衆議院選挙2014年の時に思ったこと
■参議院選挙2013年の時に思ったこと。
2013年の参議院選挙の時に思ったことです。
■未来を決める選挙が始まりました(2014年12月2日)
衆院選が公示されました。
安倍政権が評価されるというよりも、私たち国民が試される選挙だと思います。
マスコミでは相変わらず経済問題が中心に語られているせいか、街頭での調査による生活者の関心も経済問題や社会保障が関心の上位にあげられる報道が多いですが、今回の選挙は、安倍政権の方向でいいのかどうかを考える選挙だろうと思います。
もし自民党が勝てば、さらに「この道」をまっしぐらに進むことになるでしょう。
その先に何があるかは明確のような気がします。
選挙への関心が低いのもとても悲しい気がします。
「大義なき選挙」キャンペーンが、大政翼賛会よろしく、野党や政治評論家も含めて、展開されましたが、その効果が功を奏したのでしょう。
投票率が低いことは、いうまでもなく、現政権を承認したということです。
その認識さえあまりないのが恐ろしいです。
ニーメラーの教訓を思い出さねばいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html
投票したい候補者がいないという声もよく聞きます。
私もそう思うことが少なくありません。
しかし、当選させたくない候補者は明らかです。
選挙は、代表を選ぶことですが、そこには「代表になってほしくない人」を当選させないということも含まれています。
そうした視点で考えると、投票する相手が見えてくるかもしれません。
いずれにしろ、今回の選挙は、私たちの未来を決める選挙だという認識を多くの人に持ってほしいと思っています。
まわりの人たちに、この選挙の意義を訴え、投票に行くように勧めています。
■柳田國男の願い(2014年12月2日)
日本で普通選挙法が成立したのは1925年です。
当時、朝日新聞の論説委員の一人が、「遠野物語」で有名な柳田國男です。
柳田國男は民俗学で有名ですが、彼は「経世済民の学」でした。
これに関しては、藤井隆至さんの「柳田國男 経世済民の学」(名古屋大学出版会)という素晴らしい著作があります。
今回の選挙で、それを思い出しました。
同書によれば、柳田は、「生活苦」を救うのは政治であり、よい政治のためには国民がよい学問を身につけて選挙に臨むことが必要であると考えていたようです。
柳田はまた、普通選挙が必ず金権政治、利権政治に向かうとも考えていました。
だからこそ、若者の教育が大事だと考えたわけです。
柳田は、そうした政治の腐敗を避けるためには、「民衆もまた大いに覚るところがなければならぬ」とし、「自主的な判断力、政治的な判断力をもつ有権者をつくりあげていくという方法」を考えなければいけないと考えました。
彼はこう書いています。
「宣伝の巧拙によって左右せられず、標語の外形実に誘惑せられることなく、まったく一人の独立した判別をもって、進まんと欲する途を選ぶべきは無論であるが、さらにそれ以上に大切なることは、いわゆる己の欲せざるところをもって、これを人に施さざるの用意である。」
「それ以上に大切なること」とは、「社会全体の大局的な観点、換言すれば「国民総体の幸福」という観点で候補者を選ぶことを指す」と藤井さんは解説しています。
ちなみに、「国民総体の幸福」というのは、経世済民の学徒である柳田の目標です。
柳田はまた、国民の政治参加といっても、それは選挙のときだけの政治参加にすぎないことも指摘しています。
だからこそ、選挙は大事なのです。
柳田は、「個々の政治問題を「国民総体の幸福」という観点から自主的に判断できる国民を創出していくことを強く願わないではいられなかった」と藤井さんは書いています。
柳田の願いはかなえられているでしょうか。
それが今度の選挙で少し見えてくるような気がします。
■「大政翼賛会に抗した40人」(2014年12月4日)
10年ほど前に出版された本ですが、「大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち」(朝日選書)を読みました。
先日、その40人の一人の息子さん(と言っても私よりも年上です)が湯島に来たのがきっかけです。
日本の国会からすべての政党が姿を消し、大政翼賛会ができたのは1940年、私が生まれた前年です。
議会政治は終焉を迎えそうになったわけです。
しかし、そうした状況の中でも、死を覚悟して、流れに抗った人たちがいたわけです。
そして、その人たちが、戦後の自民党の源流になったのです。
その自民党は、今やまったく変質しましたが。
いや、小選挙制度によって、政治そのものが変質したというべきでしょうか。
私が生きているうちに、立憲議会政治がなくなることは考えたくないですが、あながちそれは杞憂でもないのかなと、この本を読みながら思いました。
40人のうち、37人は軍部の意向に逆らって大政翼賛会に反対し、議会政治を守ろうと「同交会」を結成し、激しい弾圧の中で選挙をたたいました。
当時の状況の中で、彼らは「明治憲法で定められた立憲政治の大道に則した政治を求めた保守派」と位置づけられます。
つまり、当時の台頭してきた軍国主義こそが、「革新派」だったのです。
保守と革新という言葉には気をつけなければいけません。
「同交会」は、政友会少数派から純無所属、社会党系、院外団といった「一種の混合団体」で組織されていたそうです。
このことにも、多くの学ぶべきことがあります。
小異を捨てて、組織を超えて、大同団結することを、彼らは知っていました。
いまの政治家たちにもぜひ学んでほしい気がします。
いや、政治家のみならず、私たち有権者もまた、学ぶべきです。
ちなみに、このグループに中から、戦後の首相が3人も出ています。
そのことからも、いまの政治家は学んでほしい気がします。
著者の楠誠一郎さんはこう書いています。
現代の政治家には周囲を見渡して多数につき、保身をはかる者が少なくない。
戦前に、生命を賭けて自分の意志を貫いた気骨ある政治家がいたことを心に留めたい。
まったく同感です。
■政治から人間がいなくなった?(2014年12月5日)
選挙の政見放送を見ていて、気づくことはたくさんあります。
今朝は共産党の、確か神奈川県の小選挙区の政見放送を見ていたのですが、個人がほとんど出てきません。
見事に主役が「個人」から「政党(組織)」に変わっています。
これは、たぶん小選挙区制度の影響でしょう。
小選挙区制度に関しては、私は以前からとんでもない制度だと思っていました。
それに関しては何回か書いてきていますが、改めて今回、そう思いました。
中選挙区制時代の選挙の主役は「人物」でした。
しかし、小選挙区制度になってから、選択の対象は「政党」になってきました。
それでもそれが、まだ「政策」であればいいのですが、国民投票ではそれが可能ですが、総選挙の場合は、さまざまな問題が包括されますから、実際には政策を選ぶなどということは不可能です。
ある問題は自民党、ある問題は民主党というように、問題によって支持できる政党は異なることが多いからです。
その結果、とんでもない人が当選することがあります。
当選するとは思ってもいなかったと、当選後、明言する人さえいるほどです。
いまの選挙制度では、人物が選ばれるのではなく、政党が選ばれます。
そして、強い党議拘束とお金によって、政治家は「やとわれ人」になってしまいかねません。
雇われ政治家が増えているように思います。
そこをしっかりと認識しておかないと、「投票したい人がいない」などということになるわけです。
全員を比例代表制にして、支持率に応じて政党(組織)が政治家を選ぶ時代がくるかもしれません。
政治から、人がいなくなるということですが。
最近の状況を見ていると、何かそんな恐ろしさを感じます。
私は、できるだけ人間に投票したいですし、政治家の人柄を大事にしています。
しかし、私にとっての魅力的な政治家は、みんなあまり人気がありませんし、どんどん排除されているような気がします。
それはたぶん、私自身が社会から脱落しているということでしょう。
今回は人でも政党でもなく、政府の暴走を止めるためのT票を投じたいと思っています。
投票したい人がいないから、投票に行かないということは、安倍政権を支持するということですから、何が何でも投票には行かなくてはいけません。
■国の命運は政治の善悪によって決まる(2014年12月7日)
先日、テレビで「開戦前夜!政治家 斎藤隆夫の挑戦〜命をかけた名演説〜」をみました。
太平洋戦争に向かって暴走する軍部に立ち向かい、昭和15年、国会議員斎藤隆夫は国会で命を賭した演説を行いました。
2.26事件の2か月後でした。
軍部の政治介入を鋭く批判し、「政党政治の火を消すな!」というその演説は、多くの国民の喝采をあびました。
国会の議場でも、演説中に大きな拍手がありましたが、結局彼は議員除名されてしまいます。
除名の決議に反対したのは、わずか7人でした。
その7人は、先日書いた、大政翼賛会に抗した「同交会」のコアメンバーになっていきます。
結局、日本は戦争に向かい、多くの国民の命を犠牲にした挙句、敗戦してしまいます。
敗戦後、生まれ故郷の出石に戻っていた斎藤隆夫のもとに、荒廃した日本の将来を心配する地元の中学生から手紙が届きます。
斎藤は、その返事にこう書いたそうです。
日本は敗戦に依りては亡びない。
政治の善悪に依って運命が決まるのである。
今度の選挙で問われているのは、このことだと思っています。
目先の利害損得に呪縛されずに、大きな意味での善悪の視点から投票者を選びたいと思います。
せめて、中学生くらいの純真さと知性を以って。
■国益と公益と私益(2014年12月8日)
選挙に向けての発言で、「国益に沿った」という発言がよく出てきます。
たとえば、TPPは「国益に沿うように進めていく」、というようにです。
この「国益」とはなんでしょうか。
そこには、時に全く相反する2つの意味が込められています。
たとえば、国民の視点と国家の視点です。
これは、何も「国益」に限った話で社ありません。
「社会のため」「会社のため」というような言葉にも当てはまります。
国益と似た使われ方をする言葉に「公益」という言葉もあります。
「国益」「公益」「私益」。
その関係はどうなっているのでしょうか。
アダム・スミスを代表とする古典派経済学では、「私益」の追求が「見えざる手」によって「公益」につながるとされます。
そこには、しかるべき「社会の仕組み」が前提にされています。
正確に言えば、社会の構成員の私益を公益につなげていくような、「社会」あるいは「市場」を築いていくべきだということでしょう。
どんな社会でも、私益が公益につながるわけではありません。
日本の経世済民の学徒、柳田國男は「私益を総計しても公益にはならない」と明言しています。
彼は、「国民総体の幸福」が「公益」だとし、「公益」が「国益」だと考えます。
私は、そうした考えに共感できます。
しかし、国家の利益(国益)が国民の利益(公益)とは別個に存在するという発想は、柳田にはなかったと評伝を書いた藤井隆至さんは書いています。
それは、柳田が生きた時代の国家と国民の関係を反映しています。
いまの時代状況とはまったく違います。
「国益」「公益」「私益」の関係は、時代によっても、テーマによっても、違ってくるでしょう。
しかし、「国益」のために「公益」や「私益」が犠牲にされることがあることは間違いありません。
最悪の場合は、それらがゼロサム関係に陥ることさえあるのです。
最近の日本状況は、かなりそうした方向になっているように思います。
国益と公益と私益は、つながるどころか、むしろ相互に奪い合う構図が感じられます。
「国益に沿った」という甘い言葉に騙されてはいけません。
国益とはなんなのか。
「国益」と「公益」と「私益」は、同関連しているのかをしっかりと具体的に捉えていくことが大切です。
選挙に向けての話を聞いていると、まさに本音が垣間見えてきます。
「言葉」ではなく「結果」を見通すようにしなければいけません。
そのためには、私たちはもっと学ばなければいけません。
国民が、学ばなくなれば、国は亡ぶしかないでしょう。
投票日はもうすぐです。
投票率が高くなることを祈っています。
■マーケティング型選挙から抜け出よう(2014年12月9日)
アメリカの都市社会学者リチャード・セネットは、その著「不安な経済/漂流する個人」の中でこう書いています。
人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。
すなわち、政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われてはいないか。
そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石鹸の販売宣伝と変わりないのではないか。
もし、そうであれば、政治の核心はマーケティングにあることにもなりうるが、これは我々の政治的生活にとって歓迎すべきこととはいえまい。
いまや政治の世界もまた、「経済の論理」「経営の論理」で覆われているのかもしれません。
この指摘のポイントは、「政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われている」ということだろうと思いますが(前に書いた柳田國男の指摘もそうだと思います)、「政治の核心はマーケティング」という点を、選挙の際には痛感します。
小渕優子さんは、まさに「ブランディング」されてきたわけで、父親の思いとは違って「政治家の見識」を育てられてきたわけではないことが、先の大臣辞職事件で明らかになりました。
彼女もまた、有名石鹸のひとつとして物語化されてきたわけです。
政治は、そうやって「人」を消費するようになってきました。
まさに「政治の変質」です。
どれを選んでいいかわからないというほど、商品の数が増えてくると、消費者は自分で選ぶことを放棄していきます。
どれほどの人が、自分の判断力と意思で購買活動をしているでしょうか。
たぶん意識していなくとも、私たちがどの商品を購入するかは操作されている面が今やとても大きくなっているように思います。
それにいまはどれを選ぼうと、さほどの違いはありません。
そして、その違いさえもが「マーケティング」手法で創られていることも多いのです。
こうした商品選択と同じことが、選挙でも展開されている時代になってきました。
まずは「経済」で慣らされた私たちは、政治にも同じ姿勢で対応し始めた。
自分でエネルギーを割いて選ぶよりも、与えられたとおりに、しかし自分で選んだ気分を持ちながら、選ぶことの方が楽ですから、ほとんどの人はそうしていくでしょう。
そして、その結果が悪ければ、選んだ相手を批判すればいいのです。
しかし、残念ながら、商品と違って、政治の世界では誰かがリコールを起こしてくれることはありません。
結局は自分たちで変えていかなければいけないのです。
商品選択の場合は、流行やマーケティングに流されてもさほど深刻な結果にはなりませんが、政治はそうではありません。
国家が危うくなれば、生活もまた危うくなります。
いや、生活が危うくなれば、国家が危うくなるというべきでしょうか。
経世済民の政治に向けて、しっかりとした眼で投票すべき人を選びたいものです。
14日の投票日にもしかしたら行けなくなる人は、ぜひ事前投票に行ってほしいです。
私も何が起こるかわからないので、今回は事前投票に行く予定です。
■知的な言説を聞く耳(2014年12月10日)
「民主主義の中で知的な言説が聞く耳をもたれない時、少数意見を尊重するはずの民主主義は多数決の数の暴力となる」とは、樫村愛子さんの言葉です。
著書の「ネオリベラリズムの精神分析」に出てくる言葉です。
私も、深くそうお思います。
そして昨今の日本には、「知的な言説を聞く耳」が消えつつあることに不安を感じています。
「知的な言説」とは何かというのは、人によって受け止め方は違うでしょうが、私はそれを「自分の生を生きている人の言説」と受け止めています。
そして、「知的な言説を聞く耳」とは、「自分の生に立脚した耳」と考えたいです。
平たく言えば、「頭で聞く」のではなく「心身で聞く」ということです。
「自分の生を生きている人」とは、ますます抽象的でわからないように思われるかもしれませんが、さらに抽象化すれば、「人間」ということです。
このブログでは、最近、社会から「人間」が消えだした、ということを何回か書いていますが、そう感じだしているのは私だけではありません。
昨年、企業経営幹部の人たちのグループで、「人が育つ企業文化」をテーマに半年間話し合いをしてきました。
そこで得た結論の一つは、会社の人間が組織の「部品」化してきているのではないかということでした。
部品は、人間と違って育ちません。
人が育たないのは、部品扱いしているからではないか、というわけです。
フランスでは認知症治療として「ユマニチュード」が広がっています。
ユマニチュードとは、人間として扱うということです。
医療の世界では、患者は往々にして「人間」として扱われないことはよく言われています。
イタリアが精神病院を全廃しました。
精神障害を持つ人を、人間として扱うことによって、状況は大きく変わりました。
この種の話は、さまざまな分野で話題になりだしています。
知的な言説は、人特有のものです。
にもかかわらず、最近は「話す人」も「聞く人」も少なくなってきました。
プロセスが重要なはずの「コミュニケーション」さえもが、機能的な伝達度で測られる時代です。
多様な発想をし、多様な感受性を持つ、人間の知性は機能社会では無駄なのかもしれません。
選挙に関連した記事を書くつもりが、話が広がりだしてしまいました。
しかし、今回の選挙に関して、政党党首などの話を聞いていると、「知的な言説」というよりも、「機械が話している」ような気がします。
「知的な言説を聞く耳」がないからそうなったのか、「知的な言説」がなくなったために「耳」が退化したのか、いずれにしても表層的な言葉のやり取りばかりです。
言葉の世界での論理整合性ではなく、現場の生に立脚して、考えなければいけないと、強く思っています。
そうした視点でだれに投票するか、どの党に投票するか、をもう一度考えて、今日は事前投票に行こうと思います。
政治は、個人の生に深くかかわっています。
誰に入れても変わらないし、投票に行かなくても変わらない、はずがありません。
■私たちはとても大切なものを忘れていないか(2014年12月13日)
明日が選挙の投票日です。
投票呼びかけ(になっていたかどうかはわかりませんが)の選挙シリーズはこれを最後にします。
開票後、もう一度書く予定ですが、
今朝の朝日新聞で、京都の徐東輝さんが今回の選挙への投票を呼びかけていました。
その記事の中に、「民主主義を求め闘う香港の若者から日本の友へ」というユーチューブが紹介されていました。
観てみました。
3回も観てしまいました。
なぜか涙が出ました。
そして思いました。
私たちはとても大切なものを忘れている。
「民主主義を求め闘う香港の若者から日本の友へ」の中に次の言葉が出てきます。
今、当たり前のようにある、あなたの人権や自由が、
ある日、突然なくなったらどうしまうか?
ぜひ観てほしいです。
「民主主義を求め闘う香港の若者から日本の友へ」
■衆議院選挙結果を見ての感想(2014年12月15日)
突然の解散で始まった衆議院選挙は自民党の圧勝に終わりました。
「大義なき解散」「大義なき選挙」とはやしたてたマスコミと野党のおかげで、今回の選挙には意味がないと思った人も多く、投票率も低くなってしまいました。
しかし、投票に行かなかった人たちは、間接的であるにせよ、現政権を支持したわけですから、安倍政権は国民の圧倒的な支持を得たということになります。
そうした結果を見ての感想は一言しかありません。
私自身が社会の動きから大きく逸脱しているということです。
安倍政権を支持することなど、私には思いもよりません。
原発を再稼働し、平和に反する武器を持つようにし、日本社会をアメリカ資本の市場とし、挙句の果てにはトリックダウンのための資金は国内の貧困層から獲得するという政策は、悪夢のようにしか思えないからです。
日本は今や、完全な「自発的隷属社会」になったという気さえします。
しかし、それもまた「一つに生き方」ですから、私が批判すべきことでもありません。
ただ、80年前の日本の状況と、とてもよく似ていることが気になります。
しかし、皮肉ではなく、これだけ多くの人が望んでいるのであれば、それはそれでいいと思うべきかもしれません。
私が、社会から大きく脱落してしまっているというのが正しいかもしれません。
そうであれば、何も憂うることなどありません。
この時代を生きるものとして、捨てがたい未練は感じますが、それは仕方がないことです。
まったく救いがなかったわけではありません。
安倍政権への反対意思をはっきりと表示した沖縄の結果は、私には敬意に値します。
原発事故にあいながら、原発再稼働を支持した福島県民とは全く違います。
沖縄がますます好きになりました。
選挙前に書いてきた「選挙シリーズ」の最後に、いろいろと気づいたことなどを前向きに書こうと思っていましたが、やめました。
■トリクルダウンしてくる「富」の源泉の所在(2014年12月16日)
アベノミクスで盛んに言われていることのひとつが、トリクルダウンです。
「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)」という、私には詐称としか思えない考え方です。
この、もっともらしい「理論」で、これまで多くの人たちは騙されてきました。
シャンペングラスをピラミッド状に積んで、一番上のグラスにシャンペンを注ぎ込んでいくと、それがあふれて次々と下のグラスを満たしていくというイメージのわかりやすさに、みんな騙されるわけです。
そこにはふたつの欺瞞と前提があります。
一つは、シャンペングラス・ピラミッドの場合はグラスの大きさが同じですが、現実にはそうではないということです。
上部にある大きなグラスは、実は下のグラスに比べて極めて大きいのです。
いや、底のない無限の大きさかもしれません。
もう一つは、上から注ぎ込まれる富は、どこから供給されるかです。
鳥瞰的に資本主義の歴史を捉えているエコノミストの水野和夫さんは、その著作の中で、それは外部から調達されると書いています。
まだ水野さんの著作を読まれていない方は、読みやすい新書版が何冊か出ていますので、ぜひお読みになることをお勧めします。
そして水野さんは、その外部がもうなくなりだしていると指摘します。
人工的な外部も創られてきていますが、それも限界にきていると。
アメリカは、自由貿易主義などという装いを凝らしながら、日本市場に外部を求め、日米構造協議やTPPなどを推進してきています。
その被害をきちんと立証してくれる経済学者がいればいいのですが、残念ながらいません。
それによって、日本の富は流出していますので、日本にはマイナスですが、調達成果を得ているアメリカにとっても限界はあります。
外部から富を調達できない場合、どうなるでしょうか。
これまでも何回か書いてきていますが、内部から調達せざるを得ません。
どこから調達するか。
基本は、相手に気づかれないように、「薄く広く」です。
富を収奪された低所得者たちにトリクルダウンしてくる富のバランスは、間違いなくマイナスです。
そして、経済的な格差社会が進んでいきます。
この30年の日本の経済がそれを証明しているように思います。
ところが、多くの人は、今はまだアベノミクスの効果は大企業だけに現れてきているが、次第に中小企業や生活者にその恩恵が回ってくると主張しています。
だからアベノミクスをとめてはいけないと信じて、多くの人が自公民に投票したのでしょう。
知識や思考のない人、歴史や現実をしっかり見ない人の愚かさは悲しくもありますが、知っていながら詐称する人たちにも哀れさを感じます。
今なお、トリクルダウンしてくる富を期待している人が多いのにも情けなさを感じます。
たしかに、高度成長期にはトリクルダウン効果がありましたが、それは富を外部から調達していたからです。
いまは、上納した富の一部が返還されてくるだけなのです。
以上の議論は、私の独断的な意見です。
しかし、サプライサイド経済学や新自由主義の主張から生まれてきたトリクルダウン理論は、実証されたものではないと言われています。
私だけのゆがんだ考えとも言い切れません。
いずれにしろ、そろそろ富を外部から調達する文化からは抜け出たいものです。
そして、「おこぼれ」に期待するような生き方は捨てたいと思います。
■戦争経済への傾斜への不安(2014年12月17日)
今回の衆議院選挙で、日本の国民は「平和」を捨てる決断をしました。
憲法9条は、戦争ができる国家へと変更され、この数十年、死刑を別とすれば、国家の承認を得て人を殺すことのなかった日本人の生き方は変わっていく可能性が出てきました。
平和で国を守ろうとはせずに、暴力で国を守ろうとする、歴史とは逆行する道を選んだといえるかもしれません。
国民の思考を変えていく教育への道も着々と進められています。
もちろん政府に異論を唱える人は窮屈になっていくでしょう。
まさに80年前の日本に戻っていくような気がします。
余計なひと言を加えれば、そういう状況の中での「子育て支援」は、私には実に不気味に感じます。
かなり極端に書きましたが、おそらく現実はさらに極端に進むでしょう。
歴史の動きは、加速されるのが常だからです。
そのためのティッピングポイント(事態が急変する臨界点)は、今回の選挙で超えてしまったような気がします。
超えないまでも、この数十年とは違った方向へ、日本が向かいだすことは間違いありません。
世界は多様な存在によって構成されており、歴史には一進一退もまたつきものですから、いまのこの動きを非難するつもりはありません。
日本は、私の思いとは違った世界に向かいだしたというだけの話です。
平和で成長を感ずることのできた時代を過ごしてきた私にとっては残念ですが、戦いを好む人も少なくないでしょう。
私自身も、戦いこそ好みませんが、変化や不安定さを好む面があります。
人は非論理で不条理な存在です。
にもかかわらず、私が腹立たしいのは、戦争さえもが経済の道具にされていることです。
憲法9条を変えることの目的が、経済成長にあるような気がしてなりません。
昨日書いたように、経済成長は外部の存在からの富の調達です。
そのために、新たな外部をつくりだすために、憲法9条を変えるという発想が情ないのです。
経済のために国民を死(過労死、自殺、事故死)に追いやる社会も変えたいと思っていますが、経済のために他者を殺めるような国には絶対なってほしくありません。
日本人は、かつて「エコノミックアニマル」といわれました。
最近はそういう言葉は聞かれませんが、最近のアベノミクスブームをみていると、やはり日本人はエコノミックアニマルになってしまったのだと思わざるを得ません。
朝鮮戦争特需で敗戦の荒廃から立ち直った日本経済に埋め込まれてしまった思考なのかもしれません。
100年以上続いてきた、あの「美しい文化の国」は変質してしまったのでしょうか。