地球との共生意識が企業を進化させる
(R&D研究年報1991所収)

1.沈黙の春の反乱

 「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」。1949年エッソが出した雑誌広告のコピーである。科学技術をベースとした工業化の進展は、まさにエッソの指摘通り石油消費量を激増させた。工業化の度合いが文化の「発展度」を測る指標にさえ使われ、地球あげての工業化競争が繰り広げられたのはそう遠い昔の話ではない。
 そうしたことの意味について真先に警告を発したのが米国の海洋生物学者レイチェル・カーソンである。彼女は名著『沈黙の春』(1962年)で工業化の行く末を象徴的に語っている。それは、春にさえずる鳥はなく、海や河川には泳ぐ魚も見えず、地上もまた彩りのない灰色の静寂に覆われるという「沈黙の春」である。ローマクラブが『成長の限界』を発表するちょうど10年前だった。
 1960年代は、しかしまだ希望がたくさんある時代であった。「宇宙船地球号」の概念で地球環境意識の必要性を提起したバックミンスター・フラーの論調には地球の未来への確信があったし、科学技術への信頼もあった*1。だが、そうした警告にもかかわらず、1970年代以降も工業化は僅かな軌道修正をしただけで前進し続けた。科学技術と産業の対話は常に産業優先で行われてきたと言っていい。産業界の大英断と言われるフロン問題にしても、最後のぎりぎりまで産業優先の歴史で動いてきた事実を見落としてはならない*2。
 もっとも産業界や企業にそれほどの悪意があったわけではない。むしろ自然環境への甘えといったほうが適切だろう。全体が見えにくいこともあって、工業化のために無限の自然環境が与えられるという発想を捨てきれずに今日に至ったように思われる。工業化当初にはそうした認識も正当性を持ち得たかもしれない。だが,状況は変わってしまった。
 そもそも、工業化の推進主体である企業は内部管理発想で組織化されてきた。必要な資源は外部から調達し、活動の成果物は外部に販売し利益を得る。それに伴って発生した不要物は外部に廃棄するというのが企業の論理だった。資源の取り込みも廃棄物の排出も当然のことながら自然環境を阻害する。状態の活性度を表すエントロピーの概念を使えば、企業は極めて利己的な「開かれた系」であり、環境を犠牲にして自らの活性化を図る装置だったのである。そうしたマイナスにもかかわらず、社会に提供する製品やサービスの効用が大きかったために、企業は社会的に高い評価を受けて発展してきた。しかし、ここまで企業のプレゼンスが大きくなってくると、むしろマイナス面が浮き上がってきてしまう。企業制度のあり方(利己的な開かれた系)が問い直されるべき時期にきたのである。
 自然や地球に関する知識も増えてきた。その結果、地球環境と人間(企業)活動とのつながりが明確になると同時に、自然や環境の有限性や連鎖性が見え始めた。オゾンホールやCO2 の問題のように、地球全体をひとつの系として考えていかなければならない現実が明確になってきたのである。地球の裏側での森林破壊や企業活動も今や無関係のことではない。有限性が観念のレベルだけではなく、まさに実態レベルで実感され始めたのが現在である。地球環境はもはや理屈の世界の話ではなくなってしまった。
 しかも、その地球環境は大きく変質している。ビル・マッキベンは『自然の終焉』(1989年) の中で「われわれは大気を変えてしまい、気候を変えつつある。気候を変えることにより、われわれは地球のあらゆる場所を人工的にする。自然からその独立性を奪ってしまった」と述べている。人間社会と分離した自然はなくなり、本来の意味での自然は終焉したと言う。企業もまた自然を自らとは別の存在と考えてはいられなくなり、同じエントロピーの世界に共生する存在であることがはっきりしてきた。もはや自然は廃棄物を処理してくれる存在ではない。逆に廃棄物で構成された「自然」が企業を窒息させかねない。沈黙の春が反乱に転じたのである。
 「石油消費量が多くなれば、それだけあなたの暮らしは悪くなります」というわけである。暮らしに役立たない企業は存続を許されない。かくして地球環境が企業にとっても戦略的な意味を持ち始めた。

2.企業の地球環境意識

 企業の環境問題への関心は高まっている。地球環境室のような専門部署を新設した企業も少なくない。地球環境問題は1990年代を通じての最大の課題であると明言する経営者もいる。しかし、その取り組み姿勢は様々である。
 まず、地球環境の健全さこそが企業活動の基本であるという認識のもとに、自らの事業活動の地球環境との整合性を高めようという動きがある。たとえば「環境に影響を及ぼす要因を製品の開発段階から厳しくチェックし、必要に応じて除去ないし最小化するよう対策を講じる」(日本IBM)という姿勢である。当然と言うべきだろうが、こうした姿勢はコストアップにつながりがちであり、現実には厳しい条件と言っていい。
 冬にトマトを食べたいという消費者に対して、エネルギーを多消費する温室栽培でトマトを生産するべきかどうかという問題を考えてみよう。工業化技術の成果を駆使すれば、冬にトマトを作ることは難しいことではない。それが工業化の成果だと考えられてきた。だが、地球環境に与える影響は決して小さくない。消費者に我慢してもらうのが地球環境保全の見地からは望ましい。しかし、その結果、その企業は消費者ニーズを満たしてくれない企業として厳しい競争から脱落してしまうかもしれない。少なくとも事業機会を失うことは否定できない。こうした問題はどの事業にも存在する。事業本体を地球環境保全の見地から一挙に設計変更することは容易なことではない。多くの企業はまだ、包装資材の見直し(環境を傷めにくい資材への切り換えや包装機材の再使用)や製品の回収などの周辺的な分野で行動を開始したにとどまっている。
 もうひとつの対応は地球環境問題解決のために新しいビジネスを発見していこうという姿勢である。問題があれば必ずビジネスチャンスがあるという、これまでの企業の発想からすれば、こうした取り組みは当然だろう。「エコビジネス」という言葉が生まれ、環境問題は儲かるという発言さえ出ている。問題解決のために何らかの対策を講じなければならないから、投資が発生するのは否定できない。しかし、「CO2 対策が巨大市場に」などという産業アナリストの発想はいかがなものであろうか。
 似た議論に静脈産業論がある。たとえば「今までの産業は『動脈産業』だった。その結果さまざまの廃棄物を出してきた。『静脈』はその廃棄物処理をするものである。これからは『静脈産業』の時代になる。もしかすると『動脈産業』と同じくらい『静脈産業』が大きくなるかもしれない。発想が大きく転換して、新しいマーケットができる。新しい産業が生まれる」という意見がある(田原総一朗*3)。廃棄物処理は重要な問題だが、それを独立させて産業化すべきかどうかは議論の余地がある。廃棄物処理を始めから考えた産業化が本来の姿ではないか。静脈産業発想を認めれば、企業が営利事業によって社会的問題を発生させ、その問題解決のために新しい営利事業が成立するという無限の産業化の世界に陥ってしまいかねない。静脈産業もまた廃棄物を排出することは間違いないから、地球環境はますます変質させられることになる。「発想を大きく転換」するとは、静脈産業論を認めることではなくて静脈構造を取り込むことである。間違えてはならない。
 もちろん、地球環境に関連した新しい事業は存在する。CO2 問題の解決のために企業が果たすべき役割は沢山あるし、新たに開発すべき機器や装置、サービス活動も多いだろう。しかし、そうした事業開発の姿勢がこれまでと同じであってはならない。地球環境問題は企業にそれを求めている。静脈も意識したホリスティックな(エコロジカルな)事業開発や装置開発でなければならない。既存の問題を解決しながら新しい問題を発生させるようなことは避けるべきだし、地球環境問題を安直に商品や事業のマーケティング活動に乱用することは戒めなければならない。
 第三の取り組みはこの中間にある。地球環境問題に事業と直接関係なく関わっていく姿勢である。企業のフィランソロピー(公益)活動として行うケースが多い。環境保全活動への寄付や協力である。地球環境と言ってしまうと何か大規模な事業を想定しがちであるが、たとえばビール会社が社員の参加によって工場周辺の空き缶回収運動を行うのも立派な活動である。利益の一部を還元することも大切であるが、社員一人ひとりが地球環境を意識していくことのほうが企業の変革にとっては意味がある。
 マーケティング的色彩が強いものに、売上高の一定比率を地球環境保全のために寄付するという方式がある。たとえばダイエーファイナンスの「OMCエコロジーカード」は、消費者がカードを利用する度に利用額の0.5%を財団法人緑の地球防衛基金に自動的に寄付する仕組みである。その使途についても利用客がある程度の選択ができるようになっている。環境問題を販売促進に利用していいのかという意見もあろうが、しっかりした運営をすれば企業にとっても環境にとっても望ましい結果が得られる。
 これらの活動は現実には峻別しにくく、相互に関連していることが多い。どれがいいということではなく、それぞれに意義と落とし穴がある。大切なことは、企業として地球環境にどう関わっていくかという理念(方針)を明確にすることだろう。英国に本社を持つ自然化粧品の製造販売会社ボディショップは、それを明確に意識している企業である。既に15年以上の歴史を持ち、世界各地で事業展開している同社の理念の中心にあるのは、地球環境問題である。自然素材の活用、容器の再使用、動物実験反対という事業方針に加えて、事業利益の一部は環境活動に寄付、社員は勤務時間中に地域活動に参加など、事業設計はもちろん、企業活動すべてが地球との共生に向けられている。これからの企業経営のひとつのモデルと言っていい。

3.地球環境問題を契機に企業変身を

 自動車メーカーのボルボ社が昨年、「私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生みだしています」という新聞広告を出して話題になった。自社の製品の問題点を正面から認めたのである。その言葉に続けて、小さな文字で「だからこそボルボは、環境問題に真剣に取り組みます」と宣言している。
 どんなに良く効く薬も害を与える面を持っているように、事業にはすべて効用と弊害がある。それを隠す必要はない。大切なことは、その弊害をいかに少なくするかである。これまでの企業は効用ばかり言うだけで弊害をできるだけ隠してきた。もっともこれは企業だけの責任ではない。商品の持つ弊害の部分がわかると社会が過剰反応してしまうため、企業としては弊害を明らかにすることは極めて大きなリスクを伴うことだった。それがこれまでの企業と社会の関係であったと言ってもいい。その関係を変えていかなければならない。企業と社会は対立するのではなく、地球環境に向けて協働していくパートナーになる必要がある。そのために企業はどうすべきか。
 その出発点がボルボの姿勢であり、事業関連の情報公開である。とりわけ事業に内在する危険性に関する情報は勇気を持って社会に公開していく必要がある。企業としての解決努力は当然必要だが、社会と一緒になって解決に向けて協働することが望ましい問題も多いだろう。事業のマイナス面に対して消費者も感情的に対応する姿勢を改めなければならない。幸いにして、最近のグリーン・コンシューマー(環境意識の高い消費者)は、企業に一方的な要求を突きつけるだけではなく、企業との対話姿勢を強めている。バルディーズ原則(環境問題に関する企業の判断基準)のように対話の基準も整理されつつある。不信を持った対立関係ではなく、信頼しあった協働関係の中で企業と市民が一緒になって環境と事業との整合性を高めていく必要があるが、情報公開はその前提条件である。
 これに関しては多くの失敗例がある。フロンの最大メーカーであるデュポン社が、フロン関係の情報(一番多く持っているだろう)をオゾン問題が起きた当初に公開して、社会と一緒に問題糾明に当たっていたら、地球もデュポンも、被害を大幅に縮小できただろう。デュポン社の当初の対応はフロン生産維持のために、都合のいい情報だけを社会によびかけていたとしかいいようがない*2。わが国でもチッソ水俣病の苦い経験がある。あの時も企業が情報公開していたら、間違いなく事態は大きく変わっていた。これからの企業は、効用を強調する情報発信よりも、欠陥を相談する対話活動に関心を持つべきである。
 環境意識の高い社員を増やしていくことも必要である。グリーン・コンシューマーと対話できるグリーン・ビジネスマンがこれからの企業には不可欠である。いくら立派な環境理念を構築しても、それを実行する社員の環境意識が乏しければ実効は上がらない。
 そして、最も大切なことは、「利己的な開かれた系」としての企業のあり方の変更である。地球環境は企業の外部の存在ではなく、今や企業と一体化している。地球が窒息すれば、そこで活動している企業も窒息してしまう。必要なものだけを取り込み不用のものを排出する企業のシステムは変えなければならない。企業活動をエコロジカルな視点で完結した閉じられた系に接近させる努力が必要である。
 企業のマーケティング活動にとっても、地球環境はますます重要な意味を持ってくる。しかし、問題はそれを大きく超えている。いま企業に求められているのは、これを契機に新しい時代に相応しい存在へと自らを進化させていくことではないだろうか。マーケティング活動も、「売れる仕組みづくりのマーケティング」から「社会と共に問題解決に当たるマーケティング」へと変化させていかなければならない。

 *1 " Operating Manual for Spaceship EARTH " R. Buckminster Fuller (1963)
  2 " THE OZONE WAR " L.Dotto & H.Schiff (1978)「オゾン戦争」(社会思想社)
  3 「日本社会を読む九つのキーワード」田原総一朗/月刊サンサーラ1991年2月号 

*佐藤修:1991年4月  qzy00757@nifty.com