ブログ総集編4(2010)
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■近くの布施弁天がすごい人出でした(2010年1月2日)
近くの布施弁天に初詣に行きました。
1200年前に空海によって開山されたと言われ、関東三大弁天の一つです。
20年以上前から毎年初詣していますが、年々、人が増えてきました。
ところが今日行ってみて驚きました。
なんと山門につづく階段の下までお参りの人が並んでいるのです。
こんなことは初めてです。
どうしたのでしょうか。世相のせいでしょうか。

参拝者が増えるのは良いことですが、本殿へのおんな道が舗装されてしまいました。
お年寄りには登りにくい道になってしまいました。
以前も決して登りやすくはありませんでしたが、今日感じたのは冷たい拒否感です。
興ざめしてしまい、横からお賽銭を投げ入れて、戻ってきてしまいました。

ところで初詣のお賽銭はどうなるのかなと余計なことを考えてしまいました。
布施弁天の話ではありません、全国のです。
有名な寺社は膨大なお賽銭が集まるでしょう。
歳末助け合い募金より集まるかもしれません。
この仕組みを何か効果的に活用することはできないのでしょうか。
寺社に集まるお賽銭は、誰のものなのでしょうか、

日本にはボランティアの文化がないといわれていたことがあります。
私はそんなことはないと思いますし、むしろボランティアや寄付の文化は日本の文化の特徴ではないかとさえ思うほどです。
また日本人は無宗教だとも言われます。
これも私には異論があります。
たしかにキリスト教のような一神教の視点からは宗教は見えにくいかもしれませんが、日本人ほど信心深い国民は少ないような気もします。
欧米の概念と言葉で考えていると現実はなかなか見えてこないものです。
日本の文化や社会は、日本の文化や社会の言葉で語らなければいけません。

私のこの時評は、カタカナが多いといわれることがあります。
たしかにそうかもしれませんが、カタカナで語らないと語れないこともあるのです。

ところで今日、布施弁天でお参りのために並んでいた大勢の人たちは、なぜ並んでいたのでしょうか。
私は、この1年の自らの平安を感謝するとともに、この先1年の世界の平安を祈ってきました。
私は決して無宗教者ではありません。

■「従容と死を受け入れる森」(2010年1月4日)
今日は久しぶりに挽歌編と時評編の統合版です。
昨日、テレビの「地球の目撃者SP風の大地へ南米チリ縦断3700キロ」を観ました。
写真家の桃井和馬さんの撮影紀行です。
世界最南端の町の話が出てきました。
ぶなの原生林が、人間が連れ込んだビーバーにかじられて大量に倒れている光景がありました。
それをみて、桃井さんが「従容と死を受け入れる森」というような表現をしました。
「従容と死を受け入れる」
その言葉が心に響きました。

先日、沖縄に行きました。
沖縄でも琉球松が松食い虫にやられて枯れていました。
その時にふと思ったのです。
松食い虫が松を枯らすと騒いでいるが、松に代わる植生が、それに代わるだけではないのか。
そのどこが悪いのだろうか、と。

地球温暖化に関して先日暴論を書きましたが、最近私は、環境対策こそが環境問題の真因ではないかと思い出したています。
昨今のエコブームにはやりきれなさを感じます。
どこかに「近代の落とし穴」を感じます。
これは環境問題に限った話ではなく、福祉も教育も、すべてに言えることですが。

さて、「従容と死を受け入れる森」に戻ります。
生命はつながっているという発想からすれば、一部の樹が枯れることは森が生きている証なのかもしれませんし、生きるための方策かもしれません。
最近、そんな気が強まっています。

節子は従容として死を受け入れたのだと思うようになってきました。
もちろん「生」を目指して、全力で抗うのと並行してです。
全力で生きようとすることと従容として死を受け容れることとは対極の姿勢ではないか、と私は最近まで考えていました。
しかし、桃井さんの発言を聞いて、それは決して矛盾しないことに気づきました。
誠実に、真摯に、全力で生きていれば、どんなことでも受け容れられる、そう思ったのです。

それは自らの生命の永遠性を確信したからかもしれません。
自らが愛されていること、いやそれ以上に、自らが愛していることを確信できたら、生死を超えられるのかもしれないとも思えるようになってきたのです。
書いていて、どこかに無理があるのは承知なのですが、にもかかわらず、節子も私も従容として死を受け止めていた一面があったと思い出したのです。
もちろん一方では、受け容れ難いという事実はあるのですが。

節子との出会いと別れは、私に多くのことを考えさせてくれます。
今年もきっと、節子と野思いは私の生きる指針になるでしょう。
そして私も時期が来たら、抗いながらも従容と死を迎えたい。
そう思えるようになってきました。

■心理主義と他責主義の二重の罠(2010年1月6日)
なにか元気が出るような時評を書きたいと思いすぎて、時評を書けずにいます。
どうもネガティブな批判ばかりしているうちに、精神が歪んでしまったのでしょうか。
テレビの報道番組が始まりましたが、どうも見ると精神衛生上よくないので、あまり見たくなくなってきました。

昔、「非情報化革命論」と言うのを書いたことがあります。
未完のままどこにも発表せずに終わったのですが、世上言われている「情報化革命」は、実は本当の情報を見えなくしていくことではないのかという内容です。
まさにそうした状況が生まれつつあります。
情報社会の実態は、じつは情報が編集されてしまった人工的な社会なのです。
マスコミが流している情報は、その典型的なものでしょう。
ホームページに掲載した武田文彦さんの国家論で、今回は「NHKの報道姿勢に対する公開質問状」を書いていますが、マスコミの論評や解説もまた見事なほどに内容が抜き取られた編集の結果です。
以前驚いたのは、朝日新聞の「私の視点」に投稿したのですが、採用されたものの内容の修正を要求されました。
一度は応じたのですが、途中で嫌気がさして、勝手に直してもらい、なんだかわけのわからないものになってしまった記憶があります。
投稿記事でさえ編集されていることを知りました。
これが「情報社会」の実態なのかもしれません。

自民党独裁政治が終わり、本来は政治への期待が高まるはずですが、相変わらずその期待はマスコミの誘導によって押さえられてきています。
1年前と比べて、日本の政治の透明性と能動性は飛躍的に高まっているにもかかわらず、みんななぜか評価しません。
やはり日本国民はお上の従う臣民であることから抜け出る勇気がないのかもしれません。
そして少し気になるのは、昨今の政策もまた、そうした臣民づくりの政策のように見えてしまうことです。

心理主義の罠の反動が起こっているようにも思います。
その「二重の罠」の中で、私自身どうも物事を前向きに捉えられなくなってきていることに最近気づかされています。

元気が出るような時評がなかなかかけないのは、たぶんそのせいでしょう。
正すべきは、先ずは自分の生き方。
そう思っていますが、私自身、元気が出てこないのが問題です。
しっかりした時評は、元気な心身に支えられるはずですから。

■「出る杭」や「新しい取り組み」に感謝したいです(2010年1月8日)
新しいことをやると寄ってたかっていじめるのが最近の日本の社会の傾向です。
それをあおっているのは、まちがいなくマスコミと有識者です。

例えば、今日の.「貴乃花親方、一門を離脱し、相撲協会理事選に立候補へ」という動きに対するテレビの報道を見ていると、それを強く感じます。
あるいは、鳩山首相のツイッターへの批判です。
私はいずれにも拍手を送りたいですが、マスコミの報道の基調や訳知りのコメンテーターたちはどちらかと言うと否定的です。

こうした新しい動きに対してどう反応するかには、その人の本性が現れます。
世間的な評価がまだ決まっていませんから、判断できない人が多いのです。
それにその何たるかもよく知らずにコメントしている人も少なくありません。
しかし、マスコミは、ともかく「出る杭」や「新しい取り組み」を否定する傾向が強いです。
現状を維持しようとする志向がどうしても働くのでしょうか。
それにそれが安全ではあります。
私は、このブログでこれまで何回も失敗して恥をかいています。

生活に余裕がない人ほど変化を嫌います。
ちょっとした変化で今の生活が壊れてしまうからです。
ですからそういう人たちが、体制を守ります。
つまり保守勢力になるわけです。
変化の最大の受益者が変化への最大の抵抗勢力になるわけですが、にもかかわらず、現状を壊そうという人は後を絶ちません。
それはおそらく余裕と自信のある人なのでしょう。
貴乃花親方も鳩山首相も、余裕も自信もあるのです。

私はいずれの動きにも肯定的です。
ツイッターをやる時間があれば、普天間問題を考えろなどと、馬鹿げた発言をしている加藤紘一さんは、もう少しツイッターのことを知るべきでしょう。
自分では使えないものを否定することは、愚鈍か傲慢のいずれかです。
伝統ある相撲界の秩序を乱すことに眉をしかめる人は、秩序は生きていてこそ秩序であることを知るべきです。

たまたま今日報道された2つの話題に言及しましたが、「出る杭」や「新しい取り組み」こそが、私たちの未来を生み出してくれることに感謝したいと思います。
ていねいに新聞を読んでいると、そうした新しい時代に向けての予兆はいろいろとあるようです。
時代は変わり出しているような気がします。

■政治と行政の継続性(2010年1月9日)
自民党の高齢者議員が次の選挙にまた立候補する話題が増えています。
山崎拓さんは、離党をちらつかせてまで立候補したいようですし、青木幹雄さんも片山虎之助さんも立候補を決めているようです。
政治家はよほど魅力のある職業のようです。
自らは引退する代わりに子どもに世襲させる政治家が少なくないのも、それを物語っています。
しかし、山崎さんも青木さんも、もちろん加藤紘一さんも当選はしないでしょう。
なぜそれに気付かずに、老醜をさらすのか。

その一方で、高齢であるにもかかわらずに、乞われて引退できなかった政治家もいます。
財務大臣を辞任した藤井さんは、その一人でしょう。
テレビなどでの発言を、私が安心して聴いていられた数少ない政治家が藤井さんでした。
ですから藤井さんが財務大臣に任命された時には、とても安心したものです。
しかし、どうも藤井さんの正論は必ずしも実現はしなかったようです。

その一因は、民主党の体質にもあるでしょうが、官僚の体制にも一因があったことは否定できないでしょう。
二大政党の政権交替が意味を持つためには、政権交替した時には官僚トップもまた代わらなければ現実的ではありません。アメリカはそうした仕組みや文化を既に築き上げていますが、日本はそう簡単にはできないでしょう。
しかし、少しずつそれも進んでいるようです。

総務省の鈴木次官の辞任が報道されていますが、鳩山政権になって、閣僚による官僚の更迭が始まっています。鳩山首相は局長以上の幹部に辞表を出させる意向を示し、政権の方針を実現するために政治主導の人事を積極的に行う構えを見せましたが、それが少しずつ現実化しているわけです。

政治や行政の継続性ということがいわれますが、これはとても危うい言葉です。
どこに視点を置くのかによって、まったく違ってくるからです。
評価基準の審級を一つあげるだけで、継続性の意味はまったく違ったものになるのです。
官僚の視点からの継続性なのか、政治家の視点からの継続性なのか、あるいは国民の視点からの継続性なのかによって、事態は全く変わってくるのです。

おかしな言い方ですが、継続性を重視するために変えるべきものがあるのです。
それに気付けば、役割を終わった政治家や官僚は身を引くことになるでしょう。
地殻変動によって実現した政権交替は、また新たな地殻変動を静かに起こしているように思います。

■「ああ、いいじゃん」(2010年1月11日)
昨日、日本テレビの「秒ヨミ!」で、ステーキハウス「けん」を展開しているエムグラントフードサービス代表の井戸さんの密着取材番組を見ました。
井戸さんは「ロードサイドのハイエナ」の異名を持つ若き経営者ですが、ファミレス冬の時代と言われるなかで、わずか3年で67店舗を開店してきたそうです。
業績低迷の言い分けに不況を口実にしている経営者の不甲斐なさを、改めて感じます。

私が興味を持ったのは、井戸さんの人柄です。
私は和民(ワタミフード)社長の渡邉美樹さんの人柄も経営法も大嫌いですが、それとは対象的なイメージを受けました。

共感したことはいろいろとありますが、一つだけ紹介しておきたいのは、彼の口癖が「ああ、いいじゃん」だったことです。
新たに開店した店の店構えがそれまでとあんまり変わっていなくても、「ああ、いいじゃん」と嬉しそうなのです。
開店初日の売り上げが目標に達成しなくても「いいじゃん」です。
それもただ言葉だけではないのです。
テレビで見ていてわかるのですが、身体がそう言っているのです。
この素直さ、明るさ、感謝の気持ち。
名前を出して申し訳ないのですが、和民の渡邉さんとは全く違います。
こういう会社はきっと社員を人間扱いしているでしょう。
みんな気持ちよく働いているはずです。

井戸さんは自分でもはっきりと言っていましたが、金持ちです。
それでも休日に家族サービスで外食するのは自分の会社のお店なのだそうです。
自分の家族には食べさせられないと公言していたマグドナルドの社長とは大違いで、その点も好感がもてます。
興味を持って井戸さんのブログも読ませてもらいました。
とても面白いし、その素直さが感じられます。

私はステーキがあまり好きではないのですが、その私でも一度出かけて見たくなりました。
ちなみに、「いいじゃん」は表現こそ違いますが、私の好きな言葉なのです。
私の場合は、歳相応に「いいんじゃないの」ですが。
この言葉を使うことにしていると判断んしなくていいので、それこそ「いいじゃん」なのです。はい。

■「安全保障としての医療と介護」(2010年1月12日)
鈴木厚さんが「安全保障としての医療と介護」(朝日新聞出版)しました。
早速読ませてもらいました。
私に、日本の医療制度に関心を持たせてくれたのが鈴木厚さんです。
鈴木さんの講演を聞かせてもらって、それまでの医療制度への誤解を反省したのです。
これに関しては、ホームページ(CWSコモンズ)の昔の記事に書かれているはずですが、同じ集まりで本田宏さんのお話もお聞きして、私にも何かできることがあるのではないかと思いました。
医療制度研究会に参加をお願いしたり、自分でもヒポクラテスの会を立ち上げたりしたのですが、持続できませんでした。
しかしその後、日本の医療制度はどんどん悪化していくような不安がありました。

妻の入院などを通して、いろいろと考えることがありましたが、同時に現場の医師や看護師の大変さも少し理解できるようになりました。
先日、テレビで兵庫県丹波の柏原小児病院のことを知りました。
地域の母親たちが医師や看護師と一緒になって病院を守っている話です。
感動しました。
もしご存じない方がいたら、ぜひネットで調べてください。
私が考える病院のイメージがそこにありました。
その話は簡単にではありますが、「安全保障としての医療と介護」にも紹介されています。

日本の医療をおかしくしてしまったのは、医師でも看護師でも患者でもありません。
たぶん厚生労働省とマスコミと財界だろうと思います。
何となく私はそう思っていたのですが、鈴木さんはこの本で見事なまでに同じようなことを明言しています。
このブログの時評もかなり独善的ですが、それ以上に鈴木さんは言い切っています。
オリックスの宮内さんやトヨタの奥田さんへの評価も胸がすくような切捨て方をしています。
私は、その2人は破廉恥な犯罪者と思い込んでいますが、この本を読むとあながちそれも独りよがりの偏見ではないかもしれないと思えるほどです。
まあ一人が二人になったところで、正当化されるわけではないのですが。
厚生労働省への批判も私とほぼ同じです。
厚生労働省官僚を犯罪者と言わずに、誰が犯罪者だと私は思っているのですが。
まだあります。
小泉純一郎は単にアメリカ財務省の手先だっただけだというくだりです。
まあその象徴が郵政民営化です。

とまあ、この本にはこのブログで書いてきたようなことがたくさん出てきます。
人は自分と同じ主張が書いてある本を読むと、その本が面白いと思います。
自分と同じ考えの本を読んでも、実は何の役にも立ちませんが、そこがまあ庶民の庶民たるところです。
というわけで、この本を推薦します。
まあ軽い本なので、書店で立ち読みしてもいいかと思いますが。

実はこの本の主張はもっと大きなものです。
医療や介護は、社会保障の問題ではなく安全保障の問題だと言うのです。
その主張に関しては実はあんまり説得力は感じませんでした。
私の読み方が悪かったのかもしれません。
困ったものです。

■小沢さんが好きになりました(2010年1月14日)
今日は少し疲れ気味なので、簡単な記事です。

民主党の小沢幹事長が好きになりました。
私は小沢さんの政策理念も政治姿勢も好きではありませんでした。
しかし昨今の検察とのやりとりの報道を見ていて、とても親しみを感じ出しています。
世間の風潮とは逆かもしれません。

先日、このブログの読者から、佐藤さんは田中真紀子さんが好きなのですね、と驚きのメールをもらいました。
おそらく私の時評のトーンだと田中真紀子さんは嫌いだと推測されたのかもしれません。
私も彼女のような人とは付き合いたくはないのですが、なぜか好きなのです。
小沢さんもそうです。
亀井さんも、です。

頭で考えると、この3人は共感は全くできません。
でもどこかに人間的魅力を感じてしまうのです。
なぜでしょうか。
まあいずれに人ももう終わろうとしている人たちではあるのですが。

小沢さんと検察の戦いでは、小沢さんに勝ってもらいたい気分がどこかにあります。
頭と心の反応はどうも違うようです。
もちろんそうした場合は、私は心の判断を優先させます。

■小さな犯罪、大きな犯罪(2010年1月15日)
昨日、小沢さんが好きなったと書きましたが、どうやら小沢さんの評判はますます悪くなっているようです。
めげずに書きましょう。

小沢さんに関して問題になっているのはたかだか4億円、多くても数十億円でしょう。
これを大きい金額と見るかどうかは視点によって変わります。
生活感覚からすれば巨額な金額です。
年収200万円の私にとっては、年収が1000万円の人の話しを聴くだけでなんだか違う世界の人の話しに感じます。
今日も近くのスーパーが5%引きだというので娘にいくつか買ってきてほしいものを頼みましたが、その節約効果はまあせいぜい100円でしょう。
そうした私の生活感覚からすれば4億円は途方もなく巨額です。
しかし全く無縁の話ではありません。
残念ながら外れましたが、年末にジャンボ宝くじを買いました。
それがもし当選していたら3億円がもらえました。
ですから4億円は生活者にもある程度分かる金額であり、そこでは巨額なお金なのです。
ちなみに、検察の無駄遣いも少なくないと思いますが、それもおそらく数億円を超えるでしょう。
自分たちが無駄遣いしていればこそ、目の敵にできるのかも知れません。

しかし小泉純一郎が浪費した国税の無駄遣いに比べれば、誤差範囲の金額でしかありません。
麻生太郎が浪費した2兆円の給付金に比べても無視できるほどのわずかな金額です。
にもかかわらず、マスコミも国民を小沢たたきをしています。
人は自分の世界でしか物事を見られないと言うことの現れでしょうか。

4億円という金額の大小ではない、政治と金の問題だという人もいるでしょう。
政治と金の問題の、正解と財界の癒着として捉えるのであれば、小沢事件はそれこそ瑣末な問題です。
そもそもが財界のための政治をやってきたのが自民党政権だったのですから、大島自民党議員の厚顔無恥さには嘔吐を感じます。

細川政権も、こうした見えない所で動いている検察の飼い主によってつぶされました。
そして日本は世界の経済大国、文化大国の座を失いました。
ようやく再起しようと動き出したところで、また見えない権力が動き出したような気がします。
果敢にそれに戦っている小沢さんに敬意を表します。

小沢さんの考えは、もちろん私は好きではありません。
時代遅れの馬鹿な政治家だと思っています。
しかし、にも関わらず、私は小沢さんが好きになりました、

関係はないのですが、昨日、朝青龍が豪栄道に負けました。
負けた後の朝青龍の笑顔がとてもよかったです。
私は朝青龍が好きではなかったのですが、あの笑顔を見て、朝青龍が好きになりました。
小沢さんの笑顔と怒り顔も、彼を好きになった一因です。

■かけているめがねを変えましょう(2010年1月15日)
腹立ちからの発言をもう一つです。
普天間問題に関しては、このブログではあまり書いていないのですが、書き出したら止まらない気がしているからです。
日本の防衛省や自民党議員がアメリカに買収されていることは、守屋元防衛次官の表面化したわずかばかりの一部の情報(しかも、なぜか途中でストップしています)からでさえ感じられますから。

今月号の「軍縮問題資料」(2010年1・2月合併号)にジャーナリストの吉田健正さんが「米軍計画が示す海兵隊のグアム移転」という記事を書いています。
吉田さんは、在日米軍再編「ロードマップ」に示されている合意事項の「異様さ」を理解するために、米太平洋軍司令部の「グアム統合軍事マスタープラン」や2009年11月に公表された環境影響評価書を読んだ結果を報告しています。
そこからいろいろと日本のマスコミからはあまり伝わってこない事実を教えてくれます。
そこで明らかになってくるのは日本の特異な動きです。
タイやフィリピン、韓国に比べて、日本はあまりに米国に迎合しているのではないかという気がしてきます。
基地移設ではなく、基地撤去だろうという議論がありますが、日本以外の各国の基本姿勢はすべてそうのようです。
自立した国家であれば当然でしょうし、もし「愛国心」なるものがあるとすれば、当然撤去をベースに考えるでしょう。
小泉元首相や安倍元首相には愛国心も誇りも微塵もない人ですから、そんなことは全く考えもしなかったでしょう。

吉田論文を私は2回読みましたが、その本意は正直よく分かりませんでした。
私には知識と情報が不足しているためですが、しかしそこから感じられるのは、私たちが知らされている情報と政権や官僚が持っている情報とは違うのではないかという疑問です。
公表されていない情報はともかく、公表されている情報も、もっときちんと私たちにわかるように公開し解説してほしいと思います。
自民党政権がアメリカの言いなりに作り上げてきた先入観を捨てて、もう一度、しっかりと事実確認をしていかねばなりません。
いわゆる有識者は、そうした先入観に置いての有識者ですから、視点を変えれば無識者なのです。

まあこういう話は普天間問題に限りません。
政権交替で、私たちのかけているめがねを変える契機が訪れました。
濃厚に編集され他マスコミ情報だけに依存していることは避けたいです。
そうすると違った世界が見えてきます。

■石川議員逮捕―小さな犯罪・大きな犯罪補足(2010年1月16日)
昨日、「小さな犯罪、大きな犯罪」を書きましたが、読んだ人から何がいいたいのかわからないと怒られました。
そこで改めてもう一度書こうと思っていたら、石川議員や大久保議員が逮捕されると言う急展開です。
どう考えてもおかしいと私は思います。

「小さな犯罪、大きな犯罪」で言いたかったことは、
小さな犯罪は見えやすいが、大きな犯罪はなかなか見えない。
そして大きな犯罪を見えないようにするために、小さな犯罪が利用される。
私たちはそれに翻弄されることなく、大きな犯罪を見ていかねばいけない。
しかし、小さな正義感を持った人が大きな正義を壊すことは少なくない。
とまあ、こんなことを言いたかったわけです。

大きな犯罪とは何か。
先の世界大戦に敗れたことで日本は完全にアメリカに牛耳られるようになりました。
それを完成させたのは小泉政権だと思いますが、以来、完全に日本の政治は主体性を失いました。
正確にいえば、アメリカに牛耳られるというよりも、アメリカのどこかにある「ある主体」に牛耳られているというべきかもしれません。
おそらくオバマ大統領も、それに牛耳られているだろうと思います。
では牛耳っているのは誰か。
ロスチャイルド家だというような話もありますが、私はそうではなく、もっとスピリチュアルなものを感じます。
例えば「欲望」です。
いささか分かりにくくなりますので、この議論はやめますが、
そうした体制が自民党政権によって確立されてきました。
少し具体的な言い方をすれな、日本は「市場化」されたのです。
お茶よりもコーヒーが広がり、日本の伝統文化は壊されて市場化されてしまいました。
郵政民営化は、何回も書いているように、郵政市場化でしかありませんが、そうしたことの象徴的な事例の一つです。
基地問題もまた、市場化の一例と考えることもできるでしょう。
軍事で生活を守ることなどできるはずはないからです。
グアムへの全面移転は非現実的な話ではなく、あるグループにとって「不都合な」だけの話ですが、それを非現実的と決めているのは思考していない人の考えです。

そうした流れに抗う動きはつぶされてきました。
政治の世界でいえば、細川政権もそうかもしれません。
おそらくここでも検察が、アメリカにある権力によって利用されました。
小さな正義感をあおることはいとも簡単な話です。
見識も覚悟もない村山さんという好々爺が見事に茶番を演じました。
自民党政権はさらに「欲望」の走狗になっていきました。
そして、再び自民党政権を覆した、小沢さんや鳩山さんは、すっかり大きな正義を見失った検察によって「小さな犯罪」を暴かれ、打倒されようとしています。
ここで誰が得をするのかを考えれば、事の真相は明らかです。
細川政変の失敗を繰り返したくないと私は思います。

検察も警察も、だれが主人でしょうか。
私は国民でなければいけないと思いますが、決してそうではありません。
多くの冤罪や、検察や警察のやり方を見ればよくわかります。
では国民が選んだ政府のために動いているのでしょうか。
そうでもありません。
せっかく、日本の政治が変わろうとし、国民の生活の苦境に真剣に取り組み出そうとしているいま、こんな騒動をつくりだすとはいかにも「意図的」です。
マスコミでは御用学者ならぬ御用タレントが、今朝も盛んに小沢さんはなぜ逮捕されないかと言外ににおわす発言をしていました。
みのもんたさんです。
こうした権力が生み出した動きに迎合する人が後をたちません。
ジャーナリズムは死に絶えたとしか思えません。

小さな犯罪はそうやって大きくなっていきます。
足利事件のような冤罪を体験した直後なのに、相変わらずマスコミはまだ、不正確な周辺情報をモンタージュしながら、イメージを虚構しているのです。

こうした大きな流れに抗おうとしている小沢さんと鳩山さんが、たとえ小さな犯罪者であろうと自分の財産を管理できない自己禁治産者であろうと、私は応援したいと思うわけです。
それに石川議員を逮捕するなら、自民党議員にも逮捕すべきする人がいるだろうと思うのです。
しかも、昨年からの検察の動きには、小さな正義と合わせて、自らの「欲望」あるいは「面子」を感じます。
まさに日本の司法界が積み重ねてきた「冤罪」への危険性を感じます。
私の理解しているリーガルマインドとは、全く違うような気がします。

さてさて、また読者からお叱りのメールが来そうです。
日本では余計な発言をするといいことはありません。
困ったものです。

■検察は正義なのか(2010年1月17日)
小沢幹事長をめぐり、検察と政権が全面対決に向かっています。
根底にあるのは私怨でしょうか、変革でしょうか。
最近これについて毎日書いていますが、今日も書きます。

民主党大会で鈴木宗男さんが、「検察が正義と思ったら大間違い」「狙われたら、誰でもやられますよ」と話しました。
この言葉の意味を私たちは良く考えなければいけません。

今回の検察のやり方を見ていると、こうしてかつての日本は戦争に向かい、ドイツはナチ化したのだろうなと思います。
鈴木さんがいうように、検察は決して「正義」ではありません。
単なる体制の守護者です。
しかもその体制は国民でも政権でもないことは今回の事件で明らかです。
ロッキード事件にしても、その意味は問い直さなければいけないように思います。
私がそう思ったのは、昨年末の検察の行動に対する堀田元検事の発言からです。
堀田さんも単なる権力の走狗だったと確信しました。
誰が誰を落とそうとしているかは、なかなみえてきません。

法治国家だから検察に任せるべきだと発言していた人もいます。
法治国家とは法や制度が最優先するということではありません。
法が判断の基準になるというだけであって、法に支配されるわけではありません。
ましてや西部劇ではあるまいし、「俺が正義だ」などと思う検察官がいたら、とんでもありません。
ヒトラーでさえ、そんなことは思わなかったでしょう。

小沢さんの説明責任について国民の8割は納得していないといいます。
私は数少ない2割の一人ですが、そもそも説明責任とはなんでしょうか。
堀田さんはそうではないと言いましたが、説明すべきは権力側でしょう。

私も昨年、湯島の交番の警察官に犯罪者視された経験があります。
まあたわいない話ではありましたが、乗っている自転車が自分のものであることを問われたのですが、皆さんはどう答えられますか。
これは私の自転車ですと言っても説明責任は果たしていないとでもいうのでしょうか。
鈴木さんがいうように、誰でも犯罪者にできるのです。
それが国歌の制度的暴力ということです。

検察との対決よりも、国民性活のための予算の方が大切だから、小沢さんは幹事長を辞めたほうがいいという人もいます。
それは、要するに検察の横暴を認め、加速させることです。
国民生活にとって大切なのは、予算ではありません。
安心して生活できる社会です。
核開発問題よりも拉致問題事件が重要なのと同じく、検察やマスコミの暴力こそを正すべきです。
私たちは、パンとサーカスの社会から抜けなければいけません。

あまりにたくさんのことを言いたくて、また支離滅裂になりました。
そういえば、昨日は読者から論理が粗雑過ぎると怒られました。
今回の特捜部や昨年の堀田さんよりは論理はまともだとは思うのですが、まあ私の独りよがりでしょうね。

勝ち目のない戦いに踏み出した小沢さんと鳩山さんにエールを送りたいです。
そして、検察の横暴さと政治関与には異議を申し立てたいです。
権力は一の場合も醜いです。
小沢さんも権力ですので醜いですが、検察に比べればかわいいものです。

さてさて、この記事は勢いで書いてしまいましたが、後日読んだらきっと後悔するでしょう。
しかし人間の第一印象は大事にしなければいけません。
その意味で、あえて自らの記憶のために書かせてもらいました。
すみません。

■しつこく小沢さん問題をもう一度(2010年1月18日)
小沢幹事長と検察との関係の報道は、ますますヒートアップしています。

友人から、石川容疑者が自殺しないといいけれど、いうメールが届きました。
誰も感ずることでしょう。
あってはいけないことですが、もし万一、石川容疑者が自殺したとしたら、これは「自殺」というべきでしょうか。
自殺をするといけないので逮捕する、などということは、私には受け入れがたい論理です。
つまり誰でもいつでも逮捕できるということです。
恐ろしい社会です。

私が一番危惧するのは、検察は正義だという前提で語られていることです。
足利事件はどうだったのか。
先の民主党の管さんの年金未納問題は厚生労働省が間違っていました。
松本サリン事件での河野さんはどうだったでしょうか。

今回の事件は、私は小沢さんに加担しますが、小沢さんが無罪であるかどうかに関しての確信はありません。
どちらが白か黒かなどは、この際、私にはあまり重要ではありません。
小沢さんが公明正大であるなどと、いかな私でも思ってはいないのです。

それに、激しい追求の中で正常な感覚を維持できる人はそうは多くないでしょう。
あなたは自信がありますか。
不正を果たしていなければ大丈夫のはずだという人がいるかもしれませんが、もしそうであれば冤罪などは起きないのです。
鈴木宗男さんがいうように、狙われたらだれでも落とせるのです。
それが権力です。
だから権力行使の透明性と過剰なほどのチェック機能が必要なのです。
あるいは報道に関するしっかりした規制が必要です。
浅薄なタレントがテレビで知ったようなことを言うな、という気がしてなりません。
私がブログで毒舌を語るのとは全く意味が違うのです。

検察などが発表する情報を、なぜ私たちは疑うことなく受け入れてしまうのか。
「悪」のイメージのある小沢さんのいうことは、なぜみんな疑うのか。
私が一番気にしているのは、そのことなのです。
先入観を捨てて、何がいま大事な事なのかを考えなければいけないのではないか。
そんな気がしてなりません。

■caring economics(2010年1月19日)
私は会社時代、女性社員が来客にお茶を出す仕事と経営参謀スタッフが会社の長期計画を立てる仕事と、どちらが大切かといえば、前者であると考えていました。
それは前者の仕事は直接人の気持ちを相手にしているだけでなく、人と人とのつながりを創りだす重要な役割を持っているからであり、やり直しができない仕事だからです。
当時、同じ職場の女性社員にもそう話しましたが、だれからも相手にされませんでした。

また私の仕事を手伝ってくれていた女性には、たとえ私が頼んだ仕事でもやりたくなかったら断っていいと話していました。
私の最高の批判者は部下(私は仲間と考えていましたが)だと思っていたからです。
彼女は退職後、私の所に来て、その言葉にはとても戸惑ったと白状してくれました。

私は会社時代、たとえ新入社員でも「さん」づけで呼びました。
逆に上司も「さん」づけで、職位で呼んだのは社長だけでした。

もう20年以上前になりますが、それが私の会社時代の考えでした。
いずれも特殊すぎて、いまだなお賛成してくれる人は少ないでしょう。

しかし、昨日読んだ「ゼロから考える経済学」は、そうした内容の本でした。
もちろんそんなことはどこにも書いていませんが、そう思いました。
ゼロから考える経済学というのは翻訳書名ですが、原題は “caring economics” です。

いささか我田引水の昔話になりますが、この本には私が学生の頃から考えていたことや私の生き方につながっていることなどがたくさん出てきます。
私の生き方は、必ずしも常識的でなく、友人たちの共感はあまり得られていません。
興味を示す人や感心してくれる人はいますが、同伴してくれる人は多くはありません。
もっとも、以前は私の言葉を真に受けない人が多かったですが、最近は一応信じてくれるようになりました。
しかし、どこかで「特殊」とみなされているのでしょう。
先日の集まりでも、「佐藤さんだからできる生き方」だといわれました。
そんなはずはありません。
私でできるのであれば、誰でもできるはずです。
但し私の場合も、20代の頃からこの生き方を続けていればこそ、今もなおこの生き方ができるのかもしれません。

いずれにしろ、新しい経済パラダイムがこの本に垣間見える気がします。
この本の問題提起の文章を引用させてもらいます。
興味をもたれたらお読み下さい。

私たちは誰ひとりとして、思いやること(caring)と世話をすること(care giving)なしにはここに存在してはいないのだと考えてほしい。家庭も、労働力も、経済も何ひとつとして存在しないだろう。それなのに、現在の経済に関する議論は、思いやることと世話をすることに触れる事すらしないものが大半である。

■「コンラッド/ミルバーンの法則」(2010年1月19日)
面白い調査があるそうです。
権威主義的で懲罰的な家庭で育った人の多くは、独裁的な指導者に投票する傾向があり、懲罰的なシステムを支持する傾向があるのだそうです。
まだ原典に当たったわけではないのですが、シェリー・コンラッドとマイケル・ミルバーンの共著「否定の政治学」にその調査結果が紹介されているようです。
私は、これを勝手に「コンラッド/ミルバーンの法則」と呼んでいます。

例えば小泉人気もそうですが、昨今の検察コンプレックスもまさにその一例ではないかと思います。
私は、幸か不幸か、権威主義的で懲罰的な家庭には育たなかったのばかりでなく、権威主義的で懲罰的な組織にも属してこなかったため、そうした傾向を持ち合わせていませんが、多くの日本人はどうやらそうした文化に浸りきっているような気がします。

しかし、今日のテレビ報道は大政翼賛会時代を思わせます。
民主党にも「権威主義的で懲罰的な家庭で育った人」が多いでしょうから、検察を支持する人が出はじめてきました。

ところで、今日、この「コンラッド/ミルバーンの法則」を考えていて、気づいたことがあります。
小沢さんは人気がありません。
つまり「コンラッド/ミルバーンの法則」に合致しません。
言い換えれば、小沢さんは「独裁者」ではないのです。
いやしいほどに従順な日本国民にあれだけ嫌われている人が、独裁者であるはずがありません。
「コンラッド/ミルバーンの法則」は、そういうことを教えてくれています。
いま気づいたので、蛇足ながら掲載します。

■仕事がなくなったのではなく、仕事の意味を変えられる時代になったのです(2010年1月20日)
昨年末から東京都が実施してきた「官製派遣村」が18日午前、終了しました。当面の対応としては効果を上げたと思いますが、新しく仕事が決まった人はごく一部だあったようで、いろいろと課題は残ったままだという報道が新聞に出ていました。

今朝の朝日新聞の地方版には、こんな記事がありました。
千葉県内の今春大卒予定者の就職内定率が47%。調査開始以来の最低記録だそうです。

オートメーション化が始まった1980年代に、オートメーション化によって仕事が激減するという警告が発しられていました。
私は当時はまだ会社にいましたが、それによって「仕事の体系」は変わるだろうなと思っていました。
しかしそうはなりませんでした。
仕事の体系は変わるどころか、それまで以上に過酷な労働条件へと変化してきたように思います。
1990年代の初めでしょうか、ある企業の研修に講師として招かれました。
研修が始まる前に、事務局の人が、日本の労働者の半分は余剰。その余剰にならないようにがんばってほしいと挨拶しました。
私は一気に意欲を削がれてしまいました。
がんばらないと企業から排除されるなどという脅しのもとでの研修には加担したくなかったからです。
そういう話をしてしまったためか、その会社からの講師依頼はその後なくなりました。

かつて就農人工が激減しましたが、その吸収先は工業とサービス業でした。
しかしオートメーション化やIT化による仕事の激減を吸収する先はこれまでの発想では見当たりません。
発想を変えれば簡単なのですが、なかなそうはならないようです。
ベーシックインカムの発想は、仕事の意味を変えようとしています。
いささか独断的ではありますが、「消費すること」を仕事にするということです。
まさに「パンとサーカス」の発想ですが、働く能力のない人は、企業が生みだす商品やサービスを消費する「労働者」になれということです。
それはそれで論理は通っていると思いますが、あまりに非人間的な発想ではないかと思います。

全く別の方向で、仕事のパラダイムを変えることもできます。
そのひとつがワークシェアであり、支えあいの関係を育てることです。
そうした発想で私たち一人一人も生き方を少しずつ変えていけば、たぶん50年もすれば社会は住み良くなるでしょう。
どこかで発想を変えなければいけません。

■「お上に支配される文化」(2010年1月20日)
昨日書いたコンラッド/ミルバーンの法則の根底にあるのは、文化の問題です。
制度や法律はいうまでもありませんが、人間の作ったものです。
人間が使うべきツールですが、一度できてしまうと主客転倒する傾向があります。
会社に使われている従業員や経営者がいかに多いことか。
「前例がありません」からという人もまた制度に使われています。
法治国家は「法を使う国家」であって、「法に使われる国家」ではありません。

日本の文化は、いまもなお「お上に支配される文化」です。
私は各地のまちづくりに少しだけ関わらせてもらっていますが、地域住民も役場の職員も、いまなお「お上文化」であることを感ずることが少なくありません。
私は我孫子市に住んでいて、そこでもささやかな住民活動をしていますが、その仲間の人たちさえも意識はしていないでしょうが、「お上に統治されている」という姿勢を垣間見ます。
言い換えれば行政に過大期待しているために、自発的な発想がなかなか出てきません。

今回の小沢事件に関して、自民党のある議員が、検察の事情聴取に応じない小沢さんは自分を何様だと思っているのかと声を荒げていましたが、まさにお上に身を任せた臣民の発想です。
何様だと思っているのかと問われるべきは検察であって、国民ではありません。
国民に告知する前に、黙って聴きに行けばいいだけの話です。
話も聴けないということは仕事をする能力も意欲もないということです。
権力だけで仕事してきた特捜の限界でしょう。
こんなことすら分からない人が多いことが情けないです。
みんな徹底的に家畜に成り下がっているのです。

その文化はフラクタルに当人にも当てはまります。
かの議員は、おそらく自らの周囲や家族には同じように、俺に従えといっているのでしょう。
それが文化ですから。

説明責任と言いますが、理解しようという姿勢のない人に何をいっても伝わりません。
足利事件で明らかになったように、警察や検察の意見に従わない限り、説明したことにはならないのが「お上の文化」です。
私の友人が、外国人の子供の誘拐事件に関わっていると疑われたことがあります。
突然、警察官が6人ほど事務所にやってきました。
仕事していたので断りましたが、10分でいいというので部屋に入れました。
そして質問に答えました。
しかし一向に帰ろうとしません。
6人からいろいろと問いただされると(慇懃ですがいずれも「お上」の言葉です)、かなりのプレッシャーです。
自分の仕事場であるにもかかわらずです。
彼らは人の迷惑など全く考えませんし、10分が1時間になっても「犯罪」にはならないのです。
私には納得できませんが、それが国家というものなのでしょう。

説明責任とはいったい何なのでしょうか。
むしろ権力側が果たすべきことでしょう。
「小沢さんは権力だ」というかもしれませんが、問題に即して「権力」は位置づけられるべきではないでしょうか。

ニュースを見るたびに、マスコミが着実にこの社会を壊していく様が感じられます。
日本のマスコミの体質は一向に変わっていないようです。
もちろん昭和10年代からという意味ですが。
私たちは対抗力をもたなければいけません。
そうでなければ、お上のご意向に従うだけです。
9割の日本人は、どうもその道を選んでいるようですが、私はその道を選びたくないと思っています。
できているかどうかは全く自信はないのですが、人間として生きていたいと思っています。
それでこうして実名で毎日書き続けています。
家畜には実名はありませんが、人間には実名があるからです。

■最近自分への嫌悪感が高まっています(2010年1月21日)
今日は、読者のためではなく、自らのための独白です。

私はNPOがどうも好きになれません。
それなりにいくつかのNPOの支援活動はしているのですが、少なからずの違和感を持つことが少なくないのです。
おそらく私のもっている思考回路や評価基準が、社会から外れているためだろうと思っています。
これは子供の頃からです。
両親はもちろん、世間とはいささか違う文化を昔から内在していたのです。
学校にも会社にも、どこかでなじめずにいました。
いつもどこかに「冷めた自分」がいて、現実になじめないのです。
社会不適合者かもしれません。

そのくせ人に会うのが好きで、さまざまな問題への好奇心が高いのです。
関心をもたないのは、「パンとサーカス」だけです。
スポーツには関心はありませんし、ファッションやグルメには全く興味がありません。

ところが最近、新聞やテレビの報道で、とても感動的なNPOの活動に触れることがあります。
NPOや住民活動が、社会をどんどん変えているのではないか。
行政も企業も、そこで働く「思いのある個人」が変えている。
そういう事例によく出会います。
私が違和感をもっているNPOが、社会をどんどん良くしているのです。
自分のNPO観はまちがっているのではないか、と思うことがよくあります。

この時評はどうでしょうか。
この数日はあまりの腹立たしさから、また品格のない記事が多いですが、腹が立つなら行動すればいいだけの話です。
前にも「ブログを書く暇があったら行動しろ」と言うコメントをもらったことがあります。
その時には、行動もしていると応えましたが、何をしているというのでしょうか。
イラクでは自らの生命を賭してまで闘っている人がいるというのに、ぬくぬくと安全なところにいて行動しているなどといえるのか。

最近また心身が動かなくなってきました。
動かなくなると言葉が過激になりがちです。
現場で汗するのが、人間の最高の幸せかもしれません。
最近、そんな思いが強まっています。
現実にコミットする勇気がなくなってきているのかもしれません。
人は歳をとるものなのだと、最近、少し気づきだしました。

無意味な独白ですみません。

■「あの人たちはずるいんです」(2010年1月22日)
足利事件の再審公判でで、かつて菅家さんを取り調べた宇都宮地検の森川大司元検事の証人尋問が実施されました。
菅家さんは「謝ってください」と繰り返し強い口調で元検事に求めましたが、元検事は最後まで謝罪に応じなかったそうです。
菅谷さんは、かつての取調べで森川さんから言われた「人間性がない」という言葉を、森川さんに向けて言っています。
私も同感ですが、こうした人間性のない人たちが日本の裁判をやっているのです。
ゾッとします。

これは例外だと思うかもしれませんが、そんなことはないでしょう。
その組織や世界の文化は、必ずこういう形で現れます。
検察の常識を見事に象徴しているのです。
森川さん個人の問題ではないのです。
これに関しては、私は弁護士も同じ文化にあると思います。

公判後の記者会見で、菅谷さんが、
「あの人たちはずるいんです」
と言っていたのがとても印象的でした。
そこに含意されていることの意味を、私たちはしっかりと受け止めたいものです。
ずるい生き方を裁く人がずるいと思われるような日本の司法制度は間違っているはずです。

本当の意味での司法改革をしてほしいものです。
もし三権分立で、司法界がかつ中立であるのであれば、司法官僚などがのさばる仕組みは封じなければいけません。
しかし、権力の権化である司法界こそ、実は最高に非人間化しやすい素地を持っています。
こうした動きを回避するには、司法の透明性とガバナンスを変えることです。
それはたぶん国家が脱国家することなのでしょう。
そうした動きは北欧から始まっているようにも思えますが、日本がそうなっていくのはもう少し時間がかかるのでしょうか。
昨今の「司法改革」はまったくおかしな方向を向いています。

それにして、小沢さんに対する検察の事情聴取が明日と予定されている今日、こうした報道が行われるのは、なにやら「できすぎている」気もします。
これは偶然なのでしょうか。
だれかの意図なのでしょうか。
意図的な結果だとしたらこれもまた感心します。

■まちづくりは60年の時間軸で考えなければいけません(2010年1月23日)
最近しばらく休んでいましたが、私は数年前まで各地のまちづくりにささやかに関わっていました。
まちづくりに関わる時の私の時間間隔は30年でした。
いわゆる1世代という時間感覚です。
ですから少し大きめのプロジェクトの場合は、せめて10年近くは関わらせてほしいと要望を出しました。

10年ほど前に、山形市でまちづくりの全国フォーラムを開催しました。
基調講演を当時水俣市の市長だった吉井さんにお願いしました。
すばらしいお話でした。
夜のワークショップにも吉井さんは参加してくれました。
そこでまちづくりに取り組む際の時間軸の話になりました。
みんなの急ぎすぎる発言を聞きながら、私の持論である30年発想で考えることを話しました。
それを聞いた吉井さんがいいました。
佐藤さん、30年では短いです。私は60年で考えています。

吉井さんは林業家です。
林業でのビジネスサイクルは60年なのです。
私のように頭で考えた理屈ではなく、吉井さんのは現場の実感なのです。
いらい、私は30年論を撤回しました。

60年発想とは、私たちの生活感覚からいえば、3世代発想ということです。
私のは2世代発想でした。
この違いは大きいと気づいたのです。
世代間倫理と言うようなことを考えるのであれば、最低60年は必要なのかもしれません。
しかし、60年となるとなかなか実感はできません。
それが悩みどころですが、要するに急いではいけないと言うことです。
しかしスピードをコアバリューの一つに置く産業社会に生きている私たちは、無意識に時間軸を短く、しかも異常な速度感を埋め込まれてしまっているような気がします。

さて政治の話です。
私たちの時間感覚を変えないと、せっかく流れを変える動きがでてきたにもかかわらず、そのチャンスを活かせない恐れがあります。
そう思いながら、最近、いささか世間の動きに失望していましたが、急いでいたのはむしろ世間ではなく自分ではないかと気がつきました。
急ぐと心身によくありません。

しかし、一度埋め込まれた時間感覚を変えるのはとても難しいです。
個人でもそうなのですから、世間の時間感覚はそう簡単には変わらないでしょう。
ゆっくりと受け止めなければいけません。
どうやら私の今生では、時代の流れには遭遇できないかもしれません。
少し残念ではありますが。

■むかし書いた2つの小論(2010年1月24日)
むかし書いた2つの小論があります。
「21世紀は真心の時代」と「脱構築する企業経営」です。
前者は社会のあり方、後者は企業のあり方についてまとめたものです。

先日紹介した「ゼロから考える経済学」のことを読んで、この2つの小論を思い出しました。
「21世紀は真心の時代」は、毎日新聞社の懸賞論文に入選したものです。
当時は「真心の時代」という言葉が宗教臭いと言われましたが、その後10年足らずで「心の時代」は流行語になりました。
もう一つその小論で私が造語した言葉があります。
「ナノテクノロジー」です。
当時は勝手な造語だと思っていましたが、これは今では一般用語になりました。
この小論を書いた時には、まだ論理演算で思考していた面が多かったのですが、その実践の一つが、当時私が勤務していた東レでのCI活動です。
それが私の人生を変えてしまったわけです。
今週のCWSコモンズにも書きましたが、その小論は「管理の時代」から「真心の時代」へのパラダイムシフトが骨子になっています。
私のその後の生き方は、すべてこの小論の流れに沿ってきました。
おかげで予想外の一つに要素(妻を病気で見送りました)を除いては、私の人生はとても生きやすいものになっています。

しかし、その小論が契機になって取り組んだCI活動のおかげで、私は東レを辞めてしまいました。
企業の行く末とそこでの自分の居場所のなさを見てしまったからです。
会社を辞めてから日本能率協会の月刊誌に連載したのが「脱構築する企業経営」です。
これは勉強不足で中途半端な小論になってしまいましたが、「21世紀は真心の時代」の延長上の小論です。
消費機関としての企業論という発想は、当時としてはそれなりに新しかったと思います。
この連載を書いて行きついたのが、新しい企業論としての協同組合論でした。
しかも「マネジメントフリー」が結論でしたので、読者からは怒られました。
しかしこの小論を書いていたときには、かなりの気負いもありました。
そこから論考を発展させれば、もう少し私の知見も広がったのでしょうが、その頃から何かをまとめるということへの関心を失ってしまいました。
一応、「コモンズの回復」と言うタイトルは決めたのですが、ついに書くことなく終わってしまいました。
その代わりに、こうして毎日、気楽な雑文を書いてしまっているわけです。

最近、「新しい公共」という議論が広がっています。
「公共」などといわずに「共」、つまりコモンズといえばもっと思考が明確になるだろうと思いますが、新しい公共論もNPO論も、あるいは社会起業家論も、私には全く退屈です。
パラダイムシフトしない限り、意味がないと思っているからです。

では私がむかし書いた2つの小論は、パラダイムシフトしているでしょうか。
いやせめて「脱構築」しているでしょうか。
おそらく私がいま退屈だと思っている議論と同じように、あるいはそれ以下に、従来型の発想のなかの話かもしれません。
しかしそれから30年、私のいまの生き方があるのは、この小論の実践の結果なのです。
もしかしたら言葉では表現できていないかもしれませんが、私自身は新しいパラダイムを会得したのかもしれません。
いささか手前勝手ですが、最近、そう思い出してきました。
しかしその考えを誰かに伝えることはとてもできないなとも、思い出しています。
このブログも全部読んでもらうことなどできませんから、私の思いが伝わることなどありません。
まあ全部読んでもらっても、伝わらないでしょうが。

価値観はやはりあくまでも個人の中にしか育たないような気がします。
最近、疲れるやすいのは、もしかしたらそのせいかもしれません。

■「ひとつの民意」(2010年1月26日)
平野官房長官の名護市長選の結果に関する発言には驚きました。

「ひとつの大きな民意ではあるが、国の安全保障の一環である基地問題を含めて、民意として受け取るのかいうと、そうではない」

コメントは差し控えます。
ただ、ここで明らかなように、「民意」は一つではないということです。
私たちは往々にしてそれを忘れます。
多くの人は、自分の意見こそが民意だと思いがちです。
しかし問題との距離は、人によって全く違います。
直接的な利害関係が時間できない人にとって、沖縄に米軍基地があることには実際に上の痛みはないでしょう。
しかし、そこにすんでいる人たちにとっては、生きる上での死活問題につながっているでしょう。
そうした全く立場の違う人がいる場合、政治にとって大切な民意とはどの民意でしょうか。

平野発言は、そうしたことを平野さんがどう捉えているかを如実に示しています。
これは、民主党が「生活目線」の「生活」をどう捉えているかを象徴しています。
とても残念な発言です。
素直さがない政治家はもう退場してほしいです。
鳩山さんには、その素直さがあります。
だから頼りなくみえますが、悩み迷いながら進んでいくことに信頼を持ちたいと、私は思っています。
隙だらけの発言も、私には好感がもてます。
政治家は軽い発言をしてはいけないなどと誰が決めたのでしょうか。
人間は迷い悩むものです。
鳩山さんの人間くささ、小沢さんの人間くささが、ますます好きになっています。

米国に、「日本はもう米軍基地は不要です」と言ったらどうなるのでしょうか。
そう鳩山さんに言ってほしいと思いますが、困るのは誰でしょうか。
米軍基地があるために、収入を得られている人たちでしょうか。
しかしそうした経済的な問題を解決するのはそう難しい話ではないでしょう。

八ッ場ダム問題も、そう難しい話し出はないはずなのですが。
誰がややこしくしているのでしょうか。

■幼保一元化発想は子どもをどう見ているか(2010年1月29日)
鳩山内閣は、保育所入所を待つ待機児童の解消に向け、幼稚園と保育所の機能を一つにする幼保一元化を加速させる方向に動き出したようです。
幼保一元化とは、文科省と厚労省とに所管が分かれている幼稚園と保育所の運営の一元管理を進めようという発想です。
この議論は20年前から議論されていることです。
私はその頃、幼児教育に関心をもち、全国私立保育園連盟のある委員会の委員もさせてもらっていましたが、よく言葉を聞きました。
当時は、それが良いことだと思っていました。

しかし最近は少し違います。
果たして良いことかどうか迷います。
そうした発想の根底にある経済主義、効率主義に疑問を高めているからです。
これは「人間観」につながる問題です。

前にも書きましたが、私が少子化問題に関心を持ったのは、ある集まりで企業と生活者の関係の話をさせてもらった時に、ある企業経営者がそんな問題よりも企業にとっても死活問題は少子化問題だと指摘されたことです。
少子化という言葉が出はじめた頃です。

最初は感心したのですが、話を聞くうちに非常な反発を感じました。
その発言の意味は、少子化によって労働者がますます得られにくくなり、市場も縮小するということだったからです。
子どもは労働者で消費者なのかと、私は大きな反発を感じました。
しかしその後の日本での少子化論議は、そうした方向に進みました。
ですから、少子化議論をする人は、金融工学者の同類だと私には見えてしまいます。
そして、昨今の少子化政策はほぼすべて少子化を促進させるだけだろうと思っていました。
新しい動きは、子どもは社会で育てるという発想のもとにでてきた「全家庭への子ども手当て」です。
しかしこれも所得制限などというバカな議論が出てきて失望しましたが、みんな金銭主義からどうも抜けられないようです。
頭が腐っているとしか言い様がありません。

ついでにいえば、男女共同参画やワークライフバランス論議も、私には同じに聞こえてきます。
いずれも、企業あるいは金銭経済に都合のよい政策だからです。
なぜか私はそうした発想に賛成だと思われているらしく、知人友人からは話しかけられることが多いですが、まったく反対です。

余分なことを書いているうちに、肝心の幼保一元化の話を書けなくなりました。
この続きは、また今日の午後に時間ができたら書くことにします。
これから出かけるものですから。

■幼保一元化は子どもにとってどういう意味があるのか(2010年1月29日)
前項の続きです。

都市部ではいま、保育所は定員オーバー、幼稚園は定員割れ、といった状況のようです。
待機児童の増加の中で、幼稚園と保育園を一括管理できれば、そのアンバランスを埋められるというのが、幼保一元化の狙いの一つです。

幼保一元化は話題になってから久しいですが、なかなか実現しません。
縦割り行政の利権争いのような事情もあるでしょうが、取り組みが経済主義、効率主義からだったことも無関係ではないように思います。
そこには「子どもの視点」はなかったのです。

私が保育園に関わり出した頃、保育園にはあまり国家財政は向けられずに、保育園関係者の全国的な集会もあまり立派な会場ではありませんでした。
ですから話をさせてもらいにいっても気持ちがよかったです。
しかしそのうちに保育行政にお金が回りだしました。
研修の会場も一流ホテルへと変わりだしました。
プログラムもゲストも次第に派手になっていきました。
私にとっては気持ちの良い集まりではなくなり、次第に足は遠のきました。
保育園や幼稚園に集まってくる子ども産業業者にも違和感がありました。
「教育産業」は聞こえはよいものの、要するに子どもを顧客に仕上げることで利益を上がる産業です。
その内実のスキャンダラスさは私には不快感しかありませんが、ドラッカーのいう顧客の創造を見事に成し遂げた産業の一例です。

保育園と幼稚園は目標や理念が違います。
ただ制度的に合体すればいい訳ではありません
合体論の発想は「子どもの視点」ではなく「大人の視点」です。
子どもにも親子にも、多様な選択肢があるほうがいいでしょう。
子育て支援の仕組みは、むしろもっと多様化すべきです。

保育園は不足、幼稚園は過剰というのは、制度(施設)とニーズとのミスマッチではないかと言われるかもしれません。
経済主義では、ニーズがあれば市場があり、供給産業が成立します。
でもそれでいいのでしょうか。
大麻にはニーズがあるからといって、市場を正当化し供給体制を組むことは認められません。
大麻と子育ては違うと言うかもしれません。
では深夜に子どもを預ける場所がほしいと言って、無制限に子どもを預かっていいのか。
まあこれは難しい問題ですが、そうした時の「ニーズ」は、決して子どものニーズではありません。
大人のニーズです。
大人といっても決して「親」ではありません。
たとえば「夜の仕事」をしている母親のためでしょうか。
まあ例外的にはそうしたこともあるかもしれませんが、多くの母親はできれば「昼間の仕事」をしたいのです。
でもそうした仕事がない、あるいはそうした仕事は給料が安い、だからやむを得ず夜の仕事をする、としたら、それは親のためでもないでしょう。
つまり「ニーズ」とは、表面的に捉えてしまっては何も見えてこないのです。
表面的なニーズに対応していたら、どうなるか、そんなことはみんな知っています。

私が幼保一元化に違和感をもちだしたのは、子どもにとっての多様な選択肢が減る恐れと、現状に制度を合わせてしまう脱価値観的な経済主義への疑問です。
まだこなれていない議論ですが、どこかに違和感を最近持ち出してしまったのです。

少子化問題に関しては、少しまた書き込みたいと思います。
時間がないのでまた中途半端な書きなぐりになってしまいましたが。

■豊かさの足元にこそ貧困はある(2010年1月30日)
しばらく休んでいた湯島でのオープンサロンを再開しました。
そこで生活保護や貧困の問題が少し話題になりました。
昨日集まった人たちの中には、貧困問題に少し関わっている人もいましたが、多くの人たちにはたぶん「見えない世界」なのだろうと、改めて思いました。
そこで昨日書いた子どもの問題につなげて、少し「子どもの貧困」のことを書きたいと思います。

「子ども貧困」というとみなさんは何を思い出すでしょうか。
スーダンのやせた子どもの写真を思い出す人は少なくないと思います。
しかしアフリカの子どもたちだけが貧困状況におかれているわけではありません。
子どもの貧困が語られる時にアフリカの子どもたちの写真が使われることに、私は大きな悪意を感じます。
そうした写真こそが、日本の、あるいは経済システムの現実を隠すことにつながっているからです。

OECDの貧困率のデータ(2008年)によると、日本の子どもの貧困率は13.7%です。
つまり、子どもの7人に1人が貧困状況にあるということです。
成長に必要な食事さえ十分にとれない子どもも少なくないのです。
ちなみに、アメリカの子ども貧困率はもっと高く、20%を上回っています。
アフリカではなく、アメリカです。念のため。
このことは何を意味するのでしょうか。
先進国といわれる国家は、同時に貧困問題を内在させているということです。

昨日の集まりで話のきっかけになったのが、北海道出身の人が自分の地域では人口の5%近くが生活保護を受けていると話したことでした。
5%というのは異常値だというニュアンスでしたので、私は異議を唱えたのです。
確かに5%は高い数字です。
厚生労働省の発表によれば、日本の被保護世帯数は既に120万世帯を超え、間もなく150万世帯に達するといわれています。
日本の全世帯数は約4800万世帯ですから、比率にすれば3%程度です。
しかし問題はそこからです。
所得が生活保護支給基準以下である人たちすべてが生活保護を受けているわけではありません。
受けたくても受けられない人も日本では少なくないのです。
該当者が実際に受給している割合を示す「捕捉率」の異常の低さが日本の特徴です。
日本では約10~20%といわれています。
若者の餓死は日本でも起こっています。

数年前に、このサロンで健康保険に入れなくて病死する人がいるという話をしたことがありますが、参加者は誰も私の話を信じませんでした。
それくらいみんな日本における貧困の実態には無知、あるいは無関心です。
子どもの貧困は決してアフリカの問題ではありません。
アフリカは、先進国が国際協力の名目で「援助」してこなかったら、絶対的貧困は起こらなかったかもしれません。
ドラッカーが言い出した顧客の創造戦略が、世界中に相対的貧困を発生させ、その結果、絶対的貧困が起こったのです。
豊かさの足元にこそ貧困はある。
私たちはそのことをもっとしっかりと見なければいけません。

「子どもの貧困白書」が昨年出版されました。
機会があればぜひお読みください。

■そろそろ仕事とお金を分けて考えましょう(2010年1月31日)
新しい経済システムを考える際に重要なことは「仕事」の意味を考え直すことではないかと思います。
「仕事と思いやる金の関係の見直し」など、これまでも何回か書いてきました。
先日のオープンサロンでもお話したのですが、仕事は社会との関わりの活動、人とのつながり方の関係活動と考え、お金はそれとは全く別の次元のものと考える徒世界の見え方は変わってきます。
金銭的な評価を受けない家事労働ガシャドーワークとされたり、価値のない仕事とされたりするのは、金銭を主軸に考えるからです。
そこから抜け出せば、とても生きやすい世界に移住できます。
社会と関わったり、人とのつながりを育てたりすることは、お金がなくてもできるのです。
そう考えると、つい50年前までは幼児や老人もみんな仕事をしていました。
しかし効率至上主義の工業化社会はそうした人たちを「お客様」扱いしてしまい、彼らから「仕事」を奪い、「消費者」という顧客に貶めてしまったのです。
ここでも私の嫌いなドラッカー信仰が効力を発揮させました。
世界が「悪しき経営」思想に覆われてしまったのです。
私の友人知人にはドラッカーファンが多いですので、あまり怒られそうですが、ドラッカーご本人はすばらしい人であっても、それが産み出した問題はやはりしっかりと考えなければいけません。
原爆開発を進言したアインシュタインがパグウォッシュ会議を提唱したことを思い出すべきでしょう。
ドラッカーはそれをしませんでした。

また話がそれました。
大切なのは、「仕事」と「お金」の関係を切り離すことから新しい経済パラダイムを考えるべきだということです。
お金をもらえない活動は仕事ではないと考えるべきデはありません。
仕事をしていれば、お金が入ってくることもあると考えるべきだろうと思います。
そういう発想で考えると金融で稼ぐ仕事など出てこないように思います。

しかしお金を稼がないと生きていけないと言われるかもしれません。
しかしお金は、自分以外の人がいるからこそ意味を持ってくる「人をつなぐメディア」でしかありません。
人のいない無人島ではお金は何の役にも立ちません。
まずはそこから「お金の意味」を考えて行くのがいいように思います。

■デフレスパイラルはもしかしたら新しい経済への入口です(2010年2月1日)
デフレは結局は自らの首を絞めることだといわれます。
私もそう思っていました。
しかし、最近、考え直しました。
デフレは金銭至上主義経済からの脱却に繋がるのではないかという気がしてきたからです。
相当めちゃくちゃな話なのですが、一応、書いてみます。

商品の価格が安くなると企業は利益を上げられなくなる。
そこで労働コスト、つまり働く人の賃金を減らす。
収入が減少した労働者は、消費力も低下させ、安くなった商品さえ買えなくなる。
商品を売るために価格をさらに安くする。
つまりデフレスパイラルです。

デフレスパイラルは経済活動を低下させます。
もし人間の生が経済活動のためにあるのであれば、それは止めなければいけません。
しかし人間は経済活動のために生きているのではなく、生きるために経済活動も必要だというのが正しいでしょう。
そんなことは当然だといわれそうですが、この当然のことを忘れている人が多すぎるように思います。
少なくとも私の周りにはほとんどいません。
人間は経済活動などなくしなくても生きていけるのですが。

デフレスパイラルの話に戻ります。
価格が安くなり、者を作ることは利益ではなく損失を生むようになる。
そのため生産活動が減少する。
従業員は解雇され、お金がないので生活が困難になる。
どうしましょうか。

お金がなくても暮らせる方法はないのか。
そんな方法などあるはずがないと思うかもしれませんが、いくらでもあるのです。

10年ほど前に長崎県の小値賀島に行きました。
最近、この島は話題になっていますが、私もずっと気になっていた島です。
本当から見えるところに無人島「宇々島」がありました。
その島は「再生島」と言われていたそうです。
生活を破綻させた家族はすべての税や役務を免除されて、その島に移住したのだそうです。
島には畑や放牧場のほか住居用の家もあり、お金とは無縁の自給自足の生活ができました。
その上、周囲の海で採れる海産物を出荷し収入を得ることもできたので、数年すると蓄えもでき、生活を再建して本島に戻ってこられたのだそうです。
少し前までの日本には、そうした仕組みがさまざまな形であったのです。

お金がなければ暮らしていけない、という強迫観念を植え付けることで資本主義は発展し、お金がお金を生みだす仕組みが大きくなってきてしまったのです。
デフレスパイラルは、そうした金銭依存スパイラルから抜け出すチャンスかもしれません。
スパイラルを反転させる辛さはありますが、反転させてしまえば、状況は一変するかもしれません。
お金などなくても、豊かな暮らしができるようになる、新しい経済システムの始まりにできるかもしれません。

わかりにくいでしょうか。
一度、こういうテーマでの話し合いの場を湯島で開きたいと思います。
関心のある方はご連絡ください。

■冤罪支援者の民主党七奉行(2010年2月1日)
小沢さんの秘書逮捕で民主党がやはり腰砕けになってきました。
検察とマスコミの思う壺です。
しっかりしているのは鳩山さんだけです。

管理社会の中で管理依存に浸っている人たちには、鳩山さんのリーダーシップなどは全く理解できないでしょう。
管理依存型の人生を送っている人たちには、管理型のリーダーシップしか理解できないのです。
石原新太郎のような人がリーダーシップを持っていると思っている人は、ヒトラーもリーダーとして受け入れるはずです。
そうした管理型のリーダーが必要な組織や状況もあります。
しかし、時代の変わり目にはそうしたリーダーシップは危険でもあります。
おそらくこれは一般的な常識とは反対でしょうが、私はそう確信しています。

最近の状況を見ていると、民主党議員の多くは、小沢さんや鳩山さんをリーダーだとは思っていないようです。
大きな志がなかったというべきでしょうか。
小さな正義感は大きな正義を壊すこともあるのです。
もちろんその逆もありますが。

黄門様などとおだてられたボケ老人の渡部恒三さんによって選ばれたといわれる民主党七奉行の何人かが、小沢批判を始めましたが、いつの時代も敵は内部にいることの現れです。
しかしこれしきのことで、それまでリーダーとしてきた同志の弱みに付込む輩が、次の民主党を担うのだとしたら、この党は寒々としています。
私自身は野田さんや枝野さんの評判をむかしから少し聴いていたので、これまで信頼してきましたが、今回の同志を後ろから撃つ卑劣さには失望しました。
彼らには「疑わしきは罰せず」という民主主義は通用しないようで、検察に調べられたらもう有罪という冤罪支援者だといって良いでしょう。

なんだかとても空しいです。
みんな卑しすぎます。
信念を持って、大きな政治に取り組む人はいないのでしょうか。
小賢しい正義など、時代の変わり目には要りません。
もちろん個人の生活の話をしているのではありません。
念のため。

■安治川親方の行動がとてもうれしいです(2010年2月3日)
日本相撲協会の理事選挙で、所属する立浪一門の候補者ではなく貴乃花に投票したと公表した安治川親方の言動は、実にさわやかです。
今朝、最初に見たテレビ報道がこれでしたが、おかげで今日は気分よく起きられました。

立浪一門の事前の会合では、現職理事だった大島親方に投票する約束だったと見られ、そうですが、彼は悩んだ結果、「角界を変えて欲しい」という思いで、尊敬する貴乃花に投票したのだそうです。
しかし、一門に迷惑をかけたけじめとして、今日、協会に退職届を出すつもりだといいます。
私にはとても感動的な話です。

今でもテレビでは、貴乃花が何を改革したいのかわからないなどといっているコメンテータが少なくないですが、この一事をもっても、改革することの内容は明白です。
説明責任という言葉が流行っていますが、ビジョンや価値観のない人にはいくら説明してもわからないはずです。
しかし安治川親方にはわかっていたのです。
状況をよく知っていれば、わかるはずなのです。
説明責任は、同時に理解責任を必要としています。
その議論はまったくありませんが。

わが家には15歳の老犬がいます。
彼は時々、無闇に吼えるのですが、吼えると近所迷惑なので吼えないように諭しますが、一向に聴く耳をもちません。
老犬のため、耳も悪いのです。困ったものです。
あんまり的確なたとえではありませんが、犬やサルにどんなに丁寧に説明してもわからないことがあるのです。
日本の国民が犬やサルほど賢いとは思いませんが、最近の日本の国民は「説明責任」と吼え続けていて、私にはうるさくて仕方がありません。

間違いました。
日本の国民が犬やサルほど馬鹿だとは思いませんが、「説明責任」というのであれば、もう少し自らも理解する努力をするべきかもしれません。

■横浜事件と小沢事件(2010年2月5日)
昨日は出張していたのですが、夜帰宅して、横浜事件と小沢不起訴・石川起訴のニュースを知りました。
同じ日にこの2つが伝えられたのは、またまた何かの意味を感じます。

横浜事件は前にも書いたように「免訴」などというおかしな扱いを受けていましたが、刑事補償が認められたので、少しは司法への信頼が戻ってきました。
権力を扱う者は、間違いを正す姿勢を常に持たねばいけません。
もっとも「権力」は「無謬性」、つまり間違いを犯さない存在なのです。
権力は人を殺しても犯罪にはならず、事実無根で犯罪者に仕上げることもできる存在なのです。
国家権力は「正義」なのです。

横浜事件を企図したのは、いわゆる「特高」です。
今でいえば、「特別捜査部」、いわゆる「特捜」です。
両者には「同じ血」がながれています。
自らが「正義」だと思う発想です。

横浜事件を起こした「特高」権力は、日本を壊しました。
多様な意見は封じられ、一部の権力者の私欲を満たす戦争へと向かったわけです。
それを国民は応援しました。
マスコミが応援するように仕向けたからです。

小沢事件と横浜事件を並べて語るのは、あまり適切ではありませんが、私はどうしてもその両者に共通点を感じます。
そこに「検察の闇」を感ずるのです。
辞任すべきは小沢幹事長ではなく、検察総長であり東京特捜部長です。
もちろん担当した担当世紀人検事は裁かれなければいけません。
もしやましいところがないのであれば、テレビの前ではっきりと説明すべきです。
真の犯罪者はいつもかを見せません。
国を壊した責任をどうとるのか。

書きすぎであることは承知していますが、これくらい書かないと気が収まりません。
日本の司法の恐ろしさは、「起訴」されただけで犯罪者扱いされ、政治生命も社会生命も奪われてしまうことです。
いえ、正確には、起訴のうわさをながすだけで、人を殺すことができるのです。
私が大学で学んだ法理論とは全く違います。

起訴するにはそれなりの理由があると思うかもしれません。
たしかにそうですが、その「理由」はいくらでもつくれます。
別件逮捕はその典型例ですが、なにも別件にしなくても、可能です。
手続法を完全に守っている人など、おそらくいないでしょうから。

せめて私たちは、「起訴」の意味を理解すべきです。
起訴されて「連行」されたら、どうなるか。
多くの事件がそれを教えてくれていますが、だれも自分のこととして、その恐ろしさを考えることはないのでしょう。
石川議員の孤独に同情します。

■政治と金(2010年2月5日)
返す返すも残念なのは、政権交替で動き出した日本の建て直しが、見事に検察とマスコミの連携で躓かせられたことです。
本来であれば、建設的な議論がなされる可能性があったにもかかわらず、マスコミは自民党と癒着してきた財界や官僚(検察官僚も含まれます)と結託して、そうした創造的な動きを壊してきました。
シロを黒にすることにおいては、これまでも何回も実績のあるマスコミは、見事にそうした役割を果たしてきました。

政治と金の問題が叫ばれますが、そもそも政治とは金と深く結びついています。
そうした政治状況を発展させてきたのは官僚主導の自民党政権でした。
行政の中心はいうまでもなく税金を使うことです。
その基本原理は、企業と同じく金銭です。
それを忘れてはいけません。

むかしは政治とお金の問題はなかったのでしょうか。
明治政府を思い出せばいいでしょう。
政治はもともとお金とつながっているのです。
そんなことは誰でもわかっているはずです。

それに、例えば報道ステーションの古館さんや朝日新聞の星さんは(それ以外のキャスターは論外ですが)、4億円がとても巨額な金額で、それを自宅に長年保管していることなど考えられないと盛んに言います。
私にとっては、4億円などは些少な金額にしか思えません。
野球選手の年俸を知っているのでしょうか。
官僚が無駄遣いしている金額を知らないのでしょうか。

たしかに庶民の生活レベルから考えれば、4億円は縁遠い金額ではあります。
私の年収は200万円程度ですので、1億円の十分の一のお金ですら見たことはありません。
しかし政治の世界では4億円など小さな金額です。
問題を特別視させる報道ステーションには違和感があります。
古館さんの個人資産はいくらくらいでしょうか。
気になります。

たとえば、テレビで意味もなくはしゃいでいるタレントにとっても4億円は身近な金額かもしれません。
今やそういう状況にしてしまったのです。
政治家は個人で何兆円のお金でも無駄遣いできることは、つい最近、定額給付金で体験したはずです。
政治の世界の金額と庶民の生活の金額とを混同してはいけません。

政治と金を切り離したいのであれば、今とは違った経済システムと政治システムを構築すべきです。
政治とは「金の分配」であり、経済とは「金儲け」というような状況の中で、政治と金の問題をいくらさわいでも何も解決しないように思えてなりません。

解決策はお金の流れの透明化であり、それができれば制度や規制など不要なように思います。
企業の政治献金がなぜ悪いのか、私にはなかなか理解できません。

■起訴された時点で議員辞職するということの意味(2010年2月5日)
石川議員の件で、自民党の大島幹事長は「自民党なら起訴の時点で(辞職)やむなしとなる」と記者団に述べたといいます。
これまでなら何となく読み流していたのですが、最近、私自身の感度がいささか過剰に作動しているせいか、この発言が気になりました。
検察に起訴されたら議員辞職。
これって少しおかしいような気がします。
それでは、国王ならぬ、検察に隷属した存在のような気がします。
自民党はそうした政党だったのだと改めて気づいた次第です。

国会議員は選挙という仕組みを通して、国民が選びました。
検察を担う検事は一つの職業でしかありません。
検事という仕事には社会性はありますが、実際にその使命を果たす個人としての検事は、国民が選んだ存在ではありません。
これまでもおかしな事件を起こした検事は決して少なくありません。
その偶然選ばれた存在でしかない検事が、取り立てて公開されているわけでもないプロセスを通して、国民が実際に汗をかいて選んだ議員を起訴したら、その罪の軽重にさえ関係なく、しかも裁判を受ける前に辞職するという論理は、どう考えてもおかしいでしょう。
それでは裁判などいりません。

私の感覚がおかしいのでしょうか。
そうなのでしょうね、きっと。
いやな世の中を生きているような気になってきました。

■企業はなぜ同じ間違いを繰り返すのか(2010年2月6日)
「プリウス」のブレーキ不具合問題でのトヨタの対応の遅さが問題になっています。
こうした問題は、これまでも何回も起こっています。
危機管理問題として、かなり話題になった時期もありますが、どうもトヨタはそこから何も学んでいなかったのではないかという気がします。
私は1980年代から90年代初めに書けて、企業のコミュニケーション戦略に、企業の内外で少し関わってきましたし、経済広報センターに提案して日本広報学会の立ち上げにも関わりました。
そのころから何が変わったのか、私にはわかりませんが、少なくとも「進化」していないことは確かです。
私が大企業のコミュニケーション戦略に失望して興味を失ったのは1990年代の後半ですが、以来、状況は退化しているように思います。

今回の問題で昨日、トヨタの社長が記者会見しましたが、そこで次のような発言をされました。
「できる限り早く対応できる方法を検討するよう社内に指示している。決まり次第、順次報告する」
がっかりしたというか、驚きました。
トヨタには何人か友人知人がいますが、あまりにもひどい発言だからです。

どこかひどいか。
「検討するように指示」
「決まり次第」
そこには当事者意識と瀬金意識が全く感じられません。
企業がいかに壊れてしまっているかを如実に示しているのです。
社長であれば、こう言うべきでしょう。
「私が中心になって対応策をすぐに検討し、決定次第すぐに発表します」
しかし社長の記者会見のタイミングはあまりに遅かったのです。
おそらく取り巻き連中の慮(おもんばか)りでしょう。
創業者一家への主体的な経営に期待したのは間違いだったようです。

前にも書きましたが、トヨタの業績急変は、おそらく経営戦略参謀の不在の結果ですが、トヨタにはCIO(情報戦略参謀)も不在のようです。
広報戦略の基本が全く守られていないのです。

トヨタにかぎりませんが、大企業の企業文化に関する取り組みも、いろいろとお聞きしていますが、1980年代の取り組みに比べるといかにもお粗末な気がします。
基本はスタッフの不勉強と内部だけでの閉鎖的な取り組みのためではないかと思います。
1980年代にはもっとみんな真剣でした。
日本の大企業の時代は間違いなく終わったように思います。

■情報社会では「思考」は必要か(2010年2月8日)
各新聞社による内閣支持率が出ました。
この数字を見ていると、各紙の報道姿勢がわかるような気がします。

ところで、元検事の郷原信郎さんが、日経ビジネスオンラインで2月2日から2回にわたって、「検察の「暴発」はあるのか」を書いています。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100201/212548/
この問題に関心のある方にはぜひお読みいただきたいと思います。
その記事の中で、郷原さんは自著『検察の正義』(ちくま新書)の中で述べたことを紹介しています。
私はまだ同書を読んでいませんが、とても共感できることなので、引用させてもらいます。

検察の危機の根本的な原因は、社会的価値判断が不要な一般的刑事事件中心の刑事司法において「正義」を独占してきた検察が、社会が複雑化・多様化し、複雑化・多様化する中で、様々な分野における法令違反行為に対する健全な制裁機能を果たすことを求められているにもかかわらず、組織の閉鎖性、硬直性ゆえに、社会の構造変化に対応できず、大きく立ち後れていることにある。

これはなにも検察だけの話ではありません。
司法界全体にいえることでしょうし、それ以外の分野でも、「組織の閉鎖性、硬直性ゆえに、社会の構造変化に対応できず、大きく立ち後れている」ところはたくさんあります。
個人もそうです。
「組織」を「思考」と置き換えてみましょう。
「思考の閉鎖性、硬直性ゆえに、社会の構造変化に対応できず、大きく立ち後れている」。
まさにそれは私たちの現実を示しているように思います。

検察の今回の行動は、内閣支持率を低下させただけでなく、国の再建に向けての出鼻をくじきました。
マスコミは、明らかにそれに加担しています。
情報社会という時代状況の恐ろしさを感じます。

情報リテラシーなどという言葉が使われていますが、そういう言葉を使う人に限って、大きな価値観がありません。
ただただ情報技術の「使い方」をリテラシーなどという言葉で語っているだけです。
馬鹿とはさみは使いよう、という言葉がありますが、私が感ずる限り、情報リテラシーを語っている人で「馬鹿」でない人にお目にかかったことはありません。
つまり、「情報をつかう」のではなく「情報につかわれている」という意味です。
情報は、人を馬鹿にするのかもしれません。

情報社会にはそもそも「思考」など不要なのかもしれません。
私もたぶんすでに「馬鹿化」しているのでしょう。
悲しい話です。

郷原さんの記事はぜひお読みください。

■(閑話休題)報道ファッショ(2010年2月9日)
いつも以上に暴言なので、それに冗長なので、よほど暇な人だけ読んでください。

最近の「報道ステーション」を見ていると、完全に大政翼賛会的報道に切り替わったように思います。
昨年までは、私にはそれなりの批判精神を持っていたように思いましたが、いまはもう基軸のない単なる宣伝機関に堕してしまった感があります。
やはり企業などからお金を出してもらっていることの限界なのでしょうか。

ではNHKはどうか。
私のホームページに毎月投稿してくれている武田さんから最近よく電話があります。
武田さんは最近のNHKの解説委員の発言に怒りを感じているのです。
武田さんとNHKのやりとりは先月掲載しましたが、その続編を載せました。
もし時間があればお読みください。

私は、武田さんと違って、NHKは「国民の放送局」ではなく「国家の宣伝機関」と考えています。
ですから武田さんの議論は、サルに喧嘩を売っているような話に感じます。
あまり良いたとえではありませんが、相手を間違っているということです。

NHKは「御用情報局」ですから、ある権力の意向を斟酌して偏った世論を作るのがミッションなのです。
100年近く前に、国民を戦争に駆り立てたのはまさにそうした御用情報局でした。
まあそのことをみんな忘れてしまっている国民の寛容さは驚くほどです。
政治を良くしようと考えていた小沢さんと鳩山さんの政府は、無知蒙昧な世論によって壊されようとしています。
まあみんなでまた破局に向かうのも良いでしょう。
まさにアメリカ資本の望むところでしょう。

ここまで書いてしまうと、さらに書きたくなりました。

「御用情報局」と書きましたが、そもそもすべての存在は「御用的な」存在なのかもしれません。
学者の主流はすべて「御用学者」です。
大学は、詰まるところ「御用学者の宣伝機関」でしかありません。
国民を洗脳するのが彼らの役割です。
豊かに、幸せに暮らしていた人々を、働き蜂に育てるためにこそ近代の学校はつくられました。
寺小屋や私塾のような「学びの場」とは流れを異にしています。

学者が好む統計はもちろん「管理」のための手段です。
統計の原語は“statistics”ですが、これは “state”(国家) の“ist”(信奉する人)の “ics”(学)というわけです。
つまり国家体制を実現するための「御用学問」として出発しています。
そこから派生したのが、経済学、さらには経営学です。
彼らは生まれついての御用学者なのです。

念のためにいえば、そうしたことが悪いということではありません。
熊本水俣病で事実を隠した清浦某教授などはれっきとした犯罪者だと私は思いますが、彼にしても国家のために、産業発展のためにやったことです。
おそらく主観的には、「私利私欲」など無縁だったでしょう。
そこが恐ろしいところです。
ちなみに、今回の小沢さんの疑惑事件も、もしあったとしても、おそらく同じように、小沢さんにとっては「私利私欲」ではなく、国家のためのことだったと私には思えます。

検察や裁判官は何をやっても先ず罰せられませんし、元検事の堀田力さんが恥じらいもなく表明しているように、彼らには説明責任などは無縁なのです。
彼らは「超法規的」な存在なのですから。
報道機関も同じようなものです。
不正な報道はもちろん罰せられますが、いちど報道されてしまえば、それが事実であろうと事実無根であろうと関係なく、報道効果は実現できます。
ですから、報道機関もまた「超法規的」な存在といっていいでしょう。

石器時代は、豊かで幸せだったという人もいます。
つまり人間よりもサルが幸せだということです。
そのサルに喧嘩を売っては、勝負は目に見えています。

なんだかとんでもない「落ち」に行きつきました。
何しろこの時評は、書きながら考えているものですから。

長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。
また私の評価はきっと落ちてしまったでしょうね。
いやはや。

■村木厚子さんの反省(2010年2月9日)
小沢事件での東京特捜部の「犯罪」と同じような事件は、繰り返し繰り返し行われているようです。
しかしみんな当事者にならなければ、それに気づきません。

障害者団体向け郵便制度悪用事件に絡み、逮捕された厚生労働省の村木厚子さんの事例はどうでしょうか。
あまりテレビでは取り上げられませんが、これもまた大阪地検特捜部の「犯罪」ではないかという声が少なくありません。
たとえば、市民メディアのJanJan newsの記事を読んでください。
私もあまり知らなかったのですが(なにしろ被疑者が厚生労働省の官僚だったので、興味を持ちませんでした)、あるメーリングリストで現状を知りました。
それからいろいろと調べてみました。
実に疑わしい話です。
被疑者が、でなくて、検察が、です。

私が関心を持ったのは、保釈された村木さんが1月22日に行った記者会見での次の言葉です。

「今までは、誰かが逮捕されたというニュースを見聞きすると『悪い人が捕まった』と感じていたが、今ではすべての『逮捕というニュース』を、これは間違いではないか、大丈夫か、と気に掛けるようになった」

詳しくは次のサイトを見てください。
プロップステーションの竹中ナミさんのブログです。
関連情報が集められています。

ちなみに、上記の言葉を紹介している記者は、「起訴された人=悪人」という決め付けがなくなるように願うと書いていますが、小沢事件に関しては、国民の9割近くが、見事にこの構図にはまっているわけです。
そんな国民に民主主義を語る資格はありません。
国民みんなが起訴されないと、この状況からは抜け出せないのでしょうか。

この事件の大阪地裁での公判傍聴記は、「村木厚子さんの裁判を見守り支援する部屋」のサイトで順次報告されています。

こうした事件は、氷山の一角でしかありません。
日本の検察の実態を、私たちはもっときちんと知るべきです。
そしてそれに迎合しているマスコミの現状も。
自分が罠にかけられてからでは遅いのです。

■もう一つの閑話休題:小市民のいじましい生活ぶり(2010年2月9日)
昨日はいささか品のない閑話休題を書いたので、もう一つの閑話休題を書きます。
小市民的な話で、そんな暮らしをしている人間に、偉そうなことをいわれたくないと思われそうですが、事実は隠せませんから。

先日、テレビで森永卓郎さんが、カードをうまく使うかどうかで、経済的には大きな違いが出ると話していました。
森永さんの無邪気な笑顔が私はとても好きなのです。
それに、300万円生活を提唱しているらしいので(私の勘違いかもしれません)、私と同じ世界の人のように感ずるのです。
だとした、彼の生活術は学ばなければいけません。
テレビの前に座ってしっかりと見ていたのですが、要はたくさんカードを使い、それを二重三重に重ねて使うと良いのだそうです。
私にはやはり無理かなと思いましたが、とりあえず、あるスーパーのカードを申し込みました。
遅ればせながら、これからは私もカード生活者です。
これまでは、スイカしか使いこなしていなかったのですが。
そのスイカにしても工夫するといろいろメリットがあるというのです。
この時代は、いろんなことを知っているかどうかで経済的にはだいぶ違うようです。
それって、あまりフェアな社会ではないと思いますが、そういう話を聞くと、ついつい自分も得をしたくなるのが、私のいやしいところですね。

ところで、スーパーのカードをネットで申し込むと何かのポイントがもらえるのだそうです。
今日は自宅で仕事をしていたのですが、その合間にネットで少しそのあたりのことを調べてみました、
森永さんは言いませんでしたが、実にいろいろとあります。
朝日新聞の購読をネットで申し込むとANAのマイルがもらえるようです。
それでついつい申し込んでしまいました。
ところがそれは新規購読者だけだというのです。
わが家はずっと朝日新聞を購読していますので、そのサービスの該当にならないと配達所から電話がかかってきました。
それでついつい、それでは朝日新聞を一時購読中止にします、と答えてしまいました。
欲に目がくらむとはこのことです。
そんなわけで来月からわが家は朝日新聞から違うものになります。
ところが他の新聞にはあまりメリットはないのです。
いまさら朝日新聞のお店に配達は頼めません。

そうこうしていたらドアフォンが鳴り、出てみたらマーケティング会社の郵送アンケートに協力してくれないかという人が来ていました。
是非といわれましたが、朝日新聞のこともありましたのでお断りしました。
しかし、1回答えると1000円の図書カードがもらえるのだそうです。
ちょっと残念なことをしました。
その代わりに、ネットのアンケートをすることにしました。
いろいろやって10ポイントほど獲得しました。
これは10円相当なのでしょうか。
ネットのくじもやってみました、
3つやったら一つがアタリでした。
喜んだのですが、もらえたのはわずか1ポイント。

楽をして生きていくのは、やはり大変です。
しかし、1円単位で生活を考えるのは、それなりにわかりやすくていいものです。
みなさんもやってみませんか。
そんな暇はないでしょうね。
すみません。

■ニュースにおける事実と解説(2010年2月10日)
政治関係のテレビのニュースを見ていて、いつも感ずるのですが、あきらかに「事実」ではないものの報道が多すぎます。
「・・・と思われる」「・・・という意見がある」「・・・とみられる」というような表現が多いということです。
それが誰の意見かはわかりませんが、ニュースを見ている人は「事実」だと受け止めやすいです。

「事実の映像」だけを使っても、まったく正反対の表現ができることはよく言われることです。
どの場面を、どの順番で放映するかで、視聴者へのメッセージは大きく変えられます。
その段階ですでに「事実」というものが危うくなってきますが、それに輪をかけて、編集者の憶測をいれてしまうのが報道です。

最近はニュース以外の報道番組が増えていますが、せめてニュースではできるだけ「事実」にこだわって、勝手な憶測解釈は入れないで欲しいと思います。
最近のニュースには、憶測が増えてきているのが気になります。
私たちの、ニュース報道を読み解く姿勢が求められているように思います。

■若い世代への期待(2010年2月11日)
石川議員が民主党から離党しました。
その会見の模様をテレビで見ました。
とてもさわやかな顔をしていました。
私は、石川議員は離党も辞職もする必要はないし、してほしくないと思っていたので残念ですが、石川さんにとってはきっと一番良い決断なのだろうと思います。

会見で、石川さんは「これからも地域や国のために尽くしたい」と言っていました。
その言葉は石川さんの本音でしょう。
大人と違って、若者はこの種の発言では嘘は言いません。

実は、昨日、別の若者から同じ言葉を聞いたところでした。
「支えあいサロン」をやったのですが、そこで仕事の目的のような話になりました。
それを受けて、ある若者が「国のためかなあ」といいました。
私を含めて「大人たち」は、「よく考えていくと必ず具体的な誰かがいるはずだ」と言いました。
しかし彼は最後まで意見を変えませんでした。
そのやりとりで、むかし、同じことを聞いたことを思い出しました。
調べて見たら、正確には「日本のために働く」でした。

私は、国のためとか社会のためとかというのが嫌いです。
というか、理解できないのです。
私の生き方は、つねに「誰かのため」でした。
人生も、仕事も、活動も、すべてそうです。
そこには必ず具体的な個人がいます。
このブログでも、「みなさんは誰のために生きていますか」という問いかけをしたこともあります。

しかし、昨日、今日と「国のため」という言葉を聞いて、もしかしたら若者たちのほうにこそ、真実があるのではないかという気がしてきました。
真実を見抜く目は子どもにありますが、もしそうであれば、社会で「汚染」された大人よりも、若者の方がずっと真理に近いはずです。
大人たちは自らのためを生き、若者は社会のためを生きる。
そういっていいのかもしれません。
まことに、子どもや若者は「社会の宝」です。

■「金の切れ目が縁の始まり」(2010年2月12日)
時評ではいつもかなり「怒り」の内容が多いのですが、私の生活にはむしろ「怒り」よりも「うれしさ」が多いのです。
今年はそうした「あったかい話」を書こうと年初に予告しましたが、それが実現できていません。
しばらくそうした話を書こうと思います。

先ずはこの数日に起こった話です。
3月に大阪で小さな集まりをやりたいと思いつきました。
しかし大阪で会場を取るのが難しい。
そこで関西の友人たちに会場を紹介してくれないかとメールを出しました。
そうしたら早速2人の友人から連絡がありました。
自分が関わっている施設を無償で貸してくれるというのです。
やるかどうか、ちょっと迷っていたのですが、決断ができました。

いずれも、コムケア活動の仲間です。
おそれぞれお会いしたのはもうだいぶ前ですし、お会いしたのも一度か二度です。
その後もネットではつながっていましたが、こんなに速く会場提供をしてくださるとは思ってもいませんでした。

コムケア活動にはいくつかの理念があります。
そのひとつが、「金の切れ目が縁の始まり」です。
コムケア活動は最初、NPOに対する資金助成プログラムから始まりました。
住友生命が資金を提供してくれました。
単なる資金助成活動には、私自身大きな違和感がありましたので、資金助成はあくまでも「入り口」とし、それに応募してくれた人たちとの「つながり」を育てることを考えました。
それで、応募した人たちの交流や支えあいの支援を行うことにしました。
そのおかげで、今は全国に、ゆるやかなネットワークができています。
今回の会場探しは、そうした仲間からの提供でした。

私は金銭への依存度をできるだけ減らす生き方を目指しています。
ですから「物々交換」や「事々交換」を大事にしています。
そうはいっても首都圏での生活はお金がかかります。
しかし、そうしたなかでもお金依存を減らしていくことは可能です。
そうした生き方を目指していると、お金以上に大きな「ごほうび」があることに気づきます。
今回の会場提供にしても、お金が節約できたという話ではありません。
お互いに「支えあい」ができる「うれしさ」を共有できたという話です。
とっても気持ちがあったかくなるのです。
こういうことが毎日のようにあります。
ですから私の生活は「怒り」よりも「うれしさ」が多いのです。

ちなみに、私も東京の湯島に10数人なら集まれる場所があります。
東京で小さな集会をしたい人がいたら、可能な範囲で開放したいと思っています。
気楽に声を掛けてください。

■みんなを幸せにするお金(2010年2月13日)
福岡のハーモニカのストリートパフォーマー、西川さんの話は以前、書いたかもしれません。
その生き方に私はいろいろと教えられています。
西川さんから来るメールは、いつも「うれしい話」で、元気がもらえます。
実名を出してしまったので、あまり詳しくは書けなくなってしまいましたが、その片鱗は西川さんのブログ(たとえば「素敵なプレゼント」)を読むと少し味わえるかもしれません。

ここでは以前からお聞きしていた、実にうらやましい話を一つだけご紹介します。

西川さんは毎年ある会の総会で、ハーモニカ演奏をしています。
その会のメンバーは、西川さんの演奏を心待ちし、その価値を高く評価しています。
ですからそのギャラはとても高いのです。
多額のギャラを払っても西川さんの演奏をぜひ聞きたいということで、会の財政が傾くくらいのギャラを払うのです。
西川さんはとてもうれしいでしょう。

ところが話はそれで終わりません。
西川さんは、その会の活動に共感しています。
それで、いただいた多額のギャラをいつも全額その会に寄付するのです。
そのおかげで、その会の財政は傾くことなく、健全性を維持できるのです。

西川さんは、
「金の論理」を超えていくための、私たちの小さな試みの一つです。
と言っています。
とてもあったかいお話です。
こういうお金は、みんなを幸せにします。
お金はこうであってほしいです。
お金まで味方にしてしまう。
まさに西川さんらしい、しなやかでしたたかな生き方です。

ちなみに、西川さんはさまざまな問題も抱えています。
幸せな人はみんなそれぞれに「さまざまな問題」をかかえているものです。
私も、それなりに「幸せな人」ですが、「問題」はそれなりに抱えています。
神様はとても「公平」だと私はいつも感心しています。
でも、問題を抱えていればこそ、「豊か」で「幸せ」になれるのかもしれません。

■「お互い様応援団基金」(2010年2月14日)
独り暮らしの友人が病気になってしまいました。
何か出来ることはないかと考えたのですが、考えがまとまりません。
悩んでいるうちに、その人の友人からメールが来ました。
みんなでその人を応援するために「○○さん応援団基金」を創りたいというのです。
とても心があったかくなりました。
みんなで少しずつお金を出し合えば、その人の医療費や生活費の不足分を補えるかもしれないということもありますが、それ以上にその人には「安心感」を与えるのではないかと思ったからです。
その人の性格から考えると、そうした資金的な支援は好まないかもしれませんが、この応援団基金は、むしろ「みんなが応援しているよ」というお守りのようなものになるでしょう。
そう思って、私も参加させてもらいました。

その基金のメールをもらう前に、私は全く別の理由で、基金を創ろうかと思っていました。
数十万の金額で動きづらくなっている人たちが私の周りにいます。
私も以前はそういうこともありました。
数十万円のお金を融通しあうような、自分たちの基金を創って、いざと言う時にお互いに使い合える仕組みが作れないかと思ったのです。
20人が毎月1万円ずつ積み立てれば、5か月で100万円たまります。
その100万円を短期の資金繰りに困った人が使えるようにしたらどうだろうという話です。
しかしいろいろと考えましたが、あまり現実的な効用が生み出せません。
それでストップしていたのです。

「○○さん応援団基金」をヒントに、「お互い様応援団基金」が創れないかと思い始めています。
お金に余裕がある人が基金に寄付し、それを効果的に使える人が効果的に借用し、うまくいけば利子までつけて返却する仕組みです。
でもこれもあまり現実的ではありません。

そこで決めました。
4月から私が少しがんばってお金をもらえる仕事をして、100万円ためて、そうした基金をスタートさせようと思います。
その基礎はすでにあるのです。CWS基金です。
ミスター DAX という人から寄付までもらっているのです。
CWSコモンズ村という仕組みもあります。
そうしたものも含めて再考しようと思います。

お金もうまく活かせば、きっと役に立てるのでしょう。
今年はそれを少し目指してみようと思います。

■「児童の世紀」
(2010年2月15日)
今日は「うれしい話」ではありません。
友人が、いま私が取り組んでいることに関連して、エレン・ケイの「児童の世紀」を読むといいと本を貸してくれました。
これもシンクロニシティなのですが、つい最近読んだ本田和子さんの「それでも子どもは減っていく」(ちくま新書)の中の次の文章が記憶に残っていました。

スウェーデンの女流思想家エレン・ケイが「児童の世紀」と称えたこの世紀は、未来志向的な明るい光に照らされて、子どもが輝いて見えた時代だったのである。

お恥ずかしい話ですが、私自身はエレン・ケイを知りませんでした。
ただ20世紀は「子どもが輝いていた時代」として始まったのだということが印象的で、その原典を読んでみようと思っていたのです。

その人から「エレン・ケイって知ってますか」と訊かれた時に、すぐに思い出せなかったのですが、お借りした「児童の世紀」を読み出して、「なんだ、この本を読もうとしていたんじゃないか」と気がついたわけです。
私の記憶力や思考力もかなり危うくなってきているようです。

ところで、「児童の世紀」の冒頭に、訳者の小野田信さんが本書の解題をしているのですが、そこにこんな文章がありました。

「工業化の進むに従って、児童からの労働搾取が、ますます激しくなっていった。働く青少年の躾は全く顧みられず、彼らは若さを失っていじけた大人のように振舞うようになった。」

この文章を読んで、すぐ思いついたのが、次の言い換えです。

「市場化の進むに従って、児童からの時間搾取が、ますます激しくなっていった。顧客になった青少年の躾は全く顧みられず、彼らは若さを失って飼い慣らされた大人のように振舞うようになった。」

20世紀は「児童」に光をあてることにより始まったようですが、21世紀は「児童」をどう扱おうとしているのでしょうか。
19世紀と同じように、「児童」を食いものにしている人が少なくないように思います。
食いものにされた児童が大きくなったら、高齢者を食いものにすることは目に見えています。

子どもをどう捉えるか。
少子化論議よりも、そのことのほうが喫緊の問題のような気がします。

■競争したら負けるから競争はしないんです(2010年2月15日)
また「あったかい話」に戻ります。
なにしろ「寒い毎日」ですから。

小宮山さんから、テレビの「夢の扉」でコミーが放映されるよ、という連絡がありました。
コミーの社長の小宮山さんはよくテレビに出るので、もういいかと思っていましたが、今度は自信作がまた登場するからというのです。
今度の話題は絶対に割れないミラーでした。
でもそれが今日の「あったかい話」のテーマではありません。

「競争したら負けるから競争はしないんです」
小宮山さんがいつもいう言葉が、今回も語られていました。
何回聞いても「いい言葉」です。
競争は負ける人がいるから嫌だというのではありません。
競争すると私は負けるんですよ、という小宮山さんが私は好きなのです。
最初から勝とうとなどは思っていない。
だから小宮山さんには競争がないのです。

企業の経営幹部の人たちと話していて、「愛」や「支援」がテーマになることが増えてきていますが、競争からは抜けられません。
競走はいいですが、競争はなくてもいいように思うのですが。
でもそういう私自身が企業の人を相手にすると、「競争戦略」と「成長戦略」が大事だなどとついつい言ってしまっているのです。
困ったものですが、現に企業を経営し、毎年きちんと利益をあげている小宮山さんには競争など眼中にないのです。
見事というしかありません。

競争しなくても、会社のみんなも、お客様も、みんな幸せになれる会社。
小宮山さんの生き方を学ばなければいけません。

■本当の安全はお金ではなく、友達とコミュニティだ(2010年2月16日)
不思議な友人がいます。
鈴木さんという、私よりはたぶんふた回り以上若い友人です。
その鈴木さんから、手紙と「アエラ」の記事のコピーが送られてきました。

勝手に手紙を引用します。

今週の「アエラ」におもしろい記事があったのでお送りします。
1年間まったくお金を使わないで生活してみたイギリス人青年の話です。
最後の方に、「本当の安全はお金ではなく、友達とコミュニティだ」とありました。
いまの日本はそこが危うくなっているのかもしれません。
それでますますお金に依存しようとしているのでしょう。

このイギリス青年の行動には共感はしませんが、彼が気づいたことはよかったです。
「本当の安全はお金ではなく、友達とコミュニティだ」
サルでもわかることなのですが(サルの世界にはお金はないので当然ですが)、そんなことさえも今ではほとんどの人が忘れているのです。
そのことを忘れさせることで、経済が発展してきたともいえるのですが。

こういう話は、最近、私のオフィスでやっている、支えあいサロンや農的生き方を考えるサロン、時にはオープンサロンでよく話題になります。
友達や仲間がいれば、そして土とのつながりがあれば、お金など本当に僅かあればいいのです。
そもそもお金とはそういうものだったはずなのですが。

ちなみに、手紙を送ってくれた鈴木さんは、そうしたお金に依存しない生き方を私に意識させてくれた私の師なのです。
もっとも最近は、私の方が多分お金離れできていると思うのですが。
そうですよね、鈴木さん。

■収入がなくてどうやって暮らせるのか(2010年2月17日)
私がどうやって暮らせているのか不思議がる人もいますが、私はそれなりに豊かに暮らしています。
昨日の夕食はなんと新鮮な「関さば」と「関あじ」の刺身の食べ放題でした。

「関さば」「関あじ」は、福岡の蔵田さんが自分で釣って送ってきてくれたのです。
蔵田さんとは最初は仕事の関係で知り合えたのですが、仕事が終わった後もいろいろとお世話になりっぱなしです。
たぶん私の生き方があまりに頼りないので心配なのでしょう。
無上の善人の蔵田さんは、伴侶を亡くした私の暮らしをいつも心配してくれていて、自分で作った野菜や海産物を折りあるごとに送ってくれるのです。
蔵田さんは、定年で会社を辞めた後、故郷に戻り見事に農的な暮らしに転身したのです。
いつも貰いっぱなしなのですが、まあお返しは来世でと思っていますので、気楽にご好意を受けています。
おそらく蔵田さんはかなりの散財だと思いますが(奥さんの話では蔵田農園の野菜はどうもコストがかなりかかっているようです。もちろん完全無農薬ですが)、私は一円もお金がかからないのです。

お金ではなく友達とコミュニティ。
本当にそう思います。

都市圏での生活では、しかしお金もいろいろとかかります。
湯島に小さなオフィスを持っていますが、その維持費もそれなりにかかります。
ところがそこもみんなが心配してくれるのです。
ですから今でも何とか維持できているのです。

周りの人たちに支えられて、私はいつもとても「あったかい」のです。
友達さえいれば、お金がなくても安心です。
まあそれでも困る時はあるでしょう。
その時は、その時に考えればいいでしょう。
誠実に生きていれば、あったかく生きていける。
そんな世の中にしたいです。
今は、私のような存在は幸運な例外としか言えないかもしれません。
それが残念でなりません。

■わずかな雪で世界が変わりました(2010年2月18日)
雪が積もりました。
家から見える風景が一変しました。
わずかな雪が積もるだけで世界の様相は一変します。
私はいつもこのことに感激します。
みんながちょっと意識を変えるだけで、社会は変わるということを、それは示唆しているからです。

そう思う人が増えてくると、社会はきっと、もっともっと「あったかい世界」に変わるでしょう。
それに気づかないでいると、いつか天から何かが降ってくるかもしれません。
ノストラダムスが予見していたように。

■地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている(2010年2月19日)
「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている」とは有名な言葉です。
最近、その事をまさに実感させられる体験を、2つもしています。
一つはNPO関係で、一つは企業の世界で、です。
あまりに生々しいので、具体的には書けませんが、善意とは何だろうかと考えてしまいます。

私は「大きな」という形容詞が大好きです。
別に拡大志向や成長志向があるわけではありません。
例えば、もう大昔ですが、1970年代に女性の社会進出が話題になっていたころ、女性は論理的ではないというような論調が広がったことがあります。
そうした議論で私が主張していたのは、「大きな論理性」でした。
女性の論理の組立は男性のそれとは違うだけであって、むしろ女性のほうが大きな視野で考えると男性よりも論理的だという主張でした。
だれからも指示されませんでしたが。

10年ほど前に始めたコムケア活動というのは「大きな福祉」を標榜しました。
福祉に大きいも小さいもないと怒られましたが、これは今では共感してもらえる人が増えてきました。

平和論でも、大きな平和を私は目指しています。
隣の人と仲良くすることから始める平和です。
人からはそれこそ「小さな平和」ではないかと笑われています。
でもとなりの人に声をかけることから、平和は始まるのだろうと思っています。

さて「善意」です。
今週、そうした「善意」の人やその善意の人に関わる「善意」の人に何人か会いました。
全く別の分野の人で、もちろん取り組んでいる課題は全く違います。
しかし、そうした人たちと話していて、共通のものを感じました。
ああ、これは「小さな善意」なのだということです。
ややこしいのですが、「小さな善意」「小さな親切」の大切さがよく言われます。
私もそうしたことに大賛成なのですが、どうもそこで語られる「小さな」とは別の「小さな」がありそうです。
もう少し整理しなければいけませんが、その善意がどこまでの世界の広がりを感じているかが大切なのです。

最近、「うれしい話」を少し書いてきましたが、そうした事例から「大きな善意」を読み取ってもらえるとうれしいです。
「善意」は両刃の剣なのです。

■日本人は無宗教なのか(2010年2月22日)
この頃、どうも「時評」をする気になかなかなれません。
政治も経済も、マスコミで話題になるのは私には全く興味のないことばかりだからです。
話題の国母事件にしてもテレビの報道の仕方や関係者の発言には、「おいおい」といいたい気分です。
そこで今日はちょっと大きな話題です。

いろんな集まりで、日本人は無宗教だという発言に時々出会います。
私は、日本人ほど宗教心の厚い国民は世界には少ないのではないかと思っている人間ですので、そうした発言を聞くと反論したくなるのですが、おそらくそれは「言葉の定義」の問題ですので、黙って聞き流すようにしています。

欧米はどうでしょうか。
神が死んだと言われて久しいですが、形式的には宗教教団の支配はまだかなり残っています。
神が死んだ宗教は「管理教団」でしかないと、私は思いますが、それに比べると日本の仏教界の組織はどうでしょうか。
葬式仏教と言われるほどに、運動面は弱いと批判されています。
しかし、葬式仏教で何が悪いのかとも思いますし、教団活動がないことが悪いわけではないでしょう。
ここでも私たちは、近代西欧の発想に呪縛されています。
仏教界がやれることは多いと思いますが、だからと言って政治の世界に出てくるような教団には、私は信仰や宗教性は感じません。

私は、自分の宗教心や信仰にはそれなりの自負があります。
でもだからといって、とりわけ何かをしているわけではありません。
ただ、生命のつながりを感じ、お天道様に怒られないようにさほど悪いことはしない程度の生活ですが、宮沢賢治に共感し、隣に気になる人がいれば気にするようにし、自分にできることはできるだけやろうとしています(やっているとは限りません)。
それになによりも、天の摂理を信頼し、霊的な存在にも心を通わせています。
来世も信じていますし、過去生の思い出もそれなりにあります。

神のために死のうとは思いませんし、神のために生きようとも思いません。
しかし与えられた自らの生は、誠実に生きようとしています。

私のような生き方をしている人は決して少なくありません。
私が地方や現場にこだわるのは、そこにはそうした人たちがたくさんいるからです。
私には、その信心深さにおいて足元にも及ばない誠実な人たちと出会えるからです。
そのうえ、たくさんの清浄な霊にふれあい、自らが浄化されるからです。

日本人の信心深さ、宗教心の豊かさに出会うたびに、日本に生まれたことをうれしく思います。
その日本の文化が、壊れてきていることが、とても寂しく哀しいのですが。

■現場から学ぶことに気づくことの大切さ〈2010年2月22日〉
昨日の朝日新聞に、水俣病に取り組む原田正純教授のインタビュー記事が掲載されていました。
とても共感できる内容で、出来るだけ多くの人に読んで欲しいと思い、ネットに掲載されるのを待っていましたが、この種の記事は掲載されないようなので、私が共感した部分だけでも呼んでほしいと思い、取り上げることにしました。

ご存知の方も多いでしょうが、原田さんは熊本大学時代にいち早く水俣病に取り組み、とても誠実な対応をされてきた人です。
私はお会いしたことも、講演をお聴きしたこともありませんが、原田さんの書かれたものを読んで水俣病への関心を持たせてもらった一人です。

発言のいくつかを引用させてもらいます。
私の勝手な解釈は不要でしょう。
                                         
「日本では、国の裁判対策として研究費を研究者に出し、都合のいい研究が行われてきました。大半の裁判が終わり、政治決着すると、研究費はがばっと削られました」
「(昨年9月、原田さんたちは不知火海沿岸地域の住民を検珍しましたが)140人の医師が1日半かけて約千人を診ましたが、四肢末端の症状の割合は約8割あった。この程度の調査すら国はしていません。最近、潮谷前熊本県知事から『知事時代、不知火海沿岸住民の健康調査を環境省に求めたが、患者の掘り起こしになるからと言われ、拒否された』と聞きました」
「医学が進歩しても治らない病気はある。それを前に医者は何ができるのか。治らない病気こそ、なすべきことがいっぱいあると知りました。水俣病事件の反省は、きわめて社会的、政治的事件なのに、医学だけで解決しようとしたところにあります」
「その反省から、今の大学で水俣学を始めました。足尾鉱毒事件の田中正造の谷中学がヒントです。住民を指導しようと現地に入った田中は、自分が学ぶことの方が多いと気づいた。だから谷中学をすると。これは私のことだと思いました。水俣学はいろんな分野の研究者の知恵をもらい、患者さんから学ぶ学際的・総合的な研究です」

「住民を指導しようと現地に入った田中は、自分が学ぶことの方が多いと気づいた」
学ぶのはいつも専門家のほうなのです。
そして「現場」にこそ解決のヒントがある。
このことがあまりに忘れられています。
水俣病の話ではありません。
今の社会、そして私たちの生き方の話です。

■自由と共同体(2010年2月23日)
私よりも少し年長の方から電話がありました。
少し混乱した様子が伝わってきました。
いろいろと問題が集中して起こったようです。
年齢と共に、人生にはいろいろなことが起こります。
そして、次第にそれに的確に対応できなくなっていく。
それが人生なのかもしれません。

難解なので途中でダウンしている本があります。
ナポリの哲学者ロベルト・エスポジトの「近代政治学の脱構築」です。
解説文を読んで感動して読み出しましたが、歯がたちません。
途中で読むのを中断していますが、そこに書いてあったことを思い出しました。
よく理解できていないので、間違っているかもしれませんが、エスポジストは自由の語源は「愛情や友情」につながっていて、もともと共同体的な意味を含んでいるというのです。
もしそうであれば、個人の自主性だとか自律性とかは自由の本質ではありません。
彼は、そうしたことは自由とは正反対のものだと書いています。
そして、今では自由は所有権と同一化してしまい、自分に帰属するものの所有者である人こそが自由であるとされていることに、彼は危機感を持つのです。

何となくわかるような気もしたのですが、消化できずにいました。
私の得意な「大きな自由」論を使えば、すんなりと納得できるのですが、この発想は濫用してしまうと妥協できてしまうので、実践スキームではあるのですが、学習スキームではないのです。

ところが、今日の電話でなんだかすっきりできたのです。
一人だと解決できないことはたくさんあります。
その人はいろいろと友人が多いので、いろいろと相談をし、問題解決に取り組んでいるようですが、今回はあまりにいろんなことが起きたため、私にまであふれてきたわけです。
電話が終わった後、私にもしそういう状況が起こったらどうなるだろうかと考えました。
私も友人知人は決して少なくないのですが、果たして電話をかけられるだろうか、と悩んでしまいました。
やはり、そうした状況は起きた時に一緒に考え行動してくれる家族や近隣社会があるかないかで、全く違う状況になるでしょう。
自由に生きるとは、結局は人のつながりを大事にして生きることではないかと改めて気づいたのです。
その「つながり」も半端では役に立たないかもしれません。

もう一度、「近代政治学の脱構築」に挑戦してみることにしました。
それにしても日本では政治学者がしっかりと政治に関わる仕組みがないのが残念です。
いまの国会は、とてもとても「政治」などといえるものではありません。
私は今でも鳩山首相を高く評価してはいますが。

■大量殺戮は医学倫理の存在のひとつの結果〈2010年2月25日〉
昨日、このブログを読んでくれている人から「佐藤さんは社会を難しく考えすぎているのではないか」といわれてしまいました。
どちらかというと私は物事をシンプルに、言い換えると、そのままに受け容れるようとしているのでいささか意外だったのですが、まあそう感じられるとしたら、それもまた事実なのでしょう。
複雑さとシンプルさは、時に同じものでもありますから。

ところで、今日はまた、社会をますます難しく考えているといわれるような話です。
一昨日、エスポジトの「近代政治学の脱構築」に触れました。
それが契機でいま読み直しています。
前と違って、今回はかなりスムーズに頭に入ってきます。
といっても、なにしろ近代史や哲学の素養がないものには、かなり難解ではあります。

それを読んでいるうちに、とても強烈なメッセージに出会いました。
ナチズムと現代社会に関する記述です。
今の社会状況にあっては、ナチスが展開した「生の保護と死の生産の結合」が世界的に構造化されているというのです。
舌足らずで申し訳ないのですが、こういうような文章が出てきます〈一部表現を変更しています)。

ナチスは、ドイツという国家の健康を気遣うあまり、医師たちは死をもたらす切開手術を、その肉にほどこしたのだ。つまり医師たちは、公衆衛生の促進にとって不必要で有害だと見なされる人物たちの死刑執行人となったのだった。

そして、大量殺戮は医学倫理の存在のひとつの結果だった、というのです。
この文章だけ読むと理解しづらいと思いますが、そのことがとても説得力を持って語られています。

この文章に出会って、いろいろなことを感じました。
医療問題への根本的な問いかけであると同時に、これは福祉問題への取り組みへの根本的な問題提起でもあり、私たちと国家との関係への鋭い切り込みでもあります。
いわゆるコラテラル・ダメッジの世界なのです。
コラテラル・ダメッジは、決して国家の専有物ではなく、個人の生き方においてもそこからは逃げられないものであることに気づきました。
そう思って、自らの生き方を少し考えてみると、なんとまあ都合のいい生き方をしていることか。
藁ながらやはり嫌悪感がでてきます。

ナチスはまだ終わっていないことに気づかされました。
水俣病が終わっていないのと同じように。

■コミュニケーションとは新しい関係性の中で自らを変えていくこと〈2010年2月26日〉
「コミュニケーションとは新しい関係性の中で自らを変えていくこと」というのが、私のコミュニケーションを考える時の出発点です。
しかし、どうも世間では反対のようで、「コミュニケーションとは相手を変えること」と受け止められているようです。
しかしそれでは、コミュニケーション不全は広がる一方でしょう。

たとえば、最近話題になりだしている厚労省元局長村木厚子さんの事件ですが、部下の元係長が発言は当初の捜査段階の検察調書に関連して、こう述べていると新聞に出ています。

上村元係長は、昨年5月に大阪地検特捜部に逮捕された後の取り調べ状況を問われ、「検事は紳士的だったが、自分の判断でやったと説明しても調書に書いてくれなかった。厚労省の組織犯罪にしたかったのでは」と主張。〈朝日新聞2010年2月25日夕刊〉

「自分の判断でやったと説明しても」、検察は受け容れなかったのです。
つまり自分の想定している内容でない情報は受信しないというのが、彼らのコミュニケーションの姿勢です。

これはなにも大阪地検特捜部だけの話ではありません。
私が知る限り、ほとんどの人のコミュニケーション姿勢がこのパターンです。
みんな自分の見たい世界、見える世界しか見ようとしないのです。

小沢さんや鳩山さんの説明責任はどうでしょうか。
マスコミはほぼ例外なく、大阪地検特捜部スタイルです。
国民のほとんども同じです。

しかしこれは、今に始まったことではありません。
たぶん近代の始まりと共に、あるいは近代国家の成立と共に始まった文化なのでしょう。
あるいは共同体を形成するということは、そういうことなのだと、今読んでいる「近代政治の脱構築」の著者エスポジトは書いています。
もちろん明示的に書いているわけではありませんが。

たしかにさまざまな人の言うことを聴いていたら、身が持ちませんし、動きが取れなくなりかねません。
そこで発達した防衛機制は、相手の話も聞かない代わりに、自らの意思も持たないという方策です。
そこで近代国家の国民は主体性を放棄し、思考を停止して従順な幸せに逃げていくわけです。
ますますコミュニケーションは形式化してしまいます。
そうなるといよいよITの出番です。
形式化した情報は機械処理ができるからです。
情報に関して一番わかっていないのは、IT関係者ではないかと私は少しひがんでみています。
私が非情報化革命というのはそういうことです。

それにしても、と私は思います。
もう少し相手の話に耳を傾けると、世界は広がり、人生は豊かになるのに、と。

■免疫力の高さ(2010年3月1日)
ホームページの週間記録に書いたのですが、先週、歯医者さんから
「佐藤さんは免疫力が強いので、虫歯の治療後の処置をきちんとしていなくても炎症が起きにくいんです」
というようなことを言われました。
かなりの深い治療をしたときにも、佐藤さんのことだから痛みは出ないでしょうが念のために、といって痛み止めをもらいましたが、案の定、痛みは出ませんでした。

先週、読んだエスポジトの「近代政治の脱構築」のキーワードは「免疫」です。
実は、この本に感激した一つの理由は、それが理由です。

私が人生を変えてしまった契機は、会社勤務時代に企業文化変革活動を社長に提案して、思う存分やらせてもらい、その結果、主観的に挫折したという体験です。
その時のキーワードが2つあります。
「錬金術」と「自己・非自己」です。
「自己・非自己」とはまさに「免疫」の話ですが、当時はまだ私の中では「免疫」という言葉にはつながっていませんでした。
いまから思えば、「脱免疫化」が私の関心事だったのです。
当時は「開かれた企業」という表現を使っていましたが。

エスポジトは近代社会の袋小路を解く鍵として「免疫」という概念を持ってきます。
そして「共同体」に対して、その言葉を対置します。
最初はピンときませんでしたが、読み直してみて、私が25年前に取り組みたかったことだと気づきました。

免疫とは、インフルエンザ騒動で問題になったワクチンのように、病気の原因となる細菌や毒素を弱体化させて人体に投与することで、病気への対抗力を高めることです。
医療の世界ではこのことはもう常識ですが、社会のあり方や私たちの生き方においても、それは大きなヒントを与えてくれるはずです。

「コミュニティとは重荷を背負い合う人のつながり」というのが、私の定義ですが、ここでいう「重荷」とはコミュニティの語源に含まれる「ムニス」と同義です。
そしてコミュニティとは、そのムヌスを「コム」、つまり「共にする」ということです。
免疫の語源は「イムニタス」、ムヌスを「イン」、つまり否定するものです。

コミュニティやコミュニケーション、あるいは企業組織に関心のある人であれば、たぶん新しい地平が見えてくるのではないかと思います。
「免疫」という視点でみると未来が見えてくるような気がしてなりません。

私のもうひとつの関心事だった「錬金術」ですが、これは私の思いとは全く別の形で、この20年に世界を振り回したような気がします。
この視点から世界を見ると、これもまたとても面白いです。

久しぶりに、免疫と錬金術のことを思い出しました。
しばらくこれをまた意識しながら、この時評を書こうと思います。
現下の政治も経済も時評するのさえかったるく空しいように思いますので、しばらくはやや長期の時評に逃避したい気分ですので。

■自己と非自己(2010年3月3日)
いまある組織のリノベーションに関わっていますが、そこではトップに権限と責任が集中しすぎてしまったために、時代の変化に柔軟に対応できないまま業績がダウンしてきてしまっていました。
関係者みんな善意の人なのですが、その善意さがマイナスのスパイラルになっているように思います。
こういう組織は決して少なくありません。

免疫のことを前回書きましたが、免疫とは要するに自己に「非自己」を取り込むことといっていいでしょう。
これは多神教の世界の文化です。
一神教の世界観からは出てきません。
一神教の世界で育ってきた近代の組織は基本的にピラミッド型です。
一元的なリーダーシップと強い規範が組織を管理していくスタイルです。
その組織原理が、いま見直され出しています。

会社時代に私が考えていたことは、異質性をどれだけ包摂しているかが組織の強さを決めていくという考えでした。
そこでは「したたかさ」と「しなやかさ」がポイントになりますが、会社時代にそのことをしっかりと共有できていた人は残念ながら一人しかいませんでした。
異質性の排除が組織管理であり、それこそが「強い組織」を作ることだと思っている人が、当時も少なくなかったのです。
おそらく「強い機械」はそうでしょうが、人間が生みだす組織は、異質性が多いほどたぶん豊かで強くなっていくはずです。
そしてなによりも、持続可能性が高いでしょう。
ただ残念ながら、そうした多様な異質性を束ね、シナジーをあげていくのが難しいために、実際にはそう簡単にはいきません。
20年近く前に書いた「脱構築する企業経営」という小論では、その一つのスタイルとして「マネジメントフリー」を提唱しましたが、あまりに中途半端な議論だった故にあんまり評判は良くありませんでした。

冒頭の善意の人たちの組織ですが、見えてきたのは、「善意」は「悪意」と同じことだということです。
にもかかわらず、善意はなんとなく「いいもの」と肯定的に受け止められます。
そこに大きな落とし穴がありそうです。
「善悪」という評価規準を捨てる必要がありそうです。
善悪を決めた段階で、すでに自らの生き方は決まってしまいます。

免疫を考える場合の自己と非自己を分ける最初の時点が大切なのです。
そこででてくるのが、たぶんオートポイエーシスの発想です。
その議論では、自己も非自己もなく、ない外の境界は消滅します。
まさにクラインのつぼの世界なのです。
事実、起業時点の企業やNPOには、自己も非自己もないでしょう。
そこまで考えると、組織とは一体なんなのだろうかと、問題はますます深まってしまいます。
今日もまた書こうと思っていたこととはまったく別の方向に話が広がってしまいました。
いくつかのキーワードを出させてもらいましたが、少しずつ話を展開させていこうと思います。
時評とはちょっと言えなくなってきてしまいましたが。

■世代間で争うのはよくないですよね(2010年3月4日)
一昨日、子どもを産みやすい社会をテーマにした小さな集まりをやりました。
そこで、若い女性から私たち世代に突きつけられた質問が2つありました。

20年前までは、女性の社会進出を盛んにそそのかしていたのに、最近は同じ人たちが少子化が問題だと叫んでいる。そこに矛盾を感ずるが(女性が会社勤めを始めたので子どもを産みにくくなったと彼女は考えています)、女性の社会進出をどう考えているのか。
これが第1の質問です。

この質問には、私の個人的見解を答えさせてもらいました。
私は、女性の社会進出は産業界の労働力確保あるいは低賃金政策の一環であって、むしろ実態は「女性の社会からの隔離」だと考えて、当時(会社時代)から反対していた。
つまり、女性の社会進出と少子化対策は、いずれも産業振興策でしかなく、そこには「社会の視点」などはない。

参加している同世代の人にはたぶん異論があったでしょうが、それ以上は進みませんでした。
しかし、少子化担当大臣は所詮は経済産業省のお先棒かつぎでしかなく、男女共同参画などと言っている女性たちはもう少し勉強しろといいたいです。
彼女たちが社会を駄目にしてきているのですから。

第2の質問は、もっと厳しいものでした。
若い世代が子どもを産みにくいような社会をつくったのは、佐藤さんたちの世代でしょう。「家庭が大切だ」「地域社会の人のつながりが大切だ」などという前に、自分たちの責任をどう考えているのですか。

これには答が詰まりました。
せいぜい次のように話すのが精一杯でした。

私たち世代も自分たちのためにそうしてきたのではなく、子どもや孫の世代にためにがんばってきた。たしかに今となっては間違っていたことも見えてきたが、当時はみんな先が見えなかった。だからそれを反省して、自らの生き方を変えつつある人たちが出始めていることも知ってほしい。
だれが悪いということではなく、何が悪かったかを話し合って、世代を超えてみんなでもっと住み良い社会にしていくために、汗と知恵を出し合いたい。

その人は不満ながらも少しは納得して、世代間の争いにしてはいけないですね、と言ってくれました。
彼女とはこういう話をしたことはなかったのですが、若い世代がどう考えているのかを少しだけ理解できたような気がします。

私は毎月いくつかのサロンをやっていますが、もっともっと世代間の話しあいの場があるといいです。
みんなそういう場が必要だというのですが、言うだけではいけません。
いくらでもそういう場はつくれます。
どんどんつくっていきましょう。

■何を基準に考えるかが大切です(2010年3月5日)
地域ごとに異なる時期に大型連休を取得する「祝日法改正案」が今国会に提出されるという報道がなされています。
政府がいかに産業寄りであるかが象徴されている動きです。
休日は何のためにあるのか、考えさせられます。

今回の法改正には、混雑緩和で観光需要を喚起する狙いがあるそうです。
政府は「休日革命になる」と意気込んでいるという報道もありますが、政府にとって「祝日」は「市場」に見えているようです。

私自身は祝祭日には大きな意味を感じていますが、最近は、年によって祝祭日が変わってしまうのでとても気分が悪いです。
祝日は単なる休暇や消費日ではないはずです。

最近は、いろいろなことが「経済」や「市場」から考えられているような気がします。
祝日は、「生活」や「文化」から考えるべき問題ではないかと思いますが、多くの人は「労働」や「市場」から発想します。
ここで「労働」とは「消費活動」のことです。
最近では、多くの人は平日には生産活動という労働に従事し、休日には消費活動という労働に従事しています。
いささか極端にいえば、生活さえもが消費活動になっている人が少なくありません。

何を基準に考えるかは、重要な問題です。
それによって問題の見え方は全く変わってしまうからです。

昔、日本人は「エコノミック・アニマル」と揶揄された時代がありましたが、祝日さえも経済的に発想する日本人は、やはり今でも変わっていないのかと、いう気がします。
文化さえも経済化してしまった日本人ですから、仕方ないのかもしれませんが、哀しくてなりません。

■「JANJAN NEWS」の休刊(2010年3月6日)
最近、新聞やテレビのニュースもあまり見なくなりました。
新しい事実がなにも語られていないのではないかという気もしてきているのですが、一番の理由はどうも違和感をもってしまうからです。

社会構成主義というのが、一時期、話題になったことがあります。
社会に存在する事実や物事は、客観的事実ではなく、すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、そうしたことの社会的コミュニケーションによって支えられている、という理論です。
とても納得できます。
狭い家庭内での物事であれば、ある程度、現場も確認できますが、新聞やテレビで話題になるような事件や物事については、私たちは必ず「誰かの目と頭」を通して知るわけですから、客観的などということがあるはずもありません。
すべては、「つくられたもの」でしかありませんが、私たちはそれを事実だと思いがちです。
そうしたことに気づけば、今起こっている様々な政治事件や経済事件、時には犯罪でさえも、事実とはほとんど切り離された物語でしかないことに気づかされます。

であればこそ、さまざまな目と頭での報道が重要になります。
大新聞やテレビがお金に影響されていることはいうまでもありませんので、それに対する抵抗力としての報道機関や情報流通システムが大事になってきます。

市民ジャーナリズムとして期待され、私の知人友人も何人かその記者をやっていた日本インターネット新聞社の「JANJAN NEWS」が今月で休刊になります。
http://www.janjannews.jp/archives/2744447.html
休刊のお知らせによれば、「急激な広告収入の減少」「WEBサイトの技術的遅れ」「マスコミなどでの市民視点の取り込みの動き」と書いてありますが、その背後になにがあったかということで、いろいろなメーリングリストで憶測記事が流れています。
そうした情報のほうが、私には納得できます。
つまり市民ジャーナリズム潰しの動きです。

私の書いている、この程度のたわいのないブログにさえ脅しや嫌がらせはきますので、市民ジャーナリズムにはたくさんの嫌がらせが届いていることは想像できます。
メーリングリストでさえも、仲間内の惨めな誹謗中傷や嫌がらせの投稿は少なくありませんから、異論をつぶそうとするのは人間の業なのかもしれません。

しかし、市民ジャーナリズムが育っていかないのはとても残念な気がします。
「JANJAN NEWS」は休刊になりますが、これまでの記事は読めるはずです。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいです。
大新聞やテレビがいかに偏った報道をしているか、きっとわかってもらえるはずです。
もちろん「JANJAN NEWS」も偏っていますが、多様な視点で物事を見ることが、今のような変革期には大切なのだろうと思います。

■民主党政権転覆計画の陰謀(2010年3月7日)
いささか「物騒な」メールが流れてきました。
最近出版された副島隆彦さんの「世界権力者人物図鑑」という本の紹介です。
その記事はJanJanに詳しく投稿されていますので、お読みください。

私はこの本のことを知りませんでしたが、その本の「はじめに」で、著者はこう書いているそうです。

「今日本の政治は緊急事態に突入している。
2009年末から鳩山民主党政権を転覆させるクーデター計画が実行に移されている。
これは日本検察庁(オール官僚機構)と大手テレビ・新聞を使っての政府転覆の企てである」

いささか物騒な表現ですが、私の実感にはぴったり当てはまります。
しかもこの企ては、残念ながら成功しそうな状況ですが、どうしてこんなにも明らかな構図が多くの日本人たちにはみえないのか不思議です。
若い頃読んだ筒井康隆の「48億の妄想」を思い出します。

ホームページで以前紹介したことがある「犬と鬼」、あるいは「泥棒国家の完成」などで、すでに多くの外国人から日本のおかしさは指摘されていますが、日本人はあまり関心がありません。
郵政民営化などは、私には「おれおれ詐欺」の変形だとしか思えませんが、なぜか日本人は熱狂して私たちの財産を私的な資本に引き渡してしまいました。
それを主導した「犯罪者」は今も人気者です。
やりきれない気分ですが、それもまた現実です。

そうした状況を考えれば、たぶんこの「転覆計画」(もしそんなものがあればですが)は成功するでしょう。
主体的に反対しようがないほど、みんな気がつきもしないでしょうから。
教育予算を削減することによって(教育予算は先進国では最低水準のようです)、国民を痴呆化する政策を続けてきた自民党政権の目論見は見事に成功しました。
私の周りには、まともな感覚を持っている人は極めて少ないです。
いや、もしかしたら私が落ちこぼれで、私だけが痴呆化しているのかもしれません。
まあその可能性のほうが高いですね。
すみません。

久しぶりにまた、暴論を書いてしまいました。
それにしても、マスコミ報道はもう少しどうにかならないものでしょうか。

■「最初の1行は神からくる」時評編(2010年3月8日)
「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」
今日の挽歌の書き出しの1行です。
挽歌を書いていてつくづく思うのは、「最初の1行は神(外)からくる」ことの神秘です。
時評のほうは「書くこと」が決まってからパソコンに向かいますが、挽歌は何も考えずにパソコンに向かうと自然と書き出しの文章が浮かんでくるのです。

これは挽歌だけの話ではありません。
おそらく私たちの日常生活においてもそうなのでしょう。
私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います。
後から考えると、なぜあの時、あんなことをしたのかと自分ながらに不思議に思うことはよくあります。
小賢しい個人の判断を超えた、大きな声が私たちを動かしているとしか思えません。
しかしそうした声に私たちは応えられなくなってきているのかもしれません。

そう思ったのは、先週のチリ地震の余波で起こった日本での津波に関する報道を見ていたときです。
テレビで話題になっていますが、今回はしっかりした避難警報が出たにもかかわらず多くの住民はその警報をあまり尊重しませんでした。
なぜ避難しなかったのか質問された古老が、海を見ていて、この海なら大丈夫だと思ったと答えていました。
その人にとっては、科学的な予測よりも自然が示す表情のほうが信頼できたのです。
科学的な予測よりも自然からのメッセージのほうが正しいと言うつもりはありませんが、私たちはもっと自然からのメッセージに耳を傾けるべきではないかと思いました。
自然と話し合う能力を、私たちはどんどん失っていることは間違いありません。

環境問題や持続可能性が議論されていますが、その出発点は自然とどう付き合っていくかではないかと思います。
自然環境を壊した技術が、自然環境を回復させるなどという発想は、私には考えられません。
自然との付き合い方を変えることは、とりもなおさず「技術のパラダイム」を変えることです。

古老の言葉は、私には神の啓示のように聞こえました。

■政府の嘘と信頼感(2010年3月9日)
日米間の「密約」を検証してきた有識者委員会の報告書が提出されたそうです。
テレビやネットでその報道を見ましたが、実態がよくわかりません。
ただ、歴代の首相が知りながら「嘘」をついていたこと。
外務官僚は、国民には話してもわかってもらえないだろうと思っていたこと。
外務官僚は証拠隠滅を図っていたこと。
この3点は、私にもわかりました。

当時の世界状況から「密約」があっても、私には不思議ではありませんし、政府にはそんなことはいくらでもあるとさえ思っています。
ただ上記の3点に関してはとても不信感を持ちます。
首相や政府が国家を私物化していることがよくわかります。

私は、自分の生活信条として、
「嘘をつかない」「人や自然を信頼する」
の2つは大切にしています。
それと正反対のことを日本の政府や首相はやっていたということにはがっかりします。
嘘を言うことと真実を言わないことは違います。
その時は無理でも、状況を見ながら、時間をかけてきちっと説明することを考えることもできたはずです。
ましてや「真実を語るもの」を廃棄するのは言語道断です。
年金や薬害や公害などの関係でもそうですが、不都合だからといって資料を廃棄してしまうような行為はおかしいです。
廃棄する人の「勇気」には驚きますが、それこそ取り替えしのつかないこともあるはずです。

密約の存在は日米関係の問題ですが、密約をどう扱うかは国内問題です。
これまでの日本政府の本質を示しています。
岡田さんがこの問題に最初に取り組んだことに、私は日本政府の自立を期待しました。
隷属的存在だった自民党政府とは全く違う、新しい政府の誕生を予感しました。

しかし、残念ながら、相変わらず国民は「個人政治家とお金」の問題に目を向けて、本質を見ようとしません。
私にとっては、小沢さんや鳩山さんのお金の問題など、瑣末な話なのですが、みんなにとってはどうもそうではないようです。
たかが数十億円程度のお金で騒いでいる馬鹿らしさになんで気づかないのでしょうか。
私の期待はぬか喜びだったようで残念です。

■得手不得手(2010年3月10日)
群馬の山奥でホテルを経営している社長から電話がかかってきました。
13日に、名古屋である集まりがあり、その人もそれに参加するのですが、今まで自動車での行動が多く、新幹線に乗ったことがないす。
それに電車の切符の買い方も良くわからないというのです。

その人は私よりもずっと若く、ホテルを経営しながら、半端ではなく社会活動もいろいろとしている人です。
その人を頼って、いろいろな人が相談に来ており、それこそ自分の生活を犠牲にしても、そうした相談に乗っている人です。
私などよりもずっと生活力のある人ですし、怖いもの知らずという感じの人です。
ところが東京も新幹線も怖いと言うのです。
どんなにパワフルな人でも、不得手はあるものです。

昨年、東京のあるイベントに来てもらった時は社員を一人同行させていましたが、今回は一人です。
私は、その時に初めてその人に会いました。
その関係で、電話がかかってきたのです。

それで私が乗る新幹線の時間と座席を教え、それにできるだけ近くの席を取るように言いました。
夕方、その人から、駅に行って買ってきたが、この座席で近いかと電話がかかってきました。
なんと私の隣の席です。
よくまあ空いていました。
問題は、群馬の山奥から東京までどうやってくるかですが、まあそこは大丈夫でしょう。

1か月ほど間、新潟の人から資料を送りたいので住所を教えてくれと電話がありました。
この人は優秀なセールスマンで、表彰されてアメリカまで招待された人です。
住所を伝えたら、自分は英語は得意だが日本語は不得手なので、ファックスしてくれといわれました。
私はファックスが嫌いなので、簡単だから電話で伝えるよと押し切って、口頭で伝えました。
しかし、もう1か月近く経ちますが、資料は届きません。
英語は得意でも、また話術は得意でも、電話で住所を書き止めるのは不得手なのかもしれません。
念のためにいえば、彼は純粋の日本人です。

人には得手不得手があります。
とんでもない能力を持っている人がいるかと思うと、まさかと思うような簡単なことができない人がいます。
まあ、私もそういう面があるのですが、だからこそ人との付き合いは面白いです。

私の周りにはどうしてこうもおかしな人が多いのだろうかと思うこともあります。
やはり、おかしい人の周りには、おかしい人が集まるのでしょうか。
でももしかしたら、おかしいのは他の人たちで、私も含めて、おかしい人と思われている人の方が実は「おかしくない」のかもしれません。
どう思われますか。

■茨城空港の愚挙を支える国民の常識(2010年3月12日)
日本最後の地方空港、茨城空港が開港されました。
全く馬鹿げた話ですが、政財界はどこまで税金を無駄遣いすれば終わるのでしょうか。
たぶんまだまだ続くでしょう。
そう思ったのは、その報道を見ていて、こうした動きが「地方の活性化」につながるという発想と活性化とはお金が落ちる仕組みを創ること、お客様が増えることだという発想に支えられていることを改めて感じたからです。
少しだけ批判的な目もある報道ステーションでさえそうでした。
韓国からの観光客を増やした秋田空港が「成功事例」として紹介されていました。

いまの日本を救うためには「成長戦略」が必要だと多くの人は思っています。
そこでの「成長」はほぼ「需要拡大」「市場拡大」の意味です。
私の発想とは180度違います。

観光客が増えてどういう意味があるのでしょうか。
誰が利益を得て、誰が損をするのか。
かつてのリゾート開発から学んでいないのでしょうか。

茨城空港がある小美玉市には、すばらしい文化センター「みの〜れ」があります。
おそらく日本で一番元気のいい文化センターではないかと思います。
その文化センターづくりに、私は関わらせてもらいました。
最初に呼ばれて住民たちの集まりでお話させてもらったのは、お金をかけて文化センターを作るよりも、その費用を住民に配って東京のサントリーホールに行ってもらうほうがいいのではないかという話です。
もちろん私は本気でそんなことを考えていたわけでありません。
「文化」の概念や公共施設の概念を壊したかったからです。

そして、文化センターを創るのではなく、自分たちの地域の文化を考えるというところに視点を移し、そのために必要な「文化センター」の仕組みを考えるという方向に変えていきました。
私の思いがどのくらい伝わったかは余り自信がありませんが、それでもすばらしい文化がそこには生まれだしているように思います。

観光開発とは観光客を集めることではありません。
集めた観光客はいつか集まらなくなります。
観光の意味をと直すべきです。原点に返らなければいけません。
飛行機を飛ばして、観光スポットをつくって、特産品を創って、観光客を呼んでどういう意味があるのでしょうか。
一部の経済関係者は利益を売ることになるかもしれません。
それは悪くはありませんが、それで失うものはないのでしょうか。
地域が元気になるとは、経済が発展することではありません。

日本全体のことを思い出しましょう。
一時期、日本は世界に冠たる経済大国になり、一人当たりGDPも世界2位にまでなりました。
いまはもうかなり下位に下がっていますが、それよりもその一時期の経済大国を目指して走ってしまったために社会は壊れ、おかしくなってしまいました。
自殺者も多ければ、家庭も壊れだしています。
そんな体験をみんなもう忘れたのでしょうか。
みなさんは未来に希望と安心をお持ちですか。

そろそろ「需要増加至上主義」から抜け出さなければいけません。

茨城空港は全く違った発想で組み替えていかないかぎり、おそらく税金の無駄遣いで終わるでしょう。
国家が持続できる間は辻褄を合わせ続けるでしょうが、その間にどれほどの税金が使われるか。
せめてその一部でも生活保障に使ってほしいものです。

■住民が求めている暮らしと経済(2010年3月13日)
最新号の軍縮問題資料(2010年4月号)に、立命館大学非常勤講師の池尾靖志さんが「沖縄の『軽減』負担とは何か」という記事を寄稿されています・
同誌には毎号、「森口豁の沖縄じゃーなる」という記事も連載されているのですが、その記事のブログ版で、沖縄のやんばるの森・東村高江の米軍ヘリ着陸帯(ヘリパッド)建設問題に関連して、座り込むなどの反対運動をしていた住民たちを国が起訴したという恐ろしい記事を読んでいたため、「高江の現場から」というサブタイトルに魅かれて読んでみました。
池尾さんは、辺野古は報道されるが、なぜ高江は報道されないのかと怒っていますが、私も森口さんのブログを読むまでは、高江などという名前さえ知りませんでした。
沖縄に関する現地情報は、マスメディアには極めて偏ったものしかでてこないのです。

高江の住民運動起訴事件は、ぜひ森口さんのブログ(沖縄日記)を読んでみてほしいですが、私が今回、池尾さんの論文で心に残ったのは、次の文章です。

2月に行われた(政府の)住民説明会では、高江区に暮らす人々の安全を度外視し、豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民の声を圧殺するかのように、一方的に説明が行われた。

「豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民」。
私はこれこそが多くの国民の願いだと思っています。

池尾さんの論文によれば、高江は、イタジイやオキナワウロジロガシなどが優先する自然林の残されたやんばるの森の中に位置するのだそうです。
ところが、その高江の集落を取り囲むように、ヘリコプター着陸帯が建設されようとしているのだそうです。
状況は民主党政権になっても変っていないようです。

森口さんはブログで、「これが出来たら四六時中大型ヘリが飛び回って離着陸を繰り返し、住民の静かな生活が奪われるのは明らかだ」と書いています。
もし私がそこの住民であれば、多分座り込みに参加したでしょう。
もしそうであれば、私も起訴されたわけです。

昨日の時評の続きですが、生活者の立場に立てば、経済成長よりも「豊かな自然の中で静かに暮らすこと」を望む人が多いはずです。
わずかばかりの「資産家」願望者のために、国民の多くは生活よりも経済が大切だと思い込まされています。
馬鹿げた話ですが、そうした労働者が多くなければ、最近話題の高額資産家などは生まれないのです。
彼らはどんな理屈をつけようと、貧しい人たちを犠牲にして高収入を得ているわけですが、彼らにはそうした恥の意識や罪の意識はないでしょう。
むしろ資産家リストに載ったことを誇りに思っているでしょうが、私には彼らは恥ずべき人間だと見えてしまいます。
そんなにお金を集めて、一体何をするのでしょうか。

「豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民」を基本にした政治や経済は考えられないのでしょうか。
一番大切なものが見失われていることが、とても腹立たしいです。

■儲けようと思わなければつぶれない(2010年3月14日)
市場拡大を埋め込んだ経済の中で、企業の倒産や店舗の閉店がまだ少なくないようです。
ところが、私の娘やそのパートナーのお店は、世間の不況には無関係に元気です。
私の会社(潟Rンセプトワークショップ)も20年以上、続いています。
娘にお互いに運が良いなと話したら、儲けてないからつぶれないんだよ、といわれました。
考えて見ると、それは至言です。
倒産したくなかったら儲けなければ良いのです。

昨日、名古屋に一緒に行った郡馬のホテルの経営者(佐藤洋司さん)もそうでした。
儲けていないのでつぶれないのです。
儲けていないと言っても、損をしているわけではありません。
佐藤洋司さんは、こう言います。
ねむるところと毎日の食事ができれば、それ以上のことは望まない、と。
かといって、彼がサボっているわけではないのです。
自分の家に落ちつく間もないほど、飛び回って仕事をしています。

スペインタイル工房(Taller de JUN)をやっている娘も、イタリアンレストラン(エヴィーバ!」)をやっているその伴侶も、朝から深夜まで一生懸命働いているのに、決して収入は多くありません(金額をいうと怒られるのでやめます)。
もっとも、2人とも私に比べれば収入は多いのですが。
何しろ私は土日も含めてそれなりに働いていますが、昨年の収入は50万円でした。
但し、お金以外の収入は山のようにたくさんもらっていますので、生活は豊かです。
汗の量と稼ぎの量は、きちんとお天道様は見ているのです。

もちろん、儲けようとせずに、誠実に仕事をしていてもつぶれるところはあります。
それは健康に気遣っていても病気になることがあるのと同じです。
でも、儲けに依存しない生き方ができれば、儲けがない時期があっても無理をせずに生きつづけられます。
そんなワークスタイル(ライフスタイル)を目指すと、生きやすくなるように思います。
そういう生き方を子どもたちに教える文化が回復されれば、50年後には住みやすい社会になるのではないかと思います。

暮らすためのお金を稼ぐワークスタイルに切り替えたら、暮らすためのお金さえもない人たちにもお金が回りやすくなるかもしれません。
そして、みんなきっと今よりも幸せになるでしょう。
これは、私だけの夢物語でしょうか。

■知足と有志(2010年3月15日)
昨日、「ねむるところと毎日の食事ができれば、それ以上のことは望まない」、という佐藤洋司さんの言葉を紹介しました。
それで思い出したのが、「知足」という言葉です。
よく聞く言葉ですが、私にはどこかに違和感がありました。
ところが、最近、「知足」には「有志」という言葉がセットになっていることを知りました。
このように、概念の一部が一人歩きすることは少なくありません。
一時期の「陰徳」という言葉もそうでした。
「陰徳」は「陽報」がセットになって、意味が完結しています。

「老子」には、「知足者富」に続いて、「強行者有志」と書かれているそうです。
それで早速、手元にあった「老子」を開いてみました。
第33章にこうありました。

知人者智。自知者明。勝人者有力。自勝者強。知足者富。強行者有志。不失其所者久。死而不亡者寿。

「強行者有志」。たしかにありました。
強(つと)めて行う者には志あり、として、志を持って進めと説いているのです。
現状に満足して甘んじよということではありません。
「知足」の意味が、ダイナミックに動き出すのを感じます。
時に儒教は、現状を肯定する諦観の思想と捉えられがちですが、「知足」という思想には、稼ぎ続けるというダイナミズムよりももっともっと強く厳しいダイナミズムを感じます。
ちなみに、知足者富の「富」も、もちろんお金や資産のことではありません。
お金をいくら持っていても、貧しい人はたくさんいます。
世間的な「富者」を見る外に向けたまなざしを、自分自身に向けよと、老子は説いているのです。
つまり、「自知」にして「自勝」、己を知り己に勝てというわけです。

さらにこの言葉に続く「不失其所者久」は昨日書いたことそのものです。
「己にふさわしいあり方を失わぬものは永続きする」。
ここにこそ、経営の基本がありますが、最近の企業はこれを完全に逸脱しています。
私が、経営の不在と言っている意味が、ここにあります。
経営者もたまには「老子」を読んでほしいものです。

■トレッドミルからおりる生き方(2010年3月16日)
挽歌編「止まってしまったトレッドミル」で、「この2~3世紀の経済が急成長したのは、「欲望のトレッドミル」を普及させたおかげ」と書きました。
それを受けての最近の私たちの生き方への反省です。
挽歌編の一部を繰り返します。

どんなに幸せで満足な状況になっても、人はすぐにその状況に慣れてしまい、欲望を強めて、さらなる満足を求めだすのです。
これを「幸福のトレッドミル」とか「欲望のトレッドミル」と言うそうです。
トレッドミルとは、ハツカネズミなどが回す踏み輪のことです。
昔は縁日などでよく見かけたものですが、最近はスポーツジムで人間がやっています。

スポーツジムであれば、トレッドミルもいいのですが、最近は社会全体がトレッドミル化しているような気がします。
自転車操業などという言葉もありますが、そんな生き方が広がっています。
カード社会といわれるアメリカでは収入を大幅に上回る支出をし、その返済のために働くという生き方が広がりすぎて問題になっています。
踏み輪にのって動き続ける姿は、70年以上前にチャップリンが「モダンタイムス」で描いた情景と同じです。
但し、モダンタイムスの時代では、雇い主が生産性を上げるために走らせていましたが、最近は自分の欲望を満たすために走り続けるようになっています。
しかし、それもみんながそれを自然に望んだわけではありません。
そう望むように、経済を方向づけてきている人たちが仕組んできたのです。
いわゆる「消費社会」の実現です。
生産者として走っていた人たちは、いまや消費者として走り続けているのです。

その踏み輪(トレッドミル)から外れたらどうなるか。
おそらく別の生き方が見えてくるはずです。
都会にいれば生活にはお金がかかりますが、都会から離れればお金をそれほどかけずに生きていけるはずです。
以前書きましたが、先入観を捨てれば、地方には仕事はいくらでもあります。
ただお金にならないだけの話ですが、最低限のお金があれば生きていけるように思います。
さらに、同じような思いの人たちと一緒になって汗と知恵をだせば、生きていく方策はみつかるかもしれません。

トレッドミルからみんなが降り出したら誰が困るでしょうか。
一番困るのはたぶん企業です。
そして次は行政でしょう。
「欲望のトレッドミル」をまわしているのは、実は私たち自身なのです。

経済が成長しなくても、みんなが豊かに暮らせる仕組みはできるはずです。
みんながそういう生き方に変えれば、環境問題も解決するでしょう。
一挙には難しいですが、そういう生き方を意識するだけでも、生活は豊かになっていくような気がしますが、これは単なる机上論の夢物語なのでしょうか。

■政界再編成の基軸と主役(2010年3月16日)
自民党の鳩山邦夫議員が離党し、新党結成への動きをはじめました。
いよいよ政界再編成が動き出しそうな気配です。
が、しかし、果たしてこれをもって政界再編成だと捉えていいのかどうか疑問を感じます。
たとえ新しい政党ができても、その主役が今の顔ぶれであれば、そして今までと同じ手法であれば、何の変化も起きません。
いずれも「個人の所属体制の再編成」でしかありません。

政界の枠組みの変化や基本構造の変化が伴わなければ、政界のパラダイムは変わりません。
枠組みということで言えば、現在の政界の枠組みをどう捉えるかが重要です。
わかりやすい例で言えば、事業仕分けの時に小沢幹事長は新人議員の参加に反対しました。
これは旧来の政界の本質を象徴しています。
国政(目的)よりも選挙(手段)を優先させ、政界常識を社会の常識に優先させたわけです。

では今の民主党はこれまでと同じかといえば、そうではありません。
そうした旧来の政治屋を活用しながら、国政を革新しようという理念がそこにはあります。
そうした志を、私は鳩山由紀夫さんに感じます。

政界再編の主役は、新人議員であり、非官僚出身であり、政治のことをあまり知らないが故に献金問題を起こしている小林さんのような無垢の議員ではないかと私は思っています。

これまでの政界で活躍していた古手の政治屋が旗を振っているかぎり、政界再編などは起こるはずもありません。
政界の利権に寄生している政治屋家族が考える国政は、国民が考えているような国政ではないでしょう。
この国のいまのひどさは、そうした政治屋家族が作り出してきたことを忘れてはいけません。
民主党政権になったからといって、すぐに変わるはずもないのですが、寄生生活を長年続けてきた日本人はそれさえ理解せずに、昨年の政権交替の事実を大事にしていないのが残念です。
やはり自業自得なのでしょうか。

■自評1:守銭奴意識の気づき(2010年3月18日)
しばらく自分を対象にした「自評」を書いてみます。
自分を見ていると社会も見えてくる気がしてきたものですから。
かなり自らの恥をさらすことになるでしょうが。

最近、気分転換にネットのゲームをやりだしてみました。
簡単なゲームです。
たとえば、楽天のホームページから入れる楽天プライズというのがあります。
参加すると無料で1000Gがもらえ、それを元手にして、ルーレットとスロットができるのです。
気分転換のつもりが、いつの間にか勝ちたくなりました。
完全にプログラム化されているのは知っているのですが、なんとか10000Gを目指したくなりました。
その上、スロットに当たりが出ると、コインが音を出して出てくるのです。
金貨の音ですが、その音が何ともなく快いのです。
私はもちろんこれまで金貨のぶつかり合う音など聞いたことはないのですが、不思議と魅かれてしまうのです。
金貨の音をこっそりと楽しむ守銭奴の話を昔なにかで読んだことがありますが、もしかしたら、私もまた守銭奴ではないかという気がしてきます。
パソコンの実体のない音でさえ、これだけ心を惹くのであれば、実際の音ならきっと心をつかまれて、その奴隷になることもありえます。
どうも頭で考えていることと生の自分とは違うようです。
いやはや困ったものです。

そんなわけで、暇に任せてスロットやルーレットを、結局、1か月ほぼ毎日やってしまいました。
最終記録は7000Gでしたが、有効期間が30日でしたので、翌日はゼロになってしまっていました。
この1か月の努力(?)はいったい何だったのか。
お金の魔力に勝てずにせっせと稼いだ結果も、きっとこんなものなのだろうなと思ったのですが、その一方で、人をその気にさせる「お金」や「稼ぎ」の威力も少しわかりました。
金貨の音もすごいです。

それにしても、自分もまた守銭奴のDNAが埋め込まれていることを知って、少し滅入ってしまいました。

■自評2:携帯電話(ネット端末)から見えてくる恐ろしい未来(2010年3月18日)
昨日は私が守銭奴ではないかと書きましたが、実はそのゲームの罠から抜け出ようと思って、ルーレットに毎回最高の点数をかけて手元の財産をゼロにしようと考えました。
予定通りどんどんチップがなくなり、もう少しで「破産」できそうになったのですが、そこでなんと36倍の当たり目が出てしまいました。
またそこでせっせとチップを使いましたが、どうもある限度以下になると減らないようにプログラム化されているようです。
いろいろとやってみましたが、ある限度からは絶対にチップは減らないのです。
いさぎよく破産したくても破産できないわけです。
でまあ、チップが残っているとまたやりだしてしまうことになるのです。

私には賭け事はあまり経験がないのですが、その呼吸が少しわかりました。
こうやってずるずると引き込んでいくのでしょう。
ギャンブルに迷い込む人の気持ちが少しわかるような気がします。
一度迷い込むとなかなかそこから抜けだせなくなるのでしょう。

ところでこのゲームをやって仮にたくさんのポイントを得たとします。
それでどういうメリットがあるのでしょうか。
そのチップで、何かの商品をもらえる懸賞に応募できるのです。
といっても、別にゲームをしなくとも、最初に提供されたチップでも十分に応募できますから、あまり意味はありません。
それに、おそらく当選する確率は限りなくゼロに近いはずです。
それにもらってもあまり意味のあるような商品でもありません。
しかしそれがわかっていても、実際にチップが減ったり増えたりすると、何となくそこから抜け出しにくくなるのです。

ではこうしたゲームによって、私は何を失ったのでしょうか。
お金は一円も失っていませんが、「時間」はかなり失ってしまいました。
まあ、私は暇ですから時間を失ってもあまり影響はないのですが、それにしてももう少し意味のある時間の使い道があったような気がします。

さて私自身の恥を書いてしまいましたが、これはいまの社会の状況にかなりつながるところがあるような気もします。
モモの「時間泥棒」の話も思い出しますが、労働のために時間をとられたりレジャーのために時間をとられたりするほかに、こんな形で日常のほんの細かな時間ももしかしたら「盗まれている」のかもしれません。
これもまた消費社会の一側面なのでしょうか。
携帯電話(ネット端末)はその手段です。
これによって次に社会を担う世代は完全に管理対象として把握されてしまいました。
彼らの時間はすべて管理されだしていると言えるでしょう。
恐ろしい未来が見えてきます。

■生方副幹事長解任は当然でしょう(2010年3月19日)
小沢幹事長辞任を発言した生方副幹事長が解任されたことが物議を起こしています。
大方の人は批判的で、民主主義の危機だとか独裁体制は怖いなどと騒いでいますが、そうしたアジテーションに多くの国民はたぶん乗るでしょう。
黄門ぼけしている渡部老人はともかくとして、枝野さんまでが批判的なのにはがっかりしました。
組織論を全くわかっていませんし、責任感が全くないとしか言いようがありません。

私も組織に25年間いました。
上司の言動に賛成できなかったときには上司にしっかりと言いました。
3回言ってもだめなら、従いました。
最後は、しかし、納得できなかったので、会社を辞めました。
それが組織と言うものだと思います。
責任を取るのは自分であって、相手ではありません。
組織と自分と意見が違う場合、どちらが正しいかの正解はありません。
あるのは、個人としての正解だけです。

小沢さんに生方さんは本気で諌めたのでしょうか。
懐に短刀くらい持っていなければ諌めたとは言えませんし、もし諌めても駄目なら職を辞するのは当然自分でしょう。
それができないのは、お気楽な組織人だからです。
彼には責任感が皆無なのでしょう。最悪の政治家です。
生方さんは直言型の政治家だとあるコメンテーターが言っていましたが、直言型ではなく他人に責任をなするだけの暴言型でしかありません。

個人を捨てて組織を活かすことが必要ですが、今の民主党には組織論を理解している人は少ないようです。
個人的には優秀な人が多いのですが、無能な政治家を集めた自民党のほうが強いような気がしてきました。
強い個人の集団と弱い個人の集団は、時に後者が勝つことは戦争の歴史が証明しています。

それにしてもなぜ最近の人は、他者の責任ばかりを問うのでしょうか。
幹事長や代表に従えないのであれば、組織を外れるか、組織の責任ある職位を辞すればよいだけの話です。
それができずに、組織や副幹事長にしがみついている生方さんを背任行為として解任するのは組織として当然のことです。
それもわからない馬鹿な評論家が、昔も今も日本を駄目にしているのです。

最近の政界の動きを見ていると、なにやら三国時代の諜報合戦をみる思いです。
孫子や菅子くらいは読んでほしいものです。

また書きすぎてしまいました。
こうなりたくないので、最近は「時評」ではなく「自評」に逃げていたのですが。

■ソフトバンクの倫理観は許せません(2010年3月19日)
政界への怒りのついでに、経済界への怒りも書くことにします。
テレビのチャンネルを回したら、「S−1グランドチャンピオン」という番組をやっていました。
それを見るなり、娘がソフトバンクは馬鹿じゃないかと思うと言うのです。
最近、I-phoneを使おうかと考え出していたので、なんで?と訊きました。
そうしたら娘が、この番組のコメディアンの芸の優勝者に1億円の賞金を出すというのです。
唖然としました。
即座にI-phoneは止めました。
どんなに良い商品であっても、金の亡者の経営者が経営する会社の商品を買うほど、私も堕落したくはありません。
ソフトバンク製品を使っている友人たちは、この愚挙を知っているのでしょうか。
愚挙というよりも、私には許しがたい行為です。
1億円あったら、どれだけの人の生活を応援できるでしょうか。
ソフトバンクがいかにあくどく稼いでいるかがわかります。

それにしてもひどい会社です。
孫さんとはそういう人なのですね。
こういう人が社会を壊しているのでしょうね。
私には絶対に許せません。
孫さんが何をやろうが金儲けのためなのでしょう。
社会を壊し、金銭感覚をおかしくすれば、悪質な会社はいくらでも儲けられるのです。
そのお先棒を担ぐ芸人も芸人ですが。
ほとほといやになります。

私が時代から脱落しているのでしょうか。
しかし娘が怒っているのを知って、ホッとしました。
わが家からはソフトバンク関連の商品は金輪際追放です。

またまた書きすぎてしまいました、はい。

■自評3:ネットでの購入のお誘いの魔力(2010年3月20日)
怒りを差し挟んでしまったのですが、また反省を込めての自評です。

楽天プライズだけが私がやっているゲームではありません。
もう一つまったく無意味だと思えるのですが、そこに出てくるキャラクターが気にいってほぼ毎日やっているのがあります。
「げん玉電鉄」というすごろくです。
さいころを振って動くのですが、あるところに行くと「広告2倍」とそのキャラクターが大げさに看板を上げるのです。
そうするとそこにある広告の対象に入会したり購入したりするとサービスのポイントが2倍になるのです。
毎回、やっているとなにやら申し込まないと申し訳ない気分になります。
サブリミナル効果ではないですが、効果はかなりありそうです。

この「ポイント」というのがまた曲者です。
私がなぜネットにはまったかというと、テレビによく出ている森永卓郎さんがポイントの説明をしているのを聞いたからです。
ネットやカードを上手く使うといろんなポイントが付くという話です。
それは前から知っていましたが、その仕組みに胡散臭さを感じていました。
というのは、仕組みを複雑にすればするほど利用者のメリットが高まるという論理が私には全く納得できなかったからです。
それで関心を持てなかったのですが、森永さんの幸福そうな顔を見ているうちに、やってみようと言うことになったのです。
それでやり出したひとつが、楽天でのネット購入やホテルの予約です。
これに関してはまたいろいろな気づきをしているのですが、今日のテーマはその話ではなく、ネットをやっているといろいろと消費の魔手が寄ってくるという話です。

まあそうしたお勧めによって、何かのサンプルを無料でもらったり、資料を取り寄せているうちに、いつの間にか自分がお客様になってしまっているのです。
いつの間にか、ポイントを集めるために、見たくもない広告を見たり、見たくもないホームページを見たりしていることさえあるのです。
結果としてのポイントではなく、目的としてのポイントになっているわけです。
そのうちに、ポイント獲得のために必要性の低いものまで購入してしまうようになって来ました。
今日もコーヒーが2キロも届きます。妻がいたら笑われそうですが。
私が批判しているドラッカーの顧客想像戦略に、まんまと乗ってしまっているわけです。

私でさえこうなのですから、ドラッカーファンのみなさんは、もっとはまるでしょうね。
子どもたちの世界がいささか心配です。

■自評4:ローンのお勧めのすごさ(2010年3月21日)
ネットでの購入やゲームをしていて驚いたのが、ローンのお勧めのすごさです。
日本もまちがいなくローン社会に向かっているようです。
それでいろいろな事が見えてきたのですが、要はローン利用者として取り込んでしまうために、企業は甘い蜜をいろいろなところにばら撒いているのです。
よくわからない、そしてすぐには影響が見えてこない仕組みの中で、人を先ずは消費者に仕上げ、つづいて労働者にし、使えなくなれば今度は福祉の市場に送り込むのです。
恐るべき構造です。

その一方で、一部の人は汗も書かずにますます財産を高めます。
カモフラージュのために、考えることをしないような一発芸人が程度の低い道化師(批判力を持たないという意味です)として仕上げられます。
これまで聞いたことのないような金貨の音を聞かされて、彼らは従順な飼い犬のようにその役割を果たします。
マスコミや学者や知識人も、そのほとんどは自らを守るために「いうべきこと」の意味をとりちがえて、これまた従順に役割を果たします。
見たくないものは見ない。
まさにナチス時代のシュペアーです。

自評が時評になってしまいました。
昨日、2つほど怒りを解きほどきましたが、まだ残っているようです。
たとえば外交文書の破棄です。
これは明らかに犯罪であり、その気になれば誰が破棄したかはすぐにわかる話です。
私ごときにも怪しい当事者の名前が伝わってくるほどですから、関係者はみんな知っているのではないかと思います。
その犯罪者を逮捕しない政府は、理解できません。
外務省官僚の多くは家族関係にありますので、かばい合う文化があるのでしょうが、事の重大さをもっと認識すべきです。
私たちの生活を危うくしかねないほどの重罪だと思います。
そうした行為は二度と起こしてはいけません。

それにしても、この国のどこが「国民主権」かと思いたくなります。
国民はおとなしい羊としか見られていないのです。

■自評5:SNSの意味がわかりませんが(2010年3月22日)
さてさてネットと言えば、最近の流行りはSNSです。
これについても言及しなければいけません。
私も4つのSNSに何となく参加しています。
別に意図的に参加したのではなく、友人が誘うので断る理由もないので参加したのですが、これがまた思わぬ出会いの魅力を持つと同時に、人間のダイナミズムを閉じ込める魔力ももっているような気がします。

友だちの友だちはつながっているという、スモールワールド理論というのがありますが、まさにその通りに、友だちの友だちの中に友だちを見つけることもあります。
またこれまで久しく付き合いのなかった高校時代や大学時代の同級生に出会うことができるかもしれません。
しかし、若いときであればともかく、この歳になると世界を広げることのわずらわしさも感じます。
それに再会や出会いは、ある意味を持っている必然的なものと考えている私にとっては、探してまで出会うことへの抵抗もあります。
実際に昨年、友人と話していて、その人が昔の私の友人と最近付き合いがあることを知ったので、連絡先を教えてもらったのですが、やはり連絡を取るまでには至りませんでした。

一方の魔力ですが、それはどんどんとネットの世界に引きずり込まれてしまう引力です。
ネットの世界は実に深く広いです。
そこに入り込んだら、それこそ底がなく、無限の広がりを感じます。
そしてそこでのつながりややりとりを通じて、ある意味の完結性が生まれてきます。
映画「マトリックス」の世界に入ってしまうようで、そこに安住したくなりかねません。
まさにアバターを生みだす創造主のような気分にもなれますし、過去を創りだすことさえできるでしょう。
わずらわしいリアルな世界からおさらばできるのですから、なんとも大きな魅力です。

30年ほど前に「ネットワーキング」の概念が日本に導入された時に、私も大きな関心を持ちました。
研究会にも参加しましたし、社会実験の資金集めにも協力しました。
ですから、SNSが話題になり出した頃にも期待がありました。
しかしその後のSNSの展開には大きな違和感がありました。
閉じられたネットワークではなく、開かれたリゾーミックな構造は私にも共感できるのですが、その中で行き交うものがあまりに記号的で目的的なのがどうも好きになれません。
それにどこかに拡大思想やマス発想も感じます。

もっともこれは私にSNSを活かすほどの主体性やリテラシーがないからかもしれません。
うまく使えるようになれば、私の評価も変わるでしょう。
もしかしたら、SNSは「死の概念」を変えるかもしれないとも思っているのです。
まあそれこそが私が一番危惧することでもありますが、心のどこかでそれを望んでいるような気もしています。
SNSに関しては、まだ距離を持って付き合っているのが正直なところです。

■人は常に欠如と悪のかたまり(2010年3月23日)
人に関して、過去の哲学者はさまざまなことを言っています。
カントはこういいます。
「自然の歴史は、善をもってはじまる、なぜならこの歴史は神の業だからである。自由の歴史は、悪をもってはじまる、なぜならこの歴史は人間の業だからである」

これはかなり奥深い意味を持っています。
なぜなら、善悪を考えるのは、人間だからです。
自然にとっては「善悪」はありません。
と言うことは、人間は「自己否定的な存在」だということになります。

ハイデガーは、共同体は、つねに欠如をともなって生じ、それ自体が欠如の共同体だといっているそうです。
共同体を人間と置き換えるともっとわかりやすいです。
人は常に欠如を持った存在なので、一人では生きられないということになります。
これも実に深い意味を持っています。
サブシステンスという言葉があります。
辞書を見ると「生存」「生計」などと味気のない訳語が並んでいます。
これもなかなかわかりにくい言葉ですが、欠如に関連しています。

急にこんなことを書いてしまいましたが、最近、人の本質は「欠如」ではないか、そしてその欠如を補うための行為を「悪」というのではないかという気がしてきたのです。
同時に、それらはまた、ダイナミズムの源泉であり、経済もまたその上に乗っかっているわけです。
そう考えると、政治も経済もなんとなく理解しやすいです。

そろそろ自評はやめて、また時評に戻りたいと思います。
退屈な自評にお付き合いいただきありがとうございました。

■官のカネ、社のカネ、民のカネ、自分で汗したカネ(2010年3月24日)
政治とカネの問題が相変わらず騒がしいですが、私にはその意味がよく理解できていないせいか、なんとまあ瑣末な話に振り回されて、大筋を見逃していることかとさえ思えます。
国民とマスコミが、この問題にこれほどひっかからなければ、日本の政治状況は大きく変わったでしょうが、見事にその勢いは「それを望んでいた人たち」の思惑通り、削がれた感じがします。

それはそれとして、昨日、ある会に出ていて、お金にはさまざまな種類があることを感じました。
実は20日に共済研究会のシンポジウムがあり、その基調講演で青山学院大学の本間照光教授が賀川豊彦に関する感動的なお話をされたのですが、そこでも本間さんは「お金には色がないというのは間違いだ」と熱く語っていました。

昨日は地域包括支援センターに関わる委員会でしたが、その事務局は行政に近い機関です。
委員会が始まる前にたわいのない雑談が行われていたのですが、そこで年度末でいろんな人が視察に来るとかいうような話がありました。
その委員会に行くと私も委員手当てをもらえます。
私のように定期収入のない人間にとってはありがたい話なのですが、少し違和感がありました。
それがなんなのだろうかと気になっていましたが、その雑談を聞いていて、本間さんの話を思い出しました。

官のカネ、社のカネ、民のカネ、自分のカネ、それらは全く違うのだと気づいたのです。
そういえば、大企業の経営幹部の人たちの話を聞いていても、やはり違和感を感ずることが多いのです。

湯水のごとくまではいかないまでも、官のお金や社のお金の無駄遣いは私にはとても気になります。
実は私も会社勤務時代はかなりの無駄遣いをしていました。
恥ずかしいかぎりです。

倒れそうなほど汗をかいて働いているのにおカネが回ってこない人がいる一方で、無駄遣いをしながらおカネを懐に入れている人がいる。
どちらが「幸せ」なのかは一概には言えないでしょうが、やはりおかしい気がします。

私はいまもまだ、さまざまな世界と付き合いがありますので、その世界の格差に唖然とすることも少なくありません。
居心地のいいのは、間違いなく、おカネのあまりない世界ですが、そこでの暮らしは結構大変で、居心地がいいなどというと怒られるかもしれません。
私はたぶん両方の「いいところ」を享受させていただいているのでしょう。
ずるい生き方なのかもしれません。

本当は「汗したカネ」を基本にした生活をすべきなのでしょう。
お金を一緒くたに考えていたために、汗したカネの価値への理解が不足していたと最近思うようになっています。
おカネの世界はやはり奥が深いです。

■ゾーエとサブシステンス(2010年3月25日)
今日もまた無意味の独白です。
このブログは、ゾーエとビオスという人間のニ面性を意識して、思い切り主観的なものとかなり社会的なものとをつなげながら書いているのですが、それと絡み合うような意味で、システムとサブシステンスを意識して書くようにしています。

昨日、湯島に2組の人たちがやってきました。
いずれも企業関係の人なのですが、午後は大企業、午前中は零細企業の人たちでした。
そこで交わされた話題は、全く対象的です。
前者では「どうしたら経営改善できるか」、後者では「どうしたら存続できるか」です・
しかし、もしかしたら、その問題設定は逆なのではないかと思います。
事実、議論のはしばしや、議論が終わった後の雑談では、それを感じさせる話が出ました。

ポランニーは、経済をシステムの論理に基づく形式経済とサブシステンスに基づく実体経済に分けました。
大企業は言うまでもなく前者の主役ですが、中小企業や零細企業が生きている世界は、まさに「生きている世界」という表現がふさわしいように、サブシステンスの世界です。
いま世界は、形式経済の破綻が実体経済を見直す動きを起こしていますが、そこをつないでいるのがサブシステンスに足を置いた中小企業なのかもしれません。
この数十年で、ベクトルは反転しているのです。

最近、社会的企業とか事業型NPOが話題ですが、それらももしかしたらシステム思考に向いているような気もします。
これまでの形式経済の慣性が働いているようです。
しかし、サブシステンスをベースにして発想していかない限り、流れは変わりません。

行政の世界でいえば、地域分権はシステムの世界ですが、地域主権はサブシステンスの世界です。
少しずつ認識は変わっていますが、あいかわらずの形式論理がまだ主流です。

私は、システムの世界ともサブシステンスの世界とも、それなりに関わらせてもらっていますが、双方と付きあって感ずるのは、その両者を担う人たちの意識の中に上下構造発想があることです。
格差社会の進行は、その一つの現われかもしれません。
それがあるから、みんながなかなか「越境」しないのです。
パラダイムを変えれば世界の姿は一変し、ベクトルの反転が起こるはずなのですが。

今日は熊本で福祉施設の経営に取り組んでいる人や零細企業の経営者でありながらシステムの論理は単に関心を持っている人、コミュニケーションの専門家の大学教授が湯島に話に来る予定です。
みんなサブシステンスの世界を実感している人たちです。
さてどんな話が出るのでしょうか。

それぞれのゾーエとサブシステンスと触れ合えるかどうかが、人に会う醍醐味です。
それによって自分の世界が変わっていくのがよくわかります。
今日はもうひとり、私とは全く異質の世界にいるサブシステンスの人とも会えるかもしれません。

■事件の背景(2010年3月30日)
またモスクワでテロ爆破事件が起きました。
報道では「黒い未亡人」といわれている、チェチェン弾圧の被害者の未亡人の自爆テロだといわれています。
ほんの少しだけ想像力を広げれば、彼女たちもまた被害者といえるでしょう。
日本ではあまりチェチェンのことは話題になりませんが、そこで行われたこと、行われていることは、普通の人であれば目を背けたくなるような状況です。

つい先日、チェチェン人難民認定申請者の不認定に関する抗議声明への呼びかけがメールでまわってきました。
チェチェンから脱出し、2年半前、日本で難民認定のための申請を行った2人のチェチェン人青年に対して、3月19日に日本政府は不認定の決定をしたのです。彼らは、この2年半にも及ぶ長い審査の間、最低限の生活費にも足りない支援費で食いつなぎ、健康も悪化させながら、ひたすら日本政府に難民として認定される日を待っていたのだそうです。
こんな事実は多くの人たちはまったく知らないでしょう。
私はチェチェン関係のメールマガジンを受け取っていますが、このメールが来るまでそのことに気づきませんでした。
このことに関しては、2010年3月20日のチェチェン総合情報のサイトをご覧ください。
http://chechennews.org/index.htm

9.11事件もそうですが、私たちは事件そのものの衝撃が大きいために、ついついその背後にある事情を考えることには無関心になりがちです。
しかし、大切なことは、そうした事件が発しているメッセージです。
それを読み解かなければ、事件はまた繰り返されます。
さらに、事件のもつメッセージを無視して、被害者側がその事件を手段としてまったく正反対のメッセージを発することも少なくありません。
かつての戦争の多くは、そうして起こされました。

「被害者側」と描きましたが、これはたぶん正確ではありません。
モスクワの爆破事件も、9.11事件も被害者と加害者の構図は、たぶんマスコミが描いているものとはまったく違うでしょう。
マスコミは強いものの見方ですから、常に加害者の側で報道します。
一見、弱いものの立場や正義を語りますが、それは文字通り「騙って」いるだけです。
注意しなければいけません。

ところで、中国の餃子中毒事件の犯人も逮捕されたと報道されています。
この事件の背後には何が見えるでしょうか。
もしかしたら、犯人逮捕もまた事件そのものかもしれないという気がしてなりません。
そうでないことを祈りたいです。

■あばたもえくぼ(2010年4月1日)
「あばたもえくぼ」とはよく言ったものです。

最近、鳩山政権が迷走しているとみんな言います。
鳩山首相のリーダーシップも問われています。
ところが、私は、そういう状況をむしろ、評価してしまう心境があるのです。
さまざまな意見を出しあい、迷いながら収斂していくのは、私には新しい組織行動のように思います。
みんなが勝手なことをいうことも、新しいリーダーシップのあり方ではないかなどと思ってしまうわけです。
いずれにしろ最後には首相が決めるわけですから、それまでは混乱するぐらいの議論があったほうがいいと思うわけです。

生方さんの時の話と違うではないかといわれるかもしれませんが、生方さんは具体的な問題での意見をいったのではなく、人事を批判したのが、私にはルール違反だと思います。
そこの違いは大切です。

といいながらも、私も長いこと生きていますので、従来のリーダーシップ論や意思決定論に傾きたくなることもあります。
普天間問題では、きっと鳩山さんは移設基調ではなく撤去基調でビジョン型の解決策を出すだろうと期待しているのですが、最近の動きは、いささか心配になります。
しかし、他ならぬ鳩山さんですから、もしかしたらと、今もって「あばたもえくぼ」に見えています。

間違った方向に突っ走るよりも、「迷走」と思われるようにうろうろするほうがいいような気もしますし、閣僚の意見が混乱するほうが問題が見えてきていいのではないかとも思います。

今が大きな変わり目であると考えれば、経済や政治の風景も大きく変わって見えてきます。
私にはマスコミの論調には、いつも反発を感じます。
まあ間違っているかどうかは、たぶんわからない話ですが。

■事業仕上げ型フォーラム(2010年4月3日)
明日、「事業仕分け」ならぬ「事業仕上げ」をテーマにした公開フォーラムを開催します。
テーマは「支え合いを形にする」です。
この2年、2つのネットワークで、「支え合い」を考えるサロンをそれぞれ継続開催してきました。
考え方としての「支え合い」への関心の高まりを強く実感します。
私が、10年前にコムケア活動をはじめた時には、こんな感じではありませんでした。
しかし、いざ「支え合い」を具現化しようとするとなかなかうまくいきません。

阪神大震災の現場から「サブシステンスとしての支え合い」という活動がさまざまな形で生まれました。
しかし、その被災地でさえ、復興に伴って状況は変わってきたといわれます。
このあたりは、西山志保さんが「ボランティア活動の論理」(2005年 東信堂)で、調査結果を踏まえて見事に報告してくれています。

「つながり」もそうですが、「支え合い」もまた、そう簡単な話ではないことは、この30年の私のささやかな体験でも実感しています。
しかし、それを基本に置いて生きていると、必ず豊かになっていくというのもまた、私の実感です。

支え合いと事業とどうつながるのかと思う方がいるかと思いますが、それはまたいつか書こうと思いますが、最近流行の「社会起業家」の本質は「支え合い」だと思っています。
その要素が、これまでのビジネスとこれからのビジネスを分ける基準だと思います。
これまでのビジネスの基本は「支え合い」の反対の「奪い合い」でした。
それを変えていかない限り、産業のジレンマは超えられません。

そんなこともあって、4月4日、明日ですが、「支え合いを形にする事業仕上げ型フォーラム」を開催することにしました。
ところが、この日はいろんな行事が重なっていることもあって(それに絶好のお花見日です)、参加者集めが難航しています。
案内は次のところに掲載しています。

もしこの記事を読まれて、行ってみようかという方がいたら、ぜひお越しください。
なかなか参加者が集まらないので、このブログにまで案内を書いてしまいました。
フォーラムの様子は、私のホームページでまた書かせてもらいます。

■事業仕上げフォーラムの報告(2010年4月5日)
参加者がなかなか集まらずに、このブログにまで案内を書いてしまった「事業仕上げフォーラム」は予想以上の人が集まってくださり、とてもあったかいフォーラムになりました。
このブログを読んで前日に参加してくださった方も、少なくとも2人いました。
ありがとうございました。

フォーラムの様子はホームページ(CWSコモンズ)のほうに書く予定ですが、このフォーラムをやろうと決めたのは、1か月半前です。
湯島で、毎月やっていた「支え合いサロン」に集まっていた人たちで話しているうちに決まったのです。
それから2回ほど集まりましたが、誰もどんな集まりになるかあまり見えていなかったと思います。
私の考え方は、誰でもできることしかできない、という考えですから、無理をすることなく、できることをやろうと気楽に考えていましたが、今回は全くと言っていいほど流れに任せたので、私自身当日始まるまではどうなるのかほとんど見えませんでした。

昨日も冒頭で話させてもらったのですが、「支え合い」には2種類あります。
「補い合う支え合い」と「高め合う支え合い」です。
普通、支え合いというと、相手の弱いところを補い合うというイメージをもつ人が多いと思いますが、むしろ「相手の強いところを活かす」ことが、支え合いのポイントだろうと、私は思っています。

今回のフォーラムの実行委員は7人でしたが、それぞれが無理をしない範囲で、できることを出しあって実現したのが、今回のフォーラムです。
フォーラムのテーマは「支え合いを形にする」でしたが、まさにこのフォーラムの実現は「支え合いを形にした」ものでした。

しかもこのフォーラムから4つのプロジェクトが生まれだします。
あんまり「事業仕上げ」までは行きませんでしたが、たぶんキックオフのための勢いはつけられたのではないかと思っています。

ブログで案内させてもらったので、報告もさせてもらいました。
ご支援してくださったみなさんに感謝しています。
これに味をしめて、またこのブログで、何かを案内させてもらうことがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

■特別の存在という関係性と支え合いの文化(2010年4月7日)
先日の挽歌に、こんなことを書きました。

余人をもっては代えがたい存在となるような関係性を創り出すのが「特別の存在」という意味です。
ですからそれは対称性を持っており、相互に「特別な存在」なのです。

このブログを読んでくださった共済研究会の佐々木さんが、支えあい助け合う共済の本質が、この文章に現れていると教えてくれました、

佐々木さんは、「共済」の運動は、「相互に特別な存在」になる「関係性」を社会の中に築き上げてくことに尽きるように思う、というのです。
まったく気づかずに書きましたが、言われてみるととても納得できます。
最近、サブシステンスとしての支え合いについて考え出しているのですが、まさに私自身が、その真っ只中にいることに気づきました。
私にとってのサブシステンスは、まさにこのことなのです。
それがあればこそ、生きていられるのです。
これは、自らの生の危機を体験しないと得られないものかもしれません。

佐々木さんは、以前、四国の松山に行った時に、街を走っていた市電の車体側面に「あなたにとって他人でも、みんなだれかのだいじな人です」という標語が掲げられていて、感動した記憶があるとも書いてきました。
そうなのです。
みんな誰かにとって大切な人なのです。
でも、その関係が見えにくくなっている、あるいは断ち切られているというのが現代なのかもしれません。

佐々木さんは、つづけて、
特別な存在ではなくとも、支えあう存在としての自己、そして仲間という、気持ちを持てるような関係ができれば、どれだけ楽しいことか。心豊かなことか。
と書いてきてくれました。

そう思います。
私はそうした生き方を心がけていますが、
みんなこうした生き方をしたら生きやすいのにといつも思います。
そうした生き方をしていると、世間には悪い人などいないのです。
マスコミで報道される世界と、私は違う世界に生きているのかもしれないと、ついつい思ってしまうほどです。

日本の社会は、古来「支え合う社会」だったのではないかと思うのですが、今その「支え合う文化」(共済の文化)が壊されつつあります。
そうした動きに対して、佐々木さんはなんとかしなければと、共済研究会に取り組んでいるのです。
「支え合いの文化」を守るのは、私たち一人ひとりの生き方です。

■被害者と加害者の関係(2010年4月8日)
昨夜、NHKのクローズアップ現代で、「犯罪加害者の家族」の問題をとりあげていました。
家族が事件を起こし犯罪者になったために、家庭が崩壊し、なかには自殺までしてしまった人もいます。
子どもたちのために、離婚して旧姓に戻したり、繰り返しの転校をして、過去を見えなくしたり、それこそ大変な思いをしているのです。
ただでさえ辛い思いをしている家族を追い込むのは、周りの人たちです。
学校さえもガ子どもを守ってやらない事例が、昨日も報道されていました。
学校とは一体なんなのか、そうした学校関係者に教育を語る資格があるのか、子どもを預けられるのか、私には疑問です。
本来は支える側にまわるべき人たちまでもが一緒になって、加害者家族を追い込んでいくわけです。
間接的ですが、私もそうした社会の傾向に加担しているのでしょう。
恥ずかしいかぎりです。

そうした家族を支える活動を始めたNPOの人が、こんな話をしていました。
被害者の家族のことを思うと、加害者家族を支援していいのだろうかという思うこともある。
実際の犯罪加害者の家族の人も、そうした迷いを語っていました。
どこか、おかしいと思いませんか。

ここには「言葉の魔力」があります。
「加害者家族」と言った途端に、家族もまた「加害者」の仲間に組みこまれてしまうのです。
私は、家族もまた「被害者」だろうと思います。
そう考えれば、事態は全く違った構図になっていきます。
そして、そういう発想がなければ、犯罪関係者をケアすることは難しいはずです。
さらにいえば、「加害者」もまた「被害者」と考えるべきかもしれません。

家族が犯罪者になるのは、家族のせいだと考える傾向が、今の日本にはあります。
しかし、もしそうだとしたら、その「家族」をもう少し広義に広げて、「社会」と捉えることはできないでしょうか。
そういうと、江戸時代の5人組や明治政府以来の隣組のような、相互監視装置を思い出す人がいるかもしれませんが、もっと「開かれた」意味での社会です。
その区切り方は難しいですが、むしろそれよりも大切なのは「関係性」のありかたです。
監視のようなネガティブなまなざしではなく、支え合うようなあたたかなまなざしが基本にならなければいけません。
そこにこそ、ケアという発想が求められるのです。

加害者の家族の方の、やり場のない不安や悩み、それを思うと、そういう人たちに石を投げるような社会の一員であることが哀しいです。

日本では、被害者と加害者が、どうも極端な二元論で語られすぎです。
想像力のない社会は、非寛容な社会でもあります。
そこでは犯罪も事故も、繰り返されるでしょう。
そしていつかそれが自分に回ってくるはずです。

とても考えさせられる番組でした。

■被害者と加害者の関係その2:ケアと犯罪(2010年4月8日)
前の記事の続きです。

前の記事で、ケアという言葉を使いましたが、このブログでも何回も書いているように、ケアは一方的な行為ではなく、双方向的な関係性です。
ケアする人とケアされる人がいるわけではありません。
ケアしあう関係があるだけです。
私は、犯罪にもまた、そうしたことがいえるような気がします。
視点を変えれば、加害者もまた被害者なのです。
被害者を加害者というのは適切ではないかもしれませんが、大きな視野で考えればその側面もあるように思います。

ケアはなぜ双方向になるのかといえば、弱みや痛みを顕現化することによって、他者にケアする気持ちを起こさせるからです。
そのおかげで、私たちは他者をケアする機会を得られ、自らをケアできるのです。
これが最近このブログで少しずつ書き出している、サブシステンスの意味なのではないかと思います。
ケアすることがなぜサブシステンスなのか。
それは他者とのつながりを生みだすからです。

それが切れた時、どうなるか。
そこに「犯罪」とされる関係の素地が生まれるような気がします。

犯罪は、統治のために権力(制度)が作り出すものですが、それは同時に生きていくためにみんなが許容する「支え合いの仕組み」からはみ出した現象とも言えます。
発生してしまった犯罪(事故)をどう処理するかという問題と、被害者を発生させるような犯罪(事故)をどう未然に防止するかは、実は全く次元の違う話ですが、それが堂も混同されているような気がします。
刑務所の仕組みはどう考えても、おかしな仕組みですし(同じ「犯罪者」を一か所に集めて、普通の社会生活とは違った生活をさせることで、更生ができるとは思えません)、裁判もまたおかしいです(権威に依存した密室で行われていること自体が不明朗です)。

犯罪にどう立ち向かうか。
それは難しい問題ですが、まずは犯罪行為が発生しないような社会の仕組みや私たちの生き方を考えなければいけません。

イスラムの人たちも、決して「自爆」したいなどと思っていないのです。

にもかかわらずなぜ、自爆者が後を絶たないかを考えてみなければいけません。
それはまさに私たちの問題でもあるのです。

■新党の何が新しいのか(2010年4月10日)
平沼新党とか首長新党とか、なにやらまた新党ブームです。
その名前も極めてお粗末です。
「みんなの党」ができたときは、小学校の政治ごっこでもあるまし、あなたには思想がないのかと、渡辺さんを見限りました。
この程度に人が政治を担っているとは、まさに政治ごっこです。
しかし、そのみんなの党の人気があるという世論調査を知って、驚きました。
ところがこんどは、「たちあがれ日本」です。
おいおい、あまりに安直ではないかと、これはもう笑い話です。
以前、「老人党」という映画がありましたが、「老人党」のほうがよほど誠実です。
せめて「たちあがれ政治家党」あるいは「たちあがれ自分党」にしてほしかったです。

郵政民営化に最後まで反対して自らを律した平沼さんには、私は敬意を感じていました。
それがよりによって、私にはサル以下の知性とサル以上の狡猾さしかないとしか思えない与謝野さんと組むとは、がっかりです。
ただ一定の人数を確保して、政党を作ることが目的になっている結果でしょう。

政党の作り方によって、その人の思想や姿勢がわかります。
首長新党も、いかにもです。
理念や思想で集まるのではなく、金と話題で集める新党には期待できません。

前にも書きましたが、そもそも「政党の時代」は終わったのです。
政治家の役割を終わった人たちの新党遊びには、私は全く感心がありません。
それにしても若手はなにをしているのでしょうか。
全く見えてきません。
いま立たずして、いつ立つのでしょうか。

■沖縄返還「密約」文書はどこにいったのか(2010年4月11日)
東京地裁は 沖縄返還「密約」文書の存在を認めたうえで、国側の対応について、「調査が不十分で、国民の知る権利をないがしろにしており不誠実だ」として請求をすべて認め、不開示とした外務、財務両省の決定を取り消し、開示を命じる判決を出しました。
原告の西山さんさえ驚いている判決ですが、普通の感覚からすれば、至極当然の話です。
しかし、調査委員会を設置して調査に当たった岡田外相は不満のようで、記者会見で、外務省の調査で文書が見つからなかったことに触れた上で、「納得いく判決では必ずしもない」と述べ、控訴を示唆したといいます。
そのあたりの事情はよくわかりませんが、文書が存在していたことは明らかであり、今尚その文書が存在する可能性もまた高いと思うのが普通のように思います。

ところで、これに関して、こんなことを体験しました。
ある事情通の人が先月やってきて、密約文書の話になりました。
その人の話によれば、いつ、誰が、なぜ、文書を破棄したかはの話はその世界では既に流れているようです。
私も名前まで聞きましたし、理由も聞きました。
もちろんそれが正しいかどうかはわかりませんが、外務省の中から出ている話のように感じました。
つまり、事実を知っている人は少なくないのではないかと思います。

私がそう思うのは、何もこの事件に限りません。
行政だけもなく、企業の事件でもよくある話です。
これまでも何回か具体的に書いたことがありますが、徳団に事情通でもない私ですら知っていることが、調査している人たちに知られていないはずはありません。
なぜそれが問題になったり、報道されたりしないのでしょうか。
そこにこそ、社会の不思議さがあります。
人は見たいことしか意識しないのと、見慣れたことは事件などと気づかないのです。

20年ほど前に、富士吉田の市長と話していて、毎日素晴らしい富士山が見えてうらやましいです、と言ったら、市長はあまりにも当たり前にそこに富士山があるので、そんなことを思ったことはないです、と答えてくれました。
まあ会話上のあやではしょうが、半分は事実かもしれません。
人は見慣れてしまうと見えなくなってしまうのです。
そしてまた見慣れていないものも見えないのです。

私たちが見えているのは、いったい何なのでしょうか。
要するにほとんどのものが見えていないのです。
だからきっと、みんな平和に生きていられるのでしょうね。
世界が見えてくると、平和ではいられなくなるのです。

■モチベーション(2010年4月12日)
友人から手紙が来ました。
彼はメールもやっていますが、手紙が大好きなのです。
それも、お気に入りの万年筆で書く手紙です。
たしかに彼の手紙にはいつもぬくもりがあります。

その手紙の書き出しは、「お金のない社会研究家の佐藤修へ」でした。
そして送ってきてくれたのが、お金不要の生活をしている人の雑誌記事でした。
これで2回目です。

どうも誤解されているようなのですが、私は「お金がない」のではありません。
あえていえば、世界中のお金もまた自分のものと思っているようなところがあります。
これは法頂さんの本から教えてもらったことです。
自分の私的所有観念をなくせば、この世のすべてのものは自分のものと思える、と。
損得判断も、小さな自分の世界を少し外れただけで全く違ってきます。

で早速、その友人には「お金はありあまっている」ことを伝えたのですが、その手紙の最後にもう一つ指摘がありました。
私は最近、修に2回程度のサロンやフォーラムをやっています。
それに毎回のように付き合ってくれている人も少なくありません。
その案内や報告をあるメーリングリストに出していますが、それをみた彼の会社の友人が、この人たちのモチベーションは一体なんなのだろうかと不思議がっているそうなのです。

確かに毎週土日をサロンやフォーラムや集まりで埋め尽くしていると、時に休みたくなることもあります。
しかし考えてもみてください。
多くの企業人は、そしてその感想を述べた人は、毎週5日も組織で働いているのです。
私にとっては、そのモチベーションこそ不思議です。

視点を変えると、世界は全く違って見えてきます。
そんなことを彼の手紙で改めて思いました。

政治家も少し視点を変えるといいのですが。

■人は他者とつながりたいのか(2010年4月13日)
私がNPOやボランティア活動に関わりだしたのは、会社を辞めてからですが、そこで感じたのは、「社会活動」に取り組んでいるとばかり思っていた、そういう組織やそのメンバーの人たちが意外と閉じられていたことです。
会社時代には、会社があまりに社会に対して閉じられていることに違和感が強まり、「開かれた企業」という小文を朝日新聞に寄稿させてもらったこともあります。
それを実際に自分の勤めている会社で実現しようと社長に提案して、企業文化変革プロジェクトに取り組ませてもらったわけですが、見事にそれに挫折し、会社を辞めた後、関わった住民活動や市民活動でもまた同じ経験をしてしまったわけです。
組織とは閉じられたものだ、という考えに立てば、それは当然のことなのかもしれませんが、そうした組織論を打破すべき時期に来ていると思います。
会社を辞めて21年、私がずっと取り組んでいるのは、そのことです。

10年ほど前に、「ひらき、つながり、支えあう」という理念に基づいて、さまざまな活動に取り組む人たちの緩やかなつながりの輪としてのコムケア活動を始めました。
そのおかげで、私はたくさんの人たちと知り合いになりましたし、そうした人たちにさまざまな形で支えられています。
しかし、みんなはどうでしょうか。
恩恵を受けているのは、私だけではないのか。
みんなは私のためにつながりを育てているのではないかと思うことがあるのです。
たとえば、ある集まりをやって参加者が少ないと私がついつい声をかけてしまいます。
そうすると参加してくれるのですが、私のために参加してくれているのではないか、そんな気がすることがあるのです。
なぜなら、そこで出会った人たちのつながりは、さほど深まっていきませんし、新しい集まりが生まれていくことはあまりないからです。

それに、そもそも人は他者とつながりたいなどとは思っていないのではないかと思うこともあります。
事実、少なくとも私はどこかでそういう気持ちがあります。
人とつながることは、わずらわしく、哀しいことの原因にもなるからです。
でも、つながらないと、これまたさびしい。

昨日も書きましたが、最近、毎週2回前後の集まりをやっています。
みんな迷惑しているのではないのか。
そんな気がしてきました。
独りよがりの生き方は変えなければいけません。
少しまた生き方を変えたくなってきました。
これこそが、独りよがりなのでしょうね。

悩ましい毎日です。

■お金が見えなくなりつつあります(2010年4月14日)
昨夜、友人と食事をしたのですが、支払いの段になって、お金を持っていないことに気づきました。
そのため、ご馳走するつもりがご馳走されてしまいました。
もちろんカードで支払うこともできたのですが、もたもたしているうちに友人が支払ってしまいました。

帰りの交通費はあるか、と友人は心配してくれました。
彼は私の「生活力」を全く信頼していないのです。
しかし、スイカがあるので、現金がなくとも問題なしです。
それに、スイカがあるために、お金の無いことに気づかずに大久保まで来れたのです。
要するに、お金がなくとも、電車には乗れるのです。

あるスーパーでもスイカが使えます。
そこで買い物をいくらしても、現金は不要です。
ですからそこでは何でもが無料のような錯覚になってしまい、娘たちと行くとついつい無駄な物まで買物かごに入れてしまっていました。
感覚が麻痺するのです。

いずれにしろ、最近はお金が無くとも暮らしていけるのです。
もちろん、どこかでスイカやカードに現金を振り込まないといけないのですが、それも銀行から自動的に振り込まれる仕組みになってきていますから、現金のやりとりを自分ではなにもしなくても大丈夫なのです。
これは「便利」なことなのでしょうか。
金融業者や国家にとっては便利であることは間違いありません。
しかし、こうして「お金」が見えなくなっていくとしたら、生活者にとっては恐ろしいことなのではないかという気がします。

仕掛けは見えないほど、効果を発揮します。
お金はどんどん見えなくなることで、社会を変質させているのです。
こうしたことに関しては、とても示唆に富む講演をされている方がいます。
関曠野さんですが、その講演録をある人から教えてもらいました。
ぜひみなさんもお読みください。
世界の見え方が変わってくるはずです。
私はベーシック・インカムには否定的でしたが、この講演録を読んで、自分の視野の狭さと浅さを反省しました。

ところで、先ほどの友人にご馳走になってしまった話からのもう一つの教訓です。
お金がなくても友だちがいれば、暮らしていけるということです。
人は誰でも「何か」を持っています。
それを支え合って活かしていけば、たぶんみんな暮らしていけるのです。
アマルティア・センの発見は、食べ物が無くて飢餓が発生するのではなく、友だち関係(人のつながりの仕組み)がないために飢餓は起こることでした。
私もそう思います。
世界中のみんなが友だちになれれば、タイのデモも起きません。
ホームレスなど発生しようも無いのです。
なにしろ日本には空き家があふれていますし、タイには豊かな自然があふれているのですから。

■納得できる人生と常識的な人生(2010年4月15日)
とてもうれしい手紙が来ました。
最近ややへこんでいたのですが、この手紙がうれしくて、元気が戻ってきそうです。

手紙は、この3月に定年で退職した、ある自治体の職員からです。
天下りなどはしないようです。
これからは「一市民としての立場で我がまちと向かい合い関わっていきます」ということです。
その通知の後に、手書きで次の文章が書かれていました。

佐藤さんとの出会いによって、僕の行政マンとしての考え方を一変させることができました。
お蔭さまで納得できる形で公務員生活にピリオドを打つことができました。

少し涙が出そうになりました。
その人は、これまでに私が会った最高の行政マンだったからです。
しかし、もしその人が私に会わずにいたら、もっと出世できたのではないか、あんなに苦労しなかったのではないかという思いもあるのです。

だれも知らないことでしょうが、その人は市長からあることを頼まれた時にわが家に跳んできました。
そして、自分には引き受けられないので辞表を出そうと思うと言ってきたのです。
その時に、人の考え方に関わることの責任の重さを感じました。
念のために言えば、その人は私に会わなくとも、同じ人生だったかもしれません。
それに私がその人の考え方に影響を与えたなどとも思いません。
そもそもその人はしっかりした「公務員観」をお持ちでしたから。
しかし私に会ったがために、もしかしたらもう一つの選択肢を選ばなかったのかもしれないのです。

もう一つの選択。
それは「常識的な人生」です。
その選択をしていたら、副市長になって地域のためにはむしろよかったかもしれません。
そう思うといささかの反省もあります。
人生には常に迷いがあるものです。

私もまた、納得できる人生を選んで会社を辞めました。
それがよかったことなのかどうかは、今にして思うとわかりません。
家族には迷惑をかけたかもしれません。
しかし、もう一度人生を繰り返したとしても、たぶん同じ選択をしたでしょう。

その手紙を今日は何回も何回も読み直しました。
やはり涙が出てきてしまいました。

納得できる人生には、犠牲もまた多いものなのです。

■減税こそが政治の役割(2010年4月15日)
名古屋市の河市長は日本記者クラブでの記者会見で、「減税こそが政治の役割で、日本社会を変える第一歩だ」と話したそうです。

減税こそが政治の役割。
私がずっと思っていることでもあります。
現代の政治は税金によって賄われています。
ということは、政治の基本は税金を集めること、増税といってもいいかもしれません。
私たちも政治のためには税金を納めることが必要だと考えています。
なぜ「統治者」に税金を納めなければいけないのか、などと考える人はいません。
税金を納めていない人は、フリーライダーだと非難されかねません。
でもそれって正しいでしょうか。
どこかおかしくないでしょうか。

河村市長の発言の意味は、そうしたこととは別次元の話なのかもしれませんが、「減税は政治の役割」という言葉には様々な示唆があるように思います。
いまの社会から恩恵を受けている人は、今の体制を維持したいと思うでしょう。
社会秩序の維持のために資金を提供することは理にかなったことです。
しかしいまの社会の恩恵を受けることの少ない人は、今の社会を変えたいと思うでしょう。
社会秩序変革のためであれば資金や労力を提供してもいいと思うでしょう。
しかし現体制維持のために税金を払うことは理にかなったこととはいえません。
まあそうしたことの不幸な現われが、たとえば今タイで起こっていることです。

税金は政府維持のためではなく、社会体制変革のためにも使われると言われるかもしれません。
現に今回の民主党政権への交替で、多くの人はそれを期待したと思います。
しかし、残念ながら社会秩序はそんなに簡単に変わるはずはありません。
税金のほとんどは、政権交替にもかかわらず、現体制を維持するために使われるからです。
つまり税金とは体制を維持するための資金なのです。
ですから体制を大きく変える時には税金をなくすことが不可欠なのです。
今回の政権交替も、その背後には税金が大幅に不足していることがあることはいうまでもありません。

減税を志向する政治と増税を志向する政治は、まったくパラダイムが違うのです。
さらにいえば、そこでの「税金」の意味合いも全く違っているはずです。
こうしたことを考えさせてくれるという意味で、河村市長の言動は示唆に富んでいます。
私たちはもっと彼の言動に関心をもつべきです。
東国原さんのような増税政治の走狗に騙されてはいけません。

■日米安保条約第10条(2010年4月17日)
あるメーリングリストで、日米安保条約第10条が話題になっています。
それを読んでいて、昔のことを思い出しました。

私が大学に入ったのは1960年、安保闘争が一番盛り上がっていた年です。
ノンポリの高校生だった私は、そこで鮮烈な洗脳を受けました。
連日、新安保条約締結に反対する国会デモが繰り返されましたが、それはいまでは全く考えられないような動きでした。
日本の社会はまだダイナミックに動いていたのです。
6月には入り、デモに参加していた樺美智子さんが圧死するという事件が起きました。
学生デモはますます盛んになり、ノンポリの私も何回か国会デモに参加しました。
しかし、何かもう一つ熱中できませんでした。
全学連のアジテーションに辟易していたのと混乱した社会の中に物語が見えなかったからです。
続いて社会党の浅沼さんが刺殺され、状況はますます生活者の世界を離れていきました。
私も次第にデモには参加しなくなりましたが、社会の不条理に対する怒りや思いは、そのおかげで深まったような気がします。
その頃、私がデモに参加しなかった理由に上げたのが、日米安保条約第10条でした。

日米安保条約第10条はこういう内容です。

この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。
 もっとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する

時の流れに抗してまでいま条約批准を妨げるよりも、10年後に廃棄すればいい。
これが私の考えでした。
その当時から、私はプロセスとビジョンを大事にしていました。
条約破棄よりも、条約破棄を目標にして社会を変えていくことのほうが大事だと考えたのです。
その頃から私の時間軸はかなり長いものでした。
能力を超えて急ぎ過ぎると、必ずさらに悪い結果になるものです。
事実、その後の全学連は悲劇的な終末を迎えます。

この日米安保条約第10条を活用することができれば、問題は簡単に解決します。
鳩山首相はその手を使えないでしょうが、もしかしたら使いたがっているかもしれません、
これを使えるのは、おそらく鳩山首相しかいません。
それを止めているのは、私たち国民です。
50年前を思い出します。
何も変わっていないのです。

■政治家の誠実さ(2010年4月21日)
普天間移設問題をめぐり、「鹿児島市内で平野官房長官と会ってほしい」という政府からの要請を、伊仙町の大久町長は断りました。
新聞によれば、同島で開かれた反対集会に約1万5000人が集まったことを挙げ、「決定的な民意だ。協議の余地はない」と返答。平野長官については、3月末に3町長が上京し、長官と面会した時のことを引き合いに出し、「私たちがせっかく行ったのに『徳之島の〈と〉と言ったこともない』と(言われた)。そんな不誠実な方に会う気は全くない」と不信感をぶつけたそうです(読売新聞)。

この言葉に出てくる「不誠実な方」という言葉に共感を持ちました。
これまでもそうですが、平野官房長官の不誠実さは度を越していると思います。
平野さんは私の知人の友人だそうなので、あまり言いたくはないのですが、この人のおかげで鳩山政権はおかしくなってきているように思います。
私が感じていたのも、誠実さの欠如です。

人にとって大切なことは何かと問われれば、私は「誠実さ」をあげるでしょう。
誠実というのもわかりにくい言葉ですが、私の場合は、「嘘をつかない」と理解しています。
政治家には狡猾さが必要だと言いう人もいます。
時に嘘をいわないといけないこともあるという人もいます。
しかし政治家は政治家である前に人でなければいけません。

外交上、言えないこともあるという人もいます。
しかし、言わないことと嘘をつくこととはまったく違います。
もっと正確にいえば、言わないことはある意味での情報発信をしています。
それを受け手が勘違いしてしまえば、結果的に嘘を言ったことにもなりかねませんが、もし誠実な人であれば、相手に勘違いさせるような沈黙はしないでしょう。
それが「誠実」と言うことだと思います。

政治は信頼があってこそ成り立ちます。
経営もそうです。
さまざまな人たちの生活に大きな影響を与える権限を託された人は、何よりも誠実でなければいけません。
そうでなければだれも信頼しないでしょう。
しかし、最近の政治家も経営者もあまりに不誠実です。

ところで、「友愛」と「誠実」はどうつながるのでしょうか。
私にとっては、同義語なのです。
だからこそ平野官房長官の不誠実さは残念です。
誠実に対応していけば、おそらくすべての問題は落ち着くところに落ち着くのですが。

平野さんはきっと悪い組織環境で育ってきたのでしょう。
鳩山さんとはあまりに違います。

■事業仕分けへの違和感と期待(2010年4月21日)
事業仕分けがまた始まりました。
とても良い活動だと思いますが、違和感は「仕分け人」の選び方と「評価者」です。
まず「仕分け人」ですが、官選ですから私の感覚では、みんな同じ土俵の上の人です。
同じという意味は、「権威に生きている人たち」という意味です。
これについては書き出すとどこに向かうかわからないので差し控えます。

評価者ですが、仕分け人と評価者が同じところに違和感があります。
それでは評価の正当性に説得力がありません。
ノーベル賞受賞者たちが権威をかさにきていい加減な異論を捉えただけで腰砕けになるようではどうしようもありません。
そして仕分け結果と実行とはかなり乖離が生まれましたが、これも評価に正統性がないためです。

仕分け人は問題をできるだけわかりやすく「見える化」し、その上で、評価を公募したらどうでしょうか。
その中に、当該事業に関わる人たち(組織であればその成員や関係者)の評価も集めたらいいのではないかと思います。
つまり仕分け作業を公開するのではなく(それだけではパフォーマンスになりやすいです)、その結果を公開し、税金の負担者である納税者に評価させるということです。
技術的に難しいという人がいるかもしれませんが、おそらく簡単な仕組みをつくれるはずです。
そのためにこそITは活用されるべきです。
いずれにしろ大切なのは、行政の透明化です。
それが仕組みとして行き渡れば、無駄はなくなっていくでしょう。
消費税(ちなみに私は消費税大増税論者ですが)などなくても十分にやっていけるはずです。
その点で、この活動は画期的です。

さらにこの制度が形式的なものにならなかったのは、枝野さんと蓮紡さんのおかげではないかと思います。
この2人のおかげで、私は政治家への僅かな期待を持続させています。

■高速道路料金騒動(2010年4月23日)
高速道路料金で政府がぶれているという報道が盛んに流されています。
私には極めて不条理な「言いがかり」としか思えません。
流れはこうです。

行政府としての政府が方針を決めた。
立法府を構成する国民の代表である民主党がそれに異を唱えた。
それを受けて首相が見直しを表明した。
首相と話し合った担当大臣は、内閣としての方針は見直さないが、国会での議論を踏まえて見直すことはあるという「当然」のことを表明した。

私には、どこにも「ぶれ」も「矛盾」も見つかりません。
問題を起こしたいマスコミが、難癖をつけたがっている自民党とのこれまの馴れ合いの流れで騒いでいるだけでしょう。

ただこれだけの話です。
民主党と政府を混同してはいけません。
長いこと政治を私物化してきた自民党政府はもう終わったのです。
せめてマスコミの関係者やテレビに出るくらいの人は、中学生の社会科の教科書くらいの知識はもってほしいものです。
まあそんなことをやっていたら、テレビには出られないでしょうが。

もちろん鳩山さんの言葉づかいにはいささかの未熟さがありますが、だからこそ私は鳩山さんを信頼しているわけです。
言葉の上手い人には内容がないものです。
私自身、中身のないのに発言しなければいけない時には言葉で飾りますから。

■支え合う本性(2010年4月26日)
今朝、駅に向かう途中で出会ったことです。
交差点をわたりかけた70代の男性が突然倒れました。
私は交差点から30メートルくらい離れたところにいたのですが、とっさに走り出しました。
交差点の反対側からの夫婦も走りよりました。
通りがかりの自動車から2人の人がおりてきました。
10人近い人が集まりました。
声をかけても反応がありません。
道路上ですから危険ですが、むやみに動かしてはいけないと言いあいながら、それぞれのやり方で動き出しました。
一人の人が携帯電話で救急車をよびました。
15分ほどで救急車が到着しましたが、その頃には倒れた方も意識を取り戻しました。
まあ、それだけのことです。

今日の挽歌編で、大阪での「ささえあいついながり交流会」のことを書きました。
そこで「ささえあうつながり」がなくなってしまったという話になりましたが、決してなくなってはいないのです。
「こと」が起これば、みんな支え合うのです。
問題は、その「こと」が見えなくなってきてしまったことです。
見えないから支えようがないのです。

支え合いの一歩は、自らの弱みを見せることです。
あるいは周りの人の問題がもし見えたら、それに手を貸すことです。
それもできる範囲でいいのです。
「支えること」と「支えられること」は同じことなのです。
ですから、支え合う関係をつくるのは、簡単なことなのです。

昨日の交流会で発言のあった、もしかしたら精神病と判定されるかもしれない人から電話がありました。
昨日の会にも参加していた知人に関する話をしてくれました。
私の知っていることでしたが、彼女はその人のことを心配していたのです。
彼女もまた、しっかりと他者への支え合いを考えているのです。
他者を思いやれるかどうかが、もし生命としての正常さの基準であれば、彼女は健全です。

精神病を患っているのは、だれでしょうか。
人々の心身の中にある「支え合う本能」を閉じ込めている社会そのものが問い直されなければいけません。
その社会で「正常」に生きている人が、もしかしたら「精神病」患者なのかもしれません。

そしてたぶん私もまたかなり「病んでいます」。
病んでいなければ、こんな生き方はできないでしょう。
そんな気がしますが、この病とうまく付き合いながら生きていこうと思っています。

■思考の枠組みから抜けられない(2010年4月27日)
様々な人がいて、複雑な人の世で生きていくためには、「発想」の枠組みを共通する必要があります。
問題にぶつかった時、その都度、考えていたら、おそらく人の脳や心身はそう長くは持たないでしょう。
ですから私たちは「常識」を育てて、思考を縮減してきました。
しかし、時代が大きく変わろうとしている時には、それが足かせにもなります。
そして、社会や文明は崩壊します。
生物種のレベルで言えば、種の絶滅が起こります。

かつて民主党が高速道路無料化を打ち出したときの社会の反応は冷ややかでした。
減収となり、そんなことはできないとみんな反応しました。
私は長い目で、そして広い視野で考えたら増収(金銭だけではありません)になると思い、賛成でした。
しかし、民主党自体が実はそう思っていなかったことが、政権党になってわかりました。
中途半端な無料化は費用がかかり逆に減収になるでしょう。
これは、常識にとらわれて発想を転換できなかった典型的な事例です。

名古屋の河村市長の市民減税や議員半減なども、多くの人は常識で考えて、やりすぎだと思います。
私はもっとやっていいと思いますが(目標は税金ゼロで、議員も無報酬、つまり定員ゼロです)、名古屋市民でさえ、それはやりすぎだと反応しています。
常識に縛られている結果だろうと思います。

普天埋問題もそうです。
思考の枠組みから抜け出れば、解決はいとも簡単なのです。
小さな常識、これまでの問題の立て方をしている限り、たいしたことはできません。
今の社会はどこかおかしいとみんな言います。
しかし自らの生き方を変えようなどとは思いません。
所詮は、これまでの常識に依存して思考の枠組みから抜け出られないのです。

社会を統治する人たちや社会の恩恵において「割り勘勝ち」している人たちは、それを支えている思考の枠組みから抜ける必要はありません。
その思考で豊かさを享受しているのですから。
しかし9割以上の人たちは、むしろ「割り勘負け」しているでしょうが、その人たちもが思考の枠組みに従順です。
なぜそうなるかといえば、マイナス思考で考え、そのほうが「今よりも悪くならない」と消極的に納得するからです。
どんなものであろうと、今の状況を捨てることはリスクを伴うからです。
そのおかげで、社会は成り立っているわけです。

新聞やテレビでいろいろの報道を見ていえて、いつも「現在の思考の枠組みの中でしか問題が設定されていない」と感じます。
私自身はそうならないように、意図して、常識や思考の枠組みからの呪縛を忌避しています。
長年そうやって生きていると、自然とそれが身つきます。
ですからたぶん多くの人と思考の枠組みが違いますが、それでもそれなりに生きていけます。
いやむしろそのほうが楽な生き方かもしれません。

思考の枠組みを一度はずして、王様の裸を指摘した「こどもの眼」で、社会で起こっていることを見直してみると、いろいろな気づきがあります。
有識者といわれる人たちが、思考の枠組みの囚われ人であることもよくわかります。

■それでも鳩山さんや小沢さんを支持するのですか(2010年4月28日)
知人から「今の状況でも佐藤さんは鳩山さんを信頼しているのか」と言われました。
もちろん、と応えましたが、正直ちょっと声が小さかったかもしれません。
昨日、検察審査会が小沢さんを起訴相当と結論しました。
今日また誰かから言われそうです。
「それでも小沢さんを支持しますか」と。

いささか気が重いですが、もちろん私は今もなお2人を支持しています。
彼らの果たした役割にはとても大きなものを感じています。
だからこそ2人とも執拗に追い落とされようとしているのだと思っています。
彼らが追い落とされたら誰が利益を得るかは明確だからです。

小沢さんの政策も政治手法も、私は共感できませんし、否定的です。
戦争ができる普通の国にしたいなどという発想は、私には論外です。
昔から好きな政治家ではなく、人気があったころにも否定的でした。
しかし、鳩山さんと小沢さんの組み合わせだからこそ、政権交替という明治政権以来の大挙が実現した、と思っています。
敗戦という大事件にもかかわらず変わらなかった政権交替が実現したのです。
それは2人の大志のおかげです。
「大志」というのはちょっと言いすぎかもしれませんが、賛成するかどうかは別にしてビジョンがあります。
ちなみに田中角栄もビジョン(大志)があった政治家だと思いますので、私は今でも嫌いになれません。
もちろん彼の日本列島改造論の内容は賛成しませんが。

そうした「大志」に比べれば、2人にかけられているお金の嫌疑は、瑣末な問題に思えます。
ビジョンのない人には「問題の軽重」の比較ができませんから、自分のわかることにしか反応しません。
スーパーの商品が1円安いかどうかには反応できるのに、大きな金額の問題は理解できずに損をしてしまう「愚かしい主婦」と同じです。
詳しく話さないと誤解されそうですが、詳しく説明しても理解されないでしょう。
自分がお金にまみれているくせに、何が「カネと政治」だと考えるわけです。
ここでたとえている「愚かしい主婦」、そして「お金にまみれている自分」とは、私も含めた、そしてもちろんこの時評を読んでいる読者も含めた、国民のことです。
そうした「愚かしい国民」が検察審査会を構成しているのです。

古代ギリシアの陶片追放を思い出します。
そうして古代ギリシアは滅びました。

私なら親の遺産をもらったら豪遊し、ほどほどの実績と財産ができたら国政から外れて自治体の首長になったり大学教授になったり政治評論家になったりするでしょう。
「愚かしい国民」のために苦労などしたくないです。
それだけでも、私は2人を尊敬しているのです。

どこか間違っているような気がしないでもないですが、何しろ私もまた「愚かしい国民」すから、それは仕方がないのです。
しかしこれでまた政権交替は失速するかも知れません。
笑っているのは誰でしょうか。

■被害者と加害者の構図(2010年4月29日)
JR西日本の福知山線事故からもう5年が経過しました。
挽歌編にも書きましたが、その事故の被害者のその後をテレビで報道していました。
鉄道事故の場合、被害者を救済する法律がないので、現在はJR西日本が医療費などを保証しているのだそうですが、それに関してはいろいろと問題があるようです。
その番組を見ていて、気づいたのですが、そもそも「加害者と被害者」という構図を問い直すことが必要なのではないでしょうか。

たとえば福知山線事故ですが、この事故の加害者はだれでしょうか。
運転手を加害者と考える人もいるかもしれませんが、彼もまた被害者と考えるべきでしょう。
この事件ではJR西日本の経営者が起訴されましたので、彼らが加害者とされていますが、果たしてそうでしょうか。
ましてやJR西日本という会社を加害者と捉えることはできるでしょうか。
その構図をまずは問い直す必要があります。

加害者と被害者の対立と考えると、利害が相反し、目指すところが変わります。
そこから何か生まれるでしょうか。
同じような事件が繰り返し繰り返し起こるのは、そうした対立の発想に起因していないでしょうか。
加害者と被害者という捉え方ではなく、お互いが被害者と捉えたらどうでしょうか。
そこから「対立の構造」がなくなります。
むしろ一緒になって解決しようという関係が生まれます。
それにそう考えたほうが事態の実相が見えてくるように思います。
対立の構図が入ると誰もが事実を都合よく見ようとしますから、実相は見えなくなります。

これは鉄道事故だけの話ではありません。
もしかしたら、殺人罪のような犯罪においても、そうしたことが言えるかもしれません。
「被害者」がいれば「加害者」がいる、というような単純な発想は捨てなければいけません。
やはりまだ私は、悪しき近代の二元論法から自由になっていなかったようです。
世の中に「対語」などはないのです。

このことに気づいたせいか、私には世界が少し違って見えてくるような気がしてきました。

■鹿児島県の阿久根市市長の共感しました(2010年5月1日)
昨日、毎月のオープンサロンを開催しましたが、そこで政治の話題が出ました。
鳩山首相と普天間問題に関してです。
13人の参加者のうち、明らかに鳩山首相支援は5人いました。
きちんと聞いたらもっといたかもしれません。

鳩山・小沢追い落とし説を信じている人もいました。
もちろん私もその一人です。
しかし「友愛」を強く評価する人はいませんでした。
友愛を基本にしていない人間は私の世界の人ではありませんが、まあそういう人とも付き合わなければいけません。
なにしろ世の中のほとんど全ての人がそうなのですから。
困ったものです。

普天間問題は以前も書きましたが、解決はいとも簡単な話です。
それを難しい難しいと言っている人が多すぎます。
問題は簡単に考えなければいけません。
難しくするのは、それによって利益を受ける人です。
あるいは物事を真剣に考えていない学者や有識者です。
彼らは物事が複雑でなければ自らの寄って立つ基盤をつくれません。
暇な人ほど忙しいと言い、バカな人ほど難しいと言うのです。
もっとも、難しさが理解できない私のようなバカもいますが。

しかし、世の中の仕組みは本来極めてシンプルなのです。
人はみんな「支え合う本性」があるという視点に立てば、戦争も起きませんし、犯罪も起きないのです。
にもかかわらず犯罪が起きるのは、犯罪という難しい概念がつくられたからです。
そこで利益を受けているのは、加害者ではありません。
加害者もまた被害者であることが少なくありません。

鹿児島県の阿久根市の市長が独裁者と言われているそうです。
私もあまりいい印象を持っていませんでしたが、今日、テレビ取材の報道を見ました。
極めてリーズナブル、常識的な人です。
中途半端なマスコミ情報で決め付けてはいけないと常々思っているのですが、阿久根市長に関しては私もマスコミの影響で彼に反発を感じていました。
反省しなければいけません。
今日、テレビで見た阿久根市の竹原市長の発言には共感しました。
普通の人です。そう感じました。

彼は市議会議員も市議会をかなり口汚く否定しています。
しかし、私も同感です。
いまの自治体議会のあり方は、どう考えてもおかしいし、無駄なものです。
私の知人にも何人か地方議員はいますが、私はまったくその存在価値がわかりません。
収入も多すぎますし、まともな仕事をしている議員に会えたことがありません。
このブログを読まれると関係が悪くなりそうですが、私の本心ですから仕方ありません。
このブログも後で削除したくなるでしょうね。
しかしまあ今日はアップしたい気分です。
あまりに愚劣な自治体議員が多すぎると嘆いているのです。
まあ本当は国会議員のほうがおかしいのかもしれませんが。

■人は何を守るかによってどんな人か決まる(時評編)(2010年5月2日)
今日の挽歌は、「人は何を守るかによってどんな人か決まる」をタイトルに書きました。
書いていて、時評編でも書きたくなりました。
最近の世評は、守るべきものを持たない人が多すぎるからです。
言いかえれば、「守りたいもの」が多すぎるのかもしれません。
世相を見る基準としてこの言葉を使えば、新しいものも見えてくるでしょう。

「守るものがあるか」
これは「両刃の剣」のような言葉です。
守るべきものがあるがゆえに、信念を守れなかった人は少なくないでしょう。
韓国の法頂師は、だからこそ「無所有」を貫きました。
守るためには捨てなければいけないこともあります。
いえ、守るとは捨てることかもしれません。
「守るとは守らないこと」などという禅問答のような議論もできます。

それはともかく、世の中の識者や公人といわれる人について、その人が「何を守っているか」を考えると、その人がどんな人かわかります。
同時に、その人の持っている辞書の中身も見えてきます。
「国(社会)のため」といいながら、国民(住民)を食い物にしている人は少なくありません。
平和のためと言って人を殺す人もいます。
言葉で考えるのは意味のないことです。
言葉は人を操作する最強の武器ですが、同時に人の本性をさらす最良の信号です。

日本の経済がおかしくなったのは、「守るもの」を失ったことと無縁ではありません。
守るものが「お金」になったというのは当たりません。
お金を守るなどというのは、実体のない言葉です。
守銭奴は「守るもの」のない哀しい人にすぎません。
守るものを失った経済が破綻するのは当然です。

最近の政治もまた、守るものを失っています。
批判や手段論しか語れる政治屋しか残っていません。
数少ない例外の一人は「友愛」という「守るもの」をしっかりと持っている鳩山首相です。
長妻さんも、「守るもの」を持っています。
小沢さんも持っています。
だから消されようとしているわけですが。

しかし、自分のことを考えると、志も定見もない昨今の政治家や経済人とそう変わりのないことに気づきます。
私が「守っているもの」は何なのか。
真剣に考えなければいけません。
そうしないと、私が批判している人と同じ存在になってしまいます。
そうはなりたくありません。

守るもののために死ねた時代が、ある意味ではうらやましいです。
自爆するイスラムの若者を非難する人は多いですが、私には非難は出来ませんし、ある意味での羨望の念さえ感じます。
もちろん「死の栄光」を肯定するつもりは全くありませんが。

■生き方を変える季節(2010年5月3日)
柏で友人たちと食事をしていたら、元山口組の daxから電話がありました。
湯島にいたら会いに行きたいという電話です。
季節の変わり目でちょっと精神的に元気が出ないというのです。
daxはジョークが大好きなので、時々私もだまされますが、そういえば声に張りがありません。
おいおいdaxまでもかよ、と言ってしまいましたが、まあ人間、気分が沈むこともある、というのです。
daxらしくないなとちょっと気がかりですが、まあ強い人ほど弱いのです。
daxも自分でそう言っていましたが、私のように弱い人間は意外と強いのです。
まあそれはともかく、季節の変わり目にはいろいろあります。
ともかくこの数週間、さまざまな相談がやってくるのです。

うれしい話もあります。
ちょっと元気が出てきたというメールは、福岡から届きました。
Nさんからです。とてもうれしいメールです。
最近ちょっとダウンしていたようなので、気になっていました。
こう書いてありました。

今まであまり自分の歳を意識したことはありませんでしたが、
やはり無理は効かない年齢に入ってきているのだなと思いました。

たしかに私もそう思います。
Nさんは最先端を行くビジネスマンから一転、福祉の世界に入った人です。
そして見事な生き方をしている人です。

ビジネスマンから生き方を変えたといえば、今日、食事をしていたNKさんもそうです。
歳とともに、生き方も変わるものです。
そしてますます元気です。

私の周りには、生き方を変えたり、変えつつある人が少なくありません。
その人たちと付き合っていると、時代の変化を実感できます。
しかし、そうして生き方を変えられる人は決して多くはないのでしょう。
変えたくても変えられない人がほとんどです。
見事なほどかえられない人もたくさんまわりにいます。

でも、季節の変わり目には生き方も変えやすいのかもしれません。
みなさん、生き方を少し変えてみませんか。
世界が変わってきます。

さて私もそろそろまた生き方を変えようかと思い出しています。
その前に、まずは気になるdaxと会ってみようかと思っています。
元気がないといっても、私に比べればずっと元気なはずですが。
それに私の次の生き方のヒントがもらえるかもしれませんし。

■抑止力と友愛(2010年5月4日)
今日はかなりがっかりしています。
鳩山首相の沖縄での発言に対してです。
なにやら平凡な進展になってきてしまいました。
それに「抑止力」と「友愛」は、どう考えてもつながりません。
友愛を信ずる人は、抑止力などといわないのではないかと思います。

というわけで、ずっと信頼してきている鳩山さんへの信頼が揺らぎそうです。
まだ期待は捨てませんが、大きな歴史的転換は起こらないようです。

オバマ大統領と同じく、鳩山さんも傀儡だったのでしょうか。
いささか落ち込んでいます。

■見えない金利の罠(2010年5月8日)
昨日、企業の管理職の人たちを対象にして、「個人が主役の時代におけるビジネスマンのあり方」という話をさせてもらいました。
私の伝えたいメッセージは、もう雇われ人(エンプロイー)根性を捨てて、企業という仕組みを活かすアントレプレナー(起業家)になろうということです。
そうして、社会を壊わしだしている金融主導の経済システムを変えていこうと呼びかけたかったのです。
このことをホームページ(CWSコモンズ)に書いていたのですが、これは時評編に書いたほうがいいと思い、同じような内容ですが、少し書き足して、ここに掲載することにしました。

お金のために働く状況からどう抜け出すか。
それが大きな課題だと私は思っています。
それに関しては、このブログでもいろいろと書いてきました。
しかし昨日話したのは。私たちはお金のために働いていることに気づいていますか、と問いかけさせてもらったのです。
お金をもらうためという意味ではありません。
お金が要求する利子のためという意味です。
そのことを少し書こうと思います。

金利負担しているのはお金を持っている資産家だと私たちは思いがちですが、むしろ貧しい人ほど相対的には金利負担をしているのが最近の金融資本主義の実態です。
消費者金融からの利子などという話ではありません。
また規制がわずかに厳しくなりますが、焼け石に水と言うか、むしろ犯罪者たちと金融業者を喜ばすだけの犯罪助長策でしかありません。
これを書き出すとまた長くなりますので、今回は止めます。

今回のテーマは「お金がお金を生み出すこと」が構造化されている今の経済システムの話です。
「お金が取り込む利子」が現実には見えない形になっているのです。
スーパーで200円のキャベツを買うとします。
キャベツの原価を調べていくと、そこに「金利」の項目が隠されていることに気づきます。
農家は生産のために施設や機械に投資しますが、その投資のために融資を受けます。
その金利負担が農家の生産費にはしっかりと含まれています。
スーパーは店舗建設のために融資を受けていますが、その金利もまた原価に反映されています。
そんなことは当然だと思うかもしれませんが、もし金利がゼロであれば、つまりお金がお金を生み出す構造をなくせば、金利分だけ価格は安くなります。
言い換えれば、金利分は消費者が負担しているわけです。
キャベツの価格の、どのくらいの割合が「お金の収奪される利子」になるかは正確にはわかりませんが、かなり大きいはずです。

もっとわかりやすいのはガソリンです。
ガソリンにかかっている税金のかなりの部分が、国家が借金している分の金利に取られています。
もし国家の借金の金利がゼロであれば、税金はもっと安くなるのです。
こうした金利がどこに行っているかといえば、お金を持っている人に行きます。
ですからお金をたくさん持っている人は働かなくてもお金はどんどん入ってきます。
これが今の経済の構造です。

農業の例で言えば、農協は日本の農業を工業化してきました。
そして農家に農薬や化学肥料、さらには機械を売り込みました。
つまり「お金のかかる農業」に育てたのです。
「お金のかかる農業」は一見、「お金を稼ぐ農業」でもあります。
しかし同時に、「利子を負担させる農業」でもあるのです。
そうしてお金は何もしなくても自然と利子が入ってくる(お金を生み出す)仕組みをつくりあげたのです。

もし金利がゼロになれば、つまり貨幣は単なる交換手段だと位置づければ、経済はまったく違ったものになります。
まさに生きるために必要な、サブシステンスな活動が基軸に置かれた経済が構築されるでしょう。
お金がお金を生み出すなどという不条理なことはおきません。
そして持続可能な経済が実現できるでしょう。
もともと経済とは持続可能なものなのです。
金利などというおかしな概念をなくせば、経済の構造はまったく変わります。

私たちが、お金のために働いていることがわかってもらえたでしょうか。
貧しい人ほど、生活していく上で日常的に金利負担をしているのです。
その結果、生活の困窮した人が、消費者金融やヤミ金融の餌食なるのです。
これは決して別の話ではありません。
巧妙に仕組まれた構造です。

そこから少しでも抜けだしたくて、私はお金をできるだけ使わないようにしています。
お金を使うことが、高利貸しを利することになるからです。

■昨年の自殺者もまた3万人を超えてしまいました(2010年5月13日)
警視庁の発表によれば、昨年の自殺者は前年を596人上回り、1978年に統計を取り始めてから5番目に多く、12年連続で3万人超となったそうです。
自殺問題に対する世間の意識はかなり変わってきましたし、制度的な取り組みも広がっていますが、自殺者の数はなかなか減りません。

この1週間、若い友人の死に遭って、時評を書く気力がなかったのですが、この新聞記事を読んで久しぶりに書く気が起きました。
この問題はいつか書きたいと思っていたのです。

私も昨年、「自殺のない社会づくりネットワーク」の立ち上げに関わりました。
私のオフィスをその事務局に提供しています。
そしてその活動にもささやかに関わらせてもらっています。
しかし正直に言えば、こうした活動に対する違和感が拭えないのです。

それはなにも「自殺問題」に限った話ではありません。
この20年、各地のまちづくりやNPO活動などに関わらせてもらっていて、どうも気になるのが、その根底にある思想と活動の枠組みです。
そこではじめたのが、「大きな福祉」を理念とするコムケア活動です。
そこで心がけているのは、現象として現れる個別問題への取り組みではなく、その根底にある私たち一人ひとりの生き方の問い直しです。
それは同時に失われてきた「コモンズの回復」でもあります。
私のホームページのどこかにそれに関する論文も掲載しているはずですが、コモンズが痩せ細った社会を変えていかなければいけないというのが、私の生き方です。
そこを変えていかないといくら個別問題への対策を立てても実態は変わらない。
ただ問題が見えなくなるか、変質してしまうだけではないかと思うわけです。

こんなことを言うと実際に個別問題に取り組んでいる人たちに怒られるでしょうし、批判されてしまうでしょう。
実際にこれまでもそういう体験をしています。
だから「自殺のない社会づくりネットワーク」から離れてから、この問題はブログで書きたかったのですが、なかなか離れられません。
そこで仲間からひんしゅくを買うことも覚悟で書くことにしました。
ここで書くことは、ネットワークとはまったく無縁の私の私見です。

問題を解決すれば問題は進化し、さらに事態は悪くなる。
これが「近代のジレンマ」だと私は捉えています。
社会原理を変えないとそのジレンマは克服できません。
その原理を反転させる鍵は何なのか、それが私の関心事です。
それに関して私が何を考えているかは、このブログで書いてきています。
それは、時評だけではなく、挽歌編とセットにしているつもりです。
時評と挽歌は、私にとってはコインの裏表です。
時評がラディカルに感ずるのは、生命に立脚しているからです。

さて「自殺」の問題です。
問題は2つあります。
一つは「自殺(企図)」によって発生する関係者の生活を支援することです。
これは間違いなく価値のある活動です。
しかしそれが整備されれば自殺がなくなるわけではないでしょう。
そこには危険な落し穴さえあるように思います。
誤解されそうですが、解決すべき問題が違うのです。
近代が誤ってきたことの本質がそこにもあります。

もう一つは、「自殺」現象をなくするという問題です。
これは自殺そのものの問題ではなく、社会のあり方、言い換えれば人と人のつながり、人と自然とのつながりの問題というべきです。

言い方を変えると、問題をどう設定するかが重要なのです。
問題の立て方を間違うと、取り組み方が違ってしまうことにもなりかねません。

中途半端な書き方なので、少しこの問題は書き続けたいと思います。

■「自殺」という言葉をなくしたい(2010年5月14日)
先月、三省堂から「自殺をくい止めろ! 東尋坊の茂さん宣言」が出版されました。
筆者は東尋坊で自殺防止活動をされている茂幸雄さんです。
昨日書いた「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」の代表は茂さんです。
その関係で、この本にも一文書かせてもらいました。
ホームページに掲載しましたので、もしお時間があればお読みください。

この本を読んだ友人から「佐藤さんの文章だけトーンが違いますね」といわれました。
タイトルは「自殺のない社会に向けて」となっていますが、自殺に関する記述がほとんどないからです。
彼はこの本を読み出して、あまりに重いので先に進めなくなったそうです。
最初のほうには自殺を身近に体験した人たちの文章が並んでいたからです。
気を取り直して、真ん中にある私の書いた文章を読んだそうです。
私のことを知っていることもあったのだと思いますが、すっと入っていけたそうです。
私自身、この本を受け取った時に、その装丁も含めて、これは読んでほしい人には読んでもらえないだろうなと思いました。
筆者の茂さんも編集者の人も知っているだけに、こんなことを書くのは気が引けるのですが、私には問題の捉え方に大きな違和感があるのです。

それはマスコミの報道に関しても同じです。
視聴率のために報道しているのか、とまでは言いたくありませんが、関連番組を見ていて、そのステレオタイプな取り上げ方にはいささかの違和感があります。
報道関係者とも何回か話しましたが、彼らも決して悩んでいないわけではありません。
とても誠実に取り組んでいるのが伝わってはきますが、やはり私には共感できません。
それにここまで報道されるようになったことは関係者の努力のおかげです。
それは私も高く評価しています。
でもどこかに違和感があるのです。

私自身が身近に「自殺」を体験していないための勝手な違和感かもしれませんと思うこともあります。
事実、自死遺族の人からも怒られてこともあります。
しかし私も「自殺」で親しい友人を何人か亡くしています。
会社時代には私をとても支援してくれていた上司が自殺しました。
自殺を考えた友人知人と関わったことも何回かあります。
いやそれ以上に、自らも自殺に決して無縁ではないという自覚はいつもあります。
ですから、そう無関係な生き方をしているわけでもないのです。
そういう立場から考えても、今の自殺問題の取り上げ方は違和感があります。

「自殺」という言葉をなくしたい、と私は思っています。
言葉は現実をつくっていきます。
どうしたら、その言葉をなくせるのか。
私の関心事は、そのことに尽きています。
そしてそれは自分の生き方を変えることからしか始まらないのではないかと思っているのです。

■競争と評価(2010年5月18日)
友人が仲間と一緒に本を出しました。
「「エクセレントNPO」とは何かー強い市民社会への「良循環」をつくりだす」です。
非営利組織評価基準検討会編となっています。
その検討会の主査が田中弥生さんです。
田中さんとは長い付き合いで、私が信頼する数少ないNPO研究者です。

その本のことを私のホームページ(CWSコモンズ)で紹介させてもらいました。
いささか批判的な紹介です。
本の内容はとても共感できるのですが、タイトルに大きな違和感があったからです。
タイトルには、しかしその本のメッセージと編集意志がしっかりとでます。
そのタイトルを嘉永したための苦い経験が私にもあります。

タイトルのどこに違和感をもったのかは、ホームページに書きました。
読んでもらえるとうれしいのですが、要するに「強い」「エクセレント」の2つの文字への違和感です。
編者が非営利組織評価基準検討会ですから仕方がないのですが、この2つの表現には「量的な相対評価」の発想があります。
私は多文化主義者ですので、一つの尺度で評価する文化にはなじみません。
それは必ず「優劣」につながるからです。
優劣は「競争」を引き起こします。
そして競争は寛容さを失わせます。
とりわけ「強い」という言葉の持つ「暴力性」には最近過度すぎるほどに反応してしまいます。
私自身の心がきっと「弱くなっている」からです。

みんな「競争」は大切だといいます。
そういう人はほとんど例外なく、「敗者をつくる競争」は悪いが、「切磋琢磨しみんなが進歩する競争」は必要だといいます。
私もつい先ごろまではそう思っていましたし、このブログにもそうしたことを書いたような気もします。

しかし最近、果たしてそうだろうかと思い出しています。
「競争」と「評価」
これについて少しこれから考えてみたいと思います。

昨日、早く寝たせいか、少し元気が出てきました。

■見えている風景の違い(2010年5月19日)
昨日、コンサルタントや経営者を目指す人たちにビジネススクールで話をさせてもらいました。
これまでのものとは違ったビジネススクールで、私の友人が思いを込めて始めタプログラムです。
講演嫌いの私としては、めずらしく3週続きの講演でした。

昨日は講演後、いろいろと質問を受けました。
質問を受けたということはコミュニケーションが成り立ったということです。
私のメッセージが少し通ずるようになったのかと思いました。
ちなみに、私が話していることは、この20年ほとんど変わっていません。
もちろん話す材料は変わっていますが、メッセージは同じです。
残念ながら、私が思うような意味で相手に伝わったという実感が得られることはとても少ないです。
いえ、ほとんどないといってもいいかもしれません。
なぜなら聴いた人の生き方があまり変わったと思えないからです。
でも昨日は少しだけですが手応えを感じました。
終わってから名刺交換しながら何人かの方と話しなが、そんな気がしました。

しかし、帰りの電車の中で、ハッと気がつきました。
もしかしたら、みんなに見えている風景と私のそれとはやはり違うのではないか、ということにです。
そのことは前から感じていたことですが、風景は同じで、しかし見えているところが違うだけなのだろうと考えていました。
しかしもしかしたら、風景そのものが違うのかもしれません。

いつからこうなったのだろうか、68年の人生を振り返りました。
意識できるのは中学生の頃からです。
昨日、たまたま中学(武蔵野一中)の同窓会の案内が届きましたが、その頃から少しだけみんなと風景が違っていた気がします。

しかしおそらくそれは誰でもそうだったのでしょう。
子どもに見えている世界はそれぞれに違います。
違った世界に生きていると生きづらくなっていきます。
だから多くの人は世界をみんなと同調させていくのです。
大人になるということはそういうことなのでしょう。
それを助けてくれるのが学校かもしれません。
だから、私はその学校にいつもなじめなかったのです。

私もそれなりに同調して大人になろうとしてたつもりです。
ですが残念ながらそれに失敗してしまったのかもしれません。
その生き方を支えてくれた妻がいなくなってから、私の風景はさらに変わってしまったような気がします。

違った風景に生きている人たちにメッセージを出していくことが、果たして意味があるのか。
そんなことを考えたら、疲労感がどっと襲ってきました。
でも何人の方からか、昨日の感想が届いて元気づけられました。
世界が違うからメッセージが出せるのです。
そして出さなければいけないのです。
また時評をきちんと書き出します。

■なぜ同じ地域に住む人に向けて銃口を向けられるのか(2010年5月20日)
タイの反政府デモは政府によって制圧されました。
私自身はどちらかに加担できるほど情報も利害関係ももっていませんが、その制圧の様子をテレビで見ていて、なぜ人は人に向けて銃口を向けられるのかと不思議に思いました。
しかもみんな同じ国民です。
それぞれを動かしているトップの座にいる人たちが、「私欲」のために、あるいは「正義」のために、相手を倒そうとするのは理解できます。
もしそうなら一対一で決闘すればいいのですが、その文化がなくなったいま、動員されるのは権力とは無縁の生活者です。
制圧の前線に立った人と制圧の対象になった人とは、たぶん極めて近い存在でしょう。
にもかかわらず、戦わされるのは、常にそうした人たちです。
もしそうであれば、銃口は空に向けられるべきですが、映像ではまさに相手に向けられています。
そして死者が出るのです。
戦いで利益を得る人には、こうした仕組みでは銃口は向けられません。
利益を得る人たちは詰めに安全な場所にいるわけです。
イラクもアフガンも、チェチェンもそうです。

私の大学時代に安保闘争がありました。
デモ隊に向かってくる機動隊がまったく理解できませんでした。
お前たちのために我々は命を張って闘っているのがわからないのか。
そうした「思いあがりの気持ち」がまったくなかったとは言えませんが、人はいかようにも「改造」できることを実感しました。

そこで学んだことの一つは、論理的な関係と現実的な関係は、いつも逆転するということです。
その事例には、その後、歴史を学ぶたびに繰り返し出会いました。
ここでも「見ている風景」「生きている風景」が大きく影響しています。

タイの映像を見ながら、ふと思いました。
これはタイだけの話ではない。
日本の今の普天間問題もまったく同じなのではないのか。
武力こそ使わないものの、それ以上の「武器」が使われているのではないか。
そして人間が壊され、社会が壊されているのではないかと言う気がしてきました。

陰湿に隠された戦いよりも、タイのようにわかりやすい戦いのほうがダメッジが少ないのかもしれません。

もう一つ感じたのは、反政府側の戦略の不在です。
不謹慎ですが、なぜこんなやり方をとっているのかと思います。
たぶん政府対反政府と同じ構造が反政府組織にもあるのでしょう。
組織原理が同じ組織は常にフラクタルな関係です。
これもまた普天間問題にも当てはまることかもしれません。

■国の「不作為責任」(2010年5月20日)
時評をまたきちんと書こうと思ったらとたんに書きたいことがたくさん出てきました。
続けて今日2つ目の時評です。

アスベスト問題で、昨日、大阪地裁が画期的な判決を出しました。
アスベストの有害性が明白になり、規制が始まっていたにも関わらず、実際の場での規制を放置したことに対して、国の「不作為責任」を認めた判決です。
国の「不作為責任」を認めたことにとても共感できます。

犯罪は多くの場合、「作為」に目が行きますが、権力の座にある人(組織、事業主体)は、むしろ「不作為」こそが大きな被害をもたらすのです。
にもかかわらず「これまで「不作為」は見過ごされがちでした。

立場によって、「不作為」の意味はまったく違ってきます。
私が少々の不作為をしたところでたかがしれていますが、社会的な大きな影響力を持っている人が行う不作為は大きな問題を起こしかねません。
C型肝炎問題を考えればわかることです。

もっとも「不作為」と同じレベルでの「過剰作為」という問題もあります。
そこが悩ましい話ではあります。

「過失」はどうでしょうか。
最近は「重過失」発想が広がっていますが、私自身は「過失」と「故意」の量刑の差が大きすぎることに以前から違和感がありました。
そこを埋めるものとしての「未必の故意」論があるのですが、それらはいずれも同じように扱うほう論理はたぶん十分に成り立ちます。
そうなっていないところに、今の法体系が管理の道具であることの証があると私は思っていますが、その延長に「不作為への寛容」が成り立っているように思います。

その意味で、今回の判決にはとても共感できます。
ただ、被告への慰謝料や賠償に関する判決部分には違和感があります。
被告にとっては、これまでとまったく同じことなのかもしれません。
しかし、あとは政治の世界の話かもしれません。

被告たちにとって納得できる保障がなされることを祈ります。

■殺処理(2010年5月20日)
続けてまた時評です。

口蹄疫でたくさんの牛が殺処理されています。
「殺処理」
恐ろしい言葉です。
この言葉を最初に知ったのは、鳥インフルエンザの時ですが、心が凍りつきました。
その言葉にまた出合うことになりました。

感染を広げないための「コラテラル・ダメッジ」なのでしょう。
でも恐ろしい風景ではあります。
だからどうすればいいのか、という考えがあるわけではありません。
「殺処理」を止めるべきだということでもありません。
ただただ恐ろしいだけの話です。
私たちは「言葉への畏れ」を忘れたのではないかという気もします。
それにしてもこんな無神経な言葉をだれがつくったのでしょうか。

人が生きるために多くのコラテラル・ダメッジが必要なことは否定できません。
でもやりきれない気がします。
そしてこうした風景がどうしても自分に重なってきてしまいます。
おそらくその状況になれば、私自身もきっと「殺処理」の対象になるのでしょう。
いやはや暗くなってしまいます。

胸を張って死を選んだ、切腹の文化や自爆の文化もなにやら理解したくなるほどの気分です。
言葉は大事にしなければいけません。

■風景を見る立地点(2010年5月21日)
一昨日の続きです。
最近、普天間基地問題に関してメーリングリストでさまざまな議論があります。
マスコミでの報道はその一つの側面を伝えているだけですが、メーリングリストでの議論は考えさせられるものが少なくありません。
様々な意見を読めば読むほど混乱しかねません。

私自身はこの問題は極めてシンプルに捉えています。
国家の本質が見えているだけの話です。
問題の捉え方が「移設」である限り、解けない問題です。
ですから「移設」を「撤去」へと、問題を変えなければいけません。
そして変えれば、いとも簡単に問題は解けるように思います。
問題を変えるためには、これも簡単な話で、「安保条約10条」に従えばいいだけです。
鳩山さんは、そうすると思っていましたが、そうしませんでした。
意外でした。

それはともかく、問題はその人が立つ場所によって決まります。
先週のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」で、見る立場を変えたら評価はまったく変わることが繰り返し述べられていました。
その通りです。
龍馬は他の多くの人と違ったところから世界を見ていたのでしょう。

この20年、日本の企業は「ノーロングターム」の波が覆っていました。
だれも長期的に問題を考えようとしませんでした。
この20年だけではないかもしれませんが、とりわけこの20年はみんな目先しか見ませんでした。
ですから世界を見る位置をどんどん変えてきたのです。
その結果、時間的にも空間的にも、近視眼的な世界しか見えなくなってしまったようです。

最近の若者は海外に行きたいと思わないそうです。
外資系の企業に入社したにも関わらず海外勤務を希望しないのだそうです。
そのことに日本の今の状況が象徴されているのかもしれません。

立地点を変えると世界はまったく違って見えてきます。
そして生き方も必ず変わっていくはずです。
私の時間軸や空間軸は、いささか逸脱しているかもしれませんが。
何しろ彼岸も見えてしまうのですから。

■普天間問題の決着には力が抜けてしまいました(2010年5月24日)
普天間問題の決着には力が抜けてしまいました。
あまりにも大きな期待をしてしまっていた自分の見識のなさをまた反省しました。
もっともまた同じような状況になったら、懲りずに期待を持つとは思いますが。
みんなが期待を持たなければ、新しいことは何も始まらないからです。

それにしてもひどい決着です。
韓国の哨戒船の撃沈事件も、然るべきシナリオの一環なのだろうと思いますが、世界はもはやシステムに乗っ取られているのかもしれません。
システムの前には、個人の存在など小さな存在なのかもしれません。
しかし小さくてもいいから、流れに一矢を放ってほしかったです。

挽歌編にも書きましたが、今日やることがなかったので、DVDで「ワルキューレ」を観てしまいました。
ヒトラー暗殺計画の事実に基づく映画です。
システムの中で生きている人は、決断ができません。
システムを超えられないのです。
それではいつになってもシステムの呪縛から抜け出せません。

私は子どもの頃から、システムから自由になりたいと思って生きています。
システムを無視するわけではありません。
システムを与件として、無批判的に受け容れることはしないと言うことです。
もちろん実際には、システムを受け容れなければ生きてはいけませんから、ほとんど受け容れていますし、それに乗っています。
しかし、そのために自分(の生き方の信念)を裏切る惧れが出てきたら、そのシステムからは降りるようにしています。
会社を辞めたのもその一つの結果です。

そうした生き方に心がけていた者としては、なぜ鳩山さんのような人が「ノブレス・オブリージェ」を果たそうとせずに、庶民的な判断をしてしまったのかが解せません。
彼でなければできなかったことがあるはずです。
皮肉なことに、細川さんと同じ道を歩んでいるようにさえ思います。

この数日、極度に気が滅入っています。

■世界をしっかり見ることの大切さ(2010年5月24日)
先日、ビジネススクールで、「社会的起業」に関する話をさせてもらいました。
そこで今の日本の社会は壊れてきていると話をさせてもらいました。
話し終わった後、何人かから質問と意見をもらいました。

そのなかに、
今の日本に自殺しなければいけないほどに困っている人が本当にいるのか
というような発言がありました。
この人は、おにぎりを食べたいと書き残して餓死した人のことをどう受け止めたのでしょうか。
いささか感情的になってしまい、私の周りには何人もいます、名前を挙げろといわれればすぐにでも挙げられますといってしまいました。
ちょっと大人気なかったですが、そうした性向はどうしても直せません。

しかし、新しい事業を起こそうというのであれば、あるいは事業を経営しているのであれば、その社会の実態くらいは知っていてほしいものです。
キャノンの御手洗さんのように、一方ではきれいなことを言いながら、自分の会社では人を解雇し自殺に追い込むような二枚舌のような人間は私には許せません。
そんなことまでして生きる価値があるのかとさえ思います。
少なくとも、会社を経営するのであれば、現場を知らなければいけません。
それをしないでいくら知識を学んでも意味がないと私には思えます。
しかし、そういう人が多すぎます。
そしてそういう人こそ、システムが望んでいるのです。

主体的に判断するには2つのことが不可欠です。
まずは判断する主体。そして判断する環境です。
判断は環境の中で行われますから、環境と無縁の判断はありえません。
ですから主体的な判断のためには環境をしっかりと認識し関係を創っておくことが大切です。

私が21年前に会社を辞めて、地域社会にささやかな接点を持ち始めた時に感じたのは、みんなそれぞれの小さな世界に閉じこもって、社会全体が見えなくなっているのではないかということでした。
企業にいては見えてこなかったさまざまなことを、会社を辞めたおかげで気づかされました。
しかしどこかに属した途端に、10年もすればまた他の世界が見えなくなってしまいがちです。
そんなことからこの20年、定職もない生活をしてきましたが、それこそが「社会を生きること」なのだと思っています。
開き直りなのかもしれませんが、そうした生き方が、いまは身についてしまいました。

みんなもっと社会の実相を知ってほしいものです。
社会の実相を知れば、必ず言動は変わります。
それぞれの小さな世界に閉じこもらずに、どんどんと世界を広げていくといろいろな風景が見えてきます。
みんなの世界がそうやって重なっていくと、きっと世界は平安になっていきます。
それにはまだまだ時間がかかりそうですが、そういう生き方をしようと思えば、すぐにできることでもあります。

■「国家の終焉」の始まり(2010年5月29日)
鳩山政権の普天間問題への取り組みは、私には思ってもいない形で終わりました。
鳩山首相への信頼は完全に打ち砕かれました。
唯一の救いは福嶋さんの態度でした。
自分を売った村山さんとは今のところ違うようです。
もっともその社民党も、連立からの離脱を決断できていないようです。
彼らの多くもまた現実が見えていないのかもしれません。

いや。
問題はそんなに簡単ではないのかもしれません。
見えていないのはむしろ私かもしれません。

細川政権も半年しか持ちませんでした。
政治構造を壊すには至りませんでしたが、今回はどうでしょうか。
もう元には戻れないという人が私の周りには少なくありません。
私もそう思いたいですが、最近の動きを見るといささか心配になります。
システムは、やはり強かです。
個人の存在など、いとも簡単に圧殺してしまうのでしょう。
そういう時には、多数決を信奉する似非民主主義者が大活躍します。
統計学者と同じくらい彼らには信念がありません。
価値観不在の民主主義理念はありえません。
あるのは民主主義制度です。
おかしな話ですが、民主主義が示す理念とは正反対のものです。

いまや、システムは社会の隅々にまで、そして多くの人の心の細部にまで入り込んでいます。
それには立ち向かえないのかもしれません。
細川さんはそれを直感したのでしょうか。
だからシステムからはずれて生きていくことを選んだのでしょうか。
真実を見てしまうと、人の生き方は変わります。

しかし、その一方でこういう考え方もできます。
こうした惨めな決着を受けて、今度の選挙では民主党は惨敗し、政治の混乱がは生ずるでしょう。
それは「国家の終焉」の始まりかもしれません。
いいかえれば、いまのシステムの終焉の始まりです。
植生における遷移と同じく、システムもまたクライマックスの次は崩壊です。
そこにもまた「隠されたパラドクス」が埋め込まれています。
もしかしたら、それが小澤さんの望んでいることかもしれません。
彼もまた真実を垣間見た人でしょうから。

いずれにしろ、国家の役割はもう終わりました。
国家をベースにした抑止力理論など無意味な話です。
いや、そもそも「抑止」という発想に間違いがあったのかもしれません。
今回の顛末には、いろんなことを気づかせてもらいました。

■世界卓球を見ていて疲れ切りました(2010年5月30日)
一昨日と昨日、世界卓球女子の中継をテレビで観てしまいました。
観てしまったというのは、途中で何度もテレビを切りたくなったのです。
なぜなら、その緊張感に観ているだけでも疲れてしまったからです。
特に、福原愛選手のゲームは息がとまるほどの緊迫感がありました。
子どもっぽい顔に、それがそのまま出ていたからです。
私なら逃げ出したくなって、倒れてしまうかもしれないと思いました。
あの緊迫感に耐えられるだけでも、私には驚異です。

考えてみれば、私はいかにも安易な人生を過ごしています。
自分をしっかりと生きているという自負はあったのですが、それは自分の世界に逃げてきたことを意味するのではないかと、少し思いました。
緊迫感のある世界を生きたことは、私にあるでしょうか。
確かにいわれて見れば、「平和ボケ」した間抜けな人生だったのかもしれません。
そう思いながら頭に浮かんだのは、鳩山首相でした。
彼はもしかしたら私以上に緊迫感のない人生を過ごし、それが習性となったために、普天間問題に関してもまったくの緊迫感のない思考をしてきたのではないか。
要するに従順な優等生でしかなかったのかもしれません。
優等生ほど扱いにくい存在はありません。
優等生とは主体性を閉じ込めた存在ですから、生きていないのとそう変わりません。

それにしても、凄い緊迫感で、あの空気に負けない選手たちには尊敬の念を持ちます。
サッカーなどであれば、ソーシャル・キャピタルの緊迫感を身体的に逃がす方法はあるでしょうが、卓球の場合にはとても狭い場所でしか動きがとれず、しかも時間的にも休む暇がありません。
観ているだけで胸が苦しくなるほどですから、当人の緊迫感をいかほどのものでしょう。

そのわずか1割でもいい。
その緊迫感を内閣を主導する人たちには持ってほしいです。
口蹄疫問題にしても、たとえば、宮崎県の知事はもう少し緊迫感を持って対してほしいものです。
もしそうしていたらこんな事態にはならなかったかもしれません。

もう一つ思い出したのが、韓国と北朝鮮の間に高まっている緊迫感です。
緊迫感を持続させることで社会を統治することは、支配する人たちの常套手段です。

世界卓球の試合をきちんと観たのは生まれて初めてです。
もう2度と観ないでしょう。
あれほどの緊迫感に耐えるほど私は強くないからです。
今日、69歳になりました。
静かな余生の意味が少し理解できるようになってきました。
生きることから、そろそろ抜け出してもいいかもしれません。

■手続きと知識がお金を生み出す社会は健全なのか(2010年5月31日)
私は一応、会社を経営しています。
この5年ほど、ほとんど仕事はしていませんが、会社としての借金も残っているので、清算もできずに継続しています。
継続していくためには毎年決算をして税務署に申告しなければいけません。
以前は税理士にお願いして手続きしていましたが、お金が無くなったため、自分で申告書を作成し、税務署に提出しています。
最初は大丈夫だろうかと思っていましたが、やってみるとそう難しい話ではありません。
今日、締切日だったので書類を作成して税務署に申告してきました。
2日もあればできることがわかりました。

税理士に依頼すると月額5万円、決算時に60万円かかります。
以前はそれを負担していたわけですが、自分でやったらそれが不要だったわけです。
もっと早く自分でやればよかったと思います。

まあこういうことは世の中にはたくさんあるのでしょう。
知識社会とは、手続きが複雑になり、専門家に頼まないといけない社会なのかもしれません。
そうすることでまさに「顧客が創造」され「市場は拡大」し、経済は発展するのです。
手続きの複雑化は経済拡大につながっています。
しかしそうやって拡大した経済って、いったい何なのか。
「知識産業」には私は大きなまやかしを感じます。
手続きを複雑にして拡大する市場は、私たちの生活にはむしろ有害のような気がしてなりません。
近代の産業パラダイムがそこにも見えてきます。

一方、そうした手続きに立脚した専門家である裁判官の世界に、資格のない裁判員制度が導入されました。
どう考えても私には納得できません。
これもどこかで、制度化による市場の創造につながっているように思います。
司法改革は司法の市場化であってはなりません。
日本では「民営化」と「私有化」の違いさえ議論されていませんが、国民参加は決して制度の透明性を高めるものでもありません。

最近、不動産売買にも関係しました。
この手数料もかなりのものです。
不動産売買や賃借契約の世界も見直される必要を感じます。

手続きビジネスが拡大している経済は健全ではないように思えてなりません。
会社の決算手続きはもっと簡単にできないものでしょうか。
税理士や公認会計士の職場を奪うことになるかもしれませんが、彼らにももう少し汗をかいてほしいものです。
「知識」のある人は楽ができる社会も健全ではありません。
私も、その恩恵に与っていた気がしないでもないので、いささか心苦しい気はするのですが

■牛が人間に見えてきます(2010年6月1日)
それにしても、と思います。
なぜこんな社会になってしまったのでしょうか

宮崎牛の処分が伝えられています。
このニュースを見るたびに、私はアウシュビッツの記録シーンを思い出します。
あんなようにして処分された牛は埋められているのでしょうか。
私にはどうしても人間と牛が重なって見えてしまいます。

人間には病気になっても治そうという努力が行われます。
しかし本当にそうなのかどうか、最近は確信が持てなくなってきています。
政治の根本が、「死の恐怖」から「生の管理」に変わったとフーコーは言いましたが、まさに私たちの生もまた、口蹄疫の家畜と同じなのかもしれません。
そう思うと気が重くなります。

これは日本に限った話ではありません。
ガザを封鎖していたイスラエルが、ガザ住民へ支援物資を運んでいた船団を砲撃し、10人以上の支援活動者が殺害されたという報道が今朝の新聞に載っています。

この2つの記事が、私にはどうしてもつながって見えてしまいます。
現実に起こっている事件はみんなつながっています。
私の人生に無縁な事件などあろうはずがありません。

なぜ牛は殺されなくてはならないのでしょうか。
殺す以外の方策はないのでしょうか。
それに関する報道がないのがどうも気になります。

きっと人間の社会でも同じようなことが進んでいるのでしょうね。
そう思えてなりません。
普天間問題もその現われでしかありません。
友愛の理念があれば、こうはならなかったと思いますが、残念です。
恐ろしい社会になりました。
それでも私は「友愛」に生きたいと思います。

■鳩山さんの保身と覚悟(2010年6月2日)
鳩山さんが辞任してしまいました。
辞任するほどの覚悟があればできたことはたくさんあったはずです。
しかし多くの人はその覚悟を事前には活かせません。
保身と覚悟は人の本性です。
みんなその狭間で生きていますが、どちらに立脚して生きるかが大切です。
ノブレス・オブレッジとは覚悟を基軸に生きることです。
私は「ノブレス」ではありませんが、覚悟を優先しようとそれなりに心がけています。
私の場合はたいした問題にぶつからないので、鳩山さんほど大変ではありません。
しかし、鳩山さんはどうもノブレス・オブレッジには生きていないようです。
それが残念でした。
鳩山さんにはノブレス・オブレッジを期待していたのです。
ほかの政治家とは違うものを感じていましたから。

それにしても相変わらず首相はどんどんと「浪費」される存在になってきました。
いうまでもなく、私たち国民がそうさせているわけです。
首相や政権を信頼しないのがいまの日本国民です。
政治がそうさせたという見方もあるでしょうが、最大の原因は私たち国民にあるでしょう。
だれも人を信頼しなくなっているのです。
そしてすげ替えられると思っているのです。

10年ほど前の学生対象の調査ですが、注意しないと誰かに利用されると思いますか、という質問に対して8割の人がそう思うと答えたそうです。
恐ろしい数字です。
まあ彼らが子どもの頃、私たち大人は知らない人に声をかけられても答えてはいけないと子どもたちを育ててきました。
ですからこうした状況をつくったのは私たち世代です。
しかし他者を信頼できないで幸せな生活など出来ようはずはありません。

私は娘たちに、社会には悪い泥棒はいない、騙す人などいないと育ててきましたが、効果はありませんでした。
むしろ、お父さんの言うことは信頼できないといわれてしまっていたのです。
大きなジレンマですが、世間の流れに棹差すのは難しいです。

鳩山さんを信頼する人がもう少しいたら、そして政権内部に、あるいは民主党の党員に、鳩山さんを信頼し支える人がもう少しいたら、事態は変わっていたかもしれないと、今もかなり未練がましく思います。

細川政権の二の舞にならなければいいのですが。
野田さんか枝野さんに代表をやってほしいものです。
時代の流れはそう簡単には変わらないということを改めて痛感しました。

■「なぜ辞任?」のしらじらしさ(2010年6月2日)
鳩山首相一色のマスコミですが、テレビニュースのテロップに「なぜ辞任?」などと書かれているのを見ると怒りがこみ上げてきます。
つい昨日まで、「なぜ辞任しないのか」というトーンで報道していたのは誰なのか。
ちなみにそのテロップはNHKの7時のニュースです。
恥を知れといいたいです。
視聴料を払いたくない気分ですが、まあドキュメンタリー番組で時に良い物を見せてくれるので我慢しないといけません。
しかし最近の番組のひどさは目に余ります。
今回の沖縄問題の報道に関しては、完全に米国服従姿勢が見えていました。
民法の「政治タレント」のひどさに比べれば、まだ救いもありますが。

ところで、辞任表明後の鳩山首相の、あの明るい表情は何なのでしょうか。
彼もやはりノブレス・オブレッジを果たしていたのだなと感じました。
今朝の記事は少し書きすぎました。
3代目には荷が重かったのでしょう。
彼の果たしたことに感謝しないといけないのかもしれません。
あの明るい表情を見て、一瞬、腹が立ちましたが、思い直しました。

一瞬の夢だったかもしれませんが、「友愛政治」を意識化させてくれたことの意義は大きいように思います。
一度意識化されたものは、なかなか消えません。
またしばらくは「金銭政治」に戻るでしょうが、友愛政治の芽は埋め込まれたと思いたいです。

■ツイッターの評価は考え直すことにしました(2010年6月4日)
先日、ある若い人からツイッターの効用を教えてもらいました。
前に一度、このブログでツイッターにたいしてかなりきつい否定的な意見を書いた記憶がありますが、どうもまたきちんと理解もせずに感情的に反発したおそれがあります。
どうもこの性癖は直りません。

すべてそうですが、モノも仕組みも「使いよう」です。
使いもせずに否定するべきではありません。
いつもそう思っているのに、時々自分も間違いを犯してしまいます。
困ったものです。

ツイッターは少しまた活かし方を考えて使いたいと思いますが、まあこのブログは私にとっては「つぶやき」以外のなにものでもないので、急ぐことはありません。
そうした発想が間違いですと彼に言われそうですが。

ツイッターはともかく、ブログやホームページの効用もかなりあります。
昨日書いた記事を読んだ人から早速、韓国行きのことの照会がありました。
驚きました。
そういえば、昨日、まったく知らない大学生から電話がありました。
ホームページに乗せていた私の20年前の記事「会社を辞めて社会に入る」を読んで、その続きを聞きたいという電話でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/jikoshoukaibunn.htm
その人は今就職活動中ですが、その参考にしたいと言うのです。
まあ参考にはならない気がしますが、会うことにしました。

こんなメールも届きました。

世間とは逆の鳩山観をずばずばとお書きになって、
特高から目をつけられる時代ではありませんけれど、勇気が要ることです。
鳩山さんのお金の話の時も、人とは違う見方をされていて、とても共感しました。

うれしい激励のメールですが、以前、こんなメールももらったことがあります。

野中広務さんと名前を挙げて書かれていますが、
彼のネットワークは広いので、いささか心配にもなります。
なにより、あんなに怒っては身体によくないと思います。

これらのメールの書き手は、いずれも私よりも年上の女性の方です。
日本において、その世代の女性たちがどういう状況を育ってきたかを感じさせてくれます。

良い時代になったのでしょうか。
それとも悪い時代になってきているのでしょうか。

■支え合いとけなし合い(2010年6月4日)
今日は企業に講演に行きました。
そこで話してきたのは「支え合う人のつながり」の大切さです。
ソーシャル・キャピタルという概念が少しずつ広がりだしていますが、いま社会や組織に大切なのは「人の絆」や「信頼関係」といわれだしています。
私は「支え合うつながり」と表現しています。
こうした話はもうずっと行っていますが、伝わりだしたのはこの4、5年です。
それまではだれも聴く耳を持ちませんでした。
しかし今は猫も杓子も「つながり」です。

ところが帰宅してテレビを観ました。
出かける前に管さんが代表に選ばれるところまで観ていましたが、首相に選ばれた後、野党の人たちのコメントは初めて見ました。
どっと疲れが出てしまいました。
みんな「けなす」発言しかしないからです。
日本の政治は「けなし合い」しかしないのでしょうか。
野党であろうと、この国をよくしたいのであれば、是々非々で支え合う関係を基本にしてほしいと、私はずっと思っています。
それができない政治が、私にとっての「旧い政治」です。
国会議員であれば、つまらない党利党略や私欲を捨てるべきです。
それを捨てたら、もっと「支え合える」はずです。
それができない人は政治家になるべきではありません。

私が亀井さんを好きなのは、彼は自分と意見の違う人も評価する度量を持っているからです。
市民運動家でも、本気で取り組んでいる人は応援してきています。
それこそが「大きな政治」です。
けなし合いからは何も生まれません。
野党の人たちのコメントは、実に「卑しく」、「情けない」ものでした。
こんな人たちがなぜ人気があるのでしょうか。
そうした人を担いでいる国民も「卑しい」のでしょう。
せめて私はそうはなりたくないと思いながら、このブログはかなり「けなす」内容が多いです。
私もまた「卑しい国民」の一人なのでしょう。
反省しなければいけません。

それにしても、民主党の山岡さんはどうしていつもあんなに「にこやか」なのでしょうか。
亀井さんもいいですが、山岡さんも画面で見ていて、いつもホッとします。
まあ渡部さんのようになってしまうと蹴飛ばしたくなりますが。
やはり私はかなり「卑しい」ようです。
山岡さんや亀井さんを見習わなければいけません。
小沢さんにそうした「支え合い」精神があれば、日本は大きく変わったでしょう。
小沢さんの発言もまた、あまりにもがっかりさせられるものでした。
孤軍奮闘しているとああなってしまうのでしょうか。
とても残念です。
しかし小沢さんの功績はもっと評価されるべきだと思います。
私の嫌いな政治家ではありますが。

■できないことをやろうという姿勢(2010年6月5日)
新首相誕生に関しての報道で、みんながどう受け止めているか、あるいは何を期待するかについての声がよく出てきます。
そうした「世間の声」は、どの意見を取り上げるかによって、メッセージはまったく変わってきますが、なぜかどのテレビ局も同じような内容です。
いつもとても気になる発言が多いのですが、今回は2つの発言に言及したいと思います。

「できないことをやるといってほしくない」
表現はちょっと違いますが、2つのテレビ局の番組で聴いた言葉です。
普天間問題のことを言っているのだろうと思いますが、この言葉には「できることしかやるな」という意味合いを感じてしまいます。
私が一番嫌いな発想です。
できないことに挑戦する、しかもそれを公言して取り組む。
これが私の基本的な生き方です。
その結果、できないことはたくさんありました。
しかしできるかどうかはやってみなければわかりません。
「できることしかやらない生き方」は、私には退屈でしかありません。
できないかもしれないけれど、理想に向かって取り組むことを公言する勇気を私は高く評価します。

ちなみに、鳩山さんの普天間移設に関する県外国外発言ですが、もしみんながそれに向かって知恵と汗を出し合えば、結果は違ったかもしれません。
ほとんどの人が、そうはいってもできないだろうと思っていたように思います。
閣僚の人たちも創発でしたし、マスコミは間違いなくそうでした。
有識者のほとんどもそうでしたし、もしかしたら沖縄の人たちもそうだったのではないかと思います。
もし沖縄の人たちが、鳩山さんを本当に信頼したら、そしてその難題に一緒に取り組もうとしたのなら、もっと動き方がちがっていたはずです。
ですから、私は沖縄の人たちにも責任がまったくなかったとは思いません。
だれかが決意したら、共感した人たちはそれに向かって、汗と知恵を出さなければいけません。
誰かがやってくれることに期待しているだけでは、それができなくても批判すべきではありません。
私自身の反省も含めて、そう思います。

では、「期待」してはいけないのか。
「誰が首相になっても何も変わらないから期待はしない」
こういう声もありました。
これはもっと悪意のある発言です。
期待しないで文句は言うのか、と怒りを感じます。
期待するということは、信頼するということです。
期待しないということは、存在を承認しないということです。
そういう発言をすることの意味を私たちはもっと真剣に考えるべきです。
首相に期待しないほど、日本の社会は壊れているといえるのかもしれませんが、共書くそんな発言がテレビで流されるほど、日本は暗い社会になっているわけです。

私は新しい政権に期待します。
国民の一人として、何ができるかを考えたいと思います。
何かできることがあるはずです。

■制度に合わせた自己規制の中で生きるのは退屈ではないですか(2010年6月7日)
昨日、介護保険関係のシンポジウムに参加させてもらいました。
昨年、介護保険のケアプランを自己作成する動きがどのくらい広がっているかの調査に少し関わらせてもらったのですが、その成果の発表会を兼ねたものです。
いろいろとみなさんのお話を聴いていて、どうしてみんな「制度」を前提に考えてしまうのだろうかと不思議に思っていました。
これはなにも今回に限ったことではありません。

制度はみんなが生きやすいようにするための道具です。
主役は人間、それも最も利害関係の深い人のはずです。
そうした「当事者」が、使い込むのが制度です。
にもかかわらず、みんな制度に使われているような気がします。
それが楽なのかもしれませんが、それは「人間」の生き方ではありません。
制度は使ってこそ、価値があります。
使いにくい制度はどこかで間違っているだけの話です。
しかし制度を使いにくくすれば、経済は発展します。
その制度を使いこなすための「仕事」(職業、専門家)が必要になるからです。
世の中の「専門家」の多くは、そうした「寄生的存在」です。
社会には不要な存在ですが、そうした種族に限って「先生」と言われて大きな顔をしています。
内容がないので、「先生」と言う呼称にしがみついているのでしょう。

ただハーバーマスのように、制度をつくる過程で社会統合は進み、その組織もしくは社会の質が高まるという意見もあります。
私もそうした意見に賛成で、だからこそ、私の生きる姿勢や仕事の姿勢はすべて「共創」を重視しています。
結果にはあまり興味はないのです。
プロセスにこそ本当の成果があるからです。

言い方を変えると、制度の価値は、その修正可能性にあります。
制度は再帰的に動いています。
しかし多くの人はそうは考えません。
一度形になった制度は「守らなければいけないもの」になってしまうのです。
さらに悪いことには、制度の余白さえも過剰に読み取って自己規制するのです。

この「制度」に、「上司」や「権威」を置き換えてもいいでしょう。
いわゆる「上司の意向を慮って」などというおかしなことが起こり出すのです。

制度はいったい何のためにあるのか。
このブログには「アウトカム」という検索ワードでたどりつく人が毎日数人います。
アウトカムの視点で、制度は常に読み直し組み替えていかねばいけません。
そうすれば、制度を守ることと制度を活かすことの違いに気づくはずです。

制度は壊すことによって生きてくるのです。
制度の呪縛から自由になると、世界は違ってきます。

■国民は本当に「政治とカネ」の問題に関心があるのでしょうか(2010年6月8日)
相変わらずテレビの政治関連の番組は、反小沢・新小沢の議論を主軸にしています。
アナウンサーやコメンテーターは、国民の関心はそこにあるように話しますが、少なくとも私も、私の家族も、そんなところには興味は全くありません。
そればかりではなく「政治とカネ」の問題にも興味はあまりありません。
「政治とカネ」の問題に最大の関心を持っているのは、マネーゲームに汚染されたアナウンサーやコメンテーターたちだろうと思いますが、真面目に汗して働いている、あるいは働きたくても働けない、多くの国民は、そんな問題ではなく、自分の生活に関わる問題をどうにかして欲しいと思っているはずです。
そうした問題を、「政治とカネ」や「小沢さんとの距離」などという問題にすり替えている人たちには、心底腹が立ちますが、少なくとも「国民」などという言葉は使ってほしくありません。
あなたたちのように腐ってはいない国民はまだ少なくはないからです。
それにしても、コメンテーターなる職業ほど悪質なデマゴーグはないですね。
かれらはまさに「カネ」に雇われているように思います。

昨日の枝野幹事長の記者会見はリアルタイムにテレビですべて観ました。
しっかりした信念を感じましたが、質問する側の記者たちの質問のレベルの低さには驚きました。
記者会見などしたくないという、小沢さんの気持ちがよくわかります。
一人くらいは真面目な政策の質問をするかと思いましたが、相変わらず「小沢さんとの距離」や「政治とカネ」の問題です。
まあこの2つは、サルでも質問できますので、準備も知識も不要なのでしょう。
しかし、ほんの少しでも政治を勉強したり、私たちの未来に関心があれば、あんな無意味な質問で終始するはずもありません。
それに質問が途切れたり、指名も待たずに何回も「呟き的な質問」を繰り返したり、枝野さんが十分に答えていないのにそのまま引き下がったりしている記者ばかりでした。
日本のマスコミは、いまやサル以下だと思いたくなります。

「政治とカネ」は、社会の本質を映しているだけの話です。
小沢さんは、権力の中枢にいる人から嫌われて、「悪役」にされているだけでしょう。
彼の「豪腕」を怖がっている人がいるだけの話です。
敵と味方を間違えてはいけません。
ただ小泉元首相のように、私欲だけで動いていた人ではないだけの話です。
大方の見方はそれとは反対でしょうが、正義の人はいつも悪人にされるものです。
変な言い方ですが、悪人に悪い人はいないでしょう。
親鸞の言葉を私たちはもっと深く味わうべきです。

もっとも私は小沢さんが好きではありませんし、彼の政治ビジョンも政治手法も賛成できません。
しかし小沢さんがもしいなかったら、日本はもっとひどい状況になっていたように思います。

その小沢さんの役割も終わりました。
鳩山さんの役割も終わったのでしょう。
いよいよこれから「政権交代」が動き出します。
仙石さんが言うように、エキサイティングな展開になりそうです。

■自己作成を基本とした介護保険制度の設計(2010年6月8日)
一昨日、介護保険関係のシンポジウムに参加させてもらいました。
介護保険のケアプランを自己作成する動きを広げていこうという活動に取り組んでいる全国マイケアプラン・ネットワークの主催でした。
そのグループが全国の介護保険の実態調査を行ったのですが、その報告を兼ねたシンポジウムでした。
私は介護保険に関しては一般論しか知らないのですが、シンポジウムでの多くの人の発言を聞いていて、どうもどこかに違和感があるのです。
それが何か気になっていたのですが、パネリストとして発言させていただいているうちに、2つの言葉への思い込みに気がつきました。

一つは、「専門家」という言葉です。
介護保険を使いこなし、介護をうまく行っていくためには、「専門家」が必要だといわれるのですが、その「専門家」ってなんだろうということです。
「介護の専門家」、その言葉にみんな呪縛されているのではないかと言うことです。
介護に専門家などいるはずもありません。
介護の状況は人によってまったく違いますから、生半可な先入観や一般論でもって、「専門的」に対処していいのかと言うことです。
介護を生活の側面から具体的に考えれば、専門家は当該者と共に生活している人と考えるのがいいでしょう。
介護に専門家がいるとすれば、当人もしくはその人と生活を一番重ねている人のはずです。
知識のある人を専門家と呼ぶ風習が、昨今の「知識社会」にはありますが、そんな専門性など生命の多様さの前では無力だと思う謙虚さが必要です。
これは医療の世界にも当てはまります。
医者もまた所詮は技術者でしかありません。
古代ローマ社会においては、医師は職人的労働者だったそうですが、最近の医師はその謙虚さを失っています。

ケアプランは当事者もしくはその近くの人が主役になってつくるのが当然です。
そして、もしケアプランは自己作成を基本とするとして、介護保険制度を基本設計したらどうだったでしょうか。
たぶんいまとはまったく違ったものになったでしょう。
ケアマネージャーなどという、訳のわからない専門家は生まれなかったでしょう。
代わりに、ケアカウンセラーとかケアサポーターという職業が生まれたかもしれません。
マネージャーとサポーターとはまったく違ったミッションになるでしょう。
専門知識がなければ、ケアプランがつくれないという場合の「専門性」とは何なのか。
とても重要な視点ではないかと思います。

もう一つ、気になったのは「介護」という言葉です。
この言葉の持つ、マイナスイメージを克服しなければいけないのではないか。
これについては明日、続きを書くことにします。

■「介護」のもつ「負の価値」と「正の価値」(2010年6月9日)
昨日の続きを書きます。
「介護」という言葉をどう捉えるかです。
多くの人は、私も含めてですが、「介護」にはマイナスイメージがあります。
それは「要介護」と言う表現に象徴されています。
「介護」には負の価値が付きまとっています。
しかし、そうでしょうか。

たしかに、介護を作業として考えると大変な仕事ですし、介護を必要とする人にとっては、負の価値を持っていることは事実です。
しかし、それだけではないのではないか。
介護には要介護者の生活を支援するという側面の他に、もう一つ大きな意味があります。
それは介護を通じて、人と人が支え合う関係に気づくとか、人のつながりが育つとか、さらには家族のあり方、隣近所の付き合い方、最近の言葉を使えば、ソーシャル・キャピタル、社会にとって一番大切な人の絆や信頼関係を育てていくという働きです。
こうした「介護」の持つ正の価値に焦点を当てて考えるとどうなるでしょうか。

シンポジウムのパネルディスカッションで、父親の介護経験のある中村さんのお話は感動的でした。
お父さんの介護を通して、父との絆を深め、とてもいい時間が過ごせたといいます。
「介護」はまさに「価値ある行為」であり、介護される人だけでなく、介護する人にも大きな喜びを与える側面を持っているのです。
中村さんの経験は、以前、私のホームページで紹介した「ケアプランを自分で立てるということ」という本に出てきます。

同じ種類の活動なのに「育児」には必ずしも負のイメージはありません。
なぜでしょうか。
いずれも一人では生きていけない状況を手助けしてやるということでは同じ行為です。
「介護」に「負の価値」しか見出せない社会は、「育児」にも「負の価値」しか与えられなくなるでしょう。
今の日本は、まさにそうなりつつあるのかもしれません。

「介護」という言葉を、もっと好意的に受け止めることが必要ではないか。
介護の持つ正の価値に気づくこと、それこそが大切なのではないかという気がします。

私が取り組むコムケア活動は、重荷を背負い合う関係を育てることを一つの目標にしています。
10年ほどやってきて、それは自分の生活の周りでしかできないことがわかりました。
その基本はやはり「家族」です。
その家族がいま、壊れだしている。
「介護」は、その家族を壊しもすれば、育てもします。
安直に「介護の社会化」と考えていいのか、そんな気がしてきました。

■開くことの不安定さ(2010年6月10日)
「国家の終焉」に関してもらったコメントに触発されて、「開く」と「壊す」について少し考えてみました。
というのは、私のこの30年のテーマは「開く」だったからです。
東レ時代に企業のアイデンティティを再構築するプロジェクトに関わらせてもらいました。
そのプロジェクトを社長に提案させてもらった時の私の基本的な考えは「企業を開く」でした。
21世紀は真心の時代という小論をベースに、企業はいま自らを開く時という雑文を書きました。
当時、朝日新聞から寄稿を頼まれたので、その要旨を寄稿しました。

会社を辞めてからは、自分自身を「開く」生き方を基本にしました。
そして10年ほどして、コムケア活動を開始しましたが、これはNPOやボランティア活動を開くことを目指していました。

コメントを読んで、「開く」とは「不安定」を呼び込むことだと気づきました。
「コロンブスのたまご」のように、少し考えたら自明のことですが。
同時に、気づいたのは、自らを壊すことが社会を壊すことだということです。
壊すとは、創ることの始まりなのですが。

グローバル化とは、国家を開くことです。
つまり国家を壊すことですが、そこに現れるのが「岐路」です。
ネグリのマルチチュードが、岐路のどちらを選ぶのかは確実ではありません・
おそらく論理的でさえないでしょう。

透明性を高めることを公言している管新内閣は「不安定」を取り組むことになります。
小沢さんはそれをよく知っていますから、開かなかったのかもしれません。
しかし若い世代は、壊すことが生み出すこと、創ることと同値であることを知っているのです。

ホメオスタシスからホメオカオスという認識でいえば、開くことを重視した生き方は良かったのだろうと思います。
私の人生が、とてもエキサイティングで面白かったのは、開いたことの結果だったのかもしれません。
しかし、それが幸せだったかどうかはわかりません。

管首相は「最小不幸社会」を掲げました。
とても共感できますが、個人の生は、それでは退屈です。
やはり自らを開き、弱さをさらけだして、不安定を呼び込むのがいいです。
匿名で生きていて、何が面白いのでしょうか。
ただ実名を開いていくことは、それなりのエネルギーが必要です。
そろそろ閉じた生き方に変えるほうがいいかもしれない。
コメントを読みながら、そんなことを思いました。

■「私はカメルーン人である前にアフリカ人です」(2010年6月10日)
ワールドカップが近づいていますが、テレビでカメルーンのサミュエル・エトー選手のことを知りました。
そこでエトー選手が語っていた言葉が、タイトルの言葉です。
私はサッカーにあまり興味がないので、エトー選手のことも知りませんでしたが、その言葉が心に響きました。
エトー選手は、「アフリカの人たちに希望を与えることが私の夢だ」とも語っていました。

「私はカメルーン人である前にアフリカ人です」
私だったら、なんといえるでしょうか。
「私は日本人である前に・・・・」
言葉が出てきません。
自分の世界の狭さと立っているところの曖昧さを認識せざるを得ません。

企業のグローバル人材をテーマにした委員会で、ある企業の人事部長が、グローバル人材になるには(意識において)「国籍」を捨てることが大切、と話していたことを思い出しました。
国籍を超えるか、国籍を無くすかは、まったく発想の起点とビジョンが違います。
エトー選手は、アフリカ人であると共にカメルーン人です。
しかし国籍を無くした人には戻るところはありません。
ビジネスパーソンであれば、ビジネスの歯車になるしかありません。
極端にいえば、生活を失うことかもしれません。

エトー選手は、カメルーンの子どもたちのために毎年1億円の寄付をして、サッカーを広げる活動をしているそうです。
お金の活かし方に関しても学ぶことが少なくありません。
毎年1億円以上の報酬を得ている企業の経営者の人たちがうらやましいです。
いろんなことが出来るのですから。

■仕事大好き内閣の「仕事」は選挙なのか(2010年6月11日)
国民新党の亀井さんが閣僚を辞任しました。
国会の会期延長がなされずに、郵政法案が成立しないことが理由です。
筋を通しました。
社民党の福嶋さんも筋を通しました。

報道されているように、支持率の上がってきたところで参院選を行うことが優先されたとしたら、もはや民主党には期待できません。
政策よりも選挙が基軸になるのであれば、それは政治集団ではなく利権集団です。
若い人材が中心になって、仕事大好き内閣というのであれば、会期を延長してでもしっかりと信義中の法案は決着をつけるべきです。
それに国会の会期があること自体、私には以前から納得が行きませんでした。
審議の必要なテーマがあれば、年中、国会は議論しているべきです。
会期に合わせるのではなく、審議が必要な法案に合わせるべきではないかと思います。
私には発想の視点とベクトルが間違っているように思えてなりません。
あまり政治の仕組みを理解していないからの誤解かもしれませんが。

私は管内閣は正面から立ち向かうので、国会は延期されると確信していました。
新生民主党内閣もまた選挙優先の判断をするとは思ってもいませんでした。
がっかりして、いうべき言葉もありません。

■若者を浪費する社会(2010年6月12日)
今日は、私のホームページ(CWSコモンズ)に書いたこととほぼ同じことを書くことにします。
ホームページの方は、毎週日曜日が更新日ですので、明日、アップされますが。

先週の6月4日に書きましたが、私の古い文章を大学4年の学生が私を訪ねてきてくれました。
とても誠実な若者で、しっかりした就職活動を行っているようですが、まだ就職先が決まっていません。
私が21年前に会社を辞めた時にある雑誌に載せた文章(「会社を辞めて社会に入る」)を読んで、私のところに来てくれたのです。
彼と話していて、怒りがこみ上げてきました。
彼に対してではありません。
私を含めた、今の大人たちの生き方に、です。

非常にしっかりした考えで、就職活動に取り組んでいるのに、働く場が見つからない。
どう考えても、おかしな話です。
大学の先生をやっている友人が少なくありませんが、彼らからも就職活動の厳しさはよく聞いています。
オフレコの約束なので、ここには書けませんが、驚愕の事実もあります。
そうした現実を、大学の先生たちは、もっと社会にきちんと伝えるべきではないかとも思いますが、おそらく社会が「聴く耳」を持っていないのでしょう。

やってきた学生の周りにも、就職を諦めて、フォトジャーナリストになることを決意した友人もいるそうです。
やはりどこかおかしいです。
働きたい若者に仕事も希望も与えられない社会。
どう考えてもおかしいです。
こうした社会にしてしまったのは、私たちです。
とりわけ大きな責任を追うべきは、いま「有識者」といわれ、社会的な職位についている人です。

私は、経営幹部を育てる研修プログラムにささやかに関わっています。
そこに講演に来る人たちを見て、いつも、「こういう人たちが社会を壊したのに、なぜこういう人を呼ぶのだろうか」と不快に思います。
そうした人の話す言葉は、私にはとても虚しく、腹が立ちます。
しかし、彼らにはそんなことなど気づくはずもありません。
日航の再建を任された稲盛さんが自慢話を話すように、自分のやってきたことの意味など気づくはずもありません。
たぶん「悪意」はないのでしょうが、それこそが最悪の悪行なのです。

1億円もらう経営者がいてもいいですが、それほどの高給をもらうのであれば、働く場を創る努力をもっとすべきです。
40年前の経営者は。自らの責任を「雇用の場を増やすこと」と考えていました。
だから日本は元気だったのです。

しかし、そうはいっても、仕事はどんどん減っていくでしょう。
ジョブレス社会の到来は30年前にもうしっかりと予告されていました。
景気が回復しても、仕事は増えるはずもありません。
それに知りながら、なんの対応もしてこなかった経済学者も経営学者も政治家も、私には許せません。
経団連のトップの人たちは、そうしたことを加速してきたのです。
それが犯罪でなくてなんでしょうか。
社会を壊すのは、暴動を起こす必要はないのです。

少子化対策などと馬鹿なことをいっている連中にも蹴飛ばしたいほど怒りを感じます。
希望のない社会にしておいて、子どもを増やせという発想は間違っています。
まあ、私も10年前には少子化は問題だといっていたのですから、恥ずかしいのですが。

彼と話していて、私たちの世代の罪深さを改めて感じました。
若者に希望を与えられない私たちは恥を知るべきです。
そう思いました。
若者を浪費する社会になってきているのが恐ろしいです。
問題は、少子化とか粘菌問題とか、そんな話ではないのです。

私に何が出来るか、それが私にとっての当面の課題です。

■お金をもらえれば、生活は保護されるのか(2010年6月14日)
昨日、ある会で「生活保護家庭」への給付金が多すぎるという議論が出ました。
地方で活動している人が問題提起したのですが、その地域では13万円ももらうと貯金もでき、その状況から抜け出そうという意欲がなくなるというのです。
中途半端な知識での議論ではありません。
そうした人たちを支援する活動に実際に取り組んでいる人の発言です。

賛成する人もいました。
しかし、貧困層で、生活保護の給付対象になっている人の割合、いわゆる捕捉率は日本ではとても低いといわれています。
正確な統計はないようですが、10〜20%というのが大方の評価です。
ですから、生活保護の対象になった人とは「選ばれた人」なのです。

私は支給額よりも捕捉率が問題だと思いますが、支給額も重要です。
たしかに月額13万円は高いと思う人もいるでしょう。
たしかに私の周りにも、年収200万円に満たない人は少なくありませんから、月額13万円という額は、多いといえば多いかもしれません。
それに、都会ではともかく自然に恵まれたところであれば、5〜6万円暮らせると、私はいろんな人からお誘いを受けたことがあります。
私はいま東京の郊外に住んでいますが、昨年の収入は基本的には月額155,000円の年金です。
幸いに自宅に住んでいるので、住居費はかかりませんから、これで何とかやろうと思えば暮らせます。
ですが、それは月額収入だけのおかげではなく、長年培ってきた人のつながりに支えられているからです。
お金だけで考えては、問題は見えてこないでしょう。

昨日の集まりの参加者のなかに反貧困活動をしている人がいました。
その人は、生活保護給付金が高いという批判は、マイナススパイラルを起こすことになると発言しました。
これは全く同感で、生活保護者よりも貧しい人がいたらその人の収入を増やす方向で思考すべきであって、その逆ではありません。
しかし多くの人たちは、条件の違いがあると必ずといっていいほど、よい条件を下げようとするのです。
自分を優位に置こうと思うあまり、他者の恵まれた条件を好む傾向があるのです。
しかも、お互いに足を引っ張り合う意識が、貧しい人ほど強いのです。
これはこれまでに何回も体験してきた、人の持つ哀しい習性です。

反貧困活動をしている人に、なぜそういう人は地方に行って、お金がなくても暮らせる生活に移らないのかと質問しました。
これも以前、このブログで書きましたが、そういう発想が生まれないように社会は仕組まれているのです。
案の定、参加者の一人の若者が、そんなことは無理です、どうやって地方で暮らせるのですか、といいました。
みんなそう思うのです。
だからこそ、企業は低賃金で人を雇え、権力は人を盲従させられるわけです。

「そんなことはできない」
まずはその発想の呪縛から自由にならなければいけません。
生活保護受給者の生活をうらやんではいけません。
うらやむのであれば、すべてを捨てて、自分の生活保護を申請すべきです。
そうしたら、給付額の問題ではないことがわかるでしょう。
地方では暮らせないと思うのであれば、今の暮らしを嘆いてはいけません。

生活保護の金額が多いとか少ないとかいう議論は、どこかおかしいような気がします。
お金をもらえれば、生活は保護されるのか。
そんな話ではないでしょうし。

■お金が若者をだめにしていく悲しさ(2010年6月14日)
やはり琴光喜は野球賭博をやっていました。
彼が嘘をついていたのが、とても残念です。
それはともかく、
私がこの事件で感じたのは、関脇の給料の高さです。
私にはどう考えても高すぎます。
お金で「がんばり」を引き出しているような気がしてなりません。
収入が多すぎるために、人生を間違ってしまう関取も少なくないでしょう。
お金はうまく使わないと、逆に使われてしまいかねない「魔力」を持っています。
お金を使うということは、稼ぐこと以上に難しいことではないかと私は思っています。

これは相撲界に限りません。
野球もサッカーもテニスもオリンピックも、いまや金まみれです。
私がスポーツを好きになれないのは、それが金まみれの世界だからです。
イチローも中田も、私には金でダメになった被害者にしか見えないのです。
こんなことをいうと顰蹙をかいそうですが。
もちろんテレビタレントもまったく同じです。
私は、彼らは金持ちの道化にしか見えません。
金の道具とまではいいませんが、それに近いような気もします。
私の考えはどこか歪んでいるかもしれませんが、私からみれば、今のスポーツや芸能は歪んでいます。

野球賭博をやった琴光喜は、私にはどうしても被害者に思えてなりません。
問題の本質をしっかりと見据えなければいけません。
お金はほんとうに恐ろしいものです。
にもかかわらず、やはり「あるといいな」と思ってしまう自分が哀しいです。

ちなみに、先日書いた、カメルーンのエトー選手の記事と矛盾していると思われるかもしれませんが、どこが違うのか、自分でもよくわかりません。
これはもう少し考えてみたいと思います。

■自由と民主主義を真っ向から批判するような国家(2010年6月15日)
ちょっと古い記事ですが、こんなタイトルの記事が回ってきました。
「目下の小沢攻撃をまだ画策する者たちがいる。その米国側で攻撃を行っているもの達の素顔を晒(さら)します」
筆者は副島隆彦さんで、今年の2月1日の記事です。
内容は副島さんのブログをお読みください。

この記事に関連して、そこからさまざまな記事を読ませてもらいました。
マスコミの記事とはまったく違いますし、その真偽は評価できませんが、とても納得できます。

先週から岩波書店の「自由の問い」シリーズを読んでいますが、こんな文章が出てきました。
ドキッとして何回も読み直しました。

戦後自民党は自由とか民主主義とかの価値をずっと一貫して否定してきたわけですね。普通は、どこの国であろうと、自由や民主主義というのをある程度の支配の前提にして、あとはそれとどうやって付き合っていくかを考えるわけです。ところが日本の国家というのは、自由と民主主義を掲げた憲法を如実に攻撃した。これは単に9条だけの問題ではありません。このように自由と民主主義を真っ向から批判するような国家が、それ自体、はたしてリベラルな国家としての正統性を持っているのか。

発言者は、一橋大学大学院の憲法学者の阪口正二郎教授です。
日本政府は、自由と民主主義が真っ向から批判してきた。
こうまで明確に言われると、私もたじろいでしまいます。
しかし、考えてみれば、これは間違いない事実なのです。
私は学者嫌いですが、その先入観もそろそろ見直したほうがよさそうです。
阪口さんは50歳くらいですが、そういう学者も生まれだしていることを知りました。
毛嫌いしてはいけません。

日本政府は自民党から民主党に代わりました。
しかし、実際には変わっていないのかもしれません。
民主党の若い議員のすがすがしさに、つい共感してしまいましたが、最近、さまざまなブログ記事を読んでいるうちに、またわからなくなってきてしまいました。
マスコミの話を信じてしまうと楽になるでしょうね。
そう思いながら、書くだけではなく、読む活動を最近は少しするようになって来ました。
読めば読むほど、世界は深いです。
そして単純です。
そんな気がします。

■ソウルに行ってきました(2010年6月20日)
ソウルに4日間行ってきました。
道路の幅が広いのと高層ビルに表情があるのが印象的でした。
いささか短絡しすぎですが、そうした空間がそこで生きている人たちに与える影響は少なくないように思いました。

食事で驚いたことが2つあります。
どこにいっても、キムチがふんだんに出てきます。
キムチだけではなく、惣菜類は何を注文しようと出てくるのです。
それも半端ではありません。
それと一緒に食べている人同士が、シェアすることがとても自然に行われるのも驚きでした。
野菜類の種類の豊富さも感心しました。
食べたことのない野菜がたくさんなりました。
かぼちゃの葉っぱまで出てきて驚きました。
食文化が豊かな社会は人間も豊かだと私は思っています。

一つだけ違和感が残ったのは、地下鉄に乗る時に切符の代わりにカードを購入するのですが、毎回、500ウォンの保証金が必要なことでした。
これも考えると実にたくさんのことを含意しています。

久しぶりの海外は、いろいろな刺激を与えてくれました。

明日からまた時評を再開します。

■利権集団だった民主党の終焉(2010年6月21日)
私は以前から民主党が好きではありませんでした。
したがって応援していた無党派の県会議員が、民主党に入党して以来、応援はやめました。
地方議会に国政の政党を持ち込むのはどうしても違和感があります。
日本の政党は上から作られているからです。
ですからどうしても利権集団になってしまいます。
下から作られる構造であれば、私の考えも反転しますが。

民主党の政策は様々なものが含まれていますが、基本的には自民党と発想が変わらないため、好きにはなれませんでした。
とりわけ小沢さんや前原さんの国家ビジョンは、私の考えの対極にあります。

にもかかわらず、この4年、民主党に投票し続けてきました。
政権交代でともかく状況を打破したいと思ったからです。
それに、この数年の民主党の政策発想は、奇妙に私には賛成できました。
地方分権から地域主権へ。
条件なしの子ども手当て。
消費税論議の前に無駄遣いの徹底追及。
極めつけは、鳩山首相の沖縄基地の県外国外移設でした。
要するにすべては、生活に起点をおいて素直に考えれば行き着く考えです。
しかし、それらが少しずつずれていたことがだんだんわかってきました。
おそらく根幹にあるのが理念が曖昧だったからでしょう。
ちなみに、「新しい公共」は最初から私には違和感がありました。
「公共」という言葉の持つ曖昧さに疑念があるからです。
なぜもっと胸を張って「共」を打ち出さないか。
共は友愛原理に基づいていますが、公は統治原理に基づいているように、私には思えます。

鳩山政権には大きな期待を持ちました。
その政権を実現した小沢さんにも期待を抱いてしまいました。
しかし、どうもその期待は過大すぎたようです。
菅政権にも、まだ期待していました。
しかし、菅政権もまた「選挙」が最優先事項であり、世間の実相を見ていないような気がしてなりません。
政府発足後の動きにはあまりにも驚きが多かったです。
会期延長すると思っていましたが、それもしませんでした。
胸を張って理念を打ち出すと思いましたが、鳩山さんの上からの友愛ではない、生活者からの友愛は微塵も打ち出されませんでした。

民主党政権は終わったように思います。
役割を終えたのです。
沖縄基地問題を国民全体に意識化させたこと、政管癒着を少し顕在化させたこと、何よりも、その気になれば政権は変えられることの意識化、その果たした役割は大きかったように思います。
しかし、役割を終えた民主党は解体に向かうでしょう。

次の選挙からまた私は民主党への投票をやめて、素直に政策姿勢を評価して支持政党を決めようと思います。
少なくとも、自分をしっかりと持っている政党をです。
民主党は政策集団ではなく利権集団だったのです。

■反社会的と反国家的(2010年6月22日)
相撲界と暴力団とのつながりが次々と明るみに出されてきています。
いつものことながら、何をいまさらと私は思いますが、今回はかなり本気で取り組まないとごまかせない状況のようです。

この種の事件が話題になると、「反社会的組織」という文字がよく出てきます。
実に不思議な言葉です。
もし反社会的組織とはいったい何を意味するのでしょうか。
一般的には「暴力団」を意味するようですが、なぜ「反社会組織」などと書くのでしょうか。
そもそも、ソーシャル・キャピタルの場合の「社会」とはなんでしょうか。

国家はよく言われるように「社会的な暴力団」です。
しかも「反社会的な暴力団」とは深くつながっており、お互いに支えあっています。
私が大学生の頃、安保闘争が盛んでしたが、学生のデモを抑えるために警察はたぶん「反社会的」な暴力団を「社会的」に活用したはずです。

アイゼンハワー米大統領の訪日反対運動の高まりに対して、警察は警備力不足を補うために、「反社会組織」の大量動員を計画しました。
アイゼンハワーが訪日を中止したためこれは実現しませんでしたが、警察と「反社会組織」の契約は成立していたはずです。
彼らはいつも「つるんでいる」のです。

それが悪いといっているのではありません。
当然過ぎるほど当然のことですから。

警察と「反社会組織」のつながりと同じく、芸能やスポーツと「反社会組織」のつながりもまた当然過ぎるほど当然です。
そんなことをいまさらあげつらうなよと、私は言いたいです。

とりわけ相撲界は暴力団と深くつながっています。
その祥子に、表彰式に必ず「社会的暴力団」の代表である首相が表彰状を手渡しします。
「社会的」と「反社会的」というのは、対語のように感じますが、同義語です。
つまりコインの裏表であり、正と反は状況によって入れ替わるからです。

反社会的と反国家的とはどうでしょうか。
反社会的組織は国家の維持のためには不可欠です。
ですから消滅させずに存続させています。
反社会的組織には存続する社会的意味があるのです。
しかし反国家的組織は国家は存続を許しません。
そこが組織を見る場合のメルクマールです。
いうまでもありませんが、反国家的な組織が反社会的であるわけではありません。
しかし多くの人はそのあたりを混同しているように思います。

みんな知っていたこと、やっていたことを、急に騒ぐことに白々しさを感じます。

■家畜の幸せ・家畜の不幸(2010年6月23日)
消費税議論がまた盛んになりました。
財源がなければ増税という発想のおかしさに、多くの人はもうかなり鈍感になっています。
財源がなければ活動の見直し、というのが「家計における原則」ですが、「国家財政における原則」は財源がなければ増税です。
これは人民の都合など考えない国王の発想です。
パーキンソンは、もう50年以上前に警告を発していました。
最近は忘れ去られてしまっていますが、パーキンソンの第2法則は次のようなものです。

「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」

家計と国家財政とは発想が反対なのです。
しかし「賢い国民」は家計を壊されてまで、国家経済に従うように飼いならされてきましたから、何の抵抗もなく、消費税は仕方がないと言いだすわけです。
私には、愚かしいとしか言いようがありません。

かく言う私は、消費税論者です。
20%でもいいと思います。
しかし、全ての消費に消費税をかけるのは反対です。
消費にもいろいろあります。
生きるための最小限の消費活動には税をかけるべきではありません。
もしかけるのであれば、いわゆるベーシックインカムやマイナスの所得税を併用すべきです。
ちなみに、ベーシックインカムに関する私の評価は半年前とはまったく違っています。
これについては近いうちに書きます。

今回の問題はそういう話ではなく、「洗脳の恐ろしさ」です。
学生の頃、オーウェルの「1984年」を読みましたが、いまの日本の社会は、それとかなり似ているように思います。
直接的にではなく、フーコーのいわゆるパノプティコン社会が完成されています。
みんな実名で発言することさえ怯えています。
ネット社会で匿名で発言している人は、自らのかけがえのない主体性を放棄しているわけです。
そんな惨めな屈辱を受けてまで社会の問題を告発する生き方は。私には出来ませんが、そうしないと危険だと思わされているのかもしれません。
そういう生き方は、日本の文化にはなかったように思います。
洗脳されたのです。

私のオフィスで、時々、気楽なサロンを開催しています。
他愛もない気楽な井戸端会議のようなサロンです。
ところが、時々、そこで「ここでは何を話しても許されるのでホッとする」と言うようなことを言う人がいます。
他の場所では、みんな「緊張して本音で話していない」のでしょうか。
私にはまったく理解できませんが、折角の一度きりの人生です。
家畜のような、気兼ねした人生はやめたほうがいいです。
素直に生きていても生きられるのが現代です。
自己規制や洗脳の呪縛から抜けましょう。
もしそれで「不幸」になることがあったとしても、家畜の不幸よりはきっと幸せなはずです。
「家畜の幸せ」の好きな人もいるでしょうが、「口蹄疫」を口実に、いつ殺処分されるかもしれません。

■毎年1億円をもらったら困るでしょうね(2010年6月24日)
1億円を超える報酬をもらっている上場企業の役員の名前が公表されることになりました。
なぜ公表されるのか理由は知りませんが、年収が1億円を超えると使うのが大変でしょうね。
同情します。
もちろん羨望の年もありますが。

先週、ソウルに行ってきましたが、韓国の人たちと食事をしていたら、一人の方が「宝くじに当たるとみんなおかしくなる」と言いました。
韓国の宝くじは日本よりも金額が大きいと聞いていますが、たしかにお金は人をおかしくします。
私もささやかにNPOなどに関わっていますが、お金が関係者をおかしくしている話はよく聞きます。
お金は不足でも過剰でも、人をおかしくする魔薬です。

一生懸命働いても年収が200万円に満たない人が私のまわりには何人かいます。
彼らは決して不幸ではありません。
そうした人を見ていると、1億円以上の年収を得ている人はどれほどの働きをしているのか想像ができません。
スポーツ選手やタレントには10億円を超える人もいるでしょう。
もし働きの対価としての年収が、それほどの差があると言うことが、労働価値説の発想からは全く理解できません。
ですから、年収とはたぶん働きの対価ではないのでしょう。

スポーツ選手やタレントの場合は、彼らを「稼ぐ機械」と考えれば納得できます。
そうした自らの立場にやりきれなくなった力士が野球賭博に引き込まれたとしても、それは極めて論理的な話なのです。
彼らは収入と消費をたぶんバランスさせる知恵がないのです。
知恵と言うよりも、生活と言ったほうがいいかもしれません。

しかし企業の経営者の報酬はなぜ1億円にもなるのか。
そのリスクや苦労を考えたら当然だと納得することもできないわけではありません。
しかし私が思うのは、毎年1億円の収入があったら、生活は大変だろうという同情です。
素直に生きていたら、お金はそんなに要らないからです。
貧乏が身につきすぎていると笑われるかもしれませんが、住宅費を別にすれば、年間200万円もあれば、東京でさえ豊かな暮らしはできるように思います。
たぶん年間1000万円使うよりも、豊かな暮らしになるはずです。

ちなみに首都圏に出てきて働く人の場合、つまり借家生活の場合、年収の半分が住居費に回るという人は少なくないでしょう。
この仕組みは、実は日本の産業システムを成立させている重要な鍵なのです。

何だか書こうと思っていたことと違う方向になっています。
しかし年収1億円の人たちが、おかしくならなければいいのですが。
それが心配で、おかしなことを書いてしまいました。
社長さんたちの家族の皆さん、めげずにがんばってください。

■自殺問題への取り組みへの違和感(2010年6月24日)
最近、自分がこの1年取り組んできた「自殺防止活動への支援」に違和感が高まりだしています。
これまでも繰り返されたことですが、企業変革、まちづくり、環境保全、福祉活動支援など、取り組んでいるうちに、どうもこの取り組みは間違っているのではないかと思い出すのです。
そしていつも途中で路線変更してしまうわけです。
そこで「ジレンマ」に陥るわけです。
環境保全活動に協力すればするほど、環境を壊していくのではないかと思うのです。
他の分野も同じです。

自殺関連もそうではないかという気は最初からしていました。
ですから茂さんや福山さんにはネットワーク立ち上げまで協力させてもらうと約束していたのです。
しかしどうもまだネットワークがしっかりしないので離れられないのですが、やはりどうも「居心地が悪い」のです。

いくつかの「違和感を高める出来事」が重なったこともあるのですが、最近、読んだ小俣和一郎さんの「異常とは何か」(講談社現代新書)で、こんな文章に出合ったのです。

日本国家が「自殺対策基本法」という法律まで作ったのは、OECD諸国の中でハンガリーに次いで第2位(2002年)という高い自殺率が「先進国の恥」であるという、いわば国家主義的な動機があったであろう。あるいは、自殺者が年間3万人を超えるという事態が10年近くも続いたことで、日本は人権という先進国に共通の基本的価値をおろそかにしているのか、という国際社会からの批判をかわす狙いがあっただろう(事実、この法律には自殺率の具体的な低減目標さえ盛り込まれている)。

私はこの認識には必ずしも賛成ではありませんが、まったく否定することもできません。
そう思うのは、最後に言及している「自殺率の低減目標」です。
これには、私も驚きました。
問題の設定が完全に間違っていると思ったのです。
自殺率までも政策対象にするという、生政治の人間観の本質が垣間見えるからです。

しかし、だからといって、最近の自殺問題への取り組みを否定するつもりはありません。
それはそれで一定の成果を挙げてきています。
ただ私が考える方向ではないだけの話です。
これは環境やまちづくりに関してもいえることです。
私には間違っているとしか思えませんが、それぞれの活動によってよくなってきていることは認めないわけには行きませんし、私の考えが成果を挙げていないことも事実ですから。

悩ましい問題ですが、やはり自殺問題へのかかわりは、できるだけ早く身を引こうと思います。
小俣さんは、こうも書いています。

2006年には「自殺対策基本法」が国会で成立し、国家予算がつけられたことから、今では自治体や大企業でも自殺予防活動に取り組みはじめるところが出てきた。まさに世を挙げての自殺予防ブームといったら言い過ぎであろうか。

ブームの持つ危険な要素を、私も感じています。

この記事はホームページの週間報告のために書いたのですが、異論性を大事にしている、このブログの時評編にも、まさにこの時期に載せておきたくなりました。
自殺問題に取り組んでいる友人知人の顔を思い出すと、いささかの躊躇はあるのですが。

■高齢者の存在価値(2010年6月26日)
昨日のサロンで話題になった話です。
ある人が、高齢者の介護にお金や時間をかけるよりも若者にお金をかけたほうが良いのではないか。高齢者のための薬の開発も無駄ではないかと言うのです。
人は自然に生き、自然に死ねばいい、という考えが、そこにはあるようです。

人が自然に生きたらどのくらいまで生きつづけるでしょうか。
100歳くらいだという説もあります。
それを可能にするのは、そして平均寿命を延ばしたのは医療や公衆衛生の発達だという説もあります。
説ではなくて、事実だろうと言う人もいるかもしれませんが、少なくとも私はそうは考えていません。
日本の記紀に出てくる長寿の話をそのまま信じているわけではありませんが、人の寿命は時代と共にむしろ短縮化していると思っています。
ややこしいのですが、平均寿命の話ではありません。
人生を全うした時の寿命の話です。
石器時代には、人は戦争もせずに、豊かに100歳を越える寿命を楽しんだと思っているのです。
そんなばかなと思うかもしれませんが、当時の人口密度を考えれば、争いなどは起きないと思いますし、仲よくやることの必然性があったはずです。
食べ物は地にあふれ、同時に危険に満ちた課題もまたあふれていたでしょう。
後者のために平均寿命は短かったでしょうが、それを乗り切った人の寿命は前者のために100歳を越えていてもおかしくありません。

さて突然飛躍しますが、今の産業社会を成り立たせているのは何でしょうか。
ドラッカーが言うように、企業の発展を支えるのは顧客です。
顧客になれるのは人間です(最近はペットも消費機関になっていますが)。
その人間を企業の顧客にすることが、この50年の企業経営の課題でした。
私は、その経営思想に違和感をもって会社を辞めたのですが、その流れは今も変わっていません。
政権交代した民主党政権も成長戦略を掲げていますが、その成長の基本は「顧客の創造」です。
私は同意できません。
顧客を創造する発想の成長戦略の行く末は、私にはよく見えるからです。

また長くなりそうなので、短絡させます。
高齢者は社会にとって価値のない存在でしょうか。
そんなことはありません。
高齢者、つまりあまり働かずに、しかし消費しなければ生きていけない、手のかかる存在は、産業社会(顧客社会)を成り立たせる不可欠の存在なのです。
なぜなら生産もしないで消費だけしてくれるありがたい存在だからです。
それだけではありません。
誰かの役に立つことが、もし生きるうえでの最高の歓びであるとしたら、それを提供してくれるのも、高齢者なのです。
金銭経済的に、人間の生きがい的にも、高齢者はとても大切な存在なのです。
彼らがいなくなったら困る人はたくさんいるのです。
高齢者を若者が支えているのではありません。
働かなくて世話が焼ける高齢者こそが若者を支えているのです。

暴論と言われそうですが、
そして暴論ですが、
ここに含意されているメッセージをお組取りいただけるとうれしいです。
お暇な方はぜひ議論に湯島に来てください。
暇つぶしの相手をするのも、私のような高齢者の役割ですので。

■大相撲の賭博問題への対応(2010年6月28日)
大相撲の賭博問題に関して、日本相撲協会の特別調査委員会の勧告が出されました。
勧告の目的は、たぶん名古屋場所を開催するためのシナリオづくりだったと思いますが、それにしてもいかにも短期間で、短絡的な内容の勧告です。
こうした委員会に関与する人たちの考えがまったく理解できませんが、その内容の「甘さ」に驚きました。
誤解されそうですが、個々の力士への対応は、あまりに厳しすぎると思います。
私が「甘い」と感じたのは、日本相撲協会という団体とそれを支援している関係者に対して「甘い」と感じたのです。
これでは、問題は解決しないでしょう。
要するに、なぜこうしたことが起こったのか、それを「たぶん知りながら見逃してきた」相撲界(広義のです)のあり方が問われるべきです。
新聞社の記者も知らないはずがありません。
そうした人たちも咎められるべきではないかと思います。

いま名前が出てきている力士たちは、私には「被害者」にしか見えません。
なぜそう考えるかに関しては、これまで何回か書いてきています。
組織(社会)が育てる文化が問題なのであって、個人だけを悪者に仕上げる発想は、そろそろ捨てるべきだろうと思います。

それに野球賭博という言葉があるように、それが行われていることはみんな知っていたでしょう。
暴力団が関わっているから悪いのだという人がいるかもしれませんが、暴力団とはそもそも悪い組織なのでしょうか。
もし悪い組織であれば、なぜ取り締まらないのでしょうか。
存続を認めておいて、関わってはいけないというのは、私には理解できません。
それに巻き込まれたのであれば、巻き込まれた人を保護すべきではないでしょうか。

今回の勧告は今の日本社会の本質を示唆しているように思います。
次の問題が顕在化されるのは、何でしょうか。
誰も知っていて、まだ問題にされていない「問題予備候補」は山のようにあります。
私たちは、さまざまに張り巡らされた地雷の上で暮らしているのです。
いつ、私が琴三喜になるかわかりません。
それくらいの「想像力」を持たなければいけないと思うのですが。

■大相撲の賭博問題への対応のつづき(2010年6月29日)
昨日のつづきです。
まさかと思っていた方向に、どんどん進んでいるのに改めて驚いています。
問題の本質は摩り替わっているような気がして、しつこくもう一度書きます。

琴三喜をはじめ、野球賭博に関わった力士ばかりが厳罰の対象になるのがどうしても許せません。
一番悪いのは、実行犯ではなくて、実行犯に実行させた人や仕組みではないかというのが、私の全ての基本的な考えです。
もし居酒屋タクシーが悪いのであれば、それを黙認して、どんどんエスカレートさせていた霞が関の官僚たちの共同責任であり、知っていて何も言わなかった人は同類だと書いたことがありますが、ここでも同じ考えです。

いまでこそ野球賭博が悪いとみんな言いますが、1年前はどうでしたでしょうか。
今回、罰せられる人だけが知っていたのでしょうか。
知っていた新聞記者は少なくなかったでしょう。
監督官庁の文科省の役人は誰も知らなかったのでしょうか。
そんなはずはありません。
それらしい話は週刊誌などで何回も出ていたはずです。
テレビでは有名なタレントが、自分も昔やっていたと公言していますが、それも誰も咎めません。
なぜ彼らは許されるのか。
なぜ琴三喜がいじめられるのか。

一番罰せられるべきは相撲協会の現在の役員です。
それを放任していた監督官庁です。
文科省は咎めるだけではなく、自らを正すべきです。
その意識がまったく感じられません。
辞表を出したぐらいで終わる話ではないのです。

相撲協会に関わっていた人のすべてが罪の意識を持つべきです。
身を正すべき人たちが、声高に罪を咎めている姿を見て、呆れてしまいます。
相撲を稼ぎの種にしていた人たちは、すべて無関係ではないでしょう。
あなたたちが作り出してきた文化なのですから。

今の時代、必要なのはそうした「つながりをもった発想」です。
それをトカゲの尻尾切りよろしく、現役の相撲力士だけを罰し、名古屋場所は開催して、彼らを利用して稼いでいる自分たちは何の罪の意識も持たない。
私からの視聴料もまたその放映のために使われる。
やりきれない気分です。

琴三喜に同情します。
この若者の未来を奪ったのはだれなのか。
彼らを利用している人たちには、人の心がないのか、と。

■「責任に時効なし」(2010年6月30日)
思うことあって、小説「責任に時効なし」を読みました。
カネボウの粉飾決算と再生機構による実質的な企業解体のことを取り上げた小説です。
著者は、カネボウの財務担当重役として、まさにそうした動きの渦中にいた人です。
名前を変えていますが、実態を知っている人はおそらく登場人物を特定できるでしょう。
かなり事実に忠実な小説のようです。
ちなみに、冒頭に出てくる副社長は、私の知人です。
もっとも、私が付き合っていた頃のイメージとはまったく違いますが。
ですから彼が逮捕された時に、私はこのブログで今から思えばちょっとピントのずれた記事を書いています。

このブログを読んでいてくださる人はもうおわかりいただいていると思いますが、私はこの30年の日本の財界の有力者たちに大きな怒りを感じています。
40年前に、私は経団連に出向していましたが、その頃の財界には理念や思いを感じていました。
おかしくなりだしたのは、私の感覚では1980年ころからです。
彼らが、私が大好きだった「会社という仕組み」を、おかしな方向に変質させてしまったと思っています。
私には許しがたいことです。

それに加担したのが霞が関とマスコミです。
とりわけ霞が関には不信感が強いです。
と言っても、その頃、私は勤めていた会社の社長に指名されて、通産省の事務次官や官僚との、よくわからない勉強会に参加していました。
勉強会の後の宴会が大嫌いでした。
社長がカラオケが大好きでしたが、嫌いな私はたぶん1回しか歌ったことがなかったと思います。
下手な社長の歌を聴かされて、手をたたくのは苦痛以外の何者でもありません。
私はともかく嘘は言えない、不器用な人間なのです。
そんなことも、私が会社を辞めた理由の一つでもあります。

産業再生機構の責任者だった人たちは今でも立派な講演をしていますが、私は虫けらよりも嫌いです。
ダイエーにしろ、カネボウにしろ、再生どころか解体してしまったのですから。
日本産業解体機構という名前で活動していたのであれば、嫌いにはならなかったでしょう。
繰り返しますが、私は嘘が嫌いなのです、

ところで、この小説ですが、小説としてはあまり面白いとはいえません。
しかし、ドキュメンタリーとしては、実に面白く刺激的です。
それに加えて著者の思いは伝わってきます。
こうした事実はもっと多くの人に知ってほしいと思います。
企業経営というものがどういうものなのかがよくわかるからです。
経営学を学ぶ人は、こうした事例をもっときちんと学ぶべきでしょう。

企業経営に関しては、マスコミで語られていることの大半は「嘘」だと私は思います。
今は株主総会シーズンですが、どれほどの嘘が飛び交っているのでしょうか。
しかし、嘘ではなく、事実を話し出せば、企業という仕組みは素晴らしい仕組みになるはずです。
経済も、社会も、きっと健やかに元気になります。
事実を大事にすること、それこそが「経営」だと思います。
一昨日訪問したコミーという会社は、少なくともその一つです。
そういう会社が、日本の社会を支えているのです。
大企業の役割はもう終わったのです。

■ワールドカップ戦を見てしまいました(2010年6月30日)
私はサッカーには関心のない人間です。
ところが昨夜のワールドカップの日本・パラグァイ戦をなぜか見てしまいました。
眠くて仕方がありません。
ファンでもなく、好きでもないのに、なぜ見てしまったのか。
理由はまったくありません。
何となく、ただ見てしまったのです。
私は、外部を気にせずに自分を素直に生きることを信条にしています。
にもかかわらず、まあ大きな社会の雰囲気や勢いには、いつも巻き込まれてしまいます。
困ったものです。

人の生活は「つながり」の中で成り立っています。
「つながり」には意図的なつながりもありますが、存在するつながりもあります。
たとえば、前を歩いている見ず知らずの人が、突然に倒れたとします。
たぶん無意識にその人を支えようと走り出すでしょう。
あるいは、身体が硬直して動けなくなるでしょう。
つまり、人の感覚はつながっているのです。
意識もそうであるに違いありません。
人は、自分の意志で生きているように思っていても、世間の動きに大きく影響されています。

私は「支え合うつながり」を大事にしたいと思っています。
できるだけ「支え合うつながり」を作り出そうと思って生きています。
しかし、最近、そんなことはことさら意識しなくてもいいのではないかと思うようになりました。
人は、本来、「支え合う存在」なのだと思えるようになったのです。
そして、もちろん、人はどうしようもなく深く「つながって」います。
素直に生きれば、「支え合うつながり」に気づくのです。
真夜中まで、興味のないサッカーを観てしまったのには、私がみんなとつながっているからかもしれません。

ある人が、私が「自然体で生きている」とメールをくれました。
その人とは2回ほどしか会っていません。
いずれも、私が主催した集まりに参加してくれたのです。
自然体で生きるとは、生かされているように生きることでしょうか。
もしそうならとてもうれしいことです。

この頃、自分が生かされていることを実感できるようになってきました。
21年前に会社を辞めた時に、社会に融合する生き方をめざしたいと書きました。
埋没ではなく、融合ですが、その言葉を思い出しました。

■10%引きの日に商品を買うことは正しいことか(2010年7月1日)
ホームページの週間報告に書いたのですが(アップは来週ですが)、わが家の近くのスーパーは、毎週木曜日は全品10%引きの特売日です。
私は、お金はできるだけ使わない生き方を目指していますので、できれば10%引きの日に買おうと思うわけですが、それは果たして正しい判断かどうか、それが今日の問題です。

たしかに10%安く買うとそのことだけでは出費は少なくなります。
では10%引きでない日に買う場合はどうなのか。
もしかしたら10%高く買っていることになるのではないか。
基準を変えると事態はまったく別に見えてきます。

まあそれはいいとして、誰もが10%の日に買物にこられるとは限りません。
勤めている人は無理でしょうし、買いだめできない人も無理でしょう。
だとしたら、これは顧客を差別していることになります。
これはおかしいことではないかという気がするのです。
ネット販売では良くあることですが、仕組みがよくわからないので、良く知っている人に比べて10%くらい購入価格に差が出ることはよくあります。
そういえば、大阪のホテルがすごく安く予約できたと思っていたら、同じホテルに泊まった友人たちは私よりも2割以上安かったのです。
得をしたのか損をしたのわかりませんが、なんだかそのホテルに騙されたようで、私はもうそこは利用しないことにしました。

顧客を差別するような店は私には好きになれません。
そのくせ、10%引きの日にそのスーパーに行くのは矛盾しています。
お金をあまり持っていない人が、安売りを探すのは仕方がありませんが、しかしもしかしたらそれこそが自分の首を絞めているのかもしれません。
そしてそれこそが、格差社会につながる道かもしれません。

問題を少し変えましょう。
みんなが10%引きの日に買うようになったらどうなるでしょうか。
そのお店の収益は低下し、結局は商品全体の販売価格を上げざるを得なくなるでしょう。
あるいはお店がつぶれてしまうかもしれません。
そうやって、私たちは近くの商店街をつぶしてきたのかもしれません。

いささか考えすぎだといわれそうですが、そろそろそういうことを考えていかなければいけない時代になったのではないか。
今日は、そのお店の10%引きの日です。
さてどうすべきか。
瑣末な悩みに見えますが、格差社会にまでつながるのですから、おろそかにはできません。
いやはや、人生には悩みが多いです。

■野宿生活は気楽ではないのです(2010年7月2日)
昨日、野宿生活者の支援活動をしている人と会いました。
その人の言った言葉がどうも頭から離れません。

野宿生活は気楽で自由だなどというイメージが作られていますが、実際にはヒエラルキーもルールもあり、なによりも「いい加減にやっている」と死んでしまうんですよ。

私は「野宿生活は気楽で自由」だなどとはこれっぽっちも思っていません。
極めて厳しい社会であり、企業以上に「弱肉強食」の世界になっているのだろうなと感じています。
しかし、実際に支援活動をしている人から、そういう話を聞くと、やはりそうかとがっかりしてしまいます。
私のどこかに、野宿生活への期待があるのです。

衣食足って礼節を知る、といわれていました。
しかし昨今は、礼節を知っていては衣食が足たないほどに、弱肉強食がはびこりだしています。
その世界から落ちこぼれた人たちであれば、身を寄せ合って、支えあって暮らしているのではないかという、自分勝手な期待がどこかにあるのです。

もう一つあります。
これは私の体験から得たものなので、それなりに確信はあるのですが、
人は辛い経験をすると他者の痛みがわかるようになるという考えです。
その考えからすると、野宿せざるを得なくなった人たちはきっとやさしいのだろうと思うわけです。
これも身勝手な期待なのでしょうか。

昨今のあまりに窮屈な世界から抜け出て、みんなもっとカジュアルに、「いい加減に」生きようよ、というのが私の考えていることです。
率先して、私自身がそういう生き方を、この20年、実践し続けてきています。
もちろん、「いい加減」にあわせて、「誠実に」そして「嘘をつかず」も大事にしています。
しかし、野宿者の世界でも、「いい加減にやっている」と死んでしまうと聞かされると、私がいかに恵まれた立場で、それこそ「いい加減な」ことを考えているか、思い知らされたような気がしてきます。

競い合って蹴落とし合うのではなく、支え合って伸ばし合う生き方を、みんなができるようになるにはどうしたらいいのでしょうか。
その生き方をみんなが目指さなければ、あるいはそういう生き方ができるようにならない限り、どんな制度やルールをつくっても、多分、問題は解決しないのではないか。
最近、ますますそんな気がしてきています。

■「つながり」や「支え合い」を育てもし、壊しもするもの(2010年7月3日)
先日、あるNPO関係のメーリングリストが閉鎖されたという話を聴きました。
私は参加していないのですが、その活動にはいささかの共感をもっていたので、とてもショックでした。
閉鎖の一因は、どうもメーリングリスト上での論争のようです。
私は10くらいのメーリングリストに参加していますが、時折、個人を誹謗する論争が起こることがあります。
今週、あるメーリングリストで投稿者の一人が除名されましたが、その主催者がとても寛容な人で、ぎりぎりまで除名を回避しようとしていたのがよく伝わってきましたが、除名された人のおかげで、そのメーリングリストがあまり機能していなかったように思います。
私もそのメーリングリストで一度批判されたことがありますが、批判した人たちがそれなりに社会活動している人たちでしたので、驚きました。
社会活動している人ほど、唯我独尊で非寛容なことは、私の体験では決して少なくありませんが、批判のマナーをわきまえないのはなんともやりきれず、以後、そのメーリングリストにはあまり投稿しなくなりました。

論争とまで行かなくとも、時に不快な投稿に出会うこともあります。
昨日も、平和に関するメーリングリストで、不快な投稿がありました。
その投稿に良識的な返信が投稿されたので安堵しましたが、メーリングリストの怖さを時々感じます。
子どもたちを自殺に追いやる構図が、大人のメーリングリストにもあるのです。
発言している当人には、そうした認識はないのがまたやり切れません。
世間知らずの男性は、まだまだ多いのです。
今の若者たちは、それを反面教師にしているので、逆に優しすぎるのですが。

最近、本を読んでいると、「つながり」「支え合い」などという言葉がよく出てきます。
5年前まではあまりなかったことです。
そういう言葉を使っていて、共感された経験はあまりないからです。

メーリングリストやITは、「つながり」や「支え合い」を育てるものでしょうか。
あるいは「壊す」ものでしょうか。
いささか微妙です。
私はもちろん「つながり」や「支え合い」を育てるものだと思っています。
しかし、近代産業を支えてきた「分業」がそうだったように、メーリングリストもITも「両刃の剣」です。
注意しないと「つながり」や「支え合い」を壊すものとして発展する恐れがないわけではありません。

今朝のメーリングリストの投稿を読んで、言葉の暴力の凄さを改めて考えさせられました。
言葉もまた「つながり」や「支え合い」を育てるものにも壊すものにもなるのです。
バベルの塔の話を久しぶりに思い出しました。

■大切なこと(2010年7月4日)
日本相撲協会の処分がどうも気になります。
自発的に申し出たら注意ですませると言っていたにもかかわらず、これほどの厳罰とは、やはり「卑劣な行為」だと思えてなりません。
信頼関係が壊れてしまえば、その後の秩序は維持できません。
日本相撲協会はもはや「死に体」になったというべきでしょう。
いっそ収益目当ての興行団体になったほうがいいように思います。
実態は、すでにそうなっているのですから。

もう10年近い前の調査ですが、学生に「日本の社会では注意しないと誰かに利用されると思いますか」と訊いたところ、なんと8割の人がそう思うと答えたそうです。
日本では「信頼関係」は消えうせて、疑心暗鬼が横行しているともいえる調査結果です。
こうした状況を創ったのは、いうまでもなく私たち自身です。
知らない人に声をかけられても応じてはいけないと教え込んだのは、「子ども思い」の教育熱心な大人たちでした。
人を騙しても勝ち抜けと教えたのも、私たちです。
私たちが目指した社会が実現したわけですが、私にはどうも違和感があります。
もちろん、私は自分の娘たちにはそんなことは教えていません。
見ず知らずの人にも挨拶し、勝ち負けなどこだわるなと、私自身の言動で示してきました。

今回の事件は、とても後味が悪いですが、それは「問題の設定」が間違っているからです。
それと同時に、嘘が横行しているからです。
社民党の福島代表が「言葉の大切さ」を盛んに発言していますが、一度、口に出した言葉を守らない場合は、それなりの覚悟と行動が必要です。
そうしないと、これからますます嘘がはびこるでしょうし、言葉の規範性がなくなっていきます。
その意味では、鳩山前首相の罪は重いです。
彼はおそらく次の選挙には出ないでしょうが、首相辞任と同時に議員辞職するべきでした。
そして、なぜ普天間問題が切り崩せなかったかを公開すべきでした。
もしそうしたら、歴史は間違いなく変わったでしょう。

言葉から真実を奪うと社会は間違いなく壊れます。
いま日本の社会がおかしくなっているのは、「言葉」を大事にしなくなったからです。
私の周りでも、言葉を粗末に使う人が増えました。
私自身も気をつけなくてはいけません。

守れない言葉は口に出してはいけません。
口にした以上は、きちんと責任を持たねばいけません。
人の価値は、それで決まってきます。
私は、友人知人が話した言葉は基本的に忘れません。
問題は、自分が話した言葉を忘れてしまうことです。
私の、人としての価値もたいしたことはないということです。
しかし、人生も残り少なくなってきたので、これからは忘れないようにしようと思っています。
これ以上、老人性痴呆が進まなければいいのですが。

■「自殺防止を、やめませんか?」(2010年7月5日)
先日、このブログで、「自殺問題への取り組みへの違和感」を書きました。
その記事に、昨夜、コメントが寄せられました。
ぜひお読みください。

コメントは、こう書き出してあります。
私も、今の日本の自殺対策、自殺防止活動には、違和感と疑問を感じています。

そしてご自身が最近始めたブログが紹介されています。
ブログにタイトルは、「自殺防止を、やめませんか?」
 http://life2spirit.seesaa.net/
まさに、最近、私が言いだしている表現と同じです。
早速、読ませてもらいました。

コメントを送ってくれたのは、Y.Kenjiさんです。
もちろん面識はありませんし、どんな人かまったく想像もできません。

今日の記事を読みました。
ぜひ皆さんにも読んでいただきたいですが、読んでもらえないといけないので、その最後の部分を引用させてもらいます。

自殺防止を、やめませんか?
自殺があろうとなかろうと、
ひとりひとりのこころを大切にして、
解決しなければならない問題に、
もっと真剣に取り組みませんか?

その結果として、はじめて本当の意味で、
自殺とそれにまつわる悲しみが
減るのではないでしょうか。

ぜひ何回も読み直してください。
読んでいると涙が出てきます。
涙が出るまで読んでもらえると私はとてもうれしいです。

Y.Kenjiさん
ありがとうございました。

■「社史で読む長崎原爆」(2010年7月6日)
長崎にいる森草一郎さんが、「社史で読む長崎原爆」を送ってきてくれました。
今年の初め、「長崎に戦前からあり原爆被害を受けた会社のうち社史を刊行している会社17社の社史から、原爆の記事を中心に太平洋戦争のはじめから、敗戦直後までの記事を引用し、纏めてコメントもつけるという作業に追われています」というメールをもらっていたのですが、それが完成したのです。
森さんは長崎県庁でお仕事をされていた方ですが、とても世界が広く、発想がやわらかく、もう10年以上、お会いしていませんが、印象に深く残っている方です。
森さんはまた、長崎路上観察学会・アルキメデスの会長でもあります。
そのブログやサイトもありますので、よかったら訪ねてみてください。
森さんらしい、ちょっとおしゃれな活動です。

「社史で読む長崎原爆」は、ちょっと報告書的なスタイルだったので、最初は拾い読みしようと思ったのですが、面白くなって、結局、最初から最後まで一気に読んでしまいました。
森さんも書いていますが、社史にはその会社の姿勢が現れてきますが、同時にその時代の空気も感じられます。
企業は、時代の空気に過剰に反応するのです。但し、少し「遅れて」ですが。

社史に掲載された社員たちの体験記は、とても生き生きしています。
2回も読み直してしまったものもあります。
当時の人たちが、どうだったのかがとてもよく伝わってきます。
ともかく心にスッと入ってくるのです。

そこには、個人よりも会社、そして国、というような発想が時に感じられますが、それがとても素直に感じます。
あれほどの惨事でありながら、被爆日も含めて、それ以後も社会の秩序がしっかりと維持されていることに改めて驚かされました。
言い悪いはともかくとして、しっかりした社会があったのです。
しかも、そこでは各人がしっかりと「自立」し、「主体的」に動いているのです。
今の日本では果たしてどうでしょうか。
最近、社会が壊れだしていると思っている私としては、いささか複雑な気持ちです。

この本はもしかしたら、始まりかもしれません。
社史とまではいわなくとも、体験を様々な形で書き残した人は少なくないと思います。
この本を契機にして、もっとさまざまな記録が掘り起こせるかもしれません。

もし関心を持っていただけたら、ぜひ「社史で読む長崎原爆編集委員会」に注文してください。
定価は630円(消費税込)、郵送料も含めて、たぶん1000円程度で送ってもらえると思います。

■汗した人の報われ方(2010年7月7日)
ちょっと重いニュースが、私の周りでも最近少なくありません。
昨日もちょっと気が重くなるはがきが届きました。
あるNPOの理事長だった人からの、NPO法人解散と理事長辞任の通知です。
私よりも少し年上の女性の方ですが、とても誠実に、しかも精力的に活動されていた方です。
ある集まりでお会いしたのが縁で、あるとき相談にやってきました。
テーマはとても共感できるものでしたが、私とは少し考えや進め方が違いました。
それに、彼女を応援している著名な方たちを見て、私の出番ではないだろうと感じました。
しかし、それはそれとして、その時にはささやかに協力させてもらいました。
一昨年また相談がありました。
私自身あまり元気のない時期でしたが、彼女の熱意にほだされて、協力させてもらいました。
その時にいろいろとお話を聴き、あまりに大きな負担をお一人で引き受けているように感じました。
お聴きすると細かな事務作業までご自身でやられているようでした。
財政的にも大変そうでした。

そしてNPO解散の通知。
ハガキには、自宅を売却して引っ越したとありました。
NPO活動で生じた赤字を清算されるためにご自宅を売却されたのかもしれないと思いました。
財務管理できるスタッフがいたという話は一度も聴いたことはありませんし、もしかしたら私財を投入しての活動だったのかもしれません。
責任感の強い方でしたから、その可能性がゼロではありません。

実は、NPOに誠実に取り組んでいる方が自宅を失ったという話は初めてではないのです。
それに、今日も私財を投入して活動されてきた人と、まさにお会いしてきたところです。
いろいろ問題はないわけではありませんが、それぞれに誠実に取り組んできた方たちです。
そういう人たちが、自宅まで失うという話は、やはり寂しさを感じます。
自宅を失っても、それ以上のものを得ているという考えもできるでしょう。
でも、何だかとても辛いです。
でも、たぶん彼女はきっと今も幸せでしょう。
そんな気もします。
辛いなどと思うのは、私の小賢しさのためでしょう。

社会のための活動で、みずからの生命までをも失った宮沢賢治は、こう書いています。

ひでりのときは なみだをながし さむさのなつは おろおろ あるき
みんなに でくのぼうとよばれ ほめられもせず くにもされず
そういうものに わたしはなりたい

■イノベーションは経済成長を抑制する(2010年7月8日)
モバイルでメールするためのエアエッジが壊れました。
最近は出張先のホテルなどでもメール回線が使えるので、ほとんど使うことはないのですが、まあ念のために買い換えることにしました。
そこで話を聞いたら、毎月の経費がほぼ半額になることがわかりました。
切り替えに5000円くらいかかりますが、それくらい金額はすぐに回収できます。
おもわず、お店に利益はあるのですかと質問してしまいましたが、お店の窓口の人は答えられる訳がありません。

利益は間違いなく減るはずです。
なぜなら私の支払う絶対額が半減するからです。
それを知っていたら、もっと早く切り替えるべきでした。

こういうことが時々起きます。
これはイノベーションのおかげなのか、それともデフレ効果なのか。
いずれにしろ私の出費は少なくなりますが、どうも納得できません。
どこかに間違いはないでしょうか。

相変わらず各政党は、選挙に向けて「成長戦略」を掲げています。
イノベーションは経済成長につながることなのでしょうか。
つながるに決まっていると笑われそうですが、イノベーションによって経済活動が大幅に縮減されることはないのでしょうか。
いままで1万円かかっていたことが、イノベーションのおかげで、100円で実現できるようになるとしたら、生産高で評価する経済成長は100分の1に低下することになります。
イノベーションは経済成長を抑制するということにはならないでしょうか。

イノベーションによって、機械による自動化が進み、人の仕事の場は大幅に縮減しています。
そのため、ジョブレスの時代とも言われており、景気がよくなっても仕事はなかなか増えません。
景気と雇用の需給は必ずしも以前のようには比例しないのです。
イノベーションは雇用の場を縮減するとも言えるわけです。
これもまた、消費を縮小させる要因になるでしょうから、経済成長にマイナスに作用するでしょう。

にもかかわらず、経済人はイノベーションが大切だと、最近また言いだしています。
なぜでしょうか。
考えると実に様々なことが見えてくるような気がします。


■若者たちの発言(2010年7月9日)
人の発言に対する私ほとんど評価基準は、「経験の量」と「これから先、そこで生きていく時間の量」です。
知識の量はプラスにもマイナスにも働きますから、評価の対象にはなりません。
経験量と残された時間量は、基本的に反比例します。
経験量は、これまで過ごした時間量に比例する傾向はありますが、必ずしも一致はしません。
そこで重要なのは、どういう時間を過ごしてきたかです。
もちろん同じように、先行きの時間量も、どういう時間を過ごそうとしているかに影響されるでしょうが、それは問いません。
先の時間がどう展開するかは、本人も含めて、誰にもわからないからです。

この方程式の元に、私は人の発現を受け止めますので、
極めて大雑把に言えば、一般的には若い人の意見ほど、重要視するということになります。
経験などは、なかなか見えませんし、見えるような人の見える情報が正しいかどうかはいたって疑問だからです。
直接会って話をすれば、ほぼこれまでの生き方がわかるのではないかと思っていた時期もありますが、間違ったことは少なくありません。
ですから、先行きの時間量が、私にとっては最大の評価基準になりがちです。
というわけで、若い人の発言に心動かされることが少なくありません。

相撲協会騒動に関して、貴乃花が琴光喜の解雇反対と理事辞任を申し出たと聴いた時には、やっとそういう理事が出てきたかと思いました。
しかし、私のような受け止め方は例外のようでしたし、貴乃花も辞任を撤回しました。
しかし、今回の事件で辞めるべきは理事長初め理事及び役員全員であって、琴光喜ではないだろうと思う私には、貴乃花の言動にはとても共感します。
それにしても相変わらず責任意識の皆無な理事長以下の理事には呆れます。
何が相撲道だと思います。
自らを正せない人に「道」を説く資格はありません。

昨日の白鴎の発言にも共感します。
NHKの放送中止は何の意味があるのでしょうか。
NHKもまた相撲を私物化しているとしか言いようがありません。
相撲界に巣食っていた企業や政治家と、いわゆる「反社会的組織」とどこが違うのか、私にはあまり理解できていませんが、「悪いのはあなたたちだ」と私は言いたいです。
「感動した」などと言っていた小泉前首相のおかしさが思い出されます。
いまはどう思っているのでしょうか。

11日は選挙です。
若者たちの発言がなぜか私には聞えてきません。
党首の話し合いなどいう茶番劇よりも、若い政治家たちの話を聴きたいのですが、私の努力不足か耳に届いてきません。
党首にも届いていないのかもしれません。
しかし、未来をつくっていくのは若者です。
年寄りは未来を壊すことはあっても、創りはしません。
私も注意しなければいけません。

■投票に行きましょう(2010年7月11日)
共和政に生きた古代ギリシアのキケロは、政治的闘争は、必ずしも社会の病理ではなく、否定的事件でもない。むしろ、ある種の闘争を介してのみ、国家はより良く鍛えられる、と言っていたそうです。
国民の間の意見の対立は国家の健全性の基礎だというのです。
もっとも、そこには一つの前提がありました。
基本的な問題に関しては、国民の間に「コンコルディア」(共通認識)がなければならないというのです。
それがなければ、その国家は崩壊します。
古代ローマがそうだったといったのは、スペインの哲学者オルテガです。

今日は参議院議員の投票日です。
候補者の所信などを読んでいて目につくのは、私には退屈な技術論ばかりです。
そうなると、政党の政策が重要になりますが、これがどうもよくわかりません。
鳩山民主党のように、「友愛」を掲げていれば、判断はできますが、「いちばん」とか「元気」などと言われても、何のことかわかりません。

しかし、そうしたことで長年、選挙をやってきたということは、日本では根本的なところでの「コンコルディア」(コンセンサス)があるということなのかもしれません。
もしそうであれば、私の時代認識や状況認識がおかしいということになります。
ならば流れに任せて、平安に暮らすのがいいかもしれません。
でもどこか違うような気がします。

各政党党首の話を聴いていると、この国をよくするために何をしようというよりも、ほかの党を批判する内容は圧倒的に多いです。
否定的な発想だけでは人を感動させることはできず、現実を動かすこともできません。
しかし、昨今の日本の政治状況は、批判や否定だけで動く人が増えてきました。
これこそが、オルテガの言う「危機」なのでしょう。
日本の現在は、「コンコルディア」以前の状況なのです。
だからこそ、死に票にしかならないと思っても、やはり投票には行くべきです。
死に票にしないために、現実を変えるために「次善の人(政党)」に投票するのがいいと言う人もいますが、今回は私はそうはしません。

結果が見えているような気がして気が重いですが、これから投票に行ってきます。
まだの人は、ぜひ投票に行ってください。
投票に行かずに、現実を嘆いても仕方がありません。

■オルテガを思い出しました(2010年7月12日)
参議院選挙の結果が出ました。
民主大敗・自民大勝・みんなの党大躍進でした。
まさか自民がこれほどまで当選するとは思っていませんでしたが、まあ大体予想いていた通りの結果でした。

この結果を知って、思い出したのは、オルテガの「大衆の反逆」です。
1930年に出版された本です。
私は30年近く前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きましたが、その書き出しは「1980年代は、再び反乱の時代である」でした。
当時、オルテガの「大衆の反逆」を呼んで、いささか複雑な思いを抱いていました。
オルテガと違い、私は大衆に「信」を置いていましたし、自らもまた大衆の一人だと位置づけていました。

オルテガは大衆をこう定義します。

現代社会の大衆は、その生を制限する自然的、社会的制約が消滅したものと思っている。そして、いかなる意味でも、最終的に服すべき上級の規範の存在を認めない。常に上級の規範に服して、「規律の生」を生きるエリートの指導を拒否する。

「21世紀は真心の時代」から30年、さまざまな体験を重ねるうちに、オルテガのメッセージがだいぶ理解できるようになってきました。
今回の選挙結果は、改めてオルテガを思い出させました。
「無知の賢者」が多すぎます。

もうひとつ思い出したのは、イソップの「かえるの王様」です。
予想はしていましたが、気分の重い朝です。

■消費大国日本(2010年7月14日)
菅政権への支持率がさらに低下したようです。
昨今の状況を見ていると仕方がないかとも思いますが、それにしても日本国民の評価の移ろいやすさには異常さを感じます。
いつから私たちはこんなにも気が短くなってしまったのでしょうか。
人を信ずる気風は無くなったのでしょうか。

このブログでも一度紹介しましたが、日本社会から「信頼関係」が消えだしているということを示唆する調査結果は少なからずあるようです。
いうまでもありませんが、人を信頼しないのは、自らを信頼していないからです。
信頼するべき自己があれば、他者も信頼できるからです。

最近の内閣支持率の動きを見ていると、先日も書きましたが、どうしてもイソップの「かえるの王様」を思い出します。
王様を欲しがったかえるたちに、神様が王様を派遣しますが、誰が来てもかえるたちは満足せず、不満ばかりいいます。
あまりにもうるさいので、神様は水蛇を王様として送りました。
そのおかげで、かえるの国は静かになりました。
かえるたちはみんな水蛇に食べられてしまったのです。

日本では毎年、首相が変わっています。
言い換えれば、日本の国民がそうしているわけです。
つまり首相さえも「浪費」している「消費大国」なのです。
それは、結局、私たち自身を「浪費」しているといっていいでしょう。
そこから抜け出るには、まずは自分を信頼しなければいけません。
そのためには、信頼できる存在にならなければいけません。
それは自らの人生を持つということです。
自らのために生きるということです。

そろそろお金のためや「社会」のために生きるのはやめたいものです。
「社会」のために生きるのをやめるというと誤解されそうですが、これはまた少しずつ書いていきたいと思います。
しかし、「社会のため」が社会を壊してきた例は少なくないように思います。

■国民生活保障ファンド(2010年7月14日)
各地で水害が発生しています。
それを見ながら思ったことです。

消費税を1%高めて、それを国民生活保障ファンドとして、今回のように不可抗力的な自然災害を受けた人に無条件で支給することはできないものでしょうか。

国家とは何かと言われると、難しい議論になりますが、国民の生活が、本人の責任の及ばぬ理由で立ち行かなくなった時に、それを支え合う仕組みとしての国家という捉え方があってもいいように思ったのです。

オルテガは、近代の国民国家は、いくつかの人間集団が、ある共同プロジェクトに共鳴し、連帯感を芽生えさせることによって形成されたと考えました。
私が興味を持ったのは、「共同プロジェクト」を、連帯を生み出す契機と考えている点です。
では、その「共同プロジェクト」とは何でしょうか、
場合によっては、それは戦争かもしれません。
なにしろオルテガは、あのスペイン戦争時代の人ですから。
しかし、もっと素朴に、困ったら助けてもらえる保障の仕組みづくりを共同プロジェクトと考えてもいいでしょう。

みなさんのところは大丈夫だったでしょうか。
北九州や山口には友人知人も多いので、心配です。
それにしても、自然の威力は凄いですね。
国会で議論している課題(最近はアジェンダと言うらしいですが)が、なんだかとてもむなしく響きます。

国民生活保障ファンドをつくるのであれば、消費税でも所得税でもいいのですが、1%を喜んで納税したいと思います。
そんなファンドはできないものでしょうか。

■譲る精神(2010年7月15日)
柔道の谷亮子さんが参議院議員に当選しました。
「やわらちゃん」として、国民的な人気のある人ですが、私には「金の亡者」としか見えないために、以前から好きになれない人です。
その彼女が、柔道でも金、国政でも金という発言をして話題になりましたが、金の亡者の彼女ですから、それは当然の発言です。
その谷さんを担ぎだしたのが小沢さんだったというのも、興味深いことです。

私が谷さんを嫌いになったのは、金メダルに固執するあまり、後進のことを考えなかったためです。
オリンピックで金メダルを手にしたら、私はオリンピック出場を辞退するべきだという考えの持ち主です。
たぶんだれからも賛成されないでしょうが。
栄光の舞台は、出来るだけ多くの人に開かれるべきです。
居座ってはいけません。
それが私の考えです。
政治家もまた、居座りたがることの好きな人たちの世界です。
そういう人たちが居座り続けた結果が、今の日本の政治状況かもしれません。

人はなぜ譲れないのか。
それがとても不思議です。
譲り合ったら、とても気持ちよく暮らせるのに、多くの人は競い合います。
競い合ったら疲れるだけですし、負けることもあるのです。
譲り合いには勝ちも負けもありません。
不幸になる人はいないのです。

スポーツは譲り合いではなく、勝つことだという人が圧倒的に多いでしょう。
ワールドカップもそうですが、勝ち負けを目的にするスポーツは、どこか利益を目的とする最近の企業のようで、私には違和感があります。
私が、いまの社会から脱落しているから、そう思うのかもしれません。

譲り合い、支え合えば、みんなの力が活きていきます。
しかし、競い合い、負かし合えば、必ず無駄になる力が発生します。
そんな簡単なことが、なぜみんなわからないのか、不思議でなりません。

それにしても、人間社会から「競争」はなくならないものでしょうか。
自然とも、そろそろ競い合うのをやめたほうがいいのかもしれません。

■雇用創出の罠(2010年7月16日)
昨日、地域再生をテーマにしたサロンをやっていたのですが、そこで地域で社会的事業を起こすとしても、利益が上がらないと持続できないのではないかという質問がありました。
私自身は、まずはその発想の呪縛から抜け出て欲しいと思うのですが、事業を起こしたいと思っている人はこれまでの発想の呪縛から抜け出られないのです。
それに、大学での経営学も、巷のビジネススクールも、教えているのはすべて、そうした発想の中で活動してきた人たちばかりですから、学べば学ぶほど呪縛の罠に落ち込みます。
まさに、それこそが「資本の思う壺」です。
そんなことをしていたら、最近逮捕された日本振興銀行の木村さんのようになるよと言いたいところですが、多くの人たちはまだその発想でしか考えられないのかもしれません。

経営学関係の教授やビジネススクールをやっている人も友人に少なくありませんが、そこで教えている経営学や経済学は、これからはまったく役に立たないでしょう。
出発点が間違っているからです。
本気で経済や経営を学びたいのであれば、そんなところで学んではいけません。
ましてや、今成功している企業の経営者の話など聞いてはいけません。
ユニクロとグラミン銀行の話には、がっかりしましたが、あんな茶番劇に騙されてはいけません。
私には、グラミン銀行はもはやまったく信頼できない組織です。
彼らが創りだす雇用とは一体何なのか。
お金は本当に恐ろしいです。

とまあ、こういうことをこの20年、言い続けていますが、なかなかわかってはもらえません。
私の考えが間違っているからかもしれません。
しかし、昨日の議論を聞きながら思い出した本があります。
藤原書房から10年ほど前に出版された「アンペイド・ワークとは何か」という本です。
今日は、その本を引っ張り出して読み直しました。
そこに、フェミニストのマリア・ミースの小論が掲載されています。
以前読んだ時よりも、心に深く響きました。
多くの人に読んでもらいたい小論です。
全文引用したいですが、そうも行きません。
でも多くの人に読んでほしい論文です。
図書館などでぜひ借りて読んでください。

一つだけ引用させてもらいます。

すべての人にとっての完全雇用は、いまや、貧困な国々のみならず、豊かな国々においても不可能だということはたいへん明白であるにもかかわらず、政策決定者は、社会的危機の唯一の解決策としていまだに雇用創出について語りつづけているのである。

わかりにくいかもしれませんが、前文を読むときっと理解してもらえると思います。
コモンズ書店に、その本を紹介しておきます。

■ふたつの仕事(2010年7月17日)
昨日、紹介したマリア・ミースの論文ですが、もう少し紹介したくなりました。
本を読んでくださいと言っても、読んでくれる人はまずいないでしょうから。

一部文章を省略しての紹介ですが、マリア・ミースはこう書いています。

貨幣ないし資本を生産する労働のために用いられる、生産的労働および生産性という概念は、古典経済学理論の最も言語同断な嘘のひとつである。
その一方で、子どもを産み、養い、世話をし、慈しむ等々の女性の仕事は、直接に貨幣をもたらさないがゆえに、非生産的であるとみなされている。
また、多くの部族や農民のような自らのサブシステンスのためにだけ生産している人々の仕事も同じやり方で評価され、非生産的であると呼ばれている。
そのようなサブシステンス生産を破壊し、自給自足的な諸部族や女性や小農たちのいわゆる「非生産的な」生活維持的サブシステンス労働を変えることが、世界銀行のような資本家の国際機関の明確な目的になっている。
このことは、彼らを仕事と生計の面で貨幣収入と資本に従属させることを意味している。
資本は、膨大な数の人々が自給自足的である時には成長することができないのである。

サブシステンスとは耳慣れない言葉でしょうが、このブログでは何回か使わせてもらっています。
一般的には生命の維持や生存のための活動をさしますが、イリイチやミースは、「人々の営みの根底にあってその社会の基礎をなす物質的・精神的な基盤」という意味を与えています。
つまり、社会を維持しながら人が生きていくための必要不可欠な活動のことです。

サブシステンスという概念を持ち込むと、人の活動(ワーク)には2種類あることがわかります。
サブシステンスのための活動(サブシステンスワーク)と金銭を得るための活動(ペイドワーク)です。
金銭を使うための活動と言うものもありますが、それは金を得るための活動の変種だと捉えていいでしょう。

サブシステンスワークとペイドワークと、みなさんの人生においてはどちらが重要でしょうか。
いうまでもありませんが、前者のはずです。
何しろ前者は生きていくためのワークなのですから。
しかし今の時代においては、ほとんどの人が後者を重視しています。
それこそが「呪縛」なのです。
ミースは、そのことを指摘しているのです。
昨日の時評も、その文脈で受け止めてください。
雇用創出はサブシステンスワークの破壊にもなりかねないのです。
ペイドワークがなくなっても生活は破壊しませんが、サブシステンスワークがなくなれば生きてはいけません。
そんな簡単なことにみんな気づかなくなってきている。
だから「自殺」などと言うことが社会現象になってしまうのです。

また補足しないと誤解されそうな文章を付け加えてしまいました。

■「ため」族の悲劇(2010年7月18日)
少し前に「社会のため」などと考えないほうがいいと書きました。
「社会のため、がなぜ悪いのか」とお叱りを受けました。
言葉は本当に難しいです。

バブルがはじけだした20年ほど前に、日経ビジネスが「会社のためが会社をつぶす」と言う特集を組みました。
会社のためと思ってやったことが裏目に出て、会社に大きな不良債権を発生させたというような話がたくさんありました。
企業不祥事の多くもまた、最初は「会社のため」から始まります。
「目先の、しかも単に儲けのため」の行為が、会社が時間をかけて育ててきた信頼や顧客を裏切り、結局、倒産してしまった事例は少なくありません。
自分勝手に「会社のため」などと言ってはいけないのです。

「社会のため」も同じです。
そもそも「社会」などというのは、あまりに多義的で、物事の基準には到底なりません。
使い手や聴き手が、勝手に解釈してしまうのが関の山です。
自分の狭い了見で、「社会」を勝手に定義し、それ以外の「社会」への配慮を怠る。
個人が考える「社会」の狭さを自覚しなければいけません。
ですから、「社会のため」などと発言する人は、私には何も考えていない人に思えます。
そんな人は信頼に値しません。
善人でしょうが、そういう善人が一番始末が悪いことも少なくありません。
事実、私の周りにもそういう人は少なくありません。
私は、そういう、「○○のため」という基準で言動している人を「ため族」と呼んでいます。
人は、「ため」ではなく、自らの信念で言動しなければいけません。
そして、責任は自分で取らなくてはいけません。
こんなことを書くと、また「心理主義の罠」ではないかと言われそうですが、言葉は本当に難しい。

「ため族」は、自らがないために周囲に影響されます。
自らを持たない人たちの集団は、ある状況においては最強です。
人間を要素にして、この最強のチームを構築してきた人が、これまでは世界を制してきました。
しかし、おそらくその時代は終わりだしています。
組織原理が変わりだしているのです。
そんな気がしてなりません。

最近の民主党や民主党政権には、以前まだ「ため族」が多いです。
多様な異質性を包摂した、新しい政党への期待を少し抱いたのですが、どうもそうではないようで、相変わらず小賢しい人智で右往左往しています。
おそらく間もなく瓦解するでしょう。
自らの信念が無いのなら、政治家にはなってほしくありません。
信念があるのであれば、右顧左眄せずに信念を通すべきです。
自分を生きないことほど、与えられた生命への裏切りはありません。

■なぜ暴力団関係者と付き合ってはいけないのか(2010年7月23日)
最近、ますます納得できないことが増えています。
大相撲の松ヶ根親方が暴力団と関係が深いとされる不動産会社から宿舎を借りていたとか、貴乃花が出席した会に暴力団関係者がいたとか、あいかわらず相撲界はマスコミにいじめられています。
しかし、こうした報道に触れるたびに、なぜ暴力団関係者と付き合ってはいけないのか、いつも不思議に思います。
みなさんは答えられるでしょうか。

前にも書きましたが、反社会的組織などという蔑称は、なぜ差別用語にならないのか、これも理解できません。
いじめ以外の何者でもないでしょう。
もし暴力団の存在がよくないのであれば、それが存在できないようにすべきでしょう。
なぜそれができないのか。
その存在を認めておいて、付き合ってはいけないはないでしょう。
私にはとても出来ないことです。

もちろん私には暴力団関係の友人はいないと思います。
しかし、友人知人に「反社会的組織の人ですか」と訊いたことはありませんので、確信はありません。
犯罪を犯した人は、反社会的な人なのでしょうか。
もしそうであるとして、そういう人と付き合ってはいけないのでしょうか。

どうしてみんなしつこく弱いものいじめをするのでしょうか。
判官びいきの文化は、もうなくなったようです。

私にはとても嫌な時代です。
息苦しい時代と言うべきかも知れません。
暑いのもイヤですが、息苦しいのもイヤですね。
最近は本当に疲れます。

■不要な言い訳(2010年7月30日)
時評を書けずにいます。
暑さのせいで立ち止まることが多くなったために、今までよりも周りが見えてきてしまったためかもしれません。
批評は、その対象が見えていないとできないですが、見えすぎてもできなくなります。

私の周りでも「格差」は広がっています。
私はいずれの世界にもささやかに縁を持たせてもらっていますが、まったく違う世界がそれぞれに自己拡大しているのではないかと思うこともあります。
それぞれの世界にいる人たちは、話す言語さえ違います。
もちろん話題はまったくと言って良いほど違います。
世界が違ってきているのです。
その両者の違いの大きさに、時々、虚しさを感じます。
怒りは感じなくなってきました。

そのふたつの世界のどちらがいいかはわかりませんが、自分の世界はよくわかります。
しかし、そこに安堵できない自分にも時々気がつきます。
時に、お金が欲しくなることもあるのです。
3億円あればこんなことができるのに、などと馬鹿なことを考えてしまうわけです。
お金には何の価値もないことは知っているはずなのですが。

人は結局、自己満足の世界でしか生きられないのかもしれません。
龍馬は時代を変え、賢治は時代を変えませんでした。
私は龍馬よりも賢治が好きですが、しかしふたりとも多分、自分の世界を生きただけのことでしょう。
私たちは、それを勝手に拡大解釈して、自らの自己満足の世界に引きずり込んでしまっているのかもしれません。
少なくとも、彼らは小賢しい時評などしなかった。
自分と時代を思う存分に生きたのです。
その潔さはまぶしいほどですが、私はそういう生き方はしてきませんでした。
時代と関わりながらも、自分をしっかりと生きることはよほどの才能と生命力がなければできることではありません。
ですからふたりとも若くして生命を燃やし終わったのです。

日本人の寿命は、まだまだ延びているようです。
寿命が延びることが幸せなのか。
そんなことも考えてしまいます。

それもこれも暑さのせいでしょう。
そう考えれば気は楽になる。
ところが今日は涼しいのです。
にもかかわらず、時評したくなるような気になりません。
自らの生命力の衰えを認めないわけにはいきません。

そろそろ時評ブログは止め頃なのかもしれません。
自評ブログに切り替えたい気分もありますが、自評では益々読む人はいないでしょうし、持続できないでしょう。
でもまあ、今日は湯島に出かけましょう。
きっとまた新しい出会いがあるでしょう。
今日は恒例のオープンサロンなのです。
よかったら無駄な時間を過ごしに来ませんか。

■第1回信濃川・環境大河塾ツアーのお誘い(2010年7月30日)
今回はご案内の記事です。
私のホームページCWSコモンズでも案内していますが、あまり反応が良くありません。
とてもいい企画なので、ぜひ若い人に参加して欲しいと思い、ここでも重ねて案内させてもらうことにします。

私もささやかに関わらせてもらっている、NPO法人新潟水辺の会が主催する、とても魅力的なツアーです。
日本を代表する大河、信濃川・千曲川にかかるダムを見学しながら、
参加者みんなで、川との付き合い方や私たちの生き方を考えてみようという、ワークショップ型ツアーです。

対象は学生中心ですが、学生に限らず、これからの日本を担っていく若者であれば、歓迎です。
主催する新潟水辺の会は、信濃川を舞台にして、私たち自身の生き方を実践的に、そして楽しみながら、問い直していこうという、さまざまな生活基盤をもった人たちのプラットフォーム型NPOです。
その趣旨、そのメンバーの魅力に引き込まれて、私も関わらせてもらっています。

今回の企画は、ぜひ若い人たちに、信濃川の実状を見てもらいながら、川との付き合い方を通して、私たちの生き方を考えてみようということで、企画されました。
信濃川上流の千曲川、さらにはその支流の支川の犀川にかかわるダムを見学しながら、ワークショップを開催します。
新潟水辺の会代表の大熊孝さん(新潟大学名誉教授)も同行し、ワークショップにも参加します。
大熊さんと2日間付き合うだけでも学ぶことはとてもたくさんあるはずです。
コース・プログラムなど、詳しいことはチラシを見てください。

8月19日から20日の1泊2日のツアーですが、宿泊食事も含めて、参加費は6000円です。
集合場所が、新潟駅または長野駅ですが、首都圏からも参加する価値は十分にあります。
私も参加しますが、ぜひ学生及びそれに準ずるみなさんの参加をお待ちします。
参加されると、世界観が変わるかもしれません。
これまでとは違った社会の実相も見えてくるかもしれません。

申し込みは下記の通りですが、私にご連絡いただいても結構です。
申し込み締め切りは8月5日ですが、定員(30人)に達し次第、受付を終了しますので、できるだけ早くお申し込みください。

申込先:NPO法人新潟水辺の会事務局長 加藤功 ecoline@mvd.biglobe.ne.jp
コンセプトワークショップ 佐藤修 qzy00757@nifty.com
詳細チラシ

■時評を止めるなと激励されました(2010年8月5日)
今朝、ブログをリンクしあっている方から2年ぶりのメールが来ました。

先日、時評をやめようかというブログの内容がありまして、心配になりつい、メールを書きました。
唐突なメール申し訳ございませんが、熱心な読者がおりますので、佐藤さんのブログを是非とも続けていただきたいと思ってメールをお送りいたします。

まさかこんな熱心な読者がいてくださるとは思ってもいませんでした。
ちなみに、この人のブログは私のとは大違いで、実にしっかりしたものです。
2年以上前になりますが、メールをいただき、ブログを相互リンクさせてもらいました。
実にうれしいメールです。

この1週間、時評を書けずにいます。
挽歌も実は書けなくなっています。
昨日と一昨日はついに何も書けませんでした。
忙しいわけではありません。
時間はあるのです。
厭世観はかなり強まっていますが、それでも人と会うと元気になります。
怒りは最近はあまり感じませんが、実は昨日もある市民活動をしている人と話していて、ついつい声を荒げてしまい、横にいる人からなだめられてしまいました。
最近流行の「正義論」には関心はあまりないのですが、私的な基準の「正義」に反する議論にはすぐ反応してしまい、顔色も口調も変わってしまうのです。
子どもの頃から、これだけは直りません。
心身が、あまり考えることなく反応してしまうのです。
人間としてはいたって未熟なのです。

月曜日に若者がやってきました。
佐藤さんのブログを読んでいると、生気がだんだん消えていきそうで心配でした、と別れ際に言いました。
生気が消えていく、確かにそうなのかもしれません。

うまくいけば、このまま静かに人生を終えられるかもしれません。
しかし、残念ながら、まだその時期ではないのです。
もうしばらくは生きるつもりです。
理由はたいしたことではないのですが、娘たちがいるからです。

やはりどうしても退嬰的な内容になってしまいますね。
少し前向きにと思って書き出したのですが。
困ったものです。

最近滅入ることが多すぎるのですが、自分が姪っては周りの人に元気を分け合えません。
まずは自分が元気になること。
気分を変えて、時評と挽歌を再開します。
たぶん、ですが。
いまはこれを書くのがやっとでした。

■忙しいと暇は同じこと(2010年8月5日)
しばらく時評を書けずにいましたが、なぜ書けなかったのか少し考えてみました。
大きな理由がわかりました。
暇だったからです。

最近、とても暇なのです。
湯島に来てくれた人に、最近暇で暇で仕方がない、と言うと、暇だなんて冗談でしょうといわれます。
しかし本当に暇なのです。
でも時間があるように思えませんが、としつこく食い下がる人もいます。
それで仕方なく、暇なのになぜか時間はないのですよね、と答えます。
そうすると、時間がないのは暇とは言わない、と教えてくれる人がいます。
そうかもしれません。
でも私の素直な気持ちには、「暇だなあ」、でも「時間がないなあ」という両方ともが間違いなくあるのです。
つまり、いずれもが私の素直な気持ちなのです。
でもみんなは時間がないから忙しい、だから暇だというのは嘘だと受け止めてしまいます。
私が嘘を言っていると思われては、いささか気分が落ち着きません。

そんなことを繰り返していたのですが、今日、突然にわかりました。
暇と忙しさは同じことなのです。
そう考えるとすべてはとても理解できます。

忙しいとは「心を失う」ことです。
つまり考える余裕もなく身体を動かしていないといけないということです。
私が一番嫌いなことです。
心を失って過ごす時間は、私には価値のない時間です。
生きているとはいえません。
忙しそうですねといわれるのは、私にとっては恥ずべきことなのです。
そして、忙しいと自ら言う人は、私は信頼しません。
心のない人を信頼できるはずはないからです。

暇とは「すき間の時間」です。
やることのない時間です。
言い方を替えれば、自由に使える時間ですから、その気になれば価値のある時間になりますが、そうしていないからこそ「暇」なのです。
「心を失っている」のと同じく「心を動かしていない」価値のない時間です。
そんな時間に安住する人は、やはり私は信頼できません。
つまり、暇であることと忙しいことは、要するに同じことなのです。

さて問題はここからです。
私が最も嫌いなはずの、暇な人、忙しい人に、自分自身が陥っているのです。
だから時評も書けず、挽歌もかけなかった。
そう気づいたわけです。

しかし、「忙しい」と「暇」とが同じだったとは、我ながら卓見です。
視点を少し変えると、あるいは基準を大きく変えると、物事は同じに見えたり、反対に見えたりするのです。
明日からまた社会に目を向けていきたいと思います。

■人のつながりを論ぜずに人とのつながりを大事にしてほしいです(2010年8月6日)
長寿者と言われていた人たちの生存が確認されていなかったことがニュースになっていますが、それに伴って、また「無縁社会」や「つながりの不在」が言葉として大流行しています。
誰もがテレビでしたり顔で「つながりがなくなった」と語っているのを見ると大きな違和感を持ちます。
壊しているのはあなたたちだろうと言いたいのです。
壊しておいて、何をいまさらと言いたいですし、実際に自分たちの今の行動はどうなのかとも言いたいです。

無縁社会などという前に、まずは自分の周りの人との縁を見直してほしいです。
私は生まれてこの方、一度だけを除いて、縁を大切にしてきました。
もちろん今でもそうです。
完全と言うわけではありませんが、一度得た縁は私から断つことはありませんし、一度得た縁はいつも意識しています。
連絡がなければそれなりの行動もとっています。
そうやってそれぞれの人がまずは自分の周りの縁から大事にしていけば、無縁社会などと言われる状況は30年もしたらなくなるでしょう。
30年が長いなどと言う人は、行動しようという気のない人です。
何年かかろうが動き出さなければいけません。
動き出せば、30年が1年になるかもしれないのです。

テレビで無縁社会を嘆いている人たちの実際に行動はどうでしょうか。
忙しいなどと言っていては、縁はできようはずもないのです。
ともかく言葉と行動がつながっていない人が多すぎます。
社会を変えるのは、まず自分の行動を変えることです。

それにしても、いろいろと考えさせられることが多いです。
お金が絡んでくると遺族の人たちの本性も暴露されます。
人の生命よりもお金や記録が優先されている実態に、改めて社会の壊れを感じます。
最近のこの話題の報道は、どこかが間違っているように思います。

■需給が逼迫しているからこそ安く売る努力をする企業(2010年8月6日)
最大6割引き!イトーヨーカ堂、野菜値下げ販売
大雨と猛暑の影響で野菜価格が高騰しているようですが、そうしたなかで、イトーヨーカ堂がこの週末、野菜約10品目を約2〜6割引きで販売するという記事が今朝の読売新聞に出ていました。
とてもホッとできる話です。

最近の経済理論から言うと、需給関係によって商品の価格は決まるとされています。
供給が少なくなれば当然価格は高くなり、金持ちしか変えなくなっていきます。
これが今の経済学の市場理論です。
私はそうでない市場理論があると思っていますが、イトーヨーカ堂の行動は、それを示唆しています。

最近、話題のマイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」も、その書き出しは、2004年に発生したフロリダのハリケーン被害の後に起こった物価高騰の是非の話です。
サンデルが引き合いに出している話と今回のイトーヨーカ堂の話は、もちろん種類の違う話です。
サンデルが例に出す被害を受けて生きるか死ぬかの状況にある人の弱みに付け込んだ値上げの是非の場合は、まさに倫理観になりますが、イトーヨーカ堂の行為は経済行為でしかないともいえます。
しかし、よく考えてみると、この2つは違っているようで通底しています。
それは、新しい市場理論の可能性を示唆しているという点です。

市場原理主義は最近少しなりをひそめていますが、市場論理は一つではないと考えるべきでしょう。
これまでの市場理論とは違った、市場理論があるのだろうと思います。
それは「正義」の話ではなく、「論理」の話です。

論理は金銭や数量だけで成り立つのではありません。
限られた資源を効果的に活かしていくという視点で市場論理を捉えれば、モノの需給関係だけが価格を決める市場理論は一つの各論でしかありません。

経済のパラダイムを見直していくべき時期ではないかと思います。

■なぜ女性たちは豊かな暮らしを捨てたのか(2010年8月7日)
NHKの「ゲゲゲの女房」を見ているのですが、今日も近くの商店街の3人の女性チームが出ていました。
家の稼業をやりながら、地域のお世話をしたりしている、昔はよく見かけたおばさんたちです。
その人たちが出てくると、いつも、当時(昭和30〜40年代)の社会は経済的・物質的には貧しかったかもしれないが、生活は豊かだったなと思います。
専業主婦も含めて、女性たちは豊かに過ごしていたような気がします。
それがなぜみんな企業からお金をもらって稼ぐことに向かいだしたのでしょうか。
私は、女性たちが騙されたのだと思っています。
同時にそれは、男性も騙されることでもあったのですが。

専業主婦が価値のないことであり、女性も経済的に自立し、自分の仕事を持つべきだ。などという言葉に惑わされた女性たちは愚かしいとしか言いようがありません。
女性の社会進出は、女性の社会から企業経済への囲い込みでしかないと私は思っていましたが、その延長にある男女共同参画社会とかいうものを目指す男性もどきの似非フェミニストたちが先頭にたって社会を壊してきたのです。
その結果が生まれたのが「少子化」発想です。
彼らには子どもなど要りません。
必要なのは労働力であり消費力なのですから、サルでもロボットでもいいのです。

子供という概念が発見されたのは、18世紀だといわれます。
エレン・ケイが「児童の世紀」を書いたのは1900年。そして20世紀は「児童の世紀」といわれたのです。
しかし、21世紀はどうでしょうか。
少子化論議が今のような形で行われている限り、子供には未来はないでしょう。
昨今多発している子供の不幸な事件は、少子化発想の延長でしかありません。
21世紀を改めて子供の世紀にしようと言う運動は世界的に広がっていますが、私にはかなり悲観的にうつります。
子供よりもペットを大事にするような人間を育ててきたのは、いうまでもありませんが、経済主義者です。

女性たちはそろそろ男たちの偏った世界へのコンプレックスから解放されなければいけません。
男性が企業でやっている仕事の実体に気づくべきです。
人は生きる上での働きは不可欠ですが、金稼ぎのための仕事は不可欠ではないのです。
その金稼ぎの世界で有名になった経済界や政界の活躍している女性たちの顔を思い出してください。
心と生活を売って社会を壊し続ける女性たちには嘔吐を感じます。

専業主婦がどれほど社会活動をしていたか、発想を変えればそれに気づくのではないかと思います。

久しぶりに時評を書いたせいか、ちょっと走りすぎてしまいました。
すみません。
私にも女性の友人知人がいますが、彼女たちに嫌われそうです。
困ったものです。

■なぜみんな「お金を稼ぐこと」にこだわるのか(2010年8月8日)
先週はいろいろな場面で「お金を稼ぐ必要性」に関する話がでました。
相手は70代から20代まで、世代もさまざまなら立場もさまざまな人たちです。
みんなどうして「お金を稼ぐこと」に、そんなにこだわっているのだろうと思います。
お金がないと不安なのです。
しかしお金があることで不安を感じている人も多いはずです。

私の知っている事例では、身寄りが少ないためもあって老後のためにとせっせとお金を貯めてきたところ、それが数億円になったら、逆にいろんな人が寄ってきたという話があります。
その人に寄ってきたのではなく、お金に寄ってきたのです。
お金があってもいいことなどありません。

それでもお金がなかったら不安だとみんな思うでしょう。
不安を増大することが経済発展の原点ですから、そうした不安感を蔓延させるのが、昨今の時代意識です。
そうしたなかでは、お金よりも人のつながりなどと言っても実際にはなかなかそう動く人はいません。
しかし考えてみてください。
友人がたくさんいる人が不幸になった事例を皆さんはご存知ですか。

友人が多いようでも、お金がなくなるとみんな離れていくという人もいます。
実際にそういうことを私も見ていますが、それは友人ではなく、お金の臭いに集まっていただけの話です。
私のところにも、以前はいろんな人が来ました。
それなりに活躍していた時期もありますので、お金のにおいがしたこともあるのでしょう。
しかし私と付き合っていても一銭の得にもならないと気づくと、ぷっつりと来なくなります。
そうした人の名前を後で新聞などで見ることもありますが、そういう人は成功しても何の連絡があるわけでもありません。

私が10年前から信条の一つにしている「金の切れ目が縁のはじまり」は、こうした私自身の体験から生まれたものです。

お金を稼ぐことへのこだわりは、ほんの一つの例でしかありません。
私たちは、いくつかのこだわり(固定観念)のもとで生きています。
それを改めて吟味する時期に来ています。
たとえば消費税は不可避だとか、介護を背負っていたのは女性だとか、環境保護のためにリサイクルしなければいけないとか、核抑止力は今なお有効だとか、NHKは公共放送だとか、地球温暖化は防がねばならないとか、ゆとり教育は学力低下につながるとか、農業は産業だとか・・・・。
まあ見直してみたら新しい発見もあるかもしれません。

■コモンズを荒らした犯人(2010年8月10日)
韓国にいる佐々木さんからのメールに次のような話がありました。

中国の内蒙古へ行った時聞いた話しです(もう10年以上になりますが)。
遊牧民は2ヘクタールだかの土地を貰い、遊牧しながら生活できるような政策で優遇されていたとか。
ところが電気が入り、ラヂオが入るようになると、現金収入が必要となり、放牧の羊を増やすようになります。
テレビを入れたい、冷蔵庫もとなると、更に羊を増やすようになります。
そうすると、放牧のために循環していた草地から、羊の数が多くなり、草が生えなくなっていきます。
生活が元に戻らなくなって、町に働きに出るようになり、オートバイが必要となり、奥さんまで外で働かなくてはいけなくなってしまいます。
物質は、いろいろ揃っても、それまでの家族や近隣の関係はドンドン失われていくと。

読んでいて、コモンズの悲劇を思い出しました。
前にも書きましたが、コモンズの悲劇とは「誰でも自由に利用できる共有資源は乱獲によって枯渇してしまう」という話です。
内蒙古の話は、なにがコモンズの悲劇を起こしたかを教えてくれます。

羊の数を増やしたらその世話が大変でしょうが、なぜか現代のほとんどの人は羊の数を増やそうとします。
羊の数を増やすことは、経済成長ですが、なぜかみんな経済成長を望みます。
しかし、それは決して「人間の性(さが)」ではないと私は確信しています。
その習癖を植えつけた犯人は、なんと「電気」だったのです。
いいかえれば電化生活への憧れです。
それを実現するために、羊を増やし、町にまで働きに行かねばならなくなった。
やはりどこかおかしいです。

最近、暑いのでオフィスに行くのも億劫です。
わが家のチビ太(犬です)は、暑いのか日中は横たわって寝てばかりです。
チビ太のように無為に過ごすのと、何かしていないと罪悪感を持ってしまう私と、どちらが豊かなのかはわかりませんが、少なくとも最近の私たちの価値観を根本から問い直す必要があるような気がします。

チビ太を真似て、明日は怠惰に寝ていたい気もしますが、オフィスでいくつかの用件があります。
行かないと関係者に迷惑をかけます。
でも本当でしょうか。
私が行かないといけないと思っているのは私だけかもしれません。

佐々木さん
すみません。
もっと本質的な啓示を受けたつもりが、書いているうちにわけがわからなくなってしまいました。
チビ太を出したのが敗因ですね。
チビ太は、昔の遊牧民よりも幸せかもしれません。
涼しくなると吠え出して、散歩に連れて行けと要求します。
いま吠え出しました。
電化生活よりも豊かな生活かもしれません。

■非電化工房(2010年8月13日)
電化生活が社会を壊すきっかけになっているのではないかという暴論を書きましたが、今朝、テレビで「非電化工房」の活動を知りました。
電化生活のよさを前提にしながら、しかし非電化生活のよさも考えようという活動をされているところです。
ネットにいろいろと出ていますので、ぜひお読みください。
たとえば、その工房が開発したものの中には電気を使わない冷蔵庫もあります。
ちょっと古い記事ですが、BPnetの「電気を使わない非電化という選択肢」という記事をお読みください。

とても共感しました。
知っている人も多いのでしょうが、不勉強で私は知りませんでした。
もしまだご存知でない方がいたらと思い、書かせてもらいました。

■孤独死問題への取り組み方(2010年8月13日)
孤独死が最近またテレビでよく取り上げられます。
今日も取り上げられていました。
この問題に関しては、どうしたら孤独死を避けられるかという問題設定が多いのですが、その捉え方に違和感があります。
問題は「孤独死」ではなく「孤独死を引き起こす私たちの生き方」ではないかと思うのです。

今日は細菌学の専門家の大学教授と話し合う機会がありました。
またいつか書くことがあると思いますが、自殺の問題に関しても議論しました。
私は、このブログでも書いていますが、「自殺のない社会づくりネットワーク」を昨年、仲間たちと立ち上げました。
仲間の多くは自殺防止あるいは自殺予防に取り組んでいる人たちです。
しかし私の関心は「自殺」ではありません。

問題の立て方によって、活動の結果はまったく違ったものになります。
私の問題意識は「自殺防止」ではなく「自殺のない社会」です。
これはまったく違うものですが、なかなか理解してもらえません。
それと同じく、「孤独死対策」も「孤独死防止」ではなく「孤独死のない社会づくり」を問題にしなければ事態は変わりません。
そのことを最近テレビや新聞を見ながら痛感しています。

実は私も今年は「孤独死」のテーマに関わろうと思っています。
しかしどうも踏ん切りがつかないのは、この違いをどれだけわかってもらえるかです。

自殺や孤独死に限りません。
福祉や環境の問題に関わっていると、こうしたことに行き着きます。
問題の設定をどうするか、それこそが問題なのです。

■降圧剤がもう1週間も切れています(2010年8月14日)
実は先週、高血圧対策として飲んでいる降圧剤がなくなってしまいました。
まあ数日はいいだろうと飲まずにいましたが、今週の月曜日に薬をもらいにいつものクリニックに行きました。
ところがなんと今週は夏休みなのです。
そのため、さらに1週間、降圧剤なしの生活をする羽目になりました。
降圧剤は一度飲みだしたら途中で止めてはいけないといわれていましたから、少しは気になっていたのですが、まあ大丈夫だろうと他の薬局にいくことなく過ごしてしまいました。

しかし、1週間以上も薬を飲まないとなると少し気になりだしました。
降圧効果のあるという豆乳を買ってきてもらい、飲んでみましたが、やはり私の嗜好ではありません。
それでまあ、自宅にある血圧計ではかってみることにしました。
高いといえば高い、正常といえば正常の数値です。
そもそも血圧などは意識で動かせるものだという思いが、やはり私にはあります。
薬は不要ではないかという気がしてきていました。

しかし、昨日の激論(友人とかなりの激論をしてしまいました)がよくなかったのか、帰宅後、疲れが極度に出てしまい、頭痛までしだしたのです。
パソコンをやろうと思ったら、手までしびれてくる感じです。
これはよくないと昨夜は少し心配になりました。
でもまあ今朝起きたら調子がいいのです。
血圧を測ったら、それなりに高いのですが、何回も測っているうちに低い数値が出たので、その記録を正式データとすることにしました。
世の中のデータと同じで、数値というものほど現実を説明しないものはないのです。
データ、数値が説明するのは現実ではなく、仮説、つまり使う人の主観的な世界です。
それに、人間の身体は、その程度にいい加減な、柔軟なものなのです。

さて、今日はまた来客です。
人に合う時は、低血圧よりも少し高血圧のほうがおおかもしれません。
でもまあ今日は激論はしないように、心静かに対応しようと思います。

■日韓併合100年首相談話に異を唱える人たちへの違和感(2010年8月14日)
韓国併合条約発効100年を迎えるのを機に、過去の植民地支配への反省や未来志向の日韓関係を築く決意などを柱とする首相談話を閣議決定しましたが、それに関してまたさま私にとっては、何の違和感もない談話ですし、ようやく日本の政府も自信と誇りを持ち出したと好感が持てるのですが、それとは反対の受け止め方をする人も少なくないようです。
談話に批判している人たちの顔ぶれを見ると、やはりそうかと思えるのですが、もう少し自らに自信を持ってほしいものです。
謝罪することは自信と信念の現れですし、未来もまた謝罪から始まるのです。

とりわけ違和感があるのは、「朝鮮王室儀軌」の返却についての反対論です。
政府も「返還」ではなく「引渡し」と小賢しい言い回しをしていますが、言葉の言いまわしにこだわるような外交はもう卒業してほしいです。
個人の生活レベルで考えれば、返却するのが当然です。
それをしないでおいて、国民に詐欺窃盗を諭すのは、私には滑稽にしか思えません。
筋は通さなければいけません。
「朝鮮王室儀軌」に限らず、正統な持ち主に返すべきものは返すべきです。
盗人に政府は託せません。
過去の首相経験者が盗人のような発言をしているのをテレビで見るのはあまりいい気持ちはしません。

権力者が盗人になるのは防ぎようのない現実かもしれません。
しかし盗人を権力者にするのは避けられるはずです。

この談話騒動を見ていると、水俣病の補償や被爆者補償と同質なのを感じます。
この問題にどう反応するかは、その政治家の立ち位置を示唆しています。
外交と内政は別のものではありません。
あたかも別だと思わせるような言質に騙されてはいけません。
政治の目的は一つです。
誰のための政治か、の「誰」をどう捉えるか、それが問われる時代になってきました。
終わった政治家には退場してほしいものです。

■これからの正義の話をしよう(2010年8月16日)
マイケル・サンデルがハーバード大学で行っている講義「正義」が話題になっていましたが、残念ながらその放送を見損なってしまっていました。
書籍になったので読み出しましたが、まったく退屈の上に、視野がとても狭い気がして、途中で読むのを止めてしまっていました。
ところが、今日からまたテレビで再放送が始まりました。
小林正弥さんが解説していると聞いていたので、彼がどう解説しているかにも関心があり、見てみました。

実に面白いのです。
あっという間の2時間でした。
まだ10時間あります。
残りも見ようと思います。

本とはまったく違うのです。
聞いていた通り、学生とのやりとりが中心です。
本ではそういうライブな雰囲気が出てきませんが、対話型の講義であることがよくわかりました。
一番感心したのは、学生が自分の考えを臆することなく述べていること、そしてサンデル教授が発言者に名前を聞き、それを最後まで覚えていることでした。

これに類した講演を以前、何年か私もやっていたことがありますので、その大変さはよくわかります。
それを楽しみながら、しかも理路整然とやっているサンデル教授には感服しました。
大学の教授とはこういうものなのだと感心した次第です。
日本の大学でも、こういう講義が行われているのでしょうか。
千葉大学の小林さんはこういう講義をしているとお聴きしていますが、私の周りにいるほかの教授はどうでしょうか。
こういう授業であれば、聴くほうも話すほうも楽しいでしょうし、お互いに学びあえるでしょう。

それにしても、若い学生たちの発言はそれぞれに教えられます。
この講義での主役は、サンデルではありません。
学生たちなのです。
サンデルは,まさにプロデューサーであり、編集者です。

大学の可能性を改めて感じました。
途中で投げ出していた本も、読み直すことにしました。

もしNHKハイビジョンが見られるテレビをお持ちであれば、ぜひ明日から見てください。
毎日2時間ずつ。今週中放映されます。
見ると元気が出てきます。

■川と暮らしの距離(2010年8月20日)
2日間、NPO法人新潟水辺の会が主催した、信濃川大河塾ツアーに参加しました。
信濃川および千曲川、さらにその上流の犀川につくられた7つのダムとそれによって無水状況や減水状況が発生している河川の現状を見るのが目的でした。
学生を対象にしたツアーでしたが、実際にはシニア大学の学生も多く、20代から80代まで、参加者は多様でした。
しかも全工程、河川工学の良心的な権威でもある新潟大学名誉教授の大熊さんはじめ、さまざまな専門家が同行し、レクチャや現地の解説をしてくれました。
まあとても贅沢なツアーなのです。

たくさんの発見がありましたが、私たちの暮らしがリアルな現場世界から切り離されていることを改めて思い知らされました。
そうした状況の中で、いくら環境が大切だとか持続可能性を考えなければとか、いっていても問題は解決しないような気がします。
たとえば、今回、ダムの見学に便宜を図ってくれた東京電力の説明資料に「川はいのちの源」と書かれていました。
事実、東電はダムにたまる膨大な生活ごみをていねいに除去し、それをリサイクルしていました。
ダムの現場で汗を流しながら、働いている人たちは実際にそんな思いで川の汚れをなくそうと日々努力しています。
ですから「川はいのちの源」と東電の関係者は思っていることは間違いないのです。

しかしその一方で、発電のために川からダムに取水するために、ダムの下流はかなりの長い距離に渡って無水状況が生じます。
水はたまっていますが、流れてはいませんから、暑さで水温は上昇し、そこに生息している魚などの生物は生きていけません。
比較的大きなダムの下の淀んだ水に、鯉あるいはブラックバスが泳いでいましたが、この夏の暑さではいつまで生存可能か心配です。
しかし、ダムの制御は個々のダム現場を離れた中央制御室で行なわれています。
今では多くのダムは無人なのです。
制御盤を見ているだけでは現場の生き物は見えてきません。
つまり、言葉や理念としての「川はいのちの源」といのちに無頓着な行動とは東電の人たちには何の違和感もないのです。

それは東電の人たちに限りません。
ダムが川をダメにしていると思ったという若者に、そのダムと自分の暮らしのつながりは感じましたかと聞いたら、即座に感じなかったと答えました。
そこには企業で働く人たちと同じ発想の構造があるのです。

千曲川はまだ流れていましたが、犀川はところどころが流れが切れているのです。
同行した若者は「川の死体」と表現しましたが、たしかに「川は生きている」などとはとてもいえません。
しかし、生きていないのは川だけではないのです。
その涸れた河川には人の暮らしのにおいが全くしないのです。
無水の川は無人の川でもありました。
魚もいない死んだ川には人は寄り付かないのは当然ですが、昔は流域に住む人たちの暮らしを支えていた川に背を向けた現代人を感じました。
川に支えられていた文化もまた死んでしまったのです。
いささか極端ですが、河川が死んでも私たちは生きていけるようになってしまったのです。

川を殺したのは、電力に依存する生き方をしている私たちです。
現場を見る前は、私はダムをつくり川の水を可能な限り収奪した企業や経済に不信感を持っていました。
しかし今回現場を見て思ったのは、結局は私たちの生き方なのだと改めて気づいたのです。
その認識がない限り、問題は解決しないのではないかと思ったとたんに疲れがどっと出てきました。
敵は本能寺にではなく、自らの中にいたのです。

こんな感想を書くと、このツアーを企画した水辺の会の人たちには怒られそうですが、そこから出発しないといけないのではないかと、今回は珍しく謙虚になりました。

環境問題ほど悩ましい問題は、私にはありません。
地球温暖化などと訳のわからないことウィ馬NPOに、まずは自分の生き方を見直したいと痛感しました。
そのせいか、元気がなかなか出てきません。

■言説の貧困化(2010年8月22日)
言説の貧困化とは、「スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになること」だと、いま話題のマイケル・サンデルは言っています。
まさに日本の最近のマスコミの状況です。

今日は久しぶりにテレビの政治報道番組を見ましたが、相変わらずの状況で、見ていても元気が出てきません。
登場する政治家は最近かなり変わってきて、半年前までのタレント化した政治屋ではない、ビジョンや誠実さを持った政治家が少しずつ登場してきているように思いますが、キャスターやコメンテーターは相変わらずの「貧困な視野と発想」に安住しているので、なかなか建設的な議論にはなりません。
政治を浪費しているマスコミや学識者には腹立たしさを感じますが、それを見ている水伍している私たちが一番悪いのかもしれません。

しかしキャスターやコメンテーターや政治記者が、「国民は小沢さんが代表戦にでるのをまったく望んでいない」などと発言するのを聞くと(何回も聞きましたが)、本当にそうなのかと思います。
少なくとも私は小沢さんに首相をやってもらいたいと最近思い出しています。
首相が頻繁に変わるのはみっともないという意見にも疑問があります。
確かにみっともないとは思いますが、そんなことを言えるような状況ではないのです。
形にこだわっている段階ではもはやありません。
政治をダメにしているのは、いわゆる政治有識者だと私は考えていますが、せっかくテレビで政治番組を組むのであれば、そうした政界の寄生者たちなど除外して、対立ではなくお互いに知恵を出し合い、新しい政策を創発するような番組をつくってほしいものです。
一時期、新鮮に感じた報道ステーションの古館さんも、政治寄生者たちに洗脳されたのか、滑稽な役回りしかできなくなってしまったのは残念です。

マスコミには言説は不要だという人もいるでしょうが、貧困化した言説は、実は大きな言説と無縁ではありません。
格差社会とは、単に経済的な格差だけが問題なのではないというのは、サンデルの白熱授業にも出てきますが、言説においても明らかな二重構造が生まれているのです。

大きな言説のもとに。貧困化された言説を読み解くと、面白い実相が見えてくるような気がします。
そこには「産業のジレンマ」の構造が感じられさえします。
いささか極端にいえば、そこでは言説の反転が発生しているのです。
これは実に面白いテーマです。

それにしても、なぜこれほどに、テレビや新聞は、「スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄」ばかりを執拗に報じるのでしょうか。
そこに働いている意図を読み解かねばいけません。

■250人の意見交換会(2010年8月23日)
さまざまな不祥事発覚が続いている日本相撲協会は、今日、親方や力士、行司ら約250人が参加する意見交換会を開催しました。
ところが参加者からの意見はほとんどなかったようです。
日本相撲協会も問題がありますが改革に取り組んでいる人たちの意識も見えてきます。
だれもたぶん本気では考えていないのでしょう。
第一、問題の立て方が間違っているのです。
そのためいつも対象も順番も違うのです。

野球賭博問題も、正直に申告すれば軽い罰則で済ますという告知のもとで行われたにもかかわらず解雇される力士がでるほどの処罰が行われました。
それでは規範意識は維持できませんし、本音で話す人はいなくなるでしょう。
そもそもこうした文化をつくり見過ごしてきたのは、組織役員とその監視役たちです。
琴光喜さえもが、私には被害者に思えます。
加害者は、文部科学省も含めて、そして外部委員も含めて、組織のトップたちです。
そうした人たちが襟を正スことからすべては始まるはずです。

第一、これだけの不祥事を重ねながら相撲界のトップや関係者は、ほとんど意見を表明していません。
相撲で優勝した時でさえ言葉少ない文化を彼らは自慢にしてきたような気がしますが、そんな文化の中で急に250人も集めて意見を交換しろなどという発想は馬鹿げています。
要するに形を整えたいと思っただれかの私欲によるものでしょう。
組織変革に少しでも関わったことがある人なら、そんなことは考えません。
ということは、今回の意見交換会の目的は違うところにあるのかもしれません。

相撲界に限らず、こういう動きが最近は多すぎます。
民主党の代表選もそうかもしれません。
そういう視点でニュースを見ていると違った側面が見えてくることもあります。
嫌な時代になりました。

■小沢さん出馬にホッとしました(2010年8月26日)
民主党代表選挙に小沢さんが立候補を表明しました。
国民の意に反する立候補だとあんまり評判は高くないです。
しかし、国民の意に沿うことの意味がどれほどのものかは、この10年で痛いほどわかったはずなのですが、懲りない「国民」は相変わらず、後生大事にマスコミのアンケートや論調に自らの「意」を託しています。
いささか自虐的に言えば、最近の日本人のほとんどは自らの「意思」など持っていないようにも思います。
それは言いすぎかもしれませんが、少なくとも、何も考えていない人たちに、勝手に「国民の意思」などと気楽に話してほしくないものです。

私は、いまマスコミで語られているような意味での「政治と金」には興味はありませんし、「この困難な時期に代表選でもないだろうに」と言う意見にも組しません。
経済も社会も大事だからこそ、一国のリーダーを選ぶことが大事なのですから。
ダメな人は3か月でも決して短くはないのです。
私が菅さんに見切りをつけたのは1週間もかかりませんでした。

もっとも政策面のこれまでの発言に関していえば、私は管さんのほうが好きですし、小沢さんは私の考えには全く合いません。
唯一共感できるのは、約束は守るべきだという点のみです。
政治思想も政治手法も、私には共感できるものはほとんどありません。
にもかかわらず、今の状況を変えるという点で、私は小沢さんの登場にホッとする気持ちを持ちます。
それほど他の政治家がどうしようもなく私には見えてくるのです。
まるで小学校の学級会を観ているようです。

1年前には鳩山さんに期待し、いまは鳩山さんにまったくの期待をしないことに象徴されるように、私の政治家を見る目は極めてお粗末ですが、ともかく何かが動き出すような気がします。
自民党も民主党も実質的に解党し、政界は新しい局面に入っていってほしいものです。
今日はずっとテレビの報道番組を見続けていましたが、いろんなことが見えてきます。

並行して、パウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」に関する本を読んでいました。
抑圧社会と言う言葉の意味がよくわかりました。
非人間化の落し穴に落ちないように、自戒の念を強く持ちました。

■政治とカネ(2010年8月27日)
小沢さんの代表選出馬は、相変わらず不評のようです。
しかしこれほどまでに悪評なのはどうしてでしょうか。
小沢さんの顔の表情を見ていると、この人は悪い人ではないなといつも思います。
ただ私は好きになれないのですが。

小沢さんをこれほどの悪者にしたのはおそらくマスコミではないかと思います。
その奥にはアメリカの権力を感じますが、皮肉なのはその権力とは「お金」そのものだということです。
政治とカネとよく言われますが、小沢さんはカネの世界で正面から戦っているのでしょう。
その先駆者だった田中角栄は見事に蹴落とされましたが、小沢さんは残りました。
これも不思議な話です。
今の政治家のほとんどは、カネの世界にいるはずです。
クリーンな選挙や政治活動をしている人がいたら教えてもらいたいものです。
いるはずがないと私は思っています。
自民党は論外として、民主党もお金で作られた政党ではないかと思います。
共産党は違うかもしれませんが、それ以外はカネまみれであることはそう大差ないような気がします。

ところがそうしたカネにきっぱりと決着をつけた政治家が出始めました。
たとえば名古屋市の河村市長です。
名古屋市議会の人が、河村さんを独裁者にたとえましたが、それを聞いた河村さんは「質素な独裁者などいないでしょう」と答えました。
彼の年収は800万円。自分で決めたのです。
河村さんの持論は減税から政治改革は始まるというものです。
つまりカネの世界から抜け出よというわけです。
私にはとても納得できます。

消費税増税などとんでもない議論だと思います。
まずはやるべきことがあるのです。
それを国政レベルでやれるのは小沢さんしかいないかもしれません。
おざわさんがそれで数十億円をポケットに入れたとしても、そんなはした金はどうでもいいことです。
自分で実感できる程度しかみんな考えを持てません。
政治とカネの問題は、数十億円、あるいは数百億円といった、はした金の話ではないのです。

私たち貧乏人には実感できないのが残念です。

■ホメオパシーを否定する学術会議への怒り(2010年8月28日)
8月24日、日本学術会議は民間療法ホメオパシーについて、「科学的な根拠は明確に否定され、荒唐無稽」という談話を発表しました。
日本医師会など6団体もそれに賛同したと報道されています。
ホメオパシーを受けている人が通常の医療を拒否して、死亡したり症状が悪化したりした疑いの濃い例が相次いで表面化したことが、この談話の契機になったようです。

私は妻を胃がんで見送りました。
いわゆる通常の医療のほか、民間療法も併用しました。
ホメオパシーは帯津良一さんのクリニックで受けていました。
残念ながら妻に限って言えばホメオパシーの効用はありませんでした。
ちなみに帯津さんは、日本ホメオパシー医学会の会長でした。
私は前からホメオパシーのことは知っており、文献的な知識はありました。
しかし実際に処方を受けてみて感じたのは、正直に言えば、大きな疑問でした。
アマチュアリズムの独りよがりを感じたのです。

それでも私はホメオパシーを否定する気にはなれません。
がんを患った方の多くは経験すると思いますが、通常の医療の限界を超えるために、「民間医療」に期待したくなります。
しかし、そこでぶつかるのは評価できないという悩みです。
かかっている医師は、ふつうは相談には応じてくれないでしょう。
私の妻の場合は、最初の主治医だけは理解を示しましたが、相談までは無理でした。
失礼ながら知識がないのです。
2番目の主治医は、そんなことを口に出そうものなら診療拒否にあいそうな人でした。
要するにみんな「専門バカ」でしかないのです。
医療ではなく、近代医学にしか興味はないのです。

今回のホメオパシー拒否の動きに、近代医学帝国主義を感じます。
民間医療が正しいというつもりはありませんが、近代医学だけが正しいわけでもありません。
もし自らに自信があって、しかもその限界を自覚できるのであれば、たとえ民間医療であろうと長年それなりに続いている医療の知恵に対して、もっと謙虚であるべきです。
全面否定ではなく、一緒になって、そこに秘められた知恵を活かすと共に、自らのあり方を謙虚に問いただすことが望まれます。
「民間医療」がこれほどに広がっているのは、今の近代西洋医学の限界と無縁ではないのです。
そして、治療を求める当事者(医療の主役は医師ではなく病人だと私は思っています)は必死に治療の道を探しています。
自分の世界だけで安住している医師とはまったく違うのです。
その人たちの視点で、少なくとも、ホメオパシーを含む民間医療のことを学び、一緒になってお互いを活かしあう医療を目指してほしいです。
自らを守るために、代替物を否定する、あるいは無視する傲慢さを捨ててほしいです。

ホリスティック医療や統合医療は、まだまだ一部のサブシステムでしかありませんが、本来はそれこそが医療の本流でなければなりません。
学術会議や医師会の不勉強さと傲慢さに怒りを感じます。

■建設国保の偽装加入事件の奥にあるもの(2010年8月28日)
建設国保の偽装加入事件はますます奥が深く、かなりの犯罪的行為が明らかになってきました。
長妻大臣も返還要求をするようですが、肝心の建設国保の責任者たちはテレビで見る限りまったく反省していないようです。
小沢さんの数億円の話ではなく、100億円近い税金が私物化されているのです。
建設国保協会には変換能力がないというので、自治体が補填することも検討されているようです。
しかし悪事を働いた人たちはかなり明らかにできるはずですので、彼らから一人数億円を返却してもらえば済む話です。
数億円は無理だと思ってはいけません。
彼らはそれ以上のお金を私物化してきているのですから、それくらいは大した事はありません。
もし返却できないなら子どもたちにも返済を継承してもらうべきです。
彼らは間違いなく、その恩恵を受けているからです。
それくらいの責任追及体制を作らねば、組織を利用した無駄遣いや悪用はなくならないでしょう。
ともかく組織を舞台した犯罪は、個人の責任はうやむやにしがちですが、それは避けなければいけません。

協会の職員が、そうした不正行為を上司に何回も指摘してきたようですが、聞いてもらえなかったとテレビで語っていました。
そして「こんなどうしようもない組織は解散させられても仕方がない」と話していました。
自らの職場がなくなることを否定していないのです。
組織トップとまったく人としての格が違います。
上司と言われる人たちに、この十分の一の責任感があれば、こんな犯罪的行為は起こらなかったでしょう。

しかも、この仕組みをそもそもつくったのは森元首相などの自民党の政治家です。
この種のものが山のようにあるのです。
それが自民党独裁政権の結果なのです。
今の自民党議員は、そうした負の遺産をどう思っているのでしょうか。
盗人猛々しく、民主党を批判するだけでいいのかと思います。
建設国保の偽装加入事件などは、盗賊国家の官僚たちの犯罪のほんの一部でしかないのです。

小沢一郎もそうした政治家であり、そうした仕組みづくりに加担してきたのではないかといわれそうです。
たしかにそうでしょう。
しかし、彼はそうした政治を壊そうとしてきたことも事実です。
なぜ彼がこれほど執拗に壊そうとしているのか、私にはとても興味があります。
おそらくお金まみれの政界のど真ん中にいて、その奥を覗いてしまったからではないかと思います。
その奥に何を見たのか。
私には少しわかるような気がします。
それを見ても危機を感じない政治家もいました。
小泉純一郎はその一人でしょう。
主体性のない彼は、いとも簡単に日本を売ってしまったのです。

だんだん私の妄想の話になってきてしまいました。
困ったものです。すみません。

それにしても、小沢首相が実現すると日本は壊れるなどと言う町の人がテレビにはよく出ます。
テレビのディレクターが出しているのでしょうが、日本は既に壊れていますから、いかに豪腕な小沢さんでももう壊すことはできないでしょう。
壊れた状況で起こる変化は、必ず創造に向かいます。

■ホメオパシー騒動(2010年8月28日)
昨日のホメオパシーの記事へのアクセスがどっと来ました。
このブログはせいぜい毎日300人前後のアクセスなのですが、時々、急増することがあるのです。
しかしまさかホメオパシーでこんなにアクセスが増えるとは思ってもいませんでした。
コメントもいくつかもらいましたが、それへの感想も書きました。

こういうブログをやっているとコメントを時々もらいますが、なかにはコメントだけを書いてその後、2度とアクセスしてこない人も少なくありません。
それに、実名でのコメントは少ないですし、アドレスさえ嘘のものも多いです。
私にはそうしたコメントはまったく無意味だと思いますので、原則としてそうしたコメントは掲載しませんが、まあ事情もあるでしょうから、掲載することもありますが、そうした人は先ず2度とアクセスはしてきません。
コメントした人の痕跡はある程度フォローできるようになっているのです。
匿名を使ってまでコメントしてくれる親切さには感謝しますが、言いっぱなしのやり方は残念です。

コメントやメールを読んでいて、私のメッセージがうまく表現されていないことも反省しました。
他の記事を読んでもらっている人は感じているかもしれませんが、私は「権威」や「権力」の暴力的行使に違和感をもっているのです。
個人としての立場で、物事を断定することには反論する気はありませんが、たとえば日本学術会議の組織の名を語って独断的意見を表明することに反発を感ずるのです。
ノーベル賞受賞が寄ってたかって、事業仕分けを批判したのも私には気に入りません。
批判があれば、個人の立場で言えばいいのです。
組織の中に隠れるのと匿名は、私には同じです。
そんな自信のない生き方はやめたほうがいいだろうにと同情します。

横道にそれましたが、私の違和感は、
「科学的な根拠は明確に否定」「荒唐無稽」
と言う表現です。
科学的な根拠というのも極めて曖昧なことですが、「明確に否定」という表現には驚きます。
これが現在の「学術」を代表する人の口からでてくるとは驚きです。
その根拠を、それこそ聞きたいですが、生命に関わる事象に関してこれほど明言できるのは神様しかいないでしょう。
恐ろしい話だと私は思います。

科学者が主張する科学的根拠で、私たちはどれほどの被害を受けてきたでしょう。
水俣病にしろ、公害にしろ、食品安全にしろ、それは枚挙に暇がありません。
今も私の周りで、その繰り返しが行われていないとはいえません。
科学者の主張する根拠はそう簡単に信じてはいけないというのが私の体験知です。

■現状を変える勇気(2010年8月30日)
民主党代表選の報道を見ていて思うのは学生の頃学んだ「変化への抵抗」ということです。
やはり多くの人は変化を望んでいないのだということです。

もう一つ感ずるのは、やはりみんな「組織起点発想」から抜けられないのだということです。
私のこの30年の活動のすべては、「組織起点から個人起点へ」というベクトルに基づいています。
主役が「組織」や「制度」から「人」に変わるべき時期にきたと考えています。

昨年、政権交代を果たした民主党政権とは何なのでしょうか。
それは鳩山政権でも菅政権でもないはずです。
長年の政権を独占していた自民党政権に変わる組織が政権を担うことになったのです。
民主党は現状とのしがらみは少なく、いまの制度や問題にも比較的自由だったはずです。
その自由な新しい政党をつかって、政権を担うことができるようになったということです。

しかし、その仕組みは残念ながら現状の中への組み込まれていなかったため、実際に何かをやろうとすれば、大きな抵抗に合うのは当然です。
とりわけ現状を変えようとすれば、大変です。
これまでの制度や組織を担っていた人たちは保身のために全力で抵抗するからです。
これまでの政権を輔佐していた上級官僚たちはすべて解雇すればいいだけの話ですが、政権交代を経験していない日本の社会には、その発想すらありません。
やったら国民は間違いなく非難します。
それを示唆しているのが、阿久根市や名古屋市の今の騒動です。
一番恩恵を受ける住民が一番の抵抗勢力になるのです。
此れは歴史の常です。
家畜のように飼いならされた「民」の、それが本性なのです。
そして、社会を壊した人たちは、そのまま残るわけです。
革命であれば即座に追放できますが、法治国家では彼らは見事に守られます.
法治国家とは権力者を守る仕組みなのです。

しかし、政権交代後の2人の首相は、残念ながらその新しい仕組み、つまり民主党という新しい組織や制度を活かすことができなかったか、もしくはやろうとしなかっただけの話です。
だとしたら、新しい仕組みを使い込むだけの思いと力量を持った人が民主党の代表になり首相になるべきです。
そういうことをやろうとする人は、世間からは嫌われるでしょうし、現状を変えたくない人たちやその寄生者たちからは追い落としの対象にされるでしょう。
それを察知した検察は、すでにその行動をすぐに起こしました。
言うまでもなく、それが小沢さんです。

民主党の代表を1年に3人も替えられないという人がいます。
優等生の意見です。
そして、そういう人は代表が変わっただけでは実態は変わらないとも言います。
その発想は「組織起点」です。
彼もしくは彼女は、代表が組織に従属していると考えているわけです。
しかし、組織は人が使い込むものです。
代表が変われば組織は一変する可能性はあります。

日本の現状は、私には壊れているように思います。
時間は無駄にできません。
だから、代表選などやっている暇はないというのではありません。
まったく反対で、時間がないからこそ代表選をしっかりとやらなければいけません。
順番を間違えてはいけません。
組織を使えない人にいくら時間を預けても何も変わりません。
そんな事は会社の経営を見ればすぐわかることです。

昨年の事業仕分けは私も期待しましたが、仕分けしたところで何も変えられなければ、それは現状の延命策になるだけなのです。
書き出せばきりがありません。
欲求不満が溜まっています。
困ったものです。

■「民意には従わなければいけない」という論理(2010年8月31日)
民主党代表選はますます混沌としてきました。

テレビを見ていて気になる言葉があります。
「民意に従うことが一番」という言葉です。
前にも書きましたが、「民意」とはなんなのか。
まさか新聞社が行う世論調査ではないだろうと思いますが、どうも多くの人はその意味で使っています。
「民意」といえば「正当化」されるのでしょうか。
20世紀のナチスを思い出します。
どこが違うというのでしょうか。

もっとも「国民の民意」とある地域の「住民の民意」とはかなり違います。
名護市の市長が「民意は辺野古への基地建設を納得していない」と話していますが、これは比較的わかりやすいです。
市長もまた住民であり、しかも選挙で選ばれているからです。

昨夜、守屋元防衛省事務次官が辺野古の建設予定地で、地元の要請を受けて、辺野古への移転を検討したとテレビで話していました。
その取材中に通りがかった住民が守屋さんに、住民は要請なんかしていない、みんな反対なのにそんな要請をするわけはないでしょう、と厳しく反論していました。
それに対して、守屋さんは「住民には知らされずに進めてきた」とテレビのインタビュアーに話していました。
住民に知らせもしないで、住民の要請、民意と言う言葉を使うことに身勝手さを感じます。
当事者が語る「民意」と部外者が語る「民意」とはまったく違うのです。

仮に「民意」が事実としても、それに「従う」だけでいいかは疑問です。
政治は民意に従うだけでいいわけではありません。
時に民意の限界を超えて、状況を変え、新しい方向を導くことも必要です。
もちろん「勝手に導く」のではありません。
表層的な民意ではなく、民意の根底にある方向性を踏まえて、ビジョンに基づき「民意」を育てていく役割もあるのです。
全体が見えていないものには、どうしても「変化への抵抗」感があります。
「民意」は、情報によって変わるとしたら、「民意」は絶対的なものではないのです。
つまりどの次元で「民意」を受け止めるかです。

小澤さんと菅さんとどちらが首相に相応しいか、などといった無意味な質問の答えは決して「民意」とは言わないでしょう。
騙されてはいけません。

民意は「もっと住みやすい社会にしてほしい」と言うことだろうと、私は思いますが、どうしたらそうなるのか、その実体的議論は誰もやらないのが不思議です。

■小沢一郎の話はとてもわかりやすいです(2010年9月3日)
民主党の小沢さんが最近よくテレビで話されています。
私にはとても判りやすく、しかも納得のいくことが多いのですが、どうしてこうも小沢さんには悪いイメージが付きまとっているのでしょうか。

政治とカネの問題についても、ずっと前に書きましたが、私自身は小沢さんは説明責任を果たしていると思っています。
まだ果たしていないという人がいたら、これ以上何を説明しろと言うのかと、私は訊きたいです。
皆さんは答えられますか。具体的に。
それに検察が不起訴にしたのに国会でも説明しろというのは三権分立の点からも私には違和感があります。
検察の権威は地に落ちているのはわかりますが、それにしても検察って何なのかと言う話です。
今朝の午前中のテレビ朝日でのやりとりは、かなりまともなやりとりだったように感じましたが、週刊朝日の編集長と鳥越さんは、政治とカネの話はもう終わっているという認識を明言されていました。
アレっと思いましたが、いまさら何をと言いたい気もしました。
みんな見事に日和ります。
ぶれないのは小沢さんだけです。

財源の話もよく出ますが、パラダイムが違う前提で質問しても答えは引き出せません。
馬鹿げた質問が多すぎます。
小沢さんはよくまあ我慢してバカを相手にしているなと思います。
リーダーとは割に合わない存在だとつくづく思います。

もっともその小沢さんも、普天間問題では少しぶれを感じます。
それは彼が核信仰も含めた軍事国家発想から抜けられないからでしょう。
この点にいては、広島市長の秋葉さんとは世界が違います。

政治に関する私の予測はほとんど当たったことはありませんので、今回もはずれるとすれば、小沢さんは敗北するでしょう。
アメリカはそれほどやさしくはないからです。
バカな私たちが寄ってたかって、味方を排除していく。
そんな図式の社会構造が堅固に出来上がっているからです。

ややこしい表現ですが、要するに私は小沢さんが勝つと思っているのです。
なぜならば、社会が壊れてしまってきているからです。
壊したのは小沢さんではありません。
小泉さんに象徴される、金の亡者たちです。
皮肉な話です。

ちなみに、政治とカネを議論するのであれば、対象は小泉純一郎です。
そこを見誤っては何も見えてこないような気がします。
たかが数億円でごまかされてはいけません。

■長寿者の行方(2010年9月4日)
今日は衝撃的な話を聞きました。
東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんからお聴きした話です。
茂さんはテレビでもよく紹介されているのでご存知の方も多いと思いますが、とても誠実な人です。
自殺防止活動というよりも、人命救助活動をされているというほうが正確です。

最近、長寿者の行方が問題になっています。
生死が確認できないまま年金などを遺族が受給してしまっている話も報じられています。
私には実に驚くべき話なのですが、今日、茂さんから聞いた話は、それ以上にショックでした。

最近、70歳を超える何人かの方を茂さんは保護されたそうですが、その中の一部の人は、自分が行方不明になれば子どもたちに年金が支給され続けるだろうという思いで、人知れぬ死を考えて東尋坊に来たのだそうです。
どこかおかしいです。
狂っているとしか言いようがありません。
貧困ビジネスが問題になってきていますが、問題はもっと深いのです。

先月、長野の姥捨て山の近くに行きました。
地元の人が、姥捨ては老人を邪魔者扱いするという話ではないのですと話してくれました。
ましてや長寿者が自ら口減らしのために自死する話でもないのでしょう。
きちんと調べていないので、間違っているかもしれませんが、小説「楢山節考」の姥捨てと暮らしの中の姥捨てとは違うのではないかと思います。
しかし、若い頃読んだ「楢山節考」は、私には強烈なメッセージでした。
以来、経済的な貧しさに強いマイナスイメージを持ち続けていました。
それを見直せたのは40代の後半になってからです。
もう少し早く気づいていれば、私の人生はもう少し変わっていたかもしれません。

姥捨てと長寿者の行方不明は別の話かもしれませんが、どこかでつながっているような気がします。
最近の70代の人たちは、まだ日本が経済的に貧しかったころに子どもたちのために一心不乱に働いてきた世代です。
若い頃読んだ「楢山節考」が、どこかで今の生き方に影響を与えているのかもしれないと思っても否定はできません。
だとしたら、ゾッとするような話です。

これまで長寿者の行方不明の報道に接すると、年金受給している子ども世代の生き方に悲しさと怒りを感じていましたが、もしかしたら長寿者の生き方が問題なのかもしれません。
今の社会は、やはりどこか狂っているとしか言いようがありません。
せめて自分だけでも、狂わないように生きていこうと思います。

■社会の保水力の低下(2010年9月5日)
先日、地元で駅前の花壇整備をしている花かご会の人たちと話す機会がありました。
今年は雨が少ないので例年以上に水やりが大変なようですが、こんな話を聴きました。
まあみんな知っていることかもしれませんが。

今年は苗が弱っていたためか育ちが悪く、そのため土が見える部分が多いため、草花が一面に広がるまでは花壇の保水力が低かったというのです。
当然の話なのですが、それを聴いてハッとしました。

草花が多いと水の消費は多いはずです。
しかし草花が少ないと土壌の保水力が低下し外部からの水の供給必要量は増加します。
これって、なんだか地域社会の元気度につながっているような気がします。
あるいは環境問題への示唆を含んでいるような気がします。
さらには、昨今の企業経営にも、また政治状況にも通じています。

少し極端に翻訳してみましょう。
強い草花だけが残ってしまった花畑の土壌の保水力は低下し、どんどん弱肉強食が進行し、最後はみんな枯れてしまい砂漠になる。

昔、ある雑誌に書いた原稿の一部です。

 日本古来の農業は土壌を作ることに目が向けられていた。しかし、工業的な農業は生産を高めるために農薬や化学薬品を多量に土壌に投入し、結果として土壌を殺している。土壌が死んでしまえば、もはや農業は成立しない。同様なことを企業は社会に対して行っていないだろうか。市場化を急ぐ余り、自らの存立基盤である社会を荒廃させていないだろうか。企業は「社会の子」である。社会を荒廃させながら企業が発展を続けられるわけがない。米国社会の荒廃は我々にとって教訓的である。(「企業の豊かさ・社会の豊かさ」)                  

社会の保水力。
いま私たちの周りから消えているのはこれからもしれません。

今夏は異常な暑さでした。
地球温暖化の影響だとみんな言います。
地球温暖化などまったく問題にしていない私としては、そんなはずはないと思っていました。
そしてその原因がやっとわかったのです。
この暑さの原因は、社会の保水力の低下なのです。
だから汗がどんどん出てしまい、ますます暑くなる。

まあいつもながらのわけのわからない論理ですが、私はとても納得できました。
さてそうしたら保水力を回復できるか。
いろんな人をどんどん増やして、社会を覆うのがいいのです。

■「お金換算」でしか考えられない厚生労働省の体質(2010年9月7日)
厚生労働省が、「自殺やうつ病による経済的な損失(2009年)が約2.7兆円」と発表したという報道に唖然としました。
その数字の計算根拠や集計の仕方(性格の違うものを足していますので無意味な数字だと思います)もめちゃくちゃだと思いますが、こうした発想で「自殺対策特別チーム」が動きとすれば、日本の自殺者は増えこそすれ、減ることはないでしょう。
日本の自殺問題の捉え方は私には大きな違和感がありますし、事実、話題になりながら一向に減る気配もありません。

私自身、昨年、自殺のない社会づくりネットワークの立ち上げに関わりました。
私の意識では「自殺のない社会づくり」のとりくみと「自殺防止対策」とは全く別のものです。
この点はなかなか理解してもらえませんが、簡単にいえば、対処療法か根本解決かの違いです。
もっともこれは、このネットワークの共通認識では必ずしもなく、私の個人的考えなのですが。

それにしてもなぜみんな「お金換算」でしか考えないのでしょうか。
そういう姿勢こそが、自殺などという問題を引き起こしているのです。
お金の問題からどうして自由になれないのか、それを考えなければいけません。

私はさまざまな分野のNPO活動にもささやかに関わっていますが、最近そこで嫌気を感じているのは、そこでもみんな「お金発想」から抜けられずにいる人が多いことです。
その結果、まさに「貧困ビジネス」的なことが起こりうるのです。
生活保護費をめぐって「囲い屋」的な貧困ビジネスへの規制は少しずつ強まっていますし、最近も大阪のNPO関係者が逮捕されていますが、福祉の世界の「お金まみれ」はとても気になります。
先日、生活保護をテーマにした話し合いの場も持ちましたが、みんなの関心もやはり「お金」ばかりで、私にはやりきれない感じがしました。

問題は「自殺」ではありません。
「自殺に追い込まれる社会のあり方」なのです。
つまり私たち一人ひとりの生き方です。
木を見て森を見ず、になってはいけません。

今回の厚生労働省の発表を知って、やはり厚生労働省は体質が変わっていないと思いました。
年金で集めたお金でお祭を続けてきた文化がまだ残っています。
まともな厚生労働省職員はいないのでしょうか。

■「お金はいくらあってもいい」(2010年9月7日)
お金の話をもう一つ書きます。
今日のクローズアップ現代は、日本の森林が海外資本に買われだしているというテーマでした。
私がずっと気になっていたことですが、それがすでに現実になっていると聞いて驚きました。
以前書きましたが、明治新政府は「総有」という発想を捨ててしまったのです。
そこに侍の発想の限界があったような気もします。

それはともかく、その番組に所有していた森林を外国資本に売った人が、
「相場よりかなり高い買値を言われた、お金はいくらあってもいいし」
と話していました。
その発言がとても気になりました。

「お金はいくらあってもいい」
食べ物は自分が食べられるだけあればいいですし、それ以上あっても腐らせてしまいます。
土地も自分が使える広ささえあればいいですし、その広さはトルストイがおしえてくれたように「いくらあってもいい」ことはありません。
しかし、お金だけはありすぎても無駄にはなりません。
いくらでも使えるからです。

しかし、それでも、「お金はいくらあってもいい」でしょうか。
私はそうは思っていません。
まあお金をたくさん持ったこともないので、そう思うのかもしれませんが、お金持ちで幸せそうな人を思い出せません。

最近読んでいるパウロ・フレイレはこう書いています。

「被抑圧者のみが、自分を自由にすることによって、抑圧者をも自由にすることができる」

抑圧者の特質はお金をたくさん持っていると言い換えてもいいでしょう。
フレイレによればこうです。
「所有への渇望は抑えがたいもので、その衝動に突き動かされているあいだに、彼のなかには、カネさえ出せばなんでも買えるという確信が昂じてくる。抑圧者の思想は徹底的に物質主義的なものになっていく。カネこそがあらゆるものの尺度であり、儲けこそが彼のすべてに優先する目的になる」
「かくして人間としての存在証明は、結局は「物」の所有に還元されていく。」

どうですか、フレイレを読んでみたくなりませんか。
フレイレ関係の3冊のお薦め図書は次の通りです。
「被抑圧者の教育学」
「パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を読む」
「希望の教育学」

ちなみに、私がフレイレの何に感激したかといえば、彼は「教育とは革命だ」と考えているところです。
これは今の日本の教育の正反対の発想です。

■鈴木宗男裁判判決の政治性(2010年9月8日)
北海道開発局の工事や林野庁の行政処分をめぐる汚職事件で裁判になっていた鈴木宗男衆院議員の上告を最高裁は棄却しました。
なぜこの時期にと、とても政治的な印象を受けました。
そう感じたのは私だけではなかったようで、鈴木さんの記者会見の席では、民主党代表選との関係や村木さんの冤罪疑惑裁判との関係などの質問もありました。

テレビの報道番組で、元特捜検事だった人が、裁判はそうした政治的なことには影響されないと断言していましたが、そもそも裁判は政治的なものなのです。
そんな自覚さえない人に正義面してほしくないものです。
その人は、鈴木被告は社会の信頼を貶めたのだから棄却は当然だといっていましたが、冤罪の発覚つづきで司法の信頼を落としているあなたたちの責任はどうなのかと問いたいものです。

特捜を代表とする検察は、まさに権力の執行者であり、政治行為そのものですし、裁判も政治の強制力を発揮する場です。
裁判で大事なのは「正義」ですが、その「正義」は国家権力にとっての正義であり、生活者のための正義ではありません。
検察は軍隊と同じく、コラテラルダメッジは切って捨てるためにあります。
それが悪いわけではありません。
それがそもそもの制度の思想だからです。
判決に政治性がないなどと言うことはまったくないのです。

大切なことはその自覚を持つことです。
司法の中立などというのはありえない話なのです。
その中立性や正義性のイメージのもとで何が行われているか。
行われているのは、まさに「政治」です。
当事者はそんなことはわかっているはずですが、だからこそあまり直接的にではなく、慎重に行ってきたように思います。
しかし、最近は歯止めがなくなったように、あまりにもあからさまに行なわれているような気がします。
まさに治安維持法時代の前夜のようです。

鈴木さんの弁護士は、これは冤罪だというような発言をしていました。
冤罪かどうか私にはわかりませんが、それよりもこの事件を政治的に活用している人がいるのではないかと言う疑惑を拭いきれません。
考えすぎでしょうか。

■司法関係者は本来的に腐敗します(2010年9月8日)
権力の座にある者は必ず腐敗すると言われます。
もしそれが正しければ、司法界の裁判官や検察官、あるいはそれにつながっている警察は腐敗の対象にはならないのでしょうか。
今回の鈴木宗男さんの記者会見を聞きながら、そんなことを考えました。
いささか過激ですが、書いておきます。

裁判とは正義を守るための装置ですが、それは同時に、正当化された「暴力装置」です。
戦争に見るように、正義と暴力は切り離せないのですが、それをつなげて考える人は少ないのが不思議です。
いうまでもなく、裁判は合法的に人の自由や、時には生命まで奪うことができます。
それは、今の時代においては、飛びぬけて強大な「権力」です。
その権力の上に長年生きていればどうなるでしょうか。
その権力を行使することの大変さや心労は並大抵ではないでしょう。
好き好んで暴力を振るっているわけでもありません。
私にはとても背負いきれないほどの重荷を背負っているはずです。
しかし、それはそれとして、人の生死を決める権力を持つ裁判官や検察官が腐敗していないはずがないのです。
それは、個人の資質や責任の問題ではありません。
「権力は腐敗する」という命題の冷徹な結果でしかありません。

いくつかの冤罪事件や村木さんの裁判で示されたように、権力の正義は暴力的です。
自らは裁きの対象にはならないように守られているとしても、その暴力は必ず自分に跳ね返ってきます。
それへの防衛機制として、裁判官や検察官は、自らの正義感を過剰に確信せざるを得なくなります。
暴力とは一方的な行為ではなく、双方向的な関係概念なのです。

司法も、権力である以上、腐敗するのです。
しかしなぜか多くの人はそれに気づきません。
司法は正義だと洗脳されているからです。
しかし、そろそろ司法のあり方を考え直す時期に来ています。
それは、裁判員制度を導入すれば解決する話ではありません。
基本的な制度設計の理念を考え直す必要があるように思います。

サンデル教授は、これからの正義の話をしようと呼びかけていますが、その問いの意味は実に含蓄があります。

■識字教育(2010年9月9日)
このブログの挽歌編を読んでいる人から、時々、まだ涙から縁を切れないのかというようなことを言われることがあります。
もちろん悪意ではなく、好意的な思いでの発言ではあるのですが。

挽歌ではなく、涙が出ることもあります。
なぜ涙が出るのかはわかりませんが、メールを読んで涙が出ることがあるのです。
昨日も、そういうメールが届きました。
私が敬愛する人からです。

なぜ涙が出たのか。
「自殺と鬱の経済的な波及を試算する」という、唖然とするような事態の中で、ある地域での労働争議のときのことを思い出します。
その部落には、体育施設の製造工場がありました。
部落の父ちゃん達は、この工場に何人も務めていたのです。

労働組合が結成されてから、様々な問題が露呈してきました。
会社は、「ミスの多発」を突いてきました。「こんなに損している…」と。
なぜミスが多発するのかを調べてみて、思いがけない(当時の私には)ことが分かりました。
部落の父ちゃん達は、文字が読めないために、「経験と勘(?)で」仕事をしていたのです。

父ちゃん達とは、「ミスは、損得ではなく、体育施設や遊具を使う子ども達の安全の問題」だと、話し合いは続きました。
そして、「ミスをなくそう!」と、父ちゃん達は、改めて決意するのです。

彼らは、平仮名の勉強からスタートしました。
なにしろ、がみがみ言うだけで酔っ払っている父ちゃん達が突然「勉強」を始めたのです。
一番びっくりしたのは、子どもたちでした。
…。
こうして、「親子識字」が点々と開かれるようになったのです。

金に捉われている今は、その捉われている自分達を捉えかえすことなしに、
変わっていくことはないように思います。
NPOもしかりです。
行政は、「お金がご入用でしょう…」とすり寄ってくるのですから。

私がブログで書いたフレイレの「希望の教育学」に関して、メールをくださった方からのメールの一部です。
「希望の教育」は、南米の話やフレイレを持ち出すことまでもなく、この国でも行われていることなのです。
そして、この方のやさしさの源がわかった気がします。
その人は、こうした体験の延長に、いまもしっかりと地に足つけて生きています。
それが涙の理由でしょうか。
もっとしっかりと生きねばなりません。
フレイレを読むだけでは何の意味もない。

人が生きていくことと涙はつながっています。
涙のない人生にはしたくありません。

■特捜部の責任が問われるべきではないか(2010年9月10日)
村木元厚労省局長の大阪地裁の判決は無罪でした。
特捜部の出した調書がすべて否定された結果です。
あらかじめ筋書きを立てて、それに合わせた調書を、脅迫めいたやり方もとりながら仕上げていく方法はそろそろ見直されるべきです。
今回はあまりにもひどい進め方だったので、検察側自体も無罪を予想していたようですが(それもひどい話です。その意味をよく考えてください。権力による犯罪を白状しているのですから)、小沢さんや鳩山さんの秘書事件も、さらには鈴木宗男事件も、そうだったのではないかと疑いたくなるほどです。
事実、私は疑っていますが。
同じ文化の中で遂行されたことですから。
同じ組織のメンバーはみんな同じ枠組みで動くものだと考えるのが私の発想法なのです。
それになじめなければ組織を離脱すべきですから。

今回はまだ第一審が出た段階ですが、もし検察が控訴しなかったとしたら、特捜部のトップは責任をとるべきではないかと思います。
検察にもしわずかでも良識があるのであれば、当然のことです。

私は常々、冤罪判決を出した裁判官は、裁かれるべきだと思っています。
仮に死刑判決を出した人は、死刑を含めて、罪を受けるべきだと思います。
それくらいの責任感がなければ、人を裁くことなどできないはずです。
ちなみに私は死刑反対ですので、死刑判決は出すべきではないとは思っていますが。

特捜部は、その始まりからして、権力とつながっています。
権力に対峙するには、より大きな権力が必要だったからだと思いますが、時代は変わっているのです。
そろそろ制度そのものを見直すべき時期に来ているように思います。
アメリカの金持ちたちに迎合した人たちが、いまなお特捜部を動かしているとは思いたくありませんが、そんな感じをどうしても拭いきれません。

同じ日に、日本振興銀行が破綻したのも偶然とはいえ、象徴的です。
この事件には特捜部は動いているのでしょうか。
動いているとしたら、少しはホッとします。

厚労省の文化の現実を木村さんが気づいてくれるといいのですが。
問題は司法界だけではなく、行政の世界にもつながっているのです。
村木さん自身が、これから何をやるかには大きな関心があります。
厚労省の犯罪性にもぜひ取り組んで欲しいと思います。
根は同じなのですから。

村木さんの記者会見を見ていましたが、ちょっともの足りませんでした。

■村木事件から見えてくるもの(2010年9月11日)
村木事件の無罪判決からさまざまなものが見えてきます。
昨日は思いつきで、いろいろと書いてしまいましたが、その報道を見ていると実にさまざまなことが見えてきます。

記者会見で、村木さんは「検察を信頼したい」と述べています。
つまり「信頼していない」ということです。
いまなお控訴を考えている大阪地検は、村木さんを信頼していないことは言うまでもありません。
彼らは同じ仲間の官僚だからこそ、相手を信頼しないことができるのです。

ひるがえって、私たち国民はどうでしょうか。
最近の政治の状況を見る限り、多くの国民は官僚や検察を信頼しています。
いまなお官僚の力を活かさなければ国政はうまく回らないという人もいます。
暴力団を活かさなければデモは鎮圧できないと考えた1960年代の官僚たちと同じ発想をいまもって多くの識者は持ち続けています。
暴力団と国家権力が仲間であるように、彼ら有識者と官僚は仲間なのです。
その構図を変えない限り、状況は変わりません。
しかし、私たち国民は、信頼するしかないのです。
村木さんや小沢さんのように、特捜のターゲットになったら立ち向かうことなどできないからです。
手段は「抗議のための自死」しかないかもしれません。
これまでそうした人は少なくありません。
しかし検察は責任を問われないのです。
恐ろしい構図です。

仲間といえば、今回の事件でかなり明確になったのは、裁判官と検察官の癒着です。
それに関しては、元大阪地検特捜部の検事だった若狭弁護士もテレビで、それをにおわす発言をしていました。
もっとも彼は、検察は証人が発言していないことを調書にすることを明確に明言していましたが、それは自らの犯罪行為を公言していることになります。
しかし彼にはそんな意識は皆無でしょう。
つまり彼自身、その癒着構造の中で検察の仕事をしてきたわけです。
そこにこそ日本の司法制度の恐ろしさがあるのです。
しかし支配のために創設された司法制度であれば、それは仕方がありません。

言葉だけの司法改革はそろそろやめて、司法の透明性を高める仕組みを早急につくるべきです。
民主党のマニフェストだった「裁判過程の可視化」はどうなったのか。
死刑執行室を公開するような、無意味なことはやめて、もっと誠実に裁判過程の可視化に取り組んで欲しいです。
そして時代遅れの特捜検察は廃止すべきだろうと思います。

■民主党代表選と2つの判決(2010年9月12日)
民主党代表選での報道や立候補した2人の議論から、いろいろなことが見えてきました。
見えてきただけでなく、気づいたこともあります。
一番大きな気づきは、私自身の見識のなさと世界の狭さです。
どうも私はものごとをネガティブに捉えすぎているかもしれないという反省です。

それはともかく、相変わらず世論は管さん支持のようです。
それが「民意」で、それと正反対の小沢立候補は民主主義に反するという人も少なくありません。
「民意に従うのが政府」という人もいます。
これは私には大きな違和感があります。
ヒトラーも昭和の政府も「民意」にしたがったのです。
大切なのは「民意」とは何かです。

まあ、それもともかく、テレビなどで政治記者や政界に詳しいだろうと思われる人の話をよく聞いていると、政策面や実行力の点では小沢支持派が少なくないように感じます。
ここは「小沢首相」にしたほうが状況を打破できるのではないかというニュアンスが伝わってきます。
しかし、「政治とカネ」の点で、みんなノーというのです。
もっとも「小沢さんの政治とカネの問題ももう解決している」と明言した人も、私は少なくとも2人、テレビで見ました。
勇気ある発言です。
でもまあ、私のように暇にあかせてテレビを見続けている人は少ないでしょう。
この2週間、私は録画までして民主党代表選での小沢さんや菅さんの出演番組を見ていました。
私の評価では間違いなく、真面目に考えているのは小沢さんのような気がします。
菅さんは、言葉が飛んでいて内容が感じられませんでした。
どんな市民運動をしてきていたのでしょうか。

まそれもともかく、この時期に、それとはまったく無縁とは思われない2つの裁判の判決が出ました。
鈴木宗男事件と村木厚子事件です。
前者は、そのつながりは明らかですが、後者も民主党の石井一議員をターゲットとした事件ですから、まさに小沢落としにつながっている裁判です。
皮肉なことに一つは有罪、一つは無罪です。

正反対の判決が、日を置かずに出たのは偶然でしょうか。
次のような指摘もあります。
古川利明さんというフリージャーナリストの方は、自分のブログで、村木事件の無罪判決で世論を燃えさせないために、その直前に鈴木事件の上告棄却を発表させたというのです。
そんなバカなという気もしますが、そうであればとても納得できる気もします。
古川さんは毎日新聞の記者だった人のようですが、そのブログは刺激的です。

それにしても、この2週間の民主党代表選騒ぎはいろいろと政治やマスコミや世論の実態を見せてくれました。
明後日の代表選の結果で、日本の先行きがかなり影響されるような、とても大事な選挙だと思いますが、投票権のないのが残念です。
民主党員にはなりたいという気持ちにはなれませんでしたが、そろそろやはり自分が支持する政党に参加するべきではないかと思い出した次第です。
政党嫌いなどと言っている段階は過ぎてしまったようです。

■貧しくても豊かな時代(2010年9月13日)
谷啓さんが亡くなりました。
そのせいか、今日はラジオでクレージーキャッツの懐かしい曲がよく流れていました。
そこには大学8年生とか万年平社員とか、安月給とか、そんな言葉がたくさん出てきました。
それを聴いていて、今とはまったく違った「貧しくても豊かな時代」だったなあと思いました。
安月給でも、万年平社員でも、何とか楽しくやっていけた社会だったように思います。

どこが今と違うのでしょうか。
当時はまだまださまざまな「無駄」が存在していました。
さまざまな生き方も受け入れられていました。
会社にもさまざまな役割が存在していました。
よく言われたように、昼間の仕事はできなくても、夜の宴会や休日の社員行事では活躍する人も、みんなに愛されていました。
しかし、今やそんな役割は会社からはなくなったようです。

当時も格差はあったかもしれません。
しかし今のように切り離されてはおらず、固定もしていませんでした。
そしてなによりも、「貧しくても」生きていけました。
わが家は貧乏でしたが、働き者の両親のおかげで、苦労もせずに生きていました。
お金よりも大事なものがあることも、その暮らしの中から学んできました。

社会はどこからこんな風になってしまったのか。
「貧しくても豊かな時代」は、ノスタルジアでしかないと言われそうですが、決してそうではありません。
成長こそが社会を豊かにする、などという信仰を捨てさえすれば、おそらく「もうひとつの豊かな社会」が見えてくるはずです。
それに、今の日本にもまだ各地にたくさんの「貧しくても豊かな社会」が残っているように思います。

貧しくては豊かにはなれないなどという言葉にだまされてはいけません。
それは、他者の貧しさの犠牲の上に、お金儲けしたいと考える金銭亡者たちの宣伝文句でしかありません。
そして彼らもまた決して「豊か」ではないのです。
だからこそ、ますますお金を集めたがっているのです。

「貧しさ」と「豊かさ」の対語ではないのです。

■名護市市議会議員選挙と民主党代表選(2010年9月13日)
名護市の市議会議員選挙は、辺野古への基地移設に反対する稲嶺進市長派が過半数を占める結果になりました。
これで、現政府が目指している辺野古移設はさらに困難になったといえるでしょう。
民主党代表選で世間は盛り上がっていますが、この選挙結果は、代表選の行方に利用されている、無責任な「民意」とはまったく次元が違う「民意」です。
不断は政治に興味も示さず、国会の議論さえ見たこともない人たちが、人気投票さながら、小沢か菅か、などと無責任な投票をしているのとは違うのです。

地域主権とは、そうした「民意」から始まります。
地方分権とはパラダイムがまったく違います。

テレビ報道を見ている限り、報道されているのとは反対に、私は小沢さんがもしかしたら代表になるのではないかと思い出していますが、もし小沢さんが首相になったら、基地問題はどうなるでしょうか。
脱沖縄で進みだすのでしょうか。
もし菅さんが代表になったら、この名護市の住民の民意はどうなるのでしょうか。
この選挙結果が、代表選との関係であまり語られていないのが不思議です。
この結果こそ、私には大きな民意に感じるのですが、
時代の変わり目には、論理の飛躍が不可欠です。
鳩山前首相の「友愛理念」は、まさにイノベーティブの理念でした。
しかし残念ながら変革を起こし損ねました。
小沢さんの発想はイノベーティブではなく、むしろ徹底的に在来型です。
しかしもしかしたら、レジームを壊すことができるかもしれません。

小沢さんが代表になり、この閉塞状況を打破してくれることを期待します。
明日はどんな用事が入ろうともキャンセルし、2時には帰宅し、テレビの前で代表選の経過をしっかりと見るつもりです。
もしよほどの用事がなければ、みなさんもぜひテレビできちんと見て欲しいです。
夜のニュースでの部分放映は、いつも編集意図が入っています。
その情報操作に乗ってしまうことは避けたいものです。

■民意に迎合せずに、民意を育てるべし(2010年9月14日)
民主党代表選は管さんの大勝利でした。
2時間、テレビを見続けてしまいました。
私の予想はまたまた見事にはずれました。
こうはずれ続けるのはやはり私の視野に欠陥があるのかもしれません。
強い偏見があると現実が見えてこなくなるのでしょう。
困ったものです。

その偏見に基づく感想をしつこく書きます。
国会議員は党員・サポーターや地元の人たちの意見に影響されたのでしょうか。
そうだとすると、やはり本末転倒だと思います。
2週間もあったのに、なぜ自らの信念を地元に影響させられなかったのか。
そう思いました。
民意を聴くというのは、代表は誰がいいかということではないはずです。
いま何が必要かを聴き、それを実現するためには誰が言いかを考えるのは自分で判断しなければいけません。
いまの閉塞状況を打破するのは誰なのか。

それにしても代表選でのおふたりの呼びかけは、いずれも退屈でした。
昨日はみんな聴くべきだと書きましたが、それも撤回です。
「不毛の政治の時代」の到来を危惧します。

■橋下大阪知事処分にみる「弁護士の品位」(2010年9月17日)
光市母子殺害事件の被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で呼びかけたことが問題になっていた橋下大阪府知事に、大阪弁護士会は「弁護士の品位を害する行為」として、2か月の業務停止処分とする方針を決めたそうです。
当時、橋下さんはまだ知事にはなっていませんでしたが、テレビでの呼びかけ方には私自身も違和感がありました。
しかし、私自身はその趣旨には共感していました。

この発言に対して、市民たち(その実態はわかりませんが)から、「刑事弁護の正当性をおとしめる行為だ」として大阪弁護士会に橋下弁護士懲戒処分の請求があったようです。
今朝の朝日新聞によれば、同弁護士会綱紀委員会が「(発言は)弁護団への批判的風潮を助長した」と判断して、この処分が決定されたようです。

この時期に、こうした処分が発表されたことへの不気味さも感じますが(司法界は権力の動きに敏感ですから)、それは偏見だとしても、「弁護団への批判的風潮を助長」という理由には異論があります。
批判は封じてはいけません。
批判の元を正すか、批判への内容的な批判をすべきです。
橋下さんの呼びかけ方の未熟さと目線の高さを別として、もともとはそうした発言を引き起こした大元に対して、弁護士会は何もアクションをとりませんでした。
これに関しては、このブログでも何回か書きましたし、私の友人知人の弁護士にも私は意見を聞きましたが、ほとんどの弁護士は誠実には考えていませんでした。
私の弁護士不信がますます高まった契機の一つでもあります。

弁護士会は、自らが正しいという前提で保身ばかりしています。
保身する人にはおそらく不正義があります。
不正義がなければ保身は不要ですから。
処分に関わった大阪弁護士会の弁護士たちも、批判に耐えられない傷をそれぞれ持っていると思いたくなります。
批判の動きを止めたいと思っているとしたら、それこそが不正義なのです。
批判には正々堂々と立ち向かわなければいけません。
それが、人を裁く権利を与えられた人たちに課せられた責務です。
しかし、人を裁いているうちに、目線が高くなるのでしょう。
テレビで発言した時の橋下さんもそうでした。
かくして司法界には、まともな感覚を持続できる人はほとんどいなくなるのかもしれません。
人を裁く権限は、人をダメにする力をもっているはずです。
だからこそ、司法界は自らを透明にしなければならず、むしろ批判を助長する仕組みを構築すべきなのです。

司法は正義であると教え込まれた国民が、意識を変えなければ、司法改革は進みません。

■新成長戦略・新しい公共の欺瞞性(2010年9月18日)
菅内閣がスタートしました。
私自身は、底に日本の不幸を感じますし、まあ1年も持つまいと思いますが、政治に関する私の見通しはいつもはずれますので、小泉内閣のように永続きするかもしれません。
小泉内閣と同じく、アメリカと財界と官僚にやさしく、しかも国民の身にあった政権のようですので。

しかし、どうしても違和感を拭えないことがいくつかあります。
その一つが、「新成長戦略」です。
これは、「新しい『成長戦略』」なのか、「新しい『成長』戦略」なのか、どちらなのでしょうか。
どう違うのかいうと、前者はこれまでとは違った『成長戦略』、つまり戦術を変えるということですが、後者は『成長』という概念を一新することです。
と言っても、20世紀末に苦肉の策として打ち出された「持続可能な成長」のように、概念内容のパラダイム転換は行わずに、言葉だけでのマジックショーのような事例もありますので、注意しなければいけません。

これまでのところ、私には「新成長戦略」の内容が理解できませんので、何ともいえませんが、どうもまやかしのように考えます。
それにブログやホームページで時々指摘しているように、たとえば、福祉や環境の分野が成長分野だという発想は、これまでの産業パラダイムの延長でしかありません。
どこが新しいのかと問いたいところです。

私は民主党が盛んに使う「新しい公共」もまやかしだと思えてなりません。
ともかく安直に「新しい」などと言う形容詞をつけるのはごまかし以外の何ものでもありません。
新しい酒は新しい皮袋に入れなければ、古い酒になってしまうのです。
言葉は実体と深くつながっています。
「新しい」という言葉ですますのは、まさにこれまでの消費経済の発想です。
装いを変えて同じ中身の商品を高く売る、そろそろそうした安直な発想から抜け出て、本来的な意味でのイノベーションを進めなければいけません。

私は基本的に「成長」ということ自体を問いただす時期に来ていると思っていますが、雇用第一、だから経済成長が必要だという発想には、なんの新しさも感じません。
問題の設定が違うように思えてなりません。
雇用されなくても、いくらでも生きていける道はあります。
新しい公共などといわなくても、共に支え合う生き方はいくらでもできるのです。

■「民のための決める」のか「民が決める」か(2010年9月20日)
前原さんが国土交通省から外務省へと所管を変えたことで、八ツ場ダムの地元の人たちは不安を高めているようです。
最初は対立的だった住民と前原さんの間には少しずつ信頼関係が生まれてきたのに、という記事が朝日新聞に出ていました。
テレビでは長妻大臣がこれまでやってきた厚生労働省の改革の行方に関する不安が議論されていました。
長妻さんは、基本はできたのでもう大丈夫だと言いながらも、大臣が短期間で変わるので結局は官僚を統治しにくいという主旨の発言もしていました。

やはり短期間で変わっていく政治家とずっとそこにいる官僚とを比べたら、どちらが決定権を持つかは明らかなのかもしれません。
もしそうであれば、仕組みに間違いがあるのです。
長妻さんがどんなにがんばっても、やはり最後に勝つのは、そこに土着している人たちでしょう。

変化の時代において、果たして民主主義がいいことなのかどうか。
そもそも、民主主義とは何なのか。
「民」が「主」になるとして、それはどういうことなのか。

たとえば、「民のための決める」ということと「民が決める」とは同じではありません。
よくいわれる「人民による、人民のための、人民の政治」とは、一体何なのか。
わかっているようで、いろいろと考えていくと難しいです。

いま「民主政の不満」という本が話題になっていますが、「民主政治」をどう考えるかは、どうもそう簡単ではなさそうです。

■村木郵便不正事件での主任検事による証拠改ざん疑惑(2010年9月21日)
最近、検察の犯罪が次々と明るみに出てきました。
私にとってはいかにも遅い話ですが、正義の検察という国民の洗脳が解かれることは喜ぶべきことです。
権威に弱い日本人には、なかなか認め難いことでしょうが、それが体制的秩序の本質です。

村木さんの郵便不正事件で、主任検事による証拠改ざん疑惑が浮かび上がってきました。
さしもの検察も隠し切れなかったのでしょうか。
検察当事者が本気で取り組めばもっと早い段階でわかったはずですが、これまで懸命に隠してきたといってもいいでしょう。
その何よりの証拠は、最高検の伊藤鉄男次長検事の緊急記者会見での発言です。
「報道を素直に見れば、何らかの犯罪になる疑いが濃い。もはや捜査せざるを得ない」と述べたそうです。

この言葉をみなさんはどう受け止めますか。
「もはや捜査せざるを得ない」
ばかな!
この言葉に彼らが同じ仲間であることが明確に露呈されています。
伊藤次長検事も、こうした方法で人を裁いてきたのではないかと私は思います。
組織の文化は、決して単独の逸脱行為を育てません。
一匹のゴキブリをみたら、そのうしろにたくさんのゴキブリがいるように、検察の世界の文化は証拠隠滅、偽造、自白強要で埋め尽くされているのです。
この事件は、それを明白に示しています。

伊藤次長検事も含めて、検察当局のトップ層は全員辞職するくらいの、「恐ろしい事件」なのです。
こうした事件はいままでも繰り返しありました。
しかしいつも現行犯しか咎められませんでした。
しかし今回はそうしてほしくありません。

同時に、小沢さんの事件も、そういう目で見直したいと思います。
小沢さんがまったく正しいとは思ってはいませんが、権力操作の一環として動いた可能性は否定できません。
それが日本の政権を大きく変えてしまったのです。
しかしほとんどの国民は、そうしたことのつながりへの想像力をもっていません。
ましてや、その権力が自らを襲うなどとは考えてもいないでしょう。
村木さんも、自分が対象にされて初めて気づいたわけです。

しかも、その村木さんは、一方では厚生労働省の文化の中で、別の権力操作に埋もれてもいたのです。
それが官僚支配体制の本質です。
官僚に立ち向かうドンキホーテなど、出てくるはずはないのです。

しかし、今回の大阪地検の行動の恐ろしさを理解する人はどのくらいいるでしょうか。
この恐ろしさに比べたら、小沢さんのやっていることなど、豪腕でもなんでもないでしょう。
無邪気なものです。

■村木事件に関する検事の証拠隠滅に関わる発言への感想(2010年9月21日)
村木事件に関する検事の証拠隠滅に関する私見は前項で書きましたが、テレビの報道が思った以上にきちんと取り上げているのでホッとしました。
それはともかく、やはり気になる発言が少なくありません。

元検事の方は口をそろえて「信じられない」と大仰に驚いていますが、これに類した証拠捏造などはこれまでも何回も問題になっています。
この事件は、その延長にある事件でしかありません。
そう考えると、その驚き方にはむしろこちらが驚くほどです。
野球賭博がマスコミで話題になりだした時の相撲界の反応と同じです。
演技としか思えません。
堀田力さんは、この背景が問題だと指摘されていましたが、その背景をつくったのは堀田さんたちだろうと私は冷たく考えています。
組織の文化は、そう簡単にはつくれません。
30年はかかります。

全く別の意味で気になる発言もあります。
村木さんは記者会見で、ここまでやるとは恐ろしいと嘆いていました。
しかし村木さんの所属している組織である厚生労働省の職員も、年金などで同じような証拠隠滅や偽造をしていたのをご存じないのでしょうか。
その反省が、一言くらいあるかと思っていましたが、ありません。
この人も所詮はことの本質をみることができないのでしょう。
官僚たちの貧しさを痛感します。
誠実な官僚もいるのでしょうが、そうであればこそ、ますます残念な気がします。

■無理を通せば道理引っ込む・検察の瓦解(2010年9月25日)
このブログでも司法界への批判をよく書いていますが、昨日の那覇地検がだした中国人船長の処分保留のままの釈放には驚きました。
日本の検察はどうなっているのか、かなり辛らつに見ていた私にとっても、思ってもいなかった対応です。
しかし、これは単に司法の話ではなく、国家のあり方の問題だろうと思います。

私自身は、国民主権という虚構に基づく近代国家の役割は終わりつつあると思っていますから、尖閣諸島が日本のものでも中国のものでもあまり関心はないのですが、歴史的に構築されてきた秩序を力に任せて強引に変えてしまうことには大きな危惧を感じます。
問題は尖閣諸島の問題ではないからです。
中国は北朝鮮と同じ体質の国家であり、無理を通して道理を引っ込ますことは得意です。
それに対して毅然と対峙した前原外相の言動に好感をもっていただけに、突然の釈放には心穏やかではありません。
日本の検察の傲慢ぶりという点では、村木事件や小沢事件と同じ話なのでしょう。
その体質は、中国政府とまったく同じです。

日本の司法制度は、おそらく壊れてしまっているのでしょう。
時代の変化に対応できなかった結果だと思いますが、最近のさまざまな事件に関してテレビでコメントしている元検事の話を聴いていると唖然とすることが多いです。
こういう人たちが日本の検察行政をだめにしてきたのでしょう。
制度によく飼いならされたものだと思います。

それにしても、「元○○」という肩書きが通る社会とは一体何なのでしょうか。
私は「元○○」という肩書きを自分で掲げる人は一切信じません。
そういう人からまともな意見を聴いたことがないからです。

今日は寒い日になりましたが、それ以上に心が冷えます。

■努力した者にしか運はまわってこない(2010年9月26日)
白鵬が全勝優勝し、62勝に到達しました。
優勝力士インタビューで、どうして勝ち続けられるのかという理由を訊かれて、白鵬は「運だ」と答えました。
そして、「努力した者にしか運はまわってこない」と続けました。

努力と運。
努力しても運がまわってこない人もいますが、努力しなければ運は最初からまわってこない。
そう思います。

世の中には、努力しなくても運に恵まれたように見える人がいます。
巨額の財産を相続したり、親の七光りの恩恵を受けたり、偶然に買った宝くじで6億円を手にしたり、いろいろとあるでしょう。
しかし、果たして、努力なくしてまわってきた「運」は幸運になるものかどうか。
残念ながら私は体験していないので、わかりませんが、どうもならないのではないかと思います。
これは今日、白鵬の話を聴いて気づいたことです。

つまり、運とは努力の結果のことなのだということです。
そして、努力すれば、必ず運はまわってくる。
人の運は努力の度合いで決まってくる。
そういう気がしてきました。

若者であろうと、努力してきた人の言葉には教えられます。
白鵬に限らず、最近、若者から教えられることが少なくありません。
そういう若者が開いていく未来には希望があります。

■国家の壊れ(2010年9月28日)
最近のさまざまな事件をみていると、社会が壊れだしていると同時に、国家が壊れだしていることを感じます。
経済的にはすでに国境は消えだしていましたが、それが政治や文化の面との不整合を起こし、混乱が発生してきています。
政治も経済も、文化も生活も、絡み合っていますから、それは当然の結果ともいえます。

昨今の検察の動きは、権力を付与された暴力機構である検察が暴走していることを明確に示しています。
検察の暴走が、あるいは「やりすぎ」が、人を殺したことも少なくないはずです。
今朝の朝日新聞にも福島県の佐藤元知事の事件に関連して、自殺者が出ていることを報道しています。
検察は、もし制度的な保証がなければ、彼ら自身、殺人罪として訴えられるようなことをしてきているのです。
なぜ彼らだけ罰を免れるのか、私には納得できません。

私が、司法に関心を持ち、検事になりたいと思ったのは、中学の頃見た「八海事件」の映画です。
その後、高校の時にテレビの「検事」の連続ドラマを見て、法学部に入ったのです。
その頃は、検察は自浄作用が働き、まさに「正義」を目指す存在に見えていました。
しかし、権力は腐敗するといわれるように、今から考えれば何も変わっていなかったのかもしれません。
所詮は、暴力組織なのですから。

そうした、法的に正当化された暴力装置のシビリアン・コントロールを可能にするのは、透明性を確保することしかありません。
昨今の裁判員制度のような、アリバイ工作的な施策ではなく、根本から司法を透明化すべきです。
それによってのみ暴力の暴走は避けられます。
私が考える司法改革は、それにつきます。
それが、小賢しい「司法改革」に反対している理由です。

しかし、国家を支える「暴力機構」への信頼が損なわれると、そもそも無理のある国家体制は維持しにくくなります.

国家の崩壊は、暴力機構だけではありません。
外交という、国家のもうひとつの柱もまた、崩れだしています。
外交の本質は、多様な価値観のぶつかりあう場だということです。
自らの価値観だけではなく、相手との関係性において考えなければいけません。
日本の正義もあれば、相手の正義もあります。
原理主義でやっていくべき分野ではないのです。

今回の中国人船長の事件でいえば、逮捕の段階でサイは投げられました。
投げた以上は、その方針を貫くべきです。
その決意がない組織は、喧嘩には勝てません。
経済に翻弄される政治は、見ていて気持ちのいいものではありません。
レアメタルが手に入らなくて何が困るのか。

「武士は食わねど高楊枝」の生き方が、私は好きです。

■武富士破綻の意味(2010年9月29日)
消費者金融大手の武富士が会社更生法の適用を申請することになりました。
顧客から受け取り過ぎていた「過払い利息」の返還が、経営破綻の理由だと言います。
これって、おかしいと思いませんか。

武富士(にかぎらず消費者金融はすべてそうですが)は「不当(不法ではありません)な利子」をとることにより、利益をあげていたのです。
つまり、武富士の経営は「不当な行為」によって成り立っていたわけです。
しかも、それを政府は認めていたわけです。
そうして「不当」に集められたお金がどう使われるかは、決まっています。
たとえば、武富士の経営者一族がどれほどの収入を得ていたかは話題になりました。
しかも彼らは脱税までしていたのです。
そうした巨額なお金は、不当に得ていた「過払い利息」だったわけです。
その「過払い利息」が、官僚や政治家にまわったとは断定できませんが、その可能性は否定もできません。
私自身は、間接的にはもっと広範囲にまわっていると思っています。

渋沢栄一が知ったら、さぞかし嘆くことでしょう。
彼らにあったのは算盤だけで、論語など読む気はなかったでしょう。

武富士は破綻しましたが、その仕組みから一番の利益を得た人たちは結果的にはおそらく痛みを感ずることにはならないでしょう。
既に巨額なお金は香港かどこか知りませんが、安全なところに確保されているでしょうし、この数十年の生活に使われているでしょうから。
でもまあ、それは個人的なことなので、瑣末といえば瑣末な話です。
公的に正当化された詐欺者のように私には思えますが、まあ見方によっては「被害者」です。
問題は、そうした仕組みを生み出す、現在の「金融システム」です。
昨今のメガバンクも、私には武富士とそう変わらないように思えます。
もちろん、何を持って「不当」というかは、さまざまな考えがあるでしょう。

最近、2人の経営者がやってきました。
中堅企業と零細企業の創業経営者です。
それぞれが、同じことを言いました。
最近の銀行は、企業を育てようという姿勢はなく、ともかく自らはリスクをとらない。
リスクを何重にもヘッジした上でないと金を貸してくれず、むしろ貸しはがしをしてくる。

それが本当かどうかはわかりませんし、一般的なのかどうかもわかりません。
でもそういう話はよく聞えてきます。

武富士の問題は、日本の金融システム全体の問題です。
その認識をもっている金融業界のリーダーはいるのでしょうか。
そして経済界は、自分の問題として考えているのでしょうか。

■医師不足の実態調査が初めてだという驚き(2010年9月30日)
厚生労働省が全国の医療機関を対象に、医師不足の実態を調査した結果を発表しました。
その結果は「病院に勤務する医師数は約1万8千人不足」だったそうですが、「求人していないものの不足していると医療機関が判断した人数を加えると計2万4033人」(読売新聞)だそうです。
さらに驚いたことに、こうした調査は初めてなのだそうです。
医療行政をまじめにやっているとは到底思えません。
まさに厚生労働省は医師会と医療産業の下請け組織でしかなかったことがよくわかります。
村木さんにも、このことをわかってほしいものです。
村木さん、あなたたちは検察と同じなのですよ、と言いたいです。

私が参加した医療関係の集まりで、医師の方から日本では医師が余っているという前提で医師の育成を減らす方向にあると聴いたのは10年ほど前です。
それも1回だけのことではありません。
併せて聞いたのは鍼灸師などを増やすという話でした。
その話をしてくれた医師たちは、それに批判的でした。
私も、医師が余っているとは実感にあわないと思っていました。

それから数年して、今度は医師不足が話題になりだしました。
不信に思っていましたが、それらの議論はきちんとした実態調査を踏まえてのものではなかったのです。
厚生労働省や文部科学省が、机上のデータに従って方針を決めていたわけです。
そこにどれだけのお金が動いたことでしょうか。
小沢一郎の疑惑はそれに比べたら小さな規模だと思います。
医師の問題は、それで人の命にかかわるのですから、データを勝手に偽装した厚生労働者の官僚は、間接的に人を殺したことにもなるでしょう。
村木さんにもそれくらいの罪の意識はもってほしいものです。

医師の不足も問題ですが、それ以上に病院や医療にまつわる制度の問題がさらに大きいと思います。
さらにその基本には「医療」とは何かの問題があります。
ヒポクラテスにまでもどらないといけません。
医学の歴史からは、たくさんのことが学べます。
そこから考えていかないと、問題は解決しないでしょう。

それにしても、医療も介護も、仕組みがどう考えてもおかしいです。
産業サイドからではなく、人間の視点で考える人は厚生労働省にはいないのでしょうか。

■タクシー運転手の話はいつも考えさせられます(2010年10月2日)
昨夜、久しぶりに都心からタクシーで帰宅しました。
車中、運転手からいろいろと話を聞かせてもらいました。

彼は4年ほど前まで大手のタクシー会社にいましたが、いまは個人タクシーです。
彼が言うには、もし会社に残っていたらもうやっていられなくなっただろうと言います。
水揚げが激減しているからです。
彼の奥さんが、いまもタクシー会社所属の運転手なのでよくわかっているようです。
おかしくなってきたのは、タクシー業界の規制緩和の頃からのようです。
そういう話は地方でタクシーに乗ってもよく聴く話です。

彼の今の収入は、月額70万円前後だそうです。
しかし、そこから半分はガソリン代や自動車維持費、駐車場代などにとられるそうです。
年金は年間で60万円、毎月月末には支払いに追われている感じだといいます。
土日は走りませんが、平日は夕方から明け方の3時くらいまで仕事をしているそうです。
それでも1日で3万円、よくて4万円だといいます。
土日休むのは効率が悪いこともありますが、身体が持たないからだそうです。

都内で個人タクシーの仕事をするためには都内に住居がなければいけません。
その家賃と駐車場料金がつき7万円、部屋は1LDK。そこで平日は宿泊です。
自宅は埼玉で、母親と同居しています。
奥さんは会社所属のタクシー運転手なので毎日自宅に帰りますが、週末以外はそれぞれが別居で、「さびしいもんですよ」と彼はいいます。
こんなに一生懸命仕事をしているのに、夫婦で旅行にもいけないと言っていました。

やはり今の日本はおかしいと思います。
実は昨日は埼玉の滑川町でもタクシーに乗りました。
その運転手の話も考えさせられる話が多かったです。

私の思いのほとんどは、こうした現場での生活の話から構築されることが少なくありません。
現場にこそ知がある、というのが私の考えなのです。
政策を考える人も専門家も、もっともっと現場に触れて欲しいです。

■他分野には踏み込まない内向の時代(2010年10月3日)
最近、実にいろいろな人がまたやってくるようになりました。
以前ほどではないですが、おかげさまでいろいろな世界に触れることができます。
しかし、あまり元気が出る話には出会えません。
そんなわけで気が滅入ることが多いのですが、どうも同じ傾向を感じます。
一言でいうと、「内向の時代」に戻ってきているような気がするのです。

企業関係の経営者たちは異口同音に、最近の銀行は、資金調達を望んでいる企業の実態を知ろうとせずに、ただ回収は確実か利子はどうかだけにしか関心がないというのです。
いまやバンカーは単なる高利貸しになってしまったようです。
融資先の企業には関心がないのだそうです。

さまざまな企業の技術者をつなげて、イノベーションを起こそうとしている人が来ました。
その人が言うには、最近の技術者は自分の狭い世界に身を縮めてしまっていて、異質な要素技術を組み合わせるのが難しい、と言うのです。
他分野や他企業の技術者と一緒になって共創しようという姿勢はあまり見られないようです。

複雑理工学を専攻している大学教授は、自らの優位性を高めるためには、ますます細分化された専門分野で突出していかないと生き残れない状況は否定できないと嘆きます。
そうした状況を変えていくために複雑理工学という分野が生まれたようですが。

そういえば、私が取り組んでいるNPOのネットワーキング活動も、みんな自分の活動にうずもれてしまい、横につながろうと呼びかけてもなかなかつながりません。
この5年ほどの印象として、どうもまたみんな「内向」しだしている気がします。
誰もが暮らしやすい社会を目指すのではなく、自分に関心のある課題解決に集中しがちです。
そんなやり方では問題は解決しないだろうと私は思いますが。

その一方で、「つながりが大切だ」「縁が大切だ」「協働の時代だ」と、みんな言います。
どうもそうした流行の言葉と私の周りで起こっていることと、結びつきません。
内向していたらつながりは生まれません。

生き方を変えると本当に生きやすくなります。
自分の弱みや困っていることをあっけらかんと見せていけば、支えてくれる人が見つかります。
支えてくれた人にも必ず弱みや困っていることがあります。
それを支えていくことができるかもしれません。
それもこれも「内向」していたら始まりません。

分を超えて、隣の人と話し合う生き方を広げていければ、社会は変わっていくはずです。
この2日間、自宅の庭でサロンをしながら、そんなことを考えていました。
明日からは湯島でまたサロンです。

■弱いものいじめの強制起訴(2010年10月5日)
小沢さんが強制起訴されました。
そのニュースを聴いて、元気がなくなってしまいました。
たった11人の市民によって、国の将来が決められてしまったような気がします。
ひどい制度です。

日本には、推定無罪(何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される)という言葉はありますが、日本人にはその感覚はほとんどありません。
一度、検察や警察に疑われた途端に、無罪かどうかはともかく、社会的には致命的な打撃を受けます。
つまり日本の裁判は付随的な存在でしかありません。
私たち国民は、そうした文化にどっぷりつかっています。
そこに冤罪の生まれる素地があります。
それは、子どもから大人まであらゆるところで起こっている「いじめ」の素地でもあります。
その素地を固めるのは司法への「市民参加」ではないかと私は思っています。
批判するのと裁くのとは、まったく異質なものです、
裁くのは「権力に基づく行為」だからです。
人を裁くことの難しさを知らない人の恐ろしさを感じます。

私はささやかですが、いくつかの自治体のまちづくりに関するプロジェクトに関わらせてもらってきました。
そこで実感したのは、「住民参加」というアリバイ工作手法です。
協働のマネジメントという名前に変えても、事態は変わりません。
どういう人を参加させるか、その人たちにどうプレゼンテーションするかで、方向はいかようにも変えられます。
私には実に姑息な手段に思われます。
私が最近の司法改革に反対しているのも、その体験がベースです。

いまこの時期に何が大切なのか。
そういう全体の構図や展望がないままに個別の問題が、それもわかりやすい問題が話題の中心になっている世相を憂います。
その先に不安を感じます。

小沢さんに問題がないとは思わないのですが、いかにも小さな事件です。
みんなが口では嫌っている「政局」騒ぎでしかありません。
政策遂行はまた遅れていきます。

しかし私たち生活者には、数億円の金額の世界しか見えないものです。
お金と無縁の生活を送っている生活者にとっては、仕方がないことかもしれません。
しかし数億円のお金の手続き問題に国民の目を向けさせておく一方で、兆円単位のお金やそれ以上に大切なものが失われているかもしれません。
いや、それを奪うために、瑣末な事件に目を向けさせているとしか、私には思えません。
そうして私たちは数度の戦争を体験しました。
いずれにしろ、大きな問題は見えなくなっているのです。

検察の問題が出てきていますが、これも大きすぎて表層でしか語られていません。
前田さんも大坪さんも、単なるスケープゴートでしょう。
個人の問題などでは談じてないはずです。
村木事件のフロッピー改ざんという瑣末な事象が話題にされていますが、それを批判している人たちにこそ大きな問題があることを忘れてはなりません。
悪人ほど善人の顔をしているといわれますが、それは本当かもしれないと思いたくなります。

時代の変わり目には、やはり慧眼をもった人が必要なような気がしてきました。
しかし私が生きているうちには、そうした人は現れないでしょう。
そう思うと、元気が萎えてしまいました。

元気を出して、書いてみました。

■1枚の写真(2010年10月6日)
ある本で1枚の写真を見ました。
10年ほど前に、米航空宇宙局(NASA)が公表した、夜の地球の写真です。
NASAのホームページより引用した写真をネットで探しました

そこには、アメリカと日本が輝いています。
まあ考えてみれば当然ですが、やはり唖然とします。
夜はやはり暗くなければいけません。
お時間があったら見てください。

■若者に働く魅力を提供できない社会(2010年10月7日)
最近、大学生がよく湯島に来ます。
そこで就職の話がよく出ます。
聴いていて不安になります。
いまの社会は、若者に働く魅力を提供できていないようです。

先日来た学生たちは、みんな既に就職先が決まっている幸運な学生でした。
しかし彼らはみんな不安を抱いていました。
会社に入って元気を失う先輩が多いようです。
それを見ていれば不安が高まるのは当然です。

私のブログを読んで突然やってきた学生は、
友人たちで就職先が決まっているのは少ないし、諦めた友人も多いと言うのです。
諦めてどうするかといえば、留年や仲間との起業、もしくは専門職目指しての専門学校などへの再入学です。
もっとひどい話もありますが、さすがにここには書けません。

先日、人事部長たちがメンバーに多い、ある委員会で、若者と企業が話題になりました。
そこで、私は次のような発言をさせてもらいました。
大学では企業の中身をきちんと学生に伝えられないまま就職指導をしていること。
企業は採用コストを削減しているために、学生をよく見極めずに採用していること。
そのため、企業に入った後にミスマッチが判明して、双方にとって不幸な結果が増えていること。

こうした問題を解決するには、いろいろと方策はありますが、大学と企業とが一緒になって、ミスマッチを極力少なくし、仮に起こってもそれを良い方向に転ずる社会的な仕組みをつくる必要があると思います。
私の認識では、個別企業が人材を採る時代は終わりました。
社会全体で、つまり企業も大学も一緒になって、若者の働き場を増やし、ミスマッチが起こらないような仕組みづくりに取り組むべき時期です。
それは同時に大学の新しいミッションを創りだすことにもつながるでしょうし、労働流動化のマイナス面を正していく契機になるかもしれません。

いずれにしろ、若者にワクワクするような働きの場を用意できない社会には、未来は開けていかないような気がします。
その状況を変えていくために、何ができるか。
私はささやかながら毎日そういうことに取り組んでいるつもりです。
まだ成功していないのが心苦しいですが。

■法治国家の終焉、魔女狩りの始まり(2010年10月7日)
日本は法治国家を放棄したような感じがします。
まあ「法治国家」ということそのものの多義性はありますが、小沢強制起訴事件の報道を見ていると、日本の法は魔女狩りのものだと思えてなりません。
起訴相当と、事実を多分よく理解していない人たちが判断しただけで(しかも専門の検察が2度も否定している事案について)、誰もが小沢さんは議員辞書屈すべきだという大合唱が巻き起こっているわけです。
もちろんそれを扇動しているのはマスコミです。
いま報道ステーションを見始めて、いかにもひどい報道姿勢に異論を書きとめておきたくなりました。

小沢さんにここはがんばってもらいたいと思います。
結果的には魔女狩りしている人たちが勝つ事はほぼ間違いないでしょう。
小沢さんはいずれにしろ立ち直れないほどのダメッジを受けるでしょう。
それはまあ自業自得といえるかもしれませんが、それで私たちの生活が乱されるのは残念なことです。

特捜部は、方針を決めたらともかくそれを正当化するために、たとえ罪無き人であろうと有罪にしてきたことが明らかになってきました。
それと同じことを今私たちはしているのです。
私にとっては実におぞましいことです。
これはリンチでしかありません。

小沢さんをめぐる事実を私たちはどれほど知っているのでしょうか。
小沢さんの説明責任について、多くの国民は不十分だと言いますが、自分がその立場になってから、村木さんのように後悔しても遅いのです。
そして権力に抗すれば、権力は簡単にその人の生命を含めて抹殺できる状況を私たちが育てているのです。
こうやって80年前に私たちは戦争に向かい、多くの殺傷に加担したのです。
その繰り返しを今また、日本のマスコミは先導しています。

マスメディアの政治部長たちは私たちよりも多くの情報を持ち、より的確な判断ができるはずです。
テレビに登場している小沢さんとそうした人たちの会話をていねいに見ていると、そうした人は小沢さんの説明責任は不十分ながら納得していたように思います。
かれらはなぜ声を上げないのか。
それはいまが魔女狩りの時代であるからなのでしょう。

誰かから疑われたら、もう強制収容所息の時代が始まったのです。

なぜ今の段階で小沢さんが離党したり議員辞職したりしなければいけないのか。
そんなことをしたら、もう歯止めはきかなくなるでしょう。
恐ろしい時代です。
このブログもそろそろやめたほうがよさそうです。

■私が垣間見る若者の世界(2010年10月8日)
最近、24歳の若者と一緒にある活動に取り組んでいます。
彼は実に明るく、積極的で、自分からいろいろな役目を引き受けてくれます。
こうした若者が最近は多いような気もしますが、私の友人たちは、お前の周りに集まる若者は特別なのだといいます。
大学教授の友人たちは、今の学生を知っているのかとさえいいます。
湯島には、学生もよく来ます。
たしかに、いまの大人たちを反映しているような気はしますが、いまの大人たちよりは素直に生きています。

さて冒頭の若者です。
彼は引きこもりだったと、あっけらかんと言います。
そのためか、大学には行っていないのです。
しかし私が見る限り、湯島にやってくる大学生の多くよりはよほどしっかりしています。
それに、なによりも明るく前向きです。
この若者が引きこもりだったとは、とても思えません。
いまはさまざまなボランティア活動をしています。
彼が好きなのはホームレスのための炊き出しの手伝いだそうです。

最近、元やくざだった友人に、大学生たちを紹介しました。
学生たちがぜひ会いたいといったからです。
学生たちと会った友人からすぐ電話がありました。
最近の学生は子どもだなあ、と言うのです。
小さい頃から修羅場をかいくぐって育ってきた彼に比べたら、どんな学生も子どもに見えるでしょう。
しかし彼がいうのは、そういうことではありません。
子どもを育てている大人たちが不甲斐ないというのです。
まったく同感です。

子どもは大人の鏡です。
その人の子ども観を聞いていると、その人の生き方が見えてきます。
私が自分の生き方を問い質されたのは、娘たちの言動からです。

さまざまな若者がいます。
しかし彼らと接していると元気が出てきます。
今日もこれから冒頭の若者と一緒ですが、彼のような若者を引きこもらせる社会は、問い質さなければいけません。
私たち大人が生き方を変えるべきでしょう。
もちろんそれは若者を甘やかすこととは反対です。
もっと厳しく付き合う必要がありそうです。
元やくざの友人からの電話で、改めてそう思いました。

■「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」(2010年10月10日)
黒岩比佐子さんの最新作「パンとペン」を読みました。
400ページを超す厚い本ですが、読み出したら面白くて、一気に読んでしまいました。
堺利彦の評伝ですが、明治から大正にかけて生きたさまざまな人たちのエピソードを通して、イキイキした時代の雰囲気が伝わってくる、見事な作品です。
本の紹介はホームページに載せました。
そこにも書きましたが、堺利彦の残した言葉をぜひ紹介したいと思います。

その言葉は、「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」です。
これは私の信条でもあります。
しかし堺利彦と違い、私はこれを貫徹できていません。
今もって、時に人を疑うことがあるのです。
最後まで人を信じきることの難しさは身をもって体験しています。

それに、人を信じたが故に友を失ったこともあります。
私が去ったのではありませんが、先方が去りました。
信じていた私を信じきれなかったのかもしれません。
人を信ずるとは難しいことです。
しかし、これからも「人を信ずること」を、生きる基本に置くつもりです。
それが一番私には生きやすいからです。
それに、去ったとしても「敵」にはなりません。

「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」
この生き方が、もっともっと広がれば、みんなもっと暮らしやすくなるでしょう。
しかし、残念ながら、今の日本は「人を疑うこと」からすべて出発します。
生きにくい社会になるのは当然と言っていいでしょう。

たしかに、会ったこともない人を信ずるのは難しいかもしれません。
しかし、自分の周りにいる人を信ずることはできるはずです。
まず隣人を信じましょう。
そうすれば、少しずつ生きやすい世界が広がります。
そして100年もしたら、きっと世界から戦争はなくなるでしょう。

ぜひはじめてみてください。

■みんなが安心して暮らせるシェルターを考える公開フォーラムへのお誘い(2010年10月12日)
今日は、私が関わっている集まりへのお誘いです。
11月5日(金曜日)の午後、みんなが安心して暮らせるシェルターを考える公開フォーラムを開催します。
「シェルター」というとイメージが狭められがちです、実際には、「みんなが安心して暮らせる社会を考える公開フォーラム」です。

主催するのは「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」です。
私のホームページには書きましたが、今春、名古屋で自殺を思いとどまった人の暮らしを支える活動に取り組んでいる人たちに集まってもらって、シェルターネットワークシンポジウムを開催しました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/action10.htm#0313
集まったのは、主に、東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんが思いとどまらせた人たちの、その後の生活を支援している人たちです。
住む場所や働く場所など、まさに物理的な「シェルター」を提供してくれています。
そういうシェルターが増えていけば、自殺を取り巻く状況は大きく変わっていくはずです。
それに関しては、昨年開催した「自殺多発場所での活動者サミット」で話し合いました。

ネットワークでは、その後、毎月、交流会を開催していますが、そこでの話し合いの中で、自殺のない社会をめざすには、「シェルター」を広い意味で捉えて、日常的な支え合いや人のつながりを育ていく仕組みや場が大切だということになってきました。
そこで今年は、みんなが安心して暮らせる「シェルター」をテーマに、自殺のない社会を目指して、私たち一人ひとりができることを考えるフォーラムを開催することになったのです。

フォーラムの案内は私のホームページにあります。
さまざまな立場の人たちの参加が、このフォーラムをより実りあるものにしていくと思いますので、ぜひ多くのみなさまのご参加をお待ちしています。
会場でお会いできればうれしいです。

○日時:2010年11月5日(金曜日)午後1〜5時(12時半開場)
○会場:日本財団大会議室(東京都港区赤坂1−2−2)
○参加費:無料
○申込先:メール: sasaeai@gmail.com 
  お名前と所属、連絡先を書き添えてお申し込みください。

■円高は国民にとってよくないことなのか(2010年10月11日)
円高がまたさらに進みだしました。
円高は日本の産業の競争力が低下するので、どうにかして歯止めをかけたいという議論が多いですが、私にはそれはまったく理解できません。
各国は自国通貨が安くなることを望んでいるようですが、これもまったく理解できません。
価値が下がればいいものを基軸にしている経済とは一体何なのでしょうか。

円高は、日本経済が健全である証拠であって、喜ぶべきことです。
私たちが働くことへの評価が高まったともいえるでしょう。
金銭での評価は意味がないという考えもあるでしょうが(実は私も基本的にはそう考えていますが)、評価は低いよりも高い方がいいと、素直に考えるのがいいでしょう。
にもかかわらず、それによって日本の経済がダメッジを受けるというのは、どういうことでしょう。
日本の産業構造が輸出に依存しているからだとみんないいます。
その理屈はわかりますが、為替レートによって輸出が伸びたり減ったりするのも、素直には理解できません。
輸出振興のために中国は元の切り下げを拒否していますが、これは単に自国民を低コストで働かせるだけの話ではないかという気もします。

まあ正直、私には全体像がつかめません。
管理通貨制度というのは、私の理解を超えているのです。
でも、価値が高まったら素直に喜べるようなものを基軸にした経済システムはないのでしょうか。

■多様な人たちを統合するための鍵(2010年10月11日)
多様な人たちを統合するための鍵が「利益」だった、とトクヴィルが書いていることを知りました。
「アメリカの民主主義」を書いた、あのトクヴィルです。
最近出版された岩波新書の「トクヴィル 現代へのまなざし」(富永茂樹著)で知ったことです。

移民国家として、多様な人々を束ねて、白紙から国家をつくりあげたアメリカの国民統合の核は「金銭」だったというわけです。
なるほどと思いました。
アメリカとヨーロッパの違いは、そこにあるのかもしれません。
国家が生まれていく時間の長さがまったく違うのです。
アメリカが金融万能の経済を発展させてきたのも頷けます。

金銭の論理は明確です。
多様な意識や欲望を一つの尺度の元に組織化してしまいますから、その組織は単純な論理で動きやすくなり、それゆえに力を強めます。
そして世界を席巻したともいえます。
トルーマンが「開発戦略」を打ち出し、ドラッカーが「顧客創造」を言いだした意味がよくわかります。

しかし、その金銭が、いまや統合どころか分裂を生み出しています。
世界の秩序を壊しかねないところまできています。
しかも、顧客として育てられた生活者たちは、自立するほどの生命力を失っています。
世界は市場となって、地球全体が浪費されだしているといってもいいでしょう。
トクヴィルは19世紀に、そのことを実感していたのかもしれません。

トクヴィルはまた、フランス革命での歴史の断絶を否定しているそうです。
フランス革命以前のフランスは繁栄していて、革命につながるような国民の不満が存在する状態にはなかった、とトクヴィルは書いているそうです。
しかも、絶対君主政のもとで中央集権化が進行し、貴族の特権は失われ、平等が進展していたというのです。
そして、それが故に、革命は起こったというのです。
つまり社会は連続しています。
革命という言葉が、歴史の非連続観(感)を生み出したわけです。

そう考えるとさまざまなことがすんなり理解できます。
中学時代から私が持っていたフランス革命への疑問が、ようやく氷解しました。

書物から得る知識も馬鹿にしてはいけないと、改めて思いました。

■「党議拘束があるから議員はほんと楽なんですよ」(2010年10月14日)
昨日の朝日新聞に名古屋市長の河村たかしさんのインタビュー記事が出ていました。
その最後にこんな発言がありました。

党議拘束があるから議員はほんと楽なんですよ。互いに突出しないように守りあっている。それで自民、民主のどっちが勝つかばかりやっている。国会はいつまでたっても団体戦から抜けきれていない。税金で身分保障されているのに。絶対におかしい」

河村さんは国会議員時代から、党議拘束には異議を唱えていた人です。

私も党議拘束ほどおかしな制度はないと思っています。
党議拘束とは、少数者が多数を拘束するということにつながります。
そもそも代議制とは、多数決方式を巧みに使いながら少数者の支配を正当化する仕組みになりがちな制度ですが、党議拘束はさらにその少数者を絞り込む働きをします。
とんでもない制度だと私は思いますが、なぜかあまり問題になりません。
党議拘束制度の下では、サルでも国会議員が務まるでしょう。

私は20世紀は組織発想の時代、21世紀は個人発想の時代と考えています。
組織原理がパラダイム転換したのです。
個人が組織の従属物だった時代から、個人が組織の主役にとなっていく時代です。
その時代における組織は、常にダイナミックに生きています。
つまり状況に合わせ変化します。
組織は常に変化(へんげ)する存在になるのです。
選挙でも政党を選ぶなどと言うこともなくすべきです。
よく世論調査で何党を支持しますかという項目がありますが、真面目に考えていくとそう簡単には答えられないはずです。
政治政策分野は幅広く多様であり、そう簡単ではありません。
無党派層が多くなったということは、それだけ政治課題が進化し多様になったことと無縁ではないでしょう。
選挙の時に、何党を選ぶかは決められても、日常的に何党支持とは私にも言えません。

河村さんの減税主義にも共感できます。
政治はそんな難しい話ではないのです。
無駄遣いさせたくないのなら入りを制するしかないのです。
そんな簡単なことがなぜ通らないのか。
それは政治を語る人たちが、自らは汗もかかず、現場にも触れずに、組織の従属物(人間とはいえません)になっているからです。

党議拘束があるから国会議員は楽だと河村さんは言っていますが、実は私たちのほとんどすべての人もまた、組織拘束に依存して楽をしているのかもしれません。
しかし、そこから離れると、世界は面白くワクワクすることが多いです。
まあ楽ができずに、とても疲れますし、経済的には辛くなるかもしれませんが。

■法人税減税とアンチビジネス論(2010年10月17日)
法人税を減税しないと日本の企業は競争力を失って、日本の経済はダメになるという議論が通説になっています。
私にとっては、一昔前の経済学(生活のためではなく産業のための経済学)の発想だと思いますが、それは別にしても、最低賃金の上昇も中小企業をだめにするなどということまでがもっともらしく語られていることにはいささかの怒りを感じます。
そういう発想をしていったら、所詮は人間はいらない仕組みになるでしょう。
何のための経済か、と言うことになります。

法人税を下げ、労働分配率を下げなければ成り立たないような企業は、いったい誰のための企業制度かです。
それでは出資者のための企業制度でしかありません。
その仕組みそのものがいま問われているのです。
フェアトレード論がまことしやかに語られていますが、こんな発想で企業を考えている人のフェアトレード論は所詮は金儲けのための手段でしかないでしょう。
どこか狂っているとしか言いようがありません。

ではどうするか。
私たちの生き方も含めて、発想を変えなければいけません。
私は年収200万円程度ですが、とても豊かに暮らしています。
もちろんだれでもが200万円で暮らせるわけではありません。
しかし逆に年収数十万円でも私より豊かに蒸らしている人たちも知っています。
お金の多寡は決して豊かさの唯一の尺度ではないのです。

発想の出発点を変えてみると、まったく違った経済や豊かさが見えてきます。
それにもとづいて、働く場の仕組みや企業のあり方、あるいはセイフティネットを考えてみる時期に来ているように思います。

いずれにしろ、いま世間にはびこっている経済の常識や通説の呪縛から自由になることが大切です。
そうすればきっとそれぞれの人にとっての生き方が見つかるはずです。
そして新しい経済の仕組みや産業のあり方が見えてくるだろうと思います。
その視点で考えると、環境問題も福祉問題もまったく違って見えてきます。

法人税減税はこれまでの経済の矛盾を拡大するだけで、なんの解決にもならないような気がします。

■起訴されたら有罪視されることのおかしさ(2010年10月21日)
元主任検事による証拠改ざん事件に関連して、大阪地検前特捜部長および元副部長が起訴されましたが、それを受けて、2人は懲戒免職になりました。
いかにも早い懲戒免職ですが、日本の場合、起訴されたら有罪視されることがよくわかります。
そうだとすれば、裁判とはいったい何なのか、よくわからなくなりました。
裁判で判決を受けるまでは、無罪ではないのかとばかり思っていましたが。
それに今回の事件は、逮捕された2人はいずれも起訴事実を否認しています。
なにやら複雑な気がします。

今日、こうしたことについて、検事総長が記者会見し、謝罪しました。
新聞は、「大林総長は用意したA4の2枚の紙を読み上げた。一連の事件について陳謝したが、「失われた国民の検察に対する信頼を一刻も早く回復することが、私に課せられた責務である」と述べ、早期の辞任を否定した。」(朝日新聞)と報道しています。
今回の事件は本氷山の一角であり、検察庁が発足した当時から繰り返し行われてきた、組織ぐるみのことだろうと考えている私にとっては、検事総長はさらに大きな事実を隠蔽するために残るのかとさえ思えますが、それにしても今頃の記者会見も遅きに失していますし、その内容がいかにもお粗末です。

それにしても、起訴されたら有罪者として扱われる社会は恐ろしいと思います。
ともかく事実を検察関係以外の人に(元検察庁関係者が私は一番悪いと考えていますが)事実を解明してもらいたいものです。
問題はフロッピーデスクの改ざんなどではありません。

■新潟水俣病の訴訟の和解報道に思うこと(2010年10月21日)
新潟水俣病の訴訟の和解が成立しました。
原告側が目指している「潜在患者も含む被害者全員」の救済に向けて、一歩前に進んだようで、とてもうれしいです。

ところで、その原告側の患者会会長の山崎昭正さんの言葉に考えさせられてしまいました。
朝日新聞(2010年10月21日夕刊)から引用させてもらいます。

 阿賀野川下流のすぐ近くで生まれ育ち、子どものころから川魚をよく食べた。30歳ごろから、こむら返りなど水俣病によくある症状が出た。母親が認定されたが、自分が水俣病とは思いもせず「騒いでいる人は金が欲しいだけだ」とさえ思っていた。
 2004年、主治医に水俣病と診断された。同横の症状に悩む仲間と水俣病の勉強会を開いたことが、05年の患者会結成のきっかけとなった。新潟県・新潟市の認定審査会
に申請したが、2回棄却され「裁判しかない」と決意。「人に認めてもらうため、名前も務も出して訴えよう」と、会を代表して実名を公表した。

「騒いでいる人は金が欲しいだけだ」
とても「さびしい言葉」です。
問題が自分に降りかかってこないと、そういう受け止め方をすることは山崎さんに限りません。
いま話題になっている証拠改ざん事件の被害者の村木さんもそうでした。
みんな人を信じられなくなっているのです。
悲しくさびしい話です。
ケアマインドは、今の私たちからなくなってしまったのでしょうか。

同じ記事によると、水俣病によくある症状に悩んでいるのに「絶対に名乗り出ない」という人もいるといいます。
なぜこういう風に、みんな考えるようになってしまったのか。
それを考えなければいけない時期に来ているように思います。
自分の素直な心を取り戻さなければいけません。

■奄美大島の大雨(2010年10月22日)
奄美大島の大雨被害の大きさは、もし自分が当事者だったら立ち直れるだろうかというほどのすごさです。
自然のまえには、所詮、人間は小さな存在でしかないのかもしれません。

「日本の伝統的な精神では自然と人間を一体的にとらえている」と内山節さんは言います。
そして、日本における共同体は自然と人間の共同体だというのです。
内山さんの共同体論は、私にはとてもなじめる発想です。

その内山さんはこうも言います。
「自然と人間の間には矛盾も存在している。たとえば日本ではしばしば大雨が降り、それが洪水をも引き起こす。しかし雨量が多いから、水田もつくれるし、作物もよく育つ。森の木が育つのも夏の高温多湿が影響している」。

奄美の大雨被害を見ながらこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、おそらく奄美の人たちは、こうした災厄をもたらす自然とも恵みをもたらす自然とも、豊かに共存してきたのでしょう。
そしてそうしたなかで、自然と話のできる存在になっていたのかもしれません。
奄美や沖縄の人に、どこか霊的なものを感ずるのはそのせいかもしれません。

奄美大島出身の友人にメールをしたら、こんなメールが返ってきました。

私が育ったころは、バラック並みの家屋でしたので、梅雨前線〜台風シーズン〜秋雨前線と、この間、何度と今回のような体験をしてきました。
島人(しまっちゅ)の知恵が、被害も最小限に留めていると思っております。

本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害だと思います。
奄美は、今回の災害復興をバネして、又、一層逞しく、生まれ変わってくれると信じております。

「本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害」というところが、気になりました。
本土の家屋は、決して、自然と会話できる構造にはなっていないからです。
島人の知恵と本土人の知恵と比べたら、どちらがすぐれているのでしょうか。
今回の災害の状況をテレビで見ていて感じたのは、雨風にさらされることの多い奄美大島の家屋が、なぜか本土の家屋と同じように見えたことです。
これは私の考えすぎかもしれませんが、自然とともにある奄美の共同体やそれを支える住まいや集落構造が、人間だけの論理で合理的に設計された世界に置き換えられているのかもしれません。

共同体が自然と人間の合作であるならば、家屋も集落構造もそうでなければいけません。
「本土並みの家屋」はどういう意味を持っているのでしょうか。
奄美の被害映像から、こんなことを考えてしまいました。

■三川内焼きを元気にしたい(2010年10月23日)
ホームページに書きましたが、先週、NHKテレビで「三川内焼き」の紹介がありました。
視聴者の投稿をもとに創られた「こんなステキなにっぽん」という番組です。
長崎にお住まいの吉谷さんという方の投稿で、その番組は創られました。
古谷さんの思いも、そこで語られていました。

その吉谷さんから、突然メールが届きました。
挽歌編に書いた「三川内焼き」の記事が吉谷さんの目に留まったのです。
メールのやりとりを通して、吉谷さんの三川内焼きへの思い入れの深さを知りました。
吉谷さんが感じている三川内焼きの状況は、私が関わっていた20年前とあまり変わっていないように思います。

吉谷さんは「三川内には今の日本が失いつつあるモノづくりへの高いこだわりが残っている」といいますが、同時に、「産業としての窯は衰退の一途」とも感じています。
おそらくこうしたことが、三川内焼きだけでなく、日本のいたるところで起こっていることではないかと思います。
それは、「文化と産業」の不整合によるものなのかもしれません。
そもそも文化と産業は、同じところから生まれてくるはずのものですが、どうやら昨今の日本の産業は、文化や生活を壊すほどの存在になってきているようです。

吉谷さんは、三川内焼きに元気を取り戻して欲しいと思っています。
そのための構想までメールで書いてきてくれました。
とても共感できます。
そこにこんな主旨のことが書かれています。

各地の有名デパートなどでの催しでは三川内焼きの凄さは伝わっても、日常食器として考えるとなかなか消費者の購買意欲にはつながらない。
ところが、三川内の現地に赴き、その環境のなかでじっくり一つひとつの作品を目にすると、何かひとつ2000〜3000円のものでも買って帰ろうかな!という気分にさせてくれる。
そして、使い勝手のよい器ですから一度使うとその見栄えと使い心地の良さに多くのリピーターを獲得できると思います。
作り手の顔が見え、納得して手に入れる行為は、「モノを大切にする」いう事をも学ぶことになります。

とても考えさせられる話です。
モノづくりにこだわる職人がいる。
それにほれ込んだ使い手がいる。
それをベースにした「産業」のあり方を考えることは、これからの経済のあり方を考える上での大きなヒントがあるような気がします。

まだ古谷さんへの返事は書けていませんが、何ができるかを考えたいと思います。

■ネガティブな議論とポジティブな議論(2010年10月25日)
なぜみんな瑣末な議論にはまってしまうのだろうか、と思うことが少なくありません。
かくいう私も、瑣末な議論が好きな一人ですが、しかし基本的にはできるだけポジティブに、そして個人を誹謗せずに、さらに議論はある時間でさっぱり終わるということを原則にしています。
しかしそうでない議論も少なくありません。
私が参加している2つのメーリングリストで、いま際限なしに見える議論がなされています。
そうした議論では、必ず誰かがターゲットになります。
そしていやな話ですが、あげ足取りが横行します。
相手の発言や文字の真意など読み解こうとしないのです。
双方が相手に対してネガティブですから、もちろん正確な意味での議論は成立していません。

メーリングリストでこうした状況が起こると、とても付き合いきれません。
問題提起した人は、しかし途中で止めると非難の集中攻撃を受けることになります。
人は、他者を攻撃する時ほど、大きなエネルギーが出ることはありません。
攻撃するにしても相手も違えば、方法も違うだろうと思いますが、うっかりそうした輪に入ろうものなら、こちらにも矢が飛んできます。
そんな暇人とは付き合いたくないと思いますので、最近はそうした内輪もめには参加しないようにしています。
しかし、果たしてそれでいいのだろうかと思うこともあります。
おかしなことにはきちんと態度を表明しておかないといけないのではないか。
組織の誰かの問題を放置したら、自らもその仲間として責任を追わなければいけないというのが、私の論理ですから、いささか気が重いのです。
そんなメーリングリストから抜けたらいいという考えもありますが、そうやって抜けていけば、いつかは一人になるか、仲良し仲間だけの世界に閉じこもるしかないのです。
人の考えは多様です。
自分の考えとは別の考えがあってもいいと思うのですが、みんなそれを許せないようです。
多様性が大事だなどとみんな言いますが、多様性を維持することは至難です。

人の議論にはふたつあります。
価値を削ぎあうネガティブな議論と互いをから学びあうポジティブな議論です。
私は後者の関係を大事にしたいと思っていますが、どうも世の中の多くの人は、前者が好きなようです。
最近そう思えて仕方がありません。

みんなどうして不幸な生き方を目指すのでしょうか。
不思議でなりません。

■ジミー・ティングルの感動的なスピーチ(2010年10月29日)
今日は毎月恒例のオープンサロンです。
毎月最後の金曜の夜開催しています。
誰でも歓迎ですので、気が向いたらお越し下さい。

それはそれとして、今日は寒かったので自宅で仕事をしようと思っていたのですが、オープンサロンの日であることに気づき、あわてて湯島に出てきました。
あわてたせいで、予定していた仕事の資料を忘れてきてしまいました。
仕方がないので、かばんに入っていた、読みかけの岩波新書、渡辺靖さんの「アメリカン・デモクラシーの逆説」を読むことにしました。

いま読み終えましたが、感動して涙が出てしまいました。
感動したのは、渡辺さんが最後に引用している、2010年のハーバード大学の卒業式での卒業生代表のスピーチです。
全文が紹介されています。
読みながら涙が出ました。
おかしな話ですが、笑いながらの涙ですが、決して笑いすぎての涙ではありません。
感動しての涙です。

私は国家としてのアメリカがどうも好きになれません。
しかし、このスピーチを読んで、その思いは一変しました。
最近、実はアメリカに関するいろんな本を読んできたせいかもしれませんが、一番の決め手は、やはりこのスピーチです。
オバマ大統領のスピーチよりも感動的です。

スピーチの主、つまりこの年の卒業生代表は、ジミー・ティングルという人です。
55歳、全米でも有名なコメディアンだそうです。
そういう人が、卒業生代表としてスピーカーに抜擢されるのは極めて異例のことだと、著者の渡辺さんは書いています。

どこがどう感動的なのか、紹介することは難しいですが、おそらく読むと元気が出ます。
感動の涙が出るかどうかは、保証はしませんが、少なくとも私は涙が出ました。
それもこみ上げるほどの涙です。

この本を読むのは大変かもしれませんが(とても面白いです)、この部分だけなら書店で立ち読みもできるでしょう。
223頁から228頁の、たったの6頁です。
それにとても読みやすいので、さっと読めます。
もっとも、笑いをこらえたり涙をこらえたりするのが大変かもしれません。

ともかく読んでみてください。
元気が出ました。

ところで、そろそろオープンサロンの時間です。
涙をふいておかないといけません。

■無縁社会ではなく有縁社会(2010年10月31日)
昨夜、NHKでは「無縁社会」をテーマにした長時間の話し合い番組を放映していました。
私は最後の部分しか見なかったのですが、こうした取り組みが広がってきたことはいいことだと思います。

ただいささかの違和感があります。
というよりも、「無縁社会」などと気楽な言葉をつくり、使うことへの怒りを感じます。
これに関しては、以前も一度書きました

言葉は実体を生み出す、といったのはヴィトゲンシュタイでしたでしょうか。
パウロ・フレイレは、言葉による意識化を重視しました。
言葉は間違いなく、実体の形成に大きな影響を与えます。
そうかんがえれば、「無縁社会」という言葉を起点にして考え議論するかと、「有縁社会」という言葉を起点に議論するかで、大きな違いが生まれるでしょう。

日本は「縁」を大事にしてきた社会です。
私たちの生は、まさに縁によって生まれ育っているという文化が日本には存在しています。
しかもその「縁」は、目に見える人のつながりだけではありません。
お天道様、ご先祖様との縁も含めて、見えない縁が縦横無尽に張り巡らされているのです。
無縁に生きることなど、できようはずがないのです。

大切なのは、縁をつくることではありません。
縁に気づくことなのです。
そこから出発しない限り、昨夜、語られていたような問題は解決しないように思います。

「無縁社会」という言葉(概念)を広げて、どういう意味があるのか。
いま大切なのは「有縁社会」という言葉だろうと思います。
NHKの報道姿勢は完全に間違っているように思うのですが、どうでしょうか。

11月5日に、みんなが安心して暮らせるシェルターを考える公開フォーラムを開催します。
シェルターの核は、開かれた縁ではないかと私は思っています。
そんな話し合いができればいいと思っています。
もしよかったら参加してください。
案内はチラシをご覧ください。

■「生命の時間」と「時計の時間」(2010年11月1日)
私の好きなテレビ番組の一つに「小さな村の物語 イタリア」というのがあります。
BS日テレの番組ですが、イタリア各地の小さな村が舞台で、毎回、その村で暮らす2人の人が主役です。
昔からの暮らしの文化をまもりながら、家族や地域の隣人たちと一緒に、しっかりと自分を生きている人が主役であることが多いですが、毎回、感ずるのは、「暮らしの豊かさ」です。
豊かさとか幸せとかを考えさせられる、とても感動的な番組なのです。

最近読んだ内山節さんの「共同体の基礎理論」には、欧米の共同体は「人の共同体」であるのに対して、日本の共同体は「自然までも含んだ共同体」だと指摘されています。
私もとても納得できたのですが、この番組を見ていると、自然までも含んだ共同体は日本だけのものではないのではないかという気もします。
いやそれ以上に感ずるのは、家族や隣人を大切にする暮らしの文化が、イタリアには日本以上にあるのではないかということです。
ということは、イタリアのみならず、きっとどこにもあるということです。

私は海外で暮らしたことがありません。
ですから、そうしたことに関しては、体験的に知っているわけではありませんので、判断がつきかねています。
しかし、この問題は空間軸で考えるのではなく、時間軸で考えるのがいいと思い出しました。
言い換えれば、日本では壊されてしまったものが、まだイタリアにはあるということです。
なぜ日本では失われ、イタリアには残っているのか。
おそらくそれは「生命(自然)の時間」と「時計の時間」の、どちらを生活の基準にするかが影響しているように思います。

「小さな村の物語 イタリア」に出てくる登場人物の多くは、自然、つまり生命の時間の中で生きています。
今日放映された番組で紹介されていた2人は、いずれも農牧を営む家族の人でした。
自らの生き方を大事にして、驚くほどゆっくりと「自分たちを生きている」人たちなのです。
生活の積み重ねが文化を育てていくというのがとてもよくわかります。
工業時間で速成されるような、きらびやかかもしれませんが退屈な文化ではないのです。

私たちは、基準とすべき時間を間違ってしまっているのかもしれない、といつも思いながら見ています。
すくなくとも暮らしにおいては、時計の時間は忘れたいものです。

私は大学生の時から時計を持つのをやめています。
しかしそれから50年近くたちますが、まだ時計の時間から自由になれずにいます。
そのせいか、私はまだ、暮らしに豊かさを実感できずにいます。
中途半端な生き方から抜け出せずにいるわけです。
困ったものです。

■知らせることの効用(2010年11月2日)
尖閣諸島での中国漁船衝突事件の映像は、故意に衝突してきた模様がはっきりと記録されているようです。
自分で見たわけではないですが、テレビでの克明な報道によれば、そうのようです。
事実を最初にしっかりと共有するということの大切さを改めて感じます。
もし最初の時点で全世界に、その映像を流していたら、どうなっていたでしょうか。

中国の今の状況は、どうもそうした話とは次元が異なるようですが、それにしてもやはり事実を隠す政治はそろそろ見直すべきです。
中学校の頃、社会科で「知る権利」と言うのを知りました。
それがあまりにも印象的で、その後の私に生き方に大きな影響を与えています。
「知る権利」が基本になる社会は、たぶん安定して生き生きしているでしょう。

事実を知らせることの意味は、政治だけではありません。
経済もそうです。
そろそろすべてを公開してのビジネスのあり方が考えられるべき時期だろうと思います。
情報格差を背景にしたビジネスから抜け出さないといけません。
情報社会とは情報共有されたなかで生きることだろうと思っています。
情報格差を力にするか、情報共有を力にするかで、産業のあり方は全く違ってきます。

もっとも現実の情報社会は、情報格差を広げこそすれ、狭めてはいません。
情報は存在するものではなく、主体によって創りだされるものですから、同じ情報の海の中にいても、情報格差は生じます。
つまり情報格差とは極めて主観的なものなのです。
しかし、だからこそ、存在する情報は公開していくのがいいと思います。
同じ情報からでも考えることは違いますから、その情報に触れた人の数だけ、その情報は豊かな意味を持ってくるのです。

連日、国会の議論が放映されています。
在宅の時はできるだけ見ていますが、どうも情報が共有されていないばかりか、情報探りあい合戦のようで、創造的な議論にはなっていません。
なぜもっとみんな「知らせることの効用」に気づかないのでしょうか。
きっとなにか「魂胆」があるのでしょう。
私心があると「知ること」も「知らせること」も、なぜか力を失うものです。

■領土問題に思うこと(2010年11月3日)
領土問題で日本政府の外交力が問われています。
中国やロシアの姿勢は、私が持ち合わせている知識からすれば極めて不当と思いますが、私の知識が偏っているのかもしれません。
日本から見るのと相手から見るのとでは、おそらく状況は全く違うのでしょう。
日本のメディアの情報にばかり依存していると世界は見えなくなってきます。

それにしても、なぜ国家は「領土」をほしがるのでしょうか。
誰のために、何のために。
領土だけではありません。
国家は「国民」もほしがります。
なぜなのか。
それに気づくと、国家とは何かも見えてきます。
国家のよる外交は、「パワー オブ バランス」の世界でしょうが、それだけが国際政治でもありません。

国家の枠を外して人々がつながっていく。
もしそんなことが可能になれば、こうした状況は変わるでしょう。
領土も国民も、その意味を変えていくことでしょう。
ITの急速な発展を見ていると、そんなことも可能になるのではないかという気もします。

最近の状況に関して、外交の専門化がいろいろとコメントしていますが、そこから学ぶこともある一方で、この人たちの時代は終わろうとしているのだなという気もします。
いずれにしろ、領土問題は、私たちに思考のパラダイム転換を求めているような気がしてなりません。

■餌を与えられることに嬉々と喜ぶ消費者(2010年11月3日)
前項でITが国境を越えて新しい世界を構築していくかもしれないと書きましたが、それを書きながら、今日、テレビで見た新しい自動販売機のことを思い出しました。

その自動販売機は、利用者の姿をセンサーして、その人に合った飲み物を推薦するのだそうです。
例えば肥満気味の人には糖分の少ない飲み物というわけです。
いまはまだお台場くらいにしかないようですが、アメリカではかなり広がっているとキャスターが言っていました。
これを見ていて、家畜に自動的に餌を提供する機械を思い出しました。
まさにこれは餌を与える機械です。
そんなものが流行るとは、いったいどうなっているのでしょうか。

しかし、これは何も自動販売機に限ったことではないのです。
周りを見渡すと、こうしたものがいかに多いことか。
私たちはもうすでに「家畜」になっているのかもしれません。
いったい誰が飼い主なのでしょうか。

■情報社会とは情報が共有される時代なのです(2010年11月6日)
昨日、みんなが安心して暮らせる社会をテーマにしたフォーラムを開催し、そこでワークショップを行いました。
あるグループの発表に「開いて守る」という言葉が出てきました。
そのグループに参加した人から、その言葉は秋津小学校の話から出てきたことをお聴きしました。
秋津小学校といえば、私のホームページに何回か出てきていますが、宮崎さんと岸さんが始めた、地域と学校の融合プロジェクトです。
そういえば、池田小学校の事件が発生した時に、まさに「きちんと開けば守れるのに」と言う話を宮崎さんとしたものです。
言葉はともかく、「開くことで安全と安心を得る」というのが私の生き方でもあります。

尖閣諸島沖での中国漁船の衝突事件に関して、その映像がユーチューブで流れ出しました。
さまざまな意見が飛び変わっていますが、当然予見されたことでした。

2000年前後から、日本では行政や企業の不祥事が多発しました。
正確には露見し始めたと言っていいと思います。
1990年代から私は企業関係の講演で、よく情報社会とは情報が共有される社会だと警告してきました。
おそらく私の説明力の問題でみんな理解してくれなかったともいますが、それが2000年を過ぎた頃から少し理解してもらえるようになりました。
情報社会とは「情報」の価値がなくなる社会ということです。
とまあ、こう書くとまた誤解されるでしょうね。
多くの人は「情報社会」とは「情報」が価値を高めていく社会と思っているからです。
とんでもない、反対なのです。

情報化社会の実体が「非情報化社会」だったように、情報社会の本質は「情報共有社会」、つまり情報が水や空気のように、みんなのものになる時代です。
つまり、もはや「情報」を閉じ込めておけない時代になったということです。
言い換えれば、情報などもっていても何の役にも立ちません。
但し、情報を持っていないと大きなダメッジを受けかねないのです。
その認識が今は大きく欠落していますから、今回のようなことが起こるわけです。

撮影した映像は隔離などできないのです。
露出するのは時間の問題だったでしょう。
だとしたら選択は唯一、できるだけ早く公開するか、当事者で共有することです。
ここで共有するとは、たとえば中国の政府と日本の政府です。
情報は隠し通せると思っているのは、菅さんと仙石さんのような時代遅れの権威主義的運動家の共通した特徴です。
前原さんの政治思想には私は極めて否定的ですが、政治行動は共感できます。
しかし彼もまた小さな利害にとらわれて、自らを貫けませんでした。
前原さんが確信した映像を、すぐに発表すればいいだけの話だったのです。

情報を独占していることが、力の源泉になった時代は終わりました。
その認識は、捨てなければいけません。
生き方においても、です。

■テレビを活用した国会運営(2010年11月7日)
NHKの今朝の日曜討論を久しぶりに聴きました。
それを聴きながら、なぜ国会ではこうした議論ができないのだろうかと不思議に思いました。
NHKの番組としてではなく、国会のひとつの場として、党首などが定例的に公開会議をして、それをNHKに限らず、すべてのテレビ局に放映させたらと思います。
国会審議はなにも議事堂だけで行う必要はありません。
それに国会審議はあまり内容がありません。
単なる受け答えだけですから、見ていても退屈ですし、そこから新しい知恵が出てくるわけでもありません。
つまり「審議」でも「会議」でもないのです。

民放もさまざまな政治家の話し合いの場をつくっていますが、いずれも出演者も議論の進め方も偏っています。
視聴率対策がいろこく感じられますし、よく出演する人はタレント的で党の広告宣伝的発言に終始していることが多いので、そこからはたぶん何も生まれません。
バラエティ的な番組で政治への関心を高めた結果が、いまのポピュリズムだとしたら、改めて考え直す必要があるように思います。

国会のあり方も、そろそろ変えていく時かもしれません。

■政権交代ではなく政権崩壊(2010年11月7日)
八ツ場ダムに関する馬淵国交相の発言には驚きました。
「私が大臣としては一切、『中止の方向性』という言葉には言及しない」と表明したというのです。
「中止の方向性を堅持する」と言っていた前原さんの発言はいとも簡単に覆されました。
もはや一体性を持った内閣とは言えず、趣味の集まりのようになってきてしまいました。
菅政権は年末までは持つまいと思っていましたが、どうも持ちそうなのは、この政権であることが多分野党にとっても民主党員にとっても望ましいことなのでしょう。
それにしても、次々と意見が違う大臣が出てきて、趣味で政治を動かしてもらうように成るとは予想外でした。
政権交代ではなく、政権崩壊だったのかもしれません。
それもまあ、意味があるといえばありますが。

民主党に期待した1年前の自分の不明さを、またまた恥じなければいけません。
もう主権国家の時代は終わったことの証左かもしれません。
それにしても、なぜこうもみんな信念を捨てるのでしょうか。
お金と名誉の魔力のすごさかもしれません。

■自然との共生はおごり(2010年11月8日)
昨日、由井英監督の映画「うつし世の静寂に」を見ました。
川崎市の土橋地区に残っている「講」をテーマにした映画ですが、講は仕組みだけではなく、それを生み出しているものを見つめなければ見えてこないと、由井さんは語っていました。
私もいま、仲間に呼びかけて「講」をつくろうと思っていますが、その言葉を聴いて、ハッとしました。
講は作るものではなく、生まれるべくして生まれるものなのです。
それは講に限りません。
すべてのものは、生まれるべくして生まれるのであって、その期が熟していなければ形だけのものになりかねません。
頭ではそのことを意識していたにもかかわらず、最近はそのことを忘れることがよくあります。
他者と関わる仕組みを自分ひとりで作ろうとするのは、おごり以外のなにものでもありません。
反省しなければいけません。

ところで、その映画にとても共感した言葉があります。
「自然との共生はおごりである」ということです。
自然との共生と言う言葉にどうも違和感を持っていたのですが、あまりきちんと考えたことがありませんでした。
でもどこかおかしい言葉だと思っていたのですが、それをこの映画のナレーションはスパッと言い切っています。
共生とは対等の立場の関係を前提としています。
人間と自然は対等な存在ではありませんから、共生などということはありえないわけです。
キリスト教的感覚では「自然との共生」はああるかもしれませんが、その自然観がいま問われだしているのです。
軽々に「自然と共生」などと言ってはいけないのです。

どうすればいいいか。
その映画では、自然に身を委ねるという言葉が使われていました。
それこそが日本の自然観だったように思います。
もちろんそれは自然の暴力に従順に従うということではないでしょう。
かつての百姓たちがやってきたように、自然の中で自然に生きるということでしょう。
それに、自然に身を委ねれれば、自然の暴力などありえないのです。

昨日の挽歌編に書きましたが、この映画は11月19日まで渋谷のユーロスペースで、その後12月3日まで横浜のシネマ・ジャック&ペティで上映しています。
とても示唆に富む映画です。

■話し合いのモデル(2010年11月9日)
昨日、久しぶりに衆議院予算委員会での議論を見ました。
あまりのバカらしさに、30分で辞めました。
同じ質疑が20分以上続いていたのです。
質問するほう(棚橋議員)もバカなら、応えるほう(首相)もバカ以外の何者でもありません。
人をバカよばわりするのはほめられる話ではないですが、バカというしかありません。
サルの議論を聞いているようでした。

国会でのやりとりを見ていて(以前はできるだけ見るようにしていました)、このやりとりを見たら子どもたちはどう思うかなといつも思っていました。
最近の小学校会では、自治会などというのはないのかもしれませんが、私の小学校時代は生徒たちだけで話しあう時間がありました。
その話し合いに比べてさえ、今の国会の話し合いは内容がありません。
話し合いではなく、けなしあいになっているからです。
話し合いは何かを生み出すために行われるべきものです。
その姿勢がほとんどありません。
ただ自己宣伝や相手をこき下ろすだけの発言者もいます。
そんなために私の税金は使ってほしくありません。

大人の話し合いは、子どもの話し合いの模範になるべきだと思っています。
特に国会での議論はそうあるべきだとずっと思っていますが、もしかしたら昨今の子どもたちの話し合いは、この国会議論をモデルにした結果なのかもしれません。

5日に、みんなが安心して暮らせる社会に向けてのワークショップを開催しました。
初めて会った人たちが90分、7〜8人に分かれて話し合ってくれました。
最後に各グループから発表してもらいましたが、みんな異口同音に、とても気持ちの良い時間を過ごせ、いろいろなことに気づき、元気がでてきた、と言いました。
主催者としては、とてもうれしい経験でした。
しかし、私にとっては、別にめずらしいことではなく、ワークショップとはそういうものだと思っています。

私のオフィスで、支え合いをテーマにしたサロンを毎月やっています。
誰でも歓迎のサロンです。
時に議論が混乱することもないわけではありませんが、こんなに安心して本音を話し合えるホッとする場は初めてだという人も少なくありません。

こうしたことから、昨今は「気持ちのいい話し合い」「新しい価値が生まれる話し合い」が少なくなっているのかもしれないという気がしています。

話し合いは楽しくなければいけません。
どんなに意見が違って激しいやりとりをしても、です。

その社会(組織)がどんな社会(組織)なのかは、話し合いの姿を見ると見えてきます。

みなさんの周りの話し合いはどうですか。

■国家秘密を守ることで戦争まで行くこともあります(2010年11月11日)
尖閣諸島沖での中国漁船衝突の映像を海上保安庁の職員がユーチューブで流したことに私は拍手を送ります。
もし私が同じ立場であれば、まずは上司に公開を訴え、3回やってもだめであれば、同じ行動が私の選択肢の一つになっただろうと思います。

テレビ報道を見ていると、彼の行為に関しては、国民の多くは支持し、いわゆる有識者は否定的です。
私が見た限りでは、明確に支持したコメンテーターは鳥越さんだけでした。
鳥越さんは、そもそもジャーナリストの仕事は国家の「秘密」を公開することであり、いつ罰せられても仕方がないという覚悟で仕事をしていると言いました。
とても納得できる発言です。

しかし多くの人は、組織の一員として組織の指示に従わないといけない、そうしないと行政や国家保護は成り立たないというのです。
組織の一員は「意思」を持ってはいけないというわけです。
70年前の日本では、そうしたことが戦争へと進む一つの原因だったことも忘れてはなりません。
御用学者や御用ジャーナリストが、それを加速させていったことは言うまでもありません。

たしかに官僚であれば、政府の方針には従うべきであり、それに異論があれば、組織内で先ず異論を唱え、それが受け入れられないのであれば、組織を辞めるべきでしょう。
しかし映像を公開したことは、海上保安庁という組織の大きなミッションには決して反してはいないように思います。
そもそもこの映像の公開が日本の立場を悪くするでしょうか。
政府が勝手に隠蔽したことこそが国家を危うくしているように思います
それに、公開された映像が、政府の発表していたことを否定することでもありません。
政府が「言葉」で話していたことが確認できただけの話です。
そこには「秘密性」は感じられません。
そこで明らかになってきたことは、尖閣諸島沖でこれまで、そしていま何が起こっていたかということです。
同庁の職員の発言によれば、今回のような衝突事件はこれまでもあったそうですが、私たちはそんなことを全く知らされてきませんでした。
それこそが問題であるように思います。

この事件に関していろいろなテレビ局で解説をしていた、この分野に詳しい山田教授は最初から、「海上保安庁の撮影の目的の一つは国民への説明責任を果たすため」と強調していました。
つまり「公開のため」に撮影しているわけです。
このことの意味がもっと議論されるべきだと思いますが、残念ながらその発言に関心を持つテレビ局もキャスターもいませんでした。
事実は公開されなければ、シビリアン・コントロールは成り立ちません。

公開した43歳の人の生活は壊されてしまうかもしれませんが、彼が守ってくれたものの大きさに、私は感謝しています。
もちろん彼が組織のルールに反したことで裁かれるのは仕方がないことです。
しかし、彼の生き様には拍手を送ります。

それにしても、彼をこういう状況に追いやった現政権の無責任さに怒りを感じます。
責任を取るべきは海上保安庁の長官ではなく、仙石官房長官だろうと思いますが、昨日の国会での仙石官房長官の答えには唖然としました。
卑劣な人はいつまでも卑劣です。

■重大犯罪の服役者、出所後3割が再犯がいうことの意味(2010年11月12日)
今日、法務省から発表された「犯罪白書」によると、出所した服役者の再犯率が高くなっているそうです。
これは大きな問題です。
裁判ではよく「更生の可能性がある」という理由で刑が軽くなることがありますが、可能性がしっかりと現実のものにされる仕組みがないということです。
司法制度の目的は「裁く」ことにあるのではありません。
社会の秩序を維持して、みんなが安心して暮らせる社会にすることにあります。
刑務所の役割は、処罰と共に更生にあると思いますが、更生は刑務所だけで取り組める問題ではなく、社会の仕組みにも大きく影響しています。
裁判員制度によって、一般生活者が裁判に参加させられるようになってきていますが、その前に取り組むべきは処罰・更生の仕組みへの参加だったのではないかと思います。

ある本(「アメリカン・デモクラシーの逆説」)によれば、アメリカでは収監者100人当たり約30人のスタッフが雇用されているそうです。
「監獄の運営を含め、警備・拘禁・矯正に関係するセキュリティ・サービス産業は、アメリカ国内の三大民間雇用企業(ウォルマート、マクドナルド、UPS)の総従業員数を超える雇用を創出している」とも書かれています。
「軍産複合体」ならぬ「獄産複合体」と皮肉る向きもあるそうです。
人間の生存に関わるセキュリティの問題は、社会当地のど真ん中にあるテーマです。
そこを押さえれば、社会は如何様にも動かせるのです。

ところが、いまそのセキュリティが危ういものになってきています。
これは「統治の失敗」とも考えられますが、むしろ「統治の手段」とも捉えられるところが悩ましいのです。

アメリカでは「恐怖の文化」が広がっています。
そうした状況の中で、監視社会化、訴訟社会化が進展してきているわけです。
信頼関係が大切だという、ソーシャル・キャピタル論議が高まっている背景には、言うまでもなく、それが欠落してきているという現実があるわけです。

幸いに日本はまだ「恐怖の文化」が広がっているわけではありません。
しかし状況はさほど楽観はできません。
そのひとつの兆しを、私は再犯率の高まりに感じます。

いささか極端な暴言を吐けば、再犯率が高まれば高まるほど、実は司法にとっては自らの存在価値を高め、活動がしやすくなるという、皮肉な現実もあります。
個々にも、近代が抱える「ジレンマ」があるのです。
ジレンマは、産業のジレンマだけではないのです。

人を裁くシステムを根本から問い直す時期ではないかと思います。

■保険技術の国家独占(2010年11月14日)
私のホームページ(CWSコモンズ)にも書いたのですが、先日の共済研究会で明治大学の押尾さんから、保険技術がいま国家によって独占されようとしているということを気づかせてもらいました。
これまでも押尾さんのお話や書いたものに触れているのですが、なぜかこのことに気づきませんでした。

慌てて押尾さんの書いたものを読み直してみました。
たとえば、こんな文章がありました。

「同じ保険技術と言っても、これは保険会社の独占的な私有物ではありません。客観的な自然科学や統計学または確率論などを基礎にして、たまたま保険会社が先に事業を起こしただけです。ですから、この技術は、国民みんなのものです。また、すでに保険会社の保険には国民多数が入っていますから、保険事業は国民を見た事業運営をしなければならないはずです。しかし、残念ながらそうなっていないところに協同組合あるいは協同自治的な組織で共済事業を行わなければならない、客観的な理由があります」

保険とは専門的にはいろいろと定義があるのでしょうが、素朴に考えれば、個人のリスクを複数の仲間で分担するための仕組みと言っていいでしょう。
残念ながら現在の保険事業が必ずしもそうなっていないことは前にこのブログでも書きましたが、それでも保険に関する知見の蓄積は大きな知の財産だと思います。
それも参考にしながら、共済事業も発展してきました。

ところが数年前に、日本では商法から保険業法が切り離されるのを契機に、小さな共済活動までもが存続の危機にさらされました。
これに関しては、このブログでも何回か書きました。
私自身は、そこに日本の文化の一つであった「共済文化」が壊されようとしていることに危機感をもっていました。
幸いにその動きはぎりぎりのところで踏みとどまったかと思っていたのですが、昨日、共済研究会で押尾さんの話を聴いて、改めて問題の根深さに気づきました。
保険技術の国家独占、まさに生政治の必然的結果なのかもしれません。

この視点で改めて、最近のセーフティネットや社会保障を考え直して見なければいけないことに気づきました。
社会の行く末が何となく見えてきます。
40年ほど前に盛んにSFの世界で語られていたことが現実化しつつあることに驚きを感じます。

■「無縁社会」という言葉を使うのはやめましょう(2010年11月18日)
「無縁社会」と言う書名の本が出版されました。
NHKはどこまでもこの言葉を流行らせたいようです。
また商業主義の流行語大賞などといったおかしなイベントでもこの言葉が話題になるのでしょう。
なんとまあ腹立たしいことか。

11月5日に、みんなが安心して暮らせる「シェルター」を考える公開フォーラムを開催しました。
そのワークショップの最後で、私が話させてもらったことの一部を紹介させてもらいます。

最近、無縁社会という言葉がよく使われるようになりました。
私はそのことをとても残念に思います。
たしかに、一見、無縁社会であるように感じさせる事件は少なくありません。
しかし、本当に無縁社会と言っていいのでしょうか。
言葉は現実を説明すると同時に、新たな現実をつくりだします。
そこに大きな懸念を感じています。

人は一人では生きられません。
見えなくても、気づかなくても、様々なものに支えられて、私たちは生きています。
支えてくれているのは人かもしれないし、花や動物かも、自然かもしれません。
どんなに孤立しているように見えても、私たちは周りに支えられているのです。
そして、同時に私たちの存在そのものが、誰かの役に必ず立っているように思います。

それに気づけば、社会は決して無縁ではありません。
有縁社会、縁でつながっている社会です。
いま必要な事は、改めてそのことを意識することではないかと思います。
マスコミは無縁社会などという言葉ではなく、有縁社会という言葉を流行らせるべきだったと思います。
繰り返しますが、言葉は現実を作り出すのです。

周りにいろいろなつながりがあることに気づけば、それだけで私たちは生きやすくなるのではないかと思います。
人のつながりによってつくられる社会は、決して無縁であるはずはないのです。

みんなが安心して暮らせない社会だからこそ、閉じられたシェルターが必要であり、そういうシェルターをもっと増やしていくことも大切ですが、そんなシェルターがなくてもいいように、社会そのものをシェルターにしていきたいと思います。
今日は、それに向けての一歩だったのではないかと思います。
そして、このワークショップを契機に、参加者一人ひとりが、まずは周りでできることからはじめる、次の一歩を踏み出せればと思っています。

有縁社会の中で、私たち一人ひとりにできることはたくさんあるのです。
「無縁社会」と言う言葉は、それを壊していきかねません。
NHKの無責任さと無知さ加減には腹が立ちます。

■社会の基本は血縁や地縁です(2010年11月20日)
私と同じように、「無縁社会」という言葉に異議申し立てをしてきている一条真也さんが、「「無縁社会」という言葉を使うのはやめましょう」という記事を紹介してくれながら、自分のブログで、こう書いています

先日のNHK「無縁社会」特集番組には、内閣府参与の湯浅誠氏が出演していました。
湯浅氏は、「もう血縁や地縁に期待するのは無理なので、日本人は新しい縁を探さなければならない」といったような発言をされていたと記憶しています。
たしかに、今後は趣味の縁である「好縁」や、ボランティアなどで志をともにする「道縁」などの存在が重要になってくると思います。しかし、それよりも、まずは崩壊しかかっている「血縁」や「地縁」を再生することが最優先なのではないでしょうか。
わたしたちは、「血縁」や「地縁」をあきらめてはならないのではないでしょうか。

全く同感です。
ちなみに、血縁や地縁はもう期待できないという主旨の発言は湯浅さんに限りません。
テレビでも私は多くの人から同じような主旨の発言を聞いています。
そしていつもその人たちの見識のなさを寂しく思っています。
知識があっても見識がなければ、時代の流れに流されるしかありません。

私は「大きな福祉」を理念としたコムケアという活動に取り組んでいます。
活動に取り組んでいるというのは正確ではないかもしれません。
活動らしい活動は5年ほどでやめてしまったからです。
それでも、いまでもささやかながら活動は続けています。
最近取り組んでいる自殺のない社会に向けての活動もその一環です。
それはともかく、私の生き方それ自体が「大きな福祉」を核にしていますが、同時にそれはまた「血縁」と「地縁」が基本だと考えています。

前の記事でも書きましたが、社会とは人と人のつながりですが、そもそものつながりの起点は血縁と地縁です。
それで支えられていればこそ、そこからさまざまな縁が生まれていくのです。
「意識の世界」で創られた目的的な、あるいは機能的な縁と、生命や自然に根ざした縁とは、私には同じものとは考えられません。
知縁も好縁も志縁も、それぞれに大切ですし、いいものですが、やはりそこには何かが欠けているように思えてなりません。
そこに私は「近代の落し穴」を感ずるのです。

自殺未遂サバイバーの銀ちゃんに生きようと思わせたのは、他ならぬ妹さんです。
改めて「家族」のあり方を考え直さなければいけないように思います。

■我孫子市長選に向けて、坂巻宗男事務所がオープンしました(2010年11月21日)
私は千葉県我孫子市に住んでいます。
来年1月23日に、その我孫子市の市長選が行われます。
私のホームページ(CWSコモンズ)ではすでに何回か書いていますが、その市長選に40歳の市会議員が立候補することになりました。
坂巻宗男さんといいます。
ホームページをご覧ください。
私はこれまで付き合いがあったわけではありませんが、急に応援したくなりました。
40歳という若さが応援しようと思った最初の理由ですが、坂巻さんが土と水に関わっていることが最大の理由です。
土と水に関わっている人に悪い人はいませんから。
対抗馬は現職市長の星野さんです。
2期目ですから、手ごわい相手です。

今日、その坂巻さんの事務所開きがありました。
狭い事務所にあふれるほど人が集まりました。
若い人も多く、活気にあふれていました。
司会も坂巻さんの同級生たちです。
来賓などという、相変わらずの旧体質のものもありましたが、挨拶は一人だけだったのがせめてもの救いでした。
我孫子市は28人の市会議員がいます。
対抗馬の星野さんの事務所はすでに先週開いていますが、そこに市会議員が16人集まったそうです。
坂巻さんの事務所開きに来たのは5人でした。
この数字からだけでも、坂巻さんが有利である事は間違いありません。
変革をもたらすためには、旧体制から自由でなければいけませんから。

私はこれまで、突然、国会議員や地方議員に立候補した友人の選挙に関わったことはありますが、我孫子市の選挙は初めてです。
しかし、3回ほど坂巻さんたちと話しあって、我孫子市での選挙活動の雰囲気は何となく見えてきました。
こういう場には書きにくいですが、いろいろと考えさせられることが多いです。
それはまたすべて終わった段階で少しずつ書きたいと思います。

ところで、今回の坂巻さんの選挙活動をできるだけ映像で残して、選挙後、映画にしようと考えている人がいます。
まさにDST、デジタル・ストーリー・テリングの世界です。
間違いなく、選挙に新しい風を吹き込むことになるでしょう。
私自身は、選挙そのものが住民の意識を変えるようなものにできないかと考えています。
選挙の意味が変わってきているはずだというのが、私の選挙観です。
いずれにしろ、今回の我孫子市長選挙は面白くなるでしょう。

我孫子市住民の方はもちろん、みなさんもぜひご注目いただき、もし関心があれば参加してください。
いろんな参加の仕方があるでしょう。

また時々、報告します。
できればホームページ(CWSコモンズ)の方も見てください。

■民主党支持層は要するに無党派層なのでしょうか(2010年11月22日)
昨日、松戸市の市会議員選挙がありました。
最近は市町村の選挙にまで最近は政党が出てくる時代になってきましたが、今回、民主党は11人が立候補し、なんと当選したのは2人だけだったそうです。
4人の現職も落選したそうです。
ある人は、民主党の衰退を示す歴史的な結果と伝えてきてくれました。
ちなみにみんなの党から出た新人2人はいずれも当選だったそうです。

国政レベルでの政党の人気にこれほど影響されることには驚きを感じます。
松戸市には自治がないのではないかとさえ思えます。
そもそも基礎自治体の議会を国会をモデルとして制度化したのが間違いだと私は思っていますが、それにしてもおかしな話です。

まあそれはそれとして、もう一つ気づいたことがあります。
それは、民主党支持層は結局は無党派層なのだということです。
確信を持って民主党を支持していたのではないのです。
民主党の政策はまさに曖昧で多様ですから、無党派層のとりあえずの受け皿だったのかもしれません。
つまり、そもそも民主党政権などと言うのは存在しなかったのです。
政権交代ではなく、政権崩壊と感じられるのも、そう考えると納得できます。
政権と言うものの意味合いが全く変わったのかもしれないのです。

そう考えてくると、今の日本は二大政党体制になっていないことに気づきます。
二大政党制などというのは20世紀の遺物だと考えている私にとっては、これは大きな発見です。
見せ掛けの二大政党制の実体はないのです。
これはうれしい発見です。

無党派層を政治に無関心の層と考えるのも間違いかもしれません。
政治への関心が高まっていくと、今の政党政治の限界が見えてきて、無党派層になっていく。
そして自らが主体的に考え出す。
ある時には自民党を、ある時には民主党を、使い込みながら、自らの考えを実現していく。
無党派層とは、実はそうした「したたかな市民」のことなのかもしれません。

やはり政党の時代は終わったのです。
ところが現実は基礎自治体にまで政党依存の主体性のない議員が増えているそうです。
政党のほうに顔を向けて、地域を見ない地方議員が増えているわけです。
日本には地方政府発想がありませんから、そうなってしまうのかもしれませんが、地域主権体制が育ってくれば、状況は変わるでしょう。
どこで反転するかな、地域住民の意識にかかっているように思います。

松戸市市民の選択は、単に民主党不人気、みんなの党人気の結果ではないと信じたいです。

■「性別:男性 女性」(2010年11月23日)
先日、イベントの参加者に意見を書いてもらうための様式を検討していた時に体験したことです。
属性欄に「性別:男性 女性」と書いておいたのですが、ある人が、男性と女性と二者択一にするのはよくないというのです。
私も属性欄はできるだけ自由に書いてもらうのがいいという意見の持ち主ですが、そういわれるまで性別は男女としか考えていませんでした。
言われて見れば、男性と女性のどちらかを選択させることはある意味での暴力性をもっていることに気づきました。
頭では世界の多様さを理解しているつもりでも、やはり実際には伝統的な発想に呪縛されているのです。
学習する組織という、新しい組織論を打ち出したピーター・センゲは友人との共著「プレゼンス」(邦題「出現する未来」)で、新鮮な目で見ることは、習慣的な考え方や見方をやめることからはじまると書いています。
しかし、習慣的な考えを保留すると生きていくために大きなエネルギーが必要になります。
習慣とは、人を生きやすくするための制度だからです。
ですから人は本来的に習慣や文化に従うように仕組まれています。
私の生き方のパラダイムは、かなり習慣から逸脱していると思っていますが、基本的には相変わらずの世界に浸りきっていることを思い知らされたわけです。

結局、「性別:   」と白紙にしたのですが、後で考えてみると、なぜ性別を訊く必要があるのかという気がしてきました。
まだまだ私の発想は自由になっていないようです。

もう20日以上前の体験ですが、頭から離れないので書いてしまいました。

■みんなが誠実に話し合えば社会は住みやすくなる(2010年11月24日)
昨日の新聞に出ていた記事です。

新潟水俣病:松本環境相が現地訪問 責任を認め初めて謝罪
松本龍環境相は23日、新潟市を訪れて新潟水俣病3、4次訴訟の原告ら被害者約30人と面会し「熊本での教訓が生かされず、被害の拡大を防止できなかったことについて改めておわび申し上げたい」と国の責任を認め謝罪した。新潟水俣病で環境相が来県しての謝罪は初めて。

すべての問題の解決は、当事者が誠実に話し合うところから始まります。
ところが、「お上型社会」では、あるいは「顧客型社会」「管理型社会」では、誠実な話し合いがなかなか起こりません。
たとえば、最近また話題になっている学校でのいじめに起因する子どもの自殺の問題も、学校側はまず「防衛」から始めます。
子どもを失った家族への心遣いや誠実な話し合いは二の次にされがちです。
医療ミス問題も同じ構図があります。
すべてに優先して、まずは自らの落ち度をしっかりと認識し(問題が起こった以上、落ち度がないなどということはありません)、相手に誠実に伝えるところからはじめないと話はますますこじれていきます。
こじれてしまったら、誠実な話し合いは難しくなるでしょう。

熊本での水俣病の教訓は、そうしたことへの強い警告だったはずですが、それから半世紀以上経過しても、事態はなかなか変わっていません。
たしかに保証金も大切ですが、出発点は事実を誠実に認識することであり、もし幾分であろうと落ち度があれば謝罪からはじめなければ、事は前に進まないのは当然の話です。
その「当然のこと」が、政治や経済がからんでくると脇に置かれてしまいます。
アメリカで自動車事故を起こしても絶対に謝ってはいけないと昔よく言われていました。
謝罪したら自分が悪かったことを認めることになり、交渉が不利になるからだといわれていました。
常識的に考えれば、とてもおかしな話です。

新潟水俣病はまだ係争中です。
そのなかで、環境相が現地に出向いて謝罪したというニュースは、ちょっと元気が出るニュースです。
謝罪からきっと新しい動きも生まれるでしょう。
大臣であろうとだれであろうと、まずは一人の人間として、素直に行動すれば、この社会はもっと気持ちのいい社会になるのではないかと思っています。
人は、そもそもわかりあえる存在なのですから。

■人によって世界はまったく違って見えている(2010年12月1日)
北朝鮮の民間人攻撃には驚きました。
どう考えても理解できません。
北朝鮮は、そういう国だと思えば不思議に思うこともないのですが、今回の事件に関して言えば、どうも心に引っかかるのです。
暴挙というには、かなり限界を超えているからです。

市川海老蔵さんの殴打事件も同じように腑に落ちない事件でした。
しかしその後の報道で、かなり納得できるようになりました。
北朝鮮の事件と違って、当事者に関する情報は同じ条件でわかっていくでしょう。
海老蔵さん側の話だけでは、北朝鮮の事件と同じく、殴打した人はとんでもなく悪い人だと非難されるでしょう。
しかし事実がわかってくると、悪いのはもしかしたら海老蔵さんという感じもします。
少なくとも、そんなに不思議な事件ではなくなるはずです。

つまり、一方の情報だけでは事実は見えてこないということです。
一方から見ると不思議な事件も、双方から見れば何と言うことのない事件なのかもしれません。
情報源には注意しなければいけません。

問題はもう一つあります。
「ウィキリークス」が話題になっています。
創設者は犯罪者扱いです。
多くの人は機密を公開することは悪いことだと思うでしょう。
機密として隠すことが悪いことだと思う私とは全く評価基準が違いますが、これは評価者の問題です。
同じ事実も、評価者の価値基準で正反対に見えるということです。
世界は人によってまったく違って見えているのです。

そのことを私たちはいつも意識していなければいけません。
マスコミの報道が、最近、画一的になっているのがとても気になっています。

■阿久根市竹原市長失職の無念さ(2010年12月6日)
阿久根市の市長リコールが成立し、竹原さんは失職しました。
記者会見で、竹原さんは「市民の皆さんが、いろんな体験をする機会として前向きに考えたい」と語ったといいます。
まさに「いろんな体験」をしたことでしょう。
その言葉に、竹原さんの思いを感じます。

私は当初、竹原さんのやり方に傲慢さを感じていましたが、報道情報をきちんと読んだり観たりしているうちに、共感を覚えだしました。
名古屋の河村さんと同じく、まさに現れるべくして現れた人だと思います。
その河村さんも住民投票の署名運動で破れました。
そして市長を辞任し、多くの人の批判を受けています。
私は自認も含めてとても共感しています。
いずれの敗北の陰に、片山総務大臣の影を感じます。
片山さんにはいろんな意味で失望しました。

今回の事件も名古屋の事件も、さまざまな利権が動いているでしょう。
阿久根出身の人から少しお聴きしたところでは、経済活動をしている人は竹原不支持、弱い生活者は竹原支持の傾向があるようです。
もっとも一人だけからの話なので、たぶんにその人の価値観が含まれているでしょう。
しかし、生活という現場から考えていけば、竹原路線、河村路線、そして大阪の橋下路線になるはずです。

私たちは社会の常識の中で、できるだけ自分での思考をしないですむように生きています。
それは決して悪いことではありません。
すべての事象において、考えながら生きていたら、こんな長生きはできないでしょう。
朝起きたら顔を洗う、食事は3回、お店の商品はお金を払わないと自分のものにならない、こうしたことまで毎回自分で考えていたら身が持ちません。
しかし、そうした常識の中には危ういものもあります。
お上には異を唱えない、教育は学校で受けるもの、小さな自治体にも国と同じく有給の議員が必要だ、大学を卒業した人は賢く高給がとれる、専門家という人の言うことは正しい、こういう「常識」は私には大きな違和感があります。

話がずれそうですね。
話題は阿久根市でした。
阿久根市では1月に市長選挙がありますが、おそらくまた竹原さんが当選するでしょう。
竹原さんがやる気がなくなったり(なくなってもおかしくはありません)、竹原さんでは困る市外の人たちがお金をばらまかなければの話ですが。

この事件は決して阿久根市だけの話ではありません。
河村さんも言っているように、基本的に日本の統治構造が問われているのです。
竹原さんがもう少し戦略的に立ち向かえば、その真意はもう少しきちんと伝わったでしょうが、彼の言動はあまりに素直すぎるのかもしれません。
しかし、竹原さんが諦めないで活動を続けていくことを願っています。

■「見知らぬわが町」(2010年12月8日)
福岡でハーモニカのリサイタル・ツアーをやっていた西川さんから、9か所でのライブを無事完了したというお手紙をもらいました。
そのリサイタル・ツアーに関しては、西川さんのブログをご覧ください。
西川さんのハーモニカを聴きたい方はベストコレクションもあります
リサイタル・ツアーを通して、西川さんはさまざまな思いをもたれたようです。
西川さんからいただくメールに、西川さんの思いを感じることが少なくありません。
それも西川さんの人生すべてを感じさせる内容なので、いつも心に響きます。

ところで、そのお手紙に、12月10日の午後7時半から、NHK福岡放送局の開局80周年記念ドラマ「見知らぬわが町」が放映されるという案内がありました。
大牟田の三池を舞台にした感動的なドラマだそうです。
私の世代だと、大牟田の三池と聞いただけで、ある思いがこみ上げてきます、
いうまでもなく、大牟田は炭鉱で栄えた町です。
ドラマのストーリはNHKのサイトにありますが、テーマは家族です。
残念ながら放映は九州沖縄地域だけですが、来年は全国放映されるそうです。

30年ほど前に私も大牟田の三池を訪ねたことがあります。
海が見えるところから、この海に向かって穴が掘られているのだと説明を受けたのを覚えています。
私には大牟田という土地が持つ「記憶」が痛いほど伝わってきた記憶があります。
往時を偲ばせる施設などから、声が聞えてきたような覚えもあります。
会社を辞めて、大牟田か佐世保か北九州に転居しようかと思ったのは、大牟田を訪ねた時に思いついたことでした。
結局、女房も説得できずに、私も諦めましたが、ソーシャル・キャピタルの後、なぜか、佐世保、北九州、宇部と、かつては炭鉱で輝いた都市との付き合いがはじまり、いまもそれは続いています。

西川さんの手紙にこう書いてあります。

劇中で、俳優の小林勝也さんがハーモニカを演奏します。
当時の人々の暮らしの中で、ハーモニカがいかに大切な存在として生きていたかが伝わってくるような内容です。

もちろんまだドラマは見ていませんが、情景が伝わってきます。
全国放映される時に、ぜひ見ようと思います。

西川さんは、このドラマにハーモニカ指導と言う役割で関わられたそうです。
ですからきっと小林さんのハーモニカには西川さんの思いがこもっているはずです。
歴史が見えてくるだろうと思います。

■諫早湾排水門がようやく開くようです(2010年12月16日)
諫早湾の排水門の5年間の開門を命じた福岡高裁判決について、菅首相は上告を断念する方針を固めたようです。
これにより判決が確定すれば、常時開門となる方向のようです。
はじめて菅さんは自分の考えを打ち出したようです。

手元に『市民による諫早開拓「時のアクセス」』という報告書があります。
諫早干潟緊急救済東京事務所が2001年4月に発表したものです。
友人がその活動に関わっていたので、読ませてもらいました。
調査に当たったのはボランティアメンバーです。
みんな明確な目的意識を持って、自腹で活動に参加していたときいています。
こうした人たちにで、私たちの生活は支えられているのです。

厚い報告書ですが、わかりやすく説得力もあります。
最後に有明海の再生シナリオが書かれていますが、それらの立案計画は、「情報公開の原則のもと、市民・農民・漁民を含む幅広い「円卓会議」において検討し、文字通りの「市民参画による有明海再生シナリオ」に仕上げることが提言されています。
残念ながらその後の諫早開拓はそういう方向には動かなかったように思います。

当時、私には長崎県の職員として、この問題にも関わっていた友人がいました。
彼ともこの問題について意見交換したことがありますが、残念ながら話せば話すほど亀裂が生じそうでしたので、話すのをやめてしまいました。
理をとるか情をとるか、この時には情をとってしまったのです。
その理由は、自分の目で諫早湾を見ていなかったからですが、いささか悔いが残っています。
どう考えても、諫早湾の排水門は愚挙以外の何ものでもありません。
お金儲けのために政治家と官僚と経済人が仕組んだことなのです。

残念ながらこうしたことは、今なお至るところで行われています。
財界の人たちは現場を知らない人ばかりですから、ただただお金が動けばいいのです。
経済の活性化が人々の生活を豊かにするなどという妄想を信じている人はいないと思いますが、そういう妄想を信じさせようという人ばかりなのです。

漁民は喜び、農民は反発する。
こういう対立構造をつくれば、政治家も財界人も、もちろん公務員も、仕事が増え、お金が入ってくるのです。
もちろんマスコミも、です。
この構造を壊さなければいけません。
その壊し方が、残念ながら私にはわかりません。
しかし、まあ諫早湾が少し元気になっていく展望が開けたことで、私は久しぶりに元気が戻ってきました。
書けずにいた時評を再開できそうです。

■地方議会のミッションは変わる時期です(2010年12月19日)
阿久根市の市議会リコールが成立しました。
一時期、不成立と報道された名古屋市でも議会リコールが成立するようです。
地方議会は時代状況の変化の中で、そのミッションを変えるべきであるにもかかわらず、旧態依然の運営をしている地方議会が圧倒的に多いように思います。
この2つのリコール成立は、そうした地方議会の存在意義までをも問うているように思います。

私は今、地元の千葉県我孫子市の市長選の立候補予定者を応援することにしています。
現職に対抗して、若い市議が立候補したのです。
私自身は何人かの市議を個人的に知っていますが、たいへん失礼ながら、今のような活動であれば、市議は不要だとさえ思っています。
こんなことをいうと、それではなぜ市議出身の人を応援するのかと言われそうですが、市長も市議も、ミッションを見なすべきだろうと思っています。
出来ればそうしたことに少しでも関われればと思っているわけです。

ところで議会のリコールですが、名古屋では選管が一度、書名のかなり大きな部分が無効だと決めたのです。
それが見直したら、有効だったわけですが、このことは選管という組織の本性を象徴しています。
おかしな話ですが、日本ではすべての制度や仕組みは、現職を支援するようになっているのです。
つまり「お上」を守るためのものなのです。
もちろん「法制度」もそうです。
法は権力への歯止めだという説明もありますが、実際は法は秩序維持、つまり権力維持のためにあるのです。

自分が住んでいる自治体の首長選挙に関わるのは初めてですが、思っていた以上に権力は腐るものだということがよくわかります。
自治の仕組みを変えなければいけません、

20年前にリンカーンクラブで議論していたことが、ようやく少しずつ現実感を持ち始めたような気がします。
ただし、主役は若者でしょう。
1960年代のアメリカは失敗しましたが、2010年代の日本は成功するかもしれません。

そのために、我孫子市の市長選挙では40歳に若者を当選させたいと思っています。
我孫子市の方はもとより、ぜひ多くの人に応援していただきたいと思っています。■福知山線脱線事故での経営者の責任の取り方(2010年12月21日)
JR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われている山崎JR西日本前社長の初公判が始まりました。山崎被告は罪状認否で「この場を借りて被害者の方におわびしたい」と謝罪した上で、「まったく事実と異なります」と無罪を主張したと報道されています。

思いだしたのは映画「沈まぬ太陽」です。
「沈まぬ太陽」は、日航をモデルにした山崎豊子の小説が映画化されたものですが、見終わった後、とても嫌な気持ちが残ったのを覚えています。
あまりにもリアルであるにも関わらず、問題は何も解決されておらず、大きなメッセージもないまま、個人の生き方の問題に矮小化されていたからです。
そこでも、経営者は全くと言っていいほど責任をとっていません。
いや、そんな気などさらさらない人たちが経営者になっていくと、その映画は語っています。
多くの観客は、これは映画であって、企業はここまではひどくはないだろうと思うかもしれませんが、わずかばかり企業の経営者や高級官僚と言われる人と付き合いのあった私には、こんなものではないとさえ思います。

しかし、彼らは悪いことをしているとは思ってもいないのです。
ですから、今回の山崎さんのように、事実とは違うと主張するのです。
そして、それもまた決して嘘ではないのです。
要するに彼らは、現場に立脚した経営などしていないのですから、わかるはずがないのです。

「沈まぬ太陽」は、労働強化とコストダウンのために、飛行機を安全に運行することができなくなっていることへの経営陣への労働組合の異議申し立てから物語が始まります。
コストダウンと安全性の向上は、不思議なことに、企業経営では二者択一の課題になっているのです。
そのおかしさに、日本の経営者は気づいていません。
財界トップが経営を主導している大企業で、どれだけの自殺者やメンタルダウンが起きているか。
情報はほとんど公開されていないと思いますが、かなりの数なのではないかと思います。
そうしたことを放置している経営者が、日本の経済や政治を主導していると思うと、ぞっとします。
法人税率を下げても、人間にはまわってこないでしょう。
「沈まぬ太陽」は、そのことはメッセージしています。

経営者は、自らの組織で起こっていることに関しては、いかなる場合であろうと「無罪」ではありえません。
JR西日本の不幸は、おそらく経営者に人を得なかったことでしょう。

山崎さんは、彼の主張するように、無罪にしてやればいいでしょう。
裁く価値さえないような気がします。
大切なのは、そう言う人が社長になる企業の仕組みを正していくことのように思います。

実に腹立たしい記事を新聞で読んでしまいました。

■情報を閉じ込めるような管理はもうできません(2010年12月25日)
ウィキリークス事件や尖閣沖での中国漁船の映像事件、あるいは警視庁の機密情報事件など、これまでとは少し違った情報公開事件が頻発しています。
それに対して、当事者を罰しようという動きもありますが、そこでの議論は時代錯誤としか言いようがないように思います。
問題の情報は公開されるべくして公開されたというべきでしょう。
いや、「公開」と言う言葉さえ的確ではないでしょう。

そもそも情報とは組織を超えて動き回るものなのであり、
自由に動き回ることで、その価値を高めていくものです。

秘伝という言葉があります。
これは情報を閉じ込める発想です。
情報を閉じ込めることで、その情報のエネルギーを高めていく手法です。
水をためてダムを造り、一挙に流すことで大きな力を得ることができるように、本来、自由に飛び回る情報を閉じ込めることで力を得ることができますが、これは「情報は動き回るもの」という本質を逆手にとった手法です。
それが有効な時代もありました。
それが国家の時代であり、そこでの企業経営はまさにその手法をとりながら市場を拡大してきました。

しかし情報社会においては、そうした手法はとれません。
なぜならば情報環境が全く変わり、情報力(動き回るダイナミズム)と組織力(閉じ込めるダイナミズム)との力関係が逆転したからです。
そして、「情報ガバナンス」の主体が交代したのです。

そうした認識を持たなければ、もはや政治も経済も効果的な運営はできないでしょう。
時代は全く変わってきているのです。

一海上保安官が行動を起こさなくとも、ジュリアン・アサンジがいなくとも、情報は世の中に出回ったでしょう。
それを可能にする情報環境が生まれたからです。
情報社会とは、そうした社会なのだろうと思います。

そうした社会にもかかわらず、多くの人は自らの小さな組織やコミュニティに閉じこもって、目や耳をふさいでいるような気がします。
素直に考えてください。
問題になっている情報が社会に公開されて、あなたは何か不都合がありますか。
隠されていたことこそ不都合ではないですか。
犯罪者に加担するマスコミに騙されてはいけません。
彼らこそ、恥もなく情報をゆがめている張本人なのですから。

■「殺処分」の狂気(2010年12月25日)
鹿児島県出水市のナベヅルから鳥インフルエンザウイルスが検出されたことで、また撮りインフルエンザの広がりが懸念されています。
また鳥の「殺処分」が起こらなければいいのですが。

ところで、前にも書きましたが、「殺処分」という手法におおきな恐怖を感ずるのは私だけでしょうか。
恐怖だけではなく、どうしても納得できないのです。

人も病気になります。
伝染性の高い場合は隔離治療されます。
しかし「殺処分」はされません。少なくとも最近は。
動物愛護協会は、動物の「殺処分」をどう考えているのでしょうか。

動物も病気になるでしょう。
だからいって、まだ感染もしていない鳥や牛や豚を予防のためとい言って「殺処分」する発想がどうしても理解できません。
動物から「病気になる権利」を奪うのか、などといった「おかしな議論」をする気はありませんが、病気が広がって何が悪いのかとさえ、私は思います。
予防のために可能性のある生命を「殺処分」するというのは、どう考えてもおかしいように思います。
「殺処分」しなかったら、「殺処分」された以上の生命体が死ぬのでしょうか。
その可能性がないとはいえませんが、そうでないかもしれません。

ともかく「危険な要素」は抹殺しておくというのは、私の発想には全くなじめません。

ところで、昨日、ある人が、ある人の紹介で私を訪ねてきました。
メールによれば、
「○○先生より、『大変な(危険な!?)人物である』とうかがいました」
と書いてありました。
その○○先生は、このブログも含めて、私のサイトを読んでくれたようです。
どうやら私もまた「危険な要素」なのかもしれません。
まだ目立たないので魔手は届いていませんが、そのうち抹殺されるかもしれませんね。
恐ろしい時代です。

しかし、「殺処分」する側であるよりも、「殺処分」される側であることはうれしいことです。
みなさんは、どちらを選びますか。

■コラテラルマーダー(2010年12月25日)
ウィキリークスが流した映像の一つに、イラクでの民間人掃射があります。
その映像は「コラテラルマーダー」というタイトルで流されています。
やむを得ざる殺人とでも訳していいでしょうか、
コラテラルダメッジの典型的な事例です。

前の項で書いた「殺処分」もまさに「コラテラルマーダー」ですが、そこに強い共通性を感じます。
しかし多くの人は、イラクの映像には恐れや怒りを感じても、家畜の殺処分には同情や悲しみしか感じないのではないかと思われます。
私たちはそれほど鈍感になっているのです。

諫早湾の開拓はどうでしょうか。
時間をかけた小規模の開拓はいいとして、諫早湾の工業的な開拓もまた、見合えないところでたくさんの生物を「殺処分」しているかもしれません。
そうしたことをすべて否定するつもりはありませんが、その意味だけはきちんと認識しておくべきでしょう。

恐ろしい時代に私たちは住んでいるのです。

■言語が通じない苛立ち(2010年12月26日)
最近、どうも私の言語が周りの人には通じていない「苛立ち」を強く感じます。
もしかしたら、住んでいる世界が違うのではないかとさえ、思うことがあるほどです。
そんなこんなで、今日はまたいろんな人に八つ当たりしてしまいました。
困ったものです。

私のホームページには私が昔書いた小論が一部載っています。
それを読んだ人から、こんな時期にこんなことを書いていたとは驚きましたと言われることが時々あります。
一昨日、お会いした人からもそう言われました。
私はついつい「褒め言葉」と受け止めてしまいますが、それは時代に合わないピントはずれの意見でしたね、ということでもあります。
早ければいいわけではないからです。
早すぎる論説は、単に間違った論説でしかないのです。

どうも私の世界観はずれています。
時間軸が違っているのかもしれません。
それは学生の頃からでした。
そのずれを時々面白がってくれる人はいますが、社会性はないというべきでしょう。
事実、私は何も成すことなく、自分の小さな世界から抜けられずにいます。

先週、地元住民のある会で、友人が講演をしました。
その話を聞いた聴衆の一人が、カタカナが多くて理解できなかったと発言しました。
同調する人もいましたが、友人の話は、カタカナは決して多くはなかったのです。
目新しい言葉は「コモンズ」くらいだったでしょうか。
要するにその人は、最初から理解する気がないのです。
そんな人には講演を聴く資格はないと私は思いますが、そういう身勝手なボケ老人ほど、自らが賢いと思っている傾向があります。
わからない言葉があったら質問すればいいだけの話ですが、理解する気がないですから、質問せずに「いい訳」をするだけなのです。
なんと傲慢なことでしょう。
そうした人を見ると蹴飛ばしたくなりますが、蹴飛ばしたらすぐ転んで怪我をするでしょうから蹴飛ばすこともできません。
知性のない人は体力もないのが普通です。
困ったものです。

何を書いているのか、だんだん荒れてきてしまいました。
そろそろ私も、身勝手なボケ老人になってきているのかもしれません。
蹴飛ばされても怪我をしないように、足腰を鍛えておかなければいけません。
しかし、最近は、知性も体力もあまり自信がありません。
いやはや、困ったものです。

■因果のベクトル(2010年12月30日)
一昨日、今年最後のオープンサロンを開催しました。
いろんなことが話題になりましたが、幸せ論もテーマのひとつでした。
ある人が、経済水準の高い先進国ほど不満が多いという調査結果もあるという話をしてくれました。
30年前に比べて、今の日本は幸せかどうかという議論もありました。

こういう議論を聞いていていつも感ずるのは、みんな思考の枠組に呪縛されていると言うことです。
因果のベクトルが決まっているのです。

例えば、多くの人は経済が発展すれば豊かになると思っています。
経済発展が因で豊かな生活が果です。
しかし現実は逆かもしれません。
豊かでないから経済が発展すると考えたらどうでしょうか。
そう考えれば、経済水準の高い先進国ほど生活の不満が多く、幸せ感のない人が多いのは当然です。
みんなが幸せだったら経済は発展しないでしょう。
だから経済を主導する人たちは、不安や不満を高めようとするのです。
自殺が多いと騒ぐのは、まさにその一つの典型例です。
自殺が多いと騒ぐ方法では、自殺を加速させこそすれ減らしはしないでしょう。
いささか問題発言ですが、私は今の自殺予防キャンペーンには反対です。
私も、自殺のない社会づくりネットワークの活動に関わっているので、仲間から非難されるかもしれませんが、自殺防止と自殺のない社会づくりとは、似ているようで因果のベクトルが違うのです。

貧困大国と言われるアメリカを思い出せばすぐわかりますが、貧困をつくることが経済成長の極意です。

因果のベクトル(方向性)を反転させて考えるといろんなことが見えてきます。
経済が発展するから地球環境が壊れるのか、地球環境を壊すから経済が発展するのかを考えれば、納得してもらえると思います。

平和もそうです。
憎しみの構図があるから平和が維持できないのか、平和を目指すから憎しみの構図が強まるのかも、9.11事件の後の世界を見れば一目瞭然です。

にもかかわらず、多くの人はこれまでの固定的な因果のベクトルで考えています。
そんな発想で世界が見えるわけがありません。
無縁社会や孤族キャンペーンは、恐ろしい毒を秘めています。
そうしたキャンペーンに騙されてはいけません。
そうした言葉を口にしている人たちは、魂を売った哀れなファウストでしかありません。

もっともベクトルは反転させればいいわけではありません。
そもそも単線的な因果構造で発想するのがいいわけではないのです。

もうひとつ悩ましいのは、概念の多様性です。
私は数年前の環境経営提言で、経済と環境のシナジーを出しましたが、その因果のベクトルは要素概念をスパイラルに変質させます。
シナジーを実現するには、経済も環境も概念変化しなければいけません。
つまりベクトルは常に要素概念を巻き込みながらダイナミックに双方向に流れているのです。
このあたりの発想は近代の論理にはありません。
そろそろ近代の知の呪縛から解放されなければいけません。
少なくとも、因果のベクトルを反転させて見るのもいいかもしれません。
それくらいの知性はまだ私たちに残っていると思いたいです。

■年末のお礼(2010年12月31日)
大晦日のテレビはどうしてこんなにも退屈なのでしょうか。
そのおかげで、今日は久しぶりにテレビを見ずに、静かに過ごせています。

今年は実にいろいろなことは見えてきた年でした。
政権交替のおかげで、日本の政治の実態が見えてきましたし、情報社会の到来により、権力が嘘をつくことにもみんな気がつきだしました。
政治と経済がどれほど癒着しているかも見えてきたように思います。
見えないものを見えるようにするのが情報社会です。

しかし同時に見えてきたのは、そうした情報社会にも関わらず、多くの人は真実を見たくないと思い出したということです。
真実よりも、見たい幻想を見ているほうが楽だからなのでしょう。
せっかく見えるようになってきたのに、見る人がいなくなったのは皮肉な話です。

今年の時評編はあまりに独断的で、品格のないものが多かったような気もします。
来年はどうなるでしょうか。
来年は、もう少しみなさんに共感してもらえ、なるほどと言ってもらえるようなものを書けるようにしたいと思っていますが、どうなりますことか。

それにしても、勝手気ままな独善的な時評にお付き合いいただいたみなさまには感謝しています。
ありがとうございました。

気が向いたら、湯島の私のオフィスに遊びに来てください。
毎月最後の金曜日の夜は、だれでも歓迎のオープンサロンを開いています。
書くより話すほうが、私は好きなのです、
いつかお会いできますように。

新しい年が、みなさまにとって楽しい年になりますように。