節子の告別式でのお話
告別式の最後の、私の挨拶です。
お通夜の時には話す元気はありませんでしたが、通夜の後、女房からたくさんの人たちが来てくれたので自分のことを話してほしいと頼まれました。涙で話せなくなると思っていましたが、不思議に涙が出ませんでした。女房が応援してくれたのです。
話した後、いろいろな人からとても気持ちがよく伝わってきたと言われましたので、思い出しながら書き残しておくことにしました。
しかし、話した時のように、自然な気持ちの流れに任せることは難しく、少し硬くなっているかもしれません。
それに少しだけ書き足してしまいました。
よかったら読んでください。
<告別式での謝辞>
ありがとうございました。
節子は、本当にたくさんの人に愛され、支えられていたのだということを改めて実感でき、うれしかったです。
挨拶をする気分では全くないのですが、昨日、今日とたくさんの人たちに来ていただきましたので、少しだけ節子のことをお話したいと思います。
節子の胃がんが発見されたのは4年ほど前でした。
スキルス性、進行性胃がんでした。しかも、手術が出来るかどうかのぎりぎりの段階でした。
幸いに手術は成功したのですが、リンパへの転移もかなりあり、非常に厳しい状況でした。
しかし、気丈夫な節子は、持ち前の明るさで、それを克服し、1年、2年と元気を取り戻してきました。
3か月ごとに検査を受けていたのですが、検査が無事だったことを知ると、必ず「次の検査まではがんのことは忘れて、生活を楽しもう」と言いました。
そして、見事にそれを実行したのです。1日1日を充実させ、楽しいものにする、それは実際にはかなり難しいことですが、それが彼女の生きる姿勢になりました。
そうした生き方から、私はたくさんのことを気づかせてもらいました。
このままいけば、もしかしたら乗り切れるかもしれないと思っていたのですが、3年目に入るころから少し不安な兆しがでてきました。
そして、昨年の10月、再発が確認されてしまったのです。
それももっとも恐れていた腹膜転移でした。
それまで少しずつ上を向いていた状況が、それ以来、反転してしまいました。
そして、さまざまな障害や問題が出始めました。
節子の闘病生活が始まったのです。
以来、実にさまざまなことがありました。
節子は、そうしたことにめげることなく、いつも前向きでしたが、7月に事態が急変しました。
胸とお腹に水がたまり出したのです。
呼吸が苦しくなり、食事もあまり食べられなくなってしまいました。
8月に入ると、歩くことが難しくなったので、24時間在宅看護体制に切り替えました。
定期的に医師と看護師に来てもらい、緊急避難的に点滴で栄養補給する生活になってしまいました。酸素吸入も必要でした。
行動的な節子にとっては、実に無念なことになってしまったのです。
呼吸の苦しさは、しかし改善されることなく、むしろだんだんと厳しくなってきました。身体全体で息をし続けなければならない節子を見ているのは実に辛いことでしたが、本人の辛さはその何十倍だったでしょう。過酷な闘病生活でした。
私たち家族は、節子が必ず治ると信じていました。
節子も、そう信じてくれました。ですから、その辛い闘病もみんなで立ち向かえたのです。
私たちの、そういう思いが通じたのか、8月の中ごろから「奇跡」が起こり出しました。
身体の各所にあった腫瘍が小さくなり消え始めたのです。
がんが治り出した! 節子も私たちも奇跡を信じました。苦しい闘病生活ももう少しだ。
しかし、その一方で、節子の呼吸の苦しさはとどまることなく、その蓄積が限界に達していることも間違いない事実でした。
いろいろな奇跡が起こりながらも、凄絶な闘病生活は続きました。
そして9月1日の夜、節子はぐっすりとねむることができました。
朝、娘が、昨夜はよく眠れたね、ときくと、「うん」とうなづいてくれました。
そして、私と娘とで節子の身体を拭いたのですが、なんとそれまであった「腹水」のふくらみが消えているのです。
奇跡が起こった! 私たちは喜びました。
私たちにとっては、この日は一番幸せな日になるはずでした。
ところが、その日の夕方、事態は全く予期しなかったほうに変わってしまったのです。
夕方、静かに寝ている節子が、寝ているのではなく昏睡状態に陥っているのに気がつきました。
あわてて医師と看護師に連絡し、診てもらいました。
医師の言葉は、私たちにとっては、信じられない言葉でした。
「体力の限界を超えてしまいました」
延命処置は節子の望むところではありませんでした。
私たちは、そのまま節子の生命力に任すことにしました。
医師たちが帰った後、家族3人で節子に呼びかけ続けました。
しかし午後11時を過ぎると、呼吸が少しずつ間隔をおきだしました。
みんなで、「まだ早いだろう。戻ってきてよ」と声をかけ続けました。
呼吸ができるように、1,2,3、とみんなで呼びかけると、それに合わせて、節子は口を大きく開けて息をしてくれました。
しかし、呼吸が元に戻ることはありませんでした。
一番大きな声で呼びかけていた、下の娘が、「お母さん、もういいよ、本当にがんばってくれて、ありがとう」と言い出しました。
私たちもそう思いました。
ありがとう、節子、本当にありがとう。
それがわかったように、節子は静かに息を引き取ったのです。
一番幸せな日になるはずだった、9月2日は私にとっては一番悲しい日になってしまったのです。
医師が来て、死亡が確認されたのは、3日の午前0時でした。
節子は、体力の限界を超えるまで辛さに耐えてくれたのです。
実は8月の下旬に入ったころから、もう限界、これ以上がんばれないと、気丈夫な節子が弱音を言い出しました。本当に辛そうでしたが、私たちは奇跡を信じすぎてしまっていました。そのため、節子に辛い闘いを強いてしまったのです。
最後まで、節子は私に尽くしてくれましたが、私は最後まで節子に無理を強いてしまったのです。
だめな夫でした。
節子、ごめんなさい。本当にすまなかった。
節子は、私にとってはかけがえのない人でした。
私の生きる意味を与えてくれるのが節子でした。
そのかけがえのない節子を失いたくないために、私は節子が治ると確信し、節子はそれに応えようとしてくれたのです。
節子が苦しくて、話ができなくなってから、いくつかのメッセージを残してくれました。
その一つは、こんな文章です。
良い家族に恵まれて、とても幸せでした。ありがとう。
なかないで。これからも花や鳥となって、チョコチョコもどってきます。
節子が家族に残してくれた、心からのエールです。
看病されていたのは、私たちだったのかもしれません。
花と鳥。
風でなくて良かったです。
私は、節子には風になってほしいとは思っていなかったからです。
節子は、花がとても好きでした。
わが家の小さな庭は、節子が植えた花が1年中、絶えることがありません。
そして、その庭の一角から手賀沼が見えます。
そこが節子のお気に入りの場所でした。
お通夜の日、節子と話して、そこに節子の献花台を作ることにしました。
戻ってくる節子の居場所です。
もしわが家の近くに来る機会がありましたら、ぜひお立ち寄りいただき、そこに小さな花を手向けてもらえればと思います。
花はわが家の庭から摘んでもらえればうれしいです。
我孫子駅の北口の花壇をいつもきれいにしている花かご会というグループがあります。
今日もみなさん来てくださっていますが、節子もそのメンバーの一人でした。
昨夜、その花かご会の方たちから、節子が植えたわが家の花を駅前花壇に株分けさせてほしいという、とてもうれしい申し出がありました。
我孫子駅前にも、節子の居場所ができました。
節子は、私にとっては、生きる意味を与えてくれる人でした。
ですから、いなくなったら、私はもう生きていけないと思っていました。
しかし、息を引き取った後も、節子は私たち家族と一緒に生き続けてくれているような気がします。
この2日間、たくさんの人に会い、節子ともたくさん話をしましたが、そんな気がしてなりません。
節子は、大好きだったわが家で、これからもずっと暮らし続けます。
49日までは、私も原則として、自宅にいるつもりです。
またぜひ遊びに来てやってください。
こんなにたくさんの人たちに愛されている節子は、とても幸せものです。
これからもずっと愛してやってください。
ありがとうございました。
2007年9月5日
佐藤修