〔第37章〕外国人に参政権を付与するなかれ
民主党は永住外国人にたいして、国政は無理にしても地方選挙権は付与すべきであるとの認識のもとに岡田克也副代表を会長とする「永住外国人法的地位向上推進議員連盟」を発足させた。また公明党は以前より外国人にたいする参政権の付与には積極的である。
このような両党の動きに対して、私は全く反対なのだ。
私は国、地方をとわず、直接、間接をとわず外国人に対しては参政権を一切付与すべきではないと考えるのである。
即ち、外国人が日本に在住する期間の長短や納税の多寡がことさら参政権付与の理由になるというのはへんな話で、もともと日本人は日本に住み、税金を納めているので、外国人が日本に住んで税金を納めているからだけでは、殊更外国人に参政権を付与する特別の理由にはならないはずだ。外国人に地方とはいえ参政権を付与するには、多くの日本人の命を救うなどの特段の理由が必要だと思うのである。
更に言えば、日本人と結婚すれば国籍が付与されるというのも、おかしな話で、本来結婚という私的かつ国家との関わりの薄弱な自由な振る舞いの結果、日本国籍なき者に対して日本国籍が付与されるというのも、論理的必然性に乏しい話だと思うのである。
以下、その理由である。
われわれ日本人は子々孫々日本国で生を受け累々と次代に生をつたえ、その幾世代にもわたって少しずつ培われそして伝えられてきた独自の生活様式、行動様式、価値観、美意識、歴史的体験、習慣・風俗、宗教観、思考方式等々、所謂固有の文化を有するのである。そのような固有の文化を有するが故にわれわれは日本人たりうるのであり、その文化の正統な継承者のみが日本人であるはず。すなわち、日本人の両親の血脈を受け継ぐ者のみが日本人であり、日本人としての権利を有し、義務を負うのである。原則として外国人は日本人たりえず、従って日本人でない者には一切の政治的権利を保有させるべきではないのである。
勿論日本人と外国人とが相互にその違いを理解しあい、それ故同じ人間としての異なる部位ではなく共通の部位も双方に有することまでは容易に理解はできるだろう。しかし、異なった文化を相互に自分のものとして共有することはできないのだ。結局、異なった文化を有する者どうしは別々に暮らすにしくはないのであって、接近したり混在することで摩擦が生じ、結果として差別や犯罪が発生し、更には相互に憎しみ合う流血の惨事をひきおこすことにもなりかねないのだ。しかも、異文化の混在によって発生する社会的ダメージは、その原因が理ではなく情と感覚に起因するために、容易に修復せず、しかも幾世代にも渡って継続されることになる。それでなくとも参政権の付与以前の問題として、人間は単純な皮膚の色や宗教の違いだけで、接近し混じりうと殺し合もす
るのである。そういう人間としての最悪の行為を抑制するはずの道徳心や寛容さ、あるいは遵法精神などは、期待されるほどには機能しないのである。米国や南アフリカの黒人や世界中のユダヤ人の受けてきた迫害をみていればそれがわかるだろう。こういう差別や殺戮は人ごとではなく、わが日本人も外国人に対してではなく同じ日本人に対してすら部落民を生み出し、彼らに対してあらゆる差別を加えつつ現在に至っている。重ねて、関東大震災の後には「朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ」という噂だけで何千人もの無辜の朝鮮人を殺戮した経験を有するのだ。だから、われわれ日本人は外国人に参政権を付与し対等かつ平等、冷静な付き合いができる程成熟していないと言うか資格がないと思うのである。
多くの外国人に参政権を付与し国籍をあたえるようなことは火中の栗を拾うようなことで、こんなことをする意味も価値もなく、災いの元を根づかせるようなことなのである。
朝鮮人は朝鮮に、中国人は中国に日本人は日本に住むのが本来の正しい姿なのだ。
では、いま日本にいる永住外国人はどうすればいいのかと言えば、私は、後から来た者(外国人)は先住者(日本人)に対しては、あくまでもお客さまとして振る舞うべきだと考える。その外国人に対して日本人は可能なかぎり行き届いた接遇をする。そのかわり、外国人もその家のルールやしきたりに従うのである。「参政権を与える」などと言うことは、お客に、上がりこんだ家の約束ごとやルールに干渉することを容認するのと同じなのだ。
一つだけ具体的な問題で言えば、例えば、日本が自国領土であると主張している日本海の竹島問題について日本在住の韓国人にその帰属について問うたならば彼らの多くは堂々と「独島は韓国の領土である」と主張するはず。そういう主張をする外国人が身近に存在すれば、日本人のストレスはいやがおうにも増幅されてしまうはずだ。
もとより外国人は参政権がないことを前提として日本に住み着いているのである。だから参政権を付与しなくても日本人は良心の呵責に苛まれることはないのである。
もし参政権がないことが不満なのであれば、母国にもどるか、参政権が与えられる国家に行けばいいのだ、などと思っていたら、さらに私を驚愕させる新聞記事を最近目にしたのだ。6月8日読売新聞によれば自由民主党の「外国人材交流推進議員連盟」がまとめた日本の移民政策に関する提言案について報道していた。提言案によれば、日本が人口減少下において国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとし「総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」とのこと。1000万人とは現在永住資格をもつ一般・特別永住者(87万人)の約12倍にあたる。さらに提言には「移民法」の制定や「移民庁」の設置が記されている。外国人に参政権を与えたり永住権や国籍を与えることは容易だ。移民として受け入れることも容易だろう。しかし、一旦移民を受け入れてしまった暁には参政権を取り上げることも出来ず、母国に追い返すこともできないのだ。
自由民主党が50年という長期計画をたてというので、立派といいたいところだが、1000万人の移民を受け入れるでは、評価のしようもない。日本の国会議員の頭は往々にして正常に作動していないように見えることがあるが、優秀な官僚の手助けなく議員が独自に考えたプランではないかと、私は想像するのだ。
日本人が減少するから代わりに外国人を受け入れる。これほど単純明快な話はなくこれ以上知恵のない話もない。こういう単純思考が成立するためには、日本人と外国人が同じ、という認識か、人間を単に労働だけするロボットと見なさなければならないはずで、外国人はロボットもなく日本人でもないのだ。
国力をのばすために1000万人受け入れるというが、1000万人受け入てのびる国力とは、国力といえるのか。あるいは1000万人受け入れれば必ず国力が延びるという保証があるのか。受け入れて国力がのびなかった時、受け入れてしまった外国人をどうするのか。また50年後の日本の産業が今現在と同じような労働者を必要とする産業構造のままであるのかどうか。労働者が足りなければ、すくない労働者で対応できるような知識集約型の産業に転換を図ることこそより良い選択肢ではないのか。どうしても、国内に労働者が不足し、そのことが日本産業のボトルネックになるのであれば、海外に日本の企業を進出させればすむはず。
当初はおおいに歓迎されたトルコ人やアルジェリア人との紛争に頭を悩ますドイツやフランスのことを思いおこしてもらいたいものだ。
外国人に参政権を付与する、あるいは大量の移民を受け入れる、これは日本人と外国人を混合させるということだ。混じり合う文化の例は沢山ある。しかし混じり合わない文化を混じり合わないまま育成し続けるというのも日本人の世界にたいする責務ではないのであろうか。そういう純度の高い国家がこの地球上にあっても、といよりあった方がいいのではないか。日本は世界の中の貴種だと、私は思うのである。
〔第36章〕国費による延命治療は廃止せよ
医療の問題で、揺りかごから墓場まで、国家財政面で完璧に対応でき、国民に微塵の不安も抱かせない、というのが政治が目指す最大目標の一つであり、同時に政治だけがなしえる雄大なる可能性の一つでもある。しかし、人口は増え寿命は延び、その結果当然病人も増え、加えて医療は高度化する等の結果、医療の財政的負担は極めて大きくなっている。理想どおりどころか、現行の水準の維持すら困難になっているというのが日本医療の現状だ。
政府は不人気必定であることは理解しつつも医療費の増大を抑えるべく、さきごろ後期高齢者医療制度を打ち出し来年4月からのスタートを予定している。
本来、医療費というものは全国民の等しく病にかかるリスクに対応し、特定の人間に特異的に恩恵を与えないという意味において公平さに秀でた費目である。だから、役人の給与カットや人員整理、無用の道路、箱物の建設や防衛費などは大いに削減しえても医療費は財政の限度いっぱいに最優先で充当されていいのだ。
しかし、現状のまま放っておけば、30年後には医療費は50兆円にもなるという試算がある以上、政治にとって医療負担を軽減化しなければならないことは、喫緊の要事であることは言をまたない。
但し、医療費を闇雲に削減すれば、内閣の一つや二つが吹っ飛んでしまいかねないのであって、医療費はまさに政治における聖域でもあるのだ。だから、医療費を削減しようとする場合は、医療費というものの性質を良く見極め、多くの人がむべなるかなと思える原則を事前に明確に打ち立てておかなければならない。
そこで、医療の削減に関して私見を申し上げたい。
たとえば、病気には、大別すると「@治る病気」「A治らない病気」。更に「B完治はしないが進行の抑制など治療効果がある病気」に分類できるだろう。 このAの治らない病気のうち、「C当面は現在の技術や処方で治療効果の期待できないもの」と「D技術的な進歩や新薬の発見発明によって近い将来治癒の可能性のある病気」というものもあるだろう。
@とBに関しては、政治は基本的には費用の削減対象にすべきではない。また、Dに対しても、優先順位は@Bよりは劣るけれども開発費用等を削減すべきではない。結局費用削減の合理的な対象になるのはCである。
その典型がたとえば、様々な原因で脳死状態に陥って回復不能の患者に対する延命治療であろう。この延命治療に投入される費用、平均5百万円とも7百万円ともいわれる費用は全額削減対象にすべきであると、私は考えるのだ。勿論、後期高齢者医療制度のように病気の内容にかかわらず、年齢で区切って患者の負担増を強いるようなことではなく年齢を問わず、回復の見込みのない病気の延命治療に対しては、国費を一切投入しない、といっても、人道に反することにはならないだろう。どうしても延命治療を望む人々は自費で対応してもらうことにするのだ。
勿論これではすこしでも生きていて欲しいという患者のまわりの人々の願いには応えることはできない。したがって医療費を抵抗すくなく削減するにはまず、国民の側にも理解と覚悟が必要になってくる。
臓器の提供だけでなく無意味な延命治療は受けないという覚悟の程を、病気になったときに申告するか事前に、運転免許あるいは健康保険書などに自らすすんで記載し国に余計な負担はかけないという矜持、残される他者に対する思いやりの気持ちを持ってもらわななければならない。
〔第35章〕日本の対北朝鮮外交の分岐点
私は、日米安全保障条約はできるかぎり速やかに解消すべきだと考えている。しかし、現実の問題として即座に日米安全保障条約が解消される状況にないことは、私は承知している。ならば、当面は存在しては欲しくない米軍の存在価値を有らしめ高めるには、米軍をして日本国のために利用する善用するしかないと考えるのだ。
戦後60年日本は、北朝鮮の威嚇実力行使に対して、なんとも生ぬるい腰が引けた反応しか示してこなかった。「核ミサイルを飛ばして東京を焼け野が原にするぞ」に対して「経済封鎖」ではとても外交の切り札なんかにはならなかった。これでは北朝鮮が日本をなめてかかるのは当然で、二の矢があればこそ、経済封鎖の後は日本はひたすら米国の武威を頼りとする他なく、その結果として北朝鮮から誘拐された日本人を帰還させることも、北の核開発を阻止することもできなかった。経済封鎖や話し合いでは、北朝鮮を日本のいうことを聞かないのだ。
ここにきて更に北朝鮮はますます威丈高になっており、新聞報道(3月28日 読売新聞)によれば北朝鮮外務省報道官は、核問題に関する米朝協議に関して談話を発表し「米国が核問題の解決を遅らせば、今まで進めてきた核施設の無能力化にも深刻な影響を及ぼすことになる」と米国に警告した、とのこと。そして警告と同時に北朝鮮は黄海上で短距離ミサイルを発射したと韓国政府筋が明らかにしたのだ。交渉が北朝鮮の思惑どおりに進展しなければ、近所にミサイルを飛ばして威嚇するという昆虫的な行為、このような行為そのものがテロ支援どころか、テロ実行国家そのものであることを自ら証明しているようなものだ。もとより北朝鮮がテロ実行国家であることは、北朝鮮国家が成立してからの歴史を辿れば明々白々である。
古くは朝鮮戦争を仕掛けミャンマーにおける韓国大統領一行を襲撃し(ラングーン事件)、テポドンを発射し、原爆を開発し、更には金正日みずからが白状した日本人の誘拐など、北朝鮮のどこを探しても平和民主主義国家の片鱗すら窺うことはできないのだ。こういう暴力的遺伝子を持ち、いまなおその遺伝子が活発に活動している北朝鮮に対しては、日本だけでなく世界は今までどおりの話し合いではなく、北朝鮮を黙らせ、金正日体制を崩壊消滅させるべく実力を伴った断固たる最終的な解決策を採るべき時期に到達しているのではないか。
勿論このことはとりも直さず第二次朝鮮戦争を引き起こすことになりかねないのだが、そこまで覚悟しなければ、北朝鮮と世界の国々が平和裡に共存していくことはできないはずだ。だからもし日本が単独で北朝鮮に対抗できるのであれば、他国
に頼らず北朝鮮と堂々と向かい合うことができるが、現状では日本は非力である。そこでどうするかだが、このような時こそ日本はまず米国と共同歩調をとるべきであり、またそうせざるをえないはずだ。
幸い、半島の統一支配を目指す金正日は韓国に肩入れしている米国を敵視している。従ってこの北と米国の対立と米国の軍威を日本の対北朝鮮戦略に十分利用できるはずだ。日本は北と米国の両国の関係がますます先鋭化するようにし、米軍をして北朝鮮に対する先制攻撃も止むを得ないというところまで、日本は働きかけるのだ。要するに日本はこれまでのように米国のあとを忠犬よろしくついて廻るのではなく、ついてまわりつつ飼い主を日本の思う通りにリードしていくことでのみ、日本の北朝鮮外交は前進するはずだ。
〔第34章〕日本国憲法護憲派に供する改憲論
世界で米露中につぐ戦力を有する自衛隊を抱えていれば、誰でも日本国憲法第九条は人類の理想をうたったものではなく、単なる嘘ぱちだと思うだろう。今となっては第九条は人さまには見せられない恥部になっているということを護憲派の人達はまず自覚してもらいたいものだ。
憲法についていささか関心をいだく者のひとりとして、今回は日本国憲法改正論議について、私見を申し上げたいのである。とくに、改憲派についてではなく、護憲派について注文をつけたいのである。というのは改憲派は日本国憲法の精神を踏みにじり、法治主義と民主主義を破壊したの者の意図を受け継ぐ者たちであって、彼らに注文をつけることの意味も価値もないと思うからである。改憲派には、一言「憲法を守れ」と言い捨てるだけでいい。同時にでたらめなご都合主義の自由民主党を支持してきた一部の国民に対しても私は嫌悪感を抱いている。
私は核武装論者である。だから、日本の戦力保持や核武装について私なりに理解はしている。しかし、日本が核武装をするにしても、まず日本国憲法を合法的に改正してから後に核武装にとりかかれと言いたい。核武装した後で憲法改正すればいいなどというのは、できちゃった婚みたいなもので、私は認めない。
それにつけても護憲派の主張と運動はどうもすっきりしない。腑に落ちない、というかやることなすことが成果に結びつかないのだ。
たとえば護憲派の努力にもかかわらず近時の日本の平和と安全をめぐる状況といえば、自衛隊は廃止されるどころかますます戦力を強化し、防衛庁は防衛省に昇格し、さらに日本は戦争に巻き込まれないという国是は、イラクに自衛隊を派兵しインド洋で燃料という戦争の必須品を対テロ戦争に血道をあげている米国に給油するというような形で、あっさりと破られてしまっている。
かくして日本国憲法はいざとなったら第九条があっても無力で、国会の議席で多数派を握ったものは憲法すら蔑ろにできるということが見事に鮮やかに証明されている。更に改憲派は数を頼み護憲派に止めを刺すべく第九条を変えて日本を堂々戦争のできるに国家にしようとしている。こんな時、護憲派はいままでどおりでいいのかと、私は言いたいのだ。そもそも護憲派の願いというのは、政権をとるとらないに係わらず、憲法の下で、揺るぎない真の平和が維持されることであるはずだ。日本を戦争に巻き込ませない、巻き込まれないようにすることであったはずだ。であるならば、護憲、護憲と現在の憲法を守ろうとする籠城戦では改憲派に勝てないことは分かっているはずだ。万一護憲派の運動が100%成果をあげて改憲派の主張をしりぞけ第九条を完璧に守れたとしても、その結果、現在の違憲状況と寸分の違いのない政治が再現されるだけではないのか。ならば日本の護憲派野党は与党の憲法違反や改憲運動に対してもう少し工夫があってしかるべきではなかったか。そのためには護憲派は日本国憲法や第九条を崇め奉るのではなく、まず日本国憲法には限界と欠陥があるということを正確に認識しなければならないはずだ。そして認識するだけでなく、さらに、重要なことは、第九条よりもっと強力な平和強化条文を内包し、改憲派が憲法を無視しようとしてもできないような新しい憲法を考えて、その実現のためにこそ攻勢にでなければならないはずだ。現状のままの護憲運度双六には上がりがなく振出ししかないのだ。 私が護憲派に言いたいのは、平和を希求する真の護憲派と称される人々は実はすべからく改憲派にならなければならなかったということなのだ。現在の改憲派が「改憲」といった時、護憲派は反対するのではなく「そうよなぁ。改憲、いいではないか」といって改憲派がびっくりするようなニュー改憲案をぶつけ、それこそ改憲運動を盛り上げていけば、きっと自由民主党の改憲意図はあっという間に砕け散っていただろうと思うのだ。こういう私の考えに対して、日本国憲法があったからこそ、与党の暴走をいま程度で押さえ込めたのだ。日本国憲法がなければ日本の軍国主義はもっと先鋭化していたはずだ。またいま改憲派に対抗する平和強化型憲法を出しても負けてしまう。ならば、とにかく改憲させないことに全力をつくすことだ。と日本国憲法の効能を評価し、現在の護憲派運動を正当化する意見もある。しかし、この見解に対して私は、改憲派は実質的にはやりたい放題やっているではないか。護憲派運動のゴールは今の日本の政治を延命させることではあるまい。確かに改憲という土壌で案を闘わせば、平和希求派は一歩後退するかもしれない。そのかわり、真の平和追求の方策と道筋を明らかにすることで、多くの人々の支持を得て戦争決着型の現在の改憲派の運動を打ち破ることが、時間をかければではあるが、できるはずだ。運動に力がつき、その力は蓄積となるはずだ、と言いたいのだ。しかし、日本国憲法を妄信してきた人々には、より強力な平和憲法をという私の主張に対してピンとこないだ
ろう。そこで、私は私の考える平和強化型憲法の具体的な内容について以下触れていくことにするので参考にしてもらえればと願う次第である。私の考える平和強化型の憲法とはおおまかにいうと、民主主義を現在より強化するということなのである。例えば、かりに多数派が国際貢献のために自衛隊を海外派兵すると議会で決してもそれを無効、無力化できる、議会以外の第二の権力を政治の決定のメカニズムに移植することを考えてみてはどうかと思うのだ。あるいは宣戦布告する権利を議会や内閣総理大臣に与えるか否かを事前に国民投票で決するという方法もあるだろう。以下国民の平和への意思がより明確に政治に反映されるようにするために個条書きで記載する。
・憲法改正については単独案ではな く複数の原案の中から国民投票で 決する
・憲法改正は国会議員の1/3で発 議する
・議員定数を人口20万人あたり一 人選出する
・最高裁の裁判官およびは司法試験 の合格者による選挙によって選出 する。長官は最高裁裁判官が立候 補し国民の選挙で選出する
・最高裁判所は法律・条約について 違憲審査を行いその審査権を停止 または放棄してはならない
・国会議員の子女は国会議員には立 候補できない
・憲法は五十年の時限立法とする
・行政組織の変更新設にかんしては 、国会における審議審査をうけた 後国民投票で決定する
・政治家や官僚の犯罪はそうでない 人物組織の犯罪よりも倍の罰則を 課す
・国家予算は与党、野党、担当官庁 が各々案を作成し、その三案から 国民投票によって決定する
・安全保障条約の批准は国民投票に よる
・公務員にはプライバシー権はない
・憲法の解釈は憲法制定時に確定し その変更は認めない
・国民は国防の義務を負う
・永世中立を宣言し自主防衛を宣す
・災害救助を除いて他国に軍隊、ま たは軍人を派兵、派遣せず
・閣議および省議は完全公開し、軍 事、外交の一部の情報以外はすべ て公開される
・天皇家は国政に関与せず
・国家の繁栄の源を明確に宣明する
・参議院を廃止する
・議院内閣制を大統領制に変更する
以上のようなことがらが総て正しいことかどうかはやってみなければわからない。しかし、改憲しなければ現状の日本国憲法ではなに一つ実現できないことだけは確かである。そして変化を受け入れない政治はやがて死を迎えることになる、ということを申し添えておきたい。
〔第33章〕新戦争論ォュ第3次世界大戦の様相
ヒットラーが大戦の火蓋をきるにあたっての口実の一つは「ドイツのためのレーベンスラント(生存圏)の獲得」であった。侵略された国家群にとって、これほど手前勝手で不当な話はないのだが、ヒットラーにしてみれば、第一次大戦の敗北によって疲弊したドイツ国民に対して豊かでかつ安定した生活を保障するために、まず自国内であらゆる手をつくしてもなおそれが満たされないと知った時、他国の領土を奪い、他民族を絶滅することも躊躇なく取りうる現実的な手段であったのだろう。
同じく、他国領土を強奪するというような暴虐な政策は、わが日本でも「満州は日本の生命線」と叫び、軍民こぞって大陸に出張ったのだ。そしてこのことに反省や批判の意を表したのは、ドイツと同じように当時の日本では極少数であった。
第二次大戦後も、武力で自国の政治的意思を他国に強要したり北方領土のように他国の領土を強奪するようなことは、今日の米国によるイラクやアフガン侵攻まで連綿と続いている。
世界中のすべての人々に個々の寿命を全うさせうる程に国家や地球の経済を含むあらゆる環境や諸条件が理想的に出現してくるのであれば戦争は本当に少なくなるのだが、そのようなことはありえない。だから人類の歴史は戦争(闘争)の歴史だと言い換えてもあながち間違いではない。更に、もしかしたならば、犠牲の大きさにもかかわらず戦争を止めなかった人間は戦争が好きなのかもしれない。
元々人間社会に発生する諸問題のすべてが理性的平和的な手段や方法だけで解決できるものではなく、だからといって未解決のまま放置しておけない問題もある以上、戦争はいかに悲惨であっても不正義であっても、人間社会には必需かつ必然的なものであり、異常なものではなかったのだ。だから、われわれの未来、近き将来というものに目をやって第三次世界大戦というような大規模な戦争に思いを馳せるとき、私はおのずと緊張せざるを得ないのである。
そこで今回は第三次世界大戦の可能性と、もしそれがあるとすればどのような様相を呈することになるのか、少し新しい視点で考えてみたい。
まず初めに、私は戦争は必需で必然であると書いたのだが、そのことに反して、ありていに言ってしまえば第三次世界大戦の可能性はゼロに近いと考える。なぜならば第三次大戦となれば第二次までの大戦の時に用いられた通常兵器ではなく最終的には核兵器とその運搬手段が多用されることになるだろう。これでは敗者だけでなく勝者の被害も激甚で、戦争によって問題解決しようにも当事者がともに消滅してしまいかねない。しかも、このことは先制攻撃をしかける当事者にも事前に容易に理解されているはずだから、とてもミサイルのボタンは押せないはずだ。だから通常兵器による地域限定、対象限定の戦争以外に核の第三次世界大戦はまずありえないと断定するのである。しかし、戦争にはならないが先制攻撃症候群のもたらす恐怖の平和の下で、世界中の国家においては、核以前ならば国家をして戦争へ駆り立ててきた様々な原因、動機(平和破壊の諸要素)となる事象までもが抹消されるわけではないのである。依然として世界中の国々は時に不況の深刻化に悩み大量の失業者を抱え込む。富と資源は偏在し人口は増加し気候変動などによって食物の不足に苛まれるのだ。また経済面だけでなく、宗教や思想の対立、人種問題、環境汚染の深刻化などなど、容易に解決できないような諸問題が絶えず人々を悩ますことになるのだ。
では、以上のような認識で改めてかって戦争が部分的あるいは全面的に解決してきた諸問題に、戦争無き後われわれはいかに対応していくことになるか、であるが、恐らく世界中が押し寄せる諸問題に圧倒されて茫然自失してしまい、根本的な手を打てず自滅の道を辿るという可能性もなしとはしない。しかしそれよりも、戦争に代わる新しい問題解決の手段や方策をいずれわれわれは発見し創造する、と思うのである。なぜなら、まずわれわれは戦争の代替手段の発見のためにあらゆる手を尽くしていない、というより初手すらうっていないと思うのだ。だとすれば、まず、われわれには現在国家が様々な目的で費消している人材と資金があるはずで、これらを転用することができるはずである。
われわれは戦争の時には勝利のために国力を総動員した経験を有しているのである。従って、世界中の国々が戦争に代わる問題解決の手段や方策を開発するという目標を定めれば、戦争のために費やしてきたパワーとエネルギーをそこに集中することもできるはずだ。そういうことを可能ならしめる国家体制を組むこともできるはずである。更に国家には国家として存続するために有する固有の生存本能があってそれに従って国家の存在と生存を阻害する諸問題を放置せず解決しようとして努力し、あげく戦争を含む様々な対策を講じ成功し生き残ってきた国家のこれまでのふる舞い、営みの延長線上で国家の対応を想像するならば、日本をはじめとして世界中の国家は放置していても戦争に代わる手段を否応なしに求め結果としてなにがしかの成果を収めるのではないだろうか。
但し、そのように想定はするのだが、現在はまだ国を挙げて全力を傾けるような体制を採用している国家はない。その最大の理由は国家あるいは政治に、戦争というものに対して以上のような問題意識がなく表層的な理解しかせず、戦争といえばNOという反応しかせず、諸問題に対しては対処療法しかとろうとしないからだと私は断じるのである。
もう少しいまの時代状況を補足するならば、現代は戦争ではなく、戦争以上に着実かつ明解な問題解決能力を有する代替手段を手に入れた後の新しい文明時代を迎えるための端境期にあると言えるだろう。しかし今が端境期だからといって将来に期待が持てないわけではない。期待は持てるのである。この間、現在から重要な課題の解決を手に入れるまでの過程は、一気に進行していくはずはない。一つ一つの課題に直面して解決していかなければならず、そのために試行錯誤を繰り返すことになるだろう。
そこで、具体的にわれわれはどうすればいいのか、ということについて改めて提案したいのである。
本欄の2006年9月号で提案したのであるが、国家戦略として、戦争に代わる問題解決能力、十分ではないけれども、かなり効果のある国家戦略として“重脳主義”を改めて提案したいのだ。
例えば、水を低コストで分解できる技術を開発すれば、水素エネルギー時代を迎えることができ人類のエネルギー問題は解決するはずで、こうなれば石油争奪確保の戦争は起こらなくなるだろう。あるいはバイオ技術を発展させて食料の不足分や変動の調整分を低価格で工場生産ができるようになれば食料問題も解決するはずだ。食料とエネルギー問題が片づけば人類の戦争の原因は大幅に減少するだろう。
こういうことを可能にするのは、科学と技術の進歩しかないのだ。重脳主義は国家戦略として科学と技術の開発を食料・代替エネルギーの開発を国家の最優先目標に定め、他の国家目標の達成のために回していた人材と資金を根こそぎ、それこそ戦争に勝利するために予算や人間を費やしたのと同様にこの目的に集中する国家戦略なのだ。
人間社会はますます人間の頭脳の所作に依拠する(重脳主義)時代を迎えるはずだ。おそらく世界は戦争を放棄し、改めて科学と技術の重要さが認識されそのための激しい競争の時代に突入していくだろう。その時はきっと科学者と技術者が新しい戦士としてかっての軍人のように肩で風を切って歩いているはずだ。
このような状態を私は第三次世界大戦の新しい様相と言いたいのである。
〔第32章〕政治家や官僚用の特別法廷の設置を
昨年、至高の精神が要求され、時に隊員の命の犠牲を強いる命令を発する権限を有する防衛省の最高幹部である事務次官が、長年にわたって薄汚い汚職に手を染めてきたことが明るみに出た。全く恥知らずにも程があり、死刑になっても当然だと思
うのである。同時に、社保庁の年金のかすめ取り、あるいは農林大臣の自殺など、現代日本の政治的モラールの崩壊振りを表象する現象は表面化しただけでも枚挙に暇がない。
悲しいことであるが、古来政治に悪はつきものではある。だからといってこのまま政治家や官僚の犯罪を放置しておいては、国民の怒りはますます高まり、強いては政治の持つ大きな可能性を矮小化させてしまうだろう。一億3千万弱の国民の有する総ての知力、財力を一点に傾斜、集中せしめる可能性を政治は秘めているのである。政治目的の設定如何によるが、その威力と効果は偉大である。
時代はまさに、数多くの難問を我々につきつけており、政治はいまこそもてる可能性を最大に発揮しなければならないのである。この時、守屋のような人物を政治が排出するということは、日本の政治が根本的におかしくなっていることの証左と理解せざるをえないだろう。
だから政治はこのような時、どう対応すればいいのか、であるが、まず、本人の自覚にまつということである。ことここに至っては守屋は自分の罪の重さに耐えかねて、自己の罪は勿論のこと、関係した政治家や官僚の罪の総てを告白した後、腹を切るべきぐらいのことはあって欲しいと思っている。しかし、守屋は腹は切らないだろうし、また本人の自覚にまつでは、汚職という犯罪の根本解決にはならないことは明白である。では、日本の司法が、彼の罪を正当に量刑するかといえば、正当に量刑はしても彼は死刑にはならないはずだ。なぜなら、日本において死刑のある犯罪は刑法77条内乱罪から81、82、108、117、119、126、146、殺人罪(199条)、240、強盗強姦致死罪(241条)、その他数種の犯罪までに用意されているが、汚職に関しては、それがどんなに悪辣なものであっても死刑は適用されないのである。本人の自覚と日本の現行刑法下で守屋が出現してきたのである以上、現状のままでは第二の守屋の出現を阻止できないだろう。だとすれば、何らかの新たな対策をこうじなければならない、と私は思うので、以下ささやかな提案をしたい。
本来、政治家や官僚など公職に就く者の犯罪が、一般人の犯罪と同じように扱われるべきではないのであって、憲法第14条がいかに法の下での平等をとこうとも、公職に就くもの犯罪に対する処罰の量刑は、一般人とは異なってケタ違いに重くすべきであったと思う。なぜならば、彼らの犯罪は、特定の人物に対する犯罪ではなく、日本国民全員に対する犯罪になるのである。だから彼らの権限の行使に関する犯罪には、公職への復帰の永久禁止は勿論のこと最悪死刑にあるといように、彼らの骨身にこたえるような重罰を課し、彼らの恐怖心を汚職の抑止力の向上に充てるべきであろう。そのために特別刑法を制定するか又は既存の刑法を改正すべきだと思うのである。さらに、迅速な裁判を遂行するために特別刑法に対応して、かっての軍法会議に似た政治法廷を用意することも考えるべきである。
「汚職に死刑などと、日本は中国ではない」と政治家や官僚は反対するだろう。しかし、国民は私の提案になんの痛痒も感じないはずだ。
〔第31章〕地方分権批判
いきなり民主主義とは、という話をしておきたい。
民主主義とは、主権者である国民が等しく本人の意思にもとづいて総ての政治課題について主権者総数分の1だけの決定権を行使できる政治の概念とする。従って、主権を第三者に委託し国民が直接決定権を行使しない現行の議会制という制度は、民主主義という名に値しない。現在の議会制民主主義は、真の民主主義に到達するための便宜的、経過措置とみなすべきである、というのが私の民主主義と議会制民主主義に対する考え方。
このように考えるならば、では議会制の代わりにどのような制度にすれば、真の民主主義といえるようになるのか、という問題意識を私は持たざるをえなかったのであるが、この課題は私の課題だけでなく今世紀の最大の政治課題の一つだと思い、私なりの制度(究極的民主主義)を考えたのであるが、それは、例えば、大方の人々が民主主義再生、活性化の決め手の一つのように言う地方分権などという考えとは全く異なった内容になったのだ。
今回は地方分権、私に言わせるならば、これは民主主義の進化、発展にはいかなる寄与もしない無意味なものであるばかりでなく、むしろ障害になったり、正常な進化発展を遅延させ、その方向を誤らせかねないものであるということについて論述したい。
なぜ、私が地方分権に水をさすようなことを言うのか、その理由の第一。
地方に分権をしても政治の決定権者が変わらない、ということをまず指摘したい。地方分権は文字通り集中、集積された権力を分散して決定権者を中央の政治家や官僚から地方の政治家や官僚に代えるという考えだ。であるならば分権の主役はあくまでも地方の政治家や官僚で、国民や住民ではない。
このことをもって私は何よりも、地方分権は主権者にとって無意味と言わざるを得ないのである。
第二の理由として、政治というものが実行される場、空間、時間について地方分権に特段の影響や効果が期待できないということである。
従前より中央と地方の距離、場に起因する情報の格差のため、中央での決定では地方に対して十全の配慮を尽くした政治は行うことができにくいというのが、地方分権の論拠であった。
しかし、いまや猛烈な交通手段の発展により、ほぼ日本全国東京からの日帰り圏になっており、さらに情報伝達収集手段の発達は言うに及ばない。中央が地方の詳らかな情報や事情を収集しようと思えばいとも容易にできるのである。この点に関して地方分権が政治の有効性の論理的必然性を持つには、今現代が江戸時代でなければならないのだ。
確かマクルーハンが言ってたと思うのだが、コンピュータの発達した電子情報化時代の出現は世界を一つの村にした、と。この認識に立てば、正に、カリフォルニア州と近似の面積しかない日本全体が一つの県や州と見なすことは無理ではない。だから一層のこと、日本全国の地方自治体を一つに統合した組織を新設し地方の立法行政をおこなうという考え方も存在しうるのではないか、とすら思うのである。
第三の理由として、総ての政治課題を地方と中央に分ける事の困難さと正当な論拠を充てにくいという問題をあげたい。
例えば、ゴミ処理場の設置問題は極めて地方性の高い問題ではある。しかし、この問題にしてからが、実は、そうとばかりは言えないのだ。なぜなら、日本全国にこの種の迷惑施設の設置の問題は数多く存在している。であるならば、最早この種の問題は一地域の特殊な問題ではなく、広く全国的な共通性の有する政治課題であるはずだ。
また、公害による被害の補償問題となると、地方や一企業だけの財力だけでは十分な対応はできず中央の支援も必要となることが多いはず。このように迷惑施設問題だけでなく、米軍基地と外交の問題のように、一地域、地方に限定できる問題だけでなく中央、国家全体の問題という多面性があるのだ。
政治課題を中央、地方に適切に区分けするのは容易ではないのだ。
第四の理由としては、政治課題を地方と中央に分けた後のことに触れなければならない。
すべての政治課題を中央、地方区分けする時にいかなる判断基準で行うのか、というややこしい問題が浮上してくる。このような難題を解決、その時の基準が、仮に中央と地方の仕事や役割に関して我田引水的な論拠や一部の中央官僚のごたくのように、政治課題における難易、即ち難しい問題は中央の優秀なエリートでなければ対応できない、などというような論拠に立って、政治課題に地方と中央の政治課題に本質的な違いがあるようなことを主張することには、以下に述べるような理由から、わたくしは反対なのだ。
政治課題について地方分権を主張するということは、政治課題のなかに、地方分権で対応すべき政治課題と中央で対応すべき二種類の政治課題があることが前提になるはず。これが問題なのだ。なぜなら、誰かが、この誰かが、というのも大いに問題だが、政治課題全体を区分けするという過程がまず存在するはずだ。この過程を経て総ての政治課題が分類された後は、それこそ地方自治ということで、中央と地方の相互の不干渉ということになり、地方分権の対象となった政治課題は地方に任せたのだから、中央の干渉や口出しは拒絶する。そのかわり中央の問題には地方は口を出してくれるな、といういわば新たな縄張りがはりめぐらされることになるはず。これはこれで、政治家や官僚にとってはい心地のよい環境が生まれることになるのかもしれないが、主権者である国民、住民は多くの場合決定からは排除され、主権者にはなんのメリットもたらされないのだ。
しかしこのことは深刻な問題ではない。深刻なのは、このような政治課題の腑分けによって滲み出てくる政治家や官僚の、政治というものに対す固定概念、認識、価値観、ルールが、いよいよ強固になっしまうという点をあげたい。その固定概念とは、政治は政治家や官僚たる専門家が扱う物、ハンドリングするもので俺たちに任せておけばいいのだ。素人は政治に口をはさむな、という思い上がった認識、先入観を強化させてしまうはずだ。
中央、地方を問わず重要な政治課題については政治家や官僚ではなく、国民自らが思慮し判断し国民投票や住民投票で決定する。そしてその結果の責任も国民や住民が負い、政治家や官僚は国民の決定のアシストに廻るという民主主義の本来の有るべき形に向かっていくという民主主義進化の方向、流れを、地方分権は歪め阻害し、合わせて民主主義進化のためのエネルギーを放散させてしまいかねないと私は危惧するのだ。
地方分権の考えには、主権者の新たな議会制よりもより強化された位置づけが全くなされていなのである。
私はかって巻町の原発の設置に関する住民投票で、地方議員が「住民投票は議会制民主主義を否定することになるからだめだ」と言っていたことに象徴されるのであるが、この議会制民主主義を絶対視する主客転倒した考え方の補強に地方分権論は与することになるはずだ。
言い換えるならば、地方分権論者は分権による地方の決定権の拡大を求めることで、結局、その要求に反対する中央集権論者とともに、議会制という民主主義の中身の乏しい政治がなされる制度を擁護することになるのだ。自分たちで決定するということができないのであれば、例えば武蔵野市民にとって、武蔵野市の政治の決定が武蔵野市市議会で決定されようが、国会で決定されようが、その結果次第が問題になるだけで、本来はどちらでもよいことなのだ。
権力というものはいかように分割しようが細分化しようが権力であることに変わりはなく、権力のもつ固有の悪臭を放つものなのだ。そして、権力は本来の所有者がふるまう時よりも、第三者に委託された時により激しく凶暴性を発揮するのである。
皆さんは地方分権論ももう一つの論拠になっている言葉「地方自治は民主主義の母」という古い言葉にだまされないでほしい。大切なのは地方自治ではなく中央自治こそ、民主主義改革の本丸なのだ。
〔第30章〕大連立騒動から学ぶべきこと
日本の政治、与党に安倍あれば野党に小沢あり。与野党共に、党首にノイローゼとヒステリーという精神病患者を頂くことになって、誠にめでたい・・・・、はずはない。
国民の多くは、本年11月初頭の突然の大連立・小沢代表辞職発表そしてその撤回騒動にあきれた、というより日本の指導的政治家の連続の小児病的行動に暗澹たる思いに教われたのではないだろうか。でなければ、どうしてこんな恥さらしの男たちがよりによって党首に選ばれるのだろうかと、不安の念にかられたはずだ。衆参のねじれ現象によって、法案が一切通らず切羽詰まった福田総理に「君を(副)総理にするから」とでも言われたのか、あるいは小沢代表の側に、本人が事情説明したこと以外に何かがあったのか、いずれにしても結果として大連立の話に、まんまと乗せられて、小沢代表は、福田総理に「検討しましょう」ではなく「大連立GO」の返事をしてしまったのだろう。勿論、以上も以下も私の推定でしかないのだが、即座に小沢代表は合意の内容を自党に持ち帰り幹部に「福田総理から我々の政策の意図を汲んだ大連立の話があったので検討して欲しい」と言い、更に「自分は了承する旨の返事をしてきたのだが・・・」とまで言ったか、どうか定かではないが、当然小沢代表の話に幹部のだれ一人賛成することはなかった。この幹部の自分に対する不信任と福田総理に対する面子を失ってしまったこともあって、彼はプッツンしてしまって後先考えない“いきなり”のヒステリー症的辞職発表となったのではないだろうか。これまでの小沢代表の選挙指揮と年金問題という大敵失もあって、参議院選の民主党は大勝利を収めたのだが、この結果によって、民主党の日本の政治の全体に及ぼす威力と効能の霊験を目の当たりにし、小沢代表からも「与党との大連立はしない。与党と密室談合はしない。次期衆議院選挙で民主党が政権を取るのだ」と聞かされて、天下取りの夢をみて有頂天になっていた民主党員にとっては、その総てを御破算にする自由民主党との大連立などと、当の代表の口から突然聞かされては、驚天動地の驚きであったろう。しかもその上、自分の独断先行の口実に「民主党には政権を担えるだけの能力が備わっていない」と内情まで暴露されてしまっては、民主党関係者に立つ瀬がなくなるのは勿論のこと、政治家の言動にのみ主権の委託の根拠にしている国民にとっても「我々に政権を」と言っていた小沢代表という人物の何を信用していいのか、全くわからなくなってしまったのだ。だから、当然民主党の国会議員や党員が「どうぞご勝手に」と代表を突き放すかと思いきや、日本の政治は妙な音響を奏でることになった。あっという間に小沢代表は恥をしのんで(恥を忍ばず恥入れば良かったのだが)辞職を撤回した顛末は皆さんご承知のとおり。
私はここで予言しておきたい。
小沢代表のような人物にすがらなければならない民主党は多少の振幅はあるかもしれないが、人に信おけず、際立つような指導理念や歴史認識、哲学なき故をもって、即ち文通りの第二の自由民主党、この与党もたまさか政権を握っているということで権力を振るってはいるが、それ以外に政治的な技巧をもちいて特色のある貢献を日本にはしていない政党なのだが、民主党は政権をとらない自由民主党でしかなく、それ故日本の政治に野党として民主党という別の政党が存在する必然性はなく、結局、間もなく消滅していくだろうと。同時に、今回のドタバタ劇の共演者である福田総理もまた、連立の相手である公明党や自党の幹部連中にも事前に一切相談することなく大連立の話を先行させ政治の惑乱状況を阿吽の呼吸で小沢代表とともに現出させた主役であり、正に小沢代表と二人だけで日本の政治の行方を決定しようとしたことにおいて同罪で、本来ならば永久に政界から追放されてしかるべきなのである。
だから、わたくしたちは今回のドタバタ騒動をただ黙って見過ごしてはならなず、重要な課題については国民が直接決定する真の民主主義政治を推進するような政治家、福田でも小沢でもない政治家を生み出すための戦略と教訓を今回の騒動から導き出さなければならないと思うのである。そこで、以上のような観点から私も以下のことを書留ておきたい。その第一の教訓は、現行の議会制民主主義という制度では、政治的な権力というものが、いつでも真の所有者である国民から遊離してしまい政治家の私物にされてしまうという欠陥部位があることが鮮明になった。したがってこのメカニズムが作動しにくい対抗方策、例えば多項目にわたる国民投票制の導入のような制度を現行制度に注入していかなければならないと思う。議会制民主主義は、時にその民主主義の装いをあっさりと脱ぎ捨て、瞬時にヒットラー擬とムッソリ−ニ擬を生み出してしまうこともあるのだ。もし福田、小沢両党首の威令が党内に徹底していたならば、与野党は2人の意思だけで合体化し、強大な翼賛体制ができ、あっという間に米国の戦争支援体制が強化され、かつ天皇を元首と定める新憲法も生まれることになったかもしれないのだ。
第二の教訓は、第一の視点から導き出されるのだが、政党を公的な存在として、その活動に関して国民の監視が行き届くような規制をする必要があるということだ。例えば、企業経営には商法という法律が用意されていて、その商法の許す範囲、制限の下で活動し株主の権利が保護されるようになっているように、政党にも活動資金の動向をはじめとしてその活動内容を限りなく公開せしめる方向での法的規制をかける必要があるだろうということである。
ところで福田総理は「公開の場だけではなにも決まらない」と今回の騒動に関して言ったと十一月九日の毎日新聞に報道されたが、これは福田総理は完全に間違っており、本来は民主主義政治では、すべて公開の場でしか決められないのだ。福田総理のような考え方は、政治が民主主義以外の原理で作動していたときの残滓のようなものなのだ。
第三の教訓は、大連立の話が密室で二人だけで語られた結果であって、その内容についてどんな手だてでも、第三者には確証が得られないはずなのに、小沢代表首謀説なる見解がまるで自ら仕掛けたかのごとく瞬時に読売新聞によって報道がなされたということについて、読者(国民)がこういう新聞の報道に対して“おかしい、変だ”と感じ取る嗅覚をもたなければならないという事。
第四の教訓は野党のあり方についてである。現在の日本の保守政治はテーゼをもたない。従って野党はアンチテーゼではなく、独自のテーゼ、日本をどういう国家にすべきかその目標とするところと実現のための手段について、すくなくとも自由民主党では実現不可能な方策を国民に提示しなければならないはず。そうでないから、政党の基軸が党首の気まぐれや勘違いで簡単に揺れてしまうのだ。
第五に与野党の政策協議の禁止である。もともと与党と野党は協議をする必要も妥協をする必要もないのである。与野党どちらがいいかを決定する行司役は国民なのだ。だから与野党の妥協というのは国民の存在を忘れた行為なのだ。政党同士ではなく政党は国民の意を汲むことに務めなければならないのだ。
最後に国民は今回の福田総理と小沢代表の党首会談の意味を理解し、日本の政治の軌道を正す為に、あまり期待はできないのだがまず民主党は小沢代表を切り捨てその上で、自由民主党政権の交代を実現させる。この時、私は共産党は嫌いではあるが、共産党に政権のキャスティングボードをとらせる政治的な環境をつくりあげることも一考の価値ありと、お伝えしておきたい。
〔第30章〕自衛隊を海外に派兵するな
政治家というものは、古来国民が己の命によって犠牲を強いられることに無常の喜びを感じる者であるらしい。その犠牲が大きければ大きいほど彼らの喜びも大きく、税金だ、勤労奉仕だとその対象と容量は無制限であって、行き着く果ては命までも、ということになってしまう。
政治家は国命を体して自分が命令を下し、国民が文句も言わず最も大切な自分の命すら従容として投げ出す姿をみることに痺れるようなサディステックな歓喜を感じているのだ。そうとでも考えなければ、政治家が多くの国民を繰り返し繰り返し国家の危機という口実で戦場におくりだせるはずがないではないか。
先般、国際貢献について小沢一郎民主党代表は「アフガニスタンでの地上軍(国際治安支援部隊ISAF)に自衛隊が参加すべきだ」という発言を聞いて、私はわが耳を疑い、しばらくは激しい怒りがおさまらなかったのである。
小沢代表にとって自衛隊員の命よりも大事なものがあって、それが親米路線に直結する国際貢献であったわけだ。しかし、これでは兵の命を道具や手段としか考えなかった戦前の軍人や戦後のウルトラ保守主義者と同じ考えではないか。
そもそも日本の自衛隊は、世界の他国の軍隊とは違うのだ。大東亜戦争で亡くなった300万人以上の英霊を背負っているのだ。重いのである。従って自衛隊は絶対に海外派兵をすべきではない、というのが日本の大原則、国是といってもいいのである。自衛隊が武力行使をするのは唯一日本が直接外国の侵略を受けた時のみなのである。
この事を忘れたというか、本領発揮というか、それともサミット諸国に対していい顔をしたというような動機で、今日思いついて、「ISAFに参加すべきだ」(自衛隊員の死も想定される)などと言い、明日になって「後方支援に限る」などと簡単に言い換えるような軽い気持ちで自衛隊を海外に派遣する等と口にすべきではないのだ。
国連決議があろうがなかろうが、「日本は、断固として自衛隊の海外派兵はしないことを国是としている。このことは日本国憲法第9条に明示してある通りである」と世界に対して宣明し派兵を峻拒すればいいのだ。後藤田正晴氏が存命ならば、決してアフガンに派兵などとは言わなかったはずだ。この小沢代表のISAF参加発言はインド洋における石油供給のみちが閉ざされる自由民主党に逆手にとられてしまうだろう。
こんなことでは自由民主党と民主党の識別コードが不鮮明になって政権交代をもくろむ野党としての政界における存在価値がなくなってしまうだろう。
そもそも、日本が自衛隊派兵という国際貢献をしなければならない理由とはなにか。自由民主党もふくめて、いま日本の政治家や官僚は冷静に考え直す必要があるのではないか。9.11以来、テロ対策に米国がやっきになるのは分かるが、テロはもともと日本を敵視しておらず、それ故、テロとの戦いに日本が参加する必然性はないのだ。参加しなければ米国との関係がまずくなると心配するむきもあるが、経済と政治は本来別物だ。一時的な日本製品のボイコットのようなことはあっても持続するものではない。シーレンを守らなけれ石油がストップすると言う馬鹿もいるが、シーレーンが破壊されて一番困るのは石油産出国なのだ。
瑣末な国益論などで、小泉政権の最大の失政であったイラクへの自衛隊派兵という国際貢献の非を明らかにし、それを糺す事こそ民主党の存在価値が上がるというものである。
〔第29章〕自由民主党よ恥を知れ
閣僚の一人に、馬鹿につける薬はないといわしめた安倍総理だが、その言は見事に証明された、と言わざるをえない。安倍総理は、9月12日突然内閣総理大臣の職責を辞する旨の意思表明をした。よりによってなぜ、この時期、このタイミングで辞意を表明するのか、与野党の議員の誰一人理解できず、まして、国民はあっけにとられてしまった。
辞任理由は、本人によれば、テロ特措法の延期の実現のためとか小沢代表が会ってくれなかったというような、不条理としか言いようのない理由をあげていた。多くの閣僚が殿のご乱心を察知できず、知らされていないことで恥を晒すことになったが、それでも何とか内閣の名誉をかけて官房長官は総理の辞任理由の一つは、病気であると追加公表し、安倍氏が直接病気のことを公表しなかったのは総理の美学だとか恰好つけ
たようなことを言っていた。しかし、前日あんな長時間にわたって施政方針演説を力強くぶてるような状況で、健康が、と言われても即座には私は納得できない。唯一つ演説の実行体力があったにも係わらず次の日に職責放棄という狂気の沙汰の連結を論理的に可能ならしめる病気といえば、それは文字通り、狂気の病、突発性の精神病しか、私は思いつかない。いやはや、というしかない。
なにが、戦後体制の見直しだ。美しい国だ。教育の見直しだ。日本国憲法の改正だ。何が「私の内閣」だ。「安倍総理、笑わせるな」と言いたい。そして、安倍前総理の、教室で我慢に我慢を重ねてお漏らししてしまった子供のような失態は、馬鹿らしくて本気に怒る気もしないが、むしろ今9月16日時点で、フツフツと怒りがわきおこってくることがある。
それはこういう2世議員の精神病か、そうでなければ、極端な坊ちゃん無責任男を総理大臣に担ぎ上げた自由民主党という政党にこそ問題発生の根源的な理由があるはずなのに、安倍氏の失態をかれ個人の責任にしてしまって、後継総理の選出騒動に狂奔していることである。またおもしろおかしく報道するマスコミにも大いに問題はあるのだ。
いま自由民主党は安部総理の異常行動を恥じ入り、こういう総理大臣を排出した責任をまともに感じて、全党的な問題として、じっと反省し閉門蟄居していなければならないはずだ。もし、そんなことしていられないというのなら、せめて、後継総理大臣は速やかに衆議院を解散して、引き続き与党としてやっていいのか、それとも野党に政権を委ねるべきか、自己の進退を主権者たる国民の判断に委ねるべきだ。そして、同時に自由民主党だけでなく、与野党ふくめて国会議員は、今後、テロ特措法の延期のような重要な政治課題について、自分たちで決めるのではなく、国民にイエス・ノーをきくべきだ。
改めて、世界同時テロというけれど、テロリストは日本に攻めてきたのか。テロなんて日本の問題ではないのだ。米国の石油利権戦争に、なんで日本が加担しなければならないのか。日本は憲法第9条がありながら、弾丸の飛び交わないところは戦場ではないなどという目茶苦茶な口実で自衛隊をイラクに派遣し、更にいま隠しようのない軍事行動である給油などということで米軍や米国の同盟軍に加担している。
このようなことが日本の選択として正しいことなのか否か、野党は衆議院を解散に追い込み日本の米軍協力体制について、明確に国民の意思を明らかにする機会をつくり出さねばならない。
〔第28章〕原爆忌を越えて
8月6日、秋葉忠利広島市長は広島原爆忌において被爆の惨状と平和の尊さを高らかにうたった平和宣言を発した。広島と長崎は同じような宣言を今までに62回繰り返したことになる。
しかし、この結果、実に苛立たしく虚しいことではあるが、核戦争は勃発しなかったものの、核保有国は減るどころか今や北朝鮮は核所有の威力に酔いしれ、日本はその核の脅威に晒されている状況である。
広島、長崎市長らによって繰り返し発せられてきた宣言文や世界中の人々の平和への願望というものが、世界各国の国家意思の決定権者から完全に無視され続けてきたわけで、今やわたくしたちは効果のない原爆忌などの恒例の原爆イベントは取り止めるべきではないかと思うのである。
死者に思いを巡らし平和への願いを新たにすることは勿論悪いことではない。しかし、それだけでは核廃絶への願いすらも実体験者の減少とともに確実に薄れていき、結果として平和の増進に大きく寄与する成果は残せないのではないかと危惧するのである。広島長崎の体験から、わたくしたち日本人が学び、実践していかなければならないことは、悲しみに浸ることではなく、あくまでも平和、確固たる純度の高い絶対的な平和を実現する、手に入れることであるはずである。ならば国民はもっと英知を身につけ、やり方を変えなければならないはずだ。
そこで私なりに、どう変えるべきか、有効な手だてというものを考えみたので、披露させていただく。
思うに、戦争に係わる要因はいくつもあってその影響力の軽重に違いがあり、それらが同時に多層的に作用しあって平和を破壊することになる。だから平和といっても、その純度を高めれば高めるほど、実現は難しいと思わざるをえないのだ。
だからいかに戦争抑止、平和への気配りを怠らないからといっても、戦争の危険性を完璧には除去できないことも理解すべきであろう。
しかし、平和の維持、戦争の抑止に益する手だてがないかといえば、そうではないのである。
戦争という国家意思の決定権者はだれで、どのようなメカニズムで決定されるかを見極め、この国家の戦争決定回路をブロックする有効な手だてを政治制度の中に組み込むことができれば、戦争は大幅に抑止できるはずだと私は考えたのだ。ここで、私は民主主義という制度を改めて思い起こしたのである。
即ち開戦か否か、という国家意思の決定の時に、国会議員とか軍人などの一部少数の者が判断決定するのではなく、主権者である全国民がインタ−ネット等を介した国民投票などで直接決定に参加するのである。
今までの戦争は、国家の支配者や政治家、日本で言えば天皇や軍人たちによって決定されてきた。逆に、戦場に追いやられ命を捧げることを強制される大多数の国民や一般人が、戦争を始めた例はないのである。では日本は民主主義国家だから、戦争抑止に大いに貢献しているかといえば、そうではない。小泉前総理、安倍総理の下、日本国憲法第9条を有しながら米国の戦争に自衛隊派遣し、更にその事をより容易に可能ならしめようと憲法の改正をもくろんでいるのである。
戦争抑止メカニズムは日本のような似非民主主義、政治家に任せる民主主義では有効に作動しないことを見事に物語っている。だから広島長崎で平和を祈り続けるのではなく、国民自ら戦争抑止の担い手になるような制度に政治を変えるように目標を設定し努力を積み重ねていけば平和の確実性が大幅に高まるはずだ。
〔第27章〕久間防衛相発言を正しく評価せよ
「日本の一番長い日」という映画を見た方はお分かりだと思うが、日本がポツダム宣言を受諾するという天皇の決断に対して、それを阻止しあくまでも徹底抗戦をもくろんだ近衛師団の青年将校たちは師団長を斬殺して天皇の宣言受諾の録音盤を奪い日本の降伏を阻止しようとしたのである。(宮城事件)
また神風特攻を決断した大西瀧治郎中将は日本人の半分を殺してでも米国と本土決戦をし有利な降伏条件を得たいと阿南陸軍大臣に泣訴したのだ。陸軍は8月時点でも5千機の特攻機を温存し、その他の多数の水陸の特攻兵器を用意し、中学生はもとより、婦人や老人にまで竹槍をもたせて米国と戦えと強要していたのだ。
日本陸軍は原爆を投下され、ソ連の参戦をみても、天皇の意思に逆らってでも負けを認めようとしなかったのだ。
従ってもし戦争が長引けば、間違いなく本土決戦となり日米約20万人の犠牲者をだした沖縄戦の10倍、100倍の被害が日米両国の軍民に及んだはずだ。勿論、ソ連の北海道占領も許すことになったろう。
よく言われることだがサイパンの陥落で日本の敗北が確定した時点で、日本が最優先で取り組まなければならなかったことは、米国に勝利する手だてなどではなく、休戦ないし停戦の盟約を、一日でも一時間でも早く交戦国と締結するに益する政策、軍略を講じ選択しなければならなかった。しかし、8月15日の土壇場でも冒頭の宮城事件が勃発するよ
うな状態で日本が賢明にも自発的に敗戦処理ができるような状況は遂に出現しなかったのである。
結局、日本が矛を収めたのは敵国の強力な攻勢があったからである。即ち打ち続く敗北と圧倒的な戦力差、そしてなによりも一発で都市を壊滅させる原子爆弾の出現とソ連の参戦は天皇を始めとする当時の指導者に最終的な決断を下させるのに重大な役割を果たしたはずである。原子爆弾があたっからこそ終戦が早まり負け戦の時に生じる累乗的な被害の発生をくい止めることができたのだ。
久間防衛相は6月30日麗沢大学の講演で「原爆、しょうがない」と言ったことで、集中攻撃を受けた。共産党をはじめ各野党は大臣の罷免を要求し、広島長崎の市民は怒髪天をつかんばかり。テレビ、新聞等のマスコミはこぞって久間防衛相発言を最大限度に非難した。7月2日の全国主要紙の社説の見出しをみると「原爆容認は無知の露呈」(
東京) 「またも立場忘れた久間発言」(日経) 「何と軽率で不見識な発言か」(毎日)「久間発言 思慮のなさにあきれる」(朝日) である。政府御用達の読売と産経はさすがに社説ではとりあげていないが、社説以外の紙面からは久間発言を擁護しているようなところはない。
私はこういう空気に逆に怒りを覚えるのだ。久間防衛相の発言に対して間髪を容れず間湯沸器のように一方的に非難する。久間発言はそんな単純な問題ではないはず。なぜ、こぞって同じような論調になるのだろうか。少なくとも日本のマスコミの論調をリードする人々には、終戦のときの日本の軍部の動向というものを十分に理解していないのではないか。
あるいは原爆は非人道的という単純な思いと、独自の分析能力を持たず類型思考しかできないのだと思わざるを得ない。私は久間発言になんの違和感も感じなかったのである。防衛大臣は一被爆者ではない。現実の核兵器の戦略性を見極めなければならないのである。
太平洋戦争で原爆の持つ戦争終結を早めたという戦略的な意味を正しく把握しておかなければ、善し悪しは別にして核ミサイル時代の正しい戦略など描ききれないだろう。
〔第26章〕議会制民主主義は民主主義にあらず
民主主義政治とは、主権者である国民の多数の意思によって決定される政治であり、最終決定権者はあくまでも国民であって、それ故政治のコストは国民が負担する事を前提とする政治である。
そこでわが国の議会制民主主義は上記の前提を満たした政治であるか、と私は問い続けた結論とその論拠を以下で申し上げたい。
結論は、日本の議会制民主主義はその名前に反して民主主義とは別物。論拠は簡明で先入観を取り除けば誰でも分かるのだ。例えば今の年金問題について何か決定に関与できるか。あるいは安倍総理が掲げている戦後レジームの解体やら教育改革、憲法問題や美しい国等々について、国民は一切決定に関与していないはずだ。論拠はこれだけで十分で、こんな政治が民主主義であるはずはないのだ。
さらに言えば、多くの国民は、郵政民営化には賛成だったけれども、教育基本法の改正や国民投票法の成立まで賛成した覚えはない。まして憲法改正など強引に押し進められてはたまったものではない、と臍を噛む思いを味わっているのではないか。勿論国会議員はなんらかの形で政治の決定に関与はするだろう。その国会議員を国民は選挙で選べるのだから、国民が間接的に決定に関与することになるはずだ。安倍総理や自民公明の野合政権が気に食わないのなら、次の選挙で落選させればいいではないか、というのは議会制を擁護する者の言い分だ。
しかしでは、その選挙ができるから民主主義だと言うほどに選挙は民主主義を保障しているのであろうか。実は選挙なんて、国民に政治が民主主義だと思い込ませるための目くらましのようなものなのだ。第一、国会議員の選挙の場合平均すると一〇万人程の国民あたり一人を選出するわけだが、この一人の国会議員が全支持者の意思、考えを完全に代弁できるはずはない。
もう少し詳しくいえば、選挙には、過去、現在、未来の三つの時制に属する多数の政治課題に対する多層的な判断をしなければならないのである。そこで過去の立候補者の行跡に鉄槌を下すために彼に投票しないという極めて消極的な意思表示をすべく自己の一票を他者に投じてしまったならば、例えば現在の憲法改正問題については自分の意思を政治に反映させることはできないはずだ。更に様々な政治課題についての過去、現在、未来の彼が属する政党の公約+他の政党の政策や公約等も統合的に比較して、われわれは主権者は投票しなければ、正しく十分に自分の意思による政治がおこなわれたことにはならないはずだ。
更に気が重くなるのは、メディアをとおしてこの困難な条件を克服して国民が正しく判断して投票したとしても、政治家や政党の国民に対する背反と嘘と真実の隠蔽の問題があり、この問題を議会制民主主義の政治から完全に除去することはできないのだ。また一票に格差があって何が多数決だと言いたいのだ。要するに、数年に一回の選挙で民主主義政治が成立するなどという話は1リットルのビンに1トンもの水を詰め込めることができるという話と同じだ。
だから、議会制民主主義をいかに改良改善しても議員という第三者になんの保証もなく自分の主権を預けるという選挙制度を前提にしていては、国民の意思=政治の意思の等式が成立する民主主義政治は実現できないだろう。
重要な政治課題については国会議員は議案の審議だけをして、決定は全国民が行うという、議会制にこだわらずそれに代わる新しい次世代型の制度を大胆に取り入れる時期にきている。
〔第25章〕長谷部東大教授への公開質問状
長谷部教授殿
私は日本国憲法第9条の下で日本が自衛隊を擁していることは明白な憲法違反であると考えております。
おそらく後世、第9条の下で自衛隊を擁した時期から、いつの日か憲法が変えられるかあるいは憲法が生き残って自衛隊が廃止されるに至るまでの期間は、日本憲政史上最大の汚辱まみれの期間であったといわれるようになる考えております。
もとより、日本国憲法は300万人以上の日本人の生命と膨大な領土と財産を失ったことによる反省と日本を二度と自国のライバルあるいは目障りな存在たらしめないという戦勝国の思惑によって作られたものでした。しかし善し悪しは別として人間の反省の心持ちなどいつまでも持続するはずもなく、また憲法成立時の世界情勢が静的であるはずもなく、ある時期から多数の国民が日本国憲法の平和主義だけでは国家の安泰は覚束ないと思い至る状況が出現したはずです。このようなとき国民は、戦力を保持できるように国会の構成を整え速やかに憲法を変えればよかったのです。しかし憲法が許容する程再軍備派は政治権力を結集できなかった訳です。ですから日本は合法的には軍隊を持てなかったのであり、再軍備論者は諦めなければならなかったのです。ところが彼らは諦めませんでした。憲法の規定と心を無視し憲法に反することを強引に実現させてしまいました。ここで、あらためて思うのは、憲法といえども、政治的実行力に対して実に無力であるということです。やろうと思えば、憲法の有る無しにかかわらず好き勝手がやれるのだということ、それはやくざが殺人は犯罪だと分かっていても安易に人を殺すように、国もやくざに勝とも劣らなず無法かつ暴虐なことをやるということを思い知らされることになりました。
しかし国家が憲法に違反するときに一つだけ、どうしても具合の悪いことが発生します。その具合の悪いというのは、当たり前ですが、国家が憲法違反の主体になることが公になってしまうということです。国家権力を握った者たちは自分たちの憲法違反は自由気儘にやれますが、自分に反対するものが憲法違反をやることには神経をつかい些かも許そうとはしないのです。なぜなら、そのようなことを許せば自分たちを権力者に仕立て上げた国家や社会機構、権力支配構造やメカニズムが破綻しかねないからです。
従って「お前たちだってやっているではないか」と言われないように自衛隊は違憲ではないという理屈がどうしても必要になるのです。自衛隊は戦力ではない、警察の予備隊だ等、尻から物をたべるような理屈を自分たちででっち上げ、それでは足りずゴミ箱の済まで探すようにして少しでも自分たちに有利になりそうな理屈を集めようとしてきました。
前置きが長くなりました。平成19年5月1日付け東京新聞の夕刊文化欄の先生の「憲法とどう向き合うか」を拝読させていただきました。 その中にどうしても私には理解できない、あるいは納得がいかないというころがありましたので、本誌をかりて疑問点を公開させていただきますのでご解答がいただければ幸いです。さて、まず先生は、「自衛隊があるにもかかわらずこんな条文(戦力を保持しない)をもっているのでは、条文と現実が乖離していることになる。法を尊重するという精神を保つためにも9条を改正すべきだというわけである。ォ中略ォュ法を尊重する精神がそれほど大事なら自衛隊を廃止するのが筋であろう。実との乖離を正すために憲法の方を変えると、なぜ法を尊重することになるのか不可思議千万である」と。この先生のお考えは、日本国憲法を聖書のようなものと勘違いされているのではいでしょうか。
民主主義下における憲法は、平等の権利を有する国民が共同生活をより円滑に幸福におくっていけるようにするためのルールブックのようなものだと私は思うのです。申すまでもなく完全無欠のルールが最初からできるわけがありません。ですから憲法そのものが本質的な欠陥を内包する可能性はありますし、また最初に取り決めた内容では予想できないような現実が出現し既存の条文では政治が対応不能になるということだってあるはずです。このような時、それが大原則、原理であろうがなか
ろうが、憲法を変えるべきであり、国民は変える権利と義務があるはずです。違法な現実と機能不全の法を放置したままにおいておくことは政治家や国民の怠慢であり、この怠慢は法というものの権威を大いに損ねるのです。憲法は変えてよし変えないでよしがそれこそ大原則であると私は考えます。
また先生はこうも言っておられます。「自衛のための実力を備えないで国民の生命・財産を守ろうというのは非現実的なのだから、9条がいっているのも、過剰な軍備は戦争の引き金になりかねないし、コストも高くつくので、なるべく持たない方がよいという大原則を示すにとどまると理解するのが常識的である。非武装でも安全は維持できるというのは真摯な信仰であっても、信仰を共にしない人に押しつけるのは控えるべきであろう」と。また第21条「一切の表現の自由」の解説でも同教授はこの条文を杓子定規に理解するのはおかしいと、宣もうておられます。この条文に公序良俗に反しないかぎり、という制約語がついていない理由をお考えになったことはありますか。
第9条を先生ほど深読みしなければ条文の真意が理解できないとしたならば、このことをもってまず、第9条はより多くの人が容易に正しく理解できるように変えるべきでしょう。それにしても先生の考えておられることが果して正しいのかどうか。例えば、自衛のための実力を備えないで国民の生命・財産を守ろうというのは非現実的とありますが、自衛のための実力を備えて、国民の生命と財産を失うということが人類の歴史上にはあまりに多く、また日本が直接自衛の実力を備えてもなお国家の滅亡の淵までおいやられたという経験から第9条はできたはずです。非現実的と批判がましい仰りようですが、この条文は非現実的ではなく先駆的な条文だったと評価すべきではありませんか。また、大原則と理解すべきとありますが、大原則だからこそ揺れてはならない、厳守しなければと文章的には理解するのが常識的ではないでしょうか。憲法をして「あれは大原則を書いてあるのだから現実と一致しなくてもいいんだよ。たげど変えてはだめだよ」などと東大で教えておられるのでしょうか。非武装で安全が維持できるのは信仰」とはひどい言いようです。それでもここまでは先生の固有の考えとしてあってもいいでしょう。しかし「特定の信仰を人に押しつけるのは控えるべき」と公言されてしまっては多数決原理を採用する民主主義で自己の信念を披瀝し、反対する者を説得できなくなるでしょう。これでは民主主義を否定することになりましょう。
先生は本記事の後段で「条文と現実の乖離などという安易な議論をする前に〜」と書かれておられますが条文と現実の乖離の議論がなぜ安易なのでしょうか。これを安易といわれては最高裁の有する違憲立法審査権も無用の長物になってしまうでしょう。政治が違憲か違憲でないかは正に憲法の条文と現実政治の乖離を見極めることでしか判断できないはずです。これは決して安易なことではないはずです。先生のお考えは、ご本人の意思とは無関係に、現状追認派や所謂護憲派の人々に取り入れられ、重用されるでしょう。しかし、9条をそのままにして自衛隊の存在を認める等という理屈を掲げて護憲運動をしなければならないとしたら、護憲運動の行く末は明るいとは言えないということを最後に申し添えさせて頂きます。
〔第24章〕「美しい国づくり」企画会議を笑う
森羅万象、なにをもって、美しいと判断するのか、決定できるのか、万言を費やしてもだれも十分かつ正確に説明することはできないだろう。その証拠に例えば美しい絵と言っても、チンバンジ−の描く絵もピカソの絵も美しいと言う人はいる。同時にともに醜悪であると断ずる人もいるのである。事ほどさように美しいという言葉は、多用されるけれども想像以上に説得力が乏しいのである。
美しさとは極めて属人的であってそれ故言葉の意味する内容を第三者に伝達させにくいのである。
だから安倍総理が「美しい国づくり」と言ったとき、おそらく本人を除いた他誰一人その意味を理解した人はいなかったのではなかろうか。そしてこのような視点に立つならば、政治家個人の思うことの総てをより多数の人に伝え相互の共通の理解が醸成されなければ成立しない民主主義政治において、安倍総理はよりによって最悪のキィワードを選択したということになるだろう。
さらに美しい国と聞いて思い起こすのは、総理の頭の質のことなのだ。というのは私ごとなのだが、私は中学校の卒業の時のクラス仲間で思い出に寄せ書きをしたのだが、この時五十人くらいの級友の中で、一人「有り難う」でも「がんばれ」でもなく「我田引水」と書いた生徒がいたのだ。普通、寄せ書きに我田引水とは?と誰でも感じると思うのだが、当時の級友たちはこの我田引水をみて「何故だ」とは思わなかったのだ。というのはこれを書いたのは、いわゆる“お客さん”といわれていた少々知
恵遅れの生徒であったからなのである。自分の理想とする政治を美しいという言葉で意を尽くせる、あるいは最善と思い込んだ頭を有する安倍総理は、有する語彙が貧弱という欠点だけでなく、ある種の知恵遅れではないか、と私は感じたのである。
しかし、さすがに「美しい国づくり」だけでは漠然としていると本人やら周りの配下のものどもが思い至ったのか、この度、有識者と称する人物を集めて美しい国のイメージを具体化し、肉付けをすることになったと報道された。しかし、この言語明瞭意味不明の美しい国で、よしんば最高の衆知を集めてもが万に一つの成案など生まれるはずはないし、仮に成案ができて、美しい政治とそうでない政治が識別されるようなことにでもなれば、それはそれで人間の自由な精神の発揚を抑制することになって政治の貧困や独裁政治の誘因になりかねないと危惧した訳だが、さらにこの企画会議にリストアップされた有識者の顔ぶれを見て私は唖然としたのだ。企画会議座長に日本画家の平山郁夫氏をあて、以下照明デザイナー、日本舞踊家、映画会社や電機会社の社長、学者、玩具屋の取締役、漫画家と続くのだ。この渾然さ、曖昧さ、漠然とした様は、なんにたとえたらいいのか。政治が追求する美しい国の美しさと日本画と日本舞踊の求める美しさにいかなる関係があるのか。また、頻繁に故障をおこす原子力発電機を製造する会社の社長を加えて美しい国の構想に何が彩られことを期待するのか。また「富国有徳」などと提唱して愚鈍な総理大臣に大いに影響を与えた学者を再度起用するなど理解に苦しむのだ。富国でもない日本を富国だと称し、だから有徳だなどといいつのたのだが、徳などというものは人類の永遠の課題であって、そんなものを一内閣の施政方針にさせるなんて勘違いやピント外れもはなはだしいことだと散々私は先ず毒づいた記憶が蘇るのだ。いまから、申し上げておく。この企画会議は絶対に成果を産みだせないと。
〔第23章〕孤立化を恐れるな
本当に使う気であったなら、自分が保有していることをできるだけ秘匿するものだ。声高に持っていると叫ぶのは、持てるようになったことのうれしさのあまり、というより威嚇の種にしようという魂胆からであろう。北朝鮮の核の話である。
思うに、今の世界で、北朝鮮の金成日ほど核を保持することの政治的な効果を発揮させることができる人物はいないだろう。六カ国協議は見事にそのことを証明した。なにせ、刃物は気違いが持ってこそのものなのだから。自己の欲望を満たすためには手段を選ばないというこの下劣な男を、いかなる事情がからんだのか、まともな交渉相手にし挙げ句、妥協を強いられることになった米国という国家は見かけとは異なり、かなりいい加減な国家、あまり真剣にはつきあってはならない国家だということを、改めてわれわれに認識させることになった。確か米国は今度の六カ国会議では北朝鮮と二国間の直接協議はしないと明言していたはずだ。また日本の拉致問題の怨念を十分に理解し日米共通の課題とする、と言っていたはずだ。それがイラク侵攻という失政の結果、共和党が中間選挙で大敗を喫するに及んで、米国は日本の意向を無視し、北の核武装問題を妥協する方向で解決をはかろうとするに至った。更にこの変身の結果、日本の主張と要求を支持することが北との妥協に支障をきたすことになるためか、日本に対して、更に恥の上塗りになるような行動をとろうとしている。即ち、米国は下院の外交委員会において、よりによって日本の従軍慰安婦問題を改めて取り上げ、日本のこの問題への対応を非難し反省を求める決議案を3月中にも採決しようとしているのだ。さらに言うに事欠いて、韓国女性を日本兵の性の奴隷にしたなどと評する者も現れる始末である。(奴隷の黒人女性を愛人にした大統領がいた国の言いそうなことである)
まるで欠陥があることを入閣資格にリストアップしたといってもいいくらいの安倍内閣でおそらく唯一の全うな人選であった久間防衛相の発言をあらためて私は思い起こすのだが、「余計なことをやってくれるな」と言いたくなるのは私だけではあるまい。いま米国に無関係な従軍慰安婦問題をもちだすことが、どんな意味があるのか、米国は分かっていると思うのだ。この決議は米国をして、北を含んだ全朝鮮半島の味方に立ったことを意味する議決であり、更には取りも直さず「北だけが悪いのではないぞ、お前たち日本だって朝鮮に対して十分に悪いことをしてきたのではないか。拉致拉致とあんまり騒ぐな」という日本に対する北のメッセージを米国が公式に代弁することになるとしか思えないのだ。あるいは米国の北に対する交渉事への北側の意向を受け入れるサインではないかとも思えるのである。
私はここで言いたいのである。
もし米国にこんな決議をされたなら今回だけは米国にyes としか言わない日本であっても拉致問題を六カ国会議から引っ込めるようなことをしてはいけない、ということを。もし引っ込めたりすれば、日本の外交の鼎の軽重をとわれることになるということを肝に銘じなければならない。いよいよ日本外交は世界から信用されくなるだろう。拉致問題をひっこめないことで日本が孤立化するのであるならば、日本はあえて孤立化を選択すべきである。孤立化して拉致問題の解決は遠のくだろう。しかし肝心の問題が取り上げられない協議に止まる意味もないはずだ。さらに言えば日本は北の核の脅威に対し独自の対抗手段を擁する必要性はますます強くなっているのである。
〔第22章〕女性は子供を産む機械である
小子化問題を取り上げた場で、柳沢大臣が「女性は産む機械である」と言ったことの報道が日米開戦のそれに勝とも劣らないような状態に、なぜなってしまうのか、私は理解できない。まさに、狂騒,狂乱といってもよい状態である。
私は、女性は子供を産む機械であり男性は子供を産めない機械であると言われても、子供を産むという最大の幸福感に浸ることのできない悔しさはあるけれども、別に女性から侮辱されたとは思わない。機械という表現に偉く憤りを感じた向きも多いようだが、産むという、産めるという機能を強調する言葉としてはあってもおかしくはない。なぜ、これが女性の人権や全人格を否定することになるのか、野党の政治家やマスコミに従事する人々は冷静に考えてもらいたいものだ。
言うに事欠き、やるに難題山積しているにもかかわらず「女性蔑視の柳沢大臣を安倍総理が罷免するか柳沢大臣が辞職しないかぎり国会の審議を拒否する」と与党にブラフをかけるだけでなく本当に審議拒否をしてしまったのには、びっくりさせられた。この際言っておきたいのだが、審議拒否という手段が意味と効果があるのは例えば政府が憲法を踏みにじって、自衛隊を海外に派兵しようとしたり、言論の自由を踏みにじるような法律を通そうとしたような時、現状の議会構成のままで野党が審議に応じることが結果として政府与党の術中に嵌まることになるというような時にこそ、審議を拒否し国民にその実情と真実を直接語りかけあわよくば政変を招来せしめるるというような場合で、それならわかる。それに対して今回のような愚劣な無配慮な審議拒否は野党が事の軽重が分かっていないことを証明することになり、結果として柳沢大臣や安倍内閣を追い詰めるのではなく自己の政治的識見が問われることになってしまったと思う。さらに深読みするまでもなく今回の野党の審議拒否に目前に迫った地方選挙目当ての、女性票受けを狙ったなりふりを構わない政治的な底意を感じ取るのは、私だけではあるまい。おそらく野党、とくにその指導者たちはまもなく、自己の浅ましさとその軽挙妄動に気がつきこの柳沢大臣の辞任要求のための審議拒否を恥じ入ることになるだろう。さらに言えば、政治家の発言で最も罪と責任を問われることになるケースというのは、まず嘘をつくことであり、同時に発言しなければならないときに真実を語らないことなのである。だから、かって秘書給与を自己の政治活動につかっていた事実を「そのようなことはない」としらを切り、その嘘がばれて辞
任に追い込まれた社民党の辻元議員のような人物こそ政治生命が断たれなければならないのであって、そんな人物などに柳沢大臣を非難する資格は全くないのである。柳沢大臣の発言には嘘はなく真実を隠していたわけでもない。更に微塵の悪意というものもなかったのだ。なぜならこんな騒ぎになると思えばはじめから発言しないわけで、発言したということは、女性を差別しようなどという気はなく軽い気持ちで発言してしまったのであり、軽い発言には「以後注意するように」とでも野党が大臣に申し入れをすればそれでことはすんだのである。怒っている女性たちもこの問題で貴重な一票の行方を左右させるようなことは自制してもらいたいものだ。柳沢発言騒ぎを参議院選挙まで持続させようとする馬鹿もいるようだがこの発言問題で実害を被った人はなく悪影響はないと断言しておきたい。もっと大事な課題が日本には山積しているのだから。
〔第21章〕北方領土放棄論
米ソの冷戦時代、日本のソ連に対する北方領土返還交渉では、米国に大量の基地を提供する日米安全保障条約の存在が大いなる障害になった。ソ連が北方領土返還を拒否したのは当然の対応であった。しかし同時に敵側についている日本の気を惹き、あわよくば自己の陣営に引き込むエサとして北方領土はソ連にとっても恰好の交渉課題であり、そのため北方領土返還交渉にはわずかながら交渉の余地があった。時は移りソ連は崩壊し米ソの冷戦は終焉し、ロシアにとって北方領土を日本に返還しなければならないという動機と理由は消滅してしまった。交渉の余地はなくなってしまったのだ。だから「返せ、戻せ、北方領土!」と日本国中、一致団結し声高に叫ぼうが、何千万人の署名を突きつけ、北方領土は日本固有の領土だと、山ほどの資料や証拠を叩きつけても、蛙の面に小便でロシアは返還しないのだ。ロシアは降服の年の9月5日まで北方領土を侵略し続け死肉を貪り食うハイエナのように領土を奪ったのだ。当然自国民には北方領土はロシアのものだと言っている。だから日本に北方領土を返還するとなれば、自己の非を公に認めることになり、自国領土と言ってきたのになぜ日本に譲渡するのだ、とロシア国民の怒りを暴発させることになるだろう。ロシアにとって北方領土返還なんて百害あって一利もなくこんな割りのあわないことなどやるわけがないと私はずうっと思ってきたのである。話し合い話し合いと、馬鹿の一つ覚えのように日本はロシアに交渉を迫ってきたが、交渉場面で日本外交官や政治家は一体何を話、いかにロシアを説得しようとしてきたのか、なにを拠り所としたのか聞かせてほしいものだ。きっとロシア側は腹のなかで馬鹿な奴らだと思っていたはずだ。話し合いなんかでロシアは北方領土を返還する筈がないのだ。占領は不正だ不当だとロシアを非難し、返せと要求してもいいが、北方領土の行方にはなんの影響も与えないのだ。にもかかわらずどうしても北方領土を取り返そうとしたならば、結局実力を行使するしかないのである。戦争になるということだ。あるいは話し合いを継続するにしてもロシアに、北方領土を返さなければヤバイと思わせる実力を背景にしなければ効果はないのである。 ところが、ロシアの水爆ミサイルに対抗できる戦力は日本にはない。さらに嘆かわしいのは戦力以前の問題として、日本は本気で北方領土を取り返そうという国家意思が定まっていないということを指摘しておきたい。その論拠であるが例えば竹島の現況をみればだれでもわかるはずだ。韓国はロシアより遙に劣る力しかないのに、日本は実力で竹島から韓国軍を排除しようとしないではないか。こんな状態を許している限り、私は日本は北方領土を本気で取り返そうという意思はないと断ぜざるをえない。じゃあ、恥ずかしい話だが、日本が自力奪還ではなく、米国にロシアから北方領土を取り返すよう、日米安全保障条約をたてに懇願した場合、米国はどうでるかと言えば、考えるまでもなく、日本のためにはなんにもしないということは今までの歴史が証明している。私は戦後60余年、北方領土返還をめぐる現況を勘案すると、日本はもはや北方領土の返還交渉はやるべきではない、即ち放棄するの他に道はないと断ずるのである。取り返す力も無い、意思もない、米国もだめだ、でも「返して欲しい」では赤子のおねだりだ。諦めることのメリットはないが一つだけ返還させるための虚しい努力をしなくなるだけ日本に益するはずだ。
〔第20章〕国家予算の新決定方式の提案
日本の政治は民主主義だと思い込まされている人は実に多い。私は日本の政治は議会制民主主義であると、確かに名前の一部に民主主義をぶら下げてはいるものの、その実態は民主主義とは似て非なるものだと思っている。と、言えば山ほど反論がきそうであるが、その山のような反論にいちいち再反論する気は私はには毛頭ない。その代わり、私の日本の政治が、というより議会制という制度が民主主義の本義を不活性化させてしまう決定的な理由を一つだけあげたいのである。それで予想されるすべての反論を十分に粉砕できるものと信じているのである。
そこで、私の掲げる理由であるが、私の考えの論拠は単純明快である。即ち、主権在民の民主主義政治だと言われていながら、その肝心の主権を行使する機会が主権者には選挙を除いて全く与えられていないということを挙げたいのである。わたくしたちは主権者なのだから、本来は自分たちでいつでもあらゆる政治課題について直接決定する権利を有しているのであって、代表者たちに決定してもらわなければならない理由など存在していないのである。だから、私は、民主主義という考え方を実践する制度としての議会制というのはまだまだ発展途上にあって、主権者の意思が政治の決定に直結するような制度に発展進化していくと思っている。すでにその兆しがあって、小泉前総理の郵政民営化選挙がその好例であり、これが成功したのも、この議会制民主主義の欠陥をほんの少し改善したかのイメージを国民に与えたからに他ならないのだ。
しかし、とはいうものの一方で、わたくしたち主権者が直接決定に参加する政治は、遙けくも遠くまた多くの困難な問題が立ちはだかっているように思えるかもしれない。でも、私はこの事にも実に安易に考えている。というのは、国民がすべての政治課題に直接決定に参画できるのが究極の姿ではあるが、そこまでいかなくとも、直接決定に付す課題を絞り込むことによって意外と簡単に現在の政治から議会制民主主義の限界と欠陥を除去できる方策があると、私は三十年近く前から考えてきたのである。
その絞り込んだ課題というのが表題の課題なのだが、政治課題には大小、軽重、様々な問題があるのだが、急所というものがあるはずである。その政治の急所を押さえ込めばいいのである。と、考えれば郵政民営化など枝葉末葉であって、政治の急所ではない。こんなものの決定に関与したからといって騙されてはいけないのだ。私は国家予算の配分問題
こそ、政治の最重要課題だと思うのである。だから、この予算配分の決定過程にわたくしたち国民が直接関与する新しい予算配分方式を採用すれば、議会制民主主義は完全に様変
わりするはずだと思うのである。
以下、私の提案する新しい国家予算の決定方式とはどのようなものになるか説明をしたい。
私は、まず財務省に主計局を2つ作ることを提案したい。第一主計局と第二主計局である。第一主計局は与党自由民主党の意思に基づいて予算編成をする。第二主計局は野党民主党のための予算編成をする。予算配分について2通りの(場合によっては3通りでもいいのだが)案を作るのである。次に二つの予算の配分案を国会で比較審議し、その審議過
程を完全に国民に公開する。そして国会では議決しないで、各々の予算案をインターネット等で国民投票にかけるのである。そしてひとりでも多くの国民によって支持された案を正式採用するのである。
〔第19章〕無用の地方活性化策
私は、国策として繁栄の根拠を喪失した地方にはいかなる活性化策も講じるべきではないと考えるのである。言い換えるならば滅びる地方は滅びよ、というのが私の考えである。かって、地方(都市や町村含む)の盛衰はその地方が本質的に有する生命力によって命運を決定してきたことは、歴史が証明している。
地方が栄えるには栄える根拠があり、衰亡には衰亡の理由があるのである。これは経済の大原則でもある。栄える地方は何百年、何千年の命脈を保つものがある一方、数年の内に栄えた町が消滅するようなこともあった。日本で言えば、古都奈良や京都がその例になるだろうし、反対に、例えば黒いダイヤで栄えた町が埋蔵石炭の枯渇や代替エネルギーの出現で消えていった産炭地の町々は多い。このようなことは、ゴールドラッシュの町がそうであるのと同じように、地方という生体の生理現象でもあるのだ。本来は手の施し様がないのだ。
もし、この地方の生理現象に竿さすような策をろうした場合、労多くしてその効果は全くと言ってよいほど無いのである。衰亡していく地方はその地方が有する経済力の許容する範囲まで、縮小化されて衰亡の勢いが納まるまで、放置しておくことが最善の方策なのである。従って、衰えの兆しが見えてきた地方に住む人は、いち早く経済状況の変化を察知して、その変化が自己の存在といかに係わるのかを見極め、その係わり方によっては、当該地に見切りをつけて、より生活しやすい場所を目指して転身をはからなければならないのだ。(だから、いわゆる“シャッター通り”というのは、衰亡の象徴ではなく、地方の生き残りのための活性化された健全な反応の象徴として捕らえるべきだ)
果敢に身を転じなければならないのに、その勇気と知恵もなくただ政治に何とかしてくれといつまでも泣きつくようなことであれば、それは乞食の物乞いと同じで、同情はかうかもしれないが、問題を悪化させるだけなのだ。このような時、政治家はここぞとばかり「地方の活性化」を叫ぶが、できもしないこと、やっても効果のないことを、知ってか知らずか、票を得んがためにのみ言い募るのである。しかしこのようなことは、政治を貶める行為以外のなにものでもないのである。実際、政権を掌握している政党、政治勢力は、予算を握る故、地方への活性化と称して、税金をばら蒔くようなことをする。税金をばら蒔くだけなら馬鹿でもできることで、その殆どは全くケインズの穴堀り、穴埋め策と大して違いのない政策を実行することになる。この結果、田んぼの畦道に毛の生えたような道を立派な舗装道路にし、川をコンクリートで固め、港に防波堤を築き使われない飛行場を作るのだ。私だけでなく多くの国民はこんな道路に車を走らせるとき「ちきしょう、こんな所に金をつかいやがって」と、歯ぎしりをするのだ。更に政治はそれだけで満足せず様々な訳の分からない振興策を出してくることになる。とりわけ石炭産業に関する振興策はすさまじいのだ。一体、産炭地振興策として国は今までどれだけの金を使ってきたか、そしてどんな経済的な効果があったのか、皆さんご存じだろうか。約40年近くにわたって国費が投じられ続けその金額は数十兆円になるはずである。結果、どんなことをしても、石炭がもたらした恩恵より優れた効果はなく産炭地はいよいよ疲弊の度を深めている。この点をもって、地方活性化策無用の十分過ぎるほどの証拠になるだろう。
〔第18章〕北朝鮮の核武装
いよいよ米国の出番ではないか。北朝鮮にだ。北朝鮮は核爆弾を保持し爆発実験をしたと自ら宣告しその証拠を裏付ける地震波も世界中で観測しているのだ。いま征かず、いつどこへ行くというのか。「なぜ、出兵なのか」って、米国が貧乏籤をひくような顔をするならこれはおかしいのだ。米国はイラクに征ったじゃないか。その理由はイラクは大量破壊兵器をもって米国に敵対している、ではなかったか。イラクは当時自分たちは大量破壊兵器は保持していないと米国の検証も受け入れたはずだ。にもかかわらず、それを嘘ときめつけて何十万人も米兵を送り込み何万人ものイラク人を殺したのだ。
北朝鮮の核なんてものともせず、ワシントンに核の反撃のリスクなんてものともせ、正義のために国際テロの仲間に鉄槌を下さなければ、米国のこれまでの論理と行動の正当性、一貫性が嘘っぱちになるではないか。だが、リスクが大きく得るものがない北への武力侵攻は米国は絶対しないと断言しておく。そうだ、北朝鮮の核は人ごとではないのだ。米国だけを追い立てる資格なんか日本にはないのだ。日本も北朝鮮の非戦闘地域に征かなければならないはずだ。北朝鮮のどこが非戦闘地域というのか、なんて聞いて欲しくない。自衛隊が征ったところが非戦闘地域になると小泉前総理は言ったはずだ。どこでもいいのだ。イラクは遠いし核も保持していなかった。日本とは敵対してもいなかった。でも米軍の支援に自衛隊を出したのだ。
北朝鮮は隣の国だ。そして日本になみなみならぬ憎しみをいだいている国だ。米国にいわれなくても北朝鮮の鬼退治にいかなければならない理由はイラクの100倍はあるはずだ。と、まぁ米国だって日本だって、いかに大国とはいえ、筋の通った言動一致でなければ、わたし如きに北朝鮮が核を保有するなんていう深刻な事態になってもコケにされてしまうんだ。
米国が正義を騙るようなことをせず、自国の利益のみを考えて行動するんだ文句あるか、とひらきなおっているのなら、北やイラク並のならずものとして扱われるけど、他国から話が違うとは批判されない。えらそうに正義をかざすから不愉快なのだ。日本だって米国を信念もなく妄信し米国に盲進しているから私は腹が立つのだ。(米国との付き合いの程というものを考えなければと思うのだが)日頃の鬱憤はさておき、問題はわが日本は北朝鮮の核保有に関して、どうすればいいのか、であるが、「断固たる措置をとる」とわが安倍総理は答えたが、日本が断固たる措置をとってどうなるものでもない。
金は北朝鮮を自分の国だと思っているのだ。自分が自国民を満足に生活させられない。その国民の不満を恐怖政治で抑えようとしても、命の危険を侵して国外に脱出しようとするもの後をたたずだ。国内不満を抑えるには、強大な軍と警察を擁し絶えず外国が侵略してくると自国内に恐怖心をまきちらして国民に犠牲を強いるしかないのだ。こういう国の独裁者と対峙するには、核武装に有効に反撃手段をもたない話し合いなんて全く意味がないし、経済制裁をしても、それが効果があればある程、原爆が東京に落ちる最悪のケースのことも考えなければならないだろう。
私は本欄で日本の核武装の必然性を説いたが、今からでも遅くはない。北朝鮮の暴発の可能性がぜろではない以上、もし日本に核を落としたらその10倍、100倍の報復を受けると言うことを金が自覚できるような対応することが、唯一有効な対抗策だと思うのである。
〔番外編2〕日本の鈍い総理たちへの言づて
長いので別項にしました。
ここをクリックしてください。私も共感するところ大です。
〔第17章〕政権奪取の法
少なくとも小泉総理には国民の胸を大きくつかみとるバワーがあった。それにひきかえ小泉太閤の遺産を引き継ぐだけの安倍秀頼官房長官の人気の秘密は、どう解析しても秘密のままで分からないのである。「美しい国へ」を読んでも、彼をして日本の総理にしなければならないなどという気持ちは全く湧いてこないのだ。クレージー北朝鮮にまっとうな対応をしたからという人もいるようだが、その後の進展は停滞しているものの、北朝鮮に関する成果は一に懸かって小泉総理に帰せられるべきで、安倍官房長官にとりたてて讃えなければならない成果などないはずだ。さらに、特別頭脳の明晰さを証明するような要素もみられず、凡人といえば、これ以上ピッタリする男はいない、と思われるのであり、このような男が日本の総理大臣にならんとしていることに、私は嘆かわしい・・・・・、とは言わない。
嘆かわしくないのだ。むしろ希望を抱かせると言ってもいいくらいだ。なぜか、といえば、小泉総理にしてからがそうであるが、彼はいわば郵政民営化が日本の万事を動かすというような幻想をふりまくことだけで、総理の地位を手にしたのであり、さらに何の業績もない安倍官房長官のような人物が総理になれるということで、困難さが極まるといわれる政権奪取も、存外に容易なことだということをもの語っていると、私はみるからなのである。言い換えると、難しい幾何の問題をスパッと解決する補助線のヒントを彼らが与えていると思えたのである。
以下、私が解いた凡人が総理大臣になるための一つの、しかもだれでも理解ができる解答について記す。
まず、一つの前提条件を提示する。国会議員というものについてである。国会議員とは、全部とは言わないけれど大部分は、国会という個人の領分では納まりきれず、他者の持ち分までも取り合おうとする人間の野放図な肥大化する欲望の渦巻く溜め池のようなところに生息しているうち、本音と建前とを使い分け、自己の利益を国民の利益と言いくるめ、後ろめたさも感じなく、選挙のときだけお為ごかしの繕い言を開陳するようになり、地位と名誉と金銭とに異常に拘り、他者をおとしめようとはするけれど、決して褒めることのない嫉妬深いさもしい劣等人種化させてしまうのだ。だから国会議員は国民のためだけを考えるというような純度の高い政見など考えられなくなってしまっているのだ。
実は政権奪取の鍵がこの前提に潜んでいるのである。
彼ら、国会議員は、口ではいいことをいうのである。しかし、究極的には、自分の存在のすべては国民のためにあるといいつつ、結局国民よりも自分のことを優先してしまうのだ。だとすれば、もし、少しだけでも本当に国民の為になる、あるいは自己保身と栄達を考えない議員が立ち上がって、国民がなるほどと思えるようなことを披瀝すれば、郵政民営化はそんな香りがしたのだが、国民はこぞって彼を支持し、それ故政治的権力は、一朝にして手にいれることができるはずだ。だから私は凡人政治家諸公に提案をしたいのだ。
国民のためなどということを言わず、まず完璧に身を切ることだけを
あからさまに訴求する提案を国民に提示してみろといいたいのだ。
例えば、
・二世、三世議員を禁止する
・参議院を廃止する
この2つのうち一つだけでも、それこそ身命を賭して実行にうつす、と宣言するだけで、百万言の公約より、効果はあるはずだ。
〔第16章〕21世紀・日本の政治指針
日本という国が、国民が必要とする食料の40%しか自給できずエネルギー資源の90
%以上を外国に依拠している事実をいつまでも放っておいていいのかと思うのである。
これは日本の重篤な遺伝病と言ってもいいだろう。政治は郵政民営化などというケチな
問題よりも、このような遺伝病の克服にこそ本格的に取り組んでいかなければならないの
ではないか。しかし、遺伝病の克服などいくら努力しても成果を挙げられないかもしれな
い。一方で待ったなしの対応が迫られ、なおその上膨大な資金が要求される政治課題が山
積していることも私は分かる。だからといって諦めていいはずはない。今以上になんとか
しなければならないのだ。今回はその“なんとか”について私なりの考えを披瀝させてい
ただく。
そこでまず、私は現在の国家体制は敗戦後日本人が営々として築き上げてきた今日に至
った自然発生的な体制であって、新しい重大な目標に対応するには限界があると思うので
ある。遺伝病克服のためにはこの現国家体制を私は根本的に変えなければならないと考え
るのである。ではどう変えるのかといえば、最終的にはいざとなったら食料・エネルギー
は自給できる、あるいはできなければならないという目的意識と価値観が貫徹された行政
組織を有する国家体制(自立・抗不安国家体制・)に日本変えていくべだと思うのである。
勿論現体制でも新エネルギーの開発に膨大な金を投じているが、これは財政の弾力的な
運用が極端に狭められつつある今日、新エネルギー開発に投ずることのできる金額の日本
の限界を示しているといえる。これでは本当に百年河清をまつことになる。開発投下金額
を現在の倍、3倍にもするにはその事を是とする価値基準を有する政治体制にしなければ
ならないのだ。(一種の政治革命・が必要かもしれない)さらに金だけではなく、体制変
革の主体となる人材は誰かということが問題だ。現在の石油科学文明を例えば水素エネル
ギー文明に転換させる可能性を高めるには、なによりも知的創造能力に優れた人材をこの
遺伝病克服に集中的に投下できるようにしなければならない。このようなことに必要とさ
れる能力といえば理系の能力以外にはありえないのである。そこで有能な人材がこぞって
最優先で理系にすすみたくなるような国家的なインセンティブシステムを用意する必要が
あるだろう。優秀な人間は東大法学部をめざすのではなく理工学部をめざしたくなるよう
にしなければならない。文科系人材などに大学教育など無駄というものである。法学部出
身者がのさばるような国家はやがて滅んでしまうはずだ。かくて予算が潤沢に配分され理
系人材が優遇され彼らがのびのびと働け英雄視されるようになる国家戦略を私は重脳主義
国家戦略とするのである(・〜・)。
この際できるできないは無視したい。こういうことを思考の前提にしては日本の政治の
未来を明るい展望をもって語ることなどできなくなってしまう。現体制の支持者、即ち保
守主義者をよろこばすだけのことになってしまうのだ。国家のあり方について制約なしに
考えることで、無駄な思考を重ねることになるかもしれないがその反面、現状打破の革命
的な布石の端緒を掴むことになるかもしれないのだ。このような国家目標と戦略を定めて
後はじめて、行政改革の必然性と有効性は高まり予算配分の基準が定まり、憲法の改正の
必然性等もより明確になるのだ。安倍氏だけではなく総理総裁たらんとするもの、まず優
れた国家目標と国家戦略を用意してからのち名乗りをあげてもらいたいものである。
〔第15章〕ポスト小泉政権と国民投票制
民主主義政治の本来のあり方からすれば、国家的政治課題、例えば憲法改正だけでなく、重要な条約の承認、課税・予算の決定、総理大臣の任命、海外への派兵の是非、宣戦の通告の許諾などについては、代表者ではなく主権者である国民が自ら決定する。それ以外の重要ではない政治課題については、代表者に決定を代行させる、即ち直接、間接の決定方式が併存していなければならないのだ。ところが議会制民主主義というのは名称に民主主義を付けてはいるけれど、その実、全て代表者が決定し、国民はその決定に従うということになる。だから議会制民主主義には民主主義以外の制度が有するのと似たような支配される者、従わされる者の不快さ、違和感、苛立ち、不機嫌さのようなもの、あるいはいかがわしさが付きまとうのである。それ故、百%間接民主主義の議会制民主主義は漸次国民投票制などを採用していかなければならないはずなのである。だが、一方で議会制民主主義の下で政治的権力を掌握した者は、自分たちの決定権が矮小化されることを嫌悪し直接国民が政治の決定に口をはさんでくることを拒絶しがちになるのであるが、これは世の権力者とまったく同じ思考と行動にしたがっているに過ぎない。そのためにこれまでは国民投票制が議会制民主主義政治に導入されにくかったのである。ところが、この国民投票制について最近とみにその重さ、重要度合い影響力が大きく変化しつつある、と私は感じている。
その理由であるが、まず国民投票制の最強の反対者である自由民主党に小泉総理が出現し、彼が断行した昨年九月の衆議院解散選挙の自由民主党で大勝利の結果を収めたということを指摘したい。選挙は郵政民営化という政治課題に対して、衆参が異なった議決をするという結果を受けることで、断行されたもので、このような場合の対応に関する規則の内容とは別に、国民の真意をききただしたくなるのは当然であろう。そこで、小泉総理は選挙の争点を郵政民営化是非の一点に絞ることで、選挙を、単一の政治課題の是非を問うという国民投票の場に変え、無言の国民の意思を明らかにしたわけである。この結果、国民に国民投票の片鱗をしらしめることになり、また、国民が直接決定しても政治の阻害要因にはならないということを理解させることになってしまった。そしてなにより国民投票制の導入ということは同制度の推進派の勢力拡大に著効があることも証明することになった。小泉総理は期せずして日本の民主主義政治を前進させ、このまま間接だけでいくのか、直接民主主義的な色彩を強めていくのかという大きな分岐点に立たせることになってしまった。
以上のような認識でポスト小泉政権の継承問題を考えるとき、この小泉首相が開け放ったパンドラの箱がもたらした事実を各候補者は正確に評価し国民投票制を自家薬籠のものにし、それを現実の政治にとりこんだ者にこそ小泉政治を継承する正当な権利があることを証明するだろう。国民投票制は次期政権ノメインテーマになるほどの重要な政治課題になったのである。しかし、小泉政治にたいする恨みつらみは野党ではなく当の自由民主党のなかに渦巻いている。従って自由民主党はポスト小泉にニュー小泉をだすことはできないだろう。この限りにおいて自由民主党は凋落していかざるをえないはずだ。反対に憲法改正以外の課題についても国民投票制を採用するという民主党が小泉政治を継承することになるのではないだろうか。
〔第15章〕日本・核武装論
すべての国際紛争が、武力によらず話し合いで解決するという保証があるのなら、多くの日本人が恐れおののくような核武装論をいまさらながら説く必要はない。
しかし、ブッシュがイラクに攻め込んだように、あるいは北朝鮮の金なにがしが、何を気に食わないのか、東京を焼け野原にする、とおどして、自国のつごうの良いような問題の解決を図ろうとしているように、古今、話し合いではなく武力で国際紛争を解決しようとする国家や政治家は少なくないのである。
そして武力に当事者が意図する程ではなくともそこそこの問題解決能力がある限り、国家は絶えず保持する武力の性能向上と拡充にエネルギーを注ぐことになる。その結果、戦前の大鑑巨砲主義は航空機にとって代わり、更に航空機は核ミサイルに席を譲り今やその性能を競う時代になった。以上のような認識の下でわが国の防衛問題を考えるならば、当然であるが、日本国憲法がいかに武力の不保持を宣言しようとも、時に話し合いではなく、武器の使用または示威によって紛争を解決しなければならないことも想定しておかなければ十全なる国防対策をなしたとは言えないはずである。即ち、日本は時代にあった最強の武装を保持すべきだと考えるのである。
この点、妙に日本の政治家は優れていて、自衛隊は戦力ではないとか、憲法は自衛権を否定していないというような論外の論拠を持ち出して着々と武力の増強をはかってきた。しかし、現憲法下では流石に日本が保有する武力に制限をつけ、核による武装を日本独自にすることはできなかったのである。そこで、日本と米国の政治家や官僚はお互いの足らざるところを補うという狙いで日米安全保障条約を締結するにいたって、日本は核武装をせずとも、米国の最新最強の核の抑止力の恩恵に浴することになった。
日米双方にとってメリットのある日米安全保障条約の締結で、日米の関係は永遠に不動であり、日本の防衛は磐石の体制になり、めでたしめでたしと信じて疑わない日本人が多いのである。
この政治的な選択は核を持たずして核の抑止力を得るという背反する目的を同時に達成させるという意味で、一見すると日本にとって合理的であり有効であった。
だが、私は、日本が独自に核を保有せず米国の核の傘で日本を防衛するという考え方に対して、激しい嫌悪の情を抱くのである。
なんと卑劣で不真面目な、無責任な女々しい戦略を、わが日本は採用するのかと嘆かわしくもあるのだ。
人類の中で唯一被爆体験を有する日本民族として、いかに核の時代とはいえ、核で日本を守ということはしたくない、と断固核を拒否するというのなら分かる。この場合、核を保有するいかなる国家とも軍事同盟なども締結しない、というのならわかるのである。
もし、そうではなくて、核の悲惨さを体験したが故に、その威力を身をもって体験したが故に、日本こそ世界で唯一国核武装をする正当なる権利を保有しうる国だという考え方もあるはずだ。この場合日本は米国に頼ることなく堂々と自力で核武装をすべきなのだ。日本の責任において核ミサイルを保有し、それを管理するということのリスクと負担を受け止め、同時に核で他国を威嚇するというダーティな振る舞を抑制するという困難な体験を日本は積み重ねてこそ世界の大国の仲間入りが許されるはずだ。現在の日本はこの点からも間違いなく米国の保護国でしかないのである。
〔第14章〕日米安全保障条約の終了を通告せよ
考えてみれば、日米安全保障条約ほど敗戦後の日本の姿をながきにわたって拘束し続けているものはないのではないか。
国防という国家の枢要機能の根幹を戦勝国に委ね、委ねるだけでなく実際にその国の軍隊の駐留までも受け入れる。それも敗戦直後の数年ならいざ知らず五〇年以上にわたって継続し、今後もその駐留を廃止させようという国家的な意向が醸成される気配すら感じられないありさま。こんな屈辱的で嘆かわしいことはなく、日本が負けなければ決してこんな事態にはならなかったはずだ。
にもかかわらず、日米安全保障条約の効能だけをあたかも米国人になり代わったかのごとく得々と説く輩があまた存在する。腹立たしい限り
だ。彼ら親米拝米主義的売国奴の言い分はこうだ。
いわく安保条約があったからこそ日本が復興ができた、安保条約のお陰で日本の赤化が防げた、安保条約があったからこそ経済的な繁栄を手にしえた。安保条約があったからこそ外国の侵略を防げた、云々。
そうかもしれない。しかし、これは敗戦直後の、日本が廃墟から立ち上がった無力非力の時期のほんの数年間における効能であり、しかも、米国が日本を開戦に踏み切らせ、米国の思惑どおりに大陸から日本の勢力を排除しえたのであるから、日米安全保障条約で日本に配慮するぐらいのことは当然であり、そんなものに恩義に感ずるようなことではないと、私は思うのだ。反対に、今や改めて日米安全保障条約の効能や意義を問わなければならないのは、以下の日本の固有の安全保障に関する課題に対して、それがいかなる役割を果たしたかを親米拝米主義者に私は問いたいのだ。
1 北方領土問題
2 竹島問題
3尖閣列島問題
これらの諸課題に対して、安保条約は、あってなきがごとくで、なんの役割も果たしていないのだ。さらに言えば、安保条約は膨大な日本の土地を無償で使用し、その上一九七八年からは思いやり予算が計上され、近年ではそれが何千億円も計上されるようになっている。あまつさえこの度のローレス米国防副次官の発言である。
彼は4月25日の記者会見で在日米軍再編全体で日本側が負担する経費は約3兆円になるとの見通しを示した、と報道された。それを受けて日本側の反応も唐突感否めずで官房長官は「とんでもない額だ」といい、山崎拓氏は「2兆円ぐらいだろう」と間の抜けた反応を示した。
根回しもあらばこそで、何を根拠に3兆円だせなどというのか。日本を正常対等な外交相手とみなしていない、このような雑なやり方、無礼かつ不作法なやり方に日本側が怒りを露にしないというのはどういうことなのか。長引くイラク戦の戦費を肩代わりさせようとの魂胆丸見えで、今や米国の思惑で、人も物も、の負担ばかり増えて、日本には糞の役にもたっていない安保条約を維持したければ「米国よ、お前たちこそ日本の基地の土地の使用料を支払え」と要求してしかるべきところなのである。私はこれはいい機会だと思う。「今回の費用負担を一切拒否し、それが叶わぬ場合は安保条約を解消する」旨の通告を米国にすべきであると。日本はそろそろ安保条約は解消し、独自の自立した専守防衛戦略の採用を考える時期に来ているのではないだろうか。
自国を自力で守るという気概なくして国家の真の独立はあり得ないということを改めて日本人は思いおこさなければならないのではないか。
〔第13章〕民主党に与う書
赤ん坊でも一歳を過ぎると、自分が写った鏡を見て笑うようになるという。これは赤ん坊が成長して自己認識をするようになることの証左と言われている。
ところで、私は現在の民主党に言いたいのだ。己を鏡に写してみよ、と。おそらく鏡には余程の識別能力のある者でも判読できない映像が写っていることに驚かされるのではないだろうか。なぜそう思うか以下説明したい。
党首選の後、小沢新党首が「自民党への対抗軸を早く」などとマスコミで発言していたが、まずこのことが何よりも民主党の現状を象徴していると思うのである。いわば土壇場に追い詰められて対抗軸をなどと叫ぶことは、民主党には自民党に対する対抗軸が元々存在していなかったことを物語ることになり、かつ現在に至まで何も見つけ出していない、育てていないことを証明しているようなものだ。そして野党が与党にたいする対抗軸を有しないなどという事態は党の無能力と怠慢の象徴のようなもので、党員こぞって恥じ入って謹慎でもしていなければならない
のに、小沢氏は恥の上乗りというか、ばか正直というか、打ち出すべき対抗軸がないまま党首選挙に出馬し、あげく政権を奪うと言うに及んで、私は小沢党首、はたまた小沢党首のどこを根拠に選出したのか彼を党首に選出した民主党そのものも、混乱の極み、末期症状を呈していると思わざるを得なかったのである。
そもそも小沢氏に披瀝すべき具体的な対抗軸がないのなら党首選挙などに出馬すべきではなかったのだ。
もしあるのならそれを堂々と語って党員議員だけではなく広く国民に語って選挙戦を戦うべきたったのだ。しかし、だからといって末期症状の民主党に比較すればましかもしれないが自民党にしても、行政改革だけが売りでは、日本の将来にとって心もとない話なのだ。なぜならば、もし、小泉旋風の勢いにまどわされ、民主党も真の行政改革を、などといいだして自民党とせりあえば、どうせろくな成果は挙がらないだろうが、かりに挙がったとして、その結果がどうなるかといえば、どうなるものでもないのだ。行政改革をして後、何をするのか日本をどうしたいのか、が重要肝心なのではないか。行政改革はささやかな手段の一つなのであり、目的が語られなければ、われわれ国民は政治や政治家に何を期待していいのか戸惑うばかりだ。
古い時代を切り捨て新しい時代をひきよせる程の力を有しない日本の政治のポテンシャルエネルギーの低さを憂いざるをえないのだ。
ただいまさら言うのも遅すぎるがそもそも自民党に代わって政権交代ができる政党たらんとするが故に、重要政策に自民党と大差無し、という民主党の設立大義名分そのものが新しい政党の識別コードとしては全く役に立たないことに気がつかなかったことが不思議と言えば不思議だ。自由民主党と大差ない綱領や政策を掲げるのであるならば、小泉総理がそうであったように自由民主党の中の党内野党で充分で、あえて新党を創設する必要性も必然性もないはずだったのだ。もし民主党が存在価値のある真の政党になるためには、まず自民党で描けない新たな日本の国家理想像を掲げ、その理想像に一歩でも近づくための一連の整合性のある政策を考え出すことだ。しかしそういうことができないまま今日に至った以上、小沢氏は民主党を解党して旧自民党出身議員を引き連れ、頭を下げて自民党の軍門にくだって小泉行革の下働きでもした方がいいのではと申し上げておきたい。
〔第12章〕国会議員に立候補資格試験制度を
こんな馬鹿げた話はない。こんなバランスの欠いた話はない。
何がと、言って、国会議員になるについての資格を問う試験制度というものが存在していないことについてである。少なくとも、司法、行政への従事者に強いる以上の高度な試験がなければ、職責の重さからしておかしいと思う。
勿論、資格試験に合格した者全員が国会議員になるのではなく、合格者に国会議員に立候補できる資格を付与するのである。試験に合格してその上で選挙じゃ大変だ、と思う人もいるだろう。しかし、そう思う人に冷静に考えてほしいのだが、一体、国会議員に要求される能力というものについて、あるいは彼らに賦与された権能というものにちょっとでも思い至れば、現状の、だれでも、例えば政治的な能力のない有名なだけの漫才師、スポーツ選手、芸能人、あるいは国会議員の二世、三世等々が、あっと言う間に国会議員になれてしまうという現在の仕組みに対して、馬鹿げた、余りにも知恵のないやり方だと思うはずだ。
そこで、一体、国会議員にどの様な能力が要求されるのか、日本国憲法から拾い上げてみることにする。
まず、言わずもがなであるが、憲法をはじめとしてあらゆる立法に関する発議と法案の採否の判断能力。(なぜ、法の適用と解釈の適否だけを専業とする司法従事者に司法試験が要求されるのか)これだけで、十分に国会議員に要求される知見というものがどの程度になるか想像できるはずだが更に、国会議員は閣僚になるために、全行政に関する知見も要求される(日本国憲法73条)。また立法業務以外でも日本国憲法は国会議員に多くの能力を要求している。例えば、皇室の財産の処分に関する議決(第8条)、労働者の勤労条件に関する基準の決定(27条)財産権の内容(29条)、納税の条件(30条)、刑罰の条件(31条)、国に対する補償の条件(40条)、議員の定数(43条)、議員および選挙人の資格(44条)、選挙に関する諸規定(47条)、議員に対する歳費の内容(49条)、議員の逮捕の許諾(50条)、臨時会の召集(53条)、議員の資格に関する争訟の裁判(55条)、秘密会の開催(57条)、予算の決定(60条)、条約の締結(61条)、弾劾裁判所の設置(64条)、その他66条、67条、内閣の辞職(69条)、財政を処理する権限(83条)、課税の要件(84条)、国費の支出(85条)予算の作成と予備費の設定(86、87条)、皇室の経費の決定(88条)まだまだ終わらないのである。
どう考えても、並の人間には重すぎる権能と職責であろう。これを政治家として正しく使うには、計り知れない知的能力が要求されるだろうということは、子供でもわかるはずである。
選挙という制度で立候補者の表立った能力だけではなく秘められた能力まで計量できるというのなら、ことさら立候補者の資格を問う必要はない。しかし選挙では、国民は立候補者の学歴詐称すら見抜けないのが実情なのである。
試験制度が万能でないことはよく分かる。記憶能力の優劣が国会議員の能力の優劣には直結するとも思えないのだが、どうしても、その判断能力、創造性、発想力および立法に関する基礎的能力を有する者を議会におくるようにしていかなければならないのも事実だ。この制度の採用によって日本の政治は随分と様変わりするはずだと、私は期待するのである。
〔第11章〕国家安全省設立建白書
国家国民の安全に係わる組織は、防衛庁、警察、消防に海上保安庁がある。これらの組織は、常により高度な機能の発揮を期待されるのだが、天文学的な借財におわれる政府には、十分な予算を投入することあたわずで、担当者の間には苛立ちと諦めが横溢している。
以下国家安全の現況の一端を把握するために数字を列挙する。警察の人員と予算=二五万人/三.六兆円、陸海空自衛隊の人員と予算=二五万人/四.九兆円、消防署署員の人員と予算=一六万人/一.八兆円(この他消防団九〇万名)、海上保安庁の人員と予算=一.二万人/〇.一八兆円となる。 各人員と予算を合計すると、人員六七.二万人/予算一〇.四八兆円と、最新のデータではなる。
この約六七万人と一〇兆円強という数字を、増加させることができない以上、われわれはどうすればよいのだろうか、という問題意識を心ある政治家や官僚は抱いているはずである。もとより国民としては劣化していくサービスに甘んじるのではなく、状況のいかんを問わず生活の安全には常に万全を期し欲しいのだ。「金がかけられないのなら、金をかけないでもやれることがあるはずだ」というのが偽らざる心境だと、私は思うのである。そこで、国民の立場に立った私の提案を披瀝したい。
私は中学生のころから、火事がないときの消防、事件の無いときの警察、とりわけ戦争のない時の自衛隊は楽をしているなぁと思うことがあった。勿論、いまの私はそんなことは考えない。一朝事ある場合に備えて万全の態勢をとっている。ダラ〜ッと昼寝を決め込んでいるわけではないことは十分にわかる。しかし、そうではあっても、準備と本番では、その負担と緊張の度合いに天と地程の違いがあるはずだ。言ってしまえば本番でないときは暇といってもいいだろう。だとすれば、中学生の頭にも、例えば、戦争と地震と火事が同時に同じ場所で起こるのであれば別だが、そうでなければ、この国家の安全に係わる組織を、冒頭の国家安全省というような名の下で、一つの組織に統合してしまうことができれば、社会や国民のニーズの変位に応じて警察業務の比重を高めたり自衛の機能を自在に強化させることができ、その結果効率化は大幅に促進されるのではないかと考えたのである。勿論、各部門における専門的な業務については別仕様でなければならないが、国家安全省のもとでは、一人の現業の公務員は消防、警察、自衛、海上保安の業務のうち二〜三くらいの職務をこなせるようにするのである。そうすれば、六七万人の人員に警察業務を受け持たせ、暴力溢れる盛り場や学校に配置することもできる。犯罪や校内暴力は激減するはずだ。また海岸の念入りな監視を行えば、密入国者や密輸品の侵入を大幅に減少させられるだろう。戦時には一気に六七万人の常備軍を擁することになる。大規模災害にも臨機応変の迅速な対応ができるはずだ。だからといって、この組織統合によって教育訓練以外の特別な予算は不要なのだ。反対に四省庁の統合によって、間接部門は大幅に合理化ができ、更に現業部門でも人員の増加ではなく減員すらできるだろう。こういう統合的組織は世界に類がない。だからこそぜひ自由民主党には郵政民営化という特効薬の次の新薬の一つとして検討してもらいたい。なにせ日本には国家安全省の先駆けともいうべき武士団という多機能人間集団が存在していた事を思い起こせば、この考えの実現性が増すと思うのだが。
〔第10章〕衆議院・参議院統合論
参議院で否決されて廃案になった議案をあろうことか衆議院を解散して三分の二以上の議席を自由民主党が占めることで、見事に復活成立させたのが、昨年の郵政民営化に関する法案の成立経過である。この経過については、小泉総理の義経的采配の妙を讃えて一件落着とはならず、誕生のときから付きまとっていた参議院無用論を多くの国民に強烈に再認識させることになった。
私もこの機会に、改めて日本政治から盲腸のような参議院は廃止されるべきでありそのための安全かつ円滑な参議院の摘出方法について提言したい。
そもそも、全国会議員の三分の二以上の発議で憲法改正をしなければ参議院を廃止できないのであるが、
参議院を一気に廃止しようといっても殆どの参議員は賛成しないだろう。だとすれば参議院は永遠に廃止はできない。(参議院廃止に同意する議員を増やしていくという手もあるが)そこでどうするかだが、私は、廃止に逆行するようだが、参議院を廃止せず参議院をまず格上げすることを提案したい。具体的には参議院の一票と衆議院の一票の効力は同じとし同一の政治課題について衆参同時に審議をする。衆議院の参議院に対する優越は当然廃止される。議決は衆議院と参議院の各々の賛否の得票数を合算して決定するのである。
いいかえると参議院と衆議院を統合し事実上一院化するのだ。
こうすることに、少なくとも参議院の反対や拒絶反応は大幅に少なくできるだろう。次に十年程度の期間をかけて国会議員の数を現在の衆議院の議員定数程度まで減らしていくのだ。この間、首相の議会に対する解散権は停止させるものとする。
あらまし以上のようにすれば参議院の廃止のメドもいくらか立つのではないだろうか。
日本の敗戦後の政治で参議院が存在していて良かったなどという記憶は皆目ないので改めて申し上げるまでもないのだが、二院制の主な問題点について触れておきたい。
まず衆参で異なった結論を出した場合、原則として廃案にしているのだが、廃案にするということは、一つの雑駁な選択である。なぜならば廃案とする法案のうち本来ならば正式に立法化された方が国益に叶い、また国民も成立を希望するというものもあるはずである。このようなケースでは参議院は政治に無用というのではなく政治に障害となってしまう。(郵政民営化法案がその典型)またそこまでは行かない場合でも、参議院は衆議院に対する単純なブレーキの役割を果たしているに過ぎない場合が多い。政治にブレーキ機能は必要にしても、ブレーキの本来は外部組織にではなく衆議院自体に、アクセル機能とそれに見合う形で内蔵されているというのが筋で、その方が効きもいいはずである。また二院制で審議に慎重を期すという目的も本来は参議院に依拠するのではなく衆議院の審議機能、あるいは反対者、少数者の意見に耳を傾けるという民主主義の基本的な素養を議員みずからつけることでしか解決できないことなのである。また予算や条約、首相の任命など重要案件については衆議院を優先すると日本国憲法は規定しているが、これでは重要な政治課題については参議院の審議を不要と言っているのと同じことなのである。逆に衆参が同じ結論を出すことで法案を成立させるようになっているが、日本の国会をみれば分かるとおり、この方式では衆議院と参議院は同質化せざるをえないのである。同質化した両院制なんてこれ以上無意味な存在はないだろう。
〔第9章〕無用の少子化担当相
減量が必要な人間に、ご飯をすすめるというのは、明らかに間違いだ。そういう明らかな間違いを、政治は時にやってしまう。
例えば、少子化対策のための大臣という職責がある。
現時点で、小泉チルドレンの代表格、猪口氏が、正にチルドレンにふさわしいいでたちでわれわれの目の前に現れ、いかなる能力を評価されたのか、少子化対策担当大臣という重責を担うことになった。任命権者の狙いは正しく、また彼女の政治に対するエネルギーや情熱も抑えがたく早速「人口減少社会が迫り、少子化対策は待ったなし。各知事の役割は重要だ。国と地方が緊密に連携し少子化対策を最優先で推進していく必要性がある」と、都道府県知事らとのブロック会の初会合で強調した、とのこと。この報道を目にして、私は、日本の少子化を危機と捉え、大臣まで置いたということは大間違
いで、逆療法もいいとこだと思ったのである。なぜ、そう思ったのかと言えば、まずこの日本において、子化ということが、最優先で取り組まなければならない政治課題なんかではないと思ったこと。そしてなによりも少子化が悪いことではなく、むしろ望んでもそう簡単には叶えられない日本にとって天恵というべき現象であり、それを阻止するなんて最悪の策だという考えを以前から私は抱いていたこと。
人口を強制的に減らすことはできないことであり、この課題でへたをすれば、ナチスやポルポット政権の二の舞になる。疫病や天才や戦争ではなく人口の自然減は、これはだれでも容認できる現象なのだ。
少子化対策待ったなしどころか待った、と私は言いたいのである。
その理由について以下記したい。
ヌ政府はこれから日本に生まれてくる子供たちが成人に達する二〇年後に彼らを食わせていけるのか。即ち充分に職場を提供できる保証はあるのか。現在ですらニートをはじめとして中高年の失業者が溢れている。現在の対応が充分できなくて、二〇年後の手当て、保証ができるはずがない。
ネ同じく、食わせるという問題であるがこれは二〇年後ではなく、明日からの問題なのだが、政府は日本の食料自給率を考えたことがあるのか、ということだが、日本の自立的な采配で保証できる食料は四〇%しかなく、これから生まれてくる人間に充分な食料を供給できるという保証は無い。それにもかかわらず、産めというのは旧日本軍的ご都合主義の無責任な主張だ、ということ。また、食料だけではなく石油を始めとする様々な資源も日本は海外に依存している。この海外依存度の高い国家が人口減少を憂えるなんて、貧乏人が金庫の有る無しを心配するようなものだ、と私は認識するのだが。
ノ政府は口で言うほど公害とか環境という問題を真剣に考えたことがないと疑わざるを得ないのだが、地球環境にとって最大の敵、天敵は人間だ。人間が増えることは地球悪であり、地球に少しでも優しくありたいというのなら小賢しい環境対策などではなく世界中の国に対して人口を一〇%ずつでも減少させることを、提案すべきだと考える。
ハ年金が破綻する労働力が不足する、経済が沈滞化するなどいうことを臆面もなく公言することは恥ずかしい事だ。自分の年金を子供に負担させるなんて恥ずかしいことではないのか。年金も労働力も経済も当世代が自分たちでできる範囲で解決しなければならない課題なのだ。
以上私は少子化阻止ではなく中国のように促進するよう提案したい。
〔第8章〕存在意義が問われる象徴天皇制
*この章は月刊ヴェルダには掲載されませんでした。
内閣総理大臣の任は実に重いのである。だからといってその任にふさわしい人間がいつも総理の地位を占めるとは限らないのだが、それでも、余りに任に相応しくないと思われる人間がいつまでも総理の地位に止まることはできない。
それに対して天皇はといえば、生まれたときから天皇になることを運命付けられ死ぬまで天皇で、途中で辞めさせられることもない。
とはいえ、敗戦後、天皇の地位と権能はそれまでとは大いに異なって、完全に形骸化されて、日本国および国民の統合の象徴という、かさぶたのような役割を受け持たされることになってしまった。だから、天皇に統治能力など一切無用で、あたら頭脳明晰で政治の現実のいかがわしさを見抜いたり、俗人が気づかないような施策を生み出す能力などがあれば、かえって天皇の苛立ちがつのるだけで、むしろ無能力である方が天皇の職務を全うするのには好ましいということになってしまった。
ひどい話なのだが、天皇は自身の固有の意思を有してはならず、国事行為など、あってもなくてもいいような行事に強制的に参加させられて、その伴侶は男子を産めと無言圧力をかけられる存在になりはててしまった。おそらく、自尊心のある天皇ならば、今の自分の政治的な立場を考えて「いいかげんにしろ」と怒りたくなるのではなかろうか。だからいつの日か再び建武の中興を企てようとする天皇が出現するかもしれないとすら思うのである。
こういう張り子のトラのような役割を演じさせられるのが、一時凌ぎで、自分だけで終わり、息子や娘の時代になれば、もうすこし増しな役割をはたせるのではという希望が持てるならば、まだ我慢もできよう。しかし、国民の総意によって天皇制の全てが決定される旨の記載がある日本国憲法には、天皇に希望をいだかせるような条文はない。
私は、二千年の伝統を有するといえども、天皇制は天皇の宣戦布告で開戦し敗戦で終わった太平洋戦争の責任をとるという意味で廃止されるべきであったと考えるのだ。それは日本の歴史的な観点から考えても妥当であった、と思っている。
なぜならば、戦国時代の大名どうしの争いで敗北した大名が眷属を含めて廃絶されてしまったように、またかって徳川家がそうであったように日本国が完膚無き敗北を期したからには、日本国を率いた天皇家は天皇制の廃止という形で責任をとるべきであったのだ。しかし、理屈としてはそうが、一方で当時の軍部と軍国教育をうけた無辜の民にとって天皇制に対する執着心拭いがたく、天皇制が一挙に消滅することへの抵抗と恐怖心が強く、象徴天皇制はそれらの感情を和らげる役割は果たしたのも事実だ。だから天皇制は敗戦後も生き残ったのだが、今や戦後60年にして、象徴天皇制が実質的に日本の政治に重要な役割を果たしているのであれば別であるが、天皇自身にとって不快極まりなく、また民主主義国家の国民にとっても不自然かつ無用な象徴天皇制という制度はきれいに清算すべき時期にきているの
ではなかろうかと、考える。
天皇家は政治の場から離れて、本来の日本神道の宗家として人類愛を説かれ、そういう天皇家を愛し慕う者たちによって天皇家が護持されていくようになればいいのである。政治などという人間の欲望や悪意だけが奔出しがちな世界に天皇家のような聖家族を巻き込むべきではないのだ。男系天皇か女帝かというような論議が喧しいが、もっと根底から日本の天皇制を考え直すべきではないのかと思う。
〔第7章〕リメンバー パールハーバー
善し悪しは別として、戦前の日本は満州を事実上の支配下におき、中国の奥深く侵略していた。また朝鮮半島、台湾、南樺太、対馬列島を領土とし、南洋諸島を統治していた。
日本はアジアにおける最強の国家になっていた。これに対して、中国大陸に並々ならぬ関心を抱き、隙きあらば日本に取って代わり、アジアはもとより、世界の覇権を握ろうとしていたのは米国である。
米国にとって戦前の日本は目障り極まりない存在であったろう。この石油ゼロ、工業生産力は自国の一割以下の、戦えば絶対に勝利すると思える日本をなんとしても叩こうと米国は、日本との開戦の機会を窺っていたのだ。(オレンジ計画情曹P897年)米国には対日戦に関しての懸念は無かったのであるが、ただ一つ、日本に戦争を吹っ掛ける大義名分が無かった。そこで米国は狡猾というか当然というか、日本に先に手を出させるべく着実に手を打ちだしたのである。この時、実に米国だけが日米開戦のイニシアティブを有していたのであって、
日本は米国の意図を挫くような有効な対抗手段はとれず、開戦へとひきこまれていく。1941年、米国は在米日本資産を凍結しさらに屑鉄を禁輸し遂には石油を禁輸し、とどめにハルノートをつきつけ、中国大陸から日本軍を引き上げよ、と通告するに至って、日本はパールハーバーに突進という仕儀になったわけである。
この間の対米交渉に関しては米国は日本の外交電報を解読していたというお粗末な話も戦後明らかにされている。(こういう事実こそ、日本の子供たちに正確に伝える必要があるはずだ)結果は悲惨で、日本は300万人以上の人命と明治維新以降獲得した全領土を失った。そして敗戦の傷痕は60余年を経過して後、未だに完全には癒されることなく、北方四島はロシアに、竹島は韓国に占領を許したままである。更に国内には米軍と膨大な米軍の基地の存在を許し、まるで独立国の要諦をなしていない状況が続いている。しかもその米軍のために年間何千億円の思いやり予算を献上するにおよんでは、日本は敗北主義も極まったと言わねばならない。更に敗戦は日本人から超大国としての矜持と自信を失わしめることになった。日本にはご主人様の言いつけに忠実な犬か、虎の威を借りる狐のような覇気のない親米主義者が跋扈することになってしまった。
今日の今日とて、夕刊に目を通すと、ブッシュの訪日を受けて「日米強固な同盟確認 イラク派遣延長へ」とある。(11月16日日経新聞一面見出し)日本が自衛隊をイラクに派遣しなければならないという必然はどこにあったのか。米国のいいなりだ。イラク侵攻は大義名分なき侵略戦争ではないか。大量破壊兵器はどこにもなかったのだから。そもそも、大量破壊兵器なんてイラクになかったのだ。米国は「無い」と確信したからこそイラクに攻め込んだのだ。もしあれば、いきなり武力侵攻などしないはずだ。
かくして戦前戦後、日本は米国にはめられて、いまだ目覚めずだ。
私は太平洋戦争の顛末を考えたならば、米国ではなく日本こそ、毎年12月8日に、二度と、してやられるようなヘマはしないという自戒と警告の意味をこめて“リメンバー・パールハーバー”と言うべきだ。そして一日も早く敗戦後体制が日本にもたらした傷を癒さなければならないのだ。しかし軍事、経済面で米国に完全に依存している現状を考えればことは簡単ではなく、嫌いな奴にも好きだ、と言わなければならない場合も日本にはあるということも私はわかる。日本は切ない国なのだ。
〔第6章〕文化勲章の偉大なおかしさ
アインシュタインとピカソは、ともに天才ではあるかもしれないが、それ以外のことで取り立てて共通性を見いだすことは、私にはできない。一人は科学者であり、他は芸術家であり、その天才の発揮された分野が違うのであるから、才能に共通性を見い出せないのは当然だと思う。
ところが、日本人というか日本という国は凄い能力があって、この両者に共通性ありとしてしまうのだ。
その表れが文化勲章である。
文化勲章は、科学者の湯川秀樹と版画家の棟方志功や小説家の獅子文六を同じ勲章で顕彰するのである。
さらにいえば、特例とはいえ、元内閣総理大臣の佐藤栄作にまでも授与してしまうのだ。一体、文化勲章とはなんぞや、と私は思う。
科学は時にその業績に「芸術的」という表現が与えられることはあっても、科学と芸術とは本来全く別物である。それに同じ勲章を授与し、位付けをするなどということは、やってはならないことであり冒涜とすら思う。だとすれば、せめて科学者や技術者を顕彰する制度と芸術家や工芸家を顕彰する制度(これは不要なものだと思うが)は完全に別建てにすべきだと考える。
因みに、文化勲章候補者推薦要綱によると、候補者は文化の発達に関し勲績卓絶な者を文化功労者のうちから選考する、とある。
この文言を理解することは難しいことではない。だから芸術も科学も文化だと考えるならば、科学者と芸術家が文化勲章で顕彰されても不自然ではないかもしれない。しかし、日本が国家の意思として個人に勲章を授与しようとする時、その対象は自ずと決まってこなければならないはずだ。即ち国家の必須の必要性に応える人物、案件に対してこそ顕彰されるべきであると、私は考える。
そもそも芸術的価値観はすぐれて私的な判断に委ねられ決定されるべきものであって、国家や集団や他者の強制、示唆、認知などに依拠する
ものではない。だとすれば、芸術や工芸が日本国の目下の必須の必要性でないことは明白だろう。
ここで言う国家の必須の必要性とは、例えば軍事力が国家の命運を決すると考えられる時には、軍人を特別に奮い立たせる勲章制度が用意されていた。従って、今の日本が国家として何が最重要なのか、という問題意識の内容によって、勲章制度の対象が決定され運営されるべきである。この点で、文化勲章は科学者と技術者を対象としている部分で、現在の日本においては存分の存在価値がある。しかし、芸術や工芸を取り込んだことで、存在意義やその価値が不鮮明なものになってしまった。
日本の存亡に不可欠の食料や資源を輸入できるのは、日本の企業の輸出競争力が優れているからであり、その競争力を維持し発展させるのは理科系の科学者と技術者なのだ。しかも、彼らの知と汗が、もしかしたら、日本の海外依存度を劇的に軽減化させ日本を自立させるかもしれず、同時に、人類の未来に決定的な役割を果たすはずである。だから日本は科学者と技術者を一段と優遇しなければならないのであり、そのためにこそ勲章制度は寄与しなければならないのだ。私は新しい日本の国家目標として本連載で『自立・抗不安国家の建設』を提唱してきている。
このような問題意識を保持してはじめて現在の文化勲章の存在のあやしさと制度設立者(昭和天皇)の恣意に気づかされるのであり、それ故日本は何よりも明確な国是の設定とその国是に基づいた統一された諸政策の再構築が急がれていると、私は認識するわけである。
〔第5章〕国是の必要性
およそ、この地上および天空にあって引力の影響を受けないものはない。引力があるからこそ万物の重量が発生し、その軽重の差が識別できるのである。
ところで、私は政治という非物理的な領域において、引力のようなもの、それはあらゆる政治的な作為、不作為と政治的な判断、思考の正誤、優劣、軽重等の違いと差を、簡明直截に我々に呈示するはずである。
だとすれば、それは単に国是とも国家目標とも言い換えてもいいかもしれないのだが、いずれにしても政治というものを評価する絶対的な基準のようなもの、こういうものが政治に存在していなければならないはずだ、と考えるのである。このように考えて、現在の日本の政治を俯瞰するならば、国是も国家目標も評価基準も存在していないと断言しても間違いではあるまい。当然であるが、国是、国家目標なき日本に、近未来の理想とする国家像も存在していない。舵のない船のようなものだ。
だから今回の選挙で与党が衆議院の三分の二以上の議席を占めた、という現実を前にしても、小泉総理の郵政民営化は実現されることはわかるけれども、この巨大化した与党の権力をもって、日本をどうしようとするのか、われわれは勿論のこと、当の自由民主党の代議士たちもわからないはずである。
ところが、かつて善し悪しは別として、植民地化をおそれ近代国家に脱皮しなければならなかった時の日本、米国と戦争していた時の日本、敗戦の廃墟の中で飢えた何千万人の国民を抱えた日本、このような時には、絶対的とはいえないまでも、政治には評価基準の機能を果たす国是はあった。それは「富国強兵」であり「八紘一宇」であり「撃ちして止まん」であり「食料増」であった。国家が危機意識を持ったときに国是や国家目標は設定されやすい。反対に現在の日本のような状態では国是にすべき政治的状況は、余程目をこらさないと見えないことも確かである。しかし、だからといって、国是やその実現のための諸政策の貢献度合いを計測するための統一的な基準が存在しない現在の日本の政治を、このまま放置しておいていいわけがない。勿論、国是なき政治というものも無いわけではない。但し、このような政治は表層に出現する病状への対処療法を施すことであって、そのことが政治の目的になってしまっては、政治は浅く軽いものになり、政治の可能性を矮小化させてしまうのである。あるいは政治を私利私欲の発露と調整の場と化してしまうはずだ。国是は全ての政治課題を支配するのである。だからこそ、国是が高々と掲げられた時には、例えば負けはしたけれどもまた一定期間ではあったけれども、小国日本をして全世界を相手に、戦争を遂行させるまでの能力を発揮せしめることができたのである。
勝利にわく小泉政治あるいは小泉後継政治が、心して取り組まなければならない政治課題は、21世紀の日本の国是ないし国家目標を作成し国民に呈示することに他ならないはずである。国民も逆提案をしなければならないのである。
米国に食料と軍事力を、中東に石油を依存している国家の基本課題は鮮明すぎるはずである。日本は自立していないのだ。これらは国力を傾けても解決するかどうか分からない難題である。こういう難題に日本はどう対応していくのかが、私の国是を考える前提であるのだが、自由民主党でも共産党でもいい。願わくは私と同じ問題意識を持って政治に取り組んでもらいたいものである。
〔番外編〕亀井さんへの公開質問状
別コーナーに掲載しました。
〔第4章〕小泉首相頑張れ!
「衆議院で郵政民営化に努力してくれた人々を路頭に迷わせていいのか」と、森元総理は小泉総理の衆議院解散を思い止まるように掻き口説いた。(8月6日) 森元総理は「日本は神の国」「選挙民は寝てくれればいい」発言など、政治的感性が疑われるような発言を短期間に繰り返し、挙げ句自由民
主党を崩壊の瀬戸際まで追い込んでしまったトンデモ総理である。 「ああ森元総理は変わっていないなぁ」と私はこの報道に接したときに感じたものである。
誰にとっても路頭に迷うことは深刻な問題である。しかし、我々一般人の路頭といやしくも国会議員の路頭の問題は自ずから質も次元も違うのである。もし自分たちの路頭のことを考えて郵政民営化の賛否を決するようなことがあれば、それは政治を私物化していることに他ならない。そして政治家が政治を私物化するということは、民主主義の形骸化に直結するのである。
郵政民営化の是非は、民営化以外の全ての政治課題がそうであるように、あくまでも国益を第一にしてかつ唯一の判断基準にしなければならないのである。政治家の路頭など次元の異なる話を持ち込んではならないのだ。
しかし、嘆かわしいことではあるが、政治というものが、人間によって主導されるために、路頭の問題だけでなく問題の本質から遊離した要因、例えば政治家間の義理、好き嫌い、しがらみ、貸し借り、虚栄、見栄、嫉妬、怨念、保身などで政治の行く末が決定されることも事実なのである。(政治家は否定するだろうが)だからこそ理想に過ぎるにして も、政治家は自身にまとわりつく不純な要因や動機を取り除いて、政治課題そのものに集中、対峙するように心しなければならないのである。
この点、小泉総理は森元総理に「自分は非情と思われてもよい。解散の決意は変えない」と言ったと伝えられている。この総理の言葉は期せずしてではあったかもしれないが、解散の理由を郵政民営化について国民の信を問うと宣したことで、郵政民営化問題からとりあえず全衆議院議員を排除することになり、その結果として郵政民営化問題を純化することに成功したのである。
即ち解散で国民の前に問題を差し出し、真の決定権者である有権者に決定させるという措置は彼の政治家としての非凡さの表れであり、日本の民主主義政治を確実に進化させたものと私は評価するのである。「小泉総理頑張れ」と言いたくなる所以でもある。それを言うにこと欠いてバカ正直にも「恫喝だ」などと、郵政民営化反対派の議員が小泉総理に反発をしていたが、これは改革に反対するという恥に更に恥の上塗りをしていることになるのである。
参議院で否決されてもなお法案の成立が日本国のためになると総理が考えたならば、日本国憲法に従って現在の参議院の効力を無効化できるように、賛否五差の衆議院を解散して改めてその三分二以上の賛成で同案が可決されるような衆議院の構成を求めるというのは政治家としての
良心と誠意の表れであるとも私は考えるのである。解散は狂乱でも、暴挙でも横暴でも自爆でもない。
国民はイライラしていたと思うのである。重要な政治課題に関して、全部政治家が決めてしまうという戦後六十年間の政治に。だから今度の衆議院の解散によって、はじめて重要な課題の決定に選挙を通して係わる機会が与えられたことを国民は喜んだのだ。郵政民営化反対論者は国民の心情を読み違えてはならない。
〔第3章〕郵政民営化反対論者は自立(抗不安)国家創設の敵だ
一体、郵政業務を民営化することなど、改革という名に値するものか、という疑問を私は呈したいのである。少なくとも徳川幕府を倒したり、天皇制を廃止したりするような話ではない。難しいことなど何もないのである。仮に、民営化してその成果があがらなければ、元に復せばいいだけの話である。
100年以上にもわたって郵政事業は官営であった。積年の官僚主義の弊害が累積しているに違いない。前例主義、悪平等、無責任、事なかれ主義等が染みついていないはずが
ない。また、郵政を巡る重篤な官民、官官の癒着関係が出来上がっていないはずがない。
私は、鉄面皮で非論理的な詭弁を弄し、日本国憲法の精神を踏みにじり米国の戦争に手を貸した小泉首相には、いいかげんにせよ、と言いたい。しかし、官制の郵政業務の欠陥に注目して民営化を長年にわたって叫んで、その実現に奮闘していることは評価すべきだと思っている。
民営化したならば、僻地に手紙が配達されないかもしれないなどと反対する者もいるが、全国紙の新聞を見てみろと言いたい。日本全国新聞が届かないところがあるか。(一層のこと、既存の郵便事業の組織を官民いずれの場合も廃止し新聞社と運輸業者に委託してもいいはずだ)
私は、日本国が自立国家になるための様々な提案をしていこうと考えている。しかし、そのことごとくが容易に実現できることではない。英知を有し勇断を下すことができる政治家や官僚がいて、はじめて成しえることなのである。
例えば、国家予算について。
予算が無いのなら別である。そうではなく現に、研究費として政府負担分約3兆4千億円(2003年度)を支出しているのである。自立国家創設となれば、この予算を例えば、倍増させるべきだと考えるのだ。
その財源として、防衛費やODAや年金を削り、一方で増税や新規国債を発行することも考慮しなければならないのだ。しかし、防衛費を半減するとなれば、防衛費に巣くう族どもによって私は殺されるだろう。
郵政民営化に反対している暗愚な変化拒絶症の存在価値のない政治家が、研究費の倍増などという荒事をやりとげることができるだろうか。
更に例えば、自立国家の直接の担い手である研究者である。現下において人員は2004年で、政府研究機関で約3万4千人、大学で約28万人存在しているのであるが、これもできるだけ増やしたい。そしてできれば人件費は抑えたいとなれば、公務員の数をやりくりしなければならないはずだ。そこで、私は以下のことを提案するのだ。
自衛隊と警察と消防、それに海上保安庁を一体化し、国家安全省を新設するのである。専門性の高い職種は別として、国家安全省の職員は、一人で国防、警察、消防業務をこなせるようにするのである。そうすれば、自衛隊員が駐車違反を取り締まったり消火活動に従事し、その上国防に齟齬もきたさないというようなこともできるのである。あるいは平時であれば国家安全省の職員を学校に派遣して校内暴力を排除することもできるだろう。かくして、国家安全省の創設は一体化前の各組織の不足、欠陥を十分に補填しながらその上、総体としての公務員の削減も可能とするだろう。その削減分の費用で研究者を雇うこともできるはずである。しかしこのような行政組織改革を、今の政治家がやれるだろうか。自立(抗不安)国家を建設しようとした時最大の障害となるのは、政治改革推進の主体となるべき政治家や官僚たちになるということを今回の郵政民営化騒動は雄弁に物語っているように私にはみえるのである。