メッセージ総集編
■メッセージ24:資金がないなどというのはやめましょう〔2003年9月27日〕
私が事務局長をしているコムケアセンターは、資金助成プログラムを展開しています。
資金を出してくれているのは、住友生命社会福祉事業団です。
この資金助成プログラムは画期的なプログラムだと、私は自負しています。
それを可能にしたのは、住友生命と住友生命社会福祉事業団の関係者です。
感謝しています。
そのプログラムを2年半、展開してきました。
たくさんのNPOや市民団体と付き合ってきました。
相談にものってきました。
そういう活動をしていながら、いや、そういう活動をしてきたからこその、素直なメッセージを書いてみます。
最近、NPOへの資金助成プログラムは増えてきています。
しかし、その多くはただ、資金をばらまいているだけです。
そうした動きに大きな疑問があります。
一方、NPOからの相談の多くも「資金をどこからもらうか」です。
コムケアへの応募でも、資金目当ての申請ではないかと勘ぐりたくなるようなものもあります。
NPOの講演や講座などでも、みなさんの一番の関心事は資金の確保でしょう、と話す講演者も多いです。
そして、助成金をどうしたら獲得できるかの講座もあります。
資金助成申請書の書き方セミナーもあります。
成り行き上、私も今年、そういう会で話を30分してしまいました。
何と馬鹿な事をしたのかと、少し自己嫌悪に陥ってしまいました。
NPOや市民活動は、これまでの金銭至上主義、市場主義の社会からの脱却を目指しているのではないかと、私は考えています。もしそうならば、どこかにおかしさがあります。
確かに、活動を起こすためには資金が必要です。しかし、だからといって資金を安直に提供していいのか。そうした資金助成プログラムが増えていくことは、市民活動の社会を「お金漬け」にしてしまうのではないか。そんな危険性を感じます。
この2年半、いろいろと活動してきて、事起こしの段階では資金はたいした問題ではないことを実感しています。価値ある活動や企画には、必ず資金がついてきますし、助成などを当てにせずに自分たちで資金を集める工夫をすることにこそ、価値があるのではないかと思い出しています。
市民活動に取り組む際に、資金がないからできない、などと考えるのはやめたほうがいいかもしれません。それはちょうど、企業の人が、時間がないから社会活動に参加できない、というのと一緒です。言い訳でしかありません。
時間も資金も、言い訳にはなりますが、それ以上の判断基準にはならないような気がします。
コムケア資金助成プログラムに関しては、10月10日の公開選考会で20分くらいお話させていただく予定ですが、資金助成プログラムをこれからどうしていくか、いま、迷っています。
資金助成などという発想自体、目線が高いですし、資金を基軸にしていては、金銭至上主義社会から抜け出せないのではないかと、とても自己矛盾を感じています。
10日の公開選考会に参加して、ぜひアドバイスしてくれませんか。
メッセージというよりも、お願いになってしまいました。
すみません。
■私憤の書き込み:こうなってほしいという社会の姿がありますか〔2003年9月6日〕
しばらくホームページへの書き込みは最小限にする予定なのですが、書きたくなりました。
自民党総裁選の件です。
また青木さんです。志のない政治家には辟易します。
今回は私憤を書きます。
米国はブッシュが歴史を変えました。
おそらく急速に凋落していくでしょう。
自らが悪の帝国になってしまい、国民国家は崩壊しました。
それに追随して、小泉が日本の歴史を変えました。
軍国少年の彼には志は皆無です。
それに迎合した多くの国民は、子どもたち2顔向けできないはずです。
それを避けられなかった私もまた、同罪です。
それはともかく、
今の総裁選に対する党員の姿勢には悲しい思いがします。
国家のため、社会のためではなく、 自民党が選挙で勝つために、みんな判断しているように思います。
河野さんも堀内さんも、政治家ではなく、政治屋である事を露呈しました。
青木さんは、森さん擁立の時の犯罪をまた重ねようとしています。
亀井さんは好きにはなれませんが、小泉さんや河野さんに比べると、まともに見えます。
不思議です。
政治家のミッションはなんでしょうか。
自民党を守る事ではありません。
民主党を政権党にすることではありません。
私は好きではありませんが、国家を発展させることです。
私たちみんなが気持ちよく暮らせる社会を実現することです。
そうした思いを、私たちは彼ら政治家に託しています。
「会社のためが会社をつぶす」という言葉があります。
雪印事件を思い出してください。
「地域のためが地域を壊す〕ことも少なくありません。
バブル期のリゾート開発の傷跡はかくちにあります。
「世の中のため」の行為が世の中をおかしくしていることもあります。
なぜうこうなるのでしょうか。
みんなビジョンがないからです。
言葉だけで語っているからです。
「構造改革」は、それだけでは意味のない言葉です。
改革の目指すべきビジョンに意味があります。
今、世上で語られている構造改革は全く無意味な言葉です。
「景気回復」。これも意味のない言葉です。
それは手段です。
どういう経済状態、産業活動状態、働き方状況がいいのかがあいまいなまま、語っても意味がありません。
右肩上がりの方向性が定まっていた頃には、そういう言葉の意味も明確でしたが、今は違うのです。
言葉の意味が問われなければいけません。
なぜ、政治家にはビジョンがないのか。
それは生活がないからです。
「こんな生活がしたい」という具体的なビジョンは、具体的な生活から生まれてきます。
政治家は生活しているのでしょうか。
いや、日本人は、本当に生活しているのでしょうか。
あなたはどうでしょうか。
生活の豊かさはお金ではありません。
書いているうちに話がそれだしました。
今回のメッセージは、こういう社会になって欲しいと言う社会のビジョンを考えましょうということです。
そんな事を、周りの人と話し出してみませんか。
そうすれば、今の政治状況や経済状況に関するマスコミの報道姿勢がいかにピントはずれかが見えてきます。
小泉さんが再選されない事を切望しています。
ジャーナリスは、問題の本質をもっと明らかにしてほしいです。
■ メッセージ23:ノーマライゼーションしてますか〔2003年8月30日〕
広島の折口さんから、8月中旬にこんなメールをもらいました。
NHKの番組「大地の子」や終戦記念番組を見ていてふと昔を思い出しました。
私の実家は原爆の落ちた広島市からはかなり離れているのですが、少年時代には夏に
なるとケロイドの痕跡がはっきりとわかる方々がたくさんおられたように記憶してい
ます。
また町のところどころに精神病者とわかる方々もおられ夜になるとしずかな暗闇に奇
声を発しておられたように思います。
そういう人に私が関心を示すと親や兄弟から「じっと、見てはだめ!」といつも諭さ
れていました。
海水浴に行き、初めて黒人米兵と出会ったときも姉から目をそらすように叱られまし
た。
今考えるとオカシナことですが、当時は原因を知らせずに形態差別が公然と行われて
いた時代のように思います。
コムケア活動で、時々、ちょっと考えさせられる体験をすることがあります。
たとえば、こんなことがありました。
昨年の最終選考会の時ですが、発表に映像を使う団体が多かったのですが、
そこに障害を持った人たちの顔が出てくるものがありました。
それに対して、別のNPOの人から、障害者の顔が映像に出ているが問題はないのか、と注意されました。
もちろん、そのグループは本人の了解はとっており、一応、その場では私も参加者にその旨伝えたのですが、
その方は納得されずに、終了後のアンケートでもその点を指摘してきました。
寂しいことです。
私はこうした発想に、とても違和感があります。
そういう発想に、目線の高さを感ずるからです。私が一番嫌いな発想です。
しかし、それは障害の少ない(かもしれない)私だからこその発想かもしれないと、ちょっと迷っていました。
今回、折口さんから、このメールをもらって、少し安堵しました。
私もそう間違っていなかったと思えたからです。
もちろん問題の所在はちょっと違うのですが。
そしてまた、この4か月、私自身の体験から改めてノーマライゼーションについて考えました。
私自身の傲慢さや冷たさを改めて自覚しています。
恥ずかしい限りです。
障害者だから映像を映し出してはいけない、
という発想に象徴されている傲慢さを、私たちはどこかで捨てきれずにいるのでしょうね。
人はもっと素直に行きたいと思います。
ケアの出発点は「関心をもつ」ことです。
それも「素直」にです。
みなさん、障害者の方に関心を持ちましょう。
そしてまた、みずからの「障害部分」にも関心をもちましょう。
人はみな、障害を持っています。神ではないのですから。
自らを障害者と区別する差別感を捨てたいものです。
それこそがノーマライゼーションです。
ケアマインドのない福祉関係者が多いのがとても悲しいです。
私も同罪なのですが。
■ メッセージ22:国家って本当に必要なのでしょうか(2003/08/16)
メッセージ9で「素朴な疑問」について書いた事がありますか、最近、ますます疑問が増えています。もう一度書きます。
北朝鮮からの脱北者を支援する活動に取り組む日本のNGOの人と脱北者の人がまた中国の政府関係者に逮捕されたというニュースが流されました。
以前の類似事件では北朝鮮国籍の人は北朝鮮に強制送還されたというニュースもまたテレビで放映されました。
こうした事件が後をたちません。
これは国際政治の難しさなどといった問題ではありません。
国家によって個人の安寧が踏みにじられているだけの話です。
個人の立場に立てば、正義など微塵もなく、国家犯罪の一つです。
強制送還されれば死が待っているかもしれないということを知りながら、
中国の官憲は北朝鮮の人を逮捕し、時に強制送還する。
アウシュビッツとどこが違うのでしょうか。
「パサジェルカ」という映画(未完でしたが)を思い出します。
体制保証をしてくれれば、核兵器は放棄すると言うような取引が新聞に出ています。
これに経済援助(もちろん支配者へのですが)が絡んでいます。
私の税金がそれに使われるとしたら、税金を納めたくはありません。
北朝鮮の体制保証とは何か。
国家の体制でしょうか。支配者の体制でしょうか。犯罪組織の体制でしょうか。
ではイラクはどうか。
国家でないフセイン体制を壊すのは正しかったのか。
壊したのはフセイン体制なのか、国家体制なのか、社会の仕組みなのか。
すべてがあいまいのままに、正義が語られています。
「組織から発想する時代」から「個人から発想する時代」へと歴史の基軸が変わっていくべきだと思う私にとっては、
問題はすべて非常に簡単です。
個人がおかしいと思うことから出発して、世界を描く事が大切になってきています。
今のような国家は、もはや存在意義を失いつつあるように思います。
"Think globally,
act locally"という言葉が良く使われます。
私はこの言葉にとても違和感がありました。
これから必要なのは、
"Think locally, act globally" ではないでしょうか。
この言葉のなかにはもちろん「国家」は出てきません。
「国のかたち」を語る前に、国家って何なのかを考えてみませんか。
ちなみに、こんなホームページもあります。
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_308131.html
■メッセージ21:平和のために1冊の本を購入しませんか〔2003年5月3日〕
今回はちょっと風変わりのメッセージです。
一部の友人たちにメールしたのですが、ここにも掲載することにしました。
平和が問われています。
私たちも平和に向けての行動を起こす事が大切です。
しかし何をやればいいのかと、時々質問されます。
いくらでもやれることはありますが、
今回はその一つの回答です。
『地球的平和の公共哲学』と言う本を購入することのお勧めです。
著者のお一人である小林正弥さんからのメールを別項に掲載します。
3400円です、東大出版会から出版されています。
ちょっと高いですが、カンパだと思ってください。
読まなくても結構です。平和のためのカンパです。
購入する事に意味があります。
その理由は、別項の小林さんのメールをご覧ください。
しかし、どうせ買っていただいたのであれば、読んでもらうか、
もしくは読んでくれそうな人に贈呈してくだされば、もっとうれしいです。
そして気に入ったら、もう1冊購入してもらってください。
購入の輪を広げたいです。
ですから、このメッセージもできればどんどん転送してほしいです。
小林さんの「非戦の哲学」もぜひお読みください。
これはちくま新書ですので、気楽に読めます。
こちらは読むためにぜひご購入ください。
平和のためにできる事は、たくさんあります。
■メッセージ20:カタカナが多すぎる、などというのはやめましょう(2003年4月19日)
このホームページには、カタカナ言葉がたくさん出てきます。
読者から言葉の意味の照会もあります。
もっと平易な日本語で書けというご指摘もあります。
ある地域計画のまとめをお手伝いした時、その内容に関して地元の新聞から「カタカナが多くて意味がわからない」と批判されました。
私は極力努力したのですが、やはりカタカナが多く、説明不足だったのでしょう。
反省しました。
カタカナを使ったことを、ではありません。説明不足だったことを。
最近も同じような体験をしました。
地元の景観市民会議のまとめを検討している時に、あるメンバーがカタカナが多すぎてわかりにくい、と指摘しました。
私は書き手でなく、読み手だったのですが、少し複雑な気分でした。
書き手の気持ちも読み手の気持ちもわかるような気分がしたからです。
色彩に関する言葉の数だけ、色彩に関する世界は豊かだといえるように、言葉は世界とつながっています。
私たちは言葉を増やすことで世界を広げているように思います。
「カタカナが多すぎる」と感ずるのは、文字表現の問題ではなく、おそらく世界の広がりや多様性の問題なのです。
したがって、同じようなことが漢字であろうと平仮名であろうと存在するはずです。
事実、意味のわからない漢字や平仮名に出会うことも少なくありません。
新しい言葉に出会った時は、自分の世界を広げるチャンスです。
子どもたちはそうしています。
しかし、大人になると、なぜかそうしなくなりがちです。
自分の世界になじまないと言って拒否するのはもったいないことです。
「カタカナが多すぎる」と考えることは異質さを拒絶することかもしれません。
若者たちのカタカナ言葉や記号化された言葉も含めて、私たちはもっと言葉に寛容になるべきではないでしょうか。
しかし、その一方で、言葉の意味にはもっと厳格になる必要があります。
たとえば、「構造改革」や「安くて品質のいい商品」や「開かれた学校」など、一見だれにでもわかっていると思われるような言葉が、実に曖昧な定義で、しかも安直に使われているような気がします。
問題は、カタカナかどうかではないような気がします。
知っている言葉にこそ、だまされやすいのかもしれません。
ちなみに、共創とは言葉を増やしていくことでもあります。
少なくとも「カタカナが多すぎる」という前に「その意味は何ですか」と聞くのがいいと思います。
言葉に寛容でなければ世界は広がらないのですから。
■ メッセージ19:地元の水を飲みましょう。〔2003年4月12日〕
先日、市民活動関連のある会議でペットボトル入りの水が出ました。
Evian です。
何気なくラベルを見ていたら、" from the French alps "と書いてありました。
そこでハッと気がつきました。
この水はフランスから来ているのです。
私は地産地消が大切だと思っています。
それなのに水までヨーローパの水を飲んでいる。
とても恥ずかしくなりました。
いままであまり考えていませんでした。
水道がおいしくないといいながら、オフィスでも富士山の水やらどこそこの名水などというペットボトル入りの水を購入していました。
何がイラク攻撃反対だ、と大いに反省しました。
それに市民活動に関っている人たちの集まりだったこともとても気になりました。
所詮は日本の市民活動はその程度なのだなと思いました。
もちろん私も含めてのことです。
私が主催する会では注意しようと考えました。
頭ではわかっていても行動はなかなか伴いません。
それに、地産地消の問題だけでなく、水の輸入などにかかるエネルギーや資源の負担は大きなものでしょう。
しかも、日本は世界1水が豊かでおいしい地域のはずです。なぜ水までも輸入するのでしょうか。
これは罪悪ですね。
これからはペットボトルの水を飲むのを止めることにしました。
水は水道を飲むことにしました。
ペットボトルの水はもう飲むことはないでしょう。
皆さん、付き合ってくれませんか。
会議でも、少なくとも海外からの輸入の水は使うのはやまませんか。
■ メッセージ18:もっと意思表示しませんか。〔2003年4月12日〕
イラク攻撃を支持するかどうか、に関して、このホームページのフォーラムのコーナーに投稿してくださいと呼びかけをしましたが、残念ながら反応は少なかったです。
最初のころに書き込んだ人たちがじっくりと書き込んだので、書き込みにくかったのかもしれませんが、この1週間で約200人のアクセスがあったにもかかわらず、書き込みは5人でした。
正直に行って残念でした。
これでは小泉さんが戦争をはじめても仕方がないですね。
行動のない思いはまったく意味がありません。
私はかなり落ち込んでいます。
今の日本には意思表示をすることを躊躇しがちな文化があります。
イラクや北朝鮮よりも自由であるにもかかわらず発言しないというわけです。
北朝鮮のことを悪くいう資格は私たちにはありません。
実状を知ったら、彼らからはきっと馬鹿にされるでしょうね。
私たちは主体性を放棄してしまっています。哀しいことです。
意思表示しないのではなく、表示すべき意思がないのかもしれません。
実際に、オープンサロンで私が時々不満に思い、恥ずかしながら、時に切れてしまうのは、自分の考えではなく、第三者的に語る人が多すぎるからです。
それではサロンは成り立ちません。
私たちはもっと自分の意見を持つべきであり、それをはっきりと意思表示すべきです。
言っても仕方がないから、とか、自分の意見に自信がないからとか、言うといろいろ面倒だから、とか言い訳はたくさん聞きますが、それは、本当は「考えていない」からです。
みなさんはいかがでしょうか。
■メッセージ17:新しい歴史の予感〔2003/3/22〕
イラク国民に向けての攻撃が始まりました。
多くの人たちの反対にもかかわらず、今も攻撃が行われています。
歴史が変わったように思います。
どう変わったのか。いろいろな見方ができます。
私は最初、とても悲観的でした。
強者による先制攻撃によって、この数百年、営々として築き上げてきた人類の平和への努力が一挙に崩され、暴力の時代にベクトルが反転したような思いがありました。シジフォスの苦行のように、哀しい奈落のそこへとまた戻ったような気がしたのです。
文化と腕力とは、必ずしも比例しません。追いやられた猫のように、鼠を咬み出したアメリカ政府には同情すべきかもしれません。分不相応の資力を得たものの不幸です。無批判にそれに追随する首相を選んだ私たち日本人も、不幸でした。
暴力と不条理に向けて、歴史の軸を逆転しはじめたと、先週までは思っていました。
しかし、攻撃が開始されて、違った歴史の始まりを感じ出しています。
そう考え出したきっかけは、世界各地で個人が動き出したことです。テレビの映像がどれだけの真実を伝えているかはわかりませんが、かなり意図的に編集されていると思われるNHKのニュースですら、全国各地の市民の異議申し立てを伝えています。
国家の時代の終わりと個人の時代の始まりを予感させます。
そうした歴史の新しい方向性を、今回のイラク攻撃がビジュアライズしたのであれば、それは大きな意味を持っています。その影響は大きいでしょう。
アメリカの攻撃は、当初の目的であるフセイン政権崩壊を成功させるでしょう。
ブッシュの戦争は成功したかに見えるでしょう。
しかし、そんなことは瑣末なことです。
無垢な子どもの笑顔ひとつほどの価値もないことです。
大切なのは、歴史の基軸が変わりつつあることです。
そのことをしっかり認識して、自らの生活を律して行くことが大切です。
昨日のピースウォークを報道したテレビニュースで、「デモに参加して戦争が中止されるとは思っていないが、家に居ていいのかという気持ちでやってきた」という人がいました。感激しました。歴史は大きく変わろうとしています。
攻撃にさらされているイラク国民や英米の兵士のために、私たちに何ができるか。
きっと、それぞれにできることがあるはずです。
祈ることもその一つですし、署名や行動に参加することもその一つです。
ネット上に意思表示できるサイトも少なくありません。
私の娘は米国商品不買運動に参加しました。
それぞれにできることを考えて、行動していきたいと思います。
■メッセージ16:横にも目をもちましょう〔2003/03/08〕
公益法人改革の流れの中で、NPO法が廃案になるかもしれないということが明らかになり、この3週間、全国のNPO周辺はにぎやかになってきています。
私も浜辺哲也さん、田中秀一郎さん、羽仁カンタさんなどの呼びかけに呼応して、公益法人改革オンブズマン設立準備会に参加しました。それに関しては、別のコーナーもしくは準備会のホームページをご覧下さい。
簡単に言えば、悪名高き公益法人の逃げ場を断つために、非営利法人を一括りにして整理しようということになり、NPO法人も巻き込まれて議論されていたのです。
このこともとても大きな意味をもっています。
つまり、NPOもまた「悪の逃げ場」になっているのです。
安直なNPO信仰は危険です。
私は昨今のNPOブームに大きな危惧を抱いています。
行政のNPO支援の姿勢も違和感があります。
市民社会は与えられたり、庇護されたりするものではありません。
私の市民社会論も暇な方はお読み下さい。
まあ、それはまた改めて書くとして、今回はこの3週間の活動からの感想です。
NPO側からいうと、今回の改革は、NPO法を発展的に解消し(つまり廃案にし)、NPO法人を公益法人、中間法人と一本化するという話が見えてきたのです。
しかも、NPOも原則課税にし、さらに300万円の基金が必要になるという方向で検討が進んでいたようです。
ようです、という意味は、そうした動きが一部の人にしか見えていなかったのです。
一部の中には、残念ながらNPO関係者も入っています。
その動きを露出しだしたのは、NPOに関心をもつ経済産業研究所の浜辺哲也さんです。
そして、その効果が出始めたのは、今年の2月の中旬です。
まず、仙台と福岡で学習会が開かれました。
そして、3月2日には、私たちのオンブズマン設立準備会も集会を開きました。
これと前後して、各地のNPOや自治体での学習会が盛んになり、情報が急速に広がりだしました。
内閣府も異論を出し、どうやら流れが変わりだしたようです。
これは週間報告でも書きました。
今回の経験から多くのことを学ばせてもらいました。
一番の教訓は、やはり自分の目先の問題だけに目を向けていてはいけないということです。
市民活動にとって一番大切なことは、自らの活動と社会とのつながりではないかと思います。
社会的視点がなければ、市民活動の効果は半減するばかりか、各論最適が全体に歪を起こすこともあるからです。
公益法人制度だけを見直しても、うまくいかないと考えることは、この点からも正しいといえます。
逆に言えば、公益法人のことは誰かに任せておけばいいというのも危険な事です。
私はほとんど興味を持っていませんでしたから、浜辺さんが「公益法人改革が問題だ」と言っても、最初は全く興味を持ちませんでした。恥ずべきことです。反省。
同じように、私がやっと理解し、集会などの動きをメールなどで伝えだしても、反応はほとんどありませんでした。
自治体職員の方で反応したのはわずかに3〜4人です。
NPOの世界も同じです。
特に私がつきあっているNPOは、小規模なところが多いですから、なおさらです。
余裕がないのです。みんな目一杯忙しいのです。
行政や企業の人が忙しいなどと言うのは、そうした人たちの忙しさから見れば、たかが知れています。
また余計な発言でした。すみません。
今回の議論の中で、NPO法だけは例外にしてもらおうという動きがNPOの世界の一部にあったように聞きました。
唖然としました。そんな人が、もしNPOのリーダーだとしたら、日本のNPOには未来はありません。
それこそが一番危険な思想です。
第二次世界戦争も、そうしたリーダーたちの「寛容さ」によって起こされたといってもいいでしょう。
また脱線です。反省。
何回か書きましたが、社会は複雑に絡み合っています。
私たちの生活もまた、つながりあっています。
企業の人も行政の人も、NPOの人も、それぞれの活動が忙しくて、なかなか横の動きに目をやるのは大変でしょうが、こうした動きにもぜひ目配りをしていきたいです。
そして、やはり横のつながりをもっともっと育てていきたいです。
ちなみに、この改革を立案した官僚の方も、決して悪意があったわけではないと思います。
むしろ社会をよくしたいという思いからスタートしているはずです。
しかし、現場がみえなかったのかもしれません。
そして、今回の風を起こした浜辺さんも霞ヶ関の官僚です。
3月2日の集まりで、彼の問題提起の話は感動的でした。
私は涙が出ました。
みなさんもお忙しいでしょうが、
横の活動や動きにも、できるだけ目を向けましょう。
自分だけ守ればいいなどと考える事だけはやめたいものです。
世界はつながっているのですから。
■
メッセージ15:なぜ日本では対イラク戦争反対のデモが広がらないのでしょうか〔2003年3月1日〕
私は名前だけですが、日本平和学会のメンバーです。
入会させていただくときに(もう20年くらい前になりますが)、この組織は運動体ではなく学会ですと念を押されて参加を認めてもらいました。
その平和学会で、ついに対イラク戦争反対の声明を出すと言う事になりました。
時代はそこまで来ているのです。
日本平和学会の現在の会長は北沢洋子さんです。
北沢さんからのメールによれば、「2月15〜16日には、世界同時に1,200万人がデモをして、反戦の意思を表現いたしました。一方、日本政府は、米国の武力行使に賛成する数少ない国の一国であることを選択しました」。
多くの国民は、こうしたことに違和感を持っているのではないかと思います。
にもかかわらず、なぜ日本ではデモが広がらないのか。
私自身の事で言えば、やはり社会性と想像性の弱さなのでしょうね。
反省しなければいけません。それに加えて、「仕組み」の不在です。
一昨年の10月、テロ対策特別措置法制定と自衛隊法改正等に反対するデモに、夫婦で参加しました。
市民の集まりかと思って行ったら、ほとんどが労組でした。
誘った友人は、その雰囲気に馴染めずに帰ってしまったそうです。
私も少し違和感がありました。しかも夜で、何か楽しくありませんでした。
さらに、そのデモ行動の報道は全くありませんでした。
それに、デモ集会のお誘い情報もあまり流れてきません。
日本のマスコミはデモに対してコンプレックスを持っているのかもしれません。
一緒に行った女房は、日本でも反戦に向けてのデモが行われていることを実際に参加してみて初めて知ったのです。
市民が気軽に参加できるデモ活動の仕組みが必要なのかもしれません。
そう思ったら自分でつくればいいのですが、このテーマはちょっと私には荷が重いです。
だから人のことはいえないのですが、それにしても日本は市民の示威行動のシステムが不在なのが残念です。
もう一つ、大きな問題が根底にあるようです。
それは公益法人改革でも西表島の署名でも感じたことですが、身近な問題には関心があっても、ちょっとその先にある問題へのつながりを意識できない生き方、あるいは意識しなくてもいい生き方に、私たちはあまりにはまり込んでいるような気がします。
これは想像力の問題です。
メッセージ11でも書きましたが、この世の中に自分と関係のない事などないのです。
気がついたら戦争に入っていた、数十年前の不幸を再現したくないものです。
反戦デモの情報があれば、教えて下さい。できれば参加したいと思います。
みなさんもご一緒しませんか、
■ メッセージ14:産業のジレンマに気づきましょう〔2003年2月1日〕
工業化社会を支える産業のジレンマについて、いつかメッセージしたいと思っていましたが、なかなか書き込む時間がありません。
今週の週間記録に、なぜかそれにつながる話が多かったので、中途半端ですが、書き込みたいと思います。雑駁な議論で怒られそうですが、趣旨をお読み取りいただければうれしいです。
近代社会の特徴の一つは、世界を要素分解したことですが、産業革命以来、「生産活動」も要素分解されてしまいました。
世界の問題を各論で解決していこうという発想になったわけです。何か困ったことがあれば、それを解決する。それは一見正しかったように見えましたし、事実、様々な福音を私たちに与えてくれました。
しかし、生きた世界は各論で成り立っているわけではありません。すべてはつながっているのです。ですから、どこかで問題を解決すれば、どこかで問題が発生することもあります。これに関しては改めてメッセージしたいですが、今回は要素分解型生産(産業)構造のもう一つの落とし穴についてです。それは、問題解決の手段が目的化することです。
その典型はリサイクル産業です。
リサイクル産業は廃棄物を再活用することがミッションですが、もしリサイクル産業を発展させようとすれば、廃棄物を増やさなければいけません。本来の目的の廃棄物をなくすミッションと廃棄物を求める要請とのジレンマが発生します。(「地球との共生意識が企業を進化させる」参照)
これは何もリサイクル産業だけの話ではありません。
自動車産業は自動車事故が増えるほど発展します。生命保険は生活の不安が大きいほど市場を拡大させられます。病人が増えれば、病院や製薬会社が繁盛します。戦争が起これば産業が発展します。日本の経済も朝鮮戦争で復活しました。
どこかおかしくないでしょうか。
私はこうしたことを「産業のジレンマ」と呼んでいます。工業は「死に向かう産業」という人もいますが、工業発想の近代の産業には、自滅に向けてのシナリオが内蔵されているわけです。
それに比べて、工業以前の生産の営み、例えば日本古来の農業には「生に向けてのシナジー」が埋め込まれているような気がします。
現代の産業が、目先の社会問題を解決する一方で、目先の社会問題を発生させている事例は、多分、枚挙に事欠くことはないでしょう。産業の二枚舌と言ってもいいようなメッセージが企業から発せられていることも少なくありません。いや、そうした産業に支えられている私たちの生活そのものに、大きなジレンマが内在しています。
私は今の産業を否定しているわけではありません。むしろ肯定しています。
私もまた、そうした産業のおかげで生活を支えられているからです。
しかし、産業にはそうしたジレンマがある事をみんなもっと意識するべきだと思っています。
意識して、どうなるのか、と言われそうですが、意識すればすこしだけ生活が変わることがあります。
もう少し書き込みたいですが、今日は時間がないので、また続きを書きます。
■
メッセージ13:地域に住むみんながまちづくりの主役になりましょう〔2003年1月29日〕
このメッセージは、コムケアセンターのホームページにも書き込みましたが、もっと広く伝えたいのでここにも転載しました。これを機会に、コムケアセンターのホームページのメッセージもぜひお読み下さい。
1月25日、高知県介護の会が主催する「幡多昔むかし祭り」に参加させてもらいました。素晴らしい集まりでした。大きな福祉を目指すコムケア活動にとっても、とてもたくさんの示唆をもらいました。
高知県介護の会は、地域のお年寄りたちが集る「つどいの場 えびす」を開いています。
四万十川のある高知県中村市の郊外の、展望の開けた、とても気持ちのいいところに立地しています。
以前はロードサイドのレストランだったところを借りているので、人が集りやすいところです。
祭りは2部構成です。午前中は「昔なつかしの味」を楽しむ集いです。
朝、9時前にお伺いしたのですが、すでに会場にはたくさんの人が集って、準備をはじめていました。
みんなが集ったら、オープニングの挨拶が予定されていましたが、そんなこととは別に集った人たちがそれぞれ自発的に自分の役割にそって準備に入っています。
それも楽しみながらですから、ゆったりした流れです。
全員がボランティア参加なのですが、見事なものです。
ボランティアのみなさんは、一応、グループ分けされています。
豆腐作りやこんにゃく作り、蒸しパンや餅つき、そしてさわち料理、焼き芋の係りもあります。
主役はお年寄りです。
お年寄りの知恵を中心に、伝統的な料理法が再現されたのです。
豆腐を固める「にがり」もわざわざ海水を取ってきたそうです。
かなりのご年配の方々も、こういう作り方は久しぶりだとうれしそうでした。
50人近くの男女老若が自発的に集って、和気あいあいと昔ながらの食べ物作りの風景はとても心和むものでした。高校生のボランティアも参加してくれていました。彼女たちには、それぞれの料理法がとても新鮮だったようです。
2時間かかって料理をみんなでつくり、その「作品」を駐車場に用意したテーブルに並べました。
今度はみんなでおしゃべりしながらの会食です。
近隣の人たちに声をかけて、100円の会費で誰でも自由に食べてもらおうというわけです。
前日の高知新聞でも取り上げられたおかげもあってか、100人を超える方が集りました。
そして大勢の屋外会食会が実現しました。
実に素晴らしい風景でした。
自動車で通りがかった人が、一体なんだろうかと立ち寄られたりして、とても開放的なパーティになりました。
お年寄りの顔が生き生きしていたのが印象的でした。
私もお年寄りからたくさんのことを教えてもらいました。
お年寄りの知恵から教わることは本当に多いです。
生き生きしたお年寄りを見ていると、介護保険や孤独な老後生活などはすっかり忘れてしまいます。
お年寄りは「介護されるべきお客さん」ではないのです。
会食会場では年齢とは無関係に、もちろん障害のある方もない方も一緒になって、昔懐かしい味を楽しみながら、時間と空間を共有していました。
午後は近くの中学校の体育館で演芸大会です。
これもすべて自分たちの手作りです。
つどいの場に集るお年寄りが主役です。
受付は午前の部では豆腐作りのリーダーだった上田さんです。
多分、もう80歳くらいでしょうが、とても元気でお若いです。
演芸大会にはおそらく200人を超える人が集りました。すごいです。
こうした素晴らしい活動が、地域のお年寄りを中心に実現しました。
介護の会や宅老所というイメージから想像できるでしょうか。
私が目指している「重荷を背負いあったさまざまな人のつながり」が、そこに現出していました。
感激しました。
地域のみんなが、誰のためにでもなく、みんなで楽しい場を創り出して、自らも楽しんでいる。
みんなが主役でした。そして、素晴らしい行事を自分たちで実現したのです。
難しく考えることはないのかもしれません。
■メッセージ12:ペイ・フォワードの実行をしてみませんか〔2003年1月1日〕
2002年は私には少し苦しい年でした。
善意(まあ、私の独善的善意なのですが)から始めた事が、思わぬ問題を発生させたり、私の不手際から家族や友人知人に迷惑をかけてしまったり、いろいろありました。
そのせいか、ちょっと元気がなかった年です。
歳のせいかもしれませんが、どうもそれだけではなく、自らの生き方の「間違い」にも気づくと元気はなくなりますね。
昨年、61歳になりましたが、還暦を超えて初めて、自らの生き方の問題に気づくのは、恥ずかしい限りですが。
以前から友人たちに指摘されていたことですが、自らの常識のなさと人間的欠陥を痛感した年でもありました。
反省しなければいけません。
その原因は、やはり私の生き方の中途半端さにあるのかもしれません。
そこで今年は、もっと意識的に生きる事にしました。
言行一致を強めると言うことです。そうしてきたつもりですが、まだまだです。
ここでのメッセージの内容も、もっと実行を意識したものにしていきます。
実行しなければ、どんな知恵も思いも意味がないからです。
今年最初のメッセージは、 2000年に話題になった映画のメッセージへの参加です。
メッセージを出すことも大切ですが、他からのメッセージを引受ける事も大切です。
私には、その視点が少し欠落していました。共感だけでは意味がありません。
「ペイ・フォワード」。ご覧になった方も多いと思います。
主人公の子供が、学校の宿題で考え出した「世界を変える方法」です。
彼はそれを実行しました。そして世界が変わりはじめました。
その方法は、まず困っている3人の人に具体的な「何か」をしてあげることです。
そして、 その3人には、もし感謝してもらえるのであれば、そのお返しを別の3人にまわしてやってほしいと言うことです。
その「合言葉」が「ペイ・フォワード」。前払いです。
そうやって、善意の行動が「ねずみ講」的に広がれば、世界は変わります。
そして、その成果がペイ・フォワードの代償として自分にもまわってくるのです。
これは現在の政治や経済の原理とはベクトルが反対です。
以前に書いた小論から引用させてもらいます(「企業変革のためのコミュニケーション戦略」)。
冷戦時代の米国とソ連の姿勢は核抑止理論による軍拡だった。自らの核戦力を増強することにより相手の核兵器使用を封じ込めていく発想(エスカレーション理論)は、結果としては相手の核兵力増強を引き起こし、両国は際限のない軍拡競争に陥った。大規模な戦争は回避できたが、そこから生まれたものは少ない。
最近の動きは、逆に一方的削減(オスグッド理論)による軍縮である。まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こす発想である。
いずれも自らの変化(軍拡、軍縮)が相手の変化を引き起こすわけだが、その変化の方向は全く異なる。そこから出てくる結果も大きく違う。自らの変化の方向が相手や状況の変化の方向を決めるのである。世界は自らが変わる方向に変化していくものなのだ。
ちなみにこの小論は、このホームページに転載しています。
企業のコミュニケーション活動に関わっている方はぜひお読み下さい。
1991年に書いたものですが、企業のコミュニケーション戦略は私の思いとは全く正反対の方向に進んでしまいました。
それが近年の企業の不祥事や元気のなさと無縁ではないと私は思っています。
経営コンサルタントや経営学者の責任も重いでしょうが、企業経営者の責任は大きいです。
話を戻します。
最初の一歩をどう歩き出すか。これが大切です。
今年の第一歩は、まずはペイ・フォワードしていくことにしました。
世界が変わる第一歩を私も踏み出します。
みなさん、ご一緒しませんか。
困っている事の手助けは、誰でも必ずできるはずです。
「ペイ・フォワード」の一言も忘れませんように。
世界は自らが変わる方向に変化していくものなのです。
それこそが、個人から発想する時代(メッセージ6)の特徴でもあります。
私に何かできる事があれば、ご連絡下さい。
お役に立てれば、とてもうれしいです。
■メッセージ11:他人事の事件などないのです〔2002/12/21〕
一昨年の大晦日に起こった、世田谷一家殺人事件は未解決のまま3年目に入ろうとしています。
とても残念です。遺族が関連情報に謝礼金を提供する事にしたという記事を新聞で読みました。
お気持ちがよくわかります。
北朝鮮拉致事件もそうですが、私たちはこうした事件を他人事と考え、情報提供や情報探しにあまり積極的ではありません。
事件と自分とのつながりが実感できないからかもしれません。
その気になれば、何かの事件に役立つ情報に、自分も触れているのかもしれません。
私も、世界は狭くてつながっている、などと何回も書いているのであれば、もっと社会の様々な事件にもつながっているという感覚を持つべきだと最近、大きく反省しています。
その自覚を持てば、社会は違って見えてくるはずです。
そして、みんなが送思えば、社会は変わっていくでしょう。
新聞では毎日、様々な事件が報道されていますが、どうしても他人事としてしか読んでいない自分があります。
そのほとんどの事件が、私の生活と隣り合わせにあることは少し考えればわかることなのですが、その「少し考えること」を私はあまりやっていないことに、最近、気が付きました。
皆さんはどうですか。
宮澤さんは私の知人です。
事件の翌日、つまり昨年の元日、新聞社から電話がありました。
衝撃的な事件でした。
宮澤さんは心根の優しい、ピュアな人でした。
日本CI会議体を支えていたメンバーのひとりでもありました。
状況から考えて、すぐにでも事件は解決すると思っていましたが、2年たってしまいました。
新聞記者からの取材や警察からの聴取を、それぞれ数回受けました。
思いつくことはほとんどありませんでしたが、今にして思えば、「誰かが解決してくれる」という思いから、どの程度真剣に思い出そうとしたかの反省があります。
もちろん、その時は一生懸命思い出そうとしましたが。
事件を見過ごす。
最近の警察の姿勢に対する批判のひとつです。
その背後には、こうした事件を見過ごす私たちの生き方があるように思います。
何か事件が起きた時に、自分との関わりを考える。
そして、自分として何かできることはないかを考える。
もしできることがあったら実際に行動に移す。
そして何よりも、まわりにある小さな事件を見過ごさないように努力する。
そんな生き方を、来年は私自身の一つの目標にしようと思っています。
できるかどうか心配ですが、努力します。
皆さんも付き合ってくれませんか。
■ メッセージ10:お金で規制する発想を捨てましょう〔2002/11/02〕
少し生活が安定してきたので、メッセージを書き出します。
今回は昨日から始まった千代田区での歩きタバコへの罰金の話です。
テレビで報道を見ていて寂しい気分になりました。
罰金で規制するという発想が、いつまで続くのでしょうか。
お金万能主義が、今の時代をつくり出したとしたら、これは全く間違った方向です。
極端に言えば、北朝鮮の路線と全く同じですね。
私はタバコを吸いません。そして歩きタバコには反対です。
駅で事故に合いかけたこともあります。従って、歩きタバコをやめようという動きには大賛成です。
そんなことは当然のことですが。
しかし、そんな当然のことが罰金をかけないと守ってもらえない。
なぜでしょうか。そこを考えずに、罰金をかけたとして、一体何が変わるのでしょうか。
ここでもお金に依存する、現代社会の病理が見えてきます。
そのことを改めなければ、問題は解決しないのではないかと私は思います。
水俣市では、数年前から、たばこの吸殻をみんなで拾おうという活動をはじめています。
前市長の吉井さんから聞いた話です。感激しました。
千代田区の発想とは全く反対です。
私の言い方をすれば、組織発想(制度発想)と個人発想の違いです。
メッセージ6を読んでもらえれば嬉しいです。
そろそろお金に依存するのはやめたいものです。
ついでにいえば、テレビのニュースで毎日、株価や為替の数字を報道するようになってから、社会はますますお金依存に変わってきたと思います。
私が許せないことの一つです。
株価や為替レートをなぜ毎日テレビで知らせなくてはいけないのでしょうか。
経済を数字で動かすのをやめて欲しいです。
経済はエコノミストのためにあるのではないのですから。
エコノミストの友人はいますが、その常識を変えて欲しいものです。
また批判がくるかもしれませんね。いやはや。
千代田区長に考えを変えてもらいたいです。
時代を悪くした一人になりかねませんし。
やっていることの意味をもっとまじめに考えて欲しいです。
それに、規制活動に巡回している職員のみなさんの思いはどんなものでしょうか。
テレビで「逆切れ」と報道された女性がいますが、彼女の反応はよくわかります。
私たち全員の生き方が批判されているのではないでしょうか。
相変わらず時間がとれずに、なかなかメッセージは書けませんが、最近、疑問に思うことばかりなので、とりあえず、今回は素朴な疑問を投げかけさせてもらおうと思います。中途半端な文章になるでしょうから、顰蹙をかいかねませんが。
まずは日朝国交回復。なぜ、今の北朝鮮と国交を回復しなければならないのでしょうか。それがわかりません。
たとえば、誘拐殺人グループがあるとします。 そのグループは、最近、経済的に貧窮しており、放っておいたらグループが破綻するらしいとします。そうだからこそ、誘拐殺人を犯したのですが、誘拐された人たちを統括するグループのリーダーがそのグループを救うために支援しようとするでしょうか。
いじめっ子に押さえ込まれている子ども集団があるとします。仲間から離れようとすると、リンチにあってしまうとします。ボスは弱いものがたくさんいないと、いい目には合えないので仲間を減らしたくないのです。でもいじめるのです。しかしいじめられっ子も限界に来ています。そこでボスは不安になり、自分のパワーを高めるために外部に応援を頼みました。このまま行くと、自分の支配体制、つまりいじめの構造が維持できないから、応援してくれというのです。誰が応援するでしょうか。そして、もし応援するとしたら、折角立ち上がろうとしているいじめられっ子は、嬉しいでしょうか。また地獄の生活が続くのです。
暴力的な隣人が住んでいるとします。最近、何か物騒な道具を買い込んで近隣を脅しているのです。このまま放置して置いたらどうなるか、しかし、警察に通報してもなかなか動いてくれません。まあ、普通はそんなことはないはずですが、現実にはよくあることです。これ以上、脅しがエスカレートしないように、ご機嫌を取ろうと誰かが動き出したとします。それで暴力はおさまるでしょうか。勢いづくことはないでしょうか。ましてや武器まで供与することにでもなれば。
あんまりいい例ではなかったのですが、こうしたことが、当事者が個人や仲間集団ではなく、国家になると公然と行われ、誰もおかしいと思わないのです。国交正常化はいいことだとなるのです。でも、その国家って何でしょうか。大切なのは国家ではなく、人々の生活ではないでしょうか。
私は戦争には荷担したくはないですし、 構造的暴力行為にも荷担したくはないのですが、それは難しいことです。
私の税金の一部がアフガンを攻撃し、人々を苦しめている体制の維持に役立っていると考えるのは辛いことです。
いや、もっと辛いのは、北朝鮮の体制と日本との体制の共通点が今回また見えたからです。
北朝鮮の最大の問題は政府が嘘をついていることだと私は思っています。
みんなの国家であれば、透明性がなければいけません。
嘘をつくのは、断じてみんなのためではなく、個人的な私利私欲のためです。
もちろん、大義のための「うそ」というのはありますが、それは透明性の中で行われます。
関係者の多くが真実を知りながらの合意の「うそ」です。 あるいはいつか開示される「うそ」です。
今回、日本の政府はまた嘘をつきました。
大義はあるのでしょうか。
食品メーカーや東電と同じ「嘘」としか私には思えません。
そして、その言い訳が、「家族のためを思って」です。
目の前に家族がいるのに、よくもまあ、と思います。
何を勘違いしているのでしょうか。
たかが総理大臣であり、外務官僚でしかないのに。
嘘をつくことの意味は、メッセージ2で書きました。
しかし、日本はますます「嘘の上に構築された社会」に向けて進んでいるような気がします。
哀しいことです。
額に汗してる人たちは、どうしたらいいのでしょうか。
楽観主義者の私も、最近は気が晴れません。
皆さんはどう思われますか。
私がまちがっているのかもしれません。
そうであればいいのですが。
ぜひCWSフォーラムに投稿して下さい。
■メッセージ8:私たちはみんな自分で生きる力を与えられています〔2002/08/24〕
ケアプランを自分たちで作ることを広げようと活動しているグループ(全国マイケアプラン・ネットワーク)の人たちから話を聞く機会がありました。参加者の一人が、でもケアプランを普通の人が自分でつくるのは大変でしょう、と質問しました。
ケアプランは専門知識のあるケアマネジャーでないとつくれないと、普通の人は思いがちです。しかし、考えてみればおかしな話です。介護の必要性を最もよく知っており、その現場に一番近い人こそが、専門家ではないでしょうか。もし、そうした当事者に近い人が作れないような介護制度であれば、制度がおかしいのです。
なぜそうなるのでしょうか。ここに、現代社会の大きな矛盾があるように思います。
こうした事例はいくつでもあげられます。みなさんの周りにもたくさんあるはずです。
人間は本来、生きる力を持って生まれてきています。もちろん「生きるための大きな障害」を持って生まれることもありますが、それは社会の仕組みとして取り組むべき問題であり、そうしたことも含めて、人間社会は個々人の生きる力を基軸にして考えていくことが必要ではないかと思っています。
しかし、今はそうなっていません。ほとんど例外なく、すべての人が他者に依存する生き方を基本にしているような気がします。自己学習力も自己治癒力も、自己生活力も自己生存力も、いまの社会の仕組みの前提にはなっていません。逆にそれらを否定するところから、今の社会制度は設計されています。
そうした社会では、生きやすいかもしれませんが、生きる喜びは実感しにくいように思います。つまり、生きる力を失うように社会が設計されてきているのです。そして、そのことが、「生きるための障害」を大きく持って生まれた人たちを自然と支える文化の不在にもつながっているような気がします。
顔も知らない大勢の人たちに依存して生きることが、いまでは普通になっています。昔の人たちのように、百姓として多数の仕事をこなすことはできなくなっています。生活を事細かに切り刻んで、それぞれを専門家に委ねてしまっています。なぜそうなっているのでしょうか。なぜそれをおかしいと思わなくなっているのでしょうか。
みなさんは不要に自分の生活を他者に託していませんか。
専門家に任せておけばいいと安直に自分の人生を他者に委ねてはいませんか。
そんなことはできないと最初から自分のことを自分ですることを放棄してはいませんか。
専門家などというのは幻想です。
私たちはみんな自分で生きる力を与えられています
ちょっと自分でやる領域を広げてみませんか。
■メッセージ7:間違いを犯すことよりも、間違いを隠そうとすることを恥じましょう〔2002/04/06〕
最近の政界はまさに混乱のきわみです。
なぜみんな、自分のことになると、間違いを認めようとしないのでしょうか。
無口になるのも不思議です。
最も効果的なコミュニケーションの方法は「弱みや失敗を見せる」ことです。
これは人間のような小賢しさのない動物の行動からも観察されています。
企業広報の父といわれるアイ・ビー・リーは「広報とは正直さだ」と考えました。
当時、米国の鉄道会社は事故に悩まされていましたが、鉄道事故が起きても評判が落ちるのを恐れて極力隠そうとしました。
しかし、彼は事故が起きたら積極的に開示し、新聞の取材も支援すべきだと主張したのです。
彼に共感した鉄道会社がありました。
事故が起こり、彼の主張どおり積極的に事故の実態をさらけ出し、取材を支援しました。
その結果、その会社の評判は高まりました。
しかも副次的な効果として、自己の責任や原因が明らかになり、事故の減少にもつながっていったといいます。まさに災い転じて福にしたのです。
これが企業広報の始まりです。 危機管理の極意です。
事故は必ず起こるものなのです。
隠す必要は全くありません。
日本の危機管理は「どうしたら損害を最小化するか」という発想です。
しかし、危機管理の本質は「どうしたら利益を最大化するか」なのです。
昨今の日本の企業や行政の危機管理は全くばかげています。
プラスに転ずるきっかけさえ作ろうとしないのです。
個人もそうです。
弱みをさらけ出せば、人は心を開いてくれます。
コミュニケーションが始まるのです。
信頼を回復し、解決策が見えてきます。
人は間違いをおかすものです。
政治家も企業人も行政職員も教師も、です。
行政の世界には無謬性の呪縛がありますが、そんな虚構はすてなければいけません。
にもかかわらず、みんな間違いを指摘されるとなぜか言い訳を始めま。
そして自分を閉ざしていきます。
最近の政治家は例外なくそうです。不思議です。
実態を正直に公表すれば問題は簡単に解決するはずです、
もし自分も知らなかったのであれば、素直に国民と同じように「知りたい」と思えばいいのです。
自分も弱い一人の人間だという思いを持てばいいのです。
政治家だけではありません。
私たちもきっと今の政治家と同じように、間違いを認めずに、弱みを隠しながら、醜く生きているのかもしれません。
生き方を少し見直すのもいいかもしれません。
せめて間違いをおかしたら、正々堂々と間違いを公表しましょう。
そして間違った理由を真剣に考えましょう。
きっと元気になれます。
■メッセージ6:発想の起点を変えてみましょう〔2002/04/06〕
1995年に日本を訪れたフランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは「日本が豊かなのは日本人が貧しいからかもしれない」と言ったそうです。
経済大国と言われる日本でも、そこに住んでいる人たちの生活というのは本当に豊かなのかどうかということはたいへん疑問です。
私は二つの豊かさモデルがあると考えています。
一つは「全体が豊かになってこそ個人が豊かになる」という発想です。
日本はこのモデルで豊かさを追求してきました。
まずは個人の欲求を我慢して全体のパイを大きくしようと、みんながんばってきたのです。
個人よりも会社、個人よりも地域社会、個人よりも国家が優先されました。
言い換えれば、全体の豊かさを高める視点で制度や組織が設計されたのです。
そして見事に急速に経済を発展させ、豊かな社会を実現しました。
しかし、そのモデルは限界に来ているようです。
全体から発想していては、もはや全体の豊かささえも高められない状況にきています。
そこで、もう一つのモデルが登場します。
「個人一人ひとりが豊かになってこそ、全体が豊かになる」。
ボードリヤールのフランスはこうした発想が根底にあるのかもしれません。
この二つのモデルで考えると様々なものの問題点と解決策が見えてきます。
企業も行政も学校も地域社会も、変革が求められていますが、それに成功していないのはこうした基本的な視点を変えていないからかもしれません。
全体から考えるのではなく、個人から考えれば、簡単に解決策は見えてくるはずです。
家庭も同じかもしれません。
和歌山県の「きのくに子どもの村学園」は生き生きした学校として注目されていますが、その基本にあるのは「学校に子供を合わせるのではなく、子供に学校を合わせるのだ」というニイルの教育理念だそうです。
全体の視点から考えるのではなく、個人の視点から考えるということは、そういうことです。
言葉で言うのは簡単ですが、しっかりしたリーダーシップや真の意味のマネジメントがなければ混乱してしまうでしょう。
企業も同じことです。
経済同友会などが「個の尊重」などと盛んに言っていたことがありますが、実際にそうした方針で会社を経営した大企業を私は寡聞にして知りません。
それだけのパワーを持っていた経営者は最近の日本にはおそらくいなかったでしょう。
日本の大企業は、この数十年、護送集団方式などというわけのわからない仕組みの中で、本来的な経営などしなくても会社は成長したのです。
官僚も教師もそうだったのかもしれません。
昨今の状況を見れば、それは否定できない事実です。
しかしこれからはそうはいきません。
ようやく経営が求められだしたのです。
それは視点が個人に移ったからです。
労働力ではなく、表情をもった個人をどう束ねていくか、実に面白い時代になってきました。
みなさん、会社に使われていませんか。
組織や制度に振り回されていませんか。
会社も組織も制度も、私たちが使い込むものです。
主役は私たち一人ひとりです。
会社や組織や制度を使い込んで、それらの価値を高めていかねばなりません。
もちろん組織を使い込むということは、外務省の官僚たちのような卑しい行動を指しているわけではありません。
言わずもがななことですが。
■ メッセージ5:最近の裁判には違和感はありませんか〔2002/2/16〕
山口県光市の母子殺人事件の控訴審判決が出ました。無期懲役です。その判決に対する被告の家族の本村さんのコメントを皆さんはテレビで観たでしょうか。とても共感できます。と同時に、私は裁判というものに対する違和感をますます強めています。
司法に対する違和感を感じ出したのは、オウム事件の頃からです。こんな裁判のあり方では、社会から「規範性」というものがどんどんなくなってしまうのではないかと思うほどです。裁判とは一体何なのか、いのちを尊重するとはいったい何なのか、どこかで何かが間違っているような気がします。
私も一応、大学では法律を学びました。検事になりたかったのです。死刑には反対でした。人道上の理由ではありません。生命を人為的に絶つという行為が、殺人と同値に思えたからです。その理由で戦争も、私には理解しがたい行為でした。国家の平和と個人の平和は決して両立しないのではないかと思っていました。聖戦などという発想は私の理解を超えていました。
しかし、最近はかなり考えが変わりました。
もし皆さんが本村洋さんの立場におかれたらどうでしょうか。私なら、彼ほどには冷静にはなれないでしょう。おそらく「報復」を考えます。批難されるでしょうが、それが正直な気持ちです。その気持ちを納得させてくれる仕組みを、今の司法は持っていないように思います。
被害者側の人権が、今の司法では十分守られているとは思いにくいのですが、皆さんはどうでしょうか。そうしたことは、これまでも被害者側から盛んに指摘されていますが、自分がまだ被害者の立場におかれたことがないせいか、私はこれまでまじめに考えてきませんでした。それにやっと気がつきました。恥ずかしい話です。
ところで、今の裁判はなぜ被害者に冷たいのでしょうか。法や制度の不整備ではないはずです。私は裁判に関わる人たちの目線と心の問題だと思います。判事たちは判決をする時、本村さんの立場に立って考えてみたのでしょうか。もしご自身の家族が同じ目にあった時に、この判決で納得できるでしょうか。
私は死刑にすべきだなどと言っているのではありません。無期懲役でもいいのですが、不思議なことに無期懲役は必ずしも無期懲役ではないらしいのも、どうも納得できません。それはともかく、本村さんに信頼を与える判決を出せなかったことに不満を感じます。それでは裁判の規範性は維持できません。判決は死刑でなくとも、それは可能だったはずです。
最近、私の友人が突然夫から離婚宣告を受けました。夫は女性弁護士と同棲し始め、一方的な離婚の申し入れだったらしいです。訴訟になりました。ところが、相手が弁護士だったこともあり、わが友人は信じられない状況で裁判を進めなければならなくなっているようです。仲間意識は法曹界でも強いようです。もちろん例外はあるでしょうが、卑しさを感じます。
今回の事件とは別の話のようですが、同じ問題ではないかと思います。自らとは無縁の時には理念的に、自らの世界につながってくると、途端に利己的に、というところが似ています。卑しいとしかいえません。
それにしても最近の外務省といい、国会議員といい、卑しさを感じざるを得ないことがあまりに多いのが、とても哀しいです。
■ メッセージ4:生活者の素直な感想を大切にしましょう(2002/02/17)
今年のオリンピックで起こった、フィギュアスケート・ペアのフリー演技での「二組の金メダル事件」は、いま世界的に始まっている「真実を露出する事件」の一つとして、実に多くの含意を持つ事件でした。私が一番、元気づけられたことを今回は書かせてもらいます。
今日の日経新聞の春秋からの引用です。
(カナダペアの評価に対して)観客席からブーイングが起きた。(中略)観客席の気持ちは良くわかった。春秋子も「あれっ」と思った。(中略)ロシア金の判定に、素人と玄人の見所は違うのだ、と独り合点したが、"地元"北米のメディアは納得しなかった。
「素人と玄人の見所」が違うことは少なくありません。これはなにもオリンピックの判定だけの話ではありません。
たとえば行政の判断はどうでしょうか。諫早干拓や長良川河口堰にしても、狂牛病対策にしても、地域振興券や市町村合併にしても、なんだかちょっと違うなと思っている人も少なくないと思います。でもまあ、専門家が集まって検討し、決めたことだから間違いはないだろうと思ってしまいがちです。つまり、私たちはそこで思考を停止させてしまい、自分を納得させてしまうのです。
企業ではどうでしょうか。最近の雪印の事件ではおそらく関係者の多くは「素人(生活者)」として「おかしいな」と思っていたはずです。にもかかわらず、企業経営の「玄人(経営管理者)」にいわれるとそんなものかと思考停止してしまったのではないかと思います。そうした状況は雪印に限りません。多くの企業で日常化しているように思います。せめてもの救いは、失敗の責任が問われない行政と違って、企業の場合はしっかりと責任が問われることです。
学校も病院も同じです。「玄人」の先生と「素人」の生徒や患者とでは、意見の違いの行き着く先は明白です。
「素人と玄人の見所」が違ってくる理由は大きくは二つあります。「情報の違い」と「判断基準(視点)の違い」です。
情報の違いはIT革命のおかげで、急速に解消されつつあります。さまざまな分野で最近始まっている「真実の露出」事件はその影響です。情報は本来、拡散する本性を持っていますから、情報共有化は歴史の流れです。組織や制度も大きく変わらなければ、機能不全に陥るでしょう。
そうなると、問題は判断基準(視点)です。素人と玄人の視点、つまり判断基準はどう違うか。情緒的にいえば、心で考えるか頭で考えるか、ではないかと思います。
長くなってしまいましたが、今回、私がメッセージしたいことは、生活感覚から出てくる素直な感想を私たちはもっと大切にしたい、ということです。その感覚がきちんと評価され、歴史を変えていく力を持ち出したのです。
おかしいことをおかしいと言い出しましょう。納得できないことはノーと言いましょう。生活者の常識にもっともっと自信を持って、素直に生きたいと思います。
■ メッセージ3:今が不況だ、などと考えることをそろそろやめましょう(2002/2/10)
不況型倒産が増えているようです。つい先日のテレビでも、不況の影響で福祉作業所の仕事がなくなり、障害者にもしわ寄せが出ているようです。地方のまちづくりにささやかに関わっていますと、そこで起きているゼネコンがらみの倒産の話もよく耳にします。
たしかに日本の経済は元気をなくしています。 しかし、だからといって、今が不況だと決めつける必要はありません。皆さんは今の日本を本当に不況だと思いますか。毎年、年初めのデパートに行って、無駄になるとしか思えない福袋を競って買っている人たちを見るにつけ、日本のどこが不況なのだろうかと、私はこの10年思い続けています。
そもそも不況とは何でしょうか。景気が悪いことでしょうか。では景気とは何でしょうか。ものの生産も消費もこれほどの水準でありながら、何を持って不況と言うのでしょうか。私は、今は不況などではないと言い切っていますが、この10年、賛同してくれる人に出会えていません。私の女房すらも、完全には納得していないようです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、問題は、「いまは不況だから」という発想がもたらす弊害です。不況であることが不条理なことの口実になったり、問題を先延ばしにする口実になったりすることです。その結果、真実や未来への展望が見えなくなっていることです。皆さんも口実に使っていませんか。
ある辞書によれば、不況とは供給能力が需要を上回っている状況だそうです。その定義に従えば、確かに今は不況です。有効需要を増やすことが解決策になるわけですが、それでいいのでしょうか。需要拡大の口実で、私たちの税金がどれほど無駄に使われているかは枚挙の暇もないほどです。今を不況と決めつけることで、誰かが得をしているのです。
前年よりも経済活動が低い水準であることも不況の物差しになっていますが、この論は右肩上がりの発想を引きずっているだけの話です。そろそろ物差しを変えなければいけません。エコノミストはみんな、まだ右肩上がりが終わったと思いたくないのでしょうか。
今は決して不況などではないのです。今こそが正常だという認識から行動を起こすべきです。もうじき需要が増える、雇用の場が増える、株価や地価は上昇する、という無責任な期待はそろそろ捨てましょう。そんな期待から何か価値あることが生まれると思いますか。誰かに付け込まれて、世界をますます悪化させるのが関の山です。
不況などという言葉を軽々しく使うのはやめましょう。そして、今が正常なのだという認識で行動を起こしましょう。そうすることによってこそ、本当の豊かさや幸せが見えてくるように思います。
今が不況でないという意見に賛成の方はぜひ別項のフォーラムに投稿してください。もちろん反対の方も。
*冒頭の福祉作業所での仕事の現象や倒産による失業者の問題は深刻な問題ですが、この問題を解決するためにこそ、私は安直な「不況」論を超える必要があると思っています。またいつか論議させてもらいます。
■ メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)
今回の田中外相の更迭事件は「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の範を首相が示してくれた「歴史的な事件」でした。
子どもたちには大きな影響を与えるのではないかと思います。 リーダーとしての責任のとりかたについても、たくさんの影響を与えていくことでしょう。子どもたちは学校の先生から何かを学ぶのではなく、大人たちの生き方から多くのことを学ぶのです。影響力の大きいモデルの一人が、総理大臣です。そして、彼を支えているのは私たちです。私たちの生き方です。
重要な問題であるにも関わらず、誰が嘘をいっているかも明確にしようとしない人でもリーダーがつとまるわが国の政治は、いったい何なのだろうかと、いささか哀しく思います。まあ、今に始まったことではないのでしょうが、ここまで明確にみんなに見えているにも関わらず、よくやるなあ、と感心してしまいます。いずれにしろ、事実に基づかなくとも政治ができてしまうのです。
嘘をついても嘘をつかれても、どちらも罰せられるのであれば、嘘をついたほうが賢いともいえます。実際、今回の結果はそうなったような気もします。もしそうであれば、嘘の勧めというお裁きだったわけです。
小泉さんは日本の未来を2回変えたと私は思っています。前回は、私は国会デモに参加して、自己満足的な抗議を行いましたが、今回はもっと本質的な問題を含んでいますので、デモ程度では対応できそうにありません。そこで、一度、政治ってなんだろうか、という集まりをやりたいと思っています。関心のある方はご連絡下さい。
それはともかく、今回の事件を皆さんはどうお考えでしょうか。
言った言わないよりも予算を早く決めるほうが大切だ、という人もいますが、嘘を奨励する人が作る予算など何の役に立つのでしょうか。NGOの正しい評価や構造改革も大切ですが、それ以上に嘘を正さないことのほうが問題ではないかと私は思います。子どもたちでもわかるような、基本的な問題こそが大切なのです。言葉に惑わされて、感覚を麻痺させてはいけません。
私たちの生き方の根幹が問われているのです。
あなたは、嘘をつくことに呵責を感じない人たちがつくる予算を信じますか。
雪印食品の事件にも現れていますが、私たちは「嘘をつくこと」にあまりにも寛容になってしまっているのかもしれません。政治も経済も嘘(虚像)の上に成り立っている。これが現在の姿です。
このことのおかしさを、少し考えてみることが必要なような気がします。
このホームページを手作りで書き込んでいるうちに、これこそ新しいコモンズ空間であり、その意味合いはすごく大きいのではないかと思い出しました。やっとそんなことに気がついたのかといわれそうですが、私には新しい発見です。わくわくどきどきしています。
「創る人」と「訪れる人」という関係ではなく、訪れた人がどんどんと書きこみながら、創っていくホームページ。
「情報の受発信の場」ではなく、「情報の創発の場」。
「アクセスを待つ受身の場」ではなく、「声を掛けてくるような能動的な行為の主体」
ホストがどんどん増えて、最初に創った私が忘れられてしまう空間。
勝手でばらばらなホームページ文化を昇華した社会のインフラ。
思いはどんどん広がります。
つまり、
アクティブなコモンズぺージです。
もうそんなものはあるのかもしれません。
そこで、メッセージです。
このホームページにどんどん参加して、書き込む仕組みを考えてくれませんか。
もう少し私の理解が進んだら、新しいホームページ研究会もはじめたいと思っています。
ここでは私からのメッセージを送らせてもらう予定です。
これまでも、時々、お付き合いくださっている皆さんには、メールで迷惑ノイズを出していました。
大きな反響があったものもありますが、全く無視されたものもあります。
たとえば、「2000円札を受け取るのはやめましょう」というのは、それなりに反響がありました。テロ防止法案反対デモへの参加のお勧めにも少し反響があり、デモ現場でその一人にも会いました。「自販機はできるだけ使わないようにしましょう」にはあまり反響がありませんでした。
ところで、前述のデモに参加して感じたことがあります。
市民によるデモだったのですが、8000人くらい集まりました。しかし、どのテレビも、またほとんどの新聞も報道してくれませんでした。
ニューヨーク事件後、各国で真剣な市民の意思表明が行われているのに、なぜ日本では行われていないのかとテレビを見ていて嘆いていた女房もデモに参加したのですが、日本でもこんなに真剣に行動している人たちがいるのだと知って喜ぶと同時に、なぜマスコミは報道しないのかと不審に思ったようです。
この話を友人にしたら、それが日本の情報状況だから、自分でしっかりした情報受発信の仕組みを持たなければだめだといわれました。
確かにマスコミの情報はほとんどが編集済みで、取り上げる事実も偏りがあります。それらをつなぎ合わせると、ほとんどフィクションの世界です。ある調査(1997年)によれば、一般的な米国民でテレビニュースをいまだに信頼している人は18%、新聞を信じている人は12%にすぎないそうです。
自分の情報メディアを持つ、というのがこのホームページの目的の一つです。
ですから、まことに余計なお世話ながら、個人的なメッセージを出していこうと思っています。
これは私の道楽ですので、このページは見なくても結構です。もちろん、私自身はここだけ見てくれればいいというのが本音ではありますが。
行動につながるような、あるいはつなげるような、メッセージを出していきたいと思います。