年、小児がんに取り組まれている方ですが、昨年は重度心身障害児を育てる家族を題材にした「運命の子 トリソミー」が小学館ノンフィクション大賞を受賞しました。
松永さんの作品を読ませてもらって、松永さんの「障害者」(人間)論や「生命倫理」観を聞きたくなりました。
松永さんは、「障害児」や「小児がん」を引き受けることになった家族とのつながりを通して、「人間」や「生命」の意味を問い質し、人間の関係性(社会)とは何かを、とても生き生きと問題提起していきます。
松永さんの誠実な、しかも強靭な問いかける勇気には、感動しました。
それで今回は、障害児の受容というテーマから入り、松永さん自身の人間観や社会観を話してもらい、できれば障害者の意味や生命倫理、医療や福祉のあり方などにまで話を広げられればと思います。

話し合いを中心にするサロンなので人数が限られるため、あまり広範囲には呼びかけられないのですが、松永さんのことやその著書を多くの人に知ってもらいたいという思いもあって、紹介することにしました。
それに限られたメンバーだけだと、話が広がりません。
今回も2〜3人の枠内で、参加者を広げることにしました。
ご関心を持っていただけた方はぜひご連絡ください。

書籍「運命の子 トリソミー」は、私のサイトに少しだけ紹介しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#140817
また松永さんのブログもあります。
http://wallaby-clinic.asablo.jp/blog/

○日時:2014年9月13日(土曜日)午後3時半〜5時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○問題提起者:松永正訓さん(小児科医師 「運命の子 トリソミー」著者)
○会費:500円。

■人は偶然や不思議な出会いによって変わってゆく(2014年8月26日)
DVDで映画「カミハテ商店」を観ました。
「死にたい人は…、死ねばいい…」という映画解説のコピーがどうしても頭から去らなかったからです。

東尋坊で見回り活動をしている茂幸雄さんからこの映画のことを前にお聞きしていました。
監督の山本起也さんは、この映画の脚本作りに先立ち東尋坊に茂さんを訪ねています。
この映画の主人公は、自殺しようとする人を止めない生き方をしてきた人です。
茂さんとは正反対の立場なのですが、実は茂さんと深くつながっているなと、観ていて感じました。
山本さんが茂さんの話から大きな影響を受けていることはまちがいありません。
登場人物に語らせる言葉も、時に茂さんの話を思い出させます。

具体的な設定は見事に茂さんの場合の対極です。
まず主人公の千代は女性で、自死遺族です。
商店は雑貨屋さんですが、ここは自殺しようとする人が勝手に立ち寄る場所になっています。
茂さんたちが運営しているもち屋さんは、自殺を思いとどまって再出発する場所です。
茂さんは陽気で話好きですが、千代は笑いも言葉も少ない人です。

その映画を紹介しているパンフレットから、映画の紹介を引用させてもらいます。

とある日本の最果て、海に突き出た断崖絶壁がある。そこは隠れ自殺の名所。近くに一軒の古びた商店があり、初老の女がパンと牛乳を売っている。終点でバスを降りた自殺者は、なぜか店に立ち寄り、パンと牛乳を買い求める。しかし、女は決して自殺者をひきとめようとはしない。それどころか、翌朝崖に行くと女は残された靴を拾ってくるのであった。

この行為の意味は、映画が始まる最初に短く暗示されています。
私が、この映画を観たくなったのは、監督の次の言葉です。

取材や調査を行えば行うほど、これこれしかじかだから自殺します、というような理由づけは遺された人を納得させるためにあるような気がしたのです。
死にたい人の気持ちは「わからない」ままでいいのだ。
むしろ生きることについての映画を作りたいと考えました。
何かをあきらめたり絶望している人間が、理屈では説明できない偶然や不思議な出会いによって変わってゆく。
そんな話を作りたかったのです。

そういう映画になっていると思います。
自殺の問題だけが語られている映画ではありません。
さまざまなテーマがつながっています。
ですから観た人はさまざまな視点から自らの人生を考えさせられるでしょう。

最初から最後まで実に重い映画ですが、最後のシーンは、もしかしたら「救い」です。
登場人物みんながつながって、きっとそれぞれが変わっていくことでしょう。
死を決意したことから始まる生もあるのです。
いや、山本さんが言うように、死とは生きるための拠り所なのかもしれません。

茂さんは、「死にたい人などいない」といつも断言します。
冒頭のコピー「死にたい人は…、死ねばいい…」は、「死にたくなければ生きればいい」ということでしょう。

生きたくないのに生きてきただろう千代は、たぶん笑いを取り戻すだろうというのが、映画を見終わった私の感想です。
一人で観ると辛いかもしれないのですが、多くの人たちに観てほしいと思いました。

■「新しい国家」Islamic stateと「新しい戦争」(2014年8月27日)
イスラム国とは一体何なのだろうかという疑問がなくなりせん。
あんまりきちんと報道をフォローしていないからかもしれませんが、何でまた彼らは「ステート」を名乗ったのでしょうか。
英語では、Islamic state と書かれていますので、イスラム国と訳すしかないのかもしれません。
アルカイダは、アルカイダ・ステートとは言いませんでした。
ISISは、最初からステートを名乗っています。
そこには、欧米からも多くの参加者があると報道されています。
にもかかわらず「ステート」。
そこが私にはどうもよくわかりません。
現在、活動を展開しているのは、シリアとイラクのようですから、国境をまたがっての建国。つまり国境の引き直しなのでしょうか。
最初は、国境を越えた集団が現れて、国家と対峙しだしたと思っていたのですが、やはり彼らが目指すのは国家なのでしょうか。
それでは権力争奪戦でしかありません。

昨日の朝日新聞の夕刊に、政治学者の藤原帰一さんが「新しい戦争の懸念」と題して小論を書かれていました。
「新しい戦争」と言う表現に魅かれて読みましたが、「新しさ」がよくわかりません。
9.11の後、新しい戦争が始まったと私も思いました。
それまでの戦争は国家間の武力衝突でした。
しかし、9.11以後に始まったのは、国家と非国家的な存在との武力衝突でした。
しかし、非国家的存在はつかみどころがないために、仮想的として国家が想定されてしまい、話がややこしくなってしまったのではないかと、私の乏しい知識で理解していました。
そう考えれば、アメリカを中心とした国家の行動は、適切とは言えないように思いました。
事実、あまり成功はしていないように思います。
そうした時に出てきた「イスラム国」。
なんだか時代が逆戻りしているようで、私の頭は混乱しています。

地理的な平面地図で世界を見慣れている私たちは、どうしても領域国家単位で物事を考えがちです。
しかし、そのなかで生活している人たちの立場は多様です。
日本に住んでいるムスリムは10万人程度で、そのうち、日本人は1万人足らずだそうです。
しかし、欧米にはもっと多くのムスリムがいることでしょう。
地理的な捉え方ではなく、人間の視点で世界をみれば、違った世界地図が出来るでしょう。
Islamic state という表現は、どうも理解し難いのです。

しかし、これは「新しい国家」かもしれません。
イスラム国は、残虐だといわれています。
人質を処刑する映像を流したりしていることが衝撃を与えています。
しかし、考えようによっては、暴力を正当化する仕組みを構築し、独占している国家への批判かもしれません。
密室で処刑するのと公開の場で処刑するのとでは、常識的な意味での残虐性は後者が強いかもしれませんが、それも私たちの思い込みでしかありません。
暴力の管理の枠組みや仕組みを変えたと考えれば、時代逆行とはいえません。
もしかしたら、「新しい国家」の現われのひとつかもしれません。

まあそれはともかく、「新しい戦争」が始まりだしているという思いは日毎に強くなっています。
集団的自衛権などの議論は20世紀的な議論のように思います。
そしていまこそ、日本国憲法第9条が大きな意味を持ち始めていると思います。

■ビジネスワークとソーシャルワーク(2014年9月1日)
最近、仕事には2種類あることを、自分のことだけではなく、実感してきています。

先日、プロのヴォーカリストの人が湯島にやってきました。
ビジネスは言うまでもなく、「歌うこと」です。
歌うことによって、報酬をもらいます。
しかし、その一方で、その方は高齢者を元気づけたくて、高齢者施設などで歌唱指導やカラオケ活動などをやっています。
高齢社会に向けて、自分が出来ることをやっているわけです。
人は、ビジネスワークだけではなく、ソーシャルワークが必要なのです。

先月、2つの集まりを開催しました。
特にその一つは、実行委員を公募して開催しましたが、10人を超える方が自発的に実行委員になってくれました。
事前の打ち合わせをやったり、資料をコピーしたり、当日は朝早くから準備をしたりで大変でした。
勤務先を休んだ人もいます。
しかし、すべては手弁当です。
その上、その集まりの参加費は、実行委員も負担しました。
実行委員のためにたくさんのおにぎりを作ってきてくれた人が3人もいました。
それもすべて自己負担です。
もう一つの集まりも、まあ同じようなスタイルです。
こうした活動を、ソーシャルワークと呼べば、
ソーシャルワークは、報酬をもらえないどころか、お金がかかるのです。

お金をもらえる仕事とお金がかかる仕事。
だれも、この2つの仕事をやっています。
最近は、お金をもらえる仕事だけが「仕事」と捉えられがちですが、お金をもらう仕事だけでは、たぶん生きる豊かさは得られません。
人はパンだけで生きるのではなく、バラもまた必要なのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/07/post-dd89.html

私は、会社を辞めた26年前に、お金と仕事を切り離して考えるようにしました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/work.htm
そのために、このブログの記事も、いささかあいまいでわかりにくくなっているかもしれません。
過疎地域には仕事が山積みと私は考えていますが、お金をもらうことを仕事と考えている人には伝わらないでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/08/post_b9d2.html

そこで、これからは、ビジネスワークとソーシャルワーク、つまり、お金をもらえる仕事とお金がかかる仕事とに分けて考えようと思います。
人生にとって、不可欠なのはソーシャルワークであることは言うまでもありません。
その基本が見えにくくなっていることに、危惧を感じます。

■卑怯な生き方(2014年9月3日)
最近のNHKの朝ドラ「花子とアン」は、昨今の日本の状況やそこでの私たちの生き方に、鋭いメッセージを突きつけているように思います。
そして、それに続く、「あさイチ」での有働アナの朝ドラへの反応がまた、NHKの姿勢を見事に象徴しています。
今日もまさにそうでしたが、今日の救いは解説委員の柳澤さんが久しぶりに登場して、少しだけ良心的なつぶやきをしていたことです。

ところで、今朝の「花子とアン」を観た人は、タイトルの「卑怯な生き方」が、蓮子が花子に浴びせた言葉だとわかってもらえるでしょう。

花子はラジオ放送で子どもたち向けのニュースを読み上げる仕事をしています。
しかし、戦争にむかっている時代状況のなかで、読み上げるニュースは戦争のことばかり。
花子は悩みながらも、だからこそ花子の「ごきげんよう、さようなら」という呼びかけを待っている子どもたちのために続けてほしいという放送局の人の説得にしたがって、辞めないでいます。
その危険性を、蓮子から指摘されて、「一人だけ抵抗しても時流には抗えない。自分や家族の暮らしを守るためにそこに乗るのは仕方ない」という花子は、まさに昨今の私たちです。
しかし、蓮子は、そうした花子を、「戦争をしたがっている人に動かされているだけ」と厳しく糾弾し、「私は時代の波に平伏したりしない。世の中がどこへ向かおうと、言いたいことを言う、書きたいことを書くわ。あなたのように卑怯な生き方はしたくないの」というのです。

花子のような人たちが、日本を戦争へと導いたわけですが、そういう状況においては周りが見えなくなってしまうのでしょう。
「意味の反転」に気づかなくなるのです。
昨日の放送では、蓮子の夫が平和を画策していた疑いで憲兵に連行されるのですが、それを見て近所の人たちは彼に「非国民」と非難の言葉を投げかけます。
これもまた、昨今の私たちの姿です。
時代を超えて、ドラマで見ると馬鹿げた言動ですが、それを見ている多くの視聴者たちが、そうした言動を実際にとっている現実は、実に哀しいものがあります。
私自身、しっかりと自分の言動を見直さなければいけません。

今朝の「卑怯な生き方」のセリフは好評のようで、ネット上ではすでに盛んに議論されだしています。
共感したならば、「卑怯な生き方」から抜け出なければいけません。
しかし、それが難しいからこそ、ネットでもてはやされているのかもしれません。

改めて、ラ・ボエシの「自発的隷従論」を思い出します。

「あなたがたが、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか」。

私は、卑怯な生き方はしたくないと思っています。

■無料で食べられる蕎麦屋さん(2014年9月3日)
テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」を見ていたら、北海道にある無料で食べられる蕎麦屋さんが紹介されていました。
その仕組みに、感動しました。

ただし、いつでも誰でも無料で食べられるわけではありません。
そのお店では、お客様からチップや寄付をもらうと、その分だけ次のお客様には無料でお蕎麦を提供するのだそうです。
つまり、ちょっと財布に余裕のある人が、ちょっと余計に支払し、お金のない人に振る舞ってもらうという仕組みです。
その仕組みの名前も紹介されていましたが、きちんと聞いていなかったので覚えていませんが、こういう仕組みもあるのです。

要するに、信頼できるお店などに寄付するということですが、寄付を受けたお店は、それを社会の困っている人のために使うという仕組みです。
ペイフォワードという考えに共感し、できればその精神で生きたいと思っていますが、それさえなかなか難しいです。
この仕組みはもっと難しそうですが、それでも少し工夫したら、できるかもしれません。
最近私はお金があんまりないので不安はありますが、それでも時々、クライドファンディングなどにお金を提供したりしていますので、できないことはないかもしれません。

立場を変えると、私はむしろみんなにそうやってもらっているのかもしれません。
湯島でサロンをやる時に、基本は500円、容器にいれてもらうのですが、なかには余分にいれる人もあります。
もちろんそれでは湯島のオフィスは維持できませんが、時に寄付してくれる人もいます。
寄付というのは失礼だという思いからか、何かと名目をつけて振り込んでくれるのです。
ですから湯島を無料で使ってもらうこともできるのです。
ちょっと「無料で食べられる蕎麦屋さん」と似ているような、うれしい気分です。

需給関係を整えるには市場の仕組みが一番いいというのが、最近の新自由主義者の考えです。
しかしそれは理屈の話であって、現実には仲間内だけでしか機能しません。
これは最近ある本で読んだことですが、世界的には毎年22〜23億トンの穀物が生産されていて、70億人の世界の人々にそれらの穀物を平等に配分すれば、一人当たり年320キログラムとなり、飢餓は起きないそうです。
しかし実際には、8億人を超える飢餓人口が世界には存在しています。
市場の操作が、その原因の一つでしょう。

先ほどの、持てる人が持たない人の費用を負担してやる仕組みが広がれば、世界から飢餓はなくなります。
お金持ちには蕎麦が1万円、貧しい人には同じ蕎麦が10円というのはどうでしょうか。
実際にそれと似たようなことが起こっているのですから、もう少し工夫したら、そういう仕組みも可能かもしれません。
いや、すべての商品を無料にすれば、もっといいでしょう。
一時期話題になったベーシックインカムの議論はどこに行ってしまったのでしょうか。
私はベーシックインカムにも感動しました。

フードバンクという活動もあります。
それはそれでとてもいい活動です。
でも、お金持ちがレストランにお金を寄付して、貧しい人に無料で食べさせる仕組みはもtっといいですね。

そういえば、イスラムの断食は、貧しい人に腹いっぱい無料で食べさせるための仕組みだと、これもある本で読みました。
断食の時には、夜はどこのレストランでもすべての人に無料で食事を出すのだそうです。
イスラムの世界がもっと広がっていたら、世界はもっと平和になっていたように思います。
イスラムを悪者にしたのは、いったい誰なのでしょうか。

■新潟水俣病資料館に立ち寄らせてもらいました(2014年9月6日)
久しぶりに新潟水俣病資料館の塚田館長に会いに立ち寄りました。
4年ほど前に立ち寄った時の塚田さんの思いの深さと取り組みの柔らかさに感銘を受けて、ぜひまたお会いしたいと思っていたのです。
新潟に来る機会があったのでお訪ねしました。
とても共感できる話やうれしい話をお聞きできました。

資料館のロビーに、小学生たちの熊本の水俣市との交流の報告が展示されていました。
水俣市との交流があり、訪問しあっているそうです。
最近は大人たちも水俣市を訪れるようになっているそうです。

水俣市と新潟市の水俣病の経緯は、日本の政治や行政、あるいは経済団体や企業の姿勢を知る極めてわかりやすい事例です。
そこから私たちはたくさんのことを学べますし、政治や産業界も本来は学ぶべき事例です。
しかし、残念ながら、ほとんど学ぶことはありませんでした。
全くと言っていいほど、同じことが福島原発事故に関して繰り返されているように思います。
そんな話を塚田さんとさせてもらいました。

塚田さんにお尋ねしたいことがありました。
水俣病の経験が、どうも患者の認定問題や補償問題に閉じ込められたり、過去の話として語られたりしていることが、気になっていたので、そのことを塚田さんにお訊きしたのです。
塚田さんのお考えや活動を、改めて知りました。

塚田さんは、もともと獣医です。
ですからやはり「いのち」への思いが強いことも改めて感じました。

お話を聞いた後、また展示場を見せてもらいました。
予算のない中を、工夫しながら、効果的な展示に取り組んでいるのに感心しました。
展示方法なども、いろいろな人たちの意見を積極的に活かしているようです。

帰り際に、塚田さんがポツリと娘さんのことをお話になりました。
ますます塚田さんが好きになりました。

書きたいことがたくさんあるのですが、今日はアイパッドでの入力なので、どうも思うようになりません。
中途半端な書き込みですが、この資料館のことをたくさんの人に知っていただきたくて、書いてしまいました。
いつかまたきちんと書きます。

■ブラック イズ ビューティフル(2014年9月7日)
今年もまた、ブラック企業大賞が発表されました。
私の知人も選考に関わっているので、いささか残念なのですが、「ブラック企業」というタイトルには大きな違和感をもっています。
なぜ「ブラック」なのか。

私が20代の頃、ブラックパンサーというグループがアメリカで活動していました。
正確には覚えていないのですが、その標語はたしか「ブラック イズ ビューティフル」でした。
日本でも翻訳出版されていたその機関誌を、私も読んでいました。
当時、「ブラック」にはむしろ「正義」のイメージがありました。

そういう記憶があるので、若者たちを使い潰している企業を「ブラック企業」と呼ぶことに、大きな違和感があります。
これは明らかに「差別語」だと思いますが、なぜこんな言葉を使うのか、残念です。
その言葉を大々的に使用する人たちの中に、しっかりした社会活動をしてきた人たちの名前を見つけると悲しくなります。
社会運動は、視野狭窄になりがちですが、それにしてもちょっと考えればわかることなのですが。

もう一つ、気になることがあります。
個別企業を「ブラック企業」として名指すことです。
たしかに、そうしたい企業はあります。
よく話題になる居酒屋の「和民」は、このブログでもかなり早い時期に問題提起していますが、問題なのは企業というよりも、経営者です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/12/post_9.html
企業は経営者によって大きく変わります、
会社としての「和民」が問題なのではなく、その会社を経営している渡邉さんが問題なのだろうと思います。
ユニクロもそうです。
柳井さんは経営者としてもんNHKなどからは高い評価を得ていますが、私には最悪の経営者のように思います。
会社は経営者だけのものではありません。
そこで働いているたくさんの社員たちがつくりあげています。
会社全体を酷い会社であると決め付けてしまえば、そこで働いている人たちをも否定しうることになりかねません。
もちろんそうした会社に参加しているだけでも、非難されて仕方がない面もありますが、問題の本質を見誤ってはいけません。
問題にすべきは、経営者ではないかと私は思っています。

組織はあくまでも中立です。
組織に実態を与えるのは、経営者であり、管理者であり、現場の社員です。
しかし、昨今のような状況では、まずは経営者が問われなければ行けません。
だから私は、ブラック企業大賞に違和感があるのです。

■すぎのファームの梨(2014年9月10日)
昨日、久しぶりにすぎのファームに梨を買いに行ってきました。
いつもは近くの道の駅で、杉野さんの梨を購入するのですが、なんとなく行きたくなったのです。
車で15分くらいのところです。

いつものように、家族みんなで作業をしていました。
もう豊水がほとんどなくなって、これからは新高が中心だそうです。
新高はなんとなくじゃりじゃり感があって、私の好みではないのですが、杉野さんの奥さんによれば、お店で買うのはそうかもしれないが、きちんと熟したものはそんなことはないというのです。
つまり私たちがスーパーなどで購入する果物は、本当の味のものではないものが少なくないということかもしれません。
確かに、杉野さんの新高を食べたら、新高のイメージが変わりました。

ところで、梨の木には当然寿命があります。
ですから長期的な視点で植え替え計画を立てておく必要があります。
しかし、最近は果樹関係も後継者が少なく、長期的な視点で生産品種の管理をするのが難しくなったといいます。
幸いに杉野家は息子さんたちが継承していますので、長期的な視点で計画的に取り組めます。
その話を聞いて、果樹園に限らず、いろんなところでこういうことが起こっているのだろうなと思いました。
工業化社会では、長期的に考えることができにくくなっているのかもしれません。
それが何を意味するか。
考えてみる価値がありそうです。

20世紀末から、ノーロングターム、つまり長期的に考えるのはやめようという発想が世界を覆いだしています。
持続可能性などという言葉が広がっていますが、そういう言葉を使う人ほど、ノーロングターム派であることも少なくありません。
ともかく目先の利益で動いている人が大きな顔をする時代になってきています。

恐ろしいのは、そういう人ほど、言葉はきれいなことです。
言葉ではなく、生き方や働き方で、人を評価するように心がけていますが、杉野一家は実にうらやましい生き方と働き方をしています。
だから年に1〜2回、その空気を吸いに行っているのです。

■悪魔に魂を売りたくはありません(2014年9月11日)
川内原発が再稼働にまた近づいてしまいました。
住民たちの発言を封ずる田中委員長の顔が、私には悪魔に見えました。

挽歌編に、テレビの楢葉町の取材番組のことを書いていたら、時評編にも書きたくなりました。
何やら怒りがこみあげてきてしまったのです。

番組というのは、NHKで時々放映している「72時間」という番組です。
あるところを舞台にして、そこの3日間の動きを淡々と放映する内容です。
私が見たのは、福島原発の近くの楢葉町の72時間です。
楢葉町は原発事故の後、生活禁止になっています。
ただ、原発の最寄駅のあるところなので、昼間はたくさんの人が電車でやってきます。

カメラは、駅から原発に向かう人たちを映し出しますが、その光景は異様です。
みんな急ぎ足で、黙々と原発に向かって歩いていきます。
取材者が声をかけても無言です。
時に対応する人がいても、どこまで話していいかわからないのでと言うのです。
まるで機械のロボットのような不気味さを感じました。

もちろんその人たちを非難しているのではありません。
むしろ危険をおかして働きに来る使命感には感謝すべきでしょうし、敬意を持ちます。
でもどこかおかしな風景です。
もっと胸を張って、明るくすべきだと思いますが、そうではないのはなぜでしょうか。
それに、どこまで話していいかわからないという発言が出ること自体、おかしいのです。
誰かが真実を隠そうとして、働き手に圧力をかけている。
それに反すれば、「謀殺」さえも辞さないのではないかという恐怖が支配しているのかもしれません。
それは決して事実無根のことでもないでしょう。

挽歌に書いたのは、住民がいなくなった楢葉町に空き巣が入らないように見回りをしている、男性の話です。
挽歌編から引用します。

その人が番組の取材で思わず話し出したことがあります。
その人の奥さんは、原発事故の後、避難生活の疲れで亡くなってしまったのだそうです。
60歳。とても明るく元気な人だったそうです。
彼はしみじみと、原発事故さえなかったら、楽しい老後生活になったのにと語ります。
事故の数日前に、夫婦で年金の手続きに行ったのだそうです。
話しながら、その人は涙をこらえきれませんでした。

原発さえなかったら。
原発は、私には悪魔のような存在に見えます。
にもかかわらず、日本の政府は原発依存から抜け出ようとしていません。
まさに悪魔に魂を売った人たちの政府のような気がします。
その人たちに、この人の悲しみはわからないでしょう。
原発がないと生活ができないなどと言っている人もまた、同罪です。
そういう人には、妻を失ったこの人の思いなどわかるはずもない。

原発事故のために、大切な人を失った人たちの悲しみを、私は知る由もありません。
しかし、その悲しさを利用している人たちへの怒りは忘れることができません。

■最近のマスコミ報道に何か「意図」を感じてしまいます(2014年9月11日)
最近、警告があまりに盛んに行われるので、感覚的に麻痺していかないかと気になります。
用心するにこしたことはないのでが、いささか不安を与えすぎではないかと思います。

気象予測でも最近はかなり大仰な言葉が使われます。
経験したことのないような、とか、数十年に一度とか、なにやら「脅されている」ような気分になってしまいます。
警戒心を高めるには効果的でしょうが、そのうち、言葉に麻痺していかないかと心配です。

デング熱にしても、なぜこれほど盛んに報道されるのかよくわかりません。
今年になって突発したわけでもありませんし、いささか過剰報道のような気もします。
何かを隠すように、あるいは人々を委縮させるように、だれかが意図的にやっているのではないかとさえ勘ぐりたくなるほどです。

この数年のマスコミ報道は、どこか意図を感じるのは、私だけでしょうか。
私たちは、見事に「教育」されているようで、不安です。
ネットの世界も、それに輪をかけて、操作されているのかもしれません。
事実がなかなか見えなくなってきているので、私自身よく判断ミスをするようになってきました。
行動する世界を広げるしか、対抗力はないのかもしれません。

それにしても、いったい「誰の意図」なのでしょうか。
個人ではなさそうですが。

■小さな村の大きな経済(2014年9月12日)
BS日テレで毎週放映されている「小さな村の物語 イタリア」は、私の好きな番組の一つです。
http://www.bs4.jp/document/italy/
もう180回を超えていますが、毎回、実に新鮮な気付きを与えてくれます。
登場する人たちの生き方は、みんな実に豊かです。
日本でも同じような番組ができるのではないかと思ったことがありますが、たぶん180回は続けられないような気がします。

一番新しい181回目はサルディニア島のレーイが舞台です。
毎回、そこで暮らす住民が主役です。
冒頭に、そのレーイ村の全景が映し出されます。
広い平原を見渡す丘の中腹にある小さな村です。
日本であれば、限界集落とか過疎集落にされてしまうようなところかもしれません。
しかし、遠くから見ても絵になる集落です。
住民たちは野山を耕し、家畜を飼い、放牧をして暮らしています。
たぶん会社などはない農村です。
今回に限らず、毎回そんな集落が舞台なのですが、そこでの暮らしはうらやましいほどに人間にあふれています。
今回の主役の一人は、65歳の酪農家のピエートロです。

ピエートロは50歳過ぎまで学校の先生でした。
しかし、その傍ら、家の酪農を手伝ってきました。
そして、早めに学校を退職して、家業の酪農を本業にしたのです。
ピエートロは、学校の先生の仕事の傍ら、家業を手伝っていた。
そして、たぶん子育てが終わったころに、家業を継いで、好きな酪農を始めたのです。
ちなみにピエートロは、子供のころから牛の乳搾り手伝っていました。
酪農は、生活そのものに深くつながっていたのです。
いささか小難しく言えば、ピエートロはマネタリー経済の仕事とサブシステンス経済の仕事をずっとやってきて、いまは後者の仕事を生活にしているということです。

マネタリー経済の世界と違って、サブシステンス経済の世界では、必ずしもお金は必要ではありません。
お互いに手伝い合うことで、事々交換がなりたつのです。
同じ村で羊を飼っている知人が、手伝いに来ていましたが、たぶん彼もまた手伝いに行くのでしょう。
事々交換は仕事だけではありません。
お互いの家で、自家用のパンを作る時には、女性たちが集まります。
ピエートロ家では2か月分のパンを一気に作るのですが、近所から3人の助っ人が来ていました。
家によってパンの大きさや作り方も違うのだそうですが、長年の付き合いで、みんなお互いの家のパンのことも知っているようです。

もう一人の主役は85歳のアンジェラですが、彼女の場合はこうです。
若くして夫を亡くしたアンジェラは、女手ひとつで娘を育ててきましたが、その忙しい合間に野草のつる草で籠を作るのが趣味です。
その籠の作品がたくさんありました。
お金が必要な時には、それを売ってお金を得たそうですが、お金が必要ない時には、売りません。
ですから自宅にたくさんの籠があるのです。
別に使ってはいませんが、苦労して作ったのだから、売りたくないと言うのです。
たぶんお金はあまりないでしょう。
考えさせられる言葉です。
彼女も保存食を作っていましたが、材料の一部は野草です。
自然ともたぶん、事々交換、あるいは物々交換しているのです。
もちろんそこではお金など媒介にしていないでしょう。

こういう暮らしぶりを見ていて、はっと気づきました。
なんという「大きな経済」を彼らは生きているのだろう。
それに比べて、昨今の私たちはなんと小さな経済に生きているのだろうか、と。

イタリアは一時期、国家財政破綻などと言われた時があったような気がします。
しかし、破綻が問題のなったのは、マネタリー経済の話で、国民の生活はその時も豊かだったのでしょう。
経済の豊かさと生活の豊かさは、全く別物なのです。
本当に生きていれば、それに気づくはずです。
お金などなくても、ピエートロもアンジェラも、豊かな暮らしを守れるでしょう。
人や自然や大地に守られているからです。

しかし、日本のように、金銭にあまりに依存した生活では、そうはいきません。
グローバル経済は、実に矮小化された経済なのだと、この番組を見ていて、気づきました。

そういえば、この番組のプロデューサーの田口和博さんが、日伊協会の会報に「小さな村の大きな人生」というエッセイを連載しています。
「大きな人生」。
これも、私たちがいま、忘れてしまった生き方かもしれません。

■なぜ改革は達成されないのか(2014年9月13日)
20世紀末から21世紀にかけて、さまざまな分野で「改革」が叫ばれてきました。
政治改革、行政改革、司法改革、教育改革、医療改革、経営改革など、いささか聞き飽きた感があります。
しかし、残念ながら、改革が実現したという話は聞いたことがありません。
なぜでしょうか。
私には、それは当然のことのように思えます。
そもそも最初から「改革」などしようとしていなかったからです。

こんな言い方をすると、身も蓋もないのですが、そう思っています。
以前、仕事で関わっていた企業変革に関してもそう思っていました。
それに関しては、大昔、雑文を書きましたが、変革や改革は「その気」になれば簡単ですが、「その気」になることが大変なのです。
企業を変えるのは簡単です。変えるつもりがあればですが。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kigyouhennkaku1.htm

現状に満足していない人たちは「改革」という言葉に踊らされがちです。
逆に言えば、「改革」が魅力的な言葉として受け入れられるのは、現状に満足していない人が多いということでもあります。
しかし、どんな状況においても、実際には現状に満足していない人と満足している人がいます。
言うまでもないでしょうが、「改革」を望むのは満足していない人ですが、多くの場合、その状況を創り出し、その状況の中で利益を得ている人たち、つまり体制のリーダー層から「改革」を呼びかけられることが多いのです。
なぜなら、不満を持っている人たちに対して、とても「受けの良い」言葉だからです。
だから、「改革」は単なる希望を与え支配下に置くためのスローガンになりやすいのです。

満足していない人たちからの改革の声は、「革命」と言われます。
革命は、「既成の制度や価値などを根本的に改革すること」です。
つまり、根本的に改革することが革命なのです。
言い換えれば、根本的に変えない改革があるということです。
さらに言えば、現状維持のための「改革論」があるということです。

根本的とはどういうことか。
私は「パラダイム」を変えるということだろうと思います。
パラダイムとは思考する枠組みの基本原理です。
私のホームページやブログの基本的な視座は、すべて「人間起点」、それも表情ある「個人起点」を目指しています。
それは、私の生き方でもあります。
26年前に会社を辞めた時に、私は生き方のパラダイムを変えたつもりです。

その視点から考えると、世間で言われている改革の多くは、既成の枠組みの中での弥縫策、いやむしろ保全策に感じられます。
例えば、前にも書きましたが、司法改革は、権力者の自衛策の司法パラダイムから抜けていませんし、行政改革は目的不在の手続きパラダイムから抜けていません。
医療改革のような、具体的な分野でも、医療そのものの役割の見直しまでには視野が届かずに、狭義の医療防衛の視野狭窄から抜けていません。
経営改革には企業の意味の問い直しが欠落していますし、教育改革は相変わらず人間を道具とする訓練志向に凝り固まっています。

私の友人の川本さんが、「右傾化に打ち克つ新たな思想」という本を出しましたが、その根底にあるのは「人間を起点とした社会哲学」です。
私が考えている「人間起点の発想」と通ずるところがあるので、川本さんにお願いして、「人間を起点とした社会哲学」のサロンを開催しました。
それが契機になって、「ちょっとハードなカフェサロン」が始まりました。
今日はその3回目です。
今日のテーマは医療と生命倫理にかかわるものですが、この継続サロンで、「人間を起点とした社会」を考えていきたいと思っています。
関心のある方はご連絡ください。

明日から少し「改革」に関する私見を2~3回書いてみようと思います。
1回で終わるかもしれませんが。

■医療の何が「改革」されるべきか(2014年9月14日)
改革シリーズの最初は「医療を取り上げたいと思います。
昨日、小児外科医の松永さんに、「運命の子 トリソミー」のお話をしていただき、それをもとに話し合うサロンをやったばかりですので、そこで考えたことなども少し書きたいと思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#140817

私は以前から、医師中心の医療に疑問を持っています。
たとえば、2002年にホームページに医療のパラダイムシフトのことを少し書いています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kousou2002kannsou.htm#am
そこで書いたのは、次の3点です。
@「医術基軸から看護基軸へ」
A「病気づくりから健康支援へ」
B「医療制度や医学知見に合わせる治療から個々の生命に合わせる治療(支援)へ」
当時はまだこなれていませんでしたが、妻が胃がんになり病院に足繁く通うようになって、その思いは深まりました。
結局、妻は病院ではなく、自宅で看取りましたが、幸いに近くの往診医やそこと連携した派遣看護師センターがよくしてくれました。

病院で感じたのは、よく言われるように、医師は患者を見ずに病気を診るということです。
幸いに、妻の最初の主治医は「人」を見ていましたが、病状が進行して交替した主治医は、診察時にほとんど妻の顔を見ずにパソコン画面を見て話をしていました。
「がん患者学」を著した柳原和子さんは、ただの人としてではなく、患者として付き合ってほしいと話していましたが、そこに込められた意味も大きいです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1014

先の医療のパラダイムシフト、つまり医療改革に関する基軸は、「病気治癒ではなく、命の輝きを支援するというのが医療」ということです。
昨日のサロンでも「いのち」という言葉が何回も出ました。
しかし、私の思いは「いのち」ではなく「命の輝き」です。

病気を治療することは大事なことです。
しかし、それは個人の人生のほんの一部かもしれません。
病気治療のために病院に隔離され、手術されたり薬漬けにされたりすることが、もし人生の邪魔をするのであれば、それが絶対視されるべきではありません。

私は、「大きな福祉」という理念で、ささやかな社会活動をしています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/comcare-message.htm#ookinahukusi
その視点から言えば、「医療」もまた「大きな福祉」の一手段でしかありません。
昨日、お話を聞いた松永医師は、治療行為だけではなく、障害児のいる家族の生活に寄り添う生き方をしています。
治療する方法が「医学的」には見つかっていない難病を持つ人に対して、治療パラダイムの医療は何もできません。
しかし、生活を支え、いわゆるQOL、生活の質を支える行為であれば、医師にできることはたくさんあります。
それに、命の輝きは時間で測るべきではありません。
いかに短命であろうと、輝く人生は長く続くのです。
松永医師の取り組みは、そのことの大切さを教えてくれます。

昨日のサロンの話と改革の話が、いささか混在してしまいました。

医療改革はさまざまな形で進んでいるようです。
しかし、病気治療を目指す医療から人間の暮らしの福祉を目指す医療へと、起点を変えない限り、事態は悪化こそすれ良くはならないような気がします。
医師を頂点にし、病院を主舞台とする日本の医療コンツェルンを見直し、新しい医療の役割や社会の中のポジションを考えるべき時期に来ているように思います。
そうすれば、おそらく医師のミッションも変わっていくでしょう。
私の周りでも、そうした動きの予兆が感じられます。

■地方創生という発想(2014年9月15日)
このままだと896の自治体が消滅しかねないという増田さんの「地方消滅論」が話題になっています。
まさにそれに呼応するように、新たに「地方創生大臣」なるものが「創生」されました。
地方創生戦略も話題になっています。
地方消滅論も地方創生論も、私には同じ発想のように思いますが、そこで議論されている「地方」とはなんでしょうか。
イタリアの「小さな村の物語」のテレビ番組に関して少し書きましたが、そこで取り上げられる小さな村は「地方」なのでしょうか。

日本の高度経済成長を可能にしたのは「地方」の存在でした。
個性豊かな「地域」を「地方」に貶めることから、それは始まりました。
資本経済の外部に存在する農村から労働力を調達し、そのあとは、農村を市場にしていったわけです。
資本経済の成長は外部がなければ実現できないことを、エコノミストの水野和夫さんは指摘しています。
国際経済にとっての外部であった豊かな文化地域の「開発途上国」も、いまや残すところアフリカしかなくなったので、先が見えてきたと水野さんは資本主義の先行きに警告を発しています。
文化は、経済にとっての外部でしょうが、その文化も、今やほとんど資本経済によって市場化されてきていますから、資本主義の終焉は時間の問題かもしれません。

地方創生は、これまで経済化を進めてきた地方を、さらに市場化しようという話だろうと思います。
ですから、私には、増田さんが指摘する地方消滅を加速させるのが地方創生に思えてしまうわけです。

もし経済成長などという不自然なことを考えなければ、イタリアのように「小さな村」は消えることはないでしょう。
インドのラダックの「懐かしい未来」が話題になったことがありますが、その後、ラダックはどうなったのでしょうか。
ブータンはどうなってきているのか。
その教訓を、私たちはもっと学ばなければいけないように思います。

東北の復興は、地方創生なのでしょうか。
農村は工業化された農業の工場になるかもしれませんが、農村ではなくなっていくでしょう。
それが地方創生だとしたら、何か違うのではないかという気がしてなりません。

イタリアの小さな村のような、みんなが支えあって暮らしている村落は、日本ではもう捨てられたのでしょうか。
私自身が、そういう村に住んでいないのに、勝手なことをいうのは気が引けますが、今の地方創生戦略は、どこか大きな違和感があります。
そこには「改革」や「未来」を全くと言っていいほど感じられないのです。

問題は「地方」にあるのではなく、人間を材料にして、膨れ上がっている「中央」にあるような気がします。
パラダイムを変えなければ、いけないのではないかと思えてなりません。

■「○○ハラスメント狩り」への危惧(2014年9月18日)
「男女共同参画社会推進議員連盟」の会長を務める野島善司都議が、16日の総会後の取材に「結婚したらどうだ、というのは僕だって言う。平場では」と発言したことがまた都議会の「セクハラ発言」事件を再燃させています。
まあ発言するほうもするほうですが、いつまでこんなことを繰り返しているのかといやになります。
都議会では真剣に都政を議論しているのだろうかと心配ですが、こういう問題に報道の焦点を置くマスコミには嫌悪感があります。
取材したマスコミ関係者の質問に誘発されたのだろうと思いますが、質問した記者を蹴飛ばしたくなります。
もっと都政の内容に関することに関心を向けてほしいですが、マスコミは極めて表面的な発言のレベルで問題を形成してしまうので、たぶん物事の本質はいつも隠されたままで終わります。
前にも書きましたが、何かの意図を感じます。

人はだれも間違いを犯します。
あるいは考えは人それぞれです。
昨今のセクハラ基準は、私にはいささか異常に感じますが、それはセクハラに限った話ではなく、ダジャレ風に言えば、「ハラハラ」も問題にしてほしい気がします。
つまり「○○ハラスメント」という言葉での暴力です。
「○○ハラスメント狩り」が広がる中で、委縮している人も少なくないでしょう。
人のつながりが大事だと言いながら、人のつながりを妨げる圧力がどこかで働いています。
私は、そこにこそ危惧を感じます。

今回の件に関して言えば、野島都議に発言が問題なのではなく、そういう人を会長にした都議たちの不見識の問題だと思いますが、いつも問題になるのは、個人の発言です。
個人の信条や考えを非難するべきではありません。
野島さんを弁護するつもりはありませんが、自分の考えを自由に発せられない社会に加担する人は、思想の自由や表現の自由などを口にしてほしくはありません。

それにしても、いやな時代に向かっています。
こういうことを娘に話したら、娘から、お父さんも昭和の人だね、もう平成になってから26年だよと言われました。
ほんとうに住みにくい時代です。

もっと大きな問題を、マスコミは追及してほしいものです。

■司法の社会化(2014年9月16日)
司法改革に関しては、これまで何回もブログで書いてきました。
これは実に悩ましい問題で、私にはまだ整理できていませんが、今の司法改革には違和感があります。

司法は、「法を司る」ところです。
現在の国民主権国家においては、法の役割も見直されるべきですが、法を基準にして問題を調停し、時に人を「裁く」仕組みも根本から見直されるべきだろうと思います。
司法が違憲判決を出しても、行政は言動を変えないという現実が、今の日本にはあります。
だれが司法を統治しているかは明らかです。
冤罪の多さが、それを物語っています。
あるいは水俣病補償がこれほどまでに伸びていることが、それを示しています。
司法改革は、そこを問題にすべきではないかと思います。
単なる手続きの問題ではありません。

国家は、秩序維持のために暴力を独占したといわれます。
暴力の独占には、当然ながら「立法」と「司法」も含まれます。
それでは国家の暴走が抑えられませんので、三権分立が考えだされたわけですが、それは権力内での役割分担の話であって、国民主権国家の「主権者」の視点は希薄です。

そもそも法は何のためにあるのかは難しい問題です。
よく憲法は権力を制限するものだと言われます。
しかし、国民主権国家にあっては、権力は国民に所在します。
立憲主義は、統治者を制限する体制と言われますが、統治者は主権者ではなく、主権を遂行する主権預託者です。
そこがややこしいところです。
しかし、現在の日本の法体系に基本には、国民主権国家というよりも、王権国家の枠組みが底流にあるような気がします。
たとえば、刑法は一般に懲罰の上限を決めています。
日本の法律では、加害者の人権問題が重視されています。
つまり、裁く人への信頼感がないのです。
これは権力の暴走を制限するという法の起源以来のスタイルです。
しかし、これは逆にいかようにも軽い懲罰ですませるということでもありますから、まさに国民の生命と生活を管理する仕組みとしては、好都合のルールでもあります。
飲酒運転で人を殺傷しても、自動車免許は剥奪されません。
私には理解できませんが、そうしては困る人がいるのでしょう。

大切なことは、だれが、何のために、裁くかということです。
フランス革命時のような、人民裁判は大きな危険性を孕んでいますが、だからと言って、権力代行者に任せるのがいいわけでもないでしょう。
それに、そもそも「権力の分立」などは、そう簡単にはできません。

少なくとも、最低限必要なことは、司法の場の透明性の確保です。
それだけで、司法の形は変わるでしょう。
権威づけられた司法の実態を、もっと明らかにしなければいけません。
裁判所のレイアウトから変えなければいけません。
裁判を傍聴した人は実感されているでしょうが、実に威圧的です。

同時に、司法に生活面での常識を導入することです。
権力維持のための司法ではなく、人々が安心して生活できるための司法にしていかねばいけません。
つまり、上からの秩序維持ではなく、みんなが一緒になっての秩序形成の発想です。
それがどういう形になるのか、それを根本から考える司法改革が求められているような気がします。
まさに「司法の社会化」が課題ではないかと思います。

司法の歴史は長いですが、人間社会ができてから、ほとんど変わっていない気がします。
そろそろ根本から考え直してもいいように思います。
かなり暴論のような気もしますが、今の司法界にはどうも違和感があるのです。

■教育改革はどこを目指すのか(2014年9月20日)
今週のNHK朝ドラ「花子とアン」にはいろいろと考えさせられるセリフが多かったです。
NHKが自己反省と自己弁護をしているようなセリフもありましたが、まあ、それは考えすぎでしょう。
戦時中、花子はラジオで兵隊さんがお国のために頑張っているという話をしていました。
そのことを息子に戦死された蓮子から指摘され、悩むのですが、それを知って、幼馴染で学校教師の朝一が、自分も子どもたちに「お国のために頑張れ」と教えてきたことを悔いていると述懐します。
若者を戦場に送り込むうえで、学校の役割は非常に大きかっただろうと、私も思います。

学校教育は、言うまでもなく、ある目的のための手段です。
問題はその「目的」です。
明治の学校教育は、工業化社会に向けての「教育」でした。
戦時中の学校教育は、戦争を勝ち抜くための「教育」でした。
1945年以後の日本の学校教育はなんだったのでしょうか。
「平和の実現」と「個人の尊重」が重要な目的だったように思いますが、残念ながら、そういう方向にはいきませんでした。
この目的は理念的で抽象的すぎて、具体的なカリキュラムにまで展開するのは難しかったからかもしれません。
それに、貧しさの中で、多くの人たちはそれどころではなかったのかもしれません。
そして、ある時期から、ふたたび産業社会の労働力養成機関になったようにも思えます。

教育基本法は2006年に「改正」されました。
ある人は、「私たちのための教育から国家のための教育へ」と向かうための準備だと指摘しましたが、私も同感です。
かくしてまた、「お国のため」の「教育改革」が進められてきているわけです。

私には、「改革」の方向性が真反対を向いているように思います。
いま必要なのは、「お国のための教育」から「幸せのための教育」ではないかと思います。
「お国のための教育」は、「豊かさのための教育」を装いますので、個人の生活の視点があるように見えてしまうのですが、そこでの豊かさの基準は「お金」です。
豊かさも本来、個人によってそれぞれに違うのですが、国家視点から豊かさを議論すると、GDPなどに象徴される金銭経済基準になってしまいます。
しかし、幸せは国家の次元には還元できません。
「国家の豊かさ」という言葉はありますが、「国家の幸せさ」という言葉はありません。
「幸せ」に視点を移すと、必然的に、個人視点にならざるを得ないのです。
もっとも、功利主義者は「最大多数の最大幸福」という言葉を創り出しました。
私にはあまり理解できない概念なのですが、なんとなくわかったような気になってしまう、恐ろしい言葉です。
これに関しては、以前シリーズで書いた「オメラスとヘイルシャムの話」にもつながってきますが、アプローチの方向が間違っていると思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

「教育改革」にとって大切なのは、社会の方向性です。
「どういう社会を目指すのか」がないと、教育は取り組めないでしょう。
つまり、教育改革とは社会改革なのです。
その肝心のところが議論されない「教育改革」が、いかにも手際よく進められているような不安を感じています。

■個人を起点とした学校教育(2014年9月21日)
昨日、教育改革に関して書きましたが、パラダイムシフトの改革という点で、とてもわかりやすい事例があります。
一時期、話題になった「きのくに子どもの村学園」です。
この学校は、イギリスの実践的な教育学者のアレクサンダー・ニイルの思想に基づいて設計された自由学校です。
もちろん、文部科学省から学校法人として認可された学校です。
ニイルの基本思想は、「学校という制度に生徒を合わせるのではなく、実際に入学してきた生徒に合わせて学校を設計する」というものです。
ニイルは、子供の幸福こそ、子供のしつけや養育の中で最も重要なものと見なされるべきであり、この幸福への最も主要な寄与は、子供にその個人的な自由を最大限認めてやることだと考えていたのです。
その思想に共鳴した大阪の堀真一郎さんが設立したのが、「きのくに子どもの村学園」です。
書籍もたくさん出ていますし、一時はテレビでもかなり取り上げられたのでご存知の方も多いでしょう。

「きのくに子どもの村学園」には3つの原則があります。
子どもがいろいろなことを決めていくという「自己決定の原則」。
一人ひとりの違いや興味が大事にする「個性化の原則」。
そして、直接体験や実際の生活を学習の中心に置く「体験学習の原則」です。
それを実現する仕組みが、とても魅力的ですが、詳しくは本やネットで読んでみてください。
たくさんの示唆をもらえるはずです。

「きのくに子どもの村学園」を卒業した子どもたちが、どんな社会を目指していくかは、とても興味がありますが、学校全体の実態が目指すべき社会を象徴しているのです。
言い方を替えれば、いじめや競争主義が日常化し、制度に合わせる仕組みに合わせて強制が行われる(たとえば国家斉唱)学校が目指す社会は、明らかでしょう。
つまり、「そうした社会」に順応する人間を育てているのが、今の多くの学校です。
それを前提にするか、それを変えていくかが、教育改革の出発点ではないかと思いますが、それを変えようとする教育改革は、私は耳にしたことはありません。
もちろん、そうしたことを目指す「学校改革」の事例は、「きのくに子どもの村学園」のほかにもいろいろと聞いていますが。

個人を起点とした社会に向けての改革が必要だと考えている私にとっては、世上、言われている教育改革は、方向が反対だと思えてなりません。

■個人を壊す企業から個人を活かす企業へ(2014年9月21日)
個人を起点に考える学校について紹介しましたが、企業経営でも「個人を活かす」ということは、よく言われています。
企業組織論でも、自己組織化の考えが導入されたり、創発理論が議論されていますし、「ダイバーシティ戦略」もはやりです。
しかし、私の偏見では、本気で「個人を活かそう」と考えている企業はあまりありません。
むしろ、最近の企業は、「人づくり」から「人こわし」に向かっています。
ブラック企業と言われるような、「若者を使いつぶす企業」も決して少なくありません。

グローバリゼーションという言葉に合わせて、企業改革や経営改革も話題になりますが、本気で企業を替えようなどと思っている経営者は少ないでしょう。
なぜなら改革がうまくいった企業を、あまり知らないからです。
もちろんゼロではありませんが、相変わらずの経営を続けているところがほとんどのように思います。
実際に、そうしなければ、企業を継続していけないという状況もありますが、そうであればこそ、もっと本気に企業の設計思想を変えていかねばいけません。
私も昔は、そうしたことに取り組みたくて、いくつかの試みをしたこともありますが、力量不足と信念不足と怠惰さのために、いずれも挫折してきています。
だからあまり偉そうなことは言えません。

しかし、どう考えても、今の企業は壊れだしています。
働く人のためにではなく、お金のために存在しているという、主客転倒を感じます。
まあ、これは企業だけではなく、最近の組織全体がそうなってきているような気もします。

企業が個人を壊している事例は、よく報道されていますが、例えばその一つの表れが「自殺問題」です。
今年の初めから、「自殺に追い込まれることのない社会のために何ができるか」をテーマにした連続ラウンドミーティングを開催しています。
その一つが、「会社で働く人編」ですが、こうした話し合いの場に企業の経営管理者の人を巻き込むのは簡単ではありませんでした。
幸いに今は、大企業の人が中心になって、ささやかながら会を継続しています。
私の関心は、自殺にあるのではなく、そこから見えてくる企業経営の問題の把握です。
そしてどうしたら、企業がもっとイキイキしたものになり、みんなを幸せにしてくれる存在になるかです。
それこそが、私が考える企業改革であり、経営改革ですが、共感してくれる人は多くはありません。
私の本業の一つは、企業経営コンサルタントですが、残念ながら仕事はこの10年ほど、全くと言っていいほどありません。
利益を上げるよりも社員が幸せになる企業経営が私のビジョンですが、それでは企業が対価を払ってくれるはずもありません。
しかし、そうした状況こそを変えていきたい。
そう思っています。
もっとも最近は年齢のため気力体力ともに萎えてきていますので、もう仕事はできないでしょうが、思いだけは強いのです。

最近の日本の企業を見ていると、先行きがとても不安になります。

■政治改革への基本的な思想(2014年9月23日)
改革シリーズも9回目になりました。
とりあえず10回まで書こうと思いますが、今日はいささか理念的な話です。

昨今の政治状況での大きな問題は、政治を担う議員への信頼感が失われていることです。
なぜ信頼感が損なわれているのかは、いくらでも理由が挙げられるでしょうが、基本は情報社会の到来です。
議員の実態が見えてきたからです。
しかし、なぜ実態が見えてきたら議員への信頼感が失われるのか。
それは、多くの人が期待しているような人が議員になっていないからです。
ではなぜそうなっているのか。
それは、現在の選挙制度の問題になります。

投票日に、投票したい人がいないと悩んだ人は決して少なくないでしょう。
私などは毎回のように悩みます。
なんとか辻褄を合わせて投票していますが、どうしてこんなにも投票したくなる人がいないのか残念です。
しかし、それは当然のことです。
現在の選挙制度は、政治的野心や経済的野心を持って、自薦してくる人の中からしか、選べないようになっているからです。
つまり、選ばれたい人たちの中からしか、選べないわけです。
しかも、最近のような小選挙区制度では、よほどのお金持ちでない限り、政党の支持をもらわない限り、当選はできません。
政党の方針に合わせるために、自分の信念を二の次にせざるを得ません。
当選のためには信条さえも犠牲にする。
立候補の目的は、政治的野心の実現になっていく。

つまり、政治権力への野心を持つ人しか立候補しない仕組みになっているわけです。
しかも、そういう人たちは、当選してしまえば、自分の利益でしか行動しない。
そういう事例は繰り返し見せられていれば、議員への信頼感、さらには選挙への信頼感、そして政治への真摯な期待は失せていくでしょう。
そこを変えない限り、政治改革などは実現しようはずがありません。

ではどうすればいいか。
極めて簡単なことです。
立候補したい人から政治家を選ぶのではなく、政治を託したい人に政治を託すればいいのです。
もちろんこれは理念の話です。
その理念をどう具現化していくかは、難しい話です。
しかし、難しいからと言って、あきらめたら、改革などは起こせません。
たとえば、人の見える地域社会を基盤として、自分たちの代表を選んでいく仕組みを基本にして、政治体系のベクトルを反転させることができれば、事態は変わります。
立候補したい人の自薦主義ではなく、立候補してほしい人の他薦主義も検討に値します。
場合によっては、無作為の抽選でもいいかもしれません。
ネグリとハートのマルチチュードによる政治もそのひとつです。
30年ほど前にリンカーンクラブを立ち上げた友人の武田文彦さんの究極的民主主義の提案も、それにつながっています。

情報社会は、議員の実態を見えるようにして政治家の信頼を失わせましたが、情報社会は新しい選挙制度や政治制度の可能性を開いてきています。
政治改革が現実的な課題になってきました。
野党再編とか与党再編とか、そんな些末な話は、役割を終わった政治家たちに任せて、新たな政治制度を模索する時がやってきたように思います。

■改革を考える10:私の意識の改革(2014年9月24日)
改革を考えるシリーズをとりあえず今回で終了です。
最後は私自身の意識の改革について、少し考えてみます。

川内原発が再稼働しそうです。
反対運動はありますが、やはり日本人の多くの人たちは再稼働を望んでいるのでしょう。
そうでなければ、こんなに簡単に原発依存社会に戻るはずがありません。

「戦争でもあれば、ちっとは景気もよくなるのに」。
日本の経済が大恐慌に陥った昭和初期によく話された言葉だそうです。
「原発が再稼働したら、景気もよくなるのに」という人を見ると、いつも思い出す言葉です。
こういう発想をする人たちは、たぶん「戦争」も望んでいて、だから集団自衛権にも賛成するでしょう。

問題は、私自身はどうかです。
もちろん原発も戦争も拒否したいです。
しかし、どこかにこういう発想をする人と同じものを持っていないか。
そう厳しく問われれば、胸を張って、ノーとは答えられません。

私は最近毎日1時間半ほど農作業をやっています。
すべて手作業ですが、あまりにも大変なので、やはり耕耘機を購入しようかと考えたりします。
幸いにあまりお金がないので、まだ購入はしていませんが、最近は買う方向に傾いています。
耕耘機の先に、原発があると考えるのは、考えすぎかもしれませんが、油断はできません。
福島の農家の人たちの苦労は知っていますが、福島産と西日本産の野菜が並んでいると無意識のうちに西日本産を選んでしまいます。
経済成長反対などと言っているくせに、企業の仕事で収入があれば、もう少し活動ができるのになと思ったりもします。
マスコミ報道を真に受けて、イスラム国や北朝鮮に悪意を感じます。
反原発のデモにも行かずに、時代の流れを諦めている自分に気づくことがあります。
ニーメラの教訓から学ぶこともありません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html
こういう人間の存在が、たぶん日本を戦争へと導いたのでしょう。

最近の日本は、戦争に向かって一直線に進んでいた昭和初期に似ている気がして、とても不安です。
しかも、その不安に蓋をするように、みんな思考停止して、目先の与えられた仕事に忙しく(つまり心を失って)取り組んでいることに怒りを感じます。
社会から人間が消えつつあるようにさえ思います。
しかし、考えてみれば、私自身がまさにそうした生き方をしているのです。
そこから正していかないといけません。
さてどうすればいいのか。
農作業の合間に、もう少し考えてみようと思います。
自分の生き方を考えないようになったら、時代の流れに抗うことはできません。
ただただ流れに加担する存在になりかねません。
それだけは避けたいのですが、そういう考え方そのものが卑劣なような気もします。
しかし、改革を期待するのであれば、まずは自らの生き方を捉え直さなければいけません。
そこからすべての改革は始まるからです。

この答えは、いつか「改革を考える」の続編で書こうと思います。

■イスラム国だけが残虐なのか(2014年9月26日)
イスラム国の残虐さが盛んにテレビで報道されています。
たしかにおぞましい話が多いです。
しかし、だからと言って、イスラム国だけが残虐なのか。
イスラム国の殲滅とか掃討作戦とかという文字を見ると、悩ましい気分になります。
イスラム国を残虐にしたのは、その思想ではないのかと思うわけです。

シリアやイラクでの戦闘による死者の数はどれほどでしょうか。
それは果たしてどちら側の手によって殺害されているのでしょうか。
強力な火器の攻撃で幼い子どもたちも含めて複数の人たちが殺傷されるのと、一人の人間が刀で斬首されるのと、どちらが残虐なのでしょうか。
斬首のほうがむごくて残虐だと思いがちですが(私もそう思っていますが)、ほんとうにそうでしょうか。

なぜイスラム国と話もせずに、殲滅を唱えるのでしょうか。
イスラム国は邪悪だという前提での報道が、日本では多いですが、邪悪なのはイスラム国だけなのでしょうか。
欧米に正義があり、イスラム国には正義はないのでしょうか。
いや、そもそも正義とはなんでしょうか。
国家を名乗る人たちを殲滅する権利は、誰かにあるのでしょうか。
そして、なぜイスラム国はなくなるどころか参加者を増やしているのでしょうか。
表面的な報道からは読み取れない話が山のようにありそうです。

平和な宗教だと言われていたイスラムが、なぜこれほどに暴力的になったのか。
そのことを忘れていないでしょうか。

それにしても、力による抑止論は役に立たないことをどうしてみんな受け入れないのでしょうか。
集団的自衛権の基本にある「力による抑止論」は、私には悪魔の選択としか思えませんが、それがまさに日々、証明されているような気がします。
力によって得たものは、力によって失われていくことは、歴史が教えてくれています。

■安倍政権以上の支持を得るための政策(2014年9月27日)
安倍政権は元気です。
支持率も相変わらず高いです。
自民党の中では、安倍首相の暴走に掉さす人はいませんし、しっかりとものを言える野党もありません
マスコミは完全に政府広報活動に向かっています。
まさに安倍独裁体制という状況です。

反原発で対抗軸を作れると、私は思っていましたが、それは全くの幻想でした。
いま選挙を行っても、自民党は相変わらず勝つでしょう。

安倍政権を批判する人は少なくありませんが、批判だけでは何も生まれません。
安倍政権に代わって国民の多数支持を得るような、積極的な政策体系が出てこない限り、国民の支持対象は変わりません。
野党は、権力争いはしていますが、国民を向いた政策論議はしていません。

どうしたら、こうした状況を打破し、安倍政権以上の支持を得ることができるのか。
そうした政策論議を、生活者の視点でしてみようという話が、昨日の湯島のサロンで出てきました。
10月に、そんなサロンを開催する予定です。
関心のある方はご連絡ください。
一緒に、そんな議論をしてみませんか。
まだ参加希望者は3〜4人しかいませんが。

■世界を変えるのは簡単かもしれません(2014年9月29日)
昨日の朝日新聞の投書欄「声」にとても共感できる投書が掲載されていました。
神奈川県の小林万桜さんという高校生の投書です。
読まれた方もいると思いますが、タイトルは『「死ね」という言葉は使わない』という、少しドキッとするものです。

後半部分を引用させてもらいます。

 日本では、テレビでも学校でも「死んじゃう」「死ね」の言葉が軽々しく使われる。しかし、私も経験したいじめの世界では、最初は冗談だった言葉が、本当の「死」へとエスカレートする。「死」という言葉を軽んじる風潮を、私は断固として食い止めたい。
 命を大切にする世界が、容易に実現するとは思わない。でも、難しくても私が決意すればいい。私はいじめない。私は「死ね」という言葉を使わない。

とても共感できたのは、
「難しくても私が決意すればいい。私はいじめない。私は「死ね」という言葉を使わない」
という言葉です。
一人称自動詞で言い切っています。
少なくともこの人の周りでは、「命を大切にする世界」が実現しています。
それが広がって、いつか世界全体が「命を大切にする世界」になっていくでしょう。
どんな大きな変化も、最初は小さな一歩からです。

この投書を読んで、彼女と同じ決意をする人が増えることを願って、紹介させてもらいます。
私も彼女にならって、そう決意します。

世界を変えるのは、簡単なのかもしれません。
まずは自分が変わればいいのです。

■現実を見えないようにする報道(2014年10月1日)
木曾の御嶽山の山頂付近は、火山灰で覆われて、まるで月面のようなモノカラーの世界になってしまいました。
テレビも、その被害状況を毎日飽きもせずに、克明に流しています。
大変な事故でしたし、被害者も多く、確かに大事件です。
しかし、と、私は思います。
これほどまでに取り上げるのは、いささか過剰ではないかと。
おかげで社会のほかの動きが、火山灰で埋まった山頂のように、見えなくなってしまっているのではないかと。
新聞がこの事件に割くスペースもあまりに多すぎるような気がします。

この災害事故に限りませんが、最近の新聞は週刊誌のように、ある一つの話題に集中する傾向があります。
多くの人の時代認識や社会の見え方は、マスコミの報道によって構成されます。
重要なことも、報道されなければ存在すら気づきませんし、小さな事件も報道の仕方によっては大事件です。
デング熱も、昨年までは報道されませんでしたが、なぜか今年は報道されたので、大事件になりました。
つまり、世界は存在すると同時に、創られているわけです。
私たちは、存在する世界で生きているわけではなく、創られた世界に生きています。

そういう視点で考えると、世界は実にシンプルになってきました。
つまり報道がシンプルになってきたということです。
そのことと、政治の世界から多様性が失われつつあることとは無縁ではないように思います。

現実を見えるようにする報道から、現実を見えないようにする報道へと、日本のマスコミは変質してきています。
現実を見たいならば、新聞を捨てて、街に出なければいけません。
そのことを、御嶽山の噴火によって、改めて実感しています。
テレビで映し出される、灰色の御嶽山は、いまの日本社会そのもののような気がしてなりません。

■裸の王様(2014年10月3日)
今日は短いです。
最近の安倍首相の報道を見ていて感ずるのは「裸の王様」の話です。
報道関係者やテレビの解説者はみんななんで「王様は裸だ!」と叫ばないでしょうか。
じぶんも「裸」なのを知っているからでしょうか。

■編集された情報で世界は構成されています(2014年10月4日)
また、イスラム国による人質殺害がネットに流れました。
次回も予告されたようです。
これをどう受け止めるかは、そう簡単には考えられません。
もちろん私は反対ですし、ひどい話だと思います。
殺害される人たちの多くが、そこの住民たちの支援活動に関わっているとテレビでは報道していますが、もしそれが事実であれば、ますます腹立たしく思います。

ただ、私としては、だからと言って一方的にイスラム国だけを非難することに躊躇します。
なぜこうしたことが起こるのか。
そして、報道されていないことはないのか。
そこを考えないと見えてこないものがある。

これはほんの一例ですが、私たちの世界認識は身近な現実以外は報道情報によって構成されています。
その情報の真偽は確かめようもありません。

今から70年ほど前の太平洋戦争時、日本人の多くは戦勝報道に酔っていました。
しかし、その後、それは虚報だったことがわかりました。
そして多くの日本人は態度も価値観も一変させたのです。
そのことを、私は忘れたくはありません。
私たちは、そうでありたいという情報には比較的無批判に受け止めます。
情報の送り手は、信じさせたい情報を中心に、さまざま情報から送り出す世界を構成します。
編集によってまったく違った世界を構成することができます。
ベトナム戦争報道時に行われたように、無関係な画像をはめ込むことさえできます。
つまり、私たちが認識している世界は編集されているということです。
その編集者を、信頼できるかどうか。

残念ながら、日本のジャーナリストも報道機関も、70年前に戻ってしまったような気がします。
昨日書いたように、嘘さえも嘘と言えないことに、それが明らかに示されている気がします。
小さな嘘は暴かれ出していますが、誰かが言ったように、大きな嘘に気づく人は少ないのでしょうか。

■ある一点(2014年10月4日)
昨日、ある人からスプーン曲げの方法を教わりました。
彼は超能力などないんですよ、というのですが、私は超能力や超常現象を確信しています。
というよりも、人間の理解できる範囲など小さなものだと考えていますので、正確には「超」ではなく、まだ説明できないことがあると考えているだけですが。

ところで、昨日教えてもらったスプーン曲げの方法は、極めて論理的な方法ですポイントは「ある一点」に注目することです。

Facebookにも書いたのですが、「ある一点」に注目するということは、スプーンを曲げるためだけに大切なことではありません。
実は昨日から箱根で、いろんな企業の人たちと、「企業は今のままでいいのか」をテーマにした合宿をしていますが、まさに企業を変えるためにも、社会を変えるためにも、それを可能にする「ある一点」を見つけ出すことが出発点です。
ところが、その一点がなかなか見つけられないのです。

伝授されたスプーン曲げのもう一つのポイントは、力を入れる方向です。
これも、多くの場合、間違っているのかもしれません。

超能力などなくてもできることはいろいろあるようです。

■自宅で暮らせなくなった人たちのセーフティネットづくりをテーマにしたサロンのお誘い(2014年10月6日)

最近、地域包括ケアが話題になってきていますが、「自宅で暮らせなくなった人たちのセーフティネット」をテーマにしたい話し合いの会を開催します。
抽象的にではなく、実践者の思いを聞きながらの話し合いです。
話題提供者は、超高齢社会に向かいつつある状況の中で、民間のセーフティネットを広げていこうという強い思いで、今年、千葉市で株式会社ミューマを起業した村山眞弓さんです。
ミューマの社名には「私とあなたで奇跡をおこす」(Me you marvelous)という思いが込められています。
村山さんがとりわけ関心を持っているのが、「自宅で暮らせなくなった方たちのセーフティネット」です。
村山さんは、まずは自分のところ(千葉市)でモデルを確立し、その体験を踏まえて、思いのある人たちと一緒に全国に広げていきたいと考えています。
私も何回かお話はお聞きしていますが、もっと多くの人に聞いてもらい、村山さんの構想をいろんな視点から練り上げていくとともに、幅広い緩やかなネットワークを育てていくことが必要ではないかと思い、村山さんの構想をお聞きするサロンを開催することにいたしました。
当日は、村山さんから30分ほどお話していただき、後は参加者との話し合いというスタイルになります。
また広い意味では同じような構想をお持ちの方やすでに活動に取り組まれている方も多いと思いますが、ぜひともそうした方たちの実践事例もお話しいただければと思います。
民間のセーフティネットは、様々な活動が緩やかにつながっていくことが大切です。
ぜひ多くのみなさんの参加をお願いいたします。
もちろん自分では何もやっていないけれど、そうした問題に関心のある方も大歓迎です。
私もその一人ですので。
よかったら気楽にご参加ください。

○日時:2014年10月18日(土曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○話題提供者:村山眞弓(株式会社ミューマ代表)
http://myuma.jp/
○会費:500円
○申込先:コムケアセンター佐藤修(comcare@nifty.com)

■健全な老化と正常病(2014年10月10日)
私の生き方は、かなり社会や時代から脱落しているのですが、時々、本などを読んでいると元気づけられることがあります。
以前紹介した宇根豊さんの「農本主義は未来を耕す」を読んだ時には、私の生き方は脱落ではなく、未来の主流ではないかとさえ思ったほどです。
今朝から井上芳保さんの「つくられる病」を読み出したら、私の生き方もまんざらではないとうれしくなりました。

私がよく使う言葉に、「健全に老化している」というのがあります。
私はお医者さんに行くのがあまり好きではありません。
そういうと、周りの人は「怖いのか?」などとわけのわからないことを私に言うのですが、怖いわけがないでしょう。
あえて言えば、「病気になりたくないから」ですが、これもまた誤解されかねません。
めまいで一週間寝てしまったり、2か月も声が出にくかったり、胃腸の調子がおかしかったりした時には、周りの圧力もあって、病院に行くことはありますが、そこでの医師の処方は、ほぼすべて、「健全な老化です」というように受け止めています。
MRIで脳に梗塞部分が確認された時も、声が出にくくなった時も、医師はたぶんそれと同じような処方をしてくれたのだと理解しています。
一応、薬はくれましたし、私もある程度飲みましたが、要は「健全な老化」なのです。
健全な老化への処方は、健全に素直に生きるということです。
そのための「知恵」は、古来、たくさん伝承されています。

ところで、「作られる病」には、こんなことが書かれています。

「正常病」とは、端的に言えば「正常のために病気になっている状態」のこと、つまり「自分は「正常」であらねばならない」との強い思いに取り憑かれてしまうがために、かえって調子がおかしくなるような一種の病理的な状態を指している。

老化した人間が、どこかに不具合が生じないこと自体が、正常ではないというのが私の考えなのですが、まさにわが意を得たりです。

本書にはまた、健康増進法への疑義が提起されています。
全く同感です。この法律の恐ろしさは、前に書いたかもしれません。

本書で一番私が感動したのは、「そんなに「健康」になって、いったいどうするの」という言葉でした。
まだ読みだしたところなので、その先が楽しみです。
今日はあまり時間がないので、読み終わるのは明日になりそうですが、多くの人に読んでほしい本です。

読み終えたら、また「制度化された医療」と「生活のなかでの治癒」について、書いてみようと思います。
また、この本に書かれている「正常病」状況は、私がささやかに取り組んでいる自殺の問題や認知症の問題、障害児の問題や企業経営の問題につながっているのだろうと思います。

■私たちが不安に思うべきことは何か(2014年10月13日)
近代の根底にあるのは「不安」だと言われています。
そうした「不安」を解消するためのエネルギーが近代化を推進してきました。
皮肉なのは、「不安」が解消されれば、近代化のダイナミズムが失われるということです。
そこで、巧みに「不安」を増殖させる仕組みが構築されました。
近代産業のジレンマに関しては、何回も書いていますが、そうした仕組みは産業に限った話ではありません。
自らの存在を守るためには、不安を解消させるだけではなく、さらなる不安を生み出さなければいけません。
そうして、イリイチが「医原病」と名付けたように、病院や医療者は病気を創り出すわけです。
そして、薬が大きな市場を形成し、経済成長が実現します。
こんな簡単な構造さえ見えなくなっているのは、これまた「不安」のおかげです。
次々と襲いかかってくる不安の罠に、みんな目先しか考えられなくなります。
しかも、不条理な統治を可能にするのもまた、「不安」です。

福島原発事故から起こった動きは、そのことを教えてくれます。
目先の雇用がなくなるから、停電で生活が不便になるから、などといった、不安の罠に囚われて、思考力を失ってしまうわけです。
不安の中で同じ被災者や被害者が溝を作って対立してしまう。
まさに「不安」が生み出す悲劇です。

これも何回も書きましたが、貨幣経済の呪縛から抜け出せば、この豊かな日本ではさまざまな生き方ができます。
もし多くの人がそれに気づけば、今の産業社会やマネー資本主義は瓦解するかもしれません。
それがまた「不安」にもなるかもしれませんが、そんな貨幣経済社会はたかだか最近100年ほどの特殊な社会でしかありません。
私たちはもっと歴史を学ばねばいけません。
この150年が、いかに特殊な時代なのかに気づけば、もっと生き方は自由になるでしょう。

しかし、そうはさせじと、不安のシャワーは強まる一方です。
今回の台風の報道を見ていて、そう感じます。
私にとって恐ろしいのは台風の雨風ではなく、台風報道による洗脳の嵐です。
もちろん台風報道だけではありません。
不安を高じさせる報道の多さには、驚くものがあります。
しかし、その一方で、しっかりと不安に思うことに関する報道はどんどん少なくなってきています。
目をそらされているのかもしれません。

岩波新書の最新刊「福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞」を読みました。
毎日新聞の記者の日野行介さんの丁寧な取材による報告です。
私たちが不安に思うべきことは何か、的確に示唆してくれています。
目先の不安に踊らされないためにも、歴史と現実には関心を払っていきたいと思います。

■心身を治癒する知恵と制度化された医療(2014年10月14日)
4日前に「健全な老化」について書いた時に予告しておいた、「制度化された医療」と「生活のなかでの治癒」について少しずつ書いてみます。
前にも書いたように、井上芳保さんの「つくられる病」を読んで思ったことです。
井上さんも、その本の中で書いていますが、心身に異常が発生した時、生活を変えることで対処してきたのが、数十年前までの医療でした。

普通の生活の中で自分を治癒する知恵。
風邪かなと思ったら、あったかな飲み物で身体を温めて早く寝る、とか、気分がめげたら気のおけない友だちと会う、とか、疲れたら栄養剤など飲まずにゆっくり入浴して十分の睡眠をとる、などです。

ところが、そうした知恵に代わって、「制度化された医療が生活を覆い尽くすようになっている」と井上さんは指摘しています。「薬漬けにしていく動きに、実は私たち自身もまた加担している」というのです。

まさにその通りで、私自身も、そうした動きに加担していることは間違いありません。
それは、心身の不具合は医療の「専門家に任せよう」という、近代共通の発想です。
不具合は治すものではなく、治してもらうものになってしまっています。
私も、薬は嫌いと言いながら、病院に行って薬をもらえないとちょっと物足りない気がします。
風邪薬はわが家の常備薬になっていますし、栄養剤やサプリメントも飲んでいます。

8月にのどの調子が悪くなりました。
フェイスブックでどうしたらいいか、投げかけました。
いろんな人がアドバイスしてくれましたが、市販の薬を勧めてきてくれた人もいますが、いわゆる民間療法のアドバイスが半分以上でした。
いずれも試してみましたが、いずれもたぶん効果がありました。

心身に異常が生ずるということは、環境との関係性において、心身がついていけなくなったということでしょう。
心身の異常は、心身がSOSを出しているのだとよく言われますが、その解決策は2つあります。
ひとつは、心身を補強すること。
もう一つは、環境に追いつくように心身の回復を待つことです。
前者は、時間を時計に合わせることであり、後者は時間を心身に合わせることでもあります。
治療せずに、治癒を待つと言ってもいいかもしれません。

そういう生き方を目指そうと、改めて思い出しています。
ちょっと遅すぎたのですが。

■薬用植物事典「デューク グリーンファーマシイ」(2014年10月15日)
私の書棚には「デューク グリーンファーマシイ」(翻訳書)という本があります。
20年以上前に、知人の星合和夫さんが翻訳された本です。
当時はお気に入りの本で、妻の病気の時にもよく読みました。
最近も、何かあるとひっぱり出してきて読むのですが、消化できずにいます。
欧米ではミリオンセラーになっている薬用植物の事典です。
この日本版が、もう少し実践的な内容でつくられないものかと思っています。
http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4901161415

妻の看病時、様々な民間療法も試みました。
いまから思えば、中途半端でしたが、その時学んだことをきちんと記録しておけばよかったと思いますが、妻が亡くなったとたんに、逆に忘れたくなりました。
娘たちは、たぶんそうした民間療法への信頼感はないでしょう。
民間療法は生活の中から生まれてきたものであり、生活と深くつながっています。
その療法だけを取り出しても、効果は上がらないのかもしれません。

東洋医学には「未病」という概念もありますが、病気もまた「健全な生活の一部」だと考えるのがいいのかもしれません。
「医食同源」が示唆しているのも、そういうことなのでしょう。
つまり、病気とは日頃の生活のあり方を問い質すための時間なのかもしれません。
そうであれば、治療とは生活を正すことになります。
その発想が生活習慣病のような話になってしまうと、逆に「医療化」に向かってしまいます。
どこに間違いがあるのか。
たぶん個人視点で考えるか全体視点で考えるかの違いがあるのでしょう。
考えているうちに、病気の捉え方が、だんだんわからなくなってきました。
もう少しきちんと考えないと、間違った結論にたどり着きそうです。

「つくられる病」の著者の井上芳保さんに共感したので、ほかの著書も読み出しました。
「健康不安と過剰医療の時代」(長崎出版)のはしがきで、井上さんは「医療っていいものでしょ」という私たちの「常識」を問題にしています。
73年も生きていると、そうした「常識」から抜けたつもりでも、なかなか抜けられません。

それはそれとして、日本版薬用植物事典をどなたか作ってくれませんか。

■「こころのケア」???(2014年10月17日)
とても気になる言葉があります。
「こころのケア」です。
最近は何か事件があると、被害者や周辺の人たちへの「こころのケア」が話題になり、テレビでも盛んにこの言葉が使われます。
その言葉を耳にするたびに、とてもいやな気分になります。
「ケア」という言葉が、なにかとても軽薄な技術のように思えてしまうのです。

私が「ケア」という言葉をしっかりと意識しだしたのは15年ほど前でしょうか。
当時はまだ「ケア」という言葉が新鮮でした。
最初に読んだ本は、ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」です。
そこで、ケアとは行為概念ではなく関係概念であることを知りました。
不勉強ながらとても共感しました。
次に読んだのが、池川清子さんの「看護―生きられる世界の実践知 」でした。
そこで感じたのは、これは医療や福祉の世界の話ではないということでした。
生き方の問題であり、あるいは社会のあり方、さらには組織のあり方にとっての、本質的な問題だと感じたのです。

2000年にコミュニティケア活動(コムケア活動)というのをはじめました。
その活動は今も続いていますが、その活動を通して「ケア」ということの意味がだいぶわかってきたつもりでした。
ですから、ケアという言葉が広がってくることはとてもうれしいことでした。

ところが最近はあまりに耳にするので、天邪鬼の私にはだんだん耳障りになってきました。
しかも「こころのケア」。
私にはよくわからない言葉になってきてしまったのです。
さらに最近は「心の専門家」とかいう職業まであるようで、私の理解を超えだしています。
ケアの専門職というのもいるのかもしれません。
そうなるとたぶんケア産業というのが生まれているのでしょう。
なにしろ「ホスピタリティ産業」というのもあるのですから。

私が一番気になるのは、ケアが行為概念や医療概念に捉えられているように感ずることです。
何やら最近の精神医療の流行というか、市場化というか、そんな流れの延長を感じてしまいます。
なんでも産業化され、市場化され、金銭化される時代になってしまいました。

私は妻を亡くした時に、大きな喪失体験をしました。
たぶん精神的におかしい時期が数年ありました。
しかし周りの人たちが日常的に支えてくれました。
心の専門家による「こころのケア」を受けずにすんでよかったです。

それにしても、軽々しく「こころのケア」などと口に出し、専門家に任せてしまう風潮が、何やらとても悲しいです。
周りの人が気遣えばいいだけの話でしょう。
なんでそこに専門家が入ってくるのか、私ならたぶん蹴飛ばしたくなるでしょう。

そういえば「傾聴ボランティア」というのもあります。
傾聴を仕事(金銭をもらわなくても)にしていいものかどうか。
私にはとてもそんなことはできません。
もちろん他者の話にはしっかり耳を傾けることは大事なことであり、私もそう心がけてはいますが。
「傾聴ボランティア」などという言葉を使う人の感性が、私には理解できません。

■5人の女性閣僚は「女性活躍」の象徴です(2014年10月19日)
安倍内閣の看板ともなった5人の女性閣僚が、それぞれ問題になっています。
松島法相のうちわ事件は論外として、小渕経産相の問題も、私にはあまり関心はありません。
私の関心は、高市総務相、山谷拉致問題担当相、有村女性活躍相が靖国神社の秋季例大祭に参拝したことです。
彼らが選ばれた理由が納得できました。
同時に、安倍政権が言うところの「女性活用」の意味も理解できました。

5人の言動をテレビで見ていると、いま話題の「クマラスワミ報告書」を思い出してしまいます。
「クマラスワミ報告書」は、日本軍性奴隷制(慰安婦問題)に関するラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告書」(1996年4月の国連人権委員会において全会一致で採択)のことです。

日本は全く変わっていないのかもしれません。
まともな女性に閣僚になってもらいたかったです。

■歴史はいい方向だけに進むものではありません(2014年10月21日)
先日、ある集まりで、精神障害者を私宅監禁する座敷牢の話が話題になりました。
障害者を排除する社会が話題だったのです。
だから江戸時代以前に戻れば、社会はもっと住みやすくなるのにと私は発言しましたが、だれからも賛成を得られませんでした。
こういう経験はよくあります。
おそらく私と多くの人のずれは、歴史はいい方向に進んでいるという前提で考えるかどうかです。
少なくとも私は、歴史は必ずしもいい方向には進んでいかないと考えています。

精神障害者の座敷牢は明治から昭和にかけての話です。
しかしみんななんとなく江戸時代にも行われていたと考えているような気がします。
たしかに江戸時代にも「座敷牢」はありましたが、それは精神障害者を閉じ込めるものではありません。

日本で「精神病者監護法」ができたのが明治33年です。
これは、精神病者はなるべく病院に収容すべしという法律です。
しかし、当時の日本は、財政難の時代で、病院はつくれないため、「患者は家の中の奥まった所に閉じ込めておき、外に出すな」という私宅監置が始まったのです。
これが精神障害者の座敷牢の始まりです。

明治にあったのであれば、当然、江戸時代にもあっただろうと、私たちは考えがちです。
そこに「進歩史観」の落とし穴があります。

私たちが持っている過去のイメージは、教育で構築されています。
自らの時代を正当化するために、政府は一昔前の時代を「悪しき時代」と教え込みます。
時代はいい方向に進んでいるというわけです。
これは、私たちにとっても受け入れやすい考えです。

しかし、歴史はそんなように、いい方向にだけ進むわけではありません。
この頃、多くの人と話していて、みんな実に真面目に学校教育で学んできたのだなと思います。
私は、学ぶことは大好きでしたが、幸いに学校は嫌いでした。
そのおかげで、余計な知識をあまり背負わずにすんでいます。
もっとも、そのために、いささか最近は生きにくいことも多いのですが。

■小渕経産相の辞任会見を見ていてぞっとしました(2014年10月21日)
昨日、辞任した小渕経産相の記者会見を見ていて、何やらぞっとした気分に襲われました。
小渕さんを非難する意図はないのですが、今という時代の実相を見るような気がしたのです。

小渕さんの受け答えは実に見事でした。
リスクマネジメントの常道をきちんと押さえていますし、何よりもぶれない信念と素直な知性を感じました。
こんな有能な若い政治家を、おそらく彼女自身の知らないところで行われていた「従来の慣行」で辞任させるのは、なにか割り切れないものを感じたほどです。

では、なぜ私がぞっとしたか。
表情がないからです。
まさに、あれはロボットの記者会見でしょう。
冷静に、理路整然と、客観的に正誤を判断し、政治家にはめずらしく、質問に正面から応じています。
素直に聞いていると同情したくなります。
しかし、表情がないのです。
もう一人の辞任大臣とは大違いです。

繰り返しますが、私は小渕さんを非難しているのではありません。
そうではなく、彼女から見えてくる時代状況に大きな不安を感じているのです。
現代社会は、ともかくストレスの多い社会です。
とりわけ、国家の権力機構の一翼を担い、しかも男性社会の中で女性の代表のように期待されている小渕さんのストレスは想像を超えるほどに大きいでしょう。

現代社会で大きな責任ある立場に立つためには、ストレスに負けず、感情などにも振り回されない。超人さが必要です。
超人というよりも、むしろロボットと言った方がいいかもしれません。
大きな機構の中で、狂うことなく正常に作動しなければ、機構自体が危うくなるからです。
小渕さんを見ていると、まさにそうしたロボットを感ずるのです。

近くで取材した人の話では、唇は乾き、手の指先は小刻みに震えていたそうですから、小渕さんは間違いなく人間でしょうが、人間がロボットを演じなければいけない時代が、ぞっとするのです。
小渕さんが、薬物を使用していなければいいのですが。

もう人間の政治家は不要になってきているのかもしれません。
安倍首相が言う女性の活用とは、女性をロボット化することなのかもしれません。
ますますぞっとしてしまいます。

■入院すると得をするってほんとですか?(2014年10月22日)
友人が、ちょっと深刻な病気で手術入院することになりました。
何回か目の入院です。
繰り返しの入院なので経済的にも大変だろうと心配しましたが、彼が言うには、入院すると保険から100万円おりるそうなのです。
こういう話は時々聞くことがあります。

彼はまた、入院中の待遇の良さも話してくれました。
最近話題になっているので、「そこでは患者様扱いされるのか」と訊くと、まさにそうだと言うのです。
名もない民間病院ではありません。
れっきとした有名な大学の病院です。
そういえば、大学でも学生をお客様扱いしているのかなと思いました。

お金ももらえて、待遇もよく、快適な生活ができるのであれば、入院患者も増えていくことでしょう。
しかし、何かおかしい話です。
騙されているように思います。

10年以上前に、山形市で講演を頼まれました。
内容は忘れましたが、話した後に、「行政はサービス業だと思いますか」と会場から質問がありました。
当時は、行政もサービス業だという言説が広がっていたのです。
私は即時に、「思いません」と答えました。
質問者は失望したようでした。
会場には私の知り合いも来ていましたが、明らかに彼もまた失望していたように思います。
しかし、私の感覚からは、行政がサービス業であるはずはありません。
もちろん、行政職員が「公僕」だなどとは私は全く思っていません。
そういう発想が日本の自治体や地域社会を壊してきたのです。

医療も同じで、断じて、サービス業であってはなりません。
昨今の新自由主義の流れの中では、医療も産業化され、病院もサービス機関になってしまったのでしょう。
いや、サービス機関ではとどまらず。顧客創造機関にさえなってきています。

クリストファー・レーンは、その著書「乱造される心の病」で、「クスリを売るならまずは患者をつくれ」という状態になっている「精神病産業」の現実を告発しています。
しかし、これは精神病産業だけの話ではありません。
病院は今や、病気を治すどころか、医療市場の拡大を使命にしだしているのではないかと思うほどになってきています。

医療関係者は、こうした動きをどう考えているのでしょうか。
そろそろ病院の外へ出てきませんか。

■医師と農夫(2014年10月24日)
この1か月ほど、イタリアの精神医療改革の書籍や論文を読んでいます。
それだけではなく、日本の精神医療に関する歴史も少しだけ読んでいます。
読めば読むほど、何やら社会の闇が見えてくるのが恐ろしいのですが、私自身にも深くかかわってくる気がして、抜けられなくなっています。
それに、イタリアの精神医療改革を先導したフランコ・バザーリアの考えは、私がずっと考えてきたものととても重なっています。
それもあって、とまらなくなっているのです。

今日は、ジル・シュミットというスイスのジャーナリストによるイタリアの精神病院解体レポート「自由こそ治療だ」という本を読んでしまいました。
そこに書かれている、彼女とバザーリアの対話は、それこそ感動的ですが、それは置いておいて、やはりそこに出てくるある精神医療にかかわる医師の言葉に感動したので紹介することにしました。

精神障害のある人が繰り返し、医師に苦労を掛けます。
挙句の果てに自殺未遂まで起こしてしまう。
そこでその医師に著者が、「再び監禁してしまった方がよいのではないか、と思いませんか」と訊いたところ、医師は首をふって次のように言ったというのです。

いいえ、いいえ。我慢しなければいけません。
私たちは農夫のようなものです。
畑を耕し、作物を植え、収穫を待ち望むのです。
それから霰が降り、すべてをオジャンにしてしまう。
でも、それでも農夫は諦めません。
彼は翌日またはじめます。
そして今度はもっとよいことを期待するのです。

とても元気づけられる言葉です。
日本にも、こんな医師はいるのでしょうか。
バザーリアの世界では、医師と農夫とが同じなのです。
日本では、もしかしたら対極かもしれません。

そういえば、テレビの「小さな村の物語 イタリア」では、こういう話が多いです。
以前、医療も含めて、「改革」の話を10回シリーズで書きましたが、改革を可能にするのは、やはり人間観だと改めて確信しました。
それを抜きにした「改革」はありえないでしょう。
私の人間観がますます好きになりました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kaikaku.htm

■「社会から生きた人がいなくなった」サロンの報告(2014年10月25日)
このブログでもご案内した、ちょっとハードなカフェサロンの4回目のテーマは「社会から生きた人がいなくなった」でした。
問題提起者の楠さんを含めて、10人集まりました。
楠さんは、フランクフルト学派の研究者です。
以前、彼のホルクハイマーに関する著作を読ませてもらい、ぜひその続編が聞きたかったのです。

楠さんが、しっかり準備してくれていて、フロイト、フロム、ベンジャミンから始まり、現代日本への問題提起へと、きっちりと話してくださいました。
とても整理できました。
結びの言葉は、なんと東田直樹さんの「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」の一節でした。
引用させてもらいます。

僕たちは自閉症でいることが普通なので、普通がどんなものか本当は分かっていません。
自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです。

意外な結びでしたが、まさにテーマにふさわしい結語だと感心しました。

話はいろいろと広がりましたが、勝手な結論で言えば、「社会の普通」の幻想に呪縛されて生きるのではなく、「自分の普通」を大事にしようと言うことでしょうか。
生きた人間は、みんなそれぞれに違うのです。
社会の規格や常識に合わせる必要はありません。
もっと自然な自分に素直に自信を持ちましょう。
そうすれば、他者にももっと寛容になれるかもしれません。
それこそが、社会に人が戻ってくる出発点かもしれません。
とまあ、私はそんなことを考えました。

人間を起点にした社会に向けて、どうしたらいいか。
問題提起してくださる方がいたら、ぜひ次回のサロンのスピーカーになってください。

なお、サロンでの話し合いについて、参加者のおひとりの李祥さんが、ご自分のフェイスブックでかなり詳しく書いてくださっていますので、私のフェイスブックにもシェアさせてもらっています。
もしよかったらお読みください。
https://www.facebook.com/cwsosamu

■ゆりかもめの座席の恐ろしさ(2014年10月26日)
今日、テレビでゆりかもめの座席の話を知りました。
ゆりかもめでは、足を投げ出して座る人が多く、それに対する苦情が多かったそうですが、座席の形を変えたら、苦情がゼロになったというのです。
どう変えたかというと、座席に傾斜をつけ、足を投げ出しにくくしたのだそうです。
その番組の出演者の一人は、そうした工夫もいいけれど、そもそも電車内で足を投げ出すようなことをしないようにすることが大切だと言っていました。
みなさんはどう考えるでしょうか。

先の記事で社会から人間がいなくなってきたというサロンの報告をしましたが、こういう話は、まさにそのテーマにつながっています。
かつての人間は座席の一部にさせられようとしているわけです。

ファストフード店は座り心地の悪い椅子にすることで、回転率を高めているというのは、有名な話です。
こうした発想は、「アーキテクチャ」による意識管理と言われます。
価値観やルールを個人に教え込むのではなく、個人を無意識のうちに操作できる環境にしていくということです。

社会の秩序を維持していくために、法律や慣習などがありますが、それと並ぶ方法として、アーキテクチャという方法があるのです。
「アーキテクチヤ」、日本では環境管理型権力などと表現されますが、このポイントは、人の行為の可能性を「物理的」に規定してしまうにもかかわらず、本人はその行為を自発的なものと認識するということです。
つまり、規制されているにもかかわらず、そう思っていないと言うわけです。
最近では、アーキテクチャを用いた社会設計が広く展開されています。

考えてみると、恐ろしい話です。
もし、恐ろしいと感じないとしたら、もうすでに人間であることをやめて部品化の道を歩んでいると疑った方がいいでしょう。
たしかに、主体性など放棄すると、実に生きやすくなるのが、現代の日本社会です。
それをだめだとは、私には言えません。
私の周りの、おそらく9割の人は、もうそっちに向かって進んでいますので、引き止める気はありません。
生き方は、人それぞれですから。
長年飼っていたわが家の犬(ちび太)は寝たきりになっても介護され、獣医が驚くほど長生きしましたが、私には彼が幸せだったかどうかは何とも言えません。
しかし、わが家が引き取らなかったら、ちび太は早々と殺処分された可能性が極めて高いのですから、幸せだったとも言えます。

話がそれてしまいましたが、アーキテクチャは必ずしも物理的な環境とは限りません。
テレビで毎日報道されている情報やドラマもまた、私たちの意識を操作管理しています。

ちなみに、今度ゆりかもめに乗ったら、足を投げ出してみたい気もします。
しかし、それもまた結局は意識を管理されていることになります。
まったくもって、生きづらい社会になってしまいました。
地球から生きた人間がいなくなるのは、そう先のことではないのかもしれません。

■エボラ熱とイスラム国(2014年10月27日)
いま世界の国家は2つの危機に直面しています。
エボラ出血熱とイスラム国です。
エボラ出血熱は国境を越えて、世界中に広がりだしていますし、イスラム国もシリアやイラクといった限定された地域を超えて、その脅威が広がっています。
エボラ熱を引き起こしている生物は人間ではないので、人間が勝手に線引きした国境などには無縁ですし、イスラム国もまた「国」を冠しているとはいえ、国境を越えたイスラム思想がその主体なので、国家概念を超えた動きになるのは当然です。
つまり、この2つは、まったく別物であるように見えますが、現在の世界の構造に対する異議申し立てという意味では同じものです。
そのためか、それに対する国家や人々の反応も、どこか似ています。

エボラ出血熱とのたたかいは、おそらく制圧できるでしょうが、イスラム国の制圧は無理ではないかと私は思います。
なぜなら、前者は人間全体の外への戦いであるのに対して、後者は人間同士の内なる戦いだからです。
前者は人間をつなげていきますが、後者は人間のつながりを分断化していきます。

心の中に宿る思想ほど、移り気なものはありません。
身体に宿るウィルスや最近も移り気ですが、思想は距離や時間を超越しているだけ扱いにくいのです。

近代国家という枠組みは溶融しつつありますが、加速されることは間違いありません。
ちなみに、規模の大きさから組織をランキングしていくと、上位100組織に関しては、ほぼ6割が企業、4割が国家と言われています。
企業組織のほうが国家組織よりも主役になっているといってもいいかもしれません。
しかし、それとはまったく違った組織形態が生まれつつあるのかもしれません。
人間を宿主として位置づけ、そこに宿るものによって構造化するような世界も、必ずしも絵空事ではなくなってきました。

思い出すのは、ハインラインの小説「人形もどき」です。
50年前に読んだ小説が、今まさに現実化しつつあるような気がしてなりません。

恐ろしいのは、この2つの流れがつながることです。
すでに、アメリカではエボラ出血熱の疑いのある人たちが、犯罪者のように扱われたという報道もあります。
そう遠くない先に、つながってしまうことの恐ろしさを感じます。
昨日の記事と同じ結論になってしまいました。

■再論:生きる権利と生きる責任(2014年10月27日)
昨日のテレビ報道の関係か、それに言及した挽歌編へのアクセスが増えているようです。
挽歌編のため、尊厳死に関して、あまり的確な記事にはなっていないので、時評編でも少しだけ書いておこうと思います。

昨日テレビで報道されたのは、脳腫瘍で医師に余命が6か月以内と告知された、29歳の女性が、11月1日に尊厳死することをユーチューブで流した話とスイスにある自殺ほう助を使命とするNPOの話です。
挽歌編に少し内容を書きましたが、自殺に追い込まれることのない社会を目指しての活動をしている私としては、いささか気になる内容です。
こういう番組が自殺者を誘発することが心配です。
報道するほうは、そのあたりをしっかりと踏まえていただきたいと思います。

言葉遣いの問題もあります。
番組では主に「安楽死」とか「自殺ほう助」とかいう言葉が用いられていましたが、いずれも「尊厳死」と表現するだけでイメージは一変します。
自殺ほう助をミッションとするNPOなどという表現は誤解を招きます。
尊厳な生き方を支援するNPOとしてほしいものです。

この種の番組では、いつも「死ぬ権利」「死ぬ自由」ということを言う人がいます。
その発想がそもそも私には受け入れがたいのです。
生きるということは権利ではなく、責任だろうと思うのです。
生まれた時から自立した人間など、一人もいません。
たくさんの人たちに支えられて生きてきたわけですから、自立した後は、生きる責任が発生すると考えるべきでしょう。
それに、人は一人で生きているわけではなく、たくさんの人たちとの支え合いの中で生きています。
無縁社会とか孤立とか、言われますが、それは大いなる勘違いでしかありません。報道による暗示にかかってはいけません。
テレビドラマで、「私が死んでも悲しむ人など一人もいない」という人に向けて、「そんなことはない。誰それが悲しむでしょう」などという場面がありますが、悲しむ人は必ずいます。
もし万一いないとしたら、その人はすでに生きていないだけです。
そういう状況になった時に、必ず悲しむ人がいたはずです。

人は、生きていく責任があるのです。
死ぬ権利という表現に対応させれば、生きる義務がある。
そして周りの人たちには、死なせない義務がある。

尊厳死の話は、そうした次元の話ではありません。
ここでも尊厳「死」と表現するからおかしくなるのだろうと思います。
生きることの尊厳さを守るという意味で、尊厳生というのが私にはぴったりします。
しかし、ここでまた、私の性格の悪さが出てしまうのですが、今の日本では尊厳生を生きている人はほとんどいないように思います。
尊厳死を問題にする前に、まずは今の生き方を変えることにこそ、関心を向けるべきです。
とりわけ報道関係者には、それを期待したいです。
興味本位で、取り上げてほしくありません。
取り上げる以上、しっかりした覚悟を持ってほしいです。

なお、同じようなことを以前も書いているので「再論」としました。
自殺する権利と生きる責任
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/03/post-7147.html

■人は夢だけでは生きていけない、のか?(2014年10月31日)
「人は夢だけでは生きていけない」。
今朝の朝ドラの「まっさん」で、日本で初めてのウィスキーづくりに取り組んでいるまっさんに向けて、発言された言葉です。
日常世界でも、よく使われる言葉です。
でも、これは本当でしょうか?

イエスは「人はパンのみでは生きられない」と言いました。
吉本隆明は、このことばを解して、パンがなければ生きられないことをイエスは認めたのだと言ったそうですが、ここは素直に、「パンがあっても生きられない」と私は受け止めます。
アーツ・アンド・クラフツ運動に取り組んだウィリアム・モリスは、生きることの意味をもう少し深く考えました。
その考えを、國分功一郎さんは、こう言い替えています。
「人は、パンだけで生きるべきではない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない」。
そして、今朝のドラマでは、まっさんの妻のエリーは、「私は夢を食べて生きていける」と断言します。
私も、生きるとは夢を持つことだと思っています。
夢さえあれば生きていけるのです。
逆に、夢がなければ、生きているとは言えない、と私は思います。

「人は夢だけでは生きていけない」という言葉に、どうしてみんな洗脳されてしまったのでしょうか。
夢を捨ててまで、生命を持続させる意味はあるのか。
生きるという意味を、真剣に考えれば、パンよりも夢が大切です。
なぜそう思わないのでしょうか。

しかし、実際にはすべての人が「夢」を持って生きているはずです。
意識しているかどうかはともかく、夢が声明を支えているはずです。
夢がなくなった時に、人は声明を閉じてしまいます。
生物学的生命を持続させるのは、パンや医療かもしれませんが、人の生を持続させるのはバラと夢ではないかと私は思います。
それを素直に認めれば、社会はもっと楽しくなるでしょう。

問題は、私自身が最近夢を見失いがちなことです。
生物的寿命はまだ残っているようですが、そろそろ人生の終期が近づいているのかもしれません。
夢がない人生は、私には意味がありません。
お金よりはバラが必要です。

■夢を持たずに生きている人がいたら教えてくださいませんか(2014年11月1日)
昨日の「人は夢だけでは生きていけない、のか?」を、フェイスブックでも紹介したら、いろいろなコメントをもらいました。
東尋坊で人命救助活動をしている茂幸雄さんには、共感してもらいました。
思ってもいなかった人からも元気づけられたと言われました。
それでちょっといい気になっていたら、少し否定的なコメントも届きました。

その一人はベターケアという雑誌の編集長の野田さんです。
こんなコメントでした。

いいね、とは言いにくいご意見です。夢だけでは生きていけないし、夢がなくても生きる意味がない。当然両方あるべきだし、両方あるのが憲法の保障する「自由で文化的な生活」ではないでしょうか。いま、夢をもつことさえあきらめなければならい境遇の人が増えていることを、十分すぎるほどよくご存じの佐藤さんのご意見であることはもちろん、わかっています。そんな状況を変えたくて、佐藤さんが奮戦なさっていることを知っているつもりです。お金よりバラ、と言える人は今、家があり、食べ物があり、服を着ている人です。人間として扱ってくれる友人たちをもっている人です。

それに対してちょっと挑発的にコメントを返しました。

夢を持たずに生きている人がいたら教えてくださいませんか。
生きるとは何かを書いたつもりです。
パンは手段、夢は目的。企業の目的は利益ではなく、事業の価値であるように。

湯島にはいろんな人が来ます。
いささか危うい人も来ますし、死を企図している人も来ます。
不安におののいていたり、悩みに襲われている人も来ます。
しかし話しているとみんな誠実に生きようとしています。
そういう人と話をしていると、例外なくみんな「夢」を持っています。
しかしいわゆる「存在論的不安」の中で、それを忘れてしまっています。
「夢」という言葉が適切ではないかもしれませんが、生きる意味を持っているということです。
とても素直な生き方をしている安冨歩さんは、その著「生きる技法」のなかで、「夢とは、人生の目的に向かう一里塚」と書いています。
一緒に話していると、「夢」に気づく人もいます。
つまり、生きていることに気づくという意味です。

お金とバラとは無縁です。もちろん夢もお金とは無縁の話です。
「パンよりも夢が大切」と表現したのは不適切でした。
お金で買えるバラや夢は、所詮お金の代替物です。
先日、湯島に来た人に訊かれて、水槽のメダカは金魚屋さんから買ったと話したら、冷たい目で見られてしまいました。
反省しました。

イエス・キリストはまさにホームレスでした。
衣服も住まいも、もちろんお金もなかった。
しかし、夢、あるいは信念、役割に気づいていました。
だから死んでも生き続けたのかもしれません。

「何かに慣れるのと、何かを感じなくなるのとは別のことだ」。
1943年にアウシュビッツで虐殺されたエティ・ヒレスムの日記の一節です。
エティが最後まで、人として生きたのは、彼女に神を救おうという夢があったからです。
フランクルが、アウシュビッツを生きのびたのも、夢のおかげかもしれません。
ちなみに、現代において「家がなく、食べ物もなく、服もない人たちの世界」、いわゆる「ホモ・サケル」の世界は、収容所以外のなにものでもありません。
そうであればこそ、夢が必要なのです。
衣食住に満ち足りた人には、夢は不要かもしれません。
夢を持った人たちの強さは歴史が教えてくれています。
夢に価値を見出さない社会は、生きにくい社会ではないかと危惧します。

念のために言えば、夢があれば、必ず衣食住は手に入ります。
これもまた安冨歩さんが「生きる技法」のなかで語っています。
アマルティア・センが証明したように、世界に食糧が不足しているわけではありません。

また野田さんからコメントをもらいました。うれしい限りです。

夢の大切さをしっかり知っている人は、もちろん、何を手放しても夢をしっかり保持し、それだから、友達もいて衣食住も手に入るのでしょう。でも、自覚的な夢をもたない人たちは、夢をあきらめがちではないでしょうか。辛い状況の中でも夢を持ち続けることがきできる人は、やっぱり、自覚的だったり、夢への気持ちが強かったりするのではないかと思うのです。辛い状況のなかで夢をあきらめてしまう人たちに、「夢をあきらめるな」というのは難しいのではないか、と私は思ってしまいます。

論争好きな私は、また反論してしまいました。

「自覚的な夢をもたない人たちは、夢をあきらめがちではないでしょうか」とは観察者の見方ではないでしょうか。私は「夢をあきらめるな」などとは決して言いません。夢は本人にしかわからないからです。私がさまざまな人たちと付き合っていて感ずるのは、たぶん野田さんとは正反対の印象です。お金持ちには友達がいないなどというつもりはありませんが、経済的に恵まれない人たちであればこそ、友だちを大事にします。私が今、収入があまりなくても生きていけるのは、そうした人たちの支えです。

さてこの論争はまだ続くでしょうか。
そして、みなさんはどう思われるでしょうか。
論争好きなのも困ったものです。
友人を失いかねませんし。
そういえば、昨日は、ドラッカーに感動した若者と論争してしまいました。
私はドラッカーにはきわめて批判的なのです。

■「尊厳死」か「人間の尊厳性の否定」か(2014年11月4日)
アメリカで、余命宣告を受けた若い女性ブリタニー・メイナードさんが、医師の支援を受けて自殺しました。
彼女は自殺予告をユーチューブで発信していたので大きな話題になっていましたが、だれも止められませんでした。
やりきれない気分です。
これは、人がもはや事物化されてしまったことを示唆しています。

消費社会論を説いたボードリヤールは、「消費社会は、高度情報化によって、すべての要素を情報化した」と述べ、現実は記号化されて、「知らない間に現実が盗まれた」と述べています。
つまりそこでは、人間さえもが事物化したというわけです。
そして、世界の状況はまさにその方向で動いているように思います。
いまや人間は、商品化するか消費機械化するかの、いずれかのように思います。
ボードリヤール風に言えば、「知らない間に人間が盗まれた」わけです。

ブリタニーさんの事例を「尊厳死」というのであれば、その概念はさらに広がってしまうでしょう。
そして、生命が事物のように、廃棄可能なものになってしまいかねません。
人は往々にして、自らの「生命」を自分だけのものだと考え、私物化してしまいがちです。
それを防ぐために、自殺を禁ずる思想が宗教として成立していました。
キリスト教が自殺を禁じているのは有名な話ですが、仏教も自殺を禁じているはずです。
「大きないのち」とか「生かされている」という発想は、いのちは個人では勝手には扱えないものだということでしょう。

私の妻は7年前にがんで亡くなりました。
最後の1か月は、本人はもとより家族も大変でした。
しかし、妻は最後まで生き抜こうとしました。
改めて妻を誇りに思います。

ブリタニーさんの自殺(私には尊厳死とは思えません)とそれを支援した人たちの自殺ほう助が世界中に映像で発信されたことで、何かとても大切なものが、壊れたように思います。
ブリタニーさんと医師が行ったことは「尊厳死」ではなく、「人間の尊厳性の否定」ではないかと、私は心身の震えをとめられません。

■コミュニケーションの持続による絆しかないのか(2014年11月5日)
フェイスブックをやっていて感じるのは、今や「自己露出の時代」と言っていいほど、自己の暮らしぶりをさらけ出す文化が広がっていることです。
その一方で、フェイスブックをやっていながら、自らのデータは限られた友だちにしか開示していない人が増えているような気もします。

私がホームページを始めたのは、2002年1月1日です。
完全な手づくりですが、私の生き方に従い、すべてを開示するという方針でした。
最初は双方向で、読者の書き込みや相乗りの仕組みも作りましたが、いろいろとトラブルもあり、やめてしまいましたが、「開かれたコモンズ型」を意図していました。

1989年に、私は生き方を変えました。
25年勤務した会社を辞めました。
その時のことは、当時の雑誌に頼まれて寄稿した記事が残っています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm

タイトルは「会社を辞めて社会に入る」で、そこに会社を辞めた時に友人知人に送った手紙の一部を紹介させてもらいました。
こんな文章を書きました。

働くでもなく遊ぶでもなく、学ぶでもなく忘れるでもなく、急ぐでもなくのんびりするでもなく、これから出会ういろいろな世界との関わりの中で、私自身の新しいライフスタイルとこれからの25年間の仕事を発見していくつもりです。

ちなみに、会社を辞めた目的は、転職でも独立でもありません。
その手紙には、「社会への『溶融』を志向しています」と書きました。

そんなわけで、会社を辞めてからの生き方は、すべてを外からも見えるようにしていこうと思ったのです。
そのために、ホームページには、公私を含めて、何でも書き込みました。
あまりに書きすぎて、削除しろというクレームも来ました。
それで私以外の人のことはできるだけ曖昧に書くようにしましたが、基本的には方針は変えていません。

ところが、最近はフェイスブックでの生活の露出が一般的になっています。
食事の内容までがよくアップされます。
私のホームページの比ではありません。
みんな露出症になったようです。

暮らしぶりを公開する意味はなんなのか。
ちょっとわからなくなってきました。
私は、フェイスブック開始2年目からは、内面の思考を中心に書くことにしました。
だから概して長くて小難しい話が多いのです。
人数は少ないですが、それでも読んでくれて、コメントもくれる人がいます。
でも正直に言えば、ほとんど理解されることはありません。
言葉というものは、考えや思いを伝えるには適していないようです。
考えや思いを伝えるには、どうも写真が効果的のようです。
これもフェイスブックで学びました。

しかし、人はなぜ生活を露出するようになったのか。
これは実に興味あることです。
私が、社会とともにあろうと思った26年前とは社会が変質したのです。
おそらく人の生き方も変わってしまった。
社会が壊れてしまい、拠りどころがないのに、仲間もいなくなったのかもしれません。
そして、もしかしたら、自分を開示しておくことが、一番の安心につながるのかもしれません。
ラインでつながっていないと不安になる子どもたちと同じ状況に、多くの大人たちも陥っているのかもしれません。
いまや、生活の露出しかコミュニケーションの契機を持てず、「コミュニケーションの持続による絆」に依存しなければならないほどに、みんな刹那的な生き方になってきているような気がします。
忙しいことを恥じる文化を取り戻さないと、私たちはどんどん物になっていってしまうような気がします。

■経世済民としての経済を思い出したい(2014年11月5日)
円がとうとう114円台になってしまいました。
実体経済と切り離されてしまった通貨の需給で、円為替が決まるという仕組みが私にはなかなか理解できないのですが、通貨もまた「商品」になってしまったと考えれば当然のことなのでしょう。
人間も商品になってしまう時代ですから、それは不思議なことでないかもしれません。

しかし、為替動向は私の生活にも影響してきます。
もちろん消費税も影響してきますが、これは論理的にも感性的にも理解できます。
税の使い方には、大いに不満はありますが、賛否はともかく、理解できます。
それに比べて、円安誘導は私には理解不能です。
円為替は、私たちの働きの価値を表しています。
円高であれば、私たちの仕事が創り出す社会的価値が増えたということでしょう。
にもかかわらず、円安誘導に取り組むとはどういうことか。
素朴に考えれば、だれもが円高がいいと思うはずです。

デフレ克服が言われましたが、行き過ぎたデフレは確かに問題があります。
しかし、それを為替につなげるのは、猿ほどの思考力しかない人の発想でしょう。
働く人の仕事の価値をしっかりと評価するだけでも、デフレのマイナスは解消できたはずです。
にもかかわらず、相変わらず過労死の危険をおかしながら、自らの価値を貶めているとしか思えません。
どこか間違っているとしか思えません。

株価の上昇が、年金基金の価値を高めると言われます。
しかし、そんな砂上の楼閣に生み出された利益は、まっとうなものではありません。
上昇した株価が下がれば、元の木阿弥です。

経済は、専門家の人に任せる話ではありません。
経世済民という本義を忘れてはいけません。
民の暮らし、生活者の論理こそが必要です。
消費税増税の当否を議論する「有識者会議」には、生活者はいるのでしょうか。
私が言っているのは、きちんと生活している生活者のことです。
消費者団体のリーダーではありません。
生活保護受給者の代表も入れてほしいものです。

暴論だとまた言われそうですが、私が言いたいのは、「専門家」とか「有識者」の概念を根本から考え直す必要があるのではないかということです。
そして、「専門家」でも「有識者」でもない、私たち生活者は、もっと素直に経済を考えたいと言うことです。
中途半端に学んだ経済学の呪縛から自由になりたいものです。
宇沢さんのように、現実ときちんと向き合う人でなければ、生活の経済など分かるはずがないのではないかと思います。

■「私は人間としてではなく生きてきた」(2014年11月6日)
五木寛之さんの「私訳歎異抄」を読みました。
まえがきの一文が目に留まったからです。
こういう文章です。

他人を蹴落とし、弱者を押しのけて生きのびてきた自分。
敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きてきた。
その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。

数年前に話題になった本があります。
レベッカ・ソルニットの書いた「災害ユートピア」です。
東日本大震災の発生する少し前に話題になった本ですが、3.11はこの本の確かさを実証してくれた気がします。

ソルニットは、災害の襲われた人々の間には、一時的とはいえ、日常の利己的な態度とは全く逆の利他的・相互扶助的な共同体ができると主張します。
被災者も、周りの人も、改装や立場を超えて、支え合う状況ができるというのです。
3.11は、確かにそれを出現させました。
その一方で、やはり話題になった本にクライン・ナオミの「ショック・ドクトリン」があります。
災害という惨状に便乗して、資本が入り込んで市場を拡大してしまうという話で、いわゆる「火事場泥棒」の広がりです。
これも3.11のその後の動きの中で広く見られていることです。

災害には二次災害がつきものですが、問題はそれを起こす人はだれかということです。
それはたぶん被災者ではありません。
被災者を支援しようという「エリート」だとソルニットは言います。
その背景には、大衆を信頼していない、おびえるエリートが垣間見えます。
エリートの支援がなければ、みんな寄り添って社会を再構築するのですが、そうなってはエリートたちは困るわけです。
東北復興の動きに、そういう影を感じます。

話を五木さんに戻しましょう。
第二次世界大戦の敗戦は、悲惨な状況をもたらしました。
しかし、そうしたなかでも、生命を賭してまで、「人間として生きた人」は少なくないでしょう。
災害ユートピアは、間違いなく生まれたはずです。
しかし、その一方で、人間として生きられない人も生まれたはずです。
だからと言って、後者を責めることはできません。
それは、その人の生き方の問題であって、良し悪しの問題ではありません。
大切なのは、いずれの可能性もあるということです。

夢がなくても生きられるかという記事へのコメントは、そういうことを考えるとても示唆に富む材料を与えてくれました。
たしかに、いま、生きることが精いっぱいで、余裕のない人もいるでしょう。
精神分析を専門とする樫村愛子さんは「生命線ぎりぎりの状態で、ただ働くだけの毎日を生きる「ワーキングプア」は、異議申し立ての声をあげることさえできず「現代の奴隷」となる」とまで書いています。
でも、そうでしょうか。
彼らは充分に異議申し立ての声をあげている。
それに気づかないのではなく、気づこうとしない社会にこそ、問題があるように思います。
そして、そういう社会の構成員の一人でもある私の問題でもあります。
災害が起こると、立場を超えて、みんなが同じ立場になる。
そこに、これからの社会を考えていく上での。大きなヒントがあるように思います。
そして同時に、果たして現代の奴隷はいったい誰なのか、も考えなおす必要があるような気もします。

■悩ましい問題(2014年11月7日)
悩ましい問題があります。
もし万一、再稼働した川内原発が事故を起こした場合、薩摩川内市の市民に対する支援活動をすべきか、あるいは損害賠償請求をすべきかという問題です。
事故が起こらないことを祈りますが、福島での事故を体験した以上、起こらないとは断定できません。
正直に言えば、私自身は福島原発事故が起きた時に、福島県民に同情する以上に怒りを感じました。
こんなことを言うと、叱られるでしょうが、相変わらず原発に依存しようとしている福島県民には、いまもどこかに割り切れないものがあります。
しかし、福島の原発事故は、通常の受け身の教育を受けてきた人たちには「想定外」だったでしょうから、仕方がありません。
それに私もまた、やむを得ずとはいうものの、原発の恩恵を受けていたことは否定できません。
こういう社会を構成している一員である以上、福島県民を非難するわけにもいきません。
前にも書きましたが、その罪は従容として受け、福島産の野菜もきちんと食するようにしています。

しかし、福島で原発事故が起こった以上、状況は変わりました。
そうしたなかで、薩摩川内市の市民たちは、反対者はいたものの、再稼働を選んだのです。
そこで悩ましい問題が発生したわけです。

私は千葉県に住んでいますので、川内原発で万一事故が起こっても、すぐには直接的な被害は受けないでしょう。
ちなみに福島原発事故の被害は直接的にも影響を受けています。
たとえば、わが家の農園は作付不能になりました。
でもそれは甘んじて受けましょう。
多くの人にとっては、「想定外」だったからです。
でも今は違います。
この状況で原発再稼働を認めると言うことは、未必の故意が存在します。
危険ドラッグよりもずっと危険な施設を動かすのですから。

薩摩川内市周辺の人たちは、もし事故が起こったらどうするのでしょうか。
避難計画が議論されていますが、それは、事故がありうるということを前提にしています。
安全と言いながらの避難計画、どこかおかしくはないでしょうか。
薩摩川内市の市民たちはそれでいいでしょうが、近隣の地域の人たちはどうするのでしょうか。
それでも薩摩川内市の市民の支援をするのでしょうか。
そういうことを考えると、実に悩ましい。

原発再稼働は一自治体の話ではないはずです。
もちろん一国家の問題でもありません。
稼働するとしても、それをしっかりと認識すべきではないかと思います。

■「運命の子」と出会って考えたこと〜障害胎児の命を抱きとめる〜講演会のお誘い(2014年11月10日)
9月のちょっとハードなカフェサロンで、お話をしていただいた松永正訓さんの講演会が11月23日に開催されます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action14.htm#09132

松永さんのお話は、ぜひとも多くの人に聴いていただきたいと願っています。
障害の問題や私たちの生き方を考える上でのたくさんの示唆をいただけます。
同時に、これからの医療のあり方を考える、大きなメッセージも感じます。
今回は公開講演会です。
私も参加させてもらう予定です。
会場でお会いできますように。
詳しい案内は添付のチラシをご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/matsunaga.png

■演題:「運命の子」と出会って考えたこと〜障害胎児の命を抱きとめる〜
■講師:松永正訓さん(小児外科医) 
■日時:11月23日(日)14時〜16時
■場所:練馬区立区民・産業プラザ Coconeri3階 研修室 1
■参加費:500円(学生無料)
■公式サイト:http://lifecafe.jimdo.com/
■申込み: lifecafenerima@gmail.com

■蟻のように生きる人生(2014年11月10日)
先日、「人は夢だけでは生きていけない、のか?」ということに関して、ある人から、五木寛之さんの著書「他力」の一節を教えてもらいました。

私はかつて、リュビーモフという著名なユダヤ人演出家に会った際、生きるということは、蟻のように生きることと同じか」と、詰問されたことがあります。
(中略)
彼は、「五木さんは、蟻のように生きる命にも価値があると思うのですか」と訊いてきたのです。私は、「当然でしょう」と答えました。
人間の中で善と悪が共存しているように、「よく生きること」と「生きて存在すること」もまた、二重螺旋構造の形をとって共存している。
それに対して、人間らしく生きなければ生きる資格がないと一方的に断定するのは、間違っている、
人間の生命は、いかに人間らしく生きるかという方向を志向する本能的な力を持っているのだ、と私は考えています。
廃虚のような世界に孤立している人間にとっては、まず生きて存在することが大事なのではないでしょうか。

同じころ、挽歌編で「他力」を感じさせることを書いていたために、そして五木さんのお名前も出したために、思い出してくださって、紹介してくれたのです。

私も、この文章に異論があるわけではありません。
ただ、少しだけひっかかるのは、「人間らしく生きなければ生きる資格がない」という表現です。
人間は人間ですから、そもそもその生き方そのものが「人間らしい」はずです。
猿が主語なら「人間らしく生きる」という文章は成り立ちますが、人間が主語では論理的に成り立たないように思います。
人間が主語であれば、「蟻のように生きる」というのは理解できます。
しかし、それは人間の生き方の表層でしかありません。
人間は、常に人間として生きている、つまり「人間らしく」生きているのです。
人間が人間らしく生きるとはトートロジーでしかありません。

もちろん、「人間らしく生きよう」という言葉はよく聞きますが、私はどこかに違和感を持ちます。
文化人類学者たちは、「未開社会」の人たちの生き方をどう捉えていたのでしょうか。
またこのように説法する人の目線はどこにあるのでしょうか。

五木さんは、「人間の生命は、いかに人間らしく生きるかという方向を志向する本能的な力を持っている」と言っています。
では、人間らしく生きるとは何か。
それを「夢を果たす」と言い換えると、こうなります。
「人間の生命は、いかに夢を果たすかという方向を志向する本能的な力を持っている」。
「夢」という言葉に勝手な定義を与えていると指摘されそうですが、モリスに触発された國分さんの言葉を使えば、「バラ」でもいいのです。
「生きる意味」でもいいし、「自己判断力」でもいい。
もっと平たく言えば、「意識」です。
それが機械とは違うことだと思います。

「人は夢だけでは生きていけない、のか?」で言いたかったのは、生きていることは実は誰もが夢に関わっていることだと言うことでした。
生きている、そのことが、夢を持っているのだと言うことです。
それを忘れてはいませんか、というのが、私の問いかけです。
人間は、夢を見る能力、あるいは資質を獲得した。
そして、一人ひとりが表情を持つようになった。
それは一説には今から3500年ほど前だとも言われています。
ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙‐意識の誕生と文明の興亡」には、その仮説が興味深く書かれています。
また、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」も、わくわくするような本です。

蟻のように生きる人生を生きる人も、間違いなく、夢を持っている。
だからこそ蟻のように働ける、と私は考えています。
しかし、恐ろしいのは、いつの間にか、人間であることを忘れてしまうことにならないかということです。
だからこそ、夢を忘れてはいけません。
人生にはバラが必要なのです。
たとえ絶対他力に身を任せるとしても。

■ホームレスに食事与え逮捕という事件(2014年11月11日)
あるメーリングリストに、アメリカのクリスチャンポスト紙の記事の紹介がありました。
タイトルは、「90歳男性と牧師2人、ホームレスに食事与え逮捕」とあります。
記事をご覧いただきたいですが(しばらくは読めると思います)、概略こんな話です。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/14502/20141106/arrested-for-feeding.htm

米フロリダ州南東部フォートローダーデールで先週末、90歳の男性と2人の牧師が、ホームレスに食事を与えることを禁止する新しい条例に違反したとして、逮捕された。
逮捕されたのは、2人の牧師と90歳のアボットさんで、3人は、市街にいる貧しい人やホームレス数百人に毎週食事を与えていた。
3人は、各々500ドル(約5万7千円)の罰金と最大60日間の収監に直面している。
アボット氏は、貧しい人に食事を与えるために絶えず闘ってきた運動家だ。
先週同市で施行された新しい条例によって、炊き出し所は居住地から最低500フィート(約152メートル)離さなければならないことなどの制限が決められた。
アボット氏は、新しい条例を憲法違反として市を告訴する計画を立てているそうだが、何度告発されたとしてもこの活動を続けるつもりだという。

この情報を流してくださった方は、こう書いています。

資本主義の成れの果てとみることもできます.
でも「無知の知」を忘れてしまった人類の行く末とみることもできます.
人間本来の姿を,自分で作った理論によって失うのです.
滑稽というには悲しすぎます.

同感です。
でももしかしたら、日本でもこんなことにならないとは限りません。
いまならまだ間に合うと思いますが、最近の状況を見ていると、確信は持てません。

■解散に期待します(2014年11月12日)
なぜかここにきて急に解散風が吹き出しました。
私にとってはうれしい話ですが、絶対多数を確保している安倍政権がなぜ解散に向かうのか、私の頭では理解できません。
テレビでいろんな人が解説してくれますが、いずれも理解できないのです。

それはともかく、もし解散が実現した場合、どうなるのかはとても関心があります。
本心を言えば、その結果で、日本の国民を信頼するかどうかを決めて、その結果次第では、もう金輪際、社会活動はやめようかとも思います。
まさに隠遁です。
社会に生きる意味はなくなるでしょうから。

私にとって、問われるべきテーマは経済ではありません。
消費税を上げるかどうかなどは、長い歴史で見れば、些末なことでしかありません。
大切なのは、原発と集団的自衛権です。
そう考えれば、ともかく自民党の議席を減らさなければいけません。
しかし、いまの政党の状況では、それはかなり難しいことです。
だとしたら、せめて、自民党への投票数を減らすことでしょう。
それも圧倒的に、です。
野党は分裂していて、選挙を戦えないという意見が圧倒的に多いですが、そんなことはありません。
反自民で決断すれば、選挙区のだれでもいいですから、野党議員に投票すればいいわけです。
私が注目するのは、その結果です。

もっとも、相変わらず世論調査では半数ほどの人が自民党を支持していることになっています。
この数字を信じているわけではありませんが、やはり私には「悪夢」のような話です。
解散しても国民は自民党を勝たせてくれると政府は思っているのでしょうか。
まさに、情けない政府にふさわしい、情けない国民です。

それにしても、どうして政府が解散を考え出したのか、やはり理解できません。
理解できない私がバカなのか、政府が狂っているのか。
私には、後者だろうと思いますが、狂った政府ほど恐ろしいものはありません。
となると、やはり私の方が間違っていると考えたほうが、気がやすまります。
私が社会から完全にはじき出されて、時代を理解できなくなってきたのかもしれません。
いや、健全な老化の結果、痴呆化が進んだのかもしれません。
困ったものです。

でも解散になるとちょっとうれしいです。
うまくいけば、社会から離れられるかもしれませんし。

■沖縄と福島、そして衆議院議員選挙(2014年11月17日)
沖縄県知事選の結果を見て、少し安堵しました。
やはり文化のある地域の人たちは信頼できます。
福島県知事の選挙は、結果を見る前から大きな違和感をもっていましたが、

沖縄県知事選は、争点にしっかりと向き合う姿勢が伝わってきました。
福島県知事選は、あきらかに争点から逃げていました。
本来は、原発事故の被害を強く受けた地域として、反原発をしっかりと争点にすべきだったと思いますが、地域エゴ的な争点に矮小化されてしまいました。
あそこまで悲惨な目にあいながら、と哀しい気になりました。
もちろん批判するつもりはなく、ただただ悲しかったのです。
沖縄県民は違いました。

私たちは、問題に正面から向かい合わない生き方に逃げ込んできています。
それは国政にも感じられます。
衆議院が解散され選挙になりそうですが、2つの違和感があります。
まずは、なぜか「問うべき論点」が、消費税増税の延期です。
その議論はもう終わっているはずで、国民に問うべき問題は原発再稼働と集団的自衛権ではないかと思いますが、なぜか消費税増税です。
しかも「増税延期」が論点というのは、私にはまったく理解できません。

もう一つは、野党が納得できない解散だと言っていることです。
それが本心かどうかは分かりませんが、野党としては絶好のチャンスのはずですし、安倍政権の行き方をあれほど批判しているのであれば、争点をきちんと創り出せばいいはずです。
民意を問うべきチャンスが目の前にあるのですから、何が本来的な争点かを明確にして、問題の姿を顕現化すべきです。
野党再編も些末な議論ばかりですが、反独裁という視点で野党は一致団結することができるはずです。
いまこそ小異を捨てて、大同を取る時です。
こんなチャンスはおそらく後にも前にもないはずです。
小賢しさを逆用し、流れを変える絶好のチャンスではないかと思います。

もう一つ違和感を付け加えれば、年末の忙しい時期に、数百億円の費用を使って総選挙をすることの意味がわからないと話すコメンテーターや街頭インタビューを受けてそう答える街の人です。
自らの意見を国政に反映させる機会が、数百億円で実現するのであれば大歓迎すべきです。
歓迎しないのは、おそらく現政権に賛成しているか、政治に無関心なのかのいずれでしょう。
そんな声をテレビで流すべきではありません。
そこに衆愚を目指す日本のテレビ界の姿勢を感じます。

ちなみに、その数百億円は経済成長にプラスの効果を与えます。
それが多くの人たちが好む「経済成長」の意味です。
経済成長の世界には「無駄遣い」という概念はありません。
日銀が放出した「無駄な貨幣」の使途が、わずかに増えただけの話でしょう。

もし12月に衆議院選挙があるとしたら、政治の流れを変えるか、このままいくかが、争点であることをしっかりと意識したいと思います。
私はいずれにしろ、反安倍政権の視点で投票します。
いまの流れの先に、恐ろしさを感ずるからです。

■会社制度を創ったのはだれだ!(2014年11月17日)
一昨日、若手起業家たちの集まりのパネルディスカッションがありました。
私は、コーディネーター役でしたが、パネリストのお一人は、障害者雇用で有名な株式会社アイエスエフネットの社長の渡邉幸義さんでした。
渡邉さんは実にわくわくするような話をしてくれました。
他のお2人も実に魅力的な人でしたが、話し合いの中で、渡邉さんが私に質問してきました。
それも簡単に答えられる質問ではありません。
渡邉さんは、今の会社制度には大きな異論があるようで、会社制度をつくったのは誰だと怒っているのです。
そして、その矛先が私に向いてきて、誰ですか?と投げかけてきたのです。
私は形にはまった報告型のパネルディスカッションは大嫌いですが、話し合うという本来のパネルディスカッションは大好きです。
特に、コーディネーターが好きなのです。
退屈なコーディネーターの進行でのパネルディスカッションは苦痛ですので出たくはないのですが、コーディネーター役であれば、万難を排して参加させてもらうようにしています。
しかし、パネリストの人から、こんな大きな質問を受けたのは初めてです。
しかし、渡邉さんの怒りには、実に共感できます。

会社制度は歴史的には東インド会社が始まりだと言われます。
しかし、もちろんそんなことを渡邉さんは訊いているのではありません。
渡邉さんの怒りの起点は、もしかしたらドイツのビスマルクかマックス・ウェーバーかもしれません。
あるいはピーター・ドラッカーかもしれません。

知識もないのに、あんまりいい加減なことを言うのも無責任ですが、ウェーバーの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はどうも違和感があります。
ウェーバーは、20世紀が武力闘争のエトスに覆われることを危惧しながらも、近代における組織モデルは、軍隊にあると主張していました。
20世紀後半になって、ミルトン・フリード−マンのような人に、いや、合理的モデルは市場だと言われだすまでは、たぶんそれが世界の基本になっていたはずです。
企業経営の世界は、まさに軍隊モデルによって、企業制度をパワーアップしてきたのです。
同時に、経済そのものの方向付けもしてきたと言えるかもしれません。
経営の世界に「戦略」という言葉を導入したのは経営学者ドラッカーだそうですが、ドラッカーの頭にもまた「戦闘」の概念が強くあったのかもしれません。

渡邉さんの質問には答えられていないでしょうが、ドラッカーへの異論を持つ私にとっては、渡邉さんのような経営者がいることを知っただけで、感激した次第です。

会社経営の「常識」に呪縛されて、経営を忘れてしまった経営者と経営学者には、もう飽き飽きしてきています。
一昨日の3人のパネリストはいずれもそんな人ではありませんでした。
ほかの2人は、鰍fHIBLIの坪内知佳さんとカネパッケージ鰍フ高村賢二さんでした。
3人の共通した意見は、制度に合わせる経営はしたくないということでした。
3人にお会いできて、少し元気が出ました。

■解散の大義を活かさなければいけません(2014年11月19日)
衆議院の解散が決定しました。
それへの反応を見る限り、共産党は別ですが、それ以外は「与党寄生党」のように思います。
本来的な意味での政権野党がいない状況は、相変わらずなのかもしれません。
どうして野党は、政府に対してネガティブな恨み節しかいえないのか。
ネガティブな発言しかできないのでは政権は取れません。
一人称自動詞で語っているのは共産党くらいですが、その共産党も解散の大義がないと言っているようです。

解散の大義はあります。
代議制民主主義は、民主主義の考えをベースにおいて作られた擬制的民主主義です。
国民主権と言われますが、国民が主権を発揮できる機会は選挙の時だけです。
一度、選挙で国会議員が決まれば、その議員たちの考えが国民を代表する制度です。
しかし複数の人を一人の人が代表することなどできませんし、国民の意見は状況の変化で変わっていきます。
その変化によって修正されるのが、4年から6年おきというのが日本の選挙制度です。

解散総選挙とは、そうした制度の中で、臨時に国民主権に基づく民意の表明ができるということです。
独裁国家ではないことの表れです。
その機会を創ったということが、解散の大義ではないかと私は思っています。
つまり、解散は常に大義を持っているのです。

しかし、これは一般論ですが、それを踏まえてもっと具体的な大義を見出すのは、まさに政党の使命です。
解散の大義はそれぞれが見つけなければいけません。
政治ジャーナリストには、そうしたことをきちんと整理する役割があると思いますが、
「大義なき解散」などという俗説に乗っかるだけの人が多いのが残念です。
国民も国民で、解散の意味がわからないなどというのではなく、国政の方向づけに一票を投ずる機会が与えられたと受け止めるべきです。
もし現在の政治状況や経済状況に満足していないのであれば、それは大歓迎のはずです。
飲み屋や井戸端会議で、愚痴をこぼしているくらいなら、解散を歓迎して、自らの意見を投ずるチャンスは歓迎できるはずです。
暮れの忙しい時に迷惑だと言うような人は、実質所得の目減りや原発再稼働に不満を言う資格はありません。
そうした姿勢が、ナチスを生み、先の戦争につながっていったのです。

野党は、解散に大義がないとか、アベノミクスの失敗とか、そんな無意味な発言に時間を割くのではなく、国民の心を動かすメッセージを出さなければいけません。
私たちは、このチャンスを生かすために、もし現状に不満があるのであれば、きちんと考え、一票を活かすことに努めたいものです。

「解散の大義」の意味は、自らがつくらなければいけません。
「解散総選挙の大義」を生かすも殺すも、自分なのです。
それを活かせない国民には、民主主義など語る資格はないと私は思っています。
このチャンスを活かせるかどうかで、私たちと日本の未来が決まるように思っています。

■「小さな差異のナルシズム」(2014年11月21日)
選挙に向けて、各党のメッセージが出され始めてきました。
野党はうまく連携できたら、自公よりもたくさんの当選者を出せる素地はありますが、なかなか連携は進みません。
私は、逆転大波乱の可能性はゼロではないと思うのですが、本気でそう考えている人はあまりいないようです。
しかし、むしろそうした展望を持ってこそ、選挙の意味はあるのだろうと思いますが。
思わなければ、何も始まりません。

社会学者のリチャード・ソネットは、「消費政治」という言葉を使って、経済のかたちと政治のかたちを比べています。
一言で言えば、ポピュリズムにつながる話ですが、経済が「小さな差異」を大仰にブランド化したのと同じことが政治でも起こっていると指摘しています。
成熟社会の政治とはそういうものかもしれませんが、成熟社会の政治であればこそ、その次を目指すべきだと私は思っています。
小さな差異ではなく、大きな差異こそを問題にすべきなのです。
しかし、経済で現状の消費社会に馴化されてしまった私たちには、それがなかなかできません。

大量生産の時代においては、商品の基本的設計はほとんどすべて同じです。
まずは標準的な製品が基本に置かれます。
標準化することで、世界的な広がりでの分業ができる単純労働化が実現したわけです。
そして、最後の仕上がりに、ちょっとした味をつけることで、高級品やブランド品がつくられます。
成熟社会の消費者は、そのわずかばかりの「差異」に高いお金を払うわけです。
これが昨今のマーケティングやブランドの実体です。

これと同じことが政治の世界でも展開されています。
アメリカの共和党と民主党は、その基本政策においてはほぼ同じです。
同じですから、政権交代可能な二大政党と言われるわけです。
そして日本もそれを目指してきたわけです。

いまの日本の政治状況は、一強多弱と言われるように、野党がたくさんありますが、その多くはかつての民主党から別れた人たちです。
そしてその民主党でさえ、かつての自民党から出た人が何人もいます。
そうしたことからもわかるように、彼らの主張は実はそう変わらないわけです。
ただし、大きな問題では明らかに違うところもあります。
たとえば、原発や憲法9条です。
しかし、最近の日本では残念ながらそうした大きな論点は政治の争点にはなりません。
国民は目先の足元にしか関心はなく(そうさせたのも経済と政治の結果です)、目先の生活に直接影響があると思い込んで、社会保障とか経済成長に目を向けているからです。
そして、そうした面では、自民党も含めて、ほとんどの政党が基本的には同じなのです。
つまり、各党の政策の差異は、まさにフロイトの言う「小さな差異のナルシズム」なのです。
にもかかわらず、彼らは連携できません。
そこに、私たちの不幸があります。

政治もまた、消費経済化してきているのが恐ろしいです。

■ルサンチマンの哀しさ(2014年11月22日)
解散後の各政党の発言を聞いていると、ほとんどの発言が同じように聞こえてきます。
一言で言えば、ルサンチマンの繰り言です。
そうした雰囲気が日本には充満しているような気さえしてきます。

ルサンチマンとは、一言で言えば、弱者の恨み節です。
まあそういう意味では、このブログも、たぶんにルサンチマンの匂いがするかもしれません。
ただ、私の意識には、恨みや憎しみはあまりないのですが。

野党は相変わらず解散を非難しています。
テレビに登場する国民の多くも、そうです。
解散してくれた安倍さんに感謝すべきだと思いますが、そういう声はめったに聞けません。
アベノミクスや突然の解散を批判しているだけでは、むしろ反発されるだけでしょう。
そうした声を聞く国民もまた、ルサンチマンの沼に放り込まれてあがいています。
皮肉なことに、ルサンチマンは威勢のいい強者に魅かれる傾向があるのです。
与党はどうか。
安倍政権や自民党は、アメリカという強者に媚びていることからわかるように、これまたルサンチマン・コンプレックスから抜け出せません。
つまり、いずれの側にも、そして国民にも「誇り」を感じません。
これまた皮肉なことに、自信と誇りを持っているのは、安倍首相だけかもしれません。
しかし、小泉さんの時と違って、自らを相対化しておらず、迷いを突き抜けた強さを感じません。
安倍さんの強いルサンチマン・コンプレックスを感じます。

私の選挙予測は、これまでほぼ完全に外れています。
それだけ社会から脱落してしまっているわけですが、今回は野党の逆転勝利になるような気がしています。
勝利と言っても、当選人数ではなく、政党への投票数という意味です。
にもかかわらず、相変わらず当選者は自民党が多いでしょう。
そこに、ルサンチマン社会の悲しさがあるのかもしれません。

もっと原発と平和が語られてほしいです。

■なぜ日本は「こんな安心なところはない」と言ってもらえるのか(2014年11月22日)
立憲デモクラシーの会の本「私たちは政治の暴走を許すのか」を読みました。
岩波ブックレットの1冊で、1時間もあれば読める本です。
税込626円ですので、コーヒーを1杯我慢して、選挙前にぜひ読んでみてください。
と言っても、なかなか読んでもらえないので、私が一番、心に残った部分を引用させてもらいます。

社会思想家の西谷修さんが、山口二郎さんと杉田敦さんとの鼎談で話している言葉です。

日本に旅行する外国人はよく「こんな安心なところはない」と言います。それはなぜか。戦後の日本では、組織的に若者に人殺しの訓練をさせてこなかったからです。社会の中に攻撃性を訓練するようなシステムがなかった。しかし、社会の軍事化によってそれが変わっていく。暴力の行使、殺人や破壊が奨励されるようになり、根本的な転換が起こる。それが、いわゆる集団的自衛権の容認ということに関わっていると思うのです。

とても納得できる話です。
もっとも、日本には攻撃性を訓練するようなシステムはまだないとは言い切れません。
私は、経済の世界のあり方がとても気になっています。

政治の世界には、「常在戦場」という言葉が使われているようですが、経済においても、競争戦略重視の「常在戦場」文化が広がり深まっています。
人を豊かにするはずの、経世済民の学が、いつの間にか軍事用語で語られるようになったのは、とても残念ですが、そうした風潮は教育や文化やスポーツの世界にもどんどん広がっています。
競争と攻撃は紙一重です。
こうした風潮には、どうも違和感があります。

こうした風潮が、日本の社会を荒廃させ、これまであまりなかったような事件をすでに起こしだしています。
西谷さんは、それは憲法9条の位置づけと関係しているというわけです。
憲法9条は、対外的な戦争を抑止していたのではありません。
私たちの心の平和を守ってくれていたのです。
西谷さんのメッセージが含意するところを、多くの人にわかってほしいと思います。

集団的自衛権の容認が、日本の社会をどう変えていくか。
そうしたところまで視野において、今回の選挙に向かいたいと思います。
政治の暴走を止めるチャンスを、安倍首相は与えてくれました。
それに応えなければ、私たちは暴走に加担することになります。
争点は「経済」などではないのです。

■内気は病気なのか(2014年11月25日)
この数日、体調があまりよくありません。
昨日はゆっくり休んだのでもう大丈夫と湯島に出てきたら、やはりあんまり調子がよくありません。
今日は2組の人と会う約束なのです。
私のフェイスブックを読んで、いずれからも「大丈夫か」と問い合わせがありましたが、まあ人と会ったほうが元気になるので、大丈夫と答えました。
でもやはりだんだん調子が悪くなってきました。
もう今更キャンセルはできませんが、まあ会えば元気になるでしょう。
もしかしたら、高血圧の薬を飲むのを止めてしまったからかもしれませんが、たぶん、病気ではないでしょう。

ある本で、血圧は200を超えなければ大丈夫というような記事を読んで、なるほどと思って、薬を止めてしまったのですが、こういう生兵法が一番悪いのでしょう。
しかし、そうは言うものの、やはり病気の概念が広がりだしているのは気にいりません。

最近読んだ本にこんな広告の写真がありました。
2003年に雑誌に載った広告です。
有名な製薬会社ファイザーの「抗うつ剤ゾロフト」の広告です。
「彼女はただ内気なだけ? それとも、社会不安障害?」(Is she just shy? Or is it Social Anxiety Disorder?)と呼びかけています。

この広告が紹介されていた本は、5年前に翻訳出版されたクリストファー・レーンの「乱造される心の病」です。
原題は「shyness became a sickness」。
著者は、今や「内気」ということさえが「病気」にされる時代になったというのです。
「ゾロフト」は英米ではものすごく売れているようで、日本でも名前を変えて売られているそうです。
クリストファー・レーンによれば、「現在では精神科医も医師も、社交性に欠けるのは精神の病気ではないかと疑ってかかる」そうです。
日本ではどうでしょうか。
もしかしたら、英米以上に「精神障害病」が広がっているのかもしれません。
日本人は、私もそうですが、ともかく「暗示」にかかりやすいですから。
そのうち、私も隔離されるかもしれませんが、少し早く生まれたおかげで今のところ無事に過ごさせてもらっています。

しかし、精神に障害のない人などいるわけもありません。
「内気が病気」とされる時代の先にあるものが恐ろしいです。

今日の体調の悪さは、病気ではなく、ただ疲れているだけでしょう。
疲れるのは、健全な証拠です。
でもちょっと疲れすぎかもしれません。
明日はまた休みましょう。

■異なっていることこそ正常です(2014年11月26日)
「運命の子」の著者でもある、小児外科医の松永正訓さんの講演をお聞きしました。
13トリソミーの子どもを授かった家族との交流を通して、障害児の受容や生命倫理の問題、さらには出生前診断の問題などを、ご自身の実践を踏まえた言葉でしっかりと問題提起された、素晴らしい講演でした。
2時間のお話の後、私は心身が揺さぶられたようで、しばらくうまく話せなかったほどです。

その講演の最後に、松永さんは、ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーの言葉を引用されました。
それがこの記事のタイトルの「異なっていることこそ正常です」です。
ヴァイツゼッカーの演説はいずれも素晴らしく、演説集が日本でも翻訳されています。私もいくつか読んでいるのですが、この言葉は記憶にありませんでした。
帰宅して早速、3冊ほど読み直してみました。
しかし見つかりません。
そこで松永さんにお尋ねしたら、岩波書店からの「ヴァイツゼッカー大統領演説集」に掲載されているということでした。
手元にはなかったのですが、今日、入手して読んでみました。
1993年に行われた障害者団体の全国組織の年次大会開会式での演説の中に、この言葉が出ていました。
最初と最後に2回も。
この演説もまた素晴らしいです。
これもまたたくさんの人に読んでほしいものです。
岩波からは、ヴァイツゼッカーの演説集は数冊出版されていますが、掲載されているのは1995年出版のこの本だけのようです。
岩波書店は、この演説もきちんと掲載してほしかったです。

短い演説なのですが、はっとさせられる言葉がたくさん出てきます。
中途半端に引用すると、中途半端にしか伝わらず、誤解さえされそうですが、2つだけコメントなしで紹介させてもらいます。いずれもちょっと長いのですが。

「ある種のメディアが伝える理想的な身体になるために、彼らは不健全なダイエット、極端なスポーツ、それどころか美容整形にまでふけっております。これが障害を持つ人びとに対する不寛容を間接的に大いに助長いたします。美容整形工場で人工的で画一的な身体になろうと懸命になっている男女に取り囲まれていたいとは私は思いません。」
「障害に対するわれわれの反応が、相手の個人的感情に実に大きな影響を与えるものだからです。障害を持たない人の反応に出会って、「私は自分がこれほどに障害を受けている身とは知りませんでした」と狼狽して語る人もいます。障害者の重荷を軽くするには、障害のない人びとが認識を改めねばなりません。

いずれの言葉にも、はっとさせられました。

この演説のタイトルは、その本の中では「障害者に公正に」となっていますが、ヴァイツゼッカーのメッセージは間違いなく「人間に公正に」です。
事実、そうした言葉も実際に語られています。

松永さんからこの数か月教えられてきたことは、ヒューマニズムの本質だったのです。
世界が少し広がったような気がします。
松永さんに感謝しています。

そういえば、昨日、湯島の「日本にヒューマニズム」に満ちた場を創り出すことをライフワークにしている人が訪ねてきました。
なにか応援できることがあればいいのですが。

■「誰一人まともな人はいない」(2014年11月27日)
イタリアには街中によく「近づいてみれば、誰一人まともな人はいない」という標語の書かれた標識があるらしいです。
自分で確かめたことがないので、今度、イタリアに行く娘に見つけたら写真を撮ってきてもらおうと思っています。
どなたかお持ちであれば、送ってください。

イタリアでは精神病院を廃止しています。
だからこの標識があるのではなく、むしろ逆なのです。
この話は、「健康不安と過剰医療の時代」という本の中で井上芳保さんが紹介してくれているのですが、井上さんはイタリアでの精神病院は医師に関連して、こう書いています。

おかしな部分を持っていて苦悩や危機を生きているのは何も精神病者だけではない。普通の人たち自身だってよく考えてみたら十分におかしいし、まともでないというわけだ。この冷厳なる事実への気づきによる「受苦者の連帯」こそは、近代主義に染め上げられた結果、抑庄的なものとして構築された精神医療を根底から変えるために必要なものであろう。

この発想は、ヴァイツゼッカ−の「異なることこそが正常」に繋がっていると思います。
近代は、人の標準形をつくろうとしています。
意識はもちろんですが、姿かたちまでです。
最近では、整形手術によって、みんな同じ顔になってしまってきているような気もします。
前に書いたとおり、それに関してのヴァイツゼッカ−のメッセージも強烈です。
ヴァイツゼッカ−のメッセージを読んで初めて気づいたのが恥ずかしいです。

「誰一人まともな人はいない」という時の「まともな人」とはどういう人でしょうか。
どういう人が「まとも」とされているかで、その社会の実態が見える気がします。
日本では、「まともな人」は、褒め言葉でしょうか。
たぶん褒め言葉でしょうが、イタリアでは「まともでない人」もまた褒め言葉かもしれません。
私見では、「まとも」とは自分を生きている人です。
しかし、工業化社会では、「まともな人」ではないのかもしれません。
つまり、「まともでない人」が「まともな人」なのです。

多様性の大切さが叫ばれていますが、それはそれだけ現実が均質化していることの現れです。
絆やつながり、ささえあい。
そうしたことの前提にあるのは、「異なることこそが正常」の社会です。
「まとも」の定義によっては、絆やつながりや支え合いは、ちょっと不気味なものになるかもしれません。
なにが「まとも」なのかを、きちんと考える必要があるように思います。

「まともに生きているか」と問われたら、「はい」と自信を持って言えるような「まともでない人」になりたいと思っています。
ややこしい話ですみません。
今日もけっこう疲れる1日でした。

■「いろんな人がいたほうがよい」(2014年11月29日)
昨日は2つの衝撃的なことがあって、時評を書く余裕がありませんでしたが、「異なっていることこそ正常」シリーズをつづけます。
その3です。

徳島駅に海部(かいふ)町(現在は市町村合併で海陽町)というところがあります。
そこは日本で自殺が最も少ない町のひとつです。
そこをフィールドワークした岡檀さんの「生き心地の良い町」(講談社)という本があります。
生き方を考える上で、とても示唆に富む本なので多くの人に読んでほしい本の一冊です。

岡さんは、とてもていねいな社会調査を踏まえて、5つの自殺予防因子を抽出しています。
それは同時に、「生き心地の良い町」を創りだすヒントでもあります。

海部町は近隣の町とはちょっと違った町のようです。
それがとても具体的に書かれていますが、たとえば、小中学校の特別支援学級の設置について、近隣地域の中では海部町だけが反対なのだそうです。
それは、「他の生徒たちとの間に多少の違いがあるからといって、その子を押し出して別枠の中に囲いこむ行為に賛成できないだけだ。世の中は多様な個性をもつ人たちでできている。ひとつのクラスの中に、いろんな個性があったほうがよいではないか」という海部町民の考え方の現れのひとつのようです。
他にも、さまざまな具体的なエピソードが紹介されていますが、岡さんはこう書いています。

海部町にまつわるこのようなエピソードに一貫してあるのは、多様性を尊重し、異質や異端なものに対する偏見が小さく、「いろんな人がいてもよい」と考えるコミユニティの特性である。
それだけではなく、「いろんな人がいたほうがよい」という考えを、むしろ積極的に推し進めているように見えてならない。

岡さんは、この「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」が、自殺予防因子の一つに挙げています。
そして、どうしたらいろんな人が生き心地よく暮らしていけるかについても、わかりやすく語ってくれています。

最近、「多様性」ということがよく語られます。
しかし、多様性を実現させ持続させることができるかについては、あまり具体的な議論はありません。
「多様性」という流行語が、題目だけになっている場合も少なくありません。
あるいは、多様性と均質化が混同されているようなことさえあります(たとえば昨今の企業のダイバーシティ戦略)。
岡さんのしっかりしたフィールドワークからのメッセージは、とても説得力があります。
生き生きした社会には、「いろんな人がいなければならない」のです。
会社も、地域社会も、均質な人だけでは息切れがしてしまうでしょう。
今の日本社会の問題は、そこにあるような気がします。

■多様性という言葉(2014年12月1日)
「異なっていることこそ正常」その4は前回出てきた「多様性」です。
このシリーズの発端の松永さんの講演会で、たまたま隣にお座りになった人が、講演の後、意見を述べられました。
非常に寛容な、そして人間を信頼する感動的な発言でした。
その方は、トリソミーの子どもを授かった父親です。
なによりも感動したのは、今もその子どもとともに、「静かに暮らせている」と話し出したことです。
このブログにも書きましたが、先日、まさにその静かな生活「Still life」(邦題「おみおくりの作法」)という映画を観たのですが、これも何かの縁を感じます。

その方は、2つのことをお話になりました。
一つは出生前診断が広がることには反対ではない。問題はそうしたことをしっかりと受け止めて判断することができるかどうかという、人間側の問題だというのです。
そこに、人間という者に対するゆるぎない信頼を感じました。
そして、自らが「静かに暮らせている」ということの自信と喜びも。
信頼と自信から、「寛容さ」が生まれてくるのでしょうか。

2点目は、「多様性」に関してです。
「多様性」が大切だということが盛んに叫ばれている風潮への違和感が述べられたような気がします。
たぶん、「多様性のためではなく、違うものが存在すること、そのことこそに意味がある」というような発言だった気がします。
実はその時、私はいささか心身が震えていて、正確な発言が思い出せないのですが、ともかくその言葉に感動して、その後、その人に話しかけてしまったのです。
声がうまく出ない自分に驚いたのですが。

翌日、その方からメールが来ました。

なかなか理解力がなくて、「多様性」の本質をどこまでわかっているのかはなはだ疑問ではあるのですが、どんな人間であれ、一人一人が穏やかに生活していくためになにか「論理」が必要だというのは、その「論理」がなければ「優生思想」に傾く恐れがあるためだとは思います。
しかし、「論理」に頼れば、他の「論理」の攻撃に晒される危険もあるという直観のようなものがあります。
シンプルに「みんな、支えあって、穏やかに」という人の温かい心が広まっていくことが大切なのではと感じております。

心から共感します。
「みんな、支えあって、穏やかに」という人の温かい心が広まっていくこと。
私が理想とする社会のありようです。

そして、「論理」に頼れば、他の「論理」の攻撃に晒される危険もあるという指摘には、はっとさせられました。
私も、どこかで「論理」を求める心性があります。
もしかしたら、そこにこそ問題があるのかもしれないと気づかされました。
人は言葉を得たことが、最大の間違いだったかもしれないとさえ思い至りました。

多様性という流行語が、社会を均質化されかねない危惧に関しては、その3で少し言及しましたが、流行語には気をつけないといけません。

存在するものは、すべてそれぞれに違うのです。
ただ素直に、その事実を受け入れればいいだけの話かもしれません。
海部町の住民たちが思っているように、気持ちよく暮らしていくためには、「いろんな人がいたほうがよい」のですから。
そして、現実にいろんな人がいるのですから、無理にそろえることも合わせることもないのです。
まさに、「異なっていることこそ正常」なのです。

最初の話に戻ったのでこのシリーズはこれでおしまいです。

■未来を決める選挙が始まりました(2014年12月2日)
衆院選が公示されました。
安倍政権が評価されるというよりも、私たち国民が試される選挙だと思います。
マスコミでは相変わらず経済問題が中心に語られているせいか、街頭での調査による生活者の関心も経済問題や社会保障が関心の上位にあげられる報道が多いですが、今回の選挙は、安倍政権の方向でいいのかどうかを考える選挙だろうと思います。
もし自民党が勝てば、さらに「この道」をまっしぐらに進むことになるでしょう。
その先に何があるかは明確のような気がします。

選挙への関心が低いのもとても悲しい気がします。
「大義なき選挙」キャンペーンが、大政翼賛会よろしく、野党や政治評論家も含めて、展開されましたが、その効果が功を奏したのでしょう。
投票率が低いことは、いうまでもなく、現政権を承認したということです。
その認識さえあまりないのが恐ろしいです。
ニーメラーの教訓を思い出さねばいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

投票したい候補者がいないという声もよく聞きます。
私もそう思うことが少なくありません。
しかし、当選させたくない候補者は明らかです。
選挙は、代表を選ぶことですが、そこには「代表になってほしくない人」を当選させないということも含まれています。
そうした視点で考えると、投票する相手が見えてくるかもしれません。

いずれにしろ、今回の選挙は、私たちの未来を決める選挙だという認識を多くの人に持ってほしいと思っています。
まわりの人たちに、この選挙の意義を訴え、投票に行くように勧めています。

■柳田國男の願い(2014年12月2日)
日本で普通選挙法が成立したのは1925年です。
当時、朝日新聞の論説委員の一人が、「遠野物語」で有名な柳田國男です。
柳田國男は民俗学で有名ですが、彼は「経世済民の学」でした。
これに関しては、藤井隆至さんの「柳田國男 経世済民の学」(名古屋大学出版会)という素晴らしい著作があります。
今回の選挙で、それを思い出しました。

同書によれば、柳田は、「生活苦」を救うのは政治であり、よい政治のためには国民がよい学問を身につけて選挙に臨むことが必要であると考えていたようです。
柳田はまた、普通選挙が必ず金権政治、利権政治に向かうとも考えていました。
だからこそ、若者の教育が大事だと考えたわけです。
柳田は、そうした政治の腐敗を避けるためには、「民衆もまた大いに覚るところがなければならぬ」とし、「自主的な判断力、政治的な判断力をもつ有権者をつくりあげていくという方法」を考えなければいけないと考えました。
彼はこう書いています。

「宣伝の巧拙によって左右せられず、標語の外形実に誘惑せられることなく、まったく一人の独立した判別をもって、進まんと欲する途を選ぶべきは無論であるが、さらにそれ以上に大切なることは、いわゆる己の欲せざるところをもって、これを人に施さざるの用意である。」

「それ以上に大切なること」とは、「社会全体の大局的な観点、換言すれば「国民総体の幸福」という観点で候補者を選ぶことを指す」と藤井さんは解説しています。
ちなみに、「国民総体の幸福」というのは、経世済民の学徒である柳田の目標です。

柳田はまた、国民の政治参加といっても、それは選挙のときだけの政治参加にすぎないことも指摘しています。
だからこそ、選挙は大事なのです。

柳田は、「個々の政治問題を「国民総体の幸福」という観点から自主的に判断できる国民を創出していくことを強く願わないではいられなかった」と藤井さんは書いています。
柳田の願いはかなえられているでしょうか。
それが今度の選挙で少し見えてくるような気がします。

■「大政翼賛会に抗した40人」(2014年12月4日)
10年ほど前に出版された本ですが、「大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち」(朝日選書)を読みました。
先日、その40人の一人の息子さん(と言っても私よりも年上です)が湯島に来たのがきっかけです。

日本の国会からすべての政党が姿を消し、大政翼賛会ができたのは1940年、私が生まれた前年です。
議会政治は終焉を迎えそうになったわけです。
しかし、そうした状況の中でも、死を覚悟して、流れに抗った人たちがいたわけです。
そして、その人たちが、戦後の自民党の源流になったのです。
その自民党は、今やまったく変質しましたが。
いや、小選挙制度によって、政治そのものが変質したというべきでしょうか。
私が生きているうちに、立憲議会政治がなくなることは考えたくないですが、あながちそれは杞憂でもないのかなと、この本を読みながら思いました。

40人のうち、37人は軍部の意向に逆らって大政翼賛会に反対し、議会政治を守ろうと「同交会」を結成し、激しい弾圧の中で選挙をたたいました。
当時の状況の中で、彼らは「明治憲法で定められた立憲政治の大道に則した政治を求めた保守派」と位置づけられます。
つまり、当時の台頭してきた軍国主義こそが、「革新派」だったのです。
保守と革新という言葉には気をつけなければいけません。

「同交会」は、政友会少数派から純無所属、社会党系、院外団といった「一種の混合団体」で組織されていたそうです。
このことにも、多くの学ぶべきことがあります。
小異を捨てて、組織を超えて、大同団結することを、彼らは知っていました。
いまの政治家たちにもぜひ学んでほしい気がします。
いや、政治家のみならず、私たち有権者もまた、学ぶべきです。

ちなみに、このグループに中から、戦後の首相が3人も出ています。
そのことからも、いまの政治家は学んでほしい気がします。

著者の楠誠一郎さんはこう書いています。

現代の政治家には周囲を見渡して多数につき、保身をはかる者が少なくない。
戦前に、生命を賭けて自分の意志を貫いた気骨ある政治家がいたことを心に留めたい。

まったく同感です。

■政治から人間がいなくなった?(2014年12月5日)
選挙の政見放送を見ていて、気づくことはたくさんあります。
今朝は共産党の、確か神奈川県の小選挙区の政見放送を見ていたのですが、個人がほとんど出てきません。
見事に主役が「個人」から「政党(組織)」に変わっています。
これは、たぶん小選挙区制度の影響でしょう。
小選挙区制度に関しては、私は以前からとんでもない制度だと思っていました。
それに関しては何回か書いてきていますが、改めて今回、そう思いました。

中選挙区制時代の選挙の主役は「人物」でした。
しかし、小選挙区制度になってから、選択の対象は「政党」になってきました。
それでもそれが、まだ「政策」であればいいのですが、国民投票ではそれが可能ですが、総選挙の場合は、さまざまな問題が包括されますから、実際には政策を選ぶなどということは不可能です。
ある問題は自民党、ある問題は民主党というように、問題によって支持できる政党は異なることが多いからです。
その結果、とんでもない人が当選することがあります。
当選するとは思ってもいなかったと、当選後、明言する人さえいるほどです。
いまの選挙制度では、人物が選ばれるのではなく、政党が選ばれます。
そして、強い党議拘束とお金によって、政治家は「やとわれ人」になってしまいかねません。
雇われ政治家が増えているように思います。
そこをしっかりと認識しておかないと、「投票したい人がいない」などということになるわけです。

全員を比例代表制にして、支持率に応じて政党(組織)が政治家を選ぶ時代がくるかもしれません。
政治から、人がいなくなるということですが。
最近の状況を見ていると、何かそんな恐ろしさを感じます。

私は、できるだけ人間に投票したいですし、政治家の人柄を大事にしています。
しかし、私にとっての魅力的な政治家は、みんなあまり人気がありませんし、どんどん排除されているような気がします。
それはたぶん、私自身が社会から脱落しているということでしょう。

今回は人でも政党でもなく、政府の暴走を止めるためのT票を投じたいと思っています。
投票したい人がいないから、投票に行かないということは、安倍政権を支持するということですから、何が何でも投票には行かなくてはいけません。

■自分の会社を誇れる人に出会いました(2014年12月6日)
昨日から浜名湖で企業の経営幹部の人たちと合宿です。
もう20年以上つづけている活動ですが、長年続けているおかげでいろいろな気づきをもらえます。

今回感じたのは、日本ではもう「成長」は難しいと考え出している人が増えてきていることです。
そういうことを口でいう人はこれまでもいましたが、今回は「わ! 本気だ」と思えるような感じでした。
ただ、それではどうするかが問題です。

発想の軸を変えれば、道は見えてきますが、企業経営のど真ん中にいるとそう簡単には動けないのかもしれません。
しかし、にもかかわらず、方法は簡単です。
ともかく発想の軸を変えて、当事者で話し合えば動き出せるはずです。

夜、温泉で一緒になった、宿泊客と話しました。
その人は山崎さんといって静岡のある中堅企業の経営者か管理者でした。
話しているうちに、会社の話になりました。
その人の会社は、とても人を大事にしていて、今日はこのホテルで忘年会なのだそうです。
若い連中は二次会で浜松に繰り出しているそうです。
その方が自分の会社のことを、とてもうれしそうに話すので、ついつい盛り上がってしまい、長湯をしてしまいました。
たぶんこの山崎さんは、成長しない時代の会社経営の姿を実感的に知っているのでしょう。
昼間、話していたことの事例に出会えたのが不思議ですが、地方にはいい会社がたくさんあるのです。

あまり長湯をしてしまい、湯上りにちょっと調子を崩してしまいましたが、いい湯でした。
しかし、いい人に出会えて、なにかうれしさを感じました。

■国の命運は政治の善悪によって決まる(2014年12月7日)
先日、テレビで「開戦前夜!政治家 斎藤隆夫の挑戦〜命をかけた名演説〜」をみました。
太平洋戦争に向かって暴走する軍部に立ち向かい、昭和15年、国会議員斎藤隆夫は国会で命を賭した演説を行いました。
2.26事件の2か月後でした。
軍部の政治介入を鋭く批判し、「政党政治の火を消すな!」というその演説は、多くの国民の喝采をあびました。
国会の議場でも、演説中に大きな拍手がありましたが、結局彼は議員除名されてしまいます。
除名の決議に反対したのは、わずか7人でした。
その7人は、先日書いた、大政翼賛会に抗した「同交会」のコアメンバーになっていきます。

結局、日本は戦争に向かい、多くの国民の命を犠牲にした挙句、敗戦してしまいます。
敗戦後、生まれ故郷の出石に戻っていた斎藤隆夫のもとに、荒廃した日本の将来を心配する地元の中学生から手紙が届きます。
斎藤は、その返事にこう書いたそうです。

日本は敗戦に依りては亡びない。
政治の善悪に依って運命が決まるのである。

今度の選挙で問われているのは、このことだと思っています。
目先の利害損得に呪縛されずに、大きな意味での善悪の視点から投票者を選びたいと思います。
せめて、中学生くらいの純真さと知性を以って。

■国益と公益と私益(2014年12月8日)
選挙に向けての発言で、「国益に沿った」という発言がよく出てきます。
たとえば、TPPは「国益に沿うように進めていく」、というようにです。
この「国益」とはなんでしょうか。
そこには、時に全く相反する2つの意味が込められています。
たとえば、国民の視点と国家の視点です。
これは、何も「国益」に限った話で社ありません。
「社会のため」「会社のため」というような言葉にも当てはまります。
国益と似た使われ方をする言葉に「公益」という言葉もあります。
「国益」「公益」「私益」。
その関係はどうなっているのでしょうか。

アダム・スミスを代表とする古典派経済学では、「私益」の追求が「見えざる手」によって「公益」につながるとされます。
そこには、しかるべき「社会の仕組み」が前提にされています。
正確に言えば、社会の構成員の私益を公益につなげていくような、「社会」あるいは「市場」を築いていくべきだということでしょう。
どんな社会でも、私益が公益につながるわけではありません。

日本の経世済民の学徒、柳田國男は「私益を総計しても公益にはならない」と明言しています。
彼は、「国民総体の幸福」が「公益」だとし、「公益」が「国益」だと考えます。
私は、そうした考えに共感できます。
しかし、国家の利益(国益)が国民の利益(公益)とは別個に存在するという発想は、柳田にはなかったと評伝を書いた藤井隆至さんは書いています。
それは、柳田が生きた時代の国家と国民の関係を反映しています。
いまの時代状況とはまったく違います。

「国益」「公益」「私益」の関係は、時代によっても、テーマによっても、違ってくるでしょう。
しかし、「国益」のために「公益」や「私益」が犠牲にされることがあることは間違いありません。
最悪の場合は、それらがゼロサム関係に陥ることさえあるのです。
最近の日本状況は、かなりそうした方向になっているように思います。
国益と公益と私益は、つながるどころか、むしろ相互に奪い合う構図が感じられます。

「国益に沿った」という甘い言葉に騙されてはいけません。
国益とはなんなのか。
「国益」と「公益」と「私益」は、同関連しているのかをしっかりと具体的に捉えていくことが大切です。

選挙に向けての話を聞いていると、まさに本音が垣間見えてきます。
「言葉」ではなく「結果」を見通すようにしなければいけません。
そのためには、私たちはもっと学ばなければいけません。
国民が、学ばなくなれば、国は亡ぶしかないでしょう。

投票日はもうすぐです。
投票率が高くなることを祈っています。

■マーケティング型選挙から抜け出よう(2014年12月9日)
アメリカの都市社会学者リチャード・セネットは、その著「不安な経済/漂流する個人」の中でこう書いています。

人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。
すなわち、政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われてはいないか。
そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石鹸の販売宣伝と変わりないのではないか。
もし、そうであれば、政治の核心はマーケティングにあることにもなりうるが、これは我々の政治的生活にとって歓迎すべきこととはいえまい。

いまや政治の世界もまた、「経済の論理」「経営の論理」で覆われているのかもしれません。
この指摘のポイントは、「政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われている」ということだろうと思いますが(前に書いた柳田國男の指摘もそうだと思います)、「政治の核心はマーケティング」という点を、選挙の際には痛感します。
小渕優子さんは、まさに「ブランディング」されてきたわけで、父親の思いとは違って「政治家の見識」を育てられてきたわけではないことが、先の大臣辞職事件で明らかになりました。
彼女もまた、有名石鹸のひとつとして物語化されてきたわけです。
政治は、そうやって「人」を消費するようになってきました。
まさに「政治の変質」です。

どれを選んでいいかわからないというほど、商品の数が増えてくると、消費者は自分で選ぶことを放棄していきます。
どれほどの人が、自分の判断力と意思で購買活動をしているでしょうか。
たぶん意識していなくとも、私たちがどの商品を購入するかは操作されている面が今やとても大きくなっているように思います。
それにいまはどれを選ぼうと、さほどの違いはありません。
そして、その違いさえもが「マーケティング」手法で創られていることも多いのです。

こうした商品選択と同じことが、選挙でも展開されている時代になってきました。
まずは「経済」で慣らされた私たちは、政治にも同じ姿勢で対応し始めた。
自分でエネルギーを割いて選ぶよりも、与えられたとおりに、しかし自分で選んだ気分を持ちながら、選ぶことの方が楽ですから、ほとんどの人はそうしていくでしょう。
そして、その結果が悪ければ、選んだ相手を批判すればいいのです。

しかし、残念ながら、商品と違って、政治の世界では誰かがリコールを起こしてくれることはありません。
結局は自分たちで変えていかなければいけないのです。
商品選択の場合は、流行やマーケティングに流されてもさほど深刻な結果にはなりませんが、政治はそうではありません。
国家が危うくなれば、生活もまた危うくなります。
いや、生活が危うくなれば、国家が危うくなるというべきでしょうか。
経世済民の政治に向けて、しっかりとした眼で投票すべき人を選びたいものです。

14日の投票日にもしかしたら行けなくなる人は、ぜひ事前投票に行ってほしいです。
私も何が起こるかわからないので、今回は事前投票に行く予定です。

■知的な言説を聞く耳(2014年12月10日)
「民主主義の中で知的な言説が聞く耳をもたれない時、少数意見を尊重するはずの民主主義は多数決の数の暴力となる」とは、樫村愛子さんの言葉です。
著書の「ネオリベラリズムの精神分析」に出てくる言葉です。
私も、深くそうお思います。
そして昨今の日本には、「知的な言説を聞く耳」が消えつつあることに不安を感じています。

「知的な言説」とは何かというのは、人によって受け止め方は違うでしょうが、私はそれを「自分の生を生きている人の言説」と受け止めています。
そして、「知的な言説を聞く耳」とは、「自分の生に立脚した耳」と考えたいです。
平たく言えば、「頭で聞く」のではなく「心身で聞く」ということです。
「自分の生を生きている人」とは、ますます抽象的でわからないように思われるかもしれませんが、さらに抽象化すれば、「人間」ということです。
このブログでは、最近、社会から「人間」が消えだした、ということを何回か書いていますが、そう感じだしているのは私だけではありません。
昨年、企業経営幹部の人たちのグループで、「人が育つ企業文化」をテーマに半年間話し合いをしてきました。
そこで得た結論の一つは、会社の人間が組織の「部品」化してきているのではないかということでした。
部品は、人間と違って育ちません。
人が育たないのは、部品扱いしているからではないか、というわけです。

フランスでは認知症治療として「ユマニチュード」が広がっています。
ユマニチュードとは、人間として扱うということです。
医療の世界では、患者は往々にして「人間」として扱われないことはよく言われています。
イタリアが精神病院を全廃しました。
精神障害を持つ人を、人間として扱うことによって、状況は大きく変わりました。
この種の話は、さまざまな分野で話題になりだしています。

知的な言説は、人特有のものです。
にもかかわらず、最近は「話す人」も「聞く人」も少なくなってきました。
プロセスが重要なはずの「コミュニケーション」さえもが、機能的な伝達度で測られる時代です。
多様な発想をし、多様な感受性を持つ、人間の知性は機能社会では無駄なのかもしれません。

選挙に関連した記事を書くつもりが、話が広がりだしてしまいました。
しかし、今回の選挙に関して、政党党首などの話を聞いていると、「知的な言説」というよりも、「機械が話している」ような気がします。
「知的な言説を聞く耳」がないからそうなったのか、「知的な言説」がなくなったために「耳」が退化したのか、いずれにしても表層的な言葉のやり取りばかりです。

言葉の世界での論理整合性ではなく、現場の生に立脚して、考えなければいけないと、強く思っています。
そうした視点でだれに投票するか、どの党に投票するか、をもう一度考えて、今日は事前投票に行こうと思います。
政治は、個人の生に深くかかわっています。
誰に入れても変わらないし、投票に行かなくても変わらない、はずがありません。

■事前投票に行ってきました(2014年12月10日)
事前投票に行ってきました。
これでもう、交通事故にあっても、食中毒で寝込んでも、風邪をひいても大丈夫です。
なにしろ数年に1回のチャンスですので、絶対に、無駄にはできません。

しかし、考えてみると、投票日が1日というのがむしろおかしいですね。
事前投票などと言わずに、投票日は1〜2週間くらいあったほうが投票率は高まるはずです。
どうして今まで私はそう考えなかったのでしょうか。
途上国ではそうした例はありますが、私はそれを「遅れた制度」と思っていました。
とんでもない、むしろ国民の生活を優先した進んだ制度というべきです。
やはり私は常識に囚われて思考の柔軟性を失っているようです。

最高裁判事の信任投票もありました。
今回はどういう裁判に関わった人か全く思い出せずに困りました。
これも選挙時ではなく、大きな裁判の判決ごとに賛否を意思表明したいですね。
技術的にはできるはずです。
国会議員の選挙の「ついで」にやってほしくはありません。

さらにいえば、裁判官判事をやるのであれば、日銀総裁やNHKのトップ人事も信任投票したいですね。
こう考えていくと、いろいろと欲が出てきます。
下手をすると、毎日が投票日になりかねません。

しかし、そもそもこういう形の「投票」方式が適切なのでしょうか。
それも大いに疑問があります。
投票に行くべきだと言いながら、そんな根本的なことに疑問を投げかけてしまうのは矛盾していますが、今の政治のあり方は、根本から見直すべき時期に来ているのかもしれません。

来年は、そんなことをテーマにしたサロンを湯島で継続開催する予定です。
是非ご参加ください。

■私たちはとても大切なものを忘れていないか(2014年12月13日)
明日が選挙の投票日です。
投票呼びかけ(になっていたかどうかはわかりませんが)の選挙シリーズはこれを最後にします。
開票後、もう一度書く予定ですが、

今朝の朝日新聞で、京都の徐東輝さんが今回の選挙への投票を呼びかけていました。
その記事の中に、「民主主義を求め闘う香港の若者から日本の友へ」というユーチューブが紹介されていました。
観てみました。
3回も観てしまいました。
なぜか涙が出ました。
そして思いました。
私たちはとても大切なものを忘れている。

「民主主義を求め闘う香港の若者から日本の友へ」の中に次の言葉が出てきます。

今、当たり前のようにある、あなたの人権や自由が、
ある日、突然なくなったらどうしまうか?

ぜひ観てほしいです。
https://www.youtube.com/watch?v=Zrw_TDfVkC4

■煙石事件の高裁判決がでました(2014年12月13日)
前にも書いた中国放送の元アナウンサーの煙石博さんの窃盗事件の高裁判決が11日に出されました。
控訴棄却でした。
7万円弱の窃盗事件で懲役1年の刑です。
容疑者の煙石さんは、最初から無罪を主張し、物的証拠はありません。
一審判決後、煙石さんは「善良なる一市民が、身に覚えのない罪を着せられる冤罪。
こういう不幸は、法治国家としてあってはならない」と発言しています。

この件に関しては、これまで2回ほど、このブログでも書いてきました。
広島の事件ですが、私には時代を象徴する不気味な事件だと思えてなりません。
詳しくは、「煙石さんの無罪を勝ちとる会」のホームページをご覧ください。
http://enseki.noor.jp/

いつ我が身に降りかかってくるかわかりません。
日本の司法は、私には壊れかけていると思います。
いや警察もそうかもしれません。
最近、10年以上前の世田谷一家殺害事件の事実認定ミスが報道されています。
パソコンの操作時間認定に関わる誤認の報道ですが、なぜ今頃になってと思うほどの初歩的なミスです。
この事件の被害者の宮澤さんは、私の友人なので、私のところにも数人の捜査官が2回にわたってきていますが、いろいろと思うことは少なくありません。

私たちが安心して暮らせる社会を守ってくれているのが、警察であり司法です。
私はそう思っていますが、その警察や司法がちょっと間違うと、とんでもないことが起こるのも、また事実です。
そうしたことへの危機感を、ぜひ、警察や司法の関係のみなさんには持ってほしいと思っています。
そして同時に、私たち国民も、ぜひ疑問があれば声を上げていくことが大切だと思います。
警察や司法に悪意などなくても、気づかないまま、誤った方向に行くことはありうるからです。

煙石事件は広島の事件ですので、東京ではなかなか報道はされません。
しかし、いつ波及してくるかわかりません。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

煙石事件のような話はほかにもあるでしょう。
大切なのは、そうしたことを切り口にして、司法のあり方や警察のあり方を、関係者と一緒になって話し合う公開の場を広げていくことではないかと思います。
煙石さんは、私財を投じて、そういう問題提起を私たちにしてくれているように思います。
せっかくの機会を活かさなければ、煙石さんに申し訳ありません。

念のために言えば、私は煙石さんとは面識がありません。
煙石さんの、この事件が冤罪かどうかの確証もありません。
ただいえることは、やはり全体を見て、どうしても納得できないのです。
おかしいことにおかしいと言わなければ、ニーメラーの二の舞になります。
それだけは避けたいと思っています。

■衆議院選挙結果を見ての感想(2014年12月15日)
突然の解散で始まった衆議院選挙は自民党の圧勝に終わりました。
「大義なき解散」「大義なき選挙」とはやしたてたマスコミと野党のおかげで、今回の選挙には意味がないと思った人も多く、投票率も低くなってしまいました。
しかし、投票に行かなかった人たちは、間接的であるにせよ、現政権を支持したわけですから、安倍政権は国民の圧倒的な支持を得たということになります。
そうした結果を見ての感想は一言しかありません。
私自身が社会の動きから大きく逸脱しているということです。

安倍政権を支持することなど、私には思いもよりません。
原発を再稼働し、平和に反する武器を持つようにし、日本社会をアメリカ資本の市場とし、挙句の果てにはトリックダウンのための資金は国内の貧困層から獲得するという政策は、悪夢のようにしか思えないからです。
日本は今や、完全な「自発的隷属社会」になったという気さえします。
しかし、それもまた「一つに生き方」ですから、私が批判すべきことでもありません。
ただ、80年前の日本の状況と、とてもよく似ていることが気になります。

しかし、皮肉ではなく、これだけ多くの人が望んでいるのであれば、それはそれでいいと思うべきかもしれません。
私が、社会から大きく脱落してしまっているというのが正しいかもしれません。
そうであれば、何も憂うることなどありません。
この時代を生きるものとして、捨てがたい未練は感じますが、それは仕方がないことです。

まったく救いがなかったわけではありません。
安倍政権への反対意思をはっきりと表示した沖縄の結果は、私には敬意に値します。
原発事故にあいながら、原発再稼働を支持した福島県民とは全く違います。
沖縄がますます好きになりました。

選挙前に書いてきた「選挙シリーズ」の最後に、いろいろと気づいたことなどを前向きに書こうと思っていましたが、やめました。

■トリクルダウンしてくる「富」の源泉の所在(2014年12月16日)
アベノミクスで盛んに言われていることのひとつが、トリクルダウンです。
「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)」という、私には詐称としか思えない考え方です。
この、もっともらしい「理論」で、これまで多くの人たちは騙されてきました。
シャンペングラスをピラミッド状に積んで、一番上のグラスにシャンペンを注ぎ込んでいくと、それがあふれて次々と下のグラスを満たしていくというイメージのわかりやすさに、みんな騙されるわけです。
そこにはふたつの欺瞞と前提があります。

一つは、シャンペングラス・ピラミッドの場合はグラスの大きさが同じですが、現実にはそうではないということです。
上部にある大きなグラスは、実は下のグラスに比べて極めて大きいのです。
いや、底のない無限の大きさかもしれません。

もう一つは、上から注ぎ込まれる富は、どこから供給されるかです。
鳥瞰的に資本主義の歴史を捉えているエコノミストの水野和夫さんは、その著作の中で、それは外部から調達されると書いています。
まだ水野さんの著作を読まれていない方は、読みやすい新書版が何冊か出ていますので、ぜひお読みになることをお勧めします。
そして水野さんは、その外部がもうなくなりだしていると指摘します。
人工的な外部も創られてきていますが、それも限界にきていると。
アメリカは、自由貿易主義などという装いを凝らしながら、日本市場に外部を求め、日米構造協議やTPPなどを推進してきています。
その被害をきちんと立証してくれる経済学者がいればいいのですが、残念ながらいません。
それによって、日本の富は流出していますので、日本にはマイナスですが、調達成果を得ているアメリカにとっても限界はあります。

外部から富を調達できない場合、どうなるでしょうか。
これまでも何回か書いてきていますが、内部から調達せざるを得ません。
どこから調達するか。
基本は、相手に気づかれないように、「薄く広く」です。
富を収奪された低所得者たちにトリクルダウンしてくる富のバランスは、間違いなくマイナスです。
そして、経済的な格差社会が進んでいきます。
この30年の日本の経済がそれを証明しているように思います。

ところが、多くの人は、今はまだアベノミクスの効果は大企業だけに現れてきているが、次第に中小企業や生活者にその恩恵が回ってくると主張しています。
だからアベノミクスをとめてはいけないと信じて、多くの人が自公民に投票したのでしょう。
知識や思考のない人、歴史や現実をしっかり見ない人の愚かさは悲しくもありますが、知っていながら詐称する人たちにも哀れさを感じます。

今なお、トリクルダウンしてくる富を期待している人が多いのにも情けなさを感じます。
たしかに、高度成長期にはトリクルダウン効果がありましたが、それは富を外部から調達していたからです。
いまは、上納した富の一部が返還されてくるだけなのです。

以上の議論は、私の独断的な意見です。
しかし、サプライサイド経済学や新自由主義の主張から生まれてきたトリクルダウン理論は、実証されたものではないと言われています。
私だけのゆがんだ考えとも言い切れません。
いずれにしろ、そろそろ富を外部から調達する文化からは抜け出たいものです。
そして、「おこぼれ」に期待するような生き方は捨てたいと思います。

■戦争経済への傾斜への不安(2014年12月17日)
今回の衆議院選挙で、日本の国民は「平和」を捨てる決断をしました。
憲法9条は、戦争ができる国家へと変更され、この数十年、死刑を別とすれば、国家の承認を得て人を殺すことのなかった日本人の生き方は変わっていく可能性が出てきました。
平和で国を守ろうとはせずに、暴力で国を守ろうとする、歴史とは逆行する道を選んだといえるかもしれません。
国民の思考を変えていく教育への道も着々と進められています。
もちろん政府に異論を唱える人は窮屈になっていくでしょう。
まさに80年前の日本に戻っていくような気がします。
余計なひと言を加えれば、そういう状況の中での「子育て支援」は、私には実に不気味に感じます。

かなり極端に書きましたが、おそらく現実はさらに極端に進むでしょう。
歴史の動きは、加速されるのが常だからです。
そのためのティッピングポイント(事態が急変する臨界点)は、今回の選挙で超えてしまったような気がします。
超えないまでも、この数十年とは違った方向へ、日本が向かいだすことは間違いありません。

世界は多様な存在によって構成されており、歴史には一進一退もまたつきものですから、いまのこの動きを非難するつもりはありません。
日本は、私の思いとは違った世界に向かいだしたというだけの話です。
平和で成長を感ずることのできた時代を過ごしてきた私にとっては残念ですが、戦いを好む人も少なくないでしょう。
私自身も、戦いこそ好みませんが、変化や不安定さを好む面があります。
人は非論理で不条理な存在です。

にもかかわらず、私が腹立たしいのは、戦争さえもが経済の道具にされていることです。
憲法9条を変えることの目的が、経済成長にあるような気がしてなりません。
昨日書いたように、経済成長は外部の存在からの富の調達です。
そのために、新たな外部をつくりだすために、憲法9条を変えるという発想が情ないのです。
経済のために国民を死(過労死、自殺、事故死)に追いやる社会も変えたいと思っていますが、経済のために他者を殺めるような国には絶対なってほしくありません。

日本人は、かつて「エコノミックアニマル」といわれました。
最近はそういう言葉は聞かれませんが、最近のアベノミクスブームをみていると、やはり日本人はエコノミックアニマルになってしまったのだと思わざるを得ません。
朝鮮戦争特需で敗戦の荒廃から立ち直った日本経済に埋め込まれてしまった思考なのかもしれません。
100年以上続いてきた、あの「美しい文化の国」は変質してしまったのでしょうか。

■「盗賊を罰するより赦したほうがよい」(2014年12月17日)
パキスタンでまた、イスラム関係者による悲惨な事件が起きました。
イスラム過激派のタリバーンが、学校を襲い、100人を超す子どもたちが殺害されました。
その報道だけを見ていると、加害者への怒りがわいてきますが、加害者がそのような行動に出たのは、加害者の怒りだったかもしれません。
報復の連鎖です。
報復の連鎖を止めるための制度が司法ですが、国際的にはいまだ司法を効果的な仕組みを築かれずにいます。
イスラム国もそうですが、報復の連鎖は力では止められないような気がします。
そして、世界はどんどん荒廃していきかねません。

これはなにも、イスラムとアメリカだけの話ではありません。
日本においても、いろんなところで起きている話です。
ではどうすればいいか。

最近読んだ「現代の超克」の中で、中島岳志さんが書いていたことを思い出しました。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

ある日、ガンディーのもとに一人の男が血相を変えてやってきます。
彼は、ガンディーに向かって言います。
「自分はムスリムだが、自分の大切な息子をヒンドゥー教徒に殺された。それでもあなたはヒンドウー教徒を赦せと言うのか」と。
ガンディーは「そうだ」と言い、次のように言いました。
「あなたはこれから、孤児になった子どもを自分の息子として育てなさい。その子どもはムスリムによって殺されたヒンドゥー教徒の子どもでなければなりません。そして、その子をヒンドゥー教徒として育てるのです。その子どもが立派に成長したとき、あなたに真の赦しがやってくるでしょう」。

■言動の前提の大切さ(2014年12月18日)
わが家のリビングルームは日が差し込んできて、天気のいい日はとても暖かです。
今日も暖かな、その部屋で午前中、本を読んでいました。
食事をして、家を出たのですが、あんまり体調も良くないので、娘に自動車で駅まで送ってもらいました。
コートはまだ出していなかったので、コートを着ないで、です。
娘から寒いから着ていったほうがいいと言われましたが、コートは嫌いなのです。

電車の中もあったかくよかったのですが、湯島の駅を降りて外に出たら、陽も当っておらず、風がとても寒いのです。
コートを着てこなかったのを後悔しました。
それに今日は、これから現座に事務所を持っている弁護士のところに相談に行く予定なのです。
寒い中を道に迷わなければいいのですが。

長々書いてしまいましたが、こうした勘違いはよくあることです。
自分がたまたま今いるところの条件に従って、行動を考えてしまうわけです。
困ったものです。
出かける前にオフィスであったかいコーヒーを飲み、クーラーの下で暖を取っていますが、気のせいか、体調はさらに悪化し、風邪の症状を感じさせます。
心配ですね。

今回は、私自身が寒くて風邪をひくだけの話なのですが、
これが社会全体の経済や政治の話の場合は、大変です。
身体を暖めながら、ついついそんなことを考えていました。
最近の日本国民は、もしかしたら、私と同じ程度に近視眼で視野狭窄で、浅はかなのかもしれません。

さて、そろそろ出かけます。
どうなりますことやら。

■STAP細胞はありません?(2014年12月19日)
理化学研究所がSTAP細胞の検証実験結果についての記者会見を開き、「細胞の存在は確認できなかった」と発表しました。
何かすっきりしないものを感じます。
不正があったとか、なかったとかいう話に関してではありません。
結果の発表内容にも異論があるわけでもありません。
ただなんとなくすっきりしないのです。

解けることがわかっている問題は、解けるのかどうかわからない問題よりも、解きやすいと言われます。
科学の世界では、仮説への信頼が高いほど、新しい発見がおこなわれやすいようです。
それに、誰かが解いたことがわかると、政界を出す人が急増するという話も聞いたことがあります。
まずは論理が構築され、事実が発見されることは、少なくありません。

そこで今回の検証実験ですが、大切なのは、STAP細胞があるという確信で追試されたか、ないという思いで実験されたかで、結果は大きく違ったのではないかという気がするのです。
科学や技術は「論理の世界」だから、そういう「思い」は関係ないと思われがちですが、そんなことはないと私は思います。
科学や技術は「確認された論理スキームの内部」での論理で進められますが、その世界の外には現在の科学技術の水準では把握されずに、前提として組み込まれていない要素や「論理」がたくさんあるはずです。
それが、科学技術に取り組む人の感度や信念に大きな影響を与えるはずです。
STAP細胞を200回も成功させた小保方さん自身も再現できなかったではないかと言われそうですが、彼女もまた、かつてとは全く違った状況の中で取り組んだはずです。

もちろんだからと言って、検証実験は間違っていたなどと言いたいわけではないのです。
今回の検証実験に取り組んだ人たちのモチベーションや姿勢が気になるのです。
新しい科学実験は、発見への大きな期待と存在の核心が大切です。
そうした夢や期待、わくわくするようなモチベーションが、今回はあまり期待できなかったのではないかという気がするのです。
実験者は状況が状況だけに、慎重にならざるを得なかったはずです。
もしかした、あまり楽しい検証実験ではなかったのではないかということです。

そんなことを考えながら、記者会見の報道をみました。
どうもすっきりしないのです。

■魂の限界と相沢さんの謝罪(2014年12月20日)
STAP細胞検証結果の記者会見を改めて、新聞や映像で見直しました。
2時間全てというわけにはいきませんでしたが、もう少し自分なりにすっきりさせたかったからです。
特に、相沢さんが会見終了後に話したことが気になっていました。
毎日新聞に(たぶん)全文が書かれていました。

2時間あまりに及ぶ記者会見が終了し、報道陣が退室を始めた午後0時45分ごろ、相沢氏がマイクを握って再登壇。「検証実験は、(小保方晴子研究員を監視するための)モニターや立会人を置いて行われた。そういう検証実験を行ったことは、責任者としてものすごく責任を感じている。研究者を犯罪人扱いしての検証は、科学の検証としてあってはならないこと。この場でおわびをさせていただく」と述べ、頭を下げた。【毎日新聞デジタル報道センター】

相沢さんの無念さを強く感じます。
この一言で、私はかなりすっきりできました。
そう思っている人がいるのだということです。
相沢さんは、たぶん怒りの矛先を見つけられずに、謝罪の形で真情を吐露したのだと思いました。

ニュートンが錬金術に強い関心を持っていたことは有名ですが、科学者の中には「小さな論理」に呪縛されている人と「大きな論理」に自らを開いている人とがいるように思います。
そして、科学の発見には、常に「小さな論理」では説明できない「神秘的」「霊的」なものが作用しているということも、しばしばいわれます。
私は、心身を開いた時にこそ、新しい発見はもたらされるのではないかと思っています。
相沢さんは、今回、そういう場をつくれなかったことに、良心の呵責を感じている。
私はそう感じました。
STAP細胞の存在は、「科学者としては」あるとは言えないと反されたところにも、相沢さんの誠実さを感じます。

事件のど真ん中にいる小保方さんが昨日、発表した手記の文章も、私にはとても納得できるものでした。

予想をはるかに超えた制約の中での作業となり、細かな条件を検討できなかった事などが悔やまれますが、与えられた環境の中では魂の限界まで取り組み、今はただ疲れ切り、このような結果に留まってしまったことに大変困惑しております。

小保方さんは「魂の限界」と語っています。
科学を支えているのは、魂だと私は思っていますので、少し納得できました。
いまの科学の最大の問題は、哲学の欠落です。
とりわけ「いのち」に関わる場合は、哲学や霊性が重要な意味を持っています。
哲学の欠落によって、経済行為になりつつある医学の実態を思い出せばいいでしょう。

相沢さんや小保方さんが、そうしたメッセージを出してくれたことが、私には大きな救いです。
私はSTAP細胞はあると思っていますが(論理的な裏付けは皆無の直観です)、私が生きている間には確かめられることはないでしょう。
しかし、この事件からはたくさんのことを気づかされました。
最近書き続けていることに即して言えば、「科学からも人間がいなくなりつたる」ということです。

それにしても、謝罪するべき人は、相沢さんではなく、ほかの人のように思えてなりません。

■価値のつくり方と価値の捉え方(2014年12月21日)
東京駅開業100年を記念してJR東日本が限定販売した記念スイカは、あまりの混雑に途中で販売を停止せざるを得なかったという事態になりました。
死傷者が出なかったのが幸いですが、一時はかなり危険な状況だったようです。
予定していたスイカの半分は販売されたそうですが、すでにネットでは、そのスイカが価格の10倍以上で売りに出されているそうです。
まさにお金に支配された現代の実相を示しています。

「価値」の捉え方は、いろいろとあります。
世界最初のバブルは、17世紀オランダのチューリップバブルと言われます。
オスマン帝国から輸入されたチューリップの球根が人気を集め、価格が高騰し、チューリップ投資が過熱化したのです。
チューリップの球根が、通常時の100倍以上にまでなったといいます。
チューリップ球根が投資の対象とは理解に苦しみますが、似たようなことはいまもよく起こっています。
それが起こるのは、たぶん金銭が経済の基軸になったからだろうと思います。

柳宗悦は、価値とは永遠と結びつく絶対的超越につながっていないといけない、と言っていますが、いまや価値は損得の対象になってきています。
こうした風潮もまた、金銭基軸の社会がもたらしたものでしょう。

今回の記念スイカですが、お祝いなのですから無限に売り出すのが本来的なあり方です。
多くの人で喜び合うことができましたし、こんな混乱も起きませんでした。
しかし、そこに「金銭価値」を無理につくりだそうとして、15000枚という数量を設定したのです。
つまり「作られた希少価値」ですが、損得価値に目がくらんだ人たちは、それを「価値」だと勘違いしてしまうわけです。
まさにバブルと同じ構造が、生み出されるのです。
そして、本来であれば、お祝いとしての記念の価値は失われてしまい、金銭価値が覆ってしまうわけです。

今回の騒動は、いまの日本社会が、どうやって「価値」をつくりだすのか。また人々は何をもって「価値」と考えているのかを教えてくれています。
金銭価値であれば、その気になればいかようにも創りだせます。
最近の企業経営や地域起こしの世界で言われている「ブランディング」「ブランド価値」も、金銭価値で覆われています。
時間をかけて熟成されるべき「ブランド価値」が、巧妙なマーケティング技術で促成される事例を見ると、実にむなしくなります。

そういう動きの中で、私が考える「価値」はどんどん消滅して言っているのが、とても残念です。

■若者たちの不安感を解かなければいけません
(2014年12月20日)
12月20日に、「ちょっと重い、しかし気軽な話し合いの会」を開催しました。
テーマは「学生と自殺」です。
ドキッとするようなテーマなので、このままだと誰も集まりません。
そこで「ちょっと重い、しかし気軽な話し合いの会」などというわけのわからないタイトルにしてしまったのです。

日本ではこの10数年、統計上だけでも3万人前後の人が自殺に追い込まれています。
しかも最近は若い世代の人の自殺が増えています。
いまの社会が、あまり生きやすい社会ではなくなっているのかもしれません。
そんなことを踏まえて、この数年、「自殺に追い込まれることのない社会」をテーマに、いろいろな話し合いの場をつくってきました。
最初は、「自殺」という問題に正面から取り組んできましたが、最近はむしろ「自殺」という切り口から社会のさまざまな問題を考えていくことが大切ではないかと思いだしています。

たまたまある集まりで、大学で社会学の教鞭をとっている楠さんと話していたら、大学生も「自殺」の問題には関心を持っているとお聞きしました。
そこで、一度、学生の皆さんを中心にした話し合いの場がつくれないかと思い、楠さんと一緒に、まずは関心のある人たちでの予備的な話し合いの場を開いてみようということになったのです。

たとえば、まだ学びの場にいる若い人たちが、いまの社会はどう感じているのか。
特に、学校を卒業して、社会で働くということに、どんなイメージを持っているのか。
今の社会を生きづらいと考えているのか。
日本での自殺者が多いことをどう受け止めているか。
そんなテーマで、まずは関心をお持ちの若い人たちと少人数での話し合いの場を持つことにしました。
私のホームページでも案内を掲載したところ、11人の人が集まりました。
10代の大学生から70代の会社社長まで、さまざまな人が集まりました。
発達障害で苦労していた経験を活かして、いまは発達障害のある人たちのコミュニケーション支援に取り組んでいる冠地さんも、久しぶりに来てくれました。

私はたくさんの気づきをもらいましたが、若い世代の人たちが思っていた以上に社会に出ることに不安を持っていることです。
不安の中に夢や希望があればいいのですが、どうもそうしたものはあまりないようです。
こんな状況にしてしまった大人たちは大いに反省すべきです。

子どもの世界に広く深くかかわっている冠地さんは、社会のひずみが家族を通して子どもにしわ寄せされていることを実感しているようで、家族関係や地域コミュニティのあり方に鋭い問題提起をしてくれました。
若い世代は、身近な社会である家族や学校を通して、社会の実相を鋭く感じているのでしょう。

話し合いの結果、2月か3月に「学びの場にいる若い人たちが、いまの社会はどう感じているのか」を話し合うような公開フォーラムを開催することになりました。
参加された学生たちを中心に実行委員会を立ち上げました。
できれば、これを契機に、若者たちが中心になって、大人たちや社会活動に取り組む人たちと出会えるような、サロンが生まれないかと思っています。

自殺の問題には直接にはつながりませんが、それも意識しながら、少しずつ進めていければと思います。
テーマは重いですが、明るく、しなやかに取り組んでいきたいと思っています。
一緒に取り組んでくださる方がいたら、気楽にご連絡ください。

■「苦界浄土」を読みなそうと思います(2014年12月29日)
年末になって、少し思うところがあって、石牟礼道子さんの本を読むことにしました。
私が最初に石牟礼さんの「苦界浄土」を読んだのは1972年でした。
十分に受け止めることができなかった気がしますが、その本を読んだ後、水俣病のことを知りたくなり、かなりの本を読んだ記憶があります。
しかし、どちらかといえば、知識ベースの読み方でした。

「苦界浄土」は正直、私には難解な本でしたが、どこか心の真底に響く本でした。
石牟礼さんの、「苦界浄土」の続編も読みましたが、ますます歯が立たないものになっていました。
それはたぶん私自身がまだ論理の世界にいたからでしょう。

最後に読んだのは、もう30年程前です。
考えてみると、会社を辞めてからは、石牟礼さんの本を読んだことがありませんでした。
しかし、その間、水俣と無縁だったわけではありません。
水俣を訪れて市長に会い、吉井さんには山形で開催したイベントに来てもらうお願いをしました。
名物職員の吉本さんには水俣を丁寧に案内してもらい、ご自宅にまで泊めてもらいました。
語り部だった杉本栄子さんにもお会いし、杉本さんのとびきりおいしいシラスも味わせてもらいました。
原田さんの水俣学も学ばせてもらいました。
新潟水俣病に関わっている塚田さんにお会いし、水俣病問題へのお思いを聴かせてもらいました。
意図したわけではなく、気づいてみたら、水俣問題にも少しですが、触れさせてもらっていたのです。
それで、もしかしたら、いまなら「苦界浄土」のメッセージが受け止められるかもしれない。そう思ったのです。

石牟礼さんは、彼岸と現世、心身と魂の世界を往来している人のように感じます。
私にはまだ遠い人ですが、私も最近、そうした生き方がわかるような気がしてきています。
自殺や認知症に、「心ならずも」虜にされているのは、そのためかもしれません。

昔読んだ「苦界浄土」を書庫から探し出して机の上に置きました。
文庫本ですが、まだ読みだせてはいませんが、年が明けたら読みだそうと思います。
その前に読む本(もちろん水俣病関連ですが)も何冊かありますし、見直すべきテレビ番組もあります。
めげなければいいのですが。

■「差別する意識」が生み出す市場(2014年12月30日)
12月の後半に開催した3つの集まりに共通したテーマを感じました。
集まりの大きなテーマは「自殺」「家族」「認知症」だったのですが、いずれにも共通していたのは、私たちが無意識にもっている「差別する意識」とそれを生み出す「制度」でした。
そうした意識や制度は、気づかないうちに、私たちの生活の中にどんどんと広がっています。
そう強く感じたのは、昨日開催した認知症予防関係の話し合いでした。

認知症の定義は、いろいろとあるのでしょうが、人はある年齢になると急速に認知度が低下するそうです。
認知度の低下の大小により、認知症の恐れがあるとか、軽度の認知症、重度の認知症とされるのでしょうが、その定義はかなりあいまいなのだろうと思います。
高血圧症の範囲が医療界の都合で変えられているのと同じかもしれません。
しかも、それは社会の仕組みによっても大きく変わってくるでしょう。
3世代とか4世代が一緒に暮らす大家族制度、あるいは隣近所が支え合って暮らすような開かれた家族制度の場合は、認知度が低くなっても、「病気」扱いされずにすまされていたでしょう。
逆に昨今のように単世代家族中心で、しかも家族が自閉化しがちな社会においては、軽度の認知力低下でも「病気」扱いされることで、隔離されていく傾向が強くなるでしょう。
加齢とともに認知度が低下するのは、それなりの生命的理由があると私は思っていますが、そうした生命の摂理さえ病気にされてしまうのは、いささか悲しい気がします。

もっとわかりやすい例は、精神病です。
日本では精神病が理由で入院している人は非常に多く、全入院患者の4人に1人が精神障害者だそうです。
精神病院は、今でもなお「隔離装置」となっているように思われます。
ある集まりで、座敷牢に閉じ込められていた昔に比べればよくなったのではないかという話になりましたが、これもたぶん正しくはないでしょう。
座敷牢が広がったのは、明治になってからではないかと思います。

水俣病の語り部、石牟礼道子さんのことを書いた本を読んでいたら、若松英輔さんのこんな文章が出てきました。

水俣病よりずっと前から石牟礼道子は豊かな非情の世界で生きていたのである。
人間であるものと人間でないものの境界が溶け合っている世界である。
幼い彼女の傍らには神経殿(しんけいどん)と呼ばれる老女がいて、石牟礼道子はいつも神経殿を通して言葉を身につけていったはずだ。
神経殿というのは今で言う精神病者のことで、その蔑称とも愛称とも分かちがたい呼称でたがいを引き寄せるようにして人びとは混じり合っていた。
そこは障害者/健常者や正常者/異常者といった境界を社会的規範が押しつけてくる世界ではなかった。

私が子どもの頃は、まだそうした「多様な人たちが一緒に暮らしていた社会」だった気がします。
父の実家に疎開していたころに、その村にやはり神経殿のような存在がいたような記憶がうっすらと残っています。

健常者とか正常者とかいう言葉は、私には理解しがたい言葉ですが、健常や正常の範囲がどんどん狭まっていることは間違いないでしょう。
そこからはみ出した人は、医療や製薬やケアサービスの顧客になっていきます。
そうして経済成長に貢献する存在へと仕上げられていくわけです。
私には、忌まわしい動きです。
なんでも市場化してしまう、最近の制度設計の発想には、恐ろしさを感じます。
そのうち、すべての人は病人にされ、薬の消費者になっていくでしょう。
いやすでにもうほとんどそうなっているかもしれません。

人はそれぞれに違うのだという、当然のことに気づくことがない限り、こうした動きは止められないでしょう。
「違い」を障害や病気などと考えることはやめようと思っていますが、自分の心身の中にある「差別する意識」を克服するのは難しいものです。