田中雅子さん
カトマンズ便り

ボルガタンガ便りを投稿してくださっていた田中雅子さんは今、ネパールで生活しています。
田中さんの活動の姿勢はとても共感できます。
彼女たちが書いた「続入門社会開発」はとても示唆に富んでいます。
ぜひ日本でまちづくりに取り組んでいる方や行政の人に読んでほしいです。

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カトマンズ便り25「宝探し」 2009年1月20日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。カトマンズは朝もやの深い冬の最中ですが、みなさまいかがお過ごしですか。昨年末、通信を書き終え、年の瀬の挨拶として送ろうとしていた矢先、パソコンが壊れてしまいました。データを取り出して再度使えるようになったと思った時には、松の内も過ぎてしまいました。

今月末でネパールでの生活を終え、14年ぶりに日本で暮らします。
遅ればせながら、新しい年のご挨拶とともに、2004年以来、私の欲張りなネパール生活を支えてくださったみなさまへの感謝をこめて、カトマンズ便りの最終号を送ります。
5年間お世話になりました。

■サバイバル

1日に4時間しか電気がなかったら、その時間をどう使うか。コンピューターが好きでない私も、メールやパソコンでの作業が当たり前となった今、この時間をコンピューター作業にあてるしかない。昨夏の大洪水で壊れた送電線の復旧工事の遅れ、降水不足によるダム水位の低下など、さまざまな事情が重なって、この冬は週ごとに計画停電が延長されている。先週からは1日16時間、つまり日に8時間だけ電気が供給される。日中4時間、あと1回は深夜零時から午前4時までという具合で、通電時間に合わせて行動するしかない。

ある日、友人が24時間電気のある場所に行こうと、見本市会場に私を連れて行った。会場を取り囲むように、政府の出先機関や組合の小さな事務所が並んでいる。鍵のかかっていない部屋に入ると、誰もいない事務室に事務机と椅子がひとつずつ、書棚には鍵がかかっている。彼女は慣れた手つきで部屋の隅のコンセントにパソコンのプラグを差し込んだ。ひとつ間違うと不法侵入だな、と思いつつも、急ぎの作業のために来た私たちは2時間ほどそこで電気の恩恵を受けた。「全国保健施設利用者組合」の看板がかかったその事務所には、午後になっても誰も現れず、外で日向ぼっこをしていた人たちも、我々の出入りを気にもとめていなかった。

見本市会場でイベントが開催されている間、付近一帯に停電がないことを知って以来、彼女は停電の間、ここで作業をしている。大統領官邸や中央官庁付近に無停電地区があることは知っていたが、街の中心で一般人の出入りが自由なところにこんな場所があったとは。ここにある事務室の半数くらいが実際には使われていないので、市民団体に貸し出すべきだと、彼女は市当局に申し入れに行ったそうだ。

■財産

昨年11月末で、職場であるSNV(オランダ開発機構)に出勤しなくてもよくなった。ワーク・シェアリングで有名なオランダだけあって、有給休暇が多く、契約満了の2月末まで休暇だ。それでも結構用事があり、徒歩で3分とかからない職場には週に何度か顔を出す。「なんだか解放された表情ね。別人みたい」と同僚から言われた。同じ相手と会っても、「業務」ではなく自分の選択で関わっていると思えるだけで、気分が違うものだ。

私がSNVで仕事を見つけたのは全くの偶然だった。2005年、国王のクーデター後の半年間、自分の調査・研究に身が入らず、人権運動家仲間のロビー活動やネパールの若者による紛争の記録作りの支援に時間を使っていた。社会的包摂(Social Inclusion)が和平のキーワードだと言われ始めた頃、インターネットで文書検索をしていて見つけたのがSocial Inclusion Advisorの仕事だった。紛争中でも地方に出張が可能で、自由な気風が気に入って応募した。

差別や紛争の問題に個人的に思い入れのあった私を採用してくれた所長が2007年に急逝するまで、ネパール人上司の下、先住民やダリット、紛争で夫を失った女性たちの団体の組織強化や評価、児童兵の社会復帰プログラム、組織内での同僚への研修に関わった。

「日本のNGO」、「欧米のNGO」という単純な図式で、「欧米のNGOはお金だけ出している」というような批判を聞くことがあるが、私はそういう二分法には何の根拠もないと思う。SNVを通じて欧米のNGOとの接点が増えたが、「日本の」NGOよりきめ細かい仕事をしている団体はいくつもあったし、日本か欧米かが問題ではなく、団体の組織文化と、働く個人の資質の違いがその活動に反映されているだけだ。

SNVは資金援助を行わないアドバイザー機関なので、事業の実施や資金管理に直接関わることはない。アドバイザーとして関わる相手は、中央・地方政府や関係当局、NGO、当事者による運動体、民間企業、業界団体など様々だ。各分野別の戦略方針と先方からの依頼によってアドバイザーの役割を決める。個々の団体の組織強化だけでなく、分野・セクター内で中立な立場をとって、利害の異なる団体間の調整をするような機能も果たすところが面白い。私は、ダリットの支援団体が情報共有をするネットワークの世話人もしてきたが、そういうことに「業務」として関われたのは幸運だった。

またSNVはSocial Inclusion Research Fundという調査資金の運用窓口をしていたので、政治家や研究者などネパールの政治や議論をリードしている人に会う機会も多かった。林業、農業(換金作物)、気候変動、代替エネルギー、観光など、長くネパールに関わっていても接点の少なかった産業分野への視野が広がった。

■立場
私は管理職ではなかったので、組織内の財務や人事に関わることはなかった。マネージメントの仕事は嫌いではないし、「他の人に効率良く働いてもらうための仕組み作り」は過去に経験済みだったが、ネパールが歴史的転換点にある時だけに、マネージメントよりは課題の本質に直接迫るような仕事をしたかった。

私がこの世界で仕事をするために必要な基礎を学んだカトマンズは特別な場所だ。ネパールには90年代の滞在を加えると8年も住んだが、「就職」したのは今回が初めてだった。SNVで働くことで生活や振る舞いを変えたくなかった。スラムやゴミ回収の調査で歩き回った街だけに、ここには日本よりも大勢の知人がいる。数日前、近所を歩いていたら、突然、煎りたてのピーナッツを片手に「久しぶりだね、一緒に食べないか」と声をかけてくれたおじいさんがいた。昔どこかで会った人にばったり再会した時に、壁を作りたくないと思ったのだ。

しかし、私のそういう態度は必ずしも組織内では歓迎されなかった。本部採用職員(外国人)と現地採用職員(ネパール人)の間の給与格差をなくすという方針があるので、SNVの外国人職員の給与は決して高くない。一方、ネパール人職員の給与水準は国連並みに高い。地方在勤の同僚は、自身も遠隔地の出身で話の合う人が多かったが、首都在勤の同僚は、いわゆる「上流階級」の人で、自家用車通勤は当たり前、ネパール人同士でも英語で話し、地方への出張は極力しないという人も少なくなく、私とは話が合わなかった。

首都在勤でも補助的な仕事をする人たちは、漬物を作ったといっては分けてくれたり、家に呼んでくれたり、私にとって居心地にいい仲間だった。しかし、彼らが私に期待していたのは、単に親しく接するということではなく、「上流階級」出身、また一部の民族・カーストの職員から不当な扱いを受けていることや組織内の問題を、外国人なら変えてくれるのではないかということだった。低カースト出身の職員を増やすためのインターンシップ制度の導入など私にできることは提案したが、人事担当者など鍵になる部署が「上流階級」で占められているために、影響力はとても小さかった。力関係を変えるための障害がどこにあるかを考えると、ネパールの国家全体で起きていることと、組織内の問題は重なって見えた。

■一服

この年末年始は停電や、政治の停滞にイライラするより、何もないところでのんびりしようと思い、極西部平野のスクラファンタ国立公園に行った。大晦日と元旦は森林保護官や動物観察官宿舎の庭に張らせてもらったテントで迎えた。紛争前は年間1500人以上の観光客が訪れていたらしいが、今は年に10名程度しか行かないとあって、広大なジャングルで観光しているのは自分たちだけだった。

その後、インド国境や山間部の町を公共バスやジープを乗り継いで回った。予定時刻から出発までに2時間、目的地到着まで8時間バスに乗ることも何度かあったが、不思議なことにまったくイライラせず、窓から見る普通の農村風景と、こんなふうに過ごす時間が贅沢だと思えた。電気のない寒いロッジで寝袋にくるまっていても、1週間水浴びができなくても、何の文句もない。カトマンズを出ると、そろそろ十分だと思うようになったネパール生活が、また面白くなった。

休暇に入ってしばらくは、ファイル類を片付ける気力がなかった。引越しの日が迫り、出張中に撮ったビデオや、パソコンのメールBOXでの通信記録、膨大なファイルを片付けていて、「私はこんなこともしていたのか」と自分でも忘れていたことを見つけることがある。引越しの片付けも、面白いものが見つかれば、宝探しになる。

SNVで働いている間、「忙しい」を口実に、友人たちに不義理をしてきた。自分自身のためにやらねばならないことだけでも時間は足りないが、出発までの間、直接人と会って話をすることを優先しようと思った。最後の週末には個人的に付き合いのあった人やその家族を招いて交流会をする。子ども会活動の調査をしていた頃からよく知っている若者たち、人身売買のサバイバー、制憲議会議員になったゲイの活動家、歌垣レストランの歌手や、映画監督など、いろんな人に来てもらう。カースト、民族、職業、階級によって分断されがちなネパールにあって、バックグラウンドの異なる人たちが、私を通じてつながるきっかけになれば嬉しい。

■お知らせ

しばらく放り出していた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」(カトマンズ便り16参照)の4冊のネパール語本を日本語と英語に翻訳・編集してWEBサイトに載せました。ありふれた話ゆえ、かえって本にされることのなかった農村やカトマンズで紛争に巻き込まれた人の生活について紹介しています。ネパール語原本を書いた若者たちのほとんどが、これまで自分で書く作業をしたことのない人たちでした。それだけに私は大変苦労しましたが、時間を経て再読してみると、最近の政情に気をとられて紛争のことを忘れてはいけないという気持ちになります。まだ完全版ではありませんが、ぜひご覧ください。
http://nepalpeace.blogspot.com/

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カトマンズ便り24「交流」2008年7月12日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。ネパールは雨季の真っ最中で、蒸し暑い毎日です。

私は前回のネパール滞在中、何度かスタディツアーのお手伝いをしましたが、2004年に再びこちらに来てからは積極的に受け入れに関わってきませんでした。援助団体の職員であれば、支援先の現地団体に受け入れをお願いすることは難しくないですが、当時の私は個人で活動していたので、受け入れの便宜を図ってもらうのも個人的にお願いする他ありませんでした。参加した日本のみなさんに満足してもらうことはできても、受け入れ側ネパールの人たちの期待に応えることは難しかったです。スタディツアーの受け入れは出会いの場を演出する楽しい仕事でしたが、訪問する側である日本と、される側ネパールの、一向に縮まらない格差に苛立ちを感じることも少なくありませんでした。

ここ数年は日本とネパールの「交流」のお手伝いは休み、自分がネパールでできることに専念してきました。オランダのNGOの職員として働いていることもあり、日本も遠くなっています。来年初頭にネパールでの仕事を終えるにあたって、やり残したことは何かと考えたとき、もう一度「交流」に関わってみることにしました。私がこれまで勇気づけられたネパールの仲間と、その間、励まし続けてくれた日本のみなさんへの感謝の気持ちを伝えるには、双方の人たちがつながる場をつくるのが一番だと思ったからです。

今回ご案内するアジア女性資料センターのスタディツアーは、私が10年ぶりに企画と受け入れをします。訪問先は私が仕事で関わっている団体とは異なり、再び個人のネットワークを活かすわけですが、以前に比べればネパールの人が訪問者である日本人からどんな話を聞きたいかわかるようになったので、多少はネパール側の期待にも応えられるようになると思います。

日本からの参加者と現地のグループで「紛争下の女性への暴力と移行期の司法」に関する合同ワークショップや写真展の開催をします。私ひとりで受け入れるのではなく、ネパールで草の根の女性たちと働いている日本の若い女性たちにも協力してもらいます。従来のツアーとは違った、双方向性のあるものにすべくアイデアを出し合っているところです。

この通信は、通常は転送・回覧をお断りしていますが、後半部分は、転送を歓迎します。原油高騰の影響で海外旅行を控える人が増えているのか、まだ定員に余裕があります。7月23日が締め切りです。どうぞお知り合いに声をかけてください。

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アジア女性資料センター スタディツアー2008年夏

紛争から平和へ、王制から共和制へ 
−移行を担う人たちと出会う旅−

2008年8月23日(土)〜8月31日(日)(9日間)

10年に及ぶ紛争をへて、5月28日に王制を廃止し、共和制へと移行したネパール。

あらたな憲法を起草するための制憲議会のプロセスには、これまで草の根で活動していた民族・カースト・宗教の異なる人々が多く参加します。制憲議会議員の3割が女性です。

彼女たちは制憲議会にどんな期待を寄せているのでしょう?
彼女たちを送り出した村ではどのようなエンパワメントの実践が行われているのでしょうか?

ジェンダー、民主主義へのとりくみ、貧困、人身売買のサバイバーや歓楽街で働く女性の組織化、性的マイノリティの権利保障について、草の根の人権と紛争後の課題を中央での政治につなげようとする人たちから、力強い運動を展開する秘訣を聞きます。首都カトマンズだけでなく、村にも足をのばします。

紛争下の性暴力の問題にどう取り組むか、2000年に東京で行われた「女性国際戦犯法廷」の経験を共有する合同ワークショップ、「第1回やより賞」企画写真展「途上の旅 Nepal: Ongoing Journey」の現地展(写真:ウシャ・ティティクシュ、音楽:バルタ・ガンダルバ、企画:後藤由美)も計画しています。アジア女性資料センターならではの、対話と共有を重視したツアーを準備中です。

*「やより賞」については女たちの戦争と平和人権基金(http://www.wfphr.org)の、「女性国際戦犯法廷」についてはVAWW-NETジャパン(http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan)のホームページをご覧ください。

<訪問予定団体>
Mohilako-nimuti Mohila Manch(女性たちが集うフォーラム):カトマンズ市内のレストラン、ダンス・バー、マッサージ・パーラーで働く10代から20代前半の女性たちの当事者団体。歓楽街の女性たちが誇りをもって働ける社会の実現を目指している。メンバーには性的暴力の被害者、紛争避難民もいる。子どもをもつ女性のための託児施設の運営、健康相談、HIV/AIDSや性教育に関する講習を実施。

Shakti Samuha(力強いグループ):南アジアで最初にできた人身売買サバイバーの当事者団体。人身売買防止のための少女グループの育成、サバイバーの社会復帰支援、加害者に対する罰則規定の法制化のためのロビー活動を行っている。

Mithini(女友だち):女性の性的マイノリティの当事者団体。2007年末、最高裁判所が国に対して性的マイノリティに平等の権利を保障するための法制化と差別的な法律の改正を命じる判決を下した際、他の当事者団体とともにロビー活動を行った。

Didi Bahini(姉妹):ジェンダー分野での研修や人材育成を行う。アジア女性資料センターの協力でネパールの女性NGOのダイレクトリーを発行したことがある。制憲議会の女性議員のリソース・センターとして、議会の仕組みや、調査・情報収集・交渉の方法などの相談にのっている。

Women’s Rehabilitation Centre (WOREC、女性たちの社会復帰センター):1990年の民主化直後にできた女性NGOのひとつとして、当事者団体や草の根の女性人権活動家の全国ネットワークの育成に貢献している。

■募集要項

○旅行期間:2008年8月23日(土)〜8月31日(日)(9日間)
○参加費:248,000円(予定)
 ※原油高騰により、燃油サーチャージが値上がりすることがあります。
 ※会員でない方は、参加費とは別に会費8,000円が必要です。
○最低催行人数:10名
○お申込み締切:2008年7月23日(水)(定員16名になり次第締切ります)
○お申込み方法:アジア女性資料センターまで末尾の申し込みフォームを送付してください。

■日程表(航空会社、現地の事情などにより予定が変更になる場合があります)

8/23(土)午前 成田発、タイ航空でバンコクへ移動、バンコク泊
8/24(日)午前 バンコク発、 昼 カトマンズ着、オリエンテーション、世界文化遺産観光、カトマンズ泊
8/25(月)午前 女性たちが集うフォーラム訪問、午後 シャクティ・サムハ訪問、カトマンズ泊
8/26(火)終日 シャクティ・サムハの活動村を訪問、郊外の村泊
8/27(水)午前 村の女性グループ訪問、午後カトマンズ市内観光、カトマンズ泊
8/28(木)午前 「やより賞」受賞者ウシャさんらと写真展およびワークショップ、午後 性的マイノリティの団体訪問、交流パーティー、カトマンズ泊
8/29(金)午前 制憲議会の女性議員とDidi Bahiniにて面会、午後 WORECで女性NGOの役割について意見交換
8/30(土)午前 ツアーの振り返り、午後 カトマンズ発、夜バンコクで乗り継ぎ
8/31(日)早朝 成田着

その他、詳細は以下のホームページをご覧ください。
http://ajwrc.org/jp/modules/bulletin4/index.php?page=article&storyid=33

■申し込みフォーム

お名前:
パスポート番号:
お名前のパスポート記載ローマ字表記:
住所:
電話番号:
ファックス:
Eメール:
アジア女性資料センターの 会員/非会員

**************************************
アジア女性資料センター
〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町14-10-211
TEL:03-3780-5245 FAX:03-3463-9752
E-mail:ajwrc@ajwrc.org   http://www.ajwrc.org/
好評新刊!『女たちの21世紀』54号【特集】ジェンダーから見る住まい・居住権
http://ajwrc.org/jp/modules/myalbum/photo.php?lid=139&cid=4

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カトマンズ便り23「転換」 2008年6月1日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。薄紫色の花をつけていたジャガランタが散り、そろそろ季節の変わり目ですが、今年はなかなか雨が降らず、毎日とても暑いです。日本でも一部報じられた制憲議会についてお伝えします。

■包摂

昨年10月、二度目の選挙延期が発表されたとき、私は中西部のカリコット郡にいた。首都から遠く離れた郡庁所在地で、延期に反対する集会が開かれた。政党間の合意形成ができておらず、実施できる状況にないことはわかっていたが「このまま選挙が行われなかったら、どうなるのか」と、みな不安を口にしていた。その後、なかなか選挙日程が決まらなかったが、ネパール暦2064年の年末にあたる4月10日を投票日とすることが発表されると、今度こそ是が非でも選挙を実施しなければ、という気運が盛り上がっていった。

ラジオやテレビ、新聞によるキャンペーンは、「投票に行きましょう」というだけでなく、多様な民族・カースト・宗教・性別・出身地・障害の有無といった差別を乗り越え、それぞれの立場を尊重し、共存していくことを目指す「ソーシャル・インクルージョン」(社会的包摂)」が選挙の焦点であることを訴えていた。「王制支持者にも機会を与えることが、この選挙の特徴です」という広報もあった。

過去の国政選挙は「既成の政党政治家」の舞台だったが、新しいネパールのために憲法を起草する制憲議会には、多様なネパール人の参加が不可欠だ。各党は、定められた基準を満たすよう名簿を準備した。小選挙区(議席数240)でマオイストから当選した議員には、女性や若い議員が少なくなかった。比例区(同335)では、共産党系政党から、女性NGOの活動家、民族団体や性的マイノリティ団体のリーダーなど私と面識のある人も多く立候補した。女性議員の割合は1999年の国政選挙当時の5.8%から34%、に増えた。ジャナジャティ(非ヒンドゥの民族)も同様に24%から34%へと議員の割合を飛躍的に拡大させた。総議席数601のうち、任命制26議席に誰を指名するのかまだ結論が出ていないため、全議員の分析は発表されていない。ジャナジャティの連合体は、ひとりも代表を送ることのできなかった28の民族の代表を任命枠に入れるよう政党に圧力をかけている。

■余波

直前に候補者が殺されたり、投票所が襲撃されて日程変更あるいは再投票となった所もあったが、投票率は6割を越えた。選挙は平穏に行われたというのが大方の見方だったが、選挙から2週間後、東部イラム郡で選挙監視員をしていた人から、不正もあったという話を聞いた。市民権証などIDを選挙人名簿との本人照合に使う必要がなかったために、出稼ぎによる不在者や他人のふりをして投票することが簡単にできたという。

投票では親指に油性の黒い印をつけて重複投票を防ぐことになっているが、ベンジンなど使えばそれも簡単に消せたので、ひとりで7回も投票した者がいたそうだ。投票日の明け方まで村で爆破騒ぎがあり、眠らず投票日を迎えたとか、投票所の列に並んでいるときでさえ、前後にいるマオイストから脅迫されたという話も聞いた。それでも東部丘陵地帯は、全国的に見て最もマオストの得票率が低く、小選挙区でひとりも当選しなかった。マオイストに投票しなかった村人への制裁として、マオイストが給水管を止めるという事件が何ケ所かで起きた。

マオイスト支持が低い地域であるにも関わらず、郡庁所在地にある大学の教職員組合が制憲議会選挙後に分裂し、マオイスト系組合を組織した。マオイストは知識人の勧誘を進めており、彼らもそれに乗じたものと思われる。選挙から1ケ月後、組合問題が地元のFMで報じられた直後、私はこの街に出張した。学生のひとりは「選挙前にマオイストになるなら、本人の主義主張の話だと思って納得するけれど、結果が出た後でマオイストを支持するなんて、日和見主義者だとしか思えない。尊敬していた先生に裏切られた気持ちだ」と語った。

実は、私もこの学生と同じようにショックを受けた。マオイスト系組合をつくった教員のひとりは、これまで1年半一緒に仕事をしてきた人権関連NGOの弁護士だったからだ。誘拐事件の人質釈放や、民族主義武装組織との交渉、村人同士の和解など、新聞だけ読んでいてはわからない話をしてくれる彼は、平和構築の実践を教えてくれる人でもあった。そのNGOの仲間は、私以上にショックを受けていた。本人と直接話をする機会がないので、どういう経緯でそういう決断をしたのかわからないが、選挙の影響のひとつであることには違いないだろう。

■寛容

5月28日、朝11時開始予定だった制憲議会は午後9時半にようやく始まった。議場にいるはずの知人の姿を探しつつテレビ中継を見た。賛成560票、反対4票で、連邦民主共和制への移行、王制の廃止が決定された。議場には僧衣をまとったチベット僧、髪をショールで隠したムスリムの女性、ドティという腰巻姿のタライの男性、民族衣装を着たジャナジャティの人たち、カラフルなサリーをまとったタライ出身の女性、ユニフォームであるグレーのブレザーを着たマオイストの議員が集まっている。若者も増え、ダルワ・スルワにトピ(帽子)をかぶった恰幅のいい男性が大半だった以前の国会とは違う風景だ。障害をもった議員が選出されなかったり、「自分たちの代表がいない」と主張する人もいるが、ネパール中のかなりの人々の声を反映すべく、多様な人が議員になったことは疑いない。数年前まで敵対していた政党の議員が隣あって座っているのを見ると、よく対話を続けたなと感心する。

私が最初にネパールで暮らし始めたとき「小さなことに腹を立てていてはいけない」と言って、ヒンドゥ経典『ギタ』の説教会に連れて行ってくれた人がいた。当時の語彙ではほとんど理解できなかったが、人を許す寛容さ、がその教えだった。ネパールでは「ありがとう」という言葉も口にしないが、もっと聞かないのは「ごめんなさい」だ。明らかに一方に非があると思うときでも、沈黙のあと、何ごともなかったかのように当事者同士が話をしている場面に出くわすことがある。かつてマオイスト掃討作戦を指示した政治家が、マオイストのリーダーと議場で歓談している姿は、私の中ですっきりとは理解しがたいが、これもネパールの人の寛容さなのだろうか。

■展望

連邦共和制といっても、いくつ連邦ができるのか、中央国家の権限はどこまであるのかなど、中身は何も決まっていない。初日の議決は、国の進むべき方向を決める、いわば総論の合意だけだ。民族を主体とした連邦制になるのか、河川流域など資源管理はどうするのかといった各論はこれからだ。それでも、人民戦争が始まった当初、実施されるとは到底思えなかった制憲議会を開き、多様なネパールの人たちの代表が憲法を起草しようとしている。道のりは長いが、ネパールが「間違った方向」に進んでいないことだけは確かだ。だから、みな辛抱強く対話できるのだろう。ネパールの転換期を体感できた喜びを感じると同時に、日本に戻ったとき、こんな高揚感を味わうことが果たしてあるだろうかと思う。

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カトマンズ便り22「お知らせ」 2008年3月17日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。カトマンズは暖かくなり、日中は半袖でも汗ばむほどの陽気です。

チベット、パキスタン、スリランカと、ネパール近隣の政情が悪化していますが、ここでは4月10日にせまった制憲議会選挙まであと3週間あまりとなり、是が非でも選挙実施という態勢になってきました。候補者名簿も出揃い、ラジオでは「国の将来を決める大切な選挙です。あなたも一票を投じましょう」といった呼びかけのほか、政策綱領の比較や、視聴者からの選挙に関する質問に答える討論など、興味深い番組が放送されています。選挙が無事に実施されたら、次回の便りで詳しくお知らせします。

さて、今回は「ワールド・スイム・アゲインスト・マラリア」というイベントのお知らせです。「『カトマンズ便り』でなぜマラリアの話?」と思われる方もあるでしょう。カトマンズでマラリアに罹ることはまずありませんが、ネパールでもインド国境に近いタライ平野では毎年マラリアで命を落とす人がいます。

私自身が、ガーナ在勤中にマラリアで命を落としそうになったことも、このイベントを応援する理由です。
そのときの様子を綴った「ボルガタンガ便り」は、コンセプトワークショップ 佐藤修さんのホームページでご覧いただけます。
http://homepage2.nifty.com/CWS/bolgatanga.htm

この通信は、通常は転送・回覧をお断りしていますが、この号の後半部分は、どうぞできるだけ多くの方に転送してください。イベント終了後、自分の募金がどの国のどの地方の蚊帳の購入に使われたか、いつ、どの団体が配布したかのお知らせが事務局から届くほか、各国での配布状況をホームページで詳しく検索することができます。

私が2005年にした募金は、カトマンズの南東にあるマホタリ郡の村での蚊帳の配布に使われたそうです。私が住んでいたガーナ北部でも配布作業が続いているようです。
今年は、私もカトマンズで唯一と言われる温水プールで4月5日に泳いでみようと思っています。

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泳ぐことで救える命がある。
ワールド・スイム・アゲンスト・マラリア2008
世界中の人々と一緒に泳ぎましょう!

<前回の活動>

2005年12月3日前後に、マラリアで苦しむ人々を救うという目的のために、世界中で25万人以上の人々が一斉に泳ぎました。日本でも全国各地で3万2,829人が参加し、4,563,361円の寄付を集め、蚊帳7,605張を購入することができました。 皆様からいただいた募金は世界中で約200万米ドルになり、40万張もの蚊帳が現在もマラリアで苦しむ人々のベッドに取り付けられています。

前回泳いでくださった方は、こちら(www.worldswimagainstmalaria.com)の左上の検索欄に、あなたが以前に登録したスイム名を入れると、その募金で何張の蚊帳が買え、どこに辿り着いたかを写真やビデオ付きで見ることができます。あなたのスイムで、何人の命が救えたのでしょうか・・・?

次のワールド・スイムは2008年4月5日(土)に予定されています。

今でも、マラリアは世界中で多くの人々の命を脅かしています。1張600円の蚊帳があれば防げるのに、その蚊帳を買えずに命を落とす人たちが毎年100〜300万人はいると言われています。 しかも、その70%が5歳以下の子どもたちです。

子どもたちでいっぱいのジャンボジェット機が、1日に7機墜落しているのと同じこと。

4月5日、またはその前後に、世界中の人々と一緒に、マラリア予防のための蚊帳を贈るために、泳ぎましょう。

目標は世界中で100万人が一斉に泳ぐこと。4月5日当日でなくてもOKです。

普段からよく泳ぐ方、ジムやチームに所属している方は・・・ チームメイトや、スイミングクラブのお友達を誘って、ウェブ登録し、泳いでください。特別にイベントを作らなくても、普段の練習を、「今日だけは誰かのために泳ぐ日」と決めて、募金してください。

チームなどに所属していない方、普段滅多に泳ぎに行かない方は・・・ 久しぶりに泳いでみませんか?お近くのプールで、ご家族やお友達を誘って泳いでください。もちろん一人でも。目標を決めて長く泳いでもいいですし、1mでも、バタ足でも水中ウォーキングでもいいのです。

この日は世界中の人々と一緒に、自分のためではなく、世界で苦しむ人々のために、泳ぎましょう!


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カトマンズ便り21 「幕引き」 2008年2月9日 在ネパール 田中雅子
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こんにちは。こちらは1月末から冷え込みの厳しい日が続きましたが、数日前から寒さがやわらぎました。1日8時間以上の計画停電、2ケ月後に控えた制憲議会選挙をめぐる混乱など、あまり良いニュースはありませんが、おかげさまで元気にしています。今回は仕事の途中経過です。

■役回り
私は運命というのは信じないたちだが、似たような仕事が自分に与えられる廻り合わせがあるな、と感じることがある。秋から今まで私の頭を悩ませているのは、勤務先のSNVが15年にわたって関わってきたチェパンという先住民への支援の終了と、関係のあり方について振り返る文書の作成だ。私が就職した時は同僚たちに課された作業だったが、彼らが転職・転勤したり、支援を「終了」させることができなかったり、文書にまとめる作業が苦手だという理由からまったく着手されておらず、昨年秋になって私が担当することになった。

この仕事は年初に作られた私の業務契約には入っていなかったが、私と同年だった所長が脳腫瘍で急死し、次期所長が決まるまでの半年間、チェパン支援に力を入れていたかつての所長が7年ぶりに再赴任して状況が変わった。今でこそ先住民支援は珍しくないが、15年にわたって関わりをもってきたというのはネパールの外国援助機関の中では他に例がない。それが中途半端な形で終了を迎えようとしていることを懸念した彼から、これまでの成果や教訓についてまとめるべきだと言われ、繁忙期でも言い訳せずにやるしかないなと思った。

■流儀
バングラデシュで働いていた頃、20年にわたる協力関係に区切りをつけ、母子保健センターの財政自立の過程を読みやすい物語にまとめる作業をした。任期終了間際の慌しい時期だったが、英語とベンガル語で出版した小冊子を事業終了のお知らせとともにさまざまな団体に送ったところ、それまで縁のなかった人がセンターを見学に訪れるなど、予想外の反応があった。

支援の終了はいかなる場合でも、職を失う現地スタッフや、外部支援があって当然だと考えていた住民にとって、嬉しい知らせであるはずがない。それでも刷り上ったばかりの冊子を村のリーダーや、やる気を失くしていたスタッフに渡したとき、「今までこんなに自分たちの働きをよく見ていてくれたのか」と涙を浮かべてお礼を言われた。そこに描かれた成功物語の主人公は彼らなのだから、お礼を言うのは私のほうだった。

その事業は総論で見れば失敗ではなく「ハッピーエンド」だと言えるが、「さらなる自立発展のため」、「新しい章が始まるのだ」と言われても、関わった個々人にとって、幕引きは辛いものだ。それでも、別れ際の流儀次第で、感情的な摩擦をわずかでも和らげることができれば、去っていく側の私も、後ろ髪をひかれる気持ちが多少でも軽くなる。私が支援終了時にみんなが読めるような物語を残すのは、仕事上の評価や学術的意味づけというより、自分の気持ちの整理のためだ。

■退化
今回の作業は困難極まりなかった。自分で冊子の内容を決めることができたバングラデシュのときと違い、私以外に、出版予算を負担する地域事務所(在ベトナム)の担当者や、現地に出かけてインタビューをしたり初期段階で文書をまとめる人など、関わる人が多い分だけ合意形成ができず、責任の範囲に誤解があったりと、ほぼ予想していた問題が重なって時間ばかりかかり、空中分解しそうになった。パニックになりかけていたところ、くだんの所長が代替案を出してくれたおかげで、何とか文書の体裁はできた。

作業はあらゆる段階でつまづいたが、もっとも消耗したのは「新しい情報ほど、確かなものが得にくい」というジレンマだった。10年ほど前まで、組織間の連絡は個人ではなく責任者の署名入りで行われ、FAXなど通信文書の原本をきちんと送受信元を区別してファイルしていた。ところが、電子メールが日常の連絡に使われるようになり、組織というより個人ベースでの通信が増え、電子ファイルでの文書保存が当たり前になった年代のものを探そうとすると、どれが最終版だったのか、その決定に至るまで誰がどういうやりとりをしたのか、という過程を追いにくくなった。もちろん、電子ファイル、メールを使っても、管理の行き届いた組織なら、そんな問題は起きないのだろうが、残念ながら私の職場は人の出入りも多く、お世辞にも文書管理が良いとは言えない。古い資料のほうが整理が行き届いていて探しやすく、内容にも信頼が置けたというのは皮肉だ。

■進化
まだ作業中ではあるけれど、物語というよりは、半分は団体の紹介、組織内部での学習文書という性格になってしまったため、英語版からネパール語版を作ったあとでも、これを見て涙をうかべる人がいるとは到底思えない。それでも、情報確認をする過程で、チェパン協会の若者たちとは、壊れかけていた関係を修復できたように思う。

この作業をきちんと終わらせねばと、強く心を動かされたのは、かつて事業に関わったスタッフからのメールの返事だった。事業立ち上げ当初の責任者だったネパール人の男性は現在SNVのガーナ事務所で働いているが、すぐに回顧録を送ってくれた。最初に村の実態調査をしたオランダ人の女性はもうSNVを離れているが、草稿に細かい助言をくれた。作業の前半「メールの時代」になったことを恨んでいたが、面識のない人たちにすぐオンライン・インタビューができたり、世界のどこかから、草稿に返事がもらえるのは悪くない。使う者と、その使い方次第だな、と思った。

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カトマンズ便り20 「日本」2007年12月9日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。年末を迎え、ご多忙と思いますが、いかがお過ごしですか。ネパールは
例年より早く冬がきました。雨季が終わり、寒くなるまでの間が一番良い季節です
が、2度の長期祭日の前後に出張が集中します。そんなわけで暑中見舞いのあとが、
年の瀬の挨拶となってしまい、すみません。

私はこの1年病気もせず平穏に過ごしましたが、今年は私と縁のあるところで続けて
災害が起きました。夏にネパール各地で洪水と土砂崩れの被害が出たほか、10月には
バングラデシュ在勤中の事業地だったクルナ、ボリシャル地方の沿岸・島嶼部がサイ
クロンに見舞われ、3000人以上の人命が奪われました。現地で救援・復興支援に携わ
るかつての同僚たちを遠くから励ますしかありません。何より驚いたのは、私が住ん
でいたボルガタンガ周辺を含む西アフリカの内陸部で夏に洪水が起きたことです。サ
バンナのガーナ北部が洪水だと聞いたときは信じられず、BBCの特派員がボートに
乗ってテレビ中継していたときも自分の目を疑いました。現地から「家を失い、未だ
に岩かげや窪地で暮らす人がいる」というメールが届きます。災害に慣れていない彼
らが生活再建をどう進めるのか心配です。

さて、オランダの団体で働いて2年が過ぎ、私と日本との接点は減っていますが、出
張先では日本人ゆえに考えさせられることがあります。今回は食糧援助として配布さ
れている日本の「援助米」を取り上げます。

■辺境
11月に予定されていた制憲議会選挙は再び延期になったが、その直前「選挙教育」の
一環としてラジオで啓発番組が放送されていた。ある党の女性議員へのインタビュー
で番組のホストが「あなたは女性の利益を代弁していると言うが、カルナリみたいな
辺鄙なところに住む女性たちのことをどれだけ理解しているのか」と聞いた。ネパー
ル中西部の山岳地帯カルナリ地方は、チベットと国境を接する最果ての地だ。カトマ
ンズからの直線距離では極西部のほうが遠いが、郡庁所在地までのアクセスはカルナ
リのほうが悪く、心理的な距離は遠い。カルナリは辺境地の代名詞だ。

1月、初めてのカルナリ出張でジュムラ郡に出かけた。1年中通行できる道がないた
め、大抵は空路を利用することになる。空港といっても滑走路が未舗装なので、天候
によっては離着陸できない。旅客よりも貨物のほうが儲かるので、大口貨物が優先
だ。私が乗った飛行機は、乗客が降りた途端、すべての座席を機体からはずし、イン
ドに輸出する薬草を積み込んで給油地スルケットの空港へ戻っていった。食糧公社の
倉庫があるスルケットからは折り返し米が運ばれてくるのだ。

空港から歩いてバザールに向かうと、マオイストに爆破された郡開発委員会の事務所
跡の瓦礫がそのままになっていた。マオイストの脅迫で出ていかざるを得なかった有
力政治家の自宅は閉ざされたままだ。バザール特有の活気はあるものの、どこか物悲
しい。ここは11世紀から14世紀にかけて、現在のチベット西部からインド領に及ぶ地
域を支配したカス王国の中心だった。今は村はずれとなったあぜ道に当時の石碑が
残っている。霜柱がおりた荒地からはかつての繁栄は想像できないが、「最も純粋な
ネパール語(カス語)を話すのは、我々だけだ」というおじいさんの言葉に、カルナ
リの人々の誇りと中央への反発を感じた。

■日の丸
氷点下10度近くまで冷えこむので、顔を洗おうにも朝は屋上タンクから配水管まで
凍っている。湯たんぽの水で洗面を済ます。寒さゆえに地元の人も朝の出足は遅い。
午後風が強くなると気温が下がるので、夕方も早めに仕事を切り上げる。郡庁所在地
でさえ電化されていないため、満天の星を見るには絶好の場所だ。しかし、寒くてそ
れどころではない。薪を燃やす煙にむせながらも、竈の脇から離れずご飯を食べた
ら、あとは寝袋、毛布、布団と、重ねた寝具にくるまって早く寝るしかない。

この地方はネパール東部に比べて降水量が少なく、強い陽射しを受ける南面は乾き
切って植物が育たない。飛行機から見わたしたときも北面にしか樹木がなく、荒涼と
した景色だった。りんごの栽培には適した気候らしいが、空輸するにはコストがかか
りすぎ、貯蔵庫や加工設備もないため、りんごを流通させることができていない。お
茶屋でそんな話を聞いていたとき、ガラス窓に日の丸を見つけた。「日本の人々より
(From the people of Japan)」という文字とともに日の丸がプリントされたステッ
カーが窓ガラスの割れた部分をふさぐのに使われていた。。

以前、日本の政府開発援助(ODA)によって供与された物品には、地球を両手で抱えた
ODAのロゴが使われていた。私がJICAから派遣されてガーナで働いていたときに携行
したパソコンには、ODAのロゴ入りステッカーがついていたが、最近は日の丸に取っ
て代わられたのだろうか。

日も暮れた頃お茶屋を出ると、ふたりの年老いた女性が、重そうな麻袋を背負って通
りすぎた。日の丸のステッカーがついた袋を運ぶ彼女たちについてしばらく行くと、
警察本部に着いた。日の丸の行方を確かめようと、カメラを取り出したところで、武
装警察から入るなと止められた。

カトマンズの有機食材レストランで「ジュムラ風ダル・バート」というメニューをみ
つけ、粒が小さくとも味の良い赤米を食べたことがある。ジュムラにいる間、在来種
の赤米や、蕎麦粉で焼いたロティを出してくれるところはないか尋ねてみたが、いず
れも収量が少なく、都市に送ったほうが高く売れるため、ここではまず口にすること
ができないと言われた。

■隊商
雪が降り始める前にということで、先月ジュムラより北のチベット国境沿いにあるド
ルパ郡に出張した。2000年のアカデミー賞外国語映画部門ノミネート作品でもあるフ
ランス映画『ヒマラヤ(邦題キャラバン)』の舞台になったところだ。75郡の中で最
も面積は広いが、人口は3万人、人口密度は1キロ平方メートルあたりわずか4人だ。
湖や古い僧院など観光資源も豊かなところだが、郡庁所在地ドゥナイまではカトマン
ズから飛行機を乗り継ぎ、地元の空港からさらに3時間歩かねばならないため、訪れ
る人は少ない。

多数派を占めるチベット系住民は、塩を運ぶキャラバンで生計を立てていたが、近年
は漢方薬として使われる冬虫夏草の採集で収入を得ている。小指くらいの大きさのも
の1本が500円、キロあたり25万円相当と高額で取引されるため、その採集に従事す
る者は「12日働けば12ケ月暮らせる」と言われる。シーズン中は子どもでも数万円分
の現金をポケットに入れて歩いているという。各地の紛争の陰に麻薬やダイアモンド
の取引があるように、マオイストは冬虫夏草の取引に「課税」することで、莫大な資
金を得てきたと言われる。これだけの「資源」がありながらも、ここには道路や医療
施設はなく、生活は厳しく見える。

■苦情
日照時間の少ない谷間の村での仕事を終え、ドルパの空港で飛行機を待っていたとき
のこと、乗客よりも出迎え人が多いのに気がついた。無線兼警備室の掘っ立て小屋以
外に建物のない、原っぱとしか表現のしようのない空港だが、大襲撃を受けたことの
ある郡だけあって、他のところよりセキュリティ・チェックは厳しく、パスポートを
見せねばならなかった。私が日本人だとわかると、手ぶらで飛行機を待っている男性
が話しかけてきた。

「次の飛行機で日本米が来るんだ」と言う。ドルパ郡の食糧公社の責任者だった。こ
んなに広い郡で米の配布は大変だろうと尋ねると、バザールで売るだけだからそうで
もないと言う。誰でも買えるという建前らしいが、公務員は25%割引の優遇措置があ
るというから、地元出身でない軍や警察、公務員が食べる分を除いたらあまり残らな
いのではないかと思う。

食糧公社経由で販売される米は3種類ある。キロあたり38ルピー(80円程度)で販売
されるのは、平野でとれるマンスリという品種のものだ。次は31ルピーで売られる日
本からの援助米。最も安い29ルピーで売られるのが、インドから来るパーボイルド米
(虫がつかぬよう、また調理時間が短くすむよう、一旦茹でて乾かした米)だ。この
米はバングラデシュでは一般的だが、ネパールの人は好まない。みなが好きな米が一
番高いというわけだ。

私たちが米の話をしていると気づいた他の人たちが会話に加わる。「日本ではどうし
てあんなまずい品種の米しか作らないのか」と聞かれ、日本では炊き方も好みも違う
ことを伝える。ネパールでは高地に行くほど、水分の少ないパラパラなご飯を好むよ
うに思う。「日本から援助してくれるにしても、他の米を送ってくれればいいのに、
なんで日本から米を送るのか」、「ここで十分な食糧ができるように灌漑施設を作っ
てくれればいいのに」、「道路を作ってくれれば、タライやインドの米を運べる
さ」。私も長年疑問に思っていることばかりだ。

■依存
ネパールには1970年以来食糧援助が行われている。2005年度までに18回、69.2億円相
当が供与されている。この間ずっと日本から米が送られていたのかどうかわからない
が、旱魃や災害直後ならいざ知らず、35年の長期にわたって食糧援助が続いているの
は理解しがたい。「山岳、丘陵地帯等の地理的に不利な条件にある地域では食糧不足
が深刻な状態にある。このような状態を改善するため、ネパール政府は、米の購入に
必要な資金につき、わが国政府に対し無償資金協力を要請した」といった内容のプレ
スリリースが外務省から出されているが、本当にカルナリの食糧事情を改善する気が
あるならば、無償で食糧を配布するだけの援助はもうそろそろ止めるべきではないか
と思う。地形上道路建設が難しいカルナリであっても30年もあれば、郡庁所在地まで
の道路くらいはできたのではないか。

ヘリコプターや飛行機で米がやってくることになったことは、麦焦がしや、じゃがい
も、蕎麦を主食にしてきたこの地域の人の食生活を変えただけでなく、「カルナリ=
食糧さえ不足する辺境の地」というイメージを作り上げた。今年も何度か、全国紙に
食糧輸送の写真が載った。中央から派遣される軍や警察、政府の役人たちが、カルナ
リに赴任したがらないため、米を送るようになったという言う人もいる。

ずいぶん前のことだが、地元でロビー活動をする人に「2010年までに食糧援助のいら
ないカルナリにするキャンペーンをしない?」と聞いてみたことがある。「あの米の
ことには触れられないよ」と彼が前置きして説明したのは、日本側のことではなくネ
パールの航空貨物会社など、中間で利益を上げているマフィアの存在だ。彼に会う直
前、輸送ビジネスの影には元国会議員がいることが英字新聞に載っていたのを思い出
し、ネパール側にも問題があることを知った。

■「政府」と「人々」
この食糧援助に関してODAだから悪いと言いたいのではない。ODAでも、カルナリのよ
うな辺境地で人々の反応を直に感じながら働くことが可能だということは、ガーナで
身をもって経験しているので、NGO=善、ODA=悪といった単純な二分法を振りかざす
つもりも毛頭ない。

日の丸のスッテッカーがついた米袋を見て私がとても居心地が悪く感じたのは「日本
の人々より」と書いてあったことだ。灌漑や道路など他のことに支援してくれたらど
れだけいいだろうと思われつつ、現地の人が美味しくないと感じる米を送り続ける食
糧援助が、「政府から」ではなく、私も含む「人々から」とされていることに憤りを
感じた。日本の「人々」は、こんな援助をずっと続けている「政府」に一言物申すべ
きではないかと。

私が乗る便はどっちから飛んでくるのだろうと、空を見上げていたところ、飛行機は
斜面の下から突然姿を現した。ネパールの山岳部で飛行機に乗っていると、山は目線
より高いところにあり、バスに乗っているような錯覚に陥る。日本人にもおなじみの
観光地ポカラから到着した飛行機に乗客はひとりもおらず、日の丸のついた麻袋だけ
が降ろされた。こぼれた米を見ると粒の短い日本米だった。その様子を写真に撮って
いるうちに、地元の乗客が麻袋の山をタラップ代わりに踏みつけて先を争うように乗
り込み始めた。最後の乗客となった私が乗った機内には、袋からこぼれた日本米が床
一面に広がっていた。


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カトマンズ便り19「相互作用」 2007年8月8日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。日本も暑いようですが、みなさまいかがお過ごしですか。

こちらは7月に雨が続き、ネパール南部タライ平野は洪水の被害が出ています。銀行など民間企業が職場で募金をし、新聞社を経由して救援団体に送ったという話が連日新聞に載ります。「途上国」での災害と言うと、全面的に外国援助に頼っているのではないかと思われる方もあるでしょうが、規模は小さくとも、現地で募金活動が行われています。敏感に反応するのは、中流以下に多く、富裕層の関心は低いというのが私の実感です。

カトマンズの下町での住民ボランティア活動について書いた拙稿が、月刊『都市問題』8月号(東京市政調査会)に掲載されました。機会があればお読みください。http://www.timr.or.jp

さて、今回はカトマンズ市内でチェーン展開をするベーカリー・カフェ(Bakery Cafe)というレストランで働く人たちを紹介します。

■ろう者のウェイター

1999年のはじめ、ネパール東部の町ダランのろうあ学校を訪れたことがある。手話通訳の助けを借りて生徒に将来の夢を聞いたところ、男子生徒の一人が「一般の人たちとふれあいながら働けるウェイターの仕事をしたい」と言った。学校側は看板描きなど顧客と接触が少ない仕事ばかり奨励していたようだが、ろう者を積極的に雇用していたカトマンズのベーカリー・カフェのことは、憧れの職場として、すでに彼らにも伝わっていた。

1997年にろう者をウェイターとして雇いはじめたこのレストランは、地元のアーティストの作品を展示したり、子ども用のスペースを設けたり、空腹を満たす場としてだけでなく、しゃれた憩いの空間として人気をよんだ。他のファースト・フード店との差別化に成功、店舗を増設し、今では12ケ所に広がっている。その半数以上の店で60名を越えるろう者が働いており、接客責任者であるボーイ長(Captain)に昇進した者も5名いる。全従業員に占めるろう者の割合は20%に及ぶ。他に小人症の人も3名雇っている。

厨房から顔を出したコックと料理を確認するウェイターが手話で話をしているのを初めて見たときは、驚いた。注文するときは、メニューを指差し、数量を指で示せば済む。大抵の客はこれで用が足りるが、必要とあれば話のできる従業員がくる。「私たちの従業員は特別な人たちです。彼らは聴覚に障碍があり、話すことができません。身ぶりで合図をしてくださるようご協力お願いします」。店の入り口にはニコニコマークの入った注意書きがあるが、それに気づかない客も多いほど、店内のコミュニケーションはスムーズだ。

従業員同士のおしゃべりも手話だ。みなが同時に笑っているところを見ると、冗談を言い合ったりしているのだろう。先述のろうあ学校を訪れたとき、「同じ障碍をもつ生徒だけでなく、自分の家族や近所に住む人に手話を教えるための教室を作ってほしい」と生徒からリクエストがあった。彼らが他の人たちと話をしたいという気持ちは伝わってきたが、どんな環境を整えればよいのかイメージできなかった。レストランという大勢の人が行き交う場で、それがすでに具体化されていたことは、私にとって衝撃にも近かった。

■社長と面会

私が職場で社会排除に関する研修をするとき、このレストランの話から始める。差別されがちな人だけが力をつけて変わるのではなく、差別していた側の人たちが変化することによって関係が変わるという格好の事例だからだ。カーストや民族の話は食傷気味だと感じている人たちも、興味をもって聞いてくれる。

社会排除の研究者の知人にこの話をしたところ、一度経営者と会って動機について聞いてみてはどうかとアドバイスされた。「ナングロ・インターナショナル」という会社は、12のレストラン、パン工場、リゾート施設だけでなく、私立学校も経営している。社長のシャム・カクチャパティさんは、外遊が多く、なかなか約束をとりつけられなかったが、先週近所を歩いていて、その会社の本社が意外にも我が家の近所にあることに気づいた。不躾ではあったが、社長秘書に会って用件を伝えたところ、面会約束をとりつけてくれた。

住宅街にある2階建ての本社社屋は土足厳禁。ネワールの人が好む別珍のスリッパに履きかえて社長室に通される。ティー・ポットのコレクションや写真が掲げられた部屋は、職場というより趣味のいいリビングという感じだ。シャムさんは背広ではなく、ラフな格好をしていたが、十分貫禄があった。援助業界で出会う人と印象が違うのは、社長自ら、サービス業は接客がすべてだということを実践しているからだろう。何より気持ちが良かったのは、経験に基いた自分自身の言葉で話をしてくれたことだ。

■動機

シャムさんが飲食業に関わるようになったのは30年以上前のこと。自分の店を経営するだけでなく、レストラン協会の会長など要職にも就いた。同協会では、様々なイベントを実施していたが、例年入場券を購入せず来場する人が多いことに頭を悩ませていた。ある時、友人がろう者を出入口の係員として雇えば、ごまかして入場する者を防ぐことができると教えてくれた。どんな理屈を言おうが、彼らの前では問答無用、入場券の有無だけをチェックするので、ごまかしがきかない。半信半疑ながら雇ってみたところ、ろう者の係員による入場制限は厳しく、イベントの成功にもつながった。ネパールのろうあ者協会との付き合いが始まったのは、17年前のことだ。

イベントだけでなく、通常営業しているレストランでも彼らを雇おうと考えた。1997年、ナヤ・バネソワール店を開店するにあたって、開店初日からろう者のウェイターで対応できるよう、まずは幹部職員12人が手話を勉強することにした。シャムさん自身も含め、コック長、会計、マネージャーなどみなで毎朝2時間、3ケ月の特訓を受けた。それでも、こみいった話をするには十分でなかったので、この試みから2年の間は、手話通訳者を雇った。今は手話を使えるだけでなく、教えることのできる従業員が増えたので、自前の研修でほぼすべての職員に手話を学ぶ機会が与えられているという。

よく「聴覚に障碍をもつ家族がいたのですか」と聞かれるそうだが、彼とろう者の出会いは上述のイベントの一件が最初だった。障碍をもつ人や、低カースト、ネパール語を母語としない人などを雇うと、研修経費がかさむという理由で、間口を広げようとしない職場があるが、「初期投資として通訳や教師を雇う必要はあったけれど、それは最初の2年だけのことで、その後は特別な経費はかけていない」とシャムさんは言う。

■反応

障碍者への差別の厳しいネパール社会ゆえ「障碍をもつ人が給仕した食べ物を出すのか」と、客に言われることまで恐れたが、心配無用だった。いや、逆にろう者のウェイターがいることは、客からプラスに評価された。

客は一時的に店に滞在するだけなので、受け入れるのも難しくないだろうが、同僚だちはどう思ったのだろう。排除されている人を雇用する時に、もっとも注意しなければならないのは、それまで排除してきた側の人の反応や組織内での差別だ。建前論として「排除されている人に機会を与えるべきだ」という人は多いが、現実問題として自分が毎日一緒に働くとときにも受け入れられるのだろうか。

ベーカリー・カフェのあるマネージャーは「手話が学べて良かった」と言った。シャムさんにも他の従業員の反応を尋ねてみたが、「大抵、これまで接したことのないろう者との付き合いを刺激的だと思っているし、手話という新しい技能を身につけることで自信にもつながっているから、職場内での差別はない」という話だった。

障碍以外のカースト・民族差別に対する従業員の反応についても尋ねてみた。そもそもカースト差別は不可触カースト(ダリット)に対する不浄の観念に基づいているので、ダリットがコックとなることについて他の従業員はどう思うのか知りたかった。シャムさんはネワールだが、飲食業は賤しい職業だと考えられ、親族にも嫌われた。飲食店の経営者に上位カーストは少なく、従業員も非ヒンドゥ民族か低カーストが多いという。ネパールには最近まで調理師学校がなかったので、レストランで皿洗いから始め、見習いとなって修行し、何年もかけてコックになるという道しかなかった。上位カーストの中でも不浄を気にする人は、他人が口をつけた穢れた皿を触ることができないから、レストランでは働けない。従って、飲食業界は、カースト・民族差別が少なく、実践経験がものを言う世界なので、ダリットに対する差別も自分の店に限ってはないという話だった。

■波及効果

彼のレストランでの試みは文句なく素晴らしい。だが、私には一つ不満があった。ネパールきっての人気レストランの事例が他の企業に波及効果をもたらさないのか、なぜ社会全体として障碍者を受け入れる方向に進んでいないのかという点だ。シャムさんの話では、対人業務の少ない工場では、すでに障碍者の雇用を始めたところもあるが、接客業の多いホテルなどは敬遠気味だという。

ナングロ・インターナショナルが経営するリゾートホテルでは、建設作業に加わった地元住民のうち、私の職場SNVも長年支援しているチェパンという先住民の人たちもホテルの従業員として雇用している。観光業に進出している民族(シェルパなど)もいるが、チェパンは観光業界と接点がほとんどなかった人たちが。シャムさんは「援助団体から助成金をもらって研修をしているのか」と聞かれることがあるという。障碍者を安く雇っているのではないかと疑う人もいるが、レストランもホテルも職能別給与体系なので、先住民も、ろう者もみな平等に扱われている。

「慈善ではこういうことは長続きしないし、それでは雇われる側も甘えることになる。雇用機会を得ることは彼らの権利の一つだ。従業員となったからには職業人としてふさわしい仕事をしてその報酬を得る。それが長続きの秘訣だ」と言う。当たり前すぎる話だが、歪んだ援助の世界で働いているせいか、彼の話が新鮮に感じられた。

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カトマンズ便り18「転機」 2007年6月10日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。当初6月に予定されていた制憲議会選挙は、年内実施の予定ですが、投票日は確定しておらず、ネパール各地での暴力事件、バンダ(ストライキ)、燃料不足は相変わらずで、進展がありません。

最近のカトマンズの様子を書いた拙稿が、季刊『旅行人』2007春号に掲載されました。ネパールと縁の深い執筆者の方たちによるカトマンズの35年の変化を追ったインタビューや、ポピュラー音楽の解説など、読みごたえのある記事も多いので、ご一読ください。http://www.ryokojin.co.jp/0f/no155box/155yokoku.html

さて、今回は膠着気味の政治や仕事の話題を離れ、出稼ぎ事情を紹介します。

■帰省

ネパール最大の仏塔ボダナートのある界隈は、チベット仏教の巡礼地であることから、チベット系住民が多い。カトマンズ盆地は全体的に建築ラッシュだが、このあたり一帯では、五色の旗(青は空、白は雲、赤は火、緑は川、黄は土を意味する)がはためく仏教系住民の新築家屋の増加が目覚しい。私は1996年から2年ほど、ボダナートから20分ほど北西に歩いた無権利居住者地区で調査をしていた。全30世帯ほどのうち、半数以上がこの10年間に増改築している。門構えの立派な周囲の家とは格差があるものの、以前より住環境が良くなっていることは間違いない。

その後「調査」はしていないが、かつて何かと世話になったSさんの一家とは今も親しくしている。その隣人Rさんも、Sさんとともに識字教室で地区の母親たちを教えていたことがあり、私とは旧知の間柄だ。5月上旬、Sさんに電話したところ、クウェートで働いているRさんが帰省していると聞いて、週末の午後、出かけて行った。帰省中のRさんの実家は、彼女のスーツケースや家具でいっぱいで、座る場所もなかったので、Sさんの家の居間で話をした。

■上昇

久しぶりに会ったRさんは、学校を退学してレストランで働いていた頃、売春の容疑をかけられて警察に拘留されたり、身内の不幸で苦労の多かった10代半ばの頃と違って、表情がすっきりしていた。かつては太めなことを気にしていた彼女だが、今は5歳の息子がいるようにはみえないスリムな体型で、膝丈のスカートがよく似合い、ネパールの「お母さん」のイメージとはほど遠い。

2003年から2年間クウェートでメイドとして働いたときに30万円貯金したが、夫と息子と3人で暮らす部屋を借り、家具を買いそろえ、息子を私立学校に入れたら、またたく間にお金はなくなってしまったという。二人の弟や父親の生活も助けていたのは当然のことだろう。私が前回会った2005年の夏は、次の渡航の準備中だった。

今回は個人宅のメイドではなく、クウェートにある米軍基地内の食堂の配膳係をしている。米国籍のヨルダン人が経営する会社が米軍基地や宿泊施設のケータリングを請け負っており、彼女もその会社の職員だ。給食センターのようなところで調理されたものを温めたり、盛りつけるのが仕事なので、メイドの頃と比べてラクだという。食事にやってくる米軍兵との会話はもちろん英語だが、不自由は感じていないようだ。

給与については尋ねなかったが、セキュリティ完備のアパートと送迎車がついていて、1日12時間勤務、週休1日だというから、メイドをしていた頃まったく休みがもらえなかったことを思えば、はるかに待遇がいい。渡航前に話を聞いたときは「そんなウマイ話があるものか」と心配したが、約束通りの条件だったようだ。

メイドとして渡航したときにアラビア語の会話を習得し、英語でも一応仕事に支障がないという彼女は、相当自信をつけたようだ。ネパールからの斡旋業者も初めて渡航する者には高額な手数料を要求するが、彼女のようにすでに渡航先の国で仕事の経験がある者は、ほとんど斡旋料はいらないらしい。カトマンズで定職につくにあたって最低限必要だとされる中等教育修了資格(SLC)試験を受けていない彼女が、1年で十万円以上の貯金ができるのだから、彼女にとってこれ以上の仕事はない。

計4年間を母親不在で過ごした5歳の息子は、彼女に対しても人見知りをして口をきかないと聞き、失ったものも少なくないことを察した。それでも「すべては子どものためだ」というから、本人は折り合いをつけているのだろう。クウェートでの仕事が、彼女の人生に転機をもたらすことを祈りたい。

■選択

一緒に話をきいていたSさんは、小学生の頃中途退学したものの復学し、2年がかりでSLCに合格、その後も何度か学業を中断したが、今は大学で社会学を学んでいる。彼女も近所の同年輩の女性が出稼ぎに行くのに影響されて、2005年の3月から半年ほどマカオに行っていたことがある。

知り合いから「シンガポールに留学させてやる」と言われ、渡航するために借金もしたそうだが、連れて行かれた先はマカオでベビーシッターの仕事をさせられた。給料はブローカーに騙し取られ、ビザの延長もできなかったのでネパールに戻った。無事帰国するまで航空券の手配やら、私が助けたこともあって、家族からは「外国に行って人に迷惑をかけるな」と言われている。

一文無しで戻ってきたことで、彼女はすっかり自信を失い、しばらく家に閉じこもっていたかと思えば、「失敗を挽回するためにまた出稼ぎに行きたい」と言ってきかなかったり、不安定な時期が続いた。帰国後、大学にも入ったので、卒業まで出稼ぎには行かないと言っている。

中東への女性の出稼ぎは、雇用主から性的虐待を受けた女性がカタールで自殺したのをきっかけに、1997年から一時禁止されていたが、移住労働を推進する政府は2003年に再び解禁した。この地区の場合、一時禁止以前から渡航していた人がおり、その人自身がブローカーとなって、近所の女性たちを次々と中東に送るようになった。

私と同年で大人しいNさんが、ふたりの子どもをのこしてサウジアラビアに行ったときにはとても驚いた。それから6年間一度も戻らなかったので心配したが、帰国後は夫が出稼ぎに出て彼女は子どもと暮らしている。個人宅で高齢者介護の仕事をしていた当時の写真を見せてくれたとき、虐待などは特になく、介護していたおばあちゃんのことが懐かしいと言っていた。最近は介護人として韓国に行く人もいるそうだ。

Sさんの姉がクウェートでメイドをしている他、この地区からはクウェート、イスラエルなど中東に十数人の女性が出稼ぎに行っている。最近はSさんたちより若く、学校教育を修了した世代が中心だ。ネパールで彼女たちが学卒後に就ける仕事の月給は日本円で5000円程度だから、手数料のために借金をしてでも行きたいという人を止めることはできない。国内での就職に有利なコネなどないこの地区の人にとって、最も門戸が開かれているのが出稼ぎだとも言える。

最近では男性よりも女性のほうが仕事が見つかりやすいというから、家族も女性を送り出す。既婚女性が不在の間に家庭不和になるというのは、あまりにもよく聞く話だが、「子どもを良い学校に通わせるには不可欠な選択だ」、「仕事もない状態でネパールにいても仕方がない」という意見を聞くと、やむを得ない選択なのだろうと思わざるを得ない。

■不等

専門職に就く人たちにとって、ネパールと外国との給与格差は納得しがたいものがある。旧市街に住むIさんはカトマンズ市内でも医療水準が高いことで知られる病院の救急治療室で働く看護師だ。政治家など著名人が入院したときは彼女が担当させられるというから、20代半ばながら、病院側からは絶大な信頼を得ているようだ。夜勤で忙しい日程をやりくりしながら、看護学校受験者のための予備校講師のアルバイトもしている。

彼女はもともと農村で活動する保健師になりたくて看護学校に行った。臨床経験を積むために病院勤務を選択し、病院内では一目置かれるようになったが、彼女の部下や同僚が次々と北米やオーストラリアで看護師の職を得るのを横目に、悔しさが募るようになった。本人も相当長い間、出稼ぎには行くまいと考えていたようだが、「私のほうが頑張ってるのに、どうして彼女たちは行った先で簡単にお金を稼げるようになるの?」と泣きながら話してくれたときに、もう止めることはできないと思った。妹たちも「お姉ちゃん、このまま行かなかったら気が狂っちゃいそうだ」と心配していた。

最初アメリカへの渡航を希望したが、手数料だけ取られてビザが発給されなった。その後オーストラリアへの渡航のため銀行にローンを申請したが、担保となる実家の資産価値が低かったので却下された。今はイギリスへの渡航準備をしている。手数料が足りないというので、私も少しお金を融通した。そのとき、彼女の預金通帳を見て、病院からの月給がわずか1万円程度であることを再確認し、あまりにも不等だと思った。

なかなか渡航許可がおりないことが気がかりだが、本人曰く、同じルートで渡航した友人たちはイギリス人が好まない夜勤勤務を選んで働き、月に60万円ほど稼いでいるという。物価の高いロンドンに暮らせば出費もかさむだろうが、それでもかなりの額は貯金ができることだろう。むこうで納得のいく報酬を得れば、これまでの悔しい思いも多少は消えるのだろうか。

今回の登場人物については『街の脇役たちと』というエッセイ(http://www.shaplaneer.org/tayori/wakiyaku.htm)と、開発協力ブログ『カトマンズを歩く:フィールド雑記帳』の43、55、57、58、59回で取り上げています(http://dwml.com)。

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カトマンズ便り17「覇権」 2007年3月20日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。カトマンズは時折雨が降るようになり、着実に暖かくなっています。予告済みとは言え、昨年末から出張と集中力を要する仕事が続き、4ケ月も通信を出せず、ごぶさたしています。
2月は10日ほどパキスタンのラホールと、国境をはさんでインド側にあるシーク教の聖地アムリトサルに休暇で出かけたので、仕事ばかりしているわけではありませんが、2度目のネパール滞在も丸3年が過ぎようとしており、短い間隔で充電が必要になってきているように思います。

■駐屯地
昨年6月、東の丘陵地帯で投降マオイストの少年に会ってから、彼らのことが気になっていたが、昨秋、マオイスト人民解放軍が駐屯地に入ることが決まった頃から、仕事としてその問題を扱うことになった。私が働くオランダ開発機構(SNV)が長年関わっているイラム郡内に駐屯地の一つが置かれることになったからだ。

イラムは15号でも紹介した通り、インドのダージリンとならび称されるお茶の産地で、郡内の道路網が整備され、経済指標が高いことで知られる。ネパール全体の中では比較的豊かであることから、援助団体の多くは東部から撤退し、西部への支援に重点を置くようになっていたが、イラムを含む東部全域が豊かなわけではない。非ヒンドゥ教徒でモンゴロイドの住民が多いこともあり、世俗国家への転換を主張するマオイストが2000年以降急速に勢力を拡大し、中西部とならぶ支配地域となった。

SNVは外国援助機関の中で唯一イラムに事務所を構えていたことから、駐屯地が置かれると決まった当初から、どういう関わり方ができるか模索していた。人民解放軍兵士は紛争終結後「社会排除」の対象になる可能性があるため、排除問題に関わっている私が、いわゆる「子ども武装解除」について担当することになった。

政府とマオイストが和平協定に署名した2006年11月21日から1週間後の27日、駐屯地を訪れた。買物袋と同じ薄いポリエステルのシートでできたにわか造りのテントで800人の兵士が生活していたが、兵士だというのに障碍・負傷のある人はいない様子で、彼らのくったくのない表情に拍子抜けした。戦闘の前線にいた兵士ではなく、入隊して日が浅い者が多いと聞いて納得した。

4割を占めるという女性兵士はTシャツにズボン姿で男性兵士と談笑し、駐屯地の外の世界より自由で楽しそうにしか見えなかった。20代前半の司令官に尋ねたところ、ビデオ撮影が簡単に許可されたことにも、隔世の感を覚えた。数ケ月前までカメラを持って村にいると、マオイストから写真を撮るなと止められたことがあったからだ。

■ギャップ
駐屯地は、制憲議会選挙までの間、人民解放軍兵士を登録し、国連の監視下で武器管理をすることを目的に設立されたが、かねてより問題になっていた18歳未満の兵士を軍から脱退させるチャンスとして駐屯地での監視が必要だと考えられた。しかし国連による監視はいわゆるオフィス・アワー(9時から5時まで)に限られ、駐屯地周辺の村までは監視しないために、国連の報告では18歳未満の兵士は極めて少ないことになっている。

数日後「サテライト・キャンプ」と呼ばれる同郡内の予備駐屯地を訪ねたところ、国有林のままの深い森だった。兵士は民家に寝泊りしながら、木を伐り、整地作業をしていた。隊列をつくって森に向かう彼らの中には18歳未満に見える子も少なくなかった。広報官は「中央政府から党に至急されたお金が駐屯地まで届いておらず、食糧も買えない」と言っていた。中央と地方の間に横たわるギャップは政府も、マオイストも、援助機関も同じだ。安普請のキャンプでは冬を越すのも大変で、巡回医療や十分な手当の支給、雇用を求めて駐屯地内のマオイストが示威行動としてキャンプ外に出たというニュースが度々報じられた。

先週再びイラムに出張した折、経由地がバンダ(交通スト)だったために、サテライト・キャンプのある迂回路を通った。お茶を飲むために休憩したついでに、キャンプの入り口に行ってみたところ、3ケ月前にはなかった門や見張り台ができており、兵士の家族が面会を待っていた。公共バスから降りた兵士がキャンプ内で使うのだと言って、パソコンの入ったダンボール箱を運んでいた。あいにく司令官と連絡が取れず中には入れなかったが、無数にあるテントから1500名収容しているというのもうなづけた。

■理不尽
イラムではサテライト・キャンプから脱走した元少年兵Bくん(17歳)に会った。18歳未満なので「少年」と書くが、ネパールの村では14、15歳で結婚する者も珍しくないので、17歳と言えば大人だ。10年生まで学校に通っていた彼は貧しい家庭の出身ではないためか、栄養状態は悪くない。

人民解放軍に加わればお金がもらえると聞いて、彼はひとりで駐屯地まで出かけて行ったが、中に入れてもらえず、サテライト・キャンプに向かった。女性兵は「家事労働よりラクだ」というが、彼にとってはキャンプを整地するまでの間の野良仕事は苦痛で、数百ルピーの小遣いしかもらえなかったこともあり、嫌気がさして逃げたそうだ。キャンプ内で行われる政治教育も好きになれなかったという。

私が仕事で関わっている地元の団体は、彼らのような少年を見つけると、保護者を探して会いに行き、受け入れが可能であるかどうかを確認し、マオイストにも「連れ戻さないこと」を承諾してもらった上で、村に帰還させている。電話がなく徒歩で出かけていくしか手段のない村ではこれだけでも大変な仕事だ。この少年はボールペン型の爆破物を鞄に入れていたそうで、警察の爆破物処理係を呼んで処分しなければならず、ずいぶん厄介をかけたようだ。

和平合意以前は、拉致された末、人民解放軍の荷物もちをさせられ、政府軍につかまって投降したものの、村に帰ることができなくて行き場を失った子の話をよく聞いた。地元の関係者は、ここ数ケ月相談に来るのはお金目当てで駐屯地に行った者が多く、彼らが村に戻るために手厚い支援をすべきかどうか迷っている。10年続いた紛争の間、親を失ったり、ケガをしたり、あるいは国内避難民となった子どもは大勢おり、彼らに十分な支援ができていないのに、わずか数ケ月家を離れれて駐屯地にいただけの若者を優先するのは理不尽だというのだ。

とはいえ、彼らが社会に再統合される手助けをしなければ、社会への不満から暴力を振るうようになるかもしれない。爆弾を持ち歩いているくらいだ。どうすれば公正な支援になるだろか、と関係団体と頭を悩ませていた矢先の先週末、日本政府が「子ども武装解除」のために3億円以上をユニセフに拠出するという報道がされた。成人も含めた武装解除の話ではないかと疑うほどの金額だ。それが子ども兵士ひとりひとりにどう使われる計画なのか知らないが、金額だけが先行する報道を聞いて、「駐屯地に行って子ども兵士と認定されればお金がもらえる」と思う子どもや親が増えるのではないかと懸念する。

■外国人
今年に入ってから近所で見かける外国人の数が急速に増えている。和平後増加傾向にある観光客だけでなく、武器管理や選挙支援、復興支援を任務としてやってきた国連の関係者だ。国連から近いホテルは予約を入れるのも難しく、外国人が住むような物件は家賃が高騰している。狭い通りで国連の車両同士がすれ違うために渋滞を起こしていることもある。新規参入する外国NGOの求人広告もよく見かけるようになった。

政治的解決の糸口が見えなかった1年前と比べて人々の表情は明るいが、タライ平野に住むマデシの運動を発端に、様々な民族が自治権を要求し、国王・マオイスト・政党の3者対立の構造の頃よりも政情は複雑になっている。かつてのカンボジアやアフガニスタンのようにネパールにも「平和構築」「民主化支援」といった名目でこれまでと桁が違うお金が流れるようになってきた。私が関わっている地方の小さな団体や先住民団体もその渦の中に巻き込まれつつある。国家再建の過程である今、権利を主張しておかなければという気持ちはわかるが、対話や交渉よりは示威行動が目だち、覇権主義を感じる。その結果、より相互排他的な関係が生まれているように思う。

そんな危うい状態にあるネパールを支援する外国援助機関もまた、対話に乏しく、互いの縄張りと名声をかけた覇権主義に陥っているような気がしてならない。私も傍観者ではいられないが。

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カトマンズ便り16「区切り」2006年11月19日在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。カトマンズは乾季に入り朝夕冷え込むようになりましたが、ヒマラヤがよく見える1年で最も良い時期です。まめにメールを書いていたつもりでしたが、5ケ月もこの通信を出さず失礼しました。まだ11月半ばですが、これからしばらく出張が続くので、少し早い年末年始の挨拶とさせてください。

■道程
4月下旬に国王が下院の復活を宣言したことで、10年をこえる紛争で膠着状態にあったネパールの政情は和平に向けて動き出しました。与党7政党とマオイストの半年にわたる交渉の結果、11月8日には武器管理や暫定議会、制憲議会についての合意がなされたと報道発表がありました。先週16日までに両者が署名する予定でしたが、21日に延期されたとのことです。ネパールの役所では「明日出直して来い」(ボリ アウヌス)と言われることが多いのですが、国際メディアでも報道された予定が延期されるとはいささか呆れました。

21日までに国軍、マオイスト人民解放軍とも駐屯地に入って国連監視下で武器管理をすること、暫定憲法の施行とともに現下院を解散すること、12月1日にはマオイストも含めた暫定政府を樹立することなどが合意事項だと伝えられていますが、和平協定に署名が行われても、このスケジュール通りに実施されるかどうか疑わしいところです。

■静観
2005年2月の政変以来、ネパール・ピース・ネットというネットワークを運営していたこともあって政治ニュースは追いかけていましたし、民主化運動を支える集会にも出かけていましたが、最近はすっかり足が遠のいています。今回のネパール滞在が3年目に入り、何ごとにも新鮮味が欠けるようになったこと、昨年秋からフルタイムの仕事を始めて時間の制約があることも理由ですが、今回の署名延期に見られるように肩すかしを食らったり、一向に具体性を帯びない運動に幻滅を感じたこともあって、最近は最低限の情報に目を通すだけになっています。

国王による政変後、先住民や低カースト、女性、タライ出身者たちにとってより公正な憲法の制定が主張されてきましたが、十分な時間があったにも関わらず、相変わらず具体案はなく、政府が何か発表するたびにリーダーたちが首相官邸や官公庁の入り口で座り込みをするだけだということに大変がっかりしています。しばらく足が向かなかった談話会の場に久しぶりに出かけた折、旧知の女性の先住民リーダー、ダリット(不可触カースト)のリーダーに質問する機会がありました。「あなたたちの現在の運動はこれまで男性たちが率いてきた運動と具体性において何が違うのか」「いつ制憲議会選挙があってもいいように、自分たちの間での準備(誰が立候補するのか、実際にどれくらいの議席を想定しているのか、マニフェストの争点は何なのか)はできているのか」と聞いても答えをはぐらかされ、失望しました。

■軸足をうつす
昨年まではカトマンズで時間を過ごすことがほとんどで、地方と首都の格差は頭ではわかっていても、実際にはカトマンズで起きていることだけでネパールを捉えるしかありませんでしたが、今年は仕事で地方に出かける機会が増え、私の軸足はカトマンズの外へと動きました。9月に東部丘陵地帯に出張した折にはマオイストも参加するワークショップの進行役をし、党の事務所で16歳にもなっていないであろう党員たちと話をしました。独特の制服を着て通行税を徴収している小学生にしか見えない党員にも会いました。どこから見ても子どものような彼らですが、差別や腐敗の話になると、突然大人顔負けの演説をします。十分な判断力があって参加しているのかどうか疑わしにせよ、自分たちが新しい社会を造るんだという意欲だけはあるように見えました。

タプレジュン郡で会ったAさんは自称18歳の女性で、2年前に入党した政治局員です。学校に通っていましたが10年生まで続けることができずに中退し、家族のもとを離れて自分で入党したと言います。「女性も男性と同じように働けるマオイストの方針が大好き」という彼女は、マオイストではない両親のいる実家に時々顔を見せにいくものの、戻って一緒に暮らすことはないだろうと言っていました。

急に政治の主流となったために態度が横柄なマオイストも少なくありませんが、彼らの人生の中で最も楽しいはずの10代の大事な時間をゲリラ活動にささげてきた子たちもいます。政府機関の職員の3割を女性にするとか、中央では政党が実効性の低い口約束を次々としていますが、こういう若者を裏切るような結果にならないか心配です。

ここ数日新聞紙上をにぎわせているのは、駐屯地に入る人民解放軍兵士の数が実際には公称3万5千人を下回るため、期限を間近に控えた今になって新たな徴兵をしているというニュースです。私がよく訪れる東部はもともと学校単位での拉致が多いところですが、現場にいる知人の話では、この週末も8年生、9年生が解放軍兵士として連れ去られた学校があるようです。この子たちが駐屯地に入る前に村に返す手立てはないか、というのが私の目下の関心事です。

■選択
関心の変化や時間の制約から、今年は区切りをつけたこともいくつかありました。そのひとつは「開発協力ブログ:カトマンズを歩く フィールド雑記帳」です。2004年10月6日に開始し、2006年11月9日までに101回分書きましたが、カトマンズでのフィールドワークがほとんど休止状態にあるので、不定期で長めの日記という内容になり、何より私自身が楽しめなくなったのでやめました。

カトマンズでの集会に出なくなったことで、日本で特に伝えたいと思うことがなくなったように感じました。もちろん、地方で起きていることはいくらでもあるのですが、カトマンズに戻ったときでさえ別世界のように感じることを、さらに別世界である日本で話すということは、途方もないことのように思えました。これまでの報告会でもどこか自分の伝えたいことと、日本のみなさんから尋ねられることがかみ合っていないという反省もありました。今秋の一時帰国は他にも事情があったものの、一切報告会をしない初めての帰国でした。例年帰国前になると受け入れてくださる団体との調整や、足りない情報収集に追われ、帰国中も「仕事」である報告会が済むまでは落ち着きませんでしたが、今年は気楽でした。

一方、どうしても途中で放り出すわけにいかなかったのは、庭野平和財団から1年間助成金をいただいて取り組んだ「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」です。日本の個人寄付者からも中古カメラを贈っていただき、若者や子どもに身近で起きた紛争の影響を取材をしてもらう作業でした。当初の発案者だったネパールの関係者の関与がほとんど得られない中、何も成果が出せずに終わりそうなところで困り果てましたが、前回の滞在中からの知り合いの協力で、なんとか年内に3冊ネパール語の本を出すことができそうです。今まで本を読んだこともない子たちに、日記を書くワークショップから始めて文章を書いてもらうのは、想像をはるかに越える困難な作業でした。6郡10団体の82人が参加して3つのテーマでしか記録集が出せないというのは決して満足のいく結果ではないのですが、これ以上時間を費やすよりは予定通り切り上げたほうが良いと判断し、今年限りの関わりとすることにしました。

そしてまだ思案中なのは、たいした活動もできないのに閉鎖する判断もできないでいるネパール・ピース・ネットです。こちらはイベントのお知らせ媒体という以上の役割がなくなっているのですが、ときどき日本語字幕つきドキュメンタリービデオの注文があったり、イベント広報の協力依頼があります。何ごともさばさばとやめるタイプの私が躊躇している最大の理由は、ネパールの平和にはまだ遠いのに止めてよいのかという点です。和平プロセスが順調に進んで、見通しが明るくなったら、このネットワークも潔くやめようと思います。

こうして振り返ると忙しい生活だったように見えますが、実際はそれほどでもなく、ヒンディ映画も十分見ましたし、バングラデシュやチベットにも旅行に出かけ、楽しい時間も十分ありました。何より毎日自炊する時間があって健康で暮らせたことが良かったです。重要なのは、自分が満足ゆく選択をするかどうかだということを実感した1年でした。

みなさま、忙しい時季を迎えられることと思いますが、どうぞお元気で。

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カトマンズ便り15「希望」 2006年6月12日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。ネパールは雨季に入りました。雨上がりは蒸し暑いですが、マンゴー
やパパイヤの他、ライチや桃、スモモ、すいかがおいしい季節です。5月29日か
ら6月8日まで東の丘陵地帯に出張したときの様子を報告します。

■開放
最初に社会人生活を送ったのが九州だったからか、私は首都圏から遠いところへ
行くほど共感することが多い。仕事で赴任したバングラデシュでは島に、ガーナ
でも北の国境地帯に縁があり、去年は津波の被災地アンダマン・ニコバル諸島
(インド)に行った。交通事情の悪い地域ならではの人々の辛抱強さとたくまし
さ、一国の首都との関係だけに頼るのでなく、国境を越えた広い世界へとつながっ
ている開放感に惹かれる。

今回出かけたネパール東部もカトマンズとの往来にこそ時間がかかるが、インドの
ダージリン、シッキムとの交流が深く、かつてはチベット交易の玄関口でもあっ
た。地図上でネパールの南東の隅に位置するバドラプール空港までカトマンズか
ら小型機で小1時間。丘陵地へのフライトは霧のため連日キャンセルされていた
が、平野部への便はほぼ定刻通りに運航されている。

この2年間、ネパールの西部は何度も訪れたが、東部に行くのは1998年以来だ。
こちらはモンゴロイド系住民が多く、ゴルカ兵として香港などの駐屯地で暮らした
ことのある人も少なくない。同じ国内線でも西部への便とは乗客の様相が違い、
同乗した女性の中で民族衣装のサルワール・クルタを着ていたのは私一人。ジー
ンズ姿の女性たちは、リュックを背負った私と違い、預け荷物のスーツケース以
外は流行りの小さなハンドバックだけだ。離陸後、隣席の乗客が何かつぶやいた
ので読みかけの新聞から目を離すと、同年輩の女性がバッグから数珠を取り出し
経文を唱えていた。

丘陵地帯に北上する道すがら、ネパールを東西に結ぶハイウェイ沿いの町ビルタ
モードで、民族団体の連合体が運営している資料館に寄る。その近辺に住む民族
は言語別に数えると31グループもあるそうだが、ネパール全土で登録されている
59の民族の名前を覚えきれていない私は、居合わせた人の自己紹介を聞きつつ、
まだまだ勉強が足りないと思った。国境を越えた出稼ぎや結婚は今も盛んで、物
資の流通はもとより、人的交流も深い。民族団体の中には、多言語教育を実践す
るインドのシッキム州政府が作った教科書を譲り受け、ネパール語以外の母語教
育に使っているところもある。いつまでたっても母語教育に十分な予算を配分し
ないカトマンズにある中央政府なんて待っていられないというのだ。国境を感じ
させない柔軟さを褒めるべきか、ネパール政府の無策を憂うべきか。

■土地柄
最初の目的地イラムは、郡庁所在地を中心に道路網が発達し、湿潤な気候の恵
みを受けてお茶など換金作物の栽培が盛んで豊かな町だ。バザールで売ってい
る電化製品はカトマンズと大差ない。郡で最も人口の多いモンゴロイド系住民、
ライの人たち独特のベランダを施した木造家屋がとても美しく、霧深い中の散歩も
飽きなかった。数ケ月前にマオイストの大襲撃があったが、今は国軍による検問
もゆるくなっている。それでも周辺には地雷や爆破物が結構残っているという。

その北側に位置するパンチタル郡に入ると、様子は一転する。イラム郡との境から
先は未舗装道路で、郡庁所在地フィディムのメインストリートも連日の雨でぬか
るんでいる。ゴルカ兵としてイギリスで暮らし、最近戻ってきたという初老の夫
妻が経営するレンガ造4階建てのUKホテルが町で最も立派な建物だ。伝統家屋よ
り熱気がこもって快適とは言いがたかったがここに2泊投宿。夜間外出禁止令が
出ていると聞いていたが、夜中まで酔っ払いやビリヤードに興ずる若者で騒がし
く、武装警察の見回りも形式的に見えた。

さらにその先のタプレジュンは最北東の郡で、カンチャンジュンガ峰(標高8586メー
トル)をはじめとする高山があり、郡内の約半分の面積が自然保護区下にある。
トレッキング客が利用する空港もあるが、郡庁所在地から歩いて約40分のところ
にあり、地元の宿でなく持参したテントに泊まる人が多いため、観光による経済
効果がとても小さいのがこの郡の悩みだ。荷物運びのポーターまで外部から連れ
てくるツアーもあるため、郡役場の観光担当官は地元のポーター養成のためのグ
ループを作ったことを話してくれた。パンチタルからタプレジュンに向かう途中、
国軍でなくマオイストの検問所の跡があったが、4月末の停戦以後、マオイスト
は検問を中止しているという。

■混沌
タプレジュンで泊まった宿のオーナーCさんはネパール全土に支部をもつ人権監視
団体のメンバーのひとりだ。小さな町では一人が何役も務めているから、鍵にな
る人にさえ会えれば情報が入りやすい。彼はマオイストもしくは国軍に追われて
村に住めなくなった国内避難民に関する調査をした直後でもあり、4月末からの
政治の急展開がどんな影響を与えているのか話してくれた。

マオイストによって村を追われた人の家屋は、彼らによって接収されたままのもの
がある。家の脇にマオイストの旗が立ててあったり、壁に赤いペンキで接収日と
人民解放軍の名が書かれた家を私も出張中に何度も見た。マオイストによって宿
泊所や倉庫として使われているこれらの建物が持ち主の手に戻ることはあるのだ
ろうか。

国内避難民の中には、1)マオイストが原因で村を追い出されたが、その「命令」で
無条件に出身村に帰還させられようとしている者、2)同様に村を追い出されたが、
マオイストの人民裁判の結果次第では帰還できない者、3)避難民となった理由は
ともかく、現段階では出身地の人々と和解ができないため帰還が望めない人たち
(王党派の政治家など)がいる。この他、4)帰還は可能だが、すでに避難先で生
活の基盤を築いたため今更帰還を望まない者もいるし、5)紛争をきっかけに家族
と離縁し帰還できない人もいる。夫がマオイストだと疑われて国軍から殺され、
その事件一切が妻のせいだとされたために夫の家族から追い出された女性の場合
は5)に入る。政府とマオイストという中央レベルだけでなく、村や家族の中でも
和解が成立しない限り、帰還は始まらない。国内避難民の帰還は土地や建物の問
題だけに留まらない。

マオイストは現政権との合意に従い、停戦期間中は戦闘服を着ない約束なので、
人民解放軍兵士たちも普通の服装で郡庁所在地のバザールに来ている。私には
誰がマオイストなのかわからなかったが、同行した現地駐在の同僚は顔見知りの
マオイストたちの姿を見かけたと言っていた。マオイストによる寄付の強要が以
前より公然と行われるようになったのは事実だった。停戦中とは言え、人々が安
心して生活できるようになったわけではない。

■悲哀
Cさんの宿で過ごす最終日、恥ずかしそうな表情の男の子がホテルのベランダにい
た。今年15歳になったTくんは投降した元マオイストだ。3年前、小学3年生の時、
マオイストが彼の学校に来た。長兄が警察、次兄が軍に勤めている彼は他の村人
への「見せしめ」として強制連行された。その後9ケ月、マオイストに従軍し、
ポーターや夜警になったが、今から1年前、警察に見つかって投降した。警察か
ら釈放された後、一度両親に顔を見せに帰ったが、自分の村に戻ればマオイスト
からリンチを受けたり、連れ戻される危険性は十分あるので、村には住めない。
警察や軍に勤める兄たちとは、もう4、5年会っていないという。

未成年のマオイストの保護について警察から知らされたCさんはTくんに安全な場
所を確保すべく、自分の宿でボーイの仕事をさせた。食事と寝る場所ができただ
けでなく、給与ももらえたが、3ケ月後Cさんのもとを離れ、他の食堂で働き始め
た。しかし、給料に大差なく仕事も単調だったので、またCさんのところに戻っ
てきたのだった。彼と一緒に捕まった仲間の中には、ブータン難民として生活し
ていたところを強制的に連れて行かれマオイストに参加し、警察に捕まって投降
したのに、マオイストに連れ戻された少年もいるという。Tくんが一番恐れてい
るのも再びマオイストに連れて行かれることだ。

Cさんが最近撮ったTくんの写真を見せてくれた。町の写真スタジオで撮ったらしい
が、おもちゃの銃を持ってポーズをとっている。「何でこんな写真撮ったの?」
と私が尋ねると、CさんがTくんの心のうちを教えてくれた。今も武器を持って歩
くマオイストの上級兵には憧れを抱いており、銃を扱えるようになりたいと考え
ているという。登山ガイドやポーターとして知られるシェルパ出身の彼は、マオ
イストの中でも「シェルパ=荷物運び」として位置づけられ、武器を持った他民
族出身の少年たちとは異なる扱いを受けたという。ネパールのマオイストは、性
別、カースト、ジェンダーによる格差や差別の克服を目指すことを主張している
が、実際には出身民族によって接し方が違う。マオイストも矛盾だらけだ。シェ
ルパの少女たちもマオイストの負傷兵運びに大勢動員されている。

Tくんに「これからどうしたい?」と聞いてみたが、しばらく困った顔をして微笑んだ
だけではっきりした返事はなかった。事情はどうあれ子どもは学校に通わせるべ
きだ、という人もいるが、彼が復学するとしたら小学3年生からだ。15歳になり
身体も大きくなった彼が3年生の教室に再び戻るだろうか。私が彼だったら御免
蒙るだろう。それに、実家に戻れない彼が一体どこから学校に通うというのか。
自活するために手に職をつけることも重要だが、将来何をしたいか、今すぐには
考えられないだろう。Cさんのところで働きながら、ゆっくり考えたらいい。

「今までホテルに泊まるお客さんにずいぶん身の上話をしたけれど、みんなタプレ
ジュンを離れたら僕のことは忘れちゃうんだ」と、彼はCさんに言ったという。
そこでCさんと相談してTくんが近くの貯蓄組合で口座を開設するためのお金1000
ルピー(約1500円)を私が出すことにした。彼の1ケ月分の給料と同額だ。もち
ろんこれだけで彼の生活が変わるわけではないけれど、将来何か始めたくなった
ときのためにお金は貯めておくに越したことはないし、口座があれば一人前になっ
た気分になるだろう。

カトマンズでは「平和」を冠したイベントや援助事業が急速に増えている。しかし、
Tくんのように首都から遠いところで、危険にさらされる日々を送る者に届いて
いる援助は少ない。政治的な対話が始まったばかりの現段階でできることが限ら
れているとは言え、この国に数千人いるであろうTくんのような少年・少女たち
に直接働きかけることはできないものかと思う。


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カトマンズ便り14「急転」2006年4月26日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。日本でも連日ネパールの政情が報道されているそうで、ご心配をお
かけしています。メールを下さった方、個別に返信できずすみません。まずは、
無事に生活していることをお伝えします。

■緊迫
4月24日は夜になるほど時間の流れが遅くなる不思議な1日だった。

21日夜、国王が7政党に首相を推薦するよう求めたが、政党側は拒否し、抗議行
動継続を決定。25日はカトマンズとパタンの市街地を囲むリングロードを包囲す
る計画を発表していた。3週間続いた抗議行動は日を追って規模が拡大し、200
万人動員するという予想が出ていた。

大混乱が予測される中、私の勤務先からは一時退避の手順が知らされていたし、
日本の外務省も「渡航延期」(急ぎの用のない人には国外退避を勧める)の段階
に危険度を上げていた。個人ならば自分の判断で退避し、再渡航ができるが、
職場の指示の下、退避してしまうと自分の都合で戻ってくることはできない。

このままネパールにいて歴史の転換点に立会いたいと思ったが、最悪の場合を想
定して24日夕方、一応航空券だけは予約を入れた。米国をはじめ国外退避の指
示を出す国がでていたので、知り合いの旅行代理店は外出禁止令が出ているに
も関わらず、営業時間外の7時すぎまで業務を続けていた。

「明日はどうなるだろうね」と言いつつ午後10時台のニュースを見てテレビを消
そうとしたところ、午後11時半から国王の声明発表があるというテロップが流れ
た。「明日の集会弾圧のための国家非常事態宣言だろうか」、「いや、90年以前
のような王政に戻すための新憲法の発布か」と悪いほうにしか予想が働かない。

待つこと1時間弱。職場から持ち帰ったやりかけの仕事に戻る気には到底なれず、
災害用の非常持ち出し袋の中身を整理したり、普段物置にしている部屋を片付け
たり、うろうろして過ごす。午後11時半、お茶を入れ、普段あまり見ることのな
い国営ネパール・テレビにチャンネルを合わせる。

国王のスピーチは、私のネパール語の語彙ではわからない単語もあるが、抗
議行動や7政党のことを話していることはわかった。声明の内容が、2002年5
月22日に解散された下院の復活だとわかったときにはとても驚いた。「下院の復
活」は1年ほど前に7政党が示したロードマップにある要求事項だが、国王が受
け入れるとは信じられなかった。数日前に行政権の委譲を宣言していたものの、
国王が譲歩するとは思えなかったのだ。

■反応
スピーチが終わった直後、BBCにチャネルを変える。毎日のようにブラウン管を
通じて顔を見ている記者が速報と彼のコメントを添える。「今日まで抗議デモを
続けていた市民は、王政廃止をスローガンにしていましたから、国王の声明がど
う受け止められることか・・・」という彼のコメントに私も同感だった。

外に出て、スピーチをラジオで聞いていた夜警の青年に声をかける。「声明が出
た直後から近所で群集の声が聞こえる。暴動になって明日帰れなくなると怖いの
で、今のうちに家に帰りたい」という。「こんな夜中に歩いていたら軍に怪しま
れるかもしれないからやめなさい」と彼の仲間が止めたが、「危険だったらここ
に戻ってきますから」と言い残し彼は帰っていった。

私には群集の声はかすかにしか聞こえなかったので、スピーチに賛成しているの
か、反対しているのかわからなかった。インドのテレビでも速報のテロップは流
れていたが、すぐに関連番組は始まらなかった。ネパール人のブログもすぐには
更新されていない。みんながどう受け止めるのか、それでも翌日の抗議デモはあ
るのかと考え出すととても眠る気になれなかったが、こんな夜更けに電話で聞く
こともできないし、外に出ていく気力もなかったので、仕方なく寝ることにした。

翌朝、夫の職場の同僚がまず電話をかけてきた。「政党は国王の声明を歓迎し、
今日のデモも抗議ではなく、歓迎のデモになりますから、今日は外出禁止令は出
ないでしょう。通常どおり事務所を開けましょう」という知らせだった。朝刊を
見ると「人民の勝利」「下院復活」という大見出し。抗議デモを煽る報道を続け
ていたカトマンズ・ポストの題字が国花のラリグラス(しゃくなげ)で囲まれて
いる。歓迎ムード一色だ。

声明の数時間前まで系列テレビ局でも「王政廃止デモ」の様子を放映し、新憲法
制定のための制憲議会選挙が最低限必要な合意事項だと主張していた新聞
が、ここまで見事に国王のスピーチを歓迎している。釈然としないまま、外出禁
止令も出ていないので、出勤する。

朝の挨拶も早々に「国王のスピーチどう思う?」と同僚に尋ねられた。「マオイ
ストの反応はまだわからないし、下院を復活しても選挙までは長い道のりでしょ。
それに肝心の停戦の話はない。選挙の前には武装解除も必要。そう簡単には
喜べないんじゃない」と答えると、「でもね、ネパールはきのうようやく前向き
な1歩を踏み出したんだよ。あのままだったら、もう破綻国家になってたから。
長い間、フィールドに行っても政治の話がしづらかったけど、下院が復活して、
制憲議会選挙への道が開ければ、もう遠慮なく政治の話ができるんだよ」という
彼はとても嬉しそうな表情だった。

20日に武装警察から発砲され3名がなくなったカランキに住む同僚は「ゆうべは
放送終了直後からお祝いで大騒ぎだったし、夜中もインドのテレビでこれからの
行方を探る討論番組を見てたから寝ていない」と言っていた。他のネパール人ス
タッフもみんな寝不足ながらも明るい表情だった。

「これで中断されていたメラムチ給水プロジェクト(カトマンズ盆地への飲料水
供給事業)も再開するかな」といった、援助再開の可能性を喜ぶ人が多かったの
は私の職場が援助団体ゆえかもしれないが、午前中届いたメールは「避難用の
航空券はもうキャンセルしておきましたよ」という旅行代理店からの連絡を含め、
祝賀メールばかりだった。

■犠牲
3週間の抗議運動で亡くなった人は全国で15人、負傷者は5,000人を越え、外国
援助団体も含め、抗議行動犠牲者の救援・治療活動も展開されている。デモに参
加していた子どもも容赦なく暴力の犠牲になっている。屋上から見物していて威
嚇射撃の弾にあたって亡くなった人もいる。暴徒化した若者が政府機関を襲い備
品を焼き討ちにしていたのも事実だ。

私の職場はネパール人職員には個人の政治的決定権を侵害しないという立場から、
外出禁止令の間のデモへの参加を認めていたが、形式上ネパール政府と働いてい
ることでビザを発給されている外国人スタッフは外出禁止令に従うよう指示が出
ていた。

ここ数日は外出禁止令はほとんど実効性がなかったので「今デモから帰ってきた
ところだけど・・・・」というネパールの友人からのメールを受け取ることもしばしば
だったが、私は人権監視団体で負傷者の救助活動をする友人に励ましのメール
を送ったり、負傷者治療基金に寄付することくらいしかできなかった。

祝賀デモに変わったはずの25日の集会の一つは、カトマンズ中心部の野外劇場
(クラマンツ)で開かれたが、暴徒が警官を殴ったために武装警察が催涙ガスを
まいた。私の友人はその集会で怪我をし、病院に運ばれた。ここ数日の抗議行動
で暴力化している若者も心配だし、武装警察も王国軍もまだ監視体制を緩めてい
るわけではない。

ともかく、政党が国王の声明を受け入れたので、抗議行動は一旦休止になる。外
出禁止令を破って平和集会をしていたことで逮捕されていた知人らも釈放された。
中には1月からずっと拘置所に入れられていた人もいる。

■思惑
それにしても、なぜ国王はあんな夜中に声明を発表し、政党は早々に受け入れの
意思表示をし、新聞まで歓迎ムード一色になるのか、と思っていたら、朝日新聞
のWEBサイト記事に国王と政党が流血の事態を避けるために24日の夕方折衝を続
け、事態収拾に至ったのだという記事を見つけた。
http://www.asahi.com/international/update/0425/011.html

王政廃止でなく立憲君主制という形で国家元首の座にとどまりたい国王と、下院
の復活要求を実現したい政党の間での取引もあったことだろう。これまで街頭に
出て抗議運動をしていた人たちは、そういう動きを知っているのかどうかわから
ないが、とりあえずはこの動きを歓迎している。もちろん「王政廃止までたたか
う」「制憲議会選挙は不可欠だ」というプラカードをもっている人いるが。

それでも気になるのは、これほど長い政情不安の原因となっているマオイストの
反応だ。昼ごろ送られてきた彼らの声明の抄訳によれば「政党の安易な受け入れ
は致命的な失敗である、制憲議会選挙の無条件開催まで抗議行動を続け、都市圏
の経済封鎖も中止しない」というメッセージだった。

今回の混乱はわずか3週間のことだけではない。すでに13,000人以上が亡くなっ
ている10年間の紛争の解決は、こういう決着のつけ方でいいのだろうか。7政党
は本当に制憲議会選挙を実施できるだろうか。マオイストは7政党を厳しくモニ
ターしているのだろうが、今回の抗議行動に関わった人は、まず一歩前進したこ
とに満足しているように見える。

1999年の選挙に当選した議員からなる下院は、4年の空白期間を経て4月28日午
後1時に召集される。西の地方都市であったデモでは、マオイスト同様、声明を
受け入れないという立場をとる人も多かったようだ。一方、そういう人の不満にこた
えるべく、「私が議員に戻ったら制憲議会選挙実施のために尽力します」ということ
を公約に、デモの先頭に立った議員もいたようだ。

まず復活された下院がどんな決定を下すのか注目しなくてはならない。その先の
道のりはとても長い。停戦合意、武装解除、制憲議会選挙・・・・・私は自分の
滞在中にどこまで見届けることができるだろうか。

*日常生活の様子は「開発協力ブログ」でもお伝えしています。
http://dwml.comのメニューから「開発協力BLOG」をクリックしてください。


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カトマンズ便り13「待望」2006年3月14日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。今年に入ってから雨が降らず、深刻な水・電力不足に見舞われてい
たネパールですが、3月10日の夕方から雨が降り、気温が下がりました。2月は気
温が高く、半袖を着なければならないほど暑かったのですが、雨のあと例年並み
の服装に戻っています。

■春到来
ネパールは今日からチャイト月、1年の終わりの月です。春の訪れを告げるホーリ
ー祭の祝日でもあります。色とりどりの粉や水をかけあう祭りが近年エスカレー
トし、見知らぬ人に屋上からバケツごと水をかけたり、暴徒化する若者もいるた
め、政府が警告を出しています。「度を越した者は警察が罰則をもって取り締ま
るべき」「色粉の沈着防止法」といった記事が新聞に出ていました。私も数年前
ホーリーの最中に移動しようとして困ったことから、今日は一歩も外出せず家で
過ごしました。

我が家の裏手に住むシーク教徒の一家は午前中、子どもと両親、親戚同士で水鉄
砲を使って水をかけあって大騒ぎでした。隣家は日ごろ誰が住んでいるかわから
ないほど静まりかえっているのに、今日は子どもたちが車庫の屋根まで上がって
はしゃいでいました。寒い季節は窓を閉め切っていたので、近所の様子に気づか
ないでいたのですが、ここ数日は朝早くから洗濯物を干す姿を見かけたり、夜遅
くまでラジオを聴いている音が聞こえてくるので、私も家の外が気になり始めま
した。以前住んでいた大家さん同居のアパートと違って、一軒家に住むと近所付
き合いも少なくなりがちですが、そろそろ隣人を訪ねてみようと思います。

■麻痺
2月8日の選挙前後、日本でもネパールの様子が報道されたそうで、たくさんの方
からメールをいただきました。1月下旬には外出禁止令が出され一時緊張が高ま
りましたが、私はおかげさまで無事生活しています。もちろん、ゼネスト(バン
ダ)が宣言されると仕事上のスケジュール管理が厄介ではありますが、昨年2月
の政変直後と比べると精神的にはゆとりがあります。

では、ネパールの状況が良くなっているのか、と言われると、通信遮断等がない
だけで、紛争解決の目処はついていませんし、選挙も真に民主的に行われたわけ
ではなく、全く良い兆しはありません。マオイストによる爆破や攻撃による死傷
者数もですが、政府の不当な逮捕による行方不明者数も依然として多く、ネパー
ルの人権状況が深刻な状態にあることは変わりありません。それにも関わらず、
我々カトマンズで暮らす者がそんな状態に慣れていってしまうことが怖いと思い
ます。

■圧力
3月3日から9日までカトマンズ近郊4郡に出張しました。チェパンという民族が暮
らす村々を訪ねたのですが、彼らの居住地域内にはマオイストの軍事訓練所があ
り、民族団体のリーダーはもちろん村人はマオイストと日常から接触があります。
マオイストは、民族団体はNGOなど開発団体とは別ととらえており、チェパンの
ようにとりわけ生活条件が厳しいところに住む民族の活動を妨害したり、徴税と
称して金を要求することもないと言います。

しかし、マオイストが目指す「革命」が民族自治も標榜しているため、マオイス
トの党と直結した民族団体や民族解放軍チェパン師団を作れという圧力がかけら
れているようで、紛争の影響は出ています。マオイストは体制側の学校教育に反
対しているため、政府の学校が長期間閉鎖された結果、教育関係の事業は滞りが
ちです。

政府関係者への脅迫や誘拐が続き、公務員は村から郡庁所在地に引き上げてしま
ったため、地方行政は村落レベルではほとんど機能していません。その結果、出
生証明、市民権証、土地権利書の発行など市民として最低限必要な書類を手に入
れたり、諸手当の給付を受ける時、また単に行政サービスに関する情報を得るだ
けの場合でも郡庁所在地まで出向かねばならず、役所内のプロセスも煩雑でわか
りづらいため村人には大きな負担となっています。行政サービスの不行き届きを
指摘する役割を担っていた地方議員もいませんから、なす術のないままです。

森の先住民として行政から取り残されてきたチェパンの人々は、近年市民権証を
入手する運動を展開していますが、マオイストは「なぜ、現政権が発行する市民
権証が必要なのか」「我々が政権をとったら現政権の書類なんて紙切れだ。我々
が間もなく体制を倒す。書類の発行はそれからだ」と主張します。チェパンの人
々の働きかけの甲斐あって、郡庁所在地まで行かなくても村の宿営地で手続きが
できるようなイベントも行いました。しかし大勢の人が集まり、行政官が村まで
来るとなるとマオイストの襲撃を受ける可能性もあるため警備が大変で、その日
は200名もの王国軍兵士が動員されたとのことでした。それだけの数の武器をもっ
た兵士がいる場所に来た村人は警備によって安心を得るより、銃に囲まれて不安
な思いをしたのではないでしょうか。

■制約
私はこれまでNGOや人権運動家、ジャーナリストらとは親しくしていましたが、
ネパールの地方行政機関とはあまり接点がありませんでした。今回の出張では郡
行政事務所をはじめ、関係省庁の出先機関も訪問し、ようやく実態がわかった次
第です。いずれの郡でも行政関連の事務所は一ヶ所に集まり、建物はもちろんそ
の周囲も厳重に警戒しています。マオイストが郡庁所在地の行政事務所や警察、
軍の施設を狙って攻撃しているのでそれも当然ではありますが、ある郡の事務所
では鞄をもって建物に入ることも許されず、門の脇に鞄を預けなければなりませ
んでした。爆破物持込の危険性があるだけにやむを得ません。

また地方ではあらゆる集会を郡や武装警察に届けて実施しなくてはならないため、
3月8日の国際女性デーの催しまで軍や警察関係者が来てスピーチをしました。そ
れが国際女性デーの趣旨にあったものなら私も文句は言わなかったのですが、い
かにも上官からの指示で来ただけという人がつまらないスピーチをしたのにはがっ
かりしました。「あんな人たち呼ばなきゃいいのに」とチェパンの主催者に言っ
たところ、彼らの村の近くには軍の大きな駐屯地があり、王国軍兵士たちとは良
い関係を保たなければならないから招待しないわけにいかないのさ、という返事
でした。

■軍事優先
今回は私一人が出張したのではなく、地方開発省の事務次官補や民族運動団体の
リーダーなど時に20名を越える大所帯での移動でした。王国軍による検問は、政
府関係者が代表して質問に答えるのが得策だろうと考え、地方開発省の上級役人
がまず身分証を見せるようにしました。ネパール社会では、中央省庁の事務次官
補と言えば「おえらいさん」です。しかし、検問にあたる王国軍兵士は彼の身分
証を見ても疑わしそうな目を向けるだけで、普段よく耳にする尊敬語も使いませ
ん。身分証を本人の手に戻すときも投げ返すような態度をとる者もあり、兵士が
政府の役人に対してさえ横柄な振る舞いをしていることに驚きました。

■展望
人民戦争開始後丸10年が過ぎ、マオイストも政治的解決を目指していると聞きます。
既成政党との歩み寄りが進む中、国王と王国軍側の孤立は強まっています。地方
を移動すると、警備の物々しさや兵士の数の多さに、この国が紛争下にあること
を再認識させられます。

地方で王国軍兵士にインタビューをして回ったジャーナリストの友人によれば、
王国軍兵士の中にも先日の選挙や現体制に疑問を抱いている者も少なくないそう
です。こんな状態が長くは続かないだろうということは個人レベルでは誰もが感
じているはずです。特に村で暮らす人は、行政のサービスも停止し、マオイスト
による圧力も強まる中、その生活は限界に来ています。外国の仲介による和平対
話の可能性をさぐる動きがあるようですが、その端緒は開けていません。マオイ
スト側は4月中には決着をつけたいと宣言しているようですが、どうなることで
しょうか。

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カトマンズ便り12「新年」2006年1月1日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

各地例年になく寒いようですが、いかがお過ごしですか。昨年中は政情やイベント
のお知らせしかできなかったので、今回は私自身の近況をお伝えします。

■1月1日のカトマンズ
カトマンズは冷え込んで朝もやが深く、今朝も人気がなく静まり返っていました。いつ
もは7時に配達される朝刊も9時まで届きませんでした。政府機関の公休日は土曜だ
けなので、元旦の今日も官公庁や商店は営業しています。外国NGOや企業の一部
は週休二日制なので私と夫は家で過ごしましたが、週末でなければ普通の日です。

民間の英字新聞は進まない和平交渉や政党リーダーの発言を取り上げた代わり映
えのしない記事ばかりで、あまり読む気がしません。政府系英字新聞の一面は今日
から始まる国王の東部訪問を取り上げています。きのうも昼はデモ、夜は若者のたま
り場でコンサートがあったようですが、午前中用事を済ませた後、寒かったので再び
出かける気力がありませんでした。電気も水もあり治安も落ち着いているので、家で
過ごすのが一番です。その代わり、1月14日、15日と平野の先住民タルーの新年を
祝う「マギ」に参加するためダン郡に行きます。それが我が家の新年行事です。

■2005年を振り返る
昨年2月の政変後、ネパール情勢について情報を発信したり、こちらの知人・友人が
日本で行うイベントの調整に忙しい1年でした。受け入れや企画にご協力くださった方
、ご署名をくださった方、お世話になりました。また一時帰国中、講演会場まで足を運
んでくださった方、再会できて嬉しかったです。ありがとうございました。

10月末まで、カトマンズ旧市街の大家と借家人の関係を調査するため、国際交流基
金から奨学金をいただいてネパールで過ごしました。時間が比較的自由に使えたの
で、ネパールの地方(ネパールガンジ、メラムチ、ルンビニ、ジャナクプール、スルケッ
ト)や、バングラデシュ、カンボジア、インド(アンダマン・ニコバル諸島)に行きま
した。現地でワークショップをしたり報告レポートを書くこともありましたが、自由な個
人の立場で出かけたので、視野が広がったと思います。2月、3月とカトマンズでの
生活がかなり緊迫し疲れていたので、気分転換になったことは言うまでもありません。

■就職
一時帰国後、SNV(オランダ開発機構)ネパール事務所の職員として働いています。
SNVはかつて外務省直轄機関、つまりオランダの政府開発援助(ODA)実施機関でし
たが、外交・援助方針が変更され、NGOという位置づけに変わりました。現在も組織
体系の移行中で、資金は全額オランダ外務省が出しています。本部契約職員はオラ
ンダの公務員に準ずる待遇です。給与明細がオランダ語で書かれており、私には関
係ないであろう税金や年金が天引きされているのが困りものです。

ネパール事務所では10ケ国出身の職員が働いています。ODAというと、供与国と被供
与国の人たちだけが関るというイメージがありますが、オランダ人は4人しかいません。
所長はベルギー出身、同僚はフィリピン、ペルー、オーストリア、フランス、イギリス、
ドイツなどからきています。以前バングラデシュの国際赤十字連盟の事務所内で働い
ていた頃は、事業に資金を拠出している国から派遣された人が同僚となることが多か
ったです。彼らはイギリス、ドイツ、アメリカ、オーストラリアなどいわゆる「経済大国
」の人だったわけですが、SNVでは資金的には何の関係もない国の出身者が採用さ
れるところが面白いと思いました。

■階級
SNVはネパールの西部と東部の辺境地での事業に長く関っており、現在も徒歩かヘリ
コプターでしか行けない地域で働く同僚がいます。彼らの多くは事業地周辺の出身で、
マオイストに拘束された後も職場に復帰して働いている人もおり、過酷かつ危険な状
況の中で働く彼らには頭が下がります。

ネパール語を話す私はどちらかというとネパール人職員の仲間になるんだろうと思って
いましたが、働き始めて1ケ月が過ぎ、カトマンズ勤務のネパール人職員は私とは全く
接点のなかった人たちだということを実感しています。これまでの私の知り合いは移動
といえばバイク、少しお金がある人でもインド製や日本製中古車を家族で共用していま
した。しかし、カトマンズ勤務の同僚は韓国製の新車でマイカー通勤をする人も少なく
ありませんし、服装や立ち居振舞いも違います。地方勤務の同僚とは全く違うのです。

「週末は家族でバンコクに買物」というお金持ちが最近カトマンズにもいるという話は
雑誌で読んで知っていましたが、そういう人たちの同僚になるとは思いませんでした。
聞いてみると、現政権の大臣の姪や5つ星ホテルの支配人の娘など、親が実業家や
政治家、あるいは援助機関の重役クラスで、本人は小さい頃から英語だけで教育をす
るエリート校の出身というわけで、私は彼女たちとは共通の話題がなく、気がつくとドラ
イバーやガードの人たちばかりと話をしています。

■仕事
私が採用されたのはSocial Inclusion Advisorというポストです。SNVは自前で事業を実
施しないため、内勤の職員以外は全員アドバイザーという偉そうな肩書きがつき、他団
体に派遣されます。カーストや民族、性別、出身地域、性的指向などによって社会的に
排除されている人たちが、教育や経済的な機会を得たり、政治的な発言権を増していく
ために必要な支援を行ったり、制度化するための助言が求められているのですが、前任
者のいない新しい仕事なので、誰と、何をしてゆけばよいのか可能性を探っているところ
です。

ネパール人の上司が「日本人にはネパールの社会排除の現実はわからないだろうが・・
・・」と前置きすることが多いのにいささか閉口しています。確かに私はネパールで暮ら
してまだ5年なので、ここで生まれ育った彼の人生経験と比較することはできませんが
、実際に社会的に排除されている人たちと個人レベルでの交流があるかと言えば、超エ
リート階級の彼がどこまで深く関っているのか疑問です。

「外国人は外国人の世界で仕事をせよ」と言わんばかりに、世界銀行や国連の担当者と
の打ち合わせばかりに行かされるのも、つまらないと思っています。現在世界銀行で社
会排除問題を担当しているのはネパール研究で功績のある文化人類学者のリン・ベネ
ットさんなので、彼女のような著名な研究者がどんなふうに実践の仕事をしているのか
垣間見ることができるのはありがたい機会ですが、やはり排除されている人たちと直接
関る時間を増やしたいと考えているところです。

■2006年の見通し
私の肩書きには「紛争」「平和」「民主化」というキーワードは入っていませんが、実は
この仕事は紛争や現在の政変と深く関るものです。これまで面会した社会排除問題に
関る団体のリーダーの多くが「新憲法でどれだけ自分たちの権利を盛り込めるか」など、
すでに現政権後の話をしています。現実には紛争は終結の見通しが立っておらず、「新
憲法での少数民族への議席配分や自治権」に関心をもつ私も、業務としてそのことに
どこまで関るべきなのか判断がつきません。

仕事を始めれば、政情と様々な運動に振り回されがちだった生活が少し変わるかと淡
い期待をもっていましたが、仕事も本質的にはネパールの紛争や政情と深く関っていま
す。これまでと違って個人としての発言をすることがしづらいですが、足かけ5年関って
きたネパールの転換期をただ傍観者として見届けるだけでなく、関るチャンスがありま
す。3年契約の仕事なので腰を据えて取り組みたいと思います。


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カトマンズ便り11「お知らせ」2005年10月27日在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。前回の通信に返事をくださった方、ここ2ケ月ほど落ち着かずメールを
書いておらず、すみません。

ネパールは乾季に入りましたが、先週は異例の長雨で、トレッキング客の遭難事故
があったほか、山岳部では家畜の被害が出たようです。カトマンズはダサイン
とティハール休暇のはざまで、村から戻っていない人がいるのか静かですが、民放
FM局への弾圧など報道規制問題をめぐって政党が28日にバンダ(交通封鎖)を計
画しています。

11月1日から10日まで家族とも一時帰国します。

今回は自己宣伝だけですみません。すでにイベント案内を他から受け取っておられ
る方、重複お許しください。東京・大阪近辺の方、お目にかかれると嬉しいです。

■11月4日(金)18:00〜20:00 東京
『権利に基づくアプローチ(rights-based approach)とセーブ・ザ・チルドレンの取り
組み〜ネパールの活動事例より〜』

近年、国連諸機関や国際NGO、また英国、スウェーデン、オランダなどの政府の間
では人権推進の視点から開発に取り組む「権利に基づくアプローチ」(rights-based
approach)が主流となってきています。子どもの権利の実現を理念とするセーブ・ザ・
チルドレンでは、「子どもの権利条約」の視点から事業を計画・実施・評価するため
のアプローチ、Child Rights Programming(CRP)を全ての活動に取り入れるように
しています。「権利に基づくアプローチ」は、従来の開発アプローチと比較して何が
どのように違うのでしょうか?セーブ・ザ・チルドレンにおける「権利に基づくアプロ
ーチ」およびCRPへの取り組みを、その概念およびネパールでの活動事例からご
紹介します。

報告者:定松栄一(ネパール駐在代表)、堀江由美子(東京事務局)
日時:11月4日(金)18:00〜20:00
場所:社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン東京事務局 会議室
   東京都中央区日本橋本石町3-2-6 ストークビル8F
アクセス:JR 新日本橋・神田・東京、東京メトロ 三越前・大手町   
地図:http://www.savechildren.or.jp/about_sc/sosiki/access.html
参加費:無料
定員:20名
主催:(社)セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン
申込:お名前、ご所属先名、電話番号を添えてE-mail宛先までお申込下さい。
問合・申込先:(社)セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 担当:堀江
E-mail: info@savechildren.or.jp (件名にCRPセミナーと明記)
Tel:03-3516-8922 Fax:03-3516-8923

■11月5日(土)13:00-15:15(開場12:45) 大阪
アジア理解セミナー「南アジアの人権とジェンダー」第1回
「ネパールの紛争、平和と社会の再構築:女性の自己決定権をめぐって」
講師:田中雅子(カトマンズ在住/アジア女性資料センター会員)

ネパール共産党毛沢東主義者(マオイスト)は、王政の打倒、共和制の樹立を目
指し、1996年2月に「人民戦争」を開始した。2005年7月現在、武装闘争により1万2
千人を越える死者、数千名の行方不明者が出ている。マオイストによる性差別の
否定は、一部の女性に支持され、ゲリラの3割が女性だと言われている。一方、紛
争で夫を失った女性は優先的に王国軍で職を得ることが制度化されるなど、対立
勢力の双方に武器をもった女性たちがいる。女性団体の一部は「紛争をきっかけ
に女性の選択肢が広がった」と歓迎するが、彼女たちの自己決定権は尊重されて
いるのだろうか。長引く紛争は、男性人口の流出を促し、農村でも従来の性別役
割分担の枠組みを変えるほど影響を与えている。

紛争の実態を伝えるビデオ上映後、女性の置かれた状況、様々な立場のフェミニ
ストへの取材の結果を紹介する。紛争時の性暴力など「被害者」としてのみ語ら
れがちな女性が、「主体」として関る紛争の実態と、彼女たちを取り巻く社会を
見直すことで、紛争をジェンダーの視点から捉えなおす。

場所:クレオ大阪西 多目的室(大阪市立男女共同参画センター西部館)
大阪市此花区西九条6-1-20、TEL 06-6460-7800
(JR環状線・阪神西大阪線「西九条」駅より徒歩3分)
地図:http://www.creo-osaka.or.jp/west/
参加費:500円
(AVC会員は無料)
申込:AVCまでお名前と連絡先をお知らせください
関連HP:http://www.ne.jp/asahi/avc/earth/gender-seminar2.htm

主催:特定非営利活動法人アジアボランティアセンター(AVC)
後援:ユニフェム(国連女性開発基金)大阪
特定非営利活動法人関西NGO協議会
反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC)
協力:ユニフェム(国連女性開発基金)日本国内委員会
問い合せ・申込先:特定非営利活動法人アジアボランティアセンター(AVC)
TEL:06-6376-3545、FAX 06-6376-3548
E-mail:avc@earth.email.ne.jp

■11月8日(火)19:00-20:50 東京
ジェンダーの視点で「開発」をもう一度考える 後期連続セミナー第3回
「紛争と開発の関りを考える:ネパールの女性たちの声」
講師:田中雅子(カトマンズ在住/アジア女性資料センター会員)

1996年から紛争下にあるネパールでは、今年2月の政変以来、政治的混乱が
続いている。紛争の実態を伝える映像上映後、様々な立場の女性への取材
の結果を紹介する。紛争時の性暴力など「被害者」としてのみ語られがちな
女性が、「主体」として関る紛争の実態と、彼女たちを取り巻く社会を見直す
ことで、紛争をジェンダーの視点から捉えなおし、「開発」との関係を考える。

日時:2005年11月8日火曜日 19:00-20:50
場所:東京ウィメンズプラザ(渋谷区神宮前5-53-67)
参加費:会員1,000円、一般1,300円
共催団体:アジア女性資料センター、VAWW-NETジャパン
WAM女たちの戦争と平和資料館
問い合せ先:アジア女性資料センター
TEL:03-3780-5245
Email:ajwrc@ajwrc.org

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カトマンズ便り10「市民」 2005年8月25日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。日本は地震や台風で被害も出ているようですがお変わりありませんか。
カトマンズは雨季の最中で、涼しい夏です。

■政治
前回のカトマンズ便りでNHKラジオの「アジア情報」という番組から取材を受けたことに
ついて書きました。直前にお知らせしたので当日聴いてくださった方は少ないと思いま
す。報道規制が続く中、インターネットのブログを通じて情報を伝え合う人々について
5分ほど話しただけですが、依頼があってから収録までの間、テーマについて意見が食
い違い、NHK側と何度かやりとりとしました。

「今のネパールの政治状況の中で自分のまわりの人がどういう行動を起こしているか
伝えたい」と私が提案したところ「報道番組ではないので、政治の話ではなく、ふつうの
市民の間で流行っているものを紹介してほしい」という返事が来ました。ここにもヒッ
ト曲や流行の服はありますからそういうものを紹介しても良いのですが、2月の政変以
来、カトマンズに暮らす私自身の一番の関心事は「政治」です。非常事態宣言下では表
現の自由が規制されていたので、みなが気軽に「政治」の話をしているわけではないで
すが、音楽や服以上に多くの人々が関心をもち、将来の不安材料にもなっているのが
「政治」であることは間違いありません。

今のネパールを伝えるのに政治の話を扱えないなら辞退しますと伝えたところ「政治」
と「流行」を組み合わせる形で折衷案が浮かび、ブログについて取り上げることになっ
たのです。最終的には私は自分が話したいことを喋ったわけですが、当初「政治」と
「ふつうの市民」の間には接点がないかのように扱われたことが気になりました。

■イベント
カトマンズでは、7月の後半から「市民団体」による街頭集会が開かれています。中心
になっているのは、ジャーナリスト、人権活動家、弁護士、コラムニスト、アーティス
トなどで、人通りの多い広場で、毎回場所を変えながら3000名くらいの聴衆を前にスピ
ーチや、唄、パフォーマンスを通じて紛争解決と共和制を求めるアピールをしています。

私も先週カトマンズの旧王宮前広場での集会に行きました。過去2回の様子をテレビで
見て、これまでのデモとは違い、政党政治家が主役の演説中心ではなく、主張はあるも
のの楽しく落ち着いた雰囲気が伝わってきたからです。ネパールの会合は開始が予定よ
り遅れることが多いので、少し遅れて行ったところ、すでに広場の寺院の石段は聴衆で
いっぱいでした。定刻どおり始まったらしく、期待していた女性アーティストたちによる
パフォーマンスは終わってしまっていました。

イベントの一部始終を撮っていた映像作家の友人に後日ビデオを見せてもらったところ、
彼女たちは口を布でふさがれた白装束で現れ、レンガ色のステージの上に横たわった
若者たちを白チョークで形取り、数分後にステージが白い人型(死体を象徴)でいっぱ
いになるという無言のパフォーマンスをしたようです。

会場になっている古い寺院の一角には風刺漫画を大きく引き伸ばした横断幕が舞い、
詩の朗読、唄、コントなど出し物が続きます。私のネパール語力ではそのすべては理
解できませんから、私はステージと会場の両方に目をやりながら、聴衆が楽しそうにし
ている様子を見て、その反応をうかがい知るのがやっとでした。それでも、たまには私
にもよくわかるスピーチがあり、隣に座っている人とうなずきあったり、拍手をして楽
しみました。

■孤立
こういうイベントは「インテリの遊びにすぎない」という批判もあります。会場でたくさ
んの知り合いに会いましたが、ジャーナリスト、漫画家、大学教員、編集者の知人で、
私が借家人の調査で関っている女性グループのメンバーや近所の仕立屋さんでは
ありません。しかし、3000人以上もいた聴衆のすべてが「インテリ」かと言うとそうで
もなく、普段は路上で焼きとうもろこしを売っている女性もいましたし、たまたま通り
かかった風船売りのおじさんも品物を頭から下ろし、聴衆の一人としてじっと座ってい
ました。夫は軍人だという子どもづれの女性もいました。ステージに上がって目立って
いたのは「インテリ」だったことは否定しませんが、特定のスポンサーのいないこのイ
ベントに会場で寄付をしていたのは「その他大勢」の人たちだったと思います。

このイベントの中で姿を見かけなかったのは、私と同業者でもあるNGO関係者です。
会場の隅々まで見渡したわけではないので、どこかの一角に集まっていたのかもしれま
せんが、ざっと見渡してもNGO関係の知り合いはふたりしか見かけませんでした。就業
時間中だから行けないとか、単純に忙しいから、という理由もあるでしょうが、NGO関
係者がこの種のイベントに関ろうとしないのは「政治的な行動をとると、当局から目を
つけられ活動がしづらくなったり、その団体を支援している外国の援助機関からの資金
援助がこなくなるのではないか」という不安があるからだと思います。

イベントの途中、裏方をしていた知人の女性がステージに立ち「今日のこのイベントの
ドナーは誰だか知っていますか?会場で寄付をくれたみなさんですよ」というと大きな
拍手が起こりました。ネパールでは「ドナー」イコール「外国の援助団体」という理解
が一般的になっていますが、このイベントが外国からの援助資金ではなく、その場に
いた人たちによって支えられていることを誇りに思ったのでしょう。

普段NGOは草の根レベルでの市民社会の強化を謳い文句にしていますが、政変後の
混乱の中でも立場を明らかにせず、沈黙を守っているのは地元の団体も外国の団体も
含めNGO業界です。この流れの中でのNGO業界の孤立は、次の時代がきたときに
NGOがその拠り所であるべき市民のサポートを失う事態を招きそうな気がします。

■お知らせ
ネパール情勢についてはネパール・ピース・ネットのホームページから「NPN News
バックナンバー」(http://npnet.exblog.jp/i18)をご覧ください。

紛争の実態をお伝えするドキュメンタリービデオ『殺戮の台地−The Killing Terraces
』と『戦火にさらされる学校−Schools in the Crossfire』の日本語字幕版も販売中。
私が字幕作成しました!ぜひご覧ください。


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カトマンズ便り9「糊塗」 2005年5月22日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。カトマンズは、メインストリートに植えられたジャガランダの薄紫色の花が咲き、日中は初夏の陽気ですが、このところ夕方決まって雷をともなう夕立になります。本格的な雨季が始まる以前から例年以上に雨が続いているので、今年は干ばつになるのではないかと心配されています。

■ラジオ出演
明日5月23日NHKラジオ第一放送の「ラジオ朝いちばん」という番組の「アジア情報」というコーナー(午前8時15分からの5分間)で最近のネパールの様子について話します。直前のお知らせになってすみませんが、お時間のある方は聴いてください。

■非常事態宣言解除
一部の方にはすでにお知らせしておりますが、4月29日夜、ギャネンドラ国王夫妻がインドネシア、中国、シンガポールへの外遊から帰国後、2月1日に発令された非常事態宣言が解除されました。2月16日に設置された王室汚職対策委員会については解除後も活動を継続することが同時に発表されており、実質的な国王の直接統治について変化はなく、実情を糊塗しているにすぎません。

ネパール王国憲法では、3ケ月以上非常事態宣言を延長する場合、下院が延長承認をする必要があると定めていますが、下院は解散中であり延長することは手続き上不可能でした。

2月2日に発令された6ケ月間の新聞等の検閲に関する通達は解除されていまおらず、FM放送で流れるBBCの定時ニュースへの妨害も続いています。新たに報道機関の登録規制に関する法律が改訂されるなど、非常事態宣言の解除後、報道規制はむしろ強まりました。FM放送でのニュース番組の禁止は、地方言語での情報提供を必要とする人々に影響を与えているため、「公共の利益に反する」として訴訟に持ち込まれています。

その後、釈放された政治家もいますが、共和制を支持していた学生運動家など、体制に対してより脅威を与えると見なされた人たちは現在も拘束されています。拘束期限が切れた後、一旦釈放され、再び逮捕された人も多く、違憲であるとして最高裁で争われています。

■国内避難民
宣言解除の翌日30日、カトマンズ郡事務所はラトナ・パーク等カトマンズ市内10ケ所での政治活動禁止令を発令していますが、5月1日のメーデーの後、強制排除にあった政党系学生組織のメンバーや、紛争で国内避難民となった人、ジャーナリストなどのデモが規制区域を避けるような形で実施されています。

カトマンズ市内中心部にある野外劇場広場では、ネパール各地からやってきた国内避難民がテント生活を送っています。ここに集まっているのは「マオイスト被害者の会」のメンバーで、マオイストに家族を殺されたり、脅迫を受けて村で暮らせなくなった人たちです。住居の補償や、食糧の配布、子どもを学校へ通わせることなど、政府による救済を求めて、デモや座りこみを続けています。しかし、通行妨害をしている等々の理由で、治安部隊から暴力によって阻止され、拘束された人もいます。

彼らが暮らす場所は、電気自動車やマイクロバスのターミナルに近く、気になる場所だったので、私も何度か訪れました。ジャーナリストのブログで、治安部隊に引きずられていくセンセーショナルな写真が掲載されていた女性も、テントではのんびりと休んでいました。300世帯いるという報道がありましたが、実際にはその半数以下のようでした。全国71郡から集まっているとあって、顔つきや服装もいろいろです。

学校へ通っている子どもたちは親と一緒に座りこみに行っているせいか、テントの近くで鍋や食器を洗っていたのは、就学前の子どもたちでした。連日の夕立で水溜りも多く、いつまでも生活できる場所ではありません。妻をマオイストに殺されたという3歳の子どもを抱えた男性から、子どもだけでも誰か引き取ってくれないだろうかと相談されましたが、良いアイデアが浮かびませんでした。

各国のODA、NGOとも「平和構築」分野で活動する団体は、国内避難民を支援対象に掲げています。地方の国内避難民に対しては十分とは言えないまでも、支援を行っている団体がありますが、カトマンズに集まった彼らに対しては、今のところ支援をしている団体はないようです。

「マオイスト被害者の会」の代表者らが過去にマオイストから殺害されるなど、マオイストの標的となってきたので、その会を通じて避難民支援をすると、支援した団体までが標的になるのを恐れているというのが第一の理由。また、一旦カトマンズで大規模な支援を始めると、より多くの避難民がカトマンズに集中し、長期的な問題となりかねないというのが第二の理由です。洪水などの自然災害や、紛争以外の理由で土地を追われ、公有地に暮らす人も少なくないため、「紛争被害による国内避難民」への支援を限定することも、現実的に難しい面があります。

国内避難民には、マオイストによる被害を受けた人たちだけでなく、王国軍による掃討作戦のために村を離れざるを得なくなった人もいますが、王国軍による暴力の被害者は「マオイスト被害者の会」のようにグループを作ってはいません。「反体制的」であるとして、より弾圧を受けるのが目に見えているからです。

私も都市の居住問題に関っているので気になっていますが、誰が、どう解決すべきなのか、見えないでいます。カトマンズの中心で1ケ月以上もテント生活を送っている人がいることだけは、伝えつづけたいと思います。

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カトマンズ便り1 「再会」 2004年6月3日 在ネパール カトマンズ 田中雅子 
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こんにちは。みなさん、元気でお過ごしのことと思います。
昨年末「ボルガタンガ便り」最終号をお送りして以来、長らくご無沙汰しています。
4月2日より、連れ合いのいるネパールで暮らしています。
4月はバングラデシュで仕事、5月は住居を整えるのに時間をとられ、6月に入ってようやく落ち着きました。

こちらに来てから、どういう形で近況報告をしようかと迷っていました。ネパール在住者・旅行者のWebサイトはたくさんあるので、「ボルガタンガ便り」のような土地の紹介だけなら発信する必要はありません。あれこれ考えて先延ばしにしているうちに2ケ月過ぎてしまい、みなさまにもご心配をおかけしました。とりあえず私が出会った人や出来事を紹介することで、人々の暮らしの日常と非日常、それらと政治や開発援助、社会問題との接点をお伝えできればと思います。

■再インストール
私は1995年8月から1999年5月までネパールで暮らしました。17回の引越し経験のある私にとって、前に暮らしたところに戻るのは初めてのこと。2度目のネパール生活は、友人・知人はもちろん、景色や生活すべてとの再会です。カトマンズの人口が増えたとは言え60数万人の小さな首都ゆえ、道を歩いているだけで旧友とばったり会い、まだ直接会っていない人も私がネパールに来たことを誰かから聞いて知っているような街です。ネパール語はもちろん、地名や人名など5年間使わなかった情報を再び頭にインストールし、再適応しようとしているところです。

家財の修理を頼んでも約束通りに人が来なかったり、カーテンをオーダーしたところ出来上がり寸法が間違っていたりと、「相変わらず」のネパールに我慢しかねることもあります。バングラデシュやガーナで暮らし、他の世界を知ってしまったことで、初めてネパールで暮らした時以上にがっかりさせられることも少なくありません。「ネパール・モード」に馴染むのには少し時間がかかります。

■政情
5年間で最も変わったことと言えば、ネパールの政情です。2002年5月に国会が解散され、同年10月総選挙の延期をめぐって国王と対立した首相が罷免されて以来、自治体の首長も任命制となり、議会政治は行われていません。

昨秋に共闘抗議を始めた5野党連合は、4月1日抗議行動を再開し、5月7日に国家民主党(王党派RPP)タパ首相が辞任するまでの間、カトマンズでは地方から集まった支持者を中心に激しいデモが繰り広げられました。デモ参加者、ジャーナリストの検挙が続き、市内数ケ所で抗議の一環としてタイヤが燃やされ、街は騒然としていました。自治体レベルでは、国王に任命されたことを理由に共産党・マオイスト派から脅迫を受けていた首長らが辞職し、ほぼ1ケ月、国政だけでなく地方レベルでも政治の空白が続いていました。

5月30日国王が首相候補の推薦を募ったところ、自薦他薦を含め30名以上の名前が届けられたそうです。6月2日、国王はコングレス民主党デウバ氏を首相に指名しました。これまでの経緯が、国王による一方的な決定であるとして、異議を唱える人も多いですが、膠着状態から抜け出す一歩にはなったと思います。
マオイストによる武力闘争は、1996年2月に始まったことですが、昨年8月の停戦破棄以来、政府軍との戦闘は激しくなり、最近ではカトマンズ市内で公共バスが爆破されるなど無差別テロ化しつつあります。3年前の王宮銃撃事件後即位した現国王に対する民衆の反発は今も根強く、昨今のデモでは「国王やめろ!」と叫ぶ人もいますし、同様の落書きが学生組合事務所の壁に書かれています。一方、1990年の民主化後、政権をとった共産党、コングレス党への失望も大きく、マオイスト、国王、既存政党のいずれも支持しかねるというのが私の周囲の人々の心情のようです。BBCやCNNでは、イラクやパレスチナのことばかりが取り上げられますが、ネパールのテレビでも毎日、マオイストと政府の戦闘や爆破、学校から教員や生徒が拉致された話などが多くて気が滅入ります。

武力行為はネパール全土で起きているわけではありませんが、国全体に影響を及ぼしているのが、マオイストや野党が呼びかけるバンダ(ゼネスト)です。交通だけが止る日もあれば、学校のみ、あるいは商店なども含め全面的に閉まる日もあります。もちろん、バンダに従うと呼びかけた党派を支持したことになるので、抗議の意図をもって開けているところもありますが、物流に支障が出ています。生鮮食料品の高騰が都市の消費者に影響を及ぼすのはもちろんですが、より深刻な打撃を受けているのはそれらの供給源である地方の農家です。バンダで出荷できなかった野菜を何トンも捨てているという報道がありました。また、ポーターなど日雇い労働者や運転手はバンダの間現金収入がありません。前回のバンダ期間中、食べるのに困った親子が心中したというニュースが流れました。

■メディア
なかなか先の見えないネパールですが、5年前に比べると民放放送局や雑誌が増え、ニュースの取り上げ方もずいぶん変わりました。警官がデモ隊や傍観者を殴っている映像もニュースで取り上げられましたし、「市民の声」などインタビューコーナーでは、政府・与党への批判的なコメントも流れます。メディアの数が増えたせいか、少数民族や性的マイノリティー、HIV/AIDS感染者のイベントがテレビやラジオで取り上げられることもあり、以前よりも多様な問題が話題に上るようになり、当事者が発言する機会も増したようです。

また、デモやバンダといった従来からある手段だけでなく、ストリート・パフォーマンスや絵、彫刻など違った分野で現在の状況に対して抵抗していこうという若手アーティストもおり、表現の自由は確実に広がったと思います。街のギャラリーの数もずいぶん増えました。

カトマンズ出身の中流以上の人たちは、バンダで移動に支障が出たり、物価が多少上がって文句を言っても、実際にデモに参加する人は少なく、自分たちでマオイスト、国王、既存政党以外のオプションを提示する動きは今のところありません。彼らがこんなに傍観者的な態度でいいのか、と感じることがあります。それでも、一人一人と話をしてみると、スリランカ和平の話や、イラク、アフガニスタンでの戦争、各国の軍事支援など国際政治に詳しい人も少なくなく、混沌とした世界の中でネパールにどんな選択肢が残されているのか、彼らなりに考えているようにも思えます。あるいは、インターネットや衛星テレビの普及で、自分の街で起きていることも、イラクの事件も同次元で捉えるようになってしまったのでしょうか。私も彼らと同じかもしれませんが。

過去の個人通信のうち、Webでご覧いただけるものがあります。掲載くださった方、ありがとうございます。
ガーナ「ボルガタンガ便り」 http://homepage2.nifty.com/CWS/bolgatanga.htm 
コンセプトワークショップ 佐藤修さんの「CWSコミュニティ」Webサイト
ネパール「街の脇役たちと」 http://www.shaplaneer.org/tayori/wakiyaku.htm
特定非営利活動法人シャプラニール=市民による海外協力の会 Webサイト

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カトマンズ便り2 「反軍事化」 2004年6月25日  田中雅子(日本滞在中) 
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こんにちは。ネパールより一時帰国中の田中雅子です。
ネパールでは今月初めにデウバ首相が指名されましたが、首相は挙国一致内閣を望んでいるものの各党指導者を説得しきれず、また政党間の駆け引きもあり、閣議の開催もままならず(17日現在)、野党連合による市の中心部でのデモが続いています。ほぼ2週間続いたマオイスト系学生団体による学校閉鎖ストライキはようやく終わりましたが、現政権とマオイスト側との対話はまだ始まっておらず、政情不安が続いています。

■軍事援助
ひと月前、隣国インドではソニア・ガンジー率いる国民会議派が「世界最大規模の選挙」と言われた統一選挙に勝利し、彼女が推薦したマンモハン・シンが首相の座に就いて、新政権がスタートしました。インド政府はこれまでも1万丁の銃をはじめ、ネパール王室軍の軍備増強を支援してきましたが、新政権も13日、早速新型ヘリコプター2基を贈りました。

インドの軍事支援に反対しようと、人権NGO関係者、報道写真家たちが、最初の外遊先ネパールにやってきた外務大臣の宿泊先付近に「戦争反対!軍事援助ではなく平和のための援助を!」という横断幕をかける企画を立てていました。しかし、当日彼女たちは訴状もないまま私服警官に拘束され、結局抗議はできませんでした。私はその2日前に会ったばかりの彼女が拘束されたことをラジオのニュースで聞き、大変驚きました。

アメリカ、イギリスはもちろん、中国やイスラエル、ベルギーからも軍事援助が行われているそうですし、国家予算のうち治安の悪化で執行できなくなっている地方開発予算と、内訳のわからない王室予算が軍備増強のために使われているのではないかというのがこちらの人々の見方です。直接の軍事支援を目的としていない外国からの資金が軍事目的で使われていないとも限りません。ネパールで活動するデンマークのNGO関係者たちは、デンマーク政府による援助の実態把握と、デンマーク政府による和平仲介を働きかけるためのネットワークを結成し、ネパール、デンマーク双方で情報収集に努めているそうです。今のところ日本のNGOがこうした活動をしているのは聞きません。

■イラク難民
ところで、私はカトマンズで「カーストの異なる大家と借家人の関係」について調査をしているのですが、ある日「手頃な貸し間があったら紹介してほしい」というイラク難民の男性を紹介されました。彼は4年前、イラクからドゥバイ経由でカトマンズに来たそうで、到着後半年間は刑務所に入れられ、その後国連高等難民弁務官事務所の計らいで、ニュージーランドとオーストラリアに亡命申請を出したもののそれぞれ1年以上待たされた挙句に受理されず、まだ亡命先を探しているところだと言います。

ネパールには9名のイラク難民がいますが、彼だけがシーア派に属し他の難民と交流がないせいか、ネパール人の友達はたくさんできたようで、流暢なネパール語を話します。コンピューター好きなので、人権NGOでボランティアをしながら、いろいろなミーティングにも顔を出して気を紛らわせているとは言え、落ち着き先の決まらぬまま4年の歳月を過ごすのはつらいことでしょう。

暇さえあればインターネットで調べものをしている彼から、私もたくさん質問を受けました。「第二次世界大戦後、日本は連合軍側の占領下になった結果、今にいたるまで米軍に基地を提供することになったわけだけど、イラクにもこれから50年以上、米軍はいるつもりかな?」、「日本軍は従軍慰安婦を植民地下にあった国から強制的に連れていったそうだけど、イラクの外国人兵士たちのところに昔の慰安所みたいなのはあると思う?」。私たちの会話により関心を示したのは傍らで聞いていたネパールの友人たちでした。

■「広島デー」?
前回私がネパールに滞在していた1998年、インドとパキスタンの核実験がありました。南アジアの大国が核戦争を始めたら自分たちも間違いなく影響を受けると危機感をもった人たちが、反核運動をやるというので、私も広島出身の知人の助けを得て、記録映画やポスターを借りたり、住民組織や学校で映画上映会をするお手伝いをしました。そのときの印象が強かったのか、イラク難民の彼を囲んで話をしていた知人が、「今年の広島デーにネパールの軍事化反対のための移動展示会をやろう」と言い出しました。4月に国王による専制政治反対を掲げて小規模でやってみたところ好評だったとか。丁度8月5日に人権関連イベントがあるのでそれとタイアップしようということで、会場やイベントの日程があっと言う間に決められました。

彼女が言うには、日本はネパールに対して多額の援助を出しているが、軍備増強のためではなく、教育や保健分野に対してだから、英・米とはスタンスが違う。世界に平和をアピールしてきたのは広島・長崎の人たちだから、「広島デー」にやろう、というのです。しかし、そんな会話をしていた私のところに入ってきたニュースは「有事法制関連7法の成立」と「自衛隊の多国籍軍参加に関する閣議決定」でした。

■軍事化する日常
このイベントをめぐって、誰に対して抗議するのか議論がありました。報道写真家の友人は「軍事支援」、つまりお金を出す外国政府と受け手のネパール政府に向けた抗議だと主張していましたが、一般人を巻き込んだ武力行動を行うマオイスト側も同時に批判されてしかるべきというところで落ち着きました。したがって、これはネパール政府や王室軍だけでなく、日常を脅かす軍事化を進めるあらゆる人々に対するものです。現在マオイストが使用する武器の中には軍と闘って奪い取ったものも多く、王室軍の軍備増強だけで問題が解決するとは思えません。

カトマンズでは交差点や政府の建物周辺に銃をもった治安部隊がいるくらいですが、地方ではマオイストが村人を民兵として集め学校で軍事訓練を行ったり、バザールでは軍とマオイストによる戦闘が行われており、ネパールにおける軍事化の問題はテレビの映像を通じてではなく、目の前で起きています。そんな殺戮を目の当たりにしなければならない日常が子どもたちに対して将来どんな影響を与えるか危惧するラジオ番組も流れていました。攻撃や殺戮の映像が流れる日本のテレビを毎日見て育つ日本の子どもにも通じる不安でしょう。

■協力者募集!
さて、この移動展示会では、カトマンズ市内の「民主主義の壁」、地方都市の集会場などで、平和・軍事化・戦争をテーマにした風刺漫画、写真、絵、彫刻、詩の実物の展示、あるいはデジタル化したものをスクリーンに写し出し、インスタレーションや音楽などその場で聴衆と一緒に創り上げるイベントを考えています。出展者から著作権に関する承諾が得られれば、CD化したものをアフガニスタン、イラク、カシミール、ビルマ、パレスチナ、スリランカで平和運動をやっている人にも提供する予定です。紛争地以外の世界各地からの出展者も募ります。展示に先立ち、カトマンズではネパールの軍事化の現状報告、イラク難民のFさんの辿った道、グローバル化と軍事化というテーマでトーク・プログラムを企画中です。

日本からも、出展して下さる方、トーク・プログラムで話してくださる方を募集しています。今の日本政府が向かっている方向は、ネパールの知人たちの描くイメージとはあまりにも違うので、最近の有事法制や、イラクへの自衛隊派遣、沖縄で続く米軍基地の問題など、広い視野で「日本と軍事化」について語って下さる方はいないでしょうか。このイベントは、私たちカトマンズに暮らすNGO関係者やジャーナリストなど個人の実行委員会によって行いますので、インターネットによる情報収集、ネット上での作家とのやりとりを中心とし、なるべく経費はかけないで運営したいと考えています。そんなわがまま無謀なイベントですが、自薦・他薦を問わずトーク・プログラムで話してくださる方、作品を出展して下さる方があれば、ぜひご連絡下さい。詳しい資料を送ります。

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カトマンズ便り3 「仲間」 2004年8月11日 在ネパール カトマンズ 田中雅子 
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残暑お見舞い申し上げます。
7月20日ネパールに戻りました。一時帰国中、泊めていただいたり、再会の場を設けて下さった皆様ありがとうございました。1ケ月だけの滞在でしたので、連絡すらできずお目にかかれなかった方も多く、大変申し訳なく思っています。次回は10月下旬に2週間ほど帰国の予定です。

前号で、ネパールの友人たちが軍事化に反対するキャンペーンを企画していると書きました。日本から「軍事化と日本」について話して下さる方をお招きすることはできなかったものの、8月5日にカトマンズで軍事化についてのトーク・プログラムを実施しました。ご協力いただいた画家の富山妙子さん、アジア女性資料センターの皆様には別途イベント報告を送っています。関心のある方はお問い合わせ下さい。添付ファイルで送ります。

■裏方
援助関係者としてネパールに関わっていると信じられないかもしれないが、カトマンズで目新しいイベントを企画すれば、ボランティアは集まるし、日当・交通費が出なくてもみんなちゃんとやって来る。軍事化を考えるイベントを支えていたのもそんな若者たちだ。

イベント前日、会場に展示することになっていた富山妙子さんの作品の拡大複写を作るため、デザイン工房に行った。自称「芸術家兼作業員」だという二人の青年は「ミスコン反対キャンペーンのロゴが完成したと思ったら、次は反軍事化のイメージロゴの製作を頼まれた。でも、こんな運動の手伝いは楽しい」と言っていた。一旦家に帰った私に複写ができたよ、と彼らが電話をくれたのは夜10時すぎだった。

当日、私は配布資料のコピーを頼まれて、私より10歳くらい若い女性と作業をすることになった。見覚えのある顔だなと思っていたら、6年前私がまだカトマンズに住んでいた時、報道写真コンテストで大賞をとった写真家だった。官庁街でゴミの山にうずくまり犬と並んで残飯を食べる人を撮った彼女の写真は鮮烈で、当時ゴミ回収の調査をしていた私の記憶にも残っていた。報道写真家として成功しているだろうと思っていた彼女が私の目の前で帳合作業を手伝っている。あれからどうしていたかと聞くと、所属していた新聞社は倒産し、結婚して子どもができたので以前ほど写真が撮れないと言う。ネパールにいなかった5年間のことを私が話し終える頃、作業も終わった。

大量のコピーを抱えて会場に向かう道すがら、彼女は親戚の仲介で結婚した夫が実は軍人だと話し始めた。「今日は反軍事化のイベントだよ。軍関係者も来るのに大丈夫なの?」と驚く私に、「うちの夫は車両整備班だから幹部には知られていないと思う。夫だって好きで軍人になったんじゃないの。村に仕事がなくて仕方なく選んだ仕事。私が今日ここでボランティアをしていることも知ってるわ。でもイベント仲間のみんなには言わないでね」と言った。

会場で受付係をしていた彼女は、軍の広報官と人権担当官が到着すると、古いカメラを取り出し、人権活動家と談笑する軍人たちの様子を至近距離で撮り始めた。彼女のすぐ横に立ってみて、私のような素人は軍の幹部相手にこんなに近くでカメラを構える勇気がないと思った。イベントが始まってしばらく、一瞬を惜しむかのようにシャッターを切っていた彼女は、「子どもが幼稚園から帰る時間だから」と終了を待たずに会場を出て行った。

■反応
会場には予想をはるかに上回る120名ほどが詰めかけ、テレビ局も3社が取材に来た。私たちが用意した50部の資料はすぐ足りなくなった。前半の講演で発表したのは、マオイスト問題を取材している男性ジャーナリスト、地雷廃止運動に取り組む女性、国家人権委員会の男性審議員、王室軍広報官の4名。軍関係者は出席しないのではないかと思っていたが、当日朝になって承諾が得られ、人権担当官も一緒にやってきた。

マオイストによる人民戦争が始まってから、王室軍の予算は3.5倍、警察予算は実に35倍に増え、国家財政を圧迫している。軍事費が増大することで、本来優先されるべき開発予算に影響が出ているという指摘を受けた軍広報官は、ネパール王室軍の軍備は他国に比べて100年ほど遅れており、近代的な装備を整えるためには費用がかかると説明した。すると会場からは「現在、軍の任務はマオイスト問題の解決という国内問題なのに、なぜ他国と比較する必要があるのか」と厳しい質問が出た。

「マオイスト対王室軍という文脈で治安問題が語られがちだが、マオイストが敵としているのは国家(State)であり、我々軍は人々を守るために闘っている」と広報官が言うと、会場から多くの人が「なぜ、一般市民が軍を恐れたり、嫌ったりするようになったのかわかっていないのではないか」と異議を唱えた。そのうちの一人はナイトクラブで働くゲイの男性で、勤務時間後やってくる軍や武装警察関係者が、自分たちをピストルで脅したり、他の客との喧嘩で銃を振り回しているのは、軍事権力の乱用だと指摘。またパトロールと称して民間人の家に土足で侵入したり、夜間の検問で女性の身体をむやみに触ったりするのは、治安維持の任務を越えているという意見も出た。
 
■当事者の語り
会場に集まった多くの人は、NGOの関係者やジャーナリスト、学生たちで、ネパールの伝統衣装ではなく男性はズボン、女性もジーンズをはいている人がほとんどだったが、会場の一角にサリーを着た初老の女性と伝統的な帽子トピをかぶった男性、乳呑み児を抱いた若い女性がいた。会場とのオープンディスカションに入ってしばらくすると、乳呑み児を初老の女性に預けて若い女性が話し始めた。彼女の夫は1年ほど前に軍に連れて行かれたまま行方不明になっているという。話し終える前に傍らにいた初老の男性と女性も泣き出した。連れ去られた男性の両親だったのだろう。

軍の人権担当官は「国民全体を守るために怪しいとされた1人を連れ去ることは十分ありうる。捜索願いは出されていると思うが、ネパールでは似たような名前が多く、通報だけではどこの誰の話かわからないだろう」とあまりにも冷たい返事をした。人権委員会の審議員は「現行法に照らし合わせて軍が行ったことの違法性を追求しよう」と言ったが、発言した彼女は、法的解釈の問題よりまず夫の安否を知りたいはずだ。他にも自分が軍に連れ去られ3ケ月拘留されている間に留守家族の生活が立ち行かなくなり、娘が服毒自殺したという男性も痛ましい経験を話した。

■和平の行方
いつか和平合意が進み、真実和解委員会が開かれるようになったら、こうした証言と答弁が毎日繰り返されるのだろうか。当事者の発言はそれぞれ、軍事化が一般の人々の日常生活に与えた影響を知るのに十分な事例だったが、当事者の訴えとそれに対する軍関係者の反応には温度差があった。軍と一般市民の間でさえ、これだけの溝がある。今回のイベントには参加していないマオイスト、そしてマオイストの被害を受けた人たちとの関係もまたさらに和解が難しいだろう。

一日も早く、まずは停戦、和平合意にたどりついてほしいと思うが、千人を超える行方不明者、軍と警察合わせて十数万人の治安関係者、百万を越えると言われるマオイスト支持者、そして双方の影響を受け国内避難民となった人たちがそれぞれに和解していくのは容易ではない。民族や宗教による対立とは違うネパール固有の問題がある。イベントの行われた週、マオイスト被害者の会のメンバーが、補償を求めてハンガーストライキを開始した。ネパールが以前のようなのんびりした平和な社会に戻れなくなっていることだけは確かだ。

今月新たに200名近い女性兵士が任地に配属された。中には兵士だった夫をマオイストとの戦いで失った女性も含まれている。政府は、軍人の夫を亡くした女性を優先的に雇用するのは補償の一部であると説明する。マオイスト側もホームページで勇敢な女性ゲリラを紹介して、ヒロイン伝説を創り出そうとしているように見える。彼女たちが前線に出ることは、復讐の連鎖へとつながらないだろうか。

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カトマンズ便り4 「心情」 2004年9月28日 在ネパール カトマンズ 田中雅子 
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こんにちは。カトマンズは朝夕涼しく、日中時折ヒマラヤが見えるようになりました。もうすぐ雨季も終わりです。今月初めのネパールの治安悪化が日本でも報じられたことを気遣ってメールを下さった方、ご心配をおかけしました。おかげさまで私たちは無事に生活していますが、今回はその顛末についてお伝えします。

■誕生日
9月18日はFさんがネパールで迎える4度目の誕生日だった。フセイン政権時代のイラクを出てから、落ち着いた日などなかっただろうが、2週間前のカトマンズでは「ネパールにいるイラク人を殺せ」というプラカードをもった学生が歩き回っていたというから相当怖い思いをしたはずだ。そんな彼を励まそうと誕生パーティーが開かれた。イスラム教徒だというだけで脅されて大変だったというイラン人難民のMさん、Fさん同様イラク難民として暮らす姉弟など集まったメンバーの半分はイスラム教徒で、彼ら自慢の手料理とアラブ系の音楽をみんなで楽しんだ。彼らがネパール語を流暢に話すのがかえって切なかった。
20代、30代の若者が、先の見えぬまま難民として暮らすだけも苦痛なはずだが、その上、イスラム教徒だというだけで攻撃されかねない土地で過ごさなければならないとは何と辛いことか。Fさんは人権NGOでボラン-ティアをしていたことから、ネパールの雑誌で取り上げられることが多かった。6月に私が初めて彼に会った時も、雑誌のインタビューを受け、写真を撮られている最中だった。その結果、イラク人がネパールに住んでいることなど知らなかった人たちまで彼らの存在を知ることになり、標的にされてしまったのは皮肉なことだった。

■発端
8月19日にイラクで人質にされた12人のネパール人はどうなっただろう・・・。ニュースの度に気になっていたが、31日夜は晩ごはんの支度をしながらテレビを見ていたので「イラクの人質は・・・」の次がよく聞き取れなかった。詳しいニュースが流れないので、インターネットのニュースサイトを見たところ、彼らは殺されたと報じていた。ビデオテープの中で、銃をつきつけられ脅されながら出身地を言わされていた若者たちの様子が思い起こされる。彼らはカタールやヨルダンへ行くと信じて派遣された人がほとんどだった。彼らを殺した側は、何か得られたものがあったのだろうか。私の知り合いにも中東へ出稼ぎに行った人はたくさんいる。みんなあのニュースを聞いてどうしているだろう。暗澹たる気持ちになった。

■反応
 9月1日朝、家人の付き添いで病院に行った。午前9時、王宮に近い大学で学生が古タイヤを焼いて抗議行動をしているから、とタクシーは迂回して王宮前通りの病院に着いた。病院職員の何人かは前夜から襲撃されているモスクの様子を見て帰ってきたところだった。病院長のネパール人女性は「こんな日は、国民が喪に服すように休日にするとか、政府が早めに手を打つべきだったのよ」と言っていた。
 病院での診察を終え、家人は事務所へ、私は自宅に向かった。10時半の時点でもう車両は走っていなかった。モスクのほうを見渡すと、まだ人だかりがしていたが、そこまで近づける状況ではなかった。王宮の横を通り、カトマンズの中心部を貫く幹線道路を北へ歩く。私が住んでいるラジンパット地区に近くなると、急に騒がしくなった。前方で建物に石を投げている集団がいる。ガラスの破片が散らばっている。
 ここは王宮と現国王の私邸の中間にあり、普段は治安部隊が厳重に警備している区域だが、なぜか見当たらない。暴徒の人数が多すぎて押さえられないのだろうか。見ていた群集の一人に、どこが襲われているのか聞いたところ、人材派遣会社だと言う。投石されている建物の3階に人材派遣会社の看板があったが、そこはイラクで殺された12人とは関係がない。「この会社はイラクの事件とは関係ないんじゃないの?」と聞き返したが「人材派遣会社はみんな標的みたいだよ」とその男性は答えた。我が家のすぐ近くには、別の人材派遣会社がある。そこも襲われているのではないかと思ったが、私が帰宅した11時頃はまだ静かだった。
 暴動に巻き込まれず自宅に戻った私は、階下の隣人と屋上に上がってみた。王宮前通りだけでなく市内数ケ所から煙が上がっている。私が遭遇した以外にもたくさんの場所で暴動が起きているようだ。しばらくすると幹線道路から10代後半から20代前半くらいの若者が奇声をあげてやってきた。彼らは近所の人材派遣会社の屋上まで上っていき、家具や書類を投げ捨て燃やし始めた。5分もたたないうちに火は激しくなり、黒煙が立ちのぼった。ガソリンでもかけているのだろう、スチール製の椅子や木製家具もあるというのにすごい勢いで燃えている。私たち以外にも近所にいたほとんどの人がベランダや屋根に上って様子を見ていた。人材派遣会社が標的になっているとすでにわかっていたはずなのに、その間、どこからも治安部隊や警察は来なかった。若者たちは、燃やせるものを火に投げ入れると、再び幹線道路に走っていった。彼らは武器のようなものはもっておらず、服装からは普通の学生にしか見えなかった。

■外出禁止令
 一体、カトマンズはどうなってしまったのだろう。テレビをつけてみるが、ケーブルテレビ局がやられたのか何も映らない。ラジオをつけても様子がよくわからない。12時をすぎ、落ち着かない気分でいたところ、家人から電話があった。午後2時から外出禁止令になるので、これから家に帰るという。午後1時をすぎると、FMラジオでも何が起きているか伝え始めた。カタール航空や、エジプト大使館、カンティプール新聞社、ケーブルテレビ局スペースタイム社などが襲撃されたという。そしてラジオのDJ自身も「2時の外出禁止令までに帰らないといけないので、これで失礼します」と言っている。
 ネパールでは2000年冬にインドの俳優がネパールを侮辱する発言をしたとして暴動が起きた時、そして2001年6月当時の国王一家惨殺事件が起きた時の2度外出禁止令が出されているが、私にとっては初めてのことだった。午後2時を過ぎると、家の前の路地からも人影が消えた。普段のバンダ(ゼネスト)なら、やかましくインド映画音楽を流している人がいるが、今日は静まりかえっている。私は何となく落ち着かず、インターネットでニュースを見る。ネパール人人質が殺されたことはウガンダのニュースサイトでも報じられていたし、それに続くモスク襲撃はトルコでも取り上げられていた。ネパールのメディアでは「(これまでになく12人もが一度に殺されたのは)ネパールが貧しく力のない国だったからだ。小国の国民が殺されても国際社会は見向きもしない」という悲しいコメントが載せられていた。この日の暴動で300を越える会社が被害を受け、警官の発砲で2名が死亡、数十名が負傷したという。

■メディアの役割
 2日は喪に服す日として休日になったが、朝6時から9時半までと夕方5時から7時まで解除された以外は外出禁止令が続いた。予め何時から解除されると伝えられるのではなく、その時点で国営放送などを通じて伝達される。朝解除された時点で夕方のことまでわからなかったので、私も時間ぎりぎりまで食材を買いに行った。新聞も売り切れになっている店が多かったが、通りかかった自転車の新聞売りから買うことができた。前日襲撃されたスペースタイム社が放送を再開し、夜には昨日の襲撃に関するニュースも放映された。それ以外の時間は、イスラム教徒もヒンドゥ教徒もみんな平和を願っているという歌詞のポップソングなどが流れていた。イスラム国の航空会社を中心に国際線の運航にも影響が出たらしく、空港で足止めになった人もいたと言う。
 3日も同様に、朝夕2時間ずつ解除されたが、日中は外出禁止のままだった。さすがに3日も続くとみなうんざりしている。夕方気分転換に出かけると「まるで刑務所にでも入れられているみたいな気分だったわ」と言いながら散歩する人が大勢いた。ニュースでは、首相はじめ政府高官が襲撃を受けた施設を見に行った様子が放映されていた。襲撃されたカンティプール社は、発生後すぐ出動を求めたのに警察や軍が対応しなかったことから政府を非難し、予め計画された報道機関への妨害ではないかという社説を載せた。ヒンドゥ原理主義グループが扇動したのだとか憶測は流れているが、刑事責任を問えるような証拠は得られていないようだ。
週末には解除されるだろうと予想されていたが、4日もまだ外出禁止のままだった。しかし午前5時から午後1時までと夕方2時間解除されることになったので友人宅まで出かけた。その道すがら、イスラム教徒の串焼き屋と肉屋が壊されているのに気がついた。同じならびにあるネワールの人たちのお茶屋や時計屋が普段通り営業しているところを見ると、イスラム教徒のところだけが襲われたのは明らかだった。しかし、こうした被害について新聞は全く扱っておらず、大資本メディアの被害ばかり報じていた。普通のイスラム教徒が家や資産を失ってしまったことがなぜ報じられないのか、怒りがこみ上げてきて、週刊英字新聞Nepali Timesに投書のメールを出した。すると1時間後には編集長から「来週号ではあなたの投書とともに声なき人々の被害を載せます」という返事がきた。
 5日は、午前4時から午後2時までと午後5時から10時まで解除されていた。日中3時間だけ外出禁止だったわけだ。ヒンドゥ教、イスラム教、仏教、キリスト教、ジャイナ教などの宗教関係者は外出禁止令解除の時間帯に平和行進を行った。こうして5日間の外出禁止令が終わった。

■弱者の声
 9月10日発行のNepali Timesにはネパール人イスラム教徒たちがどんなふうに攻撃されたか、被害の様子が報じられた。落ち着くにつれ、1日の暴動はこれまで民族・宗教の平和を保ってきたネパールの恥だというような記事が他紙にも出るようになって、ネパールの世論はヒンドゥ対イスラムの対立へは向かわなかった。 
12日、「イスラム教徒たちが期待すること」というタイトルで小さなトーク・プログラムが開かれた。イスラム教徒グループの代表者Tさんは非常に慎重で私は「新聞に載らないような貧しいイスラム教徒が受けた被害など誰かきちんと調べているのですか」と尋ねたところ「それは、政府が任命した真相究明委員会がやっていますからその結果を待ちましょう」と答えた。新聞で報じられなかった話が聞けるだろうと思って出かけた私は内心がっかりしたが、聴衆のほとんどがヒンドゥ教徒であることを考えれば無理もない。事件の発端がモスク襲撃だったのに、新聞にはその写真が載らなかった。そのことに関してTさんは「もし、新聞紙上にモスクの写真が載っていたら、それを見た群集がよりイスラム教徒攻撃に回ったかもしれない。イスラム圏で働くネパール人に二次被害が及んだかもしれない。火に油をそそぐ結果にならなくて良かった」と感想を述べた。新聞社が襲撃された記事ばかりだと怒って投書した私の思惑は全く外れたわけだ。当事者がどう感じているかなんて私には代弁できない、そう感じた出来事だった。
 先週末、串焼き屋の前を通ると、見慣れたおじさんたちが戻ってきていた。アッサラーム・アライクンと声をかけると「4,5日前までしばらく(インド)ビハール州との境にある実家に戻ってたんだ。2週間くらいは心配でネパールに来れなかった」と言う。「もう大丈夫なの?」という私の質問には答えず「一串食べていくかい?」と言って、彼は淡々といつもの仕事をこなしていた。

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カトマンズ便り5 「断絶」2004年12月13日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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日本はだいぶ寒くなったようですが、みなさまいかがお過ごしですか。カトマンズもだいぶ冷え込むようになり、夜はガスストーブをつけてしのいでいます。それでも日中は20度近くまで気温が上がり、セーターを着て歩いていると汗ばむほどです。
先月、カトマンズ盆地の外に出かけましたので、その様子をお伝えします。

■平穏
休日の朝、近くの森まで散歩に行って帰ってくると、階下の隣人が「これから村に行くけど、一緒に来ない?」と誘ってくれた。彼はノルウェーのNGOの現地職員で、カトマンズの北東にあるシンドルパルチョーク郡で教育事業を担当している。カトマンズからチベット国境へ向かう途中にあり、首都からそれほど遠くないにも関わらずその地域の生活は厳しく、多くの援助団体が活動している。カトマンズからも良く見えるランタン連峰を目指すトレッキング客が訪れる場所でもあり、私も以前ネパールに住んでいた頃、何度か行ったことがあった。現在この郡の一部はマオイストの支配下に入っていると聞いていたが、日帰りするなら大丈夫だろうと思って出かけることにした。

陸路でカトマンズ盆地を出るのは久しぶりで、車窓の景色が新鮮に感じられる。稲刈り後の段々畑に菜の花が美しい。週末のせいか車両は少なく3時間ほどで入り口のメラムチ・バザールに到着。検問はあったが、飲料水供給プロジェクトの作業員用に最近建てられた宿舎以外、途中の景色に変わった様子はなかった。バザールには出稼ぎから戻った人が建てたのか立派なホテルができて店も増えている。治安の影響で閑散としているのではないかと思い込んでいたが、意外に活気があった。

バザールの近くに事務所を構える地元のNGOで、6年前お世話になった人たちと再会。活動地は歩いて1日以上かかる村にも広がっているので、マオイストからお金を要求されたり、妨害されることもあるだろうが、スタッフも増え仕事は順調そうに見えた。村の入り口だけ見てわかるはずはないが、それでも知人たちが無事でいたことが嬉しかった。

■気配
10日後、西の平野部にある都市ネパールガンジに出かけた。その数日前にカトマンズ盆地と隣接する郡でマオイストと王室軍の戦闘があったため長距離バスは運休していた。以来、飛行機の国内線はなかなかチケットが入手できなくなっている。ネパールガンジでも航空会社の事務所が爆破されたり、警官が襲われる事件が起きていたようだが、インド国境に近い西部最大の街だけあって、バスやリキシャ、名物の馬車が行き交い賑わっていた。
  
隣接するバルディア郡に向かった日、途中で道路が封鎖されていた。そこから30キロほどの地点でマオイストと王室軍が戦闘状態にあるからだという。たくさんのバスやトラックが行く手をふさがれているのに、誰も慌てていない。私も急ぎの用事があったわけではないので、結局その日は封鎖地点の近くにある知人の村に行った。野生動物保護区を背後に控える先住民タルーの村はのどかで、ここも菜の花が満開だった。

ネパールガンジへの帰路、ハイウェイ沿いに青いビニールシートで屋根をこしらえたテントの一群を見かけた。このあたりには2000年の債務労働者カマイヤの解放後に地主の元を離れて以来、定住地を獲得できないままでいる人が今も多いので、テントを見ても驚かなかった。寒空にテント生活をしている人を見ても、誰だろうとも思わなかったのだから、私の感覚も相当麻痺している。彼らが、マオイストの暴挙に反対した結果、一層の収奪を受けるようになって北部のダイレク郡を追われてきた人たちだと知ったのは、あとで新聞を見てからだった。

■影響
その翌日、丘陵地と平野部の交差点とも言える町、コハルプールのスクォッター(無権利居住者)の知人を探しに出かけた。彼とは夏にカトマンズで会ったばかりで、西部に来たら寄ってくれと言われていた。住所らしいものは持っていなかったが、バスを降りて彼の名前を知っているかと訪ね歩いているうちに、なんとなく見つかった。私は毎日そんな調子だ。

250世帯ほどが住む居住区のリーダーである彼の案内で近所を歩く。一番最近引っ越してきた人に会いたいと言う私のリクエストに応えて紹介しくれたのは、3日前にやってきたばかりのDさん。彼はマオイストの支配下にあると言われるジュムラ郡で教員をしていたという。村では家族の安全が守れないので2ケ月ほど前から時々平野部にやってきて住むところを探し、7万ルピー(日本円で約10万円)でこの居住区の土壁の家を買ったという。荷物はまだセメントの空き袋に入ったままで、村に残してきた7人の家族をこれから迎えに行くと言っていた。

マオイスト問題で村を追われた経緯について当事者の話を聞くのは初めてのことだったので、私には衝撃的だった。だが、彼は国内避難民と呼ばれる居住地を追われた人の中でも、恵まれているほうだろう。その前日ハイウェイ沿いで見たテントで暮らす人たちは、家を探したり、ましてや買う余裕などなかった人たちだ。病人や負傷した家族がいて村を出てくることすらできない人もいるに違いない。恐ろしい体験をしつつ逃れられない人のことを考えると「国内避難民」や「被害者」が一様でないことに気づく。

そろそろ帰ろうかと思ったとき、ハンドバックを肩に真っ直ぐ前を見てこちらに向かってくる女性とすれ違った。外国人などほとんど来ない場所で、こんなふうに私を見つめる女性に出会うことは珍しい。年長の彼女に「こんにちは。どこにお出かけですか」と私から声をかけた。ネパールガンジにあるNGOの事務所に用事があって、と彼女が答えるのと同時に、リーダーの男性が「彼女の旦那さんはマオイストだと疑われて3年前に警察に連れていかれたまま戻ってないんだ」と教えてくれた。事件が起きてからのことを語る彼女の落ち着きが、3年の年月がとても長かったことを物語っていた。

■温度差
カトマンズに戻ってくると、平和関連イベントの案内がいくつか届いていた。「紛争後の立憲君主制と国家体制」「紛争後にむけた市民主導の国造り」「紛争解決のための研修」・・・・・。首都の設備の行き届いた場所で、同じようなメンバーが集まる催しは「紛争・平和産業」と揶揄されるほどになっている。

ガーナで働いていた頃、旅行に来たイスラエルの男性が言っていた。「イスラエルから来たって言うと、外国旅行なんかしてていいんですか、って必ず聞かれるけど、僕たち全員がパレスチナ問題に関わってるわけじゃないんだよ。会社に行って、レストランに行って、休暇には旅に出て、普段と同じさ」と。BBCで連日パレスチナでの「事件」の映像ばかり見ていた私は、彼の涼しげな表情がその頃は信じられなかった。

カトマンズにいる時の私は、あのときの彼と同じ表情をしているのではないだろうか。日本のメディアでもネパールの治安悪化が伝えられるようになり、ずいぶん心配していただいているが、カトマンズでの私の暮らしは、実は平穏で快適だ。マオイストもしくは警察、軍から何らかの被害を受けた人の話を聞いたり、歌詞にPeace(平和)という言葉の入ったポップスをFMで聴き、ニュースで残虐な映像を見ると、ネパールが平和でないことを実感する。カトマンズで生まれ育った知人たちの大半も同じような感覚でいるように見える。私たちはこの紛争に関わっているのか、いないのか。避難民や被害者と言われる人たちと、それ以外の人たちの間の「断絶」こそが、紛争を長引かせているように思う。

■お知らせ
Developing Worldのホームページ上で、ネパールの紹介を交えつつフィールド・ワークに関するブログを書いています。http://dwml.comのメニューから「開発協力BLOG」を選んでいただくと「フィールド雑記帳:カトマンズを歩く」のページに飛びます。ユーザー登録(無料)をされた方にはコメントも書いていただけます。

今年の「カトマンズ便り」はちょっと話題が偏りすぎました。来年は「ボルガタンガ便り」の頃を思い出して明るい話を取り上げます。みなさま、どうぞ良いお年を。

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カトマンズ便り6 「緊張」 2005年2月13日 在ネパール カトマンズ 田中雅子 
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こんにちは。今日はシュリー・パンチャミー(学問と芸術の女神サラスワティを祭る)の祝日です。ネパールではこの日から春になると言われていますが、ここ数日のカトマンズは春の陽気で梅の見頃です。

前回、今年の「カトマンズ便り」では明るい話題を取り上げますとお約束したばかりですが、今月1日、国王が首相を解任し、国家非常事態宣言を出した政変でみなさまにご心配をおかけしているので、その報告をします。アジアプレス・インターナショナル(http://www.asiapressnetwork.com/etc/050210/20050210_01.html)ほか、報道機関が今回の政変について伝えています。日本語であれメールを通じた情報発信に注意が必要ですので、ここでは政変の詳述はいたしません。

■表情
きのうの朝、2週間ぶりに散歩に出た。我が家の前の路地を左へと歩くと、カトマンズを南北に貫く幹線道路に出るが、右へ歩くと人がやっとすれ違える程度の小道へと続き、5分ほど歩いた窪地に武装警察の訓練場がある。その脇を抜けると市内には珍しく大木の茂った森があり、ここは私のお気に入りの散歩コースだ。

平日は「エク、ドゥイ、ティン(ネパール語で1、2、3)」と、号令をかけながら体操している声が聞こえるが、土曜日のせいか静かで、森から訓練所を見下ろすと、私服の青年たちが談笑しながら、日なたに座って食事をしている。私が外国人だから特別な扱いをされているとも言えるが、門の前ですれ違った制服の青年は、丁寧に合掌して「ナマステ(こんにちは)」と言った。ネパール式の挨拶が緊張を解いてくれる。

軍も警察の人たちも、休憩時にはお茶屋で他の客に混じってミルクティーを飲み、路上に新聞の号外売りが現れると一緒に立ち読みし、自転車で果物売りが来ると買物をしていることもある。銃を構えているときの彼らには正直なところあまり近づきたくないが、目が合った時私が挨拶すると、大抵笑顔で挨拶を返してくれる。彼らから素朴な笑顔が消えていないことに安堵するとともに、彼らも場面によっては武力を使うことにギャップを感じてしまう。遠い村の出身であろう彼らの中には、他に選択肢がなくこの仕事に就いている人も少なくない。こうして制服姿で任務に就く青年や女性の数が少なくなる日がくることを祈るばかりだ。

■本音と建前
1日の朝、国王の声明がテレビで流れてから、8日に携帯電話を除く電話やインターネットが復旧するまでの間、知人たちの無事もなかなか確かめられず、直接出かけていって情報交換をした。家では、FMでの24時間サービスが始まったイギリス国営放送BBCを流しっぱなしにしていた。多言語国家ネパールには各地の現地語を含め数十のFM民間ラジオ局があるが、報道番組は禁止されている。BBCのニュースだけが頼りだったが、政変翌日からネパール向け放送の時間帯のみネパール国営放送に切り替えられてしまうようになった。報道機関の中にも軍が配備されていたというから、関係者にとって大変な圧力だったに違いない。

近所の食料品店に買物に行ったとき「今回のことどう思う?この先、心配じゃない?」と聞いてみた。店の主人は「いい兆候だと思うよ。何も心配いらないよ」と答えたが、普段ヒンディ映画の音楽チャネルが流れている店のテレビにはBBCの国際放送が映っていた。他の客に「今、ネパールのこと流れなかった?」と言われて画面を食い入るように眺める彼の後ろ姿から「心配いらない」という言葉は自分自身に言い聞かせているだけに過ぎないのだろうと思った。

旧市街地の一部を除いてカトマンズでは商店が閉まることはなく、停電や物資の不足といった問題はなかった。しかし、学生がデモをするのではないかと取り締まりが厳しくなった結果、大学では休講が続き、救急車が呼べず病院の対応が混乱したりした。それでも街は平静を保っているように見えた。地方の様子が伝わらず、国際線の予約や銀行の電子送金も止まっていたというのに、なぜパニックにならないのか、私にはそれが不思議でならなかった。通常以上の警備体制でようやくそれを阻止しているという以外に理由は考えられない。

集会の自由が奪われているにも関わらず、どうやって動員したのかわからないが、目抜き通りでは国王支持の行列が行なわれ、この措置を歓迎する人も少なくなかった。一方、親しい年配の男性は「孫の時代に自分が経験した王政が復活するとは思わなかった」と言っていた。今の彼らにとって、これが精一杯の意志表示だろう。人権団体や政党による集会やデモは、企画されてもリーダーが逮捕されてしまうなど、大規模には実行できないでいる。監視団体から送られてきた逮捕者リストには11日現在100名以上の名前がある。

■ゆるみ
通信が再開されてからの数日、国内の知人からはほとんどメールが届かなかった。言論・表現の自由、(検閲なき)報道・出版の自由、情報を知る権利、プライバシー権が停止されているのだから、検閲があっても不思議ではない。用語には注意し、みな自主規制していたようだが、先週末あたりから、メーリングリストで情報が飛び交い、慎重に扱うべき文書は一斉送信され、ウェブサイトでは未検閲版原稿を載せるジャーナリストも出てきた。

日刊英字新聞の場合、検閲の厳しさをうかがわせる主張のない記事から、次第に隠喩をちりばめたような記事へと変わった。ここ数日は、主張のある記事も載せている。間接的な表現や行間の意味を読み取るには想像力が必要だ。週刊英字紙の最新号は、検閲で削除になったと思われる部分を白紙にしている。ネパール語新聞は社説欄を真っ白、あるいは真っ黒にして発行したものもあったという。

これがネパールで今できる抵抗なのだろう。国内でさえ移動の自由が停止されている中、運良く国外に出ることのできた作家が、ニューヨーク・タイムズに現状報告と国際社会へのアピールを書いている。
http://www.nytimes.com/2005/02/12/opinion (全文を読むには登録要。無料)

政変から2週間近くすぎ、寒さのゆるみとともに、人々の緊張もゆるみ始めたような気がする。一方、汚職の摘発、懸案課題の早期着手、公務員の綱紀粛正を約束した現政権は気をゆるませずこれらを実行しなければ、当初、様子をうかがっていた人たちが黙っていない。各国政府や、国際的なジャーナリストの協会、人権団体、労働組合などが、申し入れを始め、さらに視線は厳しくなっている。私も、通信が途絶え、ただ右往左往していた時より、情報のやりとりができるようになった今のほうがずっと緊張している。

■強さ
たった一人の決断で、一日にして2000万人以上の人が言論・表現の自由を奪われた。これまでありのままに話し、書く、という伝達技術しかもたなかった私は、対処の仕方がわからなかった。しかし、民主化以前から活動を続けてきたネパールの人々が、統制下の表現方法や、独自の情報収集力をもっていることを知って、彼らの強さを頼もしく感じている。私のほうは、それを読み解く想像力と、伝えるための知恵をもちたいと思う。

■お知らせ
通信遮断のため中断していました開発協力ブログ「フィールド雑記帳:カトマンズを歩く」(http://dwml.com)を再開しました。

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カトマンズ便り7 「アピール」 2005年2月28日 在ネパール カトマンズ 田中雅子 
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こんにちは。こちらはずいぶん暖かくなり、日中外を歩く時は上着もいらなくなりました。しかし、なかなか私たちの生活は緊張が抜けません。相変らず自由や権利が停止されているため、私がお世話になっている大学の先生方は「移動禁止者リスト」に載せられ、自宅監視が続いています。また、調査で知り合った知人の息子(10年生)は友だちと寺院の広場で話をしていただけなのに「集会」の禁止を守らなかったということで、一晩拘禁されました。他にもNGO関係者の知人が今も逮捕されたままです。

今日はこの通信の読者のみなさまに私が関っているネパール・ピース・ネットよりお願いがあり、急遽No.7を書いています。前回の通信の内容と若干重複する部分がありますが、お許しください。

■Nepal Peace Net(NPN)
ネパール・ピース・ネット(NPN)は、人権、開発、平和、文化交流、ジャーナリズムの分野で活動する個人や団体が、ネパールの平和を求めてアクションを起こすための場です。言論・表現の自由が停止されている中、ネパール人はもちろん現地で活動する日本人の安全も確保できないため、広く人権や平和に関心のある方々を交えてこのフォーラムを作りました。今回の事態をネパールだけの問題としてとらえるのではなく、日本の市民がどう関わるか考える場としています。

NPNは、ネパールの人々自身が紛争解決と平和のために力を尽くすことを応援します。しかし、2005年2月1日の政変後、自由や権利の剥奪によって、ネパールの人たち自身による平和への動きが極めて困難になっています。私たちはその環境を取り戻す一助として、現地の団体から最も求められている、基本的人権回復を求めるためのアピールを出しています。

■「自由」と「権利」が奪われた!
日本でも一部報道されていますように、ネパールでは2005年2月1日、国王が首相を解任し実権を掌握、国家非常事態宣言が発令されるとともに、人権に関する憲法の次の条項が停止されました。
言論・表現の自由/集会の自由/国内移動の自由/(検閲なき)報道・出版の権利
情報を知る権利/所有権/プライバシー権/予防拘禁されない権利/法的救済権(人身保護を除く)
国連人権高等弁務官は、同日、非常事態宣言下であっても基本的人権が停止されてはならないと声明を出し、ネパールの人権関係者も国際社会がこの問題に注意を向けるよう呼びかけています。

■背景
ネパールでは、1996年以来、毛沢東主義を自称するマオイストによる人民戦争とそれに対する王国軍の戦いによって1万人以上に及ぶ人命が失われ、数千の行方不明者が出ています。2002年5月に国会が解散され、同年10月に総選挙をめぐって国王と対立した首相が罷免されて以来、選挙は実施されず自治体の長も任命制が続くなど議会政治は停止しています。2003年8月の和平交渉決裂後、武力衝突が激しさを増した結果、国内避難民が増加しました。治安が悪化の一途をたどるなか、国王は「平和で安全な環境の下で総選挙を実施するという使命を果たせなかった」ことを理由に、2月1日、首相を解任したのです。

■反応
国王は「3年以内に複数政党制による民主主義を回復する」という条件の下、自らを長とする閣僚会議が実権を掌握することを宣言すると同時に、マオイストに対しては、武装闘争を止め和平交渉に応じるよう要求しました。これを受けたマオイスト側は「国民自身による新憲法制定を目指す制憲会議と複数政党制民主主義による共和制」を求めるとともに、「1990年の民主化運動で獲得したすべての権利を剥奪し、国民の上に独裁体制を布いた国王とは対話の可能性がなくなった」という声明を出しており、今後の和平プロセスを後退させる恐れも大きいと言えます。

■市民生活への影響
発令後1週間にわたって電話やインターネットなど通信が遮断されたため、救急車を呼ぶことができない、地方に住む家族と連絡が取れないなど市民の健康や日常生活への影響はもちろん、銀行の電子送金や国際線の予約システムの停止など、経済活動に大きな支障が出ました。その後携帯電話を除き通信は復旧しましたが、6ケ月にわたる王室や軍隊を直接・間接的に批判する記事の掲載の禁止、FMラジオ局の報道番組の禁止が通達され、言論統制は厳しくなっています。また政党活動家など100名以上が逮捕、自宅軟禁され、人権の復活を求めるデモに集まった人々も逮捕されています。しかも、人権侵害を監視・告発する立場にある国家人権委員会ですら、自宅軟禁中の政治家と面会できない状況が続いています。平穏に見える首都カトマンズ市内でも、軍や武装警察による高度の警備体制が続き、人々は不安と沈黙を強いられています。地方ではマオイストによる交通封鎖と武力衝突が続き、ネパールに平和や安全が戻ったとは言えません。

■日本に期待されること
この事態を受け、国連、イギリスやデンマーク政府は、開発援助の一時停止や新規案件採択の凍結を発表しました。また1990年の民主化後、農村や都市で住民の参加を促し、貧困削減や抑圧された人々の解放に努力してきたネパールのNGO連合会や人権団体は、各国がネパール政府に対して抗議の申し入れをするよう要請しています。日本からネパールへの対政府援助は全援助額の25%に及び(2000年実績)、日本は大きな影響力をもっており、日本がこの危機にどのように応えていくのか注目されています。今回の自由の剥奪によって、ネパールで育ち始めた民主主義の精神や、人権意識、社会的弱者の社会参加の萌芽が摘まれ、民族やカースト、ジェンダーによる差別や抑圧が強化されるのではないかと懸念します。日本の政府、そして私たち市民社会は、この問題を黙認したままで良いのでしょうか。

■日本のODA
日本の政府開発援助(ODA)大綱は、その理念の部分で「民主化や人権の保障を促進し、個々の人間の尊厳を守ることは、国際社会の安定と発展にとって益々重要な課題」であり、「我が国は、世界の主要国の一つとして、ODAを積極的に活用し、これらの問題に率先して取り組む決意である」としています。また、援助実施の原則に「開発途上国における民主化の促進、市場経済導入の努力ならびに基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う」ことを挙げています。基本的人権や自由の保障がされていない現在のネパールにおいて、対政府援助を実施することはこの原則から逸脱するのではないでしょうか。

■日本政府への要請
私たちは、ネパールの人々自身が紛争解決と平和のために力を尽くすことを望み、またそれを応援しますが、地球市民社会の一員として以下のことを日本政府に申し入れます。
@ネパールにおける一日も早い基本的人権の回復を、外交ルートを通じて再度強く申し入れること
Aネパールで基本的人権が回復され、開発プロセスへの住民参加が担保されるまで、現ネパール政府に対するODAの新規案件を、人道支援を除き凍結すること
Bネパールの対立勢力間で平和への対話が促進されるよう外交努力を行なうこと

■連絡先
ネパール・ピース・ネット(関西NGO協議会 宮下気付)
TEL:06-6377-5144, FAX:06-6377-5148
E-mail: nepalpeacenetjp@yahoo.co.jp
http://npnet.exblog.jp/i2

*このホームページでもささやかに協力しました。
katsudoukiroku05.htm#0303

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カトマンズ便り8「新年」2005年4月21日 在ネパール カトマンズ 田中雅子
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こんにちは。前回の通信でお知らせした「アピール」にご賛同くださった方、ありがとうございました。こちらの状況は好転したとは言えませんが、私たちはおかげさまで元気に暮らしています。

さて、4月14日、ネパールは新年を迎えました。ビクラム暦で2062年が始まったところです。日本でも年末になると「今年はどんな1年だったか」という記事が新聞に出ますが、こちらも昨年1年を振り返るような記事が出ました。「新しい年こそは平和に」という年頭の挨拶のようなスピーチが載るのも似ています。今回はネパールの新年の様子をお伝えします。

■古都の正月
4月13日から14日にかけて、カトマンズから東にバスで30分ほどの町、バクタプールに行きました。ここでは毎年、大晦日と元日にビスケート祭という催しがあります。山車の巡行と、30メートルほどの幟のついた木柱を倒す邪気払いを見るために、地元の人はもちろん、外国人観光客、カトマンズ周辺の人が詰め掛け、普段は静かなバクタプールがにぎやかになります。

バクタプールはカトマンズとその南のパタンと並び称される3大古都のひとつで、ドイツ技術公社(GTZ)の援助で、伝統建築の保全と街並み保護のプロジェクトが20年ほど前から入っており、旧市街に入るときにはゲートで入場料を払います。車両の入場制限をしていることもあって、カトマンズやパタンよりもずっと歩きやすいので、私のお気に入りの町です。

大晦日にあたる13日は夕方、山車の巡行を見ました。子どもからおじいさんまでが綱を引く様子は、普段大人しいネパールの人からは想像できないほどの威勢の良さでした。山車の巡行コースにあたる道では、車輪の幅に合わせてレール代わりに排水路が作ってあり、山車がレールをはみ出して家屋にぶつからないような工夫がされています。この町がお祭りを大事にしていることがよくわかります。

その日は夜中まで寺院に供物をもってお参りに来る人が絶えませんでした。翌朝は生贄の山羊や鶏を持って寺院に向かう人、グティと呼ばれる同族集団毎に楽隊を編制して町を練り歩く人に出会いました。カトマンズでは女性が楽隊に入っているのを見ることはほとんどありませんが、ここでは少女だけの楽隊や、男女混合のものがあり、珍しく思いました。

日本の正月は、最近でこそ商店が営業するようになったものの、私が子どもの頃、買物は年末までに済ませるのが普通でした。こちらは大晦日も元日も世界文化遺産の寺院が並ぶ広場に所狭しと露天商が並び、生鮮食料品のほか、衣類、子どものおもちゃ、調理器具などを売っています。やはり新年に新調したいという気持ちは同じなようで、元日にもおろし金や食器を買う人をたくさん見かけました。路地に入ると、子どもから大人までサイコロで賭け事をしています。シャボン玉売りもいて、普段とは違うお祭りムードでした。

■地方の様子
カトマンズ市内を含め、盆地内は高度な警備や規制があるからか、平穏な状態が維持されています。一方、地方では4月3日から12日までマオイスト側によるバンダ(交通封鎖)があり、その間車両を動かした者が標的になりました。外国人旅行者も例外ではありません。地方から入ってくるのは、王国軍とマオイストの戦闘だけでなく、村の自警団によるマオイスト攻撃や、マオイストによる非戦闘員への襲撃など、戦いのニュースばかりです。テレビのニュースで遺体の映らない日はないほどです。

特に2月1日の政変後、紛争による死者は一挙に増加し、中でも非戦闘員の死者が増えていることが人権活動家によって指摘されています。また、その影響で村を追われる人も多く、インドと国境を接するタライ平野の村からは、かなりの人々がインド側に流出しています。「平和な」カトマンズ盆地とはあまりにも状況が違います。バクタプールから戻ってニュースを見た時、外国から帰ってきたような錯覚にとらわれました。

紛争は人間だけでなく、野生動物の生存にも影響を与えています。サファリもネパールの重要な観光資源でタライ平野に野生動物保護区がありますが、サイの数が2000年の544頭から今年は372頭に減ってしまったとのこと。野生動物保護区内に軍の監視所が増え、サイの生息域が侵されたことが原因のようです。

■国家の財政
こんな状態では、治安が確保されず、開発援助の対象になるような遠隔地の村で事業を実施することは難しいため、多くの援助機関は資金供与を停止あるいは見合わせています。最初は外国援助が止められても大丈夫だと強気だった政府も、さすがに財政危機を認め始め、出稼ぎで外国に住むネパール人などを対象に「平和国債」の発行を計画中だそうです。現実には軍費調達国債になるのでしょうか。新年くらい明るいニュースを期待していますが、2062年も苦しい出発になっています。