■ メッセージ14:産業のジレンマに気づきましょう〔2003年2月1日〕

 工業化社会を支える産業のジレンマについて、いつかメッセージしたいと思っていましたが、なかなか書き込む時間がありません。
 今週の週間記録に、なぜかそれにつながる話が多かったので、中途半端ですが、書き込みたいと思います。雑駁な議論で怒られそうですが、趣旨をお読み取りいただければうれしいです。

 近代社会の特徴の一つは、世界を要素分解したことですが、産業革命以来、「生産活動」も要素分解されてしまいました。 世界の問題を各論で解決していこうという発想になったわけです。何か困ったことがあれば、それを解決する。それは一見正しかったように見えましたし、事実、様々な福音を私たちに与えてくれました。
 しかし、生きた世界は各論で成り立っているわけではありません。すべてはつながっているのです。ですから、どこかで問題を解決すれば、どこかで問題が発生することもあります。これに関しては改めてメッセージしたいですが、今回は要素分解型生産(産業)構造のもう一つの落とし穴についてです。それは、問題解決の手段が目的化することです。

その典型はリサイクル産業です。
 リサイクル産業は廃棄物を再活用することがミッションですが、もしリサイクル産業を発展させようとすれば、廃棄物を増やさなければいけません。本来の目的の廃棄物をなくすミッションと廃棄物を求める要請とのジレンマが発生します。(「地球との共生意識が企業を進化させる」参照)

これは何もリサイクル産業だけの話ではありません。
  自動車産業は自動車事故が増えるほど発展します。生命保険は生活の不安が大きいほど市場を拡大させられます。病人が増えれば、病院や製薬会社が繁盛します。戦争が起これば産業が発展します。日本の経済も朝鮮戦争で復活しました。
 どこかおかしくないでしょうか。

私はこうしたことを「産業のジレンマ」と呼んでいます。工業は「死に向かう産業」という人もいますが、工業発想の近代の産業には、自滅に向けてのシナリオが内蔵されているわけです。
 それに比べて、工業以前の生産の営み、例えば日本古来の農業には「生に向けてのシナジー」が埋め込まれているような気がします。

現代の産業が、目先の社会問題を解決する一方で、目先の社会問題を発生させている事例は、多分、枚挙に事欠くことはないでしょう。産業の二枚舌と言ってもいいようなメッセージが企業から発せられていることも少なくありません。いや、そうした産業に支えられている私たちの生活そのものに、大きなジレンマが内在しています。

私は今の産業を否定しているわけではありません。むしろ肯定しています。
私もまた、そうした産業のおかげで生活を支えられているからです。
しかし、産業にはそうしたジレンマがある事をみんなもっと意識するべきだと思っています。
意識して、どうなるのか、と言われそうですが、意識すればすこしだけ生活が変わることがあります。

もう少し書き込みたいですが、今日は時間がないので、また続きを書きます。