武田文彦(リンカーンクラブ代表)
私の意見とは違うことも多く、議論になることも少なくありません。
武田さんとぜひ議論したいという方はご連絡ください。
また久しぶりに投稿が寄せられました。
■国辱的大演説(2015年5月7日)
安倍総理が4月29日(日本時間30日未明)米議会の上下両院合同会議で日米関係をテーマにした演説は、私には言葉というものに改めて向かい合わせることになった。
つまり言葉は自由に使えるのだが、使う人物の履歴や彼の事跡によっては、放送界で言われる禁止用語のように使用を禁止するなり制限をしてもいいとすら思うのだ。
こういうことを安倍総理の今回の演説は、私に想起させることにもなった。安倍総理が用いるにはあまりにも相応しくない言葉、例えば、民主主義、法の支配、平和などなど。
この3つの単語を使用できないとなると現在の日本の政治について語ることはできないことになる。
このことは期せずして安倍総理が一国会議員ならいざ知らず、内閣総理大臣としては相応しい人間ではないということになってしまうのだ。
以下、具体的に資格のない安倍総理の演説に触れてみたい。
どうせ今の風潮だ。日本人総理・初の快挙だ! 立派な演説だと誉めそやす輩が多いので、彼らにうつろな大演説の実相について明らかにしてみたいと思う。
(総体的批判)
演説の細部に入る前に総体的な批判をしておく。先ず安倍総理の演説には、
@悪用と誤用される言葉があった。
人間同士のコミュニケーション手段としては言語に勝るものはない.言語がなければ人間はサルになってしまう。
ただその言語にも大きな問題点がある。
その問題点とは、誰でも自由に勝手に使えるということだ。もう一つの欠点は同一の単語、言葉の意味や概念が確定しているようで確定していないという点。
だから言語は誤用されるし悪用もされる。意思疎通に齟齬をきたすことにもなる。それならまだしも、嘘と真実、善と悪、神と悪魔が入れ替わりもするのだ。
誤用も悪用も、身近な人間同士の場合はやり方によっては、これらの欠点を補うことができる。
誤用や悪用を決定的に問題にしなければならないのは、政治家の言語の場合である。
とりわけ、大多数の国民と代表者である政治家との間で正確且つ十分な意思疎通、コミュニケーション無くしては成立しない議会制民主主義においては、政治家の正確且つ十分な言語使用の重要さについてはいくら強調しても強調しすぎることはない
更に付言するならば、政治家が言葉を悪用しても、それをいちいちチェックしたり直接訂正させたりする機能を国民は持っていないのだから、政治家がいくら言葉を悪用しても、誤用しても、言いっぱなしの垂れ流しになってしまうのだ。
その被害は全国民に及ぶし今回の演説のように場合によっては世界中の人々に誤解されたり勘違いをされたりすることになる。
だからこそ、政治家は自分の言葉に神経を尖らせていなければならぬ、という自覚をもたなければならないのだ。
もし言語に責任を持てず、例えば戦争というときに平和とか積極的平和主義と言ったり、独断でというときに合意を得てなどと言葉を誤用や悪用し続ける政治家には、言論の自由に反することとは承知の上、あえて言いたいのであるが、政治家こそ、特定の単語の使用を禁止すべきだと冗談ではなく本気に思うのだ。
A心にもないのに口からでる言葉
政治家は心にもない言葉を口走ることがある。
悪用でも誤用でもなく嘘という言葉に纏わる悪意はなく特定の思惑のために、口から出てしまう言葉。時と場合や条件が政治家に言わせてしまう言葉がある。お世辞とかよいしょというやつだ。
B本当のことを語らない言葉
言いたくてもいえない言葉があったはずだ。
例えば「日本国憲法は貴国の押し付けでした。今私はこの改正に大変苦しんでいます」」「パールハーバーはやむをえなかったんです。」「東京裁判は片手落ちでしたよね」「日本に原爆を2発も落とす必要性はあったんでしょうか」「沖縄の人たちは基地の撤廃を望んでます」「朝鮮は本当はロシアに占領されたらよかったんです。日本だけが悪いんではないんです」「アメリカでは黒人が何故ばんばん殺されるのですか」「べトナムで大失敗、イラク侵入でも失敗。なのに何故アフガンまで手を広げるのですか」「日本は貴国の戦争には巻き込まれないと日本では言っていますがそれは嘘です」等々。
集団的自衛権の行使可能とする立派なお土産持参だもの、アメリカだって大歓迎だ。挙句きれいごとだけ並べりゃ、いくらでもてスタンディングオーベーションは起こり。安倍総理はよい気分になっただろう。しかし今回の訪米の成果はそれだけ。
本音で話し合えない関係では真の友情は成立しない。国家同士でも同じことが言えるのだ。ただ本音で話し合ったからといって必ずしも真の友情が育つわけでもないが。
日米で本当に話し合わなければならない重要な課題に対する成果は一切なし。きれいなお言葉が飛び散っただけで安倍総理が言うほど日米間に強固な絆ができたわけもないのだ。
今回の安倍総理の訪米の成果など明日にも雲散霧消してしまうようなものでしかないはずだ。
C使用するに資格を要る言葉
政治家は平和とか繁栄とか民主主義という。これら心にもないことをよく口にするのだ。
しかし言葉はそれを語るに相応しい人でなければ、言葉が乱れてしまうのだ。
むかし戸締りが悪いと家人に説教した泥棒がいたというが、同じように悪魔がバイブルを引用するようなことはおかしなことなのだ。
それと同じぐらい安倍総理が、集団的自衛権の行使可能として平和憲法を破り捨てていながら平和を語るのはおかしいだろう
少しでも後ろめたさを感じるのならまだしも、積極的平和主義と称してアメリカやその他の友好国に弾丸や燃料、食料の後方支援までやるという正に戦争以外の何物でもないことを自衛隊員にやらせようとしていながら、よく言えるものだと。私は今回の演説にも日頃と同じように不快感に襲われたのだ。
米国議会で安倍総理の口から吐き出された積極的平和主義という言葉は、平和のため平和のためといって戦争するようなもので、これって、カレーだカレーだといってウンコを食べさせるようなものだと私は思うのだ。
安倍総理が使う積極的平和主義という言葉に対して私は、カレー味的ウンコ平和主義という正確な言葉を無料で進呈したいと思う。
日本国憲法の第9条を自ら日本に押しつけていながら、このことで後ろめたさを感じずに、米国の議員はスタンディングオーべションで安倍総理の演説にこたえたというから、不思議なんだ。
9条の内容を知っていたら、集団的自衛権の行使による積極的平和主義がウンコだと見抜けたはずで、米国議会に対して良識ある日本人の顰蹙を買っているということを米国の議員たちに知らせたいものだ。もっともアメリカという国はウンコ好きの先輩国ではあるが。
ちなみに、安倍総理的に用いるのではなく積極的平和主義という言葉であらわせる正しい意味は、他国また組織による日本への直接侵略に対する正当防衛の戦争以外には絶対に戦争をしないということ。戦争に近づかないということ。戦死者を出さないということ。国家による殺人をしないということ。安全保障のために他国の防衛力に頼らないということ。戦争をしている当事国とは外交関係を遮断すること。外国にいかなる理由があっても内政干渉はしないことだ。
だから安倍総理は戦争については語る資格はあるが、平和について語る資格はないだろうと私は断ずるのだ。
積極的平和主義といえば戦争というイメージを消し去れるとでもまた国民の拒否反応を和らげる効果ありとでも思いついて安倍総理のスタッフは名づけたのだろうが、あざとい話で、自分が正しいと信じるなら堂々とやれと言いたいのだ。
(演説の各論)
以下で演説の各論に触れていく。
{演説から引用}ー―演説の見出しーはじめに
「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」
{私の懸念}
祖父の岸信介は言ったかもしれないが、安倍総理は、憲法の解釈変更を勝手に正反対の解釈変更を行ったということで「私は民主主義の原則も理想も確信などしていません」と言わなければならないのだ。勘違いが甚だしいのか、安倍総理の民主主義と私の民主主義の定義が違うのかもしれないが。
議会のような所で公にすることと首脳同士で個人的に話し合うことの違いの識別が安倍総理は地球儀的外交といっていながら、できないのではないか。演説のアメリカとわたの部位はオバマ大統領との晩餐会などで話せばいいことだ。
{演説から引用}―演説の見出しーアメリカ民主主義と日本
「日本人は近代化をはじめてこの方、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです」
{私の懸念}
だから、安倍総理は「日本の政治を私の私による私のための政治にしました」。とその後の成果報告をし、民主主義の変異について語らなければなるまい。
{演説から引用}―演説の見出しー第二次世界大戦メモリアル
「メモリアルの一角にフリーダム・ウォールというものがあって壁面に4000個を越す星が埋め込まれていました。その星の一つ一つが、斃れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。(中略)しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も」
{私の懸念}
この言葉は、演説のハイライトだ。
安倍総理、集団的自衛権の行使で自衛隊員に戦闘地域に弾丸や食料や兵器やアメリカの兵隊を送り届けさせたりするのだ。
こうなれば斃れる自衛隊員がでるのは当然だ。そのリスクはなにもしないより絶対的に増えるだろう。
この演説の部位はぜひ今回の日本の国会でもやってもらいたい。
福島代表に「戦争法規と言わないで欲しい」などと圧力をかけずに言わずに。
それにしても戦慄が走ったなんて嘘だろう。スピーチライターの原稿を棒読みしただけなのだろう。
もし死者に対する深い思いから戦慄が走ったというのが本当なら、集団的自衛権の行使可能と第9条から読み解けるのではないかというような考えを思いつくはずはない。思いついてもそれを実行しようとまではしないだろう
自由を守った代償の象徴と、星のこと安倍総理は理解したようだが、安倍総理は、自由を守るためにはたくさんの人間が死ぬことは当然などと思わないでいただきたいものだ。
政治だけが戦争を起こし、大量に人を殺してきたのだ。
政治家だけが兵隊の命の犠牲という障害を軽々と乗り越えてしまうのだ。
この軽さがどれだけの悲劇と悲しみと涙を人間にもたらすことになったか、改めて安倍総理に考えてもらいたいのだ。
{演説から引用}―演説の見出しーかつての敵、今日の友
「熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました」
{私の懸念}
熾烈に戦い合った敵が友になってよかった、よかったと言いたいのだろうが、こんなことは、ドイツとフランスをみればよくある話で、殊更アメリカの議会で取り上げるまでもない。
仲のよかった国どうしが突発的に激しく争うようになることもあり、国家間にゆるぎない友情など成立することなどありえないと考えたほうが間違いはないだろうと申し上げておきたい。
心の紐帯が結ぶ友等といっているが、日米関係に関して余りにも主観が過ぎる表現だ。独りよがりな表現であるとも指摘しておきたい。
{演説から引用}―演説の見出しーアメリカと戦後日本
「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に(中略)アジアの発展にどこまでも寄与し地域の平和と繁栄のために、力を惜しんではならない。(中略)この歩みを私は、誇りに思います」。
{私の懸念}痛切な反省にもかかわらず韓国や中国は日本を許さないのか。首脳会談も開けないではないか。ということは痛切と表現しても、口先だけだからではないのか。
大戦に対する痛切な反省の英文は deep remorse over the war であるが deep の日本語の意味は辞書の最後のほうに痛切という意味もあるが通常は深いとか深甚なと訳されることが多いので、はっきりと deep よりも
acute というストレートな単語の方がよかったのではないか。
また大戦に対する反省と表現すればこの文章は二通りに解されてしまうだろう。
なぜなら、大戦にたいする反省では、日本人として勝ち目のない戦争に踏み出し大敗した当時の指導者の判断と決断の誤りを反省するとまず理解できるだろう。
また大戦に反省するでは、戦争にすいませんとでも言ばいいのだとも理解されてしまいかねないのだ。
ここでは「二度と戦争をしませんとでも言明するのであれば、文章として成立するが。そうは安倍総理は言えないはずだ。
反省は戦争に対してするのではなく、戦争の被害を蒙った人々に対して真っ直ぐになされなければならないのだ。
この文章のおかしさが外交文書の分析を担っている外務省のスタッフは気がつかなかったのか。それともあえて謝るという日本の意思をぼかしたいと考えた上での配慮の結果とでも言うのだろうか。
いずれにしてもおぞましい話だ。
この演説で中国や韓国が一番注目しているところで、ひたすらごめんなさいとだけ言う所であるはずなのに、負け惜しみのようにいきなり謝意とは無関係なことで「私は誇りに思っている」と言ってしまえば、この文章のこの節が全体として、謝っているんだか、自慢しているんだか分からなくなってしまうのだ。
こんなこと自分で言うことではなく他者から言われてこその言葉なのだ。
またさらっと「地域の平和と繁栄のために力を惜しんではならない」と小学生の作文のようなことを書いているのだが、これについてよく考えなければならないのだ。
何よりも、日本に他国の繁栄と平和のために力を惜しんではいけないのだろうか。時に惜しんでいいのでは。他国のことにかまけているより先ず自国のことに完璧を期すべきではないだろうか。
他国に振り向ける分自国だけでできること、例えば惜しんだ分を福島原発の放射性物質廓清や被災者支援や防災や生活補助の充実に力を注ぐ方がいいという論議だってあるはずだ。
イスラムとキリストの宗教対立、人種間の争い、資源や領土紛争など、根深い争いの種は世界中に横溢しているのだ。
日本としては飛んで火にいる必要性はどこにもないのだ。
できるだけ解決困難な問題には触れないようにしたほうがいいのだ。 日本の安全保障は日本独自に他国の力を借りず、その代わり他国の争いに巻き込まれないように全力を注ぐこと、それを可能とするために日本の力の効果的な配分に政治家は力を注ぐべきで、アメリカの議会で演説なんかしている場合でないだろうに。
調子いいことばかり言うなといいたい。
{演説から引用}―演説の見出しーTPP
日本が育てたものは繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。(中略)自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根付かせていくことができます。
{私の懸念}
日本が繁栄したと断じ、その繁栄が平和の苗床といっていることは日本が平和の苗床だと言っているわけだが、集団的自衛権の行使でアメリカの戦争のお手伝いすること、できることが,どうして平和の苗床になるのか。平和ではなく戦争の苗床だろう。そうでなければ言葉の誤用だろう。現にこの演説を聴いて中国は緊張しているし尖閣への侵入はおさまる気配さえみえないのだ。
安倍総理は抑止力抑止力というが、過去、自国の抑止力を強化することが敵国の開戦の決意を固め戦争を誘発してきたことが多いことは事実だ。
また世界の国々、人々が自分の奉じる価値観を他国に広めようとさえしなければ争いごとや戦争なんか随分と少なかったはずだ。
望めば与えればいいのであって、根付かせるという言葉の不遜さ傲慢さを感じるデリカシーがないから、集団的自衛権の行使によって失われる自衛隊員の命のことなどに思いいたらないのだろう。
{演説から引用}―演説の見出しー強い日本へ、改革あるのみ
「日本の農業は、岐路にある。生き残るには、今、変わらなければなりません。(中略)どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。」
{私の懸念}
農業を変えTPPを成し遂げて食料を外国に依存してしまったら、このことを逆手に取られるリスクを日本は背負うことになる。その時、日本はどう対応するのか。
アメリカの議会でこのリスクについて演説することはないが、日本の国会ではぜひ説明しなければならないだろう。私は、食料だけは、自由化は避けるべきだと思うが。
演説の「日本を見てください」の後に福島原発と、沖縄の基地、それと一票の格差が違憲といわれても変われない国会、2世3世と老人の議員がうようよいて、若くて有能な新人の出現を拒んでいる国会には目を瞑って下さい、と付言しなければ誤解と偏見を与えてしまうだろう。
{演説から引用}―演説の見出しー戦後世界の平和と日本の選択
「戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくしてありえませんでした。(中略)私が心からよかったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだということです。(中略)その道こそは米国と組み、西側の一員となる選択にほかなりませんでした。」
{私の懸念}
岸信介氏の演説「民主主義の原則と理想を確信している」をここでも引用しているが、岸元総理は東条軍閥内閣の商工大臣でA級戦犯で危うく死刑にされかかったんだ。関係ないけど大変な女性好きでもあったと自分でも語っている、そういう人物だ。
民主主義の原理を確信していた人物は他にもたくさんいるのに。米国議会の晴れの舞台で引用したのはまずいだろう。
そして特定情報保護法を成立させ、言論の自由の大原則に「公益及び公の秩序」に反しないという制約を課す大日本帝国もどきの憲法改正草案の実現を目指している安倍総理に、民主主義の原則と理想を確信すると言う文章を自分の言のように引用する資格はない。
そもそもこの部位、岸総理の話なんかアメリカの議会人は興味などないのでは。全く不要の部位だ。
{演説から引用}―演説の見出しー地域における同盟のミッション
。「米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
グアム基地整備事業に28億ドルまで資金協力を実施します。
戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。
日本は今安保法制の整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米安全保障条約同盟は、より一層堅固になります。(中略)今申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。」
{私の懸念}
徹頭徹尾支持するというが、アメリカがミスジャッジをしても徹頭徹尾支持するのだろうか。外務省は何をやっているんだといいたい。こんな形容を外交関係において用いるべきではないぐらいのアドバイスを安倍総理にできなかったのだろうか。
しかも 英文の first,last,throughout がかかるのは U.S. effort に対してであって、訳文では米国のリバランスそのものにかかるような印象だ。
28億ドルの資金協力については国会の承認をえているのだろうか、
この夏までに成就すると言えば、日本の野党が怒るのは当然で、安倍総理は独裁者と同じ心理状態にあるのだろう。とんでもない話だ。
アメリカと日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました、というが、そんなことを日本の内閣総理大臣と外務大臣、防衛大臣で決定できるはずもなく、「日本の議会での承認が得られるように努力します」ぐらいの表現でなければ、と思う。
それにしても日本の議会制民主主義は内閣総理大臣にこういう発言を外国の議会でさせてしまうほど、権限が大きすぎることをわれわれに認識させたわけである。
だとすれば、自由民主党の憲法改正草案のような改悪ではなく、われわれが民主主義を進化前進させるための歴史的必然的改正を成すときに、このことも思い出さなければならないだろう。
日米防衛協力の新しいガイドラインについて、安倍総理は、演説で「、真に歴史的な文書に、合意したので」なんて言っているが、こんなことが国会の審議を経ずに合意することが許されるとは思わないが、もしそれが日本の法体系の中で許されるとするならばこれまた、行政権限が大き過ぎるということになるのだ。
もしガイドラインの大幅な改定なら日米間の条約として正式に国会審議を経て成立を図るべきだろう。
{演説から引用}―演説の見出しー日本が掲げる新しい旗
「日本は世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。
今や私たちが掲げるバナーは「国際協調主義に基づく、積極的平和主義」という旗です。
それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観をともにする結びつきです。」
{私の懸念}
ここでもこの夏までに必ず実現すると断言しているのだ。これは前言の約束と同じように安倍総理は今や可ならざるものは無しの心境で内閣総理大臣の権限に関する誤解と錯覚で、こんな発言は、アメリカ議会でするべきでなく、オバマ大統領との面談で述べるに留めることなのだ。こんなことを議会で発言すれば日米両国民に誤解を生じさせるだろう。
日米の軍隊の協力が堅固になって、平和的に解決できない場合は、戦争をする、できるようにするのが、米国と日本の共通認識ということは、日米がいざとなったら戦争に訴えるぞと宣言しているようなもので、この積極的平和主義というのは、積極的戦争主義としかいいようがないのだ。
また法の支配なんて発言しているが、日本国憲法第9条の解釈変更で憲法の形骸化を一挙に推し進めて、正に法の支配を絵に描いたように破っていながら、どうして安倍総理の口から出てくるか、羞恥心が無いというか、支離滅裂というか、安倍総理の思考回路がどうなっちゃっているのか私には理解できないのだ。
{演説から引用}―演説の見出しー未来への希望―
「米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
私達の同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。」
{私の懸念}
希望でなくてはなりません。この英文は、must always be hope.
であるが、日本に対してのことならいざ知らずアメリカに対して
must be はないだろう。
またアメリカは過去世界に与えた最良の資産は希望だけではない。アメリカの議会での演説だからといって嘘やおべんちゃらはだめだ。国内では先住民族を絶滅せんばかりに虐殺し、土地や財産を収奪し、奴隷制度を存在せしめ、その後遺症とも言うべき人種差別に基づく黒人暴動が頻発しているではないか。中南米諸国に対してどれだけ悪質な政権を支援してきたことか。
太平洋戦争でも、あの時ハルノートなど突きつけたり石油の輸出をストップしなければ日米開戦なんか回避できたはずだ。ベトナムで、朝鮮でアメリカはどれだけの人間を殺してきたことか。今でも誤爆で多数の人間を殺しているではないか。
何が希望だ。何が希望の同盟だ。
アメリカに対する安倍総理の評価は、正に言われている所の安倍総理の歴史認識がおかしいと非難される証拠を自ら見事に露出させてしまったようなものだ。
できることなら、アメリカ議会に対して演説の記録の削除を要請すべきであろう。
(人命の尊さ)
安倍総理、日本は強い意思を持って自衛隊員は国際紛争を解決させるためには絶対ださないといえば、それができるのだ。
しかし安倍総理は、演説において何が何でも積極的平和主義外交をやりぬく決意を表明した。
私は安倍総理と違って民主主義政治において政治という物は憲法に隷属しなければならぬ。政治家ができることはあくまで憲法の許す範囲内だと信じている。
こう考えると集団的自衛権の行使可能とする考えは絶対に間違っていると判断するしかないのだ。。
勿論私が判断しても私には何の権力もないのだ。
自衛隊員が海外に派遣されるのを阻止することはできないのだ。 そこで、どうしても積極的平和主義でやりたいというのなら、そのために、せめて、せめて自衛隊員の命を失わしめるようなことだけはしてはならないとだけは言っておきたい。
人命をかけてあがなわなければならない政家目的や国益などあってはならないのだ。
国民の命を賭けないことで失われる国益というものがあるというのなら、その不利益を国民全員で負担すればいいのだ。
最後に人命の尊さということを安倍総理に教えておこう。
人命の尊さを理解するというのは、なんら難しいことではない。
安倍総理は他人に聞くのではなく自分自身に問えば、人命が如何に大切なものであるか分かるはずだ。
例えば誰かから「お前の命くれ」といわれたと想像してみればいいのだ。
その返事は NO にきまっているはず。
次に「お前の欲しい物はなんでもやる。この地球上にあるすべての物も与える、どうだ、命をくれるか」、と言われても安倍総理の返事は No だろう。
安倍総理だけでない。私もいやだ。自衛隊員だってそうだろう。
「それならば YES だ」と返事をする人はそうはいないはず。
即ちこのことは、命は地球より重いという事の証明になるはず。
命は地球より重いといったのは福田赳夫元総理だ。これは私の実感でもある。
安倍総理の命は安倍総理にとって、即ち自分にとって自分の命は」地球より重いのだ。
ところがこのことが突然変異するのだ。
それは、自分の命ではなく他人の命となるとき。
命というものこれが政治というフイルターを通すと、人命は鴻毛より軽いということが真剣に語られることになる。
つい戦前までは日本では子供の教育の現場ですらこの考えが叩き込まれてきたのだ。
政治は人命に関して極端に変異させてしまうのだ。
軍人や政治家はだから容易に戦争をするし、できるのだ。
今だかって兵隊にされる庶民が、その妻や恋人たちが戦争せよと政府に要求して始まった例はない。すべて自分の生命の安全が保証されている軍人や政治家が戦争をしてきたのだ。
思えば、今回の集団的自衛権の行使可能とする憲法解釈変更は、国民が安倍総理に懇請した結果などではない。世論がわきあがったわけでもない。
すべて安倍総理の一人芝居だ。
28億ドルの資金負担は税を支払う側から言わせてもらえば、日本は安全保障とは直接無関係故、峻拒すべきだと思う。それでも金銭的な負担はしようと思えばできるのだ。
しかし自衛隊員を海外に出して一人でも死んでしまったら、国民は、政府は、その犠牲の償いようがないのだ。
金銭や勲章を授与しても記念碑を立ててそこに名を刻んでも、失われた命は復活せず、いかなることをしても償えるものではないのだ、
私は叶わぬことと知りつつ、また散々批判はしていながらも、あえて言わずにはいられないのだ。
「安倍総理、自衛隊員の命は自分の命だと思って、集団的自衛権の行使なんかではなく、全く別な手段で日本の安全保障を考えようではないか」と。
この道しかないなどと、有能な政治家の言ではない。
アメリカでもできない日本独自の方法と戦略で平和を維持し強化しつづけるように智恵をだそうではありませんか。」と。
久しぶりの投稿です
■安倍普三政権は反革命を目指す(2013年5月3日)
(安倍総理と明智光秀)
かって明智光秀が本能寺の変の直前に唱和したと言われる連歌「時は今 天がしたたる 五月かな」は主君織田信長に対する謀叛の迷いを吹っ切った心境を表したものだと言われている。ご承知のように織田信長は討ち取ったが、そのあと有名な「三日天下」で彼は山崎の合戦で落ち延びようとして野武士に討ち取られてしまうのだ。
私は、今回は支持率の上昇を受けて俄に現実化しつつある安倍政権の究極の政権目標について解説し、読者の皆様に安倍政権への警戒を怠らないように忠告し、同時に政権の近い将来の顛末について予言をしたいのである。
そこで冒頭の明智光秀である。
なぜ明智光秀なのかというと、安倍総理大臣は恐らく明智光秀と同じ過ちを犯し同じ顛末を辿ることになると思うからである。
(安倍政権の最大究極目標)
安倍総理の政治究極目標は、単に民主党から政権を奪取することではない。政権奪取は彼の政治目標の途中経過であって、というより途中経過だと言える状態になってきたのだ。まして彼の大願は今や日本の20年来のデフレを脱却し景気の回復を図ることでもなくなったのだ。
安倍政権の最終究極の目標は太平洋戦争の敗北によって革命的変革を余儀なくされ、全く様相を変えてしまった敗戦後体制と称される日本の国柄を、もとの戦前の日本の姿に戻す、ないしは限りなく近づけるというものだと断じるのだ。
そしてそれは単に安倍総理大臣の個人的な野望ではなくまごうことなき自由民主党を保守政党たらしめる絶対目標であり理念でもあるのだ。
安倍総理は自分の政策や政権目標を語るときに「国柄を変える、日本らしい国柄にする」という穏やかな表現を使用するが、その実は全く異なっている。
彼は革命に対する革命、即ち反革命の実現を狙っているのだ。
というのは、1945年日本はポツダム宣言の受諾により主権の所在は天皇から国民に移行し、日本国憲法は新たに主権者となった国民が制定したと考える学説があって、これは憲法学者の宮沢俊義によって提唱されたのだ。
しかし、国民が日本国憲法の制定過程で直接関与することはなく、しかも女性には選挙権もなかったのであるから、国民が日本国憲法を制定したというのも無理があり、なによりも日本国憲法について日本がイニシァチブをとることができず、正に米国の押しつけとも言えるものであったが、主権が天皇から国民に移行したことは事実であって、この一点で敗戦後の日本は革命によって出現したという説を全否定することはできないだろう。
安倍政権は、この戦後体制の成果をゼロクリアーしようとするもので、まさに八月革命説に則れば反革命を実現しようとするものであり、この点、自由民主党は戦後体制に対する反革命政党であると言わざるを得ない。自由民主党は戦後七十年ちかく政権はとってはきたものの、日本国憲法の縛りのためにだれ一人この絶対目標である国家のあり方を根本的に変えることはできず雌伏し機会を伺いつつ、今日第二次安倍政権の誕生をみたのだ。
(時は今)
そして安倍総理大臣にとっても、好機到来。あまりに条件が整いつつあると自覚せざるをえない状況が眼前で展開されている。安倍政権が誕生して5ヵ月経過して今や内閣支持率75%を越ようとしている。自由民主党の首のすげ替えではなく対立する民主党から政権を奪取しての支持率の上昇である。景気も株価も上昇、円安の進行と日銀をバックにした景気対策ということで、底割れの心配のない経済が持続しそうな勢いである。自由民主党に対立するはずの野党が、まともに与党に対抗できる政策も打ち出せず、しかもあろうことか、勝ち馬に乗りたいというおよそさもしい代議士根性の諸々の野党をはじめとして、民主党の党員の半数近くすらが自由民主党との連携を考えているような状況である。加えて、幸か不幸か、中国、北朝鮮、韓国から筋の通らないと思われる反日外交攻勢を受けていて、この外圧が安倍政権に対する国民の求心力を高めている。
順風満帆で、だれでも安倍総理大臣の立場になれば、願うことで叶わないことは無い、と錯覚し、大願成就を確信するのではないだろうか。
正に「時は今雨がしたたる五月かな」の心境、あるいは同じように今風に言えば大学受験講師のコマーシャルのようにだれもが「今でしょう」といっているように安倍総理の耳にはきこえているのではないだろうか。
日本国全体が本能寺に納まってしまったように安倍総理には見えるはずだ。
いよいよ自らの手で敗戦後体制を崩壊せしめ、できる限り日本を戦前の姿に近づけるべく明智光秀が織田信長の革命政権に立ち向かったように、安倍総理は国民主権の敗戦後体制の日本への反革命へ踏み出すはずだ。
(反革命の成功・・今様国盗り物語)
昔の天下取りには何十万人の兵隊を動員して命懸けの戦いを繰り返して漸く天下を物にすることができたのだ。勿論天下取りには数多くの明智光秀のような失敗者もいるのだ。
しかし、今天下をとるにはそんな命懸けの難儀なことをする必要は全くないのだ。
現状の国家の有り様を様々に思い、気に食わないところ、邪魔なところを削ぎ落とし、自分好みに変えていく。よりやりやすいようにしていく。それを仲間の国会議員とともに文書にして、規定通りの国会の審議を経て国民投票の半数の賛成が得られれば天下がとれるのだ。
天下取りの話が途中で憲法の話になってしまったが、まさに憲法を新たにすることで、天下は我がものにすることができるのだ。現代においては憲法を変えなければ、あるいは変えてこそ初めて国盗り物語が完成するのだ。これが戦国時代と現代の大きな違いだ。
だから、憲法をどのように変えようとしているのかを見れば、国盗り、天下取りの野望と全貌がすべて見えてくることになるのだ。
実に不思議と言えば不思議なのだが、現代の国盗りの作業の大半はイメージの世界で完了することになるのだ。
百万人以上の官僚も自分の手足のごとくつかい、何十兆円の税金も自分の思うとおりに費消し、さらに紙幣をかってに印刷するに近いようなこともできるのだ。天皇の地位すら織田信長がかって考えたらしいが、自分の思うままに形式上の元首にしたり、生意気な反抗的な国民の人権を自由に制限し、漸次国民主権を弱める様な手もうてるのだ。北朝鮮が攻めてくるかもしれないから、国防軍を増強し、当然徴兵制を制定し国民の命を自分たちのために差し出させることもできる。水爆だってミサイルだって保有することもできるのだ。国旗という布きれに敬礼をさせ、天皇制のいやさかを願う歌を歌わない奴を職場から追っ払ったりすることだってできるのだ。福島原発のメルトダウンを経験しても、原発産業の要請をうければ、エネルギーのベストミックスを追求するといって原発を残し続けることもできるのだ。国民に嘘をついても嘘はないと言い張り、それが露顕してもだれも責任なんかとらない。憲法だって、変えやすくしたり変えにくくしたりもできるのだ。やりたい放題といってもいい。
自由民主党は以上のような内容を直接書き込むか、書き込まないまでもやろうと思えば容易にやれるような最新の「日本国憲法改正草案」を平成二十四年四月二十七日に発表した。そして大した話題にもならず、というか、話題にしないといった方が正しいかもしれないが、改正草案を発表して前回の衆議院選挙で大勝したのだ。
安倍政権はいよいよ反革命を開始するだろうし、開始するにあたってまず日本国憲法第96条改正条項に手を染めようとしている。そしてこのとき「国民の手に憲法をもどす」と言いつつ国民の手から憲法を奪い我がものにすべく、まさに本能寺への駒をすすめるだろう。その一里塚がきたる7月参議院選挙なのだ。
こんなやり方は成功しないはずだが、国民の方は憲法改正の重要さに気がついていないので、今の段階では下手をすると本能寺の変で明智光秀が天下をとるようなおかしなことになってしまう虞もなきにしもあらずなのだ。
安倍政権良しとする者は彼を支援すればいい。しかし、安倍ごときに300万人以上の犠牲で手に入った自由と平等と国民主権と平和の日本国を戦前に戻してはならないと願う人は自由民主党の日本国憲法改正草案を粉砕するように努めなければならな
い。
しかし結論をいえば、私が安倍総理大臣が最終的には反革命を成就させることなく豊臣秀吉ではなく明智光秀になるとあえて断言するのは、安倍総理が掲げる日本国憲法改正草案がイメージする日本の姿が現実化すれば、安倍政権や自由民主党にとっては居心地のよい風景が展開されるであろうが、その分多数の国民が不便、不自由不満と不平に感じて安倍総理大臣を支持した多くの国民が必ず安倍総理大臣に刃向かうように変化する。すなわち反革命は持続的な支持はえられないからだと申し上げておこう。
〔第61章〕民主主義進化の道程と日本国憲法
(主権のオウナーシップ)
一国の政治の核心をとらまえようとした時、最も的確な方法と言えば、おそらく主権というもののオウナーシップがなへんにあるかを見極めるに勝る方法はないだろう。即ち単独者の独占であったか複数の人々や特別の階層や身分に属する人々で共有するようなものであったのかを調べ、加えて主権の及ぶ範囲、対象などを正確に把握すれば、経済の分野は限界があるにしても政治の核心というものが、十全に把握できるはずだ。
そこで主権のオウナーシップという視点で過去の歴史を俯瞰するならば、主権の所有者は絶対的に確定して変化しないというのではなく所有者も変われば、主権行使の対象も範囲もまた変わってきたのだ。
(民主主義は主権者増加の極値)
以上のような前提で現況の民主主義政治における主権のオウナーシップについて言及するならば、文字通りというか、素っ裸でなんの飾りっ気のない主権在民という言葉で一気に表明できることになる。この主権在民を多少なりとも装飾するならば、万人が平等に無制限に常時主権の所有者たる権利を大方の場合は他者の権利を極端に犯さない範囲で行使できるとなるであろう。
そしてこの主権在民という表現は単純に主権の所有者を規定していることだけのようにみえるのだが、むしろそれ以上に、政治の場において主権の所有者の増加、拡大の余地が無いということ、即ち主権者の数の最大値を表している言葉でもあることを物語っていると読み取ることもできるはずだ。主権者の数が増えることがいつの場合でも革命的な善であるとは限らないが、少なくともわれわれ人類は早々と政治という場における論理的発展の域値を究めてしまった思想を手にしてしまったということに多少の落胆を感じないこともない。少し飛躍した言い方をすると、民主主義をもって今後これに優越する政治思想は現れない、ということにもなるはずだ。(但し私が唱えている究極的民主主義という考えは議会制の政治制度では主権者は真の主権者ではなく形式的な主権者である。従って主権者が形式的な主権者から実質的な主権者になる最後の民主主義革命が起こると予言しているのだが)
(主権者の増加に伴う摩擦と闘争)
主権の所有者が入れ代わる。ドンドン新しい主権者が増えてくる、というのが近代政治の歴史だが、この時、旧主権者を完璧に追放、抹殺、消滅するいわゆる革命と、旧主権者と新主権者たちとの力関係や抵抗の程を取り込みながら双方の妥協によって創出される新旧権力の混在型の政治というものがあった。因みに民主主義は本来混在型の政治ではなく主権の平等配分という特定権力者が存在しない革命型の政治なのだが、混在型であるにもかかわらず民主主義を標榜する政治は多い。その典型の一つが形式的と逃れているが天皇制という政治を残す日本である。主権者の増減には摩擦や激しい流血の闘争が新旧の権力者の間で生じるのは当然である。
この摩擦、抵抗、妥協の結果、新しい権力者の登場を正当化する思想理念を体した政治運営のメカニズムと新旧主権者の権能等を公にしたものが、規則や法となり、それらが様々な過程を経て近代的な国家形成時に体系化、序列化されて憲法にまで昇華されてきたのだ。
こういう憲法形成の長い闘争の過程を考えれば、権力を少しづつ旧主権者から奪取してきた新主権者は旧主権者からもぎ取った新しい権力を取り戻されないように、また獲得した権力の実質が蔑ろにされないようにするために憲法に明細を書き込もうとしたであろうし、それも防御的な書き方になったはずだ。
事実、法や憲法こそ新主権者の後ろ楯や拠り所になってきたのだが、同時に旧権力者の力や政治的な立場というものを気にしながら新主権者は自分たちの権力の確定化を図ってきた結果を文章化したものとも言える。そしてこのことが世界中の民主主義憲法や日本国憲法にも微妙な影響を与えることになったのだ。
(民主主義の憲法のあり方)
民主主義で人々は自分で判断し決定できるという条件下でもし憲法を作るとなれば、存在しない非民主主義、反民主主義的な尋常ならざる権力保持者を気にし配慮するような記載のし方は一切無用であるし、権力者の権力の専横や不当な行使を抑制制限するものでもなく、また個人の基本的人権などについても、それはあまりにも当然のこととして記載されなくてもいはずである。またもしそのようなものがあって、そのことになんの違和感を抱かないとすれば、それは民主主義という制度・原理を正しく理解していないか誤解しているということになる。
ならば真の民主主義憲法とはどういうものかといえば、平等な国民や市民の共同参加によって認証される政治運営のルールブックのようなものになるはずだ。
だから、条文の主語は概ねわれわれは、となるはずで、しかもこの憲法上のわれわれは、は個々の国民を指すだけでなく全国民であると同時に、立法行政時に司法全体あるいは国家の代名詞として用いられるのだ。これは、民主主義では政治は国民と一体のものだという解釈を前提にするから言えることなのだ。
(日本国憲法に対する違和感)
そこで我が日本国憲法である。
日本国憲法には随分と民主主義の条文として書き方が相応しくないと思われるものがあるのだ。大いに違和感を抱かざるを私はえないのだ。
具体的に余白の許す範囲で申し上げることにする。
まず、天皇に関する第1条から第9条までは、天皇を国家元首と法的に擬制することによる記述であって民主主義憲法では政治に天皇制をかかわらせてはならないはず。
第12条この憲法が国民に保障する自由および権利はという書き方は、憲法の主体は憲法ではなく国民だという認識に欠けた書き方になっているのだ。だから憲法が国民に保障するのではなくわれわれが保障する自由および権利、でいいのだ。また国民はこれを濫用してはならない、とあるが、濫用してはならないことはいうまでもないことだが、憲法が国民を上から目線で見下ろしているようで、不快である。だから濫用の防止は別の法律で定めればいいのだ。
第13条すべて国民は個人として尊重される。とあるが、この受け身の文章も主体が不明なのだ。だからわれわれは全ての国民を個人として尊重する。でいいのだ。
第14条はすべての国民は法の下に平等であって〜〜差別されない。とあるが、これも差別する何者かがいることを想定しているのであって民主主義である以上はこういう条文もまたおかしいのだ。
条文の主語を明確にし、われわれは法の下に平等である。とすべきなのだ。
第15条普通選挙を保障する。とあるが、保障するではなくわれわれは普通選挙で公務員を選出する。でいいのだ。
第16条国民が平穏に請願する権利、第17条の国の賠償責任、第18条奴隷的拘束の禁止であるが、当たり前すぎて、こんなことを民主主義憲法にのせる意味があるかなと思うのだ。人を殺してはいけない、とか人の物を盗んでいけないという事が憲法に書かれていないのと同類のことのように私には見えるのだ。
しかし、以上のような基本的人権に関する記述を憲法に書き込まなければ、基本的人権は保障されない、侵害してもいいのだという解釈をされかねないので、だめ押しのようなものとしての存在価値はあるかもしれない。
第19条は思想良心の自由であるが、これもただぼうっと思想良心の自由は、これを犯してはならない。と記述するのではなくわれわれは国民の思想と良心の自由を保障する。とすべき。
第10条から28条までの基本的人権の部位は、国民が権力者から獲得してきた権利であるから憲法に書き込みたくなる条文であることは理解できる。しかし、民主主義下では絶対的な権力者はいない、国民の多数が自らの権利を狭めたり消滅させたりすることはないはずだから、主権在民が徹底的に国民の間に浸透したときには、この基本的人権が拡張した場合は憲法にのせられるが、そうでなければ憲法から外されると思うのだ。基本的人権に反する行為は憲法より下位の法律等によって取り締まられるようになるだろう。
また特に気になるのは51条の議員の発言の無答責であるが、これも絶対的な権力者が議員の発言に文句をつけても国民の福祉の増進が阻害されるようなことがあってはならぬ、ということをいっているのであって、国民が主権者にも係わらず議員の発言や表現に無責任でいいというのはやめさせるべきなのだ。
主要な点について記述してきたが、読者の皆さんも日本国憲法に対して護憲・改憲でなく視点をかえて見直してもらいたい。そうすればいままでとは全く変わった新しい日本国憲法像がみえてくるはずだ。
〔第60章〕韓国よ、第二次朝鮮戦争を覚悟せよ
(北朝鮮の韓国哨戒艦雷撃事件)
回収した魚雷の部品等の物的証拠や1968年青瓦台襲撃未遂事件、1983
年のラングーンでの韓国大統領暗殺事件等々の前歴から考えて、今回の韓国哨戒
艦の雷撃沈没事件は北朝鮮の仕業以外に考えることは不可能だ。
とりわけわれわれ日本人にとって北朝鮮犯人説をとらざるをえないのは、日本
人拉致事件を金正日がみずから白状し、日本に陳謝し、しかも北朝鮮内で生き残
った拉致された人間の一部を日本に返した事実があるからなのだ。
北朝鮮はこういう非人道的な挑発事件以外にも、麻薬、偽札などにも国家とし
て取り組んでいるという噂がたえないのだ。かてて加えて北朝鮮は乏しい国家財
政の中から秘密裡に核爆弾とその運搬手段の開発をおしすすめてきた。
核を使用することは報復による自滅を覚悟しなければならず、それ故核兵器は
使用不可能な兵器なのだ。だから使用不可能の兵器を保有することにはなんの利
益もないはずなのだ。ところが、北朝鮮は実にしたたかで、核爆弾を保有するこ
との新たな意味と価値を見いだすことに成功したのだ。というのは北朝鮮は「自
国に対して様々な援助をしなければプルトニュウム(核爆弾の原料)の製造を止
めないぞ」と周辺国に対して宣う、というか通告したのだ。核を援助引き出しの
道具にしたのだ。
気違いに刃物なら恐怖は極小であるが気違いに原爆では、極大の恐怖になる。
思うに、普天間基地の移設問題で米国から何一つ譲歩を引き出せなく、挙げ句
政権を投げ出さざるをえなかったわれらが鳩山前首相のようなインテリよりも、
時に金正日のような恥知らずの気違いが独裁者になることが、国家のためには有
益であるのかもしれない、などと思ったりもする。
金正日に支配される北朝鮮がこの地上に存在するということは単に韓国にとっ
てだけでなくヒットラーがそうであったように人類全体の不幸と言うほかない。
(日本の対朝鮮半島外交のあり方)
下品な表現とは思わが、北朝鮮は戦争嗜好という質の悪い性病に罹患している
国家、と言ってもいい。そして、その北朝鮮の病のため隣接の韓国もまた同じ病
に罹ってしまっていると考えた方がいいのだ。だとすれば性病に罹りたくないと
思ったら、日本はこういう半島の国家とは絶対に係わるべきではないのだ。どう
しても、というのならコンドームを付けるなど、完璧な予防措置をした上で接し
なければならない。国家として、日本は政治的な領域にかかわる関係は一切もつ
べきではないのだ。
朝鮮半島の問題は朝鮮人にまかせておけばいいのだ。北か南か決着がつくまで
余計な口出しを日本はすべきではない、ともいえる。
ところが鳩山前首相は韓国の哨戒艦の沈没原因が北朝鮮の魚雷攻撃と断定され
た調査結果を受けて、間髪を容れず「韓国を強く支持する。北朝鮮の行動は許し
難いものだ。今後の対応は、韓国、米国など関係各国と緊密に連携・協力する」
とコメントを発表した(5月20日読売新聞夕刊)。このような外交発言は、い
つものように全く日本の真の国益を考えない思慮の足りない発表であった。
北朝鮮は自国に対する制裁がおこなわれた場合は「全面戦争」の可能性まで言
及しているのだ。日本が韓国と連携してどうするのか。こんな時になんの影響力
も行使できない日本が、なぜ、韓国を支持するなどと旗幟を鮮明にしなければな
らないのか。馬鹿は国内問題だけにしてもらいたかった。そして中国やロシアの
態度を、そして米韓の軍事演習を延期した(6月4日)米国を少しは見習えと言
いたい。
それよりもいまこそ日本は韓国に糺すべきなのだ。韓国は竹島問題で日本にど
のような態度をとってきたか、と。
どさくさに紛れて軍事占領をして竹島にいすわっているだけではないか、と。
軍事占領という規制事実を日本領土を韓国領土と言い募る根拠にするのであれ
ば、北朝鮮が韓国の一部でも全部でも軍事占領して、北朝鮮領土と宣言されたな
らば、それを認めざるをえないことになることを韓国は忘れてはならない。
日本は人がよすぎるのだ。
だからといって日本がいきなり韓国と絶縁することは困難であることはわかる
が、北朝鮮はもとより北朝鮮と全面戦争の危険を孕んだ韓国とも少しずつ関係を
薄めていくように指向すべきなのだ。
朝鮮半島で全面戦争になったら、日本に難民が溢れる、だから韓半島に戦争が
起こらないように日本も協力すべきだなどと言う者もいるが、そもそも韓半島の
問題に一切かかわらなければ北朝鮮と韓国が全面戦争になっても日本は一切無関
係で1gの責任もないのだ。
だから日本に対する朝鮮半島からの不法侵入者は日本の力で朝鮮半島に追い返
せばいいだけの話だ。
しかし性病に感染した韓国と米韓国相互防衛条約を締結している米国も正に性
病に感染しているのだ。そして当然その米国と日米安全保障条約を締結している
日本も、辛うじて発病はしていないものの実にあやうい状況下にあると言わねば
ならない。だから間違っても米国との間に米韓のような条約など締結しないことだ。
(韓国、新たな決断の時)
今回の北朝鮮の雷撃事件に対して当事者である韓国はいかなる対応をとるべき
か、であるが、日本は知らんぷりでいい。しかし韓国にとってはそうはいかない。
そこで、余計なことだが、韓国がいかに北朝鮮と向き合うか、第三者として冷静
な忠告をしておきたい。
核を保有している北朝鮮とまともに向かい合っている韓国は恐怖心から北朝鮮
に対して弱腰の対応をしているようだ。
当然、韓国は北朝鮮の仕業と判定した時点で、即座に今回の雷撃の犯行を認め
させ、さらに犯人の引き渡しと、死傷者に対する賠償金の差し出しを要求すべき
であった。これらの正当な要求になんら成果がでていないにもかかわらず、憐れ
にも韓国の李明博大統領は「韓(朝鮮)半島で全面戦争の可能性は絶対にない。
局地的に平和を脅かすことが時々起きるが、抑止していく」と6月5日訪問先の
シンガポールの経済関係者との懇談で語った、と報道されている。これでは話に
ならない。金正日がこの発言を知れば、ほくそ笑むだけだ。
韓国は北朝鮮に対して、いままでとは異なって話し合いや宥和政策では北朝鮮
との諸問題は解決できないと判断しなければならないはずだ。即ち韓国は重大な
決断をしなければならないのだ。
(韓国は対北朝鮮に対する開戦準備を整えよ)
私は、北朝鮮は絶対に全面戦争には訴えない、と判断する。なぜなら、金正日
の最大の願望は、金日成、金正日と継承れさてきた金王朝、金幕府の子孫への継
承なのだ。北朝鮮の人民に非民主主義、反民主主義の恐怖政治を行いしかも極め
て貧しい生活を人民に強いる、こういう不自然な体制を力で維持しようとしてい
る。韓国や米国が攻めてくるとでもいわなければ自己存在の価値を人民に認識さ
せられない国だ。その体制を自分の子孫に丸ごと譲りたい、と願っているのだ。
息子に国会議員の地位を継承させた日本の小泉元総理のようなケチな話とは違う
のだ。国全体を譲ろうとしているのだから北朝鮮も真剣だ。
だから、一つは北朝鮮の韓国に対する様々なアクションはすべからく自国に対
するデモンストレーションなのだと見なして韓国はなにもせずそっとしておく、
という考え方もあるはず。だが、北朝鮮は王朝の継承だけでなく、日本の戦国大
名よろしく領土の拡張も夢見ているので、韓国としてはなにもせずジッとしてい
るわけにはいかないはずだ。そこで、韓国としてはこれ以上挑発を続けるならば、
北朝鮮との全面戦争も辞さずという決心をしその準備をすることだ。李大統領の
発言は隠れ蓑にするのだ。
勿論戦争となれば犠牲は大きいが、民族や国家が統一されるまでは繰り返して
大量の血が流されなければならなかったというのが歴史が教えるところだ。当然
開戦すれば圧倒的に韓国が強いということを北朝鮮に理解させるために韓国は米
国との相互防衛条約によって米国からの協力を最大限にひきだすことに腐心しな
ければなるまい。更に現実に開戦となれば当然北朝鮮は核攻撃にうったえる可能
性がないわけではない。だから、米韓同盟軍は米国がイラクでやったように先制
攻撃を敢行することがあってもいいのだ。開戦と同時に北朝鮮の核にたいする予
防攻撃を徹底する。万一、北朝鮮が核を使用した場合は100倍の核を北朝鮮に
降り注ぐという警告も発し、それを実行できる態勢を韓国は速やかに用意しなけ
ればならない。
もし、このような覚悟がなく、いまさら北朝鮮との戦争なんて嫌だ、といって
自力で問題解決ができないのなら、韓国は北朝鮮の暴力に身をまかせ、挙げ句に
朝鮮半島が北朝鮮によって支配され続けることに甘んじるしかない。
〔第59章〕混合政体論
(議会制民主主義の限界)
少数の人間が民主主義政治という名の下で多数の人間を管理し利用し搾取し支
配する、即ち人民を統治する制度として議会制民主主義はなかなか巧緻な仕掛け
を有していると私は思う。しかし、うまくやられている多数の人々は議会制民主
主義のあざとい装置や仕掛けに気づき、やがて例えば選挙権の1票の価値の平等
化や、政治情報の完全な公開とフリーアクセス等の重要性を明確に認識するよう
になるのだ。
現実に、日本において議会制民主主義の基本原理を温存しつつではあるが、議
会制民主主義がもつ可能性と性能を向上させようとしている動き、例えば1票の
格差を違憲とする訴訟のようなことであるが、このことを弁護士升永英俊氏、久
保利英明氏らの手によって展開されている。その結果、日本各地の高裁では違憲
4件、違憲状態3件、合憲は2件の判決がでているのだ。(以上4月27日現在)
私は今回、上記のような一票の格差の是正など、正統な議会制民主主義の改革で
はなく、議会制民主主義という制度を根底から見直し、性能の劣る部品は優れた
部品と交換するなどして議会制民主主義の性能をアップさせるべく再構築してみ
ようと考えたのだ。
その結果、既存の議会制民主主義という制度、体制ではどうしても発生を止め
られない不良品、傷物のようなもの、すなわち民意に沿わない政治がなされたり、
権力のエゴと暴走などの発生率を大幅に低下させることを期待したのだ。
(権力の横暴とその助成機構)
あらためて日本の議会制民主主義をみてみると、まず何よりも議院内閣制を採
用しているために、国会は国会における多数派の意のままに立法されるのはもと
より、同時に内閣もまた国会における多数派の意向のままに動くということにな
る。さらに問題なのは、立法、行政の癒着は議院内閣制の当然の帰結であるにし
ても、せめて司法部門だけでも国会の多数派の影響から超然としていて国会と内
閣に目を光らせていれば、議会制民主主義も完全ではないにしても三権分立の原
則に則った相互牽制の政治がなされうるとかすかな期待も持てる。
しかし、司法も日本の議会制民主主義では行政に取り込まれているのだ。
即ち日本国憲法第六条天皇は内閣の指名に基づいて最高裁判所の長たる裁判官
を任命する。また第79条1.最高裁判所は、その長たる裁判官および法律の定
める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、
内閣でこれを任命する。とある。これらの規定のもとでは内閣、即ち国会の多数
派の意向にかなう裁判官を内閣は任命することなるであろうし、そうなれば、司
法もまた完全に議会の多数派の支配下におかれることになる。
このことに加えて、検察庁法第14条のように、法務大臣が検察官の事務に関
して検察官を一般に指揮監督することができるとしており、かって造船疑獄では、
法務大臣が指揮権を発動して検察を押さえ込んだ例もある。
国会議員をみればなんか胡散臭いというか警戒心をわれわれ国民が抱かざるを
えないのは、日本の以上のような議会制民主主義という制度そのものが有する特
性のためなのだ。
日本の議会制民主主義というのは、民主主義と言いながら権力を分散させるの
ではなく権力を国民のためにではなく掌握した与党に都合よく政治を行わせるた
めに集中させようという意図を私は感じるのだ。
このような三権の複合癒着体制の仕掛けのなかで、政権を掌握した政党の国会
議員たちは、もし自分たちの犯した違憲の立法、行政や、不法、違法の行為や個
人的な悪行、犯罪などをなし、それを野党やマスコミ、国民から糾弾されたとし
ても余程のドジを踏まないかぎりあの手この手で逃げおうせてしまうか、そのよ
うに試みるだろう。ましてマスコミなどに叩かれる前に与党が自己規制をして未
然に悪政を防止するなどということは、いくら国民が望んでも叶うことではない
はずだ。
(混合政体)
ではどうするか、であるが、議会制民主主義で完全には国民の意にそわないけ
れどせめて国会議員や官僚の不正や誤魔化しを見逃さないという政治を制度の面
で実現できないものか、と私は考えたのであるが、答えは簡単なことであった。
即ち、現行の議会制民主主義の制度のうち司法権を独立させ強化することに尽
きると思ったのだ。この線に沿って日本国憲法を変えればいいのだ。となれば、
日本国憲法もズタズタに変わってしまうことは当然のこととして、国会議員も国
民も受け入れなければならないのだ。「なんとしても日本国憲法を守らなけれ
ば」などと言っていてはダイナミックな改革などできないのだ。
そこでまず、司法権の強化のための政体を選定しようとした場合、議院内閣制
と大統領制では政治的な配慮の仕方が異なってくるが、今回は日本の議院内閣制
を継続する場合で考えてみたい。
まず司法権の強化のためには、当然、先述した日本国憲法第6条や79乗は廃
止されなければならない。その代わり最高裁判所の裁判官も内閣(与党)が任命
するのではなく司法が独自に最高裁判所の裁判官に要する資格、条件を定めて、
その規定に従って裁判官を選出する。最高裁判所の長もまた同様に司法が独自に
有資格者による選挙で選出するようにすべきだと思うのである。
また法務大臣は与党ではなく野党第一党からださせるのだ。勿論憲法にそのよ
うに明記する。この時、当然法務大臣は閣議決定の拘束を受けないものとするの
だ。また内閣総理大臣は法務大臣を辞任させることもできないようにするのだ。
こうすることで、法務大臣が検事総長に対して指揮権を発動して与党政治家の犯
罪摘発を阻止するようなことは防げるだろう。
検事総長、警察庁長官もまた内閣で決定するのではなく野党の国会議員のなか
から野党党首が指名することもあっていいだろう。国家公安委員会も与党の影響
から完全に独立した組織にしなければならない。
裁判官の弾劾については、この時点で国会に付与してもいいのだが、それは国
会議員の構成に正確に国民の意思を反映していなければならないと思うし、さら
に国会だけで判定するのではなく、最高裁判所裁判官についての弾劾には国民投
票による直接の判定も必要とするようにしておかなけれければ、この分野で国会
に権力を与えておくと、そこから国会の司法に対する権利の侵害がはじまるかも
しれない。
以上のような司法権を独立強化した政体を私は混合政体と称するのである。
このような政体では、司法と行政の絡みは無くなるはずだ。
(野党有利の原則の確立)
現議会制民主主義において与野党の力の差というものは徹底していて、政治の
総てが与党の意思で決定されるのであって、この意味で野党は議会において刺し
身のつまよりも無価値な存在だ。
政権交代で権力の座を追われた自由民主党の体たらく状態をみるにつけ、正に
野党は哀れとしか言いようがない。
混合政体は、与党ではなく野党の方が強いという部分をのこすのだ。その効果
を政治の浄化、矯正に利用しようとするものであるから、以下のようなことも考
慮されてしかるべきだろう。
日本国憲法第3章には国民の権利について触れられているが、この3章には公
共の福祉、公序良俗に反しないかぎりという制約があるとされている場合が多い
のだが、この解釈に特異的に差別をつけるべきだと思うのだ。即ち与党には厳し
く、野党には寛大にする、というような配慮をする。
野党の共産党のビラ配りを警察がとりしまたのと逆バージョンで政権を握って
いる政党の悪を集中的優先的に取り締まるのだ。
議会制民主主義において野党は自主的な決定はなしえず、従ってその主たる業
務は与党に対する監視、批判になるのだが、今の議院内閣制では、この野党の批
判力もまた与党の力で弱められてしまうのだ。
だから、与党野党が競い合って単独で決定するよりは良い成果を得る、的な教
科書的役割を野党にふるのではなく、国会における多数派は常に腐敗する危険性
があるという前提に立って、野党にその腐敗除去の役割を憲法上で明文化するの
だ。即ち「国会内における野党は与党の行動判断を監視する」とし、そのうえで
チェック機能を果たすための権力と能力を野党に付与するのだ。
混合政体は円滑な与党の政治運営を不可能ならしめると反対する人もいるだろ
うが、そういうことはない。与党が正しい政治を行っていれば与党は円滑な政治
が運営でき野党の出番はないのだ。
〔第58章〕日本国憲法の民主主義的転換
憲法といえども完璧なものはない。制定時には想定しえなかった政治的状況の
出現のために憲法が機能不全に陥ることもあり、さらに特定の政治的な事象を法
令という形式の文章に置き換えようとした時に、言語というものが有する表現能
力の限界のために正確に表象しえないというような部分もあるのだ。曖昧な部分
も含まれることになる。また、憲法制定という一種の政治的な興奮状態の感情の
昂りの中で、到底守れそうもないような理想を憲法に書き込んでしまうようなこ
ともあるのだ。
それ故、憲法自体は改廃を禁止していない。だから国民は法による規範の確定
を尊ぶならば、憲法と政治的現実に乖離現象に気づいたり欠陥部位を見つけた場
合は、迷わず憲法を改廃して憲法が課せられた役割を十分に果たしていけるよう
に務めなければならないのだ。
それ故私はかねてより日本国憲法第9条は訂正なり補正するかさもなければ自
衛隊を廃止すべきだと思っていたが、同時に日本国憲法には9条以外にも随分と
改正すべき部位があると考え、本誌2008年4月号で私の考える日本国憲法の
改善点の一部について具体的な提案をしてきた。今回は前回とは異なった形で日
本国憲法の問題点を掘り下げてみたい。
(日本国憲法改定の判定基準)
私は一人の日本人として日本国憲法を精読するだけでなく憲法が私に対してい
かなる政治的状況を呈することになっているのか、とりわけ日本国憲法について
強調されているように本当に完全な民主主義が保障され提供されているか否かを
考えてみたのである。そして、納税の義務というリアリティに対して、その使途
にまったく口を出せなかったという非現実感を抱くに及んで、日本国憲法は私に
民主主義を全く提供していない、という結論に達したのだ。
ところで、更にお断りしておきたいのだが、私が申し上げる民主主義というの
は、全ての国民が全ての政治課題について無条件で 1/その国家の全構成員
だけの決定権を有し(保障され)その決定権を随時行使できる制度 でなければ
ならないと考えている。となれば議会制民主主義は民主主義ではないと言わざる
をえないのである。
以上のような認識、前提で日本国憲法をあらためて民主主義の理念と制度とい
う部材で再補強するという視点で早速、日本国憲法の問題点、改正点について申
し上げることにする。
(制定権者を明確にした書き方をする)
まず、憲法というもの、もしそれが民主主義の精神や原理に基づいて書かれた
ものであるならば、憲法はわれわれ自身が我々自身の為に書き上げたものでなけ
ればならないはずだ。別の言い方をするならば憲法を読みといたとき、特別の政
治的な権力をもった者、絶対制君主や戦前の天皇のような権力者、権威者が憲法
を作って国民に下げ渡したものと国民に感じさせるようなものではなく、同時に
また国民が権力者から無理やりもぎ取ったように感じさせるものでもないはずだ。
(勿論、現実の憲法はそのような過去の歴史的影響を引きずっているのだが)
そこで日本国憲法である。
例えば、日本国憲法第11条の「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられ
ない。(略)将来の国民に与えられる」という受動態の書き方なのだが、これは
明らかに国民の人権の享有を妨害する者の存在を想定し、彼らに向かって警告を
発するように書いているのだ。しかしこの条文は、「すべての日本国民は基本的
人権を享有する。」というように書くべきなのだ。同じく第13条「すべて国民
は、個人として尊重される」も受動態のされる、ではなく「われわれは相互に個
人として尊重しあう」でいいのだ。また15条の「普通選挙を保障する」という
書き方も、誰かが誰かに保障したりされたりするものではないはずで「普通選挙
でおこなう」でいいのだ。
(過去の遺物の条文の削除)
更に日本国憲法第50条の議員の不逮捕特権などは、絶対王政や戦前の天皇制
下においては意味も価値もあったはずで、権力者の干渉や横やりから国民の代表
者(議員)を保護し、このことが結果として国民の利益になるということであっ
たのであるが、民主主義の下では代表者が逮捕されるようなことをした時に、そ
の逮捕を中止させるような条文があれば、その時の被害者は権力者ではなく全国
民あるいは国民の多数派を構成する人々になるのだ。同じく51条の発言・表決
の不答責の規程も権力者による言論の弾圧を防止するために書かれたものなのだ
が、民主主義下では権力者は存在しえないのだ。だから50条と同様に議員の発
言の不答責の被害者は国民なのだ。例えば民主党員が自由民主党の案に賛成する
ような発言や投票をすることは、民主党員として行動するという黙約で主権を委
託した国民を見事に裏切るものである。これらのような条文も民主主義政治の深
化とともに削除されなければならないはずである。
(過剰な平等主義の民主主義的転換)
日本国憲法第14条は「すべて国民は法の下に平等であって」とある。
法の下に人々が平等でなかった時代の反省がこの条文にでているのだが、これ
も民主主義の深化によって部分的には訂正されなければならないのだ。即ち、一
般国民ではなく全ての公務員および政治家や官僚は、法の下で平等にしてはいけ
ないのだ。とくに刑法上の罰則は普通の国民に対するより重くすべきである。な
ぜならば、政治家や官僚に政治を任せるにあたって主権者はその誠実な履行を担
保する手段は国民はもちえないのだ。白紙で委任をせざるをえないのだ。結果と
して権力を掌握したものが度々国民を裏切ってきた。
日本国憲法は「法の下の平等」という権力者から権利を簒奪していた時代の原
則的権利をそのまま自動的に条文に継承してきたにすぎないのだ。
政治家や官僚が必ずしも国民の意思のままに行動しなければならないというこ
とはないという考え方もあるが、これは例外的な場合、即ち国民の意思を代表者
が確認しえない場合においてのみ認められるべきで、政治家や官僚はあくまで、
国民の意思で動かなければならないのだ。同様に同じような趣旨から政治家や官
僚には黙秘権も認めるべきではなくプライバシーの権利も認めるべきではない。
こんな不公平はいやだというのなら立候補しなければいいのだ。また選挙区を縁
者に譲渡することも禁止すべきだ。
(欽定憲法の民主主義的転換)
論ずるまでもないが、日本国憲法は欽定憲法で大日本帝国憲法の改訂版である
ことは憲法に記載されている。民主主義の御世、憲法が欽定であるのは完全なる
矛盾だ。
(戦争放棄の間違い・理想主義の訣別)
日本国憲法第9条に関しては言うならば、大陸侵攻や太平洋戦争の敗北で、国
家存亡の淵に追いやられた日本がしばし心を静めて時代の荒波を乗り越え、二度
と戦争の悲惨さを味わわなくて済むように、戦争放棄を第一の題目に掲げたこと
は十分に理解できかつ歴史的意義は大きかった。しかし今や冷静さを取り戻し世
界の軍事的な数々の衝突事例をみるにつけ、もはや戦争放棄を一方的に宣言する
だけで戦争抑止に貢献するには限りがあると、思わざるを得ない。現に日本は第
9条があるのに自衛隊を保持してしまっている。第9条は廃止すべき。その代わ
り明確に日本への主権侵害に対しては防御防衛手段は擁する旨宣言する。核武装
を制限しない。但し、日本は絶対に先制攻撃はしない。民間人保護のため、ある
いは紛争解決のためにも軍隊を国外に派遣しない。外国とは安全保障に関する条
約は締結しない。非常時には徴兵制並びに総動員制体制をわれわれは選択するこ
とができる等々を明記する。高校生以上には軍事訓練を実施する。
(象徴天皇制の民主主義的転換)
象徴天皇制の役割もまさに終わっていると言わざるをえないのである。
象徴天皇制などという民主主義に反する中途半端な制度は廃止されるべきだと
考える。しかし日本人の多くが天皇制に決別するのは寂しいと感じて象徴天皇制
を引き継ぎたいのであれば、せめて象徴天皇制は憲法の第一章ではなく最終章に
もってくるべき。同時に、天皇について普通の人間が認められているような権利
、例えば結婚や離婚、あるいは退位の自由などに第三者が干渉するようなことは
許してはならない。天皇にも自由を、と言いたい。
(議会制民主主義の民主主義的転換)
日本国憲法冒頭の「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて
行動し」とあるが、これはまずもって大いに問題ありの部位なのだ。
全ての国民がなぜ、代表者を通じて行動しなければならないのか。国民は代表
者が決めた法は守らなければならないが、それだけのことで、代表者を通じて行
動する必然を憲法でいわれる筋合いはないのだ。むしろ代表者は国民を通じて行
動しなければならないとすべきなのだ。
また正当に選挙された代表者、などと簡単に記述しているが、1票の格差が5
倍以内なら合憲だ、とか最近では2倍以上は違憲であるなど、いくら工夫しても
国民の頭数すら正確に反映できないのが選挙であって、しかも数年に一度の選挙
が、国民の政治的意思をいかほど吸い上げることができるものか。できないのだ。
国会議員は国民の意思を代弁できるという仮説で議会制民主主義が成立してい
るに過ぎないのだ。日本国憲法は出だしでけつまずいているのだ。議会制民主主
義という制度しか採用できなかった時代の遺物を今現在も引きずっている。
重要な政治課題については絶対に国民投票制(ネットワークを利用した)を採
用して国民が直接決定する。その結果の責任も国民が負うのだ。そうでなければ
民主主義は質的に向上しない。
(日本国憲法の活性化)
政治家や官僚はは戦後多くの憲法違反になる行為をしてきた。たとえば、1票
の格差が2倍以上は違憲だ高裁の判決があっても、国会議員がアタフタと格差解
消のために選挙法を変えようとはしていない。このように違憲の行為、判断に対
して現在は法的強制力の波及に時間差が生じる余地があって違憲状態が永く放置
されることが多いのだが更に、違憲立法審査権が授与されている最高裁が違憲の
判決を回避するようなことさえあるので、自由民主党は往々にして日本国憲法に
すら、従ってこなかった。
従って憲法には、憲法に違反した場合に対する規制や罰則を明記する必要があ
る。例えば、違憲状態は最高裁判所で判定された時点からいかな理由があっても
1年以内に違憲状態を解消しなければならないと規程し、国会や行政に対して、
違憲状態の解消のために行動しなければならないという義務と責任を負わせるの
だ。その法的根拠を憲法に明文化するのである。
また憲法条文の解釈というものについて明確に制限する必要がある。
権力をにぎっているものが、憲法の解釈を勝手に変えることができるならば、
憲法は死文化してしまうだろう。重要条文については解釈に関する補足的な国会
の議決をつけておけば、憲法の条文の解釈は確定できるはずだ。
(政治情報にかんする民主主義的転換)
日本国憲法で一番おくれているところは、政治情報というものに関する規程が
全くないことだ。本来日本国民は総理大臣が入手できる情報と同量、同質の情報
を入手する権利があるのだ。だとすれば、憲法に新たに章をおこし「日本国民は
政治情報をひとしく共有する」と明記し、他の立法、行政、司法と同等の権力と
みなすようにしなければならない。そうでなければ国民が実質的に政治に参加で
きず、できなければ民主主義ではない(参加するしないは個人の自由だが)。政
治家や官僚は政治に関する情報を隠匿することを禁止する。政治情報の隠匿罪を
新設し政府による密約問題など2度と起こさせぬようにしなければならない)
閣議をはじめすべての政治家や官僚の決定事項は過程とともに記録され、公開
される。但し、安全と政治家や官僚以外の犯罪に関する記録の公開には制限をも
うけてもよいが、それもいずれ公開を原則とする。
(国会の過干渉の民主主義的転換)
日本国憲法には・国会の議決した(第2条)、法律の定めるところにより(第
4条、17条、26条、27条、30条、40条)、国会の議決に基づかなけれ
ば(第8条)法律でこれを定める(10条、29条、43条)法律の定める手続
き(31条)などという言葉が付いている。以下略するが、補足を除く99条の
うち37条の条文が国会、立法府とのかかわり合いを有している。このこと自体
違法違憲ではないが、これだけ立法府の関与を許せば3権分立など吹っ飛んでし
まっている。例えば、第43条のように両議院の議員定数を法律できめるなどい
う規程があれば、国会議員にとって議員定数の削減などという課題は、一番最後
の課題になってしまだろう。衆議院は人口20万人あたり一人とか、議院の定数
を憲法に明確に規程しておけば定数是正の裁判などおこりようもなかったはずだ。
国会や法律による関与はそのまま議会の多数派の意思どおりに憲法の内容を変
えられることであって、正規の改正とは異なって国民の意思の到達しないところ
で実質的に憲法の内容が変えられてしまうのだ。
(副次的憲法改正権)
現行のように国会で可決された改正案に対して諾否を表明するだけでなくせめ
て2つの改正案から一つをえらぶようにしたいものだ。どうするかであるが、発
議には2分の1以上必要としても、改正案が国会で可決されたと同時に、その可
決案に反対の議員のうち最大多数を形成しうる政党は、改正案の改正部位に対し
てのみ、反対提案ができる権利を有することとし、その可決案にたいする反対案
も同時に国民投票にかけるようにするのだ。憲法改正案を国民の目線にどれだけ
ちかづけることができるか、国会議員たちを競わせるのだ。
(憲法の目的の再定義・・科学と技術立国)
日本国憲法が平和を日本の第一の国家目標にかかげたように、新しい次の日
本国の憲法は有用資源の乏しい日本が経済戦争の激しくなるなかで、国民生活の
持続的な安定と繁栄を目途に掲げた新たな生き残りのための国家目標をうたい、
日本の持てる可能性を傾斜的に投入される国家体制を構築ると明記すべきだ。
私は日本国の安定の基盤は科学と技術の振興にあると考えるので、このことに
関する条文を新たな章建てで加えるべきである。
その他、日本の領土の宣言、北方領土竹島、等も明記すべき。
以上、走りながら私の日本国憲法に関する民主主義の実質化という視点からの
改正案を披露させていただいた。国民主権、平和主義、基本的人権など日本国憲
法の3大特徴は、私にいわせるならば、そのすべてが何らかの修正が迫られてい
ると思うのであるが。
〔第57章〕 普天間問題の解決私案
(普天間移設問題への鳩山首相の対応)
鳩山首相は小沢幹事長という爆弾を抱えながらも民主党の党勢をまとめつつ、それでも「言うときには言う。やるときにはやる」という筋の通った采配を振ってきた。その典型が普天間基地移設問題に関する対応に見ることができる。
たとえ相手が米国であっても旧政権とは異なり「NO」と言わねばならないと思った時には「NO」と鳩山首相は言ってきた。このような行動の結果、敗戦後の65年間、米国の意向を酌むことに汲々としてきた旧政権の人々をして、“宇宙人”と評せしめたのは、けだし当然であった。かれらには鳩山首相を正しく理解できないのだ。
今回の米軍の普天間基地移設問題に対して鳩山首相はことを荒立てずすんなり旧政権の米国への約束どおり辺野古へ移設するという選択肢もあったはずだ。
しかし彼は、そうしなかったのだ。恐らく鳩山首相には日米関係について独自の考えや信念があって、安全保障条約の現状のあり方に対しても、必ずしも日米双方にとって十全のものとは思っていなかったのだろう。だから普天間基地移設問題は日米の安全保障に関する新しい関係を構築していくチャンスと思ったかもしれない。結果として、普天間基地の移設問題は鳩山首相の下、一旦結論を先送りし新しい基地の移設場所に関する案を5月末までに首相が出す、ということにしてしまった。
しかも、鳩山首相がこの決断をするに当たっては以下の3つの合意という条件を満たすものでなければならない、とした。
即ち、1.米国との合意
2.移設先の地元住民の合意
3.与党3党の合意
である。当たり前の条件である。
しかし、この3つの合意の内容は1の米国はキャンプ・シュワブがベストで前政権との約束もある。再交渉の余地などないというもの。2の旧政権が決めていた名護市の住民は先般の選挙で基地反対派が勝利を収めているのだ。3の与党の合意といえば福島社民党党首は、基地は最低沖縄県外。理想は海外でというのだ。
こんな条件をみずから持ち出した首相には問題を本気で解決する気はないのではと思わせるような内容なのだ。このため目下、移設問題には暗雲ただよっているように見えるが、一人、鳩山首相だけが解決できると言明するばかりである。
思うに、この3者の合意という条件のうち、与党内の合意、地元の合意は、言ってしまえば最終的には首相の権能で、無視しても自分の意思を通すことはできるのだ。無視できないのは米国の合意である。だとすれば、あえて3者の合意をとしたのは米国向けに発せられたのである。このことは、住民と与党内の合意がなければ移設はできないという日本国内での基地移設の困難さを強調することで米国からなにがしかの妥協を引き出させるバーゲニングパワーを鳩山首相は持とうとしたはずだ。その結果として基地移設問題の解決には多少なりとも鳩山首相の本意に近づいた形になるのではと鳩山首相は期待したのではないだろうか。
それでも、私は5月末にだされるという鳩山首相の成案が、住民や他の連立与党の諦めと妥協の結果のようなものではなく3者の真の合意、その合意に若干のほつれがあるにしても一応3者の意思を統合させた考えが出される可能性があるかもしれないと期待しているのである。勿論その内容はわからない。そこで自分ならどういう案にするか、考えて、鳩山首相の成案を想像してみたいと思う。
(普天間問題解決のための私の考え)
まず、この問題を考えるに当たって絶対に無視できない(現実は異なるかもしれないが)条件がある。そして、その条件を考えると3者の合意など不可能に思えるのだがしかし、逆に厳密に条件だけを考えると合意案の存する領域は絞りやすくなる。即ち、まず普天間問題の解決の3つの合意以外の第1の条件である五月中に解決すると鳩山首相が言っていること。十分な再検討の時間がないということだ。 次に5月のあとすぐ7月に第22回の参議院選挙があるということ。やっと積年の念願である政権交代を果たし、やらなければならないことやりたいことが山積しているなか、また、小沢幹事長問題で内閣の支持率が急激に下降ているなかで参議院選挙にマイナスになるような答えは出せないということ。これらの条件にさらに3つの合意のことを当然考えなければならない。
ひごろ鳩山首相は沖縄の受け入れ先の人々の合意が必要だと繰り返して発言してきた。ならば、住民がいない離島でもないかぎり残された期間内に新しい受け入れ先との合意が得られるとは思えない。また米国との合意について言えば、シュワブ沖以外はNOと言っていて、鳩山首相もまた日米安全保障条約は日本にとって重要であると言っている。
以上の要素を考えれば、鳩山首相の合意案の内容は自ずから明らかになってしまう。即ち、新たな移設先はないと考えざるをえないのだ。
正解はもともと辺野古シュワブ沖(ないし陸)しかなかったことになる。しかし、当然、鳩山首相がこの案だけをもちまわっても米国以外の与党内合意や地元の合意をとりつけることはできない。にもかかわらずこの案で3者の合意を形成するしかないとするならば、彼らが考えを変え受け入れることができる、新しい、提案なり条件が用意されていなければならない。そうすれば今までNOと言ってきたシュワブ沖の案は新たに再生できるはずだ。以下この新しい条件につき私は提案したい。
(新しい条件)
その条件とは、まず3者の合意に5月末、参議院選挙の結果という条件にもう一つ日米の安全保障に関する長期的展望、という時間軸の条件を考えたのだ。このやり方は幾何の試験で、問題の図には無い補助線をひいて答えを導くのと似たようなものだ。即ち問題解決を今現在だけに限って、日米、与野党、住民とでせめぎあうのではなく、今まで日米間で真剣に討議されなかった、日米安全保障の将来のあり方という新しい次元を加えたならば3者の意思によるがんじがらめの普天間基地移設問題が緩められ正解が飛び出してくるのではないかと私は思ったのである。そもそも、現在の日米安全保障条約体制は、日本の敗戦によって出現したものだ。だから、日本がこの先依然として米国の抑止力、軍事力に依拠し続けるのかを考えれば分かると思うのだが、私は日本という国家にとって米国の基地は異物であり、いずれ撤収される存在だと考えるのだ。しかもそれが正常な日本人の感覚だと思うのだ。にもかかわらず自由民主党政権下では長期的な展望なんて必要なかった。なぜならこびりついた日本の対米依存根性に毒されていたからだ。
しかし、私は鳩山首相はそれを除去しようというはっきりとした意思を持っていると思えるのだ。となれば、私は米国が望むとおり、まず今回の普天間基地移設は100%叶えてやる。即ち基地移設問題の正解は原案のままキャンプ・シュワブ沖に認めるのだ。しかしそれには条件付きである、とする。
その条件とは沖縄の全基地を日本に返還するということだ。ここで、時間軸を適用するのだ。(日本共産党は即刻といっているが)
日米安全保障に関する長期的展望の時間軸の中身とは今後10年後、最長でも20年以内のある年の8月15日か、沖縄戦終息の日6月23日を期して、沖縄から全米軍基地の撤退するということを米国が認めることが前提になる。最長20年後には沖縄から米軍の基地はなくなるから、ということで、シュワブ沖移設を連立与党2党と名護市民沖縄県民を納得させる。鳩山政権が出現して、最初から辺野古への移設認めてしまったのではこの条件をだせなかったのだ。
しかし、ここで問題になるのは、米国はこの新たな条件を認めないかもしれないということだ。ではどうするかであるが、この時、鳩山首相は絶対に譲らないという覚悟が必要になる。もし、どうしても米国が認めないというのであれば、一つには普天間移設問題はなかったことにする。そうして沖縄住民の怨嗟はつのり反米感情は高まることをうったえるのだ。最後は、日米安全保障条約第10条に従って、米国に条約を解消する場合もありうる旨通告する覚悟をもたなければならない。しかし、20年の期間設定という条件は米国が飲めない条件ではないはずだ。米軍基地が沖縄からなくなっても、その他の日本の基地は残るのだ。しかし、この新しい条件は鳩山首相の持論である「常駐なき日米安全保障」という新しい日米安全保障体制の実現への第一歩でもある。
米国にしても外国に自国の兵隊を駐留させておく費用対効果を考えるようになるだろう。外国基地の撤収は米国の利益にもなるのだ。
以上が私の考えである。
この新しい条件の呈示は仮に鳩山首相としては、もし、普天間問題の5月末までの解決ができなくとも、参議院選挙にはプラス要因として働くはずだろう。
〔第56章〕 情報伝達権の確立(2010年2月)
(NHKの回答)
NHKの昨年12月15日の時論・公論「不確実性漂う鳩山方針」という解説番組に関
する私の公開質問に関して、早速NHKの広報局から回答文がファックスされてきた。そ
こで本誌にて回答内容を公開し、NHKが外部からの番組批判に対して、いかなる反応を
示すか、読者各位に確認していただきたいと思う。
早速だが、12月28日づけのNHKの回答をご披露する。
武田文彦様
平成21年12月28日
12月15日の時論公論「不確実性漂う鳩山方針」については、鳩山政権内部の当事者
をはじめ、この問題の関係者への取材を重ねた上で、日本外交のあり方、沖縄の立場など
を十分勘案したうえ、問題を分析、評価し、解説したものです。住宅密集地の中に存在す
る普天間基地で、在日アメリカ軍の軍用機が離着陸を繰り返す危険な状態は長期間放置し
ておくことは許されず、この基本的な観点から現状打開のために日米間で合意可能な解決
策を早期に模索する必要性を指摘したものです。鳩山総理大臣も放送翌日の16日には「
常時駐留なき日米安保という考え方は封印する」と発言していますので、この観点からの
実現可能な解決策を模索していることは明らかと思います。今後の政権の判断を注目して
参りたいと考えています。この問題では様々な立場からの見方かあることは承知しており、
放送では今後も活発な議論に資する解説を心がけていく所存です。
以上
(回答に対する感想)
まず、この回答に対する私の全体としての感想を申し上げたい。
回答文は、NHKの広報局の担当者が自ら、電話にて「武田さんを満足させるものでは
ない」と発言した程、実に無内容のものである。即ち私の指摘や反論には具体的には一切
答えず、解説内容について一片の反省もなく、十分に勘案した、と返答されては、口なら
ずペンもまた重宝なもの、と言わねばなるまい。
以下、回答の各部位について改めて反論したい。
島田委員が取材したという政権内部への取材であるが、鳩山政権として正式に決定した
ことについて、政権内部の当事者の一部に反対があったとしても、その事自体はなんら政
治的な問題にはならないのだ。
もとより、私は島田氏の取材の方式や情報源について一切質問していないのだ。極端に
言えば解説内容の適否を問うているのではなかったのだ。
私がNHKへの公開質問で最も強調したかったことは、改めて申し上げるが、島田氏も
指摘しているように、普天間基地移転問題ついては様々な立場からの見方があるのである
。ならばなぜその様々な見方、とりわけ島田氏の説(思い込み)に反する立場からの見方
について一言も触れず早期解決という一方的な解説をしたのかということを、私は聞きた
だしたかったのだ。
因みに島田解説委員は本年1月6日の「おはよう日本」というNHKの番組で鳩山首相
の普天間問題に関する対米交渉について以下のような発言もしている。「前政権との違い
をだすために『言うべきことは言う』という鳩山首相の対米交渉の態度なのでしょうが、
実現できなければ意味がありませんよね」と薄笑いを浮かべて相手のキャスターに語りか
けていたのだ。
しかし、言うに事欠いて、実現できなければ意味がない、と島田解説委員は放言したの
だが、では北方領土の返還交渉について日本の4島一括返還という対露要求に対して島田
解説委員は同じことを主張するのであろうか。是非回答をいただきたいものだ。
言うべきことを言うことから外交交渉というものは始まるのではないだろうか。島田氏
の解説は解説ではなく、自分の信念や思い込みの披瀝にすぎない。
政治問題に関するこういう解説がNHKの解説としてまかり通っていること、そして今
回のような回答を出すということを見れば、私はNHKの政治解説に関して以下のような
疑問と怒りが湧いてくるのを抑えかねるのだ。
第一、公共放送における政治問題の解説の有り様についてNHKは正しく認識していない
のではないか。
中立・公平といいながら、時に大きく振れることがあって、その振れを修正・修復する
フィードバック機能が作動しないのではないか。
第二、一方的、片面だけの個人的信念による解説が放送される以上、解説委員に必要とさ
れる物の見方、分析能力、表現能力、ひろく多くの意見を取り入れる寛容さなどなど、解
説委員に要求される能力が少なくとも島田解説委員には欠けていると思われるが、どのよ
うな基準で解説委員が選出されるのか公開していただきたいものだ。解説委員に相応しく
ない人間が画面に現れてしまう理由が分からない。
第三、間違った解説あるいは偏った放送をした場合、どのような形で訂正処理をするのか。
あるいは訂正処理はしないのか。
第四、解説委員の解説が間違っていたり不当なものであった場合、NHKは解説委員の個
人的な誤りとするのか、NHKとしての誤りになるのか、ハッキリしていない。今回の回
答がNHKの広報からだとすれば、解説委員の報道は個人ではなくNHKとして内容に責
任をとるという形なのであろうか。
(NHKの解説報道のあり方)
ここでNHKの政治問題の解説報道のあり方について私の考えを申し上げておきたい。
様々な政治問題をNHKで取り上げる場合、NHKが立場の対立する学者や政治家、当
事者や関係者に自己の意見や考えを発言させる機会を与えることに問題はないどころか、
公共放送としての責務と言ってもよい。但し、あるべき解説とは、取り上げる政治課題に
関してA群という考えとB群という反対、対立する考えがある場合は、A群B群同質同量
の放送すべき。この時NHKがその持てる脳髄をしぼってもなおA群、B群の一方的な見
解しか出せなければ、そういう問題に関しては解説報道はすべきではないのだ。またこの
ような場合はあえて解説の必要性、必然性はなくなるはずだ。言い換えるとNHKは政治
問題に関しては善意、悪意を問わず独自の主張をしてはならないということ。NHKはな
によりも正確な情報を視聴者(有権者)に提供する、伝達することに徹すべきなのだ。
議会制民主主義において、政治に関する情報が正確に国民に伝わらなければ、主権者で
ある国民は政治に対する正確な判断や決定ができるはずはない。当然この政治情報の国民
への伝達過程は現在でも一応用意されてはいる。しかし、活字媒体では公式な形では、官
報があるだけだ。専用、特定の電波媒体はない。代わりに僅かな報道・広報予算が充当さ
れているだけで、実質的には政治情報の伝達部位は、きわめて脆弱なのだ。現体制下では
十分に政治情報が国民に伝わりにくいのだ。
このような状況下でNHKの果たさなければならない役割は重いのである。
(情報伝達権と憲法改正)
議会制民主主義政治における立法、行政、司法の3権はその権力行使については、厳密
に管理される。また各権力の淵源は明確である。ところが、すでに多くの人たちが指摘し
ていることではあるが、この3権だけでは、主権者である国民の政治的意思の形成に対す
る配慮が欠如しているのだ。この政治情報の国民への伝わる部位に問題が生じると、例え
ば「普天間基地移転が遅れることは日本に不利益だ」というような考えが大量に繰り返さ
れると国民の意思はそのような方向に誘導されかねず、民主主義はおかしなことになって
しまうのだ。
民主主義をおかしなものしないためには、先ず公共報道機関の政治解説報道を野放図に
放置していてはならないと思うのである。
どうするかと言えば、新しい政治的な権力として、既存の司法・立法・行政の3権力か
ら国民への情報伝達の義務を分離し、更に国民が政治情報を随時無制限に入手できるはず
の固有の権利とを統合して情報伝達権(仮称)として新しい政治的権力を確定して司法、
立法、行政の3権につづく第4の権力とする。情報伝達権は情報伝達院(仮称)に属し、
情報伝達院の管掌の下、国費によって運営されるNHKのような公共放送組織が情報伝達
の実務を担うのである。当然憲法改正もこのような視点からも考えられなければならない
のだ。
正しい報道なければ正しい民主主義は存在しない、とすれば、第4の権力は3権に勝と
も劣らないはずで、この権利の確定などはもっと以前に解決されていなければならなかっ
たはずだ。
島田解説委員の今回の解説は、図らずも、私に情報伝達権という新しい憲法改正の視点
を想起させることになった。
〔第56章〕 普天間問題に関するNHKの報道姿勢に対する公開質問状(2010年1月)
普天間基地問題への鳩山政権の対応に関して、前政権とアメリカとの約束(密約があるかもしれないが)どおり1日も早く実行すべきだという主張や要求が野党自由民主党はもとより、新聞や放送など大手のマスコミから流され鳩山政権をこぞって非難してきた。
私は、国際公約不履行や遅滞でアメリカにたいする面子が丸潰れになる自由民主党が鳩山政権を非難するのはわかる。分からないのは中立公正を売り物にしている大手の全国紙と電波メディアなどマスコミの報道姿勢だ。
マスコミは事態の現象面だけに捕らわれるのではなく日米関係における米軍基地の本質的意味あいの変位の可能性というところまで掘り下げたもうすこし冷静かつ公平な立場に立脚した報道ができないものか、という不満が募るのだ。
あえていえば、米国との関係の不安定化をおそれるあまり相手の意向を斟酌するだけではなく、日本の主張や要求あるいは米国の姿勢をたしなめる報道ができないものかと思うのだ。
例えば、12月半ばに結論をだすことを延期することにしたという鳩山首相の発表があるまでの普天間問題に関する各社の典型的な社説の見出しをみると以下のとおりである。
・普天間移転中断 同盟の危機回避へ決断せよ(12・10 読売)
・日米協議延期 原因は首相の「背信行為」 (12・10 産経)
・普天間問題 日米関係の危機にするな(12・10 朝日)
・日米関係 信頼構築努力惜しむな (12・10 東京)
・普天間の決断遅れで深まる3つの危機(12・10 日経)
今回、普天間問題に関しては主要新聞は首相が決断しないことの複雑な背景を考えたり擁護するような社説は全くといってよいほどみられない。また新聞だけでなく、電波、とりわけコマーシャルで成立している民放が親米の資本擁護のお先棒を担ぐことに腹を立てても仕方がないのだが、こともあろうにNHKまでがこの問題に対しては存在の根本を疑わざるをえないほどの偏った見解を披瀝していることに驚かされたのだ。
勿論報道機関がいつも正常かつ健全である訳がない。間違った報道がなされていると思った場合は、当事者は勿論のこと視聴者も訂正を求めることは、権利というより義務といっていいのだ。ただ権力を有するものは、正しい報道がされてもそれが自分に都合が悪く困る場合は、露骨な干渉を報道機関にすることもあるので、当事者、今回の場合は民主党が直接おこなうのではなく、視聴者のような第三者がNHKに対して抗議すべきだと思って私はペンをとったのだ。
報道なければ事実なし、という位に民主主義政治の実現のために報道機関の責務と役割は重くなっているのである。
この時、例え善意であったとしても一方的な偏った報道をしてしまうと、民主主義は特定の権力の道具と化してしまうのだ。この結果、民主主義は頓死してしまうことになるはずと、私は危惧するのだ。
以下で、NHKがいかに一方的な報道をしていたか、詳らかにしていきたい。このことで、民主党だけでなくその他の政党にとっても、不自然なバイアスがかかった報道が流れないようになればと期待するのだ。
ここで予め申し上げておきたいのだが、NHKの報道全部が偏向しているということではないのだ。私が目にした一つの番組、それがあまりにひどく偏向例としてここで取り上げることにしたのである。
2009年12月16日「時論・公論」という番組で「不確実性漂う鳩山方針」というタイトルの下、NHKの島田解説委員が解説をおこなったのである。(以下放送内容について簡単に記すが、これはブログから武田が引用たのだが一部は要約している)
政府は16日基本政策閣僚委員会で沖縄の普天間基地の移転先を当面決めないで与党3党で協議する。移設関連予算は計上する。キャンプ・シュワブ沿岸の環境影響評価は続ける。移転先の決定時期については社民党が反対したので明示しない。の3点を決定したことに関して島田解説委員が以下の見解を述べている。
@この決定に対して全体として不確実性が漂よう問題先送りと言わざるを得ない。とし続いて島田委員は各論にはいる。
A在日米軍の再編計画は動きが止まる可能性が高い。
B1万7000千人の米軍隊員と家族の移転費用日米双方で負担することになっているが米軍が新たな予算計上を見送る事態が懸念される。
Cこういう状況が立ち至った背景には鳩山連立政権を維持しようとして首相が社民党の福島党首と国民新党の亀井代表の意向を尊重しすぎているせいだ、という政府関係者が少なくない。(武田の要約)
D「アメリカの言いなりだった自由民主党政権とは違う」というのが鳩山政権の決意なのでしょうが、政権交代を支持した国民が日米関係の不安定化を求めていたわけではありません。
E11月13日オバマ大統領に対して鳩山首相は「トラスト・ミ−」と語りかけた。この時のやりとりと今の鳩山首相の姿勢とは大きく矛盾しています。
F鳩山首相は野党の民主党幹部だった当時「米軍の駐留は必要ない」と表明したことがある。
G日米関係の専門家は中国重視が目立つオバマ政権のアジア外交の中で対日外交の優先順位がさらに低下するのではないかと懸念する見方が専らです。
Hまだ日本の安全は米軍が張りめぐらす監視システムなしでは守ることができません。日米の間に同盟国としての信頼関係があるから米軍のミサイル監視網を利用できるのだ。問題の先送りで信頼関係が薄れる。
I日米の信頼関係を損なうことないようにどういう基本方針でアメリカと対等な関係を築こうとするのかを鳩山政権は日米にもっと具体策を示す責任がある。
以下私の反論を記述しておきたい。
先ずIから。安倍総理から麻生総理に代わったのではなく自由民主党から野党に選挙で政権が変わったのである。民主主義のためには戦争も辞さないという米国が前政権との約束だからといって、最新の多数の日本国民の支持した政権の意向を無視して自分の主張がベストなどとまるで交渉の余地がないよう主張で鳩山政権に約束履行を迫るのは民主主義国家の外交とは思えないのだ。また植民地でも属国でもない独立国家間の外交として、それが対等でもなくかつ信頼しあう国家どうしの外交とも言えないだろう。米国は日本の事情の変化をきちっと頭にいれて日本と交渉すべきなのだ。少しも日本の意向や感情をくみ取ろうとしない米国こそ、非難されてしかるべきで、日本のマスコミはここを強調しなければならないのだ。米国は日本に対して受け入れ可能な具体策を提示しなければならないはずだ。戦時中じゃあるまいし、鳩山政権の対米の回答をだすのに時間がかかるという事情が発生したのだから、鳩山首相が今回の結論をだすに至った過程に齟齬はない。
NHKはまるで米国のメディアかと言いたいぐらいだ。
H島田氏は米国のミサイル監視網をえらくありがたがっているが、現実問題として今、そしてこの先、北朝鮮が日本を軍事侵略したり核攻撃をしかける可能性が高いのか低いのか。その高低によって防戦の対応は自ずと異なるはずだ。いたずらに恐怖をあおって米国との軍事同盟を強化するのは、米国の世界戦略の片棒をかつがされるだけだ。平和国家日本が、ベトナム、イラクの2の舞、3の舞を演じることはさけなければならない。
また、仮に北朝鮮が万一日本に核武装をしかけてきたとき、米国はやると言っているらしいが、実際にワシントンに北朝鮮のミサイルが飛来してくることを覚悟でやられた日本に代わって核報復するとは思えない。日米安全保障条約を信頼しすぎで臍をかむようなことがないことを願うばかりだ。(竹島、尖閣列島、北方領土問題にかんして、米国は日本のためにとのような外交態度をとったかしっかり思い起こして欲しいものだ)
G日本より中国の方が米国にとって大事となれば米国だけでなく多くの国家は日本から離れて中国よりに外交をすすめるのは当然だ。こんな時、ふられた女(男)みたいに「捨てないで」と言って縋る姿はとりたくないものだ。国家間で利害が一致するから各種の盟約が成立するのであって、利害を超越した外交関係なんか築けないということを島田氏は理解してないのだろう。日本は米国に気に入られようとするのではなく、独自の魅力を付けて中国からも、そして米国からも必要とされる存在になることを目指すべきで、なぜいつまでも米国一辺倒でなければならないのか。
F鳩山首相の本意はいまでも日本の防衛のためだけなら米軍の駐留は必要ないと思っていると私は信じる。米軍駐留がなくともいざとなったら、核ミサイル搭載の空母や潜水艦がある。論理的には十分過ぎるほどの抑止力ではないか。長期的見解としては鳩山首相の考えは十分に評価すべきだと思うし、時間をかけてもこの方向を日本は目指すべき。しかし、現実には今すぐには不可能であるという判断で対米外交をすすめていくことになんの問題も存在しない。
何よりも日本が独立国家としての矜持を持つべきと願う者なら、誰一人として外国軍隊の長期駐留を好ましいものとは思わないだろう。
Eトラスト・ミーの意味は、この言葉の前段で「普天間のこと頼むよ」であるならば「貴方の意に従うよ」という理解もできるが、そうではなく、単なる外交辞令で「お互い真の日米友好関係を樹立していこう(主語や目的が双方異なる場合でも)」であればトラスト・ミーの解釈は違ってくる。すくなくとも、鳩山首相は、確固たに日米関係を築くように尽力する」という意味をこめてトラスト・ミーといったのかもしれない。
「配慮が足りない米国と日本が本当の対等の即ち持続的な協力関係を築くには双方で汗をかかなければならないのだ。少なくとも日本の言い分にも耳を貸すという精神がなければならない。私が米国をリードする」だからトラスト・ミーと鳩山首相はオバマに言ったのだ。第一、米国の想定通り、鳩山首相が即刻普天間移転をなすつもりであれば、鳩山首相はあえてトラスト・ミーなんて言う必要性はないだろう。「アイ シャル ドウー」でいいのだ。
あえてもう一つ島田氏に忠告しておきたいのだが、外交でもっとも危険な言葉の一つは「トラスト・ミー」だということを理解しておいたほうがいいのであって、それ故トラスト・ミーという言葉だけをとらえて雰囲気が違うと結論づけるのは無意味。
Dにたいしては長期的には日米関係は不安定化しない、と言っておこう。一時的には嫌がらせ的な事件はおこるだろうが。なぜなら、米軍にとって日本や沖縄は米国がアジアや世界支配ないし影響力を持ちつづけたいという野望があるかぎり、地勢学的に日本との関係を断ち切れないのだ。韓国や台湾がその代わりになるか。なるかもしれないが、その戦略的影響力は大幅に減少するはずだ。米国は日本とは程々の関係を絶対に維持しようとするはずだ。この点で間違うと外交ゲームでは勝てないのだ。
さらに当然のことであるが、多くの日本国民は日米関係の不安定化を望んでいない。しかし、それは選挙とは関係ないこと。また日米関係が妙に安定してしまうことに反対の人も多いのだ。これもまた選挙とは関係がない。世論調査をしても時々で変わるのだ。但し、日米安全保障条約について米軍の基地についてとなると賛否は明確に浮き彫りにすることはできるだろう。どちらか一方ではないのだ。第一日米関係の不安定化などというあきらかに否という答えのでにくい設問をふりまわすようなことは論理的思考を尊ぶべき言論人としては注意すべきだと愚考する次第。
C鳩山首相は主張の違う部位が多々ある3党連立のことに必要十分の配慮をしているだろう。連立政権である以上それだけのことだ。全ての政治課題について単独政権より結論を出すのに時間がかかるのは当たり前で、妥協も必要になる。しかし今回の普天間問題にかんしては首相は妥協していない可能性が高いとおもうのだ。なぜなら、自由民主党の案を継承しようと考えているのであれば、三党連立は首相の考慮の外であったはずだ。
決心は最初から決定していたと私は考える。かれが、ハッキリ速やかに結論をだせないことを非難する向きも多いが、出せないのではなく出さないのだ。政治にはハッキリ即断できない問題あるわけで、考える(考えるふりをしている)問題、考えざるをを得ない問題、結論の出る問題、出ない問題あるいはださないことをもって最良の問題、あるいはださないことに政治的な意味がある問題があることになぜ日本のマスコミは気がつかないのだろうか。対野党、対与党、社民党、国民新党、そして米国に対しても普天間問題はこれほどの問題なのだ、ということを言葉で表現するだけでなく結論を出すまでに期間をおくことで表現する外交もあるのだ。そして、これを第一歩として次のシテージが用意されるという外交もあるのだ。
B米国が移転の予算を計上しないと、なんで日本が心配しなければならないのか。予算を計上しなければグアム移転ができないだけで、そのような変更が米軍に良い結果だけをもたらさないことは、米軍も心得ているはず。米軍だってこれからアフガン問題や中近東の問題を抱えて日本との問題だけで、再編計画が変更されるはずはないだろう。
最後、一不確実性が漂うなどと鳩山外交に対して非難がましく表現しているが、不確実性を本質的に含んでいる外交問題で、こんな表現しか思いつかないのなら外交評論なんてすべきじゃないのだ、と田島氏に忠告をしておきたい。
島田解説委員の放送とは直接関係がないが、対米関係が普天間問題で悪化し、その結果経済問題まで波及する、と心配する向きもいるが、そりゃ一時的にはありえるかもしれないが、そんなことには日本は耐えなければならないのだ。しかし、朝鮮戦争で干戈を交えた中国と米国の貿易関係の隆盛振りを思えば、このことだけで利益にさとい米国(資本)が長期に渡って日本との経済関係を台無しにすることは絶対にありえない。そしてこういう状況認識の下、鳩山首相は米国に対して、機会を見つけて沖縄の全基地は最終的には硫黄島まで引き下がることを日米安全保障条約の継続の日本側の前提条件にすることを通告するべきだと申し添えておきたい。
以上、私の反論が全て正しいとは言わない。しかし、NHKは一方的に非難をするという、一面的な見方は慎むべきで、報道機関の正しい批判のあり方を島田氏が踏襲しているとは、私は思わないのである。自分の主張に欠落部位があるかないか、十分配慮してもらいたいものだ。まずは反論に対する誠実な回答が頂けるものと期待したい。
〔第55章〕 自由民主党の再生の余地(2009年12月)
自由民主党、いくら負けたからといって党名を変えたら、では土壇場にあってもこんなアイディアしか浮かんでこないのか、と軽い侮蔑の念にかられたのは私だけではあるまい。
さすがに党名変更なんて本気ではないようだが、単なる冗談でもなかったらしい。自由民主党は、党名変更以外に本気の党再生の手段として党の新しい構想を考えて「3つの目標」なるものを発表したのである。
いわく・資本主義制度を円滑に機能させる・民主主義を堅持する・社会の安定を確保する、というものである。
私は機会到来すれば政権のやり取りもしようという2大政党の一方の旗頭がこんな状態で日本の政治は大丈夫か、と危惧するのだ。
なぜならば、この退勢挽回の決め手であるはずの「3つの目標」は党名変更に勝とも劣らないぐらい現在の自由民主党にとって無価値、無意味なものでしかないからだ。
尤も自由民主党を政党たらしめていた権力を失ってしまうと、権力に代わる強力な思想だの綱領などのない自由民主党が、再起のために日本の政治に対する問題意識とその対応という党の基本命題を改めて自問しても、優れた特異的なアイディアがうまれてこないのは、必然といえば必然なのかもしれない。
なぜ、私がこの「3つの目標」が無価値、無意味だと決めつけるだけでなく自由民主党の凋落の見事な証であるかのごとく誹謗するのか、その理由について説明しておきたい。
なぜなら私は、勢力の拮抗した対立する複数の政党が存在することが、健全な議会制民主主義の発展には必須の条件だと考えているからだ。
そこでまず、資本主義についてであるが、私はまだまだより高度な人間の知恵で制御ができるようにしなければならないと思っているのだが、それでも世界中の経済を今日まで牽引してきた基本的な制度の一つであることを考慮すれば概ね良としよう。また民主主義、社会の安定などについては他に対立するよう制度と目的は存在しない位に優れた特質を有するもので、掲げて非難されるものではない。だからこそこの3つを掲げて政党再生のスローガンにすれば強固かつ万全なトライアングルスローガンができあがったはずだと、自由民主党の創造的能力の乏しい議員たちは安易に考えたはずだ。
ところが「3つの目標」には天地が引っ繰り返るほどの問題があるのだ。
というのは、目標自体に問題があるのではなく自由民主党という政党が目標として「3つの目標」を掲げたことが大問題なのだ。
なぜならば「3つの目標」については現在の民主党は当然のこと、共産党すら否定しえない、まさに現代の政治の共通の基本原則、原理なのだ。政治の土台といってもいい。自問して発表すべきはこの土台の上にどのような家を建てるか、ということなのだ。
だから当然改めてことさら声を大にして言うことではないのだ。言えば恥をかくようなものなのだ。勿論、「3つの目標」にこだわって自由民主党がこんなスローガンを言いつづけるならば、余程の偶発的な敵失でもないかぎり自由民主党は政権に復帰することはできないだろうと断言しておきたい。
おそらく党の存亡を賭けた戦いになる今度の参議院選で自由民主党が最も留意しなければならないことは、ライバルと同じようなことを言うのではなく違いを殊更に際立たせた戦略を企み、それをスローガンとして訴えることだろう。
だから、現状の民主党の鳩山首相の献金問題ばかりをほじくって、他の新しい提案のできない自由民主党の体たらくぶりを見ていれば、民主党もまた緊張感を喪失し同時に権力を握った奢りと様々な誘惑が民主党を蝕んでいくはずで、このまま放置しておくならば日本の政治のポテンシャリティ−は低下していくことになるはずである。
以上のような私の問題意識で、自由民主党が「3つの目標」のようなものではなく、民主党に拮抗するような効果的な目標を考え出すための前提について以下申し上げたいと思う。
まず日本の政治の原動力、日本の政治を動かしているものはなにか、ということに付いて考えてみることが肝要だと思うのである。そこで結論を言えば、日本の政治は主権者である国民が動かすのだということ。また民主主義は多数決で物事を決めるということ、このことについて特に自由民主党は深く真剣に考えなければならないはず、と申し上げておきたい。
自由民主党は政権を奪取しようとしているのであれば、民主党と異なっていてなお多数者に支持される政策、スローガンをかかげなければならないのだ。
だとすれば、次は現在の日本の政治における多数派が政治に何を期待し何を求めているのか考えてみなければならないだろう。
そこで、国民のうち多数派は?と考えるのではなく国民、即ち有権者を特定の条件の下に区分けし、その区分けされた各々の特定の階層の国民のうち少数派ではなく多数派が政治に何を期待するのかということについて考えてみたい。このことで、政党が目線をどこに集中しなければならないかということまで見えてくるはずだ。と、なれば国民をどのように区分けするかであるが、まず、男女という区分で分けてみたい。
男女の特質で違いが極端にでる区分けはあまりないのだが、一つだけはっきりしているのは女性は、性的責務から子供を出産し育児を担わされている。この期間は男性からでも、政治からでも、女性は保護されるべきであると、私をふくめて多くの男性も女性自身も、中には例外は沢山あるにしても、保護されるべきだと思うはずだ。従って女性のうちの多数派は政治に貢献するよりも政治に何かを求める存在とみなせるはずだ。
次に男女の区分けと重なる部分もありさらに多数派の識別が難しのだが、老若という年齢で有権者を区分けしてみたい。65歳あたりから老人と考えてもいいが、さらにその予備軍となれば40後半50あたりまで老人とみなしていいだろう。老人の多数派は自力で稼ぐ力を失うのであって、自力で十分な老後の蓄えを用意できるものは少ない。更に健康にも衰えや疾病が出現してくるはずだ。即ち不安を抱える老人がどんどん増えていくはずだ。この人々もまた政治に支援を期待するはずである。
では若者のうちの多数派はなにも政治に求めないかといえば、何百万人の不定期労働者や派遣社員に問いただすまでもなく、不安や不満を抱えているものが、多くなっているだろう。こういう恵まれない若者、不安に苛まれる若者もまた、政治に何かを求めるはずだ。
また、政治的には古より取り上げられてきた区分であるが、労働者と経営者ないし資本家という区分もまだ政治的分析には有効だ。この場合は圧倒的に労働者が多く資本家や経営者は少ない。そして労働者もまた、政治に求めるものは多いのだ。だからといって今や日本の資本家は政治に期待しないかといえば、世界中の開発途上国や先進諸国との競争を強いられることになっており、いつ倒産するかもしれないという状況に追い込まれている企業が多いのであり、資本家、経営者もまた不安におびえているのだ。この人達もまた政治に寄与することよりも政治から何かを得ようとならざるをえないはずだ。
以上典型的な工夫のない区分で国民主権者を分類しても、結果として本質的に政治になにも期待しないか政治に自分の方から何かを提供するなどという人々より、政治に何かを求める人の方が多数派を形成するのではないだろうか。
勝てて加えて経済的な不況は多くの人々を一時的に政治にたいする依存心を増幅するのだ。
政治はこの切羽詰まった未来よりも現在への対応を求める弱者である多数者の支持をえる政策を供していかなければ政権は取れないのだ。正にこのことを先に読み切った自由民主党の一部の人間が結局民主党を作り、その民主党が勝利を収めたのが第45回衆院選挙であったのだ。これからの政治は好むと好まざるとを問わず民主主義政治を標榜する限り、重い社会保障制度を採用せざるをえないはずである。即ち民主主義といってしまった以上、政治はイディオロギーや理念とは別に「大きな政府」が共通の土台となるはずだ。そしてその土台の上でそのの大きさ、実現性、持続性などの違いを競い合う政治にならざるをえないのである。勿論政治の目的が弱者対策だけではないことは、私は先刻承知している。
だから政治が社会保障以外の課題への対応を問われるような事態が生じたとき、それは正に今現在なのかもしれないのだが、民主主義を堅持しつつ多数派の弱者の要求を抑えて別の政治目的に政治的なエネルギーを投入できるか、それとも民主主義を放擲しなければならなくなのか、わたくしたちはしっかりと、その時のための準備も忘れてはならないはずである。そして自由民主党が再生の余地はこの部位にしかないのかもしれない、と申し添えておきたい。
〔第54章〕 民主党の小沢私党化を憂う(2009年11月)
日本の四季には秋も冬もあるということを温暖化の伸展の中でともすれば忘れがちであったが、11月3日、東京は前日真夏のような気温の直後、突然気温が急降下し、私はあわててダウンを着込むことになった。11月になって冬は出番を忘れてはいなかった。
政治にもまた、表層の軽やかな春のような装いとは別に、その深奥の中に冷たい冬を秘蔵しており、いつもその出番を窺っているらしい。
鳩山首相は、10月26日その施政方針演説のなかで「政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなげればならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点としてここに宣言させていただきます」と宣した。
姿勢方針演説のこの部分は、民主主義という現代の最強の政治原理の背面を支える補強原理であり、こうであってこそ民主主義は永遠でありえると思える程の重要な原理なのだ。鳩山首相の演説はこの原理に光をあてたもので、戦後の日本の政治家の施政方針演説としては出色のものであった。
この施政方針演説の呼びかけの下、鳩山内閣は軽やかな春風のようなスタートを切たかに見えた。
ところが、施政方針演説から数日を経ずして、鳩山内閣にもまた、冷たい冬が待ち構えていることを我々に思い知らせることになった。
11月3日新聞各紙は「民主、陳情を一括管理 小沢幹事長 政官癒着をなくす」(朝日新聞1面)続いて同紙3面にて、「陳情一変 党強化狙う 官僚排除民主幹事長室に限定」と報道した。読売新聞は「陳情は幹事長室で 小沢支配強まる」とし、毎日もまた「陳情処理 党が窓口 県連が要望すいあげ」と報じた。産経、日経、東京も同様の見出しで報
じていた。
各紙の報道によれば、これまでの自由民主党の陳情処理の仕方は、自治体や各種団体の陳情をまずすべて地元選出議員を介して・有力族議員から陳情先である各大臣、各省庁幹部官僚へ上げる。・自民党・政務調査会・部会を経由して陳情先へ。・直接陳情先へという3つの方式があった。民主党はこの3つの方式をやめて、国会議員の政府との接触を認めず、各都道府県連が陳情要望を吸い上げて精査し、党本部にあげる。党本部では幹事長室で各省庁担当の副幹事長らが必要性重要性を判断し、政務三役(閣僚・副大臣・政務官)に伝える。この一連の過程の「透明性、公平性を確保する」としているが、高嶋良充筆頭副幹事長は罰則について「基本的にない」と説明している、とのこと。
この民主党の新方式に目を通した時、私はすぐ「お取り次ぎ」という言葉を思い出したのだ。
昔、権力者がいて、権力者がすべての政治課題を直接差配することはできないので、下々の願望を取捨選択して権力者に取り次ぐ者が存在したのだ。この権力者に取り次ぐ者が、持ち込まれる案件の成否を事実上決定してしまうことになる。この結果、時に本来は権力者に取り次ぐだけの役割の者が事実上の権力者になってしまうのだ。
古今東西、権力の回りに蝟集する人間の行動は、様々であるが、同時に実に類似のパターンを示すものだと思わずにはいられない。
民主党の陳情の扱いを幹事長室という組織に一本化するというのはまさにこのお取り次ぎ制度を採用し小沢幹事長がお取り次ぎ役をするということであろう。
副幹事長が役割分担をするといってもその副幹事長は小沢幹事長が指名し、最終決定は小沢幹事長がするというのであるから、与党に対する陳情という政治的な要求の現実化の可否は小沢幹事長個人が決定するということだ。
こんなことをやっていては民主党はますます小沢幹事長の私党になってしまう
だろう。
この陳情の扱いの一本化だけでなく、小沢幹事長は議員立法を選挙制度など議員活動かかわるものに限定するとし(9月18日、党所属議員に通知)、その上、超党派の議連でも改廃や会長交代などについては党幹事長室に報告させるなど、民主党の小沢支配体制は露骨に強化されてきている。
やっとまとめあげた政権につけた民主党を政党として強靱なものにするには、民主党に思想的背景がないだけに、自分がしっかり管理統制していかなければならないと、小沢幹事長は思い込んでいるのかもしれない。だから、陳情の統制ということまで考えが及ぶのだろう。
しかし、天下の民主主義を標榜する公党において小沢幹事長の思惑と独断に基づいた政策が次々と実現されるる現況をみるにつけ、彼をこのまま放置しておくと、必ずますます独裁者的な面を強めていく、と民主党の諸君に改めて警告しておきたい。
小沢幹事長は陳情の幹事長室への一本化について記者の問いにしらっーと以下のように答えている。
「族議員的な癒着(政官の)構造を無くし、オープンでスッキリした形にする」「今まではしょせん、役人の手のひらの上でやっていたこと。役人に直接陳情させるようなことはしない」と。
しかし議員が官僚と接触すれば必ず族議員になると、断定するのは小沢幹事長らしいが、族議員かならずしも悪事を働くわけではない。
仮に族議員は官と癒着する、としても、じゃ、小沢幹事長や副幹事長は官と癒着しないのか、といえば、そうではあるまい。直接要請はしないと言いつつも、選挙パーティなどで膨大な金を産業界から集めている実績をみれば、小沢幹事長こそ、癒着などという生易しいものではなく産業界すら支配する危険性が大きいのだ。
また、どう考えても、立法府の国会議員の立法活動を制限するようなことをすれば、憲法第41条「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」に違反するであろう。
このような決定は党の幹事長という職責を逸脱したものといわなければならない。
小沢は党、内閣は鳩山、と権力を2分したようなかたちで鳩山内閣はスタートしたが、議院内閣制では政党と内閣は一体化しているのであって、仮に政党と内閣で権力を腑分けしたとしても、内閣は政党の意思によって消滅しえるが政党は内閣の意思によって消滅することはないことをもってすれば、権力の実態は政党に存することはいうまでもない。だから党を小沢に渡したという時点で、鳩山首相は完全に小沢の支配に屈したのであると見ざるをえない。
しかし、だからといって、鳩山の地位がかならずしも危うく、小沢の地位が安泰というわけではない。
やり方によっては民主党は小沢幹事長の私党化を防ぎながら、積年の失政にほっかむりをきめこんで反省のない自由民主党の復活の芽を摘んでしまうやり方が
あるのだ。以下この点に関する私見を申し上げたい。
というのは、まず、鳩山首相がかっての小泉元首相のような国民的な人気をはくしているかぎり、鳩山首相の地位も小沢に劣るということにはならない。人気は浮動票に絶対的な影響を与えるのであって、この事は小沢幹事長の選挙テクニックを凌駕するはずだ。では、鳩山首相は人気を博しつづけるためにはどうするかが重要な課題になる。
私はこのためには、まず、民主党の立党精神を明確にし、党内教育を徹底することと考える。かれの友愛精神にもとづいた、きめの細かい政策を連続的に実施していくことだ。このために相当の赤字国債の発行も視野に入れておくべきである。と言えば、ここを野党は攻めてくるのだが、かれらこそ、地方を含めると1000兆円を越える赤字国債を発行させた張本人であり、彼らに非難される筋合いではない。民主党にも今後、弱者保護のために自由民主党が残した残高プラス1000兆円近くの赤字国債の発行は許されて、場合によってはその国債を日銀に引き受けさせるならばその経済に対する悪影響は極端なものではないと、旧政権の財政は物語っていると私は考える。
次に、早急にこれからの立国・繁栄のための国家戦略とそのための具体策をうちたてることだ。さらに、対米関係で文字通り対等の関係を維持しつつ、最終的には防衛面経済面で自立を目指すこと宣明すべきだ。
また、当面民主党の議員は小沢幹事長に右といわれれば右、左といえば左。5+5は15といわれれば15といい(渡辺恒三前最高顧問の言)つつ、決して本心をけどられないようにし、鳩山首相の下党内多数派を形成するように努めなければならない。
そして、なによりも、民主党の国会議員は皮肉なことだが、小沢幹事長が常日頃強調しているように選挙に強くならなければならない。選挙に強い自立した国会議員によって最終的には民主党から小沢的な色彩を除去し鳩山友愛精神を煥発させることができるならば民主党は、永く日本の政治を指導していくことができるはずだ。
〔第53章〕自由民主党再生せず(2009年10月)
第45回衆院選の政権交代を招いた惨敗のため自由民主党に関して、今後の再起の可能性についての論議がかまびすしい。私はどう考えても今までのように何十年にもわたって政権をとり続けることは絶対にない、と断ずるのだ。以下その理由について申し上げたい。
そこでまず、なぜ自由民主党が長期政権を維持できたのか、そのことについて
考えてみたい。
そもそも、戦後の自由民主党の長期政権保持を可能にしてきた理由というものは、実に特殊なもので自力で、といえるものはないのだ。
例えば、過去、現在の日本の諸事情を読み切りその上、軌道過たず、好ましき未来へ日本国を導くような、政党の要になる優れた理念も思想も保持していたのではない。自由民主党はただ民主主義と資本主義と親米主義という、誰も否定のしようのない大原理を抱え込んでいるだけだ。あとは場当たり的な対応と利権造の擁護と強化だけの政党であった。
このことは自由民主党の長期政権維持にはマイナス要因でしかないのだが、しかし反面、優れて独創的な理念と思想を持たなかったことは自由民主党を今日あらしめた大きな理由になった。このように言えるのは、日本が不幸な敗戦を経験したこと。そして主として米国に占領されたことが自由民主党の長期政権の礎石になったのだ。というのは米国は第2次世界大戦の成果を最大限に膨らませるために戦後の世界に決定的な覇権を唱えようとしたのだ。そのために一番の障害になる自国存在の基盤を否定する共産主義の封じ込め政策をおしすすめたのである。このために、米国は地政学的に好位置にある日本を最前線基地として利用しようとしたのだ。この時敗北でうちひしがれた日本において、たまたま自由民主党は極めて御しやすくグッドボーイ的な便利な存在であった。だから米国は様々な庇護と支援を日本、即ち自由民主党に与えることになった。
更にもう一つの理由があるのだが、これもやはり日本の敗戦に関係があるのだ。敗戦で総てを失った日本国民は生活のために必死にならざるをえなかったのだ。この時の国民の汗と頭脳と何千年の間国家を形成してきたことによる組織運営のノウハウの集結が日本国を復興させさらに世界に冠たる経済力をつけ繁栄するさせることになった。この敗戦から繁栄までの約30年近くの経済的な成果を自由民主党はすべてわがものとして喧伝することができたのである。
このような好条件に恵まれたことに加えて自由民主党は国会で多数を占めることによって、膨大な国家予算の配分権を中軸とする行政権と立法権、その上課税の諾否の権限も有するにおよんで、自由民主党は自動的に強靱な力を持つことになり、その権力構造の恩恵に浴する者の恒常的な支持によって継続的に日本の政治を引っ張ることになった。
自由民主党の黄金期は続いたのだが、権力の盛衰は裏腹で権力の座に永くいすわっしまえば長期的展望は勿論のこと、自由民主党の政治家たちは多くの国民の身近な悩みや心配ごと、悲しみや喜びの対象がなんであるか、その微細なあやなどに、真剣に目を向けようとしなくなってきていたのだ。しかし、そうであっても、様々な権能を有していれば、自由民主党から手をさしのべ声をかけなくともまわりから人々はすりよってくるのであって、このような者への応対をしているだけで、自分たちは国会議員という職責を全うしているように思えたはずだ。だからこそ、例外はあるにしても資格のない二世三世の国会議員を多く輩出することにもなったのだ。そして安易に国会議員になった者こそ出世し、その結果手に入れた権力を背景に頭は高くなり、目線もまた高くなり、上座で踏ん反り返って、おもわず人々にぞんざいな口をきき、多くの人々に密やかな反感を抱かれることにかれらは気がつかなかったのだ。このような大きな流れの中で、長期政権の綻びが目立ちはじめるのだ。政官財の癒着構造は強化され硬直化し、総理大臣の疑獄事件や、政治家の上をゆくような劣悪な官僚たちの破廉恥罪や公私混同が繰り返される。重要な事沖縄返還の密約等を国民の目から隠蔽し、財政の大幅な赤字をだす。更に、国家に対する信頼が最優先の前提条件になる年金制度に関して、その入出金の実態が惑乱状態になっており、あまつさえ、窓口の職員が収めた年金を国庫に入れず自分の懐に入れてしまうなどという、どんな後進国の官僚も手を出さないような質の悪い国家犯罪がなされ、あげくその責任をとるものがいないのだ。近年政治に対する国民の信頼は地に落ちていた。そんな時に自由民主党は国民の審判を受けず安倍、福田、そして麻生を総裁に頂くことになった。この3人の総裁は自由民主党凋落の咎人として罰せられるべきだが中でも麻生の罪は死罪に値すると私は思うのだ。彼はなによりも漢字が読めないのだ。
私はこのことは日本の近代政治のなかで最大の汚点、恥部になると思っている。不出来な子供をもった親が父兄会で感じさせられる恥ずかしさを日本国民全員が味あわされたのだ。有史以来初めてのことだ。こういう男が偉そうに景気がどうのこうの、責任のある政治、実行力の政治などと、べらんめい調でやられて良識ある国民はいらいらしていたのだ。田舎財閥の息子ということでチヤホヤされて育った劣等生は自ら衆議院を解散して選挙をすれば自由民主党はなんとかなるとでも思ってしまったかもしれない。その一方で、野党は長年の野党ぐらしで、本質的に与党の欠陥部位を見抜く時間があったのだ。人材も育ちはじめていて準備万端は整っていた。衆議院の任期切れも周知のことで、民主党は正に最良の状態で反転攻勢に転ずることができていたのだ。しかし民主党の政策といえば、一人当たり子供の教育補助を1年間で36万円だす。高速道路は無料にする。ダムや公共事業を見直す。日米安全保障条約を見直すなど、ほとんど目立ちはしても高度な政策ではなく、自由民主党の目線の届かない弱いところを突くという反射的対応で、姿勢や目線はわかるものの明確な将来展望のない政策群ではあったが、それでも自由民主党支持者、支持なし層の人々の心に訴えたのだ。
自由民主党はその負けっぷりと権力を失うことの恐ろしさに声もでないというありさまであるが、なかに鬱憤をはらそうとして幾つかの再建のための勇ましい声も聞こえてくる。
前農林大臣石破茂は「権力を失った自由民主党はこれまでも3倍も4倍も努力しなければならない。だから難しいけどおもしろい」と強がりを言っているが、権力が〇化してしまった以上、権力にこだわっているかぎり何倍努力しても〇であるから、努力しても無駄になるはずだ。また落選中の片山さつきは毎日新聞10月9日づけ夕刊で「振り子はもどる」「自民党がカリスマ党首をだせば(支持は)もどる」と根拠薄弱なことを言っているが、振り子は途中でとまっているとも考えられるし、民主党が今まで以上に国民サイドに立って努力していけば、また鳩山以上のカリスマがでてきたならば、自由民主党の出番はなくなるわけだ。また、他の議員が保守の理念の再構築とも言うが、そもそも保守に理念はなかったので、理念をどうしようというのであろうか。さらに悪いことには、9月19日に報道された鳩山内閣に対する新聞の世論調査によれば、各紙とも70%を越え、10月中頃ではさらに支持率は上昇しているのだ。この鳩山内閣の支持率を前にして、野党自由民主党が選出した新総裁が谷垣禎一氏だ。彼が総裁選挙で標榜したのは「絆」と「みんなでやろうぜ」だ。野党とはいえ総裁選といえば、仲間の代議士どもではなく何よりも国民に対して、明快なメッセージをだすことではないのか。国民に向かって「民主党よりもわれわれの方があなた方を幸せにできる」「なぜならば・・・・だからだ」と・・・・を埋める具体策を呈示しなければならないのだ。だからといって・・・・に「小子化対策に民主党の数倍の金額、例えば月一人あたり5万円だす」と言いだせるはずもない。そういう類の政策ではなく民主党がカバーしていないところで、実質的に国家、国民に役に立つマニフエストを掲げなければ、自由民主党は再生できないはずだ。それでは、政権交代をなし民主主義の度合いを強化しつつある日本を戦前の天皇中心の大日本帝国の復活をもくろむようなことではどうしようもないはずだ。こういう自由民主党の時間感覚のおかしい国会議員が自由民主党の中でアナクロニズムにひたっていられたのは、自由民主党が国会の過半数以上の議席を占めていて、おかしなやつを少々抱えていても大勢に影響がなかったからなのであって、いまのような議席数になれば、早急に森、福田、安倍、麻生その他有象無象の頑迷な超保守的な議員を自由民主党は追放しなければならないはずなのだ。この点、河野太郎の危機意識と政見は実に正しかったのだ。しかし河野が自由民主党のリーダーになれる可能性は僅かで、神がかり議員や失政の責任者を追放することもできず、政策選択の幅は狭くなっている以上、いまの自由民主党が再生することは難しいと判断せざるをえないのだ。
〔第52章〕第45回衆院選挙雑感(2009年9月)
今回の選挙の特徴といえば勿論政権交代に尽きるが、あえて加えるに値する面白い現象が散見された。以下、余白の許すかぎり取り上げてみたい。
1.マスコミ報道
まず新聞であるが、投票日8月30日の主要全国紙の朝刊1面の見出しは以下のとおりである。
「政権選択 今日投票」(朝日新聞)
「政権選択の日」(読売新聞)
「きょう政権選択」(毎日新聞)
「衆院選きょう投開票」(産経新聞)
「政権交代か継続か」 (東京新聞)
この日の新聞の見出しが間違っているというのではない。
正に選挙とは政権の是非を比較する機会を主権者に与えるものなのだから見出しはすべて事実であって、この見出しの指摘に問題はない。
しかし、問題なのはやはりこの見出しなのだ。というのは選挙のことを特徴付けるのに政権選択、また政権交代とうたっていることにあるのだ。(さすが産経はそうでないが)
なぜなら、選挙の特徴を選択、まして交代と言ってしまうと、選択したくないと願い、また交代の必要性がないと思っていた自由民主党や「政権選択ではなく政策の選択」だと言ってきた麻生太郎首相にとって、その願望や思いをあっさり打ち砕いてしまうことになったはずだ。
もし公正に見て政権党の政治に問題がなければ、いかに選挙とはいえ「政権選択」とマスコミに言われるはずもなく個別の政策の是非がとりあげられるはずだ。だから各新聞で「政権選択・交代の日」といわれれば、野党に有利になるのは当然のことだ。
主権者としてはマスコミが政権選択と報道しているのだから政権に問題あり、交代させなければ、と判断させるか一種のサブリミナル効果を主権者に与えた結果になったはずだ。
新聞だけでなくテレビ報道についてもNHKをはじめとして各社今回の選挙については、報道のたびに政権選択、ひどい場合は政権交代とストレートに表現し報道していたのである。
マスコミは事実といえども報道する事自体がこのような問題を生じさせるということを十分認識して貰いたいものだ。
2.新聞報道
選挙後の9月2日付け日本経済新聞の社説の見出しは、鳩山政権の対米政策に対して「君子豹変せよ」とぶちあげた。次いで、9月3日、今度は産経新聞が、「くにのあとさき」というコラムで湯浅という東京特派員が、鳩山代表にマニフェストを離れて「君子の豹変を希望する」とお願いし、更にだめ押しに、日本最強の活字メディアである読売新聞が9月4日に、政なび、というコラムで政治部次長の前木という記者が「民主よ、豹変を恐れるな」と叱咤激励。
これらの従来より不偏不党を売り物にする3つの○○系の新聞は今回の民主党の勝利を余程気に入らなかったらしく、期せずして、か、期して共同キャンペーンでもはったのか組閣すらしていない民主党の政策に対して「豹変せよ」と迫りかつ勧めたのだ。
私は選挙が厳粛かつ最善のものとは思ってはいない。しかし、選挙法のあやにしても民主党に大勝利を与えた結果、しかもマニフェストまで掲げて、その結果で国民は投票したことは厳然たる事実である。この事実に対して、民主党よ豹変せよ、とは、民主党に対して国民の選択を無視せよ、国民を裏切れといっていることであり、「マニフェストは嘘でした」と言えと要求しているようなものなのだ。民主主義政治において主権者である国民の唯一の意思表示である選挙の結果を尊重せずして、国会議員が豹変してしまっては民主主義政治は存在しえないことを3社は分かっていないのではないか。社説の主張のようにもし鳩山政権が対米政策を豹変させ自由民主党と同じようなことをやりだしたら、選挙の意味は完全に失われるだろう。
3紙は米国と結びつくことが日本の安全に繋がると思い込んでいるようだが、結びつくことで、テロの核ミサイル攻撃の標的の一つに日本があげられてしまったことを、どう言い訳するのだろうか。「君子豹変せよ」はそのまま3社の記者にお返するので、対米関係に関する報道姿勢を豹変してもらいたいものだ。
3.麻生太郎首相の進退
漢字ばかりでなく政治情勢も読めない麻生太郎首相の「自分の手で総選挙をやってみたい」というわがままを事前に止めることもできず、最悪の結果を招いてしまった自由民主党と公明党に選挙の大敗北の責任の一端はあるとは思うが、総理自身も、その責任を感じて8月31日、早々に総裁および総理を辞任するむね発表した。
それにつけても一連の進退に関する身の処し方をみるにつけ、麻生首相は最後の最後まで、与党の総理総裁という役職の重みを理解しなかったと言わざるをえないのだ。というのは麻生太郎首相の辞職声明自体は当然にしても、その声明には後段があって「自分は一兵卒となって自由民主党の再建に努めたい」と、言うのだ。私は、今回の自由民主党の敗北のもう一つの原因は総理総裁の任に相応しくないものが秋葉原のお宅たちに持ち上げられて「我に人気アリ」と錯覚し、その結果頑張りすぎたことにあるのだ。
立派な資格を有する人物が全力だすのなら、頑張れば頑張るほど自由民主党に益するのだが、能力も資格もない者が頑張れば逆効果でかえって票を逃がすことになるのだ。だから麻生首相が本当に今回の敗北の責任を痛感し、自由民主党に迷惑をかけたことを反省するのであれば一兵卒だろうが元帥だろうが、とにかくなるべく自由民主党に影響を与えない立場に退く即ち国会議員も辞職するべきなのだ。
私は自由民主党が健全な野党であるために、麻生首相にはまだ自分を自由民主党が必要としている、すこしは貢献できるなどと呉々も勘違いしないようにと申し添えておきたい。
かてて加えて麻生総理だけでなく森、安倍、福田のドタバタ元総理トリオも麻生太郎首相に先駆けて自由民主党を今回の大敗北の道へ引きずり込み、後押し、だめ押しをし党勢を衰えさせたのだから自らすすんで今回の衆議院選挙の立候補を辞退すべきであったのだ。
4.民主党の実行責任
民主党は選挙で大勝したのであるからマニフェストの内容を忠実に執行する義務と責任がある。状況が許すかぎり国民との契約の断行あるのみである。
ただ私はそのことに若干の懸念を抱くので、あえて申し上げておきたい。
与野党話し合いで妥協の政治をせよ、と真剣に言う人がいるが、馬鹿もいい加減にせよと、そういう人に言いたい。
与野党が話し合い妥協をするのであれば、選挙なんてする必要はないのだ。民主党は野党と妥協してはならないのだ。そして自分の判断や行動が誤ったと思ったらその時点で、自ら修正、訂正すればいいのだ。
日米関係の安全保障にかんしては、小沢一郎副代表や鳩山代表がかって表明したように、日本は第7艦隊のプレゼンスで十分であり、即ち常駐なき安保で十分であり、このことを徹底的にすすめてもらいたいものだ。思いやり予算などという馬鹿げた予算は自由民主党の言いなり外交の中でこそ存在するのであって、民主党政権の下では支出しない、と日米交渉の席で日本の立場を米国に明確に通告することは、なんの問題もないのだ。はじめから「はい、わかりました」では日米に外交なし、といわれても仕方ないのだ。
また、いまは消えかかったみたいだか重要課題に対する国民投票制の実現もはかってもらいたいものだ。勿論このための憲法改正なら実現可能ではないだろうか。なんでも政治家や官僚が決定する時代は過ぎつつあることを民主党は認識してもらいたい。
5.幸福の科学の不幸
今回の選挙の一つのユニークな特徴は幸福の科学の選挙進出騒動であろう。
だいいち立党の経過からして妙な動きがあった。最初の党首は1日だけで直ぐ大川総裁の夫人に代わり、次に選挙から撤退すると報道されたり、更に党首が大川総裁に代わるなど、とんでもないドタバタさわぎであった。
全選挙区に立候補者を擁立したのはいいが、すべてが泡沫である。
大川総裁はマホメットやリンカーンと話をする超人なのだろう。こういう能力をもっている者が、自分の宗教団体幸福の科学が政界に進出してどのような経過顛末を辿るのかも予知できなかったのであろうか。無茶な進出をはかり、新聞広告だけでも膨大な浄財を投入するなど、そして一人も当選者をだせなかったことは、まともな組織決定ができない独裁体制のなせる技であったと言わざるをえない。このことに大川総裁はいかなる責任をとるのであろうか。
無責任な独善宗教団体が政界に進出することは民主主義政治は絶対に防止しなければならないのだが。
〔第51章〕マニフエストの公文書化を(2009年8月)
■マニフエストの限界
民主主義政治において例えば主権者の納税の義務と選挙の投票のような権利の行使の間には異常なアンバランス状態にあるが、こんなことがいつまでも続くはずはないのだが、目下のところ解消のメドは立っていない。だからいきなり全てを解消しょうとするのではなく部分的でもいいので、できることから着手し、政治のイニシァチブを国民が取り戻していかなければならないのだ。
今回はそのためにかなり有効な提案、とりわけ最近急にマスコミを賑わしはじめたマニフエストをとりあげることにする。
なぜマニフエストなのかといえば、マニフエストこそ、主権の国会議員への委託に関して、その自由勝手な行使に主権者である国民の側から制御ができる、あるいは国会議員の主権の代行行使に関する国民への保障手段が国民にもたらされる可能性があるからなのだ。
マニフエストににたようなものとして従来から政党の公約集があったが、この中身について、実現されたもの、されなかったもの色々あるが、実現されなかったからといって、直接そのことが政党にたいする実質的な糾弾の対象とはならなかったのだ。
もし今回のマニフエストが以前の公約集と変わらないようなものならば、正に現状のマニフエストがそうなのであるが、マニフエストと政治家が騒ぐわりには政治にインパクトは与えないのだ。そうでなくて、マニフエストの実行に関してなんらかの義務が政治家に課せられるもになるのであれば政治に対する影響は相当に大きなものになるはずで、今現在のマニフエストのあり方を上手に変えることは、政治そのものを変えることになると、私は信じるのだ。
■マニフエストとは
ここでマニフエストという言語に関して一応定義付けをしておきたい。「マニフエストとは政治家の国民に対する政治上の約束ごとを記載した契約書」とする。
実はこの文言は、鳩山民主党代表がいみじくも明言したことなのだが、私の日頃の考えと内容がほぼ一致していたので彼の発言をそのまま転用させていただいたのである。少し補足説明するならば、「主権者(国民)が自分の主権を第三者に預けて主権の代理行使をせしめるにあたって予め政治家の方から呈示された最低限の条件集」がマニフエストなのだ。
ここでいう契約書という言葉の意味は大きい。というのは、銀行から金を借りるとき、銀行はわれわれに何を要求するかを考えてみれば、マニフエストの意味合いが良く理解できると思うので説明したい。
銀行は、まず、貸付金に見合う、担保の提供を借主に要求する。場合によっては保証人もつけなければならない。こうして、自分の財産を第三者に貸し付ける金額の保全を銀行は図るのだ。われわれが主権を預ける、ということは、税金として供出される金銭の使途を始めとして、もろもろの政治的決定権、それだけでなく日本が戦争となれば、命を捨てさせることができる権限を一時国会議員に貸し付けることと同じなのだ。にもかかわらず、驚くべきことだが、この時、国民はなんの担保も保証人も国会議員から受け取っていないのだ。
しかし、選挙の時のマニフエストが政党と国民との間の契約書と見做す、となれば、マニフエストの内実が単なる公約集や作文集であっていいはずがないのだ。そこで、問題になるのは今のマニフエストをどう変えるかである。
■マニフエストの改善
まず改善、進化したマニフエストというものについて総論的なことを申し上げる。繰返になるが、マニフエストを政党が実行不可能なことなどを勝手気儘に書きなぐって結果を問われないというようなものではなく「マニフエスト法(仮称)」というような法律を作ってマニフエストの要綱を整備して、単なる政党の私文書ではなく公文書にすべきである。
同時にマニフエストに違反ないしマニフエスト通りの政治が実現されなかった場合の責任政党に対して罰則をもうけるのだ。
マニフエスト法には以下の事項が記載されるものとする。
・各政党は選挙に際して定められた日時にマニフエストの内容を国民に呈示し 、最高裁判所に提出する。
(このために政党は常時次期選挙用のマニフエストを用意しておく必要がある)
・最高裁判所は提出されたマニフエストに関して、次期選挙時までにその実現 性評価、達成度を検証して公表する。
達成度が50%に満たない場合は、契約違反として公的政治資金の減額を関 係機関に命じることができる。
(与党 の議決権を1割程度縮小させることな ども考えてよい)
・最高裁判所での裁定が容易に行われるためには政党はマニフエストに、政策実行の目的とその実現に必要な期間と財源を明記する。
財源に関しては予算の組み替の場合はどの部位の財源を削減して充当するのかを明記する。
・公約が複数ある場合その優先序列を明記する。
・各政党のマニフエストの内容がばらついている場合、最高裁判所は各政党について欠落している項目についてはその対策を追加記載させることができる
・マニフエストの内容は正当な理由がな ければ変更・修正・追加はできない。
・マニフエストは実現の可否が明確に判 明できるようにする。明確にできない 公約は記載を禁止する。
・マニフエストは国会で対立する政党のマニフエストの問題点、矛盾点を追求するマニフエスト委員会を開催し、その委員会の内容を完全公開する。
・マニフエストの速やかな実現をはかる ために政党は党所属の国会議員に対して党議拘束をかけることができる。
・直近の選挙用に提出されたマニフエス トに対しては最高裁判所は場合によっては内容の削除、表現方法の修正を政党に対して要求することができる。
・その結果を国民に告知する。このためには最高裁判所に違憲立法審査権が付与されているように、マニフエスト 審査権のようなものを新規に付与する必要がある。
・具体的でない内容、例えば「安心社会、明るい社会、美しい国」など抽象的な記述はマニフエストに記載できないようにする。
・最高裁判所においてマニフエストを検証する裁判官は国会議員のうち野党に属する政党が裁判官のなかから複数名 任命する。
・報道機関はマニフエストの内容を報道する。
・国民は各政党を直近のマニフエストを 実現しないことを理由に訴訟をおこす ことができる。
以上のようにすれば、国民はマニフエストの中身を詳細に検討できなくても、最高裁判所の裁定結果を参考にして投票することが可能になるはずだ。
■マニフエストの実現性の検証
いま、麻生首相と鳩山代表が万座でお互いのマニフエストをつつきあっていてなかなかおもしろいのだが、マニフエストに関して重要なのは、いま現在の選挙のためのマニフエストではなく,あくまでも前回の時のマニフエストの検証が重
要なのだ。これを精密に十分にやらなければ、マニフエストは結局、言い放し聞き放し、になってしまう。ところが、この検証というのが実に難しいのだ。
例えば、年金問題について、前回の選挙の時に自由民主党が全ての過ちを是正しいついつまでに正確に支給されるようにする、とマニフエストにうたったとする。このことが誠実に履行されたかどうか、有権者はどのようにして検証すればいいのだろうか。
マニフエストの評価については当然、実行の責任を担った政権政党の自己採点など耳を傾けても意味はないのだ。だからといって野党の評価も半ば当事者のようなものだから100%信用できないのだ。ではどうするか。受給状態について国民ひとりひとりにきいてまわることもできないだろう。
こう考えると、膨大な政治課題の中のたった一つの問題に対しても多くはその成否を正確に検証するなどということは不可能といってもいいのだ。
マニフエスト法に最高裁判所をもちだしたが、マニフエストの真剣な検証には批評力のある優秀な専門家を充てなければならないと考えてのことなのだ。
勿論、最高裁判所がマニフエストに対していかなる裁定を下すか、あるいはどのような権能の有するものが裁定作業にあたるのか、政治から完全に中立を保つためにはどうするか等々、具体的にはつめなければならない多くの問題点があるが、様々に工夫してマニフエストに改善を加えていくことが、国民の政治選択の精密度を間接的に高めることになるという期待から、本稿は書かれたのである。
〔第50章〕選挙の効能と限界(2009年7月)
○狂乱の選挙
まもなく、あのやかましい狂気の「連呼」が始まろうとしている。
連呼の果てに酩酊記者会見の大臣や漢字の誤読王ともいうべき総理大臣が出現してきたことを考えるなら一有権者として選挙そのものに絶望的にならざるを得ないのだ。
それにつけても、立候補者は連呼だけではなく有権者に対し薄気味の悪い笑顔を作り、恥も外聞もなく頭を下げ、あざとい者は土下座までし、自分に対する投票を乞い願ってまでなぜ国会議員になりたがるのであろうか。己のためではなく国民のために奉仕しようというのであればのもっと堂々と自分をうったえてもいいはずだ。立候補者の狂乱を見るだけでも国会議員という職業は立候補者に多大の犠牲を強いることは確かだ。にもかかわらず、多くの国会議員は自分一代だけでなくその職業をだれよりも自分の子供たちに継がせようとさえするのだ。なぜか。間尺にあわないのならあとを継がせようとはしないはずだ。
私は経験がないので分からないのだが、恐らく、国会議員は日頃自分たちが言う程、特異的に正義心が強く他者への思いやりが厚いとは思えない。勿論特段の有徳の士でもないはずだ。おしなべてわれわれと同じで自己の欲望に恬淡としているわけでもなく、また自己犠牲の固まりでもなく、国家国民のことよりも己のことを優先する普通の人間であるはずだ。なぜこんなことが言えるかといえば過去、高尚な人格、人望が理由で大して努力もしないで当選してきた国会議員は、ほとんど存在していないからだ。かててくわえてそこいらの商人も顔負けするような算盤勘定に秀でた者たちが国会議員になりたがるにはそれなりの理由があるはずだ。
私が思うにはその理由は単純明快でただ一つだ。
即ち、自分の多種多様で少なくない欲望を満たすために最も有効なものが国会議員になれば手に入るか、余程入り易くなるからだ。この有効なものとは、有体に言えば権力(政治的決定権ないし支配力)ということになる。そしてこの権力こそは、おそらく、絶対的な権力など存在しないという現代日本の民主主義政治の建前を粉砕してしまう民主主義の鬼子ともいうべきものなのだ。
選挙で議員の各々が手に入れる権力は議員の数だけ均等に分割されてはいるものの議員どうしがつるむことで、巨大な権力を生み出すのだ。
○選挙の効能
しかし、反対に政治が民主主義であるか否かを唯一証明するものとして位置づけられているのが自由選挙であると広く認識されているのであって、日本ではその選挙が実行されているのだから間違いなく民主主義政治が行われていると多くの人は思っているのは当然かもしれない。
確かに、選挙を国民の側からみれば正に、自分の考えに沿った人、近い人に権利の行使を代行せしめる人間を選出する、いわば政治に関する自分の使用人を決定するようなものだから、権力者、主人公は国民であって国会議員ではない。だから選挙の結果で、国会議員が強力な権力者になるはずがないと思い込んでしまうことも不自然ではない。
このような考え方は一面の真理であって間違いではないのだが、しかし、選挙は結果的にいえば国会議員を新たな権力者にするのだという前段の考え方も間違いではないのだ。と、なれば、われわれが考えなければならない事は、確かに選挙で投票したから、投票できたから、あるいは立候補できるからといって民主主義だ、と単純に思い込んでしまって後は思考を停止してしまうのではなく、実際に選挙の結果、民主主義政治が建前や理論上ではなく本当に実現されることになっているかどうかを詳らかに検証することであろう。
そこで選挙のことを考えてみたいのだが、その前にまず、私なりに民主主義政治というものを定義付けておきたい。
民主主義政治とはすべての政治課題に関して完全平等なる決定権を有する主権者である国民が、希望した場合は決定に直接参加できて、その多数決によって決定される。場合によっては自分の決定権を第三者に代行せしめることはあってもいいが、いつの場合でも第三者に預けている主権(政治的決定権)を取り戻し直接決定権を行使することができなければならない。従って国民の意思と国会議員や議会の意思が異なったりすることは民主主義政治ではありえない。(詳しくは拙書「民主主義進化論・上下」参照してもらいたい)
私の定義に従えば選挙でできることより出来ないことの方が、圧倒的に多いのだ。
以下出来ないことを列挙してみたい。
・一人の代表者が何十万という支持者の意思を代弁しえない
・立候補者が信頼にたる人物か否か見極めることができない
・主権の信託に関する受託者(代表者)の誠実なる主権行使に関する保証がない。
・all or nothing以外の選択ができない
・代表者の決定に対して主権者は事後否定ができない
・国会議員をいつでも馘首できない
・代表者の国民に対する裏切り行為を事前に抑止できない
・死票の救済方法がない
・投票後、主権者や代表者の意思や考が変わってしまった場合の救済方法がない。
・立候補者が嘘を主権者がいつの場合でも見抜くことはできない
・代表者と主権者との間で利害が対立する問題に主権者が優先される保障はない
・一票の格差が生じない選挙はできない
・選挙で投票しなかった人の意思を政治に反映できない
・代表者に自分の意思を容易に伝える手段、反対に代表者が国民に伝える手段がない。
・選挙の時に対象でなかった政治課題に対して国民は自分の意思を政治に反映する手段がない
等々の限界が選挙にはあって、政治は完全に代表者のものになってしまっている。さらに選挙には民主主義の成果を決定的に矮小化することになるなどの重大な欠陥、限界、問題点が存在しているのである。
○選挙と時制
人間の生存には、場と時の設定が絶対条件となるが、時についていえば、過去、現在、未来の3つがあるのだが、われわれは過去に影響力を行使する事はできず、未来への影響力は不確かである。人間とっては現在があるからこそ生きているともいえる。
そこで、選挙の時に偶然素晴らしい候補者を見いだし彼に投票して、果してことはなれりと安心できるかといえばそうではない。
なぜかといえば選挙が終了した時点で、投票者そして代表者が表明しえた意思は過去の意思になっていくのだ。過去と現在の意思が絶えず一致していれば問題はないが、現実には現在の各々の意思と過去の意思は微妙に、時には大きく異なってしまうのである。
例えば、郵政民営化で大勝利を得た過去の自由民主党の政治権力は自滅的失政のために現時点では、19%代の支持率であるにもかかわらず、前回獲得した権力を未だに行使し
ているのだ。
こんなことは民主主義政治では絶対に許されないことなのだ。選挙は最も大切な主権者の現在の意思を反映できないのだ。
まもなく衆議院選挙が行われる。国民にとって微力な権力の行使ではあるが、数ある選挙の中で唯一存在意義があるのは、政権が交代する選挙である。
この場合は国民の想定外の影響を政治に与えることは確かで旧政権の悪事が露呈されることも多々出てくるのだ。しかし、政権を掌握した者のはやがて権力の放つ毒におかされてくるはずだ。
結局、真の民主主義政治のためには重要な政治課題の決定は代表者に任せるのではなく国民が直接決定権を行使する制度を採用していかなければならないことになる。
国民各位はくれぐれも選挙をすれば民主主義だなどと誤魔化されないように願うばかりだ。
〔第49章〕北朝鮮危機への日本の対応(2009年6月)
今年6月になって韓国の情報機関、国家情報院がつかんだ情報として、金正日総書記の三男正雲氏(26歳)による政権の世襲が現実味を増していると読売新聞が報道している。私はこの報道に接して、「ああそうか。そうだったんだ」と、近年の北朝鮮の異常な内政、外交は、北朝鮮という国家を金正日の子孫に譲り渡す政治劇の背景作りだったと頓悟したのだ。
朝鮮民主主義人民共和国は人口2千2百万人の小国とはいえ、金正日総書記は国名と対極にある独裁体制をひき国家統治の全権を掌握する地位を親から譲受けなお自分の子孫にそれを継承しようとしているのだ。
しかしその政権譲渡は江戸時代における将軍職の継承や天皇の地位を型通り生来の有資格者が継承するのと異なり、曲がりなりにも誰もがその地位に就けるらしい選挙という制度を経なければならないのだ。北朝鮮における独裁政権の血統的継承は決して安定したものではないはずだ。多くの北朝鮮の国民の中には、いかに金正日が万全を期して独裁体制を補強しても彼の意思に反したり不満を抱くものはいるはずだ。とくに長幼の序列にこだわる民族性を考えると、若年の後継者の出現を歓迎するむきばかりではないはずだ。取り分け国民に充分な食料すら供給できないという劣悪な経済状況下であればなおのこと、自己の地位の保全と強化ために体制内に対する締めつけは激しくなり、時に常軌を逸することにもなったはずだ。
このような政治的状況下にあって最近、金正日は北朝鮮のメディアから突然姿を消してしまったので、いろいろな揣摩憶測が飛び交ったが、数カ月して突然再び姿を現したのは各位ご承知のことと思う。しかし、この時の金正日は姿を隠す前より酷くやつれており、どんなにメイクアップをほどこしてもその衰えぶりは隠しようもなかった。金正日の健康に重大な問題が生じたことは明らかであった。
ここにきて彼は自分が第一線から退いたときの身の安全が保証されること。次になお独裁体制が維持されることを期して後継者の実質的な確定作業を急ぐことになったはずだ。
そのためにはまず、強大な仮想敵国の北朝鮮に対する活動の活発化をでっち上げ、そのことの真実性を高めるために、外には強行かつ不当な要求をつきつけ、内には臨戦態勢を整備しつつ、自己の政権に反する者の抵抗や反抗を排除、除去しつつ、懸案の息子への地位の継承を図ろうとしているはずだ。
そこで、米国、韓国、日本は期せずして金正日の仮想敵国として北朝鮮のターゲットにされることになった。北朝鮮と仮想敵国はあたかも漫才の突っ込みの北朝鮮とボケの仮想敵国との演技のようにもみえ、世界の耳目を集めることになったのだ。
いままでも北朝鮮は権力の息子への継承のためではなく独裁体制の維持と強化のために古くは、朝鮮戦争をしかけさらに韓国の大統領の暗殺を実行するなど、国際ギャング国家ともいえる振る舞いをしてきたのだが、さらに近年は日本人の誘拐を始めとして、軍事的には、98年のテポドンの発射し、03年にはNPTを脱会。06年には初の核実験をおこなってきたのだ。近々3度目の核実験を行おうとしており、軍事パレードでは精強な軍人の隊列行進をおこない、テレビの下品なアナウンサーは声高に日本や米国に罵詈雑言をなげかけ軍人は東京を焼け野が原にもしかねないようなことを公言する。こういう北朝鮮の様々な行動はわれわれ国外から北朝鮮をみているものにとっては正に100%われわれに向けられたもので、それ以外の目的はないように思えるが、しかし、その主たる目的、その90%は外ではなく北朝鮮の内側、内部に向けられ、自国民に巨大国家を仮想敵国にすることの不安の念を緩和させようとするのが主眼なのだ。このような前提で北朝鮮の様々なプレゼンスに対する対応は採るべきなのだ。
この同様の問題について日本の北朝鮮外交を実質的にリードしてきた元外務省審議官の田中均氏は6月10日毎日新聞(夕刊)で「北朝鮮問題にみる日本の解」というタイトルで以下のように述べている。
「日本が突出することよりも米、韓、中、露との万全の結束を図っておくことがより効果的で賢明である」と。米国とは「米国のリーダーシップを日本の役割に応じて支援する」
「日本の安全保障政策を正面から見直す必要がある」「日本は東アジアの新しい秩序作りについてリッダーシップを発揮しなければならない」と書いている。
これだけを読んでいてはどうすればいいのか、具体的なことはサッパリわからないが、日本は積極的な行動をとれといっているようにはみえる。しかし、私の北朝鮮に対する日本の効果的な対応策というのは、専門家の田中氏とは全く違うのだ。
金正日が日本をむりやり敵役にしようとして、一応成功しているのだ。だから、日本は北朝鮮の核実験やミサイル発射に対して、日本の制裁を強化するとか、反対に5ヵ国とも歩調をあわせて話し合いをもちかけ経済援助などで北朝鮮の怒りを鎮めようとする、などという対応の仕方があると思われがちだが、このいずれを日本が選択しても日本としては金正日の仕掛けに応えることになるのだ。即ち彼に見事に乗せられるということになる。金正日監督が北朝鮮を主役として日本に敵役をふった劇をつくろうとしているのだから、それに対して一番効果がある日本の対応は、いかなる演技もしないということではないか。一切「演じないこと」に徹することだ。日本は北朝鮮のためには一切国家的エネルギーを費消しないと、腹をくくるべきだと思うのである。また日本は米国やロシア、中国とも北朝鮮問題で協議などすべきではないのだ。あたかも北朝鮮という国家が存在しないように振る舞いうべきだ。反応しなければ北朝鮮の全ての行動は全くの一人芝居になってしまい、劇も漫才も完成しないのだ。
即ち北朝鮮が仮想敵国にしかけたすべての行動の結果について北朝鮮内において説明のしようがないことになってしまうだろう。なにをやっても日本国政府は反応しない。交渉にも応じない、となった時、北朝鮮は日本に対する対抗手段を失うはずだ。ところが、そうすれば、やけくそで北朝鮮が本当に軍事力を行使するかもしれない、と心配する輩もいてそ、ういう心理に北朝鮮は付け込もうとするのだが、その心配は無用なのだ。
なぜなら、北朝鮮が他国に侵略する場合、絶対に自国に勝利が間違いなければいいが、日本や米国を本気に怒らせたならば、仕掛けた量の100倍できかない報復を受けるはずで、北朝鮮はこの地上から消滅してしまうだろう。
ここで改めて考えなければならないことは金正日の願っていることは北朝鮮を息子へ譲ることだということである。そうであれば、北朝鮮が消滅してしまうようなリスクは犯せないのだ。
日本が北朝鮮を侵略や攻撃するのではなく無視したからといって北朝鮮は実力行使はできないのだ。脅かすだけだ。
私はかって、金正日体制がまだ充分に安定していない時の1988年の韓国88オリンピックの開催に際して、北はこのオリッピックを妨害するために南に侵攻するかもしれないということがまともに心配されていた。この時中国の北朝鮮の専門家が「北朝鮮が南の侵攻は充分可能性がある」と断言したのを聞いて、私はその専門家に反論したのだ。
「金日成が苦労して手に入れて維持してきた国を息子に引き継ぐことができたのだ。そんな北朝鮮がもしかしたら目茶苦茶になってしまうようなリスキーなことはするはずがない」と断言したことを、私は思い出したのだった。結果は私の断言のとおり。北朝鮮が核実験をしたからといってそれを日本に対する脅威と解釈するのは、不自然ではないが、それらはまさに北朝鮮のマスターベーションにすぎないのだ。われわれは「それがどうした」と言い捨てるに限るのだ。ただし、どうしても万一のケースにも準備対応をしておくべきだというのであれば、むだなこととは思うが日本も密やかに北朝鮮の核攻撃にたいする同等以上の報復手段を用意しておけばいいのだ。
〔第48章〕珠玉の少数意見(2009年5月)
多数決原理に基づいて決定される政治において、少数意見というものは哀れである。あえてその存在価値を問うならば、多数意見を引き立たせるための影のような存在としか言いようがない。
しかし、少数意見を蹴散らす多数意見の支持者の側に、もしかしたら多数意見が政権交代や支持者の変心や覚醒によっていつの日か少数意見になってしまうかもしれないという一抹の不安や懸念、あるいは自己の意見や意思に対する自信や信念の不足や欠如、更に稀に多数意見の支持者の想念に寛如の心がわきいでること等もあって「少数意見もまた尊重されなければならない」というようなことが言われることがある。
しかし、現実の政治において少数意見に対する多数意見の配慮などというものは大方は建前でしかないのであって多数意見の本質が少数意見の影響で変質するようなことはあり得ないと考えてよいのである。
かくして民主主義という政治原理が常に多数意見によって決定され、その結果しか人々にもたらされないのだが、そのことによるおもわしくない事々を人々は受け入れざるを得ないという欠点が民主主義には内包されているが、それでもなお非民主主義、反民主主義の独裁政治や絶対政治と比べるならば民主主義の政治は十分な利益を多数の人々にもたらしてきたのであり、このことは民主主義政治の最大の長所であったと言えるだろう。
それ故、民主主義政治において多数決原理はその根幹をなす絶対的なものであって、それをいささかも歪め、矮小化するようなことがあってはならないのだと私は思っている。と、言えば、少数意見が無造作に多数意見によって消去されるままで放置しておいてよいという事になるが、そうではない。むしろ民主主義は制度面においてすこしでも発展させようという問題意識があるならば、少数意見への配慮をいよいよ強化していかなければならないと思うのである。
なぜなら、絶対的とは言えないが、明らかに多数意見よりも少数意見の方が正誤でいえば正しい場合があり、善し悪しでいえば善い場合もあるからである。
例えば、少数意見であったものが、時間の経過とともに明らかに正しいことが、証明されるような時、多数意見ではなく少数意見で決定されていれば、それまでに人々が被っていた不利益は避けることができたはずだ。
更にいえば実に多数決原理のなかにも少数意見の方が絶対的に正しいと論理的にいえる場合もあるのである。即ち、このような場合多数意見で決定するのではなく少数意見であるがゆえに全体の決定として採用し多数意見を排除しなければならない、という場合が本当は存在するのである。
どういうことかと言えば、数学、というより算数の試験問題に対する正解について考えるとその論拠がわかるのだが、試験問題が易しければ易しいほど生徒の多くが正解をだす。(当然問題が易しくても正解をだせない少数者はいる)一方、問題が難しくなればなるほど、今度は正解者は少なくなるはずである。そして、いよいよ問題の難度があがれば、最後は正解者がいなくなるはずだ。こういう事例を政治課題の決定についてあてはめるならば、易しい(と思える)政治課題については容易に多くの人が正解に達する。結果多数意見に従うことは正しい選択・決定になるだろう。反対に複雑で難度の高い政治課題になれば、正解者は少数になり、多数意見で決定しては間違うことになる。このような場合は、可能で
あれば制度上強制的に少数意見をもって全体の決定にするのが正しいはずだ。但しこのような場合もかりに少数意見なるものが、一つではなく複数存在すれば一概に少数意見が正しいとはいえないが、それでも正解は少数意見群の中に存在するとはいえるはずだ。
多数決原理をここまで理解して政治が採用することは現実には不可能なのだが、政治の決定や選択に正さということを求めるならば、本来は少数意見をただ捨て去るのではなく活かす方策を考え出すことが、われわれに課せられた重大な義務だと、私は思うのだ。
いずれにしても以上のような正誤論が成立する前提として、政治課題について以下3つの条件が満たされなければならないのだ。
その1は、政治課題の解答ではなくその難易度が明確かつ合理的に解明されていることが第三者に証明しうること。
その2は多数の意見、少数の意見ともに正誤の判定を下す時の共通の基準、価値観が存在していること。
その3には、政治課題に取り組む人に正解に到達するための能力があること。
しかし、おもうに以上の3つの条件を満たす政治課題などは存在しないのであって、どう考えても正しい少数意見を敢えて決定することはできないのだ。
少数意見と多数意見、そのことの正しさということにこだわってもう少し付言するならば、政治課題の多くは、正解というものがもともと存在しないか、正解であると科学的に証明できないのだ。
例えば、国家予算を多数意見に従って配付する結果と少数意見に従って配付する結果について比較検討することはできないのだ。どちらか一方でしか予算を配付することができないのだから。
このような場合にもはなから選択肢(様々な意見や意思)の正誤を論じても無意味であり、多数意見、少数意見ともにその正誤を主張することは許されないのである。すなわち多数決原理とは、まさに正解を求めるために用意されたものではないということを再認識せざるをえないのである。
以上は以下の私の拘りを理解していただくための補足説明であった。
少数意見が救われないとはいうものの、多数の人々が容易に選択、決定できる多数意見などに私は興味はないのである。正解とは確かには言えないもしれないが少数意見にこそ、私はひかれるのだ。
少数意見こそ、より深く、多面的に、多層的に、知的に多数意見よりも優れた意見であることが多く、かつ理想的であり先見の明に輝いていると思えてならないのだ。こういうすぐれた少数意見の典型のような言葉に私は最近遭遇したのだ。だから、多数決原理に関して理屈ぽいことをどうしても書かねばならなかったのだ。
その発言というのは民主党の近藤洋介という代議士の3月27日の民主党代議士会における小沢一郎代表を糾弾するものであった。
私は心からかれの発言に感動しまたうれしく思ったのだ。
陰口ならだれでも言う。そうでなく真っ正面から堂々と公の場で組織内では決してプラスになるとは思えない事を毅然とかれは発言したのだ。「みごと、天晴れ」というほかない。
その発言の内容だが、他でもない小沢民主党代表の西松建設からの長年の献金
に対する申し開きに対して、彼は「なぜ素性のわからない巨額の資金を長年にわ
たり受け取っていたのか。見返りを求めない援助として受け取ったという趣旨の説明のようだが、あなたは心の奥底からそのような献金が自分のところに寄せられたことに関して違和感を感じなかったのですか。国民はそこに疑問を感じているのです。それだけの献金をいったい何に使ったのですか。そこを明らかにしてもらわなければ、疑念を解消できません。『信なくば立たず』であります」(朝日新聞4月1日 立花隆談より)と堂々小沢代表にぶつけたのだ。
近藤代議士の意見が絶対に正しいことは証明できないことは理解するものの、どうしてもかれの発言に私の魂は共鳴するのだ。当の代議士会で小沢代表にたてつく論を披瀝したのは彼の他に小宮山洋子議員だけで、近藤議員の意見は少数意見であったことは明確である。表明はしなかったが近藤議員と同意見の議員は数多くいたかもしれない。反対にかれの発言が検察だけでなく自由民主党にどれほど有利に作用するか考えてみろ、と怒り、かれの発言を思慮外の青っぽい正義論だと非難する同僚議員もいるだろう。さらに、近藤議員自身、ここで一発目立ってばマスコミがとりあげ、自身の選挙に有利になるかもしれないというような邪心があったかもしれない。また、後ほど執行部からの圧力や取引で小沢代表への追求をやめてしまうかもしれない。しかしそうであってもかれの発言は人々の心に突き刺さって残るのだ。
彼のいわんとするところ、即ち政治家に要求される最大の徳目は、嘘まみれの涙などではなく透明な正直さであるという要旨だと思うが、この事は民主主義政治における少数意見の価値と重要性を象徴的にあらわしている。それだけでなく、彼の発言は民主主義下における権力の暴走と民主主義の形骸化を抑止するものだと思うのだ。だから願わくはこのような発言が少数意見のままでとどまることのないようにし、この発言を契機に小沢代表の辞任ということになっていかなければならないと思うのだが、そのことをおしすすめるのは、もはや近藤代議士本人でもなく、小沢一郎代表でもなく、私を含めた読者の責任であることは言うまでもないだろう。
〔第47章〕世襲制限論(2009年4月)
能力のある者が身分制度や出自によって天与の才能を発揮する場が与えられないとすれば、本人にとっては勿論のこと、社会全体にとっても大きな不利益を被ることになる。こんな不合理はすくなくとも競争の激しい日本においては封建時代を経てとうの昔に解決済だと思っていた。
ところが、まさに身分制度の再現としか言いようがないのだが、民主主義政治における最大の権力代行者である国会議員の職責が世襲される傾向がかなり深刻になりつつあるのだ。自由民主党では衆議院議員の107人で党所属議員の3分の1が世襲議員でしかも麻生内閣にいたってはその閣僚17人中11人が世襲議員によって占められている。
政治というもの、この秘めたる可能性の大きさは他の何事に比しても劣るものではない。それ故日本国が輩出する最高の人材が適宜に政治に結集されてこそ、その可能性が最高度に伸展されるのである。だから、そのためにはまずなによりも政治家が選抜される方法と過程において徹底的な平等さが要求されるのであって、世襲というシステムがその要求に応えるものではないことは言をまたないだろう。と、考えれば現状は正に異常としか言いようがない。
このことにさすがに当の自由民主党の一部の議員が危機意識を抱き、菅義偉選対副委員長が次期衆議院選の政権公約(マニフェスト)に国会議員の世襲制限を盛り込むことに意欲を示したのだ。遅きに失した感はあるものの自由民主党としてはめずらしく全うな動きであった。
ところが当然のごとくこの動きに対して党内の世襲議員から批判が噴出しているのだ。以下そのことに関する新聞報道であるが、例えば「私は世襲の権化だ。 そうなると覚悟(自由民主党から脱党する)を決めないといけない」と激怒したのが小坂憲次衆院議院運営委員長。「党内の合意が得られないものをマニフェストに盛り込むべきではない」と苦言を呈したのは石原伸晃幹事長代理。「民主主義はどなたでも立候補できるという根本がある。根本論を分からずして選挙制度を議論してはいけない」と大島理森国対委員長。(以上毎日新聞4月18日)
「職業選択の自由を阻止する法律はできない」甘利行政改革担当相。「誰だからできないと制限するのはなかなか難しい」麻生太郎首相。(以上4月18日産経新聞)「世襲でも立派な人はいるし、途中で落選した人もいる。でちゃいけないとなると憲法違反の問題が起きる」笹川堯総務会長(東京新聞4月18日)と世襲制の制限に猛反発。また森英介法相は「世襲だからただちにいけないとはまったく不合理な話」と批判し、金子一義国土交通相は「あまり意味のある議論じゃない」と不快感を示し、塩谷立文部科学相も「基本的に制限は憲法違反」と反発した。(以上毎日新聞4月22日)
「こんな取るに足らないことをあたかも大ごとのように取り上げる政治家も政治家だし、マスコミもマスコミだ」と町村信孝前官房長官が批判。〔東京新聞4月26日)
これらの反応に接して、私は「いやはや」としか言いようがないのだが、それでも自己の存在意義も価値も否定される世襲議員が反発するのはよく分かる。しかし世襲の制限反対論には正当な理由はなく、また主権者である国民の立場に立って世襲の問題点を指摘し、その解決方法に触れるでもなく、言ってしまえばただ自分や自分の子供が国会議員になれなくなることに頭に来てしまって「嫌だ」といっているだけで自己中心の赤子の泣き言に等しい感情論でしかないのだ。
世襲議員がもしその制限論に反論するのであるならば、こういうことではなく、積極的に世襲でなければならないという必然性を堂々と訴え、またこのことを証明しなければだれも本気になって世襲議員の声を聞こうとはしないだろう。だから、目下かれらの自己弁護の口上に対していちいち反論する価値もないのだが、なにせ与党自由民主党の衆議院議員のうち3分/1以上が世襲議員であって、彼らがこぞって世襲制限に反対となれば、国民の70%近くは世襲制限に賛成し、国会議員は世襲でなければ困るなんていう積極的な賛成派の国民などは一人もいないにも係わらず世襲制限という正論など吹っ飛んでしまうだろう。さもなければいやいやながらの実態のない妥協案がだされるだけだろう。だから世襲制限論に火がついた今のような時、世襲擁護派に対してはっきりと国会議員の世襲は制限しなければならないのだ、と野にあるもの、即ち真の主権者である国民の多くが言明し論陣をはって論理的に世襲擁護論を粉砕しておかなければ、世襲擁護派は「国民は世襲に反対はしていないのだ」などと言いだしかねないのだ。
だからこの際、蟐螂の斧の謗りを受けようとも、ここであえて、世襲に反対する旨の論を展開したいのである。
そこで、まず世襲制限に反対する国会議員が思い起こさなければならないのは何といっても公職選挙法のことだ。この法律の主旨は議会制民主主義の根幹をなす選挙が公平になされ、もって民主主義の健全な発達を期して現職の国会議員や彼らの親たちが立法化したものではなかったか。そして選挙の公平を期するために、例えば裁判官などの特定公務員や一般の公務員および教育者の地位利用による選挙運動を禁止し又個別訪問を禁止し、更に飲食物の提供を禁止し、連呼を禁止し文書図画の無制限の頒布を禁止し頒布できるビラやポスターのサイズから枚数までそして掲示のしかたまでこと細かく制限しているではないか。勿論選挙の費用についても、選挙事務所の設置方法についても制約されており、金をもっているものが金にあかせて有利にならないように精一杯選挙の方法を制限しているのだ。
このように公職選挙法は選挙に関して公正さを厳格に追求しているのに、一方で世襲に何らの制限を設けなければ、世襲候補者本人は選挙活動などせず遊び呆けていても親や祖父母が長年にわたって名前を売り込んで当選できるだけの得票してきた地盤を継承ししかも場合によっては政治資金すら完全に受け継ぐことあっては、親が子に代わって延々と事前運動を展開してきたようなもので、世襲と非世襲では選挙で戦う前に圧倒的な差がついてしまっているのだ。
この不公平をとるにたらないことだと町村代議士は放言したらしいが、とるに足らない話だから世襲に制限を設けないというのが正しいことであるならば選挙法にも細かい制約もまたとるにたらないことになるだろう。
もとより国会は各階層の様々な国民の声を正確に反映するものでなければならない。だから国民の職業という視点からその構成比率を考えるならば、国会議員の親の職業も満遍なく様々な職業の議員によって構成されるはずだ。だとすればおよそ国会議員などという職業は特殊なもので、その他の無数の職業と比較す問題にならないほど少数であるから、このことが統計的に素直に議院の構成に反映されたならば、世襲議員で国会議員になれるのは一人もいなくなるはずだ。おなじことだが、出身地という視点で考えたとき、北海道や沖縄の出身者が3分の1も占めたならばおかしいだろう。
さらに、世襲擁護の根拠に、世襲議員にも優秀な人間はいて善政をする人もいると主張する。それはそのとおりだが世襲はその世襲議員よりもっと優秀なそしてより多くの非世襲の人材の政治への道を閉ざしているのだ。同時に、民主主義の政治というものは、国民の代表者である国会議員がどんな方法で選出されても政治の結果だけよければいいというのであれば世襲論議はだれかの指摘のように「意味がない」ことになるだろう。しかしそうなると政治は民主主義である必要はなく、徳川封建制度でもいいのである。米沢藩の上杉鷹山は名君でその治世でも領民は幸せに過ごすことができたのだから。すべての国民が政治に参加でき決定にも関与できるという民主主義を私は大切にしたいのだ。
また世襲はささいな問題だというのなら、与党の3分の1ではなく今後ますます世襲議員が増えて、全体の2分の1、あるいは100世襲の議員で国会が構成されたとしても、世襲に問題ないといえるのだろうか。世襲の国会議員たちもさすがにそうは言えないだろう。また、世襲の善し悪しは主権者が決定すべきである、という世襲擁護派の論拠であるが、これも一見正しいようにみえるが、そもそも選を世襲に圧倒的に有利な状態にしておいてこういう主張は成り立たないのだ。
以上のように本来世襲議員は世襲で当選することに後ろめたさを感じてしかるべきで、本来は、園田博之代議士のように「自分は世襲でなければ国会議員になれなかったろう。自分よりすぐれた人がいただろう。世襲になんらかの制限をつけるべきだろう」というような発言をするのが私が考える良識のある世襲議員の態度だと思うが、そんな世襲議員は例外だ。彼らは国民の利益を第一に考えるの
ではなく自分に不利益になること、自分の考えと異なることに対して自己の感情を抑えて冷静に国家、国民にとっての利益を最優先に考えられないので先述のよな反応を示すのであって、そもそもこういう国会議員が容易に当選できる現状をみているだけでも国会議員の世襲は制限されてしかるべきだと思うのだ。
しかし、そうは思うものの、国会議員だけでなく、人間、だれでも自分がかわいいし自分の子供がかわいいのだ。これは人間の性といってもいい。だから世襲問題が議員の自浄作用で解決されにくいのだ。それ故世襲問題を根本的に解決するためには、世襲の恩恵に浴する国会議員や政治にあまり関心を示さない国民に期待するのではなく、世襲の善し悪しを世襲議員そのものが立法権ということで公職選挙法の改廃に直接関与できるという現在の制度を保障している日本国憲法そのものを変えなければならないのだ。
実はこれと同じようなことが現日本国憲法に多くあって、日本国憲法は、国民と代表である国会議員との間に利害の対立する問題が存在するということに気がつかなかったか、国会議員というものの良心を評価し期待しすぎたために、軽はずみに様々の重要なことを法律で決定するということを多用しているのだ。
例えば日本国憲第43条の2項両議院の定数は法律でこれを定める、や第44条の両議院の議院および選挙人の資格は法律でこれを定める。第47条両議院の選挙に関する事項は法律でこれを定める。第49条の議員の歳費も法律で定めるとうたっている。第50条の議員の不逮捕特権なども法律が関与することになっている。
これでは国民と議員との間の利害が対立する問題の時に国民の利益が必ずしも最優先される保障はないのだ。だから議員の定員や世襲のような課題にたいしては、法律(公職選挙法)によるのではなく予め憲法に「衆議院の定数は500人にする」とか「国会議員は自分の子孫や娘の婿などに選挙の地盤を継承してはならない。
国会議員の子孫、縁者は衆参議員の選挙に立候補してはならない」というように規定しておけば国会議員の恣意を排除できるはずだ。(このことは今後の日本国憲法の改正の重要課題の一つだと私は考えている)。
しかし、憲法と言えば、世襲制限は日本国憲法第14条の法の下の平等に違反すると反論する議員もいた。しかしこの条文は異常に増えた世襲議員の排泄の論拠にもなるはずだ。あるいは第22条の職業選択の自由に違反するというのもある。この規定は世襲議員がこれほど跋扈するという現象を予測できなかった現日本国憲法の欠陥部位と考えればいいのでありまた、日本国憲法第12条自由・権利の保持義務、濫用の禁止、あるいは第13条の幸福の追求の権利、また第19条のように思想良心の自由をはじめてとし、憲法は全ての人権を保障はしているが、それが無制限の行使が許されるものではなく公共の福祉に反しない限りという制約があるのである。
だから、職業の自由や平等の原理を野放図に許すと公共の福祉によくないとなれば、職業選択の自由に、国会議員という普通の家業などとは異なるという特殊性を考慮すれば、現憲法下でも国会議員の職責を世襲を禁止することは容認されうるという解釈も成立するであろうし、またどうしても厳密を期するのであれば憲法改正時に世襲禁止の規定を付加してもなんら問題になるものではないのである。このようにしても狡賢い議員やその子供たちは親の地盤は継承せず、隣接の選挙区から出馬したり、議員どうしで地盤をバーターするべく、各々の子孫をお互いの秘書として名前を売り込むようなことをするかもしれない。
また国会議員は子供の選挙に応援活動をするかもしれない。しかしそういうことも一切禁止しなければならない。どうしても二世三世の立候補を容認するならば親の選挙区から遠くはなれた選挙区でなければ立候補はできないようにするぐらいの手をうたなければならないかもしれない。
以上、世襲は民主主義にとって健全な姿ではないのであって、国民は今度の衆議院選挙で元総理の息子なんか絶対に当選させてはならないと申し上げておきたい。
〔第46章〕小沢一郎民主党代表2題(2009年3月)
権力者の許容範囲に反対者がいる場合はいいが、それを踏み出し、自分に真正面から刃向かう者は許さないという権力の本性むきだしの姿を最近の日本の政治に見せられるにつけ、私は言い知れぬ危機感を抱くのだ。同時に権力から独立して中立公平を掲げるマスコミの報道振りが、意図的に権力にすりよった報道をしているのか、無意識に権力に利用されることになっているのか定かではないがいずれにしても、報道そのものが権力を利する結果になっていることに私は警告を発したいのである。
というのは、他でもないが小沢一郎民主党代表を巡る2つのできごとに関してなのであるが、その一つは、「米軍の日本における軍事プレゼンスは第七艦隊で十分だ」発言であり、もう一つは小沢代表の秘書による西松建設の巨額献金事件に絡む政治資金規制法違反容疑についての検察の動向についてなのだが、いずれも権力は油断をしていないな、と思ったのだ。以下、各々について私の憂うところ危惧することについて申し上げたい。
まず「第七艦隊で十分」との発言は戦後の日本の外交、安全に関する抜きんでた卓見だと私は思うのである。自由民主党を凌駕しようとしている野党の党首という立場でしかも、それを直接伝えた相手というのがずばり米国のクリントン国務大臣であったことが、この「第七艦隊十分」発言の光を一層輝かしているのだ。勿論、小沢代表が日本のゼネコンによってガッチリ支援されてきたように、米軍の防衛産業と日本防衛省の紐帯に強力な楔を打ち込み日本の防衛産業群を新たな自己繁栄の手段にしようというような民族派の思惑で、第七艦隊十分論を発したのかもしれないが、仮にそうであったとしてもまだ先のこと。今のところ、私は「第七艦隊で十分論」は極めて価値が高く今後の日本の防衛外交を先導する主張足りうるし、そうすべきだと考えるのだ。日米安全保障条約や米軍の大量の基地ありき、でしか日本の安全を考えられない思考停止頭では、第七艦隊だけで米軍の基地が無くなれば日本の安全は覚束ないと、びっくりして小沢代表の発言を非難するばかりである。例えば、恐らく防衛白書すら正しく読むことが叶わない劣等生であろう麻生総理大臣が他人を批判できるほど日本の防衛安全のことを理解できているとは思わないが、そんな総理が「小沢氏は軍事防衛のことがわかっていない。国民が極めて不安を覚える」といい、社会民主党や共産党は「米軍がひきあげては日本独自の防衛強化につながるから小沢発言には反対だ」と言う。また、マスコミといえば、朝日新聞の2月28日の社説で「小沢発言 民主党の政策は大丈夫か」との見出しで、彼の発言は言葉が足りない、と難癖をつけるのだ。しかし、小沢発言は具体的で単純でこれ以上簡明な言葉はないし、とても理解に苦しむようなものではない。私は小沢発言を聴いて、日米安全保障体制を根本的に変え、日米対等の関係を構築しようとする彼の意図を即刻理解できたのだ。また読売新聞は同日づけで「小沢安保発言 民主党は包括的な見解をしめせ」となり、毎日新聞も3月1日の社説で「小沢氏米軍発言 体系的な安保政策をききたい」とのタイトルでやはり国民への説得力を欠いていると非難している。しかし、今の時点で説明が足りないというのは当たり前で、ことの順序をいうのなら、小沢代表になんの瑕疵もないのであり、小沢代表はこれから国民に説明し納得させる作業をすればいいだけの話ではないか。彼は至極当然のことを言っているに過ぎないのだ。但し小沢発言に一言注文を私がつけるとしたら、小沢発言は恐らく彼個人の発言だろう。小沢氏は独裁者ではない。まず党内の説得はしっかり行い1日も早く民主党の正式な政策にしてもらいたいとは思う。
それにつけても朝日も毎日も読売も現在の日米安全保障条約体制を重要視しているようだが、日米安全保障体制が永遠に不動のものではないのであり、しかも外国に自国の防衛を委ねているという日本の歪んだ現状を、そして米国の世界支配に日本が加担しているということ、それ故朝鮮やベトナムやガンボジャの爆撃に日本の基地が利用されたという事実をどう思っているのか、そういうことを踏まえて、小沢発言を考えてもらいたいものだ。そもそも日本は日本の防衛にのみ専念することは憲法上からいっても国是といっていいのだ。米軍に協力する必要性も義務も皆無といっていいのだ。となれば日本は自国の防衛だけを考えるだけでいいのだ。だから第七艦隊だけでも十分過ぎるのだ。終戦直後ならいざしらず米軍基地がなければ、日本の安全が保障されないなどいう結論が現下の日本の防衛のあり方をめぐって今までどおりに通用するはずはないのだ。
なぜなら、まずそもそも日本には強力な仮想敵国が存在しない、と言えば北朝鮮が、と反論したくなるだろうが、北朝鮮はミサイルをとばして、日本を脅かすことはできても占領し征服することは不可能なのだ。日本のような島国に対して攻撃し、占領するようなことを可能ならしめるためには、膨大な海軍力がなければならないことは、かってヒットラーが英国征服に失敗したこと。あるいは米軍が太平洋戦争の末期日本占領のためにどれだけの海軍力を保有してことに当たろうとしていたかが分かっていれば、およそ現下の自衛隊の戦力および防衛態勢を若干強化することで、防衛予算など大して増加させずとも北朝鮮の日本占領を許すことにはならないだろうと思えるはずだ。日米安全保障条約堅持論者よ、すこしは侵略の脅威という言葉に怯えるだけでなく、そのの可能性ということも想像しろと言いたい。現在の北朝鮮には密入国用の潜水艦はあるだろうが、日本を占領できるような海軍力はないのだ。日本は島国だという地勢学的な特徴の効用を防衛という面からよく考え直せとも言っておきたい。見方を変えるならば日米安全保障条約を堅持して日本の軍事力をいかに膨らましても、外国からの侵略の意図というものを完全に消去することはできないということが、近時の北朝鮮の動向をみていればわかるはずだ。ソ連と中国、米国が結束しても北朝鮮のミサイル発射すら恐らく防ぐことはできないだろう。(3月14日現在)だから、民主党の党首がまず、日本にとってあまり役立たない日米安全保障条約の呪縛を解き放す第一歩の発言をしたことは大いに評価し強力に彼や民主党を応援しなければならないのだ。当然、米国の世界支配体制に繰り込まれること、あるいは米国の軍需産業、資本支配の維持継続が自分の利益と一致すると考える日本の自由民主党の多数派と特定宗教の信者が支持するけれど宗教政党ではないという政党は日米安全保障態勢の崩壊につながる小沢発言にはどうしてもNOと言いたいのだろう。本論の第2点であるが、小沢代表の政治資金の件であるが、小沢代表はかって政治資金で、自分名義の不動産をしこたま作り上げたという剣呑な男で正義感あふれ正義感のみで動く男ではない。しかし、東京地検特捜部の今回の小沢氏を巡る動きは当事者だけでなく多くの人に「国策捜査だ」と思わせたのだ。しかも、この印象を強めたのは「捜査は自由民主党には及ばないと」いわば国策捜査であることを吐露し捜査の内情を呟いた男がこともあろうに警察庁長官を努めた漆間巌副官房長官であったということが内閣官房長官の口から直接披瀝されるに及んで、いよいよもって西松事件捜査が国策捜査だという印象を決定付けることになった。この検察権力の信用を根底から崩しかねない漆間長官発言に対してその処罰が官房長官の厳重注意とは笑わせる話だ。政治資金の規制なんて、企業からのい献金を完全に廃止しなければ、ことごとく茶番で与野党の政治家や官僚の不正を完全に取り締まるなんてできないのだが、もしこの法律で検察が正義の看板に恥じないような振る舞いにでようとするのなら、自由民主党の総理経験者や現役の通商産業大臣のように政治資金の扱いに関して小沢代表と似たようなことをしていている与党の面々をまず裁きの場に送り込むのが筋であろう。この捜査に関してさらにだめ押しなのは元東京地検特捜部検事の郷原信郎氏の3月12日の日本経済新聞の夕刊で西松事件について、記者から小沢氏の秘書逮捕をどう思うかと問われ「悪質な政治資金規制法違反ではない。政治的な影響は大きく常識では考えられない。特捜部が泥縄式に突っ込まざるを得なくなっているのなら一体どんな着地点を描いているのか心配だ」と言っていることだ。
私はこの2つの事件、小沢代表の第七艦隊発言と西松事件とは無関係の事件のようにみえるのだが実は、直結しているのではないかと想像するのだ。日米安全保障条約体制を維持したいと思っている権力が次期総理に確定しそうな小沢代表が日米安全保障条約体制を根本的に変えるような発言をするに及んで彼をどうしても失脚させなければならないと決心し、この以前より情報をつかんでいた西松事件をタイミング良く利用したのではないかと思うのだ。
だから小沢代表は「第七艦隊十分論」を絶対降ろさず西松事件については断固検察と戦うべきである、と申し上げておきたい。
〔第45章〕拝啓 オバマ大統領 殿(2009年2月)
オバマ大統領殿
隠微な人種差別が厳存する中大統領に就任された事、ご同慶の至りです。
早速ですが、期待をもって就任演説記事を拝読させていただきましたので、一人の日本人として率直な感想の一端を申し上げることにします。
まず総体的な感想ですが、バランスを欠いているというか、ある種の歪みのようなものが感じられるのです。もう少し具体的に言えば、貴国のこれまでの誇らしい事跡に重きをなし、その一方、本当に都合の悪いことには触れない。さらに、厳しき現状、問題点に触れてはいますが、その対処の法となるとまるで巫女や牧師、はたまた道徳の教師のように、精神的なことを説くのみで、目を見晴らせるような具体策がありません。また米国の未来について思いは語られていますが、本当は当てにならない未来以上に現実となった貴国の過去の政治ついてすべてとは言いませんが、せめて記憶の新しいブッシュ前大統領の失政に対する反省とその責めを負わされた自国と世界の人々に対する陳謝の言がありませんでした。それどころか、あなたは就任演説の冒頭で、ブッシュ前大統領の自国への奉仕に謝意を表しておられます。これは無用のことでした。
大統領の職責にある者が全身全霊をかけて最善の判断と決定をなして国家へ奉仕をするのは当然のことなのです。さらにあなたがブッシュ前大統領に謝意を述べることに苦言を呈したいのは、ブッシュ大統領は最善どころか絶対にミスが許されない政治課題、即ちイラクに大量破壊兵器があるとの口実で開戦したのにそれが無かった、勘違いであったということです。この結果、開戦の大儀は脆くもくずれ、ブッシュ前大統領は石もて追われるべき人でしたのに、あなたは謝辞を言われた、全く理解に苦しむところです。ブッシュ氏の失政はブッシュ氏以上に彼に同調して出兵した各国の指導者にも大恥をかかせ多大な迷惑をかけることになりました。
イラクが弱小国であったからいいものの、これが米国に匹敵するような国家に誤判断で戦争をしかけるようなことがあれば、米国は取り返しがつかない被害を被るはずでした。
あなたの就任演説でイラクの大量破壊兵器の不存在に触れることはつらいことでしょう。しかし、米国の過去の政治の全てを継承するあなたが就任演説でこの問題に触れないのであれば、あなたの就任演説は真実だけを語るものではないと世界中の人々に理解されてもしかたがないでしょう。
ところで、最近の米国をして海外派兵の口実になっているテロについてですがテロリストがなぜ米国を襲ったのか、その背景、事情を冷静に考えたことがありますか。それもまともな攻撃ではなく窮鼠猫を噛むの例えのような神風特攻にうったえたのか、そのやむにやまれぬ理由をあなたは正しく理解して就任演説の演壇に立ったとは思えないのです。
あなたたちはテロを100%悪と決めつけるだけですが、私にいわせれば、そもそもパレスチナ人が居住していた土地にユダヤ系の人々が世界中から移り住み1948年国際連合のパレスチナ分割決議が採択され彼らが建国を宣言し、イスラエルは建設されました。しかし自分の家に他人が入り込んできて、ここは俺の家だ、といわれれば、もとからの住人は怒髪天を衝くわけで、第2次大戦後のテロの問題の根源にはイスラエルの建国があったと言わざるをえないのです。イスラエルという国家は本来はこの地上に存在しえないものであったのです。そういう人造国家に米国のユダヤ人は、陰に陽に世界最強の軍備と財力でイスラエルの後ろ楯となる。その不当で強大なイスラエルがますます領土を拡張し弱きパレスチナ人の追い込み、囲い込みをする、となれば、反発はいやましに強く大きくならざるをえないではありませんか。
しかしイスラエル、米国とまともに戦ってはパレスチナ側に勝ち目がない、だからといって現状を認めるわけにはいかないとなれば、せめて敵側に一矢を報いたいと願って軍事大国の弱点をつく唯一の効果的な手段として、テロにうったえるというのは、私は理解できるのです。そのテロに対して「われわれは必ずあなた方を打ち負かす」と言っては、パレスチナはもとよりアラブ諸国の米国に対する敵愾心を一層強めることになりましょう。ですから、テロに対して米国が「(真の)平和と尊厳を志すあらゆる国と人々の友人であり、その先頭にたちたい」とあなたが願うのであれば、イスラエル支援を止めせめてイスラエルを1948年建国当時の姿に戻すのが、本来の解決策であり、そのことをあなたは宣言すべきでした。
しかし、そうできれば苦労は無いわけで、米国は自国に刃向かうものは生かしてはおかないという軍事力に依拠する戦略を採用せざるをえないことになり、その結果テロ集団を皆殺しにするか反対に核テロや細菌テロにみまわれるか、そのおそれに怯え続けることも覚悟しなければならなくなりましょう。
ですからブッシュ前大統領がこのことで直接非を認めずまた、あなたもテロに対して「我々は自分たちの生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇しない」と宣言していますが、これはあなたがテロに対して米国の建国者たちの理想と理念、それは誠実、正義、公平というものからほど遠い解決策しか持ち合わせていないことを証することで、就任演説の重大な汚点になるでしょう。また、この際ついでに申し上げますが、9・11テロへの貴国の対応にしても、貴国が攻撃されたのだから、まずもって貴国が単独でテロに立ち向かうべきであったはずです。にもかかわらず全世界をまきこんで、ブッシュ大統領の「味方でないものは敵だ」と半ば脅迫めいた態度で協力させたことが思い出されます。
自国の問題を世界の問題にすり替えるなと言いたいのです。あなたは「いままで以上に国家間の協力と理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができる」といってブッシュ前大統領以上に世界を対テロ戦争にまきこもうとしておりますが、日本に関してはテロは米国をはじめとするキリスト教国とイスラム圏との戦いであり、無関係なのです。しかし、日本にも付和雷同型で人の尻の匂いを嗅ぎたがる自主性のない政治家や官僚やその支持者がおりますので、結果として米国のお先棒をかつぐようなことにはなりましたが、本来日本はアラブとは対立しなくてもやっていける国家だったのです。米国の戦争につきあわされて、巨大な戦費の供出をすることなど、迷惑以外のなにものでもないのです。まして自衛隊員の貴重な命を貴国のために捧げることなど真っ平なのです。
あなたは自国の偉大さを再認識することも結構ですが、米国新大陸に旧大陸の有象無象がなだれ込み原住民をいかに殺戮し、文化を破壊し、貴重な動物を絶滅させたかを世界は知っているのです。また何か勘違いをしていると思うのですが、あなたはベトナム戦争について正しく総括していますか。米国が50万人ともいう大軍を派遣して何万人も命をおとして、その何十倍もベトナム人を殺してその結果共産主義北ベトナムが勝利し米国は敗北したのです。慙愧に絶えず反省のシンボルとしてベトナムを持ち出すのならわかりますが、ゲティスバーグやノルマンディなんかと同列で持ち出されては、あなたやあなたの演説の若きライターの見識をうたがわざるをえません。
以上、あなたの就任演説は遺憾ながら私の期待を裏切るものあったことを申し上げざるを得ないのです。
〔第44章〕新中立論(2009年1月)
私は現在の日本の外交は根本的に間違っていると思っている。
敗戦後10年ぐらいは米国の庇護の下に米国の言いなりの敗者外交でよかった。しかし、そのあとは日本はいかに困難なことがあっても、米国も含めた他国の指図を受けることなくされどといって他国に嫌われることなく日本の利益を最優先すべく純粋、かつ露骨にすぎる位の独自外交を目指して少しずつ、しかし確実に中立・自立の道を進むべきであった。
しかし、現実は全く逆方向に突進している。もし早くに日本に自立・中立の意思があれば今頃は日米安全保障条約などは無くなっていたはずだ、と私は残念でならないのだ。だが、反対にそうであれば、日本はソ連か中国に北海道あたりは占領されていたか、あるいは、豊かな対米貿易は成立せず日本経済は破綻していたはずだ、と心配性の人間は言うのだ。が、しかし、そのように思い危惧する人に問いたいのである。
「では、日米安全保障条約があって、北方領土はかえってきたか。竹島問題や尖閣列島問題では米国はどう振る舞ったか。北朝鮮との人質問題で米国の存在はな
にかの役に立った、か。」と。
いずれの問題も日本の主権と安全に関する最大の外交問題であるが、米国は驚くなかれ、なんにもせずそれこそ徹底的な中立を保ったのだ。日米安全保障条約はなんの役にも立たなかったのだ。その一方で日本に対しては、やくざの用心棒の言いぐさに似て「日本を守ってやる」と言って、沖縄をはじめとして、日本全土に米軍の基地を提供させ、自国の世界支配の手助けと防波堤の役割を日本に担わせ、その上米軍の膨大な駐留費用の一部を負担させ、さらに今日では、何千億円もの米軍の沖縄基地のグアム移転費用の負担を日本に強いているのだ。それだけではなく、オバマ大統領は金だけではなくアフガンに自衛隊の派遣までを要請するといわれている。これ以上われわれは何をすればいいのかと、思えばこそ、さらに糞いまいましい話で「米国にいわれるのではなく日本が米国に(軍事面)でなにができるかを考えろ」などと、かって日本に「Show the Flag」とほざいたアーミテージにいわれる始末である。だが、考えてみれば仮に日米安全保障条約がなくて素っ裸であっても、日本が彼らに微塵の悪意をもたず接しようとしているのに、そのことに付け込んでロシアや中国、あるいは北朝鮮が何の口実で日本に原爆や水爆を落とすというのだろうか。私はそういうことはあり得ないと思う。だから、米国に日本を守ってもらう意味も価値もそもそも日本には無かったと思うのだ。万歩譲って、もし不当にもかの国々が日本に攻めてくるとしても、日米安全保障条約がなくても、外国の日本奇襲攻撃に対して即応はできないものの日本は既にいつでも水爆をつくれるような事前の準備体制、あるいはミサイルに転用できるロケットの用意はできているのだ。だから奇襲に対する相当の報復はでき、この点でもそう容易には日本が外国に攻められる危険性は小さいのだ。それでも日米安全保障条約がなければ、米国は日本の車を輸入せず、食料は日本に輸出しない、と経済面で日米関係を心配する向きもいるが、日本が他国より高性能の電池を搭載した安い車を売りにだしているのに、米国(民)がいつまでも拒否できるか、あるいは自国の過剰農産物を日本には売りたくないからといって自国で腐らせてしまうというようなことが、あり得るとしてもそう長くは続かないのだ。経済は政治ではなく経済独自の原則で動くのだ。現に敵対関係にあった中国と米国はいまや最大の貿易相手国になっているのだ。
日本にとってはありもしない恐怖を煽り立て、自国の陣営に引きつけようとする米国の日米安全保障条約の底意というものにわれわれはそろそろ気付いて日本の外交を転換すべき時を迎えているのではないだろうか。このような日米関係の現状だけでも、日本の外交は米国と手を切り中立であるべきだと考える理由になるはずだが、それ以外の理由がまだまだあるのだ。
〔日本国憲法9条との整合性〕
まずもって日本は日本国憲法で宣明しているように外国と軍事同盟を締結できない国家であるのだ。このことを戦後の日本政治はご都合主義で無視し犯してきたのだ。日米安全保障条約は日本国憲法9条違反するのである。そもそも日本国憲法に違反する国際条約を日本は締結できないのだ。国際紛争を解決する手段としては武力を行使しない、戦力を保持しないといっていながら、武力を行使し戦力を保持する軍事国家と安全保障条約を締結することは日本として直接やらないけれども間接的には武力行使で国際紛争を解決することと変わらない。その上非核3原則を堅持するという日本が日本に核を投下した国と日米安全保障条約を締結し米国の核の傘に守られることは、日本国憲法の精神に悖ると思うのである。
この点から考えても日本の外交における選択肢は本来は善し悪しは別として中立しかなかったはずなのだ。
〔人類の対立と闘争からの超越〕
人間の社会には様々な価値観が存在している。そして、同時にその価値観が異なっていてその違いに自ずと優劣、正誤の決着をつけなければならないケースの場合は、その対立は深刻さを増すことになる。特に民族・人種、宗教、思想、生存圏問題、利害などがからむと、その決着は流血の惨事を引き起し、最終的には戦争の有力な原因となるのだ。
多くの国々は、AかBか、そのどちらが正しいのか有意義なのか、論理的、科学的に証明できず、結局都合良く自己の信じることが正しく、反対するものが間違っていると思い込み、対立を繰り返して、怒りと恨みを増幅させてきたのだ。歴史をふりかえれば、遺憾ながら決定的に対立する価値観や概念が話し合いで解決することはなくことごとく武力と実力で、即ち戦争をすることで反対するものを殺戮消滅させ、黙らせることによって解決をみてきたことが多いはずだ。世界中の民族や国家には話し合いでは決着のつかない未解決の問題や対立が存在しているのだ。即ち戦争や紛争の種がまだまだ無数にこの地球上には存在しているということなのだ。この世界中の紛争に大いに口も実力もはさもうという最大のエゴイズム国家である米国と同盟などを結んでいては、世界中の災いの中に日本がモロに巻き込まれることになってしまうのは、何百億円もつかったイラクの例で証明済である。
あらゆる世界中の紛争に武力、実力ではなく話し合いで解決すべきだという考え方はある。しかし、たとえばイスラエルとパレスチナの紛争に、「話し合いで」などとすすめることは、日本の例でいえば源平の戦いに第三者が「まあまあ戦わずに話し合ったらどうか」とすすめるようなことになりかねず、そのような行為は結果として最終的な解決をもたらさ
ずいつまでも紛争がつづくことになる。徳川と豊臣でも、徳川と薩長でも、強者が弱者を滅ぼすことで、対立の種が解消されたというのが、日本の歴史であるはず。さらに日本は太平洋戦争の敗北で、幸か不幸か日本の立場を強固に主張して外国と対立出来るほどのパワーを失ってしまった。その結果すくなくとも新たな紛争対立の種、芽を背負い込むことも無くなっている。その上、もとより内において、細部は別としても宗教、信条、民族、階層、集団などで社会の根底を覆しかねない対立点は消滅していたか、対立するものを併存せしめる能力を身につけるという幸運な国家になっており、その結果、外とは世界の人類を共通に苛つかせる対立要因、民族や宗教、言語、利権を巡る対立に対して、日本が共鳴して、どちらかの主張に肩入れするという理由も必然性も、日本は感じなくてもいいはずなのだ。キリストが勝とうがイスラムが勝とうが、イスラエルが消滅しようがしまいがどちらであっても日本の利益には直接関係ないのだ。自然な状態に日本を置けるならば日本こそ中立になる国家なのである。にもかかわらず、このメリットを放棄して米国に対して旗幟をより鮮明にするという日本の特質に逆行する外交をやってきたのが自由民主党であった。とりわけ私は米国のテロ戦争への加担要請に対して、ブッシュ大統領の前で共和国讃歌を口ずさんでおどけてみせた小泉総理の米国ベッタリ外交に吐き気を催したものだ。
9・11テロで頭に来た米国がやるというのなら、「お気の毒だけれどもテロは日本の問題ではない」と敢然と断るべきであったのだ。テロ集団はあくまでも米国を敵として、米国に襲いかかったのだ。当時、テロは日本を敵視していなかったのだ。更にテロに対して日本は国際紛争の解決に自衛隊が参加する国連軍を派遣することもあるというのであれば、国連からも脱退すべきであると考える。まして、日本にとって安保理常任理事国入りなどもっての外の無意味有害な選択なのだ。米軍や国連の意思で自衛隊の海外派兵などすべきではない。それにつけても大人が成人になるためには孤独に耐える力が必要なように日本もまた国家として孤独孤立に耐える精神力と実力をもたなければならないと改めて思う次第である。
〔第43章]第三革命と財政法第5条但書
前号で、使命を果たし終えた敗戦復興体制を棄却し、改めて新しい国家目標を定め、その目的達成のための戦略として重脳主義を採用すべきだと申し上げた。この日本の変位を私は日本の第三革命と称したのである。
ところで、古今、革命には膨大な資金が必要で、革命の推進側はその資金の入手に苦労してきたのだ。第三革命もその例外ではない。今回はこの第三革命に要する資金調達法について触れたい。
当然、資金は多ければ多い程良いのだが、例えば現体制下において財源の確保と資金の捻出の為に
・ 不要不急の公共事業の中止
・ 医療費補助をはじめとする社会保障制度の抜本的見直し
・ 海外援助の停止
・ 資産保有者に対する各種年金、社会保障制度の適用除外
・ 立法・行政費用の徹底的な削減
・ 核武装等の採用による防衛予算の削減
等を大胆におこない、更に新たな増税もしなければならないのだ。
相続税・固定資産税・物品税・所得税の増額、資産・富裕税の新設等々も考えられるが、いずれも実行するとなると現体制の恩恵に浴している人々の抵抗が激しく、労多く成果を挙げにくいのである。
第三革命はおそらく破壊の伴う流血の革命ではなく、これから出現してくるであろう賢明な指導者達と国民の手による体制内革命になるはずである。なぜならば重脳主義体制の成果は、結果として現体制の擁護者にももたらされることになるので、永続的な階級、階層の対立にはならないはずだ。しかしそれでも既存の体制を維持しつつの変革であるから潤沢な資金を革命のために充当されることは期待できない。
だからといって今現在、日本に数十兆、もしかしたら百兆円も超過するような転用可能な資金があるわけではない。従って常識的に考えると、資金的な制約だけで、日本では第三革命は実現せず存立のための安定基盤を強化させることもなく、長期的な展望に立脚しない形で国富を費消し続け、結果として運がよければ日本は現状のままの二流国家、下手をすれば、余裕のなく希望も持てない三流国家になり果ててしまうはず、と断ぜざるをえないだろうと思う。だから私は資金の問題はさて置いて、日本はもう一度革命ないし革命的な変革を遂げなければならないと思ってきたのだ。
そして第三革命の資金をどうするのか、しかも摩擦を生じさせず必要な資金を用意できればとぼんやりと願っていた。これはまさに無から有を生み出すようなことで無理とは思いつつ、十数年も前から何かないかと探していたのだ。
<財政法5条但書>
ある時、それは私が日本の大東亜戦争の戦費調達の方途について調べていた時に、この無から有を生み出す方式について触れてある物を手にしたのだ。この方式については、私は既に小論文という形で発表していたのだが、今回はその内容の要点を記すことにする。
(雑誌『正論』1994年4月号「みなし戦争経済政策」より)
私はある法律を見つけたのである。個人ではできないが、国家ならできる、国家しかなしえない巨大資金の調達法を記してあったのだ。
その法律とは財政法という法律であり、とりわけこの財政法の第5条のしかもその但書の部分なのだ。
この財政法第五条は国家財政が健全であるように以下のように規定している。
〔公債発行・借入金借入の制限〕
すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合においては、国会の議決を経た金額の範囲では、この限りではない。
となっている。
難しい法律ではなく読めば分かるのであるが、問題はこの但書なのだ。
但書で、特別な事由が有る場合は、として、その政府は日銀に公債を引き受けさせたり借金をすることができるといっている。相手が日銀であれば紙幣は印刷すれば無制限だ。ちなみに、戦前は財政法5条のような歯止めがなく、政府は日銀に戦時国債を引き受けさせた。これによって政府は財源の裏付けがなくとも、資金面では無制限に軍備を整え太平洋戦争を戦い抜くことができたのだが、結果としてとんでもないインフレを招来せしめることになったのだ。
私は、この但し書きに注目した。なぜなら、この但書にいう特別の事由に“敗戦復興体制を重脳主義国家体制に転換させる”という事を充てればいいのではと思いついた。
勿論、この但書がいう特別の事由に何が該当するのかを決定する権能を有するのは国会議員ということになるので、この点に若干問題なしとはしないが、それでも論理的には国会議員たちに第三革命の必然性を認識させることができれば政府と日銀との貸借関係だけで、今現在でも政府は一編の法律を制定したり改正することなく巨大な資金を手にしそれを国家体制変革の資金にすることが可能になるはずだ。そして大量の資金がこの但書の運用で市中に流通することで戦前の戦争景気とは異なった新しい重脳主義国家体制景気がまきおこるだろう。
<重脳主義特別会計の新設>
そして新たに捻出した資金を管理するために『重脳主義特別会計(仮称)』というようなものを政府に創設せしめ、新規に数兆円規模の資金がその会計から革命の成果があがるまで毎年必要とするところに支出されるようにするのである。また資金面だけではなく行政組織面でも、例えば内閣府などではなく総理大臣が直轄の特別の重脳主義省というような独立の行政組織を設立して、体制内革命の推進組織とする。勿論、現体制下において、現体制の欠陥部位を自覚させ、その上で、特別会計を設置せしめ、重脳主義省を新設せしめるまでの道程そのものがそんなに容易なものではないが、不可能と思ってしまっては、それまでで、諦めてはならない。諦めさえしなければ、可能性は消えないはずだ。そしてもし巨大な資金を投入した結果不幸にして、重脳主義特別会計が所期の成果をあげられなかった場合であっても、重脳主義国家体制への投資は、単なる一時的な消費、一本のマッチに炎をともすような全国民に数万円の金をばら蒔く定額給付金や、採算性を無視した公共事業や一機何百億円もする戦闘機の購入のような、まさにケインズの穴をほって穴を埋めるに等しい不実の需要喚起ではなく、内外の優秀な科学者と技術者等、理系人材を招聘しまた、国内の人材を結集して大幅に優遇し、彼らの研究開発資金要求に十分過ぎるほどの予算をつけてやり、教育にも膨大な資金を投じるのであるから、その結果は当然、日本の科学と技術の発展に大きく貢献し、産業力、輸出競争力を強化させるはずだ。
反対にもし、資金の継続的な大量投入が成果を挙げ、例えば石油に代わる代替エネルギーの開発や食料増産の技術を開発を日本にもたらしたならば、日本はいま石油産出国が手に入れている以上の資金を回収することができ、重脳主義特別会計も十分に黒字になるだろう。経済面での海外依存度は大幅に低下し、日本国の経済的自立に大きく寄与することになるはずだ。
しかし、この新しい資金調達法による資金の市中への投入は、戦後のドイツや日本が体験したような超インフレを招くと心配する向きもいるが、私はそうは思わないのだ。なぜならば、敗戦は生産手段も原料も場合によっては労働者もなにもかも不足した状態で、物が極端に少なくなってしかもその状態が容易に終焉されないと思われる状態が継続しその上で、市中に金がだぶつく時にはじめて悪性インフレになるのであって、第三革命遂行時の経済的な背景は第三革命以前とは何ら変わらず、物は順調に供給されるのだ。金はあまっていても物が十分にあれば物価の高騰はしないはずだ。それは現在800兆円という借金で市中に税金をばら蒔いても物価が安定している事実をみればわかるはずだ。結局あまった金は個人や企業の内部留保と税の増収ということになるのではないだろうか。
財政法第5条但書による資金調達はまさに戦費調達と同じなのであるが、第三革命の遂行は一種の戦争だと思えないこともないのだ。
即ち、明治維新が維新戦争の犠牲によって成されたように、また敗戦による戦後体制がうまれたのも正に文字通り太平洋戦争(大東亜戦争)の結果であって、日本が大きく躍進したその推進力は戦争にあったともいえるのである。この点から考えても第三革命は戦争をしていると思って資金調達に思い切った手段を講じるべきなのだ。
わたくしは人間が発明した物の中で最も優れたものの一つが紙幣だと思うが、その金本位制度の呪縛を解き放ったということが、人間の発明としては特に優れたものとして評価してよいのだと思う。おそらく日本の第三の革命はこの紙幣によって実現されるであろう
〔第42章〕日本の第三革命
〔次世代型政治制度〕
近代日本において、徳川幕府が崩 壊した後、あるいは大東亜戦争の敗戦を迎えたときというのは間違いなく日本の最大の危機であったろう。しかし、幸いなことに危機を危機として当時の政治の担い手は認識できていて、国家体制の再編成、新政策の導入、人材と資金の投入先の選定等に、最善といえるかどうかは分からないが、ほぼ自動的に決定され、結果としてそれまでの国家の体質を変え新しい政治体制を作り上げることに成功してきたのである。危機ではあったが、政治に迷いがなかった時代であった。
翻って、敗戦後の復興と繁栄への一本道を歩んできた戦後体制は、その所期の目的を達成することには成功したものの、今や様々な部位で破綻をきたしている。それは回復の見通しの立たない不況や累積の財政赤字、あるいは年金問題、老人問題、欠陥部位の立つ医療体制、自主性のない外交、腐敗官僚や無能かつ無責任な政治家の跋扈等々、解決改善が迫られる困難な問題が山積してい。恐らくこれらの諸問題を解決するうえでも、さらに国家として飛躍するためにも日本は明治維新や戦後体制の創建に匹敵するようないわば現体制に代わる次世代型の政治体制を用意しなければならない時期を迎えつつあると断定してもいいだろう。では、これからの日本の政治にその必要性が十分に認識されるような新たな国家目標があるかといえば、
これだと言えるものがないことに私は不安を覚えるのだ。
勿論現実の諸問題を放置しておいてよいものではないが、仮にこれらの問題がすべて解決されたとしても、政治の表層部位が取り繕われるだけで、政治のもつ可能性をとことん追求することにならないだろう。
政治が対処療法のみにとらわれることは決して望ましい事ではない。
私は、日本の政治は明確に意識していなだろうが、そもそも日本にはその存立基盤を脅かすよう問題が存在していて、復興と繁栄に成功した後の現在こそ、その問題の解決のために政治は挑戦しなければならないと考えている。
〔日本の存立基盤に係わる諸問題〕
日本は日本の固有の国家の存立基盤を揺るがすような長期間にわたる諸問題、多くの人々がその解決を諦め日本の宿命として受け入れなければならないと思っている問題、課題に対しても強い明確な意識をもってその解決を目指さなければならないのだ。そこでこの表面化していない日本の諸問題を浮かび上がらせみたい。そのために私は近代日本の戦争のことに触れたいのである。この原因を考えれば、自ずと日本が抱え込んでいる問題が見えてくるはずだ。では、なぜ大東亜戦争が起こったのか。なぜ大陸に進出していったのかであるが、私は当時の軍閥の暴走だけではなく、戦争の根本原因は日本が病気に罹っていたためだと私は思っている。その日本の病気とは石油をはじめとする食料・エネルギーその他の資源が日本にはゼロ、または大幅に欠乏しているという、いわば資源欠乏症という病に日本が冒されていたために戦争になったのだと考えるのである。そして、現在、日本はこの欠乏症が完治したから繁栄を手にしたのかといえば、全くそうではないのだ。たまさか日本製品の輸出競争力が勝っていて外貨の獲得ができ食料その他の資源が輸入できているだけだ。日本の国家体質は戦前となんら変わっておらず、依然として病状は深刻なのだ。巨大な油田が発見されたわけでも肥沃な領土が手に入ったわけではないのである。
日本は明治維新以降近代化には成功したが、その近代化が要求する諸資源の欠乏症に罹患し、それを貿易という対処療法で凌いできたのだ。
いまや資源欠乏症は日本の遺伝病となってしまっている。
だとすれば、いつの日か日本はこの遺伝病を克服し、いざとなれば原則として外国の資源に依存しなくてもこの地上に自力だけで存在し続けることができる真の自立国家になることが今後の日本の重要な政治課題だと思う。このことに100%成功しなくとも、少しでも海外依存度を軽くすることは先進諸国の義務だと思うのだ。
これが私の夢であり日本国の理想像だと思う。
〔日本の難しい条件〕
しかしながら当然、日本が自立国家になることは容易ではない。その容易ではない原因の第一は、私のような問題意識をもっている政治家や官僚は日本には皆無に近いことだ。更に、それだけではなく、そもそも優劣を問わず、自民・反自民も問わず現実に政治家や官僚が存在しているということが問題なのだ。
明治維新が可能であったのも戦後復興ができたのも、実は既存の体制が崩壊して無力化されていたからなのである。実にやりやすかったのだ。これに対して、どのような国家目標を打ち立てても、既存の政治の恩恵によくしている勢力は改革に反対し抵抗し邪魔だてをするのである。あれだけ国民的支持を獲得し強靱な意思をもっていた小泉元総理にしてからが、やり遂げたことと言えば、妥協を強いられた結果、実に不完全な郵政民営化だけだったのだ。さらにいえば、日本は産業人には優秀な成功者が多いが、不幸なことに政治家、とりわけ先頭に立つべき人材にどういうわけか中学生が読めるような漢字もよめない馬鹿で無責任者ばかり出現する傾向をしめすようになっており日本の改革をいやましに遅らせることになっているのだ。例えば最早覚えている人もいないだろうが小渕内閣のスローガンは「富国有徳」で安倍内閣のそれは「美しい国」であったのだが、これらは内閣の当面の課題にこたえるでもなくまた、日本の根本的な弱点というものを見極めたものでもなく、愚の骨頂としか言いようのないものであった。彼らは政治を浪費していたのだ。
〔国家総動員体制へ〕
自立ということを日本の長期的な国家目標にできれば、その目的達成のための対策の立案、行政組織の再編成、予算の配分、必要人材の抽出供給体制の確立など、諸々のことが変化し自動的に定まるだろう。政治における新しい価値観が確立されるはずだ。
いわば日本が明治維新をなし遂げたように、また失敗はしたけれど国家を挙げて精一杯大東亜戦争をたたかったように“自立”という国家目標のために日本国のもてる可能性の半分以上を投入すべきなのだ。その結果、日本はたとえば防衛費や海外援助を半減する。また年金制度なども根本的に変えていかなければならないだろう。その上、大幅な増税も強いられるかもしれない。あらゆる無駄と惰性的に支出しているものを厳しく削減し財政を確保し、それを減税等に回さず自立国家の実現のために投入しなければならない。こういう変化と負担増に日本人は耐えなければならないはずだ。
〔理系人材の大量養成を〕
そこで、日本が資源欠乏症をなおすためにはどうするかであるが、一つだけ可能性があるのは優秀な理系人材を大量に養成することだ。石油やウランがないのだからそれに代わる新エネルギー源を開発する力をもつのは理系人材しかいないはず。法学部出身者などは自立国家の建設には糞の役にも立たないのだ。食料の増産をはかるためのバイオ技術の開発に国家を挙げて取り組まなければ
ならないのだ。今後の日本の政治を変えるのは科学と技術なのだ。だから日本が敗戦の後に、復興するためには科学の発展によるしかないと悟ったように、あらためて、科学と技術に対する国家的な再認識をし、新国家体制のために科学者と技術者の大量養成に国力を傾けなければならないのだ。私はこの自立国家を目指す日本の政治改革を、明治維新、敗戦につぐ日本の第三革命と称したい
のである。そして、第三革命の実現には、民主主義的手法では時間がかかりすぎるか不可能かもしれない。既成の政治家や官僚の頭を覚醒させることは難しいと思うのである。だから日本国を愛する者の熱情が特に高まる部位に属する人々の手によって、非合法、暴力的手段で、現体制の機能を麻痺させるか、崩壊せしめることは長い目で見れば日本国にとって十分意義のあることかもしれない。例えば自衛隊などは日本の新たらしい政治を生み出す触媒になるのではないだろうか。
〔第41章〕政権保持者の憲法解釈権
〔憲法無視の政治〕
日本国憲法の改正に関してはその第96条で規定しているように、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案してその過半数の承認を経なければならない、としている。
この改正に厳しい条件をつけている条文は、日本という国を戦力を有しない絶対平和の国家ではなく軍事力にも場合によっては物を言わせようとする、いわゆる普通の国家を目指す戦後保守政治家を散々に悩ましてきた。どうしても正式に憲法第9条の改正をなしうる勢力を結集できなかった保守政治家たちは憲法違反を承知の上、米国の強い要請の下、軍隊ではなく警察の予備隊という名目で軍隊を保有するという憲法無視の暴挙にでたのであった。そして、日本の政治はこの暴挙を阻止することができなかったのである。
それでも、自由民主党はみずから自衛隊が憲法違反であるとはいえず、正当な論理の裏付けもなく、強引に「自衛隊は合憲である」と言い募ってきた。そして、やってしまえば後から理屈はついてくる、という手練の政治家の言をまつまでもなく、ありていに言えば憲法条文を完全に無視しなければ導き出せないような、例えば当初は自衛隊は戦力ではない、と言い、更に自衛の戦力は持てるとなり、最近ではイラクやアフガンの派兵には、水や油の補給は戦闘行為ではないから自衛隊の海外派遣もまた違憲ではないというような、超論理的な説明を弄してきたのだ。
結局保守勢力は憲法違反を改めることなく既成事実を重ね日本を世界に冠たる戦力、武力を保持し、海外に自衛隊を派遣し、米軍を中心とする外国の戦闘行動に同盟軍として参戦する国家に変貌させてきた。しかし本来、日本国憲法の下にあっては日本の政治家や官僚はすべからく自己の意思に反しようとも憲法に絶対的に従い憲法を守ることに全力を尽くすしかなかったはずなのである。日本は戦力即ち自衛隊を保持することはできなかったはずなのだ。
〔新たな解釈〕
それつけても、日本国憲法の最重要条文である第9条に明確に違反し続けることは彼らにとっても尋常ならざるエネルギーの消耗を強いられることであったはずと想像し、それ故これ以上の無理な独断専横的憲法解釈や条文の無視はできはしまい、と人のよい危機察知能力の乏しい私や、多くの国民は思っていたのだ。ところが、そんな庶民のか細い神経とはできの違う由緒正しきボンボン育ちの安倍、麻生総理大臣たちは、2世3世の強みを最大限に活かし、相応しい能力もないのに総理大臣の地位につくことになって、派手なブレゼンスを示したくなったのか、憲法第9条の従来の自分たちの解釈とは異なった新たな局面を迎えるような重大な発言をしだしのだ。というのは、9月26日朝の国連総会に出席するために訪米中の麻生太郎首相は国連本部で記者団に、集団自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈について「基本的(憲法)解釈を変えるべきだ」と表明したのである。
この表明は日米同盟の強化や自衛隊による積極的な国際貢献に向け、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を見直すべきだとの考えを示したものだ、と新聞は報道している。(9/26日付日本経済新聞夕刊)
〔解釈改憲〕
もし、麻生首相の第9条解釈の変更という意思表示が起点となって与党の第9条の解釈が変わってしまい、その新解釈に基づいた立法措置や集団自衛権の行使に日本が踏み出す
ということになれば、ことは極めて重大である。即ち、これは法の成果や効果、効能という点からすれば、条文を便宜的に拡大解釈をするというようなことではなく、前解釈を全面否定し正反対の解釈をするわけで、これは憲法の改正、あるいは条文の削除と全く同じことである、と私は断ずるのだ。
これは由々しきことだ。なぜならもし、このようなことが許されるのであれば、議会で多数派を形成した与党の政治家たちは解釈の変更という便法で正規の憲法改正手続きよりはるかに容易に自分たちの恣意独善都合だけで政治の基本法である憲法を改正する権能を有するということになってしまうはずだ。このいわば解釈改憲は国民投票も国会議員の3分の2の賛意と発議も必要ないのだ。これでは憲法の形骸化がますます進むことになるだろう。
勿論、日本国憲法に内閣総理大臣が憲法の解釈を変えてはならないという禁止規定はない。さらに総理大臣の裁量権として憲法に違反しない範囲でその解釈を変えるということは認められるとする考え方が多数意見ではあると思うが、それこそ程度問題だ。憲法の許容する範囲の解釈の中に、できない集団自衛権の行使もできると解釈することも含むというようなこと言いだす政治家や官僚が現実に現れている以上、憲法には、例えば政権を有するものには憲法の拡大解釈や解釈の変更を禁止するというような規定を設けるべきだということをわたくしたちに教えているのではないだろうか。そうでもしなければ、憲法を政治運営の基本原則として運営されることを前提に、選挙で自己の主権を第三者に委託している国民は、条文の意味がみずから権能のおよばないところで、容易に変わるのであうば安心して政治を政治家や官僚に任せることはできなくなってしまうはずだ。
首相が今回のように音頭をとって解釈変更を叫び、さらに彼がその後国会での議論をしてもらいたいと言っているのだが、国会で議論をすれば、なにか民主主義的規範に則っているように見える。しかし議院内閣制では、国会と内閣の関係は相互に無関係独立対等の権力ではなく、与党の党首が内閣総理大臣になる以上、国会は与党の内閣の意図と無関係の純粋な論議、決定はできないのだ。だから首相が憲法の解釈を変えるべきだとなれば、そのことが国会の結論になってしまうことが多いのである。そして、与党内の合意(過半数の賛成)があれば、与党は9条の解釈を変えて今までは許されなかった行動にでることも可能になる。ここでさらに問題にすべき事は議員の過半数という数字の実態についてである。これは凄く幅のある数字であって、過半数といっても実際は驚くほどの少数で憲法改正が出来ちゃう
のである。即ち、政党は衆議院の定数の半数+1の議員を束ねることで与党に成りえて、更にその与党の半数+1で与党の意思を支配できるのだ。すなわち衆議院の定数をAとすると最低(A+6)÷4即ち全議員の4分の1強の少数議員の賛成で憲法解釈の変更の合意形成は可能になるのだ。こうなればもはやそれを押し止めることはだれもできないのである。勿論、行政府にも立法府にも法制局があって全ての立法、行政行為や判断が合憲か否かをチェックすることにはなっているが、彼らはあくまでもアドバイザー的な役割を担うだけなのである。また場合によっては強制的に立法、行政を司法(最高裁)の支配下に置くこともできることに日本の憲法はなっているが、最高裁の裁判官の人事は内閣に握られており、与党よりの判断を下す傾向が強く、またどうしても与党の意思に反する判決しか下しようがないと思った時には最高裁は、判断を放棄してしまってきたのだから、司法による与党の暴走暴挙を抑えることも容易ではないのだ。
〔重要課題は国民投票で〕
それでも、解釈改憲を阻止する手段としては国会議員の選挙のときに国民が憲法解釈の変更に賛成した与党議員を落選させるという手段もあるのだが、選挙では単独の課題を判
断するのではなく、他の全ての政策と、人物評価と、過去の政治家のやってきたことやらなかったことと未来予測を含めて多数の政治課題に対する賛否をたった一度の一票で表さなければならないのであって、選挙で麻生首相の憲法解釈の変更を阻止することは事実上は不可能なのである。権力者は「国益にかなう」と言いつつやりたいようにやるのだ。だから政治家や官僚たちの憲法解釈変更などの独断専行を許さない、あるいはやりにくくするためには国民には選挙ではなく、例えば憲法解釈変更是か否かという国民投票制ができるようにしておき、与党が行動を起こす前に、歯止めをかけられるようにすべきだと、私は思うのである。
〔第40章〕沖縄返還密約事件から学ぶべきこと
○沖縄返還密約事件と西山氏の上告審
元毎日新聞記者の西山太吉氏は71年、「日本政府が沖縄の米軍基地の現状回復補償費400万ドルを肩代わりする」との対米密約の存在を示す文書を外務省の女性から入手して、報道した。しかしこのことをもって国家公務員に秘密漏示を唆したとして起訴されて、二審で懲役4月、執行猶予一年の有罪となり最高裁で刑が確定していた。この事件に関して西山氏が後に「政府の不当な起訴で名誉を傷つけられた」などとして国に損害賠償と謝罪を求めた訴訟をおこしたが、この上告審で、最高裁第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は9月2日、12審判決の賠償請求権が消滅する民法の除斥期間を理由にして西山氏の上告を棄却する判決を下し、西山氏が敗訴したと、各紙が報道した。この判決では密約については触れなかったのである。
政府はこの密約文書(機密扱いの公電)に関して、一貫してその存在を否定してきた。しかし、2000年と02年に密約の存在を裏付ける米公文書が発見され、更に06年には沖縄返還協定の交渉を担当した当の吉野文六・元外務省アメリカ局長がその存在を認める発言をしてしまったのだ。これで政府は万事休すで完全に論拠を失ったと思われたのだが、わが政府はめげることなく、公式には06年3月の参議院予算委員会において、河相周夫・外務省北米局長(当時)が「沖縄返還に関するファイルを念のために調査したが、密約文書は見つかっていない」と白を切りとおしたのだ。しかしそもそも密約の存否について、主権者であるわれわれ国民が、容易に確認できないどころか、裁判で争ってもわからず政府の一方的な主張だけが罷り通るというような今日の政治は少なくとも民主主義とはいえないだろう。実にいまいましい話ではある。
○密約事件裁判から学ぶこと
この裁判からわれわれが学ばなければならない第1点は、政治は国民にかくれて何かをなし、その事実を隠蔽することがあるということを再認識をしなければならないということだ。思うに、政府は何十年も日本は非核三原則を守ってきたなどという非論理的な嘘を言い続けてきたのだ。だから密約事件は「安易に政府を信用するな」との警告も発していると理解しなければならないのだ。
第2の学ぶべき点は国民は政府が密約をなした場合、容易にその存否を証明できない、ということである。米国の公文書と日本の当事者の証言という2つの事実を前にすれば100%日米間に密約は存在し、当然その内容を記す文書の存在も疑う者はいないだろう。だから、諦めきれない西山氏たちはこの判決を受けてもなお政府に文書の開示を求め提訴する方針、と毎日新聞は報道しているが、西山氏の願いが叶えられることはまずあり得ないはずだ。というのは密約問題が表面化した時点で、余程の間抜けでないかぎり、役人はそんな文書は燃やしてしまうか改ざんしてしまっているはずだ。
第3に、政府による密約の締結を予防しかつ禁止する法的な根拠が薄弱であるという点である。だから密約を抑止するためにはまず、強靱な法的根拠を手当てする必要があるだろう。例えば日本国憲法には主権在民はうたわれているがそれだけでは十分ではなく、別建ての条文で「政治に関するすべての情報は国民に帰属する」とうたうべきだ。更に「国民はいつでも政府の保有する情報を例外なく公開させることができる」とし、また密約の存在が公になった時点で即座にその効力は一方的に消滅し、その密約をなした責任者は厳罰に処されるようにすべきである。勿論政治の情報が現実と同時進行的に100%公開できないということも場合によっては認めてもいいが、その場合でも非公開の期間は精々3年程度とすべきであり、その期間を経れば全て情報は公開されるとすべきである。情報公開にはそのことによる不利益も生じるが、しかし、この不利益というものは特定の個人や組織が不利益を被るのではなく万人にそのリスクは平等に生じるので国民はそのことを民主主義のための代償として受け入れるべきだ。こうすれば政治情報は例外なく公開されるという前提で民主主義政治が実現されることになり、このことによる不利益に倍する利益を国民は享受できるはずだ。
第4としては密約の存在を明らかにして国民の権利を擁護しようとした正義の西山氏を国が訴えたことも、現下の法体系のもとでは合法であるのかもしれないが本来は間違いなのである。だから権力を掌握する者の権利の誤用濫用をさせないように現行の法律の体系を改善しなければならないのだ。公務員による情報の秘匿隠蔽紛失の刑法上の責任を問う刑法を用意しなければならないはずだ。反対に秘匿情報を明らかにした者は叙勲の対象にするべきなのだ。
第5としては、国民は全ての国費の支出(当然密約による400万ドルも含む)に関して、国民が脱税の有無のチェックを受ける如く、国費の支出に関して会計検査院や公認会計士などによって随時、無制限にチェックできるようにしなければならない。国庫の支出を正確に追跡検証できるような制度があれば、その制約から密約の発生を防止できたかもしれないのだ。逆に公にされない形で国費の支出ができるのであればそのメカニズムを財務省をはじめとする関係官庁に明らかにさせなければならないはずだ。
第6は国会議員に対して、その持てる国勢調査権の十分な行使の要請である。折角西山氏が公電のコピーを入手したのに、国会議員が国勢調査権を用いてこの問題に切り込むようなことはせず西山氏を見殺しにしたという無作為の結果責任は問われなければならない。また必要があればこの調査権を強化することも考慮しなければならない。
第7は日本の司法の問題だ。
米国との間に密約があったのかなかったのか。密約をなすことが憲法に違反するのかしないのか。また密約の内容自体が憲法に違反するのかしないのか、そのようなことに関して司法は一切判断をしなかったのだ。日米安全保障条約についてもそうであるが、高度に政治的な判断が要求される問題は司法の判断にはなじまず政治で解決すべきというのが、司法の憲法判断を避ける言い訳であるが、これでは、政府が憲法に違反するようなことをなした場合、それを事前事後に抑止、解消せしめる手段、機能を日本の民主主義政治は擁していないことになる。
違憲立法審査権を最高裁みずから放棄することで日本の行政と立法は自分の許容する範囲において憲法を遵守し自分がどうしてもやらなければならないと思うことに関しては憲法にも従わないという、いわば事実上の無法政治を可能ならしめることになった。まさに西山氏の密約事件は日本の司法、強いては日本国憲法の根本的な欠陥を露呈することにもなったと、私はみているのだ。
○情報公開について
日本の情報公開に係わる法律、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」はその名前に反して情報公開できない多くの例をあげていて、取り分け同法の第5条三において、公にすることで国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれがあると行政機関の長が認めるにつき相当の理由がある情報は公開しなくてもいいとしている。また5条の五では国の機関、地方公共団体の内部または相互間における審議、検討または協議に関する情報であって公にすることにより率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性が不当に行われるおそれがある情報も公開しなくてもいいとしている。当然、この種の制限を一切とりはらわれれば今回の密約事件など起こりようもなかったはずだ。情報公開は仮に政治情報の99%が公開されてももし残りの1%が公開から外された場合は100%情報公開されていないと考えるべきなのだ。なぜなら1%のなかに沖縄密約を潜ませることができるのであり、政府の都合のいい情報をいくら公開してもそんなものは公開の価値も効果も無いに等しいのだ。例外のない情報公開を実施すれば政府間の密約など不可能になってしまうだろう。完全な情報公開は民主主義の絶対条件の一つなのだ。
〔第39章〕日本よ怒れ
●正常な外交とは
人間には感情というものがある。喜怒哀楽の感情があるからこそ、人間は人間たりうるのである。だから怒らなければならないときに怒らず、笑わなければならないときに笑わず、感情をださない人間がいれば、その人間の精神活動の異常さを疑わなければならない。当然その人間の得体も正体も他者に正しく理解されることはない。そしてこの人間の感情は国家という大きな括りにも、それが人間によって形作られるが故に個々の感情の集積が国家の感情として臨機に出現するのである。だから外交問題などで一方が思い切り怒り
の感情を表明しなければならないときに、様々な思惑や裏事情のために怒りを露にしなかったり、「冷静に」などと度を過ごした自制の反応を示すようなことがあれば、その国家の意思は正しく相手側に伝わらないだろう。これでは全うな外交は成立しない。このような場合外交交渉を担う者は不確定な成果や結果を思料するよりも先ず自分たちが怒っていること、その原因と程度問題も含めて相手側に正確に理解させることが正常な外交交渉の起点になるはずだ。思うに、戦後の日本の対米、対ソそして北を含む対朝鮮の外交に関し
ては、その多くが怒るときに怒らない情け無い異常な外交であった。
たとえば、近時の日韓の竹島問題に関する日本外交は腹立たしい限りで、これまで日本は韓国に対して軍事占領された竹島について国民の怒りをぶつけてきたであろうか。
●日本は韓国と国交断絶を覚悟せよ
そもそも韓国は日韓両国が帰属を主張している竹島を含む海域に昭和27年、韓国大統領李承晩は国際法を無視して軍事境界線を一方的に設定し、その後竹島を軍事占領してし今日に至っている。竹島問題が今日のような経過をたどることになった最大の原因は、この韓国が勝手な境界線を設定した時に断固たる対抗措置を講じなかった日本の初手にあることは間違いない。だからといって、いまさらこの事を私は責める気はない。しかし、私は日本が実効統治していない竹島は韓国のものであるという韓国の主張を認めないという日本の考えは当然だと思う。日本は実力に訴えはしなかったが場面場面で竹島は日本領土である旨韓国に対して主張をしてきた。しかし、双方の主張は対立したまま韓国の軍事占拠は続いてきたので日本は、国際司法裁判所に竹島問題を持ち込んで、中立的な判断を仰ぎ、その結果に従おうではないか、というところまで譲歩してきたのである。これに対して韓国の言い分としては、竹島はもともと自国領土であるから国際司法裁判所には訴えない。日韓に領土問題は存在しない、というのである。だから日本が実力で竹島を奪還しようとでもしないかぎり、韓国は竹島についてことさら騒ぎ立てることはない、と私は思うのだが、そうではないのだ。竹島問題で騒ぎ立てるのはいつも日本ではなく韓国なのだ。今回は日本が中学社会科の新学習指導要領解説書に竹島に関して「竹島はわが国固有の領土」という表現を盛り込もうとしたため、ただそれだけのことで韓国の朝野の大騒ぎになったのである。韓国は駐日大使権哲賢を一時帰国させ更に自国の首相を竹島に派遣し合わせてイージス艦の派遣など日本を想定した竹島防御の軍事的プレゼンスを展開したのである。おまけに対馬も韓国の固有の領土であると、韓国の一部の国会議員は日本に対して主張すべきだと言いだす始末である。
しかし、私は韓国の反応にはむかっ腹が立つが韓国の外交は少なくとも日本の外交よりは正常であると思うのだ。自国領土と信じているのを日本に公式に否定されたのだから。
私が怒るのは、この一連の韓国の反応に対する日本の異常な外交に対してなのだ。
わが国の教科書に何を書こう日本の内政問題である。だから、日本は韓国の反応を無視すればいいのだ。
そして韓国の駐日大使が一時帰国するなら、間髪を入れず日本も駐韓大使を引き上げるべきであり、更に日本の福田首相も竹島に韓国首相が乗り込んできた時点で、強くそのことを非難する声明を発するべきであ
ったのだ。それが正常な外交というものだ。これらの正常な反応に対して韓国がさらに強行な手段に訴えるようであれば、経済的な利害など超越して日本はしばしの国交の断絶まで覚悟して領土に対する強い国家意思を表明すべきであった。友好必ずしも善ではないのだ。
ところが、日本はどうしたかというとなにもせず、ただ町村官房長官が記者会見して評論しただけだ。その結論といえば以下のようなことであった。「こういう形(韓国首相が竹島を訪問したこと)で違いをあおる行動はあまり適切なものとは思われない」と不快感しめし、その上で「いずれにしても冷静に対応していくことが大切だと」のべた。イージス艦まで出張られて「適切ではない」などト、こういう場合に言う言葉か、と私は思う。日本の外交に誇りはないのか。イージス艦を出すということは、場合によって、日本との開戦も辞さないという究極の国家意思の表明ではないか。これに「適切ではない」では、韓国は自国の振る舞いに日本がどれほど怒っているのか全く理解できないだろう。日本は怯えていると思うだろう。さらにこの騒動の顛末は日本は新学習指導要領解説書に「竹島はわが国の固有の領」と直接明記しなことになってしまったのである。
相手に言いたいことを言われ放し、不法行為のされ放題。日本の意思が完全に無視されるだけの外交。これなら日本の政治に対韓外交は存在しないも同然であり、当然外務省などは名前変えて接遇省にでもすればいいのだ。
●日本国憲法第9条と日本の外交
韓国の強烈な反応に対する町村官房長官談話は論外として、話し合いによって竹島が日本の希望どおりに解決されず、国交の断絶とまではなったとして、その後どうなるかであるが、一つは日本は竹島を諦める。でなければ実力で竹島から韓国軍を排除するしかないことになる。勿論、国民が後者を選択するという意思ならば、韓国と戦争になるだろう。人も住めないような小島のために両国が戦争まですることになるとは私は思えないが、それでも外交交渉、とりわけ領土に関しては1%でも実力にうったえても、という選択肢がなければ、外交交渉にはならないのだ。ところが、日本にはそもそも実力、武力によって外交交渉に決着をつけることはできないのだ。なぜできないかといえば日本国憲法第9条の縛りが日本の外交にかせられているからだ。その日本国憲法第9条は
以下のとおり。
第9条1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
これ以上明確な規定はない。日本は戦争で国際紛争を解決をできない国家なのだ。いかなる国家にも正当防衛としての戦争はできる、なとという憲法解釈がまかりとおっているが、こんな解釈を認めれば法というものの重さは文字通り法文の記載されいる紙の重さでしかなくなってまうのであって、この9条の下、竹島を取り戻すには話し合いしか日本には手段がないのだ。となれば韓国は現状のまま武力占拠を継続し自国領土であると主張し続ける限り竹島は永遠に韓国のものであり続けるだろう。従ってわれわれは、先ず世界には話し合いだけでは解決できない紛争があるということを明確に認識しそのために日本は憲法第9条を自国領土の保全のために自衛の戦争は可能であるというように加筆しなければならないのだ。さらに世の中には命をなげだして守らなければならないものもあるということも学習しなければならないはずだ。竹島問題や北方領土問題を経験するにつけ残念ながらわれわれ人類は第9条で平和を維持し発展させられるほどの高みには到達していないと思わざるをえないのである。
〔第38章〕石原都知事に忠告す
7月5日の朝日新聞は、石原東京都知事が2016年夏期五輪の招致活動をめぐり皇太子に協力を要請する方針を示したことについて、皇太子ご一家のお世話役の宮内庁東宮職トップの野村一成東宮太夫が「招致運動というのは政治的要素が強く、(招致運動の段階から)皇太子殿下がかかわることは難しい。政府内でしっかりと詰めるのが先決だ」との否定的な見解を示した、と報じた。更に同紙は、この野村東宮太夫の見解に対し知事が「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」とコメントしたと伝えている。
石原都知事は相当頭にきたらしい。私はこの記事を読んで、石原都知事という世間の耳目を集める政治家の発言に対しては、当事者だけではなく第三者、例えばマスコミ等は事実を報道するだけではなく問題点を深め、その適否、正誤について冷静な判定を下すべきだと考える。オリンピックに対する皇太子の動向についてはいずれ、事実となって結果は判明するが、招致運動に皇太子が直接係わるか否かは皇室と日本の政治との関係についての根本的な考え方が問われる問題であると、私は考えるので、私なりの石原都知事の言動について忠告しておきたいと思う。
まず、私は石原都知事の今回の言動は間違っており野村東宮太夫が正しいと判断する。
その理由であるが、まず現時点でオリンピックが国家の重大問題であるという知事の断定は彼の思い込みないしは独断にすぎないということ。東京オリンピックに反対しているものも大勢いるのである。従って、このことが皇太子を招致運動に協力させる論拠にはならないはず。
そして仮に彼の独断でなく、まさしくオリンピックが国家の重大問題であったとしても、野村東宮太夫の言うように、新銀行東京失敗という都政の暗雲をオリンピック招致で取り払おうとする都知事の下心の見える招致運動などに皇太子を巻き込むようなことは、天皇家は政治に直接係わらないとする象徴天皇制の日本国憲法の精神に反するので、この場合も石原都知事の間違いである。
さらに石原都知事も理解しているように、政府を通じての正式の要請でなかったことも石原都知事の間違いである。皇太子の担ぎだしを目論見、軽挙妄動しその結果が自分の思うとおりに進行しなかったからといって感情剥き出しに「宮内庁ごとき」とか「木っ端役人」などと言い放ったことも、石原都知事の政治家としての限界を露呈させることになった。石原都知事は内々に野村東宮太夫の意向を察知するか、耳にした時点で、潔く黙して語らずの態度をとるべきであったのだ。
さらにこの石原都知事の言動はもう一つの重大な問題点を露呈させることになった。というのは日本の歴史を振り替えれば、摂関政治の藤原一族や戦前の軍人たちまで一貫して自己の権力奪取の不明朗さを雪(そそ)ぎ、その正当性と自己の権力の因ってたつ淵源を天皇家に求めようとしてきたのだ。そしていま現在、民主主義の政治の下でも未だに、日本の政治の深層部では、聖なる天皇家に対して石原都知事のような俗物たる政治家どもが様々な邪な働きかけをするものが多く、こういう働きかけは折角定着しつつある戦後の象徴天皇制の基底部を崩しかねないのである。
われわれは今後とも政治家と皇室の関係に注意深く目を向けていかなければならないようだ。
〔第37章〕外国人に参政権を付与するなかれ
民主党は永住外国人にたいして、国政は無理にしても地方選挙権は付与すべきであるとの認識のもとに岡田克也副代表を会長とする「永住外国人法的地位向上推進議員連盟」を発足させた。また公明党は以前より外国人にたいする参政権の付与には積極的である。
このような両党の動きに対して、私は全く反対なのだ。
私は国、地方をとわず、直接、間接をとわず外国人に対しては参政権を一切付与すべきではないと考えるのである。
即ち、外国人が日本に在住する期間の長短や納税の多寡がことさら参政権付与の理由になるというのはへんな話で、もともと日本人は日本に住み、税金を納めているので、外国人が日本に住んで税金を納めているからだけでは、殊更外国人に参政権を付与する特別の理由にはならないはずだ。外国人に地方とはいえ参政権を付与するには、多くの日本人の命を救うなどの特段の理由が必要だと思うのである。
更に言えば、日本人と結婚すれば国籍が付与されるというのも、おかしな話で、本来結婚という私的かつ国家との関わりの薄弱な自由な振る舞いの結果、日本国籍なき者に対して日本国籍が付与されるというのも、論理的必然性に乏しい話だと思うのである。
以下、その理由である。
われわれ日本人は子々孫々日本国で生を受け累々と次代に生をつたえ、その幾世代にもわたって少しずつ培われそして伝えられてきた独自の生活様式、行動様式、価値観、美意識、歴史的体験、習慣・風俗、宗教観、思考方式等々、所謂固有の文化を有するのである。そのような固有の文化を有するが故にわれわれは日本人たりうるのであり、その文化の正統な継承者のみが日本人であるはず。すなわち、日本人の両親の血脈を受け継ぐ者のみが日本人であり、日本人としての権利を有し、義務を負うのである。原則として外国人は日本人たりえず、従って日本人でない者には一切の政治的権利を保有させるべきではないのである。
勿論日本人と外国人とが相互にその違いを理解しあい、それ故同じ人間としての異なる部位ではなく共通の部位も双方に有することまでは容易に理解はできるだろう。しかし、異なった文化を相互に自分のものとして共有することはできないのだ。結局、異なった文化を有する者どうしは別々に暮らすにしくはないのであって、接近したり混在することで摩擦が生じ、結果として差別や犯罪が発生し、更には相互に憎しみ合う流血の惨事をひきおこすことにもなりかねないのだ。しかも、異文化の混在によって発生する社会的ダメージは、その原因が理ではなく情と感覚に起因するために、容易に修復せず、しかも幾世代にも渡って継続されることになる。それでなくとも参政権の付与以前の問題として、人間は単純な皮膚の色や宗教の違いだけで、接近し混じりうと殺し合もす
るのである。そういう人間としての最悪の行為を抑制するはずの道徳心や寛容さ、あるいは遵法精神などは、期待されるほどには機能しないのである。米国や南アフリカの黒人や世界中のユダヤ人の受けてきた迫害をみていればそれがわかるだろう。こういう差別や殺戮は人ごとではなく、わが日本人も外国人に対してではなく同じ日本人に対してすら部落民を生み出し、彼らに対してあらゆる差別を加えつつ現在に至っている。重ねて、関東大震災の後には「朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ」という噂だけで何千人もの無辜の朝鮮人を殺戮した経験を有するのだ。だから、われわれ日本人は外国人に参政権を付与し対等かつ平等、冷静な付き合いができる程成熟していないと言うか資格がないと思うのである。
多くの外国人に参政権を付与し国籍をあたえるようなことは火中の栗を拾うようなことで、こんなことをする意味も価値もなく、災いの元を根づかせるようなことなのである。
朝鮮人は朝鮮に、中国人は中国に日本人は日本に住むのが本来の正しい姿なのだ。
では、いま日本にいる永住外国人はどうすればいいのかと言えば、私は、後から来た者(外国人)は先住者(日本人)に対しては、あくまでもお客さまとして振る舞うべきだと考える。その外国人に対して日本人は可能なかぎり行き届いた接遇をする。そのかわり、外国人もその家のルールやしきたりに従うのである。「参政権を与える」などと言うことは、お客に、上がりこんだ家の約束ごとやルールに干渉することを容認するのと同じなのだ。
一つだけ具体的な問題で言えば、例えば、日本が自国領土であると主張している日本海の竹島問題について日本在住の韓国人にその帰属について問うたならば彼らの多くは堂々と「独島は韓国の領土である」と主張するはず。そういう主張をする外国人が身近に存在すれば、日本人のストレスはいやがおうにも増幅されてしまうはずだ。
もとより外国人は参政権がないことを前提として日本に住み着いているのである。だから参政権を付与しなくても日本人は良心の呵責に苛まれることはないのである。
もし参政権がないことが不満なのであれば、母国にもどるか、参政権が与えられる国家に行けばいいのだ、などと思っていたら、さらに私を驚愕させる新聞記事を最近目にしたのだ。6月8日読売新聞によれば自由民主党の「外国人材交流推進議員連盟」がまとめた日本の移民政策に関する提言案について報道していた。提言案によれば、日本が人口減少下において国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとし「総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」とのこと。1000万人とは現在永住資格をもつ一般・特別永住者(87万人)の約12倍にあたる。さらに提言には「移民法」の制定や「移民庁」の設置が記されている。外国人に参政権を与えたり永住権や国籍を与えることは容易だ。移民として受け入れることも容易だろう。しかし、一旦移民を受け入れてしまった暁には参政権を取り上げることも出来ず、母国に追い返すこともできないのだ。
自由民主党が50年という長期計画をたてというので、立派といいたいところだが、1000万人の移民を受け入れるでは、評価のしようもない。日本の国会議員の頭は往々にして正常に作動していないように見えることがあるが、優秀な官僚の手助けなく議員が独自に考えたプランではないかと、私は想像するのだ。
日本人が減少するから代わりに外国人を受け入れる。これほど単純明快な話はなくこれ以上知恵のない話もない。こういう単純思考が成立するためには、日本人と外国人が同じ、という認識か、人間を単に労働だけするロボットと見なさなければならないはずで、外国人はロボットもなく日本人でもないのだ。
国力をのばすために1000万人受け入れるというが、1000万人受け入てのびる国力とは、国力といえるのか。あるいは1000万人受け入れれば必ず国力が延びるという保証があるのか。受け入れて国力がのびなかった時、受け入れてしまった外国人をどうするのか。また50年後の日本の産業が今現在と同じような労働者を必要とする産業構造のままであるのかどうか。労働者が足りなければ、すくない労働者で対応できるような知識集約型の産業に転換を図ることこそより良い選択肢ではないのか。どうしても、国内に労働者が不足し、そのことが日本産業のボトルネックになるのであれば、海外に日本の企業を進出させればすむはず。
当初はおおいに歓迎されたトルコ人やアルジェリア人との紛争に頭を悩ますドイツやフランスのことを思いおこしてもらいたいものだ。
外国人に参政権を付与する、あるいは大量の移民を受け入れる、これは日本人と外国人を混合させるということだ。混じり合う文化の例は沢山ある。しかし混じり合わない文化を混じり合わないまま育成し続けるというのも日本人の世界にたいする責務ではないのであろうか。そういう純度の高い国家がこの地球上にあっても、といよりあった方がいいのではないか。日本は世界の中の貴種だと、私は思うのである。
〔第36章〕国費による延命治療は廃止せよ
医療の問題で、揺りかごから墓場まで、国家財政面で完璧に対応でき、国民に微塵の不安も抱かせない、というのが政治が目指す最大目標の一つであり、同時に政治だけがなしえる雄大なる可能性の一つでもある。しかし、人口は増え寿命は延び、その結果当然病人も増え、加えて医療は高度化する等の結果、医療の財政的負担は極めて大きくなっている。理想どおりどころか、現行の水準の維持すら困難になっているというのが日本医療の現状だ。
政府は不人気必定であることは理解しつつも医療費の増大を抑えるべく、さきごろ後期高齢者医療制度を打ち出し来年4月からのスタートを予定している。
本来、医療費というものは全国民の等しく病にかかるリスクに対応し、特定の人間に特異的に恩恵を与えないという意味において公平さに秀でた費目である。だから、役人の給与カットや人員整理、無用の道路、箱物の建設や防衛費などは大いに削減しえても医療費は財政の限度いっぱいに最優先で充当されていいのだ。
しかし、現状のまま放っておけば、30年後には医療費は50兆円にもなるという試算がある以上、政治にとって医療負担を軽減化しなければならないことは、喫緊の要事であることは言をまたない。
但し、医療費を闇雲に削減すれば、内閣の一つや二つが吹っ飛んでしまいかねないのであって、医療費はまさに政治における聖域でもあるのだ。だから、医療費を削減しようとする場合は、医療費というものの性質を良く見極め、多くの人がむべなるかなと思える原則を事前に明確に打ち立てておかなければならない。
そこで、医療の削減に関して私見を申し上げたい。
たとえば、病気には、大別すると「@治る病気」「A治らない病気」。更に「B完治はしないが進行の抑制など治療効果がある病気」に分類できるだろう。 このAの治らない病気のうち、「C当面は現在の技術や処方で治療効果の期待できないもの」と「D技術的な進歩や新薬の発見発明によって近い将来治癒の可能性のある病気」というものもあるだろう。
@とBに関しては、政治は基本的には費用の削減対象にすべきではない。また、Dに対しても、優先順位は@Bよりは劣るけれども開発費用等を削減すべきではない。結局費用削減の合理的な対象になるのはCである。
その典型がたとえば、様々な原因で脳死状態に陥って回復不能の患者に対する延命治療であろう。この延命治療に投入される費用、平均5百万円とも7百万円ともいわれる費用は全額削減対象にすべきであると、私は考えるのだ。勿論、後期高齢者医療制度のように病気の内容にかかわらず、年齢で区切って患者の負担増を強いるようなことではなく年齢を問わず、回復の見込みのない病気の延命治療に対しては、国費を一切投入しない、といっても、人道に反することにはならないだろう。どうしても延命治療を望む人々は自費で対応してもらうことにするのだ。
勿論これではすこしでも生きていて欲しいという患者のまわりの人々の願いには応えることはできない。したがって医療費を抵抗すくなく削減するにはまず、国民の側にも理解と覚悟が必要になってくる。
臓器の提供だけでなく無意味な延命治療は受けないという覚悟の程を、病気になったときに申告するか事前に、運転免許あるいは健康保険書などに自らすすんで記載し国に余計な負担はかけないという矜持、残される他者に対する思いやりの気持ちを持ってもらわななければならない。