価値時評(1989〜1990雑誌連載)

これは私が会社を辞める前後(1989〜1990)に、ある会社の社外報に書いていたものです。
久しぶりに原稿が見つかり、読んでみたら、バブルが破綻する直前の様子が思い出されるとともに、
当時と今では何も変わっていないどころか、当時の悪い予兆と良い予兆が現実化しているような気がしました。
20年近くの文章ですが、私は奇妙に納得しながら呼んでしまいました。
もしよろしかったらお読みください。
1990年代は、やはり「失われた10年」だったのかもしれないという気がしてきました。
社会にとっても、私にとっても、です。

〔価値時評1〕しっかりした価値観がなければ、やっていけない(1989.8)
〔価値時評2〕企業も文化との付き合い方を考えはじめた(1989.9)
〔価値時評3〕勤勉なレジャーはもう卒業して、リゾ−トライフを楽しみたい(1989.10)
〔価値時評4〕自然観の問い直しが求められています(1989.11)
〔価値時評5〕あなたは何のためにお歳暮を贈りましたか(1989.12)
〔価値時評6〕企業にも多様な価値観が求められています(1990.2)
〔価値時評7〕ボーダーレスの中で関係を再構築する自己主張を(1990.4) 
〔価値時評8〕人は何のために徒党を組むのか(1990.6)
〔価値時評9〕東京への一極集中の背景で人々の意識が地方に向きだした(1990.8)
〔価値時評10〕捨てられているものにも価値があります(1990.9)
〔価値時評11〕多様な価値観を背景とした意味の開発の時代 (1990.10)
〔価値時評12〕ジョン・レノンのメッセージは伝わっているだろうか。(1990.12)


〔価値時評1〕しっかりした価値観がなければ、やっていけない(1988.9)

●夏がなくなったのはなぜだろう?
 今年の夏は全く夏らしくなかった。湘南の海岸の人出は例年に比べ激減し、海の店は店仕舞いの費用も出せず、行政が特別融資を決めたという。天候不順は夏のことだけではない。東京では春先にドカッと雪が降るし、例年になく長い梅雨は明けても雨はいっこうに降りやまず、秋晴れはいつのことかという毎日である。
 天候不順のせいか、思わぬ事故や奇妙な事件も増えている。天候がおかしくなれば、経済はもとより人々の生活もおかしくなる。
 しかし、もしかしたら、この因果のベクトルは逆なのではないか。最近の奇妙な気まぐれ天気の原因は、私たちの生活のあり方にあるのではないか。

●今こそ価値観について考える時
 私たちの生活による生態系の破壊が問題とされはじめてから既に久しい。様々な対策が講じられ、事態は改善されつつあるようにも思われるが、私たちの目に見えない深部で、何かが大きく変わっているのではないかという不安を禁じえない。いや、目に見える事態ですら、そう進展しているわけではない。「オゾン問題」にしても「原発問題」にしても、議論はにぎやかだが、現実はこれまでのベクトルを直進しつづけている。
 この延長に何があるのか。それは分からない。しかし、これまでの延長を進むにしても、針路を転換するにしても、いずれにしろ、私たちは自らの「生きるための価値観」を問い直すべき時期にきているようだ。
 知識や技術も学ばなければならない。時代の変化も観察しなければならない。しかし、その前に、学び観察する私たち自身の「価値観」を確立する必要がある。「パラダイム・シフト」と言われるほど時代が変転している今こそ、しっかりした価値観が必要である。

●私たちは意思のない観察者になっていないか
 現代の価値観を考えていくに先立ち、最近の奇妙な事件のおかしさを考えてみたい。
 潜水艦なだしおと大型釣り船第一富士丸の衝突事故でもっとも奇妙だったことは、衝突する直前に乗客が潜水艦を見物にデッキに出てきたり、衝突後に海中に投げ出されて溺れている人を潜水艦の乗員が助けもせずに見ていたことである。あれだけの事故であるにもかかわらず、そこには何の緊迫感もリスク感覚もなく、観る側と対象との間に、まるでテレビの番組を観ているような関係が感じられる。
 そういえば、この事件が起こった同じ頃、川で溺れている子供を警察官が見ていながら助けず、救助員が来た時には既に手遅れとなってしまった事件があった。これも、おかしな事件である。近くに溺れている子供がいれば、どうにかして助けようとして、理屈ではなくまず行動を起こすことが私たちの本能ではないかと思うのだが、その行動が起こらないほど、私たちは現実に対する感覚を麻痺させている。なぜだろうか。
 テレビがその一因ではないか。私たちは、毎日、テレビから送られてくる膨大な情報の中で様々な擬似体験をし、様々な現実に間接的に接触している。画面の中では人の「死」さえ美しく演技され、悲惨な事故も面白く演出される。そうした膨大な情報に毎日接しているうちに、現実と虚像との区別があいまいになっているおそれは充分ある。
 真面目なドキュメントにすら演出がまぎれこんでいる現在、既に世界そのものがスタジオになっているのかもしれない。

●現実は見せ方や見方で全く違った世界になる
 テレビと言えば、リクルートコスモスの前社長室長松崎氏と楢崎代議士との「密室」でのやりとりが隠し撮りされテレビで放映されるという事件があった。この背景にある「リクルート・スキャンダル」と言われる一連の事件は、企業も人も、しっかりした価値観をもっていないと、時代の激流の中にのみこまれ転覆することを教えてくれ、惰性で走っている私たちに立ち止まる契機を与えてくれた。
 しかし、放映された画面は、別の恐ろしさを予感させる。内容は、事件を的確に伝えるものであるが、同時になにか胡散臭い虚像を感じてすっきりできない。松崎氏が『卑劣なやり方』で『私ははめられた』と言うのは全く理に合わず、『卑劣なやり方』で社会や楢崎氏を『はめよう』としたのは松崎氏であることは言うまでもない。だが、何か低レベルの「見世物」を観させられているという気持ちが残る。
 「モンタージュ」とか「カメラアングル」とかの映像技法の魔力を考えるならば、こうしたことの先にある恐ろしさにゾッとせざるを得ない。テレビや映像の魅力は、臨場感を持った虚偽の世界を創造することなのである。観客の意識や感情を操作することは、それほど難しくはない。

●しっかりした価値観を一人ひとりが持たなければ
 私たちは、単に観させられるだけの存在であってはならない。観るだけに終わってはならない。テレビの、あるいは「世界」のプロデューサーの価値観に惑わされてはならない。しっかりした自分の大地(価値観)を持たねばならない。
 それは権利であるばかりでなく、私たちの義務である。

 次回からは、私自身の具体的な体験を材料にして、現代の価値観について考えていくことにしたい。

〔キーワード/文献:ちょっと考えたい人のために〕
 ・オゾン問題
地球を取り巻くオゾン層は太陽光の中にある生物にとっての有害な紫外線成分を吸収する役割を果たしているが、このオゾン層がフロンガスなどにより破壊されていることが問題となっている。地球規模で対応すべき問題の一つである。
 →『オゾン戦争』L.トッド、 H.シッフ/社会思想社〔1982〕
・原発問題
原発の危険性を訴えた広瀬隆著『危険な話』がきっかけとなって、 反原発運動が急 速に拡がっている(ヒロセタカシ現象)。この動きの中で、 原発賛否両論のボルテージは高まっているが、 双方のきちんとした「対話」はまだ成立していない。
 →『危険な話』広瀬隆/八月書館〔1987〕
・パラダイム・シフト
発想の基礎となる理論的枠組み(パラダイム)を変革していくこと
 →『科学革命の構造』T.クーン /みすず書房〔1971〕
    『パラダイム・ブック』 C+Fコミュニケーションズ/日本実業出版社〔1986〕
・モンタージュ
異なるシーンの画面を組み合わせて、全く意味の違う新しい意味の世界を映像空間 としてつくりだす映像技法。
 →『映画の理論』岩崎 /岩波書店〔1956〕

〔価値時評2〕企業も文化との付き合い方を考えはじめた(1989.9)

●企業文化を正面から考える動きが出てきた
 数年前に、『シンボリック・マネージャー』(翻訳書:原著 " Corporate Culture ")という本が話題になったことがある。「厳しい競争に生き残り一貫して繁栄している企業は強い企業文化を持つ」という米国産業界の実態分析をベースに、企業文化と経営について興味ある提案を行った書物である。以来、わが国の産業界でも『企業文化』が盛んに議論されるようになった。
 たまたま、最近、企業文化に関する研究会を設立しようという二つの準備会に続けて参加する機会を得た。ひとつは、時代環境の大きな変化の中で新しい企業論や経営論を再構築し、広く経営者や実務家に広げていこうというものであり、もうひとつは、最近産業界でブームになっているCIを核に企業の文化活動や社風・体質としての企業文化を考え実践につなげていこうというものである。全く別々に、『企業文化』という同じテーマで二つも呼びかけられたことに時代の変化を痛感している。いずれも参加者の関心と熱意は強く、それぞれ何らかの形で来年には結実していくものと思われる。
 本来、非常に馴染みにくい『企業』と『文化』に、実務家たちまでが参加して正面から取り組もうという動きは注目に値する。経済(利益)一本槍で進んできた企業は、今大きな変身を迫られていることの証左であろう。成熟経済の中では、企業の役割も、したがって企業経営の価値観も変化していかねばならない。それに気づかない企業は、当面はともかく長期的にはパワーを失っていくおそれがある。そうしたことを、企業に属する人たちはどのくらい意識しているだろうか。

●文化は事業につながるが、それだけでよいのか
 企業と文化について言えば、これも一時期流行した『文化産業論』がある。豊かな時代においては、文化が事業になるという指摘である。確かに、文化は事業になりつつあるし、文化の匂いのない商品やサービスはむしろ苦戦をしいられている。だが、これはあくまでも「文化」を利用対象にしているのであって、自らの文化、企業の文化を考えることとは似て非なるものである。
 あるシンクタンクが企画した『企業の文化活動』に関するプロジェクトにも最近参加させてもらった。聞くところによると、非常に多くの会社がこのプロジェクトに関心を寄せて参加を即決したという。企業が文化に関心を持ち始めたことは間違いない事実である。しかし、これも「文化」イメージを事業に利用しようという意味で『文化産業論』と同じ範疇に属する。
 それはそれで良いのだが、「文化」を事業のための道具と考えて乱用することの危険性も考えておかなければならない。文化イメージの強い企業が、ちょっとした事件で一挙に崩れさったケースは最近でもいくつかある。本来、文化はそんな脆いものではない。大切なことは「文化イメージ」や「文化の経済的利用」ではなく、企業の文化に正面から取り組むことである。時代はそこまで来ている。

●CIは企業リストラクチャリングのための経営戦略
 企業文化が、このように重視されることになった背景には、時代の流れの大きな変化がある。企業は、今、社外においては消費者の、社内においては社員の価値観の変化に直面して、経営パラダイムの見直し、つまり自らのリストラクチャリングを迫られている。
 最近、産業界で話題のCI(コーポレート・アイデンティティ)戦略は、まさにそのための経営戦略と考えるべきであろう。単なる社名変更やマークの制定にCIの目的があるわけではない。
 CIはリストラクチャリングを目指すが、従来の経営体質改善とは全く異なる。従来の体質改善が「無駄をなくす」ことを中心とした“マイナス発想”であるのに対して、CIは「価値を高める」ことを目指す“プラス発想”が基本である。さらに、体質改善が組織のためであるのに対し、CIはむしろその構成員(社員)のためを重視する。社員を基本に考えていこうということである。ここに、CIが企業文化につながる必然性がある。
 企業でCIを担当した人たちは、企業文化のみならず、新しい企業論や新しい経営論についてお互いに情報交換や意見交換をしはじめている。自社のアイデンティティを考えているうちに、企業そのものの意味や新しい企業のあり方に関心を持つ人も少なくない。そうした人たちが、企業の枠を越えて少しずつ横の連携を取り始めている。こうした動きが、個別企業のCIを越えた、企業制度そのもののアイデンティティや企業文化論を大きく変化させていくことだろう。おそらく、経営管理やマーケティングの面にも大きな影響を与えるはずである。
 企業は単なる「利益追求機関」ではない。経営者がいかなる価値観のもとに文化とどう対峙するかが、その企業の行く末を決める時代にきている。企業に属する私たちも、その点をきちんと認識し、仕事に対する考え方や企業との付き合い方を考えていくべきであろう。

〔価値時評3〕勤勉なレジャーはもう卒業して、リゾ−トライフを楽しみたい(1989.11)

●長崎オランダ村は一度行けば充分
 最近のにぎやかなリゾ−ト開発が気になって、九州に行ったついでに、長崎オランダ村を訪ねてみた。かなりの評判と聞いていたので、ゆっくりと新しい動きを嗅いでこようと丸一日時間をとって出掛けたのだが、入って1時間で退屈し始めた。
 噂に相違して、新しさはほとんどなく、従来型の観光地をやや高級にしただけのものでしかない。雑誌や新聞、人の噂のいい加減さを改めて知らされた次第である。東京からの距離の遠さのために、ほとんどの人が、実情をろくろく調べもせずに記事を書いているのではないかとさえ思われる。ソフト面での工夫はほとんどなく、立地の素晴らしさ活かしきれず仕上げも中途半端、もう一度来ようと思わせる仕組みも皆無に近い。
 このままでは、間違いなく長崎オランダ村は失敗するだろう。今の人気は、一時の流行現象でしかない。

●何故、ディズニーランドには何回も行くのだろう。
 対照的なのが東京ディズニーランドである。相変わらずの人気で、この私ですら、毎年のように出掛けている。その違いは、物語性の有無ではないかと思う。
 ディズニーランドには、ミッキーを始めとした多数のキャラクターとその物語(世界)がある。それが非常にうまく構成されており、自分もその一員となったような気分になって、あげくの果てには、そうしたキャラクターたちの関連商品をしこたま買い込んでしまうことになる。キャラクターグッズを買うのは、彼らとの交流である。特に若者や子供たちは、ミッキーやドナルドたち、ディズニーランドの住人に会うために、ディズニーランドを訪ねると言ってよい。だからこそ、みんな繰り返し訪ねていくことになる。暫く会わないと会いたくなるのだ。
 それに比較して、例えば長崎オランダ村にはつきあうべきキャラクター(住人)がいない。もちろん皆無ではなく、“ランボーくん”というキャラクターがいるのだが、物語を創り出したり、私たちに会いに行きたくなるような気を起こさせる力は全くない。単なるキャラクターなのである。
 オランダには歴史もあるし、物語もある。そうしたものを伴わないオランダ風空間をいかに正確につくろうとも、訪問者との対話は成り立つはずがない。

●物見型消費型から遊山型生活型へ
 日本人のレジャーは『3時間3日』と言われる。3時間くらいで行ける所、期間はせいぜい3日間、というのが日本人のレジャー態度だった。忙しさの合間の「余暇」である3日間をできるだけ効率的に活用するために、せわしなく観光地を回る「移動型レジャー」が主流で、レジャーへの取り組みも、非常に「勤勉」だったといってよい。
 ところが、最近、様子が変わってきた。『物見遊山』という言葉があるが、物見型から遊山型へと移りつつある。消費型から生活型へと言ってもよい。名所旧蹟まわりなどはせずに、いつもとは違う、もうひとつの生活を楽しむことを重視する層が増えている。
 彼らにとっては、名所旧蹟は目的ではなく、生活を彩る環境でしかない。見るだけならテレビや写真で何回も見ている。大切なことは、そこが楽しい生活を過ごせるに足るだけの物語性やコンセプト、そして仕組みを持っているかということである。
 海外旅行は、まだ「物見型・消費型」が多いが、ここでも若者たちは既に「遊山型・生活型」のスタイルになっている。海外も、彼らにとっては生活とつながっている。
 言い換えれば、時代は、レジャーからリゾ−トへと移りつつある。その中間地点に東京ディズニーランドがある。繰り返し出掛けていく人たちは、そこに出会いと触れ合いを求めにいく。観光に行くのではない。長崎オランダ村は、そこをはきちがえているから、今のままではうまくいくはずがない。

●最近のリゾ−ト開発ブームの行方
 「リゾ−ト」という言葉が盛んに使われだしたのは、ほんのこの数年である。特に『リゾ−ト法』の制定以来、各地の地域起こしの有力な一方策としてリゾ−ト開発はブームになっている。自由時間の増加という社会傾向から考えれば、方向としては納得できる。
 しかし、どこもかしこも知恵不足で、安直なプランだらけである。今のリゾ−ト開発は、それほど遠くない先に見直されることになろう。若者たちのライフスタイルの変化を軽視した、従来型のレジャーランドやリゾ−トゾーンの開発は、時には話題になるかもしれないが、結局は失敗する。思い切ったパラダイム転換が、ここでも求められている。
 自分自身のレジャー行動や生活様式が、そう変わっていないことから、結局、日本人のレジャー行動は、物見型消費型そして3時間3日型から脱却できないと見る人も多いが、時代は間違いなく変化しつつある。
 第一、今のような「勤勉」なレジャー活動を続けていては、世界中からひんしゅくを買うばかりではなく、本当の意味での『良い商品や事業』は展開できないだろう。豊かな生活のない人のつくる商品や事業は、決して豊かな社会には受け入れられない。勤勉なレジャーやリゾ−ト生活しかしていない「リゾ−ト専門家」の意見など、だれも耳を傾けなくなるだろう。『良い商品は良い生活』から生み出される。

●これから北九州地方が面白くなりそう。
 ところで、長崎オランダ村に刺激されたせいか、最近、北九州地方ではリゾ−ト開発が盛んである。長崎県ではオランダ村の発展として長期滞在を狙った「ハウステンボス」計画をスタートさせたし、北九州市では大規模レジャーランド「スペースワールド」を核とした「3日滞在型のリゾ−トゾーン」開発が進められている。多彩なスポーツレジャー施設をそろえた北九州プリンスホテル計画もある。
 今回、それらを回ってみて横の連携の弱さに驚いた。それぞれの計画は、それだけではおそらくすべて失敗するだろう。しかし、北九州という一地域にこれだけの多様のものが出現することは、ある物語づくりを可能にする。北九州全域が面白くなりそうである。
 私たちも、観光目的ではなく、そろそろ生活発想でレジャーやリゾ−トを考えるべき時期に来ている。中途半端な遷都論などにくみせず、北九州あたりに引っ越したほうが余程価値がありそうだ。
 少なくとも、生産に取り組んだ勤勉さを、レジャーにまで持ち込むことはやめにしなければならない。                                

〔価値時評4〕自然観の問い直しが求められています(1989.11)

 10月のある日曜日、茨城県鉾田町で「農業収穫祭」が開催された。主催は茨城耳の会という新しい農業や畜産を手がけているグループ。参加したのは、そうした活動に関心を持っている生活者たち。いわば、よくある産地交流会である。
 ケータリング会社の経営者、健康医学に携わっている人、農業の後継者育成に取り組んでいる教育者、農業問題を20数年追い続けているジャーナリスト、食品の安全性に疑問を持っている主婦など、様々な人たちが一日農業の現場を体験しながら、作り手たちと触れ合い語りあった。
 企業のマーケティング活動では、お客様の顔が見えなくなってきたことが問題になってきているが、食べ物の分野でも嗜好性や安全性が大切であるにもかかわらず、作り手と使い手が切り離され、「食品」というより「食料」という取り扱いがなされてきた。しかも、「工業の論理」による大量の農薬や化学肥料の使用の結果、味もなければ安全面でも問題の多い農畜産物が多くなってしまった。
 そうした動きに対する自衛策として、有機農法や産地直結といったシステムが模索されているわけだが、今回の農業祭もそうしたものの一つと考えてよいだろう。(ここに企業のマーケティング活動への大きな示唆があるのだが、今回は別の議論を展開したい)
 ただ、ちょっとだけ違った点があった。それは、この会を主催した耳の会が、土壌菌理論に基づいた土づくりに取り組んでいるということである。
 本来、土の中には多様な土壌菌が含まれており、それらが土壌の生成に関わっている。そのメカニズムは未だ充分解明されているわけではない。しかし、土壌菌を豊かに含んだ土壌はまさに生きた存在であり、そこに触れる水や大気はもとより、生き物とも深く「いのちの交流」をしているのである。
 有名なソローの『森の生活』の中に、沼には腐った植物や動物の死骸が流れ込んでくるのに、何故その水は清澄を保っているのだろうという指摘があるが、それは沼の底に生きた土壌があるからに他ならない。
 こうした「土は生きている」という認識に基づいた「土づくり」が耳の会の一つの考え方である。土壌菌を多分に含んだ水を与えている牛も見せていただいたが、不思議なことに多くの牛を飼っているにもかかわらず、畜舎に悪臭がないし、ハエもほとんどいない。
これなら都会の真ん中でも飼育できるであろう。成育も早く、肉も美味であるという。実際に豚を食べさせてもらったが、肉嫌いの私でも美味しくいただけた。
 よく観察すると、牛たちは土壌菌を含んだ土も食べている。土は決していのちのない鉱物ではなく、生きた存在なのだということを改めて認識させられた。

 地球環境問題が深刻になってきている。産業革命以来の西欧近代型工業化における自然観は、いかに自然を征服し利用していくかに関心があったと言ってよい。工業化とは資源である自然を変形あるいは変質させることであったと言ってもよい。
 その結果、自然は破壊され、水や大気は汚れ、それが逆に人間の生活を脅かすようになってきた。そこで自然観の転換が始まった。自然をどう守るか、自然とどう共生するかである。国際政治の世界でも、今や環境問題が重要な課題として語られる時代である。これまでの自然観は問い直されている。
 しかし、今、必要なことは、さらに一歩進んで、いかに自然を創造できるかということではないだろうか。自然を守るという受け身の姿勢では解決できないほど、自然は病んでいる。根本から自然観を変える必要がある。 例えば水の問題。水を汚さないという姿勢ではなく、きれいな水を創りだすような仕組みを回復することである。ソローが見た森の沼にある底質部を作り出すために人間が力を貸すことである。瀬戸内海の一部に入江をつくり、そこに土壌菌をたっぷり含んだ土壌床を用意し、そこで瀬戸内海の水をリハビリさせていくような仕組みづくりである。
 人間が自然に関わっていくという点で、これはかつての自然観に似ているようであるが、本質的に違うことは、自然と人間の位置関係である。自然と人間は対置しているのではなく、人間は自然の一部でしかない。自然は生きているのである。そのいのちの仕組みをしっかりと見つめて、自然のための営みを発見しようというのが、この自然観である。そこで重要なことは、「何をしないか」ではなく「何をするか」である。
 耳の会に大きな影響力を与えているのは、こうした理念に基づく「自然学連合機構」である。少しずつではあるが、新しい自然観に基づく活動も広がり始めている。
 我々一人ひとりがしっかりした自然観を持つことが、おそらく地球環境を解決に向かわせる起点である。90年代の冒頭に当たり、自然に対して自分は何が出来るのかを問うことを皆さんに呼び掛けたい。

〔価値時評5〕あなたは何のためにお歳暮を贈りましたか(1989.12)

●お世話になった人からお歳暮が届いてしまった
 日頃お世話になっている某大学教授からお歳暮をいただいた。それも私の休暇の日に届けていただいた。教授の所属する大学の地場の新鮮な美味で、教授のお人柄ならではのお心遣いがたいへん嬉しく、その日の夕食はいつになく楽しいものになった。贈り物の価値は『モノ』ではなくて『ココロ』であると言われるが、全くその通りだと思う。
 中元歳暮の風習については、虚礼廃止とか無駄が多いとか、とかくの批判もあるが、すたれるよりはむしろ盛んになるというのが最近の風潮のようである。
 しかし、中元歳暮の意味はかなり変わりつつある。それにつれて、その贈り方、受け取り方の作法も変化すべきなのだろう。今回は、そのへんについて少し考えてみよう。

●豊かさを得るために贈り物をするいじましさ
 そもそも、贈り物というものは“経済人類学者”の指摘を待つまでもなく、『贈るものと受けるものとの関係を作りだし価値づけるための人類古来の本能的行為』である。そして、その時々の『社会の豊かさ』によって作法が決まってくる。
 貧しい社会には、『豊かさを得るための贈り物』が多く見られる。一部のサラリーマン社会で行われている上司や取引先への中元歳暮も、「日頃のお世話への感謝」という大義名分とは裏腹に、多分に損得勘定が働いているだろう。特に、会社名義で届く中元歳暮には何のメッセージもなく、品物だけが送られてくる。感謝の気分を届ける作法は皆無であり、礼状も出しにくい。
 最近のリクルート疑惑は、こうした『豊かさを得るための贈り物』の延長にある。決して私たちと無関係の世界ではない。中元歳暮という風習であろうとも、贈り物には、当事者の関係を『価値づける』効果があることを忘れてはならない。もし贈り主の意図する価値づけを否定したいのならば、すぐ相殺的に贈り物をしなければならないが、それでは逆にこちらの意図する価値づけを押しつけることにもなりかねず、余程注意しないとかえっておかしなことになってしまう。『贈り物』とは煩わしいものである。

●豊かな社会になったのにお金の使い方がまだわからない
 ところが、最近のような『豊かな社会』では、人々は必ずしも『豊かさのために』贈り物をするわけではない。では何のためなのか。
 ひとつの理由は、『お金の使いみち』を知らないからではないだろうか。私たちは急に中途半端に豊かになったためか、苦労して得た豊かさをうまく使えないでいる。その代表は『時間』であろう。リゾート開発が賑やかであるが、自由時間の持ち分が多くなることを歓迎しない人も少なくない。自分の時間を自分で使う作法が身についていない。
 お金についても例外ではなく、使い方を知らない人が多い。最近では、孫のために、何かと口実をつけてお金を使いたがるおじいちゃん、おばあちゃんが増えており、赤ちゃんが最初にはいた靴を金メッキして記念品(4万円近くかかるらしい)にする商売が評判になっている。子供のために、どうにかしてもっと金を使いたいという親も多いという。いや親だけではない。若者たちも金の使い方を知らないようだ。バレンタインデーのような「○○○の日」を作って、お金の使い道を教えてやることが必要になってきている。
 お金の使い方を知らない人にとっては、贈り物は便利な風習である。中元歳暮の習慣も、その一つになってきているのではないか。今や中元歳暮もお金を使う口実にすぎないのである。贈り手と受け手との関係の価値づけのような意味は急速に失われつつある。
 こうした状況の中では、無駄なものに金を使うほど行為の価値が高まる。つまり、豊かな社会では、贈り物とは単純に『無駄を楽しむ』ということなのである。無駄であることが価値があるというパラドクスが成立する。バレンタインデーに、パッケージングやブランドのコストが主で、実際に食べる部分は付け足しのようなチョコレートをもらって嘆く世代は、貧しい社会の住人なのである。

●もう一度、ポトラッチしましょうか
 もっとも、現在の状況は、『豊かでもあり貧しくもあり』というところであろう。無駄をすることばかりが贈り物ではなく、豊かさを得るための贈り物も混在している。従って、贈り物の作法もいろいろと混在しており、ややこしい。
 中元歳暮に、未だに実用品を贈って下さる方もいる。いや、デパートの歳暮売場のほとんどは、やや高級品とは言え、基本的には実用品で占められている(この当たりに現在のデパートの時代感度の悪さが如実に出ている)。しかし、現在のようにライフスタイルが多様化していると、一般的には実用品でも、特定の個人にとっては実用できないことが少なくない。つまり無駄になりやすいのである。ここでも、実用品であればあるほど実用できないというパラドクスが成立している。
 世界各地に見られる民俗風習のパターンの一つに『贈り物競争』がある。もらった以上の物を返しつづけていくこと、それもできるだけ無駄をしていくことが価値あることとされる風習である。わが国でも、その風習は地方の結婚式や法事などに色濃く残っているが、北米インディアンの一部族にあっては、つい最近まで、とどまることなく、ついには自分の財産をすべて破壊したり燃やしてしまうほど無駄を徹底していく風習(ポトラッチ)があったという報告もある。
 時代の激変の中で、こうした風習をもう一度見直す必要があるかもしれない。

 ところで、みなさんはどんなお歳暮を贈りましたか? 受け取りましたか?
 ポトラッチ度はどのくらいでしたか?

〔価値時評6〕企業にも多様な価値観が求められています(1990.2)

 経済広報センターが、広聴活動の一環として、「あなたが企業にのぞむこと」というテーマで広く論文を募集した。たまたま、その論文を全編(610編)読む機会があったのだが、企業に対する社会の期待が大きく変化しつつあることを改めて痛感させられた。
 応募者を性別世代別にみると20代女性が一番多かったことも印象的だった。しかも、彼女たちの意見は生活実感を伴うナマナマしいものであり、辛辣な企業批判も少なくなかった。これは、最近の女性たちの職場進出と無関係ではないだろう。これまで男性の論理で構築されてきた「企業の世界」に、女性たちが新しい風を吹き込むことは大いに歓迎すべきことである。
 論文全体を通して感ずることは、『豊かさが問われ直されている』ということである。『わが国は“豊かな社会”を達成したといわれている。しかし、国民一人ひとりはどれだけの豊かさを実感しているだろうか?』『企業は人なりという。しかし、どれだけの企業が人を大切にしているだろうか?』という声は応募者全員の共通認識と言ってよい。豊かさ実現のために、もしかしたら“ゆとり”や“人間性”を失ってきたのではないか。環境破壊も取り返しのつかないことなのではないか。そういう思いが、豊かになったために人々の間に強まっている。
 豊かさへの疑問と並んで、企業の役割も変わるべきだという指摘が数多く出されている。『豊かな社会を実現する上で企業は大きな役割を果たしてきたが、時代の変化の中で“企業の役割”も大きな転回点を迎えている』というわけである。
 「営利を目的とした継続的な事業経営体」というのが辞書による企業の定義だが、どうも企業が利益だけを目的とすべき時代は終わったようだ。最近、企業のコーポレート・シチズンシップの議論が盛んになり始めているが、これまでの経済活動にプラスした新しい役割が企業に求められている。
 企業の新しい役割については、例えば、社会福祉、文化活動、地域づくり、社員のボランティア活動パックアップ、教育、政治、新しい文明づくりというように、様々なものが提案されている。これらをすべて企業がやらなければならないとしたら、これは大変なことだが、企業社会と言われるほど企業の社会的意味が大きくなっている状況の中では、企業としても放っておくわけにはいかないだろう。企業自身がやるかどうかは別にして、企業の役割は大きくなってきている。
 これと関係して、「企業戦士」という言葉に含まれるような働き蜂的な企業人、そしてそうした状況をつくっている企業に対する厳しい批判も多かった。良くも悪くも今日に至るまで、企業は家庭や地域社会への個人の関わりを剥奪するように社員のエネルギーを吸収し、成長拡大を図ってきたわけだが、“豊かな社会”の成立は、個人の関心を企業よりも地域や家庭へと向かわせ始めている。しかし、現実の企業の仕組みはまだまだ内部指向が強く、社員のエネルギーを取り込んで仕事に向かわせている。
 『私の夫を家庭に返してほしい』という妻の声もある。いくつかの家庭悲劇も語られている。『夜遅く疲れて帰ってくる夫には男性的魅力を感じません』という発言を、企業戦士たちはどう考えるだろうか。最近、疲弊した「企業戦士の死」も少なくないが、企業も真剣に考えるべき問題である。
 いくつかの論調を紹介したが、それらの背後には利益追求を最優先する経済効率主義への疑問がある。社会が成熟化する中で、経済的価値観だけではなく、もっと様々な価値が求められ始めているのである。それは、社員管理の上で必要なばかりではなく、企業が社会の中で存在していくためにも不可欠なものになってきている。グローバリズムの動きも、多様な価値観との付き合いを求めてくるだろう。単一な発想をする「企業戦士」の時代は終わりつつある。
 最近、企業の生活研究所づくりがブームになってきているが、なぜ生活ということを改めて研究しなければならないのかをよく考えてみる必要がある。
 本来、企業は人々の生活に役立つことから出発していたはずである。その生活が見えなくなってきているわけだが、それは企業の内部から、つまり企業人たちから生活がなくなりつつあることのあらわれではないだろうか。企業の中に様々な価値観があり、様々な個性があれば、生活などはことさら研究するまでもないであろう。
 企業戦士たちの顔が、どうも表情のない同じ顔に見えるのは私の偏見であろうか。

〔価値時評7〕ボーダーレスの中で関係を再構築する自己主張を(1990.4) 

 ベルリンの壁がなくなってしまった。予兆はあったもののいかにもあっけない崩壊劇であったと言っていい。歴史の変わり目も間違いなく、連綿と続く日常の中にある。ドラマは形ではなく、その意味にある。
 「ボーダーレス」。現代の状況を総括するキーワードは間違いなくこの言葉であろう。ベルリンの壁はその象徴である。あらゆるところで、目に見えない境界(ボーダー)が消滅している。目に見えないだけに、消滅したにもかかわらず、それに気がつかない人も少なくない。しかし、それに気づくかどうかが、その人のその後を決めていく。
 たとえば「国際化」という言葉には国を前提とした発想がある。その国のボーダーがなくなりつつあるにもかかわらず、今までと同じ「国際化」思考をしていていいはずがない。言葉はともかく、違った発想が求められているのである。
 事実、国を経由せずに様々な情報が受発信され、行動がネットワークされつつある。あらゆる次元で「地球感覚」と「地球的活動」が増加している。グローバリゼーションと国際化とは基本を異にしている。それに気づくかどうかが大切である。
 わが国も僅か120年ほど前には、多くの「藩」に分かれていた。多くの境界(ボーダー)で区分されていたのである。人々は藩民として生きていたのであり、その時の人々にとっては「日本国」という意識は抽象感覚としてはあったかもしれないが、現実感覚ではなかっただろう。最初の日本国民は勝海舟であるという司馬遼太郎の指摘は、その状況を示唆している。
 しかし、その後日本は急速に国内のボーダーを解消してひとつの国になっていく。その動きにどう対処したか、「藩」や「国」にどう関わっていったか、によって、人々のその後の歴史が決定されていく。それまでの秩序や体系(オーダー)は根本から変化しオーダーレスとも言える時代状況が出現したが、次第に明確となる新しいオーダー(秩序)の中での位置づけは、藩や国との関わり方によって規定されたと言ってもいいだろう。
 現在のグローバリゼーションを、それと同列に扱うことは適切でないかもしれない。しかし、ボーダーレスからオーダーの組み換えへという大きな流れは同一と考えてもいいだろう。どう対処するかは重要である。
 江戸時代の庶民たちが毎日藩を意識して生活していたわけではないように、私たちも国を意識して日常生活を過ごしているわけではないから、国境がなくなることを自分の問題として考えていくことはそう簡単なことではない。しかし、おそらく新しいオーダーが急速に一人ひとりの日常生活に関わってくるのではないかと思われる。それをどれだけ早く感知して自分の問題として考え、行動につなげていくかが、私たち一人ひとりにとってのこれからの歴史の岐路になるだろう。
 ボーダーレスは国境だけの問題ではない。私たちの周辺では様々な境界が消えつつある。産業区分や技術区分がなくなっているのもその一つである。第一次産業、第二次産業、第三次産業といった区分も今や有効ではない。いや、そういう枠組みにこだわっていると現実は見えてこないと言うべきだろう。時代の流れ(トレンド)をつかまえる枠組みすらが、ボーダーレス化しオーダーレス化しているのである。
 産業と行政の境界、企業と労組の境界、企業と企業の境界、働くことと遊びとの境界、経済と文化の境界、数え上げればきりがないほど、あらゆるところで境界が消滅しつつあるのである。
 境界がなくなり秩序の再構築(リストラクチャリング)が進んでいる結果、あらゆるものの存在が見えにくくなってきている。枠組みがないため、自らの存在をしっかりと自己主張していかなければ、社会の中での存在を確立することが困難になっているのである。そのため、多くの組織や人や事物が自己主張し始めている。「アイデンティティ宣言ブーム」である。増幅されたアイデンティティが飛び交っている背景には、ボーダーレス化があるのである。その喧騒の中で、ますます自己主張が必要になってきている。それが現代である。
 オーダーレスの中で様々な存在の関係が変化しつつある。身近な例で言えば、家庭内の夫婦の関係や親子の関係がある。ひと昔前とは全く違った関係がそこにあるのではないだろうか。企業における上司と部下の関係もそうである。企業と社員との関係、企業とお客様との関係も様変わりになってきている。
 新しいオーダーへの移行とは関係の再構築なのである。そして大切なことは、「関係とは変えられるもの」であるという認識を持つことである。関係が固定していた時代とは違い、現在は意思と行動があれば関係は変えられるのである。アイデンティティ宣言は、社会との関係の変革を目指す行動があって完結するのである。
 ボーダーレス化の中で、自己主張と関係変革の重要性が高まっているわけだが、自らのアイデンティティの確立を急ぐあまり、自分の周辺に固い壁を構築してしまうことは避けなければならない。アイデンティティとは壁をつくることではない。
 オーダーが見えていない時代にあっては、むしろ新しいオーダーの創造に加担するために自らを開いていく姿勢が必要である。自らの回りの壁を意図的に解消し、自らのアイデンティティを模索しながら新しいオーダーづくりに関わっていくほうが建設的である。

 新しい時代が始まろうとしている。ボーダーレスの意味を噛み締めながら、形にとらわれない自らのアイデンティティの確認をしていきたいものである。         

〔価値時評8〕人は何のために徒党を組むのか(1990.6)

 「会社を辞めて新しい仕事に取り組もうと思うんだけどね」と電話がかかってきた。相手はある比較的名前の通った会社の社長である。新しい仕事を個人で始めることを考えているという。財界活動でも活躍している人だっただけに驚いてしまったが、そう言えば最近、この種の電話が大変増えている。
 相手が社長であることを除けば、今月これで5人目の電話である。みんな会社を辞めて転身を図ることを考えている。上場企業の部長、シンクタンクのバリバリのプランナー、経済団体のスタッフなど、現在の分野は様々であるが、共通している点はみんなこれからは一人かあるいは少人数で仕事をしていく点である。
 私自身、昨年ある企業を辞めて新しいスタイルで新しい仕事(価値創造)に取り組んでいるが、そのせいか面識のない人からもよく電話がかかってくる。ほとんどの人の関心は「自分のやりたいことをどうしたら実現できるか」である。今の会社に所属していることが、そのために有効であれば所属しているし、そうでなければ違った状況に自分を置きたいという思いが強く、会社を辞めることについてはかなり淡白と言ってよい。ひと昔前の転職感はほとんどないと言ってよい。
 自分の生活を大切にするという哲学も非常に強い。地方転勤辞令を受けたある大手上場企業の人事課長が、その辞令は本社での昇進のワンステップだったにもかかわらず、転勤しなければならないのであれば会社を辞めたいと申し出たケースもある。彼はそれまで人事部員として、そういう“わがまま?”な社員を説得する立場にあり自分自身転勤を重ねてきたのに、なぜか今回は会社を辞めてまで、転勤を拒否したのである。
 仕事に対してある志と哲学を持って取り組んでいる友人が、仲間と一緒に会社をつくりながら、しかし思うように考えを実現できずに、結局一人で仕事に取り組むことになったケースが今年になってから2人ある。一人は経営コンサルテーション、一人はマーケティングの分野で実績を上げてきた人であるが、だんだんと小さな組織を拠点とするようになっている点で共通している。
 本来、企業とは一人では実現できないことを、みんなで集まって実現しようというものだったのではないかと思うが、彼らを見ているとどうも現在は逆に企業が大きくなるとできないことが増えてきているようである。
しかし、組織であればこそ出来ることも少なくない。日産自動車関係の労働組合である日産労連では組合員一人が毎月100円を寄付する福祉基金を持っている。組合員の数が多いため、一人月100円でも全体の年間予算は2億円以上になる。それを使って様々な公益活動をしているが、その一つが身障者に観劇の場を与える活動である。
 身障者は感激を叫びやジェスチャ−で表現することが多く、それが一般観客への妨げになるため音楽会や演劇を楽しむことが難しい。身障者たちが伸び伸びと鑑賞し、その感激を思う存分表現できる場をつくるためには公演を買い取らなければならない。
 日産労連では、組合員の寄付から成る福祉基金で身障者たちに観劇の場を提供している。しかも、スケジュール調整や劇団との打ち合わせ、劇場までの身障者の送迎や介護などはすべて組合員のボランティア活動でまかなっている。毎年、約二千人の組合員がボランティアとして参加しているという。そして、毎年50万人前後の身障者たちに観劇してもらっているという。
 月に100円の寄付とできる範囲でのボランティア活動の集積でこれだけのことができるのである。大きな組織であればこそ、こうしたことが可能になっているのである。

 ここで紹介したケースはいずれも私の友人たちである。特殊なケースも無いわけではないが、この傾向は時代の気分なのだろう。人々の「働き方」が、そして「生き方」が変わりつつあることは間違いない。転職雑誌の編集者と会ったら、「ついに熟年会社員たちも動きだしましたね」と近々特集を組もうと考えているという話だった。確かに私の回りの熟年者たちが変わりつつある。
 「企業は人なり」ということが、ますます意味を持ち始めてきている時に(産業のソフト化とは経営資源としてのヒトの意味が極端に大きくなることにほかならない)、企業にとって社員の働き方や働かせ方は重要な問題である。新しい働き方に取り組んでいる企業も少なくない。リクルートのように「ワークデザイン研究室」を設置し、様々な働き方の研究からもう一つの働き方を提案していこうという企業もある。
冒頭の社長からの電話にも象徴されているように、働き方の変化は経営者においても例外ではない。先日、松下電器の山下相談役とお会いした時に、「会社がいくら利益を上げても成長してもそれだけではだめなのです。社員が幸せでなければいけません」としみじみとお話しされたのが印象的だった。山下さんは山登りが大好きで、社長時代にお忍びでイランの山に登ったことは有名な話であるが、松下電器の企業文化の方向を大きく変えた山下さんのこの言葉は含蓄に富むものである。
 女性たちの職場進出が話題になっているが、その陰で男たちも「濡れ落ち葉」族にならないように少しずつ動きはじめているのである。

〔価値時評9〕東京への一極集中の背景で人々の意識が地方に向きだした(1990.8)

 私事で恐縮だが、生活の拠点をどこか地方に移そうと考え始めた。そろそろ人生の最後をどこで迎えるかを考える年齢(? いま49歳)に近づいたこともあって、意識の上では「終(つい)の住処」探しという気分になっている。もちろん、この背景には交通・情報通信システムの発展により、地方での生活と首都圏での仕事の両立が可能となったこともある。しかし、終の住処である以上、その地域にそれなりの貢献ができなければ住民にはなりにくい。そう簡単なことではなく、5年がかりのプロジェクトと考えている。
 そんなわけで最近、地方を訪ねる機会が多いが、どこに行ってもすぐにでも住みたくなるような魅力がある。魅力の第一は景観と豊かな自然。山口市では市内の真ん中にホタルが群棲していたし、富山から見える白山連峰はまさに神々の息吹を感じさせてくれた。仙台市では早朝の散歩に出かけて山道に迷い込んでしまった。なんと市街から15分の近くに渓谷があるのである。
 食事も魅力のひとつである。魚の美味さは言うまでもない。東京のグルメ族(それはそれでひとつの文化だが)の舌などは笑止千万と言いたくなる。
 さらに豊かな人間の表情がある。公共施設や文化施設の素晴らしさにも感心する。必ずしも有効に使われていない気もするが、そう考えること自体がまさに都会の効率主義の発想なのかもしれない。地価や住宅の安さもあげるべきだろう。首都圏族が相場を引き上げているため、これはと思うところは急速に高騰しているが、まだまだ格差は大きい。
 この結果、行く先々に住みたくなってしまい、どこに住むべきか決めかねている。もしかすると地方が魅力的なのではなくて、首都圏がひどすぎるのかもしれない。

 高校時代の友人が25年振りに東京に戻ってきた。夫婦とも東京出身なのだが、仕事の関係でずっと地方生活を続け、やっと念願の東京勤務になったのである。引越してから2か月たった頃、そろそろ落ち着いただろうと思って彼に電話してみた。ところが・・・・
 「息子が東京の生活がいやだと言い出してね」と彼はきりだした。「前のところに戻りたいと言いだしたんだが、女房もそれに賛成してね。結局、家族は茨城(前任地)に戻ってしまったよ。オレも週末は茨城生活に戻ったよ。」
 つまり、彼は単身赴任となったわけである。息子さんは中学3年である。受験を控えての東京引越しは大変なのは理解できる。しかし、奥さんまでがなぜ賛成したのだろうか。「やはり地方の生活はいいよ。ゆったりしているし、食べるものはおいしいし、様々な施設が整備しており、生活の豊かさという点では東京のそれとは比較にならない。いざとなれば東京にもすぐ来れるしね。女房の賛成は当然で、できるならオレも賛成したいくらいだ」と彼は答えた。地方と東京(彼の両親は東京に住んでいる)とを行き来していた彼によれば、地方と東京との豊かさが実感的に逆転したのは、この5年くらいだそうである。「オレも勤めを考えなおそうかと思っている」という彼の言葉には現実感があった。
 いま急成長している中堅企業のバリバリの課長が1年振りに会いにきてくれた。「4月に仙台に引っ越しました。毎週新幹線通勤ですよ」というのが、彼の第一声であった。今年はじめ仕事で仙台を訪れて、すっかり魅了されたのだという。そこで早速の転居。鮮やかというほかない。会社に退社を申し入れたが、急成長の会社の中堅であれば当然のことながら、せめて後1年はいてほしいと慰留されたらしい。彼もまた単身赴任というわけだが、そのコストは大変だろうと聞くと、「仙台では70坪の家が3000万円ですよ。毎週新幹線で往復しても年間せいぜい 150万円、東京での生活コストはかかりますが、それを併せても経済的にはむしろ安いくらいですよ」と事もなげに答えてくれる。誠にごもっともというほかない。
 大手企業の友人が部長の職を捨てて、徳島大学の先生になってしまった。大学生の子供たちは自宅に残し、夫婦共々の転居である。給料はかなり下がったらしいが、生活水準はかなり上がった模様である。時々、幸せと豊かさいっぱいの手紙が届く。とりわけ東京生まれの奥さんが喜んでいるようである。

 東京への一極集中が問題になっているが、その傾向はなかなか変わらない。しかし、どうやらその背景で、 人々の意識は変化しつつあるようだ。仕事場所で生活を決める生き方と生活する場所から仕事を考える生き方と、どちらが豊かなのであろうか。

〔価値時評10〕捨てられているものにも価値があります(1990.9)

 長崎県の佐世保市は米軍基地と造船で象徴されるためか、何か重苦しい灰色のイメージを持たれがちの都市であるが、西海国立公園の代表的な景勝地である九十九島をはじめとした観光資源を豊かに持った都市でもある。その佐世保に“海の幸いろいろいろり屋”という個性的な食事処がある。そこの店主の永田さんと飲む機会があった。
“いろいろいろり屋”のコンセプトは次のようになっている(お店の案内資料から)。

 『趣向や技巧をこらした料理やしかけはありません。その日、その時、その季節にとれた西海の幸をありのままの形で、あるだけ召し上がっていただきま。』

 立派な魚が出てくるわけではない。その日採れた魚が材料である。それも、正規の市場には出荷できないような小魚が中心である。現在の規格度の高い流通市場では捨てられてしまうような、形も大きさも不揃いの雑魚を漁師から分けてもらって、それを材料にしている。従って、客によって魚種も違えば大きさも違うといった、まさに「いろいろ」なのである。同じ卓に様々な魚が様々な表情で並ぶことになる。都会のレストランのテーブルの整えられた美しさとは全く違った、いきいきした美しさがそこにはある。
 時間をかけた特殊な料理があるわけでもない。小さな魚が活き造りで出てきたり、焼かれたり、なんということのない自然体の調理である。生きている小魚を自分で選んで串に刺して囲炉裏の周りに並べて焼くこともできる。囲炉裏には近くの山からとってきた、これまたいろいろな雑木の小枝をくべるのである。囲炉裏にかかった鍋で煮込むのも良い。これはすべて客が自分でやることになる。
同じメニューを頼んでも、その時の仕入れ材料の都合で、違った魚が出てくることもある。普段は口にできない(魚屋には売っていない)いろいろな小魚が、化粧もせずに素顔で丸々一尾出てくるというのは、特に都会の人間には魅力的なことであろう。
 規格外で処分される魚が材料、それも供給側の都合に合わせた仕入れ(いつも同じ魚があるわけではない)、調理も日常的な自然体、一部は客まかせ。これらは、近年の工業化社会が捨ててきた発想といってよい。
 店主の永田さんはエコロジストである。自然との付き合いを大切にしており、野草などを食卓にあげるのもお上手のようである。素晴らしいアイデアマンでもある。いろいろな自然とうまく付き合っていることが、発想が豊かで柔軟な秘訣かもしれない。工業社会の風景は画一化されがちで、その中で生活していると発想も画一化しがちだが、永田さんと話していると面白いアイデアが次々と出てくる。“いろいろいろり屋”は、いろいろな発想を生み出す仕組みでもある。高級ホテルのレストランなどでは発想は広がらない。
 このようなお店が首都圏近くに出来たら評判になるだろう。しかし、材料手当てができず継続できないだろうと永田さんはおっしゃる。現在の工業化路線は、あまりに多くの自然を捨ててきたことを改めて痛感する。
 “いろいろいろり屋”からの教訓は二つある。一つは、私たちが捨ててきたものから発想することの大切さである。私たちが当然のこととして捨てているものや見落としているものに、新しい価値を見つけることが大切になってきている。事業のための資源についても、生活のための材料についても、または人間の才能についても、同じことが言える。時代が大きく変わりつつある現在、物事の評価基準も大きく変わりつつある。価値のなかったものが価値を持ち始めている時代である。もう一度、身の周りのものを新しい価値基準でとらえ直す必要がある。
 もう一つは、マイナスの価値をプラスに転化することである。不揃いで数も半端ということは、普通の発想では歓迎できないことだが、永田さんは、それらをプラスの価値に転化した。小魚であることと数が半端なことを、事業の特色にしたのである。
 すべてのモノやコトには必ず裏表ある。良いこともひっくり返せば悪いことになる。欠点も逆転させれば長所になる。同じことならば、すべてプラスに考えたほうが良い。この点も、私たちが忘れつつあることではないだろうか。価値の逆転はそう難しいことではないはずなのだが、先入観の強さからか、欠点は欠点でしかないと考える人が多すぎる。
 例えば、“いろいろいろり屋”のある佐世保市の中心地域には米軍基地がある。これが市の発展にとって制約条件であり、イメージ上もマイナスであると考えてしまったら佐世保市の発展は難しくなる。しかし、発想を転換すれば米軍基地は佐世保市にとって大きなプラス資源となる。基地に働く人とその家族たちの協力を得て、アメリカ的な市域をつくりだしたりアメリカとの交流活動を企画することもできるだろう。要は、マイナスだと考えて捨ててしまう姿勢をなくすことだ。そうすれば、この世には無限の資源がある。

 あなたも、先入観で捨ててしまっていることや捨ててしまった人がいませんか?
 一度、考え直してみたらどうでしょうか。
 なお、“いろいろいろり屋”のサイトがあります。佐世保に行ったら、一度お訪ねになることをお勧めします。

〔価値時評11〕多様な価値観を背景とした意味の開発の時代 (1990.10)

 無報酬で委員を委嘱されていたある研究会で海外調査を行うことになった。年配の事務局の方が言うには、「いろいろとお世話になったので、そのお礼もかねて海外調査を組みました。旅費は全額負担させてもらいます」ということである。1か月の予定だと言う。彼にとっては1か月の海外旅行を用意してやったという意識、それを聞く私のほうはさらに1か月の無料奉仕へのお付き合いという受け取り。そこには大きな食い違いがある。海外旅行がインセンティブになった時代はとうに終わっている。
 最近、テレビのキャスターの仕事をさせていただいた。その報酬を聞いて驚いた。それが“業界”の常識だと言う。高名な方はいざしらず、一般のキャスターは無料奉仕に近いのが実態のようである。テレビ会社の人と話してみると、テレビに出してやるという感覚がかなり残っている。1クールだけのお付き合いで下ろさせていただいた。ビデオやラジオの取材も同じようなものである。市販ビデオの制作に半日取材協力したら、後日、完成したビデオが数本送られてきた。それが謝礼だそうである。ビデオ取材されれば宣伝になるでしょうと、ある人がおっしゃった。感覚の違いは大きい。しかし、内部にいる人には業界常識のおかしさは発見しにくい。
 仕事で地方に行くと必ずといっていいほど夜の接待がある。地元の美味しい料理を味わせていただけるのは大変嬉しいが、その後がいけない。次々といろいろなところに連れていってくれる。しかもそのほとんどは東京のまがいもの的なところで、退屈この上ない。先方には接待しなければ失礼という脅迫観念があるらしいが、こちらは早く解放してほしいと思う。どうせなら接待されるようなところ(どこも退屈である)ではなく、もっとその土地らしいところをゆっくりと味わいたい。ここでも行き違いがある。
 会社でも上司が時には部下を慰労してやろうと飲みに誘って、迷惑がられることはよくある話である。部下の慰労のつもりが、部下にとっては上司の慰労ということになる。最近、話題のセクシャル・ハラスメントの多くも、こうした誤解の延長に起点がある。
 似たようなことは家庭でも起こっている。たまの休日に子供と付き合ってやろうと無理をして遊園地などに行った帰りに、子供に「また連れてきてやるぞ」などと言うと、「そうそうお父さんに付き合ってはやれないよ」などと言われてガックリきた経験のある人も少なくないだろう。
 最近、話題のインテリジェントビルのいくつかを見学させていただいた。確かに様々な工夫がある。機能的には素晴らしいのかもしれない。しかし、どこかそらぞらしい。立派な休憩室はあっても、快適な休憩はとれそうもないなぁという感想を持ってしまう。ビル全体の装置化の中で人間がやけに惨めに見えてしまう。本当に社員は喜んでいるのだろうか。仕事はやりやすくなったのだろうか。社員に快適なオフィスを用意してやろうという思いやりが的確に実現しているとはなかなか思えない。金をかければ快適さが実現できる時代もとうの昔に終わっている。
 こうした事例の中には、様々な教訓がある。経済の成熟化のおかげであろうか、人々は今やお互い充分すぎるほどの思いやりの世界で生きている。しかし、人々の意識や価値観の違いは様々なところで広がっているようである。思いやりのおしつけは迷惑を与えるだけである。しかも罪の意識がないだけに、始末が悪いと言うべきだろう。
 企業が文化に関わる姿勢を強めている。文化への支援を行っていくための企業メセナ協議会も設立された。それは時代の方向として歓迎すべきことである。しかし、注意しないと、これまでの例のような「思いやりの食い違い」を起こさないとは言いきれない。企業の中心にある「経済のリズム」は「文化のリズム」とはかなり異なるし、発想や論理体系も異質である。社会的に強いパワーを持つ企業が関わっただけで、変形してしまうような華奢な文化も少なくない。企業の文化接触は充分の注意が必要である。
 時代が大きく変わる中で、人々の価値観は急速に変わってきている。その結果、様々な価値観を持った人たちが混在する時代が出現した。確かにわが国は単一民族に近い社会ではあるが、人の価値観は決して一律ではない。そろそろ同質社会神話は捨てたほうがいい。価値観の変化する時代とは、多様な価値観の発現する時代という意味である。そうした状況においては、思いやれる余裕が出てきたにもかかわらず、人を思いやることが難しくなってきた。とりわけ思い込みに基づく思いやりは戒めなければならない。
 それはまた、ある事実に対して、様々な関係や意味の開発ができる時代ということでもある。思いやりのズレがあることは関係の多様化を示している。海外旅行させてもらって喜ぶ人もいれば、海外旅行から外してもらって喜ぶ人もいる。選択の多様性はこれまでになく高まっている。その認識が大切なのである。
 人手不足に悩む3K職場というのがある。建設現場のように「きつい、汚い、危険」の三つのKが揃っている職場である。3Kではなかなか人も集まらない。3Kの実態の解消は該当する会社にとっての関心事であろう。
 しかし、考えてみると、例えば青森のネブタ祭りや徳島の阿波踊りに象徴されるように、日本の祭りは3Kの典型ではなかろうか。その3Kの祭りにあれだけの人が集まり、感動し、喜びを感ずるのは何故だろうか。3Kであることが、ただそれだけで嫌われているわけではない。同じ3Kでもお祭りは歓迎されているのだから。
 価値観の多様化とは、たとえば3Kの意味の変換が可能になっているということである。ディズニーランドは園内の清掃という3K的業務を遊び感覚で楽しい仕事に転化している。ファーストフーズのお店では退屈な仕事もお祭り気分で楽しくできる仕組みをつくっている。それがまた、お客様へのホスピタリティ(もてなし)につながっている。
 価値観が多様化している現代は付き合いの難しい時代であるが、様々なものの意味の変換や関係の再構築が可能な時代でもある。個人の生き方が問われている。

〔価値時評12〕ジョン・レノンのメッセージは伝わっているだろうか。(1990.12)

 12月8日。この日は何の日だと聞かれれば、多くの人はおそらく「太平洋戦争が始まった日」ではないかと答えるだろう。その通りであり、日本の新しい歴史の始まりの日である。日本が真に世界への関わりを開始した日である。しかし、もうひとつ重要な出来事のあった日でもある。
 1980年12月8日、ジョン・レノンがニューヨークの自宅の前で一人の若者に射殺された。報道によれば犯人はレノンのファンである。彼がなぜレノンを撃ったのかについては様々な推察が出されている。CIAによる謀殺説まである。その真偽は定かではないが、ひとつ確かなことはレノンの死によって時々噂されたビートルズの再結成が完全になくなったということである。しかし、逆にビートルズ人気やビートルズ談義は盛んになっている。レノンと生活を共にしてきたオノ・ヨーコの発言や行動も広がりを見せている。レノンの死のメッセージは大きかった。
 レノンが仲間たちと結成したビートルズがデビューしたのは1962年である。日本では2年後の1964年にレコードが発売された。ちょうど私が大学を卒業して会社に入った年だった。ビートルズの人気は当時もかなりのものだったが、その音楽が気にいった人はさほど多くなかったように記憶している。私自身、最初に聞いたビートルズは騒音以外の何ものでもなかった。50年代を風靡したプレスリーのファンだった私にはとてもついていけなかったし、ビートルズよりも洗練されたアズナブールやシルビー・バルタンのフレンチ・ポップスのほうが快かった。世間はまだ安保問題を引きずってはいたものの、オリンピック景気の中で経済主義に向かって暴走していた時代であった。
 コカコーラを最初に飲んだのは何時だっただろうか。最初はとても薬臭くて好きになれなかったのに、何時のまにかやや中毒気味になってしまったのを覚えている。ビートルズもまさにそうであった。耳障りの高い音や繰り返しの単調さ、優しさと美しさのないハーモニーが逆に奇妙なメッセージとなって次第に心に染み込んできた。
 ビートルズがデビューした同じ年、アメリカで1冊の本が出版された。海洋生物学者レイチェル・カーソンの『沈黙の春』。科学技術をベースとした現代が選択しようとしている社会の行く末を語ることにより、環境汚染への関心を高めさせた名著である。私たちの行き過ぎた生態系への干渉の結果、春にさえずる鳥はなく花も咲かず、彩りのない灰色の静寂が世界を覆うという「沈黙の春」は決してありえないことではない。そのリアリティの故に、この1冊の本は時代を変える力を持っていた。わが国でも1960年代半ばから環境問題が話題となり、時代が少しずつ修正されていく。
 そして1964年、ビートルズはアメリカに活躍の舞台を移す。その前年、ケネディは暗殺され、アメリカは急坂をころげおちるようにベトナム戦争にのめりこんでいく。時代はここでもひとつの方向を示しているが、ビートルズのメッセージはそれに対峙するものであった。“ Give peace a chance "(平和を我等に)こそ、ビートルズサウンドのこころだった。それは当時まだパワーを持っていたカウンターカルチャーへのメッセージでもあり、時代の方向を変えていく仕掛けが、ビートルズのサウンドの中にも秘められていたと言ってよいだろう。
 時代へのメッセージを残しながら、しかしビートルズは1970年に解散してしまう。そして各人が異質な方向へと動きだしていく。デビュー以来僅か8年。それにしてはあまりに強烈なビートルズ・メッセージであった。それは今なお続いている。
 ビートルズ解散以来、レノンは自らの世界に向かっていく。ヨーコとの出会いがそれを加速するわけだが、息子誕生を契機に「主夫」業に専念し音楽活動を休止する。彼は赤ん坊の世話をし、家族のためにパンを焼く。「家庭の主婦ならだれでも知っているけど、パンを焼くことや赤ん坊の世話をすることはパートタイマーではできないんだ。ほかのプロジェクトにかかわってる暇なんてない」とレノンは語っている。
あるインタビューで「なぜか」と聞かれてレノンは「おのれを救えというところかな」と答えている。ヨーコによれば「私たちの人生で何がより大切か」という議論があったようである。ここにもひとつの時代のメッセージがある。経済主義を続けている私たちにとっては噛み締めるべき言葉であろう。
 そのレノンが、40歳になり息子も手離れしたので再び音楽活動に復帰しようとした矢先に銃弾に倒れたのである。彼がもし死ななかったならば、おそらく平和や人権や地球環境に新しいメッセージを送り、方向を定めかねている様々なエネルギーにベクトルを与えていったことであろう。だが、そうはならなかった。そして、翌年、アメリカではタカ派のレーガンが大統領に就任する。
 レノン謀殺説によれば、レノンのシンボル性を危惧したグループが若いレノン・ファンをマインドコントロールし(操り)、レノンを射殺させたと言う。最近のマインドコントロール技術をすれば可能な話だろう。そして、「平和こそが敵」と考えているグループがいることも事実である。
いや、そんなこと以前に、ビートルズサウンドが引き起こした若者のエネルギーの高揚を不気味に思う意識はかなり広範に広がっている。最近のパンクやヘビメタのサウンドやスターを皆さんはどう思うだろうか。自分と異質なもの、社会にとってのノイズ、平和な中流生活を壊すもの、そんなイメージを持っていないだろうか。ビートルズもレノンも、その時代においてはそんな存在だった。
 私たちの頭の中にある異質なものを拒否する傾向はかなり強い。その根源には効率を追求する経済主義があるように思われる。しかし、時代は変わりつつある。多様なものとの共生を受け入れる寛容さを私たちはもっと持たなければならない。そして、異質なものにこそ、大切なメッセージがあることを認識しなければならない。
 『沈黙の春』が現実に大きなうねりをつくりだすまでには30年近い時間が必要であった。レノンのメッセージはまだまだ現実を変えるにはいたっていない。

 レノンの死から10年。しかも湾岸危機による戦争参加への突きつけ。20世紀最後の10年の始まりに当たり、平和と生活についてもう一度考えてみたい。
日本が真に世界と関わっていくためにも。