■佐久間さんの戦争論への返信メール(2006年7月15日)

佐久間さん
お久しぶりです。
お二人のメッセージを読ませてもらいました。
それぞれに、それぞれらしいお人柄とメッセージを感じました。
ありがとうございました。

残念ながら佐久間さんの紹介している映画は3本とも観ていないのですが、
佐久間さんの
「第一次世界大戦の周辺には、人間の謎を解く秘密がたくさん隠されているような気がします」
という発言にはとても共感します。そのことはとても大きな意味を持っているようにも感じます。
人間の存在の意味が変わったのかもしれません。

鎌田さんの「神道ソング」はまだ聴いたことがありませんが、話はいろいろと聞いています。
いま平和への結集というテーマで千葉大学の小林正弥さんが新しい風を起こしていますが、
そのメーリングリストで時々鎌田さんのメッセージも読ませてもらっています。最近はあまり登場しませんが。
緑のフンドシというのは何か鎌田さんにぴったりのイメージですね。私はその姿はあまり見たくないですが。

テポドン騒動に関してはブログにも書きましたが、
私はかなり冷めた見方をしています。
この事件に関しては佐久間さんとはちょっと違いますが、
戦争そのものであれば、ゲームとしての戦争の時代は終わったことの意味を
私たちはもう少し真剣に考えなければいけないと思います。
しかし、お2人の発言に、コメントするのはいささか腰が引けます。
しっかりとメッセージを消化しないと中途半端なコメントはできません。
何しろお2人ともあまりに多彩にして博学な、そしてしっかりした議論をされる方ですので、
ちょっと構えてからでないととんでもないファールになってしまうことは容易に推測できます。

しかし、私のブログ(CWSプライベート)に一番よく出てくる言葉も「戦争」です。
軍事戦争もあれば、オゾン戦争のような環境問題もあれば、
ヨハン・ガルトゥングのいう構造的暴力もまた戦争と同じテーマだろうと考えています。
さまざまな意味で使っていますが、戦争と平和は私にとっても大きな関心事です。
もっとも「平和」という言葉はあまり私自身理解できないでいる言葉です。
ちなみに私の平和運動は「コムケア活動」です。

佐久間さんは第1次大戦と第2次大戦にある断層を感じておられますが、
「戦争」という言葉もまた極めて多義的です。
どの戦争をさすかで意味は全く違ってきます。
戦争が変質したということも捉え方によってさまざまな戦争論が語れます。
私は国家や経済システムとの関係で戦争を考えていますが、
その戦争もまた立場によって全く違った意味合いになってくるように思います。

たとえば、
■経済としての戦争と当事者としての戦争
で少し書きましたが、同じ戦争といっても視点によって全く違ってきます。
国家の平和は個人の戦争、個人の平和は国家の戦争かもしれないなどというめちゃくちゃな仮説も持っています。

ところで、佐久間さんの関心事につながる話では、英霊問題があります。
一度、この問題について佐久間さんの話を聞きたいと思ったことがあります。
英霊に関しては、たとえばこんな記事をブログに書いています。
■戦争で死んだ人は英霊になってうれしいのだろうか
■英霊信仰とジハード 

もう一つのテーマは、戦争の回避の仕方です。
かつてのエスカレーション理論とオスグッドが言い出した譲歩のイニシアティブ理論です。
この発想で考えると昨今の戦争の構図も少し違って見えるような気もします。

今から35年ほど前に、「21世紀は真心の時代」なる拙文を書きましたが、
それ以来、残念ながら時代の方向は私の期待しているのとは反対方向に動いています。
戦争もますます見えなくなってきており、見える戦争はゲーム化しているようにも思います。残念でなりません。

なにやらコメントではない、書きなぐりになってしまいました。
すみません。

またお会いできるのを楽しみにしています。
ありがとうございました。