■ジョンギに込められた深い意味
● 命名者西村美和さんの報告
「じょんぎ」について、我が「越後方言辞典」を調べました。
それによると「情誼」と出ています。
その意味は方言辞典では「挨拶」と出ていますが、広辞苑の解釈では、「情誼」を引くと
交遊の情愛、親しみ、よしみ・・・・となっています。
父母が使っていた感覚と概ね合っています。
例えば「彼はじょんぎが良い」という時には、愛想が良い、丁寧である、礼儀正しい、義理堅い、裏切らない、恩義を忘れない・・・・・と言った意味で使っています。
従って「じょんぎをしてくる」というのは、「親しみを込めてお礼をしてくる」と言うほどの事です。何か粗品を持っていくこともあれば、お手伝いをしてくる事もあれば、精一杯お世辞を言ってくることもあります。
● 石本広報官の報告
インターネットのYahooで「情誼」を検索したら、380件くらい出てきました。
一部を読んだだけの印象では、相互扶助の精神というような意味と、人の情を重んじる生き方みたいな意味があるようです。
「福沢諭吉は情誼を重んじ」とか「西郷隆盛は情誼にのっとり」とか「明治政府の公教育の考え方は、情誼をウヌン」みたいなものが多いので、明治時代にはよく使われていた言葉なのかもしれません。
で、なんと中国語にもあるようです。「イ・なんとか」と発音するみたいです。
韓国、中国、日本、さらに台湾にも同じか、類似する言葉がある、東アジア的コモンセンスかも、と想像します。
■ジョンギの特徴
● ジョンギ研究者石本先生の報告(2002年8月8日)
ジョンギの特長について、整理しました。
これはあくまで、第1回村民会議で合意された内容に過ぎません。
村民会議に出席できなかった方からの疑問や異議申立ては、当然あると思いますので、そこはさらに議論を詰めていけば良いと思います。で、さっそく始めますね。
■特長その1:「ジョンギは村民が自由に好きなだけ発行できる」
まず「発行」というのは、ジョンギを印刷することではなくて、ジョンギを使って誰か村民のサービスを受けた時に、ジョンギに自分の名前を書き込んで相手に渡すことです。
ジョンギの表面に発行者名を書こむところがあります。
またジョンギの裏面に、誰が発行して誰に渡ったか、そこでどんな価値が生じたかを書き入れて下さい。
本日の私の発行例でいうと、私が佐藤さんに「事務所の一角に簡易書店を設営して、友人の本を売って欲しい」と頼み、1000ジョンギで話がまとまりました。
で、ジョンギの表面に発行者は石本と書き入れ、裏面には、石本→佐藤さんに渡り、発生した価値として「簡易書店の設営」と書き込みました。
佐藤さんにこれを渡せば、通貨のやりとりが完成です。
面倒かもしれませんが、個々の通貨伝達の歴史がわかるところが、法定通貨にない魅力です。
で、中央銀行に相当する機関が通貨量をコントロールするわけではないので、膨大なジョンギが発行され、村民の間を流通する可能性もありますが、それでOK。
ジョンギが大量に流通することは、村民の間に盛んに交換が行われているということで、これがこの通貨の本来の目的なので、インフレも何も関係ないのです。
■特長その2:「ジョンギは法定通貨(円)とリンクしない」
法定通貨と交換できるエコマネーや地域通貨も、かなりあるようですが、法定通貨とリンクさせると、せっかくの独自通貨が法定通貨のサブツールになるのが問題です。
「法定通貨と交換するために、サービスを提供して独自通貨を得る」という発想になるから、面白くないのですね。
「お金にならないけどやる」という心意気や、「お金にならないからこそやれる」ことの可能性を引き出すのを、ジョンギの目的にしたいと考えています。
たとえ1億ジョンギを集めても、円と交換はできないので、ジョンギを貯金しても、あまり意味がありません。
そのかわり、1億ジョンギに相当するサービスを、村民から引き出すことができますが、1億ジョンギの貯金がなくても、自分で1億ジョンギを発行できるので、やっぱり貯金には意味がありません。
通貨って、貯めることより動かすことに価値があるのではないか、コミュニケーションも含めた交換を促進することに意味があるのではないか、という「そもそも通貨論」にたちかえってみると、貯金しても意味がないジョンギは、まっとうな通貨なのです。
■特長その3:「すべてのサービスは一律1000ジョンギで取引される」
これは異論反論もあろうかと思いますが、自分の提供できるサービスに、どのくらいの値段をつけていいかわからないという人も多いので、いっそ一律にしてしまいましょう。
そもそも、1000ジョンギを受けとっても、1万ジョンギを受けとっても、法定通貨との互換性がないから、同じことですしね。
そのかわり、市場価格に換算すると高価なサービスを提供する人は、申し込みをうけた時に、断ることができます。高価なサービスでなくても、断ることができます。----
■特長その4:「ジョンギは、払う側と受け取る側が、相互扶助の精神を共有しているために、対等だ」
ここが、ジョンギの一番過激なところではないかと思います。法定通貨の世界では、なかなか成立しにくい感覚です。
法定通貨の世界では、人に何かを頼むとか、人からのサービスを享受すると、人を使役したことになります。その対価として、使役した側が使役された側にお金を払うというわけです。
ジョンギでは、人に何かを頼んだり、人からのサービスを享受したことが、人を使役したことにはなりません。
理由その1、相互扶助の精神が前提にある。
理由その2、そもそも「こういう事柄なら、快く提供できます」という、前向きな気持ちでできることしか、各自が申告していない。
理由その3、嫌なら断れる。
さらに。
人をコキ使っても使役したことにならない上に、もっとズーズーしい可能性を秘めています。「他人をコキ使うことで、他人を生かす」、あるいは「他人にコキ使われることで、自分を生かしてもらう」です。ここでは、使役する側と使役される側の「ありがたみ」が逆転します。
でも、現実世界では、あり得ることですね。
ボランティアをやっている人たちなら、おわかりだと思いますが、人のために何かをやっているのではなく、人のために何かをすることで、自分が生かされるという感覚です。
こういう感覚を共有するのがコモンズ村の村民なので、人に何かを頼んだり、人からのサービスを享受することで、相手に負い目を感じる必要はなく、相手側も威張る必要はなく、対等です。
本日、私は第一号ジョンギを発行して、発行した相手は佐藤さんで、内容は「事務所に簡易書店を設営して、友人の本を売って欲しい」というものでした。
で、佐藤さんがOKしてくれて、深く感謝しておりますが、佐藤さんを使役したとか負荷を与えたという感覚はまったくありませんで、負い目も感じておりません。
第一号ジョンギの発行としては、理想的な形になったかなと思っています。
●佐藤村長の思い
私の思いを一言で言えば、
「金の切れ目が縁の切れ目」になるようなお金からの解放です。
「金の切れ目が縁の深まり」になるように早く通貨から自由になりたいのです。
そういう意味では、ジョンギ通貨がなくなることが目標です。
自己否定を目標にする。
それこそがこれからの制度や事業の理念ではないかと思っています。
■ジョンギのふるさと(西村博士の実地報告)
西村です。この3日間ジョンギのふるさとに行ってきました。その間に石本さんの論理的な説明が載っていたので広報部長の腕に感動していました。そもそもジョンギなるモノが使われている集落ではどのような使われ方をしているのかちょっとご紹介します。
「じょんぎ」って変な言葉ですね。わがふるさとには同様に「じょんのび」とか「しょーたれ」とか、およそ日本語とは思えない言葉が飛び交っています。でもごく当たり前に使っている言葉であり何ら不自由は感じないし、むしろ重宝しています。なぜなら特定の事象を表現するには他に代用できる言葉が無いほどにとても適切な言葉なのです。
例えば最近は多少メジャーになってきた「じょんのび」は辞書には「ゆったりとした気持を表す」などと出ていますが、しかし単にゆったりするだけではじょんのびと言う資格はありません。当面の気掛かりも無く、体も十分に癒されて、四肢を伸ばして極楽気分になる……そうです温泉です。それも農閑期に出かけていく温泉でこそうまく当てはまる言葉なのです。自宅にいて明日の仕事を気にしつつ風呂から上がって晩酌に缶ビールを開ける程度ではじょんのびとは普通は言わないのです。
同様に「じょんぎ」とは方言辞典には「礼儀」と出ていますが「じょんぎ」を「礼儀」と言ってしまった時点で既に意味が変わってしまうような気がします。礼儀とかマナーと言うのは、きちんとマニュアル集に載っていて誰もが同じように振舞える仕組みが出来ていますが、「じょんぎ」は形式やルールというようなものに馴染みません。「じょんぎ」とは個々人がそれぞれのココロザシを形や動作に表すプロセスまたはその結果を表現したものであり、一定の法則性はありません。
具体的な事例で説明しましょう。
例えば足の不自由なおばあちゃんが歯医者に行くにあたって、近所の人が買い物のついでに車で送ってくれた。仕事で忙しい母親に代わって近所のお姉さんが孫を盆踊りに連れていってくれた……などに対して、早速「じょんぎ」に出かけます。
さっき畑から採って来たカボチャを3個ばかり持っていくとか、昨日お隣りから貰ったサザエを10個ばかり届けるとか、冬囲いの手伝いをするとか、…そこには目的外の思惑も漂っている事もあるかも知れません。例えばたまたまカボチャの出来映えが良かったので自慢したかったとか、お隣りからサザエを貰ったけど多すぎて持て余していたとか……が時にはあるにせよ何らかの形で気持を形や行動で表して新たなコミュニケーションを促進している事は間違いがありません。「お宅はカボチャ作りが上手ですね」「いやいや今年は天気が良かったのでねえ」「そう言えばトマトも今年は良いみたいですね」「そうそう、あとでトマトも届けさせますよ」「いや、それじゃあ貰ってばかりで…」「何言ってるの、お互いさまでさあ」・…などと延々と話しているので、いつになったらこの話は終るのか心配になる事もあります。
また「じょんぎ」には特段のルールがありませんので、何でも今日中にやるとは限りません。ワカメ採りの名人は「いつもお世話になっているから」なんて言いながら夏になると配って歩く事があります。あれは多分1年分のじょんぎをまとめてやっているのでしょう。あるいはそれが永年の間に習慣となってしまって「今年のはちょっと色が良くないねえ」なんて言いながら当たり前の顔をして配る、ここまで来ると究極のじょんぎと言えるでしょう。何に対する代償であるかなどということは既にお互いの意識からすっぽりと抜けています。
さて、じょんぎの種類としてはモノを届ける、作業を手伝う、代わって何かをやってあげる、などが多いのですが、モノの場合はお店から買ってきた「商品」は余り歓迎されません。
つまりわざわざお金を使ってじょんぎするというのは嫌がられるからです。感覚的には好意をお金に換算されたという「苦いものを食わされた」感じが残るのでしょう。
ところが商品の場合でも歓迎される事もあります。例えばご夫婦とも教師という家がありますが、こういう家にはなぜか盆暮れの付け届けが多くてモノを持て余しています。「いつも貰い物で悪いですけどねえ」などと言いながらじょんぎをします。受け取る方はわざわざ買ったものではなく、余って座敷に積んであるものだと承知しているので気楽なもんです。こういう家からは喜んで受け取ります。
変わったじょんぎとしては「お茶を飲み歩く」というのがあります。大抵は高齢の隠居です。お年寄りになると作業を手伝う事も出来ないし、作物を届けることも出来ない。そう言う人でもじょんぎと称してお茶を飲みに行くことが出来ます。出かけて行ってお茶を貰って茶菓子も貰って長話をしたついでにお土産まで貰う事もあります。話が逆のようですがこれで十分じょんぎになっているのです。多分顔を見せ合う事でどこかで安心を得ているのでしょう。
もう少し変わったじょんぎとしては「お世辞が上手い」というのもあります。それぞれ身の丈に合った、その時々の事情に合った形で柔軟に使いこなしているようです。
●石本広報部長の、すかさず追加のジョンギ原則
■特長その5;「ジョンギは形式ではなく、志を表す行動のプロセスか、結果である」
つまりわざわざお金を使ってじょんぎするというのは嫌がられるからです。感覚的には好意をお金に換算されたという「苦いものを食わされた」感じが残るのでしょう。そこで追加。
■特長その6:「ジョンギはお金に変えられない好意のやりとりを媒介する」