21世紀は真心の時代
佐藤修(1982年)

1.反乱の時代

(1)いま、反乱の時代

 1980年代は、再び反乱の時代である。
 1960年代から70年代にかけて、世界は多くの反乱を経験した。反乱といっても、内乱やクーデターを指すわけではない。現代の世界をつくりあげてきた担い手たち(現在のエスタブリッシュメント)に対して、異議を唱えるものたちのカが弱まり、秩序に対して否定的な行動が顕在化しているのである。
 それらは、単なる異議申し立てにとどまらず、実際の行動を背景として現存する秩序を覆すカを持っているという意味で、反乱と呼んでいいだろう。もっとも、「許された反乱」なのであるが。
オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」を著して、大衆社会の持つ意味を明らかにしたのが1930年であったが、その後、ヨーロッパをはじめとして、世界はオルテガの予見通り、危機状況に陥っている感がある。
 1960年代から70年代にかけての反乱の多くは、ラディカルな主張を伴うマイノリティの反乱であった。時代が許容したとはいえ、それらはあくまでも例外的な事件であったといってよい。しかし、マイノリティが、少なくとも意識の上ではマイノリティでなくなるにつれて、反乱は社会全体の中に拡散してしまった。エスタブリッシュメントの巧みな技術的対応のもとに、稀薄化してしまった問額も少なくない。いずれにしろ、マイノリティの反乱は治まりつつある。
 だが、問題が解決されたわけではない。むしろ問題は大きくなっている節もある。そして、反乱はマイノリティ主導ではなく、マスを動員する構造的な反乱へと移りつつある。再び反乱の時代、それも、これまでとは次元を異にする新しい反乱の時代に入りつつあるといってよい。
 そうした、最近の新しい反乱現象の背景として、現代が大きな文明史的な曲りかどにあるということが指摘できる。ひとことでいえば、近代西欧型の工業化レジームが問われ始めているのであり、単純なパワーポリテイクスの破綻が生じつつあるということである。問題はオルテガの指摘を超えている。
 明日の世界は、おそらく、こうした反乱に対する、これまでとは異なる新しい対応によって切り開かれるべきなのであろう。

(2)わが国における反乱現象
 
 わが国における最近の反乱現象について、少し具体的に見てみよう。
 現実に大きな成果を上げているものとして、住民たちの反乱がある。住民運動の歴史は、わが国においても非常に古いものであるが、最近のそれは、その展望の広さと長さにおいて、これまでのものとは質を異にしている。
 その典型的な例は、合成洗剤の追放に踏み切った滋賀県のケースであろう。琵琶湖の汚染を食い止めるために、数年前から家庭用合成洗剤の禁止を呼びかけていた住民運動   が、ついに地方行政を動かし、条例による合成洗剤の使用、販売禁止を実現させたことは、画期的な意味を持つ。
 また、廃棄物問題でも住民運動の主張が、行政に大きな影響を与えつつある。散乱する空き缶の回収を販売業者などに義務づけた京都市の「空き缶回収条例」も、住民のボランティア活動に端を発したもののひとつである。
 これらは、いわば住民運動と地方行政との結合であるが、地方の時代(それ自体、中央に対する地方の反乱という側面を持っているのだが)という風潮の中で、こうした動きは今後一層強まっていくものと思われる。
 納税者の反乱も起こっている。米国のカリフォルニアにおける納税者による行財政制限と減税要求は有名であるが、わが国においてもその兆しはみられる。武蔵野市吉祥寺駅前の商店主たちが、急増する都市計画税に対して異議を申し立て、税率引き下げを実現したのはその一例である。現在、盛んに議論されている行政改革も、その根底には納税者の反乱という状況があるといってよい。
 消費者の反乱は、最も定着しつつある反乱といってよい。すでに10年以上前、米国に起こったコンシューマリズムが日本にも上陸し、多くの変革を企業及び消費者行政に引き起こしたが、この基調は現在、着実に定着してきている。消費者は「裸の王様」であることを止め、いうべきことをはっきりと主張する態度を十分身につけたのである。
 従業員の反乱もある。内部告発によって様々な問題が起きているが、もっと深刻で、かつ着実に進行しているのは、最近のサラリーマンのシラケ現象かもしれない。とくに大企業においては、かつてのような会社一辺倒の風潮は少なくなり、一労働者から経営者に至るまで、仕事はほどほどにという傾向が強まっていることは、一種の反乱現象といってよい。
 嫌煙権のような社会風潮も、反乱ととらえられる。学校では生徒の反乱がある。家庭でも、子供の反乱が家庭内暴力といった形で問題となっている。夫婦間でも夫や妻の反乱が増えて、家族制度が大きく揺らいでいる。男性社会に対する女性の反乱もある。
 まだ顕在化していないが、将来懸念されるものとして、若者の反乱がある。高齢化の進むわが国で、もし若者の反乱が広がるならば、社会の活力は失われるばかりでなく、年金制度を始めとする多くの社会の仕組みが破綻するおそれがある。
 国際社会に目を転じれば、OPECの反乱に典型例をみるように、南の国々の反乱がある。いや、そればかりではない。最近の貿易摩擦は、北の国々(輸入する国ばかりでなく輸出する国も含めて)の反乱の結果としてとらえられよう。
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(3)より本質的な反乱現象
 
 以上述べてきたように、様々なところで、これまでの権威や制度が挑戦を受けているわけだが、それらはいずれも我々の周辺にいくらでもある極めて日常的な現象である。このことは、明日の社会を考える場合、非常に重要な意味を持っている。
 しかも、反乱はこうしたものだけにとどまらない。もっと本質的な反乱を見落してはならない。
そのひとつは、自然の反乱である。これまで人類を育み、つつんでくれてきた、母なる大地、母なる海は、今や、母なることを止めつつあるように思われる。化学肥料を吸い尽くした土は作物を育てなくなり、油で濁った海はかつての優しさを失いつつある。
 生態系の破壊が様々な災害をひき起こしていることはいうまでもないが、工業化がもっとトータルなもの、たとえば異常気象の多発のようなものにつながっていることは重要である。大気中の炭酸ガスの増加やオゾン層の破壊が、人類に与える影響は我々の予想を超えている。
 これまで、人類の活動の残渣を浄化してくれてきた自然のホメオスタシス(均衡維持機能)は壊れつつある。近代科学によって克服されるかにみえた自然の脅威は、むしろ一段と深刻な次元で人類に対峙し始めているというべきであろう。ローマクラブのレポートを引用するまでもなく、自然(環境)の面から現在の工業化路線は、大きな壁にぶつかっている。
 都市の反乱も深刻な問題である。物的快適さや集積のメリットを追求するあまり、都市は膨れあがってしまった。都市の砂漠化や廃虚化などが取り沙汰されるほど都市は今や住みにくくなり、過集積のデメリットの中で、様々な矛盾が現われ始めている。このままいくと、都市は人々を窒息させかねない。にもかかわらず、人々は都市から離れられず、その生命を疲弊させているのである。
 都市の反乱は、住人の精神を蝕み、不特定多数を被害者に予定する犯罪や動機不在の衝動的な犯罪など、心身症侯群ともいうべき病理現象を増加させている。これもまた、我々の、内なる反乱として留意しておく必要があろう。

(4)なぜ、反乱なのかー4つの限界

 ところで、なぜ今、反乱なのであろうか。
 その理由のひとつは、前述した通り、近代西欧型工業化レジームの思考の枠組みや論理では、対応し得ない状況が多発していることである。経済、産業面に限っても、大きな4つの限界にぶつかっている。
 第1は、大規模化の限界である。これまでの経済は、スケール・メリットの追求に大きな関心を向けてきたが、それは必然的に、資源や自然(環境)の浪費を伴うものであった。いや、そればかりではない。労働力として、あるいは消費者として、人間を数量管理することにより、人間性さえもが、そこでは浪費されかねなかった。
 そして、その結果、資源枯渇、エネルギー危機、公害問題、人間疎外など、多くの歪みが顔在化し、それが経済の運営自体にとっても、大きな制約条件となり始めたのである。スケール・メリットよりも、スケール・デメリットの方が問題になってきたといえよう。今や、シューマッハのいうように"Small is beautiful" であり、さらには"Small is powerful"なのである。
 大規模化と並んで、スピードアップということが近代西欧型工業化の目標のひとつであったが、これもまた壁にぶつかりつつある。つまり、あまりのスピードアップは、人々の生活リズムを混乱させるばかりでなく、生体リズムの限界をさえ際立たせ始めている。科学技術と人間性のギャップ、マンマシンシステムの歪みなどが、人間の存在を傷つけ、疎外しているのである。
 第3に、エゴイズムの限界があげられる。近代西欧型工業化はまた、エゴイズムの実現を指向している。パワーエコノミクス、ハワーポリテイクスの追求である。しかし、力の弱いものに対するエゴイズムの押しつけは、必ずどこかで破綻をきたす。エゴイズムが、別のエゴイズムを生むのである。南北間題は国際関係におけるその現われであるが、企業においても事情は同じである。安い資源の独占的使用、安い労働カの自分勝手な利用、粗悪品の一方的供給、適正水準を上回る利潤の取得などは、もはや許されなくなってきている.利潤追求を目的とする私企業においてすら、今や、エゴイズムを超えた社会牲が必要なのである。
 第4に、物的豊かさの限界がある。近代西欧型工業化は、物的豊かさを追求する体制と言い換えてもよいだろう。スケールアップもスピードアップも、つまるところは物的豊かさの実現のために追求されたのである。
 工業化の進んだ、いわゆる先進諸国においては、物的豊かさの点では目覚しい向上があり、今やあり余るほどの物財が我々の生活を囲んでいる。しかし、そうした物的な豊かさのみで、人間は生きるのではない。むしろ、物的に豊かになればなるほど、質的な渇望感が強まるが、それを満たすシステムは、近代西欧型工業化レジームの中には内在してはいないというべきであろう。その結果が、先進国病といわれる新しい問題の発生である。
 以上述べた4つの限界は、打破されなくてはならない。しかし、そのいずれをとっても問題は容易ではない。近代西欧型工業化バラダイムに変わる新しいバラダイムが求められる所以である。
 最近の反乱現象は、そうした中での、現行バラダイムの破綻や新しいパラダイムを目指した試行錯誤ということもできる。

(5)反乱を許す時代
 
ところで、現代は民主主義がほとんど普遍的な価値として認められているといってよいだろう。人間の尊厳、相互の尊重、そし自由と平等という民主主義の理念は、政治の分野だけのものではなく、広く社会生活のあらゆる分野において、規範性を有するようになっている、
 すべでの人間は、その尊厳性において、全く同一であるという、民主主義の考え方は、実は反乱と深く関わっている。つまり、民主主義のもとでは、万人は自己を主張しうるのである。異議申し立て、そしてそれにもとづく具体的行動を許すことは、まさに民主主義の証なのである。
 いうまでもなく、人類の歴史において、反乱のなかったことはない。いかなる独裁者もいかなる名君も、反乱を根絶することはできなかった。従って、現代が、とりわけ反乱の時代であるとはいい難い。
 だが、反乱が許された時代は、歴史においてそう多かったわけではない。とくに、あらゆる人々に、反乱が許容されていた時代は、まずなかったといってよい。
 もちろん、現代においても、あらゆる反乱が許容されているわけではない。しかし、先に述べたような反乱現象の多くが、かつてとは異なり、非常に積極的な意味を持ち始めていることは注目されるべきであろう。
 新しい反乱の時代の出現の第2の理由は、こうした、反乱を許す思想状況、社会状況にあるといってよい。社会が大きな曲りかどにあり、明日の展望が開けず、しかも、人間の尊厳が倫理として認められている時、百家争鳴は自然の成り行きである。

(6)価値観と情報化の問題
 
 反乱の時代に関連して、2つのことを補足しておきたい。
 ひとつは価値観の問題である。よく価値観が多様化したといわれる。確かに、意識調査などのデータをみると、人々の回答は分散しており、かつてのような画一的な姿は少なくなっている。しかし、だからといって、本当に人々の価値観は多様化しているのであろうか。むしろ、拠って立つべきところを失なって、価値観不在のまま、その時々の状況の中でご都合主義的に判断(行動)しているというのが、ほとんどの人々の実態ではあるまいか。価値観は多様化したのではなく、失なわれたのではなかろうか。
 現代の反乱の多くは、特定の価値観のための反乱というよりも、価値観がないための反乱という側面をかなりもっているように思われる。環境保全や平和などの旗をかかげ、一見、ある価値のための反乱のようにみえるものも、よくよく調べてみると、感情的、状況的な(従って全く矛盾する反乱にも参加しているような)ことが少なくない。
 実は、こうした価値観の喪失の問題は、情報化という第2の問題と深く関わっている。
 情報化社会に入りつつあるということは正しいだろう。エレクトロニクス技術や通信技術の発展は、明らかに社会の仕組みを変えつつある。しかし、それは必ずしも、情報が豊かになったことを意味しない。かつてのように、自分の目や耳や肌で感ずる情報はむしろ少なくなっているといってもよい。多くの人にとって、情報は苦労して手に入れるものではなく、容易に与えられるものとなりつつある。その善し悪しは別として、そうした情報の質的変化が、最近の情報化社会の本質であろう。ある意味では、情報は少なくなっているとさえいえる。そして、それが人々の価値観を稀薄にしているのではないかと思われる。
 21世紀に向けての展望を考える上で、こうした価値観と情報化の問題は極めて重要であるが、同時に、それらは現代の反乱現象を解く鍵ではないかと思われる。

(7)反乱の両義性
 
 ところで大切なのは、こうした反乱にどう対処していくかということであろう。
 社会にとって、反乱は2つの意味をもっている。つまり、反乱は破壊と滅亡につながるとともに、新しい明日への入口でもある。新しい時代は、古い時代に対する反乱によって幕を切って落とすといってよい。
 もっとも、厳密にいえば、反乱の意味は、反乱を起こす側と起こされる側とでは、正反対になるケースが少なくないだろう。
 しかし前述したような、最近の新しい反乱に関していえば、反乱の主体と容体は峻別されていることはむしろ少ない。しかも、やや長期的な視野で考えるならば、破壊であろうと建設であろうと、結局はその社会に関わるすべての人を、あまねくつつみ込んでしまうのである。
 現在の反乱現象にどう対処していくかは、従って、我々の明日をどのようなものにするかということと深く関わっている。
 反乱を破壊と滅亡への第一歩にすることは、絶対に避けなければならない。

(8)反乱への2つの対処法
  
 反乱への対処も、基本的には2つの方向がある。
 ひとつは、反乱を起こせなくすることである。反乱は秩序を乱すだけであると考えるならば、反乱を起こさせてはならない。エスタブリッシユメントが自己のカを再び強化し、統制力を発揮し、反乱の兆しを摘み取ればよい。つまり、管理社会化の方向である。
 しかし、先に述べたように、反乱は秩序を乱すばかりではなく、より長期的な、そして広い視野で考えれば、新しい秩序をつくろうというものである。少なくとも、価値観のための反乱は、そこに明日への建設的な提案を含んでいるのであり、現存の秩序との対話は可能のはずである。
 仮に、価値観が無いための反乱であったとしても、そこには幾分かの真理がある。全く真理を含まないものは、おそらく反乱には成り得ない。
 このように考えると、反乱は起きてはならないものと決めつけることは正しくない。むしろ、反乱のあることはいいことだと考えてもよいのかもしれない。重要なことは、反乱に対して、社会が真心をもって謙虚に、その主張に耳を傾けていくことである。つまり、これが反乱への対処の第2のあり方である。
 現にある秩序を絶対視することなく、反乱に含まれる建設的な意味を積極的に評価し、秩序そのものを根底から見直していくことが重要であろう。それによって、おそらく、反乱を起こしている側、起こされている側、いずれにとっても、望ましい方向へ社会をもっていくことが可能なはずである。
 さらに、すべての人々が、自己のいい分をできるだけ抑え、他者のいい分をできるだけきくという生き方をするならば、実質的には反乱など起きなくなることも考えられる。それは、反乱を起こすことが不可能なように管理されたのとは異なり、社会そのものの中に「反乱効果」がビルトインされるということであり、社会の活力やフレキシビリティは損なわれない形での、反乱のない社会ということになる。
 いずれにしろ、反乱の多くは、エスタブリッシュメントや社会における謙虚さ、いいかえれば、真心や誠意のなさが、原因となっている。おそらく、反乱を受けている者たちにもう少し真心があったならば、反乱そのものが起こらなかったケースは、非常に多いだろう。
 このように、反乱への対処は、管理か真心か、という二つの道が考えられるわけであるが、そのどちらをとるべきかは、はっきりしている。
 仮に管理の道をとるとしても、それはおそらく一時しのぎに終わるであろう。対症療法は根本的な解決をもたらさず、反乱は一時的に潜行するだけである。破壊と滅亡に一歩近づくことはあっても、明日への展望が開ける可能性は皆無といってよい。
従って、反乱に対する対応は、もし明日を開いていくことを願うのであれば、真心の道しかない。

2.技術バラダイムの変化

(1)技術の底流における変化
  
 反乱に対する態度として、管理と真心のいずれを選ぶとしても、最近の技術の進歩には十分留意しておく必要がある。反乱を管理するとしても、真心で対処するとしても、これまでとは異なった対応を可能とする技術条件が成立しているからである。
 1970年前後から、世界的に技術革新停滞論が強まっている。確かに、最近の技術の動きをみると、華やかな展開にもかかわらずそのオリジソのほとんどが、1950年前後の技術革新期に誕生したシーズの延長線上にあるように思われる。結局は、よくいわれるように、応用技術、複合技術、極限技術の展開なのである。
 しかし、そうした技術の根底において、大きな変化が生じつつあることを、見落としてはならない。その変化は、おそらく、これまで経験した幾度かの技術革新期を大きく上回るものであり、技術を組み立てている原理・原則や枠組みが、根底から変わろうとしているように思われる。技術バラダイムの変化といってよい。
 つまり、現在は、近代西欧が構築してきた技術バラダイムの最終仕上げ期であるとともに、21世紀に向けての新しい技術バラダイムの準備期なのである。明日を考える場合、そうした新しいバラダイムの兆しや可能性を十分評価しておかねばならない。
 技術バラダイムの変化は、それが根底的であるが故に、社会そのものをも大きく変革することとなる。カルチャーギャップが生じ、注意しないと社会はアノミ−状況に陥ってしまい、不安定となる。アノミ−の中での個々の人間は極めて弱い存在である。人々は、不安に駆られ、展望を失う。
 その一方で、技術はさらに前進し、社会への影響力を高めていく。従って、ともすれば人間と技術との関係は逆転しかねない。主体であるべき人間が、いつの間にか客体となり、技術の一要素になってしまうことは、本末転倒というべきであろう。技術は、あくまでも人間の技術でなくてはならない。
 「マイクロエレクトロニクスの出現が、人間に対してかつてない発想の転換を迫っている」(*1)とか、「科学と技術がわれわれに迫っているのは人間社会の性格の根本的、革命的な変化である」(*2)とかいう意見が、科学ジャーナリストの口からしばしぼ発せられることは、こうした危険性を裏づけるものである。そこには、人間からの発想が欠如している。発想の転換を迫られているのは、技術の側であって、人間の側ではないはずである。

(2)人間からの発想の難しさ

 パグウォッシュ会議やアシロマ会議を持ち出すまでもなく、科学技術者の多くは、人間からの発想を重視したいと考えているし、事実また、そういう行動をとってきたものと思われる。しかし、現実的には「人間から発想していくこと」は非常に難しい。
 最近のように、技術が高度化し、専門化し、しかも、社会との関わりが複雑になってくると、科学技術者自身、個々の技術しか見えなくなってしまい、己れのやっていることと人間との接点が分からなくなってしまいがちである。ましてや、科学技術全体の方向性や意味などは、問題自体としても成立しなくなってきている。
 仮に、個々の技術の位置づけや人間との関わり合いがわかったとしても、一人の科学技術者にとって、それは与えられた条件といってよい。従って、それが人間からの発想に馴染まないとしても、自らの力で是正することはまず不可能である。かといって、それを拒絶することも難しい。かくして、科学技術者は、職業における建て前と生活における本音との二重思考に陥るのである。
 こうした分裂現象は、なにも科学技術者に限ったわけではない。現代を生きているほとんどの人々が、意識しているか否かは別として、同じような状況にあるのではなかろうか。
 かくして、技術は、人間の意識を超えて、先に進んでいくのである。人間は、それに追いつくのに精一杯というのが実情である。
 しかし、今こそ、技術の意味を問わなくてはならない.トーマス・クーンのいう科学革命が、そして、それに伴う技術パラダイムの変革が起ころうとしている現在、人間から発想した新しい技術パラダイムづくりに、我々は真剣に取り組まなくてはならない。

(3)技術バラダイムの革新

 技術バラダイムの革新を予感させる兆しは様々な局面で窺われる。
 ひとつは、技術の内部にみられる。近代西欧型工業化を支えてきた、これまでの科学技術は、ほぼ十分といってよいほど掘り尽くされつつある。極限技術といわれるように、その可能性はぎりぎりのところまで展望されている。科学技術者にとっては、新しいフロンティアが望まれ始めているといえよう。
 また、技術の極限を追求した結果、前述したようないくつかの問題が発生したことは、科学技術者に共通の危機意識を発生させている。もちろん、科学技術に対する限りない楽観主義は今なお強く、それはそれで正しいのだが、科学技術の質を問う必要性の強まりは否定できない。
 いずれにしろ、現在の科学技術は、その限界をブレークスルーする必要性を痛感し始めたのである。
 社会の側からみると、技術の巨大化、難解化に対する不安の強まりがある。今や、科学技術は我々の手の届かないところに行きつつあるように思われる。そのため、たとえば地縁技術の主張が出てくることになる。昨今の科学技術雑誌の盛況も、その根底には社会の中にある技術見直しの機運の強まりを感じさせる。
 このように、技術パラダイムの変化を思わせる動きは強まっているが、同時に、技術パラダイムの変化を可能とする条件も増えている。いわゆる先端技術の多くは、現在の技術バラダイムの延長上にあるが、その中には新しい発想にもとづくものも少なくない。さらに、オルタナティプ技術への動きも強まっており、新しい技術バラダイムづくりへの努力は、すでに一部では始まりつつある。
 そうした点を、最近の先端技術を通してみてみよう。
 先端技術として、最近注目されているものとして、エレクトロニクス技術、バイオテクノロジー、新エネルギー技術、新素材技術などがあげられるが、これらに共通したいくつかのコンセプトを抽出することが可能である。おそらく、新しい技術バラダイムのイメージは、そうしたコンセプトの中にあるのではないかと思われる。

(4)ナノテクノロジー

 第1の技術コンセプトは、超精密、超細密ということである。仮に、ナノテクノロジーと呼んでおこう。
 たとえば、集積回路のバターソの最小線幅は今やサブミクロン単位が問題となっている。数ミリ角のシリコンチップの上に、数百万個のトランジスタが詰め込まれている超LSIは、もはや人間の想像を超えた精細密の存在といってよいだろう。このような集積度の高まりは回路の情報処理を高速化しているが、現在のICのスイッチング速度はナノ秒(10億分の1秒)を切っている。1ナノ秒とは一秒間に地球を7周半回る光が30センチ進むだけの時間である。
 こうした精密性、高速性を実現するためには、素材の純度もこれまでとは次元を異にする必要がある。ICの基板となるシリコンの純度は99.99999999という、いわゆるテン・ナインの水準が必要となる。これまでの材料技術とは、全く発想を変えなくてはならない。
 バイオテクノロジーの代表ともいうべき遺伝子組み替えは、さらに細かい発想が要求される。DNAやプラスミドを、それこそオングストローム単位で操作していかねばならない。
 エネルギー分野での先端技術もまた、精細密性という点ではひけをとらない。放射能を扱う原子力発電は、その危険性の故に精細な配慮と設計が必要であるし、ソ−ラーエネルギーもまた、エネルギー密度としての稀薄性をカバーし、効率を高めるために、精密な取り組みが必要となる。
 こうした精密性、細密性は、最近の先端技術の共通概念であるが、同時に、それは新しい可能性を開きつつある。ICの情報処理速度の高速化はその一例であるが、その他にもたとえば、精度の高まりを背景とした自動化の進展や材料設計における微調整精度の向上などが、可能となってきている。

(5)インテグレーテッド・テクノロジー

 第2の特色は、技術の相互依存性の強まりであり、様々な分野を総動員しての学際性ということである。インテグレーテッド・テクノロジーといってよいだろう。
 個々の技術が十分こなれ、その応用範囲を拡大してきたところに、学際性の必要性が生じたというとらえ方もできるが、同時に、個々の技術が細かいところ、深いところまで進んでいったことから、相互の共通基盤を持ち得るようになったということにも、留意する必要がある。そこには、新しい可能性が開けている。
 その最大のものは、生物や生命現象を扱ってきた科学と非生物的な物理・化学の結合であろう。エレクトロニクス、ライフサイエンス、材料など各分野は、その技術進歩の結果、分子レベル、原子レベルでの問題に挑戦を始めているが、そのことはとりもなおさず、問題の共通化を実現しつつある。これまで全く別の道を歩んできた生物科学と物理科学は対話し始め、それに伴い技術の分野での学際性が現実化しているのである。
 さらに、エネルギー分野ではすでにバイオマスという共通課題が推進されているし、ライフサイエンスの成果のひとつであるバイオリアクターが、従来、高温高圧下で行なわれていた化学反応を、常温常圧下でも可能とし、しかも有害な副産物を生まないという新しいプロセスを実現、これまでの化学工業の発想を根本から変えようとしている。
 エレクトロニクス分野もバイオテクノロジーの影響を受けつつある。遺伝子組み替えによるインシュリンなどの生産がすでに実用化されつつあるが、21世紀には、同様のやり方でバクテリアがコンピュータの部品をつくりだし、シリコンに代わって蛋白質でつくられたコンピュータが出現するという意見が少数ではあるが、支持者を増やしている(*3)。
 ロボットやサイボーク技術などの、バイオメカニズムが、物理科学と生物科学の共同化によって、急速に展開することも予想される。
 また、エレクトロニクス技術による情報処理能力の飛鍵的向上が、膨大な情報を扱うライフサイエンスの新しい展開を実現しつつあることも指摘されるべきであろう。
 このように、これまで分化の方向を続けてきた科学技術に、再び総合化の機運が高まっているとともに、総合化の条件が整いつつあることは、新しい次元での技術の展開を予感させる。

(6)ソフトテクノロジー

 以上のふたつの特色は、第3の特色としてのソフトテクノロジーにつながっていく。
まず、前述の通り、生物科学と物理科学の結合は、工業の世界と生物の世界との対話を実現する。これまで、工業化を支えてきた物理科学は、生命現象とは別の世界で自己を展開してきたため、自然界のホメオスタシスに対し、一方的な働きかけをしがちであった。生態系は破壊され、物質の循環の連鎖は切られ、環境破壊や人間疎外をもたらしてきたのである。技術と自然とは、いわば、対立するものとして存在してきたといってよい。
 しかし、両者の結合が可能となった今、物理科学や工業技術は、生命現象をも完全に視野に入れることができるようになった。機械が生命と対話し始めたのである。そこでのコンセプトは、生命と同じく、優しくソフトなものということである。すなわち、ソフトテクノロジーである。
 最近、注目されているソフトエネルギーパスも、ソフトテクノロジーという考え方をべ−スにしている。
ソフトテクノロジーはまた、ソフトウェアに通じる。最近の先端技術においては、分野を問わずソフトウェアが重要になってきている。それも結局は、技術が生命という極めてソフトなものとの関わりを強めているからではなかろうか。
 生命や自然に壊しく、しかも相手に応じて融通無碍に対応できるソフトテクノロジーのコンセプトは、中間技術、適正技術の動きの中にも、顕在化しつつあるといってよいだろう。

(7)デディケーテッド・テクノロジー

 以上に述べた3つのコンセプトをひとことで総合すると、デディケーテッド・テクノロジーといえるのではないかと思う。
 デディケーテッド(dedicated)とは、心をこめて捧げるという意味であり、そのテクノロジーに関わる人々(さらには自然)に対して、きめ細かく、誠意を持って尽くしていくということである。要するに、真心こめた技術といってよい。
 精細密であることは、ニーズに即して、ムダ、ムリ、ムラを排除した対応ができるということであるし、学際性も、ニーズから発想して技術を再構築するということである。ソフトテクノロジーは、いうまでもなく、人間や自然に優しくということであり、いずれも、主体である人間に対する誠意を感じさせる。
 もっとも、技術は両刃の剣である。後述するように、以上の技術コンセプトが、仮に管理を指向した場合、それは恐ろしい力を発揮することも事実である。
 しかし、新しい時代が、真心の時代でなくてはならないのであれば、新しい技術バラダイムもまた、デディケーテッド・テクノロジーとして、方向づけられなくてはならないことはいうまでもない。
 真心こめた技術の分かりやすい例は、多品種量産技術であろう。一人ひとりのユーザーに向けてのカスタム品を、自動化ラインで量産していくFMS(Flexible Manufacturing System)は、前述の先端技術の特色をフルに活かした、デディケーテッド・テクノロジーといってよい。
 いずれにしろ、最近の技術が開きつつある可能性は、巨大化や専門化の追求の中で、ともすれば人間のコントロ−ルから逸脱しがちであった技術を、再び人間の発想で再構築し、人間のための存在として正しく位置づける契機を準備しつつあるといつてよい。そして、もし、そうした方向で新しい技術バラダイムがつくられるならば、現在、強まりつつある科学技術や工業化の閉塞状況は打破されて、21世紀に向けての新しい展望が開けることは間違いない。

3.21世紀は真心の時代

(1)真心の時代を目指して

 以上述べてきたように、社会の大きな変わり目の中で、技術バラダイムの変革が進みつつあるわけだが、それをどの方向に向けていくかは、我々の選択にかかっている。その意味で、現在は、21世紀を考えるというよりも、21世紀に向けて行動を起こすべき時代というべきであろう。
 我々の選択の基本理念が何であるかは、もはや説明するまでもなかろう。それは、間違いなく「真心」ではないかと思う。
 反乱現象に揺れる社会の求めているものも真心であるし、新しい技術が切り開いている世界も、真心の世界である。間違っても、管理を目指してはならないし、管理を許してもならない。
 21世紀を真心の時代にすることは、しかし、それほどやさしいことではない。前述した新しい技術の特色は、確かに真心に向かっているという評価が可能であるが、同時にまた、管理に向かっているという評価も可能である。
 膨大な量の情報を処理し、非常に細かな判断までをも可能としたエレクトロニクス技術は、大衆を個人々々のレベルで管理することを可能としているし、ソフトテクノロジーと相まって、本人に気付かれることなく、意識をコントロールすることも、おそらくできるであろう。生物科学と物理科学の結合は、生命としての人間を、非生命である機械の体系の中に、非常に巧みに組み込んでしまうことを可能としている。
 技術は、ダモクレスの剣のように、正反対の働きをなしうる。科学技術に埋没することなく、人間からの発想をもって、新しい技術バラダイムづくりに努めることが必要である。そして、そのためにも、稀薄化しつつある価値観を取り戻し、真心をこめた生き方をしなくてはならない。21世紀を真心の時代にするために、今こそ、我々は、真心をこめて生きていかねばならない。

(2)連帯の時代

 真心の時代はまた、連帯の時代でもある。
 真心をこめて人と人とが触れ合うならば、当然そこには連帯感が芽生えるであろう。それは、ある目的のために打算的な連合を組むのとは異なる。
 しばらく前に流行した歌「贈る言葉」に、「信じられぬとなげくよりも、人を信じて傷つく方がよい」という詞があった。真心をべ−スとした連帯とは、まさにそうした次元のものである。
 これは流行歌のような、イメージの世界だけの話ではない。たとえば、米国の心理学者チャールス・オスグッドは、世界の平和のために、一方的イニシアチブによる軍縮の実行を提唱している(*4)。つまり、厳密な協定や合意、あるいは確実に相手が守るという保証などがなくても、それらとは無関係に、まず自分の側から、自分の安全を根本から脅かされない限度で、一方的に若干の軍縮を行なっていくことこそ、軍縮を現実のものにする方法であるというのが、オスグッドの主張である。この考え方の根底には、真心をこめた連帯の呼びかけがある。
 エレクトロニクス技術や.ハイオテクノロジーの進歩が、人々の問にある格差を埋めていくことも重要である。デディケーテッド・テクノロジーの向上によって、心身的なハンディキャップ(それは誰にでもあるという認識が重要であるが)や年令や性からくるハンディキャップは克服されるであろう。むしろ、それぞれの個体差が、ハンディキャップとしてではなく、積極的な価値として認められる時代が、21世紀には実現するのではないだろうか。従って、高齢化社会の到来も、今とは全く異なった発想で考えなくてはならない。
 ハンディキャップの解消は、連帯の原因でもあり、結果でもある。
連帯はさらに、同時代人にとどまらず、次世代以降の人々との間にも成立しよう。長期的な視野をもつこと、しかも、心をこめて未来を考えることは、まさに時代を超えた連帯なのである。
 真心の時代の、それはひとつの帰結であろう。

(3)地球の時代

 真心の時代はまた、地球の時代でもある。
 人々の連帯は、地球をひとつの世界にしつつある。近代西欧型工業化がいくつかの限界にぶつかって以来、宇宙船地球号という発想が強まっている。
 すでに、経済人や技術者たちは、国家にしぼられることなく、地球単位での活動を始めているし、様々な分野においてNGOなどによる民際外交も活発になってきている。そうした状況の中で、国家は、その意味を大きく変えつつあることを、我々は強く認藷しなくてはならない。
 いいかえれば、これまでの国際意識から、世界意識、地球意識への発想の転換が必要となりつつあるのではないかと思われる。国際化の必要性が今なお叫ばれているが、大切なのは、そうした国をベースとした国際意識にとらわれずに、地球を、従って全人類を、ひとつの世界としてとらえていく地球感覚なのではなかろうか。少なくとも21世紀は、国際化の時代ではなく、地球の時代でなくてはならない。これもまた、真心の時代の、ひとつのあらわれなのである。
 なお、地球意識の芽は、すでに多くのところで感じられるが、最近、わが国でも力を得てきている地域主義の動きも、人間の本質的な存在に眼を向けているという意味で、普遍性を持ち、結局は、地球意識へとつながっていくものと思われる。
 技術の進歩が、南北格差を拡大するのではないかという議論がある。確かに、近代西欧型工業化は、南北問題をひき起こした。新しい技術バラダイムは、そうした誤ちをくり返してはならない。むしろ、南と北とが連帯しうるような技術バラダイムがつくられるべきであろう。
 デディケーテッド・テクノロジーは、すべての人にとって、デディケーテッドでなくてはならない。真心も、すべての人に対して、こめられなくてはならない。真心の時代が、地球の時代であるという意味には、こうしたことが、当然含まれている。

(4)自然の時代

 真心の時代はまた、自然の時代でもある。
 真心や連帯の対象は、人間だけではなく、自然にまで広がらなくてはならない。これまでの科学技術が、ともすれば自然の征服を指向したことは、時代の要請、技術のレベルなどから仕方のなかったことかもしれない。しかし、これからは、人間は自然と共存していかなくてはならないし、共存しうるほどの知恵を獲得しつつあるといってよい。
 むしろ、自然の中で己れを活かしていくことが、これからの技術の使命であり、社会の要請である。自然との対話技術もかなり高まっているが、さらにその方向への前進が望まれる。
 自然との対話、共存は、広く宇宙にまでひろげられなくてはならない。宇宙との対話はすでに始まっているが、宇宙に目を開いた時、地球意識は一層、現実のものとして定着していくのではなかろうか。

(5)生活の時代

 しかし、真心の時代にとって、最も重要な側面は、生活の時代ということではないかと思う。
 真心をこめるということは、人が人としての生を全うするということである。人格のすべてで、事にあたるということである。人間は、労働者や消費者という一側面として存在するのではない。労働や消費はもちろんのこと、その他様々な側面を総合した生活こそが、真心の時代の人間像の基本でなくてはならない。
 生活の重視は、産業や技術などに大きな影響を与える。そのひとつの動きは、脱産業化としてとらえられる。
 近代西欧型工業化の体制の中では、あらゆる局面において工業化が進行する。家事労働も次々と工業化の対象となり、金銭を媒体とする市場経済に組み込まれていく。主婦の食事づくりは外食や加工食品に代替され、その一方で主婦はパートタイマーとしてレストランに勤めるというような形が、一般化するのである。こうした動きは、真心の後退につながりやすい。
 善意もまた、産業化にのみ込まれ、金銭換算の対象となる。そればかりではない。文化も愛情も、その他すべてのものが、市場経済のフレームワークに巻き込まれるのである。真心もその例外ではなく、逆に真心がこもっていることが、商品化の大きなセールスポイントになっている。それはそれで、真心の時代のひとつの姿であろう。
 つまり、これからの成長産業は、技術集約産業でも、知識集約産業でもなく、真心集約産業なのである。
 しかし、本来的には、真心は産業化の道具ではない。むしろ、真心のひとつの手段が産業化であるという考えが、真心の時代においては必要であろう。そこでは、真心は主体的、目的的な存在であり、むしろ、脱産業化の契機となる。
 たとえば、ボランティア活動の役割の増大があげられる。あらゆる活動を金銭化する工業化のベクトルとは正反対に、ボランティア活動は、当然金銭換算できる活動を無償の行動とするのである。
 さらに、人々が真心をこめた生き方をするならば、この世のサービス産業のかなりの部分が不必要となる。
 最近、ある若者グループが、国鉄や私鉄などの駅でタバコの吸い殻を拾う運動を行なったところ、なんと新宿駅では一日4000本の収穫(?)があったという。ある私鉄は、駅のホームの吸い殻の清掃費だけで、年間1億円を超すという報道もあつた。もし、すべての乗客が吸い殻を各自できちんと処理したならば、こうしたムダな仕事はなくなるわけである。
真心の時代の到来は、このように、産業のあり方を大きく変えることとなろう。それに応じて、技術のあり方も問われることとなる。

4.真心の時代に向けての小さな提案(とくに技術に関連して)

 21世紀の真心の時代に向けて、では、今、何をなすべきであろうか。
 ひとことでいえば、我々個人々々が、真心をもって生きることである。それも、生活の場においてのみならず、生産や公的な場においても、素直に己れの心に従うことであろう。しかし、それは言うは易くして、行ない難いことである。
 従って、制度面でも真心の時代に向けての努力が払われるべきであろう。以下、技術に関連して、ささやかな提案を試みて本論をしめくくりたいと思う。

(1)技術教育における「人間」の重視

 前述した価値観の喪失、情報の質的変化などは、教育と深く関わっている。
 最近の教育は、主体的人間を育てるのではなく、たとえば現存する制度や技術に適応できる人間をつくることに最大の関心を払ってきた。それが、わが国の工業化をかくも急速に進めてきた大きな理由であることは事実である。しかし、そろそろそのやり方は改めるべき時期にきている。
 技術バラダイムをいかに人間の発想でつくりあげても、それに関わる人間が、主体的な意識を欠いていてはどうしようもない。おせっかいなコンピユータに、人間が飼育されるような形での「真心の時代」が出現するおそれさえある。
 大切なことは、自分の目と耳と肌で、情報を主体的に集め、それにもとづいて己れの価値観を確立し、主体的に判断できる人間を育てることである。そうした見地から、教育制度を抜本的に見直すことが必要である。

(2)技術情報の公開の推進

 反乱の時代において、重要な課題は情報公開ということである。反乱の多くが、コミュニケーションの不足に起因していることを考えると、真心をこめた情報の公開がいかに重要なものであるかがうなづける。
 技術についても同様なことがいえよう。人間の、それも生活のレベルでの発想から科学技術を見直すためには、科学技術の内容がもっと一般に公開されなくてはならない。
 たとえば、原子力発電の立地に伴う混乱の多くは、技術に対する情報不足のためといってよい。それも、単に原子力発電に関する技術情報だけではなく、もっと広範囲な技術情報が当事者双方に明らかにされなくてはならない。
 技術情報は多くの場合、企業化と絡んでいるため公開にはいろいろな制約があろうが、一般化した技術については、もっともっと当事者が積極的に公開していくべきであろう。
 公的な機関として、技術情報のパブリシティ活動をする専門機関を設置することも考えるべきではなかろうか。

(3)CAIT世界会議

 生物科学と物理科学の結合については、最近積極的な動きがでてきているが、さらに自然科学と社会科学との結合が図られるべきである。学際性はなにも自然科学に限られるものではない。真心という基本理念のもとで、技術バラダイムを再構築しようとする時、そうした総合的なアプローチは不可欠であろう。
 そのひとつの具体的な手段として、CAIT(Civic Advisor In Technology)制度を提案する。生活(そこでは自然科学や社会科学の成果が有機的に組み合わされて、とりこまれている)の立場から、各論としての様々な科学技術を見直していくアドバイザーを制度化していこうというものである。
 最近、産業界で、生活者の立場から企業経営にアドバイスしていくHEIB(Home Economist in Business)が制度化され、注目されているが、これは、そのテクノロジー版といってよい。
 それも、地球的規模で考えていくことが望ましい。定期的なCAIT世界会議の開催を提唱したい。
                             

(*1)下田博次 「技術と経済」(1982年1月号)18ページ
(*2)Higel D.R.Calder(朝日ジャーナルVOL24、NO24、27ページ)
(*3)The New York Times(1982年2月18日号)
(*4)Charles E.Osgood"An Alternative to War Or Surrender"(邦訳「戦争と平和の心理学」)