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ボルガタンガ便り 8「病気から学ぶ」 2003年12月6日 田中雅子(日本滞在中)
最終回

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12月に入り、日本は朝夕の冷え込みが厳しくなりましたが、みなさまいかがお過
ごしですか。10月にいささか大袈裟な通信を出したために、ご心配をおかけしま
した。お見舞いのメールを下さった方、ありがとうございました。しばらく、連
絡をせず失礼していましたが、今後の予定が決まったので報告します。

■検査
帰国後の約6週間、検査のために3回病院を訪れました。後遺症の有無について確
認するためのMRI(磁気共鳴画像診断)、貧血の回復度を見るための血液検査、
そしてパリの病院で診断された肝炎E型の抗体検査です。貧血が回復するまでに
は時間がかかり鉄剤を投与されましたが、後遺症は全くなく、肝炎E型の抗体も
見つかりませんでした。日本の病院では、発症時からの経過と検査結果から、脳
性マラリアに罹患していたと診断されました。

家族のもとで、食事に気を配り規則正しい生活を送ったおかげで、任地を離れて
2ケ月目にあたる11月19日には、すべての検査値が正常となり、完治したという
診断が下されました。もうこれで「療養」はおしまいです。

パリで意識が戻ったときから、早く任地に戻れるように元気になることが私の目
標でした。治ったら戻るのが当然だと思い込んでいたので、ガーナから持ち帰っ
たものは「ガーナ行き荷物」とラベルを付けた箱に入れ、「順調に回復している
からクリスマスまでには戻れそうだ」とボルガタンガの友人たちにメールを出し
ていました。

■周囲の不安
病後のことが気になり始めた私に、ガーナからパリまで付き添って下さった職員
の方からメールが届きました。私が意識障害に陥ってからパリに移送されるまで
に、どんな異常行動があったのか、誰が付き添ってくれていたのかなど、それま
で知らされていなかったことが記されていました。私がガーナに戻る場合、受け
入れ側となる彼女たち、つまり、最も病状が悪かった時の私を見ている人たちに
とって不安であり、責任を持てないというコメントでした。

それまで私は、一緒に活動していたガーナの人たち、他の国から派遣されている
ボランティアの友人たちが、私の帰任を心待ちにしてくれているだろうとだけ考
えていて、命の恩人である職場の人たちが、どれほど怖い思いをしたか、また私
が再びガーナで暮らすことに不安を感じているかは想像もしませんでした。逆の
立場だったらと考えたとき、その気持ちはよくわかりましたが、実際にメールで
知らされるまで、私は治ったら戻る、ということしか考えていなかったのです。

「病気には科学的な側面だけでなく、社会的な側面もある」と教えてくれた人が
いました。私の場合、科学的には完治しましたが、看病してくれた人たちとの関
係は以前と同じではありえません。私に付き添ってくれた人たちは、いくら私が
完治していてもガーナに行くというだけで、再感染、そして再び重症化すること
が心配でしょうから。

■判定
検査を受けた病院の主治医からは、完治している旨、診断書が出されましたが、
帰任できるかどうかは職場の顧問医の判断を待たなければなりません。完治の知
らせを受けた2日後、顧問医との面談がありました。

一時的であれ重い意識障害になった脳性マラリアの患者が、何の後遺症もなく完
治したのは極めて稀なことであり、今回は運が良かったと受け止めなければいけ
ないこと、またボランティアとして派遣される青年海外協力隊員の場合は、脳性
マラリアで緊急輸送された場合、本人の意志に関わらず任期短縮になると説明を
受けました。

「プロジェクトの専門家として派遣される人の場合、本人の意志を尊重するが、
帰任して再感染した人もいるので、ケンカしてでも行かせなければ良かったと後
悔したことがある。あなたの場合も、行かせたくない」と言われました。科学者
の立場にある医師が「止めなかったら自分が後悔するから」と、夫と同じ表現を
使ったことに少々驚き、受け入れ側だけでなく、派遣する側の不安も高いこと、
そしてそれは私の健康を心配して下さっているからに他ならないことを思い知ら
されました。

私はボルガタンガへの再赴任は難しくても、首都アクラに拠点を移して出張とい
う形で任期終了まで仕事を続ける、というような妥協案が出されると予想してい
たのですが、ガーナ全体が熱帯熱マラリアの汚染地域である以上、「ガーナへの
再赴任は不可」という結論でした。今は完治しているとは言え、最も重症だった
時の貧血の度合いがひどく、再感染した場合、より重篤な病状に陥る危険がある
からという説明が文書に付け加えられました。

厳しい判定ではありましたが、顧問医に結論を出してもらい、正直なところほっ
としました。もし、「あなたの意志を尊重する」とだけ言われたら、自分自身の
戻りたいという気持ちと、帰任を不安に思う家族や職場の人たちの気持ちを考え、
とても迷ったと思います。仕事は放り出したまま、荷物も自分で片付けないとい
う終り方は残念ではありますが、ひとまず結論が出たということで心は落ち着き
ました。

ガーナの友人たちにどうやって伝えようか数日考えましたが、手紙では一方的に
通知するようで申し訳ないので、最も親しかった人たちには電話しました。突然
の電話を喜んでくれている彼らに、戻れないと伝えるのはとても辛かったですが、
少なくとも私が完治したと聞いて安心してくれました。

「ガーナでのことは残念だったけど、これからの長い人生でまだやるべきことた
くさんあるし、いろんな場所で待っている人もたくさんいるだろうから」という
友人の言葉を励みに、ガーナでの仕事についてはひとまず区切りをつけようと思
います。

■感染症とのたたかい
日本で会った多くの方から「マラリアは現地の人にとっては風邪みたいなもんで
しょ」と言われました。日本で私たちが風邪にかかるのと同様、一生に何度もか
かるという意味ではその通りです。しかし、アフリカの人がマラリアにかかって
も大丈夫だというわけではありません。ボルガタンガの州立病院では、髄膜炎に
次いで死因の2位となっていたのがマラリアでした。日本でも体の弱い人は、風
邪から肺炎になって病状が重くなるのと同じように、栄養状態の良くない人の中
には、マラリアで命を落とす人は少なくありません。アフリカというとHIV/AIDS
だけを思い浮かべる方も多いようですが、子どもから大人まで日々気をつけてい
なければならない感染症という意味ではマラリアは現地の人にとっても恐ろしい
病気なのです。

今回、すぐにガーナに仕事で戻ることはできなくなってしまいましたが、私はい
つか必ずボルガタンガに行ってみたいと思っています。今のところマラリアの予
防接種はありませんが、原因となるハマダラ蚊を何らかの形で一掃し、誰でも使
える安価で副作用のない予防薬が開発されること、またマラリアにかかっても重
症化しないようボルガタンガ周辺の人たちが十分な栄養を摂れるような社会に変
わるのは、いつのことでしょうか。

■終わりに
音楽、動物、家族など、まだまだお伝えしたいテーマがたくさんありましたが、
ボルガタンガからの発信ができなくなったので、これで最終回とします。私が任
地に赴いてから励ましてくださったみなさん、ありがとうございました。


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ボルガタンガ便り 7 「生還」   2003年10月21日 田中雅子(日本滞在中)

今回はちょっと衝撃的なニュースです。
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3ケ月もごぶさたしていますが、みなさんお元気ですか。8月にはウィルスに関す
るデマ・メールで大変ご迷惑をおかけしました。多くの方から正しい情報や近況
報告をいただきましたが、すべての皆様に返事を出すことができていません。こ
の場を借りてお礼とお詫びを申し上げます。

私は9月20日から体調を崩し、10月11日より帰国しています。この1ケ月、連絡
がとれず多くの方にご心配をおかけしました。病気治療にあたっては、家族はも
とより、職場の皆様をはじめ多くの方々にとてもお世話になりました。心から感
謝しています。

おかげさまで順調に回復し、日常生活に問題はなくなりましたので、経過を報告
します。日本滞在中はこのアドレスのみ使いますのでよろしくお願いします。

■マラリア
音楽をテーマにボルガタンガ便りを下書きし、翌日送信しようとベッドに入った
9月20日夜のこと、悪寒がしました。翌朝、検温してみると37度を越えており頭
痛もします。蚊帳、蚊取り線香、虫除けスプレーを使うのは勿論、人一倍蚊に刺
されないように気を遣っていたのに、マラリアにかかったのでしょうか。

日曜で病院は閉まっていたので、簡易マラリア検査キットを使ってテストするこ
とにしました。しかし、私は生来、血液を扱うのが苦手で十分な血が取り出せず
うまくいきません。結局、私が借りている家の大家さんがたまたま州立病院の院
長をしているので、その方にお願いして、検査担当の職員に来てもらい採血。病
院での検査とキットの両方とも出た結果は陽性。昼ごろ、赴任時に買ったマラリ
ア治療薬を飲み始めました。

午後は39度まで熱が上がり、頭痛もしたので解熱剤を飲みましたが、頭痛以外、
マラリアの症状とされる関節痛や下痢はなく、ボルガタンガで治療できそうだと
思っていました。何度も熱帯熱マラリアに罹っているオランダ人の隣人や大家さ
んが、様子を聞くため数時間おきに電話をかけてきてくれたので不安は感じませ
んでした。

■首都アクラへ
しかし、翌22日も熱は下がらず頭痛は激しくなる一方で、マラリアで粘着性を増
した赤血球が脳の毛細血管をつまらせるという「脳性マラリア」を疑い、体力の
あるうちにに出ることにしました。800キロ以上離れた首都に移動する時は、い
つも午前6時に出発することにしていますが、任地を不在にするとなると、伝言
を頼んだり、銀行へ行ったりと済ませなくてはならない用事も多く、出発したの
は午前11時。普段「時速100キロ以上は出さないで」と運転手に注意する私も、
この日は「とにかく今日中にアクラに着くように」と頼み、後部座席で横になっ
ていました。

事前に職場から入院のお願いをしていた病院に着いたのが夜9時。渋滞に巻き込
まれながらも10時間での移動は新記録。途中、時速150キロ近く出していたのに
事故に遭わなかったのが何よりでした。入院した病院では、翌日まで検査ができ
ませんでしたが、職場の医療調整員の方が来てくださり、ひとまず安心。「脳性
マラリアだったら、喋ったりできないよ」と言われ、大袈裟すぎたかと少々反省
しました。確かにその日は自分で病院の手続きもし、しっかりしていました。

23日は血液検査をし、医療調整員の方と話をしたことは覚えているのですが、こ
こから先の記憶がありません。その翌日24日朝まで、意識はしっかりしていたそ
うですが、私自身の記憶はここで途切れています。

■緊急移送
24日の午後、私の容態は急変し、医療調整員や職場の人を認識できず、英語しか
話さなくなり、病院内を徘徊するなど異常行動が見られるようになったそうです。
その段階で、脳性マラリアによる意識障害の疑いがあると判断され、フランスに
緊急移送されることになりました。

25日の午後、医療チームを乗せた救援機が到着し、翌26日午前2時パリ到着。アメ
リカン・ホスピタルという病院に入院し30日まで集中治療室(ICU)で治療を受
けました。ネパールで働いている連れ合いが27日に到着したときには日本語での
会話はかろうじてできるようになっていたそうですが、脈絡のないことばかり喋
り、幻覚症状もあったようです。

時間と場所の見当意識(今がいつで、自分がどこに居るかを認識する力)がなか
なか戻らず、「XX(ネパールのスラム)でミーティングがあるから行かなきゃいけ
ない」「YY(バングラデシュでの勤務先)で献血キャンペーンがあるから出かけ
る」と言っては、点滴を外して動こうとするため、ICUではベッドに縛り付けら
れていたそうです。付き添っていた夫と暮らしていたのがネパールやバングラデ
シュだったので、その時のことを先に思い出したのでしょう。その後、ガーナで
のことも話すようになったようですが、私はICUでのことは今も断片的にしか思
い出せません。

■回復
一般病棟に移って、ようやく自分がどこにいるのかわかりました。病室に窓があ
って空が見えたのがとても嬉しかったです。意識が戻って数日は、食事や排泄、
注射、検温など目の前のことをこなすのに精一杯でしたが、気持ちに余裕が出て
から、記憶にない1週間のことを連れ合いに聞きました。自分がどんな表情で、
何を話していたのか、その時初めて聞いてショックを受けました。

短期間であれ、意識障害に陥り、今もその時の記憶がないというのは怖い体験で
す。英語しか話さなくなったり、日本のことではなくネパールのことから思い出
し始めたのはどうしてか、と入院中はこの10年余りの自分の生活のことを考えさ
せられました。また、これまで私自身、病気と無縁だったので、闘病生活を送っ
ていた知人たちがどういう思いで入院していたか、考えてもみなかったことを反
省もしました。

最初は自分がガーナから持ってきたものの色や形、大きさが違って見えたり、日
本語を書こうとしても漢字が思い出せない状態にありましたが、その後、日ごと
に容態は回復し、10月10日にパリの病院を退院するときには、意識のほうは全く
問題なくなりました。

しかし、体力が落ちているため日本で療養することになり11日に日本に戻りまし
た。早速日本の病院でも受診しましたが、マラリアの後遺症は見られず入院や投
薬も必要ないということでした。ただ、パリの病院での診断結果がマラリアでは
なく肝炎E型だったので、原因特定のため日本でも検査を受ける予定です。任地
に戻れるかどうかの判断が下されるのはそれからです。

■助かった私
日本に帰国後、家族や友人から「もうそんな大変なところには行かなくてもいい
じゃない」と言われ、私はとても複雑な気分です。早く任国に戻りたいという一
心で、回復に努めてきたのですから。

発症の前日に書いていたボルガタンガ便りの下書きに、私は次のような文章を書
いていました。「地元のラジオ局は、毎朝、下痢でなくなった人の死体は水源か
ら遠いところに埋葬しましょう、と呼びかけています。病気だけでなく、事故も
多い当地では、この2ケ月、私と一緒に働く人やその家族がたて続けに亡くなり、
お悔みに出かけることがしばしばありました」。

ボルガタンガでの私は、たくさんの死を受け止めなければいけない人たちの中で
暮らしていました。今回、私は救援機でパリまで移送され、幸い家族にもすぐ連
絡が取れ、意外に早く回復することができましたが、ガーナの人たちに私の幸運
をどう伝えたものか、パリの病院にいるときから考え続けています。もちろん、
彼らも私が助かったことを喜んでくれるでしょうが、車で一人アクラに向かった
日、何となく後ろめたい気持ちがありました。私をボルガタンガで心配してくれ
ている人たちに、すぐにでも「もう大丈夫だよ」と連絡したいのですが、会いに
行けるのはいつのことでしょう。


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ボルガタンガ便り 6 「通信」   2003年7月13日 在ガーナ 田中雅子
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雨季に入り、湿気は50%を越えるものの過ごしやすい日が続いています。ボルガ
タンガではまだ雨が少ないのですが、30キロ西の隣り町では夕立が多いようです。
ある日の西の空を見ていたら、大きな雨雲とその下で雨の降る様子がはっきりと
見えました。視界を遮るもののないここならではの光景です。

さて、こうして私が世界各地で暮らすみなさんに簡単に近況報告を送れるのも電
話を使って送れるEメールという便利な手段があってこそ。今回は当地の通信事
情を紹介します。

■携帯電話
私はどこでもかかってくる携帯電話に便利さより煩わしさを感じるタイプなので、
頑固に携帯電話を持たない生活をしていました。携帯電話をもつ人の割合が極め
て少ない社会にいるので、電話を持ち歩くことで周囲の人との間にバリアを作り
たくないという気持ちもありました。しかし5月に事務所の引越しをした際、電
話の移設に時間がかかり、所属先からの要請でしぶしぶ業務用携帯電話を購入し
ました。

専門店が少なく、町中みな雑貨屋と言ってもいいボルガタンガでの携帯電話探し。
まずは町で最も若者に人気のある店へ。ラジカセなど電化製品やジーンズ、下着
など若者向けの衣類のショーケースの中に携帯電話機が6台。最も高いものは6
百万セディ(8万3千円)もします。予算をオーバーしていたので、「他に携帯電
話を扱っている店を教えて」と店主に尋ね、他の店をあたってみました。

どの店も軒から衣料品を吊るし、その下にはプロパンガスのボンベを並べ、店内
には鍋と食器が置いてあり、足元には靴やスーツケースがある、という具合で店
の人に聞いてみるまで本当に携帯電話を扱っているのかわかりません。4軒目で
ようやく手ごろなものを見つけました。マレーシアで作られたシーメンス社のも
ので850,000セディ(1万2千円)です。首都で買うことにしていたら、何種類も
ありもっと迷ったことでしょう。初心者の私にはここの品揃えで十分だったと思
います。

通話料はプリペイドカードで支払う仕組みで、電話会社が発行しているカードを
買ってセッティングします。ガーナには3社ほどあるようですが、私はボルガタ
ンガで最もよく使われているスペースフォンという会社にしました。同じ会社以
外の電話にかけるとカード度数が大幅に減る仕組みになっているので、まめにカー
ドを買って通話できるよう維持しなくてはなりませんし、充電も必要で、結構手
間がかかります。これは日本でも同じでしょうか。

■地上線電話(Land line)
私は前任者から家を引き継いだので、最初から自宅に電話があったのですが、地
上線は需要に回線数を増やすのが追いつかないようで、新規申し込みの場合何ケ
月も待たされます。ですから地上線を使った電話は持っていなくても携帯電話は
あるという人もいます。携帯電話のほうはカードを買えばその場で通話できるの
ですから。

雨季は電話の雑音がひどく、暴風雨のあった翌日など、中継点でトラブルが起き
るとボルガタンガ市外には一切かからないことがあります。市外局番を回しただ
けで切れてしまいます。半日くらいそういう状態が続くときは電話局に電話して
様子を聞いてみますが、「電話局の我々も首都に電話できなくて困っている。携
帯電話を使ったら?」という返事が返ってくるだけで、待ってみるしかありませ
ん。

国際電話も電話線の調子と運次第。簡単にはつながらないので、何度も電話機の
リダイアル機能を使って試すことになります。リダイアルだから同じ番号にかけ
ているはずなのに、ネパールにかけているつもりが、数回に1回は電話の向こう
から英語でもネパール語でもなく韓国語らしき言葉で「その番号は現在使われて
おりません」というような案内テープが流れたり、不思議なことが多いです。つ
ながった場合、すぐ近くでかけているのかと思うほど鮮明に聞こえるときもあれ
ば、こちらの声が届くまで数秒かかることや、自分の声が何重にもこだまして聞
き取りにくいことがあります。

■公衆電話と電話屋
私の家は未舗装道路に面していて人通りも少ないですが、50メートルほど先にカ
ード式公衆電話があります。故障中の時もありますが、未舗装道路にカード式電
話スタンドがあるというだけで、着た当初驚きました。

カード式電話より若干高くつきますが、私はコミュニケーションセンターと呼ば
れている電話屋のほうが好きです。陽射しの強い日や雨の時使いづらい公衆電話
に比べると電話屋は快適です。お話し中が続いても店の人が辛抱強くかけ続けて
くれるので、こちらは新聞を読んだり、他の客と話をしながら悠然と待っていら
れます。携帯電話を持つようになって電話屋に行く必要がなくなりましたが、あ
の雰囲気が懐かしいです。

電話の他にコピー機、FAX機やコンピューター、カラープリンター、インターネッ
ト施設を備えたホテルのビジネスセンターのような店もあり、出張先でもEメー
ルのチェックや文書の印刷に困りません。日本に一時帰国した時一番困るのは、
こういう便利なお店が少ないことです。日本では何でも個人所有するのが当たり
前になっていて、必要な時だけ手ごろな値段で使える施設が少なく、一時的に滞
在する者にとって不便な社会だと思います。

■E-mail&インターネット
昨年着任した翌日、首都アクラにあるインターネットプロバイダーの事務所でメ
ールアカウントを開きました。即日利用できてありがたい仕組みです。ガーナに
も複数プロバイダーがありますが、私は隣の州都までアクセスポイントの届いて
いる会社を選びました。首都まで電話がかけられない日にはとても助かります。
それでも1時間リダイアルし続けてもどのアクセスポイントにもつながらないこ
とや、途中で中断してしまうことは日常茶飯事。メールをつなぐときは、他の用
事をしながら片手間でトライし続けるのが、イライラしないコツです。

インターネットを使いたくても、電話回線事情が悪すぎるので、私は1ケ月3時間
接続で20ドル(約2400円)という一番手頃なパッケージを利用しています。他に
50時間50ドルというコースもありますが、ここの物価を考えるとインターネット
は庶民のものとは言い難く、会社や事務所以外に個人でアカウントを持っている
人はボルガタンガではほとんど見かけません。

一般の人はインターネットカフェでYahooやHotmailからメールをチェックします。
1分間400セディ(約5.5円)ですから、10分使うと1日の最低賃金の半分を使っ
てしまうことになります。町に1軒だけあるインターネットカフェにはパソコン
が15台ほど並んでいますが繁盛しているとは言い難いです。

■通信手段のない村で
電話回線の調子が悪くても、携帯電話にインターネットにとフル装備の私は、日
本にいるのとそれほど変わりない暮らしです。ボルガタンガでもそういう生活が
できる一方、近隣の村の大半には電話はもちろん電気もなし。幹線道路のすぐ脇
にある私の家には電気がありますが、自転車で5分も行った村には電線は届いて
いません。

私が仕事で関わっているのはそういう村なので、仕事上の連絡は、実際にその村
まで行って関係者に伝言するという方法をとるしかありません。あるいは不在を
覚悟の上で、万が一の幸運を祈って行ってみることです。遠くても電話やメール
がある人とは日に何度も連絡が取れても、村人と連絡を取るのはとても難しいの
です。

先週、私の事務所の近くで、ある村の女性と偶然再会しました。彼女とは仕事上
の関わりはないのですが、半年ほど前に一度食事をごちそうになったことがあっ
たので、ずっと気にはなっていました。私の家から彼女のいる村へは10キロ弱。
遠いわけではないのですが、特別用事もなかったのでご無沙汰していました。
「最近どうして来ないの?」と言われてお詫びするしかなく、休日の今日、久々
に顔を出しました。

メールのやりとりをしている日本やネパールやバングラデシュの友人とは頻繁に
近況を伝え合っているのに、ほんの10キロほどしか離れていない村の人には、半
年も連絡せずにいたのです。便利な通信手段に頼り始めると、時間を作って会い
に行くというコミュニケーション上一番重要なことを忘れてしまい、通信手段を
持たない人とのやりとりを後回しにしがち。パソコンや電話だけで人とつながっ
た気になっていては危険だと痛感します。すぐそばにいる人たちとの時間やコミ
ュニケーションを忘れていないか、考えさせられる出来事でした。

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ボルガタンガ便り 5 「食事」   2003年5月27日 在ガーナ 田中雅子
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今年は雨季に入るのが遅かったようですが、先週末、雷の前触れとともに少し雨
が降るようになりました。とは言え、農作業をするにはまだ雨の量は少なく、ボ
ルガタンガ周辺の耕地はまだ乾ききったままです。

私は、5月14日に長い休暇を終えて任地に戻り、明日28日、ガーナ滞在1周年を
迎えます。いつも励ましのメッセージを下さるみなさん、ありがとうございます。
1年間、病気や怪我をすることなく、事故に遭わず、元気に生活できたことにま
ず感謝したいと思います。

さて、私のガーナ生活でみなさんが一番心配してくださっているのが、食事だと
思います。休暇で再訪したバングラデシュでも「何を食べてるの?」とよく聞か
れました。今回は北部ガーナの食べ物紹介です。

■北部の主食
ガーナの食事としては、キャッサバとプランテーンバナナを臼と杵で搗いて餅状
にしたフーフーが最も有名ですが、南部でしか材料が手に入らないことから、北
部ではチョップバーと呼ばれるレストランで出されるものの、家庭で食べること
はありません。とうもろこしの粉を発酵させたバンクー、長粒米をソフトボール
大に丸めたライスボール、ゆでたヤムイモ、揚げたプランテーンバナナもチョッ
プバーのメニューです。

家庭ではソルガム(とうもろこしの仲間)の粉をお湯で練ったティゼット(ナイ
ジェリアのハウザー語でTuo Zaafi:粉で作った熱い食べ物、を略してTZと呼ぶ)
を朝・夜2回食べています。ティゼットはそばがきに食感が似ていて、フーフー
ほど胃にもたれず、バンクーのように癖もないので、ガーナ食の中では最も食べ
やすいと思います。ボルガタンガ周辺ではソルガムの粉が普通ですが、隣の州都
タマレではとうもろこしの粉を使うので、やや甘みがあって味も違います。

これらの主食は組み合わせるスープが決まっています。フーフーはパームオイル
とトマトをベースにしたライトスープ、バンクーはオクラスープ、ライスボール
はグランドナッツ(ピーナッツ)スープ、ヤムイモはパラバソースと呼ばれるモ
ロヘイヤとかぼちゃの種を砕いたものを煮込んだもの、という具合です。ティゼッ
トを家庭でご馳走になるときはオクラスープかグランドナッツスープが添えられ
ます。こちらの人にとって組み合わせは重要らしく、私が食事に招待した時、ご
はんにオクラスープ(やや日本風)を出したところ、怪訝な顔をされました。

一般家庭では、特別な日を除いて肉や魚が食卓に上ることはありませんが、クリ
スマスなど特別な日には山羊やホロホロ鳥(Guinea Fowl)の肉を添えます。ま
たスープに小魚を入れることもあります。

■地元の食材と調味料
地元の人は野菜をあまり食べないのが普通ですが、雨季になると、ボルガタンガ
でも葉もの野菜が出回るようになります。シソに似た酸味のあるケナフの葉(ビ
ト)、鶏頭の葉などです。乾燥させたケナフやバオバブの葉ものもあり、年中手
に入ります。私もピーナッツバターやトマトとケナフやバオバブの葉を煮込んだ
酸味のあるスープが気に入っており、週に1回は作ります。

バオバブは葉だけでなく、種も豆と一緒に煮て食べます。乾いた実に詰まってい
る粉は水で溶いて清涼飲料にもします。昼に食事をとらない人たちは、こうした
木の実や種、豆をスナックとして食べることが多いようです。

日本では、かつお節や昆布でだしをとりますが、ここではダワダワという木の実
を発酵させたものを使います。タマリンドと同じようなさやの中に入った実を取
り出し、ゴルフボールよりやや小さい球に固めて発酵させると、納豆に似た味に
なります。最近、多国籍企業ネスレ社の固形調味料(マギーキューブ)を使う人
が増えたとは言え、1つ200セディ(約3円)ほどのダワダワは、調味料として欠
かせない存在です。私もケナフのスープに必ず入れています。

■我が家の食卓
ボルガタンガ便り0号で「オクラとトマト以外に生鮮野菜はほとんどない」とお
伝えしましたが、その後、地元のマーケットにブルキナファソからの野菜が入荷
されるタイミングを知り、首都アクラや隣の州都タマレに出かけた時、必ず野菜
スタンドに寄るようにしたので、1年間、冷凍食品や缶詰の野菜や果物を必要と
することはありませんでした。

ボルガタンガで年中手に入るのは、玉ねぎ、トマト、人参、キャベツ、いんげん、
オレンジ、バナナです。じゃがいも、きゅうり、ねぎ、ピーマン、なす
(Garden Eggと呼ばれる黄色いタイプのもの)、レモンはない時期もあります。
かぼちゃやカリフラワーは隣のタマレでないと買えません。季節によっては、ボ
ルガタンガでも、モロヘイヤ、さつまいも、ヤムイモ、オクラ、アボガド、リン
ゴ、パイナップル、パパイヤ、マンゴー、すいかを買うことができます。寒冷地
野菜のレタスや白菜、大根は首都アクラでないと手に入りません。

豚を飼っている人も見かけますが、未だ豚肉を売ってくれる場所を見つけておら
ず、牛肉か鶏肉をレストランでさばいてもらって買います。マーケットでは骨付
きのブロック肉か、鶏1羽という単位でしか買えないので、一人暮らしの私には
不便です。レストランで骨を外してもらい、ミンチにしてもらうと助かるのです。

地元の人は山羊やホロホロ鳥の肉を好みます。ホロホロ鳥は婚資(ダウリー)と
しても使われる贈答用の鳥でもあります。ここの鶏卵は黄身の部分も白くて料理
に使ってもあまり見栄えが良くないのですが、ホロホロ鳥の卵は黄身の色が濃く、
とてもおいしいです。殻が固くて割れにくく、農家でホロホロ鳥の卵をいただく
と、とてもありがたいです。村で見ている限り、ホロホロ鳥も鶏も同じものを食
べているのに、黄身の色があんなに違うのは不思議です。

牛や山羊は食肉用で、フラニという遊牧民以外は乳製品を口にしません。地元で
手に入る乳製品と言えば、牛を飼っている向かいの人が時々分けてくれるヨーグ
ルトだけです。牛乳は輸入品のロングライフ牛乳を首都から買ってくるか、脱脂
粉乳やコンデンスミルクを使っています。

ボルガタンガは内陸なので、年中手に入る魚は、沿岸部から運ばれてくる鯖を干
して焼いたもの、干物の小魚、干しエビ、ガーナ産の鰯やツナの缶詰めだけです。
乾季には灌漑池で養殖されているテラピアが出回ります。町には看板に魚の絵を
描いた冷凍食品店もありますが、まだ利用したことがありません。

私は、ボルガタンガで買えるこれらの食材を主体にした日本の家庭料理、ネパー
ルやバングラデシュで親しんだカレーを作って食べています。時にはアクラ在住
の同僚にお願いして魚など食材を調達してもらうこともありますが。

■飲み物
ガーナに来た当初、物足りなかったのは、野菜よりも魚よりも、こちららでは紅
茶・コーヒーなど嗜好品を飲まないことでした。人に会えばミルクティーにお菓
子が出てくるのが普通という南アジアに長くいたので、喉も渇くし、一服できな
いのが寂しく感じられましたが、だんだん親しくなると、ギニーコーン(とうも
ろこしの一種)を発酵させて作ったピトというお酒を勧められるようになりまし
た。

ピトは作った翌日が飲み頃というアルコール度の低いフルーティーなお酒です。
村の女性グループの会合などでも、ミーティングの最後に大きなひょうたんを二
つに割って作ったボールになみなみとついだピトを回し飲みしている様子を見か
けます。安全な水が手に入りにくいせいか、客に勧めるのは水よりもピトが多い
ようです。ピトは民族によって作り方や容器が微妙に違い、地域によって味が違
います。

蒸留酒など地元の強いお酒もありますし、ビールの種類も豊富で、酔っ払いや飲
みすぎが問題になっています。しかし、ピト作りは顧客を獲得しやすい収入向上
の手段であり、村の女性たちは道具を揃えることができれば、ピト作りをしたい
と考えています。それでも、親しい間柄の男性はツケ払いで飲むことが少なくな
く、実際には投資しただけの利潤を回収するのは難しいようです。

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ボルガタンガ便り 4 「服装」   2003年4月6日 在ガーナ 田中雅子
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こちらは一年で最も気温の高い季節を迎え40度を越える日が続いています。それ
でも日本の夏ほど不快でないのは、湿度が20-30%以下だからでしょうか。乾季は
全く雨が降らないと思い込んでいましたが、2月、3月に1回ずつ、そして昨晩も
雨が降り、正午現在の気温は30度。おかげさまで最も暑い時期を元気に乗り切る
ことができそうです。

■■お知らせ■■
4月12日より1ケ月、休暇をいただいて旧友のいるバングラデシュ、タイ、ドイツ、
ポーランドを旅行することにしました。家族のいるネパールに行く予定だったの
ですが、職場から渡航許可が下りず、家族にタイに来てもらうことにしました。
5月11日までこのE-mailアドレスmtes@africaonline.com.ghにはアクセスできま
せん。masakotanakajp@yahoo.co.jpに英語でメッセージをお送りいただくか、5
月12日以降に従来のアドレス宛にご連絡下さい。

■■戦争■■
英米によるイラクへの攻撃が始まって2週間が過ぎました。その直後、国営テレビ
で武力行使の是非について討論番組が放映され、首都アクラでは4月2日に反戦デ
モがありました。コフィ・アナン国連事務総長がガーナ出身であることから、
「事務総長が黒人だから、英米は国連を軽視している」という意見を聞くことが
ありますが、この戦争がガーナにどういう影響を与えているかという問いには、
「燃料代が上がった」という以外の反応はありません。モスリムの人たちは、ラ
ジオの戦争報道を熱心に聞いているようですが。

今回の「戦争」は軍事力を行使したい側が一方的に仕掛けたテロだと思います。
一般市民が巻き添えになる戦闘の様子が、英米のメディアによって放映され、ガー
ナでもテレビのあるレストランでは大抵CNNを始終流しています。こうした戦争
報道によって、果たして反戦を唱える声は広がるのでしょうか、それとも人が殺
されるのを見ても何とも思わない人々を増やすのでしょうか。

■■服装■■
さて、私は南アジアで暮らす間、土地の女性たちの民族衣装を着て過ごしました。
そのイメージがあるせいか「ガーナでは何を着ているの?」「ガーナの民族衣装
は何?」という質問をよくいただきます。そこで、今回は服装について取り上げ
ます。

■首都の若者
ガーナに到着した初日、私は首都の繁華街にあるホテルに泊まりました。階下の
レストランは若者の溜まり場で、ジーンズやミニスカート、タンクトップ姿の女
性が大勢いました。それまで体の線を出してはいけない文化の中で暮らしていた
ので、彼女たちの姿にはとても驚きました。男性もスポーツシャツにジーンズ、
高価なスニーカーという格好で、オレンジや黄緑など鮮やかな色が黒い肌によく
似合います。

銀行やオフィスで見かけるスーツ姿の人たちも、派手なシャツやネクタイが映え、
手足が長いせいか洋服を格好よく着こなしています。また女性たちは髪をきっち
り編みこみ(ラスター)、きれいにマニキュアを塗っておしゃれに隙がありませ
ん。美容院が多いのもこうした需要があるからだと思います。

■村の女性
ボルガタンガに着任し、村に行くようになると、アクラで見たような服装は見か
けなくなりました。既婚女性は普段、半袖かノースリーブのシャツに、スカート
をはき上から腰布を巻いています。クリスチャンの女性は耳が出るようにスカー
フを頭に巻き、モスリムの女性は顔だけ見えるように頭全体をショールで包みま
す。同じガーナ北部でも、東部に行くほどピアスやビーズのネックレスをつけた
女性が多くなり、地元のマーケットに入ってくるものが違うのか、流行のせいな
のか、服装も少しずつ違います。

マーケットで売られている既製服の多くは東南アジアからの中古で、女性にはブ
ラウス、スカートの他、ワンピースが、男性にはジーンズが人気商品です。中古
衣料が安く入ってくるから、地元の縫製・仕立業が発展しないのだと嘆く人もい
ます。靴はヨーロッパの中古市場からも流れてきているようで、私もイタリア製
のサンダルを300円程度で買いました。

普段着は中古衣料でも、葬式に出かける時などのための一張羅は仕立屋で作りま
す。女性の場合、肩から袖にかけてボリューム感を出し、胸元を大きくあけた半
袖の上着に、後ろか両脇に深いスリットの入ったくるぶし丈のタイトスカート、
そして頭か腰に巻く布のスリーピースです。これはガーナ全体で着用されていま
す。

私も一着作ってみたところ、絞り染めの布代が1500円、仕立代は600円程度でした。
日本で服をオーダーメードすることを考えれば安いと思われるかもしれませんが、
1日の最低賃金が約130円というガーナではとても高い買物です。それだけに、絞
り染めやろうけつ染めの布を一着分贈ると喜ばれます。

■スモック
普通の男性はTシャツか地味な半袖シャツにズボンという姿で農作業をしています。
しかし、特別な催しには、半袖もしくは七分袖のスモックを着ます。グレーに紺
や黒のストライプが入った織り幅15センチほどの厚手の布を手で縫い合わせて作
るため、一着2500円ほどします。

ゆったりとしたデザインであるがゆえとても重く、着心地が良さそうには見えな
いのですが、襟ぐり、袖など開口部は大きいため、空気が通って意外に涼しいそ
うです。チーフと呼ばれる伝統的首長などは、同じ布でゆったりとしたズボンと
揃いの帽子も作ります。あとは杖をつき、肩からショールをかければ、威厳のあ
るおじいさんになるわけです。

以前は脚のない木製の織機、居座機(いざりばた)で織られていた布も、最近は
職業訓練校で幅の広い金属織機を使う織り手が養成されるようになって入手しや
すくなり、男性のスモック以外に、女性のロングドレスや室内装飾用にも使われ
るようになってきています。

■正装のない国
ガーナ北部では男性のスモック、女性のスリーピースが正装と言えますが、テレ
ビを見ていると、大統領など要人男性は実にいろんな服を着て登場します。北部
訪問の時はスモック、南部ではケンテクロスと呼ばれる一枚の大きな巻布を左肩
にかけた姿で、イベント会場では派手なろうけつ染めの開襟シャツ、外国からの
訪問客に会うときはスーツという具合です。

銀行の多くは、男性はスーツにネクタイという規定を設けているようですが、そ
れ以外は警察などユニフォームのある職業を除くと、みな個性豊かな服装で働い
ています。普段はシャツ姿のモスリム男性も、モスクに行く金曜には刺繍のきれ
いな衣装に揃いの帽子をかぶっていたり、オフィスで働く女性もスーツを着てい
る日もあれば、ナイジェリアなど隣国の流行を取り入れて形も色も様々な服を楽
しんでいます。男女とも服にまつわるおしゃれの話が大好きです。

さて、私はと言えば、催し事のある日はスリーピースを、事務所にいるときは半
袖シャツにズボン、村に行くときは日焼けを避けるためバングラデシュにいた頃
から愛用している薄い長袖のサロワ・カミューズ(ワンピースとズボンにショー
ル)、そしてアクラで用事のある時はミャンマーやフィリピン、日本で買った夏
服を着ています。正装がないおかげでどんな服も許されて助かります。ガーナの
服を着るのも好きですが、こちらの女性たちほど格好良く着こなせないのがくや
しいです。

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ボルガタンガ便り 3 「慶事・弔事」 2003年1月9日 在ガーナ 田中雅子
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年始の挨拶には少々遅れましたが、新年のご挨拶を兼ねて「ボルガタンガ便り」
を送ります。今年もどうぞよろしくお願いします。

こちらは12月の半ばから「ハマターン」と呼ばれるサハラ砂漠の砂を含んだ風の
影響で朝夕の気温が下がり、過ごしやすい日々が続いています。これは西アフリ
カ一帯に起きる現象で、日本に中国大陸から黄砂がやってくるのと同様、天空を
砂塵が覆います。霞がかかった状態になり、地平線がぼんやりとしか見えない日
もあります。おかげで強い日射が地表に届かず、屋外気温は15度から35度、屋内
は20度から25度前後と快適です。

この季節が一番好きだという人もいますが、砂塵が部屋に入り込み、掃除が大変
で機械類が故障しがちという迷惑な面もあります。雨季に70%近くあった湿度が
今は20%もなく、のどが乾き肌がかさつくのも「ハマターン」の時期の特徴です。

さて、年末年始にメールを頂戴した方々から、「クリスマスのガーナはどんな様
子ですか?」「ガーナでもお正月を祝うのですか?」という質問がありました。
今回は「慶事・弔事」を取り上げます。

■ガーナの祝日
ガーナに赴任して1週間ほど経った頃、現地スタッフに「ガーナのカレンダーは
どこで買えるの?」と尋ねたところ、彼は怪訝な顔で「カレンダーならあるじゃ
ない」と日本のカレンダーを指差しました。私がこれまで暮らした南アジアの国、
ネパールやバングラデシュでは、西暦+太陽暦とは別にそれぞれ暦があり、宗教
上の祭日や国家の祝日を記したカレンダーを文房具店や路上で販売していました。
ガーナの祝日を知るためにカレンダーを買おうと思ったわけですが、企業や団体
が広報用に配るもの以外にはないようでした。

仕方なく、2002年中の祝日を聞いて手帳に書き写すことにしました。「クリスマ
スでしょ・・・」といきなり年末の休みを言い出した彼に、「6月から12月まで
の祝日を全部教えてよ」と念を押すと、「休みってほとんどないからね」という
返事。確かに私がガーナに来てかた今日まで、祝日は7月1日(共和国設立記念日)、
12月6日(農民の日)、同25-26日(クリスマス)、1月1日(新年)だけ、年間で
は11日。祝祭日の多かった南アジアと比較すると寂しい気がします。

■年末年始
カレンダー上の休みが12月25、26日と1月1日だけだったので、私はそれ以外は出
勤するものと思い込んでいましたが、12月に入って仕事の打合せをすると、12月
後半は休むから・・・と言われることが多くなりました。ボルガタンガにある団
体は、クリスマスの1週間前から1月中旬まで3週間も休みにするところが多く、
カレンダー上の休日ではないものの、日本同様、ガーナもクリスマス・年末年始
休暇が結構長いというのが実情でした。私の職場も12月20日から1月5日まで休み
となり、年末年始休暇のなかった南アジアにいた頃より、のんびり過ごすことが
できました。祝祭日が少ないという不満も解消されたわけです。

私自身は12月31日夜、隣人と食事に出かけました。町のレストランでNew Year
Eveと言って集まっているのは外国人が多く、ガーナの人はあまり見かけなかっ
たのですが、帰宅後、年が明ける時間に爆竹や花火の音が鳴り始め、ガーナでも
新年を祝うのだとわかりました。

1月1日、私はボルガタンガの市内から車で20分ほど離れた村に住む知人宅に招
かれました。その村にはキリスト教徒が多く、1日の朝、彼女も教会に礼拝に出
かけたそうです。クリスマスに新調したのか、よそゆきの新しい服を着た子ども
たちが目につきます。郡議会議員である彼女はアメリカに8年、イギリスに4年
暮らしたことがあり、両親の住む土の伝統家屋の隣にコンクリート造の家を建て
て住んでいました。

半日彼女の家で過ごす間、郡の教育事務所長、全国に支店のある服地メーカーの
支店長たちが挨拶にやってきました。行政やビジネスに携わる人たちは年始の挨
拶回りをするらしく、私が到着する前にも既に多くの来客があったようです。

迎えた側の彼女は飲み物や食事の準備に忙しく、私は挨拶に人たちと、国営テレ
ビ局の生放送を見ました。首都の劇場に、コメディアンやダンサー、歌手が登場
する演芸もので、日本で言うところの「初笑い」系番組です。最初まばらだった
客席が徐々に埋まっていく様子も映され、収録から時間のたった日本の新春番組よ
りはライブ感覚があり、なかなか楽しめました。

■慶事
1年を農業のサイクルに従って暮らす村の人たちにとって、カレンダー上の休暇
は関係ありません。長期休業するのは、遠く離れた郷里に帰省する人の多い職場
だけだと聞きます。また、キリスト教徒でない人も多いため、国の祝日であるク
リスマスでさえ関係ない人もいます。個々人によって祝祭日の意味もずいぶん違
うようです。イスラム教徒にとっては、断食が終ったイードのお祝いが重要です
し、地域によっては収穫祭や土着信仰上の祭りのほうが大切で、国民一斉お祝い
ムードという日はないように見えます。

個人や家族にとっての慶事と言えば、結婚式や誕生日を思い浮かべますが、ボル
ガタンガ周辺の村に住むフラフラの人々は結婚式に盛大なお祝いをすることはあ
りません。求婚する男性側がまず縁起物のコーラという木の実や鶏を届け、女性
側の家族と協議を始めます。婚資(ダウリー)の合意ができたら男性がホロホロ
鳥や牛を渡し、女性の兄弟に食事を振舞えば終わり。親戚や近所の人を招くこと
はないようです。

私のグルネ語の先生は村を出て町で暮らしていますが、同じ町に住むお姉さんに
結婚したことを伝えたのは、マーケットでばったり出くわした時だったそうです。
結婚が人生最大のイベントとして扱われないのは、一夫多妻制もその理由のひと
つかもしれません。

■弔事
それでは、最大のイベントとは何でしょう。年初から縁起でもないと言われそう
ですが、葬式がとても重要だと考えられています。グルネ語の先生に葬式と結婚
式を比較して「どちらにたくさん人が集まるか」「どちらにお金をかけるのか」
と聞いたところ、「葬式に決まっているじゃないか」とのこと。

確かに村で葬式があれば、数百人単位の人に食事を振舞いますし、ドラムや北部
独特の木琴を演奏し、賑やかに踊ります。私も最初、結婚式のように見える葬式
の盛大さに戸惑い、死の捉え方の違いに驚きました。日本でも「しめっぽいのは
よくない。仏が悲しむから・・・・」と、ゆかりの人々がお酒を飲んでにぎやか
に過ごそうとする話が小説によく出てきますから、日本にもそういう感覚が残っ
ているかもしれませんが。

盛大な葬式は、すべての死者に対して行われるのではありません。病気や事故で
子どもや若者が亡くなった場合は、悲しみのうちに家族だけで埋葬します。子ど
もや孫に恵まれ、天寿をまっとうした人だけが盛大な葬式で送られるというのが、
真相だったようです。新聞に葬式の日時が広告として載ることがありますが、
「子ども35人、孫120人」というようにその人の残した者の多さが讃えられ、
地方の首長の葬式はテレビで生中継されることもあります。葬式は費用もかかる
ため、遺族が十分なお金を集めるまで数年行われないこともあるとか。亡くなっ
た直後は悲しんでいた家族も、その頃には家族の死を受けとめているのでしょう
か。

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ボルガタンガ便り 2 「国境」   2002年11月19日 在ガーナ 田中雅子
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10月半ばに長かった雨季が終り、ボルガタンガに強い陽射しが戻ってきました。
今年は11月に入っても雨が降り、季節が逆戻りしたのかと思いましたが、たった
一日の気まぐれな雨だったようです。

前号でグルネ語について紹介したところ、「その後の習得は?」というメールを
たくさんいただきました。先生探しが難航していましたが、今月に入ってようや
く新しい先生を見つけて再開しました。ただ長い間復習していなかったので、初
心者に逆戻り。季節は変われど私のグルネ語は・・・という感じです。

さて、ブルキナファソ国境に近い町ボルガタンガは最近、交通量が増えました。
今回のテーマはボルガタンガで感じる「国境」です。

■国境の往来
10月のある日、ボルガタンガから東、トーゴ国境側に向かっていたときのこと、
通関所の手前で屋根に荷物を満載したバスが止まっていました。カラフルな装い
の乗客たちは木陰で通関検査が済むのを待っているようですが、とても疲れた表
情です。ナンバープレートを見るとコートジボアールのもので、ニジェールに向
うバスだと聞きました。

数日後、ブルキナファソ国境にあるパガという町に用事がありました。ボルガタ
ンガからは西へ40キロの距離。ガーナ北部から国境までの道路は一昨年日本の無
償資金協力で舗装されたばかりで、車は通常時速100キロくらいのスピードで走っ
ていますから、30分もあれば着くのですが、この日は車体の長いトラックが何台
も続き、なかなかスピードが出せません。トラックのナンバープレートを見ると
マリの車両でした。事務所のドライバーの話では、そのトラックは塩を運んでい
たようです。

ニジェールもマリもガーナとは直接国境を接していません。ニジェールのほうは、
ガーナの東側に隣接するトーゴ、その先のベニンの北側です。マリはガーナの北
に位置するブルキナファソのさらに北です。私が見たバスやトラックは国境を2
度も3度も越えて目的地へと向かうわけです。アビジャンからニジェール(
恐らく首都のニアメ)に向かうバスは5日かけて4つの国境を越える旅。ガーナ
も加入しているECOWAS(西アフリカ経済共同体、16ケ国が加盟、本部はナイジェ
リアの首都アブジャ)加盟国の人々はパスポートなしで移動ができるので、こち
らの人は軽々と国境を越えて行きます。

■向こう側の人々
それ以来、ボルガタンガを走る大型車両を見かけるとすかさずナンバープレート
をチェックするようになりました。BFとあればブルキナファソ、CIはコートジボ
アールという具合に判別は簡単ですが、近隣国の公用語はフランス語なので、車
体の広告文はすべてフランス語。こちらのほうは私には全くわかりません。

私の家も国境までの道路沿いにあるので、時折家の近くでトラックが何台も止まっ
ているのを見かけます。よく見るとトラックの間で、運転手たちがメッカのある
東の方を向いてお祈りしています。ブルキナファソやマリの人口の過半数がイス
ラム教徒だったことを思い出しました。一度彼らに話しかけてみたいですが、私
はフランス語が一言も話せないので未だ勇気がありません。

ガーナと公用語が違うと言っても、国境をまたがって住んでいる民族はたくさん
います。この町に多いフラフラ族はブルキナファソ側にも住んでいますし、ブル
キナファソ側に多いモシ族や、ダカリ族はガーナ北部にもたくさんいます。こち
らの人にとっては、公用語など気にならず「向こう側」との交流も盛んですし、
親戚が「向こう側」ということも珍しくないのです。

■交通量が増えたわけ
私は運動不足解消のため自転車で事務所と家を往復しています。夕陽が沈む頃、
国境まで続く舗装道路を走るのはアフター5の楽しみでもあるですが、最近どう
も排気ガスが気になります。明らかに大型車両が増えているのです。9月19日
にコートジボアールでクーデターが発生し、コートジボアール政府が隣国ブルキ
ナファソによる反乱軍支援の疑いがあるとして、国境を閉鎖したことが原因のよ
うです。これまでコートジボアールから直接ブルキナファソへ向かいその先のマ
リやニジェールに行っていた車両が、コートジボアールから一旦ガーナを経由し
てブルキナファソに向かうことになったわけです。

また10月中旬の新聞によれば、コートジボアールの港の物流が止まっているので、
貨物船がガーナ最大の港テマで内陸国向けの積荷を下ろすようになり、近隣国に
向かうトラックがそこに集結しているとか。ボルガタンガを通過するトラックも
テマからやってきたのでしょう。首都アクラからボルガタンガまでの道中も混ん
でいるようです。これでようやく交通量が増えた理由がわかりました。増えたの
は大型車だけで、クーデターの影響で難民が流入してくる、といったことは今の
ところボルガタンガではありません。

■国境の町の利点
「首都アクラから車で丸1日かかる国境に近い町」というと、辺境の地という感
じがしますが、今回のクーデターの影響がなくても往来は賑やかで、近隣国とつ
ながっていることを実感します。ガーナ北部に比べて野菜の栽培が盛んなブルキ
ナファソからは、毎週火曜日、新鮮な野菜が運ばれてきます。「輸入野菜」には
違いありませんが、「産地直送」でもあります。また、ヨーロッパからの輸入品
に頼らざるを得ないロングライフのミルクなど乳製品はフランスやベルギー産が
多いです。ブルキナファソ側から流れてきているのでしょう。

年末に任期を終えるカナダの友人に、飛行機の予約は済んだか聞いたところ、
「アクラからの出発便はクリスマスから新年にかけてもう満席なので、ブルキナ
ファソの首都ワガドクから出る便を予約した」と言います。なるほど、ここから
ならアクラに出るよりずっと近いですから、そのほうが合理的です。フランス語
もバイリンガルの彼らにとっては言葉も全く問題になりません。任期中も毎年ワ
ガドクで開かれるアフリカ国際映画祭を見に行っていたようですし、彼らは日頃
から、国境を越えて動いていたのです。

もし、自分が好きなときに、自由に越えられるなら、国境の町での暮らしを満喫
していると言えますが、私の場合、所属先から陸路での越境を許されておらず、
未だ「向こう側」の世界は遠いです。緊急時に備えるという意味では、「向こう
側」の医療機関などを予め知っておくことも必要だと思うのですが。

■元に戻る?
今年、ようやくヨーロッパは通貨統合が実現し、ユーロへの統一が進んでいると
ころですが、WAMZ(西アフリカ通貨圏、加盟国はガーナ、ナイジェリア、シエラ
レオーネ、ギニア、ガンビア)でも、2005年までに通貨統合することを目標に置
いています。そうなると国境を自由に越えるヒトとモノがますます増えるでしょ
う。新しい動きのように見えますが、ここに国境ができたのは、植民地時代、も
しくは独立前後のこと。それ以前は自由に動いていたはずですから、「元に戻る」
と考えたほうがいいのかもしれません。国境がなかった頃のボルガタンガはどん
な町だったのでしょうか。

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ボルガタンガ便り 1 「言葉」   2002年10月4日 在ガーナ 田中雅子
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みなさまいかがお過ごしですか。
7月に近況報告をお送りしたところ、私の住む町の名前をとって「ボルガタンガ
便り」と名づけてくださった方があったので、前回のメールをゼロ号、今回のも
のを第1号とします。

さて、こちらは雨季がそろそろ終わりに近づき、日増しに暑くなっています。5
月末に着任して以来、雨の頻度が増すにつれて過ごしやすい日が増え、7月から
の2ケ月間は自宅でエアコンを使うことはほとんどありませんでした。夜中に雨
が降ったときなど、明け方肌寒く感じることさえあり、毛布を使う日もあったの
です。8月のアフリカで毛布とは、ここにやってくるまで考えもしませんでした。
我が家はトタン屋根なので、夜中に激しい雨音で目が覚めることもしばしばあり
ましたが、翌朝のひんやりとした空気は心地よく、雨は大歓迎でした。

2週間前、西隣のコートジボワールでクーデターが発生し、数日前ではその対処
について西アフリカ経済共同体のサミットがガーナの首都アクラで開かれていま
した。ガーナ側に難民が出ているという噂ですが、私がいるのは東の端なので影
響は出ていません。

前回は仕事の概要や住まいのあるボルガタンガの印象を紹介しました。今回は
「言葉」をめぐる話です。

■公用語は英語?
私がガーナで働くことを決めるにあたって、公用語が英語であることは大事な要
素でした。西アフリカは旧フランス植民地が多く、ガーナが接する国(東はトー
ゴ、北はブルキナファソ、西はコートジボワール)もすべてフランス語を公用語
としているので、フランス語圏で仕事をするのは私には無理だと考えていました。
ちなみに、ガーナ政府は近隣諸国に対する競争力をつけるためという理由で、最
近フランス語教育を強化しようとしています。

首都アクラでは確かにどこでも英語が話せればOKですし、看板も英語がほとんど
なので不都合は感じません。到着日の夜、ホテルでテレビのスイッチを入れると
ガーナテレビがドラマを放映していました。台詞の英語は聞き取りにくかったで
すが、「着いたその日から地元のテレビドラマがわかるってありがたいね」と、
夫と顔を見合わせて言ったのを覚えています。

職場でも、事務所にいる分には英語だけで全く問題ありませんし、私の住む町で
も買物やタクシーでの移動にはアクラ同様英語だけで済みます。しかし、「英語
が公用語」というのは、ここに住む人全員が英語を話すというわけではなく、私
が仕事で関わる村の人たちの多くは読み書きできないだけでなく、英語は話すこ
ともできません。農村で英語ができるというのは学校教育を受けた人だけなので
す。農村で英語が通じる人の割合はそれほど高くなく、村の人から直接話を聞く
ことの難しさという意味では、これまで暮らしたネパールやバングラデシュとあ
まり変わらないように思います。

■多言語社会
ガーナには60ほどの民族が住んでいます。この通信を書くために正確な数字を
探そうとしたのですが、手元にある資料には民族・言語の数ははっきりと書かれ
ていません。ここで使われている多数の言語をそれぞれ別のものと見なすか、あ
る言語の方言と数えるか、見解が定まっていないせいかもしれません。なお、こ
の60という数字は民族分布地図から私が数えただけですので、政府の発表では
ありません。

私の住むアッパーイースト州の総人口は90万にすぎませんが、少なくとも6つの
異なる言語を話す人が住んでいます。10万人足らずの人だけが使っている言語も
あります。3週間前、この地域の女性を組織する地元NGOの総会に招かれました。

ボルガタンガの町外れにある教会に集まった女性は500名ほどで、英語で議事
は進行しましたが、一区切りつく毎に6つの言語グループ別にリーダーが要点を
通訳・補足説明するというやり方で進められました。地元のラジオ局が5つの言
語で放送しているのですから多言語社会であることは知っていましたが、地元の
団体の総会がまるで国際会議のように多言語で進められるのには驚きました。面
白いことに、言語グループ毎に踊ってくれたダンスもそれぞれ違いがあり、顔立
ちだけでは判断できないまでも、彼女たちは異なるグループに属しているのだと
納得しました。

■現地語を学ぶ
英語を学ばなかった人同士が共通語として使うのはハウザと呼ばれるナイジェリ
ア北部の言葉です。ガーナ北部を含む西アフリカ一帯で約5000万人が話している
と聞き、ハウザを習おう!と最初考えたのですが、ハウザは交易民、特にモスリ
ムの言葉と捉えられているので、日本人でイスラム教徒でない私がそれを話すこ
とが得策とは思えない、とガーナに詳しい人から指摘され、ハウザを学ぶのはあ
きらめ、最初の2ケ月は言葉の勉強はしないで過ごしました。

車で30分も行くともう違う言語を話す人たちが住んでいるのですから、私たち
が関わる相手が話す言語はさまざまで、ひとつの現地語を学んだからといって、
仕事で関わる相手すべてに通じるわけではないのが問題です。フィールドに出か
けると場所毎に挨拶からすべて違うのには面食らいました。しかし、家の近所の
人とさえ話ができないのは残念ですし、挨拶程度でも話せると村を訪問するにも
違うだろう、と考えボルガタンガの町周辺に多いフラフラ族の言葉、グルネ語を
勉強することにしました。

■文字をもたない言語
グルネ語を教えてくれる人なんて見つかるだろうかという不安はありましたが、
ボルガタンガにあるPeace Corp(平和部隊:英語や理数科教員、保健ワーカーな
どを派遣するアメリカ政府のボランティア派遣機関。日本の青年海外協力隊は平
和部隊をモデルに作られたと言われる)の事務所に行くと、グルネ語の先生を紹
介してもらえました。この人の本職は地元の高校の先生ですが、年に数回Peace
 Corpの新しいボランティアが派遣されると、ガーナの生活習慣と一緒にグルネ
語の基本会話を教えています。

私は個人レッスンだったので、週に2、3回朝6時半から1時間、自宅に来ても
らって教わることになりました。最初の数回は先生の様子を見ていましたが、外
国語を教えることにはあまり慣れていない様子で、なかなか系統立って教えてく
れません。Peace Corpの人たちには短期間にこの地方でサバイバルできる表現を
教えているそうですが、私の場合、ゆっくりでも文法を理解して話せるようにな
りたいという希望があったので、たとえば「現在形と現在進行形の用法」という
具合に、こちらが知りたいことを尋ねる形で進めるようにしてもらいました。

しかし、そういうやり方に変えてもなかなか理解が進みませんでした。最初に困
ったのは、ノートの取り方です。グルネ語は固有の文字を持たず、書き言葉とし
て発達しなかったので、英語のアルファベットを利用しています。しかし、母音
は9つあるので、a,e,i,o,uだけでは表記できません。私が教わった先生は大学
でグルネ語を専攻したという話ですが、彼が学んだ頃でも表記方法は確定してい
なかったそうで、単語を教わっても、それを音のとおりに表記するのが大変で、
先生の表記も一定ではありません。

現在初等教育では母語教育が行われているということですが、母語を使った授業
ということであって、グルネ語の文法を「国語」のように書いて学ぶのではない
のかもしれません。

また外国語として学ぶ人のためのテキストも一切ないので、学ぶ手がかりがなく、
学校で英文法を学んだときのように「今日は現在形、明日は現在進行形、その次
は現在完了形」という具合にはいきません。どうやらグルネ語には時制の区別は
あまりないようですし、主格、目的格、所有格の区別もなく、敬語に相当するも
のもないようです。それでは、何につけても寛容な言葉なのかというと、単数・
複数には厳密ですし、未だつかみどころがないです。

思えばこれまで学んだネパール語もベンガル語も、固有の文字(ネパール語の場
合はヒンディ語と一緒でしたが)を学ぶ前の学習者用にアルファベットで表記さ
れた教科書がありましたし、動詞の活用など初歩段階で体系的に教えてもらいま
した。こちらがカリキュラムを考えなくても、ベテランの先生について学べば、
数ケ月後にはとりあえず話すことはできるようになっていました。

文法概念にとらわれすぎると、いつまでたっても話せない恐れがあります。流暢
に話せるところまでいかなくても、折角始めたからにはどういう特徴をもつ言葉
なのかだけはつかみたいと思っています。

■言葉を使ってみる
先週の日曜、村の女性の1日を知りたいと思い、日の出から日没まで知り合いの
ヴィクトリアさんの家に行きました。彼女と息子は英語が少し話せるのですが、
近所の人や他の家族はグルネ語しかわかりません。ようやくグルネ語を話してみ
るチャンスがきたと思い、習った言葉を並べてみると、待ち構えたように私の知
らないグルネ語で質問が来てしまい慌てました。それでも、通訳なしで話ができ
るのはとても心地よかったです。

彼女たちの家族関係など知りたいので、家族についての質問をよくするのですが、
お父さんの弟も「お父さん」と呼ばれていたり、おばさんの配偶者(日本ではお
じさん)も「お父さん」だったりで、英単語のFatherに相当する語といっても定
義が異なることがあります。こういった「彼ら・彼女たちの世界」は、言語を勉
強しないと見えてこないものです。こういうことがわかっただけでも言葉を習う
のは面白いと思います。

■識字
ガーナにも子どもの頃学校に通う機会のなかった人のための成人識字学級があり
ます。フラフラ族の場合、英語のアルファベットと一部グルネ語に固有の発音を
示すための文字(ギリシャ文字か発音記号)を使ってグルネ語の読み書きを覚え
るのですが、実社会でグルネ語を書いたり読んだりすることはないため、成人識
字学級はあまり効果をあげているようには思えません。

ネパール語やベンガル語の識字学級を修了し、文字を自分のものにした人(識字
学級に通った人が全員そうなるわけではないですが)はバスの行き先や薬のラベ
ル、役所の看板が読めるようになったとか、家族に手紙が書けるようになったと
いう実生活上での変化がありますし、頑張れば本や新聞だって読めるようにな
るので、手に入る情報も格段に違いました。

しかし、ここにはグルネ語で書かれた新聞や雑誌があるわけでもないし(ラジオ
番組はあります)、英語のアルファベットを借りた表記で書かれたグルネ語で手
紙を書くこともありません。そのせいか、アルファベット習得は母語の読み書き
のためではなく、いずれ英語を学ぶときのためのアルファベットと受けとめられ
ていることが多いです。識字学級を受講する人のもっぱらの関心は文字ではなく、
数字や計算のようです。

■複数の言語を操る
私にとっては取得の難しいグルネ語ですが、ガーナの他の地方からやってきた人
は、1年も住んでいれば「自然に」覚えられるといいます。私の働く事務所のド
ライバーは以前ボルガタンガ近郊に住んでいたことがあるそうで、流暢でないま
でもグルネ語を話します。彼はお父さんの母語、お母さんの母語とグルネ語に加
えて、最も人口の多いアシャンティ族の話すチュイ(Twi)語、そして英語と、
5つの言葉を解します。村から出たことのない人は母語以外話さないことも多い
ですが、出稼ぎや就職、結婚などで転居したことのある人は複数の言葉を操るこ
とができます。書いて覚えることなしに、話せるようになるというのは、私には
うらやましい限りです。たくさんの言語を話せるというのは、読み書きと同じか、
それ以上にすごい技能だと思ってしまいます。

8月末、先生が別の町で仕事を見つけて引っ越してしまったので、この1ケ月、
グルネ語はお休みでした。未だ挨拶程度しかできないのでまだ道は長いですが、
言葉を通じて彼らの習慣や価値観を知ることは重要なので、また先生を探して再
開します。