日本の鈍い総理たちへの言伝

究極的民主主義研究所所長
慶応義塾大学大学院講師
武田文彦

 鈍い絵描きが絵をかいた、という。
 どんな絵ですかと問うと、言うにこと欠いて「美しい絵だ」との返事。
 絵描きが自分の絵を数ある言葉の中から“美しい”を選びだして表現するセンスというものを私は疑うと同時に、美しいと聞いた途端に彼の絵を見る気もしなくなるのだ。
 勿論この段階ではどんな絵が書かれ、それが美しいのか美しくないのか私には全く分からないのは当然である。

 次に、絵描きが作品を持参して私にしつこく鑑賞を迫るのである。
 ここではじめてその絵の出来ばえを嫌々ながらも判断できる段階になる。
 絵描きが美しい絵、と言う以上、その絵の美醜を判定できる段階にはなる。
 しかし、段階にはなるが、絵の美醜に決着がつくかといえば、それはたとえ作品を眼前にしても決着はつかないのである。
 なぜかといえば、もともと絵の美醜についての判断基準というものが存在しないのである。基準がなければ判断できるわけがないのは当然である。

 わたくしたちはいろいろな物に対して美しいとか美しくないという感懐を抱くわけだが、いわゆる美意識というものは本来きわめて属人的なものであって、美意識をめぐって他者との間に真の共通認識を持ちにくいものである。
 当然、自分が美しいと思うからといって、それを他者に押しつけられるものではない。自分が美しいと感じて、また他の人もまた美しいと感じるか感じないか、何れにしてもかりに美しいと思っても、自分の美しいと感じた感情と他者の感情は表現としては“美しい”で同じではあるがその内容を比較できないのだ。
 さらに美に対する感懐というものは人間の感性の振幅、共鳴に依拠するものである。それ故、言語と論理をもって美を語るということがまずできないのである。正に感覚と論理の違いを処理する人間の頭脳の部位が違うのである。
 だとすれば実際には“美しい”という形容詞は安易に使われるけれど、意外と難しい言葉だといわなければならない。他者に同意と賛意を求めるために、“美しい”ですねと言っても結果としては自分の思いを補強し納得させるためにのみ“美しい”は使われているのだ。

 だから仮に、その“美しい”という言葉が、言語と論理を主要な媒介として成立する政治、とりわけ多数の人間の共通認識と合意の上に成り立つはずの民主主義政治を飾る言葉として使われた場合は、その“美しい”は最も不適な言葉だということが分かるはずだ。 “美しい”という言葉はおよそ言葉として付与されている最低の機能すら果たしえないはずなのだ。

 自由民主党の若き期待の星、安倍官房長官は、自分の政権構想の前触れとしてよりによってというか狙い定めてというべきか、この“美しい”という言葉を使った文字通りの「美しい国へ」という本を著した。
 美しい国へと彼が表現した場合の国という言葉はそのまま自分のなさんとする政治と同義と理解しなければならないと思うのであるが、そう思えば、私はかってこれほどタイトルと内容の異なる著書を目にしたことはない。正に、美しいという修飾語が全く機能しないのであるから、この「美しい国へ」は単に「国へ」というタイトルというのと同じなのだ。政権構想でただ「国へ」じゃ、一瞬に回りの空気が無くなってしまったような気がするのだ。私の読後の違和感のようなものがお分かりいただけただろうか。

 国が美しいとはどういうことをいうのか。新書判232ページを費やして語たるに語ってはいるが、読んでも美しいなどという感懐を些かも抱くことはできなかったのである。あえて邪推をするなら、安倍氏は自分のやろうとしていることの本音とか底意を気取られないような形で政権構想を発表しなければならなかった為に、当たり障りのないと勘違いをして“美しい”という言葉で構想を包み込んでごまかそうとしたのかも知れない。
 しかし、それは見事に失敗で “美しい”と書かれたから何でも美しいと感じるかといえば、決してそんなことはないのである。内容とタイトルの違和感だけでドンと反発を食らってしまうはずだ。
 そんなものではなく彼は一種の芸術家気取りで“美しい”という言葉を使用し、あげく実に自分の政治家としての見識の低さ、デリカシーの無さを見事に露呈させることになったと、私は思うのだ。更にもしかしたら、自分が仕えた小泉総理にならって、敢えて“美しい”という言葉を使ったともおもわれるのだ。というのは、“美しい”という言葉を先につかってしまうことで、政権構想の内容はどうであっても、とにかく“美しい”という言葉を専有してしまえるのだ。“美しい”国に反対するということ、ケチを付けるということは、汚い方がいいのかと、言葉上で逆襲されることになってしまうのだ。
 それは、「行政改革・郵政民営化」と言う小泉前総理に対して、行政改革に反対出はなくて、小泉氏の行政改革・郵政民営化に反対をするということを言いたくてもっといい改革や民営化があるという反対提案をしても、反対=行革そのものに反対しているとすりかえられてしまい追い詰められたのと同じことなのである。
だから、横道にそれるが、“美しい”といってくる戦略に対して、野党が対抗するには、美しくないと反論するのではなく、例えば“やさしい”というような言葉で対抗すべきだと思う。“優しい政治”と言ってしまえば、今度はこれに反対となれば、優しくない政治でいいのか、と小泉安倍戦略にレトリックとしては対抗できるはずだ。
 何れにしてもベストセラーになっているらしいが、売れるからいい本だという考え方もあるが、この「美しい国へ」は少なくとも本のタイトルとして失敗であったと思う。

 さらに、美醜にこだわって内容に触れるならば、私の読後の感懐は、美しいという言葉が与える感じとは正反対の感覚を味わったのである。
 安倍氏が吐露した日本国への思い、例えば日米の関係をより強固なものにするとかナショナリズムの有り様を説かれても、また教育を再生すると言われても、それがどうして美しいと言えるのか、と思うばかりなのである。米国の指揮の下に日本人の命と戦費を捧げるリスクを大きくすることがなぜ美しいのだろうか。また天皇制について「ほんの一時期を言挙げしてどんな意味があるのか」と安倍氏は言うのだが、「ほんの一時期を言挙げすることを批判することの意味はなにか、言挙げしないことの意味はなにか」と逆に、聞きただしたいのである。
 天皇制と私有財産制を守るための治安維持法を楯とする官憲によって共産党員が殺害されたのは想像上できごとではなく現実なのであり、何千年も昔の話ではないのだ。天皇制の有する危険性について目をつぶり統治体系の中に遺伝的形質のみを拠り所とする天皇をいだくことの危機意識を抱かないどころか、批判がましいことをいうような人間にいかりをぶつけるような男が政治を支配したならどんなことになるのか。少なくとも思想・人権の自由というものに十全な配慮が行き届いた政治ができるのか、そういう危惧の念を私は抱いたのだ。

 安倍総理が私が汚物のようなものやがらくたのようだと感じるものを「美しい」と思うことは勝手である。それはかれ独特の美意識であって、私的なものとして内に秘めている限りは文句の付けようはない。そうではなくそれを総理大臣の政権構想という形で一般に公表して、どうだ美しいだろうと言われてはかなわないのである。
 政治家が政治に美を求めてそれに第三者の賛意を求めるというのは稚気でしかなく、いい大人のする事ではない。さらにその事に賛意ではなく人々に美を強制するような例が歴史上に無いわけではない。ヒットラーは絵描きの成り損ないであったし、近所の金成日はえらい芸術に関心があるというではないか。かれらはみんな見事な独裁者だ。
 勿論政治家として自分の美醜とは関係のない政見構想を国民に発表することは民主主義政治の重要な条件の一つで、それは政治家の義務といってもいい。もしそういうものを発表しなければ、かれのなす暗黒政治のサインとみなせる程の事態であるが、その構想が美しいか美しくないか、決定的な評価はありえないにしても、どうしても美しい、美しくないということにこだわった言い方をするのであれば、そのことを口にできるのは当事者の政治家本人ではなく、第三者、即ち国民であるはずだ。
 絵描きが自分の絵“美しい”といったら第三者は介在できないはずだ。言わせなければならないのだ。
 あまり確固たる理由もハッキリせず、70%を越える支持率が安倍内閣にはあるということに違和感があるところにもってきて、この怪しげな「美しい国へ」だ。
 私は安倍総理の出現は小泉総理の采配の結果であり、このことは彼のキャリアを大きく傷つけることになると思っている。総理大臣たるものもっとまっとうな政見を発表できないのかと思うのだ。
 日本の政治の表層部だけではなく深部までいきとどいてなお時系列的にも相当の先まで見通せるような、歴史に残るような政権構想を披瀝できないのだろうか・・・・・。

 ここまで考えて、ふと以前から同じことを思っていたことに私は気がついたのである。おかしく腹立たしいのは安倍氏の「美しい国へ」だけでないのである。
 最近の日本の総理大臣たる者が、人材払底とはいえ、いくらなんでも総理大臣ともなれば、我々を少しぐらい感心させるような言葉を発するはずだという期待もあらばこそ、最近の日本の総理大臣はことごとく、その地位にあまりにもふさわしくないというか、わけのわからない、非論理的なこと、政権構想を総括するには相応しくないことを声高に叫んできた、ということに酷く落胆させられてきたことを思い出したのだ。
 このことで、安倍総理の出現によってもはや自由民主党の遺伝になってしまったのかもしれない。
 というのは、かつて“美しい国へ”に勝とも劣らない不適当な言質を弄した自由民主党の総理大臣がいたのである。
 皆さんは大方忘れておられると思うが、例えば「富国有徳」という言葉を思いおこして頂きたいのである。この言葉を自分の政見のキィワードとして堂々と発表したのが故小渕元総理だ。
 この富国有徳も私の神経を逆撫でさせたのだ。なぜか。
 一見しただけでは、“美しい国へ”がそうであるように富国有徳もなんの問題もないように見えるのだ。しかし、今でもそうであるが、小渕元総理が富国有徳を叫んだ時の日本は、年間の自殺者が何万人もいて失業者が溢れていたのだ。さらに日本にとって最も大切な食料とエネルギー資源の大部分を外国に依存していて自給などできないという“危ない国家”であった。生殺与奪の権を外国ににぎられているのである。
 この日本の当時の状況認識を小渕元総理は富国といってしまったのである。
 日本は当時も今も絶対に安心立命の富国なんかではない。だから、日本の政治に関して富国という言葉が前提になっては、その後に続く言葉、有徳やそれに似たようなどんな言葉をもってきて、何かを表現しようとしても辻褄が合わずかつ論理が成立しなくなったのである。富国有徳なんて空中で分解してしまって落ちてくる残骸みたいなものなのだ。勿論、どこから見ても日本が富国の状態になって有徳を説く、というのなら順序としてはいいのかもしれないが、この現状認識の問題だけでなく有徳という言葉もまた驚くほどの問題をかかえていたのだ。
 まず、有徳であれかし、と話しかけ呼びかけた相手が、施政方針で言い放ったのであるからして、間違いなく国民にを対象として、国民に有徳であれかし、とぬけぬけと説いたのだった。これがまず問題なのだ。
 人間というものは何万、何十万年も集団生活をしてきて、なんとか多くのひとびとが意心地のよい安穏とした生活ができるようにと試行錯誤をくりかえしてきたのである。にもかかわらず、些細なこと、重要なことで、人々はかぎりない闘争を繰返し、挙げ句殺し合うなど多大な犠牲を払ってきたのだ。その時、人々は人間に、徳と言ったかどうかわからないけれど、なぜ自分のことより他人のことに思いを馳せる心根のようなものを抱けないのか、と慨嘆したはずだ。それをくりかえしてきたはずだ。そういう思いが集約されて徳という言葉になってきたのだ。そしてその概念が明確になって、人々が徳を備えなければならない、というコンセンサスあるいは徳を備えていればと願望を持つようになったはずだ。そういう事実は例えば中国の古典や宗教書を読めば分かるはずだ。
 しかし、今の我々、あるいは世界中の人々をみていればわかるはずだが、我々は有徳であるか。政治家や官僚諸君は有徳であると胸をはれるかといえば、違和感や距離感のある感懐を抱かざるを得ないだろう。あの人は徳を備えた人だなんて言える人はまずいないのだ。わたくしたち人間は要するに時間をかけても徳を身につけることができなかったのだ。もしかしたら永遠に徳というものを身につけることなどできないのかもしれない。
 この課題は難しいということをわたくしたちが身をもって証明しているようなものだ。逆にもし人間がみな徳を身につけたなら、人類の不幸派7、8割も消滅してしまうのではないだろうか。また人間みな徳を身につけば恐らく政治というものはこの世から必要無くなってしまうのではないだろうか。
 そういう人間にとって究極の課題を、この今という時に日本の俗人代表の総理大臣が施政方針演説で語るということを考えてみると、もし、自分だったら、「ふふ富国〜〜」といった途端に赤面して途中で壇上をおりてしまうだろう、と思う。今回の小渕元総理のように人が喋っているのを聞けば、吹き出してしまうのだ。「こいつ馬鹿か」と私は小渕元総理のことを思ったのである。

「徳を身につけよ」などという言葉は政治家が口にだすような言葉かと思う。せめて孔子や釈迦にしてはじめて人に説くことができる程の大きなテーマなのだ。
 しかし、政治家が言いたくなるという気持ちは十分理解できる。自分たちに徳が無くても国民に徳があれば、自分の思いのままに抵抗も反抗もせず国民は素直に従うだろうと政治家は考えているのだ。
 いずれにしても富国でもない、また有徳なんて政治課題にはなりえない、こういう目茶苦茶のダブル熟語、富国有徳を小渕元総理は施政方針でも私的なあつまりでも説くに説いたのだ。
 小渕元総理の活躍した当時の日本の政治の場において、そして今でも、未来でも、富国有徳ということが重要な課題ではなかったはずなのだ。
 ということは、安倍総理がそうであるように小渕元総理の日本の政治に対する問題意識、危機意識がいかにピントはずれだったか、がわかろうというものである。

 ピントはずれ総理列伝では主役を迎えることになる。
 森元総理である。これがまた凄いのだ。
 語るに落ちたというべきなのだが、森総理は日本国民の目はふしあなではなく、かれの政権末期には自由民主党の支持率が6%を切るほどに貶めた総理だが、こういう数字は並の無能力ではなかなかできるものではない。かれのマスコミを通して伝えられた有名な言葉の数々、例えば、日本を「神の国」と言いまた「国民は投票に行かず寝てくれればいい」と言い放った総理だ。にもかかわらず派閥の長を長く務め、小泉総理が相手にもしないという場面を万座で示しながらも小泉総理の後見人を気取った男。「辞める辞める」といって辞めず同志の顰蹙をかっている男。彼などは政治家ではなく政界に居すわる完全なピエロだと思うのだ。
 自由民主党はなぜよりもよってこんな男たちを総理に担ぎ上げるのであろうか。
 小泉総理にされるまでもなく自由民主党はとうの昔にぶっこわれていたのだ。みんな気がつかなかっただけで、元々ぶっこわれらていたものを、ぶっ壊すといっただけだった小泉総理の評価点は少しさげなければいけないのかもしれない。
 ただ、自由民主党がしんそこぶっこわれていたのではなかったともいえるのかもしれない。というのは、小渕、森、安倍総理にしても、森総理大臣になるまでは、仲間から押し上げられるほどのリッパな人間であった。しかし、一端総理大臣になるや、その思いの外の巨大な権力を自由にできる余りの嬉しさに気でも触れてしまい、自己制御がきかなくなってしまったという可能性がないわけではない。いわずもがなのことを口に出しても安直な考えを疫病のごとくばら蒔いても、だれも批判しないどころか褒めそやしたりするのだ。これでは利口も馬鹿になる。でなければ、目立たぬ立場にいれば、おかしなことを言ってもそれこそ目立たなかったのだが、あたら総理大臣になってしまったおかげで、発言の場が広がりそれまでと同じことをいっても目立つようになってしまったのかもしれない。

 改めて、何故かくも日本の総理大臣はぴんとはずれなことを言うのであろうか。
 当然理由はあるはずだ。
 思うに例えば、彼らは政治のことを真剣に考えていないのかもしれない。党内ヘゲモニー争いにのみ関心があるのかもしれない。当然日本の現状に対する真の危機意識と問題意識もない。勿論日本の未来像、即ち理想像というものもない。当然危機意識と問題意識と理想像を様々な時間軸で分割して、その時々の様変わりの実像を解析し、補修し修正するところは修正し、過去と現在の政権構想の歪みを正すような能力も持ち合わせていない。だからまともなことを言おうとしても言えなかったのかも知れない。どんなに知恵を絞っても“美しい”国だったり、富国有徳だったり神の国になってしまうのは当然なのかもしれない。
 しかし、立派なとは言わない。惚れ惚れするような、ケネディもおどろくようなとも言うまい。けれど、もう少しまともな、総理大臣に相応しい政見をもった政治家を自由民主党はうみだすことはできなかたのだろうか。
 勿論こういう政党を支持しのさばらせている国民の責任がなによりも大きいのではあるが。

 もしそういう認識が私の偏見であって、総理大臣になる位の人物であれば日本の政治に対する危機意識も問題意識はある。ただそれらがあってもなお、かくも日本の政治に対して、その根底に横たわる重大な問題、日本の根底を引っ繰り返しかねないような根本的な命題にこたえようとする意欲もうかがいしれず、さればといって、表層的な課題にたいしてすら関係のない戯言を叫ぶという現実を理解するのは困難である。

 ただ、こうは言えるかもしれない。彼らには立派な識見というものは持ち合わせてはいたのだ。しかし、遺憾ながら国民に対して自分の政治の施政の内容を真剣に伝えようという意思と意欲、これらが欠如していたのかもしれない。
 そして、欠如するにも原因があって、それは民主主義政治においては大きな論理矛盾を呈することになるのだが、国会議員や総理大臣たらんとするもの、あるいは総理大臣になった者が国民に自分の施政の方針を真剣に十分に伝えるために努力することが十分に報われるシステムが日本の政治はなっていなかった、という状況があることも事実なのだ。
 国民が直接総理大臣を選び任命することはできないのである。だから国民へのメッセセージがおざなりなものになってしまうのかもしれないということはあるだろう。
 そして、決定的な理由の一つは、政治家によって説き明かされるまでもない国家目標、国是というものがなかったことをあげなければならないだろう。
 かって、明治維新のときには、日本は植民地化をおそれて、近代化する、西欧先進諸国においつくという国家目標があった。戦争中は、勝たなければならないという文句のつけようのない目標があった。そして敗戦後は、復興するということに日本は夢中にならなければならなかった。
 政治家や官僚にいわれなくとも国を挙げて、見つめるところは一致していたといえるだろう。国是なき国是があったのだ。人工的な作為的な国家目標など必要なかったとも言える。だから、戦後の日本の政治では総理大臣が国民に対してトンチンカンな言質をろうしてもよかったのだ。そして、このことは国民にとっても深刻な問題にはならなかったのだ。これらの鈍感な男たち、おそらく同級生たちが影であんな男が総理かよ、といわれるような世間の標準に比べても決して超越するような所のない男たちが、あるいは国民に真剣に自分の政治を訴えない男たちが日本の総理大臣になることを余り気にすることもなかったのだ。その証拠に、多くの人々は総理大臣の施政方針などに興味も関心もしめさなかった。富国有徳などといわれてもほとんどの人がポカンとしてしまうだろう。
 また実際には総理大臣の影響力なども思うほど大きくなかったのだ。

 それが、日本がある程度復興し仮象ではあっても豊かな生活を手に入れるようになって、歴史的にははじめてのことだろうけれど日本はだれでもが容易に認識できるような共通の国家目標あるいは向かうところと方向を見失ってしまったのだ。
 どうすればいいのか何をすればいいのかがわからない。そのうちに日本は基礎代謝だけもてるエネルギーをつかい切りかねない状態に立ち至りつつあると、私は思うのである。実はこのような歴史的な転換期をむかえたいまこそ、政治というものが過去150年でもっとも重要な役割を果たさなければならない時になったと言えるのである。
 日本の未来にとって必須の要件はハッキリしない。ということは選択肢が多いとも言える。それ故目標をさだめることが難しくなるのだが、政治がおもしろくなる時でもあるのだ。
 衣食足りて礼節をしらない殺人国家である米国とも違う、新しい日本の国是を設定しなければ、というできる時代になっていると私は思うのだ。
 それだけにレベルの低い、総理をいだくことは残念至極なのである。
 少なくとも総理たらんとするもの、自分の政治の施政方針を真剣に語らなければならなくなったのである。その時は神の国や、美しい国、富国有徳なんかは木っ端のように飛び散ってしまうようなものが政党や立候補者からだされるようにならなければならないのである。即ち政治は様変わりしなければならないのだ。

 希望がないわけではない。
 それは自由民主党と国民が小泉総理をうみだしたことを日本の良き前兆としてとらえるのである。
 この人物も目茶苦茶な国会答弁をして、端から見ていても「まともに返答をしろ」と自分の靴を脱いでなぐってやりたいような衝動にかられるような言質をろうしはした。さらに“美しい”国の安倍総理をつくるような評価できないこともしたが、それでも小泉総理は、自由民主党ではなく、国民に政見らしきものを語って政権を奪取するということを、既存のルール下というハンディをものともせずなし遂げた。私はこれはかれの欠点をおぎなって余りあると思うのである。小泉総理でなければなしえなかった業績であったと、私は思うのである。
 この実績はまともな政見を示せば国民は反応するということである。いいかえると政治はまだ死んではない。活性反応をしめすということであるから、よりよい政権構想を語れば日本の政治を国民の力で変えることができるということを間接的に証明しているのである。いわば小泉式政権奪取の法は今後有力にして多分唯一の方式として日本の政界に定着するはずだ。
                                        
 私は本書で、今後の日本が必要とする国家戦略、政権のありようについて語りたいと思うのである。それは当然であるが、“美しい国家”に対するアンチテーゼになるものだと確信しているのである。

*本原稿は、武田さんがこれから書こうとしている本の、いわば「前書き」です。
  本の出版はこれからです。