愚民と民主主義を考える
2016年11月19日に、リンカーンクラブ主催で、
「国民の声をどう政治に届けるか」をテーマに、公開フォーラムを開催しました。
その時、キースピーチをお願いした2人のゲストから、
「愚民」という言葉が出てきました。
それに刺激されて、あんまり論理的に整理されていないまま、
つまり思いつくままに、書き続けたブログ記事です。

■その1:発端(2016年11月20日)
2016年11月20日に、民主主義の理念に社会を近づけていきたいという目的で活動を再開した、リンカーンクラブの活動再開記念フォーラムを開催しました。
60人ほどの参加者がありました。
テーマは「わたしたちの声を政治にどう届けるか」でした。
前半では、リンカーンクラブ代表の武田さんが、キースピーチを行い、それにコメントする形で、憲法学者の小林節さんと弁護士の伊藤真さんが、お話をしました。
後半は、その3人も含めて、参加者みんなの話し合いになりました。
まずは、「なぜ私たちの声は届かないのか」、そして「どうしたら届けられるか」を話題にしました。

前半の話は間もなくユーチューブでアップします。
3人の話を、今回のテーマ(なぜ国民の声と政治にはギャップがあるのか)に即して整理すれば、
武田さんは「仕組み」に、小林さんは「政権側」に、伊藤さんは「国民側」に、問題があるというお話でした。
私自身も、「国民」、つまり「私」に問題があると考えていますが、その内容は、伊藤さんとは真反対の理由です。
伊藤さんは、現状に満足している国民、つまり「自分」とは無縁の国民に問題があると考えているようです。
これに関しては、実はもう少し刺激的な議論があったのですが、部分的に紹介すると誤解されそうなので、ここではやめます。

会場からの発言は、とても示唆に富むものだったと思います。
たとえば、マンションの住民組合ではみんなの声で運営することができるのに、なぜ国政ではそうならないのか、
という指摘には、私は大きなヒントがあると思いました。
都心飛行反対活動をしているという、「普通のサラリーマン」の人は、まずは身近な問題を取り上げて、
政治が自分たちの生活とつながっていることをみんなで理解していくことが効果的だと話されました。
子どもたちの教育に関わっている人たちからは、教育の問題もでました。
子どもたちの教育は学校だけの問題ではありません。
家庭の問題でもあり、地域の問題でもあり、何よりも私たち大人の生き方の問題だというような話も、ちらっとですがありました。
それこそ、私は民主主義の出発点だろうと思っています。

1時間半ほどの話し合いの時間は、あっという間に過ぎました。
みんな話したいことがたくさんあるのです。
そして行動したいと思っている。
リンカーンクラブは、そういうエネルギーが集まる場にしていきたいです。
新たな入会者もありました。
みなさんも、ぜひご参加ください。
さまざまな声が集まってこそ、政治のレベルに近づけますから。

このフォーラムを受けて、12月3日には湯島で、リンカーンクラブのサロンを開催します。
その時には、私の個人的感想も、思い切り控え目に放させてもらおうと思いますが、今日はかなり公式的な報告です。

交流会もとても盛り上がりました。
今回のフォーラムは、ボランタリーに手を挙げてくださった12人の実行委員を中心に企画運営しました。
本当にお疲れ様でした。私も含めての12人の人たちに感謝です。

■その2:「悪いのはわたしたちである」(2016年11月25日)
先日のリンカーンクラブのフォーラム以来、どうも元気が出ません。
そこで感じたことをブログで書こうと思いながらも、あまりにもみなさんと温度差があるので、躊躇してしまいます。
そこで少し冷却期間をとっていましたが、
昨日、参加できなかった友人から、私の報告記事を読んだ感想が届きました。
そこにこう書かれていました。

システム、権力者、国民…と一見バラバラのようで、
「悪いのはわたしたちである」とする佐藤さんからは「外に原因を求める」点では同じに見えたのかなと思いました。

とてもうれしいコメントです。
初めて私のメッセージをきちんと受け止めてくれた人がいたと、少し元気になりました。

実は、当日のフォーラムでも、最後に私は感想を言うつもりでしたが、時間がなくなったために、簡単にしか言えませんでした。
そこで2つだけ、簡単に話しました。
ひとつは、「有識者」と言われる人たちと「生活者」の人たちの世界が、こんなにも違うのかという驚き。
もうひとつは、みんな「誰かのせいにしているという姿勢」を感じたという失望。
ゲストと参加者全員への批判ですので、かなり遠慮しながら話しましたので、逆に伝わらなかったかもしれません。

でも正直、いささかがっかりしました。
ちなみに、リンカーンクラブへの新たな参加者は3人だけでした。
デモに参加していたほうがよかったかなとさえ、思いました。
しかし、これもまた「悪いのはわたしたちである」という私の姿勢からすれば、身から出たさびでしかありません。

とまあ、この件は書きだすとどうしてもいささか感情がふきだしそうなのですが、
友人から元気をもらったので、ブログに書きだすことにしました。
今日はこれから出かけて、1日、たぶん缶詰なのですが、明日からブログに書く予定です。
さすがに、フェイスブックにはアップしないつもりですが。

■その3:愚民民主主義?(2016年11月26日)
19日に、「国民の声は政治に届いているのか」というテーマで公開フォーラムを開催しました。
その簡単な報告は、このブログにも書きましたが、そこでは書かなかったことがあります。
ゲストに、憲法学者の小林節さんと弁護士の伊藤真さんをお呼びしました。
そのおふたりから、衝撃的な発言があったのです。
いまの日本の国民は、「愚民」「奴隷」「家畜」だと、繰り返し明言したのです。

伊藤さんの論旨はこうです。
いまの政権の施策を多くの国民は支持している。
自分の生活や利害に直接関係ない問題に、理解も関心も持たない「愚民」の声は政治に届いていると言えるのではないか。

小林さんはこう言います。
憲法の問題を話しても、自らの生活を維持するので精いっぱいで、そんな問題など関心を示さない。
こいつらは愚民だと思う。

正確には、そのうちに動画記録をリンカーンクラブのホームページにアップしますので、
それを見ていただきたいですが、そう大きくは違っていないでしょう。

私自身は、おふたりの発言にはさほど驚きませんでした。
いわゆる「有識者」のみなさんの本音が、これほどあらわに出ることは少ないですが、日ごろの言動から伝わってきていることですから。
この発言に対しては、さすがに会場から反論的な意見は出ました。
おふたりの「目線の高さ」を指摘した人もいました。
しかし、ほぼ例外なく、発言の最後はなぜか、その「愚民論」を受け容れてしまうような、腰砕けの意見が多かったのです。
私にとっては、それがむしろ驚きでした。
もっと怒ってしかるべきでしょう。
怒ることを忘れたのか!
私は進行役でしたので、怒りをぶつけることもできず、しかし一言だけ、
「価値観の置き方によっては2人が愚民になる」と話させてもらいました。
おふたりからの反論はありませんでしたが、もしかしたらそんな指摘を受けたこともないでしょうから、耳に入っていなかったかもしれません。

リンカーンクラブは、できるだけ民主主義の理念に社会を近づけていこうという思いで活動しています。
そこで考えている「民主主義」とは、民主政治制度のことではありません。
「個人の尊厳を尊重する」ということです。
ちなみに、おふたりも、そういう表現も使っていたように思いますが、国民を「愚民」と見なしてしまうこと自体が、「個人の尊厳」を否定することです。
たぶんおふたりとも「個人の尊厳」の意味を知らないのでしょう。
国民の多くを「愚民」と決めつけることは、まさに「個人の尊厳」を否定することであり、日本国憲法の理念に反するのです。
もしかしたら、おふたりとも、日本国憲法を読んでいないのではないかと、私には思えました。
そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、読んでいて理解できないほど「愚かな」人ではないでしょう。

おふたりの主張は、「愚民」は相手にせず、です。
自分たちは「愚民」の仲間に入れていないのですが、先日のフォーラムに集まった人たちは、かれらのいう「愚民」でしょうか。
たぶんおふたりは、わざわざ集まってくれた「愚民」でない人たちに、むしろ「迎合」していたのかもしれません。
もしそうだとしたら、とんでもない思い違いです。
なかには、おふたりの話をありがたく聞いた人もあるかもしれませんが、
私には、その後、失望したとかがっかりしたというメールがいくつか入ってきています。

書いていて、だんだん嫌になってきました。
このフォーラムの終わった時には、いろいろと書きたいと思い、
昨日も書こうと思っていましたが、今日、書いているうちにだんだんむなしくなってきました。
怒りが消えていってしまったのです。
実は昨日、フェイスブックで予告したので、アップしないわけにはいかないのですが、昨日は少し「大見得」を切ってしまった気がします。

いろいろと書こうと思っていたのですが、やはりどうもモチベーションがあがりません。
少し視点を変えて、改めて書き直してみようと思います。

■その4:「気づきのない民主主義は独裁政治」(2016年11月27日)
「愚民民主主義?」の続きです。
「愚民」を啓蒙することが必要だと、19日のゲストのおふたりは話しました。
その言葉に、会場から「目線が高い」という声がありました。
目線の問題でしょうか。
私には、それ以上に「人間観」や「人間性」の問題のように思います。
同時に、「民主主義」の捉え方の問題でもあると思います。

カリフォルニア大学のへンドリックス教授は「気づきのない民主主義は、ある種の独裁政治である」と言っています。
私流に言いかえれば、「民主主義とは気づきあうこと」です。
つまり、自らの生き方の問題が問われているのだろうと思います。
大切なのは「他者の啓蒙」ではなく、「自らの知性」を磨くことです。
そうすれば、他者を愚民と捉えるのではなく、その思いをしっかりと受け止める姿勢と理解力が生まれるでしょう。
人は「言葉」によって伝え合っているわけではありません。
その「言葉」、もしくは「無言」の奥にある、メッセージを読み取ることこそが、コミュニケーションです。
言葉のやりとりだけなら、「愚民」ならずとも「機械」にさえできるでしょう。
知性があれば、人を「愚民」扱いはしないでしょう。
そして、現場で生きている人たちから、たくさんの学びを得ることができるでしょう。
私が、会場で、あえて「視点を変えれば、おふたりこそ愚民」と発言したのは、その意味です。
少しばかりの知性があれば、それに気づいてくれたと思いますが。

私たちは、意識としては、他者の意見にも耳を傾けようという姿勢を持っています。
社会で生きていくためには、自分だけが正しいとは限らないことを知っているからです。
しかし、実際には、私たちは、自分の考えを基準にして考えがちです。
そして、それを理解してくれない人たちに、なんとか理解させたいと思うこともあります。
たとえば、私は「原発は人間が管理することのできない危険なもの」であり、
「運転の安全性」は問題の本質ではなく、「原発そのものの安全性」を問題にすべきだと思っています。
そう確信しているために、運転の安全性を議論している人に会うと議論を放棄しがちですし、そういう人の考えを変えたくなります。
つまり、「啓蒙」したくなる。
しかし、そこには私が正しいという思い込みがあるわけです。
それでは議論は始まりませんし、そもそも私自身が「啓蒙」されることはありません。
頭ではわかっていますが、私自身、こうした過ちを犯していることは少なくないでしょう。

そこに、民主主義のむずかしさがある。
いまの日本の政治に異議申し立てをしないで、政権支持をしている人たちは、満足しているのでしょうか。
なぜ行動を起こさないのかと、私も思います。
しかし、起こさないのには起こさない理由がある。
いや、ある意味では起こしているのかもしれません。
それを無視して、「愚民」と決めつけたり、「怒り」を感じても、何も始まりません。
まずは自らが信ずることに従って、行動を起こすことです。
もしかしたら、多くの国民はすでにそうしているのかもしれません。
それが見えるだけの知性と気づきの姿勢を、私は持ちたいと思っています。
すべての始まりは、自分からですから。

■その5:啓発と気づき(2016年11月28日)
「愚民」や「家畜」という言葉は、他者を指していう言葉としては共感できませんが、
自らを省みての戒めの表現としては、私は受け入れることができます。
いまの私たち(私というべきかもしれませんが)には、世界はなかなか見えてきませんし、
制度や権力に依存して生きている面が少なくありません。
ともすれば、何も考えずに、言われるとおりに生きているのが楽であることもあります。
小林さんと伊藤さんは、それに対して檄を飛ばしたとも受け取られます。

たしかにいまの社会は、広がりすぎて、理解するのは簡単ではありません。
原発にしろTPPにしろ、その正体をつかむのは難しい。
そうした社会の中で、自ら思考しながら生きていくのは、それなりのエネルギーが必要です。
その結果、気が付いてみれば、「愚民」「家畜」と言われるような生き方になってしまっているのかもしれません。
16世紀にラ・ボエシが「自発的隷従論」で書いたように、
私たちは隷従をやめるだけで解放されるはずなのですが、それはそう簡単なことではありません。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#005

しかし、「愚民を啓発する」という発想は、あまりに民主主義的ではありません。
なぜなら民主主義とは、一人ひとりが主役であって、誰かのために存在するわけではないからです。
いうまでもありませんが、「啓発」や「啓蒙」は、誰かの視点で行われますから、ある意味での「支配」につながります。
そこには「知の階層」があり、それは「社会的地位の階層」(社会秩序)につながっています。
〈知は力なり〉というように、知が支配構造を規定していきます。
「知の格差」がある閾値を超えると、社会秩序を組み替える動きが起こります。
しかし、そこでも同じように、知の階層が作動しますから、それは「革命」にはつながらないでしょう。
それに対して、民主主義の理念は、知の階層を基本にはせずに、個人の、あるがままの知を基本にします。
それが「個人の尊厳」ということではないかと思います。
そこには、「知の階層」はありません。
しかし、それゆえに、社会の構造原理は大きく違っていくでしょう。
それこそが「革命」ではないかと思います。
残念ながら、個人の尊厳を基本にした社会秩序の原理は、まだなかなか見えてきません。

なにやら難しい議論になってきてしまいましたが、手段的な概念である「啓発」や「啓蒙」に代わるものは何でしょうか。
それはたぶん「自覚」や「気づき」です。
「自己啓発」という表現もありますが、大切なのは「内発的な自然の気づき」です。
それはたぶん「体験」から生まれます。

民主主義は「力」を基軸に置くか、「気付き」を基軸に置く蚊によってまったく違ったものになります。
多数決で決定する民主主義は、まさに個人を力の単位にしていますが、
「気づき」は他者とのつながりの中で生まれ、作動します。

アーノルド・ミンデルは、自分や他人の内側で起きている経験についての気づき/自覚を重視する「ディープ・デモクラシー」を提唱しています。
そこでは、結果ではなくプロセスが重視されます。
それに関しては明日、改めて書いてみようと思いますが、啓発よりも気付きを起こしていくことが、いま求められていることではないかと思います。
であればこそ、私は、デモよりもサロンを大事にしているのです。

12月3日にはリンカーンクラブのサロンが湯島であります。
よかったらご参加ください。

■その6:気付きを生む民主主義(2016年11月29日)
民主主義という言葉は多義的に使われますが、物事の決め方という捉え方について考えてみましょう。
集団での物事の決め方には、決定と合意があります。
決定とは、集団としての一つの意思を明確にするということで、決定されたことは全員が従わなければいけません。
日本の政治で行われているのは、この方式です。
そして、そこで採用されているのが多数決原理です。
国会は、議論の場というよりも決定の場として捉えられています。
ですから、政権党と国会の第1党が違っている時には、「ねじれ国会」と言われ、物事がなかなか決められずに、それが問題だと言われていました。
決定が国会の目的だとすれば、「決められない国会」は問題視されるでしょう。

しかし、国会での決定に時間がかかることは悪いことなのか。
私はまったくそう思っていません。
時間がかかるには、それなりの理由があるはずです。
ねじれ国会は、私はとてもいい形だと思います。
そこでは熟議が行われ、さまざまな視点で議論が深められるからです。

宮本常一は、「対馬にて」という論考で、村の取り決めに関する興味ある報告をしています。
有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、村で取り決めをおこなう場合には、
みんなの納得のいくまで何日でも話しあうという話です。
参加者の異論がなくなった時点で、話し合いは終わり、終わった以上はそれを破る人はいないというのです。
決定事項に従わなければいけないという言い方もできますが、
多数決での決定の場合とは、その意味合いは全く違うような気がします。

これは何も日本に限った話ではありません。
北米のイロコイ族などの先住民の部族の集まりもそうだったようですし、
ネルソン・マンデラの『自由への長い道』には、南アフリカの部族の集まりでは、全員が話すまでは決定が下されない、と書かれています。
いずれも、多数決で決定するのではなく、とことん話すことで、全員の合意が生まれることを大切にしているのです。

決定と合意。
同じように聞こえるかもしれませんが、前者は結果を目的にし、後者はプロセスを目的にしています。
前者では異論があっても決定に合わせなければいけませんが、後者はプロセスの中で自らの考えが変わっていくのです。
つまり、昨日の記事の言葉を使えば、自覚や気づきが内発的に生まれてくる。
ですから、たとえ決定事項が文字にしたら同じであっても、その意味内容は微妙に違うのです。
しかも、プロセスを通して、人間関係も変わってくるでしょう。

これこそが「気付きを生む民主主義」です。
マンデラはこう書いています。

いつまでも要を得ずにとりとめなく話す人がいる。
また、差し迫った問題に直接言及し、単刀直入にずばり議論を始める人もいる。
感情的な話し手もいれば、そうでない人もいる。
民主主義はすべての人に耳を傾け、人として一緒に決断を下すことを意味する。
多数決は異質な考え方だ。
少数派の意見が多数派の意見によって押しつぶされてはならない。
同意しない人々に結論を押しつけてはならない。
もし合意に至らなければ、別のミーティングを開くことになるだろう。

ここには、「愚民」は登場しません。

■その7:市民による直接民主主義と愚民による問いかけ(2016年11月30日)
民主主義を語る時に、引き合いに出されるのがアテネの民主主義です。
私は、アテネの政治は、民主主義ではなかったと思っています。
あれは、生きるための苦労を女性や奴隷たちに任せて、
政治を生業とした「市民」たちが自分たちで制度化した問題解決の手法でした。
そこで「民」というのは、ほんの一部の人たちです。
漢語でいう「民」の意味とは全く相いれないものです。
そこを意識しておかないと、「愚民」という概念が入り込んできます。

ソクラテスは、このアテネで制度化されていた「市民による直接投票制度」、
つまり私たちが、直接民主主義と言っているものには賛同していなかったようです。
代わりにソクラテスが取り組んだ政治行動は、市民に対する問いかけでした。
今回のこのブログの記事の流れから言えば、これは「愚民からの問いかけ」と言ってもいいかもしれません。

ソクラテスの問いかけは、アテネ市民を混乱させ、結局、彼は市民の直接投票で「死刑」になります。
キリストは、自らが十字架で磔(はりつけ)されることにより、その後の世界に大きな影響を与えましたが、
ソクラテスは自ら毒杯を飲んで市民たちに応えましたが、その後の歴史にはあまり影響を与えませんでした。
これは、アテネとローマの民たち(アテネでいう市民ではなく、
女性や奴隷も含んでの「民」です)の状況(人間的熟度)の違いかもしれません。
これに関しては、大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醒へ」(岩波新書)の中で紹介されている
良知力さんの「向こう岸からの世界史」(1848年のドイツ革命論)が大きな示唆を与えてくれそうなので、いま読みだしたところです。
ずっと気になっていたこの本を読む気にさせてくれたのは、19日のフォーラムの小林さんと伊藤さんの発言ですので、おふたりには感謝しなければいけません。

ソクラテスの問答法は、自分の考えを教えるわけではなく、相手の気づき/自覚を引きだすものでした。
ソクラテスの問いかけは、ソクラテスが知らないことの問いかけではなく、相手が気づいていないことを気づかせるための問いかけでした。
さらに言えば、問いかけた相手が「考えさせる」ための誘い水でした。
しかし、それによって、問いかけられた人は、自らの生き方を問い質されることになります。
言葉は語っても何も考えていないことにも気づかされるのです。
そのために、困惑した市民たちによって、ソクラテスは死刑の判決を受けるのです。
ソクラテスは、逃げられる機会はあったようですが、結局、毒杯をあおって自ら命を絶ちます。
なぜ彼は毒杯をあおったのか。
これに関しても以前ブログで書きましたが、いま思うには、それこそがソクラテスの問答法の究極点だったのでしょう。

話がソクラテスに行きすぎましたが、民主主義を語る場合、主なる民とはだれなのか、どこまでの民を包含するのかがポイントです。
もし、民主主義が「個人の尊厳」を基本に置くものであれば、そもそも「民」を「愚民」と「賢民」に分ける発想は矛盾します。

アテネで言えば、民会や執政官を構成した「市民」とアテネの社会を支えていた「住民」と、どちらが主役だったのか。
最近の韓国の大統領弾劾騒動を見ていると、アテネの陶片追放の歴史を思い出しますが、
「愚民」という概念は、民主主義の本質につながる概念であることは間違いありません。
問題はどうすれば「愚民」と言われないような存在になれるかです。
ソクラテスの行動は示唆に富んでいますが、最後に死を迎えるのではいささかモチベーションは高まりません。
どこかにもっといい方法がありそうです。

■その8:衆愚政治と民主政治(2016年12月4日)
先日書いた「Imagine!(想像力を取り戻そう!)」は、このシリーズの横道篇ですが、
むしろそこで私の最近の心情はかなり出し切っていますので、その記事を書いたら、もうなんとなく気が抜けてしまいました。
私が言いたかったのは、まさに「みんな、もう少し想像力を発揮しようよ!」なのです。
世界は、与えられるものではなく、自らで見つけだし、創っていくものなのですから。
でも、ここで終わったら、私の機嫌はまた悪くなりそうです。
それで2日間、間が開きましたが、「民主主義」論を再開します。

少し切り口を変えて、海外の最近の動きを考えてみます。
たとえば、韓国の大統領辞任デモに100万人を超す国民が集まったと報道されています。
国民の支持率が5%を切ってしまったという朴政権は、今や機能不全に陥っています。
これは、まさに国民の声が国政を動かしている事例です。
しかし、これは民主主義の成果か民主主義の欠陥か。
国益にとって、あるいは国民の生活にとって、いいことかどうか。

オーストリアでも国民の声が政権交代を起こしそうです。
アメリカでは、予想に反して、トランプが大統領候補が決まりました。
イギリスは国民投票でEU離脱を決めました。
各地で、国民の声が政治に大きな影響を与えだしている。
これは「民主主義」の広がりでしょうか。
そうした活動に取り組む国民は、愚民なのか、意識ある人なのか。

民主政治は衆愚政治になる危険性を指摘する人は少なくありません。
しかし、もし民主政治が、民の声に基づく政治であるならば、
そもそも民の声には「愚かさ」も「賢さ」もないということでなければいけません。
「愚かさ」や「賢さ」を認めてしまえば、それは「選ばれた人による政治」を認めることになるからです。
そして、その「選ぶ基準」はだれが決めるのか。
基準を決めた人の声に基づく政治になってしまうのではないか。
個人の尊厳を尊重するのであれば、人を賢いとか愚かだとか決めることがあってはなりません。

韓国は国民の声の盛り上がりで、国益を損なう事態が起こるかもしれません。
少なくとも、すでにさまざまな混乱は生じているでしょう。
しかし、生まれているのは混乱だけではありません。
新しい秩序への芽もまた生まれている。
混乱とはそういうものです。
その証拠はアメリカのトランプ現象です。
みんなトランプ大統領になったら大変だと言っていたはずなのに、トランプ勝利でドル高になり、希望が広がっている。
現状の秩序を基本にして考える人には見えてこないこともある。
イギリスがEUから離脱したのは、決して過ちとは言えません。
国民の判断は、善か悪かなどとは無縁です。
それを判断するのは、未来の国民でしょうが、彼らには正確な意味での判断力はありません。
比較するものがないからです。
「あの時、大統領を辞任に追い込まなければ」などということは、
いかようにも物語をつくれるでしょうから、まったく無意味な論考です。
しかし、これに関しては、大澤真幸さんが示唆に富む論考をしていますので、改めて考えたいと思います。

いずれにしろ、国民の声が政治を動かすことがあるということが大切なことです。
日本でももちろんそういうことはあったかもしれません。
しかし、昨今はどうでしょうか。
原発反対や安保法制反対のデモは、盛んに行われました。
しかし結局何も変わらなかった。
どうしてでしょうか。
韓国の国民にできて、なぜ日本の国民にできないのか。
そこに大きな問題があるような気がします。

■その9:「知の囲い込み」と「愚民概念」(2016年12月5日)
このシリーズは、私たちが主催した公開フォーラムで、
ある「有識者」たちが日本の国民の多く(すべてではありません)を「愚民」と決めつけたことに違和感を感じ、書き出したものです。
もう一度、原点に戻って、「愚民」について考えてみたいと思います。
なぜならば、「有識者」は「愚民」こそが、その存在のよりどころだからです。
言い換えれば、「愚民」を生み出すことに、彼らは自らの存在基盤を見出しているのです。
私は、その構造に大きな違和感を持っているのです。

これに関しては、すでにさまざまな論考がありますので、繰り返すまでもないでしょうが、「愚民概念」は、巧妙につくられた、人為的なものです。
マルクスは、社会的知識を「一般的知性」と呼び、それが機械などの固定資本に具現化されて経済を大きく支えているとしていますが、
アントニオ・ネグリは、そもそも個々人が持っている知性にまで、その概念を広げました。
そして、現代のような成熟社会にあっては、その一般的知性が経済を主導すると指摘しています。
そもそも一般的知性とは、みんなが創りだした共有財産(コモンズ)です。
たしかに発明家はいますが、その発明は完全に個人によって行われるわけではなく、社会を構成する「みんな」が生み出し育ててきた「知」の支えによって、顕現したものです。
しかし、知が「みんなのもの」であれば、空気のように、経済的価値を生み出すことはありません。
そこで始まったのが「知の囲い込み」です。
本来はみんなのものである土地の囲い込みから始まった資本主義経済は、人知までも囲い込みだしたのです。

その典型的な手法が、知的所有権です。
これは、一般的知性、つまりコモンズとしての知を市場化するためのものです。
そもそも、社会が、つまり「みんな」が育ててきたものを、法や制度によって誰かの私的所有物にするという仕組みです。
経済の面から言えば、そこには大きな効用があるでしょうが、
そのために経済的に貧しい国の子どもたちには高くて購入できない医薬品が生まれてしまうわけです。
私たちの生活は、そうした「制度的に市場化」された商品やサービスに取り囲まれています。
わかりやすいのは、ウィンドウズなどのOSです。
税務や裁判などに関する知識も、そのひとつです。
私にはこうした「知の囲い込み」制度は納得できませんが、そうしたものを利用しなければいけない仕組みがどんどんと大きくなっています。

話がやや外れてしまいましたが、「囲い込まれた知の世界」の内外では大きな経済的な差が生まれてきています。
アメリカでは、そうした「知の世界」で働く人は、全体の2割だと言う人もいましたが、おそらくその比率はどんどん小さくなっているでしょう。
つまり、知の独占が進んでいるのです。
「囲い込まれた知の世界」から追い出された人たちは、どうなるのでしょうか。
そして、金融経済はともかく、社会の実体を創りだしているのは、どちら側なのか。
そこをぜひ想像してほしいと思います。
そして、「愚民」という言葉が含意することを、真剣に想像していただきたいと思います。
人は、いまや「想像力」を手に入れているのですから。

「愚民」と言われて納得してしまう人が多いことに、私は唖然としています。
有識者は、そもそも「愚民」概念に寄生している人たちですから、彼らがその言葉を使うのは、さほど驚きません。
しかし、「知の世界」から追い出された人までが、それに安住していることには、暗澹たる気持ちになります。
ジュリアン・ジェインズが言っている、神の声に従って生きていたという3500年前に戻った気分です。

そのうち、言語の使用にまでお金がとられるようになるかもしれないと言っていた人がいますが、
あながちそれは冗談でもないのかもしれません。
知識社会は、知の開放(共有)社会であってほしいですが、どうも反対の方に向かっているのが、気になります。

話が少しずれてしまったような気もしますが、どうもこうした議論には、私はいささか感情的になってしまうのです。

■その10:愚民と大衆(2016年12月7日)
今日は「愚民」と「大衆」についてです。

「アメリカ人の生活における個人主義とコミットメント」という副題を持つ、ロバート・ベラーの「心の習慣」を読み直しているのですが、
そこには建国時のアメリカ国民の生き方がなぜ変わってきたのかが、とてもわかりやすく書かれています。
この本は、200人以上のアメリカ国民のインタビューをベースに書かれていますので、とても生々しく、伝わってくるのです。
日本でも最近同じようなスタイルでの社会調査が広がっているようで、昨年私も東大の大学院生のインタビューを受け、その分厚い報告書をもらいました。
たぶんまだその調査活動は続いていると思いますが、日本人の生き方のゆくえを考える上での示唆に富む知見が集まりだしていると思います。
それが果たして「愚民」かどうかはとても興味のあるところです。

先日、テレビの映像の記録プレミアム版を見ていて知ったのですが、マリリン・モンローは自伝でこう書いているそうです。

私は自分が世界中の大衆のものであることを知っていた。
それは、私が才能や美貌に恵まれているからではなく、
大衆以外のどんなものにも、どんな人にも、属したことなどなかったからだ。

彼女は縫製工場の売り子から映像時代のスターとしてスカウトされ、時代を象徴するまでになった、まさに映像の時代が生み出した寵児でした。
朝鮮戦争で戦う戦場の兵士たちを鼓舞する役割まで引受けされ、最後は謎の死をとげました。
私は、「バスストップ」が一番好きな映画でした。
中学生の頃観た映画なので、不正確な記憶ですが、私の「大衆観」にはたぶんある意味での影響を与えた映画です。

まあそれはどうでもいい話ですが、私が「大衆」という言葉を突き付けられたのは、スペインの思想家オルテガの「大衆の反逆」です。
オルテガは、「大衆」をあまり良い意味では使っていません。
大衆とは、指導者に従順で、自分を向上させようという努力を自ら進んではしようとしない人々のことである、と言っているのです。
このシリーズに即して言えば、「愚民」的な捉え方をしているといえるでしょう。
しかし同時に、オルテガは、現代社会を大衆支配の社会と断じ、しかもそこに、危険性だけではなく、大きな可能性を示唆しているのです。
そこに私は、ネグリの「マルチチュード」と同じものを感じます。

民主主義は、多数の支配という意味があります。
もしそうであるとすれば、その多数者を「愚民」として捉えることは、
そこに秘められた大きな可能性を切り捨てることにならないでしょうか。
ネグリやオルテガ、あるいはベラーのように、俯瞰的で歴史的な姿勢こそが、いま求められていると思います。

マリリン・モンローがスターになったのは、私は彼女の知性のおかげだったと思っています。
大衆の大きな力を、彼女はたぶん知っていたのです。
そして大衆の賢さと知の豊かさもです。

■民主主義の両義性(2016年12月11日)
シリーズ「民主主義を考える」も、かなり書いてきたのでそろそろ終わりたいと思いますが、
最後に、「民主主義とは果たして善いものかどうか」を考えておきたいと思います。
日本では、「民主主義とは善いもの」という捉え方が多いと思いますが、それもまた「戦後教育」の結果のような気がします。
たしかに、衆議による政治という仕組みに向かうことは歴史の大きな流れでもあります。
しかし、結果から見れば、衆議が善い結果をもたらすとは限りません。
それ以上に、そこに向かう過程で、さまざまな問題を引き起こします。

私は、民主主義の理念を「個人の尊厳を尊重すること」と捉えています。
そして、歴史は、その方向に向かって進んできていると考えていますし、
これからもさらにその方向で進むだろうと考えています。
私は、その大きな方向性に沿って、生きているつもりです。
今回のテーマに即して言えば、「愚民」などと言った偏見やヘイトスピーチがなくなることを確信するとともに、
そうした流れを押し戻そうとする、悪しき言動や思想には抗っていくつもりです。
このシリーズを書く気になったのも、そうした私の生き方の一つの現れです。

ところで、議会制民主主義は、民主主義の理念に近づく仕組みであることは間違いありませんが、
同時に民主主義の前提を壊しかねない仕組みでもあります。
ルソーは、民主主義は選挙の時だけ作動するとも言っていますし、
ノーム・チョムスキーは、自らの意思を他者に委ねると言う議会制民主主義の根底には市民を受動化するメカニズムがあると警告しています。
大澤真幸さんは、「人が能動性を他者に委ねることが、資本主義と代表制民主主義の両方に共通した基本的なフォーマットである」(「正義を考える」)と言っています。
たしかに、その両者を社会の構造原理にしているところでは、見事なほどにそれが実現しつつあると、私は感じています。
そして、「民主主義の理念を感じさせる仕組み」を提供することで、多くの人たちは、満足してしまう。
選挙での投票権を得ただけ、もう主権者になった気分になり、気をゆるめてしまう。
そして、さらに民主主義を目指す制度への取り組みを忘れてしまう。
そんな状況が、生まれてきてしまうわけです。

「能動性を他者に委ねる」ということは、「思考停止し、他律的に生きる」ということです。
つまり、民主主義の前提である、「考える個人」がいなくなってしまう。
「民主主義制度」にはそういう落とし穴がある。
であればこそ、民主主義制度は常に進化をめざさなければいけないのです。

民主主義の前提となる「個人」を育てるのは、社会の役割です。
しかし、そうした「社会の教育力」もまた失われています。
昨日、20世紀中ごろに行われたアメリカ国民への社会調査をまとめた、ロバート・ベラーの「心の習慣」を読んだのですが、
そこにアメリカ国民の生き方や考え方がどう変質してきているかが、ていねいに描き出されています。
改めてそれを読むと、まさに今日本でも同じような動きが進んでいることがよくわかります。
しかも、それが政治によって進められている。

私は「ゆとり教育」の理念に賛成でしたが、その進め方を知って、自らの不明さを反省しました。
そのきっかけは、ジャーナリストの斎藤貴男さんの『「ゆとり教育」と「階層化社会」』という論考を読んで、
「“ゆとり教育”の本質は“エリート教育”のための原資を浮かせることだった」ことを知らされたことです。
たしかにその視点で教育改革を見なおしていくと、現在の学校教育での問題点が納得できます。
安倍政権による、教育基本法の改定は、私には日本国憲法改定と同じくらい衝撃的でしたが、
ゆとり教育は、その同じレールに乗っていたことに気づかされました。
円周率を「3」と仮定したときにおかしいとは思っていましたが、理念に惑わされていました。
理念は、現実の姿によってこそ、評価すべきでした。

また長くなってしまいましたが、民主主義制度が善いものとなるか悪いものとなるかは、
「民主主義の理念」と「民主主義制度の前提」にかかっています。
理念と前提がしっかりしていないと、民主主義制度は自己否定へと動き出す。
学校で、多数決が民主主義などといった表層的な民主主義を教えられた結果がいま、大きな影を落としだしている。
そのことを改めて、今回は思い知らされました。

リンカーンクラブの活動に、これからもう少し身を入れていくつもりです。
ぜひみなさんも参加してくれませんか。
「愚民」にもできることはたくさんあるはずですから。
入会をお待ちしています。
http://lincolnclub.net/