CWSプライベート:ブログ総集編12004〜2006年)

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■CWSプライベートがスタートしまし April 28, 2004
CWSコモンズをマネジメントしている佐藤修です。
CWSコモンズはリゾーミックで共創的な世界を目指していますが、
そのサブシステムとして、新たにこの、CWSプライベートをつくることにしました。
CWSコモンズは、いくつかの仕組みで構成されていますが、
その重要なメディアの一つが、CWSコモンズ(コミュニケーションのホームページです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/
これ自体が、リゾーミックな複雑なホームページなのですが、
さらにメーリングリストやディベートコーナーなど、KO
いくつかの試みをしてきました。
しかし、なかなかうまく成長しません。
まあリゾーミックな仕組みとはそんなものですが、
今度はちょっと見える形でのサブシステムをつくってみました。
それがこのウェブログです。
誰でも書きこめますので、こちらのほうが、むしろコモンズになっていく可能性もあります。
しかし、これまでの経験で、たぶんそうはならないでしょう。
そうわかっているのに、このプログラムを開始しました。
これまでのホームページも無防備でしたが、
このウェブログはもっと無防備です。
もしお時間があれば、
私の15年前の雑文をお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm
このウェブログも、この小論のビジョンの延長にあります。
私は一応、言行一致を信条にしています。

■虎の尾を踏んだ政府 April 29, 2004
国民保険の料金未納をめぐって、議員への信頼が堕ちています。
福田官房長官にはあきれました。
ここまでの嘘つきだとは思いませんでした。
例が悪いかもしれませんが、浅田農産の浅田さんたちと同じですね。
もちろん事の大きさは浅田事件よりもずっと大きいです。
ここまでくると犯罪者としかいえません。
まあ罰するにも値しない哀れな人だと思いますが。
自らの誇りを取り戻して、自己責任で自らを処してほしいですが、
そんな誇りも勇気もない人でしょうね。
哀れな人なのでしょうね。
今日、テレビで政治評論家の森田実さんが、
政府は「虎の尾を踏んだ」と話していました。
つまりさすがの国民もこれで政府の実体がわかり、動き出すだろうといっていました。
国会が決めた法律の規範性も揺るぐだろうともいいました。
そうなってほしいです。
しかし、私たちは相変わらず小泉政権を支援する行動を繰り返しとっています。
先の議員選挙も当選した3人とも自民党です。
日本の国民は自虐的ですね。
いや、日本全土がアウシュビッツになっているのかもしれません。
今回の事件に対しては、それぞれの立場で、どんどん意思表示していきましょう。

■改憲問題  May 01, 2004
今日の朝日新聞のトップ記事に、国民世論調査の結果として、
半数の人が改憲に賛成だと書いてあります。
こうした議論の危険さを指摘したいと思います。
改憲って何でしょうか。
もちろん憲法を変える事です。
しかし、憲法を変えると言う事は何でしょうか。
大切なのは、変える内容や方向です。
たとえば平和について言えば、
9条を無くすのも改憲ですし、
9条を非武装化に向けてさらに進化させるのも改憲です。
つまり全く内容が反対なことが「改憲」には含まれています。
プラスとマイナスを足せば、相殺されてしまいます。
こうした記事や物言いには危険があります。
そんなことを編集者や調査者が知らないわけがありません。
何らかの隠された意図があるのです。
まあ、最近の朝日新聞にはそれほどの知性や意思がない可能性はありますが。
改憲論者が何人いるかが問題なのではありません。
大切なのは、改める内容と方向です。
そうしたことがあいまいなまま、議論されることがあまりにも多すぎます。
言葉は吟味したいものです。

■ロードオブザリング王の帰還  May 01, 2004
アカデミー賞を総なめした映画「ロードオブザリング王の帰還」を観ました。
一言で言えば、駄作です。B級映画と言うべきでしょう。
前の2作はテレビで観たのですが、そのせいかまあほどほどの映画と思っていましたが、
今回、劇場でしっかりと観るとあまりのひどさに驚きました。
ハリーポッターの時も同じでした。
こんな愚作がアカデミー賞では、映画はもはや終わったと言うべきでしょう。
なぜかイラク攻撃や経済のグローバリズムと同じ、思考停止と暴力主義的脅迫を感じました。
それにしてもお粗末なシナリオとキャラクターづくり、編集不在と物語不在です。
メイクやキャラクター設定も問題です。
それに根底に人権問題にかかわる醜い含意を感じます。
イラク攻撃と同じ話のように思います。
ケアやノーマライゼーションの視点から考えると到底受け入れられません。
想像力が微塵もない人がつくった映画です。
いや、権力者の手先としてのプロパガンダでしかありません。
とまあ、悪口の限りを尽くしてしまいましたが、
これがあの「指輪物語」と思うと、腹も立ちます。
私は学生の頃、大学に行くよりも映画館に通っていた日が多かった年があります。
3年の頃です。3本立ての映画館をはしごしたこともあります。
映画評論家になろうかと思った時もあります。
映画からの影響はとても大きかったと思っています。
もしそうであれば、最近の映画がどういう人を育てるか、いささかの不安があります。
映画人は、そうした事をもっと考えてほしいです。
映画の持つパワーはとても大きいです。
また当分、映画は観にいかなくなるでしょう。

■住民主役のまちづくり計画  May 02, 2004
茨城県の美野里町というところでは、住民たちを主役にしながら、都市計画マスタープランをつくってきました。
それがほぼ完成しました。
外部協力者として、3年間、かかわってきたのですが、
昨日から、改めてその計画書を読み直しています。
計画と言っても、住民の意見が中心の、いわば住民意見集なのです。
住民の意見がまちづくりの拠り所になるのであれば、
住民意見集をまちづくり計画(都市計画マスタープラン)にしてしまおうという、
美野里町行政の英断で実現した、新しいスタイルの行政計画です。
1700の意見を、改めて読み直しました。
実に生々しい住民感覚がそこにあります。
さまざまな意見がありますから、
編集の方法で、いくらでも方向付けを変えられると思いますが、
その一方で、それらに通底する共通の思いも伝わってきます。
「自分たちのまちをよくするためには汗をいとわない」という思いです。
住民参加の方式は、編集者の意図でいかようにも料理できます。
その思いから、
私は、参加型まちづくりではなく、共創型まちづくりに取り組みだしました。
両者は、似て非なるものです。
取り組みだしてから、もう8年目です。
その原点のひとつが、美野里町です。
そろそろ行政依存のまちづくりは終わらせる時期です。
みんなの意見を読んでいると、改めてそう思います。
今年は、新しいまちづくり組織を制度化するための、条例づくりに住民主導で取り組む予定です。
CWSコモンズのホームページで報告して行く予定です。

■沢蟹騒動  May 03, 2004
私が好きな動物のひとつが、沢蟹です。
私の夢は(とても小さいのですが)、自宅の庭に、沢蟹と蛍がいることです。
なにせ小さな庭なので、絶望的な夢なのですが。

沢蟹を近くのお店から2匹買ってきました。
520円でした。
本当は買わずに、自然の山沢から見つけてきたかったのですが、
最近はなかなか見つける機会がありません。
友人にも頼んでいるのですが、誰も送ってきてくれません。
そこで、心ならずも、購入してしまったのです。
お店で売っている沢蟹は、あんまり強くないのです。

すぐに庭の池に放すと家出してしまいます。
今までも何回か体験していますので、まずは水槽で飼うことにしました。
ところが、今朝、起きてみると、1人がいないのです。
慌てて部屋中を探しました。
あんまり広くない部屋だったのですが、
そこに我が家の息子が同居していますので、彼に食べられたのではないかと不安になりました。
ちなみに、息子は犬なのです。

幸いに散らかった物品の中に、まぎれているのが見つかりました。
ホッとしましたが、同時にムッとしました。
せっかく居心地のいい生活環境を整いてやったのに、
蟹ですら、ホームレス願望があるようです。

そういえば、昔、湯島のオフィスで、10匹以上の沢蟹を購入して、放し飼いにしたことがあります。
この時は大変でした。
結局、全員が2日で死亡しました。水場がなかったためです。
一応彼らのためにオフィスに一角に水のみ場を用意したのですが、私の善意は伝わりませんでした。
コミュニケーションとは難しいものです。

とまあ、今日はたいした話題ではないのですが、なにやら、イラクや北朝鮮の話につながるような要素があるような気もしないではありません。

今日は一日、仕事です。

■国民の休日 2004年5月4日
今日は国民の休日です。
お風呂に入りながら、「国民の休日」というのが気になりだしました。
余計なお世話だという気がしてきたのです。

この連休、私は仕事漬けです。
NPO関係の活動であるコムケア活動の報告書をまとめているのです。
その恨みのせいかもしれませんが、ちょっと気になりだしました。

私は15年前までは組織人でした。
会社から給料をもらっていました。
今から思えば、高給でした。
当時は、祝祭日が多いと、何だか得をした気分でした。
しかし、会社を辞めて、個人で活動しはじめたら、受け止め方は全く違ってきました。
時間に対する感じ方が一変したのです。
時間がとても大事になってきたのです。
サラリーマンの意味がわかりました。
私もサラリーマンだったわけです。反省です。

こうした経験から考えれば、
休日とは、組織や制度からの解放なのです。
ですから、組織に属していないものにとっては、マイナスの価値しかありません。
銀行や役場は閉まっているし、人の集まるところは混んでいます。
いいことは何一つありません。

私が政治に最初の不信感を持ったのは、成人の日が1月15日ではなくなったことです。
なんとまあ、瑣末なことかと思われるかもしれません。
しかし、それは歴史や文化や生活のリズムを壊すことです。
許されることではありません。

祭日と休日は、意味合いが全く違います。
祭日は、やるべきことがあるから労働や日常生活をちょっと休みわけです。
休みことに意味があるのではありません。
墓参りをし、子どもと遊び、成人を祝い、憲法を考えるところに意味があります。
休日は、労働や規則から解放されるだけの意味しかありません。
この違いは大きいです。

日本がおかしくなったのは、きっと祭日を休日にしてしまったからです。
ましてや、国民の休日などと、傲慢な名前をつけたのは誰なのでしょうか。
国民の休日は、これからは無視しようと思います。
また祭日も、私はかたくなに昔の日を大切にしたいと思います。
昔の祭日を決めたのも国かもしれませんが、
まあ、そこはあんまり難く考えないことにします。はい。

国家や組織から休日の施しなど、もらうのはやめなければいけません。
そう思いませんか。
また仕事に向かいます。

■障害者と障がい者  2004年5月5日
今日もまた仕事です。
しかし、ちょっと風邪気味になったので、ゆっくりのペースです。
漢方と化学薬品の薬とサプリメントと果物と、
まあ手元にあるあらゆるものを昨日は飲みまくりました。
これでよし、とうっかり早々と風呂に入ってしまったのが失敗でした。
状況は悪化しました。
しかし、仕事の締め切りは延ばせないのです。
いやはや。

さて、今日の話題は「障害者」と言う表記に関するものです。
いま、コムケアの報告書を編集しているのですが、
その原稿を各NPOに確認してもらっています。
そこで問題提起を受けたのです。
問題提起したのは、共同作業所づくりに取り組んでいる五十嵐さんです。
とても素晴らしい活動をしています。

五十嵐さんの活動を書いた記事に、「障害者」という言葉が出てきます。
これを私が「障がい者」と書きなおしたのです。
それに対して、五十嵐さんから、こんなメールがきました。

町田市でもこのような表記を使っていますが、私は賛成しかねています。
「害」という字が好ましくないからと言う理由だと聞きましたが、
「害」を「がい」と書いて何が改善できるのでしょうか。

共感しました。
私も、最近は「障がい者」という表記に従っていますが、
問題の本質を見えなくさせることになるのかもしれません。

私は差別語狩りが好きではありません。
行きすぎた動きを、時に感じます。
それに、言葉を問題する人に限って、差別言動を感ずることが多かったからです。
従って、私は、かつては無頓着でした。

しかし、1年前に少し変わりました。
女房の病気が契機です。
それ以来、少し過敏になっていました。

CWSコモンズのホームページに、君が代と日の丸の話を書きましたが、
渡邊さんのメッセージもこたえました。
よかったら読んでください。
日の丸と君が代(2004年3月13日)です。
探すのが大変かもしれませんが。

日和見傾向のある私は、今また迷っています。

障害者と障がい者。
皆さんはどちらを使っていますか。迷いますね。

いや、そもそもこんな言葉があるのがいけないのですね。
五十嵐さんは

世の中には障害者に対する無意識の差別が蔓延しています。
「本当に暮らしやすい社会」と彼らが思う社会は、「障害」、「障害者」という概念
がない社会だと思っています。
人は場面場面によって「助けたり」、「助けられたり」ではないでしょうか。

と言っています。
まさにそうです。
障害者という概念を捨てたいですね。

14年前に、杉並区の児童館の若いスタッフと話したことがあります。
そこで、「障害者」という言葉を使ったら、
「佐藤さんから、そんな言葉が出るのはとても残念です」と言われました。
そのことを時々思い出します。
言葉のパワーは大きいです。

■常識の間違い    2004年5月6日
三菱自動車の事件が刑事事件になりました。
被害にあった家族の方は「会社ぐるみの殺人」と話していました。
私も同じ立場なら、そう言うでしょう。

それに続いて、「大きな会社なのに」と言う言葉がありました。
そこが、実は問題なのです。

10年ほど前に、あるフォーラムで、企業の社会性をテーマにしました。
大企業の経営幹部の方が主なメンバーでした。
ある巨大企業の部長が、こう発言しました。
「私たちのような大企業は、社会貢献活動にも取り組み、社会性もある。
問題は、数の上では圧倒的に多い、中小企業ではないか。」

コーディネーター役の私は、さすがにムッとしました。
「そんなことはありません。
中小企業は、反社会的なことをやれば、すぐ批判を受けて、つぶされます。
だから、お客様や地域社会のことをしっかりと考えています。
考えていないのは、みなさんたちのような大企業です。
悪いことをやっても、大企業は、つぶれないのです。」

この意味が伝わったかどうかはわかりません。

私たちは大きな間違いをしています。
大きければ信頼できる。

事実は逆だと、私は思います。
大企業だからこそ、会社ぐるみの殺人的事件ができるのです。
大企業だから反社会的な活動を社会的だと言い変えられるのです。

その典型が、国家です。
今日、米軍によるイラク人射殺の映像がいっせいに流されました。
国家ぐるみの殺人の典型です。

浅田農産の例があるではないかというかもしれません。
しかし、あれこそが典型的なことです。
反社会的なことをすればすぐに淘汰されるのです。
だから、殺人ではなく、自殺になってしまうのです。

常識とは、思考停止のためのツールです。
間違っていても、常識としては成り立つのです。
常識を捨てることも、時には大切です。

ところでオウム組織と三菱自動車の違いはなんでしょうか。

■カラスのこと   2004年5月7日
テレビで東京のカラスが少し減ったと言う話を誰かがしていました。
それでもまだ2万羽以上いるそうです。
都民はカラスが嫌いだそうです。
私もそう好きではありません。

カラスを追い払うのは簡単だそうです。
ハチを飼えばいいそうです。
カラスはハチがきらいなのだそうです。
これはローカル・ジャンクションの会で話題になったそうです。
都知事に教えてやればいいと誰かがいいました。
そこで、私が、ハチが増えたら困るんじゃないか、と言ったら、
みんなから、ハチのすごさを知らないと怒られました。
ハチは働き者で、蜜をたくさん集め、人間には役に立つのだそうです。
私の真意が伝わらなかったので話は終わりにしましたが、
今日、カラスの話を聞いたので思い出しました。

カラスはなぜ嫌われるのでしょうか。
ゴミ捨て場を汚すからでしょうか。
地球を汚しておいて、何と身勝手な、などとはいいません。

カラスが黒いからでしょうか。
それにしても最近の若者は何でみんな黒いスーツなのでしょうか。
カラスに憧れているのだろう、などとはいいません。

カラスが賢いからでしょうか。
私も賢いので嫌われているのでしょうか。
いや、自分を賢いなどと言う人は賢くないはずですね。

カラスもミミズも、悪魔も鬼も、嫌ってはいけません。
みんな、いのちでつながった仲間なのです。
我が家では節分の日には、
「福は内。鬼も内。」と言って、豆まきをします。
そのせいか、最近、いいことがありません。
でも、鬼を追い出したら、イラクはもっと悪くなるかもしれません。

風邪で熱があるせいか、よくわからないことを書きました。
しかし、実はこのわからない文章に深い意味があるのです。
なにしろ賢い人が書いた文章なのですから。

それでは寝ます。
おやすみなさい。
明日は、風邪を終わりにしようと思っています。
もう3日間、風邪菌たちに身体を貸してやっていたのです。
もういいでしょう。
出て行ってくれるといいのですが。

■嘘の蔓延   2004年5月8日
日本では嘘をつくことが奨励されていると、一昨年、私はホームページで書きました。
読んでくれた人はいるでしょうか。
ぜひ探して読んでください。

学校でも嘘をつくことは結構奨励されているように思いますし、
企業では蔓延しています。
三菱自動車では嘘をつかないと出世できなかったのでしょう。
行政でも嘘は何の疑いもなく、認知されています。
政治家は嘘が中心です。

福田さんは嘘をついたから辞任したのではありません。
嘘をつくために辞任したのです。
そのからくりがなかなか見えてこないところが恐ろしいです。

日本だけではありません。
イラク事件も嘘から始まりました。
ベトナムもそうでした。

最近の新聞やテレビでは、嘘をつく人の話題ばかりです。
最近は誰も彼もうそつきに見えますが、
なかには嘘をつかない人もいます。

嘘をついた人をしっかり記録に残す仕組みは出来ないものでしょうか。
政治家嘘つき番付をどなたか作りませんか。

■ 空白の3日間   2004年5月12日
ここに毎日、書きこもうと思っていたのですが、
この3日間、書き込めませんでした。
疲れきっていたのです。
風邪は何とか治りましたが。

その上、不幸続きです。
私だけではないのですが、悪いことが続いています。
気がなくなると、ドッと悪いことが寄ってきますね。
この2日間、とてもめげています。

またCWSコモンズには書こうと思いますが、
昨日は3人の人がやって来ました。
11時から5時まで、相談タイムでした。
3つの壮大な構想の話です。
大学、医療、福祉が、それぞれのテーマですが、
いずれも大きな話です。
それに取り組みたいという3人の人が来たのです。

いずれにも関わりたい気分がしています。
せっかく昨年、いろいろな活動から抜けたのですが、
また新しい活動にどんどん吸い込まれそうです。

世の中には、どうしてこんなに面白いテーマがたくさんあるのでしょうか。
しかも、それをやろうとしている人が極めて少ない。
不思議な時代です。

また時間がさらになくなりそうです。
スローライフとは程遠い生活から、抜けられません。
困ったものです。
心を失わないようにしないといけません。

■極悪非道な人間はどこにいるのか  May 13, 2004
書きこみを再開します。
風邪は治りました。

昨日の米国人殺害の映像は衝撃的でした。
この映像の話を聞いて、私自身、一瞬、思考停止におちいりました。

10日に企業経営幹部の方々が、これからの企業のあり方について議論して来た結果を発表する会がありました。発表の前に、私から問題提起させてもらいましたが、そこで、「三菱自動車」と「イラク捕虜虐待」の話をしました。
一見、無縁のようですが、同じ話だと私は思っています。
文化や状況は、人を一変させるのです。
今回の事件も、そうした事件に隣り合わせています。

彼らも、殺害をしたくてやったのではないでしょう。
我々は、彼らの残虐な行為を見て、彼らを極悪非道な人間と決めつけがちですが、
果たしてそうでしょうか。
もし、私も、彼らと同じ立場に立ったら、同じ言動をしたかもしれません。
状況によって一変するのが、人間ですから。
それは決して「極悪非道」ではなく、極めて人間的な行為なのです。

私は、むしろ彼らがそうしてしまった状況をつくった人を問題にしたいと思います。
彼らが極悪非道なのではなく、
彼らを追い込んだ人が極悪非道なのです。
その因果を探って行くと、おそらく、「痛み」とは無縁のところで、ぬくぬくした生活に埋もれながら、必然性の無い、非道な言動をしている人がいるはずです。
しかも、彼らは一人ではなく、「自己責任」など全く感じることのない仕組みの一員であることも少なくないように思います。

そこにこそ、焦点しぼるべきでしょう。

哀しい事件です。
しかし、私が、加害者か被害者かになる可能性は十分あります。
もしこうした事件に、対立構造があるとしたら、
加害者と被害者の対立ではありません。
もっと大きな対立構造があるのです。

このテーマが、私のこの数十年のテーマです。
CWSの二つのホームページのテーマでもあります。

なにやら難しいことを書いてしまいました。
明日からは、また気楽に書きます。

■厚生労働省の犯罪   2004年5月14日
またしても信じられないことが起こりました。
明らかに国家犯罪です。不作為の犯罪です。
これまでも繰り返し犯罪を重ねている厚生労働省です。

フィブリノゲン納入先公表問題です。
2月に、このCWSコモンズのホームページのメッセージの欄に次のことを書きました。
再録します。

厚生省とミドリ十字によって引き起こされた犯罪は、いつの間にかうやむやに終わった感じがしますが、
厚生労働省と医療業界は全く何も変わっていないことが、今回のフィブリノゲン納入先公表問題で明らかになりました。
C型肝炎の感染源になったとされる血液製剤を納入した医療機関は7000を超えているといいます。
それを使用された可能性のある患者が検査を受けるようにしていくためには、
そうした医療機関をできるだけ早く公表していくべきですが、
厚生労働省と医療業界は、またしても結託して、事務局分たちの利益を守るために公表を500に絞ろうとしていたのです。
犯罪は繰り返し行われます。
しかも、フィブリノゲンの製造元は旧ミドリ十字の三菱ウェルファーマ社なのです。
信じられない話です。まだ利権のつながりは存続しているとしか思えません。
なぜ彼らには恥の概念がないのでしょうか。

この事件はもう決着したのだと思っていましたが、
今日のテレビによれば、相変わらず公表出来ないことになったということです。
一時、厚生労働省は発表を決めたようですが。
医療機関からの反対で、また止めたというのです。
人の生命を最優先していない医療機関などは、医療機関とはいえません。
むしろ反対している医療機関を公表すべきです。
それができなければ、厚生労働省も犯罪者というべきでしょう。
しかも、これは殺人罪に当たると、私は思いますが、いかがでしょうか。
未必の殺意です。
友人もいるので、ちょっと辛いのですが、
厚生労働省という組織は一体何なのでしょうか。
これでは経済産業省と一緒です。
イラクの戦場でもあるまいし。
しかし、狂気の状況は同じかもしれません。
ひどい話です。

■沢蟹の定住  2004年5月15日
気持ちのいい朝です。

沢蟹ですが、庭の人工的なビオトープもどき(還暦の祝いに家族みんなで手作りしてくれました)に、うろとをつくり、そこに放しました。心配したのですが、ほぼ1週間たちますが、どうやら住みついてくれたようです。
広島の折口さんの近くの蟹とはちがい、極めて狭い住居ですが、
定着してもらえるとうれしいです。

しかし、やはりお店から購入した蟹は弱くて、
放す前に1匹は死んでしまいました。
沢蟹の飼い方に詳しい方がいたら教えてください。

■卑怯な新聞でいいのか  2004年5月16日
今日の朝日新聞のトップ頁に、コラムニストの早野透さんが、
「卑怯な政治でいいのか」というメッセージを書いています。
こんな内容です。

「(年金保険料未納・未加入に関して、小泉首相をはじめ、多くの国会議員は)法案の衆院通過までは口をぬぐっていた。いかさま賭博みたいな卑怯なゲームである。」

共感できます。
早野さんも書いていますが、
未納や未加入が問題ではなく、それを隠し、嘘をついていることが問題の本質です。
しかも、最高責任者の首相は、
年金制度は複雑でわかりにくい、わかりやすくしなければならない。
などと他人事の発言です。
本当にこの人は首相なのでしょうか。
だれかの傀儡なのでしょうか。

話がそれていますが、
実は私の今日の怒りの矛先は、そんな哀れな小泉首相ではありません。
彼は間違って首相にされた人であり、森首相と同じく、犠牲者です。
能力のない人が、無理な仕事を引き受けた結果でしかありません。

問題は、こうした意志も能力もない人を首相にしてしまう仕組みです。
そして、それに大きく関わっているのが、マスコミだと思います。
その最たるものは、新聞とテレビです。
政治を茶番劇にしたのは、テレビですが、
新聞にもまた、意志や能力がなくなってきています。
今や広告媒体でしかなく、広告料金を高くするための記事でしかありません。
日経で一番発言力があるのは広告部門だという話が、以前ありました。
日経のスキャンダルは、その結果の一つでしかありません。

これまでも、新聞の論調は権力に迎合して、ころころ変わります。
信念も定見も感じられません。
地方分権にしても、市町村合併にしても、構造改革にしても、
小選挙区制導入にしても、年金問題や医療問題にしても、
事実をしっかりと把握し、分析し、洞察し、意志表示するなどという姿勢はありません。
情報をしっかりおさえていたら、もう少しまともな問題設定と編集ができるはずです。

かつて朝日の有名な論説委員が小選挙区制度に関して、私は社内誌の考えとは違うのだがといって反対論を後で語っていた現場に出くわしたことがあります。
自社に影響を与えずして、何が論説委員だ、といいたかったです。
しかも、小選挙区制度が導入された後の話です。
それ以来、私は新聞者の論説委員を信頼できません。

いまの社会風潮を育ててきたのは、新聞やテレビです。
その反省がなくて、何をいまさら、「卑怯な政治」などというのでしょうか。
せめてもう1か月前に言うべきです。
衆院を通過してからいいだすのは、小泉首相と同じです。

新聞社の皆さん。
あなたたちは大きなメディアをもっているのです。
たった一人の若者でも、大きな社会変化を起こす時代です。
それなのにあなたたちは、卑怯な政治に迎合して、
戦いに勝ち目が出てきたら、今度は卑怯とののしり始める。
せめて、リスクをとってがんばっている若者を応援するくらいやってもいいはずです。
しかもそれどころか、あなたたちは、弱い者いじめが得意です。

自分は安全なところにいて、痛みに耐えよ、とかイラク復興を支援しよう、などと言っている、卑劣な誰かと同じではないでしょうか。

そういいながらも、新聞購読をやめられない自分に少し嫌悪感をもちます。
私も卑怯なのでしょうか。

■プラグを抜く難しさ  2004年5月18日
新聞をとるのをやめようというお勧めをいただきましたが、
なかなかふんぎれません。
それどころか、
パソコン依存の度合いが高まり、今やパソコンがないと動けなくなりそうです。

最近、どうも主力のパソコンが具合が悪いのです。
買ってから2年半ですが、余計なことばかりしているせいか、具合が悪いのです。
この頃は週に1度、いうことをきかなくなります。
その時間ロスを考えれば、買い直したほうが経済的かもしれませんが、
なかなかその気になれません。
貧乏性なのです。

具合が悪くなったのだから、しばらくパソコンから自由になったらいいのではないかとも思うのですが、最近は仕事も生活もすべてパソコンに大きく依存してしまっているのです。

さて、どうしたらパソコンから自由になれるか。
新聞やテレビを問題にする前に、自らの生き方を改めなければいけないのかもしれません。

生きづらい時代です。

■ホテルでの出来事  2004年5月19日
昨日は長野に泊まりました。
そして、それは今朝の4時頃に起こりました。

一人でホテルに泊っていたのです。
右を下にして、横向きに寝ていたのですが、
夜中に後ろで人の気配を感じました。
半分眠りながら、手をそちらに伸ばしましたら、人の指に触りました。
軍手をしているような指で、しかもその軍手?にはアナがあいている感触でした。
ビクッとして、寝返りをうとうとしました。
しかし、どうしても寝返りもうてず、目もあけられないのです。
そのうちに指がスーっと離れてしまいました。
そして、また眠ってしまったのですが、
すぐまた気配を感じて、半分目が覚めました。
今度はだれかが私の手に触ってくる感触です。
今度こそ必死になって目を覚まそうとしました。
寝返りも精一杯がんばりました。
しかし、身体は全く動かないばかりが目も開きません。
そのうちに、触られた感触から相手の手のひらをつかむことができたように思います。
さらに数分、頭を振り向く努力に全力を向けました。
但し、まだ半分寝ている状況です。
何度かの努力の末に、ようやく頭をグッと振り向かせることに成功しました。
瞬時に目も覚めました。
部屋は真っ暗ではなく、外の明かりがうっすら入っていました。
しかし、そこには誰もいませんし、いつの間にか手の感触も消えていました。
もちろん人がいた気配は全くありません。
私は汗をかいていました。

まあ、それだけの話です。
不思議なことに、怖さはありませんでした。
むしろなにか気持ちがやさしくなる雰囲気が残りました。

久しぶりの体験です。
そう言えば、最近は、向こうの世界との交流が途絶えていました。
以前はいろいろと不思議なこともあったのですが。

■鈍感なのは都会人だけ?(2004年5月20日)
ビレッジハウスの山本さんから、とてもいいお話を聴きました。
山本さんが企画デザインした、アウラと言うレストランが二宮にあります。
話題が高まっているところです。
そこには、いくつかの水場があるのですが、
井戸水を使っているところと水道水を使っているところがあります。
トンボが卵を産むのは、井戸水を使った池のほうだけだそうです。
もちろんトンボが集まるのもそちらのほうだそうです。
彼らはしっかりと見分けているのです。

以前、コモンズのほうのホームページに、スズメが稲穂を食べるのは農薬や化学肥料をあまり使わないところだけという話を書いたことがあります。
スズメもトンボも、みんないのちにやさしい本物を見分けます。
知らぬは私たち、都会人だけかもしれません。

たまたま昨日、科学技術倫理フォーラムの杉本さんが、
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」に関する論文を送ってきてくださいました。
いつか許可を得て、ホームページにも掲載したいです。

沈黙の春の警告に関しては、アメリカでは化学者たちによるフォローがあったように記憶していますが、日本ではどうなっているのでしょうか。

興味あるテーマです。
どなたか何か情報があれば教えてください。

■傘を失くしたら探しますか?  2004年5月21日
昨夜、仕事で伊東に行きました。
大雨でした。
にもかかわらず、傘を電車の中に置き忘れてしまいました。
まあ、よくあることですが。
伊東を降りた時も、大雨でした。
しかし、すぐにタクシーに乗ったために気づきませんでした。
傘を忘れたことに気づいたのは翌朝でした。
翌朝はいい天気でした。

さてそこで問題です。
みなさんはこういう場合、駅の人に探してもらうように頼みますか。
ちなみにその傘は、ユニクロで買った1000円の折りたたみ傘です。
たぶん多くの人は、失敗してしまったと思うだけで探す努力はしませんね。

私の湯島のオフィスに、傘を忘れて行く人が時々います。
しかし、取りに来た人は10年で2人くらいです。
後の傘は誰のものかわからないままに、私が無断借用したり、
誰かが雨の時に持っていったりで、今は1本しか残っていません。

このことからわかるように、もはやみんな傘など無くしても気にしないのです。
だとしたら、傘をみんなの共有物にしてしまったらどうでしょうか。
忘れた傘はそれを拾った人が自由に使っていいようにすれば無駄がなくなります。
忘れ物の傘を保管しておくのは大変でしょう。
電車に忘れた傘は駅の構内において、みんなで自由に使うようにするわけです。

駅前の放置自転車が問題になりますが(最近は少ないですが)、自転車はすべて共有物にしたらどうでしょうか。無駄がなくなります。
所有者がわからずに、廃棄処分にするよりは、誰かが有効活用したほうがいいはずです。

自転車や傘などは、もうみんなのものと言う概念で、考えてもいい時代です。
もちろん自分だけのお洒落な自転車や傘を持ちたい人もいるでしょうから、
その人たちは自己所有にすればいいでしょう。
所有の概念を、そろそろ変える時期だと思いますが、どうでしょうか。

ちなみに私は持ち物に名前をつけることに反対です。
落とした場合、有効活用されずに無駄になるような気がするからです。
子どもの頃から持ち物に名前をつけるのが馴染めませんでした。
むしろ「拾った人は大事に使ってください」ということを明記できれば、
何かを落とした時に、残念がらずに誰かの役に立ったと言ううれしい気分になれるかもしれません。
どうでしょうか。
いい案だと思うのですが。

■怒った横田滋さんを初めて見ました  2004年5月23日
昨日、初めて怒った横田滋さんを見ました。
家族会のみなさんの怒りに共感します。

非人道的な国家の支配者に、人道支援をするということは論理的に成り立ちません。
人道支援の名前の下で、また私の税金の一部が、弱いものいじめに使われるのが残念です。
人道支援というのであれば、NGOを通して、北朝鮮の生活者に支援すべきです。

■国民参加の裁判員制度  2004年5月24日
司法制度が大きく変わり、新たに国民参加型の裁判員制度が導入されます。
みなさんはどう評価されているでしょうか。

私にはとても違和感があります。
第一に「国民参加」という発想に嫌悪感を持ってしまいます。
何をいまさらです。
それに、だいたい「参加」などとは傲慢です。
行政の「住民参加」や「市民参加」と同じく、やる気のない人ほど、高い目線で「参加」などというのです。

その前にやることがあるだろうと思います。
たとえば裁判の透明性を少しは高めてほしいものです。
その方がよほど「国民参加」性は高まるでしょう。
被害者の写真すらもちこめない法廷って何でしょうか。
裁判官の私物ではないのです。
オウム事件の裁判ですら、写真さえ撮れずにイラストで紹介。
なんというおかしさでしょうか。
オウムの松本被告がやってきた権威付けどこが違うのでしょうか。

もし参加志向を高めるとしても、いまさら陪審員制度ではないでしょう。
これだけ情報環境が変わっているのです。
時代錯誤もはなはだしいと思います。
少しは勉強しろといいたいです。

法曹界の人たちには自らの社会常識を高めてほしいです。
特殊な世界になっている仲間主義を壊してほしいものです。
正義は六法全書のなかにあるわけではありません。
法は手段であって、しっかりした時代認識と世界観をもった、リーガルマインドが法の意味を決めていきます。
大切なのはそれぞれの生き方です。
生活者の生きた感覚が、専門知識より上位になければいけません。
それは、陪審員制度のようなかたちで取り入れることではありません。
裁判官や検事や弁護士が、そうした感覚を育てなければいけません。
私は、いまどき、このような制度を持ち出すこと自体に、彼らの常識のおかしさを感じます。いわゆる有識者も検討に参加されたのでしょうが、有識者の多くは時代を生きていない人たちだと私は思っています。例外がないとは言えませんが。

裁判にとってもう一つ大事なのは、判断材料です。
つまり、判断するための事実によって、判断は全く変わってきます。
「判断過程」と同じくらい「判断材料の収集と編集」が重要なのです。
そしておそらく今はこちらのほうにこそ問題があるのです。
その解決策のほうこそ大切ではないでしょうか。
これも情報環境の変化によって状況は激変していますが、
それをどのくらい活かしているのでしょうか。

同時に自らの能力を高める努力も必要です。
自分の能力不足を「参加の論理」でごまかしてはいけません。

どうも今回の司法制度改革は、
自らを正さずに、責任逃れをしようとしているのではないか。
地方分権、市町村合併、年金改革、それらと同じ動きの一つのように思えてなりません。

最近、腹立たしいことが多く、少し八つ当たり気味ですが、
ともかく昨今の「制度改革」は、すべて疑ってかかったほうがいいという気がしてきました。
専門家が考えたのだからと安心していてはいけません。

■大銀行の業績   2004年5月25日
多くの大銀行が業績を回復している中で、UFJ銀行だけが大赤字だという発表がありました。
いずれにもおかしさを感じます。
つい最近まで税金をつぎ込んでいた銀行が、赤字だとか黒字だとかいうこと自体おかしいと思うのですが、それよりも彼らの業績は「社員の今期の実体活動を反映したもの」ではなく、数字操作の結果であることにおかしさを感ずるのです。
赤字であろうと黒字であろうと、当該銀行の社員たちは実感が持てないのではないかと思うのです。
しかも、その背景には、社員たちの、正式には元社員たちの大きな犠牲があります。
組織にとっての黒字が、社員にとっての赤字につながる構造は、どう考えてもおかしいです。利益は、そうした人たちにこそ向けられるべきです。
しかし、誰もそんなことは気にしていないように思えます。
それに会社が黒字だろうと赤字だろうが、振込みなどの手数料は変わりません。

こうしたところに、経済システムの破綻の原因があるのではないでしょうか。

新聞の勧誘がよく来ます。
すごいサービスを提案してきます。
働きかけようによっては、新聞購読代以上のサービスを受けられるかもしれません。
それが可能なのは、おそらく広告料金なのでしょう。
以前もどこかに書きましたが、大新聞がいまや広告メディアであり、フリーペーパーの内容になっています。まもなくマイナス購読料金制度になるかもしれません。
そういう中で、きっと新聞社の人たちは仕事への意欲を失い、ひどい新聞づくりに荷担するようになっているのでしょうか。
いずれにしろ、ここでも仕事の実体と収益構造とは無縁になっています。

私は今の銀行は、ノンバンクやサラ金を支援しながら、社会を悪化させている悪の権化だと思っています。それに荷担しているのが金融庁です。彼らの「不作為の罪」も大きいです。
そうした悪の権化たちの世話にならないといけない自らのふがいなさを恥じなければいけませんが、かくもおかしい金融業界を刷新する人は出てこないのでしょうか。

■年金制度の論理矛盾  2004年5月26日
もし、年金が自らの老後保障のためだとします。
そうであれば、積み立てた人が積み立てていてよかったと思うように制度設計すれば、それだけですべて問題は解消します。
加入呼びかけは不要です。
未加入であろうと未納であろうと問題にはなりません。
未納者が多ければ、納入者は有利になるはずですから。

もし、年金が同時代の高齢者の生活支援のためだとします。
そうであれば、税金と同じに考えれば、すべて問題は解消します。
保険料などは不要で、税金を高くすればいいのです。
未納者は許されません。
フリーライダーはペナルティーを与えることで解決します。

こういう簡単なことすら整理されておらずに、
政治家も霞が関も制度が難しいとか騒いでいるのですから、お話になりません。
問題は簡単なのです。
2年で時効などと言うのは、前者の発想です。
未納者が3割もいる状況を引き起こしているのも、前者の発想だからです。
にもかかわらず、ある時はしゃあしゃあと後者の大義を振り回すのです。
誠意も知性も全く感じられません。

まあ、これはほんの一例です。
こうしたやり方が、霞ヶ関の部長以上の人と政府のやり方です。
一言でいえば、狡猾で性悪なのです。
霞ヶ関のプライドも知性も、今の部局長には全くないと言うべきでしょう。

ところが、霞ヶ関の若者世代は全く違います。
そこに私は大きな期待を感じます。
その世代が横につながってほしいものです。
そうすれば生活者の知恵や汗とつながれるはずなのですが。

このホームページに出合った霞ヶ関の若手官僚の方が、もしいたら、
横をつなぐ霞ヶ関サロンを始めませんか。
もちろん自分の所属する組織を創造的に破壊するための活動拠点を育てるために、です。
ご連絡下さい。協力します。
このままでは、強欲な中高年者たちに、この国は破壊されてしまいます。

もっとも私も、その強欲な中高年世代なのですが。
これは念のため。

■吉野家の牛丼がなくなったので米の消費が減ったという話 2004年5月27日
昨夜、福島市の人から聞いた話です。
吉野家の牛丼がなくなったため、日本人の米の消費量が減っているそうです。
吉野屋はすごい存在だったのですね。感心しました。

我孫子市の生協は山形の高畠町の有機米を扱っています。
高畠といえば、星寛治さんのところです。
1キロ870円です。しかしよく売れるそうです。
このつながりを、私は最近知りました。
我孫子市の生協のメンバーは援農活動に高畠にも行っているそうです。
行動している人はきちんとしています。
私などは理屈だけですので、そうやって行動している人に出会うともう脱帽です。

美味しいお米は、まさに一汁一菜で十分です。
私は「グルメ」ではありませんが、一応味は少しわかります。
美味しいお米は、実に美味しいです。
おかずなどいりません。

吉野屋型の米消費量の促進も否定はしませんが、
やはり米飯のもつ本来の美味しさや健康性を、もっと正面から取り組むべきです。
1キロ870円で売れる米をつくれば、農家も少しは救われるでしょうし。

ところで、私が一番美味しいと思うおかずは漬物です。
しかし、女房には悪いのですが、この40年、美味しい漬物に出合ったことがほとんどありません。ですから、美味しい漬物の味を忘れてしまっています。
たかが漬物と思うかもしれません。
しかし、私は漬物にこそ、日本の文化が凝縮されているように思います。

そうした日本の食文化を壊してきたことを、改めて問い直す必要があります。

食育に取り組む人がまわりに増えてきました。
うれしいことです。
私も食育の雑誌の編集を一度したいと思っています。
友人に提案したら、私には編集長はできないと言われました。
どこかの出版社で、私を編集長にしてくれないでしょうか。
とてもいい企画を持っています。1年間任せてくれるだけでいいのですが。

■家族会の怒りに共感します 2004年5月28日
今週は怒りのメッセージが多かったのですが、
表現も含めて、少し品格がないと女房に指摘されました。
それで咲く実は怒りをお休みさせたのですが、やはり怒りが静まりません。

拉致被害者家族会に批判メールがたくさん届いているそうです。
昨日見てみたら、横田さんがそれに対して、コメントを書いています。
もしまだの方はお読みください。
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200405/20040525.htm

それにしても哀しいことです。
朝日新聞(まだ止められずにいます)の昨日の朝刊にこんな市民の声が載っていました。

・ 被害者家族の怒りの言葉を聞いて「ちょっといいすぎじゃない」「小泉さんがかわいそう」と、応援していた気持ちに変化がでました。
・ あせる気持ちもわかりますが、批判ばかりしている皆さんを見ていてさみしくなり、テレビを切りました。
・ 何の権利があっていいたい放題なのか。

きっと素直な意見なのでしょうし、
これだけ読むとうなずく人もいるでしょう。
とても私たちのこころにはいりやすい言葉です。

しかし、私がもっとも嫌いな発言です。
こうした人たちがアウシュビッツを支えてきたのです。
つまり私たちが、という意味です。

統治のための情報体制は整備されてきています。
異論を挟むことのできない社会に向かいだしているのかもしれません。

相手の立場を思いやれない、非当事者たちが、寄ってたかっていじめを行う構造をどうすれば、変えていけるのでしょうか。
米兵のイラク人虐待が私たちの社会でも行われだしているのです。
しかもその本人たちは、善意の顔をして、そのいじめに荷担しています。

朝日新聞の記者の悪意(「善意」の悪意ですが)も感じますが、
こういう発言をした人たちに、怒りを感じます。
しかし、どうして彼らにその怒りを伝えればいいのでしょうか。

あるいは、
私の感覚がおかしいのでしょうか。
その可能性もかなりありますが、
とりあえずは家族会にエールのメールとカンパを送りました。

■ 流れが止まらないことへの怒り 2004年5月29日
今週はついに「怒り週間」になってしまいました。
最後もまた「怒り」です。

わかっていても流れが止められない、
こうしたことが多いのが気になります。

国民の税金を注ぎ込んでいる大銀行の役員の報酬の報道がありました。
3,000万円近くでした。
これを高いと見るかどうかは様々でしょうが、やはり割り切れません。
自分で稼いだお金であれば、1億円でもいいですが、
国民の税金に依存しながら、相変わらず経営を放棄している経営者が、
国民の平均年収より多いのは納得し兼ねます。

年金制度を子どもたちに教えるための副読本が作られています。
CDも作られています。
それを使って社会保険庁のOBが学校に教えに行くそうです。
それらの予算が2億円以上です。
そして、それらはほとんどが使われていないそうです。
今朝のテレビで、内部告発があったと報道していました。
無駄遣いは一向に直っていないのです。

ついでいえば、
日本の行政のコミュニケーション活動は全くコスト・パフォーマンス意識がありません。
役場に行くとたくさんの、おそらく誰も見ないような立派な資料がカウンターに山積みされています。昨日も美野里町の役場に行ってきましたが、相変わらずたくさん積まれています。それはいずれも市町村ではなく、国や県から送られてくるのです。市町村はそれを受け取らなければいいと思うのですが、そんなことのできる市町村はないでしょう。
資源の無駄や空間の無駄、人件費の無駄。馬鹿げたことです。
行政の無駄遣いは、さらに加速されています。
市町村合併にまつわる無駄遣いはすごいものです。

ところで、下山さんからテレビに関するコメントがありました。
内部告発者にテレビを開放するのはどうでしょうか。
内部告発24時間テレビというのをやったら、そしてできれば毎月1回やったら、テレビの存在価値も回復できるかもしれません。
スポンサー依存のテレビ局では無理な気もしますが、考えてみる価値はありそうです。

ところで、小川さんはとても残念でした。
心より冥福をお祈りいたします。
NHKには思いのある人が時々います。
彼らが横につながったら大きな仕組みができると思うのですが。

■朝市の賑わい  2004年5月30日
朝、近くの道の駅に野菜を買いに行きました。
朝市でにぎわっています。
朝取りの野菜がたくさん出されています。
みんな生産者の名前が書かれています。残念ながら価格は同じですが。

大量生産主義をやめた場合、流通経路は一新されます。
もしここで売れ残りのリスクを担保できる仕組みができれば、
販売価格を維持しながら、倍のエネルギーと心遣いを生産に向けられるかもしれません。
そうした場合、誰が損をするでしょう。
農薬や化学肥料、農機具が売れなくなり、流通業者が困るかもしれません。
しかし社会的なメリットは大きいです。
環境負荷も医療費も介護費用も減るかもしれません。
その分、損をした人に保証してやってもいいでしょう。
それくらいの経済メリットもあるはずです。

朝市の賑わいは、単に経済活動だけではありません。
そこで触れ合う人間のつながりも大きな効用です。

市の回復。
それこそがまちづくりの基本かもしれません。
市と市場は、似て非なるものです。
朝市に行くといつもそう感じます。

■身勝手な生き方から抜けられません  2004年5月31日
今日は銀行の人と会っていました。
融資を受けるためです。
あんまり真面目に働いていないせいか、時々、活動資金がなくなります。
元気な時は仕事を増やすのですが、最近はちょっと元気がありません。
それで銀行融資を受けることにしました。
ビジネスローン担当の方に来てもらいました。

先日、あれほど銀行に対して罵倒していたのに、その銀行に支援を頼むなどというのは、つじつまが合いません。困ったものです。

まあこれはほんの一例でしかありません。
なかなか言動を一致させるのは難しいものです。

汗をかかずにお金を得ては行けないと考えながら、宝くじを買ってしまいます。
環境負荷を最小化しようと思いながら、短い距離でも自動車に乗ってしまいます。
テレビを批判しながら、馬鹿げた内容のテレビを見てしまいます。
家事分担をするといいながら、何もしません。
困ったものです。

63歳にして漸くですが、最近、自分の身勝手さに気づきだしました。
しかし、その身勝手さはなかなか直りません。
いや、ますます高じそうです。

今日も私が取り組みたいと思っていることを説明し出したのですが、
銀行の方にはほとんど興味を持ってもらえずに、
「運転資金がいるのですね」
と総括されてしまいました。
確かにそうなのですが、プロジェクトの意義を感じて銀行が寄付をしてくれるかもしれないと思うのが、私なのです。そんなことは夢にも起こらないのですが。

銀行の方は淡々と説明してくれました。
そして親切に、もっと有利な資金調達の方法まで教えてくれました。
この人がもし私のホームページを読んでいたら、こんなに親切ではないでしょうね。
そして、融資はしてくれないでしょうね。
読んでいないことを感謝しなければいけません。

教訓。
弱い立場の人間は権力に異議申し立てしてはいけません。
権力に従うのが賢い生き方です。
銀行がいくら融資してくれるか心配です。いやはや。

■沈黙の春  2004年6月1日
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」はお読みになりましたか。
環境問題を最初に警告した本です。
日本では、私が会社に入った年に出版されましたが、
私が自称エコロジストを称えだすきっかけになった本です。
当時は「生と死の妙薬」という題で翻訳されました。
その題が私にはとても違和感があり、装丁の悪さも含めて、書棚には置きたくない本でした。出版社の新潮社のセンスを疑いました。こんな馬鹿げた書名にしなければ、きっともっと売れたはずです。そして社会に影響を与えたはずです。
10年ほどたって、書名が原題の「沈黙の春」に戻って、新潮文庫として出版されたので、ホッとした記憶があります。

レイチェル・カーソンは、最近は「センスオブワンダー」が有名で、その読書会も各地で行われています。
彼女は科学者ですが、沈黙の春の寓話のように、詩を感じさせることがあります。
彼女の作品のひとつ、「われらをめぐる海」には詩があると言われて、彼女は次のように答えています。
「海について真実を語ろうとすれば、詩にならざるを得なかったのです」
こうした彼女の姿勢が、私はとても好きです。

しかし、にもかかわらず、翻訳で読む彼女の作品はいずれも難解なのです。
それが気になっていたのですが、先日、科学技術倫理フォーラムの杉本さんから、「沈黙の春」の翻訳は技術者からするとわかりにくい。できれば改訳したいというお話を聞いて納得できました。真実をきちんと伝えないと、美しくはならないのです。

杉本さんから新潮社に打診してみるように頼まれたので、間接的に打診していたら、今日、連絡がありました。それによると、誤訳が多いという読者からの苦情があって、2001年に改訳をしたそうです。それも知りませんでした。早速新訳を読んでみようと、書店に行きましたが、残念ながらありませんでした。

杉本さんは、この本をしっかりした科学技術の素養を持った人が訳せば、もっと影響力を発揮できるだろうと考えています。
同感です。
そして、改めて、沈黙の春のメッセージをしっかりと受け止める動きを起こしたいものです。
ちなみに、米国では、1987年に「Silent Spring Revisited」という本が出ています。カーソンの問題提起を化学者たちが検証したものです。杉本さんは、技術士として、日本でもそうしたことを行いたいと、きっと考えているのでしょう。

ところで、今のところ、沈黙の春は避けられているようです。
鳥の声もよく聞けますし、花も昆虫も増えているような気もします。
しかし、本当に安心していていいのでしょうか。
いろいろと気になることの多い毎日です。


■親知らず歯の活用  2004年6月2日
歯医者に行きました。
近くのミドリ歯科です。そこの先生の石川さんがすごく話し好きなのです。
今日はこんなことを教えてもらいました。

私には1本、まだ埋っている親知らずがあります。
埋まっているが故に、虫歯にもならずに健全です。
最近は、その親知らずを掘り出して、他の場所に移植することができるようになったそうです。ですからむやみに親知らずを抜いてはいけないのです。いざという時の財産なのです。
さらに最近は、歯の種のようなものを育てる試みも進んでいるようです。
歯が抜けても大丈夫の時代が来るかもしれません。
人間の身体はまだまだたくさんの可能性を秘めているようです。

しかし、その一方で、いとも簡単に生命は突然断ち切られます。
イラクの橋田さんや小川さんもそうですが、
今日はまた佐世保で子どもの殺人事件です。

経済的に豊かになったにもかかわらず、多くの人は豊かさを実感できないでいます。
医学は進歩したにもかかわらず、多くの生命が軽んじられだしています。
どこか似た感じがします。
どこが間違っているのでしょうか。

今日は女房の胃がん手術1年目です。
1年が無事過ごせたことに感謝しています。
がんになったおかげで生命や時間の大切さに気づいたと、多くのがん患者の方が話します。私もその思いを少しだけ共有させてもらっています。

■テレビタレントのサブリミナル効果  2004年6月3日
佐世保の小学生殺人事件によって、私たちはまたひとつタブーを失ったように思います。
子供同士の殺人という、思ってもみなかったことが、この数年、次々と起こりました。
不謹慎ないい方ですが、そうした事件が「解禁」されたのです。
こういう「解禁」が、この数十年、次々と起こっています。
生命現象の危機かも知れません。

私たちの社会が何とか安泰を保てている大きな理由の一つは、タブーがあるからです。
天の摂理として、生命の一つひとつに、それは埋め込まれています。
陽光を浴びると元気になり、血をみると恐怖に陥る。
笑顔を見ると心和らぎ、涙を見ると涙が出てくる。
困っている人がいたら、自然と救いの手が出てしまう。
それは、生命現象が個々ばらばらにあるのではなく、つながっているからだと、私は思っています。
人が喜ぶと自分もうれしくなるのも、そのおかげです。

ところが、最近、どうもそうではないのです。
どこかで生命の連鎖が切られてしまっているような気がしてなりません。
埋め込まれているはずのタブーがどこかで動かなくなっているのでしょうか。

タブーは、誰かが破ってしまうとタブーであることをやめてしまいます。
問題は、誰も破らなくても破れることを確信させてしまうことがあることです。
タブーは実際には破らなくとも、頭の中の空想の世界で破ってしまうことがあります。
皆さんも、頭の中でタブーを破ったことはあるでしょう。
それが現実にならないところにタブーのタブーたる由縁があります。
もちろん全く気づかないタブーもありますが。

では誰がタブーが破られたと思わせたのでしょうか。

サブリミナル効果が話題になったことがあります。
多くの場合、隠し画面として特定のメッセージを入れることを指しますが、
それ以上に大きな影響は、テレビを舞台に活動している有名タレントたちの言動です。
最近のテレビは、彼らの主観的言動の露出空間になっており、そこからの繰り返しメッセージがサブリミナル効果を持ち出しているような気がします。
そうしたシグナルの中に、自らの頭の中のタブー破りを含意している言動が、かなりあるように思われます。しかもそれらは特別の物語としてではなく、日常的な人間生活の中につながっているために、現実との境界が見えなくなってしまっているように思います。
しかもそうしたことを売り物にしている存在が少なくありません。
要するにテレビの中が、日常をベースにした非日常になっているのです。
たとえば北野たけしは世界的に高い評価を得ていますが、私には全く理解できません。
私の体内に埋め込まれた感性からすれば、目を背けたくなる言動があまりにも多いからです。どこにでもいるただの人が、無理をして騒いでいるだけにしか感じません。
私の感性が狂っているのかもしれませんが。

いまや子どもたちの最大の「学びの場」になっているテレビに関わる人たちに、
今回の事件と自分の言動をつなげて考えてほしいと思います。
もちろんニュースキャスターも含めてです。

■年金改革法の成立をとめる方法 2004年6月4日
年金改革法が成立しそうです。

いまさらという話をします。
とめる方法はひとつだけあったと思います。
民主党か筑紫哲也チームにメールしようかどうか迷いましたが、
これまでもいろいろメールしても反応があったことがほとんどないのでやめました。
自分で活動を起こせばいいのですが、それもやめました。

方法は国会デモの呼びかけです。
国民の多くが反対しているのですから、誰か影響力のある人がテレビを通じて呼びかければ、大勢の人が国会に参集したと思います。そうすれば事態は変わったはずです。
国会を埋め尽くすほどの人がきっと集まったはずです。
イラクでは埋め尽くせませんでしたが、年金では埋め尽くせたと思います。

その呼びかけをできる立場にいる人はたくさんいます。
委員会の暴挙がなされた夜のニュース23で、筑紫さんが呼びかけるかと期待していました。
しかし、その期待は実現しませんでした。
民主党が呼びかけるとも思っていましたが、それもありませんでした。
だれも本気で年金改革法を止めようと思っていないのですね。
私も、その一人ですが。

それとも、みんなまだ民主主義を理解していないのでしょうか。
民主主義の最大のパワーは武器や戦術ではなく、人の言動です。
国民は誰かが声をかけてくれるのを待っているのです。

ちなみに私は年金制度にはあまり関心はありません。
国家に対する信頼感がもてないからです。
年金がなくても気持ちよく暮らせる社会づくりに関心があります。
それにもう年金の受け取り側になっていますので、制度変更の主役にはなれません。
もっとも不思議なことに、そうした人たちが年金制度改革出の主役になっているようですが。
坂口厚生相には失望しました。

■朝のあいさつ  2004年6月5日
最近、女房と二人で30分の早朝サイクリングをやっています。
今日は手賀沼のあやめを見に行きました。明日からあやめ祭りなのです。
自転車で15分、途中は自転車も通れる散策道です。
人に会うたびに、「おはようございます」の挨拶をかけるのですが、必ず返事が返ってきます。
ヘッドフォンを聴きながら散策している若者ですら、気配を感じるのか返事を返してくれます。
とても気分のいいふれあいができるのです。

「おはよう」の一言で、人はつながりを感じ、つながりを育てられるのです。
それなのになぜ人は追いやられ孤立化し、犯罪を起こすのでしょうか。
人がつながっていれば、困ったことがあれば、きっと誰かが助けてくれます。
誰かを助けてやることもできます。
しかし、その「おはよう」がどんどんなくなってきているのです。
子どもの世界も、そうなのでしょうか。

たとえば一昨日の年金に関する委員会でのありさまは、そうした世界とは別世界です。
つながりをつくるどころか、つながりを壊そうとしています。
そこに、民主党の間違いがあったように思います。
国民に向けて、挨拶をしてくれたら、みんな動いたはずなのです。

日本の文化は、まだしっかりと残っています。
しかし、どうも国会や大企業にはもうなくなってしまったようです。
学校はどうでしょうか。

■ネットを介したコミュニケーションの難しさ 2004年6月6日
佐世保の事件で、ネットによるコミュニケーションの問題点が議論されています。

私もネットを使ったコミュニケーションの輪を広げている一人ですが、
確かに難しさを感じます。
ほとんどニュアンスが伝わらないのです。

5月31日の記事の最後に「教訓」という3行を載せました。
橋本さんがコメントしてくれました。異論の提出です。
橋本さんは私のことをよく知っているだろう人です。
翌日、コムケアセンターで矢辺さんから、
あの記事を読んで、「佐藤さんは疲れているのかな」と思ったと言われました。
つまりコミュニケーションができていないのです。
ある人からメールが来ました。
佐藤さんのジョークは若者には伝わっていない、と。

これは、しかし、ちょっとした世代文化の違いかもしれません。
ネットのやりとりのおかげで、それが顕在化したのです。

折口さんが、CWSコモンズのホームページの「折口さんのつれづれ日記」に、
言の葉の発する恐ろしさ。(6月5日)を投稿してくれています。
そうした恐ろしさもたしかにあります。

私はネットのやりとりで、これまでに舌禍事件を3件起こしています。
CWSコモンズのホームページでも一人の知人を失いました。
ですから、最近はかなり注意しています。
私自身は一応、ネットの性格を理解していますので、それなりの準備はできていると自負しています。

しかし、です。
その私ですら、週に1回は、メールや書きこみで、なにやら滅入ることがあります。
相手の善意や真意は一応理解した上での、何とはなしの不快感を味わいます。
すぐにおちつくのですが、そうした気分が自然と起こるのです。
そんな嫌なことがあるのなら、止めたらいいと思うかもしれません。
しかし、それを上回るうれしいメールもあるのです。

もっとも、うれしさと嫌さは、実は相殺できません。
別々のものなのです。
ですから、こうした言い方は正確ではないでしょう。

気持ちのいいネットのやり取りをできるようにするためにどうしたらいいのでしょうか。
私は、それは不可能なことだと思います。
時に不快感を味わうことこそ、健全なことなのです。
利便性や快適性を追求しすぎた結果は、退屈な人生です。

今日はどんなメールに、一喜一憂するのでしょうか。

■ユニバーサルデザインへの違和感 2004年6月7日
ノーマライゼーションへの違和感について以前書きましたが、
今日はユニバーサルデザインへの違和感です。
4日のユニバーサルデザイン生活者ネットワークのシンポジウムで話したことの一部を少し書きます。補足しながら。

ユニバーサルデザインという言葉が広がっています。
この分野で活躍している中川聡さんは、「あらゆる使い手に快適で使いやすい環境やモノを提供することを目指す社会的な意識や態度」と定義しています(「ユニバーサルデザインの教科書」)。
誰にでも使いやすいことを目指す設計思想。なんとなくわかったような気になる言葉ですが、商品や空間を設計する際には、「使いやすさ」を重視するのは当然であって、何をいまさらという気がしないでもありません。しかし、なぜかこの言葉が流行しています。いかに、そうでない状況になっているかの現われかもしれません。

ユニバーサルデザインには有名な7原則があります。
原則1:誰にでも公平に利用できること
原則2:使う上で自由度が高いこと
原則3:使い方が簡単ですぐわかること
原則4:必要な情報がすぐに理解できること
原則5:うっかりミスや危険につながらないデザインであること
原則6:無理な姿勢をとることなく、少ない力でも楽に使用できること
原則7:アクセスしやすいスペースと大きさを確保すること
どうですか。退屈でしょう。
当たり前すぎるほど当たり前であり、しかも言葉があいまいです。
なぜこんな内容のない言葉(概念)が流行するのか。

誤解のないようにいえば、ユニバーサルデザインへの関心の高まりはとても良い事だと思っています。ただ、その取り組みが、概念の吟味もせずに、言葉だけが安直に広がっていることに違和感があるのです。

そもそも「ユニバーサル」という言葉に違和感があります。ユニバーサルな発想で、本当に使いやすさが生まれるのか、むしろ作りやすさのための発想ではないか、などとひねくれて考えてしまうのです。
もっとも、中川さんによれば、ユニバーサルには本来「個を目指す」という意味があるそうです。「誰にでも」という意味は、「様々な個人一人ひとりにとって」ということなのです。でも何か違和感があります。

言葉はともかく、重要なことは、こうした動きの中に、作り手からではなくて、使い手、つまり個人の具体的な生活から発想するという視点の転換が込められているということだと思います。
提供された商品や環境に使い手を合わさせるのではなく、使い手に合わせた商品設計ということです。それも、目指すところは、マスとしての客観的な使用者ではなく、それぞれに事情をもった使い手、生活者ということです。

だとすれば、ユニバーサルデザインとは作り手にとっての商品開発のためのデザインではなく、使い手の生活支援のためのデザインということになります。
まさに、私の言葉でいえば、組織発想から個人発想へのパラダイムシフトです。
デザインの対象が変わったという点も重要です。もちろんデザインのプロセスも変わります。

ところで、生活は一人一人によって表情が違います。
ですから、実は誰にでも使いやすいということは、実は誰にでも不満が残るということでもあります。
カスタムメイドではなく、量産を基本とする企業と個人事情を持った生活者をどうつなげていくか。ここにユニバーサルデザインの大きな課題があります。
それは、実はモノづくりの思想や産業の枠組みを根底から変えることなのです。

しかし、今のユニバーサルデザイン議論には、そうした視点があまり感じられません。
これまでのパラダイムの延長でしか考えられておらず、ユニバーサルデザインは改善策なのです。
ユニバーサルデザインを、これまでの発想の先に位置づけるか、これまでの発想を壊す視点で考えるかで、内容は大きく変わります。
ちょうど、地方分権と地域主権が全く正反対のものであるにもかかわらずに、混同して議論されているのと同じです。百害あって一利無しです。

長くなりました。まさに論文ですね。いやはや。
読む人も飽きたでしょうが、書く私もつかれました。
なかなか書きたいことに辿り着けません。
メディアをまちがったようです。すみません。

■突然報道されなくなった年金改革法  2004年6月8日
夢を見ていたのでしょうか。
年金制度改革法が「成立」した途端に、マスコミからその話題が消えてしまいました。
あれほどの混乱や国会欠席までしていた野党の声も聞こえません。
あれは夢だったのでしょうか。

7割にもおよぶ国民の反対は、何だったのでしょうか。
狐につままれた気分です。

マスコミがとりあげないと、事件は事件にならないことがよくわかりました。
イラク戦争って、本当に行われているのでしょうか。
すべてがマスコミがつくった虚構なのでしょうか。
自分の存在も少し不安になってきました。

■つながり  2004年6月9日
ある社会実験によると、すべての人は5〜6人を介してつながっているといいます。
日本のテレビでも、北海道の身寄りの全くないお年寄りが東京の全く知らない人に、個人的なつながりを介して手紙を届ける実験をし、たしか7人ほどで無事手渡された結果を放映したことがあります。
そのテレビを見た、ある若者起業家が、私のところに飛び込んできて、
「佐藤さん、ひとはみんなつながっているのですね」
と、感動を伝えて、すぐに帰った「事件」がありました。
その後、彼と会っていませんが、いつかまた会えるでしょう。
人は会うべき人には必ず会えるものです。

昨日、地下鉄日比谷駅で岸田弘さんに会いました。
この駅は不思議な駅で、よく知り合いに出会います。
それも、その人のことを思い出したり、誰かと話題にした直後にです。
岸田さんは千葉の大原に民家を購入して、そこに徐々に転居している人です。
先週、ある人と帰農の話をしていて、そういえば岸田さんはどうしているだろうと思ったところでした。その数日前にテレビで大原のニュースを見たのがその誘因でした。

東京は様々な出会いに恵まれています。
数年前に御徒町の駅近くで、突然声をかけられました。
寺田実さんです。
異色の人です。
銀座のギャラリー悠玄で、17日から個展をやりますが、
17日のオープニングパーティに行くと彼に会えます。
作品はすばらしいです。彼の人柄も魅力的です。
彼の個展に誘われたのは、御徒町で偶然であったおかげです。
彼とは一度しか会ったことがないのです。
それもあるイベントに講演に来てもらっただけです。
それが偶然の出会いのために、個展の案内が届いたのです。

個展に夫婦で行ったら、私たち夫婦の共通の友人も出展していました。
彼の教室に参加していたのです。
2人とも滋賀の人なのです。
人は確かに無限につながっています。
そして、会うべき時に会うのです。

今日、コムケア仲間のCS21の叶内さん、村上さん、川副さんが訪ねてきてくれました。叶内さんの思いのたけをお聞きしました。私の思いとかなり重なりますが、まあそれはまたコモンズのほうで紹介します。
3人が帰り際に、私が美野里町の名前を出しました。
そうしたら、叶内さんたちは何と美野里町を訪問し、そこの文化センターを見てきたそうです。「文化がみの〜れ物語」も知っていました。私がそれを編集したことには気づいていませんでした。
コモンズのほうに何度も出てきていますが、私は美野里町やそこの文化センターとかなり深いつながりがあるのです。
あまりの意外な話に驚きました。
しかし、こうした偶然は私だけではなく、叶内さんもたくさん経験し、そしてその結果、今日、仲間と一緒に私を訪ねてきてくれたのです。

明日は誰と出会えるでしょうか。
東京の魅力のひとつは、偶然の出会いです。
念じていると、必ず会えるのです。
不思議なまちです。

■出生率低下は未来への夢とつながっています 2004年6月10日
合計特殊出生率が1.3を切りました。衝撃です。
さまざまな委員会で議論されていましたが、下げ止められずにいます。
そろそろ方法論や議論するメンバーの間違いに気づくべきでしょう。
現場に立脚しない人の議論は何の役にも立たないのです。

10年以上前にある研究所が、
「あなたの子どもたちの時代はあなたよりも幸せになると思いますか」
という調査をしました。
私は講演の時に、この質問をさせてもらいます。
イエスと答える人は極めて少ないです。
10年以上前の調査結果は20%でした。
8割の人が将来に希望を持っていないという社会は異常です。
子どものいじめや自殺や事故の増加。
すべてがここに象徴されています。

そして出生率が下げ続ける社会。

会社を辞めてから、初めて関わりだしたことがいくつかありますが、
その一つが保育の世界です。
私の関心は幼児教育(保育という意味での教育)でしたが、
出生率が1.5を切ったので、話題が高まっており、そのおかげで研究会も開催できました。厚生省や日経連の人にも参加してもらいましたが、私自身がついていけませんでした。みんな産業論で考えているのです。

しかし、素晴らしい保育関係者との出会いもありました。
しかし、数年前から、保育の現場にも違和感が出てきました。
国庫からたくさんの補助金が流出したのでしょうか、なにかバブルを感じさせるような話がいろいろと耳に入りだしました。子育てに資金を出したら出生率が高まるという発想が、出生率を下げてきたのです。

10年前から日本は福祉バブルです。今もそうだと思います。
福祉の世界で真面目に仕事に取り組んでいる関係者の人は、今も資金不足に悩んでいるでしょうが、バブルとはそういうものです。
産業バブルの時も、結局は汗をかく真面目な働き手は辛いだけだったのです。

なぜ出生率が下がり続けるのか。
なぜ子どもの世界の事件の話題が多いのか。
なぜみんなが弱いものいじめをするのか。
夢が持てないからかもしれません。

「あなたの夢は何ですか」

■田中真紀子さんへのエール 2004年6月11日
日本の政治家の中で、私が言動に期待と共感を持てるのは、田中真紀子さんだけです。
ほとんどの政治家はうさんくさいですが、彼女は素直だと思うからです。
まあ、独善的で傲慢で世間知らずで、冷たくてわがままで、自分勝手かもしれませんが、これまでのほとんどの言動に、私は好感を持っています。
田中角栄もそうです。確かに日本を駄目にした一人でしょうが、ずるくはなかったように思います。不勉強だと怒られそうですが、なぜか2人とも嫌いにはなれません。我ながら、矛盾しているとは思うのですが。

今、田中さんは日本に戻ってきた中国残留邦人の生活支援のための法案に取り組んでいますが、田中憎しという自民党政治家たちに邪魔されているようです。今の政治家が政治を私物化していることがよくわかります。国民などはどうでもいいのです。

様々な法案に対して政治家どう反応するかは政治家を選ぶためのとても重要な判断材料になるはずです。
しかし、今のような党議拘束が強い政党制度の中では、個人の言動はほとんど意味を持ちません。彼らはもはや生きた人間ではなく、歯車なのです。自分では誰も「自己責任」をとらないのです。歯車を演ずることで、ただひたすら私利私欲を追及する雇われ人なのです。しかも、雇い主は国民(選挙民)ではなく、政党という組織なのです。政治はいまや、人の手を離れ、コンピュータの手に移ったといってもいいかもしれません。ですから政治家にはだれでもなれるのです。
ちょっと飛躍があるでしょうか。まあ、私の考えはいつも飛躍と独断があるのですが。

政党政治の時代は終わりました。
二大政党政治などは全くの時代遅れです。
小選挙区制などは論外です。
そう思いませんか。
馬鹿な政治学者や無知なジャーナリストにだまされてはいけません。
最近また怒りがこみ上げてきています。
小泉首相のはしゃぎようは見苦しいです。
新聞はすべてお追従しか言わなくなりましたし。

みんな自分の生活が不安なのですね。

■メールが減ってきました  2004年6月12日
最近、受信メールが減っています。
にもかかわらずウィルスによって発信されたであろう、無意味のメールは減っていません。
私は、発信者が日本名でなく、件名も日本語ではないメールは、原則として、読まずに削除します。例外はありますが、そのために、せっかく送ってもらったメールに気づかないことあります。できれば発信者名は日本語がいいと思います。

もうひとつ気になることがあります。
件名を見直さずに、古い受信メールへの返信で送ってくる人がいます。
ちょっとムッとします。

メールでの照会に回答しても、その後、音沙汰のないことも少なくありません。
私の照会に音沙汰ないのは、気にはなりません。
メールとはそういうものでしょうし、勝手に送って回答を要求するのは欲張りです。

メール上のマナーが盛んに言われた時期がありました。
ネティズンシップなる言葉もあり、私はその欠如を指摘されたこともあります。
最近はあまり言われなくなりました。

メールは味気ない、手紙がやはりいい、と言う人がいます。
いずれもそれぞれの良さがあると私は思っています。

最近、受信メールが減っているのは私だけでしょうか。
みんなに嫌われてきたのでしょうか。
そうであっても不思議はありません。
自分の性格の悪さに、ようやく最近気づきだしました。
困ったものです。

メールは、多いと多いで嫌ですが、
少ないとまたさびしいです。
人間の心情は複雑ですね。

■強制と自発  2004年6月13日
コモンズのほうで何回か話題にしましたが、
学校の式典で国歌斉唱が強制される動きがあります。

これまで何の抵抗もなく、国家を歌っていたのに、
強制されることによって歌うのを止めて、処分された体育系の教師の話が、テレビで紹介されていました。私とほぼ同世代の教師です。

イソップの寓話に、こんな話があります。
小学3年の時に読んだのですが、ずっと頭に残っている話です。
山にきこりがやってきて、樹に「枝を1本くれないか」と頼みました。
親切な樹は、枝の1本くらいならいいだろうと思い、分けてあげました。
きこりは、その枝をもらうと、持参してきた刃を枝につけて斧をつくりました。
そして、森の樹木を伐りだしました。
枝をあげた樹木も含めて、森はすっかり伐られてしまいました。

ナチスが欧州で活動を広げだした時に、
欧州の労働組合関係者は、まあポーランドくらいはと思って、侵攻を見過ごしました。
自らに被害が及びだした時には、もう止める力はなく、欧州はナチスに席巻されてしまいました。

ちなみに、私は国家も国旗も好きです。
しかし、強制は大嫌いです。
石原都知事も小泉首相も、愛国心の全くない人だと思います。

■平和に向けての個人訴訟傍聴記 2004年6月14日
CWSコモンズのホームページでご案内していた、イラク派兵に関する憲法違反訴訟の北沢洋子さんの第1回口頭弁論を傍聴に行きました、私のホームページを見て、前沢知成さんとも会場でお会いしました。残念ながらほかにはいませんでした。
私にとっては初めての裁判傍聴でした。

傍聴席は満席で、入れない人が出るほどでした。
しかし、補助椅子や立ち見は認められませんでした。
傍聴者の一人が、裁判書の建物はきれいになったが、昔は見とめられていた立ち見や補助椅子がなくなったのは改悪だと大声で話していました。
始まる前に、面白いやり取りがありました。

原告は北沢さん、被告は国ですが、国側の人が3人、被告席に座っていました。そこで北沢さんは名刺交換をしようとしたのですが、相手の人は名詞を出さなかったようです。そのためか、裁判官が来る前に、弁護人の人が、国側の人の所属省庁を教えてくれないかと呼びかけました。見事に断られました。答える義務はないというのです。北沢さんは、誰に話しているかを知りたいので、教えてほしいと重ねて頼みましたが、裁判官を通してたずねてくれとの返事でした。いやはや。裁判官に言われたら答えるのでしょうか。
傍聴席から、国民の税金で仕事をしているのに、国民に所属を言えないとは何事だと怒りの声があがりました。きわめて同感。

コミュニケーションの出発点は相手を知ることです。言いかえれば、自らを開くことです。
それを拒否しているのはコミュニケーションを拒否していることです。
この3人はよほどの悪行を重ねている人なのでしょうか。
あるいは悪いことをしているので自らの所属を明らかにできないのでしょうね。
そうは見えませんでしたが。
きっと誇りのない仕事をしているのでしょうね。同情しなければいけません。
それにしても国を代表するとはどういうことなのでしょうか。
それをなぜ誇りにできないでしょうか。
これが今の政府の実態ですね。

裁判が始まる最初に、北沢さんと弁護人が裁判官に国側の3人の所属省庁を明らかにしてほしいと頼みましたが、判事は、そう言う申し出があったことを記録します、と回答するだけでした。
この段階で私は日本の裁判は腐っていると思いました。そこにいるのは人間ではないのです。サルでも裁判官はつとまるのです。知的レベルと人間的なレベルの低さにあきれました。彼らの子供たちは不幸ですね。彼らに裁かれる被告も不幸ですが。
パサジェルカをまた思い出しました。

北沢さんの口頭陳述は、残念ながら私には退屈でしたが、これもまた手続き上、仕方がないのでしょうね。すべてが儀式です。前沢さんに聞いたら、弁論は書類でやり取りされのだそうです。北沢さんは10分間の陳述をしましたが、それもほとんどないのだそうです。多子化に次回は15分だそうです。信じられない話です。全く、税金の無駄遣いです。裁判官が忙しいのは仕事をしていないからですね、きっと。やはり裁判員制度は仕事ができない彼らの責任逃れでしかないように思えてなりません。

余計なことばかり書いてしましたが、こんなことをやっていて、平和は実現するのでしょうか。いや、みんな本当に平和を望んでいるのでしょうか。
このごろ、何か空しさだけが覆い被さってきます。
隠居すべきなのでしょうか。

■コミュニケーションできないほどの情報のやりとり  2004年6月15日
昨日の記事は、裁判を傍聴して、まだ怒りの気分が弱まらないうちに、急いで書いて、出先からアップしました。できるだけ生の感想を残したいと思ったのです。
もう少し時間をおくと、気持ちが治まり、きれいに書きかねないからです。

今、読み直しました。
やはり感情的で説得力がありません。
記事自体に、「知的レベルと人間的レベルの低さ」を感じます。余計な一言も入っています。消去したい気分です。私の性格の悪さや欠陥を象徴しています。
これは、ネットやメールの怖さを示唆しているのかもしれません。
手紙だと投函するまでに時間があるので、どこかでストップがかかり、表現が直される機会がありますが、メールは即座に発信できます。まさに瞬時です。私のように、ほとんど読み直すこともなく、発信するタイプにとっては、便利ですが、生々しすぎて誤解や反発を与えてしまうこともあるでしょう。それではコミュニケーションは成立しません。

ネットやメールは、情報伝達量を激増させましたが、コミュニケーションを激減させたのかもしれません。佐世保の事件は、その結果なのかもしれません。コミュニケーションできないほどの情報のやりとりが可能になったのです。

昨夜は大学時代の仲間と会食しました。
そのひとりは、3月まで日本弁護士連合会の事務総長でした。
いまの司法改革に取り組んでいる情熱家です。
そこでの話はCWSコモンズに書きこみます。

■動いていないエスカレータでつまずいたことはないですか 2004年6月16日
止まっているエスカレータに、なぜか2回乗りました。
もちろん動いているものと思って乗ったのです。
危なくつまずきそうになりました。
2回ともです。
動いていないのに気づいて、歩き出したのですが、おかしな気分で、うまく歩けません。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、嘔吐感に襲われました。
実に不快で、めまいがして、自分が頼りないのです。
動いていないのに、私の五感は動いているように受け止めているのです。
動いていないエスカレータは、私の頭の中には存在していないのかもしれません。

人間は、事実を見るのではなく、思い込んでいるイメージを見ていることがよくわかります。
みんな思いこみで生きていることを、この頃、強く感じます。

一昨日、大学の同窓生仲間で会食をしましたが、
みんなそれぞれが創りあげた相手と話しているような気がしました。
それぞれが思っている「私」と私が自覚している「私」とはかなり違います。
私が思っている「相手」と、その人が思っている「自分」とも大きく違うのでしょうね。
まさに人は、付き合いたい相手を勝手に創りあげて、付き合っているのでしょうね。
時にそれが破綻するわけです。

コミュニケーションなど、できるはずがない。
私が若いころ、書きたかった小説のモチーフは、「ディスコミュニケーション」です。
ちなみに表題は「メビウスの男」でした。

■参議院選挙への関心の低さ  2004年6月17日
マスコミによれば、6月の参議院選挙への関心は低いそうです。
争点がないためだそうです。
「争点がない?」
イラク派兵も年金も、争点ではないのですかね。
日本にはジャーナリズムは不在ですね。能力がないのです。
それを争点にする政治家もいない。志がないのです。

イラク派兵も年金も国論を二分した大きなテーマです。
政治家は、それらを自分の欲得のツールにしたために、争点になりませんでした。
ジャーナリズムは、それを表層的な話題にして消耗させてしまいました。
残念です。

国民の半分が異論をもっている大きなテーマがあるのですから、
国民のほうを向いて、一緒になって行動を起こせば、流れは変えられます。
岡田さんも永田町から出てくれば、世界は変わるのです。
脱永田町を標榜しながら、国民のほうに目を向けない岡田民主党は、やはり小泉自民党と同じに見えます。
万一、民主党が勝っても、同じ政治が続くと思うと、
たしかに選挙には無関心になりますね。

しかし、変化を起こさなければいけません。
バタフライ効果が起こることを期待して。
みなさん、参議院選挙には投票に行くように、まわりに働きかけましょう。

■オブコニカの攻撃 2004年6月18日
先週末に庭の草花の攻撃を受けて、皮膚に炎症が広がっています。
痒くて、夜に目が覚めるくらいです。顔にまで飛び火しだしました。
皮膚科の医院にいったら、オブコニカに触らなかったかと言われました。
オブコニカは外来の桜草です。
あまり記憶にありませんが、いずれにしろ草木との接触によるかぶれです。

オブコニカはやさしそうな花です。
とてもそんな毒性を持っているとは思えません。
しかし、彼らにとっては、自らを守るための反応なのでしょうね。

自衛と攻撃はコインの裏表です。
子どもの殺傷事件やイラク事件に、どこかでつながっていそうな気がします。
どちらから考えるかで、事態は全く別の見え方になります。

薬を飲んだり、塗ったりしていますが、皮膚の炎症はまだ変化なしです。
1週間くらいはかかるそうです。
気が萎えていると、次々と不幸がやってきます。

■「常識」の呪縛からの自己解放 2004年6月19日
17日の記事へのコメントを坂谷さんからもらいました。
そのコメントを材料にさせてもらって、
私の生き方の根底にある考えを少し書かせてもらいます。
坂谷さんのコメントには直接答えていないのですが。

坂谷さんは次の2点を書いてくれました。
@ 日本の少子化がすすみ、逆ピラミッドの人口構成では、改革するとなれば、年齢層により、どんな改革でも不利益をこうむる人が出てきます。「年金改悪反対」だといっても、どのようにするかを具体的公約なり改革案になると、総論賛成、各論反対的状況になります。
A イラク派兵についても、「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ。」という恫喝には、沈黙せざるをえない、そんな構造があるのではないでしょうか。

このコメントには賛成です。それを前提に読み進んでください。

子どもの数が減れば、年金の保険料を上げ、給付額を減らさないといけない、という発想に、私は間違いを感じます。子どもの数が減るから年金の運営がむずかしくなるというのは、今の年金制度を前提にした発想です。それを変えるのが「改革」です。
日本の改革の多くは、行政改革も企業改革もすべて、大きな枠組みを変えるのではなく、制度をいじるだけですから、成功しないのだと思います。
年金についていえば、少子高齢化社会における年金のあり方を考えればいいのです。たとえば、社会的引退時期を70歳にすればいいのです。私の友人は、63歳にして仕事をしていない人がたくさんいます。彼らは働けないのではありません。社会的に「働く世界」から出されただけです。そして、その一部はNPOなどで無償の仕事をしています。それが悪いわけではありません。しかし、彼らはまだ年金保険料を払える生き方もできるのです。そして、それが幸せかもしれません。
壮年時代に徹底的に過剰な労働をさせる仕組み、あるいは本当に役に立つ仕事をせずに役職だけで高給をとる仕組み、そうした仕組みを変えなければなりません。
つまり、年金制度が問題なのではなく、社会のあり方、働き方、支え合い方が問題なのです。
暴論であることはわかっていますが、ともかく、子どもの数が減るから年金保険料を上げ給付額は減らさなければいけないという常識から解放されなければいけません。

「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ」という発想にも、いくつかの呪縛があります。
日米安保体制がなくなったらどうなるか、石油がこなくなったらどうなるか。やって見なければわかりませんが、たいした問題は起きないのではないかと思います。いま起きている「たいした問題」に比較してですが。
これまた暴論ですが、大切なのは、変化を恐れて変革に挑戦しないことです。
いわゆる「ゆでがえる現象」です。
「常識」の呪縛から自由にならなければいけません。

先日、大学の同窓生に会った時に、
「佐藤の常識は社会の常識とは違うから」
といわれました。
しかし、その私の常識も少しずつ社会の常識になってきたものもあります。

常識とは、その社会で生きやすくするためのルールだと私は考えています。
しかし、今やそのルールを根本から見直さなければならない時代になったのです。

日米関係が壊れても北朝鮮は責めてこないでしょうし、
石油がこなくなっても、対応はできるでしょう。
困ったらみんなで工夫すればいいのです。
額に汗して働いている生活者には、そのくらいの知恵があると確信しています。
私は飢え死にするかもしれませんが、もしそうならば、私がしっかりと自活していなかったためです。諦めなければいけません。

■党首会談 2004年6月20日
NHKで党首会談が放映されました。
用事があったのですが、出発を遅らせてしっかりと見せてもらいました。

感想を一言で言えば、コミュニケーション不在の空しい会議でした。
それぞれが単発的に言いたいことをいい、議論にならないのです。
コーディネーターの問題もありますが、とりつく島のないほど、みんなコミュニケーション志向が欠落しています。
みんな、自分の党の姿勢を見せるための場と捉えているのでしょうが、そうした姿勢からは新しいものは創発されません。それでは会議にはなりません。

いいかえれば、5党首とも、国民のほうを向いているのではなく、自党のことしか考えていないような印象を受けました。
国民を意識した発言を、だれからも聞けませんでした。
小泉首相は相変わらず、質問には答えずに、理屈では正しい一般論的な言葉の羅列を重ねていましたが、もしかしたら彼は本当に「善意」で語っているのかもしれないと感じさせるほど、内容のない話でした。内容がないだけに国民には理解されやすく、それが小泉人気の秘密なのかもしれないと改めて実感しました。知識も思慮もない人ですから、迷いもなく反省もなく、かえって堂々としているのです。国民にはきっと受けるでしょう。
あとの4人は、独裁者に異議申し立てする無能な評論家という構図です。
裸の王様と小賢しい知恵者のすれ違いを1時間見せられてしまいました。

国民の目線をもたない限り独裁者や権力者には勝てるはずがありません。
なぜなら、自らもまた、独裁者のミニ版になっているわけですから。
岡田さんが、もし脱永田町を目指すのであれば、こんな馬鹿げた対応をすべきではないでしょう。
私が発言にわずかながら共感できたのは、共産党だけですが、共産党は全国的なシステムがあるのですから、もっと違った戦略があるはずです。党首会談も、相手の土俵ではなく、もっと自分の土俵を用意し、実際の全国的実践を背景に実践的なコミュニケーションを目指すべきです。

責めあうだけの話し合いではなく、
どうしたら年金制度の改革を進められるか、
どうしたらイラク復興に役立てられるか、
そういうテーマで、もっと共創的な話し合いができないものでしょうか。

責めあいからは何も生まれません。
小泉首相を相手にして、いくら議論をしても意味はありません。
彼には話し合おうという意思はたぶんないのです。
そろそろそれに気づくべきです。
以前ホームページ(CWSコモンズ)に書いたように、
小泉首相はクーデターを起こしたのですから、そもそも話し合う素地はないのです。

■自然の力 2004年6月21日
台風です。
湯島のオフィスで空を見るのが、私はとても好きなのですが、
今日の空はとても悲しい灰色です。
昨日の真夏のような空とは全く違います。
私の気分も、昨日とは全く違います。
午後からは雨が降ってきました。

自然の力は大きいです。
自然の大きな力の前では、人間は微力な存在です。
「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンは、
環境が、動植物の形態や習性をつくりあげてきたと言った後で、こう書いています。

地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、
生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものに過ぎない。
だが、20世紀というわずかのあいだに、
人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。

この下りが、私をエコロジストに引き込んだのですが、
数年前から少し疑問を持ち出しています。
CWSコモンズでもいつか書きましたが、
宮崎の綾町の照葉樹林に出合ったのが契機です。
結局は自然の前では、人間などは小さな存在だと思ったのです。
目前に広がる照葉樹林の迫力にただただ圧倒されました。

30年ほど前に、ベトナム上空を飛行機で飛んだ時に、
ベトナム国土がまさに砂漠のように見えた記憶があります。
米軍の焦土作戦は自然を破壊したのでしょう。
しかし、まあ自然の尺度から見たら、そんなものは瑣末なことだったのかもしれません。

こういう考えが間違っていることは自覚していますが、
豊かな自然やパワフルな台風をみていると、
なぜか環境問題への取り組みが小賢しく思えてなりません。

風が強くなってきました。
わくわくします。
私は台風が大好きなのです。
急いで帰って、台風を満喫します。

■情報はだれのものか 2004年6月22日
「知は力」といったのはベーコンだったでしょうか。
しかし、実際には「情報」こそが力です。
いや、正しくは、その情報のもとにある事実こそが力です。
事実をどう「情報」化するか、
そして、その「情報」をどう使っていくか。
それによって、世界は変わってきます。

情報社会では情報はもはや隠せません。
しかし、情報が広がっていくには、今の段階でもまだ時間がかかります。
その時間差を利用してきたのが企業であり政府でした。
今もなお、その延長で行動している人がほとんどです。

その時間差を埋める動きのひとつが、内部告発です。
名前がよくないですが、要は情報活動を支援する活動です。
三菱自動車の場合、ちょっと遅きに失しましたが、
もっと早く情報が公開されたら、会社にとっての被害も少なくなったはずです。
今ではもう遅すぎます。

イラクを破壊した後で、大量殺人兵器がなかったなどといっても取り返しはつきません。
死刑を行使した後で無罪が立証されてもどうしようもありません。

意思決定の判断基準になるような情報(事実)を後から出してくる、最近の政府のやり方が問題になっています。
いまなお各地で行われている悪徳商法と同じやりかたです。
確かに問題です。
しかし、政府の責任者がその情報に触れる前に、情報を知っている人がいるはずです。
問題は、その人がどう行動するかです。

組織活動のなかで得た事実認識(情報)はだれのものでしょうか。
たとえば出生率のような、個々の事実の集積結果は、その情報を得るための仕組みをつくった人のものでしょうか。もしそうであれば、この情報は国民に所有権があると言っていいでしょう。
三菱自動車のクレーム情報はだれのものでしょうか。その情報によって深刻な被害を受けるかもしれない人には権利はないのでしょうか。
医師会が公表を妨害しているフィブリノゲン納入先の情報はだれのものでしょうか。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_12.html

事実をどう情報化し、いつ発表するか。
それが、人命に関わることもあり、歴史を変えることもあります。
情報ガバナンスの問題はもっとしっかり考えて行く必要があります。
「知る権利」は民主主義国家の基本です。
情報が共有化される社会に向けて、少なくとも情報所有権の考えを改める時期に来ているように思います。これはソーシャル・キャピタルの議論にもつながります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sc2.htm/

あまりに情報を私物化し、小賢しく操作している政治家たちに怒りを感じます。
お上意識をそろそろ捨てないと、革命が起こるかもしれません。
不幸なことですが。

ちなみに、
企業における情報参謀(CIO:Chief Information Officer)が話題になったことがありますが、定着しませんでした。組織内部志向ガ強すぎたためです。日本においては、組織のコミュニケーション戦略や危機管理に、社会的視点がないですから、結局はこれまでの経営手法のサブシステムにしかならないのです。
社会的視野で情報問題を考えたら、全く違うスタイルになるはずです。そして、きっと、社会にとっても組織にとっても、win-winになるでしょう。組織は社会につながってこそ、発展していきます。
情報の問題を考える場合は、基本的な視座を社会に置かなければいけません。
情報格差で利益をあげたり、支配したりする時代は終わろうとしているのです。

■法の規範性と権力性   2004年6月23日
携帯電話を使用しながら自動車を運転することを禁ずる法律が成立しました。
しかし、相変わらず携帯電話しながらの運転を見かけます。
今日も帰りの狭い道で見かけて、ついつい横に逃げました。
ナンバーを記憶して、法律執行責任者に伝えたい気分です。
電話しながらの運転は減っているのでしょうか。
どうやって罰せられるのでしょうか。
多くの場合、処罰されない行為が罪とされている法とは何でしょうか。
目撃情報を警察に言っても、取り上げないでしょうね。
つまり、これは警察にまたひとつ気分で罰することができる手段を与えただけの話かもしれません。

スピード違反にしろ、路上駐車禁止違反にしろ、おそらく違反者に比べて、処罰を受けた人は少ないでしょうね。違反しても多くの場合、咎められない法とは何でしょうか。そして、咎めるかどうかを決めるのは、「公権力」を持っている警察だけというのが、法の本当の意味でしょうか。どこか違和感があります。
それ以上に、こうした法の存在が、法の規範性を否定し、社会を混乱させているのです。
法に違反しなければ出せない速度が出せる自動車まで作られているのも納得できません。

そう言えば、我が家から自動車で15分くらい行ったところに守谷飛行場というのがあります。利根川の河川敷の私有地に個人が開設している飛行機クラブです。
河川敷の場合、たとえ私有地であっても、勝手に建造物を作ったりしてはいけないのですが、そこでは10を超える建造物がつくられ、なんと廃車されたバスも数台放置されています。これは法律違反だそうです。所有者も認めています。
しかし、再三にわたる管理者(国土交通省ですが)の撤去指示にもかかわらず、放置されたままです。穴を掘って(これも禁止されています)、ゴミが捨てられているような状況にまでなってきています。所有者は違法であることが、犯罪だなどとは思っていないようです。なにしろ違反しても罰せられない法律は山ほどあるのですから。

法とは何か。
今の日本では、いざという時に、処罰するためのツールなのかもしれません。
いざという時とはいつか、また誰が処罰するのか。
これが問題です。

国家に盾突く時が「いざの時」。
処罰するのは、顔のない国家。
これでは、法は規範ではなく、支配権力のツールでしかありません。
ですから、警察は内部が壊れてきたのです。

法は、さまざまな人たちが、お互いに気持ちよく暮らすためのみんなのルールであってほしいです。そして、もし罰則法であれば、公平に適用される状況をつくってほしいです。破っても罰せられない法は見直したいです。

電話をかけながらの運転をみたら、どこかに通報する仕組みをつくれないでしょうか。
監視しあう、いやな社会だなと思われるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
悪いことには目をつぶらずに、きちんと告発していくことが、もし嫌な社会なのであれば、きっとその告発の基準が間違っているのです。
嘘の告発や嫌がらせが頻発すると思うのであれば、それは社会を信頼していないということです。
社会を信頼せずに、社会をよくすることなどできません。
最初の一歩は、常に相手を信頼することから始まるのですから。

■沖縄「慰霊の日」  2004年6月24日
昨日、ニュースで、平和祈念公園の戦没者追悼式をみました。

平和祈念資料館の壁に書かれていた「展示の結びの言葉」を、CWSコモンズに書き込んだことがありますが、それを再録します。

沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは これほど残忍で 
これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
この なまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか   
戦後このかた  私たちは   
あらゆる戦争を憎み   
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです

2年ぶりに出席した小泉首相はこの言葉を読んでいるでしょうか。

■商業倫理  2004年6月25日
今日、山形市で家電販売をやっている人から聞いた話です。
プラズマテレビが売れているようです。
40インチが80万円くらいで買えるようになったそうです。
しかし、まだ高価な商品です。
ところがクレジットを組むと月額12,000円。
さらに1日だと420円、コーヒー代と一緒ですというと買おうかという気になるそうです。
コーヒー代でプラズマテレビ。う〜ん。
中高年以上の世帯には、2日間の無料貸出をすると購入する確度は高いそうです。
ともかく2日間、見てもらい、その後、ともかく持ち帰るのだそうです。
そうするとかなりの確度で購入の電話が入るそうです。
さてみなさん、
みなさんはどうですか。買ってしまいそうですね。
こうした販売姿勢は、商業倫理からみるとどうなのでしょうか。
効果的な販売戦略というべきなのでしょうか。
いや、それ以上に、
商品を販売するということはどういうことなのでしょうか。
私は経営学者のドラッカーが嫌いです。
なぜなら、彼は「経営とは顧客の創造」と、かつてその著書で語っているからです。
経営が顧客の創造であるはずがありません。
そんなことにも気づかぬ経営学者のことは信頼できません。
そうした経営学者が社会をだめにしてきたのだと私は思っています。
「経営は愛」。それが私の経営観です。
ドラッカーにはとうてい立ち向かえませんが。

■知は利なり  2004年6月26日
知は力のことを数日前に書きましたが、
「知は利なり」というべきかもしれません。
昔からもちろんそうでしたが、最近の状況は私にはかなり違和感があります。

まず航空運賃がわかりにくいのです。
安く買おうと思うと、半額くらいになることもあります。
得をした気分になりますが、いつも損をしている気分にもなります。

最近腹立たしいのが電話代です。
わけがわかりません。まあ年金ほどではありませんが。
たとえば、家庭の電話から携帯電話にかける時、0036とか0077をダイヤルしてかけるとかなりの割引になるそうです。ご存知ですか。
嫌なやり方ですね。ビジネス倫理に反します。
知らない人が損をする社会は、いやですね。
きっとこの制度で損をしている人は、お年寄りでしょうね。
小賢しい知者だけが得をする社会は許せません。

以前のリクルート事件に象徴されるように、
企業情報を持っている人だけが汗もかかずに大金を手にする仕組みは、おそらく今も変わっていないでしょう。インサイダー取引禁止などは制度化されていますが、その気になればいくらでも制度をすり抜けられるでしょう。
情報がもっとどんどんと共有される状況が生まれるまで、そうした状況はなくならないでしょう。それは仕方がありません。

しかし、最近は小賢しい細工で、知っている人だけが得をする仕組みが多すぎます。
しかも、公益性が高いといわれている企業によって行われていることが多いのです。
さびしいですね。

知は利。言い換えれば、利になる知が、知の世界で大きな顔をしているのです。
知の変質です。知が痴になってきているような気がします。

一番の知性は、額に汗して真っ当に生きている人の中にあります。
そうした人がもっと大事にされる社会に戻していきたいものです。

■100円ショップでの疑問  2004年6月27日
取手の東急にあるダイソーの100円ショップに行きました。
この近くでは一番大きな100円ショップだそうです。
実にさまざまなものがあります。
ほとんどの生活用品が揃ってしまうのではないかと思います。
時計や電卓まで100円です。
モノの価格に対する感覚が混乱してしまいます。

今回初めて見つけたものがあります。
娘がスペインから買ってきた、キツツキが上から下りてくるおもちゃ。
女房がギリシアで買ってきた方解石のりんごと洋ナシの置物。
4500円で購入したヴェネチアンのものと全くデザインが同じガラスのお皿。
いずれも我が家にあるものと区別がつきません。

上記の二つは購入して比べて見ました。
全く同じです。
つまり輸入品です。
キツツキはスペインでも100円以上だったそうです。
方解石のりんごも100円では買えなかったはずです。
いずれも大量に購入することで価格を安くしたのでしょう。
それにしても安いです。
フェアトレードになっているのでしょうか。
いやそれ以前に、こういう形で購入することによって、
それらの国の経済システムや文化を壊すことにはならないでしょうか。
悪評高い日本の海外収奪型ビジネスになっていなければいいのですが。
と思いながらも、買ってしまいました。
長江の石も100円でしたので、我が家の沢蟹用に買ってしまいました。
消費者は勝手なものです。

22品も購入してしまいました。
100円なら捨ててもいいから買ってしまおうと、安直に購買を決定しがちです。
そこにも大きな落とし穴があります。
価格破壊は実は環境破壊でもあるのです。

今日もまた消費者倫理にもとる行動をしてしまいました。
反省です。
しかし100円ショップには、実にさまざまな示唆が充満しています。
大げさに言えば、未来が見えてきます。

■対話ができない首相と連帯できない野党党首 2004年6月28日
参議院選挙の関係で、党首討論が盛んに行われだしました。
しかし、どこも同じ討論で、話の内容に深化がありません。
ほとんど意味のない討論かもしれません。
問題は、おそらく三つあります。

まず、小泉首相には討論の意味がわかっていません。
相手の質問の意味を理解できないのかもしれませんが、ほとんどの場合、答えていません。まさに頭脳のない20世紀のロボットのようです。最初にインプットされた話しかできないのです。話に内容がありません。
しかし、時折、追いつめられて表情を見せることがあります。
野党側が、それを契機に対話にもちこめばいいのですが、
次の問題は野党側が連携していないので、せっかくのそうしたチャンスを壊していることです。
もう少し突っ込めば対話が成り立つと思った瞬間に、また自分のことしか考えていないほかの野党党首が論点を変えてしまうのです。
そのおかげで、小泉首相はまた対話しない機械に戻るのです。
3つ目の問題は、そうした構図を変えられない司会者と構成者です。
テーマを絞り込んでのシナリオが用意されていない上に、司会者が役割を果たさないために、ただのがやがやわいわい会になってしまっています。土曜日のニュース23の筑紫さんが一番ひどかったですが、彼は討論の意味を理解していないのです。
日曜日の報道2001の司会はとてもよかったですが、それでも全体のシナリオがつめられていないせいか、議論はやはり拡散しました。残念でした。これは司会者の責任ではないでしょう。竹村健一のコメントも今回はちょっと趣旨不明でした。

いずれにしろ、どこでも同じレベルのやり取りで、議論が深化しないのです。
つまりここから見えることは、国会の審議も成り立っていないという推測です。
彼らは普段から議論していないことがよくわかります。
国会崩壊が起こっているのです。

しかし、そうした流れの中で、民主党の岡田代表だけが討論を志向していました。
視野の狭い他の野党党首のおかげで、その意図は邪魔されていましたが、思いは感じました。時折、我慢できずに防衛的な発言もありましたが、全体的には具体的に小泉首相に答を迫ろうとしていました。
民主党に投票するつもりはなかったのですが、この2日の党首のやり取りを見て、私は民主党に投ずることにしました。
共産党や社民党は、もっと大きな歴史認識を持ってほしいです。

■殺し合いを止められない社会、止めない社会  2004年6月29日
イラクの殺し合いが止まりません。
毎日のように報道される死者のニュースに、だんだんと慣れていく自分に気づいて、ぞっとします。
この解決策は何でしょうか。

たまたま20年前に書いた論文が出てきました。
「21世紀は真心の時代」。
毎日新聞社の懸賞論文で入選したものです。
そこに、私なりの解決策が書かれていますが、しかし時代はそうはなりませんでした。
この論文を、次の更新時にCWSコモンズに掲載します。ぜひ読んでください。

イラクの惨状は、理由があります。
しかし、私にとって、もっと許せないのは、脱北者を北朝鮮に強制送還する中国の対応です。日本も、つい最近までは同じ姿勢だったと思いますが。
最近、話題の野口さんの事件で中国政府に逮捕された脱北者の人たちは、おそらく北朝鮮に送還され、もしかしたら「死刑」になっているかもしれないといわれています。北朝鮮の「死刑」は「リンチ」かもしれません。
送還したら殺されるかもしれない、と知りつつも、送還するということはどういうことでしょうか。
人間の感情として、どうしてそんなことができるのか。
イラクの「テロ」集団による殺人とどこがちがうのか。
子供たちにもわかるように説明してほしいものです。

もっと違和感があるのは、
北朝鮮の体制を知りながら、国家としての正当性を認めていることです。
テレビで報道されている北朝鮮の社会状況がもし本当ならば、
手をこまねいている私たちもまた、殺人幇助の咎を受けなければいけません。

殺人に加担しないと生きていけない時代の不幸を嘆かずに入られません。

■リゾーミックに絡み合うホームページ  2004年6月30日
ふなばしで多角的な活動をされている、コミュニティアート・ふなばしの下山さん が、最近、コメントしてくれないので、とても気になっていました。
ホームページで自らをさらけ出すことのモチベーションは、私の場合は、反応です。
今日も、高知県の八木さんからメールをもらいましたが、思っても見ない人から反応があるとうれしくなります。
つながりを実感できるのです。
下山さんは、このブログに直接コメントしてくれる一人です。
しかし、私がちょっと消化できなかった内容のコメントを最後に、ぷつんとコメントがなくなっていたのです。
そこで下山さんの「鳩の目日記」をのぞいたりしていたのですが、相変わらず多方面に活動しています。
安心したり、ちょっと気になったりしていたのです。
こんなところもホームページの面白さです。
今日、久しぶりにコメントがきました。
私も鳩の目日記を見に行きました。
そうしたらこんな記事がありました。
「NPOと商店街のコラボレーションはうまくいっていない例が多い、と佐藤修さんが以前いっていらしたが、財力も権力もない我々は足で稼いで築く信頼関係がすべて、と常々から心がけているせいか、ウチの場合はなんとかうまくいっているようです。」
うれしいことです。とてもうれしいです。
ところで、この記事の「佐藤修さん」をクリックするとCWSコモンズのホームページが出てくるのです。
この絡み合い、すごいですね。
まさに私が目指すリゾーミックなホームページです。
そしてこの記事もまた、下山さんのブログにトラックバックしたのですが、
初めての試みであり、うまく行くかどうか不安です。
このやり方を教えてくれたのが、ノーマライゼーションねっとの矢辺さんです。
彼のブログにも、私の言葉を引用してくれています。
こうしたホームページの絡みあいから、次はどういうつながりへと進化していくのでしょうか。
楽しみです。
情報の流れ方やつながり方の進化はすごいです。
ところで、NPOと商店街ですが、
9月に山形市でリサイクル商店街サミット山形大会を開催します。
ささやかに私もかかわっています。
やはりNPOをまきこみたくなりました。
また案内をしますので、よかったら遊ぶに来てください。
商店街の若い世代が楽しみながらがんばっています。

■「食道楽」の人 村井弦斎 July 01, 2004
黒岩比佐子さんが3年かかって書き上げた本を贈ってきてくれました。
岩波書店から出版された「『食道楽』の人 村井弦斎」です。
またCWSコモンズのブックのコーナーで紹介させてもらいますが、本格的な評伝です。

まだ読んでいないので内容紹介はできませんが、
とても安心できる本だなと感じました。
本は持ってみるとすぐに相性がわかります。
そばに置きたくなる本とただ読めばいい本とにわかれます。
帯もとても正統的で安心できます。
最近の本はインクのにおいがあまりしないのが残念ですが、
岩波書店らしい、いい作りです。

村井弦斎といっても、おそらくみなさんも知らないでしょう。
書店にもそうは置かれないでしょうから、皆さんの目にはなかなか入らないでしょう。
しかし、こうした正統的な書籍の出版はみんなで応援したいです。
まずは名前だけでも知っておいて下さい。
できれば、次の日曜日に更新するCWSコモンズのホームページでの紹介記事も読んでください。
もし私が読めない場合は次の週になりますが。

明日、我孫子市の図書館に購入希望を申し込んでこようと思います。
 
■フセインの主張 July 02, 2004
フセインの裁判が始まるようです。
真実がもう少し見えてくることを期待します。
この種の裁判は、「裁く」ことよりも、「真実を明らかにし繰り返しが起こらないようにする」ことのほうに意義があると思います。そうなってほしいものです。そうなれば、歴史は変わるでしょう。
テレビで見るフセインの主張は、いろいろな問題を提起しています。
私にはわからないことばかりです。

「私はイラクの大統領だ」と言う主張に対してどう考えればいいのでしょうか。
どういう経緯の中で、彼は大統領でなくなったのでしょうか。
イラクの憲法ではどうなっているのでしょうか。
憲法よりも米国占領軍の意思のほうが優位にあるのでしょうか。
戦争に負けたから政府が崩壊したと考えるのでしょうか。
しかし、そもそもイラクは戦争をするといったのでしょうか。
ただ米軍が攻めただけだとしたら、侵略でしかありません。
イラクのクエイト侵攻との違いはなんでしょうか。

たしかにフセインは独裁者で、人民に圧政を敷いていたかもしれません。
それといまの小泉首相とどこが違うのでしょうか。
殺人が容認されていたところが違いでしょうか。
たしかに私刑的な死刑が行われていたような報道はあります。
でもそれは本当なのでしょうか。
私たちが住んでいるのは「総理大臣が虐殺を公然と支持している国」なのですから、というコメントも、寄せられています。
もしそうなら、どこが違うのか。
この国はまた、自殺が3万人を超えた国でもあります。
自殺は間違いなく「政治」の結果です。
どうもよくわかりません。

金正日は国民だけではなく、隣国の国民を拉致するという、国を超えての犯罪を行いました。
したがって他国から攻撃されても仕方がないと思うのですが、
その犯罪者には援助を与え、その体制を支援し、
一方の独裁者には暴力的に国家を破壊して、大統領の地位を剥奪する。
どうも頭が整理できません。
国際法をもっと学んでおけば良かったです。

フセインが正しいといっているわけではありません。
ただただ、わからないのです。
フセインとブッシュと小泉。みんな同じに見えて仕方がないのです。
もしそうであれば、裁かれるのはみんなであってほしいです。
しかし犯罪者をトップにいだく国家や組織があまりにも多すぎます。
国家や組織のもつ本質なのかもしれません。
指輪物語の指輪のようなものですね。

■問題の根源と情報社会の本質  2004年7月3日
またか、と思う報道です。
核燃料サイクル費用の比較が10年前に試算されていたにも関わらず、経済産業省や「有識者」は、その存在を否定していたというのです。
こうした「嘘をつく事件」は毎日のように報道されています。
前にCWSコモンズで、
「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)」
というメッセージを書いたことがありますが、時代はますます「嘘つき時代」に向かっています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m2

社会における、ほとんどすべての問題の根源は情報基盤の違いにあります。
そして、その情報基盤の共有化を妨げるのが「嘘」の存在です。
つまり、嘘をつくことから、ほとんどすべての問題が始まるのです。
そして、嘘を見逃すことで瑣末な事件が大きくなっていくのです。
夫婦の離婚も三菱自動車の事件も、イラク事件も戦争も、です。

不幸なことは、情報基盤の違いが、経済利益や政治権力の源泉になることです。
そのために、故意に嘘をつく人が後を絶ちません。
その利権に群がって、嘘を見過ごす人も多いのです。

今、急速に進んでいる情報社会の最大の特徴は、情報共有化を促進することです。
つまり、嘘をつけない社会が、情報社会の本質です。  
いまは、そこへの過渡期として、さまざまな事件が起きているわけです。
三菱や霞ヶ関のような大きな組織は、まだその本質を理解できていません。

朝日新聞によれば、
「(その)資料は、1994年2月4日に開かれた旧通産省の総合エネルギー調査会・原子力部会作業部会の非公式会合に提出された。

会議の議事要旨によると、通産省は試算の公表を提案したが、電力会社や研究開発期間の代表から〔中略〕(公表に対して)慎重発言が相次いだ。結局、こうした意見に配慮して試算の公表は見送られた。

ここから2つのことが読み取れます。
そうした部会のメンバーは、おそらくいわゆる「有識者」です。
そうした「有識者」は嘘をつく種族だということです。
実はその呼び方にすでに含意されているのですが、
自らが持っている「知識(情報)」を制度のために、つまり自己利益のために秘匿するという性向があるのです。情報を独占することで、自らのアイデンティティを守るのが「有識者」です。情報の共有を加速させようとする「内部告発者」とは反対の性向を持っています。

もうひとつは、会社の事情が最優先される経済優先社会の現実です。通産省は電力会社に勝てません。医師会に勝てない厚生省と同じです。要は、経済、つまりお金には勝てない構造になっているということです。結局は、それが会社や政府に損害を与えることは三菱自動車の事件やオゾン戦争事件で明らかですが、その時には誰かが利益を得られるのです。

知りながら情報を公表できない組織人の「霞が関官僚」の多くは辛い立場です。だから辞めてしまう人も少なくないのかもしれません。そういう状況にしてしまう、組織のあり方は問題です。組織の機密管理のあり方は問い直されなければいけません。

組織人ではない「有識者」はどうでしょうか。彼らの多くは、発言できるはずです。
知っていながら情報をみんなに知らせない「有識者」にはモラルというものがあるのでしょうか。

出生率の問題もそうですが、知っていながら情報を漏らさなかった人たちがたくさんいます。そうした人たちの名前を公表したらどうでしょう。組織を守った「勇気」ある人という捉え方もできます。責める必要はないかもしれません。
しかし、組織を超えて、もっと大きな組織のために情報をもらしてしまう「勇気」も、これからは必要です。
みなさんはどちらの「勇気」に拍手を送りますか。
またみなさんならどうしますか。
問題の根源は深いです。

■ショッピングセンターの賑わい 2004年7月4日
近くに大型ショッピングモールができました。

その一画は、以前から大型店舗が集積していました。
家電のコジマとヤマダ電機。家具のニトリ。スーパーのジャスコ。ホームセンターのケーヨー。他にも20店舗くらいが集積しています。そこにさらに、大型ショッピングモールです。そこにはホームセンターもスーパーも入っています。

こうした巨大なショッピング空間ができることは、消費者には好都合です。同業が隣地しているために、価格は安いですし、さまざまな店舗があるので、ほとんど何でも間に合うので便利です。それに、レストラン関係もさまざまありますし、それなりのショッピングの楽しさも味わえます。

こうやって、どんどん商業空間は大型化していきます。
大きいところに人が集まり、人が集まると、元気になって、商品の鮮度も高まります。
しかし、どこかに落とし穴がありそうです。

私の近くに、イトーヨーカ堂系のエスパというスーパーがあります。
近くに、いくつかのスーパーがありましたが、そこが一番大きかったこともあって、一人勝ちになってきました。我が家もほとんどがそこで購入するようになりました。生鮮食品の鮮度もよかったです。店内に競合する店舗も入っていました。
しかし、そのため、近隣のダイエーや東急が閉鎖になりました。
その途端、エスパの価格が高くなりました。
さらに、近くに大きなマンションが建設され、数百世帯が一挙に転入してきました。需給関係が大きく変わりました。
価格はさらに高くなり、店内競合店も閉店し、品質も悪化してきています。
しかし、もはやそれに勝つだけの大型店舗は近くにはありません。

大型化は本当に消費者や社会にとって望ましいことなのでしょうか。
9月に山形市で商店街のサミットをやる予定です。
そうした問題も少し考えて見たいと思っています。

■生産者と消費者がリスクをシェアする経済 2004年7月5日
梅雨だというのに、夏のような天気が続いています。
雨が少ないのが気になります。
昨年は雨が多く日照が少なかったので、果物は美味しくなかったですし、お米も不作でした。気候に大きく影響される農業や果実栽培は大変だったようです。
今年は、その反対で、日照も多く、今のところ果物は美味しいです。
しかし、今年の夏はどうなるのでしょうか。

果物や農作物が、天候に振り回されるのは仕方がないことです。
それを克服しようと、さまざまな努力が行われてきました。
身勝手な自然に負けない品種改良も進んできました。
その延長に、農業の工業化がありました。

一見、これはいいことです。
農業生産者にとっても、消費者にとっても、いいことのように思います。
しかし、私はここにこそ大きな問題があるような気がします。
もう一度、自然とともにある食材のあり方を考える必要がありそうです。

生活者は、すでにそうした動きを身体的にはじめています。
身土不二、地産地消、自家栽培、生産者とのつながり志向。
次は、自然に影響される労働成果のリスクをシェアすることかもしれません。
冷夏などによる不作のダメッジは、消費者も負担する仕組みができれば、食の安全性はさらに進められるかもしれません。
生産者のコストと消費者のコストの取り合いの構図が、三菱自動車の悲劇を起こしたことから学ぶことがたくさんあります。

■殺人罪の償い方   2004年7月6日
今日は暴論を書きます。

16年前に殺人を犯した人が10年の刑期を終えて、出所し、また同じような事件を起こすということが起こりました。
殺人事件を起こした人の再犯率は高いそうです。

やりきれない気がしますが、刑罰のあり方を見直すべき時期だろうと思います。
「眼には眼を」がやはり原則であるべきです。それも最小の、です。
殺人に対しては、死刑よりも重い刑罰を与えるべきでしょう。
もちろん、冤罪や特殊な事情を無視しての、原則の話です。

社会を維持していくためには、子供が納得できる原則を大事にすべきです。
そして、子供の犯罪に関しては、もし子供を特別扱いするのであれば、親を罰するべきです。親を罰しないのであれば、子供も厳罰に処すべきです。今の状況は、論理整合していません。
人を罰するのではなく、罪を罰するとは、そういうことだと思います。
必殺仕事人の中村主水やチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」シリーズのポール・カージーの人気は、人間の素直な気持ちの現れです。

それはともかく、私が奇異に思うのは弁護士の役割です。
弁護士が弁護すべきは、被告ではなく、社会ではないかと思います。
不法に裁かれない社会を守るために、弁護制度があるのであって、個人としての犯罪者を守ることが目的ではないはずです。
殺人の罪を問われている状況を正すことと、明確な殺人者をかばうことは同じではありません。その境界は難しいですが、明確な場合もあります。

「犯罪者の人権」という表現がありますが、犯罪者はその犯した犯罪の大きさによって人権が考えられるべきです。人を自分の都合によって殺した人に対しては、生きる権利はよほどの条件がなければ認められるべきではありません。
そしてまた、犯罪者を厳しく罰することこそ、犯罪者のためになることもあるのです。
そこを勘違いしているような気がしてなりません。
弁護士のミッションがいい加減に考えられているように思います。
たとえば、オウム事件の弁護士の言動には大きな違和感があります。

ついでいえば、検事が守る対象もまた、社会です。
権威や制度ではなく、社会です。

法は、誰のためにあるのでしょうか。

大学(法学部でした)でしっかり講義を聴いた先生が二人います。
憲法の小林直樹さんと刑法の団藤重光さんです。
卒業して40年ですが、その講座がとても懐かしいです。
日本が法治国家であるということの意味が、最近ちょっとわからなくなってきました。

■選挙に行きましょう  2004年7月7日
11日が選挙です。
私たちの生活を大きく方向づける選挙だと思います。
いろいろ迷うことはありますが、
ここは大きな視点で、ぜひ自分の未来を選択したいものです。

ちなみに、11日に用事がある人は、最近は簡単に事前に投票ができるようです。
ぜひ市役所などに行って、投票してください。

選挙結果がどうであれ、私たちがしっかりと考えて投票するのであれば、
納得できるはずです。
いずれにしろ、歴史を方向づける選挙に参加できるのです。

最近の政府のやり方を見ていると、いかにも選挙対策とつい詮索したくなりますが、
そんなことでごまかされるようならば、それもまた仕方がないことです。
しかし、そんなことにはならないでしょう。
楽しみです。

■プロ野球への違和感  2004年7月8日
私はプロ野球にほとんど関心のない人間です。
一度も観戦にいったことはありません。
そういう人の意見として聞いてください。

いよいよ1リーグ制に向かっての動きが現実のものになりました。
しかし、選手やファンを無視した、オーナーたちの密室会談で進められているためか、批判が多いです。たしかに、老人たちにいいように扱われているような気がします。それに対して、ファン離れが進まないかなどという、内容のないコメントが多く、建設的なコメントはあまり聞けません。

選手たちは不安でしょう。反旗を翻したくても、翻しようがありません。自らの首をしめかねないからです。選手会の古田さんのコメントは、極めて良識的で、共感できます。しかし、どうしたらいいかは難しい問題です。

私がプロ野球に対して違和感というか、反感を持つ点は、二つあります。
まずは優勝時のビールのかけあいに象徴される姿勢です。見ていて不愉快になります。
大げさに言えば、資本主義の悪しき側面を象徴していますが(大きな意味を含意しているように思います)、しかし、それはまあ、たいした問題ではありません。
一番の違和感は、契約金や年俸の高額なことです。
確かに大変な努力と選手寿命の短さなど、説明はいろいろあるでしょう。
しかし、額に汗して働いている人から見れば、夢のような話です。
プロ野球選手だけではありませんが、こうしたタレントたちの契約金の額が話題になるたびに、経済の崩壊を実感します。

しかも、不思議なことに、その高額な年俸をファンが喜んでいることです。
高額な年俸を得る選手がいる一方で、安い給料しかもらえない選手もいる。
しかも、そうした人たちが同じチームを構成している。
権力管理型組織です。
とても人間の組織とは思えません。
金で動機付けられただけの組織にしか感じられません。
そうした組織であればこそ、金の世界を抑えているオーナーたちの私物になりうるわけです。
選手たちは自立した存在ではないのです。
稼ぐための組織の要素でしかありません。そして、選手はそれに甘んじているようにしか思えません。年俸を競いあうことの意味にすら気づいていないのです。

もし高額な年俸の一部が、自らの立場の自立性やプロ野球の発展の正常化に使われていたら、こうはならなかったかもしれません。
現状は自業自得と言うべきかもしれません。

プロ野球だけが問題なのではありません。
お金至上主義の社会の、一つの象徴がそこにあります。
まだまだバブル経済は続いています。

■平和に取り組むことの覚悟  2004年7月9日
新聞では多分報道されていませんが、7月4日に行われた、ワールド・ピース・ナウのピースパレードで事件が発生しました。3人の参加者が逮捕されたのです。
私は最近、参加できていないのですが、メーリングリストで知りました。
なぜ逮捕されたかは、メーリングリストの情報しかありませんが、非暴力をかかげているピースパレードで、こういう事件が起きるのはとても残念です。
私が参加した時には、いつも楽しい雰囲気でしたし、警備の警察官も好意的でした。
しかし、今回は違ったようです。
7月6日には、逮捕された3人の自宅や、WORLD PEACE NOW実行委員会の連絡先である「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の事務所が家宅捜索を受けたというのです。この事実だけで、背景が見えてきます。
早速、WORLD PEACE NOW実行委員会は抗議を呼びかけました。
みなさんもぜひWORLD PEACE NOWのホームページを見てください。
http://give-peace-a-chance.jp/118/pub/040707seimei.html

国家の平和と生活者の平和は対立概念なのです。
個人が平和に取り組むことは覚悟がいるのです。
逮捕や家宅捜査の危険を犯してまで、皆さんは平和に取り組みますか。
私は正直、躊躇します。
三菱自動車の社員も、きっとそうした葛藤に悩み、動けなかったのでしょうね。
さて、どうするか。
答えが出ません。
田舎暮らしをするか、金儲けのビジネスにのめりこむか。
そうしたい気持ちが高まっています。
歳と共に、気が弱くなり、防衛的になってきました。
恥ずかしい限りです。

■税金を湯水のように使う首相のアカウンタビリティ  2004年7月10日
財政赤字といわれますが、私の知る限りでは、中央も地方も、依然、無駄遣いは減っていません。霞ヶ関は、相変わらず形だけのプロジェクトにたくさんのお金を出していますし、助成金はむしろ増えているように思います。

私が一番気になるのは、イラクにしろ、北朝鮮にしろ、
私たちにはわからないままに、税金が湯水のように使われていることです。
そして、その大きな判断基準が、首相の自己利益に拠っているように思えることです。
かつて「外交機密費」なるものが話題になりましたが、
ここ数年の首相官邸が使った費用の内訳は公表されるのでしょうか。
「官官接待」や「議員の公費転用」などが糾弾されていますが、小泉首相の乱費に比べれば、かわいいものです。
企業経営者には背任訴追があり、賠償を要求できますが、
首相には背任と言う概念はないのでしょうか。
かなり高額なお金を使っているわけですが、
少なくとも、その大枠は公表されるべきです。

しかし残念ながら、行政が使う費用実態はなかなかわかりません。
なにしろこれだけの赤字になりながら、倒産もせずに借金がふやせるのです。
実態がわからないようになっており、責任が特定できず、
国民への説明のための数字はいかようにも創れるようになっているのでしょう。

しかし、それを支えているのが、私たち国民です。
いまなお小泉首相をお金ももらうことなく支援している人がいることが不思議ですが、
それは今なお麻原某に帰依する人がいるのと同じことかもしれません。

曽我さん家族のインドネシア報道を見ていて、どうもすっきりしません。
お金で処理し、お金で着飾る文化は、私たち国民の隅々にもう行き渡っているのでしょうか。果たして、それでいいのでしょうか。国民も騒ぎすぎです。関心を持って応援していくのと、騒ぐのとは違います。

私には最近の政府のやり方が、北朝鮮化しているように思えてなりません。
国民も同じです。
国民のレベルに合った首相しか選べないのでしょうね。
多数決原理は、まさに少数者支配のためのツールであることがよくわかります。
反省しなければいけません。

■明るい非暴力マニュアル  2004年7月11日
2日前の「平和に取り組むことの覚悟」の記事に、一輪庵のブログがトラックバックしてくれました。
早速、そのブログを読ませてもらいました。
グサッと来ました。

そこにこう書かれています。

>相手の良心の最善の部分に呼びかけるのが、非暴力的手法というものです。効果はゆっくりしか出てこないかも知れませんが、戦争という暴力で人間が押しつぶされるのはイヤだ、という思いがあるのなら、まずは自分自身が、怒りや憎しみの連鎖を断ち切るよう、少しだけ努力してみて下さい。

そうでした。最近、この心を忘れていました。
心が荒んでいたのです。
島田 理聡さん、ありがとうございました。

今日はコメントを書きません。
もしお時間があれば、一輪庵のブログを読んでみてください。
前後もぜひお読みください。
http://pearldiver.txt-nifty.com/door/2004/07/post_2.html

■選挙結果への失望  2004年7月12日
11日の参議院銀の選挙結果には失望しました。
まず投票率。事前の調査では、必ず投票に行くという人が50%以上いたはずですが、相変わらずのこの低さは何なのでしょうか。もうみんな諦めているのでしょうか。
次は結果です。新聞では自民が負けたとありますが、あれほどのことをやりながらこの結果では、むしろ勝ったというべきでしょう。民主党が伸びたのは、二大政党制のもとで共産党と社民党を吸収しただけの話です。
見方によっては、自民圧勝といえるかもしれません。
そして、テレビでコメントする人たちのひどさにもあきれました。
田原総一郎は論外として、もう少しまともな報道や評論ができないものでしょうか。
選挙はいまなお、金儲けのお祭りでしかないのですかね。

少し期待していただけに、前回に次ぐショックでした。
気力も萎えました。
もう勝手にやったらいいと思いたくなります。
信頼できるのは自然だけですね。
人間社会に期待してはいけません。はい。

ちなみに、二大政党制の意味が、少しは見えたでしょうか。
以前も書きましたが、政党政治はもはや過去のものであり、
なかでも二大政党制は最悪の仕組みです。
全体から発想する時代には意味はありましたが、個人から発想する時代には全く時代錯誤の制度です。

■沢蟹に最近会えません 2004年7月13日
私の還暦の祝いに、家族がミニミニビオトープをつくってくれました。
3年もたつと、それらしい雰囲気も出てきました。
そのビオトープのどこかに、沢蟹と赤手蟹が住んでいるはずです。
といっても、この1か月、会ったことがありません、
放し飼いにしたときは、きちんと住処を作ったのですが、
毎朝、覗きに行っているうちに、いつの間にかいなくなってしまいました。
過干渉だったのです。
しかし、まあどこかに生息しているとかたく信じて、時々餌を与えています。

見えないところに、私の蟹が住んでいるというのはちょっと楽しい気分です。
もっとも、我が家の庭には他にもモグラと土蛙もいるようです。
彼らに食べられてしまったのではないかと家族はいいます。
庭から出て行ってしまったのではないかという意見もあります。
そう言えば、今まで蟹が定着したことがないのです。

しかし、今回は必ずどこかに棲んでいると確信しています。
何か彼らの気を感じるのです。
来春、沢蟹の子どもが庭にあふれてくることを期待しています。

■花の水やり 2004年7月14日
我が家の庭における植物の密度はすごいです。
生物多様性の大切さが叫ばれていますが、とても狭い空間に数百種類の多様な植物が共生しています。平等に支援して行くためには、たっぷりと水をやらねばいけません。
しかも高台のため、風が強いのです。
ですから朝晩の水やりが欠かせません。
私も時々ですが、担当します。

ただ水をやればいいのではありません。
一つひとつの花木の表情をみながら水をやらなければいけません。
作業としては大変ですが、実にぜいたくな時間でもあります。
こうした時間が最近はどんどんなくなってきているのです。

環境問題が叫ばれていますが、
人と自然とのふれあいがなくなったのが最大の問題かもしれません。
花に水をやる時間の幸せはなんともいえません。
毎回、とても幸せになります。
選挙のことなどすべて忘れられます。はい。

■パピルス  2004年7月15日
我が家のミニミニビオトープには時々、パピルスががんばっています。
残念ながら冬を越せたことがないのですが、懲りずに春に購入してくるのです。
土着の花木が望ましいとは思うのですが、パピルスが好きなのです。

そういえば、我が家の庭の花木の多くが、なぜかカタカナの名前です。
カタカナにしたほうが売れるからでしょうか。
それともみんな外来種なのでしょうか。
私の机に置きたくなる花も、どうも最近はカタカナ品種です。

そういえば、カタカナ用語を漢字に変えようという、馬鹿な答申をした有識者委員会がありましたが、あれはどうなったのでしょうか。

選挙で社会がますます嫌いになった私としては、
できるだけおとなしい話題に気を向けていますが、
どうしてもついつい「愚痴」や「批判」が出てきますね。
いやはや、まだまだ人間ができていません。
このブログも少し休みましょうかね。
朝青龍も昨日、連勝をストップしたことでもありますし。

■中国サッカーのサポーターたちの根底にあるもの  2004年8月9日
先の参議院選挙結果のショックで、しばらく書き込みをやめていました。
気持ちはいまなお萎えていますが、また書き出すことにしました。
社会の質の悪さは、そこに所属する自分の質の反映でしかないでしょうから、自己嫌悪と反省をこめて、このブログを再開します。

今日の話題は、アジアカップでの中国サポーターの態度に関して、です。
私は、2つのことを感じました。

第1は、中国の選手からなぜ、たしなめる発言がないのかという疑問です。
スポーツの政治経済化は、選手同士のつながりを壊しているのでしょうか。
彼らはゲームを楽しんでいるのでしょうか。
もし彼らが楽しんでいないとしたら、イラクの米国兵士とどこが違うのでしょうか。
スポーツもまた、国家の争いのツールになっているようです。
芸術や文化、スポーツや科学が、国家を超えた人のつながりを育てていく時代は、どうやら終わったようです。

第2は、こうした動きがここまで高まるにはそれなりの背景があるのではないかという不安です。
尖閣諸島の問題や過去の日本の悪行が口実にされていますが、理由は他にあるような気がします。もっと現実的、現在的な理由があるはずです。
江沢民の抗日キャンペーンという話もありますが、それを顕在化する何かの事件か事実があるのでしょうか。
それが何か、なんとなく想像はできますが、確信はもてません。
しかし、おそらく私たちには見えていない問題が、彼らには見えているのでしょう。
われわれは、そうしたことを察知するジャーナリストや情報メディアをいまや失っているのではないかと心配です。世界や歴史が見えなくなっているのです。

昨今の動きは、パンとサーカスのローマ帝国を思い出させます。

気のせいか、今年の広島と長崎からの情報発信は弱々しく、平和の議論は盛り上がりません。
小泉首相をボイコットするくらいの気概をもたなければ、広島や長崎すらが、どんどん逆方向へと利用されるだけのおそれがあります。
暑い夏ですが、心の冷えた夏でもあるような気がしてなりません。

■美浜原発の事件  2004年8月11日
原発事故で4人の方が亡くなりました。
悲しい事件でした。

このブログを再開した契機は、CWSコモンズのホームページに書きましたが、平井憲夫さんの講演録「原発がどんなものか知ってほしい」を読んだからです。
あまりにもタイミングがよくて、
天の啓示を感じずにはいられません。

私は原発に否定的です。
それでは電気を使うなと言われますが、それは別の話です。
また原発絶対否定論者でもありません。
どんなものにも、良い面と悪い面があります。

なぜ私が原発に否定的かと言えば、20年以上前に東海村の原発増設時に発電所を見せてもらったのがきっかけです。
その定期検査や操作作業に、下請けの下請けの季節労働者が秒を競って仕事をするほど危険な仕事だと言う話を聞き、その現場を見せてもらったからです。
私は企業人でしたが、その労働環境と管理システムに大きな違和感をもったことです。
20年前の労働者観が、そこにあったからです。
こんな現場から成り立っている原始的(原子的ではありません)な産業は続くはずがないという思いが強くしたのです。そして、その後のさまざまな事件をみていると、そうした状況が改善されたようには思えなかったのです。

次に違和感を持ったのは、朝までテレビでの何回かの議論です。
話がすれ違ってばかりで、コミュニケーションができていないというよりも、コミュニケーション姿勢がないのです。もちろん電力会社側に、です。
反対運動をしている人たちも、コミュニケーション姿勢はそうあるわけではありませんが、それは情報の非対称を考えれば当然のことです。これに関しては米国のオゾン戦争がいい例です。情報を多く持っている人が情報開示しなければコミュニケーションは成立しません。

今は国会議員になられた加納時男さんが、広報活動に取り組まれた当初は大きな期待をもちました。しかし、それはほんの束の間でした。
東京電力は広報で有名ですが、私にはお粗末としか思えない会社です。金の力に依存したアマチュアリズムでしかありません。

ちなみに、コミュニケーション志向がないと言うことは、なにかを隠していたり、操作したいということであり、相手を信頼していないということですから、自らもまた信頼できない存在だと宣言していることです。自らを開示せずに、コミュニケーションや信頼関係は成り立たない。そんなことは子供でもわかります。欲にくらんだ人には理解できないかもしれませんが。

ちなみに、理解できない人の一人、小泉首相は記者会見で、
「事実を解明してきちんと発表する」
という基本的な一言が、今回も言えませんでした。
哀しい人です。

みなさん
ぜひ平井さんの講演録を読んでください。
美浜原発事故は決して不可避の事故ではありません。
責任者は自殺などせずに、しっかりと事実を公開してほしいです。
電力会社にとって、それが最高の選択なのです。
広報の基本は、正直に事実を開くことなのです。
電力会社の広報部門の人に教えてあげたいです。
あなたたちがやっているのは会社を、そして社会をつぶすことなのだと。
もう少し広報について勉強してほしいです。
自分たちのためにも。

■JR我孫子駅のタバコの自動販売機 2004年8月13日
今日は、私の娘からの問題提起です。
JR我孫子駅の改札口の横に、最近、タバコの自動販売機が設置されました。
それが気になったようで、どう思うかと質問されました。

我孫子駅の場合は、まだ一部に喫煙コーナーがありますが、JRはタバコ締め出しの方向で動いています。その駅にたばこの自動販売機の増設はおかしいというのです。
そういわれると、たしかに問題があります。
現代社会の本質が象徴されているような気がしてきました。

たとえば、
一方でタバコを締め出しながら、一方でタバコを販売する。
JRは、構内を禁煙にしたことで大幅な経費削減になったはずですが、禁煙されている場所でタバコを販売して利益を得るわけです。そこで買われたタバコはどこで吸われるのでしょうか。どうも首尾一貫しません。
そこには、社会コストを考えない、直接的な自己利益だけを追求する現代の企業の本質が見えてきます。個の利益の追求が、見えざる手によって、社会利益になるという、アダム・スミスの仮説には、それなりのルール(道徳感情)が必要なのです。

たとえば、
喫煙者の便宜を図るための顧客サービス(CS)の一環だと言う考え方もあるでしょうが、ビジョンのないCSは利益目的の商業主義でしかありません。大切なのは、もっと「大きな消費者満足」です。小さな経済に目がくらんだ企業にはそれが見えなくなっています。
そのことを少し書いた昔の小論をお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cs-ronnbun.htm
顧客サービスと言いながら、顧客を追い込む現代のマーケティングの本質が見えてきます。企業の昨今のCSのCは、コーポレートのCでしかありません。

ビジョンのない小賢しさは、自らを滅ぼします。
そろそろ「小さな経済」「小さな経営」の発想を捨てなければいけません。

たかが自販機、されど自販機、です。
ちなみに、私はこの7年、自販機を使ったことは3回くらいしかありません。
さまざまな商品の自販機がなくなることを願っています。
ATMには抵抗できずにいますが。

■日朝協議とオリンピック競技  2004年8月15日
日朝協議の結果のひどさが、オリンピック報道のなかで見過ごされて行くのがとても気になります。
マスコミもまた、完全に商業主義のとりこになってしまいました。
私たちの意識もまた、同じですが。

それにしても、今回の協議結果を見るにつけ、国家と言うものの変質を感じます。
国家が壊れてきているのでしょうか。
企業がそうなってきているように、国家もまた私物化されてきています。
言い換えれば、社員と同じく、国民が私物化されて来ていると言うことですが。

昨日は終戦記念日でしたが、一体どれだけの人がそれを思い出したでしょうか。
日本が戦争に向けての二歩目を踏み出した年のせいか、今年は6日も9日も15日も、平和に関する報道が少なかったように思います。
皆さんはどう感じているでしょうか。

報道はオリンピック競技一色です。
ヒトラーの時代のドイツもこうだったのでしょうか。

ところで、イラクや北朝鮮では、オリンピックで良い成績を上げないと厳しい「お仕置き」が、また良い成績をあげると望外の「ご褒美」が待っていたようですが、日本でも状況は同じようです。さすがに「お仕置き」はないでしょうが。
もしかしたら、最近のスポーツは、戦争への入り口かもしれません。
どうも忌まわしい歴史が目の前にちらついて仕方ありません。

■温泉場の常識  2004年8月17日

温泉に薬品を入れている話から始まった温泉騒動は、どんどん広がっています。
何を今さらと、いう気もしますが、どこまで広がるのでしょうか。
きっと際限がないでしょうね。
いまや日本は嘘が奨励されている社会だからです。

2年ほど前に、CWSコモンズのホームページで、
「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」とメッセージさせてもらいましたが、その後も、小泉政権は嘘を重ねてきました。いや、嘘を奨励してきたようにさえ思えます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagefile/messagekiroku.htm#m2
そのせいか、日本には今や嘘が充満しているのです。

昔は、「嘘は泥棒のはじまり」と言われたものです。
しかし、いまは「嘘は出世のはじまり」です。
本当に皆さん嘘ばかりで、真実がありません。
泥棒を捕まえる警察にも、嘘は蔓延していますし、
食品の安全を保証したり、商品の品質を保証したりする認証シールなどにも嘘が広がっているようです。だれもそうしたものを信用しなくなってきています。
そして、多くの人が嘘に対して咎めることを止め出したのです。
「裸の王様」のように、嘘を知りながら、だれも真実を言わなくなってきたのです。

そうした時代の中で、温泉場の嘘が問題になりだしています。
テレビで見ていると、温泉場の人には全く「罪の意識」が感じられません。
見事なほどです。
みんな首相や政治家や警察や財界トップの方々を見倣っているのでしょうか。
それとも、今や嘘は美徳になってしまったのでしょうか。

嘘をつかないというのが、私の信条の一つなのですが、これからどうしようか悩ましいことです。時代の風潮に棹差しては生きにくいですし。
死後、閻魔様に舌を抜かれるのが恐ろしいですが、
ここまでくると抜いている暇がないので、大丈夫かもしれません。
みんなでわたれば怖くないではないですが、ここまで嘘が蔓延してくると、嘘をつくのも罪悪感がなくなりますね。
さて、どうしましょうか。

■「昔はこんなではなかった」  2004年8月19日

福島のタクシー運転手から聞いた話です。
福島では今年も果物泥棒が多いそうです。
見回りも強化しているようですが、巧みにすり抜けて、きれいに収穫していき、しかもプロ並のもぎ取り方。
悪い時代になったと、タクシーの運転手が嘆いていました。

「悪い時代」。本当にそう思います。
こんな社会にするために、私たちはがんばってきたのでしょうか。

果物泥棒がいるということは、必ずそれを購入する人がいるということです。
私が出来る唯一のことは、自動車で売りに来る人からは果物は買わないということぐらいです。しかし、もしかすると、それはせっかく遠路はるばる売りに来たまじめな生産者を疑うことになるかもいれません

果物だけではありません。
いろいろなところで、「昔はこんなではなかった」というお年寄りの言葉を聞くような気がします。
20年前までは、その言葉が、プラスの意味をもっていました。
しかし、最近は反対です。
どうしたら、時代の流れを反転させられるでしょうか。
少子化がとまらないのも当然かもしれません。

「昔はこんなではなかった」事例をもう一つ聞きました。
秋になるとサルの群れが民家の柿をとりにあらわれるそうです。
最近は、ほとんどの民家が柿はとらないのだそうです。
昔はどの家も柿をとって、干し柿にしました。むいた皮も無駄にせずに活用しました。
しかし今はそんなことをする人はいなくなったそうです。
これは福島に限りません。
豊かになったのでしょうか?

■「昔はこんなではなかった」  2004年8月19日

福島のタクシー運転手から聞いた話です。
福島では今年も果物泥棒が多いそうです。
見回りも強化しているようですが、巧みにすり抜けて、きれいに収穫していき、しかもプロ並のもぎ取り方。
悪い時代になったと、タクシーの運転手が嘆いていました。

「悪い時代」。本当にそう思います。
こんな社会にするために、私たちはがんばってきたのでしょうか。

果物泥棒がいるということは、必ずそれを購入する人がいるということです。
私が出来る唯一のことは、自動車で売りに来る人からは果物は買わないということぐらいです。しかし、もしかすると、それはせっかく遠路はるばる売りに来たまじめな生産者を疑うことになるかもいれません

果物だけではありません。
いろいろなところで、「昔はこんなではなかった」というお年寄りの言葉を聞くような気がします。
20年前までは、その言葉が、プラスの意味をもっていました。
しかし、最近は反対です。
どうしたら、時代の流れを反転させられるでしょうか。
少子化がとまらないのも当然かもしれません。

「昔はこんなではなかった」事例をもう一つ聞きました。
秋になるとサルの群れが民家の柿をとりにあらわれるそうです。
最近は、ほとんどの民家が柿はとらないのだそうです。
昔はどの家も柿をとって、干し柿にしました。むいた皮も無駄にせずに活用しました。
しかし今はそんなことをする人はいなくなったそうです。
これは福島に限りません。
豊かになったのでしょうか?

■情報を隠蔽するメディアとしての新聞とテレビ  2004年8月21日

驚くべきことですが、新聞の半分がオリンピック情報に占められています。
テレビニュースもオリンピックから始まります。
私のように、オリンピックにいささか冷ややかなものにとっては辟易せざるをえません。
世界の動きが、見えなくなっています。

マスコミは情報を提供するメディアだとばかり思っていたのですが、昨今の状況を見ていると、むしろ情報を隠蔽するためのメディアだという気がしてきます。
また下山さんから、何をいまさらと怒られそうですが。

最近、新聞を読まない人が多くなってきていると聞いた時は、驚きましたし、とらない人の社会性を疑ったものですが、どうも私が間違っていたような気がしてきました。
新聞はもはや社会の公器ではなくなってしまったようですね。
以前も書きましたが、しかしまだ新聞購読をやめられずにいます。
文句をいうくらいなら購読しなければいいのですが。

それにしても、見たくもないオリンピック番組を見ていると、なぜか次第に引き込まれ、ついつい最後まで見てしまうのはなぜでしょうか。そして、日本が負けると、なぜか残念に思うのも怖い話です。言動が一致できない無念さを感じています。

■構造的暴力の被害者 カミロ兵卒の場合  2004年9月3日
一昨日のニュース23で、共和党大会のニュースに重ねて、カミロさんという若い米兵の事件が報道されていました。
彼は、大学の学費支援を受けるために入隊したのですが、イラクに派兵され、そこでの体験から、この戦争は違法であると考えるようになりました。そして、休暇帰国した際に行方をくらまし、1か月くらいしてから軍に出頭した若者です。結局、禁固1年の有罪になり、今、刑に服しています。その母親と支援者が、共和党大会会場の周りのデモに参加したのです。

彼は戦場で様々な体験をしています。
その話を母親との対話という形でビデオに残しています。
たとえばこんな話です。
仲間と街を巡回している時に、突然、街角から出てきたイラクの青年をみんなで射殺してしまったという体験談に対して、母親が『あなただけ撃たないこともできたのではないか』と質問していますが、彼は振り絞るような口調で、『そういうときは何も考えずに、みんなと一緒に撃ってしまうものだ』と答えています。
彼の場合、後で調べたら、11発も発砲していたと言います。彼を責められるでしょうか。

この話の構造は様々なことを考えさせてくれます。
なぜ彼がイラクにいったのか、人を殺さなければならなかったのか、そして刑に服すことの意味は何なのか。
結局、イラクで殺しあっている人たちの多くは、『やむを得ずにやっている』と言うことです。そして、結局は自らも殺しているのです。
ネパールからイラクに出稼ぎに行って殺された人たちも、イラクではなく、ヨルダンなどの隣国に行き、そこから強制的に派遣されたとも伝えられています。
問題は、そうした構造なのです。

ノルウェイのヨハン・ガルトゥングは、暴力には2種類あるといいました。
「直接的暴力」と「構造的暴力」です。構造的暴力の被害者が直接的暴力に強制的に組み込まれ、構造的暴力を強化させていく。これが昨今の平和活動の構造です。何が「イラクに平和」でしょうか。そんな思いの人たちと時代を共有する事がとても哀しいです。

カミロ事件のような報道が増えてきました。
戦争の実相が見えてきたと言ってもいいでしょう。いや、9.11の実相というべきかもしれません。
にもかかわらず、小泉人気はまた持ち直しそうだといいます。
悪貨は良貨を駆逐する。小賢しさが賢さを駆逐する。
最悪の人が組織のリーダになる、これは成熟した組織の避けられない宿命ですが、国家も同じです。
日米の北朝鮮化が進んでいます。
ガルトゥング風にいえば、構造的北朝鮮化が進んでいるのです。

ところで、最近のニュース23を、少し見直しています。
これまではあまりにひどかったですが、最近はきちんとしたメッセージを感じます。
テレビも少しは見る価値があるかもしれません。

■ 共謀罪の話  2004年9月5日
8月23日の「東京新聞」の特報記事がいくつかのメーリングリストで話題になっています。加熱したオリンピック報道で、新聞を読まなくなったこともあって、私はその動きを知りませんでした。

表題は「『超監視社会』の前夜? 標的は…労組と市民団体」となっています。
刺激的な内容です。ぜひお読みください。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040823/mng_____tokuho__000.shtml

組織犯罪処罰法改正案が今秋の臨時国会で本格審議に入る見通しだといいます。最近の国際テロに対する国際的な対抗活動が、その契機になっているようです。
まあ、これだけ聞くと、いい事じゃないかと思う人も多いでしょう。しかし、どうもそうはいっていられないようです。東京新聞の記事によれば、もしこれが成立すると、「酒場で職場の同僚たちと『あの上司を殴ったろか』なんてグチっただけでパクられかねない」そうです。
まあ、それでもいいじゃないの、という方は、是非とも第二次世界大戦の労働組合史をお読みください。

新たに新設されるのが「共謀罪」です。
自由法曹団警察問題委員会というところが、共謀罪に関するわかりやすい説明をしてくれています。
http://www.jlaf.jp/iken/2004/iken_20040115_02.html
それによれば、共謀罪とは、「団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行なわれるものの遂行を共謀した罪」です。死刑を含む重い罰が規定されています。

まだどこが問題かわかりませんね。
そうです。法律というのは、そういうものなのです。わかりやすくしてはいけないのです。いまの法律は社会契約とは違うのです。
これが権力に向けて施行されるのなら、小泉首相は死刑に相当すると思いますが、実際には法律は権力者が施行します。ですから、とんでもない権力を権力者は得ることになります。死刑をまぬがれるどころの話ではありません。金正日と同じようになれるのです。80年前の日本社会を思い出します。しかし、テロ対策とはそういうことです。
チェチェンの悲劇の環境外者は誰だと思いますか。

1984年の現実が、ひたひたと忍び寄っています。
パンとサーカスに現を抜かしていたほうが、幸せなのでしょうか。

■混乱のはじまり  2004年9月6日

ロシアの学校占拠事件は衝撃的でした。
私はどちらかというと、常にマイノリティの視点で考えてしまう、生理的な思考回路が働くタイプなのですが、今回だけはどうしても、立てこもりの首謀者には共感を持つ事ができませんでした。
今日になって、やっと少し理解できるような気がしてきました。

いずれにしろ、哀しい事件ですが、しかし、異常な事件として位置づけるべきではないでしょう。その意味をしっかりと考える事が大切です。
情報もほとんどないなかで考えるのは無理がありますが、少しだけ考えてみました。そうしないとどうにも前に進めないからです。

悲惨な結末は、彼らがいかに追いこまれているかから考えるべきでしょう。
自爆テロは先の大戦におけり日本の特攻隊とは全く意味が違います。その意味を、もっと世界は真剣に考えるべきでしょう。死をもって抗議するほどの怒りは、どうやって生まれるのかを、もっと私たちは真剣に考えなければいけません。カミロさんが気づいたように、人道支援などとだまされていてはいけません。
しかし、今回の事件は、自爆による異議申し立てを超えています。恐ろしいほどに超えているのです。

一つの理由は、悲しみが組織化されていな事だと思います。組織化されていれば、展望やビジョンによって、統制力が働きますが、個々ばらばらの絶望と怒りの集積は暴走しだしたら、個人の力を超えてしまいます。組織の論理と個人の情念は絶対にかみ合うことはないでしょう。戦争と喧嘩は似て非なるものです。

私は30年前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
世界は「管理の時代」に向かうか、「真心の時代」に向かうか、その分岐点が20世紀末だったと思います。そして、人類は真心の時代を選ぶだろうと私は考えたのです。
しかし、歴史はそうなりませんでした。まさに「管理の時代」が到来したような気がします。そして、口では文句をいいながら、その心地よさにみんな浸っています。私には息がつまりますが、まあ、私のような偏屈者が生きるだけの寛容さはまだ残っています。いや残しているというべきでしょうか。

このブログも、関連したCWSコモンズのホームページやコムケアのブログも、私の活動のすべての基本にあるのは、繰り返し延べてきているように、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へというパラダイム転換です。それは、「管理の時代」から「真心の時代」へというテーゼと同一なのです。

長くなりましたが、ロシア学校事件は、その時代転換のはざ間での、それぞれのコンテクストの違いから起こった事件だと、私は考えることにしました。
ですから、こうした事件は、これからまた起こるでしょう。
恐ろしいことですが、時代の変わり目にはこうした混乱は避けがたいのかもしれません。

混乱の時代が始まったのです。
国家が崩れだしたと言うべきかもしれません。
にもかかわらずに、それに代わる仕組みも発想も芽生えさえありません。
いや、ソーシャル・キャピタル論が、もしかしたら、その芽なのでしょうか。
正村公宏さんは、もしかしたらそう考えているかもしれません。
そんな気がしますが、私には接点がないので確かめようもありません。

■地に落ちたスポーツ  2004年9月8日

オリンピックの金メダル獲得選手への対応振りは、いささか常軌を外しています。
ここまで堕ちたか、と思います。
今日のプロ野球のオーナー会議や選手会のスト宣言も、同じような苦々しさを感じます。

福原愛さんのCM出演料が7000万円。
なにか違和感を感じます。
みなさんは感じませんか。
女房には、愛ちゃんをCMに使っている企業の商品は買わないでほしいと頼んでいますが、みんなで不買運動を起こしたいですね。
彼女の人生を商売に使うな、などというつもりはないのですが、
お金をそんなふうに使ってもらっては困るのです。
それはプロ野球の有名選手の契約金や年俸の問題にも言えることです。
その結果がいまのプロ野球の現状でしょう。
スポーツはまだバブル経済を続けています。

しかし、そんなこともまあ、いいのです。
プロ野球について言えば、自業自得なのです。
知恵のない関係者がお金で、しかも組織の金で、選手を囲い込んでいくとどうなるか。2軍選手のことも考えない欲得で、その仕組みに乗っていくとどうなるか。結果は当事者たちに向かいます。
そこまでは口は出しません。哀しくとも、彼らの人生ですから。

私が問題にしたいのは、
そうした心ない人の言動が、私が住んでいる社会をおかしくしてしまうことです。
2つだけ書きます。

まず、お金は「モノ」ではないということです。
システムなのです。
自分の金だから勝手に使っていいモノではないのです。
誰かが使えば、必ず全体の価値に影響を与えるのがお金なのです。
舌足らずのコメントですが、わかってもらえるでしょうか。
ものすごく重要な問題提起のつもりです。

マラソンの野口選手は話題になりますが、他の2選手はほとんど話題になりません。そして、たぶん、報奨金もCM契約料も桁が違うことでしょう。
そこにも大きな問題があります。
いじめの構造、差別の構造、儲け主義の構造、いろいろなことにつながっています。
戦争につながるというと大げさでしょうか。
しかし、ドーピング問題につながっている事は間違いないでしょう。

それにどうして、みんな気づかないのか。

私が、誇大妄想に陥っているだけであれば、とてもうれしいのですが。

■同じ間違い  2004年9月9日
プロ野球問題で今日、オーナーと選手会が6時間の会議をしました。
そこから出てきた選手会の古田会長は、会議の内容を質問されて、
内容は話せないよと答えました。
どう思いますか。

つまりオーナーたちと選手会は同じ穴のムジナなのです。
馬脚をあらわしたと言うべきでしょうか。
もし選手会が自分たちの欲得でなく、社会の目線を持っていたら、
社会を味方にしたいのなら、
すべてを公開すればいいはずです。

これは今回の選手会に限りません。
みんな同じ間違いを犯します。
彼らはみんな同じ仲間なのです。
堕ちた人たちは、救えないのです。

情報を開いていくことがすべてを正常化すると、私は確信している人間です。
あまり賛成は得られそうもありませんが。

■大銀行が倒産するのは当然です  2004年9月10日
私はUFJ銀行に100万円の定期預金があります。
たった100万円といわれそうですが、まあ、庶民はそんなものです。
昨日、UFJ銀行から葉書が届きました。
利子のお知らせです。
利子は税引き後14円です。
こんな葉書が時々来ます。

UFJ銀行の社員の無駄遣い感覚にはあきれます。
こんな葉書を出すくらいなら、その分、利子に入れてくれればと思います。
税金投入額を減らすのに向けても良いです。
この葉書にはどれほどのコストがかかっているでしょうか。
信じられない愚行です。
つまり銀行には経営感覚が皆無なのです。

こんなところに税金を投入しているのかと思うと、税金を払いたくなくなります。

■被害にあった人の笑顔  2004年9月11日
最近、とても気になる事があります。

今年は台風や大雨で多くの被害が発生しました。
その被害にあった人たちが、テレビの取材に応じて回答する顔がとても和やかなことです。笑顔を浮かべて、家が流されたとか、家中がドロだらけになったとか答えているのです。どうも被害のリアリティが実感できません。
むしろ不気味さを感じます。

現実感覚を失いつつあるのは、どうも子どもたちだけではないようです。

実は私も例外ではありません。
昨日、セロのマジックのテレビ番組を見ていました。
昔はこうしたマジックに感心していたのですが、最近は、感激しません。
なぜかといえば、CGとの区別がつかないのです。
CGの世界はもっと驚がく的なショーが可能です。
ですから、どんな不思議なマジックでも、すごいとは思いますが、それがどうしたという冷めた気分がどこかにあります。

40年前にSFの世界で盛んに語られていたことが現実になりました。

■コメンテーター社会の脆弱さ  2004年9月19日

昨日、朝日ニュースターのテレビにコメンテーターとして出演しました。
前月は、コメンテーターを頼まれたことを忘れて、議論してしまったので、今回は自重しました。問われたら答えるという仕組みです。とても楽ですが、どうも性にあいません。

私はいつもテレビを見ていて、コメンテーターたちの冷静なコメントに敬意を払っています。私は感情的になるタイプなので、冷静な発言ができないのです。ですから、どうしてこんなに冷静沈着に発言できるのか、いつも感動しています。これは決して皮肉ではありません。

しかし一方では、最近、コメンテーター文化が広がっているのが気になっています。
コメントは正しいとして、しかし、それがどうしたという気もします。
それにコメンテーターの意見が違う時は、すれ違うだけで良いのかです。
議論をしてほしいですが、最近はみんな議論を避けがちです。
コメンテーターにはコミュニケーション思考はあまりないような気もします。

これはテレビだけではありません。
メーリングリストでも同じようなコメントが盛んです。
コメントというよりも、一方的な発信が多いのです。
しかも事実をろくろく確認しないでの発言が本当に多いです。
最近、「赤ペンを持って憲法読もう」と言う本の紹介を、あるメーリングリストに流しました。即座に、憲法9条を変えようとしようとしているのか、というお叱りの反応がありました。本を読みもせずのコメントです。まあ、こうした人は、すべてにおいて事実を確認せずにコメントして、それで終わりにするのでしょうが、まあそれはそれとして、こうしたコメンテーター文化には辟易です。

コメンテーターは楽な姿勢です。ただコメントしていればいいのですから。
そして、私もまた、そうした社会の風潮に流されて、
このブログもコメンテーターブログになっているのでしょうね。
反省しなければいけません。

■犯罪が許される社会 2004年9月12日
日本は犯罪が横行している社会です。
警察はいうまでもありませんが、社会もまたそれを見逃しています。

たとえば、年金証券を預かってお金を貸す業者の話が時々、テレビで放映されますが、そうした会社は依然として放置されています。法律違反でも、その法律に罰則規定がないと止められないという奇妙な論理まで横行しています。
みんなやる気が全くないのです。
社会がどんどん壊れていく。
そんな気がしています。
しかし、まだ日本には目に見える紛争は少なく、死者も出ていません。

一方、イラクはどうでしょうか。
イラクではまだ毎日のように死者が出る事件が起こっています。
外国人が誘拐され、殺害される不幸な事件も続いています。
しかし、イラクの社会はどうでしょうか。
壊れているのか再生しているのか。
私には、アメリカや日本が壊そうとしているのを、イラクの人たちが一生懸命にがんばっているように思えます。
イラク復興は、イラク国民のためではなく、日米の権力者の私欲のためでしかありません。事情が変われば、ブッシュはまた新たなフセインを作り出し、信念のない追従者の小泉はそれに荷担するでしょう。その資金は言うまでもなく、私たちの税金です。応援しているのも、残念ながら私たちです。

北朝鮮はどうでしょうか。
ここはすでに壊れた社会ですが、壊れた社会に巣くっている犯罪者を、人道支援の名目で日本は支援しています。日本の支援が犯罪者の力の源泉になる事は言うまでもありません。そのために殺される人がいないとは限りません。
しかし、その北朝鮮でも、いくつかの徴候から社会の回復を感じさせられます。もしかしたら日本よりはいいかもしれません。

つまり、日本の場合、ベクトルが反転しているのです。
このままだと、10年後には、イラクよりも、北朝鮮よりも、社会は劣化している気がします。
なぜでしょうか。私たちが豊かになり、権力者の仲間入りをしたからでしょうか。

最近、日本で起こっている殺人事件には、救いがありません。
イラクに関連している人たちの死と、あまりに違うことに、不安を感じます。
社会の凋落はまさにつるべ落としの勢いなのでしょうか。
もう止められないのでしょうか。
賢い人たちは、それを知ってしまったのかもしれません。
犯罪が日常化する社会は、もう直前に来ているのかもしれません。
大地震よりずっと怖いです。
どうすればいいか、私たちが素直な声をあげだせばいいのです。

プロ野球の今回の事件は、そのことを教えてくれました。

■悪貨は良貨を駆逐する  2004年9月30日
どうも書き込みを継続できません。
以前のように毎日書き込む事を日課にすればいいのですが、
書こうと思うと怒りと失望がない混じったような寂しい気分になるのです。
そして、文章にしたら(言葉にしたら)誤解されるような表現になってしまいそうなのです。
それに失礼ながら、どうせ本意は伝わらないだろうな、いや、伝わっても何も変わらないだろうなと思ってしまうのです。
こうやって人は朽ちて行くのでしょうか。
昨日、ある先輩と話していて、そういう思いを強めました。

黒岩さんがブログを始めたので、私もまた書き込むことにしました。
それに、たとえ読み手がなくても書かないと、下山さんに訴えられそうですし。

たとえばライブドアをつぶした楽天と財界人。
たとえば中山参与を追いやった3人の政治家。
その卑しさに、やりきれなさを感じます。
しかもそれがすべてお金で動いているのでしょうから、本当にやりきれません。

救いは、最近のテレビでの若い世代の素直な発言です。
若手キャスターがとても素直に反応し出したように思います。
もしかしたら、彼らがテレビを変えてくれるかもしれません。
もっともテレビのほとんどは、タレントといわれる心を抜かれた道化者に埋め尽くされつつありますので、そう楽観はできませんが、新聞よりは期待できそうです。

悪貨は良貨を駆逐するとはよくいったものです。
質の劣化は人間社会の本質なのだと、最近ようやく気づきました。
進歩主義的歴史観が否定されて久しいですが、私もまだどこかに進歩への信奉があったようです。
SF作家の光瀬龍の年代記ものを読んだ方はいますか。
私は昔大好きでした。
現実的ではないと思っていたからこそ、好きだったのですが、
いま思うと極めて現実的ですね。
そういえば、手塚治虫も限りなく暗かったです。

ブログ再開は暗いスタートになりました。

■人との出会い 2004年10月1日
今日、新しい出会いが4つありました。
10年振りの偶然の出会いも2人いました。
今日はたくさんの人と出会えました。
私は人と会うと元気になるタイプなのです。

企業の人を対象にした講演で、私がよくする質問があります。
あなたはこの1か月で、新しい人と何人出会いましたか?
営業が仕事の人は新しい名刺をたくさん入手したかもしれませんが、
そうではなくて、心を開ける直接的な利害関係のない人との出会いです。

意外とこれが少ないのではないでしょうか。
幸いに私は新しい出会いに恵まれています。
しかし、それを活かせているかどうかは自信がありません。

今日、たまたまですが、旧知の人にぱったり出会いました。
それぞれ別々にです。
本当に偶然ですが、これはきっと何かの意味があるのでしょう。
2人とも10年くらいご無沙汰している人です。
人のつながりを大切にしていないのではないかという天からのメッセージでしょうか。

今日は他にもメールで、とても元気づけられるメールをもらいました。
このブログの読者からも、最近煮詰まっているようで心配だというメールももらいました。
心配をかけてすみません。
CWSコモンズの方に明日にでも書き込みますが、
だいぶ元気が出てきました。
明日からまた、原則として毎日、このブログを書く予定です。
自分のために。

■ ブログがなかなか書けません 2004年10月11日
10日前に、ブログを毎日書くと書き込んだのですが、結局、書けませんでした。
時間がなかったというのは全く理由にはなりません。
「書けない」のです。なぜでしょうか。

腹立たしいことは、相変わらず多いですし、
うれしいこともたくさんあります。
しかし、書く気が起きないのです。

日本国民は、政・官・業・ヤクザの連携プレーの中で収奪されているのになぜ怒らないのかと呼びかけている『泥棒国家の完成』(光文社)を読んでの感想を、今成宗和さんが「東京ライフスタイル日記」に、書いています。

>著者は「なぜこうしたことにみな怒らないのか」と言うのですが、怒るに気にもなれないのです。

私もそんな気分になっているのかもしれません。
そのせいか疑心暗鬼になっている傾向もあります。
たとえば、UFJ銀行の刑事告訴、時を同じくしたダイエーへの再生機構活用の働きかけ。後ろにあるものを勘ぐりたくなります。

今週こそ書き出します。

■断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する  2004年11月1日
ブログを再開します。

香田さんが殺害されました。
首相は「残虐非道」と憤り、「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する」と発言したと新聞に書かれています。

香田さんに関しては、私のまわりでもいろいろな意見がありますが、
香田さんを非難する声が圧倒的に多いです。
しかし、この結果に関しては、みんな「残虐非道」と衝撃を受けているように思います。
私も同じような意見です。

しかし、です。
「残虐非道」といえば、そこまで彼らを追いやった側はそうではなかったのか。
そして、彼らもまた、
「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」しているのではないか。
そう思えてなりません。

「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」などという発想が、すでに前世紀の遺物的発想です。こなれていませんが、私が20年前に書いた拙文「21世紀は真心の時代」をお読みいただければうれしいです。http://homepage2.nifty.com/CWS/magokoro.htm解決策は全く別の発想でなければいけません。

イラク復興は進んでいるのでしょうか。
人心面も含めて破壊が進んでいるのではないでしょうか。
イラクでの危険度がますます高まっているということの意味をしっかりと受け止めなければいけません。

香田さんが殺害され、小泉首相がぬくぬくと生き残っていることに不条理を感じます。
小泉首相が憤るべきは、ブッシュや自らの「残虐非道」さではないかとさえ、思えます。
そして、さらにまた、その側に荷担している自分へのふがいなさが残念です。

香田さんのメッセージは、大切にしたいと思います。

■CSRの欺瞞性 2004年11月3日
企業では最近、CSR論議が盛んです。
それは悪いことではないかもしれませんが、
その欺瞞性には腹がたちます。
CSRすらもイメージ戦略の道具になっているからです。
ISO14000もそうでしたが。
所詮はアナリストやインベスター向きの表層的な活動であり、それに便乗したコンサルティング会社の儲け主義を利するだけのものが少なくありません。

その証拠は、各社のCSRレポートの内容を見ればすぐわかります。
社会的視点はほぼ皆無です。

私は企業のCSRのポイントは、そこの社員(経営者と従業員)がどのくらい社会常識を持ち、どのくらい自分らしい生活をしているかだと思います。

それはともかく、こんなことをどう考えますか。
31日のコムケアのイベントを手伝ってくれていた人が、うっかり携帯電話をトイレの水に落としてしまいました。
大変です。使えなくなっただけではなく、データがすべて消えてしまったのです。
昔は、それでも乾かせば、回復することもあったようですが、最近は回復しないそうです。つまり濡らしたら、だめになるのです。
馬鹿な話です。
そうならないようにするのはそれほど難しくはないはずです。
しかし、ドコモ、いや、どこもやろうとはせずに、むしろダメにする方向に進んでいるのです。
これが昨今の商業主義の実態です。

自動車メーカーが、水中に没した時にドアや窓が開けられなくなる方向に開発を進めてきたのと同じです。犯罪に近いと私は思っています。

いずれもCSRでは評価の高いメーカーの姿勢です。
やるべきことをやるのが、CSRの原点です。
それがわかっていない会社のCSRレポートなど、読む価値もありません。
CSRに関するシンポジウムも多いですが、そんなまやかしに疑問を思う担当者はいないのでしょうか。

どこか、本当のCSRレポートを創る会社はないでしょうか。
ぜひお手伝いしたいです。

■人の道を外すことが「人の道」  2004年11月4日
「沈黙の春」を読む会と言うのをやっているのですが、そこで倫理の話が出てきました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/info-kiroku.htm#haru
キリスト教社会では倫理の拠り所があるためか、倫理(ethics)という言葉が実体概念として受け止めやすいが、日本では倫理ということがわかりにくいと、米国で育ったメンバーがいいました。倫理という言葉できてから、まだ120年という意見も出されました。たしかに馴染みにくい言葉です。

倫理という言葉には、私は管理の姿勢を感じ、少し反発したくなります。たとえば、国歌を強要するリーダーシップのない都知事を思い出してしまいます。倫理は国家用語です。私の世界の言葉ではありません。

それに代わる日本語は何でしょうか。
とてもいい言葉があります。
「人の道」です。
これこそは私たちの言葉です。コモンズ用語です。

ところで、その「人の道」に反する事が、最近は評価される時代です。
それは、逆接的に聞こえるかもしれませんが、国家体制が崩壊されつつある証かもしれません。ローマ時代も、1世紀まではきっと「人の道」が大切にされたはずです。ブルータスの悲劇も、そのためかもしれません。

前置きが長くなりました。

楽天がプロ野球参入権を獲得し、ライブドアがだめでした。
これは「人の道」に反します。
中国的にいえば、最初に井戸を掘ったのは堀江さんです。
わりきれません。プロ野球よ、そして応援した卑しい財界人たちよ、地獄に堕ちろ、といいたいですね。

香田さん事件はどうでしょうか。
人の道に反していないでしょうか。
香田さんのことではありません。
彼の救出に誠意を示さなかった日本の人たちのことです。
彼の死に哀悼の意を表しない私たちのことです。

そして、昨日、ブッシュが勝利しました。
嘘をついて、人を殺し、豊かなイラクを破壊し続けている人物が信任されたのです。
人の道を外すことが、今や「人の道」になったようです。
まさに「悪貨は良貨を駆逐する」です。
こうした社会の育つ次世代の子どもたちは、いったいどうなるのでしょうか。
少子化よりも深刻な問題が、そこにあります。
でも誰もそんなことは気にしないのでしょう。
それがこれまでの社会パラダイムだったのです。

■電子ポットが壊れました  2004年11月6日

電子ポットが壊れました。
3年前に購入したものです。
どこが壊れたかと言えば、「ロック解除」ができなくなったのです。
つまり、お湯が沸いてもロックされているため、お湯が出さないわけです。

購入した大型電気店に相談に行きました。
修理をするにはまず見積もり費用が5000円、部品変更で3000円くらい、合計8000円くらいかかるでしょうと言われました。新品を購入したほうがいいですよと言わんばかりです。確かに以前、ビデオレコーダーを、「アドバイス」に従わずに修理したら、またすぐ壊れたことがあります。それで家族の意見に負けて購入しなおしました。
今度は電子化されていないシンプルなものを探しましたが、そうしたタイプは形が悪くて購入気分を起こさないのです。結局、ほぼ前と同じものを購入しました。

さて皆さんはどう思いますか。
この電子ポットを作っている会社は、環境報告書などもしっかり出して、環境経営を謳っている会社です。

解除ロックが壊れたポットは結局捨てました。なにか納得できない気持ちでした。

なぜ解除ロックがついたのでしょうか。これもいま流行のユニバーサルデザインのせいでしょうか。余計なお世話といい対ですが。解除ロックがなければ、あの電子ポットはゴミにはならなかったのです。

こうした話は周辺にたくさんあります。
それが嫌なら、そういう道具を使わなければいい出はないかと言われそうです。
たしかにそうです。
しかし、問題を摩り替えてはいけません。
問題は、ともかく顧客を増やし、市場を拡大していこうという姿勢です。
本当の経営は、顧客を創造することではなく、顧客を無くすことなのです。
ドラッカーの経営の時代は終わらせなければいけません。
今の財界人の発想は問い直さなければいけません。

新しい経済は、そこからきっと始まります。

■イラクの真実  2004年11月8日
イラクの復興への各国の取り組みが始まって、もうどのくらい経過するのでしょうか。
日本の新聞やテレビの報道では、復興に向かっているという実感はなかなか持てません。
むしろ悪化しているようにすら思われます。
果たして多くの人たちの善意は、きちんとイラクの復興に活かされているのでしょうか。

この数日のメールを見ていると、ファルージャ攻撃は半端ではなさそうです。新聞情報の小奇麗さとは大違いです。
ネット情報は、日本のマスコミとはかなり違うものも少なくありません。ファルージャの市民代表が国連のアナン事務総長に出した書簡には、「ザルカウィは実在しない、もしくはもはや死亡した、にもかかわらず、彼を口実に攻撃が激化している」と書かれているというメールも流れています。
何が真実なのでしょうか。

そもそもこの事件は、イラクの大量破壊兵器保有が発端でしたが、その事実はなかったことがほぼ判明しました。しかし、戦いはさらに激化しています。復興の名前での破壊です。

「アラモ」という映画で(新作の「アラモ」ではありません)、
ジョン・ウェイン演ずるクロケットが、仲間のテキサス人をアラモの戦いに巻き込む時の話は面白いです。敵将がよこしたと偽って、クロケットが自分たちを侮辱した手紙を読み上げます。皆は怒り出して、戦う気になるのですが、そこでクロケットは、実はこの手紙は自分が書いた嘘の手紙だと白状するのです。しかし、戦う気になった仲間は、そんなことはどうでもいいと言い出して、結局、全員がアラモで戦死するのです。

どこか似ています。
できれば、ブッシュにも生命をはってもらいたいと思うのですが、そこがクロケットとは違うところです。

イラクの真実は、本当はどうなのか。
香田さんの気持ちが少しだけわかります。
しかし、真実などはないのかもしれません。
テレビのニュースが私の感覚を麻痺させてきています。
怖いことです。

■当事者を除外する文化 2004年11月10日
昨夜、香田さんの夢を見ました。彼は登場しませんでしたが、うなされて目が覚めた時の恐怖感の中で、なぜか香田さんが思い出されたのです。それから目が覚めて、眠れなくなりました。

第3回日朝実務者協議が始まります。
成果のない結果が続いているために、期待ももてなくなってきていますが、こうして問題は風化していくのでしょうか。当事者の立場での交渉手段の選択ではないですから、当事者たちにとっては納得できない進展でしょう。その現実に耐えなければいけない当事者の心境はどんなものでしょうか。

一昨日(11月9日)、家族会、救う会は薮中局長ら政府交渉団に要請書を手渡し、話し合いを行いましたが、その概要が「救う会全国協議会」のホームページに掲載されています。当事者のみなさんの思いが伝わってきます。
http://www.sukuukai.jp/houkoku/index.html
本気で解決しようとするのであれば、当事者を参加させなければいけません。しかし、今の時代文化は、常に当事者は除外されます。それが「管理の文化」です。

ファジャールの記者やバクダッドの人からのメールもネットでとびかっています。どれが真実で、どれが虚偽か、私には見分けはつきませんが、次の言葉は心にグサッときました。

女性、子ども、家族、歴史、人間性、そして平和が。
そして世界は米陸軍部隊が市民を殺す様子、どんな軍用機が使われるのか、
どんな兵器がファルージャで試されるのかをただ見ているだけだ。
世界は死に体になっていて、いなかる感情も、反応も示さない。
あなたはファルージャが意味するものを知っていますか?
 
当事者でなければわからないことがたくさんあります。
当事者を中心に考える仕組みを回復できれば、歴史はかなり変わっていくはずです。
最近の市民活動のパワーの源泉は、当事者が中心にいるからです。
まだまだたくさんの「管理者」がいるために、昏迷は続きそうですが、まもなく時代は変わるでしょう。
変化に荷担するか、管理者側に荷担するか、私たち一人ひとりに、それが問われています。
私はまだ、どちらにするか決めかねています。もちろん変化に荷担したいのですが、ちょっと怖いのです。まだまだ管理者に荷担する生活から抜け出られずにいるのです。

ファルージャが意味するものを、もっと真剣に考えなければいけません。

■奉仕活動が必修科目   2004年11月11日
都立高校で新たに「奉仕活動」が必修科目になることが決まったようです。
どうしてこう本末転倒した施策が次々とでてくるのでしょうか。
立案者たちの貧しい生活が象徴されています。

一昨年、港区のボランティア関係の研究会で、「奉仕」と言う言葉に関して、私の否定的な発言が物議をかもしたことがあります。私自身は、ボランティアと奉仕活動は全く違うもの、むしろ正反対のものと思っているのですが、同じものだと考えている人も多いようです。
奉仕をさせる発想は、自発性にはつながらないはずなのですが。

コムケアの資金助成プログラムで、今年、入選したプロジェクトに、Happy Postmanというのがあります。小学生のボランティア活動起こしです。主役は小学生で、もちろんプレゼンテーションも小学生がやりました。
彼らは決して社会奉仕活動などとは思っていません。たとえば福祉施設に行くことが楽しいからやろうとしているのです。楽しいから自発性が高まり、活動も広がるのです。
結果として、自分たちの生活基盤である地域社会が気持ちのいいものになります。社会がよくなるのが大切なのではなくて、自分たちの生活が気持ちよくなることが大切なのです。そして、その「自分たち」の範囲がどんどん広がっていくのです。だからこそ、イラクにまで行ってしまうのです。

奉仕から発想する社会と自発性から発想する社会は、全く異質な社会です。
前者は組織発想の管理社会、後者は個人発想の真心社会です。
最近議論が起こり始めたソーシャルキャピタルも、後者の視点への気づきから起こっています。

しかし、日本の教育関係者、あるいはその取り巻きの有識者たちは、あいかわらずの発想で教育を考えているようです。
「学校に子どもを合わせる教育」の仕組みを続けている限り、カリキュラムをいくらいじっても、制度をどんなに変革しても、問題は解決しないでしょう。
そろそろ「子どもに合わせた教育」の仕組みにしていかないと問題は解決しないように思います。

ちなみに、もし身近な社会を自分たちの生活基盤と実感できれば、みんな社会をよくしたいと思うでしょう。奉仕などと言わなくとも、みんな行動を起こします。
社会に奉仕という場合の社会は一体なんでしょうか。
自分は入っているのでしょうか。
奉仕活動などと言う人の「社会」は、もしかしたら、奉仕する人と奉仕される人が別々の社会にいるのでしょうか。きっと自らは奉仕される社会にいるのでしょうね。
それこそが、奉仕の論理ではないかと思います。

■環境税が阻害する経済成長って何でしょうか 2004年11月12日
環境税が経済成長を妨げる、と日本経団連のトップの方々は主張されていることが報道されています。もしそうであれば、そんな経済成長などしなければいいのですが、そんな発想は彼らには考えつかないのでしょうね。

経済成長を加速化するのはそう難しいことではありません。
もっと環境を悪化させ、問題を深め広げれば、その解決のための市場が創出されるのです。自動車事故を増やせば、自動車が売れるという論理に中で育ってきた財界の「成功者」たちは、経済成長が判断の出発点なのです。しかし、大切なのは「成長」の中味です。それが問われていることに、なぜ彼らは気づかないのでしょうか。

環境税も経済成長も、いずれも目的概念ではありません。
大切なのは、その先にある社会の姿です。
エコノミーもエコロジーも出発点は同じです。
生活を豊かにするための考える枠組みなのです。

それがいつのまにか、対立概念になってしまったのです。
そのおかしさに、そろそろ気づかなければいけません。
大切なのは、環境税と経済成長を両立させるパラダイムです。
そこから発想すれば、環境税が経済成長を妨げるなどという場かな議論は出てこないでしょう。
本当に最近の議論には、馬鹿らしくてついていけません。
それとも私が馬鹿なのかもしれませんが。
最近は自信がなくなってきました。
困ったものです。

■企業への不信感  2004年11月23日

私のホームページ(CWSコモンズ)に、JALの対応に関して、かなり口汚く書き込んでしまいました。
早速、数人の方から反応があったのですが、書きすぎたかなと反省しました。反省はしましたが、JALへの不信感は消えません。

今日の新聞でも企業の不祥事がいくつか書かれています。
もういい加減にしてほしいですが、かつて企業にいた者としては、三菱マテリアルも三井物産も、何の違和感もなく記事が読めます。私が所属した東レは、極めて公正な会社でしたが、それでもこうした方向に行く危険性は皆無ではありませんでした。自由闊達な企業文化と社会性を重視する見識者が、それぞれの場にいたおかげで、企業は経営を間違えずにいたように思います。東レは素晴らしい会社でした。そこで25年間、過ごせたことを感謝しています。おかげで、私は今でも企業への基本的な信頼を持てています。

NPOや行政との付き合いはそれなりにありますが、
企業への不信感は、また高まっているような気がします。
CSRや環境経営が話題になるのは、むしろその現われとも言えます。報告書が立派なほど、その会社の実態は問題含みであることは、世の常です。

先週、お会いした政令都市の三役経験者の方は、最近、企業との付き合いがふえているのですが、かなり企業(経営者)不信に陥っています。そんな経営者ばかりではないと、私がお話しても、なかなか耳には入らないようでした。残念な話です。
NPOの企業不信も強まっています。せっかく市民活動で広げてきた世界に企業が入り込んできて、これまでの蓄積をダメにしてしまうこともあります。NPO関係者の多い、コムケアのメーリングリストでも、企業は金儲けの仕組みと信じている人も少なくありません。困ったものです。
自らの生活が企業によって支えられているにもかかわらず、企業を批判し続けるのはなぜでしょうか。

このブログでも、私は企業批判をかなり書いていますが、私は決して企業嫌いではありません。それどころか、「企業制度」は人類が創造した制度としては最高のものの一つと考えています。しかし、その制度を、昨今の企業経営者たちは、壊そうとしているように思います。産業再生機構も壊す方向での、短期的な再生を目指しているように思います。
今の日本では、言葉がみんな反語になっています。

企業はいったい、どうなってしまうのでしょうか。
先行きが心配です。

■見えている風景  2004年11月21日
人は、その立ち位置によって、見えて来る風景が違います。
会社を辞めてから、私の社会や会社への風景は変わりました。
日経を読まなくなっただけでもかなり違ってきました。
立ち位置が、その人の世界観や未来への展望を変えていきます。

例えば、ファルージャの風景ですが、どちらに立つかで全く違った風景になります。
ファルージャ事件は、歴史にはジェノサイドの典型的な事例として残るでしょうが、今の私たちにはほとんどそれが見えていません。
そんなことはベトナム戦争ではいくいらでもあったはずです。ソンミはおそらく特殊な事件ではなく、ベトナム戦争が特殊な事件だったのです。
つまり、ソンミからベトナム戦争を見たら、風景は全く変わってくるのです。ファルージャもそうでしょう。そこから見れば、イラク復興の意味も見えてくるはずです。小泉首相と日本国民の犯罪性も含めてです。

金正日体制の北朝鮮はどうでしょうか。北朝鮮の人民からみた国家政権はどう見えているのでしょうか。
もしかしたら、小泉体制の日本と同じかもしれません。
武富士の社員はいまなお武井元社長に仕え、オウム組織のメンバーはいまなお松本某に自らを預けています。卑劣な生き方だとは思いますが、渦中にいれば、そういう風景に馴染んでしまうのでしょう。三菱自動車や雪印食品の従業員たちのように。

金正日と小泉純一郎は、私には全く同じ独裁者に見えます。誰も、その動きをとめようとしないことも同じです。アウシュビッツもそうだったのでしょうか。
私もまもなくガス室に送られるような恐怖感をこの頃、感じています。
ロボットのような首相の顔をテレビで見るたびに、嘔吐したくなります。
税金を払う先を変えられれば、うれしいのですが。
ODAが独裁者の支配体制を強化し、人民を苦しめたと同じ構図が、まさか日本に現出しようとは思っていませんでした。

■経済的損失とは何か  2004年11月26日
日銀の行員が新札の特殊番号をすり替えてしまうという事件が発生しました。
さして気にもしなかったのですが、日銀の記者会見で、
「会社には経済的損失を与えていないので」という発言に、違和感を持ちました。
企業の社会性への意識が感じられないからです。

たとえば企業広告を考えてみましょう。
企業はイメージアップのためにかなりのお金を投入しています。
これは経済的利益を得ると考えているからです。
逆にイメージダウンにつながる事件が発覚すれば、経済的損失につながることは明らかです。時には倒産してしまいます。

日銀は売上が立っていない組織ですから、普通の会社とは同じではないでしょう。
なぜそんな組織が存続できるかと言えば、社会からある役割が課せられているからです。
通貨の発行です。
印刷された紙でしかない紙幣が交換手段として機能するのは、みんなが制度を信頼しているからです。制度は日銀と重なっています。
今回の事件は、その信頼に傷をつけました。
この事件は、もしかしたら氷山の一角かもしれませんし、少なくともそうした疑念を芽生えさせたように思います。
なにしろ信頼していた社会保険の担当組織のひどさがどんどん見えてきている時です。
もしかしたら造幣組織もまた、おかしくなっているのかもしれません。
そう思われても仕方がありません。
つまり、社会の基本的な仕組みに対する信頼性を傷つけたのです。
これはまさに大きな経済的損失です。

最近、ようやくソーシャル・キャピタルとしての信頼関係への認識が高まりだしていますが、日銀の関係者は少しは社会の視点で考えてほしいものです。
紙幣をすり替えた人も問題ですが、その事件への組織の反応こそ、私は問題だと思います。

日銀はCIに取り組んでいるような話がありました。
私も一度話をしてほしいと呼ばれました。
しかし、CI以前の段階ですね。

■納得できないこと  2004年11月27日
たとえば、湯島の駅には我孫子まで43分と書いてあります。
しかし、43分で我孫子に到着したことはありません。
だいたい50分近くかかります。
これがずっと気になっています。
15年間、この区域を私は通勤で利用しています。
1往復で10分以上の差がありますから、年間200回往復したとして、
15年で、500時間になります。
約20日になります。
だから何だといわれそうですが、何だか損をしているような気がします。

問題は、この前提でダイヤが組まれているのかどうかです。
ダイヤと公称所要時間は別なのでしょうか。
それなら良いのですが。
もしそうでないとすると、どこでどう辻褄が合っているのでしょうか。
とても不思議です。気になって仕方ありません。
一度、各駅で降りて確認したい気分ですが、どうやったらそれができるでしょうか。

そんなことより拉致問題や財政改革問題が大切だと怒られそうですね。
わかっています。
しかし、そうした問題は考えても答は見えてきませんが、
こっちの問題は少し考えると解決できそうです。
こうやって、みんな大切な問題よりも解きやすい問題に目を向けて行くのでしょうね。
反省しなければいけません。
この疑問には目をつぶることにします。はい。

■半年前の自動車免許更新講習時に思ったこと  2004年11月28日

私は優良ドライバーです。免許も当然、ゴールド免許です。
何しろ無事故無運転なのです。
この4年間、一度も運転したことがないのです。いやはや。
車を自宅の門にぶつけて、ボコボコにしたため、家族から運転自粛が出て、それを口実に運転をやめたのです。いまではもう再練習しないとあぶないです。
ちなみに、そのせいで、その後つくった我が家には門がありません。これでもうぶつかることはないでしょう。

免許更新の講習会でいつも感じるのですが、何か違うような気がしました。
自動車事故は今でも多いですが、その抜本的な対策が進められていないような気がするのです。
免許更新時のこのような意識づけよりも、もっとやるべきことがあるような気がします。それに5年に一度とはいえ、このような形で更新を義務付けることにも違和感があります。どうせやるなら、もっとしっかりとやるべきです。

車検もそうですが、仕事を作ることが目的なような気がします。
車検を受けた直後に火を出す車があることの意味がもっと問われるべきです。
車検も、免許更新も、視点が違うような気がしてなりません。

福島で、運転手の横にテレビがあるタクシーに乗りました。
これはお客様サービスなのでしょうか。
最高の顧客サービスは無事故です。テレビなど不要です。そもそも自動車テレビなどを認めることがおかしいと思います。
そうしたことをもっとしっかり考えるほうが大切ではないでしょうか。
飲酒運転ができなくする方法もあるはずです。
水中に落ちた時にドアが開く仕組みも、難しい話ではないでしょう。
まだまだ技術的にできることはたくさんあります。

道路整備もまだ余地は大きいです。
私の家の近くにも危険な箇所はいくつかあります。
ドライバーから危険箇所を指摘してもらい、点検していくのも一案です。
トヨタの利益は、たしかにトヨタの自己努力の成果です。
しかし、その利益の1%を、そうした活動に向けられないものでしょうか。
それこそが、本当の事業戦略です。
社会貢献活動などでごまかしてはいけません。
トヨタが、この分野でできることは、まだまだたくさんあります。

テレビのあるタクシーに乗ったので、半年前のことを思い出してしまいました。

■購読する新聞によって世界観が変わります? 2004年11月30日

以前、ホームページに書きましたが、朝日新聞との投稿記事でのやり取りで、朝日新聞に愛想がつきてしまって、この11月から読売新聞に切り替えました。まだ新聞を止める勇気がなかったのです。
それから1か月、気のせいか、世界の風景が変わったような気がします。つまり、時代の動きがほとんど感じられなくなったのです。言い換えれば、とても平和な世界で、まあ、新聞はテレビ番組表だけを見ればいいか、という気になってしまいそうです。
家族の評判もとても悪く、みんなあまり読まなくなったようです。不幸にして、半年予約してしまったため、すぐには止められないのです。
新聞の紙面づくりはかなり違います。好き好きかもしれませんが、それを越しているような気がします。読売はレイアウトやデザイン処理がかなり粗雑です。その分を、カラー化で補っていますが、中途半端なカラー化で、ますます紙面が読みにくいように思います。
しかし、問題は内容です。メッセージ性が弱いとか、コラムが退屈だとかいう話を超えて、どうも世界観が違います。どの新聞を読むかで、意識はかなり変わってきそうです。

複数の新聞を購読したこともあるのですが、その頃は個性の違いだと解釈していました。しかし、もしかしたら意図の違いですね。

もちろん、これまでもそういう性格付けは私も知っていましたし、家族にもそう話して、反対を押し切って読売にしたのですが、思っていた以上に差異は大きいです。

そんなわけで、最近、我が家では、みんな余り新聞を読まなくなっているような気がします。新聞好きの女房までが、最近は新聞離れしているのです。

これで、もしかしたら新聞を止めることができるかもしれません。
ヨン様番組の多さで、NHKを家族が見なくなったのと同じように。
NHKは強制的に有料なのであれば、番組制作をもっと公開で決めるべきですね。

■選挙の信頼性  2004年12月4日

選挙の信頼性が揺らいでいます。
今に始まったことではないかも知れませんが、前回の米国大統領選挙(ブッシュ vs ゴア)の時に民主主義を標榜している国家でも選挙は必ずしも信頼できないことが意識されました。一度、意識されてしまえば、もう壊れる速度は加速されます。制度は、みんなの共同幻想になりたってできていますから、真実が一度見えてしまえば、それは広がるのです。

そもそも、選挙は大きなフィクションですから、制度的な論理性があるとしても、実体としての論理性はありません。
選挙が実体として成り立つのは、情報の共有と投票機会コストの均一性が不可欠です。しかし、そんなことは成立するはずがありませんから、選挙というのは形式論理だけの制度なのです。言いかえれば、多数決ということは、実体としては存在しない概念なのです。多数決の基本単位が不揃いですから、カウントしようがないのです。質の違いを数に置き換える、まさに近代の経済学の論理です。

制度的にも「1票の重さの格差」のように、実は破綻しているのですが、組織発想の社会では幻想を定着させることが可能だったのです。しかし、一度、壊れてしまえば、もはや幻想は成り立ちません。選挙制度はもはや有効な仕組みではなくなるでしょう。

一度ほころびだすとどんどん壊れていくというのは、有名なブロークンウィンドウ理論ですが、たとえば、昨今の子ども事件はまさに、その一例です。最初に壊した犯罪者は、極刑にすべきです。

難しい議論をしてしまいましたが、いずれにしろ、もはや選挙制度は役割を終えてしまいました。
それに変わる仕組みを考える必要があります。
これは実に面白いテーマです。

■思考停止に立脚した社会 2004年12月8日
国家、あるいは組織の立脚点は二つあります。
恐怖と信頼です。
北朝鮮は恐怖を、日本は信頼を基盤にしています。

と思っていました。
ところがどうももう一つの立脚点があることに気づきました。
思考停止です。
思考を停止すれば、恐怖も信頼も無縁になります。
今の日本は、どうやらそこに向かっているような気がしてきました。
忌まわしき歴史の再来です。

最近、現代政治の正当の手続きが行われずに国家権力を発動する仕組みが整いつつあるような気がします。
政治の世界には「単純化」理論と言うのがあります。戦時に例外的に元首や軍に与えられる独断的権限が、平時にも与えられていく傾向です。
わずらわしい問題には関りたくないという生活者と関らせたくないとおもう為政者との利害がぴったり合うのです。それを加速させるのが、「パンとサーカス」政策です。それと、単純な呼びかけ言葉も効果的に使われます。ヒトラーの「わが闘争」のスピーチは長いですが、心に届くマジックワードが繰り返し使われれば、人はそれに捕らえられてしまいます。

いま、改めて信頼の大切さが意識されだしています。
ソーシャルキャピタル論が、そのひとつです。
しかし、信頼行為には主体的な判断のエネルギーとリスクが伴います。
パンとサーカスに浸っている人たちには、あまり人気はないようです。
そのためか、事態はますます信頼をないがしろにする方向に動いています。
それを加速しているのが、多くの政治家と財界人です。
もちろん企業のほとんども、それに加担しています。
今の産業構造は、信頼関係がなければないほど売上が高まる仕組みになっているからです。
いや、それだけではありません。
彼らもまた、思考停止しはじめたのです。
最近やっとそれに気づきました。
教えてくれたのは小泉首相です。そして多くの財界人たちです。

かつての日本も、かつてのドイツも、信頼の基盤を壊すことで、滅びました。
なぜ社会のリーダーたちは、それに気づかないのでしょうか。

最近、あまりにも事件が多すぎて、個々にコメントする気がどうも起きません。
そのため抽象的な書き方になってしまいました。
信頼を大事にする文化は、どうしたら回復できるのでしょうか。
思考停止から抜け出すにはどうしたらいいでしょう。
実は、私もまた、そこに陥っていたことに気づきました。

人生を変えることにしました。
まあ、そとからはその変化は見えないでしょうが、元気が出てきそうです。

■馬鹿にされたことに気づかない馬鹿の責任  2004年12月9日
横田めぐみさんの遺骨と称されたものが偽物だったことが判明しました。
この問題は誰の責任でしょうか。
小泉政権の責任であり、これは政治責任問題ではないかと思います。
これほど馬鹿にされた一国の首相は、最近はあまり例がないように思います。
しかも相手は、小泉首相が「信頼」している金正日です。
嘘がすぐわかることは相手も知っているわけですから、この意味はどう解釈すればいいのでしょうか。
難しく考えることはないでしょう。
ただ小泉首相が、そしてそれを支援している私たちが馬鹿にされただけです。
まあ、馬鹿なのだから仕方がありません。

しかし、国家の最高責任者が馬鹿だと国民は不幸です。
国民が馬鹿だから、せめて国家の指導者にはしっかりした人を選べれば良いのですが、馬鹿な国民は馬鹿な指導者を選んでしまうのが、民主主義制度です。民主主義理念と民主主義制度は全く違うものです。

日本の自治は、明治政府が壊し、シャープ勧告でさらに壊れ、そして今また市町村合併で破壊されつつあります。
いま、改めて福沢諭吉の自治論に関する本を読み直しています。
福沢諭吉はしっかりした地方自治の上に国家の発展があると考えていました。
個人を起点にした国家の展望がそこには感じられます。
馬鹿な国民が馬鹿でなくなる仕組みと言っていいかも知れません。

地域自治の破壊と思考停止した(つまり馬鹿な)国家政府。
これはおそらくセットなのでしょう。

日本に根強くあった名望家自治論が、いままた必要なのかもしれません。
もっとも今の日本に名望家なる存在がどのくらいいるかが問題ですが。

ところで、小泉首相は自らを恥じて、責任を取って辞職するのでしょうか。
だれか諭す人はいるのでしょうか。
馬鹿を諭す馬鹿はいないでしょうね。

ちなみに、私は通常は「馬鹿」という言葉を肯定的に使っていますが、この文章においては否定的に使っています。利口より悪い馬鹿の意味です。念のため。

■会社の資本金はなぜ必要か 2004年12月10日
法制審議会の会社法部会が最低資本金の廃止を考えていると記事を新聞で読みました。昨年施行された「1円起業」が好評だったのが理由だと新聞に書かれています。
1円起業というのも、私には信じられない迎合策だと思いましたが、それが好評なので(だれの評判なのでしょうか)、制度を変えるという話には驚かされます。

社会の制度には信頼性が必要です。信頼が失われれば、制度は有効に機能しないどころか社会の秩序を壊す逆効果を持ち出します。
制度の保証にはそれなりの制約や障壁が必要です。だれでも申請すれば設立できるNPO法が市民活動にどのような影響を与えているか、もっと真剣に考えるべきでしょう。たしかに形の上では市民活動を支援したように見えますが、そのために失われたものも少なくありません。
会社を起こすためには、それなりの努力が必要です。その努力の一つは、その会社の存在意義への共感者を集める努力です。その一つが資本金の調達ですが、その障壁がなくなるというのでは、どうやって起業者の信頼性を担保できるのでしょうか。

今でも「悪徳」企業はすくなくありません。むしろそうした存在を無くしていく方向に議論を向けて、会社制度の信頼性を高めるべき時期なのではないかと思いますが、どうも審議会のメンバーは逆のことを考えているようです。制度の信頼性が高まれば、資金調達の仕組みも今とは変わるでしょう。

これに限りませんが、最近の行政の姿勢は、目的や価値の議論がなくて、ただ目先の問題対応を短視眼的に行うものが増えています。それが社会の劣化を促進しているように思います。利益を上げるためにラベルを貼りかえた雪印食品の管理者と従業員と同じことをみんながやっているのです。

時代は大きな変わり目にあります。
そろそろ、会社とは何か、を根本から考え直す時期に来ているように思います。
米国流のコーポレート・ガバナンスではない、新たな視点が必要です。
米国に追随しているのは小泉首相だけではないのが残念です。

■アクションを遅らす社会の仕組み 2004年12月11日
世田谷の宮澤一家殺人事件に関する情報が新たに公開され、テレビでも改めて報道されています。当日、凶器となった同じ包丁を購入した人や事件当時に路地から走り出した人のスケッチも公開され、情報提供が呼びかけられています。

宮澤さんは知人でした。以前、私は日本CI会議体の事務局長をしていたのですが、宮澤さんはその会のスタッフワークを自発的に楽しそうにやってくれていました。
その関係で、私も何回か話を聴取されました。
たくさんの遺留品が残されていたので、事件はすぐに解決するだろうと思っていましたが、まだ解決していません。そこで情報提供を呼びかけたのでしょうが、いかにも遅すぎます。今頃言われても思い出せるものでしょうか。
この事件に限りませんが、どうしてもっと早く事実を公開して広く情報を集めないかと思うことが多いです。さまざまな事件が広がりだしていますが、公開捜査がもっと考えられてもいいと思います。当局だけで調べる時代は終わりました。
世田谷の事件にしても、事件直後にもっと事実を公開し情報提供を呼びかけたら、有益な情報が集まったかもしれません。大勢の警察官を全国から動員して膨大な数の人への聞き込みをしたと思いますが、テレビなどを通じての公開呼びかけの効果も大きいはずです。情報時代には情報時代の操作の方法があるはずです。

人間の記憶は加速的に劣化しますから、公開捜査は事件直後が効果的なはずです。
しかし、いろいろと公開できない理由もあるのでしょうね。

公開できないといえば、やっとフィブリノゲン使用病院の名前が発表になりました。
これまたあまりにも遅いというべきでしょう。
わたしもこれまで2回ほどホームページに書き込みました。
ここでも、公開できない理由があるわけですが、
そうした「理由」を考えていくと、社会を劣化させているのは誰かが見えてきます。
その誰かを見える仕組みをつくることが、構造改革の出発点でなければいけません。
郵政が悪いのではありません。郵政を操っている誰かが悪いのです。それを棚上げした議論は、その誰かに利するだけではないかと思います。

話がそれましたが、アクションを遅らす社会の仕組みを壊す必要があるというのが今日のメッセージです。社会があまりにも複雑で、その仕組みが見えないことが原因ですが、誰が得しているかを考えると、仕組みも少し見えてきます。

■宝くじ売場での長い行列 2004年12月12日
今日、東京国際フォーラムで日本構想学会の集まりがありました。
9時に有楽町に着いたら、同じ集まりに参加される向谷さんと会場ビルの入り口で会いました。
向谷さんは地下鉄で来たのですが、その途中に長い行列に出会ったそうです。
そういえば、今日はプレステーションの新機種の発売日でした。
長い行列ができる商品がプレステーションという点にどうも違和感がありますが、まあ、ヨン様に会いたくて並ぶ親の子どもたちですから、仕方ないでしょう。

帰りに、ちょっと用事があって、有楽町の駅の反対側にまわったら、そこにも大勢の人が並んでいました。今度は何だろうと思ったら、宝くじでした。
売り場窓口がたくさんあるのですが、100人を超える人が並んでいるのです。
今日は大安吉日なのだそうです。
売り場のところで、マイクが年末には222人の億万長者が生まれると言って、そそのかしているのです。しかし、宝くじを並んで買うのも何か違和感がありますね。

私たちは何か並ぶ対象を間違っているような気がしてなりません。

銀座に出てみたら、今度はブランドショップです。
そういえば、ブランドに並ぶのも日本人ですね。

並ぶ生き方は、私はあまり好きではありません。
並ばせる店舗にはとても違和感があります。
最近の銀行は、この点でも腐っていると思います。
銀行にはまともな人はいないのでしょうか。

■二項対立発想からの脱却 2004年12月15日
新聞によれば、文部科学省は、「学力低下」に対処するために、「ゆとり教育」路線を転換して、授業時間を増やすことを検討しだしたそうです。
「ゆとり」か「学力」か、教育問題が語られる時に決まって出てくる座標軸です。
しかし、それらは全く対立軸にはならない、次元の違う話です。

先日もケアの話し合いで、「厳しさ」と「ケア」が対立軸で語られる場がありました。
これも次元の違う話です。
そうした次元の違う話が、二元的に話されることがとても多いです。
たとえば、「戦争と平和」「対話と圧力」「価格と品質」「公と私」などなど。

発想の視座を変えると対立概念だと思っていたことが、実は組み合わせの要素であることに気づくはずです。
言葉の定義はともかく、
学力があればこそゆとりが生まれ、ゆとりの中でこそ学力が育ちます。
ケアには厳しさも必要ですし、厳しさにはケアが不可欠です。

これらの話は、瑣末な一例ですが、問題は私たちが二元論に基づく二項対立発想にあまりに浸りすぎていることです。
「○○か××か」とすぐに考えてしまう思考から自由になれないのです。
大切なのは、「○○か××か」ではなく、その先にある目的であり、ビジョンです。
子どもたちをどうしたいのか、が明確であれば、「ゆとり」とか「学力」とかの意味も実体化してきます。行為の目的がしっかりしていれば、「ケア」も「厳しさ」も同義語になるかもしれません。

教育改革の問題に戻れば、ビジョンがあいまいですから、議論は迷走します。
明治維新以来、日本の学校教育は産業化社会の実現を目指してきました。
学校も教育はビジョン実現のための手段です。
そういう視点で考えると、学校の存在意義はなくなったのです。
そろそろ小中学校を含めて、学校を全廃する時期だと思います。
代わりに必要なのは、学びの場です。

二項対立発想による退屈な議論はそろそろやめて、
目指すべきビジョンを語る時期にきているように思うのですが、
ビジョンを語る人がいないのがとても不思議です。

■NPOの信頼性  2004年12月17日
今日の朝日新聞の記事です。
マンション建設大手「長谷工コーポレーション」などから現金計3300万円を脅し取ったとして、恐喝の罪に問われた特定非営利活動法人(NPO法人)「消費者問題研究会」会長で、元暴力団組員の榎原一吉被告(56)に対し、東京地裁は17日、懲役6年(求刑懲役7年)の実刑判決を言い渡した。

2つのタイプの組織が出てきます。NPO法人と暴力団です。

「暴力団」という組織が存在を認定されていることを、私は以前から不思議に思っています。
法律(暴対法)によれば、暴力団とは、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と定義されています。そんな団体は存在しないようにすればいいと思うのですが、法的に存在が認められているということです。しかも、指定暴力団というのまであります。すごいネーミングです。

それとは逆に、NPO法人、正確には特定非営利活動法人は、実態に関係なく、非営利活動に取り組む組織というかたちで、組織の公益性や信頼性を保証されています。最近の社会風潮もまた、NPOの公益性を強調する方向にあります。
しかし、その二つが、実はほぼ同じ活動ができることを、この記事の事件は示しています。
組織や制度は人間が使うものですから、それは当然起こり得ることですが、名前は組織の印象を大きく変えます。言葉にだまされてはいけません。

暴力団とNPOが同じものというつもりはありませんが、
同じこともありうることをしっかりと認識しておくことが大切です。
マフィアは企業になり、NPOになっていけるのです。

昨今の安直なNPO設立ブームに、いささかの違和感をもっています。
本当にNPOは信頼できるものなのでしょうか。
NPO支援にささやかに関わりながら、いつも頭から拭えないでいる悩ましい問題です。

■日本国憲法を読んだことはありますか 2004年12月18日
「自民党は16日、来年11月に公表する憲法改正草案をまとめる新憲法制定推進本部の下に置く起草委員会の委員長に森喜朗前首相を充てることを決めた」と朝日新聞が報じています。小泉首相の独走はますます進みそうです。
憲法に関しては、民主党もさほど思想は違っていないような気がしますので、独走とは言えないかもしれませんが。

ところでみなさんは日本国憲法を読まれたことはありますか。
私は一応、大学で一番熱心に読んだのが憲法ですので、読んでいますが、実はその後は、昨年まで読んだことがありませんでした。読んだきっかけは、平和の話し合いをする場の進行役をやることになったからです。そういうことでもない限り、憲法は読まなかったかもしれません。そのくせ、憲法維持を主張していたでしょう。
最近、ふたりの友人が憲法の本を出したので、改めてまた読みました。
私は法文にはほとんど関心のない人間ですが(その奥の意味や解釈に関心があります)、やはり読んでみるとそれなりに発見があります。

平和に関するメーリングリストがあります。そこに武田さんの「赤ペンをもって憲法を読もう」の本の紹介をしたら、いきなり、きついお叱りを受けました。平和憲法にケチをつけるのかというわけです。恐ろしい時代です。

川本兼さんがまた「Q&A『新』日本憲法」という手ごろな本を出版されました。840円です。若者向きの本ですが、多くの人に読んでほしいです。憲法も読まずに、憲法論議をしている似非「平和主義者」には辟易しています。
皆さんも一度、ぜひ憲法を読んでみませんか。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html
読んでどうなるの、と言われそうですが、読んでも毒にはなりません。
ちなみに2月頃、憲法サロンをまたやろうと思っています。

CWSコモンズに明日、掲載しますが、12月13日の毎日新聞に、漢字学者の白川静さんが、こう書いています。
戦争をどこまで知っておるのかね。小泉さん、62歳か、ご存じなかろう。
この記事のとても感動しました。ぜひお読みください。
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/12/13/20041213dde012070096000c.html

■砂上の楼閣 2004年12月19日
核問題を中心とする6ヶ国協議の前に、拉致事件に対する経済制裁措置への慎重論が出ています。拉致事件という各論だけで考えるのではなく、もっと大きな視点で考えなければいけないというわけです。
各論的最適解が全体としての最適解ではないことは当然ですが、そんな論理のまやかしにだまされてはいけません。
各論には構造があります。構造を捉えなければ、何が全体かは構造との関係で決まってきます。そこが無視されているのです。学者や権力者の得意な論法です。
拉致事件への対応で見えてくるのは、北朝鮮の金正日体制は、いわゆる国家ではないという現実です。そこには通常の論理は働きません。平気で嘘をつき、約束を破ることを何とも思わないのが金体制です。そんな相手を対象にして、まずは核問題などと言う発想には首を傾げたくなります。まずは嘘をつかず約束を守ることを実現させてから交渉に入らなければ、たとえ核で合意ができても、実効性が疑わしいです。まさに砂上の楼閣です。出発点を間違えてはいけません。

昨日、ローカルマニフェストに関する議論をしてきました。政治家の公約は守らなくてもだれも不思議に思わない。しかし、ローカルマニフェストになれば、内容が具体的で評価もしやすいので日本の政治は変わるだろうという「有識者」は少なくありません。
しかし、約束も守れない人が、あるいは約束を守らないことを咎める仕組みも文化もない社会が、ローカルマニフェストを導入するだけで変わるのでしょうか。
学者や有識者が得意な、言葉の浪費で終わるでしょう。約束を守ることの大切さを回復することもしないで、いくら制度や言葉を変えても、それこそ砂上の楼閣です。

イラクの復興はどうでしょうか。
昨日、めずらしくNHKが、アルジャジーラとブッシュ体制の情報戦を特集していました。それを見ている限りでは、イラクの復興もまた砂上の楼閣になりかねないと思います。

私たちの豊かさも、砂上の楼閣だったわけですが、そろそろそれに気づく政治家が出てきてほしいです。

■義務を権利にし、権利を義務にする社会 2004年12月20日
社員の不祥事などからにわかに顕在化した不信感を払拭するため、「NHKに言いたい」という思い切った番組を、NHKは放映しました。後半部分を見ました。
番組の意義は大きく評価するものの、内容はほとんど意味がなかったので、コメントはやめます。

あまり論点にはなりませんでしたが、テレビマンユニオンの今野さんが視聴料は義務ではなく権利にしたいと言う趣旨の話をされていたのが印象的でした。
権利と義務。これはコインの裏表ですが、どう考えるかでまったく世界は変わります。

今野さんの説明では、椎名誠さん(だったように記憶していますが)は良い放送を確保していくためにNHKに資金を出して応援できることは権利なのだと言ったそうです。それに比べて、民放の場合、資金は作り手が出しますから、視聴者は資金をだせず、当てがいぶちの番組に甘んじなければいけません。ですから、この論理はよくわかります。
ところが現状では、ほとんどの人は視聴料を義務だと考えています。ですからNHKに対する抗議が視聴料不払いになってしまうわけです。
権利発想であれば、番組の内容の評価にも口をだすことになります。これは、今度は逆に権利ではなく、義務になるでしょうか。
この論理構造は今の多くの人の意識とは正反対です。
しかし、これからの社会のあり方を考える上では、とても重要なポイントです。
私は、もちろん、権利と考える社会を望んでいます。

同じようなことが税金にも言えます。
納税は権利か義務か。権利であれば、節税とか脱税は問題にはなりません。
権利として払いたくなるような税金であれば、今のような状況は一変するでしょう。
しかし、国家に税金を収める仕組みでは難しいでしょうから、まずは基礎自治体に税金を納めていくというように、税金の流れが地方から中央へと変わらなければなりません。
そして、もしそれができれば、行財政改革は一挙に進むでしょう。

逆のケースもあります。
教育を受けることは権利か義務か。
憲法には権利と書いていますが、多くの人は義務と思っているでしょう。
国家を歌うことすら、学校では義務なのですから。
権利としての学びの場は、おそらく教育とは原理が違いますから、これは教育を受ける権利ではなく、学ぶ事ができる権利になるでしょう。つまり、教育を受けるのはやはり権利ではなく、義務であるべきです。どこまでの教育が義務かどうかが重要な論点になります。

権利から考える社会と義務から考える社会は、全く違った展開になるでしょう。
「NHKに言いたい」の番組から、私が得た感想はこの程度です。
しかしだれもそんなことには無関心でした。
みんな義務から考える人たちなのでしょうか。

■お金がお金を生む経済の不思議さ 2004年12月22日
私がずっと理解できないでいるのが、お金がお金を生む仕組みです。
銀行に預けていると必ず利子がつくという発想がどうも理解できないのです。
私の発想では、どう考えてもコストを払うのは預金者です。

まあ、しかし、それは私の理解力不足の問題かもしれません。おそらくほとんどの人は不思議に思わないのですから。

でも最近、どうも割りきれない気がしてきています。
ひとつは大手銀行がいとも簡単に巨額の債権を放棄するという話です。
もうひとつは、借金をかかえている政府や自治体が、年度予算のかなり大きな部分を借金の返済に向けているという話です。

後者の問題で気になるのは、誰かがお金を貸しているだけで確実に利益を上げている人がいるということです。何もしなくても利益が入ってくる仕組みを誰かがつくり、おそらくそれに乗って不労所得を得ている人が、ますますの借金構造を増大しているのではないかという気がしてなりません。もちろんそこには政府の大臣が絡んでいるわけです。彼らのお金の使い方を見れば、彼らがいかに現在の借金構造で利得を得ているかは明々白々です。しかし、おそらく彼らは黒幕ではないでしょう。その仕組みに乗っているだけの雇われ人のような気がします。せいぜい1億円の政治献金で責任が問われる程度ですから、そのポジションもたいしたものではなく、所詮は使い捨ての役割かもしれません。
そうした構造に銀行を初めとした金融機関が乗っているのも、また明々白々です。なぜなら、いとも簡単に巨額な債権を放棄できるのですから。しかし、彼らもまたおそらく雇われ人でしょう。

お金がお金を生み出す仕組みが自律的に動き出しているのではないかという気がしてなりません。
借金大国の仕組みから不労所得を得ている人は一体誰なのでしょうか。
あるいは、その黒幕は、人ではなくて、いまや仕組みそのものなのでしょうか。
なにやら不気味ですが、まあ、そんなことはないでしょうね。
きっと黒幕がいるのでしょうね。
あまりに規模が大きいので、私たちには全く想像すらできないのですが。

■権利が売買される社会  2004年12月23日
「権利か義務か」「お金の自己増殖」の話につなげて、今回も経済についての疑問を書きます。
材料は「空中権」です。
月の土地が売買されていると言う話もありますが、もっと現実的な話です。

今日の朝日新聞の記事です。

東京駅丸の内口の正面にある「新丸の内ビル」が、高さ198メートルの高層ビルに建て替えられることが、22日開かれた東京都都市計画審議会で認められた。同駅が利用していない「空中権」を新しいビルに移して高層化する。

前日の読売新聞はこう書いています。

東京・千代田区のJR東京駅の上に広がる空間が、周辺で建設計画の進む超高層ビル4棟の高さを引き上げるのに、“一役”買っている。
JR側が、本来は駅の上に高いビルを建てられるのに使わない空間を、「空中権」として譲渡したからだ。国の規制緩和で、都が同駅周辺に特例制度を適用したためだが、専門家からは疑問の声も出ている。

同紙によれば、「空中権は、米国で発達した概念で、土地の上の空間を利用する権利の総称。日本では法律に明記された権利ではないが、土地にどれだけの床面積の建物を建てられるかを指し、実際には容積率を譲渡する形でやり取りされ、土地のように売買されることもある」ということです。

土地の所有権が垂直方向にどこまで及ぶのかも議論の的ですが、私の違和感はそれ以上に、あらゆるものが経済的な権利となって金銭評価され、金銭経済に組み込まれていくことです。
生活のあらゆる分野が市場化されてきているのも不愉快ですが、それ以上に何でもかんでもが売買の対象になっていくのが不安です。不動産も証券化されましたし、環境を汚染する権利(正確には規制以下の部分だけですが)今や商品化されています。
恐ろしい時代です。
そうした発想の延長に何が出てくるかは、少し想像力を発揮すれば見えてきます。
こうした方向に経済を進めている経済人や政治家は、一体何を考えているのでしょうか。

こうしたことの意味はもっと真剣に考えなければいけません。
それが経済学者の倫理だと思うのですが。

■がんサポートキャンペーンとメディアガバナンス 2004年12月24日
NHKが、がんサポートキャンペーンを開始しました。
やっと、という気もしますが、大きな期待を持っています。
こうした活動を、いろいろな分野で展開してくれたら、視聴料不払いなどは起こらないばかりか、もっと払ってもいいという人が出るだろうと思います。私は、その一人です。
テレビができることはたくさんあるのです。

今日の「生活ほっとモーニング」で、活動の内容が説明されました。
「変えよう日本のがん医療・支え合おう患者と家族たち」をキャッチフレーズに、患者や家族の助けになる情報を提供し、日本のがん医療の改革にも取り組んでいくことが、このキャンペーンの目的です。
ホームページも開設されました。
http://www.nhk.or.jp/support/

私も番組を見ながら、ホームページも見せてもらいましたが、とても期待できます。
がんに関する情報のホームページはたくさんありますが、評価能力がないのとあまりに分散されすぎているので全体像が逆に見えなくなります。
サプリメント情報も、ひどい商業主義にあらされていますので、これまた評価できませんが、こうした問題もこのホームページで整理してほしいと思います。NHKの保証が絶対というわけではありませんが、参加者の広さにおいては群を抜いているでしょう。参加者が多ければ、それだけたくさんの異質の目が集まりますから、全体像が見えやすくなるように思います。

番組には柳原さんや岸本さんがでていましたが、半年前の番組と比較するとNHKの関係者の理解も深まったように思います。よかったです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1022

私が、今回のNHKの試みに大きな期待を持つのは、それがメディアの新しい役割を創出すると思うからです。
しかし、その場合、重要なことは、その役割を誰かの私欲や偏った正義感や理念に支配されることがないようにすることです。
メディアガバナンス。メディアの主役としてのガバナンスシステムが構築されることが緊急の課題です。
その方向性は、いうまでもなく、信頼をベースにした個人起点にあると思いますが、それをどうやって育てていくかも、今回のプロジェクトのこれからの展開にかかっているような気がします。

いずれにしろ、何のわだかまりもなくNHKの視聴料を払えることになってうれしいです。NHKの改革は、番組や事業で変えなければいけません。
このキャンペーンに期待します。

■市町村合併の効果 2004年12月25日
霞ヶ関主導の市町村合併がさまざまな歪みを起こしています。
みなさんの市町村ではどうなっていますか。

私が関わらせていただいている市町村はほとんどみんな合併に取り組んでいますが、すべて問題を起こしています。
なぜでしょうか。
それは住民不在だからです。
組織を管理している人たちが、責任逃れのために合併に取り組んでいるのがほとんどのように思います。
都市銀行の合併と同じです。
銀行の場合、すべてが合併して最後にそれが倒産すれば問題は解決しますが(銀行機能はもうじき不要になるでしょう)、自治体の場合はそうはいきません。

合併問題のために、この数年、多くの自治体の職員は無駄な仕事に取り組まされています。そして、合併が頓挫しそうになると職員の仕事は停滞します。そんな現実をいくつか見ています。本当に無駄な話です。
この数年、私が関わらせていただいている市町村の多くの職員はまじめに仕事をしているようには思えません。

市町村合併は一体どういう効果を発揮するのでしょうか。不思議なことに、そうした議論をする人がいないのです。
どなたか合併の効用を教えてくれませんか。
もちろん住民にとっての効用です。

■ドンキの放火事件 2004年12月27日
ドン・キホーテが連続放火されています。
この事件はたくさんのことを示唆してくれています。
こうした事件が起こるのは、それなりの理由があります。
同社の事業展開のあり方のどこかに問題があるはずです。
同社店舗への放火事件が続いても、誰も同情しないのはなぜでしょうか。あるいはほとんどの人はあまり不思議にも思わないのはなぜでしょうか。それを考えなければいけません。
同社のホームページで、社長のコメントを読ませてもらいました。
http://61.206.41.90/041217.pdf
とても違和感のあるコメントです。
危機管理を履き違えている日本企業は多いですが、同社も完全に履き違えています。
最悪の事態にならなければいいですが。
これまでの同社の事業戦略や店舗活動を評価したり支援したりしていたコンサルタントや評論家、あるいはマスコミや消防署にも反省を期待したいです。消防者は法規違反を警告したと言っていますが、警告してもそれが実行されていないとしたら、しかもそれが何年も続いていたとしたら、悪いのはむしろ消防署ではないかと私は思います。
話が変わりますが。外食産業の和民がいま元気です。
テレビでも良く取り上げられます。
渡邊社長は外食産業のカリスマ経営者だと昨日のテレビはもてはやしていました。
私も渡邊社長の本を2冊読みました。
社長の思いは伝わってきました。
それに娘によると、類似のところに比べてお店の対応はとてもいいそうです。
しかし、昨日の渡邊社長を紹介したテレビを見て、がっかりしました。
もしテレビがやらせでないとしたら、
彼は社員の人間としての尊厳を認めていません。言葉が完全に間違っています。
和民のこれからが心配です。
評論家の皆さんは、もっとしっかりと実態を見据えて、企業を評価すべきです。
利益をあげるのが企業の目的ではありません。
利益をあげるのは企業の目標です。間違ってはいけません。

■イワン・フロール老人の教え 2004年12月28日
昨日のドンキの放火事件に関する記事に、友人がコメントしてくれたのですが、そのコメントは私へのたしなめが感じられました。そこで少し反省して、思い出したことを書きます。

トルストイの小品に、「火を粗末にすると―消せなくなる」というのがあります。
隣人と仲よくやっていたイワン家族が、代替わりしてから、些細なことで隣人と争いだします。争いはどんどんエスカレートして、訴訟合戦にまでなります。そしてついに、その恨みをかって、イワンの家に隣人が火をつけます。放火です。イワンはその現場を見つけるのですが、火を消すのではなく、その犯人を追いかけてしまいます。そしてもみ合っているうちに火は広がり、ついに村全体を燃やしてしまいます。
イワンは犯人を追いかけるのではなく、火が付けられた藁くずをもみ消していたら火事にならずに済んだのにと悔やみます。
イワンには寝たきりの老父がいました。やっとのことで助け出すのですが、死ぬ間際に老父はイワンを呼んで質問します。「イワンよ、村を焼いてしまったのはだれだな?」「あいつだよ、父さん」とイワンは答えます。
老父は、若い世代になってから争いの絶えないことを心配して、相手の立場で考えるように息子を諭しつづけていたのです。
父はいいます。「それはいったい誰の罪だね?」答えられずにいるイワンに父はいいます。「神様の前で言うがええ、誰の罪だな?」。イワンはやっと気がついて「わしの罪だよ、父さん」と言います。
「これからどうしていったらいいのだろう、父さんよ」と訊くイワンに老父は答えます。「ええかの、ワーニャ、気をつけて、だれが火をつけたかってことを、決してだれにも言うでねえだぞよ。お前が人の罪を隠してやれば、神様はふたつの罪を許してくださるじゃ」。それが老父の最後の言葉でした。
イワンと隣人にはまた父親たちのような隣同士らしい暮らしが戻ったといいます。

若い頃、私が好きだった作品の一つですが、恥ずかしながら、なかなかイワンの心境にはなれないのです。もちろん頭ではそうありたいと思っており、かなり身についてはきましたが、時折、その正反対の気分になるのです。つまり許せなくなるのです。
今日、1時間かけて、この本を山積みの書籍の中から見つけました。2回読み直しました。まだまだ意味を咀嚼できていない自分に気づきました。

ドン・キホーテの社長にもぜひ読ませたい小品です。きっと多くのことを学ぶはずです。

■判断が出来ない問題 2004年12月29日
こんなメールが来ました。

北朝鮮側の挑発に乗ってしまい、「制裁」発動推進、容認が大勢になりました。
広辞苑によれば、「制裁」とは、「しおき、こらしめのための罰」です。一国の判断による他国制裁を容認すれば、ブッシュの「ならずもの国家」論を批判できなくなります。イラク開戦反対だった7割の日本人はどこへ行ったのでしょう。

詳しくは、次のホームページをご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/thinkbook/

昨日の「イワン・フロール老人の教え」を思い出します。
まずは「許すこと」から平和は始まります。
オズグッドのデスカレーションへのイニシアティブ理論に私は共感しています。
もし、そうであれば、当然、このメールの通り、北朝鮮への経済制裁は避けなければいけません。
しかし、どうもその気にはなれないのです。

理由はいくらでもあげられます。
しかし、そんなことはどうでもいいことです。
大切なのは原則です。

このメールを読んでから4日目になりますが、
この呼びかけに賛同するかどうか、まだ結論を出せずにいます。

■冷え切った社会  2004年12月31日
スマトラ島沖で起きた地震による津波は10万人近い死者を出す結果になりました。
次から次への天災で、日本の台風や豪雨、さらには地震の災害も忘れられてしまいそうです。これほど天災が続くのはめずらしいでしょう。
人災も同じです。子どもを対象とした事件や家族殺人事件なども次々に起り、どれがどれやら混乱してまうほどです。

これは偶然なのでしょうか。
それとも大きな大事件の予兆なのでしょうか。
社会は冷え切っています。
何が起きてもおかしくないような不安があります。

大晦日の今日は、ものすごい寒さです。
これがその始まりでなければいいのですが。

来年は少なくとも週1回は、明るい話を書こうと思っています。
今年は愚痴と罵りにお付き合いいただき感謝します。
明日の朝は、初日の出を見たいものです。

2005年

■象徴的な年の変わり目  2005年1月2日

象徴的な年の変わり目でした。
ものすごく寒い大晦日が一変して、温かな元日でした。
しかも、厚い雲に遮られて、初日の出は見えなかったのですが、
未練がましく空を見ていたら、40分後に晴れてきて、雲の合間から太陽が見えたのです。そして、一挙に雰囲気が変わったのです。
実に象徴的な年明けでした。
もっとも、これは私の住んでいる千葉県我孫子市の話ですが。

今年はあたたかな年になりそうです。
いや、そうしなければいけません。
昨年のこのブログは、いささか口汚く、品位に欠けていました。
イワン老人の教えに反しました。
今年は少しポジティブに書いていくつもりです。
そして当事者的な視点を少し強める予定です。
CWSコモンズでの呼びかけとも連動させます。

みなさんもぜひ気楽にコメントしてください。
またCWSコモンズの案内にもぜひご参加ください。

4日から書きだす予定です。
明日はいただいた年賀状と年賀メールに返事を書かなくてはいけませんので。
今年もよろしくお願いいたします。

■ 言葉の世界からの脱却 2005年1月4日
昨年末に書いた「経済制裁の当否」について、まだ署名にはいたっていませんが、
少し考えが進みました。結局、私の価値基準である「個人起点」と「真心原理」で考えればいいのだと気がつきました。

「経済制裁」ではなく「経済支援中断」と言うべきだとの意見があります。
それを聞いた時に、なるほどと思いました。
たしかに言葉は世界を構築していきます。
「言葉が世界を構成している」という社会構築主義には私も大きな示唆を受けていますが、だからこそ言葉を大切にしたいと思います。言葉の言い直しで、安心する気にはなりません。言葉の内容の吟味がとても重要です。

こうした議論で必ず出てくるのが、「人道上の理由」です。
人道の対象は個人と考えていいでしょう。
では、制裁や支援(あるいは復興)の対象も個人でしょうか。
北朝鮮で苦しい生活を余儀なくされている多くの人たちに、もし政権経由でなく経済援助がなされるのであれば、おそらくそれは政権を揺るがすことになるでしょう。しかし、政権への援助であれば、苦しい人たちの救いになるでしょうか。逆に現政権を補強することになれば、人道に反することになりかねません。
脱北者を北朝鮮に返還するのは人道に合うのでしょうか。秩序回復のために、子どもたちにまで発砲することは人道に合うのでしょうか。

制裁や支援の対象が、個人なのか秩序(組織や体制)なのか。
それこそが意味の分かれ目なのです。
制裁や支援は、対象によって意味を全く変えるのです。
ですからこれは「手段的な言葉」と言っていいでしょう。
ついでに言えば、構造改革や企業変革も同じです。いや、民営化も同じだと言っていいでしょう。
にもかかわらず、その手段的言葉に振り回されているのが現在の日本です。
今年は、目的的な言葉で物事を見ていきたいと思います。

署名はきっとしないと思います。

■装丁を変えて売り出す講談社のビジネス倫理  2005年1月5日
ちょっと恥さらしの話です。もちろん私の恥です。

昨日、書店に立ち寄って、数冊の本を買い込んできました。軽い新書です。新書は書店に頼むこともないので、月に1回出かけて行って、数冊まとめて買ってくるのが私のスタイルです。

購入した1冊に講談社現代新書の「出雲神話」がありました。書店に平積みになっていた何冊かの新書のなかの1冊です。講談社新書は昨年に装丁を変えました。
帰宅後、購入してきた本を見直していて、この本が30年近く前に読んだ本の新装版であることに気づきました。本棚にある当時の本を調べたら、変わっているのは装丁だけでした。古い現代新書だったわけです。

内容を確認もせずに購入した私が悪いのですが、なにか詐欺にあった感じです。
装丁だけを変えて、新刊と並べて販売することは別にルール違反ではないでしょうが、なにか割り切れないものを感じます。
しかし、対象が本でよかったです。
同じようなことがいろいろなところで行われているのかもしれません。
衣装にだまされてはいけませんね。

■ 軍隊という名称 2005年1月6日
スマトラ沖の地震が引き起こした津波の被害はすごいものです。
自然の力を改めて思い知らされました。
日本の自衛隊が救援活動に動き出しました。
こういうことに向けて税金が使われるのであれば、増税も気になりません。

とても気になっている事があります。
また言葉の問題です。
イバン・イリイチは、25年前のアジア平和学会の講演で、
「英語のキーワードの多くに、今や暴力が潜んでいる」と話しました。
たとえば、「平和のための戦略を計画する」「貧困を撲滅する」などです。
企業経営の世界に戦争用語がたくさん使われていることは言うまでもないでしょう。
言葉が意識を規定していくとしたら、気をつけなければいけないことです。

しかし、そろそろもっとその根源にある考えを問い直さなければいけないような気がしています。言葉の見直しです。

まずは「自衛隊」です。
そもそも今の軍隊は少なくとも建前としては、すべて「自衛隊」でしょう。他国を侵略するための軍隊は存在しないでしょう。北朝鮮にしても、そうでしょう。アメリカもおそらくそうでしょう。イスラムの軍隊もそのはずです。
従って、自衛隊と軍隊は実際には同義語です。
だれもそうは思っていないかもしれませんが、現代の社会では論理的な帰結だと思います。

では、次に、自衛は戦力でできるのかです。
できないと思います。
争いや憎しみは限りなく強まるだけですから。
つまり「自衛隊」という言葉には、そもそも「滅び」が内蔵されているのです。

自衛隊の今回の活動は、自衛の要素はあるでしょう。
しかし、隣に困っている人がいれば手を貸したくなるという、自然の感情の延長での支援活動でもあります。
であれば、支援隊に名称を変えたらどうでしょうか。
「隊」がよくなければ、「支援会」でもいいでしょう。
これからは世界中の軍隊を「支援会」と改称したらどうでしょうか。

しまりのない名称ですね。
戦争になったらすぐ負けそうです。
もしそうであれば、戦争を始めることもないでしょう。

「軍隊」という言葉を過去のものにすることが大切ではないか、とつくづく思います。
私たちの意識の中に、軍隊や戦争への憧れがある以上、それは難しいことですが。

■年賀メールの効用  2005年1月7日

今年から女房が年賀状を手書きから写真に切り替えました。
昨年までは1枚ずつの手作りで大変でした。
私は早くから印刷方式にしていましたが、女房は手書き派で、印刷は手紙じゃないと言うタイプでした。
もちろん、今年も、宛名は手書き、文面もそれぞれに文章をつけています。
写真は恥ずかしながら、夫婦の近況写真です。
女房の友人に対しては、私の初デビューです。
それもまあ、いろいろと面白い反響があったのですが、
今回は私のほうの年賀メールの効用の話です。

年賀メールには女房は反対です。
味気ないというのです。
私も昔はそう思っていましたが、昨年から年賀メールに切り替えてみたら、
実に面白いのです。
返事があり、またそれに返信して、というように、極めてライブなやりとりができるのです。
切りがないので、途中で止まるわけですが、一方的な手紙とは違った面白さがあります。
もちろんすべてがそうではありません。
失礼ですが、どこかのカードサービスを利用した年賀メールも届きます。
これは退屈です。

もっとも、私もそれに似たようなことをしています。
つまり最初のメールは同じ文面で同時に発信するのですから。
しかも、本文は私のホームページをみてほしいというわけです。
まあ、人間は勝手なものです。

受け手の立場でも、年賀状よりも年賀メールが楽しくなってきました。
今年はいろいろと失敗がありましたが、来年はもっと効果的に活かせると思います。

ところで、女房ですが、最近、パソコンにはまっています。
機械音痴ですから時間はかかりますが、メールを楽しんでいます。
おそらく来年は年賀メールの楽しさにはまるのではないかと期待しています。
今年はまだ全く否定的ですが、まあ時間の問題でしょう。
人間は機械によって変化させられるものです。ちょっと不本意ではありますが。

■日本のために働くということ 2005年1月8日

福岡にあるグループホーム縁側の梅川さんは、私が信頼する若者の一人です。
1度しかあったことはありません。しかも、福岡空港であわただしく、です。
なぜ信頼するかといえば、現場につながりながら、自分の視点と信念で行動しているからです。実体のある言葉で語る人は、私は無条件で信頼します。
彼が年賀状に、「日本のために働きます」と書いてきたので、

「日本のために働く」のではなく、みんなのために働く」のがいいです。
この違いはとても大きいです。
私が日本の福祉政策に批判的なのは、日本(国家)のためであって、みんな(そこに住む人/日本国民に限りません)のためではないからです。

とメールしました。
その返事に、とても共感しました。
梅川さんの許可を得て、転載します。
長いですが、ぜひ読んでください。
現場の真っ只中で汗している人の真摯な発言です。

本当にそうですね。日本の福祉にしろ、イラクの復興にしろ、そこに住む人のことを考えない政策ですし、そこに基準を置かない政策や権力は近いうちに崩壊する(お客様のことを考えない会社が潰れるように)のが世の定石ではないかと最近僕は勝手にそう考えています。それに「国家とかいう小さい枠組みで考える時代じゃない」という方が最近、増えていらっしゃるようにも思います。

でも、僕はあえて「日本」にはこだわってみようと思います。

徳川家康にしろ幕末の名を残す志士達にしろ、何も戦いに明け暮れて、ライバルを潰していった結果、そうなったのではなく、「そこに住む民衆を慈しむ心に裏打ちされた国家観」というものがあり、そのことに対して自ら「矜持」を持っていたからこそ民衆が悲しまないようにするための大事業をなしえたのだと考えております。

またそれと同じ比重で、その時代、そこに住む民衆が、その政策(現在批判される士農工商にしろ)を了解し、支持したからこそ、事業の成功がありえたのだと思います。
いくら家康や大久保利通が信念をもっていて、事業をおこしても、民衆の要望(または潜在的要望)に応えていなければ、どんな小さな政策でも実現しなかったのではないかとも思います。

だからやっぱり「渡る『世間』は怖い!」
世の中には「世間知」(各民衆の良心とでもいいましょうか)というものがあって、それに適わない事業は、おそかれはやかれ潰れてしまう。

日清戦争の時の話です。

日本艦隊の発砲した弾が、清の有名な武功を持つ艦長にあたり即死したのを、日本側が知り、日本側も(国や人種を越え)一目おく人物だったので、相手の死を悼み、全軍に発砲を止めさせて、その艦長のために黙とうを捧げたとの話を知ったとき(それまで日本の戦争といえば昭和陸軍の南京大虐殺のイメージしかなったのですが)「自分が矜持をもつからこそ、相手の矜持も尊重できる」(またそうできることが本当の矜持・プライドなのかな)と考えるようになりました。まだこの「矜持」を自分なりにもつことは出来ていませんが。

僕の父は昭和の戦争を経験していますが、よく私は「何で本当のに国(国民・家族)のことを思って戦うのなら銃口を大本営に向けなかったのか」と父にいいます。父の返答は「憲兵がこわか(怖い)ろーもん」ですが。
これが幕末の坂本竜馬たちなら「この国(国民・民衆・そこに住む異国人)が危ない」と思えば、自分の命を賭してでも、たとえ「非国民」になろうが、なんだろうが道を誤らせる者と戦うでしょうし、その相手方もまた「これが正しい道なんだ」と思えば、これも命を賭けて応戦することになるでしょう。本当に自分が正しいと思うことのためになら血みどろになったっていいのではないでしょうか?

しかし、この「血みどろ」がこの戦後、「自分の命を一番大事にしなさい」といって育てられてきた僕には、なかなか出来そうありません。今のところは(情けないですが)せめて雰囲気というか、そんな風な気概だけでも持ちたいと願っております。

「国・国家」といえば昭和の戦争のなごりがあるので、「国民・そこに生きる者」を何か抑圧するもののようなイメージがありますが、僕の「日本(国家)のために」は「地域社会(人さま)のために」と同義です。(国家=日本=地域社会)

この「国家」は今、官僚のものか、マスコミのものか、アメリカのものか、分かりませんが、僕は「国家」は本当はいつの時代もそこに住み、そこにささやか幸せを求めて暮す、愛すべきひとたちのものだと思っています。

ほんと、自分なりにこの地域に役立てるように働きます!
命をどーんと賭けることはできませんが、人生の一部分はかけてみようと決意しております。(そして出来るならあとからたくさんお金がついてくればいいなと思うのですが。)

感動しました。歳をとるとすぐ涙が出るのです。
こういう若者に、私の未来は預けてもよさそうです。

■インド洋大津波  2005年1月9日
インド洋大津波の被害者がまだまだ増えています。
インドネシアにいる友人からのメールでは、インドネシアだけで15万人の死者だといいます。毎日のようにテレビで放映される津波の映像を見ていると、何かを書きたいのですが、書くことに躊躇を感じざるをえません。
何を書いても不謹慎になりそうだからです。

昨日、テレビで「ソラリス」を観ました。最近の映画です。
この原作「ソラリスの陽のもとに」には昔、魅了されました。最近、新訳も出ていますが、読んでいません。この種の本を読む気力が最近はなくなっているのです。想像力を働かせなければいけないからです。

最初の映画化作品は私には期待はずれでしたが、今回は、かなり満足できました。しかし、原作と切り離して、ですが。

ソラリスは惑星の名前です。その惑星の海は知能を持ち、そこに調査にいった科学者の意識にコミュニケーションしてきます。その仕方は現在の物理学のパラダイムを超えているのですが、そこがとても面白いのです。論理を超えているからです。
論理を超えると必ず出てくるのが「愛」です。この映画も愛の映画です。それだけなら私は退屈です。最近の映画が、安直に「愛」を語りすぎることに辟易しています。しかし、この映画は、そこに「恐怖」が埋め込まれているので、私は好きになりました。そのメッセージはスタニスワム・レムの時代よりも現実味を飛躍的に増しています。

話が飛躍しますが、ソラリスとインド洋大津波が私の頭のなかで奇妙に重なったのです。
今回の事件は海からの、つまり地球からのメッセージかもしれません。

映像を見ていると、海がどんどん引いていく場面でも、大きな波の壁が遠くに見える場面でも、それが自らの足元に近づくまでは、みんなその異常を「観察」しているのです。もし現場にいたら、私もきっとそうだったでしょう。想像を超える事件には、誰も危険を感じないのです。
現代は、こうした状況がさまざまなところにフラクタルに起こっている時代です。っしかし、誰も気づかない。これは不幸でしょうか幸せでしょうか。迷います。

津波にえぐり取られた岸壁を見て、歴史は決して連続的なものではないことも知りました。私たちが論理で構築した歴史などは、弱々しい仮説でしかないことを改めて確信しました。終わりは突然に来るのです。

何が始まっているのかわからないままに、私たちはいま、大きな危険にさらされているのかもしれません。しかし、危険は認知しなければ、危険ではありません。

なにやら小難しいことを書いてしまいましたが、
私の価値観をえぐりとられるような事件でした。
最近、友人知人の訃報が続いているのは偶然ではないのかもしれません。

■見たくないものを見ない生き方   2005年1月12日
昨日、新幹線で山形に行ったのですが、同じ車両に10人くらいの人たちが乗りました。
その人たちの半分は、太い紐でつながれていました。
犯罪者でしょうか。見てはいけないもの、見たくないものを見てしまった感じです。
そして、なにか気分が沈んでしまいました。
人が「つながれている」ということは、やはりショッキングな光景です。
事情をわからずにいうのは不謹慎ですが、大勢の人前で、人をつないで連行するようなことは、まさに人権侵害ではないかと思います。

しかし、今日になって、それとはまったく別のふたつの疑問がでてきました。

まず、こうした風景を見たくないと思う、私に対する疑問です。
私は、見て見ぬ振りをしました。おそらくみんなそうでしょう。
見ない振りをしているわけですから、当然、何も行動しません。
「どうしたのですか」などという質問はできません。
子どもであれば、どうでしょう。
きっと質問するでしょうね。
目撃者が多い状況の中でこそ、犯罪や事故は見過ごされるという調査結果がありますが、とても納得できます。
見たくないものは見ないという、こういう態度は、果たしていいのか、という疑問です。

もう一つは、これが犯罪事件そのものである可能性はなかったのかという疑問です。
紐でつながれていたのは被害者で、暴力団に連れて行かれるところだったかもしれません。途中で声を出したら、殺すと脅かされていたのかもしれません。その可能性はゼロではないはずです。
堂々と行動すれば、犯罪も見逃されるという話です。

しかし、目撃したすべての人は、確認もしないまま、紐でつなげて連行するという人権侵害を起こしているほうが正義で、連行されているの人たちは犯罪者と、勝手に解釈しているわけです。何かおかしいですね。
こうして、私たちは大きな犯罪を見逃してきているのかもしれません。

私もまた、裸の王様になりたがっておることに気づいて、愕然としました。
昔はこうではなかったのです。
まあ、それが人生を踏み外させたのかもしれませんが。

■司法制度改革が見落としていること  2005年1月13日
昨日の読売新聞の夕刊に「刑事裁判官 対話に不慣れ?」という大見出しで、裁判員制度に向けて、最高裁は今春以降、一般市民との対話に慣れた民事裁判官を、刑事担当へ「配転」させる方針を決めたことが報じられています。
また、今朝のテレビは青色LED訴訟和解に対する中村さんの「怒りの記者会見」を各局がとりあげています。和解しながら怒りを公開するのはフェアではありませんが、中村さんが日本の司法制度に対して発言していることには共感します。

私は裁判員制度の導入には批判的です。
今の司法制度改革は行政改革や郵政改革などと同じく、ピントはずれだと思っています。
制度の目的に照らして実状を確認し、問題の根幹を正す方策を真剣に考えるのではなく、表層的な問題を解決するために対症療法的な、しかも悪く言えば、問題の焦点をずらすような仮説のもとに、新しい制度を導入し、それをもって「改革」と称しているからです。第一、改革を議論する人たちの人選を間違えています。問題解決を先送りするために、事態はますます悪化することになりかねません。
今の産業再生や銀行の合併、市町村合併、など、ほとんどがそうした取り組みになっています。

人を裁くためには、二つのことが不可欠です。
当事者の思いを理解し、話し合いによって、世界を共有すること。
そして、事件に関わる現場の事実に立脚することです。

中村さんは事件に関わる資料を裁判官は読んでいないと怒っていました。それが事実かどうかは知りませんが、おそらくほとんどの裁判がそうではないかと言う人もいます。私もそう思います。それに、資料を読んだからといって現場の事実に立脚できるわけではありません。
その現場との生きた交流がなければ、それは不可能です。
当事者の思いを理解するためには、さまざまな人との対話や会話能力がなければ、これもまた不可能です。
つまり裁判官にとって大切なのは、法律知識ではなく、社会のおける生活をベースにした人間同士のコミュニケーション能力です。それがなくて、人が裁けるはずはありません。

しかし、残念ながら、そうした社会や生活者と距離を置いているのが裁判官です。
いや法曹界の人といっていいでしょう。
かつての裁判は、神(王)による裁きでしたが、今は違います。主権在民の理念の中での裁きは決して上の目線からの裁きではないのです。
裁きのパラダイムが変わったのです。

そこに気づかないで、裁判の変革はありえないと、私は思いますが、どうでしょうか。

■構造的介入  2005年1月14日
ノルウェイの思想家 J.ガルトゥングは直接的な暴力とは別に、構造がもたらす暴力に着目して、構造的暴力という言葉をつくりました。「社会構造のゆがみや不当な権力の発動による人権の剥奪状況」というような意味です。この概念は、平和の問題に大きな影響を与えてきました。
構造的暴力の対概念は主体的暴力です。つまり暴力の主体者が特定できるかどうかの違いです。誰が加害者か特定できない暴力状況は少なくありませんが、しかしその場合も、それによって誰が得をしているかから考えると問題の構図はかなり見えてきます。

さて、昨日、大きく取り上げられた「NHKへの政治介入」事件です。
何が真相なのかはまだ「藪の中」ですが、ニュースを見ていて、先ず思い出したのが、この構造的暴力の話です。
中川さんや安部さん、ましてや海老沢さんのような小市民の言動は、まあ私には瑣末なことのように思えますが、問題は彼らを生み出し支えている仕組みの存在です。
存在するだけで介入効果のあるカリスマ的な権力者やリーダーは少なくありません。西武の堤さんやダイエーの中内さんはそうだったのでしょう。その存在から生み出された主体を持たない構造的介入が組織を壊していきました。
しかし、そうしたカリスマ的な存在がなくても、構造的介入の仕組みが生まれ育っているのが現在の社会かもしれません。仕組みが人を支配しだしたのです。そして使いやすい小泉さんや安部さんを仕組みの走狗として使い込んでいるように思います。

今朝のNHKのニュースを見たわが家族の反応は、長井さんの話は嘘だったのかというものでした。そう感じた人も多かったでしょう。ここでも見事に構造的介入の仕組みが作動しています。
ちなみに、長井さんの記者会見(2005年1月13日)の放送映像を無料配信しているところがあります。見てください。
http://www.videonews.com/asx/011305_nagai_300.asx

権力者の喜びと利権は「介入」です。しかし、主体的な介入のほかに、こうした構造的介入の実態があるように思います。そして組織人は、その存在的介入の幻想に過剰反応して自己規制しがちです。それが多くの企業不祥事の原因です。
長井さんが「サラリーマンとしての苦しさ」を述べましたが、サラリーマンであることをやめれば、今の時代はとても生きやすい時代です。
組織の呪縛から自らを解き放しましょう。
最近の社会経済生産性本部の調査によれば、納得できない仕事を命じられたら、拒否すると答えた人が半数を超えたようです。
社会は変わってきているのです。

■混雑緩和のために道路をつくるとさらに混雑が増えてくる話 2005年1月20日
離婚が増えているために母子家庭が急増し、離婚母子家庭への支援拡充が課題になりそうだと今日の新聞が報道しています。
何か問題が起こると「支援」です。
まさに今は支援社会です。

自動車の渋滞を緩和するために道路を整備し増やしていくと逆に渋滞が増えると言う話があります。道路を整備すると、自動車の利便性が高まりますから、自動車の利用者が増えて交通渋滞はさらにひどくなるというわけです。
問題の根本解決を図らずに、対症療法的に問題を解決するために「支援」の仕組みを充実していくと、問題はますます深刻になってくることは少なくありません。
なぜそうなるかと言えば、問題の捉え方が間違っているのでしょう。

環境問題解決のために静脈産業を拡大させようなどという馬鹿げた議論が一時期盛んでしたが、それと同じで問題の設定を間違えると解決どころか事態をさらに悪化させかねません。
安直に支援などというべきではありません。
問題をしっかりと見据える姿勢が、最近どんどん失われ、安直な問題設定と安直な解決策が打ち出されて、安直に問題が「解決」されてしまう昨今の風潮が気になります。

ところで、男性の皆さん。
みなさんの家庭は実質的な母子家庭になっていませんか。

■強制送還の権利  2005年1月21日
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民と認めたトルコ国籍のクルド人、アハメット・カザンキランさん(49)と長男(20)がトルコに強制送還されました。その経緯にはいささかの恐ろしさを感じます。

2人は家族とともに、難民認定を求めて国連大学前で座り込みデモを行っていたそうですが、その途中で、品川入国管理局へ仮放免の延長手続きに行ったところ、その場で身柄を拘束されてしまい、なんとその翌日、2人は飛行機で、トルコへ強制送還されてしまったのです。
彼らを支援していた人からのメールによれば、UNHCRが難民と認めた難民が本国に強制送還された例はないそうです。
いうまでもなく、強制送還は生命の危険につながります。幸いに、今回は空港内でトルコ警察の手に引き渡されたものの、アハメットさんは解放され、息子さんは軍隊に入隊させられたそうです。もっともその先はわかりませんが。

社民党の福島党首が20日、南野法相に「政府の措置は極めて不当。UNHCRの勧告や判断を十分尊重することを求める」と申し入れたところ、法相は「日本の裁判所で難民ではないという認定が出たので、国内法にのっとって送還せざるを得ない」と答えたといいいます。国連の勧告は無視されたわけです。
脱北者を強制送還する中国政府のやり方に、私は国家犯罪を感じています。しかし、ほぼ同じことが日本でも行われていることをまざまざと知らされました。しかも、その手際の良さには驚くよりも怖さを感じました。
自らの秩序を維持するために、個人の生命はコラテラルダメッジでしかないのでしょうか。こうした事件は、ほかにもたくさんあるのでしょうか。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013

強制送還できる国家はすごい存在なのですね。
改めて国家のすごさを思い知らされました。

■マイノリティのパブリシティの排除 2005年1月23日
NHKへの政治介入事件、もしくは朝日新聞虚偽報道事件は、真実が見えてきません。
私は両方ともに、あまり信頼感を持てずにいますが、今回の両者のやり取りを見ていて、やはりテレビの暴力性を感じています。

例えば今日のNHKの夕方7時のニュースですが、朝日新聞の言い分は一切出てこずに、政治家の発言で自らの主張を客観化しています。政治家がこれまで証言してきたことの信用度を考えれば、まあどうでもいい話ですが、NHKのニュースだけを見ていれば、朝日新聞は嘘を報じたとみんな思うでしょう。国営放送の恐ろしさです。
スチュアート・ミルは民主主義とはマイノリティのパブリシティが確保されることだと言ったそうですが、今の日本ではマイノリティどころか、大新聞ですら、パブリシティの場での排除の対象になることが示されたわけです。

私はある体験で、朝日新聞に不信感をもち、学生時代以来慣れ親しんできた朝日新聞の購読を止めています。だからと言って、読売新聞が信頼できるわけではないのですが、まあ、それくらいしか選択肢がなかったのです。
いずれにしろ、朝日新聞もおそらくNHKと同じようなことをしているだろうと思っています。つまり自らが信念を持って主体的に報じているとは思っていません。その文化は残念ながらなくなっているでしょう。付き合ってよくわかりました。

ですから私にはまあ、どんぐりの背比べにしかうつりませんが、今回の件に関しては、NHKの現在の報道姿勢には、そうしたことを超えた驚きと怖さを感じます。
せめて反対側の立場の人の声も聞きたいものですが、それが出てこない。それをNHKの人はおかしいと思わないのでしょうか。その一事を持ってしても、おそらくNHKがより多くの非を持っていると思うのは私だけでしょうか。

でもまあ、そんなこともどうでもいいのかもしれません。
もっと怖いのは、真実と無関係に、別の事実を創出していくテレビの怖さです。
身の毛がよだちます。
北朝鮮の放送を喜劇視してきた自分を恥じなければいけません。
同じだったのです。

■衆議院本会議場から退席した民主党を支持します 2005年1月24日
今日は仕事をするために自宅にこもっていました。オフィスに行くと来客で仕事はできないからです。
昼食が終わった1時過ぎにテレビで衆議院の本会議の中継をやっていました。会場で寝ている人も見えました。そういう人をもっとクローズアップしてほしいものです。
代表質問で民主党の岡田党首が質問をしていました。なかなかの熱弁です。そして小泉首相の答弁。ここまではまあ退屈でした。
テレビを切って仕事に戻ろうとしたら、首相の答弁に岡田さんが論点を少し絞って再質問を始めました。それがなかなかのものでした。岡田さんを見直しました。そして、小泉首相が用意されたペーパーなしに、どう答えるか楽しみになりました。
ところがです。小泉首相は再質問された項目を並べ上げた上で、それらについては既に説明してあると答えて、終わったのです。唖然としました。
議会も唖然としたのか、早速、議員たちが集まって収拾策を議論しだしました。そのすぐ近くで、首相はニヤニヤしていました。岡田さんは遠くでムッとしていました。
議長が岡田さんの再質問を認めましたが、岡田さんはそれが納得できず、席を立たずに再調停させる指示を出したようです。また各グループの交渉係が集まって議論を始めました。そして今度は首相が補足答弁することが議長から発せられました。首相は、なんと再質問には民主党の意見も含まれていたが、質問には最初の答弁ですべて答えていると回答しました。これは補足とはいわないでしょう。人を馬鹿にした発言です。私ならすぐに切れて席を立つでしょう。岡田さんはこらえました。そしてまた議員の調整。そしてまた首相の補足とはいえない人を馬鹿にした「補足意見」がありました。ついに岡田さんは呆れて席を立ちました。民主党議員はみんな退場です。そして、その後は、残った人たちで継続です。次の質問者は自民党の幹事長です。もちろんテレビを切りました。茶番は退屈ですから。
この中断の時間はほぼ1時間です。それにすべて付きあいました。腹がたちました。
しかもです、その中継の解説をしているNHKの記者が、ひどいのです。この人は2人のやりとりを聞いていたのだろうかと思うようなバカな解説をオウムのように繰り返していました。主体性は全くありません。自民党に気兼ねしているか、あるいは解説能力のない人かのいずれかとしか思えません。解説記者とは言えないでしょう。小泉首相と同じ種類の人なのでしょうか。

そんなわけで、折角休んで仕事をしようと思っていたのですが、すっかりやる気をなくしてしまいました。首相がこんな手抜きをして許され(質問に答えずにニヤニヤしているだけです)、国営放送でもこんな映像しか送れないのであれば、もっと楽をしても、許されるなと思ったわけです。それで、女房と散歩に出かけてしまいました。また仕事が出来ませんでした。はい、すみません。

この番組をみていなかったら、きっと退場した民主党を非難したでしょうね。しかし、ずっと見ていたおかげで岡田さんの気持ちがよくわかります。
国会中継はやはり日曜日か夜にやるべきですね。平日の昼間では普通の人は見ることができません。やはり実際にみないと理解はできません。新聞で読んでも全くわかりませんし、部分をニュースで見てもモンタージュ効果でいかようにも編集できます。

実にいろいろなことがわかりました。
今日は完全に仕事をやる気分にはなれません。
こうやって、やるべきことを先延ばしている私も、もしかしたら首相と同じかもしれませんね。まあ、サルでも首相がつとまる国家の国民は、そんなものかもしれません。
反省。

■忙しすぎて事実を見ない生活への反省  2005年1月25日
昨日に引き続き、ついつい衆議院本会議の中継を少し見てしまいました。
小宮山さんの質問の、最初の2分間は国民みんなに見てほしかったです。
きっと誰かがネットに採録してくれるでしょうから、わかり次第ここにも掲載しますが。

ところで、昨日の顛末の報道ですが、いささかの失望があります。
マスコミやテレビのキャスターはもっと掘り下げて報道してほしかったです。
私は幸運にも中継を見たからいいものの、そうでなくてニュースだけを見た人は、どっちもどっちだと思ったでしょう。新聞もテレビも、そのトーンでした。つまりリスクをとっていないのです。
またこれは小泉対小沢の政治のかけひきだという指摘もありました。たとえば報道ステーションです。そんなことは瑣末な話です。問題を摩り替えてはいけません。
大切なのは、対話を拒否した首相の不真面目さなのです。そしてそれを批判できない、あるいは適切に表現できず、従って質問もできないジャーナリストの現状です。

彼が首相でいられるのは国民が忙しすぎて、こうした彼の素顔を見る機会がないからなのかもしれません。知らないところで、勝手にやっているわけです。
それは首相だけではないかもしれません。
社会保険庁の偉い人たちが相変わらずの仕事をし、拉致問題はなかなか進まず、企業不祥事もなくならない。みんな忙しすぎて、かまっている暇がないからでしょうか。
いや、私たちはいま、みんな忙しすぎて、事実をきちんと確認せずに物事を判断しているのかもしれません。忙しさは、本当に心を失わせます。反省反省。

団塊の世代に暇ができたら、社会は変わりますね。
もう少しです。

■司法改革の前にやるべきこと 2005年1月27日
昨日、2つの判決が出ました。
東京都管理職試験訴訟と桶川女子大生刺殺賠償訴訟です。
皆さんはどう評価されたでしょうか。
私はまた裁判官と法曹界の非常識さを感じました。
被害者の目線に立つことは今の裁判官には望むことは無理なのでしょうか。
いずれも責任放棄しているとしか考えられません。
彼らをこそ裁判にかけてやりたいです。
事実、裁判の当事者になった法曹界の人が被害者の会に入って活動していますが、
当事者にならなければわからないような人には法曹界には入ってほしくありません。

私は法学部で学びましたが、リーガルマインドを身に付けたと自負しています。
しかし法曹界に入るには条文の暗記や解釈の暗記が必要だったような気がします。
その現実を知って(認識違いだったかもしれません)、目指していた検事になるのをやめたのですが、今から思うと悔やまれます。裁判官になって、内部告発すればよかったです。いや、また口がすべりました。

裁判は何のためにあるのか。
秩序維持のためにあります。
その秩序は、組織の秩序です。
個々人の生活の秩序ではないのです。
組織起点の発想から個人起点の発想に帰ると、裁判の問題点が見えてきます。
司法改革は、その視点を変えることでなければ、悪くなるだけの話です。
裁判員制度を司法改革などと思っている法曹界の人たちは、小泉首相の構造改革と同じ発想の人たちでしょう。
残念でなりません。
先ずは自らを変えずして、改革などは行えないのです。

■全国総合開発計画(全総)制度の廃止  2005年1月30日

「国土交通省は戦後の開発行政の指針となってきた全国総合開発計画(全総)を廃止する方針を固め、06年にも始める新たな国土利用計画の概要をまとめた」そして、「今後の社会資本の整備は、既存施設・設備の有効活用を掲げ、脱開発型に改める」と朝日新聞が報じています。
新たな国土利用計画なるものが、これまでの全総とどう違うのか、またそれを支える「有識者」たちはどういう人なのかをもう少し見極めないといけませんが、方向は歓迎します。
全体から考えていく時代は終わり、個々の現場や個人の生活から考えていく時代へと換わらなければならない時代になったという認識を持っている私は、「国土を利用する人たちのために」と言う統治者の視点ではなく、「生活を豊かにするために」という住民の視点で、社会や国土のビジョンは描かれなければいけないと考えます。もちろん生活を豊かにすることの根底には、宮澤賢治的な豊かな想像力が必要ですが。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sa1-2.htm#ko
自分の生活しか考えない「住民エゴ」に任せていたら、それこそ国土はめちゃくちゃになると反論する人がいるかもしれません。そういう人には、そういう判断から、自分の生活を離れて客観的に判断できる「有識者」や「専門家」に任せていた、現在の結果はどうですか、と問いただせばいいだけの話です。
生活から発想するということは、生活者こそが有識者で専門家であるということです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m4

しかし、都市計画マスタープランも地域福祉計画など、これからの行政計画は住民のと一緒に創る方針が以前から打ち出されていますが、寡聞にして、そうした主旨がきちんと守られた事例をほとんど知りません。今回はどうなるでしょうか。たとえば、NPOの広がりなど、社会状況の変化を踏まえた展開を期待したいです。

道路も新幹線も決して悪いわけではなく、公共施設も重要です。
しかし、それらが住民生活に立脚していればこそ、です。
昨今の政治議論は、ほとんどが問題の立て方を待つがえていると私は思っています。
これからの社会資本(ソーシャル・キャピタル)は、開発とかそういう話ではなく、人と人との絆であり、信頼関係です。そういうものを壊す方向で豊かさを追求してきた発想を反転させなければいけません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/sc-1.htm
そういう理念がきちんと踏まえられているか、どういう人がこの方針の支えて担っていくかが気になっています。これまでの全総に関わった人が絡まなければきっといい方向に動き出すでしょう。

■イラクの国民投票の結果 2005年2月1日

イラクでの国民投票が終わりました。
これが「どのような物語」のはじまりなのかは、人によってかなり違うものだろうと思います。

私は、この選挙に関しては投票権もありませんし、その影響をそれほど受けるわけではありませんので、イラクにとっての意味は語ることはできません。
イラクで生活する人たちにとって、どういう意味があり、どういうものであったかは、残念ながらテレビや新聞からでは見えてきません。ただ、その選挙のために大勢の人が死に、憎しみを残していったであろうことは推察できます。

選挙は役割を終えた、と私は思っています。イラクで、ではありません。至るところで、です。アメリカの大統領選挙も日本の国会議員選挙も、民意を代表しているわけではないことが明白になってきましたし、操作可能性が高まっているように思います。つまり、選挙の正当性を保証する情報基盤や公正な手続きの信頼性が損なわれてきてしまったように思います。一度、崩壊した幻想は効用を失います。
選挙も国民の合意も、政治家にとっては自己主張のための道具でしかありません。
権力者が考える「国民合意」とは何なのか、一度、安部さんや小泉首相にお聞きしたいものです。

イラクの選挙で、いったい、何が変わるのでしょうか。
国民の合意が得られたのでしょうか。
その合意は、イラクでの戦いを終わらせられるのでしょうか。

戦いを止めさせることは、第三者にはできません。
しかし、戦わせることは第三者にもできることです。
不本意ながら、戦いを増幅させている側にいる者の一人として、
選挙が戦いを増幅させないことを祈りたいです。

■ニーメラーの教訓  2005年2月3日

岩波新書の「ルポ戦争協力拒否」を読みました。こういう本がなぜ読まれないのかが残念でなりません。書籍文化を壊し続ける出版社には、少し考えを変えてほしいものです。
それはともかく。

昔読んだ、ニーメラーのエピソードが紹介されていました。
丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている話ですが、それをこの本に登場するある人が語ってくれています。引用させてもらいます。

「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(「ルポ戦争協力拒否」184頁)

まだ間に合うでしょうか。
2月20日に、「テロリストは誰?九条の会」というグループ立ち上げのための設立茶話会があります。私は同じ時間に子育ち学のフォーラムがありますので、参加できないのが心底残念ですが、みなさんいかがでしょうか。私の代わりにどなたか参加してくれませんか。ホームページをご覧下さい。http://whatsa9.atspace.org/

■銀行の窓口の不思議さ  2005年2月4日
久しぶりに銀行に行きました。
東京三菱銀行柏支店です。
私の住んでいる我孫子市には支店がないので、電車で行かないとダメなのです。
今回はATMで使うカードを発行してもらうためです。

ところがです。
窓口がごった返ししているのです。
係の人にきくと1時間くらいかかるそうです。確かに窓口の前のイスは満席です。
久しぶりの銀行ですが、信じられない風景です。
1時間ですよ。
平日のお昼過ぎです。係の人に午後になるとすきますか、と尋ねたら、ずっとこうです、ということでした。
どこかで聞いた言葉だなと思いました。そうです、羽田空港での事件です。

銀行がつぶれるのは当然ですね。
大銀行を利用するのをやめることにしました。まあ、ほとんど預金はありませんから、銀行には何の影響もないでしょうが。地場の千葉銀行か郵便局にします。まあ、郵便局も民営化されたらこうなるのでしょうか。いや、サービス向上のための民営化でしたっけ?どうも最近は混乱する事が多いです。
こんな銀行を支えるために私たちの税金が使われているかと思うと情けないですね。
頭取は一度でもいいから自分で銀行の窓口に言って、利用してみてほしいですね。

最近は朝日新聞をやめ、日航も利用をやめ、今度は都市銀行の利用をやめ、もう大変です。
不便な時代になってきました。まともな事業家はいないのでしょうか。


■通貨偽造の意味 2005年2月4日

今回は暴論です。
最近、通貨偽造が広がっています。
非常識な話ですが、通貨偽造がなぜ悪いのかがよくわからなくなりました。
偽造によって、通貨の仕組みの信頼性を失わせるとか、インフレを引き起こすとか、偽造した人は得をするとか、いろいろと理屈では考えられますが、それがどうしたと考えていくとわからなくなるのです。

通貨って本当に分かりにくい存在です。
財政がこれほど赤字でも経済がまわっています。
その借金はどこからしているのでしょうか。それを裏付けるお金は誰が発行しているのでしょうか。
大銀行や大会社に絡んでの巨額な債権放棄や国税の投入とわずかばかりの紙幣偽造とどこがちがうのでしょうか。
ノンバンクの金融機関が高率な利子をとるのに比べたら、たかだか数億円の紙幣偽造などは瑣末な問題のような気もします。汗をかかずに、紙幣を創出する仕組みは蔓延するなかで、偽造通貨の意味は一体何なのか、偽造行為は悪いことは理解できますが、どうも腹におちません。

デリバティブとかなんとか、よくわからない仕組みで信用創造している社会のほうにこそ、問題があるような気がします。
なんでも証券化する時代ですし、よくわからない証券は偽札みたいなものにも思えますし。
思いつきで2000円札を創るのと、偽札とは全く違うことなのでしょうが、どこか類似性を感じます。

お金を偽造することは、どこに問題があるのでしょうか。
どうもわからなくなってきました。
どなたか教えてくれませんか。

ちなみに私たちがやっているコモンズ通貨というのがありますが、この通貨は偽造歓迎です。カード式ですが、偽造してもらえれば、作る手間が省けますから。

■刑の与え方がまちがっている社会  2005年2月7日
再犯の増加が増えています。
そうした事件の報道に出会う度に、
「罪を憎んで人を憎まず」という命題に疑問を感じます。

裁判は「罪」を裁くのであって、「人」を裁くのではないのでしょうか。
罰する対象は人ではなくて、罪なのでしょうか。
どこかにおかしさを感じます。

もし仮に、人を憎まずであるとしても、
今の司法の枠組みには大きな疑問を感じます。
刑期を終えて出所した人がすぐにまた犯罪を行うのは、
その人を受け入れる社会の環境が整っていないからだという人もいます。
もしそうであれば、それは刑の与え方が間違っています。
受け入れ体制ができていない社会に出所させてはいけません。
つまりもっと刑期を長くし、それなりの生きる術を習得させるべきです。

飲酒運転で人を殺傷した人が再犯を繰り返すこともありますが、
それもそもそもは刑の与え方が間違っているのです。
問題は簡単です。
飲酒運転で事故を起こした人は、免許を剥奪し、一生、運転を認めなくすれば良いのです。そうしたところで何の不都合も起きません。もし起きるとしたら、自動車運転人口が減少し、自動車が売れなくなるかもしれないと言うだけです。つまり、こんな簡単なことも出来ないのは、自動車産業を初めとした産業界の意向だとしか思えません。それ以外の理由は私には考えられません。もしあれば、誰か教えてください。

さらに、不条理な高利貸しやドラッグの販売など、どこかで犯罪につながる原因を作っている人たちもまた、厳罰に処するべきです。どんどん摘発し、社会から隔離すべきです。
少なくとも、そんな活動が出来なくするべきでしょう。なぜそれができないか、これも問題は簡単なような気がします。

安直な人権主義があまりにも多いのは、なぜでしょうか。
安直な人権主義は、すべての関係者を不幸にしかねません。
司法界の人たちには、もう少し真剣になってほしいものです。
警察行政も司法界も、もっと産業から自立しなければいけません。

■お金を付けて家を売る時代 2005年2月11日
地元の不動産屋さんといろいろと四方山話をしていて、聞いた話です。
私の住んでいる我孫子市ではいま、駅前が大型マンションの建設ラッシュなのです。
シティアという大型開発には、私の知っているまちづくり活動に取り組んでいる長野県の人たちが見学にまで来ています。コミュニティづくりを中心においたコンセプトがいいのだそうです。私にはとても違和感がありますが。
まあ、それはともかく、不動産屋さんの話はとても考えさせられました。
こういう話です。

ある人がマンション購入後、事情があって売ることになったそうです。
ところが価格が2年もたっていないのに、1000万円近くも下がってしまい、残っているローンよりも400万円以上低かったのだそうです。
そのため、マンションを販売するために、その差額を支払わなければならなくなりました。自分の家を売るのに400万円必要だったわけです。売った人がお金を払う、おかしな時代が来たとその不動産屋さんは嘆いていました。
まあ、借金をして購入したわけですから、論理的に考えれば当然のことなのですが、なにか不思議な話です。そういう可哀想な話が最近は増えているそうです。
またマンションを購入した若い夫婦が離婚することになって、奥さんが自分も分担投資して購入した財産であるマンションを売って、せめて自分の負担分だけでも取り戻したいと相談に来たそうですが、取り戻すどころかローン差額をさらに分担しなければいけないという話もあったそうです。

誰が得をして、だれが損をしているのでしょうか。
何かが間違っています。
少ない頭金で変える仕組みも住宅価格の品質保証や価格評価の仕組みも、さらにいえば、その根底にある金融政策や金融産業政策も、どこかに欠陥があります。
少し考えるだけで問題点などはわかりますが、だれも治そうとしません。

ちなみに私も恥ずかしながら、退職金の一部でマンションを購入して、退職金全額以上の損をしました。金融政策にもその原因の一端があるような気がしますが、その原因をつくった金融業界の損失は国家によって補填されているのに、貧しい我が家の損失は残念ながら補填してもらえません。まあ、自己責任ですから当然ですが。

「住宅喪失」(島本慈子著、ちくま新書)という本があります。それを紹介しているreikoyamamotoさんのブログも読んでください。彼女は、「これを読んだだけでは分からないが、日本という国で家を買うのが怖くなった」と書いています。

■表現に気をつけなくてはいけない社会  2005年2月12日
今日は自己告白です。

このブログを読んで下さっている方はおそらく感づかれていると思いますが、
私は言わなくてもいいことを、それもやや過剰な表現で話したり書いたりしてしまうタイプの人間です。しかも感情がすぐ表情に出てしまいます。
大人としての常識がかなり欠落し、自己抑制力が弱く、そのくせ思い込みの強さから判断を間違うことも多く、その弱みを家族には見透かされているのです。

このブログや私のもう一つのホームページ(CWSコモンズ)は、最近、家族のチェックが入るようになりました。最初は反発していましたが、最近は彼らのいう事が正しいような気がしてきました。昨日のブログも2回もリライトしました。

私は自らの価値観をとても大事にしてきました。そして自分の意見を表明することは、大切なことだと考えてきましたから、それを大体においてストレートに出してきました。女房に言わせると、私の言葉は暴力的だそうです。子どもの言葉は、いつも暴力的ですが、その段階からまだ抜け出ていないのです。ですからきっと多くの人を傷つけていると女房はいうのです。

おそらくそうなのでしょう。最近つくづくそう思います。
しかしなかなか直りません。

いろいろな集まりに行くと、そこを支配している常識と私自身の常識とがあまりにも違うために、いらいらすることが少なくありません。参加した以上、おとなしく、そうした意見を拝聴しなければいけませんが、それがとても苦痛です。限度を超すと、ついつい跳ねてしまって、余計な一言を発信してしまうこともあります。途中で気づいて信頼回復につとめるのですが、一度跳ねてしまうと、もうだめで、はじかれものになってしまいます。そういう時は多くの場合、訳の分からない発言になってしまい、真意は伝わりません。そして自己嫌悪に陥ります。

私の個人的なホームページも表現に気をつけなければならないと昨日、家族からたしなめられました。ITの発達により、個人の発言も瞬時に世界に伝わる時代です。だからこそ気をつけろというのです。それに私を知らない人は「言葉」だけで考えるから、冗談が冗談にならないし、反意語もそのまま受け取られてしまうというのです。悔しいですが、納得しました。老いては子に教えられ、です。

私のホームページですらそうですから、マスコミでの表現はもっと大変なチェックが入るのでしょうね。そういえば、署名入り記事まで編集者によってリライトされることがあるようですし。

ITによって多様な価値観がどんどん露出し、そのつながりから新しい価値が創発される、まさに多様性社会が実現する、と私は考えていました。
しかし、これは間違いかもしれません。
むしろITにより発信範囲が広がると、各人の価値観は自己規制によって丸くなり、創発ではなく収斂し、単一価値観の社会へと向かっていくのかもしれません。
多様な意見が増加しているようで、実は意見が没個性化している。
昔書いた非情報化社会論を思い出しました。
因果の法則は時にねじれた結果を現出させるものです。

■信頼を失いつつある金融システムの意味 2005年2月13日
通貨偽造がなぜ悪いのか記事は不評でした。
偽造は悪いに決まっているといわれれば、反論も出来ません。
少し違った視点から書きます。

日本の金融システムは信頼を失いつつあると、私は思います。
信頼を失ってしまえば、金融システムは成り立ちません。
そこに大きな問題があります。

最近の金融に関わる犯罪の多さに、銀行に預金することへの躊躇を感じている人は少なくないでしょう。
カード詐欺にあっても保証もしてくれない銀行を信頼できるわけがありません。
今はまだかつての信頼幻想の中で預金者は不安を抱きながらも他に術がないために、銀行を利用せざるをえないのですが、いつまで続くでしょうか。

銀行の社会的存在価値は大きく変わってきているはずですが、銀行は新しいミッションを創りそこないました。いや、その気はなかったとしか思えません。そして、むしろ金融不安や金融事故に依存して、自らの私益を維持することにのみ関心を向けているように思います。銀行統廃合の動きがそれを象徴しています。

カード詐欺にしても、対応策はいくらでもあったはずですが、自らの責任は取らずにきました。銀行を信頼して預けた預金者の保護は彼らの関心事ではありません。もちろん政治家も本気で考えようとはしていません。むしろヤミ金融の世界を利用しながら、問題の本質を摩り替えているような気がしてなりません。
つまり銀行をはじめとした金融関係者は、信頼性を保証するためのビジネスチャンスには関心を持っていますが、金融システムの信頼性にあまり関心はないのです。
まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。

金融システムがこわれたら、大混乱が起こるでしょう。
金融システムの信頼性の回復は緊切な課題です。
それは、企業や産業の視点で構想するのではなく、個々人の生活の視点で構想されなければいけません。
せめてカード詐欺や振込詐欺の被害者を救済する仕組みはすぐにでもつくるべきです。
システムを管理する側として、それは当然のことです。
その常識を回復するところから、まずは始めるべきでしょう。

■学校がなぜ悲劇の舞台になるのか 2005年2月15日
また学校が舞台の事件が起きました。
事件の背景は全くわかりませんので、この事件へのコメントは避けますが、
学校という空間もまた、信頼を失った殺伐とした空間になっていることを思わせます。
なぜ学校が殺伐とした空間になったかは、社会のあり方と深くつながっています。社会の歪みが学校を通して子どもたちに襲いかかる仕組みになっているのかもしれません。
問題は社会の形に合わせて設計された学校に、子どもたちが無理やり合わせられているのです。そこに大きな問題を感じます。
学校の主役はだれでしょうか。
私は子どもたちだと思いますが、一部の例外を除き、そうはなっていないと思います。

その歪みは、いろいろな形で現れています。
例えば、最近、発達障害が話題になっていますが、昨日、日本教育会館で行なわれた公開研究会に参加した人がホームページにこんなことを書いています。

メディアは全般に、「今まで隠れていた障害が明らかになり、
細かい支援が行なわれるようになった」という論調ですが、
実際には入学前に細かい選別が行なわれているのです。
要するに、障害児の多様化・重層化なんですね。
(中略)
それを支えているのは、学級崩壊を防ぎたい教師と
子育て不安から診断を望む親。
そして、出来る子にエネルギーとお金を注ぎたい文部科学省です。

教室に入れてもらえなかったり、教室から追い出されたり、様々な問題が起きているのです。

詳しくはこのホームページをご覧下さい。
報告者は川西玲子さんです。

こうして創られた学校空間が、いかに子どもたちの心を歪めるかは想像に難くないです。

学校を開くとか閉じるとかの問題は、
学校の透明性を高めるということでなければいけません。
子どもたちの集まる場をマネジメントしている人たちは、実態をもっと社会に情報発信してほしいです。突然に事件が起きるわけではありません。

この事件は、そうしたことが急務であることを示唆しているように思います。

■ライブドアの堀江さんを支持し感謝します 2005年2月21日
今日は勝手な支持表明です。

ライブドアの堀江さんを支持します。
私が支持したところで何の意味もないかもしれませんが、意思表明をしておきたいと思います。
もちろんこの支持は楽天やフジテレビの行動への異議申し立てを含んでいます。
そして、同時にマスコミの報道姿勢への異議申し立ても、です。

硬直し、制度疲労を起こしている現状に、堀江さんは新しい風を吹き込みました。
その新しい風を利用して、リスクをとらずに漁夫の利を得た楽天のやり方には怒りを感じます。こうして新しい風を押さえ込み、悪用してきた大人たちが子どもたちの不信感を強めているのだろうと思います。短絡的ですが、楽天の三木谷社長のような大人が社会をダメにしているのだろうと思います。彼を利用している財界にも失望しますが、彼らは論外で哀れむ対象ですので、むしろ三木谷社長が私には不快です。
フジテレビ事件はどうでしょうか。フジテレビにはもっと大人としての対応もあったと思います。敵対意識はむしろフジテレビの社長発言に感じます。弱く自信がないからでしょうか。それとも「大人」だからでしょうか。
ビジネスゲームとして考えたら、堀江さんの言動は稚拙だったかもしれません。あんなに発言してはダメだと有識者は言いますが、そこに価値観や世界観の違いを感じます。そういう論理の支配していた経済社会を壊そうとしているのが堀江さんです。彼の素直な言動を私は強く支持したいです。しかしマスコミや有識者は、よってたかって彼をつぶそうとしているように思います。それはまさに、今の体制に寄生している彼らの立場と私欲を露呈しています。私は彼らのような大人にはなりたくありません。

堀江さんを支持します。
「命に次に大切なお金」という発言にはいささかの違和感はありますが、
おそらく彼の真意はそこにはないでしょう。大人たちに向けられたブラックジョークだと思います。

堀江さんの志と夢に共感します。
何か役に立てればと思うのですが、定期預金残高ゼロの私には資金的な応援ができないので、せめて支持表明だけをさせてもらいました。

堀江さん
あなたの起こしている新しい風はかならず実っていくはずです。
いや、すでに大きな成果をあげていると思います。
少なくとも私は感謝しています。こういう人がいると知っただけで、元気が出てきます。
ありがとうございました。

■私は民間人なのです 2005年2月23日
川崎市の宮前区に、初の民間人区長が就任したと読売新聞に大きく取り上げられていました。
「民間人」。何とも馴染めない言葉です。

大辞林によれば、民間人とは公的機関に属さない人のことだそうです。
ここでは、公と民とが対峙されています。つまり、日本の公とは官なのです。パブリックではありません。

官は「統べる側」、民は「統べられる側」です。
そこには垂直的な上下関係があります。
民間企業、民間外交、・・・民は官よりも一段下に見られている構造がそこにあります。

議員は民を代表して官とつながる存在です。
まあ、現実はアリバイ工作であり、飼いならされた官でしかないことが多いですが。

言葉の問題ではありますが、士農工商社会の延長の構造を感じます。
この構造を変えなければ、社会は変わりません。
残念ながら、現実はその枠の中で動機付けられた「民間人」たちが上昇志向の競争に追い立てられている状況です。
そこから抜け出なければいけません。

市役所の職員は「民間人」ではないのですが、
「民間人」から区長になった人は、これからは「民間人」ではなくなるのでしょうか。
それが「出世」だと、この記事を書いた記者は思っているのでしょうか。

たかが「言葉」ですが、言葉は大きなサブリミナリー効果を持っています。
差別用語狩りには、私は違和感がありますが、むしろこうした私たちの意識を規定している言葉をこそ吟味していかなければいけないと思います。

これは統治されている民間人のひがみでしょうか。

■次世代育成行動計画が策定されていることをご存知ですか 2005年2月24日
日曜日に、今、自治体で取り組まれている「子ども・子育て応援プラン、次世代育成行動計画」をテーマにした、子育ち学フォーラムに参加しました。
子育て分野で活動をしている人以外は、あまり知らないかもしれませんが、今年度中に自治体はこの計画を策定しなければいけないのです。策定に当たっては、住民の意見を反映させることがうたわれています。
ところが、その策定の実態を知ると「またか」と思うほど、形だけのものになっています。貴重な税金が、外部の安直なコンサルタント会社に流れているケースも少なくありません。こういう状況はまだほとんど直っていません。
詳しくはCWSコモンズのホームページなどで紹介しますが、そこで感じたことをここでも書いておきたいと思います。どうもコモンズよりもこのブログのほうが読者が多いようですので。

各地でこの計画に関わっている4人の方から、生々しい報告がありましたが、その基調にあるのは、形だけの計画づくりへの疑問です。次世代の子どもたちの行動計画を実際には4〜5か月で策定しなければいけないなどというのは、霞ヶ関の机上論者の発想です。それにみんな振り回されているわけです。
住民意見の聴取は、アリバイ工作的に行われていることも少なくありませんし、計画の前提になる意見調査もコンサルタント会社の通り一遍のものも少なくないようです。

また計画の内容も、「・・・を検討する」「・・・につとめる」「・・・の整備を進める」という文言が多く、これが計画といえるのかという疑問も出されました。計画をつくっても市町村合併でどうなるのか不安だという意見も多かったです。
最後に私も少し話させてもらいましたが、そこで、計画は住民にとってのツールになること、行政の合併などは気にせずに、住民生活の視点から行政計画とは別の自分たちの計画と活動を広げていくことを提案しました。
たしかに行政の計画は抽象的ですが、もし「検討する」「つとめる」と明記されていれば、それを材料に行政に実際の検討を働きかけ、具体的な行動を引き出せばいいのです。行政計画は行政の拠り所と位置づけられがちですが、住民と行政とのコミュニケーションメディアなのです。つまり、住民が行政に働きかけていく材料なのです。
また次世代育成までを行政に依存していたら、また戦争に借り出される子どもたちを育てることにもなりかねません。せめて次世代はお上の助けを借りずに、自分たちが中心になって育てなければいけません。市町村合併とは全く別の次元で私たちの生活圏は形成されています。もしそうであれば、合併論議などは気にしないでいいのです。それとは別に住民主役の計画や実践を進めればいいのです。

子どもの問題は、実は大人の生き方の問題でもあります。次世代育成などという言葉には違和感を持ちますが、もっとみんなが関心を持つべきテーマです。
ぜひとも自分の自治体ではどんな取り組みがなされているかを気にしてもらえればうれしいです。

■ ルールを変える競争社会 2005年2月25日
ライブドアの堀江さんが厳しい状況になってきています。
テレビなどでの報道姿勢もどうも堀江さんに冷たいような気もします。
キャスターのみなさんは別ですが。

今日のテレビでもどなたか言っていましたが、
競争していたらルールが変えられてしまうのはフェアではありません。
戦いなのだから、そんな奇麗事は言っていられないといわれそうですが、戦い事だからこそルールは大切なのです。
今回の動きのなかに、強者が勝手にルールを変える競争社会の実態を垣間見る感じです。誰かの都合で、巧みにルールが変えられているのが、これまでの日本だったかもしれません。その実行者は政治家と財界と大学教授の産官財の「三位一体」チームです。

また、会社が自己防衛するのは当然だといわれますが、その会社とは何かが問題です。
ニッポン放送の社員はみんなライブドアの経営権獲得に反対です、という経営者の発言には不快になります。この一言で、経営者が守ろうとしている対象が見えてきます。よくこんな傲慢な発言ができるものです。社員の主体性や人格を認めていない経営者の実像が見えてきます。社員は本当にどう思っているのでしょうか。

2つの問題を感じます。
ルールをおろそかにすることは挑戦者の意欲を損ないます(挑戦者をつぶすのが管理者の特徴ですが)。子どもたちへの影響を危惧します。子どもたちは本質を見抜く素直さを持っています。これは「いじめ」以外の何ものでもありません。
また、社会の視点でなく仲間の視点で組織を守ることは、組織の社会性を損ないます。企業はいうまでもなく社会の子です。守るべき価値を間違っては、制度の基盤が崩れます。

ところで、私自身はライブドアでもなんでもいいのですが、今の放送のひどさに不満がありますから、経営権の移行を歓迎します。今よりはよくなるでしょうから。
まあ、これは余計な話ですが。

■人にレッテルを貼る社会 2005年2月26日
今日はNPOの集まりに参加していました。
いつもそこで気になる言葉があります。
「障害者」です。
15年ほど前に、ある会に参加していて、「障害者」という言葉を発したら、若い参加者の一人が、「佐藤さんから障害者という言葉を聞くのは残念です」と言われました。その言葉がずっと気になっています。
でも、ではなんといえば良いのでしょうか。
以来、私は障害を持つ人とか、障害の強い人、と言っていますが、まだすっきりしません。

山口で開かれたNPOの集まりで、発達障害に取り組む方から、中学まではちょっと変わった子どもくらいにしか思われていなかったのに、高校進学時に、突然、発達障害という烙印をおされて、子どもはパニックになるのです、という話を聞きました。

先日、NEET問題を考える委員会に参加しましたが、
そこでもずっと気になっているのが、「NEET」という言葉です。

イリイチは病院が病人をつくり、学校が劣等性をつくるというようなことを言っていますが(不正確な読み取りかもしれません)、人にレッテルを貼る社会の怖さを感じます。

NEETという言葉さえなければ、多くの若者の人生は変わったかもしれません。
言葉は人を暗示にかけます。
人にレッテルを貼る社会をそろそろ終わりにしたいです。
私が福祉の専門家や実践者が好きになれない理由の一つです。

■3つの企業価値を可視化したライブドアの堀江さん 2005年2月27日
ニッポン放送問題に関連して、気になる言葉がいろいろ出ています。
放送は公共財だとテレビ局の経営者が考えていることも知りました。
最近のテレビ番組は、公共性とは反対のところを目指しているように思っていたのですが、それが公共性だったのですね。
それで最近のNHKの不祥事が納得できました。公共性のモデルだったのですね。
おや、これはジョークです。誤解のありませんように。

しかし、企業価値も、彼らはその延長で発想していますね。
こうなるとジョークとも言っていられません。

企業価値にはキャッシュフローとしての企業価値とレゾンデートルとしての企業価値がありますが、ほとんどの人は前者、しかも株価程度の意味で使っているように思います。不勉強な御用経営学者の言葉をさらに不勉強にしか使っていないのが、日本の企業の経営者だと私は思っていますが(つまり彼らは自分の言葉を持っていないという意味で仲間です)、無理をせずに株価や経営者特権といえばいいように思います。

日枝会長が使う「ステークホルダー」という言葉もわかりにくいです。一方で公共性をいいながら、狭義のステークホルダー論を振り回す。なにかおかしいですね。
こういう言葉のごまかしが蔓延していますが、それをしっかりと追求するキャスターが少ないのも残念です。もう少しまともな質問をしてほしいと思うことが多すぎます。

ついでにいえば、記者会見のスタイルも対照的です。そこに実相が見えてきます。
多くの場合、堀江さんは一人ですが、フジテレビ側は大勢の役員が並びます。ここにいかに大企業は働かない寄生族が多いかが見えてきます。それらがすべてキャッシュフローとしての企業価値にかかわっているのです。彼らが会社を辞めれば企業価値は高まります。どうせ経営などはしていないのですから。
会社を辞めて、早起きして道路の掃除でもしましょう。そうしたら公共性とは何かがわかるでしょう。第一、社会が元気になりますよ。そろそろ後進に道を譲りましょう。今の財界は全くその逆を向いていますが、その意味を考えたことがありますか。

と書いてくるとおわかりだと思いますが、実は第3の企業価値があるのです。それは経営者にとっての価値です。ここで重要なのは、この第3の企業価値は、被用者にとっての働く場としての価値とは似て非なるものだということです。
そして、いま、日枝会長が守っているのは、この第3の企業価値のような気がします。
それが、第1、第2の企業価値のいずれとも対立するものであり、公共性とも対極にあることはいうまでもありません。

このからくりに、産業社会の問題が凝縮されています。
言い方を変えれば、新しい産業社会の可能性も象徴されているように思います。
ちょっと説明不足だったでしょうか。

■いま、ネパールで何が起きているか、ご存知ですか 2005年3月1日

最近、イラクの話があまり聞こえてきません。平和に向かっているのでしょうか。
イラクはともかく、アフガニスタンはどうなっているのでしょうか。
不安があります。私たちとは無縁ではないからです。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。
ましてや、私たちの税金が使われていますから、私たちは加害者になる可能性もあるのです。

ところで、昨日、
ネパール・ピース・ネットではネパールの基本的人権の回復のために、
地球市民社会のみなさまのご協力を求めています。
という緊急アピールのメールが飛び込んできました。
私が信頼する人を介してのメールです。
それによると、

2005年2月1日、ネパールでは国王が首相を解任し実権を掌握、国家非常事態宣言が発令されました。その後1ケ月が過ぎようとしていますが、言論や集会の自由は回復されず、人々は沈黙を強いられています。政変後逮捕された著名な知識人や政治家の中には釈放された人もいますが、友達と話をしていただけで「集会」とみなされ拘禁された少年もおり、報道規制がある中、一般市民への影響は新聞等で伝えられることもありません。

みなさん、ご存知でしたか。
あまり新聞を読まなくなっている私は知りませんでした。
こういう事件はたくさんあるのでしょうね。国内外に。

詳しくは以下のホームページをご覧ください。
http://npnet.exblog.jp/i2

いま、世界で何が起こっているのか。
公共性を主張しているマスコミは、本当のことを語ってくれません。
それが公共性なのかもしれません。
これに関しては、いつかきちんと書きたいですが、公共性もまた二義的ですから、恐ろしい概念になりえます。

まあ、それはそれとして、よかったら署名してください。

■働くことは義務か権利か  2005年2月28日
失業率が高まっています。
これは嘆かわしいことだと普通は考えます。
でもそうでしょうか。
失業者がいても、社会は持続していけているのです。
社会を持続させていくための生産活動は十分行われているということです。
社会総体で考えた場合、労働時間短縮が実現したといっていいでしょう。
社会にとっては豊かさの実現です。

しかし、現実にはどうもそうはなっていません。なぜでしょうか。
それは、働くということと成果の取り分が強くリンクしているからです。
「働かざるものは食うべからず」のルールの呪縛があるからです。
働くという義務が食べる権利とセットになっています。

家庭という社会で考えてみましょう。
そこでは働かなくとも生活が保障されている人がいます。
乳幼児やお年寄りです。時には病人もそうです。

話がややこしくなりますが、私はそういう人も働いていると考えていますが、
今回はそこは無視します。
改めてそこは書きます。
今回は、あえて、
「働く義務と食べる権利はセットになっていない」例として家庭をあげておきます。

話を戻します。
失業者の数は、豊かさの指標なのか貧しさの指標なのか。
これはそう簡単な話ではないはずなのですが、なぜかみんな貧しさだと思い込んでいます。
それは、働くことが義務だと考えているからです。

働くことは、ワクワクするような喜びの行為です。
いや、そうであると私は確信しています。
みんな働きたいのです。わくわくしながら。
しかし、そうしたワクワクするような働きの喜びを、誰かが、あるいは何かが苦痛にしてしまったのです。ですから労働時間は短いほど良いと、労働組合も考えてきたのです。
最近になって、ようやくILO(国際労働機構)も、ディーセントワークなどと言い出していますが、本来、働くとはワクワクする価値ある行為なのです。
そうであれば、働くことは義務や責務ではなく、権利なのです。
この価値観の転換が、いま求められているように思います。
その権利を、一部の人たちが独占してはいけません。
昨日も超多忙な若者に会ったら、給料を減らしてもらってもいいから休みがほしいと言っていました。

私は現在の社会が必要としている労働時間を人口で割って、働く権利の平均時間を決めて、それを越えて働く人はむしろ給料をもらわずに社会にマイナス給料を払うのがいいと考えています。何をバカなことをといわれそうですが、累進課税の精神は、そういうことだと思っています。

問題は労働の単価です。
時間急が安いから労働時間を長くしなければやっていけないのだと言う人がいるでしょう。
確かにそれもまた多くの現実です。
しかし、それもまた、働くシステムの基本設計がおかしいからです。

みなさん
働くことと食べることをリンクさせる必要はないのです。
そういう発想で、生産システムや生活システムを設計し直していく時代に来ているように思います。
少なくとも、働かないと食べていけない社会は見直すべきです。

この議論は、私が予定している「コモンズの回復」のキーコンセプトの一つであり、まだ消化不良気味なのですが、最近のニート議論や定年延長などの動きに、大きな違和感があるため少し書いてしまいました。
ご理解いただけたでしょうか。

■愛国心を育てる国 2005年3月7日
宇都宮徳馬さんが創刊された「軍縮問題資料」が休刊されることになりましたが、その最終号が届きました。この雑誌は、私が一番愛読している雑誌です。もっとも熟読しだしたのは、この3年くらいです。それまでは拾い読みでしたが、最近は全記事を読んでいました。

休刊に関しては様々な反響があり、今度の月曜日には再刊に向けての集まりもあるとのことです。私も何か出来ればいいなと思っています。

ところで、今月号に、コスタリカ大学の院生のロベルト・サロマさんが寄稿しています。それを読んで、私の国家観が少し変わりました。私は国家の価値をほとんど評価していないのですが、もしかした間違いではないかと思い出したのです。

アメリカのホワイトハウスのホームページに掲載されていたイラク戦争支持国リストから昨年9月、コスタリカの名前は削除されましたが、そのきっかけは、ロベルトさんが起こした違憲訴訟だったのだそうです。最高裁が「イラク戦争支持は憲法違反」と判決したのです。
彼はこう書いています。

私の提訴は、この国の精神の産物だった。

コスタリカの憲法は、軍隊を禁止し、国のいかなる権力にも他国に宣戦布告することを禁じているといいます。彼の行動は、そうした国家の精神の産物であり、それを支持したのもまた国家の精神だったのです。

さらに彼はこうもいいます。

平和への道はない、平和こそ、その道なのだからということが、おそらく世界に向かって叫んでいる私たちの祖国の精神だったのです。

最後の文章は、こうです。

私たちの国家の歌詞には叡智が満ちています。すなわちー「労働と平和、万歳」

愛国心と何かを改めて考えさせられました。
いまの日本とは、愛国者を育て方があまりにも違います。
コスタリカに生まれたら、私もきっと愛国心が持てたでしょう。
いや、この発想自体が、無責任で他人依存型とロベルトさんから非難されそうですね。
それに、日本はコスタリカに負けない憲法を持っているのですから。

ロベルトさんは先月来日し、8都市で講演されています。
ネットで調べれば、きっとどこかに記録があるはずですが、
詳しい記事はまだ見つけられていません。
関連情報のサイトを下記します。
■コスタリカの歴史と平和憲法の成立について
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_14754/report/10/s04514to32617/
■イラク戦争合意違憲判決(2003_9_8)コスタリカ最高裁
http://www.jca.apc.org/costarica/siryo/hanketu2003.html
コスタリカ市民の憲法意識
http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N65/N65-10.htm

軍縮問題資料の最終号(4月号)は、次のところに申し込むと購入でします。
1冊420円です。
http://www.heiwa.net/

■人の権威や人気を借りることのおかしさ  2005年3月8日

千葉県の県知事と県議の補選が次の日曜日に行われます。
それで気になることがあります。
いろいろな人が応援に来ることです。
どうもそれが私には馴染めません。

今日は地元の県議候補の応援に石原元国土交通大臣が来るそうです。
この一事で彼への投票の検討はやめました。応援演説に権威や人気が感じられる誰かを呼ぶ人には原則として、私は投票しないのです。
原則ですから、絶対ではありません。
しかし、権威を借りる人には期待は出来ないからです。人気を借りる人よりも信頼できません。

しかし、それにしても応援を呼ぶ人が多すぎます。どういうつもりで、応援を呼ぶのでしょうか。また、そうしたことがどうしてこんなに広がっているのでしょうか。情けない話です。

応援者を呼ぶ効果はきっと大きいのでしょうね。
そうでなければこれほど広がるはずがありません。
しかし、ここにこそ、大きな問題があるように思います。
応援者依存のスタイルの持つ意味をしっかりと考えなければいけないと思っています。
誰かが何かを隠蔽しようとしているような気がします。
主体性を排除する社会は、そろそろ終焉させたいです。

■イラクの真実  2005年3月17日
最近のイラクはどうなっているのでしょうか。
次々と起こる事件の中で、大切なものがどんどん見えなくなってきていることに大きな不安を感じます。

地球公共平和ネットワークの集まりで一度お会いした山梨の久松さんという方がいます。平和のメーリングリストでいつもたくさんの刺激をもらっています。
久松さんは、イラク戦争の実態を伝える会の代表です。

久松さんたちは、先月、フセイン元大統領弁護団のスポークスマンであるジアード弁護士を日本に招き、イラクの実態に関する講演会を開催しました。新聞などでも報道されたので、お読みになった人もあると思います。
なぜジアードさんを招いたかに関しては、久松さんたちが新聞社に送った案内文章に明確に書かれています。

私たちには、何が真実であるかを見定め、今イラクで実際に何が起こっているかに耳を傾ける義務があります。私たちの憲法は、次のように言っています。
「私たちは、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
諸国民の公正と信義に信頼するためには、私たち自らが、公正であろうと懸命に努めなければなりません。
現在、私たちは、一方的な情報しか与えられていません。問題の全体を公正に判断するためには、私たちは、アラブの人々の声に耳を傾けねばなりません。
そういうわけで、私たちは、ジアード氏を招待しました。

とても真摯な姿勢です。共感します。

ジアード氏は、その講演でサマワは、新型爆弾により高濃度の核汚染に晒されていることを指摘し、オランダ軍の早期撤退の理由は、この核汚染によると詳細に語ってくれたそうです。

サマワの核汚染の話はこれまでも出ていますが、日本では余り問題にされません。しかし、もしこれが事実であれば、もっと議論がなされていいはずです。

これはほんの一例ですが、真実はなかなか見えてきません。
見えた時にはもう遅いのかもしれません。
最近は、結果が出てから見える事実が多すぎます。

しかし、ネットの中には膨大な真実や事実が存在しています。
まさに虚空蔵です。膨大な知と事実が集積されているはずです。
それらがもう少し見えてくる仕組みができれば、世界は変わってきます。
いまは苦労しながら時々潜り込もうとしていますが、とても個人には歯が立ちません。

■テレビの新しいミッションやあり方を考える時期 2005年3月27日
情報が多ければ、事実がよく見えてくるわけではありません。

ライブドアとフジテレビの事件のニュースは、いささか食傷気味ですが、
だんだん「事の本質」が見えなくなってきたような気がします。
それにしても、テレビも新聞も、連日、あれだけのスペースを使って、何をメッセージしたいのでしょうか。焦点の当て方はいいのでしょうか。もっと他に重要な問題があるでしょうに。
私は堀江さんの行動を支持しましたが、どうやら事の主役は違うところに移ったようです。
つまりは「情報隠し」へと動き出し、その陽動作戦が仕組まれているように思えてなりません。

マスコミのレベルの問題だと思いますが、最近の報道のあり方には主体性を感じません。しっかりした視座がないせいか、振り回されていますね。
メッセージ性も価値基準もなく、ただ面白さだけを追求しているのかもしれません。
サラリーマンジャーナリストが多すぎます。

ブログが新しい情報インフラになるという指摘もありますが、あまりリアリティを感じません。膨大なブログにどうやってアクセスし、編集し、評価するか。そんなことができるはずはなく、結局はターミネーターやマトリックスの世界になっていくしか考えられないのです。
そうした状況の中で、堀江さんたちの挑戦に対して、テレビが新しい役割やビジョンを打ち出せば、事態は大きく変わったでしょう。それこそが、企業価値を議論することですが、関係者は堀江さんと同じ、私欲的な金儲けの世界から一歩も出ていません。

フジテレビに限りませんが、公共性を名目に放送を私物化し、ひどい番組を提供し続けているテレビ会社の経営者や現場の人たち(下請け会社社員は別です)は一掃されてほしいと私は思っていますから、堀江さんにがんばってもらいたいわけですが、その堀江さんたちが関わっているIT情報ネットの世界も同じようにひどいですので、堀江さんも一掃されてほしいと私は期待しています。いずれもまあ、消耗品でしょうから、それはあながち夢でもないでしょうが。
今回の事件で、そうした全体の制度に寄生している人たちの実態を顕在化させたのは、なんと言っても堀江さんの功績ですが、これを契機にテレビのあり方を見直す動きが出てほしかったです。
テレビに関わっている人たちには、そうした思いを持った人はいないのでしょうか。最近の番組を見て、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。堀江さんに、まずはニッポン放送を聞いてほしいとニッポン放送の社員は発言していますが、同じ主旨の注文を彼らにつけたいです。フジテレビに影響を与えられる立場にある人であれば、フジテレビの番組にも責任を持つべきでしょう。
みんな同じ穴のムジナです。
まあ、私もその一人かもしれません。

■校門は原則施錠 2005年4月1日
学校の安全対策に関して文科省が指針を出しました。これまでの「危機管理マニュアル」で示してきた学校側の体制をより強化した内容になっている、と新聞は伝えています。
その一方で、「地域に開かれた学校づくり」も引き続き進める方向だといいます。
難しい問題だと思いますが、「施錠」に安全を求める発想に、違和感を持ってしまいます。

千葉県習志野市の秋津小学校の事例は有名な話ですが、これとはまったく逆の発想です。
もう10年以上前の話ですが、当時校長だった宮崎稔さんが、学校の鍵を住民団体に配ってしまったのです。つまり「施錠の発想」ではなく「開錠の発想」です。そこから、学校と地域の融合が始まり、住民たちの世代を超えたつながりが育っていったのです。

施錠の発想は、昨今の社会の姿勢を象徴しています。
問題の本質に取り組むのではなく、問題の発生を想定した発想です。
話は飛躍しますが、リサイクル産業育成と同じ発想です。
この発想こそを変えなければ状況は変わらないでしょう。

先日、浜松で活動しているNPOガラ紡愛好会を訪問しました。
湖沼の汚染防止のために洗剤ではなく石鹸を使おうと活動し始めたグループですが、活動の課程で、石鹸もまた使用量が増えることで汚染につながることに気づき、結局は消費型のライフスタイルが問題だということになり、そこから洗剤を使わない布巾や石鹸を使わないタオルを開発しました。その商品開発を支えたのが、和綿を使ったガラ紡績という伝統技術でした。
それを使い出すことで、肌が荒れなくなり、アトピーも治り、といった、さまざまな効用も出てきたといいます。

施錠とリサイクル産業の共通点は、問題の存在を無意識的にでも肯定することです。
「肯定」は消極的な「推奨」にもつながりかねません。
大切なのは、問題の存在の意味を考えることだろうと私は思います。
学校空間の施錠(そんなことは出来るはずがないのですが)が、原因の解決の扉にも施錠しなければいいのですが。

■ランディ・キラーの愛国心  2005年4月2日

昨日、大阪に行く新幹線で、久しぶりにダニエル・エルズバーグに「ベトナム戦争報告」を読み直しました。エルズバーグの名前は、最近では忘れられているかもしれませんが、国家反逆罪で裁かれる危険を冒して、ベトナム戦争の真実を世界に知らせた「愛国者」です。
その正義感は健在で、今回のイラク戦争に関しても「愛国的」活動によって、逮捕されています。歴史から学ぶ事のないのは、米国政府も日本と同じようです。

エルズバーグによる国家機密文書暴露事件を映画にした「ペンタゴン白書」の中に、ある大学での反戦集会での若者のスピーチの場面があります。映画によれば、そこでのランディ・キラーのスピーチが迷っていたエルズバーグを決断させます。最初にこの映画を観た時、私は感激しました。涙が出ました。
愛国心はコスタリカにだけあるのではないことを思い出しました。

ランディ・キラーのスピーチを読んでもらいたいと思います。

僕の愛国心について話します。
僕はランディ・キラー。ハーバード大学卒業。
この学歴なら、国家に影響を与える職に就くことができます。
大企業の重役、あるいは政府の高官。
だが、僕は国家に影響を与える人間になることに決めました。
だから刑務所に行きます。
徴兵拒否により服役します。
意義のない戦争のためにはベトナムへは行きません。
だが、僕はアメリカ国民です。
外国に逃げたりはしない。
これが信条による「良心的兵役拒否だ」ともいうつもりはない。
僕はただ自分を犠牲にすることで国に奉仕する。
消せない記録が僕に残ります。企業の重役にも政府の高官にもなれません。
世間の目も冷たいでしょう。
だが、その汚名を甘んじて受けます。誇りを失わずに。

最近、イラクでは何が行なわれているのでしょうか。
イラクが全く見えなくなってきています。
私たちの税金がこれだけ大きなコミットをしているにもかかわらず。
サッカーだけがニュースではありません。
ましてやフジテレビ騒動などは瑣末な話です。

■「どう思いますか 格差社会」の退屈さ 2005年4月2日
NHKの「どう思いますか 格差社会」を、期待を持って、見はじめたのですが、あまりにばかばかしくなって、見るのをやめてしまいました。言葉の定義もなければ、ゲストの発言は金子さんを除いてはピンとはずれで議論にもならず、しかもアンケート調査の質問は意味のない項目です。ディレクターの不勉強さに腹立たしさを感じます。これが「公共放送」の実態です。3世紀のローマを感じさせます。

アンケート調査の質問は、私が見ていた間には2つありました。
ひとつは、今の格差社会を「悪い」「やむをえない」「良い」の三択。もうひとつは成果主義を「進めるべき」「見直すべき」の二択です。
この質問を皆さんはどう考えますか。格差社会や成果主義の定義の問題は大目に見ての話ですが。
前者の質問での「やむをえない」というのは不要な質問です。他の二つとレベルが違うからです。後者の質問もレベルが違いますから二択にはなりません。見直しながら進めるのは当然のことだからです。いずれも現場や実態を知らない人が考えた設問でしょう。

知性は質問によって見えてくる、と私は思っています。
いい質問が出来るかどうかは、とても大切なことです。
最近テレビを見ていて残念なのは、いい質問に出会えないことです。
知性はまた応答によっても見えてきます。
私が我慢して見ていた1時間近くの間では、予備校の先生がいい質問をし、金子勝さんがいいコメントをしただけでした。残念ながら、いずれも発展しませんでしたが。

いささか腹立たしかったので、ブログに書いてしまいました。
今回は番外編です。すみません。

■シュペアーの責任感  2005年4月3日
昨日の続きです。
エルズバーグの「ベトナム戦争報告」(原著1972年 翻訳:筑摩書房 1973年)の最後に、ナチスドイツの建築大臣だった建築家アルベルト・シュペアーの回顧録「第三帝国の内幕」に書かれている話がでてきます。
ランディ・キラーのスピーチとともに、エルズバーグの決断に大きな影響を与えた話です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_1.html

シュペアーは「ヒトラーの建築家」として有名ですが、同時に、ニュールンベルグ裁判で、自分の行為とナチ政権の行為の責任を全面的に認めた唯一の被告としても有名です。エルズバーグは彼の回顧録をアメリカを動かしているすべての官僚に読んでほしいと書いています。私も日本の閣僚と大企業の経営幹部に、ぜひ読んでほしいと思っています。

長いですが、シュペアーの話を同書から引用します(283〜284頁、一部省略)。

あるとき旧友のハンケがやってきて、口ごもりながらいったことをシュペアーは書いている。
「上部シレジアの強制収容所視察の誘いには決してのらないように。どんなことがあってもそれだけはするな。彼はそこで絶対に人に話すなということ、また話すことのできない何かを見たにちがいない。私は彼に何も質問しなかった。ヒムラーにもヒトラーにも何も問いたださなかった。親友にもそのことを話さなかった。自分で調べることもしなかった。そこで何がおこっているかを知りたくなかったからだ。ハンケはアウシュビッツのことを話していたのだろう。
私がニュールンベルグ裁判の国際法廷で、第三帝国の指導部の重要メンバーのひとりとして、あらゆることに閑して全責任を分担しなければならないと語ったとき、私の心を占めていたのはその数秒間のことだった。その瞬間から私はのがれようもなく道徳的に汚染されていた。私の進路を変えるかもしれないようなことにぶつかるのを恐れて、私は目を閉じてしまったのだ。この意識的に目をつぶったこと自体が、戦争末期に私が行なった、あるいは行おうとした善行のすべてが、何の価値もなくなってしまった。あのとき行動することを怠ったために、私は今日でもアウシュビッツに対する全責任を個人的に感じている」

シュペアーは、これに続けて、「知ろうとしない」ことの道徳的重荷について語っている。
「私が事件に無関係だったとすれば、それは私が無関係な態度をとっていたからだ。私が無知だったとすれば、それは私が自分の無知をつづけようとしたからだ。私が見なかったとすれば、それは自分が見たくなかったからだ。
私の場合、ユダヤ人虐殺の責任を決して逃れることができない。私はヒムラーと同様にユダヤ人の死刑執行人だった。なぜならば私はユダヤ人たちが私の前を通って死所に連行されるのを見ようとしなかったからだ。良心の目を閉じてしまうことは驚くほどやさしいことである。私はまるで、だれかが殺害されたことに気づかないで雪の上の血に染まった足跡をたどっている人間だった」

無関係な事件などないのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m11

■ 民営化と私有化 2005年4月4日

郵政民営化の基本骨格が決まったようです。
なにやらごたごたと長くかかりましたが、利害調整が大変だったようですね。
それは当然です。
民営化とは私有化のことですから、関係者の私的利害がすごく絡んでいるわけです。
まさに利権がらみの政治家アイテムといえます。

ところで、日本ではどうしてこうも「民営化」ということがプラスのイメージを持っているのでしょうか。私は民営化礼賛の風潮には大きな違和感を持っています。結局は誰かの私利私欲の世界に投げ込むだけの話なのですから。
民営化とはプライバタイゼーションであり、要するに私化、私有化、私営化のことです。民営化などというと、なにやら私たちの生活の近づくように感じますが、そんなことはありません。「お上のもの」から「誰かのもの」になるだけの話です。正々堂々と私欲のための事業になるということです。
目指すべきは、「「みんなのもの」にしていくべきであり、その手段は経営の透明性を高めることです。あるいはガバナンスの主体を国民に移していくことです。
そういう視点から考えれば、今の民営化路線は時代に逆行しています。
ところがだれもかれもが「民営化」礼賛です。

国鉄を民営化したらサービスもよくなったし、経営業績も良くなったという人がいるかもしれません。
確かにそういう面もありますが、悪くなった面もあります。
よくなったことで言えば、それは決して「民営化」の問題ではないように思います。問題の混同が巧みに使われています。

規制緩和もそうです。これも危険な言葉です。

規制緩和にしろ、民営化にしろ、結局は誰かの利益につながる私的な世界を広げるということです。
私たちの世界はこうしてどんどん侵食されているのです。
福祉の世界も環境も世界も、生活基盤の世界も、すべては株式会社に席巻されて行きそうです。
民営化や規制緩和に対して、もっと違和感をもってほしいです。


■竹島領有問題 2005年4月6日
竹島問題が再燃しています。
今回の教科書検定でも、竹島は日本の領土と明記されたことが韓国の反発を受けているといいます。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
そういえば、日本最南端の沖の鳥島もあります。
http://page.freett.com/okinotorishima/
北方領土は、そこに住民がいますから、どの国家に帰属するかは住民にとっては大きな問題ですが、住民もいない島であれば、どこでもいいではないかと私は思ってしまいます。

沖の鳥島は水没させないために、50億円近いお金をかけて、コンクリート構造物をつくったりしていますが、たとえば、この問題を子どもたちに説明して、それだけのお金をかける必要があるかどうかと聞くと、全員が「必要」と答えたという報告もあります。http://www.coara.or.jp/~nonaka/tossland/energy/ryoudo2.html
理由は、日本の領土が減るし、魚なども取れなくなるから、ということだそうです。

私はなんだかおかしいと思えてなりません。
日本の領土が減ることがなぜ悪いのか。いや、日本の領土ってなんだろうかと、子どもよりも素朴な疑問が出てきてしまうのです。
領海ということを大学の国際法で学んだときにも、どうも理解できませんでした。海を閉じたり大地を分割占有する発想が、理解できないのです。どこかで私の発想回路に欠陥があるのかもしれません。

ですから市町村合併も理解できません。行政で勝手にやっていいの?という気がします。もちろん建前は住民合意の下ですが、その建前は行政が作っただけの話です。勝手に行政区を変えてしまう政府と、領土にこだわる政府。どうも重なってしまいます。

海産物やエネルギーの権利につながるということも私にはよくわかりません。
日本の領海でとれる海産物は日本のものという概念が私にはうまく理解できないのです。それは漁師や汗して釣った人のものでしょうという気がします。イラクの石油はイラク国民のものでしょうか。掘削採取した企業のものになっているのではないでしょうか。つまり国家の所有権という概念に違和感があるのです。

日本も韓国も中国も、あるいはオーストラリアもロシアも、だれでも自由に魚場として、あるいは油田として使えばいいじゃないかと思うわけです。
めちゃくちゃな論理かもしれませんが、そうした素朴な疑問がどうしてもぬぐえません。
ですから、子どもたちまで「領土が減るのはよくない」という思いを持っていることが私には驚きなのです。いや不気味なのです。
昨日、北朝鮮の小学校教科書の内容がテレビで紹介されていました。日本やアメリカへの恐怖や憎しみを育てるような内容でした。
でもなにかそれを非難してばかりいられないような気がします。
現代の子どもたちの教科書ともいえる、テレビも問題ですし。

■もうひとつのシュペアーの責任感 2005年4月7日
シュペアーの責任感その2です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_3.htmlエ
ルズバーグを動かしたシュペアーの責任感は、実はある側面でしかありません。
事実はいつも裏表を持っています。
エルズバーグは、その表から自らの行き方を学び決断しました。
日本の官僚や有識者にも、そうした決断をした人はいます。

しかし、シュペアーの責任感に関しては、もう一つの記録もあります。
たとえばグイド・クノップの書いた「ヒトラーの共犯者」(1996年、翻訳は原書房から出版)によれば、軍需相(シュペアーは後に軍需相として戦争貫徹に取り組んだのですが)シュペアーはヒトラーの後継者の有力な一人として、ナチス国家で行なわれていた事実にかなり深くコミットし、自らもその重要な一翼を担っていただけでなく、敗北が見てきた時期には戦後の「ドイツ復興」に参加するための狡猾な行動も行なっていると報告されています。
これもまた、ひとつの責任感です。

エルズバーグが感激したくだりも、こう書かれています(翻訳ですが)。
「恐るべきことにかんしてわたしが知らなければならなかったことを考えれば、わたしが知っていたのか、それとも知らなかったのか、あるいはどれほど知っていたか、または知らなかったかなどという問題は、まったくとるにたらないことだ」。この答えは誠実に聞こえるが、ただ狡猾なだけである。シュペアーの結論はこうだ。「わたしはもはや答えられない」。シユペアーがみずからにまったく問わなかったこと、それは、これらの犯罪のすべてに対する、彼自身の関与した割合はどの程度のものか? ということである。

エルズバーグは、こうはなりたくなかったのかもしれません。
私も同じ思いです。
しかし、知ろうとすることは大きなエネルギーが必要です。
だからこそ、知っている人の責任は大きいのです。
エルズバーグとシュペアーは、全く別の選択をしたわけですが、皆さんならどうするでしょうか。
シュペアーの過ちを繰り返している人が、最近多いのが気になります。

■隠れて暮らす社会  2005年4月8日

知人の思いに共感して、署名運動に協力することが時々あります。
今回は「期がん患者の介護保険給付に関する署名」です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/onegai.htm
女房と一緒にいろいろな方々に署名してもらいました。
ところがです。
女房が、プライバシー情報漏洩が問題になるなかで、こうやって氏名と住所を書いてもらっていいのだろうか、そう簡単には頼めない時代になった、というのです。
考えてみると確かにそうです。

しかし、よくよく考えてみると、何かおかしいような気がします。
名前と住所がわかって何が問題なのでしょうか。
女房は、悪質な業者の手に渡ると悪用されるといいます。
そうかもしれませんが、何か腑に落ちません。
もし住所録で悪事を行う人がいるのであれば、それを取り締まればいいのであって、住所や名前を隠すことはないでしょう。
私は電話もメールアドレスも、生活内容も、かなり公開していますが、不都合は起きていません。
確かに迷惑メールは毎日わんさと届きますが、それはまだ我慢の限度内です。
そのために自らの生活を隠そうなどとは思いません。

プライバシー保護って何なのでしょうか。
どこかに勘違いがあるような気がします。

ついでにいえば、
最近は就職面接などで出身地や年齢や家族のことなど、訊いてはいけないのだそうです。
ないも訊かずに採否を決めなければならないわけです。

テレビで一般風景の場面で、よく顔の部分がぼやかされます。
顔を見せない風景もよく出ます。
これも気になります。
福祉施設などでは特にそうです。
顔を見せて、何が悪いのかです。

自分の正体を隠して暮らすのが現代の常識なのでしょうか。
おかしいと思いませんか。
私がおかしいのでしょうか。

■父親の権威がなくなったわけ 2005年4月19日
いろいろな事情で、この10日間、ブログにアクセスできていなかったのですが、いくつかのコメントをもらっていました。コメントはうれしいものです。ありがとうございます。
コメントのそれぞれには不十分ではありますが、それぞれにコメントを書きました。
ここでは「猫」さんが書かれた、フラーを思い出して、横道のコメントを今回は書きます。
長いです。引用があるからです。

「バックミンスター・フラーの宇宙学校」という本の最初に書かれているのが、フラーの発想の基本姿勢です。その一つは、「われわれが強烈に条件づけられた反射作用をもっていることを、ともかく無条件に認識すること」です。フラーはこんな風に書いています。

たとえば「上」と「下」ということばがある。だれもがあらためて考えることなく使っているこれらのことばは、われわれは無限に横方向にひろがる平らな世界に住んでいるという、何百年もの歴史をもつ「誤った概念」に都合がいいようつくりだされたものである。

ちょっと違うかもしれませんが、私は先入観をできるだけ克服したいと考えています。
わかりきったような言葉の意味もきちんと考えていきたいと思っています。
民営化、領土、国家、平和、民主主義、性善説、友好、みんな私にはとても気になる言葉なのです。
いや、私には理解しにくい言葉というべきかもしれません。
また、私の問題の立て方がいつもちょっとピントはずれなのかもしれないと思うことも少なくありません。もちろん私の問題の立て方が、私にはわかりやすく納得できることはいうまでもありませんが。
たとえば、竹島問題にしても、そこから発した中国の反日デモにしても、対立軸は国家間ではなく、「制度」対「生活」だと思っています。
ですから、彼らが投げている石は、国家や制度に向けられているのであって、日本に住むわれわれに向けられているのではないと思っています。
しかしテレビで投石の様子を何回も見ていると、なぜか自分に投石されているような気分になって、腹が立ってきかねないのです。これがたぶん「偏向教育」というものなのでしょう。中国と同じく、日本のテレビもまた、反中国の映像を流し続けています。怖い話です。

バックミンスター・フラーの名前で思い出したことがあります。
「バックミンスター・フラーの宇宙学校」に次のような文章があります。
読んだときには大笑いした記憶がありますが、20年近くたっても内容も覚えています。
書棚から探し出して、その文章を引用することにしました。
世の中の父親族のみなさん、自らのおかれている状況を認識しましょう。そしてテレビを恨みましょう。
なにが「公共性」なものか! テレビ不信の根源を思い出しました。

最近、激しい進化上の動きが自然界に起こった。哺乳類のオスは、メスよりも地理的に広い範囲を動く。なぜならメスは子供を連れているからだ。人間も昔からそうした動きをしてきた、とわたしは考えている。父親が狩人で、母親が家庭のまとめ役だった。父親は単に狩人だっただけでなく、家庭にニュースをもたらすものだった。いつの時代も子供たちは、父親と母親をひとつの権威としていた。父親と母親は子供たちに先行するすべての世代の代表者として、食べてもいいものかどうか、やっても安全かどうか、を子供に伝えてきた。父親はニュースをもって帰り、独特の秘密めいたことばで、子供たちにさまざまな話をしてやった。子供たちは父親のことばに耳を傾け、彼らの権威である父親の話のまねをした。それがだんだん地方のことばとなり、さらに国のことばとなっていった。 わたしが32歳だった1927年の5月のある午後、父親たちが家に帰ると、子供たちがこう言った。「お父さん、早くラジオを聞いてみて。飛行機で大西洋を横断してる人がいるんだよ」。父親はこう言った。「エッ、なんだって。すごいな」。それからというもの父親は2度と家にニュースをもって帰ることはなかった。 子供たちに父親が唯一の権威であると教えた人間がいたわけではない。しかし、たしかに父親は権威だった。ところが1927年に突然、そしてそれ以来、子供たちは父親と母親がラジオに耳を傾け、近所の人たちにラジオのアナウンサーのニュースを繰り返して話しているのを見るようになったのである。こうして口にするまでもなく、ラジオに登場する人間が父親をしのぐ権威となっていった。ラジオのアナウンサーは発音の一般性と語彙の豊かさから、その仕事に選ばれたのだった。子供たちは、新しい権威であるラジオのアナウンサーの発音と語彙をまねしはじめた。子供たちの語彙はアナウンサーからもたらされるようになった。今世紀のはじめ、わたしが最初の仕事についたとき一緒に働いていた労働者たちには、100語ほどの語彙しかなかった。そのうちの50%は卑語か猥語だった。ところがラジオとともに、突然語彙が増し、ずっと的確なものとなり、共通の豊かな語彙が世界中のいたるところに広がっていったのである。

納得できるでしょう。父性の復権などはもうありえないのです。はい。

■ 中国の反日デモ騒動  2005年4月20日
連日の中国の反日デモのニュースを見ていると改めて国家の不条理に怒りを感じます。それとこうした映像を繰り返し流すマスコミにもいささかの疑問を感じます。これはまさに「反中国教育」です。マスコミの教育効果はきわめて大きいです。
対立軸は「日本」対「中国・韓国」ではなく、「制度」対「生活」だと、私は思っているのですが、その(私にとっての)基本軸が、最近は見事にはずされているような気がして残念です。
この問題へのコメントは難しいですが、中国側が公式の場ではまったく謝罪の意を表しないこと、日本もまたそれに異議申し立てしないことに、改めて対立の基本軸の所在を感じます。国家は、結局は同じ存在なのかもしれません。

これが、昨日までの私の考えでした。

竹島問題にしても、靖国参拝にしても、その本当の意味は私も含めてあまりわからないままに問題がどんどん広がっています。私自身の不勉強さを恥じなければいけません。
最近、私自身もどんどん時代に流されて、あいまいな言葉だけで考えているような気がしだしてきました。いろいろな人のコメントは、それに少し気づかせてくれました。

首相が靖国参拝をすることがなぜ問題なのか、私は子どもたちに説明できる自信がありません。ただ言えることは、それが東アジアの人たちには不愉快に感じる材料になりうるということです。

人の言動に関する、当人の「思い」や「意図」と、その言動に触れた人にとっての「意味」や「評価」とは同じではありません。時に正反対になります。この2年、私も実際にそれを体験しました。

私は、日本の国家も国旗も好きですので、なぜあれほどまでに学校の先生たちがこばむのかが身体的に理解できませんでした。もちろん国家や国旗にこめられた「忌まわしい記憶」や「その意味」は理解していましたが。
しかし、1年前にある雑誌で、渡辺さんという方の書いた文章を読んでようやく理解できました。できれば皆さんももう一度読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

日本の人でさえ、靖国への複雑な思いを持っている人もいます。そうであれば、東アジアの人たちには、首相という国家を代表する人が靖国参拝を行うことに対しては複雑な思いがあるはずです。
そうした人たちの思いへの想像力や感受性が、さまざまな価値観の人たちが共生していくこと、つまり本来的な意味でのグローバライゼーションの出発点だろうと思います。
そうした想像力や感受性のない、一人の人間の独善的な言動が、もし東アジアの平安を壊す材料をつくりだしているとしたら、そういう人を代表に選んでいる私たちの責任は大きいです。

彼らの投石は、甘んじて受けなくてはならないのかもしれません。
繰り返し映し出される破壊の現場映像を見ながら、ようやくそのことに気づきだしました。

■不明を恥じる 2005年4月22日
今回は懺悔です。

ライブドアとフジテレビの問題はあっけなく決着しました。
この問題が起きた時に、私は堀江さんを支持するメッセージをここに書きました。
どうも私の判断ミスでした。

彼の言動が、状況を破り、見えなかったものを見えるようにしたことは、今でも評価していますが、彼のマネーゲーム的な感覚は、私が思っていたのとは違って、没価値的でした。それを理解できなかった自分を恥ずかしく、思います。
一度出したメッセージは消えることはありませんが、自らの不明を恥じるとともに、改めてブログへの姿勢を考え直したくなりました。

こうしたことがこれまでなかったわけではありませんが、表現の行き過ぎはともかく、価値観に関わるところでは評価が変わることは、私の場合、ありませんでした。
残念ですが、今回は評価を変えました。
私にとっては、結局は彼もまた、取り込まれた一人であり、イノベーターではなかったということです。
産業基盤が大きく変わってきているなかで、しっかりした信念や価値観がなくても、あるいはイノベーションがなくても、インスタントな起業家が生まれる時代になったということかもしれません。

その時代を早く終わらせたいものです。
私の周りで苦戦している若いソーシャルアントレプレナーたちに大きな期待を持っています。

■学力かゆとりか 2005年4月24日

全国の小学5年〜中学3年の約45万1000人を対象に実施した学力調査結果が発表されました。3年前から実施された「ゆとり教育」を柱とする新学習指導要領で学ぶ子どもを対象にした初の学力調査だといいます。
最近のゆとり教育批判が、そうした実態把握を踏まえずに議論されていたのかと改めて驚きますが、今回、学力が少し向上したという結果になったのはきわめて皮肉な話です。

以前も書きましたが、そもそも「学力」か「ゆとり」か、などという発想自体に問題があると思いますが、今回の報道を見ていても、そもそも「学力とは何か」「ゆとりとは何か」が見えてこないのが残念です。

その同じ新聞に、
「起業」をキーワードに、小・中学生に英語やマルチメディアなどを総合的に教える講座が人気だ。
という記事が出ています(朝日新聞)。
これもいささか気になります。
そういえば、学校に限りませんが、いたるところで「起業」がキーワードになっています。ここでも気になるのが、起業とは何かです。朝日新聞によれば、小中学生を対象とした起業ブームに共通しているのは、「ホリエモンのような起業家の育成ではなく、「将来、社会で夢の実現が出来るよう」実践的なスキルを身につけることだといいます。まあうたい文句はいか様にも書けますが、多くの人は実際の内容ではなく、こうした「内容を総括した言葉」で判断し、考えるようになっています。フラーが指摘しているように、テレビと新聞が「言葉」を広げたからです。そしてそれをたくみに、最近の「アントレプレナー支援者」は利用しています。

空疎な言葉で語る人たちが経済や政治の主流になっていることがとてもさびしいです。

■総論の空しさと当事者としての言動 2005年4月25日
23日にジャカルタで開催された日中首脳会談は何をもたらしたのかがよくわからないのですが、最近はこうしたことが多いです。私の理解力が弱まっているばかりではなさそうです。

いろいろと動きがあっても、実態は何も変わらない。何も変わらなくても、多くの人はあまり不都合を感じない。多くの人が「おかしいな」と思いながらも実際の行動は起こさない。問題の当事者だけが問題を背負いながら、失望感を強めていく、そんな状況が広がっているように思います。
社会はどんどん不可視化が進んでいます。だからこそ個人情報が市場価値を高め、どんどんと商品化され出回りだしているのです。個人情報保護が法制化されるということは、個人情報がますます裏社会に出回るということです。ここでも「近代パラダイムのジレンマ」が見られます。http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm

必要な情報がきちんと見えなくなってきた一因は、マスコミにあると思います。新聞やテレビで流される情報と現場情報との格差は、きっと当事者の方にはよくわかるでしょう。マスコミは公共性を失ってきています。しかし、そのマスコミに依存せざるを得ないのも否定できません。

ブログによる多様な情報発信は確かに広がっています。
たとえば、日中首脳会談に関しては、イラク問題に反対して外務省を辞めさせられた天木さんのホームページの記事が示唆に富んでいます。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010
しかし、ブログはボンディング効果はありますが、多様な意見によって構成する公共性という視点でいえば、まだまだシステムになっていないようにも思います。http://homepage2.nifty.com/CWS/sc-1.htm#bb

北朝鮮拉致問題も、動きがとまったようです。小泉首相にとって、拉致問題がなんであったかを勘ぐりたくなるほどに動きません。
イラクもそうですが、すべてが「総論」と「言葉」で議論され、決せられているような気がします。そこには「現場」や「当事者」がいつも不在です。

当事者の立場になって考え、行動することは難しいです。
しかし、私たちは何らかの問題で、必ず「当事者」であるはずです。
その自らが当事者である問題に関して、言葉を発し、行動を起こすことが、今のような動きが出てこない「総論の時代」を変えていくことになるはずです。

反日デモが問題なのではなくて、「靖国問題」や憲法問題に象徴される日本国家のあり方が問題なのではないか。
当事者になる問題に立脚して言動する前に、まずその問題を自覚する姿勢が、私たちに求められているような気がします。

■責任回避のために不信感をあおる社会 2005年4月26日
最近、電車や新幹線の中で、こんな放送を聞くことが多いです。

JR東日本では警察のご指導ご協力をいただき、車内犯罪防止につとめています。

この放送を聞くたびに、いつも気になっています。
このアナウンスでは、自分たちでは車内安全は実現できないことを表明しているわけですが、これでは利用者はJRを信頼できません。
JRという企業の基本体質が見えてきます。
昨日、福知山線で大きな事故が起こりましたが、これにも通ずるような気がします。

それはともかく、こうした放送はJRに限りません。
人が集まる場所などでもよく流されるものです。
さすがに警察のご指導ご協力という言い方をするような、無責任なところは少ないですが、似たような放送はかなり行われています。ポスターで表示されているところもあります。
そうしたところは、自らの無能力さ宣言と責任回避を行っているわけですが、

自分の空間を自分で責任を持って管理できない会社は信頼しなければいいだけですが、もうひとつ気になることがあります。
根底にある権力依存発想です。管理発想と言ってもいいでしょう。
そして、その放送やポスターが、人間不信を知らず知らずのうちに広げていることが気になるのです。

JRには、ぜひこの放送をやめてもらい、もっと真剣に車内安全、車内安心の実現を考えてほしいと思います。
そこからきっと本当の事故対策が開けていくように思います。

■言葉の価値 2005年4月27日
最近、言葉について、何回か書いてきましたが、豊かな価値を持った言葉もあります。

私の住んでいる我孫子市に、デイヘルプというNPOがあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/2125030801/

理事長の森谷良三さんはとても器用な方ですが、それを活かして、高齢者住宅での家庭内事故防止やバリヤフリー化、障害を持った人たちの自立促進を目指して、日曜大工の住宅改善ボランティア集団を1994年に立ち上げました。その頃、我が家も森谷さんたちにお世話になったことがあります。
ずっと地道な活動に取り組まれ、今ではメンバーも20人を超えています。すばらしいのは、人のつながりを大事にされていることです。
活動は、高齢者向けマンツーマン方式のパソコン教室など、広がってきていますが、原点にあるのは「自分たちの町は、自分たちの力で興そう」という姿勢と「人間共生」の理念です。
こう書いてしまうと理屈っぽくなりますが、要は、次の森谷さんの言葉のほうが正確でしょう。
「江戸っ子ってやつは、おせっかいなんだよ。困ってる人を見ると頼まれもしないのに手を貸してあげちゃう」
ちなみに森谷さんは、東京・八丁堀生まれで、もう80歳を超えているのです。

その森谷さんからメールが来ました。
ある要介護シニアの方が、玄関から道路に出る階段に手すりを付けたいと市役所に依頼したのですが、制度の中では対応してもらえませんでした。工務店に依頼すれば10万円はかかるのでデイヘルプに相談がありました。森谷さんたちは、7000円の材料費だけで手すりを付けてきたそうです。
そしてこうメールしてきました。

私は、こんな法律の隙間で泣く人を沢山見てきましたが、こんな人たちに手を貸すのが市民活動なのだろうか、と最近は疑問を感ずるようになりました。
それ以前に、こんな隙間を行政に直言し、改正させるのが市民活動としてやるべきだと思いますし、その上で、解決には官民協力して行く姿勢が必要なのかと思います。

10年以上も地道な活動をしてきた森谷さんの疑問と問題提起の言葉には、とても深いものがあります。そして、たくさんのヒントがあります。
「住民参加」や「住民と行政の協働」という流行語よりも、森谷さんのこの一言のほうが、よほど重いと思いますが、みなさんはどう思われるでしょうか。行政は、もっと現場の発言に対する感度を高めなければいけません。この言葉から、住民との関係の新しい地平が開けていくはずです。

言葉の価値は、発言者の人生に支えられているように思います。
そうした言葉が、少なくなってきています。

■安全よりも定時運転 2005年4月28日
今回の福知山線の脱線事故は、企業というものの持つ特徴をいろいろと顕在化してくれています。怒られそうですが、事件を起こした運転手もまた、被害者であるように思えてなりません。現代の企業が陥っている組織病理を経営者たちはしっかりと実感してほしいものです。

たとえば、JR西日本では「鉄道の最大の使命は定時運転の確保」とされているようですが(読売新聞)、もしそうであれば、手段と目的の倒錯どころか、発想そのものが機械の歯車の視座になっているとしか思えません。そこには人間としての主体性はありません。「機械発想」の企業文化という前提でみると、今回の事件で問題になっている同社の対応がつながってきます。

いうまでもありませんが、鉄道の使命は「安全な移動手段の提供」です。
先日も書きましたが、JRの安全対策は私のような素人から見ても不十分です。
やれることはまだたくさんあります。
もし本気で安全を考えるのであれば、利用者が多いのですから、アイデアはいくらでも集まるでしょう。それをやらないのは、自動車会社と同じで、本気でないからです。「安全」や「環境」を口にする企業は信頼できません。口に出す前にやらなければいけません。

たとえば、定時運転できなかった運転手に対する罰則としての「日勤」の話がありますが、これは学校での「いじめ」の原型です。こうした事例は、なにもJR西日本に限った話ではないでしょう。しかし不思議なことに、内部にいる人は、だれもそれに抗えないのです。抗うことは「辞める」ことです。それが理由で自殺した運転手の父親が訴訟を起こしましたが、裁判所は棄却したようです。その事件がもし、いじめを顕在化していたら、今回の事件は起きなかったかもしれません。日本の裁判官に対する私の不信感は、彼らが組織人に成り下がっていることです。しかも、パーキンソンの法則にしたがって、裁判員制度を作って、自分たちの縄張りと上位構造を広げ高めようとしていることに憤りを感じます。
すみません、また横道にそれました。

ところで、この二つは、間違いなくつながっています。
「日勤」制度が安全性を壊しているのはいうまでもありません。安全よりも定時運転という組織体質が明確に見えてきます。同社の社長は、それに気づいていませんが。

ところで、こうした病理現象は企業だけでしょうか。あるいは経営者だけでしょうか。
どうもそうではないように思います。
私自身もまた、そうした「機械発想」や「いじめ姿勢」を自らの中にかなり強く持っているような気がします。時に自己嫌悪に陥ります。
そして、「安全よりも定時運転」に類した価値の倒錯に陥ることが少なくありません。
そうした人間に内在する弱みや間違いが昇華されるための組織が、最近では逆に弱みを追い詰め、間違いを増幅する組織へと変質しているような気がしてなりません。

どこかで「組織原理」を変えなければいけません。
それはそう難しい話ではないと、私は思っているのですが。

■地域社会は見えてきたのか見えなくなってきたのか  2005年4月29日
私は「住民参加」という言葉に不信感を持っています。
どうも実体が感じられないからです。
「住民」という言葉は、もちろん理解できるのですが、「住民」は集合概念でもありますから、具体的な行動主体としてはあまりに多義的で、実体を特定できないように思うのです。住民参加を誰でも参加できる仕組みという意味で捉えれば何とかイメージはできるのですが、たとえば地域福祉計画を住民参加で作成するという場合の「住民」とは誰のことなのかがわからないのです。誰を「住民」に選ぶかで、全く意味が違ってきますから、その意味は定まりません。意味が定まらない言葉には実体はありません。むしろコミュニケーションを阻害する危険な言葉です。こういう「意味のない危険な言葉」が広がっているように思います。

しかし、住民たちに関しては、いま変わりそう気配があります。
NPOの登場です。多様な住民たちの思いや行動がつながりだして、顕在化し始めたのです。住民がばらばらになってしまった状況では実体化できなかった集合名詞としての住民が実体化されだしたのです。NPOを通して、地域社会が少しずつ見え出してきたのです。
住民と行政との関係も変わりだすかもしれません。

とまあ、私は思っているのですが、一方で反対のベクトルの動きも進んでいることを忘れていました。

昨日、ある自治体の消防署の方から、地域社会が見えなくなってきたというお話をお聞きしました。
地域防災や災害時に対応するためには、地域社会の各戸の過程状況がわかっていないといけません。聴覚障害の方には音声の告知や誘導は効果がありません。昔はそうした状況が見えていたのに、いまは個人情報は同じ行政の立場でも入手が難しいのだそうです。
その人がある町内会の総会に来賓として呼ばれた時に、そこで町内会の住民名簿についての議論があったそうです。ある人が、名簿に住所や電話は載せるのは止めようと言い出したためです。各種名簿が流出し、電話詐欺などに悪用されることを危惧しての発言だったようです。しかし、名前だけの名簿というのは、いったいどういう意味があるのでしょうか。少なくとも地域社会の安全安心を育てるためには役にはたちません。
不信感も、ここまで広がってくると、逆にますます電話詐欺をしようとする人には有利な状況が生まれていくでしょう。

以前も書きましたが、生活の守り方が間違っているような気がします。
この話から、そこにいた自治体の職員のみなさんからいろいろな事例が出てきました。
地域社会が見えなくなってきたというのが、みなさんの共通の実感でした。

さて、地域社会は見えてくるのでしょうか、
見えるか見えないかは、実は実体があるかないかということなのですが。

みなさんは近隣の人たちのことをどの程度ご存知でしょうか。

■時計をはずす生活  2005年4月30日

先日、福島でタクシーに乗ったときの話です。
新幹線に乗るために急いでいたのですが、62歳の運転手がとても話し好きで、運転よりも話に夢中で、時速40キロくらいの走行なのです。話は福知山線の事故の話で、1分30秒の遅れなどは、遅れのうちに入らないと言うのです。
まあ、そんな話なので、急いでくれとも言いだしにくかったのですが、さすがに遅すぎるので、新幹線の時間を話し、間に合わせてほしいと言いました。
そうしたら、その運転手は、鉄道は待ってくれないからね、と速度を速めてくれました。普通は20分弱でつくのですが、30分近くかかりましたが、新幹線には間に合いました。
定時運転より安全を、などと書いたくせに、自分が当事者になると意識は変わってしまうのです。とろとろ運転(つまりは安全運転)の運転手にイライラした自分が恥ずかしいです。福知山線の運転手へのプレッシャーに、私も加担しているわけです。

タクシーの運転手が、このあたりは今でも鉄道以外は田舎時間だから急がないでいいのだといいました。つまり制度で決められた時間に人間が合わせられるのではなく、人間の暮らしが基準になっているわけです。しかし、最近は鉄道を利用する人や会社に勤める人が増えたために、都会時間に合わせなければいけなくなってきたというのです。

田舎時間。人間に合わせた時間といっていいでしょうか。
地方の集まりに行くと、なかなか定刻に人が集まらないことがあります。しかし、だれも急ぐこともなく、まあこのあたりはこんなものだと悪びれもせずに話してくれます。
住民に呼びかける役場の会議も、始まる時間は書いてあるのに、終わりの時間が書いていないことが多いです。終わりの時間を書いておくのが常識でしょう、などとついつい都会時間人間の私は偉そうなアドバイスをしてしまうのですが、直りません。

しかし、今回の田舎時間の話を聞いて、考えを変えることにしました。
時間は、いろいろあるのです。時計の時間は、そのひとつでしかありません。

私は23歳の時から腕時計を使っていません。講演などではカード時計を持参しますが、普通の暮らしには時計は極力見ないようにしています。ですから時々、約束の時間に遅れてしまいます。飛行機にも2回乗り遅れました。それで迷惑をかけたことはありますが、まあ何とかやっていけます。勝手な話ですが。

時間は生活しやすくなるための手段の一つであるはずなのに、私たちの生活は時間に支配されがちです。時計によって刻み込まれた時間から、少し解放されるのもいいかもしれません。
この連休、時計をはずしてみませんか。

■英霊信仰とジハード 2005年5月1日
テレビで、イスラエルのプロダクションが制作した、イスラム過激派密着ルポとユダヤ過激派密着ルポの2本の番組を見ました。考えさせられました。
ユダヤ教とイスラム教を利用しながら、漁夫の利を得ているキリスト教という図式は、まだ全く変わっていませんが、その3つを並べて考えると宗教のエネルギーの違いが感じられます。

印象的だったのは、ユダヤ過激派が復讐を強調しているのに対して、イスラム過激派にはまだ希望が感じられたことです。
3つの宗教の争いは、間違いなくイスラムの勝利になるように思いますが(決着は数百年後でしょうが)、それはともかく、番組を見ていて、靖国問題と同じ構造があることを改めて感じました。死を肯定する英霊信仰です。聖の発展が俗化を促進するという、宗教のジレンマの典型的な現われのひとつです。
中国や韓国から見たら、日本政府の靖国信仰はアルカイダと同じに見えるのかもしれないと、ふと思いました。状況の渦中にいると、その意味はなかなか見えません。

パキスタンの女性たちが、自らの息子に、オサマと名づけ、聖戦への参加を歓迎するという発言を、微笑みながら話している画面と、首相の靖国参拝の画面は、もしかしたら同じメッセージを持っているのかもしれません。前者は被害者のメッセージ、後者は加害者のメッセージの違いはありますが。

敵味方の違いを超えて、人の死を悼む文化は、近代国家の登場とともに失われだしたといわれます。そして、それに代わるように、「国のために死ぬ」と「英霊」となり祭神となるという、英霊祭祀が広がってきます。人の死が、国家の戦争に利用されるようになっていくわけです。さらに言い方を変えれば、人の死が国家を支えていく材料になったといってもいいでしょう。私の価値軸で言えば、個人発想から組織発想への転換です。

戦没者を英霊にし、国を挙げて祀る「英霊祭祀」は、自国の戦争を正戦とし、死んだ兵士を英雄と褒め上げる仕組みをつくることで、他の国民が後に続く状況をつくっていくわけです。まさにジハードの思想です。ジハードはイスラムの独占物ではありません。
首相の靖国参拝は、まさにそうしたメッセージを持っています。そこに靖国問題のポイントのひとつがあります。そこにあるのは「人の死を悼む」のではなく、「人の死を勧める」メッセージなのです。それを健在化しないマスコミは、すでにその仕組みに取り込まれているわけです。

自衛とかジハードの虚しさを感じます。
しかし過激派の人たちの真剣なまなざしを見ていると、やりきれない気持ちになります。
その問題を克服する時代が、今開けようとしているにも関わらず、私たちはまだその呪縛から自由になれないのが残念でなりません。

■ホモエコノミクス教育  2005年5月2日
最近のテレビニュースの終わりに必ずといっていいほど、出てくるのが天気予報とマーケット情報(為替と株の動き)です。
天気予報は役に立ちますが、マーケット情報は私にはまったく興味がありません。
株式投資もしていませんし、為替も毎日聞くほどの関心はありません。
関心がないのは我が家だけなのでしょうか。

いつからこうした経済指標が毎日のニュースで報告されるようになったのでしょうか。以前からとても気になっています。
もしかすると、毎日、私たちはホモエコノミクス教育を受けているのかもしれません。
すべての価値判断が貨幣価値で決まるような社会は、こうしてつくられたのかもしれません。

もし毎日のニュースの最後に、為替や株価ではない情報が流され続けていたら、きっと違った社会になっていたはずです。
たとえば、毎日の交通事故数はどうでしょうか。
たとえば、毎日の結婚組数と出産数。
いや、そうしたデータではなくても、一日一言的な前向きのメッセージでもいいでしょう。歴史を振り返る過去のその日の事件の一覧も面白いです。
そうした小さな積み上げが社会の文化を育てていくと思います。

もし放送が公共性を目指すのであれば、こうした問題を少しは考えてほしいものです。
テレビや新聞のパワーは、暴力的と言っていいほどに大きいです。

ちなみに、新聞の複数ページが株価だけで埋まっているのも、とても無駄な気分です。
ページ数を減らすべきでしょう。ネットで代替すべきです。
そうならないのは、きっと何かの理由があるのでしょうね。

■福知山線事故の問題の構図 2005年5月4日
福知山線事故のニュースが連日流されています。
遺族から垣内社長に怒りがぶつけられるシーンも少なくありません。
遺族の怒りには共感する一方で、何か問題が違っているような気もします。
問題の構図は、「制度vs人間」なのであって、人と人の対立ではないはずです。
この事故は、もちろん人災ですが、その背景にある制度や仕組みに大きな問題があることが見えてきたということだと思います。そこに焦点を当てて、考えることが大切です。
特定の個人の問題にしてしまっては、問題は解決しません。
問題の構図を、「制度vs人間」と捉えれば、垣内社長と遺族とは、実は同じ被害者になります。その視点に立って、どうしたら「発生した問題」に対処したらいいか、どうしたら「問題の再発」を防ぐか、を考えていくことが大切なように思います。

危機管理は「事故を活かすこと」、つまり「危」(ダメージ)を「機」(チャンス)に変えていくことだと私は考えていますが、垣内社長ができることはたくさんあります。
JR西日本の経営幹部のだれかが、気づいてくれるといいのですが。
20世紀はじめの米国の鉄道会社の教訓から、まずは学ぶことが必要かもしれません。

■JR西日本の誠実な対応とマスコミの心無い態度  2005年5月7日
福知山線事故に関しては、同じような報道ばかりで辟易なのですが、とても気になることがいくつかあるので、2点だけ書いておきたいと思います。

最近のJR西日本の対応はとても誠実さを感じます。
J&Jのタイレノール事件や米国の鉄道会社の事故対応の教訓をかなり忠実に学び、具現化しているように思います。当初の対応とまったく変わってきました。
事件や、その後の対応にはいろいろと問題はありますが、垣内社長をはじめとした最近の対応は、日本の企業には初めてといっていいくらい、誠実さを感じます。

それに比べて、記者会見でのマスコミの取材態度はひどいものです。ここぞとばかりに弱いものいじめです。第一、言葉や態度が許せないほど不愉快です。彼らには本当に事故にあった人たちへの追悼の気持ちはあるのでしょうか。それがあれば、あのような発言はできないでしょう。
昨今のマスコミの体質が伝わってきます。JR西日本の企業文化も問題ですが、マスコミ各社の企業文化はもっと問題です。そういう記者は即刻担当から外してほしいです。
自分たちに甘く、他社には厳しい日本の雇われジャーナリストは、そろそろ自己変革すべきでしょう。
見識と品格のないジャーナリストは、有害無益です。

もうひとつ気になることがあります。
過剰反応の文化の広がりを感じます。
問題指摘されそうなことはすべて止めてしまう。
そんな「リスク回避社会」に、ますます近づいているような気がしてなりません。

テレビは公共性をほとんど失っています。
それはテレビ番組を作っている人たちに社会性や公共意識がないからです。
恥ずかしくないのでしょうか。
誰か声を上げませんか。

■世界の平和を知るための雑誌「軍縮問題資料」が復刊されました 2005年5月8日
今日、4月で休刊となった「軍縮問題資料」の復刊予告号が届きました。休刊を惜しむ人たちの尽力で、月刊誌としての復刊が実現したのです。
7月号からまた書店にも並ぶそうです。
この雑誌については、以前も何回か紹介しましたが、私がもっとも愛読していた雑誌です。書名は硬いですが、中身は読みやすいです。それに広告がほとんどないのがいいです。
1年間の購読料は約1万円です。月額1000円弱です。コーヒー2杯の値段です。
ぜひともご購読をお勧めします。
世界のもうひとつの側面が伝わってきます。
それ以上に、こうした雑誌を講読することで、平和への活動を応援することにもなります。
次のホームページから申し込みができます。
http://www.heiwa.net/

■アウトプットとアウトカム 2005年5月13日
行政評価の動きの中で、「アウトプット」と「アウトカム」という言葉が広がっています。たとえば、文化ホールの建設はアウトプットです。文化ホールを建設することで、豊かな文化を楽しみ育む暮らしが地域の人たちに広がっていくことがアウトカムです。アウトプットよりも。アウトカムが大切だというのが、行政評価や福祉評価の基本姿勢ですが、現実には私が知る限り、ほとんどそれは言葉遊びに終わっています。アウトカムは評価が難しいばかりでなく、価値観が絡んでいるからです。日本の行政は、ほとんどが没価値的です。いや、企業もそうかもしれません。

アウトプットとアウトカムは、価値観によって対立することがあります。高齢社会に向けて、寝たきり老人の収容施設を増やすというアウトプットは、寝たきり老人をつくらないというアウトカムを阻害することもあります。障害を持つ人にみんなが手を貸しすぎる仕組みをアウトプットすると、逆に自立というアウトカムは難しくなります。
アウトプットとアウトカムをつなげていくためには、現場からの発想、個人からの発想を起点にしなければいけません。

アウトプットとアウトカムの視点で考えると、世界の実相はかなり見えてきます。
郵政民営化、イラク復興、リサイクル法、障害者自立支援法、北朝鮮への経済制裁、産業再生機構、司法改革、いずれもマスコミで語られていることの多くは、アウトプット志向のような気がします。アウトカムから考えると風景は変わってくるでしょう。そして、「民営化」「復興」「自立支援」「制裁」「再生」「改革」などの言葉の多義性が見えてくるような気がします。大切なのは、その中身であり、目指すアウトカムです。

ところで、執行猶予中だった人物が起こした少女連続監禁事件が話題になっていますが、裁判のアウトカムとアウトプットは何でしょうか。

■「疑わしきは壊さず」 2005年5月16日
諫早湾干拓裁判で、福岡高裁は佐賀地裁の工事差し止めを取り消し、国の抗告を認める決定を出し、これにより農水省は近く工事を再開し、来年度末の完成を目指す、と朝日新聞の夕刊は報じています。
前回の「沈黙の春」を読む会で、諫早干拓緊急救済東京事務所の青木智弘さんからお話をお聞きしていましたので、意外ではありませんでしたが、やはり非常にがっかりしました。
これもまた、大切なことが何か別の要素や視点で決められてしまい、いつか後戻りできなくなってしまう一例でしょうか。
自然を大きく変えることになる決断をした裁判官の決断が、いったいどれだけの認識と悩みの上にもたらされたものであるかわかりませんが、私にはとてもできない決断です。

刑法には「疑わしきは罰せず」という論理があります。
それ以上に、自然とのかかわりの中では「疑わしきは壊さず」という論理を大切にすべきだと、私は思っています。

この訴訟は、経済のレベルでの訴訟のようで、問題の本質から離れたところでの議論のような気がします。しかし、それで工事再開や人為的な自然の改造が行われてしまうわけですから、どう考えても納得できません。
要は「お金持ち」が勝っただけの話です。
私たちの生活の論理はどこにも出てきません。

自然は産業の原料市場ではなく、私たちの生活基盤なのです。
その視点が、たぶん、裁判に関わっている法曹界の人たちには欠落しているのでしょう。

「市民による諫早干拓 時のアクセス」という報告書がPDFで提供されています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%7Eisahaya/isa/libr/ass/ass-rp.html
ぜひ読んでみてください。

■経済としての戦争と当事者としての戦争 2005年5月17日
斉藤昭彦さんの事件によって、この戦争が外部のものにとっては、「ビジネス」、つまり「経済」であることがよく見えてきました。

国王のための戦争が終わり、戦争の主役が市民になった契機はフランス革命戦争だといわれます。もちろんそれ以前にも、たとえばスパルタカスの乱など、当事者が主役になっての戦いはありますが、それらはいずれもサブシステムとして圧殺されたエピソードで終わりました。しかし、フランス革命は違っていました。そして、そこから戦争は変質し始めたといわれます。

フランス革命に立ち上がった市民たちは、まさに自らのために戦ったのです。革命の理念、あるいは共和国の理念に立ち上がったといってもいいですが、その理念はまさに自らの生活につながっていました。
映画「アラモ」の中で、ジョン・ウェインが演じたデビー・クロケットが、「共和国と聞いただけで心が躍る」というセリフをいう場面が、私はとても好きだったので、今でもその時の彼の顔が鮮明に思い出せるのですが、私もまた学生時代、そうしたセリフにあこがれていました。まあ、いまもそうなのですが。

もちろん、すべての参戦者がそうではないことはいうまでもありません。市民兵にしろ、義勇軍にしろ、その多くは「経済目的」だったかもしれません。そのために、フランス革命もまた、俗化し、破綻していくわけですが、当事者としてやむを得ずに戦いの中心になっていた人がいたことは否定できません。アフガニスタンも、イラクも、そうだと思います。

つまり、戦争の主役は2種類なのです。
経済のために戦っている兵士と当事者としての信念のために戦っている兵士です。

日本の自衛隊も含めて、ブッシュの軍隊に参加している兵士は、経済のためです。戦わなくても生きていけます。個人的事情としてそれ以外の要素があることは否定しませんが、基本的には、イラク復興は大きなビジネスマーケットでしかありません。
イラクで自爆を重ねている人たちはどうでしょうか。たしかに経済のために戦っている人もいるでしょう。しかし、その中心は当事者として戦いしか選択肢のない人たちかもしれません。戦わなくては生きていけない人です。
両者にとって、同じ戦争も全く意味合いが違います。私たちはこちら側、彼らはあちら側。しかし、戦争は、その全く次元が違うものたちがぶつかって、現実に殺しあっているのです。よく話せば、殺し合いは不要なはずなのですが。

ベトナム戦争もそうですが、そうした戦いの勝敗は、最初から決まっています。しかし、経済で戦う人にとっては、勝敗は関係ありません。何しろ戦争は市場でしかないのですから。
殺し合いをさせている人と殺しあっている人は別の人ですが、そこが見えなくなったのが、現代の戦争です。
そうした視点で靖国問題も考えてみたいと思います。
靖国問題の定義もあいまいなままの国会論議は混乱を広げるだけだと思います。

■支援と弁護  2005年5月18日
また「言葉」の問題です。
どうも世の中の言葉の使い方が気になって仕方がないのです。

先日、自立支援の活動をしている障害をお持ちの方から、こんな言葉をもらいました。
「家族や施設が障害者本人の意思とは関係なく与えてくれる生活支援も考え直していく必要がある。幼いころより大人にいたるまでの育つ環境が、障害者自身の自己決定能力を育ててこなかったのではないか」。自分自身、障害を持つ人だからこそ言える話かもしれません。しかし、「支援」とは何かはもっと深く考えるべきです。

先日、息子を交通事故で亡くされたご両親のお話を聞く機会がありました。オートバイで走行している時に自動車にぶつけられたのです。目撃者のタクシーが別の車に轢かれないようにカバーしてくれたのですが、亡くなられてしまいました。
裁判で、事故を起こした人の弁護士が「暴走族の一団だった」と裁判で主張したのですが、そのタクシーの運転手に傍聴してもらっていたため、彼が「暴走族などいなかった」と叫んでくれたそうです。しかし、そうした明らかな嘘をついてまで、加害者の刑を軽くしようとする行為は「弁護」と言えるでしょうか。弁護士のみなさんの立脚点は「弁護」ですが、その意味も理解していない弁護士があまりにも多いような気がします。つまり職責を果たしていない弁護士が多すぎます。

こういう視点で考えていくと、いまは職責を果たしている人がどのくらいいるのかいささか不安になります。
皆さんは職責を果たしていますか。
いや、自らの職責を考えたことがありますか。
私は時々、惰性で仕事している自分に気づいてゾッとすることがあります。
困ったものです。

■2つの豊かさモデル 2005年5月21日

10年前にフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが日本に来て、こう言ったそうです。
「日本が豊かなのは、日本人が貧しいからかもしれない」

豊かさの追求には、「全体が豊かになれば個人が豊かになる」というアプローチと「個人が豊かになれば全体が豊かになる」というアプローチがあります。日本は前者のモデルを選んで成功しました。しかし、そのモデルは15年前に破綻しました。組織から発想する時代は終わり、個人を起点にする時代が始まったのです。しかし、まだ社会は惰性で動いています。

東証1部の企業の昨年度の業績は3社に1社が過去最高の経常利益を上げたと今朝の新聞で報道されています。全体で見ても、3期連続の増収増益です。
景気が回復しない、失業者が増えている、働き口が見つからない、などという社会状況から見るとどうもピントこない話ですが、組織起点の発想では、会社の業績と社員の所得がトレードオフになっていますから、当然の帰結なのです。
このモデルでの発想を捨てなければいけません。両者をトレードオフにしてはいけないのです。
なぜいけないかというと、組織の利益とは、実は組織に寄生する一部の人の利益だからです。つまり、組織発想とは、利益配分の実態を見えなくしてしまう仕組みにつながっていくのです。社会保険庁の実態を考えれば少し理解してもらえるかもしれません。その気になれば、すぐにでも変えられるはずなのに、政治家はいっこうに変える気がありません。彼らもまた寄生側にいるからです。
組織とは、小さな差異を増幅する仕組みの要素をもっています。リーダーによって組織は全く逆な働きをします。個人の視点がないリーダーが引率する組織は、個人を犠牲にして組織利益を優先させ、残った寄生族を懐柔し、仲間にしていきます。そうした企業の発想が、結局は自らを貧しくしていくように思います。

企業変革、経営改革などが話題になりますが、こうした本質的な問題はいつも議論にはあがりません。それはほとんどの場合、企業という組織に寄生している人たちが考えているからです。企業という組織の実体を支えている現場の人たちは、全体が見えないために変革の主役にはなりにくいのです。

その状況が次第に変わりつつあることも感じていますが、
もうしばらくは組織優位の状況は続きそうです。

ジャン・ボードリヤールの言葉を改めて噛みしめてみたいです。

■自動車事故が起きるたびに考えること 2005年5月23日
自動車事故が多いです。
また、飲酒運転で高校生の列に突っ込み、3人の死者が出た事件がありました。
毎週のように起こっています。いや、毎日でしょうか。
この種の事件が起きるたびに、2つのことをいつも思います。
まずは刑の軽さです。それも最大刑が決められていることに違和感を持ちます。
もうひとつは、自動車メーカーの業績の高さです。

まずは刑の問題です。
国家権力に対して、理不尽な刑罰を受けないがために、刑は最大が決められているわけですが、そろそろこの発想や枠組みは見直されるべきでしょう。
国王の国家の時代の法意識だと思います。
その法体系の中で裁判に取り組んでいるうちに、裁判官たちもまた特権階級だと自らを誤解しているのが、今の日本の裁判官のような気がします。
もし視点が個人にあるのであれば、むしろ刑は最小刑方式にすべきだと思います。そうすれば、裁判官の意識も変わるでしょう。
司法改革とは、そういうことを見直すことだと私は思います。
それにしても、今の法律は罪の重さと刑の重さのバランスをかいているように思います。

次に自動車メーカーの業績ですが、これは必然的なつながりはないと言われそうですが、私は自動車メーカーの利益は、こうした事故とつながっていると思っています。
自動車メーカーは、さまざまな社会貢献活動をしていますが、そんなものはすべて止めて、自動車事故を最小化する活動にもっと真剣に取り組むべきでしょう。
自動車事故の責任を、自らの問題として考えている自動車メーカーの経営者はいるでしょうか。

■みなさんは何のために仕事をしていますか 2005年5月26日
昨日、ある会で話をさせてもらいました。企業関係者も行政関係者もいる集まりでした。
最後に、「みなさんは何のために仕事をしていますか」と質問させてもらいました。
少し間があって、最初に返ってきたのが「楽しみ」のためでした。
その人は画廊を経営されています。
そこで「仕事のお休みはあるのですか」
と質問したら、あるというので、重ねて、
「仕事をしているときと休みのときではどちらが楽しいですか」
と質問しました。
休んでいる時だそうです。となると、先の答えはいささかあやふやになってきます。
他には発言はありませんでした。「パンのため」という意見もありませんでした。

「何のために仕事をするのか」などという馬鹿な疑問を持つ人はいないのかもしれません。しかし、これはきわめて重要な問題です。仕事をするには、それなりの理由があります。その理由から考え直すと「仕事」の意味が見えてきます。

世間の常識では、「お金を得ること」が「仕事」かもしれませんが、この定義が問題だと思います。いい仕事をするためには、お金を得るどころかお金がかかるものです。

雇われていることが仕事をしていることという「常識」もあります。しかし、そうした「雇用労働」に対して、いまは「協同労働」と言う言葉もあり、雇われることと仕事とは別物であることへの気づきは広がってきています。

予算を使うことが仕事だと思っている人もいます。
最近は予算がなくて仕事ができないと言う自治体職員がいますが、先週、予算がなかったので知恵を絞って住民たちと一緒に事業を起したという自治体職員に会いました。もしかしたら、彼は初めて仕事をしたのかもしれません。
仕事の捉え方をちょっと変えるだけで、世界は変わってくるはずです。

「過疎地には仕事がない」などとよくいわれますが、ここでも仕事の意味が真剣に考えられていません。仕事の捉え方をちょっと変えれば、過疎地には仕事が山積みのはずです。「失業者が多いのは仕事がないから」と言う発想も無意味な話だと思います。
「仕事」という言葉ひとつからでも、今の社会の構造的な問題点が見えてくるように思います。

社会はさまざまな仕事で成り立っています。そして、そうした仕事は、決してお金で成り立っているのではありません。そこに気づけば、仕事はもっと楽しくて、充実したものになるでしょう。しかも、生まれてから死ぬまで、すべての人が仕事を楽しめる社会が実現するでしょう。

「仕事」って何なのか、たまにはそんなことも考えてもいいような気がします。
この数日、そんなことを考えたくなるような、いろいろな事件のメールが届いています。
仕事から解放されたい人、仕事が見つからずに苦境に陥っている人、仕事に違和感があって悩んでいる人、みんな仕事に対する固定観念から自由になれていないような気がします。

さて、みなさんにとっては、仕事って何でしょうか。
既成概念の仕事の呪縛に囚われていませんか。

■有識者の無知 2005年5月28日
眉村卓の作品に「幻影の構成」というSFがあります。
私たちが見ている社会は、ある意図で操作されている幻影でしかないという話です。
ところがある人が、裸の王様の話に出てくる子どものように、幻想ではない事実を見てしまいます。そこから、その幻想の社会が壊れてしまうという話です。かなり雑駁な紹介の仕方ですが、この話を読んだのは、大学を卒業した2年後です。とても共感できました。「裸の王様」を取り巻く人たちの多さに辟易していたからです。

人は見たくないものは見えないものです。いや、見ないのではなく、見えなくなるのかもしれません。見たいものだけを見ていると言ってもいいでしょう。人ごみの中で、知り合いだけが見える経験はだれもがあるでしょう。
しかも、自分の目ではなく、大多数の人の目で見たくなるのです。これに関しては、たくさんの事例が報告されていますが、
有名なのが「アッシュの実験」です。紙に書かれた3本の異なる長さの線ともう一つの紙に書かれた1本の線の長さをくらべ、3本書かれた方の中から同じ長さの線を答える問題なのですが、被験者一人と7人のサクラがグループになり、一人ずつ順に回答してもらいます。サクラは意図的に間違った同じ答えをするのですが、それに引きずられて被験者も間違った答えをしてしまうことが多いそうです。いわゆる同調行為です。
つまり、私たちは「見たいものだけ」を「見たいように」見ているわけです。

橋梁談合事件が問題になっていますが、10年以上にわたり行われてきたという事実はどう考えるべきでしょうか。周辺の関係者はみんな知っていたはずです。こうした事件が報道されるたびに、何をいまさらと私には思えてなりません。
しかし、知っているがゆえに、見えていなかったのかもしれません。知識と見識が、事実を覆い隠すことはよくあることです。「有識者の無知」とでもいうべきでしょうか。有識者が権力者やマスコミに重宝されるのは、彼らの無知の故かもしれません。

橋梁談合事件は氷山の一角です。社会の仕組みを問い直すべきでしょう。小賢しい犯罪者たちは厳罰に処すべきですが、仕組みが根底にある以上、それもできないのではないかと思います。入札制度などというものがある以上、これからもきっと繰り返されるでしょう。私には、入札制度は小賢しい制度にしか思えません。断じて公平でも公正でもないように思います。談合や不正が寄生しやすい制度です。ですから導入されたのでしょうが。

「王様は裸だ」と気づいた子どもの「純粋な眼」を取り戻したいといつも思っています。そして、素直な眼を持った子どもたちが、素直に育っていける社会はできないものでしょうか。

■経営の本質 2005年5月30日

横河ブリッジの談合隠しは組織ぐるみだったと新聞が報じています。そんなことは当然のことで、最初からわかっていることですが、いつもこの種の事件で、組織ぐるみかどうかが話題になります。もちろんほぼ例外なく組織ぐるみのはずです。いや、正確には組織犯罪というべきでしょう。そして、そうしたことが起こるのは、おそらく今の組織経営のあり方のためではないかと思います。
これに関しては、企業不祥事などの論考で、これまでも何回か書いてきました。たとえば、「雪印事件から見えてくる組織変革の方向性」をお読みください。

私は経営とは変化を創出することだと思っています。
ある本で書いた文章を転載します。

 経営の目的のひとつは組織を生き生きと存続させることです。生きている社会の中で組織が生き続けていくためには、常に自らを変化させていくことが必要ですから、経営とは「自らの変化を創出すること」といえます。不断の自己変革こそが組織を生き生きと存続させることになるわけです。
 ところで組織のホロニックな性格から、組織の自己変化は結果として社会の変化を引き起こします。したがって、経営とは「社会の変化を創出すること」ともいえるわけです。その社会の変化は結局は自らにかかってきます。社会がおかしくなれば、そこに存立する組織もまたおかしくなることは言うまでもありません。
(「保育園の未来経営を考える」(筒井書房)から引用)

 ところが、組織には環境が変化する中で、自らのアイデンティティを変化させまいという性格があります。いわゆるホメオスタシス(恒常性維持機能)というものです。環境に振り回されていたら、組織は維持できないのです。
 ここに、企業経営の面白さがあります。

 多くの企業不祥事の悲劇は、組織防衛の方法を間違っていることです。組織の論理に振り回されているのです。つまりは経営不在です。組織の論理に抗して、生命の論理に立った経営をしなければいけません。コンプライアンスや社会責任の問題の前に、まずは組織に息吹を与えなければいけません。そこで求められるのは、ホメオスタシスに対して、むしろホメオカオスといわれるような変化創出です。難しい言葉を使えば、エントロピーの放出です。

 守るべきは組織ではなく、そこに関わっている人の暮らしです。そういう視点で見ていくと、加害者の暮らしもまた、壊されていたことに気づくはずです。
 最近の企業関係の事件を見ていると、まだまだ経営不在の企業が多いような気がします。CSR議論に、そうした視点が少ないのが気になります。
 

■戦うことへの本能 2005年5月29日
あるメーリングリストで、こんなメールが流れてきました。

>斉藤さんの生き方について、テレビのインタビューなどでは「自分の生き方を見つけ>た方」「あのような生き方はすばらしい」と言うような反応があるようです。
>このような反応をされた方はNGOの高遠さんについての反応とは全然違うなあと>思いました。
>NGOの方が「苦しみを共有しあう」のに対し傭兵を賛美する方は「相手を攻撃」し>たり「激動を体験」することにあこがれているように思えました。

恥ずかしい話ですが、私の中にも斉藤さんの生き方に憧れる気持ちがあるのです。
もっとも私の場合は、イラク側での参戦ですが、まあ、どちらであろうと「相手を攻撃すること」に関しては同じことです。
みなさんはどうですか。

最近、フセインに直接会った弁護士が、フセインが語った逮捕の様子をテレビで紹介していました。アメリカの発表とは全く違う話です。
独房でのフセインの話も出てきましたし、最近の写真も映し出されました。
その話を聞いていて、フセインを応援したいと思っている自分に改めて出会いました。
ビン・ラディンに関しても、そういう感情が否定できません。
彼らのやったことには憤りを感じていますが、その一方で共感をしている自分がいます。
みなさんはどうですか。

映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親がいいます。
男たちは壊すことしかできない、
創るのは女性たちだけだ。

その言葉が衝撃でした。
以来、男性である私には平和活動などできないのではないかという思いが芽生えてしまいました。自らのなかにある、残酷さや好戦気分が否定できないのです。

最近、平和に関するメーリングリストが実に活発です。
にもかかわらず、どうも発言できなくなってきてしまいました。
平和に向けての自信を喪失しつつあるのです。
困ったものです。

■働く場の魅力 2005年6月3日

昨日は昼間も夜も、NPOを主催している大学生2人とかなり突っ込んだ話をする機会を得ました。
昼間会ったのは、大学院を卒業したら、自分のソーシャルベンチャーを起したいと準備活動をしているSさんです。寝る時間もないくらいのがんばりを続けています。その事業の進め方について、いろいろコメントさせてもらいました。
彼の研究テーマは交通工学ですが、せっかく学んだ、その専門知識とは別の分野で仕事をしていくことに少しもったいなさを感じますが、既存の企業に就職する意思は皆無のようです。自分のやりたいことができない予感を持っているからです。

夜は、茨城県の大学でNPOを主催しているIさんです。彼もまた企業に入らずに、自らの納得できる仕事に取り組みたいと考えていることを知りました。なぜ就職しないのかと質問したら、いまの企業には魅力を感じられないと言うのです。

もちろんこの2人は特別な存在かもしれません。
事実、Iさんは、大学時代みんなNPOや市民活動をしていても、結局は普通の企業に就職してしまう、自分はそうではない生き方をしてみたい、というのです。つまり多くの学生は企業への就職を目指しているわけです。
しかし、そうした若者にとっても、企業は余り魅力的な場ではないのかもしれません。入社後、会社を辞めてしまったという若者が時々やってきます。

私は25年間は企業での雇用労働、その後16年は自らが仕事を創りだす生き方をしてきました。大雑把に言えば、雇用労働はいやな事もありましたが楽でした。それに比べ、自分で仕事を創るのは辛いことが多いですが、楽しいです、「楽な労働」と「楽しい仕事」。この2つの違いは大きいです。
「楽さ」よりも「楽しさ」を選ぶ若者が増えてきたような気がします。そうした若者たちを引き付けるような魅力を、企業は回復しなければいけません。企業を元気にするのは人です。
短期的な業績回復も大事ですが、もっと大切なことは、働く場としての企業の魅力を回復することです。そのためにも、企業のあり方(経営のあり方ではありません)がもっと真剣に問われるべきではないかと思います。

■ネクタイをしない国会議員 2005年6月3日
温暖化対策で、ノーネクタイが話題になっています。
国会での議論は、きちんとした服装でしてほしいと思いますので、私はもちろん大反対です。しかし、思わぬ効用もありました。

今日の午後、テレビで国会の郵政民営化特別委員会の中継をずっと見ていたのですが、ネクタイと背広を着用していない閣僚たちを見ていると、その本質が見事に露出されて、だらしなさや不真面目さがしっかりと伝わってくるのです。
表現は悪いのですが、こんな人たちに国政を預けているのかと改めて情けなくなりました。どうみても、まともな人たちの話の雰囲気ではありません。質問者はまじめなのですが、閣僚たちがひどすぎます。

今の閣僚たちは、不真面目な内容のない人たちですから(質問に対する答えを聞いていたら、そうとしか思えません)、せめて背広とネクタイで緊張感を維持してほしいのです。自立していない人たちにはネクタイは必要だと痛感したわけです。

中川さんが、小泉さんがノーネクタイだったので慌ててネクタイをはずしてきたと、しゃあしゃあと語っているのにはあきれました、典型的な「ヒラメ族」です。少しは自分と言うものがある人かと思っていましたので。

ネクタイを外すと確かに人の本性が見えてきます。
彼らがいかにいい加減に国策をもてあそんでいるかが私にも見えてきます。
子どもたちにもきっと見えてきたはずです。

喜ぶべきかどうかは、とても悩みますが。
明日からネクタイをしてほしいです。
私はやはりネクタイをすることにしました。

■郵政民営化よりも銀行国営化 2005年6月4日
昨日の郵政民営化特別委員会の議論を聞いていて、やはり問題は「民営化」コンプレックスにあるという思いを強めました。
非効率さと硬直性、そして不透明性が、国営の欠陥で、だから民営化待望論が広がり、国鉄や電電公社の民営化の成果(落とし穴を感じますが)によって、民営化はいいものだということになったのでしょうが、この論理はいかにも安直です。
非効率や硬直性、不透明性は、民営であろうと国営であろうと起こりえますし、それはまったく別の問題です。議論のポイントはガバナンスの問題です。

郵政は国民の負担と考えるのは、国営事業がすべてコストセンターだと考えるからです。しかし、郵政システムを国民の利益と考えれば、プロフィットセンター的な発想が可能になります。
郵政でもし利益を上げられるとしたら、その利益は民営化の場合は、特定の資本家のものになります。国営のまま利益が上げられれば、それは国民みんなのものになります。言いかえれば、税金が削減できるのです。
その基本的な努力を放棄して、誰かに売ってしまおうと言う発想が現在の民営化論の根底にあります、閣僚や官僚は形だけを整えて、うまく責任を外してしまいたいと思っているようにしか見えません。事業価値論(ミッション論)ではなく、組織形態論(手段論)になっているわけです。昨日の委員会の議論では、閣僚側にはまじめさが皆無でした。報道ステーションの古館さんも言っていましたが、まじめさが欠けています。

私はむしろ、今の金融システムにこそ問題を感じていますので、金融はすべて国営化すべきだと思っています。高い金利での融資はなくすべきで、融資はすべて国が所管すべきだと思います。銀行は私営化すべきではありません。国が通貨を作っているわけですから、その運営も国がやるべきです。それを市場主義者にゆだねて、不労所得を発生させ、その利益の分与を一部の人たちが巧妙に受けている、今の構造には納得が行きません。

ところで、国営化、民営化という言葉の意味なのですが、現在の意味は逆転していると私は思っています。
国営化は、本来は国民に統治権があるはずです。もしそうであれば、統治対象である「民」が主役になるはずで、国営化とは実は民営化のことになるはずです。今の民営化は私営化でしかありません。つまり、言葉の魔術に私たちはだまされているのです。
金融と言う社会を支える基本的な信頼ステムは、当事者みんなのもの(コモンズ)にしなければいけないと、私は思っています。そのモデルは、地域通貨の中にあると思いますが、このガバナンスのあり方をビジョンにすべきです。
したがって、実は国営化ではなく、共営化というのが正確です。それに向けての第一歩として、まずは銀行を国営化し、次に金融システムそのものを共営化していくべきだと思います。以前も書きましたが、郵政民営化は、歴史の方向が逆なのです。
リアリティがないと言われそうですが、今の金融システムは砂上の楼閣ですし、さらに極端にいえば、犯罪の温床でしかないと、私は思っています。少なくとも高利融資を厳罰に処すことで、政治家や銀行経営者などは身の潔白を証明してほしいものです。

■コミュニケーション不在の国会審議  2005年6月5日
国会での委員会での質疑応答を最近はできるだけ見るようにしていますが、とても気になるのは「質疑」どころか、コミュニケーションをしようという意識が答えるほうにないのではないかということです。その背景には立場の上下関係を感じます。三権分立は形骸化しています。
いまの内閣はコミュニケーション志向が極めて乏しく、独裁志向であり、国会の場を私物化しているように思えてなりません。マイノリティや異論との公正な話しあいのなかから、価値を創造していくという、民主主義の本質は見事に否定されています。民主党の審議拒否は愚策だと思いますが、その愚策を選びたくなる気分も理解できるような気がします。もちろん、それは愚策でしかありませんが。

コミュニケーションとは、相手を説得することでも、諦めさせることでもありません。自らの思考を深めることです。私はコミュニケーションとは自らを進化させることだと考えています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm
しかし、国会での議論を聞いていると、相手の質問を「かわすこと」と「拒むこと」しか考えていないように感じます。これを聞いている人はどう思うでしょうか。特に子どもたちや若者たちはどう思うでしょうか。子どもたちは、大人の行動から多くを学んでいきます。
国会審議は、子どもたちにとってもコミュニケーションの「範」でなければなりません。

昨年、ニートに関する委員会に参加しました。そこで話題になったのが、若者たちのコミュニケーション能力を高めるべきだということでした。ほとんどの委員は賛同しました。委員の多くは、企業の経営者OB、大学教授、そして研究者や官僚やジャーナリストでした。私にはとても違和感がありました。コミュニケーション力どころか、その姿勢がないのは、あなたたちでしょう、と発言したい気分でした、まあ、それに近い発言はしましたが、彼らにはそもそもコミュニケーション能力がありませんから、私の思いは伝わらなかったでしょう。

コミュニケーションとは何か、ぜひ国会議員には考えてもらいたいものです。
ネクタイを外した服装を何にするかなどという問題よりも、大事な問題です。
少なくとも、今のような茶番劇からは足を洗ってほしいです。
今のようなやりとりに恥ずかしさを感じる常識は、もう捨ててしまったのかもしれませんが。

■民営化への不信感 2005年6月6日
しつこいですが、民営化への私の不信感をまた書きます。

国鉄が民営化されて、サービスがよくなったといわれます。駅の空間も楽しいものになってきたといわれます。
しかし、本当でしょうか。私には疑問があります。
サービスがよくなったのはたしかですが、それは当然の状況になっただけの話で、民営化しなければ実現しなかったことではありませんし、駅が一見楽しくなったのは商業空間になっただけの話です。わが我孫子市の駅は商業的活用価値がないためか、国鉄時代とほとんど変わりません。
まあ、国鉄は民営化を契機にして、実態が改善されたことは間違いありませんが、民営化しなければそうならなかったというわけではないでしょう。それに、安全対策や福祉面ではマイナスもないわけではありません。

電電公社はどうでしょうか。最大の問題は料金体系がわかりにくくなったことです。それに仕組みがどんどん変わります。そのため、私の手続きミスで、無駄な負担をしていることがよくあります。私には民営化のメリットはありません。電話のような基本的な仕組みは、むしろ国営にして無料にするのが望ましいと思います。その基本を超えた付加サービスを民間に委譲し、応益負担で展開してもらえば納得できます。

民営化によって、NTT関係企業は大きな利益を上げています。だから民営化はいいことだとみんな思っているようですが、それも納得できません。私には利益はないからです。料金体系がわかりにくくなった上に、次から次と目まぐるしく仕組みが変わり、その都度、出費を要求され、挙句の果てはいまどういうお金がかかっているかが全くわからない私のような利用者は決して少なくないでしょう。
最近の有線電話料金体系は、固定費的なウェイトを高めています。電話などしなくても、毎月確実に料金が取られるようになってきていますが、これはいわゆる不当所得です。
不労所得のウェイトがどんどん高まっていることにも、私は大変危惧を感じていますが、これはまた別問題なので、改めます。ただ、そうした仕組みをJRもNTTも拡大しているのは事実です。

いずれにしろ、税金をつぎ込んで蓄積してきた鉄道や通信のハードを安直に民間資本に提供することにどうしても違和感を持ってしまいます。しっかりしたインフラがあれば、だれでも利益は上げられると私は思っています。民営化は、その利益を誰か個人に提供するということです。
明治時代の官営工場が民間に払い上げられたことによって、日本の近代産業が発展してきたわけですから、民営化とはそういうものでしょうが、時代の局面の違いを考えると、やはり私には納得できないのです。

年金の保険料を投入して造られた立派な保養施設が、利用者がいなくて赤字なので、ただ同然で民間に売却されたりすることもありましたが、みなさんはどう思いますか。素朴な生活者感覚からは理解できません。その大規模なものが、電電公社や国鉄の民営化ではないかと私は思っています。
民営化という言葉にだまされていないでしょうか。

■サッカーにあまり興味をもてないのです。 2005年6月10日
サッカーで盛り上がっています。
そんな中で、非国民といわれそうですが、私はサッカーにほとんど関心がないのです。
ですからサッカーが話題になると、どうも肩身が狭いのです。
いや、サッカーだけではないのです。
野球にも興味がないのです。テニスもゴルフも、です。
わが家族には、夫も父親も体育系がいい、と私の評判は余り芳しくありません。
しかし、関心がもてないのだからどうしようもありません。

スポーツだけでもありません。
マツケンサンバも全く興味がありません。
先日、ある結婚式でマツケンサンバが登場しましたが、どうもなじめないのです。

要するに、世間の関心と私の関心はどうもずれているのです。
子どもの頃からずっとそうでした。
まあ、「いじめられっ子」の素質があったわけです。
いや、いまでもそうかもしれません。
同調性がないのです。
あまり人には好かれないタイプですね。

それに、サッカーの盛り上がりの後ろで、
何が進んでいるのか、そんなことが気になってしまうのです。
性格がわるいのでしょうか。

ところが、その私ですら、北朝鮮との試合は最初から最後までみてしまったのです。
そして、日本が得点するととてもうれしくなったのです。
どうしてでしょうか。

サッカーの盛り上がりの後ろで、何が進んでいるのか、
やはりとても気になってしまいます。
困ったものです。

■リサイクル疑惑事件に対する朝霞市の反応 2005年6月11日
今日の日テレの報道特捜プロジェクトで、朝霞市のプラスチックリサイクル業者の不正疑惑が取り上げられました。この問題が取り上げられるのは、4月23日、5月14日に続いて、3回目です。内容に関しては、次のブログが丁寧に紹介してくれています。
http://blog.goo.ne.jp/samidare2005/d/20050611

私は1回目も見たのですが、市役所はきちんと対応したのだろうと思っていました。それほど内容の問題点は明白でした。朝霞市役所にとっては、とてもありがたい問題指摘だったはずだからです。
しかし今日の報道を見て、唖然としました。市役所は事実を否定し、日テレに抗議文を送ったのです。抗議文は朝霞市のホームページに書かれています。
http://www.city.asaka.saitama.jp/index.shtml
その内容は、常識では考えられないようなひどいものです。朝霞市民は完全に馬鹿にされていますね。私が市民ならすぐに市長に抗議に行きます。盗人猛々しいとはこのことです。こんな人が市長になれる社会は、やはりおかしいです。市長の背景を疑いたくなります。いや職員が黒幕かもしれませんが。
私はテレビの報道番組には不信感を持っていますし、この番組の指摘が絶対に正しいなどとも思っていません。大切なのは、そうした問題指摘に当事者がどう対応するかです。危機管理とは、そういうことです。
朝霞市長と朝霞市役所の対応は、見事に自らの「本性」を露呈しました。つまり共犯者と思われても仕方がないようなコメントを出しているのです。そして、それに気づかないほど無知になっているのです。いや、驕りでしょうか。

しかし、こんなことはそう驚くことでもないのかもしれません。
大阪市での事例は有名ですが、行政では日常茶飯事なのかもしれません。なにしろ小役人や小賢しい首長が真似をするモデルは限りなくたくさんあるからです。そして、問題指摘されても頬かむりしていれば、いつか忘れられることを彼らは知っているのです。
今回の番組では、朝霞市の話の前に、失業保険金の無駄遣いとして有名な雇用促進住宅の話が取り上げられましたが、問題は明確で早期廃止が閣議決定されたにもかかわらず、これから30年かけて廃止していくとの事です。誰にも迷惑を与えることなく、3年で廃止できると思いますが、その10年をかけることを彼らは決めたのです。閣議の権威もなくなりましたが、それを咎めないのは内閣もまた共犯者だからです。
国民を馬鹿にしている首相、小役人に馬鹿にされている首相、住民たちに馬鹿にされている小役人、不幸なトライアングルから抜け出さなければいけません。

みなさんは、自分の所属している組織のボスや住んでいるところの首長を尊敬していますか。それとも馬鹿にしていますか。

■拉致問題の構図 2005年6月12日
テレビで見たのですが、最近、拉致被害者と認定された人の家族が次のような趣旨の話をしていました。

私たちは一生懸命働いて、国家に税金を納めてきました。でも国は動いてくれません。

国が「拉致被害者」と認定するだけでも事態は変わるのですが、多くの場合、国の認定は極めて恣意的であり、しかも意図的なのです。
水俣病もそうですし、薬害被害者もそうです。古くからある「分離による支配」の意図が感じられます。最近は裁判にもそんな風潮を感じます。

一生懸命に働いて税金を納めてきたのは何のためなのでしょうか。そういう税金でまかなわれている国は、どういう時に動いてくれるのでしょうか。いざという時に親身になって動いてくれない国に、どうして税金を払わなければいけないのか、そんなことさえ考えてしまうほど、怒りと哀しさを感ずる発言でした。

拉致事件は複雑な問題です。しかし複雑さに惑わされることなく、政治的に判断することなく、こうした家族の素朴な声にどう応えていくかが大切なように思います。

北朝鮮による日本人拉致事件は、犯罪者の不本意な事件ではありません。
北朝鮮という国による外交政策の一環です。日本のイラク派兵とどこが違うのかと考え出すと、私はわからなくなります。
もっとわかりやすくいえば、かつての日本国が朝鮮人や中国人を強制労働させるために日本に強制連行したのは、間違いなく拉致です。同じことが、国家によって行われていたのです。しかも、強制労働どころか、戦争にまで無理やり駆り出されて、戦死したら靖国に合祀されるようなことまで日本国は行っているのです。
そうしたことを考えるとどう対処していいかわからなくなってしまいそうですが、問題は簡単です。

組織発想ではなく個人発想で考え、対立軸を組織(制度)対人間(暮らし)に置いて整理すると問題の本質が見えてきます。
つまり、日本や北朝鮮が犯罪を起しているのではなく、国家や権力機構が犯罪を起しているのです。つまり国家は暴力機構なのです。その暴力機構にも、本来は仁義がありました。それがたぶん戦時や困窮の時代には失われるのでしょう。あるいは品格のない強欲者が権力の座についてしまうと暴力的な側面が暴走するのでしょう。今の北朝鮮と日本は、まさにそうした状況なのだろうと思います。

拉致家族を守る会のメッセージが、どこを向いているのかをしっかりと認識しておく必要があるでしょう。北朝鮮の人たちは、仲間なのです。在日朝鮮人へのいやがらせが起こっているようですが、そういう人は国家の走狗です。拉致の実行犯と同じことをしていることに気づいてほしいものです。

■二大政党体制の弊害  2005年6月13日
二大政党制が国政のみならず地方政治にまで浸透しだしています。
しかし、そうした体制の中での国会審議は退屈です。瑣末な議論で終始しかねません。
日本で二大政党信仰が高まったのはいつからでしょうか。小選挙区制の広がりと同調しているようにも思いますが、いずれも「組織発想の時代」の遺物です。この二つが広がるのに加担したのはマスコミですが、偏差値の申し子たちの軽い発想にはなじみやすい枠組みだったのでしょう。
しかし、社会が成熟し、大量生産時代が終焉しつつあるいま、二大政党の枠組みは社会を硬直化させているように思います。

私の友人の武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)は、議会制は民主主義とはいえないと言っています。「代表の擬制」が重層的過ぎて、結局は「民主」という実態が保証されていないからです。
しかも、党議拘束などというおかしな仕組みで、代議士は組織の歯車にされてしまうわけですから、今の時代、国会議員はサルでもできる時代です。事実、まあそれに近い状況なのかもしれませんが、そこには個人としての主体性は存在しないのです。
二大政党になると、論理は二つしかなくなることになります。しかも二大政党ということですから、当然のことながら、いずれの主張も類似のものになりがちです。国論が二分されるテーマはもちろんありますが、それはあくまでも各論であって、情報さえ共有されれば、多くの場合、国論は類似のところに落ち着きます。
これは武田さんがよく言う話ですが、いずれも国民の半数近くが賛成する意見を代表するわけですから(そうでなければ二大政党にはなりません)、どちらに転んでも大した差はないのです。つまり二大政党とは一大政党と同じことなのです。どこが違うかと言えば、利権の配分構造派閥の違いだけでしょう。ですから、そこでは本来的な政策論議は起こらずに、目先の手段論争が盛んになります。つまり「民営化の是非」「構造改革の手法」などです。その奥にある実体議論は行われません。
「新しい歴史は辺境から起こる」というよく言われますが、そうした辺境にある先端的な議論は二大政党体制の下では土俵に上がらなくなるのです。

組織発想の時代が終わり、個人起点で考える時代になっている現在、二大政党政治は時代に逆行しています。小選挙区制もそうでしょう。党議拘束などはもってのほかです。そこには主体性をもった生き生きした息吹はありません。
そろそろ政治の枠組みを考え直す時期ではないかと思います。

■エスカレーターで歩きますか? 2005年6月14日
みなさんはエスカレーターで歩きますか?
私は歩くタイプです。ですからエスカレーターを利用するかどうか迷うこともありますが、最近は明日カレーターしかない場所もあります。たとえば上野駅では新幹線ホームに行くにはエスカレーターしかありません。上野の新幹線からのエスカレーターはとても長いです。しかし、私は、たいていは歩きます。エスカレーターで止まるのが嫌いなのです。

右側は急ぐ人のためという常識が広がってきました。かなり混雑している場合も、最近ではみんな一列になってエスカレーターに乗るようになっています。しかし、これはとても奇妙な風景です。二列で乗れば効率は倍増するでしょう。右側が空いていて、左側には行列。どうも納得できない風景ですが、私はおかしいと思いながらも、右側を歩きます。時々、その右側に立ち止まる人がいます。もちろんその時は立ち止まるわけですが、この人はマナーをしらないな、と腹が立つこともあります。

ところがです。
エスカレーターを歩くのは危険だと言われだしました。
今日の新聞では某大型店舗が「エスカレーターでの歩行は危険なのでおやめください」という店内放送をしだしたという報道がありました。納得します。確かに危険です。エスカレーターは止まって利用するのがマナーなのだそうです。
マナーを知らなかったのは、私だったのです。

こうしたことはたくさんあるのでしょうね。
まだまだ私の思考回路は独りよがりと管理された枠組みから自由になれていないようです。自分で考えたマナーでは生きてはいないようです。これでは、私の嫌いなサルの生き方とそう違わないですね。恥ずかしい限りです。

先週からエスカレーターを歩くのを止めました。まだ違和感があります。そして、時に無意識に歩いている自分に気づきます。困ったものです。

みなさんはエスカレーターで歩きますか。歩かないほうがいいようですよ。

■高砂義勇軍と靖国合祀問題  2005年6月15日
とても気になる事件です。
毎日新聞によると、

旧日本軍の軍人・軍属として戦死した台湾人の遺族らが14日、靖国神社で合祀(ごうし)された犠牲者の霊を持ち帰る伝統儀式を行おうとしたが、右翼団体とのトラブルを避けるため、中止した。
 集まったのは、タイヤルとプヌン、ピュマの原住民3族や、小泉純一郎首相の靖国参拝を巡る訴訟の原告ら約60人。午前9時から、靖国神社で祖先の霊を返すよう求める「還我祖霊」の儀式を行おうとしたが、右翼団体の約60人が神社付近に集まった。約500メートル先で待機したが、神社側の許可も出ず、約1時間半後に断念を決めた。
 参加者の原住民らは「霊を持って返ろうと思ったが、実現せずに残念」と涙ながらに訴えた。

日本は今もなお、北朝鮮の拉致事件と同じことをやっているのかもしれないという思いをぬぐえません。
合祀問題にはだれも口を出せないようですが、靖国神社とは一体何なのでしょうか。
日本にはまだたくさんの治外法権空間があるようです。

死者は故郷にかえしてやりたいです。追悼とはそういうことではないかと私は思います。

■沢蟹の話2 2005年6月16日
以前、このブログでも沢蟹の話を書きました。私はなぜか沢蟹が大好きなのです。
あのときの沢蟹は結局、戻ってきませんでした。逃亡したか、蛙に食べられたか、今でもどこかでひっそり暮らしているかはわかりませんが、以来、見かけません。
その後、自然の蟹を庭で飼うのは良くないと思って、諦めていましたが、また飼う事にしました。何しろ沢蟹が大好きなのです。
今回は購入ではなく、自然からの招待です。
3か月ほど前に滋賀の石道寺に行ったとき、道のそばを散歩している蟹に出会いました。その蟹を連れてきました。その話を知って、福井の義兄が野菜を送ってくれるついでに、近くの山の蟹を送ってくれました。私には最高の贈り物です。わが家族は毛蟹のほうが好きなのですが。

しばらくは室内の容器で飼っていたのですが、彼らを見ていると、やはり庭に放したくなり、我が家の人工ビオトープに沢蟹たちの住処をつくり、転居させました。とても居心地がよさそうな場所です。彼らはどう思っているかわかりませんが。
しかし、その住処をあまりに奥深いものにしてしまったために、彼らの姿を見ることができなくなったのです。大きな庭石の下に空洞を掘ったのですが、そこがどうやらモグラの穴につながり、地底につながっていたのです。姿は見えなくなりました。
しかし、夜、餌を置いておくと朝なくなっています。きっと蟹は健在で、夜は出歩いているのでしょう。時々、夜、懐中電灯を持って、あるいは早朝に探しに行きますが、まだ出会えません。困ったものです。

実は沢蟹たちのうち、小さな子ども蟹は2匹、まだ室内の容器に住んでいます。元気です。この2匹を庭に放すべきか、迷っています。

この問題と郵政民営化や憲法問題とは比較すべきことではないのですが、私にとっては、沢蟹のほうが気になるのも事実です。
問題への関心は、自分の暮らしとの主観的距離と問題の客観的大きさの掛け算で決まるのでしょうが、最近はどうも前者のウェイトが大きくなってきています。大状況への諦めから、小状況への関心が強まりがちです。この傾向はどうも私だけではないようです。
こうして社会は荒廃していくのでしょうか。あるいは向上していくのでしょうか。
小状況を大状況につなげていく仕組みが求められているように思います。その反対は多くの人が考えていますが、大切なのは小から大へのベクトルのような気がします。

■NPO法人やまびこ会の事件 2005年6月17日
NPO法人がまた事件を起こしました。今回は詐欺事件です。

NPO法人はいまや2万を超えています。しかし、実際に活動しているのはそのうちのどのくらいでしょうか。そして、自立しているのはどのくらいでしょうか。
私はNPOをささやかに応援するコムケア活動に関わっていますので、いろいろとNPOとの接点もあります。さまざまな体験もしています。不愉快なことも少なくありません。もちろんうれしいことが圧倒的に多いですが。
またNPOに対して、行政も企業もかなりの不信感を持っていることも体験しています。

私はNPO法ができるときに、どちらかと言えば、否定的でした。NPOが既存の枠組みに絡めとられてしまう危惧を感じていましたし、なによりも上からのNPOづくりが進むのではないかと思ったからです。違った育ち方があったような気がしますが、代替案もだせずに、ただ批判しているだけでは意味がありません。反省しなければならないのですが、どうも感覚的に今のNPOのあり方には共感できません。そのためもうひとつ、自分が取り組んでいる込むケア活動も完全にははまれないのです。

今のNPOのなかには、行政の下請けであったり、企業の逃げ場だったりするものも少なくありません。また今回のように、犯罪の舞台に使われることも当然あります。登録で社会的保証を与えると言う発想に、私は権力者の傲慢さと市場主義者の社会観を感じてしまうのですが、多くのNPOは経済市場主義社会のサブシステムになっているように思えてなりません。
いうまでもなくNPOは企業と同じく「仕組み」です。犯罪者も営利企業も使い込める仕組みです。一方では社会起業家や生活者も使い込めます。誰が使い込むかで組織は価値が決まってきます。組織に価値観はありません。しかし、なぜか企業というと利益追求の権化とみなされ、NPOというと社会正義の集まりと看做されます。いずれも危険な「常識」ですが、組織で発想する時代にはそうした常識が横行します。

私は今の経済システムはパラダイムシフトすべきであると思っていますので、NPOのみならず企業もパラダイム転換すべきだと思っていますが、とりわけNPOに関して、お上が信頼性のお墨付きや公益性の判断をすることに、論理矛盾を感じています。せっかくの新しい芽をつぶしかねないからです。

法人格やNPOというタイトルに信頼性を与える時代は終わりました。信頼性は実践の中から当事者が積み上げていくべきものです。安直に権力によって与えられた信頼性は実体がないが故にもろいものであり、悪用されやすいでしょう。
ついでにいえば、ISO14000が流行したことがありますし、いままたISO絡みでCSRが流行になっていますが、これらも同じ間違いを犯しているように思います。

やまびこ会の活動は許されないものですが、もしかしたら同じようなことをさまざまな法人格組織はやっているのかもしれません。社会保険庁や雇用促進協会の実態とどこが違うのか、説明できますか。
どこかで組織の作り方や信頼システムの作り方が間違っているように思います。
もちろん国の作り方も、です。

■政治が守る「体制」 2005年6月18日
金正日総書記は、17日、韓国の鄭東泳統一相との会談で、「体制の安全の保証が貫徹されれば、核兵器を持つ理由がない」と述べた、と今朝の朝日新聞は報じています。

北朝鮮が核開発に取り組んでいるのは、現在の体制を守るためということです。そんなことは当然だと言われそうですが、問題はこの「体制」の意味です。その体制が国民の暮らしにいい意味でつながっている場合もありますが、そうでない場合もあります。
一番広義では「国民の主体的な生活の体制」、一番狭義には「国家権力者個人の地位と利権」と考えていいでしょう。その中間に「国家の管理体制」や「エスタブリッシュメントの生活」、さらには「富の分配体制」など、さまざまな捉え方があります。
イラク復興という場合も、その復興の対象が問題になりますが、これも一言で言えば、体制づくりということであり、その体制にはいろいろあるわけです。ですから私は、イラク復興などという言葉は理解できないのです。ODAでよく議論になるように、他者に関わるときには、対象を明確にして働きかけなければならないと思います。

北朝鮮の場合の「体制」とは何でしょうか。金正日の生命の保証という説もありますが、そこまでは行かないでしょう。しかし、大切なことは「体制」の意味を明確にして考えていくことだと思います。ある「体制」は別の「体制」を壊すことで成り立つことが多いですから、捉え方によっては、その意味は全く逆転してしまうのです。「守る」ことと「壊す」ことはコインの表裏です。

政治が守るべき「体制」は何でしょうか。
一般論ではなく、今の日本の政治の場合は何でしょうか。もし日本が経済協力するにしても、あるいは拉致事件の解決を交渉するにしても、いずれも自らの「体制」を守るためです。それは、北朝鮮の、どの意味での「体制」を守るかという問題に深くつながっています。そういうところで、政治の本質が見えてくると思います。

横田さんが、政府は対話も制裁も、何もしていないと発言されていることは当事者の言葉としてとても大きな意味を持っています。
小泉内閣が拉致問題解決に消極的なところに、今の政府が守ろうとしている「体制」が何なのかが見えてきます。そこにこそ大きな問題があると思います。

■地球温暖化促進策としてのクールビズ 2005年6月19日
クールビズというような動きには言及したくなかったのですが、やはり少しだけ書こうと思います。
昨日、カジュアルパンツを購入しに行ったのですが、目に付くのがクールビズキャンペーンです。ネクタイ業界には不評ですが、衣料業界や小売店はここぞとばかり頑張っているようです。ある調査機関によれば、その経済効果はかなり大きいそうです。つまり環境負荷を高め、温暖化推進にかなり役立つと言うことのようです。
環境大臣が率先して地球温暖化に貢献しているのはおかしな話です。

いや、クールビズは地球温暖化促進策ではなく省エネルギーを目指す地球温暖化予防策でしたっけ。まあ、誰もそんなことは真剣に考えていないでしょう。もし真剣に考えているのであれば、方法は違うように思います。もっとやることがあるでしょうに。
短視眼的なこうした思いつき政策が問題なのです。
第一、こんな商業主義的なキャンペーンを展開せずとも、みんなそれぞれの自衛策を実行しているはずです。クールビズなどを言い出す人は、実はエネルギーを浪費している人たちであることを忘れてはいけません。
私は16年前まで会社勤めでしたが、暑い夏にはもちろん背広もネクタイも着用しませんでした。TPOによって、ネクタイと背広を着用することはありましたが、それ以外は不着用でした。不都合のこともありませんでした。それに私一人ではなかったです。状況に合わせて自己判断で対応すればいい話です。
それに、そんなことよりも省エネ効果を発揮できることはいくらでもあります。クールビズでごまかしてはいけません。

2000円札を創った首相がいました。私は受け取り拒否活動をしていました。首相の思いつきの人気取り政策でどれだけの無駄があったことでしょう。しかし、彼はなんら咎められませんでした。2000円札はどうなったのでしょうか。損害賠償を請求したいほどですが、当事者はわかりません。首相に知恵をつけたという人は知っていますが。
クールビズもまあそれと似たり寄ったりだと思っていますが、2000円札よりも弊害が大きいのは、問題の本質から目をそらさせることです。
クールビズのおかげで環境意識が高まったという意見があるかもしれませんが、もしそうならその証拠を見せてほしいです。みなさんの環境問題に対する行動は変わりましたか。意識は行動につながって意味を持ちます。

無責任な政治家たちが日本の文化やマナーをどんどん壊しているような気がしてなりません。しかし、文化は自然と同じく、壊すと元には戻らないのです。
諫早湾を壊すだけでは満足できないのでしょうか。

政治家は責任を取らないでいいですから気楽なものです。
それに彼らにはクールビズなど不要なはずなのです。

■過労死が起こる社会システム 2005年6月20日
最近、自殺の問題がよく取り上げられるようになりました。
これは元NHKディレクターだった清水康之さんたちが始めた活動の成果だと思います。清水さんたちは自殺対策支援センターライフリンクというNPOを設立し、自死家族たちが声をあげていく場をつくったのです。そして、その声を活かす活動に取り組んでいます。政府も動き出しました。ささやかに応援している一人としてはとてもうれしいです。

過労自殺の問題も話題になってきています。過労死と過労自殺はほぼ同義のものだと思いますが、遺族の方の話を聞くとやはりいまのワークスタイルや働きの場の仕組みに大きな問題を感じます。そして過労死や過労自殺を起こす要にいるのが、また過労死や過労自殺の候補者であるような気がして、やりきれなさを感じます。

最近、企業の人が忙しすぎるのが気になっています。忙しすぎて仕事をする暇がないのではないかと思うほどです。なぜそんなにしてまで働くのか、仕事が面白いからでしょうか。そういう人もいますが、そうでない人が多くなってきています。そして、それに疑問を感じなくなっている人に出会うこともあります。
仕事に埋没しては仕事はできないと、私は思っています。私たちは仕事のために存在するのではなく、私たちのために仕事が存在するのです。
会社にとって、従業員は「人材」ではなく「人財」だという人がいます。会社は人によって実体がつくられますから、大切な財産だと言うわけです。しかし、人材も人財もたいした違いはありません。むしろそうした発想から抜け出ないといけないでしょう。従業員は一人の主体性を持った人間なのです。財ではなく「間」に大きな意味があるのです。しかし、そうした人の間をしっかりと育てていく余裕がなく、みんな孤立しています。そうした社会の状況を、自殺者の増加は示唆しています。

以前、日本ヒーブ協議会の年次大会で話をさせてもらったところ、資生堂の役員の女性が、過労死できるほど仕事に夢中になれる人がうらやましいという趣旨の発言をされました。あきれてしまいましたが、そうした人が役員になるような会社はどんな奇麗事を並べても信頼できません。

過労死やメンタルヘルスを解決するのは、やはりワークスタイルの文化を変えることです。ワークシェアリングを導入するだけで事態は変わるでしょうし、会社の従業員が会社以外の活動拠点をもう一つ持てば状況は変わります。

私たち一人ひとりが自分のワークスタイルを真剣に考えることはもちろん大切ですが、しかし実際には仕事のない人もたくさんいます。そうしたことも踏まえて、仕事のシェアの仕方や仕組みを考えた政策や企業の人事システムを考えることが必要でしょう。とても面白いテーマです。その基本は、人のつながり(関係性)です。
しかし、いまはまだ、人事活性化と称して、組織視点での人事制度の検討が行われています。個人起点での発想転換をしなければ、結局は企業をだめにしていくように思うのですが。

■コミュニケーション拒否症候群 2005年6月21日
日韓首脳会談はすれ違いに終わったようです。
会談でもそうだったようですが、小泉首相はよく「人に言われて考えるものではない」というような発言をされます。靖国問題に関して言えば、多くの日本人もそういう意識を持っているようです。

主体性を持った行動は大切なことです。
しかし、また、主体性とは他の人たちとの関係において成り立つものであることを忘れてはいけません。

言動は、行為者の主観的意識によって意味合いが決まるわけではありません。受け止めた人がどう思うかで意味が決まってきます。「どういうつもりで発言し行動したか」ではなく「その発言や行動が相手がどう受け止めたか」によって、言動の意味は決まります。どんな善意も時に悪意になり、どんな親切も時に迷惑になります。

組織起点の発想から個人起点の発想へ、というのが、私の基本的な時代認識ですが、その場合の「個人」とはばらばらの個人ではなく、人とのつながりの中での人間としての個人の意味です。ですから「個人起点の社会」は気遣いあう社会とほぼ同義語です。人は個人では生きていけないですから、関係性の視点から自らを律し、価値観を相対化していくことが大切だと思っています。
「人に言われて考えるものではない」とはコミュニケーションを拒否した姿勢です。一般の市井の人であればともかく、複数の人を代表する立場の人としては、問題でしょう。その姿勢にその人の基本姿勢が象徴されています。

もっとも、コミュニケーションを拒否する人は決して少なくありません。
そして、コミュニケーション拒否から始まる紛争や悲劇は多いです。

知人の浅野良雄さんが「対話法」に取り組んでいます。
対話法はとても効果的なコミュニケーション回復策です。
一度、ホームページをご覧ください。

■サラリーマン増税 2005年6月22日
日本の税制の問題点は納税先が国家であることではないかと思います。
まず国家に税金を集め、国家統治上の視点からその税金を配布していくと言うやり方は、統治者には効率的でしょうが、納税者には使途が見えにくくなり、結果として「税金がとられる」という感覚を高めているように思います。
まあ、それはともかくとして。

昨日、政府税制調査会がサラリーマン増税につながる可能性を強く示唆する報告書を発表しました。記者会見で、石弘光政府税調会長は「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」と述べそうです。
最近の私の年収はかなり低いので、ほとんど影響はないと思いますが、しかしいささかの不満はあります。それは「足りなければ民から増税」という思想が感じられるからです。しかも、サラリーマンにがんばってもらうしかないというのは、いかがなものでしょうか。完全にお上の御用学者の姿勢です。これではそれこそサルでも勤まるでしょう。
いやまた失言ですね。はい、反省。反省もまたサルでもできることですが。

税制には政治の思想や社会の文化が象徴されていると同時に、為政者の国民に対するメッセージが示されています。あるいは国のビジョンに向けての政策的意図が込められているといってもいいでしょう。
たとえば、配偶者扶養の廃止は家族のあり方を変えようとするものですし(つまり少子化促進策です)、源泉徴収できる就業者に期待するのは税金とは徴収するものという位置づけを示しています。
今、問題にすべきは、税の使途であり、その透明性です。それに手をつけずに、何が税制改革だ、です。リサイクル法も、企業の声を受けて、回収時に消費者に負担させるというスタイルになりましたが、これは消費を促進させ、かつ廃棄処理業者に利得を与える以外の何ものでもありません。またそうした複雑な制度にすることで、管理者、つまり公務員の仕事づくりも意図されているようにも思います。
そうした本質的なところに目を向けない有識者は信頼できません。
しかし、よくも「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」などと平気でいえたものです。彼の書いた著作を少しは読んでいるひとりとして、がっかりしました。

■知性は質問の仕方に現れる  2005年6月24日
卓球の福原愛選手が中国のテレビの取材を受けたものが、日本のテレビで紹介されました。質問者も回答者もなかなかの、面白いインタビュー番組でした。
内容はかなり辛らつなものもありましたし、インタビュアーの主観的コメントもありました。
ところがそれを紹介していた、日本のテレビのキャスターや同席したタレント?などは、辛らつすぎると批判的でした。中には、私がこんな質問を受けたらすぐに立ち上がって席をはずという若者もいました。日本のいまを象徴しています。
今朝、またテレビで報道されていました。「いい歳」のキャスターが、同じようなコメントをしそうだったのですが、同席したコメンテーターの3人がみんな中国のインタビュアーに肯定的なコメントをしました。ホッとしました。

インタビュー中、愛選手が「日本での質問と違いますね」と切り替えしました。すると相手は「日本ではどんな質問をするのですか」と再質問し、愛選手は「たとえば好きな食べ物は何ですか」と応えました。相手は「では好きな食べ物は何ですか」と質問しました。
実に含意に富むやり取りです。

その人の知性は「質問の仕方」で見えてくると若いときに本で読んだことがあります。とても共感できます。私の質問は、いつも知性を感じさせないものが多いと思いますが、質問の仕方はずっと意識してきたことです。
私の場合、直接話法が多いのです。たとえば相手の発したよく使われる言葉を捉えて「○○って何ですか」と質問します。とても性格が悪いのですが、その反応で、相手がどこまでしっかりと考えて言葉を発しているかがすぐわかります。そして、話すレベルを設定できるのです。もう少し知的に質問すればいいのですが、残念ながら、それが私の知性レベルなのです。性格の悪さは知性を妨げるものなのです。いやはや。

以前も書きましたが、日本のテレビのキャスターはどうしてこうも内容のない質問しかできないのだろうかと思います。それはたぶん日本のテレビ文化の影響なのでしょう。日本のテレビは迎合と持ち上げの文化です。ろくろく声も出ない人を歌手にしたり、ただ食べるだけのことをタレントと位置づけたり、そうしたお互いに持ち上げあう文化をつくってしまったのです。そして強いものに味方する文化が広がっています。かつての判官びいきの文化はどこに行ったのでしょうか。
それがキャスターにまで広がっているように思います。
そのことの影響はとても大きいです。
やや強引ですが、この数日の若者の悲惨な事件も無縁ではないでしょう。

キャスターの人たちは、もうすこしまともな質問をするように世界を広げ深めてほしいものです。片手間にやって、ことの本質を覆い隠すことに加担してほしくはありません。それこそジャーナリズムの死につながることなのです。

私ももう少し知的な質問ができるように心がけたいと思います。

■誰が2人の子どもを殺人に追いやったのか 2005年6月25日
また家族間の殺人事件が起きました。しかも立て続けに2件。
それぞれの被害者と加害者は誰でしょうか。
両親を殺害した事件の被害者は両親と考えて良いでしょう。では加害者は子供かといえば、そうとも言い切れません。
兄を刺殺した事件の被害者はだれでしょうか。私は弟だと思います、では加害者は兄かといえば、これも不安があります。この場合は両親がどう対応していたかも問題です。

それぞれの子どもたちにとって、家族はどういういう意味があったのでしょうか。

家族を取り巻く親戚社会と近隣社会。それらが壊れてきてしまっています。
家族は孤立した閉鎖空間になってきています。
家族の内部においても関係性が壊れてきていますが、経済的に自立しにくい子どもにとっては、関係性を失いながらも、同居せざるを得ないが故に、その家族に縛り付けられています。さらに「血のつながり」という生命的関係性も大きくのしかかっています。
閉じられた家族は良い時はいいでしょうが、悪い時は極めて危険な装置になりかねません。
外部とのつながりが失われれば失われるほど、最後の拠りどころとしての血のつながりや同居関係にひずみが集中し、矛盾が蓄積されていきます。2つの事件は、そのひずみの暴発と言えるでしょう。

家族のあり方が問われているのではなく、社会のあり方が問われているのです。
少子化問題も年金問題も、介護問題もDV問題も、取り組む視座をかえなければ解決しないように思います。
家族だけを見ていては、おそらく問題は見えてこないでしょう。
誰が核家族モデルを扇動したのでしょうか。
核家族モデルは砂上の楼閣でしかありません。
産業のために家族があるのではなく、家族のために産業があるはずなのですが。

■全体像の喪失と距離感の増大 2005年6月26日
今日もまたテレビで、税金の無駄遣いが報じられていました。最近は毎日のように税金や社会保険料の無駄遣いが報じられています。これを見ていると、税金や保険料は払いたくなくなります。現代社会の社会制度はすべて「信頼」に基づいて構築されていますから、信頼を壊すことは非常に大きな問題です。しかし、なぜかそうした報道に対して政府も当該機関も何の対策も講じていません。もしかしたら「当事者」がいなくなってしまったのが、現代社会かもしれないと思うほどです。コメンテーター社会です。

マスコミの報道を見ていると、行政は無駄遣いと私腹肥やしに全力を挙げているようですが、ではその無駄が全体のなかで一体どのくらいの比重を占めているのかはよくわかりません。テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。果たして全体の中で、そうした無駄遣いや不正支出はどのくらいなのでしょうか。そうした全体像を見せずに、ある部分だけに焦点を当てて、騒ぎ立てるのは詐欺行為に近いと思いますが、それが昨今の権力者とマスコミの常套手段です。しかし、それでは大きな運動にはつながりません。

もう一つの問題は、問題の現場と自分の生活の距離感が物理的にも意味的にも離れすぎてしまったことです。ですから、みんな「ひどい話だ」だと腹を立てても、結局は自分の問題だとは思わずに行動を起こすには至りません。こう書いている私もほとんど事例でそうなっています。せいぜいが署名への協力と寄付くらいです。後は忘れてしまいます。ですから諫早湾は世論が盛り上がっても何の変化も起こりませんし、年金保険料の無駄遣いはさらに加速されているようにすら思える結果になっています。

この二つの要素は、いずれも「つながりこわし」の結果かもしれません。つながりを無視する風潮の中で全体像が見えなくなり、現場の距離が離れだしたのです。

無駄遣いに加担した公務員や職員、それに便乗した企業は、株主訴訟ではないですが、法律で過去にさかのぼって責任をとらせるようにすればいいと思います。もちろん利息もつけてです。子孫から詐欺まがいに奪取した財政赤字のかなりの部分はこれまでの官僚に返済してもらうべきです。それくらいのケジメをつけなければ、社会の基礎となるべき「信頼」は回復されません。無駄に造った施設は超安値で売るのではなく、当時のコストを回収する値段で関係者に引き取らせるべきでしょう。それが「社会の常識」ではないでしょうか。
いや、これは私だけの「偏見」かもしれませんね。負け犬の遠吠えでしょうか。

■真面目さの功罪 2005年6月29日

先日のブログの次の記事に質問がありました。
真面目に仕事に取り組むことがなぜ罪深いのだという指摘です。

テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。

真面目さの功罪を考えてみたいと思います。
組織の中で与えられた仕事を真面目にこなすことはいいことなのか、です。
そう簡単な問題ではありません。

まず、組織人は与えられた仕事の価値を主体的に評価し、問題があれば異議申し立てできるかどうかという問題があります。組織が複雑になると個々の作業単位で仕事の価値を評価するのは難しくなってきます。仕事を「無意味化」し、単純な作業に分割することで作業効率を上げてきたのが工業化社会の発想ですが、そこに大きな問題があります。
次に、与えられた仕事はともかく、同じ組織の中で行われている活動に関する価値評価と問題があれば、それを社会に情報発信していくという問題です。自分の仕事だけに目を向け、他人の仕事には口を出さない組織人が多いように思いますが、それでは組織は育ちません。

組織の中で与えられた仕事を真面目にこなす、という場合の「真面目」の意味もポイントのひとつです。
主体的に考えることなく、ただ作業をこなすことは必ずしも「真面目」とは言えなくなってきているように思います。自分の行動には自分で責任を取る覚悟が「真面目」の言葉には含意されています。
組織の中にいることで見えてくることがありますが、もしそこに問題があれば、それを組織の外部に伝えていくことも「真面目」に入ると思います。

いま大切なのは、与えられた作業に忠実な真面目さではなく作業の目指すミッションやアウトカムの視点からの真面目さです。
これを「大きな真面目さ」と呼びたいと思いますが、とりあえずの小さな真面目さに埋没していては、いつかニーメラーと同じ後悔をすることになるかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

■畑の雑草の生命力
自宅の近くの宅地を借りて、野菜作りを始めました。
といっても主役は女房です。私は時々の手伝いです。
昨日はたまたま地元の人との話し合いなどが重なったので、自宅にいたのですが、用事の合間に、その畑の雑草取りを命じられました。
雑草の成長の早さは驚異的です。
そこには昨日とは違う今日があるのです。
自然の生命力には驚かされます。

それほどの生命力をもつ自然を壊してしまう、私たちの文明とは何なのでしょうか。
私たちが壊しているのは本当に自然環境なのでしょうか。もしかしたら私たち自身の生命を壊しているのかもしれません。

最近の気象はとても不気味です。
梅雨なのに初夏だったり、水不足と豪雨が並行して進んだり、自然が私たちに警告している感じがします。
生き方を悔い改めよ、という天の声が聞こえます。

■史上最高のボーナス 2005年7月1日
今年の夏のボーナスはとてもいいそうです。
この時期になると新聞やテレビではボーナスの話題が持ちきりです。
そしてそれを目当てにした商戦も活発です。

私は会社を辞めて17年経過します。
以来、ボーナスをもらったことはありません。
個人企業ですから、毎月の給料すらもらえないことも少なくありません。
それが零細企業や個人事業主の実態かもしれません。
体調が悪くなっても誰も助けてくれません。

会社に勤めていた頃は、ボーナスは当然の話でしたし、新聞記事にも違和感はありませんでしたが、今ではボーナスの話は全く無縁の世界で、もちろんボーナスセールには残念ながら参加できません。
今果たしてどのくらいの人がボーナスの恩恵を受けているのでしょうか。
史上最高のボーナス実現のために、どのくらいの人が犠牲になったのでしょうか。

企業にいた当時は、ボーナスをもらえることは当然と思っていましたし、毎年給料が上昇することも当然だと思っていました。ボーナスの額が少ないなと不満だったことすらあります。しかし、今ではそのことを少し恥ずかしく思っています。

一方でたくさんのボーナスに浮かれている人たちがいる、一方で仕事もなく給料さえもらえない人たちがいる。自殺者や過労死がこんなに多く、しかしたいして働きもせずに多額の報酬を得ている人がいる。悪事を働いても罰せられずに、悪事だという自覚もなく生活を保証されている人がいる。真面目に働いても給料は安く、人をだまして詐欺的な仕事でも高給取り。議論も真面目にせずに高級をもらう議員もいれば、汗して働いても月1万円ももらえない障害のある人もいます。
やりきれない気がします。

せめてボーナスの報道はやめてもらいたいものです。
ボーナスと無縁の人たちの思いをシェアしてやってください。

蛇足ですが、
ボーナスを予想よりもたくさんもらった人は、ぜひCWS基金に寄付してください。
3億円たまったら効果的に使い出す予定です。
ちょっと詐欺っぽいのが問題ですが。

■私のアドレスで発信している人がいるようです 2005年7月3日
迷惑メールが飛び交っていますが、私のアドレスを発信者にしたメールが私のところに来ることがあります。
いわゆる迷惑メールが多いですが、中にはウィルスメールもあるかもしれません。
私はメールの「送信者名」を「佐藤修」または「おさむ」にしていますので、アドレスが発信者名になっていることはありません。したがって、そうしたメールは最初から無視して削除していますので、問題はないのですが、なかには私のアドレスを知っていて、私と勘違いして開く人がいるかもしれません。
そこで、まず発信者名が私のアドレスになっている人の発信メールアドレスを調べてみました。そうしたらそれもまた私のアドレスと同じなのです。
ということは、私のアドレスと同じアドレスが存在すると言うことです。
そこでプロバイダーに相談してみました。
だいぶ話し合ったのですが、問題は解決しませんでした。
まずアドレスをID形式から独自のものに変更したらどうかと言われました。模倣される確率が少なくなると言うのです。よく理解できませんが、これは解決にはなりません。
私のアドレスと同じアドレスを使っている人を拒否することはできないのかと質問しましたが、プライバシーの問題でそれはできないというのです。これまたわからない論理ですが、埒があかないので相談は打ち切りました。

みなさんはそういう経験はありませんか。
対抗策をご存知の方は教えてくれませんか。

それにしても、自社のドメインを詐称している人を拒否できない仕組みには納得できません。技術的に難しいのでしょうか。
これもどなたか教えてくれませんか。

■住民と市民  2005年7月4日
一昨日、地元の住民の集まりで、「市民」と「住民」という言葉が少し問題になりました。ある「市民活動」をしている人が「住民は何もわかっていない」と言うようなニュアンスの発言をしたのです。
私は「市民」ということばよりも「住民」という言葉にリアリティを感じます。自分の住んでいる場所をしっかりと持ち、しっかりした住民活動をしていてこその市民活動だと思っているからです。そういう意味では、まだ私自身の住民度は高くはありません。
しかし、美野里町や山形市で少しだけ「まちづくり」に関わった体験からいえば、一番しっかりした取り組みをしているのは「住民」です。

NPOやいわゆる市民活動にも、ささやかに関わっていますが、私の体験では、活動の真ん中に問題の当事者もしくはそれに近い人がいるかどうかで活動のリアリティや発展性に違いがあるような気がします。今、全国の100近い広義のNPOと付き合いがありますが、元気な活動はほぼ例外なく当事者的な人がど真ん中にいます。つまり私の感覚では「住民主導」なのです。決して「市民主導」ではないのです。
私がまちづくりに関心を持ったのは30年以上前ですが、当時は「住民」ではなく「市民」にならなければいけないという言われ方がされていました。私もそう思ってきました。
しかし、17年前に会社を辞めて、少しずつまちづくりに関わりだすようになってから、大切なのは市民感覚ではなく、住民感覚だと思うようになったのです。

今日、郵政民営化特別委員会の議論をラジオで聴いたり、テレビで見たりしていました。
なぜか「住民」と「市民」のことを思い出しました。
日本の政治は市民がやっていることに問題があるのではないかと思ったのです。
住民の政治を根底において、そこから積み上げていくような政治の仕組みがあれば、今のような空疎な議論はなくなるでしょう。
政治だけではありません。経済も、です。

住民の知恵と汗の効用を見直すことが必要かもしれません。
今年は私も住民度を高めるつもりです。

■反対と欠席 2005年7月5日
郵政民営化法が衆議院を通過しました。5票の差でした。
昨日の亀井さんの自信に満ちた発言で否決を期待していたのですが、私には残念な結果でした。まあ亀井さんの自信に満ちた予想は当たったためしがありませんが。

これまでも書いてきましたが、私は郵政の民営化には反対なのです。というか、「民営化」の意味が極めてあいまいな日本の経済至上主義発想に異論があるのです。民営化の意味をみんな考えていないような気がしてなりません。言葉にごまかされてはいけません。日本の民営化は私営化にすぎないのです。ガバナンスの欠如です。まあ、そんなことは堂でも良い、まずは民営化だというのが小泉首相の論ですが、これは同時に多くの「有識者」の意見のようです。いやはや。

ところで、非常に面白かったのは、自民党の反対派の人たちが胸を張って反対票を入れていたことです。綿貫さんの顔は極めてさわやかでした。党議拘束という呪縛から解き放たれた快感でしょうか。今日だけは綿貫さんがとても輝いて見えました。
党議拘束は「組織起点の発想」です。代議制の矛盾をさらに増幅するものであり、少数者による支配システムを目指す非民主主義的なルールです。党議拘束がある以上、政治家は歯車でしかありません。
二大政党制、小選挙区制、党議拘束、すべてが機械主義的な近代の仕組みですが、そろそろ政治はそこから脱却すべきです、日本ではむしろベクトルはその深化に向いているようですが。

しかし今日、書いておきたいのはそういうことではなくて、欠席した自民党議員のことです。テレビではチラッとしか見えませんでしたが、たとえば古賀さんの退席の姿は誇りを感じさせなかったです。自分の意思表示もできずに、逃げていく哀れさを感じました。やや主観的過ぎる見方ですが。

欠席と反対。私は欠席者が一番許せません。責任逃れをするような政治家は理解できません。古賀さんに少しシンパシーを感じ始めていたのですが、残念です。
今回の国会は、とても面白かったです。次の総選挙での投票の方針が決まりました。内緒ですが。はい。

■お金がお金を生み出すことへの疑義 2005年7月7日
投資サービス法がつくられ、預金を除く金融商品への消費者保護が来年の国会に提出されることになりました。政治家の都合による郵政民営化法に膨大な時間をかけるよりも、こうした私たちの生活につながり、しかも切実な問題の議論をしてほしいと思います。早くても施行は2007年夏だそうです。それまでの間にもいくらでも手は打てるでしょうに。
それに、この問題は単なる消費者保護だけの問題ではありません。新聞によれば、お年寄り保護が主眼のようですが、そうではなくもっと抜本的な検討がされるべきです。
私のところにも金融商品や商品投機の電話がかかってきます。明らかに演出している電話もありますが、そうした電話には、相手に「仕事を変えたほうがいいですよ」と余計なお世話をしていました。最近はもうやめましたが。
若いと思われる人からの電話が多かったのですが、この延長に、振込み詐欺があるように思います。つまりその仕事を通じて、若者の仕事観が毒されていないとはいえません。
商品投機が悪いとは言いませんが、それは業界内の仕事であって、一般に広げるビジネスではないように思います。ワンクッション置くべきです。
それは外貨預金にも言えることです。儲け主義の銀行が市場を拡大したのです。
残念なことですが、私の住んでいる我孫子市で、水道局が2億円のお金を外貨預金し、1100万円の為替差損を出してしまいました。市長が、自らと水道事業管理者に賠償請求することになりましたが、これは非常に大きな問題です。経済的な問題ではなく、考え方の問題であり、モラルハザードにつながる問題です。
私は我孫子市の市長の言動にとても共感していますし、我孫子市は今の市長になって大きく変わりだしました。それだけにこの問題はとても残念です。ちょっとした常識があれば、食い止められたことなのです。おそらく市長もしくは水道事業管理者に適切な相談相手がいなかったのでしょう。
お金がお金を生み出すことに依存してはいけません。
銀行の利子がゼロなのは健全なことだと私は思います。日本の銀行が健全でないのは、預金利子はゼロで貸付利子は高く、しかも手数料による不労所得が高いことです。それにミッションを忘れていますから、いまや存在価値はありません。国営化すべきです。http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/06/post_16ce.html
価値を生み出すのは、人間の知恵と汗です。
我孫子市では古利根の湖沼の環境保全を目指して、市民債を発行しました。http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#101522億円集めました。その2億円で、価値を生み出し、償還するものとばかり思っていましたが、そのシナリオが見えません。今回の事件を知って、いささかの不安を持ちました。単に問題を延ばしただけなのかもしれません。
2億円集めて、新しい事業を始めて、それで償還していくのが普通の発想です。行政はこれまで「コストセンター」でしたので、そうした発想が欠落しているのです。
無尽講の文化を思い出すべきでしょう。理念と循環思想のない市民債は、もしかしたらマイナスかもしれません。安直に市民債を引き受けたことを少し反省しています。

■民営化再論 2005年7月9日
今日は解散の意義について書くつもりでしたが、今、テレビで猪瀬さんの話を聞いて、気になったことを書くことにしました。

猪瀬さんは郵政民営化が必要な理由として民営化すれば活性化するというのです。言葉としては成り立つでしょうが、内容はあまりに多義的で実体のない言葉です。こうした言葉の操作が、いわゆる「有識者」の常套手段です。
猪瀬さんはその事例として、クロネコヤマトの宅急便をあげました。たしかに宅急便は評価できますが、それは「民営化」の成果ではなく、クロネコヤマトの成果です。レトリックにだまされてはいけません。一般論にすりかえるのはまさに小泉手法ですが、大切なのは「民営化」の内容です。

民営化の「民」は、いうまでもありませんが、「統治されるもの」です。民営化とは「統治されるものに経営を任せる」ということです。その発想にすでに「お上発想」があるわけですが、問題はその「民」「統治されるもの」の捉え方です。集合名詞ですから、いかようにも内容をいじれるわけですが、今の現実を考えれば、NTTがそうであるように、この「民」は「公私」の「私」に近いのです。つまりは「プライベート・ガバナンス」に任せると言うことです。しかも「官」(統治するもの)の統治下に置きながらです。ちなみに「民営化」はおそらく“ privatization ”の翻訳ではないかと思います。
最近、「ソーシャル・ガバナンス」と言う言葉が使われだしていますが、もし「民営化」が「ソーシャル・ガバナンス」を意味するのであれば、私は大賛成です。しかし、その時には「ソーシャルな視点」が基本になければいけません。それは議論の過程においても必要です。
Privatizationの進行が、実際にどのような問題を起こしているかはもっとしっかりと考える必要があります。そうした体験の中から、改めてコモンズセクター、ボランティアセクターが再評価され、市民社会が注目されてきたのです。
もっとも、日本の場合、その市民社会までもが政府の管轄下に取り込まれそうなのですが。いまのNPOの分野にはビジョンを持ったリーダーが不在のように思います。

アメリカ発の市場信仰に基づく競争型の自由主義経済の幻想に惑わされてはいけません。政府に対置されるのは市場だけではありません。コモンズセクターがあることを忘れてはいけません。そして、それは決してサブシステムではなく、システムパラダイム転換の起点になりうると、私は考えています。

■解散はなぜ脅迫材料になるのか 2005年7月10日
衆議院で郵政民営化法が辛くも成立したのは、首相が廃案になったら衆議院を解散すると脅したからだといわれます。真偽のほどはわかりませんが、状況証拠はかなりあるように思います。リーダーシップの不足は、いつも権力行使で補われるのです。

しかし、なぜ「解散」が脅しの手段になるのでしょうか。自らの信念を国民に問う絶好の機会であり、国民と国政との距離を縮める効果的な手段でもあるはずなのですが。
脅迫効果のひとつは「公認」せずに「対立候補」を立てるといわれたからとも言われますが、もしそうであれば、政治家は信念を持つ主体的存在者ではなく、政党の雇われ人でしかないことを認めていることにもなりかねません。あるいはお金の問題かもしれません。選挙のあり方が問題でしょう。

もし自分の判断に自信があるのであれば、選挙は、広く国民の信を問うことのできる、また自らの考えを広げていくことのできる主舞台です。国会での不謹慎な議論をしているよりも、ずっと大きな意味があります。政治家は「まちに出よ」です。語りかける相手を間違っているのです。

解散をちらつかせて翻意をそそのかす卑劣さは論外ですが、私には「解散」というものの積極的な効果や意味への認識がないことのほうが納得できません。

ちなみにこの問題に関しては、公約論や党議拘束論がありますが、公約は「言葉」ではなく「内容」であり、党議拘束は本来的に見直すべきであり、しかも今回は手続き的にも問題があるように思います。蛇足ですが。

■拉致問題と核開発問題の重みをどう考えるか 2005年7月11日
6か国協議が再開されそうですが、北朝鮮は日本が拉致問題に言及しないことを求めているようです。
「拉致問題」と「核問題」とを比べたときに、どちらがより優先されるべきでしょうか。
私の周りの人にさりげなく質問すると例外なく核問題のほうが重要だといいます。
みなさんはどうでしょうか。
私は躊躇なく、「拉致問題」の解決が優先されるべきだと思っています。

核開発が行われたら日本はもちろん世界が危機に陥るというイメージがありますが、ではアメリカやロシアが核を大量に持っているのはどう考えるべきでしょうか。北朝鮮が核を持つこととどこが違うのでしょうか。
問題は「所有」ではなく、それを所有する人(体制)ではないかと思います。だからといってアメリカなどの核保有を肯定するわけではありませんが、北朝鮮やイラクが核を持つことを問題視するのは国家(ガバナンス)としての信頼性の問題だろうと思います。まあ身勝手な論理ではありますが。
もしそうであれば、その国家のあり方(ガバナンス)を正すことが重要です。つまり拉致問題の決着なしに、核問題を議論することは無意味だろうと私は思います。
それに核問題は「未来の蓋然性の世界の話」ですが、拉致問題は「過去と現在の確実性の世界」の話です。実際に被害者もたくさんいるわけです。その問題を解決せずに、どうして核開発問題を議論できるでしょうか。
核問題と拉致問題。前者は人類の問題あり、後者は個人の問題であるというような、ステレオタイプな発想をしていないでしょうか。
これほど明確な犯罪を解決できずに、核問題を解決できるはずがありません。現実問題の解決を先延ばしするために、次元の異なる問題を出してくる。これは誠意のない権力者がよく使う手なのです。

核問題よりも、拉致問題の解決のほうが優先されるべきであり、重要性も比較にならないほど高いと私は確信しています。
だからどうするのだといわれそうですが、どうしたらいいでしょうか。
真剣に考えなければいけません。

■寒い日の電車冷房 2005年7月12日
今日はちょっと寒かったです。
上着を着ようかとも思いましたが、上着なしで出かけました。
9時半頃、我孫子駅で千代田線に乗りました。おそらくJR管轄ですが。
我孫子発なのですが、出発直前になってなんと冷房が入ったのです。
この寒い日になんで冷房なのか、しかも車内はすいています。
車掌に苦情を言いたかったのですが、離れているので伝えようがありません。
実は千代田線では時々こういうことがあります。

省エネが叫ばれていますが、みんな真剣に考えてはいないようです。
我が家の前の街灯が日中でもついています。いつも無駄だなと思っていたのですが、そのまま見過ごしていました。
今日の電車体験のときになぜかそれを思い出しました。
私もまた省エネを真剣に考えていなかったようです。
明日、市役所に電話しようと思います。

私にもできる省エネ行動はいろいろありますね。
ちなみに最近はエスカレーターにも極力乗らないようにしています。

■古館さんが好きになりました 2005年7月13日
昨日の報道ステーションに日本道路公団の近藤総裁が出演しましたが、近藤さんへの古館さんの質問は迫力がありました。聞いていてすっきりしました。近藤さんの回答は全くすっきりしないものでしたが。
その後、ニュース23で同じように筑紫さんが近藤さんに質問しましたが、気のせいか古館ライクなスタイルも感じられましたが、内容は相変わらずのコメンテータースタイルでした。終わりもしまりませんでした。

古館さんの良さは主体的に対応することです。時に考えが違うことがありますが、視聴者と同じ立場を感じさせます。久米さんの目線と質問は観察者的でしたが、古館さんは当事者的です。まあかなり贔屓目かもしれません。
しかし、昨日の質問のリズムの取り方はとてもよかったです。苛立ちを表現したのが好印象です。古館さんの質問はことごとく無意味な回答でごまかされましたが、状況はかなり視聴者には伝わったと思います。
質問は「内容」だけではなく「仕方」も重要なことを改めて実感しました。

談合が発覚したにも関わらず、おそらく事態は何も変わっていないのでしょう。
報道ステーションにはぜひ継続してこの問題をしっかりとフォローしてほしいと思います。
常識的に考えて、道路公団の現職が無縁であるはずがありません。近藤さんもいまや無縁ではないでしょう。
勝負は1年目で決まります。延ばしてはいけません。

■拉致問題は二国間問題でしょうか 2005年7月20日
テレビを見ていたら、山崎拓さんが核問題は6か国問題、拉致問題は2か国問題と話していました。この発想を変えなければおそらく未来は開けないでしょう。いささか大仰な物言いですが。
これは「想像力」の問題なのです。

拉致問題は国家のあり方を象徴しています。つまり国家という組織維持のために個人の生活を壊すことはコラテラルダメッジなのであって、許容されるという枠組みを象徴しているのです。
国家の平和のためには個人を死にやることすらも是認されます。イラクがそうです。
そうした場合、行為そのものはすべて浄化されてしまいます。よく言われるように、個人が人を殺せば犯罪ですが、国家の平和のために人を殺せば英雄になる仕組みが作られているわけです。担い手は民間企業や傭兵でも公務員でも同じですから、当然、暴力団体や犯罪者集団と国家はつながってきます。ここに国家の闇の部分が秘められています。
談合などは当然過ぎるほど当然の結果なのかもしれません。関わった人たちの意識は暴力団や犯罪者と同じでしょう。だからこそ彼らを罰することはできないのです。みんな同じ仲間ですから。私たちもそうした暴力機制に依存している面がありますから、実は同罪なのです。しかし、それでは未来は開けません。
政治システムは、「暴力という強制力を独占し、支配関係を形成して社会統合するシステム」(神野直彦)ですが、その具体的な形態が現代の国家です。残念なことですが、そこでは国民は量的存在として扱われます。
そうした枠組みの中で考えている以上、拉致問題は二国間問題になってしまいますが、その枠組みの中では本当の信頼関係は生まれませんから、実は核問題もなんら解決しません。まだハーマン・カーン流のエスカレーション理論が根底にあるのです。これはまた近代産業の論理でもあります。
そうした発想に基づく枠組みの問題を指摘したのはオルテガです。
オルテガは、2つの信念の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かない過度的状況を危機とよびました。その危機的状況がかなり明確にあり、在来の信念体系の破綻がかなり明らかになってから、すでに半世紀近くが経過します。にもかかわらず相変わらず政治の世界は旧来信念の中で暴力を独占し続けています。イラクなどでは健気に国家組織ではない集団が自爆までを取り込みながら異議申し立てをしていますが、彼らもまた国家を倣っていますので、そこでも個人の視点は軽視されています。自爆がそれを象徴しています。産業が引き起こすジレンマと同じような政治のジレンマが発生しています。
半世紀前にアメリカで始まったカウンターカルチャー運動はなぜ失敗したのでしょうか。あれがもしもう少し広がれば歴史は大きく変わったと思いますが、まだ当時は国家が情報独占をしていましたから、サブシステムにしかならなかったのでしょう。

話が大きくなってしまいましたが、拉致問題こそ、人間に深くつながる根源的な問題であるという発想が必要です。それを理解するほどの想像力は政治家にはないでしょうが、真面目に汗しながら生きている私たちにはわかるはずです。そして、実はそれは国家関係の問題だけではなく、身近なところでも同じ発想が必要です。
個人的な問題こそが、実は社会の問題に一番深くつながっている。そうした発想が重要になってきています。まちづくりはまずは自分の庭づくり、生活づくりから始まるのです。しっかりしたNPOの根底には、そうした思想があるように思います。

また話がそれそうですね。
それにしても安直な問題に目を向けさせる政治家とマスコミには腹が立ちますが、対抗力がありません。イスラムの民が自爆しかないと思う状況に、もしかしたらつながっているのかもしれません。いささか怖い話です。自爆はしたくありません。

■朝青龍の負けを期待している自分への嫌悪感  2005年7月22日
朝青龍が2回負けました。それも微妙な負け方です。物言いが入り、検討の結果が発表されるとみんな拍手喝さいです。
そして負けた途端に座布団が異常に飛びました。私も拍手しました。

おそらく多くの観衆は朝青龍が負けることを期待しています。勝って当然なのですから、みんなもしかしたら負けるかも知れないと、それが楽しみで見ているわけです。少なくとも私はそうです。

しかし考えてみると、これはいかにも性格が悪い話ですね。人が負けるのを期待するとは何とも情けない発想です。今日、朝青龍の相撲を見ていて、それに気づきました。
生き方を反省しなければいけません。
社会が劣化していく契機はこんなところに潜んでいるのかもしれません。
パンとサーカスの戦略が少し理解できました。
危ないところでした。

■ステルス作戦は三権分立の崩壊を示唆しています  2005年7月23日
郵政民営化法案に関連して、ステルス作戦なる言葉が広がっています。
何と無神経な言葉を使うものかと、私は強い憤りを感じます。この言葉を得意気に使う、郵政民営化反対の政治家たちは、私が犯罪者だと考えている小泉首相と同じ穴の狢だという気がします。

なぜそれほどに怒りを感ずるかは3つの理由がありますが、ひとつだけ書いておきます。
後の二つはやや個人的な理由からですので。

ステルス作戦は、国会を議論の場ではなくだましあいの場にするということです。賛否を鮮明にせずに議論できるとは思えません。国会はそれぞれの意見をぶつけ合って、それぞれに考え直し、より多くの人が合意できる結論を探していく場なのだと思いますが、これではだましあいの場でしかありません。だまし合いのために巨額な国税を使う必要はありません。
つまり、今、国会は機能していないと言うことを自己表明しているわけです。
日本では司法の世界に続いて国会もまた機能を放棄したように思います。
日本ではいまや、三権分立は絵空事になったのでしょうか。

司法の世界は、かなり前から行政の走狗に成り下がっていると思えてなりません。行政による明確な司法介入があるかどうかは確認できませんが、どう考えても日本の司法には行政府の影を感じます。とりわけ憲法や企業(公害や買収疑惑など)に関する裁判はそう感じますが、もしそうならば他の問題も同じことでしょう。同じ文化が支配しているはずですから。
また司法への八つ当たりをしてしまいました。
今回の問題は国会です。

見識をもって判断することを拠り所にしているのが参議院議員です。自己の意見をはっきりと表明し、それに正直にしたがえないのであれば、参議院の存在意義はありません。権力と私欲の亡者は衆議院議員だけで十分です。
ステルス作戦などと馬鹿なことを言っていないで、堂々と信念に従って議論してほしいものです。圧力や買収の動きがあれば、それを公開すれば良いだけの話です。それが開かれた議論、つまり国会に期待されていることなのです。茶番劇のために国会はあるのではありません。

政治家の皆さんの耳には届かないでしょうが、子どもたちに顔向けできないような生き方をしていていいのでしょうか、と問いかけたいものです。

■なぜ今頃アスベストなんでしょうか 2005年7月24日
アスベストが話題になっています。それで初めて知ったのですが、アスベストはまだ使用禁止にはなっていなかったのですね。
アスベストが問題になったのはもうずっと昔ことです。その当時、禁止され、もう施設からの除去も行われたものとばかり思っていました。
そういえば、フロンガスはどうなのでしょうか。あれも禁止されたと思っていますが、もしかしたらまだ使われているのでしょうか。

とまあ、こういうことが決して少なくありません。
アスベストの禁止には石綿協会の強い反対があって、禁止法ができなかったと言うようなニュースもありました。それに関して協会の幹部の方が言い訳していましたが、これも呆れた話です。常識的に考えれば未必の故意があるに決まっています。組織犯罪ではないかと思えてなりません。
それはそれとして、一番問題なのは、問題が指摘されても、その解決が先延ばしになり、その間にさらに被害が広がっていくということの多さです。そして関係者は目先の利益のために、大きな問題を発生させ、ツケを次世代に残していくわけです。
今もさまざまな問題が次々と顕在化していますが、それらの解決は進んでいるのでしょうか。マスコミは事件や問題を消費する体質を変えて、その解決までをきちんと報道してほしいです。
またこうした「組織犯罪」にもっと警察や検察は目を光らせてほしいです。現在の体制はいかにも甘すぎるように思います。

問題指摘で満足してしまう社会から抜け出ることが必要だと思います。
まずは自らの周りで実践したいと思います。

■不信感の増幅という「冷たいテロ」の予感 2005年7月25日
ロンドンでの地下鉄爆破事件に伴って発生したブラジル人誤射事件は不幸でした。
それぞれにたぶんかなり納得できる理由があると思います。
その基本にあるのは「不信感」です。
一度生まれてしまった不信感はなかなか消えません。そして、どんどん増幅されていきます。安全安心のコストは乗数的に増大し、過剰防衛が過剰攻撃を生み出します。その行き着く先は破綻しかありません。

問題は、今回の無縁の若者の不幸は、実はすべての人に無縁ではないということです。いつ私に起こってもおかしくないということです。問題は不気味なほどに身近なのですが、おそらくほとんどの人はまだ遠くにしか感じていないかもしれません。

9.11事件、そしてロンドン地下鉄爆破事件。そこで死傷された人たちの数も決して少なくありませんが、もっと大きな被害はその事件が創出した「不信感」ではないかと思います。それは「冷たいテロ」といっていいかもしれません。まだあまり実感はできないかもしれませんが、「熱いテロ」よりも恐ろしい気がします。
世界が静かに壊れだしている、そんな不安がぬぐえません。
自爆テロとは、実は社会そのものを支えている信頼感を壊してしまうことなのかもしれません。
「21世紀は真心の時代」と考えていた私の思いは、完全に逆方向へと動き出しています。「冷たいテロ」はすでに日本社会に静かに広がりだしているのかもしれません。
それに抗して生きていかなければいけません。
大切なのは、隣人を信ずることです。たとえだまされたとしても。

■組織犯罪と組織を使った個人の犯罪 2005年7月26日
一昨日、アスベストに関して組織犯罪という言葉を出してしまいました。
「組織犯罪」とは何かとある人から言われました。「組織犯罪」という言葉はいかにもあいまいな表現でした。「組織」は単なる「仕組み」であって、行為の主体にはなれません。にもかかわらず、組織を主語にした議論が行われるところに問題があるのかもしれません。私もその間違いに陥っていました。

組織の行動を決めるのは意思決定者としての経営幹部です。したがって犯罪や事故の責任を問われるべきは法人格ではなく、経営者個人です。そこをあいまいにすることから、さまざまな問題が発生します。
株式会社は「有限責任」の考えを導入することで、大きなパワーを持ちました。しかし、その半面で個人の責任をあいまいにしてしまったように思います。そして、行政組織はさらにそれを増幅させ、「匿名の職員」が仕事をするスタイルを長らく続けてきました。匿名であることは犯罪の温床になりやすいです。

組織とは設計次第で責任の所在を明確にもあいまいにもできる仕組みです。そして今の日本の多くの組織は「責任を回避するための仕組み」になっています。行政組織もそうです。そこに、大きな問題があります。

日本における組織の意思決定は責任があいまいにできるのでだれも犯罪意識がなくても「犯罪」が可能になります。いいかえれば。「気がついたら犯罪者」というわけです。組織の設計原理が間違っているのです。しかも、そうした犯罪は法律上裁きにくいので、特定の個人は有罪にはなかなかなりにくく、なったとしてもダメッジは少ないのが普通です。
昨日も日本道路公団の内田副総裁が逮捕されましたが、あれだけ卑劣な行動を続けながら(彼の行動によって死んだ人がいるかもしれません)、ほとんどの人は殺人犯罪者と同列に見ることはないでしょう。ノンバンクの経営者も同じことです。三菱自動車やミドリ十字の関係者も同じです。組織は、個人の「犯罪」をあいまいにする装置なのです。
しかし実際には彼らはほとんど罰せられることはありません。時に社会的に名誉を失いますが、それは彼らにとっては何の痛痒も感じないでしょう。そもそも名誉や良心や信頼とは全く無縁の存在なのですから。そうでなければ、こんな犯罪は起こしません。

組織犯罪などという言葉は使うべきではありませんでした。
正しくは「組織を使った個人犯罪」です。
厳罰に処するべきでしょう。しかしおそらく処罰もあいまいに終わるでしょう。日本の司法の世界の視座は、生活者の側ではないからです。いいかえれば、司法組織にもまた、同じような組織原理が働いているように思います。
犯罪の温床になる組織の設計原理をそろそろ根本から変えなければいけません。それこそが、最近話題のCSRの本質だと考えています。

■司法の死 2005年7月27日
あるMLで、こういう題名のメールが回ってきました。つい最近、このブログで中途半端に書き込んだことの実証報告ですので、少し書いておきたいと思います。
舞台は、山梨県の甲府地裁、日時は昨日(2005年7月26日)です。
山梨日日新聞では次のように報道されています。

自衛隊のイラク派遣は憲法違反として、山梨県内の住民ら284人が国に派遣差し止めなどを求めている訴訟の第4回口頭弁論が26日、甲府地裁であり、新堀亮一裁判長は原告側の証人尋問申請を却下し、同日結審、10月25日に判決言い渡しを伝えた。原告側は「審理は尽くされていない」などと猛反発、地裁内は一時騒然となった。原告団は同日、同裁判長を含む裁判官3人の交代を求める忌避を同地裁に申し立てた。
この日の口頭弁論では原告側が本人陳述を行い、イラク派遣の違法性を訴え、被告の国側に具体的な反論を要求。次回以降の弁論で7人の証人尋問を申請した。国側の代理人は意見陳述で「主張、立証は尽きている。弁論の終結をお願いしたい」と述べた。
新堀裁判長ら3裁判官は合議を行った上で申請の却下と同日の結審、判決日を伝えて退廷。申請却下などの理由説明がなかったことから、原告や原告側の傍聴人が裁判官の後を追おうとして同地裁事務官らに詰め寄り、もみ合いになる場面もあった。
その後、原告側の要求に裁判官が応じ、原告代理人と原告一人、裁判官が面談。裁判官は「合議の秘密」として、結審などの理由は明らかにしなかったという。
原告団は県弁護士会館で会見し、裁判官の対応を批判。原告男性の一人は「裁判の審理は互いの言い分を聞いた上で進められるもの。強引に弁論を打ち切り、審理を終結するやり方が許されるわけはない」と強調した。
取材に対し、同地裁総務課は「個々の裁判官が下した判断の理由を説明することは困難」としている。

これだけだと、司法の死とは大げさではないかと思われるかもしれませんが、現場にいた人からの生々しい報告を読むと怒りが湧き上がります。
実は、こうした事態は予想されており、そのために原告の一人から、きちんとした議論をするように裁判所に要望書を送ってほしいという呼び掛けが事前にありました。
私も東京での同種の裁判を傍聴したこともありますので、状況が少しはわかったので、早速、ファックスを送りました。ファックスはかなり集まったようで、それが一部の裁判官の心を動かしたような報告も前日にありました。
しかし、昨日の裁判は結局は被告である国の代理人の主張がとおり、議論無用の突然の結審になったのです。そのやり取りがここに掲載できないのが残念ですが、関心にある人はご連絡を頂けたら、メールを下さった方の了解を得て、メールを送るようにします。

なお、司法の死をもう少し長い目で知るためには、最近出版された「憲法9条の戦後史」(岩波新書)をお薦めします。司法も国会も、すでに議論の場ではなくなってしまいました。議論の無いところに民主主義や平和はありません。
司法の死、立法の死は、未来の死でもあります。
どうしたら蘇生できるでしょうか。

■エスカレーターで歩かないことの難しさ 2005年7月30日
エスカレーターでは歩かないことにしたのですが、これがまたなかなか難しいのです。
ついつい歩いてしまうのです。それに二列に並んでいる時に必ずしも右側に乗れるとは限りません、不幸にして右に乗った場合、歩かざるを得ないのです。
そのため、できるだけエスカレーターを使わずに、階段を歩くようにしているのですが、エスカレーターしかないところが意外と多いのです。
選択肢が増えているわけではないのです。

エスカレーターでは歩かない、こんなことだけでも実行してみるといろいろなことに気づきます。
人生を変えるのはそう難しいことではないのかもしれません。


■アスベスト労災認定事業所の発表姿勢 2005年7月30日
厚生労働省がアスベスト労災認定事業所234箇所を発表しました。但し、具体的な所在地は発表されませんでした。厚生労働省の犯罪体質は変わっていません。
組織の場合、犯罪は事実を隠すことから始まります。これまでも何回も繰り返してきたことです。そして何と多くの死者を出してきたことでしょう。しかも、誰もほとんど責任を取らないままできています。
所在地を伏せたのは「風評被害」などを懸念したためと朝日新聞には書かれています。風評被害とは事実を中途半端に隠すことから始まります。少しは現実に目を向けてほしいです。アメリカの危機管理やコミュニケーションの出発点は常にフランクネスであり、事実を積極的に発信することです。日本のリスクマネジメントコンサルタントは、それとは逆の指導をしているような気がしてなりません。悪質なコンサルタントに、日本の組織は食い荒らされているのかもしれません。同じ職種の者として反省しなければいけませんが、寂しいことです。

今回の事件は、フィブリノゲン納入先公表の時を思い出させます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_12.html
厚生労働省には情報参謀はいないのでしょうか。
まあ癒着している情報コンサルタントにだまされているのかもしれませんが、風評被害のことくらいは自分でも少しは勉強してほしいものです。
すぐにでも詳細の所在地を発表し、対策や事実収集に取り組むべきだと思います。

■いじめの手段としてのテレビタレント族 2005年7月31日
不思議な光景でした。自分の価値観が間違いではないかという気になりそうでした。
テレビの生番組で、今話題の次世紀ファームの堀代表がテレビタレントの人たち10人くらいを相手に質問に答えるという番組がありました。タレントの中には元裁判官だとか現医師だとかいう肩書き依存のタレントもいました(娘の話ではテレビにも良く出る有名な人だそうです)。1時間くらいの番組だったのですが、なぜか観てしまいました。
テリー何とかという極めて見識のなさを感じさせる人を初め(この人は言葉遣いを知りませんね)、大勢の人たちが堀さんに質問し、怒りをぶちまけていましたが、とても不思議だったのは、なぜか堀さんが正しいような気がしてしまったことです。恐ろしい話です。一応、私も堀さんが起こした事件の概要はテレビで知っているのですが。
タレント側で唯一論理的だったのは梨本勝さんだったように私には感じられましたが、他のタレントたちの発言にはいささかの共感も持てませんでした。現医師の女性は最初から人を馬鹿にしたような表情で不愉快でしたし、元弁護士の人もコミュニケーションしようという姿勢が皆無でした。これでは魔女狩りでしかありません。同じ穴の狢のだましあい、ののしりあいでしかありません。大勢で弱いものをいじめている構図でしかないわけですが、私が最後まで見てしまった理由は、堀さんが(論理はかなりめちゃくちゃではあっても)最後まで謙虚な姿勢と丁寧な言葉遣い(表情も含めて)を貫き通したことです。子どもの頃からきっと厳しい「いじめ」に耐えて鍛えられてきたのでしょう。そんな気さえしました。
それにくらべて、他の人たちの言動はひどいものでした。テレビは人間性を破壊するのかもしれません。彼らもきっと、それほどの性悪ではないのかもしれません。しかし、彼らの品格と優しさのない対応が、堀さんを善人に感じさせてしまうとしたら、怖い話です。同じ穴の狢としか言いようがないわけです。
これが現代の「知性」の正体なのかもしれません。

堀代表が売っている商品のうさんくささや経歴などの不正確な表現は、おそらくこの番組に登場したタレントたちの売っているものや自己表現とたいして変わらないだろうと思います。だからこそ、彼らは寄ってたかって同類をいじめているのだと思いますが、こんな番組を創っているマスコミにはやはり失望しますね。
もっとも、それを1時間も見ていた私は、それにわをかけた俗悪な存在なわけですが。いやはや。

とても気になるのは、こうしたタレントや番組が、おそらく本人の本意とは別の効果を生んでいると言うことです。テレビは、まさに両刃の剣です。もう少し真剣に番組作りに取り組んでほしいと思います。

<2005年8月>

■カネボウ粉飾決算における責任追求と原因究明(2005年8月1日)
この記事はCWSコモンズの週間報告にも書きましたが、ここで時々議論している「組織の倫理」と「組織の論理」につながる話なので再録させてもらいました。

カネボウの粉飾決算が話題になりだしました。
そして、ついにかつてのトップが逮捕されてしまいました。
テレビを見ていたら、その一人の宮原卓さんの映像が移りました。
私の知人の宮原卓さんでした。

カネボウの粉飾決算は、おそらくかなり広い範囲でささやかれていたことであり、私ですらかなり前から何となく聞かされていました。
まあ、そんなことはそうめずらしいことではありませんので、そう気にもしていませんでしたが、
その規模はかなり大きいのと経営幹部の意図的な操作のすごさから、問題になるのは時間の問題だとは思っていました。
しかし、そのトップに宮原さんがいるとは知りませんでした。

宮原さんは三井銀行出身です。
私が東レにいた時代、三井系の会社の企画調査関係のスタッフの集まりをやっていました。
その時に一人が宮原さんです。
私とは大学卒業年次が同じですので、親しみを感じていました。
それにとても真面目な人柄でした。
宮原さんが三井銀行からカネボウに派遣されたのは19995年です。
当事のカネボウはすでにさまざまな問題を山積していたはずです。
最初はまさか彼がと思いました。いや今でも信じられない気分です。

これもたまたまなのですが、今日、その集まりのメンバーの一人から40数年の会社生活を無事終了したという挨拶状が届きました。
そして宮原さんの事件です。
安定した大企業に入社し、真摯に仕事に取り組んできた2人の知人の明暗をわけたのは何でしょうか。

安全学を提唱している村上陽一郎さんが「第三者機関による事故情報の収集と分析」の大切さを指摘しています。
そして、事故に対して「責任の追及」よりも「原因の究明」が大切だと言っています。
同じことが企業活動にも言えると思います。
宮原さんがなぜこんな不運に巻き込まれたのか、彼の責任を追及することも必要ですが、
それ以上に必要なのは原因です。

責任の追及は「倫理」問題ですが、原因の究明は「論理」問題です。
そうした発想が、残念ながら日本にはほとんどありません。
西武鉄道で自殺した社長も、組織の論理に負けたのです。
思考のパラダイムを変えないと、こうした悲劇がまだまだ繰り返されるでしょう。

■犯罪にどう立ち向かうかで社会の枠組みが見えてきます  2005年8月2日
世田谷一家殺人事件の犯人が着ていたのと同一のトレーナーを売っていた店が公表されました。事件後、4年半経過しています。この感覚がどうも理解できません。
私は最近、1週間前のことが思い出しにくくなりましたが、そうでなくとも4年半前のことを思い出すのは難しい話です。なぜ今頃になってと思わざるを得ません。もっと早く公開していたらと思うのは私だけでしょうか。
この事件では、いろいろな情報が小出しに出されてきたように思います。
どこかで捜査方法に間違いがあるように思えてなりません。

あの事件は衝撃的でした。
宮澤さんとは面識がありました。事件の翌日、まず新聞記者から電話がありました。しばらくして警察の人がやってきて、宮澤さんのことをいろいろ質問されました。
残された情報の多さからすぐ解決するだろうと思っていましたが、まだ解決できていません。公開捜査は難しいのでしょうか。
この事件に限りませんが、最近は事件にまつわる情報も、プライバシー問題があるせいか、なかなか公開されません。カメラなどに残された写真をもっときちんと公開すればすぐにでも被疑者の特定ができるのではないかと思うようなことも少なくありません。しかし、テレビでは顔が消されることが少なくありません。

情報は公開せずに、捜査官にとどめておくことが効果的な場合もあるかもしれません。しかし、多くの人の目を活用したほうが効果的な場合が多いはずです。
犯罪で迷惑をこうむるのは社会であり、一般生活者であることが多いでしょうが、もしそうであれば、犯罪にまつわる事実はもっと公開されるべきです。
なぜ公開されないのか、それは犯罪で迷惑をこうむるのは社会や生活者という視点が不在だからかもしれません。そんなばかなと言われそうですが、十分ありえる話です。
もしかすると犯罪の定義は「秩序を壊すこと」なのかもしれません。そう考えると犯罪の見え方は全く変わります。秩序が壊れて困るのは誰か、そこで生活する人も困りますが、最大の困り手は社会を管理し統治する人です。北朝鮮の国家秩序が壊れて一番困るのはだれでしょうか。
同じように、イラク復興の意味も、かなり違って見えてきます。

生活者の安心安全のための犯罪対策や犯罪解決の方法はどうあるべきでしょうか。
とても重要な問題です。
視点を組織や全体から個人に変えたときに、警察や犯罪対策の取り組み方も大きく変わるように思います。しかし、今の捜査方法は江戸時代とそう変わっていないでしょう。

視点を変えると、さまざまな風景が一変します。問題解決の方法も一変します。
犯罪にどう立ち向かっているかで、その社会のパラダイムが見えてくるような気がします。

■費用徴収文化の恐ろしさ  2005年8月5日
7月末時点でのNHK受信料支払い拒否・保留件数(速報値)が117万件に達したそうです。昨年7月に発覚した元チーフプロデューサーの番組制作費着服事件以来、不払いが増えているようです。不払いまでは行かなくとも、当然のように徴収されることに不満を持っている人も少なくないでしょう。
制度的にお金を徴収される仕組みは他にもいろいろとあります。
源泉徴収もその一つです。国民である以上、当然と考えがちですが、たとえば参政権のない在日外国人の人も当然のように徴収されることには違和感があります。また、税金の使途があいまいでとても許容できないことに使われることもあるわけですが、その部分相当は納税したくないという人もいます。イラク派兵や自衛隊などに関して、軍事費支払拒否訴訟も起こっていますが、きちんと議論されたことはありません。みんな納税は当然だと思っているからです。
問題は納税ではなく、税の使途や徴収方法などですが、郵政民営化と同じで、実体を考えるのではなく、言葉で議論する人が多いので、問題すら共有されません。
納税者基本権は日本ではまだ裁判官の理解にはいたっていません。彼らはほとんどが支配構造の上での裁判官に自己規定し、組織からの発想の呪縛から脱却できないでいるからです。
国民から有無を言わさず資金を徴収する仕組みは他にもいろいろあります。赤い羽根募金はどうでしょうか。これも多くの場合、自治会費から徴収されています。それがどう使われているかの報告は一応ありますが、内容はみてもわかりません。
社会福祉協議会の会費もそうであることが多いのはご存知でしょうか。
社会福祉協議会の名前すら知らない人も多いですが、その組織は知らないうちに徴収された私たちのお金で運営されていることが少なくありません。今ようやく支払拒否の動きが出てきています。
お金を制度的に徴収するのであれば、その使途に関する説明は必要ですし、それに関する負担側の評価システムが必要です。それがないのは、どこかに「お上」意識があるからです。いいければ、官民思想です。いうまでもありませんが、官は統治するもの、民は統治されるものです。
その思想は昨今の民営化にももちろんしっかりと繁栄されています。民営化の意味をみんな少しは真剣に考えるべきです。

高速道路を無料にしようという提案がありましたが、あまり共感は得られませんでした。日本人は統治者にお金を徴収されることになじんでいるのだと言うことの証左かもしれません。
その根源には、納税体制があるのかもしれません。税金をまず国家に納めると言う枠組みが、そうした感覚を育ててしまったのかもしれません。
年金も社会保険も、すべてそうした文化の中で、徴収した側の責任が曖昧になっているのが現状です。構造を変えなければ事態は変わらないように思えてなりません。

■広島宣言と小泉言動  2005年8月6日
広島被爆から60年です。
記念式典での市長の広島宣言と首相の話をテレビで見ました。
小泉首相がこの席にいることに、私はかなりの違和感を持ちますが、気のせいか、小泉首相の目は落ち着きがなく、言葉にも力がありませんでした。もちろん内容はいつものことながら空疎でした。
小泉首相は、秋葉さんの言葉や子ども代表の言葉を、どう聴いていたのでしょうか。
きっと何も感じていないでしょうね。

日本は小泉内閣の下で大きく非平和に向けて舵を切りました。
歴代内閣の延長線でしかないといえるかもしれませんが、大きく変質したのは間違いないように思います。壊したものはなかなか戻りません。

いつものことながら、
沖縄平和祈念資料館に書かれていた言葉を思い出しました。

■民営化コンプレックス 2005年8月7日
郵政民営化には私は反対、というとみんなから怪訝な顔をされます。
いつまでにという時間軸を別にすれば、みんな民営化賛成のようです。
今の進め方は強引かもしれないが、小泉首相の時代に民営化しておかねば、もうだれもやれないだろうという有識者や国会議員もいます。不思議なことに、この数日のテレビキャスターの多くもそんなニュアンスが感じられますし、大手新聞の論調はみんな民営化賛成なのだそうです。新聞はいい加減にしか考えていませんし、有識者やキャスターは迎合的ですから、まあどうでもいい話ですが、真剣に考えていると思っていた若手の国会議員までもそういう意見を言うのを聞いていると、民営化コンプレックスの深さを改めて実感します。みんな国家を信頼していないわけです。私のような国家が嫌いな人間よりも、彼らは国家を信じていないのでしょう。そうでなければ、安直に国営よりも民営がいいなどと言うはずがありません。不思議な話です。
なぜ民営化が望ましいことなのか、私には理解できないのです。

私が民営化に反対なのは、官と民の構造がそのままでの民営化は、開かれた私有化よりも危険だと考えるからです。いうまでもなく、「官」とは統治するものであり、「民」とは統治されるものです。つまり上下関係の構造なのです。民に任すとは責任を曖昧にすることでもありますし、利益配分を統治者もしくは経営者に集中させると言うことです。地方分権が中央集権の延長であるように、民営化とは権力集中の延長のように思えてなりません。それを避けるためには、官のガバナンスを変えなければいけません。そこには「共」という概念が出てきます。民営化でも国営化でもない、ガバナンスの仕組みがあるはずです。
民営化は、これまで国民の税金を使って作り上げてきた資産利権を一部のものに格安で提供すると言うことでもあります。JRやNTTが高収益を上げられるのはただ同然で膨大なインフラ資産を入手したからです。その上で、利益が上がらない路線は閉鎖したり、ただ同然のインフラを使ったサービスをかなりの高価格で売り出したりしたわけですが、それは私企業の論理です。それが日本の社会の形を大きく変えたように思います。
税金が節約されたと言う言い方がありますが、それは単に税金の使い方が間違っていただけの話です。その管理と是正の仕組み、つまりガバナンスの仕組みがなかったわけですが、民営化によって、ますます実態は見えなくなるでしょう。民営化されたら、その使い方も評価できませんし、経営の基準も変わるのです。カネボウを考えればよくわかることです。
ちなみに、民間活力の導入と民営化とは全く違う話だと思うのですが、民活導入には私は当然ながら賛成です。

こうした構造的な問題をもっと整理してほしいですが、それ以上に違和感があるのが、ビジョンやグランドデザインがないままに、効率性や財政問題で民営化が議論されていることです。日本の社会の形は、そんな要素から議論すべきではありません。民営化は手段であって、目的ではないですし、ましてや民営化万能などではないのです。

そうした認識にそって結論された民営化であれば安心ですが、どうもそうは思えません。公社化からさらに民営会社へ。その過程で一体どのくらいの費用が発生するのでしょうか。市町村合併を推進した片山議員には損害賠償を請求したいくらいですが、民営化も膨大な新たな利権と無駄が発生します。政治家が群がるはずです。

こんなふうに考えるのは、あまりに不勉強な結果でしょうか。

解散選挙で、この数か月の政治的空白を解消してほしいと思っていますが、世間の常識はどうも反対のようです。ここでも私の感覚は世間とはずれているようです。困ったものです。

■郵政解散における問題構造の本質 2005年8月9日
郵政法案が否決され、解散になりました。ようやく国民が意思表示できるようになりました。とてもいいことです。解散が悪いなどと言う人がいますが、この人たちは民主主義に反対していることに気づかねばなりません。500億円もかかるとだれかが馬鹿な発現をしていましたが、今の状況での無駄遣いは500億円どころではありません。いずれにしろこれで政治的空白はなくなる可能性が出てきました。

小泉首相はまた得意な嘘を突き出しました。
国会が郵政民営化を否定したと昨日の記者会見で話しました。この人の嘘つきは日本を誤らせてきました。彼がついたうその多さは犯罪を構成すると私は考えています。これについては、昔、ホームページのメッセージでも書いたことがありますが、その一つを紹介しておきます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m2
議員の嘘は彼に始まったわけではありませんが、森首相を選んだ時に青木さんと野中さんがついた嘘から、嘘の次元が変質したと思います。この人たちが日本を変えてしまったように思います。

国会は郵政民営化を否定したのではなく、民営化の内容とその進め方を否定したのです。両者は全く違います。きちんとした郵政民営化を否定しているのは小泉首相だと言っていいでしょう。猪瀬さんも同罪です。

北朝鮮との関係で、拉致問題と核問題とどちらが基本かを書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/07/post_c1da.html
拉致問題を放置している国家と、いかなる取り決めをしても意味がありません。まずは相手が取り決めをするにたる資格があるかどうかが先決問題なのです。順序を間違ってはいけません。
同じことが今回の郵政問題でも言えます。
大切なのは政治のあり方であり、民主主義の原則です。
今回の小泉政権はそれを踏みにじっているのです。
そこにこそ大きな問題があります。
郵政民営化は数年遅れてもたいした問題ではありません。すでにその第一歩は踏み出されていますし、問題の所在は見えているからです。
しかし、国政の形ややり方は、そうはいきません。
言葉のごまかしを重ねながら、小泉首相は日本の平和憲法を踏みにじり、戦争に向けて一歩踏み出させた人物です。国会を私物化し、無血クーデターまがい(法と国民の意思を否定しての暴走)を起こした人物です。そしてその周りには、それを支える人たちが群がっています。この構図は道路公団と同じに見えます。いや、数十年前の戦争に進んでいった時の政府と同じかもしれません。

国民が問われだしました。
その選択に私はかなり悲観的ですが、まずは解散を歓迎したいと思います。

これは私の「コモンズの回復」につながる大きな問題ですので、ゆっくり書き込みたかったのですが、時間がないため、ともかく書きました。

■裸の王様たちへの失望 2005年8月10日
日本の政治の流れがもしかしたら変わるかもしれないと思っていました。
しかし、解散後の政治家たちの発言を聞いたり、マスコミのオピニオンリーダーやキャスターの話を聞いたり、あるいは世論調査結果などを読んでいると、どうもそれは難しそうな気がしました。
私見では、まともに発言しているのは民主党の岡田さんだけですが、民主党には戦略参謀も広報参謀も不在のようです。川端幹事長の発言にはビジョンと戦略を感じません。特にコミュニケーション戦略が不在なのでしょう。かつて民主党の勉強会に呼んでもらったことがありますが、進歩していないようです。
岡田さんは真正面からの発言で私は好感をもちますが、小泉首相ほどではないとしても、やはり裸の王様になってきているような不安を感じます。
岡田さんに質問するキャスターなどの姿勢はひどいもので、岡田さんの話など全く聞かず、しかも民主党は批判だけで政策もないという紋きり型の質問だけです。少しは勉強して、主体的に考えろと言いたいですが、今のタレント化したキャスターや有識者には無理な期待かもしれません。
それに輪をかけて、国民の意識調査には驚きを感じます。
こうやって世界は戦争に進んでいくのでしょうか。
パンとサーカスにすっかり洗脳された日本人とは、付き合いたくないと言う嫌世気分に陥っています。しかし、今日は3組のNPOの人と会い、その後、NPOの集まりにも出なければいけません。政治とは別の生活現場ではみんな真剣に生きています。言葉だけの世界では、やっていけないからです。

それにしても、法案反対の議員たちは、ただ反対だけで、ビジョンもプログラムもなかったのでしょうか。これでは最初から勝負は決まっています。千載一遇のチャンスを活かそうとする知恵者は小泉首相だけなのでしょうか。小賢しい悪知恵が勝つ社会には未来はないような気がします。

■パンとサーカスの饗宴 2005年8月14日
選挙に「刺客」が登場しました。
小泉首相の本性を少しだけ露出しましたが、それを歓迎する世論もあるようです。
小池議員が「くの一」を引き受けたようですが、これはまさに俗悪なB級映画を見ているようですね。彼女には知性というものがないのでしょうか。
私が参加している平和を語り合うネットワークでも、それならば小泉首相に「平和の刺客」を送ったらどうかなどと言う議論も起こっています。ばかげた話です。日本の平和活動の底の浅さを感じます。しかし、その一方で、ちょっと賛成する気分があるのも事実です。悪は悪を育てていきます。
人気だけが取り柄で政治家になったタレント議員のひどさにはあきれますが、またぞろ官僚から政治の世界にかなりの人数が送り込まれるようです。
財務省の片山さんという方は、今こそ時代の分かれ目といっていますが、そうした人たちが時代の流れを一生懸命に守っているわけです。彼らは決して時代を変えようとしているわけではありません。変えられては困るから、権力の座を守れる社会構造を死守しようとしているわけです。権力に寄生する野心家は、いつの時代にもたくさんいます。官僚はその巣窟ですから、きっと人材には事欠かないでしょう。
しかも、表層的に見ると、小泉内閣は時代を変えようとしているように見えてしまいます。今日もテレビで竹中さんと管さんが対論していましたが、聞いていると竹中さんのほうに余裕があり、視聴者はきっと竹中さんに軍配を上げたでしょう。

いま問われている問題はあまりに大きいですから、個別論に持っていったほうが勝つに決まっています。しかし、そうした部分対応での政治が破綻を起こしているわけですから、そこでの勝ちはきっと負けになるのですが、短視眼で各論しか認識できない私たちは舞台を創った人には勝てないのです。
今日も竹中さんは「民営化に賛成か反対か」と管さんに質問していました。管さんはうっかり反対と答えてしまったのです。それは今の民営化法案に反対と言う意味ですが、聞いた人は菅さんが「民営化」に反対だと思うわけです。事実竹中さんもそういって菅さんを追い詰めていました。性悪な小賢しさです。権力者の常套手段ですが。
民営化は手段です。価値評価すべきはその内容なのです。そんな簡単なことすら理解できないほど、私たちは愚民化してしまったのです。そこを小泉首相を動かす人たちに突かれてしまっているわけです。

こんなサイトがあります。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
たとえばこのサイトの2005年森田実政治日誌[246]を読んでみてください。
こんな話もあるのです。
民営化の罠を少しは考えなければいけません。
小選挙区制や二大政党制などというひどい仕組みを導入した時に、それに加担した日本の大新聞社の論説委員が、導入後になって反対意見を述べた現場に居合わせたことがあります。その時から新聞社の論説委員は信じられなくなりました。新聞社もきっともう主体性を維持できなくなってきているのでしょう。

それにしても、私の多くの友人たちも危機感を持っていないのが不思議です。私だけおかしいのでしょうか。
新党づくりもできない反対自民党員の人たちの最後の良識を期待します。

■戦争で死んだ人は英霊になってうれしいのだろうか 2005年8月15日
NHKで、「アジアの中の日本」に関する長い話し合いの番組がありました。視聴者参加番組です。会場には50人くらいのさまざまな人が参加していました。アジア各国の若者も多かったです。桜井よしこさんや寺島実郎さんや町村外相も参加していました。

日本はますます80年前の道を歩みだしたなと改めて失望しました。
もちろん、いくつか共感する意見もありました。たとえばある若い女性は、沖縄の戦没者の慰霊碑のような場所にこそ、首相は行ってほしいと涙ながらに発言しました、私も現地でそう思ったことがありますが、つられて涙が出そうになりました。安達さんという女性教師は靖国問題で桜井さんの発言を真っ向から遮りましたが、これにも拍手を送りたかったです。寺島さんは東条英機の遺言を引用して、もっと未来を見据えて本質的な議論をしようと示唆しましたが、桜井さんの瑣末な邪魔が入って思いは実りませんでした。全体を通して桜井さんの発言にはがっかりしました。理屈にもならない理屈が多かったように思います。いや、理屈だけの人なのでしょうか。

女房ともども、今まで見てしまったのは、ある高齢者(谷田川さん)の発言に感動したからです。
その人は、盛り上がっている議論に水をさすかもしれないといいながら、私の戦友たちは決して喜んで死んでいってはいない。そして彼らは靖国などで英霊として祀られることを望んでなどはいないと思う。ただただ、二度とこんな無意味な戦争で死ななければいけない人が出てこないことを願っていると思う、と言うようなことを、もっと感情を込めて、感動的な表現で語ってくれました。涙が出ました。残念ながら、その発言は発展させられませんでした。とても残念です。

それにしても、死者の視点が全くない議論にはいつものことながら哀しい気分がします。

この番組を見ていると、何かとても暗い気分になってしまうので、ニュースが入ったので見るのをやめてしまいました。
この番組は、もしかしたら軍国化に向けてのNHK戦略の一つかもしれません。あるいは小泉内閣への応援歌かもしれません。私もすっかり乗せられてしまったのかもしれません。
選挙はきっと小泉圧勝ですね。これだけのメディア動員力があれば国民はだまされてしまうでしょう。

■愚直なまでの平和政策 2005年8月16日
最近、このブログを書こうとするとどうしても政治の話になってしまいます。
どうしてこうもひどいタレント政治家が我が物顔にテレビを独占しているのでしょうか。付け焼刃で勉強したキャスターや司会者の迎合的な質問にもあきれますが、政治家自身の人格に疑問を感じます。高市さんも「刺客」になったようですが、こういう人たちが社会をだめにしていくのでしょう。社会にとってもっとも大切なのは、人としての生き方であり、誠実さと人間性だと私は思っています。郵政民営化はその先の問題です。郵政民営化と民営化法案を意図的に混同して問題の本質を覆い隠している人たちの多さには悲しさを感じます。

まあ、そんな愚痴をいくらこぼしても意味がないわけですが、昨日のテレビは、実はまた最後の1時間を見てしまいました。若者はやはり素晴らしいと思い直しました。やはり我々の世代がいなくなれば、きっといい時代が来るのでしょう。

しかし恐るべき発言もありました。町村外相の発言です。日本の学校で近現代史をきちんと教えないのは、教師がマルクスレーニン史観で教える恐れがあるから、教えないようにしていたのだ、という主旨の発言をしました。それこそが偏向教育であることに気づいていません。権力の走狗とはこういう人を言うのでしょうか。自分では発言の意味がわかっていないようでした。
その町村が司法が、日本は「愚直なまでに」平和政策を貫いてきた、と発言しました。どう思われるでしょうか。もしお時間が許せば、ぜひ田中伸尚さんの岩波新書の戦後史3部作をお読みください。「憲法9条の戦後史」「靖国の戦後史」「日の丸・君が代の戦後史」の3冊です。

■組織起点の時代の政治システムの呪縛 2005年8月18日
私のホームページやブログの根底には、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へという、社会構造原理の変化という認識があります。それが、私にとっての「コモンズの回復」です。きちんと書いたことがないので伝わりにくいかもしれませんが、その発想の転換をすれば時代は良く見えてきますし、企業も元気になりますし、地域も元気になると思っています。もちろん政治も変わります。

政治システムにおける政党政治は組織時代の発想です。
そろそろこうした政治の枠組みを見直す必要があります。

郵政民営化に反対した人たちは選挙で苦しい立場におかれています。無所属では選挙ではとても不利になるからです。いまの選挙制度は、まさに組織起点でつくられています。

組織とは何でしょうか。
一人ではできないことを実現するために、みんな組織をつくります。
組織はあくまでも「使い込むための仕組み」です。
ところが組織の恐ろしさは、組織には権力を集中させる性質があることです。
その結果、組織がメンバーを使い込むようになることなのです。
企業がその典型で、組織に雇用されたメンバーは組織に忠誠を尽くさないといけないという意識を育てていきます。そして最悪の場合は、組織のために過労死したり自殺したりするところまで行ってしまいます。そして結果的には、その組織自体を朽ちさせていきます。
忠誠心を育てる仕組みは組織には内在されていますが、その基本はメンバーにメリットを与えることです。企業でいえば、給料であり、名誉であり、小さな権力です。
英霊信仰の靖国や思考停止の君が代斉唱は、国家にとっての忠誠心育ての仕組みです。年金や健康保険などの社会保障システムもその一つです。

政党では公認とそれに伴い応援体制と資金提供が、その仕組みです。
自民党にみんながしがみついているのは、自民党が一番、参加のメリットが大きいからでしょう。そこには財界も法曹界も教育界も医師会もマスコミも、巨額資金と便宜を提供しています。もちろんそれ以上のものを自民党という組織を使い込みながら、獲得できるからです。この仕組みはそう簡単には壊せません。利益を得ている人たちが余りにも多いからです。

その構造を壊すのが、構造改革です。
しかし、実際には組織に立ち向かって勝てる見込みはほとんどありません。
次元が違うからです。
郵政民営化法案反対派の人たちが、結局は新党を作らなければいけなかったのは、実に象徴的です。彼らは組織起点の発想の世界に生きていますから、できた組織も組織起点のモデルです。新党に参加しなかった人は、自民党とのつながりを維持したほうがメリットが大きいのでしょう。規模の利益の信仰の呪縛から、みんな脱却できません。それは選挙民も同じなのです。

対する野党も、みんな組織起点で考えていますから、新党へのコメントも政党に雇われている人の発言に聞こえます。大きなビジョンを感じられません。
政党のために言動するのではなく、ビジョンのために言動する政治家にはなかなか出会えません。もちろん官僚にもいえることですが。

タレント族の政治参加は、自民党を壊す前に政治を壊すかもしれません。
選挙日が9.11というのは、ちょっと気になる符合です。

■ガザに象徴されていること  2005年8月19日
ガザ地区からの入植者の撤退は強制排除という不幸な状況になっています。当然予想されたことですが、政治家にとって国民とは何かが象徴されています。
いまや近代国家のフレームは、その有効性をほとんど失ってきているように私は思いますが、企業経営者や政府指導層にとってはまだ大きな利益創出装置なのでしょう。
イスラエル建国の話を映画化した「エクソダス」という映画で、パレスチナの地で仲良く暮らしていたアラブ人とユダヤ人がイスラエル建国の家庭で殺し合い関係になって様子が描かれていましたが、もし国家という枠組みさえなかったら、ガザでも仲良く共存していくことができたはずです。「イラク復興」に見るように、国家という枠組みが持ち込まれた途端に、状況は変わっていくわけですが、不思議なのはその対立構図が、国家間の横関係で起こることです。その背景には、国家は個人を守ってくれるという、全く根拠のない信仰があるためです。本来の対立構図は、国家や企業と個々人の生活なのです。やや極端にいえば、人間と制度の対立なのです。映画「マトリックス」の世界です。

ガザの映像を見ていると、なぜか十字架のイエスを思いだします。
ユダはなぜイエスを裏切ったのか。
ユダの裏切りで、イエスは自らの所業を成し遂げられた、とヨハネ福音書には書かれているそうですが、ユダは善意の政治家だったのかもしれません。しかし、展望の不確かさ故に、政治面では失敗しました。

政治家たちの展望は、いつも発想の起点を間違えています。ですからほとんどが失敗します。
汗している住民たちの暮らしから発想しない政治は、住民たちには不要の産物です。
しかし不幸なことに、社会は汗しない人たちによって管理されがちです。彼らは暇だから、管理に時間を割けるのです。

入植した荒地で苦労してきたイスラエル人の悔しさが、パレスチナ人に伝わるといいのですが。そこから暮らしの連帯ができれば、平和はすぐそこにあります。平和は政治の交渉からはではなく、暮らしのつながりから生まれます。しかし、パレスチナにはハマスがあります。うまくいかないものです。
平和を目指す仕組みが、実は平和を壊す仕組みに転化しやすいことを、心しなければいけません。
ガザの光景はたくさんの事を気づかせてくれます。

■野党へのメッセージ:野党が大同団結する時!! 2005年8月20日

日本の国政が小泉首相に翻弄されています。

法案の内容ではなく、「民営化」という言葉だけでのイメージ議論
不誠実で不真面目な国会討論
郵政改革という問題への国民関心の集中による政治空白の意図的創出
同じ党員でも反対者を抹殺するという行動
「守旧派」「造反」「刺客」という言葉遊び
有名人を取り込んだ政治の商業化

あげだしたらきりがありません。

幸いにして、解散になりました。
小泉首相の政治破壊(自民党破壊ではありません)を正すチャンスです。

しかし、野党の言動からは、そうした姿勢は見えてきません。
小泉自民党と結局は同じ行動様式が垣間見えます。
自民党内の内輪もめという捉え方をしていることも適切とは思えません。

今は日本の国政の危機なのです。
最後の曲がり角を曲がろうとしていると言ってもいいでしょう。
そうした歴史観を持った対応をするべき時期です。

野党が団結して、今回の選挙は、決して「郵政解散」ではないことを鮮明にし、
まずは政治を翻弄している現内閣体制を壊すことに全力集中すべきです。
野党同士が争って、自民党を利させていていい時期ではないのです。
ここはまずは大同団結して、選挙では小泉体制に圧勝しなければいけないのではないでしょうか。
それぞれの党が、自らの利害にこだわっているのであれば、小泉自民党と同じ穴の狢と言われても仕方がないでしょう。
今はそんな時期ではありません。

小泉首相は日本を大きく変えつつあります。
80年前と同じ状況が今、進められています。
そこをしっかりと認識し、各党の小さな思いを超えて、大きな思いを創りだし、パンとサーカスに洗脳されつつある、国民とマスコミを変えていかなければいけません。

そうした視点で、野党の連絡会を発足させ、社会に訴求していく運動を展開していくことが必要ではないでしょうか。現在の野党のコミュニケーション戦略は、そうした時代認識が欠けているばかりか、コミュニケーション戦略の面でも素朴すぎて、自民党に大きく負けています。
マスコミのすべてと有識者の多くも、勝ちが予想される小泉自民党に迎合しはじめていますので、ここはしっかりした戦略が必要です。

どこが動き出してもいいと思いますが、鍵を握っているのは民主党と共産党だと思います。場合によっては、国民新党も巻き込んでもいいはずです。
小さな党利党略にこだわっている時期ではありません。
ぜひ大きな行動を起こしてください。
日本の野党には、そうしたソーシャルマーケティングの視点が欠落しています。

党利党略を超えた集まりの動きを是非呼びかけてください。
きっとたくさんの人が反応するはずです。

流れを変えなければいけません。
この問題に関しては野党も与党もない問題かもしれません。
大切なのは誰が動き出すかです。

■個人を手段にする社会 2005年8月21日
現在の選挙報道を見ていると日本社会のさまざまな問題が見えてきます。
私たち国民も、パンとサーカスの饗宴の中で、ほぼ完全に家畜化していますが、権力者もまた人間性を失い、軍国主義の尖兵になってきています。
それは同時に、国家の解体の予兆だと思いますが、しかしどれだけ多くの犠牲を払うかにはいささかの不安があります。

立候補という言葉には、本来は主体性や自発性を感じます。しかし、昨今の自民党の候補者選びは立候補とはいえないでしょう。悪く言えば、徴兵制度のようなものです。もちろん大きな褒章を補償してはいるのでしょうが、その根底にある人間道具視や差別発想、内容よりも見栄えという商業主義など、不快さを感じます。
一番許しがたいのは、人間を手段にしていることです。人間魚雷や特攻隊の悪夢を思い出させます。選ばれた選民たちは自己責任ですからいいとしても、そうした動きが社会意識に与える影響を考えてほしかったと思います。
将棋の駒のように、一応は自分の世界を持っている人を選挙戦に狩り出すことができるのは、政権政党の権力と利得の大きさの故でしょうか。類は友を呼ぶのでしょうが、それにしてもあまりの広がりにあきれています。
個人を手段に使うような権力発想の広がりに抗して、私は人との人間的なつながりを大切にしたいと思います。
手段となった人がもしいれば、みんなでぜひとも人間に戻ってもらうように、応援したいものです。今回起用された候補者は全員が落選することを願いたいです。彼らの気づきのために。

新聞を見るたびに、政治が生活からどんどん離れているのが気になります。

■新党日本の田中代表のメッセージが広がってほしいです 2005年8月22日
政治争いのことはもう書くまいと思いながら、新聞やテレビをみると腹立たしさが募り、ついつい書いてしまいます。最近は私に鬱憤晴らしになってきましたので、読者はどんどんいなくなりそうですが、仕方ありません。
今日、腹立たしかったのは、みのもんたの番組です。どうしてこういう人が政治にまで口を挟むのでしょうか。年金追求もそうでしたが、あまりに不勉強で独りよがりです。最近の郵政問題では目に余る「無知ぶり」を発揮しています。読んでもいないだろうことをさも知っているように話します。しかし、こうした人の影響が大きいのです。現に番組に出ていた、えなりくんなどのタレントもひきづられた対応をしていました。それがまた影響を与えていくわけです。
しかし、そうした中でも田中さんはしっかりした主張をわかりやすく話してくれました。司会のみのもんたは全くそれに聴く耳を持たずに、話題を変えたり、めちゃくちゃな対応でした。
そのやり取りを聴いていて、私は田中さんの近くの人に票を投ずることにしました。やっとまともな話をする人が現れた感じです。岡田さんの、田中さんの話法を学んでほしいです。

但し、党名はひどいです。新党日本。これはみのもんたレベルですね。しかもロゴが最悪です。国旗をイメージさせます。これはかなり致命的です。人によっては強力なメッセージを感ずるはずです。これもたぶん、ただデザインを描く誰かに頼んだのでしょう。最近のデザイナーの無思想性には私は辟易していますが、これは大きな汚点なので、早速、メールしました。

それにしても、朝のテレビはどこも政治家とタレントがジャックしています。これは喜ぶべきか悲しむべきか、いずれにしろ朝から気分はよろしくありません。
働く気力をそがれます。

■陽動作戦 2005年8月22日
日本のマスコミはイラク情報を巧みに隠蔽している小泉首相に迎合するかのように、語るのをやめていますが、一体どうなっているのでしょうか。
メーリングリストなどではかなり流れていますが、ワハジュ・イラクのマジド議長が今月初めに東京で講演されました。マジドさんはファルージャ出身のレジスタンスリーダーですが、いまはイラクの実情を多くの人たちに知ってもらおうと世界を駆け回っているようです。先日日曜日のテレビで少しだけ紹介されていました。
各地での講演会の記録はまだ残念ながらネットには登場していませんが、マジドさんのメッセージは、占領がなくなればイラクの復興が始まるということです。いうまでもありませんが、日本の自衛隊の存在は占領と同じように現地の住民たちには受け止められているはずですし、マジドさんもそう述べています。私も同感です。もし日本に外国の軍隊が、日本復興を理由に駐留したらどんな気分でしょうか。その感受性が求められています。
イラク現地の人の声はきちんと傾聴すべきです。
マジドさんの活動は次のサイトをどうぞ。
http://homepage2.nifty.com/midoritokyo/0801tokyo_p.html

こうした大切な情報は、いまの郵政騒ぎでほとんど扱われなくなっています。
先日、ラジオの永六輔さんの番組で、郵政騒ぎのなかで障害者自立法があぶなく成立してしまいそうだったことへの怒りの投書が読み上げられていました。私はコムケア活動の関係で少しですが、その法案のことは聞きかじっていましたが、嘆かわしい話です。解散になったおかげで、この法案も廃案になりましたが、いつまた提出されるか知れたものではありません。
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm

他にもさまざまな動きがあります。為政者は国民には見せたくないのでしょう。
郵政民営化に目を向けさせておいて、その後ろで何が行われているか、それが問題です。有識者は、そうしたことを知っているはずですが、権力に迎合してか、あるいは寄生しているせいか、情報発信してきません。
そういえば、数年前に公益法人改革法案のときも、NPOの扱いが問題になっていたのに、NPOの中間組織の代表の人たちのほとんどは情報発信してくれませんでした。有識者ほど、信じられない人たちはいないと、改めて思いました。その時は幸いにある志のある人が問題提起し、流れを変えました。公益法人改革オンブズマンの浜辺さんです。
http://www.houjin-ombudsman.org/index.html

郵政民営化などという話にだまされてはいけません。
イラクや拉致問題や福祉の切捨てや年金問題など、本当に大切な課題はほかにあります。小泉首相を応援するのであれば、自分が戦場に狩り出され、不労所得者の贅沢のために増税の負担を引き受け、生活を監視される生活を甘んじなければいけません。その現実をわかってほしいものです。
もしかしたら、学校で近現代史を教えないのは、そのことに気づかれるといけないからかもしれませんね。いま、やっとわかりました。なるほど。

■警察の民事不介入原則と共謀罪 2005年8月24日
また隣人騒音事件です。一宮市の一人住まいの女性が、朝の4時かラジオを大きくかけ続け、フライパンなどをたたき続ける行動を10年にわたって行っていることがテレビで放映されていました。警察も対処できないようです。その背後には「民事不介入の原則」があります。警察は刑事事件でないと介入してこないのです。
これは一見合理的に見えて、全く無意味な原則です。なぜなら「民事事件」と「刑事事件」は連続的であるばかりか重なっていることが多いからです。桶川市ストーカー殺人事件はその典型的な事例ですが、これに限らずすべての刑事事件は民事から出発します。
ですから民事不介入の原則は、解釈によってはいか様にも対応できる多義性をもっていますから、管理発想の下に成り立つ思想なのです。いいかえれば、よくある「無意味な概念」です。
警察や行政は、一宮市の常軌を外した一住民の10年間の暴挙をとめることができなかったわけですが、これは民事ではなく明らかに刑事事件の要件を構成しています。しかし、管理発想からは放置しておいてもいい事件だったのでしょう。
たとえば、これも記憶に新しいですが、イラク派遣反対のチラシを住宅のポストに入れただけで逮捕された事件がありました。10年間の暴挙と比べて、どちらが犯罪性が高いでしょうか。誰にでもわかる話です。しかし、権力者の判断基準は違うのです。警察がもし、生活者の視点で行動しているのであれば、逆に動くはずですが、残念ながら今の警察はそうではないようです。
ところで、一宮市の事件ですが、皆さんが被害者になったらどうしますか。公的制裁が加えられないと言う前提です。我慢しますか。転居しますか。あるいはその人に私的制裁を加えますか。
私は転居しそうです。我慢はできません。また私的制裁となると、いささか自制力に自信がありませんので、それこそ刑事事件に発展させてしまいそうです。まあ警察の思う壺かもしれません。
しかし、きっともうひとつの道があります。共的制裁です。つまりコモンズ発想です。
被害者がみんなで行動を起こすのが一番でしょう。これは、しかし誰でもが考えることです。当然、一宮市の住人たちも取り組んだはずです。にもかかわらず、事態は10年も続いています。どこかに問題があるのです。つまり法体系に欠陥があるのです。その出発点が、民事不介入という枠組みであることはいうまでもありません。
では、みなさんが加害者だったらどうでしょうか。同じような暴挙を繰り返していた奈良の女性は逮捕されましたが、逮捕されるとわかったらやめるでしょうか。たぶんやめないでしょうね。そうした暴挙を続ける原因が解決されないからです。ここでもコモンズ発想が重要になってきます。

ところで、こうした状況の中で、共謀罪が議論されています。
どう考えても納得できません。治安問題はもっと生活の視点で真面目に考えていくべきです。郵政問題のような「瑣末な問題」とは違って、未来を決める重要課題なのですが、どうも世間の常識はそうはなっていないようです。

一宮市の女性はまもなく逮捕されるでしょう。テレビでここまで話題が広がると、さすがの警察も少しは真面目に動き出すでしょうから。しかし、そうした対症療法的な対応でいいのでしょうか。治安は管理できないものです。
民事不介入の原則は、きちんと再吟味すべきです。

■がん患者にとってのサプリメント情報(2005年8月24日)
政治ネタが続いていますので、気分を変えて。

昨日、女房と病院に行きました。がんセンター東病院です。定期的に主治医が対応してくれているのです。できるだけ一緒に行くようにしています。先生に会うと私たちも元気になります。そういえば、ある人が帯津良一さんの写真を見ただけで元気になる患者がいるとお話になっていましたが。心境はよくわかります。

友人が万田酵素を勧めてくれました。試してみようかどうか、迷っています。しかし、評価能力がないのです。
女房のがんが発見されて以来、さまざまな方からさまざまなお勧めや情報をもらいますが、評価能力がないために対応に苦慮します。それに、いずれも高価ですので気楽には試用できません。がん患者学を書かれた柳原和子さんはサプリメント代が毎月10万円を超すと書かれていましたが、よくわかります。
いずれもエビデンスがないが故に、高価なことが「エビデンス」になりかねないのです。月2万円を越すものはやめたほうがいいということを言う人もいますが、当事者にとっては無意味なアドバイスです。
今週、たまたま知人の方がかなり重度の甲状腺のがんであることを知りました。私の知っているサプリメント情報を提供したいのですが、これがまた難しいのです。
以前も書きましたが、がんに効用があるというサプリメントはたくさんあります。しかしいずれもあいまいな情報しかありません。西洋医学の医師の多くはまだ否定的というか情報を余りお持ちではありませんし、きちんと評価しようという姿勢はほとんどありません。その一方で、効用を確信している体験者や開発者もいます。大手企業も発売していますが、ネットで読む限り、あまり正確な情報を開示しているとは思えないものが多いです。一方、利用者は精神的に余裕がありません。そうした状況の中で悪質な商売人も入り込んできますし、信頼性に欠ける噂話も広がります。
NHKが「がんサポートキャンペーン」を展開していますが、そのホームページには投稿欄をのぞけばサプリメント情報はありません。リスクが大きすぎるからでしょう。しかし多くのがん患者にとって、一番関心のあることの一つがサプリメントの評価なのです。
エビデンスのないものは評価できないという医療の世界では医師が評価するのは難しいでしょうが、そもそも医療におけるエビデンスは100%のものなどないはすです。事実、かつて三共のクレスチンが鳴り物入りで売り出され、三共の経営危機を救ったにもかかわらず、その後、効用に疑問が出されたこともありました(また最近復活の動きもあるようですが)。医薬品だってかなりいい加減なのが実状です。だとしたら、こうしたサプリメントに関する情報の評価支援の仕組みに真剣に取り組んでもいいでしょう。いや取り組むべきです。
ネットで時々調べるのですが、よくわかりません。
もしどなたかサプリメントの評価を集めているサイトをご存知の方がいたら、教えてくださいませんか。
また、なにかがんに効用のあるサプリメント情報をお持ちの方はぜひ教えてください。
今回はお願い事になってしました。

■仁義の大切さ  2005年8月26日
新たな小政党がマスコミのキャスターまがいたちのイジメにあっているような気がします。
特に長谷川さんの「移籍」に関する批判が少なくありません。数合わせではないかと言う人がいますが、数合わせなのです。何をいまさら、と言いたいところです。そういうわかりやすいところには、そして相手が弱いところには、みんなイジメを始めます。最近の日本人は昔と違って、弱いものへのイジメが好きになっています。きっと自らがいじめられているからです。いじめに耐えてこそ、有名になれるのが日本の社会なのかもしれません。陰湿な社会です。それをこそ、変えなければいけません。それに比べたら郵政民営化などは瑣末な問題です。

今度の選挙では、日本の未来が問われていると私は思っていますが、そのポイントは、思いやる心や人間的な痛みへの理解や嘘をつかない素直さです。そうしたことを捨ててきた結果が、今の日本社会です。この文化を創出し、そこに乗っているのが、財界と政界の長老たちだと思います。
先日、テレビで田中康夫さんが、「財政の借金を160兆円も増やしておいて、何が構造改革だ」と話していましたが、その通りです。しかし小泉首相に迎合している番組のキャスターやコメンテーターは全く反応しませんでした。彼らが考えている構造改革は権力と富の集中であり、そこに自らを寄生させるポジションの確保です。そうとしか思えない人が多すぎます。

イジメの尖兵たちは、比例区並立という巧妙な枠組みの中で当選が確約されています。自らの生活を守ってもらいながら、相手をいじめるのが彼らの役割ですが、こういう人が成功する社会でいいのでしょうか。次世代に胸をはれますか? 彼ら、彼女らの品格を哀しみます。

しかし民主党の岡田代表もまた、その土俵に乗ってしまっています。「自民党というコップの中での争い」などと言っては、同じ狢であることを露出しています。想像力が完全に欠如しています。自らは小さな問題ではなく大きな問題に取り組んでいると力説していますが、もしそうなら無視すればいい話です。私には岡田さん自身が小さな問題に終始しているようにしか思えません。彼には大局を見る眼がありません。失望しています。しかし、ここは岡田さんに期待せざるをえませんので、もう少し魅力的な話をしてほしいです。誰か原稿を書いてやったらどうでしょうか。

政治の話は書くまいと思っているのですが、やはり1日1回は書かないと胃が破裂しそうです。こんな人たちと同じ社会を創っているのかと思うと、最近は仕事が全く手につきません。人間嫌いに陥りそうです。その上、私の会社がつぶれそうです。いやはや、困ったものです。

■創造と破壊の両義性 2005年8月27日
小泉首相は、日本の古い政治体質を壊していることを評価するという意見があります。自民とも壊したではないか、という論調です。
たしかに反対派議員の一部は離党し、自民党に対立して立候補しました。自民党は壊れてきているようにも見えます。融通無碍な自民党文化は否定されているようにも見えます。小泉首相は自民党による政治の独占体質を壊し、新しい政治文化に向けての創造的破壊に取り組んでいるのでしょうか。
私は明らかにノーと言いたいと思います。

壊すことと創ることは、コインの裏表のような関係にあります。創ることは常に壊すことであり、壊すことは常に創ることです。問題はどちらに意味があるかです。

小泉さんは自民党を壊すと言っています。
自民党の何を壊すのでしょうか。あるいは何のために壊すのでしょうか。壊すことは目的概念にはなりえない言葉です。民営化、構造改革、すべてが手段概念です。手段で議論するのが内容のない作業者の特徴ですが、一国の指導者は手段概念で語ってはいけません。目的が重要なのです。
私は10年以上、企業の変革を仕事にしていました。日本企業は変革を口にしながら、何も変えませんでした。目的概念、つまりビジョンが不在だったからです。所詮は本気ではなかったのです。それゆえに壁にぶつかり、疲弊しているのだと思います。いまバブルなほど高収益を上げている企業も多いですが、それはかつての経済システムの残渣の最終刈り入れをしているだけです。自らのやっていることに気づいてほしいです。それこそがCSRです。また横道にそれました。反省。

小泉首相が壊していることはいろいろありますが、私は自民党や古い政治体質ではなく、日本の話し合い文化であり相互支援の仁義ではないかと思っています。そして、もっと重要なのは彼が創りだしているものです。それは富や権力の集中構造です。
反対者の声に傾聴する代わりに、抹殺を働きかけ、自らに恭順の意を示した八代さんのような日和見者には恥もなく、恩賞を与えるのです。恩賞は権力の象徴です。私たちの税金を勝手にアメリカに提供するのと同じことです。こういう言動を独裁と言わずに、なんと言うのでしょうか。そしてこれこそが一部の大企業経営者と組んで金銭による権力支配を目指す自民党政治の本質なのです。つまり自民党体制をさらに確固たるものにしているとしか私には思えません。
たくさんの反論をもらいそうですが、彼の破壊は陽動作戦でしかありません。何しろ彼は記者の質問にも具体的に答えられないほど、内容が空白の人なのですから。

こんな記事を教えてもらいました。
ぜひお読みください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000552&tid=beaec0tfhbadba4r5va49a4j&sid=2000552&mid=35

■民から共へ 2005年8月28日
腹が立つのでテレビの政治家座談会のようなものは見たくない気分なのですが、ついつい見てしまいます。また見てしまいました。冬柴さんと武部さんがめちゃくちゃな議論をしていました。私欲だけの人はどうしようもないと思いました。
民主党の岡田さんが「民」にはNPOもあるといっていました。
社民党の福島さんは「民営化」の「民」は民間企業のことだといっていました。
「民営化」とは多義的な言葉です。
唯一つだけいえることは、「民」とは統治される主体性のない存在だと言うことです。

NPOと「民」とは似て非なるものです。
もっとも日本のNPOは「民」発想かもしれません。官に寄生したり管理されたりしているNPOは少なくないように思います。

「民」ではないNPOとは何か。
私が考えるNPOは、主体的な存在としての生活者集団、住民集団です。それをベースにした市民集団も含めていいでしょう。いわゆる「民」と違うのは、統治の対象者ではなく、統治者なのです。コモンズ主体と言ってもいいでしょう。いまの社会システムのサブシステムではなく、社会システムのリフレームのイニシアティブをとる存在です。

郵政の組織変革のモデルは、「民」ではなく、こうした新しい組織原理によって構成されたコモンズ(共)組織であるべきだと思っています。どこが違うのかと言えば簡単で、組織ガバナンスの仕組みが違うのです。コミュニティ・ガバナンスへの関心が高まっていますが、まさにその一例だろうと思います。

「官から民へ」とよく言われますが、私は「官から共へ」が時代の方向だと確信しています。
私たちも、そろそろ主体性のない「民」の立場から脱却しなければいけません。

■隠居は最高の贅沢です。 2005年8月29日
企業を定年退職した後、郷里の福岡に戻った藏田さんが立派な野菜を送ってきてくれました。しかも10種類以上のさまざまな野菜です。もちろん藏田さんの手づくり野菜です。その立派さに女房ともども驚きましたが、しかもそこに「おしながき」までついていました。藏田さんらしいおしゃれな遊びです。

私たち夫婦の友人知人が会社を定年で辞めてから農業に取り組んでいるケースはすくなくありません。やはり土の魅力や手づくりの魅力は大きいのです。
私たちも実は宅地予定地で野菜作りを今年から始めました。まだ土づくりの段階ですが、10種類以上の野菜を女房が植えました。なかなかうまくはいきません。近くの人が時々指導してくれますが。

先日は遅まきのジャガイモを掘り起こしました。植え付けが遅かったことともう廃棄直前の苗だったためか、変形の芋が多く、近所の家に配ったら変な形のものしか残りませんでした。おそらくこういう形のものがお店で売っていたり、誰かからもらったりしたら食べずに捨てていたでしょう。しかし、一応、手塩にかけての作品ですから、丁寧に皮をむいてみんなで食べました。ちょっと考えさせられた話です。
昨日は地元の住民の集まりでいささかストレスが溜まったので、女房の誘いに乗って、また土を耕しました。たいした仕事ではないのですが、運動不足のために立ちくらみがします。やはり生き方が間違っているのでしょうね。しかし気分は爽快になります。

藏田さんにお礼のメールをしたついでに、私も野菜づくりを始めたと書いたら、都会で農業とは最高の贅沢ですね、と返信が来ました。我孫子は都会ではありませんが。
最高の贅沢は、しかし「隠居」でしょうね。藏田さんは農業だけではなく、さまざまな活動を楽しまれています。

つい先日まで、私は「働くでもなく遊ぶでもなく、学ぶでもなく休むでもない」生き方を志向してきました。その生き方では「定年」はありません。その生き方は、しかしもしかしたら小賢しい生き方だったのかもしれません。
定年退職、隠居、などという社会的システムは、長い生活からの英知だったのかもしれません。

定年退社した知人友人の半分は、海外旅行や趣味三昧に入っています。一昨日もある人から、女房と海外旅行を楽しんでいると手紙が来ました。
いい人生です。
私は相変わらずばたばたしています。女房から非難されていますが、そういう女房もまたばたばたしています。似たもの夫婦の生活は、どうもいつになってもゆっくりできないようです。
隠居はとてもいい仕組みです。
隠居こそ最高の贅沢ですね。
生涯現役などと馬鹿な考えは捨てて、これからは隠居を目指すことにします。
それでも歴史は何の変化も起こさないでしょう。

いつもとは違って、最近、こんな気分になっています。はい。

■天木直人さんの立候補 2005年8月29日


■視座を変えると社会の風景は逆転します 2005年8月10日
社会構造原理の起点が「全体(組織)」から「個人(人のつながり)」に変わったというのが私のすべての発想の起点にあります。そうしたパラダイムで社会を見るとほとんどすべての問題の解決策は見えてきます。しかし、その考えはパラダイムの違いからなかなか伝わらないのも現実です。

たとえば、イラク復興のための自衛隊派兵は私にはイラクのみならず世界の人々の安寧を壊す仕業ですし、小泉首相の郵政民営化法案の進め方は民営化壊しに思われます。核問題よりも拉致問題が先決課題ですし、クールビズ宣言は反「省エネ」です。解散は政治的空白を終わらせ、リサイクル産業は環境付加の増大です。介護保険は介護環境を悪化させ、コミュニティ政策はコミュニティ壊しに通じます。こういうことをこれまでこのブログやCWSコモンズで書いてきました。言葉だけで考えるのはやめようというメッセージを書いたこともあります。

しかし、時代の流れはますます「組織発想」に向かっているような気がします。個人の表情は相変わらず輝いてはいないようです。

■耳を失いつつある社会 2005年8月31日
神奈川11区から天木直人さんが立候補されたことが平和に関心を持つメーリングリストなどで話題になっていますが、テレビではほとんど報道されませんでした。おそらく論点が時流にのっていないのかもしれません。ニュース23では取り上げはしましたが、羽柴秀吉さんとほぼ同じ取り扱いでした。それが悪いとはいいませんが、取り上げ方がもう少しあっただろうに、と思います。この番組は「平和」をかなり重視して番組特集などを展開しているはずなのに不思議です。
私は、ホームページ(CWSコモンズ)で選挙開始前荷「緊急のお願い」である呼びかけをしましたが、おそらく読んでくれた人は100人前後だと思います。
私はそこにも書きましたが、天木さんの立候補には不賛成ですし、天木さんご自身にも面識がないので真意はわかりませんが、平和やイラク派兵を議論する契機をもたらす可能性を感じました。しかし、新聞やテレビはほとんど興味を示さなかったようです。
もちろん現地では全国から集まった人たちによる「勝手連」が生まれているようですし、メーリングリストでの呼びかけもあります。今日、集会を開いているはずです。報道されるかどうか、気になります。

昨日、首相官邸の前で自殺を図った女性がいました。テレビでは報道されましたが、なぜか新聞では見つけられませんでした。本来であれば、大きな記事になってもいいはずです。さまざまな意味でとても考えさせられる事件だからです。
一説には、精神状況がおかしい人といわれているようですが、これはなにやら不気味な説明です。
今の社会は、理解できない問題が起こると問題を起こした人の特殊な理由にしてしまい、問題から発信されているメッセージを聞こうとしない傾向があります。
制度や常識から外れた人は、その人が悪いと判断されるわけです。
それがとても気になります。

強い立場の人にはみんな耳を傾けます。
私の気のせいか、この数日、テレビはまた小泉自民党に与しだしたような気がします。昨日の報道ステーションは明らかに小泉支援でした。
個人的な主張があってもいいのですが、中途半端なモンタージュ効果は使ってほしくないものです。映像の威力は暴力的ですから。
キャスターの問題というよりも、その背景に何か大きな力が働いているような気もします。
どうも最近の新聞記事やテレビ番組には偏りを感じざるを得ません。
引きこもりたくなってしまいます。

<2005年9月>

■認知症は病気でしょうか 2005年9月1日
認知症になっても安心して暮らせる町づくり100人会議が展開している「認知症を知る1年」キャンペーンのパンフレットが届きました。認知症のお年寄りのグループホームで働いている若者に見せたら、ちょっと嫌ですね、と言われました。パンフレットに書かれていた『認知症は「病気」です』という小見出しがひっかかったのです。みんな病気などとは思っていないし、病気などといわれたら嫌な気分になりますよ、というのです、
このパンフレットの作り手は、たぶん認知症を差別しないように、だれでもがかかるかもしれない病気なのだという意味で使ったのでしょうが、そこには「健常者」の目線しかなかったのかもしれません。このパンフレットは写真もひどく、私自身もこのパンフレットを手にした時にとても不愉快な気持ちになりました。ケアマインドを感じられない人やものには、私は強い心理的拒否感が働くのですが、このパンフレットにも何か違和感がありました。私だけではない仲間がいたので、少し安心しました。
こうしたパンフレットが、政府の資金でどんどん作られているのです。100人会議の発起人は、さわやか福祉財団の堀田力さんたちですが、このキャンペーンは厚生労働省の提唱です。おそらく堀田さんたちは乗せられたのでしょう。しかし、どうせやるのであれば、もっと心を込めてやってほしいものです。資金ももっといい使い方があるはずです。コムケアに提供してもらったら、10倍は効果的に活用できます。

ところで、認知症は病気でしょうか。あるいは病気といったほうがいいのでしょうか。
これは私にはにわかには決めかねますが、この指摘をしてくれた若者は、認知症の祖父母と同居の家庭で育ち、いまはグループホームで利用者ととてもいい関係を育てています。ですから、彼のコメントや反応は信頼できます。

それにしても私たちは、人に看板をつけることで自分と切り離してしまう傾向があります。
痴呆症を認知症と言い換えるのもどうかと思いますが、それ以前の問題として、病名をつけて差別化するのではなく、連続性を見つけて共生の仕方を深めていくほうがいいように思います。
発達障害にしても、ニートにしても、どうしてみんな、勝手に定義づけて自分とは切り離してしまうのでしょうか。自分もまた連続的にそうした生き方とつながっているのですが。

私は最近、もの忘れが増えています。今年の初め、脳のMRIをとったら、年齢相応に認知症の症状や脳梗塞のシグナルが出ているといわれました。少し不正確な表現かもしれませんが、まあ加齢とともにそうした状況になるらしいです。
もしそうであれば、病気ではなく、健全な加齢症状です。それに痴呆がわるいわけではありません。認知障害などといわれるといささかムッとしますが、痴呆は素直に受け入れられる語感があります。
私の理想は、健全に痴呆化し、家族にそれなりの迷惑をかけて、天寿を全うすることです。そんな贅沢なことができるかどうかは、全く確信はもてないのですが。

■電話で頼まれたらどうしますか。  2005年9月2日
選挙になると久しぶりの電話がかかってきます。
もちろん投票の依頼です。注意しないと同じ学校の同窓生などという危ない電話もあります。
今回、最初にかかってきたのは大学時代の同窓生からでした。
すぐに選挙とわかったのですが、彼の立場から推薦する政党はすぐにわかりました。
いつもだと、この種の電話には「はい、わかりました」とやわらかく対応して、実際には減点します。投票しようと思っていた陣営の人からの電話がいかにもひどかったので投票をやめたこともありますが、少なくとも私の場合は、電話で直接依頼があれば必ず評価は下がります。投票先はともかく投票に入ってくださいという電話は例外ですが、私の体験ではそうした電話は共産党からだけです。
電話作戦はマイナス効果しかないだろうに、なぜやるのでしょうか。時代感覚の欠如としか思えません。私のまわりもだいたいは私と同じ反応です。

実は今回も、形の上ではやわらかく対応する予定でした。しかし、相手が「郵政民営化は賛成だと思いますが」と言ってきたので、見過ごすわけにはいかなくなりました。こうした場合、「民営化って何ですか?」と素直に質問するのが私の基本姿勢ですが、それでは時間がかかりすぎるので、今回は明確に民営化法案反対を表明しました。また友人を一人失ったかもしれません。その上、彼に私のホームページとブログを読んでほしいと言いましたので、もし読まれると怒りをかいそうです。何しろその政党のことをひどく言っていますから、読まれないことを祈りたいです。

さて皆さんならどうしますか。
友人知人からの電話に対してはきちんと意思表示しますか、それとも表向きは否定せずに裏切りますか。もちろん投票しようと思っていた人(党)ならば、正直に言うでしょうが。
選挙は人間関係を壊します。

私は投票先をまだ決断できずにいますが、一番投票可能性の高い党から電話がないことを祈ります。もし電話があれば、変更しそうです。前回もそうでしたが、信念からの投票ではなく、今回も流れを変えるための次善策としての投票になりそうなのですが、そのためにふらついています。この1週間熟考する予定です。

■在宅療養者や病院入院者の投票 2005年9月3日
投票に関して次の質問が私の関わっているメーリングリストに投稿されました。
「在宅で療養中の、投票所へ出かけられない方、当然不在者投票も出来ない方、この様な方の投票についてサポート活動をしている方、またその方法について知っていらしたらお教えください」。
今のところ、まだ見つかっていませんが、ご存知の方はいないでしょうか。いたら私にメールをいただけるとうれしいです。
ちなみに現行制度では、要介護5の人や身障者手帳を持っている人などの重度障害者は郵便等による不在者投票が認められていますが、面倒ですので、そう利用者はいないでしょう。ノーマライゼーションやユニバーサルサービスの体制には程遠いです。

この人は、「在宅療養者向けの専門の投票箱を作成して、選挙管理委員会が、2日ほど設けた日を事前に告知し、1軒ずつ訪問し、投票できる在宅投票システム」ができたらいいなと提案しています。

これまで考えたことがありませんでしたが、こうした問題はまだたくさんあるのでしょうね。

このメールを読んだ方から、個人的に次のメールが来ました。
「入院中の投票が「必ず鉛筆書き、封禁止」となっていました。書き直される可能性を感じても病院にいてはゴタゴタを恐れて言えずに終った経験があります。また、自宅療養の父は投票が出来ませんでした。弱者の基本的権利を切り捨てです。」
続けてこう書いてきてくれました。
「いま元気でも、誰もが明日は身体的にも弱者の立場になるかもしれない、自分の問題です。弱者という言葉が嫌いなのですが、だれもが手を携えて生きてゆける世の中が、一番生きやすいと考えていて、何も出来ない自分にイライラします。」

この方はコムケアの理念に共感して、応援してくれている方です。ご自身がさまざまな障害や病気を抱えながら、です。
「だれもが手を携えて生きてゆける世の中」。これが私の取り組んでいるコムケア活動です。事務局長をやっているおかげで、実にさまざまな話に触れることができます。気が滅入ることが多いですが、その問題に向けて必ず誰かが前向きに取り組んでいることに勇気付けられもします。

それに、問題を抱えている人は、みんな本当に優しいです。
こういう人たちの支えあいの輪を育てていくのがコムケア活動です。
仲間になってくれませんか。
ご関心のある方はぜひご連絡ください。

■ハリケーンの被害から見えてくるもの 2005年9月4日
米国のルイジアナ州のニューオーリンズを直撃したハリケーン「カトリーナ」はさまざまなものを顕在化させてくれました。特に衝撃的だったのは、略奪や暴力事件です。私たちが向かっている世界を見せてくれたのではないかという気がしてなりません。
小泉自民党がめざしているのは、まさにそうした社会のような不安があります。私が憧れる気遣いあう社会とは正反対の世界です。いまの選挙戦で、少しずつ具現化されだしているのが不気味です。

欧米では最近、「ソーシャル・キャピタル」という言葉が広がりだしています。日本語に訳すと「社会資本」、つまり社会にとって一番大切な資源という意味ですが、社会資本といえば、日本では道路やダムなどの公共施設を思い出す人が多いでしょうが、最近、広がっているソーシャル・キャピタルは、「人と人のつながり」「信頼関係」という意味です。つまり、これからの社会にとっては信頼関係こそが社会にとって最も重要になってくるということです。
信頼関係が崩れたために発生した社会問題は少なくありませんし、信頼性の低下により、社会経済の生産性も低下し、社会コストが急増しています。そうしたことを考えると、これからの経済成熟社会にとって、こうした意味でのソーシャル・キャピタルはますます重要になっていくことは間違いないと思うのですが、どうもまだソーシャル・キャピタルを壊す勢力が日本では強いようです。
しかし、その震源地はやはりアメリカだったようです。それを改めて思い知らされた気がします。

気が重くなることばかりの毎日です。杞憂でしょうか。病気でしょうか。

■小泉自民党大敗の期待と予感 2005年9月5日
いろいろな人が、小泉自民党は大勝のようだとメールをくれます。
民主党の選挙事務所の応援をしている人からも、
「一般市民は政治への無力感が強いようです。今回は、自民の圧勝に終わりそうです」
などというメールが来ます。
マスコミの論調も小泉自民の圧勝を予想していますし、多くのテレビキャスターはその予想にしたがってすでに迎合的な発言をしているように感じられます。

どう考えてもおかしい気がします。
私の周りにも小泉自民党に投票する意向の人はいます。
しかし、これは私の偏見ですが、事実をきちんと学んでいる人の多くは、反小泉です。
そして今回は、そうした人のほうが私のまわりには覆いのです。
民主党は好きではないが、今回は対抗上、民主党に投票という人も多いですが。
それは都会人に限りません。
北陸で農業をやっている人も、東北で福祉活動をしている人もいます。
私の実感では民主党が圧勝です。

皆さんの周りはどうでしょうか。
私のまわりが特別なのでしょうか。
そういえば、前回も確か私の予想は全く外れました。

あと6日。
私のいまの予想は小泉自民党大敗です。
確信しています。

■カタカナ言葉と漢字言葉とどちらがわかりやすいか 2005年9月8日
原稿を頼まれて書いたのですが、編集者からカタカナ言葉が多くてわかりにくいので一部の新しいカタカナ用語を日本語に直してくれないかと要請がありました。
その編集者とは親しい仲なので、彼の真意はよくわかります。
が、これは実は重要な問題だと私は考えています。

これに関しては、以前、CWSコモンズのメッセージで二つのことを書きましたので、まずはそれを読んでもらえればと思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m20
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_95ce.html

カタカナ用語だとこれは何だと考えます。
しかし感じで書かれていると何となくわかったような気になります。
ちなみに、構造改革とか民営化を皆さんは具体的に説明できますか。
私にとっては、日本語が一番わかりにくいのです。

言葉がコミュニケーションツールであるならば、大切なのは言葉に意味です。
また言葉が実体や概念を創出するものであれば、新しい言葉を使うことが必要です。
わかったような気になることが、コミュニケーションや創造活動では一番危険な落とし穴なのです。

今回、異議申し立てがあった言葉は、ボンディングとブリッジングです。
このコーナーや私のホームページでよくつく言葉ですが、私自身、実はまだ十分には消化していません。ですから過去の記事を読むと自分でもおかしいと思うような使い方もあります。そんな言葉を使うなと起こられそうですが、メッセージを発信し、新しい枠組みを創ることに価値をおいている私にとっては、言葉の呪縛から解放されたのです。ですから、私の文章は、きっとコミュニケーション効果が弱いのでしょう。

さて、どんな言いかえをしましょうか。
考えなくてはいけません。
いい言葉はないでしょうか。

■何が問われているかの大切さ 2005年9月9日
日本人は問題を解くのは得意だが、問題を創るのは不得手だとよく言われます。
これは、きっと日本の教育離縁や教育制度と深く関わっている問題でしょう。
しかし、問題を選ぶのも日本人は不得手であることに気づきました。
今の選挙は、まさに問題をどう設定するかが問われています。
考えのない人たちや不誠実な人たちは、郵政民営化の中身も知らないまま、それが最重要な問題だと思わせられていますが、こういう人は学校では優等生だったのでしょう。
言葉でしか考えないように訓練させられています。
国のために死ねる国民は私の周りにも少なくありません。
かわいそうだとは思いますが、そうした人がイラク人を殺すことを加担しているとなると話は別です。

フセイン暗殺未遂事件の映像が昨日、公表されました。
事件後、フセインは民衆の前で演説し、民衆は「支持します」と小躍りしてフセインを褒め称えています。今、小泉純一郎の前で小躍りしている人たちの映像と非常に似ています。違うのはフセインは冷静に話しているところです。小泉首相の話し方は、ヒトラーそのものです。金正一でも、もう少しは品格があります。

いま、何が問われているのか。
それを真剣に考えなければいけません。
いま小泉自民党を選ぶことは、戦争に狩り出され、教育は洗脳に変質し、信義よりも金が優先され、貧富の差が固定化され、そんな未来を選ぶことだと私は確信しています。
もちろん、違う考えもあるでしょう。
しかし事実を積み上げて考えれば見えてくることもあります。

たとえば、イラクは復興していると思いますか?
年金は改善されていると思いますか?
なんでそんな簡単なこともわからないのか、私には不思議です。
私の間違いだといいのですが。

■さまざまな勘違い 2005年9月10日
勘違いが社会を構成し、歴史を動かしていることを今回の選挙はおしえてくれます。
たとえば、

小泉首相も岡田代表も、強い手ごたえを感じているようですが、日を追うたびに言葉遣いが権力的というか押し付け的になってきています。集まった聴衆が自分のために集まっているという勘違いです。
今日の新聞に出ていましたが、主婦の人が小泉首相の演説を聞いていて、内容がないという主旨の話を夫にしたら、夫は、でも小泉さんはがんばっているからいいじゃないか、といったそうです。「がんばること」が大切なのだという「民」の生き方を叩き込まれているからでしょう。これも勘違いです。
女性はもう少し自由ですが、構造改革も民営化も意味がわかっていないのにいいことだと思っている人が多いですが、これも「がんばることはいいことだ」という男性の悲しい習性と似た勘違いです。
民営化という手段と民営化の内容の違いもわからない、みのもんたのようなタレントは論外にしても、手段と目的、形式と内容はまったく別のものですが、多くの人は混同してしまいます。これもまた勘違いで、この種の勘違いを悪用した商法や住民管理は悪徳企業や無責任行政の常套手段です。

こういう視点で考えていくと、世の中は本当に勘違いだらけです。
その勘違いを見直すだけで社会は大きく変わるのではないかとずっと思ってきました。
私たちの未来を決めるであろう今回の選挙が、そうした勘違いの結果で決まるようなことがなければいいのですが。
勘違いしていないかどうか、ぜひ周りの人にも確認していきたいと思います。

こうした私の考えこそが勘違いなのかもしれませんが。
あと2日。いずれにしろ歴史が変わります。

■民意に従うという欺瞞とマニフェストの欺瞞 2005年9月11日
小泉自民党の郵政を受けて、先の国会で欠席したり反対した議員が賛成に回りだしています。その大義名分が「今度の選挙で自民党が勝てば、民意が賛成している民営化(法案)に賛成せざるを得ない」というものです。
一見、納得できる論理ですが、これは欺瞞でしかありません。
欺瞞であることは発言者自身が一番知っているはずです。

人は「聞きたいことを聞き、見たいことを見る」ものです。
発言者は、都合のいいときには民意を口にし、都合の悪い時には民意を無視します。
さらにまた、民意はいかようにも形成できます。それはアンケート調査や意識調査をやったことのある必要とはわかると思いますが、情報の与え方と設問の仕方でかなり誘導できます。おそらく反対の結論を引き出すことはそう難しいことではありません。

マニフェストが話題ですが、私はほとんど価値を見出せません。
これも欺瞞のかたまりでしかないように思います。
自民党と民主党のマニフェストを読みましたが、なんでこれがそんなに価値があるのかわかりません。今までとどこが違うのでしょうか。解釈が多様にできるような表現が多すぎますし、第一、これを読んでも全体像はおろか、政策評価ですらできるとは思えません。

私は政党時代は終わったと考えています。
私が信任を与えるとしたら、それは信頼できる人物にです。政党などという組織に信任を与えることなどできません。
そして信任を与える材料は、その人の信念と生き様と人柄です。政策に関する意見は、そうしたことを考える材料でしかありません。
ですから、いつも選挙の投票で悩んでしまうのです。

社民党は憲法9条を守ると言い切っています。
共産党は郵政民営化も含めて大企業への財の集中を変えていくと言っています。
こうしたマニフェストはわかりやすいし、全体像も見えやすくなります。
経済的強者に加担する民営化と経済的平等を目指す民営化とは全く異なるものですが、共産党の郵政民営化の姿勢は明快だと思います。

小泉自民党や公明党は、郵政民営化こそが全体を象徴する課題と言っていますが、それはある意味では正しいでしょう。つまり小泉一派の郵政民営化プロジェクトは、世界の財界に富を集中させ、貧しきものは戦場に狩り出される状況をつくる入り口です。これはまさに公明党が考えている構図でもあるでしょう。

マニフェストは明快の基本信条で、しかも検証可能にしてほしいです。
民意を聞くのであれば、民意が正しく育つような情報環境を整えていくべきです。

民意を顕在化させるための選挙です。
落ち着かない1日です。

■不明の自覚  2005年9月12日
昨夜は8時から1時間、テレビの選挙報道を見ました。
その後は見る気が起きませんでした。
ニーメラーの間違いを私たちは犯してしまったようです。
歴史は繰り返される、です。

今朝、大分の知人がくれたメールにこんな文章gありました。
>もうこれでこの国は取り戻せない気がしています。
同感です。

不明を恥じなければいけません。
これで2回目なのですが。

これまで私は現場で汗する人たちを信頼してきました。
無垢な若者たちを信頼してきました。
彼らの良識を確信してきました。
昨日の選挙結果を見る限り、その信頼と確信はどうも幻想だったようです。
生き方を変えようと思います。

テレビでの「有識者」の発言の内容が変わりだしました。
何をいまさらと腹立たしいですが、所詮はその程度の責任感と知性なのでしょう。

当分、このブログもやめようと思います。
これまでのご愛読、ありがとうございました。
また人を信ずることができるようになったら、書き出します。

2005年10月

■雨が降ってきたら走りますか(2005年10月7日)
ブログを再開します。
元気はまだ十分ではないですが、書くことで元気がでるかもしれません。

まずはウォーミングアップを兼ねて、含蓄のある話題?です。
昨日、道を歩いていたら、雨が降ってきました。傘を持っていませんでした。オフィスまで300メートルくらいのところです。
さてこういう場合、みなさんなら走りますか。そのまま同じ速度で歩きますか。

雨の中を歩く時に、いつも思い出すのが、傘を使わない場合の濡れ方の相違です。
降雨の中をあるくということは、空間に水滴があるなかを歩くことですから、歩く距離によって濡れる度合いは決まります。水平面だけは雨を直接受けますから、濡れる度合いは時間の関数になりますが、それを除けば距離の関数になるはずです。ですから頭に何かを置いて歩けば、走ろうと歩こうと濡れる度合いはほぼ一緒です。
いつもそう言い聞かせて、走らずに歩きたいのですが、やはり自然と急ぎ足になり、ついには走ってしまいます。昨日もそうでした。

しかし、どうも納得できません。
やはり走ったほうが濡れない気がします。
みなさんはどうしていますか。

この場合は、たかが洋服の濡れ方の度合いでしかありませんが、
そこにはさまざまな教訓やメッセージが含意されているような気がします。
どんなメッセージがあるのだと質問してはいけません。
そこまでしっかりと考えて書いているわけではないからです。

まあそんないい加減なブログの再開です。

■大人の社会から生命の社会へ(2005年10月8日)
昨日から「社会の喪失」(中公新書)を読んでいます。
実に刺激的な、考えさせられる本です。

社会の喪失とはなんでしょうか。
まだ読了していないので、その意味を理解していませんが、
社会には二つの側面があるといわれます。

私流に表現すると「大人の社会」、つまり合意形成を大事にする全体化志向の社会と、「生命の社会」、つまり異質性を楽しむ複数性志向の社会です。後者の社会で重要なのは合意ではなく、寛容さと認め合いです。
そのいずれかに「社会」の価値を見るかで、生き方も考えも変わります。
さらにいえば、たとえば、このそれぞれの社会に応じたノーマライゼーションの発想があるように(そしてその内容は全く正反対のものになります)、この違いは「異質」というよりも「異次元」なのです。
にもかかわらず、いずれも「社会」という言葉で一括されています。
ちょっと留意すれば、「社会性」という言葉すらも反対の意味を持っていることに気づきます。
全体に同調し自己を抑える社会性と自分をしっかりと主張する社会性とがあるのです。そこを巧みに操るのが権力の常套手段ですが、そこに愚かにも埋没するのが小市民の常なのです。私自身は、愚かさを反省しなければいけません。

どちらの「社会」を生きるか。
私自身は同調する生き方から自らを解放するために、17年前に「会社を離脱」しましたが、辞めたからといって同調社会の呪縛から抜けられたわけではありません。
意識的には「生命の社会」に生きようとしていますが、「大人の社会」の呪縛から生きていくほどの勇気を持ち合わせていません。
ですから私自身、社会性という言葉を曖昧に都合よく使っている気がします。

これからはもう少ししっかりと「生命の社会」を生きようと思います。

■企業変革と国家変革(2005年10月10日)
日本能率協会が企業の経営者を対象に「当面する企業経営課題に関する調査」の結果を発表しましたが、それによると中間管理者層に不満をもっている経営者が多いようです。第一の不満は、変革の推進です。管理者層が企業を変革してくれないと不満を持っている経営者はなんと7割もいます。第2は部下の指導ができていないということで、これも3分の2の経営者がそう答えています。答えているのは、経営者自身ではなく、経営参謀スタッフかもしれませんが、ここに日本の企業の病理を見ます。
先ず、変革は経営者の仕事であって、管理者の仕事ではありません。管理という言葉に象徴されるように、管理者は「管理」者なのです。「変革」者ではないのです。その基本原理を理解していない経営者は、自らの役割を認識していません。管理と経営は異質なものなのです。
次に、管理者を期待通りに動かせないという点で、部下の指導は実は自らの問題なのです。明らかに論理矛盾があります。
つまりこの調査結果は、経営者が自らのシャドー(影としての実体)を顕在化させたものなのです。そして、その役割や責任を放棄しているということの宣言でもあるわけです。

企業の変革は極めて簡単ですが、経営者にはやる気がないのです。
なぜやる気がないかといえば、変革には自己否定が伴いますから、意思決定者にはそれこそ苦渋の選択なのです。第一、メリットがありません。だから、自らは変革せずに、部下の変革を迫るという、論理矛盾が発生します。成功するはずがないのです。

変革といえば、日本という国自体の変革が財界人と官僚と学者たち、つまり産官学によって進められています。小泉首相や前原代表のような歴史観のない政治家は、おそらくその走狗として使われているのでしょう。
彼らがいよいよ手を付け出したのが、憲法です。本物でない学者や有識者もその尻馬に乗り出しました。哀しいことです。
憲法を変えることで、国の本質は変わります。歯止めがなくなるのです。
国民主権のもとでは、変革の主役は国民なのですが、現実には「国民」は実体概念ではありませんから、国民を操作概念にして第三者が変革を進めます。首相は国民が選んだという大義が使われますが、それこそが権力支配の擬制です。
余計なことを付け加えれば、理念としての民主主義と制度としての民主主義は全く違います。勘違いしてはいけません。民主主義を多数決原理などと勘違いする馬鹿な間違いを犯してはいけません。多数決は原理としてはありますが、大状況においては情報基盤が違いますから正当性を持たない抽象概念です。

企業にたとえていえば、外部のコンサルタント(時にはタレント)が企業変革を進めて、結局は企業をだめにしているように、国もまた外部の「知恵者」にのっとられているだけの話かもしれません。国民は実体がないために、対抗できないのです。

ほとんどの支配者にとっては、戦争を引き起こすことほど魅力的なプログラムはないでしょう。そこでは連帯が起こり、感動が生まれ、日常が忘れられるからです。
生活の視点で考えれば、自民党、民主党などという分け方は無意味です。戦争との距離という点では、岡田さんや前原さんと小泉さんは大きな違いは感じられません。中途半端に若いだけに、最近の若者たちのような「優しさ」や「寛容さ」も感じられません。

企業の変革は進まず、国家の変革は進んでいく。
10年後が心配です。
そのころにはどんな生活を送っているでしょうか。
いい時代を懐かしめる私には大きな救いがありますが。

■地方分権と地域主権(2005年10月11日)
昨日のニュースですが、岡山市長選挙で小泉自民党の「刺客」が当選しました。
その経緯がテレビで報じられていましたが、久しぶりにテレビを観てしまいました。
嘔吐したくなりました。
あまりの腹立ちで、今朝、起きたら、めまいがして本当に嘔吐しそうでした。両者の因果関係は不明ですが、半日、安静にしていました。
それでやはり腹にあることを書くことにしました。
どうせわかってはもらえないでしょうが。

小泉自民党がやった3つの「改革」があります。もちろん「改悪」以外の何ものでもなく、貧しき庶民の生活を踏みにじることで経済的な勝者に媚を売る改革ですが。
一つは言うまでもなく、テロ対策特措法にはじまる、軍事国家化への推進です。
第2は郵政民営化に象徴されるような、国民資産の民間企業への贈与です。
そして第3は地方分権化による中央集権体制の推進です
傷害、詐欺、破壊。その3つが揃っています。

納得してはもらえないでしょうね。
こうしたことを、被害者になるだろう人たちが熱狂的に応援して実現したのです。
どこかであったような話です。
しかし、きっと30年後には答えは出ているでしょう。
私はたぶんその結果は見られないでしょうが、その被害もそれほど受けずにすむでしょう。

さて岡山市長選です。
そこにはっきりと片山自治相が目指していた「地方分権の本質」が見えています。
そこに気づいてもらえたでしょうか。
すべては同じなのです。
地方分権は中央集権体制の論理的帰着点です。「分権」は言うまでもなく、権力は中心にあるという思想なのです。少しまともな頭を持っていれば誰でもわかることですが、なぜか日本の「有識者」は、そうは思っていないようです。だからこそ、「有識者」なのですが。
一部の人は「地方分権」ではなく「地域主権」という言葉を使います。中央集権に対するのはいうまでもなく「地域主権」であり「中央分権」です。
もう20年、私はこういい続けていますが、誰も共感してくれません。
よほど説得力がないのでしょう。困ったものです。

地方分権とセットになっているのが市町村合併です。
それがどうやって行われたか、金と脅しといやがらせです。
それで日本の市町村は少なくなったのです。どれだけの無駄があったか、どれだけの企業が役に立たない仕事で儲けたか、新聞は何も伝えません。
ニュースを見ていたら、それと同じことが岡山市長選挙で再現されていたようです。

岡山市民を嘲笑うのは簡単ですが、我孫子市でもあの状況になったら同じ結果になったかもしれません。そもそもがそうした利権と恫喝と謀略で動いているのが政治かもしれませんが、市町村にまでその醜さを持ち込むことはありません。

日本の社会は壊れるばかりです。
もちろん「大人の社会」ですが。
「社会」という言葉は、もはや負の価値しかないのかもしれません。

■箱根の観光客としての怒りと迷い(2005年10月14日)
昨日、仕事の関係で箱根の強羅に行きました。
小田急の特急で新宿から箱根湯本まで1時間20分です。
会場のホテルは、そこから登山鉄道とケーブルカーに乗って行かなければいけません。
論理的には2時間もあればいけるはずです。ところがそうはなりません。
箱根湯本で小田急から箱根登山鉄道に乗り換えるのですが、同じ駅に発着するのに到着時間と発車時間が同じなのです。つまり乗り換えられないと言うことです。これは「いじわる」としかいえません。そこで20分の待ち時間が発生します。
次は強羅駅でケーブルに乗り換えですが、ここでもまた見事に20分近く待ち時間があります。それぞれが1時間に2〜3本しか運行されていないのですから、接続をうまく考えればいいと思うのですが、ここでも「意地悪」が行われており、20分の待ち時間です。信じられない仕組みです。

これは一つの象徴的な事象です。
私は箱根が好きで、年に数回、行きます。しかし、自動車でいけばともかく、公共交通機関を使うとこうした「意地悪な仕組み」が箱根にはたくさんあるのです。箱根が廃れていくのは良く分かります。
ここでは2つの会社が交通機関を提供していますが、それぞれが勝手にやっていますから、観光客には不便で分かりにくいことが多いのです。両者の話し合いが進められているようですが、ほとんど改善されないままにあります。

ここに象徴されるように、関係者がみんなで箱根を気持ちの良い場所にしたいという思いがないのでしょうか。ショップや施設も、みんなばらばらで雰囲気がありません。一つひとつの施設はいいものがたくさんあるのですが、つながっていないのです。
こうした事例は日本各地にあります。

と、ここまで書いてきて、一つの悩みにぶつかります。
20分待たされることがなぜ悪いのか、です。
無駄な時間を切り捨てていったら、それこそ息が詰まる世界になってしまうのではないか。
あえて接続させていないのは、そうしたメッセージをこめた「親切な仕組み」なのではないか。
皆さんはどう思われますか。

■合意形成を目指す社会の行く末(2005年10月15日)
郵政民営化法が国会を通過しました。
信念を持っていたはずの国会議員も変節したようです。
異質性を認めない、今の社会の象徴的な姿です。

非常に象徴的なのですが、村上ファンドの動きが話題になっています。
企業価値を高めることがなぜ悪いと村上さんは言いますが、問題はだれにとっての「企業価値」か、です。いうまでもありませんが、村上さんが話しているのは、株主にとっての企業価値、キャッシュフローベースの企業価値です。あえて極言すれば、生活者にとっての企業価値と往々にして対立する価値であり、私のような生活者にとっての「企業価値」を下げることでしかありません。
郵政民営化の未来が、そこに象徴されています。
残念ながらもう生活者たちは元には戻れませんが。

企業価値論議は以前も一度書いたことがありますが、今日の話題は「合意形成」です。
「民主主義」と「多数決による合意形成」を混同している人が少なくありません。きっと正反対の考えなのではないかと思います。これがなかなか理解してもらえません。中途半端な学校教育の成果でしょう。
国会はさまざまな意見や価値観が議論を通して、お互いをケアしながら、ある仕組みをつくっていく場です。法律は決して単純な基準ではありません。状況に合わせて、判断できる余地を残しながら、判断の拠り所を出していきます。解釈の余地のない法律であれば、裁判は不要です。
つまり大切なのは、作られた法律ではなく、つくる過程での議論です。合意形成が大切なのではなく、多様な意見への配慮やその検討が大切なのです。

国会は見事に強制的な合意形成の場になってしまいました。合意しなければ活動もできないのでは国会の意味はありません。
納得できていないのに、合意してしまう、つまり嘘をつくわけですが、これでは、子どもたちに嘘をつくなとか、自分の意見をきちんと言えとか、信念を貫けとか、いえません。こうした問題も発生させています。

しかし、こうした「合意形成」への圧力や信仰は国会に限ったことではありません。企業でも地域でも、NPOですら、合意形成信仰が強いのです。
合意形成しなければ前に進まないだろう、と言われそうですが、進み方はあるでしょう。そろそろ「合意形成信仰」を見直すべき時期だと思います。
強制された合意形成ではなく、自然に生まれてくる合意にこそ、価値があります。
「合意形成」は、目的語ではなく、主語で考えるべきでしょう。
合意形成を図る、ではなく、合意形成が育つ、です。
これがスローライフの真髄かもしれません。

■焚き火ができないのはなぜでしょうか(2005年10月17日)
空いている近くの宅地を使ってさつま芋を育てました。
女房がそこで、先日、近くの子どもたちと一緒に芋ほりをしたそうです。
私は残念ながら不在でしたので参加できませんでした。
昔であれば、そこで焚き火をし、焼き芋をみんなで食べたでしょうが、今は焚き火ができません。不思議な時代です。
収穫したさつま芋はそのまま各自のお土産になってしまいました。
これでは楽しさ半減です。

なぜ焚き火ができないのか。
においでしょうか。ダイオキシンでしょうか。それとも防火対策でしょうか。
いずれにしろ、私たちの生活は豊かさを失ってきています。

それを「豊かさ」というだろうか、と思われるかもしれません。
しかし、それを豊かさと言わずして、何を豊かさというのかと私は思います。

よく言われるように、私たちの労働時間はどんどん長時間化しています。
経済的収入は、それによって増えている人も少なくないでしょう。
もっとも労働時間と経済的収入は必ずしも比例はしません。
経済的収入が低下するから労働時間が長くなると言う構図もあるのです。

ところで問題は経済的収入が増えている、いわゆる「勝ち組」の人たちは豊かになっているのでしょうか。
経営学の世界に、デシの法則と言うのがあります。
給料などの経済的報酬が高くなると、内発的な動機付け、つまり働くことの喜びは低下する、というのです。これはいくつかの実験で実証されています。
内発的動機付けは、豊かさや幸せにつながっています。
最近はそうした議論が主流になってきました。
この一点だけをとってみても、勝ち組は豊かにはなっていないのかもしれません。彼らの行動を見ているとそんな気がします。誤解かもしれませんが、はい。

豊かさとは一体何なのでしょうか。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。

焚き火ができる社会はいつ戻ってくるでしょうか。

■被害者が加害者を支援する構造(2005年10月17日)
犯罪被害者が犯人に、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうことが時に報告されています。これをストックホルム症候群といいます。
これは個人だけではなく、集団の関係においても報告されています。
もしかすると、今の日本社会は、それを上回る状況が広がっているように思います。
つまり自虐的な加害者応援行動です。

小泉首相が靖国神社を参拝しました。
高裁で違憲判決が出たにもかかわらずです。犯罪者が重ねて犯罪をしているわけです。彼にとっては「自分が法律だ」ということなのでしょう。極悪人には法律は無用なのです。
国民の多くはそれを支援していますが、私には小泉支持者はみんな犯罪幇助人にみえます。私はこのところ急速に犯罪者の友人を増やしています。
そういう無知な国民が戦争を起こしたのです。アウシュビッツの再来がなければいいのですが。

驚くべきことに、遺族会の代表が歓迎の意を表しています。実際には遺族会の代表は遺族を代表していないでしょうが、それにしてもおかしな話です。
戦死者はなぜ戦争で死んでしまったのか、それは戦争を起こしたからです。誰が戦争を起こしたのか、それはいわゆるA級戦犯たちです。
靖国神社には、A級戦犯たちと彼らが虚構した英霊たちが眠っています。英霊に関する意味は以前書きましたが、英霊とA級戦犯とはセットのもの、一体のものです。
遺族の会は実は被害者であるはずなのですが、加害者を祀ることによって、無念さの縮減を図っています。これはまさにストックホルム症候群といっていいでしょう。

さて、それと同じ構造がどんどん広がっています。
イラク特措法や郵政民営化法の被害者たちが、それを推し進めている権力欲望者たちを支援して、自分たちの生活をもっと惨めにしてほしいと頼んでいるのが現在の日本社会です。私は無知な若者たちが、「詐欺」にあって小泉自民党に投票したと思いたいのですが、どうもそうではないようです。私の信頼する友人知人が、けっこう、小泉自民党に投票したことがわかって、本当に滅入っています。
もっともそうした人の多くは、結構金持ちで有名人ですから、仕方ないのかもしれません。

いずれにしろ、ストックホルム症候群はいまも着実に広がっており、それがいまや社会現象になっているようにも思います。

そして、いま、「共謀罪」が特別国会に再提出され、まもなく成立しようとしています。
共謀罪についても以前、書いたことがありますが、動きはことのほか、早いです。
私もまもなく、こうしたブログは書けなくなるでしょう。

法案に反対する署名運動が始まっています。
http://kyobozai.hpcity.jp/index.html
よかったらぜひ読んでみてください。

こんなことを書いて、また友人を失いそうです。

■30万円よりも一言の応援の言葉(2005年10月20日)
先の日曜日の私が取り組んでいるNPOの関係の集まりを開きました。
コムケア資金助成プログラムの公開選考会です。
全国から公募された中から選ばれた20のプロジェクトが発表され、一般公募で集まった人が投票して、資金助成先を決める集まりです。今年で5回目です。とても元気が出る集まりです。
その様子は私のホームページ(CWSコモンズ)とコムケアセンターのホームページで報告しつつありますが、とてもうれしいことがありました。
見事に30万円を獲得したグループの人から次のメールをもらったのです。

何よりうれしかったのは「ケアップカード」をいただいたことです。
心のこもったメッセージは大変励みになります。

ケアップカードとは、応援のエールを書いて、1000円を寄付するカードです。
参加者が自分の応援したいところに自由に寄付するのです。
そのエールが、30万円よりもうれしかったというのです。
私にとってこんなにうれしいことはありません。
私は、NPOを育てていくためには、お金ではなくみんなの理解と参加が必要だと思っています。ですからこういうメールをもらうと苦労が報われる気がします。

選考会に参加した人たちからいろいろなメッセージが届いています。
元気が出ます。
企業関係者の参加が今年は少なかったのがとても残念ですが。

■内政干渉って何でしょうか(2005年10月21日)
小泉首相に続いて靖国参拝をした国会議員がテレビの取材で、
靖国参拝に対して海外から批判があるが、と聞かれて、
それは内政干渉です、と言う回答をしていました。
内政干渉って何でしょうか。

もし世界がつながっているとしたら、厳密な意味での内政は存在しません。
イラクに軍隊を派遣するのは内政干渉ではなく、自分たちへの侵攻戦争を仕掛けた人を讃えることを批判することは内政干渉だというのは、どう考えても理解できません。もっとも発言していた彼女も理解してはいないのでしょう。
少しでもまともな知性を持っている人であれば、受け答えは違ってくるはずです。知性とは相手を理解することですから。

町村外相は、やはりインタビューで、中国との話し合いの懸念が出ているがどう思うかという質問をさえぎって、誰がそんなことを言っているのか、と切り捨てました。その言い方が、いかにも余裕のない居直り態度でしたが、ここにも知性は微塵も感じられません。権力を持つと、人はこんなにも変わるものかと言うのが町村さんを見ているとよくわかります。

フセインの裁判が始まりました。
それが終わったら、今度はブッシュと小泉の裁判でしょうか。
そうならないのが私にはとても不思議です。

■北海道の恵庭市の話なのですが(2005年10月22日)
CWSコモンズには一度書き込みましたが、
北海道の恵庭市の市長選挙が11月13日に行われます。
そこにこれまで市会議員だった中島興世さんが立候補しました。
現在の市長のやり方に思いあまっての決断です。

中島さんとは10年ほど前に2〜3回お会いしただけの仲です。しかし、人間は1度会えば、人柄は理解できます。そして付き合いが続く関係は続くものなのです。

中島さんの人柄を知っている者としては、中島さんを全面的に信頼し応援したいですが、なにしろ遠い恵庭市のこと、探しましたが友人知人が見つかりません。
応援のしようがないのがとても残念です。

中島さんはブログを立ち上げて、市長選挙に向けての動きをライブに報告してくれています。地方で何が起こっているかが良く分かりますので、ぜひお読みください。
http://nkousei.exblog.jp/

中島さんが18日にマニフェストを完成し発表しました。
なんと絵本仕立てです。
しかも、焦点を絞っていますので、中島さんの思いや姿勢がとても具体的に伝わってくるのです。
私は昨今流行のマニフェストには否定的でしたが、初めて心に響き、しかも具体的な政策が伝わってくるマニフェストに出会いました。
みなさんもぜひホームページで見てください。ダウンロードできます。
http://n-kousei.cool.ne.jp/manifesto.pdf

私が感激したのは、網羅的でないことです。
マニフェストテーマは「子どもたちの問題こそ最重要の地域課題」となっています。
そして、その具体的な取り組みの考えが日常の言葉で生き生きと書かれているのです。
莫大な予算で広告代理店に頼んで作成したようなマニフェストとは全く違います。
ともかく「あったかい」のです。
ぜひ読んでください。
中島市長の恵庭市だったら転居してもいいかという気になりかねません。

私はこれまで関わってきたいくつかの自治体の首長に、最近、大きな失望を感じています。自治体に関わるのはもうやめようかと思い出しているほどですが、中島さんのマニフェストを見て、とてもうれしくなりました。
中島さんが市長になることを切望します。
皆さんの中に恵庭市の住民のちじんゆうじんがいたら、ぜひこのマニフェストを読んでもらってください。
お願いします。

国政には当分期待できませんが、その分、地方政治には期待できるかもしれません。
私が失望した首長も自己変革してほしいものです。
まだ遅くはないのですから。

■人生を分ける生き方の意味が少し分かってきました(2005年10月25日)
昨日、若い友人の父のお通夜に参列しました。
最近、訃報が多いのですが、葬儀に参列すると自らの生を振り返るいい時間になります。
人生はよくしたものです。きちんとそうした設計がなされているのです。
そのおかげで、最近、人生のリズムを実感できるようになりました。そのリズムに合わせることは大切なことかもしれないと思い出しています。

17年前に会社を辞めた時には、これで「定年」もなくなり、自らの意思で人生をすべて決められると思いました。そして、「遊ぶでもなく働くでもなく学ぶでもなく」、自らを生きることを基本にすると友人知人に手紙を書きました。数年は意図的にそうしていました。しかし、そのスタイルが定着したかどうかは、極めて疑わしいですが、意識的にはその思いを実現したのが、いまの私の生活です。少なくとも今の私にとって、働くこと、遊ぶこと、学ぶことは、ほとんど完全に重なっているのです。

インドには人生を4つの期間に分けて考える文化があります。4つとは、学ぶ期間(学生期)、働く期間(家住期)、振り返りの期間(林住期)、そして後輩に教え説く期間(遊行期)です。私は当時、この4つを分けるところに問題があると考えたのですが、今から思うとどうもそれは「若気の至り」でしかなかったようです。歴史の中で培われた文化は、やはり含蓄に富んでいます。
私の同世代の友人は、定年で組織を離れ、悠々自適の生活を送り出しています。そして少しずつ遊行期に入りだしている人が少なくありません。コムケア活動を通しても、そうした人たちに出会う機会が増えています。
そうした人は私と違って、もっと思い切り一点に集中できます。私のように中途半端ではないのです。成果もしっかりとあげています。
人生を4つに分けて生きることに異を唱えた小賢しさを、少し反省したくなります。

もうひとつ最近感ずるのは、加齢とともに「誘われ方」が変わってくるということです。自らは加齢を感じなくとも、外部からはしっかりと見えているわけですし、関係性は間違いなく変わっていきます。自らの認識と外部の認識との格差に時々気づかされます。「仕事」も次第に減ってきますし、原稿も頼まれなくなってきました。これは寂しいことですが、自分を生きるうえではとても喜ばしいことでもあります。自然の摂理というべきでしょうか。

私は、自然に従って生きることと自分の意思で生きることとは同じことだと以前は考えていました。その傲慢さを最近は思い知らされています。

昨日は長いお通夜だったので、いろいろと考えさせられました。

■日本にあったホスピタリティ文化はいつ変わったのか(2005年10月26日)
黒岩比沙子さんがまたとても興味深い新書を出版しました。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
「日露戦争 勝利のあとの誤算」(文春新書)です。
日露戦争のポーツマス講和に反対した国民が起こした2日間の「日比谷焼打ち事件」がテーマです。初の戒厳令まで出された帝都騒擾事件で、それを契機に、言論統制が強化され、日本は戦争の時代へと進んでいった、歴史的な事件だったようです。司馬遼太郎は、この暴動が、それからの40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えていたようです。黒岩さんも、この事件が近代日本の一大転換期だったといっています。恥ずかしながら私はその事件の存在さえも知りませんでした。

黒岩さんが着目してくれたおかげで、私もこの事件と、そこから始まった日本社会の変質を知ることができました。そこには今現在の状況を理解し、これからを見通す大きなヒントが含意されているように思います。
黒岩さんは、あとがきで、「本書は、日露戦争直後の激動の日本を、百年の視座で描こうとした試みである」と書いています。著者としての思いが伝わってきます。

大きな流れに重なるように、いくつかのサブテーマが絡み合っています。たとえば政府と新聞の関係、新聞の大衆操作、新聞人たちの生き様など、そのいくつかはそれだけでも一冊の新書になるでしょう。昨今の政治状況や社会状況と重ね合わせて読んでもとても面白いですが、黒岩さんらしい、丹念な文献調査を踏まえていますので、大きな流れの中に出てくる小さな挿話や現代の有名人とのつながりなども、実に生き生きとしていて興味深いです。

私がとても印象深かったところをひとつだけ紹介します。
ロシア人捕虜に対して日本人は極めて寛容で親切な対応をしていたようです。その文化はその後、変質し、次第に捕虜虐待へと変わっていくわけですが、日本にそうした「ホスピタリティ文化」が明治前半まであったことを知って、とてもうれしい気分になれました。
しかし一方で、捕虜になって帰還した同胞には日本社会は極めて厳しかったようです。黒岩さんは「生きて虜囚の辱めを受けず」という、1941年に全陸軍に下されたあの戦陣訓が招くことになる悲劇のプロローグは、「この時点」から始まっていたと書いています。外国人捕虜には優しく、捕虜になった同胞には厳しい文化は、別個のものでなくセットのものでしょうか。私にはとても気になる問題です。

ちょっと読み応えのある新書ですが、皆さん読んでみませんか。これからを考える示唆もありますし、なによりも面白いエピソードや雑学の宝庫でもあります。加山雄三や小泉純一郎の名前まで出てきます。もちろん村井弦斎も出てきます。
お時間の許す方はじっくりとお読みください。

なお、黒岩さんのブログに執筆動機などが詳しく書かれています。この文章だ計画でもぜひお読みください。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/50146881.html

■若者の人間力を高めるための国民運動と高めない非国民運動(2005年10月27日)

「若者の人間力を高める国民運動」というのをご存知でしょうか。
http://www.wakamononingenryoku.jp/index.html
経済界と労働界が中心になって創られたもののようです。議長は日経連名誉会長の奥田さんです。委員には、あれ?という人も入っていますが、まあ、そういう世界の人たちが名を連ねています。
若者の人間力を高める国民宣言なるものもあります。「国民宣言」。戦前を思い出す不遜な名称ですが、国民を謳っている割には知らない人が多いと思います。
http://www.wakamononingenryoku.jp/about/sengen.html

昨日(10月26日)、その会議が国際フォーラムで「若者トークセッション2005」トークセッションを開催しました。呼びかけにはこう書かれています。
http://www.wakamononingenryoku.jp/act/event_info.html

社会が大きく転換する今、若者を巡り様々な問題が生じています。若者自身も含めた経済界、労働界、マスメディア、地域社会、政府が一体となって「若者」について考え、応援し、支える。そして、その輪を広げていく。「若者の人間力を高めるための国民運動」をスタートしました。今回のイベントでは、専門的な知識を有する有識者と若者を支援する活動に従事している支援者、そして当事者である若者の代表がテーマに沿ってトークセッションを実施します。

出演者には知っている人も何人かいます。信頼できる人もいます。
しかし、どうも馴染めない取り組み方です。
新聞によれば約300人の若者が参加したそうです。どんな若者が集まったのでしょうか。

こうした動きに対して、
「若者の人間力を高めない非国民運動」を呼びかけているグループもあります。
PAFFなどの非正規労働者のネットワークです。PAFFは、フリーターに対しての各々の問題意識を切り口に展開されるイベントや読書会、NPOといった社会運動を繋げていくネットワークです。
どんな活動をしているかは、ぜひホームページをご覧ください。
http://a.sanpal.co.jp/paff/outline/
そこが、昨日の同じ時間に、有楽町マリオン前に集まって、この活動への異議申し立て活動をしようと呼びかけました。その呼びかけ書を読ませてもらいましたが(呼びかけ書はまだサイトでは見つかりませんので、関心のある方はご連絡ください)、私にはそのほうがずっと納得できました。ただ、方法論には違和感があります。理念の転換は方法論の転換を伴わなければいけません。

そんなわけで、私はいずれにも参加しませんでしたが、とても気になる動きではあります。

ニートなどの問題に関する私の意見は何回か書いていますが、
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#0118
若者たちはどんどん包囲されているような気がします。「日比谷焼き討ち事件」状況に向けての双方の条件は整ってきているのかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/10/post_c4d8.html
それにしても、産業界や労働界、あるいは大学は、なぜ自分たちのほうに問題があると考えないのでしょうか。不思議でなりません。こうして、歴史はカタストロフィーを向かえ、前進していくのでしょうか。その曲がり角は生き難い時代なのかもしれません。

■住民たちが行政を使い込む時代が始まりそうです(2005年10月27日)
滋賀県の琵琶湖の内湖に、西の湖というのがあります。そこで活動している丹波道明さんは私の東レ時代の最初の上司です。私より一回り上ですが、会社を辞めた後、地元に戻り、そこで実に楽しそうに地域活動をされています。あまりに楽しそうなので、昨年、寄せてもらいました。
その丹波さんから「西の湖美術館構想」なるものが送られてきました。
その内容はまたCWSコモンズのほうで紹介させてもらいますが、この構想は、丹波さんたちが呼びかけて設立した「西の湖保全自治連絡協議会」という住民グループで作り上げたものです。
丹波さんはその組織の事務局長ですが、自分たちのまとめた「西の湖美術館構想」を、西の湖のある近江八幡市と安土町の自治会長、首長や役場の関連部署、地域振興局などの行政に検討を依頼する書状を出したのです。
その構想(計画)案は、私も読ませてもらいましたが、A4版で16ページにもわたるもので、ビジョンも具体性もある実践的な計画です。しかも、そこに住民たちのざわめきが聴こえるような生き生きしたものです。丹波さんからはちょっと褒めすぎだぞ、と言われましたが、私にはそう感じました。

私が一番感激したのは、住民たちがまとめた計画を行政や自治会の責任者に送って、期限を明示して意見を求めたことです。
行政のパブリックコメントなどの形だけのものではありません。送り状には匿名の「役職名」ではなく個人名が明記されていますし、丹波さんのことですから、きっと意見の督促もすることでしょう。
ベクトルが逆転してきたのです。私が目指すスタイルです。当然ですが、ベクトルが逆転すると行政の縦割り組織や自治会の地域割り組織の限界が克服できます。
この手紙を見て、私が感激した理由がわかってもらえるでしょうか。

まあ、今日はこれだけの話です。
しかしそこに含意されるとても大きな予兆を感じてもらえればうれしいです。

ちなみに、私は地元で、ある問題に関連して求められた「意見書」を提出しました。1か月半経ちましたが、返事が来ません。来ないだけではなく、意見をだしたにも関わらず事態がそのまま進んでいます。まだですかと聞いたら、10月28日以降に返事をくれるそうです。
意見の提出先は、行政と住民と社会福祉協議会の三者で作っているある委員会です。市長もメンバーです。我孫子市は、市民参加では先進的だと言われたこともある自治体です。担当課長は、住民視点に立ってしっかりと考えてくれている人ですし、市長も市民派と言われています。これが行政、もしくは市民参加の委員会の実態です。
なぜそうなるのか。答えは比較的簡単です。仕組みが悪いのです。

住民が動かなければいけない時代が来たのです。市民ではなく、住民です。
「西の湖美術館構想」の動きは、そのモデルになるかもしれません。
これからの展開がとても気になります。

■小泉首相のこわした歴史の先(2005年10月30日)
戦争ではなぜか人を殺しても罪になりません。それどころか、時には英雄になることすらあります。この論理が私は子どもの頃から全く理解できませんでした。
その1点から考えるだけでも、国家は過渡的な必要悪の存在だと学生の頃に考えるようになりました。そのためか、健全な大人にはなりそこなってしまいました。

ところが,国家は解体されるどころか、ますます強固なものになってきています。
この20年、どうも歴史のベクトルが反転したように思います。

小泉首相は、自民党を壊し、利権構造を壊し、古い政治体質を壊し、行政の旧弊を壊しているといわれます。私のまわりで、小泉自民党を支持した人たちの意見です。
そうでしょうか。
私には全く逆に感じられます。
利権はますます集中し、国民の手から離れ、少数支配の古い政治体質が復活し、行政は民営化の隠れ蓑のなかで産官癒着を強め、国家はいまや少数の人たちに私物化されているように思います。それを支えるのが一番の被害者ともいうべき主体性のない寄生種族であることも旧体質の社会構造を感じさせます。
これはあまり説得力のないイメージ議論なので、共感は得られないでしょうが、私の確信です。

おそらく大企業はまもなく解体に向かうでしょう。これも15年前からの確信です。
最近、企業は業績を上げ、利益を上げていますが、それは霞ヶ関が財政危機の中で膨大な無駄使いをさらに加速しているのと同じように、構造転換に伴う無秩序の中でのあだ花です。

フレキシビリティや転換期というマジックワードの中で、ビジョンのないままに歴史が壊されてきているのです。悪者が得をする状況が広がっています。

小泉自民党が壊そうとしているものは何なのでしょうか。
憲法は「だれのため」のものなのでしょうか。
憲法改正案の向こうにあるビジョンを、もっと明確にする仕事を誰かしてくれないものでしょうか。
社民党あるいは田中康夫さんにお願いしたい課題です。

■マイオピアからノー・ロングタームへ(2005年10月31日)
ハーバード大学のマーケティングの権威、セオドア・レビットに「マーケティング・マイオピア(近視眼的マーケティング)」という名論文があります。私がマーケティングに関心を持った契機になった論文です。マーケティングの専門家だった重久篤さんに紹介してもらいました。惜しくも彼は10年ほど前に若くしてなくなりましたが、本当に残念なことでした、重久さんが生きていたら、私の人生は少し変わっていたかもしれません。得がたい友人の一人でした。
なぜか今日は、重久さんのことを思い出してしまいました。ある本を読んでいたらノー・ロングターム」という言葉が出てきたからです。

レビット教授のマーケティング・マイオピアは、いわば現在流行のCSの発端です。この論文派1960年代に発表されましたが、企業がその価値に気づいたのは1980年代です。ハーバード・ビジネス・レビューも1980年代にこの論文を採録しましたが、私はその少し前に重久さんからその存在を教えてもらいました。
1980年代は、まだ社会も経済も政治もビジョンを持って進んでいたように思います。マイオピア、つまり近視眼の危険性への認識が高まり、アメリカではビジョナリー・カンパニーが注目されるようになりました。もちろんこの動きは、日本でも表層的に真似されました。そしてビジョンを勘違いした財界リーダーによって、日本はバブル破綻の罠に陥っていったのですが。

昨今の企業はどうでしょうか。
マイオピアどころではなく、「ノー・ロングターム」が常識化しているようです。つまり「長期思考はだめ」というわけです。企業の管理者層の人と話しているとそれがよくわかります。経営者の文化が「ノー・ロングターム」なのです。
そのおぞましい文化が、産業界だけではなく、政治や行政、地域社会や私たちの生活にまでどんどん広がっているような気がします。
いうまでもありませんが、ノー・ロングターム発想は信頼関係を育てたり、安定を大事にする文化とはなじみません。むしろ信頼や安定を壊すのがノー・ロングタームなのです。時代の変わり目には、そうした生き方がそれこそ短期的には効果的であることもありますが、むしろロングタームの展望を踏まえておかないと明日はあってもその先はないかもしれません。そうした社会の中ではストレスが充満します。それはもう限界に近づいているような気がしてなりません。

ソーシャル・キャピタル論議も起こっていますが、このところその動きは封じられているようです。
「ノー・ロングターム」。この忌まわしい呪縛から自由になって、もっと安定と信頼を目指した生き方が広がるといいなと思います。
ノー・ロングタームの変革の先に何があるか、思うだけでも気が重くなります。

2005年11月

■国民保護法はごぞんじですか(2005年11月2日)
先月28日の閣議に、各省庁の国民保護計画閣議が提出され、閣議決定されました。すでに自治体レベルでの展開は始まっていますが、今年度内にすべての都道府県でも国民保護計画が策定されることになっています。
この計画は、昨年度制定された国民保護法(正式には「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に基づくものです。この国民保護法は、「武力攻撃事態等において、武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、国民生活等に及ぼす影響を最小にするための、国・地方公共団体等の責務、避難・救援・武力攻撃災害への対処等の措置」が規定されているものです。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hogohousei/hourei/hogo.html
この限りでは何も不都合があるとは思えないかもしれません。事実、この法律は、あまり審議もされず、話題にもならずに、2004年6月14日に成立してしまいました。議論するまでもなく、必要なこと、いいことだとみんな考えたのでしょう。
しかし、小泉自民党が足早に進めてきた「戦争のできる国家」路線の動きと重ねて考えると、とても不安なものに感じます。個々の動きは常識的でも、それら全体が創りだす世界がとんでもない非常識になることはよくあることです。80年前も同じような状況だったのかもしれません。
昨年の法案提出時から問題指摘している人はいます。「国民を保護する法律」というより、「国民を統制する」性格を持った法律だと考えている人もいますし、戦時状況の日常化を加速させるものと指摘する人もいます。私たちの生活そのものを変えていくかもしれないと危惧する人もいます。しかし、わが国ではこうした少数派の指摘はマスコミにはほとんど載りません。
しかし、これに関するサイトはたくさんありますので、ぜひお読みいただきたいと思います。たとえば、こんなサイトがあります。
国民保護法ウォッチャーズ
http://www.ribbon-project.jp/yuji/index.htm
「国民保護法」ってご存知ですか
http://yuji.seesaa.net/

「国民保護」。国民主権国家において、それはどういう意味を持つのでしょうか。
「自立」とか「保護」とか「支援」とか、最近の法律の名称に時代の方向性を感じます。
私が憧れる「コモンズ」の世界はどんどん遠のいているような気がしてなりません。

■自然とつながっている人体(2005年11月3日)
生命が自然の一部であることは間違いありませんが、なぜか私たちは、人間だけは別のような錯覚に陥りがちです。
この2週間、天気がよくありません。そのせいか、私の周りでは体調を崩す人が増えています。私のようにただ風邪を引くだけではありません。もっと深刻な事例が多いのです。時には死につながっています。
先週、ある人のお見舞いに行く予定だったのですが、家族の方から気候のせいか急に体調が悪くなり面会が難しくなったという連絡がありました。まさに自然の動きは個々の人体にも影響を与えているようです。
もしそうであるならば、個々の人体の調子は自然にも影響を与えているはずです。
今日は文化の日ですが、この日は快晴になる確率が8割を超える特異日だといわれていました。しかし、この10年は快晴になる確率が50%になっているそうです。
これは単なる自然の偶然でしょうか。
私には文化への私たちの思いが引き起こしていることではないかと思えてなりません。

最近の自然災害もまた私たちの生き方や意識が引き起こしていることではないかと思っています。
悔い改めよ、という天の声が聞こえてくるようです。

今日は穏やかな日でした。
お見舞い日和でした。

■死をコントロールできるか(2005年11月4日)
昔、本で読んだのですが、人は死のうと思うと風邪でも死ぬことができるそうです。たしかイヌイットの話でしたが、純粋に生きている人たちに限っての話でしょうが。私たちのように小賢しい医学知識を持った人間には無理かもしれません。
しかし、その小賢しさが逆に働くこともあります。
たとえば「がん」ということに関する知識です。
がんという言葉が当事者に与える影響力はすさまじいものです。症状に名前を与えるとその名前が力を持ち始め、症状ではなく生命に大きな影響を与えていくというのはいかにも皮肉な話です。

昨日、天候に生死は影響されるようなことを書きましたが、同時に体内にある自然もまた生死につながっているように思います。体内にある自然は意識に象徴されていると私は思っています。
とすれば、さらに反転させれば、死はコントロールできます。
がん宣告を受けた人の生き方を見ていると、まさに意識の問題だなと思うことがあります。しかし、その意識は自分ではどうも自由にはならないのですが。

葬儀や見舞いなど、最近は死につながる場に行く機会が増えていますが、そこでいつも自分の葬儀をイメージします。
できれば私は、そこに参加したいわけですが、もし死を予感した場合、死の前日に告別式ができれば理想的です。そして、いつもと同じように眠りにつき、そのまま眠り続けることができればと思います。しかし、実際にそういうことが自らの意思でできるかどうかにはかなりの不安があります。

私の母は病院で亡くなりました。家族全員に見守られながらです。私の娘のひとりが病院に駆けつけるのが遅れたのですが、意識不明の危篤状況だった母は、娘が病室にかけつけるまで心臓を動かし、娘が到着してから自ら心臓を止めました。その時に、私は死はコントロールできることを知りました。コントロールする主体は何なのかはわかりませんが、自らの意識がその一端を担っていることは間違いありません。

かつては自らの死だけではなく、他人の死もコントロールできたのかもしれません。いわゆる「祟り」です。
残念ながら「祟り方」の文化は継承されなくなっていますが、「祟り」が忘れられたのは「怒り」が忘れられてきたからかもしれません。

最近、自らの中に「生きる」貪欲さが希薄になってきているのを感じます。
もしかした、それは私に限らない、時代の特徴なのでしょうか。

■自動車に関する安全対策(2005年11月5日)
自動車事故の報道が最近また増えています。
交通安全白書によれば道路交通事故での死者数は減少傾向にあり、昨年は7,358人でした。これはピークだった昭和45年(15,765人)の半分以下です。しかし、安心してはいけません。死傷者数でみれば、増加傾向にあり、昨年は119万人でした。ちなみに、昭和45年は100万人弱でした。当然、事故数は増加傾向にあります。
なお、日本の場合、交通事故死として計上されるのは事故後24時間以内に死亡した場合です。海外は1か月以内というところも少なくありません。

自動車産業の業績が好調です。その利益の大半は海外市場での利益だそうですが、それはともかく、もっと交通事故対策に利益を投入すべきではないでしょうか。
宇沢弘文さんの「自動車の社会的費用」は有名ですが、交通事故に伴う社会的費用はもっと真剣に考えられるべきだと思います。
この問題に関しては、先月のサロンでも話題になりましたが、私はいまのアプローチに間違いを感じます。それはJRの安全対策に関しても感ずることです。いずれも対症療法的な処方でしかありません。
たしかに自動車に関しては、安全対策にかなりの努力がされています。しかし、自動車はつまるところ、マン・マシン・システムですから、製品としての自動車だけを考えていても問題は解決しません。
しかも自動車は、マン・ソシオ・システムの要素が強いですから、道路やまちの構造にもつながっています。
たとえば、我が家の近くに「ハケの道」といわれる細い道があります。散歩道としてはいい道なのですが、ここも4メートル道路にすることになっており、両側の地主はセットバックを要請されています。たしかにこの道沿いにも住宅がありますから、自動車交通不可にはできないかもしれません。しかし、すべての道を自動車が通れる道路にする必要はありません。まちの構造づくりに問題があるように思います。都市計画家の失敗だと思いますが、今もなお、行政はその路線を続けています。自治体の都市計画や都市建設の部署の発想は、多くの場合、生活視点が欠落した「専門家」的です。その背景に、自動車メーカーの存在を感じます。
道と道路は違うのです。昔は、道はもっと多機能な生活空間であり、生活をつなぐものでした。いまは往々にして、生活を分断しています。

先月、山形市の商店会の若者たちとフォーラムをやりましたが、そこでゾーン30やトランジットモールが話題になりました。生活の視点から自動車との付き合い方を考えようというアプローチです。商店街の若者が、そんなことを考え出しています。自動車メーカーはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
それにしても昨今の自動車事故は許しがたいものがあります。飲酒運転で事故を起こした人は二度と運転免許を与えるべきではありませんし、そこで死傷事故を起こした場合は、殺人罪と同じ扱いをすべきです。飲酒運転で死者を出した場合、未必の殺意があると断定すべきです。日本の法律は飲酒運転者に甘すぎます。つまり自動車メーカーに甘いということです。
その点を正していく努力を、自動車メーカーはなぜしないのでしょうか。
トヨタのCSRや環境経営は、そこから始まると私は思っています。

■今年の山は豊作だそうですが(2005年11月6日)
今年の山は豊作のようです。
滋賀の先輩からそういうメールが届きましたが、山形でネイチャーゲームに取り組んでいる学生からも「今年は山が豊作だからクマの姿を見かけないよ」と言われているとメールが来ました。今年はとてもいい年なのです。
しかし、里では相変わらず果樹や農作物の盗難があるようです。山は豊作でも、里は相変わらずの凶作なのでしょうか。

クマやサルはなぜ里に下りてくるかといえば、森が荒らされたからです。森が豊かであれば、畑を荒らすこともありません。山と里の生活のつながりをしっかりと意識して、お互いが気持ちよく住みあえる関係を大事にしていかねばいけません。
鳥たちや獣たちのために、農作物や自然の一部はしっかりと残していかねばいけません。

里はどうでしょうか。
パリでは暴動が広がっています。
日本はどうでしょうか。
暴動はおきないでしょうが、様々な荒廃が進んでいるような不安があります。
林檎泥棒と金融業の好業績はどこかでつながっているような気がします。
政治の貧困の前に経済の貧困を痛感します。

一昨日、あるライオンズクラブの例会に招かれました。
みんなホスピタリティマインドの篤い人たちでした。
にもかかわらず、どうして経済は冷酷なのでしょうか。
人間は自然を管理できませんが、市場もまた管理できないのかもしれません。

里が豊かになるのはいつのことでしょうか。
経済のパラダイムを変えなければいけないように思います。
ITや金融に依存しない、新しい経済システムは発想できないものでしょうか。

■地方分権で地域の主体性は高まってきているか(2005年11月7日)
朝日新聞社が行った全国47人の知事へのアンケート調査によると、地方分権を進める三位一体改革の評価はあまり芳しくありません。改革を評価しているのは、滋賀、大分、兵庫の3知事だけです。地域の実情に合わせた施策が展開できるようになったかという質問に、自治体の裁量が広がったと答えた知事はゼロだったそうです。「義務的な経費の見直しがほとんど」「国の法令等による寄生が多すぎて裁量が発揮できない」というのが多かった理由のようです。
ある意味で、これは自らの力量の無さの表現でもあるわけですが、制度的にも問題があると思わざるをえません。
条件付きの権限委譲が、まだ発想の根底にあるのです。そこが「地方分権」の限界であり、地域主権とは似て非なる所以ですが、「責任を転嫁して問題から逃げる」のは管理者の常套手段です。いまの地方分権の本質を感じさせます。兵庫県の知事は「シャウプ勧告以来初の権限委譲」と評価していますが、大切なのは理念と実際です。

私は一時期、いくつかの自治体に関わらせてもらいましたが、新しい住民自治や地域主権の息吹を感じたことがありました。しかし、その動きはこの数年、急速に後退しているように思えてなりません。自治体にリーダーがいなくなったのです。管理者は相変わらず多いですが。

当事者から評価されない改革って、何でしょうか。
改革は誰のためのものか、改革を議論する時に常に念頭に置かねばならないテーマです。それはビジョンとミッションに関わってきます。
しかし、ビジョンとミッションのない、ノー・ロングタームの取り組みが多すぎるような気がしてなりません。私たちの生活に関わる問題ですから、もっと関心を持たなければいけないのですが、相手が大きすぎて1住民にはなかなか歯が立たない問題です。
地方分権や市町村合併に付けが回ってくるのが心配です。

■ルーチンワークの大切さ(2005年11月8日)
数年前に話題になった本ですが、「それでも新資本主義についていくか」という本があります。遅まきながら、その本を読みました。先日書いた「ノー・ロングターム」という言葉も、その本で知りました。
軽く読める本なのですが、時間がかかってしまいました。私自身の考えに混乱が生じたためです。混乱のきっかけは、ルーチンワークの意味に関する記述のところからです。
この本では、こう書かれています。

18世紀半ば、ルーチンワーク(反復労働)はかなり違う2つの方向に進むと見られていた。前向きで成果を生む方向と破壊的な方向である。1751年から1972年にかけて刊行されたデニス・ディドロの「百科全書」には前者が、1776年に出版されたアダム・スミスの「諸国民の富」には後者が最も劇的に描かれている。

ディドロは、ルーチンワークの反復性とリズムによって労働者は自分自身に対する安心を得るだけでなく、仲間との絆を深め、社会を安定させていくと考えていたようです。それに対して、モラリストのスミスは、反復作業は精神をだめにすると考えていました。結果はスミスの方向で動いています。
私はつい最近までスミスの見解でした。そして、これからはだれもがアントレプレナーシップを持つべきだと考えていました。また時代の変わり目の中で、生き方を変えていくことを目指していました。ルーチンワークを軽視していたわけではありませんし、ディーセントワークという場合でも当然ルーチンワークも含まれると考えていましたが、変革とか創造とかという言葉に価値を感じてきました。
その一方で、たとえば生まれた集落から一度も出たことのない生き方に奇妙に感動したりしていましたし、反復作業を進化させ昇華する働き方に憧れも感じていました。
どこかで矛盾しているなと、自分ながらも思っていたのですが、ディドロの考えを知って、いろいろと考えさせられたのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#822

中学時代に国語の教師が文学史のテキストに書かれていた日本の有名な文学作品の書名と作者を丸暗記する宿題を出しました。不愉快ながらも覚えた記憶があります。そのおかげで、一応、文学史の主な作品が時代の流れの中で記憶でき、それが一つの柱になって歴史が理解しやすくなったように思います。
ただの受験勉強ではないか、と言われそうですが、その国語の教師も受験を意識していなかったように思います。彼は後で役に立つから、ともかく覚えろといいました。その言葉に奇妙なほど説得力があって、不満ながらも私はすべてを覚えたのです。
それがどうした、といわれそうですが、中学時代の他の授業は覚えていませんが、そのことは強く印象に残っています。
ルーチンワークの話とどうつながるのか、ですが、ディドロに納得させられたのはこのことを思い出したからです。

さまざまな仕事がなくなってきています。
ビジネスの世界でも、家事労働の世界でも、自らの生活の分野でも、それがどんどん広がっています。仕事の変化は生き方の変化であり、文化の変化です。
繰り返しの反復作業。その大切さと面白さをもう一度考え直してみる必要があります。
私は家族からも友人からも、飽きやすいといわれ、ルーチンワークが苦手なのですが、ディドロの「百科全書」のイラストを見ればその悪癖が直るかもしれません。

■組織を信頼することの危険性(2005年11月9日)
全国小売酒販組合中央会がまた話題になっています。
今度は政治問題も絡んでいるようですが、先の酒販年金制度の破綻を引き起こしたことと合わせて考えると、意外なことではなくやはりそうかと奇妙に納得できる事件です。
同じことは多くの企業不祥事にも言えることです。雪印食品やカネボウや三菱自動車などの話を聞くと、あの会社ならばやりかねないと思った人も少なくないと思います。そうした兆候はかなりの人が察知していたはずです。しかし誰も本気で正しませんでした。
同じようなことを個人がしていたら、きっとみんなで姿勢を正させ、事件を未然に防いだかも知れません。しかし、相手が組織だと奇妙に納得してしまったり、あるいは自らの世界と切り離して考えたりしてしまいがちです。
もっと恐ろしいのは、そうした「おかしなこと」に自らの利益をつなげてしまう誘惑が誰にでも働くことです。いくら問題視しても変わらないのであれば、むしろそこから利益を得ようと思うのは人情として理解できます。私もそうする可能性が高いです。
国民年金の世界ではこれが常態化し、今でもそこから抜け出られていないようです。関係者(批判者も含めてですが)はみんなどこかで利益につながっているのかもしれません。

権力者が被害者を支援者にするのは、こうした構造があるからです。
しかし、酒販年金制度のように、破綻してしまうと掛け金すら戻ってこなくなります。そこから慌てだすわけですが、すでに遅いわけで、犠牲を担うのは自らです。
これはいまの日本の大きな歴史の流れにもたぶんあてはまるでしょう。破局を迎えるまではみんな少しでも利益に預かろうと配分競争に参加するだけです。

しかし、組織や制度が信頼できる時代は終わったのです。
組織や制度の信頼性を保証するこれまでの仕組みは、すべて人口が増加し、経済のパフォーマンスが拡大するという、いわゆる「右肩上がりのパラダイム」を前提にしていたはずです。昨今の経済学はすべてがこのパラダイムの上に乗っかっているように思います。そのパラダイムが変わろうとしていますから、これまでの経済学はもう終わったはずです。そして、経済学に合わせて構築してきた経営学もまた役に立たなくなってきているはずです。
しかし、相変わらず経済学は右肩上がりを目指し、経営学者は同じ呪文を繰り返しています。これまでの延長型のニューエコノミーではない、パラダイムシフトしたニューエコノミーが求められているのではないかと思います。

論点がぼけた文章になってしまいましたが、要するに信頼の対象はいまや「個人」になったということです。組織や制度は責任の主体にはなりえません。むしろ責任を曖昧にするのが組織の最大の機能だと思います。
それは決して悪いわけではありません。責任のとり方を制度化し、リスクをシェアする仕組みを作ったからこそ、今のような新しい社会が実現できたのです。
しかし、その裏には危険な落とし穴もあるわけですが、最近の状況はむしろ制度や組織の功罪関係を逆転させつつあるのだと思います。
言い換えれば新しい組織や制度の原理が求められています。
21世紀は真心の時代という小論を書いたときからの、これが私の問題意識です。
まだ答えは見えてきませんが。

■現行犯なのになぜ「容疑者」なのか(2005年11月10日)
気になる表現が多いことはこれまでも何回か書いてきました。
繰り返しになりそうですが、やはり気になるので書きます。
8日に千葉県佐倉市で警察官2人が殺傷された事件ですが、現行逮捕にもかかわらず、新聞では「容疑者」と書かれています。いつもこうした表現が使われますが、現行犯であれば、容疑者ではなく犯人ではないかと思います。裁判で刑が決まるまでは容疑者なのでしょうが、一般的な常識にはどうもなじめません。
人権擁護の問題があるのでしょうか。冤罪の可能性が皆無ではないのでしょうか。

今の社会は犯罪が激増し、容疑者の拘留所も捜査も裁判も現体制ではとても対応できないほどだという話をよく聴きます。ですから予防措置で警察に保護や捜査を依頼しても相手にしてもらえずに、結果的に悲劇につながるケースが起こるわけです。
今回の殺傷事件も新聞によれば、事前対応が可能だったようです。

なぜそうなるのか。
形式的な人権保護と画一処理の結果ではないかと思います。
すべては手続きの公正性と客観性と効率志向が、実は結果として、実態としての不公正と恣意性と無駄の発生を引き起こしているのだろうと思います。今のままでは警察官は浮かばれないような気がしてなりません。

現行犯逮捕者は犯人でいいでしょうし、事実の究明と裁判の判決・執行とは切り離していいでしょうし、死傷に関する明白な犯罪に関しては簡単な手続きで対処すべきですし、受刑者は自らの裁判にかかった費用を個人で償うためにも働くべきですし、原則として裁判は1年で終了すべきですし、・・・・ きりが無いですが、検討すべきことはたくさんあります。

判決文を日常語にして分かりやすくするのもいいことでしょうが、そのまえにもっと見直すべきことがあるような気がしてなりません。
また暴論を書いたのでたたかれそうですが。

■企業の社会性は企業規模と反比例しています(2005年11月13日)
昨日、若手の企業経営者たちの研究発表会に参加しました。
老舗企業の後継者たちや自らが起業した企業の経営者たちが、これからの企業や経営のあり方をテーマに1年間勉強してきたことを発表したのです。
経営学の本を切り貼りした言葉だけのものではないかと期待せずに参加したのですが、とても真面目な取り組みで、頭だけではなく身体的に学んできたことを感じさせる、とてもいい発表でした。
その後の懇親会で何人かの人たちと話したのですが、その純粋さと真摯な姿勢に心が洗われる気がしました。彼らの企業は信頼できそうです。

私は最近の企業経営者にはかなりの不信感をもっています。眼が社会や人間を見ていないと思うことが多いからです。それに前にも書きましたが、ノー・ロングタームと脱価値志向が強いことも気になります。会社のためが社会のためではなく、自分のためになっていることが多すぎます。
しかし、昨日懇親会で会った中堅企業・中小企業の若き経営者たち(若くない経営者もいましたが)と話していると、きらきらするような志を感ずるのです。近江商人の「三方良し」の精神が彼らには脈々と流れているような気がして少し感動しました。大企業の人たちとは全くと言っていいほど違います。

企業の社会性は企業規模と反比例している。これが私の20年前からの仮説ですが、一般的な常識では逆のようです。
しかし、常識的に考えればこれは自明の理だと思います。
大企業は反社会的なことを少しくらいしても倒産はしません。地域社会で問題を起こしたら移転すればいいのです。しかし、地域社会と運命を共にしている中小企業や地場企業は地域社会の支援を失ったら倒産してしまうのです。つまり中小企業は「生活」につながっているのです。
社会貢献活動をしているのは余裕のある大企業で、中小企業はそんな余裕もないし、存続だけで精一杯だという人もいます。
社会貢献活動がもし余裕で行うものであればそうかもしれませんが、本業で社会に役立つことこそが企業の社会貢献の本筋であって、利益還元的な社会活動は宣伝活動でしかありません。そもそも「社会貢献」などと自らがいうことの傲慢さを見直すべきです。そこには「生活」とは別の次元で発想している目線の高さを感じます。
ちなみに、個人で行う場合は全く意味合いが変ります。個人活動と組織活動が混同されて議論されることが少なくありませんが、組織活動としての社会貢献活動の意味はもっとしっかりと整理すべきだと思います。

これからの経済の主役になる企業は、決して大企業でないように思います。ここでもベクトルの逆転が予想されます。昨日、中堅・中小企業の経営者たちと話していて、改めてそう思いました。
中小企業が大企業を使い込む時代が来るのではないか。そう考えると、企業買収に取り組んでいる楽天やライブドアなどの戦略の本質が見えてくるように思います。

■中島こうせいさんが恵庭市の市長になりました(2005年11月14日)
このブログでも紹介したことのある恵庭市の市長選挙が昨日行われました。
新人の中島さんが現職を破り、当選しました。
接戦でした。

私にとっては、全く縁も無い自治体の市長選挙ですが、現職の姿勢に対して異論をもって突然立候補した中島さんは私の知り合いでした。
中島さんの人柄と考えを少しだけ知っている者としては、その決断に敬意を持ちました。批判する側から当事者になることは、とても大きな決断を必要とします。
未来へのしっかりしたビジョンと自らの生活をかなり犠牲にしなければできない決断です。
もっとも最近の首長は、そうしたビジョンも志も無い人が圧倒的に多いように思います。国政への失望に加えて、最近は自治体の首長にも裏切られることが多く、かなり滅入っていましたが、中島さんの当選にはとても元気付けられました。
中島さんのことですから、きっと不器用な選挙を展開したはずです。
にもかかわらず、恵庭市のような、おそらくさまざまな「しがらみ」のある地域で、現職(中島さんと同年です)を破ったことの意味は大きいです。

新しい物語の始まりが楽しみです。
もしお時間があれば、中島さんのマニフェストやブログループをご覧ください。

■山形で売っていた乾燥サクランボは中国産でした(2005年11月15日)
先日、蔵王に行ったのですが、ホテルの売店で乾燥サクランボを女房が見つけました。ケーキ作りの材料に購入しようと思って売店の人に聴いたら、やはり中国産だったそうです。
以前も山梨のブルベリーの産地に行った時にドライブルベリーを買いたいと思って探したのに現地産はなかったそうです。
最近は、よほど注意しないと現地のものは見つけられません。民芸品のお店に入っても、一体どこの民芸品なのだというような商品が多いのでがっかりします。

日本の観光産業はどこかで方向を切り替えないとだめでしょう。
観光は地域と密着してこそ、意味があります。
ちなみにこのホテルでは、蟹の食べ放題と言う夕食コースがありました。
蟹は大好物ですが、蔵王のホテルで蟹は食べたくはありません。
そろそろ工業化の発想から解放される時代です。
工業は、「土地」や「自然」に拘束されませんから、その分、表情をなくしてしまいます。産業や観光や生活が切り離されてしまうのです。しかし、それらがつながってこそ、地域の表情や地域での生活が豊かになっていくのです。
工業発想の呪縛から自由になると産業政策や観光政策は全く違ったものになってくるでしょう。時間はかかりますが、表情のある物語を回復させていくことが望まれます。それを壊してきたのが、この数十年の工業発想の観光政策だったのかもしれません。

■アーレフ施設が近くにあったらどうしますか(2005年11月17日)
あるメーリングリストに、こんな投稿がありました。
新築マンションの購入を決め、手付金を払った後で、その近くにアーレフ(旧オウム真理教)の関係施設が2か所あることが判明、迷った末、解約を申し出たが、200万円を超える手付金は返済してもらえなかったという内容です。
近隣にある「迷惑施設」の存在は事前説明が必要だとされていますが、その中にはアーレフ施設は入らないと言うのが、売り手側の言い分です。
ちなみに、養護学校、障害者施設、老人福祉施設なども迷惑施設とされているそうですが、アーレフ施設は入っていないのだそうです。
投稿者は、「福祉施設類が迷惑施設・・なんて失礼な話なんだ!福祉施設のほうが、アーレフ施設より迷惑だと言うことですか?」と書いています。同感です。

みなさんはどうお考えでしょうか。
アーレフという団体が存続を認められていることに違和感を持っています。
こんなことを書くと、その非寛容さを非難されそうです。雑多な要素があればこそ、社会は生き生きしているという意見もあるでしょうし、異質なものを排除するのでは小泉自民党と同じではないかと糾弾されそうです。
代替案が見つからないこともわかっていますし、私の発想が危険な落とし穴の側面を持っていることも自覚していますが、どうも感覚的に納得できないのです。

もし私の家の近くにアーレフの集会所ができそうになったらどうするでしょうか。きっと反対するでしょう。非寛容といわれても自然とそうなると思います。投稿者が230万円のコストを負担してまで解約した事情は良くわかります。みなさんはどうでしょうか。

そうした生活感覚での価値基準がもっと大切にされるべきだと私は思っています。
「有識者」や「専門家」が、さまざまな基準を決定する時代は終わりつつあるように思います。

但し、郵政民営化などの「技術論」は、専門家(政治家や官僚ではありません)の議論で決めるべきです。もちろん「御用学者」ではない専門家たちの自由闊達な議論でなければ意味がありませんが。
いまの日本は、どうも反対になっているような気がして仕方がありません。

■憲法は9条だけでいいという永六輔さんに共感します(2005年11月17日)
私が最も愛読している雑誌は、前にも書いたように「軍縮問題資料」と言う月刊誌です。隅から隅まで読む唯一の雑誌です。年間1万円で、軍縮市民の会に入会すると毎月送られてきます。書名が難しそうな印象を与えますが、内容はとても読みやすく、刺激的です。
この雑誌は一度廃刊されそうになったのですが、読者の応援ですぐに再刊されました。まだ経済的には安定していないようです。
年間1万円で、世界の平和に寄与できますから、皆さんもぜひ購読してください。価値観の違う人もいるでしょうが、マスコミ情報では見えてこない側面が見えてくることも少なくありません。ぜひ購読していただけるとうれしいです。
申し込みは次のサイトからできます。
http://www.heiwa.net/
上記のサイトに目次が出ていますので、この雑誌の雰囲気が分かってもらえるかもしれません。
今月号では、憲法を愛する女性ネット代表の久保田眞苗さんの「われら世代から一言、戦前と戦後は別の世界か」から教えられることが多かったです。
映画監督の篠田正浩さんの「大義、イデオロギーくそ食らえ 気持ちよく暮らそう」には半分違和感をもちながらも半分は共感できました。
一番の気づきは、永六輔さんの「憲法は第9条だけでいい 私の改憲論」です。
永さんは、憲法は第9条だけでいい。それも、もっと簡単に「戦争はしない」というだけでいいと言っています。なるほど、そういう憲法であれば、みんなの拠り所になりますね。難しい議論もいらなくなります。
永さんは。30年も前に、ラジオで憲法を全文朗読したことがあるそうです。生放送で2時間半かかったそうですが、「いかに読みにくいか」がわかったと言います。あれは文章としてはめちゃくちゃだと言います。
これに関しては、武田文彦さんの「赤ペンを持って憲法を読もう」を読むと、いかにめちゃくちゃかがわかってもらえるはずです。
しかし文章としてめちゃくちゃなのは憲法に限らず、ほとんどすべての法律も同様かもしれません。それは「法解釈」の余地をできるだけ多くしておきたいという、統治側の意図が根底にあるからです。
「戦争はしない」というのは、文章としては明確ですし、素直に生きているほとんどの生活者には納得できる文章です。
もちろん、「戦争」とは何か、が問題になるでしょうが、これは誰でも議論できるテーマですし、その議論はとても大切な意味を持っていますから、むしろいいことだと思います。
永さんの意見に共感しました。
それでどうするの、と言われると応えられないのが残念ですが。

■若者への不信感の払拭(2005年11月19日)
とてもうれしい文章に出会えました。
今度こそ、元気が回復できそうな気がしてきました。
出会った文章は「この国にゆくえ」(GRAPHICATION 141)です。
書き手は作家の井出孫六さんです。

井出さんは、若者たちと最近、日本の近現代史の学習を始めたそうですが、
先の選挙が終わった直後に、その若者たちに総選挙についての無記名アンケートを書いてもらった感想を紹介しています。
少し長いですが、引用させてもらいます。
 
無党派の若ものがなだれをうって小泉自民に投票したと、マスコミが伝えているときだったが、アンケートの結果がメディアの推測とかなり隔たっていたのが、わたしにも意外だった。
彼らのおよそ7割が小泉自民の圧勝に不安と憂慮と恐れを示しているが、この7割という数字に彼らの投票行動が示されている。自民支持は2割強といったところだった。
初めて選挙権を行使した彼らにとって、郵政民営化一本にしぼっていった小泉戦略、そこから生じた刺客という名の異形、それを追いかけて飽きることのなかつたメディア、とりわけテレビのあり方は、最初から最後まで異様なものと映っている。

私のまわりにも若者は少なくありません。彼らのほとんどは、小泉自民党には投票していないように私には感じていました。批判的な若者も少なくありませんでした。
しかし、結果は小泉圧勝で、それも若者たちが牽引したとマスコミは書いています。私の周りの人もそういいますし、まわりの学生たちを見てそう断言する若者もいます。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/09/post_865e.html
それで私は元気を喪失していたわけですが、井出さんのこの文章に出会えて、マスコミと小賢しい大人たちの無責任な風説の罠に陥っていたことに気づきました。
愚かしいことです。

小泉圧勝は大人たちが主導したのです。マスコミ作戦もそうですが、「見識」ある学者やオピニオンリーダーたちが、無垢な若者を乗せたのでしょう。ヒトラーユーゲントの悪夢を思い出します。安部官房長官の顔がなぜか浮かんできますが。
私のまわりでも、これまで信頼してきた立派な大人たちが小泉自民党に投票しています。それを知った時は愕然としましたが、きっと私たち世代こそが小泉圧勝の原動力だったのでしょう。若者たちを隠れ蓑にしているのです。テレビのキャスターたちは、ほぼ例外なく、小泉圧勝に加担しました。彼らの無意識の中にある好戦的なシャドーが番組に投影されていたのです。一見、小泉批判的な言説を述べている有名キャスターも結局は若者を隠れ蓑にしたとしか思えません。彼らができたことはたくさんあるのですから。

若者は信頼できる存在です。いや若者を信頼せずに、未来が開けるはずはありません。
信頼できないのは、有識者とテレビ政治タレントです。

井出さんは、その学習会を始めた時に、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーの文章をみんなに紹介したそうです。「荒れ野の40年」からの一文です。孫引きさせてもらいます。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

日本の政治家やその取り巻きの学者たちに、これほどの知性があるでしょうか。彼らの私欲のほんの一部を、知性の世界に置き換えてもらえれば日本は変るでしょう。しかし、彼らは前の戦争の時もそうだったように、相変わらずに現場(戦場)の彼岸にいます。現場の実感を持たなくともやっていける安全地帯にいるのです。

井出さんはこう書いています。

日本の若ものの大多数が中学・高校時代に日本史を暗記課目として押しつけられ、近現代史にいたっては全く触れる機会もないままに社会に押しだされてきてしまうところに、今日の歴史意識の稀薄な荒野の広がりが生まれてしまったのではないだろうか。

町田外相がもらした本音を思い出しました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_ce4e.html

■まちづくりは住民が楽しむことから始まります(2005年11月20日)
茨城県の谷和原村に行ってきました。
里山づくりに取り組んでいる住民たちが、収穫祭をするというので誘われたのです。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku05.htm#1026
昨年、少しだけ関わったのですが、その関わりの中から生まれた住民グループ「城山を考える会」の主催です。行政もかなり応援したようですが、中心になったのは数名の住民です。
会の代表の横田さんは、最初はこじんまりとやる予定だったそうですが、女性たちがもっと大きくやろうとがんばりだしたのだそうです。女性たちがつながってしまうと強いです。
住民主役の集まりは、谷和原村にとっては珍しい集まりだそうですが、見事に大盛会でした。とん汁が振舞われ、みんなで掘ったさつま芋をヤキイモにし、蕎麦打ちを楽しみ、実に和やかな、元気が出る会でした。
とても感心したのは、さまざまな世代の人が集まったことです。
また会場にはカラフルなインディアンテントが作られており、華やかさを演出していました。
役場の職員も応援で活躍していましたが、まさに住民主役・行政支援のスタイルで、とても好感が持てました。
村長とも久しぶりにお会いしました。

久しぶりにお会いした人や初めての人とも、こうした和やかな場だと話が弾みます。
農家の人たちとも楽しい会話ができました。
農家の人たちは後継者不足を嘆いていましたが、私は逆に農業の可能性を改めて実感しました。

子どもたちも参加していました。
ここまで持ってくるのは大変だったことでしょう。
しかし、ここまでくれば、もう大丈夫です。
まちづくりの基本ができた、と私は思いました。
行政と住民の協働とか住民参加とか、NPOとか、そんな難しいことはどうでもいいのです。
住民が楽しみながら集まる場ができ、さまざまな立場の人が同じ仲間として話がはずめば、まちは自然と育っていくのです。
行政も住民と一緒になって楽しめばいいのです。
予算など瑣末な話です。
谷和原村は町村合併で来年はなくなりますが、この活動はなくならないでしょう。
これからが楽しみです。

一緒に行った女房はたくさんの野菜をお土産にもらって大喜びです。
それにご馳走になった蕎麦が実に美味しかったのです。
横田さんからたくさんのそば粉をもらったので、近日中に我が家でも蕎麦打ちです。

新しいまちづくりが広がっています。

■ちょっと独白:ペルソナとシャドー(2005年11月21日)
数日前のこのブログに、
「常に悪者を探さずにはいられない」のですね、というコメントをもらいました。
これは反省させられるコメントでした。

このブログや私のホームページ(CWSコモンズ)でのメッセージはある意味では一貫していると思っているのですが、その一貫性を維持するために、それに反する私の意識の部分を無意識に抑圧しているはずです。それがよく言われる「シャドー」というわけですが、精神的バランスをとるために、その部分を第三者に投影して、「常に悪者」を探しているのかもしれません。
そう考えると、私が忌み嫌っている小泉自民党は私の分身かもしれないことになります。
最近はテレビで小泉首相の顔が出てくるだけでも、目を背けたくなるのですが、これはかなり重症なのかもしれません。

ペルソナとシャドーの理論で考えると実に様々なことが納得できます。
外部に「悪者」を生み出して、安心してしまっている自分も見えてきます。
しかし、同時に、その「悪者」とつながっている自分にも気づかされます。
もう64歳なのだから、ペルソナとシャドーを統合した生き方を目指そうかという気もしないわけではありません。
さてどうするか・
いろいろ考えた挙句、これからも「悪者」批判をしていくことにしました。

たしかに、誰かを批判すると必ずその矛先は自らに戻ってきます。
批判の対象には間違いなく自らも含まれているわけですから。
ですから人を批判するのは、心穏やかな行為ではありません。

でも、シャドーとはやはり決別しなければいけません。
ユングにだまされないように、これからも嫌いなものは嫌いといい続けることにしました。
つまらない結論ですが、この2日間、ちょっと悩んだ問題でした。

■姉歯設計事務所が起こした事件(2005年11月22日)
姉歯建築設計事務所による耐震データ偽造の対象物件はまだ広がっています。
この影響は、経済的にも膨大なものになるでしょうが、専門家や検査機関への信頼を失わせたという点での影響もまたはかり知りません。深刻なのは、単なる個人の問題ではなく、システムの問題でもあることです。
もちろん構造設計の責任者である姉歯建築士の責任は甚大ですが、元請けの建築会社や確認申請を審査する検査機関も問題です。そしてそれら全体の、社会的な仕組みそのものが問われています。

最初からとても印象的だったのは、テレビに出てくる姉歯建築士の無表情さです。淡々と事実を語る姿を見ていると制度の一部になった脱価値的な部品ではないかとさえ思えるほどです。人間性を感じさせない不気味さがあります。
データ改ざんという事実には、人間的な価値論があるようにも思いますが、それもコストダウンという、非人間的な目標の前には無力だったということです。これはJR西日本の事故にもつながっています。
問題の本質を見失わないようにしないと、さらに繰り返される事件でしょうし、まだ発覚しないものは山ほどあるでしょう。建築以外でもたくさんあるはずです。

誰にとっても他人事ではない事件であるとともに、社会を持続させていくために最も重要なソーシャル・キャピタルである、信頼関係を損なってしまった事件ですが、逆にこれを契機に、いまの産業の仕組みを根本から見直すことが望まれます。

嫌な言い方ですが、この事件は産業界にとっては事業拡大に通じていくわけですが、そうした産業のジレンマもまた真剣に考えられればと思います。ことの本質は、そこにあるように思います。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm
システムの設計がたぶん基本的に間違っているのです。
これは郵政民営化にもつながることだと思います。

■ピーナツの殻むきをしながら思ったこと(2005年11月23日)
午前中、1時間かけて、先月末に収穫したピーナツの殻むきをしました。
katsudoukiroku05.htm#1031
しっかりと成長したものはすでにお裾分けとして出払っていますので、残っていたのは小さなものが半分以上です。おそらく専業農家であれば、廃棄処分にあうようなものです。しかし、自分でつくったとなると簡単には捨てられません。今日は私しか手があいていなかったため、一人で殻むきをしてきました。1時間近くかけたのに、殻からはずされた収穫はほんのわずかです。これくらいなら煎ったものをお店で買っても100円くらいでしょう。時給にしたら数十円のはずです。
その上、硬い殻を指で割るので手が痛くなりました。今も手の先がごわごわしています。
さらにです。小さな実ばかりですので、煎ったら焦げて食べられなくなるようなものも少なくありません。最初はそうしたものは捨てていたのですが、やっているうちに「もったいない」という気持ちが高まり、捨てるのをやめました。煎っても食べられない可能性が強いので、捨てたほうが「経済的」なはずなのですが。
出来上がった僅かばかりのピーナツを見ているとなにやら虚しい気もします。

しかし、この1時間は私にとっては様々なことを考えさせられる時間でした。
作業仲間と一緒に話しながらやったら楽しい仕事だなと思いました。作業自体は単調ですから話し合いやすい状況をつくってくれるはずです。もしかしたら、この作業は労働ではなく、憩いと癒しのためのものかもしれないと思いました。
共同体的労働が、ばたばらに切り離されて、私的労働に変ったときに、仕事の意味もまた変わってしまったのです。そしてさらに金銭のための労働になった時に、労働は生活から切り離されてしまったのでしょう。
労働はわくわくするほど楽しいものだったはずです。
もっとも労働論に必ず出てくるヘシオドスの時代もまた労働は決して楽しいばかりではなかったようですが、意味合いが変ったことは間違いありません。
改めて労働とは何かを考えさせられたのです。労働価値とは何か、です。

次に思ったのは、人と商品の関係です。
購入したものであれば捨てたであろう小粒でちょっと皺のある実までも残してしまったわけですが、その過程の中でいかにこれまで無駄な食べ方をしてきたかを考えてしまいました。自分で苦労すれば、決して物を粗末には扱えなくなると改めて思いました。
しかし、その一方で、専業農家の畑に行くと、まだ食べられそうな大根や野菜が無残に放置されている光景を時に目にします。これはどう考えればいいのでしょうか。
これも考えさせられるテーマです。

そして最後に販売されているピーナツの安さです。
手で殻むきなどしていたらとても商品にはならないと思っていたら、女房が中国産のピーナツには手でむいたと書いてあるというのです。これにも考えさせられました。
まず、手作業では商品にならないとすぐに考えてしまう自分への反省です。結局は私もまた工業生産社会の枠内から発想を変えられていないということに気づかされることはよくあることですが。
そして次に、中国産の食材に不信感を持っている自分への反省です。これだけの手間をかけてがんばっている作り手には敬意を払わなければいけません。

私はピーナツが好きではありませんので、これまでは惰性で食べていました。いわば手持ちぶたさ対策です。
しかしこれらは大事に食べようと思います。
一粒ひとつぶに、きっとたくさんの思いが入っているのです。
とてもいい1時間でした。

■子どもたちの事件(2005年11月24日)
子どもが被害にあう事件が相変わらず多いです。
子どもが起こす事件もまた、子どもが被害者であるといえるでしょう。
社会のひずみが様々な形で、無防備な存在に向けられているのは社会が病んでいる証拠です。

私はいま、「大きな福祉」を理念に掲げたコムケア活動と言うのに取り組んでいます。
コムケアはコミュニティケアの略ですが、一般に使われている意味とは違った意味を与えています。重荷を分かち合う関係づくり、という意味です。そして、だれもが気持ちよく暮らせる社会の実現を「大きな福祉」と呼んでいます。
コムケアの考え方は一部、CWSコモンズのサイトに抜粋しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/comcare-message.htm
詳しくはコムケアセンターのホームページをご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/comcare/
もし共感していただけたら、コムケアフェローになってください。

社会は3つのセクターで構成されていると思います。
公(パブリック)と私(プライベート)と共(コモンズ)です。
「共」は聞きなれない言葉かもしれませんが、「みんなのもの」と言うような意味です。
パブリックも「みんなのもの」ではないかと思われるかもしれませんが、
今のパブリック、つまり「公」は「お上」(官)です。
さらに、その「公」に対応する「私」は、日本の場合、「民」と捉えてもいいでしょう。
そしてこれまでは、社会の主軸が、この「公」と「私」だったのです。
これは垂直構造です。
その二元論の中で、「官から民へ」へという発想が出てきます。
そこに大きな落とし穴があります。
これに関しては以前も一度少し書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_290f.html

公と共は、似て非なるものです。
私たちの生活に立脚し、「個人から発想」していくと、その主な舞台は「共」、コモンズになると私は考えています。
元気な社会には、しっかりしたコモンズがあります。
そして、その根底には大きなコモンズとしての大地や自然があります。
ところがこの数十年、私たちは「公」と「私」の世界を拡大し続けてきました。
大きな政府と企業社会の時代にしてしまったのです。
それがすべて悪かったわけではなく、それによって私たちが得たものはたくさんあります。
しかし失ったものも少なくありません。
そしておそらく今や、得失が逆転したのです。
コモンズは、根底にある自然も含めて痩せ衰えました。
つまり社会は極めて不安定な構造になったのです。様々な活動を支え、つないでいく土台が壊れだしたのです。

話が大きくなりましたが、
私はそれがいまの社会の最大の問題だと思っています。
それが、独居老人を不幸にし、働き盛りの人の精神の病を起こし、子どもたちを被害者にしている。つまり社会の荒廃を引き起こしているのです。すべての問題はつながっています。
福祉や安全に関わるさまざまな個別問題を、個別問題として解決していくことだけでは限界があるのではないか。それが「大きな福祉」に取り組んでいる動機です。

子どもたちの痛ましい事件の原因は、私たちの生き方にあるように思います。
社会のあり方、つまり人と人の付き合い方が問題なのであろうと思います。
その出発点は、きっと家族です。そして隣人であり、同僚です。
やれることはたくさんあるように思います。

■本能寺を焼いたのは誰か?(2005年11月25日)
昨日、次世代人材育成研究会で、北海道東海大学の川崎一彦教授から聞いた話です。
川崎さんは今の教育は押付け型で子どもたちの創造性を育てるどころか、奪っているという思いで、いまフィンランドの教育モデルを参考にしながら実践的な教育モデルの開発に取り組んでいます。
そうした活動のお話をしてくださったのですが、そこにこんな話がありました。
「本能寺を焼いたのは誰か?」という質問にどう答えるか、という話です。
皆さんはどう応えるでしょうか。
私はいろいろ考えたのですが、答がわかりませんでした。
川崎さんはある子どもの答を紹介してくれました。
「私ではありません」。

見事な答です。
否定できない事実ですね。
明智光秀ではないか、いや一兵卒だろう、森蘭丸かもしれないなどと考えていたのですが、この答は見事です。しかも、自分の問題として考えています。
子どもたちの発想はすばらしいです。
なぜこうした素直な答ができなくなったのでしょうか。教育のせいでしょうか。

教育水準が上がると環境消費量が増大し、収入は増加するという関係があるそうです。
教育水準があがると「生きる力」は強まるのでしょうか。
昔、educated incapability という言葉を聞いたことがあります。教育を受けて、知識を身につけることと反比例して生活力が低下するという話です。平たく言えば、知識だけあって口は達者だが実際には何もできない人、ということでしょうか。こういう人は決して少なくありません。

教育とはなんでしょうか。
氷が解けると〔   〕になる、の括弧の中に何を入れるか。
学校教育では、「水」が正解です。
しかし、北海道の子どもたちは「春」というそうです。これは有名な話ですが、こうした表情のある答を奨励する学校であれば、きっと子どもたちには楽しいでしょうね。

■チームで相談できる試験制度(2005年11月30日)
韓国で、大学受験に携帯電話を活用した不正行為が問題になっています。
不正行為は悪いでしょうが、そんなにしてまでして、合格しなければいけない状況はどこかに間違いがあると私は思います。教育と言う視点で考えると、根本的なところに問題がありそうです。
先日書いた川崎教授の話に出てきた印象的なことをまた書きます。

フォンランドの学校の紹介の中に、試験の解答をチームで議論しながら答える写真がありました。目からうろこがおちました。試験の目的は何でしょうか。

「評価」は、その視座と目的によって全く変わったものになります。
管理型評価と支援型評価です。
最近流行の行政評価や福祉施設評価は前者です。管理者にとってはともかく、受益者や当事者にとってはほとんど価値のないものだと思っていますが、場合によってはむしろ害をもたらすでしょう。ですから私は反対です。ある自治体から相談を受けた時も大学教授たちの提案する管理型を批判してしまい、仕事はさせてもらえませんでした。無駄使いが上乗せされたと思っています。
行政評価では当初から私は共創型評価を提案しています。これは管理者にとっても意味があると思いますが、何よりも現場支援型であり、実践的です。
共創型評価は、当事者が中心になって現在の状況を改善しようと話しあうことです。評価を通して、効果を挙げ、働きやすくなる仕組みです。

試験の目的は何でしょうか。選別でしょうか、格付けでしょうか、支援でしょうか。
入試はともかく、それ以外の試験の局面では、むしろ試験を通してみんなの学力が高まることが大切です。だとしたら、みんなで話し合って正解を見つけていくスタイルの試験のほうが効果的です。
チームが受験単位になる試験はいろいろとあると思いますが、学校の試験はグループ単位にするときっと楽しくなりますね、そして学びあえると思います。

管理の時代は終わりました。
21世紀は現場の人たちが主役になる、真心の時代になってほしいです。

■ソーシャル・キャピタルと経済成長(2005年12月1日)
社会にとって一番大切なもの、みんなが暮らしやすくなるために大切なもの、つまりソーシャル・キャピタルは、かつては道路やダムのような公共施設でした。そのためそうした分野に税金が投入されました。いわゆる公共投資です。
しかし、施設的な基盤が整備されると、重点はハードからソフトへと移ります。最近ではソーシャル・キャピタルと言えば、人間の絆や信頼関係を意味するようになってきました。公共投資の対象も、当然、絆や信頼関係を育てるために投入するべきでしょう。
しかし、現実にはなかなかそうはなりません。これまでの「ハード発想の経済システム」が影響しているのかもしれません。
ハードの経済学とソフトの経済学は基本的に違うはずです。

ニューエコノミーは、IT分野のようにソフトを重点にして動き出していますが、その根底にあるのはやはりハード発想です。ややこしい言い方ですが、ソフトのハード化が進められています。「管理化」といってもいいかもしれません。
情報は管理できますが、人の絆や信頼関係は管理できません。それを管理しようとすると莫大な費用がかかります。そのためにIT関連企業は巨額な利益を上げられるわけです。もともと管理できないにもかかわらず、です。管理できない分野ですから、費用は底なしにかかります。そして、ここがポイントですが、そこにもまた「産業のジレンマ」が発生します。
典型的なのは、パソコンウィルスです。ウィルスは、防止ソフト会社が自分たちで創っているのではないかという冗談がありますが、それはあながち否定できません。もちろん直接的にはそんなことはないでしょうが、大きな枠組みとしては、ウィルスを作る人がいなければ、防止ソフトは成り立ちません。
こうしたジレンマをうまく活用している産業が今では巨額な利益を上げています。金融業界もその一つです。そうした産業は、本質的な価値を持っていませんので、やりがいはないでしょうから、ますます金銭欲を高める構造にあります。

改めてこんなことを書いたのは、姉歯設計事務所事件の展開を見ていて、まさにソーシャル・キャピタルが産業のジレンマに悪用されていることを感じたからです。
数段階のチェック機関がありながら、検査には誰も責任を持たないままに動いている仕組みの典型です。ベースに「信頼」があったはずですが、それがジレンマを内蔵する産業システムの中で、利益の源泉にされてしまったのです。

信頼関係というソーシャル・キャピタルがしっかりと存在する社会では、検査の意味合いは全く違ったものになります。管理型の検査ではなく、支援型の検査になるからです。しかし、そうした社会では、経済成長率は高まらないかもしれません。警備保障ビジネスも、認定保証ビジネスなど、成り立たなくなる産業はたくさんあるでしょう。家事の産業化も進まずに、経済成長率や税金による財政拡大も押さえ込まれるでしょう。産業の視点からは好まれないかもしれません。しかし、暮らしの視点で考えれば、答えは明確です。
経済成長の発想を問い直さなければいけません。

昔、坂本慶一さん(京大教授)の本で、「死に至る」産業である工業化ではなく「生を目指す」産業である本来の農業に戻るべきだという主張を読んでから、私の産業に対する評価は一変しました。産業の目的は「私たちの暮らし」です。
ソーシャル・キャピタルは、管理のためか、生存のためかで、全く意味合いが変ってきます。同じように、経済成長の意味も目的によっては全く変ってきます。

ハードからソフトへの移行の道順がたぶん間違っているのです。

■信頼しないことから発生するコスト(2005年12月2日)
昨日の記事につながる話です。
JT(日本たばこ産業)の第2次CIともいうべきプロジェクトに少し関わりましたが、そこで面白いことがありました。
JTではそれまで各職場で必要な事務用品があると、申請書に記入して担当部署にもらいに行く仕組みになっていました。それを誰でもが自由に入れる事務用品置き場をつくり、必要になったらそこから自由に持ち出せるようにしたのです。ノーチェックですから消費量は増えるとしても、それにより管理する人件費を削減できると考えたのです。
結果は人件費の削減だけでなく、消費量も減少したのです。理由はいろいろ考えられるでしょうが、たとえばこれまでは手続きが面倒なので、各部署が余分に自分のところで在庫する形になっていたのです。在庫があれば逆に無駄使いが起こります。必要になればいつでも入手できるとなると、わざわざ在庫する必要はなくなります。

この基本にあるのは、信頼の有無です。
信頼関係があれば、管理コストの削減と無駄の発声の抑制が可能になり、しかも関係者の気持ちを明るく、元気にするのです。それに多くの場合、人は信頼されると元気になると同時に、裏切れなくなるものです。
官民構造には基本的に信頼はありません。統治するものとしての官と統治されるものとしての民の間に発生する「信頼」の実体は管理の枠内での功利的な信頼です。もろい関係と言えるかもしれません。
管理の枠を超えた信頼はどうやって構築できるのか。
それは自らの最初の一歩です。
オスグッドのGRIT(Graduated Reciprocation in Tension-Reduction)がすぐ頭に浮かびます(チャールス・オズグッド『戦争と平和の心理学』岩波書店,1968年)。
GRITは、米ソ冷戦時代に国際政治の世界で主流を占めた核抑止理論によるエスカレーション理論(自らの核戦力を増強することにより相手の核兵器使用を封じ込めていく発想)に対して出された対案です。先ず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こす発想で、「緊張緩和イニシアティブ」ともいわれます。
自らがビジョンに向けて一歩踏み出す。誰でもできる実践的な方法です。その出発点は、相手を信頼することです。

信頼関係を壊して経済を発展させている限り、サステイナビリティは実現できません。
人を信頼できない生活は決して豊かではないでしょう。
先ずは隣の人を信頼する、そこから暮らしやすさは始まります。

■死に向かう競争を離脱できるか(2005年12月3日)
ある集まりでの話です。
会社を辞めて数年前から地元でNPO活動に取り組んでいる男性に、なぜ会社を辞めたのかという質問をさせてもらいました。答えは、会社勤めを続けていると死んでしまうのではないかと思ったからだ、ということでした。
同席していた女性たちの多くがうなづきました。
そして、私の夫も死んでしまうのではないかと心配したことがあると、2人の女性が発言しました。過労死と自殺の心配です。
最近また首都圏の電車での人身事故が増えていますが、意図的ではなく、ついふらっと飛び込んでしまうと言う話も出ました。よくわかる話です。課題を多く抱えて、そんな気分になってしまった経験のある人は少なくないでしょう。私もあります。

集まった人たちは、みんな市民活動的なことに熱心に取り組んでいる人たちです。
現在の企業社会の病理をみんなどこかに感じているのかもしれません。それこそが市民活動や住民活動をつなげていくキーコンセプトなのではないかと、私は思っています。

最初の男性は、途中で引き返しました。
姉歯設計士たちは途中で引き返せませんでした。
そして今なお、死に向かって進んでいます。この違いは何でしょうか。

コムケアセンターのホームページに書いた、呼びかけ文を、紹介させてもらいます。

日本は本当に豊かになったのでしょうか。
私たちは経済的な豊かさを追求するあまり、何か大切なものをおろそかにしてきてしまったのではないでしょうか。
たとえば、お互いに気遣いあうこころ。
人と人との気持ちのつながり。
物や自然との心の通わせあい。
そして、だれでもが安心して気持ちよく生活できる社会。
コムケアセンターは、そうしたつながりや社会をみんなで回復していくことを目指しています。

エネルギーの、ほんの一部を生活基盤づくりに振り向ければ、個人の生活も、社会の状況も変ります。お金を得ることだけが生活基盤づくりではありません。
コムケアは、そんな思いで取り組んでいます。

皆さんもコムケアのメーリングリストに参加されませんか。
12月5日にはコムケアのサロンもあります。
案内はコムケアのホームページにありますので、良かったら参加してください。

■耐震構造偽装事件の負担は誰が追うべきか(2005年12月4日)
耐震強度偽装問題はますます広がりを見せていますが、私にはまだ氷山の一角のような気がしてなりません。そして同じ構造が他の分野にも見られるはずです。
これが「民営化」の一側面であることを、私たちはもっと認識すべきだと思います。「民営化」の必然的な結果だと私は考えています。
ところで、被害者たちの経済的負担を国庫から支援すべきかどうかという議論が行われていますが、私はもちろん原則としてすべてを国庫負担にすべきだと思います。それが「民営化のコスト」ではないでしょうか。

「正義論」を書いたロールズの「無知のベール」論が、私は社会の判断基準を考える時の基本だと考えています。何かを判断する時に、人は自らの立脚点から判断することになりますが、一般的なルールを定める場合には、自らの立場がどこに位置するかを白紙にして考えなければいけません。つまり、自らがある事件の加害者にも被害者にもなりうると考えるわけです。そうすることによって、社会全体の利益に向けた正義の原則を見出せというのがロールズの議論です。つまり、「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状態を意味します。
今回の事件を考えると、私が被害者になる可能性は十分ありましたし、これからもあるでしょう。大金持ちでマンションなどには無縁の人もいるかもしれませんが、自分のビルが同じ被害にあう可能性は否定できません。
先のJR西日本の事故もだれでもが被害者になりうる事件ですが、基本的に違うのは今回の事件は国が指定した検査機関がお墨付きを与えていた点です。建築確認業務が民営化されたとはいえ、その検査機関は国が指定していますから、国の責任は逃れられないはずです。
これは「中途半端な民営化」と言うべきでしょうが、そこにこそ「民営化」の本質があります。何回も書いているように、民は官あっての民だからです。
もし完全な私企業による審査体制であれば、状況は変ってきます。その審査ももっと透明性と信頼性を重視したものになるでしょうし、買い手ももっと慎重になるでしょう。しかし、国が認めた検査機関のお墨付きがあれば、大丈夫と思うのは当然です。中途半端な民営化には落とし穴があります。
したがって、今回の事件の被害者は国が救済すべきではないかと私は考えます。
もしあなたが被害者だったら、そう思うのではないでしょうか。
今回の事件は決して「対岸の火事」ではないのです。自分の問題として考えるべきです。
もちろん、問題を起こした関連企業には損害補償請求をすることは言うまでもありません。

しかし、もし国庫負担するとしたらどうなるでしょうか。おそらく今、判明しているのはほんの一部であって、調べていけば現在の数倍の物件が対象になる可能性はあります。国庫がパンクしてしまうと思うかもしれません。
しかし、国家が保証していた仕組みが起こした問題であれば、国家が補償するのは当然です。そのために私たちは税金を払っています。イラク派兵や自衛隊増強、使われない公共施設づくり、環境破壊しながらの環境修復などのために、税金を払っているのではありません。
そして、もしそれでも税金が不足するのであれば、増税してもいいでしょう。
社会の信頼の仕組みが壊れることの恐ろしさを、私たちはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

■稼ぐことと儲けることの分離(2005年12月8日)
風邪でダウンしてしまいました。
まだ咳が抜けず、微熱が残っていますが、少し元気になったので再開します。

今日の新聞のトップは1円で61万株を売りに出してしまったみずほ証券の話です。
これだけ大きな事件はそうはないでしょうが、これに類する話はきっとたくさんあるのでしょうね。それにしてもたった3分の間に、これだけの動きが起こり、300億円もの現金が動くと言うことを知ると、なにやらまじめに働いてお金を稼ぐということがむなしくなります。一瞬にして500万円の利益を得た人は、それ以上儲けることを躊躇したと言うことですが、その気持ちもわかるような気がします。
まじめに働いて稼ぐ場合とはまったく別の論理が働いているわけですが、こうして得たお金と汗をかきながら稼いだお金が、同じものであるところに大きな問題がありそうです。

ところで、みずほ証券は300億円以上の損をしたわけですが、言い方を変えると300億円の利益を得た人がいたわけです。耐震偽装事件被害者の支援として議論されている金額が80億円ですが、その4倍の金額がわずか3分で発生するというわけです。
どう考えてみてもこれはおかしな話です。

汗をかいて稼いだお金と汗をかかずに儲けたお金は、たぶん単位が違うのですが、それらがどこかでつながっているところに問題があります。
耐震偽装事件でいえば、最終ユーザーのマンション購入者の財布は、汗をかきながら稼いだお金ですから、発想の単位はきっと数百円の積み重ねです。しかし、作り手側の建設業者やコンサルタント料をもらっていた総合経営研究所などの金銭感覚はきっと数千万円単位だったのでしょう。稼ぐという感覚ではなく、儲けるという感覚でしょう。ふたつの世界は同じ「日銀券」を使っていても、実は尺度も論理も違うというべきです。

その違う世界をつなぐのが、「大量消費型市場システム」です。それはかつてのように、商店を舞台にした顔の見える人間的な規模での市場とは似て非なるものです。そこでは全く別の論理が働き出します。つまり一瞬にして300億円が動く世界です。テレビを媒体にした市場もそうですが、この「大量消費型市場システム」のおかげで、スポーツ選手や芸能タレント族が巨額な利益を得ることが可能になりました。その仕組みに乗っていない、芸術家や学者は今もって生活者の経済システムの中にいますが、その格差は桁違いで、大量消費型市場システムの乗った「仲間」とは全く違った世界で暮らしているわけです。

問題は、本来であれば、別の論理で動いているはずの二つの経済スキームが安直につながってしまっていることです。そこのつながりのところで、暴利をむさぼっている人もいれば、しわ寄せを受けている人もいるわけです。
まさにカジノ資本主義や実体のない金融経済がはびこっています。真面目に汗して働く人たちの世界は、金額的には主流の座から引き下ろされつつあるのかもしれません。

経世済民という、経済の原点はもう遠い昔になりました。

■裁かれる当事者と権力との距離で判断は決まるのでしょうか(2005年12月10日)
昨日の新聞に2つの事件報道が出ていました。
東京地検特捜部が再捜査していた橋本元首相や山崎拓前副総裁らの献金隠し事件はまた不起訴処分になりました。司法の動きに若干の期待をしていましたが、やはりうやむやになりそうです。中小企業の経営者には厳しく立ち向かえても権力者には立ち向かえないのでしょうか。
それに比べて、立川ビラまき事件の控訴審はあまりの厳しさに驚きました。以前にもどこかで問題提起しましたが、東京都立川市の防衛庁宿舎で、自衛隊のイラク派遣に反対するビラをまいて住居侵入罪に問われた「ビラ配りで逮捕」事件です。控訴審は、無罪だった一審判決を破棄した逆転有罪判決でした。
驚いてしまいました。新聞記事をお読みください。
http://www.asahi.com/national/update/1209/TKY200512090171.html


検察と裁判官の話ですので、それぞれは別の動きと思いがちですが、「つながっている話」です。
裁かれる当事者と権力との距離によって、対応が違ってくる司法のシステムは、いまや見直される時期にきています。司法界の人たちは意識を変えてほしいです。

これはまた、耐震偽装事件と同じ話です。
社会の仕組みや経済の仕組みが問題となっているのです。
検査しない検査機関、判断しない裁判制度。
不正確な表現ですが、手続きが間違っていなかれば、それでいいわけで、当事者能力のない人が検査をし、裁判をしているとしか思えません。
そして、問題が起きたら、仕組みを考えます。公開度を高め、形式的には誰でもがチェックできるようにし、屋上屋を重ねる評価の仕組みを作ります。裁判員制度もその一つです。問題はそんなところにはありません。
みずほ証券の事件もこうしたことにつながっています。
問題の本質はどこにあるかを、そろそろ考えるべき時期にきています。

それにしても、日常感覚に合わない司法の実態を、法曹界の人たちは、少し謙虚に考えてほしいと思います。ここでも「無知のベール」論を前提にしてほしいものです。そうなれば、被害者よりも加害者の人権を重視するなどといった、馬鹿な発想は出てこないはずですし、裁判員制度が司法の権威を回復するなどという無責任な発想はなくなるでしょう。
彼らは決して特権階級ではないのです。裁くことの淵源は、権力ではなく社会から付託された役割なのです。勘違いしてほしくありません。

■悪循環を育てる近視眼的対策(2005年12月13日)
朝日新聞の夕刊の記事です。
見出しは「小学生殺害事件続き「防犯講話」様変わり」です。
栃木県県警は県内の全小学校で防犯講話を開いているそうですが、その内容の一つに、「人を信じては身を守れない」と言うのがあるようです。「知らない人に道を聞かれたら、すぐに逃げなさい」と言う呼びかけもされているとのことです。

どこかおかしいように思います。
自らの責任を放棄し、仕組み自体を放置し、問題の発生を回避しようとしている姿勢です。人の信頼関係を壊すように仕向けていくことは、まさにソーシャル・キャピタルを壊すことでもあります。第一、こんな呼びかけで問題は回避されるでしょうか。ばかげた話だと私は思います。
むしろ人を信じて、問題が起こりそうな気配があれば、近くの人に声を掛けていくことが大事ですし、逃げるような状況に子どもたちを置かないように考えるのが警察の、そして大人の仕事ではないでしょうか。
栃木ではますます事件が増えるのではないかと危惧します。
少しは自らの責任を果たしてほしいです。
大切なのは、警察に対する信頼感であり、子どもたちにしっかりと目が行く社会の仕組みづくりです。

こうした近視眼的対応がいたるところで増えています。
それがますますソーシャル・キャピタルを壊し、社会を不安定にしています。
そうした悪循環を断ち切ることが必要です。
その出発点は、人を信ずることです。
信ずることができる仕組みを作ることです。
たとえば、プライバシー保護の名目で、責任をとるべき人がみんな責任を取らなくなってきています。そのために、ソーシャル・キャピタルが地域社会からどんどん失われているように思います。

まあそういう流れをいくら嘆いても仕方がありません。国民のほとんどが、どうもそれを望んでいるようですから。
しかし、私はこれからも必要があれば、子どもにも道を尋ね、知らない子どもにも目配りし、人を信ずることの大切さをできるだけ多くの人に伝えていきたいと思います。

人を信じない人が増えて誰が喜ぶか、その答えをぜひ考えてみてほしいです。

■責任回避装置としての「システム」(組織)と弱い個人(2005年12月14日)
姉歯元設計士の国会証人喚問の中継を見ました。
彼の答弁は身勝手な言い訳であり、自分を棚にあげての責任転嫁を感じさせますが、なぜか私は姉歯さんに被害者のイメージを持ってしまいます。
個人で働くことと組織で働くことの違いを実感しているからです。
違法行為をしてまでも要求に対応しないと仕事がなくなってしまう、それでは自らの家族が路頭に迷うことになるので、弱い自分は従うしかなかった、その行為が検査機関によってストップをかけられれば、仕事は続けられ、違法行為も防げたはずなのに、そうならなかった、というのが、私に伝わってきた姉歯さんのメッセージです。
私も17年間、一人で仕事をやってきています。経済的にはとても不安定ですし、収入は全く誰も保証してくれません。仕事がなくなってしばらく収入がない時などは、妥協してでも仕事をするかと思ったりすることも皆無ではありません。「痛みを分かち合う」などと軽々にはいえないことを実感しています。小泉首相のように、そんな気がない人(無縁の世界にいる人)は、簡単にそういいいますが。
娘から借金してまで活動を持続しなければならない時期もありました。組織にいたら、そんな体験はできなかったでしょう。
その不安定さを考えると、もし私が姉歯さんだったら断れただろうかと考えてしまいます。家族の状況や経済の状況の中では迷ったはずです。断ったと断言できるほど私も強くはありません。ほとんどの個人はとても弱い存在です。
一人で働いていればこそ、わかることもあります。体験してみなければわからないことはたくさんあります。私も組織人時代、かなり失礼な対応を個人で働いていた人たちにしていたことを思い知らされたことはたくさんあります。
今でも身勝手な組織人(会社人だけではありません)には腹が立つことも少なくありません。
しかし本人はもちろんそんなことには気づかないでしょう。悪意は全くないのです。

人間は弱いものです。
とくに今のように「つながり」が壊れてしまい、「自己責任論」が横行する状況の中では、法律や制度も「弱い個人」を守ってはくれません。ゼネコンのような大手企業や「強い個人」は国家が守ってくれますが、零細な設計事務所は誰も守ってはくれません。
だからと言って、法律違反はよくありませんが、しかし、もっと大きなところでは法律が曲解され、談合や手抜きや無駄金遣いが行われていることも事実でしょう。建設業界にいたら、そんな話はいくらでも見聞できたかもしれません。
しかも、そうした大きな違法行為は黙認されがちです。姉歯さんの感覚がおかしくなっても仕方がないような状況もあったかもしれません。
もちろん今回の事件は、あまりにもたくさんの善意の人の生活を巻き込んだところが姉歯さんの間違いでした。この点は言い訳が全くできないところです。社会保険庁の贅沢組織を対象にしていれば、褒められたかもしれませんが。

この事件は、私には「組織 vs 個人」の問題に思えてなりません。ここで組織というのは、会社という意味ではありません。産業の仕組み、社会の仕組みというような「システム」の意味です。業界の文化も含めてもいいかもしれません。
そう考えると、ヒューザーの社長も総研の社長も、みんな被害者なのかもしれません。
いつか書いたように、システムは責任回避の仕組みです。そして責任拠点は個人であり、その一番弱いところにいる誠実な人が責任を取ることになりやすいのがシステムの怖さです。
「システムという名の支配者」(チャールズ・ライク)にこんな文章があります。
人間が機械の部品としてのみ価値を測られ、その目的のためだけに訓練され、マシーンにとって不要となったら捨てられる社会と、人間こそが究極の成果であり、人間が洗練されるほど豊かになっていく社会との間には、天と地程の違いがある。システムの支配下にあるわれわれは、危険なまでにシステムを信用し、人間の可能性をすっかり忘れてしまっている。

これに退治するには、ロールズの「無知のベール」論に立脚した、個人の連帯(ちながろ)が大切なような気がします。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/12/post_a17b.html

同じ新聞にこんな記事も出ていました。
大企業・冬のボーナス、夏冬を通じて過去最高。
この2つの事象は、深くつながっているように思えてなりません。

ところで、私は17年前からボーナスをもらったことはありません。
誰かくれませんかね。はい。

■理念と現実が違ったらどうするか(2005年12月15日)
みのもんたのクイズ番組に数名の国会議員が出ていて、みのもんたの問いかけで、憲法改定についての議論を始めました。その発言の無責任さに驚きましたが、ひどい議論です。こういう議論が政治の大衆化の中で安直に語られているのでしょうか。こういうタレント志向の強い国会議員にはぜひ早く退場してほしいと思います。彼らと今回の耐震偽装に関わっている国会議員とは同類のように思います。少しは真面目に仕事をしてほしいものです。テレビに出るのであれば、もう少し真面目に対応してほしいです。無責任なタレントに迎合するために公費が払われているわけではないのですから。

ところで私が常々思っていることですが、憲法と現実が食い違うことについての考え方はもう少し論理的に考えるべきです。
たとえば、自衛隊に関する対応ですが、憲法と現実が食い違っているから現実に合わせて憲法を改正するべきだという議論があります。これはしかし成立しない論理です。憲法は理念であり、基準です。現実が違っていたら正すのは現実です。憲法と違う現実を創りだしたのは統治者の違憲行為の結果ですから、内閣は罰せられるべきです。軽い法律でも違反すれば罰せられますが、憲法に違反しても罰せられないのであれば、法治国家とは言えず、憲法の下にある法律に違反した人を罰する根拠を失うはずです。根本の法律に違反している権力体制が、その下にある法律違反者を罰する正当性は持ち得ないはずです。論理的に考えれば、犯罪者が裁くのは正しい行為ということになります。事実そういう話はいくらでもあります。今の日本に、です。刑事事件の冤罪だけが問題なのではありません。私が、日本の司法が腐っていると思う理由がそこにあります。
憲法の話に戻れば、憲法に合わない現実に憲法を合わせる行為は「改正」ではなく「改悪」と言うべきでしょう。もし改正するのであれば、ビジョンと価値論から議論するべきです。

現実から発想するのが今の憲法改定論者の姿勢です。つまりノーロングタームの発想です。あるいは脱価値論の手続き発想です。
こうした近視眼的で脱価値論的な発想はいたるところに感じられます。
例えば、男女共同参画ですが、なぜか女性も深夜労働ができるようになったようです。もし条件の違いがあれば、望ましいほうに揃えるべきだと思いますが、なぜか望ましくないほうに揃えるのが日本の社会です。過労死は増えるのは当然かもしれません。
いやこの言い方は不正確です。
実際にはすべて望ましいほうに揃えられているのです。ただ、誰にとって望ましいと判断するかが重要なのです。
その視座は、日本の場合、生活者や当事者にあることは少ないように思います。働かせるものにとって望ましい方向、戦わせるものにとって望ましい方向、資産家にとって望ましい方向、であることが多いように思います。
悪貨は良貨を駆逐するのです。

変革とか改正とかいう言葉を使う人には注意したほうが良いようです。

■人口が減少するということ(2005年12月16日)
16日の閣議で了承された「少子化社会白書」によると、日本の人口は予想よりも1年早く、来年からいよいよ減少傾向に入るそうです。
いよいよ右肩下がりの時代の始まりです。
戦争もなく、疫病の大流行もなく、平和のなかで構造的に人口が減っていくということはこれまで経験したことのない事態だろうと思います。右肩上がりを前提にしてきた、経済の論理も社会の仕組みも、根底からひっくり返されるような気がします。どうなっていくか、誰も予想がつかないでしょう。
経験したことがないといいましたが、国家単位でなければ、私たちは人口減少モデルをたくさん経験しています。過疎の村もそうですし、家族の減少もそうです。学校も生徒数はどんどん減っています。空き家や空き教室や、空き部屋が増えています。
そうした構造的な人口減少傾向は、それぞれのユニットにどのような問題を起こしたでしょうか。すべてに共通しているのは「崩壊」です。人口減少社会の行く末が見えてきます。
なぜ崩壊に向かうのか。「競い合い」をベースにした統治や管理は簡単です。
人口や成員が減少傾向にあると、競い合いはさせにくくなります。
しかし、競いあいを起点にしなければ、実は住みやすい条件にもなりえます。
崩壊に向かった理由は、その発想のパラダイムにあるのです。
個人の立場から考えれば、人口や成員が少なくなることはマイナスでしょうか。過疎化とは一人ひとりが享受すべき自然が増加するということです。そして仕事が増えるということです。しかし不思議なことに、自然の増加は誰も評価しませんし、なぜか過疎化地域では「仕事がない」などという人が多いのです。どう考えてもおかしな話です。
少子化対策がいろいろと考えられていますが、すべて成功しないでしょう。発想が間違っているとしか思えません。児童手当を増額するとか言う話ではないのです。
発想の枠組みを変えなければいけません。これまでの経済システムや政治システム、さらには社会システムの設計思想を変えることが求められているのです。
これは高齢社会に対してもいえるのですが、少しだけ発想を柔軟にするだけで、現実の見え方は変ってきます。高齢社会も人口減少社会も、それを「問題」と捉えるのではなく、「好機」と考えて見れば、社会の設計思想は一変します。

なにやら今日は理屈っぽい話しですが、少子化を止めようなどとせずに、少子高齢社会の豊かなビジョンを描く時代ではないかと思います。
もしそういう視点に立てば、昨今のような無駄なマンションブームなどは起こりようがありません。姉葉さんも不幸にならなかったはずです。
これ以上、ごみを増やすべきではありません。ごみの増加は豊かさの高まりではなく、不幸の増加なのです。

■日本の建築の考え方(2005年12月17日)
昨日、「ごみの増加は豊かさの高まりではなく、不幸の増加なのです」と書きました。
「ごみ」には、その社会の本質が象徴されます。ごみのあり方やごみの処理の仕方を見れば、その社会が見えてくるでしょう。私の友人の環境クラブの増山さんが、生活者による「ごみ白書」づくり活動を提唱していますが、それが実現すれば、社会は一変するでしょう。そうした本質的な取り組みには行政は関心を示さないのが残念です。

日本の産業廃棄物で圧倒的に多いのが建設関係の廃棄物です。そして住宅の立替年数が30年未満なのも日本の特徴です。建築業界が一時期、100年住宅を話題にしていましたが、あれはその後どうなったのでしょうか。
商業施設は多くの場合、短期決戦で、5年以内に設備費も含めて回収する発想が多いと思います。なかには2年で回収などと言うのもあるでしょうが、建物はすぐ取り壊しできるように安価であることが求められます。
住宅も施工期間が短いほどコストダウンになると言われますが、それはすべてのコスト計算のベースが工期に依存するような仕組みになっているからでしょう。短すぎるためにシックハウスのような問題も起きていますが、引渡し後に発生するコストはどんなに高価であろうとメーカーには関係ないのが今の仕組みです。買い手もそれもまた購入価格につながっていることをあまり意識しないことが多いのです。

昨日の書き込みの補足なのですが、こうした日本の建築観がいま話題の耐震偽装事件の根底にあるように思います。問題は決して姉歯さんだけにあるのではありません。私たち生活者も含めて、社会の文化にあるように思います。
もちろん、だからと言って、この事件を正当化したり、責任を曖昧にしようなどというのではありません。その責任はしっかりと明らかにされるべきです。
しかし、それと同時に、これを機会に私たちの購買姿勢や消費姿勢を見直すことも大切なのではないかということです。
耐震偽装事件は、決して私たちの生き方と無縁ではないのです。

■「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」(2005年12月18日)
「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」。1949年エッソが出した雑誌広告のコピーです。科学技術をベースとした工業化の進展は、まさにエッソの指摘通り石油消費量を激増させました。工業化の度合いが文化の「発展度」を測る指標にさえ使われ、地球あげての工業化競争が繰り広げられたのはそう遠い昔の話ではありません。いや、今なおその延長にあるといってもいいでしょう。
このエッソのメッセージの逆、「石油の消費量が多くなれば、それだけあなたの暮らしはよくなる」は成り立つでしょうか。微妙です。しかし、現実は、「石油消費量の増加によって成り立っている豊かさ」の上に私たちは生活しています。さらにいえば、石油消費量の増加はごみの増大とつながってもいます。
一昨日からの議論の延長を今日も続けます。

工業化は石油消費量を増やしただけではありません。
もしかしたら「ごみ」という概念、とりわけ産業廃棄物という概念は工業化によって生まれた概念かもしれません。
日本の古来の農業にはたぶん「ごみ」概念はなかったと思います。
そういえば、こんな話も最近何かで見聞しました。
日本の農業では野菜を食べる虫たちもまた食材だった、野菜と一緒に食べれば貴重な栄養源になった、というのです。私の読み違い、聞き違いかもしれませんが、納得できる話です。つまり昔の農業においては、害虫という概念がなかったというのです。害虫もまた工業化が生み出した概念かもしれません。
工業化は多様化の発想を嫌います。多様な存在を前提にしては効率化や管理化が進みにくいからです。しかし、まさにそこから問題は発生します。
ドイツでは基本法を見直すことから、廃棄物(ごみ)の概念をなくそうという発想が生まれてきているようです。
そろそろ私たちは工業化発想の呪縛から抜けださないといけないようです。

さて、今の日本のコピーライターなら、次のように言うかもしれません。
「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が少なくなる」。
スローライフ、エコライフが目指している生活は資源節約型といっていいでしょう。
あなたの生活にはどのくらいのごみが随伴しているでしょうか。
私の場合、ものすごく多いです。少しずつ減らす努力はしているのですが。

■農業は殺生行(2005年12月19日)
日本古来の農業には害虫はいなかったという話を昨日書きましたが、今日はその農業の話です。
我が家もささやかな家庭農園をやっています。農薬などは使わずに、まさに虫に食べられた穴だらけの野菜を収穫しています。
自宅のすぐ近くの空き地が我が家の農場です。女房が中心で、私はその手伝い人です。
キャベツや白菜もつくっていますが、ともかく虫に良く食べられます。
そのため行くたびに葉っぱについている虫を見つけて殺さなければいけません。最初は抵抗があり、虫を見つけて袋に入れて、ごみと一緒に出していましたが、結局、彼らは殺されるわけですから、今はその場で殺して土に埋めるのです。かなり残酷な作業です。いつも、農業は殺生行だと思いながら、虫に詫びながらつぶしています。

エジプトに行った時に、鳩料理が出されました。私は食べることができずにパスしました。今でも魚の活き造りが不得手ですが、そんなこともあって私は野菜が一番好きです。肉はどうも抵抗があり、魚は顔があると食べにくいです。
しかし、野菜もまた多くの殺生の上にあるのです。野菜作りをしていて、それを実感します。自分自身の身勝手さと表層的な自己満足に少し嫌悪感を持ちます。
できれば虫を直接殺さないですむように、殺虫剤や除虫剤を使いたいと思うほどです。それらは自然を壊し、もっと多くの生命を抹殺してしまうわけですが、直接手で殺すのではないので、精神的には苦痛を感じないですみます。これが「曲者」なのですが。
こういう形で、私たちは殺生を見えないところに追いやってしまっているのでしょうね。
こうしたひ弱な生き方が問題を発生させているのかもしれません。

「賢治の学校」を始めた鳥山敏子さんは、小学校でニワトリを飼い、それを子どもたちと一緒に料理して食べるという過激な教育をされた方ですが、そうしたことでこそ、生命の大切さや意味が伝わるのかもしれません。鳥山さんをパネリストにしたパネルディスカッションをやったことがありますが、実に刺激的でした。頭では理解できるのですが、私にはできないでしょう。
今日、子育ち関係のフォーラムがあったのですが、パネリストが最近の子どもたちはケンタッキーフライドチキンは樹になっているものだと思っているのではなかろうかと冗談で話していましたが、まんざら冗談ともいえないかもしれません。私も、できればそう思いたいです。

私たちの生活は数々の生命の犠牲の上に成り立っています。
この頃、改めてそう思います。

■診療報酬改定も財政問題発想でいいのでしょうか(2005年12月20日)
来年度の診療報酬改定は中央社会保険医療協議会の不祥事事件の影響もあって、内閣主導で行われたようです。そして小泉首相のイニシアティブで過去最大のマイナス3.16%で決着したそうです。これをどう評価すべきか、私にはあまり確信はもてませんが、いくつかの点でとても大きな違和感を持ってしまいます。
中医協がしっかりと機能していないことに先ず危機感を感じます。不祥事を契機に仕組みの見直しを行うのが本筋でしょうが、どうもそうはならなかったようです。
それともつながるのですが、改定の発想が財政問題に立脚しているところに危惧を感じます。私たちの生命を預ける医療制度もまた、お金の問題が優先されるのが今の日本の社会です。これが最近の日本の政治のようです。一時期少しいい方向に進んでいたように思いますが、小泉首相が時計の針を大きく戻し、また金権政治・権力政治の旧体質に自民党を戻したように思います。一般の評価とは反対かもしれませんが、権力の集中は必ず金権政治を伴います。

私の友人の病院理事長が、日本では真面目に病院経営をしようと思うと赤字になる仕組みになっていると嘆いていたことがあります。事実、病院経営の大変さは家族が入院したりすると実感できます。医師や看護士に余裕がないのです。治る病気も治らないのではないかと思うほどです。そんな中でがんばっている医師や看護を見ているととても頭が下がります。
女房の関係でいつも感じることがあります。医療機器を使った診察は高価で、時に10万円を超えるのですが、医師に話をきちんと聴くときは、30分も丁寧に相談に乗ってもらっても数百円なのです。ここにも診療報酬体系のおかしさを感じます。これをこそ変えるべきでしょう。
民間の病院などでは、そのため不要な検査も増えているのではないかと思うこともあります。病院にかかっている私の友人の話を聞いていてそう思うことも少なくありません。
薬価もかなり不信感があります。20年前に少し医薬業界を調べたことがありますが、かなり危うい世界のように思いました。今もジェネリック薬品がよく話題になりますが、これも危ない世界だろうと思います。仕組みが悪いとしかいえません。
財政問題を解決するためにも、医療制度の内容をきちんと見直す必要があります。医療費削減が目的ではないのです。それに今回の改定による医療費国庫負担の削減は約2400億円だそうです。たった2400億円です。あえて「たった」と書きましたが、先のジェイコム事件では一瞬にして400億円の利益が出たことを考えれば、「たった」ともいいたくなります。

「患者さんと医療関係者には深い川があるが、相互理解が必要だ。医療の改善には国家財政の構造改革が不可欠。真実は現場にある」。これは栗橋病院の本田宏副院長が最近の講演で話された言葉です。ここで本田さんがお話されている構造改革と今回の診療報酬改定とはあまりに発想の視点が違うのです。
本田さんは私が敬服する医師ですが、本田さんが関わっている「医療制度研究会」のサイトをぜひご覧ください。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/isei/top2.html
そこに本田さんの講演記録があります。スライドショーまで添付されています。ぜひご覧ください。考えさせられます。
私も医療制度や病院の問題をみんなで話し合うフォーラムを開催したいと思っています。その準備会の開催を予定しています。関心のある人がいたらぜひご連絡いただけませんか。一緒にやりませんか。

■「市民から住民へ」(2005年12月22日)
最近ボランティア活動に取り組んでいるご年配の女性の方がよく相談にきます。その人たちにとって、NPOとはなかなか理解しがたい存在のようです。
一方、今週、2人のNPOに関わっている人と話していて、異口同音にNPOの目線と敷居の高さが話題になりました。2人ともNPO活動にかなりしっかりと関わっている人たちです。
NPOって一体何なのか、最近私はますますわからなくなってきています。
NPOと言う言葉がやはり良くないですね。これは金銭市場主義の世界の言葉のような気がします。利益を分類基準にする段階でまず間違っています。
そういえば、日本ではボランティアが無償行為と認識されていました。今もなお、そういう意識は払拭されていません。ボランティアなどと言う言葉は行為者が軽々に使う言葉ではないと思いますが、私にはとても嫌な言葉です。他の活動はボランティアではなく、強制されてか、あるいは金のためにやっているという意思表示なのですから。

NPOの目線の高さは「市民」発想だからかもしれません。
私が昔感激した言葉に「住民から市民へ」と言うのがありました。武蔵野市などで始まったまちづくりの基本姿勢です。
しかし、その後、社会の実相や現場に少し関わりながら、私はこの言葉に違和感を持ち出しました。市民発想の根底にある目線の高さに違和感を持ったのです。
今では「市民から住民へ」を私は標榜しています。
ですから、住民の意識を高めるとか市民意識を育てるなどと行政の人やまちづくりに関わる人が発現するとそれだけでその人を信頼できなくなるほどです。これに関しては、CWSコモンズでもこのブログでも何回も書いていますが。
制度としてのNPOが発展するのはいいことかもしれませんが、それで失われるものがあるようでとても気になります。どこかで私たちは間違っているのではないかという不安が拭えません。

その一方で、安直にNPOだとかコミュニティビジネスだとかいう風潮にも疑問があります。そう思う理由の一つは、NPOの中間組織や行政の市民活動支援関係の窓口の人とつきあっていて感ずるアマチュアリズムです。コミュニティビジネス支援を標榜しながら、コミュニティビジネスの何たるかはもちろん経営に関してもアマチュアの人が多すぎます。企業ですら通用しないメソッドを持ち込んで、NPO経営を研修で語っていることも少なくありません。相手は何も知らないことが多いですから、大学で何も知らない学生に教えている経営学者と同じくらいアマチュアでも通用してしまうのです。しかも、行政は評価能力がないので、丸投げです。その結果、次第に受講生が集まらなくなり、電話で集めることも良くあります。税金の無駄使いはともかく、その欺瞞性に腹が立ちます。

腹立ちついでにNPOに対する「もう一つの失望」を書きます。
私がとても高く評価している、そして社会に大きな風を起しているNPOのいくつかに関することです。
NPOの中心人物は活動が忙しくて、なかなか他の活動には関わる余裕がありません。そればかりか本当に忙しくて、過労死しかねない企業人と同じくらい睡眠時間や「生活」時間を減らしてがんばっています。ある時期はそれでも仕方がありませんが、そういう姿を見ていると、結局、いまの企業社会での生き方と同じではないかと思えてしまいます。いまの社会のあり方を変えていこうというビジョンで始めた活動であるはずが、いつの間にかその社会のあり方に馴染んでしまっているのです。残念でなりません。それはきっと彼らが当事者ではないからかもしれません。それでは話題は作れても、イノベーションは起こせません。
その人たちは忙しくてこのブログは見ていないでしょうから、いつか直接言わなければいけません。言っても伝わらないかもしれませんが。

社会を変えるのであれば、まず自らの生き方を変えなければいけません。
ちなみに私は忙しそうですが、実は忙しくありません。それにいたって自分の気分を大切にしています。今日もある委員会がありましたが、急に疲れを感じたので、欠席の連絡をして帰宅してしまいました。そして前から観たいと思っていた「夜盗風の中を走る」の映画をテレビで見てしまいました。40年ぶりです。実は今週中にやらなければいけない宿題がたくさんあるのですが、それよりも気分を大切にするのが私の生き方です。そういう意味では、私はいわゆるシニアニートかもしれません。実は今日の委員会はニートの委員会でした。はい。
関係者の方には読まれたくない書き込みですが、彼らもまたこうした無意味なブログは読まないので大丈夫でしょう。はい。

忙しくないため、また冗長な書き込みになりました。
すみません。

■ウォーキングバスの発想(2005年12月23日)
昨日、イギリスで行われている「ウォーキングバス」をテレビが紹介していました。
ご覧になった方もあると思いますが、イギリスでも子どもを狙った事件が発生しているため、親から子供の安全についての心配が学校に寄せられ、それが契機になって、すぐに親、学校、自治体の3者で会議が持たれ、「ウォーキングバス(歩くバス)」の導入が決まったのだそうです。そして全国に広がりだしているというのです。
「ウォーキングバス」はこんな形で「運行?」されています。
朝の8時半、小学生の登校時間。乗客の子供たちと運転手の親が始発の場所から出発します。つまり一緒に歩くのです。ルールは全員が周囲に目立つ明るい色のベストを着用すること。そして、バスの停留所のように、通学路の途中で次々と子供たちが「歩くバス」に乗り込んできます。こうして子供たちは、より安全に学校までたどり着くことができるというわけです。
ちなみに、ベストの費用などは地元のお店が負担したりしているようです。企業もまた協力しているのです。

日本での取り組みと大きく違うのは、楽しさの要素が見事に組み込まれていることです。子どもの目線にたった発想と言ってもいいかもしれません。日英の「教育観」や教育行政の姿勢の違いも明らかです。
日本では、企業も行政も学校も責任回避しあって、結局は子どもたちにしわ寄せし、「大人を信ずるな」と教え込んで、子どもの「自己責任」の問題にしているのです。そうした教育の中で「真面目に」育った結果の一つが「姉葉さん」なのかもしれません。

「ウォーキングバス」の発想は介護や福祉にも大切なことです。
介護や福祉は楽しく解決しなければいけません。その方策を考えることこそが、私たちの知恵です。ケアする人をケアする前に、ケアをケアすることが必要なのかもしれません。

それにしても「ウォーキングバス」は素晴らしい方法だと思いますが、日本でもどこかでやっているところはあるのでしょうか。
ご存知の方がいたら、教えてくれませんか。

■時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い(2005年12月24日)
昨日の書き込みに大村さんがコメントしてくれた中に、「車に乗っていては見えないものがあまりにも多い」と言う文章がありました。全くその通りですが、それを読んで、「時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い」ということを書きたくなりました。
私は17年前に時流から降りることにし、会社を離脱しました。世俗的な意味で失ったものは多いかもしれませんが、見えてきた世界は果てしなく大きいです。
時流を少し離れて、時代を見るとそのおかしさや行く末が見えてくるような気がします。そのせいか、時流になっている動きのほとんどすべてに、私は否定的になっています。
郵政民営化もそうですし、NPOの動きも、自治体の市民参加志向も、コミュニティビジネスも企業変革も、二大政党化や小選挙区制も、医療制度や福祉制度の動きも、教育改革や市町村合併も、男女共同参画も自立支援も、能力主義やリサイクル重視も、ほとんどすべての動きに違和感を持っています。「官から民へ」「市民主役」などのスローガンも、私には馬鹿げたものにしか思えません。
もちろん否定からは何も生まれませんから、そこに意味はありません。
しかし、私にはほとんどの解決策や時代の行く末が予感できる気がしています。あくまでも「気がする」程度の話ですが、この20年を考えるとそう間違ったことはありません。もっとも誰も自分の都合のいい事実しか見ないですし、また覚えていないものですから、私と同じように思っている人は少なくないでしょう。
しかし、たとえば時流を離れて、自分という「個人」を起点に考えると、ほとんどのことが解読できます。それが正解であるとは限りませんが、時代の構造はかなり納得できるのです。ですからとても「生きやすい」のです。
しかし、社会のためなどと考え出すと、途端に生きにくくなります。私には自明のことを説明するは至難ですが、その努力をするか、意に反して時流に従うかしなければいけないからです。私は多くの場合、そのいずれもとりません。時流に従う生き方に戻ることは自己否定になりますし、私には見えていることを論理的に説明することは不可能です。そんな話をしても、誰も理解してくれないでしょう。見た人しか理解できないことは少なくないのです。

時流を降りて、自分の素直な価値観で世界を見ると、いろいろな発見があります。
まもなくお正月です。幸いに多くの人は時間の余裕があるでしょう。
一度、時流から降りて、1日、何もせずに空でも見ているときっと世界の実相が垣間見えてきます。

■小泉内閣は何か問題を解決したことがあるでしょうか(2005年12月25日)
北朝鮮による拉致被害者家族連絡会代表の横田滋さんが過労で入院されたそうです。
暇を弄んでいる小泉首相とは違って、問題を抱えている人たちはみんな大変です。小泉首相がもう少し真面目に働いてくれれば、日本も変わるでしょうが、彼はきっと働く気などさらさらないのでしょう。記者へのインタビューの回答で、それが伝わってきます。誠意のある回答を、私は聞いたことがありません。
念のためにいえば、忙しくしていることと働くことは違います。自治体の首長も同情したくなるくらいみんな忙しくしていますが、働いている人はそうはいません。選挙対策も兼ねて、さまざまなイベントや行事に参加するのは、殿様や教祖の仕事ではあっても、自治体の責任者の使命ではありません。イベントではお客様扱いされて、現実が見えなくなるのが関の山です。

北朝鮮の拉致事件に関しては、昨年の12月24日に政府は「迅速かつ誠意ある対応がなければ、厳しい対応をとらざるをえない」と制裁を予告しましたが、1年たった今もなお、制裁発動は出ていません。つまり、北朝鮮の対応は、小泉内閣にとっては、「迅速かつ誠意ある対応」だということになるのでしょう。そう考えれば私には納得できます。両政府の行動は極めて類似しているからです。
小泉内閣の姿勢に関しては、CWSコモンズでも何回か書きましたが、最初からひどい言動を重ねています。心ある人であれば、反旗を翻すと思いますが、心無き人が政界や財界、さらには言論界にこれほど多いとは思ってもいませんでした。

国民の安全を守る立場にある国家の意思と能力は、この事件に象徴されているといっていいでしょう。国家は本当に国民の生活を守ってくれる存在なのでしょうか。
アスベスト問題や耐震偽装問題では国家はしっかりと対応しているではないかと思うかもしれませんが、そもそもこれらの事件には、おそらく政府や国会議員が少なからず加担しているのではないかと思います。そのせいか、耐震偽装問題では、証人喚問さえも時間ばかりかかり、形式的ですし、強制捜査も相手が対策できるように十分な時間を与えています。さまざまな画策が行われたと思われても仕方がないと思います。
水俣事件の時の体質と何も変わっていないような気もします。

郵政民営化が実現したではないかとも言われそうですが、確かに権力者にとって都合のいい仕組みや時間軸の逆転はかなり実現したかもしれません。
制度をつくり、形を変えるのは簡単なことです。
しかし、生活者にとっては制度よりも現実です。

この1年、政府は拉致問題に関して国家としての役割を果たしたのでしょうか。
横田さんたちの無念さを思うと同時に、いつかは私自身も同じ経験をしかねないと不安になります。「無知のベール」で考えると、拉致事件のような明快な問題に今の政府の不条理さが良く分かります。「勝者」には決して理解できないことでしょうが。

■人口減少の最大の問題は労働力不足ですか(2005年12月26日)
人口減少が始まりました。その最大の問題は「労働力不足になること」とNHKのニュースで報じられていました。耳を疑いました。まだ産業界の発想で考えられているのか、と思いました。産業界にとって人口減少はいうまでもなく、規模の縮小につながります。市場も労働力も減少するのです。
しかし、同時に思ったのは労働力不足がなぜ問題なのかです。そして、今まだ失業者や納得できる仕事に出会えない人たちが多い仕事不足の状況の中で、労働力不足を話題にするとは何事かと思いました。視点を変えれば物事の意味は反転します。それに気づかない人が多すぎます。
労働力不足も仕事不足も、産業システム、経済システムによって発生します。仕事や経済は人間が創出するものですから、本来、過不足はないはずです。たぶん論理的に論証できるはずです。私には難しいですが。
もし過不足が発生するとしたら、それは自然です。過剰に人口が増えたが故に自然が不足することは考えられます。しかし人口が減少したが故に自然が過剰になっても、それは問題にはならないはずです。おそらく自然の循環系の中で問題は解消されるでしょう。今問題なのは人口増加の中での自然不足で、人間にとっての環境の悪化が進んでいるということです。人口減少はむしろ歓迎すべきことです。
人口減少によって、労働力不足になることを危惧する前に、現在の仕事不足状況を真剣に考えることが大切です。
さらにいえば、仕事不足の一方で、企業が史上最高といわれる利益をあげ、ミニバブルといわれるくらいに高価な商品が売れているというおかしな状況をどう考えるかです。っしかも、そうした状況の中で、メンタルヘルスが問題になり、年間3万人を超す自殺者が続いているのです。このことを問題にするべきでしょう。
将来の労働力不足が問題なのではありません。現在の仕事の配置や構造がおかしいのです。まずはみんなが安心して気持ちよく働ける仕事環境をつくることです。
人口減少は決して暗い話ではないのです。暗いのは、現在の仕事の配分がもたらしている産業社会なのです。
人口減少によって、労働力(市場)が確保できなくなると考えるような人には社会は任せられません。しかし、いまの国民はみんな、なぜかこういう政府や財界の発言に納得してしまうのです。少し考えれば、そのおかしさに気づくはずなのですが。

■悪徳リフォームビジネスと健全なビジネスの違い(2005年12月27日)
昨日、テレビで悪徳リフォーム業者の特集番組をやっていました。
独居老人住宅を市場にして不要なリフォームをさせてしまうビジネスです。テレビでは悪徳リフォーム業界と呼んでいました。1000人を越える被害者の被害総額は100億円以上だそうです。弁護士たちがチームを組んで、払い込んだ金額を回収する裁判を起こそうと呼びかけても、ほとんどの被害者は参加しないといいます。被害者はむしろ自らを責めるだけで、加害者を攻める方向に言動が向かないのです。不思議な話ですが、人を信頼して裏切られた人にとっては、裁判もまた信頼できないのでしょうか。わかるような気がします。
こうしたビジネスは、日本でもなぜかかなり放置されています。社会の基準が私の感覚とは大きく違います。もっと厳しく取り締まるべきだと思いますが、警察も行政もかなり野放しです。
ここにも考えるべき問題がたくさんありますが、今回考えたのは別の話です。
悪徳業者と健全な業者との違いは何でしょうか。頭で考えればすぐわかります。嘘をつくかどうかです。
しかし、たとえば薬効が確実でないサプリメントや薬の製造販売する企業はどうでしょうか。無害無益な小麦粉も効用があると聞かされて飲めば病気を治すこともあるといいます。
高価なブランド品の効用とは何でしょうか。偽物ブランドでも気づかずに満足している場合はどうなるのでしょうか。
ピカソの絵だと信じて毎日その前で感激していた人は、その絵が贋作だとわかったらもう感激しなくなるでしょうか。たぶんなるのでしょうね。私はならないと思いますが、自信はありません。
今回の耐震偽装は、程度があまりにもひどいですが、そこまでひどくない場合はどうなるでしょうか。すべて悪徳商法というべきでしょうか。ほとんどすべての建築物がどこかに嘘を含んでいると思うのは私の誤解でしょうか。いや、家だけではありません。工業時代の商品とはそういうものだと私は思っています。
それに、嘘をつくのが悪徳商法であるとしたら、テレビなどは悪徳商法の常連かもしれません。
さて、悪徳商法とは何かを考えていくと、なにやら今の産業そのものに、その遠因が埋め込まれているような気がしてきました。そうだとしたら、社会の基準に合わない私の感覚に問題があるのでしょうね。住みにくい時代です。

嘘を平気でつく首相を選んでいる国ですから、まあ日本は悪徳社会がはびこっているのでしょうが、それをもっと自覚しなければいけませんね。
人を信ずるということがリアリズムだった時代は終わったのでしょうか。
いやそんなはずはないですよね。

■主体的に考えるということ(2005年12月31日)
今年は元気の出ない年でした。
あまりにも納得できないことが頻発し、時代に違和感を強めていました。
なぜみんな、自らを不幸にするような選択をし、住みにくい社会づくりに向かっているのかが私には理解できませんでした。歴史の繰り返しなのですが。
昨日、「ローマ人の物語」14巻を読みました。そこでも民衆が同じ行動をしています。

「ローマ人の物語」14巻は、キリスト教カソリックが異教と異端を抑えて、権力化、つまり唯一の権威になっていく過程が描かれています。そしてその流れに抗した2人の人物が登場します。
一人はユリアヌス、「寛容の時代」への回帰を目指した「背教者」の肯定と、皇帝をも神の羊飼いにしてしまったアンブロシウスに異議申し立てしたシンマクスです。前者は有名ですが、後者は本書で初めて知りました。いずれも時代の流れに抗したアナクロニズムと受け取ることもできますが、時間軸を変えれば評価は全く変わります。それは今の日本の状況にも見事に当てはまります。悲しいことですが。

話はとびますが、なぜ元気がでなくなったのか、それは私の主体性の問題です。
時代に期待しすぎてしまったからです。流れには勝てません。勝とうと思うからこそ、愚痴が出ます。主体的なようで、主体的でないのかもしれません。
流れを基準にするのではなく、自らを基準にすれば、抗う必要はなくなります。

今年は愚痴が多かったと思いますが、来年は主体的に言動しようと思います。
そして、主体的に考え行動するとはどういうことかを考えたいと思います。

今年も読んでくださった方々に感謝します。
できれば読者の方と会いたいとついつい思ってしまうのが、私のアナクロニズムですが、このブログはCWSコモンズともつながっています。気が向いたらオープンサロンなどにも来て下さい。お会いできればうれしいです。

来年は元気溢れる年にするつもりです。
ありがとうございました。

<2006>

■変えることのできるものと変えることのできないものとを見分ける知恵(2006年1月1日)
年末に読んだ「キリストの勝利」に出てくる、シンマクスの話がとても気になりながら、年を越しました。昨日、書いたようにクイントゥス・アウレリウス・シンマクスはキリスト教の国教化に伴い、異教が排斥され、かつての神殿や神像が破壊されることに異議申し立てした人物ですが、当事の流れから見れば、時代の変革を止めようとするアナクロニズムとみられる活動だったかもしれません。背教者ユリアヌスもまた時代の流れを戻そうとした一人です。

バーミアンの仏像を破壊したことを怒る人がいますが、そのような愚挙は歴史にはいくらでもあります。すべてが「変革」の大義で行われています。日本でも廃仏毀釈はそう昔のことではありませんし、今なおそのような愚挙はさまざまなところで見られます。

初詣に近くの神社をまわりました。
穏やかな雰囲気の中で、昔からの光景がまだ残っているのがうれしいです。
しかし、いつまで残れるでしょうか。

私はキリスト教には共感を持てませんが、アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉には共感を持ちます。4世紀のローマが、もし違った選択をしていたらと思わずにはいられません。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
見分ける知恵を与えたまえ

変革はしっかりした基軸があればこそ、意味を持ちます。
展望と理念のない変革は、ただの破壊でしかありません。

私たちもいま大きな歴史の岐路にいるように思います。そしてローマと同じ繰り返しをしているような不安があります。
今年は生き方の基軸を改めて大切にしたいと思います。

■「日本はもうどうしようもないところに向かっていると思いませんか?」(2006年1月2日)
知人の国会議員(民主党)からメールが来ました。
「佐藤さん、日本はもうどうしようもないところに向かっていると思いませんか?」
しばし唖然としました。
この人はとてもいい活動をしている誠意ある議員です。見識も行動力もありますし、平和に向けての実践にも取り組んでいます。しかし、議員がこんな風に言っていいものでしょうか。まあ思いは良くわかるのですが。

社会に失望していると思われるメッセージはたくさんの方からもらいました。
年賀メールのいくつかを紹介します。

・戦後世界が完膚なきまでに終わった。それが元旦の所感です。
・日本の衆愚政治は、ますます昏迷を深めて行く事は、読解能力の低下にも見ることができます。教育が根底から崩壊しているのです。
・目のまえにいる困窮する人を黙殺し、私利私欲を貪る国は、国の名に値しません。
・日本の全体主義に抗して、国家を考えるべき時です。
・社会のリーダーによる基本的なモラルの問題が続きました。昔がよかったとは言いたくありませんし、規制緩和、体制改革も必要ですが、基になる社会、国家に信頼性が低い状態は、不幸に思います。
・世の中、利権の奪い合いで、公共の立場にある人たちが利権が大きいだけにその筆頭になっていることが見えます。

そして、国会議員の上記の発言です。
私のブログを読んでくれていたら、私にこんなメールは寄こさないでしょうが、それ以上にもっと国民の現場に触れてもらえれば、あるいは若者の世界に触れてもらえれば、今頃こんな発言をするはずはありません。
誤解があるといけませんが、私はこの人を信頼しています。民主党を離党してほしいと思いますが(民主党の解体を勧めましたが)、それはともかく、この議員は本気で日本を良くしようと取り組んでいるはずです。その人ですら、意識はこの程度だということに唖然としたのです。「どうしようもないところ」とは当事者の言葉ではありません。私ですら、使うのを躊躇します。
もっと実践的な行動が起こせないものなのか。国会議員は起こせるはずです。

生活者はどうするでしょうか。
たとえば、ある人は、
・近時の世相から厭世観が嵩じ、世事は最小限に止め、もっぱらテニスや囲碁など趣味の世界に慰みを求めております。
といいます。高齢者の多くは、こういう姿勢だと思います。

若者は違います。ある若者は、
・ますます資本に牛耳られていく世の中に、少しばかり刃向かいながら、心の豊かさとは何かを考えていきたいと思います
と書いてきました。こういう若者が増えているのが希望です。

国政が時代の方向を決めています。もしそれを止めたいのであれば、党利党略などは捨てて、野党は大同団結して動かなければいけません。しかし、小さな私欲の中で、歴史観もないまま、二大政党などと時代遅れのことを言っているのが国会議員です。

「どうしようもないところ」とは一体何なのか。
もしそうであれば、そうならないように、それぞれでできることに取り組みたいと思います。この議員にもう一度、メールをしてみようと思います。
「どうしようもない」のは国会であって、日本ではないのかもしれませんし。

■歯がなければ歯は痛くならない(2006年1月3日)
NHKのにんげんドキュメント「人も長持ち モノも長持ち〜93歳 現役社長の経営術」を見ました。昨年5月に放映されたものの再放送です。
主役は知立市の町工場社長の成瀬博さんです。
自動車会社の下請けをしていましたが、仕事よりも金を優先させた発注態度や仕事をやらせてやるという姿勢に反発して下請けを辞めて独自路線の町工場に転じた経営者です。
成瀬さんの信条は「金よりも仕事が上」です。
仕事を頼んでいた企業が不渡りをつかまされて倒産の危機に直面した時には、理由を一切聞かずに、その社長に資金支援したエピソードも紹介されましたが、その会社の経営者もいまは身の丈にあった家族企業に転じました。
その社長が、「家族のために働く」実感を持てるようになったと話していたのが印象的でした。
誰のために働くかは、とても重要な問題ですが、往々にしてあまり考えられていないように思います。
もしそれが明確であれば、無限に働くことはなくなるでしょう。
収入もきっと限度があるはずです。

成瀬さんにとっては「金よりも仕事が上」ですが、昨今は金を獲得することが仕事だという風潮が広がっています。
仕事と金は別の次元の話だと思います。

成瀬さんのお弁当を食べる場面がありました。
見ているとあごでゆっくりと噛んでいます。
歯が無さそうです。そう思っていたら、驚くべき発言がありました。
歯が悪くなるといけないので、歯は全部抜いたというのです。
ちょっと表現は不正確かもしれませんが。
歯が無ければ歯痛で辛い思いをすることもありません。
感心しました。元を正せばいいのです。

成瀬さんは毎日3種類の新聞を丁寧に読んで、それを1枚ずつしっかりと4つに折って、3日分を紙テープでまとめます。
この地域では、学校の生徒が古新聞の回収に来るのだそうですが、その生徒たちが集めやすいようにし、また回収作業が効率的に進むように、毎日ちょっとの時間と労力を割いているのです。
きっと成瀬さんの会社や工場ではごみも出ないように思いました。

成瀬さんの会社で働いている社員は幸せですね。
取引先の社員も幸せでしょう。
それに成瀬さんの会社で使われる資材や機械もきっと効果的に使われていることでしょう。
今でもこういう会社があるのですね。
日本の企業が復権する希望は大いにあります。

私は「経営とは愛すること」という考えを持っています。
なかなか理解してもらえませんが、今の企業に必要なのは「愛」ではないかと思います。
とてもいい番組でした。

■学校での週1回の「弁当の日」をどう思いますか(2006年1月4日)
子育ち学ネットワーク代表の深作さんから、彼が住んでいる埼玉県鷲宮町の議会が昨年9月に、食育と家庭の教育力の向上を図ることを理由に、学校での週1回の弁当の日を設定する決議をしたそうです。
皆さんはどう思われますか。
きっと現場を知っているかどうかで判断がわかれるように思います。
深作さんからのメールを一部引用させてもらいます。

一見食育の流れかと思うかもしれませんが、地域事情・家庭事情を鑑みると、給食が唯一のまともな食事という子どもたちも多くおり、その子どもたちの健やかな育ちへの危惧を抱かざるを得ません。

現在、反対運動が起こっているそうですが、決議の内容はもちろん、その決議の仕方にも大きな問題がありそうです。一言でいえば、関係者や住民と話し合うことなく、しかも現場実態をしっかり把握することなくの決議だったようです。

決議内容は同町の議会議事録をお読みください。
http://d.hatena.ne.jp/washimiya2005/
決議文の最後にこんな言及もあります。
「給食センターが不要になれば、経済効果は大きい。」
決議文の後に質疑記録もありますので、それを読むと問題の所在がわかってもらえると思います。
また、これに関しての深作さんのコメントも深作さんのブログに書かれていますので、ぜひお読みください。
http://blog.livedoor.jp/takuchan0220/archives/50118760.html

今回は私のコメントは差し控えます。
あまりにも明白だからです。
こうしたことがさまざまなところで展開されているような気がしてなりません。

■初詣で何をお願いしましたか(2006年1月5日)
私のオフィスは湯島天神の近くにあります。
今日は初出勤だったのですが、湯島天神にお参りする人でにぎわっていました。
新たな年を迎え、神にお参りする文化は根強く残っています。
私はこれこそが「信仰」であり、「宗教心」だと思いますが、そうした素朴な生活慣行はもっと大事にしたいという思いが歳とともに強くなってきています。
これまで、そうした文化をあまり大事にしてこなかったことを反省しますが、いまさら戻すのはとても難しい話です。壊れたものを回復することはそう簡単なことではありません。せめてこれからは壊すことだけはやめようと思います。


ところで、今日、訪ねてきた人から、教会に行くと「地球の平和」とか「人類の幸せ」とか書いてあるが、日本の寺社では「家内安全」とか「商売繁盛」とか、個人へのご利益(ごりやく)が書かれていますね、といわれました。
たしかにそうですね。「祈り」と「願い」の違いでしょうか。日本の文化が内向的な現われだと、その人はいうのです。
私も昨年までは、神社ではついつい願い事をしがちでした。最後に、すべての人が気持ちよく暮らせますように、と祈りも付け足しますが、その前にたくさんの頼み事をしてしまいます。ひどい時には宝くじが当たりますように、などと無理難題まで要求します。

祈りと願い。
あまり違わないのではないかという気もしますが、全く違うような気もします。
オフィスの下の道をぞろぞろと湯島天神にお参りに行く人たちは、みんな何を祈願してくるのだろうかと気になった1日でした。

みなさんは初詣で、祈りましたか。願いましたか。
私は、やはり願いに重点があったような気がします。宝くじ当選は頼みませんでしたが。
でもこれからは祈りにしようと思います。

神社に行かなくても、祈りはどこでもできます。
生活に祈りを入れる。
これを今年の決め事のひとつにしました。
多くの人々の祈りが歴史を変えるかもしれませんから。

■運命を変える一瞬(2006年1月6日)
一瞬のあやまちが取り戻せなくなることがあります。
危機に直面した時であれば、それはいつの時代にもあったことです。
しかし、電子機器が生活に組み込まれてくると、機械の時間感覚と生命の時間感覚の違いのなかでそうした落とし穴が日常化してきます。
昨年起こった株式売却の誤動作による400億円の損失はまさに一瞬の誤動作の結果です。単なる可能性とはいえ、一瞬の誤動作が核戦争を引き起こす可能性もゼロではないでしょう。医療ミスもそういう側面もあるかもしれません。

実は昨夜、私にも不幸な一瞬のミスがありました。
電子メールのアドレス帳が混乱していたのですが、これを昨年末から時間をかけて整理してきました。昨年は2回もパソコンがダウンしたため、ただでさえ多いアドレス帳の重複や未修正などに取り組んだのですが、どうもやり方がわかりません。そこで今年度の年賀メールをベースに重複を削除し、最新のものを選択する作業を時間をかけてやってきました。2,000を越えるアドレスが混乱しているのでそう簡単ではありません。もしかしたら簡単な整理方法があるのでしょうが。
そして昨日、ほぼ作業が完了しました。ところが、その後、最後に間違って、これまでのアドレス帳ではなく新たに編集した部分を削除するところをクリックしてしまいました。削除に時間がかかっているのでおかしいなと思って気づいたのですが、その作業をどうすればとめられるかがわかりません。慌てているうちに作業終了。回復不能です。
新年早々、なんとまあ不幸な話でしょうか。

結果として、アドレス帳はさらに混乱し、かなりの欠落が出てしまいました。調べてみたら、わが家族のアドレスもすべて消去されてしまっていました。また半年は混乱が続きそうです。
皆さんにはご迷惑をおかけすることがまだありそうです。すみません。

まあ、つまらない体験を書きましたが、一瞬の誤動作が運命を決めるという日常生活は精神的によくないですね。私たちの生活はそうした状況の中に乗っかっています。自動車事故も一瞬の誤動作で起こります。あまり意識はしていないでしょうが。
それは逆に言えば、人間の能力が極度に増幅されているということなのですが、マン・マシン・システム全体として考えると大きな問題です。不完全なシステムといえると思います。しわ寄せは常に現場の人間に来ます。
科学技術によって、人間の可能性が大きく開かれてきたといわれますが、人間にとって科学技術とは一体何なのでしょうか。

今年はそうした問題を視野に置きながら、技術者の倫理を社会の視点で考えるテーマに取り組みたいと思っています。その準備会を昨年から少しずつ進めていますが、もし読者の中に関心を持っていただける方がいたら、仲間になってくれませんか。
ご連絡いただければうれしいです。
知恵と汗と資金を求めています。もちろん一番は「思い」ですが。

■豪雪も私たちの生活のありかたの結果なのでしょうか(2006年1月7日)
豪雪被害が各地で起こっています。首都圏は雪こそ降りませんが、例年にない寒さです。
ここ数年の異常気象の恒常化は、おそらく私たちの生活が地球環境を変えていることの証拠のように思います。環境問題の深刻さはみんな認識し始めましたが、それに伴って行動がどのくらい変わったかといえば、いささか不安があります。私の場合、間違いなくエネルギー消費量は増えています。小さなところでは意識をしていますが、おそらくそんなことでは問題は解決しないでしょう。それに、社会全体のエネルギーの無駄使いは、なかなか直らないように思います。

昨年は夏にインフルエンザが流行しましたが、それは温暖化の影響という説があるようです。人間が大きなエコシステムの一員である以上、自然環境の変化は間違いなく生命現象に影響を与えるはずですから、納得できる話です。
最近、さまざまな新しい病気が話題になりますが、これからますます増えていくのでしょうか。もっとも、病気は人間からみれば、避けたいことですが、大きな自然から見れば健全な現象というべきでしょうが。
明らかに健全とはいえない動きを私たちがしていることもあります。
たとえば、テレビでは食に関するひどい番組が横行しています。
昨年、糖尿病で入院した友人が、「食生活を乱すテレビの安易なグルメ番組の氾濫」が気になると書いてきましたが、生活習慣病というか文明病というか、それへのいざない番組をやりながら、一方で安易な病気診断番組も増やしているのは見事な組み合わせとしかいいようがありません。それ以上に、テレビで毎日、こうした番組を見ながら育つ子どもたちへの影響は大きいでしょう。テレビ人には子どもはいないのでしょうか。
テレビは、海外支援や社会貢献を語る前に、まずやるべきことがあるはずです。テレビに出ている有識者の人たちに、ぜひ声をあげてほしいものです。

今日の我孫子市は久しぶりの快晴です。
寒いですが、太陽の光を浴びるだけで気分は爽快になります。
自然の力の大きさを私たちは改めて考え直すべきではないかと思います。
今年はできるだけ自然と共に生きるようにしたいと思います。

■フレキシビリティという曲者(2006年1月9日)
ある本からの引用文です。
フレキシブル資本主義とは、フレキシビリティ(弾力性、柔軟性)を最重視する、新しいシステムである。その下では、官僚主義の硬直した組織形態は、盲目的に慣例を守るだけの悪として糾弾され、労働者は機敏に行動し、言われたらすぐにも変化に対応できるように準備し、継続的にリスクをとるように求められ、規制や定められた手順に従うことを良しとする態度は改めなければならない。
出典は、「それでも新資本主義についていくか」(ダイヤモンド社 1999年)。1998年にアメリカで出版された“ The Corrosion of Character ”の翻訳です。
この文章を読んで皆さんはどう思われますか。
共感する人もいるでしょう。私も共感しそうな文章です。

しかし、このフレキシビリティというのが曲者です。
同書によれば、フレキシビリティのもともとの意味は、「一度、たわんで、そして元通りになるという、木の持つ2つの性質、試練に耐え、そして形を復元するという両面の能力」を指していたそうです。
ところが現在の社会、特に経済社会の中心にある企業においては、フレキシビリティ優先の中で、基本までも壊した無定形な状況主義がはびこってしまったと著者はいいます。そのためにそこで働く従業員たちは拠り所を失い、精神的にも不安定になっていきます。私は日本の企業が価値観を失いだしてから、20〜30年経過していると思いますが、しっかりした定見を持たずに状況に合わせてフレキシブルに対応することによって、企業は発展してきたように思います。価値論議などは流行らないのです。
これは行政においても同じです。評価などという動きが広がりましたが、ほとんど手段的な側面での評価です。価値議論はいつも後ろに追いやられがちです。
そして、私たちの家庭においても、表層的なフレキシビリティ発想がはびこっています。とても恥ずかしいのですが、我が家も例外ではありません。

今日は「成人の日」です。
かつては成人の日は1月15日でした。いつの間にか、連休を増やそうという安直な議論の中で、第2月曜日になってしまったわけです。「フレキシビリティ資本主義」の影響といってもいいでしょう。日本の政治は経済が支配していますから、価値議論はあまり行われません。ですから発想が転倒していることがよくあります。
柔軟な発想は大切なことです。しかし、それはしっかりした基準があっての話です。基準のない柔軟性は果たして柔軟性といえるのでしょうか。
たかが休日の話ですが、大げさに言えば、これは文化の破壊にもつながります。生活の基準が、すべて功利性、利便性に置き換えられてしまっていいのでしょうか。私たちが今直面しているさまざまな問題は、こうした安直な「フレキシビリティ発想」にあるのかもしれません。

今の日本の問題は、拠り所の喪失ではないかと思います。しかもそれが、経済の視点から壊されているような気もします。そして不幸なことですが、それがまた経済にも影響してくるはずです。
改めて、私たちの生活の拠り所やコミュニティの拠り所を考えてみることが大切だと思います。国家が決めたカレンダーではなく、自然と歴史と文化が決めたカレンダーで生きるように、これからはもう少し意識しようと思います。

■日本橋の上の高速道路(2006年1月10日)
以前、CWSコモンズのほうに書いたことがありますが、日本がおかしくなりだしたのは東京の日本橋の上に高速道路を通してからではないかと私は思っています。それ以来、私は首都圏在住で「都市計画」や「都市景観」を語る人を信頼するのをやめました。まあ、かなり極端ですが、日本橋の上の高速道路を放置しておいて、何が都市計画だと思わざるを得ません。
これも15年ほど前の話ですが、デザイナーの集まりに呼ばれて、そこで、日本橋上の高速道路に異議申し立ての運動を起こさずに、みなさんは美を語れますか、と発言してしまったことがあります。まあ、かなりの顰蹙を買ったのだろうと思いますが(以来、そこからは呼ばれなくなりました)、その暴言が契機になって、今も付き合いのあるデザイナーにも出会えたので、それはそれでよかったですが。

ところで、ようやくその日本橋の上の高速道路の撤去が話題になりだしました。
何とそのきっかけは、小泉首相の発言のようです。
私は何回も書いているように、小泉首相には知性や誠意を微塵も感じないのですが、この発言には共感しました。人間はだれでも1回くらいは価値ある発言をするものです。この問題はぜひとも実現してほしいです。
しかし、その一方で、権力者が発言すると急に動き出す昨今の日本社会には大きな不安も感じます。言いかえれば、誰も仕事をしていないということかもしれません。耐震偽装事件で、検査機関や行政が仕事をしていないことが露呈しましたが、作業はしても仕事をしないのが今様の生き方なのでしょうか。仕事は与えられるものではなく、創りだすものと考えている私には、とても理解できません。

日本橋からは、西を向けば富士山が、北を向けば筑波山が見えたそうですが、今はどちらも見えません。残念ですが、せめて青空くらいは見えるようにしてほしいものです。

一昨日、東京から富士山が良く見えたという、ある人のブログを読んで、高速道路の話を思い出しました。再開発の最初に取り組むべき課題だったと思うのですが、それはともかく、日本橋をふさぐ高速道路がなくなることはとてもうれしいです。

■地元の食材をつかわないお土産品(2006年1月12日)
昨日、富士山を見ようと山梨に女房と一緒に出かけました。
山梨県といえば、ぶどうです。
女房はケーキ作りが好きなので、果物の産地にいくといつも材料のドライフルーツを探します。
今回も乾燥した山葡萄やブルベリーを探していましたが、見つかりませんでした。もちろん土産店にはたくさん売っていますが、いずれも原料はチリやアメリカやオーストラリアなのだそうです。昨年、山形に行った時も、サクランボを探したそうですが、これまた外国からの輸入品だったようです。
外国産の果実が悪いわけではありませんが、ブドウ王国、サクランボ王国などといっているのに、どうしてそこで売られているものの原料は海外のものを使うのでしょうか。
観光までもが「工業発想」になっているわけです。

生活面では「地産地消」が盛んにいわれるようになりました。しかし、産業面では相変わらず「コスト主義」が基本になっています。ワインは現地のブドウを使うが、それ以外は安い外国産を使うのでしょうか。いや、おそらくそうした延長には必ずワインにも外国産のブドウを使おうという発想が出てくるでしょう。そういう産地を私は信頼できません。
コスト主義は、フェアトレードの問題にもつながります。これは奥深い問題ではないかと私は思います。

まあそんな深さにまで思いをはせなくとも、表情が一番の資源である観光産業にまで、無表情を特質にする工業発想が行きわたっている現在の経済システムにはとても違和感があります。
なぜそれに気づかないのでしょうか。不思議です。

■死のうが生きようがご自由にという宣告(2006年1月13日)
ちょっと刺激的な見出しです。
私も参加しているメーリングリストで、毎日新聞が昨年から「縦並び社会・格差の現場から」という連載をしていることを知りました。それをリンクしているブログ「静かな革命」を教えてもらい、記事のいくつかを読みました。この見出しの言葉は、福岡市の63歳の男性の言葉です。
その人は、10代で大病を患い、この10年はチラシ配りのアルバイトをしながら独り暮らしをしていましたが、2年ほど前から年間約20万円の国民健康保険料を支払えなくなったため、行政に国民健康保険証を取り上げられてしまったのです。「死のうが生きようがご自由にという宣告に思えた。それも自分のせいですけれど」と、その人は語っています。
健康保険証がないので病院にもなかなかいけず、昨年11月、全財産の2万5000円を握りしめ、激痛をこらえて病院に向かったのですが、玄関をくぐったところで意識を失ってしまったそうです。幸いに一命は取り留めたようですが、こういう人が最近は増えているという証言もあります。やりきれない話です。詳しくは毎日新聞の記事をお読みください。当分の間はここをクリックしてくれれば読めると思います。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/news/20060104k0000m040001000c.html
ちなみに、同紙によれば、福岡市内の国保加入者では14世帯に1世帯が「無保険者」だそうです。決して例外的な話ではないのです。

毎日新聞の連載には、こうしたやりきれない話がたくさんでています。こんな社会に暮らしていて、幸せになれるはずがありません。私自身の生活もこうした暮らしにつながっているはずです。今はともかく、人生の変転は突然にやってきます。決して他人事ではありません。そうした想像力を私たちはもっと持つべきでしょう。
私はこの想像力を「つながりの想像力」と呼んでいますが、意識して暮らしていると、そのつながりが見えてくることが少なくありません。それが見えるたびに、少しだけケアマインドが高まるような気がします。
「世界全部の幸せ」を自らの幸せにつなげられた宮澤賢治にはそれがすべて見えていたのかもしれません。私はまだ頭の中だけで考えられるだけですが。

行政や財界やNPOの政策決定に関われる人たちも、ぜひ「つながりの想像力」を高めてほしいと思います。内輪の宴に興じている時ではありません。

■グレーゾーン金利への姿勢(2006年1月14日)
昨日の最高裁判決で、利息制限法の上限を超えるが刑事罰に問われない「グレーゾーン金利」について、「明らかな強制だけでなく、事実上の強制があった場合も、上限を超えた分の利息の支払いは無効だ」とする初判断が示されました。貸金業規制法では「借り手の自由な意思で任意に払ったこと」などが条件とされていますが、「任意」などがあろうはずもなく、これまでは業者支援的な悪法だと思いますが、裁判もまたその視点で行われてきたように思います。背景に財界の気配を感じますが、裁判がわずかとはいえ、「借り手保護」に理解を示したことは評価できると思います。

「多重債務者問題などに取り組む弁護士グループによると、消費者金融や商工ローンの利用者は全国で2000万人に上るとも言われる」と朝日新聞には出ています。そして、「司法が打ち出した「借り手保護」の立場をいかに立法に反映させるかが今後の課題」と書いてありますが、同感です。問題は「悪法」にあるのです。政治献金で成り立っている立法府ですから、あまり期待はできませんが、なぜこうした悪法が残っているのか不思議です。耐震偽装事件よりも明らかに悪質で被害は甚大だと思います。

そろそろ「金利」などという概念は見直されるべきです。
もちろん投機なども見直されるべきでしょう。
金融で巨額な利益を得ている人たちに、少しだけでいいですから、生活観と良識を取り戻してほしいと私は思っています。貧者のヒガミでしょうか。

■コラテラル・ダメッジへの不感症(2006年1月15日)
アルカイダのナンバー2のアイマン・ザワヒリ氏がパキスタンで米国の爆撃を受けて死亡したかもしれないというニュースが昨日流れました。その爆撃で民間人を含む20人近くの人が死亡したということです。しかし、翌日になって、ザワヒリ氏は死亡者の中にはいなかったと発表されました。
テレビでも報じられていましたが、とても気になるニュースです。
まず、いずれのメディアも「ザワヒリ容疑者」と表現しています。確かに彼は一連の国際テロのへの関連が濃厚ですから、まさに容疑者なのかもしれませんが、その言葉で、彼を襲撃することが正当化されてしまっているようで怖いです。いうまでもありませんが、容疑者はあくまでも容疑者です。爆撃での殺傷が正当化されるとは思えません。しかし、9.11事件の後、私たちはそうした過剰対応に馴染んできてしまったように思います。そのせいで殺された無実の人の数はどのくらいいるでしょうか。
そして、それに重なりますが、その襲撃で10数名の民間人が殺傷されているということです。いわゆる「コラテラル・ダメッジ」です。これについては数年前にCWSコモンズで書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013
容疑者になること、容疑者として裁きを受けずに殺されること、その巻き添えになること。これらはいつ私の身に起こってもおかしくないことです。もちろんあなたの身にも、です。実にやりきれない時代です。
しかし、多くの人はまさか自らがコラテラル・ダメッジの対象になろうとは想像しないでしょう。なにしろ、彼らにとっては、自らの利益を守るためのコラテラル・ダメッジなのですから。それに、想像力の広がりは多くの場合、自らに都合のいい方向にしか広がりませんし、不幸と無縁に生きてきた人には思いもよらないことかもしれません。

人間をもコラテラル・ダメッジの対象にしてしまう社会は、やはり変えていかなくてはいけません。どうしたら変えていけるのか、難しい問題ですが、私たちはどうもコラテラル・ダメッジに対して感覚を麻痺させてきているようにも思います。
自らを生贄に奉げる覚悟があれば別ですが、そうでないのであれば、やはりここは真剣に考えるべき時期ではないかと思います。

■幸せな人生と幸せな時代(2006年1月16日)
秋山岩生さんは42歳で病に倒れ、そのために身体と言語に障害が残ってしまいました。それが契機になって、障害を持つ人たちの働く場づくりに取り組む「ふぁっとえばー」を立ち上げ、精力的に活動しています。その活動振りなどはCWSコモンズで時々報告していますが、ご存じない方は、ふぁっとえばーの紹介をぜひお読みください。
今日は、その秋山さんが相談に来てくれました。房総半島の突端の館山からですので、結構大変なのですが、秋山さんのすごさはフットワークのいいことです。

その秋山さんが、病気になったおかげでたくさんの気づきがあった。病気の前と後では、間違いなく後の人生が自分には幸せだ、としみじみと話しました。とても共感できます。
私はまだ大病をしていませんが、会社を辞めたときにたくさんの気づきがありました、そして女房の病気でまた、たくさんの気づきをもらいました。人は、自らの環境が大きく変わることで学ぶものだと知りました。
秋山さんは、もし明日死んだとしても、私はとても幸せな人生を送ったと思いながら死ねると思いますというのです。秋山さんの充実した生き方が伝わってきます。
ひるがえって私はどうでしょうか。
秋山さんほどの自信はありません。
しかし、私にとっては2度の人生の変化で、生きることへの姿勢はかなり変わったように思います。
会社を離れて感じたのは、お金は目的ではなく手段だという、当然の気づきでした。女房の病気で学んだのは、当事者にはなれないという、これまた当然の気づきでした。頭での理解と体験を通しての実感とはかなり違うものでした。
そして、それらを通して、生き方は少し変わりました。生きることを大切にするようになったと言ってもいいかもしれません。秋山さんの心境にはまだ達していませんが、少しは近づいているような気がします。

人はそうした事件、往々にしてそれまでの考えからすれば、「不幸な事件」に出会うことで、生き方を考える契機を与えられます。もしその前から同じ考えで行動することができれば、きっと全く違う人生になるでしょう。秋山さんも病気になる前は企業を経営していましたが、企業の経営戦略も秋山さんの働き方も違ったものになっていたかもしれません。しかし、それはなかなか難しいことです。

京都で13年間、コンビニエンスストアを経営してきた知人がいます。その人からメールが来ました。昨年の大晦日で会社経営に幕を閉じて、これからはコーチング活動で、「人々のしあわせを願い自分を活かし続けていたい」と決意されたそうです。この人、戸田紳司さんといいますが、戸田さんは会社経営時代から若者の相談相手になったり、社会活動にも熱心に取り組んだりしてきた方です。コムケアの集まりにも参加してくださったことがあります。
戸田さんは「これからはライフワークを楽しみながら 上質な生き方をしていきたい」といいます。戸田さんらしい決断です。

時代は大きな袋小路にありますが、こうした人たちが増えてくることで袋小路は新しい地平へと進化するのでしょう。
「不幸な事件」がなくても、生き方を変える人が増えていることは、もしかしたら、今が不幸な時代だからかもしれません。

でも、夜明けまでもうすぐなのかもしれません。

■平和のためのコミュニケーション学(2006年1月18日)
先日、「平和のための経済学」という本をCWSコモンズで紹介しました。
その時はあまり意識しなかったのですが、あえて著者が「平和のための」と銘打っているということはこれまでの経済学は何のための学問だったのだろうかということです。実はこれに関しても、この本で著者の川本さんはきちんと考えを説明していますが、この数十年、学の目的が揺らいでいることは間違いありません。そのためにさまざまな醜聞も含めて、学の世界はおかしな状況に向かっているように思います。そこをしっかりとしない限り、教育改革などは実際にはできないはずですが、最近は「ともかく改革」という風潮が広がっていますので、学の目的などは多くの人には興味のないことかもしれません。目的が曖昧な改革は誰かに利用されるだけなのですが。

ところで、たまたま最近、平和に関するメーリングリストで面白いやりとりがありました。面白いといっても内容ではなく、あるテーマに関して議論が始まったのですが、だんだん議論が感情論になってしまい、メールのやり取りをすればするほど、関係者の溝が深まり広がってしまうような状況が生まれたのです。
平和に関するメーリングリストのメンバー同志だったので、ぎりぎりのところで対話が成立し、結果的には相互理解が深まる結果になりそうですが、そこで飛び交った「言葉」はかなり厳しいものがあり、横で読んでいてはらはらしてしまいました。
コミュニケーションにも「平和のためのコミュニケーション学」が必要だと思いました。
しかし、コミュニケーションとは相互理解を深めることですから、本来、コミュニケーションの目的は平和状況の創出であるはずです。にもかかわらず、コミュニケーションは必ずしも平和にはつながらないということを垣間見たわけです。
それはコミュニケーションが成り立っていないだけの話だろうといわれそうです。確かにそうですが、しかし現実にはそうした「コミュニケーションが成り立っていないコミュニケーションまがい」が世の中には横行しているように思います。ここでも「コミュニケーション」とは何かという問題がポイントになりますが。

古い話ですが、東西冷戦時代に「エスカレーション理論」というのがありました。ハドソン研究所のハーマン・カーンが主張した核抑止力理論です。相手よりも大きな核戦力を持てば、相手が攻撃してくるのを防止できる。これが米ソの核戦力競争になっていき、どんどんと核戦力規模はエスカレート(拡大)していくわけですが、それをどう効果的に洗練させていくかが、コミュニケーション研究の目的だったわけです。
この考え方は、国際政治だけではなく、国内政治はもちろん、たとえば企業広告の世界でも重視されていたと思います。
ところが、これとは全く発想の違うコミュニケーション理論もあります。
コミュニケーションの出発点は自らの弱みを見せることであるという発想、あるいはまず自らが相手を信頼して共通のビジョンに向けて一歩踏み出すという発想です。国際政治の世界でいえば、オスグッド理論というのがあります。一方的削減(オスグッド理論)による軍縮である。まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こすという、一方的削減、つまりデスカレーション理論です。
平和に向けてのコミュニケーション戦略もベクトルの異なる二つの戦略があるのです。これは企業広告の世界でも同じです。これに関しては、「企業変革のためのコミュニケーション戦略」に以前少し書きました。そこでは「コミュニケーションとは何か」に関しても私見を述べています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm

長くなってしまいましたが、最近のさまざまなコミュニケーション状況を見ていると、相手を支配する「暴力的なコミュニケーション」が重視されてきているような気がしてなりません。
平和のためのコミュニケーション学。そんなことをきちんと考えている人があれば、ぜひ教えてくれませんか。面白いテーマなので、どなたか研究会をやりませんか。

■生きることの意味を時々考えると人生は変わるかもしれません(2006年1月19日)
訃報が届きました。
コムケアの仲間です。病気のために身体の不自由さをかかえながら、さまざまな社会活動に取り組み、とても充実した人生を送っていた方です。
昨年末にも同じような方の訃報が届きました。彼女は今回も「奇跡」が起こって、また元気になることを祈っていました。「ともかく生きたい」というお手紙もいただきました。私も「奇跡」を確信していたのですが、叶わぬ願いになってしまいました。彼女が病院から送ってくれた講演録が私への最後のメッセージになりました。

お2人とも1〜2度しかお会いしたことがありませんが、私が取り組んでいる「コムケア活動」に共感して仲間になってくださった方たちです。
お2人とも全力を挙げて生きていたように感じます。
生きることの意味をしっかりと実感していたからでしょう。
コムケア活動を通して、さまざまな問題に向き合っている人に出会いますが、みんな自らの生き方をとても大切にしています。

その「コムケア」仲間のひとつが、自殺のテーマに取り組んでいます。
生きたいと念じている人の立場から見れば、何で死んでしまうのかという思いが強いでしょう。生きることを真剣に考えた上での決断なのかもしれませんが、もしその人が一度でも「死」に直面したことがあれば、思いとどまったかもしれません。
意図せずにやってきた「死」と生きる選択肢の一つとしての「死」は、似て非なるものなのかもしれません。「自殺」と「自死」という言葉がありますが、二つの言葉は天と地ほどの開きがあるのかもしれません。
自殺の問題は社会のあり方を象徴しているのかもしれません。

「死」の問題を私たちはもっと自らの問題として考える必要があるように思います。
コムケアには、「死」を見据えた活動をしている仲間もたくさんあります。
「死」から始まるテーマに取り組んでいるグループもあります。
今日もそのグループの人からメールをもらいました。
「ななみちゃんを救う会」の情報をあるメーリングリストに投稿したことへのコメントです。
「死」から考えるか、「生」から考えるかで、同じ事象も全く変わってくるのです。
とても微妙な問題ですが、

訃報が来ると、いろいろと考えることが多いです。

■ライブドア事件から感ずる時代の危うさ(2006年1月20日)
ライブドア事件は自殺者まで出してしまいました。
残念な話です。
問題解決を個人的にするのか、社会的にするのかで、スタイルは全く変わってきますが、最近の事件の当事者のほとんどは、個人的に解決してしまう傾向が強いのが気になります。自殺は典型的な個人的解決策ですが、社会的に考えれば、それは問題の解決ではなく問題の深まりの始まりになります。実に残念なことですが。

ところで、ホリエモンは時代の落とし子であり、時代の象徴です。
時代が彼のような人間とそのビジネスを生み出し、一時は称賛したのです。
私も彼の行動に拍手を送ったこともあります。
その不明さを恥じるまでには、そう時間はかかりませんでしたが、ある意味では時代に翻弄された若者だったのかもしれません。それは同時に私たちもまた翻弄されたということですが。
あえて過去形にしていますが、これから彼の主体性が芽生えるかもしれないと少し思っているからです。

子どもたちに株式投資の教室を開いたというニュースがテレビで好意的に取り上げられていたのはつい10日ほど前までの話です。

少し前にフレキシビリティに言及しましたが、今は社会にも個人にも、核となる価値観がないのかもしれません。
25年ほど前に「価値観の多様化」という言葉が流行ったことがあります。
当時、私は「多様化」ではなく「価値観の喪失」と言っていましたが、まさにその方向で時代は定着しつつあるような気がします。

今回のライブドアの事件はそうした中で複雑な構造を持っているように思います。
つまりホリエモンを否定することが多くの人にとって自らにつながるのではないかと思います。
耐震偽装事件にもたぶん共通していることです。
確証もなく、こんなことを言うのは軽率ですが、多かれ少なかれ、自らとつながる「不正の部分」を感じている人は少なくないような気がします。感じていない人も多いと思いますが、全く別の世界にいるかと問われて、きっぱりとイエスと答えられる人は少ないでしょう。
いい加減な建築、いい加減な有価証券報告書、いい加減な評価体制。
最近話題になる社会問題や経済問題は、私には氷山の一角にしか思えません。
その気になれば、程度は小さいでしょうが、類似の事件は幾つでも見つかるように思います。みんな「見ない振り」をしているだけかもしれません。

その根幹を正すことがもっと真剣に考えられるべきでしょう。
方法はそう難しい話ではないようにも思います。
ただ、それで困る人が多すぎるのが問題なのでしょう。
額に汗して、しっかりと自らを生きている人は決して困らないはずですが。

■NPOと企業のコミュニケーション(2006年1月21日)
この5年、NPOと企業の世界に並行的に関わりながら、そこを win-win でつないでいくメディエーター役が果たせないかと考えています。
視点はもちろんコモンズ(社会)です。
現在の企業にもNPOにも大きな違和感を持ちながらの活動なので、それぞれを革新するような契機を意識しています。ただつなげれば良いわけではありません。そういう活動はたくさんのNPO中間組織やコンサルタント会社がやっていますので、私には全く興味がありません。
社会のリフレーミングにつながらなければ、
あるいは昨今のような金銭経済至上主義からの離脱につながらない限り、
http://homepage2.nifty.com/CWS/npo-toukou3.htmNPOががんばってもほとんど意味がないというのが私の意見です。
しかし、残念ながら時代の方向は必ずしもそうはなっていません。
ところで、時々、NPOから企業の支援要請があります。新しい物語が生まれそうなものは企業にも働きかけることがあります。
今回もあるテーマで企業に支援を頼んだところ、次のようなメールが来ました。

正直、様々なNPOからの支援要請が毎日の様にあり、基本的には判断が難しく対応出来ていない現実がありますが、佐藤さんが関係しているということであれば是非一度関わりを持たせて戴きたいと存じます。

とてもうれしいメールです。
この会社は理念がしっかりしており、社会性の高い企業文化を持っているところです。だからこそNPOからの要請も多いのでしょうが、こういう会社にしても、なかなかNPOはつかみにくいのが現実です。
むしろNPOへのアレルギーを持っている企業のほうが圧倒的に多いでしょう。
企業の経営幹部の人とはかなり付き合いがありますが、なかなかNPOの実態は伝わっていないような気がします。その責任の過半はNPO側にあるように思いますが。

どちらに問題があるかはともかく、NPOと企業のコミュニケーションはまだあまり成り立っていないのが現実です。
上記のメールのように、間に誰かが入ることでやっとつながるのです。
会社の中にいる人にとっては、そもそも論理が違うこともあり、実態はつかみにくいでしょうから、基準を「紹介者」に置きたくなるのはよくわかります。
しかしこれがまた曲者です。
私だからといって信頼はできません。

私はかなりNPOと企業の双方の実態を身体的に知っていると自負しています。そして、今はあるビジョンにしたがって、社会も含めた「三方良し」の基準で動いていると自負しています。その評価眼にもそれなりの自負があります。今は少なくとも、利得を得ようなどとは全く思っていません。
しかし、それは私の独り善がりでしかありません。
いつ変節するかわかりませんし、評価眼が維持できるとも限りません。
個人を介することには怖さがあります。

もうひとつのよくある形は、トップとのつながりです。
これがとても多いですが、残念ながら日本の企業のトップが付き合う世界はそれほど広くはありません。
ある人が取り入って、利己的に動くこともないとはいえません。
その結果、かつての企業メセナ活動のようなひどい話になってしまうのです。

私自身は、企業とNPOとの付き合いから生まれる社会的価値はとても大きいと確信しています。
その前提には、社会のビジョンへの関心と共有できる価値がなければいけませんが、逆にNPOと企業が付き合うことの中から、そうしたビジョンや共有価値が育っていくように思います。
昨今のような経済状況の中ではこうしたことは難しいですが、CSR報告書の作成費用の一部をそうした活動に向けるだけで、小さな一歩は踏み出せるかもしれません。

今年から、私もこうした活動に少し踏み出そうかと思い出しています。
まだ少し早いかもしれませんが、考え出してからもう20年がたちました。
そろそろいい頃かもしれません。

■雪がくれたコミュニティ(2006年1月23日)
私が住んでいる千葉県の我孫子市も雪が15センチほど積もりました。
一面の銀世界で、いつもとは全く違った風景でした。
それに加えて、もう一つの風景も出現しました。
近隣の人たちが道の雪かきで一緒に汗を流す風景です。
私の住んでいるところでは、2歳の子どもから60代まで、みんなで雪かきに汗をかき、午前中で道から雪が消えました。子どもたちは結構楽しそうでしたし、私も久しぶりに近隣の人たちと話ができました。
こうした「にわかコミュニティ」がきっと各地で生まれたのだろうと思います、
雪の恵みです。自然の摂理はすごいです。

日本でのコミュニティ意識の変化の契機は、阪神淡路の大震災だとよく言われます。
何か困ったことがあると、人のつながりが生まれ、その大切さがわかります。雪が積もって、道が通れなくなるという、みんなにとっての共通の課題が、みんなをつなげてくれたのです。
しかも、雪かきなどの仕事では、参加者はそれぞれの役割を見つけやすいです。たとえ2歳の子どもでも、場の和やかさを生み出すなどの役割がきっちりとあります。誰もが主役のコミュニティが実現できます。
昔はこうした課題がたくさんありました。
ですから、近隣社会はひとつのコミュニティ、つまり人のつながりになっていたのです。
しかし、最近は近隣と問題を共有化する機会は多くはありません。
もちろん実際にはいろいろとあるのですが、それを無視しても暮らしは困らないような仕組みが出来上がってしまったのです。困ったことがあれば、行政に苦情を言えばいいのです。会社に頼めばいいのです。住民同志の横のつながりは、なくてもやっていけるような気になっていました。そうして地域の付き合いは少なくなり、人のつながりに支えられた地域コミュニティは大きく変質しだしたのです。
その結果、何が変わったのか。

最近、マスコミを賑わせているさまざまな事件の根因が、ここにあるように思います。
雪のおかげで突然出現したコミュニティ。
雪が融けても持続できると社会は大きく変わるでしょうね。
いや、変えていかねばいけません。

■親を支援することは子どもを支援することにつながるか(2006年1月24日)
今日はややこしい話ですので、よほど暇な人だけ読んでください。
重要なテーマなのですが、ブログにはあまり適切ではありませんので。

「親を支援することは子どもを支援することにつながるか」
昨日、「子育ち」をテーマにしたコムケアサロンで、星野一人さん(子育ち学ネットワーク事務局長)が投げかけた問題です。刺激的で本質的な問題です。
先日、「つながりの想像力」のことを書きましたが、それを考える時に「つながりの単位」と「つながりの方向性」が重要です。
まず星野さんの設問ですが、たまたまつながることはありますが、子どもの問題と親の問題は違います。
ですから親を支援することは必ずしも子どもを支援することにはなりません。むしろ親への支援が子どもに被害を与えることも少なくありません。星野さんは保育園などでの延長保育の問題を例示されましたが、延長保育サービスは子どもの支援にも見えますが、根本的には被害を与えかねません。そしてそれがまた親にも跳ね返ってきます。結果はいずれをも不幸にする結果になることもあります。利益を上げるのは産業社会です。
わかりにくいでしょうか。
たとえばゼロ歳児保育の延長保育の制度で親は働きやすくなるとします。これは親支援です。その結果、子どもも放置されずにしっかりした子育て環境が得られますから、最悪の事態は避けられますので、子どももまた支援されたともいえます。
しかし、ゼロ歳時から、親から長時間離されて育つことの影響はないでしょうか。
これは両論あります。3歳児までは母親が育てなければいけないという社会常識(神話などとも言われます)は今では否定されがちですが、影響がないとはいえないと私は思います。子どもが延長保育制度のせいで親との接触時間が少なくなることをマイナスと考えれば子どもが受けるのは被害です。
子どもだけではありません。子どもを育てることで親が獲得する喜びや学びの機会を失うことで、もしかしたら親もまた被害を受けているかもしれません。
そして、そうした影響は人生に大きな影響を与えかねません。最近頻発する子どもの事件にもつながっていると思いますし、なによりも家族のあり方に大きな影響を与えます。

表現を変えると時間軸をどうとるかで、支援か被害かが入れ替わるおそれがあるということです。
これは「つながりの単位」をどう考えるかで、評価は反転しかねないということです。
当面の生活支援と長期的に捉えた人生支援との違いです。これが「単位」の問題です。
こう考えるとこの設問は、多義的過ぎて成り立たないということになります。
実はこうした多義的な命題が、巧みに使われているのが権力や詐欺師の常套手段です。最近の日本の国政や財界活動やマスコミがよく使っている手法でもあります。
たとえば、ODA(国際協力)や市町村合併の促進などで、こうした多義性がたくみに利用されて、行動が正当化されることはとても多いような気がします。
郵政民営化もその際たる事例のひとつです。問題の解決策を摩り替えているわけです。

もう一つの問題は「方向性」です。
先の設問の因果を逆転してみましょう。
「子どもを支援することは親を支援することにつながるか」
どの年齢を子どもと考えるかで評価は変わるでしょうが、私はこの命題は成り立つように思います。
延長保育の議論での説明と同じではないかと思われるかも知れませんが、私は全く違う話になると思います。
これは問題の構造をどう考え、発想の起点をどこに置くかという問題でもあります。
長くなったので、このあたりでやめましょう。書き疲れました。

こうした整理をするのが、「コンセプトデザイナー」としての私の仕事です。もっとも対価をもらえる仕事になったことは一度もありませんが。

■「いただきます」と「ありがとう」(2006年1月25日)
昨日と一昨日、全く違った会で、「いただきます」論争が話題になりました。
全く違った集まりでのことです。一昨日は子育ちをテーマにしたコムケアサロン、昨日は技術者倫理をテーマにした集まりです。
もちろん話題提供者は私ではなく、全く別の人です。

「いただきます」論争はご存知の方も少なくないと思いますが、毎日新聞に出た記事があります。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/news/20060121ddm013100126000c.html

発端はTBSラジオ「永六輔その新世界」に寄せられた手紙です。
「ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と」

みなさんはどうお考えでしょうか。
私はついつい笑ってしまいました。
詳しくは上記のサイトで毎日新聞の記事をお読みください。
そこにこんな事例の紹介もあります。

「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」。

ここまで来るとちょっと笑ってはいられませんね。

コムケアサロンではこんな話も出ました。
アメリカ映画などで親が子どもを散々説教した最後に「サンキュウ」ということが多いので、気になってアメリカ人の友人に訊いたら、「説教をきちんと聴いてくれたことへの感謝だ」といわれた。
ブッシュの世界と違うアメリカの文化が感じられます。
日本の政府もそのアメリカと付きあってほしいです。

明らかに社会(人のつながり)は悪化の循環に入っているようです。
しかし、一人ひとりの生きる姿勢をちょっと変えれば、状況は反転させられるでしょう。
まずはもっとたくさんの「いただきます」と「ありがとう」を発声することにしようと思います。

■砂上の企業価値(2006年1月26日)
堀江さんの逮捕で、ライブドアグループの株式時価総額は一挙に半減してしまいました。株式時価総額が「企業価値」といわれますが、そういう意味での企業価値がいかに実体のないものであるかが、明確に示されました。経営学者や経営者が、企業価値という言葉を見直す契機になればと思いますが、まあ無理でしょうね。
企業価値に関しては、たとえば、3つの企業価値の話を以前書きましたが、視点を変えればさまざまな定義ができるでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_14.html
価値はどの立場で考えるかで全く違ったものになりますが、そうしたことをあいまいにしての議論が多すぎるのが日本の「経営学」の現状です。
これは経営の世界だけの話ではありません。
誰にとっての価値か。誰の視点で評価するか。誰に対する支援か。誰にとっての参加制度か。誰にとっての民営化か。こうした「誰の」という「視座」が極めて曖昧な社会になっているように思います。手段が目的化しているのです。
そうした状況を変えていくためにも、自分のしっかりした価値観を確認し、自分の言葉で語ることがとても大切な時代になってきました。
それにしても、砂上の企業価値に投資させる風潮を広げようとしているには誰なのでしょうか。

■他人事の自分(2006年1月27日)
昨日の衆議院予算委員会での閣僚の答弁を聞いていて、気づいたのですが、
「・・・・と思います」という発言がとても多いのです。
たとえば「反省すべきは反省しないといけないと思います」
なにか他人事です。
これは理屈でしかありません。当事者の言葉とは思えません。
こんな答弁もあります。
「責任があるといわれれば甘んじて受けます」
自立した大人の発言とは思えません。
むしろきっぱりと「責任はありません」といえばいいのですが、
人の顔色を伺っての発言には卑しさを感じます。
彼らは自律ということを知らないのでしょうか。
しかも、責任を問われれば、その矛先をマスコミや米国に転嫁する発言が多いです。
彼らの発言を聞いていると「理屈と言い訳」しか出てきません。
こういう主体性も自律性もない人が行政府のトップにいるわけです。
社会がおかしくならないはずがありません。

こんな状況は、何も政界に限ったことではないというところが現代の日本の特徴かもしれません。
最近は自分の言葉と考えで行動する人が少なくなりました。

さて、先の答弁ですが、
ソクラテスならきっと、
「反省すべき点」ってなんですか。
「反省」って何ですか。
「責任がある」という時の「責任」ってなんですか。
などと問うでしょう。
言葉だけで話している人は、こうした質問には答えられないのです。
こうしたソクラテス的発問がとても重要な時代になっています。
それを問う人がとても少なくなってしまったことが残念でなりません。
私は頻発しすぎて、嫌われることも少なくないですが。

今日は今年最初のオープンサロンです。
どんな話題が出るでしょうか。

■平和へのさまざまな思い(2006年1月29日)
今日、「平和への結集」を実現する会の準備会が開催されました。
なし崩し的に壊されてきた日本の平和憲法が、小泉首相による「無血クーデター」以後、ますます無視されだして、ついに「改憲」までが現実の話になりだしていますが、この状況を変えたいと思う人たちが集まったのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_6bc6.html
http://uniting-peace.net/

昨年12月に7人の人たちが呼びかけを開始しました。
そして現在、260人を超す人たちが呼びかけ人や賛同者として登録しています。
私は最初の呼びかけ人の一人である、小林正弥さんからのお誘いで呼びかけ人にさせてもらいました。
私が小林さんたちの活動に始めて参加させてもらったのは、2003年の12月です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1223
今回もさまざまな人に出会いました。
これに関しては、CWSコモンズのほうに書き込みますが、ここでは改めて感じたことを書いておきたいと思います。
こうした「平和」への動きは、今のマスコミはほとんど取り上げませんので、どうしても動きはなかなか見えません。
しかし、まさにリゾーミックに広がりだしていることを実感したのですが、参加者は圧倒的に中高年以上の男性が多かったのが気になりました。
本来的な意味での「平和」への関心は、きっと女性のほうが高いと思いますし、時間軸で考えれば「平和」戦略の影響の受け方は若者のほうが高いはずです。
憲法が変えられて軍隊ができれば、戦場に狩り出されるのは若者たちです。
いまの男女共同参画の発想で言えば、女性も含まれるでしょう(そこに今の男女共同参画政策の間違いを感じます)。
なぜ女性や若者は来ないのか。
「ピース」という言葉は、若者や女性を引き付けるワクワクする明るさを感じさせるようですが、「平和」はそんな言霊を持っていないのでしょうか。
たしかに「平和」という言葉には、皮肉なことに正反対の意味合いすらある両義性があります。
国家の平和が生活者の平穏な暮らしを破壊することによって成り立つことに関しては以前も何回か書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/07/post_4163.html
その実例は今もイラクやアフガニスタンで展開されています。
日本国民も「イラクの平和」のために、自衛隊の派兵を認めてしまっています。
そのおかげでどれだけの人たちが殺されてしまっているのでしょうか。しかし、「平和」という言葉によって、その事態は覆い隠されています。
平和を掲げて運動を展開してきた側はどうでしょうか。
昔は内ゲバ、最近の事例では、名護市市長選のように、平和を掲げながら争いを繰り返しています。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20060123.html
平和を掲げる政党もまた、平和に対する認識は人々の平穏な暮らしには少しほど遠いところにいるように思います。
その意味では、小泉自民党と同じ次元かもそれません。
平和の裏側にあるものをどうしても感じざるを得ません。
今回の集まりもまた、どうしてもこれまでの平和活動を背負った人たちが多いために、いわゆる「平和活動」の呪縛からなかなか抜け出るのが難しいような気がしました。
しかし、集まった人たちは、まさにそうしたことへの反省から、今回は集まったのです。
みなさんの発言のなかに、優しさも感じましたが、この動きを単なる政争の具にしないような工夫が必要だと思いました。
私の平和活動は、「大きな福祉」を理念とするコムケア活動です。

平和という言葉を使わずに、みんなが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っていますが、しかしそうした態度ではだめだとニーメラーは教えてくれています。
読売新聞の渡邊恒雄さんのような間違いは犯したくないものです。
ともかく私に何ができるか考えたいと思います。
平和に向けてできることはたくさんあるのですから。
またCWSコモンズのお知らせコーナーでお誘いをしますので、よろしくお願いいたします。

■アフリカではよくあること(2006年1月30日)
ボビー事件に関して、ムルアカさんとボビーさんの記者会見をテレビで見ました。
ボビーの年齢がこれまで公表されていた32歳ではなく39歳だということについて質問され、ムルアカさんが「アフリカではよくあることです」と答えていました。
その前に、暴力を振るったことに関しても「アフリカではよくあること」という答えがあったような気がしますが、この発言が気に入りました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060125-00000114-mai-soci
私は生活面において、家族から注意されることが多いのですが、これからはこれで行こうかと思い、今日もすでに1回使いました。残念ながら効果はありませんでしたが。はい。
しかし、みんながこういう言葉で、それぞれの文化を認め合ったら平和な社会になるでしょうね。
いや、これは9割冗談です。でも1割くらいの真実がありそうな気がします。
昨日、平和に関して書きましたが、気持ちよく暮らせる社会がもし平和の社会だといっていいのであれば、それはきっとそれぞれの違いを認め合うことから始まるでしょう。
昨日の平和の集会でも、私は「寛容さ」を大切さにしてほしいと発言させてもらいました。平和主義者の非寛容さをいつも感じているからです。
話が飛躍しますが、
「アフリカではよくあること」を未開発状況と称して、「アメリカではよくあること」を押し付けようとしているのが、最近のグローバリゼーションかもしれません。
そのおかげで、「日本ではよくあること」もどんどんなくなっていますが、そこに最近私は住みにくさを感じているのかもしれません。
先週のオープンサロンでも、「中国ではよくあること」の話がいくつか出ましたが、私たちはそういうことを「遅れた事象」として否定するのではなく、そこに込められた価値や知恵をもっと大事にしなければいけないような気がします。
「よくあること」は現実を生きる人たちの知恵の結晶かもしれません。
そう考えると、耐震偽装も粉飾決算も、もしかしたら現場の知恵だったのかもしれません。もちろん「間違った現場の知恵」だったわけですが、なぜ一番真剣に生きている現場の人たちが間違ったことをしてしまったのか、そしてそれが加速されたのか、そこに目を向けなくてはいけません。
私はいずれの事件も、政界と財界のリーダーが誘導して引き起こした、まさに「未必の故意」のある事件だと考えていますが、最近の「よくあること」の仕掛け人は、もしかしたら現場の人ではないのかもしれません。
開発とはそういうことなのかとボビーさんとムルアカさんの話を聞いていて、気づきました。
かなり飛躍がある話ですみません。はい。

■年齢って何で必要なのでしょうか(2006年1月31日)
昨日からの続きです。
ボビーの年齢詐称の話から、何で「年齢」などというものが必要なのだろうかということに気づきました。
私は人の年齢をほとんど見分けられない人間です。
みんなほぼ同じように見えてしまうのです。
それに最近は自らの年齢にもあまり意識がなく、時に忘れがちです。
年齢を自覚する必要がないからかもしれません。
年齢は誰のために必要なのでしょうか。
社会秩序維持のためでしょうか。
何歳になったら学校に入学とか、成人式だとか、選挙権がもらえるとか、飲酒が許されるとか、まあいろいろありますが、これってどこかおかしいような気がします。
人の育ちはさまざまですから、物理的な時間によって人の生活を規定していくのはどこかに無理があるのではないでしょうか。
60歳になったから定年で会社を辞めるという仕組みもどう考えてもおかしいように思います。
年齢がなくなれば、結婚適齢期もなくなりますし、就職における差別もなくなります。年齢を口実にした解雇もなくなるでしょうし、多世代交流もやりやすくなるでしょう。
逆に年齢制度がなくなって、本人にとって困ることはあるでしょうか。
私にはあまり思いつきません。
人間が素直に生きられなくなったのは、年齢制度を導入したからではないか、などと思うのは荒唐無稽でしょうか。
ますます年齢から解放された生き方をしようと思います。

■「消耗品戦略」と環境経営、あるいはCSR(2006年2月1日)
今日のasahi.comのビジネス面に、『「消耗品戦略」の危機回避 キヤノン逆転勝訴』という見出しで、プリンターのインクカートリッジのリサイクル品をめぐる高裁判決が報道されています。ちなみに朝日新聞の記事の見出しは、「キヤノン逆転勝訴」だけです。
できるだけ事実報道にとどめるか、メッセージ性を高めるかは重要な問題です。
記事の内容はそう変わらないのですが、見出しのつけ方で印象は全く変わります。
前者の見出しをつけた人は、企業の、あるいは産業界の「消耗品戦略」に好意的な姿勢を持っているのでしょう。意識しているかどうかは別として。
見出しで印象は一変します。
新聞にとって一番重要なのは見出しのつけ方だと思います。
もちろん現場取材を前提としての話ですが。
同じ事件をどう扱うかで、その新聞の姿勢が良くわかります。
それに、見出しの持つサブリミナルな効果はとても大きいはずです。
世論さえ変えてしまいます。
藤原正彦さんは話題の近著「国家の品格」で、マスコミは三権分立されている立法、行政、司法の上に君臨する第一の権力だと書いていますが、同感です。
つまり変な言い方ですが、国家さえも「民営化」されてしまっているのです。
国家の民営化の話はもう少しきちんと書かないと伝わらないかもしれませんが、そもそも民営化とは資本に人間を売るということです。
郵政民営化に私が反対するのはそのためです。
得をするのは決して国民ではありません。
これは政財学連合による詐欺のような話なのです。
それはそれとして、
この訴訟です。
プリンター用の使用済みインクカートリッジにインクを再注入して販売していた会社をキャノンは特許権侵害に当たるとして訴えていたのです。第一審ではキャノンは敗訴しましたが、今回はキャノンが勝訴し、販売禁止とリサイクル品の廃棄を命じられたのです。
この事件も実にさまざまな問題を含意しています。
大企業の利益の上げ方は決してホリエモンの知恵に負けません。
私はキャノンという会社が大好きです。
昔、テレビの番組で賀来会長(当事)をインタビューさせてもらったことがあります(12回の経営者インタビューの番組を引き受けたことがあるのです)。
賀来さんの真摯な姿勢に感銘を受けました。
社会問題や環境問題への取り組みにも共感することが多かったです。
そのキャノンにしても、こうした対応になるのがどうも残念です。
どこが残念かといえば、会社の利益を守るというところから発想されているからです。
asahi.comの見出しの付け方は論外としても、キャノンの人もまたどこかでそういう意識を持っていることは間違いないでしょう。
問題は今のビジネスのやり方なのです。
「消耗品戦略」というものが、いかに環境経営やCSRに反するかを考えてほしいものです。
そして社会の視点に立って、販売会社と一緒になって事業スキームを再構築してもらいたいです。
大切なのは企業の利益ではありません。社会にとっての価値です。そしてそれが企業の利益になるのです。順序を間違ってはいけません。
賀来さんがご存命であれば、こんなことにはならなかったような気がします。
キャノンにとっては自らの「消耗品戦略」を見直す絶好のチャンスのはずなのですが。

■規律は守ったが、弱いものを守るということをしなかった(2006年2月2日)
何回観ても涙が出てしまう映画があります。
「ア・フュー・グッドメン」(1992年)です。トム・クルーズとジャック・ニコルソンの裁判ものです。
キューバの米海軍基地内で1人の海兵隊員が殺害され、容疑者として2人の優等兵が起訴された。若手弁護士キャフィは、この事件に海軍の暴力的制裁“コードR(レッド)”が絡んでいることを突き止める。しかし、相手は実力者の基地総司令官ジェセップ大佐。法廷で戦うことは勝ち目がなく、被告のためにも司法取引で処理しようという働きかけがあるが、真実をあくまでも主張する被告にほだされて、彼は巨大な権力に立ち向かうという話です。
詳しくはここをクリックしてください。
http://www.axn.co.jp/movie/afewgoodmen.html
こう書いてしまうとよくある話なのですが、こういう話に私はめっぽう弱いのです。
古い映画ですが、毎年2回くらいDVDで観てしまいます。
気分が萎えた時に観ることが多いせいか、毎回、最後の場面で涙をこらえられなくなるのです。
私は頭では、軍隊そのものに異論がありますし、規律優先の文化に反発を感じるタイプなのですが、感覚的には軍隊の規律の正しさや敬礼のスタイルにはどこかに憧れがあるのです。とても矛盾していますが、否定できない気持ちです。
ところで、この映画にはいくつかの価値観の対立構図があります。
まずは「現場」「現実」と「制度」「理念」です。
敵を前にして日々緊張を余儀なくされている、基地総司令官は現場を代表しています。
それに対してハーバード出身のエリート弁護士は理論と理念の人です。たたき上げのジェセップは知識だけの若手エリートがどうしても許せないようです。
普通なら私はジェセップに与しますが、現場の基地の中では、さらに現場は兵卒の世界ですから、兵卒を守るキャフィに共感を持ちます。
そして、ここでは実は「現場」と「トップ」はピラミッド構造ではなく、循環構造であることが示唆されています。
日本の経営学者の組織論には欠落している視点です。これこそがCIの神髄です。

「組織」と「個人」の軸もあります。
言うまでもなく、軍隊のルールは個人基点ではなく、組織起点です。
個人は組織のために存在しているというのが軍隊の基本です。
にもかかわらず、その世界で個人がいかに個人でありえるかの問題が提起されています。
実はこれに関連した発言が最後の直前にあるのですが、私はそこでいつも涙が出てくるのです。
無罪になったにもかかわらず、軍隊を不名誉除隊されたことに異議を申し立てる部下に対して、被告だったドーソンが次のように言うのです。
「軍の規律は守ったが、弱いものを守るということをしなかった」。
どうですか。感動するでしょう。
しないですって?やはり映画を観ないといけません。はい。
まあそれはそれとして、日本の企業にも、こうしたグッドメンはいるでしょうか。

「正義」の軸もあります。あえていえば、「正義」と「効率」あるいは「功利」の軸です。「正義」という言葉にはいかがわしさが付き物ですが、私はこの言葉に奮い立つ人間なのです。きっとどこかにその反応要素が埋め込まれているのです。
もっとも私の正義は、強いものに抗うという定義です。
ですから最後にキャフィが被告だったドーソンに「君は誇り高い男だ」と声をかけ、それに応じて、ドーソンがキャフィに、初めて「サー」と言って、最敬礼する最後の場面では、もし一人であれば嗚咽するほどに感動するのです。

どうも昨今の政治や経済に寂しさを感じます。
正義がなくなってきているのを強く感じます。
私もそうした流れの中で、家畜のような生活に向かっているような気がします。
そうならないように、今日はDVDで「ア・フュー・グッドメン」を観てしまったのです。
キャフィを見習いたいと思います。
彼のようになりたくて、大昔、私は法学部に入学したのですが、安逸な生活をむさぼってしまうようになっています。
この3週間、実にさまざまな人に会って、さまざまな刺激を受けました。
気を奮い立たせて、行動を起こさなければいけません。

■利益のあげ方(2006年2月3日)
郵政民営化は着々と進められているようです。しかしもはや国民の関心はないようです。しかし、とてもおかしなことが次々と報道されています。
たとえば昨日の朝日新聞の記事に、
「郵政公社の債券管理 数十億円予定、1円で落札」
という見出しで、次のような報道があります。

日本郵政公社の郵政民営化に際し、簡易保険部門が国債などの債券管理業務を外部委託する入札で、「資産管理サービス信託銀行」(みずほ銀行系)が1円で落札していたことがわかった。郵政公社が事前に算定した予定価格数十億円を大幅に下回った。簡保が保有する債券は国債だけで50兆円以上に上り、銀行側は1円で落札しても多額の手数料収入が別に見込めるため、赤字にはならないとしている。

これが民営化の本質です。どう考えてもフェアではありません。
官の利権がかくも恣意的に、不条理に、民に与えられるのは、まさに官民構造だからです。どうせ政財界のトップのなかでの回し作業でしかないのです。問題にする価値もありません。
ここで問題にしたいのは、「多額の手数料」というところです。
現在の金融業界の手数料は、ベニスの商人の時代よりも悪質だと私は思いますが、このやり方は「最初の1週間は金利ゼロです」と言って、貧窮している生活者から結局は多額な高利をむさぼる仕組みに似ています。
同じ人たちが仕組んでいることでしょうから、それは当然のことですが、あまりに露骨なのが驚きです。私たちは馬鹿にされているのですが、まあ自業自得です。
先日、消耗品戦略のことを書きましたが、手数料戦略も同じ発想です。銀行は自らの事業スキームを根本から考え直すべき時期にきています。
高速道路料金も同じです。高速道路の料金はある期間を過ぎたら無料にするべきでしょう。もし有料にするのであれば、収支の透明性を確保すべきです。そんなことは誰でもわからなければいけませんが、日本人の多くは理解できません。洗脳はそこまで進んでいるわけです。
働かなくても、努力しなくても、利益が入ってくる仕組みをどうつくるか。
これが「経営」だとしたら、経営は創造的な仕事ではありません。
ホリエモンでも務まったのがよくわかります。

■情報の過剰摂取症候群(2006年2月6日)
今日、ある必要があり、私が入っているメーリングリストの確認をしました。
なんと50を超えるメーリングリストに参加していることが判明しました。
しかも、私が管理者役をしているのが10を超えています。
道理でたくさんのメールが来るはずです。
しかし、リゾーミックな(植物の根っこのように絡み合った)つながりの中で生きることを信条としている私としては、どれも脱会できないのです。
もちろん、そのすべてに几帳面に付き合っているわけではなく、その時々に重点的にいくつかのメーリングリストを中心に投稿したり読んだりしているのですが、ちょっと多すぎるのが問題です。
それにいまも、月に2〜3の新設がありますので、まだまだ増えていくでしょう。
私のサイトにリンクしているホームページも時々見るようにしていますが、このごろは数が多くなってしまい、訪ねる機会が少なくなっています。
情報源や情報検索の範囲が広がるにつれて、自らに身体化する情報密度は希薄になりかねません。その結果、行動は少なくなる可能性もあります。
私の体験では、活動は、摂取した情報量に反比例しています。

そして、情報は、活動の世界の広がりと正比例しています。
最高の情報は人がもたらすと私は考えていますので、新しい人と会うたびに新しい情報パイプが生まれて、情報が入りだします。
その結果、私の最近の情報と活動の収支は、どうみても情報の過剰摂取で、活動が低下しているように思います。
友人からは、もっと付き合う範囲を狭めたほうがいいとよく言われます。しかし、私の生き方には合いません。
こうした情報と活動の非対称な関係は生命現象のバランスをとるための絶妙な仕組みかもそれません。
この構造は実に面白いと思います。

いずれにしろ、最近の私は過剰情報摂取症候群に陥っています。
もしかしたら、それで最近は行動力が低下しているのかもしれません。
過剰情報摂取症候群は、もしかしたら生活習慣病の一種かもしれません。

過剰情報摂取症候群の解決策は忘却です。
幸いなことに、私は最近ますます物忘れが増えています。
この延長に認知症があるとしたら、それもまた健全な成長過程ではないかと思ったりすることもあります。
認知症についての私の知識や体験が不足しているから、そんな風に考えてしまうのかもしれません。

■「パブリック」の責任(2006年2月8日)
東横インの事件で同社の西田社長が連日テレビで批判され続けています。
弱いものいじめとしか思えないほどです。
おそろしい「いじめ社会」になってしまいました。
改めてテレビや新聞の暴力性を恐ろしく思います。
東横インは、一時はユニークな経営で話題になった会社です。良い時は持ち上げておいて、いったん、悪者になると寄ってたかって容赦なく追い詰めるのが日本のマスコミです。
記者会見の時の質問の言葉遣いなど、少しは良識を感じさせてほしいと思います。
その一方で首相へのインタビューは迎合的で卑しささえ感じます。
今のマスコミが権力に寄生しているのが良く見えてきます。
良い時は過剰に持ち上げ、悪くなるといじめつくすのが日本の文化かもしれません。
ライブドアも総研への対応も同じパターンでした。
そしていま、その象徴的な人物が国政のトップにいます。小泉首相ほど卑劣で狡猾な人物を私は見たことがありません。西田社長もかなり卑劣ではありますが、まあ底の浅さを感じさせる程度の狡猾さしかありません。
ところで、国民の半分が首相に拍手を送っているわけですが、私の価値観はよほど一般の常識から外れているのでしょうか。少し考え直さなければいけないかもしれません。
もっともたとえば田中首相は国民の英雄から一挙に犯罪者に落ちていったわけですから、人の評価はうつろいやすいものです。この国民にして、このマスコミかもしれません。

久しぶりにまた少しだけ気持ちを書いてしまいましたが、今日の問題は「パブリックの責任」です。
耐震偽装、ホリエモン、東横イン、これらに共通しているのは、民の暴走をチェックし、信頼性を維持するための「パブリックの機関」が自らのミッションを果たしていなかったことです。その問題は巧みに矛先回避され、マスコミもあまりつっこみません。そこにこそ、問題の黒幕がいると私は思っていますが、余りにも利害関係者が多いのでしょう。
しかし、関係者の多くは疑問と不信を持っていたはずですし、しかるべきパブリック機関(日本では官の機関というべきでしょうか)も万一知らなかったとしても(もしそうであればそれもまた職務怠慢ですが)、少し意識を持てばわかったはずです。情報も寄せられていたでしょう。
にもかかわらず、なぜ動かなかったか。あるいは反応できなかったのか。
私には理由はわかりませんが、似たような話はいわゆる開発途上国に良くあるように思います。
そこで動きを止めたり加速させたりする要素は、「賄賂」です。
日本には賄賂など存在しないと思いたいですが、あまりにも似すぎています。
そしてそこに必ずといいくらい、いつも政治家の姿がうわさに上がります。
「パブリックの責任」が果たされていない社会こそ、問題の本質です。
いや「パブリック」が存在しないことが問題なのかもしれません。

■北朝鮮との「国交正常化」って何でしょうか(2006年2月9日)
今回の日朝協議もほぼ成果なしの結果に終わったようです。
私自身はこの交渉の基本枠組みに間違いがあると思いますので、こうした場をいくら持っても問題は解決しないと思います。そろそろそうしたパフォーマンス外交は正すべきでしょう。
それにしても、いつも思うのは「国交正常化」とは何かと言う疑問です。
国交とは「国家」の交流を指すと考えていいでしょうが、国家とは何か、です。あるいは国交正常化は何のために必要かです。
これについて書き出すと、たぶん1冊の本ができるでしょうが、ここでは両国の国民が今よりも暮らしやすくなるということを目的におきたいと思います。
国民主権国家時代の外交は、そうしたことが目的でなければならないと思います。
ところが世界にはまだ国民主権国家でない国歌がいくつかあります。
北朝鮮はそのひとつと言っていいでしょう。
しかも北朝鮮では、他国の通貨の偽造、麻薬の産輸出、無垢の外国人の誘拐などを国家事業として展開している国です。そこにおいては、おそらく国民の意思は踏みにじられ、時に虐殺と拷問が繰り返され、それがゆえに命がけの国家らの脱出が繰り返されているわけです。これを「国家」というべきかどうか、私は迷いますが、いわゆる近代国家とはかなり違った組織ではないかと思います。
もちろん、近代国家にしても実に多様であり、一概には言えませんし、以前も書いたように今の日本は北朝鮮との類似点が非常に多いのも事実です。
しかし、現在の北朝鮮は明らかにその異常性においては閾値を越えています。
いま、必要なのは国交正常化ではなく、北朝鮮の国家正常化なのではないかと思えてなりません。
日朝協議も果たして国家協議でしょうか。金正日体制と小泉体制の協議でしかないのではないか、そう思えてなりません。
以前、ODA議論で、途上国の現体制に経済支援すればするほど、その国家で抑圧されている国民たちはますます圧迫され、権力構造を確たるものにしてしまうというような議論がありました。いまの人道支援を大義にしたアフガンやイラクの支援にも言えることです。
北朝鮮との国交正常化は、北朝鮮の現体制を承認することに他なりません。
いいかえれば拉致事件を追認し、麻薬販売を承認することにならないでしょうか。
それにそんなことをやる体制となぜ交流をしなければいけないのか。
正常化すること自体に矛盾があるのではないか、つまり正常化がその上の次元にある関係性の健全性を破壊するという意味です。
たとえは悪いですが、犯罪者と友人になることで、犯罪者の犯罪を支援することに似ています。犯罪者ではなく、被害者と友人になって、一緒に犯罪者を正すことでしょう。
正常化すべきは、北朝鮮の国家のあり方です。
その働きかけがない正常化交渉は意味がないばかりか、相手の行動に加担することでしかありません。
だから「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」と言っているではないかと言われそうですが、拉致問題の解決なしに「協議」そのものが成り立たないはずです。
むしろ非条理な北朝鮮とは国交断絶し、協議に向けるエネルギーと税金を脱北者支援活動に向け、北朝鮮の国家正常化に協力すべきだろうと思います。
国家は金正日や小泉純一郎のためにあるのではありません。額に汗している国民のためにこそ、あるのです。そうでない国家は不要ですし、そんな国家と関係を正常化する必要はありません。
こうした議論にかなり危険な思想が含まれていることは承知していますし、論理展開が粗雑なのも自覚していますが、国交正常化とは何かを、一度しっかり考え直す必要があるのではないかと思います。
ちなみに、国家のレベルで考えるから難しいのですが、
もし隣家に幼児虐待と誘拐犯があったとしたら、皆さんはそこの家と付き合いを正常化したいと思いますか。
問題を身近な問題に置き換えると、事の本質が見えてくることもあります。

■横浜事件判決とリーガルマインド(2006年2月10日)
私は高校生の時に、検事になりたいという思いが強く、法学部に入学しました。
そこで学んだのは「リーガルマインド」です。
私にとっての「リーガルマインド」とは法の精神であり、その法律もしくは制度が目指している価値観を判断基準にして、法律や制度を活かしていくということでした。
ところが最近、私の理解はどうも極めて特殊だったのかと思わざるを得ないことに気づきました。
先月の同窓会で、この話を少ししましたが、誰も反応しませんでした。
気になって、いまネットで調べましたが、そこで出てくるのは法の知識を持って行動するような話ばかりです。私の理解とは対極の考えです。
もちろんそうでない話もありますが、そういうものはなかなか見つかりませんでしたし、その書き方も余り明確ではありません。
司法の世界もいまや行政府とそう変わらないのではないかと言う気さえします。
三権分立は形骸化してしまっているのでしょうか。

昨日、戦時下最大の言論弾圧事件といわれる横浜事件の再審判決がありました。
今朝の新聞に大きく出ているので、お読みになった方が多いと思いますが、日本の司法界の本質を現出させる判決だと思います。
判決は「免訴」でした。やはりそうか、という気がしました。
このブログでも何回か書いていますが、私は日本の司法界に対する信頼を最近は持てずにいます。あまりにも納得できない事例が多すぎます。
今回の判決には、少し期待を持っていました。地裁判決ですから、
しかし、今回もまた失望しました。
もしかしたら日本の司法界はまだ戦前のパラダイムで動いているのかもしれません。
なにしろ国家の枠組みが変わったにもかかわらず、彼らは何のお咎めもなく自らを継続してきた人たちなのです。
彼らに良識(リーガルマインド)を期待するのは無理なのかもしれません。

横浜事件は、19942年から終戦直前にかけ、出版関係者など約60人が「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問で4人が獄死。終戦直後の1945年8〜9月に、約30人が横浜地裁で有罪となった事件です。
元被告らの再審請求を受けて、2005年、東京高裁は拷問の事実を認定し、「自白の信用性に顕著な疑いがある」として再審開始となりました。
公判では、元被告の遺族(元被告はすでに全員死亡)が「十分審理をせず有罪を言い渡し、再審請求を退け続けた司法の責任を認め、謝罪してほしい」と訴えていました。
それに対して、昨日の判決では、無罪か有罪か判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を言い渡したわけです。自らの責任にはほとんど言及していません。
私が一番残念なのは、裁判官のリーガルマインドを微塵も感じられないことです。
判決は、責任回避の手続き論であり、人間としての心が感じられないのです。
心が入らない法の適用は、問題の本質的な解決にはつながらない気がします。
明白な事実を認めながら、無罪宣言をしない裁判官とは一体何なのでしょうか。
こうした卑劣な言動が最近の日本には多すぎます。
手本が多すぎるので、社会に蔓延してきているのでしょうか。恐ろしい話です。

■ふたつのリーガルマインド(2006年2月11日)
今日もまた、少し小難しい議論です。
昨日触れた「リーガルマインド」について、気になったのでネットで調べて見ました。
驚くことに出てきたのは、リーガルマインドの名前のついた会社や書籍が圧倒的に多く、またリーガルマインドを名前に織り込んだブログもいくつかありました。
リーガルマインドの中身に関して記載があったのは1〜2%でした。
私が大学で学んだ頃には、もっと盛んに使われていたと思いますし、私が愛読していた法学関係の雑誌でも話題になっていた記憶があります。
私がこの概念に触れたのはたぶん民法の川島武宜さんの授業です。まあ私にとっては、その言葉に触れた途端に、法学の極意を極めた気分になって、それ以来はあんまり授業にも出なくなって、後は映画館通いをしていました。極めたものにとっては、すべてが授業と同価値になるのです。はい。
ところで、ネットで調べてみた結果、昨今のリーガルマインドにはどうも二つあるようです。まだとりあえずの整理なので不十分ですが。
ひとつは、「適法判断力」です。法律で許されるか、許されないかを判断する力です。いいかえれば、法律を知っていることが出発点になります。
もうひとつは歯切れが悪いのですが、「法的思考力」です。意見の対立において理性的に妥当な解決に導く能力だと書いている人もいますし、正義・人権・自由・平等などの法的な価値を尊重する感覚という表現もありました。しかしここでは「法的」とは何かが明確にされていないために、一種のトートロジーに陥っている気がします。
しかし、そこを思い切って整理すれば、「法律」を前提にして考えるか、法律の淵源に立ち戻って法律を吟味するかという大きな違いになります。
ややこしい話ですが、法とは何かという問題にもなります。文書に書かれた法律は法の一表現形態に過ぎないと考えるか、法そのものと考えるかの違いです。
法治国家という言葉もありますが、これもまた実に両義的な言葉です。
ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意していますが、ここにこそリーガルマインドの本髄があると私は思っています。
リーガルマインドは法律の解釈学であってはなりません。法律の適用と言う意味で、解釈にとって不可欠な要素ではありますが、法の深遠にあるものであり、むしろ自然法的な理念と価値観に裏付けられたものでなければいけません。
日本のような社会ですら、法律は簡単に作れるのです。極端に言えば、権力と資材が法律を生み出すのです。そうであるならば、それらを牽制し、活かしていくための論理を超えた感性こそが、リーガルマインドではないかと改めて思います。
何だかかなり粗雑な論理展開ですね。
すみません。
この件は少しきちんと考えてみることにしました。
半年以内に改めて書くようにします。
それにしても、
ソクラテスの行為は、結果としての行為ではなく、発端を意図した行為だったところに大きな驚きを感じます。なにしろソクラテス的発問の元祖の行為なのですから。最大の教材です。

■まちづくりの始まりの現場(2006年2月13日)
昨日、茨城県の谷和原村の「城山を考える会」の横田さんから誘われて、その集まりに参加してきました。
この会に関しては、何回かCWSコモンズで書いたことがありますが、昨年から始まった住民たちの自発的なグループです。
谷和原村は来月、隣の伊奈町と合併して「つくばみらい平市」になるのですが、昨年、東京とつくば市を結ぶ、つくばエクスプレスが開通したため、おそらく大きく変貌していくところです。新しい駅「みらい平」の周辺はそれまでは何もなかったところですが、さまざまな建物が建設中で、駅から1分の住宅マンションもまもなく完成の予定です。谷和原村の人たちの生活も大きく変わっていくでしょう。
その駅から歩いていけるところに城山があります。ちょっとした里山と農地、素晴らしい谷津田、そして運動公園があります。谷津田には湧水もあるのです。
昔はそこに谷和原村の中学校がありました。ある世代から上の住民にとっては、とても意味のある場所なのです。
20haの城山運動公園周辺の地域をどうするかは、谷和原村にとっての重要課題でした。つくばエクスプレスの開通で、都心には1時間足らずでいけるようになるわけですから、新しい田園都市が生まれるか、文化と景観が壊れるかの、いずれかになるでしょう。
それを予想して、谷和原村では数年前から行政が住民参加のスタイルで構想づくりをしてきました。東京のコンサルタントも入って、「立派な」計画ができたのが5年前です。幸いに、村の財政が厳しく着手できませんでした。それにコンサルタントがまとめた構想は、「立派」すぎて生活とのつながりが見えにくいものでした。
そこで私に声がかかりました。何回か通っているうちに出会えたのが横田さんです。
そして横田さんが仲間に声をかけて始まったのが城山を考える会です。
横田さんたちは構想を描く前に、まずは里山の整備に取り掛かりました。最初は下草刈りです。なにしろ予算がありませんから、完全な手弁当です。しかも重労働。仲間は減ってしまいましたが、そうした中からしっかりした何人かのつながりが生まれました。そしてその輪が少しずつ広がりだしたのです。
毎月2回の集まりをやっていますが、それに誘われたのです。里山の空き地にインディアンテントを張って、その中でかまどをつくって「たぬき汁」をつつきながらの茨城弁での話し合いです。
人のつながりが間違いなく育ってきています。まだメンバーは10人足らずですが、こうした人のつながりが「まちのはじまり」なのでしょう。
集まったのは私を入れて11人。なかには隣の守谷から来ている女性もいます。面白いのでついつい巻き込まれてしまったそうです。今回はつくば市から飛び入りした若者もいました。外部からも引き付ける魅力がすでに生まれだしているのです。
まちづくりとは何か、今日はたくさんの示唆をもらいました。
その上、すごく立派な卵までお土産にもらいました。
これこそが「まちづくり」の原型ですね。
新しいまちづくりが各地で始まっています。

■「時は金」ではありません(2006年2月14日)
昨日の続きです。
谷和原村でのテントの中での話し合いの最後は、みんなの手作り料理とテントの真ん中にぶら下げられた鍋での料理です。
新鮮な野菜がふんだんに投げ込まれて、実に美味しい鍋でした。
メンバーがそれぞれ持ち寄った自慢の家庭料理も最高でした。
七味唐辛子も手作りです。
デザートも、柚子の黄金焼きや手作り羊羹と、いろいろ出てきました。
各種のお漬物も美味しかったです。窪田さんの人参の漬物も最高でした。
こういうところに来て、いつも思うのは食生活の豊かさです。
どんなに有名なグルメレストランも、こうしたところの食事に比べれば貧相なものに思えてなりません。
食の豊かさは文化の豊かさにつながります。
しかし、そうした食の豊かさは間違いなく失われてきています。
みんなでいろいろ話しながら、持ち寄りの食材や里山の山菜で鍋をつくり、自慢の家庭料理を交換し、それに合わせて、それぞれの生活を交換しながら、地域社会の共同意識を高めていく。
昔はどこでも行われていた風景だったでしょう。
そうしたことがしっかりと行われていれば、地域は豊かになっていくはずです。
食事はまさに人をつなぎ、生命をつなぐものです。
食材を育て収穫し調理し食する、そして最後には残滓をきれいに自然に戻していく。
この循環が生活を支え、文化を育ててきたのです。
しかし、昨今の食文化は残念ながら、自然や文化から切り離された、単なる食べ物になっています。
単なる食べ物であるならば、それは「餌」でしかありません。
ファーストフードは餌の文化です。食の文化ではありません。
谷和原にはまだ自然が残っています。
城山も少し整備するだけで、きのこや山菜がもっと戻ってくるでしょう。
しかし、山菜料理は手がかかります。
その採取も含めて、時間がなければ難しいでしょう。
スーパーで処理された食材を買ってきたほうが、間違いなく便利です。
いつか書きましたが、我が家もピーナッツを栽培しましたが、その殻剥きが大変でした。
食を豊かにしようとすれば、時間がかかるのです。
時間がかかるということは、いつの間にかお金がかかることになりました。
いつからこうなってしまったのでしょうか。
「時は金なり」ということを疑いもなく受け入れていた自分の愚かさに、私が気づいたのはつい最近です。
時は、決して金ではありません。
エンデは「モモ」でそのことを警告してくれましたが、一度、金銭市場主義の世界に入ると抜け出すのは難しいのも現実です。
家計費のなかで食生活にかかる費用の割合をエンゲル係数といい、エンゲル係数が低いほど豊かだと言われた時代がありました。今もまだそういう概念があるのかどうか知りませんが、食はやはり豊かさにとっての最高の指標だと思います。
しかし、基準にすべきは「金」ではなく、「時間」だと思います。
全生活時間に占める食関係の時間、もちろん食材づくりや話し合いの時間も含めてですが、食につながる時間の比率こそが豊かさの基準になるような気がします。
皆さんは食の時間にどのくらいの時間を割いていますか。
私は決して多くありません。反省しなければいけません。
谷和原村の人たちに学んで、今日から少しライフスタイルを変えようと思います。
料理にも時間を割く努力を始めようと思います。
これまで何回か挑戦して、いつも失敗しているのですが。

■企業の社会貢献活動と事業活動(2006年2月14日)
企業に関わる残念な事件がまた頻発しています。
しかも、取りざたされる会社がいずれもとても社会活動に熱心な会社であることが気になります。
核開発に転用可能な3次元測定機の輸出で問題になっているミツトヨは、仏教伝道に地道な活動をしている会社です。
むしろ仏教伝道のために会社を設立したという歴史がある会社です。
生命保険違法販売で問題になっている損保ジャパンは、福祉活動を行う団体のNPO法人格取得を支援する活動をかなり早い時期からやってきました。
NPO支援の分野では実績のある会社です。
なぜそうした会社がこういう事件を犯してしまうのか。
これについては18年ほど前に日経産業新聞のコラムに書いたことがありますが、社会貢献活動と事業活動とのつながりがないことが最大の理由だと思います。
つながりがないばかりか、別の問題と捉えられています。
そもそも「社会貢献」などという言葉を何の疑問もなくつかっているところに、そうした理念のおかしさが象徴されているように思います。
この話も当事、経団連の社会貢献活動の研究会で企業の関係者に問題提起しましたが、全くと言っていいほど理解されませんでした。
彼らが本気で考えていないのが良くわかりました。
その事情は残念ながら20年近くたった今も、全く変わっていません。
当時、私が雑誌などに書いていた問題提起は、今読んでも通用してしまうのが哀しいです。
渋沢栄一は「片手に論語、片手にそろばん」といいましたが、それを統合する機能、つまり「経営」が多くの企業には不在なのです。
企業は、事業活動を通じてこそ社会に貢献しなければいけません。
いわゆる「社会貢献活動」は、そのための手段でしかありません。
それは社会貢献のためにするのではなく、社会を学ぶために行う社会活動なのです。
どんなに勉強ができても、どんなに金持ちでも、
社会性のない人とは友達になりたくないと普通は思うでしょう。
企業も同じことです。
社会性を磨くためにこそ、企業は社会活動をすることが必要なのです。
その認識がない企業の「社会貢献活動」が多すぎるのがとても残念です。

■人の生命を殺傷した罪の重さ(2006年2月15日)
昨年2月、千葉県松尾町の県道で同窓会帰りの男女8人が軽乗用車にひき逃げされて死傷した事件で、危険運転致死傷罪が適用されて、被告に懲役20年が言い渡されました。被告は控訴するそうです。
被害者の家族にとっては、決して納得できないでしょう。
それなりの事情があればともかく、飲酒無免許運転で、しかも事故後逃走したというこの事件は、殺人罪と同等であってもいいと私は思います。
未必の殺意を認めるべき状況でしょう。
自動車は凶器になる可能性があることをもっと認識すべきです。
この事件に限りませんが、人を殺傷した加害者の量刑は余りに軽すぎると私は思います。
再犯事件も少なくありませんし、もっと厳罰に処するべきです。
なにも死刑にしろというわけではありませんが、一生をかけて償ってもいいのではないでしょうか。
命が奪われた場合、加害者と遺族の、それぞれのその後の人生を考える時に、多くの判決の量刑はバランスを欠いていると思うのは私だけでしょうか。
最近の判決の多くは決して納得できないものが多すぎます。
その一方で、ビラを配っただけで禁固刑になるようなおかしなことも行われていますし、冤罪もまだ完全にはなくなっていないような不安もあります。
卒業式に国家を歌わないために失職させられることもあります。
日本には、果たして法の正義は存在するのでしょうか。
とても不安です。

■時間の長さは人によって全く違います(2006年2月16日)
最近、時間の速度がかなり気になっています。
他の人と私と果たして同じ速さで時間は進んでいるのだろうかと、時々思うのです。
遅い時もあれば速い時もある。どうもずれているのです。
私自身に関しても、日によって時間の速度が違います。
時間だけは誰にでも平等と言われますが、そのことに昔から疑念をいだいています。
まあ、今日はそこまでの話を書こうとは思いませんが(書くと、いよいよ気が触れたかと思われそうですので)、当事者の時間と管理者の時間の話です。

北朝鮮による拉致事件の解決は一向に進展しません。
横田夫妻の話をテレビで聞く度に、彼らの苛立ちを感じます。
私たちにとっての1月は、横田さんたちにとっては1年に相当するのかもしれません。
時間の速度は人によって全く違います。
以前、NHKのがんキャンペーンの番組で治療体制の地域格差が話題になりました。
その時の病院や行政側の発言と患者側の発言を聞いていて、時間感覚が全く違っているためのすれ違いを強く感じました。
地域格差を解消していくには時間がかかるでしょうが、患者にとってはそれがまさに生死に関わるのです。
死んだ後で地域格差がなくなっても、自らには何の意味もないのです。
「当事者の時間」と「管理者の時間」とは全く違います。
この違いから発生する議論のすれ違いは少なくありません。
同じ社会に生活をしていながら、時間速度は人によってかなり違うこと、しかも問題に応じて同じ人でも違ってくることを、私たちはもっと認識する必要がありそうです。
コミュニティケアやまちづくりに関わってきて、それを強く感じます。

時計が刻む時間だけが「時間」ではないのです。
時間はどうも生きているようです。

■議論の目的は勝敗ではなく、共創です(2006年2月20日)
オウム事件の松本被告の訴訟能力が弁護側から問題にされ、裁判が止まっていましたが、半年間の調査の結果、訴訟能力が認められて、また裁判が再開されるようです。
こうした事件が時々起こりますが、この場合の「弁護」とは一体何なのでしょうか。
こんなことをやっていたら、裁判における弁護の意味がおかしくなるような気がします。
永田議員の堀江メールにまつわる民主党と自民党の議論もひどい話です。
国政調査権を認めるかどうかの問題ではなく、政治の権威のためには、一刻も早い真偽の確認に向けて両党がもっと協力することがなぜできないのでしょうか。
その気になれば、すぐ判明することでしょう。ばかげた話です。
いずれもあまり適切な事例ではないような気もしますが、議論の目的は相手を負かすことではありません。議論を通して、より好ましい状況を創りだしていくことです。
しかしなぜか日本での議論は勝敗に焦点が行きがちです。
勝敗を目指す争いはどういう結果になろうとも、双方にとってマイナスをもたらすと思います。
その最たるものが戦争でしょう。
戦争で平和がもたらせるはずはないのですが、なぜか多くの人は戦争こそが平和をもたらすと考えます。私の友人たちもそう考えている人が多いようです。
そんな馬鹿なはずがありません。
そうやってもたらされた「平和」は戦争のひとつの状況でしかありません。
では議論の目的は何でしょうか。
それは「共創」、つまり違った事実や論理をぶつけ合うことによって、新しい価値を創りだすことです。私はそう考えています。
裁判における検事と弁護士の議論は、違った立場からの事実と論理と意見を交換しながら、双方および社会にとって、より納得性の高い判断を得るためのものではないかと思います。
王権国家における弱いものを守る時代の裁判とは基本的に違うのです。
国会における議論は、これも違った立場からの事実と論理をぶつけ合いながら、より納得できる真実を明らかにし、社会の不都合を正していくための共創活動であるべきでしょう。
党利党略のために国会での議論があるわけではありません。
こうしたことは国家間の議論にも当てはまります。
イランの核開発問題の議論はやはりフェアではないように思いますし、北朝鮮との拉致問題の交渉は議論にもなっていません。
議論といえないような、似非議論が多すぎる時代になってきました。
にも関わらず、そうしたことが横行し、蔓延しているのは、それで得をする人がいるからでしょう。
それにしても、どうしてこうもみんな勝敗にこだわるのでしょうか。
爆笑問題の太田さんが、昨日、テレビで、オリンピックでメダルが取れるとか取れないとかどうでもいいではないか、選手のプレーをみているとそれだけで感動する、それでいいじゃないかといっていました。
同感です。
メダルなどは瑣末な話です。
勝敗意識を煽るマスメディアには乗りたくないものです。
もちろんオリンピックに限った話ではありません。

■堀江メール問題が教えてくれたこと(2006年2月22日)
あまりにも馬鹿らしいので書くまいと思っていたのですが、やはり書くことにしました。
いま話題の「堀江メール」の話です。
あれが証拠になるのでしたら、おそらくどんな事件もでっち上げられるでしょう。
メールをある程度やっている人なら、最初からわかっていたことでしょうから、こんなに話が盛り上がるとは思わなかったのですが、信じられない展開です。
民主党にはメールをしている人がいないのでしょうか。もしそうでないとしたら、ライブドアと同じ水準の、実体のない組織だと判断しないわけにはいきません。
残念なのはその民主党に何人かの知人友人がいることです。絶縁するわけにも行きませんが、早く離党してほしいものです。
まあ、それはそれとして、この事件でいろいろと考えさせられました。
たとえば、電子署名運動のことです。一時は私も協力したことがありますが、最近は電子署名運動には参加しないことにしました。いささかの迷いはあるのですが、電子署名はやはりおかしいです。いくらでも偽造できるからです。
メールアドレスはいかようにも作れるのです。
たとえば今でも私のメールアドレスで迷惑メールが配信されています。私のところにも届きます。プロバイダーに何とかならないのかと相談しましたが、だめでした。私のほうでアドレスを変えたらどうかと言われました。とんでもない話です。なぜ私が変えなければいけないのか、発想が逆です。そんなことを勧める会社の方針は信じられませんが、私は変えるつもりは全くありませんので、今でも不都合を受けています。
人によっては、私のアドレスを知らぬ間に迷惑メール発信者として受信拒否しているかもしれません。その場合は、私のメールが届かない事態も起こっているはずです。
そんなことが可能なメールでの署名が効力を持つはずがありません。
そう考えてからは、一切の電子署名をやめました。
もちろん、電子メールを使うことで、実はさまざまなメリットがあります。
私はいま、全国の住民活動やNPOのネットワーキングの活動をしていますが、これはメールやネットがあるから可能になっています。それらがなければ私の行動範囲は十分の一以下に縮小しているでしょうし、コストも莫大にかかるはずです。通信コストや編集コストがほとんどかからずに、しかも瞬時に全国の仲間にメッセージを伝えることができる魅力は5年前には考えられなかったことです。そのおかげで、私の世界は一変しました。お金がなくても活動ができるようになったのです。そのうちにきっとお金がなくても生活できるようになるでしょう。
コスト面でも効率面でも、ネットはすごい効用があります。感謝しなければいけません。
しかし、その反面、便利でコストやエネルギーが不要な分だけ、たぶん問題が起こっているのです。物事には必ず裏と表があります。
たとえば私が発信するメッセージへの反応率は代金はあまり高くはありません。5年前にはたとえメールでも私の推薦した本はほとんどの人が購読してくれ、イベントには参加してくれました。もちろん送り先を厳選していたことも、その理由のひとつです。
しかし最近は便利さに甘んじて、安直に同時にメールを送る習慣がついてしまいました。
昨日もあるイベントの誘いを50人くらいの人に送りましたが、反応があったのは3人だけです。もし普段から付き合いが深い人たちであれば、電話をすれば、きっと半分の人は時間さえ空いていれば参加してくれるでしょう。
しかし、メールで処理する時には付き合いの深さとは関係なく、一斉に発信してしまいがちです。それが簡単にできるからです。
受け手として考えれば、全く失礼な話です。事実、そうした案内もよく届きます。なんで私にまで誘いが来るのだろうかと思うような話もあります。
しかし、私自身も送り手になると同じようなことをやっているのです。これは反省しなければいけません。でもだからといって、それを止めるべきかどうかは悩みます。そうしたことこそがネット社会の長所かもしれないと思うからです。
つながりの量を問題にするのか質を問題とするのか。
量は質と別の話ではなく、実は同じものかもしれないために、この答えは複雑です。
量が創発を容易にするのであれば、量は質の指標にもなるのです。
話がややこしくてすみません。

しかし、堀江メールは実にさまざまなことを考えさせてくれました。
メールは本当に恐ろしい側面を持っています。

■国の主張と住民の主張(2006年2月23日)
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設のため、東京都あきる野市の土地を収用された住民たちが起こしていた、事業認定取消し訴訟の第2審は、住民側の逆転敗訴になりました。
問題となったのはあきる野インターチェンジ(IC)の開設で、地域住民たちは「隣接する日の出ICから約2キロしか離れていない場所に新たなICをつくる必要性はない」と訴え、一審ではその主張がほぼ認められていました。
環境面でも費用面でも、私自身は無駄な公共投資だと思いますが、情報不足なのと利用者でも住民でもないのであまり評価力はありません。
しかし、ニュースを聞いていて気になることがありました。
NHKのニュースによれば、国土交通省はこの判決に対して、「国の主張が認められた」とコメントしています。
「国の主張」とは何でしょうか。「国民の主張」という意味でしょうか。
利害関係の最も強い地域住民は、その主張を認められなかったわけですが、「住民の主張」と「国の主張」の関係は対立する関係にあるわけです。
この問題は沖縄の米軍基地の立地問題にもつながっています。
以前も書きましたが、「住民」と「市民」は違うのですが、そうした言語操作によって、さまざまなおかしなことが行われてきました。
「住民」の上位に「市民」が置かれ、そのまた上位に「国民」が置かれているのでしょうか。
これも何回も書いていますが、「国民」は抽象概念であって実体概念ではありませんから、容易に操作できる言葉です。
「国民のため」などという言葉には実体を与えることは不可能です。
国民の価値観が同一であれば可能ですが、そんなことはありえないでしょう。
それはロボットか家畜の世界でしかありえません。
地域が特定された「住民」であれば、かなり実体がつくれます。
もちろんあきる野IC周辺の住民にも賛成者はいるでしょう。
しかし、顔の見える人たちであれば、利害を束ねていくことは可能なはずです。
そうした表情の見える住民たちの生活に立脚した意思決定が基礎にならない限り、総論としての国民主権は実現できないでしょう。
逆にそうした住民主役の発想をベースにしてこそ、「国の主張」ということばが意味を持ってきます。
「住民の主張」と対立する「国の主張」は、国民を被統治者として位置づけた「お上の主張」でしかありません。
こうした関係の中にこそ、国家というものの本質が垣間見えてきます。
まあ、そもそも「官民」という発想の枠組みはそういうことです。
「国の主張」などという前に、もう一度、憲法を読んでほしいと思います。
コラテラルダメッジは、日本でもいくらでも起こっているのです。

■ソクラテスの警告(2006年2月24日)
「ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意しています」と書いたら、「それでも法だ・・・は解せないのですが?!」というメールをもらいました。
次のように返信しました。
「悪法もまた法」は、言い換えれば、「法には悪法がある」ということです。
法は必ずしも「正義」ではないということです。
つまり、法は誰の視点で解釈するかによって違ってくるものです。
順法精神とは何なのかと言う問題にもつながります。
また国家にとって一人ひとりの国民とは必ずしも守るべき対象ではないと言うことです。
そうしたことをメッセージしているのがソクラテスの毒杯事件だと、私は勝手に解釈しているわけです。
国家の平和が国民の非平和の上に成り立つように、国家の正義は時に個々の国民にとっては不正義を前提にすることに大きな危惧を感じています。
いわゆるコラテラルダメッジの話です。

ちょっと論点をずらしているような気もしますが、ソクラテスが「それでも法だ」と言ったのは法治体制への根源的な問題提起だったような気がします。
自らの考えで思考し行動しなくなったアテネ人たちに対する警告といってもいいでしょう。それはまさに今の日本人にも有効な警告です。
その方から、次のようなメールが来ました。

憲法は本来国家と政府が暴走しないよう、国民を守るためのものであり、
法律は、社会的な生活を営むのに国民を規制もするものといえるのですね。

うーん、ちょっと違うのです。
やはり統治体制の枠の中にみんな埋没しているような気がします。
憲法や法律への信仰があるのですね。
もっとも私が特殊なのかもしれませんが。

「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」。
これが私の考えです。
マグナ・カルタは国王の行動を規制するものだったではないかと言う人がいるでしょうが、国王もまた国民支配のための道具だと考えれば、マグナ・カルタもまた、起草した人たちのための支配の道具だったことがわかるはずです。

重要なのは、「国民を守る」という場合の「国民」は実に多様な存在であり、いか様にも解釈できることです。
いわゆる右翼を守ることも左翼を守ることも、資本家を守ることも労働者を守ることも可能です。そのすべてが国民と言う概念に含まれているからです。
戦争が起これば、「国民」を守るために「国民」に死を強要するようなおかしな結果も引き起こします。
つまり、この言葉は意味のない言葉なのです。
それに対して、「国民を規制する」は実体概念として成り立つでしょう。規制は多様な概念だからです。

もちろん憲法や法律が、被支配者としての国民一人ひとりにとって意味がないわけではありません。
建前は「国民のため」のものですから、その条文を盾にとって異議申し立てをすることができるのです。
統治のツールやシステムは、使いようによっては、統治をひっくり返す存在になりえます。
そこにこそさまざまな運動の意味があります。そして、主権在民という建前を掲げた日本国憲法の意義もあります。

憲法や法律そのものを、善悪を決める絶対的な基準にすることはとても難しいです。
モーゼの十戒ですら難しいですし、厳密に取り組めば、いわゆる原理主義に陥ってしまいます。
ガンジーのように徹底的な非暴力を謳えることも現実的かどうか迷います。
憲法や法律はあくまでも「道具」です。
とすれば、憲法や法律とどう付き合うかが重要になってきます。

長くなったので、続きは明日にします。

■豊かな社会の感受性(2006年2月25日)
このブログを読んで下さっている滋賀の方から、たまにはもっと明るい話や感動話も書いてほしいとメールをもらいました。以来、何とか見つけようと思っていたのですが、なかなかそうした話題にぶつかりませんでした。
ところが昨日、とてもいい話に触れることができました。
今日は予定を変えて、その話を紹介します。
読売新聞に紹介されていた福岡在住の西川義夫さんの話です。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/entame/muchu/0602/mu_602_060205.htm
西川さんは私が取り組んでいるコムケア活動の心強い仲間でもあります。
西川さんとは実はまだ2回しかお会いしたことがありませんが、年来の仲間のような気がする人です。実にあたたかな人です。
西川さんは還暦を迎えた昨年から、毎月2回、第1第3日曜日の午後、福岡市の天神中央公園で1時間のハーモニカのストリートライブを続けています。
それが読売新聞で大きく取り上げられたのです。
その記事から少し要約引用させてもらいます。
西川さんは、6年前に原因不明の病気で指の自由がきかなくなってしまい、大好きだったピアノやギターが弾けなくなってしまいました。その治療のために、転地療養に訪れた中国の奥地で、寂しさを紛らわそうと病室でハーモニカを吹いたら、いつしか窓の外に村人が集まりようになったのだそうです。
「言葉の通じない土地なのに、音楽を通して素朴な交流ができた。日本でも音楽の利器で、ばらばらな人間関係をつなぐことができるかもしれない」。
西川さんはそう思ったそうです。
そんな思いもあって、西川さんはハーモニカを始めました。そして昨年からストリートライブを始めたのです。現在のレパートリーは70曲だそうです。
西川さんの演奏は西川さんのホームページで聴くことができます。
これだけでも十分にいい話なのですが、
私が感激したのは、その記事の最後に書かれていた西川さんの言葉です。
「ホームレスの人が私の全財産だと言って、100円をくれたときは、感激してその場でわんわん泣いてしまった。バラバラに見える都市にも人情が残っていることを知りました」
すごくうれしい話です。
ホームレスの人たちのやさしさも伝わってきます。
号泣してしまったという西川さんのやさしさも伝わってきます。
辛い境遇を体験した人のやさしさは、頭で考えているやさしさとは違います。
感受性がとても高いのです。
豊かな社会は、感受性を低下させてしまい、構成員からやさしさを奪ってしまうのかもしれません。
「勝ち組」「負け組み」という言葉がありますが、もしかしたらやさしさを基準にすれば、その関係は逆転するのかもしれません。
やさしさを奪われた勝ち組人生とやさしさに満ちた負け組み人生。
私はやはり後者を選びたいと思います。

その西川さんが中心になって、3月25日に福岡でつながりをテーマにしたコムケアフォーラムを開催してくれます。私も参加させてもらいます。
もしよかったら、福岡界隈の人はご参加ください。
ハーモニカの演奏も聞かせてもらえるかもしれません。
http://www.kyouseishien.net/forum/index.htm

■憲法や法律は誰のためにあるのか(2006年2月24日)
一昨日の続きです。また長いです。
たまたまですが、先週、2人の人とそれぞれ全く別の局面で、憲法論議をしました。
憲法は誰のために何のために存在するか、がテーマです。
一人は憲法に関してとても造詣の深い在野の研究者です。
もう一人は庶民の立場に立って積極的な平和活動をしているNPOの人です。
いずれも団塊の世代ですが、考えも活動の世界も全く違う人です。

私は、憲法も法律も、すべては全体を管理する統治者のものだと考えています。
ですから、本来的に憲法や法律はあいまいな表現をし、よく読むと「目線」が国民の上にあることがわかります。
主権在民を謳っている日本国憲法にしても例外ではありません。
それに日本国憲法は、以前も書きましたが、形式的にもお上の憲法です。
これに関しては友人の武田文彦さん(「赤ペンを持って憲法を読もう」の著者)から教えてもらいました。
もし憲法が支配者のために存在するのであれば、その条文の表(おもて)の意味よりも、そこから引き出される選択の可能性のほうが重要になってきます。
ですから法文は極めて複雑に、しかも多義的に書かれています。
もちろん文章表現の限界と言うこともありますが、それ以上に状況によって多様な解釈が可能なように「政治的」に仕組まれているのです。
たとえば、典型的な手続法である税法をとってみても、その条文は、これが日本語かと思えるほど長文で、複雑です。
訳の分からない呪文のような文章です。訳がわからないので解釈の余地が発生します。
法文は論理的であると思われがちですが、私には全くそうは思えません。

もし憲法や法律がそのように多義的であるのであれば、統治されている国民にも活かし方が出てきます。そして、「法は誰のものか」という問題もまた、ダモクレスの剣のように、両義的な存在になりえるのです。
つまり、一昨日書いた「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」ということに並んで、「憲法は支配者への異議申し立ての根拠になり、法律は管理を規制するもの」になりえるわけです。
もしそうであるならば、憲法の解釈は国民一人ひとりが主体的に行うことが大切です。
戦争に行きたいとか、戦争に巻き込まれたいと思っている人は多くはないでしょう。
戦争放棄は多くの国民の思いだと思います。
にもかかわらず戦争に向かって進んでいる日本は、自らの思いと「国民」の思いがきちんとつながっていないというべきでしょう。
構成員の個々の思いを合成すると全く違った全体の思いが創出される。
これはよくある話です。
私も会社時代によく経験したことです。
戦争をするのは自衛隊の隊員で、彼らが戦争に巻き込まれないように自分を守ってくれると考えている人もいるかもしれません。
そこでは国民と自分とが切り離されています。
しかし、国民を守る「国民」と「国民」に守られる国民がいるわけではありません。
戦争をする国家では、戦争をする当事者は国民すべてなのです。
そこに大きな勘違いがあるわけですが、そうした幻想を生み出すのが国家なのかもしれません。
また長くなりました。
そのわりには本論には入れていないような気もします。
言いたかったのは、憲法も法律も、それを活かす人だけにしか役に立たないということです。
手段と言うにはそういうものでしょう。
この大切な時期に、憲法をどう活かしていくか、それが大切です。
「活憲」という言葉が広がりだしています。
また改めて書きたいと思いますが、こういう議論は読者には退屈でしょうね。
すみません。

■帰属意識と当事者意識(2006年2月28日)
一昨日のブログに榊原さんがコメントしてくれました。
そこに返事を書こうと思いましたが、気になるコメントでしたので、ここで取り上げさせてもらうことにしました。
榊原さん、ありがとうございました。

私が気になったのは、次のところです。
「僕の大きな悩みの1つが、会社や国家に対する帰属意識の薄さです。いつからかそうなってしまった自分があまり好きではありません。決してそうなりたいわけではないのですが、今ひとつ地に足がつかないような気がしているのです」

帰属意識の問題は、私が取り組んでいる「コモンズの回復」につながっている問題です。
私が会社に入った頃は、経営論の世界でも盛んに帰属意識が話題になりました。
昭和40年頃の話です。私はちょうど人事労務の仕事をしていましたから、とりわけ関心のあるテーマでした。
帰属意識。Belonging。構成員が組織にどれだけ強い帰属意識を持つかは組織の効率性に大きな影響を与えますから、帰属意識を高めるさまざまな制度が議論されました。愛社精神や愛国心が経営者や統治者の大きな関心事だったわけです。
また閉じ、並行してマズローの欲求5段階説が流行しましたが、そこでも帰属欲求が議論されていました。
組織と個人、双方にとって「帰属」は大きな意味を持っていたような気がします。
1980年代になると、組織のアイデンティティが話題になりだしました。そして1990年代には国家のアイデンティティも議論されだしました。
個人を考えるアイデンティティという言葉が組織にも転用されだしたわけです。
私は、このアイデンティティという言葉が契機になって、人生を変えてしまったわけですが、この言葉も今から振り返ると微妙に変化しています。
当初のアイデンティティ議論は、CI(コーポレート・アイデンティティ)という言葉に象徴されるように、組織のアイデンティティでした。しかし、次第にCIはメンバー一人ひとりのパーソナル・アイデンティティによって決まってくることが見えてきました。そして企業文化変革が話題になりだしたのです。
そして、identification という言葉が出てきたのです。
組織とアイデンティファイする、つまり一体感を強めるというような意味です。
このあたりは実に深い個人的思いがあるので冗長になってしまいますが、この頃から私は自らの生き方を自覚できるようになったのです。そして会社を辞めてしまったわけです。
Belongingとidentification。
英語は不得手なのですが、かなりニュアンスが違うように思います。
私の勝手な解釈では、前者は組織起点の発想、後者は個人起点の発想です。平たく言えば、組織が主役なのがBelonging、自分が主役なのがidentificationです。メンバーが自立していないのがBelonging、自立しているのがidentificationといってもいいでしょうか。かなり強引な説明ではありますが。

長々と書いてしまいましたが、社会が成熟してきた段階での組織原理はメンバーの自立を前提にしたほうが効果的です。そうすると大切なのは帰属意識ではなく、自らを主役にした一体感、言い換えれば当事者意識をもっての組織との関わりということになります。さらに平たくいえば、この会社は私の会社、この国家は私の国家と思えるかどうかです。
そこがおかしくなっているのです。
とすれば、会社も国家も、そろそろ脱構築しなければいけません。

現在の組織への帰属意識を高めようと思うのは難しいことです。
しかし、自らがアイデンティファイできる組織や国家に変える努力はそれぞれができることです。
組織や国家は、その成員が変えられるのです。主役は組織ではなく、人間なのですから。
帰属意識ではなく、当事者意識を強めることが大切なのではないかと思います。

コスタリカ大学のロベルト・サロマさんは国家をも動かしました。
私たちにできることは、たくさんあるのかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html

榊原さん
悩みはますます深まったかもしれませんね。すみません。

■時間の配分で生き方が変わってきます(2006年3月1日)
生活を基準にして考えると、解決すべき問題は3種類あります。
まず自分の暮らしに直接関わる問題です。家族の問題や家計の問題です。もちろん自らの生命や健康の問題もあります。自分が動かないと解決しない問題です。
次に自分の暮らしの周辺の人たちが抱えている問題。自分とのつながりによって、その問題からの影響度は変わります。全く無視することも可能ですが、その場合は友人を失い、自らの世界を狭める可能性はあります。
そしてもっと大きな範囲の平和や環境問題があります。これはそれを損なうことをしても自らの暮らしに降りかかってくるマイナスは小さいですから、無視してもやっていけるかもしれません。
これらはきっちり分かれているわけではありませんし、状況によっては直接的なつながりも起こりえます。そして、多かれ少なかれ自分の生活に影響を与えます。
しかし、時に平和や環境の問題にマイナスの働きかけをすることが、自分の暮らしに直接的にはプラスになることは少なくありません。それらは必ずしも同じ方向を向いているわけではありませんし、正の相関があるわけでもありません。
そこに大きな問題があります。
これら3つの問題の解決に向けて、私たちはどういう優先順位で、どのくらいの時間を割いているでしょうか。

なにか抽象的な話を書き出しましたが、最近、自分の限られた時間と資源を、これら3つの問題解決にどのように配分すべきかを考えるようになってきました。
私自身の持ち時間の限界が見えてきたからかもしれません。
また「大きな福祉」を目指したコムケア活動に取り組んだおかげで、自分に問題を抱えている人ほど、周辺の人の問題への関心が強いことを知りました。逆の言い方もできるかもしれません。
実は最近、「悠々自適」な生き方ということに疑問を持ち出しています。
単なる「ヒガミ」かもしれませんが。

問題解決に向けての時間と言う視点で考えるともっとわかりやすいでしょう。
自分の暮らしのための問題解決に向ける時間は「自分のための時間」です。「自分」のなかには家族も入ります。人は一人で生きているわけではありませんから、私は、社会の基本単位である家族をいつも発想の出発点に置くようにしています。
周辺での問題解決に向ける時間は「仲間のための時間」です。周辺や仲間の範囲は人によって全く違うでしょう。
そして最後の平和や環境は、「みんなのための時間」です。もちろん「みんな」には自分も入っています。
どこにどのくらいの時間を割くか、また配分の優先順位はどうかで、生き方が決まってきますし、考え方も変わってきます。その集合で、その社会の文化が決まってきます。
こうした視点から、いまの日本社会を見直してみるとさまざまな問題が見えてきます。
日本は経済大国になったといいますが、国民の多くは「自分のための時間」に多くをとられすぎて、仲間のためやみんなのための時間が割けなくなってきています。
言い方を変えれば、そうした生き方によって、経済発展してきたのです。
そして、今やそれが「自分の暮らし」を壊しだしているのです。

一挙に「みんなの問題」に時間を割くのは難しいかもしれませんが、まずは隣の仲間の問題に割く時間を少しだけ増やしていければと思っています。
元気が無かった仲間の笑顔を見ると、本当に幸せになります。

■トリノオリンピックで納得できなかったこと(2006年3月2日)
オリンピックを見ていて、とても気になったことがあります。
スピードを競う種目で、0.01単位で勝敗が決まることです。
人間が見分けられない時間差で順位を決めようとする発想に違和感があるのです。
0.1秒単位でも私には馬鹿げた話だと思いますが、まあそれは目のいい人であれば見分けられるのかもしれませんので、我慢しますが、0.01秒差は無意味な数字ではないかと思います。人間が競っているわけですから。
競い合わせ、何が何でも勝敗を決めるルールに支配されているオリンピックはどうも好きにはなれません。
人間は機械ではないのですから、もっと競い合いの仕方があるのではないかと思うわけです。
それに機械に依存して0.01秒単位で差をつけるのではなく、人間的感覚で見たら差がつけられない場合は、並んで表彰台に立ってもらえればいい話です。金メダルが複数でもいいでしょう。その分だけ幸せが増えるのですから。
フィギュアスケートも私にはほとんど興味ありません。私には、3回転しようと4回転しようとどうでもいい話で、もっと大切なのはそこからどういうメッセージなり、夢を感じさせるかが大切だと思います。無理をして転んだりしては興醒めです。

オリンピックは何のために始められたのでしょうか。
私は基本的にオリンピックが好きではないのでしょうね。
ドービングなどを引き起こすイベントがいいはずは無い、と私は思っているのです。
お金に汚染されすぎています。
偏屈ですみません。

■喧嘩の始め方と終わり方(2006年3月3日)
私は「非戦論者」ですが、好戦的な一面を内在させています。喧嘩にも効用があると思っているのです。なにやら矛盾していますが。
個人生活においても論争が大好きです。それも時に感情的な論争になりがちです。本性が見えてきますので、時にそういう自分に嫌悪感を持つこともありますが、この習癖は直りません。
委員会や仕事先でも、時に言わずもがなな刺激的な発言をして、場をしらけさせてしまうこともあります。それで仕事を失いこともあります。特に「権力」に対しては、どうしても感情的な反感を持ちやすいタイプです。困ったものです。
私自身は、論争は論争、と割り切っているので、そうした感情も論争が終わると全く消えるのですが、よそからみると喧嘩に見えることもあるようです。
つい数日前もある委員会で破壊的な問題発言をし、それがきっかけで市長と大論争になってしまいました。
しかし、破壊は時に創造や革新につながります。
もう時効だと思いますが、昔、東レでCIプロジェクトに取り組んでいる時に、普通では会えない会長に直接会いたくて、問題発言をぶつけたことがあります。予想通り、会長室に呼び出されましたが、おかげで会長にプロジェクトの意味を直接話すことができ、共感者になってもらえました。残念ながら、その会長はその直後、病気で入院され、間もなく死去されました。そのため、私との約束は果たされませんでした。もし会長が健在で、私との2人だけの約束が実現したら、私はたぶん東レを辞めなかったでしょう。初めて口にすることですが。
私が「喧嘩」の仕方に関心を持ったのは、映画「アラモ」です。
アラモの砦に集まった義勇軍たちに、圧倒的に戦力の違うサンタアナ軍は降伏を申し入れます。砦にいるアラモの義勇兵たちに向かって、降伏呼びかけ状を読み上げている将軍の使者の前で、それを静かに聞いていた義勇軍のリーダーのトラヴィス大佐は、おもむろに吸っていた葉巻の火を大砲に着火、空に向かって発砲させます。突然の発砲に死者はほうほうの体で帰っていきます。見事な宣戦布告です。結果的にはもちろん全員が死んでしまうのですが。
私の大好きな場面で、そこだけを見に学生の頃は映画館に通いました。今もDVDで時々見ます。
堀江メール事件ですが、民主党は喧嘩の始め方を知っていたと思いますが、喧嘩の仕方は知らなかったようです。そしてもっと悪いことに、喧嘩の活かし方や収め方もしらなかったようです。武部幹事長は喧嘩の買い方と収め方を知っていました。私は自分でも驚くのですが、好感さえも抱きました。
喧嘩を活かせないのであれば、喧嘩はすべきではありません。
創造できないのであれば、破壊はすべきではありません。
堀江メール事件で、そんなことを考えました。

■メールの暴力(2006年3月8日)
知るのが遅かったのですが、経済産業省の消費経済部長が、「わかりやすい言葉で政策を伝えたい」と、役職と氏名を明示して開設したインターネットのブログが、3週間ほどで閉鎖に追い込まれたそうです。
「谷みどりの消費者情報」というブログです。
朝日新聞によれば、「谷さんはブログで、悪質な内職商法の問題など消費者関連の政策を紹介、経産省のホームページ(HP)への誘導を狙った。当初は好意的な書き込みが多く、読者との関係は良好だった」そうです。
しかし、いま話題の電気用品安全法に触れたところ、書き込みが殺到したのだそうです。それも悪意をこめたものです。
「その上、ブログの更新が執務中だったことが問題視され、部長は大臣官房から注意を受けた」とも報道されています。

私は電気用品安全法には異論もありますし、ネットで探して読んだいくつかの記事からは谷さんの考え方にはかなりの違和感があります。
しかし、考えが違うことはよく起こることです。
だから社会は豊かになりえるのです。

私が残念に思うのは、せっかく「役職と氏名を明示して開設した」ブログが、壊されていくことです。
実名でブログを開設することを、私は何よりも評価したいと思います。
勇気のいることです。きっと谷さんは書き込んだ後、どのような反応があるだろうかと毎回、胃を痛めていたことでしょう。
私は匿名の発言にはほとんど興味を持ちません。その人の生活の基盤がわかればこそ、メッセージは真実味を持ち、発言に責任をもつ姿勢があるからこそ、その真実性が伝わってくるからです。
実名で書いていた谷さんに拍手を送りたいです。それが崩されたのはとても残念です。
もうひとつ残念に思うのは、「わかりやすい言葉で政策を伝えたい」という行政の試みが失敗したことです。
わかりやすい言葉であるということは、だれでもが反論できる生きた生活用語だということです。実体のない多義的な(無意味なということです)政治用語ではないのです。だからこそ、おそらく暴力的な反論が寄せられたのでしょうが、谷さんの挑戦は行政としても真剣に考えてほしいものです。
行政はコミュニケーション活動や情報発信活動に莫大のお金を使っていますが、もしかしたら本当は真実を伝えないために、あるいは議論を起こさないために、あえて「伝わらないようにしている」と思えるほど、わかりにくい言葉を使っています。
そういう状況を苦々しく思っている私は、谷さんのブログの挑戦から学ぶことはたくさんあるだろうと思うのです。
この事件はとても大きな意味を持っている事件だと思います。
こうして社会は劣化していくのでしょうか。

それにしても、日本人は議論も下手だし、自分たちのメディアを育てていくことも下手ですね。
もちろん私もそうです。
私は議論が大好きなのですが、議論の仕方は極めて未熟なのです。
このブログを読まれている方はすでにお気づきだと思いますが。

ビッグイッシューに触らないようにしながら、もう少しこのブログを生きながらえさせたいと思っています。

■頭でわかっていてもなかなか自分ではできないものです(2006年3月13日)
喧嘩の始め方と収め方について、数日前に書き込みましたが、私自身は最近、無様な始め方と収め方をする体験をしてしまいました。恥ずかしい限りです。
頭でわかっていても、なかなかうまくいかないものです。
私の最大の欠陥は「感情的」になると自分を抑えられなくなるのです。それに自分の感情を隠す事が全くできない人間です。
抑えられないのは「短時間」で、すぐに回復できるのですが、家族からは「切れてしまう」とよく指摘されています。
きっと何かが欠落しているのでしょう。
「社会人」として、あるいは一人前の大人としては、失格なのかもしれません。
しかし、そう思いながらも、開き直りたくなる気分はあるのです。
おかしなことをおかしいと思いながらも見過ごしていたり、陰では批判しながらその時には何も言わなかったり、オブラートに包んだような「ソフィストケート」された良識的な表現をしたり、そういう大人が多すぎるのが、今のようなおかしな社会をつくっているような気がするのです。感情はもっと素直に出してもいいのではないか。
裸の王様の話のように、子どもの純粋な言動を「社会化」することが社会人になることではないように思うのです。

今回の「喧嘩」(正確には論争ですが)の相手は私の住んでいる我孫子市の市長です。
いろいろと「前史」があるのですが、それを一切省略すれば、それまでの経緯に「切れてしまった私」が「暴言」を吐いたのです。
そして市長から「佐藤さんの発言は普通の住民の発言ではない」といわれました。録音をとっていないので不正確かもしれません。
しかし、この発言に私は恐ろしさを感じました。
「普通の住民」とは何なのでしょうか。
もの言わぬ、ものわかりのいい住民が「普通の住民」なのでしょうか。
そうでないことを願いたいです。
私はよほど社会に適合していないのかもしれません。
まあもしかしたらそうかなという自覚もないわけではありません。
困ったものです。

岩国では住民が声を上げましたが、お上は聴く耳を持たないようです。
どこか似ているような体験だなとつい思ってしまいました。
我孫子市の住民自治はまだまだ遠い先なのかもしれません。

■住民投票に耳を傾けない政府とは何なのでしょうか(2006年3月14日)
米軍機移駐問題で岩国市の住民投票が行われました。
さまざまな利害の錯綜と中央政府からの圧力などで、住民投票ボイコットの活動も展開されましたが、投票率は58%を超え、住民投票は成立しました。反対者が87%を占めました。
この住民の意思に対して、政府はむしろ「遺憾」の意を表しながら、計画変更はしない旨を発表しています。
政府には民意を聴く姿勢は無いのです。
せめて話し合いをすべきですが、計画を変更しない前提での話し合いは話し合いとはいえません。
この件では違和感を持つことがとても多いのですが、そのいくつかを書いてみます。
まず、政府が最初から言っている「国の安全保障に関する問題は住民投票に馴染まない」ということです。
読売新聞の記事によれば、拓殖大学の森本敏教授は、「市町村のゴミ処理をどうするかは、その自治体で決めるべきだが、国の安全保障問題は、1自治体の住民投票にはなじまない」といっています。
私には納得できない発想です。
いずれも「国家の安全保障」しか考えておらず、国民の生活の視点がありません。
発想の起点で、手段と目的を履き違えています。
会社を守るために誰かをリストラさせるという発想と同じです。
結局は自分さえ良ければいいのです。典型的なコラテラル・ダメッジ発想です。
それに加担する学者は御用学者としか言いようがありません。
森本教授がもし岩国に住んでいても、そういったでしょうか。
他人事で発言する人の言葉にはいつも反発を感じます。

自民党の山崎拓議員は、市町村合併のため、住民投票の効力が1週間しかないことを指摘して、「種々の疑問がある」と言っています。
その市町村合併という、私には日本の自治体を台無しにした悪政を推進してきた片山議員は「一種の地域エゴだ」と語ったそうです。
要するに、自分たちの考えに反対する意見は住民エゴと片付け、効力が無いから住民意思を明確にすることは無意味と言うのです。
つまり、無知な住民は黙って従えといっているわけです。
国民から選ばれた代議士でしかない「分際」で、何を馬鹿なことを言っているのかと驚きますが、権力者になった勘違いから、はなから国民の意見を真剣に聴いて、行動する姿勢が無いのでしょうか。そうした発言に、今の国会議員や政府の本質が見えてきます。

信じられないことですが、岩国の住民からも、「移駐計画は国の専管事項で、住民投票条例にはそぐわない」という声が上がっているそうです(読売新聞社説)。国からの赤紙1枚で戦線に行けといわれても、それは国の専管事項だからと戦場に赴くのでしょうか。国民主権ということをどう理解しているのでしょうか。

書いているうちに、ますます気分が暗くなってきたので、もうやめます。
しかし、毎日のように、こうした報道に触れていると健康によくありません。
テレビのナンセンスなトーク番組だけをみていたほうが楽しい人生になるのかもしれません。パンとサーカスの政策はますます深化しているようです。

■弁護士の犯罪(2006年3月15日)
私は弁護士に大きな不信感を持っています。
リーガルマインドが欠落しているからです。
それに関してはこれまでも何回か書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/02/post_6238.html

この1週間、3人の弁護士に会いました。
民事と商事と、それぞれ全く別々にお会いしました。
その3人の弁護士とお話していて、弁護士への信頼が高まりました。
もしかしたら、私の弁護士感は間違っているのではないかと思い出したのです。
その矢先に起こったのが、昨日の光市母子殺害事件の最高裁弁論への被告弁護士の出廷拒否です。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060314i113.htm

遺族の本村さんは「これほどの屈辱受けたのは初めて」と話しています。彼の心中を思うと心痛みます。
「暴発」しやすい私であれば、何をしてしまうかわからないほどの屈辱感です。
死刑廃止運動に取り組む安田弁護士が今月になって弁護士を引き受けたのですが、この無責任さは普通の社会では許される話ではないでしょう。特権階級と自認している弁護士にしてできることです。

法律には違反しないかもしれませんが、わたしにはこれは「犯罪」だとしか思えません。犯罪は明文化された法律だけではなく、法の精神に基づいて考えられるべきです。

以前も書きましたが、弁護士のミッションは何でしょうか。
容疑者もしくは被告の、不当な人権侵害を守ることです。
決して容疑者もしくは被告を守ることではありません。
ましてや自分の思いのための、たとえば死刑制度廃止運動などの手段のために利用すべきことではありません。
安田弁護士は、リーガルマインドなど微塵も持っていないと私には思えますが、国によって身分保障されている弁護士がこういう行動をとることは、犯罪としか思えません。
できることなら、本村さんに安田弁護士を訴えてほしいものですが、法制度的にはそれはできないでしょうし、第一、本村さんのような誠実で真摯な人はそんなことはしないでしょう。
しかし、とてもやりきれない事件です。
法曹界にも「政治」や「経済」が入り込んでいることを強く感じます。

せっかく弁護士への信頼感を高めつつあったのに、また一挙に崩れてしまいました。
日本の法曹界をだめにしているのは、裁判官だけではなさそうです。
その裁判官も、取材源秘匿問題で、これまた権力に迎合したような判決を昨日出していますが。
http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY200603140536.html

ちなみに、私が尊敬する弁護士も決して少なくはありません。
CWSコモンズにも何人かを書いていますが、たとえば中山武敏さんの活動や大川真郎さんたちの活動には感激します。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#6142
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0129

■松下電器の対応は誠実なのか非常識なのか(2006年3月21日)
今朝の新聞に「引き続き、松下電器からお客様へのお願いです」というチラシが入っていました。
トラブルを起こしたFF式石油暖房機の回収活動がまだ続いています。以前、自宅に葉書も届きましたが、ここまで来ると疑問を感じます。
松下電器には常識が無いのかと思えてなりません。
常識の無い会社は、必ずといっていいほど、また問題を起こすでしょう。
組織としての意思決定システムに欠陥があるからです。
松下が回収活動にかけた費用は莫大なものでしょうが、それは必ず商品売価に反映します。それだけではなく、社会的にも大きなコストを発生させていると私には思えます。それだけのコストをかけるのであれば、もっとやりようがあったのではないかとさえ思えてなりません。
それに全部を回収するのは無理があります。FF石油暖房機の製品寿命がどのくらいかわかりませんが、すでに廃棄処分した家も少なくないでしょう。
松下電器は問題の設定を間違えているような気がします。万一、事故が再発しても、これだけ努力しているのだから使っていた人が悪いと言う状況をつくっているのではないかという疑念さえ、私は持ってしまいます。
私の受け止め方がゆがんでいるのかもしれません。経済性を度外視した松下の誠実な対応を評価すべきかもしれません。しかし、ここまで繰り返しやられると松下電器への批判の声も上がるような気がします。現に私の周りではいくつか聞こえてきます。もちろん私も松下には批判的です。資源の無駄使いをする会社だと思ってしまうほどです。
誠実さと過剰対応はどこで違いが出るのでしょうか。
対応の意図かもしれません。
そしてその意図を実現するための手段の的確さかもしれません。
さらには全体像を明確にした上での行動のグランドデザインも重要な要素かもしれません。
それらがあいまいだと過剰反応をしてしまいます。
危機管理は問題解決型で発想しがちですが、危機管理は実は状況進化型で考えるべきだと思っていますが、そう考えると今回の事件も全く違ったプログラムが構想されたはずです。
しかし、そうはなりませんでした。
それは松下だけの姿勢ではありません。
責任逃れのための過剰反応は、昨今の日本社会の大きな流れです。
個人情報保護の問題に、それが極端に現れています。
「社会の喪失」が進行しているような気がします。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/10/post_6452.html

■元気をもらえた2週間(2006年4月5日)
この2週間、ばたばたしていて、ブログを休んでしまいました。
その間、CWSコモンズに活動報告を書くだけで精一杯でしたが、少し余裕ができましたので、ブログも少しずつ再開します。
この2週間、住民活動・市民活動をしているたくさんの人に出会いました。マスコミに接していると未来への希望を失いそうになりますが、現場での活動を垣間見るだけでも元気は戻ってきます。各地で、本当に多彩な活動が、地道に取り組まれているのです。テレビや新聞からでは、それがなかなか見えてきません。
現場で活躍している人と話していると、キラキラするような言葉にたくさん出会います。たとえば、2日に大阪で福祉活動に取り組んでいる若者たちの柔らかなネットワーク活動をしている清田さんに会いました。彼から出てくる言葉のパワーに圧倒されました。言葉の輝き具合で、その人の生き方が見えてきます。
2つの会社の経営者とも接点を持たせてもらいました。いずれもとてもいい会社です。いい会社にはいい経営者がいます。いや、きちんとした経営者が本当の「経営」をしている会社は、決しておかしくはならないのかもしれません。
昨今の大企業は、ほぼ例外なく、品格のない経済競争に陥っていますが、しっかりした企業文化を堅持しながら、業績もまた堅持している会社があることを知って、とてもうれしい思いでした。こうした会社がしっかりと社会を支えていることもまた、テレビや新聞だけではなかなか確信がもてません。
いずれもマスコミに出てくる企業経営者とは全く違った人たちであり、会社です。そうした経営者にお会いすると元気になれます。
そうした輝いている人に、この2週間、たくさんで出会えました。
そんなわけで、時間破産ではありましたが、とても元気になれる2週間でした。
幸いなことに、時間破産のおかげでテレビを見る時間が少なかったのもよかったのかもしれません。
むかし、「元気が出るテレビ」というのがありましたが、最近のテレビは元気を削ぐことが多いです。テレビの製作現場が、きっと荒れているのでしょう。
元気がもらえた勢いで、また明日からブログを書かせてもらいます。

■世評で動く社会(2006年4月6日)
一昨日、環境や技術の関係の調査分析の仕事をされている方から聞いた話です。
アスベスト問題がマスコミを賑わせていた頃、その人は死にそうなほど忙しいでした。全国から分析や調査の仕事が舞い込み、社員は寝る暇も無いほど、てんてこ舞いだったようです。分析のための機材を新たに購入した同業者もいたようです。
その時期は、私たちの会にもいつも遅れて、っしかも疲労困憊の様子で参加されていました。
ところがです。
世間の話題が耐震偽装問題に行った途端に、アスベスト関係の仕事は潮が引くようになくなってきたというのです。わざわざ高価な機材を入れて、体制をつくった会社は大変でしょうね。
まさに、世評で動く社会の現実です。
結局、何も変わらないのかも知れません。
耐震偽装にしても、また次の問題が出れば、うやむやになってしまいかねません。
問題解決はうやむやになりますが、言葉は残ります。
たとえばダイオキシン。ごみ焼却場周辺や土壌汚染関係の世界では、いまだにダイオキシンの恐ろしさは残っています。最近のごみ焼却施設のダイオキシン対策は進んでいますから、大した問題ではないように思いますが(ゴミ問題にとってはもっと大きな問題がたくさんあります)、マスコミのあおった恐ろしいイメージは、簡単な図式としてみんなの頭には残っているのです。
不安を残しながら、その不安を新たに創出していくのが最近の日本社会かもしれません。
不安を高めることは、実は産業発展の原動力なのです。その最たるもののひとつが戦争ですが、不安は市場を生み出します。あるいは消費を促進します。そして、個々人の生活は管理されていくことになるわけです。
そうならないように、私たちは自らの判断力をもっと高めなければいけません。でもどうやったら、判断力が高まるのか、難しい問題です。
なにしろ考えなければいけない問題が多すぎます。
いい案はないでしょうか。

■繰り返し「軍縮問題資料」のお薦め(2006年4月7日)
「今月の軍縮問題資料」の特集は「憲法と私」です。
憲法学者でもこの分野でのオピニオンリーダーでもない4人の人がとてもいい寄稿をされています。それぞれに説得力のあるメッセージです。
護憲にしろ改憲にしろ、憲法をきちんと読んで議論すべきだと思いますが、改憲論者はもとより、私の周りの護憲論者でさえ、本当に憲法をきちんと読んでいるのか、あるいは真摯に読もうとしているのか、の疑問を感ずることは少なくありません。以前、平和に関するメーリングリストに、武田さんの「赤ペンを持って憲法を読もう」という本の紹介をしたら、それだけで、憲法にけちをつけるのかと数名の方から叱られました。とても信頼していたメーリングリストでしたので、がっかりしました。護憲のための護憲論者は改憲論者と同じ穴の狢だと私は思うようになりました。
憲法を議論するのであれば、しっかりと読まなければいけません。
そうしたことが今月号の特集で改めて実感させられました。
巻頭の品川信良さん(セミナー「医療と社会」代表)は、各国の憲法をきちんと読まれている経験からも、前文と第1条をきちんと読めば、その国がわかると書いています。とても共感できます。日本憲法の第1条は何だかご存知でしょうか。
特集ではありませんが、先の横浜事件再審判決に関する内田雅敏さんの文章も皆さんに読んでもらいたい記事です。私の法曹界不信感を少しは理解してもらえるかもしれません。
この本は年間購読料1万円です。とてもコンパクトで内容のある雑誌です。何回も書いてきましたが、ぜひ皆さんにも購読してほしいと思います。次のサイトにメールすれば申し込めるはずです。
http://www.heiwa.net/
歴史を変えていくためにも、ぜひ皆さんの購読をお願いします。

■医療制度と病院問題に関心のある方はご連絡いただけませんか(2006年4月8日)
世界保健機関(WHO)が7日に公表した2006年版の世界保健報告にこんな報告があるようです(読売新聞)。

日本は平均寿命で82歳の世界最長寿国の座を堅持しながら、1000人当たりの医師数は1.98人と、192か国中、63位の中位水準にとどまった。
1位サンマリノの47・35人には遠く及ばず、OECD加盟国の中では最低クラス。同様に看護師は27位、歯科医師は同28位と、世界のトップ水準には達していない。

医療制度改革がいろいろな問題を提起していますが、こうした実態は必ずしも私たちはしっかり認識していません。医療費の財政破綻はよく取り上げられますが、実態の理解にはマスコミはほとんど関心を払いませんし、実態を良く知っているはずの医療関係者も自ら動く人は少ないです。

医療制度問題に熱心に取り組んでいる医師の方から、こんなメールを昨日もらいました。

一概に言うとお叱りを受けるかも知れませんが、社会活動(ボランティアも含めて)等に多くの日本人はあまり積極的ではないような気がします。これは私が医療制度の活動をしていても同様で、忙しくて困っているはずの医療関係者でさえ、あまり私の活動に興味を持ってくれる人はいません。
一応日本は民主主義社会なのですから、自分がそれなりの動きをしないと何も変わらず、一部の人の都合がいいようになってしまうのが落ちなのですが。
ここにもおおいに悩んでおります。

医療制度は私たちみんなの「暮らし」に関わる問題です。
医師だけに任せていては限界があるでしょう。
そんなわけで、5月に医療制度や病院問題を考える公開フォーラムを開催したいと思っています。
協力してくださる方を募集しています。
関心のある方は私にメールをくれませんか。
またフォーラムの案内は近々、CWSコモンズでご案内しますので、ぜひご参加ください。
医療制度の改革も介護制度の改革も、いい方向に向かっているとはとても思えないのが残念です。

■告発のコストとプレゼント(2006年4月26日)
耐震偽装事件の関係者が逮捕されだしました。
これほどの事件が、相変わらず「逮捕」予告に従って、しかも別件逮捕されるなどという現実に大きな違和感があります。私には茶番としか思えません。昨今の日本の防犯体制は崩壊しているのではないかと思いたくなるほどです。
要は、この分野にも責任逃れがはびこっているのでしょうか。
それは建築設計検査における責任放棄や責任逃れとつながっています。ですから、結局は、同じ穴の狢たちが犯罪を行い、犯罪を隠し、犯罪を裁いていると思えてなりません。権力は犯罪の巣窟ですから、それは当然のことかもしれませんが。
いずれにしろ、私には逮捕するほうも逮捕されるほうも、最近は同じに見えてしまいます。悪い言葉をつけば、みんな「雑魚」に見えてきます。巨悪は、その後ろで笑っているのでしょう。
まあ、しかし、そんなことを書いていると厭世気分がますます高まって、ブログをやめたくなりますし、人生もやめたくなりますので、話を換えましょう。
私が今回、考えさせられたのはイーホームズの藤田社長の逮捕とその会社の廃業決定です。
今回の偽装事件の発端は藤田さんの告発でした。雪印偽装牛肉を内部告発した西宮冷蔵の水野さんのことをどうしても思い出してしまいます。
昨夜のテレビでは、藤田さん逮捕への報道姿勢は局によってかなり違いました。
それもまた考えさせられました。
逮捕するほうもひどいですが、それを扱う報道機関もひどいものです。そしてその報道を見ている私たちもひどいのでしょう。寄って集って弱いものを蹴落とそうとしているのは、公園のホームレスを襲う高校生の姿そのものです。自らもまた、その仲間かと思うと嘔吐したい気分です。今日は仕事をする元気もなく、途中で帰宅してしまいました。こういう時に誰かに会うと、八つ当たりしかねません。はい。
それにしても告発者は冷たい目しか受けないようです。
犯罪を目撃しても、告発する人はこれからますます少なくなるでしょう。
内部告発に対する保護法ができていますが、これは保護法などとは言える代物ではなく、告発防止法のように思いますが、告発される可能性のある権力者たちがつくった法律ですから、それは当然のことです。
官のつくる法律は、あくまでも統治のためのものです。勘違いしてはいけません。

それにしても、告発のコストは高いものです。
経済的にも社会的にも、ほとんどすべてのものを失うことがほとんどかもしれません。

というのが、たぶん一般の人の発想でしょう。
昨夜、テレビで、筑紫哲也さんが藤田社長にインタビューしていましたが、筑紫さんの発想はまさにその典型でした。筑紫さんの思いが伝わってくるだけに、とても残念で、退屈なインタビューでした。

しかし、発想を変えれば、世界は変わってきます。
告発して多くのものを失った後に残るものは何なのでしょうか。
そこにこそ生きる意味と価値があるはずです。
藤田さんが、それをしっかりと手に入れることを祈っています。

少し性格は違いますが、私は47歳で会社を辞めました。
失ったものと得たものとのバランスは大きく黒字です。
人は何かを失うと、必ず何かを得るものです。
失ったものを基準に考えるのではなく、得たものを基準に考えると、世界はいつも輝いて見えてきます。
発想を変えましょう。

モバイルが壊れたために、ブログを書く時間がなくなり、それを契機にブログを休んでいましたが、藤田さんの発言に元気付けられて再開します。

■倫理観での格差社会(2006年4月27日)
最近、さまざまな人が相談にやってきます。
日本の経済は上向きだといいますが、どうも実感できません。
問題を抱えている人が多すぎますし、新たに抱えだす人も決して少なくなっていないような気がします。
企業が最高の利益を上げている一方で、その企業を支えてきた人たちが粗末に扱われているのではないかという気がしてなりません。
小規模の会社や個人企業も相変わらず大変です。
私の周りでも、できることなら会社を投げ出したいという経営者は少なくありません。
しかし、巨額な利益を得ている人たちの存在もあるようです。
いま取り組んでいる仕事の関係でそう感じるのですが(果たしてそれが真実かどうかはわかりません)、巨額な国家財政の無駄金が一般社会にも流れ出しているような気もします。年金関係の施設の処理方法を見れば、それは間違いない事実でしょう。
郵政民営化でも大きなお金が民間の個人に入ることでしょう。しかし、不思議なほど、どこにも緊張感がないばかりか、国民はそれを支援しています。
巨額な金額が動く場合、必ずといっていいほど、そこには「公金」や「企業の金」があります。個人の金ではありません。いつかブログに書きましたが、組織は責任感をあいまいにする仕組みですので、組織に依存している人の金銭感覚は個人としての金銭感覚とは全く違います。
格差社会といいますが、倫理観においての格差も開いてきているのが、とても不安です。
壊れつつある社会と生まれつつある社会との、双方を生きることができる現代は、生きるものにとっては、実に刺激的な面白い時代かもしれません。
問題は、どちらに軸足を置くか、です。

■組織起点の常識と個人起点の常識(2006年5月1日)
大型連休です。
会社を辞めて以来、ゴールデンウィークは私にとってはほとんど意味のないものになりました。会社時代は仕事から解放される週間でしたが、いまはむしろ仕事をする週間になっています。
組織に属して仕事をするか、自分で仕事をするかで、全く違った意味を持ってくることを実感したのが、この大型連休の意味の変化でした。
会社時代もスタッフワークが中心でしたので、家に仕事を持ち込むことは多かったのですが、そして連休もいつも仕事を持ち込んでいましたが、気分的には解放されている気分でした。
しかし、会社を辞めてしまうと、いつも解放されているわけですから、連休は全く意味のないものになりました。
言葉ではなかなか伝えられないのですが、大きな変化でした。
連休に限らず、時間の意味も変わりました。
一言でいえば、時間価値が飛躍的に高まったのです。会社時代には勤務時間中の「時間」を無駄に浪費していたことを反省させられました。
時間だけではありません。私財もお金も無駄使いが多かった気がします。
事務用品ひとつとっても、今ではコスト意識が全く違っています。

現在の多くの制度や仕組み、あるいは常識は、組織起点で発想する時代の枠組みで構築されています。そこから離れて生きだすと、風景は全く変わってくるのです。
団塊の世代が組織を辞めだしますが、彼らがどう感ずるかとても興味があります。

「コモンズの悲劇」という話がありますが、それは組織起点で発想した場合の話です。個人起点で考えると「コモンズの幸せ」という話になるはずです。
組織でいえば、それを可能にする一つの方策がオープンブック・マネジメントです。
まちづくりでいえば、共創型まちづくりです。

今年は仕事三昧の連休を予定していました。
NPO関係の報告書づくりがあるからです。
しかし、天気に恵まれそうな連休に自宅でパソコンに向かい続けることはとても難しいです。前半、飲まず食わずで報告書を仕上げて、後半は出かけることにしました。

となると、会社時代とあんまり変わっていないですね。
どこが違うのか、もう少し考えたいと思います。はい。

■「民」の本質(2006年5月29日)
国民年金保険料の不正免除・猶予手続きが問題になっています。
矢面に立たされているのが社会保険庁の村瀬長官。民である損保ジャパンからスカウトされた「期待の星」だった人です。
ちなみに、社会保険庁の最高顧問は、民の浜田広さんとNPOの世界にも関わっている堀田力さん。いずれも、社会的な評価の高い人です。まあ、最高顧問という名前からして、組織の隠れ蓑に使われる「走狗」でしかないわけですが。堀田さんにしても、それに勝てなかったということでしょうか。
やはり現場の体験のない人は、結局は組織を壊せないのかもしれません。

今回の事件で明らかになったのが、「民」の本質だと思いますが。いかがでしょうか。
まだ「民営化」信仰を捨てられないでしょうか。

損保ジャパンは、NPO支援でもとてもいいプログラムを展開している会社です。
ここにも「民」の本質があります。
だいたい、「社会貢献」などと自ら語っているような会社は信頼できません。本業で社会貢献していないことを明言しているわけですから。
「奉仕」とか「貢献」とか言う言葉は、自らが言うべき言葉ではありません。その見識もない経営者がいかに多いことでしょうか。
しかしそれが、日本の現在の「民」、つまり企業の実態なのです。
本当の民は「民営化」の「民」とは違うのです。
損保ジャパンの文化と経営観が、今回の事件をもたらしたと言い切って良いかどうかは迷いますが、加速させたことは間違いないでしょう。
日本の行政がこの10年、一生懸命に取り組んできた「経営発想」とはこの程度のことでしかありません。

しばらくブログを書く気にならなかったのですが、やはり書くことにしました。
書いているとだんだん腹立たしくなって、精神的に良くないのですが、書かない自己欺瞞感も高まってきましたので、ブログを再開します。
村瀬長官のような「犯罪者」を放置しておいては、社会はますます劣化するでしょうから。
まあ、多くの人は彼を犯罪者とは思わないでしょうね。そこが問題なのですが。

■事の良し悪しの発端(2006年5月30日)
「板橋高校卒業式事件」の東京地裁判決で、卒業式に来賓で参加した元教師が国歌斉唱時の不起立を呼びかけたことに対して罰金刑の判決がでました。その判決に、ある人は「日本は法治国家ではない」といい、ある人は「法治国家として当然」とコメントしています。
法治国家とはいったい何なのでしょうか。
憲法を軽視した結果、憲法と現実が違うのは良くないから憲法を変えようという発想が、もしかしたら日本の法治主義なのかもしれませんが、法を持ち出すこともなく、おかしなことはおかしいのです。法は最後の拠り所でしかありません。
最近、企業ではコンプライアンス、つまり遵法精神が語られていますが、遵法などという当然のことを語らなければならないほど、企業はおかしくなっているのかもしれません。
法治国家とか、遵法精神とかが語られなければならない社会は壊れだした社会です。

さて、板橋高校卒業式事件ですが、卒業式を混乱させたというのが罪状です。
そこだけを見れば、確かにそうでしょう。
しかし、なぜそうなったかを考えれば、原因は別のところにあります。
そもそも信条の自由を踏みにじって、国歌斉唱を強要することがなければ、こんな事態は起こりません。
国歌なんだから、起立して斉唱するのが当然だという人はぜひ次の記事を読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

9.11事件はどうみても許せない事件です。その原因を起こしたのは誰でしょうか。
報復という言葉が双方から出されますが、どこから考えるかで意見は全く違ってきます。

事の善し悪しは、起点によって変わってしまいます。
しかし、起点がどこであろうと善し悪しが明確なこともあります。
そこから考えていくことが、壊れかけて社会には必要なことかもしれません。
大切なのは、法の条文ではなく、法の精神でなければいけません。

■違法性判断の民間委託(2006年5月31日)
明日から違法駐車の取り締まり業務が民間に委託されます。「違法行為の処罰」が「民営化」されるわけです。
たとえば、大阪府警によれば、これによって大阪府内の駐車違反の摘発件数は3倍になるだろうといわれています。ちなみに、これは大阪府警は仕事をきちんとしていなかったことを公言しているわけですが、恥も外聞も気にしない、警察らしい発表です。
朝日新聞によれば、委託された民間法人は元警察官の職場であるところが多いようですので、これも「産業のジレンマ」のひとつの事例です。仕事をしなければしないほど、仕事は増えるのです。そこに近代産業の本質があります。

ところで、今回のテーマは、昨日に続けて「違法性」です。
近代国家は、暴力を独占することに存続の基盤があります。国家のみが暴力を行使できるようにしたのです。そして、暴力を正当化するための基準が法律です。したがって「違法性」を判断することも国家が独占しています。
いかに「違法」と思われる行為をしていても、国家ではない私人としては、それを処罰できません。この仕組みは実に巧妙で、話し出せばきりがないほど面白い問題です。最悪の政府がなぜ圧倒的な国民の支持を得ることができるかの秘密もここにあるように思います。
今回の改正道路交通法による駐車違反取締りの民間委託は、違法性の判断と処罰を民間にゆだねるということです。
どういう事態が起こるでしょうか。末恐ろしいことになると、私は思います。
なぜそう思うかといえば、「違法性の判断」が、「法の精神」ではなく、「経済基準」によって行われるからです。
道路は自動車が流れるパイプではありません。駐車して何が悪いのか。現状はたしかに違法駐車が多いですが、それでも全く自動車が通れないほどにはならないのは、自動車運転手同士の常識が働いているからです。
常識と法律と、どちらを優先させるべきか。
違法駐車の取り締まり方は、私には全くの方向違いだと思えてなりません。「21世紀は真心の時代」ではなく、ますます「管理の時代」に進んでいるようです。
ソーシャル・キャピタルが、またひとつ壊れていきそうです。

■秩序化の基準としての法律と常識(2006年6月1日)
トリッキーなやり方で、共謀罪の法律が成立しそうです。
社会の隅々までが市場化されつつあるように、生活の隅々までが法の対象になりつつあります。これは決して別々の問題ではありません。深くつながっています。財界と政界は同じものです。靖国参拝に関して、政界と財界の意見の違いが報道されていますが、あれは陽動作戦の類でしかないでしょう。政治と経済は同じものです。そこを分けるところから、ある人にとってだけ都合のよい各論的最適化が進むわけです。たとえば、今日から施行された民間による駐車禁止取締は全体の状況を無視した法制化ですから、所詮は弱いものにしわ寄せがいくのです。
国家は法律によって秩序化されていますが、社会は常識に支えられて秩序化されます。
国家にとっては常識よりも法律が優先します。
というよりも、常識を抑えるのが組織(国家)に内在する本質的性向です。しかし、個人にとっては、法律よりも常識が優先すべきです。
法治国家とは常識国家ではないわけです。にもかかわらず、なぜか多くの人は法律に依存したがります。すべてのほうは、実は私法なのですが、それを公法と勘違いするわけです。
英国では成文法よりも慣習法が優先されていた時代があります。私が学生のころは、よくそうきかされました。今はどうなのでしょうか。最近は不勉強で実情を知りませんが、法律よりも常識が優先する社会であってほしいと思います。
もっとも、次の問題は「常識」とは何かです。
書き出していくときりがないですね・
常識に内在するコンフォーミュティを考えると、決してそれがいいとはいえないのですすが、やはり社会の構造原理が問題なのではないかと思います。

■基本を変えずに問題を解決するでしょうか(2006年6月2日)
NHKの首都圏特報で医療制度が取り上げられていました。
ヒポクラテスの会にも関わっている栗橋病院の本田宏医師が、医師を代表して参加していました。本田さんはずっと前から日本の医療制度の問題を現場からしっかりと整理し、メッセージを送り続けている方です。
本田さんの話を統合医療研究会でお聞きし、とても共感し、以来、お付き合いが始まりました。私のホームページには、時々登場してくれていますが、5月のヒポクラテスの会のフォーラムでもとてもいいメッセージを出してくれました。

今回のテレビでも、本田さんは日本の医師数の絶対数不足を問題提起していました。しっかりしたデータに基づいてのメッセージなのですが、残念ながらその問題提起が番組では議論されることがありませんでした。残念でなりません。
本田さんは現在の日本の医療制度の問題の基本は医師数の不足と医療への財政支出の低さだと考えています。本田さんご自身がさまざまな統計を調べて客観的なデータでそれを論証しています。ご関心のある方は、ぜひ本田さんのホームページを見てください。
私も同感です。
その基本を変えなければ、問題は解決しません。
そうした問題はたくさんあります。
昨日から問題になっている路上違法駐車の問題もそのひとつです。駐車が組み込まれていない都市構造を変えずに、路上駐車を厳しく取り締まるのはいかにも安直です。
しかし、昨今の日本の問題解決策はそういう対症療法が多いように思います。
目先の解決策は話題にはなるでしょうが、事態は逆に深刻になることが多いことを、私たちは認識すべきではないかと思います。

■違法性の網の広がり(2006年6月3日)
違法性を認識していることは、多くの場合、犯罪の構成要素になっています。
違法性は常識とは違う次元の話ですから、社会の状況によって変わってきます。ですから、違法性の基準を明示していることが法治国家の要件になります。
言い方を換えれば、違法性を問題にするのが法治国家です。国家の前に違法行為があるわけではありません。国家が規定した法律に違反することが違法性の成立要件です。
しかし、法律は多義的に設定される上に、状況の変化により違法性もまた変化しますから、実際には「違法か否か」を判断することは、自明のことではありません。むしろ恣意的なものというべきでしょう。
そこに大きな落とし穴があります。人道に反することは違法性とは別の話です。
違法性の網は、社会の成熟のある段階まではどんどん増えていきます。おそらく今では違法性の網にひっかかることなく生きることは不可能に近いでしょう。
そして、その状況の中で経済主義が優勢になると、「訴訟国家」へと社会は変質します。管理社会といってもいいでしょうか。昨今のアメリカがそうかもしれません。そして、日本もまたそのすぐ手前にあります。
私が法曹界への不信感を強めているのは、経済主義に抗する姿勢が弱いからです。
医療も福祉も教育も芸術もスポーツも、同じ方向に向かっていますから、法曹界だけが悪いのではありません。私は、すべてに不信感を強めています。ですから胃カメラを飲まなければいけなくなってしまったわけです。
もっとも、こうした方向に社会が動いているのは、私たちの生き方の結果ですから、私もまた、それに加担しているわけです。

村上ファンドがインサイダー取引で失速しそうですが、その気になれば、だれもが違法行為の嫌疑をかけられる時代です。恐怖政治の時代がじわじわと広がっているのです。そうした流れの中で、共謀罪法案や愛国心論議を考える必要があります。全体を展望すると、その末恐ろしさが見えてくるはずです。
村上ファンドの暴走には不快感を持っていましたし、インサイダー取引疑惑問題には何の意外性もありませんが、しかし何かもっと大きな不安を感じます。目をつむりたくなるような不安です。

違法性の網は、今やほとんど社会にくまなく張り巡らされました。
法律が一つ出来れば、違法性の根拠は一つ増えるのです。
その網から自由であると、皆さんは自信をもっていえるでしょうか。
残念ながら私には自信がありません。
違法性の網を活用して、社会の舵取りをしているのは、一体だれなのでしょうか。
法律は一体誰のためにあるのか、弱者を守るためにあるのでしょうか。
違法性の網の意味を、もっと私たちは真剣に考えなければいけないように思います。
違法性に惑わされることなく、素直に生きていける社会に生まれたかったと思います。
その時代は今から1万年以上前に終わってしまったのかもしれませんが、未来に再現することは可能かもしれません。いや、社会の本当の成熟とはそういうことではないかと、私は思います。私が生きている間には無理でしょうが。

■「悪しき企業の経営」モデル(2006年6月4日)
NPO学会の大会が新潟でありました。
私は学会メンバーではありませんが、コムケアのパートナーである住友生命の井上さんからコムケアの体験を発表するのでセッションに参加するように連絡がありました。
コムケアは井上さんのおかげで実現した仕組みですから、参加しないわけにはいきません。30分のセッションのために2時間かけて新潟まで行きました。
この学会には友人知人がたくさんいます。私の参加したセッションにも数名の知り合いの顔が見えました。私は発表してすぐ退室したので、残念ながらお話はあまりできませんでした。
発表で余計な修飾語をつけてしまいました。それもやや「感情」を込めてです。
事業型NPOが増えていることに言及して、しかし、それらがモデルにしている経営発想は「悪しき企業の経営」をモデルにしているので心配だと発言してしまったのです。質疑応答で思ったとおり質問がありました。「悪しき企業の経営とは何を意味するかお聞きしたい」というのです。余計な言葉は反発を生み、メッセージを拒否されてしまうものです。その経験を私は山のようにしていますが、いまだに治りません。これは一種の病気です。困ったものです。
「悪しき企業の経営」に込めた意味は、金銭経済至上主義の経営です。昨今の企業の経営の多くは、目的と手段が履き違えられています。
最近の村上ファンドやトヨタの経営がその典型です。
また余分な一言がありますね。村上ファンドはともかく、トヨタは入れないほうがいいでしょうね。しかし間もなくトヨタの経営の非人間的な実態は理解されるでしょう。人間を基本にしない経営は手段を目的化した金銭経済至上主義の変形でしかありません。経営の出発点は「愛」ですが、金銭への愛であってはいけません。まあ資本主義とは金銭への愛から始まったのかもしれませんが。
行政でも経営発想が必要だといわれています。
NPOもそうです。
私も同感です。当たり前のことですから。
しかし、昨今の動きには違和感があります。
NPOや行政の経営と企業の経営が違うということではありません。
むしろ私は、いま経営が一番必要なのは企業だと思っています。日本の企業はこの数十年、経営を放棄しているとしか思えないのです。その経営を放棄した企業の行動を「経営」と考えて、NPOや行政が「悪しき風潮」を身につけようとしているのが現状だというのが私の認識です。罪深い経営学者がそれに加担しています。
しかし希望はあります。NPOや町村の中に、しっかりした経営に取り組みだしたところが出てきているからです。そうした経営モデルが、企業を変えていく時代が間もなく来るのではないかと思います。
ベクトルは、企業からNPOではなく、NPOから企業です。それも脆弱なまだ法人にもなっていないようなNPOから。
但し、そのNPOの実態認識において、おそらくNPO学会のメンバーと私とは全く違うでしょうが。
私が間違っていればいいのですが。

■5000円のネクタイと398円のネクタイ(2006年6月5日)
企業の仕事をまた再開した関係で、最近はネクタイをすることが増えました。
同じような柄のネクタイがあります。
1本はデパートで購入した5000円のネクタイ。もう一つは興味本位で立ち寄ったドンキホーテで購入した398円のネクタイ。
ところがこの1年くらい、あまりネクタイをしていなかったためか、どちらがどちらかが分からなくなってしまいました。
専門家が見ればすぐ分かるのかもしれませんが、私にはもはや区別はつきません。
となると、これからはドンキホーテで398円のネクタイを買えばいいことになります。
しかし、価格が安ければいいわけではありません。
ドンキホーテのネクタイとデパートのネクタイとでは、着用している時の気分が違うのかもしれません。そこが経済のおもしろいところかもしれません。
同じネクタイをドンキホーテと専門店で価格を変えて販売したらどうでしょうか。
お互いに売れるかもしれません。
経済とは、極めて人間的な要素に支配されている世界です。

今日、座談会があって、それに参加しましたが、そのいずれかのネクタイをしていきました。どちらか分からなくなったので、今やオールマイティのネクタイです。
状況にあわせて、思い込めるからです。
退屈な話ですみません。
私にはなにか「大発見」のような気がしたのですが、書いてみたら、それがどうしたというような気がしてきました。はい。

ところで、昨日の記事の「金銭への愛」は、どうもピンとこないというご指摘をいただきました。
たしかにそうですね。
実は私も括弧書きで書こうかと思っていたのです。
しかし、そう指摘されて気がついたのですが、なぜピンとこないのでしょうか。
これも面白い問題のような気がしてきました。
もしかしたら、また「大発見」に繋がるかもしれません。
少し考えてから、このブログで書いてみたくなりました。
それにしても、世の中にはどうしてこんなに面白いことが多いのでしょうか。
もう3万年くらい生き続けたいものです。

■儲けることと価値を創ることとは違います(2006年6月6日)
村上ファンド代表の村上世彰さんの記者会見をテレビで見ました。
ある人は「かっこよすぎる」とコメントしていましたが、私にはぶざまに見えました。
第一、内容が支離滅裂です。
その話の骨子でもある「ルールを破ったことは申し訳ない」と「ルールに従って儲けることがなぜ悪いのか」を組み合わせれば、自らがやってきたことへの意味を理解していないことも見えてきます。これは堀江さんと同じです。

もう一つの開き直りは、「儲けることがどうして悪いのか」という発言です。「人を殺すことがなぜ悪いのか」という質問にどう応えたらいいかということが話題になったことがありますが、いずれも簡単な問題です。悪いから悪いのです。誰かを犠牲にするからです。

企業の経営資源は「ヒト、モノ、カネ、情報」といわれます。
いずれも企業の経営資源である前に、企業を超えた社会の資源です。
つまりいずれも限定的に社会から借りていると考えるべきです。
ですから従業員は言うまでもありませんが、自社所有の土地や資金であっても、勝手に処分することは出来ないはずです。
これは、昔、私が雑誌に連載していた「脱構築する企業経営」などに書いたことですが、野村総研の人から「ヒト、モノ、情報」は社会からの借り物であることはわかるが、金は自由に使ってもいいのではないか、と強く言われました。
どうも金銭は他の資源と違うようです。これは昨日の「金銭への愛」問題にも繋がりますが、それは改めて書くことにします。ポイントは「金銭には表情が無い」、つまり普遍的な価値を持つということかもしれません。

自分のお金だからといって自由に使うことは許されないというのが私の考えです。
なぜならばお金はシステムとして意味を持っており、すべてのお金が繋がっているからです。
個人のお金の使い方で、他の人のお金が大きな影響を受けるのです。だから勝手に使ってはいけないのです。
銀行預金が50万円しかない私ならば、どう使おうがあまり影響はでないでしょうが、4000億円にもなるとそれをどこに使うかで大きな影響がでます。そういう意味で、お金もまた社会からの預かりものなのです。ちなみに政府が扱う金額は、それ以上に巨額なのですが、感覚は村上さんと同じく私物化しています。蛇足でした。
お金を使わないこともまた問題です。守銭奴は物欲がありませんが、金銭を死蔵させることで貨幣システムに悪影響を与えます。お金は使うことで生きてきます。

このように、お金は社会システムを構成するメディアです。
儲けるという行為は、お金を集めるという行為です。社会システムのメディアであるお金を集めるにはそれなりの価値の創造が必要です。
守銭奴は一生懸命に価値を作り出し、社会に提供することで貨幣を集めます。その意味では社会に役立っています。お金を死蔵させることで、自ら作り出した価値が不合理に上昇するとしてもそれは大した問題ではありません。メディアである金銭の動きを止めることが問題なのです。

昨今の金融工学的なお金の集め方、つまり儲け方は、基本的に社会にとっての価値の創出には立脚していません。実体経済、実体社会と切り離されたところでの操作で、貨幣が貨幣を生むという世界です。その世界の人たちに、最近の実体経済は振り回されています。それが腹立たしいです。

そもそも「儲けること」は目的概念ではありません。金銭を溜め込む守銭奴が虚しいように、儲けることはあくまでも使うための手段なのです。守銭奴は集めた金銭を社会に還元する資本家に変わることで、社会的価値を創出しだしますが、儲けを目的にしてしまうとそこには社会の視点は入り込む余地はありません。したがって、相変わらず社会にとっては有害な存在になるような気がします。
大切なのは儲けることではなく、集めたお金を生かすことです。
村上さんにはそこに気がついてほしいと思います。
きっと最初はビジョンがあったのでしょうが、理念が不在だったのかもしれません。
「儲けることがなぜ悪いのか」という質問に哀れさを感じました。かっこよさは微塵も感じませんでした。

■庶民の目(2006年6月7日)
昨日、福島でタクシーの運転手と話していて、違法駐車の取締りの話題になりました。
違法駐車がなくなって走りやすくなったでしょうというと、37年のベテランのタクシー運転手は、あれはお上が金儲けのためにつくった仕組みだから私たちにも迷惑な話だというのです。たとえばトイレに立ち寄るとか弁当を買いにコンビニに寄るのも気を使うようになったといいます。
これまでの道路交通法でも十分に取り締まれたのに、さらにそれに制度を上乗せして、誰かに儲けさせることを考える賢い人がいるのだろうとその運転手さんは感心していました。
ともかく真面目に働くよりも、段取りをつくるのが賢い生き方だというのです。
最初はその意味がよくわからなかったのですが、どうも「何もせずに儲ける段取り」をつくる賢い人が多くなったので、汗をかいて一生懸命に働く自分たちの暮らしは良くならないと嘆いていました。
それでベトナムにでも移住したいと奥さんに提案したそうですが、拒否されて、相変わらずタクシーの運転手を続けているそうです。なぜベトナムかは、ベトナムではメイドが雇えるからだそうです。いやはや。しかし、月1万5千円で生活できるそうです。本当でしょうか。日本の「下流社会族」がみんなベトナムに移住したら、みんな幸せになりそうです。私も資格がありそうですので、いざとなったら考えます。メイドは雇いませんが。はい。
村上ファンドの話も出ました。村上さんも汗をかいて働くのではなく、段取りで楽に儲ける人だというのです。
そして、金を儲けても幸せにはならないのに、と同情していました。
この数日、私がブログにややこしく書いてきたことのエッセンスをこの運転手さん(加藤さんといいます)は20分で語ってくれたのです。感激しました。
やはり生活している庶民には事の本質は見えているのです。
見えていて、しかし彼らにゆだねている強かさは、「七人の侍」の農民たちと同じなのかもしれません。
結局、村上さんも堀江さんも、そしてきっと小泉さんも、消耗品なのです。
私も消耗品ではない生き方をしたいと思っているのですが、加藤さんのような生き方を真似なければいけません。
ちなみに加藤さんは63歳で高3の孫がいて、亭主関白に憧れながら奥さんの尻に敷かれている人です。趣味は勝ったことのない競馬です。そして時々、お客さんが乗ったのにメーターを下ろしていなかったり、降りたのにメーターを上げていなかったりして、損をしているそうです。私が乗った時も途中でメーターを入れていました。
福島で加藤さんのタクシーに乗ったら、すぐ話しかけるとメーターを倒さずに走り出しますので、もしかする無料で目的地にいけるかもしれません。
ぜひお試しください。

■国への愛と国民への愛(2006年6月8日)
昨日、ドミニカ移民訴訟の判決が出ました。

政府の政策に応じてドミニカ共和国に渡った日本人たちが「募集時の約束と異なる悪条件の土地を与えられ、困窮生活を余儀なくされた」として、国に計約32億円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は7日、請求を棄却する判決を言い渡した。(朝日新聞)

判決は、国の責任を認める一方で、時効により損害賠償は否定しました。
その判決に対して、安部官房長官は「国の主張が認められた」という一言ですませました。そこには被害者に対する思いやりの気持ちは微塵も感じられませんでした。
「棄民政策」が問題にされたのは昭和40年代だったと思いますが、この訴訟が起きた時に、まだ問題は解決していないのかと私は驚きました。
今回の裁判でも解決しなかったのかと残念に思います。

問題の解決はそう難しいわけではありません。もしお金の問題であれば、国民に呼びかければ、32億円どころか1000億円くらいのお金はそう難しくなく集まるでしょう。
そういう時代です。

30年ほど前にブラジルに行った時、国の呼びかけに応じてブラジルに移住した人にお会いしました。歳のわりにとても老けて見え、ご苦労がにじみ出ていました。国の無責任さに、他人事ながら怒りを感じたのを思い出します。

日本の政府は国民を愛しているのでしょうか。とてもそうは思えません。
愛さなくてもよいのですが、せめて国民の苦労や痛みはわかってほしいものです。
「痛みを分かち合う」は、まず自らが実践しなければいけません。
国民への思いやりのない政府を、国民は愛せるでしょうか。
愛せるはずがありません。

いま問題の「愛国心」は「国」への愛です。
この「国」というのがまた曲者です。
「国敗れて山河あり」という言葉がありますが、ここでの国は「政府」でしょうか。
愛郷心という言葉の「郷」は自然、つまり山河や文化だとすれば、愛国心の国もまた山河や文化でしょうか。

いま問題の愛国心は政府を意味しているような気もします。
愛国心論争での「国」とは何かもあいままのまま議論されているのが、いかにも日本的です。
郵政民営かもそうですが、多義的な民営化や愛国心をみんな分かったような気になって賛否を議論しています。議論にはなりようがないのですが。
この国には議論する基盤がないのかもしれません。それが悪いわけではありません。それもひとつの文化です。
しかし、何か議論していような勘違いをさせることはフェアではありません。

お上は一方的な愛を求めてきますが、愛は「愛すること」にこそ、意味があるのであって、「愛されること」にはほとんど意味がないというのが私の考えです。
「愛される」ことを強要することほど滑稽なことはありません。
絶対にそんなことは起こりえないからです。たとえ洗脳しても、それは「愛」ではありません。
もし愛国心を養いたいのであれば、まずは愛するべきでしょう。
国民を、そして国を。

愛国心を語っている人たちの愛国心のなさには、私のような愛国者は我慢がなりません。あれ!?、またよくわからない議論になってしまいました。
人間、立腹すると論理的なくなるのです。困ったものです。

■人の死を喜ぶ社会(2006年6月9日)
「イラク・アルカイダ機構」の幹部ザルカウィが、米軍の空爆で殺害されました。
それを喜ぶ人の姿をテレビや新聞は報道しています。
たとえば、イラクのマリキ首相や駐イラク米国大使です。ブッシュもそうですね。
人の死を喜ぶ。しかも殺して喜ぶ。
不思議な社会です。
まずは「哀悼の意」を表明するのが人間ではないのでしょうか。
アメリカンネイティブを人間と思わずにほとんどすべてを殺戮したアメリカの歴史を思い出さずにいられません。
シンドラー社のエレベーター事故に関する同社のトップの発表と同じものを感じます。
いや彼らだけではありません。
ドミニカ移民訴訟に関する日本政府のコメントも同じでしたね。
人道などは遠い昔のものになったのでしょうか。
国家の本質を垣間見ます。その国家に隷属している人たちには「人間性」はないのでしょうか。
社会はすでにマトリックスの時代になってしまっているのかもしれません。


■金銭を基軸にした経済システム(2006年6月10日)
千代田線の女性専用車に出会いました。
北千住の駅でJRから乗り継いだのですが、時間が9時半前だったためにまだ先頭車両は女性専用でした。どういう人たちが「女性」なのか興味はあったのですが、ホームに看板を持った駅員がいて、ここから先は女性専用ですと言っていましたので、そちらにはいけませんでした。ここでも無駄なコストが発生しています。高齢の駅員の方に守られてわがままな女性たちがのさばっていると思うといささか腹がたちます。どうせつくるのであれば、化粧専用車をつくってほしいです。
あれほど不快なものはありません。
女性たちの電車の中での言動は私には目に余るものがあります。女性専用車を作る前にやることがあるだろうと私は思います。
それはともかく、昨今の問題解決は、ともかく安直です。
違法駐車問題と同じです。

さて、無駄なコストが発生するといいましたが、働き場が発生するとか金銭の動きが活性化するという意味では、無駄ではありません。
無駄が無駄ではないのが最近の経済システムのポイントです。
つまり価値を評価する視座が人間の生活とは別のところにあるのです。
ニューディール政策で私たちが教えられたように、ともかく「お金」をうまく回すことで「経済」は活性化するのです。
そこでは基軸は人間ではなく、「お金」もしくは「金銭経済システム」です。
人間はその仕組みを支える「消費者」として組み込まれてしまったわけです。
ですから、よく吟味していくと、以前も具体的に書きましたが、豊かさと金銭の多寡とは無縁であるばかりか、むしろ逆相関にあるのです。
しかし、不思議なことに豊かさの指標は金銭だけになってしまったのです。
しかも、その金銭には「表情」がありません。私の持っている1万円札とあなたが持っている1万円札とは同価値なのです。私にはそれが不思議でなりません。
金銭以外のものは、みんな人によって違った価値を持っているのですが。
そこから出発すると、おそらく今とはまったく違った人間が基軸の経済システムが取り戻せるかもしれません。

■違法な戦争と違法な兵役拒否(2006年6月11日)
一昨日、テレビで米軍将校のエレン・ワタダさんがイラク派遣を拒否したニュースを見ました。その声明を、ジャーナリストの今井恭平さんの翻訳で読ませてもらいました。今井さんは翻訳していて涙が出てきたといいます。
ちなみに原文は、次のサイトにあります。
http://thankyoult.org/index.php?option=com_content&task=view&id=22&Itemid=9
以下は、その中に出てくるワタダ中尉の言葉です。

「私は将校に就任するとき、アメリカの法と民衆を守ることを宣誓しました。
違法な戦争に参加せよとの違法な命令を拒むことにより、私はその宣誓に従います。」

いろいろ思うことがあります。
私が真っ先に思い出したのは、あのランディ・キラーのスピーチです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_1.html
いずれも現実に起こった話です。
アメリカはコスタリカではありませんから、彼のこれからは厳しくなるでしょう。
コスタリカはサッカーではドイツに負けましたが、愛国心の強さでは世界で最も誇りえる国ではないかと思います。
私には今のワールドカップが、巧妙に仕掛けられたわなのように思えてなりませんが、まあこれは被害妄想でしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html

ワタダ中尉の声明に自らを反省していたら、さらに恐ろしいメールが飛び込んできました。要約すると以下のようになります。
CIAにいたレイ・マクガヴァンが暴露したブッシュ政権の戦争計画によれば、遅くも10月頃までに、ブッシュ政権が、イラクに大規模攻撃を仕掛け、侵略戦争を西アジア一帯に拡大する。それに先立ち、ブッシュ政権は、攻撃の口実を作るために、再度9・11事件のような大規模「テロ攻撃」をイランの仕業に見せかけてアメリカかヨーロッパのどこかで仕掛けるだろうとマクガヴァンは警告している。

コメントは差し控えます。

■子育てが不安の風潮(2006年6月12日)
少子化問題を話していて、改めて気づいたことがあります。
子育てへの不安という幻想が少子化を助長しているということにです。
もっとわかりやすくいえば、子育て支援の制度や仕組みができればできるほど、またそうした必要性をマスコミが問題にすればするほど、少子化は進行するのではないかということです。
大学を卒業して今春、企業に入社した女性が「まわりに子育てへの不安があることは事実」というような話をしてくれました。そこでハッと気づいたのです。つまり「不安」というものは誰かから教えられるものだということです。
これもいつか書きましたが、「知は力」が真実であると同じように、「無知こそ力」もまた真実なのです。その意味では、教育が生きる力を削いでいることは否定できません。
大人たちはしたり顔に中途半端の「知識」を次に続く世代に継承し、いつのまにか子育ては難しく、支援する仕組みがなければできないことになっていくわけです。
こんなことを書くとかなりヒンシュクをかいそうですし、子育ての難しさがわかっていないと怒られそうですが、難しいのは何も子育てに限ったことではありません。
人生は難しさの連続であり、だからこそ楽しく豊かなのです。

昨日、オリンピックコンサートなるものを聴きに行きました。
オリンピック選手の活躍や苦労の映像をバックにしたコンサートです。
オリンピックの栄光の陰に、どれほどの困難や苦労、不安や挫折があることでしょう。だからこそ高橋尚子さんはマラソンで優勝した時に、「楽しい42キロでした」と輝く顔で話せたのです。

楽しさと苦しさ、不安と充実、失敗と成功、貧しさと豊かさ。すべてはコインの裏表です。もっとも裏表ではない、貧しさや危険、困難と苦しさもないわけではありません。
安直な子育て支援策は、少子化を加速させこそすれ、問題の解決にはならないでしょう。さらに悪いことは、いまの少子化支援策のほとんどすべてが、金銭での解決の枠組みで考えられていることです。
少子化もまた、ビジネスの材料にされてしまったのです。

少子化支援策に取り組んでいる人たちに、ぜひ考え直してほしいと思います。
支援の意味をよく考えてほしいものです。
子育てにおける支援とは何か。
そこから考えれば、新しい答えは見えてくるはずです。
お金で子供は育てられません。しかし、この数十年、私たちはきっと子供たちをお金で育ててきてしまったのです。それと同じ過ちを今、組織的にやろうとしているのが最近の子育て支援策なのかもしれません。恐ろしい話です。
それに少子化がなぜ悪いのか、きちんと答えられる人はいるでしょうか。人間の視点から、です。労働力不足や市場の縮小は答えにはなりません。
もしなると思っているとしたら、少子化のことを考える資格はないと、私は考えています。

■カネミ油症事件救済法の見送りの理由(2006年6月13日)
昨夜、日本テレビの報道特集で、カネミ油症事件がまだ終わっていないことを知りました。
この事件に関しては、技術者倫理サロンなどでも杉本さんからお話をお聞きしているのですが、私の中ではすでに解決に向かって動き出しているとばかり思っていました。
そして、恥ずかしいことに、今国会で救済法が課題になっていることすら知りませんでした。反省しなければいけません。
「カネミ油症事件」は1968年に西日本を中心に起こりました。カネミ倉庫が製造した食用油にPCBが混入したため、深刻な健康被害が発生した事件です。1万人を超える被害者が発生し、日本最大の食品公害といわれた事件です。
問題はそれが母体を通じて、子供たちにも影響を与え続けていることです。
孫の代にも被害は少なくないようで、その意味では被害者はまだ増加している状況のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%83%9F%E6%B2%B9%E7%97%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6
そうした事実をはじめてしっかりと知りました。これまでもきっと聞いていたはずですが、画面で見ると認識は大きく変わります。
土壌汚染などもそうですが、環境汚染や人体障害は次世代へと継承されます。ですから迅速な解決が必要ですが、多くの事件はその最初の対応に遅れてしまい、被害が広がり対策費用も膨大になるのです。
ところで、与党はその被害者の救済法を国会に提出する予定だったようですが、提出を見送ることにしたそうです。
理由は、時間の長い経過の中でいま救済策を出すことが不公平になるということと救済の「適用が広がりすぎる」ということのようです。昨日のテレビでのコメンテーターは、この法案は票にならないからでしょうと寂しそうに言っていました。
不公平、適用が広がりすぎると、まさに「管理発想」です。
専制国家の君主と自らを履き違えているのではないかと思いますが、思想のないテクノクラートの発想です。
苦しんでいる人がいれば、まずはその人たちに対して何ができるかを考えるのが人間です。
たとえば、難病の子供の手術費用を集めるために、親が行動を起こし、それに共感した友人知人が動き出し、それがテレビなどで報道されると1週間で1億円を超える募金が集まるという事例が増えています。
困った人がいれば、まず動き出す。それをしっかりと時間できれば、可能な範囲で寄付をする気持ちになる。それが人間です。
それがすべてにおいて良い結果を生むわけではありませんが、その原点を忘れてしまったら、どんな制度をつくってもいい結果は生みません。
コメンテーターの「票にならないから」という指摘には、今の政治への根深い不信感を感じます。私も同感です。
しかし、問題は、そうした問題への取り組みが「票にならない」社会になっていることです。言い換えれば、私たちがそうした問題を切り捨てているということかもしれません。
テレビはワールドカップでにぎわっています。
私はそれを苦々しく思っています。
ローマ時代の「パンとサーカス」の時代が世界規模で再現されているような気がしてなりません。
サッカーファンには申し訳ないのですが、いかにも過剰報道ではないかと思います。
その1%の費用と時間をこうした事件の報道と支援に使う社会になれば、今よりももっと住みやすい社会になるように思います。
そういう方向に向かうかどうかも、私たち一人ひとりの生き方にかかっているのです。

■つながりを壊すお金とつながりを育てるお金(2006年6月14日)
日本銀行の福井総裁が村上ファンドに1000万円投資していたことが問題になっています。お金の論理を考えればそう驚くような話ではありませんし、もっと構造的な問題があると思っている私としては、こんな話は瑣末な話です。それに、彼らに「見識」を求めることなど期待すべきではありません。
ある雑誌が富裕族の特集をしているのを満員電車の横の人が読んでいましたが、富裕族の「つながり」は、金を生む源泉であるとともに、金によって維持されるものですから、お金が絡んでくるのは当然のことです。金融関係で仕事をしている人は、ほとんどがそういう「金縁」で生きているのかもしれません。いや、財界の人たちもそれに近いかもしれません。
かくいう私も、一時はそれに少しだけ近づいた時期があり、お金は富裕層の間で回っているのだなと感じたこともあります。その世界を目指せば、私の人生は変わったでしょう。残念ながら私にはその才能がありませんでした。それに、そうして得たお金は、人生の豊かさや幸せにはまったく無縁のものだという気がしていました。
中央省庁の外注業務のうちの随意契約の8割が不適切だという調査結果が今日発表されましたが、これなども「つながり」の中で行われているのでしょう。談合や癒着の文化はそう簡単には変わりません。こうした実態は、関係者はみんなわかっているはずですし、マスコミが取り上げるのはそのほんの一部でしかないでしょう。
「お金でつながった社会」とはもろい社会です。金の切れ目が縁の切れ目になるからです。
今月号の「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」に「ソーシャル・キャピタルの高い組織はむしろ脆い」という調査報告の記事が出ていますが、そこで語られているソーシャル・キャピタルは、まさに「金によるつながり」のようです。まあこれは調査をしたケンタッキー大学の教授の見識のなさを示していますが、それにしても、米国流資本主義においては「金の縁」が人の絆(ソーシャル・キャピタル)の基本なのかもしれません。その世界につながろうとしている日本の政財界の主流の人たちが「金縁」を基準に行動しているのは当然のことでしょう。
ところで、「お金」あるいは「通貨」は、そもそもは人のつながりを創るものです。
しかし、その「つながり」の設計の基本思想は、「つながり」を自立させないことでした。つながりが自立すれば、貨幣も制度も不要になるからです。
そのために、「富裕族」たちは、つながりが自立できないような「貨幣依存の経済システム」を構築したわけです。
もし一時期広がりだした地域通貨やコモンズ通貨を基本にすれば、経済システムも社会のあり方もまったく今とは違ったものになったでしょう。だからこそ、つぶされたのです。今はやっているのは、そのまがい物でしかありません。

今の通貨システムは、つながりを壊すためのメディアなのです。
設計の基本思想を変えなければいけません。

ところで、私が取り組んでいるコムケア活動が標榜しているのは、「金の切れ目が縁のはじまり」です。
100年後にはきっとそうなっているでしょう。確信しています。

■道義的責任と法的責任とどちらが大切でしょうか(2006年6月15日)
いま、ある企業の従業員のマニュアル作りに関わっています。
但し、これまでのようなマニュアルではありません。
まったく発想の起点が違うマニュアルです。

マニュアルの意味はなんでしょうか。
マニュアルには二つの位置づけが可能です。
行動を管理するマニュアルと行動を支援するマニュアルがあります。
前者はマニュアルが行動を規制します。マニュアルに従うことで責任も回避されます。これが第一段階のマニュアルですが、社会の成熟化の中で、こうしたマニュアルは逆効果を生み出しかねません。
後者はマニュアルが行動の出発点であり、それを活かすことが課題になります。マニュアルを参考にしながら現実の対応をしていくわけです。
北九州市のスペースワールドの人にホスピタリティのフォーラムに参加してもらったことがありますが、そのとき、マニュアルを超えることの大切さが語られていたのを思い出します。マニュアル通りでは十分な対応はできないということです。現場の人はそれをよく知っています。

今取り組んでいるマニュアルはそうしたことを踏まえて、新しい枠組みを考えていますが、今日の話題はマニュアルではなく、また「違法性」の話です。

法律をマニュアルと考えて見ましょう。
両者は行動における判断基準という意味では同じカテゴリーに属する制度です。
法律は守れば責任を問われないものなのか、つまり行動を管理するものなのか、それとも法律は行動を支援する素材なのかです。

福井総裁の村上ファンドへの出資に関して、法的責任論と道義的責任論がいわれています。
法的責任と道義的責任とどちらが重要でしょうか。
多くの人はきっと法的責任が重要だと思うのではないかと思います。
私は、法的責任などは瑣末な話だと考えている人間です。大切なのは道義的責任です。
なぜ私がそう思うかは、法律は人為的なものであり、統治のために恣意的に決められたものだからです。
国家統治のためには大切でしょうが、庶民の暮らしのためには大して重要ではありません。
重要なのは道義です。
法律に違反しないからといって騒音をたてていていいわけはありません。
統治には関係ないかもしれませんが、生活には支障をきたします。

さらに問題は、法律には抜け道があるということです。
法律に通じた人は、法律遵守をたてにとって道義的責任を逸脱していくのです。
いいかえれば、法律とは違法性を回避するための基準なのです。
ですから法の番人や法に詳しい人は遵法的「違法」行為ができるのです。それができる人を専門家というのではないかという気さえすることがあります。
ちなみに、ここでいう「違法」とは、法律ではなくもっと大きな意味での自然法を意味します。ややこしくてすみません。

企業が盛んにコンプライアンス(遵法精神)を語りますが、語るべきはコンプライアンスではなく(そんなことは言わずもがなでしょう)、道義的責任、つまり人間的な考えです。
ゼロ金利を国民に押し付けながら、自らは金で利益を上げる「金への投資」を支援する行為は法的問題ではなく、福井さんの生き方の問題です。違法行為は恥ずべきことではありませんが、道義に反してはいけません。しかし、専門家にはそんな論理は通りません。彼らは専門家であり、国の統治の重要な役割を担っている人たちですから。

こうして社会の秩序は壊れていくわけですが、ややこしいのは、これは福井さんだけの問題ではなく、私たちの生き方もまた、多かれ少なかれ、そうした行動に汚染されてしまっているということです。
自分の生き方に時々嫌悪感を持ってしまいます。
人生はつらいものです。はい。

■関係の逆転(2006年6月16日)
一昨日の続きで「信頼性」について書きます。
私のところには、いろいろな方が雑談に来ます。なかには相談も少なくありません。
相談に対する私の対応は単純です。基本は2つのパターンしかありません。
ひとつは、「それってどういう意味ですか」というソクラテスアプローチです。
相談の内容を肝心の本人が理解していない場合や相談以前の場合の対応です。
問題を理解できれば、ほとんどすべてその時点で解決できたようなものです。
もうひとつは、「いいんじゃないですか」というエンパワーアプローチです。
私に相談した人は大体この答えを受け取ります。
時にアジテーションになったり、コンセプトデザインの手伝いをしたりすることもありますが、基本姿勢はこの2つなのです。
昨日も引用した「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」にアドバイスに関する組織行動学者たちの報告が出ています。
多くの人が、その道の権威や専門家、あるいは有料情報を過大評価しがちだというのです。相談料は高いほど信頼されるそうです。
前者でいえば、答えの内容ではなく、答えた人への信頼性、それもその人の社会的評価が判断基準になっているということです。
そのため、ある分野で有名になった人は、すべての領域で発言を求められるようになるわけです。
後者でいえば、費用と品質は関係しているという認識があるということです。
先日書いたネクタイの話に榊原さんが書いてくれた、ブランド物は高いから売れるという話につながります。

問題は、いつしかそれらの関係が反転してしまうことです。
有名人であるだけで、その人の意見への信頼感が高まることから、その言葉を利用する人が出てきます。
そのため専門分野ではない事柄にまで意見が求められ、意見が言えるようになります。さらに、それがまたビジネスになるのです。
費用と品質の視点からは、値段を高くすることで信頼性を高める発想がでてきます。
価格を高くすることで商品価値や情報価値が高まるわけです。
もちろんそれはあくまでもイメージ価値ですが、その一定の部分は実体価値を生み出すところがややこしいところです。
ちなみに、この構造を合理的に展開する仕組みを構築したのが一時期流行したCI戦略です。発展させることにおいて関係者は必ずしも成功したとは思いませんが。これに関しては、CWSコモンズのアーカイブのコーナーに昔書いたコーポレートデザインの論文を近々掲載します。ちょっと横道に入ってしまいました。すみません。

こうした本末転倒した発想が大手を振って闊歩しているのが現代かもしれません。
これもまた「金銭至上主義の時代」の風景です。

私は相談の専門家でも権威でもなく、しかも有料ではありません。
にもかかわらずいろいろな人が来てくれるのは、もしかしたら「相談」ではなく、「雑談」しかしていないからかもしれません。
「相談」と「雑談」。この違いも面白い問題ですが、これはまたいつか書きたいです。

■個人の利益と社会の損失の非対称(2006年6月17日)
環境倫理学の加藤尚武さんがある雑誌の対談で紹介していた話です。
ある工場が廃業する時、廃棄物をドラム缶につめて敷地内に埋めたのだそうです。ところが後になって、ドラム缶が腐って廃棄物が漏れ出し、地下水を汚染する事件が起こりました。汚染された水を処理するのに200億円の税金が使われたそうです。
加藤さんは、40万円もあれば、適切な廃棄物処理が行われたはずだと指摘しています。
工場は40万円を節約したために、200億円の税金が使われてしまったという話です。
とても示唆に富む話です。

すぐ思い出されるのが「コモンズの悲劇」です。
全体の損失の上に成り立つ個人の利益が、結局は個人の利益の存立基盤を損なうというのが「コモンズの悲劇」ですが、未熟な社会で起こる現象です。
その視点から、この事例を考えるのも面白いですが、今回の私の関心はが、そこにおける利益と損失のあまりにも大きな差です。
これこそが、社会の、あるいは自然のダイナミズムだと思います。
これを逆転すれば、40万円のコストで200億円の利益を生むこともできるということだと思いますが、これが経済の面白さかもしれません。

アダム・スミスの「見えざる手」の発想は、「コモンズの悲劇」の発想とはパラダイムが違います。
スミスの経済には、個人の利益の上に成り立つ全体の利益を出発点にした経済を感じます。それがいつしか、全体の損失の上に成り立つ個人の利益へと組み替えられ、おかしな形で発展してしまったような気がします。
中途半端に書くと誤解されそうですが、私が考えている「個人起点の社会へのパラダイムシフト」は、「個人の利益の上に成り立つ全体の利益」の発想に立脚しています。ですから、決して「コモンズの悲劇」は起こりません。

ややこしい話はこれくらいにして、今日、書きたいことは日銀総裁の事件です。
福井総裁は1000万円の資金で、汗もかかずに1000万円前後の利益を得ました。
しかし、その行為が社会にどのくらいの損失を与えたでしょうか。
先の事例のように、その損失が明らかな金銭的損失として計上されないのが残念ですが、桁違いの損失が発生しているはずです。
その損失を支えているのは全国民ですが、一人ひとりの金銭的損失額はきわめて小さいが故に可視的にはなりにくいのです。
これは年金基金の無駄遣い問題にもいえることですし、小泉首相の財政の無駄遣いや郵政民営化にもいえることです。どれだけの損失を私たちは負担させられたのでしょうか。
恐ろしいことに、それが私たちには見えてこないのです。財政赤字がいくら増えても、誰も実感できないのです。

つまり個人を束ねることによって、一部の人が好き勝手なことができる仕組みが作れるということです。
それを逆転させれば、違った世界が開けてきます。
たとえば、国民一人ひとりが100円を負担するだけで、100億円の資金が集まります。
カネミ油症事件の被害者も、ドミニカ移民の人たちも、その請求額はそれで対応できるのです。
問題が多すぎて、きりがないと言う人がいるかもしれません。
そうかもしれませんが、その優先順序を考えればいいでしょう。
それこそが「政治」ではないかと私は思います。

今の政治も経済も、すべて発想のベクトルが違うように思います。
個人の利益と全体の利益を対立させない仕組みがあるはずです。
古来からの「結い」や「講」の視点から、あるいは「リパブリック」の視点から、社会を再構成していくことが必要ではないかと思います。

国家の仕組みを私物化している人たちを排除した仕組みが生まれないものでしょうか。
無理でしょうね。
そろそろ国家の役割は終わりつつあるように思います。

■「毎日、楽しいね。お母さん」(2006年6月18日)
北九州市の市立病院の人に聞いた話なのですが、新卒の女性職員を産院に見学につれていったところ、新生児は初めてという彼女たちは、その可愛さに自分も子どもがほしいと大騒ぎだったそうです。
その人は、若い女性たちが、子どもにもっと触れる機会が増えたら少子化の流れも変わるかもしれないと言っていました。もう7〜8年前の話ですが。

先日の「子育てが不安の風潮」を読んだ人がこんなメールをくれました。
ご本人の許可を得ていないのですが、とても示唆に富む内容ですので、紹介させてもらいます。一部、省略などしていますが。

今度は2人目の妊娠が発覚。
なんだか慌しい、でもとても幸せな毎日を過ごしています。
初めての妊娠の時もそうでしたが、私は妊娠している自分が大好きです。
この10ヶ月は、私にとって、誰かとつながっていることを実感できるとても大切な時間です。
子供とつながっているのはもちろんですが、子供を通して夫とのつながりも再認識させられるのです。なんだか無性にあたたかい気持ちになります。
そして生まれてきた我が子は思っていた以上に愛しくて、
人の親になれることの喜びに勝るものはなく、
できれば3人以上の子供に恵まれたいと願う毎日です。

私は、修さんのおっしゃる、すりこまれた「不安」の中には、
「大変だから」不安ということ以上に、
「失敗したくないから」不安と考えている人が多いような気がしてならないのです。
自分を勝ち組にするためには、自分だけでなく子供も家族も勝ち組でなければならないという焦りが、子育てへの不安を煽っているのではないかと思うのです。

私も人の親ですから、そういう意識がまったく無いとは言いません。
でも、今、目の前にいる我が子は、ただ可愛いくて、そんなくだらない思いを忘れさせてくれます。
思わずギューっと抱きしめてしまいます。
私と夫のところに生まれてきてくれたことに感謝してしまいます。
とは言っても、子供が学校に行き始めたりすると、また違ってくるのかもしれませんが…
でも、どんな風に自分が悩んだり迷ったりするのかも、ちょっと楽しみな気がします。

健全な次世代を育てることが一番の社会貢献だと、私は思っています。
そして健全な人間に必要なのは、
「生きてるって楽しいな」と感じられることだと思うのです。
何でもない普通の日に、我が子たちが「毎日、楽しいね。お母さん」と言ってくれたら、最高に嬉しいです。
そんな日を夢見て、私自身が毎日楽しく子育てしていきたいと思います。

「毎日、楽しいね。お母さん。」
いい言葉です。
読者からのコメントに学ぶことがたくさんあります。

■日本クロアチア戦を見てしまいました(2006年6月19日)
サッカーが好きではないといいながら、そして最近のスポーツイベントは「パンとサーカス」戦略の陰謀ではないかなどといいながら、昨夜はついついワールドカップのクロアチア戦を観てしまいました。時流に勝てないのが人間なのです。はい。
いつもそうなのですが、見出すと止められなくなるのがスポーツですね。
しかもそこに「戦いの要素」が入るとついつい自分に近いほうに肩入れしてしまいます。それがちょっと高ずるとファン同士の「戦い」になってしまうのでしょうか。
それにしても、日本チームの動きに一喜一憂し、相手のミスに拍手を送ってしまう自分に、「パンとサーカス」批判論者の自分はいったいどこに行ったのだろうかと思ってしまうわけです。はい。
やはり人間である以上、「パンとサーカス」の魅力には勝てないことがよくわかりました。
ちなみに、テレビにもちょっと映っていましたが、試合終了後の選手たちのお互いに気遣いあう交流風景には感動しました。戦いの中にある「心の通い合い」を象徴していました。

「パンとサーカス」の社会も、それほど悪くないのかもしれません。
問題はそれに代わる魅力的なメッセージがないことなのでしょうね。
それを昨日の松戸市の市長選で感じました。
松戸市の市長選は現職が4回目の当選を決めました。
これに関しては項を改めて書きます。
クロアチア戦を観ている場合ではなかったかもしれません。困ったものです。

■大切なのは批判ではなくワクワクするビジョン(2006年6月20日)
松戸市の市長選挙は現職の当選になりました。
現状を変えようという思いで立候補した中田京さんは残念ながら落選してしまいました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0202
私は松戸市民ではないので、松戸の問題は把握できていませんが、いろいろな人たちから現状の問題点をお聞きしていますし、どんな人でも4期は長すぎるような気がしますので、今回は多分交代になるだろうなと思っていました。
中田さんを応援させてもらっている私にとってはとても残念な結果でした。
なぜ現職は勝ったのでしょうか。
松戸市民ではないので無責任な発言になりますが、現職に対抗することの難しさを改めて感じます。

そこで思ったことの一つが、以前も書きましたが、現職に対抗する人たちのメッセージの魅力ではないかということです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/09/post_e571.html
対抗馬が立候補する状況は、現状にさまざまな問題が起こっているからです。
したがって、多くの場合、対抗馬の人は現状を批判し、その改善策、あるいは改革案を提起します。ここに落とし穴があるのではないかと思います。
どんな現状であろうと、そこから利益を受けている人は少なくありません。しかし、現状に批判的な人はそうしたことをともすると忘れがちです。
私もこのブログで、さまざまな問題を批判していますが、おそらくほとんどの方はその批判の対象に依存している部分が多いはずです。
指摘している私自身もそうです。国家による管理を批判していますが、いま、それがなくなってしまえば、私もかなりのダメッジを受けるはずです。
ですから、現状を批判することは多くの人を敵に回すことでもありますし、現状に批判的な人たちの心すらも動かさない恐れがあります。
つまり「批判」は人の心をつかむ魅力を持っていないということです。
大切なのは新しい価値です。
アラモの勇士たちが命を預けたくなるような、ワクワクするビジョンなのです。
もっと言えば、マジックワードです。

社会の成熟化の中で、選挙戦略も大きく見直していくことが大切だということを、今回の松戸市長選から改めて私は学ばせてもらいました。
選挙だけではありません。
私も少し接点のある、平和関係のいくつかの動きがいま広がっていますが、私はなかなか参加できずにいます。
仲間に入っていながら実際の行動が起こせずにいることをとても心苦しく思ってはいるのですが、なぜか心がワクワクしないのです。
そして「登校拒否」のように、いざとなると参加できなくなってしまうのです。
このブログでは批判ばかりしている私がいうのもおかしな話ですが、やはり目指す価値を中心にしたビジョンを明確に打ち出すところにこそ、エネルギーを注ぐべきなのでしょうね。

CWSコモンズのメッセージでは、それを心がけていたのですが、このブログはやや批判中心になってしまっています。
どうするか、迷いだしています。

■機械の反乱が始まりました(2006年6月21日)
朝起きたら、娘が昨夜からパソコンがつながらなくなったというのです。
調べてみると、電話も通じません。
昨年、我が家は光回線に切り替えたのですが、そのシステムが作動しなくなったようです。
どうしたらいいか、まさに危機管理事態です。
NTTに電話して、確認してもらったのですが、まず言われたのが機器の配線のおかしさです。これは私がやったわけではなく、回線業者の方が2回も来てやってくれたのですが、どうもおかしいようなのです。そういえば、光にしたのに私以外は速度も利便性も高まらずにむしろ不調になってしまったと家族全員から言われています。我が家は家族4人ともがそれぞれパソコンを使ってメールをしているのです。しかし、そのつなぎ方は私にはまったくわかりませんので、不審に思いながらも打つ術がありません。仕組みが見えないからです。
今回も電話で相談してくれた娘が、窓口の人から配線の仕方がおかしいようだと言われたそうですが、工事を手配してくれた会社の人からおかしいといわれるのはいささか心外です。
しかし、下請けの下請けという構造が広がる中で、さまざまなところでこうした事態が増えているのでしょうね。問題はエレベーターだけではないようです。見えないところで、さまざまな仕組みが見えない問題を蓄積しているように思います。
昨夜、報道ステーションで古館さんが、機械が反乱しだしたようだというようなコメントをしていましたが、これはあながち冗談ではないように思います。
ちなみに私が25年前に書いた「21世紀は真心の時代」の書き出しは、「反乱の時代」でした。機械の反乱は25年目にして実感できるようになったようです。

修理を娘に頼んで私は福島に出かけたのですが、帰宅したら直っていました。
機械のひとつが壊れてしまっていたようです。
我が家の電話回線くらいでよかったです。テボドンの発射システムの不具合だったら、大変でした。
まさに不安の上に私たちは暮らしているのがよくわかります。

■あり得ないことが存在すること(2006年6月22日)
セロというマジシャンがいます。
一昨日もテレビで放映されていましたが、街中でマジックをやって、たくさんの「サプライズ」を起こします。
それが中途半端ではありません。
あり得ない現実をみせてくれるのです。
たとえば、一昨日のテレビでは水族館の水槽が舞台です。
たまたまその水槽を見ていた人に一組のトランプの中からカードを選んでもらい、そこにサインしてもらい、戻してもらいます。その一組のカードを水槽のガラス面にぶつけると見学者が選んだ1枚のカードだけがガラスを抜けて水槽の中に入るのです。あり得ない話です。が、それが起こるのです。
さらに今度は水槽の反対側のガラス面にハンカチをあてて、そこに手を突っ込むと、なんとその手がガラスを抜けて(当然水槽の中の水が漏れ出します)、反対側のガラス面にくっついている、先ほどのカードを水槽から引き出すのです。
手が水槽から抜けるとガラス面は元のままです。
水槽の中にある手は、水槽の横からカメラで撮影されています。
ありえない事です。しかし,実際に目の前で起こるわけです。
もしこれが映像の編集の結果だとしたら、その時に偶然その現場に居合わせた人たちみんなが仲間ということになりますが、そうとは思えません。
テレビで同じようなものを観た方も多いと思いますが、不思議というか、悪夢のような話です。
このマジックを観た時から気になって仕方がありません。
もしこれが現実に起こったのであれば、私の価値観は根底から崩れてしまうからです。
たかがマジックに大げさな反応だといわれそうですが、ありえない事が起こることの意味は大きいです。
みんな、ただ不思議だというだけで納得しているのでしょうか。
私の場合は、気になって眠れません。まあ眠れないのは1晩だけですが。
そのうちきっと麻痺してしまうでしょう。
そうして、ありえない事への違和感はなくなっていくのでしょう。
人間は本当に柔軟です。機械とは全く違います。
しかし手なずけるのは機械よりも簡単なのかもしれません。

■日本はなくなるのではないですか(2006年6月23日)
つい先日、ある人たちと日本現状の問題を話していて、なんともやりきれない気分になり、どうしたらこの状況は変えられるのか、日本はどうなるのか、と発言したら、その人は「日本はなくなるのではないか」と答えてくれました。
とても気になる言葉です。しかしなぜか違和感はありませんでした。

愛国心を口走る人たちが、いま、日本を、そして日本の歴史を壊そうとしているように思えてなりません。
彼らはもちろん気づいてはいないでしょう。
完全に手なづけられているのかもしれませんし、機械のような官僚制、あるいは制度の中に組み込まれてしまっているのかもしれません。
大村さんのご指摘のように、機械は反乱しないかもしれませんが、マンマシンシステムとしての反乱は十分可能です。

NHKの朝の連続ドラマで、今朝、女学校の教師が「愛国者」による「亡国に向かう授業」を強要されて、教師を辞する最後の授業のエピソードを放映しました。
このドラマが、いまの日本社会を描いているという思いで毎回見ているのですが、今日の展開はまさにいま各学校で行われている亡国のシナリオへの告発のようにも思えました。
「こんな時代もあった」という話では決してなく、まさに今起こっている話なのです。
そう思っている人が少なからずいるのではないかと思っています。
このドラマの演出者はきっと間もなくNHKを辞めるだろうと思いますが、まあそれは考えすぎでしょうか。
考えすぎですね、はい。
しかし、事態はそこまで来ているのかもしれません。
ニーメラーの教訓を思い出したいものです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

パンとサーカスで滅んだローマはもちろん、よく引き合いに出されるカルタゴの亡国の歴史も驚くほどに現在の日本に類似しているように思います。
日本は自国の国民の食料や生活資材を自給することのできない国になってしまっています。つまり、存在が他国の人たちに迷惑をかけているわけです。
今のままでは、なくなっても仕方がないのかもしれません。
事態を変転させなければなりませんが、どうしたらいいのでしょうか。

■「ルールを守った上での金もうけは自由」なのでしょうか(2006年6月24日)
村上ファンド事件に関する今朝の朝日新聞の報道記事の中に、
検察幹部のひとりは「ルールを守った上での金もうけはもちろん自由だ」と語った。
という文章がありました。
この考えに私は大きな危惧と違和感を持ちます。
昨今の経済事件のほとんどすべては、この発想から生まれているように思うのです。
いま必要なのは、この発想を問い直すことではないでしょうか。

村上さんが記者会見で「金を儲けることがわるいことですか」と絶叫していましたが、悪いに決まっています。しかしほとんど人は悪いと思わないのです。
皆さんはどう思いますか。そこが問題だと、私は思います。
金が儲かることは悪くはありません。
それは結果論であり、社会に役立ったことの結果です。
しかし、「儲かること」と「儲けること」は、似て非なるものだと思います。

以前、「癒す」と「癒される」の違いを書いたことがありますが、他動詞と自動詞では意味はまったく変わってきます。
同じ行為でも、「働く」と「働かされる」は全く違う行為です。

なぜ儲けることが悪いのか。
人に迷惑をかけるからです。
お金は社会システムですから、配分の問題であり、実体的価値を創造することとは無縁の、まさに「マネーゲーム」でしかありません。
そのゲームの公正さを維持するのが中央銀行の役割です。ファンドを支援するような人をその総裁にして良いのかと、私は思います。もっと中立的な人でなければ、通貨システムの万人に離れないような気がします。
マネーゲームに参加する人たちは、公正さをくぐりぬけることで、マネーからマネーを生み出させることを目標にします。
そんな暇があれば、少しは実態的価値を創れと私は言いたいですが、彼らにはそんな気は微塵もないでしょう。目的は「儲けること」だからです。
そうした人たち、たとえばファンドマネージャーたちと対峙するのが中央銀行総裁なのではないかと思っていました。もちろん現実は、そうはなっていないことは理解していました。なにしろ、金こそずべて、に向けて政治がパワーを発揮している時代ですから。

もっと大きな問題は、「ルール」を守ればいいのかという問題です。
ここでの「ルール」とは何かですが、それが「社会を維持していく上でのルール」であればともかく、この発言の文脈は「法律」のように思いました。
もしそうであれば、以前繰り返し書いた「違法性」への誤解につながります。
「法律」は行為を正当化するものではありません。
それに抵触すれば、外部からの処罰が可能になるというだけのものです。
抵触しなければ良いわけではありません。
そして、法律はもちろんそうですが、ルールもまた時代によって変わる「恣意的なもの」です。
「法律が恣意的?」といわれそうですが、時の権力の所在によって変わるのが法律です。
映画の著作権期間が最近50年から70年に延びましたが、まあそんなものです。
いずれにしろ、「ルールを守れば自由」などという意識の低い人が検察幹部になっているとは驚きです。もう一度、法学を学びなおしてほしいものです。
そもそも「自由」などという言葉を軽々に使ってもらいたくないです。
法律は万能ではないのです。

今日はやや八つ当たり的な書き込みになりました。
金儲けできない者のやっかみかもしれません。
困ったものです。

■個人情報保護に関して思うこと(2006年6月25日)
個人情報保護ということが盛んに言われだしています。
私は今、自治会の会長をやっていますので、名簿の扱いにはいろいろと注意しなければいけませんが、しかしとても不便なことが多いです。いささかばかげている話も少なくありません。
自治会の住民の名簿を、市役所から提出を求められるのですが、市役所は使用目的を限定した上で提出したことを承諾したという書類を会長である私に求めてきます。いかにもお上的な責任逃れを我孫子市役所はしているうえに、その承諾書のスタイルが不備な気もしましたが、我孫子市役所と議論してもらちがあかないことを体験したばかりなので、従うことにしました。まあこうして住民自治はだめになっていくのだと反省はしていますが。
地域の小学校で安全パトロールをボランティアに依頼していますが、名前だけで住所も電話もおさえていないので、本人の了解を得て住所と電話を教えてくれないかと学校から連絡がありました。これにも唖然としました。所在もわからない人に安全パトロールを依頼しているほうが安全ではないように思いますが、個人情報保護法の関係で最初にきちんと把握できなかったようです。笑い話のような話ですが、これが現実です。
私のオフィスは文京区にあるのですが、その所管の東京電力の支社から「お客さま個人情報の紛失について」という連絡が封筒で届きました。検針用携帯端末が紛失する事件が起きたようです。こんな連絡をもらっても個人としては何の意味もありません。こうした連絡をするコストの分だけ電力料金が高くなるですから、意味のない連絡はしてほしくないですが、これも責任回避のためのものなのでしょう。
個人情報保護法によって、どれだけの社会コストが発生したのでしょうか。その分、新しいビジネスが発生したという意味では経済効果はあったのかもしれませんが、社会的費用は間違いなく高まっています。
経済行為には、実体価値を創出する部分と実態価値には無縁、もしくは消費する部分があります。これに関しては「脱構築する企業経営」で論じたことがありますが、これまでの経済はマイナス価値もプラスにカウントする仕組みになっています。ですから、環境産業が経済成長を牽引するなどという発想が出てくるわけです。

これからの経済は、実体価値を減少させるか、無縁なものは、カウントしない仕組みにしていくべきではないかと思います。
ソーシャル・キャピタルをベースにして、経済を再構築する動きは出てこないものでしょうか。

■チャッピーの悲劇(2006年6月26日)
我が家の愛犬はチャッピーといいます。
私は「チビ太」と呼んでいますが、本名はチャッピーなのです。
「血統書つきの名犬」だった、はずなのですが、彼の不幸は生後まもなく起こりました。重い病気になったのです。
ペットショップに頼んでいたのですが、引取り直前に入院する羽目になりました。
詳しくは聞いていないのですが、かなりの重症だったようです。
2か月後にショップから電話があり、どうしますかと問われました。
もし断れば、彼の人生はかなりの不幸が予想されそうな気配もあり、引き取ることにしました。
引き取って少しして、ショップの人が心配して電話して来ました。
大丈夫かというのです。
もちろん大丈夫でしたので、なんと親切な良心的なショップかと感心しました。
しかし、ショップの人が心配するだけの事情があったのです。

不幸はその半年後から起こりました。
その時はもう「チビ太」くんは我が家の大事な家族になりきっていました。
不幸が起こったのは突然です。
娘が彼の背中を撫ぜた時に、突然、噛み付いてきたのです。
中途半端な噛み方ではありません。牙が皮膚に食い込んで出血です。
噛んだ「チビ太」は急に震えだして、引きつった表情をしていました。

それを契機に、彼が家庭内暴力を振るようになったのです。
いや家庭内だけではなく、外でもその恐れが出てきたのです。
普段はとてもおとなしく、可愛いのですが、いつ突然に豹変するかわからあないので、誰も安心できなくなりました。
家族はみんな噛まれて、病院通いです。みんなどこかに傷跡をもっています。手術を受けた家族が2人います。

今でも突然牙をむいて震えながら噛み付いてくる態度は直りません。
それも突然なのです。筋肉質の犬なので、噛まれると大きな穴が開くくらいの凄さです。

勝手な想像ですが、これはきっと生後の病気時に隔離され「処置」された体験がトラウマになっての異常行動ではないかと、我が家では解釈しています。
そのため、我が家では誰も彼を抱いたり、十分なスキンシップができないのです。
とても不幸な話です。
子どもの頃の「甘噛み」は「安心した生活」はとても大切なことなのです。

些細なことからけんかになって、それが相手を実際に殺してしまうまでの暴力行為になり、2人の若者が殺されてしまう事件が起こりました。
子どもの頃から小さな喧嘩を積み重ねていないために、最近は喧嘩の「ルール」も身につけずに大人になる人が増えているのでしょうか。
あんまり体力もなく、結構「優等生」だった私ですら、子どもの頃は取っ組み合いの喧嘩をしたことも皆無ではありませんが、今はそういう経験はなくなっているのでしょうか。
なにしろ運動会でも、騎馬戦や棒倒しはなくなったと聞いています。
なんだか怖い話です。

安全が重視されてきていますが、それが大きな不幸につながらないことを祈らずに入られません。
優等生もどんどん小さな喧嘩をしていくことが大切です。
「喧嘩」を新しい科目に取り入れたらどうだろうかと、真剣に思ったりしてしまいます。
だめでしょうか。
我が家は夫婦喧嘩が多いので、良好な夫婦関係を今でも持続しています。はい。

■得をするのはだれか(2006年6月27日)
探偵小説の犯人探しでは、その事件で得をした人を探せといわれます。実際の事件はそれほど単純ではありませんが、事件を解く時のひとつの視点であることはまちがいありません。

テポドン騒動で一番利益を受けているのは誰でしょうか。
私は、ブッシュ政権と小泉政権だと思います。
金正日は、その2人との指示のもとに動いていると考えてみたら、どうでしょうか。
つまりこの事件は、最初から仕組まれた「日米政府主導の演出」だったというわけです。
そう考えるとさまざまな問題が納得できるような気もします。

では、9.11事件はどうでしょうか。
主犯はブッシュ政権とする見方がありますが、仮にそうだとして考えて見ましょう。
いろいろなことがつながってきます。
これについては、Spiritual Peace Musicianの池邊幸惠さんのサイトに興味ある記事のPDFがリンクされています。
http://yukichan.cc/9_11/index.html

ちょっと視点を変えると世界は違った風景になります。
セロのマジックのような大きなマジックが、もしかしたら世界を覆い始めているのかもしれませんが、事の真相は意外と簡単なのかもしれません。

■薬害C型肝炎訴訟控訴に見る政府の姿勢(2006年6月28日)
朝日新聞で読んだのですが、薬害C型肝炎訴訟で敗訴した国は判決を不服として大阪高裁に控訴したというのです。
以前から書いているように、この事件は国と制約会社の共謀事件だと思いますし、その事件の異常さにおいては、最近起きた生き埋め殺人事件とそう違わない残虐性を持っていると私は思うのですが、国はまだ被害者を救うよりも、当事者をかばったり権威を守ったりするほうが大切のようです。
控訴を決めた責任者はいったい何を考えているのでしょうか。
国が愛されなくなるのは当然だと思いたくもなります。
国と私たちとは超えがたい溝を感じます。国民主権とはどういう意味なのでしょうか。

まず考えるべきことは、目の前にいる被害者の救済です。
財政問題などは瑣末な問題です。いかように解決できます。
しかし今被害に苦しんでいる人には、今の救済が大切なのです。
感染時期の問題も瑣末な技術論です。責任回避などをしている場合ではないでしょうに。
改革すべきは行財政改革ではなく、価値観なのかもしれません。

時間感覚に関しても書いたことがありますが、政治家の時間感覚はどうして当事者の時間感覚を斟酌できないのか不思議です。
マクロとミクロの違いなどでは決してありません。
生活感覚の有無ではないかと、私は思います。
そうはなりたくないものです。

いまをしっかりと生きるように努めたいと、最近、改めて思っています。
明日などないかもしれないからです。
だからこそ、ビジョンも大事なのですが。

■よそ者を排除する意識(2006年6月29日)
今朝、見聞した話です。
近くの人が相談に来ました。
東北から数年前に転居してきた方ですが、自動車の登録ナンバーを前のナンバーから近くの野田ナンバーに変えることにしたのだそうです。
その手続きを自分でしようと警察署に相談に行き何枚かの申請書をもらったのですが、どうもその書き方が良くわからないというのです。
相談を受けた女房も混乱気味ですので、たまたままだ自宅にいた私にお鉢が回ってきました。最近は私もこの種の申請書の書き方には不得手になっていますが。
ところでなぜナンバーを変えるのですかとお聞きしたら、地元ナンバーでない自動車が走っていると不審車だと思われるというのです。
自宅前に駐車しているときは、車に「我が家の自動車です」と張り紙をしているのだそうです。
いささか過剰反応ではないかと思ったのですが、ナンバーまで変えようという気になったのにはそれなりのいやな体験があるのでしょう。
警察への通報もあったのかもしれません。
万一事件でもあれば、疑われるかもしれないという不安もあるのかもしれません。
考えすぎですよと笑いたいところですが、昨今の社会状況を考えると笑えない気がします。
よそ者への不信感はみんなの意識の中にかなり強く埋め込まれています。しかし、その一方でよそ者への憧れや親切心もまた埋め込まれているような気がします。
余裕のある時には後者が、余裕のない時には前者が強く出てきます。
おそらく今は前者が強く出てきている時代なのでしょう。
不幸な時代です。
本当は「よそ者」は自らが創りだすもので、自らを相手の「よそ者」にしてしまう自閉的行為でしかないのですが。
ちなみに、自動車のプレートにはナンバーだけではなく、所有者の顔写真と名
前を大きく掲示すべきだと、私は25年前の自動車会社の懸賞論文に書いたことがあります。
表情があれば、決してよそ者にはならないような気がします。
「よそ者」問題は実に私たちの社会を象徴する面白い問題です。

■宮内義彦さんのコーポレートガバナンス論(2006年6月30日)
宮内義彦オリックス会長が村上ファンドに絡んで話題の人になりだしています。
私は以前から宮内さんの金銭重視のコーポレートガバナンス論には違和感をもっていましたので、少しだけホッとしています。
これで日本のコーポレートガバナンス論も少し方向転換してもらえればうれしいことです。
しかし、そうなるかどうかは楽観は出来ません。
根はもっと深いでしょうから。

彼らの論理からすれば、お金がお金を稼ぎ出すのは悪いことではないのです。
そもそも企業とは、あるいは行政機構とは資本家のものなのです。
金を持っている資本家がさらに金を増殖させていくための仕組みでしかないのです。
それが宮内流のコーポレートガバナンス論だと私などはきわめて単純に考えています。
福井さんにしろ宮内さんにしろ、村上さんと同じ発想の持ち主ですから、志などあるはずがないと思っています。
彼らの考える「志」とは、堀江さんや村上さんのような拝金主義です。
ですから、素直に村上さんのように、儲けたかった、といえばいいのではないかと思うわけです。
儲けて何が悪いなどと惨めな開き直りはいけませんが。

企業経営者のアカウンタビリティも宮内さんたちが盛んに言っていたことです。
しかし、自分の問題になると途端に口を閉じてしまうような、アカウンタビリティ論はいかにも残念です。
宮内さんにはせめて福井さんのような嘘はついてほしくないと思います。
危機管理の本質はフランクネスです。
人間は過ちを犯します。
志が高くても目の前にお金が積まれれば動揺します。
だから人間は魅力的なのです。

大切なのは過ちを犯すことではなく、それに気づいたときの対処の仕方です。

みんな見ています。
社会に、とりわけ次世代を担う若者たちに与える影響は大きいです。
福井さんは間違いましたが、宮内さんには間違ってほしくないと思います。
まだ間に合うように思います。

■世界を広げる学びと世界を狭める学び(2006年7月2日)
講談社現代新書の「偽りの大化改新」を読みました。
最近は大化の改新などはなく、乙巳の変という表現のほうが基本になっていますが、この本はこの事件でいったい誰が得をしたのかという視点から入鹿殺害の犯人探しをしています。
先日、「得をするのはだれか」に書いたように、先入観を捨てて、結果的に利益を得た人に焦点を当てて事件を振り返ると新しい構造が見えてくることもあります。
本書の結論は蘇我入鹿殺害の首謀者は軽王子、つまり事件後、即位した孝徳天皇だというのです。細かな論証をしていますので、説得力があります。
小学生の頃からこの事件は中大兄皇子による「改革」のプロローグという枠組みで学ばされてきた私には、そういう「素直な論理的帰結」が思いもつかなかったのです。
きっとこうしたことは多いのでしょうね。
学ぶことが発想の広がりを邪魔することもあるわけです。
「学び」には次元があります。
世界を広げる学びと世界を狭める学びがあるのかもしれません。
いまの学校教育はどちらを目指しているのでしょうか。

■正すべきは自らにあり。(2006年7月3日)
金英男さんの記者会見は見え透いたお粗末な茶番という人が多いですが、日本の国会の実況と、私にはそう違わないような気がしました。
印象に残ったのは、隣で発言している金さんの顔を横から唖然としてみている母親の表情でした。何も出来ない、発言すらできない、唖然とするしかないのです。
あの目線を、金さんはどう感じたでしょうか。
国会議員の答弁は、ああいう目線からも隔離されているのかもしれません。
いや、私たち国民が、ああいう当事者としての感受性や関心をすでに失っているのかもしれません。

北朝鮮政府の責任ある人が嘘をついたり、つかせたりしていることが、もし真実であるとしたら、それを正すことなく、その嘘の上に国交し、核危機を回避しても、それは何も生み出さないのではないかという気がしてなりません。
それに、悪事を見逃すことは、自らも悪事に加担することと同義です。
結局は〔仲間〕になるということです。
にもかかわらず、正すことも経済制裁も出来ずに、対話しようとしている。

しかし、ちょっと立ち止まって、自分の生き様を考えてみると、
実は私もまた、金英男さんと同じような生き方をしていることを否定できません。
嘘をつかなければ生きていけない社会。
納得できなくとも、体制に従わなければ生きていけない社会。
金英男さんが、見事に自分に重なっているのに改めてゾッとしました。
もちろん、そうしたことの積み重ねが日本の国会審議になっているわけです。

金正日の嘘の構造は、私たちの嘘とつながっているのです。
正すべきは自らにあり。
金英男さんの記者会見は自らの生き方も含めて、いろいろ考えさせられました。

■ゼロ金利とグレーゾーン金利(2006年7月4日)
今朝の新聞には、金利に関する二つの記事がでています。
ひとつはゼロ金利問題。
現在はゼロ金利というよりも、手数料などを考えるとマイナス金利ですが、金利よりも手数料のほうが大きな問題のような気がします。
それらを総合して考える必要があります。
もちろん両者は全く別の問題ととらえられがちですが、そうした発想を壊していくことが大切です。
私はゼロ金利には異論は全くない人間です。
財産を預かってもらうのであれば、むしろマイナス金利でも納得できますし、金利という発想こそが貨幣中心の現在の経済システムにつながっているような気がするのです。

一般金利はどうでもいいのですが、私にとってどうでもよくないのが、もうひとつの記事であるグレーゾーン金利です。
自民党の貸金業制度小委員会は、出資法と利息制限法の間の不透明な「グレーゾーン金利」を廃止することで一致し、出資法の上限金利を大幅に引き下げることにしたそうです。
ところが自民党内には、「急激に金利を下げれば貸金業者の審査が厳しくなり、借りられなくなった利用者が、より高金利のヤミ金融業者に流れかねない」「利息制限法の上限を少し超えただけで直ちに刑事罰の対象にするのは難しい」といった慎重論も根強いため、またまた特例措置が検討されているそうです。
いやはや、です。
より高金利のヤミ金融業者は犯罪です。
これをもっときちんと処罰すべきです。
本気で厳罰に処すればいいだけの話ですが、それがなされずにいます。
時々話題になるように、つながりがあるから処罰できないのでしょうか。
もともとすべての根源はきっと銀行にあるのでしょう。
そこを正すことをせずに、「高金利のヤミ金融業者に流れかねない」などという発想には怒りを感じますが、「利息制限法の上限を少し超えただけで直ちに刑事罰の対象にするのは難しい」などという発想には驚きを感じます。
自らも加担している人なのでしょうか。
私にはそう思えます。そういう人をまずは処罰してほしいです。

ヤミ金融業者がなぜなくならないのか。
それは金融システムの基本設計が悪いからだと思います。
極論すれば、基本に「金利」概念があるからです。
利息制限法の上限金利も大幅に引き下げるべきだと私は思いますが、そもそも金融システムや貨幣システムは何のためにあるのかという問題です。
みんなの生活を支援するためのものでしょうか、それとも権力を集中するためのものでしょうか。
無尽講や頼母子講の歴史、地域通貨の実験、など、私たちは今の貨幣システムとは違った仕組みの知恵ももっています。
複数の仕組みがあってもおかしくはありませんが、今の貨幣システムはどうも私にはなじめません。
だからといって、そこから抜け出られないのがもどかしくて仕方がありません。

高金利を禁止するとお金を貸す人がいなくなるので、お金を借りたい人は困ってしまう、とよく言われますが、この設問はどこかおかしいと思いませんか。
基本的な前提が私とはきっと全く違うのでしょうね。
お金がないために自殺するようなことの起きない経済システムはないのでしょうか。
お金がなくても、水と食べ物があれば生きていけるのですが。
ちなみにお金があっても、水と食べ物がなければ生きていけません。
そこから考えていくことが必要になってきているように思います。
青臭いなと笑われそうですが。

■「もったいない」概念と「29日目の恐怖」(2006年7月5日)
滋賀県知事選で嘉田さんが自民・公明・民主の支援を受けていた現職を破り当選したことが大きな波紋を呼んでいます。
もしかしたら「常識」が回復しだす、地殻変動の予兆かもしれません。

嘉田さんが旗印にした「もったいない」は生活用語です。
政治や産業の世界にはない言葉です。昨今の日本の政治や産業は「もったいない」概念を否定するところに成り立っています。
「もったいない」概念を壊すことで産業は発展し、「もったいない」概念から自由になることで政治は国民から支援をとりつけてきました。
その結果が、環境破壊であり、パンとサーカスの借金財政です。
もちろん、「もったいない」概念を基本においた政治も産業もあります。
おそらく日本江戸時代はその社会原理で展開されてきていたように思います。

この「事件」は様々な示唆を与えてくれています。
そこから何を読み取るかは人によって様々でしょう。
読み取る人たちの感受性が、日本の未来を決めていくでしょう。

ここ数日の新聞記事を読む限り、しかし事態はそう変わりそうもありません。
私が地殻変動の予兆を感じたことを年賀状に書き、雑誌の連載記事に書いてからでももう15年がたちましたが、ほとんど変わった気配はありません。
しかし、変わってきているのです。もはや予兆ではないのです。

最近、環境問題に絡んで「29日目の恐怖」という話が語られています。
私が子どもの頃、流行ったクイズと同じ話ですが、
「ある池のハスの葉が増え、1か月で池のすべてを覆い尽くしてしまったが、その前日の29日目、池の景色は特に普段と変わらなかった」
というヨーロッパの昔話です。
倍々で増えていくものは最終段階を迎える直前まで気づき難いということです。
もしかしたら、今は地殻変動の29日目かもしれません。

■最近とても気になること(2006年7月6日)
今日、近くの小学校の会議に自治会長として参加しました。
それに関してはCWSコモンズに書きますが、ちょっと最近気になっていることを書きます。
最近の会議では各人に小さなペットボトル飲料が配布されることが多くなりました。
会社の会議ではさすがにまだ多くはありませんが、行政や研究所やNPOの集まりでは多くなっています。
今日も各人に配布されました。
先日、市長に会いにいった時にもペットボトルが出てきたのにはさすがに驚きましたが、最近は私自身少し麻痺してきていました。それほど一般化しています。
見ていると会議で実際に飲む人は少なく、半分以上の人は持ち帰ります。
やはりこれは考え直すべきことだと思います。

たしかにペットボトルを使うと便利です。
サロンや会議を主催することの多い私としては手間もかからず簡単で便利ですので、人数が多いときには、ついつい依存してしまうこともあります。
日本はともかく会議の多いところですから、きっとたくさんのミニペットボトルが消費されていることでしょう。
資源消費の面からも大きな問題です。

しかし、それ以上に大きいのは、やはり「文化」の問題です。
机の上にペットボトルが置かれているのは私にはとても違和感があります。
しかも飲まない人は持ってかえってくださいといわれると、これは「謝礼のつもり」?などとつい思ってしまいます。事実、そう言われたこともありますが。
昔は自分ながらにけじめをつけており、ペットボトルには手をつけず、もちろん持ち帰りなどはしなかったのですが、最近、持ち帰ってしまうこともありました。断ると角が立つこともあるのです。
反省しました。

会議ではやはりきちんと心を込めてお茶を入れてほしいですね。
それができないのであれば、お茶などは出す必要はありません。
どうしてもというのであれば、せめて大きなペットボトルと紙コップを用意して、飲みたい人は自分で入れるようにしたらどうでしょうか。
各人へのミニボトル配布はぜひとも見直していくべきです。

私はこれから携帯用のステンレスボトルを持参することにしようと思います。
できるところから少しずつ取り組もうと思います。
皆さんもぜひお考えください。

■今日もまだウグイスが鳴いているのです(2006年7月7日)
今朝もウグイスが鳴いていました。
今年はいつまでもウグイスの声がきけます。
いま夕方の6時ですが、今も部屋からウグイスの声が聞こえました。
これはちょっと異常です。

奇妙な静けさがあった。たとえば、鳥は、どこへ行ってしまったのだろう。多くの人々が、そのことをいぶかり、心配し、話した。裏庭の給餌場に、やってくる鳥はいない。たまにどこかで見つかる鳥は、死にかけていて、激しく震え、飛ぶことができない。それは、音のない看であった。朝になると、かつては、夜明けのコーラスを歌うコマドリ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイなど、多くの鳥の声でにぎやかだったのに、いまや、音はなく、草原や森や沼地に、沈黙があるのみだ。
(中略)
道ばたは、かつては魅力的だったものが、一面の植物がしおれて茶色になり、あたかも山火事にあったかのようだ。ここでも、あるのは沈黙であり、生き物がいなくなってしまった。小川さえも、いまでは生命がない。釣り人が訪れなくなったのは、魚がすべて死んでしまったからだ。

これは1962年に発表されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」のはじめにある「明日のための寓話」の一節です(杉本泰治仮訳)。
沈黙どころか、この数年の自然は冗長です。
それが沈黙よりいいことなのかどうか、にわかには判断できませんが、今年のウグイスは異常です。
何かの予兆でなければいいのですが。
庭にメロンの食べた後を小鳥たちのために置いておいたら、カナブンで真っ黒になっていました。これほどのカナブンがこの時期に群がっているのもめずらしいです。
その反面、蝶々が少ないような気がします。
この数年、モンシロチョウはめっきり減りましたが、昨年はアゲハチョウが賑やかでした。
今年は気のせいか蝶が少ないようです。
毎年、何がしかの異常を感じます。
気のせいであればいいのですが。

九州の豪雨が心配です。
これは天災なのか人災なのか。
私たちの生き方を変えないといけないと思いながらも、変えられずにいます。

ちなみに我が家の庭に放したはずの沢蟹は、相変わらず姿を見せません。
春には子蟹が大挙出現するのではないかと期待していたのですが、今年もだめでした。
これはまあ別の要因かもしれませんが。はい。
自然は正直ですから、そこからのメッセージに私たちはもっと敏感にならなければいけないのでしょうね。
何か予兆を感じていませんか。

■地方分権反対論(2006年7月8日)
私は「地方分権反対論者」です。
そういうと、誤解されてしまうのであまり言わないようにしていますが。
「官から民へ」も「行政のサービス機関化」も反対なのですが、これも誤解されてしまっていますし、言葉は難しいです。
市長との議論のために言葉の定義をしたペーパーを用意して行ったら、佐藤さんは勝手に言葉を定義してしまうと言われたことがありますが、一般的に使われているからといってあいまいな意味で使っていては、本当の議論はできません。
ですから私はソクラテスほどではありませんが、言葉への自分の定義は明確にしています。まあ説明する能力と姿勢が欠落しているので、独りよがりと怒られてしまうわけですが。

さて地方分権です。
地方分権とは中央の権限(権力)を地方に分権(委譲)していくことですから、中央集権体制でのひとつの手段です。
地方分権体制といえば、体制ですから手段ではありませんが、分権というからにはどこかに権限を分ける主体がありますし、分権する大本の権限の源泉が一まとめになってあることが前提のはずです。
集権があればこそ、分権が成り立ちます。
それに「地方」というのは「中央」を前提とした概念ですから、ここでも全体から発想する枠組みが基本にあります。
そう考えると、地域主権という言葉と地方分権は全く発想が逆のものであることがわかります。
地域主権は、「地域」に、分権された権限ではない、固有の権限があるという概念です。しかも「地域」という概念は国家や政府と違って主体になりえない概念ですから、その権限の源泉は、おそらくその地域の住民であり、したがってその前提には住民主権があるはずです。
もっともここで国家と同じような虚構が入り込みます。
いわゆる有識者や有力者が、多くの場合は国家体制に依存した行政体や議員や法人役職者が「住民」を僭称します。
したがって注意しないと地方分権と同じようなものにもなりかねません。
組織原理が全く違うのですが、まだまだ現実には成立しにくいのが地域主権です。
しかし、NPO概念の広がりの中で、ようやく住民概念が実体化されつつあるように思います。
これに関してはこのブログやCWSコモンズで何回も書いていますが。

実は「もったいない」発想がどんどん希薄されたことにつなげようと書き出したのですが、なかなかつながりません。
テーマが大きすぎました。
要は、現場との距離と「もったいない発想」とは反比例するということを書くつもりだったのです。
たとえば、昨今の行政の無駄遣いは地方交付税に裏付けられた分権体制に起因するというような話です。
しかし、私の頭の中にある簡単な話も論理的に書いていくと膨大な文字が必要なことに時々気づかされます。
人間の頭とコンピューターは、やはり全くの別物ですね。

この話はまたつづきを書きます。

■イラク事件はまだ終わっていません(2006年7月9日)
イラク事件はまだ終わっていないようです。
北朝鮮情報もそうですが、ネット配信される様々な情報を読んでいると、日本のマスメディアの情報とあまりにも違う話題が飛び交っているので、戸惑いがあります。
今回はちょっと気になっている話題のうちの一つを紹介させてもらいます。

イラク西部の町ラマディで、あのファルージャ虐殺のような活動が進められているのだという情報があります。
高遠菜穂子さんや、JVC、PEACE ON などイラク支援に携わる個人や団体でつくっている「イラクホープネットワーク」が、その惨状を見かねて、ブッシュ大統領に攻撃停止を訴える署名集めを始めています。
http://iraqhope.exblog.jp/5179503/
詳しくはイラクホープネットワークの記事を読んでください。
ついでに次のサイトも読んでもらえるとうれしいです。
http://iraqhope.exblog.jp/5206129/

■テポドン騒動(2006年7月10日)
テポドン騒動では友人からどう思うかというメールが来たり、またいろいろなメーリングリストで賑やかな話題が送られてきたりしていますが、私にはどうしても瑣末な問題にしか思えません。
どこに危険性があるのでしょうか。
全く理解できないのです。
あの程度の核兵器であれば、アメリカにとってはおもちゃのようなものでしょうし、その実験をするからといって、それがどうしたという話です。
かつてフランスが核実験をした時に世界の世論は盛り上がりましたが、それに比べれば、どうでもいい程度の実験です。
現にインドも9日にミサイル実験をしています。
なぜそれは問題にならないのでしょうか。
北朝鮮が当事者だから問題というのであれば、少しはわかりますが、まあそれでもブッシュや小泉とさほど違いがあるわけでもありません。
過剰な騒ぎには何か背後に意図を感じます。
これに関しても、ネットでは面白い情報がながれています。
それらを読むと世界の見え方が変わってきます。
いずれが正しいかではなく、固定観念で世界を見るのは止めたほうがいいようです。
しかし、それが難しい。
人間はまさに「作られた意識の集合体」なのかもしれません。

■携帯電話が不通になりました(2006年7月11日)
一昨日、うっかり携帯電話を水溜りに落としてしまいました。
急いで乾かしたおかげで、その直後は大丈夫になったのですが、昨日、かけようと思ったらだめでした。つまりそこに入っていた友人知人の携帯電話番号もすべて消去してしまったわけです。
これを契機に携帯電話なしの生活に戻ろうかと思ったのですが、昨日の1日だけで、その不便さを実感しました。人間は便利な生活を一度体験すると戻れなくなりそうです。
私はあまり携帯電話を使わないのですが、それでもこれだけの不便さを感じます。携帯電話をよく使っている人にとっては仕事もできないし、生活もできないかもしれませんね。私からパソコンがなくなったら、きっと文章ひとつ書く気がしなくなっているのと同じでしょうね。
さて、携帯電話をどうするか。
ともかく今日はもう1日、携帯電話なしの生活です。
早朝から岡山出張なのですが、少し不安ですね。
こうして人間はどんどん生活力を失ってきているのでしょうか。

■情報共有社会の落とし穴(2006年7月12日)
私が会社に入った頃から盛んに言われだしたのが「情報化社会論」です。
1964年です。
当時出版された「知識産業」(マッハルプ)や「情報産業論」(梅棹忠夫)、「幻影の時代」(ブーアスティン)は実に新鮮でしたし、当時愛読していた経営関係の雑誌(当時は今よりもたくさんの実践的な経営誌が発行されていました)はいずれも「情報化」特集が多く、企業に入ったばかりの私にも「情報化」が企業や産業を大きく変えていくという期待を持たせてくれました。
しかし、その後30年間、期待したほどの大きな変化もなく、情報化に失望していました。
状況が変わりだしたのは、5年ほど前からです。
情報環境はインターネットとパソコンのおかげで、一変しました。
情報共有社会が現実の話になってきたのです。
情報共有が実現すれば、情報格差による一方向的な支配関係や安直なビジネスによる利益格差は是正され、公正な人間関係と価値の配分が実現します。情報の共有は生活の共有であり、宮澤賢治が夢見ていた、みんなが幸せで豊かな世界が実現する。

と思っていました。
ところがです。どうも過渡期には反対の現象が発生するようです。
いや過渡期だけではないのかもしれません。
私は、情報共有社会の本質をどうも勘違いしていたようです。
最近、なんとなくそんな気がしだしていたのですが、
昨日、岩波新書の「メディア社会」(佐藤卓己)を読んで、私の間違いに気づきました。
この本は実に刺激的な本で、読んだ以上のことを書きたくなるほど、面白い本です。
副題に「現代を読み解く視点」とありますが、確かに現代を読む上での示唆がたくさんある本です。

大きな問題は3つあります。

情報共有が可能になる社会は実は情報格差を拡大する社会でもあるようです。
フィリップ・ティチュナーの「知識ギャップ仮説」というのがあるそうです。
誰でも利用できる情報量が増大すれば、個人の情報活用量は増大する、のだそうです。
情報を共有できる環境と個人の情報格差とはむしろ反比例するというわけです。
昔、情報化社会論の流行に反発して、「非情報化社会論」を書いたことがありますが、その論考を少し進めれば行き着いたことなのですが、当時は全く気づきませんでした。
今は実感できるほどにわかります。
ちなみに、ネットで「非情報化社会論」を検索しましたが、出てきませんでした。少なくともある人が私の未発表の小論を論文に引用してくださっているのですが、昔のことすぎて見つからないようです。暇なときにまた探してみようと思いますが、こうしたネットサーフィンも面白いです。

もう一つの論点は、情報共有社会は人間の表情を消去するという問題です。
活字の発明で「子供」が誕生したといわれますが、情報化の主役がテレビになったことで「子供」が消滅したという議論があるそうです。つまり情報にアクセスするメディアが年齢を制約条件にしなくなったのです。衝撃的な指摘です。少子化ではなく、子供が消滅したのですから。これにもうっかり気が付きませんでした。
いや年齢だけではありません。性も生活場所も職業も、すべての属性を超えて、すべての人の前に情報が直接アクセスしだしたのです。これはすごく怖い話です。今の無表情な社会は、もしかしたら情報共有化のためかもしれません。個性の消滅につながりかねません。
昨今のさまざまな事件はここに起因しているのかもしれません。

説明不足ですみませんが、この2点は少しこれから考えてみたいと思っています。
いや、1年、すべての仕事を止めて、このテーマを考えてみたい気もします。
もしかしたら世界の行く末が見えるかもしれません。

ところで、この本を読んで、携帯電話は止めようとも思ったのですが、ついついまた買ってしまいました。
これが情報共有社会の3つ目の問題です。

■ジダンの頭突きと9.11事件(2006年7月13日)
ワールドカップの決勝戦でのジダンの頭突き事件が話題になっています。
インタビューで、ジダンが、こうした事件が起きると行動者が問題にされるが、その行動を引き起こさせた側も問題にするべきだ」と語っていましたが、心から同感します。
社会は見えるものしか糾弾しないのです。
見えるものは客観性が強く、見えないものは主観性が強いからです。

しかし、もし自らがジダンの立場だったらどうでしょうか。
そう考えれば簡単に答は見つかることが多いのです。

観戦していた子供たちには謝罪したいと言っていましたが、もしジダンのいうことが事実であれば、泣き寝入りすべきではなく、行動したことは子供たちにも大きなメッセージになったはずですから、謝罪しなくていいように思います。
時には大切なことを失ってでも守ることがあるといメッセージは、今の時代にこそ必要なメッセージです。
暴力はいけないというかもしれません。
では構造的暴力や言語の暴力はいいのでしょうか。
そんなきれいごとでは本質を見抜く子供たちはごまかせません。
小賢しい大人たちはだませるかもしれませんが。

私はジダンの発言を聞きながら、すぐ、9.11事件を思い出しました。
ジダンには自己釈明の場が与えられました。
しかし、もし仮に飛行機のビル突込みがビン・ラディンたちの行為だったとしても、彼らに釈明の場はありませんでした。
最近の多くの事件でも同じ状況にある事件は少なくありません。
ジダンの頭突き事件は、現代の世界を見る上で大きな示唆をあたえてくれます。

■トンボと転倒した自動車を見ました(2006年7月13日)
我が家の庭で今年初めてのトンボを見ました。
麦わらトンボでも塩からトンボでもない、ちょっと珍しいトンボでした。
今年はトンボも少ないです。
ウグイスはまだ鳴いていますが。

今朝、我が家の近くの道路で自動車事故がありました。幸いに若者が飛ばしていた軽自動車がなぜか横転してしまっただけで、人身事故にはなりませんでした。早朝でしたので、その転倒の大きな音で目が覚めて屋上から見てみました。道端に転倒した自動車がありましたが、その横を何もなかったように自動車が走っているので、もしかしたらあの音は聞き違いで、事故は夢だったのではないかと思いましたが、まもなくレッカー車が来て自動車を片付けてくれましたので、夢ではありませんでした。
しかし、誰も事故のところに集まりませんでした。朝の忙しい時間だったからでしょうか。ポテドンほどの迫力がないので人目を引かなかったのでしょうか。

身の回りにはいろいろな事件が起きますが、
どうも私たちの関心は、身近な事件よりも、テレビの中の事件に向いているような気がします。
我孫子市では昨年、2000件の事件が発生したそうです。
こんなにたくさんの事件が起きているのに、私はほとんど知りません。
情報の流れのどこかに問題がありそうです。

■電話が不通です(2006年7月15日)
携帯電話の不通に続き、今度は電話が不通です。
昨日の午後、激しい雷雨がありました。
停電もありました。
その後で気づいたのですが、また電話が不通になってしまいました。
1年ほど前に、光フレッツに切り替えたのですが、これで2度目の不通です。
幸いに今回はメールは大丈夫でしたが、こんなに簡単に壊れてばかりだと困ってしまいます。修理を依頼したら、留守電でした。まだ復旧していません。

市の災害緊急連絡網が電話で計画されていますが、これは問題です。
電話への過信は最近なくなりましたが、動くものが動かない状況を、私たちはもっとイメージしておくべきですね。
今日はまた暑くなりそうです。

■ゼロ金利時代が終わって残念です(2006年7月16日)
ゼロ金利時代が終わりました。
残念です。
私はマイナス金利派なのです。
まさに最近はマイナス金利でした。
わずかな金利は銀行手数料にははるかに及びませんでしたから、実際にはマイナス金利だったのです。
しかしみんなそれに大きな抵抗もなく、文句はいいながらも順応しだしていました。
新しい経済へのチャンスだったのです。

荷物は保管してもらうと保管料を取られます。
なぜお金だけが保管料も取られずに、利子がもらえるのか、考えてみたことはあるでしょうか。
お金は減価しないし、個性がないので預かっているうちに活用して収益を生むからだという説明は、一見、もっともらしいのですが、
ではなぜお金は減価せずに、収益を生むのかというと、これもよく考えてみると必ずしも公理ではありません。
たとえば地域通貨のように、減価する通貨もありますし、お金が収益を生むのではなく、お金を効果的に活用する行為が収益を生むわけです。しかもお金は利益だけではなく、損害や混乱や不正も生み出します。人間を壊していくことも少なくありません。

利子の考えは、お金が利益を生むという発想を広げ、お金に価値を与え、お金中心の発想を生み出します。
お金があれば、何でもできるなどと思っている人は多くはないでしょうが、しかしお金への過大期待を持っている人は少なくないでしょう。
しかし、無人島で一人になった時に、いくらお金をたくさん持っていても何の役にもたちません。
お金そのものには当然のことながら、何の価値もありません。
お金とは人とのつながりにおいてのみ、意味がある仕組みでしかありません。
しかし、そのお金が「人のつながり」を壊すことはよくあることです。
なんとも悩ましいのがお金です。
いや、現代の経済システムにおける通貨というべきでしょうか。

お金は使ってこそ意味があります。
お金は財産ではなく、みんなをつなげる仕組みです。
ですから、使わずに保有している人のお金を預かる場合は、保管料をもらうのが合理的です。
そのお金を「運用」などで増やそうなどと思う必要はありません。
なにしろ預かってもらわなければいけないほど、お金が余っているのですから。
むしろある程度の損失を前提に、社会活動の支援をしていったほうが、預金者は喜ぶかもしれません。
そんな馬鹿なことはない、と一蹴されそうですが、まずはそうした固定観念を捨てるべきでしょう。説明の仕方は難しいですが、可能性はゼロではないでしょう。

せっかく5年もゼロ金利時代が続いたのであれば、むしろ一歩進んで、マイナス金利へと移行すればよかったのにと私は思います。
マイナス金利になって、みんながお金をもっと使い出せば、社会は元気になります。
無駄遣いが増えるではないかといわれそうですが、それを防止するために、無駄遣いのための消費税は50%くらいに上昇させたらどうでしょうか。
無駄遣いする人はその程度の消費税ではひるみません。
仮にひるんだとしたら、無駄遣いがなくなるのでいいことです。
そして無駄遣いではない、日常生活のための消費に関しては、消費税は無料にするのがいいでしょう。
いや、マイナス消費税があってもいいかもしれません。
無駄遣いもできない、生活消費では余りすぎる人は、稼ぐのをやめて、社会のための活動を始めましょう。
これも結構お金がかかりますので、お金減らしに役立つかもしれません。
それでも余るようであれば、ぜひコムケア基金やCWS基金に寄付してください。
いつでも受け付けています。
まあ、私が勝手に使ってしまう可能性が高いのですが。

めちゃくちゃな議論だといわれそうですが、パラダイムを変えたら、そうめちゃくちゃでもないかもしれません。
まあ、こういう書き方をするとめちゃくちゃに感じるでしょうが、大きな枠組みで経済の仕組みを考え直す時期が来ているように思います。

それにしても、金利がわずかに上昇しても、預金がせいぜい数百万しかない私たち庶民の利子収入はたいして増えるわけではありません。それよりも他の料金上昇の余波を受けたマイナスのほうが大きいはずです。
預金で暮らしている年金生活者にとっても、きっとマイナスが大きいでしょう。
よほど巨額な遺産継承者は別ですが。
にもかかわらず、庶民はゼロ金利解除でなにやらうれしい気分になっているようです。
テレビ報道の姿勢にもそれを感じます。
いや、私自身さえ、そうした考えが頭のどこかにあるような気もします。
どこかで何かがおかしいのです。

■言葉と文字の持つ意味(2006年7月17日)
印刷の普及が出版物を増やし、それが「国語」を形成し、ナショナリズムを勃興させたという説があります。とても納得できる主張です。
ホンダはかつて企業を活性化させるためにKT法というのを導入し、トップから現場の従業員まですべてこの研修を受けて、社内の言語をそろえたといいます。
バベルの塔の崩壊は、天を目指す人間をとどめるために、神様が人々にたくさんの言語体系を与えて、コミュニケーションできなくさせたからだといいます。
女房は郷里に戻ると方言を使い出しますが、それに伴い人格も変わるようにさえ感ずる時があります。殖産興業・富国強兵に向けて、政府が標準語を重視した理由はよくわかります。
古来の表情を持った地域の名称が機能的な味気ない名称になってから、地域の文化はたぶん崩壊しました。せっかくの地名をひらがな表記する自治体は、愛郷心を育てることはないでしょう。
先週、仕事で50を超える企業の社内報を読みました。社内報には見事にその企業の文化や経営水準がにじみ出ています。
コミュニケーションの仕方やメディアが変わりだしていますが、100年後はどうなっているのでしょうか。
しっかりした国語よりも英語を教えたがる、あるいは学びたがる風潮には大きな危惧を感じます。
また、言語の意味をあいまいにしたまま、金銭を言語代わりにしようとしている企業にも大きな不幸を感じます。

昨日、20年以上前に書いた「非情報化革命論」のコピーが見つかりました。
未完でした。私にとってはもう一度読んでみたかった「幻の論文」だったのです。
20年ぶりに読みました。
言語について、もう少しきちんと考えないといけないことに気づかされました。
情報論は面白い課題がまだたくさんありそうです。
よかったら読んでください。

■財界による消費者情報のオープンバンク構想(2006年7月18日)
パロマ工業の瞬間湯沸かし器による死亡事故が問題になっています。
事故発生後の会社の対応がとても残念です。
日本の企業のビジネスセンス、とりわけ製造物責任感覚はまだまだ未熟のようです。
コンプライアンスやCSRの議論よりも、まずはビジネスセンスを磨くことが大切かもしれません。
以前、書いた松下のファンヒーターも、結局はその裏返しのような気がします。

インターネットがここまで広がってきた状況を考えると、こうしたことの解決策はそう難しいことではないように思います。
内部告発の議論もありますが、消費者情報をもっと社会化すればいいのです。
つまり、消費者の体験や今回のような事故を、社会的に掲示できる仕組みをつくれば、状況は大きく変わるでしょう。
そうした仕組みは、すでに一部のNPOなどが取り組んでいますが、もっと体系的に経団連が中心になって進めたらどうでしょうか。
抽象的な倫理綱領などとは違い、効果は抜群のはずです。
費用対効果も高いはずで、企業にも社会にも、もちろん消費者にもメリットのある「三方よし」のシステムになると思います。
今度、経団連の人に提案してみようかと思いますが、いかがでしょうか。

■名古屋の教訓(2006年7月19日)
昨日、名古屋で乗ったタクシーの座席の前に「自己研修終了認定書」というのがはってありました。
最近は客との対応がいろいろ問題になるので、その研修を受けるのだそうです。
基本は、客を乗せた時間はともかく、ひたすら客に耐えることのようです。
相手のためと思って言っても、受け取り方で問題にされることもあり、しかし何もいわないとまた無愛想だと怒られるわけです。
問題を残したまま降ろすとすぐに本社に電話があるそうです。
社会の実相が象徴されているようです。
密室的空間に自ら入って、自らの生命を託するタクシーのドライバーとの信頼関係がなくなったときに、タクシーは存立できなくなるでしょうが、その予兆を感じます。
それは同時に、社会の劣化につながります。
タクシーが公共交通である時代は終わろうとしているのかもしれません。
規制緩和がそれを加速しているような気もします。
どこかに仕組みの問題がありそうです。

こんな話もありました。
名古屋のドライバーは信号切り替えのぎりぎりまで通過するのだそうです。
一番ひどいのは右折信号のある交差点で、右折に切り替わっても直進車が止まらないので、右折車は今度は赤になっても走ってしまい、その結果、反対の信号が青になっても、右折車のためにすぐにはスタートできないのだそうです。
つまり信号の効果が全体に少しずつ後ろよりになっているわけで、結局はそれぞれの走行時間は同じになるので、大きな目で見たら損得はないのです。
問題は交通信号の信頼性が低下することです。
私はいつも交通信号の信頼性に驚異に近いものを感じています。世の中には様々な人がいますが、交通信号はほぼ例外なく守られています。信号の信頼性を高めたことが、自動車産業の発展を可能にさせた最大の理由とさえ思いますが、それは単に交通ルールだけではなく、社会生活の基本につながっています。つまりモータリゼーションの普及と社会秩序の安定とは強い相関があるはずです。
交通事故数とソーシャル・キャピタルの関係は面白いテーマかもしれません。

以上、二つの話から、名古屋の未来を危惧するのはばかげていますが、なぜか最近の企業不祥事は愛知が多いです。
それにトヨタの本社があるのに、愛知県は毎年交通事故の数では全国の1位か2位なのも理解しにくいことです。トヨタのCSRの理念も気になります。

■消えたニュース(2006年7月20日)
最近、ぱったりと村上ファンド関連の福井さんや宮内さんのニュースがなくなりました。
それもすべてのマスコミがいっせいに、です。
どうしたのでしょうか。
マスコミのニュースがみんな同じなのは当然だと思っていましたが、
やはりこれはおかしいことです。
どのニュースを追いかけるか、あるいはきちんと報道するか、
報道の内容もさることながら、報道の対象こそが重要な問題であることに、
私はやっと今日、気づきました。
すでにオーウェルの「1984年」が到来しているのに気づいたわけです。
注意しなければいけません。

■欽ちゃんの教え(2006年7月22日)
メンバーの不祥事件で、衝撃の球団解散宣言から3日目にして、欽ちゃんの茨城ゴールデンゴールズは復活しました。もしこれが欽ちゃんではなく、他の人だったら批判も出たでしょうが、ほとんど批判もなく、元に戻った感じがします。
これは欽ちゃんの人徳が大きな理由だとは思いますが、それだけではないでしょう。
ここから企業の経営者が学ぶことはたくさんあります。
いや私たちもまた、その生き方において学ぶことは少なくありません。
欽ちゃんがこうした素直な対応ができるのは、彼に生き方そのものに拠るところが大きいでしょうが、私たちもその生き方を学ばねばいけません。
自由に、わがままに、無邪気に、迷惑をかけながら幸せもばらまきながら、欽ちゃんの生き方はそんな生き方に見えます。
私にとっては、理想的な生き方に感じます。
彼の優しさと潔さには、たくさんのことを学ばせてもらいました。
難しく考えずに、もっとしなやかに生きていけばいいのです。

政治家もこんな生き方ができないものでしょうか。
福田さんが出馬をやめたのがとても残念でなりません。
欽ちゃんのように、もっと素直にわがままに生きられないものでしょうか。
見えないところで決めていく茶番劇からそろそろ抜け出てもいい頃です。

■長野知事選の行方(2006年7月23日)
長野県の知事選が8月6日です。
これに関してはさまざまな議論が展開されていますが、先の滋賀県知事選の結果が大きな影響を国政に与えたように、この選挙も日本の未来を左右するほどの意味があるように思います。
素直に考えれば時代の流れは間違いなく田中再選ですが、選挙は予断を許しません。
それに田中知事もファシストとまで言われるほどに敵を増やしているようですし、最近の教育行政では教育の現場との乖離も大きくしているようです。
http://w2.avis.ne.jp/~hito-art/nikki-6-7-1.htm
とても示唆に富んでいるのが共産党の動きです。
共産党はなんと「自主投票」を決めたのです。
http://w2.avis.ne.jp/~hito-art/nikki-6-7-6.htm
しかし、気を許すわけにはいきません。
さまざまな利害を複雑に絡ませている旧体制の強さは侮れないからです。
彼らは生活者に政治の利権を渡したくないと資力(死力)を尽くしてくるはずです。
1回目(滋賀)の勝利は、2回目(長野)に有利とはいえないのが政治です。

CWSコモンズで書いたように、友人が福岡市の市長選に立候補しようとしています。また来年の東京都の区議選でも2人の友人が立候補を検討しています。
ようやく普通の人たちが政治に参加しだしました。
いま起こっているのは、政治のノーマライゼーションなのです。
利権政治屋にとっては生きるか死ぬかの物語の始まりなのです。

いずれにしろ政治は大きく変わっていくでしょう。
滋賀県知事選挙はそうした時代のベクトルを顕在化しました。
今回の長野県知事選は、そのベクトルがさらに前に進められるかどうか、とても重要な選挙です。
長野県の久保田さんが投稿してくださったように、時代の流れを戻さないためにも、長野県の皆さんにはしっかりと現実を見てほしいと思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/07/29_fe1a.html#c8625183
先日、長野の県道をバスで走ったら、道路のガードレールが材木で作られていました。
これも田中県政の快挙です。
多くの首長と違い、彼には見識があります。世界が広いのです。
投票権がないのが残念です。

■管理のための教育と自立のための教育(2006年7月24日)
教育基本法が問題になっていますが、その改正の動きと連動するように各地の学校や教育委員会でさまざまな問題が起こっています。
ある学校では教育勅語を生徒に唱和させたり、問題になっている教科書が住民の反対にも関わらず使われることになったり、メーリングリストにはそうした話が毎日飛び交っています。
教育を受ける権利は憲法で認められていますが、問題はその教育の中身です。
教育は2つの側面をもっています。
管理のための教育と自立のための教育です。
教育制度の設計主体が管理側にあれば、おのずとその内容は支配や統治のためのものになります。
経済成長を支援するための産業社会への順応教育も、この一種と考えていいでしょう。これが悪いわけではなく、そのおかげで日本は豊かで安全な社会を実現しました。
しかし、そこには危険性も内在します。ナチスや今の北朝鮮の事例はそれを物語っています。
この種の教育は、ある段階まではメリットが大きいですが、ある段階を超すと管理側にさえマイナス面が出てきます。しかしその段階で軌道修正する仕組みはほとんどの場合、仕組まれていませんから、破綻しかありません。

自立のための教育は個人に基点をおいています。多様な選択肢を用意することが管理側の役割になります。そこに市場原理を入れたほうが多様性を実現できるという主張が最近強くなっていますが、そんなことは絶対にありません。市場原理の本質は多様化ではなく、画一化です。そのことが忘れられているのが残念です。
民営化発想や市場原理は、多様性を壊しこそすれ多様性を増やすことはありません。
一時期話題になったチャプタースクールや私塾はうまく設計できれば多様性につながる可能性はありますが、そこにはしっかりしたコモンズの理念がなければいけません。

教育のありかたは、社会のビジョンと深く関わっています。
ビジョンや理念のない教育改革や研究がはびこっているのが、とても残念でなりません。

■食医の不在(2006年7月25日)
昨夜、青森の三沢市で花作りに取り組んでいる人たちと話す機会がありました。
参加者の中に保育園や児童館に関わっている人たちがいたこともあって、子どもたちの遊びや食事の話になりました。
三沢においても子どもたちの食事環境は都会型になってきているようです。
ある子どもが、給食の食器を見て、家のとは違うと言うので、よく聞いてみたら、その家ではスーパーで買ってきたプラスチックのトレイをそのまま食卓に出しているのだそうです。
昔は給食の食器が粗末過ぎて問題になりましたが、どうも事態は反対になっているようです。
給食が生命線になっている子もいるそうです。
家族の収入が少ないためにそうなっているのでは必ずしもないようです。
保育園の方が「最近は母親が食医の役目を果たしていないから」といいました。
「食医」。
日本の辞書には出てこない言葉です。
NHKで「チャングムの誓い」という韓国のテレビドラマを放映していますが、そこで先週の土曜日に出てきた言葉です。
チャングムを見ていますね、と質問すると、やはりそうでした。
その番組では、主人公が宮廷の皇太后に、次のような質問を出します。
「人を当てる問いでございます。その方は古くからの食医でございました。明国皇帝の食医は、その方に由来すると言われています。また、その方は一家のしもべで、あらゆるつらい仕事をしながらも、全員の師匠でもありました。この人が生きている間は、この世は山でありましたが、亡くなるとこの世は水に沈んだという伝説があります」
答はわかりますか。
先の発言をされた羽立さんは、「私はすぐになぞの答がわかった」というのです。
答は「母親」です。
母親の不在、食医の不在。
子どもたちを預かっている保育園や児童館の人たちには、そうした社会の実相が見えているのです。
政策立案者にかけているのは、おそらくそうした社会の実相の把握です。
情報のベクトルを変えないと社会はなかなか変わっていかないでしょう。
行政と住民、経営者と従業員、そうした間で仕事をしていると、そうしたベクトルの転換の必要製を強く感じます。

ちなみに、私は「チャングムの誓い」は今月になってから時々見るようになりました。この番組は完全な紙芝居で、20年前の日本のテレビを見ているようです。しかし、メッセージはわかりやすいです。
最近の日本と韓国の社会の実相を反映しているのかもしれません。

■富裕層が海外に出て行くことをどう考えますか(2006年7月26日)
今朝の朝日新聞に「ハリー・ポッター」の翻訳者の松岡さんの翻訳料収入の課税をめぐる記事が大きく出ていました。松岡さんは日本とスイスの半々で暮らしているために、税率の安いスイスで所得申告しているのが問題になったようです。
私が興味を持ったのは、それに関連して、「富裕層、次々海外へ」という見出しとその関連記事です。企業で成功した富裕層の所得はかなり海外に流れているようですが、形式的な居住地を海外に移すことも多いのでしょうか。
そういえば、中学校の頃、税金の関係でリベリアやパナマに船籍を置くことが多いということを習ったことを今でも覚えています。子ども心に、おかしな話だと強く印象に残ったのです。
これは、いわゆる、便宜置籍船(FOC:Flag Of Convenience Ship)で、「本来、課される税金や法律などから逃れるため、実際の船主とは異なる国に船籍をおいている船」(Wikipedia)のことですが、同じWikipediaによれば、「これらの船は他国の国旗を掲げて操業を行なう上、乗組員の人権も無視されていることが多いため、国際的な問題となっている」のだそうです。
船だけではなく、なにやら現在の経済の本質を象徴しています。

富裕層にとって、国家とは何なのか、かれらの愛国心とは何なのか。
そこで思い出したのが、24日のテレビ朝日の「テレビたっくる」での、森永卓郎さんの発言です。
税制が話題になっていました。税制のことをあまり知らない人たちが話し合っていましたが、そのなかで、森永さんと共産党の議員の方がしっかりと勉強されていることがわかりました。印象に残ったのは森永さんの言葉でした。
法人税制を高くしたら利益を上げている会社が海外に出て行くという自民党の、たとえば高市早苗さんの発言に対して、そういう会社はどんどん海外に行ってもらえばいいと言い切ったのです。
感心しました。私も以前からそう思っていたからです。そういう会社はいらないのです。
それでは経済が成り立たないと自民党の、たとえば高市早苗さんは馬鹿にしたような笑いを込めて切り捨てましたが、そこに彼らの本質を感じたのは私だけでしょうか。
要するに、彼らは国家を自らの利益の源泉と考えており、社会のあり方や仕事への取り組み方、つまり価値観よりも、儲けを自らに持ってきてくれる組織や人の取り込みを基本に考えているのです。いささか極端に言えば、賄賂経済の延長で考えているということです。
経済のパラダイムを変えなければいけません。
経済の位置づけを変えなければいけません。
富裕層にはどんどん海外に出て行ってもらうのがいいと私も思います。
そういう人は、みんなが暮らしやすい社会には無縁な人なのです。

今回もまた暴論に聞こえそうな書き方になってしまいました。
まあ、暴論なのかもしれませんが、
しかし、私は森永卓郎さんのファンになりました。
同じ経済学者でもこんなにも違うものなのですね。
もちろん竹中さんと比べての話ですが。

■荒すぎる議論とビジョンの不在(2006年7月29日)
消費税議論が盛んになりだしています。
こうした議論がでてくるたびに思うのですが、日本での議論はビジョンのないままの粗雑な議論ばかりのように思います。
靖国問題もそうですが、大本の理念やビジョンがなく表面的な議論ばかりがなされます。
昭和天皇の言葉は、理念やビジョンがあれば全く意外性などないはずですが、いかにも意外な要素が加わったような報道も行われます。
新聞社の編集委員や論説委員の不勉強は20年位前から私自身はささやかなお付き合いで実感していますが、それにしてもひどすぎる議論が多すぎます。
消費税に関しても、大切なのはその根底に課税理念や目指す社会の姿です。
それに消費税といっても様々です。
日本は世界で最も消費税率の低い国ですが、そんなことすらほとんどマスコミは問題にしません。
私は消費税中心の税体系に転換すべきだと思っていますが、それは社会そのものの重点が生産から消費に変わっているからです。つまり消費するときに考えさせる仕組みが必要だと思うからです。
その視点から考えると、当然、環境や資源を消費する「生産活動」も税の大きな対象になります。
そうした税の役割議論があってこその消費税です。
ちなみに、所得税や相続税をどうするかですが、これも消費起点発想で考えれば問題はありません。その考えを突き詰めると、実は私の好きなマイナス金利論につながるはずです。お金で儲けることはたぶんできなくなるでしょう。

一方、生活のための食材や生活必要品は無税にするべきです。
消費に一律に課税することが消費税のすべてではありません。
消費税は庶民にとっては税負担を軽くする最善の方策になるはずです。
そうした細かな議論は、ビジョンがあればこそでてきます。

ともかく税体系は簡単にすべきです。
国で集めて地方に配分する仕組みだからこそ、無駄も不正も発生します。
年金にまで課税するような官僚のための仕事作りをしてはいけません。
最初から年金額を減らせばいいだけの話です。

靖国問題もそうですし、郵政民営化もそうですが、
目的もあいまいで、しかも粗雑な議論で、結局は目先の自分だけの利益に振りまわされている状況から抜けでなければいけません。
せっかく歴史をかけて積み上げてきた郵便の仕組みが、儲けしか考えない民間企業に安く売り渡されたような愚挙は繰り返したくないものです。
国鉄や電電公社が民営化されて良かったと考えている人が圧倒的に多いだろうと思いますが、果たして本当に良かったのかどうか、私は疑問です。
もう一つの方法があったような気がしてなりません。

■経営者の雇用拡大責任と偽装請負事件(2006年7月31日)
今朝の朝日新聞のトップ記事は「偽装請負」でした。
偽装請負とは、「メーカーなどの企業が、人材会社から事実上、労働者の派遣を受けているのに、形式的に「請負」と偽って、労働者の使用に伴うさまざまな責任を免れようとする行為」(朝日新聞記事)だそうです。
職業安定法や労働者派遣法に抵触し、職業安定法には懲役刑もありますが、適用されたことはほとんどないと書かれています。
最高の業績を上げているキャノンの名前も出ていましたが、違法を指摘されながらまだ行われているそうです。そこに日本の企業の腐った現実があります。
なぜこんな状況になったのでしょうか。
しかも、こんなことをして利益を上げた企業の経営者が財界トップになる時代なのです。
彼らには恥の意識はないのでしょうか。
そうした人たちがトップにいる組織がまともな活動ができるはずがありません。

私が会社に入ったのは昭和39年です。
入社後5年目に、関係会社に出向しました。
そこの経営者が私に、われわれには雇用を拡大していくという社会的使命があると言ったことを今でも鮮明に覚えています。
そういう時代だったといえばそれまでですが、働く場を増やしていくことは、今でも経営を担う人の大きな役割だと思います。
にもかかわらず、最近はリストラと称して、雇用削減をすることが経営者の役割だとされる風潮があります。
とんでもない話だと、私は思いますが、そうした経済政策を推進している小泉首相がなぜか国民の支持を得ています。
支持しておいて、働き場が少なくなったなどとぼやいている国民にはさすがに愛想が尽きる思いですが、財界がたくみにその真実を糊塗していることに問題があるのかもしれません。
賢い人は無知な人をうまく利用するものですから。
また少し口汚くなってきました。すみません。
そういえば、昨日、友人が「最近、何かにつけ怒りっぽくなっているようです」とメールしてきましたが、本当にそうです。
昨日も接客の来客と政治問題で言い争ってしまいました。後味がよろしくありません。

雇用の安定こそが、社会の安定につながりはずです。
自らの存続基盤である社会の安定を損なうような企業の経営者にCSRとか企業倫理を語ってほしくありません。

■自民党総裁選挙は国民に政策論議を呼びかけるチャンス(2006年8月1日)
自民党の総裁選が動き出しましたが、どうも腑に落ちないことがあります。
たとえば河野太郎さんは早くから立候補していると思っていましたし、本人もテレビでそう発言していますが、支援者が20人確保できないので、立候補できないようです。
政党の総裁ですから、政党の規則が優先してもいいと思いますが、志ある人が議論にも参加できない仕組みはいかにも自民党らしく、国民のための政策議論が行われた上での総裁候補選びではなく、政策とは無縁の「何か」で総裁が決まることを象徴しています。
大きな時代の曲がり角であればこそ、政策論議が公開の場で行われることが必要ですが、有力視されている人たちの側から出てくる発言は「選挙に勝つ」ことを目指す党利党略のための議論ばかりです。若手議員ですらそうですから、高齢者議員はもっとそうでしょう。小泉首相が自民党を壊したという人がいますが、何を壊したのか私にはよくわかりません。官僚や財界との癒着や依存はますますひどいように見えますし、陰湿な密室議論も増えているような気がします。いや議論の不在さえも感じます。
ちなみに、自民党を壊すなどということは瑣末な話です。国民が自民党を見限ればいいだけの話で、自民党を壊すなどと発言する総裁の意図は自民党を国家政府と同じだと考えている態度の表明でしかありません。
要するに国家を私物化するという宣言以外の何ものでもありません。

河野太郎さんのような、少しは国家を考えている人にお願いしたいのは、ぜひこれを機会に国民に呼びかけて、政策論議を始めてもらいたいことです。
どうせ相手にしてくれない自民党執行部やマスコミにではなく、直接、国民に呼びかける場を全国で展開し、その広がりの中でマスコミを味方にし、輿論を創っていくことができれば自民党も耳を傾けざるを得なくなるでしょう。
今回の総裁選は旧態依然の形で行われるかもしれませんが、もしかしたら次回のスタイルは変わるかもしれません。
同じ土俵で行動するのではなく、土俵をもっと広く考えてほしいです。
それこそが、制度で発想するのではなく、個人で発想する時代の政治のあり方だと思います。

■新しい観光開発への関心(2006年8月2日)
日光に行ってきました。
予想に反して、観光客が少ないのに驚きました。
そういえば箱根もそうです。
箱根にしろ日光にしろ、たくさんの魅力ある資源をもっているのになぜこんなにも衰退してしまっているのでしょうか。

私は観光にはかなりの関心があります。
なぜなら観光こそがまちづくりの真髄を象徴しているように思うからです。
しかしこれまでの観光はそうではなく、まちこわしにつながる観光でした。
それでうまくいくはずがありません。
観光とは歴史や自然を伴うものです。
先週、平城京遷都1300年をテーマに小さな集まりがありました。
そこで奈良の「寝道楽」の話が出ました。
奈良は過去の観光遺産の上に寝ていても暮らしていけるという話です。
ギリシアを旅行した時に、現地のガイドさんが同じような話をしていました。
たまたま素晴らしい景勝地に恵まれたが故に、黙っていても観光客がきてくれるところもあります。
そこもきっと寝道楽人口が多いかもしれません。

3年ほど前に、房総の御宿の観光開発のアドバイザーをさせてもらいました。
残念ながら観光業界の発想は変わりようもないようです。
最近、観光地に行くたびに、気になって仕方がないのです。

それにしても、全く関係ない話ですが、
今夜の亀田選手のボクシングの勝敗は納得できませんね。
まあ、こうしてみんな自らを滅ぼしていくのでしょうか。
心しなければいけません。

■Educated Incapability症候群(2006年8月3日)
今日は、新潟水辺の会の金田さんからとても良い話を聞きました。
信濃川にサケを遡上させようという話があるのだそうです。
新潟の信濃川は長野では千曲川と呼ばれていますが、昭和初期までは新潟と長野の信濃川(千曲川)でそれぞれ年間70トン程度の漁獲量があったのだそうです。
小諸や佐久でサケが採れていたのです。
ところが、昭和10年代から始まった水力発電事業によって、川がせき止められ、サケの遡上が難しくなり、昭和20年には西大滝ダムから上流には、ついに一匹も上らなくなってしまったのだそうです。千曲川からサケが消えてしまったのです。
そこで新潟水辺の会では、長野県の有志とも話し合いながら、サケの川を蘇らせるために、新潟・長野両県の人々に広く呼びかけながら運動を発展させていこうと考えているのだそうです。
ともかく、「川があるのに魚が上ったり下ったり出来ないことを、あたりまえだと考えるのはやめよう」というところから出発しているのだそうです。
とても共感できる発想です。
私たちが「当たり前だ」と思っていることの多くは、決して当たり前でないことが多いのです。
知識を学ぶことで、「当たり前」対応が多くなってきていることが残念でなりません。
「当たり前」と考えたら、そこで思考は停止します。
もし「知識量」「情報量」と「当たり前反応」に相関関係があるとしたら、有識者ほど時代の変わり目には間違いを犯しかねません。

昔、Educated Incapability という言葉を聞いたことがあります。
知識が多ければ多いほど、教育を受ければ受けるほど、現実を生きる能力、時代を開く能力が失われてしまうということです。
今日は金田さんと話していて、その言葉を思い出しました。

ちなみに、私は最近、Educated Incapability症候群に陥っています。
何をやっても社会が変わらないのであれば、まあ自分のやりたいことだけやっておこうか、という生き方に引きずり込まれそうなのです。
もしかしたら、私も「有識者」なのかもしれません。
家族から馬鹿にされるのは当然かもしれませんね。
反省。
最近はともかく反省することが多いです。はい。

■物事を簡単に考えてしまう発想(2006年8月4日)
「当たり前」発想が思考停止につながることを昨日書きましたが、それとは逆の発想があります。
「そんなことは簡単なことです」とまず思い込んでしまう発想法です。
実はこれが私の発想法なのです。

商店街の活性化、そんなことは簡単なことです。
少子化の問題解決、そんなことは簡単です。
企業の業績改善、そんなことは簡単です。
家庭農園の雑草とり、そんなことは簡単です。
などなど、
これが私の基本的な発想なのです。
そういえば、CWSコモンズに、
「企業を変えるのは簡単です」
http://homepage2.nifty.com/CWS/kigyouhennkaku1.htm
という小論も載っています。

実はこの発想が家族から大きなひんしゅくを受けているのです。
そして私の信頼感を損なっているのです。
知ったかぶりだ。
物事を簡単に考えていつも失敗ばかりしている。
簡単ならもっときちんと畑の草取りをしろ。
いやはや、困ったものです。

女房からは、「あなたは現実を知らないで物事を簡単に考えすぎる。そのしわ寄せはすべて家族や関係者にいっているのがわからないのですか。現場が大事だといいながら、現場の人の大変さをどう考えているのですか」と厳しく怒られています。それが原因での夫婦喧嘩も少なくありません。
しかし、難しい問題をそれは難しいという発想から始めたら何もできません。
これもまた一種の思考停止発想になるのです。

何か問題解決を議論していると、
そんなことはできないとか、難しいとか、いう人が多すぎます。
そう考えていては、前に進みません。
失敗してもいいですから、まずは「そんなことは簡単だ」と声に出していいましょう。
そこから「不幸」が始まることになるかもしれませんが、
それが「人生」なのです。
声に出して、復唱してください。
「そんなことはかんたんだ」
どうですか、何か人生が開けたように気になりませんか。

■加害者と同じお墓に入りたいですか(2006年8月5日)
首相の靖国参拝の賛否が議論されていますが、どうもその内容があいまいなままの議論なのがもどかしいです。
小泉首相が靖国参拝したいのであればしてもらえばいいようにも思います。
大騒ぎすることはありません。
小泉首相に関しては、もっと大騒ぎすべきことはたくさんありますから。
もちろん私は首相の靖国参拝には反対ですし、それが先の戦争を正当化するものであるとの思いを持っています。
戦没者への慰霊行為と戦争の正当化行為とは全く別物です。
そして小泉首相は憲法に反してまで日本を戦争ができる国にしようとがんばっている人であり、極めて戦争好きな人間であることは明白ですから、その人を首相に選んだ国民は、いまさら靖国参拝反対などと叫んでも遅いのです。
イソップ物語のかえるの王様の話を思い出します。
こんな話です。

池でガアガア鳴くばかりのたくさんの蛙たちが、ある日、神さまに自分たちの王様を授けてくださいとお願いしました。神様は彼らが馬鹿なのを見てとって、一本の木片を沼の中に落としてやりました。その音に驚いて蛙たちは沼のそこに身を隠していましたが、木片が動かないのを知って、その上に座り込むなど木片の神様を馬鹿にするようになりました。そして、もっと違う王様がほしいと頼みました。腹を立てた神様は今度は水蛇を神様として送りました。そして蛙たちは、その神様に捕らえられてみんな食われてしまいました。池は静かになりました。
身につまされますね。

靖国は2つの意味があります。
英霊思想の象徴と先の戦争の正当化の象徴です。
靖国参拝と戦没者慰霊とは同じ話ではありません。
分かりやすく言えば、犯罪者と被害者が一緒に祀られているわけですが、その構図をあえてあいまいなままにしているのが、今の靖国論議です。
ですからマスコミでの靖国議論は内容のない議論でしかありません。
なぜ論点を明確にした言葉で議論をしないのか不思議ですが、これもまた関係者の思惑の結果なのでしょう。

戦争の犠牲者には手を合わせたいと思いますが、戦争を起こした張本人には手を合わせたくないのが人情です。
今回の流れるプールでの不幸な事故で、被害者の親が管理責任のある市や施設の責任者が葬式に参列するのを拒んでいる気持ちが、もし理解できるのであれば、A級戦犯と合祀されていることの意味がわかるはずです。
私の家族がもし靖国に慰霊されていたとしたら、とても耐えられないですね。
日本の多くの国民は、なぜそんな素朴な気持ちを忘れてしまったのか、本当に残念です。
そういう人たちと一緒に生きていることが最近は腹立たしくて仕方がないのです。
8月になるといつも気分が穏やかではなくなります。
困ったものです。

■三毒を抑える(2006年8月6日)
小沢一郎さんと稲盛和夫さんがゲストの報道2001を観ました。
少し心が落ち着きました。
とても理路整然と、わかりやすく、今の日本の状況を話してくれました。こういうしっかりした認識をお持ちの政財界人がいることに安堵したのです。
お2人のお考えはこれまでも本や新聞では読ませてもらっていますが、改めてテレビで表情を見ながら聞かせてもらうのは初めてかもしれません。
稲盛さんが「三毒」の話をされました。
僧籍もある稲盛さんならでは話です。
「三毒」とは煩悩を象徴したものですが、簡単に言えば、「貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)」です。稲盛さんはもっとわかりやすく、「欲、怒り、愚痴」といいました。
これらはすべて人間が生きるために必要なものですが、それに翻弄されないように、抑えることを学ばねばいけないというのです。
私自身も、そういえば、この三毒に翻弄されているような気がします。
心しなければいけません。

しかし、そのお2人のゲストの後に、靖国をめぐる議論がありました。
それぞれ著名の方たちの議論でしたが、小沢、稲盛の話に比べて、あまりに表層的な欲得だけの話だったので、せっかく気持ちが穏やかになりかねたのに、怒りと愚痴の世界に落ちそうになってしまいました。
やはりテレビはいけません。
三毒を振りまくメディアですね。

■根深い女性の人権蔑視の思想に立脚する刑法体系(2006年8月7日)
女性の長期監禁事件やストーカーによる殺人事件、さらには子どもに向けた性犯罪事件に関して、日本の処罰体制は極めて甘いように思います。
この根底には、根深い女性の人権蔑視の思想があるように思えてなりません。
男女共生とか女性専用車とか、そんなレベルで議論をしているよりも、もっと考えるべきことがあるように思います。
この点では、女性のオピニオンリーダーの責任をかなり感じます。
今回の大阪女性監禁事件や宗教まがいの女性人権破壊活動の加害者は、これまでも繰り返し同様な行為を繰り返してきたわけですが、それを見過ごす文化が日本の社会には根深く存在するということです。
警察が動かない背景にも、そうした女性の人権を認識できない状況があります。
ジェンダーとか男女共同参画とか、そんな言葉は私にはほとんど興味はないのですが、大切なのは女性を人間と見る感覚の回復ではないかと思います。
そうした視点で考えると、性犯罪による女性の人格破壊は、殺人よりも厳罰に処するべきではないかと思います。極刑を貸すべきだと私は思っています。
しかし実際の日本の法律と裁判官たちの根強い女性蔑視の思想は、それとはまったく別の世界にあります。
今回の犯人もそうですが、また社会に復帰し、再販を繰り返す可能性が多いでしょう。
それが今の日本の犯罪管理体制です。
私は、こうした加害者は永久に社会には出てこずに、労働によって罪を償う仕組みをつくるべきだと思います。
なんと人権無視の非情で非見識な人間か、と非難されそうですが、それが正直な気持ちです。
また暴論になってしまいました。

■「社会奉仕」刑への違和感(2006年8月8日)
最近、懲役刑や罰金刑に代わる「社会奉仕命令」の新設が議論されだしています。
ちょっと気になることがあります。
社会活動が「刑罰行為」の一種になってしまってはたまったものではないからです。
「社会奉仕」刑は欧米では一般的になっているという報道もあります。
本当でしょうか。
似て非なるものではないかという気もしますが、
どうも最近の裁判や刑罰に関する議論は、本質をごまかしているような気がしてなりません。
教育もですが。
社会奉仕が喜びに通ずるものであれば、犯罪の結果、ご褒美をもらえることになるわけです。
一方、喜んで社会奉仕活動をしている人たちは、どう感ずるでしょうか。
前世の悪行の罪滅ぼしを今していることになるのでしょうか。
考えすぎだと思われるかもしれませんが、こうしたところから社会の価値観は崩れていくのです。
きちんとした議論が必要ではないかと思います。

ところで、長野知事選は私にとっては残念な結果に終わりました。
敗北した田中さんが、「6年の奉仕の場を与えてくれた長野県民に感謝します」と発言していましたが、私にはとても納得できる言葉でした。
田中さんに大きな拍手を送りたいです。

■国民祝祭日を国民黙祷日に変えたらどうでしょうか(2006年8月9日)
今日の11時2分、長崎に原爆が投下されました。
その時間、神奈川県の湯河原町で迎えたのですが、屋外スピーカーからの告知があって、サイレンがなり、住民に黙祷が呼びかけられました。
私が住んでいる我孫子市でも同じことが行なわれているのかもしれませんが、今まで気づきませんでした。
こうした活動がしっかりと各地で行なわれているのです。

黙とうをしながら考えたことがあります。
国民祝祭日をやめて国民黙祷日にしたらどうでしょうか。
いや、そもそも祝祭日のいくつかは黙祷日の要素をもっていました。
先祖を思い、働くことに感謝し、健やかな子どもの育ちを祈っていたはずです。
それがいつしか、単なる休みの日になってしまいました。
祝祭日の意味が変わってしまったのです。
改めてみんなで自分たちの生き方を考え直す「国民黙祷日」にするのはどうでしょうか。
候補は、広島・長崎の日、阪神淡路大震災の日、水俣の日、サリン事件の日、盧溝橋事件の日、挙げだしたらきりがないほどあります。
暗い記念日で元気が出なくなりそうという人がいるかもしれません。
そんなことはありません。
その暗い日を切り抜けて今があるのです。
長崎の被爆者たちは、きっと長崎の日にみんなが思い出してくれることで、元気になるのです。
被爆者ではない私も、また被爆者の声を聞いて元気になれます。

好戦的な為政者が出てきても、それに抗して生きている人たちの姿は私に大きな勇気と元気を与えてくれます。

■「貧しい豊かさ」と「豊かな貧しさ」(2006年8月10日)
一昨日、大阪の貝塚に行きました。
寺田紡績という会社を訪れたのですが、その工場に行く道もとても懐かしい町並みを残していましたが、会社自体も実に懐かしい雰囲気で、感激しました。

私が会社に入社して最初に赴任したのが、滋賀の石山にある工場でした。
そこの雰囲気が私の社会の原風景なのです。
そこで感じたことを書き出したら、それこそ1冊の本になりますが、私の人生観はそこでの4年間で仕上がりました。
経済的には、貧しい時代から豊かな時代への移り目でしたが、私の価値観では、豊かな時代から貧しい時代への変わり目でした。
滋賀の工場には「豊かな貧しさ」の名残がありました。
そればかりではありません。
「変えなければいけない課題」も実感できる形で残っていました。
女工哀史の世界の象徴が、あるいは遺産が、残っていたのです。
何も知らすに会社に入った若者には十分に刺激的でした。
昨今の男女平等社会論とは違い、そこには表情のある人間が見え、現実の形でまだ残っていたのです。

昭和30年代に、日本は進路を間違った、と私は思います。
思い直すチャンスは40年代にあったように思います。その動きのすぐ近くにいながら、私は気づかずにいましたが。
私がその間違いを迷いなく自覚できたのは、入社してから20年後です。不明をはじなければいけませんが、それ以上に、一度手に入れた「貧しい豊かさ」を捨てられずにいることです。
それどころか、歳とともに、利便性を求め、怠惰さをむさぼる生活に向かっています。
そのために今もって、中途半端な生活を送っているわけです。

話がそれてしまいましたが、私が寺田紡績を訪れたのは、今度、社長になった友人に会いたかったからです。
しかし、その会社に着いて、車を降りた時の第一印象は40年前の世界へのタイムスリップでした。
とても人間的で、ホッとする風景がそこにあったのです。
書き方を注意しないと誤解されそうなのですが、ともかくこれこそが日本をいい意味で豊かにしてきたものづくり工場の原点です。
社名には紡績とありますが、今は紡績はしていません。
しかし、工場は昔の紡績工場です。
その建物をとても大事に使いながら、苦労しながら新しいものづくりに取り組んでいます。明治45年に作られた工場です。
工場を見せてもらいましたが、働いている人たちがみんなあいさつしてくれます。
いい仕事をしている証拠です。
こうした豊かな会社を私たちは壊して、わけのわからない会社を育ててきてしまっているのです。
とても豊かな気持ちになれました。
友人がとてもうらやましく思えました。

■靖国神社宮司の人間観(2006年8月10日)
靖国神社強制合祀への起訴が行われました。
テレビで裁判になったのは初めてだといっていますが、こうした動きはこれまでもありました。
私が思い出したのは、1973年の自衛官合祀拒否訴訟です。
ちょっと事情は違う訴訟ですが。
自衛官だった夫が公務中に死亡。自衛隊が妻の意志を無視して殉職自衛官として靖国神社の分身である山口県護国神社に英霊として合祀されたことを拒否した憲法裁判です。
原告は私と同じ年の女性ですが、数々の脅迫にもめげずに、裁判を続け、1982年の二審(広島高裁)で勝訴しました。
この事件は靖国が過去の問題ではなく、いまなお現実の問題として存在することを示しています。
靖国神社(護国神社)の人間観は「英霊思想」であり、国民を国家の道具(付属物)と考えています。
彼らにとっては、死者は自らの権威付けや権力拡大の道具でしかないと思えてなりません。
そもそも英霊思想とはそういうものなのです。
私にはおぞましい似非宗教犯罪団体とどこが違うのかよくわかりませんが、死者を人間として遇しない神社の存在と日本神道とは似て非なるものに思えます。
私は神社が大好きで、そこにいるだけで心洗われる気分ですが、靖国神社や護国神社はなぜかそこに入っただけでおぞましい気分に襲われてしまいます。
土地の記憶のパワーを感じます。
本殿の前に立つと伝わってくる霊気が違います。

■自民党総裁選挙の象徴性(2006年8月12日)
自民党総裁選挙はすでに決着がついているようですが、そこに自民党の本質が象徴されているような気がします。
密室の談合体質。長老たちの支配体制、です。
これこそが「政治」だという人もいますが、そういう政治には多くの生活者は興味を感じないように思います。
その表れが選挙への投票率の低さかもしれません。
多様な意見を引き出す仕組みとは違って、一部の意見を際立たせる仕組みが、日本の民主主義の設計思想ではないかと私は思っています。
CWSコモンズでいつも書いているように、制度発想か個人発想かで、民主主義はまったく違った機能を発揮します。
パラダイム転換しなければ、事態はいつになっても変わりません。
いずれにしろ、万機公論を目指して立候補宣言をしている河野太郎さんたちとはまったく次元の違う舞台で議論が進められているわけです。
社会党がまだあったころ、土井さんに対して秋葉さん(現広島市長)が党首選挙で争ったことがありました。
当時の新聞に、秋葉さんはまだ若いから、という記事が出ました。
秋葉さんは私と同じ世代ですので、当時50代の後半だったはずですが、つい10年前には50代ですら一人前とされなかったのが日本の政治だったのです。
高齢社会になる前に、実は日本は今以上に高齢者支配社会だったわけです。
最近は政治の世界も大きく若返りました。
しかし高齢者支配の時代の悪しき仕組みはまだ残っているようです。

昨日、テレビを見ていて、太田総理に感心しました。
自民党の若手議員といわれる人たちにも、せめて太田さんくらいの「悩み」を持ってもらいたいと思いました。
個人としてのパッションのない、無表情の政治家ばかりになっているのがさびしい気分です。

■旅客機爆破テロ未遂事件とイスラエル非難決議(2006年8月13日)
降って沸いたような「米国行き旅客機爆破テロ未遂事件(英国テロ事件)」の報道を載せた同じ新聞紙面に、「国連人権理事会、イスラエル非難決議を採択」という記事があります。
この2つの事件は無縁ではありません。
いや、最近の動きを見ていると、犯人も同じなのではないかなどと妄想したくなります。
不謹慎を承知で書けば、英国テロ事件の真実味を実感できないのです。
歴史の真実は本当に見えにくいです。

それにしても世界は混乱度をますます高めています。
ソーシャル・キャピタルが経済にどう寄与するかという問題設定ではなく、ソーシャル・キャピタルの喪失が経済をどう破壊するかという議論をしなければいけないような気がします。
全社の議論には経済界は無関心でしたが、そろそろ真剣に考えだすかもしれません。
信頼を壊すことで成長する経済パラダイムからそろそろ抜けられるかもしれません。
今回の英国テロ未遂事件は、考えれば考えるほど、興味深い事件です。
誰が仕掛けたのでしょうか。

■「ここまでやって来たのに、もったいない」(2006年8月14日)
滋賀県の嘉田知事が公約の栗東駅建設中止で苦境に立たされているようです。
それに関連して、こんな記事が8月11日の朝日新聞に出ています。

知事選から5日後の7月7日。JR東海の松本正之社長は、名古屋市の本社応接室で国松善次・前知事と向かい合っていた。「もったいない、に負けた」と謝罪する国松氏を慰めつつ、選挙結果を皮肉った。「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。

JR東海の本質が垣間見えます。
「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。
まさに無駄遣いや悪徳商法者が語る常套句です。
そうやって、私たちは日本を浪費し続けてきたのです。
そこからそろそろ抜け出なければいけません。
頂上を目前にしても、状況によっては登頂をあきらめて引き返す勇気が登山家には必要とよくいわれますが、まさに今はそういう時期なのです。
私たちにいま、必要なのは「勇気」です。

大切な農地を駅建設のために売却してしまった農民は複雑な気分でしょうが、農協に騙され続けてきた歴史を思い出してもらえば、何が大切かはわかってもらえるでしょう。
駅建設をやめても、対応策はいくらでもあるはずです。
一緒になって真剣に考えれば、打開策はあるはずです。

しかし、今のような状況を中途半端に知らされた県民は、「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」と思い出すかもしれません。
事実、そういう人に私も出会いました。住民とは本当に身勝手です。
しかし、すべての原因は中途半端な情報の流通にあるような気がします。

ところで、長野県知事が変わります。
8月11日の信濃毎日ニュースに、県世論調査協会の支持率アンケート調査結果が出ています。それによると、

村井氏の支持率は72・2%。村井氏の知事選での得票率53・42%を上回る高い水準となった。不支持率は24・3%だった。

1週間もしないのに、何でこんなに支持率が高まったのでしょう。
大衆は信じられる存在ではないと思いたくなりますね。
長野人たちだけが、理念も人情もない家畜のような存在なのでしょうか。
そう思いたい気持ちもありますが、きっと長野県民に限った話ではないのでしょう。
これが人間の性かもしれません。

せっかくの田中県政の成果が消えていくのが、私にはとてつもなく「もったいない」気分がします。
人は失ってから、その価値に気づくことが少なくありませんが、そうならなければいいのですが。

しかし冷静に考えてみた時に、滋賀と長野の話はどう違うのでしょうか。
どこに価値観をおくかで、同じ事柄もまったく反対に見えてきます。
情報がどのくらい共有化されているかが、最大の問題だと思いますが、まだまだ情報の非対称現象はほとんど是正されていないのかもしれません。

■終戦記念日の迎え方(2006年8月15日)
終戦記念日です。
その日の最初の大ニュースが首相の靖国参拝でした。
予想していたこととはいえ、何か大切なものを汚されたような不快感が残りました。
靖国の真実は、きちんと公開されなければいけないと思いました。
「知の非対称」が人の意識を乱し、争いや戦いを起こします。

ところで、小泉首相のおかげで私は今日が終戦記念日であることを強く意識できました。
どんなことにも「良い面」はあるものです。
今日は1日、改めて何ができるかを考えてみようと思います。

■「ありがとう」の気持ちは訓練の対象なのか(2006年8月15日)
今日は終戦記念日だったので、湯島天神に行きました。
終戦記念日と湯島天神とどうつながっているか、などと詮索してはいけません。
私は靖国ではない神社に行きたかっただけの話ですから。

そこで思い出したのが、先日、友人からもらった「ツキ」のことです。
この2年、凶を引いたことのない幸運な大村教授が私に自分のツキをくれたのです。
実際に、その翌日、ちょっといいことが起きましたし、その後、購入した宝くじも当たらないという幸運に恵まれました。宝くじがもし3億円、当たっていたらきっと私の人生は狂ってしまうでしょうから、当たらなかったのはとても「ツイテいた」にちがいありません。はい。これはきっと大村さんの配慮の結果でしょう。
しかし大村さんの話が本当かどうかは、おみくじで確かめねばなりません。
そこで湯島天神でおみくじを引きました。
「中吉」でした。
さてこれをどう受け止めるべきでしょうか。
最大吉とか特吉であれば考える余地はありませんが、中吉だということは、本当に大村さんから「ツキ」がもらえたのかどうか、疑いがないわけではありません。
ちょっと悩んでしまったのですが、半日考えたら答がわかりました。
間違いなく、大村さんからツキは回ってきているのです。
つまり大村さんに会ってなければ、きっと大凶だったのです。
それが中吉。感謝しなければいけません。
では、もし「大凶」だったらどうでしょうか。
それでも結論は同じです。
もし大村さんに会ってなければ、おみくじなど引ける状況にはなれないほどの悲惨な状況に陥ってしまっていたはずです。
そうやって考えると、常に今の状況は感謝しなければいけないのだということに気づきます。
そういえば、こんなことを友人の飯田史彦さんが本「生きがいの創造」に書いていました。
感謝の気持ちを持って生きると、人生はとても豊かになるのかもしれません。

とまあ、そんな気持ちになって、昨日届いた「軍縮問題資料」を読んでいたら、教育基本法案に関する入江曜子さんの論考に、文部科学省が作成した「心のノート」の話が出ていました。
その小学5〜6年生のテキストに、「『ありがとう』っていえますか?」という見開きページがあるそうです。
そして、それに関する入江さんのコメントを読んで頭が混乱してしまいました。
みなさんにもぜひ読んでほしいですが、それと同じ記事が次のサイトにあります。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0404/sin_k170.html

みなさんはどう思われますか。
話がややとんでしまっていますが、これが私の終戦記念日の1日でした。
まだ数時間ありますが。

■生態系の変化(2006年8月16日)
温暖化の影響で自然界に異変が起こっているという話が最近増えています。
私自身、なんとなく毎年の自然の成り行きに違和感を持ち出してから、すでに10年以上たちますが、その変化や違和感は、気のせいかなと思うほどの小さなものですから、意識的には徐々にならされてきている感じがあります。
ゆっくりと進む変化には人は次第に慣れていき、おかしさを感じなくなるものです。

そこ気づいたのですが、日ごろ感ずる変化をメモに残していこうと思いつきました。
たとえば今年のウグイスの話やトンボの話しのようなことを、です。
みんなで気づいた、ちょっと回りで気づいたおかしな話をどこかに集めてみたら、なにかが見えてくるかもしれません。

今日から始めます。
一緒にやってみる方はいませんか。
今日の気になる風景は、3時頃見た黒煙のような雲でした。
写真にとっておかなかったのが残念ですが、生まれて初めてあんな雲を見ました。

■エレン・ワタダ中尉が生まれる素地(2006年8月17日)
今年は終戦記念日や原爆投下日に前後して、新聞がかなりしっかりと平和や戦争の問題を連載で追いかけているような気がします。
気のせいでしょうか。
それだけ事態が緊迫していることの現れでしょうか。
平和に関する市民の集まりも増えています。
しかし、その一方で、加藤紘一議員の実家が放火されるなど、現実の動きはますます加速されているようです。
今日、ある人が、エレン・ワタダ中尉が8月14日に開かれた「平和のための退役軍人全米大会」でスピーチしたニュースのサイトを教えてくれました。
ワタダ中尉は、「違法な戦争と違法な兵役拒否」で書いたように、イラク派遣を拒否下アメリカ軍隊の将校です。現在、軍法会議にかけられています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/06/post_fa66.html

彼のスピーチに対し、会場からは総立ちの拍手喝采が送られたそうです。
http://blogst.jp/momo-journal/archive/147

日本の自衛隊にはこうした動きが全くありません。
恐ろしいほど静かです。
イラクでの真実をぜひ聞きたいものです。
私たちの税金で派遣されたのですから、良くも悪くも見てきた真実を語りだしてほしいものです。
過去を語るのもいいですが、いま起こっている現実を直視することも大切です。
エレン・ワタダ中尉が生まれる素地のあるアメリカと、日本はどこがちがうのでしょうか。
私たちの意識の違いかもしれません。

■銃撃されて死ぬ確率(2006年8月18日)
ロシア国境警備隊の銃撃を受けて、日本漁船の乗組員が死亡しました。
たとえ領海を侵犯した密漁であっても、銃撃されて殺される状況はなぜ起こったのでしょうか。
思い出すのは「発砲率」の話です。
米国陸軍に23年間奉職したデーヴ・グロスマンが書いた『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)に出てくる恐ろしい話です。

「発砲率」とは米軍で使われている用語ですが、兵士が実際に敵と対峙した時に敵に向かって銃を撃っているか、という割合です。
どのくらいだと思いますか。
彼の調査によれば、南北戦争から第2次世界大戦まで、「発砲率」は15〜20%で、ほとんど一定だったそうです。
つまり、80〜85%の兵士は、自分の命が危ない時でも、敵を狙って発砲していないのです。
ではどうしているか、違った方向に向けて発砲したり、威嚇しあって発砲しなかったり、という事例が多いようです。

とても安心します。
人間だけが、仲間を無意味に殺す生物だと教えられてきた私にとっては、この文章に出会えた時には、やはりそうだったかととても安堵したことを覚えています。

ところが、その後の記述が恐ろしいのです。
こうした事実に気づいた米軍は、発砲率を高める研究を行い、実践します。
そして、ベトナム戦争以後は、発砲率は95%に劇的に高まったといいます。
私の安堵感は逆に大きな失望感に変わったことは言うまでもありません。
以来、このおぞましい話は記憶から追いやっていました。
今回の事件で、その話を思い出しました。

この本の原題は、正確には「戦争と社会における・・・」になっています。
そして、実はこの研究成果は兵士の軍事訓練だけではなく、社会全体に展開されているような気がします。
それが、私がおぞましいと思った理由です。
加担しているのはマスコミと産業界、とりわけエンターテイメント産業です。
映画やゲームを思いだせば、わかってもらえるでしょう。
第一次洗脳を受けた人たちが、今度は洗脳する側に回っているという恐ろしい構図も感じられます。
この本を読んだ直後に、このブログでも北野たけしを批判した記事を書きましたが、彼などもまた洗脳を受けた典型的な人物だと思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/06/post_2.html
少し考えすぎかもしれませんが、この視点で見ていくと、世界の動きが奇妙につながって見えるのです。

盛田さんはなぜ射殺されたのか。
私がいつ同じ境遇に出会ってもおかしくない社会になりつつあるのかもしれません。
生物としての人間は滅びつつあるとさえ思えてなりません。

■自分たちが実際に戦争に行くという実感が持てない(2006年8月19日)
テレビを見ていたら、ある若者が「自分が戦争に行くという実感がもてない」と話していました。
唖然としました。彼にとっては、戦場での悲惨な情景は実生活につながっていないのです。そうした若者が語る戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

平和をテーマにしたあるテレビ討論会で、ある人が戦争の実感を持っていない若者たちに向かって「戦争を体験してみろ」というような発言をしました。
これもまた唖然とする恐ろしい言葉です。
戦争を体験しないと語れない戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

ともかく唖然とすることが多すぎます。
靖国の意味もほとんど知らないままに、戦没者を慰霊することの何が悪いのかという発言も私には唖然としますが、ともかく唖然とすることが多すぎます。
それもれっきとした学者や有識者、政治家が、です。
小泉チェルドレンといった雇われ政治家の話ではありません。
本物の政治家の話です。

靖国参拝支持か、不支持か。
9条改正反対か賛成か。
こうしたアンケート調査や世論調査結果がよく報道されますが、
その結果の数字はいくらでも操作可能です。
そんな実証データも、ネット世界では飛び交っていますが、
もっとみんな、自分の問題として平和や戦争の問題を考えていくことが大切なように思います。
そのための設問がとても重要になっています。
「あなた」を問わなければいけません。

あなたはレバノンの戦いに参加したいですか。
国を守るためにあなたは人を殺せますか。
国を守るためにあなたは自らを犠牲にすることを受け入れられますか。
あなたの加害者と同じ墓に入りたいですか。
どこかの国と戦いが始まったら、あなたは志願して戦いに行きますか。

国の平和と家族の平安と、あなたはどちらが大切ですか。

■イーハトーヴの平和と夏休みの効用(2006年8月20日)
岩手に行っていました。
宮沢賢治のイーハトーヴの世界です。
イーハトーヴは、賢治にとっての理想郷でしたが、その言葉の意味とは違い、ネバーランドではなく、決して少なくない人たちの心象世界の中に実在した世界なのだろうと思います。
岩手の豊かな自然に触れると、そう思えてなりません。
賢治はおそらく、動植物はもちろん岩や土や水の流れ、風や太陽とも会話していたのだろうと思いますが、ここに来て自然と触れると、とても納得できます。

岩手の自然に触れて、もう一つ感じたのは、岩手の貧しい農民たちというイメージがなかなか実感できないことでした。
彼らは実際に貧しく、冷害に苦しみ、毎年雪を越すことで精一杯だったのでしょうが、それは過酷な自然状況のせいだったのでしょうか。
雪の深い岐阜高山の知人から、長い雪の世界が終わり一挙に梅も桃も桜も開花する春の到来の感激の話を時々聞きますが、雪深い岩手の世界でも、きっと毎年、その歓喜の春がみんなを元気にさせていたのではないか。そうやって元気付けられた人たちが、自然と仲良く暮らせていたのではないか。などと思ってしまうのです。
そんなに良いと思うのなら自分も転居したらどうかといわれそうですが、それは私にはできないでしょう。
人はそう簡単には転居できないものだということを最近痛感してきています。
人の生命は土に深くつながっているのを最近強く感じます。
そのつながりが切れた時に、もしかしたら悲惨な農民の物語が創られたのかもしれません。
事実に反するのかもしれませんが、そう思えてなりません。

賢治はなぜ自然と話ができたのでしょうか。
そして現代人の多くは、なぜその能力がなくなってきてしまったのか。
アイヌ民族はかつて「文字」を持たなかったが故に、暦や文化を伝承で伝えてきたが、文字を学んだことで、その記憶力や非言語コミュニケーション力が失われたということを子どもの頃学んだ記憶があります。
日本の地方に行くと、その自然の豊かさにいつも圧倒されるのですが、もし今もなお自然と話ができるままで生活していたら、今とは違った豊かさの指標を持てていたかもしれません。
人と人との平和の前に、人と自然との付き合い方や会話できる能力を回復することが大切なのかもしれません。

毎年の夏休みで、多くの人たちが、そして多くの子どもたちが、企業や学校から解放されて、自然と触れ合う夏休みの効用はきわめて大きいように思います。

みなさん、自然ときちんと話をしていますか。

■沢蟹のこと(2006年8月21日)
このブログは、アクセス解析機能がついています。
ですからどの項目にいつどれだけアクセスがあったかがわかります。
実は昨日それに気づきました。
それを今見ていたら、意外なことがわかりました。
「沢蟹騒動」へのアクセスが多いのです。
この4ヶ月の間になんと163人のアクセスがありました。
この記事は2004年5月3日の記事です。
普通は見つけられないはずですから、ネットで探した人が見てくれたのです。
おそらく読んだ人は失望したでしょうが、沢蟹への関心の高さがわかります。
沢蟹好きは私だけではないようです。

ネットでの情報発信の場合は、見出しのつけ方やアクセスさせる仕組みが重要なことがよくわかりました。
実に面白いテーマですし、実際に工夫しだすと底なしの面白さでしょうね。
実際にビジネスとしても成り立っているわけですが。

これから毎回、沢蟹という表題をつけるとアクセス数が増えるかもしれません。
まあ、それでは詐欺になりかねませんが、この記事へのアクセスがどうなるか興味があります。
たわいのない話のようですが、現代の情報環境を示唆する興味深い話です。

最後に少しは沢蟹のことを書かなければいけませんね。
実はわが庭のビオトープに放した沢蟹たちは相変わらず姿を見せません。
困ったものです。
奥深くに隠れてしまったようです。
今でもいろいろとの所に出かけた際には寸暇を惜しんで沢蟹探しをしていますが、見つかりません。
ペットショップに行きましたが、なぜか最近は売っていません。
そう思っていたら、今日、ネットでうれしい記事を発見しました。
食用の生きた沢蟹を購入して、それを育て上げた人のサイトです。
私も一度挑戦しましたが、もう一度挑戦することにしました。
問題は生きた食用沢蟹を見つけなければいけないことです。
見つかるといいのですが。

■イラクは平和になったのでしょうか(2006年8月22日)
最近、イラクのニュースが少なくなりました。
平和が回復しているのでしょうか。
そんなことはないようです。
たとえば、昨日の読売新聞によれば、
イラクの首都バグダッドで20日、武装集団が、市北部のイスラム教シーア派聖地カジミヤ地区に向かっていた同派信徒を銃撃する事件が相次いで発生、AP通信によると、少なくとも20人が死亡、300人以上が負傷した。
そうです。
治安はますます悪化しているという人もいます。
イラクの復興のために私たちの税金は少しは役に立ったのでしょうか。
それとも逆にイラクの人たちの暮らしを壊すことに加担したのでしょうか。
それが今もってわかりません。
誰も説明してくれません。
イラクにいた自衛官たちが帰国後も何の発言もしないのも異様で、本当にイラクに駐留していたのかどうかさえも疑いたくなります。
イラク派兵とは一体、何だったのでしょうか。

すべてがうやむやのうちに忘れられていく。
問題が多すぎるのかもしれません。
人の噂も75日といわれますが、私たちは多くの悲惨な事件や不条理の犯罪を75日単位で消費しているような気もします。
いやそうしなければやっていけないほどに事件や犯罪や問題が多すぎるのです。

それにしても、どうしてこんなに次々と問題が発生するのでしょうか。
事件や犯罪もまた「生産」されるようになったのではないか、とさえ思いたいほどです。

■「伝えたいニュース」の消費者からの脱出(2006年8月23日)
昨日、
事件や犯罪もまた「生産」されるようになったのではないか、
と書いたのですが、自分で書きながら、書きすぎだと思っていましたが、
書いてしまった後、どうも1日、気になっていました。
ところが考えているうちに、もしかしたら実際にそうなのかもしれない、という気になってきました。
まあ、それはいいのですが、関連して考えたことを書きます。

問題が多発すれば、問題の意味もまた希薄化します。
事件発生の頻度と自分に起こりえる現実感は、比例すると考えるのが普通です。
周辺で犯罪が頻発すると、もしかしたら次は自分かもしれないという思いになるでしょう。
しかし、ここには2つの要素があります。
「周辺」と「頻発」です。
もし頻発する事件が「周辺」でなく、ボルドーやレバノンだったらどうでしょうか。
自分の生活空間とは遠い所で、事件の頻度が高まると、逆に事件そのものが自分とは無縁な観察や消費の対象になってしまうのではないかと気づきました。
編集の仕方で、相関関係は全く逆転するのです。
ゲームや映画などの虚構の世界の事件が、さらにそうした動きを補強します。

ITの発展が、世界の距離を縮め、世界中の情報を並列に並べて処理する仕組みを生みだしました。
マスコミなどに載る情報の選別は完全にメディアの作り手にゆだねられたのです。
私たちは「知りたいニュース」の受信者ではなく、「伝えたいニュース」の消費者になってしまったのです。
しかもマスコミはニュースの実体よりも、ニュースの話題性に関心を移しています。つまりニュースの加工をしているということです。
その結果、事件が頻発すればするほど、感覚が麻痺し、現実感が失われる社会に変質してしまったのです。

先日書いた発砲率ですが、対象との距離と発砲率は比例するそうです。
物理的距離や心理的距離を大きくすれば、発砲率は高められるのです。
事件の発生地との距離もまた、事件を対象化してしまうことは間違いありません。
話題が広がることの危険性がそこにあります。

私たちは世界を自らの暮らしとは別のものにしてしまう情報環境に陥っているのかもしれません。
そうしたバーチャルな世界に住んでいると、いつの間にか自らもまたバーチャルな存在になりかねません。
身近な近隣社会の情報やニュースに改めて関心を向けることが大切になってきています。

みなさんは地域社会の動きをどの程度知っていますか。
地域でもさまざまな事件が起きています。
たとえば路地の空地に花が咲いたとか、隣人が怪我をしたとか。
自治会の会長をさせてもらっていると、いろいろな気づきがあります。

■自由と秩序(2006年8月24日)
朝日新聞の連載記事「境界線で」の最終回は、国家と非国家がテーマでした。
刑務所や警察機能の民営化の話しも紹介されていましたが、民営化から共営化へと移行させるべきだと考えている私にとっては、恐ろしい未来への懸念が高まるばかりです。
しかし、その懸念は私だけではないようです。
その連載の締めくくりの文章はこうなっていました。
見かけは小さな国家でも、コントロールが利きにくければ、力は強大になる。自由度が増したようで、実は選択の余地があまりない。この国は、そんな方向へ向かっているのかもしれない。

「国家が秩序を保ち、国民一人ひとりが自由を享受するには、清貧が最も有効だ」
これはマキャベリの言葉です。
『政略論』にこう書かれているそうです(塩野七生「マキアヴェッリ語録」)。

ローマも、建国後400年までは少なくとも、清貧を尊ぶ気風が充満していたのだった。
なぜならローマ市民にとって、いかなる公的地位につくにもいかなる栄光に浴すにも、貧しさが不都合なことはまったくなかったからである。
もしも、その人物が力量に恵まれてさえいれば、どんなに貧しい小屋に住んでいても、人材登用の機会にもれないという自信をもてたのだ。
だから、強いて富を求める必要もなく、欲求も生れなかったのである。
つまり、ローマ人の制度が、ローマ人自身に、富をがむしゃらに追求する気持を生れさせなかったのだった。
それどころか、畑仕事をしていたのを臨時独裁執政官に登用されたキンキナートゥスのように、立派な人物ならば、清貧もまた名誉とさえ思われていたのだ。

そして、こう書いています。
清貧を尊ぶ気風が、国家や都市やすべての人間共同体に栄誉を与えたのに反して、富追求の暴走は、それらの衰退に役立っただけなのであった。

国家のみならず、企業の経営者にもぜひ考えてほしい問題です。
今の日本は、まさに富追求の暴走状況にあるように思います。
せめて自分だけでも、そうならないように心がけていますが、心迷わす誘惑が多すぎて煩悩から脱せずにいます。

■団塊世代の新しい役割(2006年8月25日)
最近、なぜか団塊世代の地域返りの話がよく話題になります。
今週だけでも、日経マスターズの編集長だった人がその話題でやってきましたし、コムケアの集まりでも団塊世代のためのフリーマガジンの話が出ました。
ある会でも話したことがあるのですが、団塊世代の活躍の場は、これからまだまだ広がりそうです。
私の地元の我孫子市でも、団塊世代の活躍の場を創ろうと様々な制度が作られていますし、団塊世代の地域戻りを歓迎するイベントなどをやる自治体も増えています。
しかしいつもそうなのですが、こうした新しい動きも基本的な社会のビジョンが弱く、そのため発想の転換がなされないために、制度だけできて機能しないことが少なくありません。
時代の変わり目における、新しい仕組みにはしっかりしたビジョンと理念がなければいけません。
私は社会の枠組みの再編成が進むと考えていますので、その役割の一部を団塊世代のエネルギーが果たせるのではないかと考えています。
たとえば、企業、行政、地域社会をつなぐメディエーターの役割です。
企業や行政の文化と言語を持っている人が地域に入って活動をすることで、彼らは多言語族になれるはずです。そうなれば、今のような企業や行政と住民活動とのコミュニケーションの壁は解消されるはずです。もっといえば、企業や行政という組織を、生活や地域社会の視点で、いい意味で活かしていくことができるようになるでしょう。
そうした大きな仕組みづくりを通して、もしかしたら企業社会も企業そのものも大きく変わっていく可能性もあります。
10年ほど前に、そうした構想の下にいくつかのプロジェクトに取り組み、すべて失敗してしまいましたが、物事にはタイミングというものがあるものです。
今度こそ、団塊世代たちが社会を変えて行ってくれるでしょう。
もちろん良い方向にです。
早く来い来い高齢社会です。

■住宅のあり方と少子化、あるいは子どもたちの反乱(2006年8月26日)
今はあまり「衣食住」という言葉が使われないですが、衣食住は社会の基本です。
社会というよりも、生活や文化、あるいは人間の意識の基本です。
残念ながら、最近30年の日本においては、この衣食住がおろそかにされてきたように思います。それが昨今の社会の崩れの基本だと私は考えています。

たとえば「衣」。ファッション感度は高くなっているのかもしれませんが、私には大きな違和感があります。たとえばクールビズ。機能性から考えるのも良いでしょうが、衣とは何かという基本が軽んじられているように思います。文化の放棄です。
「食」はどうでしょうか。グルメが騒がれますが、子どもたちの食生活を見れば、グルメ志向が単なる商業主義の発想でしかないことが分かります。グルメを自称している人で、食文化への関心を持っている人に残念ながら出会ったことがありません。ファッションとしてのグルメ、消費としてのグルメには違和感があります。しかも、食文化とは無縁のところで、あまりにもひどいテレビ番組が多すぎます。さすがに最近は、食べ物の投げ合いをするような腹立たしい番組は無くなりましたが。
日本に豊かに存在した、衣の文化、食の文化は失われつつあります。

そして「住」。
昨日、旧知の時田さんが訪ねてきてくれました。
時田さんは熊谷で工務店をやっています。日本の伝統文化である住の技法を継承している職人たちのネットワークを大事にしながら、納得できる仕事をしていますが、昨今の状況ではなかなかそれも難しいようです。
時田さんはこう言います(私の整理ですので不正確かもしれません)。

戦後日本の住宅政策の基本は「戸建て持ち家」で、それを推進するために、低利の建設資金を融資する住宅金融公庫を1950年に設立した。しかし、それに対抗する勢力は、集合住宅借家方式を主張、1955年、日本住宅公団が設立され、団地が誕生。その「持ち家発想」と「団地発想」が統合されて、都市型マンションが生まれ、住宅もまた商品になってきた。そして、政策理念のないままに、経済至上主義の中で、構造偽装に象徴される欠陥マンション、平均寿命25年という木造住宅が広がった。

そこで、時田さんは、高品質な住環境と住宅、それを成立させるための思想を世に問いながら、新しいコミュニティを創造するプロジェクトに取り組むことになったのですが、それに関しては、CWSコモンズの活動記録(2006年8月24日)で報告します。
ここでは、時田さんと話していて改めて考えたことを書きたいと思います。
住宅に関しては、以前、私も日本住宅会議に入っていましたので、いつか住宅政策の間違いを指摘したいと思い続けていたのです。

まず、時田さんの整理のように、日本人は戦後の荒廃から立ち直るために、仮設住宅を創ったのに、いつの間にかその仮設住宅が標準住宅になってしまったということです。しかも、それが経済至上主義にくっついてしまった。家電製品や自動車と同じように、買い替え市場を生み出す商品に位置づけされてしまったのです。そして30年しか持たないような消費型住宅ばかりができて、建設廃材世界1の国になったわけです。
そこには住文化は微塵もありません。
いや、文化を壊し経済人になる仕組みが埋め込まれていたというべきかもしれません。
つまり住宅が「モノ」として捉えられ、そこで展開される家族の「住まい方」、あるいは近隣住民とのつながりが育てていく空間価値などが全く置き去りにされたのです。住文化の喪失です。

こうした住宅政策は結果的に核家族化を進め、さらには単身暮らしを増やしていきます。核家族などと「家族」という言葉を使っていますが、これは家族の解体でしかありません。世代は分断され、子育ては機能不全を起こし、コミュニティは解体され、お互いに殺傷しあうおぞましい社会が広がり、少子化が進行するのは、こうしたことの結果です。ピントはずれの少子化対策は、事態を悪化させるとしても社会を良くすることはないでしょう。

土地も含めて、住宅が商品化されたことの弊害も大きいです。
これに関しては、また改めて書きたいと思います。


■育つ社会と育てる社会(2006年8月27日)
昨日、共済研究会で、現代日本の共済事業の全体像と、それがいま新保険業法によってどう解体されようとしているか、という話を聞かせてもらいました。
2ヶ月ほど前にもCWSコモンズに書きましたが、その恐ろしいほどの意味を改めて知り、心底腹が立って仕方がありません。
怒りの対象はいろいろありますが、自らへの怒りも含まれています。
昨日お聞きした情報では、アメリカや経済界の圧力で、共済というコモンズ発想を壊して市場化、つまり「民営化」していこうというのが今の動きです。多様性は壊され、画一的な金銭経済社会へと、ますます時代は向いています。

恐ろしいほどのジレンマがあります。
社会が荒廃すればするほど、問題は多発し、私たちの周りにはたくさんの問題が立ち現れます。そうなると、その問題を解決しなければならなくなり、私たちの関心はそこに向けられます。
介護、子育て、自殺、ニート、メンタルヘルス
しかし、そうした個別問題にみんなの目が向けば向くほど、そうした現象を引き起こす基本的な問題に目を向ける余裕が無くなります。
これは自治は産業のジレンマにとても似ている構図です。

私は、そうしたことが最大の問題だと考えて、「大きな福祉」や「コモンズの回復」に取り組んでいるわけですが、正直に言えば、こうした取り組みは迫力もなく、手ごたえもありません。

■学校の役割(2006年8月27日)
今日、友人家族がやってきて小学生の子どもを持つ家族が訪ねてきてくれたのですが、そこでの話題の一つが小学校の話でした。
子どもが通っている学校は、かなり評判のいい公立小学校ですが、夏休みの宿題がほとんどないそうです。昔あった夏休み日記やドリルなどもないそうです。
子どもはのびのびと自由に遊ばせるのが良いと考えているのでしょうか。
しかし、どうもそうではないようです。
夏休みに限りませんが、その学校に通う子どもたちの多くは塾に行っているのだそうです。ですから、子どもが遊ぼうにもなかなか遊び相手を見つけられないのです。
学校もまた、子どもたちの塾通いを勧めているようです。
学校は塾での勉強を邪魔しないように、夏休みの宿題は出さないのかもしれないと思いたくなります。
学校の役割は何なのか、と友人に聞いたら、体育と隔離でしょうか、と冗談で答えました。その冗談が冗談で終わらないのが、どうも現実のようです。
教育基本法が変えられようとしていますが、まさにその大きな動きもこうしたミクロ情報につながるように思います。
学校と塾はいろいろな意味でミッションが違うはずです。
私は日本における初等教育体系は30年前にパラダイムシフトすべきだったと思います。
しかし、反対のほうにパラダイム回帰したのが実際の学校行政でした。
学びの場ではなく、教えの場になり、そして管理の場になってしまいました。
健全な子どもたちが反発し、問題を起こすことは必然的な結果です。
そして同時に、教育の産業化が進められました。
それも本当の意味で志のある教育産業であれば良いですが、単なる利益志向の教育産業です。私もある大企業に少し関わりましたが、その実態を知って唖然としました。教育とは正反対のところに歩きがしました。
子どもたちは、まさに市場化されてしまったわけです。
もっと恐ろしいことも起こっています。
別の所に書きましたが、子供たち同士の集団登校も今ではなくなっているそうです。
なぜ無くなったか、考えてみるとさまざまなことが思い当たります。

学校の役割は何なのか。
国家や国旗や「教育勅語」を強制する前に、自らがやるべきことはたくさんあります。
最近盛んな「次世代育成活動」の基本理念を改めて考え直さないと、日本はとんでもない方向に行きかねません。
次世代育成計画行政を起案し推進している人たちに対する子どもたちの反乱が、とても心配です。自業自得で終わらないからです。

■大勢に乗ることを基本にした生き方(2006年8月28日)
1か月ほど前に、ちくま新書の「ウェブ進化論」を読みだしました。
わくわくするような内容で、これからの時代の方向性を理解することが出来ました。
こういう意識の人がどんどん社会を変えていくのだろうなと思いながら読んでいましたが、ある記述で、その先を読めなくなってしまいました。
しばらく間を置いてから、一応読了しましたが、なんだかおぞましい実態を見てしまったようで読後感が極めて悪いのです。
忘れようと思っていたのですが、最近の自民党総裁選挙の動きを見ていると、その記述が頭に浮かんでくるのです。
そこで私の気持ちを鎮火するために、書くことにします。
すみません。私憤発散の記事であることをあらかじめお断りしておきます。

まず書く気になったのは、次の記事を読んだためです。
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060823-79375.html
8月22日に横浜市で行われた自民党の南北関東ブロック大会で、推薦人集めが難航している河野太郎さんが出席した5候補中、最も党員の声援を受ける意外な健闘を見せたという、日刊スポーツの記事です。
そこで、河野さんは、
「総裁選は始まる前から終わっているかのように言われるが、政策議論もしないまま推薦人が決まるのはおかしい。派閥の親分が右と言うから右に乗っかるなら自民党に明日はない」と、雪崩を打って本命・安倍氏支持に流れる党内を痛烈に批判したそうです。

自民党総裁選の動きは、全く見識のない政治屋たちの本質を見る気がします。まさに主体性のないコンフォーミティの世界です。
政策よりも保身がかれらの関心事なのでしょうか。
何のために政治家になったのでしょうか。

ところで、先の「ウェブ進化論」で私が唖然とした文章を紹介します。

著者はブログ空間が総表現社会を生み出し、社会そのものの情報的自立化に向かっていることを説明しています。とても納得できる話であり、共感もできます。また膨大な現場情報は新たな情報を創造し、全体を方向付けていくことは、コモンズの回復の基本ビジョンにもつながっています。

そうしたなかで、著者は、先の解散後の小泉圧勝が当初からわかっていたそうですが、それに関連して、こんな記載があるのです。
本書の151¬〜152ページの文章です。

母から「今回の選挙は、誰に入れるべきなのか」という軽い相談であった。私は「政治のプロ」ではないが、家族・親戚という小さなコミュニティの中では、専門でない政治のことについても、それなりに意見が信用される。私は母に、今回は小泉支持だと伝えた。私は「老人も子供も含めて10人に1人」くらいのコミュニティ内での信用をもとに、小さな影響力を行使した。そして、こんなことがひょっとしたら日本中で起こっているのではないだろうか、ふとそう思った。総表現社会参加者層はブログ空間に影響されて判断し、リアル世界でミクロに「大衆層」に影響を及ぼす。そんな連鎖が起きた最初の事例として小泉圧勝を読み取ることもできるのではないだろうか。


寒々としたものを感じました。
この著者には自分という主体性や自分の価値観に基づく言動が出来ないのだと気づいたからです。
みんながそちらを向いているから自分もそれに乗ろうという人間に主体性や知性などあるはずがありません。
そんな人間の書いたものに、共感し感動していた自分に嫌気をさしたのです。
しかし、日本の知識人たちや有識者たちは、ほとんどがそうなってきているのでしょうね。
思いだすと、そういう苦い体験がいろいろと頭に浮かびます。
大勢に迎合する生き方は安楽かもしれませんが、自分の人生とは言いがたいです。
ブログ空間で把握した認識は、自分の言動を決める材料にすべきです。
それに自分を合わせるようなことはしたくありません。
みなさんはいかがでしょうか。

■コストダウンからコストアップへの戦略転換の提案(2006年8月29日)
またまた悲惨な交通事故が起きました。
福岡市で飲酒運転していた車に追突され、川に墜落、若い両親が3人の子どもたちを一挙に失った事故です。
これは事故ではなく、犯罪事件というべきで、明らかに防止策がもっととられてもいい事件です。
こうした事件に対する処罰は、最近、重くなったとはいえ、まだまだ極めて軽いです。最高でも20年以下の懲役ですから、被害者の家族は決して納得できないでしょう。
日本の刑法は、その前提において、かつての冤罪や警察の横暴さを前提にした被害者保護の視点が強いように思います。そろそろ発想を転換すべきです。
それに、産業優先の行政措置も見直すべきでしょう。
飲酒運転をした人は運転免許を永久に剥奪すべきだと私は思います。
自動車の危険性を少しでもわかっていたら、そんなことは当然だと私は思います。
それで何か不都合が生まれるでしょうか。
自動車市場が少し小さくなって、アルコール飲料の売上げが少し減るだけのことでしょう。
自動車メーカーとアルコールメーカーは賛成しないかもしれません。
でも、その経営者も、自分の家族が被害者になれば、考えは変わるでしょう。
人間は自分が当事者にならなければ、真剣に考えないという傾向がありますが、当事者になれば真剣に考えるものですから。真剣に考えれば、答は簡単です。

しかし、今回、問題にしたいのは別の話です。
今回の事件で私が感じたいのは、やはり自動車の価格が安すぎることです。
重量あたりで言えば、リンゴや梨と自動車は同じくらいの価格ですが、果物は食べれば無くなるのに自動車はずっと使えるわけですから、実は重量あたり価格はリンゴに比べて桁違いに安いのです。
にもかかわらず、自動車メーカーは今なお空前の利益を上げています。
それはスケールメリットのおかげですが、自動車はおもちゃではなく、走る凶器でもあるわけですから、誰でも買えるような価格設定でいいのでしょうか。
かつて「自動車の社会的費用」が問題になったように、コスト設定と商品が発生させる社会的損失評価に間違いがあるのだと私は思っています。

そうしたことを考えると、自動車メーカーは価格を上げると同時に、少なくとも利益のかなりの部分をそうした社会的補填ないしは予防に割くべきです。
いや、自動車のコストをもっと高めるための仕組みが必要なのです。
トヨタはコストダウンは得意ですが、コストアップは不得手かもしれませんが、これから必要なのはコストアップの思想と利益配分の思想です。
たとえば飲酒運転防止などの仕組みの研究開発が進められていますが、それをもっと加速し、そのコストを価格に反映させることも良いでしょう。
交通事故発生予防の社会的仕組みづくりにももっと資金投入すべきですし、交通事件にあった被害者救済にもっと資金を割くべきでしょう。それらをコストに組み込めばコストは上げられるのです。
奇妙な論理だと思われるかもしれませんが、そろそろコスト発想の枠組みを変えるべき時期に来ているのです。
目先のコストダウンは、実は長期的なコストアップにつながっています。
そしてその逆もまた真なのです。

日本の企業は、そろそろコストダウン発想からコストアップ発想へと進化すべき時期ではないかと思います。
先日書いた住宅も、まさにそれが緊急の課題です。
まずは自分の生活から変えても良いかもしれません。

■無理しなければ疲れません(2006年8月30日)
我が家のトイレにこんな紙がはってあります。



半年前に女房があるところから見つけてきて、貼り出しているのです。
トイレに貼ってあるので、自宅にいれば、毎日目にすることになります。
このメッセージを毎日、読んでいるにもかかわらず、
なぜか疲れて、傷つくことが多いのです。

私の信条は
Take it easy.
です。
まあ、気楽にやろうよ、という感じですが、
先週、ある人に話したら、驚いたというのです。
私の生き方はとても「気楽」ではないように見えるというのです。
そういえば、昨日もある人から同じようなことを言われました。
私の生き方は、まだまだTake it easyではないようです。
どこかで無理をしているのかもしれません。

無理しなければ疲れません。
いたわれば傷つきません。
体も、心も、おんなじだね。

そんな生き方に近づきたいと思いますが、
どうしてこうも毎日、問題が続発するのでしょうか。
社会的な事件もそうですが、身近な事件も多すぎます。
身近な問題に関しては、私自身がTake it easy に生きてきたせいではないかと気もしますが、
もしかしたら、社会全体の事件もそうかもしれません。
Take it easy は最近の日本社会の基調だったのかもしれません。
その一方で、無理をするばかりで、いたわりを忘れてきたのも、この30年の私たちの生き方だったのかもしれません。
だれもがお互いに支え合いながら、社会全体の無理を最小化するような社会を目指して、まずは自分が出来るところから生き方を見直していきたいと思います。

■イラク派兵の後遺症(2006年8月31日)
憲法9条が変えられるかもしれない不安が、日に日に高まっています。
しかも、自分もその家族も戦場などには行きそうもない、愛国心など微塵もないであろう権力者たちがそれを主張しているばかりではなく、まず真っ先に戦場に送られて悲惨な目に合うだろう庶民の一員である若者たちが、それを加速している状況を見ると、本当に寂しくなります。
イラクに派兵するのであれば、まずは自分の息子をイラクに派遣することを考えてほしいですが、それも暴論でしょうか。
しかし、ノブレス・オブリッジ精神を少しは持ってもらいたいものです。
それでこそ、宰相といえます。
イラクに派遣された米兵が、帰国後健康障害を起こしている話は日本のマスコミではあまり報道されませんが、アメリカではいろいろと問題を起こしているようです。
日本でもきちんとした健康調査をするような働きかけの動きがありますが、イラク派兵は過去の話ではありません。
派遣された自衛隊員だけではなく、日本社会の健康への影響もきちんと検査すべきでしょうね。
後遺症は個人にだけ残るのではありません。
マスコミはあまり話題にしなくなりましたが、これからもきちんと関心を持ち続けていきたいと思います。

■薬害C型肝炎訴訟の見る政府や企業の発想(2006年8月31日)
C型肝炎訴訟では2番目の判決になる、福岡判決が出ました。大阪地裁での判決と同じく、国と製薬会社に賠償支払いが言い渡されました。
この問題は日本の行政の本質を象徴しているだけではなく、企業の本質を象徴している事件なので、私にはとても関心があり、これまでも何回か書いてきました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_12.html
大阪地裁の判決時にも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/06/post_4e70.html

今回も原告勝訴とはいえ、何かすっきりしないものがあります。
原告の一部の請求を棄却したというのもそうですが、こうした事件を教訓にして、政府や企業が自らの考えを問い直している姿勢があまり見えてこないからです。

J&Jは、タイレノール事件で自らの企業のあり方を変えたといわれています。
http://acuvue.jnj.co.jp/corp/tn.htm
日本では、こうした事件が起きても、企業のあり方を変えようという動きが出てきません。
訴訟で争うのも必要かもしれませんが、
まずは被害者救済に全力を尽くすとか、再発防止のための企業の仕組みを見直すとかするべきではないでしょうか。
ところが、企業や国の対応は、企業防衛、賠償額節約、つまりは責任回避が先行しているように思えてなりません。発想の起点が違います。組織起点なのです。
それではせっかくの事件が活かされません。
個人の問題に矮小化され、当事者双方にとってもむなしい結果になりがちです。
しかも本質的なことは解決されませんので、類似の事件が繰り返されているわけです。
個々の問題解決と同時に、そうした事件の再発を回避する対策が重要です。
それが結局は企業にとっても国にとっても、大きなメリットになるはずです。

裁判や訴訟の増加が増えていますが、かつての大岡裁きのような「三方得」発想のしくみはできないものでしょうか。
裁判で決着をつける方法は、最後の手段のように思いますが、三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)や厚生労働省がもしもこの事件を謙虚に考え直していれば、もっと違った対応になるはずです。もしかしたら裁判への対応の半分の費用とエネルギーでそれが実現できるかもしれません。

いつもこうした事件に触れて思うのは、もしそれぞれが自らの立場を相手に置き換えて考えたらどうなるかということです。
特に三菱ウェルファーマや厚生労働省の意思決定者に聞いてみたいと思います。
争いが生じた時に、まずは立場を置き換えて考える時間があれば、世の中の争いはかなり減少するような気がします。

せっかくの「フィブリノゲン事件」も、企業の進化には役に立たなかったことが残念です。

■田中康夫さんへの感謝(2006年9月1日)
さまざまな話題をつくり、日本社会に大きな問題提起をしてきた田中康夫さんの長野県知事の任期がとうとう終わりました。
心底、ご苦労さん、そしてありがとうといいたい気分です。

田中さんが知事を継続しなかったことに関して、とても共感できるブログを教えてもらいました。
ちょいマジ掲示板の、「あえて勝利第1主義を採らなかった田中流選挙の美学と達観」です。
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=329;id=
そこにはこんな記述があります。

自公政権打倒の全国政治の面からも、全国民衆と活動家の志気の面からも、今回の田中知事落選は大きな損失であり、残念でならない。

私もそう思いますが、田中さんの処し方にも共感します。
詳しくはそのブログを読んでください。

田中さんの表面的な言動や風貌の奥に込められたメッセージを真剣に考えて人はどのくらいいたのでしょうか。
田中さんからのメッセージは、もっときちんと考えなければいけなかったと思います。
脱ダム宣言の意味を一体どのくらいの人が真剣に考えたのか。
そういえば、以前、民主党が高速道路無料化の提案をした時に、多くの人がまじめに取り合わなかったことがありましたが、中途半端な知識で提案を判断する有識者が日本には多すぎる気がします。
新しい問題提起にはもっと真剣に耳を傾けるべきです。
私たちは、こうして「大切なもの」を捨ててきているのかもしれません。

田中康夫さんに、私は感謝しています。
形だけの改革を唱える知事が多い中で、
真の問題提起をしてくれたような気がします。
ありがとうございました。
次の活躍の舞台に期待したいと思います。

■非対称コミュニケーションであることの認識(2006年9月2日)
先日、病院で体験した話です。
血液検査の採血場所がいつもかなりの混雑です。
今回も15分ほど待つ時間がありましたが、そこで窓口の受け答えや採血の様子がよく見えます。
作業の進め方はシステム化されており、安心して待っていられます。
採血する人たちはみんな親切そうで、患者と談笑しながら作業をしています。とてもいい感じです。
ここでは患者とのコミュニケーションが重視されているのがよくわかります。受付の対応も親切です。
ところが、たまたまある患者が受付に何かを相談したら、受付の人が「それは医師に訊いてください。ここではそこまでは面倒みられません」と答える声が聞こえてきました。
「面倒みられません」。
その言葉が、いやに耳に残りました。
質問の相手を間違えたという点で、原因は患者にあると思いますし、受付の人には悪意はなかったのでしょうが、質問した患者にとってはどう受け止められたでしょうか。
「それはここではわからないので、担当の医師にきいてください」
といえば、印象は全く変わったでしょう。
立場が対等でない人あるいは組織のコミュニケーションは、対等な立場の人を前提としたコミュニケーションとは全く異質なものです。
アメリカの大学には、教授と学生の恋愛禁止ルールがあるそうですが、とても納得できます。日本でも大学は自己ルール化すべきです。
「非対等な主体間のコミュニケーション」は意外と研究が進んでいない分野だと思いますが、たとえば病院でインフォームド・コンセントを進めるのであれば、この問題は無視できません。
病院側の人と患者の立場は全く対等ではありません。
そもそも実際には、病院に限らず、世の中には対等の人間関係などはほとんど存在しません。
家族においてもそうですし、地域社会においてもそうかもしれません。
にもかかわらず、対等な立場を想定したコミュニケーションが行なわれがちです。
そこで悲劇が発生することも少なくありません。
昨日の朝日新聞に、生活保護の拒否の66%は「違法」の可能性があるという日弁連の調査結果が出ていました。北九州市での具体的な事例も紹介されていますが、これも非対称コミュニケーションの結果でしょう。
学校での先生と生徒の関係も同じです。さらに学校と文部科学省の関係にも同じ上下関係が成り立っています。
周りの見回すとそういうことばかりではないでしょうか。
家族の中でも夫婦関係や親子関係は間違いなく非対称であり、不平等構造になっています。
我が家の場合は、不当に父親と夫の地位が低いと私はひがんでいますが、これもこれまでの非対称コミュニケーションへの私自身の認識不足の結果で、自業自得でしかありません。はい。

ところで、病院の話に戻ります。
受付の人のその一言で、それまで見えていた風景が一変しました。
採血作業の人はこれだけの人が待っているのだから、もっときびきびと作業を進めるべきではないか。ちょっとのんびりやりすぎているのではないか。などという気がしてきて、それまでの好印象が少し曇ってしまいました。
ちょっとした一言が、世界の風景を一変させることがあるのです。
人間とはどこまでも勝手なものです。

■とても気になる政府・行政関係者の発言が増えています(2006年9月2日)
以前、雨森さんからたまには明るい楽しい話題を書くようにと言われているため、何かいい話を書こうと思っているのですが、どうも楽しい話題が見つかりません。
困ったものです。
今日もまた、ネガティブな話です。

この頃、とても気になる政府・行政関係者の発言が増えています。
言葉尻を捉えた批判ではないかと言われそうなのですが、やはり気になります。
たとえば、昨日の朝日新聞に水俣病懇談会の提言に関する記事がありました。
http://www.asahi.com/life/update/0902/006.html
そこにこういう記述があります。

(環境省と委員との意見の対立の場面で)言うことをきかない委員には「環境相の要請を引き受けたのだから、省の指示に従う義務がある」と言い放った。

この懇談会は、環境大臣の私的懇談会ですから、それがおかしいというわけではないのですが、しかし、とても気になります。
ちなみに、この懇談会の座長は有馬朗人さん(元文部大臣)はともかく、提言の起草委員長は柳田邦夫さんで、元水俣市長の吉井さんも委員の一人です。座長と起草委員との間の発想の格差はきっと大きかったでしょう。
この懇談会の議事録は面白いです。
http://www.env.go.jp/council/26minamata/yoshi26.html

「省の指示に従う義務」。とてもいやな言葉です。

こういう発言に、新聞やテレビで毎日のように接するのですが、私の感覚がおかしいのでしょうか。
権威や権力の指示に従って生きるのが賢明なのでしょうか。

■平和と戦争は同義語?(2006年9月4日)
平和の結集をめざす市民の風という活動があります。
私もささやかに関わっていますが、もしご存じない方がいたら、そのホームページをぜひご覧ください。そして、出来れば活動にも参加してください。
個人のつながりの広がりで、党派を超えた平和の風を起こしていきたいという活動です。いかなる政党活動からも自立しています。
ど真ん中にミュージシャンがいるので、私は安心して参加しています。
彼らが参加しなくなったら、私も脱会すると思いますが、ミュージシャンが考える平和は信頼しやすいです。
バレンボイムのラマラ・コンサートの例を持ち出すこともないでしょう。

ところが党派を超えた個人の集まりというのは、脆さと強さの両方を持っています。
そのネットワークの運営委員のメーリングリストがあるのですが、そこで2週間前にちょっとした事件が起こりました。
おそらく不注意な人間的ミスによる間違った投稿が、しかも運営委員ではあるはずのないアドレスから投稿されたのです。
私はよくあるミスだと思っていたのですが、それをめぐる難しい議論が展開されだしました。そしてだんだん感情的な発言が出始めました。
見るに見かねて、そうした議論の危険性を投稿しましたが、議論というのは動き出すととまらなくなるものです。
話はどんどん広がり、そのやり取りに嫌気をさしてメーリングリストから抜ける人まで出てきてしまいました。
結果的には、さまざまな意見の素直な表明を経て、問題はうまく収束し、ある意味では前進の契機にもなったのですが、その経緯を見ていて、平和の崩壊はいとも簡単なことなのだと改めて実感しました。

戦争のきっかけはきっと瑣末な問題なのでしょうね。
しかも、それが表情を持った人のつながりのない無機質な情報空間での手続き的な議論を起点にして、どんどん対立の構図が拡大していく。
もし十分に拡大できない場合は、誰かがそれを加速する仕掛けをして、戦争を回避できないものにしていくのでしょうか。
メーリングリストでのやり取りに、戦争勃発のメカニズムを垣間見た気分です。
戦争回避を目指す「平和主義者たち」が戦争の引き金になってしまうこともきっとあるのではないかと末恐ろしくなりました。

平和活動の難しさをいま実感しています。
「平和」と「戦争」は同義語ではないかと、この頃つくづく感じます。

■子どもたちからのSOSの意味(2006年9月5日)
子どもたちが加害者になる事件が増えています。
統計上は決して増えていないとよく言われますが、テレビでは毎週のように子どもが加害者の殺人事件が報道されています。増えていないとは思えません。
おそらく殺人にいたる前の同種の事件は、もっと多いでしょう。

なぜこんなにも増えてきているのでしょうか。
いろいろな説明ができるでしょうが、社会のひずみが子どもたちにしわ寄せされている結果と考えるのは、さほど間違ってはいないでしょう。
いま流行の「いたみ」の増殖は、実はほとんどすべてが子どもたちに向かっているように思えてなりません。
加害者となってしまった子どもたちが、実は一番の被害者でもあると言っていいかもしれません。
ともかく怒りの持って行き場のない、とても不幸な悲しい事件が多いのです。

加害者こそが被害者という構図の事件が増えてきているということは、何を意味するのでしょうか。
私には、何かの予兆ではないかと思えてなりません。
何の予兆でしょうか。
子どもたちがSOSを発しているのではないのです。
社会そのものがきっとSOSを出しているのです。
その予兆に謙虚に耳を傾け、みんなが生き方を変えていかないと、予兆は現実になりかねません。
そうならないために、誰にでも出来ることがきっとあるはずです。
問題は決して、子どもたちだけのことではありません。
すべての人に関わる問題ではないかと思います。

■政治のパラダイムの見直し(2006年9月6日)
小沢さんと安倍さんのメッセージを聴いたり読んだりしていて、大きな違いを感じます。
小沢さんは、投票に行き、議会民主主義制度を活かせと国民に呼びかけ、
安倍さんは損得を超えて、国のために尽くすことを呼びかけています。
それぞれがおかれている事情が、そこには反映していますが、
その根底にある発想の起点は正反対にあるように思います。

小沢さんが制度活用の勧めをメッセージしているのに対し、
安倍さんは制度に尽くすことをメッセージしています。
つまり小沢さんは個人起点であり、安倍さんは組織(制度)起点です。
新聞などの論調では、理念の安倍構想と制度の小沢構想といわれがちですが、
見かけ上はともかく、本質は逆ではないかと思います。

組織起点から個人起点へが、私の社会を見るときの基準座軸ですが、
小沢さんの論調にわずかとはいえ、その転換の兆しを感じます。
民主党にしっかりしたビジョンがないのが残念ではありますが、
時代は少しだけ前進するかもしれません。
いや前進させるために、何が出来るかを私自身も考えたいと思います。

■一方的理解は相互理解を妨げる(2006年9月7日)
いくつかのメーリングリストに参加して、いろいろな意見に触れる機会がありますが、言葉の難しさをますます感じています。
コミュニケーションを進めていくためには、「言葉」がとても大切です。
しかし、その言葉が人によってさまざまな受け止め方がされているのです。
たとえばこんな投稿がありました。

>ポピュリズムという言葉を聴くと、大多数の民衆はバカだと言われているような気が>します。

平和を語り合うメーリングリストで、ポピュリズムへの危惧が話題になったことへの疑問として出された意見です。
こういう投稿を読むとドッと疲れが出てしまいます。
言語体系が違うのでしょうね。
にもかかわらず、何となく通じてしまう恐ろしさです。

以前も書いたかもしれませんが、バベルの塔を思い出します。
天にも届く塔を建て始めた人間たちに対して、神はたくさんの言語を与えました。
その結果、人間同士のコミュニケーションが困難になり、結局、人のつながりが壊れだし、塔は完成せずに瓦解してしまうわけですが、とても象徴的な話です。
ホンダが宗一郎時代にKT法という手法を導入し、社内言語の共通化を図って、企業力を高めた話は有名でした。東レで時代に、担当された木村さんからその話をお聞きしましたが、組織管理の本質を教えてもらったような気がしました。

現実からかなり自由になった現代人は、言語で思考し、コミュニケーションし、行動するようになってきました。現場・現実よりも、言葉・概念がパワーを持ち出したのです。
コミュニケーションメディアやコミュニケーション技術が発展すればするほど、生のコミュニケーションは少なくなり、何となくの一方的理解が増え、コミュニケーションできたようで実はできていない状況がいたるところで増えているような気がします。
一方的理解は相互理解を妨げることになりますが、一方的理解でコミュニケーションが進んだと勘違いする人が圧倒的に多いのが現実です。
その結果、どうなるか。

熟年離婚も親子対立も、こうした言語だけの相互行為がもたらす破綻かもしれません。
一方的理解ではない、相互理解は、まずは言語の共有化から始めなければいけません。
私たちはもっと「生の言葉」を使わないといけないのかもしれません。
そうなるとおのずと世界との付き合い方が変わってきます。
自分自身、まだまだそうなっていないことをこの頃強く感じます。
生存の不安から解放されだした成熟社会を生きることの難しさを改めて感じます。

■後藤田正純政務官辞任の意味(2006年9月8日)
高利金融が人を殺し、家庭を破壊することがあるとすれば、その仕組みはやめるべきです。にもかかわらず、もしそれを法的に認めるような仕組みをつくる人がいたら、その人は殺人ほう助罪に問われるべきでしょう。
私は金利という概念自体に違和感を持っているので、法外な利子(たとえば年利1割以上はすべて私には法外です)に依存して利益を上げていることに賛成はできません。

自民党の後藤田正純衆院議員が5日、金融庁が同日発表した貸金業規制法などについての改正案に反対して内閣府政務官を辞任するという記事が新聞に出ていました。
久しぶりに気分が晴れる記事でした。
貸金業規制法は議員立法として1983年に制定され、商工ローンやヤミ金対策など、これまでは議員立法で改正されてきました。
私にとっては極めて不満足な改定でしたが、少しずつ前進していたように見えていました。金融業界にはとても異を唱えられないだろうと思っていた議員たちがほんの少しだけとはいえ、動いたからです。
その貸金業規制法の改正がまた行なわれるようです。
ところが新聞記事によれば、名称を「貸金業法」に変えて内閣提出法案として国会に出す方向だそうです。
私には発想がまた逆転したように思えてなりません。
議員立法と内閣立法は天と地ほどの違いがあります。
それを象徴するように名前も変わっています。「規制」ではなく「支援」へと基本姿勢が変わったのです。庶民から金を取り上げることしか能のない、金の亡者の小泉政権(この評価には異論が多いと思いますが、私にはそう見えます)を見事に象徴しています。
しかもその中心にいるのは、税金を取り立てる発想しかない、悪代官のような金融庁です。日本は金の亡者の国になってしまいました。
後藤田さんは、そうした金融庁案に対し、「最高裁や金融庁の有識者懇談会などが規制強化で一致しているのに、特例金利などの経過措置を9年間も残す内閣案(金融庁案)に反対して、抗議の辞任をしたわけです。
辞任するより案を変えるべきではありますが、それができないのが今の政府であることを彼の行動は示唆しています。
こうした小さな事件に、ことの本質が見えているような気がします。
後藤田正純。
国会議員にも「省の指示」に反発する、まともな感覚を持った人がいるのですね。
この人の名前を覚えておこうとお思います。

■「アフリカではよくあること」へのアクセスはなぜ多いのか(2006年9月9日)
最近、気になっていることがあるのですが、その理由をどなたか教えてもらえないでしょうか。
気になっているのは、このブログへのアクセスの件です。
前にお話したとおり、このブログにはアクセス解析機能があります。
ですからどの項目へのアクセスが多いかがわかるのです。
以前も書いたとおり、沢蟹騒動も多いのですが、一番多いのは「アフリカではよくあること」(2006年1月30日)です。
過去4か月でのアクセスは593です。
しかも今もって毎日数件のアクセスが続いています。
ちなみに昨日は5件でした。
不思議です。
その理由が気になって仕方がありません。
ちなみに、私は軽い気持ちで、「アフリカではよくあること」というタイトルをつけたのですが、この言葉は有名なのですね。
Googleで検索したら、たくさんあるので驚きました。
ところがもっと驚いたのが、なんと2番目にCWSプライベートのこの記事があるのです。
何でこんなにマイナーのブログが出てくるのでしょうか。
検索エンジンなどはほとんど気にせずに、地味にやっているブログですが、どうして上位に入ったのでしょうか。
ほんとうに不思議です。
しかし、これが「アフリカではよくあること」への訪問者が多い理由だとは思えません。
「アフリカではよくあること」を検索して、アクセスしてくれる人が毎日そんなにいるわけではないでしょう。
せめて「ニーメラーの教訓」へのアクセスが多いとうれしいのですが、それは100件にも満たないのです。
どうして「アフリカではよくあること」が毎日アクセスされるのか、どなたか教えてくれませんか。
「アフリカではよくあること」にアクセスしてくれた人にはぜひお聞きしたいのですが。

■商品は文化とセットです(2006年9月10日)
私にはどうも好きになれない商品がいくつかあります。
古いところではウォークマンです。
i-pod につながるイヤホンで音楽などを聴く機器です。
最初に出たときには、ハインラインの「人形つかい」の世界を思い出してゾッとしました。
企業にはしっかりしたビジョンと哲学が必要だと思いました。
ウォークマンの発売以来、私の中でのソニーの評価は大幅に下がりました。
ウォークマン開発に関わった友人もいたのですが。
ウォークマンを聴きすぎると難聴になるとも言われていますが、もっと恐ろしいのは社会的難聴、つまり周辺のことに関心を持たない社会的姿勢の習慣化がおそろしいです。
ウォークマン登場以来、電車内の風景は変わりました。
せっかく社会には素晴らしい音がたくさんなります。それを遮断してしまうのは、もったいない話です。ソニーの経営者はそれを少しは考えたのでしょうか。
こうして「つながりこわし」の商品は市場を次々と創りだしました。
文化を創ったのか壊したのか、人によって評価は違うでしょうが、私には井深さんの思想とは反対の方向にソニーが向いてしまったように思いました。

ビールをはじめとしたアルコール飲料も嫌いな商品です。
アルコールに弱く、下戸であることが影響しているかもしれませんが、タバコ以上に社会に害悪を与える商品だと思っています。
酒を飲めないとは人生の喜びの半分を捨てているようなものだとよく言われました。そういう人にとっては、アルコール飲料反対などは論外でしょう。アメリカの禁酒法時代を思い出せば、禁酒は人間の生理に反するといわれるかもしれません。
しかし時代は変わりました。
人間の理性をおかしくするような飲み物がこれほど大手をふって市場を拡大しているのは理解できません。
飲酒運転による交通事故の責任の一半は酒を製造販売している会社が負うべきです。
その意識がほとんどなく、売らんかなばかりの広告に罪の意識のない経営者の常識を疑います。
一時期、ビールに関してもそうした議論が出始めたことがありましたが、最近はほとんど聞いたことがありません。

なぜこんなことを書き出したかといえば、一昨日、テレビで、水上バイクの事件の特集を観たからです。それが気になって仕方がありません。
海水浴場に突っ込んで水泳客を殺傷する事故が増えているようです。しかも高校生の生命を奪ったドライバーの罪は2年半の懲役です。被害者の家族は納得できないでしょうね。私なら報復も考えかねません。
こんな危険な商品を製造販売し、2日間6万円で運転免許を与えるような教習所を運営している会社は、私には犯罪行為としか考えられません。
その延長で言えば、自動車メーカーもそうなってしまうわけですが。
水上バイクは製造禁止、アルコール飲料も販売禁止、などと言ったらそれこそ総スカンでしょうね。趣味のない変人のたわごとになってしまいます。

問題は、商品は「もの」ではないということなのです。
商品を世に出すことは、文化を創ることです。
ですからその使い方や使われ方を一緒に設計し提案すべきなのです。
水上バイクもいいでしょう。だが一般の空間ではなく、競艇場のような隔離された使用場所をつくるとか、人の来ない沖合いに自由に運行できる領域を作れば問題は解決します。それを作り出すコストも商品には入れるべきでしょう。
ビールやお酒もそうです。
その効用もあるでしょうから、酒をたしなむ文化や場所をもっときちんとつくるとともに、飲酒による事件や事故に対するしっかりした対策をメーカーとしても用意すべきです。
飲酒運転に対しては厳罰にする運動はそもそも酒やビールの会社、あるいは自動車会社が起こすべきです。それはCSRとか社会貢献などという以前のことです。それが出来ない会社のCSRなど信頼できるはずがありません。
ウォークマンはどうでしょうか。
これも使い方の文化がもっと考えられるべきでした。

新商品の開発には経済だけではなく文化の視点が不可欠です。

■9.11事件で何が変わったのか(2006年9月11日)
衝撃的だった9.11事件から5年目です。
あの事件で何が終わり、何が始まったのか。
5年間の経過の中でいろいろのことが見えてきました。

しかし、残念ながら日本のマスコミはまだ相変わらず表層的な議論をしているだけのような気がします。
そこから始まったイラクの現実すら、日本では「消費的な」ニュース素材でしかありません。
イラク復興などという、体のいい口実での戦争への加担の真実も、マスコミの商業主義の流れの中で依然、闇の中に葬られたままでいます。

しかし、ネットの世界では明らかになりだしているように、真実はいろいろと露呈されつつあります。
9.11の航空機のビル突入は米国政府の仕業という話が広がりだしていますが、それもあながち荒唐無稽な話でもありません。
エルズバーグが暴露したペンタゴンペーパーが物語るように、同じような話はこれまでもあったのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/04/post_1.html
真珠湾の再来か、などと語られた真珠湾攻撃事件もまた、まさに米国政府が逆活用した事件だったという見方が強まっています。
「自衛戦争」の口実を与える事件を相手が起こすように仕向けたり、起こしたように偽装したりするのは、米国に限りませんが、戦争を始める国の常套手段でした。
日本も同じような手口の使い手でした。

9.11事件での死者に哀悼をささげると同時に、その事件を引き起こした対象をきちんと確認し、問題を勘違いしないようにしたいと思います。
靖国問題ですら、その違いもわからない人があまりにも多いのが寂しいですが、そこをしっかりと認識しておかない限り、歴史はとめどもなく繰り返されるのです。
そうでなければ、死者はうかばれません。

歴史を動かす対立軸を間違わないようにしたものです。
私が考えている軸は、いつものことながら、個人対組織です。

■9.11事件の真実(2006年9月12日)
TBSの「N.Yテロ 5年目の真実」を観ました。
テロという言葉を使っているところに、目線の一方性を感じましたが、もしかしたらと期待していましたが、単なる見世物番組でしかありませんでした。
5つの人生ドラマと内部のシーンの公開が「みどころ」でした。
他の9.11特集も似たり寄ったりでした。

「暴かれた9.11疑惑の真相」ベンジャミン・フルフォード著(扶桑社)が出版されました。検証DVDもついています。
9.11事件陰謀説はアメリカでも再燃しているそうですが、日本でもじわじわと広がっているようです。そうした情報を集めてくれているサイトもあります。
http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/911terror/nyterror.htm
私も早速購入して読みました。DVDも観ました。
説得力はありますが、文章や画像は編集の仕方でいかようにも変えられますから、この本で陰謀説を確証することは出来ません。
しかし、その可能性や、そうした説が出てくる背景を確認することは出来ます。
そこにこそ、真実があるはずです。
この本は書店で10分もあれば、ぱらぱらと概要は読めますので、ぜひ見てください。
面白そうだったら購入して読んでください。
上記のサイトを読めば、この本を読むまでもありませんが。

この本の最後に、ヒトラーの言葉が引用されています。
「国民は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすいものだ」
その系譜が、ブッシュ政権や小泉内閣に継承されているような気がしてなりません。

大きな嘘の可能性を、ちょっと考えてみると世界は違った風景に見えてきます。
これは9.11事件に限ったことではありません。
日本にもたくさん事例がありそうです。

■改めて「共済つぶし」の動きについて(2006年9月13日)
日本には古来、結いとか舫いという、相互に支えあう仕組みの文化がありました。
そこではすべての参加者が同じ目線で、まさに平等に支えあう関係が育まれていました。
みんながそれぞれに主役になれるコモンズの世界があったのです。
ところが産業化を急いで進めることになった1940年代から、そうした文化や仕組みは「前近代的」なものとされて、捨てられてきました。
お互いに支えあうよりも、自分で完結するためにお金儲けをしようという核家族文化が広がったのです。
その結果、経済は成長し、1億総中流社会が実現しました。わずらわしい隣近所づきあいからも解放され、核家族のなかでみんなが勝手に生きることを覚えてしまったのです。
この結果、家族はもとより、地域社会や支えあう仲間は壊れてしまったのです。

しかし、そもそも「勝手に生きること」など長い目でみたら出来るはずがありません。
そして、人はいつか不運や不幸に陥ることがあるのです。
そういう中で、改めて支え合いの仕組みの大切さが認識されだし、具体的な仕組みが生まれだしました。
その一つが「共済」の仕組みです。
とても誠実でやさしい共済制度がいろいろなところで、多様に育ちだしたのです。

ところが、その「共済」の仕組みを悪用する人たちが現れだしました。
本来、「共済」は市場原理に裏付けられた金銭経済の仕組みとはパラダイムが違いますが、コモンズ発想が確立されていない状況の中で、それが混同され、社会的事件さえ発生しだしました。
それを口実に、共済制度を保険制度に取り込んでしまおうという動きが、現実化しました。それもまた、米国の圧力を受けながらです。
そして、保険法改正により、10月以降、多くの良心的な日本型共済組合は活動を継続できなくなりました。
これに関しては、中途半端な書き込みをCWSコモンズのほうで行ないましたが、もっと正確なサイトがあるはずですので、それをご覧ください。

一昨日、ワーカーズ・コレクティブ共済の関係者から聞いた話ですが、保険法を改正するに際して金融庁の担当官が取材に来たそうです。
そして実情を聞いて、「とても良い共済組合だすね」と感心して帰っていったそうです。
ところが、その共済組合もまた保険法の対象になり、継続できなくなっています。
何のための事前調査だったのでしょうか。
現場の担当官が感動した「素晴らしい仕組み」も解体されるのが、現在進められている共済壊しの現実です。

これも「民営化」の一面なのです。
「官から共へ」を標榜している私にとっては、民営化の欺瞞性を暴くべきだと思っていますが、日本では民営化信仰があまりにも強くて、相手にされません。
「官から民へ」などという馬鹿なスローガンは時代錯誤もはなはだしいと私は思っています。もう「官民」の時代ではないのです。しかしまだ「お上」に支配される民でいつづけたいと思っている日本人が圧倒的に多いのです。
主体的に生きたと思っている私のような人間には、とても生きにくい社会です。

共済は「共」(コモンズ)の象徴的な仕組みの一つです。
それが壊されようとしていることがとても寂しく恐ろしいです。
手をこまねいているしか方策はないのでしょうか。

■私的所有指向の呪縛からの解放(2006年9月14日)
以前、西部劇のビデオをコレクションしていましたが、ほとんどすべて廃棄しました。観る時間がないうちに、保存が悪くて画質が維持できなかったためです。無駄なことをしてしまいました。
DVDになり保存しやすくなったので、DVDコレクションを考えたのですが、やめました。
記録は個々人で持つのではなく、社会的に保存されたところから必要に応じて取り出せばいいのだという気に最近漸くなれたのです。頭では以前からわかってはいたのですが、その仕組みに信頼を置けなかったのです。
しかし最近は、自分がもっているよりも、公共空間で保管しておいてもらったほうが使いやすいことを体験しだしました。
よくわかりませんが、これがWeb2.0時代なのだと、付け焼刃的に勝手な解釈をしています。
この仕組みはまだ情報分野だけのようですが、この考え方をさらに進めると、私的所有信仰に大きな変化を与えることになるかもしれません。
成熟社会とは、そもそも私的所有概念がなくなる社会かもしれません。
たとえば銀行にあるお金を必要な人が自由に使えるような時代は来ないでしょうか。
そうなれば、世界から泥棒も戦争もなくなるかもしれません。
お金も所詮は「情報」ですから、みんなで共有してもいいような気もします。

そんな馬鹿な話はない、などと決めるのはやめましょう。
空を飛ぶなんて、そんな馬鹿なことはありえないと、つい少し前の人たちは考えていたのですから。
ともかく発想を自由にしていくことがいま求められているように思います。
911事件のことも含めて。

■拉致問題と自民党の関係(2006年9月15日)
CWSコモンズでも何回も紹介していますが、「軍縮問題資料」という月刊誌があります、書名はかたいですが、とても読みやすい雑誌です。一度廃刊になりそうになったのですが、読者の支援で回避された雑誌です。
私は毎回ほぼ全誌面を読みます。オフィスに行く往復の時間で読み終えられるほどコンパクトの雑誌です。
10月号の特集は2つありました。「まともな首相を求める」と「9・11から5年後の世界」です。いずれも一人でも多くの人に読んでほしい内容です。
年間1万円で購読できますので、ぜひ読んでほしい本です。
申し込みは簡単です。
http://www.heiwa.net/

今回の特集のなかの吉武輝子さんの「拝啓次期総理殿」で、衝撃的なことを知りました。

2003年衆議院選で土井たか子さんが落選しました。
全国を回って自分の選挙活動ができない土井さんに代わって、吉武さんは支援の辻説法をしていたのだそうです。
土井さんの対立候補は、北朝鮮拉致問題一本やりの自民党の大前繁雄さんでした。
安倍晋三さんが応援演説に来た時のことです。
演説する駅頭には、(北朝鮮に拉致された日本人を)救う会ののぼりが立ち、法被を着た人たちが神戸の住人の拉致被害者有本恵子さんの写真を展示し、署名集めをしていたそうです。
そこで有本さんの父勝弘さんが「拉致の張本人は土井たか子である。首を討ち取ってやる」と応援演説をし、続いて安倍晋三さんがそれに輪をかけた土井批判をしたのだそうです。
それが何だといわれそうですが、その後、土井さんのポスターに有本さんの写真が張られたり、有権者の家に「土井たか子が拉致の張本人であるという事実をどう考えるか」というリサーチ会社と名乗る会社の電話がかかり続けたのだそうです。
小泉手法である「刺客派遣」を思わせます。
それがどうした、とまた言われるかもしれませんが、もしこれが事実ならば犯罪を立件できるでしょう。
権力者の「大きな犯罪」は犯罪にならないとしても、この種の小さな犯罪は目先の社会さえ壊しかねません。
こうした暴力的な選挙戦が行なわれているとは残念な話です。

しかし、私が衝撃を受けたのは、この件の前に、吉武さんが書いている次の文章でした。
長いですが、引用させてもらいます。

北朝鮮の拉致事件が新聞の紙面に取り上げられて数日もたたないうちに、新宿駅の西口に職が林立し、そろいの法被を着た男女が署名集めをしている姿を見た瞬間、背後に金と力のある集団が動いていることを察知し、慄然としたものでした。
永年運動サイドの人間として生きていれば、いかに市民運動が貧乏であるかを痛感しているだけに、あまりにも経済的に裕福なグループを目の当たりにすると、やたらに金の出所が気になってしまうのです。

拉致問題がある段階から全く進まなくなった理由が垣間見える気がします。
同時に、日本の行く末に関する不安が強まります。
「暴かれた9.11疑惑の真相」に引用されていたヒトラーの言葉を探すために、「わが闘争」を読み始めました。

■社会アルツハイマー症(2006年9月16日)
若年性アルツハイマーが進行しつつある妻とその妻を支える夫の暮らしぶりをドキュメントした番組を見ました。
見た感じ全く普通に見える明るい奥さんの行動が冗談にしか見えないのですが、目の前の茶筒がわからなかったり、4枚の500円玉を数えるとどうしても5枚になったりしてしまう様子がとてもリアルに描かれていました。
妻を支える夫の優しさには、自分だったら出来るだろうかととても感心しました。
女房と2人で観ていたのですが、2人とも他人事ではありません。
しかし、そうなった場合、果たしてこの夫婦のようにあたたかで幸せな関係を維持できるかどうか、心配です。

「半落ち」という映画がありました。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD4440/story.html
感動的で、私は嗚咽を我慢しなければいけないほど涙が出ました。
自分を失っても生きていくのが幸せか、生かせてやるのが愛情か、は答えの出ない問題ですが、自分がもしアルツハイマーになって、自らを失いだしたら、どうするかに関しても、答えられません。
頭では自らの意識のあるうちに人生を終わりにしたいとは思いますが、その手立てを考えると方策が思いつかないのです。

アルツハイマーとは脳が次第に萎縮していき、知能、身体全体の機能が衰えていき、ついには死に至る病です。
その番組をみていて、もう一つ考えたことがあります。
日本の社会そのものが、いまやアルツハイマー病にかかっているのではないかということです。

個人に起こっているのと同じ現象が、社会にも起こっている。
最近、そうしたことを感ずることが多くなりました。

■飲酒運転事故(事件)の実態が誰にも見える仕組みづくり(2006年9月17日)
福岡での飲酒運転事件以後、テレビでは連日、飲酒運転による事故の報道があります。
この事件によって、まさか飲酒運転が増えたわけではないでしょうから、以前から毎日のように飲酒運転による事故が発生したことは間違いありません。
むしろこれだけ飲酒運転への目が厳しくなっていますから、むしろ現在以上に多かったと考えてもおかしくありません。
これまではあまり飲酒運転に社会の目が向けられていなかったために、多くの飲酒運転事故が発生していたにもかかわらず、あまり見えていなかっただけの話です。

このことは社会の実相を把握する上で、大きな示唆を与えています。
私たちは、マスコミによってつくられた社会を現実だと考えているということです。
つい最近も「子どもの事件」に関して、コメントももらいましたが、
子どもが加害者になる事件が、今の日本で増えているのか減っているのか、実はおそらく誰にもわかりません。
私の自治会の中での話であれば、私にもほぼ正確に把握できますが、社会全体は見えないのです。

統計があるといわれるかもしれませんが、統計はいかようにも編集できます。
統計が現実を正確に映し出すことはまずありません。
仕事で30年以上、マーケットリサーチや意識調査を扱ってきた者としては、統計データはちょっとした仕掛けでかなり編集できると思っています。
人口統計のように変えにくいものもありますが、それでもかなりの編集は可能です。
ちなみにかつてある政令都市では人口100万人を切らないような苦労していましたが、当の役所の中にすら実際は100万人を切っていると発言している人が複数いました。まあ、それはそう難しい話ではないでしょう。

人口統計でもそうですから、解釈の要素が入るものに関してはもっと大きく変わることが普通です。
たとえ同じ風景を見ても、見る人や見る目的によって、全く違う意味を持つことは誰もが体験することです。
私たちが見ている社会は、必ずしも現実の社会とは同一ではありません。

マスコミは、その時々の流行や事件で社会の見え方を変えていきます。
それによって、法律がうまれ、計画がつくられ、予算配分が変わってくるのはある程度仕方がないとしても、そのことをいつも頭に入れておく必要があります。

ある委員会で、ある官僚の人が、「いまは再チャレンジという言葉があると予算は取りやすい」と冗談ぽく話しましたが、それが頭から離れません。
笑い話のようですが、よく考えられると今の政府の基本姿勢を象徴しています。

飲酒運転や高金利は現在はマスコミの注目を受けていますが、一時的な流行に終わらせないようにしたいものです。
飲酒運転防止に向けて、漸く自動車メーカーも動き出したようですが、酒造業界も動いてほしいものです。そして飲酒事故の実態が常時誰にも見えるような仕組みをつくってほしいです。それこそがそうした業界に関わる企業の経営責任だと思います。
どこの経営者もまだ発言していませんが、彼らの家族が被害者にならないと動き出さないなどとは思いたくありません。
それにしても経団連の奥田さんが何も発言していないのが、残念でなりません。
形だけでもいいですから、ほんの少しだけでもCSR意識を持ってほしいものです。

■やり始めたら、とまらなくなる依存症シンドローム(2006年9月18日)
コムケアの仲間が、佐藤さんの頭も劣化してきているようなので、と言って、
「文字の大きなクロスワード」創刊号をくれました。
全冊、クロスワードの本ですが、出版元の世界文化社ではこの種のワードパズル誌をすでに7種類も出しており、総計1億冊を突破したのだそうです。
クロスワードは時間つぶしのものという先入観があり、いつも時間貧乏をしている私には縁のない世界だと思っていましたが、就寝前についついやり始めたら、とまらなくなりました。
取り立てて面白いわけでもありませんし、出来たからと言って充実感があるわけでもありません。にもかかわらず一つ出来ると次の問題に取り組んでしまいたくなるのです。
問題が目の前に出されるとついつい解こうとしてしまう。
どうもそういう潜在意識があるようです。
私は模範的な工業社会労働者なのかもしれません。

「ついついやり始めたら、とまらなくなった」。
植草さんの犯罪も、飲酒運転常習者も、あるいは万引きから抜けられない人も、最初はきっと軽い気持ちで、ついついやってしまったのかもしれません。
それがいつの間にか抜けられなくなってしまった。
依存症です。
そうした依存症には誰もが陥る可能性がありますが、最近はそれがどうも広がっているようです。
個人の主体性や自立性が「人や自然とのつながり」と切り離されて語られだしている現代社会では、ますます依存症シンドロームは広がり深まるような気がします。
先日、SNSの議論をしている時に、mixyづかれの話が出ましたが、これもまたネット依存症のひとつです。依存症はどんどん若い世代に広がっているようです。
昔からにアルコールやギャンブルの依存症は問題になっていましたが、最近のネット依存症や音楽(ウォークマン)依存症もまた大きな社会問題にならなければいいと懸念しています。
かくいう私も、最近はPC依存症に陥っているようです。
なぜかPCに向かうと安堵します。
危険な兆候かもしれません。

■過去にではなく未来に責任を持った取り組み(2006年9月19日)
滋賀での新幹線新駅建設凍結の新知事の取り組みはさまざまな「自治体行政」の実態を明らかにしてきているようです。
たとえばある地主は坪15万円での買取を市に要請していましたが断られ続けてきたのに、不動屋さんに売却を頼んだらなぜか市に買ってもらえたそうです。数名の人が仲介人として間に入ったそうですが、頼む人によって売買が成立するわけです。
しかも、行政(正確にはたしか開発公社)が購入した価格は何と90万円だったのだそうです。
本人は15万円しかもらっていないようですから、仲介者はかなりの利益を受けたことになります。
これはテレビの報道特集で放映されていた話です。
しかし当事者が明確に発言されていましたから、事実無根ではない話でしょう。
テレビでは、10年以上、準備してきたのに、いまさら計画を白紙に戻すのは勝手すぎるという住民の発言も出てきましたが、知事(民意)が変わるということは政策が変わるということですから、こういう論理は成り立つはずがありません。
知事が民意と違うことをやりだしたら、知事を変えるべきです。
しかし日本ではお上は変えられないという潜在意識がみんなの頭の中に植え付けられているのです。

民意で知事が変わったのであれば、新しい民意でこそ動かねば選挙の意味はありません。
それにそれまでの経緯に責任を負わない新知事にはそれができるのです。
新知事が責任を持つのは過去にではなく、未来に、です。

過去にではなく、未来から考えると、
政策の評価は大きく変わるはずです。
滋賀県の人たちにはぜひとも長野県や岐阜県の二の舞をしてほしくないと思います。

■団塊世代の関心の行方(2006年9月20日)
来春の統一地方選に向け「団塊世代を地方議会に送るネットワーク」(団塊ネット)を立ち上げるという記事が新聞に出ていました。
組織から離脱を始める団塊世代の目がどこに向いていくかは社会の方向性を左右する大きな問題です。
私は団塊世代の少し上の世代ですが、我々よりも上の世代が構築した路線に乗ってしまったという意味においては、同じ仲間ですし、団塊世代の勢いに乗って、むしろ「いいとこどり」をしてきたという意識も少しあります。
私自身は、前の世代が作り上げた路線にはなじめずに、18年前にその路線から降りてしまいましたが、それでもその路線と完全に袂をわかったわけではありませんので、罪の意識はぬぐい切れません。
まあそんなわけで、団塊世代にはあるシンパシーを感じています。
ところがその団塊世代の話題が最近毎日のように出てきます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0908
CWSコモンズでも最近書きましたが、生産者として活躍してきた団塊世代を今度は市場として取り込もうという動きです。
生産者としての団塊世代と消費者としての団塊世代は、当然、表情が違います。
昨日、あるところで仕事の話をしていたら、団塊世代は消費者としてかなりのこだわりがあり、安ければ良い訳ではないという話が出ました。たしかに「うんちく」をかたむける団塊世代は少なくありません。
しかし、日経マスターズの元編集長からお聞きしたように、団塊世代はお金を持っていてもお金は使わない層かもしれません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action.htm#08222
団塊世代の男性にとっては、お金は稼ぐものであって、使うものではないのかもしれません。女性はかなり違いますが。
そうしたことを考えると、経済の面では引き続き生産側に回りたがるのかもしれません。
団塊世代起業支援講座は盛んですし、私の友人もそうした本をまもなく出版します。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0906
しかも彼らが目指しているのは、NPOやコミュニティビジネスの世界です。
その世界はまだアマチュアリズムの世界ですから、活動の余地は大きいでしょう。
ただ、そこにこれまでの経済発想をそのまま持ち込んで良いのかどうかは疑問です。
経済的には成功しても、それはあまり意味のあることではありません。
それにもしそうであれば、これまでの社会の方向をさらに深化させることにもなりかねません。
団塊世代は最後まで、経済のために滅私奉公して終わってしまう恐れもあります。

しかし、団塊世代が政治に目を向けるのは、新しい風を起こすことになるかもしれません。
団塊世代はこれまで基本的には政治を観察し迎合するだけだったように思いますが、もし彼らが主体的に動き出したら、日本の政治環境は大きく変わるでしょう。
民主党の菅さんも「団塊党」を主宰していますが、そういう従来延長型ではない団塊世代の政治活動が始まったらどうなるでしょうか・
半分不安を持ちながら、期待しています。いや、不安は半分以上なのですが。

■戦争を起こすのは簡単なこと(2006年9月21日)
自民党総裁が決まりました。

メーリングリストでこんな言葉に触れました。
ヒトラーの右腕だったヘルマン・ゲーリングの言葉です。

「もちろん人々は戦争を欲しない。しかし結局は国の指導者が政策を決定する。そして人々をその政策に引きずりこむのは、実に簡単なことだ。それは民主政治だろうが、ファシズム独裁政治だろうが、議会政治だろうが、
共産主義独裁政治だろうが、変わりはない。反対の声があろうがなかろうが、人々が政治指導者の望むようになる簡単な方法とは・・・。
国が攻撃された、と彼らに告げればいいだけだ。それでも戦争回避を主張する者たちには、愛国心がないと批判すれば良い。そして国を更なる危険にさらすこと、これだけで充分だ。」 
 (森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力』NHK出版、34ページより)

困難な時期には必ずといっていいほど、こうした「愛国心」好きの、内容のない指導者が出てきます。
そして古代ローマは滅びました。
パンとサーカスにうつつを抜かしていた大衆は天の裁きを受けることになりますが、裁きの罪を償うのは彼らの子供や孫でした。
心が痛みます。
今日はテレビを見る気がしませんでした。

■過剰摂取(2006年9月22日)
過剰摂取の時代です。
なにしろ健康のためといって、散歩に精出す人がこれだけいる社会というのは極めておかしな社会です。
散歩を楽しみのためではなく、ダイエットのためというのは私にはなかなか納得できないことです。
しかし過剰摂取は何も食べ物だけに限られた話ではありません。
情報もまた過剰摂取の時代です。
好むと好まないとに関わらず、情報は毎日流れ込んできます。
私の自宅のパソコンの周りの混雑振りはもう大変です。
2〜3日、気を許すと、すぐに書類の山ができます。
気をつけないと重要書類が山の下にうずもれて、対応を忘れてしまうことも少なくありません。
最近はオフィスではほとんど仕事をしなくなったので、ビジネスの資料も名刺もすべて自宅で処理していますので、まさに多様な書類が混在しています。
問題は入ってくる量と処理できる量の格差がかなり大きいことです。
もちろん入ってくる量のほうが多いのです。
これがもしお金であれば、私は大富豪になっているでしょう。
書籍も面白そうなのは購入しますが、読む時間はあまりとれません。
昔はそれなりの読書量でしたが、最近は急速に低下しています。
未読の新書が積まれていきます。
そのうち、読まずに書棚に入ります。
メールはさらにひどいです。
受信料のうち、その日に対応できるのがだいたい半分です。
残りは時間のある時に処理しますが、それでも毎日たまっていきます。
未処理が500件になると思い切って簡潔処理して削除します。
中には重要なメールもあるかもしれません。
しかし、ためていくと無限にたまりだします。
年に1回程度、すべてを削除してしまうくらいの蛮勇が必要です。

まあそんなわけで、私は情報面で過剰摂取状況に陥っています。
過剰摂取は決して健康状況ではありません。
情報未消化のまま人生を終えるのが確実になってきたのが残念です。
ともかく世界には面白い情報がまだまだたくさんあるのに、です。

■犯罪被疑者が子供たちを育てる国家(2006年9月23日)
入学式や卒業式での日の丸・君が代の強要違憲訴訟の東京地裁判決は予想に反して、「都教委の強制は違憲・違法」という原告勝訴になりました。
この問題はこれまでも何回か書きましたが、強要のやり方に恐ろしさを感じていました。
教育者の正反対にいる人たちが学校を占拠したとしか、私には思えませんでした。
そして今回の判決は、被告も原告も、おそらく思ってもいなかった結果になりました。
教育基本法の危機の中での意外な展開としかいいようがありません。

昨今の教育議論では、いずれの側にも子供の視点が感じられませんが、子供たちの視点からは今回の判決はどう見えているのでしょうか。

今回の判決は、国家にとっての基本である憲法に抵触しているかもしれない犯罪者の疑いのある人たちに、次世代を担う子供たちの教育を任せているということをはっきりと示しています。そのことをもっとみんな認識すべきです。
学校はいまや本来的な意味での教育機関ではなくなっているのです。

人生のモデルとすべき先生が、基本的な秩序やルールを破っているかもしれないという事実は、子供たちにとってはどういう意味を持つでしょうか。
日の丸・君が代事件や石原都知事の教育行政には、教育の視点がなく、イスラム世界の国家が子供たちを戦士に育てるのと同じ「洗脳」の視点しかないように感じます。

子供は大人の背中を見て育ちます。
憲法をないがしろにしたり、考えの違う人を排除したり、権力に迎合したり、そんな大人たちがはびこっており、しかも彼らは「愛国心」を押し付けています。
もし愛国心に価値があるとしたら、まずは自らが愛国心を持つべきでしょう。そうすれば少しは説得力が出てくるでしょう。
愛国心を語る人たちが国家を、文化を壊してきた歴史を少しでも知っていれば、かれらの胡散臭さはすぐに見えてくるはずです。
私たちはもっと歴史を学ばねばなりません。
しかし、日本の学校は現代史を教えようとはしてこなかったのです。

憲法違反しているかもしれない人に子供の教育を任せている不安を感じている人は少なくないでしょう。
そろそろ義務教育発想に支えられた学校制度は根本から見直されるべきではないかと思います。
教育とは何かを考える教育者が最近はいなくなってしまいました。

教育基本法の行方が心配です。
国民の手に取り戻さないと、どんどんおかしな方向に行きそうです。

■あなたは腕時計をなぜしているのですか(2006年9月24日)
私が腕時計をはずしてから、40年近くたちます。
その間、半年ほど、趣旨変えして腕時計をしていた期間がありますが、そのときはオメガから月面着陸した人が身につけていたのと同じタイプの腕時計をもらったので、うれしくて着用していたのです。
その期間を除いて、腕時計はしたことがありません。
腕時計がなくてもまったく不都合はありませんでした。
そうした立場からするとなぜみんな腕時計をしているのか不思議です。

女房は今でも出かけるときに腕時計をします。
女房は時間がわからないと困るでしょうというのですが、分刻みで生活しているわけでもないので、時計がなくても不都合は全くないはずです。
それに街中にも結構時計はあるのです。
なければ誰かに時間を訊けばいいだけです。
もっとも最近は街中の時計も少なくなりました。
これに関してはまた書きたいので、今回はパスします。

腕時計の話です。
個人が腕時計した時から人間は自分の時間を失ってしまったのかもしれません。
機械が刻む時間から解放されるためにも、皆さん、腕時計をはずしませんか。

■繁栄と平和における死者(2006年9月25日)
イラクは復興しているのでしょうか。
昨日の朝日新聞に、「アフガンとイラクでの米兵死者、米同時テロ犠牲者を超す」という記事が出ていました。
AP通信の集計によると、ブッシュ政権が派兵したアフガニスタンとイラクの両戦争での米兵の死者数が2,974人になり、9.11事件の死者数(2,973人)を超えたそうです。 イラクでの死者は2,696人だそうです。
一方、イラクの民間人の死者は、7〜8月の2か月間だけで6,599人だそうです(国連発表)。毎月、9.11事件を超える死者がでているということです。このことがなぜ問題にならないのか、残念です。「人道上の支援」の欺瞞を理解しなければいけません。
日本の自衛隊は、こうしたことに「貢献」しているわけです。今もなお。
イラクの死者数をもう一度、考えて見ましょう。
毎日100人を超す民間人が不条理に殺されているのです。
彼らの死はコラテラル・ダメッジとして、片付けられているのでしょうか。
少なくともそこには、イラクでの生活者の視点は皆無です。

しかし、それに近い数の人が、日本では毎日自殺しています。
この8年の日本での自殺者は、平均すれば、毎日80人を超えています。
先週、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂幸雄さんにお会いしましたが、茂さんから8月に起こった哀しい話を聞きました。
せっかく、茂さんたちが思いとどまらせたのに、自宅に戻って、結局自殺してしまった家族の話です。茂さんの無念さが伝わってきました。

殺される死と死なざるを得ない死。
全く違うように見えて、そこに通底するものを感じます。
国家や制度に翻弄される個人です。
そうした動きに対抗できるのは、人のつながりしかありません。

イラクでの不条理な活動を開始したアメリカでも死者は決して少なくありません。
たとえば、餓死者の急増が予想されています。
2003年のデータですが、米国民の8人に1人(約3,500万人)が貧困状態で、その内1,300万人が子供だそうです。アメリカは先進国としては最大の貧困児童数で、寿命は最低という深刻な事態になっているという報道もあります。
ブッシュ政権になって以来、格差が拡大し、富める者はますます富み、飢餓に苦しむ貧者は増加しているそうです。日本もその道を進んでいるのかもしれません。
約3,100万人のアメリカ国民が、次の食事を入手する手段を持たない「飢餓状態」にあるという報道もあります。もしこれが真実ならば、ブッシュが非難する北朝鮮とそう変わらないわけです。そうしたことを背景にイラク攻撃が行なわれていると考えれば、9.11事件もイラク侵略戦争もマスコミ報道とは違った見え方がするように思います。

殺される死と死なざるを得ない死。
そして、ゆっくりと進む避けられない死。
それぞれ表情は違いますが、その不条理さにおいては同じです。
こうした不条理な死がなくなることが、平和の意味ではないかと思いますが、現代の平和論は必ずしもそうではなさそうです。

■互いを知らなければ、何も始まらない(2006年9月26日)
昨日、バレンボイムのラマラ・コンサートのDVDを観ました。
このDVDについてはCWSコモンズで紹介させてもらいました。
イスラエル人とアラブ人が一緒にオーケストラをつくり、両側で演奏を続ける話です。
クライマックスはラマラでのコンサートです。
エジプトの中野さんから勧められていたのに、なかなか観る機会がなかったのですが、昨日、イラクのことを書いたら急に見たくなって、夜、観ました。
その気になれば、時間などはいくらでもできるものです。
感想はCWSコモンズのほうに書こうと思いますが、ここではその中に出てくる言葉を一つだけ紹介したいと思います。
「互いを知らなければ、何も始まらない」

1980年代末のインティファーダ(パレスチナ人の住民蜂起)以来、イスラエルとアラブは敵対関係を強め、分断されていきます。
そのため、住民の交流はなくなっていきます。
そして相互に憎しみを植えつける教育が行なわれます。
このDVDに登場した、アラブの若い女性は、兵士でないイスラエル人を初めて見たと語りますし、ベートベンをオーボエで演奏するエジプト人を見て驚くユダヤ人の存在が語られたりします。
互いの暮らしを知らないままに、憎しみと恐怖だけが育ってきている状況が実感できます。
そして、イスラエル人とアラブ人が一緒に音楽活動をしていくうちに、お互いを理解し自らの意識が変わっていく様が見事に描かれています。
「互いを知らなければ、何も始まらない」
かみしめたい言葉です。

それにしても、音楽のパワーのすごさには、改めて感動しました。
聴く人を勇気づけるだけではありません。
演奏する人も勇気づけるのです。
故国、イスラエルで音楽賞を受賞したバレンボイムが受賞のスピーチをしますが、そこで彼はイスラエルの独立宣言を引用し、現在のイスラエルの占領政策に問題提起します。
それを受けた文化大臣は、明らかな不快感を述べますが、それを受けてバレンボイムはまた静かに語ります。
こんなに凄い音楽家がいたのです。
感動して声がでませんでした。
やれることがたくさんあるのにやっていないことの多い私としては、とても恥ずかしい気がしてきました。
まだきっと間に合うでしょう。
いや間に合うことをやればいいでしょう。
平和のためにできることは、誰にでもたくさんあるのですから。

■国家のアイデンティティ(2006年9月27日)
安倍政権が発足しました。
マスコミはこぞって安倍政権支援のようです。
しかし、ラマラ・コンサートのDVDを観たせいか、私にはバレンボイムが批判したイスラエル政権とイメージがだぶって仕方がありません。
教育基本法から憲法につながる「国体の基本」を変えていこうというのが安倍政権の意向のようですが、バレンボイムとは全く正反対の方向を目指しています。
ブッシュや金正日と同じ姿勢です。
しかも、それを支援しているのが多くのマスコミと「有識者」と国民です。
バレンボイムがヴォルフ賞授賞式のスピーチで引用した、イスラエルの独立宣言をネットで探していたら、江川紹子ジャーナルに彼のスピーチが引用されていました。
http://www.egawashoko.com/c006/000162.html

<イスラエル国は、国民すべてを利するべく、国の発展に尽くす。イスラエルの預言者が述べたように、国民にあまねくもたらされた自由と正義、幸福の原理が我が国の基盤である。我が国では住民が、信仰、人種、性のいかんに関わらず、社会的、政治的な権利を等しく保証される。信教、良心、原語、政治、文化の自由は守られる。
皆を代表して、この独立宣言に署名する者は、平和のために尽くし、隣接する国々やその国民と友好的な関係を結ぶよう尽力することを誓う>

現在のイスラエルにとって、この独立宣言はどういう存在なのでしょうか。
イスラエルのアイデンティティは、この独立宣言の中にこそ、込められているはずです。
アイデンティティをおろそかにした国家は必ず滅びます。
ユダヤ人たちは、また離散に向かって進んでいるようにしか思えません。
たった一握りの権力者の無知と強欲のために。

日本はどうでしょうか。
私にはほとんど同じように思えてなりません。
もし違いがあるとすれば、国民が政権に与しているかどうかです。
もちろん与している国家は日本です。
ラマラ・コンサートのDVDを観て、それに気づきました。

平和憲法はいまや風前の灯です。
すでにイラク派兵や君が代強制で実態的には為政者によって憲法は踏みにじられていますが、憲法はまだ健在です。
しかし、実態にそぐわないからとか外部からの押し付けだからという理屈にもならない理屈で、その憲法が変えられようとしています。
ヨーロッパでは、第2次世界大戦の教訓はかなり活かされていますが、日本では全くといっていいほど活かされることなく、80年前と同じような道を歩いているように思えてなりません。
つまり国民が目覚めていないといっても良いでしょう。
日本もまた国家のアイデンティティを再構築できずに、離散国家に向かっているのかもしれません。
ソドムとゴモラを思い出します。

あと100年、生きられないのが残念です。
いやそれが幸せなのかもしれません。

■ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族(2006年9月28日)
イスラエルのことを続けて書いたので、もう一度だけ書きます。
私が学生の頃、「栄光への脱出」という映画がありました。
離散していたユダヤ人が自分たちの国家を創りあげていくという、壮大な物語のプロローグに感動しながらも、それまで仲良く暮らしていたユダヤ人とアラブ人が対立していくエピソードに何か不安を感じました。
私が中東に関心を持つきっかけになった映画です。
特に印象に残っているのは、サル・ミネオ演ずるユダヤ過激派の若者の死でした。
その葬儀の光景が、その後ずっと頭に残っています。

この映画はなかなかテレビでの放映がありませんでした。
中東諸国への配慮からかと私は思っていましたが、どうもそうではなかったようです。
1976年に、パレスチナ過激派が飛行機をハイジャックし、イスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸した事件がありました。
イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功しました。
イスラエルの対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれる事件です。
それを映画にしたのが「エンデベの勝利」です。
この映画はなぜか経団連(だったと思いますが)が、封切前に企業関係者向けに試写会を行ないました。
私も勤務時間中にそれを観せてもらいましたが、まさにイスラエル賛美の映画でした。
日本の財界はやはりイスラエル支援だったわけです。
そして今はますますイスラエル支援のように思います。

イスラエル建国の契機は、有名なバルフォア宣言です。
英国はパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを約束しながら、アラブとも同じようにパレスチナにアラブ人の国をつくることを約束したフサイン・マクマホン協定を締結しています。
第2次世界大戦において、ユダヤもアラブも味方につけるための二枚舌外交の結果ですが、こうした植民地政策がいまだに克服されていないわけです。

先のDVDで、バレンボイムとサイード(バレンボイムと一緒にラマラ・コンサートのきっかけをつくったパレスチナ人の文学批評家)の対話の中で、「ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族だ」という語りがあります。
見方をかえれば、みんな同じなのですが、分けて考えるのが政治の常道です。

ちなみにイスラエルの国民の1/4はアラブ人だそうです。
国家さえなければ、ユダヤもアラブも平和に暮らしていたはずなのですが。
その事実は、ユダヤ人の製作した「栄光への脱出」でもはっきりと描かれていました。

さて、日本はどうなるのでしょうか。
100年後が気になります。

■美しい国へ(2006年9月29日)
友人から電話がありました。
安倍総理の「美しい国へ」を読んで、批判本を書きたくなったと言ってきたのです。
論理的なおかしさの突っ込みと馬鹿さ加減の指摘が書きたいことのようです。
書名は「馬鹿な総理大臣へ」というのにしたいというので、それは止めて、せめて「哀れな総理大臣へ」にしたほうが良いと助言しました。
馬鹿なことにおいては、この友人も私も、決して引けはとらないからです。
大体において、誰かを馬鹿呼ばわりする人は、その相手以上に馬鹿なことが多いものです。
さて問題は「美しい国へ」です。
私は読んでいません。読むつもりもありません。
しかし、内容を読まなくとも、いくつかのメッセージは感じられます。
まず、今の日本は「美しくない」というメッセージです。
革命を起こした人ならともかく、現政権の中枢にいる人が言うべき言葉ではありません。
10年ほど前に、「美しい会社」を目指そうとした会社があります。
その会社の人と話していて、もうじきおかしくなりそうだなと思っていたら、醜い不祥事を起こして、関係会社は消滅しました。雪印です。
「美しい」かどうかを評価するのは誰かを考える人であれば、こんな言葉は使わないでしょう。
次に、「美しい」は人によって内容が変わります。時代によっても変わりますし、視点によっても変わります。つまり内容の定まらない言葉です。具体性がないですから、本当の意味での求心力にはならない言葉です。
いいかえれば、反論できない言葉です。美しくないよりは美しいほうがいいのに決まっていますから、メッセージ性がない言葉です。
さらに、リーダーが使ってしまうと自分の考えを押し付けることになる言葉です。
まさに「タカ派」を誇る権力志向を象徴しています。
舌足らずですが、書名だけでもこれだけのメッセージをもっています。
しかし、多くの国民は、この言葉を歓迎しているようです。
なにしろ背後には、わが闘争のヒトラー戦略に学んでいる広告エージェンシーがついているのでしょうが、内容がない言葉ほど、人を騙せるものなのです。
少なくとも、私にとっては、ますます「美しくない国へ」向かうことは間違いありません。
ソドムを脱出したロトの気持ちがよくわかります。

ちなみに、この記事は流行り言葉を題名にするとアクセスが増えるかどうかの実験もかねています。
以前、いつかやってみると書きましたので、その検証です。
それにして、今でも「アフリカではよくあること」は毎日5人前後の人がアクセスしています。理由がわかりません。
アクセスしてくれた人も、誰も理由を教えてくれないのが残念です。
誰か教えてくれませんか。

■セロのマジックはマジックを越えています(2006年9月30日)
昨夜、テレビでセロの2時間番組をやっていました。
セロはご存知の方も多いでしょうが、話題のマジシャンです。
そのマジックはありえないとしかいえないことを実現するのです。
説明しても意味がありませんので、やめますが、
ともかく「ありえないこと」を起こすのです。
いわゆるマジックやイルージョンとは全く違います。
ありえないことを実現するのですから。
たとえば、アジの干物に水をかけて生き返らせたりしてしまうわけですが、
それを衆人の目の前で行なうのです。
セロのマジックの謎解きに挑むブログもありますが、納得できるものはありません。
以前は実に感動して見入っていましたが、
最近はとても気持ちが悪いのです。
ありえないことが起こることは、人を感動させもすれば、不快にもさせるものです。
昨日は2時間も見てしまい、全く納得できないまま終わりました。
そのため極めて不機嫌です。

美しい国へも不快ですが、
セロも不快です。
マジックもトリックが何となく推理できるようなマジックは面白いですが、
セロのような「ありえない現象を起こすマジック」はマジックとはいうべきではありません。
と思いながらも、セロのマジックは凄いです。
彼は本当に人間なのでしょうか。
セロの物質変換マジックのトリックを知っている人がいたらこっそり教えてくれませんか。
昨夜は気になって睡眠不足です。
はい。

■法律は誰のものか(2006年10月1日)
殺人罪の時効成立後に犯人が犯行を自白した事件は、刑事事件としては時効成立のため不起訴になり、民事事件でも一昨日、損害賠償請求権の消滅が判決で出されました。
刑事も民事も、多くの生活者たちの日常感覚には合わないように思います。
明確な殺人の物証と自発的な自白があり、にもかかわらず何の処罰も行なわれない法体系では実質的な規範意識は広がらないでしょう。
やや論理を飛躍させれば、こういうパラダイムが飲酒運転犯罪者のひき逃げを助長しています。
逃げ得が日本の文化になってしまっているのです。岐阜県の裏金事件もそうしたことの現れです。
おてんとうさまが見ているという「恥の文化」は、日本からはなくなったのでしょうか。

そもそも「法律」の存在意義が、パラダイムシフトしたと私は考えています。
法律は「誰のためのものか」で全く変わってきます。
権力者、支配者の専横を防ぐための、「民のもの」か、
権力者、支配者が統治するための「官のもの」か。
それによって、意味合いも運営の仕方も全く変わってきます。
近代国家においては、法は後者のものだと私は考えています。
有名なマグナカルタは国王の権力を制約するためのものでしたが
誤解してはいけないのは、同時にそれは諸侯たちの支配のためのものでした。
決して「民のもの」ではありませんでした。
フランス革命後の法も、アメリカ独立戦争後の法も、
決して民のものでなかったことは歴史を学べばすぐわかります。
イスラエルの独立宣言も、その一例です。
いくら言葉を着飾っても、法の本質は変わりません。
それに言語とは多義的なものですから、解釈がいくらでも可能なのです。

しかし近代国家はそろそろ役割を終えて、
新しい生活者たちの柔らかな組織化が始まっているように私には思えます。
あえて歴史をさかのぼれば、ギリシアのポリス国家に近いものがイメージできます。
SFでいえば、かつてアーサー・クラークが書いていた個人を軸にした社会です。
市民社会論は、それに向けての試行形態かもしれませんが、
「市民」という目線の高さが、私には違和感があります。

ややこしい話はともかく、
時効の存在をしっかりと考え直すべき時期です。
日本の法体系は、法曹界の怠慢と権力癒着の中で、明治以来、ほとんど見直されていないように思います。
唯一の例外は憲法の一部の条文です。しかし、それと日本の法体系思想とは相容れないが故に、日本では憲法は法律体系の中で勝手に切り刻まれてきたわけです。
今の憲法改革の動きは、法体系の名実ともなる復古をはかっているといって良いでしょう。

また話がややこしくなりました。
私は日本の法曹界に憤りを感じているので、どうも司法の話になると感情的になってしまうのです。
法の根幹の思想や枠組みをそのままにして、裁判員制度などという馬鹿なことにうつつを抜かしている輩に、愛想を尽かしているわけです。

話が進みませんね。
すみません。
時効が今日のテーマです。
何のために時効制度はあるのか考えたらとるべき課題は明確です。
制度は理由があって意味を持ってきます。
法律に書かれているから意味があるのではありません。

長い割には内容のない記事になりました。
本当は法律のパラダイムシフトについて書きたかったのです。
私は、法律は「官のもの」でも「民のもの」でもなくて、「共のもの」になっていくだろうと思っています。私にとっての本来的な意味でのリーガルマインドの醸成です。
官と民で社会を考える時代は、終わりにしたいものです。

■未来を収奪しようとしている教育改革(2006年10月2日)
教育基本法が変えられようとしています。
自民党では3年かけて議論してきたし、7割の国民が賛成しているといっています。
そうでしょうか。
もし仮にそうであるとしても、これは大きな問題です。
憲法改正よりも大きな問題かもしれません。

教育とは何かを語りだすとまたきりがありませんが、
教育こそが最大の経済発展の礎であり、社会安定の要であることは、もっと認識されていいでしょう。
最近の日本社会のほとんどの問題は、教育の失敗に関わっていると思います。
だれが失敗させたか。
いうまでもなく文部省であり、産業界だと私は思いますが、
それも含めて責任は私たち自身にあります。

ノーベル賞を受賞したインドの経済学者、アマルティア・センは、基礎教育の重要性を訴えている人ですが、彼はこういっています。

日本は19世紀の半ばすでに、教育改革の必要性をしっかり見抜いていました。明治維新から間もない1872年に、教育の基本制度である学制が公布され、「邑(地域)に不学の家なく、家に不学の人なからしめんことを期す」と、社会の責任が明示されました。抗して、教育の格差が縮まり、急速な経済成長をとげる日本の目覚ましい歴史が始まったのです」(「人間の安全保障」13ページ)

センが、アジア経済発展の特徴として、学校教育の普及・医療の充実といった人間的発展の実現をあげています。まず経済発展ありきでその後に人間的発展を促すモデルとは異なり、経済発展よりも人間的発展を重視し国家と市場が補い合うことにより「東アジアの奇跡」は実現した、というのがセンの考えです。
つまり社会のパラダイムがちがっていたのです。しかし、日本は戦後、アメリカモデルに切り替えました。
それにしたがって、教育もまたパラダイムシフトしてしまったのです。
学校は学びや教育の場ではなく、訓練や管理の場になってしまったのです。
その結果、理系はともかく文系での教育レベルは一番低いレベルと評価されるほどになってしまいました。誰が評価したのかといわれそうですが、OECDなどの調査結果を見るまでもなく、1日テレビを見ていたらそのことは一目瞭然です。教育を受けなかった人たちが制作しているテレビはおぞましいほどに痴的です、

英語教育を小学校の必修科目にするかどうか、が話題になっていますが、
そんな瑣末で答も明確な問題に目をとられずに、
教育の本来的な意義や役割を再考するべき時期にあると思います。
教育改革の方向性を間違えれば、未来の展望はなくなります。
「改革」がいつでも良いものだという発想は捨てなければいけません。
私たちの未来を収奪しようとしている教育改革の動きが高まっているのが不安です。

■文明の衝突と個人の連帯(2006年10月3日)
昨日、アマルティア・センの著書に触れましたので、ついでにその本で共感したことを書きます。

日本でも話題になった、米国の政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」に言及して、こう書いています。

文明にもとづく分類は希望のない歴史であるばかりでなく、人びとを狭義のカテゴリーに押し込め、「文明ごとに」はっきりと引かれた境界線をはさんで対峙させ、それによって世界の政情不安をあおり、一触即発状態に近づけるでしょう。(「人間の安全保障」33ページ)

多元主義国家だったイギリスでさえ、宗教ごとの学校ができてきていることをセンは嘆いています。
ハンチントンの「文明の衝突論」は9.11事件の露払いだったのかもしれません。
あんな本がなぜ話題になったのかわかりませんが、退屈な本でした。
しかし、世界はますます「文明の衝突」に向かって進んでいます。
センのこの言葉にとても共感できます。

しかし、その一方で、ラマラ・コンサートに見るように、個人のつながりが衝突を回避する希望を見せだしています。
文明を超えて、人類はつながっていることを意識することこそが、いま求められているのです。

情報社会は大きな2つのうねりを生み出しています。
歴史観のパラダイムを、組織起点から個人起点へと変えていくことが必要ではないかと思います。
国家の主役は、権力者ではなく生活者に変えていかねばいけません。
それに成功すれば、国家は新しい組織に進化するでしょう。
失敗すれば消滅するでしょう。
その結果が見えるのがおそらく100年後なのが少し残念です。

■人間的発展と経済的発展(2006年10月4日)
センのシリーズをもう1回だけ続けます。
センが重視しているのが、「人間の安全保障」です。
それにつながる補完概念として、センは「人間的発展」を取り上げています。
「人間的発展」は、パキスタンの経済学者のマーブブル・ハクが提唱した概念で、「人間としての自由を高め、潜在能力を身につけそれを活用できるようにしていくこと」だそうです。
一昨日話題にした「教育」の本質そのものといっても良いかもしれません。

この概念は、商品の生産消費に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の本質と豊かさに向けさせたとセンは評価します。
いわば経済的発展から人間的発展へと視野が広がったといっていいでしょう。
最近の日本の社会を見ていると、このセンの指摘はとても理解しやすいのではないかと思いますが、相変わらず経済的発展思考だけの人が多いのが不思議です。

経済的発展至上主義はいつから生まれたのでしょうか。
アメリカ移住民たちにとっては、アメリカ世界は歴史のない世界でした。
アメリカのネイティブたちにとっては、豊かな歴史があったのですが、移住民たちにはそれは見えなかったのです。そこで彼らはネイティブを動物のように抹殺し(一説には98%のネイティブが殺害されたといわれますが、もしそれが事実であれば、ジェノサイドといってもいいでしょう)、フロンティアなどと称して西部を開拓していったのです。
そうした世界では、物質的発展は見えやすく手応えがありますし、何よりもややこしいしがらみや文化がありませんから自由に展開できるダイナミズムが楽しめるのです。
経済的発展至上主義は、歴史のない白人アメリカ社会であればこそ生まれたのではないかと思います。歴史のあるヨーロッパでは生まれようがないのです。

こうした状況は、第二次世界大戦後の日本が置かれた状況につながります。
時の為政者やリーダーたちによって、日本は伝統と価値観を白紙にしてしまいました。
そして取り入れたのがアメリカの思考法です。
そして見事にアメリカ型経済的発展を遂げたのです。
そこで大切にされるのは、GNPであり偏差値です。
文化がない世界では評価基準は簡単なのです。
物理的もしくは構造的暴力が世界を支配するのです。

アマルティア・センの生まれたインドはしがらみが多すぎました。
文化が発展しすぎていました。
ですから経済的発展に乗り遅れました。

しかし、ホモエコノミストの時代は終わろうとしています。
経済のパラダイムシフトが求められているのです。
経済的発展を基軸にするのではなく、人間的発展を基軸にする社会が近づいてきているように思います。
私たちも暮らし方を変えられる時代になってきたのです。
私も小さな一歩を踏み出していますが、踏み出すと世界は違ってみえてきます。

■家電商品の無料引取り業者への不信(2006年10月5日)
難しい話が続き読者の不興を買いそうなので、今日は軽い話です。
テレビとビデオデッキが不要になりました。
あまり具合もよくなかったので廃棄することにしました。
クリーンセンターに持っていくとリサイクル費用がかかるので、無料回収しますと放送しながら時々自動車で回ってくるリサイクル回収の人に頼むことにしました。
運良く先週の土曜日に無料回収の車が回ってきたので、立ち寄ってもらいました。
対象物を見るなり、それは古いので有料ですといわれました。
その態度がいかにもだったので、それでは結構ですと言ってしまいました。
お金を出せば、引き取ってくれたのでしょうが。

まあ、これだけの話なのです。
しかし後で考えたら、これもまた一種の詐欺行為ではないかと思い出しました。
最初は無料と言って声をかけさせ、実際には有料ですといえば、大体の人は面倒なのでお金を払って引き取ってもらうでしょう。
それできちんと処理されればいいですが、処理されずに不法投棄などされるかもしれません。
リサイクル費用を節約しようなどというケチな考えを持ってはいけません。

といいながら、その2つは廃棄せずに再使用することにしました。
かなり具合が悪いのですが、節約家の私としては捨てるのがもったいなくなってしまいました。

■古着の活用への提案(2006年10月6日)
昨日に続いて、またリサイクル話題です。
今日は古着の話です。
最近、古着の国際的なリサイクルの動きがまた広がっているようです。
国内バザーなどでは古着は受付拒否の憂目にあいますが、そのため古着はたいていの場合、ごみ処理されがちです。
女房はそれがとても受け入れられずに、何かいい方法はないのかといつも言っているのですが、古着をきちんと受け付けて、再活用処理を施して海外に送ったりする活動が広がっているとラジオで聴いたそうです。
以前、イランに観光で旅行した時に、観光会社から可能な範囲で古着を持参してほしいと頼まれました。イランの地震のあった直後だったのです。
みんなが少しずつ持ち寄りましたが、ツアー全体ではかなりの量になり、食事の時に受け取り側の人が感謝のスピーチまでしてくれました。
その勢いで、イラク支援のためにと、買おうとも思っていなかったじゅうたんを1円も値引き交渉せずに購入したのはいささかの失敗でしたが、それも含めて何かとても幸せな気分になったものです。
人に感謝されることが最高の幸せと言った人がいますが、本当にそう思います。

ところで古着の話です。
女房と話していて、古着1枚に、たとえば100円を添えて提供するのはどうだろうかというアイデアが浮かびました。
家電リサイクルの場合は、費用がとられるのですが、これは効果的に使ってありがとうという感謝を込めてのお礼です。
コモンズ通貨のジョンギでの体験がヒントです。
いつもは私の提案に厳しい女房も、この提案にはめずらしく賛成しました。
100円で、物を捨てる時の罪悪感から解放されるのであれば、みんなきっと喜ぶでしょうし、100円が集まれば効果的な活用策を考えることもできるでしょう。

もう一つのアイデアは、北朝鮮への寄付です。
古着であれば、政府高官や特権階級の人には行かずに、まさに生活に困窮している人たちに配布されるでしょうから、目的が達成されるはずです。
古着をやるとは見下しているなどという人には北朝鮮の実際の映像を見てもらえば良いでしょう。
だれがやるか、ですが、さてそこが問題です。
口だけの提案ではなく、お前が実際にやれば良いではないかといわれそうですが、そう言われてもどう動いたらいいか分かりません。
実践者でないものの弱みですね。
でも誰かやってもらえないでしょうか。協力ならできるかもしれません。

■国会(の議論)の存在価値(2006年10月7日)
少しだけ時間ができたので衆議院の予算委員会の実況を1時間ほど見ました。
枝野さんと志位さんの部分です。
枝野さんの指摘は経済問題でした。
最初は太田弘子大臣が答弁しましたが、的確な答弁でした。
太田さんとは昔研究会でご一緒したりしたことがありますが、高市さんや小池さんとは違う姿を感じさせてくれました。
枝野さんの指摘にうなずいていたのも印象的でした。
また枝野さんの質問画面の後ろには、早稲田商店会のいなげやの店主、安井議員の姿が映っていました。
安井さんはきっと枝野さんの指摘に同感されていたと思います。
安井さんには山形のリサイクル商店街サミットに来てもらいましたが、とても誠実な生活者です。きっと政治の世界にあきれているのではないかとも思います。

志位さんは歴史観をテーマにしました。
総理の答弁は相変わらず「自分の言葉」のない答弁でした。コンピューターの合成音声のようにも聞こえましたし、「麻原答弁」を思い出すほどのむなしさも感じました。

こんなブログがありました。
『美しい国へ』を読んでしまった。(しかし 私もかなり暇だなぁ〜〜〜。)あまりに簡単で内容の無い情緒的な世間話本だったので 1時間で読めてしまった。
ところで、『美しい国へ』を記したこの人は 頭が少し弱いのだろうか。とにかく彼の致命的な欠陥は数字に弱いことである。

実に納得してしまいました。

いずれにしろ、コミュニケーションは全く存在していない答弁でした。
政治討論とは一方的な発言の応酬でしかありません。
彼らにはコミュニケーションしようなどという発想はないのでしょうか。
せっかく莫大な費用をかけて行なう議論であれば、もっと建設的な議論をしてほしいものです。
批判と弁解は何の役にも立ちません。
議論してお互いの考えを見直していく。
コミュニケーションとは、議論とは、まずは自らを変えることです。
その姿勢がないのであれば、国会は不要な存在です。
国会の議論を聞いているといつもそう思います。
日本では議論とは対立や説得だと勘違いしている人が多すぎるようです。
国会中継を見るといつもむなしくなります。

■哲学者が減りました(2006年10月8日)
これはCWSコモンズからの一部修正した上での再録です。
広く読んでもらいたいと思ったからです。
CWSコモンズよりも最近はこちらのブログのほうがアクセスが多いのです。

先日、少しだけ女房の畑仕事を手伝いました。
といっても雑草とりと冬大根を蒔くための畝作りです。
それでも柔な老体にはきつい仕事です。
喉が渇いたら畑にできているミニトマトをとって食べるのですが、
これがまたすごくおいしく、幸せを感じます。
どこの食卓の料理より、私にはおいしいです。

ところで、こうした1時間ほどの畑仕事で考えることはたくさんあります。
食に対する考えもそうですが、雑草とりをしながら考えることは少なくありません。

雑草と野菜や花とはどこが違うのか、
野菜はケアしないと枯れてしまうのに、なぜ雑草は抜いても抜いても出てくるのか。
実をならした後の野菜は抜かないとどうやって朽ちていくのか。
収穫されることなく捨てられる遅れて結実した茄子やトマトは幸せなのか。
作業をしながら、そんなさまざまなことが頭に浮かぶのです。

我が家の畑の道路側は通行人のための花畑です。
その花をまだ咲いているのに抜き取ることを農園主の女房から指示されました。
まだ咲いている花を抜くことにも抵抗を感じますが、花好きの女房は見事に決断します。
そのほうが良いのだそうです。
そういえば樹木の剪定もそうですね。思い切ったほうがいいのです。

しょうもないことを書いていますが、
こうした仕事の中に、私はプラトンの哲学書よりも深遠な知恵を感ずる気がします。
そうした「大きな哲学体験」を日々している農業者はすごい哲学者なのではないか。
いつもそう思います。

農業者に限りません。職人も商店で物売りをしている人たちもです。
そうした哲学者が最近は減ってしまいました。
それが社会の荒廃に影響しているのではないかと、この頃、痛感しています。

国会での安倍首相の答弁を聴いていて、本当に情けなく思いました。
安倍さんにもぜひ農業をやってもらいたいです。
我が家の家庭農園に手伝いに来てくれたら、うれしいのですが。

■住民たちの意見を聴くという意味(2006年10月9日)
長野県の知事が変わって1か月以上がたちましたが、新聞情報によればどうもまた旧態依然の利権行政に戻っていっているようです。
そうした状況を報告している朝日新聞の記事にこんなくだりがありました。

村井知事の売りは、周囲との協調と対話。
組織・団体とことごとく敵対した田中氏とは対照的に、村井知事は積極的に陳情を受ける。すでに20回を超えた。
知事室前には、田中県政前にはあった来客用の待合スペースも復活。

田中さんも村井さんも住民の声を一生懸命に聴こうとしていることにおいては、同じかもしれません。
問題は「住民」とは誰かです。
田中さんにとっての住民は額に汗して働いている納税者であり、
村井さんにとっての住民は納税者の税金を使う人たちなのです。
全く意味合いが違うのです。
正反対の内容になるでしょう。
ですから村井さんには陳情に来る人が後を絶たないわけです。
行政も税金を使う立場ですから、行政職員も仕事がやりやすくなるでしょう。
「住民参加」や「住民の声に耳を傾ける」などという言葉は全く意味のない言葉なのです。

しかしこれほど急速に元に戻るとは思ってもいませんでした。
ホームページからは田中県政時代の記事が削除されつつあるという記事もありましたが、まさに歴史の改ざんにつながる話です。
企業ではよく行なわれる話ですが、
自治体行政でもそんなことが行なわれるのかとは驚きでした。
長野県政もまた、経済界のドンたちによって私物化(民営化)されているようです。

それにしても、知事や首長が変わると政策が一変するのはどう考えるべきでしょうか。
脱ダム宣言が否定されるのと滋賀県の新幹線駅建設が否定されるのと同じではないかといわれそうですが、話はそう簡単ではないように思います。
確かに否定の対象は「政策の違い」です。
しかしその背後には、もっと大きな違いがあるように思います。
そえは、その政策決定ないしは政策見直しが、だれの声によって行なわれたかです。
あるいは誰のために行なわれたか、といっても良いでしょう。
難しい言葉を使えば、ガバナンスの問題です。

ガバナンスの主役は、額に汗して働いている納税者なのか、納税者の税金を使う人たちなのか、そのパラダイムがいま変わろうとしているのです。

「住民の声に耳を傾ける」などという言葉で議論していては、そのパラダイムの違いに気づきません。
村井さんがこれほどまえに急いで否定したくなるほどの実績を残した田中知事のすごさを改めて評価したいと思います。

■野田のイメージ(2006年10月10日)
今日から自動車のナンバープレートに「柏」が加わりました。
いわゆる「ご当地ナンバー」として、人気のある地域が17か所加わったのです。
これまで千葉県の東葛地域は「野田」ナンバーだったのですが、新たに「柏」が加わったのです。
ところがこの「柏」ナンバーへの切り替えも含めて、「柏」の人気は高いのだそうです。
先日の朝日新聞では、金沢や仙台よりも高人気とありましたが、「野田」から「柏」の切り替える人も少なくないそうです。

その理由は「野田」のイメージのせいのようです。
我が家は「野田」ですが、わが娘も「野田」のイメージは「野や田んぼのイメージが強く好きでない」といいます。
特に自動車には合わないと思っているのかもしれません。
どちらかというと自然派のわが娘もそうなのかといささかがっかりしましたが、どうやらこれが今の多数派のようです。

私は「野田」という言葉にとてもいいイメージを持っています。
野原と田んぼ。風景が浮かんできます。
確かに自動車とはつながりませんが、「品川」や「湘南」よりはよほど良いです。

環境への意識が変わりだしているといわれていますが、どうもあまり確信が持てません。
そういえば、私が名前に惚れて付き合いだした茨城県の美野里町も、市町村合併で「小美玉市」になりましたし、
ちょっと関わっている谷和原村も「つくばみらい市」になってしまいました。
住民はともかく、行政関係者や地方政治家の「環境意識」には危うさを感じます。
自然や歴史や地域の文化に愛着を持たずして、環境意識など育つはずがないように思います。

みなさんの「野田」のイメージはいかがですか。
ちなみに、我が家はもちろん「野田」ナンバーを継続します。
娘も賛成です。

■アンナ・ポリトコフスカヤさんへの追悼(2006年10月11日)
10月8日の朝日新聞に、「チェチェン紛争告発の女性記者射殺される」という記事が掲載されていました。
チェチェンといえば、多数の子どもたちが殺害されたべスラン学校占拠事件がまだ記憶に生々しいです。
またチェチェンはよく映画の題材にも取り上げられますので、チェチェンと聞くだけで陰謀や権力構造をイメージしてしまいます。
記事の一部を引用します。

チェチェン紛争でロシア当局による過剰な武力行使や人権抑圧を告発したロシアの女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、モスクワの自宅アパートのエレベーター内で銃で撃たれて死んでいるのが見つかった。

ちなみに10月7日はプーチン大統領の誕生日です。
アメリカ以上にロシアの権力構造はすさまじそうですが、その一端を垣間見る思いがします。

アンナ・ポリトコフスカヤの著書が2冊翻訳出版されていますが(「チェチェン やめられない戦争」「プーチニズム」)、内容の凄さが伝わってくるので、まだ読めずにいます。
チェチェン総合情報のサイトに詳しい記事があります。
http://chechennews.org/index.htm

日本とは無縁な事件のようですが、じわじわと日本にも押し寄せてきている動きの先を予感させる事件のような気がします。
明日(10月12日)には文京区でアンナ・ポリトコフスカヤ緊急追悼集会があります。
私もいま時間調整していますが、もし参加できれば参加する予定です。
世界で何が進んでいるのかを垣間見ることができるかもしれません。

■お金と幸せの反比例(2006年10月12日)
またCWSコモンズからの再録です。

女房と娘が花や野菜を買いに行くというので同行しました。
茨城県の利根町のカノンです。
前に一度私も行ったことがありますが、近くのお店と違い家族経営のあまりお店らしくないお店なのです。

前に来たときに、たしか脱サラで開店したと聞きましたが、今回もみんな忙しそうに手入れをしていました。
もう少し展示の見栄えを良くしたら高く売れるだろうにと思うほどに、雑然と自然形で並んでいます。
しかも実に安いのです。そしてその育て方を質問すると丁寧に教えてくれるのです。

安い例を書けば観賞用のとうがらしが10くらいで157円なのです。
私も冬コスモスを250円で購入しました。
こんなに安くしてやっていけるのでしょうか。心配です。

しかし、親子3人(たぶん)で働いている姿を見ると実に幸せそうなのです。
私たちは物質的に豊かになるにつれて、物を入手することの喜びを失いだしています。

喜びや幸せ感は状況によって全く違ってきます。
砂漠の中での水との出会いは最高の感謝になるでしょうし、
ダイエットしなければいけないほどの飽食の人には松坂牛のビフテキにもたいした感激ではないでしょう。

そう考えると、お金持ちがかわいそうです。
お金持ちになるにつれて、彼らは喜びを失っていくのでしょう。
それどころかさまざまな悩みまで増やしていくのです。
カノンの家族の皆さんの幸せそうな表情が印象的でした。
さて、私に今の生き方は果たしてどちらを向いているのでしょうか。

■常識人たちが進める戦争への道(2006年10月13日)
北朝鮮の核実験に関しては、その後のあまりに見事なブッシュ政策の展開を見ていると、やはりブッシュと金正日とは連携しているのではないかと思えてなりません。
直接の連携はないかもしれませんが、お互いの背後にある産軍官連合体によるシナリオを感じます。
今月7日に、9.11事件の真相を考える集まりが東京で行われました。
私は参加しませんでしたが、400人を越える人たちが参加し大盛会だったそうです。
9.11事件の陰謀を確信した参加者も多かったと思います。
さらにその後、それを傍証する情報はいろいろと出てきていますが、それらをつなぎ合わせるととても説得力のあるシナリオが浮かび上がってきます。
そしてそれを延長させて、今回の核実験を見ていくととても納得できるシナリオが見えてきます。
真の主犯者はブッシュ政権ではないかと思います。
金正日は下請け業者のような存在に思えます。
日本の小泉・安倍政権は何なのかは、言いよどみますが、きっと30年後には明らかになるでしょう。かれらの愛国心の実体が見えてくるはずです。

まあこれは私の直感ですが、9.11事件のときに直感したことが、その後少しずつ真実性を増してきていることを考えるとあながち笑ってすませることではないような気がしています。
この核実験によって、もっとも大きな利益を上げたのはおそらく米国の軍需産業です。
そして彼らが強力に実現を支援したであろう安倍政権の成立に合わせて、この事件が起き、日本は米国の軍需産業の市場として自らを開放しつつあることは、私にはとても偶然とは思えません。
偶然にしてはできすぎています。
いささか急ぎすぎですので、私のような素人にさえ、見えてくる構造ですが、それだけ日本の国民は甘く見られているのでしょうか。
日本のマスコミは完全に金銭に支配された産軍官連合体の走狗に成り果てていますので、ジャーナリズム精神などは期待できません。
ネットで飛び交っている情報のほうが断片的ではありますが、真実に迫っています。
惜しむらくはそれを編集する仕組みが不在のことです。
もちろん編集しないからこそ意味があるのですが、このジレンマはいつか乗り越えられるでしょう。

以上は私の妄想です。
常識人であれば一笑に付してしまうことでしょう。
ただ、そうした常識人たちが70年前に戦争への道を進めてしまったのです。
その教訓は忘れるべきではありません。
戦争が狂気の行為であれば、常識的な判断では必ずしも対抗できないのです。

いや時代の狂気は、往々にして時代の常識が生み出していくのです。

いずれにしろ、「戦争のできる国」に向けての日本の前進は加速されました。
多くの国民は軍備化に納得しだしています。
平和のために戦争ができる国になるなどというのは、少し考えたらおかしい話であることに気づくはずですが、その知性さえ日本人は失っているとしか思えません。
罪深いテレビ関係者の洗脳の結果です。
彼らは犯罪者と思えてなりません。
しかしもしそうであれば、今の日本社会は犯罪者の集まりなのかもしれません。
もちろん私を含めてです。
だからこそ懺悔し身を清めなければいけません。
生き辛い時代になってしまいました。
そう思うのは私だけなのでしょうか。

私は現代の社会の構造を「組織と個人」の対立軸でとらえています。
しかし昨今の動きを、「国家」対「世界企業」の対立軸で読み取る人もいます。
そうした人からのとても刺激的な「時代の読み取り」もあります。
たとえば週刊オルタの発行人である西川澄夫さんは、
「国家から多国籍企業への「統治権」の移行が進んでいる」
と現代を読み解いています。
私は賛成しませんが、反対もしません。
それもまた歴史の一つの次元だからです。
しかし歴史はもっと大きく動いているような気がします。
いや、そういう気がしていましたが、どうもまだ前兆で、本当に動き出すまでにはまだ100年はかかるのかもしれません。
今生では体験できそうもありません。
100年後にまた生まれ変わらなければいけません。さて。

■理想と現実のつながりの認識(2006年10月14日)
昨日、企業の管理職の皆さんにお話しする機会がありました。
「アントレプレナーシップを持って企業価値を高めませんか」
というのがメッセージです。
話の後、意見交換する時間がありました。
話には共感し、腹に落ちるのだが、といいながら、
次のような発言がありました。

「理想はわかるが現実は難しい」
「職場にはそんな裁量権はない」
「言いだしっぺが損をすることが多い」
「いまの企業には受け入れる素地がない」

日本の企業人のモティベーションは世界で最も低いといわれます。
30年前とは全く違います。
まさにそれが実証された感じです。
後ろ向きの発想が企業の管理者には充満しています。

「理想は現実とは違うから意味があり、実現しようとしないのであれば理想ではない」
「職場の裁量権がなくていいのか。それを変えようと思わないのか」
「言いだしっぺが損をするのではなく、得をするのが本当の提案。自分でやりたい内容でなければ良い提案とはいえない」
「その素地を創っていくことが大切なのではないか」
というような答をしましたが、どうもみんな疲れていて、前向きではありません。
「難しい」「やれない」というところから出発してしまっては、何も始まりません。

しかし、異口同音にこういう言葉が出てくることからも、
日本の大企業のおかれている現状がよくわかります。
NPOやベンチャー企業とは正反対です。
現状を変えていくという姿勢ではなく、現状に適合しようという姿勢が強いのです。
みんな疲れているのかもしれません。
そういえば、ある人が、
「最近の日本人は歩くのが遅くなってきている」
といいました。
かつては一番早足だった日本人の歩き方が遅くなっているのは、
どうもスローライフのためではなく、疲労のためなのかもしれません。

理想や夢は実現しなければ意味がありません。
理想は理想、夢は夢、とおもうのは生半可の世俗通の大人の論理です。
理想と現実はつながっているのです。
理想をしっかりと持って、現実を見ると、見え方が変わってきます。
そして自らの動き方も変わってきます。
それをしないのは生き方もあるでしょうが、
同じ一生であれば、私は主体的に生きたいと思います。

こうした声はいろいろと聞いてきました。
ある町で仕事していたときには、佐藤さんの言うことは理想だが、そんなことをしていては仕事にならないという声を聞いたことがあります。
仕事とは何かを全く理解していない人の発言だと私は思います。
その人は課長職でしたが、とても残念な思いでした。
その町の仕事はやめました。
理想を目指さない仕事は私には時間の無駄でしかありません。
誰かがやってくれるでしょう。

理想から出発し、
いかにしたらそれに近づくことができるか。
まずは実現できると考える。
そういう生き方をしたいと思っています。
その気になれば、必ず道はあるものです。
万一なかったとしても、人生に悔いは残らないでしょう。

■幸せの風景と家族の変容(2006年10月15日)
近くのミニスーパーに女房が花を買いに行くので付き合いました。
彼女が花を探したり買い物をしたりしている間、そばのベンチで座って何となく風景を見ていたのですが、夫婦連れが多いのに気が付きました。
そのお店は我が家からは少し離れていますが、スーパーとしてはやや高いですが、品質は定評があるお店です。
30年ほど前に開発された大規模団地の近くに立地しています。
その団地の住民もかなり高齢化して、企業を定年退職した人も多いはずです。
入り口ではいつも草花を販売しています。
私が座っていたのは15分くらいでしかありませんが、歩いてやってくるシニアの夫婦がとても多いのです。
そしてみんなお店に入る前に花を見て、半分くらいの夫婦が花を購入しています。
いずれも会話は多くはありませんが、とても和んだカジュアルな雰囲気です。
何気なくそうした風景を見ているうちに、「幸せ」というのはこういうことなのだろうなととても納得できました。
夫婦でこうした和んだ時間を過ごせることこそ最高の幸せなのです。
世代からして買い物も決して多くはありません。
量は少なくてもいいから安心して美味しく食べられるものを一緒に探すのに向いている規模のお店なのです。そして心和ます花。
イトーヨーカ堂やイオンのような広いスーパーとはかなり雰囲気は違いますし、纏め買いではなく最寄店感覚で毎日買いに来ているシニア夫婦も少なくないでしょう。
そこでは買い物さえもがとても幸せな風景になっています。
海外旅行が幸せとは限りません。
65歳になると、そういうことが実感できてきます。

先日、大企業の部長層のみなさんと話をしていて、休日などに奥さんと一緒に買い物に行きますかと質問させてもらいました。そうしたら全員が行くと答えてくれました。
みなさん忙しい方ばかりですので、意外な気がしました。
しかし間違いなく夫婦の関係は変わってきているのでしょうね。
私が見た幸せそうな夫婦の光景は、ますますこれから増えていくようです。

前にも書きましたが、私は核家族化こそが家族を崩壊させ、社会を貧しくした大きな原因だろうと思っていますが、もしかしたら核家族での幸せの形もあるのかもしれません。
しかし、それでいいのか、少し気になる幸せの風景です。

■人の悲しみの上に自分の幸せは築けない(2006年10月16日)
「幸せ」論の続きです。
たけしのアンビリバブルで感動的なドラマを見ました。
2004年2月12日に放映された「奇跡の愛 51年目の再会」の再放送です。
話の内容は、アンビリボーのサイトで探してください。
http://www.fujitv.co.jp/unb/index2.html
バックナンバーで、2004年2月12日を開いてください。

その最後に出てくる言葉が心に残りました。
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せでないと自分の幸せはない」という言葉を、私は生々しく実感していますが、周りの人にはなかなか伝わりません。
きれいごととしか思ってもらえないのです。
しかし、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
という言葉であれば、実感してもらえるような気がします。
いかがでしょうか。
そして、この言葉の延長に、宮沢賢治の言葉があるのです。

この言葉をかみしめながら、この2日間、「幸せ」を意識しながらすごしたのですが、
フッと気づいたことがあります。
もしかしたら、今の社会は、
「人の悲しみの上に築く幸せ」競争をしているのではないかということです。
哀しい気づきです。

そういえば、ゼロサム時代の利益競争という考えが広がった時期もありました。
誰かが得をしたら、誰かが損をする、という構造は受け入れやすい考え方です。
もしそうであれば、利益は誰かの犠牲を意味します。
その発想に立てば、幸せもまた誰かの悲しみの上に成り立つことになります。
昨日の議論にもつながりますが、
理想は、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
しかし現実には、
「人の悲しみの上にしか自分の幸せは築けない」
ということにもなりかねません。
おそらく「人の悲しみの上に築いた幸せ」は、決して幸せなどではないでしょう。
しかし昨今の私たちの幸せは、間違いなく「人の悲しみ」に成り立っています。
ただその犠牲になって悲しんでいる人たちの顔が見えないだけの話です。

昨日見た「幸せの風景」の向こうに、誰かの悲しみがあるのかもしれない。
こんなことを考えていたら、とてもやりきれない気になってしまいました。
まだまだ宮沢賢治の言葉をしっかりと消化していない自分に気づいて唖然としました。

■「拉致」放送命令への異論(2006年10月17日)
政府がNHKに「拉致」放送の命令を検討しているという記事が先日流れました。
http://www.asahi.com/politics/update/1013/006.html
とても気になる情報です。

先日テレビで、拉致問題担当の中山首相補佐官が、この4年はどうでしたかと聞かれて、「アッという間の4年でした」と応えました。
唖然としました。
この人はやはり観察者だったのだという気がしたのです。
当事者にとっては、この4年はとてもとても長い4年だったでしょう。
中山さんという人の本質が見えて一瞬でした。
私もまた、当事者ではなく観察者ですから、これは私の勝手な主観でしかありません。
しかし、少なくともこの人は私とは別の世界の人だと思いました。

15日に配信された救う会全国協議会ニュースに
「脱北者の証言等によると、北朝鮮幹部等の中でNHK国際放送を密かに聴取している者はかなりいるという。事は人命にかかわる。総務省、NHK等関係者は、拉致被害者の安全確保のために、為し得る事はすべて行なうという姿勢をとっていただきたい」
とありました、
全く同感です。そう考えるとNHKへの「拉致」放送命令も良いではないかという気がしないでもありません。
なにしろ最近のNHKからは責任感と理念が失われているとしか思えないからです。

しかし、待てよという気もします。
戦時性奴隷制をさばく女性国際法廷のNHK番組の内容に関して、 安倍首相(当時官房副長官)がその内容に介入したと報道した朝日新聞とNHKが対立した事件がありました。つい最近のことです。
この朝日新聞虚偽報道問題は結局は朝日新聞が取材の不十分さを認める結果で終わりましたが、事の真相は藪の中です。
詳しくはウィキペディアをご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%88%A6%E7%8A%AF%E6%B3%95%E5%BB%B7
また朝日新聞の言い分もぜひお読みください。経緯も詳しく書かれています。
http://www.asahi.com/information/release/20050930d.html
ちなみにこの裁判の主催者の一人は、朝日新聞の元記者だった松井やよりさんです。
私はお会いしたことはありませんが、北沢洋子さんと並んで信頼できる女性ジャーナリストとして信頼していた人です。
安倍さんは松井さんを個人的に攻撃していたという話も聞きました。
マスメディアの政府広報機関化を垣間見させた事件でした。

この事件を考えると、やはり政府が放送命令を出すのは危険な気がします。
それにNHKはすでに政府広報機関化しているのですから、何かもっと大きな意味があるようにも思えます。
やはりここは危険な要素を重視すべきでしょうか。

しかし大切なのはおそらくそんな問題ではないのです。
解決するために何が必要なのか、その戦略と責任感の不在が問題なのではないかと思います。
こうした小手先の施策で目くらまししてほしくはありません。

■地域学に関する昔の講演の自画自賛(2006年10月18日)
今日は自画自賛です。
20日に札幌で「地域学のすすめ」をテーマに講演をさせてもらいます。
最近いろいろと事情があって、準備する暇が全くありませんでした。
昨日から準備を始めました。
なぜこのテーマで頼まれたかというと、私が1999年に行なった講演の記録を北海道生涯学習協会の課長が読んでくれて私にアクセスしてきてくれたのです。
当時私は地域学に興味を持っていくつかの地域にささやかに関わっていました。
山梨学や西海文化研究会は私にも思いのある地域学でした。
しかし、今回調べてみましたが、いずれも発展はしていませんでした。
それ以外も当時は盛んだったいくつかの地域学も活動の継続の気配があまり感じられませんでした。
まちづくりは30年と考えている私にとっては、とても残念なことです。
最近は直接関わっている地域学がないものですから、思いあぐねて、前には何を話したのかを読むことにしました。
今日、講演録を読み直しました。

さていよいよ自画自賛です。
読んでみるとなかなか良いのです
これ以上のものを話せるかどうか不安になりました。
ついでにもう一つ見つかったので読んでみました。
これは何と同じタイトルで、宮城大学で話したものです。
これもなかなか良いのです。
私は講演が苦手なのですが、たまには良い講演もあるのです。
とまあ、2つも読んでしまったら、自信がなくなってしまいました。
20日の講演がとても心配です。
前の講演をテープにとっておいたら、今回はテープを送るだけでよかったかもしれません。
それにしても同じタイトルで繰り返し話をするのはこれからやめたほうがよさそうです。
二番煎じはうまくいかないものですから。
明日、1日かけて、何を話すかを考えようと思います。
良い案が見つかるといいのですが。

内容のない支離滅裂な自画自賛文になっていますが、
まちづくりに関心のある方に、私が自画自賛した講演録を読んでもらえるとうれしいと思い、書きました。
もし関心を持ってもらえたら読んでください。
長いのが難点ですが。

これからのまちづくりと公民館の役割(1999年11月)
地域学のすすめ(2000年8月)

■このブログの書き込みを少し休みます(2006年10月19日)
朝早く起きて日の出を見ました。
あいにく日の出の時間は雲があって、太陽は見えませんでしたが、
しばらくしてから太陽が見え出し、よどんだ雰囲気は一変しました。
「太陽のように明るい人」という言葉を思い出しました。

昨日はついつい「自画自賛文」を書いてしまいましたが、
その反動で今日はちょっと暗い気分です。
しかし太陽を見ていると元気が出ます。

最近、ブログを毎日書いてきました。
突然ですが、ちょっとしばらくブログを休ませてもらいます。
いつも読んでくださってありがとうございました。
また書く気になったら不定期に書き込むかもしれません。

■高校での履修漏れ問題の捉え方(2006年10月31日)
このブログはしばらく書くまいと思っていたのですが、連日、気になる問題が起きています。気になるのは、問題そのものよりも、マスコミの捉え方ですが。
黙っているのは精神的によくないので、方針を破って書くことにします。
CWSコモンズに書いたように、ちょっと反省もしています。

まずは、高校の必修科目履修漏れ問題の捉え方です。
私はこんな事実は昔から文部科学省も教育委員会も知っていたと思います。
こんなに広がっている事実を知らないはずがありません。
仮にもしそうだとしたら、学校という世界は北朝鮮以上に権力による情報管理が行き渡っている世界ということになります。そんなはずはありえません。いや、ありえないと思いたいです。
にもかかわらず、そうした報道は全くありません。
マスコミが報道しているのは、相変わらず絵空事の世界です。
いい加減にしてほしいと思います。
現場を回って的確な質問をして取材した記者が一人でもいるのかという気がします。
あるいはデスクが握りつぶしているのでしょうか。
先入観で取材するので現実が見えなくなることは少なくありません。
いずれにしろ、建て前だけで報道するマスコミの体質は全く変わっていません。

それに、知っているのに「知らない」というのは、組織人の常識になっています。
そして、「おかしい」と思いながらも、「おかしい」といえないのも、組織人の特徴です。
「組織起点発想の時代」には、個人は組織のためにあったからです。
多くの人が「おかしい」と思いながら、そして知っていながら、「知らない」ふりをしていたのです。

なぜ今回のようなことが起こったかも理由は簡単です。
産業界の働きかけであり、子どもたちを商品として扱ってきた産業主義の結果です。
個々の学校の教師たちの問題ではありません。
日本の文部行政や学校制度が間違った方向に向いているのです。
厚生労働省がそうであるように、文部科学省も財界に従属しているのです。
経済発展イデオロギーのための存在になっているのです。

それを正すのは、これも簡単なことです。
学校を子どもたちが主役の場にし、文部行政を教育行政に変えればいいだけです。
学校の主役を子どもたちにするには、「学校に子どもたちを合わせる」のではなく、「子どもに学校を合わせる」というパラダイム転換で有名な、きのくに子どもの村学園が一つのモデルかもしれません。
パラダイムを変えれば、学校は全く別の空間になります。

これは文部行政と教育行政の違いにも通じます。
私が懸念するのは、学校が完全に教育の場ではなくなっているということです。
最近作られた教育再生会議のメンバーを見れば、教育などとは全く無縁なメンバーが集まっていることがわかります。
産業主義の視点で労働者と消費者を育てる世界の人たちもいます。
彼らのような人が教育をだめにし、学校を利己的に活用してきたのです。
彼らはますます日本の学校と教育をおかしくしていくでしょう。

学校が教育の場でないのなら、一体、どういう場なのか。
今回の事件はそれを如実に示していると思います。
いろいろと考えていくと恐ろしくなる実態が垣間見えてくるように思いますが、どうでしょうか。

■貸金業法改正とNPOバンク(2006年11月15日)
また書いておきたいことが出てきました。
すでに話題になっているので、私が書くまでもないのですが、出来るだけ多くの人に知ってほしいと思ったのです。それに加えて、ちょっと私の私見も書きたいと考えたのです。

以前も一度書き込みましたが、「貸金業法」の改正が国会で審議中です。
これについては、相変わらずの胡散臭さを感じていますが(つまりその後ろにいる金融業界の思惑です)、それとは別に、NPOバンク関係者からの問題提起が行われています。
NPOバンクとは、簡単に言えば、市民事業の支援や顔の見える範囲での助け合いのために、市民がお金を出し合い、無担保低金利で融資をしている小規模な非営利金融です。
頼母子講や結いにつながるものであり、私のビジョンにもつながりますが、念のために言えば、私の思いとは似て非なるものです。
私のビジョンには「利子」という概念は皆無です。利子を埋め込んだ途端に産業のジレンマを呼び込むことになるからです。
ちなみに、今年度ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行もNPOバンクの一種だそうです。
私自身はNPOもNPOバンクも、過渡的なものと位置づけていますが、もしそうであっても、利権型の産業界や政治の世界からは歓迎されないだろうとは予想していました。
それは「地域通貨」と同じく、権力構造に管理される世界には大きなノイズになるからです。しかも危険なノイズです。見過ごすわけにはいかないでしょう。
その走りとしての市民バンクを支援した永代信用組合は強制破綻させられてしまいましたが、もしかしたら、市民バンクのせいだったのではないかとさえ思いたくなります。
まあ、さすがにそんなことはないと思いますが、この事件は訴訟になり、私の友人たちも関わりました。私は参加していませんが、訴訟原告団のサイトをご覧ください。
http://www.hyoban.co.jp/genkoku/

ところで、貸金業法の改正がなぜNPOバンクに関係しているかですが、それは、財産が5000万円以下しかない貸金業は認めないということになりそうだからです。
「みんなで少しずつお金を出し合って、自分たちの周りを豊かにしていこう」というNPOバンクにとって5000万円の財産要件は大きな壁になりかねません。
詳しくは次のサイトを読んでください。
http://www.media-kiss.com/yamaguchi/content/koregaiitai/11.html

そこで、問題になり出したのです。国会でも審議されだしています。
また、全国NPOバンク連絡会では今度の土曜日に緊急フォーラムを開催しますので、ご関心のある方はご参加ください。
http://www.tvac.or.jp/di/8742.html

この問題は昨今の「改革」の本質を象徴するとても重要な問題提起をしていますし、「貸金業者」とNPOバンクとは全く別のものという、全国NPOバンク連絡会の主張には与したい気もするのですが、その主張には完全には共感できずにいます。

どう共感できないか。
それは、いつまでもなぜ今の経済パラダイムの枠の中に安住しつづけようとしているのか、という疑問があるからです。
「利子」という発想を捨てられない以上、今の拝金主義からは抜け出せないでしょう。利子が高い低いなどというのは同じパラダイムの内部の話です。利子はゼロかマイナスにしてこそ、NPOバンクは新しい世界の主役になっていけるでしょう。

金を貸すのではなく、提供すれば良い話です。もしそれで成功したのであれば別の困っている活動に提供すればいいだけの話です。そんな夢物語を語るなと怒られそうですが、夢が無いのであれば、NPOなどに取り組む必要はありません。
パラダイムを変えられないNPOは、企業の変形でしかないのではないかと私は思っています。
そろそろ既存社会のサブシステムとしてのNPOから卒業すべき時期ではないでしょうか。
少なくともビジョンとしては。

■利が理を制した沖縄知事選(2006年11月20日)
沖縄知事選は平和を目指す統一候補として、非自民の全野党が一本化したにも関わらず糸数候補が敗れてしまいました。
利が理を制する流れは、ここでも食い止められなかったのです。
利が理を制する。
これが昨今の日本の状況です。
かつて世界から賛美された「美しい国」はますます遠のきました。

理では生きていけない、エゴに生きる住民は利を選ぶ。
理をえらぶ賢い市民がまだ日本では育っていない、という人もいます。
私は市民を信じない人間ですので、その意見には与しません。
日本には欧米的な市民よりも、もっと理に生きている常民や住民がいたのです。
自ら理を捨てた有識者たちが、そうした存在を無視し、社会を壊してきたのではないかという疑念を否定し切れません。

ところで重要なことは、
利は決して住民に還元されることが無いということです。
基地がなくなれば経済的自立ができなくなるという強迫観念は、作られた強迫観念です。
その強迫観念で、北海道と沖縄は、権力や有識者の利の源泉に置かれています。
住民たちはその仕掛けを支える存在にさせられているように思います。
利は一部のものに集中します。
それが利の本質です。
利とは絶対水準ではなく相対関係だからです。
格差こそが利なのです。

郵政民営化もそれによる利益は権力者や金持ちに行くのであって、利用者や国民の多くは利を奪われることになりだしています。パイが同じなのですから、それは少し考えたらすぐわかることなのですが、それに気づかない人がなぜか多いのです。思考停止しているからでしょうか。

理はどうでしょうか。
理はその本質上、すべてのものに行き渡ります。
なぜなら理はすべての関係性に立脚しているからです。
宮沢賢治がいうように、隣に不幸な人がいたら、理は成り立ちません。

利が理を制する社会。
生きにくい社会になりました。
今朝は憤りよりも寂しさでいっぱいです。

■人を育てる場から人を壊す場になってしまった企業(2006年11月22日)
企業で働く人のモチベーションや働き甲斐が最も低い国の一つが日本だそうです。
さまざまな調査結果がそれを示しています。
CWSコモンズでも時々書いていますが、大企業の経営幹部の関心事は「部下の元気」です。自らも含めて、みんな疲れてしまっています。
企業業績はよくなっているといわれますが、従業員の労働時間は多くなり時間当たり給与はむしろ下がっているかもしれません。
何が業績向上だといいたいところですが、アメリカ型経営思想の中ではそれが評価されるのです。
「株価資本主義」はますます広がっています。

企業の実体をつくっているのは「従業員」です。
従業員の元気こそが会社の元気の源泉です。
だからこそ、経営の根幹は「人づくり」です。
企業は「人を育てる場」だったのです。
しかし最近は、その企業が「人を壊す場」になってしまっています。
働き甲斐を失うだけでなく、精神的なトラブルが急増していることでは、日本は世界で一番高いかもしれません。いろいろな調査データでも精神的問題の急増が示されています。

企業は「仕事」を壊しただけではなく、「人」まで壊しだしました。
そろそろ働く場の仕組みを変えなければいけません。

19日にインキュベーション型コムケアフォーラムを開催しました。
自分たちで働く協同労働の場が育っていかなければ社会はますますゆがむような気がします。
団塊世代が企業の呪縛から解放されて、自らが輝く働きの場を創り出していくことを期待しています。
19日のフォーラムでは「団塊世代インキュベーションネットワーク構想」も発表されました。

組織に使われる時代は終わりにしなければいけません。

■「改正」とは「正しさを改めること」(2006年11月23日)
教育基本法改正が実現しそうです。
憲法は実質的に「改正」されだしました。

最近はさまざまな「改正」が行なわれています。
あるいは「法治国家」としての「法の整備」が進められています。
「不備」が「改正」や「整備」によって改善されることは歓迎すべきことです。
但し、問題はどの立場から、どのような価値観によって考えるか、です。
それによって、その意味合いは全く変わってきます。
北朝鮮の金正日にとっての「改正」や「整備」は、
支配下にある国民にとっては「改悪」であり「選択肢の縮小」かもしれません。
北朝鮮ほど事態が明確であれば、みんなそれに気づきますが、日本ではなかなかそれが見えません。
しかし今の政権がやっていることは、北朝鮮以上の「改正」と「整備」ではないかと私は思います。

たとえば、次の記事を読んでください。
○介護保険制度見直し「軽度者」に貸し出しダメ 
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20061118&j=0019&k=200611186793
小泉政権以来の「改正」の犠牲になって、死んだ人がどのくらいいるでしょうか。
しかし彼は罰せられることはありません。

岩波書店の「世界」の12月号も衝撃的です。
特集は「これが「負担増」だ! 脅かされる生存権」です。
その解説を引用させてもらいます。

「改革には痛みが伴う」――それが小泉前首相の決まり文句だった。
一般論としては、誰しもそれを否定できない。国民は異を唱えなかった。
小泉政権が終わったいま、企業は空前の利益を上げ、景気の「いざなぎ」超えを謳歌している一方で、経済的な弱者にすさまじい痛み(負担)がのしかかってきた。一つ一つはわずかな金額、支給カットかもしれないが、ギリギリの生活、療養をするものにとって、それは生存権すら否定されるような「負担増」になる。高齢者、病者、障害者、介護保険受給者、生活保護受給者……。経済的、社会的に弱いものは、声も挙げにくい。
なぜこのような事態に立ち至ったのか。政府の考え方、方法とは何なのか。
福祉とは、社会保障とはそもそも何か。誰がどのように費用を負担すべきか。これらの問いは、その社会の根本原則を問うものである。私たちの社会は、人権を無視し、弱いものを踏みつけにして省みない社会になったのだろうか。

東大名誉教授の多田富雄さんの「リハビリ制限は平和な社会の否定である」という論文も衝撃的です。
そこに出てくる短歌にこういうのがあります。
「政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ 生きぬく道のありやなしやと」。
これは11年前に脳出血で左半身麻痺となりながら、たゆまぬリハビリ訓練により精力的な著作活動を続けてきた鶴見和子氏が遺した短歌の一首です。
鶴見さんは7月30日に亡くなりました。
ぜひ鶴見さんの無念の気持ちを「世界」で読んでください。

こうしたことは医療制度改正で進められてきたことの一部です。
心ある人間のやることではないと思いますが、これらのことが「改正」「改革」「整備」などという言葉によって、国民の支持を受けて進められているのです。
しかも私の税金もそれに使われているのです。
最近の日本の首相はドラキュラに血を吸われてしまったとしか思えません。

そして、教育基本法「改正」。
みなさんは何が問題なのかをご存知でしょうか。
内容をきちんと読まずに、「改正」だから、そして今の学校は問題が多いから、良いのではないかと思ってはいないでしょうか。
もし時間があれば、ぜひ次のサイトをご覧下さい。
教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会
http://www.kyokiren.net/
他にもたくさんのサイトがあります。

最近、学校関係の自殺報道が多いのも、もしかしたらこの「改正」を通すためのマスコミの犯罪の一つかもしれないと私には思えてなりません。

いずれにしろ、「改正」を語る人たちを私は信頼できません。
「改正」と称して、私欲のための改悪が多すぎます。
改正とは「正しさを改める」ことなのかもしれません。

時代により、社会により、言葉の意味は変わるものです。
それをしっかりと踏まえておかねばなりません。

■マスコミの評価犯罪(2006年11月24日)
昨日、「マスコミの犯罪」という表現を使いました。
これは私がずっと思っていることですが、
マスコミが起こした人の死や不幸な事件は決して少なくありません。
マスコミには人の死をももたらす暴力性があるからです。
しかし、その意識がマスコミ関係者には希薄です。
自動車が殺人凶器になることを軽視している自動車メーカーの経営者と同じです。
さらにいえば、飲酒運転する人と同じ危険性を持っている存在とさえいえるかもしれません。
よほどの自覚と自制力が求められるはずです。

ところで、最近、様々なところで「評価」という言葉が聞かれます。
私にはどうも違和感のある言葉です。
一番の違和感は「評価」の目的と評価基準です。
評価自体が目的になったり、
基準が明確でなかったりすることが多いように思います。
評価は評価される人にとっても歓迎できるものでなければいけないと私は思っていますが、もしそうであれば、そもそも「評価」なる言葉が不適切なのかもしれません。
私は行政評価などでは「共創型評価」発想が必要だと考えていますが、
これはなかなか受け入れてもらえませんでした。
以来、「評価」嫌いになっています。
評価に関心のある人たちは、みんな現場に関心のない管理志向ではないかという不信感さえ感じています。
管理は大切ですが、基軸にはならないというのが、私の意見です。

いずれにしろ、最近は「評価」ばやりです。
みんな自分のことは棚に上げて、誰かを評価することが大好きなのです。
多くの場合、評価の対象と目的は自分ではありません。
自己評価という言葉はありますが、目的は自分の外にあることがほとんどです。
ですからどうしても無責任になりがちです。
それに評価の基準は人によって違うことが多いように思います。
そして目線の高い評価が多いのも気になります。
マスコミは、まさにそうした「評価」の舞台です。

1週間ほど前に、北九州市の学校の校長が自殺した事件がありました。
報道では「いじめ隠し」を避難されていましたが、
実態はそうではなかったようです。
マスコミの犯罪の典型例かもしれません。
こうした「評価犯罪」がいたるところで展開されています。

マスコミで情報を流す人は、常に「評価」をしています。
私たちは、その記事を読んで、事件やその関係者を評価します。
そして、ともすると「評価犯罪」の片棒を担ぐことも少なくありません。
そうならないために、
私たち一人ひとりが、しっかりしたビジョンと価値観を持たねばなりません。
マスコミを鵜呑みにするのではなく、自らの生活に立脚して、マスコミ情報を読み取ることが必要です。
そうでないと、マスコミの犯罪はますます広がっていくでしょう。
マスコミが発信してくる「評価」を安直に信ずるのはやめたいものです。

■天の声に従わなければいじめにあって死に追いやられる時代(2006年11月25日)
宮崎談合事件で関係者が、天の声に従わなければ生きていけなかった、という趣旨の発言をしていました。天の声とは、いうまでもなく「お上の声」です。
知事や首長、あるいは政治家の一声で、道理に反する落札が行われても、それに異を唱えては生きていけないというのが建設業界の常識でした。
いや、今でも常識なのでしょう。
そうした構造や「常識」は日本社会を覆っています。
たとえば、郵政民営化を進める「時の権力者」に異を唱えると政治家としては生きていけなくなることを私たちは今見せられています。
関係者双方の無様さは見るに耐えないほどですが、それが現実なのでしょう。
異を唱えることが許されない状況をつくることは、私には犯罪的行為としか思えません。
やや飛躍があるかもしれませんが、子どもたちのいじめと自殺を支援する状況を作っているとしか思えません。
そう思いたくなりたいほど、醜い動きが今の政治家の言動です。
私たちの代表である政治家には、もっと胸をはった生き方をしてほしいものです。
「お上の声」を「天の声」などと思わずに、本当の天の声を聴いてほしいですね。
天の声は、お上の声とちがって、私たち一人ひとりの生を支えてくれるはずです。
学校でのいじめや自殺がまた話題になっていますが、子どもたちの世界は私たち大人の生き方の相似形でしかありません。
正すべきは私たち大人の生き方ではないかと思います。
お上の声を天の声などと勘違いする愚挙は避けたいものです。

■社会が壊されていくことへの麻痺(2006年11月26日)
連日、同じようなニュースが繰り返し飛び込んできます。
たとえば県の不正事件ですが、次々と新しい県で同じような事件が話題になります。
どこの県でもやっている話のはずで、少し関わった人ならすでにわかっていることでしょうし、社会保険事務所のときのように、全国一斉にきちんと調べたら一括処理できるはずだと思いますが、なぜかそうなりません。
裏金工作や談合関与のなかった県などはあるはずがないでしょう。それがかつての文化、あるいは常識だったのですから。
それが悪いのではなく、問題化した時に放置したり隠したりすることが悪いのです。
その意味では、これらは「過去の問題」ではなく「現在の問題」です。
いじめ問題で、傍観者の責任が問われだしていますが、それと同じく、現在の問題をもし傍観してしまうのであれば、傍観者もまた責任を逃れられないでしょう。
つまり、これらは今の時代を生きる私たちすべての問題です。

学校でのいじめや自殺問題、児童虐待などの報道も多いですし、飲酒運転による交通事故も多いです。
これらも本気でなくそうと思うのであれば、方法はあるはずですが、本気で取り組もうという動きはありませんし、考えようという人もあまりいないようにも思います。
今朝の新聞で、いじめ問題に関しては全国調査を行なうと報道されていましたが、問題はその方法です。
現場にいる人たちは事実を知っています。必ず当事者がいるのですから、各シオうせるはずがありません。新聞で話題になる事件のほとんどは現場周辺の人には予めわかっていたことがほとんどのはずです。
そんなことは誰もが知っているはずですが、大人たちは知らないように振舞います。まさに「裸の王様」の世界が大人の社会なのです。心当たりはないでしょうか。私もその一人であることを白状しなければいけませんが。

巨額な財政赤字に象徴されているような次世代からの借金。
蔓延する組織犯罪を傍観している罪。
経済的にも倫理的にも、私たちは大きな重荷を背負わされてしまっています。
しかし、その重荷を実感することがないのはなぜでしょうか。
そこに問題の深さがあるのかもしれません。

しかし毎日、こうも同じような事件の報道が続くと感覚が麻痺してしまいます。
そうこうしているうちに、教育基本法も共謀罪も、次々と成立しそうです。
気がついたら憲法も変わり、日本も「普通の国」になっているのでしょうか。
なにやら強制収容所にいるような気もします。
その暮らしも慣れればなんでもないのかもしれません。

慣れたくないのであれば、何かをしなければいけません。
いや何かをすればいいのです。

一度は、ブログをやめて、自分の暮らしに埋没しようと考えましたが、やはりブログは続けることにしました。
せめて強制収容所での日記は書き続けたいと思い直しました。
それにいつかまた行動できる時が来るかもしれませんので。

■大人のまねはしないで(2006年11月27日)
今朝の朝日新聞朝刊に、とても共感できる記事がありました。
「いじめている君へ」というシリーズ記事ですが、今日はジャーナリストのむのたけじさんが書いていました。
ネットでは読めないのが残念ですが、むのさんのメッセージの表題は「大人のまねはしないで」です。このタイトルだけですべてが伝わってきます。
むのさんは、まず「最近の小中学生」を「今までの日本人の歴史の中で、最高にすばらしい世代」と言っています。これはむのさんが実際に小中学生と話をして実感したことのようです。
そして、最後にこう書いています。
「大人たちがどうあろうとも、みなさんは、自分たちのよいところをつらぬいてください。それが大人たちを変える力になっていくでしょう」
ようやく共感できるいじめ論に出会った感じがします。
今日もまた大人の世界では、いじめと嘘の話題ばかりですが、この小論のおかげで気持ちの良い1日をすごせました。
そういえば、昨日の朝青龍の優勝後の感想も良かったです。
福岡の人はみんな優しく迎えてくれる、と笑顔で話していました。
とても気持ちのいい会見でした。
朝青龍の笑顔は実に無邪気です。
1時代前の横綱たちとは対照的です。
もっとも私は強すぎる朝青龍は好きではありませんが。

■「最後まで、楽しい生活、支える歯」(2006年11月29日)
歯医者に行きました。
天井にポスターがはってありました。
そこにこんな標語か書かれていました。
「最後まで、楽しい生活、支える歯」
これはやはり、
「いつまでも、楽しい生活、支える歯」
にしてほしいと思いました。
私が「最後」に近づいているからかもしれませんが、
最近、こうしたことがとても気になっています。
友人が「エンディング」をテーマにイベントを開催したいと言っています。
主旨にはとても共感できるのですが、「エンディング」という言葉に拒否反応が出てしまいます。
まあ、これは個人によって受け取り方は違うでしょうが、言葉というものの持つパワーを最近痛切に感じます。
言葉は使い手の思いではなく、聞き手の思いで、意味を持ち出すことが多いように思います。
それをしっかりと認識した上で、使わなければいけないと、最近、反省しています。
このブログも、毒のある言葉が多すぎますので。

■手賀沼がきれいになってきています(2006年11月30日)
利根川から手賀沼を通過して、大堀川という支流にサケが遡上したというニュースが昨日テレビで放映されました。
我が家は、その手賀沼の近くですが、手賀沼も少しずつ、きれいになってきています。
数年前までは、日本1汚染度の高い湖沼でした。
今年はトライアスロンも行なわれたのですが、以前と比べると水質もかなりよくなってきています。
浄化の最大の要因は、利根川からの取水の増加のようですが、つまりは自然の循環がいかに大切かということです。
しかし、サケが遡上するということは思っても見なかったことです。
見る目には、手賀沼は相変わらず汚いですし、まさかこの手賀沼をサケが泳いでいるとはとても思えません。
しかし、人間の目などと違い、サケには汚染度がホリスティックにわかるのでしょうか。生命の力にはいつも驚かされます。

昨日、ホリスティック医療に取り組まれる帯津良一さんにお目にかかりました。
帯津さんの優しい表情をみていて、
ホリスティック医療とは世界をまるごと受け止めることなのだとようやく気づきました。
手賀沼へのサケの遡上は、私自身の健康につながっていることを実感させてもらいました。
地球は今、元気になろうとしているのかもしれません。
そう考えると最近の異常気象もとても素直に受け入れやすい気がします。
異常気象を防ぐだけが良い訳ではないような気がしてきました。
すべてに、何らかの意味があるのでしょうから。

社会の動きも、そうかもしれません。

■社会の突然の変化(2006年12月1日)
我孫子駅前の銀行ATSに月末のせいか、長い行列ができていました。
そういえば、先週の24日も、駅前を2回通ったのですが、毎回、10人以上の人が並んでいました。給料日だったからでしょうか。
15年ほど前だったと思いますが、ある雑誌から、顧客満足を高めるために銀行店内での待ち時間を短縮することの大切さのようなテーマで寄稿を頼まれたことがあります。当時は、利用者を待たせないための銀行のサービスが課題なっていたような気がします。ところが、ある時から突然にATS窓口に並ぶことにみんな不満を言わなくなりました。しかも外で並ぶのです。雨の日も寒い日も、暑い日も、です。なにやら宮沢賢治の詩にでてくるような感じがしますが、今ではみんな、それが当然のように受け入れています。そして、そうした機械任せであるにもかかわらず、手数料はどんどん高くなりました。それにもみんなあまり文句を言いませんでした。
私にとっては、なぜ急にみんなが変質したのかわかりませんが、こらえ性の無い私は、今でも並ぶことには大きな抵抗があります。どう考えてもおかしな話です。

このように、ある時突然、社会の文化が変わることがあります。
時々、自分がタイムスリップしたのではないかと思うことがあるのです。
そんな体験はないでしょうか。

■コモンズの幸せ(2006年12月2日)
「コモンズの悲劇」という有名な話があります。
生物学者、G.ハーディンが1968年に「サイエンス」誌に発表した、「誰でも自由に利用できる共有資源は乱獲によって枯渇してしまう」という話です。
詳しくはウィキペディアを読んでください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87
これに関しては、このブログやCWSコモンズでも何回か触れています。
たとえば、個人の利益と社会の損失の非対称にも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2006/06/post_71db.html

現実にはコモンズの悲劇的現象は世の中に充満しています。
最近の給食費不払いの話などはまさにそうした事例の一つです。
年金問題もそうかもしれません。
しかし、組織発想から個人発想に替えることで、パラダイム転換できる話だと私は思います。つまり、発想を変えれば、コモンズの悲劇はコモンズの幸せになるはずです。
これもどこかに書いたような気がしますが、今回はもう一つの側面を書きます。
「消費発想」から「創造発想」に変えることで、コモンズの悲劇はたぶんなくなります。
つまり、コモンズ(みんなのもの、共有地、共有資源)を消費の対象とするか、創造あるいは育ての対象とするかということです。
最近の社会はよく言われるように、「消費社会」です。
「生産」もまた「消費発想」になっていることは、以前、「消費機関としての企業」に書きましたが、生産よりも消費に軸足を置いているのが今の産業社会です。
その枠組みで考えれば、有限のコモンズを消費する以上、どこかで悲劇は起こります。
しかし、発想を逆転し、「消費」もまた「創造」だと考えれば、話は全く変わります。
消費には限界がありますが、創造には限界がないからです。
コモンズは「みんなで消費するもの」ではなくて、「みんなで育てていくもの」と考えると悲劇ではなく幸せが見えてくるはずです。
私は東レ時代にCIに取り組みましたが、会社の企業理念に「価値の創造」という言葉を選びました。
当時、この言葉を掲げていたのは上場企業ではたぶん「キリン」だけでした。
似た言葉だったので私はキリンの担当者に事前に了承を得にいったのを覚えています。
たかだか20数年前の話ですが、当時はそういう時代でした。
しかし、その後、多くの会社が「価値の創造」をうたいだしました。
そして「価値を消費」しだしたのです。
言葉を掲げると事態は逆に動き出す。
皮肉な話です。
会社を辞めて20年近くになりますが、会社を離れてみると、会社が創造していることと消費していることが良く見えてきます。
そして大きな流れが、創造よりも消費に向いているのがわかります。
しかし、消費発想から創造発想へと切り替えると、全く新しい経済システムが見えてくるような気がします。
税金を徴収されるのではなく、税金を納める社会。
義務教育ではなくて、権利教育。
社会の仕組みも変わってくるはずです。

■自治会を通した情報ネットワーク(2006年12月3日)
自治会の会長を引き受けて驚いたことの一つは回覧物の多さです。
市役所はもとより、警察や消防署や学校や社会福祉協議会などから、毎週2〜3種類の印刷物が届きます。
中には福祉施設関係の通信販売のパンフレットの回覧を頼まれることもあります。
すべてを回覧しているときりがないので、会長の責任において回覧の是非を決めようかとも思いましたが、これが結構むずかしいのです。
住民の多様性を考えると回覧をやめる決断ができないのです。
しかし、この回覧の仕組みは素晴らしいですね。
2週間もあれば、ほぼすべての住民に告知ができるのです。
もっとも現在回覧されているもののほぼすべてが、読もうと思う気にはさせられないような印刷物です。行政の無駄な仕事を実感させられることも少なくありません。
しかし、この仕組みをうまく活用したら、凄いことができそうな気もします。
自治会やそれを通した情報ネットワークは大きな社会資源です。
もっと効果的な活用策はないものでしょうか。

■シマックの予言(2006年12月4日)
最近、たまっている資料や記録を整理し、思い切って廃棄しています。
私は書籍や資料をともかく保管する傾向があるのですが、自分の時間軸を考えるとそろそろ廃棄しだすころだろうと実感しだしたのです。
もちろんただ廃棄するだけでなく、当時のことを思い出しながら、自らの生きてきた時間を思い出しながらの廃棄ですので、なかなか進みません。
しかし、その過程で様々な気づきがあります。
今日も書庫にある資料を整理していたら、メモが出てきました。
クリフォード・シマックというSF作家の「シティ」という作品の中の文章の書き抜きです。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、このような都市の狭い地域の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような都市を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

シマックは私の好きな作家の一人でした。
この作品は1952年の作品です。壮大なおとぎばなしです。
当時のSFは、まだ明るさとユーモアがありました。特にシマックには牧歌的なやさしさや個人の視点がありました。
もっとも私がSFについていけたのは1970年頃までです。1980年代に入るともう全く違う世界に感ずる作品が多くて、以来、ほとんど読むのをやめました。

それはともかく、引用したシマックの文章が、最近の企業にあまりに当てはまることが気になりました。
ちょっと「都市」と「会社」を置き換えて見ましょう。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、今のような会社の狭い組織の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような組織を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

どうでしょう。
違和感がないのは私だけでしょうか。
破壊の対象が組織(文化)であればまだいいですが、自分たちになることもありえます。

新しい会社のあり方が求められています。
そして、新しい兆しがさまざまなところで動き出しているように思います。
それが見えるかどうか。
シマックには半世紀前に見えていたのです。
私たちには見えているでしょうか。

■アーサー・C・クラークの警告(2006年12月5日)
昨日、シマックに触れたせいか、急に昔読んだ作品が読みたくなりました。
あいにく手元にシマックは見当たらず、出てきたのはアーサー・C・クラークの「都市と星」です。これも1950年代の作品です。初めて読んだ時の不思議な感動を覚えています。
書き出しで、またとまってしまいました。
引用します。

その都市は輝く宝石のように、沙漠の懐に抱かれていた。かつては、そこにも変化や移り変わりがあったが、今ではそこは時の流れと無関係だった。夜や昼が沙漠の上を通り過ぎていったが、ダイアスパーの通りにはいつも午後の陽射しがあり、夜の帳が下りることはなかった。
この都市には、暑さも寒さもなかった。そこには、外界と何の接触もなく、それ自身が一つの宇宙だったのである。

ダイアスパーは、銀河帝国が崩壊して、さらに10億年もたった地球の都市です。
この描写を読んで、私はすぐさま六本木のビル街を思い出しました。
最初に読んだ学生の頃には、その都市のイメージが広がらなかった記憶がありますが、今回は現実感を強くもてました。
私は六本木ヒルズには2回しか行ったことがありませんので、間違ったイメージかもしれないのですが、会社と同じく、都市もまた死に向かっているような気がします。

結局、この書き出しで少し感傷にふけってしまい、読むのをやめてしまいました。
昨今の日本の社会の実態は、すでに50年前にSF作家たちが警告していたのかもしれません。そして、そうした作品に浸っていた私は、かなり洗脳されてしまっていたのかもしれません。
最近の日本は、昔体験した社会のような気がするのです。

久しぶりに学生の頃に戻ったような気がしています。

■豊作になると野菜が廃棄される経済(2006年12月7日)
豊作のためにキャベツや大根の価格が下落し、農家は自らが育てた野菜をトラクターなどで踏みにじって廃棄しているニュースが連日放映されています。
たとえば、キャベツは廃棄するとキロ27円が政府や農協によって補償されるそうですが、販売するとキロ31円なのだそうです。
4円の上乗せしかできないのであれば、廃棄したほうが利益にはなるでしょう。
でも、そこで納得してしまってはだめなのだろうと思います。
たしかに経済計算ではそうなりますが、キャベツやレタスが踏みにじられるように廃棄される映像を見ていると、廃棄しているのは野菜だけではないことに気が付きます。いや、気づかなければおかしいのです。
何が廃棄されているのか。
たとえば「食べ物を大事にするという価値観」「労働に対する誇り」などは、間違いなく廃棄されているように思います。
この映像を子どもたちに見せながら、食べ物を大事にしようとか働くことの大切さを説くことはできないでしょう。
つまり社会の大切な価値観を廃棄しているのです。
キャベツで言えば、廃棄される量を上回るキャベツが海外から輸入されているそうですので、それもおかしな話ですが、いまの経済論理からいえば、それも「合理的」なのでしょう。
しかし、日本による食料の輸入は、必ずどこかの国の飢餓につながっているはずです。
食料には経済を超えた価値があります。
しかしお金は手段でしかありませんから、本源的な価値はありません。
ところが、今の経済社会は本来的な価値ではなく、手段としての価値しかない貨幣を軸に動いてしまっているのです。
こんな経済システムが正しいはずがありません。
そう思えてなりません。
我が家は30坪程度の家庭菜園で野菜をつくっています。
素人農法ですが、野菜ができすぎることがあります。
もちろん廃棄などせずに、隣近所に差し上げます。
そのお返しに、今度は庭でなった柿やミカンをもらったりしています。
お金を入れてしまうとどこかでおかしくなるように思います。
貨幣を手段にする市場原理への信仰をそろそろやめるべきではないでしょうか。
新しい経済を構想するべき時代ではないかと思います。
貨幣から開放されると豊かな生活の展望が開けてくるのかもしれません。

■「よこはま乳腺と胃腸の病院」(2006年12月8日)
昨日の朝日新聞からの引用です。
長いですが、

横浜市の医療法人が病院名を「よこはま乳腺と胃腸の病院」という名称に変更しようとしたところ、市が「『乳腺』は、医療法の規定では広告できる診療科名と認められていない」として認可しなかったことの是非が訴訟に持ち込まれた。法人側は「表現の自由の侵害で違憲だ」として不認可処分の取り消しを求めたが、一、二審で敗訴。上告したが、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は7日、「医療法の規定は合憲」として棄却する判決を言い渡した。病院側の敗訴が確定した。

第一小法廷は、医業などについての広告を規制した医療法の規定について「広告することのできる診療科名を客観性、正確性を維持できるものに限定した」と解釈。広告できる診療科として同法施行令が列記した診療科名は、例示ではなく、限定的に列挙されていると解釈すべきだとする一、二審の判断を維持した。

とても気になる判決です。
まず法律解釈の姿勢の問題です。施行令が列記する診療科名以外のものは認めないとは驚愕の判決です。利用者の視点は全く無視されています。内科だとか外科などという、訳のわからない表現こそ正すべきでしょう。この裁判官たちは病院にいったことがないのでしょうか。決められた法文にしか従わない思考力の無い人なのでしょうか。私が司法試験を受けたくなくなったのは、そうした人しか司法試験には受からないと勘違いしたからですが、もしかしたらそれは勘違いではなかったのかもしれないと思いたくもなる事件です。
次に「広告」ということへの理解です。
私自身は広告や広報は取引コストの縮減のためのものだと思っていますので、相互理解が効果的に行なわれることが大事だと考えています。ですから「規制」すべきことではなく支援すべきことだと考えています。もちろん、実体との乖離や虚偽の表現の使用を対象とすべきであり、むやみな誇大宣伝は規制すべきですが、基本は支援です。
現場、あるいは実態からの発想ではなく、管理からの発想も気になります。
現場や実態からの発想には表情があり、例示はあっても言葉での規定はありえません。しかし管理発想では言葉に依存した包括規制しか生まれません。
悪しきものと善きものを区別する眼がなくなって、すべてを一括規制する動きがともかく広がっています。
この判決もそうした動きを象徴するものの一つではないかと思います。
事件の詳細を知らずにコメントするのは不安ですが、最近の社会の動きが業種されているような事件ではないかと思います。
こうした事件が多すぎます。

■アミネ一家の不幸は他人事なのでしょうか(2006年12月9日)
今朝の朝日新聞朝刊に小さく出ていた記事です。

イラン人一家を退去処分 法相の在留許可下りず
最高裁で家族全員の国外退去処分が確定した群馬県高崎市のイラン人、アミネ・カリルさん(43)一家が8日午前、東京入国管理局に出頭した。法相が特別の事情をくんで国内在留を認める「在留特別許可(在特)」は下りず、一家4人の国外退去を命じた。

アミネ・カリルさんは、1990年、日本がまだ好景気でバブルに湧き、イランとの間でビザなし渡航を維持していた時期に、移住労働者として日本に入国。他の多くのオーバーステイの外国人と同様、役所に行って外国人登録もし、子どもたちは公立の学校に入学し、日本人の友達と共に、日本人と同じように生活してきました。
ところが、1999年、APFS(Asian People's Friendship Society)という外国人支援団体が、日本人と同化した子どもたちを抱えるオーバーステイの家族に在留特別許可を求める一斉行動を提起したのをきっかけにして、逆に違法滞在が問題視され、アミネさん家族は特別許可が下りずに裁判になってしまったのです。
詳しくはAPFSのサイトをご覧ください。
http://www.jca.apc.org/apfs/event/event20061127.htm
日本の裁判所や行政のご都合主義というか、管理志向がよくわかります。
この問題に関しては、APFSが積極的な活動を展開してきましたが、残念ながら国外退去という事に向かっています。
不法滞在者の国外退去事件などと軽く考える人もいるかもしれませんが、彼らにとっての国外退去は生命の危惧さえあるものです。
アミネ一家が15年以上、滞在しているという事実を考えれば、それこそ「時効の法理」が適用されてもいいように思いますが、明確な証拠がある殺人罪に時効が成立するのに、こうした事実には適用されないということも法律に疎い私などには全く理解できません。
国家とは何かを疑わざるを得ない事件です。
国家の品格などという(私にとっては)無意味な議論が世間に横行していますが、大切なのは品格ではなく、国家の存在目的ではないかと私は思います。
国家は誰のためにあるのか、何のためにあるのか。
それによって「品格」の評価基準が全く違うのです。

それにしても、アミネ一家の不幸は他人事なのでしょうか。
明確には説明できませんが、私の暮らしの隣にあるような恐ろしさを感じます。

■報道されないもう一つの社会の動き(2006年12月10日)
昨日、アミネ一家のことに触れましたが、新聞やテレビに情報源を限定したいたら、たぶん私も見過ごしていたことかもしれません。
私がこの事件を知ったのは、あるグループのメーリングリストからです。
2004年4月のことですが、以来、私も友人知人に情報発信もしていますが、なかなか運動の輪は広がりません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#454
ところが、たとえば難病手術のための募金活動などはテレビで取り上げられるとアッという間に1億円以上が集まるほど情報は広がるのです。
アミネ一家事件ももう少しきちんとマスコミが取り上げてくれるといいのですが、問題の性格上、その意味がなかなか伝わらないのかもしれません。
この事件に関して言えば、マスコミも取り上げていますが、中にはマスコミがとりあげてくれないものもあります。
たとえば、いま教育基本法改悪反対のヒューマン・チェーン活動が国会前で展開されていますが、テレビや新聞などではあまり報道されていないように思います。
12月6には5000人の参加者があったそうです。
http://www.labornetjp.org/news/2006/1163681212083staff01/
次回は12月13日です。
http://give-peace-a-chance.jp/118/061213.html
それぞれのサイトをぜひご覧ください。
昔、CWSコモンズに書きましたが、世界各地での反戦デモをテレビで見ていた女房が、なぜ日本ではみんなデモをしないのだろうかと言い出しました。
たまたま2001年の9.11事件を契機に、日本でテロ対策特措法が成立した頃でしたが、その反対デモの誘いがあったので女房を誘いました。寒い日でしたが、初めてそうしたデモに参加した女房は日本でもこんなにみんなが熱心に異議申し立ての活動をしているのかと感心していました。しかし不思議なことに、そんなデモ活動があったなどということは新聞にもテレビにも出ませんでした。それで女房は少しだけ日本のマスコミの実態を理解したようです。
マスコミが情報発信する情報は誰が選択し編集しているのでしょうか。
マスコミが報道しない社会の動きのほうが多いことを私たちはもっと認識していいように思います。

■豊洲の街(2006年12月11日)
昨日、豊洲の芝浦工大で学生まちづくり学会の集まりがあり、参加させてもらいました。
その報告はまたCWSコモンズに書かせてもらいます。
今日は久しぶりに歩いた豊洲の街への感想です。
先日も書きましたが、最近の東京の街並みは私には大きな違和感があります。
豊洲はいま開発ラッシュで、どんどん高層ビルができています。
そこには芝浦広大の新校舎もありますが、とても立派な高層ビル大学です。
その大学の高層階から見る豊洲の風景は未来都市を思わせます。
駅から大学に歩く途中の違和感は、私の歳のせいかと思っていたのですが、
集まりに参加した現代美術に関わっている40代の人も、大阪から来た20代の学生のお2人も違和感をもったそうです。40代の人は足がすくむと表現し、20代の人は人間の気配を感じないとお話になりました。
集まりにはここの高層マンションに住む方たちも参加されていました。
東京はこの10年で全く表情を変えました。
1960年代から始まった土地の記憶の破壊はここに来てすさまじさを感ずるほどです。
日本社会がまたバブルに向かっていることがよくわかります。
ところで、こうした「未来都市」に生まれた時から育つ子どもたちはどういう意識をはぐくんでいくのでしょうか。
こういう空間で大学生活をすごす若者たちはどういう未来展望を持っていくのでしょうか。
昨日はそれがずっと気になって仕方がありませんでした。

■貧困は平和への脅威(2006年12月12日)
今年のノーベル平和賞は、貧困に苦しむ女性の自立を支えるバングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創始者であるムハマド・ユヌス氏(66)に贈られましたが、ユヌス氏は受賞演説で「貧困は平和への脅威だ」と語ったそうです。
グラミン銀行は、NPOバンクについて書いた時に言及した新しいパラダイムの銀行です。
ユヌス氏はこの演説で、最近の大国の政治の動きが「貧困への闘い」から「テロへの戦い」に転じていることに異議申し立てしたわけです。
ユヌス氏の「貧困のない世界をつくることはできる。なぜなら、貧困は貧しい人々によってつくられたものではないからだ」という指摘は、私たちがともすると忘れてしまう真理です。
ユヌス氏はまた、貧困など社会問題の解決を最優先する事業を「ソーシャル・ビジネス」と表現し、そこへの支援を呼びかけています。これは現在の産業パラダイムの転換の提案といってもいいでしょう。
平和の捉え方は様々ですが、そもそも貧困の存在自体が「非平和」状況と考えてもいいでしょうし、平和に反する様々な事件は貧困状況を維持し拡大することを目的としていると言えるかもしれません。
いや貧困を維持し拡大する方策は、何も戦争だけではありません。
平和そのものもまた、貧困の維持拡大の手段になりえます。
ローマ帝国における「パンとサーカスによる平和」は多くの貧困者の苦しみの上に成り立っていたのかもしれません。
家畜たちの平穏な暮らしと野生種の緊張感あふれる暮らしと、どちらが平和なのか、そして貧困が少ないのかは判断に迷いますが、ユヌス氏の「貧困は貧しい人々によってつくられたものではない」という指摘は、ことの本質を示唆しています。
「つくられた貧困」こそが問題なのです。
その対極には「つくられた豊かさ」が存在しますが、それももしかしたら「大きな貧困」の変種なのかもしれません。
その2つの「貧困」を私たちはなくしていかなければいけません。

ちょうどいま、「世界から貧しさをなくす30の方法」(合同出版)が話題になっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18/43092895.html
個人でもできることがあることがわかります。

■今年の漢字は「命」だそうですが(2006年12月13日)
「今年の漢字」というのがあることを知らなったのですが、今年は「命」に決まったそうです。流行語大賞もありますが、こうしたことを決めることの意味が私には理解しがたく、だから何なのだといいたいですが、まあせっかく決めたのであれば、決めて終わりではなく、関係者はそこから何か(商業活動ではない)活動を始めてもらいたいと思います。
私にとっても、今年は「命」の問題に目覚めた年でした。
もちろん生きている以上、私たちは常に「命」に直面していますが、普段はあまり意識せずにいます。生きつづけることがすべての前提だからです。
毎日のように報道される交通事故死は、全く命を考える余裕もなく、突然に「命」を失なうわけですが、当事者はもとより、家族や関係者の「断絶感」は想像を絶しています。テレビで時々紹介される遺族の声は、とても他人事には聞けません。
あまりにも安直に、人の命を終わらせる行為が多すぎます。
「自殺」という言葉がありますが、東尋坊の茂さんが著書で書いているように、自ら死にたくて死ぬ人はいません。自殺もまた、誰かによる殺人の一種といっていいでしょう。
事故死も偶然に起こるわけではありません。そのほとんどが誰かの不注意や不正によって起こります。飲酒運転による他人の殺傷事件は殺人事件と区別する理由が私には理解できません。
しかし今の日本の法体系では、そうした「見えない殺人行為」はほとんど罰せられないか、罰せられても軽微です。人を殺傷しておいて、10年程度の懲役で許されるなどというのは被害者の立場では納得しがたいことでしょう。
「命」を奪った以上は、「命」以上のものであがなうのは当然の話です。それがたとえ事故であろうと原則は同じはずです。
今年の漢字として「命」を選んだのであれば、改めて「命」について真剣に考えてほしいものです。
それにいても、この言葉を選んだ人たちの思いはなんだったのでしょうか。
「命を軽んじろ」なのか「命を重んじよ」なのか、どちらなのでしょうか。
愚問だといわれそうですが、「今年の漢字」などという質問よりはましのような気がします。

■犯罪へのけじめのつけ方(2006年12月14日)
三菱自動車虚偽報告事件の無罪判決には驚かされましたが、その報道記事の中に、同社販売会社の元営業マンの言葉がのっていました。
「裁判で勝った、負けたじゃない。問題はプロセスです」
この人は5ヶ月前まで三菱自動車の販売会社の営業マンでした。
入社直後の研修で、
「車は人生で家の次に高い買い物です。だから皆さんも自信を持って売って下さい」
と幹部から言われ、
いつかトップセールマンとして表彰されたいとがんばってきたのだそうです。
しかし、三菱自動車のリコール隠し発覚後、次々と同僚が転職。
彼も転職を考えたそうですが、「お客さんが文句を言える相手」としての立場を放棄できずに踏みとどまってきたのだそうです。
月給は三分の一にまで減り、ボーナスも無くなり、
家族の生活のために会社には内緒で、深夜のファミリーレストランでアルバイト。
次第に家族との会話も減り、離婚。
結局、「また欠陥が出たら何を言われるのだろうって、売るのが怖くなって」今年7月に退職したのだそうです。
社会的事件の背景にはこうした話はたくさんあるでしょう。
そして裁判がどうなろうとも、こうした人たちが失ったものは戻ってはこないのです。
現在の裁判のあり方が基本的に間違っているのは、そうしたことへの配慮が不在だからです。
母親を殺害したにもかかわらず、数年で社会に戻り、全く無縁の姉妹を殺害した人の事件も、そうした間違った裁判制度や司法制度の結果だと思います。
社会の仕組みと裁判のミッションが変化してきていることを踏まえて、司法制度そのものの見直しが必要です。
最近の裁判所の判断(判決)には、自分が被害者だったら、到底納得できないというものが多すぎます。裁判官はそういう思いを持たないものでしょうか。
社会的に見ても、犯罪のけじめとしての納得性がないものが多いように思います。
裁判員制度などという馬鹿げた制度を導入するようなことを考える前に、裁判のあり方を根本から正さなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2004/05/post_19.html
私の友人知人にも、裁判員制度づくりに関わっている人が2人もいますが、とても残念な話です。
個人的な友人知人としては、とてもいい人たちなのですが。
それはともかく、企業を隠れ蓑にした経営者や企業人の犯罪は、もっと厳罰に処すべきでしょう。
もちろん政府を隠れ蓑にした犯罪は、もっと厳罰にしてほしいものです。
しかし多くの政治家は犯罪(本人にはその感覚がないのかもしれませんが)を犯すために政治家になるのでしょうから、それは無理なことかもしれません。
同じ新聞の一面には、タウンミーティングのやらせ事件(れっきとした犯罪です)に関連して、当時官房長官だった安倍首相が、その責任をとる「けじめ」として、首相報酬のなかから約100万円を返納したという記事が出ています。
この人はいったい、どれだけ国民を馬鹿にしているのか呆れますが、これもそれも小泉首相が始めた「嘘を奨励する社会」の中での日常的なことなのかもしれません。
http://homepage2.nifty.com/CWS/messagekiroku.htm#m2
100万円でけじめがつけられるのであれば、私もそうした犯罪に加担したくもなります。
まあそれはともかく、お金でけじめをつけるという発想の卑しさには情けなくなります。
いずれも犯罪実行者が「犯罪」と思っていないところに問題がありますが、もうすこしまともなけじめのつけ方があるのではないかという気がします。
哀しい時代になってきました。

■松坂選手の61億円の使途(2006年12月15日)
私は野球が好きではありません。
ですから、そう思うのかもしれませんが、松坂選手の契約金が61億円という数字にはとても哀しい思いがします。
ニュースを見ていた女房は、その一部を飢餓に苦しむ人たちや世界が抱える問題に寄付してほしいとつぶやきました。
松坂選手の家族思いはわかるとしても、10回の渡米費用や生活支援費といったことしか頭にないのだろうか。61億円のほんの一部を提供するだけで、たくさんの人が救えるだろうに、というのです。
全く、同感です。
松坂選手の人格を疑うわけではありませんが、友達にはなりたくない人です。
まあ、これは単なるひがみに聞こえるかもしれませんが(まあその要素もあるのですが)、こういうニュースが多すぎます。
日本は完全に守銭奴の人たちの国になってしまいました。
その一因が、有名人の所得の急上昇です。
有名人だけではなく、企業経営者の報酬も急上昇しています。
そうした動きが、企業を蝕んでいることもまた否定できないでしょう。
格差が広がったかどうかという議論がありますが、そんな議論は無意味です。
格差が価値を持つ社会になったことは紛れもない事実です。
それが大きな問題を起こしていくこともまた間違いないでしょう。
ビル・ゲイツのように、億単位の資金を自らの小さな満足のためにではなく、もっと大きな幸せのために無条件で寄付する日本人はいないのでしょうか。
もし私に3億円くれたら、コムケア活動が思う存分展開できるのですが。
松坂さんは3億円くれないでしょうか。
そうしたら、不承不承ですが、友だちになってもいいのですが。
いや野球が好きになってもいいのですが。
どうやら守銭奴菌は、私までも蝕みつつあるようです。
困ったものです。

■新教育基本の成立で日本は曲がり角を曲がってしまいました(2006年12月16日)
教育基本法がついに変えられてしまいました。
ある人は、こうメールしてきました。
「私たちのための教育から、国家のための教育へ。」
今朝の朝日新聞の見出しには、
「個」から「公」重視へ
とあります。
正確には
「個」から「官」重視へ
でしょう。
日本における「公」は、パブリックとしての「公」ではなく、
統治者としての「官」なのですから。
いずれにしろ、日本という国家は、再び曲がり角を曲がってしまったような気がします。
しかも、国会という議論の場は、ついに裁決の場になってしまいました。
破壊したのは小泉純一郎と安倍晋三です。
「改正」「改革」「民営化」というマジックワードで、彼らは日本の社会をずたずたにしてしまいました。
もっとも路線は敷かれていましたから、真犯人は別にいますから、哀れな実行犯の役割を担わされたのかもしれません。
ほんの少しでも「愛国心」があるのであれば、こんな極悪非道なことはやれないでしょうが、彼らには「愛」という概念は微塵もないのでしょう。
あまりの腹立たしさに、いつも以上に口汚くののしりたくなってしまいました。
小泉元首相も安倍元首相も、犯罪者としか思えません。
これでまた何人の教師や子どもたちが死に、平穏な家庭が壊されていくのでしょうか。
「教育」の問題に関心を失ってしまった日本国民がもたらした悲劇でしょうか。
教育の概念が変われば、社会が崩れるのは不可避です。
未来を支えるのは間違いなく子どもたちなのですから。
その子どもたちを「現実」に縛り付けてしまっては、未来は開けようがないのです。
曲がった社会で、どう暮らしていくか。
難問です。

■古館さん、もっと現場に出て行動を起こしてください(2006年12月17日)
不思議に思うのは、今回の教育基本法の変更に関して、その内容にも決め方にも異論を持つ人がたくさんいますが、大きな運動が起きないということです。
人気報道番組のキャスターの筑紫さんも古館さんも、それ以外の多くの報道番組のキャスターも、将来への危惧を持っているように聞こえるのですが、私の誤解でしょうか。
これだけ多くのキャスターたちが危惧しているのであれば、もっと報道内容も変わったはずですし、そもそもこんな事態にはならなかったとも思いますが、いつものことながら、後になって異論を唱えるのが、キャスターや新聞の論説委員の得意技なのかもしれません。
私がそれを実感したのは小選挙区制にまつわる有名な論説委員の発言でした。
確かあるテレビでご一緒したのですが、雑談中に彼は自分は小選挙区制に反対だったというのです。
彼の属する朝日新聞は決して反対の論調をとってはいませんでした。
少なくとも成立するまでは。
テーマ担当の論説委員が反対しているのに新聞紙面は賛成論を広げるなどというのは、私の理解を超えていました。
過去の話はともかく、問題はこれからです。
もしキャスターの皆さんがおかしいと思うことがあるのであれば、もっと行動を起こすべきです。
新教育基本法反対のさまざまな動きをほとんど報道もせずに、異論を語るのはやめてほしいものです。
古館さん、もっと現場に出て行動を起こしてください。
マスコミを舞台に活躍しているキャスターの皆さんは、私たちとは違って大きなメディアを使える立場にあるのです。
もし演技でなく、本気で現状を憂い、怒っているのであれば、メディアを私的に独占するのではなく、社会に向けてもっと活かしてくれませんか。
メディアの中に閉じこもっていては、結局は何も変わらないのではないでしょうか。

■議員のみなさん、国民のなかに出てきたらどうですか(2006年12月18日)
本来はそうした活動を国会議員などがしなければならないのですが、彼らはおそらく例外なしに保身だけにしか興味はないでしょう。
まともな議員ならば、バラエティ番組でへらへら笑っているのではなく、もっと真剣に国民の呼びかけてくるはずです。
そうした国会銀は残念ながら見当たりません。
一度、民主党にも提案したことがありますが、国会だけが彼らの活動の場ではありません。
国民に呼びかけて、国民世論を高めることこそが、野党の基本姿勢でなくてはいけません。国民に呼びかけない国民代表はありえないと思うのですが、どうでしょうか。
国民世論を高め、流れを大きく変えるチャンスはこの数年だけでも何回もありましたが、野党はそういう動きには無縁でした。
むしろ与党が広告代理店にお金を積んで、そうした真似事をしましたが、それは本当の世論ではありません。
タウンミーティングの実態が明らかになったように(やらせ実態は世間の庶民のほとんどは感じていたと思いますが)、カネで動かせる世論もありますが、そうでない世論もあります。
歴史を変えていくのは、おそらくそうした本当の世論ではないかと思います。
その世論が、いまの日本ではほぼ完全に壊されてしまっているのかもしれません。
新教育基本法や共謀罪などの仕組みを通して、回復できないほどにまだまだ壊されていきそうですが、まだ間にあうかもしれません。
国会議員の人たちは、国民のなかにもっと出てきてほしいものです。
それこそが本当の保身につながるはずですよ。

■本間さんと安倍さんの見識(2006年12月19日)
本間正明政府税調会長の官舎入居事件は、政府に雇用されている御用学者たちの生き方を象徴しているのでしょうが、いかにもお粗末なお話です。
しかし、まあこんな話はそれほど珍しいことではないでしょうから、驚きもしなかったのですが、驚いたのは昨日、テレビで見た安倍首相のコメントでした。
本間会長の「見識」を高く評価し、「批判は承知しているが、本間氏は職責を果たすことで責任を果たしてほしい」と述べたのです。
今回の事件は、明らかに本間教授が「見識」のない人間であることを露呈した事件です。
税金を私的に、しかも社会的に許されないであろう行為に使うような人に、見識があるとはとても思えません。少なくとも私の税金についてはとやくいってもらいたくないと思うのは私だけでしょうか。
こういう破廉恥な行為を行なう大学教授は本当にたくさんいますが、みんな即座に大学教授の座から退出してほしいものです。人を育てたり、教えたり、社会に意見を言う資格など、あろうはずがありません。
本人も税調会長を辞任する意図はないようですが、まあそれは本間教授の生き方からして当然のことでしょう。それが御用学者の生き方なのですから。
しかし許せないのは、安倍首相の「見識」です。
本間教授には「見識」があると評価したのです。
安倍首相の考える「見識」とは一体どういう見識なのか。
理解に苦しみます。
彼らの「見識」と私が考える見識は、どうやら全く違うもののようです。
制度を悪用し、社会の常識に反する行為を行う小賢しさが「見識」だとすれば、新たな税制度は「脱税」を奨励する制度を目指すとしか思えません。
いや、もしかしたら、これまでも日本の税制度とはそういうものだったのかもしれないとさえ思います。
なにやら税金を納めるモチベーションが下がってしまいそうです。
税金がしっかりと活用されるのであれば、税金を納めることが楽しくなるはずなのですが、どうも今の日本はそうではありません。
本間教授は、そうした状況をさらに悪い方向に向けてしまいました。
そのことに気づかれているのでしょうか。
可哀相な人です。

■国民年金基金のひどい内容(2006年12月20日)
娘のところに厚生労働省年金局監修の「国民年金基金のお知らせ」が届きました。
むすめが、こんなのに入るわけがないと言っているので、案内のパンフレットを読ませてもらいました。
唖然としました。
皆さんは読んだことがありますか。
私も保険をかけるほうでなくて、保険事業を行なうほうになりたいです。
悪質商法とは言いませんが、実質的にはそれに近いような気がします。
私の読み違いかもしれませんが、パンフレットを読む限り、そう思います。
これでどれだけの人が不当利益を得ているのでしょうか。
案内書に寄れば、年金基金の内容はこういうものです。
たとえば、40歳の人であれば、60歳までの年金月額が26,070円です。
65歳から終身年金が受け取れますが、その金額は月額30,000円です。
インフレ補正は明記されていませんので、単純計算できます。
20年の保険料総額は約625万円です。
一方、当人が現在の平均寿命といわれる85歳まで生きたとして、受け取れる年金総額は720万円です。
仮に平均寿命を全うできれば、100万円たくさんもらえるではないかと思うかもしれません。
しかし、納入時期と支給時期には25年間の開きがあります。
仮に大きな社会変化がないとしても、物価上昇のインフレは避けがたいでしょう。
厚生労働省も年金の検討には物価調整率を加味していますが、中長期的には1%と考えているようです。
625万円を年率1%で増加すれば、25年後には800万円を超します。
つまり平均寿命を全うしても、負担額よりも年金額は少ないのです。
私の理解に間違いがあるかもしれませんが、パンフレットを読む限りはそうなります。
誰が得をする仕組みでしょうか。
いうまでもありませんが、この制度を動かす関係者です。
これは評判の悪い「ねずみ講」の一種なのです。
しかも、この案内書にはプロゴルファーの宮里藍さんがモデルに使われています。
彼女は自らがこうした詐欺まがいの仕組みに利用されていることなど知らないでしょう。
国家が詐欺などやるはずがないと多くの人は思っていますが、詐欺をしようという人たちにとっては、国家とは便利な仕組みであり、信頼性を勝ち得るブランドなのです。
むすめがまた言いました。
こういう資料をどれだけの人に毎回出状しているのだろうか。それだけの費用が余っているのであれば、保険料を少し低くしてほしい。
同感です。
国民年金基金の仕組みを見て、年金関係者は詐欺集団だなと確信しました。
ノンバンクもひどいですが、年金関係者も同じ穴の狢なのかもしれません。
お金は本当にこわいものです。
金融業が大きな割合を占める社会は健全にはなりようがないのかもしれません。
守銭奴の社会が広がっているのが恐ろしいです。

■廃墟からの脱出に取り組んだアンベードカル(2006年12月21日)
娘に誘われて、都美術館で開催しているエルミタージュ展を観に行きました。
ポスターにゴーギャンの「果実を持つ女」が使われていたので、なんとなく明るい作品を期待していたのですが、前半の作品がどれもこれも暗いのです。
18世紀から19世紀の時代の重苦しさが伝わってきます。
とりわけ18世紀の作品に廃墟がたくさん描かれているのも印象的でした。
廃墟は当時の人々の暮らしの舞台だったことがよくわかります。
最近、塩野七生さんの「ローマ世界の終焉」と五木寛之さんの「仏教への旅」を読んだ影響もあるのですが、歴史というものはシュメールから始まって今なお滅びへと向かっているような気がして仕方がありません。
廃墟の中での暮らしの絵画を観ているうちに、1000年以上経過した廃墟になってもなお、人々の暮らしを支え、文化の香りを失っていない建造物を生み出した文化の大きさを改めて感じました。
歴史は退歩していることがよくわかります。
今もなお、私たちは廃墟の中で暮らしているのかもしれません。
そろそろ新しい思考の枠組みに移住したいものです。

ところで、「仏教への旅」を読んでいて、アンベードカルという人のことを知りました。
ガンジーに反対して、不可触民解放運動に取り組んだ人です。
とても興味を持ちました。
この人に関する簡単な紹介は次のサイトにあります。
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nagaland/siryoukan.htm
廃墟を壊そうとしたのは、ガンジーではなく、アンベードカルだったのかもしれません。
パラダイムを変えるということは、実に至難なことです。

重苦しい社会を開いていく人は必ずいるものです。
いまの日本の、この重苦しい状況を打破してくれるのはだれなのでしょうか。
きっとどこかですでに活動を始めているのでしょうね。
どなたかご存知であれば教えてくれませんか。
そうした動きに気づくだけの感受性が、最近の私にはどうやら欠落してしまっています。
あまりにも質の悪い情報に浸りきってしまっているからでしょうか。
毎日が、ともかくも重苦しいのは、決して私の個人事情だけではなさそうです。
みんなどうして、その重苦しさを感じないのでしょうか。
私が精神的に病んでいるのか、みんなが病んでいるのかの、いずれかもしれません。
いや、いずれもが病んでいるということもありますね。
ローマ世界では、すべてが病んでいたような気がします。
塩野さんは「寛容」といいますが、気が病んでいると怒りやすくなるとともに、寛容にもなれるような気がします。
つまり、どうでもいいという気分が横行するのです。
ローマはそうして滅んだのでしょうか。

■教育改革の鍵を握っているのはテレビ番組(2006年12月22日)
日本の子どもたちのテレビを見る時間は平均すると1日2.7時間だそうです。
学校は休日もありますので、年間になおすと学校で授業を受けるよりも長い時間、子どもたちはテレビを見ているのだそうです。
昨日出席したある委員会でお聞きした話です。
このことの意味は真剣に考えてみる必要がありそうです。
いま教育のあり方が問題になっていますが、この問題の鍵を握っているのは、学校改革などではなく、テレビ番組のあり方なのかもしれません。
テレビは子供たちのみならず、大人にも大きな影響を与えますから、いまやまさにテレビこそが「みんなの学校」になっているのかもしれません。
そういえば、最近は学校の授業まがいの番組も多いです。
ところで、テレビ番組の内容を決めているのはだれでしょうか。
スポンサー企業の影響力は大きいでしょう。
よくまあ、こんな番組をスポンサーしているなと呆れる企業も少なくありませんが、彼らはおそらく視聴率というフィクションに影響されているでしょうから、広告代理店の存在も大きいでしょう。
いずれにしろテレビ番組の内容は、経済主義でしか評価されていない状況です。
番組審議会のようなものはありますが、毒にも薬にもならない存在でしょう。
ではどうするか。
各地の教育委員会の検討対象を学校からテレビに変えたらどうでしょうか。
今の教育委員会の存在は、学校にとって役立っているかどうか私にはわかりませんが、ないほうがいいような気もします。まともな教育委員会の話は、最近は聞いたことがありません。
むしろテレビ番組をしっかりと監視し、そのスポンサー企業にアドバイスしていくことを教育委員会の使命にしたらどうでしょうか。
暴論ですね。はい。
しかし、教育の現場は学校だけでありません。
いいかえれば、そういう社会状況になったわけですから、学校のミッションは根本から見直さなければいけないのです。
それに取り組まない学校改革や教育改革はありえません。
ちなみに、新しい教育基本法はこんなことは全く考えていない世界の話です。
これで日本の学校はすべて変質してしまい、破綻していくでしょうが、そうであればこそ、もうひとつの学びの場、教育の場を真剣に考え直す価値があるように思います。

■ノロウイルスによる「風評被害」(2006年12月23日)
ノロウイルスによる「風評被害」が出始めているようです。
たしかに我が家でも、先日、鍋をしましたが、蛎が入っていませんでした。
蛎だけではなく、生ものは我が家の食卓からは消えつつあります。
昨年はインフルエンザの流行が話題になりましたが、新たな病気の流行は最近では恒例行事になったような気がします。
マスコミでの被害情報や広がり予測は本当にきちんと吟味されてのものなのか、いささかの不信があります。
生きた鶏たちが大量に処分されるようなことが許されて良いのかにも大きな疑問があります。いったい誰が意思決定しているのか。その基準は何なのか、公的な検査機関への信頼感を失っている私としては、いつもそうした情報には疑念を持ってしまいます。

もっともこういう話は、予防的な意味もありますので、少しくらい不確かな情報でも流すほうがいいとは思うのですが、大騒ぎした割には何も起こらないと(大騒ぎしたからこそ何も起こらなかったともいえますが)、あれは何だったのかなどと考えてしまうのが人間です。
そのうちに情報に麻痺して、「狼少年」の話のようにもなりかねません。
「風評免疫学」のようなものがあるのかもしれません。
「風評被害」の研究に取り組んでいる友人に、一度、訊ねてみたいと思います。

最近の情報流通の仕組みは、10年前とは様変わりしています。
マスコミは、そのパワーを集中する方向を強め、ガバナンスを失ってしまいました。
しかもインターネットが世界を一気につなげる情報ルートを構築し、しかも偶然に選ばれた情報を一挙に増幅し、過度に編集する仕組みに仕立て上げました。
単細胞のコンピューターが支配管理することが可能になってきたということです。
情報の増幅拡大機能が飛躍的に増強されたのです。
しかもガバナンス不在です。
おそろしい「非情報化革命」が現実のものとなりました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/antiinfo.htm
今回の「風評被害」の記事を読みながら、それに対する対抗力のなさを嘆きたくなります。
情報社会とは何なのかを、もっとしっかりと読み解いていくことが必要です。

■教育基本法のどこが悪いのか(2006年12月24日)
一昨日の記事に関連して、教育基本法を改正してどこが悪いのかという質問を受けました。学校は荒れ放題ではないかというのです。
確かに今の学校は、子どもたちが安心して学べる場所ではありません。
私も地元の学校の集まりに自治会長として参加しましたが、子どもたちの親たちと先生との信頼関係も希薄ですし、第一、教師側に主体性を感じられませんでした。というよりも、現在の状況の中では主体性を持ち得ないのでないかと思いました。学校にどの程度の権限が与えられているのか気になりました。
学校が荒れてきたのはこれまでの教育行政の結果だと思います。
そうであれば、基本法を改正して、学校改革に取り組むべきだということになります。
実はこの枠組みが問題なのです。
以前も書きましたが、改革にはいろいろな意味があります。
平和憲法に合わなくなってきたから憲法を変えようという改革もあります。
郵政省では産業界には利益が持っていけないから民営化して自分たちの自由になるようにしようという改革もあります。
個人の育てる学校では管理できないから国家に従順な人間を育てる学校にしようという改革もあります。
その改革の中身を吟味する人はほとんどいないのが実態です。
私は企業経営コンサルタントとして、企業改革の仕事に取り組んできましたが、ほとんどの企業では、どこからどこへ向かう改革なのかがあいまいなままに改革を標榜していますので、まさに同床異夢の改革遊びになってしまうわけです。
行政も同じです。
今の行正確や行政評価は全くといっていいほど無駄な作業の繰り返しをしているように思います。
話がそれましたが、教育基本法のどこが悪いかです。
関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さんの講演録の存在をメーリングリストで教えてもらいました。
とてもわかりやすいです。
いまだと無料で読めます。
少し長いですが、ぜひお読みください。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612040923571
教育基本法の問題が少しわかってもらえるかもしれません。
文部科学省と教育委員会が改組されない限り、日本の学校は変わらないのかもしれません。
個々の先生にはいい人もいるとよく言われますが、そんな言葉で騙されてはいけないほど、学校は深刻なような気がします。

■消費税議論の前提(2006年12月25日)
一昨日、テレビの太田総理スペシャルをちょっとだけ見ました。
消費税の議論をしていましたが、あまりのばかばかしさにすぐ見るのをやめてしまいました。
よくもまあ、こんなに脳天気な連中を集めたことかと思われるほどのメンバーでしたが、半分くらいの人が「消費税率はいつかは上げなければやっていけない」という前提で話しているのです。忘れてしまいましたが、他にもまだそうした「前提」を語っている人がいたような気がします。
そんな前提があるはずがありません。
数学の公理ではあるまいし、現実の社会にそういう絶対的な前提などあろうはずがありません。知性のなさというか、知識のなさというか、呆れ果てた議論をしているのです。いや、呆れ果てているのは私だけかもしれませんね。いやはや。
しかし最近の多くの議論は、ある前提に立脚して論理を組み立てているものが多いように思います。前提が間違っていれば、議論は全く意味を持ちません。
CWSコモンズのフォーラムのコーナーにコメントがありました。
古舘さんや議員に期待するのは「無理かもしれない」というのです。
もしよろしければコメントを読んでください。
これは、このブログへのコメントなのですが、スパムメールの来襲を避けるためにアドレス表示しなくても書き込めるCWSコモンズに投稿されたのだそうです。
このことも私はいろいろ思うことがあるのですが、まあそれはまたいつかということにします。
コメントしてくれた向阪さんも「キャスターや議員に期待しても無理」という前提に縛られています。
どうして大人たちは、そうした前提や常識や「見識」に拘束されてしまうのでしょうか。
1回しかの人生であれば、もっと自由に発想し行動していってもいいと思うのですが。
子どものような素直さでみんなが生きだすと社会は輝きだすでしょうね。
そうしないために「学校教育」はあるのかもしれません。
あれあれ、思ってもいなかった結論になってしまいました。
困ったものです。はい。

■姉歯事件の決着(2006年12月26日)
耐震偽装事件の判決は姉歯被告の懲役5年で決着がつきました。
まさに大山鳴動ねずみ一匹です。
何が変わったのでしょうか。
こんなことをいうと顰蹙を買うでしょうが、この事件のおかげで悲惨な事件が未然に防げたともいえますし、杜撰な行政の検査体制が明確になったわけですから、姉歯被告に感謝しなければいけない面もあるような気がします。
少なくとも問題発覚の発端をつくったイーホームズの藤田社長には感謝したいという気にもなります。
しかし、きっとそうなっては困る人たちがいたのでしょうね。
問題は完全にすりかえられたような気がします。
いつも悪人はつくられるものなのです。
そしてキリストのように罪を背負っていくわけです。
もちろん姉歯被告や藤田社長が悪事を働いたことは否定できませんし、それに応じた罰を受けるのも当然です。
しかし、その一方でもっと悪質な罪を犯しながら、罰も受けずにいる人たちのあまりの多さに、なかなか納得できる気にはなりません。
しかも、これほどまでに責任を負わないのが行政であり公共機関であることが明白になってきているのに、なおまだ「お上信仰」はゆるぎません。
お上につながる人たちは、お互いに守りあっていますから、よほどの正義感がなければ罰せられることはないでしょう。
不条理な社会です。
閻魔様にしっかりと見ておいてほしいものです。
こうした事件の判決が出るたびに、割り切れない気分になってしまいます。

〔追記〕
この事件の報道をテレビで見ました。
いずれも5時から7時すぎにかけてのニュースです。
当該マンションの元住人のコメントが出てきましたが、民法各社とNHKで、その編集の仕方が見事に違っていました。材料はたぶんいずれも同じです。同じ人が出てきましたから。
どう違っていたかといえば、民法は、「この判決よりも、事件の本質を問題にしてほしい」という部分に焦点がありましたが、NHKのニュースは2人を紹介しましたが、姉歯被告の罪の軽さへの批判の発言だけでした。登場した人は、もっと本質的なことに目を向けてほしい旨の発言を続けてしているのですが、そこはカットされていました。見事な編集です。NHKの本質が少し見えました。彼らも一蓮托生なのかもしれません。
NHK受信料を払いたくない人の気持ちも少しわかります。
NHKのガバナンスをもっと公開型にすべきですね。受信料を強制的に取るのであれば。

■目黒区議員の勘違いから見えてくること(2006年12月27日)
目黒区区議たちの政策調査費の不正使用に端を発して、自治体議員の経費の見直しが広がっています。
まあ、国会議員になった新人が、議員とはグリーン車に無料で乗れて、待望の外車を購入できて、しかも料亭遊びができると大喜びするほどに、議員職は堕落した職業になっていますので、それをモデルにした地方議員の実態はさらにひどいものだと推測できます。権力構造は下部に行くほど、金銭的には腐敗するものです。
私は、今の日本の地方議会のあり方には大きな違和感を持っています。
国会と基礎自治体議会とは本来全く意味合いが違います。
国会は公の世界の機関であり、統治のための調整機関の意味合いが大きいですが、基礎自治体は共(コモンズ)の世界の仕組みであって、当事者たちの協議の場であるべきです。これは自治体から講演を頼まれた時にいつも話すことなのですが。
英米の基礎自治体の議会のように、それは住民たちのボランタリーな社会活動でこそ機能します。しかもそれは議員以外の住民にも開かれた運営がなされるべきでしょう。
しかし、日本のそれは国会をモデルにしていますから、過剰武装されており、給料まで払っているのです。その上、政策調査費。馬鹿げた話です。
都道府県の議会はコモンズの仕組みではなく、国家政府の下部機関ですから、国会をモデルにしてもいいでしょうが、そもそも都道府県という中間自治体は存在意義が問われだしています。
つまりいずれにおいても存在価値がない組織であり存在であり、
だからこそ「不正」が充満しているのです。
県知事などは、価値を創出するという意味での仕事はたぶんしていないでしょう。
ですから談合とか税金の無駄遣いとか、いくらでもできるわけです。
もし知事職や都道府県機関が実質的に仕事しているのであれば、今のようないい加減な運営で継続できるはずはありません。
基礎自治体の議会にいたっては、百害あって一利なしでしょう。
私の友人知人にも国会議員や地方議会議員が少なくないので、怒られそうですが、私はずっとそう思っています。
国会議員たちが自らのステータスを高め、処遇を高めるために構築した無駄な仕組みです。ですから地方議会にまで正当が口出ししてきます。
政党に属している地方議員に、主体的な仕事が出来るはずがありません。
実際の議員は自らの存在意義があると確信して、真剣の仕事に取り組んでいる人も少なくありません。
しかし、今回の目黒区の議員の当初の反応をテレビでもし見た人がいたらわかってもらえると思いますが、彼らは自らを選ばれた権力者と考えていますので、政策調査費はなんに使っても良いと考えているのです。自らがルール、というわけです。
確かに彼らが主体的に行動できるのは、無駄に政策調査費を使うことくらいかもしれません。
そろそろ地方議会を解体し、コモンズ立脚の寄り合いに変えていくべきです。
住民参加とか協働のまちづくりなどという、欺瞞に満ちた活動から足を洗うべき時期に来ています。
かなり書きすぎたでしょうか。
いや書き足りないでしょうか。

■存在感が希薄になった民主党(2006年12月28日)
民主党の存在感がこのごろあまりありません。
どうしたのでしょうか。
自民党と民主党は、そもそも政策的にはそう違いませんし、いずれも政策集団というよりも権力欲望に汚染された烏合の衆というのが実態でしょうから、存在感が見えてこないのも無理はないのかもしれません。
しかしこれほどの自民党の独裁状況に対して、なぜ行動を起こさないか不思議です。
今の状況は、国会から「議論」がなくなっている状況ですから、国会機能を回復するためにも何かすべきでしょう。
いや未熟な安倍政権の迷走に対して、本来であればしっかりとした主張に基づく存在感をアピールできるはずです。
なぜ存在感を出せないのか。
一言で言えば、理念や志がないからでしょうが、中には少しはまじめな議員もいるのではないかと思います。
私の知人も何人かいますが、いずれも言行不一致の人たちですので、私は信頼していません。この記事が読まれるとまずいですが、事実ですから仕方がありません。それにこれまで接点のあった国会議員はいずれも目線が高く、国民のほうを向いているようには感じませんでした。向こうの世界で茶番劇をやっている雇われ人という感じでした。
どうしたら存在感を出せるのか。
答は簡単なように思います。
国民の中に出てくればいいのです。
やらせのタウンミーティングではなく、グラスルーツの寄り合いの場に出てくればいいのです。
残念ながら、これまで政党は社会の現場には目を向けていませんでしたから、それができないのでしょう。党員の目はみんな中央を向いているのです。
しかし、社会の現場には当事者を中心にした「ひとのつながり」や「問題のつながり」が育ち始めています。
私が取り組んでいるコムケアネットワークも、その一つだと自負していますが、そことの付き合い方がわからないのかもしれません。
民主党がもし政権交代を真剣に考えているのであれば、活動の枠組みを変える必要があるでしょう。発想を変えれば、存在感を出せる時代です。
そろそろ視座と発想のベクトルを変えるとともに、メソドロジーも根本から変えるべき時期に来ています。
それができないのであれば、自民党と合体して、日本をまた大政翼賛会国家にしていく路線を正直に顕在化させるべきではないかと思います。
民主党には失望を超えて、呆れるしかありません。
組織にもなっていないように見えてならないからです。
前にも行ったとおり、解体出直ししたら流れは変わるかもしれません。

■フセインの死刑執行の不快感(2006年12月30日)
フセイン元大統領の死刑が執行されました。
なにかとても不快感の残る1日でした。
なぜでしょうか。
この裁判にどれほどの公正さがあったかはともかく、
やはり勝者のおごりを感じます。
ブッシュはなぜ裁判にかからないのか。
なぜ彼は死刑にならないのか。
事情をあまり知らない私にとっては、この2人の違いがあまりわかりません。
神の恩寵が、ほんの少しだけフセインに加担したら、ブッシュは死刑になったのでしょうか。
せめて公開の場で、フセインとブッシュの議論を聞きたかったものです。
そうすれば、もう少し歴史の真実とフセイン時代のイラクの実態が理解できたでしょうし、戦争のメカニズムも解明できたように思います。
よほど早くフセインを抹殺したい人たちがいたのでしょう。

国際政治における軍事裁判と国内統治のための裁判とは全く論理を異にするでしょうが、
前者における死刑執行の論理が私には理解できません。

とてもいやな1日でした。
それにしても、どうしてこんなにいやな気分になってしまっているのか、私自身も意外なのですが。

■コモンズとしての愛国心(2006年12月31日)
今年はいろいろと思うことの多い年でした。
昨日まで実はかなり元気をなくしていたのですが、今朝、5時に目が覚め、「希望」という言葉が急に頭に浮かびました。
それから1時間、いろいろなことが頭に去来しました。
隣で寝ていた女房を起こして、一緒に日の出を見ました。
ちょっと高台にあるおかげで、寝室から少し無理をすれば、手賀沼の対岸に日の出が見えるのです。
今日は今年最後のブログですが、「愛国心」について書くことにしました。
それは希望を語ることでもありますので。

今年は「愛国心」論議が盛んに行われました。
国家の品格が流行語になり、教育基本法が改悪されました。
日本はついに、愛国心を教え込まなければ維持できない国になってしまったのかもしれません。
しかし、愛国心のない人たちが愛国心を語り、品格のない人たちが品格を語るほど見苦しいことはありません。
フセインのイラクはどうだったのでしょうか。

愛は自動詞の言葉です。
愛を育てるのであれば、愛される実体が大切です。
実体を二の次にして、愛を育てることは洗脳か強要でしかありません。

品格もまた自動詞の言葉だと思います。
人の品格を論評する前に、まずやるべきことは自らの品格を正すことですが、そういう意味で、品格を他人事に語る人の品格は疑わなければいけません。

自動詞の言葉が、他動詞で語られるのが、今の日本の社会です。
実体がない、言葉だけの社会といえるかもしれません。

ところで愛国心ですが、私は昨日までは「愛国心」という言葉に拒否感を持っていました。
しかし今朝、考え直しました。
国家というものがある限り、愛国心は大切なことかもしれないと思い直したのです。
問題は、その愛国心の意味です。
国家にとっての平和が、国民の非平和を意味することが多いように、愛国心もまた多義的な言葉です。

独立インドの憲法を起草したアンベードカルは不可触民でした。
彼は不可触民制度をなくそうとし、ガンジーは不可触民の生活向上に努力しました。
そのアンベードカルがガンジーに対して、「私には祖国がありません」と鋭く迫る場面があります。そこに2つの愛国心のモデルを感じます。

愛国心には育つ愛国心と育てられる愛国心があります。
日本政府や有識者たちは、日本の現状では愛国心は育たないことを知っているのでしょう。
愛される国家づくりではなく、国家による愛国心づくりに取り組むことにしたようです。
なにやら北朝鮮やイラクを思い出します。

しかし本当にそうなのか。
政府や東京都庁のトップが語るように、愛国心は失われてしまったのか。
彼らに都合の良い愛国心がないだけではないのか。
有識者と目される人が語るように、本当に日本は品格がない国家なのか。
品格なき国家しか見えていないのは、著者自身の品格のなさの反映かもしれません。
私が、最近の日本社会に失望しているのは、間違いなく私自身への失望であるのと同じです。

コムケア活動やまちづくり活動で、さまざまな現場とささやかに付きあって見えてくることは、現場の人々の優しさや思いやりです。
その一方で、マスコミを通じて入ってくる裁判の動き、法整備の動き、経済界の動き、国会や自治体の動きなどは、未来には希望はないなと思わせるものばかりです。
この違いが問題です。
それらは別の社会なのかもしれません。主役が違うのです。
自らが体感できる現実に立脚して未来を見ていけば、愛すべき、信頼すべき国家が見えてくるのかもしれません。
私にもささやかに見えている、そうした国家がたしかにあります。
その場合、「国家」の意味合いはかなり違っていますが、それもまた国家です。
アンベードカルは、そうして積極的な活動を維持できたのでしょう。
ガンジーとは違う意味での愛国心と国家が、彼にはあったのです。

私の平和活動は「大きな福祉」を目指す生き方です。
人のつながりが育っていけば、不条理な争いはなくなるでしょう。
戦いで人を殺傷することなど出来なくなるはずです。
そしてみんながその状況を大切に思うようになるでしょう。
そこに「コモンズとしての愛国心」が見えてくるように思います。

出発点は私自身の生き方です。
毎年同じような言葉になってしまいますが、来年はもう少し前に進もうと思います。

今年1年、読んでいただき感謝します。
希望とアンベードカルについては、CWSコモンズにも書くつもりですので、年が明けたらCWSコモンズも読んでみてください。
ありがとうございました。