ブログ総集編7(2018)
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■新しい年のはじめに(2018年1月1日)
また新しい年がはじまりました。
といいながらも、最近は、「新しい」という実感がどうも持てません。
生きている世界の魅力が、どうもあまり感じられなくなってきているのです。
私の生き方が惰性的になっているのかもしれません。
たしかに、以前のように、年初の決意など改めて考えることもなくなりました。
自分で決めた「四半世紀ルール」も、第3期がもう30年近くになってしまいました。
「前社会人」「会社人」「社会人」につづく第4期は、予定では「自然人」を想定していましたが、思わぬ事故によって、それは実現しませんでした。

しかし、今年から人生の第4期に入ろうと思います。
といっても、そう変わるわけではありません。
意識を、少し変えようと思っているのです。
そう思いついたのは、昨年末です。
最後の数年くらいは、もう少し知的に生きたい。
ふとそう思ったのです。

私の年明けは、毎年、初日の出を屋上で待つことから始まります。
まだ暗い時から寒さの中で、何も考えずに待ちます。
その10分ほどの時間は、心が「無」に満たされる時間です。
小鳥たちもまだ囀りださず、空気が冷たいせいか、世界が止まっているようにも感じられます。
生命のない世界、そんな気さえすることがあります。
そのなかで、なんともいえない平安な気持ちに包み込まれる幸せな時間です。

それが、初日が輝かしだすと、あたりの空気が変わりだします。
止まっていた世界に、急に生命が宿ったように、時間が動き出す。
無機質だった気配に、表情を戻りだし、それとともに、今まではあまり気にならなかった様々な音が耳に入ってきます。
世界が動き出した。
新しい年の始まりです。
この一瞬の時間が、とても好きです。

さらに5分ほどで、赤い太陽が白く輝きだします。
手賀沼の湖面に一筋の光の道が現れ、私のほうに陽光がやってきます。
そこで初めてあたたかさを感じます。
年によっては、突然に世界が白くなって輝きだすような体験をすることもありますが、今年はゆるやかに推移しました。
今年はあたたかい陽光にゆっくりと包まれるような、おだやかな年明けです。
新しい生き方に、うまくは入れるといいのですが。

昨年は、歴史が善い方向に動き出す年になることを祈っていると書きましたが、
今年は祈るのはやめました。
祈ることを諦めたわけではありません。
祈りの前に、まずは自らを変えることにしたのです。
人生の第3期に入った時のことを思い出しました。
「変える」のではなく、「変わる」ことが大切だと思って、私は30年前に生き方を変えました。
今年から、歴史がどう動こうと、私は私が善いと考える方向に向けて生きようと思います。
そうすれば、少しは心も休まるでしょう。
そしていつかきっと、歴史の方向は変わっていくと信ずることにしました。

そんな思いで、今年も湯島でサロンをつづけます。
見ず知らずの方も含めて、どなたでも歓迎のサロンをやっています。
案内は「お知らせ」のコーナーにできるだけ掲載します。
もし気が向いたら遊びに来てください。
見ず知らずの方も歓迎です。
オープンサロンでなくても、時間さえ合えば、だれでも歓迎です。
コーヒーしかお出しできませんが、お気軽にご連絡ください。

今年も、「私たち」にとって「善い年」にしたいと思います。
そして、「私たち」を一人でも多くしていきたいと思います。

■価格が価値を決める時代(2018年1月2日)
昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。

ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。

要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。

「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。

ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。

でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。

1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。
機械になる前に旅立ちたいものです。

■「茶色の朝」サロンの案内とテキストの紹介(2018年1月5日)
開催日が近づきましたので、改めてのご案内です。
1月13日と24日に「茶色の朝」サロンを開催します。
「茶色の朝」は、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
当時、ヨーロッパでは極右運動が広がりだしていましたが、そうした動きへの危機感を覚醒させたと言われています。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。
そんな話です。

私たちのまわりにも、「茶色の世界」は広がっていないのか。
そんな気がして、この本を読んで、話し合いをしてみようということになりました。
きっかけを作ってくださったのは、友人の、自称「ただの主婦」の主原さんです。
政治家たちに、政治を任せておくだけでいいのか。
男性たちの政治談議とは違う、もっと生活につながる政治の話ができないか。
そんなメッセージを、私は主原さんから受けました。

ちょっと気になっている世間の動きを出し合って、話しあう。
そしてそれぞれが自分でもできることを考えていく。
経済や政治の話は難しいですが、みんなで話し合えば、いろいろと見えてくるかもしれません。
わからないことがあれば、みんなで手分けして調べてもいい。
わかっている人の話を聞くことだってできるでしょう。
そんな思いで、「ちょっと気になること」を話しあいながら、なにか自分でできることはないだろうかを考えるような場を、継続的に開いていけないか。
それが、主原さんと私の思いです。

最初は「茶色の朝」(大月書店)の本を読んで感想を言い合うことから始めたいと思います。
1回だけでなく、2回、同じスタイルで開催し(したがって希望者は都合のいい日程に参加)、その後、どんな形でサロンをつづければいいかもみんなで話し合えればと思います。
サロンですから、あまり難しい議論はやめて、生活の視点から「気になっていること」を話しあいたいと思います。
どういう展開になるかは、私たちにもわからないですが、やってみないとわかりませんので、まずは次のようなスタイルで、「茶色の朝」サロンを開催します。
ご関心のある方は、いずれかを選んで、参加申し込みをしてもらえればと思います。

ちなみに、「茶色の朝」ですが、著者も訳者も、同書に関しての印税権を放棄し、ネットで公開しています。
もしまだお読みでない方は、次のサイトから本文をダウンロードできます。
短いものですから、すぐに読めますので、参加される場合は読んでおいてください。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

それぞれが、なにか自分でもできることを探し出せればうれしいです。

〔「茶色の朝」オープニングサロンのご案内〕
○日時
いずれかご都合のいい時にご参加ください。
2018年1月13日(土曜日)午後1時〜3時
   2018年1月24日(水曜日)午後1時〜3時
○場所
湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○内容(あくまでも目安)
  ・自己紹介を兼ねて、「茶色の朝」を読んで考えたことを各自発表
  ・「最近気になっていること」の自由な話し合い
  ・「茶色の朝」サロンをこれからどう続けていくかの話し合い
○会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■新年オープンカフェを開催しました(2018年1月5日)
昨日、新年オープンカフェを開催しました。
昨年は3日に開催しましたが、4日であれば、仕事始めの人も午後は休みではないかと思って、4日にしましたが、最近は仕事始めの日もフルに働くので、参加できないと言われました。
どうも私の認識は、時代から取り残されているようです。
それでも10人の人が立ち寄ってくれました。

4時間の長丁場のサロンでしたので(出入り自由なので入れ替わりはありました)、参加者の自己紹介からいろんな話題が出ました。
思い出すままに、話題を書き上げてみます。

行動観察、保険制度と社会保障、原子力損害保険の目的、原子力事故と自動車事故の異同、自動車事故保険はきちんと支払われているか、井戸掘りの話、エネルギー問題、IOTという言葉の誕生と限界、クリエイティブコモンズ、老後の心配、話し合いしないのは若者だけか日本人の生き方か、思いを引きだす方法、格差の実相、外国人労働者、経済成長と人口減少問題、社労士の話、「茶色の朝」などなど。
一見バラバラのようですが、実はつながって一つの物語を生み出しているのです。
どんな物語か、みなさんぜひ考えてみてください。

それにしても、貴乃花問題や北朝鮮問題などの「時の話題」はまったく出ませんでした。
私が言うのもなんですが、不思議なサロンです。

来年は、できれば最初の土曜日か1月3日に開催します。
私が参加できるようであればですが。

■ダブル・インカムの意味(2018年1月8日)
湯島での新年サロンで、ダブル・インカムの話題が出ました。
最近は、夫婦共稼ぎで、ダブル・インカムになって、経済的には豊かになってきたという話が出たのです。
以前、書いたことがありますが、私は共稼ぎは「別稼ぎ」であって、「共稼ぎ」でも「ダブル・インカム」でもないと考えていますが、それはそれとして、ダブル・インカムというのは豊かさの象徴なのか、貧しさの象徴なのかは、見方によって変わってくるように思います。
そこで、私は、ダブル・インカムはむしろ貧しさの象徴、さらに言えば、ますます貧しくなっていく象徴ではないかと発言しました。
ここで「貧しくなる」というのは、個人の家計だけではなく社会の貧困化も意味しています。

その日の夜、テレビをつけたら、ドキュランド「みんなのための資本論」で、ちょうどロバート・ライシュがその話をしていました。
ダブル・インカムにしなければならないほど、みんな貧しくなったのだという話でした。

同じ現象に関して、まったく正反対の解釈ができることの一例です。
というよりも、ある事象をどう解釈するかで、その人の生きている世界が見えてきます。
どの解釈が正しくて、どの解釈が間違っているということではありません。
いずれの解釈も、その人の生きている世界では正しいのです。
ダブル・インカムが豊かさをもたらすこともあれば、貧しさをもたらすこともある。
そこが悩ましいところです。

しかし、そもそもインカムってなんでしょうか。
さらにいえば、人が生きるために必要な「インカム」とはなんでしょうか。
お金の収入のことでしょうか。
最近、お金とは「信用」だと言われてきていますが、だとすれば、インカムとは「信用」とか「信頼」を得ることでしょうか。
こうかんがえてくると、どこかで論理が破綻しているように思えてなりません。

経済は、考えれば考えるほどわかりません。
困ったものです。

■企業サロン「モノづくり企業の経営を支えるカイゼン」のご案内(2018年1月10日)
今年最初の企業サロンは、企業のモノづくりの現場を飛び回っている、改善のプロフェッショナル・コンサルタントの柿内幸夫さんにお願いしました。
柿内さんには、日本のモノづくりにおける独特の強味とその力を呼び起こす方法を、豊富な事例や実践を踏まえて紹介していただきます。
その上で、柿内さんと一緒に、これからの企業経営の方向や「日本のモノづくりの復活」、さらには「ちょっとしたカイゼン」が大きな変化を起こすことへの思いを深めたいと思います。

柿内さんからのメッセージを紹介します。

話し合いのポイントですが、欧米の経営はトップダウンの戦略中心であるけれども、日本は必ずしもそうでなく、改善のような戦術から始まってそれが戦略として出来上がっていくというような方向に行くと面白いと思います。
それと私は日本の製造業は学位を持たない現場の人も改善を通じて経営に貢献し自分の居場所を作れるという意味で非常に人を幸せにする可能性の高い場所だと思っています。
そこも議論していただけると嬉しいです。

柿内さんの思いも、柿内さんのホームページから引用させてもらいます。
ホームページもぜひご覧ください。
http://www.kakiuchikaizen.com/

Google のすごさは、社員全員がものすごいことを考えているということだと思う。
それぞれの人がすごいテーマを持ち、
その達成に向けて全力で思考を巡らす。
もし一人で答えが出せなければ、それを助けてくれる人たちを見つけて議論を始める。
そして何が何でも自分の目標をクリアーするという仕事を全員がやっている。
それもかなり自由な社風で自由なライフスタイルで。
もし、日本のすべての中小企業でGoogle のような全員が考えて経営を行う状態ができたらどうだろう?
日本の製造業が再び世界をリードできる時代を呼び寄せることができるのではないだろうか!

企業サロンなので、企業経営の話が中心になると思いますが、柿内さんのお話は、このメッセージからもわかるように、狭い意味での企業経営にとどまらずに、もっと大きな社会のあり方や私たちの生き方にもつながっています。
人の幸せにもつながっていくかもしれません。
ですから、企業関係者に限らず、いろんな人に参加していただきたいと思っています。

ちなみに私は、柿内さんの「ちょっとしたカイゼンが大きな変化を起こす」という言葉で、すっかり柿内さんファンになってしまい、以来のお付き合いです。
そうしたことからのヒントもたくさんもらえると思います。
みなさんのご参加をお待ちしています。

〇日時:2018年2月10日(土曜日)午後1時30分〜3時30分
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:柿内幸夫(柿内幸夫技術士事務所所長・改善コンサルタント)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■金銭のための経済と生活のための経済(2018年1月12日)
「ダブル・インカムの意味」の続きです。
ダブル・インカムは「豊かさ」の象徴なのか「貧しさ」の象徴なのか、それは一概には言えませんが、経済成長率に象徴される経済成長もまた生活向上とは必ずしも正のリンクはしていません。
そのことをしっかりと認識しないといけません。

現在の経済成長の測定基準は、金銭換算の生産額です。
金銭基準の生産は金銭消費に支えられています。
とすれば、経済成長は金銭消費で測定されていると言ってもいいでしょう。
金銭消費額が増えれば、経済は成長したといわれるわけです。
テレビでもよく、経済が成長するには、国内(家計)消費が増えないといけないと言われます。
お金を使うことによって、豊かさを感ずる人も最近は少なくないでしょう。
お金を使うことが豊かさ?
これってどこかおかしくはないでしょうか。

たとえば、交通事故を起こしたとします。
それによって金銭の授受が発生します。
壊れた自動車や建物を直すためにも「生産活動」が発生します。
つまり、自動車事故を起こすことは経済成長に貢献します。
その行き着く先が、戦争を起こして市場を拡大する戦争経済です。
ちょっと拡大しすぎかもしれませんが。

しかし、経済成長のためには、市場をつくりださなければいけません。
生活のためではない、生産のための市場です。
そこから「過剰と浪費の経済」がはじまります。
そして「消費主義症候群」が広がっていきます。

市場創出のために、それまで金銭とは無縁であった分野が次々と「市場化」されてきています。
家事や近所付き合いもどんどん市場化され、福祉や環境問題までもが金銭化されてきています。最近、問題になっているスポーツも、いまや完全に金銭市場化しています。
さまざまな問題が顕在化してきていますが、私には市場化の当然の結果のように思えます。
そしてそうした問題がまた、次の市場へと広がっていく。

無限の市場をつくりだすのも簡単です。
壊しながら創ればいいのです。
アメリカのベストセラーは、いつの時代も2種類の本だと言われます。
グルメを勧める本とダイエットを勧める本です。
「新たな」欲望に火をつけ、煽り立てることで、「顧客を創造する」ことが経営だという、私には信じがたい専門家もいます。

こういう経済の捉え方では、とても生活の向上には向かいません。
「経世済民」の経済が、いまや「金銭蓄積」の経済になってしまっています。

その結果、何が起こるか、言うまでもなく、汗を吸い取る仕組みです。
昔は働くことで金銭も稼げましたが、いまは働けど働けど、生活は豊かになりません。
働かない人に金銭が集まるようになってしまったのです。
そして格差が広がり固定化してきています。

いささか極端に書きましたが、経済には2つあるのです。
金銭のための経済と生活のための経済。
そこをきちんと分けて考えていかないと、おかしなことになりかねません。

■2つの政治(2018年1月12日)
経済時評で、経済には2つあると書きましたが、政治にも2つあります。
今回はそのことを書きます。

政治とは何かと訊かれたらみなさんはどうこたえるでしょうか。
これが意外と難しい問いです。
手元にある政治関係の書籍を20冊ほど調べましたが、まともな定義づけがあまり見つかりません。
そこで大辞林を調べたら、3つの定義が書かれていました。

@統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。
A国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。
B諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整すること。

簡単にいえば、@は支配のあり方であり、AとBは社会や政治のあり方です。
つまり、政治には「支配のための政治」と「生活のための政治」があります。
私は、前者を「小さな政治」、後者を「大きな政治」と呼んでいます。
前者の政治は関心の対象として位置付けられますが、後者はすべての人にとっての日常の活動といえます。
政治への関心が話題になりますが、その場合の「政治」は前者の政治です。

以前、NPO活動への資金助成プログラムの事務局を委託された時、自由にやっていいけれども、政治関係と宗教関係の活動だけは資金助成の対象から外してほしいと言われました。
政治と宗教こそが、一番大事な「市民活動」だと思っている私には違和感がありましたが、「政治」「宗教」の定義が違っていることをその時も痛感しました。
日本では、「政治」は「お上」、宗教は「反お上」の文化がいまなお根強く残っているのです。
そこには、「市民」など活動する余地はないのです。

ところで、お上の政治と生活者の政治をつなぐルートが「選挙投票」です。
ルソーは、選挙の日だけ自由でその後は奴隷となるといってイギリスの議会民主政を嘲笑したそうですが、それでも支配者の世界の人たちに影響を与えられるのは、代表者の選挙投票です。
それ以外は、支配者の政治には関心を持つなと言われて、日本人は育ってきたわけです。

しかし、政治をもっと広義に捉えれば、まったく違った世界が見えてきます。
アフロヘアで話題になった朝日新聞記者の稲垣えみ子さんが、戦後最低の投票率で終わった2014年末の総選挙の直後、新聞にこんな記事を書いています。

近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。
「お買い物とは、どんな社会に一票を投じるかということ」
ハッとしました。
買い物=欲を満たす行為。ずっとそう思っていた。
でも、確かにそれだけではありません。
お金という対価を通じて、それを売る人、作る人を支持し、応援する行為でもある。ささやかな投票です。
選挙は大事です。でも選挙以外のこと、すなわち、一人一人が何を買い、日々をどう暮らし、何を食べ、どんな仕事をし、だれに感謝を伝え…ということは、もっともっと大事ではないか。
逆に言えば、そうしたベースを大切にし尽くして初めて、意味のある選挙が行われるのではないか。
投票しさえすれば、誰かがよい社会、よい暮らしを実現してくれるわけじゃない。
当たり前のことですが、どうもそこを忘れていたことに気づいたのです。
以来、「お金=投票券」というつもりでお金を使っています。

つまり、私たちの日々の行動そのものが、実は大きな政治そのものであり、小さな政治にもつながっているのです。
そのことを意識すれば、たぶん日々の生活も変わってくるはずです。

稲垣さんは、「お金=投票券」と書いていますが、投票権は「お金」だけではありません。
言動のすべてが、投票行為なのです。
しかし、稲垣さんが言うように、お金の意味は大きいかもしれません。
なぜなら政治もまた、いまや金銭によって動き出しているからです。
ここから、経済と政治がつながってくるという話にもなっていきますが、それはまた改めて。

ちなみに、川崎修さん(立教大学教授)は、政治をこう定義しています。

政治とは,さまざまな社会的現実に対して,公共性をもった権力関係として見たり関わったりする,社会に対する私たちの見方・関わり方である。

政治への関心を持つということは、権力者たちの内輪話に関心を持つということではありません。
公共的なことがらに当事者として関わっていくという市民性を持つということ。
私はそう考えています。

■縁紡ぎカフェの提案(2018年1月13日)
鷲田誠一さんの「しんがりの思想」(角川新書)を読みました。
そこにこんなような文章がありました。

退社したあと、解雇されたあとの長い日々。鋼鉄のドアで遮断され、近所との行き来も(そしてそのための蓄えも)乏しく、緑、つまりいざとなったらいつでももたれかかることのできる支えあいの仕組みからはじき出された高齢の単身者の生活。
孤立への怖れはしかし、高齢者だけでなく、若い世代の心をも深く蝕んでいる。
縁はみずから紡いでゆくほかないとはいえ、そのチャンスがたやすく見つかるわけでもない。そういう緑を、あるいはネットワークを、みずから紡ぎだしてゆくことができずに、ただうずくまっているしかないひとびとを見聞きし、わたしはこの社会がいつのまにこんなに脆弱になってしまったのかと呆然となる。

そこで、毎月、最初の水曜日の午前11時から4時までを、縁紡ぎサロンと称して、湯島でオーオウンカフェを開くことにしました。
以前も一度、同じような主旨の活動に取り組みましたが、見事に挫折しました。
懲りずにもう一度取り組んでみます。
少なくとも3か月は、だれも来なくても継続します。

当面は、湯島の公開カフェの開催です。
いざとなったらもたれかかれるような縁を紡ぎたいという人を主な対象にしますが、そんな人が集まって来てくれるめどは全くありません。
それに、そんな縁はすぐには生まれません。
でもまあやっているうちに人が集まりだし、通っているうちに、そんな縁に出合えるかもしれない。
そんなカフェです。
私の知らない人は大歓迎ですが、知っている人も歓迎です。
カフェ料金は積み立てて、縁紡ぎ基金にします。

できればいつか、常設の縁紡ぎカフェを開店したいです。
そこで、縁紡ぎ基金への寄付も公募します。
お店を提供してくれる人も公募します。
シェアハウスも目指せればいいですね。

思いつきではありますが、よろしくお願いします。
一緒にやってもいいという人がいたらお知らせください。
もしお一人でもそういう人がいたら、
1月中に準備のための話し合いカフェサロンを開きます。
ご連絡ください。

■ポリティカル・エコノミーからエコノミカル・ポリティクスへ(2018年1月15日)
1月12日の「2つの政治」の続きです。
今回は、市民性について書こうと思ったのですが、その前に、「お金=投票券」という稲垣さんの言い方にはやはり違和感を書いておきたくなりました。
もしかしたら、その発想こそが、一番の問題かもしれないからです。
かつての金権選挙、つまり「投票券=お金」と同次元だからです。
稲垣さんもまた、お金を軸にした世界で育ってきていることから自由ではないのかもしれません。
稲垣さんが、ここを「行動=投票権」と言ってくれれば私には違和感はないのですが。

かつて、経済学は「ポリティカル・エコノミー」と呼ばれていました。
politicsの語源は古代ギリシアのポリス(polis)につながっているように、ポリス、つまり社会にあり方につながっています。
いささか古い定義ですが、永井陽之助は「考え方の違う個人が集まって,いかに安定した社会をつくり出せるか,多年にわたって苦心のすえ造型した作品(秩序)が「政治」である」と、私がむかし読んだ本に書いていました。
「ポリティカル・エコノミー」とは、したがって、本来、安定した社会を構築するための「稀少資源の権威的配分」をめぐる学問だったわけです。
それを日本では、「経世済民」の意味で「経済」という訳語があてたと言われます。
つまり、限られた資源と富の、適切な配分と運用を意味していたわけです。
それが、いまでは「ポリティカル」という言葉は削除され、経済学は「エコノミクス」ということで語られるようになり、それとともに、金銭の投資や増殖のための学問になってしまいました。
そして現実も、マネタリー・エコノミーというべき実態に変わってきています。
極端に言えば、経済は「民の苦しみを救う」どころか、「民を収奪する」仕組みへと変質してきているとさえ思えます。

それに応じて、というべきか、先んじて、というべきか、政治もまた変質してきています。
安定した社会を目指すべき「まつりごと」の政治が、むしろエコノミクスの下に置かれてしまった。
つまり、政治が「エコノミカル・ポリティクス」へと変質してしまったのです。
アメリカのトランプ政権は、見事なほど、それを正直に表明しています。

これはある意味では当然の結果かもしれません。
政治学はさまざまな意見や生き方を持つ多様な人が納得できる全体的な決定をするための仕組みとして、投票制度を活用していますが、これは経済における市場制度に通じています。
そこで志向されているのは、政治過程における「論理」的な合理性ですが、その行き着く先は、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』かもしれません。
経済も政治も、そこから人間的要素を抜き取れば、うつくしい合理的世界が描けますが、そこで邪魔になるのは人間の非「合理」的な多様性ですから、人間のためではなく、人間の排除がはじまるでしょう。
実際にも、ヒトラーの「ジェノサイド」やスターリンの「クラーク」という恐ろしい歴史を私たちは体験しています。

投票制度と市場制度の発想の根底にあるのは同じものです。
稲垣さんの発想は、まさにそのことを示唆しています。
私が違和感を持ったのは、その点です。

いささか長くなってしまったので、今回はこれでやめておきます。

■リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年1月17日)
リンカーンクラブ代表の武田さんの「究極的民主主義」をテーマにした連続学習型サロンをスタートします。
これまで何回か武田さんの話を基にサロンをしてきましたが、個別の議論だと拡散しがちですので、武田さんの話を体系だってお聞きしていく、学習型のサロンを数回連続で行うことにしました。
テキストは、武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』です。
リンカーンクラブには現在、在庫がないので、書籍をお持ちでない方は、毎回、該当する部分をコピーして用意するようにします。
アマゾンの中古品では購入できるかも知れません。

最初に30分ほど、テキストに沿って、リンカーンクラブ代表の武田さんに解説してもらい、その後、論点を決めてみんなで話し合います。
第1回目は、同書の第一部の「現代政治へのアンチテーゼ」を読み込みます。
できれば連続参加が望ましいですが、毎回、前回の簡単なレビューを行い、話し合いには支障のないようにしていく予定です。

みなさんの参加をお待ちします。

●日時:2018年1月27日(土曜日)午後1時半〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「現代政治へのアンチテーゼ」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第1部
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■カフェサロン「病院の歴史から日本の医療を考える」(2018年1月21日)
16人の参加者があり、最近では一番長いロングランのサロンになりました。
それでも残念ながら、話し手にとっても聞き手にとっても、時間不足だったと思います。

話題提供者の福永さんは、著書の「日本病院史」のダイジェスト版の小冊子(なんと51頁)まで用意して下さり、そのエッセンスを話してくださいました。
最初に総論的な話をしていただき、それを踏まえて参加者の関心事を出してもらいました。
テーマがテーマだけに論点も多く、福永さんは大変だったと思いますが、参加者の関心に重点をおいた通史を話してくださった後、今の医療やこれからの医療が抱える問題、たとえば病床数の削減や地域医療構想、地域包括ケアシステムなどについて、いくつかの論点を出してくださいました。
話の内容や話し合いのやりとりは、とても要約できませんが、ぜひ福永さんの著書「日本病院史」(ピラールプレス社)をお読みください。
いろんな気付きをもらえるはずです。

ちなみに、福永さんの通史の紹介で印象的だったのは、単なる文献調査だけではなく、関連した場所を福永さんは実際に歩いて、いろんなことを気づき、発見されています。
写真なども見せてもらいながら、その話を聞かせてくださいましたが、それが実に面白かったです。

いつものように、私の主観的な報告を少しだけ書きます。

最初の総論の話は、とても示唆に富んでいました。
たとえば、江戸時代までの日本の医療は基本的に往診スタイルであり、病院ができたのはたかだか156年前というお話がありました。
医療のあり方、病気との付き合い方に関する根本的な考え方が、そこにあるように思います。

福永さんは、日本に西洋医学を紹介したオランダは、日本に「病院」を教えなかったと話されましたが、これはとても興味深いことでした。
教えなかったこともありますが、当時の日本人は、そういう発想がなかったのかもしれません。

日本最初の本格的西洋式病院は幕府が創立した「養生所」だという話も、私には興味深い話です。
私は、なぜ「ホスピタル」を「病院」と訳したのかにずっと違和感を持っているのですが、養生の思想と医療の思想は、まったく違うのではないかと思います。
つまり、病気観や治療観が違うような気がします。
日本の病院は外来と入院のハイブリッド型に特徴があるという話も、これにつながっているような気がします。

明治以降の近代病院に宗教の基盤・背景が薄いという福永さんの話も、私にはとても重要な意味があると思いました。
日本では宗教というと教団宗教と受け取られますが、宗教を人が生きる意味での精神的な拠りどころと捉えると、それはまさに健康や病につながっていきます。
日本は、世界的にみても、精神医療の隔離傾向が強いように思いますが、これもこのことと無縁ではない気がします。
私には、これは、これからの医療を考える上で、とても大切なポイントだと思えます。

日本の病院数は民間病院が多いこと、にもかかわらず、国家による規制があって、病院の病床増床を病院が自由に決定できないなど、経営の自由度が少ないことも、日本における医療政策の基本にかかわることです。
この辺りも、ていねいに本書を読むといろいろと気づかされることは多いです。
今回のサロンでは、そのあたりを深掘りすることはできませんでしたが、いつかテーマに取り上げたいと思っています。

地域包括ケアシステムに関する話も、とても示唆に富むものでした。
福永さんは、医療での「地域」という言葉には注意しなければいけないと話してくれました。
そして、「地域」は地理的な「場所」(ローカルやリージョナル)ではなく、(人のつながりを軸にした)「コミュニティ」を指していると考えると、地域医療を進めて行くときの概念が明解になると話してくれました。
とても共感できます。
地域は、統治概念ではなく、生活概念で捉える必要があると私も思っています。
そして、豊川市の事例も踏まえながら、地域包括ケアシステムの話をしてくれました。
関連して、参加者から「我が事・丸ごと地域共生社会」構想の話も出ましたが、ここでもだれが主役になるかで全く違ったものになる可能性があります。

他にも紹介したい話はいくつもありますが、ぜひ「日本病院史」をお読みください。

案内でも書きましたが、病院や医療を通して、社会のさまざまな問題、が見えてきます。そしてそれは、私たち一人ひとりの生き方の問題にもつながってきます。
参加者のひとりが、結局、私たち一人ひとりが最後をどう迎えるかという看取りの問題につながっていると発言されました。
私もそう思いますが、まだまだ医療を受動的に捉えている人が多いように思います。

最後に、私も一言、中途半端な話をさせてもらいました。
コミュニティや地域社会の大切さが言われだしているが、それらは「どこかにある」のではなく、「自分の生き方で創りだしていく」ものだと考えることが大切ではないか。

話し合いで異論がぶつかりあった点もありますが、医療問題はやはり言葉の応酬ではなく、問題をしっかりと理解していくために、総論を踏まえて、自分事を踏まえて、個別テーマごとに連続で話し合う場を持たないといけないと改めて感じました。
そういうことができるように、少し考えてみたいと思います。

■第2回「茶色の朝」サロン報告(2018年1月24日)
第2回目の「茶色の朝」サロンには寒い中を12人の参加者がありました。
男女半々でした。
今回は少しだけですが、生活につながるような話もいくつか出ました。
ただやはり時間の関係もあって、話し合いになるところまで行きませんでした。
話し合いは、やはり何回かつづけていかないと難しそうです。

今回は最初に、参加者のおひとりが、この寓話から感じた3つのことを整理して話してくれました。
「2つのおそれ」「作者からのメッセージ」「物語のその後」です。
彼女は、警告だけではなく希望を感じたと言います。
しかし、そのためには、「わたし」をしっかり取り戻せって言っている、と感じたそうです。

せっかく整理してくれたので、ここから議論する方法もあったのですが、今回もまだオープニングサロンですので、ともかく全員それぞれに感想を話してもらいました。
いろいろと示唆に富む気づきが語られました。

ある人は、子どもでつながっている母親仲間とは、政治がらみの話はしにくいし、なにか行動を起こして目立つのも勇気がいるというような話をしてくれました。
今回も、どうして戦争を食い止められなかったのだろうかと自分の親に問いかけた話を複数の方がしてくれました。
前回と違ったのは、今回お話された方たちは、自分が子どもたちに同じ思いをさせないように行動している、あるいは行動しようと思っているということでした。

すでにさまざまな活動を長年されている女性の方も参加してくれました。
彼女も、こういう話し合いのサロン活動を7年もしてきたが、なかなか流れは変わらない。
もっと大きな構想を踏まえて、具体的な目標に向かって行動しないといけないと思い出していると話しました。
口だけではなく、彼女は実際にさまざまな取り組みを実践しています。
しかし、私自身は、むしろ迂遠なようでも、一人ひとりの意識が変わっていくような、こういうサロンが大切だという思いを、ますます強めています。
いろんな活動や取り組みがあることが大切ですし。

教育が大切だという人もいました。自分が学んだ教科書と子ども使っている教科書の違いを紹介してくれた人もいます。
これはできれば、サロンで取り上げたいテーマです。

まだいろんな話が出ましたが、実は私が前夜、あまり寝ていなくて、いささか頭がダウンしていて、話し合いの内容をまだ思い出せません。
参加者のみなさん、どなたか気が向いたら補足してください。

みなさんの感想が一巡した後で、参加者のみなさんに、日本は現在どんな状況だと思っているかお訊きしたところ、まだ半数の方は、「茶色の社会」への懸念を感じだしているような感じでした。
もちろん朝を過ぎた、もう行くところに来ているというような思いを持っている人もいました。
私自身は、もう日本の社会は「茶色」に埋め尽くされつつあると考えています。
もっとも私が考える「茶色」は、ファシズムを象徴する茶色でもありますが、そのもっと根本にある茶色、「金銭」です。
これに関しては、また改めて話し合えればと思います。

最後に、政治問題どころではなく、今日をどう生きようかと一生けんめいに自分と闘っている人が、遅れて参加してきました。
彼女は、こういう場に出てくるだけでも大変なのです。
たまたま心理カウンセラーの参加者がいたので、いつの間にかその2人の話になってしまいました。
横道に外れすぎではないかと思われた方もいたと思いますが、進行役の特権で、少し流れに任せました。
問題提起した若い女性のような人とは接点のなかった人もいたかもしれません。
しかし、「政治などに気を向ける余裕がないほど」生きにくい状況を生きている人もいるのです。
そういう人のことを知ることも、私は大切な「政治活動」だと思っています。
湯島のサロンは、そういう横道体験が、偶発することに一つの異議があります。
さすがに途中で、その話は終わらせてもらいましたが、その2人を主役にした、「生きる意味を考える」サロンを2月7日5時から8時の予定で開催することにしました。
よかったら参加してください。

2回の「茶色の朝」オープニングサロンを行いましたが、結局当初予定していた、「気になることの話し合い」にさえ行き着きませんでした。
でも何人かの方からは継続を要請されました。

そんなわけで、次回から、いよいよ本格的な「茶色の朝」サロンがはじまります。
日程が決まり次第ご案内させてもらいます。
あるいは、こんな話をしたいという方がいたら、ご連絡ください。
その人の都合を優先してサロンを設定することも考えたいと思います。

■縁紡ぎカフェを始めます(2018年1月25日)

前に構想を書きましたが、いよいよ縁紡ぎカフェがオープンです。
思い付いたきっかけを再掲します。

鷲田誠一さんの「しんがりの思想」(角川新書)にこんなような文章がありました。

退社したあと、解雇されたあとの長い日々。鋼鉄のドアで遮断され、近所との行き来も(そしてそのための蓄えも)乏しく、緑、つまりいざとなったらいつでももたれかかることのできる支えあいの仕組みからはじき出された高齢の単身者の生活。
孤立への怖れはしかし、高齢者だけでなく、若い世代の心をも深く蝕んでいる。
縁はみずから紡いでゆくほかないとはいえ、そのチャンスがたやすく見つかるわけでもない。そういう緑を、あるいはネットワークを、みずから紡ぎだしてゆくことができずに、ただうずくまっているしかないひとびとを見聞きし、わたしはこの社会がいつのまにこんなに脆弱になってしまったのかと呆然となる。

そういう「縁」や、ゆる〜い「つながり」が育ちやすい場所をつくりたくなりました。
そこで、毎月、最初の水曜日の午前11時から4時までを、縁紡ぎカフェと称して、湯島でオープンカフェを開くことにしました。
いざとなった時に、もたれかかれるような縁を紡ぎたいという人を主な対象にしますが、だれでも歓迎です。

但し、湯島でいつもやっているサロンではありません。
単なるカフェです。それもコーヒー代はかなり高いです。
湯島のサロンは、自分で自由に缶に入れていく方式ですが、このカフェは強制的に料金としていただきます。
しかも前金で、領収書は出しません。
いただいた料金は積み立てて、縁紡ぎ基金(仮称)にします。
カフェ代は500円以上(上限はありません)です。
縁紡ぎ基金への寄付も歓迎です。

滞店時間は開店中であれば制限はありません。
なにも話さなくても寝ていても、仕事してもいいです。
但し、他の人、特に私に迷惑をかけることはしてほしくありません。
もし誰かと話したい場合は、気が向いたら私が相手をしますが、確実ではありません。
ちなみにきちんと相談したいことがある人への相談には応じますが、有料です。
まあ料金は勝手に決めてくださっていいですが、その料金は縁紡ぎ基金にではなく、私の日当になります。
気が向いたら、私から基金に寄付しますが、気が向かない場合は、私の生活費になります。
これも領収書は出ません。
但し、10万円を超える場合は、検討します。

私は、たぶんずっといると思いますが、本を読んでいるかもしれません。
機嫌が悪い時もあるかもしれませんので、ご注意ください。

当面は湯島ですが、誰かが無償でお店を提供してくれたら、湯島近くであればそこに移ります。
そんなわけで、お店を提供してくれる人も公募します。
縁紡ぎ基金がたくさんたまったら、常設店を開きたいです。
そうなったら、私は利用客になりたいと思いますので、だれかやる人を公募します。

最初の開店日は、2月7日の午前11時から午後4時までです。
特にオープン記念イベントはありません。
ランチメニューもありませんが、持込みは自由です。
私の分も持ってきてくれるとうれしいです。
誰も来ない場合は、私はランチ抜きになります。

お客様が一人も来なくても、少なくとも3か月は継続します。
さてさてどうなるでしょうか。

■リンカーンクラブ学習型サロンの報告(2018年1月27日)
「究極的民主主義」をテーマにした連続学習型サロンをスタートしました。
テキストは武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』。
今回は、その第一部を話し合いました。

まずは、『「究極的民主主義宣言」の概念の共有化から始めました。
しかし、概念の共有化でさえ、みんなからさまざまな意見が出ました。
言葉で定義したとしても、その意味解釈においては、どうしても多義性が残ります。
そのため、「学習型」というよりも、「討議型」になりそうな気配でしたが、まあ、お互いの理解の「多様性」を実感できることに意義を置くことにしました。
それに、言葉だけのやり取りでは、自らの思考には至りにくいですから。

結論として、議論の起点としての「究極的民主主義」が目指す政治制度を、「すべての主権者は自分が希望したときには、すべての政治課題についての賛否を表明することができ、その決定に関与できる政治制度」と定義することにしました。
厳密に言えば、主権者とは何か、決定に関与できるとはどういうことかなど、議論はありますが、少なくとも、議会民主主義の下における主権の信託制度とは別次元の制度です。
そのため、「議会制代議政治」は「民主主義」かどうかという議論もありましたが、「議会制民主主義は民主主義にあらず」という表現は正確ではなく、むしろ、議会制政治も直接デモクラシーも、そのいいところを取り込んで、民主主義の理念を極限まで近づけるための政治制度を考えていくことが大切だということで合意ができたと思います。

しかし、日本語の民主主義には、「イズムとしての民主主義」と「統治制度としてのデモクラシー(大衆の支配)」という次元の違う意味が含まれているので、議論が混乱しがちなのです。
その点での合意は少し時間がかかりそうなので、まずはもう少し先に、改めて話し合うことになりました。

今回の該当部分のテキスト第2章は「選挙をすれば民主主義ですか」というタイトルなのですが、選挙制度に関して話し出すとどうも各論的な話か理念的な話になってしまうので、次回のテーマにしました。
究極的民主主義が実現できる選挙制度を具体的に考えることで、改めて「究極的民主主義」とは何か、という理解が深まるだろうと思います。

話していると、同じ言葉を使っていても、その意味内容は違っていることもありますが、話し合っているうちに、その違いが可視化されるとともに、新しい気付きが得られる。
これが、今回の「学習型」の意味です。
なにかを学ぶだけではなく、学びながら新しいものを創り上げていくことに、これから挑戦していければと思っています。

こう書いてしまうと難しい知識がないと話し合いができないように思われるかもしれませんが、むしろ白紙の状況で、新しい考えや提案に触れることで、自らの考えを確認し、豊かにしていくという意味での「学習」でもありますので、ぜひ気楽にご参加ください。

次回は、2月17日(土曜日)の午後2時からを予定しています。
今回参加されなかった方にも、最初に要点を整理したうえで話し合いを始めますので、今回参加できなかった方も、ご関心があれば次回からご参加ください。
参加される方には、あらかじめテキストをお届けできるようにしたいと思っています。

今回はリンカーンクラブのサロンやフォーラムに参加したことのない母親の方も参加してくださいました。
女性の方が参加してくれると、話し合いの幅が広がります。
女性のみなさんの参加を事務局としては期待しています。

今回の参加者は10人でした。


■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年1月28日)
コムケアサロンの案内です。
今回は、「なぜ生きるのか」という、ちょっと「重いテーマ」を選びました。
それに合わせて時間も少し長くとりました。
今回のサロンは、前にも一度、サロンで話してもらった“モモさん”の希望で開催しますが、心理カウンセラーの“ビタミン和子さん”も協力してくださいます。

モモさんからのメッセージを紹介します。

生きているのが辛いことは皆さんあると思いますが、
それでも生きていようと思う理由というか、
(嫌でも)生きていかなきゃいけない理由みたいなことを、
話し合うようなサロンを開いていただけたらな〜。

できれば、もともと生きていたいと思える方より、
生きていくのが辛い、死んだ方が楽だと思いつつ、
それでも生きている方のお話、
そのモチベーションみたいなものをお聞かせいただけたらと。

 または、昔は死にたかったけど今は死にたくなくなった方に、
どのような流れでそう変わったのかをお尋ねしてみたいと思います。

重いテーマですが、湯島のサロンですから、明るく気楽に話し合いたいと思います。
元気の塊のビタミン和子さんも参加してくださいますので、間違いなくそうなるでしょう。
そして、「なぜ生きるのか」を踏まえて、「生きる力を高める場」にできればと思います。
「重い」テーマであればこそ、「明るく」「気楽」に話し合い対等の我、湯島の精神ですので。

実際にモモさんと同じような体験をしたことのある人、している人も、「生きる意味」など考える余裕もない人、必要もないひと、さらにはこういうテーマにはまったく関心のない人、だれでも歓迎です。
世界を広げ、元気が出るサロンにしたいと思いますので、よろしくお願いします。

いつもより早い時間から始めますが、いつものように出入り自由ですので、途中からのっ参加も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。

〇日時:2018年2月7日(水曜日)午後5時〜8時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/どうしたら生きる力を高められるか」
○会費:500円


■アーサー・ビナードさんの「知らなかった、僕らの戦争」(2018年1月30日)
ご自身の戦争時の体験を語りだしている、京都の高林さんが、3月にアーサー・ビナードさんと対談することになりました。
それで、遅まきながら、アーサー・ビナードさんの「知らなかった、僕らの戦争」(小学館)を読みました。
面白くて一気に読みました。
何が面白かったといえば、「本当はみんな知っていた」ということを感じたことです。
正確には、「みんな」ではなく、一部の関係者ですが、その気になれば知ることができたということです。
戦争がはじまった頃、日本は勝つはずがないと語っていた義母に「非国民」と非難していた体験を語っている女性がいます。
「教育」を受けていた人と「違う教育」を受けていた人とは世界が違って見えていたようです。
原爆の真実も「真珠湾奇襲」の真実も、いまでは「教育」通りに考えていない人も増えてきていますが、相変わらず「教育」で教えられたことを信じている人も少なくありません。
しかし、真実は現場にあるということを、この本を読んで改めて実感しました。

ビナードさんの発言にも共感することが少なくありません。
安倍総理の真珠湾訪問とオバマ大統領の広島訪問のからくりは、私も感じていたことで、いずれも違和感を持っていましたが、彼は明確に切り捨てます。
とりわけ、オバマ大統領が長崎に行かずに、しかもオスプレイを誇示したかに関する違和感は、この本を読んで少し納得しました。
広島と長崎の扱いの違いも、この本を読んで納得できた気がします。
それにしても、なぜ広島の人は、毎年、安倍首相を受け入れるのか、理解できません。


この本には、いろんな角度から、戦争にまつわる体験談を23人の人が語っています。
私にはたくさんの新しい気付きがありました。
パンプキン爆弾のように、知らなかったこともあります。
原発は核兵器のために、いまもなお、日本では廃炉されないことへの確信も強まりました。

読みやすい本なので、多くの人に読んでほしいです。

■コムケアサロン「成年後見制度ってご存知ですか」のご案内(2018年1月31日)
最近、成年後見制度に関わる相談を受けることがありました。
いざ、相談を受けてみると私自身の理解の浅さを思い知らされました。
と同時に、制度的な疑問点やそれが起こしている問題も改めて見えてきました。

私は、認知症予防ゲームの普及にささやかに関わっていますが、その実践者たちとの話し合いの中で、これまで成年後見制度が話題になったことがありません。
しかし、高齢者介護や認知症予防に関わっていくのであれば、成年後見制度のことは知っておく必要があると改めて感じました。
そのことを、フェイスブックに少し書いてみたら、その反応の多さに驚きました。
そこで、急遽、「成年後見制度」をテーマにサロンを開催することにしました。

ただし今回は、いわば入門編です。
しかし、単に制度の勉強をすることを目指してはいません。
成年後見制度によって人生を狂わされたというような話もありますが、そうした「成年後見制度の闇」を話題の中心にするものでもありません。
まずは、 そもそも成年後見制度にも関わりながら実践活動をしている立場からのお話をお聴きすることにしました。
お願いしたのは、“高齢者を支えるご家族”のための相談所「一般社団法人コレカラ・サポート」の千葉晃一さんです。
これまでのお付き合いの中で、千葉さんであれば、信頼できる公正な生きた話をお聴きできると思ったからです。

千葉さんのお人柄や活動は、一般社団法人コレカラ・サポートをご覧ください。
http://www.koresapo.com/message/index.html
千葉さんは、高齢者やそのご家族からいろんな相談を受けていますが、基本は、困っている人のところに出かけて行って、話をするという姿勢を大切にしています。
ですから実にさまざまな「現場」を、全身で「体験」されています。
そんなお立場を踏まえて、成年後見制度はどんな状況において検討されるのか、また相談を受けたらどんな説明をしているのか、そういう具体的な話を紹介していただきながら、参加者の質疑に応えていただきながら、成年後見制度への理解を深めてもらえればと思います。
実際に、成年後見制度を考えている人や問題を抱えている人にも、千葉さんは応えてくれるはずです。

これは私の偏見かもしれませんが、成人後見制度のなかに、行政や司法の現在の福祉観と共に、私たち生活者の福祉観が、垣間見えるような気もします。
自分とはあまり縁がない制度だと思っている人も少なくないと思いますが、決してそんなことはない、と私は思います。
今回は入門編ではありますが、ご自身の体験や問題なども話してもらう時間もつくりたいと思います。
もしかしたら、このテーマはさらに深掘りをすることになるかもしれません。

ご都合に合わせてご参加ください。

○日時:2018年2月27日(火曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cccentermap.pdf
○テーマ:「成年後見制度ってご存知ですか」
○話題提供者:千葉晃一(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円

■憲法9条を考えるもうひとつの視点(2018年1月31日)
今日はちょっと体調がすぐれないので自宅で休養していたのですが、ついつい机の上に積んであった本を読んでしまいました。
国際関係論を専門にしている篠田英朗さんの「本当の憲法」(ちくま新書)です。
副題が、「戦後日本憲法学批判」となっていますが、とても刺激的で示唆的です。
憲法学者の憲法論とは視点が全く違いますが、私がこれまで違和感を持っていたことが、ほぼすべて解消した気がします。
もっと早く読めば、と悔やまれます。

前回のリンカーンクラブの集まりでも、「国民主権」という概念がどうもすっきりしないことを話したのですが、それもすっきりしました。
みなさんにも、ぜひ第1章「日本国憲法をめぐる誤解を解く」だけでも読んでほしいと思います。
たとえば、こんなことが書かれています。

日本国憲法の3大原理といわれる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、目的あって、原理ではない。原理は「国政は国民の厳粛な信託による」と「国際協調主義」。
憲法9条は、日本独自のものではなく、その価値は、例外性にあるのではない。その国際標準的な性格にある。
あるいは、
日本憲法の根底にある英米法思想の起点は、諸個人の権利である。
つまり「国民主権」ではない。

ちょっと私の考えに合わせて解釈しているかもしれませんが、こう考えれば、日本憲法9条をノーベル賞平和賞候補にといった考えが、いかに視野の狭い「日本ファースト」的発想かがわかります。
私がなんとなく感じていた疑問が氷解します。
不戦条約ですでに戦争は否定され、軍隊のない国は日本以外にいくらでもあり、むしろ日本は軍隊に守られている。
自衛隊の存在は違憲だと思いながらも、なぜか存続を認めたい。

今日はあんまり調子がよくないので、まだ整理できていませんが、頭痛がなくなったら、少し整理しようと思います。

でも多くの人に読んでほしいです。

■第2回リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年2月1日)
武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』をテキストにした、学習型話し合いサロンの第2回目です。
今回は、前回の概論を受けて、究極的民主主義を実現するための選挙制度を中心に、『無党派市民の究極的民主主義宣言』(ビジネス社)第3部を話し合う予定です。
最初に前回の簡単な復習をしてから、武田さんから究極的民主主義型の選挙制度(国民主権の行使システム)を説明してもらい、それを受けて議論を深めたいと思います。
参加申し込みを受けた方で本をお持ちでない方には、事前に、該当部分のPDFをお届けするようにしますので、あらかじめ読んだうえでご参加ください。

学習型ではありますが、みんなで学び合うというスタイルですので、気楽にご参加ください。

みなさんの参加をお待ちします。

●日時:2018年2月17日(土曜日)午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「国民主権を実現する選挙制度」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第3部
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■「鬼は外、福は内」の意味がやっとわかりました(2018年2月3日)
ほとんど挽歌編と同じですが、私にはとても大きな発見でしたので、時評編にも書きました。

節分ですが、今年は豆まきをやめようかと思っていました。
大人だけだと、ちょっと気恥ずかしさがありますので。
それを見透かされたように、近くに住んでいる娘母娘が、出張豆まきにやってきました。
おかげで、わが家の豆まき文化は断絶せずにすみました。

ただし、「福は内、鬼は外」の豆まきです。
私にはいささか不満ですが、これには異をとらえられませんでした。
ちなみに、わが家の豆まきは、ずっと「鬼は内、福も内」でした。
とりわけ今日のように寒い日には、追いだすような掛け声はわが家向きではありません。
しかし、孫はそんなややこしいことなど分かるはずもなく、豆を外にそっと投げていました。
それから室内にいる3人の鬼たち(お面ですが)に、豆を分配していました。

それを見ていて、ハッと気づいたのですが、豆を外にばらまくのは、もしかしたら「私財を困った人に、恩着せがましくではなく、わざとぞんざいに「もらってもらう」という行為」だったのではないかという気がしました。
外にいる社会から疎外されている人たちに豆や米を提供するので、住む場所もあって暮らしに困っていない人たちは、家に入って、提供された豆や米には手を出さないようにしてください、という呼びかけのわけです。
いわゆるポトラッチの一種です。
そう考えるとすっきりします。
私にとっては、とても大きな発見です。
孫から教えられました。
私も、ホームレス支援のグループにささやかな豆を送ることにしました。


伝統行事には、まだまだいろんな知恵が含まれているのでしょう。

■コインチェック事件とフィンテックの陰謀(2018年2月4日)
コインチェック騒動で、仮想通貨(奇妙な名前ですが)への関心が高まっています。
フィンテック関係者はきっとほくそえんでいるでしょう。
金融業者たちの貧しい夢は実現に近づいているようです。

しかしどうしてみんな投機の意味しかない「仮想通貨」に取り込まれるのでしょうか。
不思議でなりません。
みんなが欲しがっているのは、お金ではなく(お金は単なる手段ですかありません)、生活の安定や豊かさです。
勘違いしてはいけません。
そもそもお金に利子がつくことさえ理解できない私には、通貨を投機手段に使うことの意味がまったくわかりません。
そもそも投機や蓄財に使う通貨は、交換手段としての通貨とは、全く違うものだろうと思います。

私は、価値は労働が生み出すという、古典派経済学の労働価値説にも違和感はありますが、少なくとも通貨は本来、価値を生み出すものではないと思っています。
もし生み出すとしたら、それは価値の移動でしかありません。
つまり通貨への投機で利益をあげたとしたら、それは誰かの持っている「価値」を奪っただけの話です。
ゼロサムゲームからは価値は生まれてきません。
そうかたくなに信じています。

もちろん価値の移動が、価値を生み出すことはあります。
お金がなくて困っている人にお金を提供することで、困っている人が助かることはあります。
しかし、それを投機につなげることには賛同できません。

価値を生み出さないところから、価値を得ようとすることが投機です。
それはマネーゲームであっても、生活につながる本来的な意味(経世済民)での経済活動ではありません。
今朝のテレビで、FPでもある生島さんが、少額のお金を運用するには仮想通貨は面白いと話していましたが、みんなの生活を支え、社会の秩序を維持するための社会的インフラ制度である通貨を、ゲームに使うこと自体に問題があります。
最初はゲームで、遊んでいたとしても、それがいつか枠を超えて、私財を投入していかないとは限りません。
そこにマネーが絡んだゲームの恐ろしさがあります。
しかし、まもなく仮想通貨で億万長者になった中学生、などというニュースが話題になりそうで、心配です。
きっと藤井さんより話題になるでしょう。

仮想通貨が、お金に支配された資本主義の社会を変えていくかもしれないという話もよく聞きます。
今朝のテレビ「新報道2001」でもそういう話が語られていました。
たとえば、冷蔵庫を無償で各家庭に配布し、実際の冷蔵庫使用のための扉の開閉ごとに僅かの費用(たとえば0.7円)を徴収すれば、メーカーは採算がとれると、出演していた関係者が話していました。
時代はまさに今そういう方向に向かっていますが、これこそがフィンテックの目指すところでしょう。
いまの携帯電話にも象徴されますが、一見、無料でもらえたと思っていたら、長い期間(冷蔵庫の場合は13年だそうです)、なにかに隷従しなければいけなくなりかねないのです。
お金を見えなくして、生活を縛っていく。
なにやら江戸時代の農民支配制度のような気がしてきます。
そこで変わるのは資本主義という経済システムではなく、人間の意味であることに、気がつかねばいけません。

そもそも投機からは何も価値は生まれません。
投機と強盗と詐欺は同じだとは言いませんが、私にはみんな同じように思えてなりません、

私もかなり時代から脱落してしまっているようですが、注意しないと時代の流れに吸い込まれそうで心配です。
なにしろ目の前にあるものに、ふらふらと引き寄せられるタイプですので。
困ったものです。

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」の報告(2018年2月8日)
「なぜ生きるのか」
このテーマでのサロンは、事前の申し込みはほとんどなかったのですが、私を含めて9人の参加がありました。
案内に書いた、モモさんからのメッセージを再掲します。

生きているのが辛いことは皆さんあると思いますが、
それでも生きていようと思う理由というか、
(嫌でも)生きていかなきゃいけない理由みたいなことを、
話し合うようなサロンを開いていただけたらな〜。

できれば、もともと生きていたいと思える方より、
生きていくのが辛い、死んだ方が楽だと思いつつ、
それでも生きている方のお話、
そのモチベーションみたいなものをお聞かせいただけたらと。

 または、昔は死にたかったけど今は死にたくなくなった方に、
どのような流れでそう変わったのかをお尋ねしてみたいと思います。

このメッセージを受けて参加してくださった方も多かったと思います。
実は、お恥ずかしいのですが、呼びかけておきながら、私はこの「なぜ生きるのか」というテーマがあまり理解できていません。
なぜなら「生きる」ことに理由などあるわけがなく、もし理由をあげろと言われたら、いくつでもあげられると思っているからです。
ですから、私はあまり参加資格はないのですが、湯島のサロンは、どんな人でも参加できるのがルールなので、私も話し合いに参加させてもらいました。

最初は静かにスタートしましたが、それぞれの体験談が語られだし、それへの問いかけや意見が出されはじめ、次第に話し合いが深まって、終わる気配がないほどでした。

生きることがつらかったことの、さまざまな「物語」が語られました。
死ぬ勇気がないので、アルコール中毒になりたくて、飲みたくもないお酒を飲んで入院。
幼児体験の記憶から抜け出るための闘い。
喪失体験が引き金になった「うつ状況」の再発への不安。
2週間の断食で、生きかえった話。
学校生活が苦痛で抜け出た話が、生徒と先生からありました。
約束した時間にどうしてもたどりつけないので病院にも行けない。
その一方で、遅刻人生をつらぬいた人の話もありました。
成長段階で社会を生きていく「ルーティン」を身につけることの大切さ。
愛されることと愛することの人生における意味。
社会には太陽もあれば闇もある。
などなど、いろんな話が出て、誠実な話し合いが展開しました。
交流分析やアドラー、ロゴセラピーなどといった話も、少しだけ出ました。
いずれも自分の体験を踏まえた生々しい話なので、聞く人もまた自分の体験を踏まえて受け止めたでしょう。
ですから、ここに書いたことは私の狭い世界からの理解に過ぎません。
参加者は、私が書いた言葉とは別の、それぞれの受け止めをしているはずです。

私もたくさんの気づきをもらうとともに、自分の物語を安心して話せる場の大切さを改めて感じました。
私も体験したことですが、心の奥を話すことで、力をもらえることもあります。
そこで、このサロンをこれからも開催することにしました。
実は、今年は、「縁紡ぎカフェ」を毎月最初の水曜日の午後に開店することにしているのですが、その日の夜は、「生きる」をテーマにした「心を開くサロン」を開催することにしようと思います。
これに関しては、また案内させてもらいます。

ところで、いろんな人の物語を聞きながら、おそれや不安のない人など、いるのだろうか、そして、おそれや不安のない人生は豊かなのだろうか、と私は思いました。
その私の問いに、参加者のみなさんは、ないほうがいいと答えました。
モモさんから見ると、私はおそれや不安のない元気な人に見えているようですが、そんなことはありません。
たくさんの悩ましい問題も抱えていますし、不安で夜、目が覚めることもあります。
しかし、私のような年齢になると、不安も希望も所詮は同じもののような気さえします。
太陽も闇も、同じように見えてくる。
そういう視点から考えると、ただただ思うのは、みんなそれぞれ思うように生きればいいのにということです。
悩みも不安も、すべてをそのまま受け入れればいい。
なぜそれが難しいのか。
そこに私の一番大きな関心があります。

ところで、今回のサロンは単に悩みや不安を開示しただけの集まりではありません。
そこから何か少しでも、社会を変えていくということも企図していましたが、それも今回少しだけ果たせたように思います。
人が集まれば、必ず動きが起こりだす。
そんなことも実感したサロンでした。

今回は報告用の写真は撮りませんでした。
それで少しばかり詳しく紹介させてもらいました。

■カフェサロン「モノづくり企業の経営を支えるカイゼン」報告(2018年2月10日)
残念ながら、最近の調査では、日本の企業の労働生産性は世界で20位、主要先進国7か国では最下位だそうです。
企業の現場を飛び回り、日本企業の「現場」の改善力の強さとそれが戦略につながる可能性を実感している柿内幸夫さん(柿内幸夫技術士事務所所長)は、その状況を変えていくことを自らの使命にしているように思います。
そして、難しい手法や理論よりも、誰でもできる「カイゼン活動」が、企業を変え、社会も変えていくと確信されているようです。
私は、その柿内さんの考え方と実践にとても共感しています。
なによりも、自ら汗をかいて実践している。
今回の企業サロンは、その柿内さんにお願いしました。
15人が参加しました。

柿内さんは、日本と欧米では仕事の進め方、従業員の位置づけに大きな違いがある、と言います。
日本のいいところもあれば、悪いところもある。
それをしっかりと踏まえて、企業に関わるみんなが、知恵と汗を出せば、日本の製造業が再び世界をリードできる時代を呼び寄せることができるはずだ。
どうしたらそれが実現できるか。
長年の活動から得た答は、みんなが自らの現場で、日々、改善に取り組むことです。
そのために、柿内さんは「チョコ案」制度を考え出しました。
ちょこっとした改善アイデアをみんなで実行して、それを簡単に用紙に書いて報告する仕組みが「チョコ案制度」です。
ポイントは、提案して採用されたら実行するのではなく、「実行して報告する」こと。そして、それを通して、みんなの「改善の心に火をつける」ことです。
興味のある方は、柿内さんの「ちょこっと改善」(経団連出版)をお読みください。
簡単な紹介は次のところにしています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#160306

そういう柿内さんの実践とそこから得たメッセージを柿内さんは話してくれました。
私は、柿内さんの「ちょっとしたカイゼンが大きな変化を起こす」という発想に共感していますが、それは企業に限ったことではないことを改めて確信しました。
行政でもNPOでも、あるいは家庭でもグループでも、さらには個人としての生き方にだって、効果を発揮する考えです。
しかも、たぶんそれを実践すると、人生が楽しく豊かになる。
いささか大げさに聞こえるかもしれませんが、たぶん長年実践してきている柿内さんには賛成してもらえるような気がします。
今回も、福祉に関わっている人が自分の活動につなげて発言してくれましたし、自分の生き方につなげて考えていた人もいると思います。
自分の生き方が社会を変えていくと思っている私も、柿内さんの話からたくさんの気づきをもらいました。

話し合いで出た話題も紹介したいものがたくさんあるのですが、書きだすときりがありません。
しかし、聞いていて、感じたのは、みんなの発言に通底しているのは「人間が主役」ということです。
みんなそれにきづいているのに、なぜなかなかそれができない。
義務とか制度とか、そんなことに縛られてしまう。

ひとつだけ、いささか刺激的な問題提起があったので紹介します。
それは「現場」という言葉です。
私の生活信条は「解決の鍵は現場」ですので、今回のサロンでもかなり現場という言葉を使ったような気がします。
ところが、私から見ると、とても現場を大切にしている方が、現場という言葉は、現場を一段下に見た差別用語のような気がすると発言されました。
思ってもいなかったことですが、たしかにそういわれるとそんな気もします。
その人は、「現場」よりも「第一線」という言葉を使っているそうです。
考えは同じなのですが、人によって、言葉の持つ意味は多様です。
こんなことに気づかされるのも、サロンの魅力です。

時間もだいぶ延ばしましたが、やはり話し合いすることができないテーマも多かったです。
湯島のサロンは、みんなよく話すので、2時間ではいつも足りません。
これをどう解決するかも、サロンの課題の一つです。

ところで、参加者のお一人から、後でメールをもらいました。

柿内さんの語り方や「それは考えていなかった。とても嬉しい」というような話なされ方は人の心を穏やかにし、素直にさせる素晴らしいスキルで、私も学びたいと思います。

私も、そう感じていました。
自分の考えを相対化し、他者の意見に新鮮な思いで学ぶという柿内さんの姿勢に、サロンの運営者としても大きく学ぶことがありました。
今年の私の課題にします。

今回のサロンは近藤さんが録画してくれました。
公開するかどうかはまだ決めていませんが、もしご覧になりたい方がいればご連絡ください。
公開したらご案内します。

柿内幸夫さんのホームページもぜひ見てください。
http://www.kakiuchikaizen.com/

■カフェサロン「日常生活の巡礼化」のお誘い(2018年2月13日)
久しぶりに、巡礼者鈴木章弘さんに、サロンをやってもらうことにしました。
鈴木さんの最近の巡礼体験を書いてみます。
2002-04年 サンティアゴ巡礼(フランス人の道)
2015年 サンティアゴ巡礼(ル・ピュイの道)
2016年 四国遍路(一周)
2017年 サンティアゴ巡礼(北の道)、四国遍路(徳島県のみ)

毎年、2〜3か月は巡礼生活なのです。
巡礼が終わるたびに、私は鈴木さんのお話を聞かせてもらっています。
いつも鈴木さんは、よどみなく一気呵成といえるほどにいろんな話をしてくれます。
巡礼で得るものが、いかに大きいかを、いつも実感させられます。
その感動のおすそわけを私はいただいているわけです。
春にはまたサンティアゴに出かけるそうです。
そこで、出発する前にサロンをしてもらうことにしました。

今回のテーマは「日常の巡礼化」。
鈴木さんからのメッセージを紹介します。

「この世で巡礼のように生きよ」(トマス・ア・ケンピス)
「人生即遍路」(種田山頭火)
というように、巡礼・遍路はしばしば人生そのものにたとえられます。
そのとおりだと歩いていて感じました。

巡礼と遍路でどんなことが起こり、そこでなにを感じ、どんなことを学んだのか。
それは現代を生きる上でどのような意味や価値を持つのか、生かせるのか。
巡礼も遍路も素晴らしい体験でしたが、その体験を実際に生かすことが残りの人生の課題だと思っています。
それを「日常の巡礼化」と名づけました。

今回は、そんなわけで、改めて日常の生き方に、静かに思いをはせ、心おだやかになれるサロンです。
巡礼に出かける暇がない人は、鈴木さんの巡礼気分のおすそわけで、ぜひ心をほっこりさせてください。

〇日時:2018年3月2日(金曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「サンティアゴ巡礼・四国遍路からたどりついた日常生活の巡礼化」
〇会費:500円(机の上の缶にいれてください)
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■「釣りにでも出かけるとするか」(2018年2月14日)
以前、「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」(渡辺惣樹 草思社)のことを書いたことがあります。
これは渡辺さんが翻訳した、ハーバート・フーバーの「裏切られた自由」の紹介書なので、まあこれを読めばフーバーの原書は読まないでいいと思っていました。
なにしろものすごい厚い上下本なのです。
ところが先日会った友人から、面白いと勧められました。
それで図書館から借りてきて読んでみました。
思った以上に読みやすく、たしかに面白い。

本書は、第二次世界大戦前にルーズベルト大統領に反対して、戦争回避に向かっていたフーバー元大統領が、ライフワークとしてさまざまな資料を集め、整理した大事業の成果です。
結局、フーバーは出版せず、死後も遺族が出版を止めていました。
それが状況の変化の中で、2011年に出版されたのです。
編者は歴史家のジョージ・H・ナッシュ。
最近もトランプ大統領批判で活躍しています。
そのナッシュが本書の冒頭に「編者序文」を書いていますが、これだけでもなんとA5版ぎしっしりの130頁もあり、一冊の本になります。
タイトルは「ハーバート・フーバーのミステリアスな「大事業」」。
これだけでも読む価値があります。

そこに私がとても気にいった言葉が出てきました。
それが今回のタイトルの「釣りにでも出かけるとするか」。
フーバーは対抗馬の妨害にあい、共和党予備選大会に敗れて、大統領への復活はなくなったのですが、大会を終えたフーバーは、「釣りにでも出かけるとするか。政治のことは忘れたい」と、記者に語ったそうです。
時代を憂いて誠実に活動してきた結果の言葉として、とても共感できます。
しかし、フーバーは、釣りには行けませんでした。
ヒトラーが、西ヨーロッパへの侵攻を開始したからです。

フーバーは、日米開戦に関しても、スターリンの戦略に関しても、いまから考えると時代が見えていたと思います。
だからこそ、釣りには行けなかったのです。

もしフーバーが大統領に戻ってきたら、世界の歴史は全く変わってきていたように思います。
そして今、私たちは、そういう大きな転換点に立ってる。
フーバーのような全体を見ている人がいないのが残念です。
政治への無関心の代償の大きさを忘れてはいけません。

1月にキックオフした「茶色の朝」サロンのを3月からスタートさせたいと思います。
周りで起こっている気になる動きを、気楽に話し合うサロンです。
日程が決まったらまた案内します。

■「与えられた権威」よりも自分の権威を大切にしたい(2018年2月15日)
テレビはオリンピックで占拠されてしまいました。
私はオリンピックには大きな違和感を持っているので、興味は全くありません。
どうしてもそこに、ローマ時代のサーカスを感ずるのです。
もちろん東京オリンピックにも反対ですし、自分の税金がそれに使われることもあまり気分がよくありません。
福島の被災者たちのためにであれば、喜んで税金も収めたいですが、最近は納税のモチベーションはあがりません。

そんな中で、先日、ミシュランの認定を辞退するお寿司屋さんの報道に接しました。
フランスではそういう動きがあるのは前に聞いたことがありますが、日本でもあることを知って、ちょっとうれしくなりました。
そういう動きに対する、ミシュラン側のコメントには、驚くものがありますが、ミシュランは完全にお金の亡者になっているとしか思えません。
ミシュランの星を信仰するお店も、きっと味よりもお金なのではないかと思ってしまいます。

そもそも「評価」するなどと言う発想が、私には違和感がありますが。
評価するのであれば、利用者が中心になって多様な評価をするのがいいでしょう。
星いくつなどという評価は単一尺度での方向付けでしかありません。
よほど想像力のない人の発想だとしか思えません。
それにまたそれを大事にしているお店や施設、さらには利用者がいるというのも、実に情けない。
彼らもよほど、味音痴なのでしょう。
同情するしかありません。

それにしてもどうしてみんな「与えられた権威」をほしがるのでしょうか。
権威は与えられるものではなく、自然に生まれるものではないかと思いますが、いかにも安直な「権威」がはやっています。
私はどちらかといえば、「つくられた権威」には反発するタイプで、ミシュランの5つ星などと言われても、「それがどうした」と思うのですが、多くの人はそれでおしく感じられるのでしょうか。
幸せといえば、幸せなことです。

もっとも、こう言っているものの、私自身も、ついふらふらと権威に吸い寄せられることがあります。
困ったものです。
もっと自分をしっかりと生きたいと、改めてそのお寿司屋さんの話を聞いて思いました。
そのお店に行ってみたい気もしますが、私の経済力ではちょっと無理そうなのでやめました。

■「それがどうしたのか」(2018年2月15日)
前の時評編の記事で、「それがどうした」という言葉を使いました。
それで思い出したのが、前に読んだ、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本主義」の序章に出てきた文章です。

「問題を問題として記述している人に対して、分析するなら同時に解決策も示せと迫るのは間違いだと考えている。(中略)その解決策が見つからない、あるいは少なくとも、今ここで実現できるような解決策が見あたらないということは十分に起こりうる。では、いったい『前向きなもの』はどこにあるのかと、非難をこめて問う声があるかもしれない。その時こそ、アドルノならば、こんな意味のことを言ったにちがいない。前向きなものがまったくないからといって、それがどうかしたのか、と」。

日本の政治に関して、野党は批判ばかりして代案がないという人がいます。
私は、誠実な批判は、それこそが代案だと思っていますので、この種の意見こそが「前向きでない非難」だと思っています。
しかし、「それがどうかしたのか」というのは、私にはとても気にいっている言葉です。
そう言い切れる生き方をしたいと、常々思っています。

念のために言えば、私は「批判」(私自身への批判ももちろん含めて)は好みますが、「非難」は好きではありません。
批判は前向き、非難は後ろ向きだからです。

私のブログも、時に「批判」でない「非難」になっていることが少なくありません。
最近は減っていると思っていますが、まだまだ文章力がありません。
もし誰かを「非難」しているような表現があれば、それは私の未熟さの故です。
まあ、時に意識的に、「非難」してしまうこともないわけではないのですが。
まだまだ未熟さは克服できません。
たぶん最後までそうでしょう。

困ったものです。
はい。

■カフェサロン「半農生活と自分自身の人生経営計画」報告(2018年2月15日)
「都会人の暮らし+農業=半農半X」の生活を実践している菜園クラブの増山博康さん(野菜栽培のレッスンプロ)のサロンは、10人になりました。

参加者のほとんどは、農業にすでに関わりだしているか、関わりたいと思っている人でした。
増山さんご自身のライフストーリーから始まりました。
それが何しろいろいろですので、前半はいささか話がとっ散らかってしまい、農業につながっているようでつながっていない気もして、企画役としてはひやひやしましたが、後からそれが農業と関わる生き方なのだと、気がつきました。
翌日、参加者のひとりから、「農の話はおもしろい、とあらためて実感した2時間半でした」とメールが届きました。
自分の不明さを反省しました。

さて何を報告すればいいか、今回は悩みます。
農業政策や農地政策の話から、農家の人と付き合いの入り口は一升酒という話まで、ともかく広いのです。
専業農家と兼業農家、焼き畑の話。
マリアさんのような購買者の話。
産業としての農業と生業としての農業の話。
さらには種子の話や遺伝子組み換えの話まで出ました。
いやいやもっとめちゃくちゃなほど広がっていたような気もします。
そういえば、なぜか盛んに障害者の話が出てきて、青い芝の会の話まで出ました。
増山さんは、若いころ、そういう分野でもいろいろと活動していたからですが、農福連携という動きが広がっているように、農業は障害者問題と親和性が高いように思います。

増山さんは、「野菜をつくる」「野菜を購入する」「両者をつなぐ」という活動をしていますが、その3つの局面で、いろんな人と会い、いろんな体験をしています。
それは同時に、人の生き方や社会のあり方へのとても刺激的な示唆を与えてくれます。
増山さん自身は、そのど真ん中で、それらを一体として人生していますので、言葉で整理して伝えようとすると増山さんの意図とは違ったようなものになると思いますので、やめます。
増山さんの活動やお考えは、増山さんのホームページにとてもていねいに書かれていますので、それをお読みください。
http://www.saienclub.com/
一言だけ言えば、増山さんは全国に菜園コーディネーターを増やしていって、社会を豊かにしていきたいのです。
豊かといっても、金銭経済的な豊かさではありません。
増山さんのように、いつもにこにこして、明るい人生を広げたいのです。

ちなみに、増山さんは、「半農生活を始めよう」という本を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#090920
この本もとてもわかりやすい本です。
増山さんは、野菜栽培の基礎を学ぶ理論セミナーと実習。さらには、農地の確保や農園運営などを応援する活動をされています。
菜園起業サロンもやっています。
関心のある人は、ぜひ増山さんのサイトを見て、増山さんにアクセスしてみてください。
増山さんも言っていましたが、ともかく体験が一番なのです。

農業関係のサロンは、農福連携の動きが広がる前は定期的にやっていましたが、最近は途絶えていました。
どなたかサロンをやってもらえれば、企画します。
よろしくお願いします。

■3月縁カフェのご案内(2018年2月18日)
2月から月1回開店することにした縁紡ぎカフェですが、名前を単に「縁カフェ」にしました。
たぶん名称はこれからどんどん変わっていきそうですが。
それと毎月最初の水曜日と考えていましたが、これも最初の月曜日にしました。
また開店時間を12時から4時にしました。
ほかは変わりません。
主旨などは前回の案内をご覧ください。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#1802071

〔ご案内〕
○日時:2018年3月5日12〜16時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf

■第2回リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年2月19日)
延期になっていた、『無党派市民の究極的民主主義宣言』をテキストにした、学習型話し合いサロン(第2回目)のご案内です。
今回は、前回の概論を受けて、究極的民主主義を実現するための選挙制度を中心に、『無党派市民の究極的民主主義宣言』(ビジネス社)第3部を話し合う予定です。
最初に前回の簡単な復習をしてから、武田さんから究極的民主主義型の選挙制度(国民主権の行使システム)を説明してもらい、それを受けて議論を深めたいと思います。
該当部分をPDFにして、次のサイトにおいていますので、参加される方はダウンロードしてプリントアウトしてください(技術不足でひっくり返ってしまいました)。
http://cws.c.ooco.jp/TEXT31.pdf

学習型ではありますが、みんなで学び合うというスタイルですので、気楽にご参加ください。

みなさんの参加をお待ちします。

●日時:2018年3月10日(土曜日)午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「国民主権を実現する選挙制度」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第3部第1〜3章
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

■カフェサロン「改めて協同組合について考えてみよう」のご案内(2018年2月21日)
久しぶりに「協同組合」をテーマにしたサロンを開催します。
私は30年前に会社を辞めた時に、これからは改めて企業は協同組合制度から学ぶことになるだろうと思っていました。
その後、ワーカーズコレクティブや高齢者協同組合など、いろいろな動きが広がりましたし、法制化の動きも起こりました。
しかし残念ながら、いまのところ大きな流れにはなってきていません。
「働き方改革」が話題になっていますが、その視点からも、協同組合から学ぶことはたくさんあるはずです。

そんなことで、久しぶりに、協同組合をテーマにしたサロンを開催することにしました。
話題提供者は、世界の農業協同組合や漁業協同組合に造詣の深い、田中文章さんにお願いしました。
テーマは「改めて協同組合について考えてみよう」。
最初に田中さんの「協同組合」論を少しお話しいただいたうえで、そこから私たちが学ぶべきことやこれからの協同組合の展望などを問題提起していただき、それを踏まえていつものように、参加者みんなで話し合いができればと思います。
たぶん企業にとってもNPOにとっても、あるいは個人にとっても、たくさんのヒントがあると思います。

協同組合運動や賀川豊彦の研究者でもある青山学院大学教授だった本間照光さんにも参加していただく予定です。
いつもとはちょっと開催時間が違いますが、ぜひ多くのみなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年3月14日(水曜日)午後3〜5時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:協同組合活動の歴史と現在から学ぶこと
○話題提供者:田中文章さん(中小企業基盤整備機構経営支援専門員)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■リンカーンクラブ研究会がスタートしました(2018年2月23日)
日本の現実をもっと民主主義に近づけていこうという活動に取り組んでいるリンカーンクラブでは、目指すべき国家像、国家体制を議論していく研究会を立ち上げることになり、今日はそのプレミーティングでした。
月に1回、平日の午後に開催する予定です。
いずれも一家言持っているメンバーが集まったため、なかなか議論に入れないので、昔ながらのKJ法的アプローチで、みんなの関心事を整理しました。

次回から具体的な議論に入っていきますが、最初のテーマは「平和」が選ばれました。
国家は戦争をしていいのかというところから議論することになりました。
たぶん9条問題や自衛隊の位置付け、さらには米軍基地の問題などが話題になるでしょう。
ちなみに、戦争放棄は日本だけだと思っている人が多いですが、そんなことはありません。
1928年の不戦条約で戦争はそもそも禁止されていますし、国連憲章2条4項には、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と明記されています。
軍隊のない国などたくさんあります。
「国連憲章2条4項を、国内法でも裏書きしているのが、9条1項だと考えるべきだ」という人もいます(篠田英朗さん「ほんとうの憲法」ちくま新書)。

それはそれとして、しかし相変わらず、「戦争ができる普通の国家になろう」などという言葉が広く受け入れられているいまの状況を考えれば、このテーマから入ることで、国家のあり方が見えてくるかもしれません。

研究会にご関心のある方はご連絡ください。

研究会の成果は、11月に予定しているリンカーンクラブ年次大会で何らかの形で発表できればと思っています。

■コムケアサロン「成年後見制度ってご存知ですか」報告(2018年2月28日)
成年後見制度をテーマにしたサロンには15人の参加者がありました。
最初に、広い視点で成年後見制度にも関わっている、一般社団法人コレカラ・サポートの千葉晃一さんに、制度の概略などのお話をいただき、そこから参加者から出された事例なども含めて、いろんな視点から話し合いが行われました。
http://www.koresapo.com/

千葉さんの話が終わった後、最初に私から問題提起的な質問をさせてもらいました。
この制度は、誰のためにあるのか、そして対象となる人の判断能力の評価は誰がするのか。
制度ができて良かったことと悪かったことは何か。

もちろん建前は、「判断能力が不十分となった成年者のための財産保護と生活支援」となっていますが、今ある制度を受け身的に理解し、利用の方法を考えるだけではなく、制度の利用状況やそこから生ずる問題点などを知ることで、形だけではない福祉のあり方や私たちの生き方を問い直そうというのが、コムケアサロンの目指していることです。
そこであえて、そういう問題提起をさせてもらいました。
参加者の中には、後見人を実際にやっている人や制度利用者の方もいらっしゃいましたし、制度利用を考えている人やまだ関心を持っているだけの人など、いろいろでした。
そうしたいろいろな立場の人が、話し合うのが湯島のサロンの大きな意味です。

千葉さんのお話によれば、成年後見制度を必要とする人は約800万人に対して、現在の利用者累計は18万人(わずか3%弱程度)だそうです。
これは、制度設計に問題があるのか、制度の理解が進んでいないのかいずれかだと思いますが、そのために成年後見制度を利用したことで、逆に問題を抱え込んでしまった人の話も少なくありません。

そうした状況を変えていくには、予備的にこの制度のことを理解するとともに、利用者側からの不備の点を変えるように働きかけていくことが必要です。
そうした動きはないわけではないでしょうが、なにしろこの制度の「受益者」は「判断能力が不十分となった成年者」ですから、問題は悩ましいわけです。
ここに、この制度設計の根本的な問題があるように私には思いますが、しかしすでに制度ができているのですから、それを効果的に活かしていくと同時に、「当事者視点」で不都合なことは問題として顕在化していかなければいけません。
それに、可能性としては誰もが「当事者」や「関係者」になり得ることですから、誰も関係がないとは言えません。

弱い立場の人たちを守る制度が、注意しないと、かつての精神病院制度のように、弱い人たちの人権が損なわれることにもなりかねませんし、さらには、生活支援のための手段だった財産管理が目的になってしまい、生活は二の次というような本末転倒も起こらないとは限りません。
もっと言えば、この制度は、家族のあり方にも大きく関わってきます。
そうしたさまざまな「落とし穴」があるような気がします。

もちろんこの制度で救われた人は少なくないでしょう。
しかしどんな制度も、当事者が効果的に活用して、はじめて生きてきます。
そして、当事者が制度改善に取り組んでこそ、制度は生きたものになっていきます。
その意味では、この制度はまだ「当事者からは遠いところ」に置かれているなというのが、私の今回の感想です。

千葉さんは、救急車なら、どういう時にどうしたらいいかが、誰にも伝わっているが、この制度に関してはそれが難しく、たとえば制度の解説パンフレットなども、制度運営者側の視点が強いために、なかなか社会に浸透しないと話されました。
そういう利用者視点での制度活用の仕組みや場をもっと増やしていくことが大切かもしれません。
ちなみに、コムケアの仲間でもあるNPO法人ユニバーサル・ケアの内藤さんたちは、「市民後見センターきょうと」を運営して、そういう活動に取り組んでいます。
http://www.kyoto-koken.net/about/
今回も、そこで制作した制度案内の小冊子を活用させてもらいました。
内藤さん、ありがとうございました。

いつも以上に主観的な報告になってしまいました。
サロンでは、実際には具体的な体験や事例の紹介やこの制度の活用の仕方などが話されましたが、それを報告するわけにはいきませんし。
千葉さんは、「成年後見制度の利用ありき」ではなく、当事者や関係者の立場に立って、生活支援に取り組まれている方ですが、内藤さんや千葉さんのような人たちが増えていくことが、一番求められているのかもしれません。

なお、成年後見制度に関しては、みなさんからの要望が集まれば、また情報交換や体験交流会のようなものを企画したいと思っていますので、ご要望のある方はご連絡ください。

コムケア活動を始めた時の「大きな福祉」の理念や共創型の相互支援の輪づくりの大切さを改めて思い出したサロンになりました。
千葉さん、そして参加されたみなさん、ありがとうございました。

■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」へのお誘い(2018年3月13日)
1月に2回にわたり「茶色の朝」オープニングサロンを行いました。
「茶色の朝」は、フランスで話題になった本で、社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話です。
短い寓話で、日本でも翻訳されていますし、またネットでも全文が公開されていて、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

オープニングサロンでは、その本を読んでの感想を言い合いましたが、これからは、私たちのまわりにある、「ちょっと気になっていること」を話し合うサロンとして継続的に開催していきます。
そうした話し合いの中から、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けて、それぞれができることを考えていければと思います。

政治の捉え方はいろいろありますが、みんなが暮らしやすい社会を実現することが大きな目的ではないかと思います。
となれば、政治は私たちの生活に深くつながっています。
私たちの暮らしの基盤である社会を方向づける上で、政治の働きはとても大きいです。
にもかかわらず、「政治」にはあまり関わりたくないと思っている人も少なくありません。
現在の政治についての話し合いさえしたがらない傾向があります。

しかし、消費税も憲法改正も、社会保障も教育行政も、私たちの生活に深くつながっています。
生活者である私たち自身が、しっかりと関心を持ち、意見を表明していくことは、政治をよくしていく上でとても大切なことです。
個別の政治課題に関してデモに参加したり、選挙に立候補することだけが「政治活動」ではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
それも大切な「政治活動」です。
肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるような、そんなサロンを目指したいと思います。

憲法改正とかTPPとかを話し合うのは難しいかもしれませんが、生活の視点で、ちょっとおかしいと思ったり、ちょっと気になる話をするのであれば、誰でもできるはずです。
その先に、もしかしたら、憲法の問題や原発の問題があるかもしれません。

「ちょっと気になること」は、何でもいいと思います。
たとえば、私は、電車の中でスマホをやっている人の多さが気になっています。
ATMで用を済ませてから外に待っている人に「お待たせしました」と言っても、だれからも返事が返ってこないこともさびしいです。
最近で言えば、テレビがオリンピックばかり放映されているのが気になります。
これはあくまでも私のことですが、人によって「気になることは違うでしょう。
そんなことをお互いに話し合ってみたいと思います。

ぜひ多くの人に参加していただければと思っています。

○日時:2018年3月24日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合う
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■理性の公的な利用と私的な利用(2018年3月14日)
以前、まだブログをやっていなかった頃ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。
公文書改ざん犯罪事件の報道に触れて、その2回目で書いた記事を思い出しました。

○メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

私は、日本の政治が大きく変質したのは、森内閣成立時だったと思っていますが(当時はまだ私のホームページもなかったので、メールで発信しただけですが)、小泉内閣になって、完全に政治は変質してしまったと思っていました。
以来、私の懸念した方向にどんどんと進んでいます。

今回の事件は実に世相を反映した事件です。

それにしても、残念なのは、官僚の人たちがなぜ声をあげないのか、ということです。
イマヌエル・カントの「啓蒙とは何か」にこういう記述があります。
ちょっと長いですが、引用します。
一部、変更や削除などしています。

◇理性の公的な利用と私的な利用
人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。
理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。
公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。
しかしこうしたマシン(機構)に所属する人でも、みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的にふるまうように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。

財務省の官僚たちには、これ以上、自殺したり犯罪者になってほしくはありません。
間違ったルールの呪縛から、ぜひ解放されてほしいです。

ちなみに私は学生の頃からずっと、日本社会では「公」と「私」の捉え方が、逆ではないかと思っています。
改めてまた、アレントを読みたくなりました。

■カフェサロン「改めて協同組合について考えてみよう」報告(2018年3月14日)
「協同組合」をテーマにしたサロンは、共済懇話会のみなさんもかなり参加された結果、大人数のサロンになりました。
企業関係者の参加が少なかったのが残念でしたが、改めてこれからの企業経営へのヒントがたくさんあることを実感しました。
また、支え合う人のつながりづくりに取り組んでいる人たちも何人か参加されましたが、NPOの人たちにもとても参考になる話だったと思います。
終わった後、複数の方から、挑戦すべき課題が見つかったと言われたのが印象的でした。

田中さんは、世界各地の協同組合の視察調査なども踏まえて、なぜ協同組合が生まれてきたのかという話から始まり、現在の社会においての意義、そして協同組合の5つの類型とその実践活動、さらにはこれからの期待をていねいに解きほぐしてくれました。
その話をきちんとまとめたら、たぶん現在、市販されている多くの協同組合の本よりも、ずっと協同組合への理解が深まり、その価値が伝わってくると思います。
そんな気がしながら、お話を聞いていましたが、録画しなかったのが実に残念です。

田中さんは、最初に、カナダ・デジャルダン博物館で配布されている小学生向けの信用組合歴史解説本の1ページを見せてくれました。
そこに、子どもたちに向けて書かれた「なぜ協同組合は必要なのか」の漫画があります。
添付しましたので、ちょっと読みにくいかもしれませんが、ご覧ください。
ここに協同組合思想の本質が読み取れると思います。

つづいて、別の言葉で、協同組合の存在意義を3つに整理してくれました。
「生活防衛システム」「人の集まり」「地域経済の自立」です。
第一の生活防衛システムですが、そもそも協同組合の始まりは「貧困からの脱却」でした。
社会福祉政策に依存するのではなく、まずは自らで「支え合いの関係」を育てることは、人類の知恵でした。
最近の私たちがともすると忘れがちな視点です。
改めてそのことを思い出すことが大切です。

2つ目の「人の集まり」は、同じ組織でも、企業と違うところです。
企業(経済組織)は本来的には「金の集まり」ですから(人は雇われているだけです)、企業買収などで、あるときその組織の主役が突然に変わることがありますが、協同組合(社会組織)は人が主役ですから、そんなことは起こりません。
雇用労働と協同労働の違いは、まさに「働き方」を考える上で大きな違いを引き起こします。
ここにもこれからの企業経営や「働き方」を考える大きなヒントがあります。

「地域経済の自立」は、昨今のグローバル経済化の動きのなかで、ますます重要な意味を持ちはじめていると思います。
エネルギー関係の協同組合の話も出ましたが、さまざまな意味で、いまの経済の枠組みへの発想転換の可能性を持っているように思います。

以上は、田中さんの冒頭の話ですが、こんな感じで紹介していくときりがないので、後は省略して、話し合いの一部を紹介します。

文化活動分野での協同組合へも質問が出ました。
いまはまだこの分野は、あまりないようですが、経済自体が変質していく中で、これからの課題かもしれません。
これまでの協同組合は、その重点は「生活防衛」にありましたが、むしろこれからは異質な知恵の組み合わせによる「価値創造」という、新しい意味が生まれてくるかもしれません。
もちろんすでに、そうしたネットワーク組織はありますが、協同組合思想との組み合わせが、新しい価値を生み出すかもしれません。
私は、生活防衛を超えた、もっと積極的で創造的な意義が、協同組合思想には含まれていると思っています。

今回は、田中さんが農業関係の組織にいたこともあって、日本の農協のモデルにもなったドイツのライファイゼン系の協同組合を中心に話してもらいましたが、ライファイゼンの核になったのは信用事業(共済事業)です。
当時広がりだしていた貨幣経済に対する対抗力としての動きだったわけですが、その点を議論していくと、もしかしたら現在の日本の共同力の混迷と可能性が見えてくるかもしれませんが、今回はそこまでの議論にはなりませんでした。
昨今の実体経済から金融経済へと経済が変質しつつある中で、貨幣経済とは何かを問い直すヒントも、協同組合の歴史の中に含意されていると思います。
日本にも、結や講などの「支え合いの仕組み」があったのに、なぜ大きく発展しなかったのかという話も出ましたが、たぶんそれともつながっているはずです。

日本の農協は、歴史的な経緯から、産業支援システムと協同組合という2つの異質な要素を持っています。
このいささか矛盾する2つの予想を包含していることに、これからの協同組合の困難さと同時に可能性を私は感じます。
これは、時間切れで議論できませんでしたが、もしかしたら協同組合の本質につながっている問題かもしれません。

協同組合の理念に関連して、賀川豊彦の話も出ました。
日本ではまだ成立していない協同組合基本法の話も出ました。
共済と協同組合の関係も、大きなテーマです。
採りあげたいテーマがたくさんありましたので、引き続き、このテーマのサロンを時々開催したいと思います。

なお、協同組合に関して、総論的な入門書として2冊の本を紹介しておきます。
「協同組合の源流と未来」(岩波書店)
「協同組合は未来の創造者になれるか」(家の光協会)

私は30年前に会社を辞めました。
その頃、雇用労働と株式会社から、協同労働と協同組合へと、経済の軸が変化していくだろうと思っていました。
そうはなりませんでしたが、その時の思いは間違っていなかったと改めて思いました。
ただ、時間はまだだいぶ先のようですので、自分では確認できそうもありませんが。

■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」のご案内(2018年3月17日)
今回は、ちょっと変わったサロンを企画しました。

私は、できるだけお金に縛られない生き方を目指しています。
そもそもみんながこんなにもお金に呪縛されるようになったのは、たかだかこの50年くらいのことでしょう。
いや、いまでもお金に縛られずに、豊かに生きている人はいないわけではありません。
たとえば、私の幼なじみの金子友子さんは、その一人です。
彼女は学校を卒業後、アナウンサーになって活躍していましたが、ある時、私には突然だったのですが、農家に嫁いだのです。
埼玉県小川町にある霜里農場。
有機農業のメッカと言われたところです。
もちろん今もその界隈には、霜里農場の金子夫妻のもとで育った有機農業に取り組む人たちがたくさん住んでいます。

霜里農場の農場主は金子美登さんです。
テレビや新聞などでも紹介されたこともありますので、ご存知の方も多いでしょう。
友子さんは、そのパートナーです。
2人の出会いや霜里農場のことは、次の記事をお読みください。
http://soratsuchi.com/owada/2009/12/39.html
結婚式に来たのは、有吉佐和子さんや市川房江さん。
それで2人がどんな生き方をしていたかはおわかりでしょう。

金子さんは、キューバの有機農業にも詳しいですが、今回はその話ではありません。
金子友子さんの生き方がテーマです。
たとえば、こんな話です。
金子友子さんは、農場でできた野菜を時々、東京のお客様に届けていました。
私は最初、買ってくださった方への宅配かと思っていましたが、そうではありませんでした。
野菜を届け、お茶をご馳走になる。
帰り際にお客様はお礼をくださる。
お金の時もあれば、そうでない時もあるようです。
私が理想とする「物々交換」あるいは「売買」ではなく「感謝のやり取り」です。
その話を聞いて、私は感激しました。
すべてがそういうわけではないでしょうが、友子さんの行動はお金には縛られていないのです。
まさに私が理想と考えている「百姓的生き方」です。

といっても、友子さんがお金を否定しているわけではありません。
私は先日、霜里農場に行ったついでに、熊谷市でお昼をご馳走になりました。
そのお店にも、友子さんは段ボール箱いっぱいの野菜を持参していきました。
もちろん買ってもらったわけではなく、ただただ持っていっただけでしょう。
そのお店のオーナーは、友子さんの友人なのです。
そこでランチをしましたが、その代金は友子さんが払いました。
いまはあなた(私のことです)よりも私が少しだけ「小金持ち」だろうからと言って、その日はすべて彼女がご馳走してくれました。
お金は余裕のある人が出せばいい。
ちなみに料理をテーブルに持ってきてくれたお店の人にも自家作の絶品のイチゴを差し上げていました。
そうしたらお店のオーナーが、コーヒーをサービスしてくれました。
お金のやり取りはあるのですが、心のやりとりもあるわけです。
しかもお店で、です。

まあ今回は、そんな話も含めて、金子友子さんの生き方を話してもらおうと思います。
どんなサロンになるかまったく見当もつきません。
しかし、それもまたサロンの魅力の一つです。
生き方を考えなおす機会になるかもしれません。

よかったらご参加ください。

〇日時:2018年3月31日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:金子友子さん(霜里農場)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「現代こそドラッカーに学び、人を活かす経営を考える」の報告(2018年3月19日)
ジャズミュージシャンにして経営コンサルタントの村瀬弘介さんの「ドラッカー」をテーマにしたサロンは、「インテグリティ」という言葉から始まりました。
ドラッカーを理解するキーワードは「インテグリティ」だというのです。
インテグリティを、「真摯さ」と訳し、それには「対象に対する真摯さ」と「自分に対する真摯さ」があると説明したあと、人間として正しいかどうかが大切だという話をされました。

こういう話で、村瀬さんのドラッカー経営論は始まりました。
村瀬さんの経営論の基本には、「人間の尊厳」が置かれています。
企業関係者も多かったのですが、多分こういう形でドラッカーの話を聞いた人は少ないと思います。

なぜ「インテグリティ」なのか。
村瀬さんは、ドラッカーがナチスドイツによるホロコーストを体験したことにも言及しました。
ドラッカーが「経済」や「経営」をどう位置付けていたかの話もされました。
そして村瀬さんがたどりついた「経営観」は、「経営とは、人間が幸せになるすべてである。人の尊厳を実現するものである。経営で成果を上げるとは人間が幸せになることである」というものです。

私は寡聞にして、ドラッカーをこういう視点でしっかりととらえた経営学者や経営コンサルタントにこれまで会ったことがありません。
もし一人でもお会いでできていたら、私のドラッカー観は変わっていたはずです。

私がドラッカー経営論に否定的なのは、「経営は顧客の創造」だと紹介されてしまったことです。
経営は、「価値の創造」であって、「顧客の創造」であってはなりません。
人を「顧客」ととらえるところには、「人間の尊厳」の発想はありません。
私も、会社時代に経営について少しは考えてきましたが、そこで大切にしたのは、「人間の尊厳」と「価値の創造」でした。
そしてそれを私が所属していた企業の経営の理念にするプロジェクトに取り組み、その結果として私は人生を変えてしまいました。
ですから今回の村瀬さんの話には、心底嬉しさを感じました。
ドラッカーの思想の起点は「人間の尊厳」です。
ようやくほんとうのドラッカーに出会えた気がしました。

村瀬さんは、ドラッカーは「資本主義のための経済ではなく、自由民主主義のための経済」を目指していたと言います。
そういう意味での経済(経世済民)がうまく行けば、カリスマも出てこないし、ホロコーストも起きないとドラッカーは考えていたのではないか、と言います。
同感です。
ドラッカーの最初の著作は、「経済人の終わり−新全体主義の研究」です。
ぜひ読んでほしい本の一つです。
その延長で、ドラッカーの著作を読めば、違った受け止め方ができるはずですから。

村瀬さんはリーダーシップにも言及しました。
リーダーシップとは「責任」であるというのです。
これも含蓄に富む言葉です。
ちょっとした言葉の言い換えではないかと思うかもしれませんが、私には視点が全く違う、新しい経営論のように感じます。
つまり、組織の視点からではなく人間の視点から経営が考えられている。
今の日本の企業に一番欠けている視点です。

「経営」とはそもそも企業の世界だけの話ではありません。
NPOにおいても行政においても、地域社会においても、さらには人生においても大切なことです。
経営とは技術の話ではありません。思想の話なのです。
村瀬さんの経営論を、ぜひいろんな分野の人に聞いてほしいと思います。
ちなみに湯島では、以前、NPOとドラッカーと言う視点で、市民性や社会性をテーマに、『ドラッカー 2020年の日本人への「預言」』の著者の田中弥生さんにサロンをやってもらいました。
「市民性」「社会性」も今回少し話題になりましたが、改めて考えたいと思います。

村瀬さんは、ジャズミュージシャンです。
ご自分でも話されましたが、論理ではなく感性で受けとめるタイプです。
ある時にドラッカーを読んで涙が出てしまった。
それがドラッカーを語りだした出発点だそうですが、村瀬さんの話には魂を感じました。

村瀬さんの話の入り口だけの紹介になりましたが、村瀬さんが話してくれた話は、先月出版された村瀬さんの『ドラッカーが教えてくれる 人を活かす経営7つの原則』(産業能率大学出版部)をぜひ読んでください。
http://jlom.xsrv.jp/cs2/44/
また次のサイトで村瀬さんの話に触れられます。
ドラッカー講義動画集『感動から分かる ドラッカー経営』
http://jlom.xsrv.jp/cs2/25/

ついでに村瀬さんの音楽もどうぞ。
https://www.youtube.com/channel/UCOtRQ7cRiznIUxNtsGcl6rg

村瀬さんはいろんな所で講演活動もしていますので、ぜひどこかで村瀬さんの魂に触れてみてください。

■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」のご案内(2018年3月20日)
3月31日のサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」とは真逆のようなテーマのサロンを開催します。
テーマは、「社会インフラとしてのお金」です。
「お金」をどう捉えるかは難しい問題ですが、今回のテーマは「貨幣」です。
よく言われているように、「貨幣」はその時代時代の先進技術が凝縮されているものです。
自然貨幣から貴金属貨幣、鋳造貨幣へ、最近は紙幣、それも信用のネットワークに支えられた不換紙幣へと変わってきていますが、さらにデジタル通貨が話題になってきています。
また金融工学から生み出された信用保証システムの発展も目覚ましいものがあり、通貨システムと他の領域のつながりも現実なものになってきています。

ビットコインのように、投機メディアになってしまったものもありますが、社会共通資本的な要素をもっているものもないわけではありません。
経済そのものが変質しつつあるなかで、この分野のことをきちんと知っておかないといつトラブルに合うかもしれません。
そこで、今回は、こういう分野で活動されている渡辺さんにお話をお聴きすることにしました。

ちなみに、私が渡辺さんと直接知り合ったのは今週です。
私がこの種の話にはきわめて否定的であることも、渡辺さんには伝えています。
ですからどういうサロンになるかはまったくわかりませんが、頼まれると断れないのが私の性格なのと、私が反対のテーマでもサロンをやりたい人がいたら、場を提供するのも湯島の方針の一つなのです。
そんなわけで、下記の通り、仮想通貨や金融経済のサロンを開きます。
ご関心のある方はご参加ください。

○日時:2018年4月12日(木曜日)午後7〜9時(6時半開場)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」
○渡辺忠和(スピリチュアル&心理カウンセラー)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年3月21日)
2月に、「なぜ生きるのか」をテーマにしたコムケアサロンを開催しました。
予想していたよりも、いろんな人が集まりました。
そして、またやってほしいという要望もいただきました。
あまりにも、そのままのテーマなので、躊躇したのですが、複数の方からの要請なので、また開催することにしました。
前回同様、「なぜ生きるのか」を踏まえて、「生きる力を高める場」にできればと思います。
「重い」テーマであればこそ、「明るく」「気楽」に話し合うのが、湯島の精神ですので。

いつもより早い時間から始めますが、いつものように出入り自由ですので、途中からの参加も、途中での退出も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。

○日時:2018年4月2日(水曜日)午後6時〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/どうしたら生きる力を高められるか」
○会費:500円

■「隠れ病む身」を支えることの大切さ(2018年3月21日)
日曜日に放映されたEテレ「こころの時代」を今日、改めて見ました。
小浜市明通寺の中嶌哲演住職の「隠れ病む人々と歩む」です。
明通寺には2度ほど行ったことがありますが、そこのご住職が長年托鉢をしながら『鈴音』という手作り通信で、社会に呼びかけていたことは知りませんでした。

「隠れ病む人々」とは、広島や長崎で被爆した後、自らを「隠れ病む身」と呼び、世間の目から逃れるように故郷に帰って戦後を生きて来た人々を指しますが、原発銀座とも言われる福井では、原発で事故に合い、同じように「隠れ病む身」の人がいることも知りました。
原発の事故(3・11の福島の事故ではありません)で亡くなった人の話はこれまでも聞いていましたが(公開はされていませんが)、「隠れ病む身」の人がいることを初めてテレビで知りました。
とても心に響くお話でした。
次に簡単な番組紹介があります。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-11/31/4430/2008300/

中嶌さんの話を聞きながら、私は最近の財務省や文科省の事件を思い出しました。
「隠れ病む身」の人たちを生み出しているのは、原発だけではないのでしょう。
最近の官庁や企業には、「病」が蔓延しているのかもしれません。
政治の世界もそうかもしれません。
いや、社会そのものに「病」が蔓延している。
にもかかわらず、多くの人は「隠れ病んで」いる。
前川さんのように、しっかりしたご自分をお持ちの方は「隠れる必要」も無いのでしょうが、多くの人にはそんな強さはありません。
しかし、前川さんには及びもしませんが、私も自らをしっかり生きていこうと改めて思います。

「病」は、それがどんなものであれば、隠すことはありません。
病は隠すものではなく支え合うものではないかと思います。
そして、人をつないでいく力も持っています。
官僚の皆さんには、ぜひカミングアウトしてほしいです。
それが社会の「病」をただす出発点になるでしょうから。
「病」に負けてはいけません。

「隠れ病む身」の人たちに、石を投げるのは止めたいです。
支えることこそが、社会を健やかにすることではないかと思います。

■3792:猿田彦珈琲でシャキッとしたのですが(2018年3月21日)
節子
先ほど、内容のない挽歌を書いた後、今日4杯目のコーヒーを飲みました。
先日、山城経営研究所の関係者が、私への感謝の会というのをやってくれて、コーヒーメーカーとコーヒーをプレゼントしてくれたのです。
コーヒーは評判の猿田彦珈琲。
朝も飲んだのですが、美味しいです。
コーヒーを飲んだらちょっと気分がシャキッとして、もう一つ挽歌を書く気になりました。

春の箱根に雪が降ったおかげで、今日はテレビでよく箱根が報道されています。
昨年はついに箱根には一度も行きませんでした。
この20数年、初めてのことです。
節子が元気だったころは、毎年数回、箱根に行きました。
節子が好きだったからですが、節子がいなくなってからも、年に1回は箱根に行っていました。

箱根に詰まっている想い出は、山のようにあります。
もし節子が元気だったら、今頃は湯河原に転居していたかもしれません。
もしそうなっていたら、私の生き方も大きく変わっていたでしょう。
節子の死という番狂わせのおかげで、私の生き方は一変しました。
まあ、それもまた人生です。
箱根の風景をテレビで見ていると、いろいろなことが次々と浮かんできます。
私としてはあんまり好きなことではないのですが。

想い出は、独りで思い出すのはいささか辛いものです。
やはり2人で思い出してこそ、思い出は輝いてくるのでしょう。
たくさん残っている写真も、私はほとんど見ることはありません。
コーヒーでシャキッとしたかと思ったのですが、やはりどうも元気が出ません。
お彼岸だからでしょうか。
寒い雨のせいでしょうか。

最近どうも気分が暗くてよくありません。
明日は会社時代の人たちと会うのですが、元気を回復しておきたいものです。

■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」報告(2018年3月24日)
社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話「茶色の朝」を読んでの感想を言い合うことからはじまった「茶色の朝」サロンがスタートしました。
それぞれが、生活のまわりにある「気になること」を出し合って、いまの社会のあり方や自らの生き方を、みんなでちょっと考えてみようという主旨のサロンです。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

お花見に絶好な、お出かけ日和の土曜日にもかかわらず9人の人が集まりました。
サロン初参加の方もいました。

それぞれが「ちょっと気になっていること」を話すことから始めました。
「街中でのマナーやルール−の話」「本音で話し合う場が少なくなっているようだ」「弱いものへのバッシングが多い」「なんとなく将来への不安がある」「人のつながりがよわくなっている」「マニュアル化が進んでいる」「人に声をかけることが少ない」「みんな忙しくて余裕がない」「政治につながる話は話題にしたがらない人が多い」などいろいろと出ました。
「誰かが良いことを始めるとみんなそれに従うが、その人がいなくなるとみんなまたやめてしまう」という、具体的な話も出ました。
言い換えれば、みんな「はみ出したくない」のだというわけです。
「みんなどんなことが気になっているのかが気になって参加した」という人もいました。
何か気になるが、その実体が必ずしも見えてきていないのかもしれません。
どうもみんな「モヤモヤ」している。
実はそれがこのサロンを始めた理由の一つでもあります。
一方で、高円寺駅の駅長が毎朝、乗客に挨拶しているのがうれしいというような、「ちょっといい話」も出ました。

それからみんなで自由に話しだしましたが、話題はかなり学校教育の話になりました。
子どもたちはまさに社会の鏡ですが、子どもたちの学びの場への関心がみんな高いようでした。
学校での目標は何なのか、自分をしっかりと育てることなのか、社会の中で波風立てずに自分をなくしていくことなのかというような、学校教育の本質にまでつながる話もありました。
学校の先生たちが忙しすぎて、子どもたちの学びの場を豊かにする余裕がないのではないかという話もありました。
話していて、次の社会を創っていく子どもたちの学びの場が、あまり見えていないことに改めて気づかされたような気がします。
これは改めて、サロンを企画することにしました。

沖縄や福島の話も出ましたが、現地に触れている人からは、現地の実状とマスコミ報道との違いも話題になりました。
学校現場だけではなく、私たちはまだまだ知らないことがたくさんある。
もっといろんなことを知っていくことが、社会を豊かにしていく出発点かもしれません。

ちょっと気になるどころか、大いに気になることとしては、日本の政治のリーダーが言葉を壊しているという指摘もありましたが、いろんなところで信頼が揺らぎだしている。
信頼がない世界では、やはり不安がぬぐえない。
なんとなくみんなが「不安」に陥り、モヤモヤしてしまうことの背景には、そうした「信頼関係」が失われてきている状況があるのかもしれません。

それにもつながるかたちで、「マナーとルール」について少し話し合いました。
このテーマは、改めて時間をかけて話し合いたいと思いました。

政治には「統治権力のなかでの権力闘争」と「生活をよくするための政治」とがあるように思います。
前者が政治として捉えられがちですが、本来の政治の目的は後者のためであるはずです。
そして、後者の主役は国民一人ひとりです。
政治は国会議事堂や霞が関だけにあるわけではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
「おかしいこと」があれば、「おかしい」という。
それも大切な「政治活動」です。
引き続き、肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるようなサロンをつづけたいと思います。

ちなみに、2つの政治に関して、前にブログで書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-7079.html

このサロンと並行して、日本の政治や国家のあり方をテーマにしたサロンも引き続き企画したいと思っています。
こんなテーマで話し合いたいというテーマがあればご連絡ください。
主権者である私たちの手に、政治を取り戻したいと思います。
批判するだけではなく、できることから始める行動への広がりを意識しながら。

お花見にもいかずに参加してくださったみなさんに感謝します。
このサロンの出発点になった主原さんの「モヤモヤ感」に感謝します。
少しずつ晴らしていければうれしいです。

■書籍「社会保障切り捨て日本への処方せん」のお薦め(2018年3月26日)
医療制度改革に精力的に取り組んでいる本田宏さんが、とてもわかりやすい本を書いてくれました。
「社会保障切り捨て日本への処方せん」(本田宏 自治体研究社 1100円)です。
ぜひ一人でも多くの人に読んでほしい本です。
本田さんは、情熱の人です。
いささか思いが強すぎて、話についていけない人もいないわけではありませんが、きちんとお話を聞けば、みんな共感するはずだと私は思っています。
本田さんの思いを、ぜひ多くの人に知ってほしくて、何かできることはないかと考えていたのですが、この本を広めていくことに、まずは尽力したいと思います。

本田さんは、外科医として医療に取り組むむかたわら、日本の医療制度や社会保障制度を国民の視点から改革していくための活動に取り組まれてきています。
一時期は、テレビなどでもかなり発言されていましたので、ご存知の方も少なくないと思います。
そうした活動を進めるうちに、本田さんの思いは、医療や社会保障にとどまらず、教育問題や政治問題、つまり社会そのもののあり方を変えていかなければという思いにまで広がり、還暦を契機に、社会活動に専念すべき、外科医を引退したのです。
以来、医療と日本再生のための講演や執筆などの情報発信に加えて、幅広い市民の連帯を目指して多くの市民活動への参加に全力を投じてきています。

湯島のサロンでもお話していただいていますが、もっと時間をかけて、多くの人に聞いてほしいといつも思っていました。
ですから本書が出版されたことは、とてもうれしいことです。
本書では、本田さんが伝えたいことの一部だとは思いますが、本田さんがなぜ人生を変えてまでこの活動に取り組んでいるのか、そして本田さんが一番伝えたいことは何か、がとても誠実にわかりやすく書かれています。
思いはこもっていますが、単に「思い」だけで語っているのではありません。
医療現場での体験と広い視野からのデータに基づいて、日本のどこが問題で何を変えれば医療や社会保障が充実するのかを、広い視野と深い洞察のもとに展開しているのです。

具体的な内容は、本書を読んでいただきたいのですが、本田さんが、なぜこうした活動を続けられてきたのかの理由を紹介させてもらいます。
それは、「諦めずに明らめる」ように努めてきたからだと、本田さんは言います。
そして、問題の本質を明らめるための4つの視点として、「全体像を把握せよ」「ショック・ドクトリンに騙されるな」「歴史に学べ」「 グローバルスタンダードと比較する」をあげています。
これは、最近、私たちがともすれば失いがちな姿勢ではないかと思います。
そしてそうした4つの視点を活かすためには、考える基盤になる情報がポイントになるので、情報に振り回されないメディア・リテラシーを高めなければいけないと呼びかけます。

それに関連して、本田さんは、「日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している」という、鈴木傾城さんという人のブログを紹介し、次のように書いています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。

「多くの日本人は勘違いしているが、覚えると考えるは別である」と鈴木氏は強調し、「日本では国民の8割がサラリーマンのため学校の重要な使命は上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先するように規格化すること」と日本の教育を一刀両断にしています。確かに教育こそが国家にとって都合のよい人間を生産できるシステムです。振り返れば医療費抑制の国策の結果の先進国最少の医師数の中で、家庭を犠牲にしてまで黙々と働いてきた私も、「言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」という、考えない教育の賜物だったのです。

「終わりに」で本田さんが書いていることにも心から共感しますので、これもちょっと長いですが引用させてもらいます。

政治が良くならなければ医療はもちろん社会保障や教育も良くならない、その一念で纏めたのが本書です。今後も日本を「国民第二に考える民主国家として子や孫の世代にバトンタッチできるよう、明日からも「考えて政治に関心を持つ人」を増やすことを目標に講演や市民活動に邁進したいと思います。

このメッセージを、私はしっかりと受け止めようと思います。
私も、生活とは実は政治そのもんだと思って、サロンを毎週開催しています。

本書は本田さんが続けてきている講演のエッセンスがベースになっていますので、とても読みやすいので、ぜひ読んでほしいです。
そして共感したら、まわりに人にもぜひ紹介してください。
また本田さんはいろんなところで講演もしていますので、機会があれば是非お聞きください。
本田さんは、何人か集まれば話に行ってもいいとまでおっしゃっています。
本書には出てこない、時にはちょっと滑ってしまうような、心和む楽しいジョークや横道話もたくさんあるので、書籍で読むのとは違った面白さと示唆があります。

いろんな意味で多くの人に読んでいただきたいと思っています。

■佐川元理財局長の国会証人喚問報道に感ずること(2018年3月28日)
昨日、佐川元理財局長の国会証人喚問がありました。
4時間すべてを見ましたが、あまりのひどさに驚きました。
そこで、フェイスブックに書きました。

佐川さんに同情的だったのですが、まったく期待を裏切られました。日本の官僚の誠実さはもう失われたのでしょうか。カントを読んでほしいです。
それにしても、あまりのひどさに驚きました。
官僚の言動は、私たち国民の言動を象徴しているのでしょう。

しかし、今朝の新聞やテレビを見て、佐川バッシングのすごさにまた驚きました。
みんな麻生さんみたいになっています。
こうなると、私としてはついつい「待てよ」とも思いたくなります。
佐川さんをこれほどひどく批判することができるのは、もしかしたらそこに自らを感じているからではないのか。
いつもに似合わず、そういう「自省的」な自分を感じます。
こうしたバッシングの動きも、またおそろしい。

ダーウィンのgroup selectionという理論があります。
一時期は人気がなかったようですが、最近また見直されているとも聞きます。
その考えによると、自らが所属するある集団が存続の危機に陥ると、メンバーは自らの利得、つまり自己を捨てて、その集団の構成要素である小さな細胞になる本性(能力)を生まれながらにして持っているというのです。
つまり、所属集団のために働く一匹のミツバチのようになるというわけです。
そして、集団維持意識のため以外の判断基準(たとえば社会的な常識や道徳観念)に盲目になってしまう。

集団への献身は人間が最も大切にする、生活の一断面だ、という心理学者もいます。
そうした、人間の本性が、英雄的な行為を生むとともに、戦争や集団殺戮も引き起こす、というのです。
ここには「利己主義」と「利他主義」の錯綜があります。
大切なのは、自らがどの「グループ(集団)」に所属していると思っているかです。

私は、できるだけ広い、理想的に言えば、時空を超えた世界を、自らの所属集団と考えたいと思っています。
できることならば、私にとっての利己主義は、利他主義などと言う排他的な「他の存在」をもたない利己主義でありたいと思っています。
もちろんそれは達成できておらず、時に、異質な判断への怒りを禁じえないわけですが。

しかし宿主を殺して、自らの世界を失う細菌やウィルスのような過ちは犯したくありません。
佐川さんの世界が、もう少し広くなれば、佐川さんも財務省も政府も社会も、みんな幸せになるのではないかと思います。

■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」報告(2018年3月31日)
有機農業に取り組む霜里農場の金子友子さんの「お金に縛られない生き方」をテーマにしたサロンには、20人を超す人が参加してくれたため、時間を1時間延長したにもかかわらず、発言できない人がいたほどの盛況でした。
最初は申し込みがあまりなかったので、テーマを有機農業にすればよかったなと思ったほどでしたが、やはりお金に呪縛されない生き方への関心は高いようで、サロン企画者としては、それだけでもうれしい結果になりました。
ただしサロンそのものは、人数が多くて、話の交通整理で大変で、疲れました。

金子さんの話は、なぜアナウンサーから農家に嫁いだのか、ということからはじまりました。
金子さんがアナウンサーとして社会で活躍しだしたのは1960年代の半ばです。
私も同年齢ですが、その頃から少しずつ高度経済成長の矛盾の予兆が出始め、1970年代になると、日本の社会は大きく変わりだしました。
有吉佐和子さんが朝日新聞に『複合汚染』を連載しだしたのが1974年。
水俣病などが大きな話題になり、環境問題や食の安全への関心が高まっていた時期です。

アナウンサーとして、時代の先端の情報に触れる中で、彼女の世界も変わりだしていったようです。
いろいろなドラマティックなエピソードもありますが、そこで出会ったのが、埼玉県の小川町で、化学肥料や農薬を使わずに、自然の有機的な循環を活かした農業に取り組んでいた、「変わり者」の霜里農場の金子美登さんだったのです。
そこで結婚。生活は一変しました。
その後、時代の大きな流れの中で、有機農業への関心は高まり、霜里農場もテレビや新聞などでも取り上げられ、全国(海外も含めて)から実習研修生も集まるようになってきました。
「変わり者」は「時代の先駆者」へと変わり、霜里農場は有機農場のメッカになっていったわけです。

しかし、そこからが、やはり「変わり者夫婦」なのでしょう。
時流が変わったからといっても、金子夫妻の生き方は変わることはありませんでした。
2014年には天皇・皇后が霜里農場に行幸され、翌年金子美登さんは黄綬褒章を受けられましたが、2人の生き方は全く変わっていないのだろうと思います。
有機農業ブームのおかげで、経済的にも成功した人も少なくないでしょうが、金子夫妻にはたぶん「縁のない話」で、有機農業ビジネスやアグリビジネスという発想はないのです。
これまで通り、共感してくれている消費者に丹精込めた野菜を直接届けながら、地産地消で自給型地域生活を目指した活動に地に足つけて取り組んでいます。
金子夫妻にとっては、農業と生活はしっかりとつながっているように思います。

いろんなエピソードも紹介されました。
アレルギーで長年薬を飲み続けていた人が、農場に実習に来て薬を飲み忘れているうちに、気がついたらアレルギーが治ってしまった話、火事で自宅が全焼した時には、全国から70〜80人の仲間が来てくれて、2日間で片づけが終わった話、お金を介さない物々交換や事々交換の話など、いろいろとありました。
お金の話も何回か出ましたが、誰かに役立つためのお金の話だったように思います。
老後のためにお金をためていますかと私は不躾な質問をしましたが、どうもその意味さえ伝わらなかったようでした。
たぶん彼女にとっての老後の蓄えは、お金ではないのでしょう。

話し合いの中から出てきた、「お金に縛られないためのヒント」を2つだけ紹介します。
まずは、「人のつながり」の大切さです。
お金を介さずとも、人の支え合いで解決する問題は少なくないばかりでなく、人とのつながりが生活の安心感の拠り所になるということです。
もう一つは、人にあげられるものはあげまくるという、友子流の生き方です。
彼女がつくっているのが野菜だということもありますが、余った野菜はみんなに挙げてしまうのが、彼女のやり方です。
たとえば、道の駅に野菜を売りに出していますが、売れ残ったものは持ち帰らずに、店舗のスタッフの人などに挙げてしまうのが彼女のやり方です。
いや余ったものだけではありません。
彼女が関わっている加工品もあるのですが、それを買いに来た人にまで、たとえば子育て中の若い人だと、どうもあげてしまっているようです。
それがいろんな形でまた返ってくるので物々交換だと彼女は言いますが、私が思うには、彼女にはそもそも「交換」という発想さえないのだろうと思います。
ともかく、あげられるものはあげてしまうわけです。
あげるものがなければ、笑顔だけでもいいわけです。

3時間にわたる長いサロンでしたので、いろんな話が出ましたが、たぶん参加されたみなさんは、彼女のさりげない話や表情から、いろんなことを考える刺激をもらったように思います。
少なくとも私はそうです。
小学校時代の同級生なのですが、これまで気づかなかったこともありました。
金子さんが持参してくれたイチゴやケーキなども美味しかったです。

有機農業に関した話もありましたが、これに関してはまた改めて企画したいと思います。
湯島ではなく、むしろ小川町の霜里農場でサロンをやるのがいいかもしれません。
どなたか実行委員になってくれませんか。

今回は、湯島のサロンが初めての方も数名参加してくれました。
はじめてだったのに、ちょっと窮屈だったうえに、発言の時間があまりなくてすみませんでした。
これに懲りずに、またぜひ遊びに来てください。
頭は疲れましたが、たくさん元気をもらいました。

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」報告(2018年4月3日)
2月に開催した「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンの参加者からの強い要望もあって、もう一度、開催しました。
今回も10人の参加があり、時間も4時間を超えてもまだ終わりそうな気配がないほどでした。
このテーマでの話し合いの場が、求められていることを改めて実感しました。

参加者の方から、思わぬご自身の物語が語りだされるのは、前回と同じでした。
みんなそれぞれに、生きる辛さや戸惑いを感じているのかもしれません。
私は「なぜ生きるのか」ということをあまり考えたこともなく、トラブルや喜怒哀楽すべてを含めて、生きることをそのまま受け入れて、生きています。
ですから、このテーマは個人的には苦手で、どう切り込んだらいいのかわからないのですが、みなさんの話を聞いているうちに、少しずつ問題の所在に近づけているような気がしました。

今回私が感じたのは、問題は「生きる喜びの見つけ方」と「実際の生き方」なのではないかということです。
またそうしたことと関連して、これまでの人生における「間違い」に呪縛されていることからの解放も大きなテーマかもしれません。
今回、みなさんの話を聞いていて、私もまた当事者だとようやくにして気づきました。
この種のサロンを何回も企画しながら、いまさらなんだと叱られそうですが。

今回は、「どうしたら生きる力を高められるか」も話題の中心になりました。
その分野で活動しているおふたりの、実践者の方が参加して下さっていたので、かなり具体的なアドバイスもありました。
おふたりとも、自らの物語を赤裸々に語ってくれたので、その処方箋には説得力がありました。
問題に対処するために、気持ちを整理する思考の枠組みや体験から見出した実践的な「法則」も紹介されました。

このサロンには、頭では理解していても身心がそう動かない「辛い」状況にある人も、私のように、身心での生きづらさを頭で理解できていない「不明な」状況にある人も参加しています。
抜け出そうとしている人もいれば、いま向かっている人もいるかもしれません。
もう60年も「生きる力」と正面から取り組んできている人もいれば、そうしたことを考える必要もない恵まれた状況の中で生きてきて、逆にいまここにきて、生き惑っている人もいる。
4時間も話していると、そういうことがなんとなくシェアされてくるような、そんなサロンだった気がします。
いろんな状況や考え方の人が入り混じっているおかげで、話が固まらずに、広がったり、視点が変わったりするのが、やはりサロンの良さかもしれません。

話の内容の紹介は、基本的にはオフレコですので書けませんが、最後はみんな明るく終われた気がします。
私はかなり疲れたので、しばらくはこの種のサロンは企画できないでしょうが、たぶんまたそう遠くない時に開催しそうな気がします。
切り口を少し変えるかもしれませんが。

生きることは辛い時もありますが、だからこそ生きる意味がある。
それに、辛いことと喜びや楽しさは必ずしも矛盾しません。
次回はそんなところまで話が進めばいいなと思っています。

■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」のご案内(2018年4月4日)
日本の神道文化にまなぶ神さまのいる暮らし
知的サロンのご案内です。
沖縄の話をしてくださった、平井さんに再びお願いしました。
でも今回のテーマは「神道」です。
平井さんは、「暮らしのしきたりと日本の神様」など、神道に関する著作もありますが、今回は平井さんの「神さまのいる暮らし」ぶりをお聞きしながら、それぞれの生き方を考える時間にできればと思っています。
神さまのいない暮らしをしている人の参加も歓迎です。
いまさら改まっては訊けないような質問にもきっと答えてくださいます。

以下、平井さんからの案内です。

以前、沖縄の話をさせていただきました平井かおると申します。
沖縄の取材に入るようになって18年。今では世代交代により、沖縄の暮らしもずいぶん様変わりしてきましたが、沖縄に足を運ぶなかで「神さまとともに暮らしがある」その姿を多く垣間見させていただきました。
そこで思ったのは、
「私は自分の生きてきた場所(日本列島)の神さまを知らない」ということでした。
考えてみれば不思議なことです。
神社を訪れた時など、私は心より神さまに手を合わせます。
ところがその「神さま」を私は知らないのです。

私はいったいどなたに手を合わせているのだろう?
それを知る術もよくわからないまま、まずは『古事記』と出遭うところから始めました。
縁あって、7年ほど前より、元國學院大学・神道学部教授のもとで神道文化の勉強を始めさせていただき、現在、この先生主宰のもと、「日本の神道文化研究会」を行わせていただいています。

私の師匠の言葉に、次のようなものがあります。
「神を畏れて、人を恐れず」
これは、「人を恐れて、神を畏れず」となってしまった現代社会への警告でもあります。

今回のサロンでは、『古事記』の話、神社の話、暮らしのなかにある神さまのことなどなど、
まなび、体験してきたことのなかからお話しさせていただければと思います。

○日時:2018年4月14日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「神さまのいる暮らし 日本の神道文化にまなぶ」
○平井かおるさん(日本の神道文化研究会会員)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと(2018年4月4日)
「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。

公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。

森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。

オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。

デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。

社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。

もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。

■一強体制に反対な人への疑問(2018年4月7日)
日本レスリング協会のパワハラ騒動に進展があり、告発されていた強化本部長が辞任しました。
やはりここでも「一強体制」が生まれていたようです。
一強体制に寄生している関係者が、真実を覆い隠しているという構図はここにも見られます。

権力は腐敗するという言葉はよく聞きます。
しかし権力が腐敗するのではなく、権力に寄生する人たちが腐敗するのでしょう。
権力とは、もともと腐敗しているものですから。
であれば、権力を担う人は、新鮮なうちに権力を手放す仕組みをつくればいいのですが、そういうことを望む人はたぶんほとんどいないでしょう。
しかし、権力を担う当事者にとっても、それが合理的です。
なにしろ、権力は寄生する人を腐敗させるのですから。
一番の被害者は、権力の中枢にいる人です。
韓国の歴代の大統領のゆくえを見ればよくわかります。

10年ほど前の日本は、毎年のように首相が変わっていました。
私はブログなどにも書いた記憶がありますが、とても正常なことだと思っていました。
しかし、多くの人はそれを好まず、湯島のサロンでも嘆く人がほとんどでした。
しかし、権力が腐敗すると思うのであれば、嘆くべきではないでしょう。
そう思っていたら、多くの人が望んでいた長期政権ができました。
そして出てきたのが、一強批判。
まさに度し難いのは、身勝手な国民です。
みんなが何を望んでいるのか、私にはよくわかりません。

日本の官僚制度は、権力が滞留しないように仕組まれています。
上級官僚は、時間も含めて長くは居座れません。
官僚の天下りは批判されますが、「天下り」という言葉を使うからおかしいのであって、官僚経験者が野に下り、社会の視点で活動するのは、悪いことではありません。
私は40年以上前に、ある提言書で、「公務員就労義務制度」を提案させてもらったことがあります。
行政職は、もっとみんなが体験すべき仕事だと思っています。
天下りという言葉で象徴されるように、官尊民卑の風潮が広がり、そこに「権力」が入り込んできたのが不幸でした。

これも前に書いた記憶がありますが、ヨーロッパにあるサンマリノ共和国では、元首に当たる執政の任期は半年で、しかも2人で構成されています。
立法機関は比例代表制選挙で選ばれた国民が務め、任期は5年です。
しかも驚かされるのは、司法を担う裁判官は外国人です。
小さな国だからそんなことができるのだと言われますが、理念は規模の大小には関係ありません。

権力に寄生する生き方をやめなければいけません。
一強批判をしている人は、もし自分が、その「一強」側だったらどうするでしょうか。
私は、もしそうなったら、自らを律する自信はありません。
幸いに、権力も肩書きも、無縁な状況で生きていけるので、幸せですが。

■見えている風景(2018年4月10日)
この数日、安倍政権支持派の人の本を何冊か読んでいました。
たとえば、岩田温さんの「「リベラル」という病」、「東京裁判をゼロからやり直す」(ケント・ギルバートさんと井上和彦さんの対談「東京裁判をゼロからやり直す」などです。
安倍政権には反対の立場にあるために、ともすると、読む本が偏りがちなので、時々、意識的に自分とは立場が違う人の本を読むように時々心がけているのです。
そういう本は、読みだしてすぐに投げ出したくなることもあるのですが、読んでいくうちに奇妙に納得してしまうこともあります。

それはそれとして、岩田さんの本にこんな文章が出てきました。

私から見れば、ほとんどのメディアが「改憲」を危険視し、「護憲」の重要性を説いている。テレビのコメンテーターの多くは、安倍政権に批判的であり、改憲に対して危機感を煽るような発言を繰り返している。

人によって、やはり受け取り方は違うのだと改めて思いました。
私は、テレビのコメンテーターの多くは、みんな安倍政権応援派であり、改憲を支援していると受け止めていました。
人が見ている風景は、実は自分なのかもしれません。

■「記憶の限りでは会ってない」(2018年4月13日)
いま話題になっている、柳瀬首相秘書官の「記憶の限りでは会ってない」という言葉は、言葉としてはよくある言葉だと思いますが、それをめぐる政局がらみのやり取りを踏まえて考えると、面白い言葉です。
たとえば、私が「会っている」と言葉にした時、それは「会った記憶がある」ということです。
過去形の話はすべて「記憶」の中にある話です。
ですから、「記憶の限りでは会ってない」というのであれば、それは会っていないのです。
柳瀬さんの記憶力はそんなに病的ではないでしょうから、記憶にない以上はそう信じざるを得ません。
嘘をついていると思う人がいるかもしれませんが、そんな誰にでも嘘とわかるような嘘をつく人が官僚のトップに立てるはずはありません。
となれば、事実は次のように考えるのがいいでしょう。
愛媛県庁の職員は柳瀬さんに「会った」のすが、柳瀬さんはその職員には「会っていなかった」のです。
どういうことか?
両者の言葉遣いが違うのです。

たくさんの家来を持つ権力者は、毎日、たくさんの家来や外国からの来客に謁見することがあって、その一人ひとりと「会っている」とは考えていないかもしれません。
仮に、言葉をかけたとしても、それは「会話」ではなく、言葉を「放した」のであって、「話した」のではないかもしれません。
私は、かなりの平等主義者ですが、今朝、庭の花に水をやった時に小さな虫がいましたが、その虫に会ったという感覚はありませんし、おはようと声をかけましたが、会話した記憶は残りませんので、数日後には記憶の世界から消えるでしょう。
「会う」という行為には、「意志」が伴います。
謁見の場に次々と賓客が通り過ぎていっても、王様に「会う」という自らの意志がなければ、記憶は残らない。
言葉を発しても、相手が意志のある存在だと受け止めていなければ、「会った」という記憶は残らない。
幸運に恵まれて、王様に会えた家来や賓客は、「会えた」という記憶と共に、王様から放たれた「意志のない」儀礼的な言葉に感激し、記憶に残るでしょうが、王様にとってはルーチン作業の一つでしかありませんので、記憶には残らない。
柳瀬さんは嘘を言っていないのです。
本当に会っていないのです。
柳瀬さんにとっては、愛媛県の職員は人間には見えなかったのです。
ですから「陳情者を見ましたか」「彼らに言葉を授けましたか」ととえば、きっと柳瀬さんは思い出すでしょう。
なにしろ「優秀な人」だそうですから。
私は、人を優秀だとか賢いとか評価するような「レイシスト」思考はありませんが、そういう人に会ったことはあります。
そういう人のなかには、人を人を思わずに、物扱いする人もいます。

もうひとつの解釈は、柳瀬さんはシステムの部品に見事に組み込まれていると考えることです。
柳瀬さんは、主体性を拠り所にした人間をやめて、システム(官僚機構)の部品になってしまった。
つまり、物になってしまっている。
ですから悩んで自殺することも周囲の人への心遣いもしないですむ。
佐川さんのように、堂々と国会証人喚問に対応できるでしょう。
正確には、証人喚問ではなく、証物喚問ですが。
国会議員が物言わぬ「物」にまじめに問いかけている風景は滑稽な気さえしました。
もしこの解釈の場合は、システムのバグという捉え方もできます。
それも不要なバグではなく、必要なバグ、コラテラル・バグです。
たぶんようが終われば切り捨てられる。
それがコラテラル・バグの定めです。
いま奮闘している大谷さんも、コラテラル・バグと捉えれば、どうしてあんなに頑張れるのか。が理解できます。

ある事実、ここでは「会ったかどうか」に関しては、「否定」か「肯定」しかありませんが、当事者の捉え方がいずれかに分かれるのは理解できることです。
しかし、社会的な意味では、あるいは人間社会の関係性においては、柳瀬さんは、会ったことを認めているとしかいいようはないでしょう。
にもかかわらず、みんなしつこく追いつめる。
喜劇でしかありません。

いま、国分功一郎さんの「中動態の世界」を読んでいますが、そのプロローグにこんな隊泡が出てきます。
一部の引用なので、わかりにくいでしょうが、私はよく経験することです。

「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」
「ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその2つの狭間にいるという感じかな」

「中動態の世界」は面白いです。

ちなみに、土俵に女性を上げないという話も、論点がかみ合っていません。
だからこそ、「事件」になり、テレビネタになるのでしょう。
いずれの問題も極めてシンプルな話です。
議論すべきことはもっと別にあるように思います。

■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」報告(2018年4月12日)
仮想通貨という「時の話題」ということもあって、遠方からの参加者も含めて、14人のサロンになりました。
渡辺さんは、まず前半で「社会インフラとしてのお金」がどう変化しつつあるかを、近未来に焦点を合わせて、具体的な事例を紹介しながらていねいに説明してくれました。
そして後半では、いま話題の仮想通貨について、その投機性も含めて、これもまた具体的に説明してくれました。
参加者は、それぞれ関心の置き所が違っていることもあって、話し合いは難しかったように思いますが、新しい知識を含めて、それぞれ世界を広げたことは間違いないと思います。

「社会インフラとしてのお金」の部分では、私は「預金封鎖」という歴史が日本でもあったこと、その目的が財産税につながっていたことを知りました。
改めて「社会インフラとしてのお金」のパワーを知りましたが、同時に、これまでの枠組みから抜けることのむずかしさもわかり、逆説的に言えば、お金はもはや「社会インフラ」ではなく、ますます管理のための仕組みになってしまっているように思いました。
そうであれば、そこに「投機性」が入り込んでくることは避けがたいような気がします。

産業としての金融業の収益の過半が手数料収入になっているということも、改めて教えてもらいました。
これは経済の変質を象徴しています。
手数料も、もちろん「社会価値」を生み出していますが、仮想通貨のメリットの一つは、そうした「手数料」を縮減することだといわれると、なにやら大きな矛盾を感じます。
そのあたりから、仮想通貨の存在意義が、私にはなかなか見えなくなってしまいました。
しかし、海外送金の手数料が高いために社会的な活動に困っていた人からは、その手数料が減少することで、公益的な活動がやりやすくなるという話が出ました。
そういう点ではたしかに、仮想通貨の効用も認めざるを得ません。

渡辺さんも指摘されましたが、そもそも「仮想通貨」という呼び方に、ある胡散臭さがあります。
海外では一般的には「暗号通貨」と呼ばれているそうです。
私は「デジタル通貨」でいいと思っています。
名は体を表すと言いますが、呼称をどうするかは非常に重要で、その実体がどう育っていくかにも大きな影響を与えるはずです。

後半では、これから広がっていくであろう新しい通貨システムの話が出ました。
今回は、その説明会ではなかったので、詳しい話を聞きたい人は、改めて渡辺さんのセミナーなどを受けてもらうことにしました。
ちなみに、渡辺さんも、新しい通貨が投機手段に使われることには否定的ですが、デジタル通貨が安定した通貨システムに育っていくためには、投機的な要素を持つ段階があることは認めています。
そして、いまの紙幣通貨は、早晩、デジタル通貨に代わっていくという見通しの中で、個人としてしっかりと対策を取っていかなくては、その流れからはじき出されて、場合によっては被害をこうむりかねないと考えているようです。
たしかに、通貨システムが大きく変わる状況の中で、損をする人と得をする人が生まれる恐れは否定できません。
そもそも、そんなことが起きないようにするのが、社会インフラとしての通貨システムだろうと私は思いますが、この辺りをどう考えるかが、「仮想通貨」に対する姿勢の違いになるのかもしれません。

あんまり基礎的な知識がないため、渡辺さんのメッセージを正確に報告することはできないのですが、私はやはり「信用システム」の話と「通貨という媒体」の話が混同されているような気がしました。
渡辺さんが言うように、たぶん世界的に見たら、日本の信用システムは遅れていて、それが、経済のグローバル化の中では問題なのかもしれません。
しかし、だからといって、その唯一の解決策が「仮想通貨」というわけでもなく、もっとシンプルでフェアな信用システムは創案できるように思います。
サロンでも、たとえば、「SUICA」の話も出ました。

お金を使う仕組みと同時に、お金を生み出す、つまり社会価値を生み出す経済のあり方を真剣に考えるべきだとも思いました。
今回のサロンでの話の中心は「消費」の局面でしたが、経済の大本の価値を創り出すための「お金」の側面も大切だと思います。
地域活性化の話も少し出ましたが、むしろこの側面は地域通貨などで考えるのがいいように思います。

投機というのは、価値を生み出すのではなく、価値の移転で利益を上げていくということですから、一方ではとんでもない損害を受ける人がいるわけです。
損をするのも避けたいですが、私自身は得をするのも避けたいです。
みなさんはいかがでしょうか。
そこに「生き方」の本質があるように思います。
通貨の機能としては、教科書的には「価値の尺度」「価値 の保存」「交換の手段」の3つが挙げられますが、私はこれに加えて、「価値の創造」と「価値の移転」があると考えています。
これについて詳しく書いた本を私は知りませんが、もしご存知の方がいたら教えてください。
これは、経済システムの本質につながっている問題です。

AI(人工知能)の話に絡んで、人間ってなんだろうか、という問題まで話が進んだところで、時間オーバーになりました。
お金の問題を考えることは、生き方を考えることでもあると、改めて感じたサロンでした。

話題提供してくださった渡辺さんに感謝します。
社会インフラとしてのお金シリーズは、不定期に継続させてもらいます。

■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」報告(2018年4月14日)
「神さまのいる暮らし」サロンは、17人という大人数のサロンになりました。

話題提供者の平井さんは、最初に、基礎知識編として、神様の話から始めました。
神道、というよりも、神(儒教からの言葉だそうです)以前の「ヒ・チ・タマ・モノ」といった、やまとことばから捉えるカミの話や、罪穢れや禊祓いなどの「かんながらの道」の話で、すなおに心にはいるお話でした。

つづいて、そうしたことが日常生活のなかにしっかりと組み込まれていて、私たちの日常は、まさに神さまとともにあるのだという話をとても具体的に話してくれました。
たとえばこんなことです。
朝目覚めて、身体を動かすことで、身のうちの魂(たま)が振られて(たまふり)、清浄な状態になる。
つまり、誰もが毎日、魂を清浄にすることから1日をはじめているのです。
そして朝食では、食べ物(給べ物)を賜り、掃除で自らの身と身の回りを祓い清め、働くことや遊ぶことでたまふりを重ね、そして夜には入浴で禊(みそぎ)をする。
私たちの日常は、まさに神様と共にあるわけです。
神様は神社だけにいるわけではないようです。
そう思っただけで、日常生活の捉え方が変わってくる。

起きている時だけではありません。
眠っている間に、魂が身体に留まってばかりいては、停滞による穢れ(気枯れ)が起きかねません。
それで寝ている時に、魂は外在魂に入れ替わってもらって、身体を遊離して、朝には元気になって戻ってくるのだそうです。
神様は年中無休の重労働なのです。

そして、平井さんの師匠で日本の神道文化研究会を主宰されている神道学者の三橋健さんの、「神を畏れて、人を恐れず」の言葉で、話をまとめてくださいました。
「神への畏れ」が、生きる力を与えてくれて、生きやすくなる。

ちなみに、平井さんは、数年前から毎日、神棚に手を合わせているそうですが、そのおかげで、平井さん自身も変わってきたそうです。
神様を信ずると、良いことがあるのです。
年に一回、神社でお願いするよりも、毎日の暮らしの中に神様を意識することのほうがご利益はあるようです。

話し合いでもいろんな話題が出ました。
最初に出たのが、「神教」ではなくどうして「神道(しんとう)」になったのか、という質問でした。
そこから宗教と信仰のような話が出て、一神教と多神教の話になりました。
いわゆる「宗教」と、そもそも呪的信仰から始まった神道とは、本来違うものでしょうが、その素朴な信仰がいまもなお近代生活の中に調和して存在しているのは、とても興味のあることです。
私は、それこそが日本文化の一番の特徴ではないかと思っています。

古事記の話や、天岩戸神話の話、そしてなぜかかぐや姫の話も出ました。
京都からわざわざ参加してくださった「記紀」の研究者だった高林さんは、天岩戸神話でなぜ岩戸が開かれたかの理由を話してくれました。
そこからアートや芸能、音の話も広がりました。
ちなみに平井さんの研究テーマは、「音」だそうですが、地鎮祭などで発せられる警蹕(けいひつ)の話も出ました。

神社などの神域には、そこに行くだけで心身が清められる気がするという話も出ました。
お神札(ふだ)は、まわりの邪気を吸い取る効果があるそうですが、自己浄化することはできないため、1年ごとに神社に戻し、新しいお神札に替えるわけですが、神様をよく知っている人によると働かせすぎだそうです。
1年も祀っていると神札は邪気を吸い込んで、力尽きてしまうので、長くて6か月、できれば3か月で、新しい神札にバトンタッチさせた方がいいそうです。
最近の社会は穢れが進んでいるため、そうなってしまったのでしょう。
私は、この話が一番面白かったです。
神様を働かせすぎては、それこそ罰が当たります。

最後は、「神さまとどう出会うか」という話で盛り上がりました。
生きにくさから抜け出せないという人の切実な質問から始まったのですが、私自身は、神様とは毎日出会っていることに気づくと元気が出るというメッセージを、今回は平井さんからもらった気がします。
ですから、会おうなどとは思わずに、ただただ「祈る」だけでいいのではないか。
邪気に満ちた世界で神様を頼る人が増えてしまうと、神様が過労死しかねません。
宝くじに当たりますようになどといって、神様頼みするのは我慢して、神様が元気でいられますようにと、神様のために自分に何ができるかを考えて、祈るのがいいと思っています。

今回も、実に多彩な方々が参加してくださいましたので、参加者みなさんの発言からも、たくさんの気づきをもらいました。
平井さんはじめ、参加されたみなさんに感謝します。

報告が遅れてすみませんでした。

■哀しい風景(2018年4月20日)
財務省の福田事務次官をめぐる話は滑稽なほどおかしな方向に展開していますが、実際に起こっている事実としては、私にはそう異常な話ではなく、まあよくある話の一つではないかと思います。
そうした話は、特に官庁に限った話ではなく、企業においても、つい最近まではさほど異常ではなかったのではないかと思います。
いや、いまもいろんなところで起こっているのではないかとさえ思います。

そもそも、女性はいまだ人権を認められていないような気がしてなりません。
私がそう思うのは、そもそも「男女共同参画」とか「女性活性化」とか、そんな言葉が、当の女性からもさえ、受け入れられているからです。
ついでに言えば、人権が認められていないのは女性だけではありません。
男性もまた人権を認められず、自らも権力に寄生する生き方を選択しているように思います。
そうした構造の中で、自らよりも下位に置く、弱い者をつくりだすというスタイルがいまなお続いている。
まあこんなことを書くと非難ごうごうでしょうが、セクハラなどという言葉にさえも、私はそうした意識が感じられます。
セクハラではなく、人権侵害であって、女性だけの問題ではないだろうと私は思います。

土俵に女性を上げないのがおかしいという話は、私には笑止千万です。
そういう相撲界を国技としていたのは、女性も含めて、私たちでしょう。
問題は、女性を土俵に上げるかどうかなどという問題ではありません。
問題の立て方が間違っているのではないか。

話は少し広がりますが、たとえば貴乃花事件における貴乃花は、私にはいかにも暴力的な存在でした。
ビール瓶で叩くよりも、問いかけや呼びかけを無視する方が、私には暴力的だと思うからです。
まあこれはさらに非難を受けそうな発言ではありますが。
貴乃花が、結局、自分の部屋で暴力事件を越したのは、私には当然のことだと思っています。

財務省の対応がおかしいと思う人は多いでしょうが、あそこまで極端ではないとしても、多かれ少なかれ、組織はあんなものではないかと思います。
自分の組織の常識が、社会の常識だと思っていますから、矢野官房長にしても、自分がおかしいとは思っていないのでしょう。
財務省の場合、あまりに強い組織ですから、自分の組織の常識を相対化できないために、あまりに無防備に素直に露呈しているだけだろうと思います。
同じような「非常識な常識を持つ組織人」に私はこれまでたくさん会ってきています。
しかしここまであっけらかんと自らの考えを素直に出す人は、よほどのナルシストか自信家です。
彼らは、佐川さんも含めてですが、自分が悪いことをしたなどとは思っていないのでしょう。
小野寺さんも林さんもそうでしょう。
でも私には、彼らの言動はおかしく見えます。

さらに言えば、自民党だけが女性蔑視ではないように思います。
テレビで垣間見る野党の男性政治家の反応も、どこかで苦笑いしたりしていて、誠実さを感じません。
いや男性議員だけではなく女性議員も、誠実さを感じません。
今日の財務省訪問での映像も、私には奇妙にしか見えません。
問題はもっと深く、あなた自身もこれまでずっとそうした常識に迎合してきたのではないかと、つい思いたくなります。
訴えるべき相手は、国民でしょう。
反省すべきは自らでしょう。
そう思えてならないのです。

何か事が起こると、それに乗じて、力を失ったものを寄ってたかって叩きのめす。
私には、とても哀しい風景です。

■カフェサロン「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」のご案内(2018年4月21日)
日本子どもNPOセンターの森さんから、児童労働の問題を多くの人たちに知ってもらいたいので、湯島でサロンを開きたいという申し出をいただきました。
日本子どもNPOセンターは、2002年に、子どもたちの生き生きした育ちを願い、子どもや若者に関わる多様なNPOの実践者たちが立ち上げたNPOです。
2015年には、「子どもNPO白書」も発刊しました。
今夏、その第2号が出版される予定です。
また、今年から新しい試みとして、ブックレットの刊行に取り組みだし、第1号「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」が3月に出版されました。

このブックレットは、児童労働(学習の機会を奪う労働、危険な労働、子ども兵士、性的搾取など)の問題に取り組んでいるNGOフリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)の実践活動を中心にまとめたものです。
フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)は、1995年カナダで当時12歳のクレイグ少年によって設立された国際協力団体Free The Childrenを母体に、1999年に日本で活動を始めた団体です。
http://www.ftcj.com/

フリー・ザ・チルドレンのミッションは、次の2つの「Free」を実現することです。
まず、国内外の貧困や差別から子どもをFree(解放)すること、そして、「子どもには世界を変えられない」という考えから子どもをFree(解放)することです。
今回のサロンでは、まず児童労働の現状と児童労働をなくす取り組みの話をしてもらった上で、「子どもには世界を変えられない」という考えから子どもをFree(解放)するためにはどうしたらいいかを話し合えればと思います。
この問題は決して、「遠い国の話」ではなく、私たちの暮らしの今と未来につながっています。
ぜひ多くのみなさんにご参加いただきたいサロンです。

参加される方ももちろんですが、参加できない方にもぜひブックレット「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」(432円)をお読みいただければと思います。
同書のご購入は、直接、森さん(QZP13433@nifty.com)にご連絡ください。あるいは湯島でも購入可能です。
サロン当日にも購入可能です。

○日時:2018年5月20日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」
○話題提供者:中島早苗さん(フリー・ザ・チルドレン・ジャパン 代表理事)
       森透さん(日本子どもNPOセンター理事)
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■北朝鮮を信用できるかという発想(2018年4月22日)
私は、発言の語尾がかなり気になるタイプです。
発言をどうまとめるかで、その人の心情がわかるからです。
たとえば、私が苦手の言葉のひとつが、「…しましょう」です。
発言者にはまったく悪意も意図もないのでしょうが、そういう発言にはどうも反発を感じます。
目線の高さを感じてしまうのです。
同じく「…でしょう」もあまり好きではありません。
念のために言えば、こうした表現を私が使わないというわけではありません。
少ないとは思いますが、たぶん使用しているはずです。
だから他者のことだけを言っているわけではなく、その時の自分も嫌いなのです。

今日、気になったのは、北朝鮮の核政策転換発言に関して、「信用できるか」という表現が新聞やテレビで使われていたことです。
そういう表現をしている人は、信用していないのでしょう。
なぜこの表現が嫌いかといえば、判断の視点を相手に置いていて、「自分」がないからです。
私の発想では、「信用できるかどうか」ではなく、「信用するかどうか」です。
相手が信用できるかどうかは私にはわかりませんし、どうしようもないことですが、自分が相手を信用するかどうかは、自分の意志で決められることです。
自らの意志で決めたことの責任は自分でとれます。
万一それで何か問題が起きたら、それは自らの責任です。
相手のせいにはできません。

もちろん、「信用できるかどうか」には、「相手が信用できるかどうか」と同時に、「相手を信用できるかどうか」という意味もあります。
ですから「信用するかどうか」と同じことだといえるかもしれませんが、微妙な違いを感じます。
ややこしい話になるのでやめますが、いずれにしろ、自分を棚上げしているように、私には思えます。
いずれにしても、結局は「北朝鮮を信用していないことには変わりはないからです。

相手を信用しなければ、相手からも信用されないのは当然の帰結です。
そもそも相手が決めたことを最初から信用しないのであれば、相手と交渉を持つべきではありません。
相手を信用することから、交渉ははじまるのだろうと私は思います。
実はこれは先日湯島でやった、ある研究会でも話題になったことです。
契約の前提に「信頼関係」はあるかどうか。
よく言われる「人は性善か性悪か」という話にもなりかねませんが、これは人間観につながっています。

私は、人は基本的に信用できると思っていますし、人の性は本来「善」だと確信しています。
そう出なければ、生きていけないでしょう。
にもかかわらず、堂々と「相手を信用できるか」などということを、相手も読んだり耳にしたりするメディアで表明することが不思議でなりません。
そういう姿勢では、事態は変わらないのではないかと思います。

ちなみに、核抑止論の矛盾が、ここにも露呈されているように思います。
核抑止論は、私にはとんでもない間違いでしかありません。

■第1回CWS投げ銭サロン「〈健康で長生き〉したいですか?」報告(2018年4月22日)
湯島のサロンに、新しいメニューが加わりました。
話を聞いた後、共感した度合いに応じて、話し手に「投げ銭」をするという、「投げ銭サロン」です。
テーマは、「健康で長生きしたいですか?」
副題は「脱・生欲のススメ」です。
参加されたのは11人でした。
新しい企画の上に、タイトルがかなり挑発的なので、もっとたくさんの方が来るかと思っていましたが、意外と反応がよわく、ちょっと脱力しましたが、川島さんのお話はとても面白かったです。

話は、最近話題になった、西部邁さんの入水自殺ほう助への川島さんの感想から始まりました。
つづいて、日本では自宅のお風呂で溺死する人の数は交通事故での死亡者よりも多いという話になり、そこからだんだん本論に入っていきました。
長生きの問題を考える場合、平均寿命と健康寿命を考える必要があると、川島さんは言います。
その差を「不健康期間」とすると、国内的にも世界的に見てもそれは7〜10年だそうです。
ちなみに、日本の都道府県で見ると、平均寿命の一番短いのは青森県で77歳(2010年)、不健康期間の一番短いのも青森県で6.99年(2013年)。
逆に平均寿命が一番長いのは長野県(80.88年)。
不健康期間が一番長いのは京都府(10年)だそうです。
さて、あなたはどちらがいいでしょうか。

川島さんは、「健康で長生きできるようにするための3つの施策」を整理し、そこから、そうしたことへの「大いなる疑問」を表明されました。
「3つの施策」とは、「老人の介護を手厚くする」「医療を充実させる」「住環境の質を向上させる」ですが、それぞれに関連して、生きるということを考えさせてくれるような、さまざまな刺激と示唆を与えてくれました。
なかには、「常識人」であれば、ちょっと眉をひそめかねない話もありました。
しかし、よく考えてみると納得できると思います。
私自身は、そのあたりが一番面白く共感しましたが。

2045年にはAI(人工知能)が人間を超えだすといわれるシンギュラリティ予測がありますが、そうなった時に、はたして人間の生きる意味とは何だろうという問いかけもありました。
これも実に示唆に富む問いかけです。
そして、最後には幸せの話も出てきました。

話の流れだけを紹介しましたが、そのところどころで、ついつい「投げ銭」したくなる話や問いかけもありました。
いろんな話題が次々出てきて、予定時間が1時間以上伸びましたが、まだまだ話はつづきそうでした。
川島さんと参加者のみなさんのおかげで、投げ銭サロンは順調にスタートです。
どなたかよかったら第2回目に挑戦してください。

ちなみに、話が終わった後、どのくらいの投げ銭があったかですが、それは私も知りません。

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年5月3日)
「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンを2回開催しました。
参加者からの要望があったからですが、湯島のサロンとしてはちょっと異質なので、定例化はやめるつもりでした。
しかし、もう一度やろうと思い直しました。
そのきっかけは、鬼丸昌也さんの書いた「平和をつくる仕事にする」を読んだためです。
昌也さんの話は、昨年、友人たちから聞いていました。
残念ながら、その時はお会いできませんでした。
それで、昌也さんが書いた本が目にとまったので読んでみました。

昌也さんは、自分の行動は、「今、自分に何ができるのだろう」を考えることから始まった、と書いています。
私が人と会っている時に、いつも自問している問いかけと同じです。
すべてはそこから始まる。
そのことを、これまでの2回のサロンでも伝えてきたつもりですが、伝えたのではなく、そういう考えを発しただけだと気づきました。
そこで、もう一度、それを語り合うサロンを行うことにしました。
それぞれの人が、自分でできることを語るサロンです。
誰かに助けを求めるサロンではありません。
誰かを助けることのできる自分に気づくサロンです。

いつものように出入り自由ですので、途中からの参加も、途中での退出も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。

○日時:2018年5月15日(火曜日)午後6時半〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/だれかの役にたつことを考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■憲法記念日のお薦めの3冊(2018年5月3日)
今日は憲法記念日です。
私は毎年、この日には日本国憲法を読むことにしています。
必ずしもすべてを読むわけではありませんが、前文だけは必ず読みます。
私は、日本国憲法は前文だけでいいのではないかと思っていた時もあります。
前文は文章的には、あんまり美しくはありません。
内容もいささか整理されていない気もします。
しかし、そこには、国家は人々が幸せに暮らせるための仕組みでなければいけないという精神を感じます。
「人々」というのは、国民だけではなく、世界中の人々という意味です。
そこには心底共感します。

いま、憲法改正が話題になっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
しかし、実際には、そこから本質を変えられていくのでしょう。
ですから「護憲か改憲か」という問題が成り立つのだろうと思います。
でも、もし私が「護憲か改憲か」とか「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
「国家は人々が幸せに暮らせるための仕組み」でなければいけないか、と問われたら、即座に「はい」と答えられますが。

今年になって2冊の憲法関係の本を読みました。
篠田英朗さんの「ほんとうの憲法」(ちくま新書)と中島岳志さんの「保守と立憲」(スタンド・ブックス)です。
前者は発想の空間を広げてくれ、後者は発想の時間軸を広げてくれる本です。
もう1冊。私の友人が15年ほど前に書いた本も推薦したいと思います。
武田文彦さんの「赤ペンを持って「憲法」を読もう」(かんき出版)です。

憲法を読んで、そこからいまの日本の社会の状況を考えるといろんな気付きがあるはずです。
連休中に、憲法をテーマにしたサロンを開こうかどうか迷いましたが、他でもたくさんの集会があるので、今年は企画しませんでした。

しかし今日、改めて前文を読み直して、日本国憲法の理念とは何なのか、そして、「何を守り、何を改めるのか」について、サロンを開きたくなりました。
できれば5月中に開催しようと思います。
よかったら参加してください。

■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」のご案内(2018年5月7日)
日本国憲法の改正論議が広がっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」が大切だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
もし「守るべきこと」のために憲法の条文に不都合があれば、変えるのがいい。
もし「変えるべきこと」のために憲法の条文を変えたほうがよければ変えたほうがいい。
議論すべきは、そして議論できるのは、「守るべきこと」「変えるべきこと」出合って、「憲法」そのものではないでしょう。
もちろん、いまの憲法は、アメリカからの押し付けだから、作り直そうというのであれば、理解はできますが、それなら「憲法改正」などという言葉を使うべきではないでしょう。
それは「革命」なのですから。

私は、「国家は人々が幸せに暮らすための仕組み」であり、国家がそうであるために憲法は存在していると思っています。
幸いに、日本は、私にとっては、とても暮らしやすい国です。
しかし、最近は、少し暮らしにくくなった気もします。
それは「憲法」と関係あるでしょうか。
もしあるのならば、どこにあるのか。

私は、「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
しかし、「日本国憲法の、何を変えるのがいいか」と訊かれたら、応えられます。
人々が幸せに暮らすための国にしていくために、どんな憲法であればいいのか。
現在の日本国憲法の条文の中で、自分が一番守りたいものはどれか。
あるいは、こういう条文を追加したいという意見をお持ちの人もいるでしょう。
そんなことを、いまの憲法をベースにして、参加者がそれぞれ話し合えるサロンを開催することにしました。

みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年5月26日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」
○問題提起者:原則として参加者全員(話したくない人も歓迎ですが)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■煙石博さんの冤罪事件がテレビで取り上げられます(2018年5月8日)
広島で起こった煙石博さんの冤罪事件に関しては、ブログやフェイスブックで何回か書きこませてもらいましたが、5月9日(水)の午後9時からのTBS特番「一番だけが知っている」で取り上げられることになりました。
番組中、30分ほど、煙石時間が取り上げられるそうです。
お時間が許せば、ぜひともご覧ください。

友人経由で、煙石さんからのメッセージが届きましたので、ご紹介しておきます。
以下は、煙石さんのメッセージです。

最高裁での無罪判決が出て1年を過ぎましたが、失ってしまったものは、あまりにも大きく、壊されたグラスは元には返らない憤りと悔しさが消えません。少しでも私の人権の回復の為にならないかと色々バタバタしてはみますが、なかなか大変なものがあります。私の冤罪事件については、この3月にRCC中国放送が、無罪判決が出て1年として、特集で放送してくれましたが、これまで、東京の放送局から、ラジオ番組がひとつ、いくつかのTV番組から出演協力の依頼がありましたが、色々複雑な思いがあり、どれもお断りしてきました。

しかし、胸中には、常に私の身に降りかかったこの冤罪事件は、私だけの問題ではなく、同じパターンでこれがなされると、一般市民の誰でもが、いくらでも私の様な被害にあってしまうというそら恐ろしさを抱いておりました。再度、似た様な被害者が出て、自白したり、示談したりして人生を失い、泣き寝入りする事が無いように願うばかりですが、私の様な被害者が私の後に出ない為に、私の身に起こった、あってはならない真実を忘れて頂かない様にと思うのです。

ところが、「よかったですね。」と言って下さる方の中に、私の事件の顛末を詳しく知らない方もあり、具体的に真実を話すと改めて驚かれるのです。そんな訳で、身に降りかかった事件をかいつまんで私のホームページのブログの中に書いてきたもの(おととし2016年の10月頃から翌年3月10日最高裁の無罪判決が出る前まで書いています。)を改めてまとめて書きますと、・・・

私は身に覚えのない66600円の窃盗犯に仕立て上げられて、警察では証拠が無いのに信じられない理不尽な自白(お金を盗ってもいないのに盗ったと認めろという)を迫られ、検察では、「警察の間違いを指摘して下さい。」と私が懇願するのに、「盗ったか盗らないかは別にして、66600円に色を付けて、10万円位お金を払えば済むんです。」と、ひたすら示談を勧める検事に驚愕。結局、広島地裁と広島高裁での裁判は、正義と真実の女神(西欧の司法の歴史の中で、大切にされなければならない理念としてある様で、司法を勉強された方々は初学の頃習われるらしいのですが、)この正義と真実の女神の手足を縛って留置場に入れ、裁きの理論を構築していったようなもので、何が何でも有罪ありき(日本の司法は、逮捕、起訴されると有罪率99.9%という問題とされる数字は、それを物語っているものだろうと思います。)の裁判とは、有罪へのエスカレーターでした。

・・・私が体験した事を分かりやすく申し上げると以上の様になります。

それと、東京キー局への番組出演を複雑な思いの中にお断りしてきましたが、この度、TBSの特別番組で、東京で「行列のできる法律・・・」でよく知られている北村晴男弁護士が出演される「一番だけが知っている」という番組に、最高裁で無罪を勝ちとって下さった久保豊年弁護士とVTRで出演します(すでに収録済み)。制作スタッフも出来るだけ真実に基づいて番組作りをして下さる様ですが、とにかく、私の様な被害者が私の後に出ない事につながる様な内容となる様お願い致しました。

番組では、どなたかが私の役とそれぞれの役を演じる再現ドラマがあるそうです。そこは、ドキュメンタリーではないので、私の体験した真実通りではない部分もあるかもしれませんが、今後、私のような被害者が出ない事を願って、多くの方に見て頂きたいと思います。

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」のご案内(2018年5月8日)
ちょっと知的なカフェサロンとして、柳兼子を取り上げることにしました。
柳兼子といってもご存じない方も多いと思いますが、民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な人です。
柳宗悦・兼子夫妻は、私が住んでいる我孫子市に7年ほど住んでいました。
柳宗悦の叔父にあたる嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)の別荘が我孫子にあったのが縁ですが、さらにその縁で、白樺派の文人たち、たとえば志賀直哉や武者小路実篤などが我孫子に移住し、活動していた時期があったのです。

柳夫妻も含め、白樺派の文人たちが住んでいた名残は、いまもいろんな形で残っていますが、残念ながら、その人たちが我孫子でどんな暮らしをしていたかを知っている人は多くはありません。
民藝運動や白樺派、あるいは嘉納治五郎は知っていても、我孫子とつなげて考える人も多くないでしょう。

白樺派の文人たちが我孫子に住んでいたのは、日本が治安維持法に向かいだした時代です。
彼らの中にあって、時代にもっとも抗議したのが柳宗悦でした。
そして、それを支えていたのが、柳兼子です。
いまの時代状況を考えると、民藝運動や白樺派の活動から学ぶことはたくさんあります。

そんなことを踏まえて、我孫子時代の柳兼子についていろいろと調べている我孫子市在住の海津にいなさんに、柳兼子と白樺派の活動の話をしてもらい、いまの時代における私たちの生き方を話し合えればと思います。
なお、海津さんは、白樺派の女性芸術家としての柳兼子をNHKの朝の連続テレビ小説に取り上げてもらおうと活動していますが、多くの人に柳兼子を知ってもらうことで、海津さんの夢にも近づけたらと思っています。
できれば、参加者のみなさんにも、テレビドラマ化を実現するための知恵をもらいたいと海津さんは考えています。

海津さんの話がどこに飛んでいくか、いささか心配で、もしかしたら、ダ・ヴィンチにもつながるような話まで飛び出すかもしれません。
それくらい柳兼子の世界はとても広くて豊かなのです。

ぜひたくさんの人たちに参加していただければと思います。

○日時:2018年6月24日(日曜日)午後1時半〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:「白樺派の女性芸術家・柳兼子をご存知ですか」
○話題提供者:海津にいなさん(国際理解NGO代表、筑波大学博士課程後期)
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンのご案内(2018年5月9日)
久し振りに熊本の宮田喜代志さんのサロンを開催します。
宮田さんは、コムケア活動が始まった時に、いち早くその理念に共感していただき、熊本で様々な活動につなげてくださった方です。
現在は、実に多彩な活動に取り組んでいます。
理念がしっかりしていると、実際の活動は限定されずにどんどんと広がっていくと私は考えていますが、宮田さんの活動を見ているとまさにその典型のような気がします。

従って今回は、特にテーマを設定せずに、宮田さんの生き方や最近の活動紹介、さらには宮田さんの今の関心事を中心に話しをしてもらい、そこから自由に話し合いを展開していきたいと思います。
といってもそれだけでは、宮田さんをあまりご存じない方には、雲をつかむような話ですので、宮田さんが最近特に関わっているであろうことを少しだけ紹介しておきます。
宮田さんは、昨年、タイ・バンコクでの子ども医療・療育と特別支援学校の視察調査に行ってきました。そこから、障害者福祉分野での国際協力の展望が聞けるかもしれません。
長年取り組んでいる「農福連携」の進展の話もたぶん出るでしょう。
宮田さんは、小規模多目的ホームの館長として福祉施設の経営に関しても豊富な体験をしていますので、そんなお話も聞けると思います。
私自身は、かなり「破綻」気味に生きている宮田さんの人生観に興味があります。
まあそんなわけで、何でもありの「宮田サロン」を企画したいと思います。
できれば、そうしたなかから、「ケア(支え合い)」の意味を考えられればと思っています。

宮田さんというお人柄に触れるだけも、きっと満足してもらえるサロンです。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。

○日時:2018年6月5日(火曜日)午後7〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■煙石さんの冤罪事件が番組で特集されました(2018年5月10日)
挽歌編でも書きましたが、時評編で何回か紹介した広島で起こった煙石さんの冤罪がテレビで取り上げられました。
30分以上のしっかりした報道だったので、かなり正確に伝わったように思います。
私は、煙石さんとは面識はありませんが、友人が最初から煙石さんの無罪を確信して、私にも教えてくれていたのです。
先入観を持たずに、事実をしっかりと聞くだけで、たぶん煙石さんの無罪は最初から明らかだったように思います。
しかし、実際には2回の裁判で有罪という結果になり、最高裁でようやく無罪になりました。
日本の裁判の位置づけや役割が、よくわかる裁判事例だと思います。

日本の裁判は、国民の生活を守ることを第一義にはしていません。
そう言い切れるのは、有名な砂川裁判で、最高裁は「統治行為論」を持ちだして、政府の下部組織であることを明言したからです。
当時の状況を考えれば、やむを得なかったのかもしれませんが、砂川裁判で、日本の司法は死んでしまったように思います。
同時に、それは、日本における「正義」を方向づけました。
今日も国会で参考人として証言した柳瀬さんのような官僚を生み出してしまったこととも無縁ではありません。
最近は少し揺らいでいるようですが、「一強体制」の恐ろしさは、三権分立で社なく、行政独裁にあるように思います。

今回の番組を見てもらった人には伝わったと思いますが、日本の裁判や警察は、国民の生活を守るためにあるわけではありません。
いとも簡単に、平和な生活を壊す暴力性を持っています。
以前、厚生労働省の村木さんの事件がありました。
彼女は、その体験を活かしてくれませんでしたが、それでも裁判の問題点をいくぶんか顕在化してくれました。
司法の世界はもっと透明性と公正性を求められるべきではないかと思いますが、ある意味では、司法の世界は、権力にとっては大切な機能ですから、そう簡単には民主化はできないのでしょう。

煙石さん家族は、冤罪は晴れたとはいえ、人生を一変させてしまったでしょう。
煙石さんの人生が戻るわけでもありませんし、いまなお冤罪だということを知らない人もいるでしょう。
冤罪というよりも、一度、逮捕されたり訴追されるだけで、人の人生は脆くも崩れます。
それだけのつよい暴力性を持っている裁判制度が、司法関係者によっていかにも恣意的に運営されていることへの恐ろしさを感じます。

しかも、こういうことは、誰にも起こり得ることです。
幸いに、煙石さんには伴侶と息子さんがいました。
信頼する友人もいたでしょう。
裁判や警察という「暴力装置」から自らを守るためには、そういう、絶対に信じてくれる存在が不可欠です。
それにしても、司法から身を守ることが必要だという状況は恐ろしい気がします。

私もいつ煙石さんのような状況に追いやられるかわかりません。
その日のために明言しておきたいと思いますが、私はどんな時にも、決して嘘はつきません。
柳瀬さんや佐川さんのような人間ではないことだけを、ここに誓って明言しておきます。
もし「犯罪」を犯した場合は、その責はしっかりと受けるつもりです。
ちなみに、私は「犯罪」を犯すことよりも、嘘をつくことの方が恥ずべきことだと思っている人間です。

この番組のことは、煙石さんの友人でもある折口さんから教えてもらいました。
私も多くの人に知ってほしくてフェイスブックで紹介したら、10人を超える人たちがシェアしてくれました。
そして番組を見た感想を何人かの人が送ってきてくれました。
私の過去のブログへのアクセスも昨日は久しぶりに1000を大きく超えました。
わざわざ電話をくださった人もいます。
ささやかに煙石さんへのエールになれて、とてもうれしいです。

煙石家族の誠実な対応に敬意と感謝を捧げます。
煙石さんの行動が、間接的ではありますが、私の生活を守ってくださったことは間違いありません。

しかし、不条理の多い時代です。

■コムケアサロン「介護者になること、遺族になるということ」のご案内(2018年5月11日)
6月は宮田さんをゲストに、「ケア」の本質を考えるコムケアサロンを開催しますが、併せて、実際問題にどう向き合うかに焦点を絞ったコムケアサロンも開催します。
それも視点を少し広げて、「介護者になること、遺族になるということ」を切り口にして、「coping」という手法を駆使して、実践的に課題解決に関わっている千葉さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表)にお話をお願いしました。

千葉さんからのメッセージです。

「coping」とは“課題に向き合うこと”です。
介護者や、人が亡くなったあと遺族となった人は、様々な課題を抱えることになります。
そこには、誰もが知るような表面的な悩みもあれば、当事者も気づくことが難しい内面的に 隠れた悩みもあります。
高齢期における当事者と、支えになる人を包括的に支援するには、 どのように向き合っていけばよいのでしょうか?
今までコレサポは、遺族支援や介護者支援の様々な現場で「coping」を実践してきました。
このセミナーは、今まで経験してきた「coping」の事例をご紹介します。

こんな感じで、サロン前半で千葉さんからお話をしてもらい、後半はそれに基づいての話し合いを考えています。
千葉さんは、copingセミナーも定期的に開催していますが、そのエッセンスも今回紹介していただけると思います。
具体的な相談などお持ちの方は、相談を持ち込んでいただいても結構です。

copingの考え方や手法に触れるだけでも、きっと何かの気づきを得られると思います。
みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年6月10日(日曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■嘘をつく人に振り回されたくありません(2018年5月11日)
昨日、柳瀬さんの国会での参考人発言が中継されていましたが、見ませんでした。
そもそもなぜ「嘘をつく人」を国会にまで呼んで大騒ぎしなければいけないのか。
一度嘘をついた人は、謝罪して嘘を認めない以上、さらに嘘を重ねていくしかありませんし、そもそも嘘をつく人の意見に耳を傾けること自体に、意味はないと思います。
佐川さんの証人喚問の時、テレビの報道をずっと見ていて、残念ながらそのことを再確認しました。
だから今回は見ませんでしたし、録画もしませんでした。
柳瀬さんが嘘をついていることは、子どもであれば誰もわかるでしょう。
認めないのは、自らも嘘をつくことを知った大人だけでしょう。
柳瀬さんには、親身になって諭してやる家族や友人はいないのでしょうか。
佐川さんの時もそうでしたが、柳瀬さんの写真を見るといつも同情を禁じ得ません。

テレビのサンデーモーニングで先週、田中秀征さんが、柳瀬さんは誠実な人で、自分のために発言しているとは思えない、というようなことを話されていました。
この発言には驚きました。
「自分のため?」
田中さんも同じ穴のムジナなのかと、がっかりしました。
柳瀬さんの言動は、どう考えても保身のためとしか思えませんが、そうは見えてない人もいるわけです。

嘘をつく人を相手にするのは、もうやめたほうがいい。
嘘をつく人たちから、政治を取り戻したいですが、いまや政治の世界は嘘つきしか活躍できないのかもしれません。
保身のための嘘で、どれだけの国税が浪費されていることか。
嘘をついたおかげで国税庁長官になれるような社会では、嘘をつくことが奨励されるようになっていくでしょう。
税金を払いたくなくなる人も増えかねません。
脱税とか税務申告漏れも「嘘つき行為」でしょうが、官僚や政治家たちの「脱税的嘘」が、もっと厳しく糾弾されないと、嘘が美徳の社会が来てしまいかねません。

15年ほど前に、ホームページに「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」というメッセージを書きました。
その頃の危惧がまさに現実になってしまったのがさびしいです。
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」へのお誘い(2018年5月12日)
「茶色の朝」サロンの4回目です。
このサロンは、フランスで話題になった、社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話を描いた「茶色の朝」を読み合うことから始まったサロンです。
「茶色の朝」は短い寓話で、日本でも翻訳されていますし、またネットでも全文が公開されていて、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

私たちのまわりにある、「ちょっと気になっていること」を話し合いながら、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けて、それぞれができることを考えていくような場として、このサロン(茶色の朝、brown morning salonの頭文字をとってこれからBMSカフェと呼びます)を継続的に開催していこうと思っています。
政治の捉え方はいろいろありますが、みんなが暮らしやすい社会を実現することが大きな目的であるならば、政治は私たちの生活に深くつながっています。
にもかかわらず、「政治」にはあまり関わりたくないと思っている人も少なくありません。
現在の政治についての話し合いさえしたがらない傾向があります。
しかし、消費税も憲法改正も、社会保障も教育行政も、私たちの生活に深くつながっています。
生活者である私たち自身が、しっかりと関心を持ち、意見を表明していくことは、政治をよくしていく上でとても大切なことです。
このBMSカフェでは、自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
そんなかたちで、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方も話し合えるような場を目指したいと思います。

今回は、ちょっと「いまの政治」を少し話し合えればと思います。
いまの政治でいいのだろうか?
3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらい、それを入り口に、それぞれが持っている疑問を投げかけるサロンにできればと思います。
誰もが気楽に話し合えるお茶会のような感じで、気楽にご参加ください。

中学生から高齢者まで、さまざまなお立場の方に、ぜひご参加していただければと思っています。
まわりの方もお誘いいただければうれしいです。

○日時:2018年6月12日(火曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:いまの政治でいいのだろうか?
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます(2018年5月17日)

明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます。
これからの私たちの社会を方向づける、大切な判決だと思います。
それに合わせて、訴訟関係者たちによって「九条俳句訴訟と公民館の自由」(佐藤一子/安藤聡彦/長澤成次編著 エイデル研究所)が緊急出版されました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいとともに、18日の判決にも関心を持っていただきたくて、ホームページやブログで本の紹介をさせてもらいましたが、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、明日の5月18日に出されます。

俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。

本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。

原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。
6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。

ちなみに、私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
本書を読んで、改めてまた、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。

■「先史学者プラトン」は世界を広げてくれます(2018年5月17日)
月曜日の朝日新聞1面下の書籍広告欄で、國分功一郎さんが、「大胆な議論をぜひ楽しんでもらいたい」と、「先史学者プラトン」を推薦していました。
それで読んでしまいました。
30年ほど前の著作ですが、日本では今年になって翻訳出版されました。

プラトンと先史時代といえば、アトランティス大陸を思い出しますが、本書の著者はアトランティス大陸ではなく、大異変後の大きな戦争の痕跡に焦点を当て、人類の定住や文化の原型に関して、考古学と神話をつなげながら語ってくれます。
いささか複雑で全体像がすっきりしないのですが、これまでの常識とは大きく違った全体像がおぼろに見える気がします。
古代アナトリアのチャタル・ヒュユク遺跡の話がとてもていねいに書かれていますが、今から7500年ほど前にこんな建物と生活があったのかと驚きました。
エジプトやシュメールの文明はどこから来たのか、今も明確ではありませんが、その謎解きの一つの材料が、そこにありそうです。
1万年ほど前に、先史文明があったという議論はいろいろとありますが、そうしたものが消えてしまったのは海岸線の上昇のためとも書かれています。
当時の文明は消滅し、辺鄙な山奥の文明が辛うじて残り、それが復活したのが、古代文明というわけです。

もうひとつ興味深かったのは、ゾロアスターの役割です。
現代のいわゆる三大宗教のすべてに関わっていることが示唆されています。
いやそこから「宗教」とは何かという問いさえ感じられます。

イラストも豊富で(ほんとかなという疑問を時々感じながら見ましたが)、論理を超えて強烈な印象を受けました。
そのおかげで、日本の市松模様もアナトリア発だったのだと、洗脳されてしまいました。

おまけとして、プラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』の関連個所抜粋がついていますので、私も初めて読みました。
これが実に面白いです。

國分さんがいうように、大胆な議論を3日間、楽しませてもらいました。
退屈している人には、お薦めの1冊です。
ディテールに引きずり込まれると、大胆な議論は楽しめないので、要注意ですが。

■日大アメフト反則行為事件に思う事(2018年5月18日)
日大アメフト反則行為事件が連日テレビをにぎわせています。
議論する以前の、あきれた話なので、事件そのものにはあまり関心はないのですが、肝心の日大アメフト部員が、内田監督体制に「ノー」を突き付けだしたという報道に、うれしいものを感じます。
体制にしたがうのではなく、ノーという動きが、ようやく出始めたかと期待します。
これは、もしかしたら、新しい時代の到来の予兆かもしれません。

愛媛県知事の、霞が関への「ノー」も元気づけられます。
誰が考えてもおかしな発言を繰り返す霞が関や永田町に、ようやく「ノー」を言い続ける知事が出てきたわけです。
いままでは、沖縄県知事くらいしか、「国家」と対峙してこなかった、日本の国のあり方が変わる予兆を感じます。

おかしなことはおかしいと言わなければいけません。
もし、それが言えないのであれば、それはもう「人間をやめていること」です。
最近では、いかに多くの人が、人間をやめてしまっていることか。

今回、実際に反則行為をやった選手は、3回もやっていますが、そこにある「メッセージ」も感じます。
彼は、もしかしたら、「抗議」を仕掛けたのではないかとさえ思います。

テレビの解説では、アメフトはフォーメーションプレーだと言われています。
今回の事件を見る限り、私には日大のチームの行動はフォーメーションプレーなどとは思えません。
監督の独裁プレーでしかありません。
フォーメーションプレーは、ひとりひとりのメンバーの主体性が大事にされてこそのチームでなければいけません。
人の存在しないフォーメーションプレーはありえません。

話がそれましたが、日大の学生たちのこれからの行動に期待しています。
自分たちで、自分たちの組織は変えていかねばいけません。
霞が関の官庁や大企業も、そうなっていけば、未来はきっと開けていきます。
社会を変えるのは、若者たちです。
日大の学生たちに、その希望の光を感じています。

■第3回「なぜ生きるのか」サロン報告(2018年5月17日)
「なぜ生きるのか」をテーマにした3回目のサロンを開催しました。
初参加の方も含めて、13人が集まりました。
このサロンは、これまで、それぞれの問題を解放し、どうしたらいいかなどを話し合うのが基本だったのですが、今回は、主客を逆転させて、誰かに助けを求めるのではなく、それぞれの人が、自分でできることを語りあおうという呼びかけをしました。
それは同時に、自らへの肯定感を強め、自らを認めることにつながると考えたからです。

最初は少しそういう方向に動きましたが、結局、いつものように、自らの問題を解放しながら、その問題をどうしたら乗り越えられるかというような話になっていきました。
私としては、毎回、同じ話を聞くわけですが、同じ話ばかりして、ここは慰め合うだけの場ではないと、意地の悪い発言をしたくなってしまいます。
それを言ったらおしまいなのですが、今回はそれを言ってしまいました。
感情に負けてしまいました。
案の定、参加者からは、きびしい抗議を受けました。

疲労感と挫折感が大きくて、報告を書けずにいました。
できたらどなたか、私をこき下ろす内容でもいいので、報告してもらえればうれしいです。

念のために言えば、参加者による、前向きの話もいくつかありました。
元気づける話もありました。
翌日、また続きをやりたいというメールももらいました。
懲りずに4回目をやろうかどうか、迷います。
サロンは、それなりに疲れます。

初参加の方は、少し戸惑われたかもしれません。
お許しください。

■3863:人は「つながり」に支えられて生きている(2018年5月19日)
節子
また身体がかゆくて、朝早く目が覚めてしまいました。
パソコンを開いたら、いろんな人からメールがはいっていました。
昨夜、いくつかのメールを発信していたからです。

このブログは、一時期、あまり書かなかったことで、アクセウス数が激減しました・
最初の頃は、時評と挽歌をそれぞれ毎日書いていたのですが、当時は毎日300〜400のアクセスがありました。
時評編を時々しか書かなくなったら、200前後に低下しました。
それが、最近は100前後にまで減少しています。

先日、煙石さんが話題になった時には、1日1000を超えるアクセスがありました。
昨日も、ここでも書いた「九条俳句訴訟」の判決が出たので、少し増加しましたが、200には達しませんでした。
時評編を書けば、アクセスは増えるのですが、昨今の世情では、時評を書く元気がなかなか出てきません。
日本も「茶色の朝」になってきてしまった気がしてなりません。
しかし、だからこそ時評編を書くべきなのかもしれません。

しばらく音信がなかったイルカさんという、まだお会いしたことのない方から、先日、メールが来ました。
ブログを読んでくださっているとのことです。
そういえば、広島の折口さんも、たぶん読んでくださっているでしょう。
いずれもまだお会いしたことのない人です。
そういう、私も知らない方とつながっていることは、支えになります。

湯島のサロンでつながっている人たち。
ブログやフェイスブックでつながっている人たち。
人は「つながり」に支えられて、生きていると言っていいでしょう。

昨日、先日開催した第3回「生きる意味」サロンの報告をメーリングリストで発信しました。
いささかの疲労感と挫折感とちょっと怒りを含んだ内容の報告でした。
どうもそれが「ヘルプ」に受け取られたようで、早速、2人の人が反応してくれました。

ひとりはこう書いてくれました。

佐藤さん、私は楽しかったし、一緒にお誘いした○○さんも楽しかった!と言っていました。
何故楽しいか?ただ本音を言っている安心感と信頼感が楽しいだけです。
あまりあれこれ考えずに、自分の本音を自由に話すって楽しいです。
また人が自由に話すのもなんだか嬉しいし、面白いです。

もうひとりの参加していなかった方は、
なぜ生きるのかについて、大好きな絵本があります。
「100万回生きた猫」(佐野洋子作・絵)

と教えてくれました。

他にもうれしいメールが届いていました。
人のつながりに感謝します。

今日は雨なので、畑には行けそうもありません。
机に積んでおいてあるだけのフーコーを読もうと思います。

■カフェサロン「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」報告(2018年5月20日)
日本子どもNPOセンターが、ブックレット「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」を出版したことのお知らせもかねて、そこで取り上げられているNGOフリー・ザ・チルドレン ジャパン(FTCJ)の代表の中島早苗さんをゲストに、サロンを開催しました。
このタイトルにとても魅かれた私としては、たくさんの人で会場が大丈夫かなと実は心配していました。
実際には参加者は13人でしたが、半数は日本子どもNPOセンターの関係者で、ある程度問題を知っている人たちでした。
やはり「児童労働」というテーマは身近には考えてもらえないのかと、少し残念な気がしました。

フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)については、案内文に書きましたが、次のサイトに紹介されています。
http://www.ftcj.com/

現在、世界には約1億5000万人の児童労働者数がいるそうです。
5歳から17歳の子どもたちの10人に1人が、義務教育を十分に受けられない状況に置かれているということです。
こうした状況を変えていこうと思い立ったカナダの12歳のクレイグ少年がはじめたのが、「フリー・ザ・チェルドレン・プロジェクト」です。
クレイグ君は、実際に各地の児童労働の現場に行き、悲惨な児童労働の実状を目の当たりにします。
問題はとても大きく、子どもである自分に何ができるだろうか。
彼を勇気づけたのは、マザー・テレサの「若者には世界を変える力がある」という言葉でした。
そして、今やクレイグ少年の活動は、世界に広がる大きな運動になってきているのです。

中島さんは20代の時に、アメリカでこの活動を知って、1999年に日本で活動を始めました。
知った以上は何もしないわけにはいかないというのが中島さんの気持だったようです。

クレイグさんや中島さんたちは、「自分にできることを、自分に関心のあることに活かせていけば社会は変わる」と考えています。
人は誰でも「贈り物」(Gift 才能)をもらっている。
そのGift(才能)を、社会の気になる問題(Issue)に向けていこう。
そうすれば世界は変えられる。
“Gift+Issue=Change”。
好きなことを活かして変化を起こそう!世界を変えることは自分を変えることだ、というわけです。
その信念に基づいて、できるだけ多くの子どもたちに、それを実感できる場を創っていこうというのが、中島さんたちの活動です。
そして、そうした体験をした子どもたちは、変わっていく。
そして世界も変わっていく。
とても共感できる活動です。
「世界は変えられる!」と、子どもたちが信じられる社会になれば、世界は変わっていくでしょう。

お話を聞いた後、いろんな話が出ました。
まずは、家族労働と児童労働とは違うという話がありました。
家族が支え合って、子どもの頃から家族と一緒に働くのは、むしろ肯定されるべきかもしれません。
教育を受けられずに、文字が読めないことが生命にかかわってくる事例も話題に出ました。
ご自分の体験から、他国の文化に関わっていくことには慎重でなければいけないという意見も出ました。
豊かな日本の子どもたちよりも、経済的に貧しい国の子どもたちのほうが、目が輝いているという話もありました。
またNGOだけでは限界があるので、行政も巻き込んだ方がいいのではという意見もありました。
大人たちが、そうした子どもたちを応援することも重要だという指摘もありました。
たぶんみんなそうなのだと思います。

しかし私は、やはり「子どもたちが主役になって動き出したこと」に、新しい時代のはじまりを感じました。
その一方で、日本の子どもたちの置かれている状況はどうなのだろうかと思いました。
さらに日本の大人たちはどうだろうか。
「世界(社会)は変えられる」と思っている大人たちはどのくらいいるのだろうか。
いろいろと考えさせられるサロンでした。

ちなみにクレイグさんたちの活動は、名称を“WE movement”と変えていますが、アメリカ各地で“WE day”という子どもたち主役の集まりをやっています。
ネットで動画が見られますので、ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/pg/WEmovement/videos/?ref=page_internal
中島さんたちは、3年後に日本で “WE day”を開催したいと考えています。
そのために資金的な支援を含めて、この動きをたくさんの人に知ってほしいと考えています。

未来は子どもたちが創っていきます。
しかし、大人も、その子どもたちを支援することはできます。
“Gift+Issue=Change”は、大人たちにも当てはまります。

フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)のサイトをご覧になって、何かできることが見つかったら、ぜひ応援してください。
http://www.ftcj.com/
私も、「世界は変えられる!」と、改めてまた確信しました。
元気が出るサロンでした。

■文化の違いが生みだす不幸(2018年5月23日)
最近つくづく「文化の違い」を感じます。
多様な文化は、豊かさを生み出すと考えている私にとっては、同時にそれが、「不幸」を生み出すことに気づかされるのは、いささかさびしいことです。

たとえば、今回の日大アメフト反則行為事件。
昨日の実行者宮川さんの記者会見を見ながら、みんな「被害者」かもしれないと思ったのです。
それまでは内田監督に強い拒否感を持っていましたが、その気持ちが逆に薄れました。
問題は、それぞれの「文化の違い」なのだと思ったのです。

たとえば、狛江市のセクハラ辞職。
たぶん市長には「セクハラ」という意識はなかったでしょう。
それが「セクハラ」だと言われそうですが、ハラスメントとは「文化の違い」から生まれるのかもしれません。
ある文化の「常識」が、別の文化では「悪事」になる。

こうしたことはいくらでも出せるでしょう。
文化の多様性は、ある意味では「生きづらさ」を生み出すのかもしれません。
つまり「自由」こそが「生きづらさ」の原因にもなりうるわけです。

今日の朝日新聞の「声」(投書欄)に、12歳の中学生の山口君が『あこがれた「自由」は苦しかった』と投稿しています。
彼は中学校の入学式で「この学校には拘束はありません」と言われてうれしかったそうです。
それまで通っていた小学校には、厳しい校則があったからです。
しかし、校則がない環境で生活していくうちに、「自由は苦しい」ということに気づいたそうです。
湯島のサロンでも、同じようなことの体験談が語られたことがあります。

ちなみに、山口君は、今の心境も書いてくれています。
「いまは、苦しいかもしれないけれど、これからこの自由の中で色々なことを学び、早く自由を心から楽しめるようになりたいです」

もしかしたら、日本の育児や教育の世界は、順序を間違えているのかもしれません。
そのために、自発的な自己規制や主体性が育つ前に、管理的な規則(指示)遵守姿勢が育ってしまうのかもしれません。
多様な感性を持っていると悩むことも多いですが、機械の部品になれば、悩むことはありません。
「生きる力」とは何でしょうか。

オルテガは「大衆」の時代への危惧を指摘しました。
ネグリは、「マルチチュード」(群衆)の可能性を指摘しました。
可能性があるのであれば、それを信頼するというのが私の信条です。

ちょっとした「文化の違い」を、増幅させるのではなく、その根底にある共通性から、私は学びたいと思います。
そういう意味では、昨今のマスコミの姿勢には大きな危機感があります。
まるで全体主義国家時代のような報道姿勢には違和感を持ちます。

「文化の違い」を活かし合う、豊かな社会を目指したいです。
宮川さんも、狛江市長も、とても大切なことを学んだことでしょう。
私もまた、彼らと同じように、そこから学びました。
彼らは、いずれも象徴的な存在として、大きなメッセージを発してくれていますので。
宮川さんも内田さんも、狛江市の市長にも、感謝しています。
私の言動も質さなければいけません。

■日大アメフト反則行為事件に思う事その2(2018年5月24日)
日大アメフト反則行為事件に関連して3つの記者会見がありました。
被害者の父親、加害者本人、そして日大関係者です。
それを見て、改めて文化の違いを実感しました。

とりわけ強烈だったのは、日大アメフト部の内田監督と井上コーチの記者会見でした。
たぶん日本国中ブーイングで、その報道の仕方も強烈です。
しかし、私自身は内田監督や井上コーチの心境も、それなりに理解できます。

ですから、内田さんと井上さんを一方的に非難する風潮にはやはり違和感を持ちます。
そして、立場が弱くなった途端に、姿勢を変えるマスコミと、それに同調する「大衆」には恐ろしさを感じます。
宮川選手を生み出したのが、日大アメフト部の文化なら、その日大アメフト文化を生み出したのが何なのか、そして、私もまたそれに遠くではつながっていることを、それぞれがしっかりと認識して、批判したいものです。

それ以前に、森友・加計学園、官僚の記録文書の意図的廃棄などの方にこそ、そのエネルギーが向かってほしいものです。
内田さんと安倍首相を比べたら、私には安倍首相の言動の方こそ、大きな問題ではないかと思っています。

私は「文化の違い」を理解しあえていないことが問題ではないかと考えています。
違った文化であることを理解しないと、会話は成り立たない。
それを踏まえて、問題を考えていかないとすれ違いと非難のやり取りで終わってしまうからです。

私は昨今のスポーツのあり方には強い拒否感があります。
スポーツ産業化を感じています。
最近のスタイルのオリンピックには賛成できません。
オリンピック産業に便乗する人たちとは別の世界に住んでいるので、彼らを否定はしませんが、共感はできません。
また、芸能やスポーツの分野で、親が子どもを一筋に集中させることにも嫌悪感を持っています。
先日、湯島でやった「児童労働」とどう違うのかと思うことさえあります。

企業や政治も同じですが、そうした文化そのものを考え直すべきではないかと思っています。
せめて、その次元で、お互いに分かり合って、より良い方向を一緒に創りだす。
それが大切ではないかと思います。

異論にも耳を傾けて相手を理解するとともに、自らの考えを相対化しようと言いたいのです。
相手を責めてばかりいる姿勢には共感はできません。
格闘技はもちろんあまり好きではありません。
射撃などがスポーツと言われると拒否感が生まれます。

国会デモのシュプレヒコールは、私には安倍首相の空疎な答弁や今回のラフプレーに通ずる「暴力性」を感じて、最近はその種のデモには参加できなくなっています。
「デモ」とは何かも捉え直したい。
力に対して有効なのは力ではないと思っています。
核抑止論否定論者で、ガンジーのスタイルに共感します。

最近では、文化の多様性が消えて、ほぼみんな「金銭経済の文化」に取り込まれていることに大きな危惧を感じます。
働き方改革法案の問題設定にも基本的に違和感があります。
働き方ではなく、生き方を見直すべきではないのか。
そもそもライフ・ワーク・バランスや男女平等参画と言っている発想を見直すべきではないかとも思っています。

書きだすときりがないほど、現代の社会には違和感があります。

蛇足ですが、内田監督や井上コーチを一方的に非難するテレビタレントにも、哀しさを感じます。
彼らはまったくリスクを取っていない。
もっと怒りを持つべき対象が、自分の世界にもあるだろうと言いたい気分です。

■2つの記者会見は矛盾していないように思います(2018年5月25日)
日大アメフト反則行為事件で、宮川選手と内田監督・井上コーチの、それぞれの記者会見の発言が真逆だというような報道がほとんどです。
内田・井上両名は、宮川発言を全否定したと報道している新聞やテレビ出演者もいます。
私はかなり丁寧に記者会見をテレビで視聴したつもりですが、双方の発言には致命的な矛盾はないように思いました。
見方や捉え方が違うだけで、とても整合性があり、事実がよりよく見えてきた気がします。

報道関係者も視聴者も、両者が「敵対」しているという前提で、勝手に物語をつくっているような気がします。
誠実に、内田さんや井上さんの発言を聞けば、宮川さんの発言をむしろ補強しているようにさえ、私には思えます。
井上さんは、明確に「宮川選手は嘘をついていない」とも言っています。
誰か個人を悪者にしているだけでは、気持ちはすっきりしても、問題は解決しません。

双方の言い分を要素分解し、それを時系列に並べて行ったら、その発言の真意も見えてきて、全体像はかなり明確になってくるはずです。
そしてそこからこそ、事実や課題が見えてくる。
発言を最初から「正しいか嘘か」と見るのではなく、双方の違いから、事実を説いていく姿勢が大切ではないかと思います。

日大アメフト部の現役選手が動き出したようですが、マスコミが彼らをまた「使い込む」危惧を感じます。
しかし、宮川会見は、こうしていろんな動きを起こし出しました。
大きな変化は、いつも小さな変化から始まります。
こうした動きが、若者の世界を超えて、官僚や政党や企業や自治体にも、波及していくことを願います。
そのためにも、単純な敵対構図に基づく同調文化は打破したいです。

私には、宮川選手も内田監督も井上コーチも、同じ状況の中で、同じ行動をとっていると思えます。
そのことを一番よく認識しているのは、宮川選手のようにも感じます。

私は、いつも一歩退いて、マスコミ報道を捉えるようにしています。
国会中継をずっと見ていると、ニュースがいかに自分勝手に切り取りをしているかがわかります。
与えられた情報は、材料であって、それをベースに自分で考える姿勢を大事にしたいと思います。
マスコミはまさに「フェイクニュース」を創ってきている。
それは、いまのマスコミの限界かもしれません。
そう思って、マスコミ報道に接しています。

■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」報告(2018年5月26日)
湯島では、憲法議論はこれまで何回もやりました。
でもどうもすっきりしません。
そこで今回は、抽象的な議論ではなく、「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいか」について、それぞれの意見を出し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
休日にもかかわらず、また国会前でのデモなどもあったにもかかわらず、12人の人が集まりました。
残念ながら女性は1人だけでした。
生活保護家族の子どもたちに関わっている女性です。
こういう人が参加してくれるのが一番うれしいです。

呼びかけの主旨を受けて、最初に意見を述べてくださった方は、「天皇条項」を最初の1条に置いたことを問題にしました。
そして、先の戦争では同じ敗戦国だったドイツとイタリアの憲法が、それぞれ「人間の尊厳」や「国民主権」を第1条に掲げていることを紹介してくれました。
それと12条も問題にしました。
憲法で保障する自由および権利は、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という条文です。
同時にその条文は、公共の福祉のために(自由と権利を)利用する責任を負うということを決めています。
福祉に関わっている女性は、生存権を規定している25条を守りたいと指摘しました。
「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文です。
その2項では、それを保障するための国の責任が明記されています。
彼女は、12条の「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」には肯定的な意見でした。
私は、第11条を一番守りたいと言いました。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」というところです。
その基本は、13条の「すべて国民は、個人として尊重される」ことではないかと、自分で憲法改正を書いて出版している人が補足してくれました。
これに関連して、日本国憲法には、人権原則と統治原則が献愛しているという指摘もありました。

憲法の一番大切なのは「前文」だと思うという指摘もありました。
それに関連して、日本国憲法は理念とルールが混在しているという話も出ました。
アメリカ憲法はルール的な内容であり、理念は独立宣言などに謳われているという話も出て、「憲法とは何か」というような議論もちょっと出ました。
英米法の世界では、「国のかたちを規定する理念」と「統治のためのルール」を合わせて、「憲法」であり、条文としての成文憲法だけが憲法ではないとされますが、「日本国憲法」をそういう意味で、もう少しゆるやかに捉えることも必要かもしれません。

9条に関しては、もちろん議論の対象になりました。
自衛隊は憲法違反かどうか、戦争をする権利は国にあるのか、自衛戦争ではない戦争はあるのか、などという議論はありましたが、みんな「平和」でありたいという思いは一緒だと思います。
しかし、平和を実現するための方法がまったく正反対なわけです。
私自身は、それはそもそも「平和」の捉え方が間違っているからだと思っていますが、今回はあまり深入りしませんでした。

司法の問題も出ました。
司法の頂点にいる最高裁長官は内閣の指名により天皇が(形式的に)任命すると憲法6条で規定されています。
つまり行政が司法のトップを決めることができますから、日本では三権分立にはなっていません。
そのために、砂川判決のような「統治権最優先」が可能になり、政府による違憲行為を止める法あくがなくなったわけですが、そこをただすべきだという指摘がありました。

98条の「憲法は国の最高法規」であって、その条規に反する法律、命令などは、その効力を有しないという条項も議論の対象になりました。
条文にはないですが、憲法違反者は厳罰に処せられることを明記すべきだという指摘もありました。

具体的に条文が出てきたのはこのくらいでしょうか。
メールでは、地方自治や財政原則などに関する意見ももらっていましたが、紹介はさせてもらいましたが、地方議員がいなかったこともあり、話題にはなりませんでした。

そもそも今の日本国憲法は文章が整理されていなくて、読んでもわからないことが多い。
もっと誰でもわかるような平明な文章に治してほしいという指摘がありましたが、これはたぶん参加者みんなの意見でもあるようでした。
しかし、だからと言って、いまの憲法を変えなければいけないということでもないと思っている人も半分くらいいたように思います。

まだまだいろんな意見が出ましたが、話題の選択も含めて、以上の報告は私の主観的判断がかなり入っていると思います。
参加者によっては、受け取り方も違っていると思います。
しかし、改めて、こういう憲法を話し合う場が、広がっていくといいなと改めて思いました。

憲法をテーマにしたサロンは、誰かやりたい人がいたら、随時開催していこうと思います。
話したい人がいたら、気楽にご連絡ください。

■日大アメフト反則行為事件に、改めて思うこと(2018年5月28日)
日大アメフト反則行為事件に関しては、「追い込まれた状況」が焦点になってきて、宮川選手はむしろ「被害者」として支援されてきているような空気を感じます。
それに関連して、ちょっと思いだしたことを書きます。

「乖離」という日大アメフト部側の言葉も問題にされていますが、「乖離」など当然のことで、コミュニケーションとはそれを前提にして行われる行為です。
乖離をなくすことなどできるはずがなく、乖離を前提に共通の思いをどのくらい増やすかが大切なことです。
その出発点は、相手を変えることではなく、自らが変わることです。
これに関しては以前書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm
「コミュニケーション」という言葉が、あまりに安直に使われている風潮には違和感があります。

「追い込まれる」ということに関しては、以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から、この表現では「自殺者」が責められているように感ずると言われました。
以来、「自殺に追い込まれることのない社会」という表現を使うようにしています。
それを思い出しました。

もうひとつ思い出したのは、たとえば、「秋葉原通り魔事件」の加藤さんのことです。
彼もきっと「追い込まれていた」のでしょう。

人はだれも、他者に迷惑などかけたくないはずだ、ルールも守りたいはずだと私は確信していますが、そのルールが破られる理由は2つあります。
ルールが悪いか、追いやられるかです。
そして、それは重なっています。
絶対のルールなどありませんから、どのルールに従うかは、時に矛盾します。
ISの行為がいかに理不尽に見えても、その世界の人には、理に合ったルールなのでしょう。
日大アメフト部のルールがあって、それが宮川選手を追い込んだ。
世間一般のルールと日大アメフト部のルールの、どちらを守るべきか。
そこで、自分が見えなくなる。
加藤さんもそうだったのかもしれません。
宮川選手と加藤さんを並べることには異論を持つ人が多いでしょうが、私にはつながって見えてしまいます。
さらに言えば、そういう人はたくさんいる。

だからこそ、宮川選手へのシンパシーは高まるのでしょう。
しかし、そこにも私は危うさを感じます。

念のために言えば、宮川さんの記者会見直後に書いたように、私は宮川さんの記者会見に感激しましたが、それはこういうことを明らかにしてくれた勇気にです。
宮川選手がやったことは、やはり彼自身が自覚しているように、きっちりと償われなければいけません。
宮川さん自身のためにも。

さらに加えれば、世界には多様なルールがあります。
しかし、一番大切なのは、自らのルールです。
納得できないルールに、毅然として「ノー」というためには、自らのルールが必要です。
ルールは思考停止の道具ではなく、よりよく生きるための思考を支援する道具です。
ですから、ルールは時には破られてこそ、意味がある。
マニュアルと同じように。

■日大アメフト事件のその後の動きにまたまた思うこと(2018年5月30日)
日大アメフト事件は、やはりいつもの通り、安直なところに落ち着いてしまった気がします。
日大アメフト部の部員の声明文は、大きな救いですが、
結局は、内田さんと井上さんと森さんが、切られただけで終わってしまいそうです。

この事件が起きた時、私はフェイスブックにも書きましたが、宮川選手の身を挺した内部告発行為だと感じました。
そしてそれは成功し、大きな話題になりました。
しかし、それが日大アメフト部の3人のリーダーにとどまったのは、私にはちょっと残念です。

私のフェイスブックに、友人が宮川選手に対して痛烈な意見を書き込みました。
オウムの場合、実行犯は死刑になったのに、宮川選手はみんなから同情された。
その違いは何なのかは、考えてみる価値があります。

私は、内田監督のような人には強い拒否感があります。
しかし、内田さんを厳しく非難するアメフト関係者やスポーツジャーナリストには、もっと強い拒否感があります。
これも以前よくブログに書いたことですが、組織が起こした問題は組織全体の責任だと私は思っています。
誰か一人に責任を押し付けたり、「反論できる状況ではなかった」などという言い訳が、私の最も嫌いなものです。
なかには「連帯責任」を否定している人もいますが、組織で起こった不祥事は組織にいる人は誰もが無縁ではありえません。
さらに言えば、その実態を知っていたり、知りうる立場にある人もまた、無縁ではありません。
原発事故の責任が、それを許していた日本人すべてにあるように、です。

日大の荒っぽいやり方は、アメフト関係者であれば、たぶん多くの人は知っていたはずです。
あそこまで「ひどい」とか「反則是認」と思っていなかったかもしれませんが、反則行為は全て連続しています。
薄々かもしれませんが、みんな知っていたでしょう。
だからこそ、最初の頃、多くの人が、SNSで広がらなかったらこんなに大きな問題にはならなかったと言われていたわけです。
そうした風潮の中で、内田さんは自らのやった行為が、自らの「除名」にまでつながるとは思ってもいなかったでしょう。
内田さんには、自分のやっていることがそんなに大きく逸脱しているとは思っていなかった。
そんな気がしてなりません。

関東学生連盟の関係者処分には、関東学生連盟関係者が含まれていなかったことに私は失望しました。
日大アメフト部の部員たちの声明文とは全く違います。
当事者意識がまったくない。
それでは内田監督や日大関係者と全く同じです。
だから、今回の事件で、日本のアメフトやスポーツ界はあんまり変わらないだろうと思った次第です。

日大アメフト部だけが例外だったのか。
私にはそうは思えません。
内田監督の反撃はないでしょうが、そして反撃しないような状況は作られるでしょうが、どうも「特別の事件」にされてしまっているのが、気になります。

アメフトを知らない者の妄想かもしれません。
しかし、事件解決の標準モデルのスタイルのような気がして、どうもすっきりしません。

■誕生日に「おめでとう」のメッセージを送ること(2018年5月31日)
私は、儀礼的な挨拶が苦手です。
そういう挨拶をするのはなんとかできますが、応えるのが特に苦手です。
困ったものですが。

昨日、喜寿の誕生日でした。
フェイスブックには、誕生日にメッセージを送ることが仕組みとして組み込まれています。
最初はそれがいい仕組みだと思っていました。
年賀状も同じですが、年に1回、普段あまり交流のない人に、安否もかねて交流することに大きな意味があると思っていました。

しかし、最近は、基本的には誕生日に「おめでとう」というメッセージを送るのをやめました。
というのは、そういうメッセージが私のところにも来ることで感ずることがあったからです。

もちろん、うれしいメッセージは少なくありません。
昨日も、そういううれしいメッセージも少なからずありました。
しかし、フェイスブック仕込みの画像などが送られてくるのは、私の趣味ではありません。
年賀状や何かの記念日の時に、メールで既成の動画ハガキが添付されてくるのも同じですが、これほど味気ないものはありません。
あまり交流もなく、パーティなどで数回お会いした人から、人生の意味などを説かれると、相手を間違っているのではないかと、その人の姿勢に違和感を持ちます。
きっと誰にでも出すパターン文章なのでしょう。
あんまり書くと、人を非難することになりかねないのですが、挨拶とはもっと「心を込めて、相手に寄り添う形で(つまり標準パターンではなく)」送るものだと思います。
だからと言って何も長いメッセージである必要はありません。
同じ「おめでとうございます」の一言であっても、その人との関係性で、言葉の裏にある「気持ち」が伝わってくることもあります。

「誕生日にどうしておめでとうというのか」という、ひねくれた問いかけを昨日書いてしまいました。
いろんなアドバイスをいただきました。
私が言いたかったのは、「おめでとう」という言葉を、フェイスブックで「いいね」を押すような気持ちで送ることへの問いかけでした。
なんでこの人に「おめでとう」というのだろうかと、ちょっと考えるだけでもいいかもしれません。
機械的に、ただ「符牒」として、「おめでとう」と声をかけることに疑問があるのです。
人によっては、また時期によっては、「おめでとう」と言われたくない誕生日の時もあるのです。
それに、「おめでとう」ではなく、誕生日ですね、というだけでもいいでしょう。

どうして私はこの人に「おめでとう」と声をかけるのだろうか。
それをしっかりと考えた上での「おめでとう」は、それでも私には少し違和感はありますが、素直に受け入れることはできます。
しかし、FBから「今日は誰それさんの誕生日なのでメッセージを送信しよう」などといわれて発信するような風潮には、いささかの違和感があります。
バレンタインデイにチョコレートを送ろうという風潮がかつてはかなりありましたが、そうした風潮にしたがうことは私が一番嫌いな行為でした。
従って、チョコレートは嫌いだなどと嫌味を言ったりしてしまいましたが、実はチョコレートは好きなのです。
最近は幸いに誰からもチョコレートは届きません。

また余計なことを、しかも誤解されそうな書き方で書いてしまいました。
また友だちが減りそうです。
困ったものです。

■嘘がまかり通る社会になってしまいました(2018年5月31日)
以前、まだブログを始める前ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。

そこで書いたことを再録します。

〔メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002年2月7日)〕
今回の田中外相の更迭事件は「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の範を首相が示してくれた「歴史的な事件」でした。
子どもたちには大きな影響を与えるのではないかと思います。
リーダーとしての責任のとりかたについても、たくさんの影響を与えていくことでしょう。
子どもたちは学校の先生から何かを学ぶのではなく、大人たちの生き方から多くのことを学ぶのです。
影響力の大きいモデルの一人が、総理大臣です。
そして、彼を支えているのは私たちです。
私たちの生き方です。

重要な問題であるにも関わらず、誰が嘘をいっているかも明確にしようとしない人でもリーダーがつとまるわが国の政治は、いったい何なのだろうかと、いささか哀しく思います。
まあ、今に始まったことではないのでしょうが、ここまで明確にみんなに見えているにも関わらず、よくやるなあ、と感心してしまいます。
いずれにしろ、事実に基づかなくとも政治ができてしまうのです。

嘘をついても嘘をつかれても、どちらも罰せられるのであれば、嘘をついたほうが賢いともいえます。
実際、今回の結果はそうなったような気もします。
もしそうであれば、嘘の勧めというお裁きだったわけです。

小泉さんは日本の未来を2回変えたと私は思っています。
前回は、私は国会デモに参加して、自己満足的な抗議を行いましたが、今回はもっと本質的な問題を含んでいますので、デモ程度では対応できそうにありません。
そこで、一度、政治ってなんだろうか、という集まりをやりたいと思っています。
関心のある方はご連絡下さい。

それはともかく、今回の事件を皆さんはどうお考えでしょうか。
言った言わないよりも予算を早く決めるほうが大切だ、という人もいますが、嘘を奨励する人が作る予算など何の役に立つのでしょうか。
NGOの正しい評価や構造改革も大切ですが、それ以上に嘘を正さないことのほうが問題ではないかと私は思います。
子どもたちでもわかるような、基本的な問題こそが大切なのです。
言葉に惑わされて、感覚を麻痺させてはいけません。
私たちの生き方の根幹が問われているのです。

あなたは、嘘をつくことに呵責を感じない人たちがつくる予算を信じますか。
雪印食品の事件にも現れていますが、私たちは「嘘をつくこと」にあまりにも寛容になってしまっているのかもしれません。
政治も経済も嘘(虚像)の上に成り立っている。これが現在の姿です。
このことのおかしさを、少し考えてみることが必要なような気がします。

以上が16年前に書いたことです。
読み返してみると、その時の不安が現実化してしまいました。
すべてはこの時から始まった。
私はそう考えていますので、小泉さんの「脱原発」など一切信頼できません。

■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」のお誘い(2018年5月30日)

今回のサロンは、これからの社会のあり方を考える上で、とても大切な話なので、いつも以上に、ぜひ多くの人に参加してほしいサロンです。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)を覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展してしまいました。
地裁も高裁も住民勝訴でしたが、行政側はまだ「公民館だより」に掲載してくれていません。

この「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーが訴訟関係者たちによって出版されました。
「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)です。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。

俳句の作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

本書をテーマに湯島で開催することにしました。
本の編著者の一人で、この訴訟の応援もされてきた佐藤一子さん(東大名誉教授)も参加してくれる予定です。
平日の夜ですが、ぜひご参加ください。

○日時:2018年6月27日(水曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」へのお誘い(2018年6月1日)
湯島で新しい集まりをスタートさせます。
主催は、霜里農場の金子友子さんです。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちは、全国にたくさん広がっていますが、その人たちを毎回ゲストにお迎えして、その季節季節の旬の有機野菜を、簡単な料理で楽しんでもらおうという企画です。
同時に、意欲をもった有機野菜生産者を多くの人に知ってもらって、その応援者になってもらえればと思っています。
有機野菜の生産者を増やしていくためには、有機野菜の消費者を増やしていかねばなりません。
そして、有機野菜の良さを知ってもらうと同時に、食のあり方を考えてもらいたいと金子友子さんは考えています。

有機野菜作りに取り組んでいる若者たちは、好青年が多いです。
そうした好青年たちの「母親役」でもある、金子友子さんは、仕事が忙しくて、お嫁さん探しもなかなかできない有機野菜生産者のお嫁さん探しもできればと、考えているようです。

ほかにもまだいろいろと思いはありそうですが、しかし、ともかくはまず「有機野菜の旬を楽しんでもらいたい」というのが、友子さんの願いです。
最初のゲストは、千葉県の船橋市で有機野菜作りに取り組んでいる山田農場の山田勇一郎さんです。
私も先日、友子さんと一緒に山田農場を訪問して、山田さんと会ってきました。
お話だけでも十分に面白そうです。

ぜひ多くの人に参加していただき、美味しい有機野菜を味わってほしいと思っています。

○主催者:霜里農場の金子友子さん
○第1回生産者ゲスト:山田農場 山田勇一郎さん
○日時:2018年6月23日(土)14時〜16時
13時半から開場しています。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○会費:500円+思し召し(有機野菜のおいしさへの感謝)
○定員:15人以内 ※要予約(野菜の準備のため参加人数を把握したいので必ず申し込みください)
○申込先:湯島コンセプトワークショップ佐藤修
(メール:qzy00757@nifty.com 電話:03-6803-2575)

■解釈の違い(2018年6月6日)
文化の違いは解釈の違いを生みだします。
ですから同じ言葉が、違う意味や使われ方をしがちです。

昨日、国会で佐川前国税局長官の任命責任を問われた麻生財務大臣は、「適材適所の任命」だったと応えています。
麻生さんにとっては、適材が責任を果たした事例なのだろうと思います。
適材適所の意味するところが違いますから、議論は成り立ちません。
改ざんすることこそが、麻生さんは「適切な行為」と考えているかもしれません。
但し自分に迷惑をかけないように、ですが。

日大アメフト部の選手たちと監督・コーチも、同じ言葉を使いながら、その意味合いは違っていたと思います。
それを踏まえて事実を解析していく必要があります。

文化の違いなどというと大げさになりますが、視点の違いと言ってもいいでしょう。
視点によって、言葉の意味は違ってきます。
麻生さんと海江田さんの視点は違いますから、質問と回答はかみ合いません。
文化の違い、視点の違いを超えた、設問が求められます。
国会の議論を聞いていると、ほとんど言葉がかみ合っていない気がします。

ソクラテスは産婆術的な問いかけを繰り返し、相手の視点で問うことを大事にしたと言われます。
相手は、ソクラテスの問いに答えるのではなく、自らの問いに答えるように仕向けられます。
ですから防衛的な回答はできません。
なにしろ問いかけも答も自分で完結するわけですから。
そのために、ソクラテスは民衆によって死刑を宣告されたのでしょう。
私も基本的には、そうした問いかけを大切にしています。
他者に対しても、自らに対しても、です。

柳瀬さんも佐川さんも、大谷さんも矢野さんも、みんな「適材適所の適任者」なのです。
立派な官僚なのでしょう。
その構造を変えなければ、いけません。
しかし残念ながら最近の日本では、多くの人たちが(若者も含めて)、麻生さん的な「適材適所の適任者」を目指しているような気がしてなりません。

昨日、「マルクス・エンゲルス」という映画を岩波ホールで観ました。
https://eiga.com/movie/88435/
友人に勧められたのといくつかの映画評も読んでいたのですが、正直に言えば、まったく退屈な映画でした。
なんでいまさらこんな映画がヨーロッパで生まれるのだろうかと考えてしまいました。
そこに大きな示唆があるのかもしれません。

しかし、筋書きは退屈でしたが、もし若い人がこの映画を見たら、右脳的に影響を受けるような気がしました。
コモンズだったはずの森で枯れ木を取ることさえ許されずに殺害される風景が、視聴覚的な効果を活かして展開されるシーンから映画ははじまります。
まだ「人間」が左脳を持っていなかったような扱いに、私は違和感がありますが、導入部の演出としては見事です。
期待が膨らみ、そこにマルクスたちのすべてのメッセージを感じてしまう人もいるでしょう。

つづいて、エンゲルスの父親が経営している工場での労働者たちの怒りの集会が映し出されます。
経営方針に異議申し立てした女性が解雇され、そこからエンゲルスが、その労働者の女性と恋に落ちる展開は、いかにも現代流ですが、たぶん右脳的には効果的です。

ちなみにマルクスの妻は、貴族の娘です。
貴族とユダヤ人、ブルジョアの息子と貧しい労働者。
マルクス夫婦とエンゲルス夫婦の組み合わせは、20世紀の世界を象徴しています。
階級や所有や犯罪に関する問いかけが、そこには含意されています。

映像は書物とは違って、人間の心身に響いてきます。
もし私が若かったら、動き出したくなる情念を植え付けられたかもしれません。
ヨーロッパでは、たぶんまだその可能性があるのでしょう。
しかし今の日本ではどうか。
適材適所から外れた自らの生き方を志向するよりも、適材適所に合わせた生き方を志向する方が快適だと思う文化が広がりだしているように思います。

そうした社会では、「言葉」は人を呪縛しだします。
言葉から自由になって、改めて映像や音からのメッセージを大切にしなければいけなくなってきたのかもしれません。
私は活字人間ですが、どうも活字の時代は終わりつつあるようです。
そうは思いたくはないのですが。

■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンの報告(2018年6月6日)
久し振りに熊本の宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)のサロンを開催しました。
宮田さんは、さまざまな分野で活動していますので、大きくは「福祉と農業」を基軸に最近の活動の紹介をしてもらいました。
10人の参加者がありました。
今回は思いきり主観的な報告をさせてもらいます。

宮田さんは、大きくは5つの話題をたくさんの資料を使って話してくれました。
大学新設、農福連携、フェアトレード、熊本地震と障害者支援、西本省三。
いずれも宮田さんが当事者として取り組んでいるお話ばかりです。

それらはバラバラの話題のようですが、宮田さんはそれらがしっかりとつながっていることを最近改めて実感してきた、とお話になりました。
たしかに5つの話題は、それぞれに完結してもいるのですが、人や社会を育てる大学を創る話からはじまった宮田さんの話は、最後に、中国研究者の西本省三は中国人をリスペクトしていたという話で、5つの話のループを完成させました。
キーワードは、人と人の関係性です。
宮田さんの人柄と生き方が、見事につながった話だったと思います。

大学を創る話や西本省三(宮田さんの縁戚の人)の記録をまとめるという話は、今回初めてお聞きしましたが、とても宮田さんらしい話だと納得しました。

そうした話題の中で、ご自身が対応しているケーススタディ的なお話もあり、そこでは「中動態」発想を活かして関係性を立て直していく最新のカウンセリングの体験なども、とても具体的に紹介してくれました。
その一方で、なぜ日本は日清戦争に勝利したのかというような話もあり、退屈しませんでした。

もっとも話題があまりにも多いので、私自身必ずしも消化できたわけではありません。
しかし宮田ワールドが目指していることや、それが今何を引き起こしているはなんとなく伝わってきました。
宮田さんの話は注意深く聞いていると、実に深い含意があります。
それを肩に力を入れることなく、さらっというので、聞き流すこともあるのですが、宮田さんにはラディカルさとリアリズムが、矛盾なく混在しています。
今回の話も、まさにそうした多様なものが混在しながらも、宮田さんの核はまったくぶれることなく、だからといって呪縛されることもない柔軟な生き方が語られていました。
それもあって、話し合いのところでは、農業の教育力とか農福連携の実状とか、福祉の世界の話とか、経済と社会の関係の話とか、いろいろと示唆に富む具体的な話題もでました。

公開は避けますが、宮田さんの個人的なビッグニュースもいくつか紹介されました。
これからは少し時間ができそうと言っていましたが、たぶん時間ができたら、さらに新しいことに取り組んでいく人ですから、むしろますます多様で多用な人生になって行くでしょう。
また時々、宮田さんの活動から社会の状況を垣間見るサロンをやってほしいと思います。

宮田さんが持ってきてくれたスリランカのインクルーシブコーヒーもみんなで楽しませてもらいました。

参加した人にだけしか伝わらない報告ですみません。

■雨にも負けず畑に行きましたが、デモはさぼりました(2018年6月10日)
私は昔、花巻に住んでいたそうです。
「そうだ」というのは、もうかなり昔の話なので、記憶がほとんどないのです。
その頃の友人が、いまは福島に住んでいますが、彼から30年ほどまえに教えてもらったのです。

当時、たぶん、花巻には宮沢賢治が住んでいたと思いますが、会った記憶はありません。
しかし、なぜかとても賢治には親近感があります。
賢治の「雨にも負けず」に描かれているような人になりたいと、私も思っていた頃があります。
いまはもうあきらめていますが、でも時々、思い出します。

というわけで、昨日は「暑さ」に負けずに、今日は「雨」にも負けずに、畑に行きました。
水やりではなく、声かけに行ったのですが、ついつい作業をやりだしたら、また1時間以上、在畑してしまいました。
昨日に懲りていたので、無理はしまいと思っていたのですが、やはりちょっとくらい無理をしないと、充実感がありません。
それでも汗はかきました。

以前は、シランが一画を占拠していたのですが、中途半端に手を入れたので、植生が一変しました。
気が付いたら今はほとんどありません。
花を植えるよりも、いまある花を応援したほうがいいと思い出しました。
笹竹退治からシラン支援に思想を変えることにしました。

畑も似ています。
真ん中の野草を抜いて苗を植えていたのですが、耕し方が不足していたため、ほとんど枯れてしまいました。
そこを放置していたら、そこに大根か青菜かわかりませんが、野菜らしきものがたくさん芽を出してきました。
以前、ここに育てていた野菜の種が発芽したのでしょう。
無理して野菜を植えるよりも、自然に出てくるものを活かす方がいいかもしれません。

午後は久しぶりに国会前に行こうと思っていたのですが、さぼってしまいました。
まだ百姓一揆までには時間がありそうなので、今日は読書させてもらいます。
晴耕雨読は、私の文化ではないのですが。

■「小さな被害者」と「大きな被害者」(2018年6月11日)
新幹線車内で起こった殺傷事件は衝撃的でした。
止めようとした若者が抵抗する間もなく殺害されたのは、実に悲しい。

最近、こうした不条理とも言うべき事件が起こるたびに思うのは、たぶん多くの人と違って、加害者の人のことです。
加害者に怒りを感ずる人も多いでしょうが、私には被害者以上に、加害者およびその周辺の人たちのことが気になります。
私の好きな言い方を使えば、「小さな被害者」「大きな被害者」です。
今回も、テレビに出てきた、加害者の若者とその祖母や父親のことを思うと、心が痛みます。

私たちは、多くの場合、「小さな被害者」、この言い方は誤解されそうなので、「直接の被害者」と言った方がいいかもしれませんが、そちらだけに目が行きがちですが、「加害者と呼ばれる被害者」(「大きな被害者」)にも、心を向けることが大切ではないかと、最近痛感しています。
そして、そういう「加害者と呼ばれる被害者」が生まれてしまうことに、まさにこの社会をつくっている一人である、私にもまた、大きなかかわりがあることを、いつも思い知らされます。

私は、社会のための貢献活動などには関心がありませんし、社会貢献などと自分でいう人の活動は信頼できません。
社会に役立ちたいなどとも思ったこともありません。
しかし、私は社会の一部であり、私の言動が良くも悪くも社会に影響を与えていることは、いつも自覚しています。
宮沢賢治がいったように、「世界みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」と思っていますし、私たちの中に私があり、私の中に私たちがある、と実感していますので、社会と私は深くつながっている。
私が存在することそのものが、社会に影響を与えているのであって、私自身が住みやすい社会になるように、ただただ自らの生き方を問い直しているだけです。
貢献するなどという発想は、出てくるはずもありません。
そして、もし社会に不条理な事件が増えているならば、それは私の生き方に無縁であるはずがない。
同じ空気を吸って生きている以上、今回の事件の加害者も被害者も、私と無縁であるはずがない。
そう思うと、加害者がなぜ心を失ってしまったのか、そこに思いを馳せないではいられません。

明日の午後、湯島で、生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合うサロンを開きます。
よかったら来てください。
私のなかでは、そうしたサロンと今回の事件が強くつながっているのです。

■米朝会談への違和感(2018年6月13日)
米朝会談の実現は喜ばしいことでした。
いままで会ったことのない2人が、直接に会ったことが実にすばらしい。
人は、直接会って話をしてこそ、お互いに分かり合えて、人間的な判断や思考ができるようになると思っているからです。
そこに最大の意義がある。

ただ、報道を読んでいて、どうも違和感があります。
たとえば、「非核化」ということです。
核を持っているアメリカが、北朝鮮に非核化を要求することの「非対称性」がどうも理解できません。
トランプ大統領が握手しようと先に手を出したように、まずは自らの核への姿勢を表明しなければ、対話は成立しないはずではないのか。
「朝鮮半島の非核化」という言葉の意味がわかりません。
非核国家とされていた日本にも、米軍によって核兵器がたくさんあったことも最近明らかになっています。

「非核化」の主語は「人類」でなければいけないのではないか。
核兵器を独占する大国が、核を独占しようとすることにこそ、問題があるのではないのか。
アメリカが非核化しない限り、朝鮮半島の非核化など成り立つはずもない。
核兵器は、国家など越えているからです。
アメリカ大統領は、北朝鮮の非核化を言う前に、自らの(段階的な)非核化を宣言すべきではないか。
オバマ大統領が、そういう姿勢を出した時には大いに期待しましたが、言葉だけで終わりました。
核兵器に支えられた力や体制は、ひずみを起こしていくでしょう。

北朝鮮の体制の保証という言葉にも驚きます。
私には信じがたい言葉ですが、北朝鮮がそれを望んでいるというように報道されています。
それではまるで、アメリカの属国になるということです。
そんなことがあるはずもない。
ここで保証の対象は何かをもっと考えなければいけません。
それに、そもそも「体制」とはなんなのか。

米朝会談の実現は喜ばしいことですし、それによって、なにかが変わっていくように思います。
しかし、小国の非核化が正当化され、大国による国家体制の保証が正当化されるようであれば、そこにある「平和」は、抑圧された平和でしかありません。
発想や言語体系の枠組みを考える「視点」を、そろそろ逆転していかなければいけないのではないのか。

しかし、それはそれとして、未来の大きな影響を与える立場にあるトランプ大統領と金委員長が、直接会って、会話し、握手したことの意味は大きい。
だからやはり昨日の米朝会談は、新しい歴史につながっていくと思います。

■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」の報告(2018年6月14日)
「茶色の朝」サロン(BMS)の4回目は、3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらうことを入り口に、「いまの政治でいいのだろうか」を話し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
11人があつまりました。

最初のお話は、母親であるという立場もあって、学校や教育の関係のお話から始まりました。
そして、いろんな生活体験から、なにか「見えないもの」が社会を動かしているような気配を感じていること、そこで、生活者として、1人でもできる活動をはじめたら、そこからいろいろなことが「見えてきた」一方、さらなる「見えないもの」も感じだしたことなど、日常生活からのとても具体的なお話で、茶色の朝サロンにふさわしい問題提起が込められていました。

そこから話し合いが始まりましたが、男性が多かったせいか、やはり「生活感覚」ではなく、「知識」ベースの話し合いになってしまった気がします。
最初に話題になったのは、ハンナ・アレントのアイヒマン裁判の話でした。
凡庸(忠実に命令に従う)、あるいは「自分で考えないこと」が、あのユダヤ人殺害を支えていたという話ですが、まさに今の日本にも、こうした「思考停止」や「凡庸志向」が広がっているという話になりました。
学校を含む教育の問題も出されましたが、ここでもイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」にまで話が広がりました。
茶色の朝サロンの主旨はなかなか実現できません。

もちろん、話し合いは示唆に富む内容も多いのですが、たぶんそれでは社会は変わっていかないような気がします。
1960年代から70年代の学生運動が挫折したのは、「生活」とつながっていなかったからではないかという、当時活動していた人からの「反省」も出てきました。
だから「茶色の朝」サロンを始めたのですが、どうもやはりそこから抜け出られないのが男性たちかもしれません。
いまの若い男性は全く違うと思いますが、残念ながら今回は、その世代の男性は誰もいませんでした。

話題提供してくださった母親は、おかしいと思ったら行動しています。
教科書検定が気になったら、実際に教科書が展示されている場に行って、いろんな教科書を読む。
気になったことがあれば、関係者に電話して意見を言う。
それがたぶん「茶色の朝」が私たちにメッセージしていることです。
気になったら考える、そして動く。

翌日、話題提供者からメールが来ました。
そこにとても大切なことが含まれているように思うので、その一部を紹介させてもらうことで、今回は報告に変えたいと思います。

午前中に自宅で、たくさん溢れる「伝えたい思い」を無理やりまとめる作業をしましたが、これにより、自分の抱えた不満を整理することが出来たように思います。
予想外のありがたい効果でした。

皆様のご意見から、たくさんの「気づき」がありました。

息子から「お母さん、俺はどうして勉強するんだろう」としょんぼりと問いかけられた出来事。
息子の心からの問いに即答できずに「何でだろう…」と言ってしまい、翌日息子に自分なりの返事を伝えても、「もういいよ」とあしらわれてしまいました。
子供のなぜ?が、もう心の奥に仕舞われてしまったのです。
日頃から、「今年は受験だから頑張ろう」と息子に話していたのに、なぜ学ぶのか、なぜ受験勉強をするのか、大事なことをよく考えていない母親だったと、ひどく後悔していました。
でも、サロンのあと、新たな考えが浮かびました。
もしかすると、私の答えなんかどうでもよかったのではないか。
私がサロンのあとで「自分なりの着地点」を見つけたように、「それなら自分で考えるか・・・」とか「他の人に聞くか」とか「調べるか」とか。
何でもいいから、自分で答えを見つけ出してくれるのではないか、そんな希望が生まれました。

自分の意見を考え、整理する。人に伝える。他の人の意見も聞いてみる。
これって生きていくのに本当に大切なことだと思いました。
人間はロボットではない。思いがあり、考える人間である。だから悩みも苦しみも生まれる。
子供達にはそこから逃げず「自分なりの答え、着地点」を考え、探し求めながら歩んで欲しいなと思います。

そう考えると、子どもこそ「サロン」が必要ですね。
とりあえず、自宅で「サロン」をやってみようと思います。

このメールを読んで、とても報われた気持ちになりました。
懲りずに「茶色の朝」サロンは続けたいと思います。

■「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験しました(2018年6月15日)
アメリカで開発された政治風刺ゲーム「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験させてもらいました。
http://chihosho.neil.chips.jp/?eid=360
何人かでやるアナログゲームですが、以前、ウォーゲームを体験させてもらった蔵原さんのアレンジです。
前回のウォーゲームが、思った以上に退屈だったので(蔵原さん、すみません)、いささか不安がありましたが、今回は退屈どころか、なかなかついていくのが大変でした。
何しろゲームに入る前の、頭に入れておかなければいけないルールがたくさんあって、私のように老化した頭にはすんなり入っていきません。
しかし、始まる前からなにやらワクワクするようなものを感じました。
それに、その段階からすでにゲームははじまっていて、目に見えない駆け引きが行なわれていることを、今回のゲームマスターの岡和田さんに教えてもらいました。
この仕組み、というか、進め方が実に面白い。

ゲームは、 “アルファ・コンプレックス”というディストピアを支配する、親愛なるコンピューター様に仕える「ハイプログラマー」というエリートとして、コンピューター様の問いかけに応じて、コンプレックスを経営していくことです。
ゲーム参加者は、それぞれ「大臣」となって、「閣議」をもちながら、国家経営に取り組みます。
私は、最初、2つのポストをお金を使って獲得したのですが(一つはライバルと競り合って高い代償を払いましたが)、あまりの事態の目まぐるしさになかなかついていけずに、結局、一つのポストはライバルに奪い取られ、さらにコンピューター様の機嫌を損ねて、死刑の憂き目にあってしまいました。
お抱えシェフのおかげで、贅沢な食事を堪能し、市民の食糧まで取り上げようとしたのが、よくなかったかもしれません。
しかし、「食事」などという原始的な習慣は市民には不要で、それはエリートだけの特権にすべきというのが私の提案だったのですが、同僚からは無視されました。
もっとも、“アルファ・コンプレックス”のエリートは、みんなクローンなので、抹殺されても、すぐに復活できるのですが。
まあ、そんな形で、ささやかにゲームに参加させてもらいました。
みんなの足を引っ張ったとはいえ、なんとか落伍しなかったのは、ゲームマスター役の岡和田さんのリードのおかげです。
岡和田さんやすでにゲーム体験のあるみなさんのおかげで、このゲームの考え方の効用や可能性も実感できました。

蔵原さんからは、なぜ政治が良くならないか、憤慨するだけではつまらなくないですか。いっそ政治のしくみを笑い飛ばしながら、その原因をつきとめませんか、とメールをもらっていました。
現在の政治に憤慨するのは、自らに唾することですから、私も憤慨しているだけの人には共感はまったくと言っていいほど持てないのですが、このゲームでガス抜きしてしまうのも、賛成はできません。
しかし、政治のメカニズムに気づき、政治を見る目を変えていくには、一つの方策だろうと思います。
しかし、私はむしろ、企業や自治体行政や、さらには子どもたちの考える力を引き出すために、こうしたゲームは大きな効用があるように思いました。
今回は、ゲーム好きな人たちに会えて、ちょっとまた世界が広がりました。

■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」報告(2018年6月23日)
霜里農場の金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」がスタートしました。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちを毎回、ゲストにお呼びし、そこでできた旬の野菜を味わいながら、有機農業や私たちの生き方をちょっと考えてみようというサロンです。
隔月くらいで開催、時には農場を見に行く企画も金子さんは考えています。

第1回目は、船橋市で山田農場を経営している山田勇一郎さんに来てもらいました。
定員の15人を超える参加者がありました。
まだ0歳の乳幼児を連れた若い夫婦の方が参加されました。
湯島サロンの最年少記録が更新されました。

話はまず山田さんの農場の様子の紹介から始まり、ついで「有機農業」に関するわかりやすい説明がありました。
「有機農業」という言葉をなんとなく使っている人も多いと思いますが、山田さんと金子さんの話で、その意味がよくわかりました。
山田さんの有機農業は、科学的な知見を大事にしています。
今回は「光合成」の仕組みから説明してくれたのですが、私などは光合成そのものの意味さえきちんとわかっていなかったことを、恥ずかしながら、この歳になって知りました。
また、有機野菜を「安全性」という視点で捉えていましたが、むしろポイントは「おいしさ」にあるということにも気づかせてもらいました。
その「おいしさ」がどこから来るのかも教えてもらいました。
そして大切なのは、昔よく言われた「作物をつくるのではなく土をつくるのだ」ということを思い出しました。
工業型の農業とは全く違う、もっと大きな「科学性」がそこにはあります。
大げさに言えば、自然科学もそろそろ枠組みを変えるべき時期に来ています。

山田さんが10年かかってつくりあげてきた山田農場の、事業としての、「起業」と「経営」の話もとても示唆に富むものでした。
新規就農されたい方は、ぜひ山田さんのところで一度、教えを乞うといいと思います。
山田さんのところでは、講座もやっているようですが、農法だけではなく、実践的な経営の話も聞けると思います。

農業の持つ「教育力」や「福祉力」は、湯島でも時々話題になりますが、今回は、農業に取り組むことで「経営力」が身につくことに気づきました。
改めて「農営」や「農法」ということを考えなすべき時期かもしれません。
安直な「儲かる農業発想」ではなく、自らの生き方に重なるような農業の可能性を改めて考える時期に来ているようにも思います。
山田さんの実践は、そうした視点で大きな示唆を与えてくれているような気がします。

そういえば、金子さんが、農法に込められた日本古来の知恵についても言及され、有機農業はそうした知恵を再発見していくことだというようなことを話されていたのに共感しました。

ほかにも、たとえば堆肥づくりとか土壌づくりなど、実際の有機農業に関する話もありましたが、いろんな意味で、いろんな発見のあるサロンでした。
話の後、山田農場の新鮮野菜(今回はトマト、キュウリ、トウモロコシ)を味わいました。
今朝もぎたてのトウモロコシを生で食べさせてもらいましたが、ほとんどの人が初めてだったと思います。
参加者が多かったので、分かち合いになりましたが、これも実によかったです。
最後は、みんなお土産に野菜ももらいました。

次回は8月25日の予定です。
米作りをやっている有機農業実践者がゲストの予定です。

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告(2018年6月24日)
民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な柳兼子をテーマにしたサロンは、16人が参加しました。
話題提供者は、我孫子在住の海津にいなさん。
海津さんは30年ほど前に千葉県の我孫子に転居してきましたが、かつてそこに住んでいた白樺派の人たちの活動に関心を深め、今はどうやらすっかり柳兼子さんにほれ込んでしまっているようです。
数年前から、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラを実現したいと考えています。
今回のサロンも、そうした思いも会って、改めて柳兼子の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになればということで開催しました。

柳夫妻は、我孫子には7年ほど住んでいましたが、柳夫妻の縁で、当時の我孫子には白樺派の文人たちが集まってきていました。
柳宗悦は民藝運動の創始者として有名ですが、柳宗悦を支えたのは伴侶の兼子であり、また宗悦の思想を実践していたのは兼子であると言われています。
兼子は、本場のドイツでも聴衆を驚愕させたようで、「声楽の神様」とさえ言われ、85歳まで公式のリサイタルをつづけていたそうです。
柳兼子は、まさに今の日本において、見直される人だと海津さんは考えていますが、たぶん今回のサロンに参加した人はそういう思いを持ったのではないかと思います。
NHK朝ドラにするとしたら、こういうのがいいという提案も参加者から2つも出ました。

白樺派と言えば、文芸活動というイメージを持っている人も多いと思いますが、その底にある理想主義や人道主義を踏まえた社会活動の側面はなかなか伝わっていません。
柳宗悦の民藝活動も、生活文化のなかに「用の美」を見出すというような美術活動の側面に焦点が当てられ、声楽と言えば、これまた芸術活動と考えてしまいますが、白樺派にしろ民藝運動にしろ、そして柳兼子の声楽活動にしろ、もっと広い社会性を持ったものだったようです。
今回のサロンでは、海津さんはそういう広がりを意識しながら、さまざまな「テーマ」を示唆してくれました。
途中で、柳兼子の80歳を超えた時の歌声も聴かせてくれました。
その声の力に驚きました。
ただし、私がとりわけ興味を持ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチとのつながりです。

海津さんのもう一つのメッセージは、戦争に向かって全体主義化が進んでいた当時の時代状況のなかでの兼子や白樺派の人たちの動きです。
私たちが、いまそこから学ぶことはたくさんあります。
これもサロンでは少し話し合いがありました。

沖縄在住のジャーナリストでもある緒方さんや日本韓国・朝鮮関係史研究会のメンバーの方も3人参加してくれました。
沖縄や朝鮮とのつながりも柳夫妻の活動の本質を示唆してくれています。
ほかにも参加者からも興味ある話が紹介されました。
今回は柳兼子の入り口だけでしたが、たくさんのテーマがちりばめられていたような気がします。
海津さんのフットワークのいい調査と自由な想像力に裏付けられたとても面白い発表でした。

これを契機にして、海津さんに「柳兼子研究会(仮称)〕の立ち上げと柳兼子我孫子ツアーを企画してもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
また当日配布された、海津さんのレジメ「手賀沼湖畔で大発展した白樺派と柳兼子」をご希望の方はご連絡ください。
海津さんの了解を得て送らせてもらいます。

ところで、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラの実現に力を貸して下さる方がいたらぜひよろしくお願いします。
面白いものになることは、間違いありません。

■カフェサロン「日本は核武装するべきか」のお誘い(2018年6月28日)
今回はちょっと刺激的なテーマでのサロンを開催します。
「日本は核武装するべきか」というテーマです。
雑誌「文藝春秋」の7月号で、フランスの歴史学者のエマニュエル・トッドが、「日本人のタブーを親日外国人の立場で敢えて言う」と出して「日本は核を持つべきだ」という提唱をしています。
エマニュエル・トッドといえば、かつて、ソ連崩壊や英国EU離脱、あるいはトランプ当選などを次々に「予言」してきた人です。
そのトッドが、「日本は核を持つべきだ」と文芸春秋に寄稿したのです。

トッドは同論文でこう書いています。

東アジアには、中国と北朝鮮の2つの核保有国が存在することになります。
核を持たない日本は、2つの核保有国に隣接することになるのです。
このように言うと、すぐに「日本は米国の核の傘に守られている」と思われるかもしれませんが、私が問いたいのは、本当にそう言えるのか、ということです。(中略)
核は例外的な兵器で、これを使用する場合のリスクは極大です。
ゆえに、核を自国防衛以外のために使うことはあり得ません。
例えば、中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があるかぎりは、米国が、自国の核を使って日本を護ることは絶対にあり得ない。
米国本土を狙う能力を相手が持っている場合には、残念ながらそのようにしかならないのです。
要するに、「米国の核の傘」はフィクションにすぎず、実は存在しないのです。
(中略)
核とは戦争を不可能にするもの
第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも、核の存在のおかげです。

そうした認識を踏まえて、トッドは日本の核武装を提唱しています。
みなさんはどうお考えでしょうか。

私の周りには、「わが意を得た」という人も「裏切られた」という人もいます。
私自身は、「いまさらなんだ」とトッドの陳腐な小論には興味はないのですが、でもせっかくの機会ですので、改めて「日本核武装論の意味」を話し合ってみたいと思います。
併せて「原発核兵器論」も話せたらと思いますが、まああまり欲張らないほうがいいかもしれません。

核武装賛成論者も反対論者も、参加してもらえるとうれしいです。
湯島のサロンの特徴の一つは、意見のまったく違う人の意見にも触れることです。
それによって、自らの考えを相対化できることの意味は大きいです。
でも、異論はぶつけあって、激論することは歓迎です。
但し、サロンですので、相手の意見も尊重して、過剰に傷つけ合うのは避けたいです。
なお、できることならば、事前に「文藝春秋」のトッド論文に目を通しておいていただければうれしいです。

○日時:2018年7月14日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「日本は核武装するべきか」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」報告(2018年6月27日)

「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が引き起こした訴訟事件を材料にして、社会教育や市民活動のあり方を考えるサロンには、平日の夜にもかかわらず、13人の参加がありました。
この事件の概要に関しては、案内文にも書きましたが、先月出版された「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)に詳細な報告があります。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180513

今回は、九条俳句訴訟市民応援団の世話人でもある佐藤一子さんにお話をしていただいた後、参加者で話し合いました。
佐藤一子さんは、50年以上、社会教育に取り組んでおり、湯島のサロンの参加者の中にも、佐藤一子さんの影響で社会教育に興味を持ったという人も少なくありません。
訴訟に関わってきたお立場からていねいに事件と訴訟の話を紹介してくれた後、「社会教育の公共性の意義をどうとらえるか」、そして「問題の背景、本当の原因をどうとらえるか」という問いかけを参加者に投げかけました。
そこから話し合いが始まりました。

話し合いは「社会教育」という言葉を初めて知ったという発言から始まりました。
その方は社会の問題にとても関心が深く、ご自分でも様々な活動をされている方ですが、そうした方からの思ってもいなかった発言に私自身目を覚まさせられた気がしました。
また逆に、この分野に造詣の深い北本市の市会議員の方が、公民館の始まりから現状まで、そしてこうした事件に対する行政や教育委員会などの対応の制約などを、とても具体的に話してくれましたが、これまで腑に落ちなかったことのいくつかがわかったような気がしました。
サロンには、いろんな立場の人が参加してくれますので、問題の見え方がとても豊かになります。

この事件を授業で取り上げたという看護専門学校の先生が、学生たちの反応を資料にまとめて報告してくれました。
憲法の意味も含めてきちんと情報を提供し話し合うことで若い世代の人たちがしっかりした評価をし、問題を的確に深めていくことが示唆されていたように思います。

現在この事件は地裁、高裁と住民側が勝訴していますが、行政側が最高裁にまで持ち込んでいます。
最近の裁判の風潮を考えると最高裁での原告敗訴が心配で、日本の社会はもうそこまで来てしまっているという懸念も数名の方から表明されましたが、そうであればこそ、この問題をもっと広い範囲で取り上げていくことが必要だと改めて思いました。
万一最高裁で逆転敗訴になったら、それこそそれを材料に動きを広げていかねばいけません。
学校教育での日の丸・国歌の話題も出ましたが、教育は「国民」の思想形成を通して、国家の未来を方向づけていきます。

この、もしかしたら事件にならなかった問題の意味をしっかりと受け止めて、社会への大きな警告へと高めてきたのは、この俳句の詠み手と俳句サークルの代表代行の方に依るところが大きいと佐藤一子さんは話されました。
お2人とも戦争体験にもつながっている高齢の女性ですが、その子とは偶然ではないでしょう。
また、佐藤一子さんは、俳句という活動を通して社会を捉える感受性を高めてきたことの意義にも言及されました。
とても共感できます。
経済活動にばかり目を向けていては、そうした社会性や批判精神は育ちません。
そこにこそ「社会教育」の本質はあったはずですが、いまはむしろその逆方向へと向かっているようにさえ思えます。

やはり「茶色の朝」シリーズのサロンを広げていければと思います。
「九条俳句訴訟」をテーマにしたサロンも、みなさんのまわりでもぜひやってみてください。
もしお手伝いできることがあれば、協力させてもらいます。

今回は元教師や社会教育、あるいは学童保育などに取り組んでいた研究者や実践者も複数参加してくれました。
いつもよりも長目に時間を取っていましたが、やはりそれでも終わりませんでした。
たくさんの刺激と宿題をもらった気がします。
8月には「学校教育」を取り上げたいと思っていますが、どなたか問題提起をしてくれませんか。

■5月縁カフェのご案内(2018年6月29日)
5月の「縁カフェ」は7月2日です
また開店時間を12時から4時。
ほかは変わりません。
コーヒーは相変わらずワンカップ500円です。
コーヒー代金は縁カフェ基金(使途未定:現在高8000円)に収めます。
主旨などは前回の案内をご覧ください。
サロンではないのでご注意ください。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#1802071

〔ご案内〕
○日時:2018年7月2日12〜16時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf

■カフェサロン「相模原事件をどう超えていくか」のお誘い(2018年6月29日)
7月26日をどう超えていくか? みなさんで話し合える時間があるといいなと思う、と増田レアさんから、メールをもらいました。

7月26日は、2年前に神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で利用者の大量殺傷事件が起きた日です。
加害者の元施設職員の「重度障害者は死んだ方がいい」という言葉は衝撃的でした。
その言葉をめぐって、いまもなお「話し合いの場」がいろんなところでもたれています。
湯島サロンにも参加してくれている古川さんたちも、この事件を契機に「選別を考える」という会を立ち上げ、対話の会を続けています。
2年近く経ちましたが、この事件の問いかけは忘れるわけにはいきません。

増田レアさんは、日本における障害者自立思想の源流となった、脳性まひの人たちのコミューン「マハラバ村」をつくった大仏空さんの娘さんですが、自らもそのコミューンで子ども時代を過ごしました。
一度、マハラバ村の話をしてもらったこともありますが、増田さんがこの事件をどう受けとめているかも含めて、私も増田さんと一度話したいと思っていました。

事件から2年たった今、改めてこの事件からのメッセージをどう受けとめたかを話し合えればと思います。
最初に増田レアさんに、ちょっと口火を切ってもらい、みんなで本音の話し合いができればと思います。
平日の夜ですが、よろしくお願いいたします。

○日時:2018年7月27日(金曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「相模原事件をどう超えていくか」
〇問題提起:増田レアさん(マハラバ文庫主宰)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート1」のお誘い(2018年7月5日)

昨年、「看取り」シリーズのサロンを何回か開催しましたが、今回は、さらに一歩進めて、死という、誰もが避けがたい現実を積極的に捉えた生き方を支える「社会的な仕組み」をテーマに、2回にわたってサロンを開催します。
問題提起は、ホスピス勤務経験もある僧侶の中下さんです。

中下さんはたくさんの人を病院や在宅で看取り、葬儀の現場に葬儀社スタッフ・僧侶として関わってきました。
そうしたなかから、まだ漠然とではありますが、死を不安に感ぜずに、平安な生の支えになるような仕組みを、みんなで育てられないかと考えはじめています。

具体的にどう設計したらいいかは、まだ思索中のようですが、中下さんとお話していて、その「構想」が演繹的にではなく、中下さんのさまざまな実践活動のなかから生まれてきたということに深く共感し、サロンをお願いしました。

第1回目では、中下さんが生と死の現場に身を置きながら実践してきた活動から見えてきた課題や問題点をお話しいただき、そうした課題を解決するための「仕組み」の方向性をお話しいただこうと思います。
そして、2回目では、その「仕組み」に関する中下さんの構想をお話しいただき、それを入り口にして、「こんな仕組みがあればいいな」というようなことを出し合いながら、死を要(かなめ)にして、人のつながりを育て、平安な生き方ができるコミュニティや支え合う仕組みを、受益者としての願望だけではなく自分の人生とつなげながら、みんなで話し合えたらと思います。

中下さんは、こうしたことは、日本人の「死生観」の問題、つまり「生き方(逝き方)」の問題に深くかかわっており、これからの社会のあり方を考えることにつながっていると考えていますが、私も「生き方(逝き方)」を考えることこそが、福祉の要ではないかと思います。
2回の中下サロンを通して、できるだけ具体的で実践的に、他人事ではなく自分事として、それぞれの生き方、そして自分として何ができるかを考えるようなサロンになればと思っています。

なお、2回目は8月26日(日曜日)の同じ時間帯を予定しています。
2回目の案内はまた改めて行いますが、ぜひ連続しての参加をお薦めします。

〇日時:2018年7月22日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「安心して死を迎えられる生き方のために パート1」
〇問題提起:中下大樹さん(真宗大谷派僧侶、大学講師)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■改めて「魂の殺人」を紹介したくなりました(2018年7月6日)
過労死遺族の異論のある中で、働き方改革法が成立しました。
この法制度がいい方向で機能していくことを願っています。
しかし、私には大きな違和感があります。
「働く」ことの意味が問われることがないまま、制度論だけが進んでいることに、です。

脱時間給制度(高度プロフェッショナル制度)に関しては、過労死につながるのではないかという意見もあります。
しかし、これに関しても、「過労死」がなぜ起こるのかの問い方に違和感があります。
子どもを過労死させた遺族の方の意見には共感しますが、その姿勢には違和感があります。

微妙な問題なので、また本意が伝わらずに批判されそうですが、問題の捉え方が、私には間違っているように思えてなりません。
実は、このことは当事者の方のことを思うとていねいに書かないと傷つけることになりかねないため、書くのをいつも躊躇してきました。
先日、ある人に会って、やはり書いておこうと決意しました。

もう25年ほど前のことですが、生活者と企業のパイプ役を担う日本ヒーブ協議会の周年事業のフォーラムに呼んでもらいました。
そこで、働き方の問題を提起させてもらったのですが、企業役員の女性の方(その方はたしか協議会の役員でもありました)から「女性は過労死するほど働くチャンスがない」という指摘を受けて、驚くというか、唖然としたことがあります。
以来、日本ヒーブ協議会とは縁を切りましたが、そう指摘した彼女は昨今の状況をどう思っているでしょうか。
すべては、私たちの自己呪縛から始まっている。
制度や法律だけでは、状況は変わらないのではないか。

かなり古い本ですが、アリス・ミラーという人の「魂の殺人」という本があります。
日本に紹介されたのはもう30年以上前ですが、最近、新装版(新曜社)が出版されました。
副題は「親は子供になにをしたか」。
著者は、親のしつけや教育にひそむ暴力性を容赦なくえぐり出した3部作で有名ですが、「魂の殺人」はその2作目です。
私は、この作品しか読んでいませんが、内容は極めて衝撃的です。

子ども時代の体験が大人になって社会的な問題を起こしていくというようなよくある精神分析の本のように思われるかもしれませんが、もっとラディカルな「反教育」「反しつけ」論が展開されています。
中途半端な紹介をするのはやめますが、いまの社会の問題の根源につながる示唆を得られると私は思っています。
そこから得られるメッセージは、「すべての問題の解決はまず自ら始めるしかない」ということで、それが私のこの30年の生き方になっています。
あんまり論理的な説明ではないので、伝わらないでしょうが。

著者はポーランド人です。
そのためか、なぜナチスの悲劇は起こったかに関しても、いたるところで、論究されています。
かつてのドイツ人の勤勉さと従順さが、それを可能にしたというのです。
それは、いまの日本社会の実状にもつながっていく話です。
そこから考え直さないと状況は変わらない。

若者の自殺や世代を超えたモラルハザードが広がっています。
湯島にもいろんな人が相談に来ますが、問題の解決策はそう難しくはありません。
誰かや何かのせいにしているだけでは、状況は変わらない。
まずは自らの呪縛を解いて、自らの生き方を変えていく。
教えられた「常識」を問い質していく。
そもそも過労死とか自死は、生命本来のものではないはずです。
生命体には、必ずホメオスタシスという生命維持機能があるのです。
それが素直に作動するようにすればいい。

話がまた広がり過ぎそうなのでやめますが、もしお時間があれば、「魂の殺人」を読んでみてください。
自分は、親として子どもになにをしたか、親から何をされたか。
子どもだけではなく、次の世代に何をしているか、あるいは前の世代から何を学んだか。
時に、自分の生き方を問い質すのも、辛いけれども必要かもしれません。

事例も多く、冗長で長いので、読みやすい本ではありませんが、新装版はたぶん改善されているでしょう。
もし読まれる場合は、ぜひとも最後まで読んでみてください。
途中はとばしてもいいですが。

■「9条誕生」(岩波書店)をお薦めします(2018年7月9日)
すでにご案内の通り、今度の土曜日、湯島で「日本は核武装するべきか」というテーマでのサロンを開催します。
たぶん賛否いずれの方も参加されますので、話し合いがどう展開するか楽しみにしています。
サッカーやオウム事件や集中豪雨などでマスコミは埋め尽くされていますが、その裏側で着々と進められている動きへの関心も忘れないようにしたいと思います。

ところで、昨年放映されたNHKスペシャル「憲法70年“平和国家″はこうして生まれた」を見た方も多いと思います。
とても興味ある内容でした。
ご覧になっていない方は、ぜひネットで見てください。
https://www.dailymotion.com/video/x5kcntm

ところで、その番組制作にも関わった塩田純さんの「9条誕生」(岩波書店)という本も、多くの人に読んでほしいと思っています。
NPO関係の人たちにも、政治問題に関するサロンを呼びかけてもあまり反応はよくありません。
日本の市民活動の多くは、政治に関わることを忌避している面がありますが、政治と無縁の市民活動は私にはまったくと言っていいほど無意味なものに感じます。
日本のNPO活動のほとんどは、既存の体制のサブシステムになっていると思いますが、そこから抜け出していかないと、社会は変わりようがありません。

そんな思いも会って、せめてこの本くらいはみんなに読んでもらいたいと思い、紹介させてもらうことにしました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいです。
そしてもしよかったら、今度の土曜日の午後の湯島のサロンにもご参加ください。
できるならば、次のサロンは「平和」をテーマにできないかと考えています。
どなたか問題提起者になっていただけませんか。

■自分のことは自分で解決するという精神(2018年7月13日)
西日本豪雨で被災した広島の友人から今朝、こんなメールをもらいました。

田舎の人達は自分のことは自分で解決するという精神で生活しているので、修復も個人で済ませ行政が遅まきに支援の手を差し伸べるころには、手遅れということが多いように思います。

テレビで盛んに報道されている地域を外れたところでも、さまざまな被害が生じているのでしょう。
テレビでは見えないところでも、たくさんの人たちが、この暑さの中でご苦労されていることを思うと、複雑な気持ちになります。
ボランティアが集まるところと集まらないところが、当然出てくるでしょう。
メールをくれた友人のところは、テレビでは一度も報道されなかったところです。

今回のような自然災害が起こった時の報道を見ていて、この数年、ちょっと気になっていることがありました。
報道に出てくる人たちに、あまり「リアリティ」を感じないのです。
見せ場になるような場面が繰り返し報道されるのも、いささか気になっています。
たくさんの人たちが被災されている状況で、こんなことを言うのは極めて不謹慎であり、噴飯ものでしょうが、ずっと気になっているのです。
たとえば今回の例でいえば、橋に木材がひっかかって、そこから川が氾濫した瞬間の映像がありましたが、それに気づいた人が逃げずに立ち止まってそれを見ていたシーンが忘れられません。
もしかしたら、もし現場にいたら、私も同じ行動を取ったかもしれません。
でも、それって、おかしくないでしょうか。
もちろん私自身の感度がおかしくなっているだけかもしれませんが、もしかしたら人間の感度が平均的にマヒしてきているのではないかと不安になるのです。

何かがおかしくなってきている。
そんな気がしていたのですが、友人のメールを見て、その理由がわかった気がします。
「自分たちのことは自分たちで解決するという精神」が薄れてきているのではないか。
このことをもう少ししっかりと考えたいと思います。
私には、とても大きな宿題です。
「コモンズの回復」という、私の最大の関心事につながっていますので。

■死を分かち合うよりも生を分かち合いたい(2018年7月14日)
今朝のテレビで、5人の人が一室で練炭自殺をしたことが報道されていました。
死を分かち合えるのであれば、もっと豊かな生も分かち合えたはずです。
とても残念でなりません。
湯島に来てくれていたら、という気がちょっとしますが、私自身、最近はそうした気力がちょっと萎えてきています。
分かち合うことは、それなりにエネルギーが必要ですから。
しかし、死を分かち合うくらいなら、取り組んでみる価値はある。
それに、生を分かち合うことができれば、死への誘惑から抜け出せるかもしれません。

7月22日と27日に湯島で「生きる」につながるサロンをやります。
湯島に来たことのない人も歓迎です。
8月6日には、分かち合う場のない人をイメージして始めた縁カフェもあります。
またできれば、8月のどこかで、死よりも生を分かち合うことを目指すサロンをやろうと思います。
生を分かち合うことを目指せば、きっと人生は開けます。
そう思って、私はいま生き続けています。

核兵器はいかに管理しても、原発がそうだったように必ず誤爆が起こるという指摘もありました。
その危険性は日々高まっている気がします。

■『みつばちと地球とわたし』関東初上映会のお誘い(2018年7月15日)

前にも一度、ご案内しましたが、友人の中島正憲さんがスタッフとして関わっている『みつばちと地球とわたし』関東初上映会のお誘いです。
この問題は私も前に何回かブログで取り上げて以来、関心を持っているテーマです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-dbaf.html

この映画の岩崎靖子監督は、これまで6本の長編ドキュメンタリー(うち5本を監督)をつくってきていますが、中島さんによれば、すべて『いのち』がテーマでした。

『生命(いのち)』とは何か?
そのあり様の本質とは何なのか?
そしてその輝き方、輝かせ方とは?

そして、地球規模でのありようにまでそのレベルを引き上げて発したメッセージがこの作品なのです。
中島さんはぜひ多くの人に見てもらいたいと願っています。
中島さんの一生懸命さを見ていて、私もついつい応援したくなってしまいました。

内容に関しては、次の案内サイトをご覧ください。
http://www.heartofmiracle.net/hotnews/hotnews0012018.html

中島さんはこう言っています。

ぜひこの映画は、男がより賢くエラい生き物だと思い込んでしまって生息し続けている日本の(とりわけ日本の!)愚かなオトコたちに、ぜひ多く観て欲しい。

直前の案内ですが、お時間が許せば、ぜひ上映会に参加してください。
中島さんに、事前にお名前を連絡しておけば、当日受付で割引料金(3000円)で対応していただけるそうです。
中島さんのメールは
m.nakajima@human-arts.co.jp

〔『みつばちと地球とわたし』関東初上映会〕
7月21日(土)11:00開場、12:00開演
大田区民ホール アプリコ、大ホール
JR京浜東北線「蒲田駅」徒歩3分
京浜急行「京急蒲田駅」徒歩7分
入場料:前売3,500円、当日4,500円

■「いのちに関わる危険」(2018年7月20日)
「いのちに関わる危険な暑さ」という、恐ろしい警告にもかかわらず、今日は猛暑の中を湯島に来ています。
それにしても、「いのちに関わる危険な暑さ」とはあまりにも過剰な報道用語です。
気象予報や安全警報に使われる用語には、私はいつも違和感を持ちますが、テレビを見ていると、もっと危機感をあおる言葉がいいと指摘する人が少なくありません。
問題は「言葉」ではなく、受け手の「感受性」ではないかと思うのです。
言葉が大仰になればなるほど感受性は弱まるでしょう。
せっかく自らで考えることを身につけたのに、逆戻りしているような気がします。
言葉に依存する社会はもろいものです。

自らの行動は、誰かの警報や注意に従い、何か問題が起これば誰かのせいにする。
そこまで行けば、さらにその先へと生き方は変わっていくでしょう。
そういう生き方にだけにはなりたくないと思っています。
自分のことは自分で考え、責任も取りたい。

「いのちに関わる危険」は暑さや自然災害だけにあるわけではない。
むしろ本当の「危険」は、人為の中にあるように思います。
熱中症での死がテレビで伝えられますが、あれは「暑さ」のせいだけではないでしょう。
社会のあり方や個人の生き方と無縁ではありません。
すべてを暑さのせいにしていいのかと、私は思います。

大仰に言えば、すでにして、私たちは人間であることを忘れさせられているのではないかと思いますが、これはきちんと書かないと伝わらないでしょうし、きちんと書いても伝わらないでしょうから、書かないことにして、ただ、「いのちに関わる危険」への感受性の鈍化や人々の関心の矛先替えが進められているのではないかという危惧だけは表明しておきたいです。
国会で何が進められているか。
沖縄や原発で何が進められているか。
たとえばそんなことさえ私には見えにくくなってきています。
気をつけなくてはいけません。

湯島にいますが、暑いのと食欲がないのとで、昼食を抜きにして、これを書いてしまいました。
暑さよりも栄養不良で倒れないようにしないといけません。

■ヘイトスピーチと言論の自由(2018年7月21日)
今朝のテレビで知ったのですが、西日本豪雨で被災者の避難や救助活動が続く状況のなか、ネット上で在日朝鮮人に関するヘイトスピーチが広がっているようです。
http://www.kanaloco.jp/article/345315
実に悲しい話です。

テレビではヘイトスピーチ解消法が成立して2年もたつのに、一向に実効的な施策がたてられていないことを指摘する一方、ヘイトスピーチと言論の自由の保証との整理に難しさを報じていました。
言論の自由はヘイトスピーチを認めるものではないと私は思いますが、実際にはその評価は難しいのかもしれません。
しかし、他者を傷つけてまでの自由は許されるはずもありません。
一般論として簡単に論ずることは難しいですが、立場を変えて考えれば、簡単にわかることではないかと思います。

そもそも「ヘイトスピーチ」などという表現が問題かもしれません。
なぜ日本語で、はっきりと「人種差別行為」とか「誹謗中傷行為」といわないのでしょうか。
「言語による暴力」と言ってもいいでしょう。

いまのところ、ヘイトの対象はマイノリティに向かっています。
しかし、マイノリティは、いかようにも創りだされるものです。
在日外国人が対象になるだけではありません。
いつ私がマイノリティの一員にされるかは予断できません。

そもそも、自らが、マイノリティにされてヘイトされないように、自分とは無縁と言える、安全な対象を選んで、自らに矛先が向かないようにヘイトスピーチしているのではないかと私には思えます。
つまり、ヘイトするものが自らに内部にあることに気づいているからこそ、ヘイトスピーチとして、外部に放出しているのではないかと思います。
つまり、ヘイトスピーチは「解毒行為」であり、それにおののくあまり、過激な発言になってしまうのではないかと思います。
ヘイトは、常に自らに向かっているように思います。

私が国会議事堂前や街中のデモのシュプレヒコールが嫌いなのは、そこにそうしたものを感ずるからです。
その場にいるだけで、心が荒び穢れる気がして、暴力的な言葉が飛び交うデモには足が遠のきます。
たとえ相手が、ヘイトスピーチを繰り返している安倍首相であったとしても、私はヘイトを放したくはありません。

■相模原市のやまゆり園障害者殺傷事件から2年目(2018年7月26日)
今日は2年前、相模原市のやまゆり園で障害者殺傷事件が起こった日です。
忌まわしい事件ではありましたが、それまで多くの人が回避してきたことを可視化したという意味では、大きな意味を持った事件でした。

加害者の動機は、コミュニケーションもできず生産性のない人は生きる価値がないということだとされていますが、まさにその思いは、現代の日本社会の核にある価値観でもあります。
ですから、加害者の言動に正面からノーとはっきり言える人は必ずしも多くないのではないかと思いますが、だからこそ、この事件は衝撃的でした。
しかし、この事件で、多くの人が意識と行動を変えたことは間違いありません。
それは、当事者に近い人にとっても同じことです。
いや、そうした問題を身近に感じている人の方が、変えやすかったというべきでしょうか。
事件後2年の、死を免れた障害者の家族の生活をドキュメントしたテレビ番組を2回見ましたが、障害者本人も家族も、また周辺の人たちも、生き方を変えてきていることを感じました。
そして、テレビ番組からは、みんな幸せを高めていることがメッセージされています。
そのメッセージにはいささかの違和感はありますが、言動の変化がゆたかさをもたらすことには共感します。
私もそうですから。

たぶん加害者の植松被告も、事件を起こす前にはそうした努力をしていたはずです。
少なくとも私よりも一生懸命に取り組んでいたはずです。
しかし、変えられなかった。
そして考えを変えさせられてしまった。
実に残念ですが、加害者ほど極端ではないにしても、その方向に向かう環境と誘惑をとても強いです。
なぜなら社会の価値観全体が、そちらを向いているからです。
学校教育も社会生活の仕組みも、そちらを向いているようにさえ思います。

たとえば、植松被告が言う「コミュニケーション」や「生産性」が、多くの物ごとの判断基準になってきています。

しかし、そもそも現在使われている「コミュニケーション」とか「生産性」とかという言葉自体がきわめてある価値観に支配されています。
言語や行動を通さなくともできるコミュニケーションはたくさんあります。
生産性は、その反面に「消費性」を含意しており、何を持って測定するかで、まったく逆な結果にもなります。

財政が厳しい時に税金の無駄遣いということも被告は話していますが、財政の目的をどう考えるかで、何が無駄かは全く変わってきます。
しかし、恐ろしいことに、植松被告の発想の枠組みは、現代の日本を生きる多くの人たちを覆っています。
だからこそ、多くの人は植松被告を説得できない。
植松被告の前に、自らさえも説得できていないのではないか。
そんな気がします。

明日、湯島で、午後6時半から、この事件をテーマにしたサロンをやります。
お時間が許せばご参加ください。
自らの生き方を質すためにも。

■サロン「新・十七条憲法をつくる」のお誘い(2018年7月28日)
サロン「新・17条憲法をつくる会」を開催します。
これは、サロン参加者の川島さんからの提案がきっかけになっています。

川島さんは、こう提案してきました。

「新・17条憲法をつくる会」というのを開催するのは、どうでしょうか?
今の憲法が「誰でもわかる平明な文」になってない一番の原因は、誰が誰のために言っているのか整理されていないからでしょう。
聖徳太子の「17条憲法」は、一般民衆にではなく統治者的立場にある貴族のみに言っていることが明快なので、実にわかりやすいです。
現在における統治的立場にある人への制約ベスト17を選ぶというのは面白いのではないかと思いました。
たとえば、憲法第1条が「人の上に立つ者は、自分に何らかの因果関係をもって不正が行われた場合には、責任をとらなければならない」だったとしたら、今の状況は変わっているのではないでしょうか。

たしかに、いまの日本国憲法がわかりにくいのは、誰が誰に行っているのかあいまいになっているからかもしれません。
実際の出発点は、アメリカ政府が日本政府と日本国民を規制しているのだと思いますが、いろんな人が苦労して、いろんな意味を含ませてきていることも否定できません。
憲法とは権力者を制約するもので、権力者に向けられていると言う人もいますが、日本国憲法に限ってはたぶんそうも言えません。
そもそもそう捉えることに大きな危険があると私は思っています。
国民向けの規制や義務が多すぎますし、むしろ権力者が支配しやすいように仕組まれている気配さえあります。
しかも、理念と仕組みが混在していますし、国民主権と言いながら、第1条は国体の象徴として天皇が宣言され、国民の個人の尊厳に関する条項は出てきません。

そこで、川島さんが提案されているように、統治的立場にある人への制約ベスト17をみんなで話し合うのは、夏の暑さしのぎにも格好のテーマになるかもしれません。
いや、むしろ政治の本質や現在の日本の政治のおかしさを、改めて気づかしてくれることになるかもしれません。

さらに言えば、もしかしたら、サロンで原案をつくり、それをネットで公開しながら、みんなで手を加えながら、進化させていく。
よいものができれば、公開フォーラムを開催して、運動にしていく。
そんな展開もあるかもしれません。

まあそんなわけで、ともかくも第1回「新・17条憲法をつくる」サロンを開催します。
参加者は、必ず「統治的立場にある人への制約条項」を1つ以上、そして17以内、持ってきてください。
よろしくお願いいたします。

〇日時:2018年8月11日(土曜日)午後2時〜4時(1時半開場)
〇会場:湯島コンセプトワークショップ(文京区湯島3−20−9−603)
http://cws.c.ooco.jp/lcmap.pdf
〇テーマ:「新・17条憲法をみんなでつくろう」
参加者は、「統治的立場にある人への制約条項」をそれぞれに考えて持つより、それをベースに話し合います。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「相模原事件をどう超えていくか」報告(2018年7月29日)
2年前に起こった相模原市の津久井やまゆり園での障害者殺傷事件をテーマにしたサロンには15人の参加者がありました。
改めてそれぞれで事件を思い出して、被害にあった人たちへの黙?をささげてから、サロンに入りました。
最初に今回のサロンを呼びかけてくださった増田レアさんに、ご自分の生い立ちも紹介していただきながら、問題提起をしていただきました。
参加者のなかには、事件発生後の現場に関わった方や被害者家族とお付き合いのある方、あるいはこの問題を契機に人権や対話の活動に取り組んでいる方などがいる一方で、この事件はもう関心から消えかけていたという方や障害者とはあまり接点のない方まで、さまざまな立場の方が参加してくださいました。

さまざまな論点が出されました。
今回は話し合いになった論点だけを、順不同で羅列するにとどめます。
それぞれの論点に関する意見はさまざまでしたが、それを書きだすとあまりに長くなりそうですので。

被告をどう捉えるか。特殊な人なのか、同情すべき環境に置かれた普通の人なのか。
被告の主張が問題であって、生い立ちや環境は関係ないのか。
生産性至上主義の風潮、稼がない者には価値がないという風潮をどう考えるか。
労働は国民の義務と憲法に明記されているのは日本だけではないか。
被告をヒーローにしたくない。
そもそも加害者をどう呼べばいいか(「植松被告」「植松さん」「植松」など)。
意思疎通できていないのは被告ではないのか。
言語や行動がなくても意思疎通はできるのではないか。
不幸とは何か。生産性とは何か。意思疎通とは何か。
差別意識こそが一番の問題。その差別はなぜ起こるのか。
被告の中にあるものは多くの人の中にもあるのではないか。
被害者家族の最首さんが公開する形で被告とやりとりしていることをどう考えるか。
事件を批判するのではなく、そこから何を学び、何を変えるかが大切ではないか。
施設と社会が乖離するという施設のあり方。
「障害者」という言葉に内在する差別発想。
「障害」はないほうがいいに決まっている。それと「障害者」は全く別の話ではないか。
この事件に関連して、出生前診断をどう考えるか。
優生思想への動きが強まっているのではないか。
福祉や医療の現場で頑張っている人たちのことももっと理解したい。

ほかにもたくさん出ましたが、どうしたらこういう事件をなくせるか、という問いかけも出ました。
事件を風化させずに、事件の意味を考える話し合いの場を広げていくこと。
自分の考えをしっかりと政府などに伝えていくこと。
さらには施設のあり方を考えなしていくこと。
などが出されました。

いずれにしろ気づかされることややるべきことがたくさん出てきたサロンでした。
話題になった論点は、いずれもその一つひとつがサロンになるような大切なものでした。
これで終わらせるのは残念なので、このサロンのアフターサロンを開催することにしました。
日程がなかなか取れなかったので、ちょっと異例ですが、8月19日(日曜日)の午前に開催します。
案内は改めて行いますが、もしお時間が許せばご参加ください。
できれば私は「生産性至上社会から排除される人たち」、あるいは「私たちの中にある差別意識」を取り上げたいと思いますが、参加者の関心によっては、テーマを変える予定です。
しかしいずれにしろ、大きなテーマは、なぜ相模原のような事件が後を絶たないかを考えたいと思っています。

あまりにたくさんの宿題をもらったようで、昨日は1日、ぐったりしてしまっていて、報告が遅れてしまいました。

■「慾を捨てよ、とプナンは言った」(2018年7月29日)
一昨日開催したサロンの報告を書きましたが、それを書いていて思い出した本があります。
文化人類学者の奥野克巳さんが、ボルネオの少数民族プナンの話を書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)という本です。
私は「所有」とか「競争」という概念から自由になりたいと思っていますが(実現はできていません)、そうしたことを見事に日常化しているプナンの人たちの生き方は実に見事です。
ただし、私は絶対に彼らの仲間にはなれそうもありませんが。

特にこの本の第7章「慾を捨てよ、とプナンは言った」は、みなさんに読んでいただきたいところです。
30頁ほどの短いものなので、あまりお勧めはできませんが、書店での立ち読みも可能です。
もし読んで関心を持ったら、購入してください。
ちなみにその章の冒頭には、ニーチェの次のような文章が引用されています。

「或る程度までなら、所有は人間を独立時にし、いっそう自由にする。もう一段進むと、所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼はかかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。そして以後は、自身が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して」。

そして、生産性至上主義の社会になってしまい、相模原のような事件が起き、飛躍しますが岸田さんは安倍さんに魂を売ってしまった。
そこで住む人たちのほとんどは奴隷たち、と言ったらまた顰蹙を買うでしょうね。
困ったものですが。

■サロン「新・十七条憲法をつくる」の報告(2018年7月28日)
サロン「新・17条憲法をつくる会」は、男性6人、女性1人の7人の参加でした。
各人がそれぞれ考えてきた条文あるいは項目を出し合ってから話し合いに入りました。
全9憲法案や新十七条憲法をつくってきた人もいます。
いろんな視点が出され、議論はとても刺激的でした。

ただ今回は、聖徳太子の17条憲法がそうであるように、焦点が必ずしも絞り込めず、「為政者の制約事項」に限定したものではない議論になりがちでした。
そこで、最後の30分ほどで、今回の呼びかけに応じて、「為政者の制約事項」を改めて出し合い、いわゆるKJ法もどきで整理しました。
大まかに整理すると、次の5項目になりました。
〈人権の尊重〉〈憲法の厳守〉〈独裁の禁止〉〈情報の公開〉〈特権の禁止〉

内容はかなり具体的なものがいろいろ出されました。
そのいくつかも紹介できればいいのですが、まだ十分に整理できていないので、今回は項目だけでお許しください。
決断したことへの厳しい責任を問うという意見もありましたが、それも含めて、今回出された意見をこの5項目に応じて整理し、フェイスブックで公開することにしました。
できればそこに書きこんでいき、また第2回目を開催することも考えたいと思います。

政治制度に関する話題もいろいろとでました。
熟議民主主義やミニパブリックスの話題も出ました。

また、為政者への制約と同時に、非統治者である国民にも守るべきことがあるのではないかということから、今度は「主権者としての国民の心がけること」をテーマに、憲法条項を考えてみるのもおもしろいのではないかということになりました。
これはまさに市民社会の熟度と仕組みの問題です。
それで少し涼しくなったら、そんなサロンも開催しようと思います。
こうなってくると、だんだん事務局が欲しくなってきますが、どなたかこれを運動的に展開していく作業事務局を引き受けてもいいという方がいたらご連絡ください。
3人集まったら、プロジェクトチームを立ち上げます。

ちなみに、まだ案内は出していませんが、これに関連したサロンとして、9月8日にリンカーンクラブ代表の武田さんに、「自民党政権政治を変えていくためには」をテーマにしたサロンを予定しています。
お時間が許せばご参加ください。

■見えやすい巨悪に寄生する小悪にこそ目を向けたい(2018年8月2日)
日本ボクシング連盟の問題がテレビをにぎわせています。
スポーツ業界は見事なほど、同質化していますね。
どこかにきっとモデルがあるのでしょう。
日本ではもう、スポーツにおけるフェアプレイ精神など残っていないのでしょうか。
スポーツの世界は人を育てる世界ではなくなったのでしょうか。
それぞれの分野ごとではなく、スポーツに関わる人たちが、種目を超えて、スポーツとは何かを改めて問いただす動きが出てくるのを期待したいです。
私は、以前も書いたように、スポーツにはあまりいいイメージを持っていなので、すべてのスポーツ協会組織は一度解散したほうがいいと思っていますが。
オリンピックなどはもう一度、原点に帰るべきでしょう。
今回の事件は山根会長が悪者になっています。
もし報道が事実だとしたら、たしかにひどい言動を重ねていると思いますが、しかしもっと悪いのは、そうした会長を生み出した「業界のリーダーたち」だろうと思います。
会長は、そう言う人たちの象徴だろうと思います。
岐阜のインターハイでの、岐阜県ボクシング連盟の四橋会長のあいさつは、部外者の私には違和感もなく共感できます。
というよりも、当然のことを言っているだけの話ですが、それがこれほど話題になることもまた、日本ボクシングの世界はもう腐っているとしか言えない気がします。
山根会長は、ただその全体の実態を可視化しているだけの、哀れな存在でしかないのでしょう。
地位や権力や見栄えにしか頼れない、いつの心の安まることのない、さびしい哀れな人なのだろうと思います。
山地会長の椅子にふんぞり返った写真がテレビでよく出てきますが、あの写真は多くのことをメッセージしてきます。
あの写真を見たら、多くの人は悪いのは山地会長と思うでしょう。
しかし、と、私は思います。
あの写真とは違う、山根さんの写真は、別のメッセージを伝えてくれるかもしれない。
大きな悪者をつくれば、そこに寄生できるたくさんの小さな悪者が見えにくくなります。
問題が起きたら、その大きな悪者を切れば、何も変えなくても世間の目はかわせるかもしれません。
これはスポーツだけではありません。
政治でも経済でも、すべてにおいてそういう傾向がある。
それにしても、あまりに同じような事件が、実にタイミングよく、顕在化されます。
それもまた、とても気になることです。
いま考えるべき、もっと大切な問題があるのではないか。

スポーツを道具にしてはいけない。
スポーツを道具にされてはいけない。
スポーツ音痴の私が思うのは、それだけです。

■反社会的勢力との付き合いがなぜ問われるのか(2018年8月7日)
日本ボクシング連盟の山根会長に関して、元反社会的勢力との付き合いが問題にされています。
これは私にはなかなか理解できないことです。
第1に、付き合いが問題にされるような組織、つまり「反社会的勢力」などと規定されるような組織がなぜ存在できているのか。
第2に、そこにいるメンバーやそこにいたメンバーとの付き合いはなぜ非難されるのか。

私も、元暴力団員との付き合いがありました。
その人はそこをやめて、福祉施設で働いていました。
私が関わっていた「自殺のない社会づくりネットワーク」の集まりに参加したのを契機に、彼との付き合いが始まりました。
友人たちからはやめた方がいいと言われましたが、なぜ付き合ってはいけないのかがわかりませんでした。
彼は突然わが家まで来たこともありますが、障害を持った人たちを旅行に連れていきたいという夢を持っていました。
しかし、その夢は果たせませんでした。
すい臓がんになって急逝したのです。

彼との関係では、実は私もトラブルに巻き込まれてしまいました。
彼の苦境を救うために借金までしてお金を工面したこともありますし、彼にコーヒーをご馳走になったこともあります。
もし私が、山根さんのような有名人だったら、非難されるのでしょうか。
しかし、その人の属性や過去によって、付き合うかどうかを決めるのは私の信条に反します。
いや、人間としてそんなことをやるべきではないでしょう。

さらに言えば、「反社会的勢力」とはいったい何なのでしょうか。
そもそも「暴力団」なる言葉がいまもなお存在することさえ私には理解できません。
規制する法令はありますが、規制法令があるということは存在を認めているということです。
それにどんな組織にも「反社会性」は存在します。
行政組織の反社会的行動も、最近は日常的と言えるほど、話題になっています。
そもそも立場によっては、政府そのものも「反社会的」な存在になり得ます。
そういう状況では「革命」や「クーデター」も起こります。
ですから、社会的かどうかを白黒で二分することは危険です。
「反社会的組織」とは、反社会性が大きい社会的組織のことなのかもしれません。
これに関して書きだすとまた話が広がりそうですのでやめますが、簡単に「反社会的勢力」と言ってしまっていいのかは疑問です。
ましてやそこに関わったことのある人の付き合いは非難されるべきという風潮にはもっと大きな疑問を持ちます。

それよりももっと大切なことは、自らが所属している組織には「反社会的」な行動がないのかを、それぞれがしっかりと考えることではないかと思います。
そしてもし、そのようなことがあれば、それを変えていくように、自分でできることを考え行動していくことです。
自らの生き方において、「反社会的」な言動はないかを問い質すことも大切です。

見方によっては、私のこの意見もまた「反社会的」なのかもしれません。
ことほどさように、「反社会的」などという言葉は多義的です。

ところで、山根さんにちょっと好感を持ってきました。
邪気を感じません。
私の感覚がおかしいのかもしれませんが、山根さんとは正反対の人たちが、山根さんに寄生しているような気がしています。
私が嫌いなのは、嘘と邪気なのです。

■「相模原事件をどう超えていくか」アフターサロンのお誘い(2018年8月9日)
7月27日に、「相模原事件をどう超えていくか」をテーマにサロンを開催しました。
たくさんの方が参加して下さり、それぞれにたくさんの気づきを得たサロンになったと思います。

サロンの報告もさせてもらいましたが、その時に、あまりに話したりなかったことが多かったので、アフターサロンと称して、話したりなかったことを改めて話し合うサロンを予告させてもらいました。
そのご案内です。
日程がうまくとれずに、日曜日の午前中になってしまいましたが、もしお時間が許せばぜひご参加ください。

アフターサロンと言っていますが、前回のサロンに参加されていない方も、大歓迎です。
前回のサロンの報告は下記にあります。
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=89724274&blog_id=29587
できればこのテーマは、細くてもいいので、そして不定期でもいいので、長く続けていければと思っています。
また優生思想が首をもたげだしている今、忘れてはいけないメッセージがたくさん込められているからです。

今回は、できれば「生産性至上社会をどう考えるか」、あるいは「私たちの中にある差別意識」を取り上げたいと思いますが、参加者の関心によっては、テーマを変える予定です。
どなたか問題提起したい方がいたらご連絡ください。

○日時:2018年8月19日(日曜日)午前10時〜12時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「相模原事件をどう超えていくか」
〇問題提起:特に決めていませんが、どなたか問題適したい方がいたらお願いします。
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」のお誘い(2018年8月11日)
中下大樹さんの「なぜ生きるのか」サロンのパート2の案内です。
パート1では、ホスピス勤務経験もある僧侶の中下さんが、これまでのさまざまな死の現場体験から感じていることや考えていることを、自らの人生にもつなげながら、お話しいただき、それを話題にみんなで話し合いました。
その様子は下記に報告を載せています。
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=89702053&blog_id=29587

パート2では、実践活動を通して、こんな仕組みを実現したいと思っている中下さんの構想を紹介していただき、それを入り口に、「こんな仕組みがあればいいな」というようなことを出し合いながら、死を要(かなめ)にして、人のつながりを育て、平安な生き方ができるコミュニティや支え合う仕組みについて、みんなで話し合いたいです。
できれば、受益者としての願望だけではなく、自分の人生とつなげながら、みんなで作り上げていくことも視野におければと思います。

今回は、何かの実現に向かっての知恵の出し合いを目指します。
もちろんパート1に参加されていない方も大歓迎です。
こんな仕組みがあればいいなあという個人的な思いもぜひお持ちよりください。
もしかしたらそうしたことの実現への一歩が踏み出せるかも知れません。

大きなテーマですが、なにしろサロンですので、気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。

〇日時:2018年8月26日(日曜日)午前10時〜12時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」
〇問題提起:中下大樹さん(真宗大谷派僧侶、大学講師)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■カフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」のお誘い(2018年8月14日)
1955年に自由党と日本民主党が合併して自由民主党が発足して以来、もう70年近くになろうとしていますが、その間、形だけの政権交代はあったものの、基本的には日本の政治の流れは、自由民主党が決めてきたといってもいいと思います。
しかも、その自由民主党政権は、いわばアメリカ政府とのつながりが強く、その桎梏から抜け出ようとする試みはことごとくつぶされてきています。

こうした状況の中で、政治へも国民の関心は低下し、憲法違反とさえ言われることを繰り返す安倍政権が、安定政権として、ますます力を強めています。
しかもそれを多くの国民は歓迎するかのように、支持したり、形だけの批判をしたり、さらには自らのよりどころにしたりしています。
安倍政権はひどいという声は多いですが、安倍政権を存続させている自分たちはひどいという反省の声はあまり聞くことはなく、ただただ「安倍政権打倒」などというヘイトスピーチのような呪文が唱えられているだけです。

そんな状況になかで、リンカーンクラブ代表の武田文彦さんから、改めて「自民党政権のどこが悪いのか」、そして、「どうしたらそれを変えていけるのか」を話し合いたいという提案がありました。
最初に武田さんから、試案を紹介していただき、それを材料に、政治の流れを変えるための知恵をみんなで出し合うサロンにしたいと思っています。
単に非難で終わるのではなく、具体的にどこが悪いのかを整理し、それを変えていくための具体策を出し合えればと思います。
考えようによっては、安倍政権や自民党政権の延命策にもなりうるわけですが、そういう小異にはこだわらず、もっと大きな視点で、これからの日本の政治を考えられればと思います。
なお、サロン終了後、2000円の会費で、近くで懇親会を開催する予定です。
お時間の許す方は、ぜひご参加ください。

○日時:2018年9月8日(土曜日)午後2〜4時半
終了後、希望者で居酒屋懇親会(会費:2000円)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「自民党政権政治を変えていくためには」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

■お金を払ってボランティアをする(2018年8月16日)
山口県周防大島町の山中で行方不明になっていた2歳の子供が、捜索のボランティアに来ていた大分県日出町の尾畠春夫さんによって、発見されました。
尾畠春夫さんの話を聞いていて、実にさわやかなものを感じました。
尾畠さんのこれまでの生き方やボランティアの捉え方は、これからいろんなところで採りあげられるでしょうが、「ボランティア」という言葉を使う人は、ぜひ尾畠さんの生き方を学んでほしいと思います。
尾畠さんの仕事は、いわゆる「恩送り」。
金銭的な面でいえば、尾畠さんは「お金を払って」ボランティアしているのです。
無償とか有償とか、そんな話とは次元が違います。

先日読んだ「ティール組織」という本に、こんな文章がありました。

「(これからは)お金を払ってボランティアをするケースもあり得る。人々が時間外にさまざまな多くの部署や組織で活躍するようになると、組織の境界も曖昧になる。」

とても共感できる表現です。
私は、30年前に会社を辞めた時に、仕事の概念を「対価を得ること」ではなく「費用がかかること」と捉え直しました。
その代わりに、仕事は自分で価値を見いだせるものに限ろうと考えました。
実際には、必ずしも厳守できませんでしたが、基本的な姿勢だけはそれを目指してきました。
私が考える「働き方改革」とは、そういうものです。

もちろん、仕事をしたおかげで、お金をもらったことは多いです。
その場合は、もちろん素直にいただきました。
ですから30年も、この生き方ができているわけです。
しかし、仕事の対価は、金銭ではないという考えは大事にしています。

対価のための仕事よりも、自発的に取り組む仕事の方が、価値を生み出すことが多く、関係者にとってはいい結果を生みだすような気もします。
もちろん仕事をする者にとっても、それは働く喜びにつながります。
価値が生まれれば、その享受者からは、喜びのお礼の一部として、お金も払いたくなるでしょう。
そういう関係が育っていけば、経済の質が変わっていくでしょう。
社会も変わるでしょう。

尾畠さんの生き方から学ぶことはたくさんあります。
これからでも遅くないので、私もまた少し生き方を見直そうと思います。
尾畠さんに感謝します。

■「相模原事件をどう超えていくか」アフターサロンの報告(2018年8月20日)
「相模原事件をどう超えていくか」のアフターサロンは、日曜日の午前中だったにもかかわらず6人が集まりました。
おひとりだけが前回参加できなかった方でしたが、5人は前回も参加。
この事件を忘れてはいけないという強い意識が、参加者の共通の思いだったような気がします。
さまざまな事件が起きますが、いまの社会はそうした事件に大騒ぎしながらも、同時にどんどんと忘れていく。
そこから学ぶことをおろそかにし、そのためにまた同じような事件が起きる。
ですから、前にもこんな事件があったなと思うことがあまりに多い。
いつになっても何も変わらないどころか、そうした生き方から抜け出ないと、私たちの感覚はますますにぶくなって行くような不安を感じています。

最初に、「相模原事件の背景にあるものはなにか」を私から少し問題提起させてもらいました。
私が問題にさせてもらったのは、「金銭基準のもとでの生産性至上社会」と「私たちの中にある差別意識」です。
前者に関しては、「金銭を生みだすことが〈生産性〉なのか」「生産性のないものには価値がないのか」「仕事とは金銭を得ることなのか」「そもそも金銭に価値があるのか」という問いかけをさせてもらいました。
後者に関しては、「私にとって価値あるものは何か」「ヘイトスピーチは特別の人たちだけのものか」に関して、私もまたいつ「転んでしまうかもわからない」危うさがあることを少しだけ話させてもらいました。

併せて、「進歩主義」の思想につながる「優生思想」が「近代」の中に流れていることを紹介させてもらいました。
相模原事件は、私には決して特異な事件ではなく、まさに時代を象徴する事件のように思えるのです。

みなさんのお話はとても示唆に富むものでした。
私も気づいていなかったことをいろいろと気づかせてもらいました。
私は「特異な事件」ではないと思っていましたが、この事件を「障害者」殺傷事件と捉えてしまうと事件の本質が見えてこないという指摘がありました。
たしかに「障害者」とひとくくりにしてしまうと、現場が見えてこなくなります。

また「生産性」という言葉の意味が変わってきてしまっていることが指摘されました。
かつては、経済活動の効率に関連して使われていたのに、最近は「個人の生産性」というように使われるようになった。
これはとても重要な視点だと思います。
「生産性」はある基準によって測定されますが、それが何なのかも話題になりました。
この議論は実に示唆に富むものでしたが、話し合いの内容を紹介するのは大変なので、それぞれでぜひ考えてみてください。
もしかしたら、ここにこそすべての問題を解くカギがあるかもしれません。

福祉問題が市場化していることの問題も具体的にいろいろと指摘されました。
福祉に限らず、学校でも生徒がお客さんになってしまって、先生との関係が変わってしまったというような話も出ました。
昨今の状況は、私には「汎市場化」社会、つまりすべてをお金で解決する社会のようにも感じますが、そうした「汎市場化」もまた、すべての問題を解くカギかもしれません。

医療のあり方や福祉施設のあり方に関しても話題になりました。
事件を取り扱うマスコミの姿勢の問題も少し出ました。
ほかにもいろんな話題が出ました。

こうした事件を繰り返させないために、何ができるかをそれぞれ考えるヒントがいろいろとあったような気がします。
サロンですので、参加者一人ひとりによって、それは違うでしょうが、それこそが社会をかたよることなくいい方向に向かわせることだと思います。
そこに、湯島のサロンの意味があると思いますが、日曜日の朝、こんな話し合いをするために集まることも「生産性のないこと」と思う人もいるでしょうね、とある人が言いました。
たしかに、そうでしょう。
実際に私は、ある人からそう言われたことがあります。
湯島のサロンは、経済成長にはまったく寄与しないですから、時代が進めば、「生産性がない」と言われて、取締りの対象になるかもしれません。
そうならないようにも、サロンは続けようと思います。

最後に参加者の複数の方が、アフターサロンをまた続けたいと言われました。
世間的な生産性はないかもしれませんが、つづけたいと思います。
どなたか問題提起したいという方がいたら、ご連絡ください。

■スマホをなくすという罪を犯してしまいました(2018年8月28日)
昨日、携帯電話をなくしてしまいました。
落したのは、電車の中か、乗換駅か、です。
ちょっとパニックで、交番に届けたりスマホの会社に電話したり、JRに問いあわせたり、もうそれだけで疲れてしまいました。

最近のスマホは、携帯電話機能だけではなく、そこにさまざまな生活記録が残っているので、問題は自分だけではありません。
私のスマホには私の記録だけではなく、他者の言動の記録や個人情報(電話番号など)が記録されていますから、他者にも迷惑をかけかねないということです。

こう考えると、スマホとは私物であって、私物ではないということに気づかされます。
物としては私物なのでしょうが、それを通して様々な人たちが交流していて、その痕跡が残っていることを考えれば、友人知人との共有物です。
とすれば、スマホをなくすということは、犯罪といってもいいのかもしれません。
そう考えているうちに、罪の意識が強まって、真夜中にまたJRの遺失物センターに電話しました。
残念ながらまだ見つかりませんでした。

近代は個人をバラバラにしたと言われます。
そうして生まれたバラバラの個人(個我)を要素にして、社会を再構築したといってもいいと思いますが、その大きな動きがどうやら次のステップに移り出していることを、スマホをなくしたことで気がつきました。
私のいささか飛躍した展望に基づけば、それを進めているのはAIだと思いますが、もはや私たちは、ひとりの人間として生きることが許されなくなってきているのかもしれません。
バラバラの個人がデータ的に繋がれて、AIが管理する「平安な社会」のモジュール端末になりつつあるわけです。
そこには「個人」は不在です。
人間が部品に変質しているというのが私の認識なのですが、どうも単なる部品ではないようで、部品の材料でしかないのです。
世界観が少し変わりました。
いや、一変したと言えるかもしれません、

こうした流れにどう抗うか。
最近読んだ本に出てきた。ラッセルの「幸福論」の一節を思い出しました。

「どう考えようと、わたしたちは大地の子である。わたしたちの生命は大地の生命の一部であり、わたしたちは植物や動物と同じく大地から生きる糧を得ている。」

畑で土を耕すとき、いつも、大地と対話しているような幸せを感じます。
私たちがつながるとしたら、AI志向の科学技術に依存することによってではなく、大地とそこに根差して生きている生命同士の心や魂によってでなければいけないと、改めて思います。

スマホをなくしてしまうことは、罪深いことです。
認識を新たにしました。

これから畑に行って、大地とまた話してきます。
そして少し頭を冷やしてきます。
懺悔しながら。

■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」の報告(2018年8月28日)
中下大樹さんの「なぜ生きるのか」サロンのパート2は、前回の話を踏まえて、これからの時代に必要な仕組みの話題に併せて、私たち一人ひとりのこれからの生き方を考えることの大切さが話題になりました。

最初に、前回のレビューも含めて、いま何が求められているのかを考える材料を話してもらいました。
その中で、いくつかの問いかけがありました。
抽象的にではなく、自分の問題として考えようという中下さんのメッセージが伝わってきました。
死が消費の対象になってしまい、死から私たちは学ぶことを忘れてしまっていないかという中下さんの問いかけは、具体的な実例をたくさん紹介された上での指摘なので、心に突き刺さりました。
死を消費する社会では、必然的に、生さえも消費の対象にされていきます。
その結果、看護師でさえ、死は面倒なことと考えるようになってしまっていくわけです。
参加者のおひとりが、「死に関して、自分も消費者だったことに気付いた」と発言されました。「消費者意識」は前回の相模原事件のサロンの時にも話題になりましたが、私たちの生き方として、それにどう対処していくかはとても重要なテーマです。

中下さんは、がん闘病中の知人の言葉が心に残っていると話されました。
辛い抗がん剤に耐えつつ、生きようとしているその人は、自らの人生を振り返って「俺は、生きて何がしたいのか」と言ったのだそうです。
その話をしたうえで、中下さんは、「使命」とは「命」を「使」うと書きますが、みなさんは「いのち」をどう使おうとしていますか、と参加者に問いかけました。
私は、即座には応えられませんでした。
自分ではわかっているつもりだったのですが、他者に伝える言葉にはできませんでした。
「生きて何がしたいのか」
難問ですが、考え続けなければいかない気がします。

中下さんは、こういう問いもしました。
笑顔が浮かぶときはどういう時ですか、どんな時に笑顔になるかをできるだけたくさん書きだしてください。
そう言って1分くれました。
私はがんばって書きだしましたが、6つしか書けませんでした。
そもそもそんなことを意識したことがなかったのです。

こんな問いかけもありました。
「家族という言葉に温かみを感じますか」
手をあげた人は半分でした。
家族が生きる救いにならずに、邪魔をすることもあります。
中下さんは、家族や地域や所属組織といった既存の縁に頼るだけではなく、むしろ志を同じくする人たちで新しい縁を育てることが必要ではないかといいます。
その縁で育った仲間が、集い語れる場をつくり、支え合う生き方をしていくと同時に、共同墓をつくり、死後の行先もつくっていく。
共同墓と支え合って生きた仲間がいれば、死後も忘れられることはなく、生きつづけられる。
樹木葬への思いを持った人たちのそうしたコミュニティの話をテレビで観たことがありますが、たしかにみんな笑顔でした。
葬儀もビジネス的なものではなく、仲間で心を込めて行い、それがまた残された者たちの縁を深めていく。
そうした生老病死について包括的に支え合う、ゆるやかなネットワークをつくり、葬儀も供養も、みんなで行っていく。
死を超えて、世代を超えて、つづいていくコミュニティといってもいいでしょう。
これが中下さんの構想です。

死を生から切り離して考えるのではなく、生の集大成として、死を捉え、そこからコミュニティを構築していく。
それを前提にして、葬儀や供養や、看護や介護も考えていく。
中下さんは、こうした構想を実現していくためのプロジェクトを立ち上げる予定です。
また中下さんから呼びかけがあるかと思いますが、私も参加させてもらいたいと思っています。

ところで、このサロンも継続しようと思います。
参加者のおひとりが、これまで死について話し合ったことがない高齢の親と一度話し合ってみると話されました。
そこでもし話し合いができたら、その報告をしてほしいと頼みました。
そういう日常体験も踏まえて、在宅ホスピスやスピリチュアルケアなど、中下さん構想の取り組みの話を軸に置きながら、話題を広げていければと思っています。
どなたか次回はこんなテーマで話し合いたいという方がいたらご連絡ください。