参議院選挙2013に思うこと
1:反原発だけが争点ではないのか(2013年7月5日)
参議院選挙がスタートしました。
たぶん日本のこれからを決めていく重要な意味を持っている選挙でしょう。
これから数回にわたって、選挙戦の報道を見ながら感ずることを書いていこうと思います。
昨日、各党首の最初の演説があり、また党首討論会もありました。
そこでいささかがっかりだったのは、相変わらずアベノミクスがスターだったことです。
今回の選挙は争点が多すぎるとよく言われます。
しかし、争点が多いのはいつの選挙でも同じことです。
ただその時々の選挙にイニシアティブを持っている人やマスコミが争点を絞り込むことで、争点化がされるだけであって、今回の選挙がとりわけ争点が多いわけではありません。
ただ単に、みんなが「争点が多い」と思い込んでいるか、思いこまされているだけの話です。
そのほうが都合がいいと思っている人がいるからです。
マスコミや識者やテレビキャスターは、多分みんなそう思っています。
あえていえば、今回の選挙では「経済成長」「憲法改正」「原発」が大きな争点だろうと私は思いますが、最初の党首の該当での呼びかけでは、ほとんどが「経済成長」が中心でした。
原発にきちんと触れたのは、9人の党首のうち、みんなの党、共産党、社民党、みどりの風くらいでした。
これは意外でした。
上記の3つの争点のうち、ひとつだけといわれれば、みなさんはどれを選ぶでしょうか。
私はちゅうちょなく、原発を選びます。
3・11を経験した人であれば、当然そうだろうと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
ほとんどの人はもう原発事故は起こらないと思っているのでしょうか。
どんなに経済的に発展しても、原発事故が起こったら、すべては無に帰します。
幸か不幸か、今回のフクシマ原発事故は、いろんな形でカバーされたように見えますが、次はそうはならないかもしれません。
それだけではありません。
フクシマ事故の影響は、見えない形でじわじわとの日本の国土と日本人の生命を蝕んでいます。
その事実は、今は隠しおおせても、次第に明らかになっていくでしょう。
その時にはいまの原発再稼動を決めた人たちはいないかもしれませんが。
しかし、私たちの責任はなくなるわけではありません。
健やかに生きることと物質的に豊かな暮らしをすることとどちらを選ぶか。
それは人によって違うかもしれません。
いまの日本は、後者が圧倒的に多いようです。
そうでなければ、「反原発」の一点に焦点を当てて、選挙できるはずですが、前回の選挙で明らかになったように、それは日本人には通用しないようです。
まさにお金や経済成長の道具になってしまったようにさえ思われます。
そう点はたくさんありますが、いま何が一番大切なのかは決められます。
お金のためではなく、いのちのために、私はそれが何かを決めたいと思います。
私には、争点はひとつ。脱原発を基軸にするかどうかです。
脱原発を基軸に置けば、ほかの問題も解けてきます。
2:投票したい人がいないという無責任さ(2013年7月5日)
最近、無党派層が増えています。
それは政治意識の成熟の現れです。
そもそもすべての問題で、ある政党を支持するということ自体、ありえません。
課題によって、別の政党の主張に共感することは当然あって然るべきことです。
それは「代議制」を考える上で、極めて重要なことですが、昨今のように、党議拘束なる発想が当然視されるような状況の中では、党員以外、つまり党議に影響を与えられる人以外は、無党派層になるのは不思議なことではないでしょう。
しかし、投票する立候補者がいないというのは、おかしな言い分です。
自分と同じ意見の人などいるはずがありません。
自分の考えに近い人を、限られた選択肢の中から選ぶことです。
代議制とは、そういうことです。
逆に、自分が大切だと思っていることに関して、同じ意見を持つ政党や立候補者がいないということも、多分ないでしょう。
きちんと立候補者の意見や党の主張を調べたのでしょうか。
たぶん調べてはいないでしょう。
単に自らやるべきことを放棄して、言い訳をしているに過ぎません。
その言い訳が大義のように通ってしまうのは、みんなで渡ればこわくないと同じく、その言い訳を利用する人が増えているからでしょう。
私の選挙区の千葉では改選数3人に対して、9人が立候補しています。
少なくとも私が許容できる立候補者は3人はいます。
しかし、その3人や3人が属する政党の考えにすべて賛成ではありません。
全く反対のものもありますが、私が絶対に正しいわけではないので、これを機会に、その私の考えを改めて考え直そうと思っています。
つまり、選挙とは自らの考えも問い質す機会なのではないかとも思います。
もちろん問い質す前に、課題の気づきや課題を学ぶことも大切です。
昨日の朝日新聞に、56歳のコラムニストが、堂々と「僕が初めて投票したのは昨年の衆議院選です」と顔写真入りで語っていたのには驚きましたが、この人は、これまで学ぶことなく、社会に寄生してきたのでしょう。
私はそういう人にだけはなりたくないので、3人の中の誰がいいかを真剣に考えたいと思っています。
投票すべき立候補者がいないのは、立候補者側の問題ではなく、投票する自分の問題なのです。
3:ねじれ国会がなぜ悪いのか(2013年7月5日)
公明党の山口代表が、ねじれた紐を両手で持って、それを強く引っ張ってねじれを解消させるパフォーマンスをしていましたが、この人はまともな人なのかと不安になりました。
しかし、これは「人」の問題ではなく、選挙ということが、そういう行為を引き起こしてしまうのかもしれません。
おかしくなるのは立候補者側だけではありません。
それを見ていた聴衆が拍手をしているのを見て、娘が呆れていました。
その場にいると、人はここまでおかしくなるものなのでしょうか。
実は、娘も投票したい人がいないと嘆いている一人ですので、きちんと発言や資料を読めば、誰かいるはずだといっているのですが、与党の政党の代表がこのていたらくでは、あんまり強くもいえません。
まじめに耳を傾けようとする人を愚弄するような行為はやめてほしいものです。
愚弄されたら腹を立てるくらいの良識も、私たちは持ちたいものですが。
愚弄するといえば、テレビの政治番組で、争点が多すぎるので、ねじれ解消が大きなテーマになっているというような説明をしていました。
私には、これも選挙民を愚弄した発言としか思えません。
争点をしっかりと整理する苦労や責任を放棄して、ねじれが良いか悪いかなどということを論点にしてきたのは、マスコミと「有識者」です。
日本が二院制であるのは、慎重に事を決しようと言うことですし、衆参で多数派の政党が違うからと言って、それがそのまま「決まらない政治にはなりません。
ねじれが悪いという人は、議論する能力のない人でしょうから、もともと議員には向かないのです。
かなり荒っぽい書き方をしていますが、「ねじれ」があるから決定できないと言うのは、無能な議員や政党リーダーの無責任な発言を応援するために、これまた無責任なマスコミが創りあげた話でしょう。
議論とは、いろいろな意見をまとめ上げることなのです。
そもそも二大政党制というのは、支配者側にとって都合のいい制度です。
日本で導入した時に、きちんと反対したマスコミの論説委員はいたでしょうか。
導入後に反対した人は知っていますが、彼も導入前に反対してほしかったと思ったものでした。
アメリカがそうであるように、二大政党制は大きな意味では一党独裁と同じです。
単に看板を替えるだけです。
日本でも民主党と自民党は同じです。
いずれの飼い主も同じだと思えてなりません。
ちょっと品のない文章になってきました。
今回、言いたかったことは、ねじれ解消が、さも大切なことだというような論調に惑わされてはいけないということです。
ねじれなど気にせずに、大切な争点をしっかりと見すえたいものです。
4:あなたにピッタリな政党を診断(2013年7月7日)
娘から、ヤフーのサイトに「ピッタリな政党を診断「参議院選挙2013」」というのがあると聞きました。
こういうのが、一番、選挙をだめにするものだと思っていますが、まあ知った以上はやりたくなるものです。
争点ごとに質問があり、それに答えていくと、私の回答との重なり度が、全ての政党および立候補者ごとにでてきます。
その結果は、まあ私が考えているものとほぼ一致しました。
しかし、だからといって、これを評価する気にはなりません。
この発想こそが、問題だと思うからです。
これは悪しき「科学主義」「客観主義」の仕組みです。
こういう仕組みで、みんな自ら考えることを捨ててきました。
科学者や客観主義者は、いずれも小さな世界で、論理整合性を考えているに過ぎません。
だから原爆さえ開発してしまうのです。
大切なのは、もっと「大きな」論理であり、整合性です。
要素ごとの回答を総和しても、全体が見えてくるわけではないのです。
たとえば、争点には、人によって優先付けがあるはずです。
原発問題と消費税問題とを同じウェイトで足して、何がわかるでしょうか。
そこには大きな落し穴があるのです。
生活は、様々な問題の総和で成り立っているのは事実ですが、要素ごとに同じ比重で総和されているわけではありませんし、問題の組み合わせで新しい選択肢が創発されることもあります。
今回、書きたかったのは、クイズを解くように正解を求める発想を若者に植え付ける風潮が、選挙にも広がりだしていることへの不安です。
選挙は、自分にとっての正解である立候補者に投票することではありません。
そんな正解者はいないと思うべきでしょう。
総花式のチェックリストで、投票者を選ぶのではなく、自分がいま最もこだわっていることに関して、共感する人を選ぶのが良いように思います。
さらにいえば、これだけは絶対避けたいと思うことがあれば、それ以外では完全に共感できたとしても、その点で考えが反対なら、投票対象からは除外するべきでしょう。
平均点や合計点で、評価する時代は、終わったのです。
そういう選挙もまた、見直すべき時期に来ていると思います。
5:なぜ野党は受け皿をつくれなかったのか(2013年7月7日)
前回の選挙で、「死に票」の多さが問題にされました。
今回もまた、多くなりかねません。
投票するところがないので、仕方なく与党に投票する人もいるでしょうが、そういう人は白紙投票すべきだろうと思います。
私のすんでいる我孫子市の市長選挙の時に、関心がないから現職に投票したという若い人がいたのには驚きましたが、その一票は大きな意味を持っていることに、本人は気づいていないのです。
今の自民党は支持できないが、野党に入れても、政権との距離が大きすぎて、投票しても意味がない、と言う人もいます。
たしかに、野党は乱立しすぎていて、民主主義の考えに不慣れな日本国民には無意味な存在に見えるかもしれません。
小さな野党が、大きな流れを変えることもあるのですが、そうした展望を持っている人は少ないようです。
長いものに巻かれろ、寄らば大樹の陰、寄生的人生が、日本人の中にはあるようにさえ思います。
それを否定しても仕方がありません。
それこそ長い歴史の中で培われてきた文化ですから。
それを踏まえて考えれば、野党は国民の気分を大きく受け止める受け皿体制の構築に心がけてほしかったです。
滋賀県の嘉田さんが前回小沢さんと組んだ時には、その可能性を感じましたが、見事にマスコミに壊されました。
今回も、みどりの風が独自に立候補しましたが、自民党に利するだけでしょう。
その主張は、私は共感するところが多いですが、彼女たちは「死に票」を増やすだけかもしれません。
せめて、ゆるやかなネットワーク連合をつくってくれれば、投票しやすくなりますし、思いを集めていくことができるはずです。
選挙制度を支える人々の意識が変わってきている中で、選挙制度そのものも変えなければいけませんが、政党や立候補者の考えも変わらないといけないように思います。
6:投票率がなぜ低いのか(2013年7月9日)
今回の参議院選挙の投票率は50%を切るかもしれないと言われだしています。
まさかそこまでは行かないとは思いますが、投票率が低下傾向にあることが気になります。
投票率が低いのは、選挙や政治への関心が低くなったということも含めて、今の選挙制度に起因しているはずです。
一票の格差の問題は大きな問題ですが、投票率の低さの原因をきちんと調べて、選挙制度を再設計することが大切だろうと思います。
もちろん、投票率という「数字」を高めると同時に、投票の質も高めていくことも必要です。
投票しても、結果に影響を与えられないと思っている人も多いですが、それもまた否定できない事実です。
当選後、所属政党を変えたり、政党そのものがマニフェストを破ったりしてきたことが、投票へのモティベーションを下げていることも否めません。
しかも党議拘束によって、国会議員は単なる「頭数」になっているような風潮もあります。
選挙では、人を選ぶのか政党を選ぶのか、わかりにくくなっていますが、最近の状況では人ではなく政党を選ぶようになってきています。
それでいいのかどうかも、きちんと考え直す時期でしょう。
選挙制度は政党制度と深くつながっています。
少なくとも30年ほど前までは、人を選ぶのが選挙でしたが、いつの間にか、政党を選ぶようになってきています。
政党に属していないと、所詮は泡沫候補として相手にもされません。
そうした動きは、民主主義の方向に逆行していると思いますが、そういう流れを受けて、いまや立候補者はタレント化してきています。
選挙に投票に行く意味が、私にも次第にわからなくなってきています。
もちろん民主主義を個人が実行できる唯一の機会が選挙ですから、選挙に行かないのは論外です。
しかし、正直に言えば、投票に行く時の虚しさもまた、年々高まっています。
政権交代したところで、結局は変わらないのであれば、投票所への足も重くなるでしょう。
それではしかし事態は変わりません。
どうしたら投票率を高めることができるのか。
その問題をもっと真剣に考えること大切です。
エジプトの若者たちの発言を聴いていて、とても感動します。
私たちがなくしてしまったものを、彼らは強く持っています。
政権交代してもまた元に戻されてしまう。
しかし、それでも命さえ懸けて、彼らは行動しています。
エジプトと日本はどこが違うのか。
権力は腐るとよくいわれますが、権利もまた腐っていくのでしょうか。
超党派で、投票率を高める方策を真剣に考えていってほしいものです。
そのなからきっと、現在の政治の根本的な問題点が見えてくるはずです。
投票率が低いのは、決して選挙民の問題ではありません。
選挙に行くことの意味をしっかりと実感させられない、政治家たちの問題です。
先日、投票率がある水準を超えなければ住民投票は無効というところがありましたが、投票率が70%を切るようであれば、選挙は無効というくらいのことはできないものでしょうか。
せめて、70%を超えるまで投票を締め切らないようにはできないのでしょか。
半分の人しか投票に行かない選挙って、どう考えても、私には納得はできません。
7:今回は当選しそうな人に投票します(2013年7月10日)
昨夜もテレビで党首討論会をやっていました。
途中まで見ましたが、あまりの内容のなさに見るのをやめてしまいました。
司会のまずさもありますが、話し合いになっていません。
それ以上に、野党側のバラバラさに辟易します。
ある意見に対する反論は決して「一つ」ではありません。
反対の視点は多様に存在するからです。
ですから与党に対して、野党は多数になりがちです。
それでは与党が有利なので、政権交代は起こりにくく、そのため二大政党制が考えられました。
しかし、前にも書きましたが、二大政党制度は形を変えた一大政党制なのです。
それはアメリカでは証明済みですが、日本でも民主党によって証明されました。
流れを変えようとした鳩山政権は、みごとに内部の反対で瓦解しました。
彼は、エジプトのムルシ大統領と同じく、国民ではないもうひとつの政権を支える権力に従う仲間に阻まれたように思います。
鳩山さんの友愛革命が成就していたら、世界は変わっていただろうと私は夢見ます。
しかし、いまはもうそれは期待しにくい状況です。
野党を結集する仕組みは見事に破られました。
そのため、せまい自己主張にこだわる小党や無所属での立候補が相変わらず多い状況です。
世論を喚起するには良いかもしれませんが、与党を利するだけで、国民の政治離れはさらに加速するかもしれません。
つまり、世論喚起さえできないかもしれません。
そうであれば、投票者が心しなければいけません。
無駄な死票にならないように、当選に繋がる人に投票することが必要な選挙かもしれません。
それにしても、なぜみんな立候補するのでしょうか。
自分の意見を社会に発信したいからでしょうか。
自分が思う政策を実現したからでしょうか。
それとも自分が議員になりたいからでしょうか。
自分が思う政策を実現したいのであれば、立候補を取りやめ、同じ意見の人の応援をするほうがいい場合もあります。
日本の選挙制度には、そうした仕組みがありません。
その仕組みが政党だったともいえますが、今の政党はそうではありません。
政党制度も大きく変わっていくべき時代です。
ネットの活用が進めば、今の政党制度は壊れるか大きく変質するか、いずれかでしょう。
立候補を取りやめてほしい人が少なくありませんが、彼らは自らの意図と行動が相反していることに気づいているのでしょうか。
あるいはあまりも渦中にいて、見えなくなっているのでしょうか。
8:投票に関する私のルール(2013年7月11日)
私は、時に共産党の候補に投票しようと思うことがありますが、最近は実際に投票したことはありません。
その理由は、瑣末といえば瑣末ですが、私にとっての重要なルールに従っているためです。
それは、選挙活動期間中に、自宅に直接電話があった候補者には絶対に投票しないというルールです。
このルールの良し悪しはともかく、ルールとして決めたので仕方ありません。
ルールはもう一つありましたが、それはもう守れなくなってきています。
地方議員と参議院議員は、政党所属の人には投票しないというルールです。
ある候補を応援したことがありますが、彼は結局、政党に所属し、今回は別の政党から出ます。
最初の当選時に、市民を代表するので、政党には所属しないといっていましたが、やはり政党に所属しなければやっていけなかったのでしょう。
以来、残念ですが、私は彼の応援を止めました。
ところで、直前の電話の件です。
昨日も、留守電に長々と入っていました。
共産党の立候補者の事務所の女性です。
最初にかかってきたのは数年前ですが、その時には市会議員の応援でした。
その時には、私はその共産党の新人に投票しようと思っていました。
それが投票日の前日に電話がありました。
いつもは「はい」とかわすのですが、その時はムッとして、この電話で投票をやめましたと応えました。
その一言がきっかけで、長電話になりました。
高年と思われる彼女は、以前は「共産党」と聞いただけで嫌悪したくらいだったそうですが、最近、時間が出来たのでいろいろと調べてみたら、共産党が一番共感できるので、共産党の人を応援しだしたのだそうです。
それはいいことですが、だからと言って、選挙の時だけ、共産党をよろしくではないでしょう、普段からそのよさをみんなに伝える活動をするほうがいいでしょう、と言うと、そういう集まりもあるのでぜひ参加してください、といわれました。
もっとも、その後、その種の案内は一度も来ていません。
その電話以来、選挙の時に懲りずに電話があります。
素直に考えれば、私が共産党の人に当選しないように仕向けているわけですが、本人は気づいていないでしょう。
頼んで投票に行ってもらったり、頼んである人に投票してもらうということの意味をしっかり考えなければいけません。
中途半端な政治意識の目覚めほどやっかいなものはありません。
そうではなく、自発的に投票に行き、だれかに投票することに喜びを感じるような状況を創らなければいけません。
私の場合は、そうなのですが、なぜ、そうではない人が多いのかが不思議です。
それは、もしかしたら、投票に行くのは国民の義務だという発想や投票に行こうという、余計なお世話の呼びかけのせいかもしれません。
おそらく、ここでも問題の建て方が間違っているのです。
ちなみに、私にはもう一つルールがあります。
自分の選挙なのに、政党の代表を呼ぶ人には投票しないと言うルールです。
このルールも守れなくなりました。誰にも投票できなくなるからです。
最近の選挙は、実に退屈です。
それに、私が思うような結果にはなかなかなりません。
しかし、4年前の政権交代のような事が起こりうるのです。
だから、今回もわくわくしながら投票に行きます。
投票する人はいま2人にしぼりました。
9:政党代表の話し合いテレビ番組を見ましょう(2013年7月13日)
テレビでの選挙関連の報道の内容が、少しだけ変わってきているように思います。
少しまじめになってきたということです。
当初は政権翼賛会的な報道が多かったように思います。
とりわけ、いわゆる「政治評論家」たちは、論点をぼやかし、安倍政権にへつらっているように感じていました。
もちろん今もそうですが、各党の代表による討論会の内容は、進化しているように感じます。
国会での議論も、こういうスタイルでやればいいのにと思います。
現在の国会の議論は、議論とは言えません。
質疑応答とさえもいえないものが多いです。
また立候補者の政権放送もありますが、これもどのくらいの人が見るでしょうか。
もう少し工夫して欲しいものです。呆れるほど退屈です。
それにしても、なぜ与党政治家は嘘をつくのでしょうか。
民主党の政治家は与党時代には無知のために嘘をつきましたが、自民党の政治家は知っていて嘘をつきます。
政治家とは嘘つきだというイメージが少しずつ弱まっているようにも思いますが、相変わらず政権与党の政治家は嘘といわないまでもごまかしを乱発します。
今日の、みのもんたさんの番組で各党の代表がさまざまな問題を話し合っていましたが、与党の代表者の発言は、それは酷いものでした。
私にはあきらかに「嘘」としか思えません。
「内閣の考えと閣僚の考えは違うのか」と問われて、その人がしゃあしゃあと「違う」と答えて失笑を買っていました。
さすがに、野党の数名の人からも「ごまかし」とか「嘘」と指摘されていましたが、それがなければ視聴者は自民党の人の発言に納得したかもしれません。
これはほんの一例です。
街頭演説でも政見放送でもそうですが、話の内容は耳障りよく出来ています。
しかし、所属政党の主張とはかなり食い違っていることもあります。
その矛盾やごまかしは、一人の人の話を聞いていてもなかなか見えてきません。
ネットでの情報が増えていますが、それはさらに偏っています。
このブログの記事も、思い切り私の偏見ですから批判的に読まないといけません。
立候補者が、「・・・します」と断言するのも気になります。
どこかで発想を履き違えているように思えて、蹴飛ばしたくなります。
テレビで各党の代表者が話し合う番組はもっと増やしてほしいです。
問題が見えてくるからです。
この3連休は暑いですから、自宅で、ぜひそうした番組をできるだけ見たいと思います。
よかったら、みなさんもぜひそうしてみてください。
政治評論家の論調が、いかに観察者的で先入観に呪縛されているかが少しわかるかもしれません。
10:現状満足の呪縛を抜け出せないものか(2013年7月14日)
選挙まであと1週間です。
しかしなかなか盛り上がりません。投票率はかなり低くなりそうです。
要するに、多くの国民は現状に満足しているのでしょう。
満足していなければ、投票に行くはずです。
政治に関心がないとか、投票しても何も変わらないと思っているとか、言われますが、それはたぶん「現状満足」と同じ意味でしょう。
もし本当に不満ならば投票に行くはずですし、政治を変えようと本気で動くはずです。
私自身のことを考えてみましょう。
私自身は、現状への不満はありますし、政治を変えたいと思っています。
しかし、エジプトやシリアの国民とはまったく違い、不満を言いながらも現状を受け容れていることは否定できません。
原発を止めてほしいと思いますが、原発の前で焼身自殺をするほどには至っていません。
だから、このブログで時に過激なことを書いても、言葉だけと非難されても反論できません。
権力批判などサルでもできますから、そんな記事は何の力も持ちません。
あまりにも納得できないことを、書くことによって、自己を慰めているだけのことです。
要するに、私もまた、今の状況にほどほどの満足を感じていると言えるわけです。
しかし、私以上に満足している人のほうが多いように思います。
フェイスブックの書き込みを読んでいると、みんな現状に満足しているなと思います。
現状を告発したり行動を呼びかけたりする人もいますが、ほとんどの人は、蹴飛ばしたくなるくらい、平和な記事を書いています。
現状告発の情報を回してくる人もいますが(私も時にやります)、だからと言って、自らが行動を起こすわけではありません。
私が一番不愉快なのは、観察者的に批判したり、べき論を述べたりする人です。
一人称自動詞で語らずに、私の書いたことに解説してくれる人も不愉快ですが、そういう人も時にいます。
そういう人は、多分、権力を批判しやすい現在の社会を満喫しているのかもしれません。
要するに、みんな現状に満足しているのです。
だから消費税も上がり、TPPに参加し、原発依存を続け、犬のように働く生活を続けるわけです。
そして、茹でガエルのように、死んでいくのでしょう。
それもまた人生です。
しかし、人として死んで生きたいのであれば、どんなに忙しくても、誰に投票するかを真剣に考えて、投票に行くのがいいです。
でも、人よりも犬のほうがいいと、最近の人は思っているのでしょうね。
生き辛い時代です。
私は来世も人として生まれたいと思っていますので、今生は人として全うしたいです。
11:世論がつくられていくことへの危惧(2013年7月15日)
相変わらず現状維持の方向で状況は進んでいるようです。
しかし、新聞の論調が少し変わってきたようにも思います。
たとえば、今朝の朝日新聞の社説に「ねじれは問題か」と書かれていました。
これまで「ねじれ解消」を煽っておいて、なにをいまさらと思いますが、日本のマスコミの論調は基本的に大勢に同調的です。
それを痛感したのは、小選挙区制の導入でした。
テレビでご一緒した某紙の高名な論説委員が小選挙区制を批判したのです。
その新聞はそれまでは小選挙区制導入を煽っていたように思っていましたので、唖然としました。
そういうことが多すぎます。
マスコミが同調する「大勢」とはなんでしょうか。
世論調査を考えてみましょう。
現在の選挙期間中にも、支持政党だと何を重視するとかに関する世論調査なるものが定期的に発表されます。
そこでの「大勢」が、マスコミの参照基準のような気がします。
しかし、こうした世論調査は、デルファイ法のように繰り返されることによって、大政翼賛会的に意見を集中させていく傾向があります。
多くの人がそう思うなら、それがいいのだろうという大勢依存型の判断を、私たちは無意識にしがちです。
世論調査が繰り返し行われることによって、意見は収斂しがちです。
そこに、ある「意図」が入ったらどうなるか。
つまり、その大勢こそは、マスコミが自ら作れるものでもあるのです。
そこに、大きな危惧を感じます。
誰もが意見表明できる選挙は、世論を育てていく絶好の機会です。
問題は、だれが形成の主役か、です。
選挙民一人ひとりが、さまざまな意見に触れて自らの考えを整理し、それを投票で表明し、それが結果として政治の方向を決めるのが望ましいことはいうまでもありません。
しかし、「さまざまな意見に触れて自らの考えを整理」するほど、多くの人は時間がありません。
だから「みんなはどう思っているのだろうか」という発想に陥りがちです。
平均からはずれない生き方を叩き込まれてきた最近の私たちは、自分の意向よりも、「みんなの意向」を重視しがちです。
なかにはまだ、「有識者」の意見に依拠する人もいるでしょう。
「有識者」ほど自分のない人はいないのですが。
そうした状況を利用して、世論を育てるのではなく、世論を誘導する動きには注意しなければいけません。
世論調査結果やマスコミの論調に惑わされることだけはしたくありません。
まだ2人からしぼりきれていません。政党もまた迷いが出てきました。
12:選挙結果を誘導する報道が多すぎます(2013年7月15日)
新聞ではもう選挙結果予想の報道が始まりました。
たとえば、今朝の朝日新聞によれば、「与党、過半数は確実 自民、改選議席倍増の勢い」だそうです。
投票日に投票が締め切られると、その途端にテレビでは「当選確実」が報道されます。
投票所の出口調査の結果なのですが、これは選挙への冒涜行為だと私は思っています。
選挙活動期間中に結果予測をして大々的に発表するのも、同じことだろうと思います。
投票所の出口調査が結果を言い当てるのであれば、投票日前の調査もまた結果を言い当てる水準になっていくでしょう。
そうなれば、選挙は茶番劇化します。
マスコミはよってたかって、選挙制度の真髄を壊してきていると、私は思います。
選挙の投票に行くと言う行為は、単に代表を選ぶだけではありません。
これは国民が主権者であることを思い出す一種の儀式であり、結果以上に、投票行為が意味を持っていると思っています。
そうした選挙の意味を、集計作業の始まる前に結果を発表していいものなのか。
とても違和感があります。
事前投票でも出口調査は行われているのでしょうか。
統計学的に言えば、事前投票の出口調査で、結果をかなり精度高く予測できるでしょう。
もしそうならば、投票に行くのは、なにか虚しくなります。
出口調査の結果は投票終了までは発表は出来ないようですが、終わった途端にテレビで発表されるということは、事前にかなりの人たちが知っていると言うことです。
私には、どう考えてもフェアなことではありません。
投票日前のアンケート調査は、さらにフェアとはいえません。
しかも、調査結果はおおっぴらに発表してもいいようです。
それは必ず投票予定者に影響を与えます。
にもかかわらず選挙違反にはならないのは、これもおかしい。
しかも、選挙に関する番組で多くの人は「今回の結果はもう分かっている」と口にします。
自民党が圧勝するというわけです。
こうした行動はたぶん投票率を下げる方向に働くでしょう。
そういう発言には、私は蹴飛ばしたいほど不快になります。
神様ではあるまいし、やってもいないのに、なぜわかるのか。
選挙はやってみなければわかりません。
知ったような政治評論家にだまされてはいけません。
事前調査など信じてはいけません。
真剣に考えた1票あれば,必ず無駄にはならないはずです。
13:私は「人を殺す」ことが好きではありません(2013年7月15日)
このシリーズは、今回で最後にしようと思います。
それで、私自信の選択基準を書きます。
それは極めてシンプルです。
「人を殺すことを強要する人に投票しない」
「人を殺すことに鈍感な人には投票しない」
「嘘をついて生きている人には投票しない」
この3つです。
「人を殺す」とは、いささか物騒な言葉ですが、たとえば、戦争や軍隊を認めることは政府が敵国の人を殺せといった時に拒否するのが難しくなります。
たとえば、原発は人を殺しかねない危険な存在です。だから私はその存在を許せません。
つまり、反原発と平和憲法維持が、私にとっては絶対的な判断基準です。
「嘘をつかない」は、所属政党の主張と矛盾した主張をしていないことです。
これは、その人の生き方の本質を象徴しています。
この3つの基準で考えると、投票候補者(投票政党)はすぐに絞れます。
運よく複数の該当者(政党)がいたら、候補者の場合は年齢の若い方です。
政党の場合は、少し複雑ですので、省略します。
ただ次の補足基準があります。
選挙期間中に電話をかけてきた場合は、無条件に対象から外します。
私の場合、共産党は、その理由でいつも投票できません。困ったものです。
ところで、多くの人たちは、「人を殺す」ことに違和感を持たない政党や政治家が好きなようです。
殺したり殺されたくなかったら、自民党に投票するはずがないからです。
なぜ多くの人が、自民党政権を歓迎するのか。
私にはそれが全く理解できません。
しかし、新聞やテレビが、殺人事件を好んでよく取り上げる風潮を見ていると、そういう人たちがきっと多いのでしょう。
テレビのニュースの編成局の人たちは、どうしてあんなにしつこく報道するのでしょうか。
もしかしたら、これもまた選挙とつながっているのかもしれません。
参議院選挙に思うことを気の向くままに書いてきましたが、いまの世情が見えてきます。
やはり、まずは自分の生き方を問い質さないといけません。