ブログ総集編7(2018〜2020)
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■新しい年のはじめに(2018年1月1日)
また新しい年がはじまりました。
といいながらも、最近は、「新しい」という実感がどうも持てません。
生きている世界の魅力が、どうもあまり感じられなくなってきているのです。
私の生き方が惰性的になっているのかもしれません。
たしかに、以前のように、年初の決意など改めて考えることもなくなりました。
自分で決めた「四半世紀ルール」も、第3期がもう30年近くになってしまいました。
「前社会人」「会社人」「社会人」につづく第4期は、予定では「自然人」を想定していましたが、思わぬ事故によって、それは実現しませんでした。
しかし、今年から人生の第4期に入ろうと思います。
といっても、そう変わるわけではありません。
意識を、少し変えようと思っているのです。
そう思いついたのは、昨年末です。
最後の数年くらいは、もう少し知的に生きたい。
ふとそう思ったのです。
私の年明けは、毎年、初日の出を屋上で待つことから始まります。
まだ暗い時から寒さの中で、何も考えずに待ちます。
その10分ほどの時間は、心が「無」に満たされる時間です。
小鳥たちもまだ囀りださず、空気が冷たいせいか、世界が止まっているようにも感じられます。
生命のない世界、そんな気さえすることがあります。
そのなかで、なんともいえない平安な気持ちに包み込まれる幸せな時間です。
それが、初日が輝かしだすと、あたりの空気が変わりだします。
止まっていた世界に、急に生命が宿ったように、時間が動き出す。
無機質だった気配に、表情を戻りだし、それとともに、今まではあまり気にならなかった様々な音が耳に入ってきます。
世界が動き出した。
新しい年の始まりです。
この一瞬の時間が、とても好きです。
さらに5分ほどで、赤い太陽が白く輝きだします。
手賀沼の湖面に一筋の光の道が現れ、私のほうに陽光がやってきます。
そこで初めてあたたかさを感じます。
年によっては、突然に世界が白くなって輝きだすような体験をすることもありますが、今年はゆるやかに推移しました。
今年はあたたかい陽光にゆっくりと包まれるような、おだやかな年明けです。
新しい生き方に、うまくは入れるといいのですが。
昨年は、歴史が善い方向に動き出す年になることを祈っていると書きましたが、
今年は祈るのはやめました。
祈ることを諦めたわけではありません。
祈りの前に、まずは自らを変えることにしたのです。
人生の第3期に入った時のことを思い出しました。
「変える」のではなく、「変わる」ことが大切だと思って、私は30年前に生き方を変えました。
今年から、歴史がどう動こうと、私は私が善いと考える方向に向けて生きようと思います。
そうすれば、少しは心も休まるでしょう。
そしていつかきっと、歴史の方向は変わっていくと信ずることにしました。
そんな思いで、今年も湯島でサロンをつづけます。
見ず知らずの方も含めて、どなたでも歓迎のサロンをやっています。
案内は「お知らせ」のコーナーにできるだけ掲載します。
もし気が向いたら遊びに来てください。
見ず知らずの方も歓迎です。
オープンサロンでなくても、時間さえ合えば、だれでも歓迎です。
コーヒーしかお出しできませんが、お気軽にご連絡ください。
今年も、「私たち」にとって「善い年」にしたいと思います。
そして、「私たち」を一人でも多くしていきたいと思います。
■価格が価値を決める時代(2018年1月2日)
昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。
ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。
要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。
「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。
ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。
でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。
1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。
機械になる前に旅立ちたいものです。
■「茶色の朝」サロンの案内とテキストの紹介(2018年1月5日)
開催日が近づきましたので、改めてのご案内です。
1月13日と24日に「茶色の朝」サロンを開催します。
「茶色の朝」は、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
当時、ヨーロッパでは極右運動が広がりだしていましたが、そうした動きへの危機感を覚醒させたと言われています。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。
そんな話です。
私たちのまわりにも、「茶色の世界」は広がっていないのか。
そんな気がして、この本を読んで、話し合いをしてみようということになりました。
きっかけを作ってくださったのは、友人の、自称「ただの主婦」の主原さんです。
政治家たちに、政治を任せておくだけでいいのか。
男性たちの政治談議とは違う、もっと生活につながる政治の話ができないか。
そんなメッセージを、私は主原さんから受けました。
ちょっと気になっている世間の動きを出し合って、話しあう。
そしてそれぞれが自分でもできることを考えていく。
経済や政治の話は難しいですが、みんなで話し合えば、いろいろと見えてくるかもしれません。
わからないことがあれば、みんなで手分けして調べてもいい。
わかっている人の話を聞くことだってできるでしょう。
そんな思いで、「ちょっと気になること」を話しあいながら、なにか自分でできることはないだろうかを考えるような場を、継続的に開いていけないか。
それが、主原さんと私の思いです。
最初は「茶色の朝」(大月書店)の本を読んで感想を言い合うことから始めたいと思います。
1回だけでなく、2回、同じスタイルで開催し(したがって希望者は都合のいい日程に参加)、その後、どんな形でサロンをつづければいいかもみんなで話し合えればと思います。
サロンですから、あまり難しい議論はやめて、生活の視点から「気になっていること」を話しあいたいと思います。
どういう展開になるかは、私たちにもわからないですが、やってみないとわかりませんので、まずは次のようなスタイルで、「茶色の朝」サロンを開催します。
ご関心のある方は、いずれかを選んで、参加申し込みをしてもらえればと思います。
ちなみに、「茶色の朝」ですが、著者も訳者も、同書に関しての印税権を放棄し、ネットで公開しています。
もしまだお読みでない方は、次のサイトから本文をダウンロードできます。
短いものですから、すぐに読めますので、参加される場合は読んでおいてください。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
それぞれが、なにか自分でもできることを探し出せればうれしいです。
〔「茶色の朝」オープニングサロンのご案内〕
○日時
いずれかご都合のいい時にご参加ください。
2018年1月13日(土曜日)午後1時〜3時
2018年1月24日(水曜日)午後1時〜3時
○場所
湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○内容(あくまでも目安)
・自己紹介を兼ねて、「茶色の朝」を読んで考えたことを各自発表
・「最近気になっていること」の自由な話し合い
・「茶色の朝」サロンをこれからどう続けていくかの話し合い
○会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■新年オープンカフェを開催しました(2018年1月5日)
昨日、新年オープンカフェを開催しました。
昨年は3日に開催しましたが、4日であれば、仕事始めの人も午後は休みではないかと思って、4日にしましたが、最近は仕事始めの日もフルに働くので、参加できないと言われました。
どうも私の認識は、時代から取り残されているようです。
それでも10人の人が立ち寄ってくれました。
4時間の長丁場のサロンでしたので(出入り自由なので入れ替わりはありました)、参加者の自己紹介からいろんな話題が出ました。
思い出すままに、話題を書き上げてみます。
行動観察、保険制度と社会保障、原子力損害保険の目的、原子力事故と自動車事故の異同、自動車事故保険はきちんと支払われているか、井戸掘りの話、エネルギー問題、IOTという言葉の誕生と限界、クリエイティブコモンズ、老後の心配、話し合いしないのは若者だけか日本人の生き方か、思いを引きだす方法、格差の実相、外国人労働者、経済成長と人口減少問題、社労士の話、「茶色の朝」などなど。
一見バラバラのようですが、実はつながって一つの物語を生み出しているのです。
どんな物語か、みなさんぜひ考えてみてください。
それにしても、貴乃花問題や北朝鮮問題などの「時の話題」はまったく出ませんでした。
私が言うのもなんですが、不思議なサロンです。
来年は、できれば最初の土曜日か1月3日に開催します。
私が参加できるようであればですが。
■ダブル・インカムの意味(2018年1月8日)
湯島での新年サロンで、ダブル・インカムの話題が出ました。
最近は、夫婦共稼ぎで、ダブル・インカムになって、経済的には豊かになってきたという話が出たのです。
以前、書いたことがありますが、私は共稼ぎは「別稼ぎ」であって、「共稼ぎ」でも「ダブル・インカム」でもないと考えていますが、それはそれとして、ダブル・インカムというのは豊かさの象徴なのか、貧しさの象徴なのかは、見方によって変わってくるように思います。
そこで、私は、ダブル・インカムはむしろ貧しさの象徴、さらに言えば、ますます貧しくなっていく象徴ではないかと発言しました。
ここで「貧しくなる」というのは、個人の家計だけではなく社会の貧困化も意味しています。
その日の夜、テレビをつけたら、ドキュランド「みんなのための資本論」で、ちょうどロバート・ライシュがその話をしていました。
ダブル・インカムにしなければならないほど、みんな貧しくなったのだという話でした。
同じ現象に関して、まったく正反対の解釈ができることの一例です。
というよりも、ある事象をどう解釈するかで、その人の生きている世界が見えてきます。
どの解釈が正しくて、どの解釈が間違っているということではありません。
いずれの解釈も、その人の生きている世界では正しいのです。
ダブル・インカムが豊かさをもたらすこともあれば、貧しさをもたらすこともある。
そこが悩ましいところです。
しかし、そもそもインカムってなんでしょうか。
さらにいえば、人が生きるために必要な「インカム」とはなんでしょうか。
お金の収入のことでしょうか。
最近、お金とは「信用」だと言われてきていますが、だとすれば、インカムとは「信用」とか「信頼」を得ることでしょうか。
こうかんがえてくると、どこかで論理が破綻しているように思えてなりません。
経済は、考えれば考えるほどわかりません。
困ったものです。
■企業サロン「モノづくり企業の経営を支えるカイゼン」のご案内(2018年1月10日)
今年最初の企業サロンは、企業のモノづくりの現場を飛び回っている、改善のプロフェッショナル・コンサルタントの柿内幸夫さんにお願いしました。
柿内さんには、日本のモノづくりにおける独特の強味とその力を呼び起こす方法を、豊富な事例や実践を踏まえて紹介していただきます。
その上で、柿内さんと一緒に、これからの企業経営の方向や「日本のモノづくりの復活」、さらには「ちょっとしたカイゼン」が大きな変化を起こすことへの思いを深めたいと思います。
柿内さんからのメッセージを紹介します。
話し合いのポイントですが、欧米の経営はトップダウンの戦略中心であるけれども、日本は必ずしもそうでなく、改善のような戦術から始まってそれが戦略として出来上がっていくというような方向に行くと面白いと思います。
それと私は日本の製造業は学位を持たない現場の人も改善を通じて経営に貢献し自分の居場所を作れるという意味で非常に人を幸せにする可能性の高い場所だと思っています。
そこも議論していただけると嬉しいです。
柿内さんの思いも、柿内さんのホームページから引用させてもらいます。
ホームページもぜひご覧ください。
http://www.kakiuchikaizen.com/
Google のすごさは、社員全員がものすごいことを考えているということだと思う。
それぞれの人がすごいテーマを持ち、
その達成に向けて全力で思考を巡らす。
もし一人で答えが出せなければ、それを助けてくれる人たちを見つけて議論を始める。
そして何が何でも自分の目標をクリアーするという仕事を全員がやっている。
それもかなり自由な社風で自由なライフスタイルで。
もし、日本のすべての中小企業でGoogle のような全員が考えて経営を行う状態ができたらどうだろう?
日本の製造業が再び世界をリードできる時代を呼び寄せることができるのではないだろうか!
企業サロンなので、企業経営の話が中心になると思いますが、柿内さんのお話は、このメッセージからもわかるように、狭い意味での企業経営にとどまらずに、もっと大きな社会のあり方や私たちの生き方にもつながっています。
人の幸せにもつながっていくかもしれません。
ですから、企業関係者に限らず、いろんな人に参加していただきたいと思っています。
ちなみに私は、柿内さんの「ちょっとしたカイゼンが大きな変化を起こす」という言葉で、すっかり柿内さんファンになってしまい、以来のお付き合いです。
そうしたことからのヒントもたくさんもらえると思います。
みなさんのご参加をお待ちしています。
〇日時:2018年2月10日(土曜日)午後1時30分〜3時30分
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:柿内幸夫(柿内幸夫技術士事務所所長・改善コンサルタント)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■金銭のための経済と生活のための経済(2018年1月12日)
「ダブル・インカムの意味」の続きです。
ダブル・インカムは「豊かさ」の象徴なのか「貧しさ」の象徴なのか、それは一概には言えませんが、経済成長率に象徴される経済成長もまた生活向上とは必ずしも正のリンクはしていません。
そのことをしっかりと認識しないといけません。
現在の経済成長の測定基準は、金銭換算の生産額です。
金銭基準の生産は金銭消費に支えられています。
とすれば、経済成長は金銭消費で測定されていると言ってもいいでしょう。
金銭消費額が増えれば、経済は成長したといわれるわけです。
テレビでもよく、経済が成長するには、国内(家計)消費が増えないといけないと言われます。
お金を使うことによって、豊かさを感ずる人も最近は少なくないでしょう。
お金を使うことが豊かさ?
これってどこかおかしくはないでしょうか。
たとえば、交通事故を起こしたとします。
それによって金銭の授受が発生します。
壊れた自動車や建物を直すためにも「生産活動」が発生します。
つまり、自動車事故を起こすことは経済成長に貢献します。
その行き着く先が、戦争を起こして市場を拡大する戦争経済です。
ちょっと拡大しすぎかもしれませんが。
しかし、経済成長のためには、市場をつくりださなければいけません。
生活のためではない、生産のための市場です。
そこから「過剰と浪費の経済」がはじまります。
そして「消費主義症候群」が広がっていきます。
市場創出のために、それまで金銭とは無縁であった分野が次々と「市場化」されてきています。
家事や近所付き合いもどんどん市場化され、福祉や環境問題までもが金銭化されてきています。最近、問題になっているスポーツも、いまや完全に金銭市場化しています。
さまざまな問題が顕在化してきていますが、私には市場化の当然の結果のように思えます。
そしてそうした問題がまた、次の市場へと広がっていく。
無限の市場をつくりだすのも簡単です。
壊しながら創ればいいのです。
アメリカのベストセラーは、いつの時代も2種類の本だと言われます。
グルメを勧める本とダイエットを勧める本です。
「新たな」欲望に火をつけ、煽り立てることで、「顧客を創造する」ことが経営だという、私には信じがたい専門家もいます。
こういう経済の捉え方では、とても生活の向上には向かいません。
「経世済民」の経済が、いまや「金銭蓄積」の経済になってしまっています。
その結果、何が起こるか、言うまでもなく、汗を吸い取る仕組みです。
昔は働くことで金銭も稼げましたが、いまは働けど働けど、生活は豊かになりません。
働かない人に金銭が集まるようになってしまったのです。
そして格差が広がり固定化してきています。
いささか極端に書きましたが、経済には2つあるのです。
金銭のための経済と生活のための経済。
そこをきちんと分けて考えていかないと、おかしなことになりかねません。
■2つの政治(2018年1月12日)
経済時評で、経済には2つあると書きましたが、政治にも2つあります。
今回はそのことを書きます。
政治とは何かと訊かれたらみなさんはどうこたえるでしょうか。
これが意外と難しい問いです。
手元にある政治関係の書籍を20冊ほど調べましたが、まともな定義づけがあまり見つかりません。
そこで大辞林を調べたら、3つの定義が書かれていました。
@統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。
A国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。
B諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整すること。
簡単にいえば、@は支配のあり方であり、AとBは社会や政治のあり方です。
つまり、政治には「支配のための政治」と「生活のための政治」があります。
私は、前者を「小さな政治」、後者を「大きな政治」と呼んでいます。
前者の政治は関心の対象として位置付けられますが、後者はすべての人にとっての日常の活動といえます。
政治への関心が話題になりますが、その場合の「政治」は前者の政治です。
以前、NPO活動への資金助成プログラムの事務局を委託された時、自由にやっていいけれども、政治関係と宗教関係の活動だけは資金助成の対象から外してほしいと言われました。
政治と宗教こそが、一番大事な「市民活動」だと思っている私には違和感がありましたが、「政治」「宗教」の定義が違っていることをその時も痛感しました。
日本では、「政治」は「お上」、宗教は「反お上」の文化がいまなお根強く残っているのです。
そこには、「市民」など活動する余地はないのです。
ところで、お上の政治と生活者の政治をつなぐルートが「選挙投票」です。
ルソーは、選挙の日だけ自由でその後は奴隷となるといってイギリスの議会民主政を嘲笑したそうですが、それでも支配者の世界の人たちに影響を与えられるのは、代表者の選挙投票です。
それ以外は、支配者の政治には関心を持つなと言われて、日本人は育ってきたわけです。
しかし、政治をもっと広義に捉えれば、まったく違った世界が見えてきます。
アフロヘアで話題になった朝日新聞記者の稲垣えみ子さんが、戦後最低の投票率で終わった2014年末の総選挙の直後、新聞にこんな記事を書いています。
近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。
「お買い物とは、どんな社会に一票を投じるかということ」
ハッとしました。
買い物=欲を満たす行為。ずっとそう思っていた。
でも、確かにそれだけではありません。
お金という対価を通じて、それを売る人、作る人を支持し、応援する行為でもある。ささやかな投票です。
選挙は大事です。でも選挙以外のこと、すなわち、一人一人が何を買い、日々をどう暮らし、何を食べ、どんな仕事をし、だれに感謝を伝え…ということは、もっともっと大事ではないか。
逆に言えば、そうしたベースを大切にし尽くして初めて、意味のある選挙が行われるのではないか。
投票しさえすれば、誰かがよい社会、よい暮らしを実現してくれるわけじゃない。
当たり前のことですが、どうもそこを忘れていたことに気づいたのです。
以来、「お金=投票券」というつもりでお金を使っています。
つまり、私たちの日々の行動そのものが、実は大きな政治そのものであり、小さな政治にもつながっているのです。
そのことを意識すれば、たぶん日々の生活も変わってくるはずです。
稲垣さんは、「お金=投票券」と書いていますが、投票権は「お金」だけではありません。
言動のすべてが、投票行為なのです。
しかし、稲垣さんが言うように、お金の意味は大きいかもしれません。
なぜなら政治もまた、いまや金銭によって動き出しているからです。
ここから、経済と政治がつながってくるという話にもなっていきますが、それはまた改めて。
ちなみに、川崎修さん(立教大学教授)は、政治をこう定義しています。
政治とは,さまざまな社会的現実に対して,公共性をもった権力関係として見たり関わったりする,社会に対する私たちの見方・関わり方である。
政治への関心を持つということは、権力者たちの内輪話に関心を持つということではありません。
公共的なことがらに当事者として関わっていくという市民性を持つということ。
私はそう考えています。
■縁紡ぎカフェの提案(2018年1月13日)
鷲田誠一さんの「しんがりの思想」(角川新書)を読みました。
そこにこんなような文章がありました。
退社したあと、解雇されたあとの長い日々。鋼鉄のドアで遮断され、近所との行き来も(そしてそのための蓄えも)乏しく、緑、つまりいざとなったらいつでももたれかかることのできる支えあいの仕組みからはじき出された高齢の単身者の生活。
孤立への怖れはしかし、高齢者だけでなく、若い世代の心をも深く蝕んでいる。
縁はみずから紡いでゆくほかないとはいえ、そのチャンスがたやすく見つかるわけでもない。そういう緑を、あるいはネットワークを、みずから紡ぎだしてゆくことができずに、ただうずくまっているしかないひとびとを見聞きし、わたしはこの社会がいつのまにこんなに脆弱になってしまったのかと呆然となる。
そこで、毎月、最初の水曜日の午前11時から4時までを、縁紡ぎサロンと称して、湯島でオーオウンカフェを開くことにしました。
以前も一度、同じような主旨の活動に取り組みましたが、見事に挫折しました。
懲りずにもう一度取り組んでみます。
少なくとも3か月は、だれも来なくても継続します。
当面は、湯島の公開カフェの開催です。
いざとなったらもたれかかれるような縁を紡ぎたいという人を主な対象にしますが、そんな人が集まって来てくれるめどは全くありません。
それに、そんな縁はすぐには生まれません。
でもまあやっているうちに人が集まりだし、通っているうちに、そんな縁に出合えるかもしれない。
そんなカフェです。
私の知らない人は大歓迎ですが、知っている人も歓迎です。
カフェ料金は積み立てて、縁紡ぎ基金にします。
できればいつか、常設の縁紡ぎカフェを開店したいです。
そこで、縁紡ぎ基金への寄付も公募します。
お店を提供してくれる人も公募します。
シェアハウスも目指せればいいですね。
思いつきではありますが、よろしくお願いします。
一緒にやってもいいという人がいたらお知らせください。
もしお一人でもそういう人がいたら、
1月中に準備のための話し合いカフェサロンを開きます。
ご連絡ください。
■ポリティカル・エコノミーからエコノミカル・ポリティクスへ(2018年1月15日)
1月12日の「2つの政治」の続きです。
今回は、市民性について書こうと思ったのですが、その前に、「お金=投票券」という稲垣さんの言い方にはやはり違和感を書いておきたくなりました。
もしかしたら、その発想こそが、一番の問題かもしれないからです。
かつての金権選挙、つまり「投票券=お金」と同次元だからです。
稲垣さんもまた、お金を軸にした世界で育ってきていることから自由ではないのかもしれません。
稲垣さんが、ここを「行動=投票権」と言ってくれれば私には違和感はないのですが。
かつて、経済学は「ポリティカル・エコノミー」と呼ばれていました。
politicsの語源は古代ギリシアのポリス(polis)につながっているように、ポリス、つまり社会にあり方につながっています。
いささか古い定義ですが、永井陽之助は「考え方の違う個人が集まって,いかに安定した社会をつくり出せるか,多年にわたって苦心のすえ造型した作品(秩序)が「政治」である」と、私がむかし読んだ本に書いていました。
「ポリティカル・エコノミー」とは、したがって、本来、安定した社会を構築するための「稀少資源の権威的配分」をめぐる学問だったわけです。
それを日本では、「経世済民」の意味で「経済」という訳語があてたと言われます。
つまり、限られた資源と富の、適切な配分と運用を意味していたわけです。
それが、いまでは「ポリティカル」という言葉は削除され、経済学は「エコノミクス」ということで語られるようになり、それとともに、金銭の投資や増殖のための学問になってしまいました。
そして現実も、マネタリー・エコノミーというべき実態に変わってきています。
極端に言えば、経済は「民の苦しみを救う」どころか、「民を収奪する」仕組みへと変質してきているとさえ思えます。
それに応じて、というべきか、先んじて、というべきか、政治もまた変質してきています。
安定した社会を目指すべき「まつりごと」の政治が、むしろエコノミクスの下に置かれてしまった。
つまり、政治が「エコノミカル・ポリティクス」へと変質してしまったのです。
アメリカのトランプ政権は、見事なほど、それを正直に表明しています。
これはある意味では当然の結果かもしれません。
政治学はさまざまな意見や生き方を持つ多様な人が納得できる全体的な決定をするための仕組みとして、投票制度を活用していますが、これは経済における市場制度に通じています。
そこで志向されているのは、政治過程における「論理」的な合理性ですが、その行き着く先は、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』かもしれません。
経済も政治も、そこから人間的要素を抜き取れば、うつくしい合理的世界が描けますが、そこで邪魔になるのは人間の非「合理」的な多様性ですから、人間のためではなく、人間の排除がはじまるでしょう。
実際にも、ヒトラーの「ジェノサイド」やスターリンの「クラーク」という恐ろしい歴史を私たちは体験しています。
投票制度と市場制度の発想の根底にあるのは同じものです。
稲垣さんの発想は、まさにそのことを示唆しています。
私が違和感を持ったのは、その点です。
いささか長くなってしまったので、今回はこれでやめておきます。
■リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年1月17日)
リンカーンクラブ代表の武田さんの「究極的民主主義」をテーマにした連続学習型サロンをスタートします。
これまで何回か武田さんの話を基にサロンをしてきましたが、個別の議論だと拡散しがちですので、武田さんの話を体系だってお聞きしていく、学習型のサロンを数回連続で行うことにしました。
テキストは、武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』です。
リンカーンクラブには現在、在庫がないので、書籍をお持ちでない方は、毎回、該当する部分をコピーして用意するようにします。
アマゾンの中古品では購入できるかも知れません。
最初に30分ほど、テキストに沿って、リンカーンクラブ代表の武田さんに解説してもらい、その後、論点を決めてみんなで話し合います。
第1回目は、同書の第一部の「現代政治へのアンチテーゼ」を読み込みます。
できれば連続参加が望ましいですが、毎回、前回の簡単なレビューを行い、話し合いには支障のないようにしていく予定です。
みなさんの参加をお待ちします。
●日時:2018年1月27日(土曜日)午後1時半〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「現代政治へのアンチテーゼ」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第1部
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)
■カフェサロン「病院の歴史から日本の医療を考える」(2018年1月21日)
16人の参加者があり、最近では一番長いロングランのサロンになりました。
それでも残念ながら、話し手にとっても聞き手にとっても、時間不足だったと思います。
話題提供者の福永さんは、著書の「日本病院史」のダイジェスト版の小冊子(なんと51頁)まで用意して下さり、そのエッセンスを話してくださいました。
最初に総論的な話をしていただき、それを踏まえて参加者の関心事を出してもらいました。
テーマがテーマだけに論点も多く、福永さんは大変だったと思いますが、参加者の関心に重点をおいた通史を話してくださった後、今の医療やこれからの医療が抱える問題、たとえば病床数の削減や地域医療構想、地域包括ケアシステムなどについて、いくつかの論点を出してくださいました。
話の内容や話し合いのやりとりは、とても要約できませんが、ぜひ福永さんの著書「日本病院史」(ピラールプレス社)をお読みください。
いろんな気付きをもらえるはずです。
ちなみに、福永さんの通史の紹介で印象的だったのは、単なる文献調査だけではなく、関連した場所を福永さんは実際に歩いて、いろんなことを気づき、発見されています。
写真なども見せてもらいながら、その話を聞かせてくださいましたが、それが実に面白かったです。
いつものように、私の主観的な報告を少しだけ書きます。
最初の総論の話は、とても示唆に富んでいました。
たとえば、江戸時代までの日本の医療は基本的に往診スタイルであり、病院ができたのはたかだか156年前というお話がありました。
医療のあり方、病気との付き合い方に関する根本的な考え方が、そこにあるように思います。
福永さんは、日本に西洋医学を紹介したオランダは、日本に「病院」を教えなかったと話されましたが、これはとても興味深いことでした。
教えなかったこともありますが、当時の日本人は、そういう発想がなかったのかもしれません。
日本最初の本格的西洋式病院は幕府が創立した「養生所」だという話も、私には興味深い話です。
私は、なぜ「ホスピタル」を「病院」と訳したのかにずっと違和感を持っているのですが、養生の思想と医療の思想は、まったく違うのではないかと思います。
つまり、病気観や治療観が違うような気がします。
日本の病院は外来と入院のハイブリッド型に特徴があるという話も、これにつながっているような気がします。
明治以降の近代病院に宗教の基盤・背景が薄いという福永さんの話も、私にはとても重要な意味があると思いました。
日本では宗教というと教団宗教と受け取られますが、宗教を人が生きる意味での精神的な拠りどころと捉えると、それはまさに健康や病につながっていきます。
日本は、世界的にみても、精神医療の隔離傾向が強いように思いますが、これもこのことと無縁ではない気がします。
私には、これは、これからの医療を考える上で、とても大切なポイントだと思えます。
日本の病院数は民間病院が多いこと、にもかかわらず、国家による規制があって、病院の病床増床を病院が自由に決定できないなど、経営の自由度が少ないことも、日本における医療政策の基本にかかわることです。
この辺りも、ていねいに本書を読むといろいろと気づかされることは多いです。
今回のサロンでは、そのあたりを深掘りすることはできませんでしたが、いつかテーマに取り上げたいと思っています。
地域包括ケアシステムに関する話も、とても示唆に富むものでした。
福永さんは、医療での「地域」という言葉には注意しなければいけないと話してくれました。
そして、「地域」は地理的な「場所」(ローカルやリージョナル)ではなく、(人のつながりを軸にした)「コミュニティ」を指していると考えると、地域医療を進めて行くときの概念が明解になると話してくれました。
とても共感できます。
地域は、統治概念ではなく、生活概念で捉える必要があると私も思っています。
そして、豊川市の事例も踏まえながら、地域包括ケアシステムの話をしてくれました。
関連して、参加者から「我が事・丸ごと地域共生社会」構想の話も出ましたが、ここでもだれが主役になるかで全く違ったものになる可能性があります。
他にも紹介したい話はいくつもありますが、ぜひ「日本病院史」をお読みください。
案内でも書きましたが、病院や医療を通して、社会のさまざまな問題、が見えてきます。そしてそれは、私たち一人ひとりの生き方の問題にもつながってきます。
参加者のひとりが、結局、私たち一人ひとりが最後をどう迎えるかという看取りの問題につながっていると発言されました。
私もそう思いますが、まだまだ医療を受動的に捉えている人が多いように思います。
最後に、私も一言、中途半端な話をさせてもらいました。
コミュニティや地域社会の大切さが言われだしているが、それらは「どこかにある」のではなく、「自分の生き方で創りだしていく」ものだと考えることが大切ではないか。
話し合いで異論がぶつかりあった点もありますが、医療問題はやはり言葉の応酬ではなく、問題をしっかりと理解していくために、総論を踏まえて、自分事を踏まえて、個別テーマごとに連続で話し合う場を持たないといけないと改めて感じました。
そういうことができるように、少し考えてみたいと思います。
■第2回「茶色の朝」サロン報告(2018年1月24日)
第2回目の「茶色の朝」サロンには寒い中を12人の参加者がありました。
男女半々でした。
今回は少しだけですが、生活につながるような話もいくつか出ました。
ただやはり時間の関係もあって、話し合いになるところまで行きませんでした。
話し合いは、やはり何回かつづけていかないと難しそうです。
今回は最初に、参加者のおひとりが、この寓話から感じた3つのことを整理して話してくれました。
「2つのおそれ」「作者からのメッセージ」「物語のその後」です。
彼女は、警告だけではなく希望を感じたと言います。
しかし、そのためには、「わたし」をしっかり取り戻せって言っている、と感じたそうです。
せっかく整理してくれたので、ここから議論する方法もあったのですが、今回もまだオープニングサロンですので、ともかく全員それぞれに感想を話してもらいました。
いろいろと示唆に富む気づきが語られました。
ある人は、子どもでつながっている母親仲間とは、政治がらみの話はしにくいし、なにか行動を起こして目立つのも勇気がいるというような話をしてくれました。
今回も、どうして戦争を食い止められなかったのだろうかと自分の親に問いかけた話を複数の方がしてくれました。
前回と違ったのは、今回お話された方たちは、自分が子どもたちに同じ思いをさせないように行動している、あるいは行動しようと思っているということでした。
すでにさまざまな活動を長年されている女性の方も参加してくれました。
彼女も、こういう話し合いのサロン活動を7年もしてきたが、なかなか流れは変わらない。
もっと大きな構想を踏まえて、具体的な目標に向かって行動しないといけないと思い出していると話しました。
口だけではなく、彼女は実際にさまざまな取り組みを実践しています。
しかし、私自身は、むしろ迂遠なようでも、一人ひとりの意識が変わっていくような、こういうサロンが大切だという思いを、ますます強めています。
いろんな活動や取り組みがあることが大切ですし。
教育が大切だという人もいました。自分が学んだ教科書と子ども使っている教科書の違いを紹介してくれた人もいます。
これはできれば、サロンで取り上げたいテーマです。
まだいろんな話が出ましたが、実は私が前夜、あまり寝ていなくて、いささか頭がダウンしていて、話し合いの内容をまだ思い出せません。
参加者のみなさん、どなたか気が向いたら補足してください。
みなさんの感想が一巡した後で、参加者のみなさんに、日本は現在どんな状況だと思っているかお訊きしたところ、まだ半数の方は、「茶色の社会」への懸念を感じだしているような感じでした。
もちろん朝を過ぎた、もう行くところに来ているというような思いを持っている人もいました。
私自身は、もう日本の社会は「茶色」に埋め尽くされつつあると考えています。
もっとも私が考える「茶色」は、ファシズムを象徴する茶色でもありますが、そのもっと根本にある茶色、「金銭」です。
これに関しては、また改めて話し合えればと思います。
最後に、政治問題どころではなく、今日をどう生きようかと一生けんめいに自分と闘っている人が、遅れて参加してきました。
彼女は、こういう場に出てくるだけでも大変なのです。
たまたま心理カウンセラーの参加者がいたので、いつの間にかその2人の話になってしまいました。
横道に外れすぎではないかと思われた方もいたと思いますが、進行役の特権で、少し流れに任せました。
問題提起した若い女性のような人とは接点のなかった人もいたかもしれません。
しかし、「政治などに気を向ける余裕がないほど」生きにくい状況を生きている人もいるのです。
そういう人のことを知ることも、私は大切な「政治活動」だと思っています。
湯島のサロンは、そういう横道体験が、偶発することに一つの異議があります。
さすがに途中で、その話は終わらせてもらいましたが、その2人を主役にした、「生きる意味を考える」サロンを2月7日5時から8時の予定で開催することにしました。
よかったら参加してください。
2回の「茶色の朝」オープニングサロンを行いましたが、結局当初予定していた、「気になることの話し合い」にさえ行き着きませんでした。
でも何人かの方からは継続を要請されました。
そんなわけで、次回から、いよいよ本格的な「茶色の朝」サロンがはじまります。
日程が決まり次第ご案内させてもらいます。
あるいは、こんな話をしたいという方がいたら、ご連絡ください。
その人の都合を優先してサロンを設定することも考えたいと思います。
■縁紡ぎカフェを始めます(2018年1月25日)
前に構想を書きましたが、いよいよ縁紡ぎカフェがオープンです。
思い付いたきっかけを再掲します。
鷲田誠一さんの「しんがりの思想」(角川新書)にこんなような文章がありました。
退社したあと、解雇されたあとの長い日々。鋼鉄のドアで遮断され、近所との行き来も(そしてそのための蓄えも)乏しく、緑、つまりいざとなったらいつでももたれかかることのできる支えあいの仕組みからはじき出された高齢の単身者の生活。
孤立への怖れはしかし、高齢者だけでなく、若い世代の心をも深く蝕んでいる。
縁はみずから紡いでゆくほかないとはいえ、そのチャンスがたやすく見つかるわけでもない。そういう緑を、あるいはネットワークを、みずから紡ぎだしてゆくことができずに、ただうずくまっているしかないひとびとを見聞きし、わたしはこの社会がいつのまにこんなに脆弱になってしまったのかと呆然となる。
そういう「縁」や、ゆる〜い「つながり」が育ちやすい場所をつくりたくなりました。
そこで、毎月、最初の水曜日の午前11時から4時までを、縁紡ぎカフェと称して、湯島でオープンカフェを開くことにしました。
いざとなった時に、もたれかかれるような縁を紡ぎたいという人を主な対象にしますが、だれでも歓迎です。
但し、湯島でいつもやっているサロンではありません。
単なるカフェです。それもコーヒー代はかなり高いです。
湯島のサロンは、自分で自由に缶に入れていく方式ですが、このカフェは強制的に料金としていただきます。
しかも前金で、領収書は出しません。
いただいた料金は積み立てて、縁紡ぎ基金(仮称)にします。
カフェ代は500円以上(上限はありません)です。
縁紡ぎ基金への寄付も歓迎です。
滞店時間は開店中であれば制限はありません。
なにも話さなくても寝ていても、仕事してもいいです。
但し、他の人、特に私に迷惑をかけることはしてほしくありません。
もし誰かと話したい場合は、気が向いたら私が相手をしますが、確実ではありません。
ちなみにきちんと相談したいことがある人への相談には応じますが、有料です。
まあ料金は勝手に決めてくださっていいですが、その料金は縁紡ぎ基金にではなく、私の日当になります。
気が向いたら、私から基金に寄付しますが、気が向かない場合は、私の生活費になります。
これも領収書は出ません。
但し、10万円を超える場合は、検討します。
私は、たぶんずっといると思いますが、本を読んでいるかもしれません。
機嫌が悪い時もあるかもしれませんので、ご注意ください。
当面は湯島ですが、誰かが無償でお店を提供してくれたら、湯島近くであればそこに移ります。
そんなわけで、お店を提供してくれる人も公募します。
縁紡ぎ基金がたくさんたまったら、常設店を開きたいです。
そうなったら、私は利用客になりたいと思いますので、だれかやる人を公募します。
最初の開店日は、2月7日の午前11時から午後4時までです。
特にオープン記念イベントはありません。
ランチメニューもありませんが、持込みは自由です。
私の分も持ってきてくれるとうれしいです。
誰も来ない場合は、私はランチ抜きになります。
お客様が一人も来なくても、少なくとも3か月は継続します。
さてさてどうなるでしょうか。
■リンカーンクラブ学習型サロンの報告(2018年1月27日)
「究極的民主主義」をテーマにした連続学習型サロンをスタートしました。
テキストは武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』。
今回は、その第一部を話し合いました。
まずは、『「究極的民主主義宣言」の概念の共有化から始めました。
しかし、概念の共有化でさえ、みんなからさまざまな意見が出ました。
言葉で定義したとしても、その意味解釈においては、どうしても多義性が残ります。
そのため、「学習型」というよりも、「討議型」になりそうな気配でしたが、まあ、お互いの理解の「多様性」を実感できることに意義を置くことにしました。
それに、言葉だけのやり取りでは、自らの思考には至りにくいですから。
結論として、議論の起点としての「究極的民主主義」が目指す政治制度を、「すべての主権者は自分が希望したときには、すべての政治課題についての賛否を表明することができ、その決定に関与できる政治制度」と定義することにしました。
厳密に言えば、主権者とは何か、決定に関与できるとはどういうことかなど、議論はありますが、少なくとも、議会民主主義の下における主権の信託制度とは別次元の制度です。
そのため、「議会制代議政治」は「民主主義」かどうかという議論もありましたが、「議会制民主主義は民主主義にあらず」という表現は正確ではなく、むしろ、議会制政治も直接デモクラシーも、そのいいところを取り込んで、民主主義の理念を極限まで近づけるための政治制度を考えていくことが大切だということで合意ができたと思います。
しかし、日本語の民主主義には、「イズムとしての民主主義」と「統治制度としてのデモクラシー(大衆の支配)」という次元の違う意味が含まれているので、議論が混乱しがちなのです。
その点での合意は少し時間がかかりそうなので、まずはもう少し先に、改めて話し合うことになりました。
今回の該当部分のテキスト第2章は「選挙をすれば民主主義ですか」というタイトルなのですが、選挙制度に関して話し出すとどうも各論的な話か理念的な話になってしまうので、次回のテーマにしました。
究極的民主主義が実現できる選挙制度を具体的に考えることで、改めて「究極的民主主義」とは何か、という理解が深まるだろうと思います。
話していると、同じ言葉を使っていても、その意味内容は違っていることもありますが、話し合っているうちに、その違いが可視化されるとともに、新しい気付きが得られる。
これが、今回の「学習型」の意味です。
なにかを学ぶだけではなく、学びながら新しいものを創り上げていくことに、これから挑戦していければと思っています。
こう書いてしまうと難しい知識がないと話し合いができないように思われるかもしれませんが、むしろ白紙の状況で、新しい考えや提案に触れることで、自らの考えを確認し、豊かにしていくという意味での「学習」でもありますので、ぜひ気楽にご参加ください。
次回は、2月17日(土曜日)の午後2時からを予定しています。
今回参加されなかった方にも、最初に要点を整理したうえで話し合いを始めますので、今回参加できなかった方も、ご関心があれば次回からご参加ください。
参加される方には、あらかじめテキストをお届けできるようにしたいと思っています。
今回はリンカーンクラブのサロンやフォーラムに参加したことのない母親の方も参加してくださいました。
女性の方が参加してくれると、話し合いの幅が広がります。
女性のみなさんの参加を事務局としては期待しています。
今回の参加者は10人でした。
■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年1月28日)
コムケアサロンの案内です。
今回は、「なぜ生きるのか」という、ちょっと「重いテーマ」を選びました。
それに合わせて時間も少し長くとりました。
今回のサロンは、前にも一度、サロンで話してもらった“モモさん”の希望で開催しますが、心理カウンセラーの“ビタミン和子さん”も協力してくださいます。
モモさんからのメッセージを紹介します。
生きているのが辛いことは皆さんあると思いますが、
それでも生きていようと思う理由というか、
(嫌でも)生きていかなきゃいけない理由みたいなことを、
話し合うようなサロンを開いていただけたらな〜。
できれば、もともと生きていたいと思える方より、
生きていくのが辛い、死んだ方が楽だと思いつつ、
それでも生きている方のお話、
そのモチベーションみたいなものをお聞かせいただけたらと。
または、昔は死にたかったけど今は死にたくなくなった方に、
どのような流れでそう変わったのかをお尋ねしてみたいと思います。
重いテーマですが、湯島のサロンですから、明るく気楽に話し合いたいと思います。
元気の塊のビタミン和子さんも参加してくださいますので、間違いなくそうなるでしょう。
そして、「なぜ生きるのか」を踏まえて、「生きる力を高める場」にできればと思います。
「重い」テーマであればこそ、「明るく」「気楽」に話し合い対等の我、湯島の精神ですので。
実際にモモさんと同じような体験をしたことのある人、している人も、「生きる意味」など考える余裕もない人、必要もないひと、さらにはこういうテーマにはまったく関心のない人、だれでも歓迎です。
世界を広げ、元気が出るサロンにしたいと思いますので、よろしくお願いします。
いつもより早い時間から始めますが、いつものように出入り自由ですので、途中からのっ参加も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。
〇日時:2018年2月7日(水曜日)午後5時〜8時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/どうしたら生きる力を高められるか」
○会費:500円
■アーサー・ビナードさんの「知らなかった、僕らの戦争」(2018年1月30日)
ご自身の戦争時の体験を語りだしている、京都の高林さんが、3月にアーサー・ビナードさんと対談することになりました。
それで、遅まきながら、アーサー・ビナードさんの「知らなかった、僕らの戦争」(小学館)を読みました。
面白くて一気に読みました。
何が面白かったといえば、「本当はみんな知っていた」ということを感じたことです。
正確には、「みんな」ではなく、一部の関係者ですが、その気になれば知ることができたということです。
戦争がはじまった頃、日本は勝つはずがないと語っていた義母に「非国民」と非難していた体験を語っている女性がいます。
「教育」を受けていた人と「違う教育」を受けていた人とは世界が違って見えていたようです。
原爆の真実も「真珠湾奇襲」の真実も、いまでは「教育」通りに考えていない人も増えてきていますが、相変わらず「教育」で教えられたことを信じている人も少なくありません。
しかし、真実は現場にあるということを、この本を読んで改めて実感しました。
ビナードさんの発言にも共感することが少なくありません。
安倍総理の真珠湾訪問とオバマ大統領の広島訪問のからくりは、私も感じていたことで、いずれも違和感を持っていましたが、彼は明確に切り捨てます。
とりわけ、オバマ大統領が長崎に行かずに、しかもオスプレイを誇示したかに関する違和感は、この本を読んで少し納得しました。
広島と長崎の扱いの違いも、この本を読んで納得できた気がします。
それにしても、なぜ広島の人は、毎年、安倍首相を受け入れるのか、理解できません。
この本には、いろんな角度から、戦争にまつわる体験談を23人の人が語っています。
私にはたくさんの新しい気付きがありました。
パンプキン爆弾のように、知らなかったこともあります。
原発は核兵器のために、いまもなお、日本では廃炉されないことへの確信も強まりました。
読みやすい本なので、多くの人に読んでほしいです。
■コムケアサロン「成年後見制度ってご存知ですか」のご案内(2018年1月31日)
最近、成年後見制度に関わる相談を受けることがありました。
いざ、相談を受けてみると私自身の理解の浅さを思い知らされました。
と同時に、制度的な疑問点やそれが起こしている問題も改めて見えてきました。
私は、認知症予防ゲームの普及にささやかに関わっていますが、その実践者たちとの話し合いの中で、これまで成年後見制度が話題になったことがありません。
しかし、高齢者介護や認知症予防に関わっていくのであれば、成年後見制度のことは知っておく必要があると改めて感じました。
そのことを、フェイスブックに少し書いてみたら、その反応の多さに驚きました。
そこで、急遽、「成年後見制度」をテーマにサロンを開催することにしました。
ただし今回は、いわば入門編です。
しかし、単に制度の勉強をすることを目指してはいません。
成年後見制度によって人生を狂わされたというような話もありますが、そうした「成年後見制度の闇」を話題の中心にするものでもありません。
まずは、 そもそも成年後見制度にも関わりながら実践活動をしている立場からのお話をお聴きすることにしました。
お願いしたのは、“高齢者を支えるご家族”のための相談所「一般社団法人コレカラ・サポート」の千葉晃一さんです。
これまでのお付き合いの中で、千葉さんであれば、信頼できる公正な生きた話をお聴きできると思ったからです。
千葉さんのお人柄や活動は、一般社団法人コレカラ・サポートをご覧ください。
http://www.koresapo.com/message/index.html
千葉さんは、高齢者やそのご家族からいろんな相談を受けていますが、基本は、困っている人のところに出かけて行って、話をするという姿勢を大切にしています。
ですから実にさまざまな「現場」を、全身で「体験」されています。
そんなお立場を踏まえて、成年後見制度はどんな状況において検討されるのか、また相談を受けたらどんな説明をしているのか、そういう具体的な話を紹介していただきながら、参加者の質疑に応えていただきながら、成年後見制度への理解を深めてもらえればと思います。
実際に、成年後見制度を考えている人や問題を抱えている人にも、千葉さんは応えてくれるはずです。
これは私の偏見かもしれませんが、成人後見制度のなかに、行政や司法の現在の福祉観と共に、私たち生活者の福祉観が、垣間見えるような気もします。
自分とはあまり縁がない制度だと思っている人も少なくないと思いますが、決してそんなことはない、と私は思います。
今回は入門編ではありますが、ご自身の体験や問題なども話してもらう時間もつくりたいと思います。
もしかしたら、このテーマはさらに深掘りをすることになるかもしれません。
ご都合に合わせてご参加ください。
○日時:2018年2月27日(火曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cccentermap.pdf
○テーマ:「成年後見制度ってご存知ですか」
○話題提供者:千葉晃一(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
■憲法9条を考えるもうひとつの視点(2018年1月31日)
今日はちょっと体調がすぐれないので自宅で休養していたのですが、ついつい机の上に積んであった本を読んでしまいました。
国際関係論を専門にしている篠田英朗さんの「本当の憲法」(ちくま新書)です。
副題が、「戦後日本憲法学批判」となっていますが、とても刺激的で示唆的です。
憲法学者の憲法論とは視点が全く違いますが、私がこれまで違和感を持っていたことが、ほぼすべて解消した気がします。
もっと早く読めば、と悔やまれます。
前回のリンカーンクラブの集まりでも、「国民主権」という概念がどうもすっきりしないことを話したのですが、それもすっきりしました。
みなさんにも、ぜひ第1章「日本国憲法をめぐる誤解を解く」だけでも読んでほしいと思います。
たとえば、こんなことが書かれています。
日本国憲法の3大原理といわれる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、目的あって、原理ではない。原理は「国政は国民の厳粛な信託による」と「国際協調主義」。
憲法9条は、日本独自のものではなく、その価値は、例外性にあるのではない。その国際標準的な性格にある。
あるいは、
日本憲法の根底にある英米法思想の起点は、諸個人の権利である。
つまり「国民主権」ではない。
ちょっと私の考えに合わせて解釈しているかもしれませんが、こう考えれば、日本憲法9条をノーベル賞平和賞候補にといった考えが、いかに視野の狭い「日本ファースト」的発想かがわかります。
私がなんとなく感じていた疑問が氷解します。
不戦条約ですでに戦争は否定され、軍隊のない国は日本以外にいくらでもあり、むしろ日本は軍隊に守られている。
自衛隊の存在は違憲だと思いながらも、なぜか存続を認めたい。
今日はあんまり調子がよくないので、まだ整理できていませんが、頭痛がなくなったら、少し整理しようと思います。
でも多くの人に読んでほしいです。
■第2回リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年2月1日)
武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』をテキストにした、学習型話し合いサロンの第2回目です。
今回は、前回の概論を受けて、究極的民主主義を実現するための選挙制度を中心に、『無党派市民の究極的民主主義宣言』(ビジネス社)第3部を話し合う予定です。
最初に前回の簡単な復習をしてから、武田さんから究極的民主主義型の選挙制度(国民主権の行使システム)を説明してもらい、それを受けて議論を深めたいと思います。
参加申し込みを受けた方で本をお持ちでない方には、事前に、該当部分のPDFをお届けするようにしますので、あらかじめ読んだうえでご参加ください。
学習型ではありますが、みんなで学び合うというスタイルですので、気楽にご参加ください。
みなさんの参加をお待ちします。
●日時:2018年2月17日(土曜日)午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「国民主権を実現する選挙制度」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第3部
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)
■「鬼は外、福は内」の意味がやっとわかりました(2018年2月3日)
ほとんど挽歌編と同じですが、私にはとても大きな発見でしたので、時評編にも書きました。
節分ですが、今年は豆まきをやめようかと思っていました。
大人だけだと、ちょっと気恥ずかしさがありますので。
それを見透かされたように、近くに住んでいる娘母娘が、出張豆まきにやってきました。
おかげで、わが家の豆まき文化は断絶せずにすみました。
ただし、「福は内、鬼は外」の豆まきです。
私にはいささか不満ですが、これには異をとらえられませんでした。
ちなみに、わが家の豆まきは、ずっと「鬼は内、福も内」でした。
とりわけ今日のように寒い日には、追いだすような掛け声はわが家向きではありません。
しかし、孫はそんなややこしいことなど分かるはずもなく、豆を外にそっと投げていました。
それから室内にいる3人の鬼たち(お面ですが)に、豆を分配していました。
それを見ていて、ハッと気づいたのですが、豆を外にばらまくのは、もしかしたら「私財を困った人に、恩着せがましくではなく、わざとぞんざいに「もらってもらう」という行為」だったのではないかという気がしました。
外にいる社会から疎外されている人たちに豆や米を提供するので、住む場所もあって暮らしに困っていない人たちは、家に入って、提供された豆や米には手を出さないようにしてください、という呼びかけのわけです。
いわゆるポトラッチの一種です。
そう考えるとすっきりします。
私にとっては、とても大きな発見です。
孫から教えられました。
私も、ホームレス支援のグループにささやかな豆を送ることにしました。
伝統行事には、まだまだいろんな知恵が含まれているのでしょう。
■コインチェック事件とフィンテックの陰謀(2018年2月4日)
コインチェック騒動で、仮想通貨(奇妙な名前ですが)への関心が高まっています。
フィンテック関係者はきっとほくそえんでいるでしょう。
金融業者たちの貧しい夢は実現に近づいているようです。
しかしどうしてみんな投機の意味しかない「仮想通貨」に取り込まれるのでしょうか。
不思議でなりません。
みんなが欲しがっているのは、お金ではなく(お金は単なる手段ですかありません)、生活の安定や豊かさです。
勘違いしてはいけません。
そもそもお金に利子がつくことさえ理解できない私には、通貨を投機手段に使うことの意味がまったくわかりません。
そもそも投機や蓄財に使う通貨は、交換手段としての通貨とは、全く違うものだろうと思います。
私は、価値は労働が生み出すという、古典派経済学の労働価値説にも違和感はありますが、少なくとも通貨は本来、価値を生み出すものではないと思っています。
もし生み出すとしたら、それは価値の移動でしかありません。
つまり通貨への投機で利益をあげたとしたら、それは誰かの持っている「価値」を奪っただけの話です。
ゼロサムゲームからは価値は生まれてきません。
そうかたくなに信じています。
もちろん価値の移動が、価値を生み出すことはあります。
お金がなくて困っている人にお金を提供することで、困っている人が助かることはあります。
しかし、それを投機につなげることには賛同できません。
価値を生み出さないところから、価値を得ようとすることが投機です。
それはマネーゲームであっても、生活につながる本来的な意味(経世済民)での経済活動ではありません。
今朝のテレビで、FPでもある生島さんが、少額のお金を運用するには仮想通貨は面白いと話していましたが、みんなの生活を支え、社会の秩序を維持するための社会的インフラ制度である通貨を、ゲームに使うこと自体に問題があります。
最初はゲームで、遊んでいたとしても、それがいつか枠を超えて、私財を投入していかないとは限りません。
そこにマネーが絡んだゲームの恐ろしさがあります。
しかし、まもなく仮想通貨で億万長者になった中学生、などというニュースが話題になりそうで、心配です。
きっと藤井さんより話題になるでしょう。
仮想通貨が、お金に支配された資本主義の社会を変えていくかもしれないという話もよく聞きます。
今朝のテレビ「新報道2001」でもそういう話が語られていました。
たとえば、冷蔵庫を無償で各家庭に配布し、実際の冷蔵庫使用のための扉の開閉ごとに僅かの費用(たとえば0.7円)を徴収すれば、メーカーは採算がとれると、出演していた関係者が話していました。
時代はまさに今そういう方向に向かっていますが、これこそがフィンテックの目指すところでしょう。
いまの携帯電話にも象徴されますが、一見、無料でもらえたと思っていたら、長い期間(冷蔵庫の場合は13年だそうです)、なにかに隷従しなければいけなくなりかねないのです。
お金を見えなくして、生活を縛っていく。
なにやら江戸時代の農民支配制度のような気がしてきます。
そこで変わるのは資本主義という経済システムではなく、人間の意味であることに、気がつかねばいけません。
そもそも投機からは何も価値は生まれません。
投機と強盗と詐欺は同じだとは言いませんが、私にはみんな同じように思えてなりません、
私もかなり時代から脱落してしまっているようですが、注意しないと時代の流れに吸い込まれそうで心配です。
なにしろ目の前にあるものに、ふらふらと引き寄せられるタイプですので。
困ったものです。
■コムケアサロン「なぜ生きるのか」の報告(2018年2月8日)
「なぜ生きるのか」
このテーマでのサロンは、事前の申し込みはほとんどなかったのですが、私を含めて9人の参加がありました。
案内に書いた、モモさんからのメッセージを再掲します。
生きているのが辛いことは皆さんあると思いますが、
それでも生きていようと思う理由というか、
(嫌でも)生きていかなきゃいけない理由みたいなことを、
話し合うようなサロンを開いていただけたらな〜。
できれば、もともと生きていたいと思える方より、
生きていくのが辛い、死んだ方が楽だと思いつつ、
それでも生きている方のお話、
そのモチベーションみたいなものをお聞かせいただけたらと。
または、昔は死にたかったけど今は死にたくなくなった方に、
どのような流れでそう変わったのかをお尋ねしてみたいと思います。
このメッセージを受けて参加してくださった方も多かったと思います。
実は、お恥ずかしいのですが、呼びかけておきながら、私はこの「なぜ生きるのか」というテーマがあまり理解できていません。
なぜなら「生きる」ことに理由などあるわけがなく、もし理由をあげろと言われたら、いくつでもあげられると思っているからです。
ですから、私はあまり参加資格はないのですが、湯島のサロンは、どんな人でも参加できるのがルールなので、私も話し合いに参加させてもらいました。
最初は静かにスタートしましたが、それぞれの体験談が語られだし、それへの問いかけや意見が出されはじめ、次第に話し合いが深まって、終わる気配がないほどでした。
生きることがつらかったことの、さまざまな「物語」が語られました。
死ぬ勇気がないので、アルコール中毒になりたくて、飲みたくもないお酒を飲んで入院。
幼児体験の記憶から抜け出るための闘い。
喪失体験が引き金になった「うつ状況」の再発への不安。
2週間の断食で、生きかえった話。
学校生活が苦痛で抜け出た話が、生徒と先生からありました。
約束した時間にどうしてもたどりつけないので病院にも行けない。
その一方で、遅刻人生をつらぬいた人の話もありました。
成長段階で社会を生きていく「ルーティン」を身につけることの大切さ。
愛されることと愛することの人生における意味。
社会には太陽もあれば闇もある。
などなど、いろんな話が出て、誠実な話し合いが展開しました。
交流分析やアドラー、ロゴセラピーなどといった話も、少しだけ出ました。
いずれも自分の体験を踏まえた生々しい話なので、聞く人もまた自分の体験を踏まえて受け止めたでしょう。
ですから、ここに書いたことは私の狭い世界からの理解に過ぎません。
参加者は、私が書いた言葉とは別の、それぞれの受け止めをしているはずです。
私もたくさんの気づきをもらうとともに、自分の物語を安心して話せる場の大切さを改めて感じました。
私も体験したことですが、心の奥を話すことで、力をもらえることもあります。
そこで、このサロンをこれからも開催することにしました。
実は、今年は、「縁紡ぎカフェ」を毎月最初の水曜日の午後に開店することにしているのですが、その日の夜は、「生きる」をテーマにした「心を開くサロン」を開催することにしようと思います。
これに関しては、また案内させてもらいます。
ところで、いろんな人の物語を聞きながら、おそれや不安のない人など、いるのだろうか、そして、おそれや不安のない人生は豊かなのだろうか、と私は思いました。
その私の問いに、参加者のみなさんは、ないほうがいいと答えました。
モモさんから見ると、私はおそれや不安のない元気な人に見えているようですが、そんなことはありません。
たくさんの悩ましい問題も抱えていますし、不安で夜、目が覚めることもあります。
しかし、私のような年齢になると、不安も希望も所詮は同じもののような気さえします。
太陽も闇も、同じように見えてくる。
そういう視点から考えると、ただただ思うのは、みんなそれぞれ思うように生きればいいのにということです。
悩みも不安も、すべてをそのまま受け入れればいい。
なぜそれが難しいのか。
そこに私の一番大きな関心があります。
ところで、今回のサロンは単に悩みや不安を開示しただけの集まりではありません。
そこから何か少しでも、社会を変えていくということも企図していましたが、それも今回少しだけ果たせたように思います。
人が集まれば、必ず動きが起こりだす。
そんなことも実感したサロンでした。
今回は報告用の写真は撮りませんでした。
それで少しばかり詳しく紹介させてもらいました。
■カフェサロン「モノづくり企業の経営を支えるカイゼン」報告(2018年2月10日)
残念ながら、最近の調査では、日本の企業の労働生産性は世界で20位、主要先進国7か国では最下位だそうです。
企業の現場を飛び回り、日本企業の「現場」の改善力の強さとそれが戦略につながる可能性を実感している柿内幸夫さん(柿内幸夫技術士事務所所長)は、その状況を変えていくことを自らの使命にしているように思います。
そして、難しい手法や理論よりも、誰でもできる「カイゼン活動」が、企業を変え、社会も変えていくと確信されているようです。
私は、その柿内さんの考え方と実践にとても共感しています。
なによりも、自ら汗をかいて実践している。
今回の企業サロンは、その柿内さんにお願いしました。
15人が参加しました。
柿内さんは、日本と欧米では仕事の進め方、従業員の位置づけに大きな違いがある、と言います。
日本のいいところもあれば、悪いところもある。
それをしっかりと踏まえて、企業に関わるみんなが、知恵と汗を出せば、日本の製造業が再び世界をリードできる時代を呼び寄せることができるはずだ。
どうしたらそれが実現できるか。
長年の活動から得た答は、みんなが自らの現場で、日々、改善に取り組むことです。
そのために、柿内さんは「チョコ案」制度を考え出しました。
ちょこっとした改善アイデアをみんなで実行して、それを簡単に用紙に書いて報告する仕組みが「チョコ案制度」です。
ポイントは、提案して採用されたら実行するのではなく、「実行して報告する」こと。そして、それを通して、みんなの「改善の心に火をつける」ことです。
興味のある方は、柿内さんの「ちょこっと改善」(経団連出版)をお読みください。
簡単な紹介は次のところにしています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#160306
そういう柿内さんの実践とそこから得たメッセージを柿内さんは話してくれました。
私は、柿内さんの「ちょっとしたカイゼンが大きな変化を起こす」という発想に共感していますが、それは企業に限ったことではないことを改めて確信しました。
行政でもNPOでも、あるいは家庭でもグループでも、さらには個人としての生き方にだって、効果を発揮する考えです。
しかも、たぶんそれを実践すると、人生が楽しく豊かになる。
いささか大げさに聞こえるかもしれませんが、たぶん長年実践してきている柿内さんには賛成してもらえるような気がします。
今回も、福祉に関わっている人が自分の活動につなげて発言してくれましたし、自分の生き方につなげて考えていた人もいると思います。
自分の生き方が社会を変えていくと思っている私も、柿内さんの話からたくさんの気づきをもらいました。
話し合いで出た話題も紹介したいものがたくさんあるのですが、書きだすときりがありません。
しかし、聞いていて、感じたのは、みんなの発言に通底しているのは「人間が主役」ということです。
みんなそれにきづいているのに、なぜなかなかそれができない。
義務とか制度とか、そんなことに縛られてしまう。
ひとつだけ、いささか刺激的な問題提起があったので紹介します。
それは「現場」という言葉です。
私の生活信条は「解決の鍵は現場」ですので、今回のサロンでもかなり現場という言葉を使ったような気がします。
ところが、私から見ると、とても現場を大切にしている方が、現場という言葉は、現場を一段下に見た差別用語のような気がすると発言されました。
思ってもいなかったことですが、たしかにそういわれるとそんな気もします。
その人は、「現場」よりも「第一線」という言葉を使っているそうです。
考えは同じなのですが、人によって、言葉の持つ意味は多様です。
こんなことに気づかされるのも、サロンの魅力です。
時間もだいぶ延ばしましたが、やはり話し合いすることができないテーマも多かったです。
湯島のサロンは、みんなよく話すので、2時間ではいつも足りません。
これをどう解決するかも、サロンの課題の一つです。
ところで、参加者のお一人から、後でメールをもらいました。
柿内さんの語り方や「それは考えていなかった。とても嬉しい」というような話なされ方は人の心を穏やかにし、素直にさせる素晴らしいスキルで、私も学びたいと思います。
私も、そう感じていました。
自分の考えを相対化し、他者の意見に新鮮な思いで学ぶという柿内さんの姿勢に、サロンの運営者としても大きく学ぶことがありました。
今年の私の課題にします。
今回のサロンは近藤さんが録画してくれました。
公開するかどうかはまだ決めていませんが、もしご覧になりたい方がいればご連絡ください。
公開したらご案内します。
柿内幸夫さんのホームページもぜひ見てください。
http://www.kakiuchikaizen.com/
■カフェサロン「日常生活の巡礼化」のお誘い(2018年2月13日)
久しぶりに、巡礼者鈴木章弘さんに、サロンをやってもらうことにしました。
鈴木さんの最近の巡礼体験を書いてみます。
2002-04年 サンティアゴ巡礼(フランス人の道)
2015年 サンティアゴ巡礼(ル・ピュイの道)
2016年 四国遍路(一周)
2017年 サンティアゴ巡礼(北の道)、四国遍路(徳島県のみ)
毎年、2〜3か月は巡礼生活なのです。
巡礼が終わるたびに、私は鈴木さんのお話を聞かせてもらっています。
いつも鈴木さんは、よどみなく一気呵成といえるほどにいろんな話をしてくれます。
巡礼で得るものが、いかに大きいかを、いつも実感させられます。
その感動のおすそわけを私はいただいているわけです。
春にはまたサンティアゴに出かけるそうです。
そこで、出発する前にサロンをしてもらうことにしました。
今回のテーマは「日常の巡礼化」。
鈴木さんからのメッセージを紹介します。
「この世で巡礼のように生きよ」(トマス・ア・ケンピス)
「人生即遍路」(種田山頭火)
というように、巡礼・遍路はしばしば人生そのものにたとえられます。
そのとおりだと歩いていて感じました。
巡礼と遍路でどんなことが起こり、そこでなにを感じ、どんなことを学んだのか。
それは現代を生きる上でどのような意味や価値を持つのか、生かせるのか。
巡礼も遍路も素晴らしい体験でしたが、その体験を実際に生かすことが残りの人生の課題だと思っています。
それを「日常の巡礼化」と名づけました。
今回は、そんなわけで、改めて日常の生き方に、静かに思いをはせ、心おだやかになれるサロンです。
巡礼に出かける暇がない人は、鈴木さんの巡礼気分のおすそわけで、ぜひ心をほっこりさせてください。
〇日時:2018年3月2日(金曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「サンティアゴ巡礼・四国遍路からたどりついた日常生活の巡礼化」
〇会費:500円(机の上の缶にいれてください)
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「釣りにでも出かけるとするか」(2018年2月14日)
以前、「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」(渡辺惣樹 草思社)のことを書いたことがあります。
これは渡辺さんが翻訳した、ハーバート・フーバーの「裏切られた自由」の紹介書なので、まあこれを読めばフーバーの原書は読まないでいいと思っていました。
なにしろものすごい厚い上下本なのです。
ところが先日会った友人から、面白いと勧められました。
それで図書館から借りてきて読んでみました。
思った以上に読みやすく、たしかに面白い。
本書は、第二次世界大戦前にルーズベルト大統領に反対して、戦争回避に向かっていたフーバー元大統領が、ライフワークとしてさまざまな資料を集め、整理した大事業の成果です。
結局、フーバーは出版せず、死後も遺族が出版を止めていました。
それが状況の変化の中で、2011年に出版されたのです。
編者は歴史家のジョージ・H・ナッシュ。
最近もトランプ大統領批判で活躍しています。
そのナッシュが本書の冒頭に「編者序文」を書いていますが、これだけでもなんとA5版ぎしっしりの130頁もあり、一冊の本になります。
タイトルは「ハーバート・フーバーのミステリアスな「大事業」」。
これだけでも読む価値があります。
そこに私がとても気にいった言葉が出てきました。
それが今回のタイトルの「釣りにでも出かけるとするか」。
フーバーは対抗馬の妨害にあい、共和党予備選大会に敗れて、大統領への復活はなくなったのですが、大会を終えたフーバーは、「釣りにでも出かけるとするか。政治のことは忘れたい」と、記者に語ったそうです。
時代を憂いて誠実に活動してきた結果の言葉として、とても共感できます。
しかし、フーバーは、釣りには行けませんでした。
ヒトラーが、西ヨーロッパへの侵攻を開始したからです。
フーバーは、日米開戦に関しても、スターリンの戦略に関しても、いまから考えると時代が見えていたと思います。
だからこそ、釣りには行けなかったのです。
もしフーバーが大統領に戻ってきたら、世界の歴史は全く変わってきていたように思います。
そして今、私たちは、そういう大きな転換点に立ってる。
フーバーのような全体を見ている人がいないのが残念です。
政治への無関心の代償の大きさを忘れてはいけません。
1月にキックオフした「茶色の朝」サロンのを3月からスタートさせたいと思います。
周りで起こっている気になる動きを、気楽に話し合うサロンです。
日程が決まったらまた案内します。
■「与えられた権威」よりも自分の権威を大切にしたい(2018年2月15日)
テレビはオリンピックで占拠されてしまいました。
私はオリンピックには大きな違和感を持っているので、興味は全くありません。
どうしてもそこに、ローマ時代のサーカスを感ずるのです。
もちろん東京オリンピックにも反対ですし、自分の税金がそれに使われることもあまり気分がよくありません。
福島の被災者たちのためにであれば、喜んで税金も収めたいですが、最近は納税のモチベーションはあがりません。
そんな中で、先日、ミシュランの認定を辞退するお寿司屋さんの報道に接しました。
フランスではそういう動きがあるのは前に聞いたことがありますが、日本でもあることを知って、ちょっとうれしくなりました。
そういう動きに対する、ミシュラン側のコメントには、驚くものがありますが、ミシュランは完全にお金の亡者になっているとしか思えません。
ミシュランの星を信仰するお店も、きっと味よりもお金なのではないかと思ってしまいます。
そもそも「評価」するなどと言う発想が、私には違和感がありますが。
評価するのであれば、利用者が中心になって多様な評価をするのがいいでしょう。
星いくつなどという評価は単一尺度での方向付けでしかありません。
よほど想像力のない人の発想だとしか思えません。
それにまたそれを大事にしているお店や施設、さらには利用者がいるというのも、実に情けない。
彼らもよほど、味音痴なのでしょう。
同情するしかありません。
それにしてもどうしてみんな「与えられた権威」をほしがるのでしょうか。
権威は与えられるものではなく、自然に生まれるものではないかと思いますが、いかにも安直な「権威」がはやっています。
私はどちらかといえば、「つくられた権威」には反発するタイプで、ミシュランの5つ星などと言われても、「それがどうした」と思うのですが、多くの人はそれでおしく感じられるのでしょうか。
幸せといえば、幸せなことです。
もっとも、こう言っているものの、私自身も、ついふらふらと権威に吸い寄せられることがあります。
困ったものです。
もっと自分をしっかりと生きたいと、改めてそのお寿司屋さんの話を聞いて思いました。
そのお店に行ってみたい気もしますが、私の経済力ではちょっと無理そうなのでやめました。
■「それがどうしたのか」(2018年2月15日)
前の時評編の記事で、「それがどうした」という言葉を使いました。
それで思い出したのが、前に読んだ、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本主義」の序章に出てきた文章です。
「問題を問題として記述している人に対して、分析するなら同時に解決策も示せと迫るのは間違いだと考えている。(中略)その解決策が見つからない、あるいは少なくとも、今ここで実現できるような解決策が見あたらないということは十分に起こりうる。では、いったい『前向きなもの』はどこにあるのかと、非難をこめて問う声があるかもしれない。その時こそ、アドルノならば、こんな意味のことを言ったにちがいない。前向きなものがまったくないからといって、それがどうかしたのか、と」。
日本の政治に関して、野党は批判ばかりして代案がないという人がいます。
私は、誠実な批判は、それこそが代案だと思っていますので、この種の意見こそが「前向きでない非難」だと思っています。
しかし、「それがどうかしたのか」というのは、私にはとても気にいっている言葉です。
そう言い切れる生き方をしたいと、常々思っています。
念のために言えば、私は「批判」(私自身への批判ももちろん含めて)は好みますが、「非難」は好きではありません。
批判は前向き、非難は後ろ向きだからです。
私のブログも、時に「批判」でない「非難」になっていることが少なくありません。
最近は減っていると思っていますが、まだまだ文章力がありません。
もし誰かを「非難」しているような表現があれば、それは私の未熟さの故です。
まあ、時に意識的に、「非難」してしまうこともないわけではないのですが。
まだまだ未熟さは克服できません。
たぶん最後までそうでしょう。
困ったものです。
はい。
■カフェサロン「半農生活と自分自身の人生経営計画」報告(2018年2月15日)
「都会人の暮らし+農業=半農半X」の生活を実践している菜園クラブの増山博康さん(野菜栽培のレッスンプロ)のサロンは、10人になりました。
参加者のほとんどは、農業にすでに関わりだしているか、関わりたいと思っている人でした。
増山さんご自身のライフストーリーから始まりました。
それが何しろいろいろですので、前半はいささか話がとっ散らかってしまい、農業につながっているようでつながっていない気もして、企画役としてはひやひやしましたが、後からそれが農業と関わる生き方なのだと、気がつきました。
翌日、参加者のひとりから、「農の話はおもしろい、とあらためて実感した2時間半でした」とメールが届きました。
自分の不明さを反省しました。
さて何を報告すればいいか、今回は悩みます。
農業政策や農地政策の話から、農家の人と付き合いの入り口は一升酒という話まで、ともかく広いのです。
専業農家と兼業農家、焼き畑の話。
マリアさんのような購買者の話。
産業としての農業と生業としての農業の話。
さらには種子の話や遺伝子組み換えの話まで出ました。
いやいやもっとめちゃくちゃなほど広がっていたような気もします。
そういえば、なぜか盛んに障害者の話が出てきて、青い芝の会の話まで出ました。
増山さんは、若いころ、そういう分野でもいろいろと活動していたからですが、農福連携という動きが広がっているように、農業は障害者問題と親和性が高いように思います。
増山さんは、「野菜をつくる」「野菜を購入する」「両者をつなぐ」という活動をしていますが、その3つの局面で、いろんな人と会い、いろんな体験をしています。
それは同時に、人の生き方や社会のあり方へのとても刺激的な示唆を与えてくれます。
増山さん自身は、そのど真ん中で、それらを一体として人生していますので、言葉で整理して伝えようとすると増山さんの意図とは違ったようなものになると思いますので、やめます。
増山さんの活動やお考えは、増山さんのホームページにとてもていねいに書かれていますので、それをお読みください。
http://www.saienclub.com/
一言だけ言えば、増山さんは全国に菜園コーディネーターを増やしていって、社会を豊かにしていきたいのです。
豊かといっても、金銭経済的な豊かさではありません。
増山さんのように、いつもにこにこして、明るい人生を広げたいのです。
ちなみに、増山さんは、「半農生活を始めよう」という本を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#090920
この本もとてもわかりやすい本です。
増山さんは、野菜栽培の基礎を学ぶ理論セミナーと実習。さらには、農地の確保や農園運営などを応援する活動をされています。
菜園起業サロンもやっています。
関心のある人は、ぜひ増山さんのサイトを見て、増山さんにアクセスしてみてください。
増山さんも言っていましたが、ともかく体験が一番なのです。
農業関係のサロンは、農福連携の動きが広がる前は定期的にやっていましたが、最近は途絶えていました。
どなたかサロンをやってもらえれば、企画します。
よろしくお願いします。
■3月縁カフェのご案内(2018年2月18日)
2月から月1回開店することにした縁紡ぎカフェですが、名前を単に「縁カフェ」にしました。
たぶん名称はこれからどんどん変わっていきそうですが。
それと毎月最初の水曜日と考えていましたが、これも最初の月曜日にしました。
また開店時間を12時から4時にしました。
ほかは変わりません。
主旨などは前回の案内をご覧ください。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#1802071
〔ご案内〕
○日時:2018年3月5日12〜16時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
■第2回リンカーンクラブ学習型サロンのご案内(2018年2月19日)
延期になっていた、『無党派市民の究極的民主主義宣言』をテキストにした、学習型話し合いサロン(第2回目)のご案内です。
今回は、前回の概論を受けて、究極的民主主義を実現するための選挙制度を中心に、『無党派市民の究極的民主主義宣言』(ビジネス社)第3部を話し合う予定です。
最初に前回の簡単な復習をしてから、武田さんから究極的民主主義型の選挙制度(国民主権の行使システム)を説明してもらい、それを受けて議論を深めたいと思います。
該当部分をPDFにして、次のサイトにおいていますので、参加される方はダウンロードしてプリントアウトしてください(技術不足でひっくり返ってしまいました)。
http://cws.c.ooco.jp/TEXT31.pdf
学習型ではありますが、みんなで学び合うというスタイルですので、気楽にご参加ください。
みなさんの参加をお待ちします。
●日時:2018年3月10日(土曜日)午後2時〜4時
●場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
●会費:500円
●テーマ:「国民主権を実現する選挙制度」
『無党派市民の究極的民主主義宣言』第3部第1〜3章
●申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)
■カフェサロン「改めて協同組合について考えてみよう」のご案内(2018年2月21日)
久しぶりに「協同組合」をテーマにしたサロンを開催します。
私は30年前に会社を辞めた時に、これからは改めて企業は協同組合制度から学ぶことになるだろうと思っていました。
その後、ワーカーズコレクティブや高齢者協同組合など、いろいろな動きが広がりましたし、法制化の動きも起こりました。
しかし残念ながら、いまのところ大きな流れにはなってきていません。
「働き方改革」が話題になっていますが、その視点からも、協同組合から学ぶことはたくさんあるはずです。
そんなことで、久しぶりに、協同組合をテーマにしたサロンを開催することにしました。
話題提供者は、世界の農業協同組合や漁業協同組合に造詣の深い、田中文章さんにお願いしました。
テーマは「改めて協同組合について考えてみよう」。
最初に田中さんの「協同組合」論を少しお話しいただいたうえで、そこから私たちが学ぶべきことやこれからの協同組合の展望などを問題提起していただき、それを踏まえていつものように、参加者みんなで話し合いができればと思います。
たぶん企業にとってもNPOにとっても、あるいは個人にとっても、たくさんのヒントがあると思います。
協同組合運動や賀川豊彦の研究者でもある青山学院大学教授だった本間照光さんにも参加していただく予定です。
いつもとはちょっと開催時間が違いますが、ぜひ多くのみなさんの参加をお待ちしています。
○日時:2018年3月14日(水曜日)午後3〜5時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:協同組合活動の歴史と現在から学ぶこと
○話題提供者:田中文章さん(中小企業基盤整備機構経営支援専門員)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■リンカーンクラブ研究会がスタートしました(2018年2月23日)
日本の現実をもっと民主主義に近づけていこうという活動に取り組んでいるリンカーンクラブでは、目指すべき国家像、国家体制を議論していく研究会を立ち上げることになり、今日はそのプレミーティングでした。
月に1回、平日の午後に開催する予定です。
いずれも一家言持っているメンバーが集まったため、なかなか議論に入れないので、昔ながらのKJ法的アプローチで、みんなの関心事を整理しました。
次回から具体的な議論に入っていきますが、最初のテーマは「平和」が選ばれました。
国家は戦争をしていいのかというところから議論することになりました。
たぶん9条問題や自衛隊の位置付け、さらには米軍基地の問題などが話題になるでしょう。
ちなみに、戦争放棄は日本だけだと思っている人が多いですが、そんなことはありません。
1928年の不戦条約で戦争はそもそも禁止されていますし、国連憲章2条4項には、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と明記されています。
軍隊のない国などたくさんあります。
「国連憲章2条4項を、国内法でも裏書きしているのが、9条1項だと考えるべきだ」という人もいます(篠田英朗さん「ほんとうの憲法」ちくま新書)。
それはそれとして、しかし相変わらず、「戦争ができる普通の国家になろう」などという言葉が広く受け入れられているいまの状況を考えれば、このテーマから入ることで、国家のあり方が見えてくるかもしれません。
研究会にご関心のある方はご連絡ください。
研究会の成果は、11月に予定しているリンカーンクラブ年次大会で何らかの形で発表できればと思っています。
■コムケアサロン「成年後見制度ってご存知ですか」報告(2018年2月28日)
成年後見制度をテーマにしたサロンには15人の参加者がありました。
最初に、広い視点で成年後見制度にも関わっている、一般社団法人コレカラ・サポートの千葉晃一さんに、制度の概略などのお話をいただき、そこから参加者から出された事例なども含めて、いろんな視点から話し合いが行われました。
http://www.koresapo.com/
千葉さんの話が終わった後、最初に私から問題提起的な質問をさせてもらいました。
この制度は、誰のためにあるのか、そして対象となる人の判断能力の評価は誰がするのか。
制度ができて良かったことと悪かったことは何か。
もちろん建前は、「判断能力が不十分となった成年者のための財産保護と生活支援」となっていますが、今ある制度を受け身的に理解し、利用の方法を考えるだけではなく、制度の利用状況やそこから生ずる問題点などを知ることで、形だけではない福祉のあり方や私たちの生き方を問い直そうというのが、コムケアサロンの目指していることです。
そこであえて、そういう問題提起をさせてもらいました。
参加者の中には、後見人を実際にやっている人や制度利用者の方もいらっしゃいましたし、制度利用を考えている人やまだ関心を持っているだけの人など、いろいろでした。
そうしたいろいろな立場の人が、話し合うのが湯島のサロンの大きな意味です。
千葉さんのお話によれば、成年後見制度を必要とする人は約800万人に対して、現在の利用者累計は18万人(わずか3%弱程度)だそうです。
これは、制度設計に問題があるのか、制度の理解が進んでいないのかいずれかだと思いますが、そのために成年後見制度を利用したことで、逆に問題を抱え込んでしまった人の話も少なくありません。
そうした状況を変えていくには、予備的にこの制度のことを理解するとともに、利用者側からの不備の点を変えるように働きかけていくことが必要です。
そうした動きはないわけではないでしょうが、なにしろこの制度の「受益者」は「判断能力が不十分となった成年者」ですから、問題は悩ましいわけです。
ここに、この制度設計の根本的な問題があるように私には思いますが、しかしすでに制度ができているのですから、それを効果的に活かしていくと同時に、「当事者視点」で不都合なことは問題として顕在化していかなければいけません。
それに、可能性としては誰もが「当事者」や「関係者」になり得ることですから、誰も関係がないとは言えません。
弱い立場の人たちを守る制度が、注意しないと、かつての精神病院制度のように、弱い人たちの人権が損なわれることにもなりかねませんし、さらには、生活支援のための手段だった財産管理が目的になってしまい、生活は二の次というような本末転倒も起こらないとは限りません。
もっと言えば、この制度は、家族のあり方にも大きく関わってきます。
そうしたさまざまな「落とし穴」があるような気がします。
もちろんこの制度で救われた人は少なくないでしょう。
しかしどんな制度も、当事者が効果的に活用して、はじめて生きてきます。
そして、当事者が制度改善に取り組んでこそ、制度は生きたものになっていきます。
その意味では、この制度はまだ「当事者からは遠いところ」に置かれているなというのが、私の今回の感想です。
千葉さんは、救急車なら、どういう時にどうしたらいいかが、誰にも伝わっているが、この制度に関してはそれが難しく、たとえば制度の解説パンフレットなども、制度運営者側の視点が強いために、なかなか社会に浸透しないと話されました。
そういう利用者視点での制度活用の仕組みや場をもっと増やしていくことが大切かもしれません。
ちなみに、コムケアの仲間でもあるNPO法人ユニバーサル・ケアの内藤さんたちは、「市民後見センターきょうと」を運営して、そういう活動に取り組んでいます。
http://www.kyoto-koken.net/about/
今回も、そこで制作した制度案内の小冊子を活用させてもらいました。
内藤さん、ありがとうございました。
いつも以上に主観的な報告になってしまいました。
サロンでは、実際には具体的な体験や事例の紹介やこの制度の活用の仕方などが話されましたが、それを報告するわけにはいきませんし。
千葉さんは、「成年後見制度の利用ありき」ではなく、当事者や関係者の立場に立って、生活支援に取り組まれている方ですが、内藤さんや千葉さんのような人たちが増えていくことが、一番求められているのかもしれません。
なお、成年後見制度に関しては、みなさんからの要望が集まれば、また情報交換や体験交流会のようなものを企画したいと思っていますので、ご要望のある方はご連絡ください。
コムケア活動を始めた時の「大きな福祉」の理念や共創型の相互支援の輪づくりの大切さを改めて思い出したサロンになりました。
千葉さん、そして参加されたみなさん、ありがとうございました。
■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」へのお誘い(2018年3月13日)
1月に2回にわたり「茶色の朝」オープニングサロンを行いました。
「茶色の朝」は、フランスで話題になった本で、社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話です。
短い寓話で、日本でも翻訳されていますし、またネットでも全文が公開されていて、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
オープニングサロンでは、その本を読んでの感想を言い合いましたが、これからは、私たちのまわりにある、「ちょっと気になっていること」を話し合うサロンとして継続的に開催していきます。
そうした話し合いの中から、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けて、それぞれができることを考えていければと思います。
政治の捉え方はいろいろありますが、みんなが暮らしやすい社会を実現することが大きな目的ではないかと思います。
となれば、政治は私たちの生活に深くつながっています。
私たちの暮らしの基盤である社会を方向づける上で、政治の働きはとても大きいです。
にもかかわらず、「政治」にはあまり関わりたくないと思っている人も少なくありません。
現在の政治についての話し合いさえしたがらない傾向があります。
しかし、消費税も憲法改正も、社会保障も教育行政も、私たちの生活に深くつながっています。
生活者である私たち自身が、しっかりと関心を持ち、意見を表明していくことは、政治をよくしていく上でとても大切なことです。
個別の政治課題に関してデモに参加したり、選挙に立候補することだけが「政治活動」ではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
それも大切な「政治活動」です。
肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるような、そんなサロンを目指したいと思います。
憲法改正とかTPPとかを話し合うのは難しいかもしれませんが、生活の視点で、ちょっとおかしいと思ったり、ちょっと気になる話をするのであれば、誰でもできるはずです。
その先に、もしかしたら、憲法の問題や原発の問題があるかもしれません。
「ちょっと気になること」は、何でもいいと思います。
たとえば、私は、電車の中でスマホをやっている人の多さが気になっています。
ATMで用を済ませてから外に待っている人に「お待たせしました」と言っても、だれからも返事が返ってこないこともさびしいです。
最近で言えば、テレビがオリンピックばかり放映されているのが気になります。
これはあくまでも私のことですが、人によって「気になることは違うでしょう。
そんなことをお互いに話し合ってみたいと思います。
ぜひ多くの人に参加していただければと思っています。
○日時:2018年3月24日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合う
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■理性の公的な利用と私的な利用(2018年3月14日)
以前、まだブログをやっていなかった頃ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。
公文書改ざん犯罪事件の報道に触れて、その2回目で書いた記事を思い出しました。
○メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2
私は、日本の政治が大きく変質したのは、森内閣成立時だったと思っていますが(当時はまだ私のホームページもなかったので、メールで発信しただけですが)、小泉内閣になって、完全に政治は変質してしまったと思っていました。
以来、私の懸念した方向にどんどんと進んでいます。
今回の事件は実に世相を反映した事件です。
それにしても、残念なのは、官僚の人たちがなぜ声をあげないのか、ということです。
イマヌエル・カントの「啓蒙とは何か」にこういう記述があります。
ちょっと長いですが、引用します。
一部、変更や削除などしています。
◇理性の公的な利用と私的な利用
人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。
理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。
公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。
しかしこうしたマシン(機構)に所属する人でも、みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的にふるまうように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。
財務省の官僚たちには、これ以上、自殺したり犯罪者になってほしくはありません。
間違ったルールの呪縛から、ぜひ解放されてほしいです。
ちなみに私は学生の頃からずっと、日本社会では「公」と「私」の捉え方が、逆ではないかと思っています。
改めてまた、アレントを読みたくなりました。
■カフェサロン「改めて協同組合について考えてみよう」報告(2018年3月14日)
「協同組合」をテーマにしたサロンは、共済懇話会のみなさんもかなり参加された結果、大人数のサロンになりました。
企業関係者の参加が少なかったのが残念でしたが、改めてこれからの企業経営へのヒントがたくさんあることを実感しました。
また、支え合う人のつながりづくりに取り組んでいる人たちも何人か参加されましたが、NPOの人たちにもとても参考になる話だったと思います。
終わった後、複数の方から、挑戦すべき課題が見つかったと言われたのが印象的でした。
田中さんは、世界各地の協同組合の視察調査なども踏まえて、なぜ協同組合が生まれてきたのかという話から始まり、現在の社会においての意義、そして協同組合の5つの類型とその実践活動、さらにはこれからの期待をていねいに解きほぐしてくれました。
その話をきちんとまとめたら、たぶん現在、市販されている多くの協同組合の本よりも、ずっと協同組合への理解が深まり、その価値が伝わってくると思います。
そんな気がしながら、お話を聞いていましたが、録画しなかったのが実に残念です。
田中さんは、最初に、カナダ・デジャルダン博物館で配布されている小学生向けの信用組合歴史解説本の1ページを見せてくれました。
そこに、子どもたちに向けて書かれた「なぜ協同組合は必要なのか」の漫画があります。
添付しましたので、ちょっと読みにくいかもしれませんが、ご覧ください。
ここに協同組合思想の本質が読み取れると思います。
つづいて、別の言葉で、協同組合の存在意義を3つに整理してくれました。
「生活防衛システム」「人の集まり」「地域経済の自立」です。
第一の生活防衛システムですが、そもそも協同組合の始まりは「貧困からの脱却」でした。
社会福祉政策に依存するのではなく、まずは自らで「支え合いの関係」を育てることは、人類の知恵でした。
最近の私たちがともすると忘れがちな視点です。
改めてそのことを思い出すことが大切です。
2つ目の「人の集まり」は、同じ組織でも、企業と違うところです。
企業(経済組織)は本来的には「金の集まり」ですから(人は雇われているだけです)、企業買収などで、あるときその組織の主役が突然に変わることがありますが、協同組合(社会組織)は人が主役ですから、そんなことは起こりません。
雇用労働と協同労働の違いは、まさに「働き方」を考える上で大きな違いを引き起こします。
ここにもこれからの企業経営や「働き方」を考える大きなヒントがあります。
「地域経済の自立」は、昨今のグローバル経済化の動きのなかで、ますます重要な意味を持ちはじめていると思います。
エネルギー関係の協同組合の話も出ましたが、さまざまな意味で、いまの経済の枠組みへの発想転換の可能性を持っているように思います。
以上は、田中さんの冒頭の話ですが、こんな感じで紹介していくときりがないので、後は省略して、話し合いの一部を紹介します。
文化活動分野での協同組合へも質問が出ました。
いまはまだこの分野は、あまりないようですが、経済自体が変質していく中で、これからの課題かもしれません。
これまでの協同組合は、その重点は「生活防衛」にありましたが、むしろこれからは異質な知恵の組み合わせによる「価値創造」という、新しい意味が生まれてくるかもしれません。
もちろんすでに、そうしたネットワーク組織はありますが、協同組合思想との組み合わせが、新しい価値を生み出すかもしれません。
私は、生活防衛を超えた、もっと積極的で創造的な意義が、協同組合思想には含まれていると思っています。
今回は、田中さんが農業関係の組織にいたこともあって、日本の農協のモデルにもなったドイツのライファイゼン系の協同組合を中心に話してもらいましたが、ライファイゼンの核になったのは信用事業(共済事業)です。
当時広がりだしていた貨幣経済に対する対抗力としての動きだったわけですが、その点を議論していくと、もしかしたら現在の日本の共同力の混迷と可能性が見えてくるかもしれませんが、今回はそこまでの議論にはなりませんでした。
昨今の実体経済から金融経済へと経済が変質しつつある中で、貨幣経済とは何かを問い直すヒントも、協同組合の歴史の中に含意されていると思います。
日本にも、結や講などの「支え合いの仕組み」があったのに、なぜ大きく発展しなかったのかという話も出ましたが、たぶんそれともつながっているはずです。
日本の農協は、歴史的な経緯から、産業支援システムと協同組合という2つの異質な要素を持っています。
このいささか矛盾する2つの予想を包含していることに、これからの協同組合の困難さと同時に可能性を私は感じます。
これは、時間切れで議論できませんでしたが、もしかしたら協同組合の本質につながっている問題かもしれません。
協同組合の理念に関連して、賀川豊彦の話も出ました。
日本ではまだ成立していない協同組合基本法の話も出ました。
共済と協同組合の関係も、大きなテーマです。
採りあげたいテーマがたくさんありましたので、引き続き、このテーマのサロンを時々開催したいと思います。
なお、協同組合に関して、総論的な入門書として2冊の本を紹介しておきます。
「協同組合の源流と未来」(岩波書店)
「協同組合は未来の創造者になれるか」(家の光協会)
私は30年前に会社を辞めました。
その頃、雇用労働と株式会社から、協同労働と協同組合へと、経済の軸が変化していくだろうと思っていました。
そうはなりませんでしたが、その時の思いは間違っていなかったと改めて思いました。
ただ、時間はまだだいぶ先のようですので、自分では確認できそうもありませんが。
■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」のご案内(2018年3月17日)
今回は、ちょっと変わったサロンを企画しました。
私は、できるだけお金に縛られない生き方を目指しています。
そもそもみんながこんなにもお金に呪縛されるようになったのは、たかだかこの50年くらいのことでしょう。
いや、いまでもお金に縛られずに、豊かに生きている人はいないわけではありません。
たとえば、私の幼なじみの金子友子さんは、その一人です。
彼女は学校を卒業後、アナウンサーになって活躍していましたが、ある時、私には突然だったのですが、農家に嫁いだのです。
埼玉県小川町にある霜里農場。
有機農業のメッカと言われたところです。
もちろん今もその界隈には、霜里農場の金子夫妻のもとで育った有機農業に取り組む人たちがたくさん住んでいます。
霜里農場の農場主は金子美登さんです。
テレビや新聞などでも紹介されたこともありますので、ご存知の方も多いでしょう。
友子さんは、そのパートナーです。
2人の出会いや霜里農場のことは、次の記事をお読みください。
http://soratsuchi.com/owada/2009/12/39.html
結婚式に来たのは、有吉佐和子さんや市川房江さん。
それで2人がどんな生き方をしていたかはおわかりでしょう。
金子さんは、キューバの有機農業にも詳しいですが、今回はその話ではありません。
金子友子さんの生き方がテーマです。
たとえば、こんな話です。
金子友子さんは、農場でできた野菜を時々、東京のお客様に届けていました。
私は最初、買ってくださった方への宅配かと思っていましたが、そうではありませんでした。
野菜を届け、お茶をご馳走になる。
帰り際にお客様はお礼をくださる。
お金の時もあれば、そうでない時もあるようです。
私が理想とする「物々交換」あるいは「売買」ではなく「感謝のやり取り」です。
その話を聞いて、私は感激しました。
すべてがそういうわけではないでしょうが、友子さんの行動はお金には縛られていないのです。
まさに私が理想と考えている「百姓的生き方」です。
といっても、友子さんがお金を否定しているわけではありません。
私は先日、霜里農場に行ったついでに、熊谷市でお昼をご馳走になりました。
そのお店にも、友子さんは段ボール箱いっぱいの野菜を持参していきました。
もちろん買ってもらったわけではなく、ただただ持っていっただけでしょう。
そのお店のオーナーは、友子さんの友人なのです。
そこでランチをしましたが、その代金は友子さんが払いました。
いまはあなた(私のことです)よりも私が少しだけ「小金持ち」だろうからと言って、その日はすべて彼女がご馳走してくれました。
お金は余裕のある人が出せばいい。
ちなみに料理をテーブルに持ってきてくれたお店の人にも自家作の絶品のイチゴを差し上げていました。
そうしたらお店のオーナーが、コーヒーをサービスしてくれました。
お金のやり取りはあるのですが、心のやりとりもあるわけです。
しかもお店で、です。
まあ今回は、そんな話も含めて、金子友子さんの生き方を話してもらおうと思います。
どんなサロンになるかまったく見当もつきません。
しかし、それもまたサロンの魅力の一つです。
生き方を考えなおす機会になるかもしれません。
よかったらご参加ください。
〇日時:2018年3月31日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:金子友子さん(霜里農場)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「現代こそドラッカーに学び、人を活かす経営を考える」の報告(2018年3月19日)
ジャズミュージシャンにして経営コンサルタントの村瀬弘介さんの「ドラッカー」をテーマにしたサロンは、「インテグリティ」という言葉から始まりました。
ドラッカーを理解するキーワードは「インテグリティ」だというのです。
インテグリティを、「真摯さ」と訳し、それには「対象に対する真摯さ」と「自分に対する真摯さ」があると説明したあと、人間として正しいかどうかが大切だという話をされました。
こういう話で、村瀬さんのドラッカー経営論は始まりました。
村瀬さんの経営論の基本には、「人間の尊厳」が置かれています。
企業関係者も多かったのですが、多分こういう形でドラッカーの話を聞いた人は少ないと思います。
なぜ「インテグリティ」なのか。
村瀬さんは、ドラッカーがナチスドイツによるホロコーストを体験したことにも言及しました。
ドラッカーが「経済」や「経営」をどう位置付けていたかの話もされました。
そして村瀬さんがたどりついた「経営観」は、「経営とは、人間が幸せになるすべてである。人の尊厳を実現するものである。経営で成果を上げるとは人間が幸せになることである」というものです。
私は寡聞にして、ドラッカーをこういう視点でしっかりととらえた経営学者や経営コンサルタントにこれまで会ったことがありません。
もし一人でもお会いでできていたら、私のドラッカー観は変わっていたはずです。
私がドラッカー経営論に否定的なのは、「経営は顧客の創造」だと紹介されてしまったことです。
経営は、「価値の創造」であって、「顧客の創造」であってはなりません。
人を「顧客」ととらえるところには、「人間の尊厳」の発想はありません。
私も、会社時代に経営について少しは考えてきましたが、そこで大切にしたのは、「人間の尊厳」と「価値の創造」でした。
そしてそれを私が所属していた企業の経営の理念にするプロジェクトに取り組み、その結果として私は人生を変えてしまいました。
ですから今回の村瀬さんの話には、心底嬉しさを感じました。
ドラッカーの思想の起点は「人間の尊厳」です。
ようやくほんとうのドラッカーに出会えた気がしました。
村瀬さんは、ドラッカーは「資本主義のための経済ではなく、自由民主主義のための経済」を目指していたと言います。
そういう意味での経済(経世済民)がうまく行けば、カリスマも出てこないし、ホロコーストも起きないとドラッカーは考えていたのではないか、と言います。
同感です。
ドラッカーの最初の著作は、「経済人の終わり−新全体主義の研究」です。
ぜひ読んでほしい本の一つです。
その延長で、ドラッカーの著作を読めば、違った受け止め方ができるはずですから。
村瀬さんはリーダーシップにも言及しました。
リーダーシップとは「責任」であるというのです。
これも含蓄に富む言葉です。
ちょっとした言葉の言い換えではないかと思うかもしれませんが、私には視点が全く違う、新しい経営論のように感じます。
つまり、組織の視点からではなく人間の視点から経営が考えられている。
今の日本の企業に一番欠けている視点です。
「経営」とはそもそも企業の世界だけの話ではありません。
NPOにおいても行政においても、地域社会においても、さらには人生においても大切なことです。
経営とは技術の話ではありません。思想の話なのです。
村瀬さんの経営論を、ぜひいろんな分野の人に聞いてほしいと思います。
ちなみに湯島では、以前、NPOとドラッカーと言う視点で、市民性や社会性をテーマに、『ドラッカー 2020年の日本人への「預言」』の著者の田中弥生さんにサロンをやってもらいました。
「市民性」「社会性」も今回少し話題になりましたが、改めて考えたいと思います。
村瀬さんは、ジャズミュージシャンです。
ご自分でも話されましたが、論理ではなく感性で受けとめるタイプです。
ある時にドラッカーを読んで涙が出てしまった。
それがドラッカーを語りだした出発点だそうですが、村瀬さんの話には魂を感じました。
村瀬さんの話の入り口だけの紹介になりましたが、村瀬さんが話してくれた話は、先月出版された村瀬さんの『ドラッカーが教えてくれる 人を活かす経営7つの原則』(産業能率大学出版部)をぜひ読んでください。
http://jlom.xsrv.jp/cs2/44/
また次のサイトで村瀬さんの話に触れられます。
ドラッカー講義動画集『感動から分かる ドラッカー経営』
http://jlom.xsrv.jp/cs2/25/
ついでに村瀬さんの音楽もどうぞ。
https://www.youtube.com/channel/UCOtRQ7cRiznIUxNtsGcl6rg
村瀬さんはいろんな所で講演活動もしていますので、ぜひどこかで村瀬さんの魂に触れてみてください。
■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」のご案内(2018年3月20日)
3月31日のサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」とは真逆のようなテーマのサロンを開催します。
テーマは、「社会インフラとしてのお金」です。
「お金」をどう捉えるかは難しい問題ですが、今回のテーマは「貨幣」です。
よく言われているように、「貨幣」はその時代時代の先進技術が凝縮されているものです。
自然貨幣から貴金属貨幣、鋳造貨幣へ、最近は紙幣、それも信用のネットワークに支えられた不換紙幣へと変わってきていますが、さらにデジタル通貨が話題になってきています。
また金融工学から生み出された信用保証システムの発展も目覚ましいものがあり、通貨システムと他の領域のつながりも現実なものになってきています。
ビットコインのように、投機メディアになってしまったものもありますが、社会共通資本的な要素をもっているものもないわけではありません。
経済そのものが変質しつつあるなかで、この分野のことをきちんと知っておかないといつトラブルに合うかもしれません。
そこで、今回は、こういう分野で活動されている渡辺さんにお話をお聴きすることにしました。
ちなみに、私が渡辺さんと直接知り合ったのは今週です。
私がこの種の話にはきわめて否定的であることも、渡辺さんには伝えています。
ですからどういうサロンになるかはまったくわかりませんが、頼まれると断れないのが私の性格なのと、私が反対のテーマでもサロンをやりたい人がいたら、場を提供するのも湯島の方針の一つなのです。
そんなわけで、下記の通り、仮想通貨や金融経済のサロンを開きます。
ご関心のある方はご参加ください。
○日時:2018年4月12日(木曜日)午後7〜9時(6時半開場)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」
○渡辺忠和(スピリチュアル&心理カウンセラー)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年3月21日)
2月に、「なぜ生きるのか」をテーマにしたコムケアサロンを開催しました。
予想していたよりも、いろんな人が集まりました。
そして、またやってほしいという要望もいただきました。
あまりにも、そのままのテーマなので、躊躇したのですが、複数の方からの要請なので、また開催することにしました。
前回同様、「なぜ生きるのか」を踏まえて、「生きる力を高める場」にできればと思います。
「重い」テーマであればこそ、「明るく」「気楽」に話し合うのが、湯島の精神ですので。
いつもより早い時間から始めますが、いつものように出入り自由ですので、途中からの参加も、途中での退出も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。
○日時:2018年4月2日(水曜日)午後6時〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/どうしたら生きる力を高められるか」
○会費:500円
■「隠れ病む身」を支えることの大切さ(2018年3月21日)
日曜日に放映されたEテレ「こころの時代」を今日、改めて見ました。
小浜市明通寺の中嶌哲演住職の「隠れ病む人々と歩む」です。
明通寺には2度ほど行ったことがありますが、そこのご住職が長年托鉢をしながら『鈴音』という手作り通信で、社会に呼びかけていたことは知りませんでした。
「隠れ病む人々」とは、広島や長崎で被爆した後、自らを「隠れ病む身」と呼び、世間の目から逃れるように故郷に帰って戦後を生きて来た人々を指しますが、原発銀座とも言われる福井では、原発で事故に合い、同じように「隠れ病む身」の人がいることも知りました。
原発の事故(3・11の福島の事故ではありません)で亡くなった人の話はこれまでも聞いていましたが(公開はされていませんが)、「隠れ病む身」の人がいることを初めてテレビで知りました。
とても心に響くお話でした。
次に簡単な番組紹介があります。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-11/31/4430/2008300/
中嶌さんの話を聞きながら、私は最近の財務省や文科省の事件を思い出しました。
「隠れ病む身」の人たちを生み出しているのは、原発だけではないのでしょう。
最近の官庁や企業には、「病」が蔓延しているのかもしれません。
政治の世界もそうかもしれません。
いや、社会そのものに「病」が蔓延している。
にもかかわらず、多くの人は「隠れ病んで」いる。
前川さんのように、しっかりしたご自分をお持ちの方は「隠れる必要」も無いのでしょうが、多くの人にはそんな強さはありません。
しかし、前川さんには及びもしませんが、私も自らをしっかり生きていこうと改めて思います。
「病」は、それがどんなものであれば、隠すことはありません。
病は隠すものではなく支え合うものではないかと思います。
そして、人をつないでいく力も持っています。
官僚の皆さんには、ぜひカミングアウトしてほしいです。
それが社会の「病」をただす出発点になるでしょうから。
「病」に負けてはいけません。
「隠れ病む身」の人たちに、石を投げるのは止めたいです。
支えることこそが、社会を健やかにすることではないかと思います。
■3792:猿田彦珈琲でシャキッとしたのですが(2018年3月21日)
節子
先ほど、内容のない挽歌を書いた後、今日4杯目のコーヒーを飲みました。
先日、山城経営研究所の関係者が、私への感謝の会というのをやってくれて、コーヒーメーカーとコーヒーをプレゼントしてくれたのです。
コーヒーは評判の猿田彦珈琲。
朝も飲んだのですが、美味しいです。
コーヒーを飲んだらちょっと気分がシャキッとして、もう一つ挽歌を書く気になりました。
春の箱根に雪が降ったおかげで、今日はテレビでよく箱根が報道されています。
昨年はついに箱根には一度も行きませんでした。
この20数年、初めてのことです。
節子が元気だったころは、毎年数回、箱根に行きました。
節子が好きだったからですが、節子がいなくなってからも、年に1回は箱根に行っていました。
箱根に詰まっている想い出は、山のようにあります。
もし節子が元気だったら、今頃は湯河原に転居していたかもしれません。
もしそうなっていたら、私の生き方も大きく変わっていたでしょう。
節子の死という番狂わせのおかげで、私の生き方は一変しました。
まあ、それもまた人生です。
箱根の風景をテレビで見ていると、いろいろなことが次々と浮かんできます。
私としてはあんまり好きなことではないのですが。
想い出は、独りで思い出すのはいささか辛いものです。
やはり2人で思い出してこそ、思い出は輝いてくるのでしょう。
たくさん残っている写真も、私はほとんど見ることはありません。
コーヒーでシャキッとしたかと思ったのですが、やはりどうも元気が出ません。
お彼岸だからでしょうか。
寒い雨のせいでしょうか。
最近どうも気分が暗くてよくありません。
明日は会社時代の人たちと会うのですが、元気を回復しておきたいものです。
■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」報告(2018年3月24日)
社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話「茶色の朝」を読んでの感想を言い合うことからはじまった「茶色の朝」サロンがスタートしました。
それぞれが、生活のまわりにある「気になること」を出し合って、いまの社会のあり方や自らの生き方を、みんなでちょっと考えてみようという主旨のサロンです。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
お花見に絶好な、お出かけ日和の土曜日にもかかわらず9人の人が集まりました。
サロン初参加の方もいました。
それぞれが「ちょっと気になっていること」を話すことから始めました。
「街中でのマナーやルール−の話」「本音で話し合う場が少なくなっているようだ」「弱いものへのバッシングが多い」「なんとなく将来への不安がある」「人のつながりがよわくなっている」「マニュアル化が進んでいる」「人に声をかけることが少ない」「みんな忙しくて余裕がない」「政治につながる話は話題にしたがらない人が多い」などいろいろと出ました。
「誰かが良いことを始めるとみんなそれに従うが、その人がいなくなるとみんなまたやめてしまう」という、具体的な話も出ました。
言い換えれば、みんな「はみ出したくない」のだというわけです。
「みんなどんなことが気になっているのかが気になって参加した」という人もいました。
何か気になるが、その実体が必ずしも見えてきていないのかもしれません。
どうもみんな「モヤモヤ」している。
実はそれがこのサロンを始めた理由の一つでもあります。
一方で、高円寺駅の駅長が毎朝、乗客に挨拶しているのがうれしいというような、「ちょっといい話」も出ました。
それからみんなで自由に話しだしましたが、話題はかなり学校教育の話になりました。
子どもたちはまさに社会の鏡ですが、子どもたちの学びの場への関心がみんな高いようでした。
学校での目標は何なのか、自分をしっかりと育てることなのか、社会の中で波風立てずに自分をなくしていくことなのかというような、学校教育の本質にまでつながる話もありました。
学校の先生たちが忙しすぎて、子どもたちの学びの場を豊かにする余裕がないのではないかという話もありました。
話していて、次の社会を創っていく子どもたちの学びの場が、あまり見えていないことに改めて気づかされたような気がします。
これは改めて、サロンを企画することにしました。
沖縄や福島の話も出ましたが、現地に触れている人からは、現地の実状とマスコミ報道との違いも話題になりました。
学校現場だけではなく、私たちはまだまだ知らないことがたくさんある。
もっといろんなことを知っていくことが、社会を豊かにしていく出発点かもしれません。
ちょっと気になるどころか、大いに気になることとしては、日本の政治のリーダーが言葉を壊しているという指摘もありましたが、いろんなところで信頼が揺らぎだしている。
信頼がない世界では、やはり不安がぬぐえない。
なんとなくみんなが「不安」に陥り、モヤモヤしてしまうことの背景には、そうした「信頼関係」が失われてきている状況があるのかもしれません。
それにもつながるかたちで、「マナーとルール」について少し話し合いました。
このテーマは、改めて時間をかけて話し合いたいと思いました。
政治には「統治権力のなかでの権力闘争」と「生活をよくするための政治」とがあるように思います。
前者が政治として捉えられがちですが、本来の政治の目的は後者のためであるはずです。
そして、後者の主役は国民一人ひとりです。
政治は国会議事堂や霞が関だけにあるわけではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
「おかしいこと」があれば、「おかしい」という。
それも大切な「政治活動」です。
引き続き、肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるようなサロンをつづけたいと思います。
ちなみに、2つの政治に関して、前にブログで書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-7079.html
このサロンと並行して、日本の政治や国家のあり方をテーマにしたサロンも引き続き企画したいと思っています。
こんなテーマで話し合いたいというテーマがあればご連絡ください。
主権者である私たちの手に、政治を取り戻したいと思います。
批判するだけではなく、できることから始める行動への広がりを意識しながら。
お花見にもいかずに参加してくださったみなさんに感謝します。
このサロンの出発点になった主原さんの「モヤモヤ感」に感謝します。
少しずつ晴らしていければうれしいです。
■書籍「社会保障切り捨て日本への処方せん」のお薦め(2018年3月26日)
医療制度改革に精力的に取り組んでいる本田宏さんが、とてもわかりやすい本を書いてくれました。
「社会保障切り捨て日本への処方せん」(本田宏 自治体研究社 1100円)です。
ぜひ一人でも多くの人に読んでほしい本です。
本田さんは、情熱の人です。
いささか思いが強すぎて、話についていけない人もいないわけではありませんが、きちんとお話を聞けば、みんな共感するはずだと私は思っています。
本田さんの思いを、ぜひ多くの人に知ってほしくて、何かできることはないかと考えていたのですが、この本を広めていくことに、まずは尽力したいと思います。
本田さんは、外科医として医療に取り組むむかたわら、日本の医療制度や社会保障制度を国民の視点から改革していくための活動に取り組まれてきています。
一時期は、テレビなどでもかなり発言されていましたので、ご存知の方も少なくないと思います。
そうした活動を進めるうちに、本田さんの思いは、医療や社会保障にとどまらず、教育問題や政治問題、つまり社会そのもののあり方を変えていかなければという思いにまで広がり、還暦を契機に、社会活動に専念すべき、外科医を引退したのです。
以来、医療と日本再生のための講演や執筆などの情報発信に加えて、幅広い市民の連帯を目指して多くの市民活動への参加に全力を投じてきています。
湯島のサロンでもお話していただいていますが、もっと時間をかけて、多くの人に聞いてほしいといつも思っていました。
ですから本書が出版されたことは、とてもうれしいことです。
本書では、本田さんが伝えたいことの一部だとは思いますが、本田さんがなぜ人生を変えてまでこの活動に取り組んでいるのか、そして本田さんが一番伝えたいことは何か、がとても誠実にわかりやすく書かれています。
思いはこもっていますが、単に「思い」だけで語っているのではありません。
医療現場での体験と広い視野からのデータに基づいて、日本のどこが問題で何を変えれば医療や社会保障が充実するのかを、広い視野と深い洞察のもとに展開しているのです。
具体的な内容は、本書を読んでいただきたいのですが、本田さんが、なぜこうした活動を続けられてきたのかの理由を紹介させてもらいます。
それは、「諦めずに明らめる」ように努めてきたからだと、本田さんは言います。
そして、問題の本質を明らめるための4つの視点として、「全体像を把握せよ」「ショック・ドクトリンに騙されるな」「歴史に学べ」「 グローバルスタンダードと比較する」をあげています。
これは、最近、私たちがともすれば失いがちな姿勢ではないかと思います。
そしてそうした4つの視点を活かすためには、考える基盤になる情報がポイントになるので、情報に振り回されないメディア・リテラシーを高めなければいけないと呼びかけます。
それに関連して、本田さんは、「日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している」という、鈴木傾城さんという人のブログを紹介し、次のように書いています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。
「多くの日本人は勘違いしているが、覚えると考えるは別である」と鈴木氏は強調し、「日本では国民の8割がサラリーマンのため学校の重要な使命は上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先するように規格化すること」と日本の教育を一刀両断にしています。確かに教育こそが国家にとって都合のよい人間を生産できるシステムです。振り返れば医療費抑制の国策の結果の先進国最少の医師数の中で、家庭を犠牲にしてまで黙々と働いてきた私も、「言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」という、考えない教育の賜物だったのです。
「終わりに」で本田さんが書いていることにも心から共感しますので、これもちょっと長いですが引用させてもらいます。
政治が良くならなければ医療はもちろん社会保障や教育も良くならない、その一念で纏めたのが本書です。今後も日本を「国民第二に考える民主国家として子や孫の世代にバトンタッチできるよう、明日からも「考えて政治に関心を持つ人」を増やすことを目標に講演や市民活動に邁進したいと思います。
このメッセージを、私はしっかりと受け止めようと思います。
私も、生活とは実は政治そのもんだと思って、サロンを毎週開催しています。
本書は本田さんが続けてきている講演のエッセンスがベースになっていますので、とても読みやすいので、ぜひ読んでほしいです。
そして共感したら、まわりに人にもぜひ紹介してください。
また本田さんはいろんなところで講演もしていますので、機会があれば是非お聞きください。
本田さんは、何人か集まれば話に行ってもいいとまでおっしゃっています。
本書には出てこない、時にはちょっと滑ってしまうような、心和む楽しいジョークや横道話もたくさんあるので、書籍で読むのとは違った面白さと示唆があります。
いろんな意味で多くの人に読んでいただきたいと思っています。
■佐川元理財局長の国会証人喚問報道に感ずること(2018年3月28日)
昨日、佐川元理財局長の国会証人喚問がありました。
4時間すべてを見ましたが、あまりのひどさに驚きました。
そこで、フェイスブックに書きました。
佐川さんに同情的だったのですが、まったく期待を裏切られました。日本の官僚の誠実さはもう失われたのでしょうか。カントを読んでほしいです。
それにしても、あまりのひどさに驚きました。
官僚の言動は、私たち国民の言動を象徴しているのでしょう。
しかし、今朝の新聞やテレビを見て、佐川バッシングのすごさにまた驚きました。
みんな麻生さんみたいになっています。
こうなると、私としてはついつい「待てよ」とも思いたくなります。
佐川さんをこれほどひどく批判することができるのは、もしかしたらそこに自らを感じているからではないのか。
いつもに似合わず、そういう「自省的」な自分を感じます。
こうしたバッシングの動きも、またおそろしい。
ダーウィンのgroup selectionという理論があります。
一時期は人気がなかったようですが、最近また見直されているとも聞きます。
その考えによると、自らが所属するある集団が存続の危機に陥ると、メンバーは自らの利得、つまり自己を捨てて、その集団の構成要素である小さな細胞になる本性(能力)を生まれながらにして持っているというのです。
つまり、所属集団のために働く一匹のミツバチのようになるというわけです。
そして、集団維持意識のため以外の判断基準(たとえば社会的な常識や道徳観念)に盲目になってしまう。
集団への献身は人間が最も大切にする、生活の一断面だ、という心理学者もいます。
そうした、人間の本性が、英雄的な行為を生むとともに、戦争や集団殺戮も引き起こす、というのです。
ここには「利己主義」と「利他主義」の錯綜があります。
大切なのは、自らがどの「グループ(集団)」に所属していると思っているかです。
私は、できるだけ広い、理想的に言えば、時空を超えた世界を、自らの所属集団と考えたいと思っています。
できることならば、私にとっての利己主義は、利他主義などと言う排他的な「他の存在」をもたない利己主義でありたいと思っています。
もちろんそれは達成できておらず、時に、異質な判断への怒りを禁じえないわけですが。
しかし宿主を殺して、自らの世界を失う細菌やウィルスのような過ちは犯したくありません。
佐川さんの世界が、もう少し広くなれば、佐川さんも財務省も政府も社会も、みんな幸せになるのではないかと思います。
■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」報告(2018年3月31日)
有機農業に取り組む霜里農場の金子友子さんの「お金に縛られない生き方」をテーマにしたサロンには、20人を超す人が参加してくれたため、時間を1時間延長したにもかかわらず、発言できない人がいたほどの盛況でした。
最初は申し込みがあまりなかったので、テーマを有機農業にすればよかったなと思ったほどでしたが、やはりお金に呪縛されない生き方への関心は高いようで、サロン企画者としては、それだけでもうれしい結果になりました。
ただしサロンそのものは、人数が多くて、話の交通整理で大変で、疲れました。
金子さんの話は、なぜアナウンサーから農家に嫁いだのか、ということからはじまりました。
金子さんがアナウンサーとして社会で活躍しだしたのは1960年代の半ばです。
私も同年齢ですが、その頃から少しずつ高度経済成長の矛盾の予兆が出始め、1970年代になると、日本の社会は大きく変わりだしました。
有吉佐和子さんが朝日新聞に『複合汚染』を連載しだしたのが1974年。
水俣病などが大きな話題になり、環境問題や食の安全への関心が高まっていた時期です。
アナウンサーとして、時代の先端の情報に触れる中で、彼女の世界も変わりだしていったようです。
いろいろなドラマティックなエピソードもありますが、そこで出会ったのが、埼玉県の小川町で、化学肥料や農薬を使わずに、自然の有機的な循環を活かした農業に取り組んでいた、「変わり者」の霜里農場の金子美登さんだったのです。
そこで結婚。生活は一変しました。
その後、時代の大きな流れの中で、有機農業への関心は高まり、霜里農場もテレビや新聞などでも取り上げられ、全国(海外も含めて)から実習研修生も集まるようになってきました。
「変わり者」は「時代の先駆者」へと変わり、霜里農場は有機農場のメッカになっていったわけです。
しかし、そこからが、やはり「変わり者夫婦」なのでしょう。
時流が変わったからといっても、金子夫妻の生き方は変わることはありませんでした。
2014年には天皇・皇后が霜里農場に行幸され、翌年金子美登さんは黄綬褒章を受けられましたが、2人の生き方は全く変わっていないのだろうと思います。
有機農業ブームのおかげで、経済的にも成功した人も少なくないでしょうが、金子夫妻にはたぶん「縁のない話」で、有機農業ビジネスやアグリビジネスという発想はないのです。
これまで通り、共感してくれている消費者に丹精込めた野菜を直接届けながら、地産地消で自給型地域生活を目指した活動に地に足つけて取り組んでいます。
金子夫妻にとっては、農業と生活はしっかりとつながっているように思います。
いろんなエピソードも紹介されました。
アレルギーで長年薬を飲み続けていた人が、農場に実習に来て薬を飲み忘れているうちに、気がついたらアレルギーが治ってしまった話、火事で自宅が全焼した時には、全国から70〜80人の仲間が来てくれて、2日間で片づけが終わった話、お金を介さない物々交換や事々交換の話など、いろいろとありました。
お金の話も何回か出ましたが、誰かに役立つためのお金の話だったように思います。
老後のためにお金をためていますかと私は不躾な質問をしましたが、どうもその意味さえ伝わらなかったようでした。
たぶん彼女にとっての老後の蓄えは、お金ではないのでしょう。
話し合いの中から出てきた、「お金に縛られないためのヒント」を2つだけ紹介します。
まずは、「人のつながり」の大切さです。
お金を介さずとも、人の支え合いで解決する問題は少なくないばかりでなく、人とのつながりが生活の安心感の拠り所になるということです。
もう一つは、人にあげられるものはあげまくるという、友子流の生き方です。
彼女がつくっているのが野菜だということもありますが、余った野菜はみんなに挙げてしまうのが、彼女のやり方です。
たとえば、道の駅に野菜を売りに出していますが、売れ残ったものは持ち帰らずに、店舗のスタッフの人などに挙げてしまうのが彼女のやり方です。
いや余ったものだけではありません。
彼女が関わっている加工品もあるのですが、それを買いに来た人にまで、たとえば子育て中の若い人だと、どうもあげてしまっているようです。
それがいろんな形でまた返ってくるので物々交換だと彼女は言いますが、私が思うには、彼女にはそもそも「交換」という発想さえないのだろうと思います。
ともかく、あげられるものはあげてしまうわけです。
あげるものがなければ、笑顔だけでもいいわけです。
3時間にわたる長いサロンでしたので、いろんな話が出ましたが、たぶん参加されたみなさんは、彼女のさりげない話や表情から、いろんなことを考える刺激をもらったように思います。
少なくとも私はそうです。
小学校時代の同級生なのですが、これまで気づかなかったこともありました。
金子さんが持参してくれたイチゴやケーキなども美味しかったです。
有機農業に関した話もありましたが、これに関してはまた改めて企画したいと思います。
湯島ではなく、むしろ小川町の霜里農場でサロンをやるのがいいかもしれません。
どなたか実行委員になってくれませんか。
今回は、湯島のサロンが初めての方も数名参加してくれました。
はじめてだったのに、ちょっと窮屈だったうえに、発言の時間があまりなくてすみませんでした。
これに懲りずに、またぜひ遊びに来てください。
頭は疲れましたが、たくさん元気をもらいました。
■コムケアサロン「なぜ生きるのか」報告(2018年4月3日)
2月に開催した「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンの参加者からの強い要望もあって、もう一度、開催しました。
今回も10人の参加があり、時間も4時間を超えてもまだ終わりそうな気配がないほどでした。
このテーマでの話し合いの場が、求められていることを改めて実感しました。
参加者の方から、思わぬご自身の物語が語りだされるのは、前回と同じでした。
みんなそれぞれに、生きる辛さや戸惑いを感じているのかもしれません。
私は「なぜ生きるのか」ということをあまり考えたこともなく、トラブルや喜怒哀楽すべてを含めて、生きることをそのまま受け入れて、生きています。
ですから、このテーマは個人的には苦手で、どう切り込んだらいいのかわからないのですが、みなさんの話を聞いているうちに、少しずつ問題の所在に近づけているような気がしました。
今回私が感じたのは、問題は「生きる喜びの見つけ方」と「実際の生き方」なのではないかということです。
またそうしたことと関連して、これまでの人生における「間違い」に呪縛されていることからの解放も大きなテーマかもしれません。
今回、みなさんの話を聞いていて、私もまた当事者だとようやくにして気づきました。
この種のサロンを何回も企画しながら、いまさらなんだと叱られそうですが。
今回は、「どうしたら生きる力を高められるか」も話題の中心になりました。
その分野で活動しているおふたりの、実践者の方が参加して下さっていたので、かなり具体的なアドバイスもありました。
おふたりとも、自らの物語を赤裸々に語ってくれたので、その処方箋には説得力がありました。
問題に対処するために、気持ちを整理する思考の枠組みや体験から見出した実践的な「法則」も紹介されました。
このサロンには、頭では理解していても身心がそう動かない「辛い」状況にある人も、私のように、身心での生きづらさを頭で理解できていない「不明な」状況にある人も参加しています。
抜け出そうとしている人もいれば、いま向かっている人もいるかもしれません。
もう60年も「生きる力」と正面から取り組んできている人もいれば、そうしたことを考える必要もない恵まれた状況の中で生きてきて、逆にいまここにきて、生き惑っている人もいる。
4時間も話していると、そういうことがなんとなくシェアされてくるような、そんなサロンだった気がします。
いろんな状況や考え方の人が入り混じっているおかげで、話が固まらずに、広がったり、視点が変わったりするのが、やはりサロンの良さかもしれません。
話の内容の紹介は、基本的にはオフレコですので書けませんが、最後はみんな明るく終われた気がします。
私はかなり疲れたので、しばらくはこの種のサロンは企画できないでしょうが、たぶんまたそう遠くない時に開催しそうな気がします。
切り口を少し変えるかもしれませんが。
生きることは辛い時もありますが、だからこそ生きる意味がある。
それに、辛いことと喜びや楽しさは必ずしも矛盾しません。
次回はそんなところまで話が進めばいいなと思っています。
■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」のご案内(2018年4月4日)
日本の神道文化にまなぶ神さまのいる暮らし
知的サロンのご案内です。
沖縄の話をしてくださった、平井さんに再びお願いしました。
でも今回のテーマは「神道」です。
平井さんは、「暮らしのしきたりと日本の神様」など、神道に関する著作もありますが、今回は平井さんの「神さまのいる暮らし」ぶりをお聞きしながら、それぞれの生き方を考える時間にできればと思っています。
神さまのいない暮らしをしている人の参加も歓迎です。
いまさら改まっては訊けないような質問にもきっと答えてくださいます。
以下、平井さんからの案内です。
以前、沖縄の話をさせていただきました平井かおると申します。
沖縄の取材に入るようになって18年。今では世代交代により、沖縄の暮らしもずいぶん様変わりしてきましたが、沖縄に足を運ぶなかで「神さまとともに暮らしがある」その姿を多く垣間見させていただきました。
そこで思ったのは、
「私は自分の生きてきた場所(日本列島)の神さまを知らない」ということでした。
考えてみれば不思議なことです。
神社を訪れた時など、私は心より神さまに手を合わせます。
ところがその「神さま」を私は知らないのです。
私はいったいどなたに手を合わせているのだろう?
それを知る術もよくわからないまま、まずは『古事記』と出遭うところから始めました。
縁あって、7年ほど前より、元國學院大学・神道学部教授のもとで神道文化の勉強を始めさせていただき、現在、この先生主宰のもと、「日本の神道文化研究会」を行わせていただいています。
私の師匠の言葉に、次のようなものがあります。
「神を畏れて、人を恐れず」
これは、「人を恐れて、神を畏れず」となってしまった現代社会への警告でもあります。
今回のサロンでは、『古事記』の話、神社の話、暮らしのなかにある神さまのことなどなど、
まなび、体験してきたことのなかからお話しさせていただければと思います。
○日時:2018年4月14日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「神さまのいる暮らし 日本の神道文化にまなぶ」
○平井かおるさん(日本の神道文化研究会会員)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと(2018年4月4日)
「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。
公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。
森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。
オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。
デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。
社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。
もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。
■一強体制に反対な人への疑問(2018年4月7日)
日本レスリング協会のパワハラ騒動に進展があり、告発されていた強化本部長が辞任しました。
やはりここでも「一強体制」が生まれていたようです。
一強体制に寄生している関係者が、真実を覆い隠しているという構図はここにも見られます。
権力は腐敗するという言葉はよく聞きます。
しかし権力が腐敗するのではなく、権力に寄生する人たちが腐敗するのでしょう。
権力とは、もともと腐敗しているものですから。
であれば、権力を担う人は、新鮮なうちに権力を手放す仕組みをつくればいいのですが、そういうことを望む人はたぶんほとんどいないでしょう。
しかし、権力を担う当事者にとっても、それが合理的です。
なにしろ、権力は寄生する人を腐敗させるのですから。
一番の被害者は、権力の中枢にいる人です。
韓国の歴代の大統領のゆくえを見ればよくわかります。
10年ほど前の日本は、毎年のように首相が変わっていました。
私はブログなどにも書いた記憶がありますが、とても正常なことだと思っていました。
しかし、多くの人はそれを好まず、湯島のサロンでも嘆く人がほとんどでした。
しかし、権力が腐敗すると思うのであれば、嘆くべきではないでしょう。
そう思っていたら、多くの人が望んでいた長期政権ができました。
そして出てきたのが、一強批判。
まさに度し難いのは、身勝手な国民です。
みんなが何を望んでいるのか、私にはよくわかりません。
日本の官僚制度は、権力が滞留しないように仕組まれています。
上級官僚は、時間も含めて長くは居座れません。
官僚の天下りは批判されますが、「天下り」という言葉を使うからおかしいのであって、官僚経験者が野に下り、社会の視点で活動するのは、悪いことではありません。
私は40年以上前に、ある提言書で、「公務員就労義務制度」を提案させてもらったことがあります。
行政職は、もっとみんなが体験すべき仕事だと思っています。
天下りという言葉で象徴されるように、官尊民卑の風潮が広がり、そこに「権力」が入り込んできたのが不幸でした。
これも前に書いた記憶がありますが、ヨーロッパにあるサンマリノ共和国では、元首に当たる執政の任期は半年で、しかも2人で構成されています。
立法機関は比例代表制選挙で選ばれた国民が務め、任期は5年です。
しかも驚かされるのは、司法を担う裁判官は外国人です。
小さな国だからそんなことができるのだと言われますが、理念は規模の大小には関係ありません。
権力に寄生する生き方をやめなければいけません。
一強批判をしている人は、もし自分が、その「一強」側だったらどうするでしょうか。
私は、もしそうなったら、自らを律する自信はありません。
幸いに、権力も肩書きも、無縁な状況で生きていけるので、幸せですが。
■見えている風景(2018年4月10日)
この数日、安倍政権支持派の人の本を何冊か読んでいました。
たとえば、岩田温さんの「「リベラル」という病」、「東京裁判をゼロからやり直す」(ケント・ギルバートさんと井上和彦さんの対談「東京裁判をゼロからやり直す」などです。
安倍政権には反対の立場にあるために、ともすると、読む本が偏りがちなので、時々、意識的に自分とは立場が違う人の本を読むように時々心がけているのです。
そういう本は、読みだしてすぐに投げ出したくなることもあるのですが、読んでいくうちに奇妙に納得してしまうこともあります。
それはそれとして、岩田さんの本にこんな文章が出てきました。
私から見れば、ほとんどのメディアが「改憲」を危険視し、「護憲」の重要性を説いている。テレビのコメンテーターの多くは、安倍政権に批判的であり、改憲に対して危機感を煽るような発言を繰り返している。
人によって、やはり受け取り方は違うのだと改めて思いました。
私は、テレビのコメンテーターの多くは、みんな安倍政権応援派であり、改憲を支援していると受け止めていました。
人が見ている風景は、実は自分なのかもしれません。
■「記憶の限りでは会ってない」(2018年4月13日)
いま話題になっている、柳瀬首相秘書官の「記憶の限りでは会ってない」という言葉は、言葉としてはよくある言葉だと思いますが、それをめぐる政局がらみのやり取りを踏まえて考えると、面白い言葉です。
たとえば、私が「会っている」と言葉にした時、それは「会った記憶がある」ということです。
過去形の話はすべて「記憶」の中にある話です。
ですから、「記憶の限りでは会ってない」というのであれば、それは会っていないのです。
柳瀬さんの記憶力はそんなに病的ではないでしょうから、記憶にない以上はそう信じざるを得ません。
嘘をついていると思う人がいるかもしれませんが、そんな誰にでも嘘とわかるような嘘をつく人が官僚のトップに立てるはずはありません。
となれば、事実は次のように考えるのがいいでしょう。
愛媛県庁の職員は柳瀬さんに「会った」のすが、柳瀬さんはその職員には「会っていなかった」のです。
どういうことか?
両者の言葉遣いが違うのです。
たくさんの家来を持つ権力者は、毎日、たくさんの家来や外国からの来客に謁見することがあって、その一人ひとりと「会っている」とは考えていないかもしれません。
仮に、言葉をかけたとしても、それは「会話」ではなく、言葉を「放した」のであって、「話した」のではないかもしれません。
私は、かなりの平等主義者ですが、今朝、庭の花に水をやった時に小さな虫がいましたが、その虫に会ったという感覚はありませんし、おはようと声をかけましたが、会話した記憶は残りませんので、数日後には記憶の世界から消えるでしょう。
「会う」という行為には、「意志」が伴います。
謁見の場に次々と賓客が通り過ぎていっても、王様に「会う」という自らの意志がなければ、記憶は残らない。
言葉を発しても、相手が意志のある存在だと受け止めていなければ、「会った」という記憶は残らない。
幸運に恵まれて、王様に会えた家来や賓客は、「会えた」という記憶と共に、王様から放たれた「意志のない」儀礼的な言葉に感激し、記憶に残るでしょうが、王様にとってはルーチン作業の一つでしかありませんので、記憶には残らない。
柳瀬さんは嘘を言っていないのです。
本当に会っていないのです。
柳瀬さんにとっては、愛媛県の職員は人間には見えなかったのです。
ですから「陳情者を見ましたか」「彼らに言葉を授けましたか」ととえば、きっと柳瀬さんは思い出すでしょう。
なにしろ「優秀な人」だそうですから。
私は、人を優秀だとか賢いとか評価するような「レイシスト」思考はありませんが、そういう人に会ったことはあります。
そういう人のなかには、人を人を思わずに、物扱いする人もいます。
もうひとつの解釈は、柳瀬さんはシステムの部品に見事に組み込まれていると考えることです。
柳瀬さんは、主体性を拠り所にした人間をやめて、システム(官僚機構)の部品になってしまった。
つまり、物になってしまっている。
ですから悩んで自殺することも周囲の人への心遣いもしないですむ。
佐川さんのように、堂々と国会証人喚問に対応できるでしょう。
正確には、証人喚問ではなく、証物喚問ですが。
国会議員が物言わぬ「物」にまじめに問いかけている風景は滑稽な気さえしました。
もしこの解釈の場合は、システムのバグという捉え方もできます。
それも不要なバグではなく、必要なバグ、コラテラル・バグです。
たぶんようが終われば切り捨てられる。
それがコラテラル・バグの定めです。
いま奮闘している大谷さんも、コラテラル・バグと捉えれば、どうしてあんなに頑張れるのか。が理解できます。
ある事実、ここでは「会ったかどうか」に関しては、「否定」か「肯定」しかありませんが、当事者の捉え方がいずれかに分かれるのは理解できることです。
しかし、社会的な意味では、あるいは人間社会の関係性においては、柳瀬さんは、会ったことを認めているとしかいいようはないでしょう。
にもかかわらず、みんなしつこく追いつめる。
喜劇でしかありません。
いま、国分功一郎さんの「中動態の世界」を読んでいますが、そのプロローグにこんな隊泡が出てきます。
一部の引用なので、わかりにくいでしょうが、私はよく経験することです。
「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」
「ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその2つの狭間にいるという感じかな」
「中動態の世界」は面白いです。
ちなみに、土俵に女性を上げないという話も、論点がかみ合っていません。
だからこそ、「事件」になり、テレビネタになるのでしょう。
いずれの問題も極めてシンプルな話です。
議論すべきことはもっと別にあるように思います。
■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」報告(2018年4月12日)
仮想通貨という「時の話題」ということもあって、遠方からの参加者も含めて、14人のサロンになりました。
渡辺さんは、まず前半で「社会インフラとしてのお金」がどう変化しつつあるかを、近未来に焦点を合わせて、具体的な事例を紹介しながらていねいに説明してくれました。
そして後半では、いま話題の仮想通貨について、その投機性も含めて、これもまた具体的に説明してくれました。
参加者は、それぞれ関心の置き所が違っていることもあって、話し合いは難しかったように思いますが、新しい知識を含めて、それぞれ世界を広げたことは間違いないと思います。
「社会インフラとしてのお金」の部分では、私は「預金封鎖」という歴史が日本でもあったこと、その目的が財産税につながっていたことを知りました。
改めて「社会インフラとしてのお金」のパワーを知りましたが、同時に、これまでの枠組みから抜けることのむずかしさもわかり、逆説的に言えば、お金はもはや「社会インフラ」ではなく、ますます管理のための仕組みになってしまっているように思いました。
そうであれば、そこに「投機性」が入り込んでくることは避けがたいような気がします。
産業としての金融業の収益の過半が手数料収入になっているということも、改めて教えてもらいました。
これは経済の変質を象徴しています。
手数料も、もちろん「社会価値」を生み出していますが、仮想通貨のメリットの一つは、そうした「手数料」を縮減することだといわれると、なにやら大きな矛盾を感じます。
そのあたりから、仮想通貨の存在意義が、私にはなかなか見えなくなってしまいました。
しかし、海外送金の手数料が高いために社会的な活動に困っていた人からは、その手数料が減少することで、公益的な活動がやりやすくなるという話が出ました。
そういう点ではたしかに、仮想通貨の効用も認めざるを得ません。
渡辺さんも指摘されましたが、そもそも「仮想通貨」という呼び方に、ある胡散臭さがあります。
海外では一般的には「暗号通貨」と呼ばれているそうです。
私は「デジタル通貨」でいいと思っています。
名は体を表すと言いますが、呼称をどうするかは非常に重要で、その実体がどう育っていくかにも大きな影響を与えるはずです。
後半では、これから広がっていくであろう新しい通貨システムの話が出ました。
今回は、その説明会ではなかったので、詳しい話を聞きたい人は、改めて渡辺さんのセミナーなどを受けてもらうことにしました。
ちなみに、渡辺さんも、新しい通貨が投機手段に使われることには否定的ですが、デジタル通貨が安定した通貨システムに育っていくためには、投機的な要素を持つ段階があることは認めています。
そして、いまの紙幣通貨は、早晩、デジタル通貨に代わっていくという見通しの中で、個人としてしっかりと対策を取っていかなくては、その流れからはじき出されて、場合によっては被害をこうむりかねないと考えているようです。
たしかに、通貨システムが大きく変わる状況の中で、損をする人と得をする人が生まれる恐れは否定できません。
そもそも、そんなことが起きないようにするのが、社会インフラとしての通貨システムだろうと私は思いますが、この辺りをどう考えるかが、「仮想通貨」に対する姿勢の違いになるのかもしれません。
あんまり基礎的な知識がないため、渡辺さんのメッセージを正確に報告することはできないのですが、私はやはり「信用システム」の話と「通貨という媒体」の話が混同されているような気がしました。
渡辺さんが言うように、たぶん世界的に見たら、日本の信用システムは遅れていて、それが、経済のグローバル化の中では問題なのかもしれません。
しかし、だからといって、その唯一の解決策が「仮想通貨」というわけでもなく、もっとシンプルでフェアな信用システムは創案できるように思います。
サロンでも、たとえば、「SUICA」の話も出ました。
お金を使う仕組みと同時に、お金を生み出す、つまり社会価値を生み出す経済のあり方を真剣に考えるべきだとも思いました。
今回のサロンでの話の中心は「消費」の局面でしたが、経済の大本の価値を創り出すための「お金」の側面も大切だと思います。
地域活性化の話も少し出ましたが、むしろこの側面は地域通貨などで考えるのがいいように思います。
投機というのは、価値を生み出すのではなく、価値の移転で利益を上げていくということですから、一方ではとんでもない損害を受ける人がいるわけです。
損をするのも避けたいですが、私自身は得をするのも避けたいです。
みなさんはいかがでしょうか。
そこに「生き方」の本質があるように思います。
通貨の機能としては、教科書的には「価値の尺度」「価値 の保存」「交換の手段」の3つが挙げられますが、私はこれに加えて、「価値の創造」と「価値の移転」があると考えています。
これについて詳しく書いた本を私は知りませんが、もしご存知の方がいたら教えてください。
これは、経済システムの本質につながっている問題です。
AI(人工知能)の話に絡んで、人間ってなんだろうか、という問題まで話が進んだところで、時間オーバーになりました。
お金の問題を考えることは、生き方を考えることでもあると、改めて感じたサロンでした。
話題提供してくださった渡辺さんに感謝します。
社会インフラとしてのお金シリーズは、不定期に継続させてもらいます。
■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」報告(2018年4月14日)
「神さまのいる暮らし」サロンは、17人という大人数のサロンになりました。
話題提供者の平井さんは、最初に、基礎知識編として、神様の話から始めました。
神道、というよりも、神(儒教からの言葉だそうです)以前の「ヒ・チ・タマ・モノ」といった、やまとことばから捉えるカミの話や、罪穢れや禊祓いなどの「かんながらの道」の話で、すなおに心にはいるお話でした。
つづいて、そうしたことが日常生活のなかにしっかりと組み込まれていて、私たちの日常は、まさに神さまとともにあるのだという話をとても具体的に話してくれました。
たとえばこんなことです。
朝目覚めて、身体を動かすことで、身のうちの魂(たま)が振られて(たまふり)、清浄な状態になる。
つまり、誰もが毎日、魂を清浄にすることから1日をはじめているのです。
そして朝食では、食べ物(給べ物)を賜り、掃除で自らの身と身の回りを祓い清め、働くことや遊ぶことでたまふりを重ね、そして夜には入浴で禊(みそぎ)をする。
私たちの日常は、まさに神様と共にあるわけです。
神様は神社だけにいるわけではないようです。
そう思っただけで、日常生活の捉え方が変わってくる。
起きている時だけではありません。
眠っている間に、魂が身体に留まってばかりいては、停滞による穢れ(気枯れ)が起きかねません。
それで寝ている時に、魂は外在魂に入れ替わってもらって、身体を遊離して、朝には元気になって戻ってくるのだそうです。
神様は年中無休の重労働なのです。
そして、平井さんの師匠で日本の神道文化研究会を主宰されている神道学者の三橋健さんの、「神を畏れて、人を恐れず」の言葉で、話をまとめてくださいました。
「神への畏れ」が、生きる力を与えてくれて、生きやすくなる。
ちなみに、平井さんは、数年前から毎日、神棚に手を合わせているそうですが、そのおかげで、平井さん自身も変わってきたそうです。
神様を信ずると、良いことがあるのです。
年に一回、神社でお願いするよりも、毎日の暮らしの中に神様を意識することのほうがご利益はあるようです。
話し合いでもいろんな話題が出ました。
最初に出たのが、「神教」ではなくどうして「神道(しんとう)」になったのか、という質問でした。
そこから宗教と信仰のような話が出て、一神教と多神教の話になりました。
いわゆる「宗教」と、そもそも呪的信仰から始まった神道とは、本来違うものでしょうが、その素朴な信仰がいまもなお近代生活の中に調和して存在しているのは、とても興味のあることです。
私は、それこそが日本文化の一番の特徴ではないかと思っています。
古事記の話や、天岩戸神話の話、そしてなぜかかぐや姫の話も出ました。
京都からわざわざ参加してくださった「記紀」の研究者だった高林さんは、天岩戸神話でなぜ岩戸が開かれたかの理由を話してくれました。
そこからアートや芸能、音の話も広がりました。
ちなみに平井さんの研究テーマは、「音」だそうですが、地鎮祭などで発せられる警蹕(けいひつ)の話も出ました。
神社などの神域には、そこに行くだけで心身が清められる気がするという話も出ました。
お神札(ふだ)は、まわりの邪気を吸い取る効果があるそうですが、自己浄化することはできないため、1年ごとに神社に戻し、新しいお神札に替えるわけですが、神様をよく知っている人によると働かせすぎだそうです。
1年も祀っていると神札は邪気を吸い込んで、力尽きてしまうので、長くて6か月、できれば3か月で、新しい神札にバトンタッチさせた方がいいそうです。
最近の社会は穢れが進んでいるため、そうなってしまったのでしょう。
私は、この話が一番面白かったです。
神様を働かせすぎては、それこそ罰が当たります。
最後は、「神さまとどう出会うか」という話で盛り上がりました。
生きにくさから抜け出せないという人の切実な質問から始まったのですが、私自身は、神様とは毎日出会っていることに気づくと元気が出るというメッセージを、今回は平井さんからもらった気がします。
ですから、会おうなどとは思わずに、ただただ「祈る」だけでいいのではないか。
邪気に満ちた世界で神様を頼る人が増えてしまうと、神様が過労死しかねません。
宝くじに当たりますようになどといって、神様頼みするのは我慢して、神様が元気でいられますようにと、神様のために自分に何ができるかを考えて、祈るのがいいと思っています。
今回も、実に多彩な方々が参加してくださいましたので、参加者みなさんの発言からも、たくさんの気づきをもらいました。
平井さんはじめ、参加されたみなさんに感謝します。
報告が遅れてすみませんでした。
■哀しい風景(2018年4月20日)
財務省の福田事務次官をめぐる話は滑稽なほどおかしな方向に展開していますが、実際に起こっている事実としては、私にはそう異常な話ではなく、まあよくある話の一つではないかと思います。
そうした話は、特に官庁に限った話ではなく、企業においても、つい最近まではさほど異常ではなかったのではないかと思います。
いや、いまもいろんなところで起こっているのではないかとさえ思います。
そもそも、女性はいまだ人権を認められていないような気がしてなりません。
私がそう思うのは、そもそも「男女共同参画」とか「女性活性化」とか、そんな言葉が、当の女性からもさえ、受け入れられているからです。
ついでに言えば、人権が認められていないのは女性だけではありません。
男性もまた人権を認められず、自らも権力に寄生する生き方を選択しているように思います。
そうした構造の中で、自らよりも下位に置く、弱い者をつくりだすというスタイルがいまなお続いている。
まあこんなことを書くと非難ごうごうでしょうが、セクハラなどという言葉にさえも、私はそうした意識が感じられます。
セクハラではなく、人権侵害であって、女性だけの問題ではないだろうと私は思います。
土俵に女性を上げないのがおかしいという話は、私には笑止千万です。
そういう相撲界を国技としていたのは、女性も含めて、私たちでしょう。
問題は、女性を土俵に上げるかどうかなどという問題ではありません。
問題の立て方が間違っているのではないか。
話は少し広がりますが、たとえば貴乃花事件における貴乃花は、私にはいかにも暴力的な存在でした。
ビール瓶で叩くよりも、問いかけや呼びかけを無視する方が、私には暴力的だと思うからです。
まあこれはさらに非難を受けそうな発言ではありますが。
貴乃花が、結局、自分の部屋で暴力事件を越したのは、私には当然のことだと思っています。
財務省の対応がおかしいと思う人は多いでしょうが、あそこまで極端ではないとしても、多かれ少なかれ、組織はあんなものではないかと思います。
自分の組織の常識が、社会の常識だと思っていますから、矢野官房長にしても、自分がおかしいとは思っていないのでしょう。
財務省の場合、あまりに強い組織ですから、自分の組織の常識を相対化できないために、あまりに無防備に素直に露呈しているだけだろうと思います。
同じような「非常識な常識を持つ組織人」に私はこれまでたくさん会ってきています。
しかしここまであっけらかんと自らの考えを素直に出す人は、よほどのナルシストか自信家です。
彼らは、佐川さんも含めてですが、自分が悪いことをしたなどとは思っていないのでしょう。
小野寺さんも林さんもそうでしょう。
でも私には、彼らの言動はおかしく見えます。
さらに言えば、自民党だけが女性蔑視ではないように思います。
テレビで垣間見る野党の男性政治家の反応も、どこかで苦笑いしたりしていて、誠実さを感じません。
いや男性議員だけではなく女性議員も、誠実さを感じません。
今日の財務省訪問での映像も、私には奇妙にしか見えません。
問題はもっと深く、あなた自身もこれまでずっとそうした常識に迎合してきたのではないかと、つい思いたくなります。
訴えるべき相手は、国民でしょう。
反省すべきは自らでしょう。
そう思えてならないのです。
何か事が起こると、それに乗じて、力を失ったものを寄ってたかって叩きのめす。
私には、とても哀しい風景です。
■カフェサロン「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」のご案内(2018年4月21日)
日本子どもNPOセンターの森さんから、児童労働の問題を多くの人たちに知ってもらいたいので、湯島でサロンを開きたいという申し出をいただきました。
日本子どもNPOセンターは、2002年に、子どもたちの生き生きした育ちを願い、子どもや若者に関わる多様なNPOの実践者たちが立ち上げたNPOです。
2015年には、「子どもNPO白書」も発刊しました。
今夏、その第2号が出版される予定です。
また、今年から新しい試みとして、ブックレットの刊行に取り組みだし、第1号「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」が3月に出版されました。
このブックレットは、児童労働(学習の機会を奪う労働、危険な労働、子ども兵士、性的搾取など)の問題に取り組んでいるNGOフリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)の実践活動を中心にまとめたものです。
フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)は、1995年カナダで当時12歳のクレイグ少年によって設立された国際協力団体Free The Childrenを母体に、1999年に日本で活動を始めた団体です。
http://www.ftcj.com/
フリー・ザ・チルドレンのミッションは、次の2つの「Free」を実現することです。
まず、国内外の貧困や差別から子どもをFree(解放)すること、そして、「子どもには世界を変えられない」という考えから子どもをFree(解放)することです。
今回のサロンでは、まず児童労働の現状と児童労働をなくす取り組みの話をしてもらった上で、「子どもには世界を変えられない」という考えから子どもをFree(解放)するためにはどうしたらいいかを話し合えればと思います。
この問題は決して、「遠い国の話」ではなく、私たちの暮らしの今と未来につながっています。
ぜひ多くのみなさんにご参加いただきたいサロンです。
参加される方ももちろんですが、参加できない方にもぜひブックレット「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」(432円)をお読みいただければと思います。
同書のご購入は、直接、森さん(QZP13433@nifty.com)にご連絡ください。あるいは湯島でも購入可能です。
サロン当日にも購入可能です。
○日時:2018年5月20日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」
○話題提供者:中島早苗さん(フリー・ザ・チルドレン・ジャパン 代表理事)
森透さん(日本子どもNPOセンター理事)
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■北朝鮮を信用できるかという発想(2018年4月22日)
私は、発言の語尾がかなり気になるタイプです。
発言をどうまとめるかで、その人の心情がわかるからです。
たとえば、私が苦手の言葉のひとつが、「…しましょう」です。
発言者にはまったく悪意も意図もないのでしょうが、そういう発言にはどうも反発を感じます。
目線の高さを感じてしまうのです。
同じく「…でしょう」もあまり好きではありません。
念のために言えば、こうした表現を私が使わないというわけではありません。
少ないとは思いますが、たぶん使用しているはずです。
だから他者のことだけを言っているわけではなく、その時の自分も嫌いなのです。
今日、気になったのは、北朝鮮の核政策転換発言に関して、「信用できるか」という表現が新聞やテレビで使われていたことです。
そういう表現をしている人は、信用していないのでしょう。
なぜこの表現が嫌いかといえば、判断の視点を相手に置いていて、「自分」がないからです。
私の発想では、「信用できるかどうか」ではなく、「信用するかどうか」です。
相手が信用できるかどうかは私にはわかりませんし、どうしようもないことですが、自分が相手を信用するかどうかは、自分の意志で決められることです。
自らの意志で決めたことの責任は自分でとれます。
万一それで何か問題が起きたら、それは自らの責任です。
相手のせいにはできません。
もちろん、「信用できるかどうか」には、「相手が信用できるかどうか」と同時に、「相手を信用できるかどうか」という意味もあります。
ですから「信用するかどうか」と同じことだといえるかもしれませんが、微妙な違いを感じます。
ややこしい話になるのでやめますが、いずれにしろ、自分を棚上げしているように、私には思えます。
いずれにしても、結局は「北朝鮮を信用していないことには変わりはないからです。
相手を信用しなければ、相手からも信用されないのは当然の帰結です。
そもそも相手が決めたことを最初から信用しないのであれば、相手と交渉を持つべきではありません。
相手を信用することから、交渉ははじまるのだろうと私は思います。
実はこれは先日湯島でやった、ある研究会でも話題になったことです。
契約の前提に「信頼関係」はあるかどうか。
よく言われる「人は性善か性悪か」という話にもなりかねませんが、これは人間観につながっています。
私は、人は基本的に信用できると思っていますし、人の性は本来「善」だと確信しています。
そう出なければ、生きていけないでしょう。
にもかかわらず、堂々と「相手を信用できるか」などということを、相手も読んだり耳にしたりするメディアで表明することが不思議でなりません。
そういう姿勢では、事態は変わらないのではないかと思います。
ちなみに、核抑止論の矛盾が、ここにも露呈されているように思います。
核抑止論は、私にはとんでもない間違いでしかありません。
■第1回CWS投げ銭サロン「〈健康で長生き〉したいですか?」報告(2018年4月22日)
湯島のサロンに、新しいメニューが加わりました。
話を聞いた後、共感した度合いに応じて、話し手に「投げ銭」をするという、「投げ銭サロン」です。
テーマは、「健康で長生きしたいですか?」
副題は「脱・生欲のススメ」です。
参加されたのは11人でした。
新しい企画の上に、タイトルがかなり挑発的なので、もっとたくさんの方が来るかと思っていましたが、意外と反応がよわく、ちょっと脱力しましたが、川島さんのお話はとても面白かったです。
話は、最近話題になった、西部邁さんの入水自殺ほう助への川島さんの感想から始まりました。
つづいて、日本では自宅のお風呂で溺死する人の数は交通事故での死亡者よりも多いという話になり、そこからだんだん本論に入っていきました。
長生きの問題を考える場合、平均寿命と健康寿命を考える必要があると、川島さんは言います。
その差を「不健康期間」とすると、国内的にも世界的に見てもそれは7〜10年だそうです。
ちなみに、日本の都道府県で見ると、平均寿命の一番短いのは青森県で77歳(2010年)、不健康期間の一番短いのも青森県で6.99年(2013年)。
逆に平均寿命が一番長いのは長野県(80.88年)。
不健康期間が一番長いのは京都府(10年)だそうです。
さて、あなたはどちらがいいでしょうか。
川島さんは、「健康で長生きできるようにするための3つの施策」を整理し、そこから、そうしたことへの「大いなる疑問」を表明されました。
「3つの施策」とは、「老人の介護を手厚くする」「医療を充実させる」「住環境の質を向上させる」ですが、それぞれに関連して、生きるということを考えさせてくれるような、さまざまな刺激と示唆を与えてくれました。
なかには、「常識人」であれば、ちょっと眉をひそめかねない話もありました。
しかし、よく考えてみると納得できると思います。
私自身は、そのあたりが一番面白く共感しましたが。
2045年にはAI(人工知能)が人間を超えだすといわれるシンギュラリティ予測がありますが、そうなった時に、はたして人間の生きる意味とは何だろうという問いかけもありました。
これも実に示唆に富む問いかけです。
そして、最後には幸せの話も出てきました。
話の流れだけを紹介しましたが、そのところどころで、ついつい「投げ銭」したくなる話や問いかけもありました。
いろんな話題が次々出てきて、予定時間が1時間以上伸びましたが、まだまだ話はつづきそうでした。
川島さんと参加者のみなさんのおかげで、投げ銭サロンは順調にスタートです。
どなたかよかったら第2回目に挑戦してください。
ちなみに、話が終わった後、どのくらいの投げ銭があったかですが、それは私も知りません。
■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内(2018年5月3日)
「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンを2回開催しました。
参加者からの要望があったからですが、湯島のサロンとしてはちょっと異質なので、定例化はやめるつもりでした。
しかし、もう一度やろうと思い直しました。
そのきっかけは、鬼丸昌也さんの書いた「平和をつくる仕事にする」を読んだためです。
昌也さんの話は、昨年、友人たちから聞いていました。
残念ながら、その時はお会いできませんでした。
それで、昌也さんが書いた本が目にとまったので読んでみました。
昌也さんは、自分の行動は、「今、自分に何ができるのだろう」を考えることから始まった、と書いています。
私が人と会っている時に、いつも自問している問いかけと同じです。
すべてはそこから始まる。
そのことを、これまでの2回のサロンでも伝えてきたつもりですが、伝えたのではなく、そういう考えを発しただけだと気づきました。
そこで、もう一度、それを語り合うサロンを行うことにしました。
それぞれの人が、自分でできることを語るサロンです。
誰かに助けを求めるサロンではありません。
誰かを助けることのできる自分に気づくサロンです。
いつものように出入り自由ですので、途中からの参加も、途中での退出も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。
○日時:2018年5月15日(火曜日)午後6時半〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/だれかの役にたつことを考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■憲法記念日のお薦めの3冊(2018年5月3日)
今日は憲法記念日です。
私は毎年、この日には日本国憲法を読むことにしています。
必ずしもすべてを読むわけではありませんが、前文だけは必ず読みます。
私は、日本国憲法は前文だけでいいのではないかと思っていた時もあります。
前文は文章的には、あんまり美しくはありません。
内容もいささか整理されていない気もします。
しかし、そこには、国家は人々が幸せに暮らせるための仕組みでなければいけないという精神を感じます。
「人々」というのは、国民だけではなく、世界中の人々という意味です。
そこには心底共感します。
いま、憲法改正が話題になっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
しかし、実際には、そこから本質を変えられていくのでしょう。
ですから「護憲か改憲か」という問題が成り立つのだろうと思います。
でも、もし私が「護憲か改憲か」とか「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
「国家は人々が幸せに暮らせるための仕組み」でなければいけないか、と問われたら、即座に「はい」と答えられますが。
今年になって2冊の憲法関係の本を読みました。
篠田英朗さんの「ほんとうの憲法」(ちくま新書)と中島岳志さんの「保守と立憲」(スタンド・ブックス)です。
前者は発想の空間を広げてくれ、後者は発想の時間軸を広げてくれる本です。
もう1冊。私の友人が15年ほど前に書いた本も推薦したいと思います。
武田文彦さんの「赤ペンを持って「憲法」を読もう」(かんき出版)です。
憲法を読んで、そこからいまの日本の社会の状況を考えるといろんな気付きがあるはずです。
連休中に、憲法をテーマにしたサロンを開こうかどうか迷いましたが、他でもたくさんの集会があるので、今年は企画しませんでした。
しかし今日、改めて前文を読み直して、日本国憲法の理念とは何なのか、そして、「何を守り、何を改めるのか」について、サロンを開きたくなりました。
できれば5月中に開催しようと思います。
よかったら参加してください。
■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」のご案内(2018年5月7日)
日本国憲法の改正論議が広がっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」が大切だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
もし「守るべきこと」のために憲法の条文に不都合があれば、変えるのがいい。
もし「変えるべきこと」のために憲法の条文を変えたほうがよければ変えたほうがいい。
議論すべきは、そして議論できるのは、「守るべきこと」「変えるべきこと」出合って、「憲法」そのものではないでしょう。
もちろん、いまの憲法は、アメリカからの押し付けだから、作り直そうというのであれば、理解はできますが、それなら「憲法改正」などという言葉を使うべきではないでしょう。
それは「革命」なのですから。
私は、「国家は人々が幸せに暮らすための仕組み」であり、国家がそうであるために憲法は存在していると思っています。
幸いに、日本は、私にとっては、とても暮らしやすい国です。
しかし、最近は、少し暮らしにくくなった気もします。
それは「憲法」と関係あるでしょうか。
もしあるのならば、どこにあるのか。
私は、「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
しかし、「日本国憲法の、何を変えるのがいいか」と訊かれたら、応えられます。
人々が幸せに暮らすための国にしていくために、どんな憲法であればいいのか。
現在の日本国憲法の条文の中で、自分が一番守りたいものはどれか。
あるいは、こういう条文を追加したいという意見をお持ちの人もいるでしょう。
そんなことを、いまの憲法をベースにして、参加者がそれぞれ話し合えるサロンを開催することにしました。
みなさんの参加をお待ちしています。
○日時:2018年5月26日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」
○問題提起者:原則として参加者全員(話したくない人も歓迎ですが)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■煙石博さんの冤罪事件がテレビで取り上げられます(2018年5月8日)
広島で起こった煙石博さんの冤罪事件に関しては、ブログやフェイスブックで何回か書きこませてもらいましたが、5月9日(水)の午後9時からのTBS特番「一番だけが知っている」で取り上げられることになりました。
番組中、30分ほど、煙石時間が取り上げられるそうです。
お時間が許せば、ぜひともご覧ください。
友人経由で、煙石さんからのメッセージが届きましたので、ご紹介しておきます。
以下は、煙石さんのメッセージです。
最高裁での無罪判決が出て1年を過ぎましたが、失ってしまったものは、あまりにも大きく、壊されたグラスは元には返らない憤りと悔しさが消えません。少しでも私の人権の回復の為にならないかと色々バタバタしてはみますが、なかなか大変なものがあります。私の冤罪事件については、この3月にRCC中国放送が、無罪判決が出て1年として、特集で放送してくれましたが、これまで、東京の放送局から、ラジオ番組がひとつ、いくつかのTV番組から出演協力の依頼がありましたが、色々複雑な思いがあり、どれもお断りしてきました。
しかし、胸中には、常に私の身に降りかかったこの冤罪事件は、私だけの問題ではなく、同じパターンでこれがなされると、一般市民の誰でもが、いくらでも私の様な被害にあってしまうというそら恐ろしさを抱いておりました。再度、似た様な被害者が出て、自白したり、示談したりして人生を失い、泣き寝入りする事が無いように願うばかりですが、私の様な被害者が私の後に出ない為に、私の身に起こった、あってはならない真実を忘れて頂かない様にと思うのです。
ところが、「よかったですね。」と言って下さる方の中に、私の事件の顛末を詳しく知らない方もあり、具体的に真実を話すと改めて驚かれるのです。そんな訳で、身に降りかかった事件をかいつまんで私のホームページのブログの中に書いてきたもの(おととし2016年の10月頃から翌年3月10日最高裁の無罪判決が出る前まで書いています。)を改めてまとめて書きますと、・・・
私は身に覚えのない66600円の窃盗犯に仕立て上げられて、警察では証拠が無いのに信じられない理不尽な自白(お金を盗ってもいないのに盗ったと認めろという)を迫られ、検察では、「警察の間違いを指摘して下さい。」と私が懇願するのに、「盗ったか盗らないかは別にして、66600円に色を付けて、10万円位お金を払えば済むんです。」と、ひたすら示談を勧める検事に驚愕。結局、広島地裁と広島高裁での裁判は、正義と真実の女神(西欧の司法の歴史の中で、大切にされなければならない理念としてある様で、司法を勉強された方々は初学の頃習われるらしいのですが、)この正義と真実の女神の手足を縛って留置場に入れ、裁きの理論を構築していったようなもので、何が何でも有罪ありき(日本の司法は、逮捕、起訴されると有罪率99.9%という問題とされる数字は、それを物語っているものだろうと思います。)の裁判とは、有罪へのエスカレーターでした。
・・・私が体験した事を分かりやすく申し上げると以上の様になります。
それと、東京キー局への番組出演を複雑な思いの中にお断りしてきましたが、この度、TBSの特別番組で、東京で「行列のできる法律・・・」でよく知られている北村晴男弁護士が出演される「一番だけが知っている」という番組に、最高裁で無罪を勝ちとって下さった久保豊年弁護士とVTRで出演します(すでに収録済み)。制作スタッフも出来るだけ真実に基づいて番組作りをして下さる様ですが、とにかく、私の様な被害者が私の後に出ない事につながる様な内容となる様お願い致しました。
番組では、どなたかが私の役とそれぞれの役を演じる再現ドラマがあるそうです。そこは、ドキュメンタリーではないので、私の体験した真実通りではない部分もあるかもしれませんが、今後、私のような被害者が出ない事を願って、多くの方に見て頂きたいと思います。
■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」のご案内(2018年5月8日)
ちょっと知的なカフェサロンとして、柳兼子を取り上げることにしました。
柳兼子といってもご存じない方も多いと思いますが、民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な人です。
柳宗悦・兼子夫妻は、私が住んでいる我孫子市に7年ほど住んでいました。
柳宗悦の叔父にあたる嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)の別荘が我孫子にあったのが縁ですが、さらにその縁で、白樺派の文人たち、たとえば志賀直哉や武者小路実篤などが我孫子に移住し、活動していた時期があったのです。
柳夫妻も含め、白樺派の文人たちが住んでいた名残は、いまもいろんな形で残っていますが、残念ながら、その人たちが我孫子でどんな暮らしをしていたかを知っている人は多くはありません。
民藝運動や白樺派、あるいは嘉納治五郎は知っていても、我孫子とつなげて考える人も多くないでしょう。
白樺派の文人たちが我孫子に住んでいたのは、日本が治安維持法に向かいだした時代です。
彼らの中にあって、時代にもっとも抗議したのが柳宗悦でした。
そして、それを支えていたのが、柳兼子です。
いまの時代状況を考えると、民藝運動や白樺派の活動から学ぶことはたくさんあります。
そんなことを踏まえて、我孫子時代の柳兼子についていろいろと調べている我孫子市在住の海津にいなさんに、柳兼子と白樺派の活動の話をしてもらい、いまの時代における私たちの生き方を話し合えればと思います。
なお、海津さんは、白樺派の女性芸術家としての柳兼子をNHKの朝の連続テレビ小説に取り上げてもらおうと活動していますが、多くの人に柳兼子を知ってもらうことで、海津さんの夢にも近づけたらと思っています。
できれば、参加者のみなさんにも、テレビドラマ化を実現するための知恵をもらいたいと海津さんは考えています。
海津さんの話がどこに飛んでいくか、いささか心配で、もしかしたら、ダ・ヴィンチにもつながるような話まで飛び出すかもしれません。
それくらい柳兼子の世界はとても広くて豊かなのです。
ぜひたくさんの人たちに参加していただければと思います。
○日時:2018年6月24日(日曜日)午後1時半〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:「白樺派の女性芸術家・柳兼子をご存知ですか」
○話題提供者:海津にいなさん(国際理解NGO代表、筑波大学博士課程後期)
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンのご案内(2018年5月9日)
久し振りに熊本の宮田喜代志さんのサロンを開催します。
宮田さんは、コムケア活動が始まった時に、いち早くその理念に共感していただき、熊本で様々な活動につなげてくださった方です。
現在は、実に多彩な活動に取り組んでいます。
理念がしっかりしていると、実際の活動は限定されずにどんどんと広がっていくと私は考えていますが、宮田さんの活動を見ているとまさにその典型のような気がします。
従って今回は、特にテーマを設定せずに、宮田さんの生き方や最近の活動紹介、さらには宮田さんの今の関心事を中心に話しをしてもらい、そこから自由に話し合いを展開していきたいと思います。
といってもそれだけでは、宮田さんをあまりご存じない方には、雲をつかむような話ですので、宮田さんが最近特に関わっているであろうことを少しだけ紹介しておきます。
宮田さんは、昨年、タイ・バンコクでの子ども医療・療育と特別支援学校の視察調査に行ってきました。そこから、障害者福祉分野での国際協力の展望が聞けるかもしれません。
長年取り組んでいる「農福連携」の進展の話もたぶん出るでしょう。
宮田さんは、小規模多目的ホームの館長として福祉施設の経営に関しても豊富な体験をしていますので、そんなお話も聞けると思います。
私自身は、かなり「破綻」気味に生きている宮田さんの人生観に興味があります。
まあそんなわけで、何でもありの「宮田サロン」を企画したいと思います。
できれば、そうしたなかから、「ケア(支え合い)」の意味を考えられればと思っています。
宮田さんというお人柄に触れるだけも、きっと満足してもらえるサロンです。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
○日時:2018年6月5日(火曜日)午後7〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■煙石さんの冤罪事件が番組で特集されました(2018年5月10日)
挽歌編でも書きましたが、時評編で何回か紹介した広島で起こった煙石さんの冤罪がテレビで取り上げられました。
30分以上のしっかりした報道だったので、かなり正確に伝わったように思います。
私は、煙石さんとは面識はありませんが、友人が最初から煙石さんの無罪を確信して、私にも教えてくれていたのです。
先入観を持たずに、事実をしっかりと聞くだけで、たぶん煙石さんの無罪は最初から明らかだったように思います。
しかし、実際には2回の裁判で有罪という結果になり、最高裁でようやく無罪になりました。
日本の裁判の位置づけや役割が、よくわかる裁判事例だと思います。
日本の裁判は、国民の生活を守ることを第一義にはしていません。
そう言い切れるのは、有名な砂川裁判で、最高裁は「統治行為論」を持ちだして、政府の下部組織であることを明言したからです。
当時の状況を考えれば、やむを得なかったのかもしれませんが、砂川裁判で、日本の司法は死んでしまったように思います。
同時に、それは、日本における「正義」を方向づけました。
今日も国会で参考人として証言した柳瀬さんのような官僚を生み出してしまったこととも無縁ではありません。
最近は少し揺らいでいるようですが、「一強体制」の恐ろしさは、三権分立で社なく、行政独裁にあるように思います。
今回の番組を見てもらった人には伝わったと思いますが、日本の裁判や警察は、国民の生活を守るためにあるわけではありません。
いとも簡単に、平和な生活を壊す暴力性を持っています。
以前、厚生労働省の村木さんの事件がありました。
彼女は、その体験を活かしてくれませんでしたが、それでも裁判の問題点をいくぶんか顕在化してくれました。
司法の世界はもっと透明性と公正性を求められるべきではないかと思いますが、ある意味では、司法の世界は、権力にとっては大切な機能ですから、そう簡単には民主化はできないのでしょう。
煙石さん家族は、冤罪は晴れたとはいえ、人生を一変させてしまったでしょう。
煙石さんの人生が戻るわけでもありませんし、いまなお冤罪だということを知らない人もいるでしょう。
冤罪というよりも、一度、逮捕されたり訴追されるだけで、人の人生は脆くも崩れます。
それだけのつよい暴力性を持っている裁判制度が、司法関係者によっていかにも恣意的に運営されていることへの恐ろしさを感じます。
しかも、こういうことは、誰にも起こり得ることです。
幸いに、煙石さんには伴侶と息子さんがいました。
信頼する友人もいたでしょう。
裁判や警察という「暴力装置」から自らを守るためには、そういう、絶対に信じてくれる存在が不可欠です。
それにしても、司法から身を守ることが必要だという状況は恐ろしい気がします。
私もいつ煙石さんのような状況に追いやられるかわかりません。
その日のために明言しておきたいと思いますが、私はどんな時にも、決して嘘はつきません。
柳瀬さんや佐川さんのような人間ではないことだけを、ここに誓って明言しておきます。
もし「犯罪」を犯した場合は、その責はしっかりと受けるつもりです。
ちなみに、私は「犯罪」を犯すことよりも、嘘をつくことの方が恥ずべきことだと思っている人間です。
この番組のことは、煙石さんの友人でもある折口さんから教えてもらいました。
私も多くの人に知ってほしくてフェイスブックで紹介したら、10人を超える人たちがシェアしてくれました。
そして番組を見た感想を何人かの人が送ってきてくれました。
私の過去のブログへのアクセスも昨日は久しぶりに1000を大きく超えました。
わざわざ電話をくださった人もいます。
ささやかに煙石さんへのエールになれて、とてもうれしいです。
煙石家族の誠実な対応に敬意と感謝を捧げます。
煙石さんの行動が、間接的ではありますが、私の生活を守ってくださったことは間違いありません。
しかし、不条理の多い時代です。
■コムケアサロン「介護者になること、遺族になるということ」のご案内(2018年5月11日)
6月は宮田さんをゲストに、「ケア」の本質を考えるコムケアサロンを開催しますが、併せて、実際問題にどう向き合うかに焦点を絞ったコムケアサロンも開催します。
それも視点を少し広げて、「介護者になること、遺族になるということ」を切り口にして、「coping」という手法を駆使して、実践的に課題解決に関わっている千葉さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表)にお話をお願いしました。
千葉さんからのメッセージです。
「coping」とは“課題に向き合うこと”です。
介護者や、人が亡くなったあと遺族となった人は、様々な課題を抱えることになります。
そこには、誰もが知るような表面的な悩みもあれば、当事者も気づくことが難しい内面的に 隠れた悩みもあります。
高齢期における当事者と、支えになる人を包括的に支援するには、 どのように向き合っていけばよいのでしょうか?
今までコレサポは、遺族支援や介護者支援の様々な現場で「coping」を実践してきました。
このセミナーは、今まで経験してきた「coping」の事例をご紹介します。
こんな感じで、サロン前半で千葉さんからお話をしてもらい、後半はそれに基づいての話し合いを考えています。
千葉さんは、copingセミナーも定期的に開催していますが、そのエッセンスも今回紹介していただけると思います。
具体的な相談などお持ちの方は、相談を持ち込んでいただいても結構です。
copingの考え方や手法に触れるだけでも、きっと何かの気づきを得られると思います。
みなさんの参加をお待ちしています。
○日時:2018年6月10日(日曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■嘘をつく人に振り回されたくありません(2018年5月11日)
昨日、柳瀬さんの国会での参考人発言が中継されていましたが、見ませんでした。
そもそもなぜ「嘘をつく人」を国会にまで呼んで大騒ぎしなければいけないのか。
一度嘘をついた人は、謝罪して嘘を認めない以上、さらに嘘を重ねていくしかありませんし、そもそも嘘をつく人の意見に耳を傾けること自体に、意味はないと思います。
佐川さんの証人喚問の時、テレビの報道をずっと見ていて、残念ながらそのことを再確認しました。
だから今回は見ませんでしたし、録画もしませんでした。
柳瀬さんが嘘をついていることは、子どもであれば誰もわかるでしょう。
認めないのは、自らも嘘をつくことを知った大人だけでしょう。
柳瀬さんには、親身になって諭してやる家族や友人はいないのでしょうか。
佐川さんの時もそうでしたが、柳瀬さんの写真を見るといつも同情を禁じ得ません。
テレビのサンデーモーニングで先週、田中秀征さんが、柳瀬さんは誠実な人で、自分のために発言しているとは思えない、というようなことを話されていました。
この発言には驚きました。
「自分のため?」
田中さんも同じ穴のムジナなのかと、がっかりしました。
柳瀬さんの言動は、どう考えても保身のためとしか思えませんが、そうは見えてない人もいるわけです。
嘘をつく人を相手にするのは、もうやめたほうがいい。
嘘をつく人たちから、政治を取り戻したいですが、いまや政治の世界は嘘つきしか活躍できないのかもしれません。
保身のための嘘で、どれだけの国税が浪費されていることか。
嘘をついたおかげで国税庁長官になれるような社会では、嘘をつくことが奨励されるようになっていくでしょう。
税金を払いたくなくなる人も増えかねません。
脱税とか税務申告漏れも「嘘つき行為」でしょうが、官僚や政治家たちの「脱税的嘘」が、もっと厳しく糾弾されないと、嘘が美徳の社会が来てしまいかねません。
15年ほど前に、ホームページに「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」というメッセージを書きました。
その頃の危惧がまさに現実になってしまったのがさびしいです。
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2
■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」へのお誘い(2018年5月12日)
「茶色の朝」サロンの4回目です。
このサロンは、フランスで話題になった、社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話を描いた「茶色の朝」を読み合うことから始まったサロンです。
「茶色の朝」は短い寓話で、日本でも翻訳されていますし、またネットでも全文が公開されていて、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
私たちのまわりにある、「ちょっと気になっていること」を話し合いながら、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けて、それぞれができることを考えていくような場として、このサロン(茶色の朝、brown
morning salonの頭文字をとってこれからBMSカフェと呼びます)を継続的に開催していこうと思っています。
政治の捉え方はいろいろありますが、みんなが暮らしやすい社会を実現することが大きな目的であるならば、政治は私たちの生活に深くつながっています。
にもかかわらず、「政治」にはあまり関わりたくないと思っている人も少なくありません。
現在の政治についての話し合いさえしたがらない傾向があります。
しかし、消費税も憲法改正も、社会保障も教育行政も、私たちの生活に深くつながっています。
生活者である私たち自身が、しっかりと関心を持ち、意見を表明していくことは、政治をよくしていく上でとても大切なことです。
このBMSカフェでは、自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
そんなかたちで、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方も話し合えるような場を目指したいと思います。
今回は、ちょっと「いまの政治」を少し話し合えればと思います。
いまの政治でいいのだろうか?
3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらい、それを入り口に、それぞれが持っている疑問を投げかけるサロンにできればと思います。
誰もが気楽に話し合えるお茶会のような感じで、気楽にご参加ください。
中学生から高齢者まで、さまざまなお立場の方に、ぜひご参加していただければと思っています。
まわりの方もお誘いいただければうれしいです。
○日時:2018年6月12日(火曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:いまの政治でいいのだろうか?
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます(2018年5月17日)
明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます。
これからの私たちの社会を方向づける、大切な判決だと思います。
それに合わせて、訴訟関係者たちによって「九条俳句訴訟と公民館の自由」(佐藤一子/安藤聡彦/長澤成次編著 エイデル研究所)が緊急出版されました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいとともに、18日の判決にも関心を持っていただきたくて、ホームページやブログで本の紹介をさせてもらいましたが、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。
さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、明日の5月18日に出されます。
俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。
本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。
原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」
まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。
6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。
ちなみに、私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。
そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
本書を読んで、改めてまた、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。
■「先史学者プラトン」は世界を広げてくれます(2018年5月17日)
月曜日の朝日新聞1面下の書籍広告欄で、國分功一郎さんが、「大胆な議論をぜひ楽しんでもらいたい」と、「先史学者プラトン」を推薦していました。
それで読んでしまいました。
30年ほど前の著作ですが、日本では今年になって翻訳出版されました。
プラトンと先史時代といえば、アトランティス大陸を思い出しますが、本書の著者はアトランティス大陸ではなく、大異変後の大きな戦争の痕跡に焦点を当て、人類の定住や文化の原型に関して、考古学と神話をつなげながら語ってくれます。
いささか複雑で全体像がすっきりしないのですが、これまでの常識とは大きく違った全体像がおぼろに見える気がします。
古代アナトリアのチャタル・ヒュユク遺跡の話がとてもていねいに書かれていますが、今から7500年ほど前にこんな建物と生活があったのかと驚きました。
エジプトやシュメールの文明はどこから来たのか、今も明確ではありませんが、その謎解きの一つの材料が、そこにありそうです。
1万年ほど前に、先史文明があったという議論はいろいろとありますが、そうしたものが消えてしまったのは海岸線の上昇のためとも書かれています。
当時の文明は消滅し、辺鄙な山奥の文明が辛うじて残り、それが復活したのが、古代文明というわけです。
もうひとつ興味深かったのは、ゾロアスターの役割です。
現代のいわゆる三大宗教のすべてに関わっていることが示唆されています。
いやそこから「宗教」とは何かという問いさえ感じられます。
イラストも豊富で(ほんとかなという疑問を時々感じながら見ましたが)、論理を超えて強烈な印象を受けました。
そのおかげで、日本の市松模様もアナトリア発だったのだと、洗脳されてしまいました。
おまけとして、プラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』の関連個所抜粋がついていますので、私も初めて読みました。
これが実に面白いです。
國分さんがいうように、大胆な議論を3日間、楽しませてもらいました。
退屈している人には、お薦めの1冊です。
ディテールに引きずり込まれると、大胆な議論は楽しめないので、要注意ですが。
■日大アメフト反則行為事件に思う事(2018年5月18日)
日大アメフト反則行為事件が連日テレビをにぎわせています。
議論する以前の、あきれた話なので、事件そのものにはあまり関心はないのですが、肝心の日大アメフト部員が、内田監督体制に「ノー」を突き付けだしたという報道に、うれしいものを感じます。
体制にしたがうのではなく、ノーという動きが、ようやく出始めたかと期待します。
これは、もしかしたら、新しい時代の到来の予兆かもしれません。
愛媛県知事の、霞が関への「ノー」も元気づけられます。
誰が考えてもおかしな発言を繰り返す霞が関や永田町に、ようやく「ノー」を言い続ける知事が出てきたわけです。
いままでは、沖縄県知事くらいしか、「国家」と対峙してこなかった、日本の国のあり方が変わる予兆を感じます。
おかしなことはおかしいと言わなければいけません。
もし、それが言えないのであれば、それはもう「人間をやめていること」です。
最近では、いかに多くの人が、人間をやめてしまっていることか。
今回、実際に反則行為をやった選手は、3回もやっていますが、そこにある「メッセージ」も感じます。
彼は、もしかしたら、「抗議」を仕掛けたのではないかとさえ思います。
テレビの解説では、アメフトはフォーメーションプレーだと言われています。
今回の事件を見る限り、私には日大のチームの行動はフォーメーションプレーなどとは思えません。
監督の独裁プレーでしかありません。
フォーメーションプレーは、ひとりひとりのメンバーの主体性が大事にされてこそのチームでなければいけません。
人の存在しないフォーメーションプレーはありえません。
話がそれましたが、日大の学生たちのこれからの行動に期待しています。
自分たちで、自分たちの組織は変えていかねばいけません。
霞が関の官庁や大企業も、そうなっていけば、未来はきっと開けていきます。
社会を変えるのは、若者たちです。
日大の学生たちに、その希望の光を感じています。
■第3回「なぜ生きるのか」サロン報告(2018年5月17日)
「なぜ生きるのか」をテーマにした3回目のサロンを開催しました。
初参加の方も含めて、13人が集まりました。
このサロンは、これまで、それぞれの問題を解放し、どうしたらいいかなどを話し合うのが基本だったのですが、今回は、主客を逆転させて、誰かに助けを求めるのではなく、それぞれの人が、自分でできることを語りあおうという呼びかけをしました。
それは同時に、自らへの肯定感を強め、自らを認めることにつながると考えたからです。
最初は少しそういう方向に動きましたが、結局、いつものように、自らの問題を解放しながら、その問題をどうしたら乗り越えられるかというような話になっていきました。
私としては、毎回、同じ話を聞くわけですが、同じ話ばかりして、ここは慰め合うだけの場ではないと、意地の悪い発言をしたくなってしまいます。
それを言ったらおしまいなのですが、今回はそれを言ってしまいました。
感情に負けてしまいました。
案の定、参加者からは、きびしい抗議を受けました。
疲労感と挫折感が大きくて、報告を書けずにいました。
できたらどなたか、私をこき下ろす内容でもいいので、報告してもらえればうれしいです。
念のために言えば、参加者による、前向きの話もいくつかありました。
元気づける話もありました。
翌日、また続きをやりたいというメールももらいました。
懲りずに4回目をやろうかどうか、迷います。
サロンは、それなりに疲れます。
初参加の方は、少し戸惑われたかもしれません。
お許しください。
■3863:人は「つながり」に支えられて生きている(2018年5月19日)
節子
また身体がかゆくて、朝早く目が覚めてしまいました。
パソコンを開いたら、いろんな人からメールがはいっていました。
昨夜、いくつかのメールを発信していたからです。
このブログは、一時期、あまり書かなかったことで、アクセウス数が激減しました・
最初の頃は、時評と挽歌をそれぞれ毎日書いていたのですが、当時は毎日300〜400のアクセスがありました。
時評編を時々しか書かなくなったら、200前後に低下しました。
それが、最近は100前後にまで減少しています。
先日、煙石さんが話題になった時には、1日1000を超えるアクセスがありました。
昨日も、ここでも書いた「九条俳句訴訟」の判決が出たので、少し増加しましたが、200には達しませんでした。
時評編を書けば、アクセスは増えるのですが、昨今の世情では、時評を書く元気がなかなか出てきません。
日本も「茶色の朝」になってきてしまった気がしてなりません。
しかし、だからこそ時評編を書くべきなのかもしれません。
しばらく音信がなかったイルカさんという、まだお会いしたことのない方から、先日、メールが来ました。
ブログを読んでくださっているとのことです。
そういえば、広島の折口さんも、たぶん読んでくださっているでしょう。
いずれもまだお会いしたことのない人です。
そういう、私も知らない方とつながっていることは、支えになります。
湯島のサロンでつながっている人たち。
ブログやフェイスブックでつながっている人たち。
人は「つながり」に支えられて、生きていると言っていいでしょう。
昨日、先日開催した第3回「生きる意味」サロンの報告をメーリングリストで発信しました。
いささかの疲労感と挫折感とちょっと怒りを含んだ内容の報告でした。
どうもそれが「ヘルプ」に受け取られたようで、早速、2人の人が反応してくれました。
ひとりはこう書いてくれました。
佐藤さん、私は楽しかったし、一緒にお誘いした○○さんも楽しかった!と言っていました。
何故楽しいか?ただ本音を言っている安心感と信頼感が楽しいだけです。
あまりあれこれ考えずに、自分の本音を自由に話すって楽しいです。
また人が自由に話すのもなんだか嬉しいし、面白いです。
もうひとりの参加していなかった方は、
なぜ生きるのかについて、大好きな絵本があります。
「100万回生きた猫」(佐野洋子作・絵)
と教えてくれました。
他にもうれしいメールが届いていました。
人のつながりに感謝します。
今日は雨なので、畑には行けそうもありません。
机に積んでおいてあるだけのフーコーを読もうと思います。
■カフェサロン「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」報告(2018年5月20日)
日本子どもNPOセンターが、ブックレット「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」を出版したことのお知らせもかねて、そこで取り上げられているNGOフリー・ザ・チルドレン
ジャパン(FTCJ)の代表の中島早苗さんをゲストに、サロンを開催しました。
このタイトルにとても魅かれた私としては、たくさんの人で会場が大丈夫かなと実は心配していました。
実際には参加者は13人でしたが、半数は日本子どもNPOセンターの関係者で、ある程度問題を知っている人たちでした。
やはり「児童労働」というテーマは身近には考えてもらえないのかと、少し残念な気がしました。
フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)については、案内文に書きましたが、次のサイトに紹介されています。
http://www.ftcj.com/
現在、世界には約1億5000万人の児童労働者数がいるそうです。
5歳から17歳の子どもたちの10人に1人が、義務教育を十分に受けられない状況に置かれているということです。
こうした状況を変えていこうと思い立ったカナダの12歳のクレイグ少年がはじめたのが、「フリー・ザ・チェルドレン・プロジェクト」です。
クレイグ君は、実際に各地の児童労働の現場に行き、悲惨な児童労働の実状を目の当たりにします。
問題はとても大きく、子どもである自分に何ができるだろうか。
彼を勇気づけたのは、マザー・テレサの「若者には世界を変える力がある」という言葉でした。
そして、今やクレイグ少年の活動は、世界に広がる大きな運動になってきているのです。
中島さんは20代の時に、アメリカでこの活動を知って、1999年に日本で活動を始めました。
知った以上は何もしないわけにはいかないというのが中島さんの気持だったようです。
クレイグさんや中島さんたちは、「自分にできることを、自分に関心のあることに活かせていけば社会は変わる」と考えています。
人は誰でも「贈り物」(Gift 才能)をもらっている。
そのGift(才能)を、社会の気になる問題(Issue)に向けていこう。
そうすれば世界は変えられる。
“Gift+Issue=Change”。
好きなことを活かして変化を起こそう!世界を変えることは自分を変えることだ、というわけです。
その信念に基づいて、できるだけ多くの子どもたちに、それを実感できる場を創っていこうというのが、中島さんたちの活動です。
そして、そうした体験をした子どもたちは、変わっていく。
そして世界も変わっていく。
とても共感できる活動です。
「世界は変えられる!」と、子どもたちが信じられる社会になれば、世界は変わっていくでしょう。
お話を聞いた後、いろんな話が出ました。
まずは、家族労働と児童労働とは違うという話がありました。
家族が支え合って、子どもの頃から家族と一緒に働くのは、むしろ肯定されるべきかもしれません。
教育を受けられずに、文字が読めないことが生命にかかわってくる事例も話題に出ました。
ご自分の体験から、他国の文化に関わっていくことには慎重でなければいけないという意見も出ました。
豊かな日本の子どもたちよりも、経済的に貧しい国の子どもたちのほうが、目が輝いているという話もありました。
またNGOだけでは限界があるので、行政も巻き込んだ方がいいのではという意見もありました。
大人たちが、そうした子どもたちを応援することも重要だという指摘もありました。
たぶんみんなそうなのだと思います。
しかし私は、やはり「子どもたちが主役になって動き出したこと」に、新しい時代のはじまりを感じました。
その一方で、日本の子どもたちの置かれている状況はどうなのだろうかと思いました。
さらに日本の大人たちはどうだろうか。
「世界(社会)は変えられる」と思っている大人たちはどのくらいいるのだろうか。
いろいろと考えさせられるサロンでした。
ちなみにクレイグさんたちの活動は、名称を“WE movement”と変えていますが、アメリカ各地で“WE day”という子どもたち主役の集まりをやっています。
ネットで動画が見られますので、ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/pg/WEmovement/videos/?ref=page_internal
中島さんたちは、3年後に日本で “WE day”を開催したいと考えています。
そのために資金的な支援を含めて、この動きをたくさんの人に知ってほしいと考えています。
未来は子どもたちが創っていきます。
しかし、大人も、その子どもたちを支援することはできます。
“Gift+Issue=Change”は、大人たちにも当てはまります。
フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)のサイトをご覧になって、何かできることが見つかったら、ぜひ応援してください。
http://www.ftcj.com/
私も、「世界は変えられる!」と、改めてまた確信しました。
元気が出るサロンでした。
■文化の違いが生みだす不幸(2018年5月23日)
最近つくづく「文化の違い」を感じます。
多様な文化は、豊かさを生み出すと考えている私にとっては、同時にそれが、「不幸」を生み出すことに気づかされるのは、いささかさびしいことです。
たとえば、今回の日大アメフト反則行為事件。
昨日の実行者宮川さんの記者会見を見ながら、みんな「被害者」かもしれないと思ったのです。
それまでは内田監督に強い拒否感を持っていましたが、その気持ちが逆に薄れました。
問題は、それぞれの「文化の違い」なのだと思ったのです。
たとえば、狛江市のセクハラ辞職。
たぶん市長には「セクハラ」という意識はなかったでしょう。
それが「セクハラ」だと言われそうですが、ハラスメントとは「文化の違い」から生まれるのかもしれません。
ある文化の「常識」が、別の文化では「悪事」になる。
こうしたことはいくらでも出せるでしょう。
文化の多様性は、ある意味では「生きづらさ」を生み出すのかもしれません。
つまり「自由」こそが「生きづらさ」の原因にもなりうるわけです。
今日の朝日新聞の「声」(投書欄)に、12歳の中学生の山口君が『あこがれた「自由」は苦しかった』と投稿しています。
彼は中学校の入学式で「この学校には拘束はありません」と言われてうれしかったそうです。
それまで通っていた小学校には、厳しい校則があったからです。
しかし、校則がない環境で生活していくうちに、「自由は苦しい」ということに気づいたそうです。
湯島のサロンでも、同じようなことの体験談が語られたことがあります。
ちなみに、山口君は、今の心境も書いてくれています。
「いまは、苦しいかもしれないけれど、これからこの自由の中で色々なことを学び、早く自由を心から楽しめるようになりたいです」
もしかしたら、日本の育児や教育の世界は、順序を間違えているのかもしれません。
そのために、自発的な自己規制や主体性が育つ前に、管理的な規則(指示)遵守姿勢が育ってしまうのかもしれません。
多様な感性を持っていると悩むことも多いですが、機械の部品になれば、悩むことはありません。
「生きる力」とは何でしょうか。
オルテガは「大衆」の時代への危惧を指摘しました。
ネグリは、「マルチチュード」(群衆)の可能性を指摘しました。
可能性があるのであれば、それを信頼するというのが私の信条です。
ちょっとした「文化の違い」を、増幅させるのではなく、その根底にある共通性から、私は学びたいと思います。
そういう意味では、昨今のマスコミの姿勢には大きな危機感があります。
まるで全体主義国家時代のような報道姿勢には違和感を持ちます。
「文化の違い」を活かし合う、豊かな社会を目指したいです。
宮川さんも、狛江市長も、とても大切なことを学んだことでしょう。
私もまた、彼らと同じように、そこから学びました。
彼らは、いずれも象徴的な存在として、大きなメッセージを発してくれていますので。
宮川さんも内田さんも、狛江市の市長にも、感謝しています。
私の言動も質さなければいけません。
■日大アメフト反則行為事件に思う事その2(2018年5月24日)
日大アメフト反則行為事件に関連して3つの記者会見がありました。
被害者の父親、加害者本人、そして日大関係者です。
それを見て、改めて文化の違いを実感しました。
とりわけ強烈だったのは、日大アメフト部の内田監督と井上コーチの記者会見でした。
たぶん日本国中ブーイングで、その報道の仕方も強烈です。
しかし、私自身は内田監督や井上コーチの心境も、それなりに理解できます。
ですから、内田さんと井上さんを一方的に非難する風潮にはやはり違和感を持ちます。
そして、立場が弱くなった途端に、姿勢を変えるマスコミと、それに同調する「大衆」には恐ろしさを感じます。
宮川選手を生み出したのが、日大アメフト部の文化なら、その日大アメフト文化を生み出したのが何なのか、そして、私もまたそれに遠くではつながっていることを、それぞれがしっかりと認識して、批判したいものです。
それ以前に、森友・加計学園、官僚の記録文書の意図的廃棄などの方にこそ、そのエネルギーが向かってほしいものです。
内田さんと安倍首相を比べたら、私には安倍首相の言動の方こそ、大きな問題ではないかと思っています。
私は「文化の違い」を理解しあえていないことが問題ではないかと考えています。
違った文化であることを理解しないと、会話は成り立たない。
それを踏まえて、問題を考えていかないとすれ違いと非難のやり取りで終わってしまうからです。
私は昨今のスポーツのあり方には強い拒否感があります。
スポーツ産業化を感じています。
最近のスタイルのオリンピックには賛成できません。
オリンピック産業に便乗する人たちとは別の世界に住んでいるので、彼らを否定はしませんが、共感はできません。
また、芸能やスポーツの分野で、親が子どもを一筋に集中させることにも嫌悪感を持っています。
先日、湯島でやった「児童労働」とどう違うのかと思うことさえあります。
企業や政治も同じですが、そうした文化そのものを考え直すべきではないかと思っています。
せめて、その次元で、お互いに分かり合って、より良い方向を一緒に創りだす。
それが大切ではないかと思います。
異論にも耳を傾けて相手を理解するとともに、自らの考えを相対化しようと言いたいのです。
相手を責めてばかりいる姿勢には共感はできません。
格闘技はもちろんあまり好きではありません。
射撃などがスポーツと言われると拒否感が生まれます。
国会デモのシュプレヒコールは、私には安倍首相の空疎な答弁や今回のラフプレーに通ずる「暴力性」を感じて、最近はその種のデモには参加できなくなっています。
「デモ」とは何かも捉え直したい。
力に対して有効なのは力ではないと思っています。
核抑止論否定論者で、ガンジーのスタイルに共感します。
最近では、文化の多様性が消えて、ほぼみんな「金銭経済の文化」に取り込まれていることに大きな危惧を感じます。
働き方改革法案の問題設定にも基本的に違和感があります。
働き方ではなく、生き方を見直すべきではないのか。
そもそもライフ・ワーク・バランスや男女平等参画と言っている発想を見直すべきではないかとも思っています。
書きだすときりがないほど、現代の社会には違和感があります。
蛇足ですが、内田監督や井上コーチを一方的に非難するテレビタレントにも、哀しさを感じます。
彼らはまったくリスクを取っていない。
もっと怒りを持つべき対象が、自分の世界にもあるだろうと言いたい気分です。
■2つの記者会見は矛盾していないように思います(2018年5月25日)
日大アメフト反則行為事件で、宮川選手と内田監督・井上コーチの、それぞれの記者会見の発言が真逆だというような報道がほとんどです。
内田・井上両名は、宮川発言を全否定したと報道している新聞やテレビ出演者もいます。
私はかなり丁寧に記者会見をテレビで視聴したつもりですが、双方の発言には致命的な矛盾はないように思いました。
見方や捉え方が違うだけで、とても整合性があり、事実がよりよく見えてきた気がします。
報道関係者も視聴者も、両者が「敵対」しているという前提で、勝手に物語をつくっているような気がします。
誠実に、内田さんや井上さんの発言を聞けば、宮川さんの発言をむしろ補強しているようにさえ、私には思えます。
井上さんは、明確に「宮川選手は嘘をついていない」とも言っています。
誰か個人を悪者にしているだけでは、気持ちはすっきりしても、問題は解決しません。
双方の言い分を要素分解し、それを時系列に並べて行ったら、その発言の真意も見えてきて、全体像はかなり明確になってくるはずです。
そしてそこからこそ、事実や課題が見えてくる。
発言を最初から「正しいか嘘か」と見るのではなく、双方の違いから、事実を説いていく姿勢が大切ではないかと思います。
日大アメフト部の現役選手が動き出したようですが、マスコミが彼らをまた「使い込む」危惧を感じます。
しかし、宮川会見は、こうしていろんな動きを起こし出しました。
大きな変化は、いつも小さな変化から始まります。
こうした動きが、若者の世界を超えて、官僚や政党や企業や自治体にも、波及していくことを願います。
そのためにも、単純な敵対構図に基づく同調文化は打破したいです。
私には、宮川選手も内田監督も井上コーチも、同じ状況の中で、同じ行動をとっていると思えます。
そのことを一番よく認識しているのは、宮川選手のようにも感じます。
私は、いつも一歩退いて、マスコミ報道を捉えるようにしています。
国会中継をずっと見ていると、ニュースがいかに自分勝手に切り取りをしているかがわかります。
与えられた情報は、材料であって、それをベースに自分で考える姿勢を大事にしたいと思います。
マスコミはまさに「フェイクニュース」を創ってきている。
それは、いまのマスコミの限界かもしれません。
そう思って、マスコミ報道に接しています。
■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」報告(2018年5月26日)
湯島では、憲法議論はこれまで何回もやりました。
でもどうもすっきりしません。
そこで今回は、抽象的な議論ではなく、「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいか」について、それぞれの意見を出し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
休日にもかかわらず、また国会前でのデモなどもあったにもかかわらず、12人の人が集まりました。
残念ながら女性は1人だけでした。
生活保護家族の子どもたちに関わっている女性です。
こういう人が参加してくれるのが一番うれしいです。
呼びかけの主旨を受けて、最初に意見を述べてくださった方は、「天皇条項」を最初の1条に置いたことを問題にしました。
そして、先の戦争では同じ敗戦国だったドイツとイタリアの憲法が、それぞれ「人間の尊厳」や「国民主権」を第1条に掲げていることを紹介してくれました。
それと12条も問題にしました。
憲法で保障する自由および権利は、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という条文です。
同時にその条文は、公共の福祉のために(自由と権利を)利用する責任を負うということを決めています。
福祉に関わっている女性は、生存権を規定している25条を守りたいと指摘しました。
「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文です。
その2項では、それを保障するための国の責任が明記されています。
彼女は、12条の「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」には肯定的な意見でした。
私は、第11条を一番守りたいと言いました。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」というところです。
その基本は、13条の「すべて国民は、個人として尊重される」ことではないかと、自分で憲法改正を書いて出版している人が補足してくれました。
これに関連して、日本国憲法には、人権原則と統治原則が献愛しているという指摘もありました。
憲法の一番大切なのは「前文」だと思うという指摘もありました。
それに関連して、日本国憲法は理念とルールが混在しているという話も出ました。
アメリカ憲法はルール的な内容であり、理念は独立宣言などに謳われているという話も出て、「憲法とは何か」というような議論もちょっと出ました。
英米法の世界では、「国のかたちを規定する理念」と「統治のためのルール」を合わせて、「憲法」であり、条文としての成文憲法だけが憲法ではないとされますが、「日本国憲法」をそういう意味で、もう少しゆるやかに捉えることも必要かもしれません。
9条に関しては、もちろん議論の対象になりました。
自衛隊は憲法違反かどうか、戦争をする権利は国にあるのか、自衛戦争ではない戦争はあるのか、などという議論はありましたが、みんな「平和」でありたいという思いは一緒だと思います。
しかし、平和を実現するための方法がまったく正反対なわけです。
私自身は、それはそもそも「平和」の捉え方が間違っているからだと思っていますが、今回はあまり深入りしませんでした。
司法の問題も出ました。
司法の頂点にいる最高裁長官は内閣の指名により天皇が(形式的に)任命すると憲法6条で規定されています。
つまり行政が司法のトップを決めることができますから、日本では三権分立にはなっていません。
そのために、砂川判決のような「統治権最優先」が可能になり、政府による違憲行為を止める法あくがなくなったわけですが、そこをただすべきだという指摘がありました。
98条の「憲法は国の最高法規」であって、その条規に反する法律、命令などは、その効力を有しないという条項も議論の対象になりました。
条文にはないですが、憲法違反者は厳罰に処せられることを明記すべきだという指摘もありました。
具体的に条文が出てきたのはこのくらいでしょうか。
メールでは、地方自治や財政原則などに関する意見ももらっていましたが、紹介はさせてもらいましたが、地方議員がいなかったこともあり、話題にはなりませんでした。
そもそも今の日本国憲法は文章が整理されていなくて、読んでもわからないことが多い。
もっと誰でもわかるような平明な文章に治してほしいという指摘がありましたが、これはたぶん参加者みんなの意見でもあるようでした。
しかし、だからと言って、いまの憲法を変えなければいけないということでもないと思っている人も半分くらいいたように思います。
まだまだいろんな意見が出ましたが、話題の選択も含めて、以上の報告は私の主観的判断がかなり入っていると思います。
参加者によっては、受け取り方も違っていると思います。
しかし、改めて、こういう憲法を話し合う場が、広がっていくといいなと改めて思いました。
憲法をテーマにしたサロンは、誰かやりたい人がいたら、随時開催していこうと思います。
話したい人がいたら、気楽にご連絡ください。
■日大アメフト反則行為事件に、改めて思うこと(2018年5月28日)
日大アメフト反則行為事件に関しては、「追い込まれた状況」が焦点になってきて、宮川選手はむしろ「被害者」として支援されてきているような空気を感じます。
それに関連して、ちょっと思いだしたことを書きます。
「乖離」という日大アメフト部側の言葉も問題にされていますが、「乖離」など当然のことで、コミュニケーションとはそれを前提にして行われる行為です。
乖離をなくすことなどできるはずがなく、乖離を前提に共通の思いをどのくらい増やすかが大切なことです。
その出発点は、相手を変えることではなく、自らが変わることです。
これに関しては以前書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm
「コミュニケーション」という言葉が、あまりに安直に使われている風潮には違和感があります。
「追い込まれる」ということに関しては、以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から、この表現では「自殺者」が責められているように感ずると言われました。
以来、「自殺に追い込まれることのない社会」という表現を使うようにしています。
それを思い出しました。
もうひとつ思い出したのは、たとえば、「秋葉原通り魔事件」の加藤さんのことです。
彼もきっと「追い込まれていた」のでしょう。
人はだれも、他者に迷惑などかけたくないはずだ、ルールも守りたいはずだと私は確信していますが、そのルールが破られる理由は2つあります。
ルールが悪いか、追いやられるかです。
そして、それは重なっています。
絶対のルールなどありませんから、どのルールに従うかは、時に矛盾します。
ISの行為がいかに理不尽に見えても、その世界の人には、理に合ったルールなのでしょう。
日大アメフト部のルールがあって、それが宮川選手を追い込んだ。
世間一般のルールと日大アメフト部のルールの、どちらを守るべきか。
そこで、自分が見えなくなる。
加藤さんもそうだったのかもしれません。
宮川選手と加藤さんを並べることには異論を持つ人が多いでしょうが、私にはつながって見えてしまいます。
さらに言えば、そういう人はたくさんいる。
だからこそ、宮川選手へのシンパシーは高まるのでしょう。
しかし、そこにも私は危うさを感じます。
念のために言えば、宮川さんの記者会見直後に書いたように、私は宮川さんの記者会見に感激しましたが、それはこういうことを明らかにしてくれた勇気にです。
宮川選手がやったことは、やはり彼自身が自覚しているように、きっちりと償われなければいけません。
宮川さん自身のためにも。
さらに加えれば、世界には多様なルールがあります。
しかし、一番大切なのは、自らのルールです。
納得できないルールに、毅然として「ノー」というためには、自らのルールが必要です。
ルールは思考停止の道具ではなく、よりよく生きるための思考を支援する道具です。
ですから、ルールは時には破られてこそ、意味がある。
マニュアルと同じように。
■日大アメフト事件のその後の動きにまたまた思うこと(2018年5月30日)
日大アメフト事件は、やはりいつもの通り、安直なところに落ち着いてしまった気がします。
日大アメフト部の部員の声明文は、大きな救いですが、
結局は、内田さんと井上さんと森さんが、切られただけで終わってしまいそうです。
この事件が起きた時、私はフェイスブックにも書きましたが、宮川選手の身を挺した内部告発行為だと感じました。
そしてそれは成功し、大きな話題になりました。
しかし、それが日大アメフト部の3人のリーダーにとどまったのは、私にはちょっと残念です。
私のフェイスブックに、友人が宮川選手に対して痛烈な意見を書き込みました。
オウムの場合、実行犯は死刑になったのに、宮川選手はみんなから同情された。
その違いは何なのかは、考えてみる価値があります。
私は、内田監督のような人には強い拒否感があります。
しかし、内田さんを厳しく非難するアメフト関係者やスポーツジャーナリストには、もっと強い拒否感があります。
これも以前よくブログに書いたことですが、組織が起こした問題は組織全体の責任だと私は思っています。
誰か一人に責任を押し付けたり、「反論できる状況ではなかった」などという言い訳が、私の最も嫌いなものです。
なかには「連帯責任」を否定している人もいますが、組織で起こった不祥事は組織にいる人は誰もが無縁ではありえません。
さらに言えば、その実態を知っていたり、知りうる立場にある人もまた、無縁ではありません。
原発事故の責任が、それを許していた日本人すべてにあるように、です。
日大の荒っぽいやり方は、アメフト関係者であれば、たぶん多くの人は知っていたはずです。
あそこまで「ひどい」とか「反則是認」と思っていなかったかもしれませんが、反則行為は全て連続しています。
薄々かもしれませんが、みんな知っていたでしょう。
だからこそ、最初の頃、多くの人が、SNSで広がらなかったらこんなに大きな問題にはならなかったと言われていたわけです。
そうした風潮の中で、内田さんは自らのやった行為が、自らの「除名」にまでつながるとは思ってもいなかったでしょう。
内田さんには、自分のやっていることがそんなに大きく逸脱しているとは思っていなかった。
そんな気がしてなりません。
関東学生連盟の関係者処分には、関東学生連盟関係者が含まれていなかったことに私は失望しました。
日大アメフト部の部員たちの声明文とは全く違います。
当事者意識がまったくない。
それでは内田監督や日大関係者と全く同じです。
だから、今回の事件で、日本のアメフトやスポーツ界はあんまり変わらないだろうと思った次第です。
日大アメフト部だけが例外だったのか。
私にはそうは思えません。
内田監督の反撃はないでしょうが、そして反撃しないような状況は作られるでしょうが、どうも「特別の事件」にされてしまっているのが、気になります。
アメフトを知らない者の妄想かもしれません。
しかし、事件解決の標準モデルのスタイルのような気がして、どうもすっきりしません。
■誕生日に「おめでとう」のメッセージを送ること(2018年5月31日)
私は、儀礼的な挨拶が苦手です。
そういう挨拶をするのはなんとかできますが、応えるのが特に苦手です。
困ったものですが。
昨日、喜寿の誕生日でした。
フェイスブックには、誕生日にメッセージを送ることが仕組みとして組み込まれています。
最初はそれがいい仕組みだと思っていました。
年賀状も同じですが、年に1回、普段あまり交流のない人に、安否もかねて交流することに大きな意味があると思っていました。
しかし、最近は、基本的には誕生日に「おめでとう」というメッセージを送るのをやめました。
というのは、そういうメッセージが私のところにも来ることで感ずることがあったからです。
もちろん、うれしいメッセージは少なくありません。
昨日も、そういううれしいメッセージも少なからずありました。
しかし、フェイスブック仕込みの画像などが送られてくるのは、私の趣味ではありません。
年賀状や何かの記念日の時に、メールで既成の動画ハガキが添付されてくるのも同じですが、これほど味気ないものはありません。
あまり交流もなく、パーティなどで数回お会いした人から、人生の意味などを説かれると、相手を間違っているのではないかと、その人の姿勢に違和感を持ちます。
きっと誰にでも出すパターン文章なのでしょう。
あんまり書くと、人を非難することになりかねないのですが、挨拶とはもっと「心を込めて、相手に寄り添う形で(つまり標準パターンではなく)」送るものだと思います。
だからと言って何も長いメッセージである必要はありません。
同じ「おめでとうございます」の一言であっても、その人との関係性で、言葉の裏にある「気持ち」が伝わってくることもあります。
「誕生日にどうしておめでとうというのか」という、ひねくれた問いかけを昨日書いてしまいました。
いろんなアドバイスをいただきました。
私が言いたかったのは、「おめでとう」という言葉を、フェイスブックで「いいね」を押すような気持ちで送ることへの問いかけでした。
なんでこの人に「おめでとう」というのだろうかと、ちょっと考えるだけでもいいかもしれません。
機械的に、ただ「符牒」として、「おめでとう」と声をかけることに疑問があるのです。
人によっては、また時期によっては、「おめでとう」と言われたくない誕生日の時もあるのです。
それに、「おめでとう」ではなく、誕生日ですね、というだけでもいいでしょう。
どうして私はこの人に「おめでとう」と声をかけるのだろうか。
それをしっかりと考えた上での「おめでとう」は、それでも私には少し違和感はありますが、素直に受け入れることはできます。
しかし、FBから「今日は誰それさんの誕生日なのでメッセージを送信しよう」などといわれて発信するような風潮には、いささかの違和感があります。
バレンタインデイにチョコレートを送ろうという風潮がかつてはかなりありましたが、そうした風潮にしたがうことは私が一番嫌いな行為でした。
従って、チョコレートは嫌いだなどと嫌味を言ったりしてしまいましたが、実はチョコレートは好きなのです。
最近は幸いに誰からもチョコレートは届きません。
また余計なことを、しかも誤解されそうな書き方で書いてしまいました。
また友だちが減りそうです。
困ったものです。
■嘘がまかり通る社会になってしまいました(2018年5月31日)
以前、まだブログを始める前ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。
そこで書いたことを再録します。
〔メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002年2月7日)〕
今回の田中外相の更迭事件は「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の範を首相が示してくれた「歴史的な事件」でした。
子どもたちには大きな影響を与えるのではないかと思います。
リーダーとしての責任のとりかたについても、たくさんの影響を与えていくことでしょう。
子どもたちは学校の先生から何かを学ぶのではなく、大人たちの生き方から多くのことを学ぶのです。
影響力の大きいモデルの一人が、総理大臣です。
そして、彼を支えているのは私たちです。
私たちの生き方です。
重要な問題であるにも関わらず、誰が嘘をいっているかも明確にしようとしない人でもリーダーがつとまるわが国の政治は、いったい何なのだろうかと、いささか哀しく思います。
まあ、今に始まったことではないのでしょうが、ここまで明確にみんなに見えているにも関わらず、よくやるなあ、と感心してしまいます。
いずれにしろ、事実に基づかなくとも政治ができてしまうのです。
嘘をついても嘘をつかれても、どちらも罰せられるのであれば、嘘をついたほうが賢いともいえます。
実際、今回の結果はそうなったような気もします。
もしそうであれば、嘘の勧めというお裁きだったわけです。
小泉さんは日本の未来を2回変えたと私は思っています。
前回は、私は国会デモに参加して、自己満足的な抗議を行いましたが、今回はもっと本質的な問題を含んでいますので、デモ程度では対応できそうにありません。
そこで、一度、政治ってなんだろうか、という集まりをやりたいと思っています。
関心のある方はご連絡下さい。
それはともかく、今回の事件を皆さんはどうお考えでしょうか。
言った言わないよりも予算を早く決めるほうが大切だ、という人もいますが、嘘を奨励する人が作る予算など何の役に立つのでしょうか。
NGOの正しい評価や構造改革も大切ですが、それ以上に嘘を正さないことのほうが問題ではないかと私は思います。
子どもたちでもわかるような、基本的な問題こそが大切なのです。
言葉に惑わされて、感覚を麻痺させてはいけません。
私たちの生き方の根幹が問われているのです。
あなたは、嘘をつくことに呵責を感じない人たちがつくる予算を信じますか。
雪印食品の事件にも現れていますが、私たちは「嘘をつくこと」にあまりにも寛容になってしまっているのかもしれません。
政治も経済も嘘(虚像)の上に成り立っている。これが現在の姿です。
このことのおかしさを、少し考えてみることが必要なような気がします。
以上が16年前に書いたことです。
読み返してみると、その時の不安が現実化してしまいました。
すべてはこの時から始まった。
私はそう考えていますので、小泉さんの「脱原発」など一切信頼できません。
■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」のお誘い(2018年5月30日)
今回のサロンは、これからの社会のあり方を考える上で、とても大切な話なので、いつも以上に、ぜひ多くの人に参加してほしいサロンです。
さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)を覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展してしまいました。
地裁も高裁も住民勝訴でしたが、行政側はまだ「公民館だより」に掲載してくれていません。
この「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーが訴訟関係者たちによって出版されました。
「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)です。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
俳句の作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」
本書をテーマに湯島で開催することにしました。
本の編著者の一人で、この訴訟の応援もされてきた佐藤一子さん(東大名誉教授)も参加してくれる予定です。
平日の夜ですが、ぜひご参加ください。
○日時:2018年6月27日(水曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」へのお誘い(2018年6月1日)
湯島で新しい集まりをスタートさせます。
主催は、霜里農場の金子友子さんです。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちは、全国にたくさん広がっていますが、その人たちを毎回ゲストにお迎えして、その季節季節の旬の有機野菜を、簡単な料理で楽しんでもらおうという企画です。
同時に、意欲をもった有機野菜生産者を多くの人に知ってもらって、その応援者になってもらえればと思っています。
有機野菜の生産者を増やしていくためには、有機野菜の消費者を増やしていかねばなりません。
そして、有機野菜の良さを知ってもらうと同時に、食のあり方を考えてもらいたいと金子友子さんは考えています。
有機野菜作りに取り組んでいる若者たちは、好青年が多いです。
そうした好青年たちの「母親役」でもある、金子友子さんは、仕事が忙しくて、お嫁さん探しもなかなかできない有機野菜生産者のお嫁さん探しもできればと、考えているようです。
ほかにもまだいろいろと思いはありそうですが、しかし、ともかくはまず「有機野菜の旬を楽しんでもらいたい」というのが、友子さんの願いです。
最初のゲストは、千葉県の船橋市で有機野菜作りに取り組んでいる山田農場の山田勇一郎さんです。
私も先日、友子さんと一緒に山田農場を訪問して、山田さんと会ってきました。
お話だけでも十分に面白そうです。
ぜひ多くの人に参加していただき、美味しい有機野菜を味わってほしいと思っています。
○主催者:霜里農場の金子友子さん
○第1回生産者ゲスト:山田農場 山田勇一郎さん
○日時:2018年6月23日(土)14時〜16時
13時半から開場しています。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○会費:500円+思し召し(有機野菜のおいしさへの感謝)
○定員:15人以内 ※要予約(野菜の準備のため参加人数を把握したいので必ず申し込みください)
○申込先:湯島コンセプトワークショップ佐藤修
(メール:qzy00757@nifty.com 電話:03-6803-2575)
■解釈の違い(2018年6月6日)
文化の違いは解釈の違いを生みだします。
ですから同じ言葉が、違う意味や使われ方をしがちです。
昨日、国会で佐川前国税局長官の任命責任を問われた麻生財務大臣は、「適材適所の任命」だったと応えています。
麻生さんにとっては、適材が責任を果たした事例なのだろうと思います。
適材適所の意味するところが違いますから、議論は成り立ちません。
改ざんすることこそが、麻生さんは「適切な行為」と考えているかもしれません。
但し自分に迷惑をかけないように、ですが。
日大アメフト部の選手たちと監督・コーチも、同じ言葉を使いながら、その意味合いは違っていたと思います。
それを踏まえて事実を解析していく必要があります。
文化の違いなどというと大げさになりますが、視点の違いと言ってもいいでしょう。
視点によって、言葉の意味は違ってきます。
麻生さんと海江田さんの視点は違いますから、質問と回答はかみ合いません。
文化の違い、視点の違いを超えた、設問が求められます。
国会の議論を聞いていると、ほとんど言葉がかみ合っていない気がします。
ソクラテスは産婆術的な問いかけを繰り返し、相手の視点で問うことを大事にしたと言われます。
相手は、ソクラテスの問いに答えるのではなく、自らの問いに答えるように仕向けられます。
ですから防衛的な回答はできません。
なにしろ問いかけも答も自分で完結するわけですから。
そのために、ソクラテスは民衆によって死刑を宣告されたのでしょう。
私も基本的には、そうした問いかけを大切にしています。
他者に対しても、自らに対しても、です。
柳瀬さんも佐川さんも、大谷さんも矢野さんも、みんな「適材適所の適任者」なのです。
立派な官僚なのでしょう。
その構造を変えなければ、いけません。
しかし残念ながら最近の日本では、多くの人たちが(若者も含めて)、麻生さん的な「適材適所の適任者」を目指しているような気がしてなりません。
昨日、「マルクス・エンゲルス」という映画を岩波ホールで観ました。
https://eiga.com/movie/88435/
友人に勧められたのといくつかの映画評も読んでいたのですが、正直に言えば、まったく退屈な映画でした。
なんでいまさらこんな映画がヨーロッパで生まれるのだろうかと考えてしまいました。
そこに大きな示唆があるのかもしれません。
しかし、筋書きは退屈でしたが、もし若い人がこの映画を見たら、右脳的に影響を受けるような気がしました。
コモンズだったはずの森で枯れ木を取ることさえ許されずに殺害される風景が、視聴覚的な効果を活かして展開されるシーンから映画ははじまります。
まだ「人間」が左脳を持っていなかったような扱いに、私は違和感がありますが、導入部の演出としては見事です。
期待が膨らみ、そこにマルクスたちのすべてのメッセージを感じてしまう人もいるでしょう。
つづいて、エンゲルスの父親が経営している工場での労働者たちの怒りの集会が映し出されます。
経営方針に異議申し立てした女性が解雇され、そこからエンゲルスが、その労働者の女性と恋に落ちる展開は、いかにも現代流ですが、たぶん右脳的には効果的です。
ちなみにマルクスの妻は、貴族の娘です。
貴族とユダヤ人、ブルジョアの息子と貧しい労働者。
マルクス夫婦とエンゲルス夫婦の組み合わせは、20世紀の世界を象徴しています。
階級や所有や犯罪に関する問いかけが、そこには含意されています。
映像は書物とは違って、人間の心身に響いてきます。
もし私が若かったら、動き出したくなる情念を植え付けられたかもしれません。
ヨーロッパでは、たぶんまだその可能性があるのでしょう。
しかし今の日本ではどうか。
適材適所から外れた自らの生き方を志向するよりも、適材適所に合わせた生き方を志向する方が快適だと思う文化が広がりだしているように思います。
そうした社会では、「言葉」は人を呪縛しだします。
言葉から自由になって、改めて映像や音からのメッセージを大切にしなければいけなくなってきたのかもしれません。
私は活字人間ですが、どうも活字の時代は終わりつつあるようです。
そうは思いたくはないのですが。
■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンの報告(2018年6月6日)
久し振りに熊本の宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)のサロンを開催しました。
宮田さんは、さまざまな分野で活動していますので、大きくは「福祉と農業」を基軸に最近の活動の紹介をしてもらいました。
10人の参加者がありました。
今回は思いきり主観的な報告をさせてもらいます。
宮田さんは、大きくは5つの話題をたくさんの資料を使って話してくれました。
大学新設、農福連携、フェアトレード、熊本地震と障害者支援、西本省三。
いずれも宮田さんが当事者として取り組んでいるお話ばかりです。
それらはバラバラの話題のようですが、宮田さんはそれらがしっかりとつながっていることを最近改めて実感してきた、とお話になりました。
たしかに5つの話題は、それぞれに完結してもいるのですが、人や社会を育てる大学を創る話からはじまった宮田さんの話は、最後に、中国研究者の西本省三は中国人をリスペクトしていたという話で、5つの話のループを完成させました。
キーワードは、人と人の関係性です。
宮田さんの人柄と生き方が、見事につながった話だったと思います。
大学を創る話や西本省三(宮田さんの縁戚の人)の記録をまとめるという話は、今回初めてお聞きしましたが、とても宮田さんらしい話だと納得しました。
そうした話題の中で、ご自身が対応しているケーススタディ的なお話もあり、そこでは「中動態」発想を活かして関係性を立て直していく最新のカウンセリングの体験なども、とても具体的に紹介してくれました。
その一方で、なぜ日本は日清戦争に勝利したのかというような話もあり、退屈しませんでした。
もっとも話題があまりにも多いので、私自身必ずしも消化できたわけではありません。
しかし宮田ワールドが目指していることや、それが今何を引き起こしているはなんとなく伝わってきました。
宮田さんの話は注意深く聞いていると、実に深い含意があります。
それを肩に力を入れることなく、さらっというので、聞き流すこともあるのですが、宮田さんにはラディカルさとリアリズムが、矛盾なく混在しています。
今回の話も、まさにそうした多様なものが混在しながらも、宮田さんの核はまったくぶれることなく、だからといって呪縛されることもない柔軟な生き方が語られていました。
それもあって、話し合いのところでは、農業の教育力とか農福連携の実状とか、福祉の世界の話とか、経済と社会の関係の話とか、いろいろと示唆に富む具体的な話題もでました。
公開は避けますが、宮田さんの個人的なビッグニュースもいくつか紹介されました。
これからは少し時間ができそうと言っていましたが、たぶん時間ができたら、さらに新しいことに取り組んでいく人ですから、むしろますます多様で多用な人生になって行くでしょう。
また時々、宮田さんの活動から社会の状況を垣間見るサロンをやってほしいと思います。
宮田さんが持ってきてくれたスリランカのインクルーシブコーヒーもみんなで楽しませてもらいました。
参加した人にだけしか伝わらない報告ですみません。
■雨にも負けず畑に行きましたが、デモはさぼりました(2018年6月10日)
私は昔、花巻に住んでいたそうです。
「そうだ」というのは、もうかなり昔の話なので、記憶がほとんどないのです。
その頃の友人が、いまは福島に住んでいますが、彼から30年ほどまえに教えてもらったのです。
当時、たぶん、花巻には宮沢賢治が住んでいたと思いますが、会った記憶はありません。
しかし、なぜかとても賢治には親近感があります。
賢治の「雨にも負けず」に描かれているような人になりたいと、私も思っていた頃があります。
いまはもうあきらめていますが、でも時々、思い出します。
というわけで、昨日は「暑さ」に負けずに、今日は「雨」にも負けずに、畑に行きました。
水やりではなく、声かけに行ったのですが、ついつい作業をやりだしたら、また1時間以上、在畑してしまいました。
昨日に懲りていたので、無理はしまいと思っていたのですが、やはりちょっとくらい無理をしないと、充実感がありません。
それでも汗はかきました。
以前は、シランが一画を占拠していたのですが、中途半端に手を入れたので、植生が一変しました。
気が付いたら今はほとんどありません。
花を植えるよりも、いまある花を応援したほうがいいと思い出しました。
笹竹退治からシラン支援に思想を変えることにしました。
畑も似ています。
真ん中の野草を抜いて苗を植えていたのですが、耕し方が不足していたため、ほとんど枯れてしまいました。
そこを放置していたら、そこに大根か青菜かわかりませんが、野菜らしきものがたくさん芽を出してきました。
以前、ここに育てていた野菜の種が発芽したのでしょう。
無理して野菜を植えるよりも、自然に出てくるものを活かす方がいいかもしれません。
午後は久しぶりに国会前に行こうと思っていたのですが、さぼってしまいました。
まだ百姓一揆までには時間がありそうなので、今日は読書させてもらいます。
晴耕雨読は、私の文化ではないのですが。
■「小さな被害者」と「大きな被害者」(2018年6月11日)
新幹線車内で起こった殺傷事件は衝撃的でした。
止めようとした若者が抵抗する間もなく殺害されたのは、実に悲しい。
最近、こうした不条理とも言うべき事件が起こるたびに思うのは、たぶん多くの人と違って、加害者の人のことです。
加害者に怒りを感ずる人も多いでしょうが、私には被害者以上に、加害者およびその周辺の人たちのことが気になります。
私の好きな言い方を使えば、「小さな被害者」「大きな被害者」です。
今回も、テレビに出てきた、加害者の若者とその祖母や父親のことを思うと、心が痛みます。
私たちは、多くの場合、「小さな被害者」、この言い方は誤解されそうなので、「直接の被害者」と言った方がいいかもしれませんが、そちらだけに目が行きがちですが、「加害者と呼ばれる被害者」(「大きな被害者」)にも、心を向けることが大切ではないかと、最近痛感しています。
そして、そういう「加害者と呼ばれる被害者」が生まれてしまうことに、まさにこの社会をつくっている一人である、私にもまた、大きなかかわりがあることを、いつも思い知らされます。
私は、社会のための貢献活動などには関心がありませんし、社会貢献などと自分でいう人の活動は信頼できません。
社会に役立ちたいなどとも思ったこともありません。
しかし、私は社会の一部であり、私の言動が良くも悪くも社会に影響を与えていることは、いつも自覚しています。
宮沢賢治がいったように、「世界みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」と思っていますし、私たちの中に私があり、私の中に私たちがある、と実感していますので、社会と私は深くつながっている。
私が存在することそのものが、社会に影響を与えているのであって、私自身が住みやすい社会になるように、ただただ自らの生き方を問い直しているだけです。
貢献するなどという発想は、出てくるはずもありません。
そして、もし社会に不条理な事件が増えているならば、それは私の生き方に無縁であるはずがない。
同じ空気を吸って生きている以上、今回の事件の加害者も被害者も、私と無縁であるはずがない。
そう思うと、加害者がなぜ心を失ってしまったのか、そこに思いを馳せないではいられません。
明日の午後、湯島で、生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合うサロンを開きます。
よかったら来てください。
私のなかでは、そうしたサロンと今回の事件が強くつながっているのです。
■米朝会談への違和感(2018年6月13日)
米朝会談の実現は喜ばしいことでした。
いままで会ったことのない2人が、直接に会ったことが実にすばらしい。
人は、直接会って話をしてこそ、お互いに分かり合えて、人間的な判断や思考ができるようになると思っているからです。
そこに最大の意義がある。
ただ、報道を読んでいて、どうも違和感があります。
たとえば、「非核化」ということです。
核を持っているアメリカが、北朝鮮に非核化を要求することの「非対称性」がどうも理解できません。
トランプ大統領が握手しようと先に手を出したように、まずは自らの核への姿勢を表明しなければ、対話は成立しないはずではないのか。
「朝鮮半島の非核化」という言葉の意味がわかりません。
非核国家とされていた日本にも、米軍によって核兵器がたくさんあったことも最近明らかになっています。
「非核化」の主語は「人類」でなければいけないのではないか。
核兵器を独占する大国が、核を独占しようとすることにこそ、問題があるのではないのか。
アメリカが非核化しない限り、朝鮮半島の非核化など成り立つはずもない。
核兵器は、国家など越えているからです。
アメリカ大統領は、北朝鮮の非核化を言う前に、自らの(段階的な)非核化を宣言すべきではないか。
オバマ大統領が、そういう姿勢を出した時には大いに期待しましたが、言葉だけで終わりました。
核兵器に支えられた力や体制は、ひずみを起こしていくでしょう。
北朝鮮の体制の保証という言葉にも驚きます。
私には信じがたい言葉ですが、北朝鮮がそれを望んでいるというように報道されています。
それではまるで、アメリカの属国になるということです。
そんなことがあるはずもない。
ここで保証の対象は何かをもっと考えなければいけません。
それに、そもそも「体制」とはなんなのか。
米朝会談の実現は喜ばしいことですし、それによって、なにかが変わっていくように思います。
しかし、小国の非核化が正当化され、大国による国家体制の保証が正当化されるようであれば、そこにある「平和」は、抑圧された平和でしかありません。
発想や言語体系の枠組みを考える「視点」を、そろそろ逆転していかなければいけないのではないのか。
しかし、それはそれとして、未来の大きな影響を与える立場にあるトランプ大統領と金委員長が、直接会って、会話し、握手したことの意味は大きい。
だからやはり昨日の米朝会談は、新しい歴史につながっていくと思います。
■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」の報告(2018年6月14日)
「茶色の朝」サロン(BMS)の4回目は、3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらうことを入り口に、「いまの政治でいいのだろうか」を話し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
11人があつまりました。
最初のお話は、母親であるという立場もあって、学校や教育の関係のお話から始まりました。
そして、いろんな生活体験から、なにか「見えないもの」が社会を動かしているような気配を感じていること、そこで、生活者として、1人でもできる活動をはじめたら、そこからいろいろなことが「見えてきた」一方、さらなる「見えないもの」も感じだしたことなど、日常生活からのとても具体的なお話で、茶色の朝サロンにふさわしい問題提起が込められていました。
そこから話し合いが始まりましたが、男性が多かったせいか、やはり「生活感覚」ではなく、「知識」ベースの話し合いになってしまった気がします。
最初に話題になったのは、ハンナ・アレントのアイヒマン裁判の話でした。
凡庸(忠実に命令に従う)、あるいは「自分で考えないこと」が、あのユダヤ人殺害を支えていたという話ですが、まさに今の日本にも、こうした「思考停止」や「凡庸志向」が広がっているという話になりました。
学校を含む教育の問題も出されましたが、ここでもイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」にまで話が広がりました。
茶色の朝サロンの主旨はなかなか実現できません。
もちろん、話し合いは示唆に富む内容も多いのですが、たぶんそれでは社会は変わっていかないような気がします。
1960年代から70年代の学生運動が挫折したのは、「生活」とつながっていなかったからではないかという、当時活動していた人からの「反省」も出てきました。
だから「茶色の朝」サロンを始めたのですが、どうもやはりそこから抜け出られないのが男性たちかもしれません。
いまの若い男性は全く違うと思いますが、残念ながら今回は、その世代の男性は誰もいませんでした。
話題提供してくださった母親は、おかしいと思ったら行動しています。
教科書検定が気になったら、実際に教科書が展示されている場に行って、いろんな教科書を読む。
気になったことがあれば、関係者に電話して意見を言う。
それがたぶん「茶色の朝」が私たちにメッセージしていることです。
気になったら考える、そして動く。
翌日、話題提供者からメールが来ました。
そこにとても大切なことが含まれているように思うので、その一部を紹介させてもらうことで、今回は報告に変えたいと思います。
午前中に自宅で、たくさん溢れる「伝えたい思い」を無理やりまとめる作業をしましたが、これにより、自分の抱えた不満を整理することが出来たように思います。
予想外のありがたい効果でした。
皆様のご意見から、たくさんの「気づき」がありました。
息子から「お母さん、俺はどうして勉強するんだろう」としょんぼりと問いかけられた出来事。
息子の心からの問いに即答できずに「何でだろう…」と言ってしまい、翌日息子に自分なりの返事を伝えても、「もういいよ」とあしらわれてしまいました。
子供のなぜ?が、もう心の奥に仕舞われてしまったのです。
日頃から、「今年は受験だから頑張ろう」と息子に話していたのに、なぜ学ぶのか、なぜ受験勉強をするのか、大事なことをよく考えていない母親だったと、ひどく後悔していました。
でも、サロンのあと、新たな考えが浮かびました。
もしかすると、私の答えなんかどうでもよかったのではないか。
私がサロンのあとで「自分なりの着地点」を見つけたように、「それなら自分で考えるか・・・」とか「他の人に聞くか」とか「調べるか」とか。
何でもいいから、自分で答えを見つけ出してくれるのではないか、そんな希望が生まれました。
自分の意見を考え、整理する。人に伝える。他の人の意見も聞いてみる。
これって生きていくのに本当に大切なことだと思いました。
人間はロボットではない。思いがあり、考える人間である。だから悩みも苦しみも生まれる。
子供達にはそこから逃げず「自分なりの答え、着地点」を考え、探し求めながら歩んで欲しいなと思います。
そう考えると、子どもこそ「サロン」が必要ですね。
とりあえず、自宅で「サロン」をやってみようと思います。
このメールを読んで、とても報われた気持ちになりました。
懲りずに「茶色の朝」サロンは続けたいと思います。
■「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験しました(2018年6月15日)
アメリカで開発された政治風刺ゲーム「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験させてもらいました。
http://chihosho.neil.chips.jp/?eid=360
何人かでやるアナログゲームですが、以前、ウォーゲームを体験させてもらった蔵原さんのアレンジです。
前回のウォーゲームが、思った以上に退屈だったので(蔵原さん、すみません)、いささか不安がありましたが、今回は退屈どころか、なかなかついていくのが大変でした。
何しろゲームに入る前の、頭に入れておかなければいけないルールがたくさんあって、私のように老化した頭にはすんなり入っていきません。
しかし、始まる前からなにやらワクワクするようなものを感じました。
それに、その段階からすでにゲームははじまっていて、目に見えない駆け引きが行なわれていることを、今回のゲームマスターの岡和田さんに教えてもらいました。
この仕組み、というか、進め方が実に面白い。
ゲームは、 “アルファ・コンプレックス”というディストピアを支配する、親愛なるコンピューター様に仕える「ハイプログラマー」というエリートとして、コンピューター様の問いかけに応じて、コンプレックスを経営していくことです。
ゲーム参加者は、それぞれ「大臣」となって、「閣議」をもちながら、国家経営に取り組みます。
私は、最初、2つのポストをお金を使って獲得したのですが(一つはライバルと競り合って高い代償を払いましたが)、あまりの事態の目まぐるしさになかなかついていけずに、結局、一つのポストはライバルに奪い取られ、さらにコンピューター様の機嫌を損ねて、死刑の憂き目にあってしまいました。
お抱えシェフのおかげで、贅沢な食事を堪能し、市民の食糧まで取り上げようとしたのが、よくなかったかもしれません。
しかし、「食事」などという原始的な習慣は市民には不要で、それはエリートだけの特権にすべきというのが私の提案だったのですが、同僚からは無視されました。
もっとも、“アルファ・コンプレックス”のエリートは、みんなクローンなので、抹殺されても、すぐに復活できるのですが。
まあ、そんな形で、ささやかにゲームに参加させてもらいました。
みんなの足を引っ張ったとはいえ、なんとか落伍しなかったのは、ゲームマスター役の岡和田さんのリードのおかげです。
岡和田さんやすでにゲーム体験のあるみなさんのおかげで、このゲームの考え方の効用や可能性も実感できました。
蔵原さんからは、なぜ政治が良くならないか、憤慨するだけではつまらなくないですか。いっそ政治のしくみを笑い飛ばしながら、その原因をつきとめませんか、とメールをもらっていました。
現在の政治に憤慨するのは、自らに唾することですから、私も憤慨しているだけの人には共感はまったくと言っていいほど持てないのですが、このゲームでガス抜きしてしまうのも、賛成はできません。
しかし、政治のメカニズムに気づき、政治を見る目を変えていくには、一つの方策だろうと思います。
しかし、私はむしろ、企業や自治体行政や、さらには子どもたちの考える力を引き出すために、こうしたゲームは大きな効用があるように思いました。
今回は、ゲーム好きな人たちに会えて、ちょっとまた世界が広がりました。
■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」報告(2018年6月23日)
霜里農場の金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」がスタートしました。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちを毎回、ゲストにお呼びし、そこでできた旬の野菜を味わいながら、有機農業や私たちの生き方をちょっと考えてみようというサロンです。
隔月くらいで開催、時には農場を見に行く企画も金子さんは考えています。
第1回目は、船橋市で山田農場を経営している山田勇一郎さんに来てもらいました。
定員の15人を超える参加者がありました。
まだ0歳の乳幼児を連れた若い夫婦の方が参加されました。
湯島サロンの最年少記録が更新されました。
話はまず山田さんの農場の様子の紹介から始まり、ついで「有機農業」に関するわかりやすい説明がありました。
「有機農業」という言葉をなんとなく使っている人も多いと思いますが、山田さんと金子さんの話で、その意味がよくわかりました。
山田さんの有機農業は、科学的な知見を大事にしています。
今回は「光合成」の仕組みから説明してくれたのですが、私などは光合成そのものの意味さえきちんとわかっていなかったことを、恥ずかしながら、この歳になって知りました。
また、有機野菜を「安全性」という視点で捉えていましたが、むしろポイントは「おいしさ」にあるということにも気づかせてもらいました。
その「おいしさ」がどこから来るのかも教えてもらいました。
そして大切なのは、昔よく言われた「作物をつくるのではなく土をつくるのだ」ということを思い出しました。
工業型の農業とは全く違う、もっと大きな「科学性」がそこにはあります。
大げさに言えば、自然科学もそろそろ枠組みを変えるべき時期に来ています。
山田さんが10年かかってつくりあげてきた山田農場の、事業としての、「起業」と「経営」の話もとても示唆に富むものでした。
新規就農されたい方は、ぜひ山田さんのところで一度、教えを乞うといいと思います。
山田さんのところでは、講座もやっているようですが、農法だけではなく、実践的な経営の話も聞けると思います。
農業の持つ「教育力」や「福祉力」は、湯島でも時々話題になりますが、今回は、農業に取り組むことで「経営力」が身につくことに気づきました。
改めて「農営」や「農法」ということを考えなすべき時期かもしれません。
安直な「儲かる農業発想」ではなく、自らの生き方に重なるような農業の可能性を改めて考える時期に来ているようにも思います。
山田さんの実践は、そうした視点で大きな示唆を与えてくれているような気がします。
そういえば、金子さんが、農法に込められた日本古来の知恵についても言及され、有機農業はそうした知恵を再発見していくことだというようなことを話されていたのに共感しました。
ほかにも、たとえば堆肥づくりとか土壌づくりなど、実際の有機農業に関する話もありましたが、いろんな意味で、いろんな発見のあるサロンでした。
話の後、山田農場の新鮮野菜(今回はトマト、キュウリ、トウモロコシ)を味わいました。
今朝もぎたてのトウモロコシを生で食べさせてもらいましたが、ほとんどの人が初めてだったと思います。
参加者が多かったので、分かち合いになりましたが、これも実によかったです。
最後は、みんなお土産に野菜ももらいました。
次回は8月25日の予定です。
米作りをやっている有機農業実践者がゲストの予定です。
■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告(2018年6月24日)
民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な柳兼子をテーマにしたサロンは、16人が参加しました。
話題提供者は、我孫子在住の海津にいなさん。
海津さんは30年ほど前に千葉県の我孫子に転居してきましたが、かつてそこに住んでいた白樺派の人たちの活動に関心を深め、今はどうやらすっかり柳兼子さんにほれ込んでしまっているようです。
数年前から、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラを実現したいと考えています。
今回のサロンも、そうした思いも会って、改めて柳兼子の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになればということで開催しました。
柳夫妻は、我孫子には7年ほど住んでいましたが、柳夫妻の縁で、当時の我孫子には白樺派の文人たちが集まってきていました。
柳宗悦は民藝運動の創始者として有名ですが、柳宗悦を支えたのは伴侶の兼子であり、また宗悦の思想を実践していたのは兼子であると言われています。
兼子は、本場のドイツでも聴衆を驚愕させたようで、「声楽の神様」とさえ言われ、85歳まで公式のリサイタルをつづけていたそうです。
柳兼子は、まさに今の日本において、見直される人だと海津さんは考えていますが、たぶん今回のサロンに参加した人はそういう思いを持ったのではないかと思います。
NHK朝ドラにするとしたら、こういうのがいいという提案も参加者から2つも出ました。
白樺派と言えば、文芸活動というイメージを持っている人も多いと思いますが、その底にある理想主義や人道主義を踏まえた社会活動の側面はなかなか伝わっていません。
柳宗悦の民藝活動も、生活文化のなかに「用の美」を見出すというような美術活動の側面に焦点が当てられ、声楽と言えば、これまた芸術活動と考えてしまいますが、白樺派にしろ民藝運動にしろ、そして柳兼子の声楽活動にしろ、もっと広い社会性を持ったものだったようです。
今回のサロンでは、海津さんはそういう広がりを意識しながら、さまざまな「テーマ」を示唆してくれました。
途中で、柳兼子の80歳を超えた時の歌声も聴かせてくれました。
その声の力に驚きました。
ただし、私がとりわけ興味を持ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチとのつながりです。
海津さんのもう一つのメッセージは、戦争に向かって全体主義化が進んでいた当時の時代状況のなかでの兼子や白樺派の人たちの動きです。
私たちが、いまそこから学ぶことはたくさんあります。
これもサロンでは少し話し合いがありました。
沖縄在住のジャーナリストでもある緒方さんや日本韓国・朝鮮関係史研究会のメンバーの方も3人参加してくれました。
沖縄や朝鮮とのつながりも柳夫妻の活動の本質を示唆してくれています。
ほかにも参加者からも興味ある話が紹介されました。
今回は柳兼子の入り口だけでしたが、たくさんのテーマがちりばめられていたような気がします。
海津さんのフットワークのいい調査と自由な想像力に裏付けられたとても面白い発表でした。
これを契機にして、海津さんに「柳兼子研究会(仮称)〕の立ち上げと柳兼子我孫子ツアーを企画してもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
また当日配布された、海津さんのレジメ「手賀沼湖畔で大発展した白樺派と柳兼子」をご希望の方はご連絡ください。
海津さんの了解を得て送らせてもらいます。
ところで、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラの実現に力を貸して下さる方がいたらぜひよろしくお願いします。
面白いものになることは、間違いありません。
■カフェサロン「日本は核武装するべきか」のお誘い(2018年6月28日)
今回はちょっと刺激的なテーマでのサロンを開催します。
「日本は核武装するべきか」というテーマです。
雑誌「文藝春秋」の7月号で、フランスの歴史学者のエマニュエル・トッドが、「日本人のタブーを親日外国人の立場で敢えて言う」と出して「日本は核を持つべきだ」という提唱をしています。
エマニュエル・トッドといえば、かつて、ソ連崩壊や英国EU離脱、あるいはトランプ当選などを次々に「予言」してきた人です。
そのトッドが、「日本は核を持つべきだ」と文芸春秋に寄稿したのです。
トッドは同論文でこう書いています。
東アジアには、中国と北朝鮮の2つの核保有国が存在することになります。
核を持たない日本は、2つの核保有国に隣接することになるのです。
このように言うと、すぐに「日本は米国の核の傘に守られている」と思われるかもしれませんが、私が問いたいのは、本当にそう言えるのか、ということです。(中略)
核は例外的な兵器で、これを使用する場合のリスクは極大です。
ゆえに、核を自国防衛以外のために使うことはあり得ません。
例えば、中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があるかぎりは、米国が、自国の核を使って日本を護ることは絶対にあり得ない。
米国本土を狙う能力を相手が持っている場合には、残念ながらそのようにしかならないのです。
要するに、「米国の核の傘」はフィクションにすぎず、実は存在しないのです。
(中略)
核とは戦争を不可能にするもの
第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも、核の存在のおかげです。
そうした認識を踏まえて、トッドは日本の核武装を提唱しています。
みなさんはどうお考えでしょうか。
私の周りには、「わが意を得た」という人も「裏切られた」という人もいます。
私自身は、「いまさらなんだ」とトッドの陳腐な小論には興味はないのですが、でもせっかくの機会ですので、改めて「日本核武装論の意味」を話し合ってみたいと思います。
併せて「原発核兵器論」も話せたらと思いますが、まああまり欲張らないほうがいいかもしれません。
核武装賛成論者も反対論者も、参加してもらえるとうれしいです。
湯島のサロンの特徴の一つは、意見のまったく違う人の意見にも触れることです。
それによって、自らの考えを相対化できることの意味は大きいです。
でも、異論はぶつけあって、激論することは歓迎です。
但し、サロンですので、相手の意見も尊重して、過剰に傷つけ合うのは避けたいです。
なお、できることならば、事前に「文藝春秋」のトッド論文に目を通しておいていただければうれしいです。
○日時:2018年7月14日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「日本は核武装するべきか」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」報告(2018年6月27日)
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が引き起こした訴訟事件を材料にして、社会教育や市民活動のあり方を考えるサロンには、平日の夜にもかかわらず、13人の参加がありました。
この事件の概要に関しては、案内文にも書きましたが、先月出版された「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)に詳細な報告があります。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180513
今回は、九条俳句訴訟市民応援団の世話人でもある佐藤一子さんにお話をしていただいた後、参加者で話し合いました。
佐藤一子さんは、50年以上、社会教育に取り組んでおり、湯島のサロンの参加者の中にも、佐藤一子さんの影響で社会教育に興味を持ったという人も少なくありません。
訴訟に関わってきたお立場からていねいに事件と訴訟の話を紹介してくれた後、「社会教育の公共性の意義をどうとらえるか」、そして「問題の背景、本当の原因をどうとらえるか」という問いかけを参加者に投げかけました。
そこから話し合いが始まりました。
話し合いは「社会教育」という言葉を初めて知ったという発言から始まりました。
その方は社会の問題にとても関心が深く、ご自分でも様々な活動をされている方ですが、そうした方からの思ってもいなかった発言に私自身目を覚まさせられた気がしました。
また逆に、この分野に造詣の深い北本市の市会議員の方が、公民館の始まりから現状まで、そしてこうした事件に対する行政や教育委員会などの対応の制約などを、とても具体的に話してくれましたが、これまで腑に落ちなかったことのいくつかがわかったような気がしました。
サロンには、いろんな立場の人が参加してくれますので、問題の見え方がとても豊かになります。
この事件を授業で取り上げたという看護専門学校の先生が、学生たちの反応を資料にまとめて報告してくれました。
憲法の意味も含めてきちんと情報を提供し話し合うことで若い世代の人たちがしっかりした評価をし、問題を的確に深めていくことが示唆されていたように思います。
現在この事件は地裁、高裁と住民側が勝訴していますが、行政側が最高裁にまで持ち込んでいます。
最近の裁判の風潮を考えると最高裁での原告敗訴が心配で、日本の社会はもうそこまで来てしまっているという懸念も数名の方から表明されましたが、そうであればこそ、この問題をもっと広い範囲で取り上げていくことが必要だと改めて思いました。
万一最高裁で逆転敗訴になったら、それこそそれを材料に動きを広げていかねばいけません。
学校教育での日の丸・国歌の話題も出ましたが、教育は「国民」の思想形成を通して、国家の未来を方向づけていきます。
この、もしかしたら事件にならなかった問題の意味をしっかりと受け止めて、社会への大きな警告へと高めてきたのは、この俳句の詠み手と俳句サークルの代表代行の方に依るところが大きいと佐藤一子さんは話されました。
お2人とも戦争体験にもつながっている高齢の女性ですが、その子とは偶然ではないでしょう。
また、佐藤一子さんは、俳句という活動を通して社会を捉える感受性を高めてきたことの意義にも言及されました。
とても共感できます。
経済活動にばかり目を向けていては、そうした社会性や批判精神は育ちません。
そこにこそ「社会教育」の本質はあったはずですが、いまはむしろその逆方向へと向かっているようにさえ思えます。
やはり「茶色の朝」シリーズのサロンを広げていければと思います。
「九条俳句訴訟」をテーマにしたサロンも、みなさんのまわりでもぜひやってみてください。
もしお手伝いできることがあれば、協力させてもらいます。
今回は元教師や社会教育、あるいは学童保育などに取り組んでいた研究者や実践者も複数参加してくれました。
いつもよりも長目に時間を取っていましたが、やはりそれでも終わりませんでした。
たくさんの刺激と宿題をもらった気がします。
8月には「学校教育」を取り上げたいと思っていますが、どなたか問題提起をしてくれませんか。
■5月縁カフェのご案内(2018年6月29日)
5月の「縁カフェ」は7月2日です
また開店時間を12時から4時。
ほかは変わりません。
コーヒーは相変わらずワンカップ500円です。
コーヒー代金は縁カフェ基金(使途未定:現在高8000円)に収めます。
主旨などは前回の案内をご覧ください。
サロンではないのでご注意ください。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#1802071
〔ご案内〕
○日時:2018年7月2日12〜16時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
■カフェサロン「相模原事件をどう超えていくか」のお誘い(2018年6月29日)
7月26日をどう超えていくか? みなさんで話し合える時間があるといいなと思う、と増田レアさんから、メールをもらいました。
7月26日は、2年前に神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で利用者の大量殺傷事件が起きた日です。
加害者の元施設職員の「重度障害者は死んだ方がいい」という言葉は衝撃的でした。
その言葉をめぐって、いまもなお「話し合いの場」がいろんなところでもたれています。
湯島サロンにも参加してくれている古川さんたちも、この事件を契機に「選別を考える」という会を立ち上げ、対話の会を続けています。
2年近く経ちましたが、この事件の問いかけは忘れるわけにはいきません。
増田レアさんは、日本における障害者自立思想の源流となった、脳性まひの人たちのコミューン「マハラバ村」をつくった大仏空さんの娘さんですが、自らもそのコミューンで子ども時代を過ごしました。
一度、マハラバ村の話をしてもらったこともありますが、増田さんがこの事件をどう受けとめているかも含めて、私も増田さんと一度話したいと思っていました。
事件から2年たった今、改めてこの事件からのメッセージをどう受けとめたかを話し合えればと思います。
最初に増田レアさんに、ちょっと口火を切ってもらい、みんなで本音の話し合いができればと思います。
平日の夜ですが、よろしくお願いいたします。
○日時:2018年7月27日(金曜日)午後6時半〜9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「相模原事件をどう超えていくか」
〇問題提起:増田レアさん(マハラバ文庫主宰)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート1」のお誘い(2018年7月5日)
昨年、「看取り」シリーズのサロンを何回か開催しましたが、今回は、さらに一歩進めて、死という、誰もが避けがたい現実を積極的に捉えた生き方を支える「社会的な仕組み」をテーマに、2回にわたってサロンを開催します。
問題提起は、ホスピス勤務経験もある僧侶の中下さんです。
中下さんはたくさんの人を病院や在宅で看取り、葬儀の現場に葬儀社スタッフ・僧侶として関わってきました。
そうしたなかから、まだ漠然とではありますが、死を不安に感ぜずに、平安な生の支えになるような仕組みを、みんなで育てられないかと考えはじめています。
具体的にどう設計したらいいかは、まだ思索中のようですが、中下さんとお話していて、その「構想」が演繹的にではなく、中下さんのさまざまな実践活動のなかから生まれてきたということに深く共感し、サロンをお願いしました。
第1回目では、中下さんが生と死の現場に身を置きながら実践してきた活動から見えてきた課題や問題点をお話しいただき、そうした課題を解決するための「仕組み」の方向性をお話しいただこうと思います。
そして、2回目では、その「仕組み」に関する中下さんの構想をお話しいただき、それを入り口にして、「こんな仕組みがあればいいな」というようなことを出し合いながら、死を要(かなめ)にして、人のつながりを育て、平安な生き方ができるコミュニティや支え合う仕組みを、受益者としての願望だけではなく自分の人生とつなげながら、みんなで話し合えたらと思います。
中下さんは、こうしたことは、日本人の「死生観」の問題、つまり「生き方(逝き方)」の問題に深くかかわっており、これからの社会のあり方を考えることにつながっていると考えていますが、私も「生き方(逝き方)」を考えることこそが、福祉の要ではないかと思います。
2回の中下サロンを通して、できるだけ具体的で実践的に、他人事ではなく自分事として、それぞれの生き方、そして自分として何ができるかを考えるようなサロンになればと思っています。
なお、2回目は8月26日(日曜日)の同じ時間帯を予定しています。
2回目の案内はまた改めて行いますが、ぜひ連続しての参加をお薦めします。
〇日時:2018年7月22日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「安心して死を迎えられる生き方のために パート1」
〇問題提起:中下大樹さん(真宗大谷派僧侶、大学講師)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■改めて「魂の殺人」を紹介したくなりました(2018年7月6日)
過労死遺族の異論のある中で、働き方改革法が成立しました。
この法制度がいい方向で機能していくことを願っています。
しかし、私には大きな違和感があります。
「働く」ことの意味が問われることがないまま、制度論だけが進んでいることに、です。
脱時間給制度(高度プロフェッショナル制度)に関しては、過労死につながるのではないかという意見もあります。
しかし、これに関しても、「過労死」がなぜ起こるのかの問い方に違和感があります。
子どもを過労死させた遺族の方の意見には共感しますが、その姿勢には違和感があります。
微妙な問題なので、また本意が伝わらずに批判されそうですが、問題の捉え方が、私には間違っているように思えてなりません。
実は、このことは当事者の方のことを思うとていねいに書かないと傷つけることになりかねないため、書くのをいつも躊躇してきました。
先日、ある人に会って、やはり書いておこうと決意しました。
もう25年ほど前のことですが、生活者と企業のパイプ役を担う日本ヒーブ協議会の周年事業のフォーラムに呼んでもらいました。
そこで、働き方の問題を提起させてもらったのですが、企業役員の女性の方(その方はたしか協議会の役員でもありました)から「女性は過労死するほど働くチャンスがない」という指摘を受けて、驚くというか、唖然としたことがあります。
以来、日本ヒーブ協議会とは縁を切りましたが、そう指摘した彼女は昨今の状況をどう思っているでしょうか。
すべては、私たちの自己呪縛から始まっている。
制度や法律だけでは、状況は変わらないのではないか。
かなり古い本ですが、アリス・ミラーという人の「魂の殺人」という本があります。
日本に紹介されたのはもう30年以上前ですが、最近、新装版(新曜社)が出版されました。
副題は「親は子供になにをしたか」。
著者は、親のしつけや教育にひそむ暴力性を容赦なくえぐり出した3部作で有名ですが、「魂の殺人」はその2作目です。
私は、この作品しか読んでいませんが、内容は極めて衝撃的です。
子ども時代の体験が大人になって社会的な問題を起こしていくというようなよくある精神分析の本のように思われるかもしれませんが、もっとラディカルな「反教育」「反しつけ」論が展開されています。
中途半端な紹介をするのはやめますが、いまの社会の問題の根源につながる示唆を得られると私は思っています。
そこから得られるメッセージは、「すべての問題の解決はまず自ら始めるしかない」ということで、それが私のこの30年の生き方になっています。
あんまり論理的な説明ではないので、伝わらないでしょうが。
著者はポーランド人です。
そのためか、なぜナチスの悲劇は起こったかに関しても、いたるところで、論究されています。
かつてのドイツ人の勤勉さと従順さが、それを可能にしたというのです。
それは、いまの日本社会の実状にもつながっていく話です。
そこから考え直さないと状況は変わらない。
若者の自殺や世代を超えたモラルハザードが広がっています。
湯島にもいろんな人が相談に来ますが、問題の解決策はそう難しくはありません。
誰かや何かのせいにしているだけでは、状況は変わらない。
まずは自らの呪縛を解いて、自らの生き方を変えていく。
教えられた「常識」を問い質していく。
そもそも過労死とか自死は、生命本来のものではないはずです。
生命体には、必ずホメオスタシスという生命維持機能があるのです。
それが素直に作動するようにすればいい。
話がまた広がり過ぎそうなのでやめますが、もしお時間があれば、「魂の殺人」を読んでみてください。
自分は、親として子どもになにをしたか、親から何をされたか。
子どもだけではなく、次の世代に何をしているか、あるいは前の世代から何を学んだか。
時に、自分の生き方を問い質すのも、辛いけれども必要かもしれません。
事例も多く、冗長で長いので、読みやすい本ではありませんが、新装版はたぶん改善されているでしょう。
もし読まれる場合は、ぜひとも最後まで読んでみてください。
途中はとばしてもいいですが。
■「9条誕生」(岩波書店)をお薦めします(2018年7月9日)
すでにご案内の通り、今度の土曜日、湯島で「日本は核武装するべきか」というテーマでのサロンを開催します。
たぶん賛否いずれの方も参加されますので、話し合いがどう展開するか楽しみにしています。
サッカーやオウム事件や集中豪雨などでマスコミは埋め尽くされていますが、その裏側で着々と進められている動きへの関心も忘れないようにしたいと思います。
ところで、昨年放映されたNHKスペシャル「憲法70年“平和国家″はこうして生まれた」を見た方も多いと思います。
とても興味ある内容でした。
ご覧になっていない方は、ぜひネットで見てください。
https://www.dailymotion.com/video/x5kcntm
ところで、その番組制作にも関わった塩田純さんの「9条誕生」(岩波書店)という本も、多くの人に読んでほしいと思っています。
NPO関係の人たちにも、政治問題に関するサロンを呼びかけてもあまり反応はよくありません。
日本の市民活動の多くは、政治に関わることを忌避している面がありますが、政治と無縁の市民活動は私にはまったくと言っていいほど無意味なものに感じます。
日本のNPO活動のほとんどは、既存の体制のサブシステムになっていると思いますが、そこから抜け出していかないと、社会は変わりようがありません。
そんな思いも会って、せめてこの本くらいはみんなに読んでもらいたいと思い、紹介させてもらうことにしました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいです。
そしてもしよかったら、今度の土曜日の午後の湯島のサロンにもご参加ください。
できるならば、次のサロンは「平和」をテーマにできないかと考えています。
どなたか問題提起者になっていただけませんか。
■自分のことは自分で解決するという精神(2018年7月13日)
西日本豪雨で被災した広島の友人から今朝、こんなメールをもらいました。
田舎の人達は自分のことは自分で解決するという精神で生活しているので、修復も個人で済ませ行政が遅まきに支援の手を差し伸べるころには、手遅れということが多いように思います。
テレビで盛んに報道されている地域を外れたところでも、さまざまな被害が生じているのでしょう。
テレビでは見えないところでも、たくさんの人たちが、この暑さの中でご苦労されていることを思うと、複雑な気持ちになります。
ボランティアが集まるところと集まらないところが、当然出てくるでしょう。
メールをくれた友人のところは、テレビでは一度も報道されなかったところです。
今回のような自然災害が起こった時の報道を見ていて、この数年、ちょっと気になっていることがありました。
報道に出てくる人たちに、あまり「リアリティ」を感じないのです。
見せ場になるような場面が繰り返し報道されるのも、いささか気になっています。
たくさんの人たちが被災されている状況で、こんなことを言うのは極めて不謹慎であり、噴飯ものでしょうが、ずっと気になっているのです。
たとえば今回の例でいえば、橋に木材がひっかかって、そこから川が氾濫した瞬間の映像がありましたが、それに気づいた人が逃げずに立ち止まってそれを見ていたシーンが忘れられません。
もしかしたら、もし現場にいたら、私も同じ行動を取ったかもしれません。
でも、それって、おかしくないでしょうか。
もちろん私自身の感度がおかしくなっているだけかもしれませんが、もしかしたら人間の感度が平均的にマヒしてきているのではないかと不安になるのです。
何かがおかしくなってきている。
そんな気がしていたのですが、友人のメールを見て、その理由がわかった気がします。
「自分たちのことは自分たちで解決するという精神」が薄れてきているのではないか。
このことをもう少ししっかりと考えたいと思います。
私には、とても大きな宿題です。
「コモンズの回復」という、私の最大の関心事につながっていますので。
■死を分かち合うよりも生を分かち合いたい(2018年7月14日)
今朝のテレビで、5人の人が一室で練炭自殺をしたことが報道されていました。
死を分かち合えるのであれば、もっと豊かな生も分かち合えたはずです。
とても残念でなりません。
湯島に来てくれていたら、という気がちょっとしますが、私自身、最近はそうした気力がちょっと萎えてきています。
分かち合うことは、それなりにエネルギーが必要ですから。
しかし、死を分かち合うくらいなら、取り組んでみる価値はある。
それに、生を分かち合うことができれば、死への誘惑から抜け出せるかもしれません。
7月22日と27日に湯島で「生きる」につながるサロンをやります。
湯島に来たことのない人も歓迎です。
8月6日には、分かち合う場のない人をイメージして始めた縁カフェもあります。
またできれば、8月のどこかで、死よりも生を分かち合うことを目指すサロンをやろうと思います。
生を分かち合うことを目指せば、きっと人生は開けます。
そう思って、私はいま生き続けています。
核兵器はいかに管理しても、原発がそうだったように必ず誤爆が起こるという指摘もありました。
その危険性は日々高まっている気がします。
■『みつばちと地球とわたし』関東初上映会のお誘い(2018年7月15日)
前にも一度、ご案内しましたが、友人の中島正憲さんがスタッフとして関わっている『みつばちと地球とわたし』関東初上映会のお誘いです。
この問題は私も前に何回かブログで取り上げて以来、関心を持っているテーマです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-dbaf.html
この映画の岩崎靖子監督は、これまで6本の長編ドキュメンタリー(うち5本を監督)をつくってきていますが、中島さんによれば、すべて『いのち』がテーマでした。
『生命(いのち)』とは何か?
そのあり様の本質とは何なのか?
そしてその輝き方、輝かせ方とは?
そして、地球規模でのありようにまでそのレベルを引き上げて発したメッセージがこの作品なのです。
中島さんはぜひ多くの人に見てもらいたいと願っています。
中島さんの一生懸命さを見ていて、私もついつい応援したくなってしまいました。
内容に関しては、次の案内サイトをご覧ください。
http://www.heartofmiracle.net/hotnews/hotnews0012018.html
中島さんはこう言っています。
ぜひこの映画は、男がより賢くエラい生き物だと思い込んでしまって生息し続けている日本の(とりわけ日本の!)愚かなオトコたちに、ぜひ多く観て欲しい。
直前の案内ですが、お時間が許せば、ぜひ上映会に参加してください。
中島さんに、事前にお名前を連絡しておけば、当日受付で割引料金(3000円)で対応していただけるそうです。
中島さんのメールは
m.nakajima@human-arts.co.jp
〔『みつばちと地球とわたし』関東初上映会〕
7月21日(土)11:00開場、12:00開演
大田区民ホール アプリコ、大ホール
JR京浜東北線「蒲田駅」徒歩3分
京浜急行「京急蒲田駅」徒歩7分
入場料:前売3,500円、当日4,500円
■「いのちに関わる危険」(2018年7月20日)
「いのちに関わる危険な暑さ」という、恐ろしい警告にもかかわらず、今日は猛暑の中を湯島に来ています。
それにしても、「いのちに関わる危険な暑さ」とはあまりにも過剰な報道用語です。
気象予報や安全警報に使われる用語には、私はいつも違和感を持ちますが、テレビを見ていると、もっと危機感をあおる言葉がいいと指摘する人が少なくありません。
問題は「言葉」ではなく、受け手の「感受性」ではないかと思うのです。
言葉が大仰になればなるほど感受性は弱まるでしょう。
せっかく自らで考えることを身につけたのに、逆戻りしているような気がします。
言葉に依存する社会はもろいものです。
自らの行動は、誰かの警報や注意に従い、何か問題が起これば誰かのせいにする。
そこまで行けば、さらにその先へと生き方は変わっていくでしょう。
そういう生き方にだけにはなりたくないと思っています。
自分のことは自分で考え、責任も取りたい。
「いのちに関わる危険」は暑さや自然災害だけにあるわけではない。
むしろ本当の「危険」は、人為の中にあるように思います。
熱中症での死がテレビで伝えられますが、あれは「暑さ」のせいだけではないでしょう。
社会のあり方や個人の生き方と無縁ではありません。
すべてを暑さのせいにしていいのかと、私は思います。
大仰に言えば、すでにして、私たちは人間であることを忘れさせられているのではないかと思いますが、これはきちんと書かないと伝わらないでしょうし、きちんと書いても伝わらないでしょうから、書かないことにして、ただ、「いのちに関わる危険」への感受性の鈍化や人々の関心の矛先替えが進められているのではないかという危惧だけは表明しておきたいです。
国会で何が進められているか。
沖縄や原発で何が進められているか。
たとえばそんなことさえ私には見えにくくなってきています。
気をつけなくてはいけません。
湯島にいますが、暑いのと食欲がないのとで、昼食を抜きにして、これを書いてしまいました。
暑さよりも栄養不良で倒れないようにしないといけません。
■ヘイトスピーチと言論の自由(2018年7月21日)
今朝のテレビで知ったのですが、西日本豪雨で被災者の避難や救助活動が続く状況のなか、ネット上で在日朝鮮人に関するヘイトスピーチが広がっているようです。
http://www.kanaloco.jp/article/345315
実に悲しい話です。
テレビではヘイトスピーチ解消法が成立して2年もたつのに、一向に実効的な施策がたてられていないことを指摘する一方、ヘイトスピーチと言論の自由の保証との整理に難しさを報じていました。
言論の自由はヘイトスピーチを認めるものではないと私は思いますが、実際にはその評価は難しいのかもしれません。
しかし、他者を傷つけてまでの自由は許されるはずもありません。
一般論として簡単に論ずることは難しいですが、立場を変えて考えれば、簡単にわかることではないかと思います。
そもそも「ヘイトスピーチ」などという表現が問題かもしれません。
なぜ日本語で、はっきりと「人種差別行為」とか「誹謗中傷行為」といわないのでしょうか。
「言語による暴力」と言ってもいいでしょう。
いまのところ、ヘイトの対象はマイノリティに向かっています。
しかし、マイノリティは、いかようにも創りだされるものです。
在日外国人が対象になるだけではありません。
いつ私がマイノリティの一員にされるかは予断できません。
そもそも、自らが、マイノリティにされてヘイトされないように、自分とは無縁と言える、安全な対象を選んで、自らに矛先が向かないようにヘイトスピーチしているのではないかと私には思えます。
つまり、ヘイトするものが自らに内部にあることに気づいているからこそ、ヘイトスピーチとして、外部に放出しているのではないかと思います。
つまり、ヘイトスピーチは「解毒行為」であり、それにおののくあまり、過激な発言になってしまうのではないかと思います。
ヘイトは、常に自らに向かっているように思います。
私が国会議事堂前や街中のデモのシュプレヒコールが嫌いなのは、そこにそうしたものを感ずるからです。
その場にいるだけで、心が荒び穢れる気がして、暴力的な言葉が飛び交うデモには足が遠のきます。
たとえ相手が、ヘイトスピーチを繰り返している安倍首相であったとしても、私はヘイトを放したくはありません。
■相模原市のやまゆり園障害者殺傷事件から2年目(2018年7月26日)
今日は2年前、相模原市のやまゆり園で障害者殺傷事件が起こった日です。
忌まわしい事件ではありましたが、それまで多くの人が回避してきたことを可視化したという意味では、大きな意味を持った事件でした。
加害者の動機は、コミュニケーションもできず生産性のない人は生きる価値がないということだとされていますが、まさにその思いは、現代の日本社会の核にある価値観でもあります。
ですから、加害者の言動に正面からノーとはっきり言える人は必ずしも多くないのではないかと思いますが、だからこそ、この事件は衝撃的でした。
しかし、この事件で、多くの人が意識と行動を変えたことは間違いありません。
それは、当事者に近い人にとっても同じことです。
いや、そうした問題を身近に感じている人の方が、変えやすかったというべきでしょうか。
事件後2年の、死を免れた障害者の家族の生活をドキュメントしたテレビ番組を2回見ましたが、障害者本人も家族も、また周辺の人たちも、生き方を変えてきていることを感じました。
そして、テレビ番組からは、みんな幸せを高めていることがメッセージされています。
そのメッセージにはいささかの違和感はありますが、言動の変化がゆたかさをもたらすことには共感します。
私もそうですから。
たぶん加害者の植松被告も、事件を起こす前にはそうした努力をしていたはずです。
少なくとも私よりも一生懸命に取り組んでいたはずです。
しかし、変えられなかった。
そして考えを変えさせられてしまった。
実に残念ですが、加害者ほど極端ではないにしても、その方向に向かう環境と誘惑をとても強いです。
なぜなら社会の価値観全体が、そちらを向いているからです。
学校教育も社会生活の仕組みも、そちらを向いているようにさえ思います。
たとえば、植松被告が言う「コミュニケーション」や「生産性」が、多くの物ごとの判断基準になってきています。
しかし、そもそも現在使われている「コミュニケーション」とか「生産性」とかという言葉自体がきわめてある価値観に支配されています。
言語や行動を通さなくともできるコミュニケーションはたくさんあります。
生産性は、その反面に「消費性」を含意しており、何を持って測定するかで、まったく逆な結果にもなります。
財政が厳しい時に税金の無駄遣いということも被告は話していますが、財政の目的をどう考えるかで、何が無駄かは全く変わってきます。
しかし、恐ろしいことに、植松被告の発想の枠組みは、現代の日本を生きる多くの人たちを覆っています。
だからこそ、多くの人は植松被告を説得できない。
植松被告の前に、自らさえも説得できていないのではないか。
そんな気がします。
明日、湯島で、午後6時半から、この事件をテーマにしたサロンをやります。
お時間が許せばご参加ください。
自らの生き方を質すためにも。
■サロン「新・十七条憲法をつくる」のお誘い(2018年7月28日)
サロン「新・17条憲法をつくる会」を開催します。
これは、サロン参加者の川島さんからの提案がきっかけになっています。
川島さんは、こう提案してきました。
「新・17条憲法をつくる会」というのを開催するのは、どうでしょうか?
今の憲法が「誰でもわかる平明な文」になってない一番の原因は、誰が誰のために言っているのか整理されていないからでしょう。
聖徳太子の「17条憲法」は、一般民衆にではなく統治者的立場にある貴族のみに言っていることが明快なので、実にわかりやすいです。
現在における統治的立場にある人への制約ベスト17を選ぶというのは面白いのではないかと思いました。
たとえば、憲法第1条が「人の上に立つ者は、自分に何らかの因果関係をもって不正が行われた場合には、責任をとらなければならない」だったとしたら、今の状況は変わっているのではないでしょうか。
たしかに、いまの日本国憲法がわかりにくいのは、誰が誰に行っているのかあいまいになっているからかもしれません。
実際の出発点は、アメリカ政府が日本政府と日本国民を規制しているのだと思いますが、いろんな人が苦労して、いろんな意味を含ませてきていることも否定できません。
憲法とは権力者を制約するもので、権力者に向けられていると言う人もいますが、日本国憲法に限ってはたぶんそうも言えません。
そもそもそう捉えることに大きな危険があると私は思っています。
国民向けの規制や義務が多すぎますし、むしろ権力者が支配しやすいように仕組まれている気配さえあります。
しかも、理念と仕組みが混在していますし、国民主権と言いながら、第1条は国体の象徴として天皇が宣言され、国民の個人の尊厳に関する条項は出てきません。
そこで、川島さんが提案されているように、統治的立場にある人への制約ベスト17をみんなで話し合うのは、夏の暑さしのぎにも格好のテーマになるかもしれません。
いや、むしろ政治の本質や現在の日本の政治のおかしさを、改めて気づかしてくれることになるかもしれません。
さらに言えば、もしかしたら、サロンで原案をつくり、それをネットで公開しながら、みんなで手を加えながら、進化させていく。
よいものができれば、公開フォーラムを開催して、運動にしていく。
そんな展開もあるかもしれません。
まあそんなわけで、ともかくも第1回「新・17条憲法をつくる」サロンを開催します。
参加者は、必ず「統治的立場にある人への制約条項」を1つ以上、そして17以内、持ってきてください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2018年8月11日(土曜日)午後2時〜4時(1時半開場)
〇会場:湯島コンセプトワークショップ(文京区湯島3−20−9−603)
http://cws.c.ooco.jp/lcmap.pdf
〇テーマ:「新・17条憲法をみんなでつくろう」
参加者は、「統治的立場にある人への制約条項」をそれぞれに考えて持つより、それをベースに話し合います。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「相模原事件をどう超えていくか」報告(2018年7月29日)
2年前に起こった相模原市の津久井やまゆり園での障害者殺傷事件をテーマにしたサロンには15人の参加者がありました。
改めてそれぞれで事件を思い出して、被害にあった人たちへの黙?をささげてから、サロンに入りました。
最初に今回のサロンを呼びかけてくださった増田レアさんに、ご自分の生い立ちも紹介していただきながら、問題提起をしていただきました。
参加者のなかには、事件発生後の現場に関わった方や被害者家族とお付き合いのある方、あるいはこの問題を契機に人権や対話の活動に取り組んでいる方などがいる一方で、この事件はもう関心から消えかけていたという方や障害者とはあまり接点のない方まで、さまざまな立場の方が参加してくださいました。
さまざまな論点が出されました。
今回は話し合いになった論点だけを、順不同で羅列するにとどめます。
それぞれの論点に関する意見はさまざまでしたが、それを書きだすとあまりに長くなりそうですので。
被告をどう捉えるか。特殊な人なのか、同情すべき環境に置かれた普通の人なのか。
被告の主張が問題であって、生い立ちや環境は関係ないのか。
生産性至上主義の風潮、稼がない者には価値がないという風潮をどう考えるか。
労働は国民の義務と憲法に明記されているのは日本だけではないか。
被告をヒーローにしたくない。
そもそも加害者をどう呼べばいいか(「植松被告」「植松さん」「植松」など)。
意思疎通できていないのは被告ではないのか。
言語や行動がなくても意思疎通はできるのではないか。
不幸とは何か。生産性とは何か。意思疎通とは何か。
差別意識こそが一番の問題。その差別はなぜ起こるのか。
被告の中にあるものは多くの人の中にもあるのではないか。
被害者家族の最首さんが公開する形で被告とやりとりしていることをどう考えるか。
事件を批判するのではなく、そこから何を学び、何を変えるかが大切ではないか。
施設と社会が乖離するという施設のあり方。
「障害者」という言葉に内在する差別発想。
「障害」はないほうがいいに決まっている。それと「障害者」は全く別の話ではないか。
この事件に関連して、出生前診断をどう考えるか。
優生思想への動きが強まっているのではないか。
福祉や医療の現場で頑張っている人たちのことももっと理解したい。
ほかにもたくさん出ましたが、どうしたらこういう事件をなくせるか、という問いかけも出ました。
事件を風化させずに、事件の意味を考える話し合いの場を広げていくこと。
自分の考えをしっかりと政府などに伝えていくこと。
さらには施設のあり方を考えなしていくこと。
などが出されました。
いずれにしろ気づかされることややるべきことがたくさん出てきたサロンでした。
話題になった論点は、いずれもその一つひとつがサロンになるような大切なものでした。
これで終わらせるのは残念なので、このサロンのアフターサロンを開催することにしました。
日程がなかなか取れなかったので、ちょっと異例ですが、8月19日(日曜日)の午前に開催します。
案内は改めて行いますが、もしお時間が許せばご参加ください。
できれば私は「生産性至上社会から排除される人たち」、あるいは「私たちの中にある差別意識」を取り上げたいと思いますが、参加者の関心によっては、テーマを変える予定です。
しかしいずれにしろ、大きなテーマは、なぜ相模原のような事件が後を絶たないかを考えたいと思っています。
あまりにたくさんの宿題をもらったようで、昨日は1日、ぐったりしてしまっていて、報告が遅れてしまいました。
■「慾を捨てよ、とプナンは言った」(2018年7月29日)
一昨日開催したサロンの報告を書きましたが、それを書いていて思い出した本があります。
文化人類学者の奥野克巳さんが、ボルネオの少数民族プナンの話を書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)という本です。
私は「所有」とか「競争」という概念から自由になりたいと思っていますが(実現はできていません)、そうしたことを見事に日常化しているプナンの人たちの生き方は実に見事です。
ただし、私は絶対に彼らの仲間にはなれそうもありませんが。
特にこの本の第7章「慾を捨てよ、とプナンは言った」は、みなさんに読んでいただきたいところです。
30頁ほどの短いものなので、あまりお勧めはできませんが、書店での立ち読みも可能です。
もし読んで関心を持ったら、購入してください。
ちなみにその章の冒頭には、ニーチェの次のような文章が引用されています。
「或る程度までなら、所有は人間を独立時にし、いっそう自由にする。もう一段進むと、所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼はかかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。そして以後は、自身が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して」。
そして、生産性至上主義の社会になってしまい、相模原のような事件が起き、飛躍しますが岸田さんは安倍さんに魂を売ってしまった。
そこで住む人たちのほとんどは奴隷たち、と言ったらまた顰蹙を買うでしょうね。
困ったものですが。
■サロン「新・十七条憲法をつくる」の報告(2018年7月28日)
サロン「新・17条憲法をつくる会」は、男性6人、女性1人の7人の参加でした。
各人がそれぞれ考えてきた条文あるいは項目を出し合ってから話し合いに入りました。
全9憲法案や新十七条憲法をつくってきた人もいます。
いろんな視点が出され、議論はとても刺激的でした。
ただ今回は、聖徳太子の17条憲法がそうであるように、焦点が必ずしも絞り込めず、「為政者の制約事項」に限定したものではない議論になりがちでした。
そこで、最後の30分ほどで、今回の呼びかけに応じて、「為政者の制約事項」を改めて出し合い、いわゆるKJ法もどきで整理しました。
大まかに整理すると、次の5項目になりました。
〈人権の尊重〉〈憲法の厳守〉〈独裁の禁止〉〈情報の公開〉〈特権の禁止〉
内容はかなり具体的なものがいろいろ出されました。
そのいくつかも紹介できればいいのですが、まだ十分に整理できていないので、今回は項目だけでお許しください。
決断したことへの厳しい責任を問うという意見もありましたが、それも含めて、今回出された意見をこの5項目に応じて整理し、フェイスブックで公開することにしました。
できればそこに書きこんでいき、また第2回目を開催することも考えたいと思います。
政治制度に関する話題もいろいろとでました。
熟議民主主義やミニパブリックスの話題も出ました。
また、為政者への制約と同時に、非統治者である国民にも守るべきことがあるのではないかということから、今度は「主権者としての国民の心がけること」をテーマに、憲法条項を考えてみるのもおもしろいのではないかということになりました。
これはまさに市民社会の熟度と仕組みの問題です。
それで少し涼しくなったら、そんなサロンも開催しようと思います。
こうなってくると、だんだん事務局が欲しくなってきますが、どなたかこれを運動的に展開していく作業事務局を引き受けてもいいという方がいたらご連絡ください。
3人集まったら、プロジェクトチームを立ち上げます。
ちなみに、まだ案内は出していませんが、これに関連したサロンとして、9月8日にリンカーンクラブ代表の武田さんに、「自民党政権政治を変えていくためには」をテーマにしたサロンを予定しています。
お時間が許せばご参加ください。
■見えやすい巨悪に寄生する小悪にこそ目を向けたい(2018年8月2日)
日本ボクシング連盟の問題がテレビをにぎわせています。
スポーツ業界は見事なほど、同質化していますね。
どこかにきっとモデルがあるのでしょう。
日本ではもう、スポーツにおけるフェアプレイ精神など残っていないのでしょうか。
スポーツの世界は人を育てる世界ではなくなったのでしょうか。
それぞれの分野ごとではなく、スポーツに関わる人たちが、種目を超えて、スポーツとは何かを改めて問いただす動きが出てくるのを期待したいです。
私は、以前も書いたように、スポーツにはあまりいいイメージを持っていなので、すべてのスポーツ協会組織は一度解散したほうがいいと思っていますが。
オリンピックなどはもう一度、原点に帰るべきでしょう。
今回の事件は山根会長が悪者になっています。
もし報道が事実だとしたら、たしかにひどい言動を重ねていると思いますが、しかしもっと悪いのは、そうした会長を生み出した「業界のリーダーたち」だろうと思います。
会長は、そう言う人たちの象徴だろうと思います。
岐阜のインターハイでの、岐阜県ボクシング連盟の四橋会長のあいさつは、部外者の私には違和感もなく共感できます。
というよりも、当然のことを言っているだけの話ですが、それがこれほど話題になることもまた、日本ボクシングの世界はもう腐っているとしか言えない気がします。
山根会長は、ただその全体の実態を可視化しているだけの、哀れな存在でしかないのでしょう。
地位や権力や見栄えにしか頼れない、いつの心の安まることのない、さびしい哀れな人なのだろうと思います。
山地会長の椅子にふんぞり返った写真がテレビでよく出てきますが、あの写真は多くのことをメッセージしてきます。
あの写真を見たら、多くの人は悪いのは山地会長と思うでしょう。
しかし、と、私は思います。
あの写真とは違う、山根さんの写真は、別のメッセージを伝えてくれるかもしれない。
大きな悪者をつくれば、そこに寄生できるたくさんの小さな悪者が見えにくくなります。
問題が起きたら、その大きな悪者を切れば、何も変えなくても世間の目はかわせるかもしれません。
これはスポーツだけではありません。
政治でも経済でも、すべてにおいてそういう傾向がある。
それにしても、あまりに同じような事件が、実にタイミングよく、顕在化されます。
それもまた、とても気になることです。
いま考えるべき、もっと大切な問題があるのではないか。
スポーツを道具にしてはいけない。
スポーツを道具にされてはいけない。
スポーツ音痴の私が思うのは、それだけです。
■反社会的勢力との付き合いがなぜ問われるのか(2018年8月7日)
日本ボクシング連盟の山根会長に関して、元反社会的勢力との付き合いが問題にされています。
これは私にはなかなか理解できないことです。
第1に、付き合いが問題にされるような組織、つまり「反社会的勢力」などと規定されるような組織がなぜ存在できているのか。
第2に、そこにいるメンバーやそこにいたメンバーとの付き合いはなぜ非難されるのか。
私も、元暴力団員との付き合いがありました。
その人はそこをやめて、福祉施設で働いていました。
私が関わっていた「自殺のない社会づくりネットワーク」の集まりに参加したのを契機に、彼との付き合いが始まりました。
友人たちからはやめた方がいいと言われましたが、なぜ付き合ってはいけないのかがわかりませんでした。
彼は突然わが家まで来たこともありますが、障害を持った人たちを旅行に連れていきたいという夢を持っていました。
しかし、その夢は果たせませんでした。
すい臓がんになって急逝したのです。
彼との関係では、実は私もトラブルに巻き込まれてしまいました。
彼の苦境を救うために借金までしてお金を工面したこともありますし、彼にコーヒーをご馳走になったこともあります。
もし私が、山根さんのような有名人だったら、非難されるのでしょうか。
しかし、その人の属性や過去によって、付き合うかどうかを決めるのは私の信条に反します。
いや、人間としてそんなことをやるべきではないでしょう。
さらに言えば、「反社会的勢力」とはいったい何なのでしょうか。
そもそも「暴力団」なる言葉がいまもなお存在することさえ私には理解できません。
規制する法令はありますが、規制法令があるということは存在を認めているということです。
それにどんな組織にも「反社会性」は存在します。
行政組織の反社会的行動も、最近は日常的と言えるほど、話題になっています。
そもそも立場によっては、政府そのものも「反社会的」な存在になり得ます。
そういう状況では「革命」や「クーデター」も起こります。
ですから、社会的かどうかを白黒で二分することは危険です。
「反社会的組織」とは、反社会性が大きい社会的組織のことなのかもしれません。
これに関して書きだすとまた話が広がりそうですのでやめますが、簡単に「反社会的勢力」と言ってしまっていいのかは疑問です。
ましてやそこに関わったことのある人の付き合いは非難されるべきという風潮にはもっと大きな疑問を持ちます。
それよりももっと大切なことは、自らが所属している組織には「反社会的」な行動がないのかを、それぞれがしっかりと考えることではないかと思います。
そしてもし、そのようなことがあれば、それを変えていくように、自分でできることを考え行動していくことです。
自らの生き方において、「反社会的」な言動はないかを問い質すことも大切です。
見方によっては、私のこの意見もまた「反社会的」なのかもしれません。
ことほどさように、「反社会的」などという言葉は多義的です。
ところで、山根さんにちょっと好感を持ってきました。
邪気を感じません。
私の感覚がおかしいのかもしれませんが、山根さんとは正反対の人たちが、山根さんに寄生しているような気がしています。
私が嫌いなのは、嘘と邪気なのです。
■「相模原事件をどう超えていくか」アフターサロンのお誘い(2018年8月9日)
7月27日に、「相模原事件をどう超えていくか」をテーマにサロンを開催しました。
たくさんの方が参加して下さり、それぞれにたくさんの気づきを得たサロンになったと思います。
サロンの報告もさせてもらいましたが、その時に、あまりに話したりなかったことが多かったので、アフターサロンと称して、話したりなかったことを改めて話し合うサロンを予告させてもらいました。
そのご案内です。
日程がうまくとれずに、日曜日の午前中になってしまいましたが、もしお時間が許せばぜひご参加ください。
アフターサロンと言っていますが、前回のサロンに参加されていない方も、大歓迎です。
前回のサロンの報告は下記にあります。
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=89724274&blog_id=29587
できればこのテーマは、細くてもいいので、そして不定期でもいいので、長く続けていければと思っています。
また優生思想が首をもたげだしている今、忘れてはいけないメッセージがたくさん込められているからです。
今回は、できれば「生産性至上社会をどう考えるか」、あるいは「私たちの中にある差別意識」を取り上げたいと思いますが、参加者の関心によっては、テーマを変える予定です。
どなたか問題提起したい方がいたらご連絡ください。
○日時:2018年8月19日(日曜日)午前10時〜12時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「相模原事件をどう超えていくか」
〇問題提起:特に決めていませんが、どなたか問題適したい方がいたらお願いします。
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」のお誘い(2018年8月11日)
中下大樹さんの「なぜ生きるのか」サロンのパート2の案内です。
パート1では、ホスピス勤務経験もある僧侶の中下さんが、これまでのさまざまな死の現場体験から感じていることや考えていることを、自らの人生にもつなげながら、お話しいただき、それを話題にみんなで話し合いました。
その様子は下記に報告を載せています。
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=89702053&blog_id=29587
パート2では、実践活動を通して、こんな仕組みを実現したいと思っている中下さんの構想を紹介していただき、それを入り口に、「こんな仕組みがあればいいな」というようなことを出し合いながら、死を要(かなめ)にして、人のつながりを育て、平安な生き方ができるコミュニティや支え合う仕組みについて、みんなで話し合いたいです。
できれば、受益者としての願望だけではなく、自分の人生とつなげながら、みんなで作り上げていくことも視野におければと思います。
今回は、何かの実現に向かっての知恵の出し合いを目指します。
もちろんパート1に参加されていない方も大歓迎です。
こんな仕組みがあればいいなあという個人的な思いもぜひお持ちよりください。
もしかしたらそうしたことの実現への一歩が踏み出せるかも知れません。
大きなテーマですが、なにしろサロンですので、気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2018年8月26日(日曜日)午前10時〜12時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」
〇問題提起:中下大樹さん(真宗大谷派僧侶、大学講師)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」のお誘い(2018年8月14日)
1955年に自由党と日本民主党が合併して自由民主党が発足して以来、もう70年近くになろうとしていますが、その間、形だけの政権交代はあったものの、基本的には日本の政治の流れは、自由民主党が決めてきたといってもいいと思います。
しかも、その自由民主党政権は、いわばアメリカ政府とのつながりが強く、その桎梏から抜け出ようとする試みはことごとくつぶされてきています。
こうした状況の中で、政治へも国民の関心は低下し、憲法違反とさえ言われることを繰り返す安倍政権が、安定政権として、ますます力を強めています。
しかもそれを多くの国民は歓迎するかのように、支持したり、形だけの批判をしたり、さらには自らのよりどころにしたりしています。
安倍政権はひどいという声は多いですが、安倍政権を存続させている自分たちはひどいという反省の声はあまり聞くことはなく、ただただ「安倍政権打倒」などというヘイトスピーチのような呪文が唱えられているだけです。
そんな状況になかで、リンカーンクラブ代表の武田文彦さんから、改めて「自民党政権のどこが悪いのか」、そして、「どうしたらそれを変えていけるのか」を話し合いたいという提案がありました。
最初に武田さんから、試案を紹介していただき、それを材料に、政治の流れを変えるための知恵をみんなで出し合うサロンにしたいと思っています。
単に非難で終わるのではなく、具体的にどこが悪いのかを整理し、それを変えていくための具体策を出し合えればと思います。
考えようによっては、安倍政権や自民党政権の延命策にもなりうるわけですが、そういう小異にはこだわらず、もっと大きな視点で、これからの日本の政治を考えられればと思います。
なお、サロン終了後、2000円の会費で、近くで懇親会を開催する予定です。
お時間の許す方は、ぜひご参加ください。
○日時:2018年9月8日(土曜日)午後2〜4時半
終了後、希望者で居酒屋懇親会(会費:2000円)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「自民党政権政治を変えていくためには」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■お金を払ってボランティアをする(2018年8月16日)
山口県周防大島町の山中で行方不明になっていた2歳の子供が、捜索のボランティアに来ていた大分県日出町の尾畠春夫さんによって、発見されました。
尾畠春夫さんの話を聞いていて、実にさわやかなものを感じました。
尾畠さんのこれまでの生き方やボランティアの捉え方は、これからいろんなところで採りあげられるでしょうが、「ボランティア」という言葉を使う人は、ぜひ尾畠さんの生き方を学んでほしいと思います。
尾畠さんの仕事は、いわゆる「恩送り」。
金銭的な面でいえば、尾畠さんは「お金を払って」ボランティアしているのです。
無償とか有償とか、そんな話とは次元が違います。
先日読んだ「ティール組織」という本に、こんな文章がありました。
「(これからは)お金を払ってボランティアをするケースもあり得る。人々が時間外にさまざまな多くの部署や組織で活躍するようになると、組織の境界も曖昧になる。」
とても共感できる表現です。
私は、30年前に会社を辞めた時に、仕事の概念を「対価を得ること」ではなく「費用がかかること」と捉え直しました。
その代わりに、仕事は自分で価値を見いだせるものに限ろうと考えました。
実際には、必ずしも厳守できませんでしたが、基本的な姿勢だけはそれを目指してきました。
私が考える「働き方改革」とは、そういうものです。
もちろん、仕事をしたおかげで、お金をもらったことは多いです。
その場合は、もちろん素直にいただきました。
ですから30年も、この生き方ができているわけです。
しかし、仕事の対価は、金銭ではないという考えは大事にしています。
対価のための仕事よりも、自発的に取り組む仕事の方が、価値を生み出すことが多く、関係者にとってはいい結果を生みだすような気もします。
もちろん仕事をする者にとっても、それは働く喜びにつながります。
価値が生まれれば、その享受者からは、喜びのお礼の一部として、お金も払いたくなるでしょう。
そういう関係が育っていけば、経済の質が変わっていくでしょう。
社会も変わるでしょう。
尾畠さんの生き方から学ぶことはたくさんあります。
これからでも遅くないので、私もまた少し生き方を見直そうと思います。
尾畠さんに感謝します。
■「相模原事件をどう超えていくか」アフターサロンの報告(2018年8月20日)
「相模原事件をどう超えていくか」のアフターサロンは、日曜日の午前中だったにもかかわらず6人が集まりました。
おひとりだけが前回参加できなかった方でしたが、5人は前回も参加。
この事件を忘れてはいけないという強い意識が、参加者の共通の思いだったような気がします。
さまざまな事件が起きますが、いまの社会はそうした事件に大騒ぎしながらも、同時にどんどんと忘れていく。
そこから学ぶことをおろそかにし、そのためにまた同じような事件が起きる。
ですから、前にもこんな事件があったなと思うことがあまりに多い。
いつになっても何も変わらないどころか、そうした生き方から抜け出ないと、私たちの感覚はますますにぶくなって行くような不安を感じています。
最初に、「相模原事件の背景にあるものはなにか」を私から少し問題提起させてもらいました。
私が問題にさせてもらったのは、「金銭基準のもとでの生産性至上社会」と「私たちの中にある差別意識」です。
前者に関しては、「金銭を生みだすことが〈生産性〉なのか」「生産性のないものには価値がないのか」「仕事とは金銭を得ることなのか」「そもそも金銭に価値があるのか」という問いかけをさせてもらいました。
後者に関しては、「私にとって価値あるものは何か」「ヘイトスピーチは特別の人たちだけのものか」に関して、私もまたいつ「転んでしまうかもわからない」危うさがあることを少しだけ話させてもらいました。
併せて、「進歩主義」の思想につながる「優生思想」が「近代」の中に流れていることを紹介させてもらいました。
相模原事件は、私には決して特異な事件ではなく、まさに時代を象徴する事件のように思えるのです。
みなさんのお話はとても示唆に富むものでした。
私も気づいていなかったことをいろいろと気づかせてもらいました。
私は「特異な事件」ではないと思っていましたが、この事件を「障害者」殺傷事件と捉えてしまうと事件の本質が見えてこないという指摘がありました。
たしかに「障害者」とひとくくりにしてしまうと、現場が見えてこなくなります。
また「生産性」という言葉の意味が変わってきてしまっていることが指摘されました。
かつては、経済活動の効率に関連して使われていたのに、最近は「個人の生産性」というように使われるようになった。
これはとても重要な視点だと思います。
「生産性」はある基準によって測定されますが、それが何なのかも話題になりました。
この議論は実に示唆に富むものでしたが、話し合いの内容を紹介するのは大変なので、それぞれでぜひ考えてみてください。
もしかしたら、ここにこそすべての問題を解くカギがあるかもしれません。
福祉問題が市場化していることの問題も具体的にいろいろと指摘されました。
福祉に限らず、学校でも生徒がお客さんになってしまって、先生との関係が変わってしまったというような話も出ました。
昨今の状況は、私には「汎市場化」社会、つまりすべてをお金で解決する社会のようにも感じますが、そうした「汎市場化」もまた、すべての問題を解くカギかもしれません。
医療のあり方や福祉施設のあり方に関しても話題になりました。
事件を取り扱うマスコミの姿勢の問題も少し出ました。
ほかにもいろんな話題が出ました。
こうした事件を繰り返させないために、何ができるかをそれぞれ考えるヒントがいろいろとあったような気がします。
サロンですので、参加者一人ひとりによって、それは違うでしょうが、それこそが社会をかたよることなくいい方向に向かわせることだと思います。
そこに、湯島のサロンの意味があると思いますが、日曜日の朝、こんな話し合いをするために集まることも「生産性のないこと」と思う人もいるでしょうね、とある人が言いました。
たしかに、そうでしょう。
実際に私は、ある人からそう言われたことがあります。
湯島のサロンは、経済成長にはまったく寄与しないですから、時代が進めば、「生産性がない」と言われて、取締りの対象になるかもしれません。
そうならないようにも、サロンは続けようと思います。
最後に参加者の複数の方が、アフターサロンをまた続けたいと言われました。
世間的な生産性はないかもしれませんが、つづけたいと思います。
どなたか問題提起したいという方がいたら、ご連絡ください。
■スマホをなくすという罪を犯してしまいました(2018年8月28日)
昨日、携帯電話をなくしてしまいました。
落したのは、電車の中か、乗換駅か、です。
ちょっとパニックで、交番に届けたりスマホの会社に電話したり、JRに問いあわせたり、もうそれだけで疲れてしまいました。
最近のスマホは、携帯電話機能だけではなく、そこにさまざまな生活記録が残っているので、問題は自分だけではありません。
私のスマホには私の記録だけではなく、他者の言動の記録や個人情報(電話番号など)が記録されていますから、他者にも迷惑をかけかねないということです。
こう考えると、スマホとは私物であって、私物ではないということに気づかされます。
物としては私物なのでしょうが、それを通して様々な人たちが交流していて、その痕跡が残っていることを考えれば、友人知人との共有物です。
とすれば、スマホをなくすということは、犯罪といってもいいのかもしれません。
そう考えているうちに、罪の意識が強まって、真夜中にまたJRの遺失物センターに電話しました。
残念ながらまだ見つかりませんでした。
近代は個人をバラバラにしたと言われます。
そうして生まれたバラバラの個人(個我)を要素にして、社会を再構築したといってもいいと思いますが、その大きな動きがどうやら次のステップに移り出していることを、スマホをなくしたことで気がつきました。
私のいささか飛躍した展望に基づけば、それを進めているのはAIだと思いますが、もはや私たちは、ひとりの人間として生きることが許されなくなってきているのかもしれません。
バラバラの個人がデータ的に繋がれて、AIが管理する「平安な社会」のモジュール端末になりつつあるわけです。
そこには「個人」は不在です。
人間が部品に変質しているというのが私の認識なのですが、どうも単なる部品ではないようで、部品の材料でしかないのです。
世界観が少し変わりました。
いや、一変したと言えるかもしれません、
こうした流れにどう抗うか。
最近読んだ本に出てきた。ラッセルの「幸福論」の一節を思い出しました。
「どう考えようと、わたしたちは大地の子である。わたしたちの生命は大地の生命の一部であり、わたしたちは植物や動物と同じく大地から生きる糧を得ている。」
畑で土を耕すとき、いつも、大地と対話しているような幸せを感じます。
私たちがつながるとしたら、AI志向の科学技術に依存することによってではなく、大地とそこに根差して生きている生命同士の心や魂によってでなければいけないと、改めて思います。
スマホをなくしてしまうことは、罪深いことです。
認識を新たにしました。
これから畑に行って、大地とまた話してきます。
そして少し頭を冷やしてきます。
懺悔しながら。
■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート2」の報告(2018年8月28日)
中下大樹さんの「なぜ生きるのか」サロンのパート2は、前回の話を踏まえて、これからの時代に必要な仕組みの話題に併せて、私たち一人ひとりのこれからの生き方を考えることの大切さが話題になりました。
最初に、前回のレビューも含めて、いま何が求められているのかを考える材料を話してもらいました。
その中で、いくつかの問いかけがありました。
抽象的にではなく、自分の問題として考えようという中下さんのメッセージが伝わってきました。
死が消費の対象になってしまい、死から私たちは学ぶことを忘れてしまっていないかという中下さんの問いかけは、具体的な実例をたくさん紹介された上での指摘なので、心に突き刺さりました。
死を消費する社会では、必然的に、生さえも消費の対象にされていきます。
その結果、看護師でさえ、死は面倒なことと考えるようになってしまっていくわけです。
参加者のおひとりが、「死に関して、自分も消費者だったことに気付いた」と発言されました。「消費者意識」は前回の相模原事件のサロンの時にも話題になりましたが、私たちの生き方として、それにどう対処していくかはとても重要なテーマです。
中下さんは、がん闘病中の知人の言葉が心に残っていると話されました。
辛い抗がん剤に耐えつつ、生きようとしているその人は、自らの人生を振り返って「俺は、生きて何がしたいのか」と言ったのだそうです。
その話をしたうえで、中下さんは、「使命」とは「命」を「使」うと書きますが、みなさんは「いのち」をどう使おうとしていますか、と参加者に問いかけました。
私は、即座には応えられませんでした。
自分ではわかっているつもりだったのですが、他者に伝える言葉にはできませんでした。
「生きて何がしたいのか」
難問ですが、考え続けなければいかない気がします。
中下さんは、こういう問いもしました。
笑顔が浮かぶときはどういう時ですか、どんな時に笑顔になるかをできるだけたくさん書きだしてください。
そう言って1分くれました。
私はがんばって書きだしましたが、6つしか書けませんでした。
そもそもそんなことを意識したことがなかったのです。
こんな問いかけもありました。
「家族という言葉に温かみを感じますか」
手をあげた人は半分でした。
家族が生きる救いにならずに、邪魔をすることもあります。
中下さんは、家族や地域や所属組織といった既存の縁に頼るだけではなく、むしろ志を同じくする人たちで新しい縁を育てることが必要ではないかといいます。
その縁で育った仲間が、集い語れる場をつくり、支え合う生き方をしていくと同時に、共同墓をつくり、死後の行先もつくっていく。
共同墓と支え合って生きた仲間がいれば、死後も忘れられることはなく、生きつづけられる。
樹木葬への思いを持った人たちのそうしたコミュニティの話をテレビで観たことがありますが、たしかにみんな笑顔でした。
葬儀もビジネス的なものではなく、仲間で心を込めて行い、それがまた残された者たちの縁を深めていく。
そうした生老病死について包括的に支え合う、ゆるやかなネットワークをつくり、葬儀も供養も、みんなで行っていく。
死を超えて、世代を超えて、つづいていくコミュニティといってもいいでしょう。
これが中下さんの構想です。
死を生から切り離して考えるのではなく、生の集大成として、死を捉え、そこからコミュニティを構築していく。
それを前提にして、葬儀や供養や、看護や介護も考えていく。
中下さんは、こうした構想を実現していくためのプロジェクトを立ち上げる予定です。
また中下さんから呼びかけがあるかと思いますが、私も参加させてもらいたいと思っています。
ところで、このサロンも継続しようと思います。
参加者のおひとりが、これまで死について話し合ったことがない高齢の親と一度話し合ってみると話されました。
そこでもし話し合いができたら、その報告をしてほしいと頼みました。
そういう日常体験も踏まえて、在宅ホスピスやスピリチュアルケアなど、中下さん構想の取り組みの話を軸に置きながら、話題を広げていければと思っています。
どなたか次回はこんなテーマで話し合いたいという方がいたらご連絡ください。
■東京都自閉症協会の「声明文〜相模原障害者支援施設での殺傷事件から2年を経て〜」(2018年9月1日)
東京都自閉症協会が、「声明文〜相模原障害者支援施設での殺傷事件から2年を経て〜」を発表しました。
前文に、「私たちは次のことを目標に活動していきます」と明言されているところに、協会の姿勢を感じます。
理事長の今井さんから、「当事者団体なので、主張と言うよりも自分たちがなにをしていくかを役員で話し合って声明にしました」とお聞きしました。
一人称自動詞で考えることを大事にしている私としては、その姿勢に共感します。
この声明に関しては、先日の相模原事件のアフターサロンでも話題になっていましたので、みなさんにもお伝えしたいと思います。
短いですので、ぜひお読みください。
http://www.autism.jp/news/2018/08/000889.html
最後に「障害者の幸せはあらゆる人の幸せにつながっている」と書かれていることに同感します。
しかも、それを「実際の活動を通して示していきたい」と表明しています。
私は、「大きな福祉」という理念で、これまで15年以上、NPOやいくつかの当事者団体ともささやかな接点がありますが、こういう姿勢の声明ははじめてです。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいです。
この声明を中心にサロンを開きたくなっています。
声明文を、念のために貼り付けます。
<本文>
2016年7月26日に19名の利用者が殺害され、27名の方が重軽傷を負った事件から2年が
経ちました。
お散歩が楽しみだったAさん、お買い物が大好きだったBさん、みんなそれぞれ安心な
日々を送っていたはずです。そのかけがえのない毎日が一瞬で奪われてしまいまし
た。どんな場所で生活しようと二度とこのようなことがあってはなりません。誰もが
安心して暮らせる世の中を実現するために、私たちは次のことを目標に活動していき
ます。
1. 人の存在は経済的な価値ではかられるものではなく、生きていること・その存
在自体に価値があることを引き続き訴えていきたい
2. 重度知的障害者の支援施設での生活は管理が中心ではなく、楽しさや笑顔のあ
る毎日になるようにしたい
3. 自傷・他害リスクがある、生理三原則の達成に困難をかかえるというような要
支援度が極めて高い重度知的障害者を支援する職員の経済的、社会的地位を改善し、
その仕事に求められる人格や能力を有する人材を確保しやすくしたい
被告の行為は、名を成さんがために抵抗すらできない弱い者を殺傷した卑怯なもので
した。その背景には、人を経済的価値で考える世の中の傾向や、社会問題を暴力的に
片付けるという傾向が投影されているのではないでしょうか。
私たちは英知で、障害者の幸せはあらゆる人の幸せにつながっていることを、実際の
活動を通して示していきたいと思います。
2018年8月
NPO法人 東京都自閉症協会 今井 忠
■アオテアロア・アイヌモシリ交流プログラム主催の講演会のご案内(2018年9月1日)
昨年、湯島でサロンをしていただいた、アオテアロア・アイヌモシリ交流プログラム実行委員会代表の島田あけみさんからのご案内です。
サロンでもお話があった、交流プログラムの構想者のフラヴェヅ夫妻が来日し、北海道と横浜で講演会を行います。
テーマは、「私たちはいかにマオリ語を学ぶ権利を勝ち取ったか−私のことばは私の強さだ、私の大切な宝物だ」です。
ご案内は添付のチラシをご覧ください。
ご夫妻は、マオリ語を生まれもった権利として家庭や公教育でのマオリ語教育に尽力されてきましたが、その公私にわたるマオリ語教育推進の経験、マオリ語復興を中心に進んだネオリ民族復興のお話は、アイヌ民族だけでなく、日本社会にとっても、新しい社会のあり方を考えるうえで多くの示唆を与えてくれるものと思いますと、島田さんは案内と同時に伝えて来てくれました。
同感です。
言語は、それを使う人の意識に大きな影響を与えます。
私たちはそれにもっと敏感でなければいけません。
最近はNHKでさえも、ひどい言葉を流行させているような気がしますが、番組の内容統制が噂されていますが、それよりも言語の使い方のほうが問題だと私は思っています。
まあそんなこともあって、このイベントに大きな関心があります。
みなさんにもぜひお知らせしたくて、フェイスブックで取り上げさせてもらいました。
■言語とは生活のかたちの一部(2018年9月3日)
日本体操協会の塚原夫妻のパワハラ問題はますますおかしな方向に動いていますが、昨今のスポーツ界の不祥事は、どれもこれも同じで、しかも前から多くの人がわかって来ていたはずのことでしょうから、語る起きなかったのですが、やはり語りたくなってしまいました。
昨日、突如公表された塚原夫妻の謝罪文なるものが、まさに現代を象徴していると思えるからです。
それに、このおぞましい文書には強い怒りを感じます。
「言語とは生活のかたちの一部」と言ったのは、ウィトゲンシュタインだったそうですが、まさにこの謝罪文には、塚原夫妻の生活のかたちが示されています。
相手が謝罪を受け入れてくれるのであれば謝罪する。
少なくとも、その言葉に、彼らに謝罪の意図がないことが明白です。
いや、謝罪の意味さえ分かっていない。
自らが謝罪することなど存在しない世界に生きているのでしょう。
謝罪は相手の問題ではなく、自らの問題ですが、そう言う意識は全くありません。
謝罪する気になれば、すぐの謝罪に行けばいい。
会ってもらえなければ、会ってくれるまで行けばいい。
それが誠実さであり、謝罪するということです。
謝罪まで駆け引きする生き方が、塚原さんたちの生き方なのでしょう。
そこに、すべての真実が見えてくるような気がします。
ジョージ・オーウェルは、現在を予告した小説「1984年」で、言葉を選び取る責任を言っています。
人は、どんな言葉を選ぶかで、生活や真情をメッセージできますし、露呈させてもしまいます。
これまでスポーツ界の不祥事で記者会見した権力を持つ人たちの発言をきちんと聞けば、事件の真相はおおむね見えてきます。
言葉は嘘をつきますが、その嘘もまた、言葉の後ろに見え隠れしています。
不誠実なマスコミやコメンテーターはだまされても、誠実に生きている生活者はたぶんそこから嘘を感ずることができるでしょう。
古田徹也さんの「言葉の魂の哲学」(講談社選書メチエ)という本を読みました。
1世紀前のオーストリアの作家カール・クラウスの言語論が紹介されています。
クラウスは、ナチスの台頭する状況の中で、「誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない」と呼びかけていたそうです。
多くの人が、わかりやすいヒトラーの呼びかけ(小泉元総理が真似をしたと思われる呼びかけスタイル)に引っ張られていく中で、それに抗う方法を提唱していたのです。
古田徹也さんは、上記の本のなかで、「クラウスの呼びかけは、他のどの時代よりも、まさにいま現在の我々に突きつけられていると言えるだろう」と書いています。
他者の言葉にも耳を傾けるとして、しかし、それ以前に先ず、自らの言葉に耳を傾けるべき時だと、私も最近痛感しています。
塚原夫妻の生き方(生活の形)は、今や大きく広がっている生き方の典型例だろうと思います。
スポーツ界だけの話ではなく、政治も経済も行政も芸術も医療も、そして福祉さえも。
そんな気がしてなりませんが、まずは自らを質さなければいけません。
■第三者委員会という無責任な仕組み(2018年9月4日)
昨日書いた日本体操協会の不祥事の決着は、またまた「第三者委員会」に判断が回されました。
最近は、何かがあるとすぐに「第三者委員会」です。
そしてすべてはうやむやになるというのが、これまでの繰り返しです。
「当事者」は一体どこに行ったのか。
それに、「第三者」とはいったい何なのか。
この仕組みを考えた人の狡猾さを呪いたくなります。
いつの場合も、第三者とは「加害者」もしくは「権力が優位な立場のある人」の代弁者でしかありません。
価値中立な第三者がもしいるとしても、問題が起きている時の価値観の中心点は、いうまでもありませんが、加害者側に近いはずです。
特に、社会の大きな流れに抗って起きるような、今回のような体制批判的な問題に関しては、必然的にそうなるはずです。
それに、「第三者」がもし、その事件の利害に無縁な立場を意味するのであれば、そういう人には当該の問題は判断できないでしょう。
問題の意味を理解し、価値観を含めて解決できるのは、当事者を置いてはあり得ません。
ただ、そうした「第三者」が、いわゆる既存の社会体制のなかで、それなりの地位を得ている人ではなく、裁判員制度のように、ランダムに選ばれた生活者であれば、「第三者委員会」はかろうじて成り立つかもしれません。
しかし、それはデータ入力によって結論を出すAI(人工知能)の計算結果でしかありません。
それに、第三者委員会の委員に指名されたとたんに、その人は第三者ではなくなります。
ですからそもそも「第三者委員会」などというのは、実体のない虚構に過ぎません。
にもかかわらず、第三者という言葉が、公正さをイメージさせてしまう。
むかしは、「第三者」とは無責任の象徴だったはずなのに、うまく言いくるめられたものです。
そんなことに気づいてほしいものです。
要するに第三者委員会とはマネーロンダリングのような罪悪浄化システムでしかありません。
これまでのさまざまな第三者委員会の実績を思い出せば、わかる話です。
第三者委員会のメンバーになる人は、それによって得た情報を開示できない仕組みになっていると思いますが、そうした巧みな仕組みに荷担する人は信頼できません。
第三者であれば、知り得た情報は自由に開示しなければいけません。
まともな生き方をしている人なら、第三者委員会の委員にはならないでしょう。
それにしても、責任ある立場にある大人が、自らのやったことの責任は第三者委員会の判断を待って決めますなどと未成年の子どものようなことを、恥じることもなく言える社会には、ほとほと失望します。
塚原夫妻は、スポーツ界のために尽力してきた人でしょうし、私欲もそんなにはなかった人かもしれませんが、人間としては残念ながら未熟すぎます。
こんな人たちが、社会を背負っていたのかと思えば、情けないというか、呆れるというか、疲れがどっと出てきます。
最近活躍しているチコちゃんに、「ボーっと生きてんじゃない!」と喝を入れてほしいものです。
第三者と当事者。
その意味をもっとしっかりと考えるべきではないのか。
「当事者主権」という言葉が流行したことがありますが、最近は、多くの人が「当事者」から逃走しだしています。
そのくせ、他者には当事者責任を押し付けます。
そしてもし自らに「当事者責任」が問われそうになると、今度は「第三者」に判断を委ねてしまう。
責任のない当事者などあり得ないことを、なぜ気づかないのか。
私は、責任ある当事者としていきたいと思っています。
そしてそうできることに、幸せを感じています。
社会から責任ある当事者が消失してきていることが、さびしいです。
■カフェサロン「自閉症児を受容し親になる」のご案内(2018年9月5日)
小児外科医の松永正訓さんにまたサロンをお願いしました。
今回のテーマは「自閉症児」です。
松永さんは、今月、「発達障害に生まれて-自閉症児と母の17年」を出版しました。
松永さんが最初に湯島でサロンをしてくださった時のテーマは、「トリソミー 運命の子」、次が「呼吸器の子」。
いずれも松永医師の体験をもとにした素晴らしい本が出版されています。
松永さんは、障害児の「受容」というテーマを通して、生きるとは何か、生命倫理とは何かを、問い続けてきています。
しかも、観察的にではなく、みずからの生き方や価値観を問い質すという姿勢で、当事者に同じ目線で関わりながら、社会への発信を続けています。
私は、松永さんから「受容」ということを教えてもらい、少しだけですが、生き方も変わりました。
松永さんの言葉には、人を変える力があります。
その松永さんに、今回は「自閉症児」と母親の関係を通して、子育てやコミュニケーションの問題も踏まえながら、生きるとは何か、人のつながりとは何か、を考える機会をつくってもらいました。
できれば、松永さんの「発達障害に生まれて-自閉症児と母の17年」(中央公論新社)を、サロンの前にお読みいただければうれしいです。
http://amzn.asia/d/dVyoVyu
その本の紹介文を引用させてもらいます。
人の気持ちがわからない。人間に関心がない。コミュニケーションがとれない。
勇太くんは、会話によって他人と信頼関係を築くことができない。
それは母親に対しても同じだ。
でも母にとっては、明るく跳びはねている勇太くんこそが生きる希望だ。
幼児教育のプロとして活躍する母が世間一般の「理想の子育て」から自由になっていく軌跡を描いた渾身のルポルタージュ。
子育てにおける「普通」という呪縛を問う。
「普通」という呪縛。
私もこのことにずっとこだわって生きている一人です。
時間がいつもとちょっと違いますので、ご注意ください。
もし周りに関心をお持ちの方がいたらお誘いください。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
〇日時:2018年10月6日(土曜日)午後3時半〜6時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「自閉症児を受容し親になる」
〇問題提起:松永正訓さん(小児外科医)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「見守りと支えあいの住宅 福祉シェアハウス構想」のご案内(2018年9月5日)
2回にわたって、中下さんにお願いして「安心して死を迎えられる生き方のために」のサロンを開催してきました。
このテーマは、これまでもいろいろな切り口から、湯島のサロンで取り上げてきましたが、中下さんの問題提起を主軸にして、ゆるやかな形で継続するとともに、その実現に向けてのプロジェクトも検討していくことになりました。
今回は、そのキックオフもかねて、かなり具体的な切り口からサロンを開催します。
テーマは、「見守りと支えあいの住宅 福祉シェアハウス構想」。
長年このテーマに取り組んでいる、ソーシャルワーカーの小畑万里さんに話題提供をお願いしました。
中下さんも参加されます。
小畑さんの「福祉シェアハウス」は、住み慣れた地域で、住居というハードの面と専門職による支援と支えあいというソフトの両面から、生活に生じる困難を乗り越え、暮らし続けられる住宅を指しています。
暮らし続けられるという中には、安心して死を迎えられるという、「看取り」や「死後」の問題も含まれています。
血縁家族を越えた、新しい生活単位といった問題も視野にあります。
また、地域にそのような住宅が根づけば、新たな支えあいのモデルとなり、地域全体への波及を期待できるだろうと、小畑さんは考えています。
単に「ハウス内」に留まってはいない、広がりのある構想という意味で、中下さんの構想とつながっています。
参加ご希望の方には、ご連絡いただければ、小畑さんの「福祉シェアハウス構想」を送らせてもらいます。
事前にそれをお読みいただければと思います。
また、当日は日程的に参加できないけれど、小畑さんの福祉シェアハウス構想にご関心があるという方も、ご連絡いただければ小畑さんから送ってもらうようにお願いします。
サロンは午前中の開催ですが、引き続き、午後、中下さんの構想の実現に向けてのプロジェクトのキックオフミーティングも予定しています。
これに関しては、また改めてご案内しますが、ご関心のある方は是非それにもご参加ください。
よろしくお願いします。
〇日時:2018年9月16日(日曜日)午前10時〜12時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「見守りと支えあいの住宅 福祉シェアハウス構想」
〇問題提起:小畑万里さん(NPO法人ハーモニー虹代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■所有からの解放(2018年9月8日)
先日、ブログを書いていて思い出したことがあります。
無所有を実践していた韓国の法頂禅師の本で読んだバスのなかでの情景です。
内容はよく覚えていなかったのですが、その一文が読みたくて、本を探しました。
幸いに私の書庫に2冊の本が見つかりました。
「無所有」「すべてを捨て去る」です。
昨日、その分を探したくて、粗雑な通読をしました。
しかし見つかりません。
実はこういうことは、私には多いのです。
たしかあの本に乗っていたなと思って、その文章を探すのですが、なかなか見つからないことが多いのです。
一度は、英国と北欧の教育に関する記事のことを思い出して、2週間後にその文章を探すために、その間に読んだ関係ありそうな本を3冊ほど探しましたが、見つかりませんでした。
1冊はほとんど改めて通読したほどでしたが、出会えませんでした。
本での文章との出会いも一期一会なのかもしれません。
気になった時に、書き留めておくことが大切かもしれません。
しかし、その時にはあまり気にならなくても、しばらくしてから急に気になるということもあります。
昨日はあきらめてしまいました。
そうして今朝、その本をしまおうと何気なく裏表紙を見たら、そこになんと気になっていた文章が紹介されていたのです。
探し物は、探すのをやめた時に現われるというのは本当のようです。
早速、その個所を読みました。
こんな文章です。
バスの中であった。
彼は懐から携帯用のナイフを取り出したかと思うと、窓の砕から抜けかけているネジ釘を2つ縮めたのである。
何気なく見ていた私は、人知れず感動した。
彼はこんな風に些細なことで私を揺り動かしたのである。
彼は自分のもの他人のものという分け隔てをしないようであった。
もしかすると全部自分のものだと考えていたのかもしれない。
文中の「彼」とは、法頂さんの道伴の水然和尚のことです。
仲間の僧侶たちからは、慈悲菩薩と呼ばれていた僧侶だそうです。
この文章の最後の2行が、ずっと私の心の中に残っていたのです。
そしてほんの少しですが、私の生き方に影響を与えてくれていたのです。
ところで、この2行を見つけるためにまた2冊の本を拾い読みしたのですが、新しい気付きがありました。
「本来無一物」は、「物」だけの話ではないのではないのか。
そう思ったら、自らの所有欲の強さに気づきました。
特に今年になってまた読書時間が増えてしまっているのですが、知識への所有欲もまた、世界を狭めるのではないかという気付きです。
これまで考えてきたこととは真反対なのですが、知識があることで世界が見えなくなることも少なくないことも事実です。
空海は、虚空蔵とつながっていたという話を聞いたことがあります。
頭の中を空っぽにしたら、虚空蔵にある無限の知識は、すべてが自分のものになるのかもしれません。
もちろん「所有」という囲い込みでも、ネット検索というスタイルでもなくて、です。
■カフェサロン「宗教をどう考えるか」のお誘い(2018年9月10日)
京都の宇治市で、認知症予防ゲームの開発普及に取り組んできた高林実結樹さんは、湯島でもこれまで認知症関係のほか、古代史や戦時中体験などのサロンを開いてくれました。
心身ともにお元気な80代ですが、代表を務めていたNPO法人認知症予防ネットも後継者に委ね、ひと段落つけることになったそうです。
今回、日本認知症予防学会の学術集会で東京にいらっしゃいますが、これがNPO活動としては東京に来る最後の機会になるということなので、勝手に高林さんに湯島でサロンをお願いすることにしました。
認知症予防に関するサロンを企画しようかと思ったのですが、高林さんから思いもかけないテーマの提案がありました。
「日本人の宗教感覚」です。
高林さんは「青臭い宗教論」をしたいというのです。
高林さんは、曾祖父の代にキリスト教に転向した家に生まれました。
お名前の「実結樹」も、旧約聖書『詩篇第1篇第3節』からの命名だそうです。
三度三度の食事の度に、家族揃ってお祈りをする敬虔なクリスチャン家族でした。
ところが小学2年生の時に、宗教とは惰性と偽善の固まりだという思いになります。
心中深く赤面し、親に内緒で棄教。お祈りはポーズだけで、心を閉ざしたそうです。
時代はちょうど日本社会が国民総動員の戦争に向かっていた頃です。
何が、高林さんをそうさせたのか。
ちなみに、もう20年ほど前の本ですが、「日本人はなぜ無宗教なのか」という本があります。
また、その本のメッセージをさらに広げて、加藤典洋さんは「日本の無思想」という本を書かれています。
前者は、日本の宗教観の特殊性を、後者は信念(信仰)に関する「ホンネとタテマエ」を語っています。
いずれも新書版の読みやすい本です。
宗教や信仰(信条)という視点で、日本の社会を見ると、いろんなことに気づかされます。
しかし、残念ながら日本の社会では、生活や社会とのつながりのなかで、「宗教」を語ることは、そう多くはありません。
そんなわけで、高林さんの提案を受けて、「宗教をどう考えるか」をテーマにしたサロンを開催することにしました。
三連休のど真ん中の、しかも夜の開催ですが、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
高林さんは、「みんなが、どのような宗教感覚で、大人を生きておられるのか、興味津々」と言っています。
多様な時代を生きてきた高林さんの話をお聴きしながら、参加者それぞれの宗教観を気楽に出しあいながら、ちょっとだけ生き方を考えてみるサロンになればと思っています。
よろしくお願いします。
なお認知症環境予防ゲームのことで、高林さんとちょっと話がしたいという方がいたら、ご連絡ください。
6時には高林さんは湯島に着いていると思いますので、高林さんを囲んでのとても短いお茶会を開催する予定です。
〇日時:2018年9月23日(日曜日)午後7時〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「宗教をどう考えるか」
〇問題提起:高林實結樹さん(NPO法人認知症予防ネット前代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」の報告(2018年9月11日)
9月8日開催のカフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」には11人の人が集まり、かなり激しい論争が展開しました。
いつものサロンとはちょっと違って、いささか感情的なやり取りが多かった気がします。
もっともそうなった原因は、私の最初の問いかけが不適切だったからなのですが。
その反省もあって、報告を書くのも遅れてしまいました。
最初に問題提起者の武田さんから、いま書いている本の目次に沿って、「自立・抗不安国家論」の概要が紹介され、つづけて、現在の自民党政権の何が問題なのか、そしてそれを変えていくためにはどこから取り組みどう進めていけばいいかのお話がありました。
武田さんは、ただ問題点だけを指摘するだけでは何も変わらない、目指すべき国家像を明確にして、その実現のために現状をこう変えていくべきだという考えに基づいて、目指すべき国家像を「自立・抗不安国家」と表現しました。
つづいてその内容として、「国民主導型統治機構の確立」「国民の命を供することは許されない絶対平和主義」「戦争に巻き込まれないための核武装」「再配分型増税による財政再建」「国家の自立度を高めることを主軸にした政策展開」「新経済政策としての重脳主義」などを提案しました。
武田さんは、それを実現するためには、革命的な取り組みが必要だとし、それを「第3革命」と称しています。
そして議論が始まりました。
最初に私がちょっと気になったことを口走ってしまいました。
私が引っかかったのは、「新経済政策としての重脳主義のために教育において科学技術教育を最優先にしよう」という点です。
科学技術と人間文化の主従関係が逆転してしまったことに、昨今の政治経済状況の根因があるのではないかと思っている私としては、大いに違和感があったので、ついつい口を滑らしてしまったのです。
この点にこそ、これからの国家像を考えるポイントがあるような気がしたのですが、どうもそれがうまく表現できずに、議論が少し迷走してしまいました。
大いに反省です。
参加者のみなさんにはお詫びしなければいけません。
どうしたら今の政治状況を変えるための具体策を聞きたいという質問に対しては、武田さんは、そのためにもしっかりした国家像を共有化していくことが必要だと応えました。
その姿勢には賛成ですが、国家像とは何かということを共有すること自体が難しいことを改めて思い知らされました。
その後、議論はいろいろと出ましたが、私自身がいささか「感情的」になってしまっていて、記憶がとんでしまっています。
困ったものですが、そんなわけでうまく報告できません。
しかし、最近、コスタリカに行ってきた折原さんからのコスタリカの紹介やビタミン和子さんの韓国などの報告は示唆に富んだものでした。
いずれもまたいつかそれぞれにサロンをしてほしいと思います。
また「民主主義と民主政治」の違いや、「個人の尊厳の尊重という民主主義の理念と革命とは矛盾しないか」といった議論もありました。
これもまた大事な論点だと思います。
議論はいささか混迷し、ちょっと雰囲気も悪くなりましたが、私には理想的なサロンでした。
お互いに気づかいあいながらおだやかに話し合う場はどこにでもありますので、湯島のサロンでは「過剰に相手を傷つけない範囲」での論争は大歓迎なのです。
ただ今回はどうも私の判断がゆるすぎて、一部の人が少しだけ気分を害したようでもあります。
でもまあ、それが湯島のサロンだと思ってもらうのがいいでしょう。
みんながとても熱心に思いを込めて、ちょっと感情的にもなって話し合いをしているサロンは実にいいです。
初めて参加した人もいましたが、帰り際にとても面白かったと言ってくれました。
私は自分の主張があんまり賛成してもらえなかったので、いささかムッとしていましたが、反省しなければいけません。
サロンではかなり険悪な関係になってしまった人たちもいましたが、その後の二次会で関係は修復され、なんと10時までのロングランの懇親会になったそうです。
私は参加できなかったのですが、2人の方から「懇親会のほうが盛り上がってよかった」と連絡がきました。
サロンのホストとしては反省しなければいけません。
なおこのシリーズは継続します。
論争しに来たい人は大歓迎です。
武田さんの問題提起の各論展開も考えたいと思います。
■緊急サロン「ヤマトンチュが触れた沖縄の基地問題」へのお誘い(2018年9月12日)
沖縄県の知事選挙が9月30日に行われます。
辺野古基地をめぐって、誰が知事になるかによって、日本のこれからに大きな影響を与えることになるでしょう。
しかし、その沖縄の状況は、マスコミではなかなか伝わってきません。
湯島では、沖縄在住の緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)にもサロンを2回やってもらうなど、時々、沖縄に関わる問題を取り上げてきました。
最近きちんと取り上げていないのが気になっていました。
たまたまですが、湯島のサロンにも参加してくださったことのある瓜生さんが、最近、沖縄に行ってきたことをフェイスブックで知りました。
瓜生さんは、フェイスブックで基地問題関連の情報をシェアして下さっています。
瓜生さんが沖縄に行った主目的は、カヌー隊辺野古ブルーへの参加、キャンプシュアブゲート前座り込みと戦跡訪問、全島エイサー大会などの「観光」でした。
基地問題や知事選挙で揺れている沖縄の現地で、公共哲学やケアに関心を持つ瓜生さんが何を感じたかはとても関心があります。
そこで、生活者感覚から見た沖縄の基地問題というお話を瓜生さんにお願いしました。
3・11の後の福島の情報と同じで、沖縄の基地関連の情報は、マスコミに流れる情報量は決して少なくありませんが、現場の情報と首都圏での情報とはかなり乖離があるようにも感じます。
そこで、市民社会に関心をお持ちの瓜生さんの目を通して感じた、いまの沖縄の基地問題をお話しいただき、そこから私たちのとっての沖縄基地問題を話し合えればと思います。
瓜生さんは、「沖縄の出来事は明日の私達の出来事です。自己決定権と個人の尊厳、差別を参加者と一緒に考えたい」と言っています。
三連休のど真ん中なの、しかも1〜3時という時間ですが、とても大切なテーマなので、ぜひ多くのみなさんに参加していただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2018年9月23日(日曜日)午後1時〜3時
(12時半には開場していますので、おにぎりなど持って早目に来ていただき、雑談しながら昼食をしていただいても結構です)
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「帰る場所があるヤマトンチュが触れた沖縄の基地問題」
〇問題提起:瓜生達哉さん(市民による勝手連@ちば)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「わけのわからない事象」(2018年9月12日)
今朝のテレビで、リーマンショックから10年、技術者の逆襲というのを見ました。
リーマンショックで業績悪化した日本の企業から多くの技術者が退職を強いられましたが、その人たちがいまベンチャー企業を起こし頑張っているという話です。
部下を解雇せざるをえなかった技術者の方が、自らも退職し、そうした技術者に声をかけてベンチャー企業を立ち上げ、いまはばたこうとしている成功事例が紹介されていました。
とても元気が出る話ですが、その起業家がインタビューに答えて話した言葉が気になりました。
それは、「リーマンショックというわけのわからない事象」という言葉です。
たしかに、自分たちとは無縁なところで起こった「わけのわからない事象」に振り回されたという思いは強いでしょう。
でも本当に、無縁の話だったのかどうか。
問題は、「わけのわからない事象」ではなく、「わけのわからない自分」なのではないのか。
これは何も経済や企業だけの話ではありません。
さまざまな事件に巻き込まれた時に、なんでこんなことが起こるのか「わけがわからない」と思う人は少なくないでしょう。
人間が起こす事件だけではなく、自然災害にも言えるかもしれません。
最近話題のスポーツ界のリーダーの人たちも、もしかしたら「わけがわからない」と思っているかもしれません。
親子関係や夫婦関係でも同じようなことが起こるかもしれません。
こんな子に育てたつもりはない。
なんで死ぬまで働いてしまったのか。
なんで離婚を求められるのか。
そういう場合、そうした不都合の原因は自分ではないと思い、しかも「わけがわからない」ということにしてしまうことが少なくありません。
しかし、そうでしょうか。
その生き方を変えるべきではないか。
そんな気がして、私は考え方や生き方を変えようとしています。
どれだけできているかは確信は持てませんが、少なくとも「わけがわからない」などとは考えないようにしています。
私が生きている世界で起こっていることに、私が無縁であるはずがないからです。
「わけがわからない」ことが起きたら、それを放置するのではなく、その「わけ」を考える姿勢を持ちたい。
湯島のサロンでも、そうした「わけのわからない」ことの「わけ」を話し合えればとおもっています。
もし「わけのわからない」ことが起こったら、みんなで話し合って、考えてみませんか。
問いかけたい人がいたら、サロンを企画しますので、ご連絡ください。
■カフェサロン「日本列島「法」改造論」のご案内(2018年9月13日)
ちょっと先ですが、日本のあり方を話し合うシリーズのサロンの案内です。
今回は、ゲストに神戸大学名誉教授の行政法学者・弁護士の阿部泰隆さんをお迎えして、「日本列島「法」改造論」という、いささか壮大なテーマでのサロンを開催することにしました。
阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「日本列島「法」改造論」というのは、今月21日に第一法規から出版される阿部さんの新著のタイトルです。
神戸在住なので、久しく会っていなかったのですが、遺言だと思って最後の本を書いたというメールが先週来ました(といっても、すでに40数冊出版していますが、これからも10冊は出版しないと死ねないといっています。http://www.eonet.ne.jp/~greatdragon/)
しかし、遺言であれば、読まないわけにはいかないので、読ませてもらうことにしたのですが、せっかくなので、多くの人にも知ってもらいたくなって、阿部さんに湯島のサロンをやってもらうことにしました。
予告案内の本の帯に「Dr.阿部の執刀開始!」とあります。
まだ出版されていないので、目次の原稿を送ってもらったのですが、なんと目次だけで28頁。
目次を読めば、内容がイメージできますが、いかにも阿部流の舌鋒厳しい、実に賑やかな内容のようです。
阿部さんによれば、「逆転の発想による法改革」によって、日本を変える提案だそうです。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」ですが、つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
「はじめに」も読ませてもらいましたが、たとえばこんなことが書かれています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。
社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。
研究者は現実の裁判を追行していないので、裁判の不条理も知らない。まして、三行半判決で、何のまともな理由もつけずに闇から闇へと葬られ、人生や会社が破綻させられる無数の事件のことには関心を持たない。裁判官も、このようなことに責任を感じている者は多くはないと感ずる。
また、疑問を持たず、既存の資料を整理するだけの「業績」が多い。
その上、筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。
とまあ、こんな風なのです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。
今回は阿部さんから、どのテーマでやろうかと相談を受けましたが、腐ってきている日本国家を快刀乱麻に語っていただき、それをどう改造していけばいいかを話してもらったあと、当日参加した人たちの関心事に合わせて問題を掘り下げられればと思います。
ぜひ多くの人に参加して、議論を戦わせればと思っています。
今月21日に発売予定の「日本列島「法」改造論」(第一法規)をできれば事前に読んでおいていただければと思いますが、当日、阿部さんも何冊かご持参いただく予定なので、そこでも購入可能です。
〇日時:2018年10月12日(金曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本列島「法」改造論」
〇問題提起:阿部泰隆さん(行政法学者・神戸大学名誉教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年」をお薦めします(2018年9月15日)
豊かに生きたいと思っている、すべての人に読んでほしい本のご紹介です。
「発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年」(松永正訓 中央公論新社 1600円)です。
「トリソミーの子」「呼吸器の子」と、これまで難病の子どもと母親との関係を軸に、人間の素晴らしさと危うさを、深く優しく問いかけてきた松永正訓さん(小児外科医)が、今回は知的障害児とその母親を取り上げました。
本書の帯には、「幼児教育のプロとして活躍する母が、自閉症児を授かり、世間一般の「理想の子育て」から自由になって行く奇跡を描いた渾身のルポルタージュ」とありますが、知的遅れのある自閉症の男の子(勇太君)の17年間を母親からの聞き取りをもとに、松永さんがまとめたものです。
松永さんは「あとがき」で、「ノンフィクションを書く上で重要なのは、筆者の取材力と表現する力であるが、それ以上に大事なのは、取材を受ける人間の語る力かもしれない」と書いています。
私は、それ以上に大切なのは、「筆者と語る人の信頼関係」ではないかと思っています。
本書では、主役である「母」の思いや言葉が、実に素直に、剥き出しのまま書かれていて、驚くほどです。
そこには取り繕った「言葉」はありませんし、へんに遠慮した筆者の思いこみで包まれた「言葉」もない。
発している言葉が、実に生々しく、とんがっている言葉なのに抵抗なく心に入ってくる。
その一方で「母」に向けられた周囲の声が、まるで自分に向けられたように、心に突き刺さり、うれしくなったり悲しくなったりするのです。
本書のいたるところで、「母」と筆者の信頼関係を感じます。
実に安心して読めるだけではなく、読んでいる自分も、違和感なくその世界で一緒に生きているような気になるのは、筆者の立ち位置が単なる観察者ではないからでしょう。
だから、読んでいるほうまでも、「母」と「同期」してしまって涙が出てしまう。
私は本書を電車の中で読んでいたのですが、3回ほど、涙がこらえられませんでした。
本に出てくる情景が、あまり生々しく、まるで自分のことのように感じたからです。
「母」の思いに筆者が同期し、さらに読者まで同期してしまう。
今回も松永さんの大きな関心は、「受容」です。
人を受容するとはどういうことか。
しかも評論的にではなく、これまでの作品と同じように、松永さんはいつもそこに「自分」を置いて考えています。
今回もそれがよくわかります。
さらに今回は、そこにもう一つの視点が加わりました。
「普通」という呪縛です。
松永さんは、本書を通じて、自閉症の世界の一端を明らかにし、私たちの日常を縛る「普通」という価値基準の意味を問い直したいと書いています。
「普通」という呪縛から解放されると、世界は豊かに輝いてきます。
「受容」は「普通」からの解放に深くつながっています。
そのことが本書には、具体的に語られています。
たとえば、ちょっと長いですが引用させてもらいます(文章を少し変えています)。
知り合いの母親に、勇ちゃんの保育園での写真を見せた。健常児が横一列にきれいに整列して歌を歌っている。勇ちゃんは後ろの方の床で絵本を広げでいる。「こんなふうに、うちの子はみんなと一緒に歌ったり、集団行動が取れないのよ」。母は嘆くように相談を持ちかけた。実はその母親は、自身がアスペルガー症候群(知能が正常な自閉症)だった。従って勇ちゃんの気持ちが分かる。分かってそれを言葉で伝えてくれる。「この一列に並んでいる子たち、本当に不思議ねえ。どうして同じ格好をして歌っているのかしら? 後ろで本を読んでいる方がよっぽど楽しいのに」。この言葉も母には衝撃だった。そうか、自分は健常者の視点でしか、我が子の世界を見ていなかったのか。
発達障害の二次障害という、衝撃的な話も出てきます。
無理に「普通」に合わせようとする結果、うつ病や自律神経失調症などの精神障害を発症してしまうことがあります。
それを頭では知っていても、親はわが子を何とかしてやりたくて、無理をさせてしまう。
しかし、それは子どもためにはならない。
それが時にどういう結果になるか。
母がそれに心底気付いたのは、たまたま入院病棟で垣間見た病室の風景でした。
その場面は、読んでいて、私の心は凍りつきました。
読後も決して忘れられないほど、強烈なイメージが残りました。
受容とは普通の呪縛からの自由になって、お互いを信頼し合うことなのです。
それは、「発達障害の世界」に限った話ではない。
それに気づくと、世界は違って見えてくる。
読みだしたら、引き込まれて一気に読んでしまう本です。
勇太君と母との17年間は、たくさんの気づきと生きる力を、読む人に与えてくれる。
この本は書名の通り、発達障害児と母との物語です。
しかし、読みようによっては、誰にでもあてはまる示唆がたくさん散りばめられている。
人とどう関わるか、信頼するとはどういうことか、幸せとは何なのか、生きるとはどういうことか。
自らの問題として、そこから何を学ぶかという視点で読むと、山のようなヒントがもらえるはずです。
書名の「発達障害」という言葉にとらわれずにすべての人に、読んでほしいと思う由縁です。
ちなみに、10月6日に、湯島で松永さんにサロンをしてもらいます。
松永さんの人柄に触れると、さらに本書のメッセージを深く受け止められるでしょう。
ご関心のある人はご参加ください。
■かなりハードなカフェサロン「近代国家幻想を考える」へのお誘い(2018年9月15日)
最近、ちょっとハードなカフェサロンをやっていませんが、今回は「ちょっと」ではなく「かなり」ハードなサロンを行うことにしました。
問題提起者は柴崎明さんです。
柴崎さんは吉本隆明の論考を雑誌に10年ほど連載していますが、これが難解で私には歯が立ちません。
最近は、フーコーの「言葉と物」を読んだコメントなどを送ってきてくれていましたが、これはさらに難解。
しかも最近は山本哲士さんの近代国家5部冊2500頁というとんでもない大部の書籍を完読したというので、そのエッセンスをレクチャーしてもらおうと思ったのですが、入り口で私は挫折。
そこで、私だけで聞くのがダメなのだと気づき、サロンにすることにしました。
いま柴崎さんはスピノザだとかマシュレーだとかどんどん先に進んでいて、関心は近代国家の先に向かっています。
今朝現在の関心は、「近代国家を越える場所を私たちはつくることができるか」です。
毎日のように柴崎さんの関心は先に進んでしまうので、このままだともうじき私とも対話不能になりそうなので、少し立ち止まって、話し合おうと提案させてもらいました。
時々、フェイスブックに書いている柴崎さんの独り言は、私には時にいろんな示唆を与えてくれるのですが、まとまった話になると、よほどこちらに知識がないとついていけません。
湯島で時々語られている政治サロンも、彼にはたぶん退屈な「井の中のサロン」にしか感じていないでしょう。
柴崎さんと話し合うのはかなりハードなので、話が全くかみ合わないサロンになるかもしれませんが、柴崎さんの頭の中にある膨大な知見を引きだせればと思っての、無謀な試みです。
有効(友好)な時間を過ごせるかどうかはまったく保証できないサロンですが、何でもやって見ないことにはわかりません。
そんなわけで、いささか危険な、そしてかなりハードなサロンになりそうですが、チャレンジ好きな方の参加をお待ちします。
一応、テーマは「近代国家」ですが、近代国家幻想論を超えて、「近代国家を越える場所を私たちはつくることができるか」とか「近代国家を越える場所」とかになっていくかもしれません。
テーマは、かなりアバウトなものとお受け止めください。
ただ現代の国家のあり方には、どこかでつながっていく議論になることは間違いないと思います。
満足してもらえるかどうかはまったく保証の限りではありません。
当日は30分ほど、柴崎さんに話してもらい、そこから「質疑型」あるいは「対話型」での話し合いにしていければと思っていますが、これはあくまでも予定です。
ちなみに、だからと言って、文献的知識がなければいけないというわけでもありません。
かなりハードとはいえ、湯島のサロンですから。
〇日時:2018年9月30日(日曜日)2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「近代国家幻想を考える」
〇問題提起:柴崎明さん(孤独な哲学者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「見守りと支えあいの住宅 福祉シェアハウス構想」報告(2018年9月16日)
2回にわたる「安心して死を迎えられる生き方」のサロンを受けて、具体的な実践につなげていく方向でのサロンやプロジェクトがはじまりました。
その第1回目のサロンでは、実際に「福祉シェアハウス構想」に取り組んでいる小畑さん(NPO法人ハーモニー虹代表)に、その構想を紹介してもらいました。
小畑さんは、なぜそうした構想に取り組みだしたかの背景をていねいにお話してくれましたので、その構想の意味が参加者には生き生きと伝わったと思います。
小畑構想は、「問題を抱えた当事者及び当事者家族の限界」と「自らがソーシャルワーカーであることを活かして何ができるか」を試行錯誤してきた結果です。
ですから単なる机上論ではないと同時に、小畑さんにとっては自らの生活と深くつながった切実な構想でもあるのです。
その構想は、案内にも書きましたが、一言でいえば、住み慣れた地域で、住居というハードの面と専門職による支援と支えあいというソフトの両面から、生活に生じる困難を乗り越え、暮らし続けられる住宅を指しています。
それは同時に、生活のなかでの看取りの場でもあり、また死の学びの場でもあります。
かつては「家族」がその役割を果たしていたかもしれませんが、核家族化が進んだ現在、それは難しく、さらに家族そのものが変質してきています。
小畑さんの構想は、そういう状況を踏まえて、「家族の保護からの自立」を意図しています。
話し合いのなかでは、小畑構想は既存の福祉型のシェアハウスとどこが違うのかという点が問題になりました。
いくつかの視点が出されました。
たとえば、小畑さんのシェアハウス構想には、音楽を楽しめる空間とか外部の人を誘い込む空間が構想されています。
福祉というと何か障害を補う仕組みをまずイメージしますが、小畑さんはむしろ「楽しく暮らせる場」であることを大切にしています。
また、福祉を「支援される」という受け身で考えるのではなく、自らも役割を果たすという「支援する」という要素も大事にしています。
役割をシェアするという意味も込められているのです。
話し合いでは、その「役割」をどう考えるかの議論も少しありました。
これは、福祉とは何かということにまでつながるような気がします。
この構想も、「福祉」という言葉を外して発想したほうが、小畑さんの思いにつながっていくのではないかという意見もありました。
そうした「施設」を実現し、持続していくかに関しては資金的なことも無視できません。
コーポラティブハウスやコレクティブハウスに関わっている人も参加していたため、それに関してもいろんなアイデアが出ました。
小畑さんの構想の実現には、施設をシェアするだけではなく、この構想自体を複数の人たちでシェアしていくことが大切なのかもしれません。
「家族」をどう捉えるかも少し話題になりました。
私自身は、昨今の家族観はいまだに「血縁」に強くこだわりすぎているように思いますが、むしろそうした「血縁家族の呪縛」から自由になって、新しい縁を育てる場から生まれる、新しい家族の概念があっても言いように思います。
ほかにもいろいろと話は出ましたが、今回、湯島のサロンに初参加してくれた方から、ともかく動きだすことが大切だという元気が出る提案がありました。
このサロンは大きくいえば、「安心して死を迎えられる生き方を支援する仕組みづくり」を目指しています。
そのためには、今回のような「福祉シェアハウス」の他にもいろんなプロジェクトが想定されます。
湯島のサロンから生まれたいくつかの動きもつながっていくかもしれません。
しかし、話しているだけでは何も始まりません。
それで、そういう個別プロジェクトが生まれ、つながるような、プラットフォームもつくろうということになりました。
これは、このサロンのきっかけをつくった、中下さんの思いでもあります。
考えてみれば、これはかつて構想し挫折してしまっている「コムケア構想」につながっています。
私も改めて、もう少し頑張ってみようかという気になりました。
個別プロジェクトとプラットフォーム的な集まりを引き続き開催していく予定です。
ご関心のある方は引き続き(あるいは新たに)にご参加ください。
次回は10月14日(日曜日)の午前中を予定しています。
また別途ご案内させてもらいます。
■「昭和の人」(2018年9月19日)
少し前の話なのですが、ある問題解決のために関係者にヒアリングしたことがあります。
そこで、若い女性が言った言葉が今でも忘れられません。
「昭和の人がいくら新しいことを目指してもダメです」
あまり正確ではないですが、彼女はこう言いました。
私も「昭和の人」なのですが、即座に彼女に共感しました。
そして、私も昭和の人なのでダメですね、と、皮肉ではなく、素直に言いました。
彼女は慌てて、そう言う意味ではないと言いましたが、たぶんそういう意味も含まれていたのでしょう。
最近起こっているさまざまな組織の不祥事を見ていると、この「昭和の人」という言葉に、実に説得力を感じます。
スポーツ界や行政や企業で展開されている「トップ」と「メンバー」の食い違いは、この「昭和の人」論で説明できそうです。
つまり、「昭和の頭」で生きている人と「平成の人」とは、明らかに「常識」も「判断基準」も違うのです。
そこに齟齬が生じ、「昭和の人」にとっては理解できない批判を受けることになる。
昨今のパワハラもセクハラも、昭和の頭で考えていては、多分理解できないでしょう。
一方、マスコミの現場にいる人たちは、少なくとも「昭和の頭」では生きていないのです。
しかし、彼らは独自に論を展開するだけのエネルギーも努力もしようとしません。
つまり、「昭和の頭」に寄生しながら、「反昭和の頭」なのです。
ですからマスコミ報道も、所詮は内容のない、「昭和の人」批判で終始しています。
事態はなにも変わらない。
ちょうど、アメリカ政府に依存しながら、反米言動を繰り返す、右翼や左翼と同じです。
アメリカがもしなければ、日本共産党ですら存立の基盤が揺らぐほどに、いまの政治家や政党には主体性が感じられません。
今の20〜40代の人は、それ以前の世代の人に比べると育った環境も社会活動での体験もかなり違うでしょう。
そういう人たちは、「昭和」を自らとつなげながら懐かしむ世代と違い、「昭和」を自分とは無縁な世界として受け取っているような気がします。
しかし、それを壊すまでにはいっていない。
なぜなら彼らもまた、「昭和の人」によって作られた「豊かさ」に依存していて、自らの世界を構築するに至っていないからです。
そこから離脱していく勇気がないのです。
平成の人には、思考停止と隷属習性の文化があるというと、いささか言いすぎでしょうが、どうもそう感じてしまう。
「失われた30年」とも言われる平成時代が失ったものは何かを、しっかりと考えなければいけません。
それが何かわからないうちは、失われたものを回復することなどできないからです。
いずれにしろ、「昭和の頭」の役割は終わってしまった。
もし私がもう少し生き続けるのであれば、「昭和の頭」の呪縛から自由になった「昭和の人」として生きるしかない。
それができるかどうかいささか悩ましいですが、そう言う生き方をもう一歩進めていこうと思っています。
「平成の人」たちにも、ぜひとも自らの生き方を問い質してほしいといつも思っています。
「昭和の人」と同じ間違いはしてほしくないからです。
■「子どもNPO白書2018」を読ませてもらいました(2018年9月20日)
湯島に事務局を置いている日本子どもNPOセンターが、2号目になる「子どもNPO白書2018」を出版しました。
ざっとですが、通読させてもらいました。
創刊号に劣らず内容が充実しているので、この活動も軌道に乗ってきたことがわかります。
子ども関係のNPOはとても多く、その全体像はなかなか見えてきませんが、こうした白書の継続的な発刊を通して、さまざまな分野の活動がゆるやかにつながっていくことが期待されます。
第1号と同じく、白書は大きく「理論編と「実践編」に別れています。
理論編では、創刊号発刊後3年間の間に起こった、大きな変化について解説されています。
まずは法的環境の変化について、NPO法、児童福祉法、教育基本法の改正とその問題点が解説されています。
市民活動の視点から、改正の方向性に関する批判的な指摘もしっかりと行われています。
市民、それも実践者中心の手による白書であることの強みと言っていいでしょう。
NPO活動は、法的環境に大きく影響されますが、改正の動きを所与のものとして受動的に捉えるのではなく、むしろ法的環境を能動的に変えていくことがNPOの大きな使命です。
個々のNPOとしては、なかなかそうした使命は果たせませんが、そう言う意味でも、こうした白書づくりの意味は大きいでしょう。
子ども関係のNPOをつないでいく子どもNPOセンターの最大の役割はそこにあるように思います。
個々のNPOはどうしても目先の問題の対応に追われがちですが、ゆるやかにつながっていくことで、子どもの視点からの法的環境の整備にも関わっていくことができるはずです。
理論編では、法的環境と並んで社会環境の変化も取り上げられています。
自然環境、平和活動、SNSに代表される情報環境、さらには子どもの貧困への具体的な実践として広がりだしている子ども食堂などの動きなどが、多角的に語られています。
実践編は、第1号と同じく、領域別に具体的な活動事例や実践者の論考が展開されています。
いずれも実践を踏まえたものなので、説得力を感じます。
事例は、北海道から九州まで全国にわたっています。
第1号よりも、執筆者の顔ぶれが広がっているのも、うれしい前進です。
なお、資料編として、関係法や条文なども掲載されています。
日本子どもNPOセンター代表の小木さんは、「刊行によせて」で、今回も第1号で掲げた編集方針を大事にしたと書いています。
それは、「全国の子どもNPO活動の全体像が鳥撤できること」と「全国に点在する子どもNPOにヒントを投げかける理論と実践を紹介すること」の2つです。
この「白書」活動を継続していくことこそ、いま必要なことと確信している小木さんの思いは、着実に深まり広がっているようです。
読み物としても、資料としても、密度の高い、しかしとても読みやすい白書ですので、子ども関係のNPOに関わる人はもちろんですが、多くの人に読んでほしい白書です。
NPOのネットワークがつくる白書の継続刊行は、めずらしい活動ですが、個々の問題に取り組むとともに、そうした活動が横につながって、社会への情報発信をしていく活動こそが、市民社会を育てていくのではないかと思っている私としては、応援していきたい活動です。
ぜひとも多くの人に知ってもらい、この白書活動をさらに広げていければと思います。
ただ、そのためにもいくつかの課題はあるように思います。
私は第1号の紹介に際して、白書の内容として、2つの要望を書かせてもらいました。
ひとつは、「領域を超えた実践者たちが、今の子どもたちや社会をどう考えているかを話し合うような座談会」。
もうひとつは、「子どもにとっての活動の場である社会を、子どもたちはどう見ているのかという子どもたちの声」。
今回も残念ながらそうしたものはかなえられませんでしたが、第2号を読んでもう一つ感じたことがあります。
それは、小木さんが意図されているように、子どもたちの世界や子どもNPO活動の世界が鳥瞰できるように、この白書を図解化できないだろうかということです。
図解化することで、見えてくることも多いですが、それ以上に図解化することで、子どもNPO活動に降り汲んでいない人たちの理解は進むでしょう。
創刊号も含めた2冊の白書を材料にして、子ども世界の動向を鳥瞰図的に図解化するワークショップや研究会などができれば、きっと子供世界がもっと見えてくるような気がします。
これだけの白書をつくることに、関係者のみなさんがどれほどの苦労をされたかが少しはわかる者として、こうした要望を表明するのは、いささかの躊躇はありますが、逆にこれだけの苦労をさらに効果的なメッセージにしていくためにも、第3号にはそうした企画をぜひ入れていただきたいと思います。
せっかくできた白書ですので、ぜひこれを活用したフォーラムや集まりを、領域を超えて展開していっていただきたいとも思います。
ぜひ多くの人に読んでいただきたい白書です。
できれば一度、湯島でもこの白書を材料にサロンを企画したいと思います。
子どもの世界を見れば、これからの日本が見えてきますので。
■なぜ交番にいる警察官は拳銃を所持しているのか(2018年9月19日)
仙台の交番でまた不幸な事件が起きました。
これに関連して、いつも不思議に思っていることがあります。
それは、なぜ交番勤務の警察官が拳銃を所持しているのかということです。
街中のパトロールも含めて、私には拳銃はふさわしくないものだと思っています。
警官が所持する拳銃を奪いたくて事件を起こした事例もあります。
拳銃の使用が過剰防衛だと言われたこともあります。
そういう事件が起こるたびに思うのは、拳銃は殺人を誘発するのではないかということです。
核兵器抑止論に私が違和感を持つのも、そうしたこととつながっています。
核抑止論と警官の拳銃所持は、発想の根源が同じものではないか。
それは、暴力で秩序を維持しようという発想です。
それはたしかにある状況では有効だったでしょうが、一度、秩序化ができた後も有効なのか。
無秩序の状況で有効だったものが、秩序化された状況のなかでは、機能が反転することもあるのではないか。
とりわけ「暴力の象徴」的存在(核兵器や拳銃)は、秩序の強制的維持か秩序破壊には効果的な道具です。
マックス・ウェーバーは、「暴力の独占」が近代国家を支えているといいましたが、思想としての「暴力」は独占できても、実際の道具(核兵器や拳銃)を独占することは不可能です。
ですから「暴力の独占」は理念でしかありません。
たとえ国家によって独占されるとしても、暴力が肯定されている社会では、実際の暴力は根絶されることはなく、私益や私欲につながっていきます。
国家に寄生している人たちは、つまるところ「暴力」に寄生している。
そしてそこから金銭という果実の配分を受けている。
暴力に対しては暴力と考えるのは、必然的な結論でしょう。
想像力のない人間や国家は、暴力の象徴である核兵器や拳銃を手に入れたくなる。
それは「暴力の独占」を脅かす「暴力の拡散」を引き起こす。
ですから、武器は争いを誘発しこそすれ、抑止はしないように思うわけです。
過剰な抑圧は、被抑圧者の暴発を招きますし、武器を奪うための行動も誘発しかねません。
核武装の使用は、国家間で行われるとは限りません。
北朝鮮の核武装化などは大きな問題ではなく、むしろテログループや個人の核武装化に、私は不安を感じます。
日本が長いこと平和を維持できたのは、「刀狩」のおかげではないかと思います。
日常から武器が見えなくなることは、なんと心の安らぎをもたらしてくれることか。
刀や武器をコレクションしている友人知人もいますが、その気持ちが私にはわかりません。
私も過去に、実際の日本刀に触れたことはありますが、手にした途端に気持ちが少し変わるのを感じました。
武器の所有は、人の心を変えかねない。
お金と同じです。
そして、その武器を持ってみたいという気持ちも誘発しかねません。
交番のシステムは、海外からも評価され、一時は交番システムが広がっていたこともあったと聞きます。
しかし、その交番システムには、拳銃は不要のはずです。
警官の日常の見回りなどには拳銃を所持する必要などないはずです。
携行しなければ、拳銃を落としたとか置き忘れたとか、そんなことも起きません。
日常生活を見守ってくれている警官には、拳銃所持など不要の話です。
拳銃による警察官の自殺もなくなるでしょう。
なによりも警察官のストレスは解消されるはずです。
特別の状況の中で拳銃を所持することまで、今の状況のなかでは否定しませんが、せめて交番勤務の警察官には拳銃は不要だと思うのです。
交番や警察官が襲われる理由は他にもあるでしょうが、それもたぶん、拳銃所持と無縁ではないでしょう。
交番のセキュリティが話題になっていると報道されていますが、おかしな話です。
そろそろ「暴力」で秩序を管理する発想を見直す時期ではないか。
「昭和の頭」で発想するのは、やめた方がいいような気がします。
そこから「核抑止」の問題も考えてみるのはどうでしょうか。
■カフェサロン「子ども・若者とNPOの今〜『子どもNPO白書2018』を刊行して」の案内(2018年)
湯島に事務局を置いている日本子どもNPOセンターが、2号目になる「子どもNPO白書2018」を出版しました。
3年前の創刊号に劣らず充実した内容です。
理論編として子どもの世界を取り巻く環境変化が概説され、つづく実践編では領域別に具体的な活動事例や実践者の論考が展開されています。
子ども関係のNPOに関わっている人はもちろん、子どもの世界に関心のある人には、是非一読をお薦めしたい白書です。
NPO活動の実践者たちが横につながって白書を継続刊行していくのは、めずらしい活動です。
NPOとして個々の課題に取り組むだけではなく、さまざまな活動が横につながって、社会への情報発信をしていくことこそが、市民社会を育てていくのではないかと思っている私としては、とても共感できる活動です。
こうした活動によって、子どもに関わるNPO活動の全体像が見えてくるとともに、個々の活動がつながっていくことで、新しい活動も生まれてくるだろうと思います。
この白書をぜひとも多くの人に知ってもらいたいと思っていましたが、日本子どもNPOセンターの森さんから、湯島でサロンを開き、ざっくばらんな意見交換ができればというお申し出をいただきました。
そこで、早速、森さんにお願いして、『子どもNPO白書2018』の紹介と同時に、「子ども・若者とNPOの今」についてお話をいただき、それをベースにした話し合いをさせてもらうことにしました。
NPOは、共通する課題や活動で連携して社会・行政への発信力を強めていこうという活動は様々あります。
これらに対し、子どもNPO白書は多岐にわたる課題、ふだんあまり接点がない取り組みをまとめています。
NPO相互のヒントにするだけではもったいなく、今の社会に「?」を感じているけれど、どうしたらいいのか、どこに可能性あるいは壁があるのと思っている方々に読んでいただきたい、声をいただきたい、というのが森さんの希望です。
白書の執筆者も参加します。
子どもの世界を見れば、いまの社会とこれからの日本が見えてきます。
子ども関係の活動をされている方はもちろんですが、さまざまなお立場の方の参加を期待しています。
なお、『子どもNPO白書2018』の簡単な紹介を下記に書かせてもらっています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180923
また白書の目次は次のサイトにあります。
https://www.amazon.co.jp/dp/toc/4871686221/ref=dp_toc?_encoding=UTF8&n=465392
当日、購入もできると思いますので、ご希望の方はできれば予めご連絡ください。
○日時:2018年10月21日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:子ども・若者とNPOの今〜『子どもNPO白書2018』を刊行して
○話題提供者:森透さん(日本子どもNPOセンター理事)
○会費:500円
○連絡先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■だれでもスピーチができる場がほしいです(2018年9月26日)
貴乃花はなぜ記者会見をしたのでしょうか。
しかし記者会見できる人は幸せです。
誰にも知られずに、つぶされている人は少なくないでしょう。
また、誰にも知られることなく、忘れられていく「知恵」や「意見」も多いことでしょう。
40年ほど前にロンドンのハイドパークに行った時、そこに「スピーカーズコーナー」があり、誰でもがスピーチできることを知りました。
その時はそこを通り抜けただけですが、その時も一人の人がスピーチしていて、数人の人が立ち止まって聞いていました。
これこそ「公園」だと思いました。
いまはSNSで、だれもがネット上ですが「スピーチ」できるようになりました。
しかしネットのスピーチではなく、やはり今回の貴乃花のように、誰もが思い切り話せる場があるといいなと思います。
それに今回のような記者会見では、貴乃花でさえも素直に話すことはできないでしょう。
見ていて、辛そうな感じでした。
もっと「苦渋の選択」といったおかしな決意なしに、気楽に、しかし誠実に話をする「スピーカーズコーナー」があるといいなと思いました。
選挙で立候補すると社会に向けてスピーチすることが可能になりますが、誰でもができるわけではありません。
時々、駅前で政治家が「朝立ち」をしていますが、私自身はあの活動には批判的です。
政治家ではない人が演説し始めたら、もしかしたら駅からストップをかけられるかもしれません。
政治家であれば、街頭ではなく、きちんと場所を創って、話す(放す)のではなく語る(象る)べきだと思います。
そこにきちんと人が集まってくる仕組みを、努力して育てていくべきです。
そうした場を広げ育てていくのが政治家の大切な役割だと思います。
民主主義は、「広場」から育っていくはずですが、そこにはやはりきちんと「話し合う」場がなければいけません。
記者会見でのスピーチも私はあまり好きではありません。
その場所のガバナンスの問題があるからです。
自由で多様なスピーチは、やはり自由な場で行われないといけません。
ロンドンのハイドパークでスピーチを行った人のなかには、マルクスやジョージ・オーウェル、ウィリアム・モリスといった人もいたそうですが、事前手続きは不要で、誰もが、ほぼあらゆるテーマについて語ることができるのだそうです。
もちろん批判も少なくありません。
それにハイドパークのスピーカーズコーナーですら、制約はあります。
日本でも最近、公園の使用がいろんな面で規制され始めていますが、公園の最大の価値は、そこがコモンズ空間であることではないかと思います。
日本の公共空間は、「公」が強く「共」が弱いので、つまるところ言論の自由ではなく言論の規制の空間になりやすいのですが、それでは市民社会は育ちません。
私が取り組んでいる湯島のサロンも、そうしたものを意識しているのですが、部屋の中でやっていてはどうしても閉鎖的になります。
それに集まりを「企画」する必要があり、企画者や運営者(つまりは主に私のことなのですが)の狭い料簡が紛れ込みやすいです。
投げ銭サロンも一度やってみましたが、その後、希望者は現われません。
もし資金があれば、どこかの開かれた空間を購入して、そこをすべての人に開放して、スピーカーズコーナーを確保したいですが、残念ながら資金的に不可能です。
宝くじを買って当たったらそういう空間を創りたいと思っていましたが、なかなか当たりません。
昨日、貴乃花の記者会見をライブでずっと聞いていて、改めて「誰でもが話せる場」の大切を感じました。ジャーナリストの人たちがその気になれば、そう言う場は作れるはずですが、維持が難しいのでしょう。
金銭面での資産家のどなたかが、3億円くらい出資して、誰もが話せる「アゴラ基金」でも作ってくれるといいのですが、希望者はいないでしょうか。
私がいま積み立てている基金は、時に私が使い込んでしまうので、何しろまだ10万円にも達していないのと、最近は別の用途に使いたくなっているので、何か違う方法を考えないといけません。
いい知恵はないでしょうか。
そうした広場ができるまでは、湯島のサロンは、一種のスピーカーズコーナーとしても考えています。
何か話したい人がいたら、ご連絡ください。
基本的には、誠実な人ならだれにでも開放しています。
場合によっては、ユーチューブ配信などもこれからきちんと考えていこうと思います。
■緊急サロン「ヤマトンチュが触れた沖縄の基地問題」報告(2018年9月27日)
沖縄県の知事選挙が9月30日に行われます。
日本のこれからに大きな影響を与える選挙ですが、「本土」にはその動きはあまり伝わってきません。
そこで、最近、沖縄に2回も行って、選挙戦も身近に体験してきた瓜生さんに、現地報告もかねて、お話をお聞きしました。
せっかくの機会だったので、多くの人に聞いてほしかったのですが、当日集まったのは3人でした。
それを持って、沖縄の選挙への関心の低さの現れだと思いたくはありませんが、ちょっと残念な気がしました。
瓜生さんは、部屋に来るなり、臨場感を出そうとするように、沖縄で配られているチラシやポスターをホワイトボードに貼りだし、机の上には現地の新聞を並べました。
琉球新報などの現地の新聞の一面見出しと首都圏の全国紙の見出しは全く違います。
そうした情報環境に毎日さらされていると、それだけも意識は大きく変わってきます。
最近は新聞をとっていない人も多いですが、同じことはテレビでも言えるでしょう。
私たちが暮らしている社会の情報環境は大きな意味を持っています。
ですから、現地の情報環境を知ることもとても大切です。
瓜生さんは、これまでの沖縄の経緯を年表にしてきてくれましたが、それを踏まえて、沖縄といっても、北部・中部・南部、あるいは世代によっても、それぞれに意識が違うこと、基地問題と経済問題が二元的に対立しているわけではないこと、などを話してくれました。
話し合いでは、沖縄の「精神性」が一つの話題になりました。
それが、これからの日本、さらには世界にとって、大きな価値を持っているのではないか、ということです。
しかし、その「精神性」あるいは「沖縄の文化」も、次第に失われだしていること、世代によってもかなりの違いがあることなどが話題になりました。
ところで、瓜生さんは湯島に来る電車の中で、今回の沖縄の知事選に立候補している玉城デニーさんの演説をユーチューブで見たそうですが、涙が出てしまったと言って、涙顔でやってきました。
その映像は15分ほどですが、みなさんにもぜひ見てほしいです。
そこで、玉城さんは、沖縄の人たちのためだけではなく、ヤマトンチュウのためにも、がんばりたいと語りかけています。
玉城さんの視野は沖縄にとどまっているわけではありません。
日本を、そして世界を、そして未来を見ている。
私も演説を聞いて、そう思いました。
にもかかわらず、ヤマトンチュウの多くは、沖縄の動きを「沖縄問題」として捉えているような気がしてなりません。
そんな話をしながら、瓜生さんに、どうして沖縄に入れ込んでいるのかと質問しました。
瓜生さんは、そこが「自己決定権」を考える格好の場だからと即答されました。
とても共感しました。
私も、「自己決定権」を取り戻す生き方をしたいと思います。
いろいろと考えさせられることの多いサロンでした。
まもなくユーチューブも公開できると思いますが、まずは玉城デニーさんのスピーチ映像を見てもらえるとうれしいです。
https://www.facebook.com/miyagi.yoshihiro1/videos/2232306577058781/?hc_ref=ARQm27MYP1Cd_y0GeimKNpVXZ84Z-hlre-tM28N_1W1KjqBRbft3eYhClp29yis7u_Q&fref=nf
■カフェサロン「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」のお誘い(2018年9月29日)
山口県でさまざまな社会活動に取り組んでいる河野哲男さんが湯島に来るというので、せっかくなのでサロンをしてもらうことにしました。
県庁職員だった河野さんは、行政の枠を超えて、さまざまな活動に取り組んできた「実践者」です。
どうもまた何かをたくらんでいるようです。
私が河野さんと出会ったのは、宇部市のまちづくり活動の関係です。
以来、30年ほどの付き合いになります。
最近はソーシャルビジネス・インキュベーションに関心があるようですが、ソーシャルビジネスの捉え方は、最近のビジネス起点ではなく、しっかりと「ソーシャル」起点で捉えているようです。
したがって、そこには政治の分野も当然入ってきます。
これまでも山口県や宇部市の行政や政治にも関わってきていますが、この数十年の政治の動きや地方の動きをどう見ているかは、興味のあるところです。
そこで今回は「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」を話してもらうことにしました。
河野さん自身のこれまで取り組んできた活動の話も面白いですが、今回はむしろ未来に向けての話を中心にしたいと思います。
これから河野さんが起こそうとしている企ても出てくるかもしれません。
電話で少し話したところでは、これからの政治は、“女子高生の時代”(“女性”“子ども”“高齢者” そして“生活者”)だと考えているそうです。
たしかにいずれも、日本の政治ではこれまではアクターとしては端役でした。
しかし、それが変わらない限り、日本の政治は変わらないような気がします。
もしかしたら一番重要なのは女性たちかもしれません。
ちなみに現在の宇部市(河野さんが住んでいるところ)の市長は河野さんの知り合いの女性です。
政治に関わっている、あるいは政治に関心のある女性たちの参加をぜひ期待したいです。
ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。
平日の夜ですが、よろしくお願いします。
〇日時:2018年10月24日(金曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」
〇問題提起:河野哲男さん(タグボート株式会社代表取締役)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「アイヌ民族否定論に抗する」をお薦めします(2018年9月30日)
「アイヌ民族否定論に抗する」(岡和田晃 マーク・ウィンチェスター編 河出書房新社)を読みました。2015年、つまり3年前に出版された本です。
いまさら紹介するのはどうかとも思いましたが、昨今の社会状況からして、その内容はますます価値を持ってきていると思い、紹介させてもらうことにしました。
著者は文芸評論家の岡和田晃さん。
私は一度しか会っていませんが、なぜか岡和田さんがその後、送ってきてくれたのが本書です。
しばらく置いていたのですが、読みだしたら、中途半端な姿勢では読めない本だとわかりました。
編著者の岡和田さんの思いも、強く伝わってきました。
読み終えたのはかなり前ですが、今回また要所要所を読み直しました。
改めて、「読まれるべき本」だと思いました。
書名通り、「アイヌ民族否定論に抗する」というのが、本書の内容ですが、編集のコンセプトは、「アイヌ民族否定論へのカウンター言説の提示をベースにしつつ、現在、第一線で活躍している作家と研究者たちが、自分たちの専門分野/関心領域に引きつける形でアイヌについて語ることで、現代を読み解いていこう」というものです。
ていねいに書かれているので、アイヌについてあまり知識のない人にも読みやすい内容になっています。
同時に、アイヌにまつわるヘイトスピーチの現状やアイヌの置かれている状況を、広い展望のなかで、概観できるようにもなっています。
最初に、編者(岡和田晃 vsマーク・ウィンチェスター)の対談が置かれていますが、そこで本書の全体像と方向性としての軸が示されています。
つづいて23人の人が、それぞれの関心領域から、自由な議論を展開しています。
そのおかげで、「アイヌ問題」が、非常に立体的に、あるいは私(読者)の生活とのつながりも感じられるほど具体的に見えてくると同時に、私たちの社会が抱えている問題や先行きの懸案課題が可視化されてきます。
つまり、アイヌを語りながら、私たちの生き方が問われている内容になっています。
視野はとても広がっています。
たとえば、香山リカさんは、ナチス時代のドイツの精神医学から優生学や民族衛生学の危険性を語りながら、それにつながるような形で、「国家」とは何かを示唆してくれています。
テッサ・モーリス=スズキさんは、視野を世界に広げ、経済のグローバル化の進む中で、世界各地でも排外主義と人種差別に基づく誹誘中傷が驚くほど増大してきているが、日本のインターネット上において、人種差別による誹誘中傷、威嚇や脅迫の言葉が野放図に拡大していることは、世界各地の傾向に逆行していると指摘します。
さらに、日本のヘイトスピーチの特徴は、差別的なレトリックがターゲットとする範囲が広がり続けていることを指摘し、「最初は北朝鮮と韓国、中国、今度はアイヌ…。次に来るのはいったい誰でしょう?」と問いかけてきます。
寮美代子さんは、私がなんとなく感じていたことを言葉にしてくれました。「私がはじめて「先住民文化」を意識したのは、アメリカ先住民だった。野蛮で残忍なのは、むしろ征服者側の白人のほうだったという認識が生まれた」。アメリカで生活して得た感覚だそうです。
さらに、寮さんはこんなことも書いています。「比較的好戦的なナヴァホ族は、戦いを好まないホビ族をさらに乾いた土地へと追いやっていた」。テッサ・モーリス=スズキさんの問いかけに重ねて考えると不気味です。
ちなみに、寮さんは「Chief Seattle's speach」を翻訳編集して、絵本(『父は空母は大地』)にした人ですが、その絵を描いたのが友人の篠崎正喜さんです。素晴らしい絵です。
結城幸司さんは、ヘイトスピーチについて、「言葉は人を殺すし、人を生かす」と書いていますが、「私たちアイヌは言葉の民であるからこそ、言葉の力を知っている」とも書いています。
結城さんの文章を読んで、私はヘイトスピーチだけではなく、反ヘイトスピーチにおける言葉の乱れを思い出します。
どこかで間違っている気がしますが、本書の書き手はみんな言葉を大事にして書いていますので、安心して読んでいられます。
こんな感じで内容について書いていったら切りがありません。
ともかく23人からのメッセージは、いずれも思いがこもっています。
そしてそれらが共振しながら、読者に問いかけてくるのは、そんな社会に生きていていいのですか、ということです。
問題はアイヌにあるのではありません。
アイヌの問題が、私たちの生き方や社会のあり方のおかしさを問い質してくれている。
それを気づかせてくれるのです。
ぜひ多くの人に読んでもらいたくて、3年前の本ですが、紹介させてもらいました。
なお、なぜ本書を紹介したくなったかの理由は、最近出版された岡和田晃さんの「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」(寿郎社)を読んだからです。
岡和田さんの若い情熱に圧倒されたのと、文芸評論という仕事の意味に気づかせてもらいました。
その「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」は、読み終わるのに1週間以上かかってしまったうえに、十分消化できたとは言えませんが、何かとても大切なことを思い出させてくれました。
岡和田晃さんの世界についていく力はありませんが、こういう若者がいるのだと感動しました。
この本も、また紹介させてもらおうと思います。
十分に咀嚼できていないので、紹介する能力はないのですが。
■前の記事の補足です(2018年9月30日)
岡和田晃さんの「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」(寿郎社)を先週読み終えました。
久し振りに読書で苦闘しました。
苦闘したのは、なにしろこの本でとりあげられている作品のほとんどを私が読んでいないからです。
しかし、苦闘した甲斐は十分にありました。
本書は、「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」というメッセージから始まりますが、批評や評論のパワーを見直しました。
岡和田さんのメッセージも、十分ではないと思いますが、それなりに受けとめられました。
衝撃的なことも知りました。
私が「アイヌ民族問題」に関心を持ったきっかけは、新谷行さんの「アイヌ民族抵抗史」(1972年)でした。
実は昨年も、この本を書庫から探し出してきて、読み直したところなのですが、本書によれば、新谷さんは、志半ばに斃れ、葬儀費用もなく密葬されたそうで、今では新谷さんの遺族とさえ連絡がとれなくなっているそうです。
本当は、この本の紹介をすべきなのですが、残念ながら、私には紹介する能力が欠けています。
そこで、この本を読むきっかけになった、岡和田さんの3年前の書籍を紹介させてもらうことにしました。
それは、「アイヌ民族否定論に抗する」(河出書房新社)です。
岡和田さんの評論のパワーを感じた本です。
この本は読みやすいですし、しかも面白い。
多くの人に読んでほしい本です。
アイヌの問題が、私たちの生き方や社会のあり方のおかしさを気づかせてくれる、そんな本です。
多くの人たちに読んでほしくて、私のホームページやブログなどで紹介させてもらうことにしました。
読んでもらえるとうれしいです。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180930
それでフェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。
肝心の「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」ですが、まだ十分に消化できずにますが、批評精神の大切さや、そうした活動にしっかりと取り組んでいる人がたくさんいることを知りました。
文芸評論のイメージも変わりました。
この本も、また紹介させてもらおうと思っています。
岡和田さんに湯島でサロンをしてほしいと思っていましたが、よほどの覚悟がないとお願いできないなとちょっと気が弱くなっています。
■「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」をお薦めします(2018年10月2日)
「反ヘイト・反新自由主義の批評精神(岡和田晃 寿郎社 2000円)を先週、読みました。
「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」という、岡和田さんの熱いメッセージから本書は始まります。
出版社からは、「文学界・思想界からの反響・反発が必至の〈禁断〉の文芸評論集」と紹介されていますが、著者の岡和田晃さんが「2008年から2018年まで書いてきた「純文学」とポストコロニアルな問題を扱う評論を、現代日本の閉塞状況を少しでも打破せんとする視座から精選」した評論集です。
副題は「いま読まれるべき〈文学〉とは何か」。
ほとんどの作品を読んでいない私としては、少し罪の意識を持ちながら本書を読みました。
岡和田さんは、作品を呼んでいない人への心配りをしているのですが、それでも時に取り上げられた作品を読みたくなります。
まあ、それが評論の一つの使命と効用なのでしょうが。
切り口は、アイヌ民族・沖縄・原発など、いわば「現代日本の辺境」からの「渾身の〈一矢〉」ですが、向けられている矢先は、東京界隈で無機的に生かされている私たちです。
その鋭い矢先は、私にもかなり鋭く刺さってきました。
岡和田さんの深い知と強い思い、そして「冷えた怒り」さえ感ずる「熱い本」です。
岡和田さんの批評精神への視線は、なかなか厳しいです。
「既存の権威におもねらず、単独者の観点から風穴をあける行為が批評」だと言い、「批評という境界解体的な知のスタイル」を縦横に駆使して、「虚飾とシニシズムが積み重なり、閉塞に満ちている」現代社会の実態を解き明かしていかねばならない、と言います。
しかし、現在の批評は岡和田さんの期待に応じていない。
「かつて批評とは、アカデミズムとジャーナリズムの谷間に位置し、両者を架橋する言説」として、新しい物語の創発を働きかけていたが、昨今の批評は、アカデミズムとジャーナリズムと一緒になって、「同調圧力を高める類の願望充足的な物語」の提供に頽落したと、厳しく指摘します。
しかも、批評は「無力」どころか、積極的な「旗撮り役」を担っている。
そうだそうだ!と、年甲斐もなく、思わず声を出したくなってしまいます。
文学や思想の根本に根ざす「どこからか不意にやってきて人間を揺さぶるような発想」から生まれる言葉が、真空に掻き消える前に把捉し、あらゆるカテゴライズの暴力を拒むダイナミズムを起こしていくことが、文芸批評だと、岡和田さんは言います。
言葉の力を、「こちら側」で、主体として確信している。
「批評とは、常に死との対話であり、終わりのない格闘でもある」とも言っています。
これもまた心に響きます。
しかし最近の私は、文学や評論から遠のいてきています。
20年ほど前から、そうしたものがうまく受け止められなくなってきているのです。
「現代文学は政治性や社会性から目を閉ざし、他者を意識することなく衰退の道を辿ってしまった」という岡和田さんの指摘に、自らの怠惰さが救われるような気がしましたが、その状況においてもなお、岡和田さんは文学や批評の意義を確信している。
そして、「このような知的風土に息苦しさを感じ、そこを切り拓く言葉、すなわち〈文学〉とは何かを模索」し、劣化しつつある現実を穿つために、本書に取り組んでいる。
我が身を省みて、大いに反省させられました。
本書の理論的な屋台骨は「ポストコロニアリズム」、それも「ポスト=終わった」植民地主義ではなく、まさに「いま、ここ」にある植民地主義です。
自分ではそう思いたくないのですが、もしかしたら私もすでにその十分な住人なのかもしれない。
それが最近の、私の厭世観や不安の根因かもしれません。
生き方を問い質さなくてはならない。
本書で取り上げられている作品のかなりの部分が、「北海道文学」です。
なぜ岡和田さんは北海道にこだわるのか。
それは、そこが日本の「辺境」だからです。
「辺境とは、近代国家が発展を遂げる際に、民族差別や「棄民」の発生など、切り捨てられた矛盾が露呈する場所。『北の想像力』が目指すのは、その矛盾から目をそらさず、できるだけ精緻に思考をめぐらせていくことだ」と岡和田さんは言います。
辺境では、埋められた過去に後押しされて現在の本質が露呈してくる。
そして、そこから未来の道が二手に分かれて見えてくる。
そこに岡和田さんは新しい地平を感ずるのでしょう。
ちなみに、私も、ある意味での「辺境の住人」を意識していますので、未来はそれなりに見えていると思っています。
しかし、辺境はまた、独善にも陥りやすい。
本書では、最後に「沖縄」がわずかに取り上げられています。
そこに私は大きな意味を感じました。
最初に会った時、岡和田さんは「SF評論」に取り組んでいると言ったような気がします。
そのSFは、「“思弁=投機”(スペキュレーション)性を軸に現実とは異なる世界を希求するSF(=スペキュレイティヴ・フィクション)」を、たぶん意味しています。
現実に埋没し安住するのではなく、思弁の世界にも遊ばなければいけない。
そこに岡和田さんのメッセージがあったのでしょうが、その時には気づきませんでした。
私も老いてしまったものです。
若いころ、私もSFの世界を楽しんでいましたが、どうもその頃の余裕を失ってきています。
自らの、いろんな意味での「老い」にも、本書は気づかせてくれました。
剥き出しにされた個としての人間を制度的に絡め取っていく国家に、どう対峙すべきか。
数字と金銭とシステムで構成された管理社会をどう生きていくか。
岡和田さんは、たとえばそう問いかけてきます。
そして、もっと悩めと追い込んでくる。
それが人間というものだろうと、いうのです。
反論のしようもありません。
老人には、酷な話なのですが、逃げてはいけない。
そういう意味では、生きる元気を与えてくれる本でもあります。
かなりハードな本だと思いますが、社会をよくしたいと思っている方には読んでほしい本です。
未消化の紹介で申し訳ないのですが、いのちと希望のこもった評論集です。
■第3回有機野菜の旬を楽しむ会のお知らせ(2018年10月6日)
有機野菜の旬を楽しむ会も3回目になります。
今回のゲストは、“たなちゃん”こと、棚町弘一郎さんです。
福岡からはるばると小川町の霜里農場に研修に来て、今月でまる1年、11月には研修を終えて、福岡に戻ります。
そこで、棚町さんの1年間の霜里農場研修卒業のねぎらいと福岡での新たな門出の祝いを兼ねての、「たなちゃん送別会サロン」です。
私も、実はたなちゃんに会ったこともないので、送別会に出るのもおかしいですが、まあそんなことは気にせず、たなちゃんの1年間霜里農場生活の感想を聞きながら、新しい福岡での計画を聞くことで、有機農業への理解と期待を深めたいと思います。
たなちゃん持参の旬の有機野菜は「枝豆」です。
主催者の霜里農場の金子友子さんからのメッセージです。
今回はたなちゃんをゲストにして、福岡へ帰ったらどんな農業をするのか、農家になるのか、その今現在の気持ちを素直に皆で聞いて、この時期の旬、何と言っても枝豆、この小川町在来の美味しい枝豆を持って、それを食べながら、皆さんに送りだしていただきたい。
そして今後も、福岡からたなちゃんの、毎日とは言わないけれど、進展ぶりをFacebookで見ながら、一緒に疑似就農体験をしてほしいと思っている。
たなちゃんのフィアンセの早瀬萌ちゃんも来てくださる予定。
とてもよくお似合いの彼女です。
2人を見てみたいと思う方は、ふるってご参加を。
とまあ、そんな感じで、いつもよりも華やかな会になるようです。
有機野菜ファンの方はもちろん、枝豆好きな方は、ぜひご参加ください。
○主催者:霜里農場の金子友子さん
○生産者ゲスト:棚町弘一郎さん(霜里農場研修生)
○日時:2018年10月20日(土)14時〜16時
13時半から開場しています。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○会費:500円+思し召し(有機野菜のおいしさへの感謝)
○定員:15人以内
※要予約(野菜の準備のため参加人数を把握したいのでできるだけ申し込みください)
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「自閉症児を受容し親になる」報告(2018年10月7日)
松永さんのサロンも、今回で3回目です。
今回のテーマは、これまでの難病の子どもと違って「自閉症児」。
松永さんの世界は、どんどん広くなり深くなり、メッセージの普遍性が強まってきています。
今回は、最近出版した「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」の勇太君母子のことを中心に、これまでの2作品にも言及されながら、そしてご自身の思いも込められながら、お話をしてくださいました。
キーワードは「受容」と「普通」。
松永さんのお話は映像記録していますので、関心のある人はご連絡ください。
「受容」に関しては、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階」に即しながら、「受容」のプロセスとその過程でどういうことが創発されるのかを話してくれました。
そして、「死」ではなく「生」の場合は、最後の段階の「受容」こそが、始まりなのだとして、「生の受容の5段階」(私の勝手な命名です)松永モデルを紹介してくれました。
このモデルは、これからきっと松永さんによって深化していくでしょうが、とても示唆に富んでいます。
「普通」に関しては、具体的なエピソードによって「普通という呪縛」を気づかせてくれました。
もしかしたら、「普通呪縛」によって、私たちは「発達障害」などの「異常化」を進めているのかもしれません。
今の時代は、「ちょっと変わった子ども」はいなくなってしまっているのかもしれません。
実は昨日、別のサロンで、引きこもり問題に関わっている人から、最近は不登校の子供が薬を飲まされて薬害が問題になっているという恐ろしい話も聞きました。
「普通呪縛」からどうしたら自由になれるのか。
松永さんのお話には、健常者の脳を捨てることが大切という指摘もありましたが、健常であることと普通であることとは同じなのか、そしてそういう言葉に果たして実体はあるのだろうかというようなことを思いました。
松永さんは、障害者が幸福に生きる条件を2つあげました。
「居場所をつくること」と「自立と共生」です。
居場所は物理的な場所というよりも、人との出会い、社会に関わっていくこと。
自立と共生とは、お互いに支え合っている言葉であることを理解すること。
とても示唆に富んでいる指摘だと思います。
ちなみに、イヴァン・イリイチという人は「コンヴィヴィアリティ」という言葉で、以前から「自立共生」をワンセットで捉えています。
ほかにも、心に残った言葉はたくさんあります。
いくつかを羅列します。
子どもにとって親の存在が安全基地になる。
人に助けを求めることが社会とのつながりを育ていく。
会話が成り立たなくとも信頼関係や愛は育てられる。
条件なしの愛と条件付きの愛の話も紹介したいですが、書きだしたらこれまたきりがなさそうです。
最後に、これは松永さんが以前から話されていることですが、「不幸を最小化する」社会にも言及されました。
「不幸を最小化する」社会を実現するためには、「最も弱い者(高齢者、新生児、障害者など)を守り、多様性を認め、共生することが大切だが、しかし現実は…」といって、勇太君の母親のブログに書きこまれたあるコメントを紹介してくれました。
それはこんなコメントです。
「やはり知的障害者の教育に我々の血税を費やすよりも本当に勉強したくても経済的事由で学校に行けない健常者にその税金を回すべきです」
とても哀しいコメントです。
このコメントを紹介した後、松永さんは、オスプレイの写真を見せながら、「血税」ってなんだと強い口調(激しい怒りの気持ちを感じました)で問いかけました。
1機100億円のオスプレイで、どれだけの人の生が支えられるのか。
その事実を、私たちはもっと知る必要があります。
参加者は14人でしたが、いろんな話が出ました。
発達障害のある家族がいる人や自分にも思い当たる人などもいて、話し合いはとても心に響くものが多かったです。
最初に出たのは「障害者」と「健常者」という言葉(概念)への違和感でした。
しかし、「障害者」という概念によって、そう言う人たちへの支援制度や社会の理解も進むという指摘もありました。
「仕事」とは何かというような話も出ました。
お金をもらう(あるいは「稼ぐ」)ことだけが仕事ではないのではないか。
仕事にはもっと大きな意味があるのではないかという話です。
自立とか就労支援ということの捉え方を、そろそろ変えないといけないのではないかと私は思っていますが、そのヒントもたくさんあったように思います。
書きだしたらきりがないので、これももしかしたらユーチューブで公開しますので、それを見てください。
最後に私の感想を話させてもらいました。
一つは「二次障害」の問題。
もしかしたら私自身が「普通呪縛」によって、子どもたち(あるいは周囲の人たちに)に二次障害を引き起こしてきたのではないかということに気づかせてもらったこと。
もうひとつは、勇太君の母親がいまとても幸せであるように、「自分にとっての勇太」を見つけることが、誰にでもできる、そして誰にとっても必要な、幸せになる条件だということに気づかせてもらったこと。
おかげで、私もちょっと生き方を正せるような気がします。
長い報告になってしまいましたが、まだ「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」(中央公論新社)をお読みでない方は、ぜひお読みください。
いろんな意味で、心が洗われ、世界が広くなると思います。
松永さんと参加者にとても感謝していました。
報告が遅れてすみませんでした。
■消費することも「仕事」です(2018年10月8日)
昨日、「個人と組織の関係を考える研究会」でした。
さまざまな分野で活動している人たちで始めた研究会ですが、いまはそのシーズン2で、会社を切り口にして話し合っています。
昨日のいろんな話題が出ましたが、その一つが「AIによって人間の仕事がなくなっていくことと高齢者の増加」が話題になりました。
たまたま昨夜、NHKテレビの「マネー・ワールド」で、AIによって仕事が激減することとベーシックインカムが話題にされていました。
ベーシックインカムも、昨日の研究会やサロンでも話題になったことです。
これに関しての私の考えは、極めて明快なのですが、なぜかほかの人が語っているのを聞いたことがありません。
昨日の研究会でも話しましたが、多分冗談だと思われてスルーされています。
しかし、たぶん間違いないでしょう。
遅くも30年後には常識になっているでしょう。
それは「仕事」の捉え方が変わるということです。
ブログでは何回も書いていますが、私の仕事観からすれば、今でも地方にはたくさんの仕事があります。
昨日もこれも発言しましたが、まだ受け入れられませんでした。
私が実行しだしてから30年ですので、多分これは間もなく受け入れられるでしょう。
AIが発達してきたおかげで、私の仕事観はようやくリアリティを持ってきました。
簡単に言えば、「消費」も「仕事」だということです。
何だそんなことはわかりきっていると言われそうですが、まだまだ「仕事」とはお金をもらうことだと考えている人がほとんどですから、「消費も仕事」という時の「仕事」は、私の捉え方とは違っていると思います。
会社を辞めた直後に、日本能率協会の雑誌に「脱構築する企業経営」という連載をしました。
そこで「生産」と「消費」はコインの裏表と書きましたが、その頃はまだ経済の捉え方が私にはできていませんでした。
しかし会社を辞めて30年近く、報酬と仕事は別のものという働き方をしてきたおかげで、ようやく確信が持ててきました。
消費も立派な生産的な仕事なのです。
生産と消費は対立語ではなく、消費は生産のサブシステムであり、消費によって生産は完結するのです(さらにいえば、循環させるための「還元」も必要ですが)。
生産とは金銭を得ることではなく、価値を創りだすことなのです。
AIが人のする仕事を奪うようになってきたので、このことがわかりやすくなってきました。
AIと共存できる仕事、それが「消費」なのです。
経済は、生産と消費で完結するのです。
いくら生産しても、消費する人がいないと、経済は動きません。
セイが言うような、供給が需要を創りだす「物不足時代」は終わりだしています。
現に日本では今、供給力過剰で、実体経済が停滞し、「失われた30年」がつづいています。
その事態を打破するのは簡単で、お金をばらまいて、消費したいのにできないでいる人たちに「消費する仕事」に取り組んでもらえばいいのです。
つまり景気対策としてのベーシックインカムです。
長くなってしまったので、もうやめますが、「消費することは生産を助ける経済的な仕事」なのです。
「働き方改革」ではなく「仕事の捉え方改革」をする段階に来ました。
それで、私も、今年の春にフェイスブックで予告していた新しい仕事を始めることにしました。
その新しい仕事は、お金を持っている人の代わりにお金を使ってやる仕事です。
但し、そうむやみに引き受けるわけではありません。
いまのところ、最低で3億円以上で、消費する料金は1〜2割。
お金を燃すだけでもいいというお客様の場合は費用はちょっと高目になります。
各地にお金を落として回るというのは、各地の観光旅行でできるので、料金は少し安くなります。
生活に困っている人に喜んでもらえる施設づくりの場合は、料金はとても安くなります。
社会的な価値はあるかもしれませんが、仕事としては面白くないからです。
ブラックなお金は引き受けませんし、使用目的は私が納得するものでなければ引き受けません。
詳しい仕事募集の案内は、間もなく始める予定です。
上手くいけば、同業者が増えるかもしれません。
AIたちもきっと喜んでくれるでしょう。
そしてその先どうなるか。
それもサロンなどでは話していますが、あんまり真剣には聞いてもらえません。
しかし、きっとそうなるでしょう。
私にはちょっと悩ましい問題が、それによって発生するのですが。
■「日本列島「法」改造論(阿部泰隆 第一法規 3000円)のご紹介(2018年10月9日)
本書は、「逆転の発想による法改革」によって日本を変えるための処方箋です。
というと何やら難しそうですが、普通に生活している人であれば、誰でも「ふんふん」とうなずきながら楽しく読める処方箋が満載された本です。
「漫談」的な要素も込められていて、読者はあきることがありません。
著者の阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「政策法学」という新しい分野の創始者で、その分野でもたくさんの専門書を書いています。
「政策法学」というのは、現在問題となっている法制度を具体的に取り上げ、その立法政策的な改善策を提言する学問だそうです。
公共政策にもつながる具体的な提言や問題提起につながる実践法学と言ってもいいでしょう。
法学というと、私には敷居が高いですが、それであれば私にも関心があります。
というか、その姿勢は、「法とは何か」という、私の基本的な関心課題につながっていますので、まさに私の関心事でもあります。
ちなみに、私自身は、最近「法」というものに、ほとんど関心を失ってきています。
私が法学部で学んだのは「リーガルマインド(法の精神)」ですが、その視点で考えると、最近の法には「心」があるのかと、つい思ってしまうのです。
日本はほんとうに法治国家なのだろうかという疑問さえ、時に感じます。
そんな私のような世捨て人的なひねくれた姿勢ではなく、現実に果敢に取り組んでいるのが、阿部さんです。
専門書を書くかたわら、阿部さんがさまざまなところで発表してきた、日本社会を覆いだしている病魔の法的処方箋の集大成が本書です。
本書の帯に「病魔に苛まれている法と政策を蘇生させよ Dr.阿部の執刀開始!」と書かれていますが、その快刀乱麻ぶりは、時にはちょっと共感できないものもありますが、そこにこそ、本書の真価があります。
誰もが違和感なく読めるようなものは、読む価値も聴く価値もありません。
阿部さんは、日本の法律学に関して、こんなことも書いています。
法律学では、そもそも、「疑え」という研究方針や指導方針がないと感ずる。
判例通説を整理せよ、外国法を整理せよ、そしてまとめよというものが多い。
そこから新学説は出てくるが、それでも、新規の考え方は少ない。
まったくもって同感です。
そして阿部さんは言います。
筆者は、法律家として、日本の法制度がうまくいっているのか、不備をどうすれば改善できるのかを念頭に、何事にも疑問{?}を持って、半世紀以上研究してきた。
こうした視点で、まとめられたのが本書です。
もう少し阿部さんの言葉を引用させてもらいます。
そして、問題を発見したら、解決策としては、通り一遍ではなく、逆転の発想で、あるいは、一手しか読まないのではなく、せめて二手読むとか、二者択一ではなく、合理的な中間案をつくるとか、あるいは強行着陸ではなくソフトランディングを試みるというものである。
このような研究は、法学界では前例がない新しい道を開拓してきたもので、いまだ十分な評価はされていない(それどころか、四面楚歌かもしれない)が、これこそが日本の法学者の使命であると信じている。
どうですか。法律嫌いの人も、ちょっと読みたくなるでしょう。
目次だけでも15頁もあるほど、Dr.阿部の手術のメスは、社会すべてに向けられています。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」。つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
Dr.阿部の、快刀乱麻ぶりがわかるでしょう。
できれば、まずは「はじめに」を読んでもらい、後は関心事に合わせて拾い読みしてもらうのがいいと思います。
「はじめに」に、阿部さんの生き方がわかる文章があるので、引用させてもらいます。
社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。
筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。(中略)
筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。
そうだそうだ!と拍手したいです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。
ちょっと高価なのが気にいりませんが、現代日本の「法的欠陥事典」と考えれば我慢できそうです。
しかし、個々の問題の処方だけが本書のメッセージではありません。
「逆転の発想」で頑固な法律さえも、活かし方が変わってくること。「学問」とは何か、学ぶとは何か、社会をよくしていくためにできることは何か、などということへのヒントも、その気になれば読み取れます。
アジテーションも含意されているかもしれません。
これを読んだ読者が、身近な病魔にDr.阿部流の執刀作業を始めると、日本ももっと住みやすくなるかもしれません。
法の精神が蘇ってくるかもしれません。
ですから本書は、ある意味で、Dr.阿部の執刀術学習講座でもあるのです。
多くの人に読んでもらい、多くの人に執刀をはじめてほしい。
そんな意味で、本書を推薦します。
ちなみに、Dr.阿部の湯島サロンを10月12日の夜開催します。
まだ少し余席があります。
参加ご希望の方は私あて、ご連絡ください。
■ちょっとゆるいカフェサロン「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」のお誘い(2018年10月10日)
今回はちょっとゆるいサロンのご案内です。
前から一度お話をお聴きしたいと思っていたナチュラリストの木村幸一郎さんにサロンをお願いしました。
私が「ナチュラリスト」と言う言葉を聞いたのは、もう今から15年以上前のような気がします。
友人にナチュラリストがいると、友人が教えてくれたのですが、「ナチュラリスト」という言葉の響きに魅了されて、ぜひ紹介してほしいと言ってお会いしたのが木村さんでした。
そして、木村さんから、ナチュラリストとは何かを教えてもらったのです。
その時は、あまり具体的な活動に関してはお聞きできなかったのですが、ずっと気になっていました。
私たちの共通の友人は若くして急逝したため、木村さんとの付き合いも少し遠のいていました。
しかし、最近また湯島に時々顔を出してくれます。
それで、今回長年の夢をかなえてもらい、サロンを開催してもらうことになったのです。
木村さんは、いまは「ハイパー・ナチュラリスト」=「自然系何でも屋」として、行政、企業、専門学校、NPO等、幅広く講演や講座、イベント企画・運営活動などされていますが、「自然系何でも屋」ですから、実にミクロなことからマクロなことまで、話題には事欠きません。
それに、自然からいまの時代や社会を見ていると、人間社会の中から見ているのとはかなり違う景色が見えているのだろうと思います。
どんな話をしてもらおうか迷ったのですが、基調に「自然との付き合いのなかから見えている社会の危うさ」のようなものを置いて、私たちの生き方につながるようなお話や、私たちにはまったく気づいていないような博物誌的なお話もしてもらおうかと思っています。
多分そうしたお話のなから、私たちには見えないことが見えてくるような気がします。
それに加えて、私には木村さんの生き方(ナチュラリストの人生)も興味があるので、そのあたりも聞かせてもらいたいと思っています。
自然に関心のある人はもちろんですが、自然と縁のない生き方をしている人にもぜひ参加してほしいサロンです。
新しい気付きのある、楽しいサロンになること請け合いです。
○日時:2018年11月11日(日曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」
○話題提供者:木村幸一郎さん(ハイパー・ナチュラリスト)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■かなりハードなカフェサロン「近代国家幻想を考える」報告(2018年10月11日)
台風で一週間伸びましたが、湯島初の「かなりハードなカフェサロン」を開催しました。
テーマは、「近代国家幻想を考える」。
話題提供者は柴崎明さん。
参加者は、いずれも一家言ある難しそうな人たち6人と平均人の私の7人。
柴崎さんは、トランクいっぱいの書籍を持参しました。
それで「ハードカフェ」の雰囲気は整いました。
柴崎さんの話は経済人類学のポランニーと古事記の神話から始まりました。
そして、フロイト、フーコー、ラカンなどの話を経由して、国家幻想に関する話へと広がり、近代国家を超えるものへの問題提起で終わりました。
間奏曲として、柴崎さんが地元で調べた地域の神様の話はとても面白かったですが、それと国家幻想とは深くつながっているような気がします。
「幻想」は、与えられた幻想と生まれてきた幻想があります。
地域の神様は、そこで住んでいる人たちの生活の中から生まれてきた共同幻想の象徴であり、そこからコミュニティやアソシエーションが育っていきます。
一方、近代国家は、そうした幻想を上手く利用しながら、もっと強力な幻想を創りだし、それをそこで住んでいる人たちに与えていきます。
草の根的に生まれ育った地域社会の幻想は、そうした大きな幻想に絡め取られ、地域の神様は国家の神様や宗教教団の神様に敗退していき、従属させられていく。
それが近代の大きな流れだったような気がします。
さらに、2つの神が両立しないように、国家体制は一元化されていく。
それを見事に達成したのが、明治政府かもしれません。
こうなると、ここで先の「宗教サロン」ともつながっていく。
そんな気がします。
あんまりサロンの要約報告にはなっていないような気がします。
映像記録をユーチュブでアップしますので、関心のある方はそれをご覧ください。
ちなみに、この柴崎サロンシリーズは不定期に開催します。
なにしろ柴崎さんの頭の中にある知識と論考は、一度くらいでは引きだせませんので。
■信頼し合って支え合う関係をシェアするコミュニティづくりへ(2018年10月15日)
湯島のサロンからまたひとつプロジェクトが生まれつつあります。
それもかなり湯島のサロンのビジョンにつながるプロジェクトです。
湯島のサロンは、最初オープンサロンから始まりましたが、途中からもう一つの活動のコムケアサロンと合流しました。
コムケアサロンは、コムケア活動の一環として始めたものでしたが、コムケアはコミュニティケアの略でした。
住友生命から委託されたNPOへの資金助成プログラムの一貫でしたが、当時、日本では「コミュニティケア」は「施設福祉から地域福祉へ」、それもその背景に福祉財政削減の意図を感じました。
そうした潮流への反発もあって、あえて「コミュニティケア」という言葉を使用しました。
ビジョンは、「大きな福祉」を目指す「共創型相互支援」ネットワークづくりでした。
その構想は、住友生命の関係者の全面的な支援を受けて、自由に取り組ませてもらいましたが、私がいささか活動にのめり込みすぎて体調を崩したこともあり、頓挫してしまいました。
その精神をコンセプトワークショップの活動として、いま引き継いでいます。
今のビジョンは、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティです。
これに関しては、ブログなどで書いたことがありますが、取り組む気力が萎えたままでした。
今回のプロジェクトは、その時のことを思い出させてもらうようなものです。
これまで3回ほどやった「安心して死を迎えられる生き方」をテーマにしたサロンのなかから、思いをシェアした人たちで、ゆるやかなコミュニティづくりに取り組もうということになったのです。
私も参加させてもらいました。
その1回目のキックオフミーティングが昨日開かれました。
私も含めて9人の人が参加しました。
みんな、ご自分の活動をされていたり、取り組みたい活動を持っていたりする人たちです。
全体として目指す方向のたたき台を話し合った後、それぞれの活動や思いが披瀝されました。
その中で、それぞれができることも紹介されました。
まだゆるやかでゆる〜いコミュニティですが、具体的な事業にも(それぞれが中心になって)取り組みながら、コミュニティを実体化させていくことになりました。
さまざまなタレントがつながっていくことで、 “ゆりかごから墓場、そして死後の世界まで”をつなげたコミュニティが育っていくといいなと、私は勝手に期待しています。
家族や地域や組織の“縁”とはまた違った、“第4の縁”を育てていきたいという、このプロジェクトのきっかけをつくってくれた中下さんの思いも、ぜひ実現したいと思います。
関心のある人はご連絡ください。
このコミュニティも、ゆっくりと広げていく予定です。
■企業サロン「企業の〈インターナルコミュニケーション〉を考える」報告(2018年10月15日)
〈インターナルコミュニケーション〉をテーマにした企業サロンは15人参加のにぎやかなサロンになりました。
最初に、清水正道さん(CCI研究所代表・日本広報学会前理事長)から、これから発表しようとしている「インターナルコミュニケーション経営(IC経営)」の紹介をしてもらい、つづいて大企業と中小企業、それぞれについて数社の事例発表をしてもらいました。
パワーポイントを使用しての体系的なお話を要約するのは難しいので、近いうちに当日のサロンの映像記録を公開するようにします。
また当日清水さんが使用したパワーポイントですが、10月28日に開催される日本広報学会シンポジウムで報告発表後、関心のある人にはデータを提供して下さるそうです。
ご希望の方は、CCI研究所代表・清水正道さん宛に、ご自分のメールアドレスを連絡すると、29日以降に清水さんからデータを送って下さるとのことです。
メールアドレスは、tactico@nifty.com です。
したがって清水さんのお話はそれをぜひご覧ください。
話し合いはまたいつものようにいろいろと広がりました。
清水さんは「インナーコミュニケーション」と「インターナルコミュニケーション」の違いも含めて、最初に注意すべき2点を指摘しました。
まずそもそも「インナー」とは「内面」というような「自分自身とのコミュニケーション」という意味がありますので、違う概念であること。
そして、インターナルという場合、インとアウターの境界(バウンダリー)をどこに置くかが重要な問題であることです。
特に、インターナルコミュニケーションを考える時の視野をどこまで包摂していくかは、コミュニケーションにとっての本質的な問題です。
参加者の椎原さんは、最近は「コミュニケーション」ではなく「リレーション」の視点から考えるようにしていると話されました。
私自身は、さらに一歩進んで、そこから新しい価値が生まれるという意味で「コラボレーション」の視点を大事にするべきだと考えています。
IC活動あるいはIC経営を進めることで、どういう価値あるいは目的が達成されるのかという質問も出ました。
いうまでもなく組織のパフォーマンスが上がるということでしょうが、そのパフォーマンスの捉え方がいま大きな岐路にあるように思います。
そういう意味では、コミュニケーションの問題は実は組織論の問題になって行くはずです。
ティール組織や企業規模の問題にも少し話が広がりました。
組織で働く人の話も出ました。
そもそも組織のメンバーが、最近は主体的に思考し主体的に動くということができにくくなっているのではないかという話にもなりました。
私自身はそこにこそ現在の企業のコミュニケーション問題の本質があるように思います。
自分で考えて主体的に行動する人どうしで行われるコミュニケーションか、それとも指示に従って動くだけの情報伝達型のコミュニケーションかによっては、その意味も方法も全く違ってきます。
同じ「コミュニケーション」という言葉を使いながら、それは全く違うもののように思えます。
言い換えれば「機械的コミュニケーション」か「人間的コミュニケーション」かと言ってもいいでしょう。
ここまで来ると、経営そのものの話になってきて、その流れで、組織論やモチベーション論、さらにはCSRの話も出ました。
大企業と中小企業の事例が紹介されましたが、参加者からは規模によってIC経営のスタイルは違ってくるのではないかという指摘もありました。
しかし、仮にそうだとすれば、用語を変える必要があるでしょう。
コミュニケーション問題は長年の組織活動に於ける重要課題です。
一番問題なのは、「コミュニケーション」をどう捉えるかということではないかと思いますが、IC経営の提案が、そうした視点をぜひ出してほしいと期待しています。
今回のサロンでも話題になったいくつかの企業の事例を題材にして、具体的なサロンをまた企画したいと思っています。
■国家の本質(2018年10月18日)
サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショギさんがトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館を訪問後に失踪した事件で、サウジアラビア国家政府による殺害の可能性が報道されています。
この事件を、とんでもない事件と思うか、常識的な事件と思うかは、国家をどう捉えるかで別れるでしょう。
私は、ある意味で、国家による「コラテラル・ダメッジ」として、驚くほどのことのない事件だと思っています。
http://cws.c.ooco.jp/katudoubannku2.htm#1013
ただこうしてそれが、あまりにもはっきりと報道されると恐ろしくもなりますが、そもそも国家とはそういう存在なのではないかと思います。それを改めて思い知らされる事件だろうと思います。
ただやり方がお粗末で、殺害の仕方が異常だったとはいえますが、もしかしたら、むしろこういうやり方こそが、巧妙なやり方なのかもしれません。
いずれにしろ、そこからのメッセージは大きいです。
国家というものを考え直す、いい材料かもしれません。
しかし、この事件を、イスラムと結びつけることだけは避けなければいけません。
ひとりの生命が失われたという意味では、最近日本でも起こった官僚の自殺と同じです。
国家による「犯罪」は、犯罪とはされません。
国家防衛のための正当化が与えられるのです。
その最たるものが「戦争」です。
そして、そのために暴力装置としての軍隊を持つことの危険性を認識しなければいけません。
国家の軍隊の戦力が主にどこに向けられていたかは、歴史が示唆しています。
国家は、国民を守るための仕組みと言われますが、国民を守るためには、多少の犠牲は認めらます。
それがコラテラル・ダメッジの論理ですが、国民は守られても個人は守られないという、おかしな話がそこにあります。
「守る対象」があいまいですから、いかようにも論理は組み立てられるでしょう。
軍隊は、一体「何」を守るのか。
私が守られている時にはいいですが、いつ、守るために排除される立場になるかに関しては、私は関与できません。
サウジの国家と国民を守るために活動してきたカショギさんは、排除される立場になってしまったわけです。
ここで国家政府の意思決定の透明性や国民の参画が大きなテーマになります。
しかし、それもまた問題がないわけではありません。
そこで出てくるのが、人間を単一のデータ処理システムとして捉えてAIに意思決定させるというアイデアです。
今朝のNHKテレビに、最近話題の「ホモ・デウス」の著者、ユヴァル・ノア・ハリスさんが出ていました。
彼の問題提起はとてもわかりやすく、システムと人間との闘争においては、人間には勝ち目がないという指摘もとても説得力があります。
しかし、私はやはり、20世紀人として、システムも国家も、個人を支えるものであってほしいと思っています。
もし、「ホモ・デウス」になるのであれば、私は取り残される立場になりたいと思っています。
「ホモ・デウス」のサロンも企画したいと思っています。
一応、読了した人(できれば前作の「サピエンス全史」も)を対象にしたいと思っていますが、5人以上、参加者がいたら開催したいです。
ご関心のある方はご連絡ください。
■第3回有機野菜の旬を楽しむ会の報告(2018年10月20日)
霜里農場金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」も3回目になりました。
今回は、この1年間、霜里農場で実習し、来月福岡に帰る「たなちゃん」こと棚町弘一郎さんがゲストで、棚町さんの新たな門出の祝いを兼ねての、「たなちゃん送別会サロン」でした。
そのおかげで、たなちゃん世代の若い人たちがたくさん参加してくれ、いつもとは違う雰囲気でした。
旬の有機野菜は「枝豆」。
「枝豆」ということもあって、参加者からビールの差し入れもありました。
最初に、たなちゃんから、なぜ農業を志したのか、そしてなぜ実習の場所が霜里農場だったかの話があり、それから福岡に戻ってからの活動の構想が紹介されました。
たなちゃん手作りの紙芝居的イラストを使っての話は、とても共感できるものでした。
たなちゃんは作物科学というのを大学で専攻したそうですが、そこでいくつかの疑問にぶつかったようです。
そして自分は研究ではなく実際の農業の現場で活動しゆと決断したそうです。
その背景にはたなちゃんの生き方に関わる3つの信条がありました。
「自然を大切にすること」「人の役に立つこと」「身近な人を大切にすること」です。
もしかしたら、いまの農業は自然を壊しているのかもしれません。
しかし、自然を豊かにする農の営みもあるはずです。
それがたなちゃんの思いだったようです。
また「農業」を通して、みんなの、特に身近な人の役に立ちたいと思っているたなちゃんは、農業への取り組みがその地域全体を豊かにすることにつながっていけばいいなと思っています。
ですから、霜里農場のように、そこから地域全体に広がっていくスタイルに、たなちゃんは惚れ込んだわけです。
そこで霜里農場での1年間の実習を決めたそうです。
こうしたたなちゃんの生き方に私はとても共感しました。
福岡に帰ってどうするか。
まずは引き続きもう少し有機農業を地元で学ぶそうですが、並行して福岡市の郊外に自分の農場をつくるそうです。
場所も大体決まっていて、室見川の上流の、まだあまり有機農業が行なわれていないところのようです。
その場所を選んだ理由もとても共感できるものでした。
そして、3つのことをやりたいと話しました。
「寺小屋」「引き売り」「室見川流域の生活つなぎ」です。
内容は省略しますが、これは私が理想としている構想にも通じますので、とても感心しました。
何やらとても明るい未来を感ずる話でした。
それにたなちゃんを応援する若者たちもみんな農業に関心を持っているようで、とても元気をもらえました。
枝豆を味わう前に、少しだけ話し合いをしました。
いろんな話がありましたが、「有機野菜」の対語が「慣行野菜」だと知りました。
私は「有機野菜」や「有機農業」という言葉に違和感がありますが、「慣行野菜」という言葉には拒否感を持ちました。
ネットで調べたら、化学肥料を主に使って栽培した野菜を「慣行野菜」というようです。
化学肥料を使用するのが「慣行」?
一体どうなっているのでしょうか。
どう考えてもおかしい。
日本の農の営みは、自然との循環の中で、土や自然とともにあったはずです。
化学物質で土を殺し、野菜を追いやる農は断じて日本の「慣行」ではなかったはずです。
そうした用語を許している農業関係者にがっかりしました。
たなちゃんの話に元気をもらったはずが、そのことで一挙に元気を失いました。
ここから少し怒りを感じて、草取りが大変だなどという考えを捨てようとか機械を使っても有機農業といえるのかなどと、ついつい暴言を吐いてしまいました。
あとでたぶん友子さんに叱られるでしょう。
それはそれとして、たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。
たなちゃんの友人で、短期間ですが、やはり死も竿農場で実習した田中さんが、実家でつくっているという無農薬のリンゴを持ってきてくれました。
私も一口食べさせてもらいましたが、彼も農家を継ぐ思いがあるようです。
無農薬のリンゴ。
その彼も、後で「皆さんの前で話せるような立派な農家になれるように頑張ります!」とメールをくれました。
また元気になれました。
とてもいいサロンでした。
農業は、いや正確には、「農の営み」は、人を誠実にし、素直にし、元気にしてくれることを改めて確信しました。
たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。
■カフェサロン「『子どもNPO白書2018』を刊行して」報告(2018年10月22日)
日本子どもNPOセンターが出版した「子どもNPO白書2018」をテーマに、執筆者の交流会もかねてのサロンを開催しました。
白書に関しては、既に紹介させてもらいました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180923
今回は、白書の編集代表でもある日本子どもNPOセンター理事長の小木さんが名古屋から参加、大坂からも日本こども未来研究所所長の川野さんも参加してくれました。
日本子どもNPOセンターのメンバーでない人も数名参加し、総勢15人ほどになりました。
社会保障を専門にされている本間先生も参加してくれました。
東京新聞の飯田さんも取材に来てくれました。
編集委員の金さんは子連れ参加で、場の雰囲気も変わりました。
異分野の人ができるだけ接点を持つというのが湯島の精神ですので、うれしいことです。
私も白書は読ませてもらいましたが、さまざまなところでさまざまな活動が行われているのがよくわかります。
子どもたちは、大人と同じように、さまざまな問題の絡み合いの中で生きています。
子どもが生きているのは、決して「子どもの世界」ではありません。
無防備な子どもたちこそ、社会全体の縮図を体現しながら生きている面がある。
ですから、子どもの世界からは大人たちの社会の実相がよく見えてきます。
子どもの世界に現れている問題は、実は大人の問題の写し絵でもあり、そこから私たち大人の生き方が鋭く問われているわけです。
同時に、子どもの世界だけを見ていると見えなくなってしまうことも少なくありません。
今回の白書では、子どもたちを取り巻く法的環境の変化がていねいに解説されています。
それは、子どもたちにとっては逆風の流れのように思いますが、その流れに抗うためにも、あるいは新しい流れを創りだしていくためにも、さまざまな現場の人たちが横につながっていくとともに、実践者と研究者とのつながりがますます大切になってきています。
これだけさまざまな現場で実践している人たちがつながって、研究者と一緒になって動き出せば、法的環境を能動的に変えていけるように思います。
いやそれこそがNPOの大きな使命ではないかと改めて思いました。
この白書の継続的な出版活動は、そうしたつながりを育てる場にもなっていくでしょう。
実践者たちの交流や問題をシェアしあう場が、もっともっと必要だと話し合いを聞いていて感じました。
もう一つ感じたのは、白書もそうなのですが、総じて「大人の視点」で語られていることです。
もっと子供たちが主役として登場してほしい。
子どもたちを語るのではなく、子どもたちの思いを聞きたい。
私は障害のある人や高齢者の問題にもささやかに関わらせてもらっていますが、当事者とそれを支援する人の見ている世界はかなり違うのが、いつも気になっています。
そもそも支援するという一方向的な活動ではなく、お互いに学び合っていくことが必要ですが、子どもから学ぶことは山のようにあるはずです。
子どもたちは何を困っているのか、そうしたことをもっと聞きたかった気がします。
話し合いではいくつかの話題が出ました。
たとえば、福祉と教育の関係、あるいはNPOと行政の関係。
また「地域施設」という領域の立て方の是非も議論されました。
いずれも湯島のサロンで時々話題になるテーマですが、子どもの視点で、そうした課題を話し合うことは大切です。
もう一つの大きな課題は、この白書をどうやって社会に広げていくか、言い換えればたくさんの人たちに購入してもらうか、です。
読んでもらって何かの行動につながっていくことが白書の目的です。
どうしたら広げられるかについても、いろんな意見が出されました。
みなさんも、もしよかったら購入して読んでみてください。
そしてできればまわりの人たちに紹介していただければ嬉しいです。
湯島でも購入できるようになりましたので、読んでみようという方がいたら、湯島に来た時に声をかけてください。
せっかくの機会なので、私もいくつか提案させてもらいました。
たとえば「子どもNPOラウンドテーブル会議の発足」です。
執筆者である、領域を超えたたくさんの実践者や研究者たちが、子どもたちが置かれている現状の問題を可視化し、公開フォーラムのスタイルで、ぜひ社会に発信していってほしいと思います。
そして、さまざまな立場の人を巻き込んで、時には子どもたちも巻き込みながら、全国各地で定期的に公開のラウンドテーブル会議を展開し、問題を解決していく実践につなげていく。
それは同時に、大人や高齢者も含めて、みんなが住みやすい社会になることにつながっていくでしょう。
子ども世界は大人の社会の写し絵なのですから。
子どもたちの直接の声を社会にしっかりと伝えていく活動も必要です。
NPO活動の一つの落とし穴は、問題の当事者と問題解決を支援するNPO関係者との思いが「ずれていくこと」です。
問題を観察者的あるいは支援者的に捉えるのではなく、当事者(この場合は子どもたちですが)と一緒に活動していく。
白書でもそうした事例はいくつか紹介されていますし、最近そうした活動も増えていますが、子どもたちがいまの社会を、あるいは今の大人たちの生き方を、どう見ているのかは、必ずしも社会に発信されていないように思います。
子どもたちが見ている社会の姿を、私たちはもっと学ばなければいけません。
これは子どもに限りません。
高齢者も障害のある人たちにも、すべてに言えることです。
日本子どもNPOセンターの「白書活動」の価値を、改めて実感したサロンでした。
書店や図書館に注文したりして、ぜひみなさんも、この白書の存在を広げていってください。
子どもたちの育ち方が、私たちの未来を方向づけていくのですから。
報告というよりも、思いを書きすぎてしまいました。
すみません。
引き続き、具体的なテーマについてのサロンもやってみたい気がします。
■カフェサロン「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」報告(2018年10月26日)
「女子高生」、正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマのサロンは、自治体の女性議員3人を含め、16人とにぎやかなサロンになりました。
河野さんは、これまでもそうした「女・子・高・生」の活躍できる場づくりにも取り組んできていますが、それは、地元宇部での実践活動の中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、河野さんは実践からの提案なので、私にはとても安心して聴ける話でした。
直接的・具体的に話すというよりも、聴く人に考えさせるのが河野さんのスタイルなので、今回もさまざまな話を含ませながら、さまざまな示唆を出してもらったように思います。
参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加して下さっていましたが、そのみなさんの話を聴く限りでは、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないようです。
横浜市の行政職員の方が参加して下さっていましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかです。
しかし、河野さんの住んでいる宇部市も女性市長ですが、首長だけでは限界があるようです。
それに関しては、首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もありました。
たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家ではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。
その意味で、まずは議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。
しかし、そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
それは同時に、「政治」をどう捉えるかという問題につながります。
今回のサロンにも女性の方が数名参加してくださいましたが、ひとりの方(いわゆる「専業主婦」の方)が、河野さんの話の後の話し合いは、自分が期待していたようなものではなかったという素直な感想を述べてくれました。
湯島では時々政治をテーマにしたサロンを開催していますが、男性が語る政治と女性が語る政治は、まったく視点が違うような気がします。
男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。
いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。
権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
サロンの翌日、湯島に別件で来た女性は、昨日のサロンに参加しようかどうか直前まで迷っていたのだが、やはり参加しなかったと言いました。
たぶん、男性の政治論議になるので自分には居場所がないだろうと思ったのでしょう。
そうしたことにこそ、やはり日本の「政治」の問題があるような気がします。
河野さんのメッセージには、「生活者」も主役の一つに挙げられています。
これに関しても「生活者」とは誰なのかという指摘もありました。
「生活者」という概念はかなり古くからありますが、「消費者」と違ってなかなか定着しません。
この議論は今回はあまり深入りしませんでしたが、一度、このテーマでサロンをしようと思いました。
「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。
同じように、政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうと思います。
政治家は、政治家である前に、生活者でなければいけません。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く気概で、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外援助をしてほしいです。
あまりに税金を気楽に使っているので、税金は「取られている」という気にさえなってしまいます。
首長や議員と行政職員の関係も少し話題になりました。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。
ほかにもいろいろと話題はでましたが、サロンですので、いろんなところに飛び火して、にぎやかな話し合いになりました。
政治や戦争に関するボードゲームの話にまでなりました。
河野さんは、これから自分の考えを実践に移していくことを考えています。
今回は、それをどう進めていくかも少し話してくれました。
その進め方は、住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「プロセス」だと考えている私としてはとても共感できます。
政治は「国会」や「地方議会」の中にあるのではありません。
生活の場での日常生活の中にこそある。
日本の野党は、それを軽視しているために国民の意見を力にできずにいます。
政治の構図の捉え方を変えていくべき時期だろうと思います。
河野さんのプロジェクトがどう展開していくか、とても期待しています。
具体化したらまた差しさわりのない範囲で紹介したいと思いますので、みなさんにもぜひ関心を持ってもらい、もし共感できたら、応援してもらえればうれしいです。
宇部市民でなくても応援する方法はたくさんあります。
それも今回参加された中田さんから教えてもらいました。
ちなみに、今回のサロンには、河野さんが宇部市民であることを知って、宇部出身者が2人も参加しました。
宇部の人たちは、政治意識(郷土意識〉が高いことに感心しました。
私も一時、少しだけ関わらせてもらいましたが、改めて宇部市が好きになりました。
また長い報告になってしまいましたが、政治は私たちの生活の土台です。
しばらく開いていない「茶色の朝」シリーズのサロンも11月に開催したいと思っています。
■ハロウィンよりもお盆でしょう(2018年10月27日)
ハロウィンで世間はにぎわっているようです。
私の地元でも、友人が長年近隣の家庭で楽しむハロウィンのイベントをやっています。
私が住んでいるところからはちょっとだけ離れているので、それを知ったのは今年のはじめでした。
商業主義ではない、そういう活動が広がってきていることには異論はありません。
私の孫も、何やら魔女の服装をして喜んでいましたし。
しかしながらやはり違和感があります。
ハロウィンの起源であるケルトと日本文化のつながりの話もとても興味深くあるのですが、渋谷の仮装イベントにはいささかの嫌悪感さえあります。
死者との交流ということで言えば、日本にも「お盆」や「お彼岸」があります。
日本の伝統行事も、最近いささか商業化しつつあるのを感じますが、それはともかく、大事にしたいと思っています。
そこに、私の生き方の根っこを感ずるからです。
ハロウィンを批判するつもりは全くありませんが(バレンタインには極めて拒否的ですが)、日本の仏教を生きる拠り所としている私としては、お盆をもっと楽しいものにしたいです。
昨今の日本人の生き方がちょっと乱れてきていて、社会におかしな風潮が広がりだしているのは、やはり「宗教」や「信仰」がないがしろにされてきているためではないかと思っています。
日本には、たくさんのお寺や神社があります。
そうしたところがその気になれば、社会のあり方や人々の生き方を変えていけるはずです。
寺社による祭事は、人々の生き方に大きな影響を与えます。
祭事を、ショービジネスやイベントビジネスと勘違いしてはいけません。
祭事は、あくまでも祭事なのです。
そうした取り組みがあまり感じられないのですが、寺社の人たちは何を考えているのでしょうか。
もっとも、いまのような人の生き方や社会のあり方がいいという人もいるのでしょう。
しかし、私には、いまの社会はどうも自分が生きる社会から遠のいているような気がしてなりません。
私は祭事は「子育て」「人育て」という教育の仕組みでもあると考えています。
子どもを育てるのは、学校だけではありません。
そして、社会には子ども育て人を育てる仕組みが内在されていたように思います。
文化人類学に取り組む人たちの本を時々読みますが、そうした本を読むたびに、そう言うことを感じます。
同時に、人類は滅びに向かって進んでいるような気がします。
半年ほど前に読んだ奥野克巳さんの「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)で紹介されているボルネオのプナンの人たちの話はとても感動的でした。
この週末は湯島のサロンがないので、ちょっと古いですが、アマゾンの奥地で暮らしているピダハンを紹介した「ピダハン」(D・L・エヴェレット著)を読もうと思います。
本の紹介文には、ピダハンの人たちは無神論と書かれていますが、そんなはずはないでしょう。
たぶんキリスト教徒の基準で神を論じているために、無神論に見えるのではないかと思います。
まあそれを確かめたくて読むのですが。
ちなみに著者はキリスト教の布教活動のためにピダハンと共に暮らし始めて、結局、自らが棄教したと、これも本の紹介に書かれていました。
余計なことまで書いてしまいました。
11月22日に、ちょっと遅れていた「宗教」シリーズのサロンを企画しています。
■安田純平さんに心から感謝します(2018年10月28日)
シリアで消息を絶っていたジャーナリストの安田純平さんが、2018年10月に無事帰国しました。
久し振りの、とてもうれしいニュースです。
しかし、さまざまなバッシングが行なわれていて、テレビの報道を見ていて、哀しくなるというよりも、実にいやな気分になります。
昨日も多くのテレビで、コメンテーターやキャスターのほとんどが、私には極めて不快な発言をしていました。
そういう人たち(たとえば北野たけしさんですが)の名前も出したいほどですが、きりがないのでやめることにします。
しかし、この人がと思うような人が、私には聞くに堪えない発言をしていて、驚きます。
その根底に感ずるのは、弱い者いじめと国や政府の視座です。
つまり、全体の方針に従わない者は、いじめられ、保護されないということです。
学校でも会社でも、地域でも、そして家庭でさえ、そういう風潮は広がってきているような気がします。
それは私の生活にも無縁ではありません。
国の方針に逆らう人は殺されてもいいというところにつながっているように思います。
そもそも国境を越えて移動することにおかしさを感じない近代人は、私には理解できません。
昨日のテレビでは、安田さんは目的に失敗したという人もいました。
しかし、安田さんが明らかにしてくれたことは、私にはたくさんあります。
ジャーナリストは、記事だけで情報を発信しているわけではありません。
安田さんが書いたであろう記事や動画よりも、私には大きなものが伝わってきています。
書かれたり撮られたりしたものだけで、ジャーナリストは情報発信しているわけではありません。
もちろん受け身でしか物事を考えていない人には伝わらないでしょうが、そうしたものの背景にこそ、私は価値を感じます。
安田さんの今回の不幸な事件は、決して無駄ではありませんし、無駄にしてはいけないと思います。
身代金も話題にされています。
もし身代金に私の税金の一部が使われたとしても異論は全くありませんし、むしろうれしいです。
オリンピックに使われるよりも、私には価値のあることですから。
それに、人の生命をお金とつなげて語る人たちは、私には唾棄すべき存在です。
念のために言えば、身代金が使われたかどうか、またそれをだれが負担したかどうかなど、私は知りませんし、身代金支払いを肯定しているわけでもありません。
そうではなく、こんな時でさえ、お金の話ばかりする人たちの気が知れないのです。
こう書くとまた反論が来ると思いますが、せっかくのうれしいニュースが、なぜか後味の悪いニュースになってしまっているのが、ともかく残念です。
私は、安田さんの勇気と志と実践に感謝しています。
そして、安田さんが無事帰国されたことに、無条件に喜びを表明したい。
安田さんを非難する人も、安田さんほどの「自己責任」意識を持ってもらえるといいのですが。
他者に自己責任を求める前に、まずは自らの自己責任を考えてほしいものです。
■サロン「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」の案内(2018年10月29日)
今回は最近話題になっている書籍『ホモ・デウス』を材料に取り上げて、ヒューマニズムやデモクラシーの未来を話し合いたいと思います。
リンカーンクラブとCWSコモンズ村の共催です。
『ホモ・デウス』は、『サピエンス全史』につづく、ユヴァル・ノア・ハリスの著書ですが、その第3部「ホモ・サピエンスによる制御が不能になる」で問題提起されている、「AIと政治制度」に焦点を合わせた話し合いにしたいと思います。
したがって、基本的には、『ホモ・デウス』の下巻の第3部だけでも読んで参加してもらえればと思います。
しかし、読書の嫌いな人もいるでしょうから、以下にそのエッセンスは紹介します。
たとえば著者はこんなことを書いています。
「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。近代以降の歴史を、科学と特定の宗教(人間至上主義)が手を組み、「人間の経験が宇宙に意味を与える」と信じながら、力を手に入れていくプロセスだった」
「21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」
「人間至上主義に取って代わるものとして最も有力なのは、人間ではなくデータをあらゆる意味と権威の源泉とするデータ至上主義だ」
「人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない」
「人間中心の世界観(ヒューマニズム)を捨てて、データ中心の世界観をいったん受け容れたなら、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれない」
ここには2つのメッセージがあります。
@AI(人工知能)がヒューマニズムを無意味なものにし、人権概念を変質させるのではないか。
A民主主義政治はデータベースのAI政治に取って代られるのではないか。
両者は密接につながっていると思います。
ちなみに、これはさらに経済の変質にもつながりますが、今回は政治に焦点を合わせます。
つまり、今回のテーマは、「AIは人間の存在価値を失わせ、民主主義を基本にしたこれまでに政治制度を壊していくのだろうか」ということです。
同書にはこんな記述もあります。
問題の背景を共有するために、引用しておきます。
「テクノロジーの発展によって人間は経済的にも軍事的にも無用になるという脅威は、自由主義が哲学的なレベルで間違っているという証明にはならないが、実際問題としては、民主主義や自由市場などの自由主義の制度がそのような打撃を生き延びられるとは思いにくい」(p133)
「今日の民主主義の構造では、肝心なデータの収集と処理が間に合わず、たいていの有権者は適切な意見を持つほど生物学や人工頭脳学を理解していない。したがって、従来の民主主義政治はさまざまな出来事を制御できなくなりつつあり、将来の有意義なビジョンを私たちに示すことができないでいる。一般の有権者は、民主主義のメカニズムはもう自分たちに権限を与えてくれないと感じ始めている」(p218)
「新しい構造は、民主主義でも独裁制でもなく、以前の政治制度とはまったく異なるかもしれない」(p221)
著者によれば、人類はいま挑戦を受けているわけです。
自らが生み出した者たちに。
挑戦は受けて立たねばいけません。
というわけでもこんなサロンを企画しました。
みなさんの参加をお待ちします。
〇日時:2018年11月18日(日曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」
〇進め方:今回は特に問題提起者は決めませんが、最初に少しだけテーマの確認をしてから自由な話し合いにします。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「過労死など起こらない働き方の未来を考える」のお誘い(2018年10月31日)
働き方改革が話題になっています。
しかし、その捉え方は人によってさまざまで、「働く人」の視座だけで考えられているわけではありません。
同じ「働き方改革」という言葉で、まったく真逆な目的で語られることさえあります。
日本では、ワーク・ライフ・バランスという言葉がよく使われますが、ワークとライフはむしろ統合されるべきものだという意味で、ワーク・ライフ・インテグレーションという捉え方がアメリカの経営の世界では広がっています。
私は、ライフとワークを同じものだと考えていますので、「働き方改革」は「生き方の見直し」と捉えていますが、今回もできればそういう広がりの中で、「働き方」を話し合えればと思います。
「働き方」に関しては、これまでも湯島のサロンでは取り上げてきましたが、今回はこれまでとはちょっと違った視点で取り上げたいと思います。
1980年代には、人間生活の視点から「仕事論」が広がったことがあり、最近はまたAI(人工知能)の視点からの「仕事論」がありますが、大きな潮流としては、経済活動としての仕事論の域を超えていません。
今回は、できれば、「個人の生き方」や「社会のあり方」にも視野を広げられればと思います。
問題提起して下さるのは、長年、医療や福祉の問題に関わってきた小林康子さんです。
小林さんは、過労死防止活動にも取り組んでいます。
今回は実践活動や生活体験のなからの、小林さんが目指したい「働き方」の未来を話してもらい、それを材料に参加者による話し合いができればと思います。
小林さんからは、次のようなメッセージをもらっています。
「働く者の幸福」とはいかなるものなのでしょうか。
人間の存在を支えるものとは、労働時間規制や実現可能な働き方・働かせ方の良い方向などについて、みなさまの考えが伺えればと思っています。
企業で働く人はもちろんですが、企業とは直接縁のない人にも、ぜひ参加していただきたいと思っています。
「働くこと」は「生きること」と深くつながっていますので。
生き方で悩んでいる人も、ぜひご参加ください。
仕事でメンタルダウンしたり、ましてや過労死したりすることが起こらない社会にしていきたいというのが、今回のサロンを企画した思いです。
みなさんの参加をお待ちしています。
○日時:2018年11月17日(土曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「ある世捨て人の物語」(2018年11月1日)
昨夜、図書館から借りてきた「ある世捨て人の物語」(マイケル・フィンケル著)を寝る前に読みだしてしまいました。
寝る前にちょっとだけ、と思っていたのですが、面白くてやめられずに、結局、全部読んでしまいました。
おかげで今朝は寝坊してしまいました。
この本は、誰にも知られず森で27年間暮らした男の話です。
主人公は、クリストファー・ナイト。
20歳のときから27年間、ほぼだれとも会わず、アメリカのメイン州の森にひとりきりで暮らしていたのです。
2013年4月に、本人の意に反して、「発見」され、話題になりました。
これほど長く一人で暮らしていた「隠者」は、著者の知る限りないそうです。
森の生活と言えば、思い出すのは『ウォールデン』(邦訳「森の生活」)を書いたソローです。
この本は、私も2回ほど読みましたが、「森の生活」とはあんまり言えないような気がしていました。
27年間、森で過ごしたナイトは、ソローは「本物の隠者」ではないと言ったそうですが、たしかにそうでしょう。
そんなことは些末な話ですが、この本はとても面白かったです。
「世捨て」とは、こういうことなんだろうととても納得できました。
そして、私にはできないなと改めて思いました。
私のことを、仙人とか世捨て人という友人もいますが、この本を読んだら、私がいかにそれとは真逆な人間かがわかるでしょう。
しかし、ナイトや著者のマイケルの気持が、ちょっとだけわかるような気がするのは、まだ少し救いがあるかもしれません。
とても面白いくだりがあります。
「ナイトはどうやら、自分のことを数少ないまっとうな人間のひとりだと思っていたふしがある。なぜ、金銭と引き換えにオフィスの狭いブースで一日何時間もコンピューターに向かって人生の盛りを過ごすのは容認されて、森のなかのテントでゆったり過ごすのはおかしいと思われるのか、彼には理由がよくわからない。木々を観察するのは怠惰で、それらを切り倒すのは仕事熱心だと言われる。ナイトは生活を営むために何をしていたのか。彼はひたすら生活していたのだ。」
私が思っていることと同じです。
私も、そういう生活をし、そういう仕事を目指しています。
もう一つとても気にいったことが書かれていました。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスも隠者の志向がありますが、ソクラテスはどこでも裸足で歩き、このうえなく租末な食事しかとらなかったそうです。
この2つは、まだ私にはできていませんが、いま、そこに向けての途上です。
寒くなりましたが、まだ靴下や靴を履かずに頑張っています。
■カフェサロン「お寺の跡取り息子の宗教観」のお誘い(2018年11月2日)
「宗教を考える」サロンの第2弾です。
今回は、まさに正面から「宗教」に取り組んで、みんなで話し合ってみたいと思います。
話題提供してくれるのは、「お寺の跡取り息子」の小林永照さん。
東京の葛飾区にある青戸やくじん延命寺の若い僧侶(30代)です。
小林さんが話してくれるのは、宗教論でも仏教の話でもありません。
小林さんは「自発的な信仰心」から宗教の世界に入ったというわけでもなく、「お寺の跡取り息子」だからということで、18歳の時に「仏教」の世界に入ることとなります。
今だから言えるのですが、と前置きをした上で話してくれたのですが、この時の小林さんは「仏教」にも、そして「仏に仕える僧侶」にも意義を見出すことができなかったそうです。
さらに、もともと人と付き合うことが苦手ということもあって、最初は、その世界に馴染むことができずにいました。
時には、その様な自分を守るため他者を批判して、本当は寂しいだけなのに、どんどん人を遠ざけていったようです。
そのような悪循環の中で、自分の「救い」を求めてあがいていた、そんな10数年間があったと言います。
小林さんのお人柄がわかります。
というわけで、今回は小林さんの個人的な宗教(修行)体験と、そこからいま辿りついている宗教観(宗教の価値)のようなものを生々しく話していただき、それを材料に、個人にとっての宗教、そして社会にとっての宗教の意味を考えてみたいと思います。
いろんな意味で、魅力的なサロンになりそうです。
異教徒の方はもちろん、宗教嫌いの方もふくめて、いろんな人に参加してもらい、意見を交わしたいです。
ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。
〇日時:2018年11月22日(木曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「お寺の跡取り息子の宗教観」
〇問題提起:小林永照さん(青戸やくじん延命寺僧侶)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「日本列島「法」改造論」のご案内(2018年11月4日)
延期されていた神戸大学名誉教授阿部泰隆さんのサロンを11月26日に開催します。
前回参加申込みいただいた方には、直前の予定変更で申し訳ありませんでした。
日本のあり方を話し合うシリーズのサロンの案内です。
今回は、ゲストに神戸大学名誉教授の行政法学者・弁護士の阿部泰隆さんをお迎えして、「日本列島「法」改造論」という、いささか壮大なテーマでのサロンを開催することにしました。
阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「日本列島「法」改造論」というのは、10月に第一法規から出版される阿部さんの新著のタイトルです。
神戸在住なので、久しく会っていなかったのですが、遺言だと思って最後の本を書いたというメールが先週来ました(といっても、すでに40数冊出版していますが、これからも10冊は出版しないと死ねないといっています。http://www.eonet.ne.jp/~greatdragon/)
しかし、遺言であれば、読まないわけにはいかないので、読ませてもらうことにしたのですが、せっかくなので、多くの人にも知ってもらいたくなって、阿部さんに湯島のサロンをやってもらうことにしました。
予告案内の本の帯に「Dr.阿部の執刀開始!」とあります。
まだ出版されていないので、目次の原稿を送ってもらったのですが、なんと目次だけで28頁。
目次を読めば、内容がイメージできますが、いかにも阿部流の舌鋒厳しい、実に賑やかな内容のようです。
阿部さんによれば、「逆転の発想による法改革」によって、日本を変える提案だそうです。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」ですが、つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
「はじめに」も読ませてもらいましたが、たとえばこんなことが書かれています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。
社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。
研究者は現実の裁判を追行していないので、裁判の不条理も知らない。まして、三行半判決で、何のまともな理由もつけずに闇から闇へと葬られ、人生や会社が破綻させられる無数の事件のことには関心を持たない。裁判官も、このようなことに責任を感じている者は多くはないと感ずる。
また、疑問を持たず、既存の資料を整理するだけの「業績」が多い。
その上、筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。
とまあ、こんな風なのです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。
今回は阿部さんから、どのテーマでやろうかと相談を受けましたが、腐ってきている日本国家を快刀乱麻に語っていただき、それをどう改造していけばいいかを話してもらったあと、当日参加した人たちの関心事に合わせて問題を掘り下げられればと思います。
ぜひ多くの人に参加して、議論を戦わせればと思っています。
〇日時:2018年11月26日(月曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本列島「法」改造論」
〇問題提起:阿部泰隆さん(行政法学者・神戸大学名誉教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■コムケアサロン「家族の介護・相続に向き合う」のご案内(2018年11月14日)
一般社団法人コレカラ・サポート代表の千葉さんは、現場に出向くことから問題を確認し、その解決に取り組むという活動に取り組んでいます。
しかし自分だけでは限界があり、同じような能動的な姿勢で高齢者の抱える問題の相談に応じて、一緒に問題解決に当たる仲間を増やしたくて、コーピング講座を始めました。
「コーピング」とは“課題に向き合うこと”です。
そこに千葉さんのこれまでの活動のエッセンスが詰まっているのだろうと思います。
今回は、「家族の介護・相続に向き合う」をテーマに、千葉さんの活動実践のお話をお聴きしながら、私たちの「コーピング」の力を高めていければと思います。
千葉さんからのメッセージです。
「コーピング」とは“課題に向き合うこと”です。
介護者や、人が亡くなったあと遺族となった人は、様々な課題を抱えることになります。
そこには、誰もが知るような表面的な悩みもあれば、当事者も気づくことが難しい内面的に 隠れた悩みもあります。
高齢期における当事者と、支えになる人を包括的に支援するには、 どのように向き合っていけばよいのでしょうか?
今までコレサポは、遺族支援や介護者支援の様々な現場で「コーピング」を実践してきました。
今回のサロンでは、今まで経験してきた「コーピング」の事例をご紹介します。
千葉さんは、コーピング講座も定期的に開催していますので、そのエッセンスも今回紹介していただけると思います。
サロン前半で千葉さんからお話をしてもらい、後半はそれに基づいての話し合いを考えています。
具体的な相談などお持ちの方は、相談を持ち込んでいただいても結構です。
みなさんの参加をお待ちしています。
○日時:2018年12月2日(日曜日)午後2〜4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「過労死など起こらない働き方の未来を考える」報告(2018年11月19日)
「過労死など起こらない働き方の未来を考える」のサロンは、7人の参加者がありました。
「働き方」が問題になっているので、もっとたくさんの人が参加すると思っていたのですが、意外でした。
今回、問題提起してくださった小林さんは、過労死は、突然誰に起こってもおかしくないのではないかと話してくれましたが、私も同感です。
多くの人にとって、決して「無縁」ではありません。
しかし、まだまだ「過労死」は特別の「事件」と位置付けられているのかもしれません。
私は、そこにこそ問題の本質があるような気もします。
本気で「働き方」(生き方)を変えようとみんな思っているのでしょうか。
小林さんは、15年前の40代の時に企業で働いていた夫を過労死で亡くされました。
小林さんと3人の子供たちの生活は大きく変わってしまったでしょう。
企業での過労死の場合は、会社の上司や経営者への怒りも起きがちで、憎悪におそわれることもあります。
小林さんは、しかし、憎悪の世界に引き込まれることなく、悲しみのなかで、なぜ夫は過労死に追い込まれたのか、そしてどうしたら過労死をなくすことができるのか、に取り組んできました。
医療や福祉の分野で仕事をしていた小林さんの使命感もあったでしょうが、それが小林さんの支えになってきたのかもしれません。
そして、いまは過労死家族の会に参加して、同じ立場になってしまった家族の支援や過労死防止のための活動に取り組んでいます。
小林さんは、そうした15年を語ってくれました。
小林さんはこう話してくれました。
過労死は社会問題となって既に30年近くになるのに、いまもなお、過労死・過労自殺は年齢、性別、職種を超えて広がり続けている。
毎年2万人以上の自殺者の中には、相当数の過労自殺が含まれている。
疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因として、「長時間にわたる過重な労働」が考えられるが、相変わらず長時間労働の実態は改善されず、最近話題になったように、裁量労働制などでむしろ長時間労働を是認するような動きさえも見られる。
長時間労働は、脳や心臓疾患との関連性が強いという医学的知見が得られているし、業務における強い心理的負荷による精神障害により、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、自殺に至る場合もあると考えられている。
そして小林さんは、残業時間をせめて月45時間以内にすれば、過労死をかなり減少させることができるはずだ、とデータで示してくれました。
厚労省が発表している「過労死等の労災補償状況」(平成29年度)によれば、時間外労働時間が45時間以内の場合は、該当者がゼロになっています。
1998年には、月45時間を限界とする行政指導基準が労働大臣の告示として出されているそうですが、法的拘束力がないばかりか、適用を回避する条件も示されています。
時間がすべてではないだろうが、せめてこの45時間基準に法的拘束力をつけるだけでも、かなりの過労死は避けられるはずだ、と小林さんは考えています。
そしてそうした活動に、仲間と一緒に取り組んでいるのです。
小林さんは、最後に2つの文章を読み上げてくれました。
ひとつは亡くなった夫が残した家族あての遺書。
もうひとつは、国際労働機構(ILO)が昨年スタートさせた「仕事の未来世界委員会」で確認された次の方針です。
「仕事の未来は、既に運命的に決まっているものではなく、われわれの主体的な意思や行動で
より良いものに変化させることのできるものだ」。
いずれも心に響くものがあります。
小林さんの話を受けて、いろんな視点での意見が出されました。
「個人と組織の関係」や「働くとは何か」。
みんな時間に追われているという意味でも「時間」が「人」を追い込んでいるのではないか。
過労死に追い込まれるような会社よりも、みんなが楽しく働けるような会社のほうが業績を上げている事例も多いのに、なぜそうした会社が増えていかないのか。
ほかにもいろいろと出たはずなのですが、なぜかいつも以上に、思い出せません。
この問題には私も少し思い入れが強すぎるからかもしれません。
参加された方、できれば話し合いのところを補足してください。
過労死は、小林さんが言うように、いまのような社会においては、誰にでも起こりうることです。
過労死までいかなくても、精神的にダウンしてしまっている人も少なくありません。
過労死の問題は、まさに私たちの生き方、さらには社会のあり方につながる問題です。
それはまた、現代の組織の本質につながる問題かもしれません。
人間にとっての仕組みだったはずの「会社」や「組織」が、いつの間にか人間を追いやってしまう存在になっているのかもしれません。
そこで、湯島のサロンでは、「個人と組織の関係」をさまざまな視点から考えるサロンを時々開催していこうと思います。
それが、「過労死がなくなる社会」に向けて私のできることのひとつだと思うからです、
案内はまた別に投稿させてもらいますが、その第1回を12月5日に開催します。
■カフェサロン「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」のご案内(2018年11月20日)
西精工という会社をご存知でしょうか。
四国の徳島にある会社です。
「ホワイト企業大賞」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などを受賞し、「人間尊重型経営」で成果を上げていると話題になっている会社ですが、今回は、西精工を事例にして、これからの企業のあり方を考えてみたいと思います。
といっても、同社は四国の徳島にありますので、同社の方をお呼びするのは難しいのですが、幸いに最近、同社の経営に関する書籍が出版されました。
書名がちょっと長いのですが、「人間性尊重型大家族主義経営」(内外出版社)です。
西精工社長の西泰宏さんによる経営実践が生き生きと紹介されていますが、それだけではなく、前半部分で、天外伺朗さんが「ティール組織」モデルを踏まえて西精工の経営のポイントを解説しています。
逆に言えば、最近話題の「ティール組織」について、西精工をモデルに、天外さんの解説が行なわれているということでもあります。
そこで、ティール組織の考え方を具体的に考える意味でも、西精工を取り上げることにしました。
そこで、本書の編集に関わった上本洋子さんに、西精工の経営に関して話題提供してもらったうえで、「人間性尊重」と「企業経営」をキーワードにしながら、これからの企業のあり方や個人の働き方について、みんなで話し合えればと思っています。
参加する方はできるだけ事前に「人間性尊重型大家族主義経営」を読んできてもらえればと思っています。
みなさんの参加をお待ちしています。
〇日時:2018年12月 日( 曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」
〇問題提起:上本洋子さん(自在株式会社)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」報告(2018年11月20日)
話題の本『ホモ・デウス』が展望している近未来を踏まえて、「AIと民主主義」をテーマにしたサロンを、リンカーンクラブとCWSコモンズ村の共催で開催しました。
『ホモ・デウス』でのメッセージは簡単なメモにまとめて当日配布しました。
かなり主観的なまとめですが、こういう流れで整理しました。
@ 認知革命によって「ホモ・サピエンス」が生まれた(「サピエンス全史」)。
A ホモ・サピエンスは創造主の神から解放されて、人間至上主義教(ヒューマニズム)を生み出し、自分たちの王国をつくりだした。
B 自我の誕生により、「人間」は「個人」として自立し、「個人の尊厳」「人権意識」という考えが生まれた。
C ホモ・サピエンスによるAIの創造により、人間中心の世界観はデータ−中心へと変化し、民主主義や個人の尊厳は意味を失う。
D ホモ・サピエンスの一部は、種としてのホモ・デウスへ進化し、進化しそこなったホモ・サピエンスは消滅する。
少し詳しいメモは次のサイトにあります。
http://cws.c.ooco.jp/hd.htm
それに基づき、参加者で自由に話しあいました。
あまりにも話題は多岐にわたったので紹介は難しいですが、極めて主観的に出た話題を列記します。
Amazonがその人に合った本を推薦してきてくれるように、自分以上に自分のことを知っているAIが自分に最もふさわしい候補者を推薦してくれる。
そうだとすれば、そもそも選挙も代議士もいらないのではないか。
AIが中心となる社会の議員の役割は今とは全く違うのではないか。
そういう状況では「民主主義」や「個人の尊厳」はどういう意味を持つのか。
そもそもAIにとって人間は必要な存在なのか。
1%と99%の人間の対立の中で、AIはどちらに味方することになるのか。
対立の構図は、人間対人間ではなく、人間対AIになるのではないか。
AIに対して人間の強みは何か。
そもそも、進化したAIは機械なのか生命体なのか。つまりAIは人間によって操作される機械なのか、あるいは人間を「端末備品」とする新しい生命体なのか。
AIと人間が合体していくのが「ホモ・デウス」なのか。
すでに身体にチップを埋めだした人間が増えてきている。
私たちはすでに膨大なビッグデータによって嗜好さえも管理されつつあるのではないか。
人間は、サイボーグやホボーグのような新しい生命体に進化するのか。
その時には、今以上に大きな格差、たとえば永遠の生命を持つホモ・デウスとそれに隷属する使い捨ての人間とに分かれるのか。
AI中心の世界では、戦争も経済も変質する。
現在の政治は、ヒューマニズムを根底に置いて国民を守ることを目指しているが、AIが行なう政治の目的は何なのか。
そもそもAIが統治する世界では人間は存在しうるのか。
まあ、こんなような議論がありました。
いつものように収斂しない発散型の議論でしたが。
私は最近のサロンで時々話していますが、このままだとAIは人間を不要なものとしていくだろうと思っていますが(つまり科学技術の方向性が間違っている)、なかにはこれからも科学技術を軸に人間社会を進化させていくべきだという「重脳主義」を主張する人もいました。
美とか文化とか、あるいは論理を越えたひらめきによる英知がAIにはできないだろうという意見もありましたが、私はむしろそういう世界こそがAIの得意分野ではないかと思っています。
話を聞いていて思い出したのが、鎌倉時代に公権力の枠を超えて自由に生きていた「悪党」たちです。彼らは「網野史学」によれば、人の力を超えたものとのつながりをもっていたとされていたそうですが、現代の悪党はまさにAIとのつながりを得た人かもしれないとふと思いました。
近代において、社会の単位が人間から個人へと変わることで、ヒューマニズムの意味は変質したと私は思っていますが、AIの進化で、またヒューマニズムが変質するような気もします。
あまりにも深い話に陥りそうですが、AIの脅威には無関心ではいられません。
なにか欲求不満のままに終わったので、年明け後にもう一度、企画できればと思っています。
もうひとつだけ感想を加えれば、これまでの発想の枠組みを変えて議論することは難しいということです。
人間を超えていくかもしれないというAIですが、どうしてもAIよりも人間が上位にあるという見方から私たちはなかなか抜け出せずにいます。
それを改めて痛感したサロンでした。
■お金が人間をどんどんと劣化させている(2018年11月21日)
日産を立て直したと言われるゴーンさんが逮捕されました。
それに関しては、何の感想も持ってはいないのですが、これに関して日頃から気になっていることを書きたくなりました。
ゴーンさんは名経営者とか日産を立て直したとか、よく言われます。
日産では2万人の従業員を解雇したにもかかわらず、日産の売上規模は大きくは変わらず、それで会社はV字回復したと言われています。
たしかに会社の業績で評価すれば、立て直したと言ってもいいでしょう。
しかし会社とは何なのか。
2万人の解雇された従業員の視点に立った時、「会社が立て直された」と言えるのかどうか。
そもそも会社とは何なのか。
会社にとって従業員は単なる手段なのか。
従業員を解雇して会社業績を上げることは、「会社の立て直し」と言えるのか。
私には、それは「経営」とはとても思えないのです。
もう一つ気になるのは、高額な報酬です。
海外のグローバル企業の経営者の報酬に比べたらそんなに高額ではないといわれています。
たしかにそうでしょう。
しかし、そもそもグローバル企業の経営者の報酬が高額すぎるのです。
自らの会社の従業員の給料に比べて比較にならないほどの高額の報酬を得ていることになんの疑問ももたない経営者は、はたして経営者と言えるのか。
私には、そうした人たちは「経営者」とはとても思えないのです。
略奪者でしかない。
まだまだ気になることはあるのですが、まあそういうことを少しでも考える人が出てきてほしいです。
せめて「経営者」とか「経営」の捉え方を見直してほしいです。
お金が人間をどんどんと劣化させている。
そんな気がしてなりません。
■石は意思をもっているか(2018年11月22日)
先日の湯島のサロンで、鉱物も生きているのではないかという発言をしてしまいました。
サロンの前日に、ある本で、こんな文章に出くわしたからです。
物質から意識が生まれるはずはないというのは、私たちの単なる思い込みなのかもしれませんね。ご著書で紹介されているチャーマーズの仮説では、月の裏側にぽつんと置かれた石も、太陽光によって容積を膨張させたり収縮させたりするのであれば、自分の温度という意識をもつことになるということですが、それも領けるような気がします。
たばこ総合研究センターで発行している「談」の最新号の、渡辺正峰さんにインタビューしている編集者の佐藤真さんの発言です。
ここで、「ご著書」というのは、渡辺正峰さんの「脳の意識、機械の意識 脳神経科学の挑戦」という本です。
この本は面白いです。
佐藤真さんとは知り合いではないのですが、一度、電話で話したことがあります。
間違い電話をしたら、偶然に佐藤真さんが電話に出たのです。
面識はないのですが、なんとなくそんな気がして、もしかして佐藤真さんですかと訊くとそうだというのです。
それで、「談」は愛読書ですと伝えましたが、間違い電話に会いたいと思っていた人が偶然に出るというのも珍しいですが、その人から話しかけられるというのもめずらしい体験(ちょっと不審な体験と受け取られたかもしれませんが)だったと思います。
残念ながらまだ直接お会いできる機会がやってきていませんが、いつか会えるでしょう。
大学生の頃、読んだソ連作家のSF作品に、生きている石の話があったので、その本を探したのですが、どこかに埋もれていて見つかりません。
短編集ですが、そこには地中を飛び交う鳥の話もありました。
いずれも私の世界観を広げてくれた小説です。
ところで、石が意思をもつかですが、サロンの参加者から「さざれ石」もあるねとメールが来ました。
そういえば、ルーマニアにはトロヴァントの石という、成長し分裂していく石もあるそうです。
http://karapaia.com/archives/52173165.html
それに有名な「ガイア仮説」という、地球自体が生きているという説もあります。
これもソ連の作家の「ソラリス」という長編小説(2回、映画化されています)は星自体が生命体でした。
石には意思があると思うと、そうぞんざいには扱えません。
それに最近の日本人を見ていると、むしろ意思を持っていないのではないかと思ってしまうこともあります。
AIの意思もさることながら、まずは自らの意思をしっかりと自覚しなければいけません。
まあ、そうするとちょっと生きにくいこともありますが。
湯島のサロンでの話し合いは、こんな形で後に続いていることもあります。
そしてそれが時にまた次のサロンになるわけです。
石に意思があるかは、サロンのテーマにはなりそうもありませんが。
■カフェサロン「お寺の跡取り息子の宗教観」報告(2018年11月23日)
「宗教を考える」サロン第2弾は、「お寺の跡取り息子」の小林永照さんに、ご自分の物語を語ってもらいました。
小林さんは現在、寺小屋、地蔵の会など、お寺を舞台にしてさまざまな社会活動に取り組んでいますが、最初にそうした活動を紹介してくれました。
いずれも社会に開かれたとてもいい活動です。
こういう活動が広がれば、お寺はまた地域社会のセンターになっていくかもしれませんし、宗教の役割が見直されるかもしれません。
ところが小林さんは、こういう活動は格好いい話に聞こえるかもしれないけれど、それに取り組んでいる自分は、つい最近まで僧になったことに必ずしも納得できていなかったと、ご自分のことを語り始めました。
小林さんは、葛飾区にある青戸やくじん延命寺の長男として生まれました。
小学生の頃に得度はしたものの、特に仏教に強い関心を持ったわけでもなく、本堂の大日如来も、ただの仏像としてしか見えていなかったそうです。
大学で専攻したのは国際政治経済。小林さんの若き葛藤を感じます。
19歳の時に、真言宗の僧として灌頂を受けて正式に僧として自立したはずにも関わらず、どこかに納得できない自分がいて、「ぐちゃぐちゃ」していたということを赤裸々に話してくれました。
時には、なんで仏門に入って僧としての人生を歩まないといけないのかといった「恨み節」に陥ることもあったようです。
自分探しのために、社会人大学院に入り、そこで哲学者の内山節さんに出会います。
それから少しずつ小林さんの人生が変わりだします。
お寺で生まれ、そこで生活させてもらっている以上、お寺を活かして何か社会的な活動に取り組まなければという思いから、冒頭に話してくれたいろんな社会活動を3年ほど前から始めたそうです。
私が最初に小林さんにお会いした時に、小林さんからその話を聞いて、小林さんにいつかサロンで話してもらいたいとずっと思っていたのですが、その頃はまだ小林さんは「ぐちゃぐちゃ期」の最中で模索していたわけです。
小林さんの意識が大きく変わったのは、1か月ほど前の今年の10月です。
お父上と一緒に、ある親子の僧の灌頂に立ち合ったのだそうです。
灌頂というのは、諸仏と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて、師の継承者となるための密教儀式で、小林さん自らも19歳の時に受けています。
その時にはまだ自分が僧になったという感激はあまりなかったそうです。
しかし今回は違いました。
ほかの僧の灌頂をお手伝いしただけなのに、灌頂を受けている若い僧を見守っている大日如来を感じたのだそうです。
それまでは単なる仏像だった大日如来が、若い僧のみならず、自らの行いも見守ってくれているという実感が突然にすとんと身心に入った。
大日如来を観じた小林さんは涙が出たそうです。
そして僧になってよかったと初めて心底から思ったといいます。
ぐちゃぐちゃの中で、行を修めていた小林さんにとっては一種の悟りなのでしょうか。
いまは客観的に自分を見ている自分も感じられるようで、自分を捉え直すことができたとおっしゃいます。
以前は、救いを外に求めていたが、いまは救いは自分の中にあると思えるようになったとも言います。
救いが自分の中にあれば、他者の救いにも寄り添えるかもしれません。
小林さんの物語を長々と勝手に書いてしまいました。
私が主観的に解釈しているところもありますので、小林さんからはちょっと違うよと叱られそうですが、まあ大筋はそう間違っていないでしょう。たぶん、ですが。
こんな話を踏まえて、話し合いも盛り上がりました。
クリスチャンも数名いましたし、仏教を信ずる人もいました。
無神論者もいたかもしれません。
小林さんは、宗教の教義よりも仏事や神事を通して仏や神の世界を学んできたと言います。
人間の普段の生活は神仏の世界とつながっていて、それが仏事に現われている。
大げさな仏事でなくとも、日常生活の中で手を合わせて祈ることがあれば、そこで仏の世界ともつながれるというのです。
小林さんにとっての修行は、まさに仏事や日常生活の行いの中にあるのでしょう。
しかし、今の都会の生活の中では、そうした体験の場は少なくなっているかもしれません。
先祖や死者とのつながりだけではなく、同じ時代を生きている人とのつながりさえもが失われてきている。
そして、人のつながりを失う中で、私たちはいろんなものを失ってきているのではないか。
人のつながりが失われていくなかで、他者への祈りも忘れだしている。
小林さんは、そうしたことを取りもどいていきたいと考えているようです。
それが、信仰につながっていく。
気づいてみたら、3年前から小林さんが自分のお寺で取り組んでいることは、まさにそれだったわけです。
お話を聞いていて、私は修行ということの意味の深さに気づかされました。
またまた勝手な解釈の報告になりました。
当日はもっと話題は広がっていました。
たとえば、仏教には修行はあるが、キリスト教には修行という考えはあるのか。
お寺や僧侶の役割は何なのか。
お寺は、困った時に相談に行く場所になっているか。
お寺にいくとどうして厳粛な気分になるのか。
大日如来を感じたというが、霊的な問題をどう考えるか。
震災後によく話題になる「幽霊」の話も出ました。
仏事に関する面白い話もありました。
お盆の迎え火の翌朝早く、先祖がいなくなったお墓にお供えをする風習が小林さんのお寺にはあるそうです。
留守のお墓にいる無縁仏にお供えするのだそうです。
仏事に込められた「つながりの思想」。
私も含めてサロン参加者はみんな初めてそういう風習を知りました。
小林さんのお話を聞いて、信仰や宗教は、与えられるものではなく、生活を通して出合えるもの
真摯に自分を生きることこそが信仰であり、宗教は、どんな宗教であろうと、そうしたことを考えさせてくれる存在であること。
修行とは、自分に誠実に生きること。
そんなことを気づかせてもらったサロンでした。
あまり言葉としては出ませんでしたが、「信仰」と「祈り」が今回のサロンの底流にあったような気がします。
できれば次回は、「信仰」や「祈り」を話し合うサロンができればと思っています。
現在、話の口火を切ってくれる人を募集中です。
よろしくお願いします。
■「1%と99%の戦い」の幕が上がった?(2018年11月28日)
日産のゴーンさんの逮捕には興味はなかったのですが、最近の報道を見て、これはもしかしたらとてつもなく大きな事件になるかもしれないという気がしてきました。
一言で言えば、「1%と99%の戦い」の始まりです。
日本の検察がもしそれを意図的に始めたとしたら驚くべき話です。
ゴーンさんはまだ1%の人たちの仲間ではないとしても、1%側の人を目指しているだろうと思います。
その人を起訴することになれば、「1%と99%の戦い」になる可能性は否定できません。
すでに報道されていますが、アメリカでの最高の弁護士の一人が弁護することに決まったようです。
企業事件の裁判の本場はアメリカでしょうから、日本の弁護士などとは格段に強力な力を持っていると思われます。
私たちはともすれば、裁判に正義や真実を期待しますが、現在の裁判は正義や真実を問う場ではありません。
客観的なデータを材料にして、法に合っているかどうかを争う場です。
この種の裁判に手馴れているアメリカの弁護士とあまり手馴れているとは思えない日本の検事とでは、最初から勝負は見えているような気もします。
しかしよほどの自信がなければ日本の検察もこうしたドラマティックな宣戦の仕方はしなかったでしょう。
私がイメージしている検察は、勝つ方法がわかっていることしか起訴しない体質を感じます。
だから最初は、検察の後ろに日本政府やフランス政府がついているとばかり思っていました。
ですから前のノートに書いたように、私にはまったく興味がなかったのです。
ところがどうもその後の報道では、フランス政府もルノーも了解していないようです。
とすれば、これはとんでもない物語の始まりかもしれません。
日本の検察が1%族に戦いを挑んだというわけです。
しかしもう一つの解釈もあります。
これは99%族の成り上がり者が1%族になろうとしていることに対して、1%族が見せしめで、誘発させた事件かもしれません。
たかだか100億円足らずの小銭で、小賢しい細工をするような人は1%族の文化とは違う種族だと思われたのかもしれません。
それにそもそもゴーンさんの生き方は庶民的すぎます。
文化が合うはずがない。
そう考えると、この事件はどこかにおかしさがある。
そもそも「司法取引」などということが使われていることにも違和感があります。
報道の仕方も、ちょっと理解できないこともある。
もしそうだとすると、アメリカ最高の弁護士がゴーンさんについたことの意味を考え直さなければいけません。
この事件の筋書きを描いているのがどちらの人かはわかりませんが、いずれにしろ、「1%と99%の戦い」につながっていく可能性はある。
こう考えると、これまでまったく関心がなかったこの事件への興味がわいてきました。
西川日産社長の勇気に拍手を送りたいです。
西川さんも1%族の下っ走りでいれば、日本の多くの大企業の社長のように、あるいは多くの官僚や政治家のように、これまでのような暮らしができたでしょうに。
何が西川さんに起こったのか、それへの興味も出てきました。
■カフェサロン「日本列島「法」改造論」報告(2018年11月29日)
神戸大学名誉教授の行政法学者・弁護士の阿部泰隆さんをお迎えしての「日本列島「法」改造論」は13人が参加し、3時間を超える長いサロンになりました。
阿部さんの話は、まずなぜ自分が大学に残って教授になったのかという話から始まりました。
大きな志や日本を変えたいと思ったのか、と一瞬、期待した人もいたでしょう。
しかし、阿部さんは、子どもの頃からぜんそくがひどかったので、働きやすそうな大学に残ったのだというのです。
こんな感じで、聞く人の期待に肩すかしを食わせながら、聴く人を飽きさせない、そのくせ、メッセージしたいことはきちんとメッセージするというスタイルで、前半は笑いにあふれた阿部さんの独演会でした。
もちろん漫談だけやっていたわけではありません。
最初に挙げたのが、来年の「10連休」への疑問。
阿部さんは、一体だれが喜ぶのかと言います。
そしてそれによる弊害を、死者が増えるかもということも含めて、具体的に話されました。
つづいてさまざまな「おかしなこと」が縦横無尽になぎ倒されていきました。
しかしただ、個別問題を批判しただけではなく、その根底には現在の行政のおかしさへの本質的な問題提起がこめられていました。
まず阿部さんが指摘したのは、行政の法的安定性についてです。
日本は法治国家ですので、法律の安定性が保証されていなければいけません。
そのためには、法そのものが安定しているとともに、法の運用者である行政の恣意的な解釈や適用があってはなりません。
もちろん形の上ではそうなっていますが、阿部さんは、それは「神話」だというのです。
法は国民のためにあると言われますが、果たしてそうなのか。
法の安定性に関しては、官民不平等になっていると阿部さんは言います。
たとえば税金納入の過不足の是正に関しては、国民と行政では平等ではないし、さらに行政の都合で法は変えられる。それに行政を正す立場にある司法の独立性は、日本では制度的にも保証されていないことを説明してくれました。
日本の法は誰のために運用されているのか。
法が整備されれば法治国家になるわけではありません。
そこをしっかりと考えていかなくてはいけない。
問題は行政だけにあるわけではありません。
私たち一人ひとりにもある。
阿部さんは、自分で考えることが少なくなっているのではないかと問いかけます。
偉そうな人(たとえば自分を含めた大学教授や官僚など)が言ったからと言ってそのまま信じてはいけない。
通説と言われるものも疑わなければいけないと阿部さんは言います。
疑うことから考えることがはじまり、自分の判断力が活かされていく。
与えられたことを考えもせずに受け入れてしまう国民性
行政が勝手なことをやってしまう一因は、国民である私たち一人ひとりがちゃんと考えないからかもしれません。
ちなみに、阿部さんは、法学者としての自分の使命を次のように考えています。
日本の社会はいま何が問題なのか、その問題解決のためにどういう法制度を整えたらいいのか、法制をどう動かしていったらいいのかを考え、それを提案し実現していくこと。
そのためには、まずは通説や常識を「疑うこと」です。
何事にも、「なぜか」という問いを忘れない。
阿部さんは、疑問に思うことを大切にしています。
そうしたことを根底に置きながら、阿部さんはさまざまな問題を語ってくれました。
国の戦争責任から「女子トイレを増設せよ」「相撲の土俵の下にマットレスを」などといった話まででました。
阿部節を体験されたい方は、阿部さんの著書「日本列島「法」改造論」をぜひお読みください。
「逆転の発想による法改革」によって、日本を変える提案が満載です。
話し合いでもさまざまな問題が出されました。
最初の質問は、住民訴訟に関する質問でした。
ほかにもいろんな質問が出ましたが、阿部さんは、法治国家の本質のような内容まで含めて、専門的にとてもわかりやすく解説してくれました。
学校教育の話も盛り上がりましたし、日本人の国民性の話もでました。
あまりにいろんな話題が出たので私の記憶容量の限界を超えて思い出せませんが、なかなか終わらないほど、にぎやかな話し合いでした。
誰がこんなおかしい社会にしてしまっているのか、という話もあり、それへの回答も、阿部さんからも含めて出されました。
しかし、最後に阿部さんは、もっとみんなが行政の実態を知り、自分で考えていかなければいけないと話しました。
今回のサロンに参加した人の多くは、それぞれにそうした活動に取り組んでいる人ですが、もっと横につながっていくことが大事だなと改めて思いました。
そこにこそ、湯島のサロンの意味はあるのですが。
阿部さんの体制批判は、実に具体的で何よりも明るいのです。
そこに阿部さんの人柄が出ています。
後で感想を送ってきた人は、「文楽や志ん生の落語を聴いた後のような、すっきりとしたにごりない喜びを感じました」と言ってきました。
面白い中にも、いろいろと考えさせられるサロンでした。
こうした、明るく楽しい雰囲気で政治や行政や法の問題を話し合う場がもっと増えていくといいなといつもながら思います。
ところで、参加したほとんどの人が、阿部さんの話にほぼ同感ですと感想を言っていました。
しかし、そこにこそ、大きな問題があるのではないかと、いささか天邪鬼の私は思います。
いろいろと主張の多いはずの参加者が、一様に「ほぼ同感」だといい「すっきりした」といい、阿部さんの話に共感してしまう。
自分ではまだあんまり考えていない大学生たちなら、もっと共感してしまうのではないか。
阿部さんの話を聞く私たちも、阿部さんと同じく、もっと「疑う」こと(阿部さんの意見への疑いを含めて)を大事にしなければいけません。
ちなみに阿部さんは、あることを批判する時にも、絶対的な口調ではなく、自分はそう思うがというような謙虚な話しぶりでしたし、話の最初に自分の権威(高名な大学教授)を意図的に壊すような話を語ってくれていました。
それにもかかわらず阿部さんの話にあまり異論が出なかったのが、ちょっと心残りでした。
阿部さんの考えとあまりにも参加者の波長が合ってしまったのかもしれません。
それはまたそれで、問題かもしれません。
阿部さんが東京にいたら、連続サロンを企画したのですが、残念です。
■人を評価する基準(2018年11月30日)
ゴーンさんに関して、相変わらず日産をV字回復させた名経営者という評価が繰り返されます。
経営者たちや資本家たちがそういうのは納得できますが、会社で働く従業員までがそういうのがどうも不思議でなりません。
私が会社に入った時(1964年)には、経営者の役割は「雇用の場を増やすこと」だと会社の役員から繰り返し聞かされました。
それにとても共感していました。
それがある時に裏切られたために、私の人生観は変わりだすのですが、1970年代まではそうした「常識」がつづいていたように思います。
ゴーン経営を高く評価する人の企業経営観の基軸は、「人」ではなくて「金」にあります。
日本的経営観ではなく、アメリカ型の経営観に、いつのころから日本でもかわってしまったのです。
金のために人を切るのではなく、人のために金を活かすことが経営だと思っている私には、とてもついていけません。
先日、久しぶりに参加した企業のパーティで、アメリカで働いているアメリカ人から、「トランプ大統領は人間的には最悪だが、アメリカ経済をよくした点では最高だ」という話を聞きました。
その人はそれをとても喜んでいたように感じました。
どこかに違和感はあったのですが、パーティでのことなので、笑いながら同意してしまいました。
しかしどうも心に引っかかっています。
同意してしまった私にです。
人間よりも経済を大事にする。
ここにも本末転倒があるように思います。
どうも人の価値観は大きく変わってしまったようです。
いや、私自身が社会の変化についていけていないだけかもしれません。
困ったものです。
■弁護士と検事の使命(2018年12月4日)
あおり運転死亡事故の裁判が話題になっています。
裁判の報道を見ていつも、検事にしろ弁護士にしろ、その基本的な姿勢に違和感を持つことが少なくありません。
つまり「裁判制度」そのものに私は違和感があるのです。
私自身もちょっとした裁判に関わる機会もあって、ますますその感を強くしました。
たとえば今回の事件で、弁護士はどうしたら被告の罰を軽くしようかといろんな論理づけをしています。
逆に検事はどうしたら被告の罪を重くできるかを考えているような気がします。
停車した後の事件なので「危険運転死傷罪」は成立せずに無罪だと弁護士は主張し、検事は法律に照らすと危険運転死傷罪は成立しにくいので、監禁致死傷罪も考えようとしているようです。
しかし裁判で問われることはそんなことではないのではないかと思うのです。
弁護士の役割は、被告の人権を守ることです。
人権を守るとはどういうことか。
もちろん冤罪は避けなければいけませんが、明らかに冤罪ではない今回の事件のような場合に、被告の人権を守るということは無罪にすることではなく、適切な罰を課することだろうと思います。
適切な罰を受けさせることこそが、私の考える個人の尊厳の尊重です。
個人の尊厳は、犯した罪に適切に服することも含意されていると私は思っています。
罪を逃れることと冤罪とは、私には同じものに思えます。
いずれも個人の尊厳を損なっている。
検事と弁護士は対立関係にあるわけではなく、違った視点から起こったことを評価し、より良い結論を導くための、いわば協力者でなければいけません。
駆け引きを主軸にした裁判にはどうも違和感があります。
映画「12人の怒れる男」での陪審員の時間をかけた話し合いこそ、裁判の基本でなければいけません。
お互いに証拠を隠し合って、相手を負かすことに精力を注ぐような裁判は、私には大きな違和感があります。
裁判はゲームでも闘争でもないのです。
もしかりに今回の事件の被告が無罪になったらとしたら、一番報われないのは被告ではないかと私は思います。
弁護士は、そうならないように、被告の尊厳を守るべきではないか。
罪は罪として認めることこそが、被告の、これまでのたぶんいろいろと問題が多かっただろう人生を正してやることにつながるのではないか。
そんな気がしてなりません。
報道から感ずる限り、今回の事件の弁護士には被告への愛情は感じられません。
そんなことは必要ないし無理だと言われそうですが、個人の尊厳を守るということは愛なくしては成り立ちません。
仕事として弁護士を選んだ以上、被告の尊厳を守ることにこそ人生をかけなければいけないと私は思います。
被告の悪いことは悪いとはっきりと質していかなければ、個人の尊厳は守れません。
きちんとした裁きが行なわれる社会こそ、みんなが安心できる社会です。
検察と弁護士と裁判官が一緒になって、三方よしの裁きをしてほしいと思っています。
■コムケアサロン「家族の介護・相続に向き合う」報告(2018年12月4日)
高齢社会の中で、私たちはもっと高齢期に起こりうるさまざまな問題にしっかりと向き合っていくようにしないといけません。
子育てへの関心は高まっていますが、高齢期の生活に対しては、老後の蓄え意識はあるものの具体的な課題に関する準備に取り組んでいる人はあまりいないような気もします。
そもそも問題が顕在化するまでは、問題さえ見えていない人も少なくありません。
老後の蓄えも、多くの人はお金で考えていますが、お金にできることには限界があります。
むしろ大切なのは、お金ではなく、たとえば人のつながりだったり、健康だったり、趣味や仕事(対価を得る仕事という意味ではありません)ではないかと思います。
問題が起こってからお金を使うと考えている人が多いですが、お金はむしろ問題を起こさないためにこそ使うべきです。
それにお金は、たとえば遺産相続に見るように、生活を乱す不幸を引き起こすことさえ、あります。
以上は私の私見ですが、こうした視点で地道な活動に取り組んでいる千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)に、高齢者を取り巻く様々な問題やそれを支援するさまざまな社会資源を紹介していただき、高齢者が生きやすい社会に向けてのヒントをたくさんいただいたサロンでした。
千葉さんは、高齢者の抱える問題の相談に乗る活動をしながら、一緒に問題解決に当たる仲間を増やそうとコーピング講座を広げていますが、お会いするたびに、千葉さんの考えや活動が進化しているのを感じます。
それは机上論ではなく、千葉さんが現場での実践を、問題に直面している当事者と伴走しながら考えているからでしょう。
高齢者の問題は、それぞれに人によって全く違いますので、理屈では対応できません。
冒頭にとても示唆に富む話がありました。
迷惑をかけたくないという相談者に対して、それは自分の視点であって、迷惑かどうかは相手が決めることではないかと千葉さんはお話しすることがあるそうです。
とても共感できます。
その一言に、私は千葉さんの相談の基本姿勢が象徴されているように感じました。
千葉さんが取り組んでいるコーピングとは「課題に向き合うこと」ですが、誰の視点で課題を捉えるかで全く違ってきます。
高齢者の生活の問題を千葉さんは5つに分けて捉えています。
経済的問題、健康の問題、住まいの問題、人間関係の希薄、そして生きがいの問題です。
コレカラ・サポートでは、こうした5つの面を踏まえて、高齢者と伴走しながら支援しています。
大切なのは、それぞれの問題を各論的に捉えるのではなく、全体をつなげながら捉えていくことです。
しかし、ひとりの人間ですべてに対応することは難しい。
それでそれぞれに得意な人たちのゆるやかなネットワークを活かしながら、伴走支援をしているのですが、そのためにはある特別の問題に詳しいだけではなく、5つの問題を含む全体がある程度見えていることが大切です。
そして問題に応じて、その人に一番ふさわしい相談相手を見つけていくという、コーディネーター的な役割を果たせる人を増やしてくことが、千葉さんの望んでいることです。
場合によっては、問題を抱えている人が、自分の体験を誰かの問題解決のために活かしていくことができれば、まさに「支え合う社会」へと近づきます。
こう考えていくと、千葉さんたちが目指しているのは「信頼できる人のつながり」を育てていくことと言えるでしょう。
これはまさにコムケア活動や湯島のサロン活動の理念でもあります。
千葉さんは、もうひとつ、すでにある様々な社会資源や社会制度を活用するためにも、そうした知識を身に着けておくことが大切だといいます。
問題が発生してからでは遅いので、日ごろからアンテナを張っておくこと、あるいはそうしたことをよく知っている人とのつながりをつくっておくことが大切だというわけです。
こういう話をしてもらった後、参加者での話し合いが始まりました。
今回とてもよかったと私が思ったのは、ある特定の人の具体的な問題が開示されたのを契機に、千葉さんだけでなく、参加者みんながその人の問題を一緒に考えアドバイスし合ったことです。
いつかまたその人から報告があるかもしれません。
高齢社会は、みんなが支え合う社会ではないかと私は考えていて、25年ほど前に「早く来い来い、高齢社会」という小論をいくつかの研究所の機関誌に掲載したことがあります。
みんながコーピングの力をつけていけば、社会はとても住みやすくなる。
今回のサロンで、改めてそう思いました。
なお千葉さんたちがやっているコーピング講座については千葉さんにお問い合わせください。
また今回のサロンの話は、改めて映像記録を制作することも考えていますので、またもし制作できたらご案内させてもらいます。
■カフェサロン「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」のお誘い(2018年12月4日)
いつも湯島のサロンに関心を持っていただき、ありがとうございます。
毎年1回だけ、私が話をさせていただくサロンをさせてもらっています。
一昨年は「新しい経済」、昨年は「新しい政治」をテーマに、経済と政治のパラダイム(枠組み)に関して話をさせてもらいました。
今年は、「新しい生き方(社会)〕という、これまた壮大なテーマで話をさせてもらおうと思います。
といっても言うまでもなく講演ではなく、まあ私の改めての自己紹介という程度の話です。
自己紹介などやっても誰も参加しないと幼なじみの友人から言われましたが、同じく幼なじみの友人からは、社会に出てからどんなことをやっているのか全くわからないので聞きたいという人もいましたし、佐藤さんはどういう人かわからないとサロンに時々来ている複数の人からも言われていますので、まあやってみようかと案内を始める締め切りギリギリの今日、決断しました。
決断と言えるほどのことでもないですが。
しかし長く生きているとそれなりにいろいろありますので、絞らないといけません。
そこで、湯島のサロンに焦点を合わせることにして、私が「なぜ湯島でサロンをはじめ、なぜ今も続けているのか」を軸にして、私の話をさせてもらうことにしました。
暇に任せて無駄なことをやっていると思われる方もいるかもしれませんが、一応、それなりにビジョンや目的はあるのです。
どんな話になるかは、保証の限りではありませんが、気が向いたらご参加してください。
〇日時:2018年12月16日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」
〇問題提起:佐藤修(湯島のサロンの主宰者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「人はなぜ巡礼に向かうのか」のお誘い(2018年12月5日)
今年最後のサロンは、「人はなぜ巡礼に向かうのか」をテーマにすることにしました。
年末のこの忙しい時に、「巡礼」と思われるかもしれませんが、年末のあわただしい時期にこそふさわしいテーマではないかと考えました。
問題提起してくれるのは、何回か湯島のサロンで巡礼の話をしてくれた鈴木章弘さんです。
今年も4回目のサンティアゴ巡礼に行ってきました。
一昨年と昨年は四国も歩いています。
インドも体験されています。
まさに「巡礼道(じゅんれいどう)」に取り組む巡礼者です。
サンティアゴ巡礼や四国遍路の話は以前にしてもらいました。
そこで今回はちょっと趣向を変えて、巡礼生活を続けている鈴木さんに「なぜ巡礼に行くのか」を話してもらうことにしました。
鈴木さんの話だけではありません。
巡礼の途中で世界各国の巡礼者たちと鈴木さんは会うわけですが、そこからきっとたくさんのことを感じているはずです。
そこで、「人はなぜ巡礼に向かうのか」について、まずは「鈴木さんの場合」を話してもらい、それから巡礼で出会った人たちのことを思い出しながら、鈴木さんに限らない巡礼者の動機やそこで得るものを、鈴木さんの解釈で話してもらうことにしました。
同時に、巡礼によってどう生き方が変わってきたのか、繰り返し巡礼に行くことによって「巡礼」というものの意味や捉え方が変わってきたのではないか、そんな話もしてもらおうと思います。
鈴木さんは、巡礼の途中で会った人との付き合いが広がっています。
サンティアゴ巡礼に行った時には、その人の家に泊めてもらったり、その人が四国遍路に来た時は鈴木さんは最初の1週間をわざわざ付き合ったりしています。
巡礼の途中でほんのわずかの話をしただけで、人はつながれる。
日本人との付き合いは、そう広がっていないように思える鈴木さんが、なぜ世界中の人とそんなにも深くつながってしまうのか。
巡礼道や聖地の持つ、何か大きなものを感じます。
しかし、サンティアゴ巡礼は1〜2か月かかるので、鈴木さんのようにそう簡単に行けるわけではありません。
そこで、サンティアゴなどの巡礼で、鈴木さんが得た「巡礼道」の片りんを少しだけ分けてもらえるようなサロンにできればと思います。
きっと巡礼に行こうとしないで生きている私のような者にも、生き方を問い直すヒントがもらえるかも知れません。
「なぜ私は巡礼に行かないのか」の答えが見つかるかもしれません。
あわただしい年末の時間を、巡礼サロンで過ごすのもいいかもしれません。
みなさんの参加をお待ちします。
〇日時:2018年12月22日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「人はなぜ巡礼に向かうのか」
〇問題提起:鈴木章弘さん(巡礼者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」報告(2018年12月7日)
久し振りの企業経営をテーマにしたサロンは、今回は徳島にある西精工株式会社の事例をベースにして、個人と組織の関係を考えるサロンでした。
西精工は、「ホワイト企業大賞」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などを受賞し、「人間尊重型経営」で成果を上げていると話題になっている会社です。
最近、西精工の経営を紹介した「人間性尊重型大家族主義経営」(内外出版社)を編集した上本洋子さん(自在株式会社)に、同社の紹介をしてもらいました。
西精工の現場にも行ったことがある内外出版社の関根さんも参加してくれました。
最初に先ず、上本さんから西精工の紹介をしてもらいました。
社長の西さんは、東京の広告代理店で働いていましたが、会社の後継者候補だった従兄弟が病気で急逝したため、急遽、会社を継ぐことになり、徳島に戻りました。
入社してわかったことは、業績はいいものの職場風土にいろんな問題があることでした。
どうにかしなければと思っている矢先、西さんご自身が腎臓病になってしまい、1年間の闘病生活を余儀なくされてしまいます。
病気回復後、会社の中の気の流れを変えたいと決意し、掃除や挨拶からの風土改革を始めたものの、なかなか思うようにはいきません。
そしてさまざまなドラマが始まっていくのですが、これはぜひ本を読んでください。
同書には前半で、西精工と重ねながら最近話題の「ティール組織」のことが紹介されています。上本さんは、そのエッセンスも話してくれました。
「ティール組織」は話題になっているわりにはその実体がなかなかわかりにくい「組織モデル」ですが、個人と組織の関係を考える上では大きな視点を提起しているように思います。
上本さんのお話の後、話し合いが始まりました。
最初に私から、西精工の会社現場の雰囲気を質問しました。
本やテレビで描かれている話と実際の現場とは大違いの会社が少なくないことをこれまで何回も経験しているからです。
たとえば西精工では、毎朝1時間の朝礼が行なわれていますが、その雰囲気はどうなのか。
朝礼にも参加したことのある関根さんから即座に答えが返ってきました。
社員の表情が輝いていて、みんな楽しそうに話し合っていたというのです。
工場の雰囲気もとてもいいそうです。
本の記述と実態は違っていないことを、私は確信しました。
社員の顔は嘘をつかないからです。
本にも書かれていますが、会社を死に場所にしたいと言っていた社員の話に、そんな会社があるのだと驚いた人が一人ならずいました。
会社が、その人にとって、自分の生きがいを満たしてくれている場になっているということでしょう。
しかし、その一方で、そんなに会社べったりでいいのだろうかという違和感を持った人もいたかもしれません。
それではかつての「会社人間」と同じではないか、と。
そこで、「家族」ということの意味が話題になりました。
本のタイトルは「大家族主義経営」ですが、西精工社内では「家族主義」という言葉はあまりつかわれていないようです。
ここで「大家族主義」という言葉に込めた意味は、社員のことは家族の一員のように、最後までしっかりと面倒を見るとともに、仕事の上での上下関係を人間としての上下関係にせずにお互いに支え合う関係を大事にしようということではないかと思います。
「家族」という言葉には、拘束的な面や他者を排除するような面もないわけではありませんが、西精工にはそうしたことはないようです。
たとえば工場周辺の掃除にしても、ただ工場周りだけではなく、まちなかにまで掃除を広げているようですが、そこに象徴されるように、家族ファーストではないのです。
西さんの祖母の言葉が、とても示唆に富んでいます。
「社員さんが250人おったら、×(かける)4せなあかんのよ」。
西さんは、経営とはみんなの幸せを追及することだと考えています。
宮沢賢治の「世界ぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」を思い出します。
それは、同社の行動指針にも明確に表現されています。
そこで大切にされているのは、「つながり」とか「コミュニティ」です。
決して閉じられた「家族主義発想」ではないのです。
西さんは、主体者は社員で、社長はサポートする人だと言っているそうです。
そこには人を信頼して任せる、各人の常識に委ねる。
ここにも従来の家父長型の家族主義発想はありません。
西さんは、子どもの頃から本に囲まれて、たくさんの物語になじんで育ったそうです。
そのためか、自分を主役に物語を語ることになれている。
そして、社員と一緒に物語を語りながら、社員とコミュニケーションを深めていくようです。
物語を語ることは大切です。
社員一人ひとりが主役になる組織、まさに「ティール組織」が目指されています。
ティール組織に関する議論もいろいろとありました。
ティール組織の議論は、社会の状況に合わせて組織の構成原理も変わっていくという話ですが、いまの日本の社会や人間は変わってきているのだろうかという話もありました。
上本さんは、朝の通勤時の電車の様子を見ると人間の質も上がっているのではないかと言いました。
西精工のような、人間の生活をつなげる「人間尊重型」の経営は、どこでも実現できるのか。
参加者からは、地域社会の特性と無縁でないのではないのかという意見が出ました。
東京と地方の会社に関わっていて、そう実感されているようです。
上本さんも、四国という土地柄が関係しているかもしれないと言います。
まさにティール組織論が言うように、社会の状況が組織のありようを決めていく。
同時にまた、組織のありようが社会のありようを決めていくのかもしれません。
だからこそ、会社のありようは社会的にも大切なのです。
企業は社長の経営観や価値観で変わってくる。
しかし、会社を変えていくには、社長一人ではなく、何人かのコアになる人が必要だという意見も、実際に企業変革に関わっている人から出されました。
西さんの経営観は、どこで培われたのか、もしかしたら1年間の入院生活が何らかの影響を与えているのではないか、という話も出ました。
人は世界の広さによって、経営観も変わってきます。
大病経験が西さんの経営観を豊かにしたのかもしれません。
障害を持つ社員がいるおかげで、経営に関する考え方も広くなったという参加者の発言もありました。
まだまだいろんな話が出ましたが、長くなりすぎたので、これでやめます。
上本さんが、時々ポツンとつぶやいた言葉が私にいろんなことを考えさせてくれました。
経営者からの話も示唆に富むことが多いですが、編集者から企業のことを聞くことの意味がよくわかりました。
いつもながら、私の関心に合わせて報告させてもらいました。
個人と組織(会社には限りません)をテーマにしたサロンは、来年も続けます。
■ソフトバンク通信障害騒動に思ったこと(2018年12月7日)
昨日、4時間半ほど、ソフトバンク系の通信障害が発生しました。
私もソフトバンク系なので、影響を受けたのでしょうが、実際にはその時間はスマホを使用していなかったので、何の影響もありませんでした。
しかしテレビ報道を見て、いろんな人が困った状況になっていたことを知りました。
現代人は予想以上にネットに生活の多くの部分を依存しているようです。
まさに私の感覚では「組み込まれてきている」という感覚です。
便利な仕組みを活用しているつもりが、いつの間にかそれに従属して拘束されてしまうように、関係が逆転してしまっていることもあるでしょう。
便利なものを手に入れれば入れるほど、何か問題が起こると困ることも増えてきます。
私自身も、たぶんそうした仕組みにかなり組み込まれてしまっているはずです。
便利なものは、同時に恐ろしいものでもあることを忘れてはいけません。
改めて生き方を問い直そうと思っています。
ちなみに、「便利なもの」の最たるものは、お金かもしれません。
■パリは燃えていくのか(2018年12月9日)
パリが燃えています、いや、これからかもしれませんが。
50年前を思い出します。
1968年は、私が人生を変えた1年前です。
1960年代は大きな歴史の岐路だったような気がしますが、それが象徴的に表れたのが、いわゆる「68年革命」です。
対抗文化が元気だったその時代を、20代でありながら逸脱もせずに時代の流れに沿って生きた私としては、いささかの悔いもありますが、いろんな意味で影響を受けたことは間違いありません。
対抗文化讃歌とも言われたチャールズ・ライクの「緑色革命」は、私の生き方に指針をあたえてくれた1冊です。
ちなみに、映画「パリは燃えているか」は、1944年のパリの話です。
その24年後に、再びパリは燃え、そして今またパリは燃えています。
しかし、その燃え方は、あまりに違います。
1968年に比べれば、インターネットの発達で、いまのほうが世界同時に燃え出してもおかしくありません。
しかし、1968年とは大違いで、各地での若者の炎はつながらない。
一番燃えてもおかしくないはずの日本では、燃えようともしません。
たぶんどこかで何かが変わっているのでしょう。
アラブの春とかいろいろありましたが、結局、ネットは「燃えるのを防ぐ」手段になってきているのかもしれません。
68年革命から50年目にして起こったパリの炎のゆくえには関心があります。
日本でお国会議事堂前でのデモは盛んです。
しかし、国会に向かって叫ぶのは、向きが違っているのではないかと私には思えます。
野党もまた、国会の中でいくら騒いでもあまり効果は期待できないどころか、パワダウンにしかならない気もします。
燃える材料は、国会にはない。
野党は国民にこそ呼びかけてほしいです。
どうして野党議員は、国民に呼びかけないのか。
たぶんこれまでの政治の枠組みの中でしか考えていないからでしょう。
パリは燃えるのに、なぜ日本は燃えないのか。
テレビを見ながら、そんなことを考えています。
■「坊言」サロンの予告です(2018年12月9日)
年が明けたら「坊言」サロンを開きます。
年末年始にお寺に行ったら、そこの掲示板に面白い言葉がないか探してみてください。
昨年出版された本ですが、「きみはそのままでいいんじゃないか」(西坂和行 電波社 1200円)を読ませてもらいました。
筆者は湯島のサロンにも時々参加する西坂和行さんです。
この本のことは以前もお聞きしていました。
西坂さんは、あることがきっかけで、お寺にある掲示板に掲げられている「言葉」に関心を持ち出したそうです。
意識してお寺の掲示板を読むと、そこには実にさまざまなメッセージが書かれていることに改めて気がついたそうです。
そうした言葉は、必ずしもそのお寺の住職のオリジナルではないのですが、その言葉を選んだ視点にはそのお寺の住職の思いが込められています。
そこで西坂さんは、そうしたメッセージに「坊言」と命名しました。
お坊さんから社会に向けてのお説教メッセージです。
なかには、意味がよくわからないものもあったようで、そういう時には西坂さんはお寺に飛び込んで、ご住職に話を聞くようになったようです。
そうした「坊言」がたくさん集まりました。
それで、印象的なものを選んで、そこに西坂さんの感想を書き込んでまとめたのが本書です。
タイトルは「きみはそのままでいいんじゃないか」。
これは、西坂さんがたくさんの「坊言」から得た「悟りの言葉」かもしれません。
いや、「悟れなかった悟り」の言葉というべきかもしれませんが、まあそれはそれとして、本書に紹介されている100の「坊言」は、それぞれに実に示唆に富むものです。
そして、西坂さんの解説も、とても面白いです。
ちなみに、書名になった言葉は、秋田市にある西善寺に掲示されていた坊言だそうです。
本書の帯に「悩みの9割はこれで解決!」とありますが、それはちょっと保証しかねますが、本書を読むと、「悩みもまた人生を豊かにしてくれるかもしれない」ということに気づけるかもしれません。
そうすれば、悩みなど解決する必要はないと開き直れるかもしれません。
なにしろ「きみはそのままでいいんじゃないか」なのですから。
こんな紹介だと本書の面白さが伝わらないといけないので、実際の坊言をいくつか紹介しましょう。
「×も45度回せば+になる」
「ハードルは高ければ高いほど、くぐりやすくなる」
「できないのですか、やらないのですか」
「親のいうことを聞かぬ子も、親のまねは必ずする。
「人生が行き詰まるのではない、自分の思いが行き詰まるのだ」
「「政治家が悪い、官僚が悪い、評論家が悪い」と云いながら、それにテレビワイドショーを喜んで観ているお前はもっと悪い!!」
「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲がありいくらあっても満足しないことです」
「にぎり拳では握手は出来ない」
どうでしょうか。
ちょっと興味を持っていただけたでしょうか。
しかし本書の面白さは、こうした坊言を西坂さんがどう受け止めたかです。
どう面白いのか、それは本書を読んでもらうしかありません。
人生に悩んでいる方も、悩みに気づいていない幸せな方も、気が向いたら是非お読みください。
珈琲2杯のお金と珈琲2回飲む時間で、たぶん読めるでしょう。
とても読みやすく、人によっては人生にとってのかけがえのない示唆がもらえるかもしれません。もっとも、人によっては単なる暇つぶしで終わるかもしれませんが、それは保証の限りではありません。
この本を材料に、近いうちに湯島で、「坊言サロン」を開こうと思います。
参加者に、近くのお寺で、気になる「坊言」を見つけてきてもらい、みんなで「坊言」品評会もやれればと思っています。
年末年始に寺社を回られたら、是非掲示板を見てください。
■おまけサロン「社会はよくなってきていると思いますか」のご案内(2018年12月10日)
巡礼のサロンを今年最後のサロンにしようと思っていたのですが、年の終わりにもう1回、おまけサロンをやることにしました。
そう思いついたのは、先日の上本さんのサロンで上本さんが次のようなことを話したからです。
昔は、人を押し分けて乗り降りする朝の通勤時の電車が嫌いだった。
でも最近、電車で足を踏まれたら、大丈夫ですかとあやまられた。
周りへの配慮ができる余裕が生まれてきているようで、社会はよくなってきているように思う。
たしかにそんな気もします。
しかし、その一方で、最近は生きにくいという人も少なくありません。
いじめとかあおり運転とか、ヘイト活動とか暴力事件とか、自殺とかメンタルダウンとか、なんとかハラスメントとか、そんな話も以前よりも増えているような気もします。
海外で暮らしていた友人が、日本に戻ってきて日本人は大人も子どもも表情が暗いという話もよく聞きます。
社会はよくなっているのか、人間はやさしくなってきているのか。
みなさんはどう思われるでしょうか。
そこで今年最後のおまけサロンは、「社会はよくなってきているのだろうか」をテーマで、雑談会的なサロンをしたいと思います。
年末の忙しい時なので参加は難しいと思いますが、あえて仕事納めの日に当たる12月28日とし、開催時間を午後から夜にかけての5時間をとりましたので、時間が許す時に、気が向いたらお立ち寄りください。
いつものように出入り自由です。
なお、年末はそんな暇はないという人も多いと思いますので、1月の縁カフェはやめて、第1月曜日の7日は同じような主旨での「おまけサロン」を開催する予定です。
これは別途ご案内します。
〇日時:2018年12月28日(金曜日)午後3時〜8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「社会はよくなってきているのだろうか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「対話で感得するインド占星術」のご案内(2018年12月10日)
2019年最初のサロンは、年のはじめにふさわしく、「対話で学ぶインド占星術」を選びました。
知識ベースのサロンではありません。
インドの聖地ヴリンダーヴァンにほれ込んでツアーガイドをしている、ヴェーダ占星術師でもある、千葉和江(Kazue Kishori Chiba)さんにお願いしました。
千葉さんはせっかくならと、いろんな人が参加しやすいように、休日と平日に2回にわたって開催してくださることになりました。
それぞれが独立していますので、いずれに参加しても大丈夫ですし、両方出ていただいてもいいと千葉さんはおっしゃっています。
千葉さんによれば、インド占星術はその人の運命を読み解き、心を平安にし、豊かに生きることを目的としているのだそうです。
私は自らの運命を知りたいとは思っていませんが(知ったら壊したくなりそうですから)、心を平安にしてくれるのであれば、それは最高にうれしいです。
最近はなぜか、心は平安ならず、ですので。
参加者の関心次第で、インドの宇宙観、聖地での生活などの話にも広がるかも知れません。
千葉さんは、それもまたよしと言ってくださっています。
千葉さんは毎年インドに渡航し、現地でも生活しているようですので、生きた情報をお聞きできそうです。
ところで、実は私はまだ千葉さんにはお会いしたことがありません。
千葉さんの伴侶である、もう一人の千葉さん(先日サロンをしてもらいました)から千葉和江さんの活動のことをお聞きして、サロンをしたくなりました。
というのも、今年はなぜかヴェーダに魅かれて、久しぶりに本を読んだりしていたからです。
和江さんが帰国したのをいいことにお願いしたら、すぐに引き受けてくれました。
こんなに話がトントンと進むとは思っていませんでした。
サロンを聞く前から私の心には平安が訪れた感じです。
運命も見透かされているかもしれません。
千葉さんは、「どんな方がこの話題に集まるのか大変興味がありますし、日本の書籍やウェブでは手に入らない生の情報をお届けするのが楽しみです」と言ってくださっています。
さてどんなサロンになるか。
みなさんのご参加をお待ちしています。
〇日時:
1回目:2019年1月12日(土曜日)午後2時〜4時
2回目:2019年1月17日(木曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「対話で感得するインド占星術」
〇問題提起:千葉和江さん(ヴェーダ占星術師)
〇会費:500円
〇申込先:どちら(あるいはいずれにも)に参加するか明記のうえ、佐藤修(qzy00757@nifty.com)までメールください。
■動いている時だけが運転しているとは恐ろしい話です(2018年12月14日)
あおり運転事件の判決には驚きました。
止まっているときは運転とは言わないそうです。
どう考えてもおかしいでしょう。
しかしある弁護士はテレビで、「市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなる」と話しています。
この発言に、法曹界の専門家のおごりを感じます。
法律を市民感覚に準拠して解釈するのが法律の専門家の使命のはずです。
どう考えても理解できない。
運転とは何かを少し真面目に考えてほしいです。
運転は動いたり停止したりする行為です。
デジタル的に言えば、動いているときも止まっている状態の連続という捉え方さえありますが、それはともかく、停止中の行為は運転中の行為ではないというのはおかしいでしょう。
しかも、市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなるなどと白を切るに至っては許せません。
多くの人は、専門家は正しいと思いがちですが、そんなことは全くありません。
私の感覚では、いわゆる専門家には、知的でさえない人が圧倒的に多いのです。
いや怒りのために少し言い過ぎました。
反省。
しかし、お上だから、専門家だから、東大出だから、国家資格を持っているから、などということに騙されてはいけません。
その正しさを、みなさんも今年はたくさん体験したでしょう。
物事が正しいかどうかは絶対的な基準などありません。
その時代の多くの人が納得することが、その時代においては正しいことの基準です。
市民感覚こそが、正しさにとっての一番の準拠になるのです。
しかし、それだと混乱も起きかねないので、安定度を高めるためにつくられたのが成文法です。
しかし、その解釈は時代によって柔軟に対応できるように、解釈の余地があり、それを託されているのが司法関係者なのです。
彼らが基準にするべきは、法文としての法律ではなく、市民感覚なのです。
私が大学の法学部で学んだことの、それがすべてです。
テレビを見て、あまりにも馬鹿げた判決なので、とりあえず思いつきで書いてしまったので、きっと冷静になったら後悔するでしょう。
しかし、第一印象はとても大切です。
直感的に感じたことの方が、私の人生においては正しかったことが少なくありませんので。
冷静になって考えることは、往々にして悪しき洗脳の結果であるからです。
■唯一の解決策なんて政治にはありません(2018年12月14日)
今日は非常に機嫌がよくありません。
自宅のパソコンが壊れて困っているからかも知れませんが、今日はテレビを見ていると、蹴とばしたうなるくらい腹が立つ言葉遣いが多いのです。
辺野古土砂投入が始まりました。
作業をしている人を見ていて、この人たちは何も考えないのだろうかと思いますが、まあ人はそれぞれですから、その人たちの立場も理解しなければいけません。
そうしなければ、安倍さんと同じことになりますから。
私が腹立たしいのは、菅官房長官が記者会見で、「辺野古が唯一の解決策」と言ったことです。
「唯一」の解決策などということは政治の世界にはありません。
そもそも唯一の解決策があるのであれば、政治など不要です。
政治というものを知らない人が官房長官にいることに腹が立っているわけです。
もう一つ腹が立つことがあります。
根のこの話をしているのに、いつも「普天間」の問題をだし、それがセットであると説明することです。
これは一種の恫喝だと私は思いますが、それはそれとして、それをそれぞれ解決していくのが政治です。
つまり問題の捉え方が、いかにもご都合主義的です。
これと「唯一の解決策」発想はつながっています。
時間がないので、急いで書いたので、これまた漏れが多いでしょう。
あとで書き直すかもしれませんが、まあ憤懣の少しを吐き出しました。
しかし取り返しのつかないことが始まってしまった。
なんでこんなに急ぐのか。
自民党には、まともな人はいないのでしょうか。
■なぜ制度は複雑になるのか(2018年12月14日)
怒りをぶつけるついでに、もう一つだけ。
まあ氷山の一角的なものですが。
消費税増税のイメージを緩和するために政府は様々な制度を考えだしています。
もしかしたら私のような低所得者には得になるような制度ができるかもしれないなどという思いが、時に一瞬、頭に浮かびますが、そういうことは絶対にないのです。
たとえ10万円のばらまきの対象になったとしても、喜んではいけません。
一見得になるようなものこそが危ういのです。
それは極めて簡単なことでわかります。
制度ができるたびに、その運用コストがかかるのですが、それは私たちの生活を豊かにしてはくれません。
いわゆる「行政コスト」が余計にかかるだけですが、行政コストには必ず業者が寄生していますから、その業者の利益もまた、私たちの生活を豊かにすることには使われません。
いずれにしろ、税金が無駄な使われ方をされ、私たちに役立つことには使われなくなるのですから。
消費税は極めて複雑になりそうですが、複雑にすればするだけ、消費者は得をしたか損をしたかわからなくなります。
これもおそらく大きな目的でしょう。
しかし間違いないことは、複雑になるだけ無駄な仕事やコストがかかるということです。
そして無駄なものでも、それが何かの生産につながれば、経済成長率を高めるという効果もありますから、政府にとっては好都合なのです。
これは政府だけの話ではありません。
私のところには、世界の困っている人を支援するためにチョコレートや絵葉書やCDを買ってほしいという話がよく来ます。
なかには当然私がそういうものを買うだろうと思っている人もいます。
私は、むしろそういう行為には極めて否定的です。
確かにその売上金の一部は困った人のところに届くかもしれません。
しかし、その少なくない部分は、そうした「商品」を生産するために、またそういう活動を知らせ販売していくために、使途されます。
しかしそういう「商品」はほとんどの場合、「無駄なもの」が多いのです。
それに、生産するためにどれほどの資源を無駄にし、エネルギーを浪費したか。
そういう無駄なものをつくる世界の経済構造が、飢餓を生み出し難民を生み出しているのです。
それに加担する気にはなれません。
むしろそうした活動をしている人を見ると、こういう「善意の人」が一番罪深いとさえ思えてしまいます。
もっと本当に実のある活動をしてほしいと思ってしまうわけです。
ふるさと納税も無駄の極みです。
行政職員がそんな活動をするのは、私に背任行為としか思えません。
税金ってなんだかわかっているのでしょうか。
それにしても消費税増税は迷惑な話です
欧州の先進国の事例を少しは学んでほしいです。
無駄をなくすだけで、純粋の税収は増えるかもしれません。
ますます税金を払いたくなくなってしまう人が増えるかもしれません。
しかし節税が奨励されるお国柄ですから、こんなことを言っても始まらないでしょうね。
喜んで税金を負担する国になってほしいです。
■カフェサロン「坊言サロン」のお誘い(2018年12月15日)
湯島サロンのメンバーの西坂さんが、昨年、「きみはそのままでいいんじゃないか」を出版しました。
お寺の掲示板に書かれている「言葉」(それを西坂さんは「坊言」と命名しました)を集めて、そこに西坂流の感想を書き加えた、とても読みやすくて面白い本です。
この本に関しては、私のホームページで紹介させてもらいました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#181209
紹介文の最後に、次のようなことを書かせてもらいました。
この本を材料に、近いうちに湯島で、「坊言サロン」を開こうと思います。
近くのお寺で、気になる「坊言」を見つけてきてもらい、みんなでそれを持ち寄って、「坊言」品評会もやれればと思っています。
予告通り、そのサロンを開催します。
最初に、「坊言」命名者の西坂さんに少しだけ話してもらい、その後はみんなでそれぞれが見つけた「坊言」を紹介し合って、話し合いができればと思います。
年末年始は寺社を回る機会もあるでしょうから、是非掲示板を見て、「坊言」コレクションをしてみてください。
不幸にして、面白いものに出合えなかった場合は、湯島のサロンでぜひ面白い坊言に出合ってください。
また面白い坊言に出合えたけれど、サロンには参加できないという方は、ぜひ私あてに、見つけた坊言とその感想を送ってください。
当日みなさんに紹介させてもらいます。
面白くて、学びの多いサロンになるかもしれません。
保証はしませんが。
〇日時:2019年1月19日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「お寺の掲示板の「坊言」品評会」
〇問題提起:西坂和行さん(ライター&坊言コレクター)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■おまけサロン「社会はよくなってきていると思いますか」のご案内(2018年12月17日)
巡礼のサロンを今年最後のサロンにしようと思っていたのですが、年の終わりにもう1回、おまけサロンをやることにしました。
そう思いついたのは、先日の上本さんのサロンで上本さんが次のようなことを話したからです。
昔は、人を押し分けて乗り降りする朝の通勤時の電車が嫌いだった。
でも最近、電車で足を踏まれたら、大丈夫ですかとあやまられた。
周りへの配慮ができる余裕が生まれてきているようで、社会はよくなってきているように思う。
たしかにそんな気もします。
しかし、その一方で、最近は生きにくいという人も少なくありません。
いじめとかあおり運転とか、ヘイト活動とか暴力事件とか、自殺とかメンタルダウンとか、なんとかハラスメントとか、そんな話も以前よりも増えているような気もします。
海外で暮らしていた友人が、日本に戻ってきて日本人は大人も子どもも表情が暗いという話もよく聞きます。
社会はよくなっているのか、人間はやさしくなってきているのか。
みなさんはどう思われるでしょうか。
そこで今年最後のおまけサロンは、「社会はよくなってきているのだろうか」をテーマで、雑談会的なサロンをしたいと思います。
それに加えてですが、昨日、私が話題提供するサロンをさせてもらいました。
たくさんのことを話したので理解できなかったという人がいました。
確かにその通りで、話したいことを聞き手の都合など考えずに話してしまいました
困ったものですが。
しかし話の中にいろんな「ひっかり的な問題提起」は埋め込んだつもりです。
それでもし昨日のサロンに参加されて、この点を突っ込みたいという方がいたら、それも大歓迎です。
年末の忙しい時なので参加は難しいと思いますが、あえて仕事納めの日に当たる12月28日とし、開催時間を午後から夜にかけての5時間をとりましたので、時間が許す時に、気が向いたらお立ち寄りください。
いつものように出入り自由です。
なお、年末はそんな暇はないという人も多いと思いますので、1月の縁カフェはやめて、恒例の第1月曜日の7日は同じような主旨での「おまけサロン」を開催する予定です。
たぶん、ですが。
これは別途ご案内します。
〇日時:2018年12月28日(金曜日)午後3時〜8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「社会はよくなってきているのだろうか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」報告(2018年12月17日)
「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」をお話しさせてもらうサロンには20人を超える方が参加してくださいました。
私のことを、「新興宗教の人」とか「某国の諜報機関の人」とか、「謎の人」と思っている人もいたようで、私の正体を見極めるために来たという人も複数いて、私としては大いに反省させられました。
私ほど自らを開示していて、「謎」とは無縁な人はいないと自負しているのですが、疑いをもたれるような生き方をしていたようで、反省しなくてはいけません。
念のために言えば、もちろん私は新興宗教や諜報機関とは無縁です。
テーマに関していえば、いろんな人が一人の人間として心を開いて触れ合う場こそが、私が目指している、「誰もが気持ちよく暮らしていける社会」を実現するためには、「一番効果的」だと思っているので、サロンを続けているという話をさせてもらいました。
サロンを始めた経緯も含めて。
デモや革命や壮大な思想よりも、信頼し合える人のつながりが育っていくことが効果的だというのが、私が50年以上かかってたどり着いた結論なのです。
それで社会は変わるのか、という指摘も受けましたが、むしろ、それ以外では変わらないというのが私の考えなのです。
もっともそんな「ゆるい方法」ではすぐには変わらないでしょう。
でも50年か100年たてば、変わるかもしれませんし、それでも変わらなければ、その方法は間違っていて、きっと誰かが別の方法で変えていってくれるでしょう。
そう確信していることが、「私が湯島でサロンを続けている」理由なのです。
残念ながら、参加者のみなさんにはあまり納得してもらえなかったかもしれません。
しかし、社会は「変えるもの」ではなく、「変わるもの」なのです。
そして社会は私も含めてみんなでつくっているものですから、たとえばその一部である私が「変われば」当然ながら私が変化した分だけ社会は間違いなく変わるのです。
その信念で私はこの30年生きてきています。
最近の私の活動を紹介しながら、こうした話をさせていただきましたが、そこにいろんな問題提起を含ませてもらいました。
たとえば、みんな「たこつぼ」生活をしていませんか。
たとえば、社会は「公と私」で構成されているわけではなく、もうひとつの社会があること。
たとえば、「コモンズ(共有地)の悲劇」は問題の捉え方が間違っていること。
たとえば、社会問題を各論的に解決しようとするところに問題があるのではないか。
たとえば、稼ぐこと(労働)と働くこと(仕事)は違うのではないか。
たとえば、働き方改革ではなく生き方を問いなすことが必要なのではないか。
たとえば、自分にできる「変える」対象は、自分だけではないのか。
そして、過去生や来世を想定して生きれば、子孫や先祖のことが視野に入ってきて、目先の私欲に惑わされるような生き方ができなくなるのではないか。
などなどです。
どれか一つにでも引っかかってもらえればと思いながら、全体としては、全体を起点に考える時代は終わり、個人を起点にした社会や組織を目指す時代が来たことを伝えたかったのです。
そしてそのためには、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと。
最後に私の未来の話とサロン以外の話もほんの少しだけ話させてもらいました。
これは私にはとても重要な話ですが、参加者には蛇足だったでしょう。
話し終わった後に3つの問いかけをさせてもらいました。
Q1:みなさんの仕事はなんですか? (稼ぐ労働のことではありません)
Q2:みなさんの一番の資産はなんですか? (お金だけが資産ではないです)
Q3:いま幸せですか? いつ幸せになるつもりですか? (明日はないかもしれません)
これに関して話し合ってほしかったのですが、むしろ違う話に転じてしまいました。
まあそれが湯島のサロンの特徴なのですが。
厳しい指摘も受けました。
内容が盛りだくさん過ぎて、受け止めにくかった。
佐藤さんは社会を変える意図はないのだと思った。
いずれも正しいですが、こういう発想をやめていこうというのが私の姿勢なのです。
簡単に言えば、一人称自動詞で生きようというのが私の信条です。
佐藤さんは犬型ではなく猫型だという人もいましたが、犬にもたぶん私型の犬もいるでしょう。
私は猫も犬も一括して捉えることができないのですが(血液型や国民性も私にはあまり受け入れられません)、犬も猫も、外国人も、それぞれに個性がありますので、そうした「個性」と付き合う生き方を大切にしています。
参加者の一人は、私のことを「我慢強い人」と言ってくれましたが、一方で、私は「わがままな人」だと言った人もいるような気がします。
たぶんいずれも、その人にとっては正しいでしょう。
でも私は、いずれでもないと思っています。
小学校時代の同級生の女性や会社時代の後輩から私に関するエピソードが紹介されました。
一つは私の悪い性格、一つは私の良い性格のようでしたが、いずれも私の記憶には全くない話でした。
人間の過去はどうも自分と他者とでは違うようです。
最後に、このサロンの報告は本人がまとめるのかと質問がありました。
サロン主催者としての責務であり特権かなと思っていましたので、「はい、私が自分に都合のよいようにまとめます」と答えましたが、参加者でもし報告をしてくれる人がいたら、もちろん大歓迎です。
まったく違った報告になるかもしれません。
それにしても長い私の話を我慢強く聞いて(読んで)くださったみなさんに感謝します。
なお当日の話はいつものように近藤さんが録画してくれましたので、メーリングリストのメンバーには公開させてもらうかもしれません。
そこにたぶんパワーポイントが出てきますので、お時間が許せば、それを見てもらえればと思います。
よほどお暇であればですが。
少なくともあと3年は湯島のサロンは続けたいと思っています。
まだ買っていないですが、明日にでもたぶん宝くじを買う予定なので、当たったら「みんなの喫茶店」を開いて、そこで最期を迎えたいと思っています。
葬儀を頼む人ももう決めました。
ちなみに言い忘れましたが、今回のサロンは熊本の宮田さんがわざわざ送ってくれたコスタリカのコーヒーでした。
宮田さん、ありがとうございました。
■官民一体となって原発輸出を進めてきた?(2018年12月18日)
三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。
社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。
「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。
「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm
ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。
官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。
「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。
官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。
■カフェサロン「人を大切にする経営」のお誘い(2018年12月19日)
個人と組織の関係を考えるサロンを今年も継続的に開催します。
今年最初のテーマは、昨年末の西精工の事例にもつなげる形で、「人を大切にする経営」を選びました。
問題提起して下さるのは、長年、「人を大切にする経営学会」のメンバーとして活動してきた桝谷光洋さんです。
桝谷さんは、IT系の会社の営業職として10年近く働いた後、元上司と一緒にネットサービスの企業を立ち上げました。
3.11を契機に、いろいろと思うことがあって、法政大学の社会人大学院に入り、「日本でいちばん大切にしたい会社」などの著書で評判の坂本光司教授の研究室で中小企業経営を学びながら、日本全国の企業視察や調査などを行ってきました。
視察した会社は約300社、企業調査した会社は約1000社。
数十名のゼミ生の一人として坂本先生との共著も7冊あります。
その間、いろいろと考えることが多かったようで、2018年3月に大学院は卒業し、現在は「人を大切にする経営学会」のメンバーとして活動しながら人生の方向を模索中です。
桝谷さんは、自らは会社経営の経験がないので、経営を語っていいのかとの迷いもあるようですが、経営者でないからこそ、見えるものも少なくありません。
いまもなお、生き方を模索しているようで、そのあたりも含めて、桝谷さんが一人称自動詞で語る「人を大切にする」とは何かにも、私は興味があります。
そんなわけで、今回は、「全国のいい会社に学ぶ〈人を大切にする経営〉とは」をテーマに、桝谷さんにお話をお聞きして、「人を大切にするとは何か」「経営とは何か」「働くとは何か」「会社とは何か」などを、自分の生き方につなげながら話し合えればと思っています。
会社関係者ではない人の参加も大歓迎です。
〇日時:2019年1月23日(水曜日)午後6時半〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「人を大切にする経営」
〇問題提起:桝谷光洋さん(いい会社アドバイザー:人を大切にする経営学会所会員)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■全国マイケアプラン・ネットワークの例会に参加させてもらって思ったこと(2018年12月20日)
先日、全国マイケアプラン・ネットワークの例会に参加させてもらいました。
私はメンバーではないのですが、立ち上げ時にささやかに応援をさせてもらいました。
このグループは、介護保険のケアプランを自分で作ろうという利用者と家族、および賛同者のネットワークですが、介護保険のケアプランを自分たち(要介護者や家族)で「自己作成」することを広げていこうと活動に長年取り組んでいます。
詳しい内容はホームページをご覧ください。
http://www.mycareplan-net.com/
ホームページにも書かれていますが、ケアプランづくりをケアマネジャーに任せるかどうかが一番の問題ではありません。
なにがなんでも「自己作成」というこだわりはないのですが、ただ自分たちの問題なのだからしっかりと当事者意識を持ってケアプランづくりに主体的に取り組もうということを大切にしているのです(私の解釈なので間違っているかもしれません)。
ですから、介護保険のケアプランというよりも、もっと広義な「ライフケアプラン」発想を広げていこうとしているのです(これも私の解釈なので間違っているかもしれません)。
私が関わらせてもらったのは、その立ち上げ時ですので、もう15年以上前です。
途中でも一度、研究会に参加させてもらったので、順調に進んでいるなと思っていました。
その時、私は「介護の社会化」は「介護の市場化」なのではないかと話させてもらいました。
久しぶりに例会で、現状の様子を実感しました。
あれ!っと思いました。
全国マイケアプラン・ネットワークのがんばりにもかかわらず、どうもあんまり状況は変わっていないような気がしたのです。
いやむしろますますおかしくなってきているのではないか、とさえ思いました。
全国マイケアプラン・ネットワークが、ではありません。
社会の動き、がです。
このグループは、私が考えている理想的なグループのひとつだったのですが、時代の大きな流れには勝てないのでしょうか。
ちょっと気分的にへこんでしまいました。
NPO活動について、改めてまた少し考えてみようと思います。
私にできることが見つかるかもしれません。
ちなみに、全国マイケアプラン・ネットワークの代表の島村さんたちが書いた「ケアプランを自分でたてるということ」という本があります。
私のホームページでも紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#100207
とても読みやすい本ですので、是非お読みください。
また例会には兵庫県からマイケアプラン研究会の北島さんも参加されていましたが、北島さんも「リアリズムの老後」(かもがわ出版)を出版されています。
副題が、「自分らしい介護とマイケアプラン」です。
またホームページでも紹介させてもらおうと思っています。
介護の問題は老後の話ではありません。
社会のあり様に繋がっている「みんなの問題」です。
来年、島村さんたちに湯島でサロンをお願いしようと思います。
まあ引き受けてくれるかどうかはわかりませんが。
■人がつながっていけば社会は変わっていくでしょう(2018年12月20日)
先日の私のサロン(「なぜ私は湯島でサロンをしているか」)の報告を読んだ、NPOファミリーステーション・SACHIの高橋雅栄さんからメールをもらいました。
もう15年ぶりほど前にサロンをしてくださった方です。
高橋さんは、長年、子育てサロンの活動を続けています。
ご自身の子育てを終わってからも、です。
以下、その内容の一部を紹介させてもらいます。
私の思いも、かなりの確率で佐藤さんに共感します。
特に、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと思っています。
というところは、私が今日みんなと語って来た主軸となるところです。
自分を生きることをママがやって見せることが子育てで、子どもは子どもの人生を生きるのだから、ああしろ、こうしろなんて必要ない。
親は言うほど偉いわけではないのに、親になったら子どもに指図するのが親だと思うのは違うと思う。
ましては、支援者の立場にある私たちは、もうただただ利用者さんの不安や、悩みに耳を傾けて必死で話を受け止めるのが務め。寄り添って、共感することが精一杯です。
の、はずです。
喜んで人さまの土台となる。
それが出来ない日は、利用者さんの側になって支えてもらえるからこのサロンを始めたんだよ、という話を今日の集まりでしてきました。
22年の子育てサロンの活動を通してエンパワメントされて元気になったママは2500組以上、年、市の出生数の10%の方が私たちと出会っています。
毎年新たに支援団体が生まれています。
元気になって、自分らしく生きる道を見いだして、起業した方は10組以上。
サロンにブースを出して、起業を考え中の方が15組います。
子育て支援の分野は、20?25年前には、子育て支援という概念すらなかったほどですが、今は、自治体が子育てサロンを運営しています。
私は、サロンで、社会はちょっとは変わるよなぁと思う一人です。
こうあるベキ!とか言って
何かと闘って生きるより
隣の人と知り合って、助けて!と言える関係を作った方が、子育てしながら自分らしく生きていくことが出来るなぁと思います
以上です。
こういう活動が少しずついま広がっていると思います。
社会はきっと変わっていくでしょう。
来世が楽しみです。
■ローラさんの辺野古基地に関する発言騒動(2018年12月23日)
タレントのローラさんが辺野古基地に関して発言したことが話題になっています。
今朝もテレビのワイドショーで、タレントたちが話題にしていましたが、こんなこと自体が話題になること自体が私にはおかしく感じます。
これに関しては、同じくタレントの高木美保さんの反応が、私の気持ちに一番合います。
ちょっと長いですが、ネットからの記事を引用させてもらいます。
そろそろ日本もやっぱり有名人とかね、芸能人とかの政治的発言はタブーっていう、その発想を変える時代なんじゃないかと。
つまり、インターネットで今回のもそうですけど、世界と繋がるわけですよね。「世界の中で、日本だけが鎖国状態になる考えかたでいていいのかな」と思うし。
政治的発言は別に「政治家を倒そう」とかいうことではなくて、「この国をよくしたい」それから「政治家にもよくなってもらいたい」…そういう純粋さを、私はローラさんから感じるんですね。
それから、ローラさんの今度の発言は「辺野古の自然を守りたい」っていうメッセージだけではなくて、もう1つの大事なメッセージとして「自分が勇気をもっていうべきこと、伝えたいことをちゃんと伝えようよ」「ハッピーに伝えようよ」って。
「それはとっても自分を強くするし、幸せな気分にするよ」っていうことを伝えているわけで、1つは環境のため、1つは生きかたを…パワーをみんなに注入してるっていうのかな。両方の…私は素晴らしさがあると思っていて。
私も同じように感じます。
もう一つ、共感した発言がありました。
爆笑問題の田中さんが、同席していたタレントのローラ発言批判に対して、「タレントの活動にはすべて何らかの政治性が含まれている」と明言しました。
これもまったく同感です。
私たちの日常の行為は、すべて政治に繋がっています。
同時に美しい海を残したいというローラさんの思いは、難しい理屈以上に大切なことだと思います。
政治の原点は、そういうところにこそ、置くべきだと私は思います。
芸能人は、芸能人である前に人間なのです。
立場上、自由にものが言えないなどということがあってはなりません。
それはすべて「言い訳」であって、誠実な生き方ではありません。
誠実であることの対象は、職務にではなく,人間としてでなくてはいけません。
タレントという言葉もは嫌いですが、まだ人間でいつづけている人がいて、ほっとします。
■カフェサロン「人はなぜ巡礼に向かうのか」の報告(2018年12月25日)
今年最後のサロンは、これまでも数回、湯島のサロンで巡礼の話をしてくれた鈴木章弘さんの「人はなぜ巡礼に向かうのか」でした。
いつもながらの心があったかくなるような話が満載でした。
鈴木さんが最近読んだエリザベス・ダンの「幸福学」には、幸福になる3条件として、「人との交わり」「親切」「目の前のことに集中」が挙げられていたそうですが、巡礼はそのすべてを満たしてくれると鈴木さんは言います。
「人との交わり」に関して言えば、巡礼は一人で歩いている人が多いので、お互いに声をかけやすいし、かけられやすいそうです。
それに、短時間のちょっとした話なのに、普段とは違って、素直に心に入ってくる。
鈴木さんによれば、巡礼で歩き出すと、いつもは閉じがちの心が開かれるのだそうです。
たった15分話しただけなのに、それぞれの国に帰国後、メールのやり取りで、数年後に会うことになった人も少なくないようです。
「親切」もたくさん経験できるようです。
それも、親切にされることはもちろん、どうも自らも親切しやすくなるようです。
無償の「お接待」を鈴木さんも受けていますが、たぶん鈴木さんも同じようなお接待を無意識のうちにしていることでしょう。
「目の前のことに集中」は、まさに巡礼での日常そのものだそうです。
次の宿を目指して、歩くことに専念し、雑念は消えていくようです。
これまでの巡礼で体験した、そうしたエピソードをいろいろ紹介してくれました。
つまりは、巡礼とは幸せそのものに身を浸すことのようです。
今回のサロンの鈴木さんのお話は、ユーチューブで公開させてもらうことにしました。
前半が鈴木さんのお話です。
https://youtu.be/3zgTyLTRK2Y
話し合いもいろいろありました。
東日本大震災の被災地に今も通っている参加者から、被災地でも巡礼での体験と同じような経験をすることが多いという発言がありました。
私も同じような体験をしたことがありますが、被災地もまた聖地になるのかもしれません。
「災害ユートピア」という状況も生じることもよく報告されています。
かつての農村にはそんな状況が残っていたような気がするという発言もありました。
話し合いもユーチューブに含めましたので、ご関心があればどうぞ。
ひとつだけ気がついたことを紹介します。
サンティアゴ巡礼は、目的地がサンティアゴ大聖堂と決まっています。
その途中にも教会や聖地はあるのでしょうが、基本は大聖堂に向かっての「道」を歩くことです。
それに対して、四国遍路は、各地のお寺をめぐることが目的です。
目的地を目指して歩き続ける巡礼と目的地を訪ね歩くことで満行となる巡礼。
その違いにちょっと興味を持ちました。
レジメに鈴木さんは、こんなことも書いていました。
巡礼者の精神を持つと人は変わるのではないか。
たとえば、「心が洗われ、身体から毒素が抜ける」「とらわれや思い込みに気づく」「笑顔になる、元気になる」「自分を再発見し、人生に新しい視座が生まれる」「内面が変わり、人生が変わる」というわけです。
たぶんこれは、鈴木さんの体験そのものなのでしょう。
最後に鈴木さんは、サンティアゴ巡礼の途中のスペインの教会におかれていた「巡礼への垂訓」に書かれていた文章を紹介してくれました。
「巡礼はコミュニティを生み出します。他者を受け入れるコミュニティを。他の人がどう旅路を歩いているかに興味を持つコミュニティを。お互いに与え、受けるコミュニティを」。
これを聞いて、ちょっと巡礼に出かけたくなりましたが、湯島は巡礼宿のようなものだから佐藤さんは巡礼に行かなくてもいいと言われました。
それに、行くべき人は自然と招かれるとも聞いたことがありますが、残念ながら私はまだ招かれていないのです。
招かれたら出かけるつもりですが、早く招かれないと体力が対応できなくなるかもしれません。
今生では招かれないかもしれませんが、今回、鈴木さんの話をお聞きして、巡礼者の精神を少しだけ分けてもらえました。
来年はいい年になるでしょう。
■年のはじめに(2019年1月1日)
今年もまた、気持ちのいい朝からのはじまりです。
屋上で初日を待っていた時には、寒くて体が震えそうでしたが、太陽が顔を出すと暖かさが伝わってきました。
朝の寒さが嘘のように、あたたかな1日になりそうです。
昨年は、いろんなことがありすぎて、心身ともにかなり疲れましたが、何とか乗り切って、いい年だったと言えそうでしたが、12月にパソコンがダウンし、データが消去し、何か自分の一部が失われたような気がして、めげてしまいました。
パソコンは直ったのですが、ソフトがうまく稼働せずに、大みそかは1日かかって頑張ったのですが、ホームページを更新できずに年を越えました。
したがって、この文章も、ホームページに掲載されるのは数日後になるでしょう。
大みそかにパソコンと格闘するのは、これで2度目です。
前回は、実はこのホームページをアップするための格闘でした。
12月に友人からホームページのスキームを教えてもらい、ソフトを購入して30日からホームページづくりに取り組み、大みそかの除夜の鐘が鳴りだしたころに、完全手づくりのホームページを立ち上げました。
以来、17年が経過しましたが、付け足しつけたしのホームページは整理したくても整理できないほどの複雑な構造になってしまい、自分でも何が書かれているのかわからないほどです。
しかも途中でプロバイダー側の事情変更などもあって、初期のものはかなり削除しましたので、ますますわからない世界になってしまいました。
まあそれはまさに私自身のあり様にもつながっている気がします。
昨年、喜寿を超え、現世のことはかなりわかってきた気がします。
わがままに生きても、さほどの則を超えることのないようになってきた気もします。
彼岸のこともそれなりに見えてきたようにも思います。
このまま、静かに第4期に入れるように考えていましたが、どうもそうはならないようになってきました。
昨年会った若い友人に、また刺激を受けてしまったのです。
困ったものですが、もう少し長い第3期を続けることになりそうです。
テーマは「死と生」です。
また、湯島のサロンに意味も、多くの人に理解してもらってきた気がします。
今年も湯島でサロンをつづるための元気も、たくさんもらいました。
今年も、週に1回をめどにサロンを続けていくつもりです。
見ず知らずの方も含めて、どなたでも歓迎のサロンです。
もし気が向いたら遊びに来てください。
湯島には、週の半分くらいは行こうと思っています。
オープンサロンでなくても、時間さえ合えば、だれでも歓迎です。
コーヒーしかお出しできませんが、お気軽にご連絡ください。
今日の青空はとても美しい。
この青空のように、澄んで暖かい社会を目指して、私ができることをしていこうと思います。
今年もまた自らに誠実に生きていこうと思います。
そろそろ初詣に出かけます。
■カフェサロン「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」のご案内(2019年1月5日)
今年も湯島では、有機野菜シリーズを開催していく予定ですが、今回はその番外編として、種子法廃止や遺伝子組み換え野菜の問題を取り上げることにしました。
霜里農場の金子友子さんに相談したら、話題提供者は吉田太郎さんがいいと即答されました。
個人的に20回近くもキューバに行った吉田さんのことは、これまでも友子さんからお聞きしていましたので、いつかキューバのサロンをお願いしたいと思っていたのですが、吉田さんはアグロエコロジストでもあり、最近は自らの大病を食生活で直した体験者でもあるということを、知りました。
昨年末に出版された吉田さんの「タネと内臓」(築地書館)も読ませてもらいました。
種子法や遺伝子組み換えにとどまらず、大きな問題提起がなされていました。
多くの人に読んでほしいのでまた改めて本の紹介はホームページでさせてもらう予定です。
「あとがき」の一文が心に響きました。
本書の内容は筆者が「書いた」というよりも、故人を含めて「いのち」を守りたい人々の「想い」がオートポイエティックな自己組織化によって編集されたものだと思いたい。
吉田さんの心身に宿ってしまった、そういう「想い」をサロンでお聞きしたいと思います。
本の「まえがき」の一説も紹介します。
いま、「タネ」が大企業に支配され、金儲けの道具にされようとしている。タネが失われれば農業は画一化する。農業生態系が画一化すれば害虫が発生し農薬が必要となってくる。農薬が散布されれば土壌細菌が死滅し、死んだ土からできた作物は栄養がない。カロリーだけのカスのような食べ物を口にしていれば腸内細菌も画一化して死滅する。そして、腸内細菌が死滅したときに内臓は…。そう。タネと内臓は直結するのだ。
「タネと内臓」の副題は、「有機野菜と腸内細菌が日本を変える」です。
種子法に関しては講演会や映画上映会なども広がっていますが、今回のサロンでは、ご自身も大病を食生活で克服した体験を踏まえての、生活目線からの「日本の野菜のタネ」の話をしてもらうことにしました。
吉田さんの心身に宿っているテーマは、多岐にわたっているし、聞きたいことはたくさんありますが、今回は吉田さんの「想い」のままに話してもらおうと思います。
サロンですので、もちろん話し合いを重視しますが、いつもよりは少し講演的なスタイルになると思います。
ちなみに、「タネと内臓」の副題は、「有機野菜と腸内細菌が日本を変える」です。
食と農に基本をおいて、広く深い論議が展開されています。
この分野での日本の立ち遅れや私たち生活者の無関心さに驚かされます。
同書をお読みになって参加してもらえると吉田さんの話も理解しやすいと思います。
決して読みやすい本ではありませんが、ぜひ頑張って読んでみてください。
たくさんの人たちに参加していただきたいサロンです。
それぞれで自分にできることをはじめる契機になればと思っています。
〇日時:2019年2月10日(日曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」
〇問題提起:吉田太郎さん(アグロエコロジスト/NAGANO食と農の会会員)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■「タネと内臓」(吉田太郎 築地書館 1600円)をお勧めします(2019年1月6日)
湯島のサロンで、種子法や遺伝子組み換えのサロンを開こうと思い、霜里農場の金子友子さんに話題提供者の相談をしました。
友子さんはすぐに吉田太郎さんがいいと即答され、吉田さんの新著を紹介されました。
読んでみて、世界では各地でいま、食の視点から農業が変わりだそうとしていることを知りました。
私が思っていたのとは逆の方向です。
諦めていたことが世界では始まっている。
子どもたちは救われるかもしれない。
ちょっと元気が出てきました。
早速に吉田さんにサロンをお願いしました(2月10日に開催予定)。
あわせてこの本を、多くの人に読んでほしくなりました。
本の内容は、同書の裏表紙に書かれている文章が簡潔で分かりやすいですので、ちょっと長いですが引用させてもらいます。
遺伝子組み換え大国アメリカはもちろん、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、ロシア、中国、韓国まで、世界中の母親や家族が、農薬漬けの農業を見直して種子を守り、農産物や加工食品の質を問い直す農政大転換が始まっている。
なぜ、日本だけ主要農産物種子法が廃止され、発がん物質として世界が忌避する農薬の食品への残留基準が規制緩和されていくのか、緩和の事実がなぜ日本の大手メディアでは報道されないのか。
世界の潮流に逆行する奇妙な日本の農政や食品安全政策に対して、タネと内臓の深いつながりへの気づきから、警笛を鳴らす。一人ひとりが日々実践できる問題解決への道筋を示す本。
ちなみに本書の副題は、「有機野菜と腸内細菌が日本を変える」です。
これは、吉田さんの体験を踏まえたメッセージでもあります。
吉田さんは、自らの大病を有機野菜で克服したのです。
ついでに同書の表表紙の文章も引用させてもらいます。
世界中で激増する肥満、アトピー、花粉症、学習障害、うつ病などが、腸内細菌の乱れにあることがわかってきている。けれども、日々私たちと子どもたちが口にする食べものが、善玉菌を殺し「腸活」の最大の障壁になっていることは意外と知られていない。
吉田さんも自らの病気を通して、そのことに気づき、食生活を変えることによって大病を克服したのです。
農と食、そして生命は深くつながっている。
そのことを多くの人に知ってもらいたくて、吉田さんは本書を書いたのでしょう。
本書には2つのメッセージが込められています。
一つは、世界でいま農政大転換が始まっているが、その主役は母親を中心とした普通の生活者たちだということ。
つまり、農政の変革は政治や専門家ではなく、生活者である私たちにこそ起こせるのだということです。
残念ながら日本ではそういう動きはまだ顕在化してきていません。
種子法が廃止され、遺伝子操作によって農業が変えられそうなのに、マスメディアも生活者もまだ大きな問題としてとらえていないということです。
でも逆に言えば、私たち生活者が動き出せば、農政は変わるということでもあります。
もう一つは、農政変革を待たずとも、それぞれの生活者でもできることがあるということ。
吉田さんは最後の「あとがき」で、その具体的な方法をていねいに説明しています。
本書の根底にはもう一つの大きなメッセージが流れています。
現在の工業型社会への懸念です。
それを抽象的にではなく、たとえば「生産性」や「経営」という概念がいかに偏った理解をされているか、というように具体的に語っています。
企業型農場が生産しているのは「農産物」ではなく「商品」だ、と吉田さんは書いていますが、農業とは何なのか、を根源的に問うているのです。
それは言うまでもなく、私たちの生き方への問いかけでもあります。
そしてそれが、たぶん前に書いた2つのメッセージにつながっているのです。
本書はそう簡単に読める本ではありませんが、そこに込められた吉田さんのメッセージは生々しく伝わってきます。
それをしっかりと受け止めて、まずは自分でできることをしっかりと実践していく。
そんな決意を起こさせてくれる本です。
多くの人に読んでいただきたくて、紹介させてもらいました。
2月10日には湯島で吉田さんのサロンを開きます。
本書を読んで、ぜひご参加ください。
■徴用工訴訟問題で思うこと(2019年1月11日)
徴用工訴訟問題がまた日韓関係を悪くしています。
この問題に関しては、いろんな意見や解決策はあるでしょうが、私にとっての関心は、「国家主権」と「三権分立」の問題です。
組織(社会)を統治するためには、最終的に責任をとるべき1点がなければいけません。
三権分立体制では、統治はできません。
三方三すくみになるからです。
組織活動を少しでもやったことのある人なら、そんなことは常識です。
統治には、主権を総括する立場が不可欠です。
最終的な意思決定は一つでなければいけません。
三権分立は統治概念ではなく、統治権力の運用のためのサブ概念です。
となると、三権の上にある統治権が問題になります。
三権分立概念によって、巧みに隠されている統治権を可視化するうえで、今回の韓国政府の対応は示唆に富んでいます。
いや、示唆に富むというよりも、隠されたヴェールをはがしてくれる契機というべきでしょうか。
日本の場合は、有名な砂川判決で、田中最高裁長官が、あまりにもお粗末に「日本版統治行為論」を論じました。
つまり、日本の統治権は米国にあることを露呈させたのです。
にもかかわらず日本では三権分立論から議論を進めることは、政治学者も憲法学者も取り組みませんでした。
そしていま、安倍首相が、司法や立法を超えた行政の長として自らを位置づけています。
三権分立議論で、時々、第4の権力存在(たとえば情報権)を提唱する人がいます。
それはそれでいいですが、問題はそこにあるわけではありません。
統治にとって一番大切なものは、「教育(情報と言語)」と「通貨(経済)」と「暴力」です。
それらはいずれも三権の下位概念に位置付けられていますが、私たちが三権分立が日本の最高の権力だと思い込んでいる(つまり統治権力の姿を機にしないでいる)のは教育と言語の結果であり、日々の行動は「通貨」と「暴力」の無意識な「意識」に呪縛されています。
そんなことを、私は文在寅大統領の記者会見で感じました。
■カフェサロン「沖縄の辺野古県民投票を考える」のご案内(2019年1月12日)
久しぶりにリンカーンクラブサロンを開催します。
テーマは、いま話題になっている沖縄県民投票を材料に、国民投票について考えたいと思います。
あわせて辺野古の問題もちょっとだけ、考えられればと思います。
リンカーンクラブは、できるだけ国民一人ひとりの意見が政治に反映する仕組みを目指しています。
そのためには、制度に期待するだけではなく、私たち一人ひとりが、政治に対する関心を高め、自らの意見をしっかり持って、できることに取り組んでいくことが大切です。
リンカーンクラブサロンは、そうした場のひとつのしたいと思っています。
今回の沖縄の住民投票は、さまざまな問題を示唆しています。
最近の新聞記事によれば、沖縄県の一部の自治体の首長は県民投票には協力しないことを明言していますが、住民も必ずしもみんな賛成ではないようです。
ある人は、「県民の分断を深める」県民投票には懐疑的だと言っています。
知人同士でも、酒が入ると言い合いになることがあり、「(投票すれば)本音だけがむき出しになり、県民がいがみ合う。こんな苦しみはうんざりだと言っている人もいるそうです。
私自身は、そうした発言そのものに大きな違和感がありますが。
県民投票をやるためには5億円以上もかかると言われていますが、菅官房長官は投票結果が工事に与える影響は「まったくない」と明言しており、政府が工事を止めることはないと思うと諦めている人もいて、「それなら、お金を福祉に回した方がいい。仮に投票が実施されても、行くつもりはない」という人もいると報道されています。
こうした考えにも、私は本末転倒を感じます。
さらに実際に県民投票をやるとなれば、実務は基礎自治体である市町村が担うことになりますが、そこで果たして公正な投票が行われるかどうかもわかりません。
こんなことを話し合いながら、国民投票(住民投票)というものを通して、「政治」について考えるサロンにできればと思っています。
政治こそ、私たちの生活を支える基盤です。
辺野古にも国民投票にも、まったく関心も知識ももっていなかった人も含めて、いろんな立場の人に気楽に参加してほしいと思っています。
私たち一人ひとりが変わらなければ、日本の政治も社会も変わっていかないのですから。
誰もが気楽に話し合えるサロンですので、どうぞ気楽にご参加ください。
〇日時:2019年1月26日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「沖縄の辺野古県民投票を考える」
辺野古基地に関する沖縄県民投票の住民や自治体の反応を材料に民主主義とは何かを考える。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■インド占星術の第1回目のサロンを開催しました(2019年1月13日)
昨日、ヴェーダ占星術師のKazue Kishori Chibaさんにお願いしたインド占星術の第1回目のサロンを開催しました。
ヴェーダはインド古来の知恵ですが、Kishoriさんは「生きる知恵」だと話してくれました。
「占星術」というと「占い」のような感じがしますが、「生きる知恵」が身につけば、過去も未来も見えてくるのがヴェーダの知恵なのかもしれません。
今回は、そうした「知恵」と「知識」の混同が参加者の中にあって、本論に入る前の質疑応答が少し多すぎてしまったのが残念でしたが、それでも多くのことを気づかせてもらえました。
このサロンのために、わざわざ富山から出てきた人もいて、その人は終わった後、来てよかったと言ってくれました。
1月17日(14時〜16時)に第2回目を開催します。
ヴェーダ占星術を知りたいという方は是非ご参加ください。
1回目に参加した方も参加されなかった方も、いずれも歓迎です。
単なる知識だけではなく、インドの聖地ブリンダーヴァンで1年の1/4を過ごしているKishoriさんの人柄に触れるだけでも、ヴェーダを感じられるかもしれません。
サロンの内容の報告は、2回目が終わった後、まとめて報告させてもらいます。
■カフェサロン「留学生の目からの来日前の日本、来日後の日本」の案内(2019年1月15日)
湯島のサロンの常連メンバーの太田篤さんは、日本への留学生の支援活動をされています。
そこで、太田さんにお願いして、日本に来ている留学生のみなさんが日本をどう感じているかを話題にしたサロンを開いてもらうことにしました。
太田さんが、2人の留学生に頼んでくれました。
温さん(韓国)とラッセルさん(スリランカ)です。
お2人には、日本に来る前の日本像と実際に来日して実感した日本の印象を話してもらうことにしました。
加えて、たくさんの留学生たちと長年触れ合ってきている太田さんには、受け入れ側の日本と留学生たちが、この数十年、どう変わってきているかを話してもらおうと思います。
私も25年近く前に、私費留学してきた人たちの交流サロンを湯島でやっていました。
留学生から聞く話は、意外なものが多かったのですが、一番驚いたのはせっかく日本に来たにもかかわらず日本が嫌いになって帰国する人が多いということでした。
異質な人との交流の中で、自らの見えなかった面が見えてくることは少なくありません。
日本の中で暮らしている私たちには気付いていないことを、違った社会で育ってきた人たちの体験から、気づかせてもらえるだろうと思います。
どんな話題が出てくるか、とても興味があります。
自分自身の生きている社会はどんな社会なのかを、ちょっと意識するサロンになればと思っています。
みなさんのご参加をお待ちします。
〇日時:2019年2月16日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「留学生の目からの来日前の日本、来日後の日本」
〇話題提供:温ビチャンさん(韓国)とJ.ラッセル(スリランカ)と太田篤さん
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■ようやく復活(2019年1月15日)
年末年始と思ってもいなかったことが続発で、かなり滅入っていました。
まだ立ち直れてはいないのですが、何とか心身が動き出せそうになってきました。
問題のひとつは、パソコンがほぼすべて壊れてしまったことです。
自宅のもオフィスのも、娘から借りたパソコンも。
さらに自宅のテレビとDVDがおかしくなりました。
もしかしたら私自身の電磁波システムが変調をきたしたのかもしれません。
まあ以前からテレビのアンテナをつなげなくても、私がいるとテレビが映ったりしていましたし、臨時に借りていたパソコンがパスワードでロックされていたのに、パスワードなしで入り込めたり、まあ電磁波がおかしく動いていることがありました。
最近、私自身、もしかしたら単なる電磁波体(つまりアンドロイド)ではないかなどと思うようになっているのですが、それが変調をきたしだしているわけです。
困ったものです。
まあそんなことはどうでもいいのですが、そんなわけでこの1か月、私が発するメールやネット投稿は「乱調」気味だったかもしれません。
ブログもあまりかけず、ホームページはかなりおかしくなってしまっていました。
幸いに今日から私の電磁波体も少し回復してきました。
今日と明日でたぶん正常に復帰します。
パソコンも友人のおかげで治りましたし、ブログも今日から復活します。
そんなわけで、遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
この1か月の亜空間への旅は、私の考えをまた少し変えてくれました。
今度お会いした時には、またちょっと変わった私になっているかもしれません。
■「人間の成長」とは「新たな働きかけをする人へ自分自身が変わること」(2019年1月17日)
昨年末、長年の友人の経営コンサルタント荻坂哲雄さんが湯島に来たのですが、その時に、昨年出版された新著『成長が「速い人」「遅い人」』(日本経済新聞出版社)を持ってきてくれました。
荻坂さんは、プロセス・コンサルティングの視点で、長年、組織開発に取り組んでいる、論理的な熱血漢のプロフェッショナルです。
これまでも何冊かの経営関係の書籍を出版していますが、その主張は、ご自身の実体験に基づいていますので、いずれも具体的かつ実践的です。
その荻坂さんが、「個人」の働き方支援に重点を置いてまとめたのが、本書です。
組織開発の出発点である個人の成長を支援しようというのが今回のテーマです。
荻坂さんは、「人間の成長」とは「新たな働きかけをする人へ自分自身が変わること」だと捉えています。
私にはとても共感できる捉え方です。
この捉え方に、荻坂さんの経営思想やコンサルティング理念が凝縮されています。
新たな働きかけをする人たちの集まった組織は、放っておいても生き生きと動き出す。
それこそが、荻坂さんの考える、個人を起点とした組織開発のポイントです。
しかし、実際には、新しい「働きかけ」をすることはそう簡単なことではありません。
組織の中にいると、さまざまな呪縛が「働きかける」ことの足かせになってしまうからです。
それを荻坂さんは「7つの悩み」にまとめています。
その悩みを解いてやるにはどうすればいいか。
それが本書で提唱されている「飛躍の7力(ななりき)」モデルという人間成長法です。
さまざまな現場で、さまざまな人たちと長年接してきた荻坂さんの体験知を体系化し、誰もが自分に合った「気づける力」を高める取り組みができるようにしたのが、このモデルです。
「飛躍の7力」とは、熱望力、実験力、修業力、結果力、体験力、盟友力、好転力です。耳新しい言葉もありますが、大切なことは、これらの7つの力が、相互に活かしあう関係でつながり、全体として循環している仕組みに気づくことです。
その仕組みを踏まえて、自分の得意な「力」から入っていけば、自然と無理なく、「飛躍の7力」を会得し、人間力が高まっていく。
本書では、その7つの力を高めていく方法が実践的に説明されています。
詳しい内容は本書をお読みください。
「飛躍の7力」モデルの出発点は「熱望力」になっています。
「熱望力」とは、「惹く力」だと荻坂さんはいいます。
仕事を通して、強く望んでいる「想い」や「感情」、それがさまざまなものを惹き付け、自らもまた惹き付けられていく、これこそが成長するための出発点だと。
いわゆる「志」といってもいいかもしれません。
しかし、「想い」は自らの中にあるだけでは大きくは膨らんでいきません。
「飛躍の7力」モデルの7番目は「好転力」。
「好転力」は、自らの目の前にある現実をよくする力だと荻原さんは言います。
人は自らが置かれた環境の中で、他者と関わりながら、現実を生きている。
同時に、自らの存在や生き方が、環境をつくりだしていく。
自分と環境(他者)は、一体であり、共進化関係にある。
つまり、自らの想いが現実をよくしていくことで自らが成長し、環境(会社)は成長していく。
それこそが、個人を起点にした組織開発であり、継続していく生きた組織づくりだというわけです。
「熱望力」から「好転力」に向けての「飛躍の7力」がどうつながり、どう循環していくかは、本書を読んでじっくりとお考えください。
本書はビジネスマンに向けて書かれた本ですが、会社の中での生き方にとどまるものではありません。
この「飛躍の7力」モデルは、生きる上でも大きな示唆を与えてくれます。
個人を起点とする社会や組織にしていくことを課題にしている私には、とても示唆に富■「人間の成長」とは「新たな働きかけをする人へ自分自身が変わること」(2019年1月17日)
昨年末、長年の友人の経営コンサルタント荻坂哲雄さんが湯島に来たのですが、その時に、昨年出版された新著『成長が「速い人」「遅い人」』(日本経済新聞出版社)を持ってきてくれました。
荻坂さんは、プロセス・コンサルティングの視点で、長年、組織開発に取り組んでいる、論理的な熱血漢のプロフェッショナルです。
これまでも何冊かの経営関係の書籍を出版していますが、その主張は、ご自身の実体験に基づいていますので、いずれも具体的かつ実践的です。
その荻坂さんが、「個人」の働き方支援に重点を置いてまとめたのが、本書です。
組織開発の出発点である個人の成長を支援しようというのが今回のテーマです。
荻坂さんは、「人間の成長」とは「新たな働きかけをする人へ自分自身が変わること」だと捉えています。
私にはとても共感できる捉え方です。
この捉え方に、荻坂さんの経営思想やコンサルティング理念が凝縮されています。
新たな働きかけをする人たちの集まった組織は、放っておいても生き生きと動き出す。
それこそが、荻坂さんの考える、個人を起点とした組織開発のポイントです。
しかし、実際には、新しい「働きかけ」をすることはそう簡単なことではありません。
組織の中にいると、さまざまな呪縛が「働きかける」ことの足かせになってしまうからです。
それを荻坂さんは「7つの悩み」にまとめています。
その悩みを解いてやるにはどうすればいいか。
それが本書で提唱されている「飛躍の7力(ななりき)」モデルという人間成長法です。
さまざまな現場で、さまざまな人たちと長年接してきた荻坂さんの体験知を体系化し、誰もが自分に合った「気づける力」を高める取り組みができるようにしたのが、このモデルです。
「飛躍の7力」とは、熱望力、実験力、修業力、結果力、体験力、盟友力、好転力です。耳新しい言葉もありますが、大切なことは、これらの7つの力が、相互に活かしあう関係でつながり、全体として循環している仕組みに気づくことです。
その仕組みを踏まえて、自分の得意な「力」から入っていけば、自然と無理なく、「飛躍の7力」を会得し、人間力が高まっていく。
本書では、その7つの力を高めていく方法が実践的に説明されています。
詳しい内容は本書をお読みください。
「飛躍の7力」モデルの出発点は「熱望力」になっています。
「熱望力」とは、「惹く力」だと荻坂さんはいいます。
仕事を通して、強く望んでいる「想い」や「感情」、それがさまざまなものを惹き付け、自らもまた惹き付けられていく、これこそが成長するための出発点だと。
いわゆる「志」といってもいいかもしれません。
しかし、「想い」は自らの中にあるだけでは大きくは膨らんでいきません。
「飛躍の7力」モデルの7番目は「好転力」。
「好転力」は、自らの目の前にある現実をよくする力だと荻原さんは言います。
人は自らが置かれた環境の中で、他者と関わりながら、現実を生きている。
同時に、自らの存在や生き方が、環境をつくりだしていく。
自分と環境(他者)は、一体であり、共進化関係にある。
つまり、自らの想いが現実をよくしていくことで自らが成長し、環境(会社)は成長していく。
それこそが、個人を起点にした組織開発であり、継続していく生きた組織づくりだというわけです。
「熱望力」から「好転力」に向けての「飛躍の7力」がどうつながり、どう循環していくかは、本書を読んでじっくりとお考えください。
本書はビジネスマンに向けて書かれた本ですが、会社の中での生き方にとどまるものではありません。
この「飛躍の7力」モデルは、生きる上でも大きな示唆を与えてくれます。
個人を起点とする社会や組織にしていくことを課題にしている私には、とても示唆に富む本です。
企業人にはもちろん、社会を豊かにしていきたいと思っている人にも、お勧めします。
もし本書を読んでもう少し議論を深めたいという方が複数いらっしゃったら、荻坂さんもお呼びして、読書会的サロンを企画します。
本を読まれて、関心を持たれた方は私にご連絡ください。
■カフェサロン「対話で感得するインド占星術」の報告(2019年1月18日)
ヴェーダ占星術師のKishori(千葉和江)さんにお願いした「インド占星術」のサロンを、2回にわたって開催してもらいましたが、合計で25人を超える参加者がありました。
インド占星術への関心の高さに驚きました。
私はいずれにも参加しましたが、全く違った雰囲気のサロンになりました。
もちろん基本となるヴェーダの話は共通していましたが、参加者と一緒に場を創り出すというKishoriさんのおかげで、私にはまったくと言っていいほど違ったサロンでした。
1回目のサロンでは、ヴェーダそのものに関する疑問から始まったために、なかなかヴェーダの中身にはたどりつけませんでしたが、Kishoriさんによれば、それもまた必然的なことだったのかもしれません。
参加者のおひとりも同じような感想を送ってきてくれました。
2回目のサロンでは、ヴェーダの内容を中心に、魂の精神世界と心身の物質世界を分けて、とても具体的に、ヴェーダの世界観や死生観を話してくれました。
2回目のサロンでも終了後、Kishoriさんのセッションに以前から参加されている方が、Kishoriさんと参加者とのやり取りで理解が深まったといってくださいましたが、話し合うことの大切さを改めて感じさせてもらいました。
いずれの回でも、Kishoriさんはヴェーダとは「生きる知恵」「人類の操作マニュアルのようなもの」と最初に話されました。
大きな違いは、2回目は、最初にヴェーダの聖典の一つのサンスクリット版の「バガヴァッド・ギータ」の一節をKishoriさんが朗誦することから始めたことです。
その朗誦で、場の雰囲気が変わりました。
ヴェーダの前提には、魂の存在がありますが、「魂」の話も素直に聞ける状況が生まれたのです。
音(波動)の持つ大きな力を感じました。
Kishoriさんのお話をきわめて簡単にまとめると、私たちは、宇宙に遍満する「大きな魂」から生まれた「小さな魂」が、心と体という衣服を装った存在であり、それが故に、「間違い」や「幻想」から自由になれず、他者をだます傾向を持ち、感覚も不安定になってしまう、そこから解放されるための知恵がヴェーダにはある、というのです。
私の勝手な要約ですので、いささかの不正確さはお許しください。
ヴェーダの世界では、人の根源のことを知りたかったらヴェーダに聞け、という言葉もあるそうです。
どうしたら生きやすくなるか。
そこから、カルマ(因果)や輪廻、集合意識や阿頼耶識、死の意味、人の成長(人間存在の4段階)、徳と愛などの話題も出ました。
もちろん占星術、ホロスコープの話も出ました。
中途半端な報告は誤解を招きそうなので、私からの報告はこれでやめますが、Kishoriさんはご自分でのセッションも開いていますので、ヴェーダやホロスコープに関心のある方はKishoriさんにアクセスしてください。
Kishoriさんのフェイスブックは次にあります。
https://www.facebook.com/kishori.dasijapan
湯島のサロンでは、アーユルヴェーダのお話をしてもらったことがありますが、ヴェーダそのもののサロンは初めてです。
ヴェーダは宗教的な側面と哲学的な側面を持っていますが、哲学というと私たちはついつい古代ギリシアを思い出します。
しかし、インドのヴェーダには、神話的な人間的要素があって、それよりも古層の哲学を感じます。
死や生を考える、いろんな材料があったような気がします。
Kishoriさんは、とてもいいサロンだったので、また話をしたいとおっしゃってくれました。
ヴェーダ占星術師のKishoriさんの使命は、大きな魂(バガヴァン/クリシュナ)の知恵を多くの人に広げていくことなのだそうです。
そして他者にできるだけ喜んでもらう。
Kishoriさんは、毎回、手づくりのお菓子を参加者のために持ってきてくださいました。
そしてどんなぶしつけな質問にも、笑みを絶やさずに、応じてくれました。
毎年、3か月ほど、インドの聖地ヴリンダーヴァンで、魂を浄化しているからでしょうか。
私は、そこにヴェーダの本質を感じました。
機会があれ、またヴェーダサロンをお願いしようと思います。
Kishoriさんに叱られそうな報告で済みません。
■これからの葬儀について考える検討会のご案内(2019年1月20日)
今日はいつもとちょっと違う集まりのご案内です。
これまで何回か、湯島のサロンでは「死」や「葬儀」、「看取り」についてのサロンを開催してきました。
昨年は、長年そうした活動に取り組まれてきた僧侶でもある中下大樹さんに湯島でサロンをやってもらいましたが、中下さんから「死を消費する社会」から「死を活かす社会」に向けての新しい事業を起こしていきたいという相談がありました。
私も長年、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けての活動(コムケア活動)に取り組んできましたが、さまざまな問題の根っこには、社会のあり方や私たちの生き方の問題があり、そのさらに奥には死の捉え方があると思うようになってきていました。
そこで中下さんと一緒に、死を要にして生を考えていくような社会に向けての新しいプロジェクトを起こせないかとこの半年議論してきました。
そして、中下さんが現在実際に取り組んでいる「葬儀」事業に取り組みながら、実践的に構想を具現化していくことになりました。
葬儀といっても、これまでの延長上の葬儀ではなく、「死を活かす社会」を目指したお葬式のあり方や供養のあり方、さらには「幸せな死」を目指す生き方の支援も意識しながら、新しい葬送文化を創り出すようなことを考えています。
しかし一挙には飛べないので、現実的な葬儀にも取り組みながら、いろんな人たちの知恵や思いも踏まえながら、ゆっくりと進めていこうと思っています。
しかし2人だけで考えていてもなかなか前には進めません。
それに、新しい葬送文化を構想する以上、できるだけさまざまな視点を取り込んでいかねばいけません。
そこで現在の段階で私たちが行きついた事業構想をお話しさせていただき、それをベースに、みなさんから、ご意見をいただき、実際の葬儀にも取り組みながら、思いをご一緒できるみなさんと一緒に、実践を積み重ねながら構想を形にしていくという方法をとることにしました。
私たちの思いはまだ十分に練られているわけではありませんが、構想が「絵に描いた餅」にならないように、ともかく一歩踏み出そうと決意した次第です。
そんなわけで、下記の通り、2月1日(金曜日)の午後と夜の2回にわたり、私たちの事業構想を材料にした「これからの葬儀」について自由に話し合う会を企画いたしました。
自分はこんな葬儀をしたいとか、死に向けてこんな生き方をしたい、あるいは遺された者として、こんなことがあったらいいと思っている、など、いろんなお話もお聞きできればと思っています。
もしご関心を持っていただけるようであれば、いずれかの回にご参加いただければと思います。
〇日時:2019年2月1日(金曜日)午後2時〜4時/6時〜8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○進め方
最初に私たちから30分ほど話をさせていただき、それを踏まえて参加者のみなさんからご意見をいただき話し合えればと思っています。
〇主催:有限会社コムケアセンター(中下大樹・佐藤修)
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「坊言サロン」の報告(2019年1月20日)
お寺の掲示板に書かれている「言葉」(それを西坂さんは「坊言」と命名しました)を話題にする「坊言サロン」は、意外なことに私を入れて4人のこじんまりしたサロンになりました。
しかし、そのおかげでいつもとは違って、じっくりと話し合えました(かなり脱線はしましたが)。
もう一つ意外だったのは、「坊言」メッセージを掲示しているお寺は多くないということです。
私も、自分の菩提寺も含めて、4つのお寺を回りましたが、メッセージを出していたお寺はありませんでした。
最初に西坂さんから、本で紹介された「坊言」を中心に、「坊言」を出したご住職の想いなどの紹介がありました。
またどうして西坂さんが「坊言」コレクションを始めたのか、そしてそこから何を感じたかなどのお話もしてもらいました。
「坊言」からお寺の実情や世相が見えてくるなどとは言いませんが、そうしたことを考える材料はいくつかあったように思います。
西坂さんによれば、人間関係に関する「坊言」が多いようですが、参加者が共感した「坊言」を2つ紹介します。
「一人でいると孤独感 二人でいると劣等感 三人でいると疎外感」
これは広島県福山市の光林寺の掲示物にあったものですが、実にうなづけます。
もう一つ、
「仲間を作ることは 必ず仲間外れを作ることであります(玉光順正)」
これは、本明寺(東京都墨田区)にあったものだそうですが、玉光順正さんの言葉のようです。
西坂さんのコレクションではありませんが、今回参加できなかった方から寄せられた「坊言」も話題になりました。
「隣のレジは早い」
遠州、森の自得院にあったものだそうです。
ほかにも、西坂さんからいろんな「坊言」のお話がありましたが、考えさせられるも、笑えてしまうものも、誤解しそうなものも、いろいろとありました。
キリスト教の教会にも、箴言が掲示されていることは多いですが、そうしたものに比べると実に人間的で、心にひびいてきます。
最近では、生活とお寺の距離は少し遠くなってしまいましたが、お寺と生活をつなぐとてもいいメディアのような気がしてきました。
昔は、こうしたお寺の「坊言」が、地域社会の住む人たちに大きな影響を与えていたのかもしれません。
最近のお寺は、こういうところに力を入れる余裕がなくなってきているのかもしれません。
でもせっかくの「屋外広告板」を活かしていないのはちょっともったいないなと思いました。
もしお近くで、ちょっと気になる「坊言」に出会ったら、坊言集「きみはそのままでいいんじゃないか」の著者の西坂さんにぜひ連絡してやってください。
■カフェサロン「人を大切にする経営とは」(2019年1月28日)
個人と組織の関係をテーマにしたサロンは、坂本研究室で長年調査活動に関わっていた桝谷さんに「人を大切にする経営」をテーマにお話しいただきました。
桝谷さんの誠実さがあふれるようなサロンでした(この表現は参加者の杉本泰治さんの言葉です)。
桝谷さんは、3つの代表的な企業の話をしてくれた上で、「経営とは〈やり方〉ではなく〈あり方〉だ」といいます。
そして、「会社は、関わる全ての人の永遠の幸せを追求するためにある」というのです。
〈やり方〉ではなく〈あり方〉。
「人と会社」あるいは「人と人」の関わり方のなかにこそ、経営の本質が見えてくる。
小手先の技術ではなく、会社そのものの現実にこそ経営があらわれている、ということでしょう。
私もいくつかの会社の経営に関わらせてもらってきましたが、会社というのは、現場で働いている人たちの表情をしっかりとみていれば、ほぼすべてのことがわかります。
有価証券報告書などの資料や雑誌や新聞などの紹介記事からはなかなか見えてきません。
桝谷さんはまた〈需要〉と〈供給〉に関して興味ある指摘をしました。
ケインズ流にのっとった一般の経営の考え方では「企業の成長は貨幣的な裏付けのある〈有効需要〉」を獲得することを目指すが、いい会社の共通項は「〈供給〉を重視している」というのです。
つまり、顧客が欲しがるいい製品・いいサービスといった〈有効な供給〉を作り出せば顧客は必ず見つかるというのです。
この発想の違いを、改めてしっかりと考えることはとても大切のような気がします。
桝谷さんは、企業とは5つの業からなる生命体だといいます。
「環境適応業」「市場創造業」「幸せ創造業」「人財育成業」「社会貢献業」。
ちょっと未整理な気もしますが、いずれにしろ企業はさまざまな顔を思っています。
経済的機関であるととも、社会的機関・文化的機関であることは間違いない事実です。
少なくとも会社が生み出しているのは経済的な金銭利益だけではないことは大切な視点です。
そしてさらに言えば、多くの人間がそこで多くの時間を過ごす場でもあります。
そうした企業の持つ多義性をもっと重視していくことはますます大切になっていくはずです。
「新しい経営のモノサシ」につなげて、「人を大切にする経営学会」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などの紹介の後、桝谷さんは「人を大切にする経営」を広めることは、人々の幸せを作り出し成熟した日本へ向かっていくための推進力になるはずだと締めくくりました。
いろんな意味で共感します。
ところで、「人を大切にする経営」とが話題になるのは、現在の会社経営においては人があまり大切にされていないことを示唆しているといってもいいでしょう。
さらにいえば、人を大切にしなくても成り立つ経営があるということです。
ほとんどの人はそんなことに疑問を持たないかもしれません。
しかし、組織の主役は常に人です。
人の力を活かしていくための制度が会社であるならば、経営の基本は本来、人を活かすということ、つまり〈大切〉にするということです。
実はこの問題は、「経営」とは何か「会社」とは何かにつながっていくのです。
今回は、そこまでは議論は進みませんでしたが、今回の桝谷さんのお話をベースに、そのパート2として、そのあたりの議論を深めるサロンしてみようかと思います。
話したい方がいたらご連絡ください。
今回のサロンも、桝谷さんと近藤さんの協力を得て、公開させてもらうことにしました。
https://youtu.be/Etau9Pnvz5M
■カフェサロン「沖縄の辺野古県民投票を考える」報告(2019年1月29日)
沖縄県民投票を材料にしたサロンは、5人の集まりになりました。
県民投票にしても、辺野古問題にしても、もっとたくさんの人が集まると期待していましたが、結局はいつもの常連のメンバーでした。
風邪気味で体調がよくなかったのですが、関心を持っている人があまりに少ないことを知って、一挙に風邪が悪化してしまった気がします。
以来、まだ立ち直れていません。
困ったものです。
沖縄住民投票に関しては、添付の新聞記事を読んでもらいそれに関しての意見交換をしたかったのですが、これもあんまり盛り上がりませんでした。
私の気になった点を紹介しておきます。
・投票すること自体への住民の不安が大きいことに問題の本質があるのではないか。
・考えていることで差別される社会の未熟さが相変わらず変わっていない。
・国と都道府県と基礎自治体という3つの政府の関係の複雑さに何かが隠されてしまっている。
・基地問題より「お金を福祉に回した方がよい」という民の福祉観への疑問。
・辺野古以外でもいろいろと基地をめぐる問題が起こっているが、それさえも分断されている。
・県民投票結果が無視されるということへのあきらめ(行政への不信感)。
・県民投票結果は工事に関して全く『影響はない』と言い切る政府官房長官の異常さ。
・生活と政治とは別物という政治観の広がり。
・この問題は沖縄だけではなく全国で国民投票すべきではないか。
それに合わせて、こうしたことから見えてくる「統治権」と「統治行為」の関係も問題提起させてもらいました。
しかしこれも不発に終わったので、これに関しては改めてサロンを開催したいと思います。
国民主権である以上、統治権と国民意思をしっかりとつなぐ仕組みがなければいけませんが、国民意思を代表することになっている「国会」には統治権はありません。
あるのは「立法権」です。
ではだれに統治権はあるのか。
そのあたりが見えなくなっているところに大きな問題がありますが、誰も大きな問題にしません。
最近は米軍こそがかつての天皇に代わっての統治者ではないかという話が出てきていますが、統治者が見えない状況での政治は気持ちがよくありません。
そろそろ「政治のパラダイム」を変えなくてはいけません。
しかし、統治者への関心は今回の参加者にはあまりありませんでした。
というわけで、今回のサロンは「不発」に終わりました。
体調を整えて、リベンジしたいと思っています。
ちなみ昨日また、辺野古では新たな埋め立てが始まりました。
辺野に新基地は多分完成しないでしょうが、残念なことに環境破壊は修復できません。
後悔はいつも先に立ちません。
■カフェサロン「ケアプランって知っていますか? マイケアプランが18年間言い続けてきた思い」報告(2019年1月30日)
全国マイケアプラン・ネットワークは、介護保険のケアプランは自分で考えようという活動に取り組んでいる人たちのグループです。
介護保険発足当初から、制度的にも認められている「ケアプラン」の「自己作成」を提唱してきましたが、なかなか自己作成は広がりません。
行政やケアマネジャーのいう通りに「ケアプラン」をつくり、それに従ってしまう人が多いからです。
なぜなのか。
18年間活動を続けてきた島村さんのお話から、日本の福祉政策の実情や日本人の福祉に対する意識が見えてきます。
島村さんは、また「措置」の時代に戻ってきているような気さえするといいます。
お話を聞いて私の気分はちょっと重くなってしまいました。
なんとかしなければいけません。
そもそも「ケアプラン」の捉え方に問題があるのかもしれません。
介護の世界では、「ケアプラン」というと介護保険の利用計画のことですが、本来はもっと大きな意味で捉えられなければいけません。
それぞれの人本来のケアプラン(ライフプラン)があって、その一部を介護保険制度の利用で対処すると考えるべきでしょうが、なぜか日本では介護保険中心の「ケアプラン」発想が強いのです。
言い換えれば「制度に合わせたケアプラン」ということになりやすい。
島村さんがこうした活動に取り組む契機になったのは、お義父様の介護です。
まだ介護保険制度がなかった時代です。
島村さんは、活用できる地域資源を探しまくったそうです。
そして、地域にはケアに役立つさまざまな地域資源(たとえば、福祉制度はもちろん、病院や福祉施設からコンビニの配食制度やカラオケなどの施設まで)がたくさんあることに気づきます。
人のつながりも大切な地域資源でしょう。
そうした地域の制度・資源をとことん使って誰も犠牲にならない介護を目指したのです。
その後、介護保険制度ができたのですが、まさにそれは島村さんがお義父さんの時に求めていたものと一緒でした。
お義母さんの時の介護は、自らがケアプランを作成し、介護保険制度もうまく活用しての介護に取り組まれたそうです。
独自の工夫も取り込みました。
たとえば、40年間地域で暮らし、井戸端会議を日課としてきた義母の暮らしに合わせて、島村さんは自宅前にベンチを置き近所の人との井戸端会議の場とし、そこで義母流デイサービスを行っていたそうです。
大切なのは、その人らしい暮らしが続けられること。
介護制度の既存サービスになければ創り出せばいい。
しかし、自己選択・自己決定・自己負担という「利用者主体」の介護保険制度は、その後、その内容を進化させてきているのか。
どこか違うものになってきてしまったような気がします。
「ケアプラン」の主役となるはずの「利用者」が、制度のお客様になってしまっていることが、その一因かもしれません。
しかも、その制度は予算の関係で、内容が次第に制約されてきてしまっているのです。
「制度」の枠の中で「ケアプラン」を考えていれば、制度の規模縮小に伴って、ケアも次第に縮小されてしまうことになりかねない。
暮らしを中心に考えていかないと、そういうおかしなことが起こりうる。
介護保険制度は、ケアを支える仕組みの一部でしかないのです。
制度に依存するのではなく、制度を活かしていける自らのケアプラン意識を持つことが、介護保険制度を活かしていく上では不可欠です。
それがないと、「措置される福祉の受益者」に終わってしまいかねません。
制度をよくしていこうという視点は、そこからは生まれにくい。
福祉の実態もよくなっていかない。
自分で、ケアプランを立てることは、暮らしの棚卸作業だといいます。
そして、それに基づいて、自分らしい暮らし方を考えることこと、制度にあてはめられたケアプランではなく自分らしく生きるケアプランが実現できる。
みんながそうやって、自らのケアプランを真剣に考えていかなければ、日本の福祉は「昔のような「措置制度」に戻ってしまいかねない。
私が今回、一番強く感じたことは、そういう危機感でしたが、それに関して詳しく書きすぎてしまいました。
島村さんは、ケアプランの話はもちろん、「自己作成の方法」「マイケアプランを実践するためのヒント」などに関しても、わかりやすく説明してくれました。
実際にケアプランを自己作成してわかったことも、紹介してくれました。
ケアプランに関して、「目から鱗だった」と感想をくれた人もいます。
知っているようで、知らないケアプランに関しては、ぜひ多くの人に、介護に直面する前からきちんと知っておいてほしいと思います。
そうしたことは、全国マイケアプラン・ネットワークの講演会やワークショップにぜひ参加してほしいですし、もし何人かが集まって話を聞きたいといえば、島村さんたちのことですから、きっと話に来てくれるでしょう。
いやそのまえに、全国マイケアプラン・ネットワークのホームページを見てもらえば、たくさんの情報がありますし、ケアプランづくりを支援するツールも紹介されていますので、それを参照してください。
また、サロンの映像記録も後日公開する予定です。
ケアや福祉についてのとても大切な問題提起がたくさん込められていたサロンでした。
そして私たち一人ひとりの生き方への、重い問いかけもあったような気がします。
ほんのごく一部しか、島村さんのメッセージをお伝えできないのが残念です。
■日馬富士が断髪しながら貴ノ岩に語りかけていたのを見て幸せになりました(2019年2月3日)
昨日、貴ノ岩の断髪式が行われましたが、その様子をテレビでみました。
今朝の新聞にも出ていましたが、日馬富士が断髪しながら貴ノ岩に語りかけていたのが、印象的でした。
その様子を見て、この問題でずっと気になっていたことがスーッと消えていくような気がしました。
日馬富士と貴ノ岩の人間関係が壊れるはずがないと思っていたのです。
2人とも私は面識もありませんが、とてもうれしい映像でした。
この事件が起きた時に、私が思ったのは「文化の違い」でした。
昨年は、スポーツ界の不祥事がたくさん報じられましたが、すべては「文化の違い」が大きく影響しているように思います。
それが、周辺の人たちによって、違いの修復ではなく違いの増幅が進められ問題化されてしまう。
そして誰もが気持ち良い解決に向かわずに、問題も何一つ解決しない。 そういう気持ちが強まっていたのです。
そうした「文化の違い」に対して、大きな歴史の流れは「寛容」になってきているとばかり思っていたのですが、最近の動きを見ると、むしろ逆に「寛容さ」を失ってきているように思います。
そして、その違いも、どんどん「表層」の違いに目が行き出している。
「文化の違い」の根底にある、人間性にはなかなか目が向かない。
そこに目が向けば、違いはほとんどが克服されると私は思っています。
そして、「文化の違い」を活かしあう形で、人間性を豊かにしていくはずです。
私は湯島で毎週のようにサロンをやっていますが、それは「寛容さ」を育てるために、異質な世界と触れ合う場を広げようという思いがあるからです。
前に、ある平和の集会でも話させてもらいましたが、それが私の「平和活動」なのです。
さまざまな立場や考えに触れることによって、私自身はかなり世界を広げ、その結果として、私が共感できなかったり理解できなかったりしていることにも、かなり許容できるようになってきていると思っています。
時々、ストレスを強く感じることはありますが。
貴ノ岩の断髪式の話に戻ります。
非常に象徴的だったのは、日馬富士と貴ノ岩の笑顔と貴乃花の断髪式欠席です。
そこに私は、「文化の違い」と「人間性」を改めて感じたのです。
そもそも日馬富士と貴ノ岩の「事件」は、モンゴル出身の日本力士の世界の「文化」と、貴乃花の世界の「文化」の「ずれ」の話だと思っていました。
問題が「事件化」する前に、2人は仲直りしていました。
同じ文化のなかでの解決がすべて良い訳ではないでしょうが、文化はそうした苦い体験も重ねながら豊かになっていく。
貴ノ岩の頭のけががテレビで映し出されましたので、驚いた人もいたかもしれませんが、私の経験から言って、大したけがではないと思いましたし、日馬富士に「悪意」などあろうはずがないとも思っていました。
それに関しては、当時もブログで書きました。
私が一番気になっていたのは、二重の意味で異郷の文化の中でお互いに頑張ってきた日馬富士と貴ノ岩の関係でした。
ですから今回の映像は、とてもうれしいものでした。
「暴力」があまりに悪役になっています。 「暴力」の捉え方は、「文化」によって大きく違います。
「暴力」そのものがもし悪いのであれば、「暴力」を「制度的に独占」している国家は、悪の権化になってしまいます。
「暴力」とは何かということも大切な問題です。
最近も、小学生の子供が父親の「暴力」で命を落としてしまいましたが、彼女の悲痛な訴えを聞きながら、あろうことかそのことを父親に教えてしまった教育委員会の職員の行為は、私には父親以上に悪質な「暴力」だと思います。
もちろん個人攻撃をしたいわけではなく、彼もまた大きな暴力の装置になかに投げ込まれていたと言ってもいい。
うすうす事情を知っていた周辺の人たちの行為も私には「暴力」に感じられます。
もっと言い換えれば、子どもたちの世界を取り囲んでいる、多くの暴力装置(例えば学校制度)も気になります。
ヨハン・ガルトゥングは「構造的暴力」という言葉も使いながら、暴力を捉えていますが、私も「構造的暴力」こそが問題だと思っています。
ただ、直接的な暴力を認めているわけではありません。
私も心情的にはガンジーの非暴力・不服従の思想に共感しますし、いささか極端とはいえ、アーミッシュの生活にもあこがれがあります。
あそこまで、人を強くする宗教には、違う意味での「暴力性」も感じない訳ではありませんが。
ただその一方で、自らの中にある「暴力性」も否定できずにいます。
したがって、「暴力絶対否定論者」には違和感があります。
「いずれにしろ暴力は許せない」という言葉から始まる、事件の解説者には全く共感できません。
その一言にも、私は「暴力性」と「観察者目線」を感ずるからです。
それに暴力は絶対許せないと言えるほど、私には自信がありません。
話がまとまらなくなってきましたが、ともかく昨日の日馬富士と貴ノ岩のツーショットは、私にはとてもうれしいシーンでした。
そのシーンを見たおかげで、長引いていた風邪が昨日で治りました。
それだけを書きたかったのですが、話が広がってしまいました。
ちなみに、最近のテレビのニュースは、見ていてどんどん気が萎えていく話が多すぎます。
そんなニュースはやめて、もっと元気が出る話題や事件を流してほしいです。
テレビ界の人たちは、みんなきっと「不幸な人生」を歩んでいるのでしょが、ちょっと視点を変えると、世の中には、「いい話」もたくさんありますよ。
暗い話ばかり追いかけていると、病気になりますよ。
■移民と移住(2019年2月3日)
昨日と今日とで、録画していたテレビ番組ETV特集「移住50年目の乗船名簿」をまとめて観ました。
この番組のディレクターの山浦さんから、昨年、この番組にこだわっている相田洋さんの話と南米取材で訪問した弓場農場の話を聞いていたので、とても関心を持っていました。
相田さんは、1968年の最初の同行取材以来、10年ごとに移住者の取材を重ねてきたそうです。
今回のシリーズ作品は、その集大成でもあります。
番組は楽しみにして、今年初めに放映された予告編も見ていたのですが、どうもしっかりと観る覚悟ができませんでした。
特に最近は心身がどうもしっかりしていなかったので、先延ばししてきたのです。
覚悟がいると思っていたのは、移民に対する私のイメージがあまり良いものではなかったからです。
一時期、「棄民」という言葉が流行しましたが、私にも海外への集団移住には「棄民」というイメージが深く重なってしまっていました。
南米移民された方に直接お会いしたことは、私にも一度だけありますが、その体験も、私のなかでは「棄民」イメージが定着してしまっていたのです。
私が「移住者」にお会いしたのは、1980年代初めのサンパウロでした。
3週間ほど南米を旅行した時に、成功した移民2世の方のご自宅でのパーティに参加させてもらったのです。
今回の番組にも出てきましたが、牛一頭が丸焼きにされて供されるような豪勢なパーティでした。
移住者の方と直接ゆっくりと話し合う機会はありませんでした。
その翌日、今度は全く別の場所で、同行者の知り合いの、ちょっと苦労した移住者の家族の方をお見かけしました。
同行者のところに訪ねてきたのですが、私は軽くあいさつを交わさせてもらっただけでした。
その方はお聞きした年齢とは思えぬ感じで、いかに苦労してきたのかが想像できました。
大豪邸の成功者と苦労を重ねた方は、立場も見た目もまったく対照的でしたが、私にはいずれにも、なんとなくの「哀しさ」を感じました。
その頃から「移民」という言葉がどうにも馴染めませんでした。
そういうこともあったので、この番組を見るのは気が重かったのです。
4本続けて番組を見ました。
気が抜けるほど、素直に観ることができました。
覚悟など必要なかったのです。
そこにあるのは、どこにでもあるだろう、山あり谷ありの多様な人生でした。
念のために言えば、面白くなかったということではありません。
まったく逆です。
50年にわたって、一人のディレクターが人(個人の生活)に焦点を当てて取材を続けていることのすごさを感じたのです。
最近の「いかにも」というドキュメントとは全く違っています。
50年にわたり、それぞれの人生にしっかりと関わってきている相田さんの目線が、極めて日常的なのです。
それぞれには、言葉にできないようなさまざまな物語があったでしょうが、50年を超える長さの中で、おかしなドラマ仕立てではなく、生きることを冷静に考える示唆の詰まった大きな物語になっているのです。
人生は、苦もあれば楽もある。
そのことが実に素直に伝わってくるのです。
人生とはどこにいてもこんなものなのだと、奇妙に納得できたのが、私の感想です。
私の「移民」観は一変しました。
「移民」と「移住」との違いにも気づかされました。
外から見たら「移民」かもしれませんが、当事者は「移住」だというような、当然のことにさえ気づかなかった。
制度的な移民であっても、そこにいるのは「移民者」ではなく「移住者」です。
私はこれまで、あまりに「移民」という視点で考えすぎていたために、どうも考え違いしていたような気がします。
これは何も、移民だけの話ではありません。
たぶん多くの問題において、「移民的発想」で私は歴史を捉えていたのかもしれません。
そんなことを気づかせてくれた番組でした。
もちろんそれ以外にも、私たちの生き方を考えるうえで、たくさんのヒントやメッセージのある番組でした。
ちなみに、第4回で採りあげられている弓場農場の話はいずれまたドキュメント番組になるでしょう。
もし放映されることになったら、ぜひ皆さん、観てください。
まだまだ未来にも人間にも可能性があると思えるようになりました。
■統治行為と統治権(2019年2月8日)
昨日は久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田さんと「統治行為と統治権」について激論をしました。
いま武田さんが、この問題を論考し、まとめているのです。
武田さんは、小林直樹さんの「憲法講義」を議論の一つの材料にしていますが、小林直樹さんは私が学生時代、しっかりと講義を聞いた数少ない教授です。
ちょうど私が大学に入ったころに、この「憲法講義」の原型がテキストになりました(当時はまだ上巻だけでした)。
大学時代のテキストはほぼすべて廃棄しましたが、3冊だけ捨てずにまだ持っている本がありますが、その1冊がその「憲法講義」です。
そこに、統治行為に関する短い指摘がありますが、残念ながら「統治権」への明確な言及は見当たりません。
私は三権分立が統治の基本的な枠組みだと、学んでしまいました。
しかし、実際に会社に入り、社会の仕組みが少しずつわかってくるにつけ、三権分立では統治はできないということに気づきました。
三権分立は「仕組み」ですから、その上に「意志」がなければいけません。
国民主権という概念も理念であって、統治の精神でしかないことも気づきました。
さらに言えば、古代ギリシアが民主主義であるはずがないことにも気づきました。
デモクラシーを民主主義と訳したのが基本的な間違いだったように思います。
デモクラシーと民主主義は違うものだということは、リンカーンクラブでご一緒した政治学者の阿部斉さんに気づかせてもらいました。
砂川判決は、統治の構造を露呈してくれました。
高度な政治性を有する問題は、三権分立には馴染まないとして、司法の対象から外したのです。
言い替えれば、司法とは権力に抗うのではなく、権力に加担するということを明らかにしたわけです。
同じように、安全保障の意味もかなり可視化してくれました。
しかしその後も、言うまでもなく憲法学者や法学者は統治権を隠そうと頑張りました。
学者とは基本的に権力に加担するのがミッションですから、それは仕方がありません。
悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。
統治とは、本来は「高度の政治性」が主舞台です。
それを見えなくしているのが、「近代国家」かもしれません。
そうしたことが最近どんどん見え出してきています。
それが露呈しだしたのは、小泉政権だったと思います。
露呈というよりも、開き直りといったほうがいいかもしれません。
それがその後、どんどん加速され、見えない統治権者のために政治はどんどん劣化しました。
嘘が見逃され、嘘が正道になり、よりどころのない政治が広がりだしました。
小泉さんは自民党を壊したのではなく、日本の政治(社会)を壊したのです。
小泉さんにも悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。
統治権という概念とその正体については、最近、在野のジャーナリストや一部の政治学者が広く発言しだしました。
しかし長きにわたって見えない統治者に依存する生き方に慣れてしまうと、構造が見えてもそれに抗う気が、私も含めて国民にはなかなか起きてきません。
言い換えれば、みんな「国民」に育てられてしまったのです。
ではどうすればいいか。
武田さんは今日から温泉宿に缶詰めになって、論考をまとめるそうです。
その論考がまとまったら、湯島でサロンを開いてもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
■心愛ちゃんと結愛ちゃん(2019年2月8日)
また子供の命が奪われました。
しかもたくさんの人たちが、かかわりながら。
これは、それこそ「氷山の一角」でしょう。
昔から幼児虐待はあったという人もいますが、やはり「社会の壊れ」を感じます。
先日、海外の子どもたちの悲惨さを何とかしたいと言っている若い女性に会いましたが、日本の子どもの悲惨さはなかなか見えてこないようです。
今回の報道に関しても、非常に特異な事件のような報道が行われている気がしますが、その特異性を報道するよりも、その日常性を報道してほしいと思います。
これでもかこれでもかと、その「異常さ」の報道に触れていると、みている方の感覚がおかしくなってきかねません。
最近のテレビのニュースは、国民洗脳プログラムが組み込まれてしまっているような気がしてなりません。
最近のニュースや事件解説番組を、私は、最近見られなくなってきています。
それにニュースというよりも、オールズと言ってもいいほど、同じようなものが繰り返し(段々詳細に)報道されますし。
子ども現場で今何が起きているかを、もっと日常的なシーンで、可視化することの方が大切なような気がします。
ところで、今回の野田市の被害者は「心愛」ちゃんでした。
昨年3月に目黒で起きた事件の被害者は「結愛」ちゃんでした。
いずれの名前にも「愛」という文字が入っている。
生まれた時には、両親の「愛」に包まれていたはずです。
それがなぜ悲惨な事件へとつながったのか。
こういう事件が起こると、いつも、両親が責められます。
確かに両親の行動には許しがたいものがある。
しかし、その一方で、心愛ちゃんも結愛ちゃんもきっと両親を愛していたと思います。
2人がいちばん頼りにしていたのも、もしかしたら両親だったかもしれません。
そう思うとなおさら心が痛みます。
両親も子どもを愛していたはずです。
育児放棄しているわけではないからです。
観察者的に両親を責めることはだれにもできます。
しかし、事件を起こした両親たちと自分が全く無縁な存在だと思うほどの自信は私にはありません。
もちろん親子関係だけの話をしているわけではありません。
たとえば、以前起こった津久井やまゆり園の事件や繰り返し発生している高齢者福祉施設の死亡事件。
そうした事件と自らの生き方のつながりを意識するくらいの想像力は持ちたいものです。
質すべきは他者ではなく、自らです。
高齢者施設や外国人のための施設、あるいはごみ焼却場や墓地が自宅近くにできることへの反対運動はいまも残念ながら起こっています。
騒音が生活を乱す基地は沖縄住民に負担してもらい、その沖縄で観光を楽しもうという生き方であれば、私もそれに加担しているとしか言えません。
そういう生き方が、結果として子どもの虐待につながっているのかもしれません。
特異な事件の加害者を非難することで、自らを防衛し正当化する生き方にはどうしても私は与しえません。
最近のテレビの報道を見ていると、放送者やコメンテーターは、私とはまったく別の世界の人だなと思わざるを得ません。
世間から脱落して30年が経ちました。
最近、ようやく脱落できたと少しずつ思えるようになりました。
実際には今も少し世間やお金にも未練があって、心が揺れることはあるのですが、心愛ちゃんや結愛ちゃんの純真な生き方からもっと学ばねばいけないと思っています。
彼女たちは、最後まで逃げませんでした。
心が時々揺れる自分が恥ずかしい気がします。
事件は評論するためのものではなく、自らの生き方を質してくれるもの。
そう思っています。
■カフェサロン「国民主権と統治行為論」のお誘い(2019年2月8日)
今月のリンカーンクラブサロンは、統治行為論をテーマに国民主権の問題を考えます。
日本では、1959年の「砂川事件」最高判決で、「国家統治の基本に関する高度な政治性」を有する国家の行為に関しては、司法の対象にはしないという方針が出されました。
この判決に関しては、その後、日米両政府からの圧力があったことが明らかになりましたが、このいわゆる「統治行為論」はその後の日本の政治の方向を定めたと言ってもいいでしょう。
そして、その判決とその後の日本の政治の展開から、いろいろなことが明確になってきています。
私は学校では、政治は、立法・行政・司法の三権分立の枠組みで行われると学んできましたが、そもそも三権分立では本来的な「統治」はできません。
実際に何かを実行するためには、三権分立の上位の権限、あるいは決定者が必要になります。
国民主権の政治体制は、決定者は「国民」という建てつけになっているわけですので、日本の統治行為論では、国民の代表から構成される立法がその役割を果たすことになっています。
しかし、もしそうであれば、国民の意思が「高度な政治性を持つ国家行為」の判断に関して、しっかりと反映される、ルーティンではない仕組みがなければいけません。
しかし、これまでそうした議論はあまり行われていないように思います。
武田さんは、それはおかしいと言っています。
そして単に批判するだけではなく、実践的な解決策を提案しています。
今回は、それを改めて紹介してもらい、みんなで話し合って、その具現化を話し合えればと思います。
できればそれに加えて統治権という問題を少し考えてみたいと思います。
こう書くとかなり難しい話に感じられるかもしれませんが、要は大事な問題に関してこそ、私たち国民一人ひとりの意思が反映される仕組みを考えるという、極めて基本的な問題を話し合おうということです。
ですから、武田さんの提案について、知識ベースで議論するというよりも、生活感覚で話し合いができればと思っていますので、どなたでも気楽に参加していただければと思っています。
ちょっと気おくれしてしまうようなタイトルですが、どうぞ気楽にご参加ください。
〇日時:2019年2月23日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「国民主権と統治行為論」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」の報告(2019年2月12日)
「タネと内臓」(築地書館)の著者、吉田太郎さんのサロンには、有機農業に取り組んでいる霜里農場関係者も含めて、20人を超える参加者がありました。
新潟からわざわざ参加してくれた方もいます。
食の安全性に関する生活者の関心の高さがわかりますが、昨今の日本の状況を見ると、政府やマスコミの関心はどうも真反対の方向を向いているのではないかと、改めて気づかされたサロンでした。
吉田さんのお話は、なんと4億年前のデボン紀からはじまり、人類の未来にまでわたる長い時間の中で、いまの私たちの食の問題を、さまざまな話題を通して、わかりやすく、面白く、解説してくれました。
詳しい内容はとても紹介しきれませんが、たとえばこんな話題が出ました。
いまの食生活だと、あの知的で精悍だったホモ・サピエンスは太った豚のように進化していくのではないか、
遺伝子組み換えのコーンは、「カス」どころか、いまや「毒」といってもいい。
究極のデドックスは腸内細菌だ。
私たちが毎日食べている食べものが、体内の善玉菌を殺し、その腸内細菌の活動を抑えてきている。
土中微生物を消滅させる除草剤グリホサートは、世界的には追放されつつあるが、そうした動きも含めて、日本ではあまり報道されず、今も使われている。
ヨーロッパでは、地域と地球の生態系維持を目指すアグロエコロジーが広がっており、公共調達で取得する食材の6割を有機農産物にしなければならないことがルール化された。デンマークなどでは学校給食は有機野菜と決められている。
国連でも、2014年に「国際家族農業年」宣言をし、小規模な家族農業を重視する呼びかけを行っている。
日本ではメディアは、こうした問題をほとんどとり上げない。
世界各地で、子どもたちにまともなものを食べさせたいという母親たちの動きが社会を変えつつある。
アメリカ人は、食生活も大きな理由になって、短命になり、不妊になってきている。
ちょっと私の拡大解釈や誤解があるかもしれませんが、これはほんの一部です。
そして最後は、マネーでは幸せになれないという話や贈与経済の話にまでいきました。
興味のある方は、ぜひ吉田さんの著書「タネと内臓」をお読みください。
こうした状況にどう対処したらいいか(これに関しても吉田さんは話の中で言及されました)ということも含めて、話し合いが行われました。
食育活動に取り組んでいる参加者の方が、有機野菜とそうでない野菜を比べると栄養価が全く違うという話をしてくれました。
要は、量的には同じでも生命にとっての価値は全く違うというわけです。
栄養価や美味しさ基準で価格を評価したら、有機野菜のほうがずっと割安になるのですが、今の経済システムでは有機野菜は高いと思われてしまうわけです。
有機野菜はなぜ高いのかということに関しては、霜里農場の金子友子さんは流通の問題が大きいと言います。
生産者と消費者とを結ぶ活動をしている方も参加していましたが、有機野菜がもっと広がっていけば、価格問題はむしろ有機野菜のほうにとって有利になることは十分考えられます。
工業型生産野菜を主軸にしていこうという、現在の農政や経済政策を見直すことで、変えられる問題かもしれません。
価格だけではなく、味覚の問題も話題になりました。
有機のおいしい野菜を食べたら、味覚が戻ってくるという人もいますが、最近の子どもたちの味覚はもしかしたら、不可逆的に変わりつつあるのかもしれません。
急いで取り組むべき問題だと思いますが、日本では一部の母親たちを除いて、ほとんど無関心です。
せめて学校給食を変えていかなければいけません。
いずれにしろ、私たちは食やそれを支える農への関心をもっと高め、知識を増やしていくことが大切です。
吉田さんは、種子法廃止に関連して、長野県で「長野県主要農作物等種子条例(仮称)」制定の動きが出てきていることも紹介してくれました。
こうした伝統野菜を守ろうという動きが、これから広がっていくことが期待されます。
長野には「信州の伝統野菜」という制度もあるそうですが、行政に限らず市民活動として、その土地の中で育ってきた「地の野菜」を守ろうという動きも各地で始まってきています。
食を守るのは、やはり住民や市民が主役でなければいけません。
そのためにも、このテーマは引き続き、サロンで話し合えればと思っています。
話題(問題)提起したい方がいたら、ぜひご連絡ください。
霜里農場の友子さんが完全有機のイチゴとケーキを、柏のすぎのファームの杉野さんがなしジュースと食用ひまわり油とそれを塗って食べるためのフランスパンを持ってきてくれました。
いずれもとてもおいしかったです。
私の味覚はまだ、辛うじて大丈夫かもしれません。
最後にいささかの暴言を。
今回のサロンを聞いていて、私は、日本の政府が、少子化を促進していると改めて感じました。
表面的には、「少子化対策」を表明していますが、実際に行っているのは「少子化推進」ではないのか。
これは少子化に限りません。
認知症の問題にもささやかに関わっていますが、政府は認知症を増やしたいと思っているようにしか思えません。
これはかなりいじけた私の暴言ですが。
■「認知症になってもだいじょうぶ!」(藤田和子)をお勧めします(2019年2月12日)
2年ほど前に出版された本なのですが、やはり多くの人に読んでほしいと思い、改めて紹介させてもらうことにしました。
書名に「認知症」とありますが、それにこだわらずに、さまざまな人に読んでほしい。
読むときっと世界が広がり、生きやすくなる、そう思ったからです。
もちろん認知症に関わっている人には、たくさんの学びがあることは言うまでもありませんが。
本書は、看護師であり、認知症の義母を介護し看取った経験もある藤田和子さんが、45歳でアルツハイマー病と診断されてからの10年間の自らの経験をベースに、「認知症になってもだいじょうぶな社会」をつくっていこうと呼びかけた本です。
最初読んだときは、「認知症」という文字に呪縛されてしまい気づかなかったのですが、今回改めて読ませてもらったら、本書は社会のあり方や私たちの生き方へのメッセージの書だと気づきました。
藤田さんは本書の中で、「人権問題としての『認知症問題』」と書いています。
ここで語られているのは、認知症になっても大丈夫な生き方だけではなく、たとえ認知症になっても快適に暮らせるような社会を実現するための私たち一人ひとりの生き方です。
認知症とは無縁だと思っている人もふくめて、多くの人に読んでほしい本です。
私は20年ほど前から、「誰もが気持ちよく暮らせる社会」を目指す「コムケア活動」に、個人としてささやかに取り組んでいます。
そこで一番大事にしているのは、「個人の尊厳の尊重」ということです。
「ケア」も、「一方的な行為」ではなく「双方向に働き合う関係」と捉えてきました。
最近では、マニュアル的な押し付けケアではなく、当事者個人の思いを起点にした生活全体に視野を広げた地域(生活)包括ケアという発想が広がりだしていますが、それはまさに「誰もが気持ちよく暮らせる社会」につながっていくと思っています。
誰もが気持ちよく、という意味は、障害を意識しないですむようなという意味です。
もちろん「認知症」や「高齢化」も、障害にはならない社会です。
テレビなどで、2025年には「高齢者の5人に1人が認知症」などという顧客創造情報が盛んに流れていますが、そうしたことには私は全く関心がありません。
しかし、コムケア活動の流れの中で、「みんなの認知症予防ゲーム」を通して、社会に笑顔を広げていこうというプロジェクトには参加させてもらっています。
その集まりで、私はいつも、私自身は認知症予防よりも認知症になっても気持ちよく暮らせていける社会のほうを目指したい、そして自分でもそうなるように生きていると発言しています。
藤田さんのいう「認知症になってもだいじょうぶな社会」をつくるのは、たぶん私たち一人ひとりです。
そう思って、自分でできることに取り組んでいますが、本書を読んで、とても元気づけられました。
藤田さんは、盛んに書いています。
「一人の人として関わり続けてくれる人がたくさんいれば、孤立することはありません」
「私には、アルツハイマー病になってもこれまでどおり関わってくれる友人が何人かいます。ありがたいなあと思っています。私のことを一人の人として見てくれていると実感しています」
「より多くの人と出会い、多くの頼れる人とつながっていると、人生を豊かにする可能性が広がっていくと思うのです」
大切なのは、いろんな人との支え合うつながりを育てていくということです。
藤田さんは、そういう人たちを「パートナー」と呼んでいるようです。
藤田さんが呼びかけていることはもう一つあります。
自分らしく生きること、そのためにはしっかりと社会に関わっていくこと。
パターン化された「認知症になってからの人生ルート」などに従ってはいけない。
もし、「認知症の人への偏見が自分らしく生きることを妨げている」のであれば、他人任せにするのではなく、そうした偏見のあやまちを身を持って示していく。
そのためにも、自分らしい生き方を大事にすることが大切だと藤田さんは言います。
そして、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と主張しなければいけない。
心から共感します。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」とみんなが言い出せば、社会はきっと豊かになっていきます。
本書で語られている藤田さんのメッセージには、ハッとさせられることが多かったのですが、とりわけ次の言葉はハッとさせられました。
「私自身、アルツハイマー病だった義母を9年間介護してきて、その大変さは身に染みて体験しています。けれども今はアルツハイマー病の患者本人としての立場で、介護者だったときにはわからなかった『本人の世界』をわかってもらいたいと思います」
これは、ケア活動で、ついつい陥りやすい落とし穴です。
当事者でなければわからないことがある。
相手のためと思っていることが、相手を押さえつけることにならないように注意しなければいけません。
本書は、藤田さんの素直な生活感覚が語られているので、とても読みやすい。
人の生き方として共感できることも多いです。
藤田さんが「幸せ」なのは、ご自分を誠実に生きているからでしょう。
藤田さんは、認知症に関する世間の偏見をなくしていきたいとも言っています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。
「認知症への偏見を持ったままでは本人も周囲の人も、そして、社会全体が不幸せになるのだと思います。正しい理解を広めることができるのは、認知症の人、一人一人なのではと思います。ですから、自分の体験を世間に伝えることで、「これから認知症になる人々が早い段階で自分自身を理解し、自分の周りにいる人々とともにより良く生活できる工夫の必要性を考えることができるようになると思います」
「正しい理解を広めることができるのは、認知症の人、一人一人」、心に響きます。
藤田さんは、「本書が、アルツハイマー病とともに生きている私から、これから認知症になるかもしれない皆さんとそのパートナーになる方々へのヒントになるとうれしい」と書いていますが、本書にはたくさんのヒントがあります。
ぜひ多くの人たちに本書を読んでいただきたいです。
たくさんのことに気づかせてくれる本です。
この本を紹介してくれた島村さんに感謝します。
■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」のお誘い(2019年2月15日)
矢辺卓哉さんと出会ったのは、矢辺さんが大学生の時でした。
障害のある人たちの働く会社を立ち上げたいという思いで、経営学を学んでいました。
当時私が取り組んでいた「コムケア活動」も手伝ってくれていましたが、時々、矢辺さんとは「ノーマライゼーション」だとか障害者の働く仕組みづくりとか、あるいは「経営とは何か」などをよく話し合っていたのを思いだします。
とても行動的な、明るい若者でした。
大学を卒業後、障害を持つ人の雇用を支援する会社に入社、時々その話もお聞きしていました。
社会に出ても矢辺さんの考えはぶれることなく、その後、みずから会社を起業し、しばらく東京で活動していましたが、数年前に故郷の鳥取県米子市に戻りました。
なぜ戻ったのかについてはっきりと聞いたことはないのですが、私には意外なことではありませんでした。
以来、付き合いはほとんどありませんでした。
その矢辺さんから東京に行くという連絡がきたので、サロンをしてもらうことにしました。
彼はとても「純」に自分を生きている若者ですから、彼が今の時代をどう感じ、どう生きているかに関心があったのです。
東京で起業し、今は鳥取で会社代表を務めるとともに、別の会社の平社員も兼務しているという、事業家の矢辺さん(まだ30代です)には、私には見えていないことがたくさん見えているはずですから。
タイトルは、「東京で感じたこと、米子で見えたこと」にさせてもらいました。
何を話すかは矢辺さんに一任しました。
30〜40分ほど話してもらい、その後はみんなで話し合えればと思います。
矢辺さんはフェイスブックをしていますが、その自己紹介に、「好きな食べもの:あなたや家族と一緒に食べる食事すべて」と書いています。
食は生き方の基本ですが、この言葉に矢辺さんの「人となり」が象徴されています。
どんな話に展開していくかはわかりませんが、いつもとはちょっと違ったサロンになればと思っています。
そのためにも、若い世代の人たちにもたくさん参加してもらいたいです。
もちろん、若くない世代の人も歓迎です。
若者から学ぶことはたくさんありますので。
〇日時:2019年3月8日(金曜日)午後6時半〜8時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提供:矢辺卓哉さん(平社員と社長を兼業しているソーシャル・アントレプレナー)
〇テーマ:「東京で感じたこと、米子で見えたこと」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「万葉集の多様性ー古代和歌の魅力」のご案内(2019年2月16日)
新しいスタイルのサロンを始めます。
以前やっていた、「ちょっと知的なサロン」の発展形の一つです。
単発ではなく、ちょっと学習会的な要素も入れて、シリーズ展開します。
その第一弾は、カルチャーセンターでやっているような「万葉集入門」の、カジュアル参加型版です。
カルチャーセンターとちょっと違うのは、講師と参加者の関係を仲間関係にすることです。
講師は、昭和女子大学元教授の升田淑子さんですが、このサロンでは、元教授であることはみんな忘れて、現研究者として講師役をつとめてもらいます。
万葉集の名前は知っているけれど、読んだことはない、という方も大歓迎です。
ちょっとゼミ気分も味わえるようにもしたいと思っています。
ですから、万葉集に関してこんなテーマでひそかに研究しているという人がいたら、それもまた大歓迎で、そういう人には発表の場もつくります。
このサロンに触発されて、新たにテーマを設定して研究したいという人が生まれてきたら、升田さんにアドバイザーになってもらいます。
希望者による「奈良万葉の旅」も企画する予定です。
今回はそうしたことの予告も兼ねての、キックオフサロンです。
升田さんに、「万葉集の多様性ー古代和歌の魅力」を語ってもらい、その後、連続企画している「升田万葉集サロン」の紹介をしてもらいます。
連続サロンの内容は、参加者のみなさんの希望を含めて、方向づけたいと思います。
隔月くらいの開催を予定していますが、継続参加できる人をコアにして、公開で開催します。
万葉集など学んでも、何の役にも立たないなというような現在の社会風潮を変えていこう、などという意図は全くないのですが、何かが生まれるかもしれないと、ひそかに楽しみにしています。
一味違う湯島サロンに、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年3月23日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「万葉集の多様性ー古代和歌の魅力」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■カフェサロン「留学生の目からの来日前の日本、来日後の日本」の報告(2019年2月17日)
留学生支援企業協力推進協会の太田さんにお願いして「留学生は日本をどう感じているだろうか」というサロンを開催しました。
最初に、太田さんがなぜ留学生支援に取り組んだかという話をされた後、韓国の温ビチャンさんとスリランカのJ.ラッセルさんからお話をお聞きしました。
関心のある人が多いようで、12人の参加者がありました。
留学生のふたりはいずれも、日本に来て、日本が以前より好きになったようですし、日本での留学生活にはあまり不満はないようでした。
ただ、来日前と来日後の印象は大きく変わったようです。
温さんは、学校教育の中で、日本のイメージをつくっていましたので、日本にはあまりいい感じを持っていなかったのですが、日本に来てイメージが変わったといいます。
特に感心したのは、日本では世界中の書物が翻訳されていて図書館でそれが読めるということだったようです。
そこに日本の強さの理由とこれからの可能性を感じたといいます。
これは意外と日本人は認識していないことかもしれません。
ラッセルさんが日本に来たいと思った理由は2つあったそうです。
小さなころから父親が日本をほめていたこととテレビの「おしん」の影響でした。
そこで日本への留学を決めたのですが、来日して、「おしん」の日本との違いに驚いたそうです。
「おしん」の世界はなくなっていましたが、今の日本も生活しやすく、別の意味での日本の良さも実感してもらっているようです。
ふたりとも来日して、日本がますます好きになったそうです。
参加者から、不満はないのかと何回か質問がでましたが、2人とも不満はないといいます。
日本の批判をすることへの遠慮があったのかもしれませんが、基本的には日本のファンになったようです。
ただ、ラッセルさんは今年卒業して日本で就職しますが、昨年の就職活動ではちょっと苦労したようで、その過程でちょっと違った日本も感じているようです。
来年日本で就職予定の温さんがどう感ずるかは興味深いです。
おふたりの話を聞いた後、質疑中心に自由に話し合いました。
家族関係の話、学校教育の話、経済的豊かさと生活の豊かさの話、便利さの話、政治の話…。
韓国は儒教の国であり、スリランカは仏教の国です。
いずれも「家族」を大切にしている国です。
そうした視点からは、どうも日本の「家族」のイメージにはちょっと違和感があるそうです。
スリランカでは、親は子どもの生活への関心が高いようですが、日本の場合、親は子どもの生活にあまり関心がないのではないかとラッセルさんは感じているようです。
コミュニケーションの問題もでました。
ラッセルさんは、日本には自動販売機が多いが、あれも人とのコミュニケーションの機会を奪っているという話をしました。
買い物は、お金の世界と人のつながりを育てる世界をつなげていく場ですが、ラッセルさんの指摘はとても大切な視点を気づかせてくれました。
私はもう長いこと、自動販売機は利用していませんが、コミュニケーションの視点で考えたことはありませんでした。
温さんは韓国の現代の話もしました。
日本人はあまりに現代史に無関心ではないかという指摘とも受け取れます。
温さんは、政治学を専攻されていますので、地政学的な話もされました。
この話は、できれば改めて温さんに頼んでサロンをしてもらいたいと思っています。
プレゼンテーションの仕方や内容も、国柄を感じさせました。
参加者の反応も、日本の実相を感じさせて興味深かったです。
お2人の話を聞いて、私は留学生に見える日本の姿と実際の日本の姿のギャップを感じました。
日本の表層だけではなく、便利さや豊かさや安全さの裏にあるさまざまな問題の現場にも触れる機会を留学生には持ってほしいと思いました。
留学生は、基本的には、学校と住まいとアルバイト職場を通して、日本と触れていますが、概して恵まれた環境で日本と接しています。
留学生ではなく、働きに来ている外国の人たちの話も聞きたくなりました。
どなたかそういう人を紹介してくれないでしょうか。
お2人は、サロンの場ではまだ十分に本音が出せなかったかもしれません。
終了後、有志の人たちと居酒屋で話し合ったそうです。
私は参加できなかったのですが、そこでどんな話が出たか、興味があります。
どなたかよかったら、さしさわりのない範囲で、教えてください。
■不適切の流行(2019年2月18日)
最近、「不適切」という言葉をよく耳にします。
「不適切動画」「不適切指導」「不適切処理」……。
しかも、その不適切動画なるものがテレビでも盛んに流されます。
流す必要などないでしょうが、テレビ関係者もまた「不適切動画」を広める活動に熱心です。
「不適切動画をスマホやユーチューブで流すのが「不適切」なのであれば、公共性がより高いテレビで流すのは、もっと「不適切」だと私は思います。
いまや公共メディアこそが「不適切」な存在ではないかと思いたくなります。
そもそも飲食店やコンビニなどで働いている人が、なぜ「不適切映像」を流すのか。
そこにこそ私は関心があります。
何も好き好んで、自らの解雇のリスクのある行動を行っているわけではないでしょう。
その背景には、そういう行動をしたくなってしまうような、「不適切環境」があるのではないかと思います。
当該企業のことだけではありません。
社会そのもののことを言っています。
言うまでもなく、「不適切」なのは「動画」ではなく「行為」です。
そうした「不適切」な行為を従業員が行ってしまうような環境をこそ正さなくてはいけません。
「不適切な指導」を行う親や先生も同じ捉えた方が必要です。
なぜ「不適切な指導」や「不適切なしつけ」が行われるのか。
問題をもっと大きな視野でとらえない限り、事態は変わっていかないように思います。
それ以上に問題なのは、世間の風潮そのものが「不適切さ」への感度を鈍らせていることです。
それを象徴し、それを促進しているのが、私たちが選んだ政治家たちです。
政治家の不適切な行動こそ、もっと問題にしなければいけません。
その「不適切度」を考えれば、テレビで報道されている「不適切動画」などは、私にはあまり気にはなりません。
むしろ「不適切な社会」や「不適切な生き方」への警告のようにも感じます。
政治や行政の世界から「不適切動画」がでてこないことにも疑問を感じています。
飲食店やコンビニよりは、働く環境がいいのでしょうか。
あるいは、人間的な感性が弱まってしまっているのでしょうか。
もちろん私は、「不適切動画」や「不適切指導」を肯定しているわけではありません。
私の投稿は、読み違えられることも多いので、念のために。
■目先の問題解決のために大切な文化をないがしろにしていないか(2019年2月21日)
「24時間はもう限界」、セブン-イレブンFC加盟店が時短営業で本部と対立、という話題がテレビや新聞で報道されています。
人手不足が、その大きな理由です。
そして、海外の労働力を日本に持ち込もうという考えを、多くの日本人は受け入れてきているようです。
前に「移民と移住」について書いたことがありますが、個人レベルでの「移住」の受け入れと、国家としての「移民」政策は、似て非なるものだと思います。
昨年、話題になった、ダグラス・マレーの「西洋の自死」を読んで、この問題の私の理解はまだまだ不十分だったと反省しましたが、日本もまた「自死」に向かっているという、解説者の中野剛志さんの指摘を思い出しました。
それが、どんどん真実味を増しているからです。
ダグラス・マレーは、個人としての移民(イミグラント)と集団としての移民(イミグレーション)とは違うといっています。
私は、それを「政策としての移民」と「個人としての移住」と分けて考えて、「移住支持」「移民反対」の立場です。
最近の労働力視点で「移民」や「移住受け入れ」を考えることは、無責任であり、日本の文化をさらに変えてしまうだろうと懸念しています。
それに、そもそも人の生活を労働で考えてはいけません。
「人は人を手段にしてはいけない」というカントの言葉に反するからです。
その奥にあるのは、24時間営業を便利だと思う文化です。
いや24時間営業などという「例外」を「ルーティン」にしてしまってきた文化というべきかもしれません。
ちなみに、昔はどこの店も24時間営業などと言わずとも、万一真夜中にどうしても薬が必要になったら、店の戸を叩いて店主を起こすこともできたのです。
それが薬でなくて醤油だったら、隣の家に分けてもらいに行けたかもしれません。
まあそれはともかく、人手不足であれば、人手を減らす社会をつくればいいだけの話です。
その根底にあるのは、「成長信仰」です。
電力を無尽蔵に使いたいので原発を稼働させたことの問題を私たちは知りました。
にもかかわらず、懲りずに労働力を無尽蔵に使いたいので外国労働力を導入する。
労働力の担い手は人間です。
ダグラス・マレーの「西洋の自死」は、あまりに反イスラムなのであまり薦めたくはないのですが、この本を読んだら、今の風潮には疑問を抱く人も増えるかもしれません。
大切なのは経済ではなく文化なのです。
■縁カフェの一時休店とオープンカフェの再開(2019年2月22日)
昨年試験的に開店営業した「縁カフェ」は、1年間やってみましたが、思うような展開ができず、一時、休店することにしました。
売り上げは年間で2万4000円でしたが、売り上げが休店の理由ではありません。
なかなかお客様を広げられずに、どうも私の応援のために無理に来客している気配も感じられたからです。
行き場やホッとできる場のあまりない人の場にしたかったのですが、こういう場があることをどう伝えたらいいか方策が見つからなかったのも反省です。
そこでいい方策が見つかるまで休店します。
縁カフェの基金24000円は当面コムケア基金として保持します。
それに代わり、かつてのようなオープンカフェを再開します。
以前のように金曜日の夜が集まりやすいのでしょうが、居場所のあまりない人の集まる場を目指しますので、日曜日の午後にしました。
毎月、第1日曜日に開催します。
湯島のサロンは、テーマサロンが中心になってきましたが、このサロンは以前のようにまったくテーマなしです。
正午からスタンバイし、サロンそのものは1〜4時を想定。出入り自由です。
ほとんど無意味のサロンですが、無意味と思われるものほど意味があるというのが、いささかひねくれた私の考えなので、
ただ、私が突然急用ができたりすることもあるので、絶対開催ではなく、原則開催です。
参加費は今まで通り、500円を目安に、部屋のどこかにあるお布施缶に入れてください。
会場の維持のために充当させてもらいます。
最初のオープンサロンは、3月3日です。
私がまだ会ったこともない人の来店をお待ちしていますが、飽きるほどあっている人も歓迎します。
よろしくお願いいたします。
■国民主権に従わない「統治権」(2019年2月25日)
沖縄県民投票によって、沖縄県民の「辺野古埋め立て反対」の思いは明確になりました。
しかも沖縄の場合、沖縄県という地方自治体も同じ意見です。
にもかかわらず、実際の政治は、それとは別の方向に向かっています。
県民の多数派の意向も、地方自治体の意向も知りながら、政府による辺野古の埋め立ては止まることはありません。
住民の意思とは別の政治が展開されているわけで、民主主義国家においては、きわめておかしな事態です。
しかし、全くおかしいわけではありません。
住民が暮らす地域をどういう範囲で考えるかによって、住民意思と政治の動きは食い違うことはよくあります。
たとえばごみ焼却場などの迷惑施設の設置に関しては、近隣住民からの反対にもかかわらず、推進されることが、長期的かつ社会的な視点から承認されることはあります。
それに、地方自治体は国家の一部であり、その地域の自治を限定的に認められているだけです。
「国民主権」という言葉はあっても、「住民主権」という言葉はありません。
しかし、今回の沖縄の県民投票は、主権者と統治者の構図を分かりやすく可視化してくれています。
沖縄県民や沖縄県がどんなに希望しても、「政治性の高い問題」は、県や県民の上にある日本政府が決定し、施行することになっているのです。
自治権が制約されるのは仕方がないことです。
辺野古の問題は沖縄の地域問題であるわけではありませんが、現在の制度上ではそうなっているだけです。
いやむしろ地域を超えた問題であればこそ、政府の意向が優先されてしまっているわけです。
もう60年以上前のことですが、日米安保保障条約の合憲性が裁判になったことがあります。
その裁判では、最高裁は「高度に政治性のある国家行為」に関しては司法の対象から外すとして、違憲性の評価をしませんでした。
後になって判明したのですが、当時、日米両国政府から最高裁に圧力がかかっていたのです。
日米安保保障条約は、日本の国民の生活にとっては極めて重要な問題です。
そもそも「高度に政治性のある問題」こそ、国民にとっては死活につながる問題なのです。
そうした問題を司法から外す、つまり統治権を持つ政府にゆだねるということは、主権者たる国民から統治者である政府が「主権」を取り上げるということになります。
主権者たる国民が、政府に自らを「統治」することを信託したのは、三権分立の統治体制の中で、統治者である政権の独走を抑制するためなのですが、司法が外されてしまうことは、統治を信託する前提を否定することになります。
つまり国民主権に従わない「統治権」があるということです。
しかしその実体は、法治国家や権力分立型の統治体制に組み込まれた民主的な政府という幻想によって、覆い隠されてきました。
主権者の選挙で信託された政権が統治権を施行しているという幻想もありました。
しかし、日本の政権を超える「統治権」の存在が少しずつ見えてきています。
そして、政治と国民の思いが大きくずれてきている現実があります。
県民や県知事がどう思おうと、それとは別の論理で沖縄は統治されています。
高度に政治性のない問題に関しては、自治が与えられていますが、肝心の問題は沖縄の外で決められてしまう。
高度に政治性のある問題は既存の統治体制の枠外で決められているのは、日本全体においても同じなのです。
つまり、統治権者たる政府とは別の統治者が存在するということです。
それが米国の産軍複合体なのか、金融資本なのか、有徳の政治家なのか、は別にして、高度な政治性のある問題にこそ、統治の主軸があるのです。
「誰が日本を統治しているのか」
主権者たる国民は統治者にはなりえません。
国民主権とは、統治者を監視し制約できるという意味です。
統治者の存在を、私たちは意識し、その可視化を進める必要があると思っています。
沖縄の県民投票は、そのことをとても分かりやすく可視化してくれています。
もちろん内容は国政とは違いますが、かたちは相似形になっています。
ちょっと長くなったので、続きはまた明日に。
少しこのシリーズを続けてみます。
■主権者の思いと統治者の思い(2019年2月26日)
統治権とは、国土と国民を治める権利のことで、国家の最高権力です。
大辞林には「主権者が国土・人民を支配し、治めること」と書かれていますが、日本憲法のもとでは、国民が主権者とされていますので、「国民が人民を支配する」ということになります。
近代国民国家は、基本的に国民主権を標榜していますので、いささかややこしくなってしまいます。
「国民」と「人民」とは、全く違った概念だと私は思いますが、ここではあまり厳密に考えずに、日本国憲法が両者を同一視しているように、同じだと考えれば、大辞林の定義は「国民が国民を支配する」ということになり、頭はこんがらがってしまいます。
そうしたところに、実は大きな落とし穴があり、統治者という支配者を見えなくしてしまっているのです。
法治国家という言葉もややこしいです。
「法治」とはいうまでもなく、「法が治める」ではなく、「法で治める」ですが、恣意的な人の要素が排除されると思いがちです。
たしかに恣意的な要素を減らすことは間違いありませんが、法というのは解釈が行われて実際に執行されない限り意味はありませんので、人の要素が排除されるわけではありません。
つまり、法が統治するのではなく、法を基準にして「統治者」が統治するのです。
このあたりも、私たちが騙されやすいところです。
大切なのは、法文ではなく、法を活かす精神です。
たくさんの人々で構成される国家を統治するのは、2つの方法しかありません。
最終的な統治権を非論理的な人に託すか、論理的な機械に託すか。
しかし、論理的な機械に託する政治にしたとしても、人の要素を完全に排除することはできません。
政治は、最後まで「人の要素」からは解放されません。
極端の言い方をすれば、統治には必ず最終決定者が存在します。
もしそれをなくそうとすれば、責任回避の疑似統治体制が育ってしまいます。
そもそも「制度」や「組織」は、責任回避の仕組みなのです。
もちろん、それによって、私たちの暮らしは豊かになってきました。
それが悪いわけではありません。
しかし、そうしたことの向こうにいる、「統治者」の存在を忘れてはいけません。
「お客様」だとか「主権者」だとかいう、実体のない言葉に満足していてはいけません。
突然「お客様」という言葉を出しましたが、これはビジネスの世界と似ているからです。
「顧客の創造」などという経営学が広がっていることと、今の日本の政治状況は、つながっています。
余計な事ばかり書いてしまいましたが、主権者である国民の思いとは別に、統治者が存在するのであれば、どうしたら、国民の思いを統治権者(統治者)の統治に合わせられるのか、が問題です。
その一つの方法は「国民投票」です。
もちろんこれは「両刃の剣」ですが、統治者と国民(主権)をつなぐ一つのルートであることは間違いありません。
この問題を少し考えてみたいと思います。
■湯島サロン「一緒に暮らす生き方」のお誘い(2019年2月27日)
死も視野に置きながら、新しい生き方を考えようというサロンの一環として、今回は「一緒に暮らす生き方」をテーマにして、コーポラティブハウスやコレクティブハウス、あるいはシェアハウスやコハウジングなどを話題にするサロンを企画しました。
話題提供者は、NPO 都市住宅とまちづくり研究会の関さんにお願いしました。
家族のありようも最近は大きく変わってしまいました。
独りでお住まいの方も、増えてきました。
仕事をやっていたり、元気な時は、独り住まいもいいかもしれませんが、仕事を辞めた後のことを考えると、不安になる人も少なくないようです。
仕事を通した「人のつながり」が、仕事を辞めた後も、同じように続くとは限りません。
昔と違い、家庭(家族)も老後の暮らし場として、誰にでもあるわけではありません。
かといって、いわゆる「福祉施設」に入居するのも、不安がある。
自分が納得できる老後の暮らしを実現するためには、そうした心積りで準備をしていくことも大事です。
いや、その前に、どんな選択肢があるのかくらいは知っておきたい。
そういう人も少なくないようです。
そこで今回は、「一緒に暮らす生き方」というテーマで、事例も学びながら、できるだけ自分の生き方につなげながらの話し合いをしたいと思います。
できるだけ具体的な話にしていきたいと思っていますので、なにか訊きたいことがあれば、お気軽に問いかけてもらえればと思います。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
〇日時:2019年4月7日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提供:関真弓さん(NPO都市住宅とまちづくり研究会)
〇テーマ:「一緒に暮らす生き方」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■国民意思と統治者意思(2019年3月2日)
統治権シリーズは、2回でストップしてしまいましたが、また書き出します。
2回目で書いた「国民投票」について考える前に、考える枠組みを少し整理しておきます。
国民の意思(これもまた曖昧な言葉です)と統治者の意思との関係は図のようになります。
日本は、代表民主制を採用していますので、国民の意思は代表である国会議員に託されています。
その信託に基づいて、三権分立体制の仕組みにのっとって、統治が行われます。
問題は、統治は機械的に行われるわけではなく(そういう仕組みもありますが、今の日本はその体制をとっていません)、人が行っています。
その人が「統治者」ということになり、日常的な問題では政府の代表である総理大臣がその役割を担います。
そして、もし統治者である総理大臣が主権者の意思を法文化した憲法に反することをした場合は、三権分立の一翼である「司法」がそれを正すことになります。
しかし、そうした「日常政治」に属さない問題は、三権分立の統治体制には属さずに、違ったところで「誰か」が統治しています。
ここを問題にするのが、このシリーズのひとつの論点です。
国民意思と統治者意思がずれたとき、どうしてそのほころびをつくろうか。
代表民主制、あるいは間接民主主義の限界をどう超えていくか。
それもう一つの論点です。
■オープンサロン再開(2019年3月3日)
3月からオープンサロンを再開しました。
しかしあいにくの雨の寒い日になりました。
私も行きたくなかったほどですので、参加者はいないかもしれないと思っていましたが、4人の参加者がありました。
ただし、2人は私の小学校時代の同級生です。
お互いに人生が終わりに近づいたので、たぶん私に会いに来てくれたのです。
来世を信ずる私は人生は終わらないと思っていますので、別に急いで会うこともないと思っていますが、何やら2人ともかなり危ういようです。
まあそれぞれ健全に老化しているということでもあり、嘆くことでもありません。
話の流れで、私の小学校時代の話が出ました。
私の知らない話が多いのですが、どうも小学校時代から私は「宇宙人のような存在」だったそうです。
以前も一度、女性の同級生が私の子ども時代のことを話してくれましたが、それもまた私ではないような話でした。
子ども時代の友人に会うと、私の知らない自分に合うことができるようです。
まあ私はあんまり信じていませんが。
それはともかく、今回は女性がいなかったこともあり、女性のすごさについての話が出ました。
男性どもは、所詮は、消耗品ではないかという話ですが、まあ、男性もそれなりに頑張っているという話もありました。
男女共同参画や女性の社会進出議論によって、女性は飼育されてきていますが、しかし、専業主婦(家内)志向の女性も増えてきているという話もあり、女性の覚醒も始まっているような気配もあります。
狩猟社会においても農耕社会においても、社会を支配していたのは「女性」だったでしょうし(ただし、そもそもこういう社会区分が全く間違っていると私は思っていますが)、子供を産めず育てられない男性という「種」は、間もなく消えていくのではないかと私は思っています。
江戸町民の銀製のキセルに象徴される消費文化や女子高生の恐ろしさや、売上高思考の企業の可笑しさや小学校の生徒と先生の人数比率などの話題も出ました。
京都と江戸の刑場の話も出ていました。
何やら面白そうでしょう。
これはほんの話題の一部ですが。
オープンサロンは、やはり話題が広がって、面白いです。
■名前がなくなっていく?(2019年3月7日)
今朝の朝日新聞の投書欄に、昨年、掲載された郵便局員の方からの投書「表札それでも出しませんか?」への反響の投書が掲載されていました。
郵便局員の方からの投書は添付しますが、こんな文章が含まれています。
人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。表札を出すリスクはあるかもしれませんが、誤配や遅配、不着などを回避するために表札は欠かせません。表札を出さないのも各自の勝手だと思われるかもしれませんが、それで他のお客の配達が遅れることだってあり得るのです。
とても大切なメッセージがいくつか含まれているように思います。
表札を出さない人も増えていると聞きます。
昔はみんなの住所や電話番号も掲載された電話帳も配布されていました。
もう15年ほど前ですが、自治会の会長をやった時に、名簿も作成して配布してはいけないといわれました。
この郵便局員の方が言うように、人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。
その名前が隠されていく。
名前のない人や物で構成される社会とはどんな社会でしょうか。
ちなみに、この投書への意見のひとつに、配達のための「番号」があればいいという意見もありました。
その方は、表札に名前を書くことには反対ではないのですが、同時にこうも書いています。
最近は病院で名前ではなく番号で呼ばれることがある。個人情報を気にする方向けには配達番号をつくったらどうか。
そういえば、私たちにはすでに番号がついています。
どう使われているのか知りませんが、そのうち名前がなくなるような気がしています。
名前よりも「番号」の方が、管理効率はいいでしょうから。
2012年の自民党「日本国憲法改正草案」は、現憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」を「全て国民は、人として尊重される」と変えています。
「個人」には名前がありますが、「人」には名前がありません。
「個人」を基本として考えるか、「人」を基本として考えるかは、全く別のものです。
「個」という文字があるかないかで、人民や民衆は、国民や大衆、あるいは臣民になってしまいかねません。
表札を出さない生き方やそうさせてしまう社会は、息苦しい管理社会につながっているような気がします。
■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」報告(2019年3月12日)
久しぶりに、まだ日本には救いがあるなと実感できたサロンでした。
これはきわめて主観的な感想ですが。
今回の話題提供者の矢辺さんは、鳥取の米子で育ちました。
東京で大学卒業後、障害者に特化した人材系会社に入社。
活動を通して、「障害者」の捉え方が変わり、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないか(その逆もある)、そうした生きにくさを抱えている人の問題を解決したいと思うようになったそうです。
その後、生活困窮者支援を行う国のモデル事業(パーソナルサポーター制度)の就職担当相談員に転身。
その制度がなくなったため、そうした活動のための会社を自ら起業しました。
しかし、2014年に父親から事業を引き継いでほしいといわれ、両親に「ものすごく感謝」をしていたこともあり、実家のある鳥取県の米子に帰郷しました。
たまたまその会社は、電力提供に関わる会社なので、そこで将来は、エネルギーの大量生産大量消費から地産地消ができないかという活動にも取り組みたいと考えています。
会社経営のあり方に関しても、ティール組織も参考にしながら、変革に取り組んでいるようです。
これが矢辺さんのこれまでの人生ですが、お話を聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。
10年以上前に、大学時代の矢辺さんとはいろいろと話し合ったこともあるのですが、自らの志を軸にして、時流に流されることなく、しっかりと実践しているのに感心しました。
矢辺さんは、会社に就職しないと生活できない現在の社会に問題を感じています。
企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。
企業だけに頼らずに、他者と支え合いながら、自然と調和した生き方を広げていきたいといいます。
そのためのいくつかの具体的な手だても矢辺さんは考えています。
個人の生き方に関しては、「おりる生き方」を提案しました。
それは、「企業で働いていなくても、福祉のお世話にならず、生きること」を目指す生き方です。
経済状況によって変化する企業業績に左右されず、財政事情によって変化する福祉制度に左右されず、「今日が来たように明日を迎える暮らし」、そして「つながりで生きづらさを解決する暮らし」というのが、矢辺さんが目指す生き方の基本です。
具体的な提案もありましたが、一言で言えば、「問題をお金で解決しない」生き方です。
お金を「稼ぐ」仕事は、週3日程度にし、後は「働く」仕事をし、顔が見える範囲の150人までの地域コミュニティとその核になる生活基盤となる家族をしっかりとつくっていきたい。
お金は家賃やライフライン代が払える程度あればいい。
できないことはみんなでフォローし合えるコミュニティがあればいい。
それが、矢辺さんが提唱する「おりる生き方」です。
最後に矢辺さんはみんなに問いかけました。
正しさとは?
生命力とは?
その問いかけから話し合いが始まりました。
話し合いは省略して、矢辺さんの考えだけ紹介しておきます。
「正しさは生命力を高めること」
「生命力とは自らの持つ良い部分を出し続けられること」
ちなみに、米子と東京に違いは何か、という話も出ました。
矢辺さんは、今回も羽田を降りた途端に、なぜか自分もせかせかと「速足」で歩いていたと話しました。
米子と東京とでは、時間の進み方が違うのかもしれません。
矢辺さんは、家族に頼れることのすごさについても語り、そうした「安心できる生活基盤」の大切さも語ってくれました。
「せかせかした生活環境」そして「安心できる生活基盤」。
この2つについて、私たちはもう少ししっかりと考え直す必要があるのではないかと、改めて考えさせられたサロンでした。
参加者は矢辺さんを含めて7人。ちょっと少なかったのが残念でした。
いま、時代の大きな分かれ目に来ているように思いますが、若者のメッセージの眼差しから、そして参加者の発言から、私としてはちょっと元気をもらいました。
矢辺さんのメッセージにつながるようなサロンを、4月5月と予定しています。
またご案内させてもらいます。
■湯島サロン:人生も仕事も「もっと面白く♪」のお誘い(2019年3月13日)
民間企業(東レ)を定年前に“脱藩”して、大学で「組織心理学」を研究している渕野康一さん(東洋学園大学現代経営学部客員教授)は、自らも「面白まじめ」を軸に自遊人”として生きています。
趣味は「@富士山AジャズピアノB温泉・銭湯C花鳥風月D寺社参拝・・・」と多彩に10個ぐらいあります。ただ多趣味なだけではなく、「面白さ」や「まじめさ」を掘り下げて、人生や社会をもっと面白くするための「面白まじめ道」を究めることが、渕野さんが一番大切にしていることです。
大学でも、「富士男♪先生」の愛称で、リーダーシップ論や人間関係論の「面白まじめな講義」をやっています。
当初、「個人と組織の関係」シリーズの一環としてのサロンを考えていたのですが、それだけでは渕野さんの持論を十分に聞けないような気がして、経営問題に限らずに、生き方サロンとして、渕野さんに自由に語ってもらうことにしました。
実際に渕野さんは、地元(浦安市)では社会教育活動にも関わっていますし、災害救助犬や里海うらやすネット、とらえもん(虎会門)など、ご自分でも様々なボランティア活動にも取り組んでいます。もっと言えば、「面白まじめ」な自遊人”としての生き方の効用を、身を持って体験されています。
テーマは「もっと面白く♪」。
どんな話になるか、楽しみなサロンです。
参加者それぞれの人生が「もっと面白く♪」なるための、まじめなサロンです。
すでに人生の面白さを満喫している人はさらに面白く、人生は面白くないと思っている人もそれなりに人生が面白くなるサロンです。
人生や仕事を面白くし、世の中や社会を明るく平和にするためにも、ぜひご参加ください。
経営学の先生ですが、誰でも歓迎の気楽な「面白まじめサロン」ですので、お気軽にどうぞ。
〇日時:2019年3月30日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「会社も人生ももっと面白く♪」
〇問題提起:渕野康一さん(面白まじめ求道者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「スマート・テロワールを考える:非市場経済は可能か」のお誘い(2019年3月14日)
湯島では、今の経済のあり方への疑問が時々話題になりますが、久しぶりにその問題を正面から話し合うサロンを開催します。
山口県で、循環する地域づくり研究所を主宰している東孝次さんに問題提起していただきます。
タイトルの「スマート・テロワール」という言葉はご存じない方も少なくないかと思いますが、一言で言えば、「美しく強靭な農村自給圏」のことです。
そのベースにあるのは、重商主義から重農主義へと社会のあり方や私たちの生き方を変えようという思想です。
提唱者の松尾雅彦さんは、農業や農村をとらえ直すことで、日本が今抱えている2つの課題、「少子高齢化」と「財政・貿易収支赤字」を解決することができるといいます。
農村にこそ日本最後の成長余力があるというのです。
東さんからのメッセージを下記しますが、そこにスマート・テロワールの説明もありますので、お読みください。
タイトルは難しいですが、私たちの生き方にもつながるテーマです。
ぜひさまざまな立場の人に参加していただきたいサロンです。
〇日時:2019年4月11日(木曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提供:東孝次さん(循環する地域づくり研究所・主宰)
〇テーマ:「スマート・テロワールを考える:非市場経済は可能か」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
〔東孝次さんからのメッセージ〕
お金至上主義が蔓延っている日本において、心豊かに生活することが難しくなっているように思えます。また経済優先の日本は、地方の疲弊をももたらしています。
このような日本の現状を変えるためには、根本的な変革が必要だと叫ばれて久しくなります。
そのような中、全国各地では、様々な試みが地道に取り組まれています。
その1つとして、「スマート・テロワール」の取組があるのではないかと、私は考えています。
今回のテーマを話し合うための情報として、“スマート・テロワール構想”について、少しご紹介させていただきたいと思います。
この“スマート・テロワール構想”とは、企業家である故松尾雅彦さん(元カルビー椛纒\取締役社長)が、日本、米国、欧州の農村を40年にわたり観察してきた結果に基づき、自らの仮説と実践、実績を通じて、日本の農村地域に明るい未来があることを提示し、農村再生を実現するための方策を示した構想です(2014年)。
このスマート・テロワールの骨格は、農産業に「耕畜連携」、「農工一体」、「地消地産」という3つの連携体制(「利他の循環システム」ともいえるもので、「共利共盛」となる「非市場経済」システムです)を導入し、圏内で消費者と生産者(農家と加工業者)が循環システムを構築するというものです。これにより、自給圏が構築でき、森林の活用・エネルギーの自給にまで積み上げることができると、農村はアルカディア(理想郷)になると考えられています。
「耕畜連携」とは、地域内の耕種農家と畜産農家との手間の交換(物々交換:互酬)で、このことにより安全な飼料の提供と土壌の改善を進めることができます。「農工一体(農工連携)」とは、地域内の耕種農家と加工業者とが契約栽培(自給自足:家政)を行うことで、耕種農家は安心して輪作の継続的改善を促進することができ、加工業者も安全な材料の提供を受けることができます。「地消地産」とは、地域で消費するものはできる限り地域で生産しようということで、それは同時に地元消費者の絶大な購買支援に生産者が応えることでもあります。
11日は、スマート・テロワール(地方都市を含む広域の農村自給圏)を考える中で、市場経済一辺倒の日本において、非市場経済の実現は可能かについて、皆様と一緒に考えさせていただきたいと思っています。多くの皆様のご参加をお待ちしています。
■水俣病を知らない人も増えてきているのでしょうか(2019年3月13日)
NHKテレビの100分de名著で「苦海浄土」が取り上げられていたようですが、この番組はあまり見ていないので気がつきませんでした。
「苦海浄土」は50年以上前に読んでいますが、きちんと読めたのは最初の1冊だけです。
その番組がベースになって、NHK出版から「悲しみのなかの真実」という本が出版されていました。
若松英輔さんの著作です。
図書館で見つけて借りてきたのですが、読み出したらすぐに引きずり込まれてしまいました。
そしてぜひ多くの人に読んでほしいと、強く思いました。
「苦海浄土」を読むのは大変ですが、この本はとても読みやすく、静かに読み続けられます。
それがいいのかどうか迷いますが、自分でも考えながら読めます。
実はここまでのことを書いたのは、先月です。
アップする段階になって、ふと思いました。
水俣病の話は、いま、どれだけの人がどのくらい知っているのかと。
私は比較的早く水俣病のことを知り、書籍もかなり読んできました。
水俣にも行く機会があり、本書にも出てくる杉本栄子さんにもお会いしました。
まだお会いしたことはありませんが、緒方正人さんの本も読ませてもらっています。
そうしたことがあるので、この本のメッセージが素直に入ってきたのかもしれないと思ったのです。
そして、ふと不安に思ったのは、水俣病のことをいまいったいどれだけの人が知っているのだろうかということです。
あの福島原発事故でさえ、いまの状況です。
3.11関連の報道をみていて、なぜか水俣のことを思い出してばかりいました。
それでもやはり、この本は多くの人に読んでほしいと思い直しました。
まだ読まれていない方がいたら、ぜひお薦めです。
余計なお世話ですみません。
■腎臓透析中止に思うことを話し合いたいと思います(2019年3月14日)
腎臓透析を中止したために死亡したというニュースに接した方の投書が、数日前の朝日新聞に載っていました。
この報道に接した時には、なぜか最初に恐怖感と嫌悪感を持ったのですが、次第に、とても大切な問題提起をされているのではないかと思うようになりました。
そんな時に、この投書を読みました。
気づかされることが多く、改めて、生命とは何だろうと考えずにはいられません。
私の周りにも若くして腎臓透析を受けている人がいます。
本人はもちろんですが、家族の大変さも実感しています。
今回の件で、何もできずにいる負い目を感じながらも、いつのまにか傍観者になってしまっている自分に、改めて気づかされた感じです。
恐怖感と嫌悪感を持ったのは、こうした自分への非難と感じたからかもしれません。
他者の生命に対して、できることの少なさに、今回もまた襲われています。
投書した透析専門医の方は、数多くの事例を体験されているでしょう。
その方が、最後に、「ただ、善悪で結論を出して終わり、ではなく、死生観と医療のあり方について議論のきっかけになればと願う」と書かれているのに共感しました。
言葉で「死生観」というのは簡単ですが、実際には死生観を語ることは難しい。
昨日も、湯島で「お墓」をテーマにしたサロンをやったのですが、なかなか「死生観」を語り合うのは難しい。
そこで今朝、思いついたのですが、この事例をただ傍観しているのではなく、この事例を踏まえて、それぞれの死生観を語り合う場を持つことなら、私にもできそうです。
そんなわけで、急なのですが、記憶がまだ冷めないうちに、「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」を話し合うサロンを開くことにしました。
できれば、投書された方のメッセージを受けて、死生観と医療に絞って、批判的な議論ではなく、自らの生き方につなげる形での、肯定的で建設的な話し合いにしたいと思います。
急ではありますが、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年3月24日(日曜日)午後1時〜3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:腎臓透析中止の報道に接して考えたこと
〇スタイル:肯定的で建設的な話し合い(できればそれぞれの死生観を話し合いたい)
〇会費:500円
〇申込先: 佐藤修(qzy00757@nifty.com)
今回は必ず事前に参加のご連絡を下記にください。参加者がいない場合は中止しますので。
■湯島サロン「お墓のことを考えたことはありますか」報告(2019年3月14日)
「死の視点から生き方を考えよう」シリーズのサロンは、今回は篠田石材工業の篠田雅央さんに「お墓」のお話をしていただきました。
私自身、お墓に関して、あまりにも無知であったことを痛感させられました。
私にとって、とても示唆に富んだサロンでした。
篠田さんの会社は明治22年創業の老舗で、「石を通じてお客様に喜びと感動をもたらす仕事をします」と、潔く言い切っている理念を掲げ、実践している会社です。
まず、ご自身の会社の歴史を写真で見せてくれながら、墓石やお墓の変化を、とてもわかりやすく紹介してくれました。
紹介できないのが残念ですが、篠田さんが手がけたデザイン墓石にまつわる感動的なお話もありました。
そうした具体的なお話を通して、死とは何か、供養とは何か、生きるとは何か、ということに関する深い問題提起をしてくださいました。
私は目からうろこでした。
つづいて、お墓づくりに関して、「墓地あり・墓石建立なし」「墓地・墓石あり」「墓地・墓石なし」という状況それぞれに対応した、とても具体的な取り組み方の話をしてくださいました。
「墓地・墓石あり」の場合は、お墓に悩むこともないはずですが、実際にはその場合もさまざまな事情があって、むしろ「墓地・墓石あり」のほうが悩ましい状況になることも多いそうです。
参加者の中にも似たような「事情」をお持ちの方もいましたが、そうしたことに関しては、篠田さんのアドバイスももらえました。
墓じまいや墓の引っ越し、改葬や合葬の話も出ました。
話し合いを聞いていて、お墓の問題にはやはりその人の「生き方」が深くつながっていることを思い知らされました。
私が一番感動したのは、墓石の字彫りにも遺族の参加を勧めているという篠田さんの姿勢です。
私事ながら、わが家の仏壇の大日如来は家族の手作りで、魂をご住職に入れてもらったのですが、墓石に関しては、全く思いもつきませんでした。
最後に、長年、墓石に関わってきた篠田さんご自身の「思い」を、参加者への問いかけを含ませながら、話してくれました。
墓石には見えない不思議な力が隠されている。
石は時代を超えて残っていくもの。世界の大半で石を墓としているのは、永遠に生きる石と魂が融合すると本能で感じているからではないか。
自分の先祖の数は何人だと思いますか。
この世に残る遺族の幸せってなんでしょうか。
自分の思いと家族の思いは同じでしょうか。
お墓は人生の道標。
などなど。
いずれも長年の篠田さんの体験からのお話なので、とても心に響きました。
こんな話もしてくれました。
篠田さんが子供のころは、テレビや自動車などが広がりだしていた時代だったが、当時の人たちは、そういう夢の代物を買う前に、お葬式や仏壇やお墓にお金をかけていた。
先祖や子孫にお金をかけて自分は質素に生きている人が多かった。
しかし、今は全く逆になっている。
お墓の簡素化や墓石離れは、先祖崇拝という大切な日本人の心の喪失につながるのではないか。
そして、いくら経済力がついても日本人の大事な心を見失ったら、日本は消滅していくのではないかとしめくくりました。
話し合いではいろんな意見が出ました。
世界中の大半の人々はお墓を持っていないが、だからといって信仰心がないわけではないという指摘もありました。
そもそも今のような墓石が人々に広まったのも、日本でも最近のこと。
また、それでもやはり自分は散骨だという人もいました。
思いを込めた散骨は、惰性で選ぶお墓よりも、私も価値があると思います。
大切なのは、自らにとって「墓」とは何なのだろうかを考えることであり、それを通して、今の生き方を考えることではないかと思います。
それにしても私たちは「お墓」に関して、あまりにも無関心だったような気がします。
お墓の持つさまざまな意味や機能、あるいはお墓を通して実現できることがたくさんあることに、もっと気づいてもいいのではないかと私は思いました。
篠田さんが言うように、人生の墓標としての自分のお墓(私は広義に捉え散骨も含めたいですが)は、やはり自分でしっかりと考えていくのがいいのではないかと思いました。
言葉では明確には語られませんでしたが、死生観や生き方、あるいは家族や社会のあり方を考えさせられるサロンだったともいます。
お墓にはそれだけのパワーがあります。
私が今回一番認識を変えさせられたのは、お墓はそこに在るモノではなく、自らの生を込められる「生きた」存在だということです。
篠田さんのお話はとても示唆に富むお話でしたので、もっとたくさんの人たちに聞いてほしいと思いました。
篠田さんに無理をお願いして、土日にもう一度、同じような「お墓」サロンをしていただこうと思っています。
決まったらまたご案内いたします。
来週はお彼岸なのでお墓詣りに行こうと思います。
■経営者は労働者ではないのか(2019年3月16日)
24時間営業をやめたために本部から違約金を請求されそうになったセブンイレブンの事件は、世論の盛り上がりにも支えられてか、なんとか無事おさまりましたが、事態は何も変わっていないのだと改めて思ったのは、昨日(2019年3月15日)の「コンビニ店主は労働者ではない」という中央労働委員会の判断です。
5年前の地方労働委員会の判断を覆したものです。
地労委の委員は現実と個人に目を向けているのに対して、中労委の委員は、法律条文と政府に目を向けているとしか思えません。
「地方の判断」と「中央の判断」が正反対になることは多いのですが、少なくとも私は、ほとんどの場合、地方の判断の方に納得します。
そこには、「地方分権」と「地方主権」の違いが表れていますが、一時、言われ出した「地方主権論」はもう忘れさられたようで残念です。
しかし、そう遠くない先に、関係の反転が起こると私は思っていますが(そうでなければ社会は破綻しますから)、今回、話題にしたいのは「コンビニ経営者は労働者か」という問題です。
中労委は「オーナー店主は労働者とはいえないとして団体交渉権を認めない」としました。
法論理的にはそういえるのかもしれませんが、法の精神は果たしてそうなのかは疑問です。
以前も、「みなし管理職」という概念で、裁判で問題になったことがありますが、オーナーというのは名ばかりで、実際には雇用労働者よりも「労働者」なのではないかと私には思えます。
4年前に東京都労働委員会は、ファミマのオーナーたちのユニオンに対して本部との団体交渉権を認めましたが(今回、それが否定されたわけですが)、その報道の時に紹介されていた、コンビニオーナーは、次のように言っていました。
「オーナー・店長といっても、仕事のほとんどの時間は、アルバイトと同じような業務を自ら行っています。ファミリーマートが以前、あるオーナーに示した経営資料では、加盟店のオーナーと家族で毎週7日、1日18時間の店舗労働を担うことが前提とされていました」
「私たち加盟者は、再契約をしてもらえなければ家族単位で職を失う。本部が1店失うのとはまったく重みが違う。それなのに“対等の事業者”であるというならば、対等の意味をはき違えている」
非正規社員よりも過酷なのではないかと私には思えます。
それはそれとして、問題は、労働者とは何かです。
経営者の一部は、確かに労働しない「不労所得」を得ている人もいるでしょう。
しかし、経営者といえども、特に中小零細企業の経営者は、雇用している社員よりも収入は少ないことも少なくありません。
しかも、従業員よりも時間的にも精神的にも労働している人を私も知っています。
そして過労死した人も、自殺を図った人もいます。
「経営者」と「労働者」は対立概念ではなく、役割分担が違う、同じ労働者(働く人)ではないでしょうか。
実際には、「経営」という労働をしていない「不労経営者」が多くなっているのかもしれませんし、「経営者とは労働者とは違うのだ」というゴーンさんのような人が増えているのかもしれません。
「働き方改革」の本質が、今回の中労委の判断に象徴されているように思えてなりません。
それにしても、なぜ過酷な条件のコンビニオーナーの成り手がいるのかが不思議でなりません。
「働き方改革」の捉え方が私にはまったく理解できません。
改めるべきは、働き方ではなく、私たちの生き方であり、社会のあり方ではないかと思います。
■原発の対価(2019年3月17日)
昨日、NHKテレビで、毎年放映している、「廃炉への道2019」を見ました。
昨年より廃炉作業が進んでいるのかどうか、私にはにわかに評価しがたいですが、ここでも何か「真相」が隠されているような気がしてなりません。
辺野古もそうですが、当初の予定は常に先送りされ、しかも予算はどんどんと積み増されていきます。
今年の番組でも、40年とされていた廃炉作業期間は、さらに伸びるかもしれないと操作的とさえ思えるような形で繰り返し語られていました。
廃炉作業に降り組んでいる人たちへの感謝の気持ちと敬意は、こうした番組を見るたびに高まりますが、それに反して、現場から遠いところにいて廃炉を進めながらも原発稼働を進めている人たちには憤りを感じます。
それに、作業現場で、果たして被爆者や健康障害などが起きていないのか、いつも気になります。
いいところだけ放映されているようで、見た後、いつもすっきりしないのです。
廃炉作業の厳しい実態やそこから見えてきたことをもっと公開していってほしいですし、そこから原発政策そのものに影響を与えていってほしいと思います。
廃炉や原発事故にまつわる補償や環境回復などの資金はすべて税金で賄われています。
東電という会社が負担しているという人もいるでしょうが、そもそも東電の資金は基本的には国民の電気代と税金投入が基本です。
それに、電気代というと、一般商品やサービスと違い、生活を支える必需性が強く、しかも消費者としての選択の余地はほとんどありません。
もちろん最近の電力自由化で、形の上ではいろんなメニューがあるように見えますが、基本は電力会社(あるいは政府)の管理下に置かれており、電気代も供給側で設定されます。
原発事故の補償費にしても、実質的には(当然ですが)国民が税金と電気代で負担しています。
しかも、その国民負担を東電の判断で、十分な補償に回さないという現実もあるようにも思います。
それも含めて、原発にまつわるお金の状況は、私には見えにくくなっています。
その気になれば、明確なお金の流れは見えるようにできるはずですが。
いろんな問題がありますが、一番の問題は、果たして原発を継続していくためにはどのくらいのお金が必要なのかが、明確になっていないことです。
廃炉費用もすべて本来的には電気代に乗せるべきですが、その費用も全く見えていない。
本来的にコスト計算するときには、そうした費用もきちんと考慮すべきはずですが、電気代に関しては、いわゆる外部コストは違うところに賦課される仕組みになっています。
そうしたことがはっきりと理解されれば、原発による電力コストが安いなどという人はいなくなるでしょう。
原発被害者の補償ですが、東電などを通さずに、国民一人あたりから原発税として徴収したらどうかと思います。
そうすれば、国民も原発に依存しようなどとは思わなくなるでしょうし、被災者の苦労も共有できるはずです。
どこに使われるかわからない税金は払いたくなくとも、原発被害にあっている人たちの生活支援に使われるのであれば、払いたいと思う人も少なくないでしょう。
原発に関連したテレビ番組を見ると、いつも元気が吸い取られます。
廃炉作業で死者が出ないことを祈ります。
■湯島サロン「贈与と共生の経済倫理学」のお誘い(2019年3月21日)
以前、私のホームページやフェイスブックで、折戸えとなさんの著書「贈与と共生の経済倫理学」を紹介させてもらいました。
昨今の生きづらい社会から抜け出るヒントが得られますので、多くの人にぜひ読んでほしい本です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/02/post-6da3.html
しかし、難しそうな書名で、しかも厚くて高価な本ですので、そう簡単には読んでもらえないかもしれません。
最初は、本書を読んだ人たちでの読書会を想定していましたが、まずはその前に、本を読んでいない人も対象にして、本書からのメッセージを読み解くサロンを開くことにしました。
本書で題材に取り上げられているのは、有機農業運動に取り組んでいる埼玉県小川町の霜里農場の金子さんを中心にした、さまざまな人たちのライフストーリーです。
そこで語られている「生き方」の基軸は、金銭契約を超えた「お礼制」と功利的な関係を超えた「もろともの関係」に集約されます。
いまの時代では、冗談だとか時代遅れと思う人もいるかもしれませんが(私もそう言われてきています)、少し前までの日本人の多くの生き方だったのではないかと思います。
そして、そこに、これからの私たちの生き方のヒントがあるかもしれません。
最初に本書の紹介とそこに込められたメッセージを解説してもらい、つづいて本書を読んだ人たちから感想を話していただき、そこからみんなで、できれば自らの生き方につなげながら話し合えればと思っています。
解説は著者にお願いするのがいいのですが、著者のえとなさんは本書を仕上げた後、亡くなられました。
そこで、えとなさんと伴走してきた伴侶の折戸広志さんにガイド役をお願いし、併せて本書の舞台になった霜里農場の金子友子さんや編集者の大野さんにも参加してもらうことにしました。
できれば、サロンの前に本書を読んできてほしいですが、読んでいない方も歓迎します。
読んでいない方も議論に参加できるような、気楽な話し合いの場にしますので、気楽に参加してください。
若くして旅立った著者の折戸えとなさんに喜んでもらえるようなサロンになればと祈っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
〇日時:2019年4月20日(土曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提供:折戸広志さん(「贈与と共生の経済倫理学」著者のパートナー)
〇テーマ:「贈与と共生の経済倫理学」を自らの生活につなげて考える
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「万葉集の多様性ー古代和歌の魅力」報告(2019年3月25日)
新たにスタートした「万葉集サロン」は15人で始まりました。
升田さん(昭和女子大学名誉教授)をガイド役にして、継続的に開催していく講座的なサロンです。
今回は最初なので、総論的に、いろいろと面白い話が予告的に提出されました。
まず、万葉集の成り立ちや構成、時代背景の解説、そして、実際の万葉集の表記(万葉仮名)の説明がありました。
万葉集の成り立ちに関しても、文字を知らない人たちの歌を編纂チームのメンバーがどうやって集めたのか、どうやって選択したのかなど、いろいろと質問したくなるような話もたくさん出ました。
まだまだ読み解けていないところもあるという話も面白かったです。
古写本の表記スタイルもからコピーで見せてもらいました。
後半では、額田王の歌とされている「熱田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」の歌を事例に、歴史とのつながりを紹介してくれ、万葉集の世界を少し垣間見せてくれました。
話の骨子だけでもきちんと記録を取っておけばよかったと反省しましたが、記録をとる習慣がない私には話の概要を紹介するのは無理なので、いつものように私が刺激を受けたところを報告をさせてもらいます。
万葉集の魅力は多様性にある、と升田さんは(たぶん)話されました。
今回お話を聞いて、その多様性を私はやっと理解できました。
そしてその多様性こそが、時代の大きな変わり目の象徴だと気づかされました。
その多様性が次第に整理されていく過程も万葉集から見えてくるのかもしれません。
いうまでもありませんが、「文字」こそは「多様性」を統合していく最大の手段です。
文字にする前には、声にだし、みんなで歌いあって、歌が生まれてきた。
それぞれの声が生命のリズムにのって、それぞれの心の揺れが重なっていく。
そうしたなかで、個人の覚醒が起こるとともに、心のつながり(集団)が生まれてくる。
「ホロン」という概念(個でもあり全体でもある)がありますが、歌によって個人の覚醒が起こり、歌によってその個人がつながっていった。
さらに、それが「文字」にされることで、個人の多様性が編集され、国家体制を生み出していく。
いささか飛躍的ですが、文字や歌の効用に関して、気づかされることが多かったです。
文字や言葉は、「つなぐ」ためのメディアですが、人と人だけではなく、自然や「天意」と「人」をつなぐものでもあります。
アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズは、人間の意識は今から約3000年前に生成し、それ以前の人間は、意識の代わりに二分心(右脳と左脳)を持つことにより、社会生活を成り立たせていたと提唱しています。
古代人の心は、神々の声を出していた部分と、現代で言う意識している心とに分かれていた。
古代ギリシアの『イーリアス』(有名なトロイ戦争が書かれています)は、そうした二分心時代の人間を描写した代表的な文献だというのです。
そう思って、『イーリアス』を読むととても納得できますが、もしかしたら万葉集にもそうした名残があるのかもしれません。
万葉集の歌には、「天の声」が含まれているかもしれません。
そして同時に、ジェインズが言うように、「言葉」の誕生の形跡がみられるのかもしれません。
サロンの報告を超えた話になってきてしまいましたが、こういう壮大な話をついつい思い出してしまうほどの、たくさんの示唆をもらったサロンでした。
もう一つ付け加えれば、例に取り上げられた、額田王の「熱田津に…」の歌ですが、それに関して、升田さんは(たしか)「女性は言葉の力が強い」といったような気がします。
そして、現代の社会は左脳重視の論理社会なのでどんどん窮屈になってしまっている、精神の自由を広げていくためにも、歌の効用に注目しようというメッセージをくれたような気がします。
「女性は言葉の力が強い」という点に関しては、私は異論がありますが、AI(人工知能)が社会を覆いだしている現在、改めて万葉集を読み直す意味に、私は初めて気づきました。
なんだか「万葉集」とも、またサロン当日の話とも、違う内容の報告になったような気もしますが、お許しください。
まあそれほど、私には刺激的なサロンでした。
そんなことは全く予想もしていなかったのですが。
ちなみに、連続サロンとしての万葉集サロンの第1回目は、5月18日(土曜日)の午後を予定しています。
内容が決まり次第、ご案内します。
以後、隔月、原則として第3土曜日の午後に開催していきます。
継続参加されたい方はご連絡ください。
ゲストの名前も今回すでに出ていましたが、参加者(希望者)が自主発表することもできればやっていきたいです。
ちょっと大学のゼミ気分を味わうのもいいかもしれません。
■湯島サロン「「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」報告(2019年3月25日)
「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」サロンには6人が集まりました。
「死生観と医療のあり方」というテーマを設定していましたが、正面から大上段に取り組むのではなく、この事件の感想からそれぞれが話しはじめて自由に話し合いました。
生命はだれのものか、というのが一つの論点でした。
「生命は自分のもの」と考えるか、「大きな生命の一部を預かっているだけ」と考えるかで、死生観は全く違ってきます。
また、生前や死後の世界をつなぐ「魂」を仮定するかどうかでも、死の意味は変わってきます。
こうしたことは、湯島のサロンでは時々話題になるテーマです。
生死に関することは状況によって変わってくるため、どの時点での考えを基準にするかは難しいという話も出ました。
話題になっている今回の事件に関しても、当人の意思は二転三転していると報道されています。
生命に関する「意志表示」は、どの時点を優先するかで変わってきますが、少なくとも一度決めたことに縛られるという考えは、それこそ生命的ではありません。
生命という、まさに「生きつづけていること」を、特定の瞬間の判断に、無限定にしばりつけていいかは、そう簡単には決められません。
医療行為に関して患者や家族にしっかりと説明して合意を得るという「インフォームド・コンセント」も、実際にはそう簡単ではありません。
医療に関する情報が圧倒的に違う医師と患者が、患者主役の話し合いで合意するということが、実際にはいかに難しいかは、体験者であればわかると思います。
それと同じように、過剰な医療行為という言葉はあっても、何が「過剰」かは、現実の場では判断がとても難しい。
延命行為と苦痛の除去の話も出ました。
両者は重なったり、相反したりすることもありますが、医療にとって何が一番優先されるかは明らかではないかという話もありました。
さらに医療の進歩ということを考えると、問題はますます複雑になる。
透析の辛さや効果も将来変化しうるとすれば、今は希望がなくとも、希望が出てくることもある。
医療技術は常に動いているからです。
それは腎臓透析に限った話ではありません。
それに生命現象は、今の知見の範囲での論理を超える可能性もある。
ほかにも関連して、いろんな話がでましたが、たとえ生命が自らのものであるとしても、周りの人や社会とつながっての生命である以上、死の選択はそう簡単な問題ではないと思います。
こうした問題は、また機会をつくって、話し合っていきたいと思います。
■「社会的セーフティネットの構築」(岩崎久美子編)をお薦めします(2019年3月29日)
児童虐待に関する報道が相変わらずつづいています。
問題が顕在化されてきたのはいいとしても、相変わらず「児童虐待」そのものに目が行き過ぎて、社会全体への視野が広がっていかないのが残念です。
こうした傾向は、ほぼすべての社会問題に言えることですが、事件は事件として対処していくとして、その背景にある社会全体の状況への視野と自らの生き方の見直しとが大切ではないかと思います。
それに関連して、1冊の本を紹介させてもらいます。
子どもの貧困を意識した教育格差是正のための社会的セーフティネットを取り上げている「社会的セーフティネットの構築」(岩崎久美子編 日本青年館 1500円)です。
基礎になったのは、国立教育政策研究所の岩崎久美子さんたちが進めてきた「教育格差是正のための社会的セーフティネットシステム形成に関する総合的研究」です。
研究の目的は、子どもの貧困など、家庭の社会経済的背景に由来する教育格差の拡大が社会問題化している中で、諸外国における政策介入の効果や多様なパートナーの連携によるセーフティネット形成の実例を参考に、わが国の施策に資する知見の提供」です。
私は、本書の出版に関わった「社会教育」編集長の近藤真司さんからこの本を贈ってもらい、読ませてもらいました。
「社会的セーフティネット」というと、多くの人は高齢者や障害者、あるいは失業や病気や事故で、生活が維持できなくなった人の問題をイメージするかもしれません。
しかし、本書で取り扱っているのは、子どもの貧困や教育格差の問題です。
しかも、実際の現地取材をもとに、アメリカ、フランス、イギリスの事例がたくさん取り上げられていて、とても示唆に富んでいます。
あわせて日本の事例も幅広い視野で紹介されています。
抽象的な政策論ではなく、現実の事例から政策の方向性を示唆しているところがとても共感できます。
子どもの問題は、「保護者」や「家庭」、さらには「学校」という存在に隠されて実状がなかなか見えてこない上に、当事者が声を上げにくいため、政策の焦点にはなりにくいですが、子どもの問題は「子どもだけの問題」ではなく、社会の実相を象徴すると同時に、その社会の未来を示唆する「社会全体の問題」です。
社会のひずみは、子どもの周辺で露出してきますから、子どもの幸せや貧困を見ていくと、社会の矛盾が見えてきます。
逆に言えば、子どもの世界から、未来の社会の可能性も見えてきます。
ですから、すべての政策の起点は「子ども」であるべきではないかと、私は思っています。
本書は、そうした視点から、とても示唆に富む、実践的な書だと思います。
書名を「社会的セーフティネット」としているため、そうした内容が伝わるかどうか不安があり、それが本書を紹介する気になった理由です。
昨今の社会的セーフティネット議論には「子ども」を主軸にした議論が少ないと感じている私としては、本書をたくさんの人に読んでほしいと思います。
事例がふんだんに紹介されていますので、読みやすく、実践的です。
政策は政府や行政機関だけで生まれていくものではありません。
国民の関心や働きかけが、政策を変えていきます。
その意味でも、政策立案関係者だけでなく、多くの人たちに本書を読んでほしいと思います。
日本では、「子どもの貧困元年」とされる2008年から、10年以上が過ぎていますが、今なお子どもたちを取り巻く環境は改善されているようには思えません。
福祉やセーフティネットと言えば、どうしても高齢者に目が向きがちですが、子どもこそが起点になるべきではないかと思います。
できれば、このテーマでのサロンも開きたいのですが、どなたかやってくれませんか。
■「金額に応じた報酬」という発想(2019年4月3日)
成年後見制度の報酬に関する見直しを促す通知が最高裁から全国の家庭裁判所に出されたと今朝の朝日新聞に報道されていました。
朝日新聞によれば、「認知症などで判断能力が十分ではない人を支える成年後見制度を巡り、最高裁判所は、本人の財産から後見人に支払われる報酬を業務量や難易度に応じた金額とするよう、全国の家庭裁判所(家裁)に促す通知を出した。財産額に応じた報酬となっている現状に批判があることを踏まえ、制度利用を増やす一環として見直しを目指すものだ」そうです。
ようやくこういう発想が出てきました。
「制度利用を増やす一環として」というところに、「何も変わっていない」意図を感じはしますが。
こうした「金額に応じた報酬」という発想が社会を覆っていることへのおかしさをずっと感じていました。
たとえば、不動産売買業務の手数料も売買金額に応じて決まってきます。
裁判の弁護士報酬もそうです。
活動価値の判断基準が「金額」に依拠しているわけです。
専門家が、次第に卑しくなっていく危険性が、そこに内在されているように思います。
まあ、それは言い過ぎとしても、こういう発想が社会を金銭依存に導いていることは間違いない。
そうしたことの弊害は、改めて説明することもないでしょう。
結果的にはみんな「お金」を価値判断の基準にしてしまうわけです。
私は、お金とは人との関係性で意味を持ってくると考えています。
お金持ちにとっての1万円と金銭的に恵まれない人の1万円の価値は全く違うでしょう。
むかしの「赤ひげ先生」のように、お金のない人には無料で、お金持ちには高価で、医療対価を設定するのは、きわめて理にかなっています。
「金額に応じた報酬」社会は、お金に支配される社会に直結していきます。
そして、人の価値まで金銭基準になっていく。
そして、自分の市場価値を高めることが大切だなどということが言われるような、本末転倒な社会になってしまったわけです。
仕事の価値はお金とは無縁です。
仕事の捉え方を改めなければいけません。
そうすれば、働き方も変わってくるでしょう。
5月6日に、「過労死問題」につなげて、「働き方」をテーマにしたサロンを予定しています。
4月から働き方改革関連法が施行されましたが、そもそもの発想を変えなければ、むしろ状況は悪い方向に向かうのではないかと危惧しています。
よかったら参加してください。
■ハネツルベの逸話(2019年4月4日)
昨日、久しぶりに畑に行って、「小作人作業」に精出してきました。
野草や篠笹に譲っていた場所を耕して畑にする作業などを1時間半。
笹竹の根っこがすごいので、鍬と鎌だけの手作業だと1畳ほどの畑をつくるのに1時間近くかかります。
耕運機などを使ったらどうかという人もいますが、小さな畑を自然から借りるのにそんなものを使うのは私の感覚ではフェアではありません。
もちろん除草剤などは論外です。
地中に張り巡っている竹の太い根を切るのに力を入れすぎて、手がおかしくなって、しばらく作業ができなくなることもありますが、それは当然の代償でしょう。
そういう作業をしながら、思い出したのが、「荘子」に出てくる「ハネツルベの話」です。
こんな話です。
孔子の弟子の子貢があるとき、畑仕事をしている老人に出くわしました。
老人は、井戸の底まで穴を掘って、井戸のところまで下って、水がめに水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいました。
その大変さに同情した子貢は、老人に「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを教え、それを使ったらどうかと勧めたのです。
すると老人は笑いながら、自分の師匠から教わったことだと言って次のように話したそうです。
「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)のはたらきも安定しなくなる。それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう。ワシも『ハネツルベ』を知らないわけじゃない。ただ、恥ずかしいから使わんのじゃよ」。
私の好きな話です。
今日もこれから、畑に汗をかきに行きます。
いろんな生き物に会えるのが楽しみです。
■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」のお誘い(2019年4月4日)
4月から働き方改革関連法が施行されました。
日本人の「働き方」が、生命や生活を大事にする方向に変わっていくことを願いたいです。
過労死の問題は、昨年も一度、取り上げました。
前回は具体的な事件を中心に話し合いましたが、今回はそうした「過労死」の背景にある、いまの社会や私たちの生き方に焦点を合わせ、「過労死問題」そのものではなく「過労死問題が問いかけるもの」を話し合いたいと思います。
「働き方」はいうまでもなく「生き方」の問題ですから、過労死問題に無縁な人はいないといってもいいでしょう。
他人事ではなく、自分の問題として話し合えればうれしいです。
そして、できれば一歩進んで、そうした問題が起きないようにするために、何かできることはないかも考えていければと思います。
前回と同じく、東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人の小林さんに問題提起をお願いしました。
大型連休の最後の日ですが、ぜひ多くのみなさんに参加してほしいと思っています。
〇日時:2019年5月6日(月曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「過労死問題が問いかけるもの」
〇話題提起者:小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「葬儀や供養に関する自由な話し合い」のご案内(2019年4月5日)
湯島では「死」の視点から「生き方」を考えるサロンを継続的に開催していますが、今年も「葬送」や「看取り」「供養」を中心に置いたサロンを随時開催していきます。
そこで目指しているのは、「死を活かす社会」を目指したお葬式のあり方や供養のあり方、さらには「幸せな死」を目指す生き方を、みんなで考えていこうということです。
ただ、そのためにも、現在の葬送や供養にまつわることを知っておく必要もあります。
そこで、長年そうした活動に取り組まれてきた中下大樹さんを中心に、「葬送」に関する質疑応答も兼ねたQ&A型サロンも随時開催します。
今回は、その2回目のご案内です。
葬儀や供養に関してご関心や「訊きたいこと」をお持ちの方はご参加ください。
開催時間がいつもと違っていますが、昼食時にかかりますので、軽食を用意しておきます。
〇日時:2019年4月28日(日曜日)午前11時〜午後1時半
〇場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:葬儀や供養に関する自由な話し合い
参加者のご関心や質問を中心に話し合いをしていく予定です。
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■今回の地方統一戦に思うこと(2019年4月8日)
地方統一戦は現状承認の方向に終わったような気がします。
やはり多くの日本人は、安倍政権を支持しているようです。
この75年間は一体なんだったのか、と思わざるを得ないような選挙結果でした。
投票率も低く、ますます地方政治は、中央政府に組み込まれていくような気がします。
政治の対立軸を、権力 vs生活者と捉える私にとっては、21世紀に入ってから生じた政治の逆行はますます進みそうです。
テレビ報道などでの印象ですので、まちがっているかもしれませんが。
北海道の石川さんが敗れたのが、私には一番の衝撃でした。
あれだけ野党が共闘したにもかかわらず、です。
北海道知事選には、日本の状況が象徴されているようです。
沖縄と北海道から新しい風は起こると期待していましたが、実現しませんでした。
大阪での維新の勝利はいささか複雑ですが、松井さんが「万歳しなかった」(らしい)のはほっとします。
選挙で当選した人たちが万歳する風景をテレビはいつもしつこく流しますが、あれほど私の癇に障る映像はありません。
お上に仕える政治家やその取り巻き(あるいは寄生者)の本心が見えてくるようで、私にはやりきれない風景です。
神奈川県の黒岩さんが喜びを「笑い」で表現していましたが、それにもやはり不快感を持ちました。
いささかストイックすぎるかもしれませんが、政治への真剣なまなざしがどうも感じられない。
政治家がやるべきことは、投票率を高めることでなければいけません。
生活者が心がけるべきことは政治批判ではなく投票に行くことでなければいけません。
そんなことを考えさせられる選挙結果でした。
■湯島サロン「一緒に暮らす生き方」報告(2019年4月8日)
今回の生き方を考えるサロンは、「一緒に暮らす生き方」をとりあげ、NPO都市住宅とまちづくり研究会の関真弓さんに、コーポラティブハウスに取り組んできた経験から、実例を踏まえてお話をしてもらいました。
このテーマに関心のある女性たちが多く参加してくれ、女性が多いサロンになりました。
それと男性と女性とでは関心のあり方や受け止め方が大きく違っているようで面白かったです。
いつも思うのですが、やはり「男性」と「女性」は別の生物のような気がします。
また叱られそうですが。
関さんは在学中からこのNPOにかかわり、ずっとこのテーマに取り組んできたそうです。
いまはご自分も参加したコーポラティブハウスにお住まいです。
ちなみに、NPO都市住宅とまちづくり研究会の姿勢は、「人と人、地域とのつながりをつくるコーポラティブ方式による住まいづくり」です。
コーポラティブハウスとは、入居希望者が集まり、土地取得から設計者や建設業者の手配まで、建設行為の全てをみんなで行う集合住宅のことです。
その基本にあるのは「シェア」という理念です。
さまざまな事例や関さんの体験の話から印象に残ったことをいくつか紹介します。
関さんたちが取り組んでいるコーポラティブハウスは、一緒に住もうと考えた人たちが時間をかけて何回も会い、お互いの利益を深めていくことを大事にしています。
ですから一緒に住む前に、繰り返し「住まいづくり」を軸に話しながらお互いの信頼関係を深めていきます。
それがともかく楽しくて、なかには、一緒に住み出してからも、つくる前の話し合いの楽しさが忘れられずに、もう一度、コーポラティブハウスづくりに取り組みたいという人もいるそうです。
そこに、私は「人の生き方」の本質を感じます。
みんなが顔見知りのなかで暮らすことは安心ですが、ある意味で自己充足し“たこつぼ”コミュニティになるおそれもあります。
そこで関さんたちは、地域とのつながりを大切にしているそうです。
その際に効果的なのが、地域社会に開かれたイベントです。
イベントは地域とのつながりだけではなく、コーポラティブハウス住民の信頼関係を強める効果も大きいようです。
しかも、生活につながるイベントは世代を超えたつながりを育てていきます。
コーポラティブハウスの住民も、時間の経過(ライフステージ)によって、住まい方が変わったり転入居したりすることもあります。
そのために、住宅は、基本的にスケルトン独立構造になっていてリフォームしやすい自由設計になっています。
人が住まいに合わせるのではなく、人に住まいを合わせる仕組みになっているわけです。
関さんたちの体験から、コーポラティブハウスではないマンションなどの運用に関しても、とても有用なノウハウがたくさんあるように思います。
実際に、関さんは分譲マンションでの取り組みやシェアハウスの取り組みも紹介してくれました。
コーポラティブハウスの場合、所有、区分所有、賃貸などいろいろと考えられますが、最近では会社制度を利用した、コミュニティハウス法隆寺のようなコーポラティブハウスも生まれてきているそうです。
話し合いでもいろんな意見が出ました。
マンション住まいの人が隣人との付き合いがないので不安だという方もいましたが、コーポラティブハウスの場合は、そういう不安はほとんど解消されるでしょう。
ということは、もし現在のマンション生活の隣人関係に不安があるとすれば、それを解消するヒントがコーポラティブハウスにはありそうです。
そもそも、住んでいる隣人との関係が不安であるということのおかしさを私たちはもっと真剣に考えるべきだと思います。
そうしたことが起こるのは、私たちが住まいや生活を基準にして生きていないからかもしれません。
そういうことも今回のサロンでは気づかせてくれました。
コーポラティブハウスとまちづくりの関係も話題になりました。
私はここにも社会の大きな構造変化を感じます。
これまでのような「大きなまちづくり」とは発想を変えて、空き家や小さなコミュニティを生き生きとさせていく生活起点の「小さなまちづくり」が話題になりだしていますが、そうした視点でコーポラティブハウスをとらえるといろんな視野が開けてくるはずです。
実際にコーポラティブハウスでの住まいを実現するにはどうしたらいいかという質問も出ました。
状況によって違いますので、関さんに相談するのがいいと思いますが、私は、まずは自らの生き方を見直して、一緒に生きる人たちを増やしていくことが大切ではないかと思います。
生き方が住まいを決めていくからです。
コーポラティブハウスとかシェアハウスとかいうと、どうしても「一緒に住む住宅」を考えますが、大切なのは「一緒に生きること」なのだと思います。
住まいは生きるための一つの道具でしかありません。
しかしその一方で、住んでいる住宅が、生き方や人の関係性を大きく影響してしまうことは否定できません。
だからこそ「住まい」を考えることは「生き方」を考えることなのです。
コーポラティブハウスを考えていくと、家族の問題にも行きつきます。
血縁家族の固定観念から解放されれば、家族そのものの意味も変わってきます。
そして、そのことは社会のあり方を変えていくことになるでしょう。
ほかにもさまざまなことを考えさせられるサロンでした。
かなり具体的に取り組みを考えている人たちも数名いましたので、1年後には、その人たちからの実践報告サロンをやってもらえるかもしれません。
楽しみにしています。
■湯島サロン「スマート・テロワールを考える:非市場経済は可能か」報告(2019年4月14日)
山口県で循環する地域づくり研究所を主宰している東孝次さんの「スマート・テロワールを考える」サロンは、15人の参加がありました。
副題の「非市場経済は可能か」に関心を持った人も少なくありませんでした。
時代の変化を感じます。
「スマート・テロワール」とは、一言で言えば、「自立した地域共同体」のことです。
経済的には畑作農業と食品加工業を中心に農村を元気にし、日本全体を元気にしていこうという構想です。
ベースにあるのは重商主義から重農主義への発想転換です。
提唱者は、カルビーの社長だった松尾雅彦さん。
市場経済の真っただ中にいた企業家が、農村問題に対する解決策を提案し、その具体化に向けての取り組みを先頭に立って進めている。しかも非市場経済の必要性を主張している。
東さんはそこに興味を持ったそうですが、私もそこに大きな意味を感じていました。
しかし残念ながら、日本の経済界の人たちの反応はあまりありませんでした。
農業政策や地方自治政策にも大きな影響を与えているとは思えません。
時代の流れを変えることのむずかしさを改めて感じます。
東さんは最初に、スマート・テロワール構想について紹介してくれました。
簡単にいえば、「耕畜連携」、「農工一体」、「地消地産」という3つの連携体制で農産業を再構築し、圏内で消費者と生産者(農家と加工業者)が循環システムを構築するという発想です。
「耕畜連携」とは、耕種農家と畜産農家との手間の交換(互酬)で、これによって安全な飼料の提供と土壌の改善を進めることができます。
「農工一体」とは、耕種農家と加工業者とが契約栽培を行うことで、お互いに支え合う安定した関係を育てていこうということです。
「地消地産」とは、地域で消費するものはできる限り地域で生産しようということですが、地元の人たちが消費者として生産者を支えていこうということでもあります。
こう説明すると、単に農業政策や産業政策の話に思われるかもしれませんが、その根底にあるのは、産業や経済の捉え方、さらには社会の構造を根本から変えていこうということです。
たとえば、相互に支え合う互酬の考えを取り入れることで、金銭に呪縛された経済から解放され、人と人の生き生きしたつながりが育ちます。
また、「地産地消」ではなく「地消地産」としているのは、産業(経済)起点で経済を考えるのではなく、生活起点で経済を考えようということです。
生活視点で考えると、「自給」ということの視野は食にとどまることなく、エネルギーや福祉の問題にまで広がっていきます。
つまり、私たちの生き方や社会のあり方を見直すことになっていきます。
最近広がりだしているFEC共同体(フードのF、エネルギーのE、ケアのC)構想にもつながります。
松尾さんは、それによって、なかなか改善されない「少子化問題」も解決すると考えています。
契約栽培も農家と加工業者の関係にとどまりません。
「地消地産」という言葉に示されるように、生活者と生産者の契約も重要になっていきます。
そこでの契約は「市場契約」とは違った、個人が見える人と人のつながりを生み出します。
強い者が勝ち続ける経済(市場経済)ではなく、住民みんなが居心地のいい社会なっていくというわけです。
すでに「スマート・テロワール」への実際の取り組みは各地で広がりだしています。
山形や長野、山口などでの展開事例も紹介してくれました。
話し合いでは、いつものように話題はさらに広がりました。
「自立した地域共同体」の規模の話や「自給」と「自閉」との関係。
都会部と農村部での出生率の違いの話や生活のための「仕事」の話。
地域通貨の話や食への不安から微生物の話。
定額で利用し放題の一括契約のマーケティング手法と契約栽培の違い。
いろいろありすぎて、思い出せません。
東さんは「循環する地域づくり研究所」を主宰しています。
最近、持続可能性ということが盛んに言われていますが、直線モデルの工業経済は、どこかに限界があり、そもそも持続可能ではありません。
持続可能なためには、循環型でなければいけませんから、東さんが提唱している「循環する地域づくり」と「スマート・テロワール」構想は親和性が高いと思います。
私自身は、「スマート・テロワール構想」は、まだ金銭経済や市場経済の呪縛から十分には解放されていないような気がしますが、だからこそ、理念としても、実践活動としても、たくさんの示唆があるように思います。
余っている水田を畑に変えていこうという具体策の提案など、共感できるものもたくさんあります。
ちなみに、サロンの翌日、一般社団法人スマート・テロワール協会の総会が開催されました。
これまで以上に、実践に向かっての活動が広がっていきそうです。
ぜひこれからの展開に注目しておきたいと思います。
■10連休の過ごし方(2019年4月16日)
今朝のテレビで、10連休を活かして収入につながる起業や副業開発のセミナーやイベントの紹介が報道されていました。
日本人は、休暇は消費活動としてのレジャー活動をしなければいけないと思いこんでいますが、さすがに10連休では余暇消費を続けられないので、収入につながる仕事探しをはじめるようです。
そもそも休暇とは、暇を休むことであり、消費活動からも休むことではないかと思っている私には、滑稽にしか思えません。
生産者として経済を支え、消費者として経済を支えている生き方を前提にしていては、金銭に呪縛された生き方から抜け出るどころか、ますますそれを支える10連休になりそうです。
10連休は、新しい「働かせ方」の仕組みとさえ思えます。
しかし、実際には10日間、休める人が多いとも思えません。
むしろ、仕事ができずに収入減になる人もいるでしょうし、連休とは無縁の人もいるでしょう。
10連休で、生活面で困っている人も少なくないでしょう。
10連休で病院が休みになったらおれの健康はどうなるのかと嘆いていた友人もいます。
10日間、いつもの労働から解放されたとしても、過労で心身両面で限界に来ている人に、また過酷な労働に立ち向かうしばしの回復の機会を与えるだけのケースもあるでしょう。
そうやって心身はさらにおかしくなっていきかねません。
この10連休は、「働き改革」の関係で出てきたことに示唆されているように、さらなる「働かせ方強化策」にもつながっているような気がします。
相変わらず、「休暇は雇い主から与えられるもの」という意識からみんな抜け出られないでいるわけです。
財界や政府の甘言にまどわされずに、この10日間はレジャーの誘いになどのらずに、家族や友人とゆったりと過ごし、無駄に過ごすのが一番無駄でないようにも思います。
私は10連休に挑発されて、10連サロンも考えてみましたが、それはやはり疲れるので、10連休後半に3回、サロンを開くことにしました。
最後の5月6日は、「過労死」がテーマです。
それ以外は基本的に、無駄に過ごすつもりです。
「過休死」にならないように、休まずに、きちんと生きていようと思います。
■湯島サロン「贈与と共生の経済倫理学」報告(2019年4月20日)
難しいテーマのサロンにもかかわらず、20人を超える参加者があり、異例の申込締め切りをしたほどでした。
また、本書で題材に取り上げられている霜里農場の金子夫妻が参加されたほか、著者の関係者も数名参加されたのも異例でした。
そのため著者に関して語られることが多かったので、著者の人柄や生活歴がわかり、本の著述からだけではわからない行間が伝わってきて、とても興味深いサロンになりました。
しかし、本を読んでいない方にはちょっと戸惑いの多いサロンだったかもしれません。
ナビゲーターは、亡くなった著者の活動に伴走してきた伴侶の折戸広志さんです。
著者の思いも重ねながら、本書の背景と著者のメッセージをていねいに読み解いてくれました。
著者の基本的な問いは、「生きにくい社会をどうやったら私たちは生き抜いていけるのか」ということです。
その問いは、「自由とは何か」、さらには「他者とはだれか」という問いにつながっていきます。
そして、「視座の転換」によって、「資本主義の限界」を超えていく実践策が示唆されます。
こう書くと難しそうですが、要は、自分を自由に生きていくためのヒントが本書にはたくさんちりばめられているのです。
本書を読み解く2つのキーワードは「お礼制」と「もろともの関係」です。
折戸さんは、ポランニーの贈与経済やスピノザの自由論、さらには最近話題になった「ホモ・デウス」まで紹介しながら、究極の倫理としての「自由」に言及していきます。
そして、対等な関係において成り立つ「契約」を結ぶことができない「対等ではない関係」においてこそ「倫理」が要請されるというのです。
では、「対等ではない関係」とはだれのことか。
そこで折戸さんは「他者」とはだれかと問いかけます。
私たちが共に生きている「他者」は、同時代人だけでないばかりか、人間だけではない。
そのことを霜里農場の金子さんが卒論で描いていた「生態系の図」も紹介しながら、気づかせてくれました。
そして、「アグロエコロジー」(「タネと内臓」サロンでも話がでました)にも言及されました。
金銭契約を超えた「贈与(お礼制)」と功利的な関係を超えた「もろともの関係」は、著者えとなさんの経済倫理学の2つの柱ですが、別々のものではなく、相互に支え合って成り立つものといえるでしょう。
えとなさんが研究を深めていったら、このふたつは止揚されて、そこに新しい概念、つまり「新しい倫理」(生活哲学)の概念が生まれたかもしれないと、改めて思いました。
真の自由のためには「赦し」から「共生(共に生きる)」へと生き方を変えていくことだというのが、折戸さんのまとめのメッセージです。
その一つの実践例として、「被害者意識」から「加害者としての責任感」へとまなざしを変えた水俣の漁師、緒方正人さんの話を紹介してくれました。
折戸さんたちは、水俣でのワークショップで緒方正人さんとも語り合ったようで、その際のえとなさんのエピソードも紹介されました。
ちなみに、緒方さんの著書「チッソは私であった」は、本書のメッセージと通ずる本です。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#002
話し合いは、著者折戸えとなさんの関係者が多かったこともあって、著者の話が中心になりがちでしたが、そこで語られたさまざまなエピソードには、本書の理解を深めるヒントがたくさん含まれていました。
著書を読んでいない方もいましたが、なんとなく「折戸えとなの世界」を感じてもらえたような気がします。
くわえて実践のど真ん中にいる霜里農場の金子美登さんの発言も直接聞けた、ぜいたくなサロンでした。
本書を読まれていない方には、ぜひ読んでほしい本です。
この生きにくい社会を生き抜くヒント、さらには袋小路を感じさせる今の社会の壁を越えていくヒントが、たくさんあります。
私の勝手な本の紹介は下記にあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/02/post-6da3.html
今回は読んでいなかった方も多かったので、内容の議論は十分にはできませんでしたが、また機会があれば、今度は経済倫理学のサロンとその実践としての霜里農場(アグロエコロジーが実現していると言われているそうです)のサロンを企画したいと思います。
■初原的同一性(2019年4月27日)
最近2冊の本を読みました。
1冊はもうだいぶ前に出たスティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」。
もう一冊は最近出た煎本孝さんの「こころの人類学」です。
前者は1000頁を超す大著ですが、後者は新書です。
まったく意識せずに読んだのですが、2冊には共通しているテーマがあります。
人間の本性です。
「暴力の人類史」ではこう書かれています。
人間の本性は、私たちを暴力へと促す動機(たとえば捕食、支配、復讐)をもちあわせているが、適切な環境さえ整っていれば、私たちを平和へと促す動機(たとえば哀れみ、公正感、自制、理性)ももちあわせている。
ピンカーは、人間には「内なる悪魔」と「善なる天使」が内在しているといいますが、どうもこの本を読むと、人間の本性は暴力好きな悪魔のように思えます。
これでもこれでもかというほどの人間の暴力性の事例、たとえば幼児殺しがいかに日常的だったかの記載を読んでしまうと、親子関係に関する常識さえ壊されてしまいます。
一方、「こころの人類学」の煎本さんは、「慈悲、わかちあい、おもいやり、いつくしみは、人類に普遍的に見られる自然的宇宙観」だといいます。
こんなことも書かれています。
「トナカイは、人が飢えているときに自分からやってくる」と、カナダ・インディアンは考えていたという。
煎本さんは、原始の人類は、人間と動物や自然を同一視していて、トナカイは飢えた人間のために施しとしてやってきたのだと考えたというのです。
仏教のジャータカ物語に出てくるような話ですが、トナカイは人間の仲間であり、つまりは人間もまたトナカイのように行動するということを示唆しています。
人間と動物とは異なるものであるが本来的に同一であるとする思考を、煎本さんは初原的同一性とはいい、人間性の起源は、この初原的同一性にあると言います。
私は「初原的同一性」という言葉を初めて知ったので、初原的同一性は、人間と動物だけではなく、あらゆる存在に関して成り立つはずです。
すべては一つだったと考えれば、世界がとても理解しやすくなります。
たとえば、「内なる悪魔」と「善なる天使」もつまるところ同じことなのです。
そして、内なる悪魔もまた、自らのものだと考えれば、他者に対して寛容になれます。
「暴力の人類史」だけを読んでいたら、たぶん世界が広がっただけでしたが、偶然にも同時に「こころの人類学」も読んでいたので、人間嫌いにはならずにすみました。
今回、2冊の本を同時に読んだのは、偶然とは思えません。
誰かに読まされているのではないかと思えてなりません。
最近他者への寛容さを少し失ってきているような気がしていましたが、踏みとどまれそうです。
■年齢は捨てられません(2019年4月29日)
挽歌編に書いたのですが、少しだけリライトして時評編にも書きました。
20年ほど前、アンチエージングが話題になった事があります。
高齢化が問題になっていたころです。
以来、年を取ることへのマイナスイメージは定着しました。
当時、私もそうした考えに大きな違和感を持っていませんでした。
もっとも「高齢化」に関しては私自身はプラスの評価をしていました。
「早く来い来い、高齢社会」などという小論を書いたりしてもいました。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn2.htm
最近、下重暁子さんが「年齢は捨てなさい」という本を出版しました。
新聞広告には「年にしばられると人生の面白さが半減する」「年齢という「呪縛」を解き放て!」と書かれていました。
こういう風潮に最近やはり強い拒否感があります。
いろんなものに「呪縛」されているのに、よりによって、捨てる対象が「年齢」とは、どうも納得できません。
私は、最近は年齢に素直に従っていますが、それが「呪縛」とは思えません。
すなおに加齢を受け入れ、それを前提に生きています。
「老人」という言葉も好きですが、実際には「老人」になれずに、意識はむしろ年齢に追いつけずにいます。
しかし、身体は素直に年齢を重ねています。
最近、高齢のドライバーの交通事故で、親子が死傷する事件が起きました。
それを契機に、高齢者ドライバーへの批判が高まり、自動車運転免許も年齢制限する必要があるのではないかという意見も出てきています。
それに対して、年齢で制限するのはおかしいとか、憲法違反だという声もあります。
自動車免許をとれるようになる年齢も含めて、いろんな分野で年齢制限されているのに、こんな論理は成り立つはずもないでしょうが、そんなご都合主義が相変わらずまかり通っています。
みんな「年齢」を捨てたがっているようです。
不老不死の世界に入るのは、そう遠い先ではないでしょう。
しかし不老不死とは、命のない世界でもあります。
私は70に近付いた段階で免許は返納しました。
基本的には年齢制限をつけるべきだと思っていますし、それがなくても自分のことは自分で決めるくらいの良識は持っています。
たしかに人によって状況は違い、高齢でも運転できる人はいるでしょう。
しかしそうした個別事情を認めていたら、年齢は社会的判断の基準にはならず、社会は成り立ちません。
年齢を捨てるという発想にはやはりなじめません。
私自身は、素直に年齢(生命)に従う生き方をしたいと思っています。
その本の新聞広告に、「年齢を封印するだけで出来ることが10倍増える!」と書かれていました。
私はむしろ、「年齢を受け入れるだけで出来ることが10倍増える!」と揶揄したいですが、それはともかく、「自分を素直に受け入れるだけで出来ることがたくさんある」と思っています。
しかし、自分を素直に生きることはとても難しい。
まだまだ年齢相応の生き方ができない未熟さに、時に自己嫌悪に陥ります。
それでも私は、年齢を大事にした生き方をしていこうと思います。
■多様性を受け入れるとはどういうことか(2019年4月29日)
昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。
今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。
そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。
話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。
殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。
つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。
「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。
とても考えさせられます。
「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。
「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。
今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。
■4199:ミッション・クリープ(2019年5月2日)
先日、挽歌で「ミッション・クリープ」に少し言及しました。
それについて、時評編でも書いておこうと思います。
この風潮は、やはり戒めておきたいと思ったからです。
戒めの対象は、もちろん私自身ですが。
「ミッション・クリープ」という言葉があります。
当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった軍事政策を批判するアメリカの軍事用語でしたが、
「終わりの見えない展開」という意味で、広く使われてきています。
たとえば、人権概念の広がりにも使われることがあります。
どんどん対象を拡大している人権運動が、動物や自然にまで広がっているのはその一例です。
最近のパワハラやセクハラの捉え方も、そうかもしれません。
そういう動きを否定するつもりはありませんが、いささかの行き過ぎを感ずることもあります。
前にも時評編では「ゼロ・トレランス」への懸念を書いたことがありますが、とまることのないミッション・クリープにも危惧を感じています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html
特に最近は私たちが生きる拠り所にしてきた家族が攻撃対象になっているのは残念です。
「攻撃」するのではなく「改善」していきたいものです。
そういう意味で、私は「家族という呪い」とか「家族という病」とかいう言葉を軽軽に使う人の見識を疑いますが、しかしそういうほうが多くの人の関心を呼んで、問題意識を持ってもらうのには効果的なのでしょう。
ですから一概に否定すべきではないのですが、どうしても好きになれません。
「言葉」は「実体」を創っていくからです。
大切なのは「病の家族」を健やかにし、「家族を苦しめる呪い」を祓っていくことです。
伴侶を亡くしたものにとって、病であろうと呪いであろうと家族も親子もとても価値のあるものです。
そして、それがあればこそ、家族のような仲間も生まれてくる。
ちなみに、私が考える家族は、血縁でも異性を軸にしたものでもありません。
一緒に暮らす(生きる)人の暮らし方くらいの意味です。
その基本モデルが、現在の「家族」制度ですが、その制度に制約される必要はないでしょう。
制度はあくまでも「手段」ですから、状況によって変わらなければいけません。
有識者の呪いや病を直してやりたい気もしますが、私の方が呪いにかかり、病を得ているのかもしれません。
それにしても、家族とは不思議なものです。
■湯島サロン「憲法ってなんなのだろうか」報告(2019年5月4日)
年に1度の「憲法サロン」は、今年は自由な憲法談義にしました。
12人が参加。湯島サロンの初参加者も2人いました。
日本国憲法の条文が直接語られるというよりも、憲法とは何かを考える、いろいろな話が出ました。
最初に、憲法と法律との違いを話題にさせてもらいました。
日本国憲法には「この憲法は国の最高法規」と書かれているので、憲法は最上位の法律と思っている人は多いでしょう。
しかし、「憲法」と「法律」とは、全く別のものだと私は考えています。
どこが違うかと言えば、「憲法」は国家を統治する権力者に向けてのものであり、「法律」は権力者が統治する国民に向けてのものなのです。
また、憲法は国の形や目的を決めていますが、法律はその形をつくるルールを決めています。
つまり両者は全く別のものなのですが、学校でも社会でもそういうことは教えてくれません。
権力を信託された権力者が「憲法」の理念に従って「法律」をつくるという意味で、憲法は法律を規制しますが、規制しているのは法律というよりも、法律を制定する権力者なのです。
対象が全く違うのですが、ここを理解しておくことが大切です。
しかし、最近の日本の憲法論議は両者を混同していますから、憲法は私たちの生活にはつながらないと思ってしまうのです。
昨今の憲法論議は、すでにして「権力者の政治」の舞台に乗せられてしまっているような気がしてなりません。
これに関しては、湯島サロンの常連の折原さんが、昨年、コスタリカに行ったときの報告で、とても示唆に富む話を紹介しています。
ちょっと長いですが、折原さんの報告(「AMAZON 2019年2月号「今日のコスタリカを築いた方々を訪ねて」」から要旨を引用させてもらいます。
コスタリカの国民にとっては、憲法は極めて身近なところにあって、憲法を使って自分たちの権利を主張して、簡単に裁判に持ち込める。その実例として、町役場が学校のサッカー場の隣に溝を掘り始めて、溝が非常に臭かったため、小学生が憲法裁判所に「これはぼくたちのレクリエーションの権利を侵害している」と訴え、裁判所が町役場に「1週間以内に溝を塞ぐように」との判決を出したことを紹介してくれました。
コスタリカでは憲法の役割と国民主権の意味がしっかり認識されているわけです。
日本国憲法が中心に置いている価値はなんなのか。
平和や人権と考える人が多いと思いますが、「平和」も「人権」も時代によって大きく変わってきています。
それに、アメリカの平和はイスラムにとっては平和でないかもしれませんし、自らの人権を守るために他者の人権を踏みにじることで格差社会の人権が成り立つこともある。
いずれも「相対的」な概念なのですから、価値原理にはなりえません。
「個人の尊厳の尊重」こそが日本国憲法の中心価値ではないかと私は思っていますが、これに関しても少し議論がありました。
しかし、その「個人の尊厳」は、自民党の憲法改正案では否定されています。
個人である前に「国民」でなければならないとされているのです。
そういう発想がかつての戦争を可能にしたわけですが、平和とは反転する概念であることをしっかりと認識しなければいけません。
国家は国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるわけではありません。
「国民」とは何かの議論もありましたが、国民は近代国家を支える3要素の一つとして生まれた国家のための要素です。
しかし、国家の3大要素と言われる「領土(領域)」「国民」「主権」のうち、グローバル化の進展で、領土も国民も意味を弱めている中で、国家の意味は失われてきているのではないかという意見も出ました。
もし領土と国民が意味を失ったとしたら、国家はそれこそ支配権力の「主権」を正当化する概念でしかありません。
そうなれば、法律とは全く違うものとしての憲法の意味は大きくなってきます。
ところで、憲法は統治者を制約するもの、法律は被統治者を制約するものと捉えると、どうしても統治者と被統治者の二元対立構造の問題が生じます。
最近の日本ではまさにそういう状況が顕在化しつつります。
そこで重要になってくるのが、第3の存在としての「象徴天皇」です。
私は、天皇は古来象徴だったと思っているのですが、その象徴性こそが「政治性」そのものなのではないかと感じています。
問題は、権力に利用されることもあれば、被統治者の守護神になることもある、それが第3の存在の意味でしょう。
今回のサロンでも、天皇制や天皇に対する好感度は高かったような気がしますが、世間的にもいささか驚くほどに天皇への期待は大きくなっているように思います。
湯島のサロンでは、日本国憲法の最初に「天皇」の規定があることに違和感を持つ人が多いのですが(私もそうでした)、私は最近、その認識が変わりました。
統治者と被統治者が対立した時、革命でも起こさない限り、勝敗は明確です。
権力者と国民の二元対立構造をバランスさせる存在としての象徴天皇の価値はとても大きいのではないか、それこそが日本国憲法の最大の要ではないかとさえ思えるようになってきています。
天皇制に関するサロンをしたらどうかと提案したら賛成する人が少なからずいました。
一度考えたいと思います。
サロンで話されたいくつかのことを主観的にまとめてしまいました。
まとまりはあまりありませんでしたが、私にはとてもいいサロンだったような気がします。
来年の憲法サロンが待ち遠しいです。
■湯島サロン「葬儀や供養に関する自由な話し合い」の報告と次回の案内(2019年5月6日)
葬送や供養にまつわることに関するQ&A型サロンを1~2か月に一度くらいの頻度で開催しています。
前回(第2回)は4月28日に開催、10人ほどの人が参加しました。
いろんな話題が出ましたが、戒名に関する質問も多かったので、次回は主に戒名に焦点を当てることになりました。
ただし、あくまでもこのサロンの目的は「葬儀や供養に関する何でも相談と自由な話し合い」ですので、戒名に特定するわけではありません。
ただ最初に中下さんから、戒名にまつわる話をしてもらいますので、戒名にご関心のある方は是非どうぞ。
なお、中下さんを中心に検討中の「新しい葬儀事業」は、体制がほぼ整ったので、活動を開始します。
関心のある人は、個別に私もしくは中下さんにご連絡ください。
〇日時:2019年5月26日(日曜日)午後1時〜午後3時
〇場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:今回は「戒名」を主に取り上げますが、それに限りません。
参加者のご関心や質問を中心に話し合いをしていく予定です。
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」報告(2019年5月9日)
過労死をテーマにした2回目のサロンには10人を超える人が参加しました。
小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)は問題の背景などを話してくれた後、参加者に3つの問いかけをしました。
「業務における過重な負荷」
「業務における強い心理的負荷」
「そのような就労環境」
これに関して話し合おうということになりました。
ところが最初から、過労死問題の捉え方に関する根本的な問いかけが出されました。
昨今の過労死問題や働き方改革は「雇用労働」に焦点を絞りすぎているのではないのか、過労死は個人営業やフリーワーカーの人たちにも発生している、というのです。
そして波乱万丈のサロンになっていきました。
そんなわけで、さまざまな話題にとびましたが、そのおかげで、「労働」を超えた社会のあり方や私たちの生き方へと視野は広がり深まったと思います。
そして、小林さんの問いかけにも深い意味でつながっていったように思います。
少し具体的な話を紹介すれば、時間以外の要素にもっと目を向けるべきではないかという意見が多かったです。
納得できていない仕事と納得して取り組んでいる仕事とでは同じ労働時間でもまったく違うのではないか。
個人で仕事をしている人たちの労働時間は場合によっては雇用労働者の残業時間よりも長い場合もあるが、だからといって過労死が問題にならないのはなぜか。
働かされているのか、働いているのかで違うのではない。
ILOが取り上げているディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)や雇用労働と協同労働の話もでました。
日本には、組織を辞める自由が少ないし、辞めることを恥と思う文化もある。
本人が自分に負荷をかけている面もあるのではないか、といった日本人の考え方や生き方の話も出ました。
組織のため、会社のために働いていることが問題ではないか。
かつては、会社のためと自分のためとがつながっていたが、いまは切り離されてしまった。
もっと自分の生活を起点に考えることが大切ではないか。
お金に縛られすぎているのではないかという話もありました。
そうならないように、いろいろな人のいろいろな生き方を知ることが大切だという指摘もありました。
過労死に向かってしまう人は、自分が見えなくなってしまう。
家族などのまわりの人が忠告してもわかってもらえない。
そういう時に、相談に乗ってくれる人や、気づかせてくれるような場や仕組みがほしい、と遺族の方からの体験談もありました。
企業でもカウンセラーや相談窓口をつくっていますが、当事者目線での仕組みがまだ不十分のようです。
これは過労死に限ったことではありません。
働き方改革の動きが、逆に労働条件が悪化させる危険性もあるという指摘やそもそも「正規」「非正規」という働く人たちを分断しているのが問題ではないかという指摘もありました。
過労死問題の原因は3つ。90年代に外資系コンサルが日本人の働き方を変えたこと、日本人の好きなスポ根文化、そして日本人の帰属意識重視文化だという指摘もありました。
さらには、教育の問題やセイフティネットまで、書き出していったらきりがないほど、いろんな話が出ました。
「過労死問題が問いかけるもの」は労働や企業だけにはとどまらないのです。
私は、経済ではなく生活を基本にした社会に変わっていくことが必要ではないかと思いますが、そのためにはまず私たち一人ひとりが自分の生活を大切にしていくことではないかと思います。
過労死は、社会のあり方を象徴している表現の一つです。
制度的な対策も必要でしょうが、私たちの生き方や社会のあり方に根差している。
そのためにはまず、いろんな生き方があることやいろんな世界があることをもっとみんなに知ってほしいと思います。
それが湯島でサロンを続けている理由の一つなのです。
生き方として何に価値を置くか。自分が価値があると認められることのために働くことは楽しいことです。
働くことは楽しくなくてはいけないと思っている私としては、働くことは生きることなので、過労死という捉え方にはそもそも違和感があります。
私たちはいったい「何のために」働いているのか。
そこから問い直さないと「働き方改革」は、事態をさらに悪化させていきかねない。
改めてそう思わされたサロンでした。
最後に小林さんが、こういう議論を広げていくためにも、秋に公開フォーラムを開催したいという提案をしました。
有志で実行委員会を立ち上げることを検討したいと思います。
一緒に取り組みたい方は、ぜひゆるやかな実行委員会のメンバーになってください。
ご関心を持っていただけたら、私にご連絡ください。
■湯島サロン「また行くの?被災地に集う懲りない面々」のご案内(2019年5月16日)
東日本大震災から8年以上がたちました。
8年たって、何が変わったのか。何が変わらなかったのか。
湯福島の原発事故にまつわるサロンは何回かやってきましたが、もっと広い視点で被災地がどう変わってきているかを取り上げたのは震災直後だけでした。
そこで今回、震災以来ずっと定期的に東北被災地に通っている、普通のサラリーマンの徳永さんに、自らの見聞や体験をもとに、自由に被災地やそこに今なお集まってくる人たちの話をしてもらおうと思います。
そもそもなんで会社に勤めながらも、8年もの長きにわたって被災地に通っているのか。
そして、その8年間で何が変わってきているのか。
被災地や被災地の住民や、なによりも徳永さん自身が、です。
また通っていることで日本社会の実相やその変化も見えてきているのではないか。
そんな徳永さんの8年の体験談を聞きながら、自分の生き方を考えてみたいと思います。
徳永さんと私は、さほど付き合いがあるわけではありません。
しかしこのテーマのサロンを徳永さんに頼んだのは、徳永さんが被災地通いを自分の生活の一部にしているように感じたからです。
徳永さんの被災地での活動の話を実際に聞いたことはありません。
でもいわゆる「(肩に力の入った)ボランティア活動」とは違うような気がしています。
なにしろ徳永さんは、私と同じように、普通を生きている人だからです。
それに徳永さんと話していると楽しいのです。
まあ徳永さんを囲む雑談会になるかもしれませんが、そうした場でこそ、真実が見えてくると思っています。
少なくとも、東北被災地の実相に触れられると思います。
気になりながら被災地に行けずにいる人はもちろん、気になっていない人も大歓迎のサロンです。
参加ご希望の方は、事前にご連絡ください。
〇日時:2019年6月29日(土曜日)午後1時半〜午後4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「また行くの?被災地に集う懲りない面々」
○問題提起者:徳永武史さん(音楽好きのサラリーマン)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「日本書紀と『天下論』」のご案内(2019年5月17日)
万葉集サロンが動き出していますが、並行して、日本書紀や古事記に関するサロンも不定期に開催することにしました。
そうしたもののなかにこそ、いまの私たちの生き方への示唆があるように思うからです。
単に過去を振り返る知識のためではなく、いまにつなげる形で、取り上げていければと思います。
第1回は、増山博康さんにお願いして、「日本書紀と『天下論』」をテーマにしました。
増山さんは、半農半X人生を提唱し、自らもそうした活動を支援する見沼菜園クラブを主宰しながら、ニャンニャン神学研究会という私には理解不能な会も主宰しています。
しかし、そこで語られている増山さんの論考は、独自の視点があって、とても面白く示唆に富むものです。
今回のサロンに関する増山さんからのメッセージを下記します。
池波正太郎の真田太平記に大阪夏の陣で徳川方についた真田信綱(幸村の兄)のセリフとして、「徳川と豊臣、どちらが天下のためになるとお思いか?」と言うのが出てきます。
信長の天下静謐のため、禁裏(朝廷)、将軍の御用を務める問いうセリフもそうですが、「天下」と言う概念があって、その天下に奉仕する者が天皇・将軍・関白・太閤などと呼ばれる存在であると言う論理に立っています。
南北朝時代に書かれた神皇正統記には、「天下の萬民は神物なり」と書かれており、西欧的な民主主義とは違うかもしれませんが、天下を取る者は天下の萬民に役立つべきであると言う思想が、江戸時代に至るまで発達してきた事が分かります。
この思想の源流を「日本」が出来た時の記録である「日本書紀」に訪ね、考えていきたいと思います。
こう書くといかにも難しそうに感ずるかもしれませんが、もしかしたら話は、日本書紀に描かれているハツセベワカタケルの臣下の美人妻強奪事件から始まるかもしれません。
天下人であるなら、臣下の美人妻を取り上げてもよいのかという問いかけです。
というわけで、どんな展開になるか、予想できないサロンですが、面白い話がたくさん出てきそうです。
平日の夜ですが、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年6月5日(水曜日)午後7時〜午後9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本書紀と『天下論』」
〇問題提起者:増山博康さん(ニャンニャン神学研究会代表)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「石牟礼道子から水俣を考える」のご案内(2019年5月19日)
水俣を語る石牟礼道子さんは今もなおテレビや書籍で話題になっていますが、水俣病そのものは次第に忘れられつつあります。
水俣病が社会に問題提起したメッセージは、実に多岐にわたるのですが、それがしっかりと受け止められているとは思えません。
石牟礼道子さんが亡くなって「殿堂入り」した反面、石牟礼道子さんが問題にした水俣病そのものは切り分けられ、過去の遺物として忘れられようとしています。
私自身も、そういう流れに引き込まれそうになっていました。
それを気づかせてくれたのが、文芸評論家の岡和田晃さんです。
そこで岡和田さんに頼んでサロンを開くことにしました。
岡和田さんは多方面で活動している若い文芸評論家です。
https://akiraokawada.hatenablog.com/about
私が「文芸評論」ということを少し理解できたのは、岡和田さんの著書「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」を読ませてもらったおかげです。
岡和田さんは、水俣に深く関わってきたわけではなく、あくまでも文学を通じて思考の対象としてきたようです。
岡和田さんにサロンを頼むなら、アイヌの問題かSFかゲームかだと思っていましたが、岡和田さんが最近、河出書房新社版ムック『石牟礼道子 さよなら不知火海の言霊』に寄稿した石牟礼道子論(「石牟礼道子という表現運動(ドキュメント)」)を読ませてもらって、岡和田さんに水俣を話してもらいたくなりました。
現代という社会の中で、水俣を考えさせてもらえそうだからです。
あるいは、水俣を超えて、水俣病が顕在化した今の社会のありよう、さらには、政治や文学の話にまで広がるかもしれません。
言葉を専門とする岡和田さんの石牟礼道子論にも興味があります。
そこで、ぶしつけにお願いしたところ、引き受けてもらえました。
どんな話が展開されるか楽しみのサロンです。
このところ湯島のサロンでも2回ほど、水俣が話題に出ましたが、改めて水俣を思い出したい人、あるいは新たに水俣を知りたい人は、ぜひご参加ください。
いつもよりちょっと長いお話を岡和田さんにはしてもらおうと思います。
なお、できれば、河出書房新社の『石牟礼道子 さよなら不知火海の言霊』をあらかじめお読みください。岡和田さんの論考以外にも興味あるものが多いです。
参加ご希望の方は、事前にご連絡ください。
〇日時:2019年6月22日(土曜日)午後1時半〜午後4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「石牟礼道子から水俣を考える」
○問題提起者:岡和田晃さん(文芸評論家)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■自動車に甘いのは経済成長のため?(2019年5月19日)
87歳の公益財団法人評議員会議長で旧通産省工業技術院の幹部だった人が起こした池袋での母子殺傷事件の遺族が、再度行った運転者に呼びかける記者会見を見ました。
その行動に感動します。
当日は、加害者は任意での事情聴取に出かけましたが、途中、記者団への問いかけにほぼ無言でした。
私には信じがたい情景で、この人は謝罪や反省などとは無縁の人なのだなと感じました。
この事件を契機にして、高齢者の運転免許返納が増えているそうですし、マスコミでも盛んに取り上げられています。
しかしたぶん何も変わらないような気がします。
新聞の投書欄でも、高齢者の運転に関する議論が盛んですが、すぐにまた収まるでしょう。
そして事態は何も変わらない。
数年前に、飲酒運転事故が騒がれて、大きな問題になったことがあります。
その結果、危険運転致死傷罪もできて、処罰が厳しくできるようになりました。
しかし、その後、果たして飲酒運転は減ったのか。
私には相変わらず事態は何も変わっていないように思えます。
なぜなのか。
基本的な発想の問題だろうと思います。
私の感覚では、飲酒運転で殺傷事件を起こした人の免許は未来永劫はく奪すべきだと思います。
高齢者の運転免許は、人によって違いはあるでしょうが、80歳(たとえばですが)で免許停止にすべきだと思います。
年齢で制限するのはおかしいという意見がありますが、だとしたら3歳の子どもにも運転する権利を与えるべきですし、ましてや基本的人権を年齢で制限するべきではありません。
自分はまだ大丈夫だなどというばかげた主張がありますが、今回の加害者もそう思っていたのです。
そう主張する人は、今回の加害者と同じ世界にいる人でしょう。
しかし、なぜそんな簡単なことができないのか。
そこに経済成長志向の思考があるからではないかと私には思えます。
これは、自動車に限ったことではありません。
日本の経済成長を支えている「産業」すべてに言えることです、
その典型はやはり「原発」でしょう。
あるいは「医療」や「教育」もそうかもしれません。
明らかにおかしいと思われることがあっても、「医療」や「教育」に関しては、なかなか事態は変わりません。
さらにそれを支えている文化の問題もあります。
私たちは、いまは生活者ではなく消費者であり、労働者です。
未だに消費者運動や労働者運動が残っていることに、私は大きな違和感がありますが、その運動に大義を与えている経済の論理から言えば、交通事故は「顧客の創造」でもあるのです。
そろそろ「顧客の創造」が経済の出発点であるなどという発想を反転させるべきではないかと思います。
■善く統治されるか悪しく統治されるかによって、我々の生活は違ってくる(2019年5月23日)
政治家たちの暴言がつづいています。
そこに現在の日本の政治状況の実相を感じますが、最近読んだデイヴィッド・ミラーの「はじめての政治哲学」の冒頭に、14世紀に描かれた「善き統治と悪しき統治の寓意」と呼ばれているフラスコ画の話が出てきます。
ウィキペディアでその絵を探してみました。
1枚は「善き統治」、もう1枚が「悪しき統治」です。
デイヴィッド・ミラーは、政治哲学とは何であり、なぜ政治哲学が必要なのかを理解するには、この絵をじっくりとみる以上にいい方法はないといっています。
この図から、善き統治と悪しき統治が人間の生活の質に深く影響を与えることが読み取れると、ミラーは書いています。
なるほどと思い、今朝もこの絵をじっくりと眺めていたのですが、私にはあんまり読み取れません。
やはり14世紀のヨーロッパとは異質な文化に生きている私には、理解できないのでしょう。
ミラーはこの絵からいささか強引と思えるのですが、次の結論を引き出します。
我々が善く統治されるか、もしくは悪しく統治されるかによって、我々の生活は本当に違ってくる。政治に背を向け、私的な生活へと退却し、我々が統治される仕方は自分の私的な幸福に大した影響を与えないだろう、と思い描くことはできない。
そういわれれば、納得できます。
「我々が統治される仕方」は、私たちの生活を大きく決めているのです。
ちなみに、この絵は、シエナ市庁舎内のサラ・デイ・ノーヴェ(9人の間)の壁画だそうです。
当時、シエナは9人の裕福な商人からなる評議会が統治する共和主義政体でしたが、評議会の人々はシエナの民衆に対する責任を思い起こさせるために、そして自らが行う共和制への誇りのために、この絵の前で統治を行っていたのです。
間違いなく、当時のシエナには、善き統治が行われていたのでしょう。
そして、それを支えていたのが、シエナの民衆だったのでしょう。
政治家たちの暴言がつづいているのは、日本の現在の政治状況、つまり統治の実相を象徴しています。
日本の政治家にも、この絵をじっくり見てもらいたいですが、その前にまず、私たちも私的な生活に退却して、政治に背を向けることだけは避けたいものです。
日常化してしまった政治家の暴言の根っこは、たぶん私たちの政治感覚にあるのでしょう。
「令和」であんなに騒いでいる人たちを見ると、つくづくそう思います。
シエナでは、評議員のためにフラスコが置かれましたが、いまの日本では国民のために「令和」と言う言霊がかぶせられてしまいました。
なんだか先行きが決められたようで、さびしいです。
しかし、ミラーはこうも言っています。
統治の形態は大衆にも選択の余地がある、と。
政治を語り合う「茶色の朝」シリーズのサロンをまた再開しようと思います。
■第2回万葉集サロン「万葉に開かれて行く〈見る〉古代」の報告(2019年5月28日)
講座型万葉集サロンの第2回目は、「見る」の呪的意味から、倭大后(天智天皇の皇后)と額田王の歌を中心に、万葉的拡がりを追って、「見る」から「個へ」の誕生を感ずるサロンでした。
10人を超す参加者がありました。
最初に作者不明の2種の歌から入りました。
花細(ぐわ)し葦垣越しにただ一目相(あい)見し児ゆゑ千度嘆きつ
ここでの「見る」は恋につながっています。
古代では、見ることは「愛」や「思い」を伝える行為だったそうです。
そこから、「見る」と言うことのもつ呪詞・寿詞の力と「見るな」の禁忌の話。
黄泉の国に亡き妻を取り戻しに行ったイザナギが、妻を見てしまったために失敗した話。
国土を賛美しての予祝儀礼としての国見歌の「見れば…見ゆ」の話と広がりました、
「見る」ことで、豊かな明日が発現してくるわけです。
それぞれだけでも1回分の内容がある歌ですが、こうしてつなげて読んでいくと、升田さんが意図した「個」の誕生が伝わってきます。
とまあ、こういうように紹介しても、参加されていない人には何が何だかわからないかもしれません。
そもそも講座型サロンの報告に無理があるのかもしれません。
参加者の中に、日本神道の立場から万葉集を読み解いているグループの人が2人参加していましたが、そこでの捉え方と升田さんの捉え方の違いが面白かったという意見もありました。
いつか、神道的立場からの万葉集の話もしてもらえるかもしれません。
多賀城市で、万葉を読みあっている人も参加してくれました。
万葉を読み解く活動は各地で行われているようです。
そこでどんなことが行われているのかにも興味があります。
どうも万葉の心は今なお健在のようです。
升田さんは、文字で読むのではなく、詠んでもらってそれを聞くのがいいといいます。
また理解しようとせずに、直感で受け取るのがいいとも言います。
ということで、いつか、升田さんの万葉集朗誦のサロンもやってみたくなりました。
今回は琵琶奏者が参加していましたので、彼女に琵琶を奏でてもらうのも面白そうです。
ちなみに、升田さんも琵琶を演じますので、升田さんの弾き語りもあり得ます。
「見る」ことと「詠む」こと、そして「言葉」へと、どうしてスタイルが変わってきたのか。
最初の言葉は、歌だったのではないか。
私としては、そんな議論もしてみたかったのですが、急ぎすぎてはいけません。
しかし、次回はますます楽しみになりました。
報告は難しいので、次回からは録画しようと思います。
升田さんが承知すれば、の話ですが。
■湯島サロン「葬儀や供養に関する自由な話し合い」の報告(2019年5月28日)
葬送や供養にまつわることに関するQ&A型サロンを1~2か月に一度くらいの頻度で開催しています。
2回目は「戒名」をメインテーマに取り上げました。
最初に、中下さんから、戒名の意味などに関して、宗教民俗学の資料「人の一生と霊魂の浄化」の図もつかいながら、わかりやすく話してもらいました。
また、現在の日本人が、葬儀の必要性や葬儀の形式をどう考えているのかを、調査データに沿って解説してくれました。
葬儀について本人を交えて事前に話し合いをしていますかという質問に、1/3以上の人が話したことがあるという調査結果は意外でした。
中下さんの話を聞いた後、Q&Aサロンに入りました。
「戒名」に関しても、その意味はあまりきちんとは理解されていないケースが多いように思いますが、こうしてしっかりと話を聞くと、問題は、その仕組みをどう活かすかということが大切だなと気づきます。
参加者の一人も、こうしたことをほとんど知らずにいたが、いろいろと知っていくと、葬儀や供養に関しても、考え方が変わってくるという話をされました。
なかには、自分の葬儀に関する方法は決めていたが、何回か話を聞いているうちに、もう少し考え直そうかという気になってきたという人もいました。
せっかく長い時間をかけて育ててきた、日本古来の「死の捉え方」を、私たちはもっと学ぶことで、生き方もまた変わるような気がします。
Q&A型サロンは、毎回、同じような話も出ますが、Q&Aを通して、毎回新しい気づきがあります。
しばらくは継続していく予定です。
何かテーマをご希望の方がいたらご連絡ください。
次回は、6月29日(日曜日)の午前10〜12時を予定しています。
一度、お墓の話をしてもらった篠田さんにも参加していただき、お墓の話と供養の話を中心に、Q&A型サロンを開催する予定です。
また詳細が決まったら改めてご案内させてもらいます。
■湯島サロン「お墓の活かし方をみんなで話しあいませんか」のお誘い(2019年6月7日)
今回の「死の視点から生き方を考えよう」サロンは、お墓と供養をテーマにします。
お墓に関しては、一度、Q&A方サロンでもとりあげ、篠田石材工業代表の篠田さんにお話ししていただきましたが、今回はさらに一歩進んで、お墓を活用して供養を深め、自らの生き方にもつなげていくことはできないかを、みんなで考えてみたいと思います。
現在では、多くの人はお彼岸やお盆などの機会にお墓参りに行くことが中心でしょうが、せっかくのお墓であれば、もっといろんな機能が果たせるのではないか。
つまり、お墓の活かし方について自由に話し合えればと思います。
そこからもしかしたら、新しいお墓のあり方のヒントが見えてくるかもしれません。
お墓は人をつなげる機能も持っています。
かつては、墓地は共同体の要でもありました。
先祖とのつながりはもちろんですが、それだけではなく、仲間や知り合い、思いを同じくする人たちをつなげる機能を持っています。
お墓ではありませんが、最近起こった不幸な交通事故で亡くなった人のところには、たくさんの人が献花に行っています。
テレビで報道されるたくさんの花束を見て、お墓を改めて見直せないかと思います。
人とのつながりが弱まってきている、いまのような時代だからこそ、「お墓」あるいは「お墓システム」を活かしてできることは、たくさんあるように思います。
そんなことを、みんなで話し合えればと思っています。
今回も篠田さんと中下さんには参加していただき、話し合いに参加していただきます。
篠田さんは、100年を超える老舗の石材店の経営者で、お墓を通して、社会の変化や死生観の変化も見てきている人です。
前回参加できなかった人は、お墓にまつわるいろんな疑問も気楽に質問してもらえる時間も作ります。
前回同様、お墓を考えることを通して、生き方を考えるような場にもしたいと思っています。
ぜひ多くの人に参加したいと思っています。
〇日時:2019年6月29日(土曜日)午前10時〜12時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○ゲスト:篠田雅央さん(篠田石材工業代表取締役)
〇テーマ:「お墓の活かし方をみんなで話しあいませんか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■ゾブリスト・プロジェクト(2019年6月10日)
暇で暇で仕方がなかったので(やることがないのではなくやる気が出ないので)DVDで、ダン・ブラウンの「インフェルノ」を見ました。
「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」に続く、ロバート・ラングドンものですが、なぜか急にまた観たくなりました。
生物学者ゾブリストが人類増加問題の解決策として恐ろしい伝染病を世界に広めようとし、それをラングドンが止めるという話です。
ゾブリストは、その活動を始める前に、WHOに、飲料品に不妊薬を入れることによって、人口増を抑制しようと提案しています。
WHOはその提案を受け入れませんが、その場面を見て、もしかしたら実際には、すでにゾブリスト・プロジェクトは始まっているのではないかと思ってしまいました。
最近は、日本でも除草剤グリホサートが問題になりだしていますが、これはほんの氷山の一角でしょう。
湯島のサロンでも一度発言したことがありますが、日本では少子化対策ではなく少子化促進策が進められていると私は感じています。
そういう日頃の思いとゾブリストの発言がつながってしまいました。
なんだかとても暗い1日になってしまいました。
5人に1人が認知症とか老後の生活に2000万円必要だとか、130/90を超えたら高血圧だとか、私にとってはまったくばかげたとしか思えない話が飛び交っていますが、それも含めて、ゾブリスト・プロジェクトは着々と日本を標的に進められているのではないかという妄想に襲われています。
暗い時代にならなければいいのですが。
雨の日は元気が出ません。
■湯島サロン「限定無税財政論」のお誘い(2019年6月17日)
久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田文彦さんのサロンを開催します。
今回は、財政赤字を解消する方法として、武田さんが考えた「限定無税財政論」の提案です。
武田さんらしい、いささかアクロバティカルな構想ですが、その提案を議論することからいろんなことが見えてくるはずです。
その構想を簡単に言えば、「全予算を税ではなく国債発行に置き換えることで財政を根本的改善できる」というものです。
ただし、無税にするわけではありません。
税の徴収方法を根本から変える仕組みとセットになった提案です。
具体的にはサロンで話してもらおうと思います。
参加される方には、この問題に関する武田さんの小論を送りますので、読んできてもらえればと思います。
事前に読んでもらえれば、反論や疑問もたくさん出てくるでしょう。
ですから武田さんの提案をただ聞くだけではなく、それを材料に侃侃諤諤の話をしようと言うサロンです。
どんな議論になるか、いささか心配ですが、発想転換のヒントが得られるかもしれません。
みなさんの参加をお待ちします。
〇日時:2019年7月6日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「限定無税財政論」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「二宮尊徳に学ぶまちづくりと生き方」のお誘い(2019年6月18日)
2年前に露木さんに「二宮尊徳の実像から見えてくるもの」をテーマにサロンをやってもらいました。
とても刺激的なサロンでしたが、実践の人である露木さんの活動をもう少し詳しく聞きたいと思いながら、2年がたってしまいました。
露木さんは、その時のサロンで、「大切なことはやったかどうかだ」という尊徳の言葉も紹介してくださっていましたが、その言葉もずっと心に残っていました。
そこで、もう一度、露木さんにサロンをお願いすることにしました。
今回は、露木さんご自身の活動を中心にして、尊徳の思想と実践改めて考えていきたいと思います。
露木さんは、神奈川県開成町の町長時代に、尊徳から学んだことを実践に移して、独自のまちづくりに取り組み、子供が増える町を実現してきた実績があります。
町長を辞めた後も、社会とかかわりながら、尊徳思想の実践普及に取り組んでいます。
そうした活動をつづけている露木さんの生き方にも学ぶことがたくさんあります。
残念ながら、二宮尊徳の実践については、私たちはあまり知らないように思います。
尊徳の実践原則は、至誠、勤労、分度、推譲の4つだといわれていますが、それを全体的にきちんと理解している人はそう多くないでしょう。
いやその前に、二宮尊徳という名前さえも知らない人も増えてきています。
知っている人でも、何となく前近代的なイメージで過去の人と思っている人も多いでしょう。
しかし、露木さんはいまこそ、そしてこれからこそ、尊徳から学ぶことは多いというのです。
そして自らそれを実践して、成果を上げてきています。
そのあたりを改めて今回はじっくりとお聞きしたいと思います。
もしかしたら露木さんの、これからの活動の話も聞けるかもしれません。
いまの社会に閉塞感をお持ちの方にはぜひ参加していただきたいサロンです。
なお、前回のそのサロンの報告は下記にあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2017/04/post-c5cd.html
〇日時:2019年7月14日(日曜日)午後1時半〜午後4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「二宮尊徳に学ぶまちづくりと生き方」
○問題提起者:露木順一さん(大学教授、元開成町長)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「自殺未遂者からのメッセージ」報告(2019年6月18日)
刺激的なタイトルのせいか、参加者は6人だったのですが、逆にしっかりと自殺未遂者の吉田さんの話をお聞きできました。
参加者も、このテーマであればこそと参加してくださった方ばかりだったので、とても意識がそろって、重いテーマであるにもかかわらず、気持ちのいい話し合いができたように思います。
参加者のみなさんにとても感謝しています。
話し手の吉田さんも、とてもいい時間を過ごせたと喜んでくれました。
吉田さんは辻説法スタイルでやってきました。
吉田さんが「ウォーキング・パネル」と名づけている特注のバナーを、首を通して前後にぶら下げるスタイルです。
バナーには目立つデザインで、自殺防止・うつ病予防対策に関する呼びかけなどが書かれています。
これで街中を歩いたら、さぞかし目立つことでしょう。
サロン終了後、吉田さんと一緒に少しだけ歩きましたが、それなりの勇気が必要です。
自殺の問題への関心は高まり、いろいろな活動が広がっていますが、自殺未遂者の集まりはあまりなく、その声もなかなか聴いてもらえないというのが、早くから自殺未遂をカミングアウトして活動している吉田さんの不満です。
本気で自殺問題に取り組むのであれば、なぜもっと自分たちの声を聞いてくれないのか。
政治家やマスコミにいろいろ働きかけていますが、吉田さんの思いはなかなか届かない。
それには理由があるはずですが、その理由を明らかにして、もし解決できるのであれば解決していきたい。
そう思っての、今回のサロンでした。
サロンはまず、なぜ自殺を試みたかと言う、吉田さん自身の話から始まりました。
自らの悩みがなかなか分かってもらえず、狂言自殺を試みたこと。
それで入院することになったが、入院した途端に、鬱状況から躁状況になってしまい、ある日、突発的に窓から身を投げてしまったこと。
奇跡的に一命を取り留めたが、そこから「自殺未遂者」としての大変さに出会っていくこと。
カミングアウトし、自殺防止活動に取り組んでいるが、世間の差別意識に直面して、不快な思いをすることも少なくないこと。
口では立派なことを言っている政治家も有識者も、一人の未遂者の声にはなかなか耳を傾けてくれないこと。
などなどをあっけらかんと話してくれました。
そして、今年81歳を迎えるのを機に、取り組もうとしている「辻説法」の話もしてくれました。
自殺を体験した前後で、どういう意識の変化があったかという問いかけから話し合いが始まりました。
自殺前、吉田さんは企業を経営していましたから、どうしたら会社がうまくいくか、ということばかりに頭がいっていたといいます。
しかし、自殺未遂を通して、人との関係や社会のことが見えるようになってきたそうです。
だから、いまは自分にとって一銭の利益にもならない社会活動を、身銭を切ってするようになったといいます。
いま、「魂の語り部」と自称しているところにも、吉田さんの人生観が変化したのを感じられます。
自分の命も、自分だけのものではないという意識も出てきたそうです。
自死遺族の人たちは集まりをつくって、グリーフケアや社会への働きかけをしていますが、自殺未遂者のそうした活動がないのはなぜかという話題も出ました。
自死遺族は「悲しみ」によってつながれるでしょうが、自殺未遂者はお互いをつなぐものがみつからないからではないかという意見も出ました。
たしかに自殺未遂の体験は人によってさまざまです。
それに吉田さんのようにカミングアウトする人も少ない。
しかし、体験者の声を聞くことから見えてくることもあるはずです。
ですから、吉田さんは自殺未遂者の集まる場所もつくりたいと考えています。
もし自殺者を減らしたいのであれば、未遂者からもっとしっかりと取材し、その体験を活かしてほしいと吉田さんは言います。
しかし自殺未遂者の人たちは、周囲の人も含めて、その事実を語りたがらないばかりか隠そうとする。
だからこそ、そうした当事者の声が大切なのではないか。
自殺問題を外から語ることも大切ですが、当事者の声にもっと耳を傾けてほしい。
吉田さんは、そういう思いから、未遂者や企図者が安心して話せる場が欲しいといいます。
しかし、その一方で、吉田さんは未遂者として何を社会に語ればいいのかがまだうまく言語化できていないようにも感じます。
だからこそ、同じ体験をした人たちと話し合ったり、外部の人たちに自分のことを聞いてもらい話し合ったりすることが必要だろうと改めて思いました。
今回のサロンを契機に、そうした吉田さんの思いが実現するように、私もまた考えようと思います。
吉田さんの話を聞きたい方はぜひ吉田さんに声をかけてください。
そして吉田さんの思いが実現するように、力を貸してもらえればうれしいです
■湯島サロン「石牟礼道子から水俣を考える」報告(2019年6月25日)
岡和田晃さんの「石牟礼道子という表現運動」(河出書房新社版ムック『石牟礼道子 さよなら不知火海の言霊』収載)を切り口にしたサロンには、11人の参加がありました。
最初に参加者それぞれのこのテーマへの関心が簡単に表明されました。
みんなそれぞれに「水俣」への思いがあると思いますが、私も含めて、やはり水俣は過去のことになってしまっていることを感じました。
岡和田さんのメッセージは、一言で言えば、石牟礼道子さんは「殿堂入り」したが、水俣病そのものは過去の話として忘れられようとしている。それでいいのか。
そして、水俣病をめぐる「体験」や「闘争」を、「もやい直し」やスピリチュアルなサブカルチャーへと進めるのではなく、いままさに蔓延しだしている差別問題に目を向ける契機にし、改めてその意味を問い直すべきではないか、と。
私にはそう受け取れました。
論文では、石牟礼文学を脱政治化することへの懸念も示されていますが、それは同時に「政治」とは何かという問いかけのようにも感じていました。
サロンは、岡和田さんの問題提起の後、ゼミ形式で進められました。
ところが、最初に問いかけられたのは私でした。
岡和田さんの論文への感想です。
思ってもいなかった問いかけに、私は意表を突かれて、しどろもどろで応じてしまいました。
いつも気楽にみんなの話を聞いていたのですが、今回はどうも成り行きが違いました。
岡和田さんの問いかけに、私は水俣の語り部だったはずの石牟礼さんが主役になってしまい、水俣の生々しい現実がむしろ見えなくなってしまっていることに気づかされた。
しかし、自分が何をすればいいかの答えがなかなか見つからなかったと答えました。
私にとって、理解するということは意識や行動が変わるということですが、どう変わればいいかが見つからなかったのです。
それで、水俣は自分にとっていったいなんなのか、を改めて考えようと思いました。
今回、岡和田さんの話を聞いて、かなり理解できました。
ゼミでは先生への質問は許されるのかどうか知りませんが、窮鼠猫をかむように、「岡和田さんにとっての水俣はなんですか」と逆質問もしてしまいました。
さすがに先生。岡和田さんはその問いを参加者にふりながらゼミを進めましたが、そこでもやはり「水俣」は「過去の話」になっているような気がしました。
もちろんそれぞれのみなさんの今の活動や生き方にもつながっていることは間違いありません。
たとえば、沖縄から参加してくださった方は辺野古の話をし、福島にも関わっている人はスピリチュアルケアの話をしました。
チッソへの反対運動の主役だった被害者の緒方正人さんの「チッソは私であった」という本も話題になりました。
対立ではなく、自らの生き方も含めて、水俣からのメッセージを受け止めることが大切だという緒方さんの生き方に共感していた私は、岡和田さんの論考を読んで、問題を普遍化することの危険性に気づいたのですが、普遍性と個別の問題も話題になりました。
石牟礼さんの「苦海浄土」は、そこでの言葉づかいからして極めて地域に根付いた物語になっていて、日本全体の問題としては書かれていません。
それが生々しさを生み出す一方で、自分の生活とは切り離された「一地方の問題」と位置づけることを容易にしています。
その点が、同時期に話題になった井上光晴の「階級」とは違うと岡和田さんは言います。
万葉集サロンをやってくれている升田さんが、石牟礼さんはコトバの力で「異界」を生み出しており、安易に共感するとその浅さを見透かされてしまうようで怖さがあると話されました。
自分とは隔絶された異界を感ずる。しかし、そこから別の異界も含めて、自分の世界を広げていくことができる、とも言いました。
そして、折口信夫の「うぶすな」と「浄土」の話もしてくれました。
私自身は、異界からのメッセージとして強い問題提起をしていた水俣が、次第にその普遍性が可視化されることによって、問題発信力を弱めてきていることを、岡和田論文から気づかせてもらったのですが、どうもこの問題は一筋縄ではいかないようです。
「苦海」と浄土の話も含めて、もう少し考えたいと思います。
「苦海浄土」という言葉にも議論が行きました。
示唆に富む話はまだいろいろとありますが、どうもうまくまとめられません。
幸いに当日の映像記録がありますので、ご関心のある方はご連絡ください。
参加者は無条件に、参加されなかった方は、岡和田さんの了解が得られたらご本人限定でお見せできるかもしれません。
ところで、水俣とは直接関係ないのですが、岡和田さんの次のような2つの発言がとても印象的でした。
どうして文芸批評を続けているのかというぶしつけな私の問いに、岡和田さんは、もう少しましな社会になってもらわないと自分の居場所もなくなりそうだから、と応えてくれました。
しかし、文芸批評を読んでくれる人は少ないでしょう、とさらにぶしつけな問いをすると、多いか少ないかは考えようで、今日も11人の人が集まってくれたが、私はこれを「多い」と思う、と応えてくれました。
こんなに共感できるコトバを聴けるとは思ってもいませんでした。
指名されてうまく応えられずにしょげていた劣等生としては、すごく元気づけられる言葉でした。
ちなみに、ゼミ形式の魅力を感じました。
湯島のサロンでは、これから時々、ゼミサロンを企画したいと思いました。
岡和田さんにはまたぜひゼミを開いていただきたいと思います。
いつもながら中途半端な報告ですみません。
■認知症予防ゲームの解説DVDが完成しました(2019年6月26日)
ほっとスマイルプロジェクトというのがあります。
世界中に「ほっとスマイル」を広げたいという思いで数年前に生まれたプロジェクトです。
いまは毎月、湯島で交流会をやっています。
そこで高林さんの「みんなの認知症予防ゲーム」をもっと広げていくために、高林さんのこれまでの実践の集大成としてのゲーム解説DVDを制作しようということになり、実行委員会が立ち上がり、先月、無事完成しました。
先日、その打ち上げを行い、今月でその実行委員会は解散します。
しかし、ほっとスマイルプロジェクトの交流会はこれからも毎月開催します。
8月には久しぶりに、国際箸学会で開発した「箸技ゲーム」のサロンも開催します。
主催はほっとスマイルプロジェクトです。
認知症予防ゲームの解説DVDに関心のある方はご連絡ください。
いつかまた、このゲームに長年取り組んできた高林さんにもサロンをやってもらおうと考えています。
■百田尚樹現象(2019年6月27日)
家族みんながお世話になっている、いしど歯科クリニックから帰ってきた娘が、私にと石戸さんから雑誌を預かってきました。
雑誌は、6月4日号のNewsweekでした。
特集が、「百田尚樹という社会現象」。表紙は百田尚樹さんの顔。
百田さんには大変失礼なのですが、この顔を見たとたんに拒否感が生じます。
むかし私は朝日新聞社のアエラを購読していましたが、表紙に麻原彰晃の写真が載ったのを契機にアエラの購読をやめました。
雑誌や書籍の表紙は、そのくらい私には大きな影響を与えます。
ですから、石戸さんからでなければ、私はこの雑誌を読むことはなかったはずです。
なぜ石戸さんは私にこの本を届けたのかは、すぐ察しがつきました。
前回私が治療に行った時に、石戸さんの息子さんがノンフィクションライターとして活躍していることを初めて知ったのです。
たぶんどこかに石戸諭さんの寄稿が載っている。
そう思って雑誌を開くと、その特集記事が石戸諭さんによってまとめられていました。
19ページにわたる大特集です。
最後には石戸さんによる百田さんへのインタビューもありました。
正直に言えば、百田さんの記事を読む気にはすぐにはなれませんでした。
しかし、石戸さんのデビュー作『リスクと生きる、死者と生きる』のまえがきとあとがきを読んだ時に、その誠実な人柄が感じられたので読むことにしました。
読み出せるまで1日かかりましたが。
ただ、なぜ石戸さんが百田さんを取材しようと思ったのかにも関心がありました。
読み応えのある特集記事でした。
石戸さんの取材姿勢は、冒頭の「百田現象から見えるのは、日本の分断の一側面であり、リベラルの「常識」がブレイクダウン(崩壊)しつつある現実である」という文章で理解できました。
そして、「百田尚樹とは「ごく普通の感覚を忘れない人」であり、百田現象とは「ごく普通の人」の心情を熟知したベストセラー作家と、90年代から積み上がってきた「反権威主義」的な右派言説が結び付き、「ごく普通の人」の間で人気を獲得したものだというのが、このレポートの結論である」と石戸さんはまとめています。
「普通の人」という表現には違和感がありますが、その趣旨には共感できます。
ただ、「普通」という言葉は、思考を停止させるマジックワード的効果があるので気をつけなければいけません。
それはともかく、石戸さんの誠実な報告には共感したり気づかされたりすることも多かったのですが、この現象、あるいはリベラルな常識の崩壊(私はむしろ「保守」の崩壊と考えています)が、何をもたらしていくのかの展望がもう少し知りたくなりました。
これからの石戸さんの発言に耳を傾けたいと思います。
石戸さんは記事の最後にこう書いています。
長いですが、引用させてもらいます。
とても大切なメッセージだと思いますので
リベラル派からすれば、このレポートは「差別主義者に発言の場を与えたもの」と批判の対象になるかもしれない。だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に「見えない」世界が広がるだけだ。
リベラルが「百田尚樹」を声高に批判しているその裏で、「ごく普通の人たちの憤り」が水面下で根を張りつつある。
「敵」か「味方」かが第一に闘われるようになるとき、分断は加速する。二極化の先にあるのは、先鋭化した怒りのぶつけ合いだ。問題は残り続ける。不都合な現実から目を背けてはいけないのだ。
いささか目を背けがちにしている自分を反省しました。
と同時に、先日の岡和田さんのサロンで、「チッソは私であって」という考えに関連して、岡和田さんから「佐藤さんは、安倍首相は私であった」という考えも受け入れるのですか?」と鋭く追及され、つい「はい、少なくとも否定はできない」と応じてしまったことを思い出しました。
私は映画「永遠のゼロ」も観ましたが、いささか複雑な気分でした。
百田さん原作と言われなければ、もしかしたら受け入れられたかもしれません。
私自身、思い込みの強い人間ですので、百田さんや小泉さん(親子ともども)や野田さん(元首相)や安倍さんの言動には、生理的に拒否感があるのです。
それぞれに理由は違うのですが、百田さんの場合は、その不誠実さ(ヘイト発言に象徴されています)が私には決して受け入れられないのです。
そうした偏狭さの危険性を、石戸さんはメッセージしてくれているように思いました。
「敵」か「味方」、「嫌い」か「好き」かに呪縛されていると、世界は見えなくなります。
そういう人をたくさん知っているのに、自分もそうなっていることに気づかされました。
百田さんの書籍を読む気にはまだなれませんが、映画「永遠のゼロ」をもう一度、観てみようと思います。
併せて、石戸さんの『リスクと生きる、死者と生きる』もきちんと読んでみようと思います。
若い世代から学ぶことはたくさんあります。
■「話す(放す)社会」と「語る(象る)社会」(2019年6月28日)
最近、改めて気になることがあります。
フェイスブックでは、いろんな人が巻き込んでくれるおかげで、いろんなFBコミュニティ(グループ)に登録させてもらっています。
そのおかげで、いろんな人の発言を目にすることが多くなったのですが、その多くが「話す」ことで終わっているような気がしてなりません。
ツイッターがその典型だと思いますが、自らの思いを「放つ」ことで満足する人が多いようです。
私も時に、自分の思いを放ちたくなり、放つことも多いのですが、放した後、つまり話した後いつもちょっと後悔します。
話すとは「放つ」ことで、完結した行為。
むしろ問題に関する自らの思いは弱まりやすい。つまり「消費的な行為」。
語るとは「象る」ことで、創造的な行為。
それによって、新たな思いを背負うことにあり、思いは強まりやすい。つまり「創造的な行為」。
そういう整理をすることもできるように思います。
それに、世の中にヘイトスピーチが多いですが、話すことはどこかでヘイトにつながりかねません。
私が国会デモに行けなくなったのは、あの空間に憎しみに支えられたヘイトを感ずるようになってきたからです。
もちろん、時には「怒り」が大きな力になることはあります。
しかし、日常的に怒りや思いを放っていたら、そこで思いが消費される恐れもある。
ツイッターはもちろんですが、フェイスブックにも怒りや不満を放す(話す)コメントが多いのが、私には気持ちがよくありません。
それに、安倍首相の批判をする人と安倍首相とは、言動がとてもよく似ているような気もします。
こんなことを書くと、また「批判することを否定するのか」と叱られそうですが、批判はっても大切だと思っています。
「怒り」もとても大切です。
ただ「怒りの活かし方」や批判のルールもあると思います。
怒りも批判も新しい価値を生みだすことにつなげていきたいと思っています。
私の基本姿勢は、批判の矛先に自分を含めるようにしています。
それでは勢いが出ないだろうと思われるかもしれませんが、私の場合は逆です。
なぜなら批判することは常に自らの生き方を問い直すことと無縁ではないからです。
言い換えれば、批判によって、自分の世界が広くなる、あるいは新しい地平が象られていく。
語るとはそういうことだろうと思っています。
私の投稿は、いつもそんな思いで書いています。
■第3回万葉集サロン「石見相聞歌に見る柿本人麿の「われ」の世界」のご案内(2019年6月29日)
講座型万葉集サロン3回目は、いよいよ柿本人麿の登場です。
今回取り上げるのは、妻との悲しい別れの歌「柿本朝臣人麿従石見国別妻上来時歌二首併短歌」(通称「石見相聞歌」)の内、巻二131〜133 です。
この案内の最後に書いておきます。
講師の升田さんからのテーマ解説です。
前回は、額田王と倭大后の歌に(漢詩の宴の席、天智天皇殯宮の場)、「他者」に対峙する「われ」を詠む女性たちを垣間見ました。
それは、古代における自己覚醒から形成への道のりのほんの一部分に過ぎませんが、文芸(と言って良いのか問題はありますが)の新しい意識として見ることが可能です。
続いて登場する柿本人麿も、「われ」を長歌にして歌いました。
しかし、人麿の明らかな文芸意識は、前者とは異なる新たな詩(漢詩ではなく)の世界を開いています。
人麿が、主題と枕詞などを多用した表現によって、どのように「われ」の内部へと向かってゆくのかを見たいと思います。
なお、石見で没したらしい(「在石見国臨死時」巻二223〜227)人麿には、石見流罪説、石見刑死説がありますが、その傍証の一つとされている歌でもあります。詳細は不明ですが、人麿は石見と何らかの深い関係があったようです。
升田さんの万葉集への関心の所在が、少しずつ見えてきたような気がします。
自己覚醒から個人形成へと向かう古代人の姿は、もしかしたら今の私たちの生き方にも大きな示唆を与えてくれるかもしれません。
まあしかし、そんなややこしい話はともかく、今回は素直に柿本人麿を楽しめればと思います。
ちなみに4回目も柿本人麿で、近江荒都歌を取り上げる予定だそうです。
かなり専門的な内容をイメージさせたかもしれませんが、このサロンは「万葉集」を読んだことなどない人にも万葉集を楽しんでほしいという升田さんの思いから始まっていますので、どなたでも歓迎です。
講座型とはいえ、サロンですので、気楽にご参加ください。
〇日時:2019年7月20日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「石見相聞歌から見る柿本人麿の「われ」の世界」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
〔参考〕万葉集巻二131〜133
131
石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺をさして にきたづの 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹(いも)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万(よろず)たび かへりみすれど いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲ふらむ 妹(いも)が門(かど)見む なびけこの山
132
石見のや高角山の木の間(このま)より我が振る袖を妹(いも)見つらむか
133
笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
■湯島サロン「緊急開催? 解剖!東アジアの秘密?なぜトランプは金正恩に会いたかったのか!??」のお誘い(2019年7月1日)
トランプ大統領が北朝鮮に足を踏み入れた映像がテレビをにぎわせています。
それを見ていたら、中嶋一統さんからこんなメールが届きました。
今日のトランプ、金正恩電撃会談を見て、俄然陰謀論サロン2回目の開催に意欲が湧いてしまいました!
となれば、もうやるしかありません。
しかも早い方がいいといって日程も提案してきました。
実はその前日にもサロンが予定されているのですが、参加者はかなり違うからということで、7月15日に開催することにしました。
中嶋さんは、別に陰謀論の信奉者ではありません。
1回目のサロンに出た人はおわかりだと思いますが、「陰謀論」こそ陰謀の一つではないかと、世間に広がっている「陰謀説」にはクールに接しています。
同時に、その周辺にある情報に関しては、精力的に消化していますし、柔軟な発想で、独自の考えもお持ちになっています。
どうして今回の報道にこんなに強く反応したのか私も理解できていませんが、何やらいろいろと情報発信したいことがありそうです。
どんな内容になるかは私にはわかりませんが、きっと刺激的なサロンになるだろうと思います。
三連休の最後の日ですが、よろしかったらぜひご参加ください。
〇日時:2019年7月15日(月曜日・祝日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「解剖!東アジアの秘密?なぜトランプは金正恩に会いたかったのか!?」
〇話題提供者:中嶋一統さん((「陰謀論」研究家/社会起業家/実はBtoCヒット商品コンサルタント)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「お墓の活かし方をみんなで話しあいませんか」報告(2019年7月2日)
今回もたくさんの示唆を得られたサロンでした。
最初に、篠田石材工業代表の篠田さんが示唆に富むお墓の事例をたくさん紹介してくれました。
今回私が一番刺激を受けたのは、川島なお美さんのお墓の話でした。
そのお墓は、麻布にある賢崇寺にあるそうですが、同じ一画には、俳優の奥田瑛二さんや作曲家の三枝成彰さんもお墓をつくる予定なのだそうです。
というのは、川島さんは、生前、親交のあった人たち10人ほどで、“墓友”を結成し、「賢崇寺のお墓をそれぞれが買って、そこにお墓をつくり、残った人が花を供えたりしよう」などと話し合っていたのだそうです。
一家族ではなく、複数の家族、あるいは数名の仲間が、ひとつの墓ではなく、それぞれのお墓を隣り合わせに建てるという構想です。
亡くなった後もみんなでのお付き合いができると考えてもいいでしょう。
誰かの命日にはそこに集まり、生きている人同士の付き合いを深められますし、死者とのきずなも消えることはありません。
これは、「お墓」とは何かを考える上でとても大きな示唆を含んでいると思います。
篠田さんは、墓石とは、見える部分より、見えない部分にこそ不思議な力が隠されているといいます。
篠田さんはいろんなお墓の事例を紹介してくれましたが、それを聞いていて、私もそう感じました。
前回と同じく、篠田さんは「自分のご先祖様は何人ですか?」と問いかけました。
そして今回は「ご先祖さまシート」というのを紹介してくれました。
自分の名前が一番上にあって、その下に両親の名前、さらにその下に両親の両親の名前…とどんどん書いていくシートです。
普通の家系図とは上下が逆ですが、このシートを見ていると先祖感覚がはっきりと意識できます。
これに関しては、もしかしたらまた篠田さんに「先祖のことを考える」サロンをやってもらえるかもしれません。
篠田さんの後、中下さんが講の話をしてくれました。
講の多くは、生きるための仕組みなので、お墓とのつながりは見えなくなってきていますが、葬儀やお墓は講のかなめになるかもしれません。
最近正面から取り上げていないので、また取り上げたいと思います。
話し合いでは、墓じまいや仏教のお墓とキリスト教のお墓の仕組みの違いなども話題になりました。
またお墓は複数あってもいいのかというような話もありました。
私自身は、これまでの宗教のルールに呪縛されずに、むしろ個人の信仰や生き方をベースにした葬送の仕組みの要として、お墓というものを考えていければと思っています。
私が目指しているのは、生者も死者も支え合う形でつながるコミュニティですが、そういう視点で「墓」というものを活かしていきたいと思っています。
今回は、しかし、大きなミスをしてしまいました。
篠田さんの墓友の話や中下さんの講の話にいろんな要素が含まれていたこともあって、それぞれの参加者のアイデアを引き出すことを忘れてしまったのです。
進行役の私のミスです。
すみません。
またいつか今度は参加者がそれぞれの墓の活かし方を出し合うサロンを企画したいと思います。
■湯島サロン「災害ボランティアのハードリピーターのできるまで」報告
1995年の阪神淡路大震災の時、勤めている会社に申し出て被災地ボランティアに行ったのが契機になって、以来、25年間、各地の被災地でも復興ボランティアを続けている徳永さんにお話ししてもらいました。
徳永さんは、私もよく知っている会社の社員です。
そこでもいつも楽しそうに仕事をしていますが、今回のサロンでお話になる徳永さんは、楽しそうというよりも幸せそうに話をされていました。
その顔の表情に、なぜこれほど長くボランティアでの被災地通いをしているのかのすべてが象徴されているような気がしました。
徳永さんは最初に行った阪神淡路大震災の被災地で無力感をもったそうです。
しかし、その無力感こそが、その後の徳永さんの生き方に大きな影響を与えたのだと思います。
被災地でのボランティアはそうした不思議な力を持っているようです。
その後、地元のボランティア活動を始めます。
たとえば、子どもが通っていた小学校を拠点に、オヤジの会を立ち上げて、子どもたちの遊び場をつくったり、時には防災避難訓練活動を展開したりしています。
その取り組み方も、とても自由で、生き生きしています。
心底、ボランティアと感じました。
そして3.11が起きました。
週末には仲間と一緒に被災地通いが始まります。
昨年の西日本豪雨で、さらに出かける先は広がりました。
そうしたことを徳永さんが撮った写真を材料にして、いろいろと話してくれました。
徳永さんの話を聞いていて、なぜ徳永さんがハードリピーターになったのかがよくわかりました。
「幸せ」だからです。たぶん。
徳永さんに質問しました。
会社の仕事と被災地でのボランティア活動はどちらが「きつい」ですか、そしてどちらが楽しいですか。
徳永さんは、ボランティア活動のほうが「きつい」が、「楽しさ」はいずれも楽しいと答えました。
私なりに勝手に解釈すると次のようなことではないかと思います。
会社の仕事もよい成果を上げるために自分で工夫して楽しくしようとしているが、被災地のボランティア活動はそのままで楽しい。
だから、お金も時間もかかるが、ボランティア活動に出かけてしまうのでしょう。
ここに大きな示唆を感じます。
会社の仕事がもっと楽しくなれば、会社の効率や業績は間違いなく上がるはずです。
過労死もなくなるでしょう。
会社の仕事とボランティア活動は決して無縁ではありません。
なにしろいずれも主役は同じ人間なのですから。
被災地でのボランティア活動を体験したことで、人生を変えた友人が何人かいます。
被災地の風景を見ただけで、生き方を変えた人もいる。
見慣れた風景の中で生きていると、考えは固定化されがちですが、ちょっと違った風景を見ると思考の枠は広がります。
これもまた会社での仕事にも深くつながっている話です。
ちなみに、徳永さんを阪神淡路大震災に派遣したのは、会社の経営者の意向です。
会社で出来ることもたくさんあります。
徳永さんが今回一番時間をかけて楽しそうに話したのは、被災地であった人たちの40枚くらいの写真の説明でした。
一人ひとりにそれぞれの人生があるといって、数名の人の話をしてくれましたが、その話は時間の制限がなければ終わることはなかったでしょう。
これもまた「楽しさ」とは何かを考える上で大切な示唆を含んでいます。
被災地の復興や復旧、被災者のボランティア活動を効果的にしていくためには、システムをもっとしっかりとつくっていく必要があるという指摘もありましたが、そうしたシステムアプローチとは別の取り組みが個人のボランティア活動が示唆していることだろうと思います。
システム発想と個人のボランティア発想は、時に邪魔をし合う関係にあります。
いずれも大事ですが、大切なのはどちらを基軸にするかではないかと思います。
また、ボランティアワークは、被災者のみならず、当事者にとっても、金銭とは全く違う大切なことを教えてくれているのかもしれません。
ほかにもいろいろと示唆に富む話はありました。
「働き方改革」のヒントもあったような気がします。
すべてを紹介できないのが残念です。
■湯島サロン「分かち合い経済試論 ?資本主義の次の世界への可能性」のお誘い(2019年7月6日)
予告させてもらっていた「贈与経済論」シリーズのサロンです。
縄文時代が大好きな平田英二さんに、その豊富な知見と最新の気づきをベースにした分かち合い経済試論を語ってもらい、そこから資本主義の次の世界の可能性を考えていければと思います。
たぶん話題は時空間的に自由に飛び交いそうですが、平田さんによれば、アイヌの鮭交易、沈黙交易、家舟の漁民、練馬と長野の縄文人の黒曜石の移出入、ポトラッチ、旧石器人など狩猟採取民の分配法など、たくさんの事例紹介をふまえて、「棚田経済」から脱するための「分かち合い経済」のもつ可能性についての問題提起をしてくれるそうです。
なにやらワクワクしますが、平田さんの現地取材の報告も含めて、たぶん刺激的な話が山のように出てくるだろうと思います。
縄文人とは正反対のような生き方が広がっている現代とそれを支える経済のあり方を問い直すサロンになりそうです。
いつもよりちょっと長目に時間を設定しました。
ぜひ多くの人に参加していただき、目からうろこのサロンを楽しんでもらいたいと思います。
〇日時:2019年8月17日(土曜日)午後2時〜午後5時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「分かち合い経済試論 ?資本主義の次の世界への可能性」
〇話題提供者:平田英二さん(やとじぃ/練馬区文化財保護推進員)
〇参加費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「沖縄・辺野古の現状2019年夏」のお誘い(2019年7月16日)
これまでも何回か沖縄の辺野古に関するサロンを開催してくださった緒方修さんに、今年もまた辺野古の最新情報の話をしてもらえることになりました。
関東にいると、辺野古はどんどん見えなくなってきていますが、緒方さんの現地最新情報に触れて、改めて辺野古問題が示唆しているものを考え、何かできることを見つけていければと思います。
平日の夜ですが、ぜひ多くの人に参加していただきたいサロンです。
○日時:2019年8月13日(火曜日)午後6時半〜8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「沖縄・辺野古の現状2019年夏」
○話題提供者:緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■人との関係で学び合い、人との関係を生きる(2019年7月17日)
私は、学ぶとは他者、他者には自然なども入るのですが、他者との関係において自らが変わることであり、生きるとは他者に、これもまた自然も入るのですが、迷惑をかけるとともに役に立っていく、つまり価値を与えることだと考えています。
学ぶことも生きることも、他者との関係を変えていくことといってもいい。
そして、実際にそういう生き方をずっと続けています。
学ぶことと知識を得ることは同じではありません。
なにかを学び、わかるということは、自らの言動が変わること。つまり、生き方が変わることです。
もし生き方に変化がないとしたら、それは学んだことにはならない。
知識や情報には触れたかもしれないが、わかったとか学んだとは言えません。
それが私の考えです。
ある知識を知ったかどうかで、世界の風景は変わってきます。
それはみなさんも体験していることでしょう。
世界の風景が変われば、おのずと行動は変わっていくでしょう。
というよりも、あることを知ったら、必ず生き方は影響を受けるはずです。
何も変化がなければ、それは学んだとは言えない。
学ぶとか知るということは、生き方につながっているということです。
しかし、一人でできることには限界があります。
そこで、「共に」ということが意味を持ってくる。
共に学ぶとは、学びの視点を豊かにすることであり、生き方を変えていく力が大きくなるということでもあります。
学ぶとか生きることが、豊かになっていくために「共に」が大切なのです。
一人だけで学んでいることは、他者との関係の中で生きている私には実際にはできないことですが、意図して「共に」を指向しないと独りよがりの「学び」に陥りやすいような気がします。
これが、私が長年、湯島でサロンをやっている理由の一つです。
さまざまな人の話を聞き、さまざまな人の生き方に触れていく。
その過程で自分の考えや行動が相対化され、そして実践のヒントが得られる。
一人で学ぶよりも、仲間と学び合うほうがいろんな意味で効果的です。
自分と社会がしっかりとつながっていること、それが私の考える社会性、市民性です。
自分が変わると相手も変わる。社会も変わる。
自分と社会は連動しています。そして社会では常に何かが変わっています。
つまり社会や人間関係は常に変化していますから、そこにつながっている自分もまた常に変わっているはずです。
逆に、考えを固定させていると社会との関係、他者との関係に齟齬をきたしていく。
だから時代の動きの中で、自らを常に変えていかないと自らのアイデンティティを保てない。
変わることは変わらないことなのです。
変わらない自分にこだわっていると、常に変化し続けている社会との位置づけが変化し、取り残されてしまい、生きているとは言えなくなる。
自分を大事にするためにも、常に変わっていく必要がある。
そこに学ぶ意味がある。
これは先日のある集まりで話したことです。
話すよりも文字にした方が伝わりやすい気がして、少し丁寧に書いてみました。
現在の選挙で、山本太郎さんが風を起こしています。
彼は、共に学び共に生きるを実践しているように感じます。
危うさは強く感じますが、風は挫折を通じて、本当の風になっていくことが多いので、その先を感じられます。
ところで、湯島のサロンの意味を話し合うサロンをやりたくなりました。
湯島ではこれまでも毎年1回だけ私が話させてもらうサロンがあります。
最近は、「政治パラダイムの転回」「経済パラダイムの転回」そして「生き方の転回」をテーマにしてきましたが、参加者に伝わった実感が持てないので、今年は「サロン」をテーマにしようと思います。
例年は12月開催でしたが、今年は8月下旬を想定しています。
その頃は、山本太郎現象の実体も少し見えてきていると思いますし。
いま気づきましたが、山本太郎現象をテーマにしたサロンのほうがいいかもしれません。
ついでにそれもやりたくなりました。
どなたか問題提起してくれる人はいませんか。
■久しぶりのオープンサロンのご案内(2019年7月18日)
最近、縁カフェもオープンサロンも休店でした。
この半年、いろいろとあって、少し余裕をなくしていました。
何とか(たぶん)山を超しましたので、オープンサロンを時々また再開することにしました。
サロンの回数は、最近むしろ増えているのですが、テーマがあると敷居も高いので、前のようにテーマのないサロンを再開してほしいという声があったのです。
テーマのないサロンこそ、湯島の原点ですので、また時々開催することにしました。
以前と同じく、出入り自由で、勝手に話す井戸端会議風のサロンです。
話したくない人は黙って本を読んでいても大丈夫です。
もし私に相談があれば、できるだけ相談に応ずるようにします。
事前申し込みは不要です。
よろしくお願いします。
○日時:2019年7月28日(日曜日)午後1時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○会費:500円
■緊急サロン「東アジアの秘密?なぜトランプは金正恩に会いたかったのか」報告(2019年7月21日)
表題サロンは、10人の人が集まり、話し合いも盛り上がりました。
本題のテーマに関しても、参加者からの独自の解釈も出され、思考を広げる上でも示唆に富むサロンでした。
もっとも、話し手が一度、湯島サロンで「陰謀説」を話してくれた中嶋さんだったこともあり、陰謀説の話のほうが盛り上がりました。
それも含めて、話し手の中島さんが自ら補足も含めての報告を書いてくれましたので、今回はそれを報告に代えたいと思います。
長いので、添付にしました。
中嶋さんが自由奔放に書いてくださったので、いささか心配ですが、あくまでもひとつの思考仮説としてお受け止めください。
中嶋さんは、「陰謀」という言葉を使っていますが、俗にいう「陰謀論者」ではありません。
ただ、マスコミで流されている情報の中に埋没されがちな小さなヒントを見つけて、そこから、もしかしたら隠されている何かを読み解こうと主体的に生きている人です。
時にちょっと「断定的」すぎるので、むしろ「陰謀」にかかっているのではないかと心配になることもありますが、与えられた情報で生きることに警告を発してくれている貴重な人です。
そのあたりを汲み取ってもらえればうれしいです。
あまりにも好評だったので、また機会をつくりたいです。
■政治に新しい風は吹き出すか(2019年7月22日)
昨日の選挙は、投票率の低さから状況は変わらないのかと思っていましたが、まさかこれほど「変わらない」とは思っておらず、投票結果が報じられだして30分でテレビを見るのをやめました。
今朝、早く起きて、テレビをみていましたが、まあ全く変わらなかったわけでもありません。
感じたことを2つだけ書きます。
まずNHKから国民を守る党が議席を得たのには驚きました。
ここまで来たかという感じです。
今朝のNHKでは、各党の代表が選挙結果に関する意見表明を報道していましたが、2人の当選者を出したれいわ新選組の代表の山本太郎さんが取り上げられなかったのにも、ここまでやるかと思いました。
N国党の立花さんはちゃんと登場して感想を述べていました。
もう一つは、やはり山本太郎さんが起こした風のことです。
香港やアラブやフランスと違って、マスコミは一切無視したこともあって(中国の報道と同じです)、大きな風にはなりませんでしたが、間違いなく、風は起こりました。
原発反対や安保法制反対の時の国会前の動きとは全く違います。
ともかくも「政党」という持続的な仕組みとして動き出せるようになったということです。
生活者が主役になり、生活が起点になる政治が始めて動き出すということです。
立憲民主党も、生活者を主軸にした政治と呼びかけていますが、所詮はいわゆる「参加型」であって、政治家主役の統治起点の枠組みの中にあります。
活動の主舞台は国会ですから、要するに政権与党と本質的には変わりません。
与党に対する野党であって、言い換えれば、いまは与党ではないだけの話です。
それが何を意味するかは、先の民主党への政権交代ではっきりと示されました。
唯一、鳩山さんだけが、政治を変えようとしていたと思いますが、政権交代と政治の転回を十分に整理できていなかったのだと思います。
しかし、山本太郎さんの活動は、政権交代ではなく、政治のコペルニクス的転回です。
「れいわ」とか「維新」とかいう概念に呪縛されてしまったのは、山本さんの限界でしょうが、新しい動きにはそうした「失態」は必然的に付随してきます。
しかもそれにもまた価値があるともいえます。
私は最初、山本太郎さんが議席を失うとこの政党は無力化するだろうと思っていましたが、むしろ政治のコペルニクス転回を前提にして考えれば、代表は議席を持たない方がいいのかもしれないとやっと思い至りました。
山本太郎さんは「限界」などなく、もっと大きなものに動かされているのかもしれません。
風が大きくなるかどうか。
これからです。
あんまりがっかりせずに、関心を持ち続け、できることを見つけて、めげずに生きようと思います。
■真実の波及(2019年7月22日)
今日のテレビは、昨日の選挙結果よりも吉本興業のタレントの記者会見から始まった話を取り上げています。
民放は、宮迫さんと田村亮さんの記者会見を繰り返し、放映しています。
見た方も多いと思いますが、実は私は当日の夜のテレビを偶然に見てしまったら、目を離せなくなり、田村亮さんの態度を見て、そこに「真実」を感じてしまいました。
芸能界のニュースには、スポーツ界と同じく、ほとんど興味を持たないのですが、ついつい引き込まれてしまいました。
久しぶりに人間の「真実」に出会った気がしました。
今朝は、昨日の選挙結果をみんなはどう感じているのかを知ろうと思っていましたが、テレビをつけたら、民放はどこも宮迫・亮記者会見の続きでした。
また引き込まれてしまいました。
普段は見たこともない日本テレビの「スッキリ」にチャンネルを切り替えたら、司会役の加藤浩次さんが心情を語っていて、このままだったら自分は吉本興業を辞めると語っていました。
つづいて近藤春菜さんが涙ながらに語りだしました。
「真実」(真情)はどんどん波及していくのです。
しかし、嘘のない「真情」の吐露は人を引き込みます。
加藤さんと春菜さんの、感情に流された発言もなぜか見続けてしまいました。
彼らは演技、つまり「真情」を表出しないことを「仕事」にしていますが、「演技」以上に「真情」は大きな力を持っています。
それに目覚めれば、もっと大きな役割を果たせるのでしょうが。
「生身の真実」の持つ力の大きさも、改めて思い知らされました。
最近では、「真実」よりも「仮想真実」のほうが社会を動かしていますが(今回の選挙結果にもそれは現れています)、やはり「生身の真実」(真情)の力は大きい。
「真実」は、すべての問題を解決する起点です。
そして、「嘘」は、すべての問題を引き起こす起点です。
改めてそう思いました。
「生身の真実」(真情)を基軸にした社会になってほしいと思います。
「嘘」(真実の隠蔽)の恐ろしさを、私たちはもっと警戒すべきです。
真実の隠蔽を党是にする自民党がなぜ多くの人の支持を受けるのかが不思議ですが、支持者もみんな「嘘」「真実の隠蔽」に守られているのでしょうか。
■第3回万葉集サロン「石見相聞歌に見る柿本人麿の「われ」の世界」報告(2019年7月20日)
講座型万葉集サロン3回目は、柿本人麿の「石見相聞歌」でした。
最初に柿本人麻呂の紹介があり、つづいて升田さんが「石見相聞歌」を詠んでくれました。
この歌は人麿が繰り返し推敲した形跡がみられ、その点でも珍しいのだそうです。
推敲前の2首も万葉集に残っていますが、それを比べると面白く、その一首も詠んでくれました。
耳で聞いていると全く雰囲気が違います。
その後が、今回の本題です。
この歌には、作者(人麿)の「われ」が聞き手の「われ」を呼び込んでいく表現様式が仕組まれている。
歌を独りで詠むだけではなく、聞き手を巻き込んで広い世界を開こうとする意図があり、そこに「文芸」の端緒を感ずるというのです。
当時、歌は読むものではなく、詠むものだったようですが、そもそも歌人たちも歌を紙に書くのではなく、口で歌うのが基本だったようです。
だから声に出したときの「音の響き」がとても重要な意味を持っていたのです。
私たちはついつい、文字があり、歌があると思いがちですが、実際には、まず歌があり、それが文字で書かれて定着していったと考えると、いろんなことがとても納得できます。
私が今回とても面白かったのは、「字余り」というのは、文字文化の結果のことだと教えてもらったことです。
たとえば、文字にすれば3文字でも4文字でも、音にして読めば、長音にしたりして5音にすることは簡単です。
つまりたてば5・7・7にしても、それは文字規制ではなく、歌いやすさにすぎなかっただったわけです。
最近、霊長類学者の山極寿一さんの本に、「感情を揺さぶる音楽というコミュニケーションは人間の身体の進化とともに発達してきた歴史をもち、言葉よりずっと古い起源をもつ」という説明がありましたが、言葉の前に音楽があったと考えれば、万葉集の捉え方は大きく変わるでしょう。
私たちの常識は、かなり後知恵のものが多いですから、そこから自由になると万葉集がもっと面白くなるのかもしれません。
何のために歌が生まれたかを考えると、そこに「われ」とか「コミュニケーション」とかいうことの起源へのヒントもあるようです。
ちなみに、万葉集ではだれかに代わって歌をつくるということもあるので、歌の主人公の「われ」と作者の「われ」と聞き手の「われ」と詠み手の「われ」の4つの「われ」がありそうです。
ところで、意外なことに「歌聖」といわれ、たくさんの歌が残っている柿本人麿の記録は少ないので、その正体ははっきりしていませんが、彼の死は「死」と表記されているため、6位以下の下級官吏と考えられています(異説はありますが)。
階級によって「死」の表現が違ったのかという参加者からの質問に対して、当時は、職階などによって、崩御、薨御、薨去、卒去、死去と使い分けられていたと升田さんが説明してくれました。
死をどう表記するかで、その人の職階などがわかるそうです。
まさに「言葉」は象徴的なパワーを持っていたわけです。
柿本人麿は刑死説もありますが、象徴的な力を持っている言葉を駆使する柿本人麿は権力者にとっては恐ろしい存在だったかもしれません。
万葉集の歌の持つそうした呪力や政治的な役割も面白いテーマです。
もしかしたら、そこから壬申の乱の真相も見えてくるかもしれません。
今回のもう一つの大きなテーマは、「石見相聞歌」にも何回か出てくる「玉藻」でした。
「石見相聞歌」の作歌時期を解く鍵の一つが、「玉藻」という言葉にあるようです。
そこから升田さんは、691〜700年ころに成立した可能性が高いと言います。
その時期に、柿本人麿と交流のあった天武・持統期の皇子・皇女の歌にも「玉藻」が出てくることが多いそうです。
「玉藻」に升田さんはかなりこだわっていましたので、「玉藻」の話をもう少し聞きたかったのですが、今回はちょっと時間が足りませんでした。
升田さんの話を聞いていて、このシリーズは本にまとめられないかと思いだしました。
それくらい面白いです。
ただいつもたくさんの話をされるので、ついていくのが大変です。
なにしろ升田さんは話したいことが山のようにあるようです。
次回から少しテンポをゆるめてもらうようにしたいと思います。
次回(9月21日を予定)も柿本人麿の予定です。
■今回の選挙結果に関して話し合いませんか(2019年7月22日)
7月28日の午後1〜4時の予定で、オープンサロンを予定していますが、今回の選挙結果をテーマにした話し合いにしようと思います。
みなさんがどういう感想をお持ちになったか、ぜひ忌憚のない話し合いができればと思います。
これまで湯島に来たことのない方も、私と面識のない方も、だれでも大歓迎です。
〇日時:2019年7月28日(日曜日)午後1時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「今回の参議院選挙結果に感じたこと」
テーマに関する話し合いは2時くらいから始めます。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■自分たちファーストで芸をやっている人たち(2019年7月24日)
吉本興業にまつわる騒動は関係者がどんどん増えてきて、問題もなんだか仲間内の「芸人」たちによって歪曲されてしまい、事の本質とは違った展開になってきています。
その一方で、日本の「芸人」たちの本質が見えてきたような気がします。
それは「芸人ファースト」という言葉に象徴されています。
まさか、こんな言葉が出て来るとは思ってもいませんでした。
反社会性勢力との交流は、芸人ファーストのためにもし必要であれば、是認されるようなのです。
「悪いことは悪い」という原点を失った「笑い」に、私は価値を感じません。
「笑い」の芸は、強烈な社会性を持っていたと思っていたからです。
もっとも、私は、最近の日本の笑いの芸人たちにはずっと『笑い』を感じていません。
北野たけしさんの笑いも理解できませんし、最近の笑いにはほとんどついていけません。
ちなみに、たとえば北海道テレビの「水曜どうでしょう」などは、とても好きな番組でしたし、大泉洋さんは見ているだけで、快い「笑い」が出てきて、幸せになります。
どこが違うのかわかりませんが、漫才もかつての漫才は笑えますが、この40年近くの漫才は腹が立つことのほうが笑うことより多いです。
困ったものです。
涙ながらに記者会見した2人は、自らの責任にきちんと対処していません。
せっかく「真実」を話したら、それ相応の責任を取らねばいけません。
そうでなければ、何のために記者会見したかわかりません。
そんな基本的なことをだれもきちんと諭さないのか、と思っていたら、逆に彼らを弁護する芸人仲間が出てきました。
そして、そこから「芸人ファースト」などという、驚くべき言葉が出てきたのです。
芸人のためなら反社会的行動も許されると、彼らは暗に言っているように思います。
優先すべきは、自分たちの利益ではないでしょう。
そんな人の「笑い」は笑えません。
それにして「自分たちファースト」がはやります。
安倍政権の思想がどんどんと社会に広がっているのでしょうか。
以前も書きましたが、いわゆる『反社会勢力』がなぜ存在するのかにも、こうしたことにつながっています。
「自分たちファースト」であれば、時に『反社会勢力』の存在も必要だから残しているのです。
社会の仕組みや規範は、それぞれの「自分ファースト」の調整で決まってきます。
それが悪いわけではありませんが、だからといって、「錦の御旗」のように掲げていいものでもないでしょう。
大切なのは、それぞれが「社会性」を大事にし、ともすれば陥りがちの自分ファーストを常に戒めていくということです。
そうでなければ、自らが反社会的勢力になってしまいかねません。
それにしても、「反社会的勢力」って不思議な言葉です。
私には、いまの安倍政権も「反社会的勢力」なのではないかという気がしないでもないですが。
いやこれはもちろん「冗談」です。
「録音してないだろうな」という「冗談」と同じく、あんまり適切な冗談ではありませんが。
■茶色の朝シリーズのサロン(BMSサロン)を再開します
先日、初対面の方から、湯島でやっていた「茶色の朝」を題材にしたサロンのことを切りだされました。
私のサイトを見て、「茶色の朝」サロンのことを知ったそうです。
彼女は10年ほど前に父親から、「茶色の朝」の本をもらったのだそうです。
そういえば、BMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)をしばらくやっていません。
彼女の話を受けて、再開することにしました。
ちなみに、今回の選挙結果で感じたことを話し合うサロンを7月28日に開催するのですが、日曜日は参加できないという人もいるので、平日の8月5日の午後にも開催することにしました。
「今回の参議院選挙結果に感じたこと」を自由に話し合うサロンです。
それを皮切りに、テーマをある程度決めて、生活の視点で政治問題を考えるBMSサロンを隔月程度に継続開催することにしました。
男性中心の難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚からの政治問題の話し合いです。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。
私は、先の参議院選挙で、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じました。
それに呼応して、何か自分でできることはないかを改めて考えてみた結果です。
今回は、いわばそのキックオフ編です。
お時間が許せば、ご参加ください。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。話し合いのテーマがあれば、ぜひご連絡ください。
〇日時:2019年8月5日(月曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
〇テーマ:「今回の参議院選挙結果に感じたこと」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■BMS(茶色の朝サロン)を再開します(2019年7月26日)
しばらく休んでいたBMS(茶色の朝サロン)を再開します。
「茶色の朝」サロンについては次をご参照ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-dd3c.html
今回から、毎回、ある程度、テーマを決めることにしました。
最初の再開1回目は、「今回の参議院選挙結果に感じたこと」を選びました。
同じテーマでのサロンを7月28日にも行うのですが、あえて同じテーマを選びました。
私は、先の参議院選挙で、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じました。
それに呼応して、何か自分でできることはないかを改めて考えてみた結果です。
私が感じたことを、最初に少しだけ話させてもらう予定です。
そしてみなさんからも、それぞれに感じたことを話してもらい、政治ということを考えてみたいと思います。
難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚からの話し合いです。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。
これを皮切りに、生活の視点で政治問題を考えるBMSサロンを隔月程度に継続開催することにします。
今回は、いわばそのキックオフ編です。
お時間が許せば、ご参加ください。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。話し合いのテーマがあれば、ぜひご連絡ください。
〇日時:2019年8月5日(月曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「今回の参議院選挙結果に感じたこと」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「農福連携から始まる農村イノベーション」報告(2019年7月29日)
熊本で福祉と農業を基軸にして長年活動している宮田さんには、時々、湯島でサロンをしてもらっていますが、今回は、「農福連携から始まる農村イノベーション」をテーマに、最近の動きを話してもらいました。
宮田さんは最初に、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」に書かれている「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉から話し出しました。
そして、いまの社会はそうなっているのかの問いかけがあり、たとえば「食料品アクセス困難人口の増加」や「グローバリゼーション」、あるいは「障害者問題」などから、「人間疎外」の深まりが、そうした状況に向かうのを妨げていると示唆されました。
そして、そうした状況を打破する動きとして、農福連携に大きな期待を持っていること、その動きがひろく展開され出していることを、たくさんの事例で紹介してくれ、そこから社会の新しい枠組みの展望を語ってくれました。
とてもわかりやすく、まとまったお話でした。
宮田さんは長年、行政とも関わりながら、農福連携を推進してきている先駆的な実践者のおひとりですが、その体験から、問題は農業関係者と福祉関係者の出会いの場をどうつくっていくかだったと言います。
宮田さんの長年の苦労の一つはそうした場づくりだったと思いますが、ここにきてそうした場がさまざまな形で生まれてきた。そして、いま農福連携の第2ステップに入ったと言います。
障害者福祉施設が自分達で農業経営をしたり、農家・農業法人が自ら地域の障害者を雇用したり、さらには企業や社会福祉法人が農業分野で障害者の働く場を創出したり、さまざまな形で農福連携が生まれだしているのです。
宮田さんは4つのタイプに整理して、具体的な事例を紹介してくれました。
いずれの事例も、新しい可能性を示唆するものであり、こうした動きをもっと多くの人たちに知ってほしいと改めて思いました。
さらに、今年、農山漁村振興交付金の中に、「農福連携人材育成支援事業」という補助金項目が追加され、農業と福祉の中を取り持つ仕組みと人材育成のための『農業版ジョブコーチ』制度が始まりました。
宮田さんもこのプロジェクトに実際に取り組んでいくことになっています。
宮田さんはさらに「農福連携が求められるようになった理由」を国民国家の枠組みという大きなビジョンのなかで整理してくれました。
社会はよく「国家」「市場」「市民社会」の3つのセクターで語られますが、宮田さんはそれを踏まえて、社会的活動の担い手「セクター」が変化しだしているというのです。
そしてその新しい主役の位置づけが国家や市場を超えていくイメージを図示してくれました。
宮田さんは、実践者であると同時に研究者です。
こうした「現象を客観化する科学性」を大事にする宮田さんの論考はいつも示唆に富んでいて、俯瞰的な視野を与えてくれます。
宮田さんの話の大筋を紹介しましたが、途中で語られた具体的な話の中にこそ、宮田さんの思いが含まれているような気がします。
そのなかから、一つだけ、私が一番印象的だった話を紹介させてもらいます。
それは高知県のナス農家でアルバイトをしている若い女性の話です。
職業適性検査で、「どこも採用する企業はないかもしれない」といわれた女性が、農福連携に取り組んでいる農家で今は楽しく働いているという話です。
詳しいことを知りたい方はご連絡いただければ新聞記事を送らせてもらいますが、そういう話は多分かつてはよくあったことではないかと思います。
つまり農福連携は、昔は日常的にあったことかもしれません。
そう思うといまの時代の根底に「人間疎外」があるという最初の宮田さんの言葉がとても腑に落ちます。
最後に宮田さんは、自らも関わっているスリランカの子どもたちの写真を見せてくれました。
子どもたちの表情はみんなとても輝いている。
福祉というと何やら難しいことを考えがちですが、私は要するにみんなの表情が輝いていることだろうと思います。
日本の最近の子どもたちはどうでしょうか。そして大人たちは。
宮田さんは『マタイによる福音書』の言葉で話を締めました。
「神の国の扉は、ただ、ぼんやりと待っているだけでは開かれません。(中略)主体性をもって努力する者にのみ運命は開かれているのです」。
宮沢賢治に始まり、マタイで終わる。
とても考えさせられる話でした。
話し合いもいろいろと広がり、予定を1時間も超えました。
宮田さんの話はとても共感できることが多く示唆ももらいましたが、私にはいくつか異論もありました。
そのため中途半端なコメントをしてしまい、話し合いを混乱させてしまいました。
その後の宮田さんの話を聞いて、疑問の多くは解消されましたが、一度また、宮田さんの実践やビジョンを掘り下げるサロンをしたくなりました。
私の異論は、経済政策や福祉政策として農業と福祉をつなげるという発想、あるいは社会活動セクターの捉え方に関してです。
もちろん、農福連携に異論があるわけではないのですが、せっかくの新しい視点が経済視点で「市場化」されていく最近の風潮への危惧の念を払しょくできないでいます。
私の異論はそこから発しています。
農業も福祉も、いずれも人間疎外に抗う存在であるとともに、時に人間疎外を引き起こしかねない存在でもある。
そのことに改めて気づいたサロンでした。
今回は農業に取り組んでいる人も数名参加してくださいました。
その人たちにもぜひこの「農福連携」サロンのつづきをやってもらえたらと願っています。
■CWSサロン「今回の選挙結果に関して話し合いませんか」報告(2019年7月30日)
久しぶりのテーマなしのオープンサロンを、「今回の選挙結果に関して話し合いませんか」に切り替えてしまったのですが、猛暑にもかかわらず6人集まりました。
一応、私も入れてですが。
話が盛り上がりすぎて、5時になっても終わりません。
内容は差し控えますが、山本太郎さんの話が一つの軸になりました。
また、選挙問題を超えて、中国や日本の未来も語られました。
参加者の一人が、こういう話し合いがもっと広がっていかなければいけないと話されました。
全く同感です。
しかし、この暑い日に、こうやってわざわざ500円の参加費まで払って話し合いに来る人は残念ながらそう多くないでしょう。
こういう場を維持するのも、そう簡単ではないのです。
しかし、山本太郎さんは500円の寄付からはじめて4億円以上を集めました。
まだ捨てたものではありません。
身銭と自分の時間を切ってでも社会を変えようという人たちが生まれだしたのです。
湯島のサロンも早くそうなるといいのですが。
サロンも諦めずに続けることが大事でしょう。
日曜日には参加できないので、平日に参加してほしいという方がいましたので、8月5日(月曜日)の午後にも同じテーマでの話し合いを開催します。
いまの政治に満足している人も満足していない人も、どなたも歓迎です。
もちろん安倍政権支持でも山本太郎支持でも、誰も支持できないでも、いずれも歓迎です。
ともかく今は、政治を話し合うこと、政治に無関心ではいないことが大切です。
政治を話し合うことは、生活を話し合うことですから。
珈琲は熊本の宮田さんが提供してくれたスリランカのコーヒーです。
2時から4時です。
■湯島サロン「永世非武装中立国コスタリカ〜今日を築いた方々を訪ねて」のお誘い(2019年7月31日)
湯島では前にもコスタリカを取り上げたサロンを開催しました.
前回は産業の新しい動きに焦点を当てましたが、今回は「軍隊なき国家」に焦点を当て、昨年、コスタリカを訪問した折原さんにお話をしてもらいます。
折原さんは昨年、コスタリカを訪問し、その国情を直接見聞しながら、現在のコスタリカを作り上げてきたひとたちと意見交換をしてきました。
さらに、その時インタビューしたロベルト・サモラ弁護士を、今年6月に日本に招いて、各地での講演会や交流会を行いましたが、それにも同行して、サモラさんとの交流を深めています。
サモラさんはご存知の方も少なくないと思いますが、大学院生の時に、アメリカが始めたイラク戦争を支持することは憲法違反だと訴訟を起こし、勝訴した人です。
日本でも反対運動は起こりましたが、残念ながらイラクへの派兵は食い止められず、そこから安保法制へと動き出しました。
国連での彼のスピーチは日本でも話題になりました。
もう15年ほど前の話ですが、私もブログで紹介させてもらいました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html
サロンでは、最初にドキュメンタリー映画『軍隊をすてた国』(短縮版・15分)をみんなで観てもらい、それから折原さんに報告してもらいます。
サモラさんと多くの時間を過ごした折原さんから、どんな話が聞けるかとても楽しみです。
後半はいつものように話し合いです。
折原さんからのメッセージを最後に書いておきますのでお読みください。
また、折原さんが参加したコスタリカ視察の報告書『軍隊を捨て 平和と民主主義を選んだ国』(B5版フルカラー104ページ)も出版されています。
あらかじめ読んでおきたい方は折原さんに連絡すれば、1000円と郵送料(185円)で、入手できます。
湯島にも何部かありますので、湯島に来る機会があればおわけできます。
当日も折原さんに持ってきてもらおうと思いますので、ご希望の方はあらかじめご連絡ください。
いつもと開催時間が違いますのでご注意ください。
立場を超えて、多くの人に参加していただきたいサロンです。
そして、私たちの政治の常識を考え直す契機にしてほしいと思います。
○日時:2019年8月31日(土曜日)午後4時〜6時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「永世非武装中立国コスタリカ〜今日を築いた方々を訪ねて」
○話題提供者:折原利男さん(文筆家)
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
〔折原さんからのメッセージ〕
2018年8月21日(火)から29日(水)までの9日間、中米のコスタリカを訪問しました。人口は491万人ほどで、面積は九州と四国を合わせたほどの小国です。しかし、イギリスのシンクタンク、ニューエコノミクス財団による2016年度「地球幸福度指数(HPI)」ランキングで140ヶ国中、第1位(3年連続)(日本は58位)。国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」による2018年の「世界の報道の自由度ランキング」では、10位(日本は67位))。医療は無料。電力は2018年現在、99.5%を再生可能エネルギーの水力・地熱・風力でまかなっています。
そのようなコスタリカは1949年に憲法で軍隊を廃止し、1983年に世界で初めて永世非武装中立国となりました。以来、積極的平和国として活躍し、1987年には中米紛争の解決に尽力したアリアス大統領がノーベル平和賞を受けました。2017年に国連本部で採択された核兵器禁止条約の提案国、議長国もコスタリカでした(その年のノーベル平和賞は、その採択に尽力した非政府組織「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に与えられました)。
そのようなコスタリカの歴史と、現在を築いた人々を直接訪ねて学び、今後につなげたい、ということが訪問の主な目的でした。
その時インタビューしたロベルト・サモラ弁護士を、今度は6月8日から14日まで日本に招き、東京、名古屋、山口、長崎と講演、交流を重ね、最後は東京で国会内の集会を開きました。
2003年3月、米国主導の有志連合がイラク攻撃をしかけた時、そのときのコスタリカ大統領はそれを支持しました。それを知った、当時コスタリカ大学法学部3年だったロベルト・サモラさん(今回のインタビュー時は37歳)が、永世非武装中立国であるコスタリカの大統領が他国の戦争を支持するのは憲法違反ではないかとして、憲法問題を扱う最高裁判所第四法廷(憲法法廷)に提訴しました。1年半後の2004年10月、最高裁はイラク侵攻支援がコスタリカ憲法と平和的伝統に反するとの判決を下し、アメリカの有志連合リストからコスタリカを削除させ、非武装中立を守りました。
今回は、最初にドキュメンタリー映画『軍隊を捨てた国』の短縮版(15分)を観ていただきます。その後で、コスタリカ訪問とサモラさんとの交流を中心にしてお話します。
■「参議院選挙結果に感じたこと」を話し合うサロンのお誘い(2019年8月1日)
すでにご案内していますが、8月5日の午後、湯島で、「今回の参議院選挙結果に感じたこと」を自由に話し合うサロンを開催します。
すでに一度、開催しましたが、平日の参加を希望された方がいたので、もう一度、開催します。
また今回は、その後、選挙以後、起こっていることも話題にしたいと思います。
私は、今回の参議院選挙で、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じましたが、その一方で、政治の終焉の予感もしました。
そしてそのいうれもが実際に動き出したような気もします。
みなさんはどう感じたでしょうか。
なおこれを皮切りに、しばらく中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。
BMS(茶色の朝)サロンのことは次をご覧ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-dd3c.html
難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考えていければと思います。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。
今回は、いわばそのキックオフ編です。
お時間が許せば、ご参加ください。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。話し合いのテーマがあれば、ぜひご連絡ください。
○日時:2019年8月5日(月曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「今回の参議院選挙結果に感じたこと」
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■権力は腐敗する、のではありません(2019年8月2日)
猛暑なのでできるだけ外出を控えていましたが、今朝は畑に行ってしまいました。
暫らく行けていなかったので、野草が猛威を振るっているのです。
早朝1時間ですが、格闘してきました。
帰宅してシャワーを浴びましたが、汗が止まりません。
汗が異様に出るのは熱中症だと娘に言われ、しばらく冷房のある部屋で静かにしていました。
ついでに録画してあったテレビドラマを観ました。
「サイン」。法医学者のドラマです。
こんな会話が出てきました。
「権力は腐敗する」
「組織が人を腐敗させる」
私も以前はそう思っていました。
しかし、たぶんこの言葉は間違っていると最近は考えるようになりました。
いまはこう思っています。
腐敗が権力を生み出す。
人が組織を腐敗させる。
権力を避けている山本太郎さんの生き方には学ばされます。
権力とは腐敗の同義語です。
組織も権力と同義語かもしれません。
念のために言えば、権力や組織を否定しているのではありません。
腐敗と同義語であることをしっかりと認識しておくことが大切だということです。
権力が腐敗する、のではなく、権力とはそもそも腐っているのです。
ちなみに、テレビドラマ「サイン」は面白いです。
組織の上に立たないと自分の思いは実現できないという「出世主義者」と出世よりも信念の実現を目指している人との対立が、物語の軸になっています。
来週で終わるようですが、そこでの人間模様に共感しながら観ています。
■湯島サロン「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」のお誘い(2019年8月3日)
夏の終わりに、いつもとは少し、いやかなり雰囲気の違うサロンを開催します。
私の友人が、長年その実現に取り組んでいる「地上の楽園」構想がテーマです。
その構想を題材に、私たちの生き方やいまの社会のありようを、ちょっと視点を変えて考えられればと思っています。
その「地上の楽園」とは次の3つが実現されることです。
* 人種を問わず、安心して笑い合い、交流できる。
* 人間の本質である「創造性」が発揮できる。
* 人間としての尊厳が保たれている、正当に評価される。
そんな社会を目指して孤軍奮闘しているのが、埼玉県の寄居で、異文化異次元交流カフェ“エルモット”を運営している内藤明子さんです。
内藤さんが考えていることを1枚にまとめたPDFを添付します。
これを読んで、どこかに共感することがあれば、ぜひご参加ください。
もう少し詳しく知りたい方は、内藤さんのホームページをご覧ください。
http://ermot.jp
ヒーリングとデザインが彼女の長年の仕事ですが、実際には彼女は「見えない世界を
感じながら生きるライフスタイル」を実践している人です。
ちょっと現世から逸脱した生き方や世界観なので、なかなか彼女の思いは広がらず、構想もまだ端緒についたところです。
いまのテンポだと、私の今生には間に合わない恐れがありますので、湯島のサロンでみなさんにも聞いてもらい、彼女にアドバイスしてやってもらえればと思います。
ですから、今回は、自分とは違う世界の人だなと思う人は参加をお勧めしません。
基本的には、内藤さんのビジョンに共感した人を対象にしたいと思います。
特に仲間になりたいという人は大歓迎です。
どんなサロンになるか、かなり心配ですが、まずは内藤さんに30分ほど自らのビジョンと実際にやっていること・やろうとしていることを紹介してもらい、後半は私がファシリテーター兼メディエーター役になって、内藤さんの世界を掘り下げたいと思います。
もし好評であれば、寄居でのリトリートサロンも企画したいと思っています。
どなたでも歓迎ですが、心を思い切り開いて参加してもらえるとうれしいです。
いつもと違う秋を迎えられるかもしれません。
〇日時:2019年8月25日(日曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」
*参加される方は、添付のPDFをあらかじめお読みいただき、できれば内藤さんのサイトも読んでおいてください。
〇話題提供者:内藤明子さん(異文化異次元交流カフェ“エルモット”運営者)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■『お箸を使ったゲームで遊んでみよう〜!』の報告〈2019年8月5日〉
毎月第2火曜日の午後、『ほっとスマイルプロジェクト』の交流会を開催していますが、8月は少し趣向を変えて、国際箸学会で推進している「箸ピーゲームと箸リンゲーム」の体験会を公開スタイルで開催しました。
ゲストにこのゲームの開発者でもある国際箸学会会長の小宮山さんに来てもらいました。
奇しくも8月4日は、「箸の日」。
猛暑の中を10人を超える人たちが参加。
ほっとスマイルプロジェクトのメンバー以外も、家族参加も含めて。4人が参加してくれました。
このゲームは、一言で言えば、一種のコミュニケーションゲームですが、一人で取り組んでも楽しいゲームです。
そのうえ、ゲームで楽しみながら箸の使い方・持ち方が上達する効用もあります。
今回の参加者の中には以前も体験し、実際に福祉施設などで活用している人もいますが、初体験の人もいました。
最初に小宮山さんから、箸ゲームの開発物語を少し話してもらった後、みんなでゲームを楽しみました。
まずは箸でピーナツを移動させる箸ピーゲームに取り組み、みんなで体験。
つづいて、5つの輪を、さまざまに箸を使いこなして移動したり形を造ったりのゲームです。
このゲームに本格的に取り組むのは、ほっとスマイルプログラムとしても初めてですが、箸ピーゲームとはまた違った面白さと効用がありそうです。
ゲームの体験中、笑いが絶えず、ほっとスマイルプロジェクトが目指す、ほっとスマイルな時空間が生まれました。
ともかく面白い、どうしてもっと普及させないのか、もったいないという声も少なくありませんでした。
最後に、体験感想を話しながら、どうしたらもっと広げられるか。あるいはさらに進化させられるかについて、話し合いました。
実践的な意見もたくさん出ました。
暑い中をわざわざ来てくれた、小宮山さんにも、少しお返しができました。
参加者の中には、早速、箸ゲームイベントを企画するという人もいましたが、これからの展開が楽しみです。
ほっとスマイルプロジェクトとしても、箸ゲームはひとつのプログラムメニューになるかもしれません。
箸ゲームやほっとスマイルプロジェクトに関心のある方はご連絡ください。
■湯島サロン「今回の参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」報告(2019年8月5日)
2回目の「参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」サロンには、猛暑にもかかわらず10人が集まりました。
前回に引き続き参加してくださった方もいます。
今回の選挙に、新しい政治の予兆を感じている人は少なくないようです。
最初は、やはり投票率の低さが話題になりました。
投票を義務制にしたらどうかという発言もありました。
難しく考えずに、自分が興味を持っていることを主張している人を選ぶことを若者に勧めているという話もありました。
ひとつのテーマで立候補することの是非に関する話し合いも少しありました。
山本太郎さんのところでボランティア活動をした人も参加されたので、山本太郎さんの話も多かったですが、おおむね共感する人が多かったように思います。
私も、山本さんの動きに、「政治家の政治」ではない「新しい政治」の予兆を感じた一人です。
それで最後に、2年前のサロンで話した「政治のパラダイム転回」の話をさせてもらいました。
配布させてもらったメモを添付させてもらいます。
ついでにサロンで話題になった政策シンクタンクの話も2年前に話させてもらっていますので、ついでに添付させてもらいます。
私は、上からの政治が下からの政治へと180度転回する予兆を今回感じたので、もう少し長生きしようと思ったほど、今回の選挙はうれしかったのです。
いろいろな立場の方がいたおかげで、さまざまな切り口や視点での話が出ました。
映画「新聞記者」も話題になりました。
知性と感性、政治と生活、言葉と実体、家政と国政、などという話も出ましたが、いろんな話題が出た割には、いつもと違って、あまり話が散乱しなかった気がします。
今回の選挙が、それぞれの政策や価値観の違いを超えて、多くの人に何か新しい動きを感じさせた結果なのではないかと思います。
その風が吹いているうちに、こういう話し合いの場が、いろんなところで始まればいいなと改めて感じました。
2時間の予定が結局また3時間になってしまいました。
こんなに盛り上がるのに、どうして政治を語る場が広がっていかないのか不思議です。
これを皮切りに、しばらく中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。
難しい政治談議ではなく、生活感覚から政治を話し合い、政局的な政治から生活につながる政治を取り戻していく動きを起こしていければと思います。
そのためにも、政治に関する固定観念からもっと自由になる必要があります。
政治家たちに期待する政治ではなく、自分たちが主役の当事者としての政治を語る時代の幕開けです。
話したいテーマがあれば、ぜひご連絡ください。
話したい人がいたら、ぜひご連絡ください。
基本的に湯島のサロンは、話したい人に開放していきたいと思っています。
■茶色の朝サロン「最近、ちょっと気になることから政治を考える」のお誘い(2019年8月7日)
先日、「参議院選挙結果に感じたことを自由に話し合う」サロンを2回、開催しました。
改めて、生活の視点で政治を話し合うことの大切さを実感しました。
その報告でも予告させてもらったように、中断していたBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を9月から再開します。
第1回は9月4日(水曜日)午後2時〜4時です。
できるだけさまざまな立場の人に参加してもらえるように、曜日や時間帯は、毎回、変えていこうと思います。
難しい政治談議ではなく、むしろ生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考えていければと思います。
それこそが、私は「政治を語ること」だと思っています。
政治と生活は直結していることを、私たちはもっと認識すべきではないかと思います。
再開1回目は、特にテーマを決めずに、参加者それぞれが気になっていることを気楽に話しあいながら、生活と政治のつながりをゆるやかに考えられればと思います。
ふだん、政治のことなど考えたことがない人こそ歓迎です。
最近ちょっと暮らしにくさを感じている人であれば、そんなことを話題にしてもらえば、うれしいです。
平日の午後ですが、よろしくお願いします。
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。
そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
〇日時:2019年9月4日(水曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近、ちょっと気になることから政治を考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「沖縄・辺野古の現状2019年夏」報告(2019年8月15日)
今年もまた、沖縄の東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長の緒方さんに、サロンをやってもらいました。
緒方さんは、アメリカで開催される平和を求める元軍人の会(VFP)の総会に出席する予定だったのですが、体調を崩され渡米は中止されたのに、サロンは無理を言って予定通り開催してもらいました。
ともかく緒方さんのお話をお聞きしたくて、緒方さんには無理をさせてしまいました。
サロンには、女性3人を含む、12人が参加しました。
最初に緒方さんは、アメリカのVFP総会で上映予定のDVDを見せてくれるとともに、総会で配布される資料の日本語版を配布し、それに沿って、辺野古をめぐる概況とVFP総会へのメッセージを紹介してくれました。
それに加えて、「本土」のマスコミがほとんど取り上げていない琉球新報のワシントン特派員からの衝撃的なニュースを紹介してくれました。
それによれば、最近、上下両院で可決された国防権限法案では、「辺野古を唯一」とする条文が削られ、「国防長官は沖縄やグアム、ハワイ、オーストラリアなどの部隊の展開計画を再調査しなければならない」とされているそうです。
さらに、代替基地としては、「アラスカ、ハワイ、米本土、日本、オセアニアのどこか」と提案されるようですが、ここに書かれている「日本」には「沖縄」は含まれていないそうなのです。
詳しくは、琉球新報の下記の記事をお読みください。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-961260.html
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190726-00000011-ryu-oki
ちなみに、琉球新報の記事にあるように、辺野古基地建設で失われようとしているサンゴ礁や自然の破壊を取り上げた映像ドキュメンタリー「我した島ぬ宝(私たちの島の宝)」も上映されるそうですが、日本のマスコミではなかなか伝わってこない動きが、沖縄の人たちの活動によって、アメリカでも始まっているようです。
日本でも、たとえば自然破壊とか軟弱基盤問題などが話題になりましたが、一時期の話題でそれが大きな流れの変化にはつながっていません。
もしかしたら、アメリカよりも日本の本土は沖縄から遠いのかもしれません。
まだまだ日本では、米軍基地問題は「沖縄の問題」と捉えられがちですが、問題は沖縄のみならず、日本全体の問題です。
沖縄の基地が問題なのではなく、日本に米軍基地があることが問題なのです。
そう考えれば、そもそも「沖縄基地問題」という言い方を変えることから始めなければいけません。
私が今回、一番反省したことはこのことです。
さらに言えば、問題は「米軍基地」ではなくて、現在の国政のあり方であり、私たちの生き方や政治への関わり方の問題です。
緒方さんは、話の中で、報道写真家の岡村昭彦さんの言葉を紹介してくれました。
「本土」の人から基地問題に関して何をしたらいいかを問われた時に、岡村さんは「基地の問題に何ができるかではなく、ご自分の周りにある問題に取り組んでもらえればいい」と応じたそうです。
とても共感できます。
同じような問題は、だれのまわりにもたくさんあるはずです。
それに実践的に取り組んでいえば、かならずそれは基地問題にもつながっていく。
それにしても、7割以上の住民が反対している辺野古埋め立てが、政府によって話し合いさえされずに進められているという、いまの政治のあり方を、私たちはもっと問い直す必要があります。
いつ、そうした政治が私(あなた)の身近な生活に及んでくるかもしれません。
その時に、当事者が7割反対しても押し切られる政治が生み出されているのです。
話し合いはいろいろと広がりましたが、私が一番ショックだったのは、沖縄の大学生たちがこうした「政治問題」に消極的になってきているということです。
若者たちの生き方は、社会の未来を示唆しています。
子育てや学校教育の問題は、決して「福祉問題」にとどまるものではないのです。
琉球・沖縄センターでは活発な情報発信を行っていますが、なかなか沖縄以外の地域には情報が届きません。
今回のように、緒方さんから直接お話を聞くだけでも認識は変わるはずです。
沖縄の実状や基地を取り巻く状況に触れられる場をもっとつくっていけないものか、と今回も思いました。
どなたかそういう場を企画しませんか。大学やNPOでも、個人でも、社会教育の場でも、その気になれば、いろいろと考えられます。
もしご連絡いただければ、私も一緒に考えさせてもらいます。
サロンの話し合いの内容をきちんと書かずにすみません。
参加された方、できればフォローしてもらえるとうれしいです。
■湯島サロン「分かち合い経済試論 ?資本主義の次の世界への可能性」報告(2019年8月19日)
平田英二さん(やとじぃ/練馬区文化財保護推進員)の「分かち合い経済試論」のサロンは猛暑にもかかわらず、14人の参加がありました。
いつもより時間を1時間延ばし、平田さんが作成してきてくれたテキストをベースに2時間近く、じっくりと平田さんのお話を聴かせてもらいました。
平田さんは最初に今回サロンで話すことになった背景を話してくれました。
「カネ、カネ、カネ…の世の中、やだなあ」と感じていた平田さんは、昨年、湯島でやった霜里農場の金子友子さんのサロンで、有機野菜を売るのではなく、あげちゃうことにしたらうまく回りだしたという友子さんの話を聴いて、目が開かされたといいます。
その後、平田さんは4回も入院をするのですが、その間、改めていろいろと本を読んだり考えたりしているうちに、「分け合う経済」ビジョンが形になってきたようです。
念のために言えば、平田さんは現場と実践の人ですので、書籍だけから組み立てられた仮設ではありません。
現場調査もしながら、自分の生きかたとつなげて考えてきたビジョンです。
話は、「アイヌの鮭交易」の話から始まりました。
それは、収穫した鮭を加工して、ある場所(チシャという一種の神域)に放置し、それを欲しい人が引き取っていくというようなスタイルです。
神域に放置することで、鮭は神のものになり、それを必要な人が活かしていくということで、個人の所有権の移転とはちがうのです。
神のもの(みんなのもの)を分け合って活かしていくという仕組みで、平田さんの提唱する「分け合う経済」のエッセンスが凝縮されているように思います。
そこから平田さんはアイヌ文化の成り立ちに話を転じ、北アメリカ先住民のポトラッチまで話を進めます。
アイヌの話は、社会のありように大きな示唆を与えてくれる内容でした。
そして、資本主義経済は「棚田経済」だと言って、水田稲作という装置産業が生み出した権力と格差の話に入っていきます。
その話をたっぷりしてくれた後、では格差を生まない経済取引はあるのかと問題を設定し、いくつかのモデルを紹介します。
その一つが、「分かち合う経済」ですが、それはそれですぐれた解決戦略だと思うと言いながら、やはり平田さんは納得しないようです。
視点が違うのです。
そして出てきたのが「分け合う経済」なのです。
平田さんはこう言います。
心情的な語感をもつ「分かち合い」よりも、物々交換や沈黙交易に対置できるような、フラットで動的な言葉として、「分け合う経済」を選んだ。
「分け合う経済」は必然的に仲がよい関係を作り出す、と平田さんは言います。
人間同士だけではなく、自然とも仲良くして、自然から分けてもらった恵みを分け合う。
自然の一部として生きる者どうしが自然の恵みを分け合う、ということです。
そして、狩猟採集民こそ、まさにそう生きてきたと平田さんは言います。
平田さんは、アイヌも含めて狩猟採集民が農耕と無縁だったなどとは思っていません。
その生き方というか社会のありようを言っているのです。
そういう時代に分け合って生きている人たちがどういう集落をつくり、どういう文化や死生観をもっていたかを、縄文環状集落モデルで説明してくれました。
これも示唆に富む話でした。
とまあ、そういう話をしてくれた後、平田さんは格差と戦争原理をなくす分け合う経済が持っている可能性を語ってくれました。
分け合うのであれば、できたものをできたなりで分け合えばよい。
コストパフォーマンスどころか、コストという概念さえない。
B級品や規格外というロスが生じることもない。
お返しもまた分け合いだから、必ずしも、もらったものに見あったものである必要はない。分け合える何かをお返しすればよい.
価格という制約がなくなれば、むしろ、物そのものの価値をまっさらな状態で受け止めることができるのではないか?
少なくとも生活に関わる領域を「分け合い経済」に変えていき、人びとと分け合い、自然と分け合えば、自然を過剰にいじめることなく、おのずと持続可能性の高い社会を維持することができるのではないか?
「各人ができることを分け合って働き(そこにいること自体ひとつの働き)、得られたものは平等に分け合う」ことによって、格差も小さくなる.
そこに「働かざるもの食うべからず」の思想はない。
「分け合う経済」は、戦争という人類最大最悪の不幸を避ける道にもなる。
いかがでしょうか。
そして最後に結論としての平田さんとしての行動宣言です。
「そういうことで、私はまず「あげること」からはじめることにしました」。
そういって、今回のサロンの資料をカラープリントで参加者全員に配布してくれました。
一冊の本にもなりそうな内容の濃い資料です。
話し合いも、賛否あって、いずれも示唆に富むものでした。
魅力的な議論も多かったですし、私の意見も書きたいのですが、長くなりすぎるので今回はやめます。
できたら参加された方がフォローしていただけるとうれしいです。
参加された方は、いろんな示唆を受け取ったと思われますが、平田さんが最後に自己宣言したように、いまの社会がもし生きづらいのであれば、まずは自らの行動を変えることから始めるのがいいと改めて思いました。
このシリーズのサロンは引き続き継続します。
話したい人がいたらご連絡ください。
■最近のテレビ報道に思うこと(2019年8月19日)
最近のテレビ報道に関して、フェイスブックに2度ほど意見をアップしましたが、いろんな人から意見がありました。
2回にわたり書き込んだことの要旨をここにも書いておきます。
〔2019年8月18日〕
この数日話題になっている「あおり運転」の加害者が逮捕されました。
その逮捕の瞬間をテレビでしつこく放映されていました。
私には非常に不快な画面でした。
加害者が不快だったのではありません。
撮影をやめてほしいという警察の指示を無視して撮影し、報道するテレビ関係者が不快でした。
私の感覚では、加害者の行動を正当化する姿勢でしたから。
加害者もうまくそれを利用しているように思いました。
あおり運転をなくす方向で最近のマスコミが動いているとはとても思えません。
たぶんあおり運転はさらに「進化」するでしょう。
ドライブレコーダーも売れて、経済成長に寄与するでしょう。
警察も行政もあおり運転に限らず、飲酒運転も含めて、真剣に取り組んでいるとは思えません。
これまでも書いていますが、自動車運転免許の管理をすればいいだけの話です。
そして自動車の台数を減らせばいいだけの話です。
財務省と経産省が、そんなことを許しはしないでしょうが。
経済成長を基準にした発想から、もう抜け出したいです。
利便性や快適性も、経済視点ではなく生活視点で考えていきたいものです。
人間にとって、「利便性」とか「快適性」とは何かを考えなしたいです。
最近は新聞を読まなくなってきていますが(見てはいます)、テレビの報道番組も見るほどに気分が悪くなり、見なくなってきています。
新聞もテレビも、この半年、急速に変質しているように思います。
私の偏見だといいのですが。
〔2019年8月19日〕
しつこいですが、今日もまだあのあおり運転加害者逮捕の瞬間が繰り返し流されています。
たとえば、いまやっていた「ひるおび」では司会者が「不愉快な画面」と言いながらも繰り返し流しています。
不愉快な映像をなんで繰り返し流すのか。
その背景には、一時期、やはり繰り返しテレビで流されたコンビニ店員などが悪ふざけした行為を撮影してネットに流す「いたずら映像」と同質です。
あれも増長させたのはテレデだと思いますが。
こういう番組のディレクターや司会者やコメンテーターは、ああいう映像をネットで流す若者とどこが違うのか、とつい考えてしまいます。
同じ仲間です。
そもそも不快な映像をテレビで流さないでほしいですが(流すべき価値があるものは別です)、それよりも、この映像を「かっこいい」と受け取る人もいるでしょう。
かつて逮捕されると箔がつくということが言われたこともありますが、要はこの画面はそうした人たちを刺激し、さらにエスカレートさせることになるでしょう。
ぁ会社はそれを意識して、行動していたように思います。
少なくとも加害者は全国ベースでの「有名人」になりましたし、彼はこの事件をたぶん活用していくでしょう。
いまの社会の風潮を助長しているテレビ関係者は、テレビはそれとは逆の可能性を持っていることを知ってほしいです。
まともな政治記者がいなかったと言われているように、まともなテレビディレクターはいないのでしょうか。
■仏教サロンを始めたくなりました(2019年8月20日)
昨日、ブログに書きましたが、日曜の朝、Eテレの「こころの時代」の禅シリーズを見てしまいました。
岐阜正眼寺の山川宗玄さん(正眼僧堂師家)が禅について語ってくれるシリーズです。
毎月1回の放映でまだ5回目。まとめてみようと思って録画しているのですが、うっかり5回目を見てしまいました。
思っていた内容と全く違っていて、引き込まれてしまいました。
それで、今日、録画していた4回分をすべて見てしまいました。
山川宗玄さんの話に引きこまれてしまいました。
個人的体験をベースにしたお話は、禅には不案内な私にも素直に心に入ってきました。
テキストも出ていますので、お薦めです。
https://www4.nhk.or.jp/kokoro/33/
実は数日前から、あれほど楽しみだった畑に行く気が失せてしまっています。
手が負えなくなったという状況もあるのですが、なぜか畑が私を拒否しだしているのです。
理由はわからないのですが、歓迎されていないのがよくわかります。
山川宗玄さんの話を聴いて、まだまだ私が頭で行動していることを思い知らされました。山川宗玄さんの生き方を学ばねばいけません。
それにしても、誠実に生きている人の人生は豊かで、示唆に富んでいる。
山川宗玄さんにお会いできる自信はありませんが、せめて著作だけでも少し読んでみようと思います。
東京でお話を聴けるような場があれば、教えてください。
どなたか「正法眼蔵」を解説するサロンをやってくれる人はいないでしょうか。
仏教関係の本ではもう一冊、ちょっと気になっているのが、曹洞宗の南直哉さんの「超越と実存 「無常」をめぐる仏教史」です。
どなたか読まれた方はいないでしょうか。
「無常」を語ってくれるサロンをやってくれる人がいるとうれしいです。
改めて仏教を考え直したくなっています。
僧籍を持った友人は多いのですが、考えてみたら、仏教をテーマにしたサロンはあまりやってきていません。
どなたかお願いできませんか。
■パンのためのバラ(2019年8月21日)
あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止が波紋を呼んでいます。
しかし残念ながら、またうやむやのうちに終息し、事態は一歩進むような気がします。
もちろん私にとっての悪い方向での前進ですが。
あいちの問題に関してはすでに多くの議論がありますので、議論は繰り返しませんが、芸術監督の津田さんは、「社会の自己検閲」への問題提起を目指したと言っています。
その考えには大賛成ですが、方法には大きな違和感があります。
もしそうであれば、社会の現場に降りてきて、その問題をこそ、考える動きを創り出すことをなぜ目指さないのか、です。
同じような事件や問題はさまざまなところでこれまで繰り返し起こっていますが、そうしたことをつないでいく地道な活動はあまり広がっていません。
そこに大きな問題を感じます。
そして、そうした背景には、現代のアートがあまりにも、「道具」的な存在になってしまった現実を感じます。
そんなこともあって、先週、プレハーノフの「芸術と社会生活」を読み直しました。
プレハーノフは、「芸術と社会生活については、「芸術は人類意識の発達、社会制度の改善をたすけるものでなくてはならない」と「芸術はそれ自身が目的である」という、2つの全く反対の考えがある」と書きだしています。
他の目的を達する手段に芸術をしてしまうことは、芸術的作品の価値を低下せしめるものである、という考えもありますが、そもそも「価値」というのは、社会があればこそ生ずる概念です。
芸術の持つ社会への影響力は極めて大きいことは間違いありません。
社会が豊かになってきた大きな要因の一つは「芸術」でした。
「人はパンだけでは生きていけない。バラも必要なのだ」。
これはウィリアム・モリスの考えを国分功一郎さんが表現し直した言葉ですが、パンだけを目指す生き方に向かっている私たちが思い出すべき言葉だと思っています。
ところがいまでは、バラもまたパンのためのものになりつつある。
最近のアートは経済主義に向けて大きく変質したと思っています。
あるいは、政治(正確には金銭経済の下部組織としての政治)の道具に取り込まれつつあります。
そこに大きな失望を感じます。
アートには大きな力がありますが、それは誰かに私用されるべきではありません。
あるいは、金銭経済の道具にされるべきでもありません。
私がとても素晴らしいと思っている事例は、ラマラ・コンサートです。
前に私のホームページで何回か紹介したことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/09/post_5897.html
アートでできることはたくさんあるでしょう。
この自由が失われそうな時代に、なぜアーティストの人たちが大きな動きを創り出さないのか。
アーティストの世界には、山本太郎さんのように、人民の中に飛び込んでくる人はいないのでしょうか。
才能のある人が、その才能をどこに向けて発揮するかは、とても大切なことだろうと思いながらも、才能がない私としては悔しいばかりです。
■病院に6時間いました(2019年8月22日)
昨日、娘の付き添いで大学病院に6時間いました。
娘がちょっと無理がたたって近くの病院に昨日逝ったのですが、専門医に診てもらうように大学病院を紹介されました。
昨夜は大変そうで、娘もほとんど寝ていないようなのです。
横になれないので、この数日あまり寝ていないそうです。
娘がそうなった理由の一因が私にあることもあって、娘からは断られましたが、ちょっと無理やり付き合ったのです。
最近体調があまりすぐれない私にとっての、ミニリトリートも兼ねていました。
紹介状を持って朝早くいったのですが、まず初診受付で40分ほどかかりました。
総合病院ですから、まあいろんな患者が多いのです。
次に内科受付に行って、ここでまた1時間ほど待たされました。
まあ、そのくらいは覚悟していました。
しかし、待合室にいるといろんな人がいます。
眠れないからという人もいれば、糖尿病かもしれないという人もいます。
待合室で待つ時間のおしゃべりを楽しんでいるように見える人もいます。
そういう中で、娘の苦しそうな様子を見ていて、こういう場でも「トリアージ」方式が取れないものかとつい思ってしまいました。
しかし、これはいかにも勝手な考えで、だれもが自分が一番大変だと思うでしょうから、フェアなトリアージ仕分けをするのは至難なことでしょう。
外見では娘が一番苦しそうだなと感じましたが、それはあくまでも贔屓目の外見でしかありません。
それに今日も実際にあったのですが、病状はたいした様子ではなかったのですが、午後から用事があるので急いでもらえないかという人がいました。
そうした個人事情を認めだしたらきりがないと言われそうですが、その人はきっと時間のない合間に来たのでしょう。
そう思うと優先させてやってほしいなとついつい思ってしまう。
もっとも今日も、娘は少し優先してもらったかもしれません。
スタッフの方が気にかけてくださったような気配を感じました。
お医者さんも、娘に処方後、薬が合わなくてあまり効果が出ないときには、救急窓口に来てくださいと言われたそうです。
昨日は娘からは救急車など大げさだと一蹴されましたが。
長々と書きましたが、先日の「分け合う経済」サロンに通ずるように思います。
「分け合う」文化は「譲り合う文化」でもあります。
譲り合う生き方に向かうことが、私にとっての前進です。
しかし、残念ながら今の社会は譲り合いどころか奪い合いに向かっている。
その根底にある「競争」の文化を「共創」へと向けていければ社会も個人も幸せになるはずです。
譲り合うことがどんなに気持ちの良いことか。
それを体験することがなかったがゆえに、あおり運転のようなことをやってしまう人たちに、ぜひとも「譲り合い」の喜びを体験してほしいです。
今日、病院で感じたことです。
■病院の待合室は実に面白い(2019年8月22日)
前の記事で、病院のことを書きましたが、その時の待合室での体験です。
病院の待合室は実に面白いです。
中年世代の夫婦が親の付き添いで来ていました。
私の後ろでよく話していました。
仲の良い夫婦なのでしょう。
職場の話のようです。
女性は、立場のある人の考えや姿勢を気にしていましたが、男性は「偉くなる人は信頼できない」と言い切りました。
この夫婦はいつか破綻するかもしれません。
スタッフの方が、時々、待合室に出てきて、患者の方と問診票の内容を確認することがあります。
たとえば、こんなやり取り。
「食事ではどんなものを食べていますか?」
「いいものを食べています」
とても感心しました。
実にいい答えです。
眠れないので心配で病院に来たという高齢の女性。
9時に寝るそうですが、2時半に目が覚めてしまう。
そこからなかなか眠れなくて、3時半には起きてしまう。
5時には朝食、6時にはボランティア活動で家を出るそうです。
昼間はまったく眠くないと言いますが、朝早く目が覚めるので、病院に来たそうです。
受け答えしていた病院のスタッフは、6時間近く寝ているので大丈夫ですよと言っていましたが、本人は不安だそうです。
ちなみに、前回は耳のところにちょっとできものができたので耳鼻科に来たが、先生から心配ないですよと言われたと言っていました。
来週はまた別の科に行って、先週は不眠を訴えたが、大丈夫だと言われたと言っている様子が想像できました。
それにしても、朝6時からの「ボランティア」活動はなんだろうかと気になりましたが、スタッフの方は質問しませんでした。
私なら訊いたのですが。
病院では呼び出しなどは番号で呼ばれます。
しかし、番号で読んでも反応しない人が多く、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます。〇〇さん」と呼ぶと「はい」と手を挙げる人が多い。
幸いにまだ多くの人は番号で呼ばれるのに慣れていない。
それはいいとして、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます」というのに違和感を持ちました。個人の名前は「個人情報」に属するからですが、番号で呼ぶ方がよほど「失礼」と思いますが。
それにしても、あれだけ大勢の人が次々とバスでやってきたのに、実に見事に流れに乗って、よどみなく「処理」されていく様子は感動的でした。
まもなく「社会」全体も、こういう感じになるのかなあとちょっと思いました。
■韓国のGSOMIA破棄に素朴に思うこと(2019年8月23日)
韓国がGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)の破棄を発表したことが大きな話題になっています。
軍事で平和を目指そうという考えに拒否感がある私には、素朴に共感できる話ですが、どうもそういう捉え方は非常識のようです。
北朝鮮と韓国の関係は、たぶん当事者でなければ分からない話でしょう。
自分たちが望みもしなかった代理戦争で、分断国家にされて、北と南とで生き別れになった家族にとっては、一番の「平和」は、家族一緒に暮らせることだと思います。
南北の戦争が起こらないことが確信できれば、軍事など無駄な話です。
南北の戦争が起こらなければ(あるいはその危機がなければ)困る人もいるでしょうが、私は、自分は部外者であるとしても、起こってほしくありません。
昨今の日韓関係の報道情報は、やはり私には違和感があります。
日韓政府関係と日本人と韓国人の関係とは全く違う話ですが、それがいつも混同されてしまい、前者が後者に大きな影響を与えるのが残念です。
逆にもっと日本人と韓国人が往来しあい交流を深めたら、状況は変わるでしょう。
むかしは、日本と韓国は同じ生活圏にありました。
そもそも同じ生活圏で生きていたことを思い出したいものです。
■湯島サロン「見えない世界を感じながら生きている人が構想する地上の楽園」報告(2019年8月27日)
異文化次元交流カフェ主催者の内藤さんが構想する「地上の楽園」をテーマにしたサロンは申し込みが多くて、参加募集を締め切るほどでしたが、当日は、目に見えない自然の摂理が働いたのか、20名以内に収まり、おかげで私もきちんと話を聴けるサロンになりました。
案内でも書きましたが、内藤さんが目指す「地上の楽園」は次の3つが実現されることです。
* 人種を問わず、安心して笑い合い、交流できる。
* 人間の本質である「創造性」が発揮できる。
* 人間としての尊厳が保たれている、正当に評価される。
その実現に向けて、内藤さんはいま、埼玉県の寄居の“エルモット”を拠点に活動しています。
詳しく知りたい方は、内藤さんのホームページをご覧ください。
http://ermot.jp
内藤さんはまず、「地上の楽園」構想と今それがどういうところまで来ているか、そしてこれからどう展開しようとしているかを、自分のこれまでの活動も含めて話してくれました。
地上の楽園は、「場所」であるとともに「人が創り出すコミュニティ」です。
そこに集まる人たちは、「世界と自分が一体であることが感じられ、あらゆるものに生命が満ちていて、すべてのものごとに意義が感じられる状態」であることが望まれます。
そしてそうなるためには、エゴの殻で自分をまもって生きている状態から、エゴを手放し、自分らしくのびやかに生きている状態へと自己を変えていかなくてはいけない。
内藤さんは、それを自らの精神を成熟させるという言い方をしました。
「地上の楽園」は、成熟した精神の人たちだけのコミュニティではありません。
そこに暮らすことで、精神が成熟していくようなコミュニティでもあります。
精神の成熟に向けて、自らの中にある「精神の可能性」を「発芽」させるための要素は、日本の伝統文化の中に豊富に含まれていると内藤さんは考えています。
そこで「地上の楽園」の実現のためには「和文化体験」を重視しています。
武芸・工芸・文芸だけではなく、日常の生き方に残っている和文化のなかにも、精神を発芽させる要素がたくさんあると内藤さんは考えています。
“エルモット”にはさまざまな国からお客様がありますが、彼らと接して、内藤さんはそういう思いを強めているようです。
さらに、“エルモット”では、精神の成熟を補完するものとして、ヒーリングや各種講座も用意されています。
“エルモット”の場所は、埼玉県の寄居ですが、ここは数年前に内藤さんが訪れて、「ここだ!」と感じたところだそうです。
私も何回か行きましたが、たしかに気を感ずるところです。
“エルモット”を拠点に、内藤さんはすでにさまざまなプログラムを展開中ですが、いまはまだ個人活動にとどまっているためなかなか広がりが出てきません。
この構想をもう一歩前進させるために、独立自由な人たちがゆるくつながり、精神の成熟を高め合う、そんなコミュニティが、いま内藤さんが目指している課題のようです。
この構想に共感した人たちが集まりだして、それぞれが自らのやりたいことを実現するプラットフォームが生まれれば、構想は実現に向かいだすでしょう。
お話を聴いた後、話し合いが始まりました。
もう構想ができているのだからどんどん進めればいいという意見がある一方、構想が抽象的すぎてわかりにくいのでもう少しテーマや方向を絞ったらどうかという意見もありました。
今回、内藤さんは「見えないビジョン」をできるだけ言葉にし可視化するために、見える世界の言語や思考の枠組みを組み込んで話してくれましたが、それが却って混乱を起こすのではないかという指摘もありました。
たしかに見えない世界のビジョンを言葉で説明するのは難しいです。
言葉で説明するよりも、絵や書で伝えられないかという指摘もありました。
あるいは、踊りや歌のような「楽しさ」をもっと前面に出して、まずは人が集まりたくなる場を考えたらどうかという提案もありました。
みんなが幸せに暮らせるコミュニティづくりは、これまでもありましたし、いまもあります。
しかし内藤さんが目指しているのは、仲間内の楽園ではなく、開かれた楽園であり、世界(宇宙)に広がっている楽園です。
そこに難しさがあり、わかりにくさがあり、しかし魅力と新しさがあるように思います。
今回のサロンのいろんな意見が、内藤さんの構想実現に役立つといいのですが。
サロンをさせてもらって、1回の話だけではなかなか伝わらないと思いました。
それで改めて、寄居の“エルモット”で体験型サロンをやってみるのはどうかと思いました。
最後に私の感想を一言。
精神の成熟とか自己超越とかいうことは難しいですが、内藤さんが話した「自分らしくのびやかに」に生きることは、その気になれば誰にでもできることです。
そういう生き方をしている人が、寄居に3人集まったら、地上の楽園は育ちだすのではないかと思いました。
いや、その気になれば、それぞれの人が自らの周りに「地上の楽園」を創り出せるのではないか。
「地上の楽園」は、もしかしたらみんなのすぐそばにもうあるのかもしれません。
そんな気がしました。
■第4回万葉集サロン「柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を読む」のご案内(2019年8月28日)
万葉集サロン4回目は、前回につづき柿本人麿です。
今回は、柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を題材に、〈亡びにし者たちの「われ」の喪失〉をテーマにします。
講師の升田さんからのテーマ解説です。
壬申乱によって廃墟と化した天智天皇の近江大津宮の跡を詠んだ、人麿の若いとき(万葉初出)の長歌である。
安禄山の戦によって滅んだ唐の都を詩に歌った、杜甫の「春望」(国破れて山河あり 城春にして草木深し)は、漢文の教科書を通して多くの若者たちに感動を与えた。人麿の近江荒都歌は、7〜80年それに先んじている。日本で「荒都」を主題とした歌は、これが最初である。
前半は皇統譜を、後半は一転して廃墟の中をさ迷う人麿の姿を歌う。人麿の目に映ったものは何であったか。
動乱調、乱調と言われる人麿の歌には分かり難い部分もあるが、言葉の意味と調子で力強くそこを突き抜けて行く。古代の歌の魅力である。
近江荒都で人麿の詩性を突き動かしたものは、人麿の「われ」と対峙することの決してない、滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉だったのではないか。
若き人麿の、心の迷いを歌う古代言語に触れたい。
というわけで、升田さんの人麿論も佳境に入ります。
「滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉」とは、ちょっとロマンを感じさせます。
さてどんなお話になるか。
初めての方も大歓迎です。
もちろん予備知識などは不要ですが、できれば壬申の乱に関してちょっとだけ調べてきてもらえれば、もっと楽しくなるかと思います。
お気軽にご参加ください。
〇日時:2019年9月21日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を読む」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■老後の生活費が2000万円不足するという発想(2019年8月28日)
公的年金の将来の見通しを示す年金財政検証の結果が、昨日、厚生労働省から発表されました。
テレビや新聞でその内容が報道されていますが、それを聞いたり読んだりしても、何がなんだかさっぱりわかりません。
というよりも、わからないように発表したり報道したりしているのではないかとさえ勘ぐりたくなります。
今回の消費税増税のやり方もそうですが、何が何だかわからなくしてしまって、考えたり反論したりするのをあきらめさせるのが、最近の政府のやり方です。
それを未消化のまま、報道するマスコミやキャスターには驚きます。
話していて、書いていて、おかしいと思わないはずはないのですが。
それはともかく、私が一番気になっているのは、金融庁審議会報告書をきっかけに騒がれ出している「老後の生活費が2千万円不足する」という世間の動きです。
テレビでもそれを前提に番組が組まれ、多くの人がそう考えてきているようですが、そこにこそ、私は大きな違和感を持ちます。
老後の生活費が不足するのであれば、その格差をどう埋めればいいのか
その問題が、すぐに「不足する2000万円をどうやって確保していくか」という問題にすり替わってしまうことに違和感を持つのです。
これではまるで、餌をもらって生きている家畜の発想です。
そういう生き方を変えればいいだけの話なのではないか。
そもそもお金がなければ生きていけないようになったのは、たかだかこの数十年の話です。
私はそういう社会こそがおかしいと思っています。
お金がすべてのいまの社会はおかしいという人は、私の周りにも少なくありません。
そうであれば、その「おかしな生き方」を捨てればいいだけの話ですが、そういう論を説く人に限って、生き方を変えようとはしていないようにも感じます。
最近では、人間が、生活者ではなく「(お金の)消費者」になってしまった。
これに関してはこれまで何回か書いてきていますので、繰り返しませんが、そういうお金を基準にした生き方から抜け出さない限り、生活は取り戻せません。
そもそも、本当に不足するのは2000万円なのでしょうか。
お金があれば、老後の生活は安心なのでしょうか。
解決すべきは、老後の生活をどう豊かにするかであって、2000万円をどう確保するかではないでしょう。
問題は、2000万円不足するということではなく、保証された年金額でどう豊かな生活を維持できるかではないでしょうか。
豊かな生活は、金銭だけでは実現しません。
にもかかわらず、金銭だけに依存している今の生活を見直すことの方が大切ではないか。
多くの人がそういう考えを持ち出せば、社会もまた変わっていくでしょう。
大切なことは、金銭への生活依存度を最小化していくような生き方の見直しではないのか。
問題は老後の生活ではなくて、いまの生活なのです。
お金から自由になると、たぶん生活は豊かになります。
しかし、時間はかかるでしょう。
私の場合は、20年以上かかってもまだお金からは自由になれていません。
しかし、不十分でも自らが納得できる方向に向かって、少しでも動き出さねば、何も変わりません。
ちなみにいま2000万円あれば、湯島の椅子やプロジェクターも更新できて、サロンもずっと続けられるので、2000万円は欲しい気もしますが。
■湯島サロン「生活を豊かにするかたづけ術:探し物がないことが一番!」(2019年8月30日)
最近また「かたづけ」が話題になっています。
時流に乗るわけではないのですが、今回は「かたづけ」をテーマにしたサロンです。
家事セラピストで整理収納アドバイザー1級の石田ユキさんに、整理収納術のミニセミナーをやってもらい、後半では、「かたづけはなぜ生活を豊かにするのか」をテーマに話し合いをしたいと思います。
石田さんは、「かたづけ」の大切さを「生き方」につなげて考えている方です。
そこで今回は「生活を豊かにする」という視点に焦点を合わせていただこうと思います。
したがって、単なる「かたづけ」技術のサロンではありません。
前半では、そうした「かたづけ」法とか整理術の話をしていただき、ミニワークショップもやってもらいますが、後半では、生き方につながるような形で「かたづけ」の意味や大切さを、広い視点で話し合えればと思っています。
石田さんは、「家事」や「片づけ」をテーマに、さまざまなところで講演やワークショップもやられていますので、そうしたことから現代の社会の問題もいろいろ見えているでしょう。
そんなお話も聞けると思います。
もちろん、かたづけが苦手だという人は、たぶんたくさんの知恵をもらえると思います。
かたづけ嫌いな方も、かたづけマニアの方も、大歓迎です。
きっと生活が豊かになる、楽しいサロンになると思います。
参加者は事前に私にご連絡ください。
あふれるといけませんので。
〇日時:2019年9月29日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「生活を豊かにするかたづけ術:探し物がないことが一番!」
〇話題提供者:石田ユキさん(家事セラピスト/整理収納アドバイザー)
〇会費:500円
参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう(2019年8月29日)
テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。
私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。
しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。
日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。
思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。
先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。
しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。
■最近、韓国がますます好きになってきています(2019年9月3日)
テレビや雑誌での、反韓感情を煽る動きには、日本もここまで来ているのかと驚きます。やはり「歴史認識」の欠如が、その原因の一つでしょうか。
あるいは日本の社会状況の反映なのでしょうか。
私自身は、最近の韓国報道に触れていて、韓国の良さをますます感じています。
たとえば、今回のチョ・グク事件で、人事聴聞会という制度があることを知りました。
日本にはあるのでしょうか。
政府の重要な立場に就任する人は、国民の前で自らをさらけ出して評価を得るわけです。
日本の政府は、とりわけ森政権のころから密室で人事が決められるようになったように思いますが、司法関係や報道関係の人事はまったく見えないところで行われています。
人事聴聞会での評価がどうであれ、大統領は任命できることをとやかく言う人もいますが、大切なのは国民の見えるところで評価されることだろうと思います。
徴用工判決事件で明らかになったのは、司法と行政との距離です。
いろいろな評価はあるでしょうが、政府による国家間合意に縛られずに、司法が独自の判断を下したのは、「統治行為」下にある日本の司法に比べれば主体性を持っているように思います。
若者や市民の行動も高く評価します。
加えて報道の姿勢にも、日本とは全く違うものを感じます。
民主主義をもしよしとするならば、日本に比べて韓国はかなり健全なように思います。
何よりも「実体」がある。
いま世間を覆っている韓国評価には私は大きな違和感を持っています。
それを生み出しているのは、たぶんテレビでしょう。
それにしても、同じような日本の事件や現象は棚上げして、韓国のことになるとこれ見よがしに罵ったりバカにしたりするマスコミには驚くばかりです。
そのエネルギーの半分でも日本の政治の闇に目を向けてほしいです。
韓国に目を向けさせて、国内での問題には目を向けさせない。
そんな気さえします。
時々書いていますが、「働き方」改革は、価値ある仕事へと働く内容を変えることでなければいけません。 時間などが本質なのではありません。 人は生きている以上、何らかの働きをしているからです。
香港の若者たちも敬服しますが、韓国の若者たちにも敬意を持ちます。
彼らの動きを見ていると、30年後のアジアに期待できるように思います。
■湯島サロン「永世非武装中立国コスタリカ〜今日を築いた方々を訪ねて」報告
昨年、コスタリカを訪問した折原さんにお話ししていただくサロンは、3時間近い時間だったにもかかわらず、まだまだ話し続けたい内容の濃いサロンになりました。
最初にドキュメンタリー映画『軍隊をすてた国』(短縮版)をみんなで観てから、折原さんのお話をお聞きしました。
話は、コスタリカのサモラ弁護士の日本での講演内容と質疑応答の要旨、それに続いて折原さんが現地で見聞してきたことの報告でした。
案内文にも書きましたが、サモラさんは大学生の頃からコスタリカの非武装中立を確実なものにするために活動してきた人です。
日本での各地の講演活動には折原さんも同行されました。
とても内容の濃い話で要約することは難しいので、特に私がお伝えしたいことだけに絞って、少し私見も加えて、報告させてもらいます。
詳しく知りたい方は、当日のレジメ資料がありますので、ご連絡いただければ送ります。
また当日の録画映像もありますので、ご覧になりたい方はご連絡ください。
2003年3月、アメリカのイラク進攻が始まり、当時のコスタリカの大統領は、アメリカが呼び掛けた「有志連合」に、国民の反対を押し切って支援することを表明しました。
当時、大学の法学部の3年だったサモラさんは、「法学部の学生なら何かやらないといけない」と考え、憲法法廷(憲法問題を扱う最高裁判所)に訴状を提出、それを受けた最高裁は「大統領の発言はわが国の憲法と平和的伝統、永世中立宣言、世界人権宣言などに違反しており違憲である」と判決し、有志連合リストからコスタリカが削除され、永世非武装中立が守られました。
当時の日本でも反対デモは広がっていましたが、小泉政権はイラク派兵を決めました。
私も久しぶりにデモに参加しましたが、不発に終わり、以来、日本とコスタリカは、ますます対照的な方向へと動きを強めていきました。
コスタリカは、1949年に憲法で軍隊を廃止しています。
そして、1983年に永世中立を宣言し、2008年に「平和への権利」を憲法に明記しました。
折原さんは、「平和という状態は、単に軍隊や戦争がないという状態だけではなくて、すべての人が尊重されていること」というサモラさんの平和の定義を紹介してくれました。
今回の折原さんの話でも、コスタリカにおいて平和がどう捉えられているかの事例がふんだんに紹介されました。
たとえば死刑の廃止、電力のほとんどが自然エネルギーであること、富と権力の平等が重視されていること、経済も生活基盤を大事にしていること、大子どもたちの人権が大切にされていること、国家予算の4分の1が教育に充当されていること、それらはすべてコスタリカにおける平和の重要な要素なのです。
軍隊がなければ平和が実現するわけではありません。
選挙の捉え方も日本とはまったく違います。
大統領選挙は民主主義の祭典〈フェスタ〉と位置付けられ、子どもたちも巻き込みながら、お祭りさながらの展開がなされます。
学校での取り組みなど、興味深い話がたくさんありました。
そうしたことが、子どもも含めて国民みんなの政治への関心を高めているわけです。
政治は、生活や学校教育では「タブー」とされている日本とは全く違います。
日本での選挙投票率が低いのは、政府や行政や学校がそう仕向けてきた結果だということに気づかなければいけません。
ともかく、生活の視点で「政治」を語りださなければ、事態は変わらないでしょう。
これに関連して、主権者教育の話もだいぶ出ました。
コスタリカには、子どもが自分の意見を直接、政府に訴えていける仕組みもあります。
サモラさんが違憲と訴えたのも大学生の時でしたが、もっと若い世代が訴えを起こし、事態を改善した事例の話も折原さんから紹介されました。
子どもが自分の意見を言えるということは、民主主義がきちんと育成されていることだと折原さんは話されましたが、まったく共感します。
日本では、自分の意見を言わない大人たちを見ながら子供は育っていますから、未来は民主主義にはほど遠い社会になってしまいかねません。
書き出したらきりがないのですが、ほかにも示唆に富む話がたくさんありました。
たとえば、司法、立法、行政の3権から独立した「第4権」としての選挙最高裁判所があるという話も、いまの日本の状況を考えるととても示唆に富む話です。
話し合いもさまざまな論点が出されました。
主権者教育、武力攻勢があったらどうするのか、麻薬問題、格差は本当にないのか、平和の捉え方、アメリカとの関係、要は「寛容の精神」ではないか、さらには日本の憲法制定に関する話(「伊豆大島憲法」の話も出ました)など、紹介したいことも多いのですが、長くなるので省略し、最後に勝手な私見を2つだけくわえさせてもらいます。
コスタリカの軍隊放棄の憲法が制定される2年前に、日本では非武装条項(9条)を含む「平和憲法」が制定されました。
当時の世界情勢は、「国連軍構想」がまだ議論されていて、国家単位の軍隊をやめて、国家を超えた国連あるいは世界連邦にゆだねていこうという動きがありました。
まさにその構想に支えられて、日本国憲法の9条は存在基盤を得たと思いますが、コスタリカの軍隊放棄もそうした状況と無縁ではなかったと思います。
ですから、当時のコスタリカでは、万一の時には個別的自衛権はもちろんですが、集団的自衛権も認められていたそうです。
つまり、いざという場合は武装するという「覚悟」ができていたわけです。
個別の国家の武装放棄はそうした世界情勢とつながっています。
最初は同じ「軍隊放棄」から始まったコスタリカと日本が、なぜ今のように大きな違いになって来たかは、まさに世界情勢によるところが大きいです。
コスタリカはその後も、たとえばニカラグアとの国境紛争に際してアメリカの圧力をはねつけましたが、日本は朝鮮戦争でアメリカの傘下に入り武装国家への道を歩みだしました。
コスタリカと日本とどこが違っていたのかを、しっかりと考えることで、いろいろな示唆を得ることができます。
もう一つは主権者教育です。
折原さんは最後に、日本もコスタリカに学んで「主権者教育を通して民主主義立国へ、そして選挙外交と積極的平和国へ」に向かうべきだと総括されましたが、「主権者教育」という言葉には慎重でなければいけません。
コスタリカで実際に行われていることは、私はすばらしいと思いますが、それは決して「主権者教育」として行われているのではないように思います。
かつて「消費者教育」というのがはやったことがありますが、それと同じ落とし穴があるように思います。
この問題は、いつかサロンで取り上げたいと思っています。
ちなみに、コスタリカにもさまざまな面があります。
サロンでも少し話題になりましたが、コスタリカの抱える問題も含めて、コスタリカから冷静に学んでいくことが大切だと思います。
長くなってしまいましたので、これくらいにします。
■リンカーンクラブ研究会「敗戦後の日本から抜け出るために」のご案内(2019年9月5日)
しばらくリンカーンクラブの活動を休止していましたが、代表の武田さんの新しい著作の構想もまとまりだしていますので、その構想を柱にして、毎回、各論テーマを選んで、武田さんの話を中心としたゼミ的研究会を定期的に開催することにしました。
目的は、武田さんの究極的民主主義構想の理解を進め、その実現に向けての行動につなげていくことです。
毎回、武田さんに30分ほどのテーマ解説をしてもらい、それを受けて、話が拡散しないように課題を掘り下げ、できれば実践に向けての知恵をだすような話し合いをしていきたいと思います。
第1回目は、いわば大きな方向性を確認するために、武田さんに、敗戦後の日本の政治状況を俯瞰しながら、現在の政治状況と政治課題を民主主義の視点から整理してもらい、次回からの議論のベースを確認したいと思います。
そのため、今回は少し長目に、武田さんが敗戦後の日本をどう捉え、現在の政治状況をどう見ているか、そうした現状をどう変えていこうと考えているかを、武田さんの目指す国家ビジョンとともに、話してもらいます。
そして、武田さんのビジョンを実現するためにカギとなるいくつかのテーマを整理し、次回からの研究会のプログラムを確認できればと思っています。
サロンと違って、自由な話し合いというよりも、武田さんの論考を材料にした研究会です。
言い換えれば、武田先生のゼミとお受け止めください。
ですから、時に宿題が課せられるかもしれません。
参加される方は、できるだけ継続参加をお願いしたいですが、公開方式のゼミですので、単発参加も歓迎です。
私はファシリテーター兼メディエーター役に徹します。
〇日時:2019年9月14日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「敗戦後の日本から抜け出るために」
これからの政治にとって大切な課題はなんだろうかを話し合う
〇話題提供者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円(サロンと違い徴収します)
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■茶色の朝サロン「最近、ちょっと気になることから政治を考える」報告(2019年9月6日)
BMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を再開しましたが、女性3人、男性7人の参加でした。
男性の人数が多かったこともあって、なかなか生活視点での議論には向かいませんでした。
しかし、家族問題や夫婦関係の話が出て、世代間や男女間の生活感覚の違いが話題になったのは、これからの政治を考える上でも大きな示唆があったように思います。
サロンを始める前に、ニーメラーの後悔の言葉を読み上げさせてもらいました。
ご存知の方も多いと思いますが、引用させてもらいます
ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。
次にナチスは社会主義者を攻撃した。
自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。
それからナチスは教会を攻撃した。
自分は牧師であった。
そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった。
最初の口火は、「不安」を感じているという男性の発言から始まりました。
その「不安」は、さまざまなことから起こり、またさまざまなものにつながっているようです。
その人は、息子との会話で、世代によって情報環境が大きく違っていて、そこから生ずる生き様の違いや政治感覚の違いに「不安」を感じているようです。
むかしと違って、どうしてみんなの考えがこんなに違ってきてしまっているのか。
対称的だったのが、女性から出された「まわりの奥様たちの不満」でした。
たとえば、経済的に夫に依存している(稼ぎが少ない)が故の夫への対抗力の弱さ。
それが、夫への「不満」、生活への「不満」につながっているようです。
経済的には男性優位の社会は、相変わらず続いているようですし、女性の考え方も意外に変わっていないのかもしれないと私は感じました。
「不安」と「不満」。
これが今回のキーワードだったように思います。
不安と不満は、似ているようで、発想の起点が真反対です。
不安は外部からやってきますが、不満は自分の中から生まれます。
不安は感ずるものですが、不満は抱くものです。
そして、不満は自らでも解決できますが、不安の解決は自らだけでは難しい。
いや自らではなかなか解決できないからこそ「不安」なのです。
最近の香港のデモは「不満」が原動力でしょう。
個人の不満が社会をかえるほどの動きを生み出し、政治を変えつつあるわけです。
日本の女性たちが抱いている「不満」とはだいぶ違います。
「不安」から考える政治と「不満」から考える政治。
もしかしたら、そこに男女の政治感覚の違いがあるのかもしれません。
「家政」という言葉があるように、家族(社会の基盤となる集団)の関係を豊かなものにしていくことも「政治」です。
古代ギリシアは、女性が家政を、男性が国政を守っていました。
両者は、深くつながっています。
国政の基本ともいうべき家政が乱れると国政も一挙に変わりかねません。
「不安」を表現した人は、舞台劇「朝のライラック」の話をしてくれました。
「イスラム国」に支配されたシリアの架空の村を舞台にした、政治によって家族が壊され、個人の人格が踏みにじられるような衝撃的な話です。
ところが、その人は20年ほど前にシリアに行ったことがあるそうですが、その頃のシリアはとても平和で、シリアの人たちは、とんでもなく善い人ばかりだったと言います。
それが、政治によって、あっという間ほどの短時間で今のように荒廃してしまう。
ある朝、起きたら世界が茶色になってしまっていたというのは、日本でも十分にありうる話だと言うのです。
不安を与える社会と不満が高まっている家族は、実は相似関係にあるようにも思います。
社会の荒廃は家庭を壊し、家庭の荒廃は社会を壊していく。
逆に、豊かな社会が家庭を豊かにし、豊かな家庭が社会を豊かにする。
私たち一人ひとりの生き方を正すことから政治を正していきたいと思っている私には、とても考えさせられるサロンでした。
私は、食の不安とか児童虐待とか消費税とか年金とか、そういう話が出てくるかと思っていましたが、そういう話はほとんど出てきませんでした。
出てきたのは、「大きな不安」と「目先の不満」でした。
しかし、ここにこそ、いまの日本の政治の本質が示唆されているのかもしれません。
ちなみに、話し合いでは、不満を持っている女性たちのエネルギーを、社会を変えていく力につなげていけないかという話もありました。
もしかしたら、そういう動きが始まるかもしれません。
次回もまた、気になることを出し合うサロンにしたいと思います。
今度はもう少し具体的な話を出し合えるような工夫をしてみたいと思います。
ともかく継続していければと思っています。
■社会保障への懸念(2019年9月13日)
こんな記事が目につきました。
安倍首相は第4次内閣発足の記者会見で、社会保障改革について「社会保障全般にわたる改革を進める。令和の時代の社会保障の制度を大胆に構想していく」と述べ、全世代型社会保障検討会議検討会議の初会合を来週にも開催する考えを示した。
社会保障制度の構想変革を安倍政権の手に任せることに、大きな不安を感じます。
それはともかく、最近、社会保障政策にもいささかの懸念を感じています。
湯島では、「贈与」をテーマにしたサロンを継続的にやっていますが、「贈与」の概念が大きく変わりだしているのが気になっているのです。
フランスの人類学者のモーリス・ゴドリエが20年以上前に書いた「贈与の謎」と言う本があります。
難解で、私にはあまり消化できないのですが、その本を最近また読み直しました。
その本にこんな文章が出てきます。
日本では、贈与交換の慣行が千年紀にもわたって伝統的に社会のあらゆる階層で尊重され、各人の人生で重要な役割を演じてきた。人生の大事件(誕生、結婚、家の新築、死亡等)や新年、中元、歳暮には、贈り物が欠かせなかった。
つまり、贈与は「人のつながり」と一体なのです。
私がイメージする贈与の基本はこういうことなのですが、最近はこの慣行もなくなりつつあります。
代わって盛んになっているのが、社会保障です。
社会保障は、国家による国民への贈与です。
それは国民によって形成されている国家の重要な役割です。
しかし、注意しなければいけないのは、それは個人の事情とは無縁に脱人格的に行われがちなことです。
モースの「贈与論」以来、贈与は返礼を義務化するとされています。
ゴドリエは、「受贈者は、贈与者の債務者となり、ある程度まで、少なくとも与えられた物に《お返し》をしない間は従属していることになる」と書いています。
つまり、贈与は「負債」を創出するのです。
いいかえれば、社会保障は国民を負債者にしていくというわけです。
とても考えさせられる話です。
負債者は、なかなか主体的・自立的に言動できなくなりがちです。
NPO活動をしている友人からこんな主旨のメールをもらったことがあります。
昨今の社会では、統治者から評価されることを自らの地位の向上や実利と考えて、統治側に寄ることをいとわないことが多い。NPOでも同じことが起こります。行政の末端(委託事業、委員会メンバー等)になったほうが有名になり経済的に安定します。
その方は、そうした誘惑に抗いながら、真摯に活動されていますが、個人としてはともかく、組織としては難しい問題でしょう。
「贈与の謎」にはこんな文章もあります。
社会を再構成し、溝を埋め、亀裂を修復するのが国家の役目のはずだが、国家はその仕事を十分に果していない。まさにこの矛盾と無能の結節点から、今日新たにあちこちで、だんだんと贈与に訴える状況が生じてきている。
この状況から、広く贈与と分配の的となる《住所不定の》個人が増えている。贈与の需要が供給を呼びおこし、ついで組織化されはじめる。思いやり食堂からスーパーマーケットの募金まで、寛大で連帯愛に満ちた潜在的贈与者に、直接現金ではないまでも、そのお金で買ったものや自分の消費に予定していたものの分配を要請する無数の《慈善》組織が現われてきた。
そういう状況は、いまの日本でも広がっています。
そして、それは政府による「社会保障制度」とも深くつながっています。
社会保障といわれると、その内容も吟味せずに、多くの人は歓迎します。
しかし、それによって失うものも忘れてはいけません。
ちなみに、私が大切にしている「布施」は、「純粋の贈与」とも言われています。
私の理解では、贈与と布施は主体が違います。
「贈与」は贈与者が主役ですが、「布施」は受贈者が主役です。
行為の意味は真逆なのではないかと思いますが、なかなか見えてこないことが多いのです。
■茶色の朝サロン「最近、ちょっと気になることから政治を考える」のお誘い
茶色の朝シリーズのサロンを、参加者は多かろうと少なかろうと毎月、定期的に開催することにしました。
平日日中開催と平日夜開催を交互に行うことを考えていますが、10月は昼間の開催です
10月は7日の午後です。
生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考えていければと思いますが、これが結構難しいのですが、根気よく継続していくことでなんとか定着できればと思っています。
今回も、前回に引き続き、「最近、ちょっと気になることから政治を考える」を自由に話し合うことにしました。
参加者から、こんなテーマの話をしたいという声が出れば、それに重点を移すこともありです。
ふだん、政治のことなど考えたことがない人が、気楽に政治への関心をもてるようになる場になればと思っています。
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
〇日時:2019年10月7日(月曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近、ちょっと気になることから政治を考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■リンカーンクラブ研究会「敗戦後の日本から抜け出るために」報告(2019年9月15日)
「敗戦後の日本から抜け出るために」を大きなテーマにしたリンカーンクラブ研究会が始まりました。
リンカーンクラブ代表の武田さんを中心にした気楽なゼミ形式で、毎月第2土曜日の午後、開催していく予定ですが、メンバーは固定せずに、公開スタイルで進めていきます。
毎回、テーマを設定しますので、関心のあるテーマだけの参加も可能です。
今回は、敗戦後の日本の政治状況をどう見ているか、そうした現状をどう変えていこうと考えているかを意識しながら、課題を確認するような内容になりました。
最初に参加者各人から、「戦後の自民党政治の問題点」を自由に話してもらいました。
次のような、さまざまな意見がでました。
日本人古来の忖度文化を悪用した政治が続いて、いまや国家としてもアメリカに忖度する政治になってきている。
ほんとに民主主義になったのか、戦前の没個性のお上意識が戻ってきているのではないか。
日本人は結局、連帯して動くことができなかった
こんな日本しか作れなかったことで、自分に腹が立つ
ある時から、日本の未来をしっかりと考える本物の政治家がいなくなってきた。
脱政治化された国民国家になってしまったが、今回の山本太郎現象に一筋の光を感ずる。
敗戦後の革命で得たものは失われてしまった、また新たに積み重ねていかねばいけない。
今回の千葉の台風被害のように、予見されていたにもかかわらず、政府はそれよりも内閣改造を優先。災害後の実状も、実際にヘリを飛ばせばわかったはずだが、政府はアクションしなかった。そこに今の政治の本性が象徴されている。
マスコミは政府に利用される存在になってしまったが、今回の台風被害も、ツイッターで現場の人が声をあげてようやく実状が顕在化した。そこに新しい可能性を感ずる
アメリカが倒れそうで中国が力を増している国際情勢の中で、外圧によって、日本は変化を余儀なくされる状況が強まっている。その一方で、国内的にはITによる国民監視が強まっている。いずれにしろ、大きな分岐点にある。
参加者からはこんな意見が出ました。
それを受けて、武田さんからは、概略次のような話がありました。
敗戦後70余年、自民党の政治と言えば、やれることを最大限やってきた政治と言える。
国民に嘘をつき隠ぺいし、憲法に反してまで強引にやってきた政治であり、今やまるで独裁国家のように、自民党は日本国憲法さえも自己の政治の道具にしてしまった。
そして、こうなった責任の大半は、政治に無関心であった国民にもある。
しかし、その自民党政治の限界が見えてきた。
つづいて、安全保障、財政、外交などの具体的な領域において、そうした政治状況が引き起こしている具体的な問題に言及し、有力な自民党議員の血縁者によって占められ「政治ムラ」ともいうべき利権グループ(これは武田さんの表現ではないのですが)に政治を任せておいていいのかと呼びかけました。
いまここで立たねば、未来は開けていかないのではないのか、という武田さんの思いを感じました。
そこから話し合いです。
研究会ですので、あまり逸脱することのないように注意しながら進めましたが、語られた話題を少しリストしておきます。。
政治を決めるのは「制度」か「人」か、どちらがより重要なのか。
象徴としての人間天皇の存在意義。
議会制度や選挙の問題。
マスコミメディアの持つ政治力。
そもそも憲法とは何か、また日本国憲法の成立過程をどう理解すべきか。
政治に根幹としての、どういう国を目指すのかと言う「国家ビジョン」。
政治に目を向ける余裕のない若者世代。
こういう政治を語る場を増やしていくことの大切さ。
こういう議論をどう行動につなげていくか。
ほかにもいろいろとありましたが、個別問題への意見はともかく、現在の危機状況を変えていかなくてはという思いは、参加者全員が共有していたと思います。
となると、ただ話し合っていただけでは、武田さんが言うように、主権を持つ国民としての責任を果たせません。
そのためには、これも武田さんが最初の話で強調しましたが、実態を知らないが故に反応できないでいるという状況から変えていく必要があります。
こうした学びの場がもっと必要です。
同時に、学んだことをできる範囲で実践していくことも大切ですし、それ以上に、社会への働きかけもしなければいけません。
話は大きくなってしまいましたが、しかしまずは、研究会で学び気づき、政治への関心を高めていきながら、時に個別課題の勉強会、さらには公開フォーラムを開催していこうということになりました。
そうしたさまざまな活動が、この研究会から生まれていくようになればと思います。
当面は、毎月第2土曜日の午後に研究会を開催します。
固定メンバーとして参加したい方はご連絡ください。
次回(10月12日)は、まずは「目指すべき国家像」をテーマにします。
政治を語るに際して、大切なのはどういう国を目指すのかと言うビジョンですから。
参加者は、あらかじめ自分が考える「こんな国にしたい」と言う国家像を考えてきてほしいと、武田ゼミ先生は言っています。
よろしくお願いいたします。
■湯島サロン「ご先祖様の見える化に取り組んでみませんか」報告(2019年9月17日)
「いのちの積み木」ファシリテーターの篠田雅央さんの「ご先祖様の見える化に取り組んでみませんか」サロンはいろいろな気付きをもらえるサロンでした。
案内でも書きましたが、篠田さんは、自分の存在があるのは、父母がいて、先祖がいるおかげ。脈々と頂いた奇跡の「命」を次に繋げるために生まれて来た自分も将来先祖になる、ということを考える契機にするためにも、先祖を「見える化」することが効果的だと考えています。
最初に、篠田さんは、今ではあまり注目されずに、ひっそりと建っている慰霊碑の写真を見せてくれました。
慰霊碑の裏には、いまの社会の実現に貢献した人たちの名前が刻まれています。
時代の変化の中で、その活動の意味合いは変わったこともあるかもしれませんが、当時は社会が評価していた人たちのはずです。
それが、今では忘れられてように放置されているものも少なくない。
いまの社会を創ってきてくれた昔の人たちへの感謝を忘れていいのか。
感謝の気持ちがなければ、慰霊碑はただの石。
そして篠田さんは、感謝の気持ちを育てれば、「生きる力」が生まれてくるといいます。
そうした「感謝の気持ち」が失われてきていることを篠田さんは残念に思っているのです。
そこで篠田さんは参加者に、「ありがとう」の反対語はなんでしょうと問いかけます。
みなさんはなんだとお思いでしょうか。
篠田さんは、「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」だと言います。
「有難う」と漢字で書けば、その理由がわかるでしょう。
私たちが、いまここに生きて暮らせているのは、「あたりまえ」のことではなく、「有難い」ことであり、そうした「有難い」ことを成り立たせているのは、私たちのご先祖のおかげです。
ご先祖もただ思い出せばいいわけではありません。
そこに感謝の気持ちがなければ、ただの知識になってしまう。
そして、篠田さんは「いのちの積み木」を組み立てて、そのどこか一つ、つまりご先祖さまの誰か一人が欠けただけで、自分の存在は崩れてしまうことを実際に示してくれました。
「いのちの積み木」については、次のサイトをご覧ください。
https://gosennzosama.11ohaka.com/
そして、各人、ご先祖さまシートに自分の両親、そのまた両親、さらにそのまた両親と、名前を書き込んでみました。
なかにはかなり前までさかのぼれる人もいましたが、だいたいが祖父母まででした。
その後、話し合いが始まりました。
名前だけではなく、その人にまつわる物語や時代とのつながりがあると記憶に残りやすい。
実際の接点があると思いだしやすく記憶にも残るが、そうしたものがなくなってきている。
お墓は、そうしたことを思い出す一つの装置。
お墓に刻まれる戒名や過去帳を残したりする話も出ました。
両親がいない子供が増えてきている状況の中では、子どもたちを対象にする場合は慎重にやる必要があるという意見も出ました。
血縁に限らず、お世話になった人も含めて、考えることも大切だという意見もありました。
参加者の中村さんからは、「いのちのまつり ヌチヌグスージ」という絵本が紹介されました。
「ぼうやにいのちをくれた人は誰ね〜?」と言う問いかけから始まるこの絵本の圧巻は、見開き拡大ページで10代にさかのぼっての1000人を超えるすべてのご先祖様の顔が描かれているところです。
学校教育でも採用されている本だそうです。
家族が大きく変質しつつある現在であればこそ、ご先祖さまのことを思い出すことが大切になってきているのではないかという気がします。
「いのちの積み木」はいろんな形で使える道具だと思いました。
今回もまた、お墓の意味も語られました。
ちなみに来週の秋分の日は、法律では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ために休日に指定されているそうです。
ご先祖さまの名前を一度書き出してみたらどうでしょうか。
いろんな思いが生まれ、生き方もちょっと変わるかもしれません。
「いのちの積み木」ワークショップに関してもっと知りたい方は篠田さんをご紹介しますので、ご連絡ください。
■CWSサロン「破傷風菌に「われ」はあるか」のご案内(2019年9月22日)
昨日の万葉集サロンで、「われ」が話題になりました。
参加していた細菌学者の益田さんから、『破傷風菌に「われ」はあるか』という問いかけがありました。
益田さんには、以前、湯島で細菌学視点からのお話をしてもらったことがありますが、今回はその後の益田さんの死生観や人間観も絡ませながら、改めて、『破傷風菌に「われ」はあるか』をテーマにサロンをしてもらうことにしました。
タイトルが少し専門的なイメージが強いですが、以下のような話題が展開されるそうです。
視点を変えると、環境問題や人間の生き方も違った見え方がし、新たな気付きをもらえると思います。
1)なぜ破傷風菌は人を殺すか。
2)人間は地球に対する病原体のようである。
3)人間が抱えている環境問題。
4)糖尿病とエイズ。
5)自殺をどう考えるか。
今回は、講義+ゼミ型スタイルもサロンにしたいと思いますが、最後の30分はいつものように談論風発のサロンにしていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2019年10月6日(日曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「破傷風菌に「われ」はあるか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■第4回万葉集サロン「柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を読む」報告(2019年9月23日)
万葉集サロンも4回目になりました。
今回は、柿本人麿「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」を題材に、〈亡びにし者たちの「われ」の喪失〉がテーマでした。
最初に、今回は「万葉仮名」について説明してもらい、続いて今回の歌の背景にある壬申の乱に関しても概説してもらいました。
これまでのサロンで、この2つをきちんと踏まえておかないと万葉集は読めないような気がして、升田さんにお願いしたのですが、議論を少し深入りさせてしまい、肝心の近江荒都歌を読み解く時間が少なくなってしまったのを反省しています。
改めてこの2つを、別個に取り上げた万葉集番外編を企画できればと思います。
私自身は、この2つが万葉集を読むための2つのポイントではないかと改めて確信しましたが、これに関しても、升田さんの解説を踏まえて簡単に紹介しておきます。
万葉仮名は約650の文字が確認されています。
万葉仮名というために、万葉集だけが想定されがちですが、そうではなく、万葉時代に使われていた言葉を表記するために漢字(真字)を借りた仮の表記文字と考えた方がいいと思います。
また1文字一音とは限らず、複数文字で1音、1文字で複数音、複数文字で複数音などいろいろあります。
私は多分、当時は50音どころか無数の発声が行われていて、それを違った記号で表記していたと思いますが、日本文字の誕生につながるだけではなく、日本という国の誕生にもつながる話です。
当時は、たぶん朝鮮半島と日本列島の人の交流は多く、「渡来人」は少数民族というよりも、むしろマジョリティだったかもしれません。
さまざまな故地(出身地)を持つ人たちがまとまろうとしていた状況の中で、壬申の乱が起こったわけですが、そのことと万葉集成立とは無縁ではないように思いますし、天智-天武-持統という王朝のめまぐるしい変化を踏まえることで、万葉集の世界に漂うものが見えてくるような気がします。
いずれにしろ、壬申の乱に関しては、東アジアとの関係で考える必要があると思いますが、現在の日本という国の出発点だったともいえる大きな事件でした。
そういう前置きを踏まえて、升田さんはまず近江荒都歌を詠んでくれ(万葉集は声に出さないといけないと升田さんは言います)、解説してくれましたが、案内に書かれていた升田さんの解説が簡潔に要約されていますので、それを再掲します。
壬申乱によって廃墟と化した天智天皇の近江大津宮の跡を詠んだ、人麿の若いとき(万葉初出)の長歌である。
安禄山の戦によって滅んだ唐の都を詩に歌った、杜甫の「春望」(国破れて山河あり 城春にして草木深し)は、漢文の教科書を通して多くの若者たちに感動を与えた。人麿の近江荒都歌は、7〜80年それに先んじている。日本で「荒都」を主題とした歌は、これが最初である。
前半は皇統譜を、後半は一転して廃墟の中をさ迷う人麿の姿を歌う。人麿の目に映ったものは何であったか。
動乱調、乱調と言われる人麿の歌には分かり難い部分もあるが、言葉の意味と調子で力強くそこを突き抜けて行く。古代の歌の魅力である。
近江荒都で人麿の詩性を突き動かしたものは、人麿の「われ」と対峙することの決してない、滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉だったのではないか。
若き人麿の、心の迷いを歌う古代言語に触れたい。
サロンでは、これを踏まえて、「ここ」「霧」「夢」について、万葉集の歌を題材にくわしく解説してくれました。
そしてそうしたことを通して、「われ」が主体的・能動的になっていく古代人の心情を示唆してくれました。
この歌には、人麿の悲しみがあるわけですが、その悲しみとは何かということが話題になりました。
廃墟になってしまった近江宮で、人麿は「われを喪失した死者」に出会っているわけですが、そうした事実に悲しみを受動的に感じた〈われ〉の詠嘆なのか、そこから能動的な生まれた〈われ〉の主張なのか、もしそうなら人麿の「われ」を目覚めさせたのはなにか、に私は強い関心がありますが、どうも私の考えすぎのようで、残念ながらそこまでの話し合いにはいきませんでした。
国破れて山河あり、と淡々と歌う杜甫に比べて、人麿の感情が込められている近江荒都歌に。私はどろどろした「われ」の誕生、そして歴史の誕生を感じます。
たぶん升田さんはそれを感じさせたくて、2つの詩を並べてくれた気がします。
ついでにやや余計な私見を加えれば、杜甫とは違い、人麿は、〈われ〉と対峙することのできなくなった死者に代わって、強いメッセージを発しているような気がしてなりません。
そうだとして、人麿は誰に向けて呼びかけているのか。
これまでの4回の万葉集サロンは、ある意味では、言葉を通しての〈われ〉の誕生だと受け止めてきた私としては、とても刺激的で示唆に富むサロンでした。
そのためいつも以上に勝手な私見も入れた報告になってしまいました。
升田さんの講義内容は、ていねいな資料を含めて、ぜひきちんとした記録に残すべきでした。
記録を取っておかなかったことを反省しています。
■日本に共和党が誕生したのをご存知ですか(2019年9月24日)
元民主党議員だった首藤信彦さんと鳩山友紀夫さんが書いた「次の日本へ 共和主義宣言」(詩想社新書)を首藤さんからもらいました。
新たな政治システムを実現するための実践宣言の書です。
こうした動きが出てきたことに大きな期待を感じます。
しかも、その理念が「共和主義」というのはうれしい話です。
私は、以前から書いているように、共和主義者です。
そのきっかけは大学4年の時に見た映画「アラモ」です。
テキサス独立運動の中で行われたアラモの砦の攻防戦を描いた映画です。
そこで、ジョン・ウェイン演ずるデビー・クロケットが、「リパブリックと聞いただけで心が躍る」というセリフに感動したのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/05/post_b721.html
以来、そういう生き方を大事にしています。
トクヴィルの「アメリカの民主主義」にも、リパブッリクの精神を感じます。
残念ながら、いまは大きく変質していますが。
2016年に民主党が解体した時の新しい名前に、「民主共和党」を提案したことがありますが、残念ながら「共和」は誰も使いませんでした。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/03/post-f9c1.html
そんなこともあったので、大きな期待を持って、早速読ませてもらいました。
首藤さんは、前書きでこう書いています。
民主党政権の蹉跌と崩壊を身をもって経験し、その後に襲来した時代錯誤のような保守復古路線と、無策な経済運営を続ける自民党安倍政権そして、それをただ傍観しながらひたすら自己の保身に終始する野党勢力のつくり出す、劣化した政治カオスのなかで7年間考え続けた成果である。
そして本編は、次の文章から始まります。
令和元年9月吉日 我々は停滞、腐敗、無力の既存政党、旧態政治を離れて、新しい政治活動集団を組織する。其の名称は「共和党」とする。
つづいて、共和党の国家目標やそれを実現するための新たな政治システムが紹介されています。
共和党は、国家の目標として、国民の幸福の実現を掲げます。
そしてその実現のために、正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準を提案しています。
国家目標や国家体制につづいて、具体的な政策が体系的に紹介されています。
さまざまな問題や議論への目配りがされていて、しかも実践的でわかりやすく、共和党の目指すことがよくわかります。
いまの政治状況の問題を踏まえて考えられているので、新しい政治を考えるテキストとしてもお薦めできます。
気軽に読める本(新書)ですので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。
と、こう書いたうえで、勝手な私見を書きます。
期待が大きかった反動かもしれませんが、私にはいささかの物足りなさが残りました。
私が共感したのは、次の文章です。
日本を窮状に追い込んでいるのは「富国」にある。
その富国を可能にするものこそが、「成長」である。
これまでの日本は、明治維新以来の「富国強兵」を国是にしてきましたが、それこそが問題だと指摘しているわけです。
とても共感できますし、ここから政治の議論を始める姿勢にも共感します。
明治維新時にも、「富国強兵」に対峙して「富国安民」が議論されていましたが、この共和党は「富国有徳」を標榜しているようです。
それを読んで、ちょっと腰が引けてしまいました。
政治のパラダイム転回の時期に来ていると考えている私には、やはり従来型の「近代国家」スキームでの議論にいささかの物足りなさを感じてしまったのです。
せっかく、「富国」や「成長」が問題だと指摘しながら、「富国有徳」と「富国」を第一に語っています。
せめて「安民富国」と発想を変えてほしかった気がします。
成長に関しては定常経済を「健全」としていますが、そこでもやはり基準は金銭経済のようであり、新しい「成長」概念への発想の転回はあまり語られていません。
私は、そろそろ「国家」から発想する政治や経済ではなく、生活者個人を起点として発想する政治や経済へと視点とベクトルを180度転回すべきだと思っていますが、本書で言う共和政治はどうもそこまでは想定していないようです。
さらに、「政治の目標を人間第一主義(ピープル・ファースト原理)に定める」とあるように、時代錯誤的なものも混在していて、現在の政治との違いがあまり見えてきません。
正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準も、「友愛」をのぞけば、いずれも私には危険な「プラスチックワード」です。
こう書くと私は本書の提案に反対しているように感ずるかもしれませんが、そうではありません。
現実の政治状況を変えるには、改善型の活動もあってしかるべきですし、革命的な活動があってもいいと思っています。
これまで湯島で、新しい政治や経済をテーマにしたサロンもやっていますが、パラダイム転回のような話はほとんど伝わらないことも体験しています。
本書にはさまざまな論点や具体的な提案が含まれています。
現在の政治状況を概観し、問題意識を高めるには、いい材料が山積みです。
こういう、新たな提案の書がどんどん出版され、そうした本に基づいて議論が広がることで、政治は変わっていくはずです。
ネットには、「共和党の広場」ができていて、広く参加者をもとめています。
http://kyowa-to.jp
本書を読んで、もし共感したら、参加してみてください。
首藤さんには叱られるような紹介になってしまったかもしれませんが、まあ私の性分としては仕方がありません。
これを読んで、毎年1回だけやっている私のサロンは、今年はまた政治を取り上げようと思いました。
■大切なのは感動することではなく、生き方を変えること(2019年9月26日)
国連の温暖化対策サミットで、16歳のグレタさんが、空っぽの言葉で語り合っているあなた方を信じないとスピーチをしたことが、世界中で話題になっています。
私もテレビで見て、ネットでスピーチを読みました。
以前からグレタさんの発言には共感していましたが、実際にグレタさんの表情を見て、これまでとは全く違ったものを感じました。
そう感じた人は少なくないようで、フェイスブックでもグレタさんがたくさん取り上げられています。
しかし、この光景はこれまでも何回も見てきたような気がします。
にもかかわらず何も変わっていない。
どこかに問題がある、と私はつい思ってしまうのです。
グレタさんは、感動を与えたくてスピーチしたわけではないでしょう。
彼女は自らの生きる世界を変えたいと思っている。
感動してもらっても彼女はよろこばない。
彼女が望んでいるのは、空っぽの言葉だけで生きている私たちが、生き方を変えることでしょう。
「空っぽの言葉」で生きている人たちやジャーナリストが、グレタさんの言葉までも「空っぽの言葉」にしてしまうことは避けたいです。
これまで繰り返し私たちがそうしてきたように。
彼女が呼びかけているのは、「誰か」にではなく「私」になのです。
そうであれば、彼女のスピーチに「感動」するのではなく、「反省」し、生き方を変えるべきでしょう。
彼女が信じていないのは、トランプさんや安倍さんだけではなく、空っぽの言葉で語り合っている私たちなのです。
同情するよりも金をくれという言葉がはやったことがありますが、グレタさんもまた、感動するよりも生き方を変えてくれと言っている。
彼女の鋭い呼びかけは自分に向けられている、ということに気づかない人たちがいくら感動しても世界は変わらない。
ましてや、感動を他者に伝えても何も生まれない。
感動をする前に、私たちは、自らの生き方を顧みることが大切です。
まずは自らでしっかりと受け止めなければならない、と私は思います。
そして、できることから始めようと思います。
できることは山のようにありますから。
■新しい政治を考える会(2019年9月27日)
また突然思いついたのですが、日本の政治状況を変えていくための理念と方策を議論し、本にして出版するとともに、それを実践する運動を起こす取り組みをしたくなりました。
かなりエネルギーを必要とすることですので、できれば10代~30代の人を中心にチームができないかと思っています。
その世代が3人、集まったら立ち上げようと思います。
立ち上がったら、40代~70代の人にも門戸を開こうと思います。
私の交流範囲には、10~30代の人は少ないので、実現可能性は限りなくゼロに近いのですが、もしかしたらと思い、フェイスブックで呼びかけることにしました。
どなたかいかがですか?
やりたいという方がいたらご連絡ください。
私の考える新しい政治は、統治のための政治ではなく、生活のための政治です。
そして生活のための経済です。
以前、湯島で話した簡単な概念図を添付します。
■CWSサロン「コミュニティについて考えてみませんか?−アジアをめぐる旅から感じたこと」のご案内(2019年9月28日)
湯島のサロンの大きなテーマは「コミュニティ」です。
「コミュニティ」を正面から取り上げたことはありませんが、サロンではしばしば、話題になります。
今回、ようやく「コミュニティ」を正面から取り上げることになりました。
それも、自らの生き方に重ねながら、コミュニティについて実践的に考えつづけてきている上田さんが話のきっかけをつくってくださることになりましたので、湯島のサロンらしいコミュニティ議論ができると思います。
ちなみに、上田さんはコミュニティを「帰ってゆきたい場所」と捉えています。
上田さんからのメッセージを下記します。
主にこの8年間のアジアの伝統社会をめぐる旅から、現場で感じたことをもとにコミュニティという切り口で私たちの暮らし方について考えてみたいと思いました。コミュニティへの問いかけの中には、私たちの根源的な思いや価値観、生き方、社会の有り様など宗教、哲学、社会科学などの広範な思考が含まれ、どんな問いかけをしたらいいのか、その問いかけをすること自体が無謀で身の程知らずとの自覚がありますが、それでもなお日々の生活に直接かかわることであり、誰もが問うていきたいテーマなのではないでしょうか? そしてその問いにはたぶん答えというものはないのでしょうが、誰かが話し出すことで共に考え続けてみたいという仲間が現れたらうれしく思います。この永遠のテーマはそれを考え続けることが私たちの生き方そのものを問い続けることになることでもあると思います。
上田さんのさまざまな体験からの「上田コミュニティ」論を前半で話していただき、後半ではそれをもとにみんなで話し合えればと思います。
そして参加者それぞれにとってのコミュニティを話し合えればと思います。
もしかしたら、そこから新しいコミュニティの芽が生まれるかもしれません。
これまで行ってきた「分け合う経済」「贈与と共生」「農福連携」「地上の楽園」などのテーマにもつながるサロンです。
ぜひさまざまな立場の人に参加していただきたいと思っています。
〇日時:2019年11月16日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:上田英二さん(「那須の会」世話人」)
〇テーマ:「コミュニティについて考えてみませんか?−アジアをめぐる旅から感じたこと」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■ネット時代の人とのつながりの脆さを補完する場としてのサロン(2019年9月29日)
湯島で開催しているサロンの参加者のメーリングリストをつくっています。
2015年5月に立ち上げたので、それ以前の参加者は含まれていませんし、最初は全員ではなく、数回来た人だけを対象にしていました。
現在、登録者は400人強で、投稿数も1300件を超えています。
ところがこのメーリングリスト・サービスが年内で終了というので、別のメーリングリストに移行しなければいけなくなり、1週間かけて移転作業をしていました。
移転途中に、無効になったアドレスを見つけたり、なぜか移行できないアドレスが見つかったり、システム上の理由で配信が止められていたりしているのが見つかりました。
ネット時代の人のつながりの脆さを感じました。
昨年末、自宅と湯島のパソコンが同時にクラッシュしてしまいました。
友人に修理してもらい、いまは2つとも復元していますが、メールアドレス帳がうまく修復できませんでした。
そのため今もとても不便をしていて、アドレスがすぐには見つからないことがあります。
2台のパソコンがいつまたクラッシュするかの不安があるので、今月安全のためにもう1台、新しいパソコンを購入しました。
ところがまたシステムが変わっていて、メールソフトを変えなければいけないようです。
いまはwindows liveを使用していますが、パソコンがoutlookを薦めているのです。
ネット通信はワープロ通信以来始めてから35年ほど経過します。
次第にネットつながりの交流が主軸になり、メールをやらない人との付き合いは疎遠になりました。
つまり付き合う人が変わってきてしまいました。
ネットでの交流は気軽に維持できますが、パソコンを変えたり、相手がアドレスを変えたりして、気づかないままに付き合いが切れていることも少なくありません。
フェイスブックができたとき、ようやく、人とのつながりを永続できると思いました。
ところがフェイスブックをやる人が意外と増えませんでした。
それにフェイスブックでも、縁が切れることを知りました。
いまも毎月1人くらいがいつの間にか友だちつながりから消えています。
誰がいなくなったのか、わからないのがちょっと気になります。
ネットのつながりは極めて便利で負担もなく、私の好きな「ゆるやかなつながり」を維持できます。
しかし、その一方で、とても脆いものだとも思い知らされています。
その脆さを補完するために、リアルなみんなの空間もつくりたいと思い始めたのが湯島のサロンです。
私はメールアドレスも30年以上変えていませんが、湯島のオフィスの場も30年以上動いていません。
そのおかげで、20数年ぶりに訪ねてくる人もいます。
コミュニティには、変わらない存在が不可欠です。
湯島を維持する資金繰りのめどはまだ立ちませんが、ネットコミュニティのためのリアルな空間を目指したいと思っています。
ネットでのつながりの脆さを補完するリアルな場は、やはり大切です。
10月から湯島のサロンの名称を「CWSサロン」に改称し、そこから生まれるコミュニティを「CWSコモンズ村」と呼ぶことにしようと思います。
CWSコモンズ村は一度、立ち上げたことがありますが、妻の病気もあって頓挫してしまいました。
立ち上げ時に徴収した入村税も、村長の私がお金に困って勝手に使ってしまったので(一応、村の維持のための使途ですが)、またゼロからの再出発です。
CWSコモンズ村をどう展開していくか、いまはまだ模索中です。
一度、これをテーマにサロンをしてみようかと思っていますが、まだ私自身の覚悟ができていません。
困ったものですが。
■CWSコモンズ村の新しいメーリングリストを始めます(2019年10月1日)
湯島のサロンの参加者を対象としたメーリングリストの引っ越しを完了しました。
今日から使用開始です。
このメーリングリストは、2015年5月以降に、湯島の公開サロンに参加した人を対象にしていますので、参加者は私だけではなく、少なくともサロンでお会いした数名の人が知り合いの人に限られています。
現在、登録者は400人強です。
メーリングリストなどのネットでも交流は、気楽で便利で負担なく、「ゆるやかなつながり」維持できますが、その一方で脆さや危険性もあります。
私もいろいろなメーリングリストに参加していますが、時に「炎上」事件も起きます。
その脆さを補完するために、リアルなみんなの空間との連携を重視し、このメーリングリストとサロンと一体化させていきたいと考えています。
なお、10月から湯島のサロンの名称を「CWSサロン」に改称し、そこから生まれるコミュニティを「CWSコモンズ村」と呼ぶことにしました。
このメーリングリストの名前も「CWSコモンズ村」となっています。
また改めて説明させてもらいたいと思いますが、「CWSコモンズ村」は湯島のサロンとこのメーリングリストが目指している、心をひらけあえるコミュニティです。
CWSは、コモンウェルス・ソサエティの略ですが、同時に私が主宰するコンセプトワークショップの略でもあります。
コモンウェルスには「共和国」の意味もありますが、私は「みんなで育てていくコミュニティ」と捉えています。
ちなみに、「CWSコモンズ村」には失敗の歴史もありますが、一時期はコモンズ通貨も発行していた時期があります。
今度こそ、単なるメーリングリストだけではなく、リアルな場も持ったネットコミュニティを育てていければと思っています。
しかも、それを開かれた存在にしていきたいと思います。
文字ではなかなか伝えにくいので、一度、これをテーマにしたサロンを開く予定です。
またフェイスブックにもCWSコモンズ村のコミュニティがありますので、メーリングリスト配信者は登録可能です。
湯島を維持する資金繰りのめどはまだ立っていませんが、ネットでのつながりの脆さを補完するリアルな場はこれまで以上に大切にしていきます。
できればみんなが使えるようなコモンズ空間を目指したいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
■CWSサロン「生活を豊かにする片づけ術:探し物がないことが一番!」報告(2019年10月2日)
家事セラピストで整理収納アドバイザーの石田ユキさんのサロンは、参加者それぞれと対話したいという石田さんの意向で、10人限定のサロンにさせてもらいました。
案内にも書きましたが、石田さんは、「片づけ」の大切さを「生き方」につなげて考えています。これまで出合った事例も紹介しながら、そんな話をとても分かりやすくお話をしてくださいました。
最初に、片づけに関するチェックリストによる簡単な自己診断がありました。
そこで「片づけ」と「捨てる」とは違うことがやんわりと伝えられ、大切なのは「分ける」ことだと気づかせてくれました。
分けるためには、そのものの持っている「役割」を考えることが大切ですし、さらにそれは「生き方」にもつながってきます。
サロンは、石田さんが参加者に問いかけながら進められました。
たとえば、いろいろなキッチン道具が一目瞭然とわかり、すぐ取りやすい形で壁面にかけられているキッチンと、道具はほとんどが収納されているキッチンの写真をしめして、どちらが好きかと問われました。
そこで、片づけと使いやすさとの関係も示唆してくれました。
人は生きているうえで、たくさんの物を持つようになります。
大切なのは、持ち物のクセを自分の人生とつなげながら考えていくこと。
物は、物としてあるわけではなく、自分の生活とのつながりの中であるわけですから、片づけはその人の生き方につながっているわけです。
ですから、片づけは人生の棚卸し、暮らしの在庫確認だと石田さんは言います。
それをしっかりしていけば、楽しく安全に暮らせるようになり、そうした家がまた、楽しくて安全な暮らしを生み出していく、というわけです。
そうした循環を生み出していくためにも、片づけは大事です。
物が生活とつながっているのであれば、人生の節目ごとに持ち物を見直し、物との関係を変えていくことも必要です。
つまり、物との関係のルールや物を片づけるルールも大切です。
ルールは人によって違うでしょうが、基本的なルールは知っておくほうがいいと石田さんは言います
片づけのルールや方法はいろいろとあるでしょう。
物に住所をるける方式も話題になりましたし、色分けや収納方法も話題になりました。
しかし一番大切なのは、「分けること」、そしてそのための「ルール」。
今回、石田さんが強調したのは、「いつも使うもの」と「たまに使うもの」「念のための置いておくもの」「使わないもの」を分けることだということでした。
もう使わないけれど捨てるに捨てられないものをどうするかについてもいろいろとアドバイスがありました。
たとえば、和服のように自分が納得できない安さでしか売れないものは、売らずに寄付をするとかその新しい活かし方を考えることも有効かもしれません。
「売り買い」と「分け合う」の意味を考えさせられる話です。
そんな話し合いもありました。
片付いた暮らしは、いろんなメリットも生み出します。
探し物が少なくなり時間が生まれてくる。
無駄なものを買うことがなくなり経済的にも節約でき、空間も生まれてくる。
さらに心のゆとりと安心感を生み出す精神的効果もある、と石田さんは言います。
片づけというと、捨てることとつなげがちですが、私自身は片づけとは活かすことと考えていますし、散らかっているように見える片づけ方もあると思っています。
要は快適に生きられる物との関係づくりが「片づけ」ではないかと、改めて思いました。
つまり、「片づけ」は、物の価値を引き出すことで、捨てることでは枚葉に思いました。
石田さんがこれまでの体験から得てきたさまざまなノウハウの片りんもちょっと垣間見えましたが、石田さんは整理収納アドバイザーとして講演やワークショップ、実際に住まいを訪問して片づけ作業をやるお仕事もされていますので、もっと学びたい方や片づけに困っている方は、石田さんにお相談ください。
私に連絡をくださればいつでもご紹介します。
いろんなことを気づかせてくれる実践的なサロンでした。
■幽界との邂逅(2019年10月2日)
昨日と一昨日、那須に出かけていました。
那須に半分住んでいる友人が、今年も**遊民会議の仲間たちと一緒に私を那須に招待してくれたのです。
那須は季節外れの暑さでしたが、いま思えば、それは参加した遊民たちの異常な霊力のせいだったかもしれません。
そもそもそんな現象を起こせる**遊民会議とは何でしょうか。
一見、自由に生きている若者たち(年齢とは無縁)が緩やかにつながっているグループのようですが、私にはまだ正体が見えないコミュニティです。
時折、一人は大きな声を叫びますし、一人は踊り出す。
いまはもう使用していない吊り橋の上で踊っていたので、後ろから歩いていく私などは振り落とされそうでした。
私のように、心身共に自由ではない老人は参加資格はないでしょうが、なぜか付き合ってもらえていますので、感謝していました。
ちなみに、今回の那須の集まりを呼びかけた友人も**遊民会議のメンバーのようです。
今回は昨年のように完全に道端にある露天の混浴露天風呂(私も希望したサルと人間の混浴です)には行けませんでしたが、廃墟に近いと私には思えたホテルの廃墟に近い露天温泉に入ってきました。
後ろの岩の岸壁から温泉が流れ出している、実に自然になじんだ、しかし人間から見るとあまり清潔とは言えないお風呂でした。
ちなみに宿泊は友人の別荘です。
遊民たちはみんな調理がうまくて、専属シェフ付の感じで、毎回、食べたこともないような素晴らしい料理でした。
食べていると次から次へと料理が出てくるのです。
ともかく**遊民たちは自活力がすごいのです。
しかし、とても知的で文化的な2日を過ごさせてもらいました。
ところが、今日になって驚愕な真実に気付いたのです。
その別荘の近くに、ホーンテッドマンションと言われている家があり、その敷地内に入ると2度と戻って来られないと別荘主が繰り返し私の話すのです。
そういわれると行きたくなるのは人の常。
それに、禁止条項は破られるためにありますし、行くなと言うのは行けと言うメッセージです。
早朝早く私一人で、そこに行き、敷地に入ってしまいました。
特に結界は感ずることなく、素直に入れました。
まあそれが閉じ込めの常道ですが。
建物に近づき上を見たら2階の角の部屋に明かりがついていました。
写真を撮りましたが、周辺には木やツタが繁っていてあまり良く見えません。
はっきりと撮影できる場所を探しましたがなかなか見つからない。
外から階段で上がれそうでしたが、途中で崩れそうでしたし、敷地内はともかく家屋に無断侵入すると、近くに住んでいる友人に迷惑がかかりそうなので諦めて、周辺を回っていたら、道を誰かが歩いてきたので、見つかったらまずいと思い、写真を撮るのをやめて道に出ようとしました。
幸いに道にいたのは、一緒に那須にやって来た遊民の一人でした。
そして彼は突然私の哲学的な問いを浴びせました。
それで、明かりの話をする間もなく、別荘に引き戻されました。
戻ってみんなに明かりがあったと話しましたが、だれも信用せずに、また誰も確かめに行こうとも言いませんでした。
普通は、確かめに行こうと言うと思いませんか。
友人は、どうして私が戻ってこられたかばかり話していました。
そして、そのまま朝食タイムでいつの間にか明りの話は忘れてしまいました。
なにか心に引っ掛かる謎を感じていました。
今日になって、その訳が分かりました。
**遊民たちは、ホーンテッドマンションに住んでいる幽霊の仲間で、私を仲間にしようとしていたのです。
そう考えるとすべてのことが納得できます。
明かりの様子をあまり詳しく調べられると都合が悪いので、明確な証拠写真を私が撮る前に、私を引き戻しにやって来た。
今回の那須の集まりは、そもそも私を幽界に引き込む審査会で、幸か不幸か私は及第できなかったので、元に戻したのでしょう。
幽界の人たちは優しいのでしょう。
そういえば、今回入浴した温泉も、それを管理している旅館も、冷静に考えれば、この世のものではない雰囲気がありました。
おそらく数十年前に朽ち果てて、廃墟になっているのです。
そういえば、更衣室は電気も付かず、トイレの水は出ませんでした。
もちろん床は底が抜けそうで、入口に一人だけ男性がいて、入浴料を受け取ったり話をしたりしていましたが、いまから考えるとどこかおかしい雰囲気でした。
脚はありましたが、話がどうもつじつまが合わない気がしました。
しかし、一緒に行った4人の遊民たちは、みんな納得して、私をなんとなく説得していたような気もします。
みんな仲間だったに違いありません。
そういえば、昨日もその前の日も、別の友人からメールや留守電が届いていました。
内容は、「連絡がつかないが死んでいるんじゃないか」という内容でした。
彼はかつて臨死体験をし、いままた死の近くで生きている人です。
彼には私の危機が見えていたのかもしれません。
幽界も一度体験したいので、仮入会させてもらえればよかったのですが、残念ながらまだ資格がないようで、無事、昨夜、帰宅できました。
今日は謎解きに1日かかりました。
さて来年は呼んでもらえるでしょうか。
幽界の人たちに振り回されないように、心身の力を高めなければいけません。
今月また、相馬霊場八八か所めぐりの後半40キロを歩く予定です。
もちろんサンダルで。
もし力がついたら、**遊民たちを幽界から救ってやろうと思います。
■第5回万葉集サロン「柿本人麿の〈われ〉の喪失‐人麿の詩のかたち「泣血哀慟歌」を読む」のご案内(2019年10月3日)
第4回の万葉集サロンは、人麿の近江荒都歌を中心に、滅んだ人々の〈「われ」の喪失〉を話題にしましたが、今回は、それを踏まえて、もう少し堀り下げていくことになりました。
また、前回、前半で話題になった万葉仮名に関しても、ちょっとだけ補講があるようです。今回はあまり深入りしないようにしますが。
升田さんからのメッセージです。
前回の近江荒都歌の「亡者たちの〈われ〉の喪失」は消化不良のところがありましたが、それを補う意味も含めて、「人麿の〈われ〉の喪失」を通称「泣血哀慟歌」(妻を失った時の挽歌(巻二ー207〜212))を通して探っていきます。
そのために、大伴家持の亡妻歌(巻三ー466〜499)との比較をしてみます。
その上で、人麿の詩性はどこから来るのか、古代和歌がどのように変化して行くのかを、「われ」の視点から考えてみたいと思います。
なお、サロンで話題に上っている万葉表記論(万葉仮名)は、底無し沼のように引きずり込まれる魅力ある課題ですが一朝一夕にはならず・・・それを考えるヒントを一つだけプリントにしておきます。
以上が升田さんからのメッセージです。
前回も話題になった「人麿の詩性」も話題になるようです
いつも内容密度が濃くて、私にはついていくのが大変なので、今回は、あまり内容を欲張らずに、できるだけ対話型も増やしながら、私にもわかるようにとお願いしています。
ですから、初めての方も大歓迎です。
ともかく万葉集は面白い世界ですので、それをちょっとずつ味わえればと思います。
お気軽にご参加ください。
〇日時:2019年11月9日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「柿本人麿の〈われ〉の喪失‐人麿の詩のかたち「泣血哀慟歌」を読む」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■権力は腐敗などしません(2019年10月3日)
関西電力、全日本テコンドー協会などがマスコミをにぎわせています。
私には、いずれも「事件」ではなく「日常」「常態」にしか思えないので、そんな話を今さら大仰に取り上げたり、騒いだりしている世間のほうにこそ驚きを感じます。
そもそも報道関係者やその世界の人には周知のことでしょうし、関西電力に限らずすべての電力会社やテコンドー協会に限らずすべてのスポーツ団体に多かれ少なかれ存在していることはこの数年で明らかになってきているはずです。
などというと、反発されそうですので、個別問題への言及はやめて一般論を書きます。
『自由の歴史』を著したイギリスの歴史家ジョン・アクトンは、「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言いました。
いまでもよく「権力は腐敗する」という言葉はよく聞きます。
私は、この言葉にみんなだまされているように思っています。
権力は腐敗などせず、どんどん強固になっていきます。
権力は腐敗するのではなく、腐敗が権力を生み出すのです。
発想を変えなければいけません。
権力を持つと精神が堕落し、悪徳に抵抗を感じなくなるということが、権力は腐敗する意味だとされますが、これも逆だと言えば、もう少しわかりやすいと思います。
悪徳にマヒし、精神が堕落することから権力が生まれていくと考えればそう違和感はないでしょう。
話題になっている「事件」の関係者は、たぶん自らが腐敗しているなどとは思っていなかったでしょう。
悪徳にマヒし、精神は堕落、というよりも、失っていたのです。
だからどうして自分が責められているか理解できないでいるでしょう。
今回の関電事件は、そうしたことをとてもわかりやすく教えてくれます。
腐敗がなければ権力は生まれません。
ではなぜ腐敗が是認されるのか。
それは、人は腐敗に惹かれるからではないかと思います。
そして、多くの人は権力を望み、それが無理ならそのおこぼれに預かろうと思う。
「おこぼれ」は、多くの場合、割には合わないはずですが、罪悪感をあまり持たずに済むところで、人はだまされてしまう。
権力は腐敗しません。
腐敗はさらに強固になり増殖していく。
その汚染から身を守るのは権力に近づかないことかもしれません。
決して黄金の入った菓子箱などを欲しいなどと思わないことです。
しかし、うっかり受け取ってしまうことがあるのが現代です。
「贈与」の恐ろしさを、改めて考えなければいけません。
■贈与の暴力性(2019年10月4日)
湯島のサロンでは「贈与」をテーマにしたサロンも何回か行ってきましたが、基本的には「贈与」に好意的なイメージをおきながらサロンしてきました。
ところが、むしろ問題は「贈与の暴力性」かもしれないと思いださせたのは、今回の関西電力の事件でした。
事件の概要は改めて書く必要はないと思いますが、高浜町の元助役が関西電力の経営幹部に巨額な「贈与」を行い、その贈与を断りきれずに関西電力の経営者たちが元助役に使役されてきたという事件です。
その事件の釈明を求められての関西電力経営陣の記者会見は、こうしてみんな人間を辞めていくのだろうなと思わせるものでした。
彼らの発言は、自らを失った抜け殻の人間もどきの発言でしかありませんでした。
自分たちが何をやったのかがわかっていないのです。
私には同情を禁じ得ませんでした。
たとえば、「金品を渡された者は受け取る理由はないと考え、返却を申し出たが、『ワシを軽く見るなよ』などと激高されてしまった」、と彼らは言っています。
つまり彼らは元助役を重く見ていたわけです。
だから家族の安全までも驚かされながらも、彼らを裏切ることができないほど、元助役グループに服従していたわけです。
私の判断基準からすれば、明らかな「ゾンビ族」です。
昨今の日本ではゾンビ族はめずらしい存在ではないので、驚きはしませんが。
たった数億円、時には数十万円のお金で自分を売ってしまうほど人間は弱いのでしょうか。
たぶん弱いのです。
その理由を、マルセル・モースやモーリス・ゴドリエは、その著書で解き明かしています。
私はしかし、今まで「贈与論」や「贈与の謎」を、暴力の持つそうした暴力性を逆にうまく活かしてきたし、さらにこれから活かしていけるというメッセージと受け止めてきました。
しかし、どうもそれは考え直す必要がありそうです。
モーリス・ゴドリエは「贈与の謎」で、暴力ほどではないが贈与もまた階層制の中での地位の変更に力をもっていると指摘した後で、「この世紀未の状況にあって、今や再び、今度は社会問題の解決の援助手段として気前のよい贈与、《返報なき》贈与が必須とされている」と20世紀末に書いています。
さらに、モースが贈与は「それを受けとる人々の心を傷つける」と判断していたが、現在では隣人愛組織は数を増している」と書いていることにも注目しています。
それは、贈与の脱暴力性を示唆しています。
そもそも贈与の語源につながるギフト(gift)という言葉には、「贈り物」という意味に合わせて「毒」という意味もあります。
そしてモースもまた、「贈与」には平和性と暴力性とが混ざり合っていると警告していました。
「贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」ことになる」とモースは書いていますが、常に「危険」があるからこそ平和があるという私の考えから言えば、とても納得できます。
しかし、暴力性が強くなり、人間を過剰に貶めるようなことがあれば、話は別です。
今回の関西電力に象徴されている現象は、たぶんもう私のすぐ隣にまで展開されているのでしょう。
いつ私が感染するかもしれません。
私は一方的な贈与、つまり交換と切り離された贈与を素直に受ける生き方を選んでいます。
理屈っぽくいえば、お布施の論理のように、贈与を受け取ることこそが相手への私の贈与行為と考えているのです。
そして自分では背負いきれない贈与は、ていねいにお断りしているつもりです。
しかし、とはいうものの、贈与が生み出す義務意識から完全に解放されているわけでもありません。
もちろん私に贈与してくれる人たちは、元助役のような悪意は微塵も持っていません。
にもかかわらず、積み重なるとなぜか負担感が生まれてしまう。
これはどうしようもありません。
それが人間の弱味であり、社会を生み出す力なのでしょう。
ゾンビにならないように、言行不一致にならないように、自分を生きなければいけません。
■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節(2019年10月4日)
国連気候行動サミットで温室効果ガス排出問題に対するグレタさんのスピーチに関して、反省を含めて、やはり書いておくことにしました。
私は、二酸化炭素による温室効果が地球の温暖化を進めていると、つい最近まで全く信じていませんでした。
いまもちょっと懐疑的です。
そもそも「温暖化」という捉え方も、正直まだ納得はしていません。
この問題では、10年以上前に兄と激しい議論をしたため、兄はまだ私を非難しているようで、先日、一緒に食事をしたときにも、それとなく嫌味を言われました。
ゴア元副大統領のドキュメンタリー「不都合の真実」は2本とも見ていますが、どうもこれもわかりやすすぎて疑いたくなります。
地球温暖化説への否定的意見は、このブログでも何回か書いていますが、グレタさんの話に影響されたわけではありませんが、もしかしたら私が間違いだったと最近思い直しだしています。
少なくとも、絶対否定はしないように「変節」しました。
兄にはまだ謝ってはいませんが。
私の反対の理由は2つありました。
まず二酸化炭素犯人説が、原発推進を背景に政財界の人たちからまことしやかに強調され出したことへの不信感です。
地球環境問題が高まる契機になったローマクラブの「成長の限界」は話題になりだしてからすぐ読んで感動し、以来それなりに生活態度も改め関係情報も集めてきました。
エイモリー・ロビンスの「ソフトエネルギー・パス」やシューマッハーの中間技術などには共感し、その頃はまだ会社にいたので、調査して情報を社内にも流しました。
1980年代の動きが、もしそのまま加速されていたら、今頃日本は自然エネルギー活用先進国になっていたでしょう。
しかし、時間がたつにつれて、むしろ持続可能な発展とか開発とか、結局は経済成長と植民地支配が隠された形で進む勢いはむしろ加速され、話もだんだんややこしくなり、少しずつ疑問が生まれだしました。
日本でも「二酸化炭素汚染しない」原子力発電はクリーンだと言われる状況に向かい、そのなかで3.11福島事故が起きました。
つまり、二酸化炭素地球温暖化論は、さらなる経済成長のための目くらましの言説ではないかと思ってしまったのです。
もう一つは「温暖化」という捉え方への疑問でした。
温暖化ではなく、自然が乱れだし、地球が活性化しだしたという捉え方がいいのではないかと思っていたのです。
過剰すぎるほど人口は急増していますが、地球は人間の所作ごときではそう変わらないのではないか。
むしろ地質学、あるいは地球生命論的に、いま大きな激変期がはじまったと捉えるべきではないかと考えていたのです。
温暖化はその一つの現象でしかない。
最近起こっている現象は、むしろそう捉えると私には納得できます。
もしそうなら問題の捉え方を根本から変えなければいけません。
以上の2点で、私は二酸化炭素原因説や地球温暖化説に異論を持っていたのです。
しかし、最近もしかしたら地球は温暖化していて、その大きな一因は人間による二酸化炭素の過剰な生産かもしれないと思い直したくなってきたのです。
それに、もしそれが間違いや経済成長主義者による脅しだとしても、グレタさんの言うように、何もしないよりはいいのではないか、とも考えました。
そのためには、疑うよりも、まずは信ずるのもいいかもしれない。
そしてつい少し前に「変節」しました。
AIにとっては、地球温暖化も気候異常化も、大した問題ではないばかりか、好都合な話でしょう。
しかし、人間であればそうも言っていられません。
先日の那須のサロンで、50年前に今西錦二さんが言っていた「人類は22世紀まではもたんような気もするんやけどな」という言葉や、私の意見は時々ガラッと反転してしまうという話を話題にしたこともあって、それに関してこんな記事を書いてしまいました。
いまも私がパソコンに向かっている部屋の外では、強風が大きな声で吠えている感じです。
自然に抗って生きるのは、私の性分ではありませんが、さらに自粛したいと思います。
■CWSサロン「破傷風菌に「われ」はあるか」報告(2019年10月8日)
細菌学者の益田昭吾さんによる講義+ゼミ型サロンを久しぶりに開催しました。
今回のテーマは、『破傷風菌に「われ」はあるか』。
最初に益田さんは新聞の活字のコピーを使って文字の「図」と「地」の関係を説明し,地あっての図であることを示してくれました。
つまり、自己(われ)は非自己(環境)あってこその自己なのです。
環境もまた自分であるという「環世界」観もありますが、環境と自分とは切り離せない関係なのです。
そこから破傷風菌の話になるのですが、破傷風菌はなぜ自分にとっての環境に見える人をなぜ殺すのかという話になっていきます。
ここで自己(われ)と環境とをどうとらえるかが問題になります。
難しい話はすべて省略してしまえば、破傷風菌が持つ毒素(人にとっての毒素)は破傷風菌の中にいるプラスミドが持っていて、プラスミドにとっての直接の環境は破傷風菌で、プラスミドと破傷風菌はむしろ相互に支え合っている関係にある。
つまり「環境」とは重層的な構造を持っています。
そして、「自己」の中にもまた、自己と環境の構造が重層的に存在している。
最近、ニュースで話題になった「たまねぎ」を思わせます。
プラスミドは自分にとっての環境である破傷風菌には悪さはせずに、破傷風菌にとっての直接の環境ともいうべき生物に対しては、毒素を作動させ、破傷風菌の宿主である人間を「善意(悪意なく)」で殺してしまうわけです。
こうして、直接の環境とは支え合いの関係を維持しながらも、しかし間接の環境には悪さをしてしまうということも起こるわけです。
しかし、環境が重層的につながっているのであれば、冒頭の「図」と「地」の関係のように、たとえ間接的な環境であろうと、環境を壊してしまえば、いつかは自己(われ)も壊れてしまう。
これはまさに人間が抱えている地球環境問題にも当てはまります。
食欲のために飽食を重ねて、食欲を支える身体を糖尿病にしてしまうのも、同じパターンだと益田さんは言います。
つまり、自己(われ)と環境は幾重にも重なっている同心円構造になっている。
問題はどこまでを「われ(自己)」と捉え、どこからを「環境(非自己)」と捉えるかです。
そして、その同心円を掘り下げていったとき、その中心にあるのはなんのなのか。
そこから最後は「自殺」の問題にまで話は行きました。
今回のサロンのタイトルに関していえば、益田さんのメッセージは、破傷風菌に「われ」はあるかを考えていくと「われ」(自己)とはなにかという思考の地平が開け、世界が違って見えてくる、そして環境問題や健康問題も違った見え方がしてくる(ということは違った対処法が見えてくる)ということかなと私は受けとけました。
益田教授からは叱られるかもしれませんが。
生命はすべて支え合う形でつながっていると考えている私にとっては、いつもながら示唆に富む話でしたが、1回のサロンでは消化不良だったような気がします。
益田さんの以前のサロンの記録映像が次にありますので、関心のある方はご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=OxIbOe36RkM
また益田さんの一般向けの著作もちくま新書で2冊出ています(「病原体はどう生きているか」「病原体から見た人間」)。
もう少し同心円の中心を掘り下げる続編サロンを、もし参加希望者が3人以上いたら、益田さんにお願いしようかと思います。
益田さんがもし引き受けてくだされば、ですが。
希望者がいたら、私宛にご連絡ください。
■CWSサロン「核時代に懸ける人類生存の橋」のご案内(2019年10月8日)
10月7日の毎日新聞夕刊に、本間照光さんが11月のフランシスコ・ローマ法王の来日に寄せて、「核時代に懸ける人類生存の橋」と題して寄稿をされています。
コピーを添付しますので、ぜひお読みください。
寄稿文の最後に本間さんはこう書いています。
「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(日本国憲法)。これは戦争の放棄、戦力および交戦権の否認」(同9条)へと続く。法王が見ているのも同じ方向だ。これを国の内外に共有してこそ、核時代に人類生存の橋が懸けられる。
フランシスコ法王は今回、長崎と広島を訪問し、東京では東日本大震災の被災者や福島原発事故の避難者たちの集まりにも参加すると報道されています。
フランシスコ法王は「人類は広島、長崎から何も学んでいない」と考えているようですが、人類どころか、ヒロシマ、ナガサキを直接体験した私たち日本国民でさえ、核兵器禁止条約さえ採択せずに、軍縮どころか軍拡に精出し、核の傘のもとで「金銭という神」への信仰を強めている安倍政権を支持しているありさまです。
法王の来日に合わせたさまざまなイベントも企画され、すでにその一部は動きだしていますが、せっかくの機会をイベントで終わらせるのではなく、核問題や宗教の問題と向き合う時間を持つ機会にしたいと思っていた矢先の本間さんの論考に出会えたので、早速に本間さんにサロンをお願いしました。
本間さんもぜひやろうと賛同してくださいました。
サロンでは、最初に参加者みなさんから本間さんの寄稿文への感想を話していただいた後、本間さんから問題意識や思いを語ってもらい、そこから自由な話し合いができればと思っています。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思います。
〇日時:2019年10月20日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「核時代に懸ける人類生存の橋」
〇講師:本間照光さん(青山学院大学名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■10月茶色の朝サロン報告(2019年10月9日)
茶色の朝シリーズのサロンを、参加者は多かろうと少なかろうと毎月、定期的(当面は曜日は不定)に開催することにしましたが、今月は前回に引き続き、「最近、ちょっと気になることから政治を考える」をテーマに、自由に話し合うスタイルにしました。
男性8人女性2人の参加者でした。
男性が多くなるとどうしても話は抽象論や制度論に向かいがちです。
男性の考える政治と女性の考える政治とはどうもかなり違いがあるようです。
最初に参加者それぞれから最近気になることを出してもらいました。
食の話やメディアの話、原発の話もあれば、今年はキンモクセイの気配がないという話、香港や韓国の若者のような動きが日本ではなぜ起きないのか、さらには名古屋の表現の不自由展の話、憲法の話から消費増税、働き方改革、ゆでガエルや教育問題、などさまざまですが、みんなどこかでつながっているような気がします。
しかし、どうもみんなあまり切実感はないような気もしました。
いまの時代はみんな「食える」からという人もいました。
しかし「食えない人」も増えてきているような気もしますが。
批判や愚痴だけではなく、どうしたらこの状況を変えられるかという方向での議論も時々でましたが、なかなか名案は出てきませんでした。
こういう話し合いの場があるのはいいという意見もありましたが、ここに集まる人と集まらない人とは別の世界に生きているというような指摘もありましたし、最近は「当事者でないのにそんなことを言うな」という形での発言の押さえつけが増えていると聞くという人もいました。
要は社会の分断が広がっているということでしょうか。
そうした流れに抗して、異質な人をどう巻き込んでいくか、あるいは異質な場にどう入っていくかが大切なのかもしれません。
茶色の朝に関して言えば、もう真っ黒かもしれないという声もありましたが、まだこうした話し合いの場が許されているのですから希望はあります。
でも押しなべて、参加者の多くが社会は茶色一色の方向に向かっていると感じているように思います。
ではどうしたらいいか。
この茶色の朝サロン(BMSサロンと呼ぶことにします)は、急がずにゆっくりと、無駄な集まりだと指摘されようが、参加者がゼロになるまで継続することにします。
もちろんゼロを目指すのではなく、参加者が多すぎて中止にすることを目指しますが。
報告は次回からはもっと簡単にします。
写真も、参加者はマスクをしていないので、画素を粗くしてみました。
11月は、昼間働いている人が参加しやすいように、平日の夜(11月7日午後6時半〜8時半)に開催する予定です。
また近づいたら改めてご案内します。
また誰かこんなテーマで開きたいという人がいたら、その人を中心にサロンしてもらうことも大歓迎です。
その気になったらご連絡ください。
基本的には私も参加します。
茶色の朝がくるか私がダウンするまで、BMSサロンは継続を目指します。
■CWSサロン「コミュニティについて考えてみませんか?−アジアをめぐる旅から感じたこと」のご案内(2019年10月9日)
湯島のサロンの大きなテーマは「コミュニティ」です。
「コミュニティ」を正面から取り上げたことはありませんが、サロンではしばしば、話題になります。
今回、ようやく「コミュニティ」を正面から取り上げられることになりました。
それも、自らの生き方に重ねながら、コミュニティについて実践的に考えつづけてきている上田さんが話のきっかけをつくってくださることになりましたので、湯島のサロンらしいコミュニティ議論ができると思います。
ちなみに、上田さんはコミュニティを「帰ってゆきたい場所」と捉えています。
上田さんからのメッセージを下記します。
主にこの8年間のアジアの伝統社会をめぐる旅から、現場で感じたことをもとにコミュニティという切り口で私たちの暮らし方について考えてみたいと思いました。コミュニティへの問いかけの中には、私たちの根源的な思いや価値観、生き方、社会の有り様など宗教、哲学、社会科学などの広範な思考が含まれ、どんな問いかけをしたらいいのか、その問いかけをすること自体が無謀で身の程知らずとの自覚がありますが、それでもなお日々の生活に直接かかわることであり、誰もが問うていきたいテーマなのではないでしょうか? そしてその問いにはたぶん答えというものはないのでしょうが、誰かが話し出すことで共に考え続けてみたいという仲間が現れたらうれしく思います。この永遠のテーマはそれを考え続けることが私たちの生き方そのものを問い続けることになることでもあると思います。
上田さんのさまざまな体験からの「上田コミュニティ」論を前半で話していただき、後半ではそれをもとにみんなで話し合えればと思います。
参加者それぞれにとってのコミュニティを話し合えればと思います。
もしかしたら、そこから新しいコミュニティの芽が生まれるかもしれません。
これまで話題にしてきた「分け合う経済」「贈与と共生」「農福連携」「地上の楽園」などのテーマにもつながるサロンです。
ぜひさまざまな立場の人に参加していただきたいと思っています。
〇日時:2019年11月16日(土曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:上田英二さん(「那須の会」世話人」)
〇テーマ:「コミュニティについて考えてみませんか?−アジアをめぐる旅から感じたこと」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■ちょっと、そしておおいに残念なこと(2019年10月11日)
ちょっと残念なことがありました。
もう1か月以上前の話ですが、新潟の友人から電話がかかってきました。
憤慨している口調で、新潟日報に集英社文庫の新刊の広告が大きく掲載されているというのです。
本は「水が消えた大河で ルポJR東日本・信濃川不正取水事件」で、著者は朝日新聞記者の三浦英之さん。
2008年に発覚したJR東日本が信濃川にある水力発電ダムで契約以上の水を取水していたという事件を現地取材したドキュメンタリです。
新聞広告には、「魚が消えた。土地が死んだ。愛すべき日本一の信濃川を涸れさせたのは、誰だ」と挑発的な文字を大きく出ています。
私も当時の信濃川の実状は見ていますので、これは大袈裟な表現ではありません。
しかし、電話をくれた友人が怒っている相手は、JR東日本ではなく、集英社と著者であり、さらにはこんなに大きな広告を載せた新潟日報です。
実はこの本は「新刊」ではありません。
2010年に出版された本を文庫化して復刊したものです。
友人が怒っているのは、なぜ今頃に、ということなのです。
この本は私も前に読んでいます。
問題を明確に整理したいいドキュメンタリです。
しかし、そこで告発された問題や状況は、その後大きく変わってきています。
この事件を契機に、JR東日本は誠実に問題に取り組みだしました。
事件を反省し、改善しただけではなく(それは当然のことですが)、信濃川に鮭を遡上させようという活動に取り組んでいた新潟のNPOとも協力し、ダムに鮭が遡上できる魚道を作り直し、NPOと一緒になって鮭の稚魚放流にも協力。信濃川の状況は大きく変わったのです。
私は当時、そのNPOの顧問をさせてもらっていて、たまたま面識のあったJR東日本の当時の社長とNPOのコアメンバーとのミーティングをセットさせてもらいました。
私には、JR東日本はとても誠実に対応してくれたと思います。
友人は、そうしたことを知っているはずの三浦さんがなぜ今頃、この本を復刊したのか、なぜ集英社は復刊したのか、新潟日報がなぜそういうことも知りながら大きな広告を出したのか、ということです。
ちなみに三浦さんも、文庫の中で「今回、文庫化するにあたり、私は再度、JR東日本の「犯罪」を糾弾したいと考えたわけではありません」と書いています。
しかし実際には、JR東日本の「犯罪」を糾弾していることになっているように思います。
私が残念に思うのは、せっかく的確な指摘をし、状況を変える一助になる本を出版した三浦さんが、なぜその後の状況の変化、とりわけJR東日本の誠実な取り組みを取り上げ、企業が社会性を高める動きを支援しなかったのかということです。
糾弾は目的ではなく、それによって状況がよくなるための手段です。
にもかかわらず糾弾で終わってしまい、事態が変わった後になってもそれを言い続ける。
私にはヘイトスピーチにさえ感じられます。
そして新潟日報までもが、それに乗ってしまったのは、とても残念です。
JR東日本の当時の社長は、NPOへの評価も変えてくれました。
企業とNPOとは文化が違いますが、こうした具体的な「事件」を共有することで、それぞれの価値や意味が実感的にわかってくる。
そこからいい意味でのコラボレーションが始まります。
考えややり方は違うとしても、企業もNPOもいずれも、基本的にはみんなが住みやすい社会を目指しているのです。
私は現在の企業にはきわめて否定的ですが、企業の本来的な価値は高く評価していますし、ちょっと経営方針や事業行動を変えるだけで、再び企業は社会的な存在になると確信しています。
その格好の事例が信濃川で展開されだした。それがこのJR東日本のダム問題だったかもしれません。
そうした新しい動きこそ、三浦さんには書いてほしかった。
企業は問題も起こしていますが、たとえば東日本大震災でもたくさんの企業が誠実な社会活動をしています。
個別には語られますが、そうした企業の社会活動が見えてくれば、社会の企業を見る目も変わり、それによって企業そのものが変わるはずだと思うのですが、相変わらず企業を糾弾することばかりが話題になりやすいのがっとても残念です。
ちなみに、私も水が涸れた信濃川を上流まで体験させてもらいました。
それで私もNPOの活動に共感してささやかな協力をさせてもらったわけですが,信濃川にはJR東日本のダムのほかにも東京電力のダムがいくつかあります。
そのダムの取水方法や魚道の見直しなどにも取り組むはずだったのですが、東電とNPOとが一緒に鮭の稚魚を放流する予定を組んだミーティングの一週間後に不幸な3.11が発生しました。
東電の関係者はそこで動けなくなってしまったように思います。
企業にもNPOにも、それぞれ良い面もあれば悪い面もある。
お互いに悪さを補い、良さを活かし合う方向に向かえば、社会はかなり変わるでしょう。
マスコミは、糾弾ばかりに精出さずに、良さを活かし合う動きを支援してほしいと思っています。
■台風特需(2019年10月11日)
大型台風襲来で、テレビは昨日から関東地区では明日は外出はやめるようにと呼びかけが続いています。
私も12日に予定していたサロンを1日延ばしましたが、この2日間の、いささか異常なほどのテレビ報道には逆に何か嫌な気がします。
外出までもテレビの指示を仰ぐようになってしまったのかと思うわけです。
でもまあ、そのおかげで、事前に会社やお店が休業しやすくなり、交通機関も運転中止になるというのであれば、それはいいことです。
しかし、テレビが買い物まで煽るのには違和感があります。
そんな「煽り」に乗る人は少ないだろうと思っていました。
ところが、夕方、近くのスーパーに買い物に行った娘からパン売り場の写真が送られてきました。
写真を見て愕然としました。
食料品はほとんどなくなっているそうです。
こんな風景は見たことがありません。
そういえば、今日は外出していたのですが、帰宅の車の中でどこのガソリンスタンドも長い列なのに驚きました。
そしてこの写真。
大昔の、トイレットペーパー騒ぎを思い出します。
日本人は相変わらず貧しい時代を生きているようです。
みんな大きな不安の中で生きているのでしょうか。
ちなみに、わが家は、2~3日は何も食べなくてもどうにかなるだろうという考えなので、特に食料の買いだめはしていません。
物を蓄えるよりも、生きる力をふだんから蓄えるようにしています。
娘も、テレビが「煽りすぎ」と書いていました。
めずらしく娘と意見が一致しましたが、この写真のような売り場の風景を見たら、不安に駆られて、残っている物を買ってしまうのが人の常かもしれません。
まあ私の娘は、決してそんな行動はとらないでしょうが。
しかし、いつかそれが命取りになるかもしれない社会が来るかもしれません。
貧しい社会はますます貧しくなっていくのでしょうか。
■大型台風襲来で考えたことの一部(2019年10月14日)
大型台風が連続して関東に上陸しています。
とりわけ15号台風の被害は深刻で、今なお生活に苦労している被災者も少なくありません。
そこにさらに大型の19号台風。
千葉の教訓もあるのか、報道の対応も政府の対応も、そして国民の台風も大きく変化したような気がします。
そしてそうしたことに、国家のあり方を考える材料がたくさんあるように思います。
私は今回の台風に関しては、危惧と疑問を強く感じています。
一番残念だったのは、相変わらずこの国は「自己責任」主義国家なのだということです。
自らの命は自分で守ってください、台風の備えは自分でしたくださいと繰り返し叫ぶテレビにおそらくほとんどの人は洗脳されて、前に書いたようにパンとラーメンを買いあさったのでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-be31de.html
これはある意味での国家責任の放棄ではないかと思いますが、まだ多くの人は自己責任に疑問を待っていないような気がするのです。
また誤解されそうですので、蛇足を追加すれば、自己責任は当然のことです。
しかし、「自己責任」だけでは生きていけないので、私たちはそれ(自己責任)をベースに社会や国家をつくっているわけです。
自己責任ですべてがうまくいくなら、国家など不要です。
国民の自己責任を言うなら、まずは自ら(政府、行政、マスコミ)の責任を考えろと言いたくなります。
強く感じた疑問は、それにつながります。
これほど強く自己責任を国民に問いながら、政府や行政はどれだけの備えをしているのだろうかという疑問です。
マスコミは、それをほとんど伝えてきませんし、それを政府に問うこともない。
15号台風の千葉の被災に関して、その後もほとんど何も変わっていないのではないかと思えるほど、マスコミは問題を明らかにしていません。
今回、私が一番疑問に思ったのは、城山ダムの放流の件です。
放流がずるずると遅らされていましたが、これだけの大雨予測がかなり前から報道されていたのに、どうして事前にダムを空にしておかなかったのかという疑問です。
すでに台風が近づき雨が降り始めているので、まだ放流時間を議論している。
まだやっていないのであれば、すぐに放流しろよと思いました。
早ければ早いほど貯水能力を高められるし、河川流域の住民にも危険を実感させられるうえに、その気になれば河川決壊の危険個所も探知できるかもしれません。
テレビを観ていて、これほどいらいらしたことはありません。
もう一つの疑問は、河川決壊に関する備えを行政はきちんとやっていなかったのではないかということです。
多摩川の決壊で、すぐ近くの福祉施設やマンションが水浸しになり死者まで出ました。
1週間近く前から今回の大型台風が予想されていたのであれば、河川決壊の可能性はわかっていたはずですから対策は立てられたでしょう。
堤防を補強するのは難しいとしても、そのおそれがあるところは把握できているはずです。
できていないとすれば、先年の常総市の体験を無駄にしているとしか言えません。
もし危険性の高い場所がわかっていたのであれば、その周辺の人に周知するだけではなく、シミュレーションによって1階まで水没しそうなところに関しては、万一に備えての対策をとれたはずではないかという疑問です。
当日、自衛隊などが危険性の高いところに事前に機材を持ち込んでの配備をしていたような様子もテレビで見ましたが、もっと前から準備ができたはずです。
もちろんあまりにも広域ですから、そんなことはできないと言われそうですが、「できない」といったとたんにすべては終わります。
国家の最大の使命は国民の安全を守ることだと思っている私は、今回の大型台風に関しては、政府は国民に危険を煽るのには熱心でしたが自らはあまり熱心に取り組んでいなかったのではないかと思えて仕方ありません。
相変わらずの各地での河川決壊も「数十年に1度の大型台風」だからといって、行政や政府の対応がまたきちんと検討されずに終わってしまっては、また次回も同じことになりかねないのではないか、と危惧しています。
フクシマの原発事故が「想定外の津波」だったというわけのわからない理由で見過ごされたような構造が、今回も繰り返されているような気がします。
国家の目的は何かを、もっとみんな真剣に考えるべきです。
■第2回リンカーンクラブ研究会の報告(2019年9月24日)
大型台風のため1日予定を遅らせて2回目のリンカーンクラブ研究会を開催しました。
台風直後で交通も不便でしたが10人が集まりました。
テーマは「目指すべき日本の国家像」。
最初に、参加者それぞれから「こんな国にしたい」という話をしてもらい、それも踏まえて、武田さんが考える理想の国家像が語られました。
これは次回から始まる政策や制度の各論のベースになるものです。
さまざまな次元で「こんな国にしたい」というキーワードが出たように思います。
なかには、いろいろと考えると、果たして「国家」は必要なのかと疑問になるという意見もありましたが、その人も現在の国家に関する根本的な問いかけをしているのであって、人が集まってお互いに人間の尊厳を尊重できるような「法の支配」を否定しているわけではないようです。
みんなが自己実現を目指せるように、自由と「自由」と「平等」をどうつないでいくか。
アメとムチの組み合わせが大切。
道徳がなくなったのではないか。もう一度、道徳を取り戻そう(道徳国家)。
国家が決める押しつけ的な国家像はない方がいい。
若者と女性が政治を行う側にきちんと場所を保証される政治体制にしたい。
「平和国家」「民主国家」そして「クリーン国家」が理想。
「住む人の表情が明るく輝いていて世界に向けて、開かれていること」が大切。
「みんなが話し合ってみんなで決めていく国家」。
などいろんな思いが発せられました。
それを受けての武田さんの国家像は実に簡単なものでした。
国民全員が政治の決定に意思表示できる国家です。
これが武田さんのいう「究極的民主主義国家」です。
そして今回は国民投票制度ではなく、国民みんな(たぶん年齢制限はあると思いますが)が選挙に行きたくなる仕組みを作り、選挙に行くことによって、政治への関心を高め、政治に参加する国家をつくろうという提案がありました。
たとえば、選挙で投票に行くと一人1万円もらえるという制度です。
これだけ聞くとむかしの日本の村落政治を思い出してしまいますが、それをうまく活かしていこうというのです。
私のような経済的な貧困層は1万円もらえれば投票に行きますが、お金持ちは1万円ではいかないでしょう。
そのことだけでもこの提案にはいろんな示唆があります。
ちなみに、参加者からは投票を義務化するという提案も最初にありましたが、目指すところは同じようですが、たぶんまったくちがう結果を生むでしょう。
話し合いで感じたのは、みんな「誰かに強制されることなく主体的に生きること」を望んでいるように思いました。
大きな方向はみんな同じように感じました。
国家像の話し合いの後、台風直後だったこともあり、今回の台風で感じたことも最後に少し話しあいました。
私は、15号台風の時の対応や今回の台風への備えを報道で見ていて、そこに国家の本質と今の政治の方向性を感じました。
こうした身近な災害を体験すると、国家の大切さや必要性への認識と同時に、国家の問題点が垣間見えてきます。
そしてそれこそが、国民の政治への関心を高める契機になると思っています。
政治は私たちの日々の生活の安全と安心に深くつながっているのです。
これに関しては、長くなるので報告はやめますが、フェイスブックやブログで少し私見を書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-8b0b98.html
お時間があればお読みください。
もし関心を持ってくださる人が3人以上いたら、緊急サロンを開催してもいいかなと思っています。
ご希望の方は私にご連絡ください。
■第3回リンカーンクラブ研究会のご案内(2019年10月15日)
リンカーンクラブ研究会のご案内です。
第2回研究会では、目指すべき国家の大きな方向性として、「国民全員が政治の決定に参加できる国家」を大きな方向として確認しましたので、今回からそれを実現するための各論に入っていきます。
第3回目は、「代議制と選挙」をテーマにします。
現在の日本の政治は、主権者である国民の選挙によって選ばれた代表が政治を担う、いわゆる代議制ですが、代議制を民主主義といっていいのかという基本的な問題を踏まえたうえで、どうしたら国民の意見をより反映させられるようになるかについて、選挙のあり方を中心に具体的に考えていきます。
初めての方も気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2019年11月2日(土曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「代議制と選挙」
〇講師:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■「こんな国にしたい」スケッチ(2019年10月15日)
一昨日開催したリンカーンクラブ研究会で、参加者各自が自分の思う「こんな国にしたい」を出し合いました。
そこで私が発表した内容を紹介します。
スローガンは「安民豊国」。
そこに住む人の表情が明るく輝いていて、国土が豊かなこと、そして世界に向けて、開かれていること、という意味です。
日本の明治政府は「富国強兵」を国是にしましたが、それをもじっての、そしてそれへのアンチテーゼとしての「安民豊国」です。
「豊」は、経済的豊かさではありません。
多様性を活かし合う寛容さと他者や他国を支える余裕を意味しています。
その理念を支える、あるいは現実化する具体策の意図部を例示します。
ベーシックインカムによって誰でもが生活を保障されている。
国民の所得格差は一定限度(たとえば5倍以内)を設け、それを超える部分は税としてみんなで活用する。
義務教育制度は廃止する。
原発は可及的速やかに廃止し、地域単位でのエネルギー自給体制を基本とする。
消費税は廃止し、所得を基本にした応分税制にする。
国会議員は1期(4年)が限度で、毎年定期的に1/4を入れ替える。
国民は20代に1年間の行政職就任を経験する。
政党制度は廃止する。
統治権者としての総理大臣は直接投票で選ぶ。
ルーティン的な政治課題はできるだけAI化を進め、人間の価値観が大きく影響する課題は国民投票によって決める。
基礎自治体の議会は廃止市、誰もが参加できる公開タウンミーティングを基軸に置く。
基礎自治体は3万ユニット以上に区分する。
行政文書は原則公開。
土地所有権の制限(総有制の導入)。
労働の義務の廃止。
米国基地は認めない。
自衛隊は生活安全のための活動(たとえば災害救助)に従事し、万一の時(実際に誰かに攻撃された場合を指す)は国防軍の核になる。
ある基準以上の飲酒運転者は免許永久剥奪。
賭博類一切禁止。
NHKは税金で賄うが、放送内容も含めて国民参加をとりれた経営を行う。
公職のマイナス給与化。
NPOへの公的補助の廃止。
それぞれきちんと説明しないと誤解されそうなこともあると思いますが、私の考える「安民豊国」をイメージしてもらうためにランダムにあげてみました。
■CWSサロン「網野史観から考える現代日本の〈別の選択肢〉」のお誘い
湯島のサロンでは、最近、日本の将来像のような話が話題になることがありますが、今回は過去の日本を参考に、日本の選択肢を考えてみようというサロンです。
過去といっても、私たちが学ばされた教科書風の歴史から離れて、ちょっと斬新といえる「網野史観」を参考に、未来への選択肢を見直そうという試みです。
問題提起してくれるのは、蔵原大さん(東京国際工科専門職大学講師)です。
講座+ゼミ型サロンになると思いますが、まあ湯島のサロンですから、「網野史観」など聞いたこともないという人こそ大歓迎です。蔵原さんが資料をいろいろもってきてくれるそうですので、手ぶらでぜひ気楽にご参加ください。
ところで「網野史観」に関しては、時々、湯島でも話題になります。日本中世史研究者であった故・網野善彦さんの提唱をもとにしている歴史観です。
一言でいえば、網野さんの提唱は、これまでの国家ごとのエラそうな狭い歴史とか、定住や農耕が人間の望ましい生き方だといった上から目線の歴史観に対する挑戦です。むしろ網野さんは、人には自由に生きられる異空間(公界)をつくる権利があるという視点から、いまでいうノマド(非定住民)を含めた非農業の商人、職人、武士そして宗教者に焦点を当て、地域や身分をこえる広い歴史観を打ちたてようと戦いました。
そうして亡き網野さんは「神国」「海外から孤立した島国」等のミミっちい日本像とか「百姓=農民」という古くさい観念を見事に打破したばかりか、現代の私たちが教えこまれた世界観に対して別の道が選べることを示してくれたのです。
もちろん私たちをしばる世界観=世の中への偏見から自由になれば、現代の見え方も未来への展望も変わってきます。そのため生前の網野さんは自らの研究成果をふまえ、著作や対談を通して現代社会への問題提起、身分差別への批判を行っていました。
今回はそうした「網野史観」が提示してくれる昔の日本社会の新しい姿「公界」を踏まえて、蔵原さんに現代日本の「別の選択肢」を論じてもらうことにしました。
もしくはそれを踏まえた「蔵原史観」になるかもしれません。歴史をテーマにしたゲームも出してくれるそうです。私たち日本の「選択肢」をみんなで自由に議論する異空間をつくって、今の社会そのものを問い直す契機になればと願っています。
〇日時:2019年11月3日(日曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:蔵原大さん(東京国際工科専門職大学講師)
〇テーマ:「網野史観から考える現代日本の〈別の選択肢〉」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
*蔵原さんの「東京国際工科専門職大学」はこちら: https://www.iput.ac.jp/
■「維新正観」(批評社)をお薦めします(2019年10月21日)
私が日本の医療問題に関心を持った契機は、本田宏さんの講演です。
当時、私は統合医療に関心があり、昭和女子医大で開催されていた講演会に参加しました。
そこで本田さんの熱い講演に魅了され、挨拶をしたのが多分初めての接点です。
それもあって「ヒポクラテスの会」を立ち上げ、そのキックオフのフォーラムで、本田さんにキースピーチをお願いしました。
その会は、妻が病気になったため、私がすべての社会活動を辞めて引き籠ってしまい、立ち上げたままで終わってしまいました。
本田さんにも申し訳なく思っていました。
私が引き籠りを脱した後、また本田さんと会う機会があり、本田さんは湯島のサロンでも話をしてくれました。
以来、何かと本田さんから刺激をもらっています。
本田さんは、5年ほど前に医師を引退され、市民活動に取り組まれだしました。
しかし、その中でいろんな思いを抱かれたのでしょう、いまの日本の社会の根底に陣取っている歴史観こそが問題だとの認識をますます強めてきています。
そのことはとてもよくわかります。
日本の市民活動はどこかで肝心のものを抜かれてしまっているような気がします。
そんな本田さんから、蜷川新さんの「維新正観」(批評社)という本を薦められました。
1952年に出版された本ですが、2015年に復刊されています。
早速読ませてもらいました。
常識を覆させられることも多い、刺激的な内容です。
いささか言い過ぎではないかと思うところもありますが、蜷川さんの直接の見聞も含めて、きちんとした事実を重ねているので説得力があります。
それに、70年近く前なのに、そこに書かれていることは今もなお新鮮なのです。
たとえば、冒頭にこんな文章が出てきます。
民主の国になった今の日本において、「民主」と正反対である「君が代」を学生々徒に歌わしめようと企てた政治家のある事実は、何を物語るのであろうか。
いまや、そんな政治家が日本を牛耳っていることを思えば、時代はまさに後ろを向いているとしか思えません。
蜷川さんは明治維新について、「「維新」の名は、美しく世人に響くけれども、事態は極めて醜悪なものがあった」として、その裏付け事実をていねいにあげています。
私が認識を一変させられたのは、学校で習った「不平等条約」の話です。
当時も少し割り切れない話でしたが、この本を読んで腑に落ちました。
「不平等条約」は当時の国際状況に置いてはきわめて理にかなった条約で、決して不平等条約などではなく、むしろ明治政府にこそ問題があったのです。
それをさも幕府が不平等条約を締結し、それを苦労して明治政府が条約改定に取り組んだなどという物語に維新政府はつくりかえたわけですが、それがなんと敗戦後も同じように学校では教えられていたわけです。
1945年の敗戦によっても、日本の政府は結局変わらなかったわけです。
私たちが学校で学んだ明治維新の話は学び直しが必要です。
蜷川さんは、「明治維新は、封建制度よりもさらに世界の大勢に逆行せる、専制的有害な一制度の出現を意味していた」とさえ書いていますが、本書を読めばそれが納得できます。
廃藩置県などは(理念はいいとしても実際には)あくどい施策としか言いようがありません。
そうした「醜悪なものであり、法あるいは正義に反する」活動によって成立した明治政府によって、その後の日本は作り上げられてきました。
そして、昭和20年の敗戦によっても、それは壊されなかった。
そこにこそ、現在の日本の社会がかかえる問題の多くはつながっている。
そこから正していかないと、日本の市民活動はただただ権力に荷担するだけかもしれません。
こんな指摘もあります。
「〈明治の維新時に〉全国3000万の人民は、決然として立ち、封建の制度を廃止し、人民の間に、身分的差異を置くことを禁絶し、公論政治の原理により、日本の政治を一新し、世界と共に、文明の進歩に浴すべきであった。然るに、天皇も、政府も、各藩も、庶民も、その実現に向い、それを実行するだけの誠意と革新的意気とを、有していなかったのである。
フランスの人民が、マルセイユーズを歌い「祖国光栄の日は来れり」と連呼し、全人民を誘って大革命に猛進したのは、その当時(明治維新)から70余年前の事実であった。当時の日本人も、すでにある程度その事情を知っていたのである。然るに、この種の一人の運動者さえ、日本に現われてはいないのである」。
これを1945年の敗戦時の日本に当てはめてもいいでしょう。
この文化は、いまもなおつづいている。
立ち上がるのを忘れたままに、私は足腰が弱くなってしまいました。
困ったものです。
せめて若い世代の人たちに、本書を読んでいただきたいと思い、紹介させてもらいました。
もちろん、立てないほどの足腰の弱くなった人たちにも。
■BMSサロン「大型台風経験で思ったこと」のご案内(2019年10月23日)
11月のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)は予告通り、11月7日の午後6時半〜8時半で開催します。
いろんな立場の人に参加していただきたく、年内はいろんな時間帯で開催し、来年から固定化していく予定です。
主旨は、繰り返しご案内している通り、生活感覚から政治を話し合い、そこから私たちの生き方や社会のありようを考え、それを広い意味での政治への関心と行動につなげていこうということです。
特定の政治思想に呪縛されることだけは避けたいと思っていますが、人間の生活を起点とする原則は大事にしていきます。
気楽に広い意味での政治を話し合う場に育てていければと思っていますので、よろしくお願いいたします。
今回は、先の台風(15号・19号)襲来に前後して起こったさまざまなことを題材にしようと思います。
民主国家と言われる国の政治の大きな役割は、国民の安全と安心を守ることです。
今回の台風のように、身近な災害を体験すると、国家の大切さや必要性への認識と同時に、国家の問題点が垣間見えてきます。
そしてそれこそが、国民の政治への関心を高める契機になると思っています。
政治は私たちの日々の生活の安全と安心に深くつながっているはずです。
それぞれがご自身の体験や感想を持ち寄って、自由に話し合えればと思います。
まあ気楽な井戸端会議という感じで、ご参加いただければと思います。
お時間が許せば、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年11月7日(木曜日)午後6時半〜8時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「2回の大型台風経験で思ったこと」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
■廃棄物の山の向うに見えること(2019年10月23日)
同じ情景を見てもどうも、少し違う世界を見てしまうことがあります。
正確に言えば、見ている世界の向こうに見えてきてしまうことがある。
この頃、むしろその「向こうの世界」のほうが強く見えてしまうようになってしまいました。
困ったものです。
そうなると、被災者や被害者、あるいは当事者に、なかなか「寄り添う」ことができなくなってくる。
いや、そもそも「寄り添う」と一体何なのだろうかとわからなくなってくる。
昨日また「寄り添う」という言葉を何度か聞いていて、考えてしまいました。
たとえば、台風の被災者が出す廃棄物の山がテレビによく出てきます。
被災者は大変だなという思いと同時に、どうしてみんなこんなにいとも簡単に捨ててしまうのかという思いが出てきてしまう。
こんなことを言ったら、実際に被災した人にはとても「寄り添えない」し、みんなからもひんしゅくを買うでしょう。
そんなことを考えている暇があれば、現地に行って、かたづけを手伝えと言われそうです。
でも、廃棄物の山を見ていると、廃棄されたものたちの悲しさが伝わってきます。
もっと生かしてやれないものなのか。
いや、きちんと大事に使われていたのだろうか。
たとえば、水につかった畳の山がある。
乾かして燃やして畑に戻してやれないのか。
なんで水につかっただけで壊れてしまう家電製品を大量生産しているのか。
むかしの人もこんな感じで、物と付き合ってきたのか。
「断捨離」とか「捨てる技術」などということがはやっているようですが、私にはとても共感できる言葉ではありません。
「物との関係性」を大事にしない人は、たぶん「人との関係性」も大事にはしないでしょう。
それに気づけば、そう気安く、「断捨離」とか「捨てる技術」とか言えないのではないか。
前から書いているように、私はそろそろみんな「消費者」から卒業して「生活者」になっていく必要があるのではないかと思うのです。
廃棄物の山を見ていると、何とも情けない。
台風襲来の前にスーパーから食料がなくなった写真をアップしましたが、廃棄物の山は、それとつながっているような気がします。
生き方を問い直したいです。
■CWSサロン「核時代に懸ける人類生存の橋」報告(2019年10月8日)
11月のフランシスコ・ローマ法王の来日に寄せて、本間照光さんが毎日新聞に寄稿した「核時代に懸ける人類生存の橋」を巡ってのサロンには10人を超す人が集まりました。
案内にも引用しましたが、その寄稿で本間さんはこう書いています。
「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(日本国憲法)。これは戦争の放棄、戦力および交戦権の否認」(同9条)へと続く。法王が見ているのも同じ方向だ。これを国の内外に共有してこそ、核時代に人類生存の橋が懸けられる。
参加者からいろんな意見が出されました。
38年前のヨハネ・パウロ2世法王の来日の時には、広島平和記念公園で法王は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の地、この平和記念公園ほど強烈に、この真理を、われわれに訴えている」という平和アピールを世界に呼びかけました。
当時の日本人の関心の強さと働きかけが、その平和アピールの背景にあります。
ところが今回はどうでしょうか。
本間さんに危機感と嘆きはそこにあります。
そういう危機感を残念ながら、私も含めてサロン参加者はあまり持っていませんでした。
そして、この「好機」を活かそうという思いも、あまり強くなかったような気がします。
本間さんは、そういう状況を嘆いているのです。
せっかくサロンを企画しながら、私自身、しっかりと考えていなかったことを大いに反省させられるサロンでした。
今回は、私には報告する資格はありません。
どこかで私も逃げてしまっていたような気がしています。
そこで大いに反省して、本間さんのメッセージを多くの人に知ってもらうために、自分でできることに取り組もうと思います。
できるかどうかは確実ではありませんが、また報告させてもらいます。
本間さんの寄稿文を、改めて読み直してもらうことをお願いして、今回の報告に代えさせてもらいます。
ぜひ添付の本間メッセージを読んでいただき、それぞれでできることを考えてもらえればうれしいです。
ちなみに、サロンではさまざまな論点が議論になりました。
そこから新たなシリーズのサロンも生まれるかもしれません。
おかしな報告ですみません。
参加してくださった方がフォローしてくださるとうれしいです。
■CWSサロン「小学生の過ごし方が大人なった時に与える影響」のご案内(2019年10月25日)
久しぶりに「子どもの世界」を取り上げるサロンを開催します。
話題提供者は、“学童デザイナー”のかわさきあつこさんです。
学童保育活動で、不登校や問題行動を起こす子どもたちのケアなどに取り組んでいるかわさきさんは、子どもたちがいまどのような環境におかれているのかを、生身で実感しています。その実態を多くの人に知ってもらい、子どもたちをどう守っていけばいいかを社会全体で真剣に考えていかなければいけないという強い思いをお持ちです。
かわさきさんのメッセージを紹介します。
小学生の時期には、その人の価値観のベースや自分と他人の違いなどに気づき、力をあわせて一つのゴールに向かって取り組めるようになる時期でもあります。さらに、憧れの人を目指して、夢にむかって歩き始める時期でもあります。プロで活躍されている方の多くは、小学5?6年生で具体的な「夢」を掲げ、取り組んでいることからもわかります。
そのような大切な時期にもかかわらず、ゲーム依存、いじめ、不登校、薬、犯罪、自殺など、さまざまな社会問題が出始めています。これらの負の連鎖から、子どもたちを守るために、彼らがもっている良さを引き出すお手伝いをするために、私たち大人ができることなどをゆるりとお話をさせていただきたいと思います。
かわさきさんが運営している学童保育活動での取り組みも紹介していただけると思います。
子どもの世界は、まさに社会の縮図であり、これからの社会を方向づけていくものです。
そういう意味では、誰にとっても大切な世界です。
子どもと接点をお持ちの方も、お持ちでない方も、ぜひご参加いただきたいサロンです。
これからの社会も、少し見えてくるかもしれません。
さまざまな方のご参加をお待ちしています。
〇日時:2019年11月23日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:かわさきあつこさん(学童デザイナー)
〇テーマ:「小学生の過ごし方が大人なった時に与える影響」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
■CWSサロン「日本国憲法の制定経過」のご案内(2019年10月25日)
日本国憲法の改憲議論が盛んになってきていますが、改めて、その制定経過をきちんと確認しておこうということで、弁護士の秦悟志さんにお話ししていただくことになりました。
これまでも断片的には、取り上げてきましたが、今回は先入観なしに制定の経緯に関して全体的なお話をお聞きしたいと思います。
秦さんからは、こんな話をしたいと次のメッセージをもらっています。
現行憲法については「押しつけ憲法」論があります。しかし、この言葉から受ける印象ほど現行憲法の制定経過は単純ではありませんでした。
1945年8月のポツダム宣言受諾後、民間団体による憲法草案の公表、昭和天皇による改正作業、政府委員会による改正作業が行われました。
その後マッカーサー草案の提示、衆議院総選挙、帝国議会および枢密院における審議、昭和天皇の裁可を経て、1946年10月29日、現行憲法は大日本帝国憲法の改正法として成立し、1947年5月3日から施行されました。
以上の制定経過を、民間草案と現行憲法の類似点に着目しながら辿ります。
日本国憲法の捉え方はいろいろありますが、今回は秦さんのお話を聴きして、自由な話し合いをしたいと思います。
よろしくお願いします。
〇日時:2019年11月19日(火曜日)午後7時〜9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本国憲法の制定経過」
〇講師:秦悟志さん(弁護士)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■雨男発言と身の丈発言(2019年10月30日)
またまた国家議員の発言が問題になっています。
議員の失言に国民の関心を向けることで、肝心のことから目を反らさすのは、与野党を問わず国会議員の好きなことですが、野党党首の発言を聞いていて、ほんとうに彼らの政治感覚を疑いたくなります。
そもそも国会は本来、「知恵を出し合う」場であって「言い争い」の場ではありません。
そんなことに大事な時間を使ってほしくはありません。
またそれに乗じて、問題を「表層的な」次元で終止させてしまうマスコミにもいつもながら失望します。
問題は、「言葉」ではなく、それが表象している政治の原状です。
雨男発言は、確かに被災された人には不快感を与えたかもしれませんが、私がもし被災者だったら、そんなことよりも実際の支援活動の遅れや責任逃れに終始する森田知事の発言のほうこそ不快に思うでしょう。
身の丈発言は、30年前から講演などで、「分をわきまえる」生き方から抜けでましょうと話していた私としては、賛成はできませんが、それ以上に私が話していたころもほとんどの人は私の発言には共感してくれていませんでしたから、「言葉」はともかく、多くの大人たちはみんなそう思っているのだろうと感じていますので、与党の政治家が相発言しても、まったく違和感はありません。
それに今でも、「身の丈に合った生き方」を勧める人は人生の「先達」は少なくありません。
それにそもそも、そういう考えの政治家を選んで評価していながら、そんな発言を大問題にする人の無責任さにこそ怒りを感じます。
また誤解されそうな表現不足の文章ですが、問題は「言葉」ではなく、たとえば今回は発言の契機になった大学入試制度の設計思想です。
さらにはその根底にある「政策思想」であり、政策立案を担っている人たちの人生観です。
そこに焦点を向けなければ、何も解決しません。
いや、萩生田発言は、その制度設計の思想を言語化し可視化してくれたと捉えるべきであり、「失言」ではなく「名言」と捉えるべきではないかとも思えます。
野党も国民も、むしろ萩生田さんに感謝して、制度をよくする方向に変えていく契機にすべきなのです。
ついでに言えば、「雨男発言」も、雨男を大臣にしてはいけないという教訓にして、雨男は大臣にしないような教訓にすべきです。
これはちょっと蛇足でしたが、いろんなことを示唆しているよにも思います。
身の丈発言は、まさに現在の政治の思想を象徴しています。
つまり格差を是認し、社会階層を固定化する教育をしていこうということですから、萩生田文部科学大臣は素直にそれを発言し、世論を誘導しているわけで、決して「失言」などではないのです。
こういうことはこれまでも何回か繰り返され、失言問題として謝罪と時に辞任さえありましたが、世論を誘導し国民を教育するうえでは効果を発揮していると私には思えます。
一方でタテマエのスローガンを掲げ(一億総活躍、女性の活躍…)、一方ではこうした形でその意図を無意識のうちに繰り返し働きかけて世論を誘導するのは、いまの政治の常道です。
言葉論争に巻き込まれるような愚は避けるべきであり、むしろ失言問題ではなく、肝心の入試問題や文科行政方針を問題にする政策論争にしてほしいです。
そこまでいかなければ、結局は安倍政権の意図に利用されるだけでしょう。
立憲民主党もまた結局は自民党の応援政党になってきていると思えてなりません。
安倍政権を倒したいなら、基本的な姿勢を変えなければいけません。
道化役の政治家の「失言」の向こうにあるものに、目を向けて、それを可視化し、国民に呼びかけてほしい。
高校生たちがせっかく立ち上がっているのですから、高校生たちと共に共闘してほしい。
大切なのは、萩生田さんを問い詰めることではなく(以前の大きな問題でさえ問い詰められなかったのですから)、政策や利権がらみの教育制度を変えることです。
そのためには、国民の力が不可欠です。
そこに呼びかけることをしなければ新しい政治は始まりません。
いまの野党にはその気はないのでしょうか。
人の失言をあげつらう国会にはもうあきあきです。
■CWSサロン「次世代原発 小型モジュール型原子炉の可能性」のご案内(2019年10月30日)
今回は、私の関心事で企画させてもらった学習型サロンのご案内です。
テーマは、次世代原子炉の一つとも言われている「小型モジュール型原子炉」です。
福島の事故以来、原子力発電に関する見直しが進められていますが、反原発の考えがある一方で、安全で安価な第4世代原子炉への関心も高まっています。
とりわけ、その一つである小型モジュール型原子炉(SMR)は、日本のエネルギー政策でも重視されているものです。
私は、原発は即座に廃炉に向かうべきであり、エネルギー政策においても、原子力は外すべきだと思っていますが、世間の人たちは相変わらず原子力への期待が大きいようです。
もしかしたら、私が間違っているかもしれません。
そこで、最近話題の小型モジュール型原子炉について、きちんと学びたくなったのですが、ネット情報などで調べてもよくわかりません。
そこで、長年、原子力発電に関わってきている、私が信頼する畑さんにお願いして、小型モジュール型原子炉についての学習型サロンを開いてもらうことにしました。
湯島に集まる人たちは、反原発の人が多いでしょうから、畑さんにとっては極めて「アウェイ」な場だと思いますが、畑さんは快く引き受けてくれました。
念のために言えば、畑さんが小型モジュール型原子炉の開発に取り組んでいるわけではありませんが、客観的な視点で、私にもわかるように噛み砕いて話をしてくれるはずです。
またそうした話から、原子力発電の可能性や限界も見えてくるような気もします。
湯島のサロンでは、さまざまな考えに触れることを大切にしていますが、原発の捉え方が相反する立場であっても、いやそうであればこそ、お互いに学ぶことはたくさんあります。
自己の考えに呪縛されることなく、反対の考えにも触れることは大切です。
原発に関しては、過去何回かサロンを開いてきていますが、感情的な対立に陥りやすく、なかなか建設的な議論にはなりにくいテーマです。
しかし、今回は視点を未来に置くことで、話し合いもやりやすくなるような気がします。
ぜひたくさんの人に参加していただき、異論を交し合えればと思います。
ただし、今回は、学習型ですので、自論のぶつけ合いはできるだけ抑えた運営にさせてもらう予定です。
原発に関心のある人、これからのエネルギー政策に関心のある人、お時間をぜひつくってご参加ください。
実りある話し合いを目指したいと思いますので、よろしくお願いいたします。
〇日時:2019年11月24日(日曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「次世代原発 小型モジュール型原子炉の可能性」
○話題提供者:畑孝也さん(技術士〔原子力・放射線部門〕)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■さんまの内臓はやはり私には向いていません(2019年10月31日)
「チコちゃんに叱られる」を、見ている人は多いようです。
一昨日も、2人の人からあることを訊かれました。
サンマの内臓がおいしいのはなぜか知っていますか?
薬が苦いのはなぜか知っていますか?
私も、それを取り上げた「チコちゃんに叱られる」を見ていたので、知っていました。
まあ、私がチコちゃんの答えに納得しているわけではありませんが、それはともかく、テレビの影響のすごさにはいつも驚きます。
それで急にサンマの内臓を食べたくなって(私は基本的に食べません)、昨日、娘たちと出かけていた帰りに、近くのスーパーで買ってきました。
今年は生サンマが不漁というテレビを見ていた人から、先週、生サンマが最近はスーパーにない上に高いという話を聴いていましたが、わが家の近くのスーパーでは例年のように98円で売っていました。
もちろん「生サンマ」です。
テレビ情報のほうが現実よりもみんなには影響を与えていることを、ここでも感じました。
私に生サンマが少ないという話をしてくれたのは男性で、たぶん自分ではスーパーに入っていないのでしょう。
彼の世界はテレビやネット情報で構築されているのです。
まさに私がかつて考えていた「非情報化革命」によって、みんな現実界から遠ざかられてしまったのです。
http://cws.c.ooco.jp/antiinfo.htm
ところで、サンマの内臓です。
私の結論はやはり「おいしくない」です。
娘も内臓は嫌いだそうですが、酒飲みではないからではないかというのが娘の意見でした。
これからも私はたぶんサンマの内臓は食べないでしょう。
■「都合のいい現実」が作られる非情報化社会(2019年10月31日)
「さんまの内臓はやはり私には向いていません」の話をフェイスブックにも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-e352c5.html
そしたらいろんなコメントをもらいました。
それでまとめて、返信コメントを書きました。
ブログにも書いておきます。
もともとのコメントが書いていないので、わかりにくいかもしれませんが。
サンマの話に関して、いろんな人からコメントをもらいました。
みなさん、ありがとうございます。
私もサンマの不漁と高値はテレビで知っていました。
昨日、サンマを買った近くのスーパー(「カスミ」です)でも一時期は200円でした。
それも小ぶりでした。
その時も食べましたが、今週になって安くなりました。
私の考えでは、サンマの不漁と市場への出回りや価格とは、絶対的な関係はないのです。
私の懸念は、自分で実際に確認する前にテレビなどで知ってしまったことが「現実」に大きな影響を与えることです。
スーパーで、今年はサンマが高いと気づく前に、今年はサンマが高いと思い込んでしまうことです。
一度、テレビで情報をインプットされると、それに呪縛されて、現実が見えなくなることが少なくないのはないか。
そして誰かが意図した「都合のいい現実」を作り上げていってしまう。
サンマの例ではさほど問題は起きないでしょう。
でもそれが、原発の安全性だったり、原発の危険性だったりすると、どうでしょう。
あるいは自殺者が減ったとか増えたとかいう話はどうでしょう。
前川文部次官(当時)についてはどうでしょう。
もっと身近で言えば、5人に1人が認知症になるという言説はどうでしょう。
私は、自分で確かめられないことにはできるだけ疑問を持ち続けるようにしています。
だから二酸化炭素による地球温暖化も長く受け入れられませんでした。
前に書きましたが、放射能で汚染能で汚染された土壌の除染の実験をやった時、その結果に関して、質量不変の法則に反するから信じられないと参加者のほとんどから言われました。
私は、質量不変の法則も「絶対視」していませんので、その実験の結果に興味を持ちました。
そのために多くの人からは信頼を失ってしまったかもしれません。
サンマの話からやけに大きな話題になってしまいましたが、それが私の今回の関心事でした。
娘に訊いたら、今日は同じお店で、サンマは128円だったそうです。
サンマもキャベツも、高いときもあれば安い時もある。
それが経済です。
ところでhashidaさんが, 気仙沼が近い仙台なのに、東京の方が安いのは何故でしょうね、と書いていますが、そこに現在の経済システムの問題があるように思います。
気仙沼で遠洋漁業をやっている臼福本店の臼井壮太朗さんから前に聞いた話ですが、気仙沼で撮れる魚を地元の小学校で給食に使っていないのに違和感を持って、働きかけて給食で食べるようになったそうです。
その話を聞いて、私は一度しか会ったことのない臼井さんのファンになりました。
地産地消の出発点は、こどもたちにきちんと地のものを食べる文化を取り戻すことです。
一番良いものは、その地域を背負う子どもたちに食べてもらうべきで、赤坂の料亭に卸すような不埒なことは、たとえ金のため出世のため、あるいは地域活性化や地域のブランディングのためになろうとも、やってはいけません。
■2日間、悩み続けています(2019年11月1日)
東京か札幌か、英語の試験制度は導入すべきかどうか、など世間は現場知らずの人たちによって振り回されていますが、私のこの2日間の関心はまったく別のところにあります。
私が、この2日間、いくら考えてもわからないのは郵便局員による切手不正換金問題です。
「料金別納」郵便の支払いで使われた切手を、廃棄せずに金券ショップで換金したという事件です。
2人で行ったというその額がなんと5億円以上というのには驚きましたが、私の悩みは、これによって「損をした人」は誰なのかということです。
要は、廃棄すべき切手を勝手に換金したら5億円になったということですから、ごみの再利用とも考えられます。
まあいくらでも「おかしい点」は指摘できますが、しかし、これによって「損害」を受けた人が見当たりません。
もし受けたとしたら、その行為によって懲戒解雇になった2人の郵便局員ではないかとさえ思えます。
実に悩ましい問題です。
さらにこれによって、世間的には流動性が増加し、経済成長にも寄与したでしょう。
黒田日銀総裁の手助けにもなっているかもしれません。
2人の郵便局員は賞賛されてもいいかもしれません。
なにしろゴミから5億円を生み出したのですから。
まあやり方や生み出したお金の使い方には少し問題があったような気もしますが。
でもそれで、何か社会に実害を与えたわけでもありません。
どなたかこのことで生じた損害についてご教示いただけないでしょうか。
この2日間、この答えが気になって、ずっと考え続けていましたが、救いを求めることにしました。
よろしくお願いします。
ちなみに、こうしたことが起こったのは制度が悪いと思いますが、そういう話にはあまり関心がありません。
制度には必ず欠陥はつきものですから、それはまた別の問題ですので。
■第3回リンカーンクラブ研究会報告(2019年11月5日)
第3回研究会は「代議制と選挙」をテーマにしましたが、前回武田さんから提案された「選挙で投票に行くと一人1万円もらえるという制度」が議論の中心になりました。
まず参加者10人それぞれからこの制度への感想を発表し合いました。
絶賛する私ほどではないとしても、良い制度だという人の方が多かったですが、明らかな反対者も2人いました。
それもかなり厳しい反対で、「金権政治」ではないか、お金で投票を誘うのは「下品」ではないかとさえいう人もいました。
厳しい反対が出るのは良いことで、おかげでより議論が深められます。
結論的に最後はみんな納得しました。
なかにはちょっとしぶしぶ感のある人もいましたが、今様に「合意なき決定」ということで、この制度はリンカーンクラブの基本方針の一つになったと思います。
ただし、その趣旨をきちんと説明しないと誤解される、という注意事項が付きましたが。
政治を大きく「権力政治」と「参加政治」に分ける考え方があります。
現在の日本の代議制の政治は、民主主義と言われていますが、要するに権力政治の一つです。
ルソーも、選挙の時しか民主主義が実現されない代議制が権力指向型の政治になっていくこと危惧していました。
リンカーンクラブは、その点を重視し、武田さんは以前から代議制民主主義は民主主義に非ずと主張してきています。
日本でも50年ほど前に「参加民主主義」が話題になりましたが、当時出版されたR.J.プランジャーの「現代政治における権力と参加」(勁草書房)にこんなことが書かれています(カッコ内は私の注記です)。
(公務に関しての)高い地位は政治機構の中で有力な人々、すなわちある特別な地位を認められている公職者(政治家)と非公式な集団(官僚)とによって占められており、より低い地位にあっては普通の市民が義務(公務)を果たしている。
この政治的義務のもっとも低い等級については、そこで遂行される仕事を公共的なものであると考えることはまずおそらくないであろうから、現代の政治文化では政治と権力とが同一視されてしまう。
権力指向型の政治が注意を独占しているところではたいていそうなのだが、人々は、もはや市民を社会に認められた公務担当者としてはまったく考えなくなっている。だが市民性とは公的な地位のことであるし、市民とは公務担当者のはずなのだが。
以上が参加民主主義の基本にある考え方の一つです。
つまり、私たち市民にとって、選挙の時に投票に行くのは、主権者としての義務、つまり公務なのです。
にもかかわらず、選挙の立会人は公務として給与をもらうのに、肝心の投票に行く市民は無償なのです。
なかには時給や生業仕事を犠牲にして投票に行かなくてはいけない人もいるでしょう。
投票に行くというのは代表を選ぶとても大事な活動です。
公務としていかに重要かは少し考えればわかることです。
プランジャーが書いているような、「もっとも低い等級の政治的義務(公務)」ではありません。
ですから投票行為に1万円を支給するのは、国家を維持していくためにはきわめて理にかなっています。
というか、政治や選挙投票の捉え方につながってくる問題です。
そして、いわゆる「金権政治」とは真逆なものであることがわかるでしょう。
サロンでは、こうしたことをもう少し具体的な話も含めて意見を出し合いました。
これは「公務」をどうとらえるかともつながってきます。
日本では「公共性」とか「公務」がきちんと整理されていないと私は思っています。
そもそも「公共性」などという言葉は実にあいまいな矛盾した言葉だと思いますが(「新しい公共」などというばかげた言葉までありますが)、そこまで行くといささかまた長くなりそうなので、いつかまたサロンをしたいと思います。
ちょっと偏った報告ですみません。
しかし、「投票という公務に1万円を支給する」制度の意味はとても深いです。
サロンでは、この制度を軸にした政治への関心を育てる仕組みなどの提案もありました。
これで一つの政党ができるという人までいました。
いずれにしろこの制度はもう少し内容を整理して、社会にも呼び掛けていこうということになりました。
参加されていない方にはうまく伝わらないかもしれませんが、関心のある人はぜひリンカーンクラブ研究会に参加してください。
たぶん時々話題になっていくはずです。
次回は12月7日。
テーマは「報道と選挙、そして報道権」です。
話題提供は坪田さんと武田さんです。
これまた大きなテーマですので、できるだけとんがった議論にしていければと思っています。
報道に関わっている方の参加を期待しています。
■「怒らなくなったら人間は堕落します」(2019年11月5日)
松原泰道さんが参加したフォーラムの進行役を務めさせてもらったことがあります。
もう15年以上前の話です。
「腹が立たなかったら人間は堕落します」とは、その松原さんのことばです。
その話をされる時、松原さんは白隠禅師の有名なエピソードを紹介します。
いつもにこにこしている白隠禅師に、ある人が「腹が立つことはないのですか」と訊いたそうです。そうしたら、「人形じゃないから腹は立つよ」と白隠禅師は答え、そしてつづけたそうです。「腹は立つけど怒らんだけだ」と。
そして、松原さんはこういうのです。
「腹が立たなかったら人間は堕落する。たとえば社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落するでしょう。ただ、そのときに感情のままにキレて怒ってしまうか、あるいは教え諭すべきか、それを考えることが大事だ」と。
これは、松原さんと五木寛之さんの対談に出ている話です。
オリンピックのマラソンが札幌で行われることになりました。
だれかが怒らないのだろうかと思っていましたが、さすがにみんな大人なのか、怒りません。
小池都知事はかなり怒っていたような気もしますが、いささかショー的でした。
今日の陸連の記者会見でマラソン関係者は腹を立てているのがよくわかりました。
しかし結局はみんなものわかりがいいのにいささか失望しました。
そして、松原さんのこの話を思い出して、本を探しだして読み直してみました。
松原さんが否定しているのは、「キレて怒ってしまうこと」です。
しかも「社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落する」とも書いています。
そして改めて、社会は堕落に向かっているなと思いました。
腹を立てたら冷静に怒らなければいけません。
そうでないと人間は堕落し、社会も堕落する。
松原さんはもう亡くなっていますが、この文章は、「怒らなくなったら人間は堕落します」と直すべきではないかと思います。
松原さんも、いつもにこにこしている人だったように思います。
幸せな時代に、幸せな環境で生きていたのでしょう。
■CWSサロン「網野史観から考える現代日本の〈別の選択肢〉」報告(2019年11月6日)
蔵原大さん(東京国際工科専門職大学講師)を講師にした「網野史観」ゼミ型サロンは、蔵原さんのリズミカルで小気味よい話で、とても気持ちの良いサロンでした。
あまり的確な表現ではないでしょうが、蔵原さんという芸能の民の周りに多彩な人が集まった河原場サロンを感じました。
あらかじめ蔵原さんは参加申込者に「網野史観とは何か」「網野史観はなぜ広まったのか」を簡潔にまとめたレジメを配ってくれていましたので、それを踏まえて、最初に網野史観の要点を蔵原流に簡潔に紹介してくれました。
その後、時々脱線しながら、質疑応答のスタイルで、参加者が知りたいことを起点に話を広げてくれました。
しかし、どんな問いかけにも、即座に蔵原さんは肯定的に応えるので、ついつい蔵原世界に引き込まれてしまうようなサロンでした。
「非人」「無縁」「苦界」「アジール」」「悪党」などの網野史観を象徴する概念に関しても、わかりやすく解説してくれました。
ところで今回のサロンのテーマは、現代日本の〈別の選択肢〉です。
蔵原さんの話も、このテーマを基軸に進められました。
蔵原さんによれば、網野史観は「見方をひっくり返して考えること」を示唆しています。
見方をひっくり返したら、どんな選択肢が見えてくるか。
その一例として、蔵原さんは日本列島周辺の地図をひっくり返した地図を見せてくれました。それだけでいろんな気付きが得られます。
空間だけではありません。
過去への見方(常識・偏見)を変えると未来の別の選択が見えてくる。
そうした時空間の常識的な捉え方(偏見)の呪縛から解放されると世界は広がり発想も変わっていく。
「日本人は〇〇〇だ」という意識から自由になれば、いろんな選択肢を持った未来が見えてくる、と蔵原さんは言います。
そしてオーウェルの小説「1984年」を持ち出して、歴史教育こそ支配のかなめだと言い、過去への偏見(常識)を決めるものが、私たちの未来の〈選択〉を支配するというのです。
未来を左右するのは、過去をどう見るかによって決まってくるというわけです。
網野さんは、いまの日本に深くつながる中世の見方を一変させました。
そこからどんな未来の可能性が見えてきたか。
現在の権威に拠って生きている人たちには危険な考えですが、未来に生きようとしている人たちには大切な考えです。
歴史の見方を変えることで、私たち日本の「選択肢」を自由に議論することができるようになり、未来は変わっていく。
そして、それが今の社会そのものを問い直す契機になればというのが網野史観を踏まえての蔵原さんのメッセージだったと思います。
今回はいわばそのキックオフでした。
網野さんが主張した中世の日本の見方を参照したうえで、学校で叩き込まれた歴史を問い直し、自らの「常識(偏見)」から自由になって、いまの日本社会の見方を問い直し、どんな未来が見えてくるのかを考える。
今度はそこに焦点を当てたサロンを開きたくなりました。
蔵原さんに、網野史観パート2をお願いしようと思っています。
まだ蔵原さんには話してはいないのですが、まあ1回で終わるのはもったいないと思うサロンでした。
網野史観の内容に関しての報告は省略しましたが、蔵原さんは網野さんの書籍をたくさん持参して、紹介してくれました。
もし網野史観に関心のある人は、蔵原さんに訊けば、関心にあった網野さんの本を紹介してくれると思います。
たぶん、ですが。
■我孫子市の市議会議員選挙における私の投票方針(2019年11月6日)
来週から私が住んでいる我孫子市の市議会議員選挙が始まります。
そのおかげで、毎日のように自宅のポストに立候補予定者のチラシが入ります。
今日も外出から帰宅したら、ちょうどポスティングしていた立候補予定者に会いました。
私の知らない現職の人でした。
選挙の直前になってやってきても、まったく意味もないし、チラシなど無駄の極めです。
直接会いに来る人も少なくありません。
知り合いも何人かいますので、誰かに荷担するのも難しいので、市議選は態度をあいまいにしています。
事務所開きにもお誘いを受けても行きません。
しかし明確な方針は2つあります。
まずは国政の政党の支援を受けている人は絶対に私は投票しません。
これまでもせっかく応援していたのに、結局は国政政党に入ったために支援をやめたこともあります。
日本の基礎自治体の議員制度は、私にはまったくおかしく思えます。
一昨日、「行動する田舎」というフランスで行われたシンポジウムに参加した金子友子さんからフランスの基礎自治体の議員や市町の話を聞きましたが、報酬にしても議会のあり方にしても日本は実に異様です。
まして、そこに国政政党にぶら下がった人(というよりも手先でしかありません)が立候補するなどは私には論外です。
もう少し基礎自治体とは何かを勉強しろと言いたいです。
しかし、国家政党につながれば選挙は非常に有利になるのです。
今回の我孫子の市議選には、N国党からの立候補もあります。
とんでもない話だと思いますが、隣の柏市では当選してしまいました。
市民の意識もおかしくなっているともいえますが、しかしそれも市会議員があまりに何もしていないからでしょう。
市議会や市会議員がどんな状況になっているのかの証左でもあります。
もう一つの私の投票方針は、選挙の時だけ挨拶にやってくる人は除外するということです。
そういう人は当選した後、音信不通になりがちです。
選挙とは関係ない期間には、メールを送っても、何の返信もない人も少なくありません。
その2つの基準を外すと、今回の投票対象者は2人しかいません。
そうなると、1票ではなく2票欲しい気がします。
さて悩ましい問題です。
■首里城は琉球の地霊が火を放ったような気がします(2019年11月7日)
首里城はなぜあんなにはやく火が広がったのでしょうか。
首里城が燃える様子をテレビで何回も見ました。
炎の中に神を見たなどというと不謹慎だと言われそうですが、何度見ても、「怒り」が見えてしまうのです。
あれは「放火」に違いない。
火を放ったのは、人ではなく、琉球の神様です。
いや、琉球を守る地霊と言ったほうがいいでしょうか。
沖縄の地霊たちは怒っているに違いない。
ずっとそう思っています。
その怒りは、私たち「ヤマトンチュウ」に向けられている。
いや、全世界にかもしれません。
首里城は燃えることによって、大きな動きを引き起こしつつあります。
沖縄の人たちは、改めてつながりを深め、広げていくでしょう。
琉球の地霊は、怒るだけではなく、大きな歴史を起こしつつある。
そういえば、ノートルダム寺院の火事も、そうなのかもしれません。
地霊が怒りだした。
地球が怒りだした。
ひたすら身を正すしかありません。
■BMSサロン「大型台風経験で思ったこと」報告(2019年11月8日)
11月のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)は「大型台風経験で思ったこと」がテーマでした。
今回の台風のように、身近な災害を体験すると、国家の大切さや必要性への認識と同時に、現在の政治の問題点が見えてきます。
そしてそれこそが、国民の政治への関心を高める契機になると思っています。
政治は私たちの日々の生活の安全と安心に深くつながっているはずです。
テーマが生活に直結していることもあって、女性の参加連絡が多かったのですが、当日になって急に参加できなくなった人が多く、結果的にはやはり男性中心のサロンになってしまいました。
参加者も少なかったので、テーマから外れる話も多かったのですが、生活を語ることは政治を語ることでもあるというBMSサロンの趣旨に沿って、それも良しということにしました。
参加者は5人だったのですが、このくらいの人数だとゆっくり話せます。
ちょっと脱線が多かったですが。
テーマに関しては、次の2点が合意されたように思います。
まず、国民の「自己責任」を強調している現在の政府には、地球温暖化によって増えるだろう自然災害から国民の生活を守る政治はあまり期待できない、という諦め。
私はそれに加えて、みんなが「自己責任」などというのではなく、政府依存ではない、コミュニティ単位の「生活力」を高めるべきではないかと思います。
つまり、人のつながりを育てていくことです。
社会にとっての大切な資源(ソーシャル・キャピタル)は「人と人との信頼関係」という考え方が一時期、日本でも言われたことがありますが、実態はそれとは逆に「自己責任論」がまた戻ってきたように思います。
ソーシャル・キャピタルの視点から、社会のありようを考えることの大切さを、今回改めて実感しました。
そこで、年末か年始に「ソーシャル・キャピタル」をテーマにしたサロンを企画することにしました。
もうひとつは、自衛隊の日常的な主要任務を「戦争出動」ではなく「災害救助・復興支援」にしていくのがいい、ということ。
古代に大型古墳を造営したのは、そのために結集させられた多人数の集団は、有事には武器をもたせて戦闘集団に変えることができることが関係していたのではないか、と考古学者がある本に書いていました。
非常時には自衛戦争に立ち向かうとしても、日常的には災害防止や被災者救済を主目的にする組織に自衛隊を改組するというのは、こういう視点からも理にかなっています。
そうすれば、自衛隊も憲法に合致した存在になるでしょう。
「自衛」の対象は「他国」という時代は終わったように思います。
BMSサロンはこれからも続けます。
こんなテーマでサロンしたいという方がいたら、ご連絡ください。
■「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません(2019年11月12日)
私が住んでいる我孫子市はいま市議選の最中です。
昨日、帰宅時に我孫子駅でNHKから国民を守る党が選挙運動をやっていました。
黄色いジャンパーを着た若者たちがチラシを配っていました。
私はアニメの「ミニオン」が大好きで、黄色い服を着た集団が好きだったのですが、昨日から黄色い服を着た集団が嫌いになりました。
駅から自宅への道々、なんだか悲しい気分になり、暗い夜を過ごしました。
どうしたこんなかわいそうな若者たちが増えているのでしょうか。
香港の若者のように、ビジョンを持って立ち向かえないのか。
若者たちがもはや主体性を持たなくなってしまった時代になってしまったのだろうか。
N国党が目指しているのは国民からNHKを守ることではないかと私は思っていますが、なにやら「自民党をぶっ潰す」といって自民党を守った小泉さんを思い出します。
小泉政権から日本は奈落の底へと向かいだしていると思っている私は、こういう動きがますます広がることの先を思うと暗たんたる思いになります。
これから「朝日新聞から国民を守る党」や「共産党から国民を守る党」など、「〇〇から国民を守る党」といった群れが増えてくのでしょうか。
そのうち、「先生から子どもたちを守る党」とか「親から子どもを守る党」も出てくるかもしれません。
「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません。
そして「守る」姿勢で生きている先にあるのは、守れなかった世界しかないでしょう。
まさに「茶色の朝」がやってくる。
そう思うと黄色も茶色も似ています。
「NHKから国民を守る党から国民を守る党」をつくらないといけないのかもしれませんが、それではミイラ取りがミイラになってしまい、もはや流れは変えられなくなる。
知性がどんどん失われていく世界に生きていると、やはり人類は退化局面に入ったとしか思えません。
今西錦司さんやミシェル・フーコーのことばを思い出さずにはいられません。
12月の「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)は22日(日曜日)を予定しています。
また案内させていただきます。
社会を黄色、いや茶色一色にしないように、忙しい人にはぜひ参加してほしいです。
■第4回リンカーンクラブ研究会のご案内(2019年11月13日)
第4回リンカーンクラブ研究会のご案内です。
今回は、「政治と報道」をテーマに選びました。
報道と政治の関係は、時代によって大きく違いますが、昨今の日本の報道機関は、主体性を持って政治に対峙するどころか。政権の傘下に組み込まれてしまい、政府広報的な存在になっているのではないかという意見さえあります。
政治にとって「報道」とは何か、を改めて考えるとともに、さまざまなメディアをどう位置づけていけばいいかも考えたいと思います。
長年、報道の世界にいた坪田さん(元日経記者)に「報道と政治」のキースピーチを20〜30分話してもらった後、究極的民主主義の視点からの「報道権」について武田さんに10分ほど話してもらい、そこから話し合いに入りたいと思います。
できれば、主権者として報道にどう立ち向かえばいいか、あるいは主権者の視点に立ったメディアをつくれないかなどといった実践的なアイデア出しもできればと思います。
初めての方も気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2019年12月8日(日曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「政治と報道」
〇話題提供者:坪田知己さん(元日経記者・現物書き)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■市町村選挙は自分たちの住んでいる町の未来を考える機会です(2019年11月13日)
私が住んでいる我孫子市ではいま市議会議員選挙が行われています。
選挙になると、普段は音信不通の議員からも連絡があったり、あるいはチラシが投函されたりします。
チラシには公約が書かれていますが、何か空しい言葉の羅列にしか見えません。
私がいつも知りたいのは、この我孫子をどんなまちづくりにしたいと思っているのかですが、それが見えてこない。
そこで、公示日の前日、あることを思いついて、知り合いの立候補者の数名に次のようなメールをしました。
突然のことなので、選挙期間中には無理かとは思いますが、どんな我孫子を目指すのかを話し合うかをテーマにしたミニフォーラムを事務所で開いたらどうでしょうか。
顔見知りの、そしてかつて応援したこともある6人に絞りました。
一人からすぐ、同じようなことを考えているという返信がありました。
また今日、別の立候補者から、事務所開きの日にそれをやったとお聞きしました。
うれしい話です。
もちろん私が提案したからということではありません。
ご本人たちも、それが必要だと考えていたのだと思います。
市議選が終わったら、我孫子の政治を考えるようなサロンを定期的に開くような場を考えたいと思います。
■核時代に懸ける人類生存の橋(2019年11月18日)
いよいよ来週、ローマ法王が来日し、広島と長崎を訪問します。
人類が生存の危機に直面している核時代にあって、世界唯一の被爆地から法王がどのような発信をするかは、まさに未来の方向を決めていく大きな意味を持っています。
私たちも、ローマ法王の来日を一過性のイベントで終わらせることなく、これを機会に、これまでのように核被害の「受忍」にとどまることなく、きちんと歴史に向き合い、法王と共に、人類生存の橋を懸ける行動を起こさなければいけないのではないか、という本間照光さん(青山学院大学名誉教授)の提案で、先日湯島でサロン「核時代に懸ける人類生存の橋」を行いましたが、もっと広く多くの人に呼びかける必要を感じて、改めて本間さんの呼びかけを収録して公開することにしました。
まずはその要約版をご覧ください。
https://youtu.be/UeqlOlpSYGg
お時間の許す方はもう少し詳しい本編をご覧ください。
http://isc-creative.com/tmp/cws/thomma201911/
本間さんに呼びかけに応えて、「核時代に懸ける人類生存の橋」をテーマにみんなで話しあえるような場や公開フォーラムも企画していきたいと考えています。
しかし、まずは多くの人に本間さんの呼びかけをお聞きいただきたいと思います。
まわりの人にもぜひご案内いただき、この記事も拡散してもらえればと思います。
本間さんのアピールを拡散することにご協力いただけるTwitter利用者の方にはお願いがあります。
Twitterのハッシュタグ検索またはGoogle検索で、
ローマ法王 本間照光
と検索していただきたいのです。
さらには、そうやって発見したツイートをリツイートしていただきたいと考えています。
■CWSサロン「コミュニティについて考えてみませんか?−アジアをめぐる旅から感じたこと」報告(2019年11月20日)
湯島のサロンの大きなテーマである「コミュニティ」についての話し合いを呼びかけた上田さんのサロンには10人が参加しました。
上田さんは8年ほど前にビジネスの世界から早期引退され、以来、それまでとは全く違ったテーマを持って、アジアの伝統社会をめぐる旅をつづけてきています。
今回は、アジアの伝統社会での住民たちとの暮らしで感じたことをもとに、私たちの生き方を起点に置いたコミュニティについて問題提起してくれました。
コミュニティを考えることは、私たちの根源的な思いや価値観を問い質すと同時に、日々の生活に直接かかわることであると上田さんは言います。
しかし、「コミュニティ」は簡単に共通の定義が見つかるテーマではありません。
それに、人によって「コミュニティ」の捉え方もさまざまです。
そこで上田さんは、アジアの伝統社会と日本の現代社会を行き交いながら感じた自らの「コミュニティ」体験を踏まえて、コミュニティに関連したさまざまな視点を紹介してくれました。
現在上田さんが一番共感できるコミュニティの定義は「帰ってゆきたい場所」です。
そこでは、家族のように生きている安心感があり、好き嫌いが重要ではない世界があると上田さんは言います。
アジアの辺境の集落に行くと、好き嫌いにとらわれることなく、みんなが家族のように生きている安心感を上田さんは感ずるそうです。
だからこそ、上田さんは繰り返し、そういう集落を訪ねているのでしょう。
そうした中で暮らしていると、人間ばかりか、自然、さらには霊との関係の中で、自分が生きていることを感ずるそうです。
そうした関係は、日本にいると「わずらわしさ」につながっていくのに、そこではむしろ喜びにつながっていく。
それは、自らの居場所が与えられることでもある。
そこには、自分だけが幸せになるのではなく、みんなが幸せになる世界がある。
上田さんは、そうした「関係の中で生きる夢のような時代」が、子供のころ(昭和30年代)には日本にもあったと言います。
そうした実体験を踏まえて、上田さんは、エーリッヒ・フロムが「生きるということ」で提唱した「to have」 と「to be」という2つの人の存在様式や、「中心と周辺」、「間主観性」、さらには「災害ユートピア」、そして「交響圏とルール圏」、あるいはインドのラダック地方をモデルに一時期話題になった「懐かしい未来」などの話を紹介しながら、コミュニティを考えるさまざまな視点を提出してくれました。
「家族」や「風土(関係の世界)」にも言及されましたが、それらの根底に上田さんは「愛」を見ているようです。
最後に上田さんは、自分にとってのコミュニティとして2つの要件をあげました。
それは、「みんなが関係する歓びが満たされている家族になってゆくこと」と「人だけではなく自然、霊との関係の世界(風土)をもつこと」です。
これが、自らの体験からでてきた上田さんの現在のコミュニティ観のようです。
そこから話し合いが始まりました。
「所有と関係性」「完結したコミュニティと開かれたコミュニティ」「日常と非日常における人間の関係性の変化」「地域社会のコミュニティと企業のコミュニティ」などさまざまな視点での話し合いがありました。
「家族とは何か」は、よく湯島でも話題になりますが、今回も話題になりました。
「開かれたコミュニティと完結するコミュニティ」も少し話題になりました。
被災地や巡礼で「コミュニティ」を実感した人も数名参加していましたので、そこでの体験話もでましたが、ちょうど一週間前にサンティアゴ巡礼から帰国した鈴木さんから、巡礼でいつも体験することも、ユートピ体験やコミュニティにつながるという話がありました。
コミュニティを切り口にすると、いろんなことが感覚的に見えてくるような気がします。
ユートピアもディストピアも、コミュニティの裏表かもしれません。
今回は表面(プラス面)からだけの議論でしたが、コミュニティの裏面も話し合いたくなりました。
上田さんは、最後に、「コミュニティ(コミューン)」をテーマに、継続的に話し合い行動する仲間と場をもちたいと呼びかけました。
湯島のサロンでも同じことを考えていたので、私は早速その呼びかけに応ずることにしました。
湯島サロンでは、12月に、今回も参加してくれた杉原さんの「時間意識と自殺予防?都市でのつながりをどうつくるか」を予定していますが、来年はじめには「ソーシャル・キャピタル」のサロンも企画中です。
また上田さんと相談して、研究会的なものも実現できればと思います。
関心のある人はぜひご参加ください。
■CWSサロン「日本国憲法の制定経過」報告(2019年11月21日)
弁護士の秦悟志さんに、日本国憲法の制定経過をお話しいただくサロンは平日の夜でしたが、9人が参加。
ほぼ半分が若い世代の男女でした。
私はそれだけでもサロンをやってよかったと思いました。
サロンにも書きましたが、「押しつけ憲法」論が横行しがちですが、現行憲法の制定経過をもっときちんと把握する必要があるというのが秦さんの思いです。
秦さんは10頁にわたる詳細な年表を作成してきてくれて、それに沿ってていねいに日本国憲法の制定経過を説明してくれました。
それも単なる年表ではなく、そこに関連情報が的確に整理されて要約されています。
当時の日本の政府関係者や学者、あるいはオピニオンリーダーや国民の意識状況や情報環境もかなりしっかりと読みとれる年表です。
この年表をきちんと読めば、憲法が押し付けられたなどとはそう簡単には言えなくなるでしょう。
資料の最後に、現行憲法の99条(憲法尊重擁護義務)とその自民党憲法改正草案の102条の条文が紹介されていました。
ここに私は秦さんの思いが込められているように感じました。
秦さんのお話を要約することはできませんが、私は2つのことを改めて知りました。
ひとつは、鈴木安蔵さんたち憲法研究会の憲法草案要綱が1945年12月に日本政府とGHQにしっかりと届けられていたことです。
憲法研究会の憲法草案要綱はとても共感できることが多く、それがまさかGHQに正式に届いていたとは知りませんでした。
もう一つは、日本国憲法が国会によって可決され、公布された後、マッカーサーから吉田首相宛に、日本人民が憲法改正を必要と考えるならば、憲法施行後の初年度と2年度の間に国民投票の実施が必要だろうと伝えていたということです。
しかし当時の政治家からは憲法改正の声は上がらず、憲法再検討問題は立ち消えになったそうです。
こうした事情を踏まえて考えれば、「誰が」「誰に」押し付けたのかも違ったように見えてきます。
話し合いもいろいろと行われましたが、それをまとめるのは難しいので、一点だけ私が特に重要だと思うことを書かせてもらいます。
まず、これは話し合いも行われたのですが、憲法はだれに向けたものなのか、平たく言えば、憲法は誰を規制するルールなのか、という問題です。
私たちの世代は、憲法は権力者(政府)を規制するものであると教えられてきました。
ですから湯島のサロンでも、そういう思いで憲法を語る人が少なくありません。
しかし、もしそうであれば、憲法で規定するべき義務は統治者の義務であるべきですが、日本国憲法には、就業の義務、教育の義務という国民の義務も明記されています。
この矛盾を説明するために、たとえば就業や教育の義務は「法的義務」ではなく「道徳的義務」だというようなおかしな説明が行われてきています。
憲法には、ほかに「納税の義務」と「憲法尊重擁護義務」(99条)という2つの義務規定がありますが、この2つは「法的義務」だとされています。
同じ法律の中に意味が違う同じ言葉があることは、少しでも法律を学んだ人ならおかしいと思うはずですが(それでは法治主義が成り立ちません)、日本の憲法学者や法律学者はそう思っていないようです。
そこに日本の法学および法学者の本質が象徴されているように思います。
日本国憲法には、統治者(政府)あてのものと、被治者(国民)あてのものが混在しているのです。
決して政府だけを規制しているわけではありません。
そして、そこにこそ、日本国憲法がGHQ主導でつくられた制定過程と無縁ではない問題があると思います。
現行憲法の制定過程をしっかりと学ぶことで、現行憲法の問題が見えてくるのです。
秦さんは最後に、大切なのは「立法事実」だと言いました。
立法事実とは、その法律の必要性を支えている事実です。
押し付けられたかどうかよりも、そうした立法事実や法の目的こそが大切です。
そうした点をおろそかにしてしまうと、今度は政府からの押しつけ憲法ができてしまいかねません。
秦さんが最後に2つの条文を紹介したことに、私はそうしたメッセージを感じました。
憲法は私たちの日常生活とは遠い存在と思いがちですが、決して遠い話ではありません。
多くの人に、憲法を読んでほしいと思います。
私たちの生活を支えているのは、憲法なのですから。
■CWSサロン「箸文化を考える−世界中に箸友をつくろう」のご案内(2019年11月25日)
国際箸学会という学会をご存知でしょうか。
箸文化を学び、新しい箸文化を創り、箸を通じて、世界中の人と<出会いの喜び><創造の喜び><達成の喜び>をわかちあうことを目的として、2006年に発足した、ちょっと変わった学会です。
学会ですので、アカデミックな研究や箸文化に関する啓発活動にも取り組んでいますが、箸をつかったゲームを開発し、それを活かした社会活動や国際交流活動も行っています。
https://kokusai-hashi.org/index.html
その創案者の小宮山さんに来ていただいて、箸文化を語ってもらうとともに、箸学会が行っている活動やビジョンなどを紹介してもらおうと思います。
箸は食にもつながり、世界中の人たちをつなぐ道具でもあります。
小宮山さんは、この活動を通して世界中に「箸友」をつくっていこうと呼びかけています。
もし共感してくださった方はぜひ箸学会への入会もお願いしたいと思っています。
箸学会は毎月のサロンのほか、講演会などさまざまな活動を行っています。
湯島ではこれまで何回か、箸ゲームの体験サロンも行ってきていますが、今回は箸文化を話し合うのが主目的です。
もっとも小宮山さんのことですから、たぶん箸ゲーム体験もあると思いますが、箸ゲームもどんどん進化していますので、楽しんでもらえると思います。
年の瀬も迫ったご多用の時期とは思いますが、だからこそちょっと息抜きも兼ねて、箸文化を語り合い、箸ゲームを楽しむサロンを楽しんでもらえればと思います。
〇日時:2020年12月22日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:小宮山栄さん(国際箸学会会長)
〇テーマ:「箸文化を考える」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
■CWSサロン「ローマ法王来日で思ったことを話し合いませんか」のご案内(2019年11月26日)
長崎、広島、そして東京でのミサを終えて、ローマ法王は帰国されました。
ローマ法王の来日に合わせて、湯島では10月に「核時代に懸ける人類生存の橋」をテーマにサロンを開催しました。
そして法王来日直前に、サロンで話をしてくれた本間さんのビデオメッセージを収録し、ユーチューブで発信しました。
https://www.youtube.com/watch?v=UeqlOlpSYGg&feature=youtu.be&fbclid=IwAR3MLjra-aHpFp52YPDXrczy1qevw0NZ_LrYXj0Ma9_y9ql2ALqEhZ93oII
おかげさまで大勢の人が見てくれました。
その時に、引き続き、みんなで「核時代における平和」をテーマにみんなで話しあえるような場や公開フォーラムをつくっていきたいと書きました。
この種の意識は時が過ぎると冷めてしまいます。
そうならないように、ローマ法王来日の記憶がまだ残っている間に、自由に感想などを話し合えたらと思います。
そこで、毎月開催している、「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)を12月は、それに代えさせてもらうことにしました。
最初に本間さんからのビデオメッセージの要約版を見て、それから自由に参加者での話し合いができればと思います。
と言っても、難しい話し合いを想定してはいません。
法王によるミサの様子や各地でのメッセージ、あるいはそうした報道を見て、何か気づいたことなどあれば、それを感想的に話し合えればと思います。
もしできれば、ちょっとだけ「宗教」についても話し合えればうれしいです。
来年は、少し「宗教」や「信仰」についてサロンでとりあげられないかと考えています。
思い立ったら実行に移すのが私の信条でもあります。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思います。
急なご案内ですが、よろしくお願いいたします。
〇日時:2019年12月7日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ローマ法王来日で思ったことを話し合いませんか」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■CWSサロン「小学生の過ごし方が大人なった時に与える影響」報告(2019年11月26日)
テーマの関係か、いつもと違って女性中心のサロンになりました。
しかも孫世代に関わっている女性が多かったです。
こういうところにも、いまの日本社会の現実が読み取れます。
かわさきさんは、なぜ学童保育活動に取り組むようになったかを話した後、子供を取り巻く現在の社会環境や子育てに関する最近の動きなどを紹介してくれました。
それを踏まえて、かわさきさんが主宰している「学童・子ども教室 まあはす」の活動について、具体的に紹介してくれました。
かわさきさんは、小学生の過ごし方が大人なった時に与える影響の大きさを知って、この活動に取り組みだしたそうです。
「まあはす」の基本理念は「体験に勝る学びなし」だそうです。
その理念のもとに4つの基本プログラムを展開しています。
「自然体験」「日本文化」「外国文化」そして「地域交流」です。
この4つの柱に、かわさきさんの思いが象徴されています。
他にもスペシャルプログラムがあり、年間でいえば、子どもたちのいろいろな関心事に合わせた100以上のさまざまなプロジェクトがあるそうです。
お話をお聞きしていて、いずれもかわさきさんのこれまでの多彩なキャリアを活かして体験的に開発されたプログラムであると感じました。
子ども視点での環境整備にも心がけていることもよくわかりました。
かわさきさんが、大事にしていることの一つが、子どもたちの「夢」です。
小学生の時期は、夢に向かって歩き始める時期でもありますから、かわさきさんはそれを大切にしているのです。
そして、子どもたちが持っている良さを引き出すのが、かわさきさんの仕事です。
子どもだからと妥協せずにできるだけ「ほんもの」と出合わせようとしている、かわさきさんの姿勢にも共感できます。
かわさきさんの話の後、みんなでの話し合いになりました。
今回は子どもに関わっている方も多く、参加者のお話も示唆に富むものばかりでした。
障害を持つ子どもたちに関わっている人も数名参加されていましたので、そういう話題も出ました。
「障害」をどう捉えるかの話もありましたが、立場によって、捉え方も微妙に違うことを知ることも大切だと、改めて思いました。
子どもの両親や家族の問題も出ました。
子育てにとって、家族や家庭の大切さですが、そこが分断されがちな今の子育て制度は考え直すべきではないかと私は思っていますが、みなさんの話を聞きして、改めてその重要さを確認できました。
制度に規制されることによる問題も話題になりました。
制度に合わせた子育てではなく、子ども視点での制度発想が必要だと思いました。
かわさきさんの取り組みの根底には、それがあると感じましたが、公の学校制度ではそれは難しいのでしょう。
食の話も少し出ました。
子育て(子育ち)や教育にとって、食ほど大切なものはないと思っている私は、食の問題にはもっと目を向けなければと思っています。
まだいろいろとあったと思いますが、このくらいで。
私が一番印象に残ったのは、かわさきさんが話した「渋柿の話」でした。
「まあはす」では自然体験を重視していますが、たとえば渋柿が渋いなどとは教えないそうです。
まずは渋柿を実際に食べて、渋さを自分で体験するように仕向けます。
そして、その渋柿を干し柿にしていくと甘くなることも、自分たちで体験的に実感させるそうです。
翌年、次の子どもたちが入会してくると、渋柿のことを体験的に知っている先輩の子どもたちは、後輩の彼らに渋柿を勧めて食べさせ、その反応を楽しむそうです。
そうやって体験の知が伝わっていく。
同時に、学びの面白さや知識の大切さ、あるいは人間関係のつくり方も自然と身に着けていく。
そういう学びは、最近の学校から消えてきているのではないかと思います。
この話に関連して、子どもたちのグループが世代割りになっていることも話題になりました。
最近はそういうことの見直しも始まり、世代を通したクラス編成や世代間の交流の仕組みづくりも始まっていますが、まだまだ基本構造は変わっていません。
しかし、人は同世代で生きているわけではなく、むしろ多世代交流で生きているのです。
我田引水ですが、湯島サロンのような多世代の話し合いの場が、もっと増えてほしいですし、子どもの育ちの場にももっと多世代の人たちが関わっていけるようになるといいなと思いました。
子ども関係のサロンは、今年はあまり開催しませんでしたが、来年は少し力を入れていこうと思います。
話したい方、ぜひご連絡ください。
■CWSサロン「次世代原発 小型モジュール型原子炉の可能性」報告(2019年11月27日)
次世代原子炉の一つとも言われている「小型モジュール型原子炉」についての学習型サロンは残念ながら5人の参加者しかありませんでした。
しかしそのおかげで、じっくりと学ぶことができるサロンになりました。
質疑応答が中心でしたので、学習型サロンの良さにも改めて気づきました。
技術士〔原子力・放射線部門〕である畑さんは、公開ベースの資料をたくさん用意してくれて、ていねいに解説してくれました。
参加者の多くは、かなり原子力発電に詳しい人たちでしたが、私のように知識がほとんどない人でもかなり理解できた気がします。
もちろん技術的な話だけではありません。
安全性の話やエネルギー自給の話もあり、社会のあり方や未来を展望した話も出ました。
私が知らなかったこともたくさんありました。
私の反原発姿勢はまだ変わりませんが、ちょっと見方が変わったことは事実です。
「知ること」で考えは変わるものです。
今回、私が感じたのは、技術要因と人間要因の関連性をもっときちんと捉えていかなくてはならないということです。
私のような右脳型の人間は、現場を見て感覚的に反原発になってしまい、肝心の技術要因への関心がどうしても弱くなります。それなりに科学技術に関しては勉強をしてきたつもりですが、原子力に関しては、書籍からの受け売りの知識がほとんどです。
受け売りの知識はすぐに揺れ動きますので、行動の基軸にはなりません。
それに、そもそも人が知りうる知識など、本当にわずかなものでしかありません。
いずれにしろ、次世代原子炉への動きは、世界的には進んでいるようです。
ただ反対するだけではなく、やはりきちんと動きをつかんでおかないといけないと改めて思いました。
話の内容を報告するだけの知識や評価力はありませんので、報告はできませんが、私には「学び」と「気づき」の多いサロンでした。
なお、畑さんは資料を何部か置いていってくれました。
関心のある人は湯島に来た時にお渡ししますので、ご連絡ください。
学習型サロンは来年から時々開こうと思います。
関心のあるテーマがあればご連絡ください。
先日、要請があった「宇宙のダークマター」問題も実現できるかもしれません。
■CWSサロン「時間意識と自殺予防?都市でのつながりをどうつくるか」のご案内(2019年11月28日)
11月から、改めて「コミュニティ」をテーマにしたサロン始めましたが、今回はその第2弾です。
今回の切り口は「時間」と「自殺」。
問題提起してくれる杉原学さんは、この2つのテーマに長年取り組んでいますが、今回はその2つの結節点の一つである「つながり」づくりに焦点を当てて話をしてくださいます。
これらのテーマは、人生の根源に関わる哲学的なテーマですが、同時にいまを生きる私たちにとってはとても現実的な課題でもあります。
杉原さんからのメッセージです。
日本の年間自殺者数は近年減少傾向にありますが、子どもや若者の自殺は増加しており、むしろ深刻化しているような気もします。そのような背景をふまえながら、僕たち一人ひとりにできる自殺予防を、時間論の視点も交えながら、みなさんと一緒に考えていけたらいいなーと思っています。
杉原さんは、時に悩める哲学者でもあり、時に楽しく生きる達人でもあります。
どんなお話が聞けるか楽しみです。
杉原さんの著作は次のサイトをご覧ください。
amzn.to/2HGdGf0
人生に悩んでいる、悩んでいない人、いずれも大歓迎です。
テーマは難しそうですが、やわらかなサロンになるでしょう。
つながりづくりの極意にも気づかせてもらえるかもしれません。
年末が迫った時期ですが、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年12月21日(土曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「時間意識と自殺予防?都市でのつながりをどう作ったらいいんすかね??」
○話題提供者:杉原学さん(高等遊民会議世話人・かがり火WEB共同主宰)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■「資本主義と闘った男−宇沢弘文と経済学の世界」(2019年11月27日)
「経済学者や政治哲学者の思想は、それらが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である」。
これはケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』の結び近くで放った警句だそうです。
とても納得できる言葉です。
私もまた、そうした意味では「奴隷」であることは間違いありません。
最近、改めてそのことに気づかされています。
この言葉に出合ったのは、今日、読み終えた「資本主義と闘った男−宇沢弘文と経済学の世界」です。
日経の経済部記者だった佐々木実さんが時間をかけて取材してきた大作です。
ずっと違和感を持っていたいくつかのことが少し納得できました。
たとえば、なぜ宇沢さんはシカゴ大学などにいたのか。
そしてなぜ日本に戻ってきたのか。
また、なぜアメリカではケインズ経済学が評価されないのか。
さらにどうして私が経済学が嫌いなのかも。
まあそれはそれとして、この本は実に面白いです。
政治と経済に関心をお持ちの方にお勧めします。
ちょっと厚いのが問題ですが。
宇沢さんが編著した社会的共通資本シリーズはほぼすべて読んでいますが、惜しむらくは、「報道」問題が取り上げられないままに宇沢さんが亡くなったことです。
できれば「社会的共通資本としての経済学」も書いてほしかったです。
■万葉集サロン番外編「万葉集や記紀の文字表記」のご案内(2019年12月1日)
万葉集サロンも今年5回開催し、升田さんの話も熱が入ってきました。
来年もまた隔月で開催していく予定ですが、5回を終わったところで、番外編を開くことにしました。
サロンでは毎回、いわゆる万葉仮名など、万葉集の文字表記が話題になります。
前回、升田さんはその関連の資料を用意してきてくれましたが、時間切れで、お話を聞くことができませんでした。
そこで、升田さんにお願いして、年末のお忙しい時ですが、番外編サロンを開催してもらうことにしました。
この年末年始に少し万葉集に関する本を読んでみようと思っている人もいると思いますので(とりあえず私がそうですが)、その前に万葉仮名について知っておくのがいいと思った次第です。
しかし、それだけではありません。
前回のサロンで升田さんが配布した資料がとても気になるのです。
資料だけ読んでも何のことかわかりませんか、なにかいろんな想像をかき立てられる言葉が書かれているのです。
文字の成り立ちは、人と人のコミュニケーションに大きな影響を与え、文化や社会のあり様を決めていきます。
そんなことも少しだけ意識しながら、升田さんに番外講義をしてもらいます。
万葉集サロンの常連のみなさんはもちろん、一度も出たこともない方も、ぜひご参加ください。
〇日時:2019年12月15日(日曜日)午後1時半〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「万葉集や記紀の文字表記」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■嘘を前提にして議論する社会(2019年12月4日)
国会では相変わらず「桜を見る会」での与野党のやり取りが続いています。
テレビでもその関連の話が話題になっています。
私がこの問題で驚いているのは、官邸や与党の反応ではありません。
みんなが「嘘」を前提に思考し議論していることです。
これは最近の風潮ですが、こうしたことが繰り返されると「嘘」という概念さえなくなっていくのではないかと気になります。
いやもうなくなってしまっているのかもしれません。
最初にこうした風潮をつくった小泉政権からもうかなり経ちますから。
「桜を見る会」問題での嘘は、たとえば、参加者名簿がないという嘘です。
本当にないと思っている人がいるのでしょうか。
手書きで名簿をつくる時代ならともかく、パソコンでデータ作成する時代に、プリントアウトした名簿をシュレッダーにかけることで名簿はなくなりません。
万一すべてのパソコンのデータを消去しても、復元は可能でしょう。
そういう時代に、相変わらず、紙媒体の名簿を廃棄したことで、名簿がないなどと騒いでいることの滑稽さをだれも指摘しない。
死かもつい最近、同じようなことを体験しているはずなのに。
アンデルセン童話の「裸の王様」を思い出します。
嘘を認めての野党の追及は時間の無駄でしかありません。
テレビのキャスターやコメンテーターもみんな、嘘の上に構築された問題の上で、政権に忖度しながら発言しています。
一人くらい「王様は裸だ!」と素直に発言する人はいないものでしょうか。
ばかげた国会論争やテレビ報道はやめてもらいたいものです。
「私人」と言われている首相夫人が招待者になっていることについてさえ、「私物化したと思われても仕方がない」などとバカなコメントをしています。
なんでもっと端的に「私物化だと思う」と言えないのか。
それはその人が多分テレビを「私物化」しているからでしょう。
腐ったリンゴはどんどん広がります。
私もまた腐っていくのは避けようがないのでしょう。
困ったものです。
■BMSサロン「ローマ法王来日で思ったことを話し合いませんか」報告(2019年12月8日)
ローマ法王の来日から10日ほどがたちましたが、このままだと忘れられてしまうのではないかと思い、湯島でのBMSサロンで法王来日で何を考えたのかの話し合いを持ちました。
参加者は私を入れて9人でした。
この活動を始めるきっかけになった本間さんも参加してくれました。
最初に、簡単にそれぞれの感想を話してもらい、話し合いになりました。
人それぞれで、いろいろな気付きをもらいました。
法王来日の報道記事をしっかりと読み込んで、そこから学んだことを紹介してくれる人もいましたし、いろんな気づきを私たちに与えてくれたという話もありました。
間違いなく、法王来日は日本に何かを残してくれました。
そればかりではなく、ローマ法王来日が決まって以来、いろんな人がいろんな活動に取り組んでいます。
たとえば、私の地元の我孫子市では毎年年末に平和の集いをやっていますが、今年はそこでモノオペラ「焼き場に立つ少年」を上演しました。
「焼き場に立つ少年」は、今回の法王来日で改めて注目された写真です。
サロンでは、実際にその集まりに参加した鈴木さんから紹介がありました。
こうした動きはたぶん日本各地で行われているのでしょう。
気をつけて報道に注意していれば、そうしたことに気づくでしょう。
本間さんの呼びかけもそうしたことの一つです。
しかし、にもかかわらず、法王来日はもう過去のニュースとして忘れられつつあるようにも思います。
来日前のさまざまな活動も個別で終わり、つながって大きな運動にならなかったことが残念です。
それはもしかしたら、やはりローマ法王来日はキリスト教世界のことと捉えている人が多いからかもしれません。
広島の友人が、こんなメールをくれました。
長崎・広島へローマ教皇が訪問され日本が『井の中の蛙』状態にあることを表明されたように私は受取りましたが、蛙の面に○○○○でしょうか。(*_*;
私もそんな気がしています。
話し合いではこんな意見も出ました。
戦争の時の核使用のヒロシマ、ナガサキと日常時の核事故のフクシマは違う。
法王が本当に核廃絶を願うならフクシマの現場にこそ行って、その現場映像を世界に発信してほしかった。
帰国時の飛行機の中での発言から、法王は日本に来て学んだと思う。しかし、私たちは学んだのだろうか。
20代の若者からは思いがけない発言がありました。
そもそもこの人(法王のこと)がおもしろくない(魅力を感じさせない)のであまり報道も見ていない。
アンデルセンの「裸の王様」を思い出しました。
若者にとっては、ローマ法王という言葉はなんの威力も発しないようでした。
いや逆にマイナスの価値しか持っていないのかもしれません。
核兵器と原子力発電は同じものかどうかの話も出ました。
「核時代」ということを私たちはもっと意識すべきだという本間さんの呼びかけを、私たちはしっかりと受け止めなければいけません。
このテーマは来年、改めて取り上げていきたいと思います。
私は3つのことを感じました。
まず失望です。
法王も政治の枠の中でしか動けなかったのではないか。
なぜ「首相に会いながら核兵器禁止条約」への署名を働きかけなかったのか。
なぜ袴田さんに会わなかったのか。
そして、仏教関係も含めて、宗教団体の動きがなかったことにも失望しました。
しかし一番失望したのは、報道の姿勢です。
2つ目は不安です。
法王を迎える人たちのあの熱狂ぶりです。
いまの時代の宗教とはなんだろうかと、改めて興味を持ちました。
3つ目は、やはり私には何の感動も起こらなかったということです。
フランシスコ法王はたしかに魅力的な人ですし、親しみを感じます。
その発言には共感もしました。
しかし、法王のスピーチを聞いても私の心身は動きませんでした。
シナリオに沿って演じているように思えてしまったのです。
であればこそ、法王のメッセージを受けとめて、できることをやっていかなくてはいけません。
そんなわけで、来年も時々、「核時代」や「宗教」を切り口に、こんな集まりを続けたいと思います。
引き続き参加いただけるとうれしいです。
本間さんの呼びかけメッセージを無駄にしたくはありませんから。
■CWSサロン「知識ゼロで挑む無門関」のお誘い(2019年12月9日)
湯島のサロンでは、来年、宗教や信仰を一つの軸として取り上げようと思いますが、その手始めに、「禅」の世界にちょっと触れるサロンを開催します。
とりあげるのは「無門関(むもんかん)」。
中国南宋時代の禅僧 無門慧開(えかい)によって編まれた仏教書で、門下の修行僧を悟りに導くために編まれた問題集(公案集)です。
私自身、それを題材にした禅師の法話記録を読んだだけですが、そのことをフェイスブックに書いたら、「無門関」を愛読している金子英之さんからコメントをもらいました。
聞けば、「無門関」でも有名な「百丈野狐」を7年かけて、独自のアプローチで読み解いたといいます。
これはもうサロンをお願いするしかないなと思い、無理を承知でお願いしたところ、うれしいことに快諾をいただきました。
気が変わらないうちにと、早速企画させてもらいました。
金子さんは、「無門関」をご存知ない人も、たとえば「百丈野狐」を読んでもらえれば、関心を持ってもらえるだろうと考えています。
そこで、「百丈野狐」を題材にして、そもそも「公案」とはなにか、から始まって、「無」とは何かに至る、「知識ゼロで挑む無門関」の2時間のサロンを開催することにしました。
いささか無謀な試みですが、なにしろ湯島のサロンですので、金子さんも承知してくださいました。
もっとも、「百丈野狐」を一読してなんだこれは?と思う人も多いでしょう。
ストーリーがちょっと錯綜しているので、金子さんは、事前に、「百丈野狐」がどういう話かはつかんでもらい、解決の方向性を当て推量でもいいので考えてきてほしいと希望されています。
古来、一般的には難問とされる公案なのですが、本文中にヒントは込められていますし、自分の人生体験とか人生の機微に触れる部分があればそこからいとも簡単に読み解けるとのこと。
「百丈野狐」を簡便につかみたい方は次のサイトをご覧ください。
ただしこれはあくまでも参照です。
https://k1s.hatenablog.com/entry/20120614
サロンでは岩波文庫の西村恵信訳註「無門関」をテキストにしますが、「百丈野狐」の部分をPDFで添付させてもらいました。
参加される方はあらかじめ読んでおいてください(当日もプリントアウトしてご持参ください)。
新しい年のはじめに当たって、ちょっとだけ「禅」の世界に触れて、自らの生き方もちょっとだけ問い直してみるのもいいでしょう。
難しいテーマですが、楽しいサロンになると思います。
どうぞ気楽にご参加ください。
〇日時:2020年1月13日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:金子英之さん(「無門関」永世愛読者/i2 associates代表 大学で東洋美術史を学んでからデザイナーをやっています)
〇テーマ:「知識ゼロで挑む無門関」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
■CWSサロン「5回目のサンティアゴ巡礼報告」のお誘い(2019年12月10日)
昨年最後のテーマサロンは、鈴木さんの巡礼サロンでした。
今年の秋、鈴木さんは5回目のサンティアゴ巡礼に行ってきました。
ルートは初めてのポルトガルの道の巡礼でした。
これまでとは違った体験をしてきたようです。
今年も、あわただしい年末の時間を、鈴木さんの巡礼サロンで過ごしたいと思います。
巡礼から戻ってから、鈴木さんは湯島での上田さんのサロン「コミュニティを考える」に参加されました。
鈴木さんは、上田さんのお話にとても共感するものを感じたようです。
聖地巡礼は人を自然とto beの世界へといざなうことに気づいたそうです。
巡礼ユートピアということも、その時に話していました。
そして今回、改めて、巡礼とミニマリズム(簡素な暮らし)は親和性があることを実感してきたようです。
ポルトガルでどんな体験をしてきたのか。
5回目のサンティアゴ巡礼のお話をお聞きしながら、私たちのたぶん忙しかった今年を少し振りかってみたいと思います。
できれば、巡礼報告に合わせて、鈴木さんのシンプルライフの話もちょっとお聞きできればと思っています。
みなさんの参加をお待ちします。
〇日時:2018年12月26日(木曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「5回目のサンティアゴ巡礼報告」
〇問題提起:鈴木章弘さん(巡礼者/ミニマリスト)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■今年の漢字は「怒」でしょう(2019年12月15日)
先日、今年の漢字が発表されました。
「令」でした。
社会の風潮を示しています。
それはそれとして、今年を漢字一文字で表すとすれば、私は「怒」です。
今年ほど、「怒」を感じた年はありません。
いささか感情的ですが、怒の矛先はすべてに向かっています。
もちろん自分にも、です。
怒りが行動を引き起こすとよく言われますが、高齢になると、怒りは行動ではなく、心筋梗塞や体調不良を起こします。
困ったものですが。
今年の漢字が「令」になったことを知って、「怒」は「諦」に転じました。
相変わらず「お上」の命令に従って生きることを選んでいるのです。
「諦め」は行動には通じませんが、心身の健康にはよさそうです。
健康に年を超せそうです。
いささか落ち込んではいますが。
■万葉集サロン番外編「万葉集や記紀の文字表記」報告(2019年12月17日)
「万葉仮名」をテーマに、万葉集サロン番外編のサロンを升田さんにしてもらいました。
14人もの参加者があり、話もとても広がりました。
そのため、長い報告になってしまいますが、お許しください。
話し言葉を文字にして残すということが始まったころに、万葉集は編纂されました。
しかもその文字は、中国に始まった「漢字」の活用という形で始まりました。
そこから、古代の人たちが、日本列島という枠を超えて往来していたこともわかりますし、当時の生活ぶりも垣間見える気がします。
想像力を働かせれば、日本という国の成り立ちにも思いを巡らせられます。
さらにいえば、「文字」が持つさまざまな機能にも気づかされます。
万葉集の面白さは、大きな時代の変化で、人々がどう生きていたかを、さまざまな形で感じさせてくれるところにもあるように思います。
今回、升田さんの話や参加者のみなさんの話を聞きながら、改めてそう思いました。
文字の成り立ちは、人と人のコミュニケーションに大きな影響を与え、文化や社会のあり様を決めていきますが、それ以前に個人の意識にも大きな影響を与えていきます。
その意味では、升田さんの万葉集サロンの大きなテーマである「われ」にも深くつながってくる話です。
ちなみに、言語を持たない人間社会はないと言ってもいいでしょうが、文字を持たない社会は少なくありません。
言葉と文字はセットではありません。
升田さんは、文字とは「体系」だと言いました。
たしかに何かに対応する象形文字がいくつかあっても、それだけでは「記号」としか言えません。
時々、遺跡の中に「文字」らしきものが発見されることがありますが、単なる絵かもしれません。
そのことを私は今回初めて気づかされました。
升田さんは、五十音図は字を覚えるためのものではなくて、この音の仮名はこうだというふうに示した「音の図」である、と話しだしました。
「音の図」、象形文字は「目からできた文字」ですが、日本の仮名は「耳からできた文字」と言えるのかもしれません。
このところはもう少し詳しく話を聞きたかったです。
現在の平仮名や片仮名は1音に対して1文字です。
それに比べて、万葉仮名の場合は、「ひとつの音」に対する文字は複数あります。
たとえば、「あ」という音でいえば、万葉集には6種類の文字がつかわれています。
文字で言えば、たとえば「阿」はほぼすべての資料で「あ」として使われています。
そうした多くの文献で使われていた文字が、片仮名や平仮名になっていったそうです。
ところで「万葉仮名」は別に万葉集だけの特殊な文字ではありません。
記紀はもとより、風土記など、上代の国語を表記するために使われた文字を総称するそうです。
升田さんは、音別にどの文献にどんな文字がつかわれていたかをまとめた主要万葉仮名一覧表を資料で配布してくれました。
万葉集での使用が一番多いことが一目瞭然でした。
この一覧表は、見ているだけで想像がふくらんでいきます。
現在では同じ音でも、なかには当時、2種類の音があったということが江戸時代の研究でわかっているそうです。
現在使われている音で言えば、13の仮名が2種類の音を持っていたそうです。
これを便宜的に甲類乙類というように読んでいます。
たとえば「ふ」という音に関していえば、huとfuは音として違います。
いまはいずれも同じ音とまとめられていますが、当時は別の文字が充てられていたのです。
しかし、甲類乙類の音があったのであれば、丙類の音もあったのではないか、と私は思ってしまいます。
たしかに江戸時代の江戸の学者は2種類くらいしか聞き分けられなかったのでしょうが、実際には甲乙どころか甲乙丙丁…とたくさんあったのではないのか。
万葉仮名は600文字以上あることが確認されていますが、その中には明らかに遊び心でつくられたものもあるので、すべての文字がちがう音に対応していたとは言えませんが、まあ数百の音があったはずです。
いまでも方言では、50音図の文字では表せない音があるはずです。
五十音図は音の図だと升田さんは言いましたが、結果的には「多様な音をそろえていく効果」を果たしたともいえます。
私が子どものころはまだ、たとえば「い」「え」という文字に吸収されてしまった「ゐ」「ゑ」という文字がありました。
音としては、wi weだと思いますが、いまは使われなくなっています。
一世代の間でさえ、それだけの変化がありますから、文字も発音も変化しているわけです。
話しやすく使いやすい方向に、文字も言葉も変化しているのでしょうが、注意しないと豊かな感情をこめにくい機能的な言葉に変わっていって、人と人のコミュニケーションを貧しくしていくおそれもあります。
それへの反発が、子どもたちの漫画に出てくる、たとえば「あ」に濁点をつけるような、ルールに反する文字になって表れているのかもしれません。
まだまだ言葉は文字に完全には呪縛されていないようです。
もちろん「五十音図」の発想のおかげで、日本人の識字率は、平安時代以来、たぶん世界でもトップだったでしょう。
平安時代には五十音図はありませんでしたが、「天地の詞」や「いろは歌」などがありました。
升田さんは、こんなことも言いました。
文字を手に入れたことで、言葉(歌)を文字に残すことの面白さや喜びを感じた人たちは競って、庶民が歌っている歌を書き留めて残したのではないか、と。
音を文字であらわす喜びは、大きかったのでしょう。
歌詠みもその歌を文字に残すことも、とても楽しかったに違いないというのです。
「楽しいこと」は文化を豊かにし、社会を元気にする原動力です。
書を書かれる人が2人、参加していましたが、その人たちは音だけではなく、書いた時の美しさも文字を選ぶ基準の一つだったのではないかと言いました。
とても納得できる話です。
文字が普及し、書くことでさらに文字を使う喜びは高まった。
話はますます面白くなってきます。
しかし、その文字は私たちの社会を豊かにする一方で、私たちから何かを奪ったのではないかという思いも私にはあります。
文字のない社会の平和な生き方も報告されていますが、文字によって私たちが失ったものもあるかもしれません。
文字と権力の話も、私の大きな関心事です。
それは最近の英語教育の動きにもつながっていきます。
話し合いでは「神代文字」の話もでました。
私も一時期、カタカムナ文字や相似象にはまったことがあるのですが、そこまで行くとさすがに逸脱しすぎそうなので、我慢しました。
升田さんの話はもっといろいろありました。
中国の「韻鏡」の話や、「略体」や「非略体」などの話、さらには「文字に残っている原義」を踏まえての文字の使い分けの話、いずれも面白すぎて私には消化できません。
文字から見えてくることはたくさんあります。
あまりにも内容がたくさんだったので、今回は私には消化できないことが多く、いつか「補講」をお願いしたい気分です。
希望者が3人集まったら補講をお願いしようと思います。
升田さんは大のケーキ好きですから、ケーキを用意したら、やってくれるでしょう。
中途半端な報告ですみません。
まあ、いつものことではありますが、さすがに今回は我ながら中途半端だと反省しています。
次回からきちんと録画か録音しておこうと思います。
■熊沢さん家族に教えられたこと(2019年12月17日)
元農水省事務次官の熊沢英昭さんが自宅で44歳の長男を殺害した事件の裁判はたくさんのことを考えさせてくれました。
同時にしかし、これほど気の重くなる事件もありません。
判決は実刑6年でした。
これをとやかく言う気にはなれませんが、関係者はみんな不幸だったと思います。
とても悲しくてさびしくて、やり切れません。
せめてテレビではいじくりまわしてほしくないと思いますが、いじくりまわしやすい事件なのでしょう。
しかも誰もが、身近に感じられる事件とも言えるでしょう。
だからみんな生々しい意見を持ってしまうのです。
この事件や判決へのコメントを聞いていると、発言者のこれまでの人生やいまの生活が垣間見える気がします。
そしてみんな同じように悲しくさびしく生きているような気がしてなりません。
この事件は、人の生き方を問いかけているのです。
もちろん私も問われている一人です。
愛する人に殺されるのと愛する人を殺すのとどちらがつらいでしょうか。
もちろん後者でしょう。
しかし、愛する人に殺させないために殺すという論理も成り立ちます。
ですから、この問いはまったく意味をなさない気もします。
殺すのも殺されるのも同じことなのであれば、怒りの持って行き場はありません。
でもちょっとだけ世界を広げれば、事態の見え方は一変します。
一番の問題は、熊沢家族が閉じられた小さな世界に生きていたことかもしれません。
もう少し広い世界に思いを馳せられれば、事態は変わったかもしれません。
私たちは現在、情報化のおかげで、一見、広い世界に生きているように思いがちです。
しかし、実際にはとてもとても小さな世界に生きているのではないか。
今回の事件と裁判は、私にそんなことを改めて気づかせてくれました。
テレビでは、事務次官まで勤め上げた人が、と言われることがありますが、たぶん事務次官まで勤め上げた人だからこその世界の狭さ、知性の欠如だったのかもしれません。
学校で学べば学ぶほど、世界は狭くなる。
それが私のこの数十年の体験からの結論です。
いまの教育は「知性」や思考力を奪う仕組みではないか。
そんな気がしてなりません。
熊沢さん家族から教えてもらったことを、少しでも活かしていければと思います。
やはり湯島のサロンは、趣旨が理解されなくても続けようと思います。
熊沢さんにとって、実刑だろうと執行猶予だろうと、たぶん瑣末の話でしょう。
むしろ熊沢さんと奥さんが、自らの生命を断つことが心配です。
熊沢英昭さんはじめ、熊沢さん家族の心の平安がおとずれることを深く祈ります。
私はおふたりには面識はありませんが、どなたかがきっと支えてくれることを信じています。
■不登校や引きこもり体験者と話して思ったこと(2019年12月19日)
昨日、ブログの「挽歌編」に書いたのですが、むしろ「時評編」の内容だなと気づき、その一部をリライトして、時評編にも載せることにしました。
湯島では、私の主催ではない集まりがいくつかあります。
たとえばほっとスマイルプロジェクトという世界に笑顔を広げていこうという集まり。ちょっと霊的な要素が入っている地上の楽園を目指す集まりなどです。
そうしたものの一つに、引きこもり体験者などを中心とする集まりがあります。
これはオープンハートを主宰する阿部さんがやっています。
以前から私にも声がかかっていたのですが、なかなか参加できずに、昨日、初めて参加しました。
わたしを入れて、6人ほどの集まりでした。
かつて引きこもっていたり不登校だったりしていた人です。
それもかなり長期にわたってです。
不登校や引きこもりに、なぜか多くの人はコンプレックスを持っています。
世間も、それがおかしいと考えています。
私自身も、かつてはそうでした。
しかし、不登校や引きこもりにコンプレックスを持つ必要などあるはずもありません。
問題は、コンプレックスや罪悪感を持ってしまうことから始まります。
はじめてなので、それぞれにどんな人かをお聞きしました。
ちなみに、私のことはたぶん阿部さんからみんなには伝わっているようです。
「いまは働いていない」と言った人がいました。
そこで、「稼いでいないだけではないですか」と問い返し、生きている以上、働いていない人はいないと言付け加えました。
人は、そこに存在するだけで必ず誰かの役に立っています。
もちろん誰かに迷惑をかけているともいえるのですが。
役に立つことと迷惑をかけることは、私には同じことのように思えます。
稼いでいないと価値がないと考えるようになったのは、いつのころからでしょうか。
私が、そのことのおかしさに気づいたのは3年ほど前ですが、その呪縛から解き放たれると生きやすくなります。
同じように、学校に行かなければいけないという思いからも自由になるのがいい。
「学校だけが学びの場」ではありません。
いや学校こそが学びをワクワクさせない場所になってしまっています。
学びはわくわくする面白いものでなければいけません。
学校に行きたくないのは自分をしっかりと生きているからだともいえます。
私は子ども時代、あまりしっかりしていなかったので学校には行きました。
学校に行かないことができるということに気づいたことがないのです。
ただ高校時代には学校が嫌いでしたので、不登校ではありませんでしたが、嫌いな授業はさぼって図書室で本を読んだりしていました。
いまの子どもたちには、学校と家庭しかないと思わせているところに問題があります。
ちなみに塾や学童保育の場は、もう一つの学びの場ですが、いずれも大人たちに管理されている場であることには変わりはありません。
子どもたちが自分たちの場が作れないところに問題を感じます。
ネットのようなバーチャルな場は、私には別の世界のように思えます。
みんなと話していて、やはり社会そのもののおかしさを改めて感じます。
ここに集まっている人たちのエネルギーや思いを束ねたら、みんな生き生きしてくるでしょう。
いつもこういう人たちと話していると思うことです。
いろいろなことを気づかせてもらいました。
不登校や引きこもりを体験した人たちの素直さにはいつも感心しますが、いろんな世界に触れてこなかったが故の視野の狭さも感じます。
現在のさまざまな対策や相談に取り組む活動には、やはりどうしても共感できません。
基本的な捉え方が、すでに間違っているように思えてなりません。
やはりだれをも区別(差別)しない、サロンを続けることが大切だと改めて思いました。
■テレビドラマ「チェルノブイリ」の真実味(2019年12月20日)
2人の友人から、テレビドラマ「チェルノブイリ」を勧められていました。
しかも一人からはこのドラマを見てのサロンまで提案されました。
しかし全編を観るには5時間かかるというので無理だろうと思っていました。
自分だけで見るのも、有料チャンネルでの放映なので、簡単には見られません。
ところが、先日、小学校時代の女子会に巻き込まれた時に、なぜかこのドラマをDVDにして持参してくれた人がいました。
湯島のサロンに来たことがある人でもなく、卒業後、ずっと会ったこともなく、今年になって久しぶりにあった人です。
なぜDVDにしてまで持ってきてくれたのか、あまり気のりはしなかったのですが、もらった以上は観ないわけにはいきません。
それで、数日前から観始めました。
まだ3回までしか観ていませんが、ドラマとはいえ、真実味があります。
真実味というのは、過去に起こったチェルノブイリ原発事故の真実味という意味ではありません。
いまここでの真実味、つまり今ここで起こっても不思議ではないという意味での真実味、さらに言えば、私自身の人生に繋がっているという真実味です。
ネットでの説明によれば、「チェルノブイリ原子力発電所で起こった、未曾有の原発事故の発生に冷戦下の旧ソビエト政府が事態の深刻さを隠ぺいしようとする中、被害の拡大を抑えようと必死に戦った英雄たちがいた。あの時現場で何が起きていたのか?!ソビエト政府に調査を委任された科学者、現場の対応を任されたシチェルビナ副議長、事故の謎解明に奔走した核物理学者の活躍を中心に当時を再現した実録ドラマ」と紹介されています。
「隠蔽する政府」と「被害を最小限に食い止めた科学者」という2つの物語によって構成されているドラマのようですが、少なくとも前者に関して言えば、過去の話ではなく、いま私が生きているここで進んでいる事実を重なってしまうのです。
https://www.star-ch.jp/drama/chernobyl/
もしかしたら、福島事故もまた同じように事態は進んでいるのではないかという思いに襲われてしまいます。
そして日本には、残念ながら、事実を解明し被害を食い止めようとしている科学者はいないのではないか、とも思ってしまうのです。
このドラマを多くの人が見たら、流れは変わるでしょう。
6時間は長すぎて、サロンは難しいですが、工夫して、パブリックビューができないものか。
「できない」と思ってしまったら、何も始まりません。
反省しました。
来年は、新たなサロンの試みを考えているのですが、やりたいことが多すぎて、困っています。
やはり毎日オープンしているサロンがほしいです。
そのためには数千万円は必要でしょう。
それで思い立って今日、宝くじを買いました。
もし当たったら、毎日サロンを開けるオープンカフェを手に入れようと思います。
あるいはどなたかそういうカフェを寄付してくれないでしょうか。
■CWSサロン「時間意識と自殺予防?都市でのつながりをどうつくるか」報告(2019年12月24日)
「時間意識と自殺予防」をテーマにしたサロンは、20人を超えてしまいました。
「自殺」や「つながり」を「時間意識」と関係づけたところに、みんな関心を持ったのではないかと思います。
参加者が多かったうえに、初めての参加者も5人、しかも杉原さんの話も面白く長かったので、なんと予定を大幅に超えて3時間を超えるロングランサロンになりました。
にもかかわらず、まだまだ話したい気分が漂うサロンでした。
杉原さんのお話を聞いて、参加者はたくさんの示唆をもらったと思います。
もちろん私もですが。
杉原さんの問題提起の話は、とても興味深いものがありました。
「時間」から考えていくと、「自殺」も「つながり」もちょっと違って見えてきます。
杉原さんの話は、日本の自殺の現状から始まりました。
そして、「多様なつながり」の喪失が、自殺多発社会の温床になっていること、その背景にあるのが日本人の「時間意識の変化」ではないかと、時間意識の話に入っていきました。
「日本人ほど時間をきっちり守る国民はいない」と、いまは海外の人たちから言われています。
しかし、幕末から明治初期にかけての日本人の時間意識はまったくそうではなかったことを、海外から日本に来た人たちが記録に残しています。
「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」と書き残している人もいますし、「日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる!」とイギリス初代駐日総領事オールコックは書いているそうです。
この文化は今でも残っているような気もしますが。
杉原さんはさらに民俗学者の宮本常一が、日本の伝統的な農村では、「話も十分にできないような田植え方法は喜ばれなかった」と報告しているそうです。
西欧と日本の「時間意識」はまったく違っていたのです。
さらに時間を、春夏秋冬が回ってくる自然に象徴されるように円環イメージでとらえるか、近代西欧のように進歩主義を踏まえた直線イメージでとらえるかの違いも紹介してくれました。
そこには、「コミュニティの時間」と「個人の時間」、あるいは「身体の時間」と「時計の時間」という話もありました。
日本人の伝統的な時間意識を変えたのは明治維新で制度化された「学校」だと杉原さんは言います。
学校は日本人の「時間意識」を人間を均質な「労働力商品」に改革するための装置だったというのです。
これは前回の万葉集サロン番外編で話題になった「学校は文字を通して言語を均質化」する役割を担っていたのではないかという話とつながっています。
時間が直線になり、コミュニティから切り離されると「未来への不安」が生まれる。
自己責任社会になると同時に、「交換可能な存在」になった個人は「金銭依存」に向かっていく、と話は発展していくのですが、これ以上書くと報告が長くなるので、以下は省略。
関心のある人はぜひ杉原さんにコンタクトしてみてください。
杉原さんは、この後、ではどうしたら「時間意識」を変え、「つながり」を豊かにしていけるかを、いくつかの事例で紹介してくれました。
これもみんな示唆に富む話だったのですが、一つだけ紹介します。
それはただ「金銭離れ」するのではなく、「温かいお金」でつながりを豊かにしている「ヤギサワバル」の大谷さんの話です。
大谷さんは、西東京市の西武柳沢駅の近くでバルをやっています。
毎日の売上の1%を地域のために使うというのが経営方針だそうです。
さらにたとえ高くても地域のお店からビールなどを購入するのだそうです。
詳しくは下記サイトをご覧ください。
https://www.facebook.com/yagisawabar/
「「農家のビール」が都内で唯一飲める店 ヤギサワバル」という本も出ていますので、よかったら読んでください。
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E8%BE%B2%E5…/…/B07GVYD6LR
時間意識と自殺予防に関して、杉原さんは直接的には言及しませんでしたが、たくさんの示唆が込められていた話でした。
杉原さんは「「楽しい時間」を共有できる複数のコミュニティに所属すること」が自殺予防にもつながっていると考えているのです。
現在、さまざまな自殺予防対策が行われていますが、私たちの生き方から問い直すことが大切だと思っている私には、とても共感できる話でした。
最後に、杉原さんは、「自殺問題」ではなく「◯◯さんの問題」として考えていくことが大切だ、と言いました。
自殺問題に限らずに、昨今の障害者支援や高齢者支援、さらには子育て支援に関しても、通ずる話だと思います。
報告が長くなってしまい、話し合いの内容を紹介するスペースがなくなってしまいましたが、異論のぶつけ合いも含めて、話し合いも示唆に富むものでした。
「自殺」そのものに関する話し合いもありました。
ある参加者は、「いろいろな価値観があってよい」ということをハラに落とすことの重要性を感じましたと、手紙をくれました。
また、時間意識と自殺の関係という見方もあるんだと、とても勉強になりました、というメールももらいました。
視点を変えると、世界はまったく違って見えてくることがあります。
大きな意味での「コミュニティ」をテーマにしたサロンは、来年も継続する予定です。
■CWSサロン「箸文化を考える−世界中に箸友をつくろう」報告(2019年12月25日)
国際箸学会会長の小宮山さんにお願いした「箸文化を考える−世界中に箸友をつくろう」のサロンは、年末の忙しい時期だったためか、参加者があまり集まらなかったうえに、国際箸学会のメンバーがほとんど参加されなかったこともあり、意図と違って、箸文化や箸学会のことはあまり話題にできませんでした。
しかし、参加者は全員、日本の礼儀作法などに関心の深い方が多かったこともあり、意図とは違った意味での集まりになりました。
また箸学会で箸ゲームの審判員をされている方が参加してくれたこともあり、後半は箸ゲームの体験会となり、箸ゲームの話題で盛り上がりました。
小宮山さんの話やそれを受けての参加者の反応を通して、箸文化を学び、新しい箸文化を創り、世界中の人と友だちになっていくという箸学会のビジョンは、まさに「箸ゲーム」に象徴されていることを改めて実感しました。
今回はあまりうまくいきませんでしたが、改めて「箸友づくりサロン」を企画したいと思います。
私も話に熱中してしまい、写真を撮るのを忘れてしまいました。
■東尋坊からのお餅に込められたメッセージ(2019年12月29日)
東尋坊で見回り活動をしている茂さんたちから、今年も「お餅」が送られてきました。
年末に、毎年、茂さんや川越さんたちが東尋坊で遭遇した自殺を思いとどまった人たちと一緒に、心を込めてつき、みんなで丸めたお餅です。
茂さんがいつも言っているように、「形は不揃いでも、味は何処のお店屋さんにも負けない絶品」です。
茂さんたちの見回り活動は、もう16年近くになりますが、これまで672人の人を思いとどまらせてきています。
今年も32人の人に出会い、全員が見事に再出発を果たしているそうです。
私は、その活動が始まったころに、ささやかに応援させてもらった関係で、こうして今もお餅が毎年届くのです。
お餅と一緒に、「東尋坊の見守り人形 人生標語集」という小冊子が送られてきました。
聞いた人が元気になるような、「短い力強い言葉」に、茂さんたちの活動を支援している仙台在住の「じぞうもじ書家」後藤夕深さんが「じぞうもじ」を添えた、心があったかくなる小冊子です。
茂さんや川越さんのあったかい心が伝わってきます。
川越さんたちが一針一針手縫いした「見守りお地蔵さま人形」とこの小冊子を遭遇した人たちに渡しているそうです。
お餅に添えられていた手紙に、茂さんはこう書いています。
私たちの活動は、今までは「水際対策」に重点を置いてきましたが、来年からは「上流対策」(東尋坊での自殺者の8割は県外者です)に、もっと目を向け「これ以上、東尋坊に自殺企図者を送りこまないで下さい…!」と訴える活動にも力を入れていきたいと思っています。
以前からお聞きしていた茂さんの次の目標の一つです。
しばらく茂さんの活動に関わらずにいましたが、来年はこの茂さんの思いの実現に何かできることはないかを考えたいと思います。
一緒にやろうという方がいたらご連絡ください。
日本の自殺者は減少しているという統計もありますが、少なくとも私の周辺では減っているという実感は得られません。
私にも誰にでも、できることは必ずあるはずですので。
■CWSサロン「5回目のサンティアゴ巡礼報告」報告(2019年12月29日)
今年最後のテーマサロンは、昨年と同じく鈴木さんの巡礼サロンでした。
10人が参加しました。
今回、鈴木さんが歩いたのは「ポルトガルの道」。
これまでと違って、日本人にはほとんど会わなかったそうです・
鈴木さんの報告は、いつもそうなのですが、話し出すといろんなことを思い出すようで、話が止まりません。
ただ歩くだけの巡礼なのですが、それだけ密度の高い時間を過ごしてきているのでしょう。
そこに巡礼の価値が凝縮しているように思います。
今回も用意してきてくれたレジメの半分しか話がいきませんでした。
しかし巡礼の魅力や効用は、参加者にはしっかりと伝わったと思います。
鈴木さんは、まずサンティアゴ巡礼についての基本情報を話してくれました。
1970年代ごろから広がりだしたサンティアゴ巡礼は、1972年にはわずか67人だった巡礼者が昨年2018年には32万人を超えていて、さらなる増加が見込まれています。
つづいて鈴木さんは、巡礼の方法を紹介してくれました。
一番の課題は荷物の重さで、鈴木さんの場合は、4.7kgの身の回り品を入れたバックパックと貴重品類入りショルダーバックだったそうですが、それこそ100グラムの重さが巡礼の継続に大きな影響を与えることもあるそうです。
鈴木さんの場合、1日の歩行距離は15〜40km、宿泊費用は5〜15ユーロ(700〜1900円)、食費費用は10〜30ユーロ(1300〜3800円)だったそうです。
最近は、スマホやイヤホンを使う人も多くなっているそうですが、鈴木さんはそういうものは一切使用しません。
道に迷っても、スマホで調べるようなことはせずに誰かに道を聞く。そういうことこそが、巡礼の魅力を高めると鈴木さんは考えています。
ついで、今回の「ポルトガルの道」で感じたこと、気づいたこと、自らが変わったことを話してくれました。
一つひとつに、興味深いエピソードや体験があって、話し出すと鈴木さんは時に目を潤ませたり、目を輝かせたりしていました。
いくつかを紹介します。
話しかけられとうれしい、でも話しかけるには少し勇気がいる、という鈴木さんの話には大きな示唆があるように思いました。
あいさつが人間関係のはじまり。ほんの少しの気遣い、ほんの少しの好意があればいい。
言葉がわからなくても心は通うという、非言語コミュニケーションも巡礼の醍醐味だと言います。
しかし、これらは巡礼でなくても当てはまるでしょう。
スマホが増えていることに鈴木さんはテクノロジーに支配される危険性を感じたと言いますが、これも昨今の私たちの日常に通じています。
鈴木さんは、今回改めて、巡礼とミニマリズム(簡素な暮らし)に繋がりを感じたと言います。
今回、その話もしてもらう予定でしたが、残念ながらあまりにもその前の話が面白く、そこにたどり着きませんでした。
しかし、鈴木さんの数々の体験談から、その真意は伝わってきました。
さらにレジメでは「これからの人生を巡礼者のように生きる」という鈴木さんの思いに通ずる示唆に富む言葉も紹介されていました。
鈴木さんの話に触発されて、いろんな話題で話し合いが行われました。
参加者に長年長距離ランニングをされている人がいて、その人から「歩く」と「走る」の関係が話題に出されました。
これもなかなか面白い話題でした。
巡礼中には挨拶や話しかけが自然と出てくるのに、最近の都会人は「挨拶」や「話しかけ」がなくても生きていける。とても興味深い話です。
巡礼者が同宿者のために食事づくりをして、同宿者みんなでコミュニティディナーをする体験もしたそうです
巡礼の醍醐味の一つは、もしかしたら「食事」かもしれないと思いました。
参加者はそれぞれにいろんな気付きをもらったはずです。
ところで、レジメの最後にこういう文章が書かれていました。
巡礼はコミュニティを生み出します。
他者を受け入れるコミュニティを。
他の人がどう旅路を歩いているかに興味を持つコミュニティを。
お互いに与え、受けるコミュニティを。
以前、鈴木さんが偶然に立ち寄ったスペインの小さな教会に置かれていた「El Camino(巡礼)」という文書からの引用だそうです。
これは湯島のサロンが目指していることでもあります。
来年は、それぞれのコミュニティを話し合うサロンを開きたいと思います。
来年もまた年末に鈴木さんの巡礼サロンがあるかもしれません。
いや他の人の巡礼サロンかもしれませんが、巡礼のテーマは引き続き、湯島の話題にしていきたいと思います。
どなたか自分の巡礼報告をされたい方はご連絡ください。
もちろんサンティアゴに限りません。
その気になれば、いろんなところに「巡礼路」はありますから。
■今年もよろしくお願いいたします(2020年1月1日)
我孫子はほどほどに気持ちのいい年明けでした。
残念ながら初日の出は見られませんでしたが、飽きずに見ていたら、雲の向こうに見えないはずの初日が見えてきました。
そして雲の上から光が手賀沼の湖面に振りこぼれてきました。
私も、ほどほどに元気で年明けを迎えました。
今年も、ほどほどによろしくお願いいたします。
昨年は湯島のサロン、ありがとうございました。
おかげさまで湯島のサロンもますますにぎやかになってきました。
年始のオープンサロンは1月4日の正午から、出入り自由で、4時過ぎまでやっています。
コーヒーはトラジャコーヒーと昨年冷蔵庫を掃除してきたらでてきた、出所不明のちょっと古そうなコーヒーを用意しました。
ご希望に合わせて淹れさせてもらいます。
よかったらお立ち寄りください。
近くの湯島天神が相当混んでいるはずですので、交通規制が行われているかもしれませんが、急な階段も事情を話せば(この上のビルに用事があると言えば)通してくれます。
ちなみに、1月はテーマサロンだけでもすでに5つが決まっています。
12日は「網野サロンパート2」
13日は「無門関サロン」
18日は「万葉集サロン」
19日はリンカーンクラブ研究会「議会制の虚構」
26日は「アニマルコミュニケーション」
他にもいくつか予定されています。
今年は少しまた新しい試みもしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
■「見知らぬ中学生の皆さんへ」(2020年1月2日)
年末に2冊の小冊子が届きました。
1冊は京都の宇治にお住いの高林實結樹さんからの「見知らぬ中学生の皆さんへ」。
もう1冊は東尋坊で見回り活動をしている茂幸雄さんの「東尋坊の見守り人形 人生標語集」です。
後者に関しては先日、紹介させてもらいました。
高林さんの小冊子は、一昨年、高林さんが地元の中学校で戦時体験談を話したものを小冊子にまとめたものです。
話を聞いた中学生たちから届けられた感想文を読んだ高林さんが、感激して、ぜひもっと多くの中学生に読んでもらおうと小冊子にしたのです。
感想文は私も読ませていただきましたが、「初めて聞くナマの話」「よその学校でも話してほしい」という要望もあり、高林さんは改めて次の世代に戦時体験談を残そうと思い立ったのです。
早速に知り合いの中学生に渡そうと思いますが、高林さんの思いを広げていくために、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。
非売品として制作されていますが、できれば高林さんの活動を広げ、さらに増刷していけるように、高林さんの了解を得て、賛同していただける方には300円の活動支援金をいただくことにしました。
1月4日に、湯島で年始のオープンサロンを開きますが、その際、何冊か持参しますので、ご希望の方は声をかけてください。
高林さんのような戦時体験談を心のうちにお持ちの方は少なくないと思います。
そうした人たちの活動記録をこういう形で残していくことができればと思います。
周りにそういう方がいたら、ぜひ話を聞いて書き残していく活動が広がればと思います。
ちなみに、茂さんの「東尋坊の見守り人形 人生標語集」ですが、これに関しても、今年は私としてできることに取り組む予定です。
1月4日の新年オープンサロンでは、そんな話も少しできればと思っています。
■新年オープンサロンの報告(2020年1月6日)
1月4日に湯島で新年オープンサロンを開きました。
13人が参加してくれました。
サロンを終了したちょうどその時に2人の参加者があったため、その2人を軸にパート2が始まりました。
結局終わったのは5時過ぎでした。
湯島のサロンには初めての人が5人もいたのですが、それぞれ示唆に富む話題を出してくれました。
若い世代も3人いましたが、3人からの話もたぶんなかなか聞けない話だったと思います。
また農や食に関わっている人が5人いたため、話は途中からもっぱら「農」の話になりました。
ちなみに、サロン終了時に来た人も、農の専門家でしたので、農サロンパート1とパート2という感じでした。
タネの話や野菜の価格の話など、興味ある話がいろいろありましたが、内容はちょっと報告しにくいので省略です。
新顔野菜“グラパラリーフ”の紹介もありました。
新年のオープンサロンなので、もっといろんなトピックがですかと思っていましたが、農の話にみんな引きずり込まれたようです。
もちろんほかの話題もいろいろありましたが。
皆さんのお話を聞いていて、サロンで取り上げたいテーマがいくつか見つかりました。
春以降に実現するでしょう。
今年も時々、テーマなしのオープンサロンは開く予定です。
よろしくお願いいたします。
■ゴーンさんへの評価が好転しました(2020年1月8日)
保釈中だったカルロス・ゴーン元日産会長が、なんと国外逃亡を図りました。
それを知って、私のゴーンさんへの評価は反転しました。
評価が変わった人は多いでしょうが、ほとんどの人は悪くなったようです。
しかし、私はこれまで好きになれなかったゴーンさんが好きになれそうなのです。
日産をV字回復した名経営者として評価されていた頃のゴーンさんを私は全く評価できませんでした。
むしろ経営というものを全く知らない無能な経営者だと思っていました。
当時、私はまだ仕事をしていて、講演などもさせてもらう機会もありましたが、その頃にもそう公言していました。
なぜそう思ったのかと言えば、経営の視点が株主や組織拡大にあり、人間の視点がなかったからです。
私にとっては、それは「経営」ではありません。
しかし、当時、日産に関わっている人に尋ねても、私の意見に賛成する人はいませんでした。
辞めさせられた人たちへの思いはないのか、とさびしくなりました。
その頃から日本の経営者は大きく道を踏み外していったと思っています。
まあそうした動きが始まったのは、たぶん1980年前後からだったと思いますが。
ちなみに、私にとっての企業経営再建の名経営者は、スカンジナビア航空のャン・カールソンです。
ゴーンさんが保釈された時に変装して出てきた時に、ちょっと印象が変わりました。
もちろん「良い方向」にです。
そして今回の国外逃走ドラマ。
かなり好きになりました。
理由を書くと長くなりますが、そこに権力や制度に抗う「人間」を感ずるからです。
さらにゴーンさんへの期待もあります。
今日、ゴーンさんはレバノンで記者会見をするそうです。
どういう話が出るのかわかりませんが、そこでまた私の評価が反転する可能性はゼロではありません。
しかし、ゴーンさんが置かれていた状況は、私でさえもおかしいと思っていました。
新聞報道でしか知りませんが、人権無視もはなはだしい気がしていました。
日本の警察や検察、さらには行政のあり様は、どう考えてもおかしい。
そうしたことに、世界の目を向けてくれることに期待があります。
私たちにももっとそうした実態が見えてくるかもしれません。
もっともゴーンさんは、日産時代、いま自らが抗っている日本の警察や検察(末端のお巡りさんや現場の人たちは別)と同じ生き方をしてきていました。
彼には、自分以外の人間は見えていなかったように思います。
だからこそ、今日のゴーンさんの発言に大きな期待をしているわけです。
失望させられないといいのですが。
それにしても、今回の事件は、いろんなことを気づかせてくれました。
ゴーンさんに感謝したくなります。
■中公新書の「持統天皇」が面白かったです(2020年1月10日)
なかなか読めずにいた中公新書の「持統天皇」を今日、読みました。
私の持統天皇へのイメージは、最初は吉野裕子さんの「持統天皇」でつくられたためかとてもいい印象を持っていて、日本の歴史を大きく方向づけたのは持統天皇だと思っていました。
しかし、その後、いろいろと読んでいるうちに、どうもあまり好印象は持てなくなり、夫を裏切った女性という印象を持つに至りました。
しかし、瀧浪貞子さんの今回の本を読んで、また評価が変わりました。
やはり女性の視点と男性の視点で、評価が変わってくるようなきがします。
吉野さんも瀧浪さんも、持統天皇の気持ちに入り込んでいるような気がします。
私は男性なのですが、瀧浪さんの本に見事に変節させられ、持統天皇の生き方にもちょっと理解できる気がしてきました。
それはともかく、最近読んだ歴史関係の本では久しぶりに共感と発見と内容のあった本でした。
ところで、本書の中に「万葉集」に関する論考が20頁以上にわたって書かれています。
ここがとても面白い。
万葉集に関心のある方には、ぜひお薦めしたいです。
湯島では、令和騒ぎの前からまじめな万葉集サロンをやっていますが、次回は1月18日です。
テーマは「〈わ〉と〈な〉、そして〈た〉−共有される歌々」。
ちなみに、江戸時代に発見された金印は「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれていますが、万葉集サロンで升田さんが「委奴国」を「〈わ〉の〈な〉の国」とも読めると話してくれたことがあります。
今回も面白い話がいろいろと出てきそうです。
■CWSサロン「網野史観パート2−日本はどこから来て、どこへ行く?」報告(2020年1月15日)
昨年行った網野史観サロンにつづくパート2も、14人参加と大賑わいでした。
今回は、副題に「日本はどこから来て、どこへ行く?」とあるように、いまの日本の問題を間接話法で語り、考えるといった内容でした。
網野さんは歴史を見る視座をひっくり返すことを教えてくれました。
蔵原さんは、それを、国会議事堂を上下逆転した写真を示しながらわかりやすく説明してくれました。
それがそのまま網野史観というわけではありませんが、視野を広げてくれることは間違いありません。
そうしたことを踏まえて、日本における「資本主義の源流」の話も含めて、「日本の過去に何が起こったか」に関しても、いろいろな視野が開かれ、論点が出されたように思います。
網野史観とはちょっと外れた議論もあったような気もしますが、蔵原さんの話がとても面白すぎたために、予定していた「異形」や「異界」、あるいは「アジール」や「悪党」はあまり話題にならなかったのがちょっと残念でした。
百姓と農民の議論も、あんまり深まらなかったのが残念です。
宗教の話ももう少し話題にしたかったのですが、それよりもやはり政治経済的な話題が中心になりました。
こうしたこと自体にも、まさに今の日本の社会状況が反映されているように思います。
しかし、蔵原さんの話の面白さは、一般論を装いながら、常に彼自身の一人称視点が感じられたことかもしれません。
話し合いを聞いていて、異端と言われた網野史観は、いまや社会に広く浸透していることを改めて実感する一方で、やはり私たちの発想は、言語の用法も含めて、網野さんとは対置に置かれた発想の呪縛からは抜け出せないでいるような気もしました。
そのこと自体にも気づかせてくれたサロンだったように思います。
最後に蔵原さんは、シャーロック・ホームズの「ボヘミアの醜聞」から次の引用文を紹介しました。
You see, but you do not observe. The distinction is clear.
君は見ているが、観察していない。その違いは明白だ。
これこそが、蔵原さんの一番のメッセージだったようです。
いまの日本国民も自民党も、農業政策はじめ随所で基礎データを「見ているが、観察していない」。政策の基礎データを読む力がいまの日本社会に足りないと言いたかったのです。
さまざまな話題に遊び過ぎて、とび散らかしたようなサロンでしたが(それこそがサロンの狙いであり、だからこそ面白いサロンだったのですが)、蔵原さんのメッセージはしっかりと受け止めたいと思いました。
時間が長引いたにも限らず、まだまだ満たされない感じが残り、この調子だとパート3の要請があるなと思っていたら、早速にその要請が届ききました.
その人と蔵原さんのやり取りも始まっているので、もしかしたら、パート3があるかもしれません。
■CWSサロン「知識ゼロで挑む無門関」報告(2020年1月16日)
「無門関(むもんかん)」のサロンは、参加申込者が少なくていささか心配していたのですが、直前に申し込みがどんどん増えて、ふたを開けたらなんと20人近い参加者になりました。
とりあげたのは、無門関第二則の「百丈野狐」。
話題提供者の金子英之さん(「無門関」永世愛読者/i2 associates代表)が「知識ゼロ」でも大丈夫と言ってくれたので、「無門関」の名前も知らなかった人も参加してくれましたが、事前に「百丈野狐」は読んできてもらいました。
「無門関」は中国南宋時代の禅僧 無門慧開によって編まれた、門下の修行僧を悟りに導くための問題集(公案集)です。
48ある公案の2番目にでてくるのが「百丈野狐」。
話の大筋は、百丈禅師のところに老人がやってきて、自分は以前僧侶だった。修行したら因果の世界から抜けられるかと問われて、「不落因果」、因果の世界から脱けられると応えて、野狐の身に落とされたが救ってほしいと頼まれます。そして、百丈に自分が問われたのと同じ問いを投げかけます。百丈はそれに「不昧因果」、因果の世界に身を任せ、と応じます。それを聞いた老人は一瞬に悟り、人間に戻ったという話です。
そしてその後に、百丈の弟子たちや高弟の黄檗とのやりとりがあります。
この話から何を得るか、が公案の問いです。
ざっと読めば、老人は「不落因果」と答えてなぜ野狐の身に堕ち、「不昧因果」と聞いてなぜ野狐の身を脱する事が出来たのか、というわけです。
ちなみに、「百丈野狐」の全文は、たとえば次のサイトにも紹介されていますので、関心のある人はお読みください。
https://k1s.hatenablog.com/entry/20120614
話に入る前に金子さんは3つの視点をお話になりました。
まず金子さんは「表現者」と自己紹介した上で、イコノグラフィ(図像学)を専攻されていたことをお話になりました。
図像学は、絵画・彫刻などの美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問です。
ついで、金子さんは「問題には解がある」と言い、解があれば見つけたい、それもテキストだけからの正解に至りたいとお話になりました。
そしてこの公案には、推理小説によくあるような、真実から目を反らさせるトリックが仕組まれている。そこで、公案に秘められた「正解隠し」を見つけるために、「構造主義」の発想を利用して、文章を解析し、問題を整理したと話してくれました。
いずれも、それぞれに興味ある話ですが、今回はともかく、公案を解くことがテーマです。
さて本題です。
金子さんは、小道具まで用意してきてくれて、「百丈野狐」についてまずは紹介してくれ、この公案(問題)を構造的に図解してくれました。
そうした話をしながら、参加者からも自らの解釈や疑問点などをいろいろと引き出していきました。
その内容は、「ネタ晴らし」になりますので、この報告では一切触れません。
しかし、参加者からの発言も含めて、とても興味深く、示唆に富む話し合いがあったと思います。
そうした思考を引き出すところにこそ、公案の意義があるのかもしれません。
だとしたら、現在の社会にとって、こうした公案に立ち向かう価値は極めて大きいように思います。
金子さんはこの話をあるビジネススクールでも毎年講義されていました。
その時の反応もお聞きしましたが、こういう話が行われるビジネススクールが存在していたことに私はとても感動しました。
こうした禅問答にどんな効用があるのかという質問もありましたが、そういう質問が出る時代だからこそ、大きな効用があるのかもしれません。
話し合いのいくつかは、紹介したい気もしますが、たぶん不正確な紹介になるのでやめさせてもらいます。
ただ、終わった後、参加者からこんなメールが来ました。
せっかくいい方向に話が向かいそうなのに黄蘗が百丈和尚の横っ面をぶんなぐったところになると、どっちか偉いとか上だとかとたんに「執着」に固執するのが可笑しかった。
私もその時に同じ思いを感じていましたが、この公案は、「不落師弟・不昧師弟」をたしなめているようにも思いました。
金子さんもお話になっていましたが、そこにあるのは極めて根底的なメッセージなのです。
しかし、それを論理的に解釈し、正解を得ようとする金子さんご自身にも大きな興味を持ちました。
金子さんは無人島に流されたとしてもこの一冊があれば退屈しないと言われました。
それほど金子さんは「無門関」にはまっているようです。
それほどの魅力があるのであれば、私ももう少ししっかりと読んでみたくなりました。
そこで改めて、無門関の48の公案のどれかを選んで、みんなで読んでみるサロンを企画しようと思いつきました。
またご案内させてもらいます(たぶん)。
もし皆さんの中に、この公案を読んでみたいという方がいたら、ご連絡ください。
採用されるとは限りませんが。
■CWSサロン「沖永良部をご存知ですか」のご案内(2020年1月18日)
この頃、改めて私は日本の自然と生活文化の豊かさに興味を持ってきています。
私は千葉の我孫子に住んでいますが、残念ながら転居してきたということもあって、あまり地域の特性が感じられません。
しかし、茨城県の美野里町というところに20年ほど前に仕事でかかわらせてもらった時には、そこにまだ豊かな文化や言葉が残っていることを知って感激しました。
日本の豊かさは、都市部にいてはなかなか見えてこない、そんな気がしています。
しかも、私の感覚では、東京は年々ひどく貧しくなってきています。
今年のオリンピックで、さらに豊かさの喪失は加速するでしょう。
最近、徳之島や沖永良部島のご出身の方と接点ができたのですが、それぞれにお会いするたびに、徳之島や沖永良部島はさぞかし豊かなのだろうなと、いつも憧れます。
ですから、そこでの生活や文化などのお話をお聞きしたいと思うのですが、なかなかゆっくりと聴く機会を得られません。
それでサロンをやってもらうことにしました。
私の豊かさ感はちょっと世間からずれているかもしれませんが、まだそうした島々にはしっかりした人間の生活や豊かな文化が残っていると思うのです。
というわけで、沖永良部島の仲津留さんが年末年始に帰郷するとお聞きして、戻ってきたらぜひサロンで沖永良部島のことを話してくれないかと頼みました。
うれしいことに引き受けてくれました。
沖永良部がどこにあるのか、どんなところなのかも知らない人もいるでしょう。
ヒントは琉球と薩摩です。
特にテーマは絞ってはいませんが、仲津留さんからは、「島で生活をする中で見える風景、そして島を離れてみて見えてくること」というタイトルをもらいました。
わくわくするようなお話が聞けるでしょう。
生き方を問い直す示唆ももらえるような気もします。
いや、日本という国家への認識も変わるかもしれません。
ぜひ多くの人に参加してほしいサロンです。
できれば、日本各地の話を時々聞くようなサロンに広げていければと思っています。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年2月16日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「沖永良部をご存知ですか-島で生活をする中で見える風景、そして島を離れてみて見えてくること」
〇話題提供者:仲津留なぎささん(人材開発コンサルタント/沖永良部島出身)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■第5回リンカーンクラブ研究会「議会制の虚構性」報告(2020年1月20日)
第5回リンカーンクラブ研究会は「議会制の虚構性」をテーマにしました。
議会制は、本来デモクラシー(民主制)とは無縁だったにもかかわらず、選挙権の拡大に伴ってイギリスでデモクラシーとつながってきた制度ですが、当時、ルソーが「彼ら(イギリスの人たち)が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」と指摘しているように、偽装民主主義という指摘は少なくありません。
しかし、ルソーの予想に反して、議会制は民主制の象徴のようになってきています。
特に日本では、「議会制民主主義」という言葉もあるように、議会がデモクラシーの象徴と捉えられてきましたが、最近はさすがにその機能不全が露呈しだし、それが政治不信や投票率低下につながってきています。
リンカーンクラブの武田さんは「議会制民主主義は民主主義なのか」とずっと主張してきています。
最近の議会の実態を見れば、その虚構性は明らかであり、それによって憲法さえも無視した政治が可能になってきているにもかかわらず、なお日本は「民主政治」が行われているとみんなが思っていることに武田さんはいらだちを感じているようです。
ただ武田さんは、いらだって批判するだけではなく(もちろん諦めるのではなく)、どうしたら少しでも民主主義の理念に近づけられるかを考え、社会に発信してきています。
今回は、同じようにそういう思いを持った人たちが8人集まりました。
考えは必ずしも同じではないのですが、現在の政治に危機感を持っていることに関しては同じです。
議会制が民主主義の虚構ならば、その虚構を正すためにどうやって民主主義に近づけていくか、それが今回のテーマです。
武田さんの最初の提案は、国会議員選挙の際に、首相の信任投票を加えたらどうかということでした。
非常に示唆に富む提案ですが、賛否両論あって、議論は最初から白熱しました。
つづいて、予算も国民投票で決められないかという提案。
これも白熱しましたが、予算と政策の関係の議論やら、政治の安定性(行政の継続性)などで議論が分かれました。
重要法案も国民の意思表明ができるようにしたらどうかという提案もありました。
こうした議論をしていると、抽象的な政治談議からは見えてこないいろんなことが見えてきて、政治と生活のつながりもわかってきます。
時にはちょっと険悪な空気が出てくになるほどの異論反論が噴出するのが湯島のサロンの面白さです。
制度よりも国民の意識が問題ではないかという議論も出ました。
制度をいくら変えても意識が変わらなければ何も変わらないかもしれません。
しかし、制度と意識は深くつながっていますから、やはり制度は大切です。
「民意」とか「民度」などという多義的で意味不明な「お上の言葉」は使うべきではないというのが、私の考えですので、ちょっとそこにこだわってしまい、「民意」論争もありました。
私は、誰かが勝手に決めてしまうような民意とかにはあんまり興味はなく、私自身の生活が豊かになればいいと思っている人間で、そのためにこそ政治があると思っていますので、選挙には必ず行きますし、政治への関心は強いです。
むしろ、私のために政治があると思うことこそが、大切だと思っています。
誤解されるといけませんが、宮沢賢治が言っていたように、「みんなが幸せにならないと自分の幸せもない」と思っています。
武田さんからは、有識者会議のようなものをつくり、国会審議を評価する話し合いの場をつくったらどうかという提案もありました。
みんなほぼ賛成でしたが、どういう人を選ぶのかでは議論はまったく分かれました。
私はむしろ「無識者会議」の方がいいのではないかと思います。
また、投票制度に関しても、武田さんは「重投票と軽投票」という提案をしましたが、議会制度の虚構性を解消していくためにはさまざまなことが考えられます。
しかし議論しているだけでは何も始まりません。
どうしたら議会制を民主主義に近づけていけるかの実践に取り組まないといけないとの指摘もありました。
その通りで、実践に取り組まなければ、世間の「有識者」たちと同じように体制に寄生的な存在に終わりかねません。
結局は、まずは投票率を高めることではないか、ということになり、前回、提案された「選挙投票は国民の責務(公務)と捉え、投票行為にきちんと対価を払うべきではないか」ということを軸に、投票率を高める活動に取り組むべきではないかということになりました(私の勘違いかもしれませんが)。
ともかく、そういう活動を立ち上げていきたいと思いますが、共感して一緒にやりたいという方がいたらご連絡ください。
3時間を過ぎても議論は止まりませんでした。
寒い休日にもかかわらず、わざわざ湯島まで出かけてきて、こんなに真剣に語り合っている人たちがいることに、私は感激して議論に参加していました。
現政権批判や傍観者的な諦観的な発言をフェイスブックで見るたびに、あなたたちが日本の政治をダメにしていると思うのですが、熱い議論をしている人たちもいることに救いを感じます。
次回は、2月22日、「民主主義政治と合意形成」がテーマです。
いまの政治に満足していない人はぜひご参加ください。
■第6回万葉集サロン「〈わ〉と〈な〉、そして〈た〉−共有される歌々」報告(2020年1月20日)
万葉集サロンも6回目となり、対象も宮廷人たちの個人の歌から生活の歌、東歌や防人の歌へと移りました。
最初に、升田さんは古事記歌謡の沼河日売の歌を詠みあげました。
八千矛の 神の命 萎え草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 我鳥にあらめ のちは 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 海人馳使 事の 語り言も こをば
「我(わ)鳥」「汝(な)鳥」、そして「神」もでてきます。
ちなみに、八千矛の神は大国主で、沼河日売(ぬなかわひめ)は求婚されたのです。
この歌だけでも1回のサロンができるような魅力的な歌だと思いますが、升田さんはそこから「〈わ〉と〈な〉、そして〈た〉− 共有される歌々」へと話を進めます。
今回は〈た〉がテーマなのです。
升田さんは万葉集における〈た〉は「他」ではなく、「神に対する人」であり、「多」だったと説明してくれました。
「他」は「ヒト」と読み、「ヨソ」という意味ではなかったのだそうです。
当時は「他人」という概念はあまりなかったのです。
同時に、万葉集には形容詞がほとんど出てこないとも話してくれました。
そして、「ヒト」は出身地とか住んでいるところによって区分けされるとしても、そのヒト自体を説明する形容詞がつく例は少ないとも説明してくれました。
本来、多様な存在であるヒトは、神の前に「ひとかたまり」としてとらえられたというわけです。
しかし、多の中からいろんな人の顔が見えてくる、多様性を維持した「ひとかたまり」です・
「他」ではそうはならない。
升田さんは、それを「同化することで成り立つ多様性」と表現しました。
だからこそ、詠み人知らずの歌が万葉集には多い。
というよりも、個人ではなく、みんなで詠った歌が多い。
だれかが歌うと(思いを表現すると)私もそうだと共振し合うことで、みんなの歌が生まれてくる。
歌を通して、多様なヒトが同化し、一つの多を育てていく。
いまもよく見る風景のような気もします。
そうした歌のいくつかを、万葉集十一、十二,十四から紹介してくれました。
これらの巻は似た歌が多く、「退屈」を感ずる人も多いようですが、それらの歌のわずかな違いを読んでいると、まさに「た」の意味が実感できる、と升田さんはその面白さを強調されました。
そして、そうした〈た〉のなかから、〈わ〉(吾:一人称))と〈な〉(汝:二人称)が生まれてきた。
〈わ〉と〈な〉の集まりが、〈た〉ではない。
ましてや〈た〉は「他」の集まりでもない。
そこには〈わ〉も〈な〉も含まれている。
とても共感できる世界です。
升田さんはそうした歌の中から、いくつかの叙事歌を読みあげてくれました。
選ばれた歌だったので、それぞれに面白く退屈ではありませんでしたが、当時の「た」の人たちが少し感じられました。
そうした共同体の中で共有された歌の中に、多様性と共に自己表現が感じられる。
それは現代における多様性とは違うのではないかと升田さんは言います。
そこにおける「自我」や「個人」も違うでしょうし、そもそも「共同体」とか「コミュニティ」とかの捉え方も違っているでしょう。
一時期盛んに言われた「ホロニックな全体と個人」を思い出します。
同化することで成り立つ多様性に対置されるものは何か。
升田さんはいろいろと説明してくれましたが、私はそれをうまく言語化できません。
私は「反発し合っている多様性」とか「つくられた多様性」をイメージしましたが、ちょっと違うような気もします。
それでメールで升田さんに質問しました。
升田さんからは「せめぎあう多様性」ではどうかという返信をもらいました。
「せめぎ合う」と「同化」。
いずれも「コミュニティ」につながっていく。
今度(1月23日)、予定している「コミュニティ」を考えるサロンのテーマにもなるなと思います。
このテーマで、万葉集の歌を詠まない万葉集サロンをもう一度お願いしたくなりました。
万葉集はともかく面白い。
改めてそう思うサロンでした。
私の関心はちょっとずれているかもしれませんが。
■報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない(2020年1月21日)
昨夜、DVDで映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を観ました。
ワシントン・ポスト社主のキャサリン・グレアムの決断に感動して涙が出ました。
事実とは異なるのかもしれませんが、当時のアメリカの新聞人の生き方を象徴していることは間違いないでしょう。
ペンタゴン・ペーパーと言われる、アメリカ国防総省の「ベトナム戦争秘密報告書」が、ダニエル・エルズバーグによって暴露されたのは1971年です。
ニクソン大統領からの圧力にもかかわらず、ワシントン・ポスト紙が公開します。
そこから、国民の知る権利と国家秘密の保持をめぐる、アメリカ政府と新聞人たちとの法廷闘争が始まります。
しかし、その事件が引き起こしたもう一つの事件、ウォーターゲート事件もあって、エルズバーグもワシントン・ポストも敗訴することはありませんでした。
そして、国民のデモも広がり、アメリカはベトナム戦争から手を引くことになります。
当時私はまだ企業で働いていましたが、その衝撃はいまでも記憶に残っています。
私の生き方にも、ささやかな影響を与えたことは間違いありません。
エルズバーグは、むしろ保守的な国防総省職員で、ペンタゴン・ペーパー作成のスタッフの一員でした。
自分でも手記で書いていますが、高給取りでした。
にもかかわらず、自分が荷担していることの重大さに気づき、刑務所に入ることまで覚悟して、政府の欺瞞を暴いたのです。
キャサリン・グレアムは、会社の倒産まで覚悟して、公開に踏み切ったのです。
「知った者の責任」ということを、私は時々、ブログで書いていますが、エルズバーグもキャサリンもまさにその責任を果たしたのです。
私が感激したのは、そのことです。
事件の2年後に、エルズバーグの手記「ベトナム戦争報告」が翻訳出版されました。
そこには驚愕の事実が書かれていました。有名なトンキン湾事件です。ベトナム戦争が本格化する一因となった事件は、アメリカが仕組んだものだったのです。
今回、映画を観て、改めて報道メディアの役割の大きさを考えさせられました。
ジャーナリストも大切ですが、メディアこそが大切なのかもしれません。
タイトルの「報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない」という言葉は、その裁判の判決での判事の言葉です。
日本のメディア関係者に聞かせたい言葉です。
ワシントン・ポストの現在のスローガンは「Democracy Dies in Darkness(暗闇の中では民主主義は死んでしまう)」だそうです。
しかし、大手メディアのオーナーの多くは、キャサリン・グレアムとは違って、メディアの存続を目的にしてしまっているようで、期待はできません。
いまや暗闇が、日本を覆い尽くそうとしています。
であればどうするか。
市民たちによる市民のメディアの動きもありますが、なかなか広がりません。
一度、このテーマで湯島のサロンをやってみようと思います。
関心のある方はご連絡ください。
■茶色の朝サロンのご案内(2020年1月21日)
今年初のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を、1月31日(金曜日)の夕方開催します。
いつもとは違う平日の夕方ですが、しかもちょっと長目の設定で、出入り自由のスタイルにしていますので、お時間が許す時にぶらっと気楽にお立ち寄りください。
テーマは特に決めていませんが、最近、何か気になることがあれば、それを参加した人が気楽に話すようなフリースタイルです。
〇日時:2020年1月31日(金曜日)午後4時〜7時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ちょっと気になること」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
■湯島サロン「みんなのメディアをつくりませんか」のお誘い(2020年1月21日)
プロジェクトの呼びかけサロンです。
今年からこの種のサロンをやっていこうと思います。
呼びかけ人はだれでもいいですが、みんなで取り組む「コモンズ型事業」を対象にしたいと思います。
今回は「みんなのメディアをつくりませんか」という提案です。
たまたま昨日、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を観て思いついたのです。
その記事はブログに書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2020/01/post-e16920.html
こう書くといかにも軽率な思い付きと思われそうですが、ずっと考えてきていたことです。
湯島のサロンに来る方の中には自分の主張を小冊子にして配布したり、出版したりしたいと思っている方も少なくありません。
実際に自分でつくって配布したり、自費出版したりしている人もいます。
しかし、出版社などに頼むと、それなりの費用もかかります。
そこでそうした思いを持っている人の出版を引き受ける「みんなの出版社」が作れないかと思ってきました。
出版するだけではなく、みんなで販売も行い、読者を増やしていく。
場合によってはその本を活用した公開フォーラムを企画するのもいいでしょう。
「自費出版」ではありません。
その主張に共感した人たちが応援しながら、コストを節約し、拡販に協力しながら、費用もみんなで回収していくという考えです。
幸いに湯島のサロンに参加している方の中には編集者やライターも少なくありませんし、出版社をやっている方もいます。
商業出版につながるような本も生まれていくかもしれませんが、出発点はみんなが自分たちの発信メディアを持つのが狙いです。
しかし、新しい「市民事業」としての経済的自立を目指したいと思います。
まだ構想がまとまっているわけではなく、構想自体もみんなで考えていければと思っています。
関心のある方はぜひご参加ください。
サロンの目的は「みんなの出版社」を立ち上げることです。
社長になってもいい人がいればいいのですが。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年2月2日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「みんなのメディアをつくりませんか」
〇提案者:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■CWSサロン「アニマルコミュニケーション」のご案内(2020年1月22日)
今回は少し不思議なサロンのご案内です。
不思議なだけではなく、私たちが生きていくうえで、とても役に立つサロンです。
お話をしてくれるのは、動物たちと話をする仕事をしている、“しーちゃん”ことタカイ シオミ(しーちゃん/M.Rosemary)さんです
〈アニマルコミュニケーション〉とは、一言で言えば、動物と話をすることです。
アニマルコミュニケーターのしーちゃんはこう言います。
動物たちとの会話は、もちろん、現実の人間たちとの会話とは少し違います。
私は、目の前にいる動物や植物、ときに虫や魚、動物園や水族館の動物たち、天国の動物たち、スピリットとしての動物たち、いろいろな動物たちとつながってお話しをします。
〈アニマル コミュニケーション〉は、動物たちのよりいっそうのしあわせを望む人たちと動物たちのしあわせに役に立つと信じています。
さらにそのうえ、〈アニマルコミュニケーション〉をするほどに、もっともっとどんどん、今まで知り得なかった広く豊かな世界が広がっていきました.
いかがでしょうか。
〈アニマルコミュニケーション〉によって私たちの世界は限りなく広がると思いませんか。
いや、私たちが失ってきている世界が回復できるといってもいいかもしれません。
しーちゃんは、動物たちとの会話は現実の人間たちとの会話とは少し違うと言っていますが、動物たちのコトバを聞くことで、自らの世界観が変わり、人との関係も、動植物や地球との関係も、より豊かなものになっていくのではないかともお話しされています。
しーちゃんのホームページをご覧ください。
https://shi-dobe-ginza-sea.jimdo.com
なお、アニマルコミュニケーションはわんこのご家族からの依頼が多いので、わんこの話が多くなるそうです。
しかし、しーちゃんは、わんこの話に限らず、参加者のみなさんからの質問にも答えたいと言ってくれています。
いまの社会を生きづらいと考えている方も、いまの社会に退屈されている方も、あるいは何も考えることなく幸せに「ボーっ」と生きている方も、きっと参加してよかったと思えるだろうサロンです。
ぜひちょっと不思議な時間を過ごしに、ご参加ください。
〇日時:2020年1月26日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「アニマルコミュニケーション」
〇話題提供者:しーちゃん/M.Rosemary(タカイ シオミ)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■今日は昼食を節約して、この本を買ってください(2020年1月25日)
その本は、「グレタのねがい」(ヴァレンティナ・キヤメリニ著 西村書店 980円)。
昨日発売されましたが、おそらく来週には大きな話題になっていくでしょう。
私たちはいま、17歳の少女に「あなたたちが話しているのは、お金のことと経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」と指摘されています。
少女の名前はグレタ。
その名前と、怒りと悲しみに満ちた表情と鋭い問いかけは、多くの人の記憶にまだ新しいでしょう。
スウェーデンのグレタ・トゥンベリさんは、地球温暖化を食い止めるために「自分でできる方法」として、学校へ行かずに国会議事堂前で、ひとりで抗議ストライキを始めました。
そこからいまや、グレタのメッセージは世界中に広がってきています。
そして、昨年9月に国連でスピーチをした時に発せられたのが、上記の言葉です。
グレタさんはつい先日、スイスのダボスで行われた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)でもスピーチを行いました。
グレタさんはスウェーデンのストックホルムに住んでいますが、そこからスイスのダボスには飛行機を使わずに、陸路を30時間かけて行ったそうです。
飛行機がいかに環境に負荷をかけるかを熟知しているからです。
グレタさんの母親は国際的に活躍しているオペラ歌手だそうですが(日本にも来たことがあるそうです)、グレタさんに説得されて、いまは飛行機の使用をやめ、海外での公演もやめたそうです。
生き方を変えたのです。
そのグレタさんのことを紹介する「子供向け」の本が西村書店から出版されました。
友人が送ってきてくれたので、さっそく読ませてもらいました。
「小学校高学年以上」が対象とされていますが、大人でもわかる本です。
私は、大人よりも子供たちのほうが読解力が優れていると思っていますが、この本はたぶん大学を卒業した人でも、少しでも知性が残っているならば、理解できるでしょう。
しかし、本書が向けられているのは、しっかりした知性と思考力をまだ失っていない子どもたちです。
本書の表紙には、「地球をまもり 未来に生きる 大人になるまで待つ必要なんてない」と書かれています。
子どもたちができることは、大人たちよりもたくさんあります。
でも、グレタさんの母親が示してくれているように、大人たちにもできることがある。
本書を送ってきてくれた友人は、「この本は、気候温暖化のメッセージ本ではなく、グレタさんが身をもって新しい生き方を示す、これからの新世代へのエールととらえます」と書いてきました。
たしかにそうだと思います。
そして、地球環境問題に対処するには、私たちの生き方を問い直さなければいけません。
排出ガス規制や環境権などと言っている限り、解決は見えてこないでしょう。
しかし、人間であれば、誰にでもできることがあるはずです。
では私たちに何ができるか。
まずは今日のお昼を抜いて、この本を買って読むことから始めましょう。
そして読んだら、その本を近くにいる子どもたちにあげましょう。
この本を読んだ子どもたちがきっといい方法を見つけてくれます。
そこからもしかしたら、大人にもできることが見えてくるかもしれません。
ぜひ多くの人に読んで、生き方を変える契機にしてほしいです。
■湯島サロン「アニマル・コミュニケーション」報告(2020年1月28日)
しーちゃん(タカイ シオミさん)の「アニマル・コミュニケーション」のサロンは、タイトルを間違えてしまった気がします。
案内をきちんと読んでもらえたら主旨が伝わったと思いますが、タイトルが「アニマル・コミュニケーション」では案内文も読んでもらえなかったようで、参加者は8人でした。
私自身、テーマの深さを十分に理解できていなかったことを大いに反省しました。
いつかこのサロンはもう一度企画したいです。
私の勝手な解釈ですが、今回のテーマは、人と人とのコミュニケーション不全の原因とその正し方だったような気がします。
あるいは、私たちの生き方を違った視点で考え直すということだったとも言えます。
それほど私にはさまざまな示唆が得られたサロンでした。
参加者は、動植物と話し合って生きている人が少なくありませんでしたので、その人たちの体験などの紹介もありました。
話の内容を中途半端に書いてしまうと誤解されるおそれもありますのでやめますが、私としては自らの考えや知識を相対化できて、世界がまた一段と広がった気がします。
紹介されたエピソードは、動物が主役で語られましたが、犬や猫を人間に替えてもおかしくない話ばかりでした。
むしろ動物との話なので、問題の本質が生々しく見えたような気もします。
わが家にも以前、犬や猫もいましたが、しーちゃんの話には思い当たることが多く、当時、もう少し踏み込んでおけば、きちんと会話できて、もっといい関係が構築できただろなととても残念な気がしました。
「トラウマを残したコにもたくさん会いました」としーちゃんは言っていましたが、まさにわが家に来たチャッピーがそうでした。
しーちゃんは、日常的に動植物と会話しています。
遠隔地の犬とも会話しているようですが、これもとても納得できました。
私も目の前にいる動植物には話しかけるほうですが、遠隔地の犬とは会話などできないだろうと思い込んでいたために、そこまではできませんでした。
しーちゃんは、そんな「常識」には呪縛されていないので、会話できるのでしょう。
信じなければ何事も可能にはなりません。
そのことにも気づかせてもらいました。
私たちは今では言葉や文字を使うコミュニケーションに大きく依存しがちですが、そのために失ってきたものは多いでしょう。
私は最近、ようやく孫に恵まれたのですが、言葉や文字にまだ依存していない孫との交流のことを思い出しながら、話を聞いていましたが、あまりにもつながる話が多く、驚きました。
もしかしたら、私たちはコミュニケーションということを、全く間違って捉えているのではないかとも思いました。
最近は感情面での交流を回避する“ネオサピエンス”が増えているという話がありますが、その話と重ねて考えるとこれからの生き方を問い直すヒントがあるかもしれません。
犬はベートーヴェンの交響曲第七番が好きだとか、犬と猫の違いとか、生活空間と性格の関係とか、犬の意思表示の話とか、面白い話もたくさんありました。
犬が家族の一員意識を持つ話とか、飼い主の病気を犬が背負いこんでいくという話も出ました。
動物に視聴してもらうテレビ番組づくりの話も出ましたが、これについては犬や猫からアンケートをとったらどうかという話も出ました。
この作品ができたら連絡をもらうことになっていますので、楽しみにしてください。
結局、肝心の犬や猫とのコミュニケーションのことが何も書いていないじゃないかと叱られそうな報告になってしまいましたが、そうした話はしーちゃんのホームページをご覧ください。
https://shi-dobe-ginza-sea.jimdo.com
いずれにしろ、私にはきちんと報告する力がないので、しーちゃんに今回話してくれたことを読みやすい新書にして出版してほしいとお願いしました。
しーちゃんの本が出たら、ご案内させてもらいます。
■緊急サロン「アクチュアルな仏教実践−インド仏教とダリット」のご案内(2020年1月30日)
サロンに参加している荒金さんの提案で、緊急サロンを開催することにしました。
直前の案内になってしまいますが、ぜひ多くの人に参加していただきたいサロンです。
テーマは「アクチュアルな仏教実践−インド仏教とダリット (被差別カースト)」です。
ダリットとは、「カースト制度」として知られる4階層の枠外に配置された、「被差別カースト (不可触民)」が自らを称する呼称で、「抑圧されたもの」を意味します。
インド仏教徒の最高指導者としてインドで活躍されている佐々井秀嶺上人の活動を支援する「南天会」というネットワーク組織が日本にあります。
https://www.nantenkai.org/
佐々井上人の随身である南天会の亀井竜亀師が、いま日本に来ていて来週まで東京に滞在されています。
帰国前の2月3日の夜に湯島に来ていただき、インド仏教(徒)の現状を中心に、サロンを開いてもらうことになりました。
佐々井上人は、ダリットと呼ばれる「被差別カースト(不可触民)」の人たちとともに、インドから灯の途絶えた仏教を復興し、今は亡きアンベードカル博士の遺志を引き継ぎ、インド仏教徒の精神的支柱として活動されていますが、亀井師はその活動を間近で支えていらっしゃる方です。
荒金さんからのメッセージを下記しますので、参加できない方も、ぜひお読みください。
荒金さんの提案の動機と今回のサロンへの思いが理解してもらえると思います。
ちなみに、佐々井上人が遺志を引き継いだアンベードカル博士は、「不可触民」解放の父と言われる人で、インドにおける仏教の復興に取り組んだ人です。
日本ではガンジーが有名ですが、アンベードカルはそれ以上に現場の人であり、インド社会に大きな影響を当て続けている人だと私は思っています。
私がアンベードカルのことを知ったのはもう15年ほど前に事ですが、まさかその活動を継承している人の話を聞けることになるとは思ってもいませんでした。
急なご案内ですが、滅多に聴けるお話ではないので、大勢の人に参加していただきたいと思っています。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年2月3日(月曜日)午後6時〜8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「アクチュアルな仏教実践―インド仏教とダリット (被差別カースト)」
〇ゲスト:亀井竜亀さん(僧侶)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
〔荒金さんからのメッセージ〕
ジャイビーム!
「カースト制度」として知られる四階層の枠外に配置された、「被差別カースト(不可触民)」は自らをダリット「(抑圧されたもの)」と名乗る場合が多い。彼らは、不条理なカーストに苦しめられ、仏教徒に改宗し、自らカーストの呪縛を解きながら力強く新たな人生を切り拓いていく姿勢から、一見カーストとは無縁の生活を送っている我々が学ぶことは大いにあると思いますし、なかなか知り得ないインド仏教、カーストの現状に触れながら、「差別」「格差」「信仰」など再考してみるのはいかがでしょうか。
提案時、勢いにまかせて私は上記のように記しました。
佐藤さんから送っていただいたテキストを読み、「彼ら (ダリット)の姿勢から我々が学ぶ」、と表現した自分に疑問を持ちました。なんたる傲慢さ、自分でも驚きました。まるで差別を受け続けている哀れな彼らからも我々が吸収するものがある、とでも言いたげな尊大な態度を露呈してしまいました。差別はいけないことだ、許されないあるまじき行為である、と憤慨しつつ、無意識のうちに差別を生み出す側に回っている自分の姿が露わになったのです。自らの内奥に潜む非人間性と向き合う作業は、自分の内側に巣食っている病巣をこじ開ける作業でもあり、苦痛を伴います。しかし同時に差別をよしとせず、子どもたちのために差別のない社会を残していきたい、と望む自分を再認識することは、大きな希望でもあるといえないでしょうか。 そしてだからこそ、目を伏せたくなるような過酷な現実と闘いながら生き抜いている彼らの現状に目を向けなければならないのだと思うに至りました。
今回の緊急サロンでは、亀井竜亀師に、インドはナーグプルにおける現在進行形のアクチュアルな仏教の実践について、語ってもらいます。併せて亀井師が日本仏教に望むこと、今後の活動の予定、未来への課題、など後半部は、参加者の方々から質問を受けながら、「対話」するサロンを提案します。
改めて自身が抱えている「差別」「格差」「平等性」「非人間性」など、亀井師の言葉からともに照射してみませんか。
合掌
■湯島サロン「外来生物が日本の自然に与える影響」のご案内(2020年1月31日)
ハイパー・ナチュラリストの木村幸一郎さんには、時々、湯島でサロンをやってもらっていますが、前回の「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」から1年以上が経ってしまいました。
そろそろ木村さんの話をお聞きしたいと思っていましたが、自然と真摯に付き合っている木村さんの時間をもらうのは、いささか気が引けるところがありました。
しかし幸いに、木村さんから2月15日なら時間が取れると連絡がありました。
ちょっと急なご案内ですが、この機会を逃すとまただいぶ先になりかねないので、開催させてもらうことにしました。
今回は、私の希望で「外来動物」に焦点を当ててもらいます。
ナチュラリストとしての木村さんの活動の原点は、外来魚(ブラックバスなど)の放流反対だったそうです。
そうした原点の思いからはじめて、木村さんの現場体験談を中心に、外来種が日本の自然にどういう影響を与えているのか、そして私たちは外来生物とどう付き合っていったらいいのかなどを、お話しいただき、参加者みんなで話し合えればと思います。
ちなみに、ここで「外来生物」と書いていますが、私はそこに「外国人」の問題を考えるヒントも含まれているのではないかとも思っています。
これは私の考えであって、木村さんの考えではありません。念のため。
いずれにしろ木村さんの話は現場や現物に繋がっていますので、とても分かりやすくて楽しいです。
最近、サロンが増えていますが、ちょっと日常を離れた話題を楽しみに、ご参加いただければうれしいです。
○日時:2020年2月15日(土曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「外来生物が日本の自然に与える影響と外来生物との付き合い方」
○話題提供者:木村幸一郎さん(ハイパー・ナチュラリスト)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■茶色の朝サロン(2020年1月)の報告(2020年2月1日)
今年初のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を1月31日に開催しました。
参加者の人数よりも継続が大切だと考えて、今年からできるだけ毎月開催していくことにしました。
ところが、予想に反して、参加者が10人を超えました。
出入り自由の3時間だったのもよかったかもしれませんが、半分の人は3時間フルに話していました。
今回は特にテーマを決めずに、最近気になることを話し合うスタイルでした。
あまり「政治」を意識しないのが、このサロンのスタイルなので、話題は最近流行の新型コロナウイルスからゴーン事件といろいろでしたが、たまたま今回はひきこもり問題に取り組んでいる方が2人参加していましたので、その話もかなり盛り上がりました。
コミュニケーションの問題もでましたが、最後のころは、学校や教育問題で盛り上がりました。
政治の基本は「子育て」や「学校教育」だなと私は改めて感じました。
そもそも学校は「国民」を育てる仕組みですから、政治の一丁目一番地と言ってもいいですが、そういう意識はあまり多くはありません。
そう言えば、湯島のサロンも最近は「学校教育」を取り上げていませんが、春以降にぜひ取り上げたいと思います。
どなたか話してくれる人がいたらお願いします。
ところで今回は、10代の女性が参加してくれました。
こんなに議論しあう場はあまり経験していないようですが、それなりに楽しんでくれました(たぶん)。
帰りに途中から参加した人から、ところで今日はどんな政治の問題が出ましたか、と訊かれました。
私の感覚では、すべてが「政治」につながる話なのですが、やはりまだ「政治」と「生活」は同じものだという感覚は少ないのかもしれません。
昨年出版された山口二郎さんの「民主主義は終わるか」(岩波新書)に、民主主義を終わらせないために大切なこととして、「実際に他人と声に出して議論することの重要性」があげられていました。
「他人と顔を向き合わせながら話をすれば、人間は感情を抑え、儀礼を持って議論することができるはずである」とも書かれていましたが、昨日のかなり激しいやり取りをみていて、「人間は感情を解放してでも、礼儀を持って議論することができる」こと、そしてそれがとても大切なことを改めて実感しました。
湯島のサロンは、本当にみんな勝手に自己主張をします。
それもみんな立場が違うので、気づかせられることが多いです。
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
■湯島サロン「外来生物が日本の自然に与える影響」のご案内(2020年1月31日)
ハイパー・ナチュラリストの木村幸一郎さんには、時々、湯島でサロンをやってもらっていますが、前回の「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」から1年以上が経ってしまいました。
そろそろ木村さんの話をお聞きしたいと思っていましたが、自然と真摯に付き合っている木村さんの時間をもらうのは、いささか気が引けるところがありました。
しかし幸いに、木村さんから2月15日なら時間が取れると連絡がありました。
ちょっと急なご案内ですが、この機会を逃すとまただいぶ先になりかねないので、開催させてもらうことにしました。
今回は、私の希望で「外来動物」に焦点を当ててもらいます。
ナチュラリストとしての木村さんの活動の原点は、外来魚(ブラックバスなど)の放流反対だったそうです。
そうした原点の思いからはじめて、木村さんの現場体験談を中心に、外来種が日本の自然にどういう影響を与えているのか、そして私たちは外来生物とどう付き合っていったらいいのかなどを、お話しいただき、参加者みんなで話し合えればと思います。
ちなみに、ここで「外来生物」と書いていますが、私はそこに「外国人」の問題を考えるヒントも含まれているのではないかとも思っています。
これは私の考えであって、木村さんの考えではありません。念のため。
いずれにしろ木村さんの話は現場や現物に繋がっていますので、とても分かりやすくて楽しいです。
最近、サロンが増えていますが、ちょっと日常を離れた話題を楽しみに、ご参加いただければうれしいです。
○日時:2020年2月15日(土曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「外来生物が日本の自然に与える影響と外来生物との付き合い方」
○話題提供者:木村幸一郎さん(ハイパー・ナチュラリスト)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「アクチュアルな仏教実践−インド仏教とダリット」報告(2020年2月10日)
カースト制度がまだ社会全体を覆っているインドで、人々の平等を目指す仏教の復興に取り組んでいる佐々井秀嶺上人の随身として活動している亀井竜亀師が開いてくれた緊急サロンには、直前の案内にもかかわらず、たくさんの人が参加してくれました。
今回のサロンを企画してくださった荒金さんがファシリテーター役になって、亀井さんからなぜこうした活動にかかわることになったかも含めて、現在のインドでのアクチュアルな仏教実践の話、そして今後の活動の予定や未来への課題を話してしてもらったうえで、いつものような「対話」するサロンになりました。
仏教はインド地方で始まったにもかかわらず、現在のインドの人たちの多くはヒンズー教徒で、いまもなおカーストの枠外に置かれた被差別カースト(ダリット)が存在しています。
そうした状況を変えていこうと活動していたのが、ガンジーと並んでインド独立に取り組んだアンベードカルですが、自らもダリットの出自であったアンベードカルが起こしたインド仏教(新仏教)復興の活動を継承したのが佐々井秀嶺上人です。
案内文にも書きましたが、日本でその活動を支援しているのが「南天会」です。
詳しくはそのサイトをご覧ください。
https://www.nantenkai.org/
亀井さんは、日本で仏教とは関係のないお仕事をされていましたが、たまたま佐々井上人との縁ができ、身近で接しているうちに、佐々井上人の笑顔に魅了されて得度されたそうです。
亀井さんは「ジャイビーム!」という言葉で話を始めました。
「ジャイビーム」は「心が通じ合う」というような意味を持った、インド仏教徒同士の挨拶の言葉だそうです。
亀井さんの話は、知識ベースの話ではなく、すべて心身で体得した話でしたので、素直に心に伝わってきました。
その話は私が間接的に報告しても伝わらないと思いますので、関心のある人は当日のサロンの動画が公開されるようになったらご案内しますのでご連絡ください。
亀井さんの人柄も伝わってきますので。
亀井さんによれば、インド仏教(新仏教)は一言で言えば、ダリッド(抑圧された人たち)に寄り添いながら、カーストの否定を目指した「怒り」を込めて闘う宗教で、一言で表現すれば「炎」がふさわしいと言います。
ここにアンベードカルが始めた「インド仏教」のすべてが象徴されています。
こうした「インド仏教(新仏教)」とそれまでの仏教(たとえば日本の宗派仏教)とは、つながっているとはいえ、かなり違います。
あえて「インド仏教」とここでは書いていますが、「新仏教」とか「インド仏教復興運動」と呼ばれることもあります。
インドには古来からの仏教も存在し、最近では日本の宗派仏教の布教活動も広がっているそうですが、佐々井上人はそうした仏教のあり方にも批判的です。
その意味では、まさに現在の仏教に対する「新仏教運動」でもあるわけです。
おそらく釈迦が始めたときの仏教も、同じように社会に対して激しい思いのこもった「運動」だったのでしょう。
そこに「宗教」というものを考える大きな示唆があるように思います。
社会を変える宗教と社会を保守(秩序管理)する宗教があると言ってもいいかもしれません。
インド仏教への改宗式では、三帰依(仏・法・僧への帰依)と五戒(不殺生などの5つの戒律)、そして22の誓いが与えられます。
それによって、ヒンズー教的生き方を否定し、仏教徒としての生き方を誓うわけです。
亀井さんが、寄り添いながら戦うと話したように、インド仏教の目指すところは、ヒンズー教の否定であり、カーストを超えて、すべての人が同じ人間になることなのです。
インドで生きていくことはヒンズー社会の枠の中で生きていくということだと言われますが、まさにインド社会はヒンズーイズムで構成されています。
インドではカーストに対応したアファーマティブ・アクション(バリッドに対する差別優遇措置)があり、ヒンズー教徒であるほうが社会的な支援を得られるという面もあるため、「隠れ仏教徒」も多いそうです。
ちなみに、政府統計では、仏教徒は1%前後とされていますが、実際にはそれ以上の仏教徒がいるといわれています。
政治と宗教、さらには生活と宗教を考える上での示唆を感じます。
日本にはたくさんの僧侶がいるのに、街中では僧侶の服装をした人になかなか出会わないという亀井さんの問いかけもまた、多くのことを考えさせられました。
私はサロンの翌日から3日間、京都の社寺をずっと回っていましたが(そのため報告が遅れました)、亀井さんの話を思い出しながら回っていたせいか、いつもとは違ったものを感じました。
宗教はまた経済ともつながっています。
今回、サロンを企画してくれた荒金さんは、これを機会に、改めて自身が抱えている「差別」「格差」「平等性」「非人間性」などを問い質してみませんかと呼びかけてくれましたが、そうしたことに関しても、たくさんの示唆がありました。
私自身の気づきが多すぎてまだ十分に消化できていないので、これ以上書けませんが。
サロンではもっと具体的な話し合いがあったのですが、すべて省略してしまいました。
フォローしてくださる方がいるとうれしいです。
このサロンを契機にして、湯島でも宗教や信仰をテーマにしたサロンを企画していきたいと思っています。
話をしたいという方がいたら、ぜひご連絡ください。
南天会ではインド仏教の支援活動を行っていますので、共感してもらえたら支援してください。
また佐々井上人の活動の一部を紹介した動画も公開されていますので、ぜひご覧ください。
https://youtu.be/gqgYJtMMupg
■CWSサロン「宇宙の成り立ちとダークマター」報告(2020年2月11日)
天文学大好きな大学生の内村真菜さんのサロンは、大盛況でした。
宇宙というテーマのせいか、湯島のサロン史上、一番若い人のサロンだったせいか、とにかくにぎやかなサロンになりました。
タイトルは「宇宙の成り立ちとダークマター」。
話はなぜ真菜さんが宇宙に興味を持ったのかという話から始まりました。
そして、にもかかわらずなぜ天文学者への道を選ばなかったのかの話もありました。
実は彼女はいま薬学部に通っているのです。
このあたりの話そのものでもサロンが成り立つような興味ある話でしたが、今回は宇宙がテーマです。
自己紹介につづいて、パワーポイントをつかって、宇宙のはじまりと現状、そして宇宙のこれからが、もちろん数式などを使わずに説明してくれました。
話の中心は、ダークマターとダークエネルギーの話でした。
話の途中でも質問してもいいと言うので、質問も多かったです。
なにしろ私も含めて、「名前」は聞いたことがあるとしても、きちんとは知らない人が多かったので質問もいろいろと出ました。
たとえば宇宙は膨張しているというが、星同士の距離は実際に観測されているのかとか、この湯島の部屋のなかにもダークマターやダークエネルギーがあるのかといった、気楽な質問も少なくありませんでした。
宇宙大好きな参加者もいたおかげで、時々、真菜さんが答えようとしても、勝手に解説してくれる参加者もいましたが、そのやり取りが場をとても豊かにしてくれた気もします。
しかし、質問がでるとそれは次に話そうと思っていたということが多く、みんなが関心を持つだろう流れをきちんと意識した構成になっていました。
話し手と聞き手の目線がシェアされていて、とても親しみとわかりやすさを感じました。
宇宙の実体はまだ5%くらいしか解明されておらず、95%はダークマターとダークエネルギー、まあわかりやすく言えば、実体不明の物質とエネルギーで構成されているのだそうです。
しかし少しずつその実体も分かってきているようで、真菜さんは大学の試験勉強に合間に、その最新情報を調べてきてくれていました。
ダークマターとダークエネルギーについては詳しく話してくれました。
特に面白かったのは、ダークエネルギーの話で、これまでの科学の常識ではなかなか理解できない話もありました。
ある人は、エネルギーや質量の動きに目的というか意思のようなものがあるのだろうかと後でメールを送ってきてくれましたが、それぞれにいろんな刺激があったようです。
本で読んでもなかなか分からない話も、こうやって話しながら学んでいくととても親近感が出てきて、改めて宇宙の本を読もうかという気にもなります。
サロンの帰りに早速、宇宙特集の別冊Newtonを買って帰った人もいるようです。
サロンが終わってもなかなかみんな帰らずに、世代を超えた話し合いが続いていました。
世代が違う人との「やりとり」を聞くことも楽しめたといってくれた参加者もいました。
これこそサロンの価値の一つです。
宇宙については解明されているのはまだほんの一部でしかありませんし、その多くは抽象的な仮説ですから、これから先もまだどんどん変化するかもしれません。
でも時にこういうテーマで話し合うのもいいものです。
何よりもいいのは、年齢を超えて気楽に話し合えることです。
今回は他分野の専門家の元大学教授が2人も参加してくれましたが、真菜さんと対等に話していたのが湯島のサロンらしくて楽しかったです。
とてもあったかなサロンでした。
また若い世代の人に話をしてもらうサロンをやりたいと思います。
話したい人、話させたい人がいたら、ご紹介ください。
■湯島サロン「なぜウイルスは感染症を起こすのか」のご案内(2020年2月14日)
新型コロナウイルス感染症が活動の場を広げています。
テレビではその話題が持ちきりです。
湯島のサロンでも参加者に入室時、手を洗うようにお願いしだしています。
ところで、新型コロナウイルス感染症の流行が問題になっても、多くの人はウイルスを毒物としてしか見ていないのではないのか。
これが湯島でも時々、サロンを開いてくれている細菌学者の益田昭吾さんの疑問です。
原発事故による放射性物質と同じように見ているのではないのか。
改めてウイルスはどんなものなのか。
こういう時にこそじっくり考えてみてはどうかと益田さんから提案を受けました。
たしかに放射性物質と違って、ウイルスは生きている生命体です。
そう考えると、現在の対処法のおかしさにも気づいてきます。
そこで早速、益田さんにお願いしてサロンを開催することにしました。
なぜウイルスは感染症を起こすのか。
益田さんは、ウイルスが経済活動に乗って蔓延していることもウイルスが生物であるということを忘れさせているかもしれない、と言います。
そして、今回は、ウイルスが生物として理解されない本当の理由は意外なところにあるという少しミステリー的なお話をしてくれるそうです。
最近の新型肺炎の流行から、もしかしたら私たちが気づいていなかったことが見えてくるかもしれません。
どんな話になるか、楽しみです。
今回は、講座型のサロンですが、益田さんからは、途中でも質問を歓迎いたしますといわれていますので、いつものように質疑応答しながら進めてもらおうと思います。
気楽にご参加ください。
ウイルスへの親近感も増すかもしれません。
〇日時:2020年3月1日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「なぜウイルスは感染症を起こすのか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「人はどうして仕事をするのだろうか アーレントからのヒント」のお誘い(2020年2月15日)
今回は「人はどうして仕事をするのだろうか」という問いを、社会との関係において、考えてみようというサロンです。
というと、何やら難しそうだと思うかもしれませんが、たぶん極めて具体的、実践的なわかりやすいサロンになるだろうと思います。
というのは、問題提起する林裕也さん(デザイナー)が、そうした問いに行き当たったきっかけと答えを見つけた経緯を具体的に話してくれるからです。
その答えに導いてくれたのが、ハンナ・アーレントの本なのです。
ここでの「仕事」は広い意味での人間の活動と受け止めてください。
ハンナ・アーレントは、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる思想家です。
彼女は、人間の活動的生活を労働、仕事、活動の3つに分けています。
この3つの違いは、なかなかわかりにくいのですが、おおざっぱに言えば、「労働」とは生命維持のための活動、「仕事」とは価値あるものを創り出す活動、「活動」とは他者に働きかける活動です。
林さんは、デザイン関係の仕事のほかに、ボランティア、茶の湯のアートプロジェクト、まちづくりなど、いろんな活動に取り組んできています。
しかし、そうした活動の中で、「なんの意味があるのか、面白いだけでいいのか」と言うようなことを時々考えてしまっていたそうですが、アーレントの言う「〈世界〉のための〈活動〉」と言う考え方を知ってからは、そうした迷いがかなり吹っ切れたそうです。
そして、自分のささやかな活動が、アーレントの言う「複数性」(画一化へのささやかな抵抗)にもつながっていると思えるようになったそうです。
ここで林さんが言う「複数性」というのもアーレントにとってとても重要な概念です。
「複数性」は、民主政治を考える上での基礎概念のひとつで、湯島でやっているリンカーンクラブ研究会でも2月に議論する予定の「合意形成」にもつながるテーマですが、日本文化で重要な役割を持っている「間」にも近い概念です。
林さんは最初に話をした後、参加者に問いかけをしてくれると言っています。
その問いかけに応じるかたちで、「人はどうして仕事をするのだろうか」という切り口から、いまの社会の問題やそこでの生き方をそれぞれで考えていければと思っています。
アーレントを学ぶ勉強会サロンではなく、アーレントのメッセージを受けて、自分の生き方をちょっと立ち止まって考えるサロンです。
「仕事はしていない」という人もぜひ参加してください。
生きている以上、どんな人も必ず仕事をしているはずですから。
それにアーレントの考えをちょっと知ることだけでも、必ず生きる上でのヒントが得られるはずですし。
〇日時:2020年2月29日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「人はどうして仕事をするのだろうか アーレントからのヒント」
〇話題提供者:林裕也さん(デザイナー)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「外来生物が日本の自然に与える影響」報告(2020年2月17日)
ハイパー・ナチュラリストの木村幸一郎さんの話は、自然への素朴な関心を忘れがちな現代人にとっては、いつも新しい発見があります。
今回のサロンを思い立ったのは、知人からパピルスをもらった時に地植えなどしないようにと注意されたのがきっかけでした。
外来種が問題になっているということは知っていましたが、しっかりと考えたこともなく、花屋さんにめずらしい植物があるとついつい買ってきてしまっていました。
パピルスは大好きなのですが、いつもうまく育てられていません。
そう言えば、わが家の最後の愛犬も外来種でした。
残念ながら新型ウイルスの流行で参加をやめた人もあって、参加者は5人と少なかったのですが、木村さんの話はいつものことながらわかりやすく、話も適度に脱線するので、とてもゆるやかで学びの多いサロンになりました。
しかし、宇宙のテーマにあれだけの人が集まったのに、私たちの身近な生物の話には、どうして人は集まらないのか、とちょっと不思議でした。
外来種とは何かという議論も、改めて考えてみるといろんなことを気づかせてくれます。
「他地域から人為的に持ち込まれた生物」というのがおおかたの理解でしょうが、「他地域」とはどこか、「人為的に」ではなくやって来た生物はどうなのか、など、考えていくといろんな問題にぶつかります。
さらに、生物たちは地域をどう捉えているのだろうか。
自らの生息範囲を広げるという捉え方をすれば、生物にとっては当然の行為ですが、人間であれば戦争が起こるかも知れません。
などと考えていくと、興味は際限なく広がっていきます。
木村さんは、外来種が引き起こす問題として、「捕食」「競合」「交雑」「感染」の4つをあげて説明してくれましたが、外来種がもたらすメリットも少なくありません。
そもそも「稲」も外来種ですから、外来種=悪と考えてはいけないという木村さんの話にはとても共感できます。
人工的に造ったビオトープには、そもそも外来種などという概念がない、と木村さんは言いましたが、まだ私自身、そのメッセージを十分に消化できていませんが、それも大きな気づきのひとつでした
私はどんな問題も、いつも自分の生き方につなげて考えてしまいますので、案内文にも書きましたが、私にとっては外来生物には人間も入りますし、ウイルスも入ります。
日本は島国なので、比較的、生態系が安定してしまい、異質なものへの脆弱性が生まれてしまうため、外来生物が入ってくると、生態系のバランスが崩れやすく、外来種に負けてしまうという話は面白かったです。
つまり「アウェイ」の場のほうが、侵入者にとっては活躍できるというわけです。
「ホーム」に安住していると、いわゆる“ゆでガエル”になりかねない。
もちろん事実はそんなに簡単ではないでしょうが、アウェイの場でこそ活動しやすいということを、いろんな問題(たとえば、引きこもり問題や居場所づくり、コミュニティ議論)につなげて考えると視野が広がります。
私には、目からうろこの気づきがいろいろありました。
世界の歴史は動物が媒介する感染症が大きな役割を果たしているという、ジャレド・ダイアモンドの話もでました。
木村さんは、外来種生物を写真を見せてくれながら、いろいろと解説してくれました。
その紹介をしだしたらきりがありませんが、またどこかで木村さんが講演をするときに、ぜひ聴きに行かれるといいです。
親子で聴くともっといいでしょう。
木村さん、公開型の講演会をするときには、ぜひ案内してください。
実は、私がどうしても4時に退席しないといけなかったので、話し合いの報告はできません。
土壌汚染の話や朱鷺の話、さらには脱成長経済の話まで広がったようですが、参加されたどなたかがフォローしていただけるとうれしいです。
生物の世界は、私たちの生き方と深くつながっています。
生物や自然への関心を高めていきたいと思います。
最近話題の新型コロナウイルスにもちょっと親近感が生まれます。
■湯島サロン「コミュニティは見つけるものか育てるものか」のお誘い(2020年2月16日)
「居心地の良い場」という切り口から、具体的に「コミュニティ」の問題を考えるサロンで話し合ったことを踏まえて、4回目の「コミュニティを考えるサロン」を開催します。
前回の報告の中で、私の感想を3点書かせてもらいました。
(1)コミュニティは参加するものか、育てていくものか。
(2)コミュニティにとっての時間と空間と人間。
(3)コミュニティの開放性と多層性。
こう書くと何やら難しそうな気もしますが、前回の話し合いのように、できるだけ参加者の生活につなげながら、実践的に話し合えればと思います。
前回の報告は下記をご覧ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2020/01/post-41c124.html
それぞれにとっての「居場所」や「コミュニティ」づくりにつながるような話し合いを目指したいと思います。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年3月14日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「コミュニティは見つけるものか育てるものか」
〇問題提起者:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com
■茶色の朝サロン(2020年2月)のご案内(2020年2月16日)
2月のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を2月27日(木曜日)の夕方開催します。
最近、土日がテーマサロンで埋まってしまい、なかなか日程が取れません。
ですから今月も前回同様、ちょっと長目で出入り自由にして、お時間が許す時にぶらっと気楽に立ち寄ってもらうようなスタイルにしました。
テーマは特に決めていませんが、参加した人が話し合いたいテーマを出してもらうようなスタイルで、生活の視点から緩やかな政治を語り合うサロンにしたいと思います。
誰でも歓迎の、ゆるやかな雑談会です。
お気軽にご参加ください。
〇日時:2020年2月27日(木曜日)午後4時〜8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近ちょっと気になることを話し合う」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
■不謹慎な思いから抜け出せません(2020年2月18日)
今朝、フェイスブックに書いたら、意外と肯定的な人が多かったので、ブログにも転載することにしました。
最近、世間の動きに対する反応拒否症に陥っていました。
新聞やテレビの報道にもほとんど関心がなくなっていました。
ほとんどが「意味のない報道」のように思えるからです。
安倍首相の「意味のない質問」という発言は、いまの時代を象徴している「名言」のような気がします。
自ら「意味のない答弁」をしている人でなければ言えない言葉です。
しかし、「意味がない」ということは、別の意味で「大きな意味」を持っているということです。
そういう意味では、「意味がある報道」が増えてきていて、世界を覆い尽くさんとしています。
新型コレラウイルス感染症が、いよいよ“パンデミック”状況を呈し始めました。
政府による健康管理が加速され、生政治がはっきりと見える形になってきました。
国民は自らの健康まで、政府に依存しだしました。
この2週間の報道をみていると改めてここまで来たかと驚きます。
豚コレラの殺処分の報道とクルーズ船での隔離の報道は同じように見えてしまいますし、その先には私たちもきっと殺処分に向かっているのだろうなどと妄想してしまいます。
こんな言い方は不謹慎ですが、豚や鶏の殺処分報道のたびに見えていたことが現実になってきました。
家畜の大量殺処分に違和感を持たなくなれば、次は自分たちであることは当然の結果です。
あの時に、声をあげなかった責めは受けなければいけません。
そんなわけで、数日前からテレビ報道をまた見るようになりました。
テレビを見ていると、来週以降、日本は大変な状況になりそうですね。
〈不要不急の行為〉は差し控えなければいけないようです。
その方針に反対ではありませんが、〈不要不急の行為〉にこそ価値を認めてきた私としては、ますます生きづらくなりそうです。
いや、もしかしたらそうではないかもしれません。
2週間前の京都観光のように、むしろ生きやすくなるかもしれません。
東京国立博物館の「出雲と大和」もすいているかもしれません。
もちろん感染症の拡散媒体にはならないように万全の注意を払いますが、ますます不要不急の活動に精出そうと思います。
まあ、私自身が「不要不急の存在」ですから、消えた方がいいのかもしれませんが。
■嘘つきに囲まれていると嘘つきになっていく(2020年2月20日)
森友問題はどうも結局、国民受けのする茶番劇で終焉してしまいました。
いまや司法の独立性は、夢のまた夢といった感じです。
もはや日本は法治国家ではないことを私たちは認識しなければいけません。
事実が「現実」から引き離されて、誰かによって構築されてしまう。
まさに、いまの社会は、だれかが勝手の構築した嘘の上に成り立っている。
「判決は冤罪、日本は冤罪だらけです、不公平な司法」という、籠池さんの奥さんの姿に、ちょっと真実を感じてしまいます。
国会での野党の追及は、一見するとそうした「つくられた現実」の虚構性を暴こうと頑張っているように見えますが、そもそも、相手が構築した「嘘の上」の現実を基盤にして取り組んでいますから、勝負は最初から決まっています。
いや、捉えようによっては、相手の嘘づくりに加担しているようにさえ見えてきます。
嘘は素直な目で見れば、おのずと見えてきますから、証明などする必要はありません。
その嘘の上に論理や批判を構築していたら、すでにもう嘘の世界で生きていることになってしまいます。
「王様は裸だ」と言えばいいだけの話です。
籠池さんの奥さんのように。
桜を見る会の話で言えば、安倍政権が嘘を言っているのはだれの目にも明らかでしょう。
あるいは森友問題でも行政文書が廃棄されたなどという話は、素直な目を持っていれば、誰にも明明白白としか言いようがない。
素直に考えたら、明確な話が、なぜか難しくなり、嘘を証明しなければいけないような、無法国家になってしまったような気がします。
しかし、多くの国民はそれに唯々諾々と従って、身を任せている。
心理学者のユングが、その著書でこう書いているそうです。
ローマ人はだれもが奴隷に囲まれていた。奴隷とその心理が古代のイタリアに氾濫していた。そして、ローマ人はだれもが、心のなかで、もちろん無意識にだが、奴隷となった。たえず奴隷の雰囲気のなかに生きていたから、無意識を通じて奴隷の心理に冒されたのであった。このような影響から自己を防衛できる人などいなかった。
まさに今の日本の社会はこうなってしまっているのではないか。
そんな気がしてしまうほどに、昨今の日本はおかしくなっているような気がします。
嘘だけはつくまい。
誰かの言葉や書物からではなく、自らの目や体験を大切にしていこうと、改めて思いなおしています。
新型コロナウイルス騒ぎにも、踊らされないようにしようと思います。
安倍首相を見習って、次々と同じような人が育っているのが恐ろしいです。
■第6回リンカーンクラブ研究会「民主主義政治と合意形成」報告(2020年2月24日)
今回は「民主主義政治と合意形成」がテーマでした。
新型コロナウイルス感染症が広がっているなかを、こういうテーマで10人も参加者があったのがうれしかったです。
昨今の感染症の報道状況や社会の反応を見ていると、いまこそ「政治」を語ることの大切さを感じています。
それはともかく、今回はまず武田さんが「合意形成に関するさまざまな視点や課題」について、視点を整理してくれました。
つづいて沖さんも「合意形成のメカニズム」を、公共哲学や紛争解決などにまで視野を広げて、課題の整理をしてくれました。
そしていつものような話し合いと混乱と何となくの「寛容な合意」。
武田さんは、思ってもいなかったことから話しだしました。
合意を求める行為は足し算〈不等式〉に似ているかもしれないと言うのです。
これを文字で説明するのは面倒ですが、簡単に紹介します。
サロンの常連だった太田さんは、2つのリンゴと3つのミカンを見せられて、全部でいくつか、と小学校の時に先生に訊かれて、そのまま、2つのリンゴと3つのミカンですと答えたそうですが、別の同級生は、全部で5つですと答えて褒められたそうです。
この話は、湯島のサロンでは時々話題にでます。
この話を材料に、武田さんは、リンゴとミカンの概念を外して抽象化すると計算が可能になると言います。
つまり、リンゴとミカンの共通項を対象に捉え直し、たとえば果物はいくつかと問われれば太田さんも5つと答えたでしょう。
合意形成とは、要は対象を因数分解して、その共通項を合意していくことではないかというのです。
こうしたことを数式を使って、武田さんは解説してくれました。
とても分かりやすい話で、そこから政治における合意形成の話が広がるはずです。
選挙とは、人間の数値化でもあると武田さんは言いました。
政治学では、複数性というのがキーワードの一つですが(これは2月29日のアレントのサロンで話題になるかもしれません)、これからの社会を考える上でも大切なキーワードです。
次に武田さんは、合意形成の結果のパターンを説明しました。
多数決は一番多数の意見を、合意と見なす形です。
徹底的に話し合って、一つの意見にまとめる方法もあります。
お互いの違いを明確にして、共通する部分を合意とするパターンもありますし、違いを理解し合う “agree to disagree”というパターンもあります。
話し合いで、それぞれの考えとは別の、新しい考えを創発する方法もあります。
これも政治における合意とは何かを考える上でとても示唆に富む話です。
こうした視点や課題を武田さんや沖さんは出してくれたのですが、そのまま話し合いに進めばよかったのですが、政治における合意と生活における合意とは違うのではないかというような話が出てきて、いつものように議論はなかなか収斂に向かいませんでした。
しかしまあ、これが勉強会ではない湯島のサロンの特徴なのです。
話し合いの中からそれぞれがいろんな気付きを得ることが最優先ですので。
私は、合意という概念が出てきたのは、他者と自我を峻別できるようになり、人権概念が出てきた近代になってからだろうと思います。
そして近代政治の基軸にあるのは、「合意形成」だと今回改めて気づきましたので、武田さんに頼んで、このテーマをまたやりたいと思っています。
今回は議論の入り口で終わったような気がして、ちょっと物足りません。
武田さんを説得できれば、次回もこのテーマで行きたいと思っています。
他の魅力的なテーマが出てくれば別ですが。
■コムケアサロン「〈当事者支援者〉の現状と課題、そして今後」報告(2020年2月25日)
14人の参加者があり、このテーマへの関心の高さを改めて感じました。
前日の政治関連のサロンは全員が男性でしたが、今回はむしろ女性が多かったのも印象的でした。そこにも現在の社会のひずみを感じます。
最近は、支援の考え方も大きく変化してきています。
「わたし支援する人、あなた支援される人」というように、支援を一方向的に捉えるのではなく、相互に「支援し支援される関係」として捉えるようになってきています。
コムケア活動は、最初の選考会でも申し上げたのですが、ケアとはそれによって自らも成長していくことだという、ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」のメッセージを理念としています。
しかし、その考えはまだまだ「理念」の世界にとどまっているようにも思えます。
今回のテーマ〈当事者支援者〉は、そうした現状を象徴していると同時に、そうした状況をどうやって越えていくかという大きなメッセージが込められています。
つまり、理念的であると同時に、きわめて現実的なテーマであり、個別的であるとともに、普遍的なテーマです。
サロンは、実際に〈当事者支援者〉を名乗って活動している下さんが、実践を通して考えてきたことを参加者に問いかけることから始まりました。
そして、長年、発達障害の当事者としてさまざまな活動に取り組んできている冠地さんが、ファシリテートする形で参加者との議論を深めるような形で進められました。
下さんはまず、〈当事者支援者〉と言えるには3つの条件が必要ではないかと問いかけました。
・病気や障害などの困難な状況を経験したが、いまは生活者として最低限の回復をしていること
・体験や工夫を支援ツールとして活用できること
・支援者としての求められることを果たせること
話し合いはここから入りました。
当然ながら、「当事者」とはなにか、「支援」とはなにか、「生活者」とはなにかということが話題になりました。
つづいて、〈当事者支援者〉のリスク(気をつけなければいけないこと)と強み(当事者であればこそできること)が話題になりました。
そして、ピアサポーターとの関係や当事者開示に関する話し合いへと広がっていきました。さまざまな立場の人が参加していましたので、さまざまな視点からの事例の紹介や問題指摘、あるいは質問などが出されました。
〈当事者支援者〉という言葉や活動も、すでにいろんな形で広がっていますが、ともすると私たちは、〈当事者支援者〉と〈ピアサポーター〉を同じように捉えてしまいがちです。
しかし、その渦中にいる下さんや冠地さんにとっては、両者は全く違うものなのです。
支援の深さの違いぐらいにしか理解していない人も多いと思いますが、冠地さんの説明で、それらが全く異質なものであることを、今回私も気づかせてもらいました。
私が一番印象的だったのは、支援活動における「障害者の権利主張」という話でした。
〈当事者支援者〉と〈ピアサポーター〉の違いのポイントがそこにあるのかもしれません。
下さんの提案や話し合いの内容に関しては、私には十分に紹介する能力がありませんので、下さんの報告(フェイスブックで少し紹介されています)に任せたいですが、私の感想を書いておきます。
下さんや冠地さんは、プロの仕事としての〈当事者支援職〉の確立を目指しています。
そしてそうした取り組みを通して、日本の「支援」活動はもちろん、社会のあり方を変えていきたいと考えています。
そのビジョンにはとても共感しますが、そのためには、「当事者が支援活動をすること」の意味をしっかりと社会がシェアしていくことが大切ではないかと思いました。
同時に、「支援」の仕方はさまざまで、それらは上下関係にあるわけではなく、さまざまな支援のあり方が支え合い、補うことが社会を豊かにしていくという認識も、社会でシェアしていく必要があると思いました。
この点は冠地さんが繰り返し話してくれていました。
メイヤロフの言っている通り、支援活動を通して当事者も「支援」されるとすれば、〈当事者支援者〉という概念を広げていくことで、「当事者」とか「支援者」といった概念はなくなっていくかもしれません。
それは同時に、「支援」の質を高めていくことであり、さらに言えば、個別問題の解決を超えて、社会のあり方を変えていくことにつながるかもしれません。
一挙に話を大きくしてしまいましたが、冠地さんと下さんが目指しているのは、そうした大きな社会変革の話ではないかと思いました。
そうであれば、1回だけのサロンでは問題の存在を少しだけシェアしただけで終わってしまいかねません。
そうならないためには、この問題は湯島のサロンでも継続的に取り上げていきたいと思いました。
今回のサロンでは、下さんは自らの考えを出しながら、参加者との話し合いや冠地さんとのやり取りを通して、〈当事者支援者〉構想とその実践計画を深化させていっていたように思いますが、そうした場をこれからもまた開いてもらおうと思います。
また、下さんとは別に、大きな意味で〈当事者支援者〉構想につながっていくようなテーマのサロンを、コムケアサロンとして企画していきたいと思います。
問題の所在を知ってしまったら、それぞれにできることに取り組むことが、コムケアの精神ですので。
■第7回リンカーンクラブ研究会「〈多数者の専制〉を回避する方策」のご案内(2020年3月2日)
3月のリンカーンクラブ研究会は、前回、武田さんと沖さんが「民主主義政治における合意形成」の視点と課題を整理してくださいましたので、それを踏まえて、「民主主義政治と合意形成パート2」です。
政府与党が多数決ですべてを決定するような事態を回避する方法を具体的に話し合いながら、現在の日本の政治体制の問題点を考え、それを是正していくための方策を考えていきたいと思います。
J.S.ミルやトクヴィルが心配した〈多数者の専制〉がまさに現実になってきている今の日本の政治をどう変えていくかということを、抽象的にではなく具体的に考えていこうということです。
一応、前回の議論を踏まえての話し合いですが、最初に私から前回の議論のポイントを簡単に紹介しますので、前回参加していなくても大丈夫です。
併せて、前回の最後で少し話題になった、リンカーンクラブとしての取り組み方針を武田さんに語ってもらおうと思います。
政治に関心のある方もない方も、どなたでも歓迎です。
はじめての方も含めて、気楽にご参加ください。
〇日時:2020年3月22日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「〈多数者の専制〉を回避する方策」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「人はどうして仕事をするのだろうか アーレントからのヒント」報告(2020年3月2日)
「人はどうして仕事をするのだろうか」という問いを、社会との関係において考えてみようという林さんのサロンは、新型ウイルス騒ぎの影響もあって、参加者は9人でした。
林裕也さんはデザイナーですが、最初にこれまでの仕事のことを、取り組みだした経緯も含めて紹介してくれました。
林さんは一人で活動していますが、4つのタイプの仕事にわけてくれました。
取り組みだした順番にそって整理すると、「クライアントワーク(ライスワーク)」「ボランティアワーク」「アートワーク」「まちづくり活動」です。
そして、林さんにとっての、それぞれの意味合いや活動内容も話してくれました。
そうした林さんの取り組みのなかに、「人はどうして仕事をするのだろうか」を考えるヒントがたくさん含まれていました。
クライアントワーク(ライスワーク)は、字義通り「ご飯を食べるための活動」です。
多くの人は学校を卒業すると、ごく自然に、家族から自立することを意識して「仕事」を始めます。
その対価は、多くの場合、金銭的な報酬です。
林さんにとっては、それは「やらなければならない仕事」だったといいます。
しかし、人によっては、それだけでは満足できずに、あるきっかけで「ボランティアワーク」に取り組みだします。
林さんの場合は、東日本大震災でした。
社会的な使命感もあったのでしょうが、林さんは、単純に「やりたかった」ので、ここでも自然に取り組んだそうです。
その体験がもしかしたら、林さんに自分ができることを目覚めさせたのかもしれません。
そして、取り組みだしたのが、アートワーク。
そして、つづいて「まちづくり活動」へと広がってきているようです。
林さんの活動がこういう形で、広がってきた理由の一つに、人との付き合いの広がりがあるようです。
クライアントワークの場合は、付き合いの範囲も限定されがちですが、ボランティアワークやアートワーク、まちづくりワークの場合、いろんな人との出会いが起こります。
そこでこれまでとは違った「働き方」が始まってきているのかもしれません。
といっても、その「働き(仕事)」は同じではありません。
ボランティアワークは対価など発生せず、むしろ出費が発生します。
そこで、林さんは「仕事」とは何だろうという課題にぶつかったのかもしれません。
そして、「人はどうして仕事をするのだろうか」という問いかけになったわけです。
そんな時に出合ったのがハンナ・アーレント。
ハンナ・アーレントは、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる思想家です。
彼女は、人間の活動的生活を労働、仕事、活動の3つに分けています。
この3つの違いは、なかなかわかりにくいのですが、おおざっぱに言えば、「労働」とは生命維持のための活動、「仕事」とは価値あるものを創り出す活動、「活動」とは他者に働きかける活動です。
林さんはその視点で、自分の仕事の意味を考えると、いずれにも3つの要素があると言います。
しかし、その3つの視点を持つことで、仕事に対する捉え方が変わってきたそうです。「人はどうして仕事をするのか、という問いの答はまだ明確ではないそうですが、「人間として生きていきたい」という思いから「仕事」を考えていくようになったそうです。
人間として生きていくための活動(仕事)のあり方は具体的にはどういうことなのか。
果たしていま多くの人は「人間」としての仕事をしているのだろうか。
そうはいっても、対価のない仕事だけでは生きていけない社会ではないか。
しかしその一方で、対価をもらう仕事はストレスも多くて、大変だ。
そんな話し合いが、行われました。
人の生き方や仕事の多様性の問題などもちょっと話題になりましたが、十分には掘り下げられませんでした。
このテーマは、もう一度、それぞれの仕事観を持ち寄っての話し合いをぜひともしたいと思っています。
■改めて「茶色の朝」のお勧め(2020年3月3日)
新型コロナウイルスの感染が拡大する北海道に、政府がメーカーからマスクを買い取って配布すると発表されました。
なにかおかしい。
先日の政府による学校の一斉休校方針にしろ、なにかおかしい気がしますが、新型ウイルスの広がりを防ぐためには仕方がないと言われると黙らざるを得ない。
店頭からトイレットペーパーがなくなる事態はまだ続いていますが、これは多くの人が政府や社会を信頼していないあらわれです。
その信頼できない政府の方針や呼びかけには応じてしまう。
不要不急の判断まで政府に任せてしまう。
そうしたおかしな風景が社会を覆いだしました。
20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話「茶色の朝」という絵本が日本でも翻訳出版されています。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
湯島では毎月、「茶色の朝」に触発されて茶色の朝サロン(BMSサロン)を開催しています。
誰にでも公開ですので、お時間が許せば参加してください。
次回はまだ日程は決めていませんが、3月20日(または26日)を予定しています。
日程が決まったら改めてご案内します。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
すぐ読めますので、ぜひお読みください。
■茶色の朝サロン「種苗法を考える」のご案内(2020年3月5日)
3月のBMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)を3月26日(木曜日)の午後、開催します。
今回は、主に「種苗法」を取り上げます。
霜里農場の金子友子さんに来ていただき、種苗法の動きやその意味を話してもらいます。
有機農業に取り組んでいる立場から、これからの農や食への不安や問題を、生活者目線でお話をしてもらおうと思います。
後半は、いつものように、参加者それぞれがちょっと気になっていること自由に話すスタイルにしたいと思います。
誰でも歓迎の、ゆるやかな雑談会です。
お気軽にご参加ください。
〇日時:2020年3月26日(木曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:今回の主要テーマは種苗法(ただしそれに限りません)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
なお、このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
■「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)をお薦めします(2020年3月6日)
湯島サロン仲間の折原利男さんの新著「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)が出版されました。ドイツの脱原発倫理委員会メンバーのミランダ・シュラーズさんを日本にお迎えし、各地で行った講演会や市民との話し合いなどの記録をまとめたものです。折原さんが、随所に最新の情報や注釈をていねいに補記してくれています。
脱原発政策に転じたドイツが、実際にどう変わってきているかが具体的に伝わってきます。
自らの生き方にも実践的なヒントがもらえる本なので、多くの人に読んでいただきたく、紹介させてもらいます。
書名は、3.11の福島原発事故後話題になった、福島原発のある双葉町にあった大きな看板「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語をもじったものです。
単に「脱原子力」ではなく、未来に向けてのビジョンが具体的に語られています。
副題が『ミランダ・シュラーズさんと考える「日本の進むべき道筋」』となっていますが、道筋だけではなく、その進め方に関しても具体的に語られています。
とりわけ、高校生との対話で呼びかけられているミランダさんのメッセージは実践的で、私たち大人も傾聴し実践すべき内容です。
環境NGOの満田夏花さんが推薦文で、「原発をどうするのか。それは単なるエネルギーの問題だけでなく、民主主義の問題であり、私たちの暮らしや生業、環境の問題であり、私たちや未来の世代に何を残すかという選択の問題であることを、この本は、決して押しつけがましくなく、平易だが確固とした言葉で指し示してくれている」と書いていますが、まさにその通り。ともかく、ぜひ読んでいただきたいと思います。
蛇足になりかねませんが、私が特に印象的だったことを3つだけ紹介します。
ドイツでは、いま、「エネルギー自給村」や「エネルギー協同組合」が広がっています。自然エネルギーに投資するということは、地域の生活の未来を考えることであり、脱原発というエネルギー転換は雇用の創出につながっているそうです。
それは、循環型・持続型の経済へと経済や産業の枠組みを変え、人々の働き方を変えることにもつながっているようです。
また、ある地域は風力、ある地域はソーラーというように、自然立地の差を生かした自然エネルギーの支え合いが展開されることで、表情ある地域整備が始まっているようです。これまでのような地域開発とは発想が全く違います。
政治の進め方に関しても、大きな変化があるようです。ミランダさんは、それを「ドイツのもうひとつの革命」と表現しています。
脱原発が決まった後、それを推進していくために、政府と国民をしっかりとつなぐ仕組みがつくられたそうです。そして、国民の信頼を得るには市民たちとの交流が必要であるという考えで、直接、国民に呼びかけて政治への参加を実現したそうです。
ミランダさんは、「脱原発は民主主義のあり方とも結びついている」と言っていますが、脱原発を通して、ドイツではデモクラシーが問い直されているようです。
経済パラダイム、地域開発パラダイム、そして政治パラダイム。
この3つのパラダイムシフトが読み取れますが、さらにミランダさんは「倫理」とか「プロテクト」という人間としての生き方にも言及されています。
学ぶことが盛りだくさんの内容ですが、それらがとても平易な生活言葉で書かれています。
そして、ミランダさんの「前向きに目の前の状況を一つひとつ改善し、明日に向かってより良く変革していく」姿勢から大きな元気がもらえます。
最後にちょっと長いですが、ミランダさんがフクシマの高校生たちとのトークセッションで高校生たちに話したメッセージを引用します。
「今世のなかを見ると、民主主義が危ないんですよ。あなたたちの時代は大変なことが始まっている。民主主義を助けてあげないといけない、自分たちの未来を強くするためにも」
「皆が自分の考えていることを言う[のが民主主義]」
「いろんな意見があるから、それをちゃんと発言しないと、民主主義が消えてしまう」
(高校生たちから、自分たちにできることはあるかと問われて)「自分の地域の政治家に手紙を出したことありますか? 自分だけでなくて高校のみんなが政治家に手紙を書いて送る。安倍首相に手紙を書いたことありますか。書いたらどうでしょうか。そしてその手紙を新聞社やジャーナリストに送ったらどうですか」
機会があれば、折原さんに湯島でサロンをやってもらおうと思いますが、まずはぜひ本書を読んでもらえればうれしいです。
もし本書を入手されたい方は、折原さんに直接ご連絡いただければ、税、送料込みで1800円で送ってくれるそうです。
私にご連絡いただければ折原さんの連絡先をお伝えします。
■湯島サロン「農福連携から見えてきたもの」報告(2020年3月6日)
「農」も「福祉」も実践しながら農福連携のあり方を研究している宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所相談役)に、今年もまたサロンをお願いしました。
宮田さんには定期的にその活動を報告してもらっていますが、いつも実践活動を通した新しい発見と世界に触れられます。
今回のメッセージは、「地域を支えるはコミュニティ=小さな事業者の協働。小さいことはいいことだ!」ということでした。
宮田さんは、まず全国の事例研究を踏まえての「農福連携」の3つのステップから話し出しました。
いいかえれば、農福連携を進めていくための3つの課題と言ってもいいでしょう。
第1ステップは農業者と障害者の出合いの場をつくることです。
第2ステップは、その出合いからどのような活動を生み出すか。つまりお互いの良さをどう活かし合っていくかです。
そして第3ステップは、そうした多様な活動を通して、事業者として雇用の場を創出し、地域経済の担い手になっていくということです。
こうしたステップはまさに地域づくりそのものですが、その過程でさらにさまざまな人のつながりが育ち、そこから新しい地域コミュニティ(地域共生社会)が形成されていくと宮田さんは考えています。
農福連携の出発点は、労働力不足で行き詰まっている農業と福祉をつなぐことで問題を解決しようということでしたが、いまや地域経済を主導し、人間主役の新しいコミュニティを生み出す、きわめて積極的な活動になってきているわけです。
そうした活動のためには、3つのことが大切だと宮田さんはいいます。
時間をかけた地道な積み重ね、顔の見える人のネットワーク、活動を継続していくための資金を回していくマネジメント力。
すでにいろいろな成功事例も出てきているとして、福島県の社会福祉法人こころんの活動を紹介してくれました。
さらに農水省が進めているビジョンや人の育成のプログラム、農業版ジョブコーチや農福連携技術支援者養成などについても紹介してくれました。
そうした話を踏まえて、宮田さんは、現実に地域にいる農福連携の主体は大企業でも公機関でもなく、小規模な事業者であるということを忘れてはならないと強調しました。
小規模な事業者は、経済主体であると同時に、生活主体でもあり、そして文化主体でもある。そういう地域共生社会の主体である事業主体が、学習する組織として成長することが地域再編成のカギとなるというのです。
そして、京都大学岡田教授の提唱している「地域内再投資論」を少し紹介してくれ、これからの経済のあり方にも示唆を与えてくれました。
そこからさらに話は広がっていくのですが、長くなるので省略して、最後に宮田さんが話したことを、言葉もそのままに紹介します。
生きる。食べる。はたらく。つくる。これが人間社会の根源的なしくみ。
これが本当なら、人と人が有機的に結びつくような関係性が社会の基調となる。
最近、都会ではこれをオーガニックと呼び、人と人がつながる動きが始まっている。
やがて、私たち『田舎者の出番』が来る社会になります。
「オーガニックな社会」
共感できます。
『田舎者』に期待したいです。
宮田さんの今年の活動計画も話してくれました。
海外も含めて、今年も宮田さんの活動はさらに広がりそうです。
次回のサロンが楽しみです。
■湯島サロン「くじらのことをもっと知ろう!」のご案内(2020年3月7日)
今回はクジラをテーマにしたサロンの案内です。
クジラと日本人のつながりはかなり深いものがあります。
数年前にテレビで、日本の捕鯨発祥の地と言われる和歌山県の太地町の人たちのドキュメンタリー番組を観ました。
世界的に捕鯨が問題にされ、“THE COVE”という反捕鯨キャンペーンのような映画で太地のイルカ漁が話題にされていたころです。
その番組は、私たちにとても大切なことを呼びかけていました。
その太地に知人の小室美登利さんが取材に行くという話をお聞きしました。
となればもうサロンをお願いするしかありません。
そこでお願いしたら、小室さんは、日本の捕鯨問題の専門家である水産ジャーナリストの梅崎義人さんにも声をかけてくださり、2人のサロンが実現しました。
お2人のプロフィールは、添付の小室さんからのメッセージをご覧ください。
たぶんどんな切り口からでも話していただけると思いますので、最初におふたりから少しお話していただいた後、参加者の関心事を出してもらいながら、それにそって話し合えればと思います。
また小室さんから鯨に関する2つの雑誌記事をいただきました。
これも添付しますので、ご関心のある方はお読みください。
○日時:2020年3月28日(土曜日)午後2時〜4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「くじらのことをもっと知ろう!」
○話題提供者:梅崎義人さん(水産ジャーナリスト)と小室美登利さん(編集者)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「新型コロナウィルスにまつわるちょっと(いやかなり)気になること」のご案内(2020年3月9日)
今回は人によってはちょっと不謹慎と思われそうなサロンです。
もちろん私は極めてまじめに企画していますが。
テーマは「新型コロナウィルスに関するちょっと(いやかなり)気になること」です。
新型コロナウィルスの関するサロンは3回目ですが、今回は一部で流れている「陰謀説」も含めて、視野を広げてみたいと思います。
妄想と一蹴される方もいるでしょうし、面白がる人もいるでしょうが、私にはそうした風説のなかにもいろんな示唆があるように思います。
私のところにも複数の人たちから、その種の話が届いていますが、今回は話題提供者に中嶋一統さんをお願いしました。
中嶋さんは、ご自身の一次情報も含めて、さまざまな情報から、陰謀のにおいを感じているようです。
詳しくは当日お話ししていただきます。
そして、そうした情報から今後の見通しに関するお話もしていただきます。
中嶋さんの話がどれほどの真実さを持っているかは、5月になるとわかるかもしれません。そうしたことも含めて、先が見えてくるようになる前にサロンを開催してもらうことにしました。
中嶋さんにはかなりリスクのある話ですが、先が見えてきてからの後知恵の話は中嶋さんをわずらわせることもないでしょう。
中嶋さんからのメッセージをどうぞ。
新型コロナウィルスは、細菌生物兵器なんじゃないかという説があります。
これが期せずして漏れて拡散したのなら「事故」ですが、意図的に撒かれたものであるならそれは「陰謀工作」です。
こうした事案が生じた時、我々が自分自身や家族または会社を守るために考えねばならないのは、正しい対策です。
正しい対策には、正しい予測が必要です。
正しい予測には、正しい情報や正しい推理推測が必要です。
情報の正しさを判断する方法、推理推測をできるだけ正しく行う方法について、ご一緒に考えてみませんか?
「陰謀工作」が世に存在することは、今や常識です。
であれば、「工作」なのか「事故」なのかを正しく判断する必要があります。
仮に「工作」であれば、その目的からシナリオを読み解くことで、未来予測ができるはずですから。
こう誘われると参加しないわけにはいきません。
平日の午後なので参加が難しいかもしれませんが、ちょっと(いやかなり)無理をしてでも、ぜひご参加ください。
こんな危うい話をするので、中嶋さんが「陰謀」に巻き込まれて、当日来られないかもしれない不安もありますが、そうならないことを祈ります。
〇日時:2020年3月24日(火曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「新型コロナウィルスにまつわるちょっと(いやかなり)気になること」
〇話題提供者:中嶋一統さん(「陰謀論」研究家/話し方教室主宰/ヒット商品企画)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「私たちは無用者階級になるのか」報告(2020年3月10日)
新型コロナウイルスが広がっている中を、今回も10人の人が集まりました。
最初に、坪田さんからイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』そして最新作の『21Lessons』を、簡潔に要約してもらいました。
坪田さんは要約の資料もつくってきてくれたので、「30分でわかるハラリ講座」で厚い5冊の本を読まなくても、ハラリの主張の概要がシェアできました。
内容の詳細は報告できませんが、坪田さんの最後のまとめだけ紹介しておきます。
ホモ・サピエンスは「集団の団結」で発展してきた。
そのために「空想的虚構」を生みだしてきた。
その最たるものが「神」、さらに「国家」。
科学の力で「神の意図」を読み解いた結果、その力で、自分たちを「無用者階級」にしようとしている。
つまり私たちの未来は、AI(人工知能)を駆使した一部の支配階級(「ホモ・デウス」)によって、「無用者階級」にさせられてしまうというのです。
それを踏まえて、坪田さんの問いかけである、ハラリの描く未来、つまり、人類は1%の富裕層が支配して、99%の人間は働く必要もなく、ただ生きているだけの「無用者階級」になる世界はほんとうに来るのか? そしてその時、「無用者階級」は何を「人生の意義」にするのか。という話に入りました。
「無用者階級」になることをどう受け止めるか。
そこに「明るい未来」を見るか、「暗い未来」を見るかがポイントです。
私にとって意外だったのは、明るい未来を見た人が少なかったことです。
たしかにハラリ自身、2冊の本で、「明るい未来」を語る口調ではありません。
そもそも、農業革命にも言葉の発明にも、そこに人類の不幸の始まりさえにおわせているのがハラリの歴史観ですので、どうしても未来は暗くなってしまうのかもしれません。
しかし、私は「無用者階級」に幸せと可能性を感じます。
思いきり自由になれるではないかと思ってしまうわけです。
なにしろやらなければいけない「用」から解放されるのですから。
林さんのアーレントのサロンで語られた「労働」と「活動」を思い出せば、「無用」のイメージがとてもバラ色に見えてきます。
しかし多くの人は、「仕事」や「役割」を果たさないといけないと思い込んでいるようです。
そう言えば、定年退社した高齢者はやることがなくて大変だという話もあります。
「無用者階級」って飼育される「家畜」のような存在、あるいは支配される「奴隷」のような存在ではないかという受け止め方もありました。
映画「ブレードランナー」に出てくるような存在を思い出す人が多いのでしょうか。
たしかに、ハラリはそういうように読ませようとしているようにも思います。
しかし、価値観を変えれば全くイメージは変わります。
ハラリがどう言おうと未来をディストピアと決める必要はありません。
労働や生産から解放され、社会を統治したり支配管理したりするような「わずらわしい使命」からも自由になって、生きることを楽しむことができるのではないか。
無用者階級の仕事は「消費」と「遊び」と言ってもいいかもしれません。
そもそも現在の経済は、「生産」よりも「消費」に重点が移ってきているとも言えます。
AI(人工知能)が「生産」をしてくれて、人間は「消費」をするという経済に変わるのかもしれません。
資本主義の次には、「潤沢の時代」がやってくるというビジョンを出している人もいます。
まあそんなにうまくは行かないという気もしますが、大切なのは、いまの経済や政治の枠組みを変えていく発想を持ちたいと思います。
ただ問題は、「ホモ・デウス」と「無用者階級」の対立なのかということです。
ハラリは「データ教」という概念とAI(人工知能)を重視していますが、そうしたものには「意識」が生まれないと考えています。
アルゴリズムはあくまでも「問題を解くための手順をパターン化したもの」であって、人類にとっての道具だと考えています。
そうした議論もありましたが、結局、「ホモ・デウス」と「無用者階級」のどちらがとAI(人工知能)を味方にするかというような話になりました。
しかし、そうなのか。
むしろ対立構造が全く変わるのではないか、と私は思います。
つまり、「ホモ・デウス」対「無用者階級」という人類同士の対立ではなく、「人類」対「AI(システム)」)の対立になっていく。
となると、問題は俄然おもしろくなってくる。
というわけで、話はいろいろと広がりました。
均一と捉えられていた労働者階級を多様な個人の有機的なつながりと捉え直した「マルチチュード」概念も話題にでました。
消費と文化を基軸に生き方を再構成しようとした1960年代の緑色革命のヒッピーやポリアモリー(複数のパートナーとの間で親密な関係を持つコミュニティ)も話題になりました。
ネアンダール人とホモ・サピエンスがなぜ主役交代したのかも話が出ました。
関係論や分人論、ネットワーク論やスモールワールド論なども話題になりました。
ユダヤ人陰謀説までちょっと話題になりました。
いずれにしろハラリのメッセージは多岐にわたっているので、話は尽きません。
ちなみに、坪田さんは、ハラリの問いかけを受けて、では私たちはどうすればいいのかをこれから解こうとしているそうです。
次回はそうした坪田さんの文明ビジョンとアクションプログラムのサロンをしてもらえるかもしれません。
■社会をどちらの方向に変えましょうか(2020年3月13日)
相変わらず毎日、新型ウイルス感染症の感染者人数の詳細な報告が続いています。
加えてマスク不足と不当な販売のニュースもつづいています。
いずれも不安をあおり、マスクによる不当利益を得やすい環境づくりに努めているとしか思えません。
マスクは今でも日本国中に余っていると思いますが、ますます暴利商品にしているので、公開の場に放出されないでしょう。本当にその気があれば、即時に通販サイトでの販売を禁止すべきですが、それをやらないのはそうした闇ルートと政治がつながっている証拠です。
静岡の県議がマスク転売で話題になりましたが、そんな小さな話に騙されてはいけません。
感染者の感染ルートをせんさくすることで、いらぬ疑心暗鬼を引き起こしているのも腹立たしい。むしろ問題解決への関心から目を背けさせています。
不安状況をつくるためにも、ウイルスは実態データはあいまいにしながら、ひっ迫感を煽るデータは作り続けているのかとついつい勘ぐりたくもなります。
だれが「意図」しているのだと思いますが、そこに明らかに「意図」を感じます。
それを「陰謀」という人もいますが、まさに今はいたるところに、「陰謀」は張り巡らされている気がします。
表面的に見えることと裏に隠されていることとは違いますが、先入観から自由になれば、いずれからもそれなりに真実は見えてくるものです。
「陰謀」という言葉で、隠されてしまうことをこそ、気にしなければいけません。
この視点は、湯島のサロンでも時々話題にしていますが、「陰謀」という言葉にこそ「陰謀」が含意されているというのが、サロンを時々やってくれている中嶋さんの考えです。
「陰謀」という言葉に騙されてはいけません。
陰謀は、単に隠された謀(はかりごと)であって、日常的な現実のことなのです。
ちなみに、私は新型ウイルス騒ぎには特別の不安を感じていません。
誰かの陰謀、あるいは意図に踊らされることのない、自分の素直な心身で事実を見て、素直な対応を取れば、ウイルスも怖くはありません。
だからと言って、完全にウイルスから自由であるとは思っていませんが、生命は時に病むこともあり、回復できないこともあります。
それは別に新型コロナウイルスに限ったことではありません。
生命を脅かすものは、新型コロナウイルスだけではないのです。
政府やマスコミなどの情報に振り回されることなく、自分をしっかりと生きるのがいいです。
オリンピックに関しても、関係者の多くは、延期も中止も全く考えていないという、驚くべき発言をしています。
これも現在の新型ウイルス騒ぎとまあったく同じです。
感染状況を調べようとせずに、砂上の対策を立てつづけるのと同じように、事実を踏まえて、あらゆる可能性を視野に置いて、オリンピックを成功させようという姿勢は感じられません。
もし本当に実現したいのであれば、中止のしなりをも含めて吟味しなければ、うまくいく桃の喪うまくいかないでしょう。
つまりやる気がないということです。
IOCがWHOに、責任を投げたように。
ただ今回のウイルス騒動で一つだけ私にはよかったと思えることがあります。
たぶんこれを契機に、私たちの生き方が変わるだけでなく、制度疲労していたいろいろな制度が、たとえば学校や企業が変わることでしょう。
人々の意識も変わる契機が与えられたようにも思います。
だとした、これからどんな社会を目指すのか、その方向性は私たちで決められるかもしれません。
私は、時代の方向性をしっかりと決めていますが、もしかしたらその方向に向かわせられるかもしれません。
私には、新型コロナウイルスには感謝しこそすれ、「ウイルスが悪い」などという思いはまったくありません。
■湯島サロン「コミュニティは見つけるものか育てるものか」報告(2020年3月16日)
4回目の「コミュニティを考えるサロン」は、「なぜあなたはコミュニティを求めるのですか」「いま何が欠けているのですか」という問いかけから、話し合いを始めました。
参加者は13人、世代は20代から70代まで、さまざまでした。
他者と思いを共有したい、生を実感したい、異質さと触れ合いたい、安心や幸せを感じたい、信頼関係に身を置きたい、愛を感じたい、気を通わせ合いたい、気兼ねなく「ただボーっと」いっしょの時間と空間を共有していたい、いや適度の刺激を受けたい、など、さまざまな要素が出てきました。
要素はいろいろでしたが、共通しているのは、当然ですが「他者の存在」です。
どこかに引きこもって一人でいても、それはコミュニティではなく、満たされた空間でもありません。
他者との共存が、豊かで幸せな人生には、どうも不可欠な要素のようです。
つまり、コミュニティを考えるとは「他者とのつながり方」を考えるということです。
参加者からの意見には一見、相反するものもありました。
たとえば、生さえも忘れるような平安と適度に生を感じさせてくれる刺激。
たとえば、疲れを癒される休息感と新たな挑戦に旅立ちたくなる高揚感。
主客の関係もまた複雑です。愛されたいのか愛したいのか、信頼したいのか信頼されたいのか、それは全く別のものですが、混同して考えがちです。
人は愛したり信頼したりすることはできますが、愛されたり信頼されたりすることは、他者の問題ですから自由にはなりません。しかし、ともすると私たちはそれを勘違いしてしまう。
時間も同じように変化していきます。
信頼関係や愛(思いやり)に満たされた関係も、不変ではありません。
時間の経過、環境の変化の中で、突然に崩れることがないとは言えません。
信頼や愛が「存在」することが重要なのか、そうしたことを創り出していく「過程」(の充実感)が重要なのかも、人によって違うでしょう。
いつも信頼や愛や安心が満ち溢れているのが「コミュニティ」ではないでしょう。不信や憎しみや不安があるのもまた「コミュニティ」かもしれません。
しかも、信頼や愛や安心などには、実際には常に緊張関係が含まれています。
信頼や愛や安心を持続していくための緊張感と持続できなくなった時の不安感。
「他者とのつながり方」ですから、常に不安定の要素があります。
これまでも世界中にいろいろな「コミュニティ」が生まれましたが、とてもコミュニティとはいえないような人間集団になってしまったものも少なくありません。
かつての村落共同体や高度経済成長期の日本の企業コミュニティも、良い面もあれば、抜け出したい面もありました。
そんなことをいろいろと考えるヒントがたくさん出されたような気がします。
それにしても、みんなそれぞれに「自分のコミュニティ」を持っているはずなので、どうして「コミュニティ」をテーマにしたサロンが4回もつづくのでしょうか。
参加者のおひとりが、すでにいろんなつながりを持っているが、最後まで心配もなく逝くことができるだろうかちょっと不安というような話をされました。
「生きるためのコミュニティ」とは別に、「死ぬためのコミュニティ」も大切かもしれません。これに関しては、これまでも湯島でいろいろと取り組んできましたが、まだ中途半端にとどまっています。
結論を見つけ出すサロンではないので、それぞれに気づきがあればそれでいいのですが、話し合いを聞いていて、まだ多くの人が、「コミュニティ」を観察的に考えているのではないかという気がしました。
私たちは、どこかで「コミュニティ」を観察的に考えています。
そもそも「コミュニティ」という言葉自体が、外在的なイメージです。
それでは学者の議論にはなるかもしれませんが、生活の役には立たないのではないか。
自らが生きやすい人のつながりをつくることに関心があるのであれば、「コミュニティ」という言葉から一度、自由になることが必要ではないか。
だれにも、必ず自らの生の拠り所になっている「人との関係」はあるはずです。
まずは、それを自分のコミュニティと捉えて、そこから自らのコミュニティ(世界)を広げていくのがいいのかもしれません。
自分の周りに、コミュニティは広がっていると思うと世界は一変するかもしれません。
それにコミュニティはひとつである必要はありませんし、未来永劫抜け出せないわけでもない。
エマニュエル・トッドが、人類の歴史は夫婦(家族)という2人の社会から始まったと言っていますが、言い換えれば、まずは「コミュニティ」をつくることで、人類は生きる基盤をつくりだしたともいえます。
私たちは、意識していなかったとしても、生きると同時にコミュニティを育ててきているはずです。
「コミュニティ」は観察する対象ではなく、生きてきた足跡のなかに育ってきているものかもしれません。
長くなってしまいましたが、肝心のことがまだ書けていない気もします。
このまま書き続けると1冊の本になりそうなくらい、論点はたくさんあった気がします。
今回は、次の3つの課題を意識した話し合いをさせてもらいました。
(1)コミュニティは参加するものか、育てていくものか。
(2)コミュニティにとっての時間と空間と人間。
(3)コミュニティの開放性と多層性。
これらに関しては直接的な議論はしませんでしたが、それぞれに考えてもらえたと思います。
どこかに焦点を絞って、もう少し話し合いたいという方がいたら、5回目のサロンをしようと思います。
ご希望の方がいたらご連絡ください。
■湯島サロン「生活者目線で循環型社会を目指す-二本松での実践」のお誘い(2020年3月19日)
新型コロナウイルス騒ぎで、世界中がパニックを引き起こしているような最近ですが、こんな時こそ、自然や生命の原点に立ち返って、自らの生き方を取り戻したいと思います。
そう思っていた矢先に、サロン仲間の小林康子さんから、福島県の二本松市で、自然といのちを輝かせて生きている人がいるので、その人のサロンをやったらどうかと提案を受けました。
一般社団法人いのちまるごと輝くを主宰している片平正子さんです。
http://inomaru.jpn.org/
片平さんは、自然とのつながりを感じる活動を通して、一人ひとりの人が、自身の中にある「いのち」や「魂」の輝きを取り戻し、さらに多くのことにつながっていく社会をつくることを目指して、さまざまな活動を展開されています。
活動の一つに、自然農法への取り組みがあります。
最近は二本松でコメづくりにも取り組んでいるそうです。
片平さんは、活動に取り組んでいるうちに、自らが取り組む、農業再生・働くことの改革・地域創生などが、今の日本での課題そのものだということに気づいてきたそうです。
そこで、今回は、二本松でのコメづくりなどの自然農法への取り組みを切り口にして、生活者目線での循環型社会ビジョンや、それに向けての無理なく楽しい活動が生き方を変えていくという、片平さんの実践のお話をお聞き、参加者みんなで話し合いたいと思います。
平日の午後ですが、ぜひたくさんの皆さんに参加していただきたいと思っています。
〇日時:2020年4月3日(金曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「生活者目線で循環型社会を目指す-二本松での実践」
〇話題提供者:片平正子さん(一般社団法人いのちまるごと輝く代表)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■マスクよりもサロンが必要な時期(2020年3月20日)
新型ウイルス騒ぎの中でも湯島のサロンは基本的には開催しています。
手洗いや換気には注意していますが、サロンの主旨は変えるつもりはありませんので。
この週末からしばらくは、むしろサロン続きです。
別に最近の自粛風潮に反発しているわけではありません。
自然とそうなっているだけです。
さすがに私も少し多すぎて疲れるのではないかと心配ですが。
しかし、不要不急や生産性の捉え方は、私の場合、世間の常識と真逆かもしれませんが、いまこそマスクよりもサロンが大切だと思っています。
口を閉ざすよりも、口を開くことの方が求められています。
生き方を見直すいい機会ですので、もし何か話したい方がいたら、ぜひサロンをやってください。
ちなみに当面のサロン予定です。
3月21日 万葉集サロン(「われ」と「おの」)
3月22日 リンカーンクラブサロン(多数者の専制の回避)
3月24日 新型ウイルスの謎
3月26日 茶色の朝シリーズサロン(種苗法)
3月29日 若い世代からのメッセージ(コミュニティと教育)
4月3日 生活者目線での循環型社会(二本松での実践)
4月4日 引き上げ3世の歴史認識
4月11日 無門関サロン
■士農工商は序列ではない?(2020年3月23日)
子どものころからずっと疑問に思っていたことがあります。
「士農工商」は本当に上下関係の序列なのかということです。
今朝の朝日新聞を見て、それを思い出しました。
「士農工商は序列じゃない?」という見出しで、支配者である「武士」と被支配者である「社会一般の人びと」の「農工商」のイラストが描かれていました。
そして、明治新政府が目指した「四民平等」に対比させるイデオロギーを象徴するために、士農工商を社会的序列としたというようなことが書かれていました。
これまたひどい「イデオロギー操作」だと思います。
たぶん「士農工商」は「士」を含めてみんな横並びで、序列などではないでしょう。
「序列」は実は見えないところにある。
「士農工商」という被支配者層とその外部にいる支配者層です。
支配者層は表面には出てきません。
そして被支配者層を階層化し、相互に対立構造を生みだします。
というよりも、被支配者層は自分たちで勝手に横の関係を上下関係に作り替え、自らの優位性を作り出していきます。
そうなれば支配層は「支配」などしなくても支配できるようになります。
前に湯島でインドのカーストを話題にしたサロンをやりましたが、その時もインドのカーストは誰が何のために作ったのかを考えてみました。
カーストって、そんなに悪いものなのか。
カーストの外にいる人たちが作ったと考えると別の世界が見えてきます。
敵はいつも見えないところにいる。
実際に敵対している同士は、実は仲間である。
こう考えるといろんなことが見えてきます。
ちなみに、新型ウイルスは「見えない存在」ではありません。
そして決して「敵」ではない。
明日24日、湯島で新型ウイルス騒ぎから、こんなことも考えるヒントが得られるかもしれません。
争いの外にこそ、実は争いから利益を得る人がいるのです。
「争わされる存在」にならないように気をつけたいと思います。
ちなみに、最近の日本の政治を見ていると、同じような構造を感じてしまいます。
安倍政権や佐川さんの向こうにあるものを見なければ、結局は何も変わらないように思います。
■第7回リンカーンクラブ研究会「〈多数者の専制〉を回避する方策」報告(2020年3月24日)
新型ウイルス騒ぎにもめげず、7人が集まりました。
今回は、前回課題の整理で終わった「民主主義政治における合意形成」を、テーマに話し合いました。
前回参加しなかった人もいたので、最初に前回、武田さんが整理してくれた「合意形成を考える課題」を復習しました。
前回、武田さんが説明したように、リンゴ2つとミカン3つを足したらいくつになるかの話から入りました。リンゴとミカンは足せないが、いずれも果物であることに着目したら、5つと合算できる。合意のポイントは「違い」に着目するのではなく、「共通点」を見つけ出すということです。
つまり、合意とは話し合いを通して、相互の違いの中から共通するものを見つけ出すこと、あるいは共通することを創り出すこととも言えます。
しかし、同時に、合意するということは、それぞれ違った意見があるということです。
主体性のない単なる群れ(オルテガの「大衆」)では合意が問題にならないが、個性のある多様な人たち(ネグリの「マルチチュード」)には合意が問題になります。
そんな復習をしたうえで、今回は「多数者の専制」を切り口に話し合うことにしました。
民主主義において多数者が少数者を抑圧する現象は昔から指摘されていたことですが、最近の日本ではまさにそうした状況が日常化してきています。
それをどう回避するか。
同時に、多数決による合意は果たして正当性があるのか、といった議論です。
多数決で合意された後の監視・阻止・審判の重要性を説く「カウンター・デモクラシー」の話も出ました。「合意する民主主義」から「監視し阻止する民主主義」へと変わってきているという話です。
そうした切り口からさまざまな話が出ました。
いずれも正面から話し合ったわけではありませんが、さまざまな視点から多様な議論で盛り上がりました。あまりに多様で報告は難しいですが。
しかも今回は、まさに午前中に、地域の公共施設の利活用に関する集まりで、「合意の暴力」を体験してきた人が参加し、なまなましい話題を提供してくれたので、とても具体的な話し合いになりました。
やはり具体的な事例で話すと問題ははっきりしてきます。
新型ウイルスへの政府の対策や森友問題に絡んだ赤木さんの遺書問題も話題になりました。
こうした事象にも「合意形成」の問題が見えてきます。
時間をかけてゆっくりと進めていった合意形成が、生産性を重視する時代の中で、いつの間にか多数決主義にとって変わられてしまいました。
多数決は情報の共有や公正な熟議があってこそ、正当性を確保できますが、形式的な多数決はさまざまな問題を引き起こします。
改めていま、多数決と民主主義について考えていくことが大切だと思います。
この問題は、茶色の朝サロンでも、さらに考えていければと思います。
■オープンカフェサロンのご案内(2020年3月27日)
急ですが、3月29日の午後に、オープンサロンを開催します。
なにもこの時期にと思われる方もいるでしょうが、いまだからこそ開催することにしました。
忖度し過剰反応し閉塞している日本の社会に、大きな危惧を感じているからです。
ちなみに湯島のサロンは、盛んに報道されている3つの条件(密閉・密集・密接)に合いがちですが、密閉にならないように換気には気を付けています。
参加者が少なければ、密集も回避できますが、この数回のサロンは、いささか危険に見えて私自身ちょっと心配でした。
ですから社会の迷惑にならないように、むしろ参加しないでほしいとお願いしたほうがいいような気がします。
にもかかわらずなぜサロンを開くのか。
別に「お上」に刃向おうというわけではありません。
都知事の判断は、私は正しいと思っています。
新型ウイルスの流行を止めるためにも「不要不急」の外出は避けるべきです。
私が危惧するのは、あまりに安易に同調する社会の風潮です。
幸いに、3月29日のサロンが、しっかり考えられた上で延期になり、場所と時間ができたので、代わりにオープンサロンを開くことにしました。
それにある人から、湯島のサロンも中止ですかと言われたので、ついつい私も「忖度」と「過剰反応」してしまったのです。
困ったものです。
しかし、オープンサロンですので、「不要不急」かどうかは自分自身で決められます。
来ても誰かが話題を提供してくれるわけではありません。
私は久しぶりに湯島の掃除でもしようかと思っていますので、それなりに用事はありますし、植物に水をやらなければいけません。
電車もすいているでしょうから私にはいつもより安全かもしれません。
ですから今回のサロンは、私のためのサロンのようなものですが、よほど居場所がなくて退屈されている方は、感染症予防に万全の注意を払ってご参加ください。
参加は決してお勧めしません。
世間の冷たい目をしっかりと意識したうえで、ご自分でしっかりと考えてください。
ただし、体調の悪い方や性格の悪い方は、参加されないことをお願いします。
そんなわけで、いつもとは違い、参加をお勧めしないサロンのご案内です。
時節柄、一人のサロンもいいかもしれません。+
〇日時:2020年3月29日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:まったくありません
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■「不要不急」かどうかは自分で考えましょう(2020年3月28日)
不要不急の外出の自粛ムードが広がっています。
最近の日本人は、どうも「不要不急」とはなんなのかも自分で判断できないようになっているようで、テレビではその解説を盛んにやっています。
これではパンデミックに襲われ、ウイルス感染症も大流行するわけです。
私は、普段から「不要不急」の外出はしていませんので、世間がやっと私に追いついてきたとさえ思っていますが。
昨日は近くの小さなラーメン屋さんに娘と出かけました。
思った以上に混んでいて、しかも食事時間を少しずらしたのに、次々とお客様がやってきます。
そう言えば、私の娘の連れ合いがやっているイタリアンのお店も、コロナウイルス騒ぎでむしろお客様が増えていると言っていました。
お店のファンの人たちが、お店の窮状を心配して応援に来てくれているそうです。
そう言えば、私たちも昨日、少しそんな思いもあって、ラーメン屋さんに行きました。
そうした「外食」は決して「不要不急」ではありません。
近くのお店がなくなったら大変です。
人々のあたたかさと思いやりにちょっと幸せな気分になったのですが、いま娘の友人が、近くのスーパーが人でごった返しているとメールをくれたそうです。
そこは大きなスーパーなのですが、どうも外出自粛対策で買いだめの人が来ているようです。
これでまた感染者は増えるでしょう。
日常の買い物などを「不要不急」と思っている人が多いのでしょう。
ウイルス感染症になる前に、私から見れば、もうみんな「生きることを放棄」しているとしか思えません。
ウイルス感染症も心配ですが、もっと心配なことが私はたくさんあります。
病気の大流行というパンデミックもありますが、主体性を失ってみんなが右往左往するパンデミックもある。
せめてテレビでの不安をあおる報道はやめてもらいたいものです。
私は昨日は、録画していた最新の「水曜どうでしょう」を5編まとめてみました。
この番組はお勧めです。
■第1回病原体サロン「病原体から考える生物と環境の関係」のご案内(2020年3月28日)
細菌学者の益田昭吾さんには、時々、湯島のサロンでお話をしてもらっていますが、最近の新型ウイルス騒ぎで、私たちはあまりに病原体について知らないのではないかということに改めて気づきました。そこで、益田さんと相談して、「病原体」をテーマにした連続ゼミ型サロンを企画しました。
基本的には継続参加スタイルにしたいですが、単発の参加も可能です。
益田さんのサロンに参加されたことのある人はご存知でしょうが、益田さんは「病原体も我々と同じ生物である」という姿勢で、長年、病原体の研究に取り組まれています。
病原体のことを知ることで、私たちの生き方や社会のあり方に関する大きなヒントが得られるというのが益田さんのお考えです。
ですから、単に「病原体に関する知識」を得るだけではなく、そこから私たちの生活を問い直すようなサロンにできればと思っています。
第1回は、「生物と環境」というテーマで、いわば病原体という生物に関する全体像を話してもらいます。
病気を起こす微生物を病原体と呼ぶそうですが、そうした病原体も本来の環境とは平和裡に共存していること、病気は環境が本来の環境ではない場合に限って起こる現象であること、などがわかると、病原体への親近感も生まれるかもしれません。
参考テキストとして、益田さんが書かれている2冊のちくま新書(「病原体はどう生きているか」「病原体から見た人間」)を使いたいと思いますが、詳しくは第1回目に参加者とも話し合いながら決めていければと思います。
ゼミ型と書きましたが、益田さんと気楽に質疑応答しながら、楽しく進めていけるような連続サロンを目指したいと思います。
最近話題の新型ウイルスの話も話題にできればと思います。
なお新型ウイルスが問題になっていますので、状況によっては開催日が変更になるかもしれませんので、ご注意ください。
参加申込いただいた方には開催日前日に確認のメールを送ります。
〇日時:2020年4月9日(木曜日)午後2〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「病原体から考える生物と環境の関係」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■湯島サロン「引揚げ3世という視点、あるいは歴史認識」のご案内〈2020年3月30日〉
湯島のサロンに参加される方から、面白い人がいるので是非サロンで話をしてもらいたいという連絡がありました。
湯島のサロンは参加している人のおかげで、広がったり深まったりしているので、こういう申し出にはできるだけ対応させてもらっています。
というわけで、今回は私もまだお会いしたことのない方にサロンをお願いすることにしました。
長年、中国「旧満洲」に関わっている中村さんという方です。
私からは解題できませんので、中村さんからのメッセージを紹介します。
私は学生時代から中国旧満洲に何度も足を運び、いまは「地球の歩き方」の制作をしています。この30数年で中国は大きく変わりましたが、その変化の過程をつぶさに見てきました。
そういう次第になったのも、祖父母が満洲に渡り、母が生まれていたからですが、とりわけ祖母から当時の話をよく聞いたので、子供の頃からこの土地に対する身近な感覚が育まれていたように思います。
その後、多くの中国の人たちや満洲と縁のある方々との出会いを通して、自分の中に「引揚げ3世という視点、あるいは歴史認識」を引き継ぐ役割があるという自覚が生まれてきました。それはどういうことなのか。お話できたらと思います。
以上が中村さんからのメッセージです。
中村さんが自らの生活の中で積み重ねてきた体験を踏まえての「引揚げ3世という視点」そして「歴史認識」。
まさに湯島のサロンにふさわしいお話です。
中村さんが旧満洲と関わってきた30数年の体験話や知見をお聞きしながら、普段はほとんど考えることのないような世界に思いをめぐらせたいと思います。
きっと現在の私たちの生き方にもたくさんの刺激と示唆をいただけると思います。
お時間が許せば、ぜひご参加ください。
〇日時:2020年4月4日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「引揚げ3世という視点、あるいは歴史認識−満洲と縁のある方々との出会いの中で考えたこと」
〇話題提供者:中村正人さん(旅行ジャーナリスト)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■今こそ「問題」の捉え方を間違ってはいけません(2020年3月30日)
今日は午後から来客です。
新型ウイルス騒ぎで、外出も人との付き合いも人の集まりも少なくなってきました。
出かけるときもできるだけ一人で、という風潮です。
要は、だれもがウイルスを持っているという前提で行動しましょうと言うことです。
そして、できるだけ人との接触は避けましょう、というわけです。
これってどこかおかしくないでしょうか。
以前も、そういう風潮が広がったことがありますが。
「支え合い」とか「ふれあい」が大切だと言っている人の生き方はどうなってしまったのか。
コロナいじめが始まりそうな風潮に、哀しさとさびしさを感じます。
私は20年ほど前に、コムケア活動というのを始めました。
コムケアは、コミュニティケアの略ですが、そこでのケアは「関係性を大切にすること」、コミュニティは「重荷を背負い合うこと」と定義していました。
当時は、「つながり」とか「支え合い」とかはあまりまだ意識されていなかった時代です。
その後、そうした「言葉」は広がりました。
「絆」という言葉さえもが、肯定的に捉えだされました。
最近の新型ウイルス現象は、時代の流れを加速するのか逆転するのか。
私には判断しかねますが、しかし時代の流れの本性をさらけ出したような気はします。
いずれにしろ、私は自らの生き方は変えないつもりです。
ウイルスとさえもできればなかよくやっていきたい。
誰か(私も含めて)が感染したとしても、それまでと同じように受容していきたい。
1メートル距離を置いて付き合うような生き方はしたくない。
そう思っています。
昨日家族で外食したという竹居さんに習って、明日は私も家族を誘って近くのお店で外食しようと思います。
こういう時だからこそ、人とのつながりを深めたい。
それと病気を広げて医療制度崩壊を起こすようにしないこととは別の話です。
問題を混同させてはいけません。
言うまでもありませんが、私も感染症を広げようなどとは微塵も思っていません。
蛇足ながら。
■「不要不急の活動」(2020年4月5日)
昨日、湯島でオープンサロンをしました。
家を出る直前まで娘からはやめたらと言われましたが、2時から湯島でコーヒーを飲んでいるのでという案内を出した以上は、誰も来なくても行っていようと思い、湯島に行きました。
他者から見たら、まさに「不要不急の活動」でしょう。
サロンには3人の人がやってきました。
たわいもない話(不要不急の話題)が多かったのですが、この騒ぎを契機に、仕事の意味や生き方の問い直しが起こるといいというような話もありました。
さらに最後に来た、IT関係の専門家の人から、IT関係の仕事こそ「不要不急」だという過激な発言がありました。
その人は、いまもIT関係の仕事をしていて、自他ともに認めるITのプロだと私は思っているのですが、まさかその人からそういう発言があるとは思ってもいませんでした。
その人の発言は、まさに我が意を得たりというものだったので、これまで書かなかったことを書くことにしました。
私の昨日のサロンは、私にとっては大切な活動です。
私の「不要不急」の基準は、たぶん世間とは真反対です。
昨今のほとんどの経済活動や政治活動は、私には「不要不急の活動」に見えます。
国民全員にマスクを配布する活動を考えれば、わかってもらえるかもしれません。
あれは実に現在の日本の政治と経済を象徴しています。
私には、現在の国会での活動もほぼすべて「不要不急」ですし、大企業の仕事のほとんども、いまこの時期には「不要不急」のように思えます。
経済活動が止まったらトイレットペーパーがなくなるではないかと言われそうですが、もちろん価値ある仕事もたくさんあります。しかし、そういう大切な仕事や働き手が、割を食わされているのが現在の経済活動のように思えます。
3か月くらい先に延ばしても困らない大企業の経済活動(例えば自動車生産)を一斉に止めれば、満員電車は解消されるでしょう。
ビジネス化した観光地を閉めれば、多くの人はもっと身近な観光地に気づくでしょう。
ブランド化した行列のできるレストランとは違った、近くの小さなレストランをみんなで育てていこうと思えるようになるかもしれません。
ライブハウスやスポーツジムは、私にはまったく理解できないので、コメントはできませんが。
資金の流通も3か月止めても、困るのは金融経済での不労所得者だけでしょう。
それでも資金繰りがつかずに倒産することがないように、国庫からの支援で対応する必要はありますが、お金の流れを一時止めれば大きな問題は起きないでしょう。
いずれにしろ、3か月生産や活動を止めても、大丈夫の経済活動はたくさんあるでしょう。
その間に、社会から無駄な贅肉や悪さをする経済・政治活動が顕在化されるでしょう。
文化活動やスポーツ活動は、微妙ですが、むしろ巨大化(産業化)した今の文化活動やスポーツ活動を見直す機会になるでしょう。
私は昨今のような産業化した文化活動やスポーツ活動にはなじめません。
私の感覚ではあれは文化でもスポーツでもなく、単なる産業です。
スポーツ選手には申し訳ありませんが、彼らはなにかをはき違えているとしか思えません。
ここまで書くとまた叱られるでしょうが、彼らを非難しているのではありません。
パスカルではありませんが、生きるためにはパンだけではなく、バラも必要だとは思っていますが、バラは私たちの周りにはたくさんあります。
子どもの育て方や学校教育の在り方も再考されれば、うれしいです。
私が休日にしか外出しないのは、休日の外出が人との接触が管理できるからです。
昨日、サロンに参加した一人も、平日は出歩けないが今日は電車に乗れるから来たと言っていました。
外出自粛ではなく、感染可能性の高い場所の改善や封鎖を考えるのが先決です。
個人は、外出自粛ではなく、感染予防に取り組むべきです。
私が思うには、最近は人間の生活を維持していくためにはなくてもいいことが多すぎます。
経済活動が止まったらどうなるかと言われそうですが、いまは着ぶくれた経済活動になっていて、生活のためではなくお金のための経済活動になっているように思えてなりません。
生活支援の給付金が話題になっていますが、月20万円では生活できないのではないかと言う人が多いのには驚きます。
私には着ぶくれている生活をしているのではないかと思えてなりません。
私もそういう生活をしていたことがあるので偉そうなことは言えませんが、住宅費さえ抑えられれば、10万円もいらないでしょう。
住宅が余っているのですから、住宅は無償で提供するようにすれば、生活費の感覚は変わるでしょう。
人生にとって、何が大切か。
社会にとって、何が大切か。
ぜひ今回のウイルス騒ぎを契機に、考えたいことです。
お金のためから考えるのではなく、自らの人生を基準に考えたい。
お金を稼ぐために私たちは生まれてきたのではありません。
そして、自分にとって「不要不急の活動」とは一体何なのかを考えると、たぶん生き方は変わっていく。
社会も変わっていく。
そういう契機になればいいなと思っています。
■私の脳が少しおかしくなってきたようです(2020年4月5日)
全くの無駄話です。
最近、私に会った人は気づいているかもしれませんが、心身の老化がかなり進行しています。
思考と言動、とりわけ言葉がずれてきています。
それに気づいたのは1年ほど前ですが、最近さらにひどくなってきています。
ただし、思考の世界はむしろ急速に時空間的にも広がっていて、世界がかなり見えるようになっている気がします。
しかし、それを言語化できないばかりか、言葉自体が思考から切りはなされているような気がします。
つまり考えていることと話していることがずれているのです。
困ったものです。
しかしさらに最近、もう一つ困ったことが起き出しました。
時間が止まりだしたのです。
これも1年ほど前から何となく感じていたのですが、どうも時間秩序が壊れだしたのです。
それで図書館から「時間とはなんだろう」という松浦壮さんの本を借りてきて読みだしました。
ところがなんと、なんとそこについ最近読んだことが書かれているのです。
100×100のマス目に10個の荷物を置いて動かしていくという話です。
その記述をこの2~3日に本で読んだ記憶があるのです。
それでこの2~3日に読んだ本(5冊ですが)を確認してみましたが、どこにも出てきません。
しかも、記憶のなかでは、100×100のマス目のイラストもあったのですが、今日読んだ松浦さんの本にはイラストはありません。
さてさてどうなっているのでしょうか。
もしかしたら、これから読む本がもう記憶に移っているのかもしれません。
私の心身においては、時空間がおかしくなってきているのかもしれません。
ぼけ現象のひとつかもしれないのですが、100×100のマス目のイラストが頭から消えません。
もし、そうしたイラストが載っている本をご存知の方がいたら教えてください。
しばらく読書はやめた方がよさそうです。
やはり畑作業で心身を休めないといけません。
■サロンのこと(2020年4月8日)
新型ウイルス騒ぎで湯島のサロンがほぼなくなりました。
サロンに来てくださっている方や関心を持っていただいている方から、実際に集まるサロンが難しければ、ZOOMなどを活用したらどうかという提案がかなり届いています。
それを見て、私がやっているサロンの主旨が、やはり伝わっていないのだと、肩から力が抜けてしまっています。
これを契機に、湯島のサロンをやめようかと思いましたが、昨日、普段は参加できない遠隔地の方から、サロンを継続してほしいという電話をもらいました。
その人にとっては、ほとんど参加はできないが湯島のサロンという場があることが意味があるそうなのです。
それで気を取り直して、継続することにしました。
それに、私の主旨が届かないのは私の説明不足なのだろうと思い、改めて思いを書くことにしました。
私が湯島でサロンをやっているのは、生身の人間の出会いの場をつくるためです。
そして、さまざまな意見に触れて、自分の考えを相対化し、そのうえで自分の言葉で考え話す生き方を広げたいからです。
時々、サロンのことを勉強会とかワークショップとか、セミナーとかと表現する人がいますが、そうではなくサロンなのです。
知識を得ることが目的ではないのです。
最近は、講座型サロンとか勉強会的サロンもありますので、誤解を与えているかもしれませんが、湯島では「知識」や「情報」よりも、その人の「思い」や「考え」を大事にしています。
違う考えや生き方の人たちとの出会いから、ゆるやかな「コモンズ・コミュニティ」が生まれればと思っています。
さらに、参加した人にとっても「生き方」を問い直す機会になれば、主宰者の私はとてもうれしいです。
もう一つ重視していることは、人間がシステムの端末になりだしているとしか思えない最近の流れに抗いたいと思っています。
うまく説明できないのですが、だからむしろZOOMなどには否定的なのです。
ソーシャルディスタンスなど置くことのない、ましてや機械を通してでない、人と人との触れ合いを大切にしたいのです。
参加できない人のためにとも言われますが、別に毎回参加する必要はなく、まあ参加できる時に参加するくらいの付き合いが大切だと思っています。
それに参加しなくても、なんとなくつながっているという関係があれば、それで十分だと思っていますので、かなり主観的な報告を送らせてもらっているのです。」
ZOOMなどを活用したサロンも意味があると思いますが、それは私が目指している湯島のサロンとは似て非なるものですから、もしやるとしたらまったく別のシステムとして考えたいと思っています。
親切にいろいろと提案してくださる人には感謝しますが、そういうわけで、私自身がZOOMなどを使ったサロンをやる可能性はゼロです。
もしどなたか、湯島とつながる形で、ネットサロンをやろうという方がいたら、協力させてもらいますが、そんなわけで、いただいた提案には対応できませんので、ご容赦ください。
しばらくテーマサロンは開催できそうもありませんので、私の思いを話させてもらうサロンを始めようかと思っています。
またご案内させてもらいます。
■奪い合いか支え合いかのどちらを選ぶか(2020年4月9日)
新型コロナウイルス騒ぎで、いろいろなことが可視化されてきていますが、そこに真反対の動きが見てとれます。
たとえば、マスク騒ぎ。一方で買占めに走ったり、高く売ったりする人がいる反面、なけなしのマスクを困っている人に提供したり、工夫して手作りマスクを作ってみんなに提供したりする人もいます。
ショックドクトリン的におかしなことをする人もいますが、災害ユートピア的な人のつながりも生まれてきています。
ソーシャルディスタンスとか外出禁止とか、会う人を減らせとか、という風潮が広がっていると同時に、こういう時だからこそお互いのことを気遣って電話をしたり、注意して会いに行ったりすることも行われています。
私のところにも、思ってもいない人から電話が来たりメールが来たりしています。
それも海外の、もしかしたら日本よりも大変ではないかと思われるところからもです。
政府の政策を否定するつもりは全くないのですが、経済的な救済策が、注意しないと「奪い合い関係」を生み出すのではないかと心配です。
みんなが一体になってというのであれば、小賢しい条件や手続きは逆効果になりかねません。支援策が人間関係をこわし、復興を妨げたであろう3.11の時を思い出さなければいけません。
奪い合いにつながらなければいいのですが。
政府による経済的な支援ももちろん大切ですが、「支え合い」による支援も大切です。
それにそれなら誰にでもできることはあります。
人はお金だけで生きているわけではありません。
昨日の朝日新聞の「インタビュー」で、社会学者の大澤真幸さんが、「ポジティブな道とネガティブな道、どちらに進むかという岐路に私たちは立っています」「破局へのリアリティーが高まり、絶望的と思える時にこそ、思い切ったことができる。この苦境を好機に変えなくては、と強く思います」と話していますが、私も心底、そう思います。
奪い合いを基軸にする最近の市場中心のマネタリーエコノミー(資本主義経済)から支え合いを基軸にする生活を中心としたコモンズエコノミーへと軸足を移す大きな契機になればと思っています。
そうしたことを考えるサロンを、できるだけ早く始めたいと思っています。
■経済の健康と人の健康(2020年4月10日)
日本ペンクラブは、7日に「緊急事態だからこそ、自由を」という声明を発表しました。
http://japanpen.or.jp/statement0407/?fbclid=IwAR1kfxnOmpld95Qw5o3bmb27Wu4xXNSQeGeA2Tv7AgJZBPCy5GihCor17zI
そこには、「私たちの目の前にあるのは、命か自由かの選択ではない」と書かれています。
まだ読まれていない方は、ぜひお読みください。
ところで、新型ウイルス対策に関して、いつも感じていることは、「経済か人命か」という問いです。
現在の日本政府の基本姿勢は、経済を守ろうとしているように見えます。
それこそが人を守ることになると考えているのでしょう。
経済が破綻したら、人も危険になるという発想は、一昔前までには「常識」だったかもしれません。
しかし、果たしてそうでしょうか。
私は「経済を守るためにこそ、人の健康を」と思っています。
ちょっと古い本ですが、公衆衛生学の研究者であるデヴィッド・スタックラーさんとサイジェス・バスさんが書いた「The Body Economic」という本があります。
2013年に出版され、日本では翌年の2014年に「経済政策で人は死ぬか?」というタイトルで翻訳出版されています。
私が読んだのは、翻訳なのですが、原著の書名には「Why Austerity Kills」という恐ろしい副題がついています。
彼女たちは、大恐慌やソ連の崩壊、金融危機などの世界的事例に関しての調査解析を踏まえて、公衆衛生の大切さを訴えていますが、そのひとつのメッセージは、「人の健康こそが経済の健康につながる」ということです。
経済が人の生活を守るのではなく、人が経済を支えているということです。
国際通貨基金(IMF)の経済復興策が、いかに経済を壊してきたかが、同書ではデータで示されています。
米国医師会会長だったウィリアム・ウェルナは、「健康への投資を安易に怠ると、国民の健康が全般的に悪化するだけではなく、いずれは高いつけとなって返ってきます。公衆衛生サービスヘの投資の見返りは経済的・社会的福祉水準の向上ですが、それが必ずや投資額を上回るものになることは、すでに明らかだと言っていいでしょう」と言っているそうです。
日本の医師不足に関しては、私は20年以上前に本田宏さんから教えてもらいました。
湯島のサロンでも話をしてもらったことがありますが、本田さんはその問題にずっと取り組んでいます。もし本田さんのメッセージに政府や医師会が耳を貸していたら、現在のような状況にはなっていなかったかもしれません。
新型ウイルス対策としては、休業補償や生活保障の資金的裏付けや財政の心配よりも、いまはまず、人命の損傷をどう最小化するか、を優先して考えるべきだはないかと思います。
そのためにも、休業補償や生活不安解消策として、すぐにでもすべての人たちに、バズーカ砲的なばらまき政策を展開したらと思います。
いらない人は返せばいい。
マスクの配送が始まるようですが、これもいらない人は返したり寄付したりするでしょうから、お金もそうしたらいいでしょう。
国会議員や官僚、あるいは大企業の正社員は返すでしょう。
私の娘の伴侶も、小さなレストランをやっていますが、収入がなくなる不安はともかく、感染を広げないために昨日からお店を閉じています。
何が一番大切かの基準さえぶれなければ、判断はできるはずです。
都知事が悪いとか、法的にどうだとか、そんなことよりも、現場で真剣に生きている人たちの健康を守るために、政治は大きな決断をしてほしいものです。
それは別に「緊急事態宣言」などしなくてもできるはずだと思いますが。
■アベノマスク受け取り拒否(2020年4月10日)
友人から下記メールが届きました。
アベノマスクが反対を押し切って全戸配布になるようです。
その費用、東京新聞によると(4月10日)466億円
布マスクなら私はすぐ作れるので返却することにしました。
家のポストに配達不要と張り紙を出すかポストに投函するかします。
布マスクなどすぐ作れます。お知らせくだされば制作してお送りします。
どうぞご遠慮なく。
私も自宅の郵便受けに「配達不要」の張り紙をすることにしました。
ところで、466億円は直接の費用です。
かかわる職員の人件費などを加えるとたぶんもっと多額になります。
それ以上に、大切な配送インフラに負担をかけるので、もっと大切な活動の邪魔をしますから、極めて問題は大きいです。
関係業者やそれに寄生している議員関係者には大きな利益をもたらしているかもしれませんが。
私は実質的な損失には1000億円以上だと思います。
さらにもし私のところに届いたら廃棄しますので、地球環境にもマイナスです。
ちなみに私の周りでは、受け取って困っている福祉施設などに寄付したらどうかという人が多いです。
私も最初、そう思ったのですが、やはりここは受け取り拒否をして、自分の意思をしっかりと表明しておくことが大切だと思います。
さらに言えば、最近のマスク不足で、自分たちでマスクを作って不足している人に提供していこうという動きが強まっています。
そういう「支え合い」の動きを邪魔しかねないことも私が考えを変えた理由の一つです。
■事実を知らずに動かなければいけないのが不安です(2020年4月11日)
東京都の発表感染者数がまた増加しました。
予想に反して、少なかったです。
私はそろそろ1000人を超えるだろうと思っているので、むしろ発表数増加の動きが遅いのが気になります。
それにしても、人為的とさえ思われる虚構の数字に基づいて、行動を律しなければいけないのは不安です。
テレビなどで議論している人たちも虚しいでしょう。
専門家会議の人たちは、本当に議論できると思っているのでしょうか。
その不誠実さには、ますます「専門家」への不信感が強まります。
そして、そうした情報に基づいて、右往左往せざるを得ない私たちの弱さを痛感します。
緊急事態宣言には、まったく「緊急」感がなく、内容も矛盾だらけで、真剣味が感じられません。
他者への要請や依頼だけで、自らの一人称自動詞での具体的な行動宣言はほぼ皆無です。
すぐに動くのが、各世帯へのマスク2枚という愚挙。
まさか本当にやるとは思っていませんでしたが、動き出したようで、情けない限りです。
もっと急いでやることがあるでしょうに。
こんな時期に、輸送システムをこんなことで使ってほしくありません。
1か月ほど前に、2週間以内に日本という国は壊れだすと言っている人がいると、友人がメールで教えてくれましたが、もう日本という国は壊れつつあるのかもしれません。
小泉さんは自民党を壊すだけでとどまりましたが、安倍さんは日本を壊してしまったのかもしれません。
壊れたものは、元には戻らない。
それでも、「あなたの行動が未来を決める」とか「あなただけのことではありません」などと言われると、外出するのが後ろめたい気分になります。
さて、今日はどうしようか、悩んでしまいます。
毎週土曜日は、湯島でオープンサロンなのです。
サロンを必要としている人もいますし、相談があるという人からサロンはやるのかという問い合わせもありました。
ちなみに、新型ウイルスによる感染症の広がりに関しては、何回か書いているように、私はかなり長期間つづく話だと思っています。
ですから、ウイルスとうまく付き合いながら、一緒に考えていきたいと思っています。
信頼できない政府や行政の長の指示も参考にしながらも、自分で考え、これからも柔軟に行動していく予定です。
事実を知らずに動かなければいけないのが不安ですが。
■外出自粛だけでは安心できません(2020年4月13日)
今日は雨の上に、寒さもまた戻ってきた感じです。
2週間以上、外出を控えている生活が続いているせいか、体重が3キロ増えてしまいました。
自宅では、できるだけあたたかな飲み物を繰り返し飲むようにしているのですが、その時に甘いお菓子などもついつい食べてしまうのも影響しているでしょう。
昨年来、食事をできるだけ減らそうとしていたのですが、コロナウイルスをうまく受け入れられるように、体力をつけるために2月後半からむしろしっかりと食べるようにしているのも一因かもしれません。
しかし、体重が増えるのと体力がつくのとは、同じではないような気もします。
感染者の発表数が増えていますが、説明されているように、この数字は2週間ほど前のものですから、一喜一憂する必要はありません。
わかっているのは、すでに市中感染がほぼ蔓延しているということでしょう。
ウイルスは、クラスターと言われる空間にだけいるわけではありません。
そういう認識をしっかりと持たせないような報道が多かったのが残念ですが、そう考えれば、生活を見直さざるを得ません。
外出自粛だけで解決するわけでもありません。
いくら自宅に引きこもっていても、郵便物や新聞、あるいは空気に乗ってウイルスが来ないとも限りません。
いやそれよりも、日用品や食材の購入を通して、生きている以上、私たちは外部と隔離などできるはずはありません。
それに急な生活変容で、ストレスが高まったり、不安が高まったりしたら、それこそ大変です。
人に会わないと元気が出てこない人もいますし、自宅からでないと健康障害を起こす人もいるでしょう。
新型コロナウイルスだけが、人を殺めるわけではありません。
毎日、人は死んだり病になったりしていますが、新型ウイルスによるものは、そのほんの一部です。
自殺者よりも、従来の肺炎よりも、交通事故者よりも、まだ少ない。
そうした全体への知識ももたなればいけません。
休業に追いやられた飲食店の人が追いやられないようにしなければいけません。
安定して寝起きする場所もない若者たちのことを真剣に考えなければいけません。
マスクがないなどというのは、私には些末な話です。
いかようにも自分で解決できる話です。
問題の設定を間違えてはいけません。
大切なのは、ウイルスが万一やってきても、それとうまく付き合える心身を維持しておきたいというのが、私の考えです。
心身という言葉には、精神的な安心感や信頼感も含まれています。
政府への信頼感があれば、飲食店なども休業できるでしょう。
私には、言葉だけの政府は信頼できません。
いま必要なのは、無責任な言葉に踊らされるのではなく、自らの心身の健康を高めて、自らの生活を見直すことだと思っています。
スーパーはいつもより混んでいて、相変わらず通勤電車は混んでいて、子どもたちで公園も混んでいる。
さらに見えませんが、家庭の中にまたいろんな矛盾が隠され出しているというような話も耳に入ってきます。
大切なのは、「自粛」とか「閉鎖」だけではなく、もっと積極的な行動ではないかと思います。
ウイルスがせっかく気づかせてくれたことを無駄にはしたくありません。
■「ペスト」を読んでちょっと考えさせられました(2020年4月13日)
今日は終日、在宅だったので、カミユの「ペスト」を読みました。
本文に入る前に、ダニエル・デフォーの次の言葉が引用されています。
ここにカミユの意図がうかがえます。
ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。
「ある種の監禁状態」とは、カミユが若いころにアルジェリアで強く感じていたことかもしれません。
私の記憶には、医師のリウーがあまりに強く残っていたのですが、今回はリウーと一緒にペスト対策に取り組んだ、タルーの言葉が心に突き刺さりました。
タルーは自らに関して、こう語っています。
「僕はこの町や今度の疫病に出くわすずっと前から、既にペストに苦しめられていたんだ。というのは、まあ、つまり、僕も、世間みんなとおんなじようだということなんだがね。しかし世間には、そういうことを知らない連中もあれば、そういう状態のなかで心地よく感じている連中もあるし、また、そういうことを知って、できれば、それから抜け出したいと思っている者もある。僕は、いつも抜け出したいと思ったのだった」。
タルーが言う「体験してきているペスト」とは、病気のペストが蔓延している時に顕在化される社会の状況を指しています。
タルーは、そうしたことに気づいてから、「世間でよくいう政治運動」に取り組むようになったと語っています。
そして、つづけてこう言います。
「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」
「ペスト」というところに新型コロナウイルスを置いてみると、今まさに私たちが体験していることとつながってくるかもしれません。
新聞記者のランベールの行動変容もまた、考えさせられるものがあります。
当初、彼は恋人に会うために閉鎖された町から抜け出そうとしますが、それが可能になった時に、町に残ってペストから人々を守る活動に参加します。
そのいきさつのところに、前回、読んだ時(私は20代でした)の赤線が引いてありましたが、今回はそこではなく、次の言葉に目が行きました。
「ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡る時なんか」とランベールは言うのです。
もう一人、パヌルー神父の言葉も示唆に富んでいます。292
ペストのなかに離れ島はないことを、しつかり心に言い聞かせておかねばならぬ。
ペスト騒ぎが一段落して、平安な日常が見えてきたときに、リウー医師はこう書いています。
彼等は今では知っているのだ − 人が常に欲し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。
私たちが、「愛」を忘れたときに、パンデミックはやってくるのかもしれません。
■朝の空気が気持ちよかったです(2020年4月15日)
今日は暖かな気持ちのいい春日和です。
新型コロナウイルスが世界を覆っているのが嘘みたいです。
久しぶりに少し歩いてみようと思い、近くの手賀沼公園に行きました。
早い時間のせいか、まだ人も多くはありません。
ドラッグストアのマスクの売り出しも、最近は販売中止のお店もあって、並んでいる人もいません。
しかし、そんな知恵さえ働かなくなるほどに、みんなおかしくなっていたのです。
ウイルス騒ぎのおかげで、社会は少し良くなるかと期待していましたが、どうも今度は逆方向に動き出してしまったようです。
「外出禁止風潮」「人との接触を避けようブーム」。
まるで人間はウイルス以上に汚染された存在になってしまったようです。
誰かに感染させるかもしれませんと言われていることは、すでにあなたは感染しているかもしれませんと言われているわけですが、そういわれると動きが取れなくなってしまうわけです。
こういう状況が、かつて日本を戦争に向かわせたのでしょう。
困ったものです。
しかし感染した人の症状が急変して、死に至ってしまうこともあるという報道が、なまなましく伝えられると、私もいささか気の迷いが起きてしまいます。
テレビ映像のほとんどは一部を切り取って増幅させたものだと思いながらも、そういう事実があることも否定できないので、万一、自分がキャリアになって他者を死に至らしめたらと思うと、ここは「無責任」に自宅に引きこもろうかと思いたくもなります。
しかし、その一方で、ウイルス感染症とは別の理由で病院に通っている人も私の周辺にはいます。
その人たちにとっては、もちろんウイルス感染症も心配ですが、自らの病気も心配です。
私も身近にそういう人が複数いますので、ウイルス騒ぎよりもそちらに関心があります。
新型ウイルス感染症の致死率は決して高くはないと思いますし、死者数もとても少ないですが、みんなの目が新型ウイルスにだけ向けられるのが不思議です。
そうした問題を抱えている人が少ないのでしょうか。
がんの妻を見送った時のことが思い出されます。
みんなの「しあわせ」が、ちょっとうらやましい気もします。
しかし、ウイルス騒動の陰で、どれだけの「死者」が出ているのでしょうか。
手賀沼公園のベンチで座って、そんなことを考えてきました。
帰り道ではかなりの人と出会いましたが、ほとんどの人がマスクをしていたのが、私には異様でした。
こんないい空気をどうして満喫しないのでしょうか。
そんなことをやっていると病気になりますよと言いたい気分でした。
ちなみに今日は、誰にも話しかけずに、無言のまま帰宅しました。
娘に今回は手洗いはいいだろうと言ったら、ドアノブにも触っているのだから 手洗いは必要だと言われて、ちょっとがっくりしました。
わが家もかなり汚染されているようです。
いや世界中が汚染されてしまった。
ウイルスが浄化してくれるかもしれません。
■ウイルスともなかよくやれないものでしょうか(2020年4月17日)
新型ウイルスがますます「悪者」になってきています。
昨日、ふと中村桂子さんの生命誌マンダラのことを思い出しました。
1年ほど前だと思いますが、Eテレの「こころの時代」でマンダラを取り上げていました。
その最終回に、中村桂子さんが登場し、生命誌マンダラについて話していたのを思い出しました。
中村さんは、「自然の中の人間」という立脚点から、「生命誌」ということを提唱し、活動されてきていますが、生命の歴史を視覚化した生命誌マンダラをつくっています。
そこにはもちろんウイルスも然りと描かれています。
ウイルスは、生物の進化に大きな役割を果たしてきました。
1週間ほど前の朝日新聞にもそのことがイラストでわかりやすく書かれていました。
中村さんは人類にとってもウイルスが親子をつなぐ重要な役割をはたしていることを、たしかその番組で語っていました。
ウイルスも私たちの仲間なのです。
新型コロナウイルスが、あまりにもひどく扱われていることに、ずっと違和感を持っています。
彼らは、ただ単にまだ人との付き合い方がわかっていないのではないか。
物事を、「差別」とか「いじめ」とか「居場所」とかという視点で考えてしまうようになってしまっている私には、どうも気持ちが悪いまま、今日まで来ています。
戦争と同じだなどという発言には、気分が悪くなります。
「戦争」などという言葉をそう簡単に使ってほしくありません。
そういう言葉を使っていると、自己洗脳におかされてしまい、事実が見えなくなってしまいます。
ところで、ウイルスと人間についてこれまでも語ってきている人はいます。
そのひとりが、栗本慎一郎さんですが、その著書に「パンツを捨てるサル」があります。
その本で、栗本さんは、レトロウイルスと進化、人類史について語っていますが、いまは絶版になっていて、古書も高いのでそう簡単には手に入りません。
私も持っていますが、転居予定先に送ってしまっているので、手元にはありません。
ちなみに、「パンツ」とは「おかね」のことです。
柴崎明さんはいまこそ、この本を再読する価値があるのではないかと思い立って、読み上げる動画を少しずつ配信しています。
https://www.youtube.com/watch?v=TcPul17jjrY&feature=youtu.be
できれば、彼にサロンで話してもらうのがいいのですが、この状況だとサロンも開きにくいので、関心のある方は彼のユーチューブで毎日聞いてください。
聴きやすさは保証しませんが。
なにしろ柴崎さんですから。
■チューリップにお詫びしました(2020年4月22日)
新聞で知ったのですが、千葉県の佐倉ふるさと広場で見事に咲いていた80万本のチューリップが、見物客で人が集まり、新型コロナウイルス感染の拡大拠点になる恐れから、すべて刈り取られたそうです。
その記事を読んで、人間も新型ウイルスと同じだなと、改めて思いました。
我が家の近くの柏市にも、あけぼの山農業公園というのがあって、そこもちょうど1週間前にチューリップが満開になりました。
昨日、娘家族が、もしかして佐倉と同じように刈り取られてしまうのではないかといって、見に行きました。
残念ながらまさに昨日の午前中に、ここもトラクターで無残にも刈り取られたそうで、数時間の差で、チューリップには会えなかったそうです。
確かに見物客で人が密集したら感染が広がる恐れはありますが、だと言って、トラクターでチューリップを刈り取るというような粗暴な行為が許されていいとは思いません。
チューリップからたくさんの免疫力をもらえる仕組みをつくれたはずです。
それをトラクターで刈り取るとは、生命への思いが全く感じられない。
自然の報復を受けても、仕方がありません。
そういう生命への扱い方が、まさに今のパンデミックを起こしていると思っている私には、とても悲しい話です。
我が家の庭にも、植え替えを忘れていたチューリップが3本咲きました。
その1本を仏壇に供えていますが、それだけでも心が癒され、元気が出ます。
満開の美しく優しいたくさんのチューリップから、どれだけの人が元気をもらえたでしょうか。
生命は、ほかの生命にも元気を与えてくれるのです。
たしかに、大勢の人が集まりすぎたら、危険だったかもしれませんが、それはチューリップの問題ではありません。
問題を間違ってはいけません。
チューリップは、集まった人たちに生命力を与えてくれたはずです。
それを、チューリップのせいにして抹殺してしまうとは!
なぜチューリップを活かす仕組みを考えなかったのか。
実はこれは、ウイルスを悪者にして、問題をすり替えているいまの社会と全く同じです。
それではパンデミックは収まらないでしょう。
そもそもウイルスだけが病をもたらすわけではありません。
外出自粛とか人との距離を保つとかいう方策には、私はどうも違和感があります。
それは、生命の本性に反していると思うからです。
問題は排除すればいいという発想にも違和感があります。
自然界において歓迎されていないのは、私たち人間かもしれません。
そのことを、新型コロナウイルスが気づかせてくれようとしているとは思いませんが、私たちが気づこうと思えば気づけることに気づかなければいけません。
いずれにしろ、刈り取られたたくさんのチューリップのために、今朝、我が家の仏壇に備わられている1本のチューリップに謝りました。
さぞかし無念だったことでしょう。
■暴論ですが、私のコロナ感染症の現状認識です(2020年4月22日)
最近ようやく新型コロナウイルスの感染率が問題になりだしています。
感染率は検査者に対する感染者の比率ですが、感染者数は発表されても検査者数は発表されていません。PCR検査数は発表されていますが、あれは延べ人数ですから、検査者数ではないでしょう。
実際のデータは相変わらずやぶの中であり、そもそも実際に調査されてもいないようです。
しかしすでにあるデータでも、きちんと解析したらかなりのことは判明できるはずですから、多分どこかでやられていると思いますが、それに関する情報は見えてきません。
しかしおそらく誰かがしっかりと見ていて、だからこそ外出自粛要請が出されているのでしょう。
私の素人感覚では、おそらく市中感染率は2割を超えていると思っています。
集団感染といわれる6割には達していないでしょうが、都市では路上での変死者や家庭での孤独死にまで陽性反応が出たりしているようですので、都心ではむしろ6割に近づいているかもしれないと思っています。
家庭感染もかなり話題になってきていますが、これも市中感染がかなり進んでいることの証左です。
逆に言えば、市中感染率が高くなれば、当然、家庭にもウイルスは侵入してきますから、当然、家庭感染率はほぼ市中感染率と同じくなります。
もしそうであれば、家庭での外出自粛は、クルーズ船に閉じこめた話をと同じく、感染を加速させる施策とさえ思えてしまいます。
ですから私は、外出自粛はマイナス面しかないように思います。
もちろんだからと言って、外出して人混みをつくれというわけではなく、人混みに行けばいいという話ではありません。
事実に基づかずに、右往左往した現在の議論の広がりには、まさにパンデミック状況を感じます。
死者数もかなり操作的ですから、議論のベースにはなりにくいと思っています。
少なくとも発表数字の10倍以上の死者は出ていると思いますが、それにしてもインフルエンザや肺炎での死者に比べても決して多い数字ではありません。
素直に考えると、すでに東京や大阪などでの大都市においては、新型コロナウイルスはかなり広がっている。そしてウイルスから自らを守ることは不可能に近い。しかし、重症化率や致死率は決して高くない。
私はそう思っています。
ではどうするのかと問われれば、感染してもそれに何とか耐えられるように心身を元気にしておくことです。そして、もしかしたら死んでしまうと覚悟して生きることしかないと私は思っています。
しかし、生きている以上、別に新型コロナだけではなく、そうしたリスクは常にあります。
というか生きるということはそういうことだと思っていますので、なぜ世間がこんなにコロナ騒ぎをするのかが理解できません。
それに、もっと大変な問題はたくさんある。
私の周りにもコロナよりも深刻な心配事を抱えている人も実際にいます。
まさに今もちょうど、友人から、肺がん(ステージW)で闘病中の友人をお見舞いに行く予定だとメールが届きました。
私でもたぶん行くでしょう。
いささか不謹慎に聞こえるかもしれませんが、コロナ問題のおかげで元気が出てきた人も少なくないとメールをある人からもらいました。
その人自身がちょっとメンタルダウンし、今年の年初にはかなり危うい状況にあったのですが、いまはコロナ対策に目を向けることで自らの役割を見出して、元気になったのです。
さらに不謹慎になりますが、外出自粛風潮のおかげで、引きこもりで肩身に狭い思いをしていた人たちの気持ちが少し楽になったという話も聞こえてきます。
世間には、なかなか見えてこないさまざまな問題がたくさんあります。
そうした問題への視野が、広がってほしいと思っていますが、むしろますます世間の視野は狭窄化されているようで残念です。
時間ができた人が多いでしょうから、できればぜひ、いまの社会にあふれてきている様々な問題への関心を広げてほしいです。
政府を非難するよりも、そのほうがきっと社会には役立ちます。
■半世紀ぶりに森本哲郎さんの「豊かさへの旅」を読みました(2020年4月22日)
先に書いた、トラクターによるチューリップの刈り取りの記事へのコメントで、思い出して、「豊かさへの旅」を書庫から見つけてざっと読み直しました。
今の都市計画にも引けを取らないといわれるインダス文明の中心都市モヘンジョ・ダロがなぜ滅びたかは謎とされています。z
モヘンジョ・ダロは4500年ほど前の都市ですが、区画整備され、下水道はもちろん、ダストシュートも水洗便所もあったことが遺跡からわかっています。
合理的で清潔な都市を目指して都市整備を進めていたのに、ある時、突然、住人がいなくなって廃墟になったのです。
ちなみにこの都市は、メソポタミア諸国との通商によって豊かさを実現した平和国家で、軍隊をもっていなかったようで、戦争でほろんだわけではないようです。
環境破壊や感染病などの疫病で滅んだわけでもなさそうです。
ではどうして滅びたのか。
森本哲郎さんが著書「豊かさへの旅」(1972年)で書いている説はとても納得できます。
清潔で合理的な都市を目指していた住民たちは、上下水道やごみ処理システムを整備して、どんどんと美しい都市をつくり上げてきました。
無駄なものや汚いものはどんどん片付けられて、美しい都市になってきました。
ところが、なかなか清潔で合理的な理想都市が実現できない。
なぜだろうかとみんな考えたがわからない。
しかしある時、その理由にはっと気づいた。
清潔でなく合理的でもない人間が住んでいる限り、理想都市は完成しない、と。
そこで住民たちは、自らをまとめて片付けたのではないかというのです。
実にいいでしょう。
まあこうしたことは最近私たちも時々やっています。
まだ人間には行きついていませんが、豚や鶏の殺処分は何回も経験しています。
最初、その報道を知った時には、背筋が寒くなり、いつ私が対象になるのだろうかと怯えましたが、最近は慣れてきてしまいました。
そのせいか、現在のコロナ騒ぎもあんまり怯えていないのです。
私がこの本を読んだのはもういまから半世紀ほど前です。
このくだりに共感して、会社の忘年会での寸劇の出し物にしたのではっきりと覚えているのです。
ところで、インドにはまだ栄えている都市があります。
ベナレスです。
実に汚い都市だと、当時、森本さんは書いています。
そして、きれいで合理的なモヘンジョ・ダロは滅び、不潔で混乱しているベナレスは残っている、と書いたうえで、日本の行く末を心配しています。
当時日本はモヘンジョ・ダロ路線に入りだしていたからです。
ところで今日、読み直して、こんなことを森本さんが書いていることに気づきました。
「人間てのは、問題そのものなんだから問題をかたづけるというのは死ぬこと」だ。
これは、最近の私の信条の一つですが、そのルーツは森本さんのこの本にあったようです。
この本は含蓄のあるいい本です。
気安く読める本ですので、もし入手出来たらお読みください。
ポストコロナ時代の生き方へのヒントも得られるかもしれません。
■コロナ危機が可視化してくれた3つの岐路(2020年4月23日)
今回の新型コロナウイルスのパンデミック(コロナ危機)は一過性の危機ではなく、これによって、社会は大きく変わっていくだろうと言われています。
何がどう変わるかに関しても、さまざまな指摘が行われていますが、私なりに少し考えてみたいと思います。
コロナ危機は私たちにとってのいくつかの「岐路」を可視化してくれているような気がしますが、いまここで、どの道を選ぶかで、これからの社会の方向が決まっていくはずです。
それは、決して他人事ではないばかりか、自らの人生にもつながってきますし、ひとりの行動が社会を変えていくことにつながっていくかもしれません。
ただ単に「コロナ危機」を乗り越えた、で終わるのではなく、この「危機」を契機にして、未来を良いものに変えていくことができれば、いまの苦労も報われます。
ではどういう岐路に立っているのか。
第1の岐路は、「取り合いか分かち合いか」です。
これまでの経済や社会の基調は「取り合い」でした。
政治は利益の配分でしたし、経済は利益の取り合いでした。
今回のコロナ騒ぎでも、まさにそうした動きがさまざまなところに見えています。
しかし、その一方で、支え合う政治や分かち合う経済の動きも広がっています。
たとえば、経済でいえば、市場を中心としたマネタリーエコノミー(資本主義経済)は依然、支配的ではありますが、生活(コモンズ)を中心としたソーシャルエコノミーへの動きも静かに広がりだしています。これまでの経済観に囚われているとそうした動きはなかなか見えてきませんが、コロナ危機は、そうした動きを可視化し、加速しているように思います。
経済の枠組みそのものが大きく変わりだしてきているのです。
第2の岐路は、「自由か安全か」です。
リベラル・デモクラシーの矛盾が顕在化し、民主主義か自由主義かという選択においては、少なくとも欧米や日本では、自由主義へと重心が向いていました。
そのため「民主主義の危機」が叫ばれてきています。
しかし、それと合わせて、「リスク社会」化を背景に、「自由か安全か」が大きな問題になってきています。
民主主義か自由主義か、と、自由か安全かは、深くつながっています。
コロナ危機状況の中で、日本では、多くの人が、自由よりも安全を選択していますが、その安全が将来的には不安全を内包していることにはあまり意識が向いていません。
また、民主主義や自由にどう影響を与えるかも、あまり考えられているとは思えません。
この問題は、さらに、「同調か自律か」という第3の岐路につながっています。
民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」個人という主体的な存在が不可欠ですが、少なくとも最近の日本においては、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。
組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられます。
そこまでいかなくとも、自分を殺して組織のために行動することが多くの人の生きる基準になってしまっています。
組織の力と個人の力ではいまや勝負にならない関係になってしまっています。
そのために、自分で考えることが人間である条件だと思っている私には、いまや日本から人間がどんどん消えてきていると思っていますが、もしかしたらコロナ危機がそれを反転させてくれるかもしれないと根拠もなしに思い出しています。
なぜなら、結局、自分でしっかりと考えていかないと安全は守れないことにみんな気づくのではないかと思うからです。
コラテラル・ダメッジがはびこる組織では、個人の安全は本来は守られないのです。
ほかにもいろいろな岐路があります。
小さな国家か大きな国家か、あるいはグローバリゼーションのスタイル。
ソーシャルディスタンスに象徴される、人間の関係性に関する岐路。
いろいろあります。
新型コロナウイルスが恐ろしいのではありません。
それにどう対処するかが大切なのです。
対処の仕様では恐ろしい状況を生み出しますが、私たちの未来にとって、幸いをもたらしてくれるかもしれません。
恐ろしがってばかりいるのでは、未来は開けてきません。
このシリーズはブログで少し書き続けようと思います。
5月にはこれをテーマにサロンもやりたいと思っています。
■コロナ危機を活かす〔2〕「自由か安全かの岐路」(2020年4月25日)
今回は2つ目の岐路、「自由か安全か」を少し考えてみます。
これは、私たちが「政治」に何を期待するかにもかかわっています。
「小さな政府か大きな政府か」とか「自由主義か民主主義か」という問題です。
しかし、まずは個人に視点を置いて、考えてみたいと思います。
今日、私は湯島のオフィスに出かけます。
コロナ感染の危険性があるので、娘は反対しています。
もし私が感染したら、高血圧で高齢なので危険ですし、娘は肺に関する基礎疾患を持っていますので、これまた危険です。
私が感染したら娘にも感染し、さらに社会的にも感染拡大に加担することになります。
みんなのために外出自粛が社会的にも求められていますので、問題は「私だけの安全」ではありません。
社会の安全があってこその、個人の安全です。
私だけが「自由」に決められることではありません。
それでも私は今日、湯島に行きます、というか、行けます。
別にわが身を拘束されているわけではないからです。
しかし、その私の「自由な行動」が、他者を傷つけ、他者の自由を奪う恐れはゼロではありません。
自らの自由のために他者の自由を踏みにじったら、どうなるでしょうか。
その自由は、おそらく維持するためにさまざまな負担を強いてくるでしょう。
そして結局、自らの自由を実質的には不自由なものにしていきます。
長い目で自由を得たいのであれば、他者の自由も認めなくてはいけません。
こうして、自由もまた安全と同じように、自分を超えて、社会の問題につながっています。社会に自由があってこその、個人の自由です。
社会契約の考え方も、自らの自由を確保するために社会による規制を認めるというパラダイムです。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」といいましたが、それは「最大多数の最大自由」なのかもしれません。
「自由か安全か」は、個人の話ではなく、社会のありようの話なのです。
いい方を変えると、個人(生活)を起点で考える社会か、社会(秩序)を起点で考える社会か、ということになります。
私は、若いころからずっと前者を前提にした生き方をしていますし、それに向けての活動をしてきました。
個人一人ひとりの自由と安全があってこそ、自由で安全な社会が成り立つと考えていたからです。
しかし、残念ながら時代はそういう方向にはなかなか動きませんでした。
多くの人は、「自由」よりも「安全」を求めているような気がしていました。
そして、今回のコロナ危機。
コロナによって、いま、「安全」を優先させて、「自由」を抑制する方向に大きく傾いているように見えます。
しかし、その一方で、「社会(秩序)」のために「個人(生活)」を犠牲にする状況も可視化されだし、それへの問い直しの動きも出ています。
過重な負担の中で働かざるを得ない医療関係者、あるいは保証もされないままに営業休止に追い込まれる事業者、さらには感染防止の名目で家庭に閉じこめられ、ネットカフェからは追い出される居場所のない人たち。
「社会のため」が「社会を壊す」ということは、かつてバブル経済がはじけた時によく言われた言葉です。
今回のコロナ危機もまた、そうしたことを可視化し、そうした動きの中から、これまで隠されていたさまざまな「自由」と「安全」の問題が顕在化されてきていますので、それが社会を変えるばねになるかもしれない、そう考えていました。
しかし、「自由か安全か」の岐路はそう簡単ではありません。
そこに、個人か社会かを重ねると、道は4つに分かれてしまうからです。
しかし、たとえば、スペイン戦争で生命を賭して立ち上がったレジスタンス、チェルノブイリ原発事故の処理のために自らの生命を差し出して解決にあたった炭鉱夫たちの事例を思えば、岐路はやはり2つなのかもしれません。
自己の自由と安全は、社会の自由と安全に重なっているからです。
宮沢賢治も、社会すべてが幸せにならないと個人の幸せはないと言いました。
そう考えると、道を分けるの「自由か安全か」ではないのかもしれません。
もう少しきちんと考えないといけません。
実はこれを書き出すときには、最近の風潮である「安全のために自由を抑制する風潮」が安全を失わせていくというようなことを書く予定でしたが、書いているうちに迷いが出てきてしまい、当初とは違う展開になってしまいました。
もう少し整理してから公開すべきかもしれませんが、迷いのプロセスも書いておくことにしました。
いずれにしろ、もう少し考えてみたいと思います。
時間はたっぷりとありますので。
■土曜サロン(20200425)の報告(2020年4月26日)
昨日の土曜サロンは5人の人が参加しました。
井田さんがお抹茶をたててくれました。
こういう時期こそ、抹茶の緑と香りを楽しみながら、心をなごますのがいいと、わざわざお茶のお点前を持参してくれたのです。
しかもお茶請けの和菓子までも。
とてもおいしかったです。
話題はやはりいまのコロナ話とそれへの政府や社会の対応が中心でした。
コロナ後の社会の話もだいぶ出ました。
いまこそ上杉鷹山ではないかという話がありました。
マスクの話も出ましたが、アメ横ではマスクは出回っているそうです。
ただ、中国からのマスクは仕入れは高騰しているそうです。
「不要不急」の仕事の話も出ましたし、「働き方改革」に関する話も出ました。
ただし、世間で話されている事とはかなり、いやまったく違った内容かもしれません。
コロナ騒ぎで、課題が出てきて、元気になったという話も出ました。
コロナにおびえ、コロナが通り過ぎるのを待つだけではなく、自分で考え行動する人が少しずつ出てきていることを、ちょっとだけ実感できました。
そういう人が6人でもいるだけで、元気が出ます。
みんないろいろなことを考えているのでしょうが、やはり話し合う場が広がるといいと改めて思いました。
できれば井田さんのお茶会サロンをまたやってほしいと思いました。
■皆さんにも是非読んでほしくて紹介させてもらいます(2020年4月26日)
今朝の朝日新聞で、藤原辰史さん(農業史・環境史)の寄稿を読み、そこから藤原さんが書いた「パンデミックを生きる指針」という論考のPDFを読ませてもらいました。
とても考えさせられる論考です。
公開されていますので、ご紹介します。
https://4342919d-57cf-4411-9568-147a94fa1b0f.usrfiles.com/ugd/434291_59362cd22dfb4b998a9da1bf76c09c5a.pdf
たとえば、こんなメッセージにとても共感しました。
世界現代史は一度だって看護師などのケアの従事者に借りを返したことはない。
本当に怖いのはウイルスではなく、ウイルスに怯える人間だ。
人びとが、ただでさえ蔓延していた潔癖主義に取り憑かれ、人間にとって有用な細菌やウイルスまで絶滅の危機、それによる体内微生物相の弱体化、そして免疫系統への悪影響に晒されるかもしれない。
組織内、家庭内での暴力や理不尽な命令に対し、組織や家庭から逃れたり異議申し立てをしたりすることをいっさい自粛しないこと、なにより、自粛させないこと。
危機は、生活がいつも危機にある人びとにとっては日常である、というあたり前の事実を私たちは忘れがちである。
そして、私が一番、共感したのは次の一文です。
試されるのは、いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うかである。
■コロナ危機を活かす〔3〕「これまでの行動を問い直す契機」(2020年4月26日)
「自由か安全か」をもう少し考えてみます。
これは対置される概念ではありませんが、その根底に岐路につながるものを感じます。
それに私たちの日常につながっていてわかりやすい。
ちょっと寄り道します。
いま多くの人は外出自粛に従っていますが、それは「安全」を大事にしているかです。
「安全」は、感染に伴う安全だけではなく、社会の目から自らを守る「安全」でもあります。
営業自粛しないお店への非難やマスクをしていない人への冷たい視線。
湘南海岸でサーフィンをしている人への多くの人の目も、私には冷たく感じますが、同調圧力に抗うのは、だれでもできればやりたくないでしょう。
それにしても、これまでは観光客を盛んに誘致していた人が、「来ないでくれ」という神経が私にはまったく理解できません。「呼びかけよう」があるでしょうに。
しかし、これまでの過剰な誘致観光に強い違和感をもっていたので、これを機会に「観光」とは何かをきちんと考える動きが出てほしいと思っています。
状況が戻ればまた相手が誰であろうとお金を落としてくれるのであれば、見境なく誘致する姿勢に戻るでしょうか。
確信は持てませんが、もしかしたら金銭主義を見直す動きが出るかもしれません。
「観光」の意味が変わっていく可能性はあるでしょう。
いや変わっていく契機になるかもしれない、そう期待しています。
しかし、こういう期待は、「観光」だけではありません。
自らの生き方に関しても、いろいろと考え直すことがたくさんあるでしょう。
いまは、たとえば、「外出自粛」というような形で、外部からの指示で、あるいは社会的同調圧力で、生活を変えている人が多いでしょうが、その体験が一部の人に「生き方は変えられる」ことを気づかせてくれるかもしれません。
たとえ一部の人でも、生き方を変えれば、社会は変わっていくかもしれません。
ところで、「自粛」というのは、「自由」に制約を与えるということです。
しかし、よく考えてみると、実は「自粛」は「自由の回復」なのかもしれません。
つまり、これまでの生活そのものが、自由の抑制の上に成り立っていた。
これほどまでにすんなりと、外出自粛が浸透し、通勤電車がすいてきたのは、実は、「自由の回復」だったと考えれば納得できます。
つまり、安全の名目で、みんな「与えられた自由」を手に入れたのかもしれません。
そう考えると、「自由が安全か」は全く違った示唆を与えてくれることになる。
そして、それこそが、私たちの生き方を変える契機になるかもしれないと思えてきます。
この続きは明日にします。
■西浦モデルへの疑問(2020年4月26日)
先日、フェイスブックに、コロナ鎮静化と接触率のグラフに関して、あれほどひどい「まがい物」はないのではないかというようなことを書きました。
言い過ぎではないかと叱られました。
しかし、政府も東京都知事も、これをよりどころにして、「外出自粛」を呼びかけていて、日本国中、「外出自粛」風潮に覆われています。あのグラフに日本国中が振り回されているように思えます。
それほどの影響を与えている西浦グラフは、ちょっと素直に考えたら、いかにおかしいものであるか気づくはずです。私には、あれは「詐欺師のモデル」としか思えません。
西浦さんの属するチームの取り組む「クラスター発想」も、私にはひどいものだと思い、コロナが話題になりだしたころから疑問を呈してきましたが、いまもってまだ、クラスター追跡などをやっているのは、私はコロナをはやらせたいのかと疑いたく思うほどです。
それにしてもまだ西浦モデルがテレビで活躍しています。
医療関係者にはまともな批判をしている人はいないのかと思って、先ほどネットで調べてみました。
そうしたらいろいろと情報発信している人がいる事がわかりました。
一番説得力があったのは、藤井聡さんの次のユーチューブです。
https://www.youtube.com/watch?v=Vu3EbKx_uU4
ぜひみなさんにも見ていただきたいです。
■西浦さんのグラフに私がおかしいと思った点(2020年4月27日)
西浦さんのグラフに、私がおかしいと思った点は2つです。
まず、「接触8割減」になると1か月ほどで、新規感染者がゼロになるということです。
次に、そのあとのことが何も示唆されていないことです。
つまり、政策検討の材料にはなっても、政策の根拠や説明にはならないと思います。
数理モデルは、これまでも往々にして、政策の正当化のために利用されてきました。
その典型例だと思ったのです。
しかもそれは、安倍政権の脅迫的自粛政策に加担し国民を委縮させました。
この図を毎日見せられて、みんな「外出自粛合唱」を始めました。
サーファーやパチンコ愛好者は、社会の敵にされてしまった。
そしていつの間にか、感染予防が接触予防となり、人々の間にソーシャルディスタンス、つまり不信感を生むことになった。
私はそう考えています。
西浦さんの数理モデルを否定しているわけではなく、そこにもっともらしい数字を当てはめ、ウイルス禍は一過性であるという印象を与える政策に格好の道具を与えたことに、学者としての良識を疑ったということです。
もっとも、あのグラフによって、自粛姿勢が強まり感染が収まったではないかといわれるかもしれませんが、それは否定はしません。しかし、それによって失ったものを考えてほしいです。
新規感染がゼロになるということはあり得ませんし、既存感染者の中にウイルスは残っていますから、このグラフは実は次々と重なっていくはずです。
実験室でのウイルス拡散の1シーンに関しては、これは成り立つでしょう。実験室のモデルを、きちんとした説明もせずに現実世界に安直に当てはめないでほしいと思います。
実際には、このグラフが何枚も重なって。現実を構成してくはずです。
それをベースに政策は考えられているはずですが、それは一切見えてこない。
ほかにも疑惑はたくさんあります。
感染者の8割はウイルスを感染しないなどということがどうしてわかるのか。
検査者数を示しもしないで、感染者数を発表することの意味は何なのか。
PCR検査能力は議論されても、実際の検査数は話題にしないのはなぜなのか。
要するに、みんな西浦さんと同じように、数字の遊びをしているだけではないか。
そういう気がしてならないのです。
今回のウイルス対策は、最初から事実を把握しようという姿勢があまり感じられませんでしたが、いまもって事実を把握しようという動きが出てこない。
なぜマスクがまだ不足なのか、医療用具がなぜ不足なのか。
致死率はどのくらいなのか、個人としての感染予防と感染後をどうしたらいいのか。
恐怖は広がっていますが、むしろそのために、個人として身を守る術をそれぞれが考える風潮が出てこないでいるような気さえしてしまいます。
いささか言いすぎていることは、重々承知していますが、この数か月に少なくないコラテラルダメッジが生まれているような恐ろしさを感じています。
■コロナ危機を活かす〔4〕「仕事の価値を問い直す」(2020年4月27日)
今回も「自由か安全か」の切り口から、思い切り寄り道です。
「自由」は、この数百年の、いわゆる近代において、私たちが望んでいた基本理念だと言っていいでしょう。
神への隷属から王への隷属という長い歴史の中で、「自由」が普遍性を持ち始めた。しかし、自由はいいことだけではありません。
サルトルは、「人間は自由へと呪われている」といいました。
人間は、自ら、自由に決断できる。しかし、その結果を自らで受け止めなければならない。そのため、一度、手に入れた「自由」から逃げる人も少なくありません。いわゆる「奴隷の幸福」を選択するのです。
命令に従って強制的に働かされる奴隷は、自分の頭で何をするべきか考える必要はないし、その行動の結果の責任もとらなくていいので、そこに安心を見つけ、幸せを感じる人は少なくないのです。
日本でも、明治以来の教育の成果で、自由を目指す人は少なく、「お上」に従うことをよしとする風潮は今なお強く残っています。
コロナウイルス騒ぎが、そのことを示しています。
「お上」に従わない人たちは、世間の冷たい目にさらされてしまっています。
そして、日本国中、事実も知らされないままの「目隠し」自粛ムードです。
しかし、「自粛」したからと言って、感染の「安全」が保証されるわけではありません。
ここまで市中感染や家庭内感染が広がっている状況では、どこにいても、クルーザー現象は起こりえます。
外出自粛とは「空間への閉じ籠り」でもあります。となれば、「換気」の悪い「三密」の発生につながっていく。
ちなみに、大切な「換気」は空気だけではありません。
しかし、不思議なことに誰もそれを問題にしない。「三密」論を信奉している人たちの住居は広く間取りにも恵まれ、家族関係にもめぐまれているのかもしれません。
しかし、そうではない住居空間に住んでいる人も少なくありません。
こうしたことの背後にあるのは、安全を維持するためにはみんなが勝手に行動する自由を制約するのがいいという認識があるように思います。
そこには政府の「国民観」と同時に、いまの社会を支えている社会原理が見え隠れしています。
昨日の朝日新聞に藤原辰史さんがこんなことを書いていました。
現在ニューヨーク市保健局が毎日更新する感染地図は、テレワーク可能な人の職場が集中するマンハッタンの感染率が激減する一方で、在宅勤務不可能な人びとが多く住む地区の感染率が増加していることを示している。これが意味するのは、在宅勤務が可能な仕事は、「弱者」の低賃金労働に支えられることによってしか成立しないという厳粛な事実だ。今の政治が医療現場や生活現場にピントを合わせられないのは、世の仕組みを見据える眼差(まなざ)しが欠如しているからである。
おそらく日本の経済社会も、同じような構造になってきています、
経済の現場は汗して働く低賃金の非正規労働者に支えられているのです。
テレワークしている正規社員の仕事の大半はなくてもたぶん経済は維持できるでしょうが、現場の人出がなくなれば、経済は回らなくなる。
ここに、「価値ある仕事」とは何なのかが示唆されています。
仕事の価値も含めて、私たちの社会(生活環境)を維持していくために不可欠な役割を果たしている人はいったい誰なのか、コロナはそれを見えるようにしてくれました。
ドイツのメルケル首相はこう国民に呼びかけました。
ここで、普段滅多に感謝されることのない方たちにもお礼を言わせてください。
このような状況下で日々スーパーのレジに座っている方、商品棚を補充している方は、現在ある中でも最も困難な仕事のひとつを担っています。同じ国に住む皆様のために尽力し、言葉通りの意味でお店の営業を維持してくださりありがとうございます。
仕事の価値を改めて考え直したい。
そして現場で頑張っている作業の報酬対価がとてもその価値に見合っていない現在の状況に、疑問を持ちたい、と私は思います。
思い切り寄り道してしまいましたが、コロナ禍が「仕事の価値を問い直す」契機になれば、社会は間違いなくよくなるはずです。
■湯島サロン「新型コロナウイルスとどう付き合うか」のご案内(2020年4月28日)
新型コロナウイルスの影響でテーマサロンをしばらく休んでいましたが、再開することにしました。感染症の拡散には十分注意して、ですが。
再開第1回目は、まさにコロナウイルスとの付き合い方をテーマにします。
これまでも何回かサロンをしてくださった細菌学研究者の益田さんに、ウイルスに関する基礎知識をお話ししていただき、そのあと、Q&Aスタイルでのサロンです。
私はまったくの素人ですが、この2か月、テレビの報道などを毎日録画してかなり見てきました。しかし、理解できないというよりも、おかしな話が多すぎて、どうもすっきりしません。ウイルスや免疫に関する本も少し読みましたが、あんまり理解できません。
益田さんとやり取りしていたら、「濃厚接触と濃厚感染の違い」とか「誰もこのウイルスが本来の居場所を失った生物であることを理解してない」というような指摘をいただいたうえに、直接会って話そうかと言ってもらいました。
せっかくであれば、私だけでお話を聞くのではなく、私のように疑問をお持ちの方も多いでしょうから、益田さんにお願いして、「外出自粛の中のサロン」を開催することにしました。
ちなみに私も、最近の「接触」と「感染」を混同しがちな風潮には大きな危惧を感じています。
ただ湯島の部屋は狭いため、定員を8人に限定させてもらいますので、事前申し込み制です。定員になったら、ご容赦ください。
それとマスクは必ず着用してください。
申し込まれても、当日、体調など気になることがあったら気兼ねなく欠席してください。
コーヒーかお茶は用意しますが、ご心配の方は各自ご持参ください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年5月2日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「新型コロナウイルスとどう付き合うか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■コロナ危機を活かす〔5〕改めて「自由か安全か」(2020年4月28日)
2回も寄り道してしまいましたが、2つ目の帰路、「自由か安全か」に戻ります。
あなたは「自由」と「安全」のどちらを重視して生きているでしょうか。
「自由」と「安全」は、次元の違う話だから比べられないと思うかもしれません。
しかし、そんな発想こそを捨てなければいけないと私は思っています。
そもそも、厳密にいえば、対置できる概念などありません。
平和と戦争も対置されがちですが、次元が違います。戦争でないから平和というわけでもなく、平和でないから戦争というわけでもありません。
でも「戦争か平和か」と問われれば、多分多くの人は「平和」を選ぶでしょう。
同じように、「自由か安全か」と問われれば、感覚的に答えられるはずです。
そして現代の日本では、多くの人は、「自由」よりも「安全」を選ぶようです。しかも、自らの「安全」のために他者の「自由」を抑制することさえ正当化してしまっている。
話題になった先日放映されたEテレの「緊急対談 パンデミックが変える世界」でも、ジャック・アタリが、安全か自由かという選択肢があれば、人は必ず自由ではなく安全を選びますと話していました。
アタリが、そんなことを言うのかとがっかりしますが、「自由のために死を辞さない」時代は終わってしまいました。
20世紀後半になって、「安全」は私たちにとって日常の事柄になってきました。
それに伴い、「死」はだんだん、生活から見えなくなってしまいました。
毎日、どれほどの人が死んでいるか、ほとんどの人は意識できなくなりました。
日本では自殺者だけでも毎日100人以上はいるでしょうが(統計上は少し低くなっていますが)、ほとんどの人は何も感じていないでしょう。
そんな時に、新型コロナウイルス感染症の蔓延。棺桶の並ぶ映像とともに、今日は何人死んだという報道が毎日なされるようになりました。
数字だけなら他人ごとにしておけましたが、テレビなどで親しく感じている人の突然の訃報は衝撃を与えました。
そして急に「安全」指向が高まってしまった。
もし「自由」が「安全」を損なうのであれば、たとえ他者の自由も抑制すべきだ!
人々の行動原理は「自由」から「安全」へと変わってしまった。
人の自由を抑制するには、権力や罰則、強い政府が必要です。
それによって、強い秩序が維持されて、安全な社会が実現するかもしれません。
ウルリッヒ・ベックの提唱した「リスク社会」時代とも深くつながっています。
かつては「安全」は個人の課題でしたが、今や「安全」は社会全体の課題になってしまった。個人の手には負えないリスクの発生です。
つまり、安全と自由が共立しにくくなってしまったのです。
だから、自由よりも安全は、時代の大きな流れとしてもはや変えられないと多くに人は思っています。
個人の自由が社会の安全を壊し、回りまわって個人の自由を奪ってしまう。
自由の時代から安全の時代への移行です。
しかし、そうではないかもしれません。
各自の自由こそが社会の多様性を豊かにし、社会の安定を高めるのではないかと私は思います。
種の多様性こそが淘汰を生き抜く生命の効果的な戦略です。
人間社会もその例外ではないでしょう。
ポストコロナに関しては、自由な文化は消えてしまうのではないかという見方が多いようですが、むしろ安全志向の流れを反転させる契機にしていきたいと思います。
本当の「安全」は、自由の空気の上にこそあると思うからです。
だから私は、今日も吹き荒れている、パチンコ屋さんいじめには恐怖を感じます。
次はだれが狙い撃ちされるのでしょうか。
■コロナ危機を活かす〔6〕発想の起点は個人か社会か(2020年4月30日)
コロナ危機で私が考える3つ目の岐路は、「同調か自律か」です。
今回はまるっきり横道なので、お暇の方だけ、どうぞ。
「同調か自律か」は、私が長年、行動の基準にしていることとつながっています。
その基準は、発想の起点を個人に置くか、全体(組織・社会)に置くか、です。
ちょっと読みにくいのですが、20年近く前にホームページに書いた文章があります。
「メッセージ6:発想の起点を変えてみましょう〔2002/04/06〕」
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m6
これまでの日本では、発想の起点は全体(組織・社会)にありました。
まず全体があり、個人はそれに合わせる存在でした。
つまり、個人は全体に合わせる受動的な無表情な存在でした。
学校教育は、子供たちを社会に合わせるための場でした。
そのため学校は子供の能力を伸ばすというよりも、規律に従う訓練と社会に適合するための知識を得る場になり、豊かな感性や意志を持っている子どもたちは不登校になりがちです。そこでは学ぶことの楽しさを味わえず、勉強は苦行になります。
会社に入ったら、会社の常識に合わせないといけません。おかしいと思ってもがまんをするのが会社員の常識であり、そのためメンタルダウンしてしまうことも少なくありません。働くことが楽しくなくなり、これまた苦行になってしまう。
福祉も制度に合わせて考えられますので、個々人の事情はあまり考慮されません。福祉施設では障害者や高齢者の豊かな人間性は認められず、上から目線で「世話されること」になります。そこには、豊かなケアし合う喜びはありません。
高度経済成長期においては、みんな猛烈社員として働きました。
個人の生活よりも、会社の業績、国家の経済成長が目標でした。
会社の業績が上がれば給料も上昇する。パイが大きくなれば、取り分も増えていく。
全体を豊かにすれば、個人も豊かになる。
高度経済成長のおかげで、非常にわかりやすい形で、多くの人がその恩恵に浴しました。
そのおかげで、ボードリヤールが指摘したように、「ウサギ小屋」と言われる住居に住みながら、満員電車に詰め込まれて会社に行って、24時間がんばって、経済を成長させてきたのです。
そして、私たちの生活も「豊か」になってきました。
しかし、「豊か」になれば、「もっと」豊かになりたい、「別の」豊かさを求めたい、と思うのが、人の定めです。
2つの岐路がありましたが、日本だけではなく、世界は「もっと」路線を選びました。
1970年代から80年代にかけての話です。
私は最後の最後で、そうした社会に同調する生き方から離脱しました。
しかし、なかなかうまくいかずに、そうした社会のおこぼれにあずかりながら、なんとか辻褄を合わせながら生きていました。
そんな時に「コロナ危機」。
歴史の岐路の見直しの可能性が生まれてきた、と思いたくなっています。
「もっと路線」は、挫折はしないでしょうが、「別の路線」の魅力が高まるかもしれません。
そんな気がしてきています。
完全な横道でした。
すみません。
「同調か自律か」について、次回から書き出します。
■コロナ危機を活かす〔7〕3つ目の岐路「同調か自律か」(2020年4月30日)
ポストコロナ社会をイメージしながら、コロナ危機をどう活かすかを考えるはずが、どんどん横道に入り込んでしまっていました。
閑話休題。
3つ目の岐路、「同調か自律か」に話を戻します。
前回の話につなげていえば、発想の起点が全体(社会)の場合には「同調」が思考の基本になります。それに対して、発想の起点が個人、つまり自分にあれば、まずは自分ならどうするかを考える、つまり「自律」が思考の基本になります。
同調の場合は、「考える」のではなく「与えられる」「探り合う」と言ってもいいかもしれません。「与えられる」「探り合う」と「考える」は全く違います。
私には「思考」の有無が、「同調」と「自律」の違いのように思われます。「思考停止社会」か「思考稼働社会」かといってもいい。いずれにしろ、社会の質は全く違います。「同調」が基本の社会か、「自律」が基本の社会かでは、社会は全く違っていくでしょう。
現在、コロナ危機という、自らの生命にもつながる状況への対策に関しても、多くの人は「同調」行動に身を任せているように思います。「外出自粛」「対人接触回避」がコロナ危機対策の中心です。しばらく我慢して家に引きこもっていれば、コロナ危機は通り過ぎていく、というわけです。
しかも、その理由を考えることも、問うこともせずに、「専門家」や「お上」任せ。万一それが間違っていたとしても、「みんなで渡れば怖くない」というわけです。
「外出自粛」と言われれば、みんな外出を自粛し、世界を見ないようになってしまう。私には信じがたい話ですが、それで感染防止ができるとみんな思っている。
もしかしたら、それで当面の危機は乗り越えられるかもしれません。しかし、それによって、社会の未来は決まってくる。危機への対策はだれかに任せてしまい、自分では考えない。危機でさえそうであれば、日常の行動は当然に自分では考えずに、周囲に身を任せて、責任も取らずに、お上に従うか、(現在の野党や安倍政権批判者のように)お上に責任をなすりつけるかして、貧しく生きるしかありません。
運よく死を免れたとして(多くの人は免れるでしょう)、コロナ危機がかなり長期的に続くとすれば、これまでの経済の枠組みで生きてきている人は苦境に置かれるようになるでしょう。経済的な困窮が、別の意味での死をもたらすかもしれません。人の意味は全く変わってしまい、人は社会のための道具的な存在になってしまう。
しかしもし、「同調」よりも「自律」を選ぶならば、世界は一変するでしょう。
コロナ関係の情報を自分でしっかり考えるようにすれば、感染予防の対策は変わってくるかもしれません。外出自粛したとしても、その意味を問い直すことで、能動的な予防策や危機を克服する方策も考えつくはずです。
この危機をチャンスにすることさえ、できるかもしれません。
少なくとも、自分の思考で、生き方を変えることはできるでしょう。
所与のものとしてではない、みんなで創りあげていく社会もイメージできるでしょう。
社会は、人間にとっての道具的な存在に戻されるでしょう。
民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」自律的な個人という主体的な存在が不可欠ですが、最近の日本は、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられる。そんな社会になってきていた状況を、コロナ危機は変えてくれるかもしれないのです。
幸いに、行動が制約されて、時間はたっぷりある人も多いでしょう。
忘れていた「思考」を取り戻し、どちらの未来を選ぶか考えたい。
そして、小さくてもいいので、一歩を踏み出したい。
そう思います。
■コロナ危機を活かす〔8〕振り出しへ戻る(2020年5月2日)
コロナ危機を超えていく先にはいくつかの岐路があるという思いで、7回も書いてきてしまいましたが、どうもどこかで大きな間違いをしてしまっているような気がしてきました。
3つの岐路、「取り合いか分かち合いか」「自由か安全か」「同調か自律か」が適切かどうかというよりも、そもそも「岐路」というとらえ方が間違いではないかという気がしてきたのです。
困ったものです。
3つの岐路は、私の場合、問われたら即答できますし、その方向で、この数十年生きてきています。
取り合いか分かち合いかでは「分かち合い」を、自由か安全かでは「自由」を、同調か自律かでは「自律」を選んで生きてきているつもりです。しかもそれらが深くつながっているというのが、今回、これを書き出した時の思いでした。
しかし、書いているうちに、つながっているのではなく、すべては同じ事なのではないかと思いだしたのです。岐路というよりも、同じ道の裏表ではないか。
一番「岐路」的に見える、取り合いか分かち合いかを考えてみましょう。
理屈っぽく言うと、いずれも2つの世界の関係を言っています。
AとBという2つの世界があって、それぞれに住む人たちが、あるものを取り合うかシェアするかの違いですが、ではAとB、それぞれの世界の内部ではどうでしょうか。
対外的には「取り合う」関係でも、内部では「分かち合う」関係ではないのか、むしろ、内部の「分かち合い」のために外部に対して「取り合う」関係になってしまう。
Aが、個人の場合もありますが、人は一人では生きていけないので、「家族」「仲間」という形で、何らかの「分かち合う関係」は存在するでしょう。
そう考えていくと、「分かち合う」と「取り合う」も選択肢とは言えません。
と、いうようなことに昨日、気づいて、書けなくなってしまいました。
そんなわけで、最初からまた考え直すことにしました。
どうも問題は、「個と全体」の関係かもしれません。
少し頭を整理します。
コロナ危機に関しても、状況がかなり見えてきたような気がします。
私の認識の間違いもわかってきました。
ポストコロナというよりも、すでに変化は起こりだしているようです。
やはり変化は現場から始まるようです。
■湯島サロン「新型コロナウイルスとどう付き合うか」報告(2020年5月3日)
細菌学者の益田さんにお願いして開催した「新型コロナウイルスとどう付き合うか」は時節柄、過密にならないように定員を決めての開催でした。
暑いくらいの日でしたので、部屋の両側のドアを開けて、風が通り抜けるような状況で行いました。
話をはじめる前に、益田さんは、1枚の絵をランダムに数枚に分断したものを渡して、それを復元させてはじめて全体の絵が見えてくることを体験させてくれました。
ウイルスも、部分をいくら見ていても正体はわからないということでしょうか。
テレビや新聞には、毎日たくさんの情報が流れていますが、それらは「部分」でしかありません。その部分情報に私たちは、振り回されているのかもしれません。
コロナ騒ぎの当初、「正しく恐れよ」ということが盛んに言われた時期がありましたが、あの言葉はもうみんな忘れてしまったようです。
私は、益田さんから、何回話しても理解しないなと言われていますが、そもそもウイルスのことはまだわからないことも多く、益田さん自身,わからないことはわからないと言いながら、ていねいに話してくれたので、さすがの劣等生の私もだいぶわかってきました。新型コロナへの共感も高まりました。
新型コロナは、これまで平和に生きていた宿主のコウモリとの関係を維持できなくなり、新たな宿主を人間に求め出したというところから、話が始まりました。
なぜコウモリとコロナウイルスの平和な関係が壊れたのかも興味ある話ですが、それ以上に、新しい宿主の人間との付き合い方がわからないで混乱を起こしているのだろうと、私はコロナウイルスに同情してしまいましたが、こういう受け取り方をしてしまうので、益田教授からは、文系は情緒的だと叱られるわけです。
そこから、ウイルスはどうやって増えていくのか、とか、遺伝子のセントラルドグマとか、アポトーシスとか、話は難しくなっていくのですが、参加者の理解の様子を確かめながら、質問を促してくれるので、なんとかついていけました。
後半では、新型コロナに関する現実的な話に移り、ワクチンの話や血栓の話、抗体と抗原、濃厚接触と濃厚感染、そして「少量感染」、手洗いとマスクの効用、さらにはこの状況の出口をどう考えるか、ソーシャルディスタンス、免疫力、既往症との関係など、質問に応じて、益田さんは他の病気の話も入れ込みながら解説してくれました。
私が一番印象的だったのは粟粒結核の話でした。
宿主である人間の結核菌に対する抗体作用が作動せずに、結局、人間と共に死んでしまう結核菌の話です。その話を聞いて、ウイルスと人間はやはり協力するべき関係なのだと改めて確信しました。
対話型のサロンなので、内容を報告してもあまり意味がありませんが(受け止め方も人それぞれです)、ともかく、私はとても安心しました。
終了後、参加者から、「ウイルスについて、専門家の方のお話を直にお聞きできるチャンスを作ってくださって大大大感謝です」「やっぱりお話を伺って良かった。こんな時だから、専門家からきちんとしたお話を聞いておかないと思います」などというメールが届きました。
私も同じで、むやみやたらに 恐れることはないと改めて思いました。
「益田先生のお話で「少量感染」を心がければ良いんだと、とても気が楽になった!」というメールも来ました。
問題は、どうしたら「少量感染」などという器用な対応ができるかですが、それはそれとして、「気が楽になる」ということは大事なことです。これは益田さんの意図に反するかもしれませんが、みんなそれぞれに自らの生き方を考え直す時間になったと思います。もちろん十分に感染予防に注意して、です。
益田さんに改めて感謝します。
ところで、今回は定員8人にしたため、参加できなかった人が少なくありません。
そこでもう一度、益田さんにお願いして、5月16日(土曜日)の午後2〜4時に、同じようなサロンを開催することにしました。定員はまた8人に絞らせてもらいます。前回申し込まれて定員オーバーで参加できなかった方を優先させてもらいますが、参加ご希望の方は私宛(qzy00757@nifty.com)ご連絡ください。
確認のメールを送らせてもらいます。
■アベノマスクを返送しました(2020年5月6日)
いま話題の「アベノマスク」が湯島に届いていました。
世帯あてに郵送されてくるのかと思ったら、郵便受けにチラシのように配られるようです。
湯島のオフィスの郵便受けに投函されていましたが、だれも住んでいない部屋の郵便受けにも投函されていました。
俗悪なシロアリ業者のチラシと同じレベルの扱いなのです。
これでは自宅の郵便受けに張った、受け取り拒否の警告は役には立たないようです。
肩から力が抜けました。
税金がこんなに粗雑に扱われるとは実に腹立たしいです。
それで予定通り、安倍首相に返送することにしました。
異議申し立ての手紙を漬ける予定でしたが、その気もなくなってしまい、簡単なメモをつけるだけにしました。
文章を考えるのさえ、いやになってしまったからです。
こうしてみんな体制に乗っていってしまうのでしょうか。
粗末な文章ですが、こんな感じです。
安倍首相
布製マスクが届きましたが、すでにマスクが出回っている時期での配布は、政府がかなりの金額を投入してやるべきこととは思えません。しかも配布方法があまりに杜撰で、マンションなどの空き部屋の郵便受けにも投函されていました。このような税金の無駄遣いに強く抗議し、返送します。税金は国民みんなの汗の成果です。その使途に関しては、もう少し慎重であってほしいと思います。
2020年5月5日
コロナ危機を憂える一国民
こういう首相が呼び掛ける、「外出自粛」や「緊急事態宣言」に疑問も持たずに応じている多くの人がいることがとても情けない気がします。
気が滅入ることの多い毎日です。
■「思い込み」から解放されないと事実は見えてきませんが(2020年5月7日)
昨日の報道1930で、北大の豊嶋教授が唾液を使ったPCR検査の話をしていましたが、その時に、人間というのは思い込みに基づいて行動するので、唾液からの検体採取は思いつかなかったが、新型コロナの特性を考えると、そう考える理由はいろいろとあったというような話をしていました。
その話が、とても印象的でした。
私のようなまったくの素人になると、味覚障害の話が出た時に、唾液からの検体検出でいいのではないかとすぐ思いつきます。
でも専門家はそんな馬鹿な発想はすぐに否定されるのでしょう。
しかし、この方法でPCR検査はかなり状況が変わるでしょう。
PCR検査への姿勢もようやく変わりつつあります。
3か月もかかわりましたが、これも知識なしに素直に考えれば当然の話です。
クラスターにこだわり続けたのも、思い込みに呪縛された結果でしょう。
PCR検査がきちんと行われれば、コロナ感染の実態も見えだしてきて、「思い込み」による政策も「思い込み」からのコメントもなくなっていくでしょう。
コロナ危機の実態も見えてきて、私もストレスから解放されるかもしれません。
ともかく今は、新型コロナウイルスの感染の広がりの実態が全くわからないのに、それを気にする人が少なく、事実を確認せずに、「外出自粛」とか「8割接触削減」とか、いい加減な言葉に盲従している友人知人とかが多いのが寂しいです。
しかし、私自身も、たくさんの「思い込み」で事実をきちんと見ていないことが多いのでしょう。
幸いに認知力や記憶力も低下してきているので、思い込みからも自由になれそうなはずですが、なぜか思い込みというのはなかなか私を解放してくれません。
いやむしろ、時に「思い込み」がますます強くなっていると娘からは言われだしていますし。
気をつけないといけません。
思い込みから自由になれ、とコロナに教えられたような気が、最近しています。
■湯島サロン「世界新型コロナ工作終息論考?仮に陰謀ならどう終わるのか?」のご案内(2020年5月8日)
湯島のサロンを土曜サロンのほかにも少しずつ増やしていきます。
その第1回は、やはり時節柄“コロナもの”にしました。
ただし、土曜サロンの益田さんとは切り口を変えて、コロナ陰謀論筋のサロンです。
話し手は3月にサロンをしてくださった中嶋一統さん。
タイトルは「世界新型コロナ工作終息論考」。
新型コロナのパンデミックが、仮に陰謀ならどう終わるのか?という話です。
世界地図がどう変わっていくのか、というような話も出るかもしれません。
今回も定員を10人に絞りますので、事前申し込みをお願いします。
当日は原則としてマスク着用の上、体調確認のうえ、できるだけ体調を整えてご参加ください。
申し込まれていても、当日の体調次第で欠席は問題ありません。
よろしくお願いします。
〇日時:2020年5月24日(日曜日)午後1時半〜3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「世界新型コロナ工作終息論考?仮に陰謀ならどう終わるのか?」
〇話題提供者:中嶋一統さん(「陰謀論」研究家/話し方教室主宰/ヒット商品企画)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■新型コロナ現象 立ち止まって考えたい(2020年5月8日)
新型コロナ現象に関して、とても共感できる発言にやっと出合いました。
今日の朝日新聞に掲載されている医療人類学者の磯野真穂さんのインタビュー記事です。
磯野さんのおかげで元気が戻ってきました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14468005.html
残念ながらデジタル版では公開されていませんが、ぜひ多くの人に読んでほしいです。
こういう記事こそ、朝日新聞社は公開してほしいですが。
最後の部分だけ引用させてもらいます。
今、考えるべきなのは、『感染拡大を抑制さえすれば社会は平和なのか』ということではないでしょうか。私はすでに、この方向性がもたらすマイナスの側面の影響が大きくなっていると考えています。感染拡大だけでなく、人間の『命』にとってのさまざまなリスクを考慮して、政策を決めていく段階に来ていると思います。
磯野さんのインタビュー記事で思い出して、昔の私のブログを少し探してみました。
最近の私のブログもホームページもきちんと管理していないので、めちゃくちゃになっていて、検索が大変でしたが、何とか一つだけ見つけました。
〇ゼロ・トレランス発想にみるマイナスの循環(2007年12月26日)
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html
日本の知識人は「寛容」ではないと、昔、神学者の大木英夫さんの本で読んだ気もしますが(間違った記憶かもしれません)、日本人は本来、とても寛容だったような気がしていました。日本人もみんな「知識人」化したのでしょうか。
他者が寛容ではないと思うのは、自らが寛容でないからですが、私も改めて自らの寛容さを問い直そうと思います。
■土曜サロンの報告(2020年5月10日)
昨日の土曜サロンは、「憲法」を少し話し合いたくて、最初に先日放映された「義男さんと憲法誕生」の番組の第1章(日本国憲法9条)の部分をみんなで観ました。
番組を観た人もいるでしょうが、日本国憲法9条はGHQのみが起点ではないのです。
「事実」を知ることの大切さを改めて感じました。
今回のコロナ危機に関しても、「事実」を知ろうとする人が日本ではとびぬけて少ないことを知って、私は驚きましたが、憲法に関しても、もっと事実を学ぶ必要がありそうです。
憲法に関しては、民主主義を切り口にするかたちで、6月からサロンを再開します。
コロナによって民主主義を考える材料が山のように出てきましたので。
今回は8人の参加者がありました。
話題はしかし、憲法よりもやはりコロナの話に向かいがちでした。
コロナの現状も不安ですが、参加者の多くの人にとっては、コロナ対策に関する政府や専門家、そして国民の対応への不安も多かったように思います。
なお、来週の土曜サロンは益田さんのウイルスの話ですが、すでに定員が埋まってしまいました。
■なにが「危機」なのか、危機を救ってくれるのは「誰」なのか(2020年5月10日)
新型コロナウイルスのおかげでいろいろなことが変わりだしています。
なかには「やむを得ず」というものもありますが、「変わろうとしていたことを加速させた」というものも少なくないでしょう。
たとえば、新聞ですが、新聞はかなり前から変わりだしていました。
私が明らかに変わったと感じたのは、1年前の大型連休からです。
昨年の大型連休の前後で、折り込みチラシの量が激減しました。
そしてそのころから、紙面から現場取材記事が減少しだしました。
その動きが、今回さらに進みました。
折り込みチラシはほとんどなくなりました。
唯一多くなったのは、家族葬の広告です。
毎日のようにはいってきます。
折り込みチラシがなくなれば、地域の新聞配達事業は存続が難しいでしょう。
事業態様を変えるか、新聞の配達は終わるでしょう。
郵便配達との合体もあるかもしれません。
テレビも大きく変わりました。
再放送が増えていますが、同時に新たに作られる番組のスタイルが一変しました。
基本形はまだ変わっていませんが、間もなく変わっていくでしょう。
たとえば報道バラエティのような番組のコメンテーターは今はまだこれまでと同じような「タレント」ですが、ZOOMなどを使うのであれば、別にタレントでなくてもいいわけです。視聴者が参加するスタイルが生まれてくるでしょう。
番組の配信方法も変わりだしています。
デマンド配信も増えていますが、それこそすべての作品が誰でもいつでも取り出せるような仕組みになるかもしれません。つまり作り手が「放送」するのではなく、観るほうが「視聴」に行くというように、流れが逆転するわけです。
さらに言えば、作り手と受け手が合体することになっていくでしょう。
こう考えていくと、「報道」という概念がなくなるかもしれません。
「情報社会」がようやく現実のものになるかもしれません。
これはほんの一例ですが、こうした変化がさまざまな分野で起こりつつあるのでしょう。
そうしたなかで、一部の人たちは「もっと自由に自分を生きてもいいのだ」ということに気づくでしょう。
昨日のサロンでも少し話題になりましたが、これまでは「働いてきた」のではなく「働かされてきた」のだと気づいた人が出始めているようです。「働かされる」のと「働く」のとでは、まったく違いますが、これまではみんな同じだと考えていた。
同じような「気づき」はほかにもたくさんあります。
社会がどう変わるか。
そういう視点から「緊急事態」とは何かを考えると、たぶん全く違った展望が見えてくるはずです。
なにが「危機」なのか、その危機を救ってくれるのは「誰」なのか、ここはしっかりと考える時だろうと思います。
■子どもたちはやはり信頼できます(2020年5月10日)
昨日の朝日新聞のコラムに、こんな記事が出ていました。
学習塾をやっている先生が、塾生たちに問いかけた話です。
詳しくは添付の記事をお読みください。
今回の政府による「マスク2枚」をどう考えるかという問いかけで話は始まります。
最初は、反対だった子どもたちも、首相官邸ホームページで首相の発言を読むと反対のトーンは和らいだそうですが、費用が466億円と知って「高っ!」となって、一気に猛反対になったそうです。
そして、自分が首相だったらやらない!とみんな異口同音に言ったそうです。
安堵しました。
安倍さんより賢いのは当然だとしても、多くの日本の大人たちよりも賢い!
さらに、話はつづきます。
国の政策にはどれくらいの費用がかかるのだろうかということになり、いろいろ調べたそうです。
一番私が安堵したのは、「オリパラってこんなにお金をかける必要ある?」という話が出たそうです。
子どもたちは、大人たちより賢い!
日本の未来は大丈夫です。
しかも子どもたちをダメにしているとしか思えない、いまの学校から解放されている子どもたちの未来は明るいと、私は元気が出てきました。
9月入学などと言っている大人たちがいる限り、いささかの不安はありますが、
■高林實結樹さんの「戦時体験談・後編 日本人として納得したい」を紹介します(2020年5月12日)
宇治にお住いの高林實結樹さんと出会ったのは、もう20年ほど前ですが、以来、高林さんが取り組んでいた認知症予防ゲームの普及にささやかに関わらせてもらい、たくさんの気づきをもらってきました。
私よりもご年配の高林さんには、他にもいろんな側面があって、湯島では日本書紀の年表の謎解きのサロンをしてもらったこともあります。
昨年、高林さんは自らの戦時体験を地元の中学生たちに語ったものを小冊子にしましたが、今回、その後編として、高林さんがなぜ反戦論者になったか、いまの日本をどう思っているかを吐露した小冊子「戦時体験談・後編 日本人として納得したい」をまとめました。16頁の小冊子ですが、高林さんの思いのたけが、激しく語られています。
目次を見てもらえば、高林さんの論をイメージしてもらえるかもしれません。
天皇制と自衛隊について/歴史に学ぶ/伊弉冉尊は新羅の人/国会は国民の支持(主権在民)を得ているか?/改めて象徴とは何か?/自衛のための戦争は意義として成り立つか?/「『日本書紀』は茶牟保羅」から始まる?
こんな感じで、歯切れの良い高林節が、自由自在に展開されています。
本文には新羅どころか、ネアンデルタールの血の話まで出てきます。
たとえば、こんな風に、です。
縄文人の末裔の無言の、遺伝子。その発露が、現在も国政の投票率の低さに残っている、統制されない自由人・ネアンデルタール人系統の遺伝子が投票率の低さに現れていると、言えるのではあるまいか。
本小冊子は、敗戦によって、国家神道の信仰を断ちきった後の日本のあり方を問うているのですが、高林さんは、記紀の国生み神話から論じだします。そして、日本国憲法とそれがもたらした現在の日本の「欺瞞性」を問いかけていきます。
たとえば、高林さんはこういうのです。
戦闘機は200機購入する。水害から住民を救うのは後回し。大嘗祭のお祭り騒ぎを優先。仁徳天皇の古歌を思い出せ、と叫びたくなります。
仁徳天皇の古歌とは、「高き屋に 登りて見れば 煙たつ 民の竈は にぎわいにけり」という有名な国見歌です。いまは誰も「国見」などしていないのでしょうか。
戦後、天皇は「人間宣言」をし、日本は大日本帝国から日本国に変わりました。
「天孫」を否定したからには、皇室の宗教行事は偽善となる。偽善行事に国家予算を回す理由があるのか、と高林さんは問いかけます。「単なる神話と伝承」と自らを貶めていながら、何故皇居では昔ながらの形態で即位式や大嘗祭が行われるのか?
こうした高林さんの問いかけは、国家としての日本のあり方、そこにある「欺瞞性」を問うています。
高林さんは、「議員は国の成り立ちに目をそらさないで、問題を注視して、国家成立の基本を明らかにし、「単なる神話」発言に呼応して、国家神道を廃止するべきでしょう」と書いていますが、議員をはじめ、そうした「欺瞞」に寄生している人のなんと多いことか、と私も思います。
それこそが、いまの日本の政治を現状に通じている。
議会政治は70年以上たったのに、「実質投票率は低く、国民には参政権意識は乏しく、民主主義は定着していない」。「現在の国会の議論は、国会のテレビ中継をみるだけでも、議会政治は理想的な国民の満足を得る運用になって居ない」と高林さんは指摘します。
価値観の根拠が揺れに揺れ、国の根幹が奈辺にあるのか、見えなくなっていると高林さんは考えて、この小冊子を自費出版したのです。その行動力に拍手したいです。
私には一か所だけ異論はありますが、それはともかく、いろんなことを考える材料がたくさん含まれています。小冊子入手方法は奥付に書かれていますので、添付しておきます。
ちなみに、高林さんにはもう一つ書くべき義務が残っているそうです。
もう一度、高林さんのメッセージを紹介する機会がありそうです。
■日本人は素晴らしいのでしょうか(2020年5月14日)
新型コロナ対策の緊急事態宣言が緩和されました。
と言っても、私にはまったく影響はありません。
相変わらずコロナ報道は盛んですが、最近はもうほとんど意味のない気がしてきました。
信頼できない数字を踏まえた議論にはもう付き合いきれない気がします。
最近はあんまりテレビも見なくなりました。
それに1月以来、それなりに気を付けていて、私なりの評価もしていましたが、どうもそれも間違っていたようです。
私は前にも書いたように、市中抗体保有率が2割くらいいて、毒性もかなり弱くなってきたと考えていたのですが、どうもそうでもないようです。
事実に基づかない情報で推論してしまっていたことの無意味さがわかってきました。
今日、娘がかかりつけのクリニックに血圧の薬をもらいにいってきました。
いつもよりもすいていたそうです。
コロナ騒ぎ以来、すいているのです。末端の庶民のクリニックは平安です。
おかしな話ですが。
いつものことですが、娘は「お父さんはちゃんと薬を飲んでいるか」と訊かれたそうです。
コロン感染よりも、私が血圧の薬をきちんと飲んでいるかどうかを心配してくれているとは、まだ医療制度も崩壊していないようです。
テレビで、休業を続けてきた人が、「ここまで協力してきたのだから」と発言していました。
どうも違和感がある。
休業要請や外出自粛は、みんな「協力」として取り組んでいるようです。
つまりは「納得」していないのです。
事実をきちんと伝えたら、要請しなくても、みんなきちんと対応するはずです。
事実を伝えないで、要請で自粛して爆発的感染が起きなかった。日本人は素晴らしいと、みんな言っていますが、どこかおかしくないでしょうか。
人間よりもコロナのほうが付き合いやすいような気がしてきています。
■サロンをつづけているだけでもいろんなことが見えてきます(2020年5月17日)
昨日は「ウイルス」をテーマにした湯島サロンでした。
その報告はまたにして、サロンに参加して気がついたことを書いておこうと思います。
一言で言えば、サロンをやるだけでも世界は少し見えてくるということです。
家に閉じこもっているだけではやはり世界は見えてこない。
1週間ぶりの湯島は疲れました。
オフィスに行く途中に58段の急な階段があるのですが、そこを登る途中で休むほどでした。1週間、外出しないでいるだけで、これだけ身体が変わるのかという驚きでした。
それは私だけではないようで、参加者の一人が、1か月ぶりに遠出をしたが、あの階段がきつかったと言っていました。
外出自粛が何をもたらしているかは、こうしたことからも伝わってきます。
サロンの前に私にある動画を見せたいと早めに来た人がいました。
その人は、コロナ騒ぎにも生活を微動だにさせずに、これまでの生活を続けています。こういうと誤解されそうですが、これまでもコロナ感染するような生き方はしていないということです。そういう人たちがいるということを知るだけでもホッとします。
その人が私に見せたかったというのは、数本のユーチューブ動画でした。
最近、フェイスブックで友人たちから紹介されて、ユーチューブ動画を見るようになったのだそうですが、それによって世界像が一変したようです。
コロナウイルスには生活を微動だにさせない彼女が、世界像を一変させてしまうのですから、動画のパワーは大きいです。動画の内容は世界政治や世界経済の裏を告発したものです。
サロンは、定員なしの土曜サロンと勘違いしてやって来た人も含めて、にぎやかでした。
サロンを終わった後に、参加者の一人が、新たなサロンを提案してきました。
政府のコロナ対策で、様々な不正やおかしなことが起こっているということに強い問題意識が生まれているようです。生活苦に陥っている人がいる一方で、反対のことも起こっている。その人はそれが語られずに進んでいることに、経済や政治の崩壊を危惧しているのです。
コロナ危機とは何か。
週1回、サロンをやるだけで実にいろんなことがわかってきます。
しかし、疲れましたが。
往復の電車は空いていました。
ところが、帰路の電車で私の席の近くの出入り口の空間に立ったままの人がいたのですが、なぜ空いている席に座らずに近くに立っているのかと少し「不快」に思う自分に気づきました。
私自身も変わってしまっているようです。
やはりコロナ危機は恐ろしいです。
■「感染者に会わなければ感染しない」わけはありません(2020年5月17日)
新型コロナに関する専門家のテレビ発言はできるだけ聞くようにしています。
そのおかげで、新型コロナのことがかなりわかってきたような気がしますが、いわゆる専門家のほうがわかっていないのではないのかと思うことも少なくありません。
まあ私の聞き違いや理解不足の可能性も大きいですが。
しかし、専門家の発言こそ、注意して聞かねばいけないというのが私の人生体験の一つです。
たとえば、「感染者に会わなければ感染しない」ということが、ともかく家にいた方がいいという呼びかけの理由とする専門家が少なくありません。
「感染者に会わなければ感染しない」と言われると、そうだなとつい思いがちですが、そんなことはまったくありません。もし、そうならドアノブや公園の遊具を消毒したりすることは全く不要です。
物質に付着したウイルスは感染力を持っているわけですから、感染者に会わなければ感染しないなどというのは全くの嘘です。こういう嘘を重ねていくと、事実は見えなくなっていきます。たぶんそういっているうちに専門家自身もおかしくなっていくのでしょう。
嘘をついているといつの間にかその嘘に自分も騙されてしまいかねません。
専門家に限りませんが、テレビでよく言われていることや新しい生活様式なども、おかしなことは少なくありません。自宅の部屋も換気をしろと言われますが、すでにコロナウイルスが自分の家にも蔓延しているということでしょうか。
ソーシャルディスタンス2メートルなどというと、いかにも科学的で根拠がありそうな気もしますし、もっともらしく説明されていますが、専門家たちはどう思っているのでしょうか。
相手は自由に飛びまわるウイルスですから、人間が勝手に決めた行政区画に制約されて動いているわけではありません。最近の人間は、ウイルスよりも従順で、行政区域に呪縛されるようですが、ウイルスは生きている以上、そんなことにはお構いなでしょう。かれらが生きてるのは武漢の研究所の実験室の中ではなく、広い宇宙空間なのです。
揚げ足取りと言われそうですが、ともかくわけのわからない思いつきのルールや予防策が、それこそ世間に蔓延しているような気がします。
私は、そんなわけで世間に流布されているルールは参考にはしますが、自分なりに吟味して、まじめに感染予防に取り組んでいます。
オウム返しのように「ホームステイ」などと有名人が呼びかけている動画も不快でしかありません。
自分の生活をかけて感染予防に取り組んでくれる人が増えてくることを願っています。
■粗雑な議論が事態を混乱させているような気がします(2020年5月18日)
FBに書き込んでいる私の議論は、かなり「粗雑」です。
しかし、仕事としてコロナ対策に取り組んでいる人や専門家たちは「粗雑]な議論はしてほしくないと思っています。だからこそ、社会はそういう人たちに権威を認め、公共的な予算を提供していると思っているからです。
逆に言えば、しっかりした議論をしている人に、私は「権威」を感じ、そういう人たちの仕事がうまくいくようならば、喜んで税金や対価を負担します。
今回の新型コロナウイルスに関して、私が一番不安なのは、専門家たちの議論や対策があまりに「粗雑」なことです。
たとえば、昨日書いた「感染者に会わなければ感染しないから自宅に居ましょう」というような呼び掛けです。こんなことが専門家の口から出ると、私は一気に専門家を疑いたくなります。
県外を超えた移動はやめましょう、などという対策にもまったく応じがたいです。「日常的な生活圏から出ないように心がけましょう」と呼び掛けられれば、素直に納得できます。
それも生活者的な粗雑な表現ですが、せめてそれくらいの現実とのすり合わせはしてほしいです。それができないのは、現実とは全く無縁な思考の世界にいるからです。
一番顕著なのは、感染者に関わる数字の扱いです。
これはあまりにもひどく、まったく意味の違う数字をつなげてグラフにしたり、その数字の意味も十分に説明しなかったり、しかもそんな数字に基づいて、専門的知識を語る姿は、私にはとても理解できません。
そうした「粗雑な議論」が、事態を混乱させているのではないかと思います。
それだけではなく、「粗雑な議論」が、膨大な無駄な行為を起こしていると思います。
テレビで施設の消毒などの感染防止策などがよく紹介されていますが、私には無駄な作業に思えてなりません。
粗雑な議論を踏まえての、粗雑な対策は、過剰にやらなければいけないのだと思いますが、どうもいつも違和感があります。
新型コロナウイルスの生体を観察した実験結果があまり出てこないのも気になります。
ウイルスが、どういう状況で生死を分けるのか、温度や湿度にどう対処するのか、感染した人が創り出した「抗体」は、ウイルスにどう作動するのか。
そうした事実がほとんど公開されていないことが不思議ですが、そういう研究や観察はたぶん「粗雑」ではありえないでしょうから、発表は慎重なのかもしれません。
しかし、専門家からはそういう情報を教えてもらいたいです。
数字の遊びはもういらないし、生活者でもわかることは期待していません。
まともに考えて生きている人なら、自粛などと言われなくても、頭を使って感染防止に真剣に取り組んでいるからです。それが自らの生活に直接つながっているからです。
夏の暑さと湿気、そして明るい陽光が、いま一時的にコロナの活動を鈍くしているのではないかと、「粗雑」どころか「無知」の私は考えてしまいますが、そう考えないと昨今の状況は理解しにくいです。となると、秋以降が心配です。
死亡率が低いのは日本人の特殊性という話もありますがそれに関する言及も専門家からは出てきていません。私は、この見方にもとても興味があります。
いずれにしろ、みんなが生き方を自分でしっかりと考えて、生き方を正すことではないかと思っています。
そのためにも、もう少し事実に関する情報がほしいです。そうしないと、私の「粗雑」な思考さえも成り立ちませんので。
■10万円と選挙の投票券とどちらが大切でしょうか(2020年5月20日)
10万円の国民給付がまだあまり実行されていないようです。
日本の行政は優秀だと思っていましたが、もうどうしようもないほど劣化していると思わざるを得ません。しかし、マスク配布などの無駄な作業に駆り出されたり、この給付金にしてもいろんな制約があったりするのでしょう。
テレビでは、行政の現場の人たちは一生懸命やっているという言葉がよく聞かれます。たしかに基礎自治体の職員は在宅勤務などできずに、コロナ不安の中を残業までして頑張っているのでしょう。しかしだからと言って、免責できるはずはありません。
時間はかなりあったのに、その間に早く配布するための仕組みを真剣に考えていなかっただけの話です。真剣に考えている小さな自治体は迅速に実現しています。平成の市町村合併に安直に加担した自治体は反省すべきでしょう。彼らは私には「自治」を放棄したとしか思えません。「自治」を忘れた行政職員は「思考すること」も忘れてしまったのでしょうか。
全国民に10万円支給する話を聞いた時、私は基本的に1週間もあればできだろうと考えました。国会議員の選挙の時に配布する投票券と同じ仕組みを使えば、簡単にできるはずです。もちろんカバーできない人はいるでしょうが、それくらいは頭を使ってほしいです。
選挙と違って、10万円というお金が動くのだから、投票券を届けるようにはいかないという人がいるかもしれません。政府も自治体の首長もそう思っている人がいるかもしれません。
しかし、10万円と投票券と、どちらが大切でしょうか。
投票券には10万円の価値もないと思っている人がいたら、その人はとんでもない勘違いをしています。しかし、日本人のほとんどは、そう思っているようです。
投票券(権)が売買されていたという時代もあったと聞きますが、最近は全く価値がなくなってしまったのでしょうか。
いまやマスクほどの価値さえなくなってしまったのでしょうか。
投票券の迅速な配布はできても、10万円の迅速な配布はできない。
その理由をもっと真剣に考えた方がいいと思います。
さらにそこから、政府と国民との信頼関係がないということも見えてきます。
休業協力金などがどう使われているか、きちんと精査してみれば、いろんなことがわかるはずです。
医療崩壊も怖いですが、行政崩壊も怖いです。
それ以上に、信頼関係がなくなってきているのが、恐ろしいです。
■一人称自動詞で考え行動したい(2020年5月22日)
新型コロナウイルスの流行が新聞などで話題になりだしたのは1月の後半頃からでした。2月上旬に京都旅行を申し込んでいたのですが、それをキャンセルしようかどうか迷ったので、はっきりと覚えています。
私がコロナ関連情報をテレビで毎日チェックするようになったのは、その頃からです。当時は、しかし、これほど日本でも問題になるとは思っていませんでした。それで旅行は直前まで迷いましたが、出かけました。
その時に、ホテルで読んだ京都新聞の記事が出てきました。
中国からの旅行客は激減して、嵐山も金閣寺も空いていました。
当時から観光地ではかなりの注意が行われていましたし、マスク不足も問題になっていました。にもかかわらず、その後、対策はなかなか進みませんでした。
あれから4か月近くたっているのです。
今週から、テレビのコロナ関連の報道はもう見るのをやめました。全くと言っていいほど繰り返しで内容がありません。
2月上旬の京都旅行中、京漬物を買うため、娘に付き合って錦市場に寄りました。
寺社仏閣と違って、そこは中国人観光客も含めてとても混んでいました。
いささかのリスクを感じて、娘に頼んで、漬物屋さんに寄るだけにして、そこを離れましたが、漬物屋さんもすでに客は少なくなっていると言っていました。そのときも客は私たちだけでした。
実は旅行から帰ってきてから体調がちょっと悪くなりました。
1日だけ熱も37度を超えましたが、すぐさがりました。しかし、念のために1週間ほど自宅待機しました。その後、少しでも体調に違和感があるときには外出を控えました。
そうした状況から抜け出した頃から、世間では外出自粛が叫ばれ出しました。
そんな体験から私は市中感染者は1〜2割いるのではないかと1か月ほど前にFBに書いてしまったのですが、どうもそれは過大評価だったようです。しかしもしそうなら、これからがいささか心配です。
外出自粛とか新しい生活様式とか言われていますが、そんなことに全く関心はありません。そういう呼びかけをしている人たちの多くは、自分ではそうしていないでしょう。その一例が黒川検事長の麻雀であり、国会議員や官僚たちの行動です。
一方、真剣に自分を生きなければ生きていけない、個人事業者や若者たちは、感染せずに生活できるような生き方を考えて行動しているように思います。飲食店のテイクアウトはその一例です。
パチンコ店もいろいろと苦労して工夫しているのに、一斉に休業を要請し、それを受けないと世間を味方にして圧力をかけるのは私には納得できません。安心して営業もしくは休業できる仕組みを一緒に考えるのが行政ではないかと思います。
誰かに「自粛」や「行動変容」を呼びかけるだけではなく、自分で出来ることを、それぞれが考えることが求められています。個人営業主やパチンコ店経営者も考えているのですから、議員も官僚も、目的実現のために自分でできることを考えてほしいものです。
いまこそ、一人称自動詞で考えることが必要ではないかと思います。
「一人称自動詞で考える」は、私の信条ですが、湯島のサロンのルールでもあります。
この4日間、部屋の大掃除をしているのですが、3か月半前の京都新聞が出てきたので、読み返してみました。そして、あまり変わっていない、この4か月は何だったのだろうかと改めて驚きました。
この先の4か月はそうならないでほしいものです。
■湯島サロン「看子の日記」のご案内(2020年5月22日)
細菌学者の益田さんには2回にわたり、「ウイルスとの付き合い方」のサロンを開催してもらいました。定員の関係で、参加できなかった方がまだいるので、3回目を考えたのですが、2回目の参加者の話を聞いていて、ウイルスや感染症関係の情報はかなり広まっていることを感じました。
そこで、3回目は趣向を変えて、少し広い視点での益田さんとの対話サロンを企画することにしました。
益田さんは、主に看護医療関係者向きに「看子の日記」という短編小説を書かれています。今回は、それを事前に読んできていただき、参加者の疑問や感想を軸に、自由な談話形式でのサロンにしたいと思います。
ご関心のある方は、事前に「看子の日記」をデータで送りますので、それをお読みいただき、参加するかどうかを決めていただければと思います。
ウイルスや感染症に限定することなく、医学とか生物学領域に話題を広げ、少し広い視点から最近のコロナ危機や私たちの生き方を考え直せればと思います。
益田さんは、自由な談話形式での話し合いを希望されていますので、柔軟にお考えいただき、新型コロナ関連の話題も嫌うに出していただいてもいいかと思います。
看護医療関係者に限らず、さまざまな立場の方のご参加をお待ちしています。
〇日時:2020年6月14日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「「看子の日記」を読んでの疑問や感想を話し合う」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■何かが大きく間違っているような気がします(2020年5月25日)
新型コロナ感染症に関わる正確なデータはなぜかまだ公開されていません。
センセーショナルな情報は、映像も含めてたくさん出ていますが、実態がまだ見えてきません。実態が隠されているので、「不安感」どころか「恐ろしさ」さえ感じている人も少なくないでしょう。それで陰謀論がいま社会にあふれ出てきているようです。
マスク不足も含めて、すべては「人為的に意図された実体のない虚像」だと私は思っていますので、私自身には不安はありません。
しかし、実際に新型コロナ感染症にどのくらいの人がかかったのか、実際の死亡率はどうなのか、毎年のインフルエンザとの違いはどうなのか、等は知りたいと思っています。
テレビで、異論を唱えていた人たちも、最近はほぼみんな大きな流れに飲み込まれつつあるような気がして、テレビ録画してチェックしていたのをやめました。
もはや信頼できるのは、自分の直観力と実際の体験だけです。
しかし、外出にマスクは必携になってしまいましたので、外出意欲が失われてきています。
それに他者との接触を回避する姿勢にはどうもなじめません。自分を感染源と考えたり、他者を感染源と考えたりすることが、どういう結果をもたらしていくか、心配です。
何かが大きく間違っているように思えてなりません。
■湯島サロン「益田先生の『看子の日記』を話し合う」のご案内(2020年5月25日)
細菌学者の益田さんには2回にわたり、「ウイルスとの付き合い方」のサロンを開催してもらいました。定員の関係で、参加できなかった方がまだいるので、3回目を考えたのですが、2回目の参加者の話を聞いていて、ウイルスや感染症関係の情報はかなり広まっていることを感じました。
そこで、3回目は趣向を変えて、少し広い視点での益田さんとの対話サロンを企画することにしました。
益田さんは、主に看護医療関係者向きに『看子の日記』という短編小説を書いています。今回は、それを事前に読んできていただき、参加者の疑問や感想を軸に、自由な談話形式でのサロンにしたいと思います。
『看子の日記』には、いろいろなテーマや論点がちりばめられているので、話し合う話題には事欠きません。
ご関心のある方は、事前に『看子の日記』をデータで送りますので、それをお読みいただき、参加するかどうかを決めていただければと思います。
ウイルスや感染症に限定することなく、医学とか生物学領域に話題を広げ、少し広い視点から最近のコロナ危機や私たちの生き方を考え直せればと思います。
益田さんは、自由な談話形式での話し合いを希望されていますので、柔軟にお考えいただき、新型コロナ関連の話題も自由に出していただいてもいいかと思います。
看護医療関係者に限らず、さまざまな立場の方のご参加をお待ちしています。
〇日時:2020年6月14日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「益田先生の『看子の日記』を話し合う」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■生きる元気を与えてくれる本を紹介します(2020年5月26日)
一条真也さんの「死を乗り越える」シリーズの第3弾が出版されました。
現代書林から出版された『死を乗り越える名言ガイド』(1400円)です。
読書、映画に続き、今回は名言です。副題は「言葉は人生を変えうる力をもっている」。
一条さんが多彩な活動の中で出合った、人生を変える力を持つ言葉を100集めて、それぞれに一条さんの思いを添えた名言集です。
新型コロナウイルスで、世界中に「死の不安」が蔓延している現在、「死の不安」を乗り越える言葉を集めた本書を上梓することに、一条さんは大きな使命を感じていると書かれていますが、まさに時宜を得た出版で、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。
100のメッセージからいろんなことが示唆されますが、きっと自分にとって心にすとんと落ちる言葉が見つかるはずです。そして、生きる元気が得られるでしょう。
また100の言葉を通読すると、長年、死と生の現場に関わってきている一条さんの深いメッセージも伝わってきます。
一条さんの死生観にかかわる著作はこれまでも綿sのホームページでたくさん紹介させてもらってきていますが、一条さんの死生観を貫く3つの信念が、本書の最後にまとめられています。
その3つとは、「死は不幸ではない」「死ぬ覚悟と生きる覚悟」「死は最大の平等」です。
そうした信念に基づいて選ばれた100の名言には、それぞれに「人生を変える力」が秘められています。この時期にこそ、じっくりと噛みしめて、そこから力を引き出してほしいと思います。
ちなみに、同じ「死を乗り越える」シリーズの次の2冊も同じ現代書林から出版されています。よかったら併せてお読みください。
『死を乗り越える読書ガイド』
『死を乗り越える映画ガイド』
■人は「いいとこどり」はできません(2020年5月26日)
延び延びになっていた、孫の幼稚園(4月に入園)が始まるそうですが、当面は「分散登園」だそうです。
通園バスではマスクをして会話は禁止、給食時もアクリル板で仕切られるそうです。
幼稚園という初めての集団生活のはじまりのスタイルは、子どもに大きな影響を与えるでしょうが、いささか心配です。
コロナ感染よりも、むしろ私にはそちらのほうが気になります。
人が生きている以上、病気に感染することは正常なことです。それは「支え合い」の一つのスタイルです。
昨日も書きましたが、そして以前から書いていますが、人と距離を取るとか、直接のタッチは避けるとか、マスクに加えてフェースシートをかぶるとか、私にはなじめません。
そういう環境や「生活様式」のなかで育った人間はどうなるのか心配です。
人工的に育成された動植物のような、弱さを感じてしまいます。感染症にもかかりやすくなるでしょう。
先月、古代インダス文明のモヘンジョダロに関する森本哲郎さんの話を書きました。
清潔に整備されたモヘンジョダロは、戦争の痕跡もないまま、突然滅んでしまった。
それは、清潔な都市を完成させるために、邪魔な人間が自ら退場したのではないかと森本さん(正確にはその本に登場する人)は言うのです。
コロナ対策でいつも思い出すのがこの話です。
コロナ感染をなくすためには、人間がいなくなればいいのです。
在宅のテレビ会議で済むのなら、たぶんその仕事は人間でなくてもやれるはずです。
人間は本来、たくさんの病原菌を含む生命体の塊であり、非論理的で感情的な、いろんなものの感染源的な存在です。
人と付き合うといろんなトラブルに巻き込まれますし、身体的な病気や精神的な病までうつされることもある。しかし、それが人間ではないかと思います。
死はできれば避けたいですが、死があってこその生です。
死にたくなければ生まれなければいい。
感染したくなければ、生活をやめればいい。
昨日紹介した本の著者の一条さんは、「死は不幸ではない」と言います。
もし死が不幸ならば、死を避けられない生もまた不幸ではないかというのです。
人は「いいとこどり」はできません。
死や感染も含めて、豊かな人生を生きたいと思います。
■湯島サロン「民主主義の危機と希望」報告(2020年6月1日)
新型コロナ騒ぎから見えてきた、日本の「民主主義の危機と希望」をテーマにしたサロンには、13人の参加がありました。
最初に、参加者一人ひとりから、それぞれが実感している「危機と希望」を自由に話してもらい、それを踏まえて自由に話し合いを行いました。
まさに生活感覚からのさまざまなことが出されましたが、みなさんに共通していたのは、たとえば、人が分断されてきたという現実を通して、逆に人のつながりの大切さへの意識が強まったというように、同じ事象の中に「危険」と「希望」を感じているということでした。
また、これまで見えていなかったことがいろいろと見えてきたり、事の本質に気づかされたり、さまざまな問題や無駄に気付かされたという点も多くの人に共通していました。
監視社会や管理社会、あるいは分断社会、さらには隣人関係などのトラブルなどの話も出ましたが、そうした中から、改めて社会への関心の高まりが読み取れるといえるかもしれません。
社会や政治などに目を向ける余裕が全くなくなってしまうほどの危機状況に置かれた人も増えているという話も出ましたが、それこそがちょっとした仕組みやきっかけで生活と社会がつながる状況が生まれ出しているとも言えるように思います。
一言で括れば、個人の尊厳を尊重し合い、一人ひとりが主役になって社会を豊かにしていくという民主主義の理念から外れた現状が見えてきたと言えるかもしれません。
不都合な現実が露呈されれば、当然に、その問題を解決しようという動きが引き起こされるでしょうから、まさに「危機」は「希望」につながります。しかし、放置していてはつながりません。大切なのは、危機を希望につなげていくことです。つまり、私たち一人ひとりの生き方ということです。
黒川前検事長に関する芸能人らの動きも希望のひとつだという話になりました。
市民がおかしいことをおかしいと言えば、社会は変わるのだということをみんなが実感したということです。同じ時期に起こったSNSでの中傷による木村花さんの自殺の話も出ましたが、良くも悪くも大きな力を持つSNSに、私たち一人ひとりがどう向き合うかは、民主主義にとっても大きな課題であることが明らかになりました。言い換えれば、SNSから逃げることはできないということです、そうであれば、SNSの対象ではなく、主役にならなければいけない。
同じように、テレワークもまた両刃の剣かもしれません。
こう考えていくと、いまは私たち一人ひとりの行動が、この先の社会のあり方に大きな影響を与えるということです。与えられた民主主義の中で生きてきた私たちにとっては、絶好の機会かもしれません。
話し合いの後、監視社会のベクトルを逆転させる時期に来ているという話を少しさせてもらいました。
民主主義は時代と共に大きく変わってきています。
民主主義の理念をベースに憲法ができ、それに従って代議制による民主的な政治体制がつくられ、理念と現実のズレを埋めるためにさまざまな努力が重ねられてきています。
これまでの流れは大きく言えば、代表民主主義の欠陥を正し、参加民主主義の要素を増やしていくという流れでしたが、それに合わせて、政府を監視し、その暴走を阻止する「対抗民主主義」が、改めて大切になってきています。そこから、与えられた民主主義とは違う、自らが創りだす民主主義が生まれてくるかもしれません。
「対抗民主主義」とは、一言で言えば、主権を託した政府をしっかりと監視していくということです。具体的に言えば、監視される国民から、監視する国民へと、私たちは変わらなければいけない。
政府から提案された「新しい生活様式」に合わせて、生活を自粛したり、相互監視し合うのではなく、「新しい政治様式」を働きかけ、政府の行動を自粛させ、政府や行政を監視するというように、発想を逆転させることが求められているのではないか。
そしてそれが可能になってきているのではないか。
もしそうであれば、それぞれができることを考え、動き出そうというのが、今回のサロンの、私の勝手な結論です。
実際に具体的な活動の話もいくつか出ていたと思います。
コロナ騒ぎで、日本の社会は良くなるのかどうかに関しては、誰もはっきりと答えられませんでしたが、良くしていかなければいけません。
このテーマにそったサロンは6月もやろうと思います。
問題提起したいという方がいたらご連絡ください。
サロンで配布したメモがありますので、添付しました。
■磯野真穂さんの「医療者が語る答え鳴き世界」をお薦めします(2020年6月2日)
ぜひお薦めしたい本に出合いました。
磯野真穂さんの「医療者が語る答え鳴き世界」(ちくま新書)です。
先日、新型コロナに関連した朝日新聞のインタビューで、磯野さんが「人と人が直接会って交流できないことは、社会の死を意味する」と話されていたことに誘い込まれて、磯野さんのこの新書を読んでみました。感激しました。読み終えたのは先月ですが、多くの人に読んでほしいと思い、紹介させてもらうことにしました。
朝日新聞の記事では、磯野さんは「医療人類学者」と肩書きされていました。医療人類学という言葉も私は初めて知ったのですが、本書を読んでとても納得できました。
そして、私たちの生活のすぐ近くに、「文化人類学」のフィールドがたくさんあることに気づきました。社会は豊かさに満ち溢れているのです。
同時に、私たちにも「文化人類学者」的な生き方ができる事にも気づかされました。磯野さんは、「文化人類学は他者の生を通じて自分を知る学問」だと書いています。そう捉えれば、私もささやかに「文化人類学」的な生き方をしているように思います。
それはともかく、磯野さんは、こう書いているのです。
身体の異常を元通りに治すとか、心身の不調をすっかり取り去るとか、字句通りの「治す」からはいっけん離れたところにある医療行為が現場にはたくさんあり、それらの行為こそがまさしく医療なのではないかと思わせる場面が存在する。
そして、「「治す、治さない」という二項対立的な基準を持ち込まずに医療者の仕事をとらえる方法はないだろうか」と問い、「医療者の仕事は医学を医療に変換すること」だというのです。
現在の医療に違和感を持っていた私には、とても腑に落ちる言い方です。
磯野さんは、そうしたことをわかりやすい8つの医療者の物語を通して、ていねいに説明してくれます。「8つの物語が、読者のこれまでの人生と何らかの形で共鳴することを願ってこの本を書いた」と磯野さんは書いていますが、私の場合、たくさんの共鳴がありました。共鳴だけではなく、感動もあり、納得もあり、気づきもありました。
紹介したいこともたくさんあるのですが、生半可な紹介よりも、ぜひ本書を読んでほしいので、内容の紹介はやめておきます。
読み終えた後、磯野さんがインタビューで「人と人が直接会って交流できないことは、社会の死を意味する」と言っていたことの思いが、さらに深く伝わってきました。
新型コロナ対策で、社会が死なないように、ぜひ多くの人に読んでいただき、自分の生き方を考える時間を持ってもらえればと思います。
気楽に読める新書です。
■無意味の議論をやめて健やかに生きたい(2020年6月5日)
新型コロナウイルス感染症に関しては、相変わらず「数字の世界」での議論が盛んですが、その数字に対する信頼感がどうも失われているようです。
感染者の発表数字への不信感も広がっています。
しかし、そうした数字のほかに、事実を確認する術がないので、信頼はしていないものの、その数字に影響されてしまっているわけです。
政府や行政で行われている検討内容も、議事録さえないと言われて、手も出せないのが現実です。
もちろん議事録も録音データもあるでしょうが、政府が「ない」といえば無くなるのがいまの日本の状況です。
中国や北朝鮮となんら変わらない状況ですが、なぜかみんな中国や北朝鮮は非難しても自分の国は特別視しています。
たぶん北朝鮮の国民も同じなのでしょう。
昨今のコロナ報道には、肝心な健康問題が二の次になっているような気がします。
毎日、変化のない同じ話が繰り返されています。
そもそも「健康か経済か」という捉え方自体がおかしいですが、経済はそもそも「経世済民」といわれるように、健康な生活のためにこそあるのです。
コロナだけが病気ではありませんし、人との接触を避ける生き方などつづくかないでしょう。「新しい生活様式」などと本気で語っている人がいるとしたら、そこにこそ、現在の状況が象徴されていると思います。
それに人生には病気はつきものですし、コロナだけが怖い病気ではありません。
マスクをすればいいという話でもないでしょう。
人生にはいつも「危機」が伴っている。
その事実から逃げる生き方よりも、むしろその事実を踏まえた生き方を、私は選びたいと思います。
もういい加減、コロナ感染症の数字遊びを止めて、生きることに目を向けたい。
今日は天気がいいので、マスクなしに出かけようと思います。
もちろん電車には乗らず、店舗にも入らずに、ですが。
■湯島サロン「21世紀の平和憲法を考える」のご案内(2020年6月5日)
長年、平和や人権の問題に取り組んできている川本兼さんが、これまでの論考を整理した「21世紀の平和憲法」を5月に出版しました。
川本さんは、戦後日本国民の「戦争そのもの」「戦争ができる国家」を否定する「感覚」を高く評価しています。しかし、それがアメリカからの「押しつけ憲法」の憲法9条とつながったことで、日本人は平和が実現したと「錯覚」してしまい、その「感覚」を普遍的な理念(思想)にしてこなかったことを問題にします。
そしてこのままだと、その平和の感覚も風化し、日本の平和運動は次世代にも世界にも広がっていかない。したがって、戦争体験を通じて獲得した日本国民の戦後の「感覚」に「ロゴス」としての「言葉」を与えてそれを思想にし、さらにそれを世界に発することが急務だと言います。
今回のコロナ騒ぎで、そうした川本さんの危惧を実感している人もいるでしょう。
川本さんは、日本国民の戦後の「感覚」が求めたその平和は、「変革を要求する新しい価値」だったといいます。つまり、戦争放棄だけでは平和は実現しないのです。
そのために、川本さんは、「戦争そのもの」を否定する新しい論理、「戦争ができる国家」を否定する新しい論理を、平和主義、革命、基本的人権、社会契約という切り口から、次々と展開し、21世紀の日本を構想したのが本書です。
そして、そうした論考を踏まえて、最後に日本の現状を変えていくために、新しい平和憲法と新しい運動の主体について、具体的に提言しています。巻末に川本さんの日本国憲法改正私案も掲載されています。
川本さんの憲法改正私案は、いささか挑発的です。平和憲法といいながら、自衛軍(自衛隊ではありません)の保持が謳われていることです、
挑発的ですが、この点に川本さんのメッセージの神髄が込められています。
同書の簡単な紹介は下記にあります。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#200503
テーマが大きいので、1回のサロンでは論じきれないでしょうが、今回はまずは大きな問題提起ということで、川本さんの呼びかけを聞いて、日本の憲法の意味を話し合えればと思います。
サロンに参加される方は、できれば、川本さんの「21世紀の平和憲法」(三一書房 2300円)を読んでおいていただければと思います。
同書は、三一書房に直接ファックス(03-6268-9754)注文すれば、少なくとも6月までは送料無料で発送してくれるそうです。
コロナ騒ぎに紛れて、憲法がどんどん浸食されてきている現状にしっかりと目を向けるサロンにしたいと思っています。
そしてできればそこから実践的な動きを生みだしていければと思います。
でもまあサロンなので、気楽にご参加ください。
議論はちょっともめそうですが、平和なサロンに心がけますので。
〇日時:2020年6月21日(日曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:川本兼さん(思想家)
〇テーマ:「21世紀の平和憲法を考える」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■アベノマスクが届きました(2020年6月8日)
我孫子もようやくアベノマスクの配達が始まりました。
今日は在宅なのですが、先ほど、来客の知らせのチャイムが鳴りました。
出てみると郵便配達の人でした。
書留かなと思ったら、なんとアベノマスクでした。
以前、フェイスブックやツイッター、ブログなどに書いたように、以前ポストに受け取り拒否の紙を貼っていたのを覚えていてくれて、わざわざ確認のために声をかけてくれたのだそうです。
受け取り拒否はやめて、受け取ったうえで官邸に郵送することにしたので、受け取り拒否の紙ははがしていたのですが、それを覚えていてくれたのです。もう2か月近く経っているのに、覚えていてくれたことに感謝しました。
ちょっとだけ話をさせてもらいました。返送料は120円ですね、と言ったら、そうです、高いですよね、と言ってくれました。
この人ももしかしたら、マスクに怒っているのではないかとつい思ってしまいました。
郵便配達の人はみんな良い人なんだなと改めて思いました。
ちなみに今日、あるメーリングリストで、マスクが届いたら雑巾代わりに使うと書いてきた人がいます。
彼らしいなと思いましたが、やはりここは郵便切手を貼って返送が一番いいと思います。
国会議員選挙と同じで、棄権したら与党支持になりますから。
■湯島サロン「貸借対照表による経済活動の分析」報告(2020年5月16日)
沖さん主催の「貸借対照表による経済活動の分析」は10人を超すにぎやかなサロンになりました。高校生の初参加もありました。
財政会計、自治体会計、企業会計、家計は、それぞれ目的が違うために会計制度が違っています。しかし、金銭経済という視点で考えれば、それはすべてつながっています。そこで、それらを総合的に捉えることで、これまで見えなかったものが見えてくるのではないかというのが沖さんの考えです。
そこで、企業会計のフォーマットを、個人(家計)や企業、政府(財政)にも展開して、国家全体の金銭の流れや富の全体像を捉えてみようということで、まずは企業会計の基本である貸借対照表と損益計算表の説明から始まりました。高校生もいたので、減価償却とか日常語ではない用語も参加者が補足的に解説しあってくれました。
個人、会社(事業体)、政府という3つの層で作成した貸借対照表を総合すれば国家全体の金銭経済の全体像が把握できるのではないかというのが沖さんの提案です。
20〜30年前に日本でも金融ビッグバンが起こり、企業会計もグローバルスタンダードに移行しました。その結果、日本型の金融制度は解体され、日本の企業構造は大きく変わり、経済の質も変化しました。
並行して、英米発の「ニューパブリック・マネジメント」といわれる行政革命が日本でも広がり、自治体会計制度もかなり企業会計に近づきました。しかし国家財政に関しては、相変わらず特殊構造が維持され、ブラックボックスはそのままで、上場企業程度の透明性も得られてはいないばかりか、わからないことが多すぎます。
たとえば財政赤字がよく話題になりますが、債権と債務は国家単位で考えればバランスしているのだから心配ないという議論もありますが、ほんとうにそうなのか。
などなど、こうした問題を抽出するためにも、貸借対照表による経済活動の分析は有効ではないかというわけです。
今回は考え方の提示だけだったので、具体的な議論にはいきませんでしたが、それでもいろんな課題は見えたと思います。通貨の話や金融の話(特に利子の意味)も少し出ました。沖さんが、冒頭金銭では計れない「幸福」ということもあるという話をしたので、GNP(国内総生産)とは別のGNW(国民総福祉)の話も出ました。
経済はもともと「経世済民」だったし、日本には近江商人の三方良しの伝統もあるという話まで出ました。
参加者それぞれにいろんな気付きがあったと思います。
「汎市場化」「金銭至上主義」に抗いながら生きている私としては、金銭経済的に国家の全体像を把握しようという発想そのものが、新自由主義経済学者が目指すところであり、現在の政府が国民一人ひとりの金銭状況を把握しようとしている動きに加担するような話なので否定的ですが、そういうことも含めて、会計や財政に関することに多くの人がもっと関心を持って行くことが大切だと思っています。
ですから、通貨や新しい経済発想に関するサロンは今後も企画していきたいと思っています。
こんな話題を提供したいという方がいたらご連絡ください。
■アベノマスクにどう対処するかで未来が決まってくる(2020年6月9日)
昨日、アベノマスクが届きました。
以前、受け取り拒否の紙を郵便受けの横に張り出していたために、郵便配達の人がわざわざチャイムを鳴らして、受け取られますかと確認してくれました。考えを変えたので、紙をはがしていました。そのやり取りは昨日、ブログにも書きました。
私にはとてもうれしい話です。
というのは、私の意思が少なくとも郵便配達の人に伝わっていたからです。
意思が他者に伝わる社会こそ、私はいい社会だと思っています。
しかし、小さくても行動を起こさなければ、自分の考えは他者には伝わりません。
郵便配達する人は、その家に届く郵便物で、その家の人の生き方を感じているかもしれませんが、今回は私が紙を貼りだしたことで、郵便配達の人との直接の触れ合いができました。
昨日の郵便配達の人とのやり取りは、ほんの1〜2分だったと思いますが、とてもあたたかで気持ちのいいものでした。人間的なふれあいを感じました。事務的な確認作業ではなかったことだけは間違いありません。
アベノマスクに関しては、いまもなお賛否両論が盛んです。
返送するよりも困っている人に寄付したらいいという声も盛んで、実際にそうした動きに「便乗」する仕組みを作る人さえいます。
私はそのような行為は、安倍政権の政策を忖度して正当化する支援行為、下請けシステムだと考えますので、安倍首相よりももっと悪質だと考えていますが、そう考えない人もいるでしょう。
アベノマスクを雑巾として使うという人もいましたが、たとえ雑巾としてであれ、使ってしまったらそれは政策を支援することになります。
返送は切手を貼らなくても届くと言われていますが、友人の鷹取さんは切手を貼ってコストをかけるからこそ意味があると言っています。私もそう思います。
考えを表明するには、コストとリスクがかかるものです。
アベノマスクは、現政権の本質を象徴しているように思います。
それにどう対処するか、が問われています。
自らの未来の生き方も決まってくるような気がします。
アベノマスクをどう受け止めるかのサロンを開催したいと考えています。
それに合わせて、今年の2月にNHKの「100分で名著」で取り上げられた、ヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」を話し合うサロンも行いたいです。どなたか話し手になってくれませんか。
■第8回万葉集サロン「歌から会話へ 東歌を中心に作者不明歌を読む」のご案内
コロナ騒ぎで1回お休みした万葉集サロンも、いよいよ第2段階に入ります。
これまで参加されなかった方も、途中参加するいい機会なので、これを機に、どうぞ気楽にご参加ください。
升田さんからのメッセージです。
「た」「な」そして「わ」。ほとんどが文字を持たない人々であった古代。
自分の心、思いを伝え表す方法は音声による言語(あるいは絵などの造形物)しかない。言語行為は善きにつけ(祝・愛情表現など)悪しきにつけ(呪・戯言など)言葉を信頼しての行為であるから、「言霊」という言い方も為された。発した言葉は自分に戻って来ることがあるから、言葉は常に畏怖の対象でもあった。
文字を持つようになってから、人々の言語感や言語意識が変わってゆく。
人言(噂)が「うるさい・いやだ」と嫌悪しながらも上手く受容し、「た」とゆるやかに共生する庶民たち。「うるさい」を慣用句化しそれに依拠した形で自己を主張する知識人たち。
「人間と対峙する言葉」が「生き物」のように柔軟に変容するところに、社会や文化の進展があるのかも知れない。そのありようが見られるのも万葉集の面白さの一つであろう。
後に名称を付され形式化した「枕詞」が文芸としての役割を発展させてゆくのは、人麿による力が大きい。それ以前は究極のコミュニケーションの手段として、独自の表現世界に生命を持っていた。形容詞や副詞の発達を遅らせたのもこのあたりに一因がありそうだと考えている。
今回はこのようなことを基盤に置き、作者不明歌の中に日常性・生活性と和歌表現がどのように折り合いをつけているか、特に巻十四東歌を中心に読んでみたい。
ということで、またまた意欲的なサロンになりそうです。
テーマは大きいですが、いつものように、わからないことはどんなことでも気楽に升田さんに質問できるサロンスタイルですので、気楽にご参加ください。
テキストは毎回、升田さんがつくってくださいますので、手ぶらでも大丈夫です。
万葉集など読んだことのない人も、気楽にご参加ください。
きっと万葉集の面白さに出合えます。
〇日時:2020年6月20日(土曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「歌から会話へ 東歌を中心に作者不明歌を読む」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■あなたは「毎日が精一杯の人」なのですか?(2020年6月11日)
普段はほとんど読まないメーリングリストの記事をふと読んでしまいました。
タイトルが「砂浜にさく薔薇のように」だったからです。
イランの孤児だったサヘル・ローズさんのことだなとわかったからです。
書いている人も私の知っている人です。
しかし書かれていることが心に鋭く突き刺さりました。
(このメーリングリストの参加者の中に)毎日が精一杯の人があるかもしれないことは 認めましょう。(中略)でもあなた自身は精一杯の人なんですか そうなんですか。
これを書いた人は私と一度だけ高校でクラスを同じくしています。
もう60年以上前のことですが、卒業後、まったく付き合いはなく、高校卒業生のメーリングリストで数年前に彼の投稿に出合ったのです。それから1.2回のメールのやり取りがありましたが、それだけの付き合いで終わっていました。
しかし今日読んだ投稿記事に書かれていた、「あなた自身は精一杯の人なんですか」という問いかけにはたじろいでしまいました。
最初は、精一杯の人がいるのにお前は余裕があるのに何をしているのかと受け止めてしまいました。もっとできることがあるだろうと責められたような気がしたのです。
しかし、繰り返し読んでそうではないことに気づきました。
どんなに精一杯でも、他者への眼差しを忘れるなという問いかけなのです。
投稿記事のタイトルの「砂浜にさく薔薇のように」は、昨年放映されたEテレ「こころの時代」のタイトルです。その番組では、毎日を精いっぱいで生きてきたサヘル・ローズさんが取り上げられていました。私もその番組を見て、ブログで紹介した記憶があります。ローズさんは「死から生が生まれる」と話していたような気がします。
毎日が精一杯の人との付き合いは私もこれまで何回か経験していますが、毎日が精一杯の人と付き合うと、自分もまた精一杯におちいることもあります。しかし、自分が精一杯になってしまうと、他者に迷惑をかけることはあっても、救いにはなれません。そこが微妙なところです。
しかし、これまでのささやかな体験で、「精一杯の人こそ、他者へのやさしいまなざしを持っている」ことは実感しています。まさにサヘル・ローズさんのまなざしです。精一杯に生きている人ほど、他者へのまなざしがやさしい。知人の投稿を読んで、改めてそのことを思い出しました。
いまコロナウイルス感染症で、いろんな問題が可視化されてきています。
私たちの生き方もまた問われているように思います。
こういう時だからこそ、自分の世界に閉じこもることなく、他者や自然へのまなざしを大切にしたいと思いました。
怒りや憎しみや非難は、他者へのまなざしを歪めかねません。
最近私のまなざしも少し歪んできているかもしれません。
ちょっと反省しました。
■お天道様の試練(2020年6月11日)
早速、自分が試されているようなことが起こりました。
夕食を食べようとテーブルに着いた途端に、番号に覚えのない人から携帯電話が入りました。
女性の声でした。前に自殺のことで湯島に相談に行ったことがあります、というのが第一声でした。まさにいま精一杯といった状況を感じました。
少し話をして、まずはお名前を教えてくださいと、問いかけました。
名前を教えてもらって、話をしているうちに少しずつ思い出しました。たぶん4,5年間に友人が連れてきてくれた人です。その時はむしろ、自殺防止の活動を手伝いたいというような話だった気がします。
実際には彼女自身も問題を抱えていたようです。いろんな人に相談しているようですが、どうも八方ふさがりのようで、ちょっと精神的に危うくなっているようです。
ゆっくりと話を聞かせてもらいました。
少しずつ落ち着いてきたようなので、湯島に出て来られますかと訊いたら今は無理だというのです。コロナのせいかと思ったら、まったく別の理由でした。
彼女が陥っている状況がそれでまた少しわかりました。
コロナウイルス感染症などは彼女にとっては大きな問題ではないのです。
こうした状況にあるのは、彼女だけではありません。
私の身近にも同じような人は何人かいます。
そういう人にとっては(私もそれに近いですが)、コロナは有閑マダムの話題のように見えているかもしれません。
もっと大きな問題があるのに、世間はコロナコロナばかりです。
そういう風潮に私はいまかなり不機嫌です。
さて私にできることはあるのか。
たとえ自分が精一杯でも、見つけなければいけません。
今朝、読んだ知人のメールに返信しておいたのですが、それが早速試されているような気がします。
お天道様はなかなか見逃してはくれないようです。
■山本太郎さんが都知事選に立候補したことを歓迎します(2020年6月17日)
山本太郎さんが都知事選に立候補しました。
これに批判的な人が私の周りにも少なからずいます。反小池票を分散させ、結局、小池さんを利するだけだというのが、その大きな理由のようです。
たしかにその危険性はあるでしょう。
しかし、私はたとえそうなっても、だからといって山本太郎さんを批判する気にはなれません。そもそもどんな理由であれ、立候補した人を批判するのは、その人の民主主義観を象徴しています。そのことは間違いなく小池さんを応援することになるでしょうから、小池さん支持活動と考えれば、納得はできますが。
私は都民ではないのですが、政治家としての山本太郎さんを支持しています。
それに小池都政には違和感があり、都知事が変わってほしいと思っていますので、山本さんが立候補したことでその可能性が出てきたことを歓迎しています。
もし山本さんが出なかったら小池都政は間違いなく継続するだろうと思っていましたが、これで都知事は変わるだろうと思いだしています。
もちろんこれからの山本さんの活動次第ですが、小池都政をもし支持していないのであれば、反小池票が分かれるなどという嫌がらせを言うのではなく、どうしたら山本都知事を実現できるかを考えて行動すべきです。
それにこれは単に都民のための都知事選ではありません。小池さんのように、山本さんは「都民ファースト」などとは言わないでしょうし、都政が国政にとってどういう位置づけにあるかもわかっているでしょう。
ですからこれは、国政につながる話なのです。
山本太郎さんの都知事立候補に、国政の大変革の始まりを期待しています。
山本太郎都知事実現を確信しています。
そして日本の政治が変わりだすことも期待しています。
■湯島サロン「山本太郎さんの都知事選立候補から政治を考える」のご案内
5月から、BMSサロン(茶色の朝シリーズのサロン)ともつなげながら、民主主義を考えるサロンを始めました。
理論的に民主主義を話し合うのではなく、実際の事例や問題から、自らの行動にもつながる形で、民主主義や政治を考えようというのが目的です。
2回目の今回は、山本太郎さんの都知事選立候補を題材に取り上げることにしました。
と言っても、都知事選の行方を考えようというのではなく、山本太郎さんの立候補が提起した問題を材料に、改めて民主主義や政治について考えてみようと思います。
山本太郎さんの立候補にはさまざまな意見があります。
立候補だけではなく、そもそも政治家としての山本太郎の捉え方もさまざまです。
タレントだった山本太郎と政治がまだつながっていない人も少なくありません。そうした人たちの多くが考えている「政治」というものに対して、山本太郎さんは、新しい「政治」を提唱していると考えている人もいるでしょう。その一方では、落ちこぼれたタレントのポピュリズム選挙だと捉えて、政治の劣化を感じている人もいるでしょう。山本太郎さんのいかにもタレント的な言動を嫌悪する人もいますが、スピーチを聴いて心ふるわせる人もいるでしょう。
その評価はさまざまでしょうが、だからこそいろんなことが見えてくる気がします。
都知事選の投票日は7月5日ですが、都知事選の結果は間違いなく国政にも大きな影響を与えますし、これからの日本の政治のあり様、つまりは私たちの生活を変えていくかもしれません。
そこで投票日の1週間前に、山本太郎さんの立候補を切り口にして、選挙や政治、あるいは民主主義やポピュリズムなどについて、思い切り個人的な意見をぶつけ合うサロンを開催することにしました。
サロンの最後に都知事選の結果もそれぞれが予測して、開票を楽しみたいと思います。
私のように山本太郎都知事の出現を確信している人も、山本太郎惨敗を確信している人も、立場にも全くこだわっていません。話し合いの敷居は思い切り低く設定し、誰でも話し合いに参加できるようなサロンにしたいと思いますので、気楽にご参加ください。選挙権のない中高生も歓迎します。
どんなサロンになるか、いささかの不安はありますが、きっといろんな気付きがあると思います。
〇日時:2020年6月28日(日曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「山本太郎さんの都知事選立候補から政治を考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■コロナ感染症の捉え方のあまりの差に驚いています(2020年6月19日)
長い愚痴なので、よほどお暇な方のみお読みください。
新型コロナウイルス感染症に対する捉え方が、人によってこんなにも違うのかと、改めて最近驚いています。それは同時に、政府や専門家への信頼感がこんなにも強いのかという驚きでもあります。
たしかに私も1月から3月にかけてはかなり不安がありましたが、4月にはいろいろと実態も見えてきましたし、専門家の発言や政府・自治体の意図もかなり明らかになってきましたので、普通に注意していれば、感染する恐れは、インフルエンザほどにもないと思うようになりました。
4月初めまでは、基本的にみんなの生活は大きくは変わらず、満員電車もつづいていましたが、感染者はほとんど出ていませんし、いまでさえ抗体検査での陽性率は1%以下なのであれば、国内にはパンデミックいう事実もなかったわけですが、にもかかわらず、状況は過剰に増幅され、不安感というよりも恐怖感が植えつけられました。
そして、いまなお、マスクと「ソーシャルディスタンス」、さらには移動自粛や3密回避がルールになっています。公共施設も閉鎖され、外食文化は壊され、夜の街やパチンコは批判の的にされています。
緊急避難的な初期対応がこんなに長く続く理由を考えないといけません。
ウイルス陰謀論がありますが、ディープステイト論はともかく、この動きを利用したさまざまな「陰謀」があることは間違いありません。しかし、「荒唐無稽な陰謀論」という埋め込まれた知識で、陰謀と聞くだけで思考停止する友人も少なくありません。陰謀のない社会などあるはずもなく、陰謀論アレルギーこそが真の危険なのですが。
全国民あてのマスクと10万円でほとんどの国民が懐柔されてしまったのも驚きです。
そもそも給付金というのは「奉公人に支給する給金」(日本国語大辞典)という意味ですが、その名前にいやなものを感じます。1億円を超す給金をもらった河合夫婦と同じ仲間のような気分もしてきて暗い気持ちにもなりますが、受け取ってしまった私自身(実際にはまだ受け取ってはいませんが)、いまやもう奉公人であることを胸を張って否定できないのが残念です。
いまの外出自粛や集会自粛の風潮は、まさに国政に関心を持つな、選挙に行くな、デモはするなというお達しのように聞こえますが、私の周りでさえ、その信仰はゆるぎないもののように存在しているのにあらためて唖然としています。この状況が窮屈だという声も聞こえてきますが、自分で窮屈を甘んじているだけのことに気づいてはいないのがなおさらおそろしい。窮屈だったらとび出せばいいだけの話ですが、縛られていなくても飛び出せない状況にあるわけです。それこそが400年近く前に「自発的隷従論」を書いたラ・ボエシの「隷従」という意味でしょう。
まさにフーコーの生政治が、人間を滅ぼしてしまったようです。
少し考えれば、いまの状況がいかにおかしいかはわかると思いますが、私の友人の多くは、そういう私の方がおかしいと思っているかもしれません。孤独感に襲われます。
私は、自然免疫力こそが大切だと思っていて、コロナが大きく話題になりだした2月から、睡眠と体力維持につとめるとともに、大量のウイルスは避けるとしても、少量のウイルスにはむしろ接触するのがいいのではないかと考えてきました。感染してくるウイルス量と自然免疫力のバランスで、新型ウイルスに対する自然免疫力も高めていこうというわけです。
ですから、むしろ生活スタイルはできるだけ変えないようにしていましたが、なかなかそうもいかずに、3月中旬あたりから湯島のサロンをお願いしていた人たちも延期したいというので、湯島のサロンは私がホスト役のスタイルで毎週続けてきました。
ZOOM対応の希望もあったのですが、私にとっては本末転倒というよりも、むしろそういう流れに抗うのがサロンなのですが、それはなかなか分かってはもらえないようです。
多くの人が、感染防止というよりも、逃避を選んだのと違って、私はむしろ予防に努め、起床時のうがいや外出から帰宅した時の手洗い・うがい、十分の睡眠と栄養バランス、さらには朝型生活への移行に努めていました。
感覚的には、5月にはすでに自然感染して抗体も出来ているのではないかと考えていましたが、それはどうも楽観的過ぎたようで、まだ抗体はできていないようです。しかし、適度に外出し、人にも会っていますから、自然免疫力は高まっているのではないかと思っています。
しかしどうも多くの人はまだ、感染をおそれて、政府の指導に従っているようです。そのさなかに行われる都知事選は、明らかに現職が有利です。選挙で風を起こすのであれば、まずはコロナへの不安を捨て去るところから始めなければいけにかもしれません。
社会を維持していくために不可欠とされる仕事に取り組む人たちは、外出自粛もテレワークもできずに、きちんとした情報も与えられないまま、生きるために感染の危険をおかしながら、誠実に働いているように思います。自宅でのうのうとテレワークと称しながらテレビに出ているタレントやコメンテーターを見ていると、彼らの仕事がいかに無駄なものであるかがわかります。私は2か月ほど、録画までして、いろいろとみてきましたが、その間、コメンテーターがどう変化してきたかもよく伝わってきます。今はもう全くといっていいほど見ていませんが、彼らもまた田崎さんと同じ仲間になってしまっているように思います。テレビは人を変えていくようです。
何となく孤独感が強まって、愚痴をこぼしたくなったのですが、愚痴が長くなってしまいました。すみません。
自らもまた世間の風潮に合わせているところがあることも実感していますし、10万円の給付金も断ることなく申請してしまいましたが、この愚痴はそういう自分に対する批判なのです。愚痴の矛先は自分なのです。
自発的隷従から抜け出ないといけません。怠惰な私には隷従が楽なのですが、言行不一致ではお天道様に嫌われかねません。
さてさて困ったことです。
■湯島サロン「新型コロナウイルスとともに考えたこと−若者からのメッセージ」のご案内(2020年6月21日)
新型コロナウイルスは、社会にさまざまな変化を引き起こしていますが、個々人の生活にも大きな影響を与えています。生活が激変してしまった人もいるでしょう。
当然の所与として受け止めていた社会そのものにも、さまざまな問題があることが見えてきました。そして、そうしたことが自分とも無縁でないことを思い知らされたように思います。
コロナ禍で、いったい何が変わったのか、何を変えなければいけなくなったのか。生活がいろんな意味で制約されていた時期に、自らの生き方を問い直し、価値観や生き方を見直した人も少なくないでしょう。
そこで、「新型コロナウイルスとともに考えたこと」をテーマにしたサロンを開催することにしました。できれば何回かやってみたいと思っていますが、その第1回目は、サロンにも参加されたことがある大学生の川端修平さんにお願いすることにしました。
私はそれほど彼を知っているわけではありませんが、コロナ騒ぎでたぶん今年大きく変わるはずだった彼の人生が年初に変わりだしたことが気になっていました。
その川端さんが、「この期間、生活が様変わりし、その結果として考えが変化していきました」とメールをくれました。そして、「自分の弱さに気づき痛烈に向き合わされた」とも書いてきました。
そうした思いの一部を、川端さんはオンライン機関誌「みんなで考えよう」に投稿したのですが、その文章も読ませてもらいました。そこにはさまざまな問題が提起されていました。
その中で、川端さんは、「「生きる」と「生活」と「働く」と「経済」と「人間」は一体のものなのではないか、と思うようになりました」と書いていますが、その一文に私は特に興味を感じました。いま多くの人が忘れていることだからです。
そこで、川端さんに、それらがどう変わったのかも含めて、話をしてもらうサロンをお願いすることにしました。
感受性の強い若者から、コロナ騒ぎはどう見えたのか、そしてその中でどう考えや行動を変えてきたのか、できるだけ赤裸々に話してもらおうと思います。
同じ世代の若者はもちろんですが、若くない高齢者も、働き盛りの世代の人も、家事に忙しい主婦の方も、そこから学ぶことはたくさんあると思います。
ぜひ多くの人に、彼の話を聞いてもらい、ともに考えてもらえればと思います。
なお参加希望者には、川端さんの書いた「生きる、いのちー「存在」をめぐってー」をデータで送らせてもらいますので、あらかじめそれをお読みのうえ、ご参加ください。
なお、川端さんにつづいて、自分も話をしたいという方がいたら、このサロンはつづけたいと思います。ポストコロナ社会についての論考は多いですが、このサロンは湯島サロンの理念に基づいて、知識や論考だけではなく、自分のことを一人称自動詞で語ることを中心に、なまなましい話し合いにしていきたいと考えています。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年7月5日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「新型コロナウイルスとともに考えたこと−若者からのメッセージ」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■山本太郎さんの都知事選に私の来世がかかっています(2020年6月22日)
昨日の湯島のサロンで、参加者のひとりから「佐藤さんは山本太郎に入れ込んでいますね」というようなことを言われました。なんでそんなに入れ込んでいるのかというニュアンスでした。
私が信頼している数名の人も、最近の山本太郎はおかしくなってきていると言っています。
今回の都知事選出馬では、反小池のパワーを分散させるという人もいますし、そもそも「れいわ新選組」などという名前を付けたときに、見限った人もいます。
私の周りでは、正直、どうも評判は悪くなっているような気もします。
昨日もサロンではない別の集まりで、山本太郎さんは都知事になると思っているのかと、かなり否定的な感じで訊かれました。躊躇なく「なります」と即答しました。私はそう確信しているのです。
いや、そうでなければ日本の社会の奈落への暴走はとまりようがないでしょうから、そうならなければいけないのです。今生はあきらめるとしても、来世もまた日本に戻ってくるつもりなので、それでは困るのです。
山本太郎さんの政策や人柄や話し方や人との付き合い方には違和感がないわけではありませんし、山本太郎さんのようなタイプの人とは私は友だちにはなれないでしょう。生理的に会わないのです。
政策に関してもそう賛成でもありませんし、あの話し方も好きにはなれません。
ではなぜ山本太郎さんに共感しているかと言えば、彼の政治姿勢に共感しているからです。私が長年考えている「政治のパラダイム転換」に取り組む人だからです。
彼の政治の起点は、生活者個人の生活にあります。しかもその生活者を決して差別していません。いまの政治家や「知識人」「市民」とは全く真逆な人間観を持っています。
いささか政府への過大期待があるのが、私にはなじめませんが、しかし「新しい政治」を目指している。
野党というべき政党がなくなってしまった現在の日本の政治状況を頭から変えてくれるかもしれません。「経済」と「生活」を改めてつないでくれるかもしれない。学校教育のあり方を変えてくれるかもしれない。知識でしか考えていない専門家の世界を変えてくれるかもしれない。そして、何よりも私の世界を変えてくれるかもしれません。
私は都民でないので選挙権はありませんが、山本太郎都知事の実現に未来をかけています。
もしお時間が許せば、山本太郎のサイトを読んでください。
https://taro-yamamoto.tokyo/?fbclid=IwAR3M5Snq_VsnxtMtRSkXXF280_pfD1apQK6t-HIilwlSbT9qzJ7FIwZuMAY
6月28日には湯島でサロンも開催します。
■野党統一候補の落し穴(2020年6月23日)
山本太郎さんの演説を聴きに行った人からのメールを、ぜひ多くの人に読んでほしいと思い、紹介させてもらうことにしました。
この人は、政治家の演説を聴きに行ったのははじめてだそうですが、山本さんの言っていることに嘘はなく、自らの本音を伝えていると感じたそうです。
そしてこう書いています(一部省略しています)。
ただ山本太郎さんの本当の主張は、
今までの政治という物の概念の外にあることなので
なかなか正しく伝わらないだろうなということと
政府からの助成金をひっぱってくる弱者救済にふりすぎていて
山本太郎=極左というイメージになってしまっていると感じました。
私も同じことを感じていましたし、そのために山本太郎さんから離れだしている人がいることも知っています。
しかし、メールをくださった人は、つづけてこう書いています。
山本太郎さんの本当の主張は、右とか左とか関係なく
「ピラミットから抜けて、フラットな世界を創ろうぜ」ということだと思います。
ただほとんどの人が自分がピラミットにいるという感覚すらないので
山本太郎さんの主張を既存の概念で無理矢理とらえているのだと思います。
だから山本太郎さんが自分の意見に純粋になっていけばいくほど
周囲には理解されなくなっていくのだと思います。
まさに私が感じていたことです。
私は、今回山本太郎さんが野党統一候補としての立場を用意されたのに、あえて拒否して自分の党から出馬したことで、山本太郎さんの本音と本気を感じました。
結局、野党統一候補では勝ったとしても別のピラミットに移るだけだからです。
ここで大切なことは、「野党統一候補では勝ったとしても別のピラミットに移るだけ」ということです。つまり、それではこれまでの政治と決別できないのです。この点は、私はあまり意識していなかったのですが、このメールで気づかされました。
メールはさらにつづいているのですが、そこには自らの生き方にも言及されています。
決して単なる観察者的見解ではないのです。
この人は、実に誠実に生きている人ですが、改めてそのことが伝わってきました。
私は昨日はネットで山本太郎さんの街頭演説を聴いていました。
たぶんそのひとつの現場に、この人はいたのでしょう。
ネットと現場では、まったく違うでしょうが、この人の感じたことと私の感じたことが大きくはずれていなかったことに安堵しました。
山本さんが風を起こしてくれることを確信していますが、ともかく多くの都民に山本さんの直接の話を聴いてほしいです。
■コロナ通れば道理引っ込む(2020年6月24日)
昨日、闘病中の友人に会いに行きました。
彼は靴屋さんでお店をやっていますが、独り暮らしの高齢者です。
そのお店に行ったのですが、お店で1時間以上話していました。
しかし、コロナの話も給付金の話もほとんど出ませんでした。
彼にはほとんど関心のないことだからです。
コロナよりも、実際に抱えているいまの病気の方のリスクが現実的ですし、お店を持続させる給付金のような「お上の施し」にはまったく関心のない生き方をしてきた人です。
評判の高い靴職人の父親の家業であるお店を手伝い、継承し、それを今なお続けています。
しかし時代の変化の中で、お店を継ぐ人もなく、彼と共にお店は消滅するでしょう。
彼の使命は、いま在庫している商品を出来るだけ廃棄せずに使ってもらうことです。
それでいまもお店をやっているのですが、お店を維持していくためには新たな仕入れも必要ですから、困ったことに実際には商品は減らないのです。
給付金にはまったく関心がないようです。
世間はコロナとその対策の話ばかりですが、こういう人もいるのです。
いやもしかしたら、こういう人の方が多いのではないか。たくさんの不安と苦労を持て余して、「コロナ騒ぎ」に逃げ込んでいる人もいるのではないか。
お酒やギャンブルに逃げたくなる人もいるでしょう。皮肉なことに、「コロナ」はそうした「逃げ場」を非難し、いまや「逃げ場」の頂点に立ってしまった。そんな気もします。
「コロナ通れば道理引っ込む」の社会になってしまいました。
問題は、「コロナ」のおかげで、何か大切なものがまた見えなくなってしまったことです。
世間は「コロナ」で覆われてしまった。
「コロナ」の禍は、死と同じように、一見、すべての人にとって平等に見えますが、そんなことはないでしょう。そうしたことも含めて、コロナは私には呪わしい人災です。
花粉症でマスクをする人が増えていましたが、いまやコロナでほぼ全員がマスクをするようになった。花粉症も人災だと思いますが、コロナはその延長上にあるとも言えます。
花粉症と同じく、対症療法しかみんな考えずに、それを経済成長の材料にしてしまっているようにも感じます。
マスクをしている人たちを見ると、病んだ人に見えます。私自身、マスクをしていると自分が病んでいるように感じます。
ほとんどの人が感染していないと言われながら、マスクが社会を覆ってしまった。どう考えても私には理解できませんが、マスクやソーシャルディスタンスが新しいモラルと言われる。社会が病んでいるとしか思えない。
病んだ社会に生きるには、健康であってはいけないのかもしれません。
長生きしすぎてしまった。
困ったものです。
■第8回万葉集サロン「歌から会話へ 東歌を中心に作者不明歌を読む」報告(2020年6月24日)
升田さんの万葉集サロンも、いよいよシーズン2に入りました。
今回から東歌を中心に作者不明歌を読んでいきます。
テーマは「歌から会話へ」です。
案内文に書いた升田さんのメッセージの一部をもう一度紹介させてもらいます。
これまでのシーズン1のまとめにもなっていますので。
「た」「な」そして「わ」。ほとんどが文字を持たない人々であった古代。
自分の心、思いを伝え表す方法は音声による言語(あるいは絵などの造形物)しかない。言語行為は善きにつけ(祝・愛情表現など)悪しきにつけ(呪・戯言など)言葉を信頼しての行為であるから、「言霊」という言い方も為された。発した言葉は自分に戻って来ることがあるから、言葉は常に畏怖の対象でもあった。
文字を持つようになってから、人々の言語感や言語意識が変わってゆく。
人言(噂)が「うるさい・いやだ」と嫌悪しながらも上手く受容し、「た」とゆるやかに共生する庶民たち。「うるさい」を慣用句化しそれに依拠した形で自己を主張する知識人たち。
「人間と対峙する言葉」が「生き物」のように柔軟に変容するところに、社会や文化の進展があるのかも知れない。そのありようが見られるのも万葉集の面白さの一つであろう。
というわけで、今回はその序論として、東歌を実際に読んで、東歌とこれまで読んできた都の万葉人の歌との微妙な違いを味わってみました。
最初に升田さんが選んだのが次の歌でした。
多摩川に 晒す手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき(巻14・3373)
前半3句が「序」、後半2句が「言」と升田さんは説明してくれました。
「序」には地名と情景が含まれ、「言」には思いが込められる。
ふつう考えると、「言」のほうに意味があるように思いがちですが、増田さんは反対だというのです。
升田さんの解説を聴きましょう。
東歌は、古代の「言」観を基層としながら感情を表出する。この形成過程で、いわゆる「序詞」と称されている部分は修辞としてではなく、歌の中枢となる。そしてこの部分を今「歌」と呼び、気持ちを直接表出している言葉を「言」と呼んで、「言」と「歌」とが融即して一首をなすありようを見ている。恋の相手や共同体である「た」とのコミュニケーションの手段としての「歌」。として、われわれも「た」として東歌を感じたい。
「言」と「歌」。ちょっと混乱しそうですが、直截的な言葉よりも、情景によってこそ、思いは伝わるというのです。
言葉(ロゴス)で伝わることの少なさを日頃痛感している私としては、情景(イメージ)を通してのコミュニケーションのほうが効果的だという指摘にはとても納得できました。
情景には、たとえば「さらさら」という音まであって、それが世界を広げ深めてもくれます。
他の歌もいくつか読みながら、古代人の「言」観、さらには掛詞や枕詞、言霊、「言」への不信感なども話題になりました。
言霊とコロナウイルスというような話も含めて、すこし横道にも入りましたが、「言」は「事」にも通じ、「物」「者」ともつながっていくのではないかという問題も参加者から出されました。こうなるとフーコーの世界(「言葉と物」)にもつながってしまうとふと思いましたが、そんなふうに話題は広がり、用意してくれた東歌の大部分は次回以降になりました。
升田さんは、サロンの後に、こう書いてきてくれました。
問題、課題は山積しており、文学の難しさにも直面するが、参加してくださる方々から暗示や示唆、知識をいただきながら考える場は楽しい。
そして、大きなテーマに陥っているので、東歌をあと何回か読む予定です。とも伝えてきました。
というわけで、このテーマは次回(8月15日の予定)につづきます。
内容がだんだん深まってきて、報告が難しくなりました。
私が報告をまとめると独りよがりになってしまいがちですので、興味のある方はぜひ直接参加してください。報告とはたぶん違うことを感じるのではないかと思います。
そんなわけで、次回から報告は思い切り簡単にさせてもらおうと思います。
■湯島サロン「21世紀の平和憲法を考える」報告(2020年6月24日)
長年、平和や人権の問題に取り組んできた川本兼さんの「21世紀の平和憲法を考える」は、テーマが大きいので1回では終わりそうもないのですが、今回は川本さんの主張をまずはしっかりと聴こうという感じで、講義型で行いました。
川本さんは、戦後日本国民がもった「戦争そのもの」「戦争ができる国家」を否定する「感覚」を高く評価したうえで、それがアメリカからの「押しつけ憲法」の9条とつながったことで、日本人は平和が実現したと「錯覚」してしまい、その「感覚」を普遍的な理念(思想)にしてこなかったことが最大の問題だと考えています。
そしてこのままだと、その平和の感覚も風化し、日本の平和運動は次世代にも世界にも広がっていかないのではないかと危惧しているのです。
だから、戦争体験を通じて獲得した日本国民の戦後の「感覚」に「ロゴス」としての「言葉」を与えてそれを思想にし、さらにそれを世界に発することが急務だと言うのです。
そのために、川本さんは日本国憲法改正私案を提案しています。そしてみんながそれぞれの憲法私案を創って議論し合い、日本人による新しい近代憲法を創ろうと呼びかけているのです。
こうしたことから、川本さんは改憲論者に思えるかもしれません。
しかし、そうではありません。川本さんは、現在の護憲論者以上に「護憲論者」と言ってもいいかもしれません。そこを見誤ると川本さんの提案の真意にたどり着けません。
今回のサロンには、残念ながら、いわゆる「護憲論原理主義者」の参加がなかったので、こうした議論は深められませんでしたが、川本さんは運動論的に平和憲法を考え、21世紀の平和憲法の先に22世紀の平和憲法も見ているのです。
川本さんは、現在の日本国憲法に関して2つの問題があると指摘します。
第1に、近代憲法ではないというのです。それは憲法の章立てが「天皇」から始まっていることに象徴されています。近代憲法は、人権原理が出発点でなければいけません。
第2に、9条があるとしても、それは日本の牙を抜くためのものであって、本来的な意味での平和条項ではない。「平和」は単に戦争のないことではなく、人権が尊重されるところにこそ平和の真意があるというのです。
その2点から、川本さんは真に平和を目指すのであれば、9条護憲論者こそが憲法創案に真剣に取り組むべきだと主張するのです。
こういう大きな問題提起につづいて、日本憲法の人権規定の問題点や方向性が具体的に説明されました。そして、それにつながる形で、9条に関しては、むしろ自衛軍としての現実を踏まえて、議論していくべきだと提案します。ただし併せて「反徴兵制」をセットにすべきだというのが川本さんの「21世紀」の平和憲法案です。
それに基づいて話し合いが行われました。
今回は講義型だったこともあり、時間が足りなくて、話したりなかった感じがありますので、できればもう一度、9条に焦点を当てて、「護憲論者」も入れて、議論したいと思います。
川本さんの著書「21世紀の平和憲法」をまだお読みでない方は、ぜひお読みいただき、次回の激論サロンにご参加いただければうれしいです。
■愛のある政治(2020年6月29日)
私はこれまで「政治」に大きな期待を持ったことが一度だけあります。
鳩山友紀夫さんが首相になって「友愛政治」を提唱した時です。
政治の基本は「愛」だと私は思っていますが(ちなみに経済の基本も「愛」ですし、企業経営の基本も「愛」というのが私の信条です)、政治に「友愛」とは理念的すぎると当時批判的な人も少なくありませんでした。
残念ながら、鳩山さんの友愛政治は挫折し、私にとっては冬の政治の時代が戻ってきました。
しかし、今回、都知事選に出た山本太郎さんは「愛ある政治」を呼びかけています。
そこに大きな期待を持っています。
都民の人たちが、愛にめざめて、山本太郎さんを知事に選んでくれることを祈っています。
都民の方は、ぜひ山本太郎さんのメッセージを聴いてください。
そして、改めて「愛」を思い出してほしいです。
■湯島サロン「山本太郎さんの都知事選立候補から政治を考える」報告(2020年6月29日)
久しぶりに湯島のサロンが人であふれました。
「山本太郎さんの都知事選立候補から政治を考える」のサロンです。
事前の申し込みは10人ほどだったはずですが、ふたを開けたら、16人のサロンになりました。
山本太郎さんの積極的支持者は半分くらいで、なかにはほかの候補者のボランティア活動に取り組んでいる人もいましたし、山本太郎の都知事選立候補に反対の人も複数いました。誰でもいいと言う人もいましたし、これまで選挙に一度も行ったことがないという20代の若者もいました。
山本太郎さんの街頭演説を聴いて、チラシを持ってきてくれた人もいますし、サロン終了後、街頭演説を聴きに行く人もいました。山本太郎さんとの距離感はさまざまでした。
予定していた2時間半(いつもよりも長くしました)、いろんな話題が出ました。
参加者もさまざまで、企業の社長や世界を舞台にして活動しているフリーランスのビジネスマンもいる一方、世捨て人に近い人もブラックともいえる仕事環境で働いている人もいました。世代も20代から70代と幅広かったです。ただ、女性たち、特に子どもを持つ母親の参加がなかったのは残念でした。
ちなみに、投票権を持っている都民は半分くらいでした。有機農業に取り組んでいる人は、忙しい農繁期にもかかわらず埼玉から出かけてきました(実はフェイスブックへの彼女のコメントでこのサロンを開催しました)。
都知事に誰がなるかは、国政にも影響があるという認識は少し強まっているのかもしれません。私は、国-都道府県-市町村というピラミッド構造(上下関係)を変えないと政治は変わらないと思っていますので、ちょっとうれしいです。
山本太郎さんの都知事選立候補にあまり意味を感じていない人も少なくありません。
しかしこういうサロンを呼びかけたら、これだけの人が集まり、活発な議論が行われる。そのことだけでも私は大きな意味を感じます。
しかし、参加者の周りで、こういう話し合いが行われているかとお聞きしたのですが、あまり行われてはいないようです。1968年のころとは違うようです。いや日本だけが違っているのかもしれません。であればこそ、どんどん話題にしていきたいです。
話の内容は一切省略しますが、山本太郎さんへの共感もあれば、批判もありました。
一度も選挙に行ったことがない若者から、参加者に「政治に関心を持った契機は何か」という問いかけがなされました。その質問自体が理解しにくい、生活と政治はつながっていて、政治は生活と共にあった、というような話をした世代的に私と近い参加者もありました(私の感覚もそれに近い)が、ちょっと若い世代になると、この質問の意味はよくわかるようです。そこに「政治」の捉え方の違いを感じました。
最後に、私が考える「政治のベクトル転回」の話を少しだけさせてもらいました。
山本太郎の立候補は、政治家の政治から生活者の政治に政治の捉え方を変えるチャンスではないかと私は思っています。そろそろ政治家による「国会内での政治」ではない、生活そのものにつながったみんなの政治にしていきたいと願っています。
できれば、次回の民主主義サロンは、それをテーマにしようかと思います。
その頃には山本太郎都知事が誕生しているかもしれませんし。
しかしどうもそれを確信している人はそう多くないことを思い知らされました。
私は「念ずれば通ずる」と思って生きていますので、今なお確信はしていますが。
山本太郎さんの精力的な街頭演説はつづいていて、毎回ユーチューブで流れています。
昨日、私は動画ウォッチパーティというのに参加しました。
一緒に話を聴いている人が画面に出てきますし、途中でコメントも書き込めます。私は別に連絡しなかったのに、10人を超す友人が同時に中継を視聴してくれました。なかには意外な人もいました。
コメントには知らない人が反応してくれました。
いい時代の到来を確信しています。
■最後の土曜サロンの報告(2020年6月29日)
コロナで外出(自粛)規制が行われている間、毎週、土曜サロンをやっていました。
呼びかけ的な案内はほとんどしていませんでしたが、常連も含めて、毎回5〜6人の参加者がありました。
少しずつ外出する人も増えてきたので、7月からは以前のようなスタイルでテーマサロンを開催することに、土曜サロンはやめることにしました。
そんなわけで、今回は最後の土曜サロンでした。
今回は7人の参加でした。
土曜サロンはテーマなしなのですが、今回はやはりコロナ関係と都知事選の話題が多かったです。
コロナ騒ぎと山本太郎立候補には共通のテーマがあります。
それは「障害を持つ人たちの捉え方」と「生活困窮者支援」です。
もっと言えば、「障害とは何か」「生活困窮とは何か」です。
そしてそうした問題と自分とをどうつなげて考えられるかです。
そこにすべての社会問題や格差やいじめの問題は凝集されています。
さらにいえば、動物虐待や自然環境破壊の問題もつながっているかもしれません。
今回は久しぶりに国際箸学会の小宮山さんが参加したので、最後は箸ゲームの話になりました。しばらくやっていませんが、また箸ゲームサロンもやろうかと思います。
土曜サロンに参加してくださった皆さんのおかげで、湯島のサロンは切れ目をつくらずにすみました。
この間、参加してくださった皆さんに感謝いたします。
ありがとうございました。
私はコロナの第2波(定義によりますが)は来ないと思っていますが、仮に来ても、サロンはつづけるつもりです。
■共感と差別(2020年7月1日)
山本太郎さんを支持した投稿をFBに書いたのを契機に、FB上でレイシズムに関する論争まで起こしてしまいました。それを読みながら考えたことを書いてみました。
レイシズムは、人種差別主義と訳していいでしょうが、その起点にあるのは、人間に優劣をつける発想だと思います。私には一番なじめない意識です。
しかし、私の心身にも、そういう発想が全くないとは言えません。
人間は、共感すると同時に、差別することが埋め込まれているのかもしれません。
私の子どものころ、日本にはレイシズムが横行していました。白人を崇拝し、朝鮮人や中国人をばかにする空気がまだ残っていました。子どもの世界にも、そういう風潮(弱者を差別する風潮)があったような気がします。そもそも学歴主義は、そういう文化から生まれたとも言えます。
レイシズム論争とは別に、私が信頼していた知人が、山本太郎さんを暗に指して「輩」という表現を使いましたが、これはまさにレイシズムにつながる発想です。本人はさほど意識していないと思いますが、だからこそとても残念でなりません。
こういうことは湯島のサロンでも時に起こります。とりわけ「権力者」に対して、差別的な表現がなされたり呼び捨てにされたりすることがあります。権力者の名前は一種の「記号」ですから、呼び捨ては許されるのかもしれません。ある人からは、じゃあ、トランプさんと言わなければいけないのかと反論されたこともあります。呼び捨てが問題なのではなく、個人名を言う時に込められる感情の問題なのかもしれません。そう考えると、私も同罪かもしれません。FBへの私の投稿記事にも、差別意識が出ているかもしれません。たしかに、悪意をこめながら書いていることがないとは言えません。
人種ではありませんが、障害を持つ人や生活困窮者にも、同じような視線を感ずることもあります。私が特に気になるのは、そういう人たちを観察的に見て、一見、同情的な姿勢をとる人です。そういう人は、自分は別の世界にいると無意識に位置づけているように思います。これは私にはレイシズムにつながる発想のような気がします。
サロンでのあまりの発言には注意を喚起しますが、私自身も時にそういう表現を使っていないとは言えません。
Black lives matter運動が世界中に波及していますが、日本でなぜ高まらないのかは、レイシズム意識が日本人には心身に埋め込まれてしまっているからかもしれません。つまり、レイシズムであることを意識できない人がとても多いような気がします。そのため、ヘイトスピーチも、どこかで見逃してしまっているような気がします。
昨日、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された70代の男性の賠償請求裁判の判決が東京地裁で出されました。賠償請求は退けられ、旧優生保護法の違憲性への判断は出されませんでした。これがいまの日本の実情かもしれません。
私の中にある、こうした差別主義意識を克服したいと思っていますが、私の周りに山のようにある、そうした意識や無意識と付き合うだけで、へとへとになります。
人と付き合いは、本当に疲れます。
差別する付き合いから共感する付き合いへと、生きる主軸を変えなければいけません。
■ふるさと納税制度の主旨はなんだったのか(2020年7月1日)
ふるさと納税制度には私は反対でしたし、いまも反対です。
創設のときから、これは税金の商品化を進め、税金の意味をおかしくするものだと思っていました。
しかし、財政に対する国民主権意識を高める上では一時的な効果はあるかとささやかな期待もしていましたが、返礼が地域の特産品ではなく、商品券のようなものになったり、還元率が3割になったりするようになれば、これはもう税制度をこわす方向に行くだろうと思っていました。
ですから総務省が、泉佐野市の還元率の高い「ふるさと納税」制度をふるさと納税の対象から外したことは当然のことだと考えていました。
そんなことのために仕事をする自治体行政は解散してほしいとさえ思いましたし、市長の行為は違法ではないかとさえ思っていました。
大阪高裁は、総務省を支持しましたが、泉佐野市の控訴を受けて行われた最高裁は、昨日、逆転判決を出し、泉佐野市の制度はふるさと納税に対象になるとしました。
国民の税金の3割が納税者に私的に還元され、しかもそのための費用もかかるのですから、どう考えても納得できません。いまのバブルなふるさと納税を巡っては、おかしな事件も起こっています。まさに行政もお金まみれになってしまっている気さえします。
アメリカの行政革命から始まったニューパブリックマネジメントは、そんなことを目指していたのではないでしょう。そんなはずはないと思いたいですが、いまから考えれば、それが目的だったのかもしれません。つまり市場至上主義による「汎市場化」の一貫だったとも考えられます。
法(制度)の趣旨を理解せずに、法の条文でしか判断できない裁判官と制度の悪用(私物化)に知恵を働かす自治体首長に、怒りを感じます。
税金というのはいったいなんなのか。
ふるさと納税制度は、本旨に戻り、泉佐野市もまじめな自治行政に取り組んでほしいです。
■新しい政治の風への祈り(2020年7月1日)
まさかと思っていた友人たちから、厳しい山本太郎批判が届いています。
そう言えば、山本太郎支持を公言した時から、なんでそんなに入れ込むのかわからないと言われていました。
今回の都知事選をどう捉えるかは、人よって違うでしょうが。私にとっては、未来への帰路に思えてなりません。
山本太郎不支持はともかく落選運動はしてほしくない気がしますが、他の立候補者の落選運動に取り組んでいる友人もいますので、一概には否定できません。
相手を落とし込むような活動は、私にはできませんが。
私は今でも山本太郎さんの当選を確信していますが、風が起こる兆しが聞こえてきません。
もし今回何も変わらなければ、次の国会議員選挙でも何も変わらないような気がしています。なぜこんなにみんな冷ややかなのか。
ある人が、長いメールを送ってきてくれました。最後にこう書かれていました。「どのような言い訳をつけても、世界でも裕福な日本にいる限り政治離れは変わらないのでわ。したがって、自分の身は自分で守るが最善といえる時代に見えます」。長い付き合いのある、私よりも20歳ほど若い、組織には属していないプロビジネスマンです。彼なら、自分の身は自分で守れるでしょう。しかし、世間には守れない人も多いのです。それに、自分だけ守ることは、たぶん「守る」ことにはならないでしょう。
先日、サロンの仲間のひとりから、残された時間はもうそんなにないと言われました。たしかにそうかもしれません。
都民の人たちが誰を選ぶかで、私の未来も決まりそうです。
自らの運命を他者にゆだねてしまうような、とても不安な気持ちです。
まだ山本さんのスピーチを聴いてない人があれば、ぜひ聴いてほしいです。
そして今回は小異にこだわらず、「政治家の政治から生活者の政治へ」「嘘の政治から嘘のない政治へ」という一点に絞って、判断していただきたいです。
毎日、念じています。
■こういう時だからこそ読んでほしい本があります(2020年7月3日)
企業の社長という激務のかたわら、社会への働きかけを目指した著作活動にも積極的に取り組んでいる一条真也さんが100冊目の本「心ゆたかな社会」を現代書林から出版しました。これからの社会ビジョンと私たちの生き方を考える示唆が盛り込まれた本です。
新型コロナで社会のあり方が改めて問われているいま、まさに時宜を得た出版だといえます。多くの人に読んでいただきたいと思い、紹介させてもらうことにしました。
15年前、一条さんは、ドラッカーの遺作『ネクストソサエティ』の問いかけに応じたアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#1jou3
しかし、最近の日本は、一条さんのビジョンとは反対に、心を失った「ハートレス・ソサエティ」になってきていることを一条さんは活動の現場で実感しているようです。さらに、コロナ騒ぎで、人と人とのつながりさえもが難しくなってきている。だからこそ、「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティを改めて目指すべきだと考え、前著を全面改稿した『ハートフル・ソサエティ2020』として本書を出版したのです。
ハートフル・ソサエティとは、「あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会」だと一条さんは定義しています。平たく言えば、「人と人が温もりを感じる社会」です。
最近の日本の社会は、どこかぎすぎすしていて、楽しくありません。フェイスブックのやり取りでも、ネガティブな意見や人の足を引っ張るものが多く、「温もり」どころか「寂しさ」に襲われることも多いです。そこで、「人と人が温もりを感じる社会」を目指して生きている私としては、本書を多くの人に読んでほしいと思い立ったわけです。
社会のビジョンは、これまでもさまざまな人たちが語っていますが、そういう人たちのビジョンや思いが、とてもわかりやすく整理・解説されているのも本書の特色です。この一冊を読めば、社会について語られた主要な考えに触れられます。
しかも、一条さんらしく、たとえば、「超人化」「相互扶助」「ホスピタリティ」「花鳥風月」「生老病死」といった視点から議論が整理されていて、それを読んでいるうちに自然と一条さんの「ハートフル・ソサエティ」の世界に引き込まれていきます。
つづいて、その社会の根底ともなる哲学や芸術、宗教が語られ、「共感から心の共同体へ」というビジョンへと導かれていきます。宗教嫌いの人にはぜひ読んでほしいところです。宗教を語らずに社会を語ることはできないでしょう。
最近、社会の全体像が見えにくくなっていますが、本書を読むと、社会というものが捉えやすくなると思います。少なくとも、社会と自分の生き方を考えるヒントが見つけられるはずですし、「心ゆたかな」とは一体何なのかを考える材料もたくさんもらえると思います。
一条さんの個人的な夢が語られているのも親近感がもてます。一条さんにとって「ハートフル・ソサエティ」の象徴の一つは月のようです。ご自分でも書いていますが、一条さんはルナティック(月狂い)なのです。
ちなみに、私はフェイスブックも時々書いていますが、お天道様信仰者ですので、私にとってのハートフル・ソサエティの主役はお天道様です。
まあそんなことはどうでもいいですが、一条さんの提唱するハートフル・ソサエティをベースに、自分にとってのハートフル・ソサエティを構想してみるのも面白いでしょう。
いつか一条さんに湯島でサロンをやってもらえるように頼んでみようと思っています。
九州にお住まいなのでなかなかお会いする機会も得られないのですが。
もし読まれたら、ぜひ感想を聞かせてください。
■都知事選の結果に思うこと(2020年7月6日)
都知事選が終わりました。
一晩開けて、改めて失望感がわいてきました。
新しい風は起こりませんでした。
政治状況を変えるには、新しい風が不可欠です。
論理や戦略では状況は変わりません。
状況を変えるのは呪縛された「知性」ではなく、新しい「知性」です。
状況が変わるときには、これまでの知性や権力やメディアは重しになります。
今回、それを改めて確認しました。
終わった知性やシステムが、これほどに社会を支配しているかと思い知らされました。
彼らは重しになりこそすれ、新しい風は起こさないでしょう。
もし新しい風が起こるとすれば、知の周辺からであり、山を動かすのは山を支えている無数の生活者です。
今回は、その風を起こすトリックスター役が山本太郎さんでした。
これまでの政党政治の殻を破る可能性がありましたが、コロナとマスコミの力が風が起こるのを防ぎました。
みんな現状継続を選びました。
たしかに現状を維持すれば、ほどほどの安定は得られるかもしれません。
しかし、私にはもっとたしかな「安定」がほしかった。
生きている「安定」が。
■湯島サロン「新型コロナウイルスとともに考えたこと−若者からのメッセージ」報告(2020年7月6日)
コロナ騒ぎの影響で、生き方を変えさせられたり、自ら問い直して生き方を変えたりしている人も少なくないと思いますが、そうしたことから生き方や社会のあり方を話し合おうというシリーズの1回目です。
今回の話題提供者は、大学3年(経済学部)の川端修平さん。
東京でのコロナウイルス感染者が増えだしていますが、このサロンへの参加申込も直前になって急増したため、参加申込のみなさんには状況をお知らせしたのですが、辞退者はわずかで、結果的には20人を超してしまいました。若者のメッセージを聴きたいという人が多いのに改めて驚きました。聴く機会は意外とないのかもしれません。
川端さんは、フェイスブックやツイッターなどで、そうしたことを発信していましたが、どうもそれへの反応がいささか否定的だったようで、それもあって今回はネット経由ではなく、直接対面で話し合えるサロンという場を選んでくれました。
参加者にはあらかじめ、川端さんが書いた論考を配布し、読んできてもらいました。
彼の主張の大枠は、添付した論考に書かれていますので、関心のある人はそれをお読みください。
川端さんの話を一言で要約すると、「生きる」と「生活」と「働く」と「経済」と「人間」が一体であることに思い至り、それを実践しだしているということです。
具体的に言えば、住んでいる地元にいる時間が増え、時間ができたので畑をやりだし、そのおかげで地元の異世代の人との交流が始まり、地元の良さも見えてきたというのです。そして、目の前の活きた現実の中で生きているという感覚が強まり、言葉や規範や風潮の世界から解放されるとともに、自分も含めて、同調圧力や規範意識に苦しむ人が多いことに改めて気づいたそうです。
そこから、経済のあり方にも思いが深まり(川端さんは経済学の学生です)、誰かから助けを求められた時に「そのままでいていい」という言葉を説得力をもって話せるようになりたいと思うようになったそうです。
どうも以前に発信した時には、この「そのままでいていい」という言葉がうまく伝わらなかったのかもしれません。川端さんの思いは、だれも無理をせずに自分を生きていけば生きていけるはずだし、それでこそ社会がうまくいくのではないかということです。
それは、「新しい経済の捉え方」であり、みんながありのままに生きていけば、社会全体もうまくいくことを証明したいという考えに至り、そうしたことを卒論での研究テーマにしようと考えているそうです。
川端さんの話を踏まえて話し合いにはいりました。
20代から70代まで、しかも立場もさまざまな人たちの話し合いでは、さまざまな話題が出ました。生と死の話、言葉と思いのずれ、家族関係の大切さ(大きな影響力)、弱い立場の人たちの就職の難しさの話、雇用労働と協同労働の話、土との触れ合いや農作物のシェアの話から贈与経済の話、お金や対価や格差の話、非難と優しさの話などなど、いずれもそれだけでサロンをやりたくなるような話題がたくさん出ました。
川端さんよりちょっと年上で苦労したあげくに同じような生き方に行きついた人が参加してくれていたのですが、その人は苦労もせずにそういう心境に達したことに驚きを感じたようです。また、こういう若者が出てきたことがうれしいという発言が中高年世代数人からありました。
サロン終了後、「若い人とそれを囲む年配者が対等にワイワイガヤガヤと話すサロンは素晴らしい」というメールもいただきました。湯島のサロンでは、どんな人も同じ一人の人間として発言することを大切にしているのです。若い世代の発言の鋭さに驚いたというメールも届きました。
こういう若者が「普通」なのかどうかという話題も出ましたが、今回参加した大学生は2人でしたが、いずれもちょっと特別の存在かもしれません。しかし、湯島のサロンのような自由な空間で話してもらえば、ほとんどの若者の話に、中高年世代はきっと驚愕するでしょう。私はそうした経験を何回もしています。
川端さんが言うように、「そのままでいていい」という生き方に目覚めればみんなそれぞれの鋭さを輝かせだすと私は確信しています。
自己肯定感が大切だと力説していた中高年者もいましたが、多くの人がいま失っているのは、自己肯定感であり、他者肯定感かもしれません。
参加者も多かったので、十分に発言できなかった方も多かったと思います。
今回出されたテーマは、サロンで折に触れて、話し合いたいと思っています。
川端さんからも後でうれしいメールをもらいました。
昨日のサロンで僕の中にもなにか変化が生じたようだというのです。
聞く人ではなく話す人が一番変わっていくというのが湯島のサロンの考えのひとつです。だからみんなに話し手になってもらいたいと思っています。
このシリーズは継続します。いまおふたりの方にお願いしていますが、話したいという方がいたらご連絡ください。
■湯島サロン「都知事選で感じたこと、考えたこと」報告(2020年7月13日)
「都知事選で感じたこと、考えたこと」を自由に話し合うサロンを2回、開催しました。
1回目は10人、2回目は9人。連続して参加した人は私を含めて2人でした。
残念なのは山本太郎さんに好意的な人が多く、山本太郎さんを非難していた参加者がいなかったことです。そういう人たちが今回の都議選を無意味なものにしたと私は思っているので、そういう人と話したかったのですが、実現できませんでした。
話し合いの内容は一切省略します。
書き出すと際限がなく、私自身の意見も書きたくなりそうだからです。
しかし私には、参加者の話はいずれもとても示唆に富む話でした。
無責任に頭だけでやり取りする話ではなく、自らの投票行動を踏まえての話が多いので、心に響きます。
選挙に関して話し合うことはあまりないので参加したという人がいました。
そういえば、選挙終了後に、選挙結果を話し合う場はそう多くないかもしれません。
今回は、投票日前にもサロンをしましたが、そうしたことの意味を感じました。
折角の選挙が行われるのであれば、その前後に、選挙権者としてもっと話し合う文化を育てていくことが大切だと思いました。
よく「投票したい人がいない」などという人がいますが、そうした他人のせいにして政治(投票するという市民の責務)から逃げている人をいる限り、みんなにとっての住みやすい社会には向わないでしょう。
参加者のひとりは、学校も休みだったので中高生を含めて、毎日、政治論議で家庭がにぎわったという話をしてくれました。そういう家庭が増えれば、状況は変わるでしょう。
都知事選に関心を初めて持って、投票にも行ったという人がいたのも実にうれしかったです。
今回の立候補者で、政策を具体的に考え公開していたのは、山本太郎さんだけだったと思いますが、フェイスブックなどを読んでいると、残念ながら山本太郎さんのスピーチを聴くこともなく、山本太郎さんをこき下ろした人が少なくないように思います。
私もそういう人からメールも含めていろいろと厳しいコメントをもらいましたが、ネット上の話し合いの無意味さを改めて感じました。
これからは選挙のたびに、投票日前後のサロンをやろうと思います。そうした動きが各地で広がるといいなと思います。共感した人がいたら、ぜひお願いしたいです。
いずれにしろ今回、山本太郎さんのスピーチをきちんと聞いた人は、たぶん次回も投票に行くでしょう。誰に投票するかどうかは別にして。
ひとつだけ書かせてもらえれば、今回の選挙は「政治軸」の枠組みと「政治家」像の問い直しが関わっていたと思いますが、それがあまり意識されていなかったことを改めて思い知らされました。
サロンでは、それに関連して、「お上論」が話題になりましたが、「お上による政治」の下での「臣民」意識から抜け出せない人がまだまだ多いのかもしれません。
それに関して、近々サロンをさせてもらおうと思います。
もう国会を舞台にした政治権力争いの政党政治から解放されたいと思いますが、まだ古い枠組みで考えている人がほとんどなのが、とても残念です。
今回の都議選で見えてきたことがたくさんあります。
それを忘れないようにしたいです。
■そろそろ共依存の政治から抜け出ましょう(2020年7月13日)
都知事選で感じた事や思ったことをテーマにしたサロンを2回開きました。
いろんな意見を聴かせてもらいましたが、参加者が山本太郎さんに好意的な人が多かったので異論をぶつけ合えずにちょっと残念でした。
投票前にフェイスブックで私が山本太郎さんへの支持を表明したところ、厳しい意見をもらいましたが、サロンでは残念ながらそうした反論には出合えませんでした。
フェイスブックでのコメントは、いずれも山本太郎さんへの非難的なものが多かったのに大きな違和感がありました。
選挙前に個人を非難するのは私の好みではないので、小池さんを非難するのも私にはフェアには感じません。選挙はマイナス面ではなく、プラス面で選んでいきたいと私は思っています。みんな自分がないので否定することが好きなのでしょう。さびしい話です。
なかには、山本太郎さんは具体的な政策がないなどという、とんでもないコメントもありました。その人はたぶんホームページサイトも読まず、スピーチも聴いていないのでしょう。山本太郎イメージがすでにあるのでしょう。
小池さんのカイロ大学卒業がどうのこうのと議論するのが好きな人が多いように、ともかく学歴主義の人が多いのには驚きます。大学も出ずに国会議員ができるのかという、学歴コンプレックスに侵されているのでしょう。そうした「政治家像」を見直し、臣民根性から抜けでなければいけません。
そういう人たちは、大学で覚えたプラスチックワードの羅列で世界が見えていると思っているのかもしれません。しかし、現実の世界は、もっと意味のある生きた生活用語で成り立っています。そういうことは大学では教えてくれませんので、自分で学ばなければなりません。大学で、ただただ教えられることを熱心に記憶しているだけでは、世界を見る自分の目は死んでいきます。知識に覆われてしまえば、現場に触れても、その現場が見えなくなってしまいかねません。
今回の都議選は、よほどのことが起きなければ小池さんの再選でした。
宇都宮さんの立候補の意味は、小池都政の問題を可視化することでした。
これまでの経験から考えて、宇都宮さんには「よほどのこと」を起こすことは考えられませんでした。
山本さんは、もしかしたら「よほどのこと」を起こし、これまでとは全く違った状況を生み出す可能性を秘めていました。
新しい風は、論理の積み重ねからは生まれませんが、追い込まれた状況の中では、情動的に非連続の風が、トリックスターによって引き起こされる可能性があります。
格差状況の深刻化とコロナ騒ぎによる抑え込みで、都民の生活状況はかなり追い込まれていて、もしかしたら大きな風が起きるかもしれないと私は期待したのです。
もちろんそこには、ファシズムのような危険性がありますが、新しい風とはそういうものです。現状を変えたいのであれば、そうした危険を背負い込まなければいけません。
問題は、「よほどのこと」が起きてもいいという覚悟を持つかどうかです。
その覚悟がないのであれば、結局は現状維持を受容しなければいけません。つまり小池都知事継続に愚痴を言いながら受け入れるということです。
愚痴を言い続けられる快感を選ぶ人が多いような気もしますが、もしそれを避けたいのであれば、せめてトリックスターによるコンヴィヴィアルな風起こしの邪魔をやるべきではありません。
それくらいの知恵は、現場で生きてきている真摯な人ならわかるはずです。
今回、宇都宮さんを支持した人たちを非難するつもりはありませんが、要するにそういう人たちが結局は正統的な選挙を守り、小池再選を支持したとも言えるでしょう。だからそういう人にとっては、この都議選を総括し反省する必要もないのでしょう。むしろ、「予想通りの結果になった」と満足していることでしょう。
現在のほぼすべての野党が、自民党と共依存しているように、要するに同じ土俵での政治を守ったわけです。それでは状況は変わりません。いや、たぶん意識の奥では、変えたくなかったのでしょうから、満足しているといってもよいでしょう。
友人がこんなメールをくれました。
(山本太郎さんには)いろいろ批判がありますね。特に、左陣営から。
いったいなぜ、そんなに批判されなくてはならないのか、
もちろん完璧ではないですが、彼の志に嘘はないと、私は思っています。
私も同感です。宇都宮さん支持者からの山本太郎批判は厳しいものでした。
そこに、宇都宮さんを支える人たち(宇都宮さんご自身ではありません)の本質が感じられます。
ちなみに山本太郎支持者は宇都宮さんを非難はしていなかったように思います。
山本太郎さんもその支持者も、政治の新しい流れを創りたかったのです。
政治家の政治、専門家の政治ではなく、生活者の政治、生きにくさの中を一生懸命に生きている人たちの政治を、です。
山本さんの政策には確かに矛盾したものも含まれていたかもしれませんが、その理念は明確でした。政策の実現可能性に対する姿勢も誠実でした。ですから、実際に政治に取りかかれば、理念によって政策もまた整理されていったでしょう。そうしたことへの寛容さを、山本さんはむしろ素直に出していたのです。つまり、教条主義的で上から目線ではなく、現実に立脚した共創的な生きた政治を目指していたのです。
山本太郎さんは、百合子山は高かったと言っていますが、高かったのは「百合子山」ではなく、そのすそ野に広がる政治家政治を信奉する「高学歴者村」の高さではなかったのかと思います。
未練がましくも、8月1日か2日に、政治の枠組みを話し合うサロンをもう一度やろうと思います。関心のある方はぜひご連絡ください。参加者が多い日を選びたいと思いますので。
■知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない(2020年7月16日)
森友学園を巡る公文書改ざんに加担させられたとして自死した財務省職員の妻、赤木雅子さんの大阪地裁で意見陳述をテレビで観てから、新聞で全文を読みました。
日本の官僚にも、まだこういう人がいたのかと改めて思いました。
日本の官僚たちの変質は、1980年代から90年代にかけて、なまなましく私も体験していますから、まだこんな誠実な人がいたのかと感激したのです。
私の印象に強く残ったのは、「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任」、そして「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません」という言葉でした。
前者に関しては、私が以前からずっと言ってきたことです。
知った以上は無縁とは言えないと思っています。知っただけではなく、関わった人たちが財務省にはたくさんいるはずですが、誰からも大きな声が聞こえてきません。
他の官庁の官僚たちからも聞こえてこない。
私の考えでは、まったく無縁の官僚はほとんどいないはずですが、みんな自分の問題とは受け止めていないようなのが不思議です。自らを貶めているのでしょうか。
私の友人たちはもうみんな退役していますが、同窓会に参加して聞いてみたい気もしますが、もう過去の話なのでしょう。それに官僚の世界は、私が生きている世界とはまったく別のようなので、話が通じないかもしれません。
しかし、今回、気になったのは、「関わった者としての責任」ではありません。
知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない、という赤木さんの指摘です。
果たしてそうなのか。それこそ自閉的な「思い込み」ではないのか。
事実、赤木雅子さんは問題を「公的な場」に提示しました。たしかに、ここまで来るのは大変だったでしょう。赤木さんご自身がもし動いたら、抹殺された可能性もあるでしょう。そうやって「消されてしまった」事例も少なくないのかもしれません。
「知った事実」を「公開」することは誰にもできるはずです。しかし、赤木さんは「公開」しても取り上げられないと思っていたのかもしれません。つまり、新聞やテレビを信頼していなかったと言ってもいい。
こう考えてくると、日本には今や、信頼できる公的な情報空間がなくなってしまっているのかもしれません。これこそが大きな問題です。
ネット空間はどんどん広がっていますが、ほとんどが「私的所有空間」化してきていて、誰にでも公正に開放されている公共空間がなくなってきているとしたら、それを改めて創り出し育てていく必要があるのではないか。
それを育てるのは、パブリックではなく、コモンズでなければいけません。
公共空間としてのサロンが広く広がっていくことが大切です。
赤木さんのような人が、自らの命を断つ前に、話をしに来られるような場に、湯島のサロンをしていきたいと改めて思っています。
■知っているのになぜ隠すのか(2020年7月16日)
最近は新型コロナ関係の報道番組はあまり見ていないのですが、今日は久しぶりに少しだけ羽鳥さんのモーニングショーを見ました。
岡田さんと玉川さんと羽鳥さんの茶番としかいえないやり取りがありました。
今朝、ノートにアップしたことにつながるのですが、以前から不快に思っていたことなので、書くことにしました。
話題は、なぜPCR検査が広がらないのかということです。
それに関して、岡田さんが「PCR検査をやりたくない人が政府にいる」というような発言をしたのですが、それに対して羽鳥さんが「それ誰ですか?」と質問しました。
岡田さんは、その人の名前は「電波にはのせられないですよ」と笑いながら答えました。
こういうやり取りは、テレビではよくあります。
物知り顔にいろいろと話し、でもその人の名前は言えないという人は少なくありません。
すぐにも思い出すのは、貴乃花の母親です。
有名な評論家や政治解説者にもいます。
そういう発言をするような人は、私にはまったく信頼できません。
そういう一言を聞いてしまうと、その人への信頼を持てなくなります。
嘘や隠し事が、私は生理的にだめなのです。
今朝、ノートに書いたように、「知った者の責任」をとれないような人は、まともな社会人ではないと思うからです。
しかも、自分だけは知っているということに優越感を持つような勘違いをしているのですから、救いようがありません。
知っていて、しかも知っていることを公言したのならば、最後まで話すべきでしょう。
話す気がないのなら、せめて知っていることを話すべきではありません。
人に話せないことは、知らないことと同じだからです。
「このことは墓場まで持っていく」という言葉が、好意的に使われることがありますが、私にはそれはとんでもない無責任な生き方です。要は、問題から逃げるだけの卑劣でみじめな生き方でしかありません。偉そうに公言する言葉ではないでしょう。
もし名前を公開したら、どうなるのでしょうか。
もう2度と情報が取れなくなるとか、当事者に迷惑がかかるとか、いろいろと理由はあるでしょうが、たぶんどんな理由も正当化はされないでしょう。
「知った者の責任」は大きいです。
「知った者」は、知り得る立場にあることの意味を認識しなければいけません。
そして、「知る」ということは、「知るべきして知る」のであり、それにはきちんと意味があるのです。自分だけで秘蔵してはいけません。
赤木さんのメッセージをしっかりと受け止めてほしいです。
そういう人がもう少し増えていたら、この半年のコロナ騒ぎはかなり違ったはずです。
■問題の捉え方(2020年7月17日)
東京でのコロナ感染者が増えています。
その一方で、観光支援のための助成金制度が動き出しています。
あまりにちぐはぐな感じで、みんな振り回されているようです。
私の生活スタイルは変わっていません。
県外移動自粛は意に介していませんが、3月以降は生活圏からの移動は避けています。
電車には以前どおり乗っていますが、友人以外の人との会食は避けています(一度だけ結果的に受けてしまいましたが)。
病院に入院している友人にも面会に行きますし、エアタッチのようなばかげた仕草はしません。
湯島のサロンのスタイルもほとんど変えていません(換気には気を付けていますが)。
私が気になっているのは、感染者数ではなく、感染後の症状と重症化した人の条件です。
残念ながらそれがほとんど報告されていません。
検査結果の陽性率は上昇していますが、市中への感染者の広がりは当然のことだろうと思いますので、まったく心配していません。
しかし、感染した場合、どうなるのか、あるいはどうしたらいいのかの情報が相変わらず出てきません。
さらには、どう感染したらいいかの情報も見当たりません。
問題の捉え方が間違っているような気がしてなりません。
感染予防策をいくら繰り返しても、何も変わらない。
大切なのは、予防策からそろそろ卒業したいものです。
■企業経営関係の本を2冊、紹介させてもらいます(2020年7月17日)
久しぶりに企業経営関係の本を2冊、紹介させてもらいます。
「カイゼン4.0-企業にイノベーションを起こす」と「トヨタチーフエンジニアの仕事」です。書名からのイメージとは違い、企業関係者だけではなく、さまざまな立場の人にも示唆に富む内容なので、紹介させてもらうことにしました。
いずれも個人を起点に置いて企業経営に取り組んできた体験をまとめたものです。
それぞれの著者とは親しくお付き合いさせてもらっていますが、そのお人柄と誠実な仕事ぶりから生まれた、信頼できる実践的な経営書です。
ポストコロナ時代の経営を考えるための示唆が得られるだけではなく、仕事とは何か、経営とは何か、そして働くとは何かを問い直す視座も得られると思います。
まずは、企業を現場から変えていこうという活動に長年取り組まれている柿内幸夫さんの新著です。
『カイゼン4.0-スタンフォード発 企業にイノベーションを起こす』(柿内幸夫 サニー・プラス 1500円)
柿内さんの著作は以前にも紹介させてもらいましたが、今回は柿内さんが実際に取り組んだ事例をふんだんに紹介しながら、これまでの実践知を改めて、体系的にまとめています。
「カイゼン」活動と言えば、モノづくり現場でのコスト削減や生産性の向上というイメージが強いと思いますが、柿内さんの目指す「カイゼン」は、企業にイノベーションを起こす活動です。ですから本書の書名も、『カイゼン4.0-スタンフォード発 企業にイノベーションを起こす』とされています。
柿内さんは、こう書いています。
カイゼンという日本発の技術は、お金がかからないシンプルな技術であり、正しく運用すると生産性や品質はもちろんのこと、新商品や新マーケットをも生み出してしまうすごい不思議な技術なのです。そしてこれは日本にしかできない特別な技術です。ですから正しいカイゼンができていない会社が多い今の日本の中小製造業の状況は、とてももったいないと思っています。
私はカイゼン指導が専門のコンサルタントです。そして私の指導先ではそのすごいことが普通に起きています。
本書でも紹介されていますが、まさに「すごいこと」を、柿内さんはいろんな会社で引き起こしています。
しかも、現場のカイゼンにはとどまりません。会社そのものが大きく変わるばかりでなく、異分野のヒット商品が生まれたり、新しいマーケットが発掘されたりすることもあるそうです。
柿内さんは全組織協働型の経営改革活動と言っていますが、その原動力は会社を支えている全員の力ですので、大きな資金投入など不要です。
魔法のような話ですが、その取り組み方法はきわめて簡単なのです。
ポイントは、社長など経営トップと現場で働く人々が同じ目線に立って、一体となって取り組むことですが、それをどうやって進めるか、そして経営とは何か(経営者の役割とは何か)が、本書には具体的に書かれています。
とても読みやすい本ですので、会社の経営に関わっている方にはお勧めです。
会社だけではなく、NPOや行政の方にもおすすめです。
つづいて、トヨタ出身の北川尚人さんの新著です。
『トヨタチーフエンジニアの仕事』(北川尚人 講談社α新書 880円)
トヨタの経営と言えば、原価低減や品質管理に優れたトヨタ生産方式がすぐに頭に浮かびますが、もう一つの「トヨタの強さ」は次々とヒット商品を生み出すトヨタ製品開発方式であり、その中心的役割を果たすチーフエンジニア(CE)制度です。
長年トヨタで、チーフエンジニアとして、新車を開発してきた北川尚人さんは、これからの成熟した経済社会にあっては、この製品開発システムこそが企業の活力の根源だろうと考えています。
「現在、世界を席巻する巨大IT企業GAFAはトヨタのCE制度を徹底的にベンチマークし、プロダクトマネジャー制度として導入し、大きな成果に繋げていることは意外と知られていない。プロダクトマネジャー制度の源流、本家はじつはトヨタのCE制度だ」と北川さんは言います。
つまり、モノづくり企業にとどまらず、トヨタのCE制度にはこれからの企業経営の活力の源泉のヒントがあるというわけです。
北川さんは、トヨタで10年間、チーフエンジニアとして数多くの新車の開発に取り組んできました。そうした自らの実践を通して蓄積してきた体験知を、わかりやすくまとめたのが本書です。
本書の中心は、北川さんの体験から生まれたCE17条(言い換えれば、ヒット商品開発のポイント)の紹介です。その第1条は、「車の企画開発は情熱だ、CEは寝ても覚めても独創商品の実現を思い続けよ」です。これだけ読むと、北川さんはただの猛烈社員のように思うかもしれませんが、そうではありません。それに続く17条を読んでもらうと、北川さんの「働くことの哲学」あるいは「生きる哲学」がわかってもらえるでしょう。
「一人でも多くの人を幸せにする乗り物を開発したい」というのが北川さんの夢だったそうですが、それは言いかえれば、「自動車メーカーの人間として何とかできないのか」と考えつづけることでした。そのために北川さんは、仕事のかたわら、まちづくりに関わったり、老年学を学んだり、障害者施設を訪問したりしていました。会社の中にいるだけでは、新しい製品は見つかりません。
本書には、そうした北川さんの夢への取り組みが具体的に紹介されています。
時代は大きく変わり、「HOW」から「WHAT」へと社会が求めるものも変わってきている。WHATを生み出し続けられる価値創造の仕組みこそが、これからの企業の活力につながっていく、と北川さんは言います。
トヨタが創り上げてきたCEのシステムは、これからの時代、メーカーだけではなくサービス分野を含むさまざまな企業にとって役に立つだろうと考えた北川さんが、自らの実践知を惜しげなく公開した本書には、力を失ってきている日本の企業を活性化するヒントがたくさんあるように思います。
製品開発のためのテキストとしても参考になるでしょうが、むしろこれからの働き方を考えるような読み方も面白いのではないかと思います。
機会があれば、おふたりにも湯島でサロンをやってもらいたいと思っています。
■医療関係者のストライキのメッセージをきちんと受け止めたい〈2020年7月20日〉
今日は娘の手術の立ち会いで、大学病院で半日過ごしました。
手術は2時間でしたが、その前後、併せて5時間以上、病院にいました。
いろんなことが見えてきます。
コロナ騒ぎで、病院は大きな負担を強いられているのがよくわかります。
しかし、看護師もスタッフも、もちろん医師も、非常に誠実です。
医師は昼食を食べる暇なく、仕事をしているようです。
さすがにナースステーションは昼食時少し人数が減っていましたが、患者担当の人は昼食もなく頑張っていました。私も昼食を食べずに待合室にいたので、それが実感できました。
そのうえ、みんなとても気遣い合う姿勢が強く、看護師だけでなく、たとえばストレッチャーを運ぶスタッフや待合室の掃除に来る人など、みんな実に親切です。
エレベーター内では声をかけないようにと掲示が出ていましたので、私も声掛けは最小限にしましたが、それなりに声をかけてもらえましたし、それなりに声をかけさせてもらいました。もっとも、みんな私よりも疲れているはずなので。私にはお礼を言うしかできませんでしたが。
帰宅してテレビを見ていたら、病院の看護師のストライキが報道されていました。
コロナ騒ぎで病院が収益悪化し、ボーナスが削減されたりしているようです。
これを見て唖然としました。
たぶん金銭的な問題ではないでしょう。
医療関係者への評価や、もしかしたら私たち患者や患者家族の姿勢が問題なのかもしれません。社会の目も、問題かもしれません。
もし本当に新型コロナが心配なのであれば、そして医療崩壊を本当に心配するのであれば、病院の経営収益の問題などにしてはいけないはずです。
コロナ対策特別税として、全国民が毎月一定額を負担するようにしたらどうでしょうか。
経済が回らなくては困るとみんないいますが、病院はどうなのか。
昨今のバブルに近いような消費の報道には、私は違和感があります。
まずは医療関係者に温泉に行って休んでもらいたい気分です。
病院のスタッフ業務には、資格がなくてもできる活動も少なくありません。
そういう活動をするボランティアを受け入れるのもいいでしょう。
私にも入り口で体温を計ったり、消毒をしてもらうようなことなら、週10時間くらいであれば、引き受けられそうです。
ニュースで医療関係者のストライキが、ボーナスとの関係で報道されているのに、やりきれない気がします。
報道関係者はもう少ししっかりと現実を見てほしいです。
そこまで報道はお金に毒されてしまっているのでしょうか。
今日、お世話になった慈恵医大柏病院の守衛さんをはじめとした、すべてのみなさんに感謝します。
■「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化を目指す本の紹介〈2020年7月21日〉
濱中都己さんの「世にも恐ろしい損保犯罪の話」(平成出版 1300円)をご紹介します。
本書の出発点になった事件に関しては、私も濱中さんからお話をお聞きしながら、お役にたてていない反省があるのですが、湯島のサロンで改めて取り上げたいと思っています。
まずは出版社による本書の紹介文をお読みください。
本書は、日本のエリン・ブロコビッチとも言える、著者の執念の賜物です。 日本では、すでに既得権のある大企業、とりわけ損保業界に、はむかう人はいません。 母親の交通事故をきっかけに、国民健康保険を利用する形で交通事故の補償をするのはおかしいのではないかと著者が主張すると、不当逮捕・冤罪被害となってしまいました。しかも恫喝も続きます。 本書を読んで、不当な立場におかれている「弱者」について、ぜひ考えていただきたいです。
エリン・ブロコビッチ。
ジュリア・ロバーツ主演の映画「エリン・ブロコビッチ」を観た人も少なくないでしょう。
私も数回見ましたが、そう言われてみると、たしかに著者の濱中さんにはそういう雰囲気があります。偶然に出合ってしまった問題を掘り下げていくうちに、利権構造で固められ、不労所得に覆われている日本の社会にぶつかってしまい、どんどんと深のめりしている濱中さんには、むしろエリン・ブロコビッチ以上のパワーを感じます。
本書には、その濱中さんが、突然の母親の交通事故から、国民健康保険をむしばむ巨大損保会社の犯罪に巻き込まれ、怒りを強めていく過程が克明に描かれています。そうした「生活者」の怒りの対象はどんどん広がり、そして金融省までも含む既得権益による「社会的犯罪」に挑むことになっていくという、生活と深くかかわった告発の書です。
そこで示唆されているのは、単に損保業界の話にとどまりません。
たとえば、本書では特別民間法人の話が出てきますが、そこに現在の日本社会の本質が垣間見えています。すべて利権に絡め取られ、労働と収入は全く無縁になっているとさえ思いたくなる日本の経済社会の実相が、です。
しかし、ほとんどの人がそうした仕組みに組み込まれているために、おかしなことを「おかしい」とさえいえなくなっている。その仕組みを変えないといけないと、濱中さんは立ち上がっているわけです。まさに、物知り顔で事実を見過ごす人たちとは違う、「生活者」ならではの行動です。
そうした行動の結果、濱中さん自身が、「恫喝訴訟」とも言われる、威嚇目的のスラップ訴訟の対象にされるのですが、そこから日本の司法界の問題も見えてきます。
国民が安心して暮らせて行いけるための、せっかくの「保険」や「司法」という社会の仕組みが、それらの目的とは全く真反対の運用がされている現実も垣間見えてきます。
濱中さんは、単に問題提起しているだけではありません。身体をはって行動しています。たとえば、交通事故損保犯罪対策委員会を立ち上げたり、「反スラップ法制定」の請願活動を呼びかけたりしています。
本書の「あとがき」の一文を紹介します。
いままで国民の目から巧妙に隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性を可視化し、行政立法の内容等を行政訴訟の対象とすることによって不適切性や違法性を早期に是正することは国民の権利義務の正当性実現と救済にとっても極めて大きな意義を有します。
「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化。
濱中さんの活動がそのきっかけの一つになればと思い、私に何ができるかを考えていますが、まずは本書の紹介から始めることにしました。
濱中さんに頼んで湯島のサロンも開催したいと思っています。
またご案内させてもらいます。
■湯島サロン「コロナ騒ぎで考えたこと−「ただのおばさん」のメッセージ」報告(2020年7月23日)
「コロナ騒ぎで考えたこと」シリーズの第2弾は、「ただのおばさん」編でした。
ちょっと私自身の生活事情から報告がすっかり遅くなってしまいました。
今回の話題提供者は、湯島のサロンでも時々お茶を点ててくださる井田里美さんです。
井田さんは、コロナ騒ぎの前から茶の湯を通して、社会との関わりを深めてきていますが、その過程で、さまざまな問題にぶつかり、それがきっかけで私との接点ができました。
「ただのおばさん」と自称していますが、生活の視点で社会と関わりを深めると、両者のずれに気づいてしまうという典型的な事例と言えるかもしれませんが、そこで「まあ社会とはこんなものか」と納得してしまうことのないのが、「ただのおばさん」のすごいところです。
話は全く違いますが、いま話題になっている財務省の赤木俊夫さんと雅子さんの違いをつい思い出してしまいます。
私は、この社会を変えていくのは、そうした「生活者」としてしっかりと生きている人たちではないかと思っていますが、残念ながら社会と生活の対話は、極めて難しいのが難点です。
サロンの報告が、おかしな方向になってしまいましたが、サロンでは、井田さんがコロナ騒ぎに惑わされずに生き方を大きくは変えずに済んだのは、「生活の杖」として「茶の湯」があったからだと言います。そのおかげで、社会の変化もよく見えたようです。
生活をするとは単に生きていることではなく、しっかりした自分と付き合うことなのだろうと思います、なにしろ何があっても結局は自分で責任をとらなければいけませんから、組織(社会)に身を任せていれば安心な生き方とは全く違います。
みんなどうしてこんなにも社会の風潮に自分を合わせていけるのかが、時に話題になりますが、もしかしたら「自分の生活」よりも「社会の一員」であることが行動の判断基準になっているからかもしれません。
サロンでは、茶の湯や利休に関心のある人もいて、話はともするとそちらに行きがちでしたが、生活と重なる形で生業的な事業に取り組んでいる人も複数参加していましたので、その視点からの話も出ました。
そういう人たちの視点から見ても、やはりコロナ騒ぎはいささか奇妙に見えているようです。
いろんな話題が出ましたが、井田さんとしては、茶道具を持って、いろんなところに出かけて行って、茶の湯を楽しみながら、自らの生き方や社会のあり方を話し合う場をつくっていきたいと思っているようです。
湯島でも改めて、井田さんの茶の湯の会を企画したいと思っています。
報告になっていない報告ですみません。
■生活者としての目覚め(2020年7月25日)
最近のマスク顔だらけの風景を見ていると、ヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」に登場する青果店の店主のことを思い出してしまいます。
共産党支配下のチェコで、「全世界の労働者よ、一つになれ!」という党のスローガンを店先に貼っていた店主のことです。彼は、別に主張があったわけではなく、そうしないと目立つからという理由で、スローガンを貼ったのですが、その行為こそが、社会の「ゲーム」を生みだし、ゲームのプレイヤーとなり、ゲームの継続を可能にし、つまりゲームを本物にした、とハヴェルは言います。
社会を成り立たせているのは、安倍首相のような権力者ではなく、そうした青果店の店主たちだとハヴェルは言います。
ハヴェルは、体制を変えるのは、野党や「反体制知識人」ではなく、そうした店主たちが、真実の生に目覚めて、スローガンを貼るのをやめれば、それで社会は変わっていく、いやそれ以外では変わらないと書いています。
実際に東欧は、そうして、「自発的の全体主義」から抜け出したのです。
与えられた「嘘の生」から抜けて、自らの尊厳を思い出して、「自らの生」を自由に生きる「生活者」になる。何も考えずに従うのではなく、おかしいと思ったら、自分で考えて行動する。裸の王様を見たら、「王様は裸だ!」と言えばいい。そうした人たちが、社会を変えたのです。
日本人は同調圧力に弱いなどと物知り顔に解説するのではなく、あるいは政府をこきおろすのではなく、自分はどうしたいのかを考えて、自分を生きればいい。
Go-Toトラベルがいいとか悪いとか東京都と国の政策が違うとか、そんなことはどうでもいい話で、大切なのには自分がしっかり考えて行動することです。そうすれば、新型コロナも、たくさんあるリスクのひとつでしかないことに気づくでしょう。マスクも、必要だと思う時にするようになるでしょう。
私には、いまの日本人は、北朝鮮の国民と同じように思えてなりません。
いやハヴェルが「力なき者たちの力」を書いた時代のソ連統治下のチェコと同じ。
だから、ハヴェルの書いた「力なき者たちの力」(人文書院 2200円)を多くの人たちに読んでほしいと思います。
チェコを民主化し、大統領になったハヴェルは、こう書いています。
政治的な力は、体制の変化を行なう点にあるのではなく、「ここと今」という、より良い生を賭けた日々の現実の戦いの中にある。そして、ハヴェルはその戦いを実現したのです。
政治は国会議事堂や政党の中にあるのではありません。いまだに「野党統一戦線」とか言っているようでは、何も変わりません。
立派なイデオロギーやビジョンよりも、いまここで直面している問題に誠実に直面して、自分で考え自分で納得した行動をとればいい。それこそが、「下からのイニシアティブ」が生まれてくる起点です。政治は「生活」から始まり、生活で終わるのです。
山本太郎さんは、そういう政治を目指しているように、私には思えます。
だから、日本の政治状況を変える唯一の希望に思えるのです。
私は「生活者」という言葉は、誰にでも通ずる言葉だと思って、説明も付けずに使っていましたが、複数の人たちから「生活者」ってなんだと質問されました。
どうも「生活者」という言葉は、まだなじみにくい言葉のようです。
消費者や労働者、生産者という言葉は、説明なしで通ずるのに不思議です。
それで8月1日に「生活の視点で政治や経済を考えるサロン」を開くことにしました。
私が考える生活者とは、自分の生活を大事に生きている人という程度のことなのですが、ハヴェルが言う、「真実の生」を求める「ディシデント」につながるところがあります。
もっとわかりやすく言うと、財務省の赤木さんの奥さんのような人です。
よかったらサロンにご参加ください。
■ALS患者の言葉に深く耳を傾けたい(2020年7月26日)
昨夜は4時に目が覚めてしまいました。
そして、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が薬物を投与されて殺害されたとされる事件のことが浮かんできて、もう眠られなくなってしまいました。
私には、実に簡単な事件のように思いますが(「殺人事件」です)、なぜかテレビの報道に接して以来、頭から離れません。
今朝、朝日新聞のトップにALS患者の増田さんのメールが紹介されていました。
何度も読み返しました。
そして、林優里さんのご冥福を祈りました。
増田さんのメッセージをぜひ皆さんにも読んでいただきたいです。
私が、一番共感したのは、次の文章です。
誤解して欲しくないのは、彼女の意思表明は、生きたいと思ったからこそのものであること、そして事実生きていたということです。
書きたいことは山のようにあります。
できれば湯島のサロンでも取り上げたいと思います。
でも今はまだその元気がでません。
ともかく、多くの人に増田さんのメールを読んでもらい、考えてもらいたいです。
退屈な「言葉」の問題にはしないでほしいですが。
■第1回益田サロン「病原体から考える生物と環境の関係」報告(2020年7月28日)
病原体やウイルスの話をベースにした細菌学者の益田昭吾さんの定期的なサロンが始まりました。
1回目は、「生物と環境」をテーマに、参加者の問いかけに応ずる形で、話し合いが行われました。
サロンは、どうして益田さんは細菌学を専攻したのかという、いかにも湯島サロン的な質問から始まりましたが、話が進むうちに、細菌、ウイルス、ファージ、宿主、抗体、免疫などという専門用語も増えてきて、ついていくのが大変でした。それでもどんな質問でも、繰り返しの質問でもいいという益田さんの誘いかけで、テーマの難しさとは裏腹に、とてもカジュアルなサロンになったような気がします。
テーマに関しては、あらゆる生物は、環境へのパラサイト(寄生体)であるという、まさに核心を突く話から始まりました。
問題は、生物と環境との関係性です。
そして、細菌やウイルスの「常在性」や「病原性」について、主にジフテリア菌を材料に詳しく解説してくれました。
もしかしたら、このことこそが、いま話題の新型コロナを考える時にもポイントのひとつかもしれません。
基本的な話につなげながら、最近の新型コロナウイルス感染症の話もでました。
ウイルスや免疫などに関する基礎的な知識があるかどうかで、コロナ騒ぎにもただ不安を感ずるだけではなく、対処法を考えるヒントが得られます。
いつも益田さんのサロンを聞いていて思うのは、そのことです。言葉や数や現象におびえるだけでは、自分で対策を考えることもできません。
最後に、参加者から、いまの新型コロナウイルスにどう付き合ったらいいかという質問がありました。
益田さんの回答は、万一感染しても症状を起こさないようにすることが大切だというものでした。そして、そのためには、自分と環境との流れに注意することだと言われました。自然の流れを阻害する「異物」があると症状が起こってしまう。ただし、その「異物」とは何かはいまはまだわからない。
それに加えて、益田さんは新型コロナウイルスが常在性の方向に向かっていく可能性にも言及しました。もしそうなれば、このウイルスとの付き合い方も変えていかねばいけません。
新しい知見が次々と出てきていますので、新型コロナウイルスへの付き合い方も変えていかなくてはいけません。そのためにも、感染者数の増減だけに振り回されずに、ウイルスのことをもっと理解しなければいけないといつもながらに思いました。
私は益田さんのサロンに毎回参加させてもらっているおかげで、新型コロナウイルスにはむしろ親近感を強めています。
ちなみに、サロンでは、いまの経済のおかしさや人間の欲望の話、生命体の持つバランス維持機能(ホメオスタシス)、さらには人類のミューテーション(変異)というような話もちょっぴり出ました。
サロンをやると、次々と新しいテーマが出てきます。
2回目の益田サロンは「母性と父性」はどうかという提案も益田さんからありましたが、いずれにしても基軸には細菌学や病原体をベースにしながら、同時に今問題になっている新型コロナとの付き合い方を考えるサロンとして、1か月おきくらいに開始していく予定です。こんな切り口での話を聞きたいという方がいたら、ご連絡ください。益田さんと相談させてもらうようにします。
■湯島サロン「21歳の私が今考えていること」のご案内(2020年7月29日)
コロナ騒ぎで延期になっていた大学生の安藤令奈さんのサロンを開催します。
「若者からのメッセージ」サロンです。
前回案内時には、教育の仕組みなどから「21歳の私が望む未来」を語ってもらう予定でしたが、延期していた半年の間に、安藤さんにもいろんなことがあって、タイトルは「共創の渦を興し、地域からよりよい社会へ
?コミュニティについて考える?」となりました。
コミュニティは、湯島のサロンの根底にあるテーマですが、若者視点からのコミュニティ論を話してもらい、議論できればと思っています。
安藤さんは、四国の西条市で育ち、いまは東京で暮らしている大学生です。
私から見れば、「今様」であって「今様」でない、新鮮な若者です。
そんな彼女に、自由に語ってもらい、その後、彼女の問いかけを中心に、自由に話し合いたいと思います。
サロンの前に、安藤さんからのメッセージを参加者にはデータでお届けする予定です。
したがって、参加される方はあらかじめお申し込みください。
コミュニティというテーマにこだわらず、今時の若者は何を考えているのかという野次馬的な参加も歓迎します。世代を超えた話し合いから、お互いにいろんな示唆が得られるのではないかと思っています。
お盆の真っ只中ですが、今年はコロナ騒ぎで帰郷もままならない人も多いと思いますので、もしお時間が許せば、ぜひご参加ください。
〇日時:2020年8月16日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「21歳の私が今考えていること」
〇話題提供者:安藤令奈さん(21歳の大学生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■湯島サロン「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」のご案内(2020年7月31日)
今回はちょっと専門的なタイトルのサロンのご案内ですが、サロン参加者のみなさんにはわかってもらえると思いますが、いつものようにカジュアルなサロンです。
国際労働機関(ILO)は、世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的に掲げて加盟国の労働問題を扱う国際機関として、1919年に創設されました。労働者および兵士による蜂起に起因するロシア革命が、ソヴィエト政権という新しい国家を生みだした2年後です(1922年に多民族国家からなるソ連邦が成立します)。ILOは、現存する最古の国際機関であり、かつ政府・労働者・使用者の三者の代表からなる唯一の国際機関です。
その後の世界の歴史において、今日にいたるまでILOは大きな役割を果たしてきていますが、私たちにはなかなか見えにくい組織です。しかし、労働時間短縮などを通して、私たちの生活に大きな影響を与えてきていることは事実です。
労働時間だけではありません。最近話題の「働き方改革」に関していえば、もっとまともな「働き方改革」をILOはすでに2009年に提唱しています。残念ながら日本では逆方向に進み、おかしな「働き方改革」になってしまっているのですが。また、近年のILOはハラスメント防止に向けた取り組みに力を入れていますが、その一方で日本の閣僚や与党政治家からは突拍子もない発言が相次いでいます。
グローバリゼーションが急速に広がり、移民問題が世界を揺さぶりだしているいま、改めてILOの役割は大きくなっているように思います。そう思っていた時に、サロンに参加してくださった小野坂さんが大学院でILOの歴史研究に取り組んでいることを知りました。
そこで小野坂さんに、「新型コロナウイルスの感染拡大をめぐる国際機関の役割」や「新型コロナ騒ぎが問題を可視化してくれた労働問題」といった、いま世界で起こっているホットな話題も含めて、ILOをテーマにした講座型サロンをお願いすることにしました。国際機関とは一体何なのかを考える切り口になればと考えています。
そのテーマを導くための歴史の説明はなじみのない話も多いですが、結局のところ、どういった切り口に到達したのか、という話には、現在の労働環境を考える大きな示唆が含まれています。その上で現在の問題について、いつものように自由に話し合いたいと思います。だれでも歓迎の、気楽なサロンですので気軽にご参加ください。
「働き方」「新型コロナ」「世界の動き」に関心のある方であれば、きっと面白かったと言ってもらえるサロンになると思います。
それに小野坂さん自身、ちょっと興味ある存在ですので。
〇日時:2020年8月23日(日曜日)午後3時〜5時
*開始時間がいつもと違うのでご注意ください。
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」
〇話題提供者:小野坂元さん(東京大学大学院学生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■地域通貨活動の映画づくりへの応援のお願い(2020年7月31日)
湯島のサロンでは、時々、地域通貨が話題になりますが、19年前から長野県上田市で地域通貨活動に取り組んでいる「蚕都(さんと)くらぶ・ま〜ゆ」というのがあります。
http://mayu.lolipop.jp/santo/
私は2005年に信濃大町で開催された地域通貨の集まりに参加した時に、そこで蚕都くらぶ・ま〜ゆの前田光俊さんにお会いしました。
とてもしっかりした活動をされていましたが、その後、私は妻の病気などあって、交流が途絶えていました。
その前田さんから、久しぶりにメールが来ました。
蚕都くらぶ・ま〜ゆでは、千葉大学大学院生と一緒に、これまでの活動を振り返りつつ未来を展望するドキュメンタリー映画の制作を始めたそうです。
タイトルは『もうひとつの明日へ』。
住民一人ひとりが持続可能な社会を創る主人公であることを発信していきたいと前田さんは考えています。
すでにホームページはできています。
https://mayudocumentary.wixsite.com/website
映画づくりのための資金はクラウドファンディングでいま集めているところだそうです。
https://motion-gallery.net/projects/ma-yu2020
ついては、ぜひ応援してほしいと言うのです。
私も以前、いくつかの地域通貨に関わりましたが、前田さんたちの「まーゆ」はとても地に足着いたいい活動でした。
ぜひ多くの人に応援していただきたくて、紹介させてもらいます。
よろしくお願いいたします。
湯島でもまた地域通貨のサロンも開催を企画しています。
■湯島サロン「生活の視点で政治や経済を考える」報告(2020年8月2日)
湯島のサロンは、できるだけ一人称自動詞で、しかも生活用語で話したいと思っていますが、それは結構難しく、とりわけ政治や経済の話になると専門用語で何となく語られてしまうことも少なくありません。
そこで今回は、改めて「生活」「生活者」をキーワードにしたサロンをやってみました。
しばらく私自身が問題提起するサロンをやっていなかったので、今回は私が話しながら問いかけるスタイルをとらせてもらいました。
最初にまず、「生活者」ってなんだろうか、という問いかけから始めました。
消費者、労働者、生産者、教育者、公務員、失業者などという言葉はよく使われますが、「生活者」という言葉はあまり使われないようです。
ちなみに、「年金生活者」という言葉はありますが、その言葉を使う人はむしろ「年金」に重点を置いていますので、まだ金銭にこだわっていて、私の考える「生活者」ではありません。
いずれにしろ、私たちは自分を「○○者」と呼ぶのは難しいほど、いろんな「自分」をもっていて、そのそれぞれの状況において、判断基準を変えています。
たとえば、森友問題で自殺を強いられた赤木俊夫さんの場合はどうだったでしょうか。
彼はなぜ自殺に追いやられたのか。
そんな話から始めさせてもらいました。
たしかに私たちにはたくさんの生活局面があり、それに応じてさまざまな判断基準を使い分けながら生きています。
しかし、よく考えてみると、すべての根底にはじぶんの「生活」があります。
状況に合わせすぎて、自分の「生活」や「考え」をおろそかにしていることはないのか、そして結局は、それが個人の生活を邪魔する社会につながっているのではないか。つまり、個人の生活と社会との関係が逆転しているのではないか。それが今回のサロンで私が一番問いたかったことです。
最近のマスク騒動で日本人は「同調圧力」に弱いと言う人が多いですが、同調圧力を育てているのは、誰でもない、自分なのではないか、というわけです。少なくとも私は同調圧力などという幻想のせいにしたくはありません。
自分の生活に行動の基準を置く人を、私は「生活者」と呼んでいます。
では「生活」とは何かということになりますが、他人(たとえば組織とか慣習)が作り出した考えではなく、自らが生み出した考えの中で生きることと捉えています。
そもそも、人々は、豊かな自然のなかで、しかし限られた資源を生かして、お互いに支え合いながら生活していました。生活の基盤は、コモンズ(自然と仲間)なのではないか、と私は考えています。この「仲間」には過去の人間や未来の人間はもちろんですが、人間以外の存在も入ります。
そうした中で、生きやすさを考えて、みんなで育ててきたのが「倫理」です。
そして、それに基づいて、政治や経済の仕組みが育てられ、みんなの「社会契約」で国家までつくられた。
経済とはもともと、経世済民、世を治め民をたすけるためのものであり、政治とは倫理を実現する仁政だったのではないか。
そうした状況の中では、「貧しさ」は決して惨めなものではなく、むしろ思いやりや支え合いを生みだしていました。映画「三丁目の夕日」の世界です。
生活にとって大切なことはなんですか、という問いかけもさせてもらいました。
意外だったのは「お金」と答えた人は一人もいませんでした。
いろいろとだされましたが、私は「安心して快適に暮らせること」と「人間として
成長していく喜び」だと思っています。
ですから、経済も政治も、その2つを目指すものであってほしいと思いますし、逆に言えば、その2つを目指さないものは、私にとっては、経済でも政治でもありません。
私が「経済成長」に全く関心がないのは、それが経済などとは無縁のものだと思っているからです。「政局騒ぎ」も私にとっては「政治」ではありません。
「生活を豊かにする経済」「生活を豊かにする政治」は、いまや「経済を豊かにする生活」「政治に従う(奉仕する)生活」に向かわせる装置になってしまいました。
制度や仕組み、組織やルールはすべて生活を快適にするためのものだったはずなのに、制度や仕組み、組織やルールが生活を律しだしているのではないか。
そして今や、私たちの「価値観」までも大きく変えだしています。
「働く」とは何か、「学ぶ」とは何か。
湯島のサロンは、「生産性」がない集まりとビジネスマンからはよく言われますが、そもそも「生産性」ってなんなのか。
3番目の問いかけは、「あなたにとって一番大事な財産は何ですか」でした。
すべての存在が金銭価値化されつつある今、私たちの生活を支えてくれていた自然や仲間(私はこれをコモンズと呼んでいます)との結びつきを失った人間は、金銭に依存せざるを得なくなっています。
そうしたなかでは、「頼り」になるのはお金だけかもしれません。
そして、最近は、お金がないことを「貧しい」というようになってしまった。
そうした「貧しさ」は、支え合いや思いやりを生みださずに、惨めさと不安につながっていきます。
とまあこういう話を、参加者と対話しながら進めた後で、最後の問いかけは、「さて、どう生きましょうか」ということでした。
私の目指す生き方は、少しだけ話させてもらったつもりです。
話は時々、横道にも入りましたが、こんな感じで、それぞれが自らの生活につながる形で、経済や政治を考えるきっかけになればと思ったのですが、どうだったでしょうか。
自分の「生活」を、いまよりもちょっとだけでも大事にしてくれる人が増えると、たぶん社会は良くなると思っています。
言うまでもありませんが、自分の生活を大事にするということは、他者の生活も大事にするということです。「自分のため」と「社会のため」とは利害相反するものではなく、宮澤賢治が言っていたように重なっていると生き方こそが、私の考える「生活」です。
決してわたし主義でも閉じたコミュニティ主義でもありません。念のため。
■久しぶりのオープンサロンを今度の土曜日に開催します(2020年8月3日)
突然のご案内ですが、土曜オープンサロンを久しぶりに開催します。
どなたでも大歓迎です。
話題も自由です。
よかったらご参加ください。
〇日時:2020年8月8日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:参加者の思うがままに
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■8月オープンサロンの報告(2020年8月9日)
昨日はオープンサロンでした。
急な酷暑のため、あんまり参加者はいないだろうと思っていたら、8人もの人が参加してくれました。しかも話がおおいに盛り上がってしまいました。
最近手術をした人が久しぶりに参加したので、最初はその人の手術とタバコの話から入りましたが、なぜかそこからコロナウイルスの話、さらには最近話題らしいイソジン効果の話になり、自治体リーダー論になりました。
最近私はコロナ報道をあまり見なくなっていますので(あまりに嘘が多いと思うからです)、なかなか話についていけませんでしたが、しかしみんないろんなことをよく知っています。
湯島に集まる人くらいの情報をみんなが持ち合わせたら、政治も社会も変わるだろうなといつも思います。
もっともその恩恵を一番多く受けているはずの私自身の生活を見ると、情報を得るだけでは十分とはいえなさそうですが。
終わりかけたとき、最近、私がメーリングリストで流した地域通貨の話になりました。
結構まじめな質問だったので躊躇しながらもまともに受けてしまいましたが、たぶん的外れの回答をしてしまっていたでしょう。
しかし、一度、地域通貨サロンをやろうと思いなおしました。
ゲゼル経済学の話もとても示唆に富んでいますし。
寝不足と過剰な心配事と暑さで、私はいつも以上にボーっとしていて、トンチンカンな質問をしていたような気がしますが、みんな聞き流してくれました。
いや私がボーっとしているほうが、どうもサロンは盛り上がるようです。
テーマも決めない方がやはりいいのかもしれません。
土曜オープンサロンをまた復活しようと思います。
■第9回万葉集サロン「歌から会話へ 東歌を中心にその2」報告(2020年8月18日)
「歌から会話へ」という大きな変化を、万葉集の東歌を中心に読み解いていく万葉集サロンの2回目は、前回の復習から入りました。
取り上げられたのは、東歌の次の歌です。
多摩川に 晒す手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき
前半3句で序詞(じょことば)として「た」の世界を歌い、後半2句で「わ」の思いを直截に言葉にする。
つまり前半の「歌」で、共同幻想的な世界を生み出し、それを背景にして、タブーとされていた「事挙げ」を回避しながら自らの思い(「わ」)を一気に発してしまう。
枕詞や掛詞にも言及しながら、神との会話から人同士の会話(コミュニケーション)が生まれ、さらにはそこから「自己意識」も芽生えてくることをこの歌で学び、そこからいくつかの東歌などを読みながら、言霊に支配されていた言葉を人が自分のものとしていくドラマを垣間見るような壮大な話をしてくれました。
しかも、「歌」から「会話」が生まれただけではなく、歌もまた新しい世界をつくりだしていく。「た」の世界と「わ」の世界がそれぞれに分離し、叙景歌、抒情歌として発展していくという、歌の展開に関しても、いくつかの歌を使って紹介してくれました。
案内文で、升田さんは「人間と対峙する言葉が「生き物」のように柔軟に変容するところに、社会や文化の進展があるのかも知れない。そのありようが見られるのも万葉集の面白さの一つであろう」と書いていましたが、まさにその面白さを少し体感させてもらった気がします。
しかし話が壮大すぎて、なかなか消化するのは難しかった気もします。
わくわくする気分は味わったのですが、十分の消化できずに、升田さんのお話を簡潔に紹介できないのが残念です。
できれば次回もこの話を繰り返していければと思っていますので、関心を持たれた人はぜひ次回参加してください。
升田さんの万葉集サロンは、単に歌を読んでいくだけではなく、歌から当時の社会や文化を考えていくものですから、一味違った万葉集サロンになっています。
いずれにしろとても示唆に富むサロンでした。
報告はここまで。
以下はサロンとは直接つながりませんが、今回のサロンを聞きながら考えていたことを2つだけ紹介させてもらいます。
サロンでは直接の話題になりませんでしたが、「音楽」と「言語」の起源は深くつながっています。音楽は歌につながりますが、ネアンデルタール人は歌でのコミュニケーションはしていたが、言語でのコミュニケーションはしていなかったともいわれます。
音楽と言語を生み出した原型言語として「ミュージランゲージ」という概念を持ち出す人もいますが、「歌」と「言」の関係を万葉集の歌から読み解いていくことは、とてもワクワクします。日本語というちょっと個性的な言語がなぜ生まれたのか、ということを考えるヒントもあるように思います。
また言霊や言挙げに関連して、升田さんは「神の言葉を直接伝えることはできないので、言葉を運ぶ存在を置く」という話もされましたが、これは右脳は神の言葉を伝え、左脳は人の言葉を生み出すというジュリアン・ジェインズの「二分心」仮設で語られている「意識と言語」のテーマにつながっていきます。
升田さんのサロンでも、「わ」「な」「た」の構図の中で、自己意識がどう生まれてくるかがまだ形を表してきていませんが、大きなテーマです。
その意味で、万葉集を通して、「二分心」仮設を吟味するのは興味があります。
ちなみに、ジュリアン・ジェインズの「二分心」仮設は、『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』に詳しいですが、これと絡めて万葉仮名と漢字の関係を読み解くのも面白いと思います。
升田万葉集サロンは、こういう形でテーマがどんどん広がっていく。
これからどういう風に広がっていくのか楽しみです。
■湯島サロン「21歳の私が今考えていること」報告(2020年8月19日)
「若者からのメッセージ」サロンの2回目は21歳の安藤令奈さんにお願いしました。
彼女からのメッセージタイトルは、「共創の渦を興し、地域からよりよい社会へ ?コミュニティについて考える?」。
そのためにまず彼女が仲間と取り組んでいるのが、人々が「人間らしく」生きる「間」(メディア)の創出です。
参加者には事前に安藤さんからのメッセージを読んでもらっていましたが、最初に安藤さんから改めてそのエッセンスを話してもらいました。
愛媛で育った安藤さんは、東京に憧れて、東京の大学に入学。しかし、人や情報、ものが溢れている東京での大学生活に疲労や挫折を感じて、米国に留学。そこで、改めて自らを取り戻すとともに、故郷の良さに改めて気がついたといいます。
そして、改めて「人間らしさ」とは何か、人が生きるコミュニティとは何か、に関心が向かい、自分のミッションを考えながら実践に取り組みだしています。
そして、いま取り組んでいることを具体的に紹介しながら、安藤さんがいま大事にしていることや考えを参加者と対話しながら話してくれました。
たとえば、地方と学生をクリエイティブに活かす「間」(メディア)の創出が、安藤さんがいま取り組んでいる活動のひとつですが、これまでのような同質の世界でのバラバラの活動ではなく、異質な世界をつないでいく「間」に安藤さんは注目しています。
「間」は、人と人、人と自然、あるいは過去と未来を関係づけながら、豊かな価値を創発させていくものであり、単なる「つながり」とは違ってもっとダイナミズムを持ったものをイメージしているようです。
参加していた同世代の若者が、「間」という概念には、「つながり」とは違うものを感ずると話してくれましたが、たしかに「つながり」には「絆」ほどではないですが、拘束性や保守性が感じられます。
一時期話題になった複雑性の科学では、関係が生みだすダイナミズムが新しい世界観を生みだしましたが、「間」にはそういう創造性や発展性が込められています。
また、安藤さんは、「間」を「メディア」とも言い換えていますが、安藤さんが目指すメディアは、情報の伝達ではなく、情報の創発に意味を与えているようにも感じました。一時期流行したマクルーハンの「メディアはメッセージ」よりも「メディアはマッサージ」に力点が置かれているようにも感じました。
コミュニティやメディアに関する発言を聞いていて、世代によって捉え方が違うことも感じましたが、同時に若い世代はどうしても既存の言葉(概念)を使うので、言葉に毒されてしまう危険性も感じました。
安藤さんのメッセージは多くの参加者には好意的に受け取られたようです。
若い世代が話すサロンへの参加者がいつも多いのも興味のある事実ですが、世代を超えて「生き方」を話し合う「場」がもっと増えていくといいなと今回も思いました。
しかし、前回もそうでしたが、世代を超えた話し合いはそう簡単ではないこともまた、実感しました。
3回目の話し手を引き受けてくれる人はいないでしょうか。
■家の前にトイレットペーパーがワンパック置かれていました(2020年8月24日)
私の住んでいる地域では月に1回、新聞紙を回収してくれる業者がいます。
新聞紙一袋に対してトイレットペーパー2つを置いていってくれます。
雑誌や書籍も置いておけば回収してくれます。
行政のごみの回収でも持っていってくれるのですが、わが家の場合、ごみを出す場所がちょっと離れているので、重い書籍や雑誌はそこまで持っていくのが大変なので、ついついその業者の方にお願いしてしまいます。
ただわが家は道の突き当りに位置していて、業者の方が回ってくるのがいつも最後のようで、用意してきたトイレットペーパーがなくなってしまい置かれていないことが時々あります。
昨日はその回収日でした。
昨日、駅まで迎えに来てくれた娘が自動車の中で、家のドアを開けると驚くものがあるよ、というのでなんだろうと思ったら、トイレットペーパーの大きなパックでした。
回収後、家の前に置いてあったそうです。
昨日出しておいた新聞紙は一袋、それに雑誌類と書籍がありましたが、本来であればトイレットペーパーは2つでいいのです。
それがなんと18個も入っています。
以前、回収時に孫がちょうど来ていて、その方にお礼を言ったら、1つおまけにトイレットペーパーをくれたという話は聞いていましたが、私は一度しかお会いしていません。
しかしなぜかとてもうれしい気分になりました。
こうしたちょっとしたことで人は幸せになるのです。
さてどうしたら回収する方に謝意を伝えたらいいでしょうか。
そんなことを考えるのもまた楽しみです。
ビジネスは金銭の交換ではありません。
金銭の交換はほんの一部でしかありません。
そのことが忘れられているのがとても残念です。
昨日のサロンでも、ちょっとそうした話にも触れさせてもらいましたが、あまりにも金銭中心での生活になじみ過ぎてしまっているためか、誰もそこから抜け出せないでいるのが残念です。
■湯島サロン「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」報告(2020年8月27日)
小野坂さんの「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」は、さまざまな問題提起が示唆される刺激的なサロンになりました。
小野坂さんのお話の概要は、当日配布された資料にていねいに書かれていますので、関心のある方はご連絡いただければお届けします。ぜひお読みいただければうれしいです。
ここでは、私の関心に沿ったきわめて断片的・主観的な報告にさせてもらいます。
小野坂さんはまず歴史編として、ILOの成り立ちや変遷に関して、簡潔にわかりやすく、しかし具体的な事例も含めながら紹介してくれました。つづいて、現代編に移り、新型コロナウイルスの話題を切り口に国際機関としてのILOの役割や課題を話してくれました。
ILO創設の契機になったのは、はじめての「総力戦」として、「労働者」を動員することになった第一次世界大戦です。その背景にあるのは「労資」の対立と「国民国家システム」の存立の危機です。平和を目指して世界の労働者の労働条件と生活水準の改善こそが世界の永続につながるという理念でつくられたのがILOでした。小野坂さんの話もそこから始まりました。
産業革命によって、「労働」の様相は一変しました。そして児童や女性も、工業的な生産現場に労働力として取り込まれることになりますが、そこからさまざまな問題が発生します。
ILOが最初に取り組んだのは労働条件、とりわけ労働時間の規制です。そして第二次世界大戦後は労働よりも労働者(人権)という視点が強まっていき、さらに21世紀に入り「人間らしい生活」への関心が高まってきます。そうした流れの中で、生活保障や公衆衛生の問題も視野に入ってくるわけです。
しかし改めてILOの通史の話を聞いていると、そこに流れる大きな方向を感じます。
私にはそれが、人々をどんどんと賃金労働者に変えていく流れのように感じました。言い換えれば、金銭資本主義を支えるという役割です。
最後のほうで、小野坂さんは移民や「家事労働者」の話をしてくれましたが、ILOの歴史を見ると対象にする労働者の範囲がどんどんと広がってきている先に、家事労働者があるようにも感じます。
そしてそこにこそ、ILOの限界があるのかもしれません。
小野坂さんは、ILOの役割として「国民国家システムの延命」という話もされました。そもそもILOは労働者代表、使用者(資本家)代表、政府代表という三者構成でガバナンスしていますが、実際には労資(労使)という民間と政府という国家の対立構造が創立当初から埋め込まれていますので、基本にあるのは国家システム基準です。
これに関して、インターナショナルかグローバルかという議論も少しありました。「世界連邦構想」と「国民国家を基本とした国際世界構想」との対比がそこから出てきますが、現在のところ、国家を超えた世界構想は現実味がなくなってきています。国際機関は、国家が使い込むサブシステムになってきていると言ってもいいでしょう。
しかし、小野坂さんは、ILOとNGOの連携や他の国際機関との協働などを引き合いに出しながら、新しい可能性を示唆してくれました。特に私が興味を感じたのは、宗教(サロンでは上海YWCAの活動が紹介されました)の役割が示唆されたことです。
問題は、国際機関をだれがガバナンスするかだと思いますが、小野坂さんは国際機関やNGOが、さまざまな状況変化に合わせて自己変革していく先に、新しい構造を見ているのかもしれません。
いずれにしろ、国際機関とは何なのかという本質的な問いかけを私は感じました。
ILOは、International Labor Organizationの略ですが、レーバー(労働)という表現がどうもなじめないという指摘が参加者からありました。創設当時の世界情勢の中で選ばれた言葉でしょうが、100年を経た今となっては、たしかに活動のシンボルワードとしては問題があるかもしれません。
それに関連して、参加者から「労働(仕事)と生活(くらし)を切り離さないでとらえることが大切」だという指摘がありました。ILOは労働基準と生活基準のいずれをも課題にしていますが、それらをもっと統合的にとらえる必要があるという指摘です。
たしかにそう思いますが、私はそもそも生活(くらし)とは仕事をすることだと考えていますので、「労働(仕事)」と「生活(くらし)」を二元的の捉えること自体に問題の本質があると考えています。二元的に捉えると、たとえば「ワークライフバランス」を考えればわかりますが、両者に目的−手段関係が発生します。ワークとライフを対置するところからは流れを反転させることは難しいでしょう。
国民国家システムを延命するために国際機関を育てていく方向はシステム(制度)を基軸にした発想ですが、その枠を超えて、システムと人間の対立構図で考えると違ったビジョンが見えてきます。労働運動の捉え方も変わってくるでしょう。
小野坂さんの話にも出てきましたが、ILOは労働者とは直接につながるルートもあります。日本でも労組がILOに相談して、国家の労働法を変えていった事例もあります。日本の労働実態に対するILO勧告の報道を記憶している人もあるでしょう。
私自身はそこに新しい世界を垣間見ますが、だからこそILOのガバナンスが気になります。「個人の生活」に起点を置いて考えると新しい風景が見えてくるように思います。
小野坂さんは、現代編として新型コロナウイルス感染症も話題にしてくれましたが、そこで「ソーシャルディスタンス」という言葉に疑問を呈したのが印象的でした。
ILOが現在重視しているテーマに「ディーセントワーク」(人間らしく働く仕事)というテーマがありますが、そこで重視されているのがソーシャルダイアローグ(社会対話)です。
ディスタンスとダイアローグは次元の違う話ですが、私にはとても象徴的なビジョンの違いに思えてなりません。
勝手な報告になってしまい、小野坂さんの主旨からずれてしまったかもしれません。
小野坂さんの話をきちんと読まれたい方は、私宛(qzy00757@nifty.com)に連絡いただければ、小野坂さんのペーパーをお届けします。
最後に私の好きな言葉を紹介させてもらいます。
21世紀初頭にILOの事務局長を務めたファン・ソマビアの言葉です。
個人が尊厳を、
家族が安定を、
社会が平和を求める心の中心にあるのは、
ディーセントワークである。
■安倍さんには自認してほしくはありませんでした(2020年8月30日)
安倍首相が辞意を固めました。
安倍首相の退陣を求めていた人の反応があまり聞こえてこないのが不思議です。
どこかで祝杯をあげているのかもしれませんが、安倍首相が辞めたところで、私にとってはたぶん状況は変わらないでしょう。
そのことは、数年前の民主党政権が成立した時に学びました。
湯島のサロンでも時々話題になっていましたが、問題は安倍首相にあるのではなく、安倍首相のような人が長く首長の座を占め続けられる政治体制(システム)なのだろうと思います。
もちろん、その「システム」を構成している重要な要素のひとつは私たち国民です。
そして政治の構造原理は、システム対個人へとパラダイムシフトしています。
たぶん首相が安倍さんから石破さんに変わっても、さらには枝野さんや志位さんに変わっても、いまのシステムからは抜け出せないでしょう。そこに「個人」起点の発想がないからです。
ますますシステム自体が主役になっていく不安を感じます。
安倍さんには辞任してほしくはありませんでした。
これですべてが免責されるような気配もあります。
政党政治はもう終わりにしてほしいです。
■「なぜ安倍に辞めてもらいたくなかったのか」(2020年8月31日)
安倍首相辞任報道に対して、「安倍さんには辞めてほしくなかった」と書いたら、「なぜ安倍に辞めてもらいたくなかったのか、よくわかりません」というコメントをもらいました。たぶんほかにも同じような疑問を持った人もいると思うので、少しだけ説明することにしました。
一言で言えば、安倍さんが病気を理由に勝手に辞めてしまえば、安倍政権は傷つかずに持続できるからです。事実、菅さんや岸田さんが政権を継承する可能性が強まってきています。それに安倍首相は、その後のテレビ報道ですでにみられるように「美化」されていく可能性もあります。
問題は「安倍さん」にあったのではなく、「安倍政権」や「政権のあり方」にあると考える私にとっては、ある意味でのトカゲのしっぽ切りのようにも感じますし、見事にしてやられたという(システムの)狡猾さも感じます。
政治のあり方を問うのではなく、権力を持った目立つ個人を標的にし、そこに怒りや批判の目が向けられ、個人攻撃に行ってしまうと問題が違ってきてしまいます。鳩山さんがツイートしたように、それでは標的を利してしまいかねません。
私自身は日本の政治がおかしくなったのは、森首相を自民党の数名の幹部の密室会議で成立させた時で、あの頃から首相の座が私物化されてしまったように思います。
首相の私物化というよりも、制度としての首相の私物化で、その「私」とは一人ではありません。首相はその象徴でしかありません。
安倍さんは、第一次政権時の教育法をこわして以来、私は顔を見ただけで気分が悪くなるほどですが、だからと言って、安倍さん個人を怒りの対象にはしていません。第一、私にとっては、安倍さんはそんな価値さえない。価値のないものは非難する気にもなれないからです。彼の政策はもちろん非難もしてきましたが、個人を非難するつもりもない、価値のない存在が辞めたところで実態は何も変わらないと思っています。責任を取らずに、最後まで何もせずに(赤木さんの奥さんが言うようにせめて事実究明をする約束くらいはしてほしいですが、それさえしないで、病気を理由に首相の座を投げ出すのはあまりにも身勝手です。そんなことで、公務にある人が責任を投げ出すことが許されていいのか。しかも「同上」を得る形で。
だから「辞めてほしくなかった」。せめて「辞めさせたかった」。でもその相手はもういません。安倍辞めろ!と言っていた人たちは、どうするのか。問題の立て方がとても大切なのです。
以上でもなかなか納得してもらえないかもしれませんね。
そう言えば、私が山本太郎さんを支持したことに関しても、いまもまだ異論が寄せられています。それも舌足らずのコメントは、FBでもしていますが、なかなか伝わりません。
それもあるので、そんなことを話し合うサロンをやろうと思います。
やはり直接話しあう場でないとなかなか異論はぶつけ合えないような気がします。
最近の新型コロナを口実にした集会回避現象は、まさに政治システムにつながっているような気がします。
■第2回益田サロン「モノづくりと臨場の知」報告(2020年9月2日)
細菌学者の益田昭吾さんによるサロンの2回目のテーマは「モノづくりと臨場の知」。
細菌学や感染症とどうつながるのか、と思った人も多かったと思います。
しかし、病原菌史観?を持つ益田さんにとっては、何の違和感もないのです。
益田さんは、新聞の折り込みチラシや牛乳パックなど、廃棄される紙を材料にして、さまざまな手作り作品を創っています。
今回は、その作品をたくさん持ってきてくれ、まずは参加者で遊んでもらったり、その構造を知ってもらうために壊してもらったりしながら、その過程で気づかされる知を踏まえて、自らが得た「臨場の知」の話をしてくれました。
最初に取り組まされたのは「メビウスの輪」をつかっての簡単な課題でしたが、それが簡単のようでなかなか難しい。
ともかくやってみることで、解決策を言葉で説明することのむずかしさを思い知らせてくれました。逆に言えば、言葉でいくらていねいに説明されても、なかなか正解にはたどり着けない。それを身をもって体験させてくれたわけです。
体験するには、興味をもたなければいけません。紙で作ったコマを見て、それを自分で作りたいと思うかと問われたので、私は作りたくないと正直に答えたら、もうその時点で臨場の知への道が閉ざされると叱られました。
そして作る気がないのなら、コマを壊してみたらと勧められました。幸いに私は壊すことは大好きなので、壊しましたが、そのおかげでコマの構造やなぜうまく回るのかを考えるヒントが得られました。
次に手づくりぶんぶんゴマです。うまく回らない人が多かったのですが、どうしたら回るようになるかを、体験させてくれました。益田さんが持参したぶんぶんゴマは一見完成されたようでしたが、実は未完成のものでした。益田さん自身がいろいろと試してみて、行き着いた過程をミニ体験させてくれました。
まあそんな風にして、いろんな話をしてくれました。紙とんぼも面白かったです。
それに合わせて、母性と父性、常在性と病原性、保守と革新などの話が出てきて、病原体や感染症にもつながっていきました。
お金や生産性の話も出てきましたが、臨場の知と言語の知とがなかなかつながらず、ちょっと私には消化不良でしたが、逆に言えば、臨場の知と言語の知の対話のむずかしさを教えられた気がします。
最近の子どもたちの遊びの話も出ましたが、電子ゲームなどの広がりで、手づくりおもちゃで遊ぶという臨場の知を育てる場がなくなってきたなかで、益田さんの手づくりおもちゃの効用は大きいと思いました。
益田さんは、昨年までは手づくりおもちゃのワークショップもしていたそうですが、コロナ騒ぎでやめになっているそうです。
もしどなたか子どもたちを対象にしたそうしたワークショップをやりたい方がいたら、ぜひ益田さんに声をかけてください。大人でももちろんいいですが。
最後に最近のコロナ感染症に関する話もちょっと出ました。新型コロナも、生き残るためには常在菌化するだろうという話が私にはとても印象的でした。彼らも一生懸命に生きようとしていることをもっと理解したいと改めて思いました。
なお湯島には益田さんのつくった手づくりおもちゃがありますので、関心のある人は湯島に来た時に言ってくだされば、差し上げます。おもちゃ作りワークショップをご希望の方はいつでも益田さんをご紹介します。まあ受けてくれるかどうかは、保証できませんが。
■コロナウイルスに行動の判断基準の座を与えたくない(2020年9月2日)
友人がFBにこんな投稿をしていました。
コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。
よくわかります。
「今ではすっかり慣れてしまいました」というところに恐ろしさを感じます。
慣れてしまった、という意識さえも消えてしまいそうなのが心配です。
言うまでもありませんが、この投稿者は決して慣れてなどはいませんが。
私も、週2回は湯島や地元などでの集まりを続けていますが、以前に比べれば、人に会う機会は激減しました。特に夜の集まりはほとんどなくなりました。
私自身はコロナウイルスは風邪と同じだと思っているのですが、他者にうつしてはいけないという思いはあって、ついついこちらからの誘いは自重してしまいます。
同級生が病気で入院しました。すぐに見舞いに行きましたが、コロナの関係で面会はできないと言われました。
しかし、これには納得できずに、医師に頼んで面会させてもらいました。たまたま彼は個室だったのと命の危険があったので許可がもらえましたが、その時につくづく思いました。
何が大切かは、やはり自分で決めなければいけないと。
同級生にも声をかけて、その後何回か病院で、退院後は彼の自宅で、数名で集まりました。
彼は1か月ほど前に亡くなりましたが、悔いのない見送りができました。
コロナのために死に水もとれないというのは、どう考えても、おかしいです。
そういうことの積み重ねが、人間をおかしくしていく。
人生にはリスクはつきものです。
しかし行動の優先順序を決めるのは、自分です。誰かが決めたルールや世間の空気であってはなりません。もちろん自分勝手ではなく、他者のことも考えた上での話ですが。
コロナウイルスに、そうした行動の判断基準の座を与えてしまうことは私にはできません。それでは、いつも誰かのせいにして責任逃れしてきた安倍首相と同じになってしまう。
最近の国民の多くは、みんな安倍さんのようになってきてしまったと思えてなりません。
そろそろコロナウイルスのせいにする生き方から抜け出てほしいと思います。
また病気のせいにして責任放棄した安倍さんの生き方を見て、絶対にそうならないようにしようと思っています。
■コロナ管理社会の先にある世界(2020年9月2日)
最近文庫本になって出版された半藤一利さんの「世界史のなかの昭和史」を読みました。
2か所、とても印象的だったところがあります。
一か所は「愛国心」についてですが、それにつながるような話として、半藤さんはナチス・ドイツと同じような道を日本人は歩んでいるのではないかという懸念を話しています。
こんな風にです。
“自主的な通報、密告のネットワーク”の脅威。戦争というものはそういう国民の協力があって推進されるものです。それがいいことだと、思考を停止し、信じこむ。集団化された人びとは熱にうかされやすい。画一的で、異質を排除する不寛容の傾向をもち、ときには暴力性をはらむ。共謀罪という法律が、「核兵器もアベノミクスも」と主張する人びとに想像以上に妙な力を与え、危機克服のためにナチス・ドイツと同じような道を日本人に選ばせるようなことが…いやいや、まさかとは思うのですが。
安倍政権への支持率が急上昇し、ナチス路線をとるグループによって、安倍政権の継続がほぼ決められました。「まさか」と思いたいですが、かなり現実感があります。現政権によるナチスの研究はかなり進んでいるようですし。
半藤さんの友人のドイツ国防軍研究の第一人者の大木毅さんは、その著書で、こう書いているとの紹介もありました。
国民の多くの『自主的』な通報、密告のネットワークが、ゲシュタポ(国家警察)の捜査活動を支えたのであった。この例が端的に示すように、ヒトラーは彼の戦争を遂行するにあたり、さまざまな問題をはらみながらも国民の支持を獲得しうる国内体制を固めていたといえる。だとするならば、『ヒトラーの戦争』は、ドイツ人の戦争としても読み解かねばならないだろう。(『灰緑色の戦史』)。
ますます自分の生き方をしっかりと考えなければいけなくなりました。
半藤さんの「世界史のなかの昭和史」は面白いです。
安倍首相にだけ目を奪われていると、世界が見えなくなります。
■「知者ほど無知」(2020年9月5日)
今朝のブログにも少し書いたことですが、血液サラサラ薬騒動でいろんなことに気づかせてもらいました。
その一つが「知者ほど無知」というソクラテスのメッセージです。
ソクラテスがそんなことを言ったのかどうかは確かではありませんが、私が勝手にソクラテスから受け止めているメッセージです。
生命現象は実に不思議です。
いまだなお人智の及ぶところではないことが多いでしょう。
近代の科学技術は生命現象の一部を可視化してくれましたが、逆に生命現象を可視化された世界に限定しがちです。つまり「知者ほど無知」というジレンマがそこにある。医師と話していて、それを強く感じます。
何かを知ることは何かを見えなくすることでもある。
湯島のサロンでみんなの話を聞いていて、いつも痛感することです。
もちろん私にも当てはまります。
私自身は以前からずっと「知識」から自由に思考するというように心がけてきていますが、時に知識をひけらかしてしまい、後で自己嫌悪に陥ることは多いです。
サロンを終わって、自らの無知の世界が広がった時にはとても充実感が生まれます。
「知る」ということは何か「知識」を得ることではなく、「知らない世界の存在」に気づくことかもしれません。知らないことに気づかせてくれるのが知識かもしれません。ソクラテスの「無知の知」を知るということです。
そう考えると、知者とは「知識」を持つ人ではなく「無知の世界」の広い人かもしれません。いささかややこしいですが、知らないことを知ることこそが知ることの醍醐味なのです。知れば知るほど、知らない世界が広がっていく。
他者とのコミュニケーションにとって「知識」は両刃の剣です。知識がないとコミュニケーションできないこともあれば、知識がコミュニケーションを邪魔することもある。
このことに気づいたのは大学生の時ですが、それから半世紀以上生きてきたのに、そのジレンマを克服する術が見つけられずにいます。
ちなみに不思議なのは生命現象だけではありません。
社会現象もまた不思議です。
いや、社会現象もまた生命現象と捉えることもできるでしょう。
いずれにしろ世界は不思議で満ち溢れています。
科学技術は、それを退屈な機械的世界へと単純化してしまった。
それでは世界は見えなくなる。
歳をとる効用のひとつは、知らないことの世界を楽しめることかもしれません。
人が知りうることが、いかに狭い世界にとどまっているかの体験を繰り返していると、知らないことを軸に生きることが自然と身についてくるような気がします。
毎日、知らないことを楽しむ生き方だけはかなり身についています。
なにしろ世界は私にとっては、無知の大陸です。
暑さで心身ともに萎えていました。
そろそろそこから抜け出そうと思います。
■知者の喜び(2020年9月6日)
昨日は「知者の無知」について書きましたが、無知であることは「無上の喜び」につながるばかりか、生の平安にもつながります。
1週間前にEテレの「こころの時代」で上藤恵子さんがレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を紹介していましたが、その最後のナレーションに、同書の最後に紹介されているスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンの言葉が流れていました。
私はすっかり忘れていたのですが、私の思いと同じなので今回はしっかりと記憶に残りました。
念のために、「センス・オブ・ワンダー」も確認しましたが、たしかに紹介されています。
ペテルソンが残した言葉は、死を意識した時に息子に語った言葉です。
「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」。
私が死に対してそれを感じないのは、ペテルソンと同じ好奇心です。
私の友人には、死ですべては無になるという人が少なくないですが、そういう人にとっては死は喜びにはつながらないでしょう。
死によってすべては終わるという「近代科学的知識」に呪縛されて、それ以外のことが見えていないのです。
死後の世界のことに関して私は全く知りません。
しかし、何も感じていないわけではなく、
知ることよりも大切なのは感ずること、というのも、たしかカーソンの考えでした。
死後の先に何があるかわからないのであれば、知りたくなる。
それが無知に価値を置く知者の生き方でしょう。
知らないことは知る喜びを与えてくれる。
死の先に大きな期待があれば、死を恐れる必要はありません。
知者でありたいと、私が思う所以です。
決して知識人にはなりたくありません。
■緊急サロン「安倍首相辞任表明に感じたこと」報告(2020年9月7日)
「安倍首相辞任表明に感じたこと」をテーマに自由に話し合うサロンには12人の参加がありました。女性の参加がなかったのがとても残念でした。
安倍首相が辞任した理由に関しては、病気が理由ではないと思っている人が多かったようです。病気は便利な口実だったというわけです。
突然の辞任のようになっていますが、かなり仕組まれた辞任だったのではないかという意見もありました。
新しい首相に関しても多くの人はもう決まっていると思っているようです。つまり何も変わらないだろうということです。
にもかかわらず、安倍さんが辞めてよかったという人もいました。その人にとっては、安倍首相は悪夢でしかないのでしょう。しかし、日本の国民の多くは、安倍首相に辞めてほしくなかったのでしょう。安倍辞任表明で、安倍政権への評価が一気に高まったのはその証左です。これは安倍首相の後継者には、大きな意味を持っています。
それにしてもこういう世論はどうして生まれたのか。
その関係で、報道関係の話もかなり出ました。そこには世に言うコメンテーターの役割の話もありました。
さらには学校教育の話もだいぶ出ました。経済や金融の話も出ました。
しかし、基本的には多くの人が、安倍政権政治のおこぼれにあずかっているということだろうと私は思います。
話し合いはいろいろと広がりましたし、いろんな発言もありましたが、にもかかわらず、私には何となく「盛り上がり」にかけていたような気がしました。
日本の国民の多くが、安倍政権政治、つまり隠蔽と改竄と世論無視の政治の維持を望んでいることが示され、実際にもその政治が継続される、場合によっては強化されることがほぼ確実になってしまった状況が大きく影響しているのではないかと私かは勝手に思いながら、私自身も元気の出ない話し合いになっているのに気づきました。
本筋とは少し外れるのですが、「家族への愛着」という話が出ました。
最初の発言者は、家族への愛着に否定的でした。では何に「愛着」を持つのか、あるいはもはや「愛着を持つ」ことそのものが失われ出しているのか。
今回は、そこでその話し合いは終わったのですが、いま考えると、ここにこそ大きなヒントがあるのかもしれないと思います。
政治の出発点は「愛着」なのではないか。
「政治と愛着」。
今度、このテーマでサロンをやりたいと思います。
それにしても安倍首相は辞任しても、安倍政権はほとんど総括されることなく、この政治状況を国民の多くは嬉々として受け入れつづける。
参加者の一人が、地震と同じく、どこかで抑えられたエネルギーが大きく反発して、社会は変わるという話をしていましたが、抑えられているのではなく、みんな従順に隷従しているように思えて、私にはあまり期待が持てません。
終わった後、大きな空しさが残ったサロンでした。
■湯島サロン「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」のご案内(2020年9月8日)
今春開催した中嶋一統さんの「陰謀論」を切り口にした現代を読み解くサロンに参加した方から、「その後の情勢」を話してほしいという要請がありましたので、中嶋さんにお願いしてまたサロンを開催します。
この半年で、世界の状況は大きく変わってきていますし、さらにまたこの先、大きく変わりそうです。そこで今回は、「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」と題して、主にアメリカ大統領選を切り口に中嶋さんに話をしてもらうことにしました。
中嶋さんのサロンでは前から話題になっていたDS(ディープステート)も最近では公開の場で議論されるようになってきました。与えられた情報だけで世界を見ているとおかしなことが起こることは、最近の日本の安倍首相辞任騒ぎで思い知らされた人も多いでしょう。表層的な情報で世界を見ていては、見せられるものしか見えてきません。
今回もまた、頭を柔軟にして、世界を見ていく示唆を得るサロンにしたいと思います。
湯島で「陰謀論」を取り上げることに違和感をお持ちの方もいるようですが、中嶋さんもサロンで繰り返し話しているように、「陰謀論」という言葉を荒唐無稽なものと片づける風潮こそが、「陰謀の罠」とも言えるでしょう。
陰謀という表現には何らかの価値判断("悪い"とか“偽計”)が含まれていますが、そもそも「戦略」もまた明言されていない場合は「陰謀」と言えます。それに、どんな事件にも必ず「陰謀」、つまり隠された「意図」はあります。
ある事件や事象に隠されていることを読み解かない限り、与えられた事実をそのまま受け止め、意図されたように動かされる羽目にもなりかねません。
断片的な事実の奥にある物語を考えることは世界の理解を深めます。
というわけで、「陰謀」という言葉に惑わされずに、世界を見る目を養うという思いで参加していただければと思います。
〇日時:2020年9月27日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」
〇話題提供者:中嶋一統さん(「陰謀論」研究家/話し方教室主宰/ヒット商品企画)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■みんな広い世界を忘れてしまったのでしょうか(2020年9月9日)
最近のテレビや新聞を見るにつけ、安倍政権がこんなにも国民の多くに支援されているとは思ってもいませんでした。安倍首相が辞任し、政治の流れが変わると思っていましたが、変わるどころか路線強化されそうです。
さらに嘘がはびこり、事実は改ざんされ、隠蔽が正当化され、格差は広がり、経済は悪化することはたぶん間違いないでしょう。生活実態とは無縁の経済成長率や株価といった人為的な指標は改善されるでしょうが、それらは多くの人の実際の生活とは無縁の話です。
にもかかわらず多くの人は安倍政権路線の継続を希望しています。
おそらくみんな他の世界を忘れているのでしょう。
たとえば消費税。消費税を廃止したら社会保障などの財源はどうするのかという人がいます。そういう人は消費税ありきで考えています。しかし、税は消費税だけではなく、財源を考えるのであれば、税体系全体を考えなければいけません。
消費税は再配分機能が全くありませんし、そもそも消費に課税するというのは生きていることに課税することにつながりますから、全く論理的でもありません。
何か価値を生み出したとか、利益を得たときに、その一部を税として国家に託すというのが税だと考える私には消費税はまったく理解できません。
与えられた現状で、生きることを前提にみんな生きるようになったのでしょうか。
たとえ生きるのが大変でも嘘だけはつきたくありませんし、誰かを犠牲にしたくもありません。しかし多くの官僚のみなさんは赤木さんのメッセージを真摯に受け止めようともしない。一体何という国なのか!
3人の総裁候補の記者会見を聞きました。
石破さんの発言を平然と聞いている菅さんの厚顔無恥には驚きました。
恐らく自分のことを指摘されているのだという自覚はないのでしょう。
そんな人に雪崩をうつように寄っていく自民党党員にも驚きました。
この国の流れは、もう止められないのでしょうか。
今回の総裁選挙に「もしかしたら」という期待を持っていた私も、さすがに期待は持てなくなりました。
ただ石破さんの誠実さだけが救いです。
■「みんなの認知症予防ゲーム」のテキストが改訂されました(2020年9月12日)
京都のNPO法人認知症予防ネットが、「みんなの認知症予防ゲーム」のテキストを全面的に改訂しました。20種類のゲームの解説のほか、予防教室の進め方も書かれています。
このゲームの普及活動の象徴的な存在だった高林さんも昨年、一線から身を引き、いまは名誉理事長になっていますが、その高林さんが、このゲームを通して目指していた社会のビジョンも、冒頭に書かれています。
20年ほど前に私は高林さんに出合い、以後、ささやかながらゲームの普及を応援してきました。一昨年には、ゲームのビデオ版の制作にも関わりましたが、私よりもご高齢の高林さんの元気にはいつも教えられることがたくさんありました。
このゲームの実践者の集まりを毎月湯島でやっていたのですが、コロナ騒ぎでいまは中断していますので、このテキストの紹介もなかなかする機会がありません。
湯島にテキストやビデオを置いていますので、関心のある方は声をかけてください。
ちなみに、今度改訂されたテキストは、NPO法人認知症予防ネットで販売しています。
1200円。連絡先は次の通りです。
n.yobo.200409@gmail.com
DVDもあります(3000円ですが)。
■大坂なおみさんのメッセージ(2020年9月13日)
黒人差別への抗議を込めて被害者の名前が書かれた黒マスクをつけて入場しつづけて、大坂なおみさんが全米オープンで優勝しました。
経済行為に堕したスポーツにはほとんど興味をもたない私ですが、感激しています。
大坂なおみさんの行動と発言には、大きな希望を感じます。
自分が持つ力の使い方に気づき、実際に実践した大坂なおみさんの誠実さに学びたいと思います。
だれもが「力」を持っている。それを活かすことで社会は変えられるのです。
とても元気づけられるメッセージです。
そこに大きな「愛着」を感じます。
■インベージョンの恐怖(2020年9月14日)
相変わらず新型コロナが話題になっています。
私にはとうの昔に終わった話なのですが、いまでもマスク着用がニューマナーだそうですし、マスクを拒否した乗客のおかげで飛行機が途中で緊急着陸したり出発が遅れたりしたりという話がつづいています。
政府は相変わらずコロナ対策を前面に出して「最優先課題」化し、国民を管理していますし、国民のほとんどもそれに便乗して、生きるのを放棄しつつあるように思います。
コロナ感染者数は発表されても、その実体はなかなか発表されません。
私が住んでいる我孫子でも、感染者数の累計と新規感染者数は発表されますが、その内容やその後の経緯などが発表されるようになったのは先週からです。
現在の入院者数は2人だそうですが、その程度がわかる内容発表です。
私が今回の新型コロナウイルスに一番注意していたのは2月から3月ですが、その後、次第に新型ウイルスのことがわかってきたので、いまではインフルエンザ程度の注意にしています。という意味は、罹ったら諦めるという程度の心配です。
しかし半年以上も、コロナ対策が最優先課題になってしまい、経済も教育も文化も、そして生活も、コロナ対策基準で制約され続けて、それが「新しい生活」などという風潮がこうまで広がってしまうとは思ってもいませんでした。
気がついてみたら、私もまたマスクを着用することが増えてきました。
幸いに湯島のサロンに集まる人たちは、さほどマスクを気にしません。
だからといって、感染に無頓着であるとも思えません。
「感染予防」問題と「マスク着用」問題とを分けて考えているだけの話です。
映画「インベージョン」を思い出します。
エイリアンの侵略を描いたSF小説を映画化した何度目かの作品ですが、今回のエイリアンはウイルスで、人体に感染し、人間の精神だけを変えていくという物語です。
一見見分けにくいのですが、感情が現れにくくなるのです。
なんだかマスクをしている人を見ると、その映画のエイリアン感染者のように思えてしまいます。
飛行機で暴れたというマスク拒否者に、いささかの共感を感ずるのは、そのせいでしょうか。その人は、エイリアンに囲まれたような恐怖感を持ったのかもしれません。
私も時々、そういう幻想に襲われることがあります。
これほど簡単に行動変容してしまうのは、エイリアン化が進んでいるに違いない。
人間はもうじき滅んでしまうと思っていましたが、すでにもうみんなエイリアンになってしまったのかもしれません。
最近どうも元気が出ないのは、そのせいなのではないか。
人間は、他者から幸せをもらって元気になる生き物だと私は思っていますが、他者がみんなエイリアンに乗っ取られてしまい、幸せがもらえなくなっているのかもしれません。
湯島のサロンに来る人たちは、まだ人間のような気がしますが、気は許せなくなりました。
「インベージョン」のエイリアンに乗っ取られた人が言うように、「お前もこちらに来れば幸せになれる」という誘いに乗った方がいいでしょうか。
ハムレットのように、迷うところです。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「生きる」とはいったいなんでしょうか。
■安倍政権が残してくれた遺産を大事にしなければいけません(2020年9月16日)
新しい自民党の4役と菅内閣の閣僚が発表されました。
コメントするとまた異論をぶつけられそうなのですが、ちょっと安心しました。
明らかにリリーフで終わりそうです。新しいメッセージが感じられません。
内心、さらに一歩「ナチス」化が進むと危惧していましたが、要するに安倍政権の亜流でしかないように思います。
分裂した野党のそれぞれの新しいメンバーも発表されましたが、何かが変わるような気がしません。
聞くところによると、山本太郎さんのれいわが資金的に苦戦しているようです。
まあとりあえずできることは、れいわへの寄金でしょうか。
今朝の朝日新聞の投書欄に、67歳の青森県在住のおばさんの「目覚めた私 安倍さんのおかげ」という声が載っていました。こういう人が多いといいのですが。全国のおばさんたちが、目覚めてくれたら、間違いなく歴史の流れは変わるでしょう。おじさんたちや若者には期待できそうもありませんが、おばさんの力には大きな期待があります。
安倍政権が残してくれた遺産を、大事にしなければいけません。
■もし「不死の薬」があったら、あなたは飲みますか?(2020年9月16日)
一般には知られていないことですが、20世紀の最大の発明は3つあります。
生命体を透明にする薬、不死身になる薬、そして不老不死の薬です。
残念ながらちょっとした事故のゆえに、それらの薬は公開されないままに、いまはまだ埋もれていますが、事情通のフレドリック・ブラウンの報告書「未来世界から来た男」にその間の事情が書かれています。
せっかくの発明が人類みんなの財産にならなかったのもまた、よくある「ちょっとした勘違い」によるのですが、そこに神の配慮を感じないわけにはいきません。おかげで、私たちは、悪さもせずに、時々心身を痛めるドラマに悩みながら、生の退屈さから解放された、辛い人生を楽しまさせてもらっているのですから。
ところで、不死身になる薬がもし手に入ったら、みなさんはどうするでしょうか。
ほとんどの人は最初は飲みたいと思うでしょうが、実際に飲む段になった場合、躊躇するのではないでしょうか。
私はたぶん飲まないでしょう。
永遠の生などぞっとします。
永遠の生のおぞましさは、手塚治虫さんの「火の鳥」でも描かれていますので、手塚さんもたぶん飲まなかったでしょう。
そう考えると、死があっての生ということに気づきます。
最近のコロナ騒ぎを見ていて、ふと思い出したことです。
ちなみに、フレドリック・ブラウンの報告書「未来世界から来た男」は、日本でも翻訳出版されています。タイムマシンの発明はだいぶ先になっていますが、そこから考えると、この報告書の真偽には少し疑いを感じますが。
■貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ(2020年9月18日)
STAP細胞と小保方晴子さんの「事件」にかかわる、ある人のネット記事をシェアさせてもらったおかげで、さまざまな人からコメントやアドバイスをもらいました。
そのコメントの一部は、STAP細胞の存在の是非を問うものであり、私がシェアした記事は「デマ情報」に基づくものだというものもありました。また具体的な問題を指摘し、この記事の拡散は注意した方がいいというアドバイスもありました。
みなさんのご好意に感謝する一方で、戦前の日本もこうだったのだろうなとふと思いました。
まあ、それは仕方ないとして、どうも私の思いは伝わっていないなと改めて思いました。そこで、特に、情報に関する私の考えを少し書いておきたくなりました。
どんな情報にも「嘘」と「真実」が含まれているというのが私の考えです。
いわゆる「デマ情報」や「フェイクニュース」にも、です。
言い換えれば、すべての情報はデマであり、フェイクとも言えます。
逆に絶対の真理と言える情報などありません。
「1+1=2」とか「人は必ず死ぬ」というのは絶対的な真理ではないかという人がいますが、そんなことはありません。
「1+1=2」は、ある前提での思考体系のなかでの「仮定」でしかありませんし、実際に私は1+1が0になったり、5になったりする事実を体験しています。
あるいは人は必ず死ぬというのも、いまの世界の中での話であり、死ななかった時代があったり、あるいはこれから人は死ななくなったりするかもしれません。いや、いまでもどこかに死なないで生きている古代人がいるかもしれませんし、もしかしたら私は未来永劫死なないかもしれません。
まあこんなことを言うと、馬鹿にされると思います。事実、以前、我孫子のクリーンセンターに協力してもらい放射能汚染された土壌の処理実験をしたことがありますが、そこで質量保存の法則に反する結果が出たため参加者のほとんどは納得しませんでした。結果を肯定的に受け止めたのは、私とその実験者(重水素水の専門家)、そしてもう一人松戸在住の人だけでした。そのおかげで、私は実験参加者の行政の人や市議会議員の信頼をかなりそこなってしまいました。しかし、どんな命題も明白な否定根拠がない限り、否定しないのが私の姿勢です。だから、来世や前世も否定しないでいるのです。
話がそれてしまいましたが、STAP細胞の話です。
私自身は、生物学にはあまり知識がないので、STAP細胞とは何かさえ理解していませんし、ましてや小保方さんがどういう経緯で、それを発見し、その存在を証明したか、その方法が適切だったのかどうか、さらに、どういう経緯でそれが否定され、どう処理されたかなどに関しても理解できていません。
新聞や雑誌情報、あるいはネット情報に書かれているのはかなり読みましたが、いろんな議論があり、私にはあまり評価能力がないので、よくわからず判断ができませんでした。
ただ言えるのは、そのいずれにも嘘もあれば真実もあるということです。
ですから、その情報の個々の真偽にはあまり興味はないのです。
しかし、一連の事件からのメッセージは私自身の生活につながっていると思うので関心は高いのです。
それに、どんな情報も、「デマ情報」という言葉で一括りに否定するのは私の信条には合いません。情報や人を「カテゴライズ」して、そのなかにあるメッセージを読み取るのがデジタル化時代の文化かもしれませんが、私にはまったく馴染めません。どんな情報にも嘘もあれば真実もある。要は、その情報から何を読み取り、自分の生き方につなげていくかが大切だと思っているのです。つまり「自分の問題」なのです。
話が長くなってきてしまいました。
一挙に私の思いに行けば、小保方さんのSTAP細胞発見発言には問題はいろいろとあったのでしょうが、まったく嘘ばかりだったのか。そこになにか新しい価値はなかったのか。もし問題があれば、なぜみんなでその問題を肯定的に補い合い、活かそうとしなかったのか。活かそうにも活かすものが全くなかったのか。そう思うのです。
私たちは、「けなすこと」や「非難」は得意ですが、支援し補う発言をする人はあまりいません。最近よく使われるようになった「支え合い」は、言葉の広がりの割には、まだまだ実践にはたどり着いてはいない。
貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ。
そのことを小保方さんの事件から私は学びたいと思うのです。
ちなみに、貶(けな)すとは貶(おとし)めることです。念のため。
繰り返しますが、情報はそれに呪縛されるものではなく、そこから何を学び自らの行動につなげていくかが大切です。その際、情報の真偽のほどはあまり重要ではありません。
どんな情報からも学べるし、学ばないこともできます。
情報の真偽の議論ももちろん大切ですが、そこで終わっては何も変わらない。情報そのものに意味があるのではなく、その情報から何を学び何に気づくのかに意味がある。
私自身は昨今の状況は「非情報化社会」と位置づけていますので、情報の呪縛から自由になろうと心がけています。
■19日の土曜オープンサロンの報告(2020年9月20日)
19日の土曜オープンサロンには、久しぶりに参加者も含めて9人が参加。
オープンサロンなので、話題は各自勝手に展開でしたが、やはり政局がらみとコロナ関連でした。かなり微妙な話題もありましたが。
若い世代の参加者がいなかったこともあって、やはり若い世代の話を聞きたいという声がでました。若い世代の話し手を見つけるのは難しく、なかなか続きません。
どなたか周りにサロンで話してもいいという若者がいたらぜひ誘ってみてください。
■令和の市町村大分裂への期待(2020年9月23日)
昨日は地元の市会議員から、ある件の相談を受けました。私自身は特定の市議を支援しているわけではないのですが、相談があればだれでも相談に応じるのが私の姿勢です。
現在のような状況では、基礎自治体(市町村)の議会制度を抜本的に見直す必要があると思っていますが、逆にもし現在の議会制度を維持するのであれば、議員活動のあり様を一変させるべきだと思っています。
シュミットの「友敵理論」の真似事をしている市議会にはまったく価値を見出せません。基礎自治体の政治では、敵対よりも共創が基本でなければいけません。
そういう視点で、アドバイスをさせてもらいました。
今日は突然、今度は13年間市議会を傍聴している市民の方が自宅にやってきました。
久しぶりに先日お会いして話をしたのですが、その時、話題になった資料を持ってきてくれたのです。
折角なので、倉庫のような散らかしっぱなしの自宅に上がってもらい、話をしました。話し出したら際限なく話題は広がりました。
今回もまた市議会のあり方が問題のひとつになりました。
基礎自治体である市町村の行政活動にとって、最大の問題は議会のあり方ではないかと私は思っています。
かつて2つの市と町で、その問題に取り組みましたが、いずれも途中で挫折しました。
今回はかなり違った視点で、再挑戦していますが、平成の市町村大合併を超える、令和の市町村大分裂が起きない限り、日本の自治はますます劣化するでしょう。
■湯島サロン「文化は世界を救えるか」報告(2020年9月28日)
「文化は世界を救えるか」と大上段に構えたサロンは10人を超える参加者がありました。
最初に文化と文明の違いに関する沖さんの考えが紹介され、最後は「我々は文化を再生し世界を救うことができるか」という問いかけがなされました。
この問いかけからわかるように、沖さんはいま世界は「救われなければいけない状況」、つまり危機にさらされている状況にあると考えているわけです。
そしてそれを救うには「失われた文化の再生」にしかないとも考えているようです。
しかし、この問いかけは、同時に「文化は世界を壊す」かもしれない、という懸念を伴っています。
沖さんの文化と文明の捉え方は明確です。
文化は人間が考えて創り出すもの(精神的なものを含む)であり、文明は生活を豊かにする(物資的要求を満たす)ために創りだされるものだというのです。
この定義自体にすでにかなり大きな前提が含まれていますが(たとえば「豊かさ」は物質的な要求と結びつけられています)、それはともかく、「創り出すもの」と「創り出されるもの」という違いがあるというのです。言い換えれば、文化には価値観(あるいは人間の意図)が含まれるが、文明はその価値観を生み出す「下部構造」だというのがどうも沖さんの理解のようです。
さらに、沖さんはテクノロジーと文化を関係を考えます。
そして、ラフカデオ・ハーンの言葉を紹介してくれました。
ラフカデオ・ハーンは、何が人生に希望を抱かせてくれたのかと問い、それは「幽霊」だと書いているそうです。
幽霊には、神も悪魔も天使も含まれそうですが、要は文明開化によって霊的なものを基礎とする世界観が失われた。そして伝統的な文化も失われ、空しく空っぽな「電気と蒸気と数字の世界」になってしまったと言っているそうです。
ここでは文明と文化が対置されています。
そこから「我々は文化を再生し世界を救うことができるか」という話になっていくのですが、沖さんはテクノロジーを超えた文化を創り出すために、自分の価値観を持つ人々が増えなければいけないと言います。
その先は参加者みんなで考えようということで、話し合いに入りました。
文化と文明に関してはその捉え方は人さまざまです。
ですからやはり「文化で世界を救えるか」という問いかけも人それぞれですので、なかなか議論はかみ合いません。
結局、家族の問題とか人のつながりのような、かなり具体的な問題になると話がかみ合いだします。また「企業文化」や「政治文化」にからむ話し合いもかなり盛り上がりました。
私自身は。文化と文明と言葉が似すぎていて、混乱を生みだしているとずっと思っています。
ちなみに「エジプト文明」という言葉はありますが「エジプト文化」とはあまり言いません。「伝統文化」という言葉はありますが「伝統文明」という言葉はない。そこにある意味のヒントがあるような気がします。
「文化」は英語では「カルチャー」。つまり「耕す」という意味があり、「文明」は「シビライゼーション」つまり「都市市民になる」とかいう意味があります。
そこから私は、文化は「する概念」、文明は「なる概念」だと考えています。
そう考えるといろんなことが整理されるように思いますが、これもまたあくまでも一つの考え方でしかありません。
結局、今回のサロンでは「文化は世界を救えるか」という問いかけに対する答えは出ませんでしたが、たぶん問題の立て方に起因しているのです。
「世界を救う文化を目指すために」という問いかけにすれば、いろんな意見が出てきたでしょう。実際に今回のサロンでもそういう視点でのアイデアはいくつかあったような気がします。
この問いかけ自体に、文化と文明の発想の違い、あるいは「する発想」と「なる発想」の違いが示唆されているように思いました。
■湯島サロン「歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」報告(2020年9月29日)
今春開催した中嶋一統さんの「陰謀論」を切り口にした現代を読み解くサロンの続編です。今回は特に、11月の米国大統領選の行方とその後をテーマに中嶋さんに話してもらいました。参加者が少なかったおかげで参加者の個々の関心にも焦点を当てながら話しあえるサロンになりました。
最初の話題は参加者からの問いかけでした。
最近発生した韓国政府職員の射殺・火葬事件に関して、北朝鮮の金正恩が韓国に謝罪したことの背景には何があるのか、という問いかけでした。
中嶋さんは今回、その話題は予定されてはいなかったのですが、「この世のすべてのものはつながっている」というのが陰謀論の基本原則ですから、当然のように話は盛り上がりました。
その話題が一段落した後で、これまでの陰謀論サロンでの中嶋さんの予測通りに世界が動いていることを確認したうえで、米国大統領選の話題になりました。
もっとも大統領選の結果を占うことが目的ではなく、そこに象徴されている世界の大きな流れを整理する仮説軸を得ることで、よくわからない世界の複雑な事象をつなげていって自分の世界観を仮設する示唆を得るのが今回のサロンの主旨です。
中嶋さんの解説によると、世界はDS(ディープステート)陣営とそれに抗って流れを変えようとしている力(アンチDS)との対立構造の中で動いています。
ディープステート論は最近は「世界陰謀論」と結びつけられていますが、現実には表面的な政府と実質的な政府という意味での現実的な捉え方で、たとえば最近の日本でも鳩山内閣の時にそれが明確に見えてしまったことがあります。
今回のテーマである米国大統領選に関していえば、その根底にあるのは、DSとそれに抗うトランプ陣営の覇権争いということになります。
中嶋さんはそれを世界陰謀論のみならず、新型コロナウイルス感染症につなげて考えています。新型コロナを人為的に流行させたという陰謀の真偽はともかく、現実の事象を活かして世界を動かすというのは「政治」そのものの話ですから、程度の差はあれ、そこに「意図」が働くことは否定できません。それを「陰謀」と呼ぶかどうかは別として。
日本の柳条湖事件や米国のトンキン湾事件のように、時間が経過して露呈された陰謀の例は少なくありません。すべてが明々白々にならない世界の動きには、内容はともかく、何らかの「陰謀」は存在します。明白になった事実(与えられた事実情報)だけで世界は構成されているわけではないからです。しかし、○か×かの二択で判断することに慣れている人たちは、肯定か否定かはともかく、ほとんどが陰謀論の呪縛に囚われているような気がします。私には〇派も×派も同じように思えます。
いずれにしろ、そうした「陰謀」の真偽は、それこそ藪の中ですが、頭から否定するか、信じ込むかのいずれもが、「陰謀論」の罠にはまったことになるでしょう。
今回、中嶋さんは、陰謀論の枠組みを踏まえて米国大統領選はアンチDSのトランプが当選し、そこから「新しい歴史」が始まりだすと大胆に予測しました。現在の「パンデミック計画」にはDSの意図が働いていて、それが失敗するという予測からの結論です。
新しい歴史とは、たとえば、「9.11事件の真実」や「新型コロナにまつわる意図的な操作」が明らかにされ、その結果、世界の通貨と金融機構の革新が進み、DSの戦略とは違った新たな地球再生計画に取り組む動きが出てくるというビジョンです。
DSかアンチDSかはともかく、結局は「新しい世界」も管理された世界で、私のような生活者には「相変わらずの世界」のように思えて、あんまり希望は持てませんが。
ここまでくると、いささか世界陰謀論の術中にはまってしまっているような気がしますが、思考を柔軟にする頭の体操という意味で、また話を楽しみ会話を広げるという意味でも、刺激的で、サロンはますます盛り上がりました。
陰謀論は疑いを出発点としています。マスコミ情報や政府情報だけで世界を見るのではなく、懐疑的に情報をとらえ、視野を広げるという意味があります。しかし、陰謀論は、わかりにくい現実をわかりやすい物語に置き換え、世界を理解した気にさせてしまい、逆に思考を狭めてしまう恐れもあります。両刃の剣と言っていいでしょう。
そこに、湯島のサロンで「陰謀論」をテーマにする意味を感じていますが、なかなかそういう方向に議論は向かいません。すでにみんな「陰謀論」に巻き込まれてしまっているのかもしれません。
さてさて、このシリーズはどう展開するか。今回のサロン参加者からは、米国大統領選後にもう一度やってほしいという声がありましたが。
ちなみに今回参加された一人の方は、最近仕事が忙しくて睡眠不足だと言って、サロンの間、ずっとソファで寝ていました。こういうサロン参加の仕方もあることを思い出しました。話し合っている横で誰かが寝ている。ちょっといいですね。
中嶋さんの話の内容を要約するのは私には無理なので省略してしまいました。
中嶋さんの話を聞きたい方は中嶋さんに連絡を取ってください。中嶋さんはサロンにも30冊ほどの書籍を持ち込んできましたが、中嶋さんの頭の中にはさまざまな「陰謀論」の情報があるようですので。
■ようやくプロシューマーの時代が到来しそうです(2020年9月29日)
いまわが家のリフォームを進めていますが、これを機に、エアコンを導入することにしました。
今さら何をと笑われそうですが、私の仕事部屋も寝室も、これまでエアコンはなかったのです。夏は暑いところに価値があるとエアコンを拒否していたのですが、この歳になると命にかかわるといわれ、それには抗えないからです。
それでリフォームをお願いしている会社に見積もってもらったら、意外と高いのと、商品が指定されていたので、昨日、大手家電販売店に現物を見に行ったのです。
いまはエアコン商戦の端境期だそうで、売り場は閑散としていました。
エアコンを見ていたら店員の方が来て説明してくれました。
メーカーのダイキンからの派遣社員の中西さんでした。
説明がわかりやすいのと好印象だったので、リフォーム会社からのお勧めの三菱の霧ヶ峰はやめてダイキンの商品に変えることにしました。店頭での販売員の影響は大きいです。
価格はリフォーム会社の見積もりに比べてかなり安価でしたが、購入は1か月くらい先だと言うと中西さんはきっとさらに安くなると話してくれました。
それでリフォーム会社に頼まずに、家電販売店から購入しようかと思いだしました。
まあこれはほんの一例なのですが、住宅も自分でつくれる時代になっていきそうですね。
おもちゃのロゴを組み立てるように。
プレハブ住宅ではなく、モジュールハウスです。
その前に、たぶん自動車や電子機器は自分で組み立てられるようになるでしょう。
産業構造や生活構造は大きく変わりそうです。
まあその前に私の人生は終わるでしょうが。
家のリフォームをしているおかげで、いろんなことに気づかせてもらえます。
■『手賀沼でやりたいことプレゼン大会(仮)』の報告(2020年10月5日)
我孫子まちづくり編集会議は、地域社会を楽しくしたいと思っている人たちがお互いに支援しながら、新しい物語を生みだしていくオープン・プラットフォームづくりを目指していますが、今回、『手賀沼でやりたいことプレゼン大会(仮)』のテスト開催を開催しました。
これまでいろいろと話をしてきましたが、ともかく「議論」より「実践」ということになりました。それがタイトルの「大会(仮)のテスト開催」という表現になっています。
告知も“WE LOVE ABIKO”というフェイスブック・コミュニティに案内を投稿しただけで、まずはメンバー中心で小さくはじめ、体験知をシェアしながら活動の進め方も模索していこうということになったのです。
幸いに、“WE LOVE ABIKO”を通して知ってくださった方も含め、総勢14人の集まりになりました。10代の方の参加も2人ありました。
最初に会の趣旨などを説明した後、参加者の自己紹介、つづいて、手賀沼を舞台に『私がやりたいこと』を2人の人から発表してもらいました。
今回は、これまで話し合ってきた「手賀沼台船祭り」プロジェクトと「人をつなぐペーパーメディア」プロジェクトで、発表後、参加者それぞれが興味を持ったプロジェクトを選んで、グループ・ディスカッションを行いました。
何の働きかけもしなかったのですが、みごとに同じ人数に分かれました。
グループごとに話し合った後、それぞれからどんな話があったかを紹介してもらい、それを踏まえて全員で話し合いました。
結論的には、いずれの提案も仲間が増えて、具体的に前に動き出すことになりました。
最後に、こういう活動をこれからどう進めていったらいいかも話し合いました。
初めて参加してくださった方から、こういうスタイルの集まりを定期的に開催したらどうかとの提案もあり、早速、11月に第2回目の「テスト開催」を開催することになりました。
発表プロジェクトはまだ決まっていませんが、もしこれをお読みになって、自分も提案したいという方がいたらご連絡ください。ちょっとしたアイデアでも、思いを参加者に呼びかければ、みんなが「思い」を「かたち」にしてくれるかもしれません。そういうプラットフォームを目指したいと思っています。
我孫子まちづくり編集会議は、これから毎月、2回程度の開催を予定しています。
ちなみに、いまは「我孫子」とタイトルしていますが、地域は我孫子市に限ってはいません。柏や白井のメンバーもいますし、昨日は東京からの参加もありました。
とてもゆるやかな、楽しい集まりですので、ご関心のある方は気楽にご参加ください。
みんなが主役になって、そしてお互いにできることを引き受けながら、自分の住んでいる地域を楽しくしていく、そんな「みんなの支え合うつながり」を育てていければと思っています。
■平将門の居城は我孫子市の湖北にあった!!(2020年10月5日)
我孫子市の湖北に住んでいる戸田七支さん(我孫子市の文化を守る会会員)は、平将門の居城は我孫子市の湖北にあったと主張しています。
戸田さんは、『将門記』にその根拠を見つけているのですが、残念ながらいわゆる「状況証拠」はあるのですが、「物証」が確認できていません。
湖北には将門神社や将門の井戸などもあって、おそらくその気になれば物証も見つけられるかもしれません。しかし、いまのところ、戸田さんの主張はなかなか広がっていません。
我孫子の市議の海津さんから、その話を聞いていたのですが、海津さんとまちづくり編集会議の櫻井さんが戸田さんに会いに行くと言うので同行しました。
湖北と言えば、その近くに中里薬師堂というのがあって、そこに残されていた十二神将像を今年初め見せてもらって感激したことがあります。どうもそれともつながっているようです。
http://cws.c.ooco.jp/action20.htm#0217
櫻井さんの車で連れて行ってもらったのですが、昨年、相馬霊場巡礼で歩いて、30キロ達成直前でダウンしたところの近くでした。
戸田さんの話は魅力的でした。一度、まちづくり編集会議でも話をしてもらおうと思いました。事実を知った人が増えれば、必ず誰かが動き出します。
相馬巡礼も年内にはもう一度チャレンジする予定です。
■第3回益田サロン「免疫の話」報告(2020年10月6日)
細菌学者の益田さんのサロンの3回目は「免疫の話」でした。
最初に益田さんは、自ら手づくりしたコマをみんなに配り、それを回して、コマに「自己」を感ずるかという、謎かけめいた問いから始めました。
そして破傷風菌の話から、「自己」とは何かを問いかけてきました。
破傷風菌には、毒素を持つものと毒素を持たないものがありますが、毒素を持つ破傷風菌は寄生している生物もろともに死に、その生物の死骸から栄養を得て毒素を持たない破傷風菌を爆発的に増殖させることにより、破傷風菌を守っているのだそうです。
そんな話から、自己とは何か、そして増殖と自己保存の話になりました。
環境が悪化すると自らを保存するために「芽胞」になる戦略から、ウイルスとウイルス粒子の話も出ました。
さらに、臓器移植やアレルギーの話から抗体や免疫寛容の話へと広がり、時に脱線しながらも、自己非自己や免疫、あるいは新型コロナ問題を考える上での示唆がたくさんありました。
私にあまり報告能力がないのが残念です。
話し合いの中では、自然免疫の話や感染しても発症しない人が多いことへの疑問などが出されましたが、発症してこそ「病気」だろうと思っている私としては、陽性者数で議論されている風潮にどうも違和感があります。
その疑問はやはり今回も解けませんでした。
益田さんの話は、今回も新型コロナを考える上でも、さらには私たちの生き方を考える上でも、示唆に富むものでした。
たとえば、増殖と自己保存の問題は、まさに私たちの生き方につながってくるように思います。サロンの翌日、益田さんからもらったメールに、こんなことが書かれていました。ちょっと長いですが、引用させてもらいます。
生物は増殖することは良いことだというのも怪しいのですが、優秀な遺伝子を遺そうとするのも同様に怪しいのでは。優秀な遺伝子は自分だけで保有したい、ほかには渡したくないというのが本音ではないでしょうか。(中略)ウイルスが、条件が良ければ増殖するというのもおかしいので、むしろ条件が悪いから増殖するという方が正しい、宿主細胞の中で何もしないで存在を続けるのがウイルスにとっては最高のことなのでは。
とても納得できますが、みなさんはいかがでしょうか。
増殖や経済成長が、自己保存への不安から起こっているとしたら、その戦略以外の戦略もあるはずです。これからの社会のあり方や私たちの生き方を考える上での大きなヒントがそこにある。
益田さんは最後に、「新型コロナはお金の天敵かもしれない」というような話をしました。お金中心の世界の増殖を、新型コロナが邪魔しているというのです。
これには異論があります。
私自身は、新型コロナは天敵ではなく、お金の手先のように思えます。お金中心の世界が新型コロナを生みだし、お金中心の世界を増殖させている。金銭信仰や金銭格差は新型コロナでさらに拡大するのではないかと思います。
自己と非自己に関しても、少し議論がありました。私は、自己と非自己という「二項対立」ではなく、むしろ日本古来の「二項同体」という考え方が馴染めるのですが、自己と非自己の付き合い方を根本から考え直すのがいいように思います。
いま話題の新型コロナは、コウモリと平和な関係を保っていたのに、そこから出ざるをえなくなって、自己保存のためにいま、新しい寄生先を探していて人間がその対象のひとつになったといわれていますが、ここからもさまざまな示唆が得られます。
他にも、たとえば、新型コロナウイルスとコミュニケーションできるのかとか、ウイルスは成長や老化をするのかなど、いろんな話題もでました。
参加者が少なかったこともあり、個々のテーマも少し深堀できたのですが、横道も多くて、肝心の免疫の話はちょっと不十分だったので、次回もまた「免疫」がテーマになるかもしれません。
報告の文責は私にあります。不正確な表現があればお許しください。
隔月を目途に益田さんのサロンは継続します。
新型コロナに関心のある人はぜひ参加して、益田さんと直接話してみてください。
■第10回万葉集サロン「忘れられてゆく神々―〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」のご案内(2020年10月7日)
升田さんの万葉集サロンでは、歌を通して、日本列島に住んでいた人たちが、「人間」として覚醒していくさまを見てきましたが、今回は、いよいよ「覚醒する〈わ〉」がテーマです。
こういうと難しそうですが、要は人々のなかに人への「恋」が芽生え、自然(神)を賛美する叙景歌と並んで、抒情歌が増えてきたことを、東歌を中心とした作者不明歌群から読んでいきます。
升田さんからのメッセージです。
今回も東歌を中心とした作者不明歌群を扱いますが、恋の歌が圧倒的に多いことに目を向けます。なぜ恋の歌ばかりが多いのか。そのことと序詞の問題はつながっているように思います。
結婚は神聖な儀礼であり、記紀神話の最初に挙がるのがスサノヲ命の「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という歌謡であることが大きな暗示を与えています。神の領域である神婚(結婚、恋)を根底に持つ万葉恋歌の序詞は、おそらく神の領域の言葉でした。そこから人の領域へと広がって「た」から「わ」への覚醒がはかられるのは「歌」のかかえる「言」の呪性ゆえであると考えると、序詞の意味が大きくとらえられます。その上で、「た」から「わ」への覚醒、神の領域から人の領域への変移が明らかな歌も少し見てみたい。
「名」は「宣(のる)」という。現代にも残っている「なのり」の「のる」は、呪詞です。「た」から「な」、「な」から「名」への覚醒についても考えたいと思います。
というわけで、記紀神話や風土記も参考にしながら、恋の歌がなぜあふれ出したのか。恋の歌が宴席で戯れ歌となったり、自然はその美を客観的に描写する叙景歌へと進んだり、そんな新しい万葉歌が誕生してゆくことを読み解いてくれるそうです。
初めての方も大歓迎です。気楽にご参加ください。
なお、前回参加された方は前回配布の資料をご持参ください。
今回新たに参加される方は、ご連絡いただければ前回の資料を事前に送らせてもらいます。
〇日時:2020年10月17日(土曜日)午後2時〜4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「忘れられてゆく神々ー〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■連続サロン「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」のご案内(2020年10月8日)
私事なのですが、最近、どうも元気が出ません。
理由はいろいろあるのですが、心当たる一番の理由は「新型コロナ騒ぎ」です。
世間の風潮などは気にせずに、自分の生き方をできるだけ維持しているつもりですが、生活は他者とのかかわりのなかで成り立ちますので、結果的に私の生活も大きく変化してきています。
新しい生活様式などという言葉も使われていますが、私にはどうしても「いい方向」に向かっているようには思えません。人と会う機会は少なくなり、在宅時間が増え、生活がどんどん単調になってしまってきています。それに先がなかなか見えにくくなってきています。
そういう状況は私だけではないと思いますが、社会全体も、企業業績が悪化し失業者が増えたり、自殺者がでたり、いがみ合いによる事件が増えたりと、いささか健全さを失ってきているように思います。
しかし、その一方で、見えにくかった社会の実相を可視化してもくれています。これまであまり考えずに受け入れてきていた「常識」を問い質す機会になったり、変えられなかった仕組みや生活様式が変わってしまったりもしています。
仕事の進め方や学校や大学での学び方、あるいはイベントや冠婚葬祭のあり方、消費行動や人との付き合い方の変化、そうしたことが、政治や経済にも大きな影響を与えていくことは間違いないでしょう。
今回の「コロナ禍」を、受け身で防衛的に対処するのではなく、むしろそれによって起こった変化をどう活かしていくかを考えることが大切です。
そこで、2回にわたり、まずは「コロナ禍で何が変わったか」を中心に話し合い、2回目は「コロナ禍をどう活かすか」を中心にして、それぞれ自らの生き方を考えるようなサロンを企画しました。
できるだけ多くの人が参加できるように2回の開催にしました。しかし、連続参加は難しい人も多いと思いますので、いずれの回も、「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」をテーマにしますが、どちらかと言えば、1回目は前者に、2回目は後者に重点を置いていきたいと思います。
参加者それぞれが、自らの生き方を前向きに考えるような時間が持てるサロンになればと思っています。
私もこのサロンで、元気を回復したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年10月10日(土曜日)午後2時〜4時
2020年10月11日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■信ずる者は報われる(2020年10月8日)
コロナ禍もあって在宅時間が増えていますが、それに伴い、テレビを観る時間が増えました。当初はコロナ関連もあってニュース番組や報道番組、あるいはドキュメンタリーをよく観ていましたが、8月頃からその種の番組はほとんど観なくなりました。送られてくるメッセージが画一的で、なにやら洗脳番組のような気がしてきたからです。
代わりに増えたのが、昔のテレビドラマです。
多かったのが事件もののドラマですが、こんなにたくさんのものがあったのかと改めて認識を新たにしました。
しかし、そこで扱われている事件の多くは、やむにやまれず起こした事件が多く、犯人、つまり加害者に同情したくなるものが多かったです。こういう番組を観て育った人が多いはずなのに、どうして最近の犯罪加害者は、やむにやまれぬどころか、やらなくてもいい犯罪を犯してしまうのでしょうか。テレビに洗脳されるのは私くらいなのでしょうか。困ったものです。
いま一番気に入っているのは、「浅草ふくまる旅館」シリーズです。
https://www.bs-tbs.co.jp/drama/DRT1100400/
2007年に放映されたものの再放送です。
義理人情に篤く、人を信じやすく、他人の世話をやく事で知られるふくまる旅館の3代目主人福丸大吉の物語です。
福丸大吉役は西田敏行さん。番頭役が渡辺いっけいさん。いずれも私の好きな俳優です。
ともかく観ていて気持ちがあったかくなります。
そして、こういう社会で生きたいなあと痛感します。
私の生き方もまんざらではなかったと思いつつ、しかしまずは福丸大吉さんの生き方に、少しでも近づきたいと思って、毎日観ています。
近づけるといいのですが。
■連続サロン「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」報告(2020年10月12日)
2回にわたり、「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」を話し合うサロンを開催しました。毎回、10人前後の参加者がありました。連日参加された方も複数いました。
オープンサロン風にやったので、話は発散しましたが、コロナのおかげで改めて見えてきたことなど、それぞれ気付きがあったのではないかと思います。
最初に、私の身辺で起こった変化や私が感じている社会の変化などを具体的にメモして参加者には配布させてもらいました。私の場合、生活はかなり変わりましたが、いまのところ、あんまりいい方向には動いていません。怠惰になり体重も増えてしまいました。
社会もおかしい方向に向かっているような気がしますが、しかし、さまざまな問題が明らかになってきて、善い方向に向かう可能性も高まっているような気もします。
いずれにしろ、このコロナ騒動をどう活かしていくかが大切です。
そういう意識で話し合いをしましたが、なにしろサロンなので、合意や結論が出たわけではありません。
初日は、テレワークやzoomミーティングなどの話から仕事の進め方や学校教育、さらには人との付き合い方が話題になりました。
新しいコミュニケーションツールとして、zoomの広がりはほとんどの人が賛成だったと思いますが、あまりにそれが行き過ぎて、人の付き合い方が変わってしまうのではないかという危惧も表明されました。とりわけ子供への影響は心配で、子ども関係の仕事をしている人からは、保育施設などで子どもが抱きにくくなっていることへの危惧が表明されました。これは非常に重要なことではないかと思います。
仕事だけではなく、老舗のお店や日本の伝統的な文化が変化するだけでなく、すたれていくのではないかという危惧がある一方、お茶会の集まりに取り組んでいる人からはむしろそういう要請が増えてきているというような話もありました。
コロナによって人がバラバラになりだしたという人がいる一方で、むしろ気遣い合う動きや人と触れ合う欲求も高まっているようです。
「不要不急」という言葉が広がり、自分の行動を改めて見直すことになったということは多くの人が肯定的だったように思います。そもそも「不要不急」の基準とは何なのかという議論もありました。しかし、いずれにしろ生き方を問い直す契機にはなっているようです。
2日目は、子どもたちが自然と触れ合う場をつくってきた全国の自然学校が、このままだと倒産してしまうのではないかという危惧が出されました。
コロナは人同士が触れ合う場を少なくしているばかりか、自然とのつながりも少なくしている、そして経済基盤の弱い自然学校がもしコロナ騒ぎで倒産したら、それは一時的なものではなくて、みんなで地道に守り育ててきた子どもたちと自然とのつながりの仕組みを失ってしまうおそれがあるというのです。これはあまり議論されていませんが、とても大きな問題だろうと思います。
家で料理することが増えたという指摘もありました。これは食生活を大きく変えていく契機になるかもしれません。いうまでもなく生活スタイルにつながっていきます。
みんなの生活を維持していくうえで不可欠な仕事が「エッセンシャルワーク」と言われ出していますが、人々の生活や社会の維持にとって、大切な仕事とは何かを考え直す機会にできるかもしれません。現在は、不労所得や管理業務のほうが経済的には優遇され、仕事の価値と報酬が反比例しているように思いますが、それが質される契機になるかもしれません。
「不要」な業務が可視化されるといいのですが、そのためには私たちの常識を一度、白紙にする必要があるように思います。コロナ騒ぎが、私たちの「常識」を強化したのか、揺るがせているのかは、判断が分かれると思いますが。
10万円の生活給付金やGo Toキャンペーンでの金銭給付が社会の今後に与えた影響は大きいと思います。良い面と悪い面があると思いますが、この議論は今回あまり深堀できませんでしたが、できるだけ早くやりたいテーマです。問題提起したい人がいたらご連絡ください。すぐセットします。
1日目も問題になりましたが、やはり一番悲しいのは、コロナウイルスに感染した人が非難される風潮です。感染した人が謝罪するというようなおかしなことが起きている。病気になるのが犯罪のような意識さえある。感染者を出した施設が嫌がらせを受け、関係者(看護師や介護士や医師)の家族まで忌避される。実に貧しい社会になってしまいました。
過剰な不安感が広がり、疑心暗鬼が横行し、なぜかみんなマスクをしている社会はどう考えてもおかしいですが、ほとんどの人がそれを受け入れてしまっている。
その意味をもっとみんな真剣に考えてほしいと思いますが、今回はその入り口でとまったような気がします。
他にもいろんな議論がありましたが、横道の議論も多く、報告しだすときりがないので、かなり偏った、しかも結論のない報告になってしまいました。
参加者の皆さん、気が向いたら補足してください。
つづきはまたオープンサロンでしたいと思います。
■利便性ともろさとはコインの表裏(2020年10月12日)
昨日、我孫子で電車の乗ろうとしたらカードが使えません。
カードのICが壊れていたのです。
幸いにポケットに1000円札が1枚あったので何とか湯島に行けました。
カード会社に電話したら、やはりICが壊れているようで、再発行してもらうことになりました。
私はいつも現金をほとんど持ち歩きません。
お金が必要な場合は、スイカとクレジットカードで対応しています。
電車は基本的に回数券です。
ところがその回数券もカードと同じケースに入れて持ち歩いているのですが、2週間前にすべて磁気がダメになって使えなくなってしまいました。
たぶん同じ理由でカードもダメになったのでしょう。
どこかで強力な磁気を受けたのかもしれません。
昨日はたまたまポケットにお金が入っていたので、何とか電車に乗れましたが、カードでの買い物はできませんでした。
便利な社会での生活の基盤のもろさというか不安定さを改めて知りました。
お金を持たずに生きていけるので、私にはとてもカードは便利です。
しかしこうしたことが起こると途端に動きが取れなくなります。
便利な社会は、同時に不安定な、あるいは管理されている社会でもあることを改めて思い知らされました。
今回は事故でしたが、もしだれかが操作したら、私の利便性に富んだ生活は一瞬にして壊れるわけです。
むかし、サンドラ・ブロック主演の「インターネット」という映画がありました。コンピューターによる世界支配を画策しているグループによって、個人データを改ざんされ、カード類は一切利用できなくなってしまう話です。
利便性はもろさと裏表の関係なのです。
利便性の追求は、自らの生活を誰かにゆだねる生活でもあるわけです。
昨今のマスク社会を、なんとまあみんな主体性のない情けない生活に成り下がっていることかと冷ややかな目で私は見ていましたが、どうも私自身も同じようなみじめな存在になってしまっているようです。気をつけなくてはいけません。
これを機会にカードを止める選択もあるのですが、まあ注意して使えばいいだろうということにしました。こうやって人はみんな堕落していくのでしょう。
昨日のサロンでも、利便性や生産性の追求には問題があると話してしまった気がしますが、私もすでにその魔力に引き込まれてしまっているようです。
困ったものです。
■湯島サロン「遺伝子技術の話〜遺伝子検査を切り口にして」のご案内(2020年10月13日)
遺伝子に関するサロンはこれまで一度もやったことがありませんが、食生活やウイルスに関連したサロンで、「遺伝子」という言葉は時々出てきます。私のような素人にはなかなかわかりにくい世界ですが、遺伝子技術が社会にどのような影響を及ぼすかは、無関心ではいられないテーマです。いつか一度、サロンでも取り上げたいと思っていましたが、幸い、最近、益田さんのウイルスサロンに参加された山森さんが、遺伝子検査に関わられていることを知り、サロンをお願することにしました。
一度のサロンでは難しいのですが、まずは手はじめに、医療における遺伝子診断との関わりを中心に遺伝子検査の基礎について講座型のサロンをやってもらえることになりました。いま話題の新型コロナ遺伝子の検査、さらにはそうしたことの基礎になっているゲノム編集についてもお話しいただける予定です。
山森さんは科学に関する一般的な知識の普及が遅れていることを危惧されていますが、コロナ問題や種子法などを考えるに上でも、遺伝子に関する基礎知識を私たちはもう少し学んでいく必要がありそうです。
そこで今回はまず、遺伝子に関する基礎知識を、検査という実践の場につなげながら、学ばせてもらうことにしました。講義および質疑応答が中心になりますが、サロンですので、いつものように自由に話し合える時間もつくっていただきました。
テーマがテーマだけに一度だけでは無理がありますが、まずは入門編ということで、お受け止めください。
ちょっと敷居が高いかもしれませんが、湯島のサロンですから、あんまり難しくならないように、山森さんにお願いしていますので、気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。
〇日時:2020年11月22日(日曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「遺伝子技術の話〜遺伝子検査を切り口にして」
〇話題提供者:山森俊治さん(遺伝子と詩吟を愛する理学博士)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)
■土曜サロン「最近の政治に思うこと〜何かできることはないだろうか」のご案内(2020年10月14日)
コロナ騒ぎにみんなの目が向けられているなかで、日本の政治は、どんどん国民の手の届かぬ方に進んでいるような不安があります。しかも、国民は政府の意向にますます従順になっているような気もします。そのために、大量な「国費」がばらまかれているのも不快ですが、自分がもらえるとなると、ついついもらってしまうのも情けない気がして自己嫌悪に陥りがちです。
これまでの外出自粛やマスク着用の広がりには驚いていましたが、Go To政策によってにわかにみんな動き出したのにはもっと驚きました。私はコロナウイルス感染が怖くて、外出自粛やマスクを着用しているのかとばかり思っていましたが、どうもそうではなかったようです。
Go Toトラベルにみる政府の朝令暮改のひどさには、政府への信頼をますます失いますが、国民の多くはその政府を信頼しているようで、相変わらずの高い政権支持率です。日本人は、朝三暮四に喜んでいたサルたちの仲間になってしまったようです。
最近の学術会議任命拒否問題への国民の反応はナチス時代のニーメラー牧師の嘆きを思い出させます。丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている有名な話ですが、ナチスがドイツを覆った時に、ニーメラーはこう後悔したそうです。
「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安だったが、共産主義者ではなかったので何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。
ニーメラーの二の舞は踏みたくないものです。
手遅れにならないうちに、何か行動したいと思いますが、どうしたらいいか、よくわからない。
みなさんの知恵をぜひお聞きしたいと思い、今度の土曜サロンのテーマを「最近の政治に思うこと〜何かできることはないだろうか」にさせてもらいました。
みなさんの参加をお待ちします。
〇日時:2020年10月24日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近の政治に思うこと〜何かできることはないだろうか」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■家族ということ(2020年10月15日)
挽歌編に書いたのですが、時評編にも載せたくなりました。
少し書き直して、こちらにも書かせてもらいました。
最近、昔のテレビドラマの再放送をよく見ているのですが、西田敏行主演の「浅草ふくまる旅館」シリーズには大きな元気をもらいました。
残念ながら最後の6話しか観られていなかったのですが、最終回には涙が止まりませんでした。元気が出る涙です。
西田敏行演ずる主役の福丸大吉は、浅草にある“ふくまる旅館”で働いていましたが、先代の娘と結婚し、旅館を継ぐのですが、いろいろと事情があって、長男とは血のつながりがありません。詳しい説明は省略しますが、最終回でその息子に次のように大吉は話すのです。
家族ってさ、一緒に悩んだり苦しんだり、一緒に喜んだり笑ったり泣いたり…
先代は、従業員だった俺を家族として迎え入れてくれた。
だから俺は、お客様を家族として受け入れ、できるだけのおもてなしをしているんだ。
ドラマを観ていないと、意味が分からないかもしれませんが、ともかく毎回、心があたたかかくなるドラマです。
私が大吉のこの言葉にとても共感したのは、「一緒に悩んだり苦しんだり」が「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」の先にきているからです。
家族の一番の意味は、「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」するところにではなく、「一緒に悩んだり苦しんだり」するところです。
喜んだり泣いたりするのは、誰とでもできます。
しかし、悩んだり苦しんだりは、誰ともできる事ではありません。
私は家族というのは、別に血がつながっている必要はないと思っています。
事実、家族の核である夫婦には血のつながりはありません。
家族は血縁関係者と捉える必要はないでしょう。
私は家族とは一緒に生きている仲間だと考えていますので、ふくまる旅館の話がとてもなじめるのです。一緒に生きていればこそ、当然にして「一緒に悩んだり苦しんだり」するのです。
福丸大吉さんは、過剰なほどの世話焼きです。
しかも誰をも信じてしまう、他者を疑うことがない。
疑うことを知らない人は誰からもだまされません。「だまされる」という概念がないからです。
なぜ彼は人を疑わないのか。みんな家族だと思っているからです。
家族からはだまされないし、万一、だまされたとしても許すことができる。
そして大吉さんはだまされないどころか、いつも「奇跡」のようなことに包まれるのです。
家族になるのは難しいことではありません。
その人を信ずればいい。
それだけです。
それができれば、誰も孤立することはなく、孤独死もなくなるでしょう。
そういう思いを、このドラマは教えてくれます。
多くの人に観てほしいのですが残念ながら再放送はいまのところありません。
またもしどこかで再放映があったら、ぜひご覧ください。
幸せになるかもしれません。
DVDに残しておけばよかったのですが、消してしまいました。とても後悔しています。
■コミュニティということ(2020年10月15日)
前の記事(「家族ということ」)の続きです。
生きているといろいろなことがあります。
いいことばかりではありません。
苦しみも悩みも、辛いことも悲しいこともある。
怪我もすれば病気にもかかるし、死も避けられません。
でも、だからこそ生きているよろこびがある。
新型コロナウイルスの感染ばかりが騒がれますが、私の友人は胃がんで余命宣告され、最近亡くなりましたが、彼は一切、新型コロナを気にしませんでした。そんな余裕はなかったのです。何回も会いましたが、コロナの話は一度も出ませんでした。
自宅療養でしたが、事態が急変し、緊急入院したことを病院の医師から連絡を受け、万一の場合、延命手術をするかどうかを医師から訊かれて、あわてて病院に行きました。
彼は一人暮らしだったので、私が入院の保証人でした。
医師と話しましたが、病院はいまコロナで面会できないといわれました。
しかし、もしかしたら最後になるかもしれません。ここで会わずに帰ったら後悔するでしょう。そう思って医師と看護師に相談しました。
看護師の方がそういう場合は医師の許可があれば大丈夫だと言ってくれました。
医師ももちろん許可してくれました。
以来、私以外の友人にも案内して会いに行ってもらいました。
コロナ感染を気にしていた友人も会いに来てくれました。
そして、彼は生きる意欲を回復して一度自宅に戻れました。
最期はとても幸せそうな表情で、安らかに逝きました。
新型コロナウイルス感染症だったために、家族が死に目に会えなかったという有名なタレントの報道がありましたが、もしそれが本当であれば、実に悲しい話です。
だれが何と言おうと遺族は会うべきでしたし、医療関係者は会わせるべきでした。
それが人の道です。ルールも法も人の道のためにこそある。
感染しないように注意することは大切ですが、感染を広げないことも含めて、いくらでも方法はあるはずです。
それに万一、感染しても、遺族は会わないで見送るよりもよかったと思うでしょう。
これは家族に限ったことではありません。
親しい友人の場合にも言えることです。
「家族遺棄社会」という本に、こんな言葉がありました。
感染リスクを顧みず直接会ってくれる人がいるというのは親しさの指標。
これは全く同感です。
逆に言えば、感染リスクがあるからと言って、会うことを諦めるような付き合いであれば、それは知人ではあっても、友人とは言えないでしょう。
そういう意味での「友人」がどのくらいいるか。
それこそがその人の生活圏の豊かさの指標です。
「コミュニティ」という言葉がよく使われるようになりましたが、コミュニティとは「重い荷物も背負い合う人のつながり」と考えている私にとっては、ほとんどのコミュニティ論は言葉だけの遊びです。
そう簡単にコミュニティはつくれません。その人の長年の生き方が生みだすのが、コミュニティだろうと思います。
コロナ感染の不安感が、社会からコミュニティをなくしてしまうような不安があります。
マスクもせずに、毎週、湯島でサロンを開いているのは、こうした私のコミュニティ観の表れでもあります。
少なくとも私は、コミュニティがなければ生きていけない弱い存在ですので。
■第4回益田サロン「比喩と理解」のご案内(2020年10月16日)
細菌学者の益田昭吾さんによる連続サロンは、今回もまたちょっと横道に入って、「比喩と理解」をテーマにします。
益田さんのサロンに参加されている方は、何回かお聞きになっていると思いますが、益田さんは「○○は××のようなものである」というかたちで、よく話をされます。
理解とは比喩が成立することだと考えているのです。
益田さんは、最近、万葉集に関する本を2冊読んだそうですが、万葉集に関して言えば、「○○は××のようなものである」の「××」がなかなか想起できなかったと言います。だから益田さんは、万葉集の理解は自分には難しいというわけです。実に益田さんらしい結論ですが、学びが真似びから始まったという話もありますし、「比喩」の力を身につけることで、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人との淘汰戦に勝ち残ったとも言われます。「比喩の力」を考えることで私たちの理解力も高まるかもしれません。
ちなみに、益田さんの連続サロンでは、次回は免疫や自己非自己をテーマにする予定でしたが、そのテーマの理解を深めるためにも、「比喩と理解」をテーマにしたサロンを入れることにしました。
初めての方も含めて、どなたでも歓迎です。
〇日時:2020年11月7日(土曜日)午後2時〜4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「比喩と理解」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)
■土曜サロン「最近の政治に思うこと〜何かできることはないだろうか」報告(2020年10月28日)
バタバタしてしまっていて、報告が遅れてしまいましたが、10月24日開催の「最近の政治に思うこと〜何かできることはないだろうか」には女性3人を含む13人が参加しました。サロン初参加の方もいました。
予定の時間を越えて、3時間、かなり熱い議論が交わされましたが、肝心の「何かできることはないだろうか」の議論はなかなか深まりませんでした。学術会議任命拒否の話は、自分の生活からはまだ遠いと感じていて、火の粉が自分につながっていると実感している度合いはさほど強くなく、実際の行動にまではまだ至っていないようです。
案内文に書いたニーメラーの後悔が繰り返されなければいいなと改めて思います。
しかし、みんなまったく無縁だとは思っていないことは明らかです。それはわざわざサロンに参加したことからもうかがえます。
最後に、参加していた女性から、自分はいまこういう活動をしているという具体的な話がありました。具体的な明言はありませんでしたが、同様に自分でできることにいろいろと取り組んでいることを感じさせる発言は、他の人からも話し合いの途中でいくつかあったような気がします。
話し合いは、学術会議任命拒否だけではなく、さまざまな話題に飛びました。
いろいろな問題が、「茶色の朝」に向かっていることがだんだん見えてきたような気がしますが、まだ観察的な論評が多く、私は不安がますます高まりました。
今回初めて参加された方は、国政への失望感から生活拠点での地域活動に目を向けるようになったと話されましたが、そういう動きも増えているのかもしれません。しかし、「政治」への「あきらめ」や「逃走」が広がっているとしたら、それこそまさに茶色の政治が始まっていることでもあります。
私にとっては、その恐怖は、コロナ禍などの比ではありません。
ニーメラーに災難をもたらしたドイツナチスは、わずか4年で市民社会を独裁管理社会に変えてしまったと言われていますが、実はそこに至る土壌は、市民(国民)たちが10数年かけてつくってきたとも言われます。
政治不信と社会の分断、そしてその根底にある経済格差をみんなが知りながらも、ぼやくだけで、見逃していたのです。
何やら最近のコロナ禍社会そのもののような気がして、気持ちが悪いです。
3時間、いろんなことを話し合いましたが、ガス抜きで終わらなければいいのですが。
これからも注意深く、いろんな動きを見ていきたいと思います。
そして小さくてもいいので、何かできることに取組んでいきたいです。
ぜひまた「茶色の朝」サロンを継続して開催していこうと思います。