■家族をどう考えるか(「家族と住まない家」を読んで思ったこと)
家族は基本的に閉じられた組織です。
そのためか、「つながり」を壊すことによって発展してきた近代社会においても、最後まで残った「つながり」組織のひとつです。
地域共同体の崩壊によって生じた問題を一身に背負って、がんばらされてきたと言ってもいいかもしれません。
家族は「閉じた組織」ですから、お互いに抑圧的にも解放的にも作用します。
貨幣経済優先社会においては、その意味での弱者である、子どもや年寄り、あるいは女性にとっては、往々にして抑圧や束縛の装置になりかねません。
つい最近も夫の借金が原因で一家無理心中事件が起こりました。
近代家族には、近代の「独占的私有」という概念が色濃く反映されています。
家族もまた、所有の対象です。さすがに最近は、社員は企業の所有物という発想は揺らぎだしていますが、
まだみんなその呪縛から抜け出ていないように、家族もまたなかなか自由になれないでいます。
社会を構成する単位組織としての「家族幻想」は、そろそろ捨てるべき時期かもしれません。
その家族幻想が、もしかしたら産業社会を支えてきたのかもしれません。
もしそうであれば、今の社会を変えていくためには「家族」を問い直す必要がありそうです。
拡大傾向の経済社会が終わり、社会は落ち着きだしました。
「つながりこわし」の時代から「つながりづくり」の時代へと移り、さまざまなつながりが生まれだしました。
そうした中で、改めて「家族」とは何か、また家族のものと思われていた「家」とは何かが問いなおすことはすべての人にとって身近に大切な問題ではないかと思います。
個人化が進むなかで単身生活が増えていき、他者と共同して住むことを選ぶ人は減るだろうという意見もありますが、私はそうは思いません。
もちろん、人は他者とのつながりを求めています。
ハンナ・アレントは、「人間の条件」のなかで、他者の存在なくして幸福はありえないと書いています。
あることを成し遂げた時に、喜びを分かちあったり、評価してもらえたりする他者が不在であれば、幸せな気分は味わえません。
人間は基本的に他者の評価の中で生きています。
「家族がいるからがんばれた」という言葉には真実を感じます。
しかし、もし家族以外のつながりが可能であれば、他者は家族でなくてもいいわけです。
第一、血縁がなくても(つまり子供がいなくても)夫婦は持続できます。
だとしたら。つながりの単位は家族である必要はありませんし、もっとライブで変化するつながりの構造があってもいいかもしれません。
この本は、そうしたことを改めて気づかせてくれる本ですが、
暮らし縁で気持ちよく一緒に暮らすためのポイントの最初に、
「家族のような関係を理想としないこと」があげられているように、その根底にはまだ根強い「家族信仰」を感じます。
また、子どもの視点が弱いのも気になります。
選択縁という場合、そのままでは主体的に選択できる立場になれない子どもをどう考えるかは重要な問題です。
近代家族は、社会という空間軸と人育て(特に子育て)という時間軸のなかで形成された仕組みだと思いますが、
それを変えていくには、その二つの面でのオルタナティブな提案が必要です。
そうしたことのヒントも、10の事例にはいろいろと含意されていまずが、
そこに焦点を当てた続編「社会を育てる子どもたち」(勝手な仮題)が期待されます。