自民党憲法改正草案による亡国への道
ブログ(CWS Private の政治時評に掲載した記事)

2013年の憲法記念日に、改めて日本国憲法を読み、併せて、自民党の改正憲法草案〈2012年版)を読みました。
自民党草案には不気味さを感じました。
それで少しブログに書きましたので、それをまとめて掲載します。
まだ連載中ですが。

■その1:邪魔な憲法は変えればいい(2013年5月2日)
先月のオープンサロンで、自民党による日本国憲法改正草案が話題になりました。
参加者の一人、武田文彦さん(慶応大学大学院講師)が、ちょうど、その逐条批判を書き上げたところで、その原稿を持ってきてくれたからです。
その批判文は、まだ了解を得ていないので、私のサイトには掲載できませんが、掲載したところで、長文なのでなかなか読んでもらえないでしょう。
400字詰め原稿用紙で300枚以上です。
私もまだ読んでいません。

私にとっては、安倍政権のもとでの自民党改正案は、まともな批判の対象にさえならない亡国の書だと思っていますので、このブログでも採りあげるつもりはありませんでしたが、なにやら現実味を帯びてきたので、少しは書いてみる気になりました。
論点はいくつもありますので、何回かに分けて書こうと思います。

96条の改正が、どうも目先の問題になっているようです。
これは、要するに、政権にとって憲法改正をしやすくしよう、つまり「私物化」しようということです。
安倍政権は「日本を取り戻そう」と呼びかけて選挙に大勝しました。
私の娘は、選挙のころ、主語は誰なのか、と言っていました。
友人からは、主語は安倍さんだよ、と言われたそうです。
なるほど、国民から安倍さんが日本を奪ったというわけです。
そう考えると、憲法の私物化は、その当然の帰結です。

もっとわかりやすく言えば、泥棒に家の鍵を渡すようなものですが、もし仮に、二大政党制度が定着すれば、国政の軸としての、憲法の意味はなくなります。
時の政権政党が勝手に変えられるようになるからです。
国民投票が歯止めとしてあるという意見もありますが、泥棒に鍵を渡すような国民の投票など無意味です。
選挙制度は、うまく仕組めば、いかようにも結果を出せるのかもしれません。
原発再稼働支持の前回の選挙結果を見て、つくづくそう思いました。
国民投票に甘い期待はかけられなくなってしまいました。

主権が認められない時期に、押し付けられた憲法ではないか、という人もいます。
たしかにそうかもしれませんが、その憲法を多くの国民は、歓迎し、その憲法のもとに新しい日本を創りあげてきたことを忘れてはいけません。
もし主権者に支えられた憲法を創りなおすのであれば、国民投票は、すべての国民の過半数の賛成がなければ改正できなとしたほうが、理にかなっています。
いずれにしろ、憲法は、そんなに簡単に変えられるようになっては、そもそも憲法の意味がありません。

とまあ、いささか月並みの退屈なことを書いてしまいましたが、まあ96条の改正は実現はしないでしょう。
そう思います。それほどまだ、日本は壊れてはいないでしょう。
むしろこれを契機に、憲法を多くの人がきちんと読み直し、その意味を考えてほしいです。
サロンに参加した武田さんのこんな本があります。
「赤ペンをもって憲法を読もう」(かんき出版)
よかったらお読みください。
もし読みたいという方がいたら、先着2名様に贈呈しますので、私にご連絡ください。

■その2:公益という目くらまし(2013年5月2日)
今回は、これも話題になっている21条です。
21条は「言論の自由」の条項です。
現憲法では、次のようになっています。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

自民党の改正案では、これに加えて、次の項が新設追加されています。
2  前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

これはその運用によっては、実に恐ろしい条項です。
その危険性に関しては、すでに多くの人が指摘しているので、あえて追加する必要はないでしょう。
ただ一言だけ、指摘しておきたいのは、「公益及び公」というマジックワードの恐ろしさです。
今日も、この問題を解説していたテレビ番組で、「個 対 公」という構図で説明していましたが、この二項対立で社会をとらえると、そこには上下関係がどうしても生まれます。
なぜなら、個と公とは次元の位相が違うからです。
公には私が、個には共が対置されるべきではないかと、私は思います。
しかも、「公」ということばには、なにか威圧感を感じます。
私の関心事は、「コモンズの回復」ですが、共(コモンズ)という3つ目の視点を入れると、世界の風景は変わって見えてきます。

自らをアナリストとする弁護士の遠藤誠さんは、遺作になった『道元「禅」とは何か」の第6巻で、次のように書いています。

いわゆる「新しい歴史教科書を作る会」の言っている公益とか公ということは、「何でも政府の言いなりになれ」という日本の国家権力礼讃論にすぎません。だから、日本の国家権力が惹きおこした日清戦争・日露戦争・韓国併合・満州事変・日中戦争・太平洋戦争を、正しい行動だったと言っているわけです。

これは多くの人が持っている「公」とか「公益」のイメージとはかなり違うでしょう。
そこに、言葉の恐ろしさがあります。
これに関しては、また改めて書きたいですが、日本人は、そうした言葉のまやかしに弱いように思います。
誰も真剣に、言葉の意味を考えずに、安直に使っているからです。

話を戻して、21条の第2項を読み直してみると、私が生まれた年に全面的に改正された治安維持法をどうしても思い出してしまいます。
治安維持という言葉も、実に恐ろしい言葉です。
シリアや北朝鮮をみればわかるように、誰にとっての「治安」かで「秩序」の意味はまったく違ってくるからです。

■その3:個人より国家を優先(2013年5月3日)
前回書いた「公益及び公」という表現は、ほかにも出てきます。
第12条、第13条、そして第29条です。
それぞれ、「国民の責務」「人としての尊重」「財産権」を定めたものですが、現行憲法では「公共の福祉」とあるところを「公益及び公の秩序」に変更しています。
「公共の福祉」も意味があいまいな、危険な言葉ですが、公より公共が、秩序より福祉が、私には「より良い」ように感じます。
ちなみに、現行憲法では、このほかにも「公共の福祉」は第22条の「居住・職業選択の自由」にも「公共の福祉に反しない限り」自由だと書かれていましたが、なぜかその条文では「公共の福祉」も「公益及び公の秩序」も削除されています。

公共の福祉や公益などに関しては、議論しだしたらこれまた際限がない言葉ですが、私には発想の基本的な視点が違っているように思います。

私は、時代の大きな流れを、「組織(制度)起点発想から個人起点発想へ」と捉えています。
「個人」というと誤解を受けそうですが、ここでは「つながりの中での個人」と捉えています。
これに関しては、私のホームページでも最初のころに立場を明確にしていますが、私のこれまでの生き方は、この姿勢で貫いてきています。

公共には、人の生活をぶつけ合いながら共通の道を探っていくという、草の根からの、そして水平的な関係を感じます。
そこには、生きた人間のさまざまな表情があります。
それに対して、「公益」とか「公の秩序」は、個人とは別の次元からの、つまり個々人を超えた全体から個人を見下ろす姿勢を感じます。
そこには、生きた人間の息吹や表情は感じられません。
そこにあるのは、つめたい秩序です。
こう感ずるのは私だけかもしれませんが、そんな気がしてなりません。

現在の憲法で、私がとても重要だと思っているのが第13条です。
個人の尊厳をうたっている条項です。

第13条 [個人の尊重と公共の福祉] 
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。

この「公共の福祉」も「公益及び公の秩序」に変えられています。
私にはとても違和感があります。
まさにコラテラル・ダメッジの強調です。

憲法に限らず法律は、自然科学の法則と違い、数式で一義的にきまるようなものではなく、文字で表現する以上、変化する社会に柔軟に対応していける多義性を持っています。
しかし、そうした表現の背後にある「思想」や「発想の枠組み」、あるいは「目指す国家像」は、注意すると見えてきます。
96条は、あまりにも露骨にそれが見えますが、「公益及び公の秩序」は、それ以上に、大きなパラダイム転換を暗示しています。

万一、これが通るようであれば、私にはとても生きづらくなることは間違いありません。
私は、社会のためや国家のために生きたくはありません。
自分が納得できる人生を送りたいですし、そのためには表情のある人たちに囲まれていきたいです。
個人の笑顔の上にこそ、秩序は成り立つべきだと、私は考えています。
そうすれば、憲法や権力から強制されなくても、この国が好きになり、いま生きている社会を大事にしていけます。
国民を私物化するための憲法は、論理矛盾な存在です。

■その4:思想を隠した狡猾さ(2013年5月3日)
「憲法を改正すべきかどうか」という問いは、まったく意味のない問いかけのように思います。
意味がないどころか、危険です。
なぜならば、その問いが意味していることは人によってまったく違った意味を持つからです。
たとえば、第9条ですが、国防軍を持って海外の戦争に参加したい人も、いま以上に戦争に参加できなくなるようにしたい人も、改正すべきだと回答するかもしれません。
その答が多義的である質問は、意味のない問いなのです。
数の上での結果が出たとしても、その意味が一義的に決まらないからです。
その結果の数字を、どう使うかは、使い手の意向次第ということになります。
「改正」の対象と方向をあいまいにしたままでの問いは、危険です。

しかも、完璧な法律などはありえません。
現行憲法も、条文の表現でおかしな文章はたくさんあります。
これについては、前回紹介した武田文彦さんの著書に詳しく指摘されています。
ですから、どんな法律も、変えたほうがいいという表現は必ずあります。
にもかかわらず、「憲法を改正すべきかどうか」などという問いかけで世論調査が行われます。
改正するほうの意見が大きくなることは当然ですが、その結果が、見事に利用されるわけです。

大切なのは、「改正すべきかどうか」ではなく、「何を変えるか」です。
少なくとも、条文ごとに、しかも条文の背後にある思想についての賛否を問うべきです。
しかし、最近の電話による世論調査はそんなことはできないでしょう。
思想は、そう簡単には理解を共有化できないからです。
私も一度、回答者に選ばれたことがありますが、極めて簡単な選択肢からの直感的な判断が求められます。
昨今の安直な世論調査は、あることを意図している人にとっての、単なるマーケティング手法でしかありません。
広い意味での社会にとっては、百害あって一理なしです。

手続法と違って、憲法を変えるということは、思想を変えるということにつながります。
96条から議論していくということは、ともすれば手続き論の話にされかねません。
そこにも「悪意」を感じます。
国家の大本の憲法の議論は、フェアに取り組まなければいけません。

それにしても、いまの憲法改正論議を見ていると、憲法をあまりに軽く、位置づけています。
憲法は、すべての法体系の拠り所なのです。
法律改正と同じような発想で、憲法を改正することは、どこかに違和感があります。
アメリカ憲法のように、修正条項を追加していくのであればともかく、憲法そのものの精神を変えていこうというのであれば、そのことを国民にもっときちんと理解させた上での、時間をかけた、しっかりした議論が必要だと思います。
自民党だけではなく、広く議論を重ねていく、新憲法起草委員会を国家レベルで立ち上げるべきだろうと思います。

安直に国会で決議すべき事項ではないように思います。

■その5:基本的人権の危機(2013年5月4日)
日本国憲法の3原則として、「国民主権主義」「平和主義」「基本的人権尊重主義」があげられています。
これは中学校で学んだことです。
おそらく最近も変わっていないでしょう。
自民党の憲法改正草案は、この3つの原則に関する見直しを含んでいます。
もちろん「前進の方向」ではなく「後退の方向」での見直しです。

基本的人権に関して見てみましょう。
現行憲法では、12条や13条の前に、「基本的人権の享有」として11条が置かれています。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

これが次のように変更されています。

第11条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

ほとんど変わっていないように見えますが、「享有を妨げられない」が「享有する」に、「権利として、現在及び将来の国民に与へられる」が「権利である」に変わっています。
瑣末な違いのように見えて、そこには深い意味が含まれているように思います。
つまり、一般論を語るだけにとどめて、それを妨げるとか守るという姿勢は削除されています。

この条項は、現行憲法では第97条につながっていきます。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

自民党草案では、この条文は削除されています。
確かに、条文としてあまりふさわしい条文ではないかもしれませんが、この条文は基本的人権を制限するような後戻りは、もうしないという、現行憲法の根本思想の一つでもあります。
権力が、国民個人の基本的人権をおろそかにすることは、よくあることです。
だからこそ、屋上屋を重ねるような形で、この条文が加えられているのです。
しかも、その位置は、「第10章 最高法規」の冒頭です。
この条文の後に、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」という第98条があるのです。

こうした改正草案から、何が見えてくるでしょうか。
私には間違いなく見えてくる未来があるのですが。

■その6:国民を縛る憲法(2013年5月4日)
憲法の存在意義は、国家権力の暴走を抑えることだといわれます。
つまり、憲法を守るのは国家権力だというわけです。
中学校で習った、マグナカルタ(大憲章)は国王の権限を制限するためのものでした。
マグナカルタは、現在もなお、イギリスの憲法の一部を構成しています。
憲法は国家が守るもの、法律は国民がも守るもの、という人もいます。
ところが、自民党憲法は、憲法は国民が守るべきことだと明言しています。

次の条文が、「憲法尊重擁護義務」の冒頭に新設されているのです。

第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

この条文は、現行憲法の第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」の第1項として追加されています。
そして、この条文は、「天皇又は摂政」が削除され、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」と修正されて第2項にされています。
「天皇又は摂政」が抜かれていることの意味も非常に大きいのですが、それはまた項を改めることにします。
ここで強調しておきたいのは、憲法の意味がまったく変わっているということです。

権力の私物化の姿勢が、ここにもはっきりと示されています。
13世紀のイギリスのジョン王も、こうした憲法ができたら、大喜びだったでしょう。
この自民党憲法で喜ぶのは、誰なのでしょうか。

この憲法が実現したら、日本は大きく変わっていくでしょう。
立憲国家ではなくなりかねないのです。
立憲主義に基づかない法治国家の意味を問い直さなければいけません。

■その7:規範と現実の逆転(2013年5月4日)
自民党の憲法改正草案の大きな問題は、第9条と天皇の位置づけです。
いずれも、さまざまな人がすでに語っていますので、それに付け足すほどの私見はありません。
天皇に関して言えば、なぜオランダの皇室のようにならないのかという気はしますが、私の手におえるテーマではないので、書き控えます。
皇族のみなさまには、ただただ同情し、感謝するだけです。

第9条ですが、これもあえて付け加えることはないのですが、問題のとらえ方には大きな危険性を感じます。
それは、解釈改憲によって進められてきた結果としての現状と憲法条文のずれがあるから、現実に合わせるのだという論理思考への危惧です。

現実と条文が違うのであれば、現実を正すのが、憲法の存在意義です。
憲法を変えることによって現実に合わせるという発想は、憲法の規範性を否定するものです。
放射線汚染が広がったので、安全基準を変えてしまおうというのと同じです。

テレビで自民党の議員が、北朝鮮がミサイルを発射するというのに、日本の攻撃力を高めないでいいのかというような発言をしていましたが、これこそ冷戦時代に流行ったハーマン・カーンの「エスカレーション発想」です。
私は、当時もオスグッドの「一方的削減発想」に賛成でした。
http://homepage2.nifty.com/CWS/communication1.htm#es
歴史は、そのほうが効果的だったことを示しています。
北朝鮮にとっては、第二次世界大戦前の日本と同じく、攻撃の包囲網の中で、いたたまれなくなっているのかもしれません。
北朝鮮の好戦的な姿勢が、だれを利しているかを考えると、私は北朝鮮だけを批判する気にはなれません。
北朝鮮の水際外交と日米の軍事力の存在はセットで考えなければいけません。

防衛軍の設置は愚策だと思いますが、それ以上に私が危惧するのは、「現実と規範が違っていたら現実に合わせて規範を変える」という発想です。
こうした安直な発想が、さまざまなところで広がっていますが、国家の大元の憲法にさえ、それが行われるのかと思うと、恐ろしさは高まります。
いうまでもなく、この発想は憲法は「変えやすくする」という発想とつながっているのです。
つまり規範の私物化あり、憲法の否定です。

国民の手に憲法を取り戻すのではないことは、明らかです。
この発想が、日本を滅ぼしていくでしょう。
悪貨が良貨を駆逐する。
社会の崩壊は、ここから始まります。
規範がなくなれば、社会は壊れるしかないのです。

■その8:主役としての国家の登場(2013年5月5日)
多くの人はあまり意識していないでしょうが、現行憲法は大日本帝国憲法第73条の改正手続きに従って改正され、昭和天皇によって公布されています。
その公布文には、
「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名 御璽」
と記されています。
しかし、主権が天皇から国民へと移ったことで、両憲法は法的には連続性がないとする考えもあります。
そうした考えのひとつとして、8月革命説もありますが、私の友人の武田さんは、もし日本国憲法の成立が革命であれば、自民党の憲法改正案は「反革命」を目指すものだと言います。
武田さんの小論は、私のホームページに掲載していますので、お読みください。
私は、両憲法に法的連続性のみならず、意味的連続性もあるように考えています。
確かに、発想のベクトルは反転していますが、しかしなお、国民主権を統治する権力を想定しているからです。

現行憲法の条文の主語はかなり粗雑ですが、「国」が主語にはなっていません。
多くは「日本国民」または「国民」です。
ところが、自民党改正草案では、新設された条文の一部の主語は、「国」になっています。
たとえば、第9条の3は「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」とあります。
よく読むとおかしな文章です。
どこがおかしいか、ぜひお考えください。
ちなみに、平和主義をうたう現行憲法第9条の主語は、次の通り、「日本国民」です。

第9条(現行) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

自民党草案では、最後の「永久に放棄」が「使用しない」に変わっています。
また、新たに2項として、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と明記されました。
念のために言えば、戦争は常に「自衛権の発動」だと、私は思っています。
どんなに「侵略目的」と見えても、当事者にとっては「自衛」の要素があるはずです。
この条項に続いて、「国防軍」の条項が出てくるのです。

今回、問題にしたいのは、そうした国防軍のことではありません。
新たな条文の主語に「国」が使われだしていることです。
国民が主語の憲法から、国家が主語の憲法への指向がでているということです。

前に書きましたが、私は、主語が組織や制度から人間へと移っていくのが、歴史の流れだと思っているのですが、まさにそのベクトルには逆流しているのです。

それにしても、国民主権である国家における、行為主体としての国家とは、いったい何なのでしょうか。
国家に協力する?
頭が混乱してしまいます。

■その9:家族への介入(2013年5月5日)
主語の話をしたので、それにつなげて、もうひとつ、気になることを書きます。
憲法にはめずらしい主語がひとつ、自民党改正草案には登場しています。
「家族」です。

第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

2項には、なんと婚姻は夫婦相互の協力によって維持されなければならないともあります(これは現行憲法にもあります)。
家族は、互いに助け合わなければならない。
すらっと読めば、まあなんともないのですが、国家が主語になりだした憲法において、ここまで書かれると、いささか不安になります。
明治時代の「家制度」が復活するわけではないでしょうが、いやな感じがします。
憲法で、家族や婚姻にまで「義務」を指示されるのは、私には馴染めません。
「生‐政治」へと権力の支配様式が変化しているとはいえ、ここまであからさまに言われてしまっては、まさに「家畜」視されている気になります。
この発想は、皇室観にも、さらには地方自治観にも、さらには愛国主義観にも、つながっていくように思いますが、まあそこまでは勘ぐるのはいきすぎかもしれません。
しかし、こうしたちょっとしたところから、大きな権力犯罪は始まるのです。

たかが「家族」ではありません。
家族が「社会の基礎的な単位」であるとすれば、それをどう位置づけ、どう扱うかで、国家のあり方が決まってくるのです。
恐ろしさをぬぐえません。

■その10:愛国心強要への危惧(2013年5月6日)
今回で一応、このシリーズを終わります。
その9で、家族への介入に関して書きましたが、その先にあるのが「愛国心」です。
明確な条文があるわけではありませんが、よく指摘されているように、「国旗及び国歌」が憲法に明記されました。

第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
 2  日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この条文だけを見れば、何もおかしいところはないように思います。
しかし、そこに含まれた意味は。この数年の「日の丸・君が代訴訟」がはっきりと示しています。
これについては、このブログでも何回か書いてきています。
何の変哲もない条文が、その運用によっては、大きな「やいば」になるのです。
自殺に追いやられて人もいるほどです。

私は、日の丸も君が代も好きでした。
私が、認識を改めたのは、10年ほど前に雑誌で読んだ、「良心、表現の自由を!」声をあげる市民の会の渡辺厚子さんの「私は立てない、歌えない」という文章です。
以来、私自身もどこか素直に君が代を歌えなくなり、日の丸には愛着を失いました。
それらが、この国を愛することなく私物化している一部の人たちのものだという気がしてきたのです。

自らの「愛国心」を語る人には好感が持てますが、他者に「愛国心」を強要する人には嫌悪を感じます。
そういう人は、おそらく自らは「愛国心」など微塵もないのでしょう。
だから他者もそうだと思い、強要してくるのではないかと思います。
自らの国に、誇りと自身があれば、形式的な愛国心など強要する必要はないはずです。
強要された「愛国心」などに、いったいなんの意味があるのか。
「愛」が強要できるなどと思っているのでしょうか。
愛とは、愛したくなるようなものがあってこそ、生まれるものです。
愛国心を強要する前に、愛される国になるようにならなければいけません。
そのための指針が憲法です。
愛国心を強要する為政者の下では、愛国心は育ちません。
日の丸や君が代を、これ以上、けがして欲しくないと思います。

「愛」にまで介入してくる憲法が、思想及び良心の自由(第19条)をうたっても、あんまり説得力がありません。
その先に見える風景が、とても不安です。