安保法制騒動を契機に考えたこと(CWS Private からの抜粋)

パート1:安保法制騒動を考える

パート2:疑念シリーズ
パート3:戦争と平和を考える

安保法制騒動を考える
(CWS Private 2015年10月9日〜11 月25日)

■安保法制騒動を考える1:目的の転移(2015年10月9日)
アメリカの社会学者ロバート.K.マートンは、官僚制の機能障害(逆機能)を批判していますが、そのひとつとして、「目的の転移」現象を指摘しています。
一言で言えば、規則遵守をしているうちに、それを絶対視するようになり、本来は「手段」にすぎない規則や手続きが「目的」に転じてしまうということです。
そうなるのは、全体が見えなくなって視野が狭くなるとともに、現状の構造を固定化したものだと考えてしまうからだと言われています。

こうしたことは、官僚に限らず、誰にでも起こりうることです。
もしかしたら、今やこうした状況が、社会を覆いだしているようにさえ思われます。
最近の日本の大企業などは、まさにその典型と言ってもいいかもしれません。
将来を展望しなければいけない政治家さえ、いまや目的の転移のなかで、自らの使命を失っているような気がしてなりません。
今回の、安保法制騒動で、そのことを痛感させられました。

いうまでもなく、目的‐手段は階層的なものです。
であればこそ、私たちは、常に、手段の先になる当面の目的を超えた、さらに上位にある目的を考えていかなければいけません。
目先の目的からは有効だと思われる手段が、その上位の目的から捉え直すと、無効どころか、有害であることさえあるからです。
何か行動を起こす時には、緊急避難的に、決断を急がなければいけない時はともかく、時間的に余裕があるのであれば、できるだけ上位にある目的をしっかりと認識しなければいけません。
改めてそのことを考えさせられました。

これから、何回かにわたって、安保法制騒動で感じたことを書いていくつもりですが、まず思い出したのが、「マートンの目的の転移」論でした。
時代が大きな岐路にある現在、こうした大きな目的はとても大切です。
平和とか戦争とか、安全保障とか、そんな言葉で語ることの無意味さは、今回の安保法制騒動での国会のやり取りでみんなわかったのではないかと思います。
大切なのは、何を目指し、何を生み出したいかです。

私にとっての生きる目的は、「みんなが安心して快適に過ごせる社会の実現」です。
そこに少しでも役立ちたいと思っていますし、それが結局は、私自身が安心して快適に過ごせる社会を目指すことだろうと思っています。
私の言動は、ほぼすべて、この目的に立脚して行われています。
時に、これとは正反対の言動をすることがあるかもしれませんが、たとえ現実はそうでも、この70年近く、理念はぶれたことはありません。
その視点を基軸にしながら、明日から少し書いてみようと思っています。
私の意見は、少なくとも2人の友人からは受け入れてもらえていませんが(2人への回答は一昨日このブログにもアップしました)、どこにその原因があるのかを、私も理解したいと思っているからです。
その2人への回答になればいいのですが。

■安保法制騒動を考える2:問題の混在(2015年10月10日)
今回の「騒動」においては、さまざまな問題が混在し、それらが整理されなかったために、まさに「騒動」としか言えないような状況になったように思います。
少し整理してみましょう。
大きな問題は2つあります。
「安保法制の内容」と「その審議採決の進め方」です。
安全保障の問題と国会議論の正当性の問題は、まったく次元の違う話です。
しかし、それが混同して、「騒動化」したのです。
世論調査にも、それが明確に表れていましたが、最後まで、マスコミも国会も整理しませんでした。
そこには、それぞれの立場からの、問題の本質を見えなくするための思惑が働いていたように思います。
マスコミも、そこに登場する「有識者」も、本気で問題の所在の整理する気配はありませんでした。
そうした動きは、「意図的なもの」だったかもしれません。

「安保法制」として、10の法案が一括処理されたということも、まさに「問題の混在」を意味します。
つまり、従来の法律を改正した10の法律と一つの新法が、一括審議されたということです。
しかも、内容的に見れば、「存立危機事態対応」、「重要影響事態対応」、「国際平和支援」という、性質が異なる3つの安全保障領域が混在していると言われています
正確さを欠く言い方になりますが、なんとなく「戦争法案」と「平和法案」が混在しているような気もします。
私には、複雑すぎて一括審議ができるのだろうかと不審に思います。
いや、そもそも「問題」が成立していないのです。
民主党は代案を出さないと非難されていますが、個別には一部、代案を出しています。
しかし一括法案に代案を出すことなど、できようはずがありません。
そうしたことも曖昧なままに語られがちです。
ここにも、「問題の混在」が見られますが、そのことがあまりに軽く受け止められたと思います。
つまりここでも、問題を見えなくするという意図が働いていたのではないかと疑いたくなります。

問題の意図的な混在は、今回の騒動の特徴だと思います。
多様な問題が混在すれば、議論は拡散し、反対意見もまとまりにくくなるからです。
世論調査の結果も、それぞれが都合よく「活用」できます。
混乱は「支配」のための常とう手段の一つですが、反対者にとっても、有効な常とう手段なのです。

問題の混雑は、国会デモの現場でも体験できました。
いろんなビラが配られていましたが、なかには、なんでこんなビラがあるのかというようなものも何枚かありました。
政府の横暴さに抗議するということで正当化されるのでしょうが、私にはなじめないような個別問題の主張もありました。
さまざまな立場の人が集まるというのはとても意義のあるものですが、さまざまな目的が集まることには、少し違和感を持ちました。

ほかにもいろいろとあるでしょうが、ともかく「問題」が整理されずに、議論がかみ合わずに、みんなが言いっぱなしの話し合いに終始したような感じがあります。
国会での審議を聴いていても、ほとんどが「議論」になっていなかったように思います。

もしかしたら、これこそが、現在の日本の社会の本質かもしれません。
みんな、自分の小さな世界で語っているために、思考が進まなくなっている。
自らを相対化できないのは、マートンの言う「目的の転移」と関係しているのだろうと思います。
問題を共有することで、議論は成り立ちますが、それぞれが自分の「問題」だけで語り、相手の「問題」を理解しようとしない。
そのために、「騒動」にしかならなかったような気がしてなりません。

騒動の後に残るのは、虚しさだけです。

■安保法制騒動を考える3:目的の確認(2015年10月11日)
この問題を考える場合、出発点は「目的の確認」になるでしょう。
それが共有できていなければ、議論はかみ合いません。
目的は、人によってさまざまかもしれませんので、私の目的を最初に明確にしておきたいと思います。
このシリーズの第1回目で書きましたが、私が考える大きな目的は、「誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す」ということです。
世界の平和を守るとか、日本という国家の発展を望むとか、そういうことではないのです。
その前提で考えていますので、そこに異論がある人は、この後の私の考えを読んでもほとんど意味がないかもしれません。
私が前提としている目的の設定に異論のある方は、そのことに関して異論を唱えてくださることは歓迎ですが、そこから展開される具体的な意見については、考えが異なるのは仕方がないことであり、たぶん議論はかみ合わないと思います。
国家の視点での見方・考え方と人間(国民ではありません)の視点での見方・考え方は、当然に違ってくるからです。
だからと言って、議論が無駄だというわけではありません。
それぞれの視点からの考え方をぶつけ合うことによって、気づくことは少なくありません。
ただし、前提となる視点が違うということは、常に意識しておく必要があります。
さらに、究極的には、その視点、言い換えれば「目的」もまた、問い質すという姿勢がなければ、議論は前に進まないでしょう。

議論をするということは、相手を打ち負かすことなどではなく、異論との話し合いの中から、新しいことに気づくということだろうと、私は思っています。

先日このブログにも載せた、フェイスブックへの投稿記事の中に書いたことも再掲します。

私が物事を考える場合、あるいは行動する場合、重視していることが3つあります.
「ビジョン(どういう状況を目指して考えるかの方向性)」
「ファクト(現在の状況をどう認識するか)」
「ミッション(自分が行う言動の役割)」
の3つです。
この3つの要素に関して、私の考えはおおむね次の通りです。
ビジョン:誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す。
ファクト:多くの人がそう念じているが、いまの世界はそれと反対の方向を向いている。
ミッション:ビジョンとファクトの違いを可視化するために自分でできることに努める。

前置き的なことが3回も続いてしまいましたが、明日から、具体的な問題についての私見と今回の気づきを書こうと思います。

■安保法制騒動を考える4:平和と秩序(2015年10月18日)
少し間があいてしまいましたが、まず安保法制の意味を考えてみたいと思います。
というのも、「安保法制」を「戦争法案」と位置づけている人たちもいるからです。
同じ法制を、平和のためと思う人もいれば、戦争のためと思う人もいる。
なぜそんなことが起こるのでしょうか。
そもそも「平和」とはなんなのでしょうか。

「パックス・ロマーナ」という言葉が象徴しているように、「平和(ピース)」にはもともと「支配による平和(パックス)」という意味が含まれています。
パックス・ロマーナは、「ローマによる平和」と訳されますが、むしろ「ローマによる秩序」と言った方が実態に合うように思います。

考え方の違う人たちが、それぞれ勝手に生きていこうとするとぶつかり合うことも多いでしょう。
喧嘩や犯罪が起こるかもしれません。
自然の猛威や外部からの攻撃に対しても、ばらばらでは対処できないかもしれません。
そういうことが起きないようにするためには、だれかが権力を持って、社会の秩序を維持していくことが効果的です。
さらには、困っている人を助けるための活動やみんなにとって有益な活動をしていくという富の再配分も、権力による秩序維持につながるでしょう。
そうしたことができれば、みんなの安全も高まるはずです。
これはある意味での「平和」と言えるでしょう。

しかし、そこからはまた、権力者による圧政という危険性も生まれます。
秩序が厳しすぎて、自由が抑圧されることもあるでしょう。
殺し合いや犯罪は少なくなっても、支配服従の関係は広がり、ガルトゥングのいう「構造的暴力」が生まれるかもしれません。
社会全体のために犠牲になる、いわゆる「コラテラル・ダメッジ」の問題もあります。

しかし、権力機構の崩壊が何を生み出すかは、フセインなき後のイラクを考えれば、明らかです。
秩序を維持する権力の存在は、現実問題としては、必要悪かもしれません。
そして、そのひとつのあり方が、国家と言っていいでしょう。
最近、報道ステーションでコメンテーターを務めている憲法学者の木村草太さんも、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」と著書「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」に書いています。
しかし、秩序をつくることと個人の平安とは必ずしも一致しないところが悩ましいところです。

安保法制の賛成者も反対者も、戦争を回避しようと考えているはずですから、それを「戦争法案」と呼ぶのは適切ではありません。
しかし、その法制がどの視点から発想されているかと言えば、明らかに国家の秩序維持(支配)の視点です。
「安全保障」の主語は国家秩序の安全なのです。
ですから、私たち一人ひとりの平安な生活のためではなく、どういう秩序を私たちが選ぶのかが、安保法制の問題なのです。
その視点に立てば、「平和のための戦争」と言われることがあるように、「平和」は「戦争」の一形態とさえ言えるでしょう。

わかりきったことをくどくどと述べましたが、この辺りをしっかりと整理しておかないと問題が見えてこないように思います。

明日は「戦争」について整理してみます。

■安保法制騒動を考える5:戦争の構造(2015年10月19日)
「平和」と同じく、「戦争」も捉え方の難しい言葉です。

20世紀初頭までは、戦争は、宣戦布告によって始まり講和によって終結する、国家間での政治手段であって、国家の権利の一つとされていました。
しかし、第一次世界大戦後、パリ不戦条約によって、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄されました。
ただ、条約加盟国の自衛権は否定されまませんでした。
つまり大きな流れとしては、戦争は国際的に放棄されたのであって、日本だけの特異現象ではありません。
その認識がほとんど議論にならないのが不思議です。
しかし、不戦条約違反に対する制裁は制度化されず、再び世界大戦が起こったわけです。

戦争のかたちもまた、大きく変質してきました。
国家による戦争も、総力戦と言われるように、戦争の当事者が国民全員へと広がりました。
それはある意味で、国民国家であれば、当然の帰結でもあります。
さらに、国家間ではなく、戦争の当事者が国家を超えた集団(たとえばアルカイダやIS)へと広がりました。
9.11事件によって、「テロとの戦争」が、戦争の前面に出てきてしまったのです。
戦争さえをも秩序化しようとしていた主権国家構想の崩壊が始まったわけです。
戦争の構図は、「国家対国家」ではなく「国家対反国家」へと変質しつつあります。
こうした動きを見ていくと、戦争の本質が見えてくるように思います。
つまり戦争とは国家権力のヘゲモニー争いのように見えて、実は、国家を含む体制(システム)そのものと、その構成要素である人民との対立構図になってきているのではないかということです。
そこにあるのは、制度と人間の対立構造です。
こういう言い方をすると、最近のSF映画の構図を思い出しますが、まさにその構図が現実化していると言えるでしょう。
そう考えれば、各国が競って軍事力を増強している先にあるのは、むしろ自国の国民への「支配力の強化」なのではないかと私には思えます。

戦争の構造を、国家間の横の関係からシステム(そこには当然部品化された人間も取り込まれています)と個々の暮らしを持つ人間との関係に置き換えると、まったく違った風景が見えだします。
前に、このブログでも「メアリー・カルドーの提言」を書いたことがありますが、戦争の先にあるのは「人道」や「人権」なのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/01/post-e37f.html

軍隊が殺傷した人間は、他国人よりも自国人のほうが多いという統計を何かで読んだことがあります。
軍隊というシステムが見ているのは、仮想敵国だけではありません。
戦争概念が広がった現在、国内の秩序をかく乱する存在は、軍隊の敵になっていくことは言うまでもありません。
敵は本能寺なのかもしれないのです。

「戦争法案」と決めつける前に、戦争の構造、あるいは「危険にさらされるもの」をきちんと確認する必要があるのではないかと思います。
戦争法案と言っている人の「戦争」は、誰が攻め誰が攻められるのか。
それも軍事力で。
現実問題としては、私にはまったく考えられません。
この70年は、そういう存在にならないように努力してきた70年だったと思うからです。

■安保法制騒動を考える6:自衛の主語(2015年10月20日)
今日は「自衛」について考えてみます。
パリ不戦条約でも各国の自衛権は放棄されませんでした。
国家単位での武力行使一般を違法とした上で、侵略国への対応に関しては、世界全体で行おうというのが集団安全保障という構想でした。
国家による暴力の管理という「近代国家」構想を、そのまま世界に拡大しようとしたわけです。
しかし、状況はまだ熟してはおらず、集団安全保障を担保する仕組みは実現しませんでした。
ですから自衛権は国家の権利として残ったわけです。

ここで問題は、自衛権によって衛(まも)られるものは何か、ということです。
国家や国民だろうと思うでしょうが、その両者は同じものではありません。
国家が国民にひどいことをする場合もありますし、国民が国家を転覆させることもあるからです。
これに関しては、これまでも何回か書いてきました。
国家(ステート)と国民(ネーション)は違うものです。
だからこそ国民国家(ネーション・ステート)という言葉もあるわけです。
両者を別のものだとすれば、そのいずれが「自衛」の主語になるかを考えると、これも悩ましい問題です。
私は、「国家の自衛権」とか「自衛戦争」という言葉は、もはや存在しない概念だと思っています。
国家というリヴァイアサンが自衛権などもってしまえば、国民はたちうちできなくなるはずです。

しかし、そもそも国家という制度(仕組み)が、「自衛」するとはどういうことでしょうか。
このシリーズの「その4:平和と秩序」で引用させてもらいましたが、木村草太さんが言うように、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」とすれば、国家の目的は、「国民が人間らしく安心かつ幸せに暮らせること」です。
つまり、国家はそのための「手段」なのです。
まさにマートンの言う「目的の転移」に注意しなければいけません。

国家は法的な擬制はともかく、基本的人権のようなものを持つ存在ではありませんし、何よりも国家という行為の主体がいるわけではありません。
ですから、国家が持つ権利もまた、人間が持っている権利とは全く違ったものです。
つまり、国家は所詮は、制度(システム)でしかないのです。
国家が、自らの存在を自衛するという意味は、実際には、国家を統治している現在の政府の体制を維持するということであり、そこでは、国民は国家という制度に従属する要素としてしか位置づけられません。
そもそも「制度」には自衛権などあるはずもありません。
それこそ、それはSFの世界の話です。

国家の自衛権が何を意味するか。
それは、北朝鮮をイメージすれば、すぐわかることです。
あるいは、国家のためという口実で、多くの人が死んでいった太平洋戦争を思い出してもいいでしょう。
国民は、国家の自衛活動では、決して守られることはありません。
国家の自衛権がなんとなく国民の自衛につながるのは、戦争の構造を見誤っているからです。
「だれがだれに対して何を自衛しているのか」を見据えなければいけません。
国家のためと言って、国民が殺されるようなことがあれば、それはそもそも国家という制度の大きな目的に反します。

社会的共有資本の問題に取り組んだ宇沢弘文さんは、政府は統治機構としての国家ではなく、市民の基本的権利の充足を確認する役割をはたすものだと言っています。
その意味をしっかりと受け止めたいと思います。
コラテラル・ダメッジなど、決して許されることではありません。

■安保法制騒動を考える7:安全の抑止力(2015年10月21日)
今回は「抑止力」について考えてみます。
私は、軍事力(攻撃力)の増強は攻撃の「抑止力」になるのではなく、むしろ「誘発力」になると考えていますが、この考えはなかなか共感を得られずにいます。
ここで「誘発力」とは、他国からの攻撃を誘発するという意味もありますが、自らが他者(他国に限りません)を攻撃してしまうという意味での「誘発力」も含意しています。
名刀を持つと、ついつい使いたくなるということです。
戦争の構造が、対他国だけではなく、対自国民、あるいは国家を超えた人民にも広がっていることを考えれば(実際には昔からそうなのですが)、自らの攻撃を誘発するという意味がわかってもらえると思います。
さらにいえば、構造的暴力という「見えない戦争」にも、これは大きな効力を持つはずです。
戦争というものの形が大きく変わってきているという状況の中で、考えてもらえるとうれしいです。

安保法制に賛成の方の論拠の一つが、国際情勢の変化です。
具体的に言えば、中国や北朝鮮の脅威に対して、日米同盟を強化し、いつでも立ち向かえるようにしておかなければいけないと不安感があるのでしょう。
攻めて来られないように、自国の軍事力を増強したい、防衛だけではなく場合によっては先制攻撃できるような「軍事力」を持ちたい、アメリカ軍隊との関係を強化し、その助け(虎の威)を借りたい、ということでしょうか。
なにしろ、日本が攻められていなくても、世界中どこであろうと、戦争が起こっているところには出かけていけるのが、集団的自衛権の含意するところです。
直接的には他国を守ることを目的とした権利ではないのです。
現在の政府は、そのあたりをあいまいにしながら、「日本の自衛」につながると説明していますが、要はどこの戦争にも参加できるということです。

国際情勢の変化でよく言われるのが、中国や北朝鮮、あるいは韓国です。
例えば、中国の軍事力増強は驚くほどです。
南シナ海での行動も、たしかに目に余ります。
しかし、それを防止するのは軍事力ではないでしょう。
それに、中国や北朝鮮が、日本を侵略しに来ると、本当に思っている人がいるのでしょうか。
国際情勢、とりわけ日本周辺がきな臭いと思わせることで、利益を得ている人たちがいるはずです。
そうした「脅し」に乗せられてはいないでしょうか。
いささか極端ですが、北朝鮮の拉致問題が解決したら困る人もいるかもしれません。
私は、安倍政権もそう考え、総行動しているだろうと思います。
話がそれてしまいました。

しかし、そもそも軍事力はほんとうに戦争の抑止力になるのでしょうか。
いや、これまでの歴史で、抑止力になったことはあるのでしょうか。
私には、そこが大きな疑問です。
力が相手の攻撃を抑止するなどと思うのは、暴力や権力に媚びて生きているからではないでしょうか。
人は、自分の生き方や考えで、物事を決めていくものです。
軍事による抑止力論は、弱い者いじめをして生きている人たちの考えではないかと、私には思えてなりません。
だいたい権力者や支配者は、弱いものの犠牲の重ねてきた人が多いでしょうから、きっとそう思うのです。
私のように、貧しく生きていると、周りの人を信じなければ生きていけません。
普通の人たちは、寄り添って、支え合って、信頼し合って生きなければ、生きてはいけないのです。

1980年代には、核兵器による抑止論に対して、オスグッドの段階的軍縮論がありました。
つまり、不信による安全保障から信頼による安全保障へと、大きな歴史はその方向で動いてきたはずです。
机上論では軍事力増強や軍事同盟は、戦争や攻撃の抑止効果を持つのかもしれませんが、歴史はそうはなっていないのではないか。
私にはそう思えます。

相手に対して攻撃する意図がないことを示すために、人類は、握手やお辞儀という方法を発明してきました。
その人類の長年の知恵を大事にしたいと思います。

中途半端な説明になったので、納得してもらえなかったかもしれませんが、国家による軍事力増強や国家間の軍事同盟は、決して安全にはつながりません。
アメリカでの銃器発砲事故の多さを思い出していただきたいと思います。
私の信頼する友人でさえ、私のこの意見には賛成してもらえないのが不思議です。

もし攻撃されたらどうするのか。
それは攻撃されるような存在だったことを悔やむしかありません。
そうならないように、生き方は誠実でなければいけないと思っています。
国家のあり方も、同じではないかというのが、私の考えです。
リアリティがないと、よく言われますが。

■安保法制騒動を考える8:違憲立法の意味(2015年10月22日)
安保法制騒動の論点のひとつは立憲主義の是非でした。
立憲主義がないがしろにされてきているのは、この騒動に始まったことではありません。
政治学者の中野晃一さんは、「右傾化する日本政治」(岩波新書)の中でこう書いています。

長らく9条に照準を合わせた改憲論は、近年では西洋近代の立憲主義そのものに対する攻撃と化しつつある。

立憲主義を否定すれば、改憲など不要です。
改憲できないなら、無視すればいいというわけです。
今回の安保法制騒動は、そのことをだれの目にもわかるようにしてくれました。
その気になれば、ですが。
そうした大きな流れを踏まえて、今回の騒動を考えていくと、見えてくることも違ってきます。

戦後レジームからの脱却こそが、安倍首相のビジョンです。
そして多くの国民もまた、それを支持しています。
いまもってなお、40%を超える国民が、憲法をないがしろにする政権を支持しているというのですから、驚くしかありません。
前にも引用した木村さんが言っているように、「憲法を燃やすことは、国家を燃やすこと」なのです。
安倍政権の「日本を取り戻そう」の主語に関しては、以前も書きましたが、安倍首相の発言の意図は、日本の人民の手に取り戻すのとは逆の方向です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/06/post-909e.html
そこが言語の恐ろしいところです。
「戦後レジームからの脱却」とは何なのか、もし誠実な人生を送りたいのであれば、きちんと考えなければいけません。

しかし、日本の国民は、「臣民」であることを願っているのかもしれません。
政治の動向よりも、経済のことが好きのようで、相変わらず「経済成長」とか「雇用」とかに関心を向けています。
以前、「雇用」よりも「仕事」が大事だとこのブログで書いたら、厳しいお叱りをいろいろといただきました。
雇用と仕事の区別さえ、つかなくなっているとしたら、もはや何をかいわんやです。
日本人は臣民としての生き方に隷従したいのだろうと、400年前に「自発的隷従論」を書いたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシには見えるでしょう。
http://homepage2.nifty.com/CWS/book2.htm#005

武田文彦さん(究極的民主主義研究所所長)は、憲法違反罪は厳罰に処すべきだと言っています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/TAKEDA125.pdf
取り締まる人の手加減で、逮捕されたり逮捕されなかったりする法律違反に比べれば、憲法に違反することは大ごとだと思いますが、田母神さんのように、憲法違反してもいいのだと公言する防衛関係の公務員(当時)さえいるのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/11/post-5beb.html
しかも彼は、少なからずの人たち(若者も多いようです)からの共感さえ受け、政治活動を行っています。
戦後、戦犯と言われた人たちが、政治家になり官僚になったこともある国ですから、仕方ないのかもしれませんが、いかにも情けないことです。

違憲立法された法律に従うことも「法治主義」というのでしょうか。
たぶん「法律」の意味が大きく変質しているのです。
いまの日本は、司法権のみならず、立法権もまた行政権に取り込まれ、三権分立ではなく、統治権優先の全体主義国家になりつつあるような気がします。

今回の安保法制騒動は、それがいよいよ表だって動きだした事件のように思います。
「憲法を燃やした」ツケは、たぶん大きいでしょう。
しかし、まだ諦めることはありません。
沖縄の県民のように、諦めずに、隷従することなく、できることをやっていくことが大切でしょう。
翁長知事をはじめとした、沖縄の人たちに、元気をもらっています。

安保法制騒動と沖縄基地問題は、コインの裏表です。

■安保法制騒動を考える9:決定手続きの正当性(2015年10月23日)
今回の安保法制騒動で、私が一番問題だと思ったのは、進め方です。
たとえば、参議院特別委員会での強行採決の様子は、テレビでライブに見ていましたが、驚くべきものでした。
ニュースで断片的に見た人たちは、野党の暴挙と思った人もいるでしょうが、あれは明らかに与党の暴挙です。
その上、議事録までも改ざんし、手続きの正当性を取り繕おうとしていますが、前日の公聴会の報告もなく、慣習になっている最後の質疑もなく、採決時には野党の委員も立ったままの状態でした。

10個の法案を一挙に審議するということも、手続き的に暴挙としか言えません。
しかもそれらは性質の異なるものも含まれています。
これに関しては、「その2」で書きました。

正しい手続きとは何でしょうか。
ここでもマートンの目的の転移が重要です。
正しいかどうかは、かたちでは決まりません。
その目的によって判断しなければいけません。
たとえ100時間「審議」しても、きちんとした審議でなければ、意味がありません。
公聴会を何回開こうが、聴く耳を持っていなければ「公聴会」とは言えません。
国会での審議も、公聴会も、アリバイ工作劇ではないかと思えてなりません。
野党からの質問に誠実にこたえ、一緒になって、より合意できるものにしていく姿勢がなければ、いくら時間をかけても審議とは言えません。
公聴会も、ただ体裁づくりであれば、横浜の地方公聴会で水上弁護士が冒頭釘を刺したように、「公聴会が単なるセレモニーで茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません」ということになるでしょう。

手続きの正当性は、目的にかなっているかどうかで決まるはずです。
いや、そうでなければいけません。
茶番劇にしか見えないのは、手続きの目的が、政府見解を正当化するというところに置かれていたからです。
たとえばこうです。
衆議院憲法審査会において、与党推薦者も含めて3人の憲法学者が、安保法案を「憲法違反」だと明言すると、「違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」と言い、確認してたくさんいないことがわかると、「憲法の番人は最高裁判所であって憲法学者ではない」と言い、それを受けて、元最高裁判事たちが違憲と言ったら、彼らは現役ではないという。
まさに茶番劇としか言えない手続きなのです。
重視されているのは、「手続きの正当性」ではなく、「正当化するための手続き」なのです。
国民が賛成しないのは、法案の主旨がきちんと理解されていないからだという姿勢も、ここから出てきています。
そもそも政府には、「話し合おうという姿勢」がないのです。
これは辺野古基地問題でも明確に出ています。

つまり、現政府はもはや「独裁政権」になっているというしかありません。
もはや「民主主義」は消えてしまったというべきでしょう。
ですから、連日の各地でのデモに対して、耳を貸そうなどとしないのは当然なのです。
立憲主義も民主主義も、失われているのです。
そうした実態を、私たちはしっかりと認識しなければいけなのではないかと思います。

これから何が始まるのか。
80年前の日本とドイツの歴史を学ばなければいけません。

■安保法制騒動を考える10:個人としてどうするか(2015年10月24日)
このシリーズも、今回が最後です。
最後に、ではそうした状況の中で、個人としてはどうしたらいいかについて、書いておこうと思います。

その前に、これからどう展開するかを少し考えておきたいと思います。
自民党の憲法改正案には、現憲法にはない「緊急事態条項」(第9章)が新設されており、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同左効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」ことになっています。
2年前に、このブログで、「自民党憲法改正草案による亡国への道」という10回シリーズを書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm
その時は見過ごしていたのですが、この条項の意味が最近やっと理解できました。
これは、まさに戦争行為を可能にする条項なのです。
つまりは立憲主義を外すための条項です。
ワイマール憲法にあった「大統領緊急命令条項」を思い出します。
ドイツは、この憲法条項により、悪夢への道に進みだしたのです。
私が大学時代に憲法を学んだ小林直樹さんは、「日本国憲法が軍国主義を廃した平和憲法であるため、緊急権規定をあえておかなかった」と解釈しているそうです。
すっかり忘れていました。
憲法に緊急権を明記することは「憲法の自殺」であるという意見もあるそうですが、私はそういうことにさえ気づいていませんでした。
今回、気づいたことの一つです。

話がそれてしまいましたが、憲法改正の場合、9条からではなく、この緊急事態条項を潜り込ませることが考えられます。
この条項は、それこそ最近の「緊迫した国際情勢」という言葉とセットになれば、多くの人には違和感はもたれにくいでしょう。
しかし、この条項の恐ろしさを、できるだけ多くに人に知っておいてほしいと思います。

さて、個人としてどうするか、ですが、ある人のことを紹介させてもらいます。
その人は、福島県会津の人矢部喜好さん(1884〜1921)です。
矢部さんは、プロテスタントの信徒でした。
日露戦争が始まったころ、彼は、売国奴、非国民と罵声をあびせられるなかで、仲間たちと戦争反対運動に取り組んでいました。
20歳の時に、補充兵として入隊の命を受けました。
その時の彼の行動を、阿部知二さんの「良心的兵役拒否の思想」(岩波新書 1969年出版)から引用させてもらいます。

その前夜ひとりで連隊長に面会をもとめ、自分は国民としては徴兵を忌避するものでないが、神のしもべとして敵兵を殺すことができないのであるから、軍紀のためならば、この場で死をたまわりたい、と申し出た。その結果、裁判所におくられ公判に付されて、軽禁錮2か月と判決を受けて入獄した。出獄後、連隊区司令部から呼びだしを受け、彼はもとより、家族も教団の仲間も、死刑‐銃殺をはっきりと覚悟したのであった。
しかし司令部では、敵と戦うことは主義として相容れぬとして、傷病兵を看護するのはすすんでなすべきことではないかと説かれ、ついに看護卒補充として入隊して講和にいたるまでの日を送った。

著者の阿部さんは、「日本の軍部が、この早い時期において「良心的兵役拒否」の問題を、このように典型的な形で代替業務を与えることによって処理したことは、おどろくべきである」と書いています。

長くなってしまいましたが、最後に私が何をやるかです。
簡単に言えば、矢部さんのようでありたいと思います。
残念ながら、私は徴兵されないでしょうから、その機会はないでしょう。
しかし、自らの生き方において、矢部さんを見習おうと思います。

同時に、日常的には、2つのことに取り組むことにしました。
一つは、いまもやっている湯島でのサロンをさらに広げることです。
湯島のサロンの意味は、以前、シリーズで少し書きましたが、途中で終わっているので、また近いうちに書くつもりです。
湯島のサロン活動は、私の平和活動でもあるからです。
そのサロンのメニューに、近現代史の勉強会を加えようと思います。
できるだけ多くの人、とりわけ若い人たちに、歴史を知ってほしいと思います。
先日ある人から聞いたのですが、中学校で話す機会があったので、原爆が落とされた国は世界でどのくらいあるかと質問したそうです。
三択で、「1か国」「50か国」「100か国」。
一番多かったのは「50か国」だったそうです。
これは私たち大人の責任です。
また、民主主義をきちんと考える会もスタートさせます。

もう一つ個人的にやろうと決めたことがあります。
非武装抵抗や良心的兵役拒否などの書籍を読み直すことです。
この種の本は、日本でも1960年代から70年代にかけてたくさん出版されました。
私もかなり読んで刺激を受けましたが、その後なぜかその種の本は少なくなり、私も忘れていました。
わが家の書庫にも、何冊かあるはずです。
引っ張り出して読み直す予定です。

実はこのシリーズでは、徴兵制とかデモのこと、あるいは戦争に行かない権利など、いろいろ書くつもりでしたが、書けませんでした。
いつかシリーズ2を書ければと思っています。

長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。
反論異論大歓迎です。
機会があれば湯島にも来てください。

■番外編:読者とのやり取り(2015年10月25日)
安保法制騒動考10回が終わったので、フェイスブックで紹介しました。
お人知の方から、とても長いコメントをもらいました。
前にも紹介したことがありますが、私の意見には納得していない方のおひとりです。
とても誠実な方です。

それで、その方のご意見と私の回答を、長いですが、ここにも再掲させてもらいます。
安保法制騒動考の補足にもなると思いますので。

〔読者からのコメント〕
やはりご説にはいささか違和感を覚えてしまいます。世界には軍備(抑止力)を持たない国はごく少数存在しますが(対立や脅威、力のないミニ国家、彼保護国、駐留軍が代替?一時の日本とドイツ、など)、実際は集団安保体制や大国の庇護下に入っており、無手勝流の国は存在しないのではないでしょうか。日本国憲法第9条を参照したドミニカが該当すると言われますが、強力な警察が事実上その機能を果たしているに過ぎないようです。中南米諸国等は、クーデターなど対内誘発力の悲惨な体験を経て軍を解体した例もありますが、国内が内乱で滅裂となり、なかには再軍備せざるを得なかった国(モルディブ、ハイチ、セイシェル等)もあるとのことです。これらのケースではいわば民度や文化の問題も絡んでいると考えられますが。
今回法案への賛成の根拠は、私の場合、国際情勢の変化だけを見据えたためでもなく、また残念な表現である力への媚びや弱いものいじめ根性由来のものでも全くありません。人類が遠い将来ついに覚醒するのか否か知る由もありませんが、それまでの間は現実に蓋をしたまま理想論に耽ることはできないとの認識からです。残念ながら誠実や正義が通用しない政府が現存します。確かに中国が日本を直接的に侵略する事態は考えにくいことですが(本当は臆病で保身本能が強いことは、あの万里の長城から知れます)、他面、民族の宿痾と言える強烈なメンツ、中華思想、領土的野心、強欲などに由来し、かつ一党独裁政権保持のために、核心的利益と内外に嘯いてしまった事案とりわけ尖閣問題が衝突事態を惹起する危険性は相当程度大きいと言わなければなりません。今盛んに貶日行為に狂奔中ですが、その目的は衝突時に国際世論が少しでも味方になってくれるための伏線である可能性を否定できるでしょうか?さらに、賛成側のなかには大戦時のソ連の卑劣な侵略と暴虐を想起した向きもあったと思います。逆に反対側には、ブッシュやチエイニーが動いたイラク侵略のような資本と政治の癒着などを想起した向きも多かったでしょう。ともかく、現在もし地球上の警察機能を曲がりなりにも果たす国(アメリカ)が存在しなかったなら世界はどういうことになるか、想像しただけでも恐ろしいとは思われませんか?この地上で間断なく随所で行われてきたのは、支配者同士、市民同士の相互愛による平和だったでしょうか?
問題は、軍を保持し同盟を強化することの必要悪を明確に認識し、コントロールすべき国民の自覚だと思います。この点、大戦時において国民自身はどうだったかを含む総括を今からでも敢行すべきです。朝日のように手のひらを返したような自虐に走って余計な反発を招く愚行や、周辺国にプロパガンダの口実を与えるようなやり方の閣僚の靖国参拝はもううんざりです。安倍首相ももっともっと誠意を尽くしてわかりやすく国民を説得し、またもっと愚直に手続きを踏むべきでしたね。

〔私の回答〕
コメント、ありがとうございました。
たしかに、世界には軍備を持たない国はほとんどないかもしれません。
しかし、だからこそ、私は日本はそうあるべきだと思っています。
つまり、新しいあり方を提示するための70年間を体験し、いまこそ米軍の庇護からも脱し、「世界一無防備な国」になる道を選べないかと思うわけです。
念のために言えば、それは同時に、「世界の多くの国に役立つ国」でなければいけません。
それこそが、抑止力だと、私は思います。
そして、日本はいま、世界において唯一その可能性を持ち始めた国だと思っています。
歴史を反転させることができるかもしれません。
可能性があるのであれば、挑戦すべきだというのが私の考えです。
その結果、いささか時期尚早で失敗するかもしれません。
明治維新の草莽の志士のように、滅ぶことがあるかもしれません。
しかし、そうなろうとも、それを志向する価値があるというのが、私の思いです。
もちろん滅ぶことは避けねばなりませんが、これは生き方の「理念」の問題です。

たしかに、私も、人類が「覚醒するのか否か知る由」もないのですが、少なくとも覚醒するために自らを一歩進めていくということを大切にしたいと考えています。
「誠実や正義が通用しない政府が現存」することが、もし「残念」な事であるならば、少なくとも私の住んでいる国にはそうなってほしくないのです。
「尖閣問題が衝突事態を惹起する危険性は相当程度大きい」と思いますが、実際にそれを引き起こすのは、別の次元の話だと思います。これまでの戦争の発端は、むしろ軍事力の優劣比較からの論理的帰結からではないと思います。

「現在もし地球上の警察機能を曲がりなりにも果たす国(アメリカ)が存在しなかったなら世界はどういうことになるか、想像しただけでも恐ろしい」とは、思いません。
確かに秩序は乱れるでしょうし、私たち日本人はその秩序の利益を得ているでしょう。
しかし、その反面、中南米諸国やヴェトナムやアフガンはどうだったでしょうか。
秩序がゆるみだすことから、新しい時代は始まります。
明治維新もアラブの春も、そうでした。
秩序は、ある人には平和でも、ある人には戦争状態をもたらしています。
私自身は、誰かの犠牲の上に立った「世界秩序」の恩恵は受けたくありません。
これに関しては、かなり冗長ですが、前に「オメラスとヘイルシャムの話」を書きました。
よほど時間があれば、お読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm

私も、「この地上で間断なく随所で行われてきたのは、支配者同士、市民同士の相互愛による平和」ではなかったと思います。
その4で書いたように、「平和」ではなく「勝者」にとって都合のいい「秩序」だったと思います。

「軍を保持し同盟を強化することの必要悪を明確に認識し、コントロールすべき国民の自覚」という意見は、否定はしませんが、国民が果たしてきちんとコントロールできるのかという疑問が残ります。
シヴィリアンコントロールさえ軽視され、ましてや違憲とされても、そんなことは無視していいという田母神さんのような高官に統治されているのが実態です。
そんな国家には、軍隊は任せられません。
まさに、「大戦時において国民自身はどうだったか」を思い出したいです。
とりわけ沖縄の歴史を私たちはしっかりと学びたいと思います。
今回の辺野古問題は、何も関わっていないことを示唆しているように、私は思います。

蛇足ですが、もし私が生活している社会が、他国や自国政府から耐えられないほどの攻撃を受けたら、いまの私は、ガンジーのような非暴力主義をとる自信はありません。
自分の理念には反しますが、たぶん武器をとって戦うだろうと思います。
草の根的に生まれてくるゲリラの戦いには、とても共感するところがあります。
その時には、老いも若きも、すべて戦いに立ち上がり、本当の意味での国民皆兵制が自発すると思っています。
国家による徴兵制ではなく、皆兵制であれば、いまの私は受け入れられます。
自らが戦うつもりもない人の閲兵式など見たくありません。

なお、「靖国参拝」については、書き出すときりがないのでやめますが、中国や韓国から批判されるからどうこうするという問題ではなく、それ自体の中に大きな問題が含まれていると思います。

なかなか共感は得られないでしょうね。
さらに違いが出てきたかもしれません。
しかし、コメントにはいつも感謝しています。
今度、おいしいコーヒーが手に入ったらぜひゆっくりとお話ししたいです。
ありがとうございました。


安保法制騒動考パート2:疑念シリーズ
(CWS Private 2015年10月27日〜11 月10日)

■疑念1:お金で統治する政府への納税嫌悪感(2015年10月27日)
安保法制騒動に関して考えたことを10回にわたって書いてきましたが、しばらくその延長上に、現在の政府や経済界に関して、感じている疑念を何回か書いていこうと思います。
私の基本認識は、すでに「政府による戦争は始まっている」ということです。
それに関しては、このシリーズの最後に書ければと思います。

まずは昨日知った「衝撃的な事実」です。
今朝の朝日新聞から要旨を引用します。

安倍政権は26日、辺野古周辺の3地区の代表者を首相官邸に招き、今年度中に振興費を直接支出することを伝えた。辺野古への米軍基地移設計画に反対する沖縄県と名護市の頭越しに地元と直接交渉し、移設に向けた「同意」を浮き立たせる狙いがある。

辺野古周辺の3地区とは、自治体ではなく、住民自治会のような集落のようです。
その代表の区長も、法に基づいて選ばれたわけではなく、例えば私が地元の自治会の会長をやった時のように、自治会役員による持ち回りや推挙などで決められたのではないかと思います。
つまり、国が地方自治体を通さず、地元と直接交渉して公金を支出するということです。
その公金の一部は、言うまでもなく、私の税金です。

新聞記事の中で、成蹊大法科大学院の武田教授は、「お手盛りで額を決めて交付するのであれば、補助金等適正化法の趣旨に反する疑いがある。また、自治体ではない各集落が国からの交付金を適正に管理、使用できるのかも疑問だ」と言っています。
名護市の稲嶺市長は、「地方自治への介入だ」と批判しているそうです。

私にはこれは、政府によるお金を使った、あからさまな買収行為だと思います。
福島原発事故の補償のときの、石原環境相(当時)の「金目(かねめ)でしょ」発言を思い出しますが、安倍政府の最大の「武器」は「お金」なのだと思えて仕方がありません。
理念や共感、納得ではなく、お金で解決するスタイルです。
お金で解決しようとするのは、自らの正義を確信できないからでしょうか。
しかし、お金で解決するという発想は、問題を悪化させることになるのではないかと心配です。

政府がいやしければ、国民もいやしくなります。
今回、首相官邸に呼ばれた地元の3区長は期待をにじませたそうです。
仲井前知事のことも思い出します。
3人の個人的な批判をするつもりはまったくありません。
たぶんそうならざるを得ない状況に置かれているのでしょう。
お金の前にかしずく人、かしずかざるを得ない人はどんどん増えているのでしょうか。
格差社会化の、大きな問題がそこにあるように思います。
本来は反対になる契機であるはずですが。
金銭の前に心揺さぶられるのは、区長だけではありません。
たぶん地区住民のなかにも、そうした意識が生まれているのでしょう。
テレビで、地区住民が話していた中には、こうしたことを深く嘆いている人もいましたが、ある人は、基地で迷惑を受けるのは地元住民なのだから、名護市ではなく地区住民が交付金をもらうのは当然だと話していました。
沖縄にも、こういう発想が生まれてきているのかと、とても哀しい気になりました。
住んでいる地域は、確かに住民たちのものかもしれません。
しかし、住民たちだけのものではありません。
そもそも土地を、個人の私的所有権の対象としたローマ法の発想に間違いがあるように私は思います。
都市化されたローマと違い、自然の中で生きていたゲルマンの世界で生まれた法理は、土地は所有ではなく、総有とされたと、私は大学で学びました。
私がいまもって強く記憶していることの一つです。
私有地であっても、土地は個人の勝手には処分できないということです。
たしかに、基地ができて一番被害を受けるのは地元の人たちです。
だからと言って、お金と引き換えに、住民たちだけで土地の処分を勝手に決めていいのかどうか。
そこにどんな施設を作ってもいいのかどうか。

これは原発立地にも言えることです。
すべての地域が、もし基地や原発を引き受けなければ、基地も原発もできません。
原発の廃棄物の最終処理場がいまだにできないことが、それを物語っています。

もっと堂々と国民と議論し合う政府になってほしいと思います。
議論では説得できないからと言って、金銭や利権で買収するような政府にはなってほしくありません。
しかも、辺野古の環境監視4委員、業者側から寄付・報酬などという動きさえあるのです。
学者や有識者もまた、お金で心揺るがせられているのでしょうか。
お金で統治する政府への納税意欲は低下します。
買収行為に荷担することになるわけですから。

政府による戦争での殺人が罪にならないように、政府による買収もまた、罪にはならないのでしょうか。
政府の犯罪を訴えても、強行行為の中止を訴えても、同じ政府によって否定されたり無視されたりしてしまう。
3地区が首相官邸に呼ばれた昨日、翁長知事による辺野古承認の取り消しに関して、国交相が効力停止を決めたという報道がありました。
工事を継続したい防衛相の意向を受けて、同じ政府閣僚の石井国交相は、不服審査の裁決もせずに、防衛省が工事継続できるようにしたわけです。
現在の政府の統治機能とは、いったいなんなのか。
不気味さを強く感じます。

■疑念2:和を尊ぶ国民性はどこに行ったのか(2015年10月28日)
中野剛志さんの「TPP黒い条約」(集英社新書)のはじめに、こんな文章があります。

日本人は、元来、和を尊ぶ国民性をもっていた。それが明治になって、他人を自己の敵とみなすかのような西洋の対人関係や、正邪・善悪・権利義務をはっきりさせようとする西洋の制度がもち込まれた。そして、日本の文化や日本人の国民性を省みない、性急かつ無批判な近代化が進められたのである。これこそが、日本および日本人の混乱の原因である。

これがもし本当であるとすれば、私はちょっとうれしくなります。
人間とはそもそも「和を尊ぶ」本性を持っていると思っているからです。
ただ、そういう本性は、実際にはなかなか現実化しません。
石器時代はともかく、最近の文明化された社会は生きづらいからです。
ですから、日本人は元来、和を尊ぶ国民性をもっていたなどと言われるとうれしくなるのです。
しかし、「和を尊ぶ国民性」は、いまはどこに行ってしまったのか。

一昨日(2015年10月27日)の朝日新聞天声人語に、こんな言葉が紹介されていました。

「わたしたちは、みんなおたがい助け合いたいと望んでいます。……わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです。」

これは、チャプリンの映画「独裁者」に出てくる、有名な結びの演説です。
互いに助け合って生きれば、飢餓など起きないと、インドの経済学者アマルティア・センは言いました。
人類学者サーリンズは、石器時代には「富を持つことは負担だった」と書いています。
富を持つことに価値を持ち出して、文明を生み出して以来、人は「和」を忘れがちです。

争いを前提に政治を行うのではなく、和を基本に政治を行うことはできないのか。
私が、安保法制騒動考で書いた時の基本にある考えは、そういうことです。
しかし、日本政府はもとより、最近の日本人は、「和」からは発想しないのかもしれません。
そうだとすれば、私にはとても残念なことです。

「和」の対極にある一つの考えは、「分断」です。
辺野古基地周辺の住民たちにお金をばらまいたのは、明らかに住民分断策です。
「和」とは、真逆の政治の象徴です。
政治だけではなく、最近の経済の方向も、「和」ではなく「分断」を目指しているように思えてなりません。
マスコミさえもが、「分断指向」を持っているようにも思えます。
この指向は、海外にも向かうでしょう。

「和」には「小さな和」もあれば「大きな和」もある。
「小さな和」は、時に「大きな和」への障害になります。
特に、内を向いた「和」は、対外的には攻撃的になることも少なくありません。
戦争が起きると、必ずと言っていいほど、内部的には「和」が出現します。
そうならないためには、「和」は開かれていなければ、いけません。
「和」は、そのまま、平和につながるわけではないのです。

安保法制騒動考の第1回目で書いた「目的の転移」を指摘した、R.K.マートンは「予言の自己成就」とか「予測の自己実現」ということも指摘しています。
「他国から攻められるかもしれないと軍事力を強化したら、それを他国が脅威に感じ、攻撃をしかけてきた」というのが、「予測の自己実現」です。
日本の戦国時代には、こうして多くの戦乱が生まれました。
たしかに、現在の世界情勢は、すきを見せたら攻められるかもしれないという思考の呪縛から多くの人は抜け出せていないことでしょう。
「内向的な小さな和」を守るために、攻められることを前提にして、結果的に「和」を否定している。
私にはそんな気がしてなりません。
今回の安保法制騒動で、自民党な一糸乱れないほどの「和」を示しました。
しかし、それはたぶん私たちが大事にしてきた「和」ではないでしょう。
「和」が尊ばれるのは、異論を認識しあうことがあればこそですから。
すでに、「戦時体制」に向けて、異論を許容しない状況が生まれているとしたら、恐ろしいことです。

「開かれた大きな和」の理念を目指して、新しい国家のあり方を模索するべき時期に来ているように思います。
「開かれた大きな和」。
日本の古代の呼び方の「大和」には、そうした「開かれた大きな和」の理念があったと思いたいです。
そうした「開かれた大きな和」の理念から生まれる、平和とは何のか。
そこに国家政府による軍事力は入る余地がないように思っています。

■疑念3:理念と現実(2015年10月30日)
私は、非暴力抵抗論者ではありません。
頭ではそうなりたいと思っていますが、身近な誰かが不条理な攻撃を受けたら、暴力行為に加担しないという自信はありません。
そのくせ、安保法制騒動考もそうですし、この疑念シリーズの2回目もそうですが、軍事力による防衛には否定的です。
その点について、納得できないと友人からも繰り返し、指摘されていますが、自分としても矛盾していると思うこともあります。

これに関して、今回は「理念と現実」を考えたいと思います。
それでもう少し私の考えをわかってもらえるかもしれませんので。

野崎泰伸さんの「「共倒れ」社会を超えて」(筑摩選書)という本があります。
私が自らの発想の貧しさに気づかされた本の1冊です。
野崎さんは、「生の無条件の肯定」のために、「生の条件を正当化するようなすべての思考を拒否する」と書いています。
この言葉には私はドキッとさせられました。
それはともかく、この本の中で、野崎さんはこう書いています。

倫理とは、「私たちが共に豊かに生きていくための、侵すべからざる掟」であると私は考えています。
それは、どのような状況においても守られるべき「掟」ではなく、実現不可能であったとしても、それがなければ社会が存立し得ないような戒律のようなものだと言えるでしょう。
つまり、倫理とは、ある状況下における行動規範のことではなく、それがなければ社会は人間のただの寄せ集めにすぎず、お互いが孤立した存在になってしまう、そのようなものだということです。

私が、相手を信頼して、軍事力などに依存しないことこそが、最高の抑止力だと主張しているのは、野崎さんが言う「倫理」に当たるものです。
それは、私にとっての「信条」であり、生きる指針としての理念です。
理念は、行動を支えるものですが、具体的な行動を規制するものではありません。
ましてや、自らが縛られるものでもありません。
理念と現実は、相互に支え合う関係ではあっても、相互に殺ぎ合う関係にはありません。

だから私は、状況によっては「武装」を否定はしません。
不条理な攻撃に自分の世界がさらされれば、「武器を取って戦うこと」も否定はしません。
しかし、それは決して「抑止力」にはならないだろうと思っているのです。
実際に戦争になれば、軍事力や軍事同盟は「対抗力」にはなるでしょう。
しかし、だからと言って、戦争を収束するとも言えません。
そもそも「戦争」は起こった時点で、すでに人々の暮らしは大きな損害を受けているでしょう。
戦争を喜ぶ生活者は、一人もいないはずです。

大切なのは、マートンがいう「大きな目的」なのです。
私たちが望んでいるのは、戦争がない社会ではなく、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会です。
それが、私が考える「理念」です。
その理念があって初めて、自らの生き方が考えられる。
しかし、理念を絶対視するのではなく、理念を実現するために、その時々の状況の中で最善を尽くすということです。
そういう視点からの最高の抑止力は、人の心の中にあると思っています。
軍事力に依存して戦ったヴェトナムや中東で、何が起こったか。
南シナ海に米軍が出てきたことで、何が抑止され、何が誘発されているのか。
よく考えてみる必要があります。

しかし、実際に他者から攻められたらどうするのか。
その時は、私は老躯にムチ打ってでも、戦いに馳せ参じます。
時すでに遅いのではないかと言われるかもしれませんが、それは仕方がありません。
ここで大切なのは、何を守るのかです。
私が守りたいのは、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会です。
相手が攻めてくるかもしれないので、軍事力で相手を威嚇するということであれば、それはすでに「みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会」ではないような気がします。
軍事力に守られた安心は、本当に安心なのでしょうか。

結局、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会を目指すために戦うのではないかと言われるかもしれません。
しかし、言葉の遊びと言われそうですが、「目指すため」と「守るため」とは全く違います。
私が戦うのは、「守るため」だけです。
それも、自らを守るために戦うのではありません。
理念を守るために戦うのです。

こう書いてきながら、やはり説得力が弱く、「共感できない」というコメントをまたもらいそうです。
もう少し考えなければいけません。
しかし、それにしても、多くの日本人や日本政府が、最初から「争いや戦いのない社会」などあり得ないと思っていることを、不思議に思います。
人はそもそも支え合ってきたからこそ、生物的に弱い存在なのに、生き延びてきたのではないか。
それを私は忘れたくありません。
現実から理念を考えるのではなく、理念からこそ現実を考えていきたいと思うのです。
理念に反する現実が、少しでも少なくなれば、もっとみんなが快適に暮らせるようになると思っています。
まずは、私自身の考えを変えて、理念を基軸に生きる。
私が確実にできるのは、それくらいかもしれません。

■疑念4:TPPへの危惧−もう一つの戦争(2015年10月31日)
安保法制を整備し、日米軍事同盟を強化しないと他者からの攻撃を受ける恐れが高まっていると考えている必要が私のまわりにも少なくありません。
その場合、「他者」はかなり具体的な「他国」のイメージがあるようです。
一方、そうしたことが、たとえばイスラム過激派の攻撃を誘発するという意見も少なくありません。
アフガニスタンや中東で活動している人たちはそう感じているようです。
軍事的・暴力的攻撃に関しても、このように正反対の意見があります。
「戦争」が新しい局面に変質(対立構造が国家間から組織間に変質)してきていることも考慮に入れながら、総合的に考えなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/post-947e.html

しかし、私たちの生活が攻撃されているという意味では、まったく違う局面での「もう一つの戦争」が進んでいるように思います。
私にはその問題の方が、もっと大きな「私たちの生活の安全保障問題」ではないかと思うのです。
それは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題です。
昨年亡くなられた宇沢弘文さんは、TPPは万物を私有化し利潤追求の対象にしようとする市場原理主義の現れであり、各国がその固有の歴史の中で構築してきた社会的共通資本を破壊すると言っていました。
宇沢さんがいう、「社会的共通資本」とは、人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的制度のことです。
たとえば、日本の国民皆保険制度と組み合わさった医療制度や自然と調和した農業の営み、里山などの自然環境です。
あるいは、経世済民のための商慣行や無尽講のような相互扶助の経済の仕組みも、そこに含めてもいいかもしれません。
それらは「誰かのもの」というよりも、「みんなのもの」と言っていいでしょう。

最近の新自由主義的経済は、すべてのものの市場化(金銭化)を目指して「暴走」しています。
そうした「汎市場化」の動きに違和感を持ったことが、27年前に私が会社を辞めた理由の一つです。
少なくともそれには加担したくなかったからです。
当時は、環境や福祉の分野がこれからの成長産業だなどと言われていた時代です。
そうしたことへの異論は、当時私も話をしたり書いたりしていましたが、流れは加速されるだけでした。
最近も、その種のことを話させてもらうこともありますが、相手にはまったくと言っていいほど、その意味が伝わらなくなってきています。
フロンティアが不可欠な資本は、あらゆるものを「市場化」し、あらゆるものが金銭利益追求の対象になってきていますが、人間さえもがいまやその「部品」あるいは「商品」へと化しているのかもしれません。

TPPの報道では、関税が話題にされますが、関税はその「氷山の一角」でしかありません。
世界が単一の市場になってしまえば、地域固有の文化である「社会的共通資本」は失われていくでしょう。
それは、とりもなおさず、私たちの生活が壊れていくということです。

TPPを主導しているのは、いまやアメリカを掌中にするほど巨大化してきた資本だろうと思います。
その資本が目指すのは、徹底した自由化と市場競争化を目指した、新しいルールです。
しかも、そのルールを運営する主体は、悪評のISD条項に示されているように、国家というよりも、投資家です。
国家主権から投資家主権への変化だという人さえいますが、私もそう思います。

そのTPPに日本は参加しました。
郵政民営化の悪夢が、また繰り返されることになりかねません。
問題は「経済」ではなく「文化」です。
「金融ビッグバン」が、日本の社会をどう劣化させたかを思い出すと恐ろしくなります。
つまり、日本はいま、資本による侵略を受けているとも言えるでしょう。
私には、「もう一つの戦争」のように思えてなりません。
軍事力のやりとりで見える戦争だけではないのです。
そして、その「戦争」では、ほぼ「敗戦」は見えてきました。
70年前のように、大本営発表にだまされているような気がしてなりません。

近隣諸国との関係や平和のための「安保法制」に目を奪われているうちに、日本はすっかり「他者」に侵略されてしまうかもしれません。
いやもうかなりの部分が、壊されてしまったような気もします。

「無意識のアメリカヘの自発的従属」という、「戦後レジーム」の完成が、「戦後レジームからの脱却」を掲げている安倍政権によって成し遂げられようとしているのは、実に皮肉な話です。

■疑念5:さらにもう一つの戦争としての原発(2015年11月2日)
TPPを「もう一つの戦争」の象徴と書きましたが、さらに「もう一つの戦争」にも言及したいと思います。
それは「原発」です。
原発を起点として見えてくるのは、システムと人間の戦いではなく、個々の人間が自らのうちに内在させている、「2つの生」の戦いかもしれません。

生のエネルギーは、「差異」から発生すると私は考えています。
これは、実に悩ましい問題です。
すべてが平安で、満ち足りていれば、それは「生きていない」ことと同じかもしれません。
生きているとは、変化することであり、その意味では「平安」ではないことかもしれません。
「差異」があれば、「秩序」を維持するために何かが必要です。
そう考えると、「戦争」と「平和」を同じコインの裏表とも思えてくるのです。
これは大きなテーマなので、今回はこれ以上書くのは止めましょう。

問題は、私たちのうちにある「2つの生」です。
原発を欲する生と原発を否定する生です。
おそらくほとんどの人の思いの中に、意識はせずとも、この2つの思いはあるでしょう。
そのため、福島の原発事故で、あれほどの生々しい体験をしたにもかかわらず、私たちは原発を捨てきれていないのです。

私は、原発は人類に埋め込まれた「自死装置」だと思っています。
先日、NHKの番組「新・映像の世紀」第1集を観て、改めてそう思いました。
もしまだ観ていない方がいたら、ぜひ見てください。
http://www.nhk.or.jp/special/eizo/

そして、私たち日本人は、その原発のとりこになってしまいました。
すでに日本列島の各地に原発ができています。
視点をかえれば、これは巨大な自爆装置を日本列島に埋め込んでしまったということです。
ここに、意図的な攻撃か、あるいは事故による航空機の激突か、さらには自然災害の直撃か、理由はともかく、破壊的な力が働いたらどうなるのでしょうか。

これは、「戦争」ではないかもしれません。
しかし、万一そんなことにでもなれば、私たちの「安全保障」は守られようもありません。
原発が原爆化するだけが問題ではありません。
原発の稼働によって発生する放射性廃棄物は、いまの展望では、じわじわと私たち人間の生命をむしばんでいくでしょう。
私たちは、そうした極めて「危険な状態」の中で、「他国からの攻撃」を心配している。
私には、それが滑稽にさえ思えます。

なぜそんな危険な装置を維持しているのか。
それは、一度獲得した物質的な利便性や経済的な成長への思いを捨てられないからでしょう。
原発は生命になじまないものと考えている私も、だからといって、原発依存社会から抜け出すわけにはいきません。
悩ましいのは、原発が引き起こしている「戦争」の敵は、実は私たち一人ひとりの心の中にいることです。
敵は「原子力ムラ」の人たちではないのです。

もし本気で、人間の安全保障を考えるのであれば、原発は一刻も早く廃炉していくべきです。
海外に原発輸出するのも止めるべきでしょう。
世界的な脱原発運動を起こさなければいけません。
福島で起こった原発事故さえもきちんと原因究明せず、うやむやの中で原発再稼働に動き出しているなかで考える安全保障とはいったい何なのか。
原発と安保法制は、深くつながっていることを認識しなければいけないと思っています。

この戦争を避けるには、私たちが自らの生き方を変えることしかないように思います。
まずは一人からでも、変えなければいけません。

■疑念6:戦争の始まりの非論理性(2015年11月3日)
戦争の始まりは、ほとんどの場合、論理的には説明できないように思います。
第一次世界大戦は、サラエボで発生したオーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者夫妻の暗殺事件で始まったと言われます。
武力による威嚇活動をしていると、意図せざる偶発事件が起きて、それが戦争に向かってしまうおそれがあります。
南シナ海で、アメリカと中国がまったく意図せざる偶発事故を起こし、それに日本が巻き込まれる危険戦略がゼロだとは言えません。
武力を伴う衝突は、偶発から暴走へと進まないとも言えません。
軍事力を持つということはそういうことでしょう。

意図的に始められる戦争もあります。
ベトナム戦争の本格化は、トンキン湾事件ですが、これはペンタゴン白書であばかれたように、武力を持っていた米軍による意図的な偽装活動からです。
これは、軍事力が勝っていたほうが働きかけた事例です。
こうした事例は少なくありません。
軍事力は抑止効果よりも誘発効果が大きいと私が思う理由の一つです。

イラク戦争は、イラクに大量破壊兵器があるということで始まりました。
相手を恐れさせる軍事力が戦争を誘発させた事例です。
イラクの軍事力が抑止力を持つほど大きくなかったから戦争が起きたのでしょうか。

では世界最大の軍事力をもつアメリカは誰からも攻撃されないでしょうか。
9.11は、そんな幻想を破りました。
9.11は戦争ではないというかもしれませんが、当時のブッシュ大統領は「戦争」だと言い、アフガニスタンとイラクとの戦争が始まり、6000人を超えるアメリカ軍の若者が殺されました。
殺したのは誰でしょうか。

戦争は国家間で行われるとは限らなくなりました。
その意味でも、国家単位の軍事力比較は、あまり意味をもたなくなったはずです。
それに、原発装置のように、軍事力の支配権が変わってしまうことさえあります。
そのことも十分考えておかねばいけません。
大切なのは、「戦いの構造の変化」をしっかりと認識することだろうと思います。

軍事力が抑止力になるためには、合理的な判断が双方で行われる必要があります。
しかし、そもそも戦争は「非合理」なものです。
ほとんどの人は、戦争をしたいとは思っていないでしょう。
戦争をしたいと思っている人がいるとすれば、論理的に考えていない人や特殊な状況にある人と考えるべきでしょう。
そういう人は、論理的に思考しませんから、抑止理論は成り立たないはずです。

戦争が発生するのは、偶発するか、あるいは軍事力の暴発かしかないように思います。

それでも皆さんは、軍事力が抑止力を持つとお思いでしょうか。
私にはまったく理解できないことなのです。

■疑念7:「戦時体制」を体験したことはないのですが(2015年11月7日)
今日はちょっと寄り道です。

以前も書いたことがありますが、NHK「クローズアップ現代」や報道ステーションでのコメンテーターの発言に対して、安倍政権が圧力をかけたということが何回か起こっています。
そうしたことに関して、今朝の新聞では、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が「政府が個別番組の内容に介入することは許されない」などと厳しく批判したという報道がありました。
政権が報道に圧力をかけるというのは、異常なことですが、日本では「話題」にはなっても、「政治問題化」していくことにはなりにくいのが現実です。
肝心の報道陣が、見事なまでに「自主規制」してしまうからです。

これもひとつの例ですが、最近、日本が、窮屈な戦時体制のようになってきている気配を感ずることがあります。
私は実際には「戦時体制」を体験したことはありませんが、たぶんこんな雰囲気から始まったのだろうなと思います。

公民館などで憲法問題や平和の問題に関する集まりをやりにくくなっているというような話も不気味です。
しかも、その主役が公務員だと聞けば、まさにこの国にはもはや憲法はないのかと思わざるを得ません。
憲法99条には、「公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記されていますが、憲法をきちんと読んでいない公務員は少なくないでしょう。

しかし、公務員だけではありません。
たとえば、一昨日の朝日新聞にはこんな記事が載っていました。

東京・渋谷の「MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店」が、「自由と民主主義」をテーマに開催していたブックフェアを、ネット上の「偏っている」といった批判を受けて一時中止した波紋が広がっている。

もちろんこれは、政府が圧力をかけたわけではありません。
「偏っている」といった批判がネットで出回っただけのことでしょうが、それを受けて、大書店がブックフェアをやめてしまうなどということが起こるのは、これも「異常」としか言えません。
私には、社会は病んできているとしか思えません。
どう病んでいるかと言えば、成員が主体性を失い、権力に迎合して、小さな保身思考に呪縛されているということです。
主体性を失った成員から成る社会は、誰かの旗振りひとつで、いずれにも動き出します。
社会は死につつあると言いたい気分です。

これまで書いてきたことの構図で言えば、「制度」と「人間」の「戦争」はすでに勝敗が決まりつつあるのかもしれません。
生活者は「消費者」となり、「生産者」は「労働力」となり、社会から生きた人間がどんどん消えてしまっています。
ガルトゥングのいう「構造的暴力」のもとでの、非平和状況が生まれてきていると言ってもいいでしょうか。

こうしたなかで、安保法制が次々とつくられていくと思うと、恐ろしさを感じます。
自民党も民主党も、結局は現在の安保法制に賛成していると思いますので、政治の世界においては、よほどのことがない限り、もはや後戻りはしないでしょう。
だとしたら、どうするか。
やはり、危機感を持った人が、それぞれの生き方を変えることしかないのかもしれません。

最近、テレビのニュースや政治関連番組を見る気がしなくなってきています。
しかし、こうしたことがまさに戦争へと向かうことに荷担するのでしょう。
ニーメラーのメッセージをもう一度かみしめなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html

■疑念8:「国家」と「生活者」の「戦争」(2015年11月7日)
安全保障の「安全」は、誰にとっての「安全」なのか。
私の最大の関心はそこにあります。
その点が、世間の常識と違うために、私の議論はなかなか伝わらないのだろうと思っていますが、そのことをどう書けばいいか、自分でもわかりません。
何回も書こうとしながら、うまく書けません。

今朝のNHKテレビの「こころの時代」は、ルポライターの鎌田慧の「ぼくが世の中に学んだこと」でした。
その最後に出てくる、青森県の大間原発建設の用地買収に最後まで応じなかった小笠原あさこさんの話が出てきます。
その土地は、原発からわずか200メートルしか離れていないところですが、あさこさんが最後まで土地を売らなかったために、原発は炉心の位置をずらして建設されました。
あさこさんが、土地を売らなかったのはなぜか。
娘の厚子さんが語ってくれています。
「海、あるべ、この土地あるべ。ぜにっこなくても、一生生きていける。1億円もらっても結局は1銭もなくなるぞ。この土地は絶対手放してはいけない」
厚子さんは、その母の言葉を守って、いまも土地を手放してはいないのです。
そこに、風力発電と太陽光発電で、ログハウスをつくっています。
鎌田さんは、あさこさんは運動家ではないただのおばさんで、これこそ「生活者の考え」だと話していました。
「国民」ではなく、「生活者」です。
もちろん「消費者」などでもありません。

それを見ていて、まさにそこに「国家」と「生活者」の「戦争」を感じました。
「国民」「消費者」などという言葉の意味を、私たちはきちんと考えなければいけません。
その思考レベルから抜け出さないと、社会の底で行われている「戦争」は見えてこないでしょう。
戦争は、他国との関係ではなく、自国内部の関係に基本があると私は考えています。
自国内部の権力構造を強化するために、対外的な戦争は行われるにすぎないのです。
要するに、「敵は本能寺!」なのです。

「国民」という概念は、明治維新後につくられた概念であり、「消費者」という概念は資本主義経済とともにつくられた概念だろうと思います。
この2つの概念は、私には「戦争」と切り離せないような気がします。
近代国家は、政府に従順な国民を必要とします。
資本主義の成長には、労働力以上に「消費者」が必要です。
「国民」と「消費者」をどうやってつくっていくか。
その効果的な手段が、「戦争」という手段ではないかと思います。
「戦争」を主導する人たちは、決してみずからは戦場には行きません。
これが、現代の「戦争」の実体ではないかと、私は思っています。

いささか舌足らずの、粗雑で過激な内容になってしまいました。
しかし、どうしてみんな「戦争の構図」が見えてこないのだろうかと不思議でならないのです。
私だけが、考え違いしているのでしょうか。

最近、報徳会や無尽講のことを書いた「相互扶助の経済」という本を読みました。
明治時代に、報徳活動による生活者に軸足を置いた経済や国家づくりと政府に軸足を置いた経済や国家づくりの抗争が見えてきます。
地域の生活者たちの汗と知恵は、中央政府に吸い取られ、日露戦争に使われました。
それを拒否して頑張った経済人もいましたが、結局は次第にそうした活動は消えていってしまいました。
生活者の生活を支えていた、海と土地は消えていってしまったのです。

南相馬市で会った、漁師の方が、この海と山があれば豊かな暮らしができていたはずなのに、お金に負けてしまっていた、と嘆いていたのを思い出します。

外国との「熱い戦争」はありませんが、国内での「冷たい戦争」は、広がっています。
国家政府の安全が、私たち生活者の安全を守ってくるとは限りません。
政府の安全と生活者の安全は、まったくと言っていいほど、別のものです。
政府の安全のために、国民が被害を受けることこそに、私は不安を感じています。

■疑念9:国家と自治体の関係(2015年11月7日)
国内の「構造的暴力」という「対立」は、中央政府と地方政府との関係にも見られます。
これは、「国家観」にもつながる重要な問題です。
「国家」あるいは「政府」の目的、あるいは存在意義は何なのかということです。
安保法制騒動考の第1回で書きましたが、目的が違う仕組みを「同じ言葉」で語るのは極めて危険です。
たとえば、「国家を守る」ということが意味するものが、まったく正反対になることもあるからです。

最近目に余るのは、政府による地方自治の軽視です。
私は、江戸時代の日本は、地方自治の集積によって日本全体が構成されていたと考えています。
ベクトルが反転したのは明治維新後の近代国家体制になってからです。
近代国家の枠組みに絡めとられることに関しては、当時の生活者たちはかなり抗った形跡があります。
生活者の汗と知恵と蓄積してきた「生活のための資金」も、近代的な銀行制度によって、政府に吸い上げられ、日露戦争や国家政府の基盤づくりに投入されました。
日本が近代国家としての基盤を確立できたのも、国家単位の対外戦争に取り組めたのは、そうした資金と国民意識を持つようになった生活者がいればこそ、でした。
それは当然のことで、価値を生み出すのは、生活者たちなのですから。

これも昨日紹介した古市さんの本に紹介されていた話ですが、2005年実施の世界価値観調査によると、「もし戦争が起こったら、国のために戦うか」という設問に「はい」と答える日本人の割合は15.1%。調査対象国24か国中、最低の数値だったそうです。
ちなみにスウェーデンは80.1%、中国は75.5%、アメリカは63.2%。
これでは法律をつくっても、戦争はできません。
それで安倍政権は、教育基本法を変えたわけです。

話がずれてしまいましたが、国家は人々の生活とは程遠いところにあります。
しかし、国家を支えているのは、いつの時代も生活者たちなのです。
生活に近いのは地域社会です。
「もし自分が住んでいる地域社会に誰かが攻め込んで来たら、自分の生活を守るために戦うか」という設問であれば、回答状況は変わるのではないかと私は思います。
ちなみに私は。この質問であれば、躊躇なく「戦う」と答えます。
みなさんはいかがでしょうか。

沖縄の基地問題を考えてみましょう。
沖縄の人たちは、すでに「基地」によって、生活を侵略されています。
それに対して、みんな立ち上がって、辺野古反対、普天間反対を叫んでいます。
しかし、そんな声など全く無視して、憲法に違反してまで、国家政府は暴力的な行為を重ねています。
つまり、自分が住んでいる地域社会に攻め込んできているのは、他国ではなく、自国の中央政府なのです。
これをどう考えるのか。
悩ましい問題です。

自分の生活圏である地域社会を守ることと国家政府の安全保障政策は、対立することがあるのです。
対立した時に、どちらに主軸を置くか。
もし日本が憲法に謳っているように、国民に主権があるのであれば、いうまでもなく生活圏を重視して、考えるべきです。
国を守るのは手段であって目的ではないからです。
憲法学者の小林節さんは、「アメリカ独立戦争からいけば、国民が幸福に暮らすために国があって、その国を運営するための権力機関を国民がつくり、国民の幸福を増進する。すなわち、国が国民に自由と豊かさと平和を与え続けるならいいけれども、それを奪ったら、政府も組織も取り替えていいんですよ」と佐高信さんとの対談で語っています(「安倍「壊憲」を撃つ」平凡社新書)。

中央政府のために、生活者の、そしてその生活圏である地域社会の「自由と豊かさ」が脅かされていて、それを法的に訴えても、政府は聞く耳を持とうとはしない。
そんな政府の語る「安全保障」とか「平和」というのは、一体だれのためにあるのか。
いまの政府が、国民が幸福に暮らすためにあるとは、私にはどうしても思えないのです。
会社を倒産させないために、社員を解雇するのも本末転倒だと思いますが、国家の安全のために、一地方を犠牲にする国家は、どう考えても、おかしいでしょう。
沖縄で起こっているような問題が、自らが住んでいる地域に起こったら、と思うと、改めて国家の、あるいは政府の恐ろしさを感じます。
沖縄の基地問題は、決して他人事ではありません。
地域社会で生活している人たちの声を聞かない政府は、小林さんが言うように、取り替えなければいけないのです。
それができないとしても、そうした政府が考える「安全保障」は、少なくとも「生活者の安全」とはほど遠いものであることを認識しなければいけないと思っています。

■疑念10:なぜ人は戦場に行くのか(2015年11月7日)
疑念シリーズも最後になりました。
最後は、なぜ人は戦争に行くのだろうか、ということを考えてみたいと思います。
戦争を起こすのは、権力者かもしれませんが、戦争を実際に遂行するのは、私たち人間だからです。
最近の原発再稼働の報道で、機会にスイッチを入れる作業員を見ていて、この人がいなければ原発は再稼働しないのにな、といつも思うのです。
その作業員の人を非難しているのではありません。
その作業員の方だけではなく、たくさんの「人間」が実際に再稼働作業に取り組んでいるからこそ、原発は再稼働しているわけです。
政府の決定だけで、原発が動き出すわけではありません。
同じように、戦争も宣戦布告しただけでは始まりません。
誰かが戦場に行って、「殺し合い」を始めなければ実際の戦争は始まりません。

と、思いたいのですが、実際には「政府の決定」だけで物事が動くことが少なくない。
どうしてでしょうか。
戦争が始まると、なぜ、生命の危険を恐れながらも、人を殺しに戦場に行くのでしょうか。
「国を守るため」なのでしょうか。
「赤紙」(召集令状)1枚で、なぜ人は戦場に行ったのか。

最近、「安倍「壊憲」を撃つ」(新書 2015)という本を読んでいたら、憲法学者の小林節さんがこんな発言をしいていました。 

 フランスやアメリカの場合は、国家で一番偉いのは個々の国民だという思想が徴底している。
 だから、中央政府というのは雇われマダムだという意識が強い。
 日本は一番上に天子様がいたから上が偉い。どうしても上に向かってお辞儀してしまう。もうこれは民族性なんです。

私もこの意見に魅力を感じますが、「民族性」と言ってしまうと思考停止になってしまいます。
それに江戸時代に日本列島に住んでいた「民族」は、どうもそうではなかったのではないかと思えてならないのです。

400年近く前に、10代のラ・ポエシはこう書いています(「自発的隷従論」)。
 あなたがたが、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。
そして、彼はこう呼びかけます。
 もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。

戦争の根源は、もしかしたら自らのうちにあるのではないか。
ユネスコ憲章の宣言は次の言葉から始まります。
 戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
つまり、人の心の中には「戦争の芽」があると言っているのです。

ラ・ポエシはまたこうも書いています。
 みずからの自立を守るために戦う自由な軍とその自立を妨げようとする軍と、どちらが勝利を収めると推測できるだろうか。
答は明白のような気がします。
つまり、戦争の勝敗は、実は決まっているのです。

ただし、それは意思を持つ人間の場合です。
人が自らの意思をもたなくなってしまった時代の戦争は、どうなるのでしょうか。
そして、もしかしたらいま、日本はそういう状況になってきているのではないか。

私がいま最も危惧する戦争は、思考する意志を持ちつづける生き方を妨げるものとの戦いです。
戦場は、海外やどこか遠くにあるわけではありません。
私たちの生活の日常の中に、実はすでに「戦争」は芽吹いている。
「赤紙」で動くような生き方からは抜け出なければいけない。
毎日そう思いながら生きていますが、それはそう簡単なことではありません。


安保法制騒動考パート3:戦争と平和を考える(CWS Private からの抜粋)
(2015年11月15日〜12月19日)

■1:戦いの構図(2015年11月15日)
129人もの死者を出したパリのテロ事件は衝撃的でしたが、十分に予想できた事件ではないかと思います。
そしてこれからもまだ繰り返し起こる事件でしょう。
それもパリに限った話ではありません。
日本も例外ではなくなりつつあります。
軍事力による抑止論がいかに無意味なものであるか、これでもまだわかってもらえないと思うと、いささか気が重いですが、諦めずに繰り返したいと思います。
そこでまた「安保法制騒動考パート3」を書きたくなりました。

繰り返しになりますが、戦争の概念も構図も時代によって変わってきています。
昔は「権力者」と「権力者」の戦いでした。
一騎打ちや決闘がその典型でした。
その発展形が王様同士の戦いで、駆り出されたのは王様の軍隊と傭兵です。
そして、国家と国家の戦いになり、それも国民が戦争の当事者になってきました。
いわゆる総力戦ですが、どうしてそんなバカげたことになったのか不思議です。
国民国家とか民主主義とかいう論理が効果的に使われたのでしょう。

つい最近までは、戦争と言えば、国家対国家の話でした。
その時代のなかでは、国内的な秩序維持は警察の仕事、対外的な秩序問題は軍隊の仕事という合意が出来上がっていました。
軍隊と警察は、いずれも暴力を許された組織ですが、その役割は全く違います。
しかしそうした認識は、9.11事件で敗れました。
国家が主体ではないテロ事件が、国内治安問題から「戦争」になってしまったのです。
そこで、戦争の構図は「国家(システム)」と「人間(生活)」に変質しました。
これらに関しては、安保法制騒動考のパート1とパート2で書きました。

今回のパリのテロ事件は、それを明確に示しています。
軍事力や国家間の軍事同盟は、まったくと言っていいほど、抑止力は持たないどころか、誘発力になっているのです。
具体的に言えば、日米軍事同盟が強化されていけば、ISのテロの矛先は日本にも向かうでしょう。
その時に、どんなに従来型の軍事力を持っていても、まったくと言っていいほど役にたたないでしょう。

仮想敵国などという発想は、ばかげているとしか考えられません。
肝心の敵に対して、目を背けることでしかないからです。

戦いの構図と戦い方が、変わってきていることが重要です。
原発さえもが相手の武器になるのです。
安全保障の考え方を、パラダイムシフトしなければいけません。

パリの事件は、そのことを教えてくれているように思います。
何回こうしたことを体験しなければ、私たちの考えは変わるのでしょうか。
このシリーズをまた再開することにしました。

■2:生活者の声にはとても共感できます。(2015年11月17日)
今朝の朝日新聞の「声」を読んで、ちょっと寄り道をしたくなりました。
いずれも一昨日のパリでの「テロ事件」に関するものです。
書かれていることの一部を切り貼りして引用させてもらいます。

(22歳の大学生)
武力行使が世界の平和を本当にもたらすのだろうか。
武力行使以外に解決策を見いだせない世界の不条理さを感じるようになった。
憎しみの連鎖が断ち切れる日は、いつ訪れるのか。

(59歳の主婦)
人が人を信用するという人間社会の大切な根幹が、大きな打撃を受けたと感じる。
疑心暗鬼になり、移民やマイノリティーを排斥しまうとする動きにつながらなければいいが。

(62歳の会社員)
日本を含む世界の首脳はテロを批判し対策を強化するとの見解を出していますが、さらに空爆をするつもりでしょうか。
欧米諸国はまず、中東での植民地支配や、イラク戦争をはじめとする力による介入の過去を真剣に反省してほしいと思います。
そして平和的手段で問題の根本的解決を図るべきです。
そもそも、テロが非難される一方、空爆で人を殺しても非難されないのはどういう理屈でしょうか。同じ人殺しです。
今までのやり方で問題は解決しません。
テロに直面する国の国民は武力行使を優先する指導者に考え方を変えさせるか、別の考えができる指導者を選び直す必要があります。

こういう声を読むと、私の勝手な安保法制騒動考など、吹き飛んでしまいます。
生活者の声は、いつも健全で、深い英知と示唆を含んでいます。
昨夜、このシリーズの2回目を書き終わっているのですが、この3人の方々の声に比べたら、実に矮小な話なので、今日はぜひ多くのみなさんにこの声を聞いてほしくて、紹介させてもらいました。

■3:戦いの当事者と被害者(2015年11月20日)
戦いは、いつの時代も、弱い人が被害者になり、強い人が利益を享受する構図になっています。
それは、ある意味で仕方がないことですが、問題は、被害者が戦争の当事者であるとは限らないことです。
戦争の当事者は、勝った側が利益を享受し、負けた側が損失を受けるわけですが、しかし、必ずしもそうとも言えません。
例えば第二次世界大戦後の日本やドイツのように、運の悪い人が処刑されたとしても、多くの戦争を起こした人たちは、戦後の国家秩序維持のために結局は権力者として残ることが多いのです。
その典型が日本の岸信介ですが、そこまで目立たなくとも、敗戦国でさえ、官僚の多くは官僚に居座るのです。
ナチスドイツの場合も例外ではありません。
なぜそうなるかといえば、システムを維持するためです。
つまりは、システムが結局は勝つということです。
これは、黒沢明の「七人の侍」でのメッセージとは真反対です。
しかし、システムにとっての不可欠の要素である農民が残るのは、ある意味では当然なのです。
ここに、問題のなやましさを感じます。

フセインのイラクは、そうではありませんでしたから、ISのようなものが生まれてしまったわけです。
国家とは別のシステムが生まれてしまったわけですが、このグループがステートを名乗っているのは、実に象徴的です。
いずれにしろ、アルカイダやISと欧米政府は、戦争の当事者能力を持っているという点で同じ仲間です。
しかし、最近の戦争は、戦争を始める当事者ではない人々を、戦争に巻き込んでいきます。戦争の被害者は、そこに発生します。
それは、戦争の敗者ではなく、戦争の被害者としか言いようがありません。
「戦争の敗者」と「戦争の被害者」は、別なのです。
とすれば、「戦争」は、被害者の視点で捉え直していく必要があります。
そうすると、いまとはかなり違う「戦争・平和論」が構想されるような気がします。
「戦いに勝つ戦争論」ではなく、「被害者の出ない平和論」です。

こうしたことを象徴的に告発したのが、ナビラ・レフマンさんです。
パキスタン北西部に住んでいる11歳の少女です。
彼女は家族と一緒に、畑で野菜を摘んでいた時に、アメリカ軍のドローン無人機の攻撃で祖母は死亡。爆発でえぐれた地面に肉片が散ったといいます。
彼女自身も吹き飛ばされ、右腕から流血。家族8人も負傷したそうです。
ちょうど、その2週間前、同じパキスタンの少女でパキスタン・タリバーンに銃撃されたマララ・ユスフザイさんは世界の注目を浴びました。
アメリカではオバマ大統領が面会し、ノーベル賞まで受けました。
ところが、同じようにアメリカに悲劇を訴えに行ったナビラさんを、アメリカ政府はほとんど無視したのです。

私たちは、ともすれば、欧米政府とISが戦っているように思ってしまいます。
しかし、ナビラさんにとっては、欧米政府とISも同じなのです。
これをどう考えればいいのでしょうか。

戦争の被害者は当事者とは限りません。
最近の戦争においては、むしろ戦争の当事者ではない人たちが被害者になることが多い。
だとしたら、戦争の捉え方を変える必要があるのではないか。
私はそう思っています。

■4:戦場をどうとらえるか(2015年11月26日)
「テロ」が各地で起こってきています。
そこで、今回は「戦場」に関して考えてみたいと思います。
問題をクリアにするために、いささか極端に表現します。

イラク派兵の時に「戦闘地域」かどうかが話題になりました。
「非戦闘地域」などという不思議な言葉までよく使われました。
今回の集団的自衛権議論でも、「戦闘地域」は話題になりました。

国家対国家の戦争にとって、「地域」は重要な目的要素でした。
国土の取り合いが戦争になることも少なくありませんでした。
戦いも多くの場合、問題になっている「地域」で行われるのがほとんどでした。
しかし、最近の国家総力戦となると事態は変わります。
今なお、日本の国会論戦では、戦場そのものの「戦闘地域」と、補給したり休養したりする「後方地域」の区別が論じられていますが、現代の戦争では、それらを区別することなどできません。
ましてや、テロとの戦いは、戦闘地域などという概念をも無意味なものにしています。
そして、戦争の対立構造を、システムの要素としての人間と生活者としての人間と捉えると、「国家」の領域区分は全く無意味になります。
戦いの構図を平面的に捉えているととんでもないところが突如「戦場」になることもあるのです。

もっとわかりやすくいえば、戦場は自国であることもあるということです。
そして、もし自国に基地があれば、そこがいつ「敵の基地」になるかもしれないということです。
一番恐ろしいのは、原爆効果を持つ原発です。
自分たちで原爆を開発する必要はありません。
原発に飛行機を激突させればいいだけの話です。

たとえば、ビン・ラディンの武力はアメリカが提供したものでした。
武力は国家に属しているのではありません。
武力が反転するのです。
つまり現代の戦争はクーデターや犯罪がグローバル化したというべきでしょう。
かつての、国家対国家の戦争とはまったくと言っていいほど異質なものです。
にもかかわらず、相変わらず戦争の概念で発想しているところに問題を感じます。
犯罪は、限定された「戦場」で行われるようなものではないのです。
そして、その「戦場」には多くの生活者が生活しています。
そこを攻撃することの意味を考えなければいけません。
ナビラ・レフマンさんの言葉をきちんと受け止めなければいけません。

この時代に、戦争国家であるアメリカと同盟を結ぶということは、生活者としての人間への宣戦布告にもなりかねません。
核兵器を含む軍事力の増強は、何の役にも立たないだろうと私は思います。
戦場概念がなくなった時代には、軍事力よりも警察力のほうが必要だろうと私は思います。

そう考えていくと、日本の自衛隊は、新しい軍隊の先取りだったのではないかと思えてきます。
憲法9条から生まれた、戦争をしない軍隊ですから。

■5:戦争と犯罪(2015年12月3日)
この1週間ばたばたしていて書けませんでしたが、世界はますます「戦争状況」になってきています。
昨日もアメリカで銃撃事件が起こりましたが、武器を持つことで人の意識は変わっていくのでしょう。

前回、日本の自衛隊は「戦争をしない軍隊」と書きました。
かりに海外に派兵された自衛隊員が、現地で戦闘に巻き込まれ、相手を殺害した場合、それは「警察官職務執行法」の下で裁かれることになるのでしょうか。
つまり、正当防衛、緊急避難か、あるいは殺人かが問われることになるでしょう。
軍隊である場合は全く違います。
軍隊は、戦時において相手を殺傷し、ものを破壊するための集団です。
そうした行為は、犯罪にはなりません。
つまり、殺傷や破壊を正当化するのが、軍隊という組織、軍事力という力です。

昨日のアメリカの銃撃戦は「戦争」とは捉えられないでしょう。
ではパリのテロ事件はどうか。
ISのパルミラ遺跡の破壊はどうか。
どこまでが正当化され、どこまでが犯罪なのか。
実に悩ましい問題です。

現在のような状況のなかでは、「犯罪」と「戦争」を峻別することは難しいでしょう。
戦争はある意味でルールと論理に従って展開されますが、犯罪はそうしたものから逸脱するところで展開されます。
そこがつながってきてしまっているのが、グローバリゼーションの時代です。
国家の統治力が相対化してきてしまったということです。

抑止力に関して、前の2つのシリーズで何回か書きましたが、抑止効果を支えるのは論理です。
たしかに国家間の戦争には軍事力が抑止効果をもった時代はあったかもしれません。
たとえば、冷戦時代の初期はそうだったかもしれません。
しかし、グローバリゼーションのなかで、それこそ「格差」や「貧困」がグローバルに広がってきている状況においては、それこそが犯罪としてのテロを生み出すことは否定できません。
戦争が犯罪性を高めてきている現在、これまでの抑止力の考え方では対応できないでしょう。

犯罪に対して効果があるのは「危機管理」発想です。
危機管理においては、たぶん軍隊よりも警察の方が効果的に作動するでしょう。
そもそも組織の目的が違うからです。

グローバリゼーションによって、国家の意味が変化してきているように、国家間の争いであった戦争の意味も変質してきています。
犯罪と戦争が、まさに「シームレス」につながってしまったのです。

いま国家はISにてこずっていますが、おそらく「問題の立て方」あるいは「構造の捉え方」が間違っているためでしょう。
パルミラ遺跡を破壊したISは、単なる犯罪集団でしかありません。
それへの対処で、国家が争うなどということはあってはならないはずなのですが。

■る6:思いやりの心は、必ず連鎖する(2015年12月8日)
なかなか書く時間が取れないのですが、今日もまた横道です。
横道ですが、とても大切なことを書かせてもらいます。

昨日、地元の我孫子市に、広島から「サダコ鶴」が届きました。
サダコ鶴はご存知の方も少なくないと思いますが、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなった佐々木禎子さんが、死の直前まで追っていた折り鶴です。
禎子さんの実兄の佐々木雅弘さんとその息子さんの祐滋さんは、サダコ鶴を通して、世界に平和の思いを伝えていこうと活動しています。
祐滋さんはシンガーソングライターで、ご自身が作曲した「INORI」の弾き語りを世界で行っています。
サダコ鶴の寄贈式に、佐々木さん家族が来ることを知って、祐滋さんに地元のミュージシャンとのコラボコンサートをお願いしました。
フェイスブックやホームページで簡単に紹介しましたが、素晴らしいコンサートになりました。
雅弘さんは地元の中学生たちと一緒に、朗読劇「禎子物語」を演じてくださいました。

佐々木さん親子の思いは実に深いのです。
最近は新聞やテレビでも紹介されているので、雅弘さんのことをご存知の方も多いと思いますが、雅弘さんの2つの言葉を紹介させてもらうことにします。

ひとつは、雅弘さんがウィーンの中央図書館ホールで「禎子物語」を講演した時に、地元の中学生の「原爆はどこの国が落としたのですか」という質問への答えです。

あのときから長い時間が経過しました。
その間に神様は、お互いの心を洗い流してくださいました。
だから原爆を落とした国の名前は忘れました。

もうひとつは、ニューヨークの高校での生徒とのやりとりです。
ちょっと長いですが、源和子さんが書いた「奇跡はつばさに乗って」(講談社)から引用させてもらいます。

雅弘さんが朗読した後、白人の女子生徒が、「私たちの国アメリカを恨んでいない、と佐々木さんはおっしゃいましたが、本当なんですか。私には信じられない。アメリカが落とした原爆で佐々木さんは被爆し、あなたの妹さんが亡くなったんですよ。私だったら、愛する家族をそんなやり方で奪う国は絶対に赦せない」と発言したのです。
この生徒は、当時のトルーマン政権に対して、怒りをあらわにしていたそうです。
雅弘さんは、その女子生徒にほほえみながら、静かに語りかけたそうです。

「被爆者の私がアメリカに『恨み』を持たなかったのは、妹、サダコのおかげです。白血病で苦しんでいても、まわりをいつも思いやっていた妹の姿からそれを教わりました。原爆投下は悲劇です。日本にとっても、あなた方の国、アメリカにとっても。あなたのお気持ちはよくわかります。でも、この世の中に自分と違う意見を持つ人たちや国のリーダーがいるのは当然で、しかたのないことです」。
「でも大切なのは、その『違い』を恨むのではなく、ひとつでもいいから、おたがいの『共通点』を見つけることじゃないでしょうか。そして、その共通点を見つけられたら、そこから理解しあえるように努めてみることではないでしょうか。相手だって自分と同じ人の子。必ず共通点はあるはずです」。
「思いやりは、みなさんのまわりから始められます。あなたはその身近な人たちにとって『優しい存在』ですか。まずはあなたが身近な人たちにとって、思いやりのある存在になってください。そうすれば、争いはこの世から消えてなくなるでしょう」。
小さな思いやりの心は、必ず連鎖する。それは大きなうねりとなって、ときには想像を絶するパワーを引き起こす。

最近のISの問題を考える出発点も、ここにあるような気がします。
いまの世界は、どこかで間違っているように思います。

ちなみに、テレビでも大きく報道されていましたが、先月、雅弘さん親子はトルーマン元大統領に会ってきました。
サダコ鶴は、ハワイのパール・ハーバーにも贈られています。
一昨日、祐滋さんのご両親にはじめてお目にかかりました。
握手してきたおふたりの手のあたたかさから、その思いの深さが伝わってきました。

戦争をなくすのは、政治家でも軍人でもなく、私たち生活者なのです。
改めてそう思いました。

■7:自らの居場所が見つからない人たち(2015年12月10日)
一時、難民を受け入れる方向で動いていた世界が、一転して、難民拒否の動きに転じました。
次期米大統領選に共和党から立候補を目指しているドナルド・トランプ氏の「イスラム教徒の入国禁止」発言。あるいは、フランスの地方選において、移民批判を重ねる国民戦線の大躍進など、時代の流れは一転して、移民拒否です。
どうしてこうなってしまっているのでしょうか。

ドラッカーは、第二次世界大戦のさなかに書いた「産業人の未来」の中でこう書いています。

大衆にとって社会は、そこに自らの位置と役割がなければ、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない。
さらに、そこにおける権力に正統性がなければ、専制、専横以外の何ものでもない。
そのとき彼らは不合理の魔力に従う。
信条をもたない大衆は、既存の社会秩序以外のものであれば何でも飲み込む。
いい換えるならば、彼ら大衆は、権力のための権力をねらう専制者や煽動家の餌食となる。
秩序をもたらしうるのは、彼らを奴隷としすべてを否定したときだけである。
機能する社会に組み込むことができなければ、彼らに秩序をもたらす方途はない。

実は先日、湯島で開催した「ドラッカーとナチスと市民性」というテーマのサロンの後の、メーリングリストでのやり取りで、私が思い出して引用した文章です。
そこでも書いたのですが、これはまさに現代において示唆に富むメッセージです。
ISがなぜ生まれたか、
そしてどうしたらIS問題を解決できるか、
そのすべてが、この文章で予言されているように思います。
そしてトランプ発言やマリーヌ・ルペン国民戦線党首の発言は、自らの位置と役割を見つけ出せない人たちをたくさん生み出していくことにつながるでしょう。

IS問題は対処療法的に解決しようとすればするほど、事態は深く広がりかねません。
そもそも「イスラム問題」とか「戦争」という切り口で捉えることに間違いがあるでしょう。
「戦争」ではなく「犯罪」ですから、軍隊により空爆などでは対処できるはずがないのです。

戦争は合法的なものでしたが、そういう意味での戦争は、もう起こることはないと思います。
ですから戦争を前提にした軍隊は、これからおそらくなくなっていくでしょう。
しかしそれでは困る人たちがいる。
だからこそテロ犯罪を戦争と意図的に混同させて、抑止力だとか軍事的集団自衛権とかを問題にしようとしているのではないかと思います。

合法的な戦争はもはやすでに「割に合わない戦略」になっているのです。
その代わりに、「見えない戦争」が広がりつつあります。
そして、その見えない戦争こそが、テロという犯罪を引き起こしているのではないかと思います。
次回は「見えない戦争」について考えてみようと思います。

■8:見えない戦争(2015年12月10日)
尖閣諸島をめぐって、中国が日本の領域を侵犯してくるのではないかという不安が、軍事力による抑止力を支持する人たちにはあるようです。
しかし、そういう「目に見える戦争」は本当に起こるのでしょうか。
もちろん「起こらない」ということはできません。
しかし、起こるとしたら、それは前にも書いたように「論理的」にではなく、「事故的」「偶発的」「判断ミス的」に起こるのではないかと思います。
そこでは「軍事力による抑止力」は、ほとんど意味をもたないでしょう。

防衛庁で防衛研究所所長を務め、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)も歴任した柳澤協二さんは、岩波ブックレットの「民主主義をあきらめない」の中でこう言っています。

グローバリゼーションの時代に対応するキーワードは、抑止力ではなくて、むしろ「戦争って駄目だよね」という以上に、「戦争したら損だよね」という認識なのではないかと思うんです。

軍事力による「戦争」は、政治手段としての役割は終えてしまったのです。
柳澤さんは、「少なくとも、このグローバリゼーションの時代において、「抑止」はもうキーワードではありません」と明言しています。

しかし、依然として、「軍事力による戦争の効用」にしがみつく政治家は少なくありません。
それは、それに共感する国民がいるからだろうと思います。
ドイツ国民はナチスを育てましたが、いまの日本国民は何を育てようとしているのでしょうか。
とても不安があります。

ところで、いまの日本は「戦争」とは無縁なのか。
必ずしもそうとは言えないように思います。
しかし、その「戦争」は「見えない戦争」、あるいはガルトゥングが言う「構造的暴力による戦争」です。

日本でも無差別殺人事件やテロまがいの事件はすでに起こっています。
つまり「テロ犯罪が起こりうる状況」にあると言っていいでしょう。
そうした中ではISの呼びかけに共振した動きが出ないとは限りません。
防備体制が弱い、いわゆる「ソフトターゲット」での「テロ」が発生してもおかしくない状況に、日本はあるということです。
それがどこかで「戦争」につながっていくことがないとは言えません。
緊急事態宣言が行われ、一気に戦争に向かいだすこともないとは言えません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/10-7d54.html

国家の安全保障にとっても、こうした動きを「抑止」することこそ、いま必要なことではないかと思います。
そのために何が必要かは明確です。
いまの政治はそれと正反対の方向を向いているように思えてなりません。

戦争と犯罪とは別のものですが、グローバル化の中ではそれが奇妙につながり始めています。
そこに問題の悩ましさと本質があります。
そして、戦争そのものがどんどんと見えなくなってきている。
自由貿易体制の推進も、もしかしたら「もう一つの戦争」かもしれません。
私たちの社会の秩序が壊れるとしたら、それはどこからなのでしょうか。

アイルランド人のレネ・ダイグナンさんは自殺者の多い日本の社会に衝撃を受けて、「自殺者1万人を救う戦い」という映画を制作しました。
私たちが、危機を感ずるべきは「仮想敵国」などではなく、いまの社会のあり方、言い換えれば私たち一人ひとりの生き方ではないのか。
レネさんは、そう語っているように思います。

■9:なぜ人は戦うのか(2015年12月19日)
先週、湯島でお話をしてくださった東アジア共同体研究所の緒方さんから、いま、沖縄市で「戦後70年コザ暴動プロジェクト」が開催されていることを教えてもらいました。
http://kozaweb.jp/event/detail.html?&sp=true&id=2687
すっかりと忘れていましたが、そういえば、45年前の明日(1970年12月20日)は、沖縄のゴザでは米兵の起こした交通事故が発端となり、沖縄の住民の怒りが爆発した『コザ暴動』が起こった日です。
米軍関係の車両が、住民たちの手によって燃やされたのです。
緒方さんが送ってくださった「コザ「蜂起」45年」を読みながら、そこにはまだ、住民の怒りを爆発できる場所があったのだと思いました。
そして「戦う意味」もあったのです。
しかし、いまはどうか。

このシリーズは、安保法制騒動考を契機に書きだした第3部なのですが、次第に書けなくなってきています。
その理由は、戦争とはいったい何なのかが、どうも私自身よくわからなくなってきたからです。
たとえば、ナチスヒトラーはドイツ国民の支えによって生まれたという話と同じように、日本の戦前の軍国主義もまた、普通の日本人の支えによって戦争へと向かったはずです。
そして、その「恩恵」で、いまの私たちの生活がある。
そういう風に考えていくと、靖国神社に祀られたA級戦犯は果たして特別の存在なのだろうか、などという疑問まで出てきてしまい、思考が完全にストップしてしまってきたのです。
私がこれまで考えていたことが、根底から壊れだしているような気さえしています。
そのせいか、たぶん今回のシリーズは、内容が支離滅裂になっているでしょう。
私自身どうもすっきりしないのです。
少し前までは、私自身、何かわかった気がしていて、未来の展望さえも見えていたような気がしていましたが、いまは頭が混乱しています。
いったい人は何のために戦うのか。
もはや、これまでの意味での「戦う」ことは不要になってきているのではないか。
ミシェル・フーコーは、フランス革命時の断頭台での処刑儀式が不要になってきたことを説明してくれていますが、その延長上に、「殺戮しあう戦争」儀式もあるのではないか。
そんな気がしてきました。
それに、戦争がもし「利益争い」だとしたら、コストがかかりすぎる「殺し合い」は割が合うとは思えませんし、効果的でもありません。
「支配関係の維持」よりも、「権力の構造化」のほうが、利益をむさぼるには好都合のはずです。

そして、すでにそれに代わるものは生まれだしています。
たとえば、TPPは新しい形の戦争と言っていいでしょう。
ほかにもいろいろと考えられます。
いずれにしろ、軍事力による戦争は、冷戦時代を契機に、戦争の中心ではなくなりました。
そして、最近の新しい戦争は、始める前にすでに勝敗は決しているのが特徴です。
そもそも当事者はそれが戦争だとは思っていませんので、勝敗という意識さえ生まれません。
言い換えれば、孫子の兵法に言う「戦わない戦争」なのです。
権力による支配構造をつくることで、暴力に依存するよりもコストはかからないでしょう。
この第3部は、そういう結論に到達するはずでした。

しかし、まったく別の到達点も見えてきます。
戦争は殺戮しあうことにこそ意味があるという、おぞましい考えです。
いわゆるジェノサイド、あるいは優生思想につながる考えです。
いささか極端に聞こえるかもしれませんが、もはや「人間」など不要な時代になってきてしまっているのです。

シリアで展開されている「ISの戦争」には、それを感じます。
もちろん当事者の意図は、そこにはないでしょう。
しかし今は敵味方に関係ない「殺し合い」が展開されています。
それを進めているには、自らは「殺し合い」の外部にいる、無人機による空爆を指揮している人たちです。
そこでの「戦いの構図」がとても気になります。

このシリーズになんとかまとまりをつけようと、この数日毎日考えているのですが、書き出すとおかしな方向にいってしまい、途中でさじを投げだしていました。
今日は、中途半端なままですが、アップすることにしますが、つづけて、もうひとつだけ短いものを書いて、このシリーズから自らを解放したいと思います。
このシリーズを始めてしまったために、時評編が書けなくなってしまっています。
身のほどを知らねばいけません。

■10:手におえないテーマでした(2015年11月19日)
このシリーズは論考がまとまらないまま、終わることにします。
支離滅裂な空虚なものになってきてしまいましたから。
最後に1枚の写真で終わることにいます。

この写真は、1970年代の後半に私が撮影した写真です。
タイへの出張の帰路だったと思いますが、飛行機から見えたインドシナ半島、つまりベトナム国土の写真です。
もう40年ほど前のことなので、記憶が間違っているかもしれませんが、機内のアナウンスで、インドシナ半島が眼下に見えることを知り、目をやったら、そこに広大な褐色の国土が広がっていることに衝撃を受けたのです。
いわゆる「枯葉作戦」の後です。
枯葉作戦とは、ベトナム戦争中に行われたアメリカ軍による枯葉剤の空中散布です。
森林部や農村部に散布されたために、植物が絶滅し、国土が褐色の不毛の地となってしまったわけです。
写真があまり鮮明ではありませんが、茶色の部分が枯葉剤を空中散布されたため植物が枯れ果てた大地ではないかと思います。

ベトナム戦争から人類は大きなものを学んだだろうと思いました。
しかし、どうもそうではありませんでした。
戦争はその後もどんどん進化しています。
軍事力による戦争は、もしかしたら氷山の一角なのかもしれません。
目に見えるところでの派手な戦闘の影で、もっと邪悪な、生命と歴史を破壊する戦いが広がっている。
この写真を見ていると、そんなことを思い出します。

最近出版された塩野七生さんの「ギリシア人の物語T」は、古代ギリシア人が戦争ばかりしていたということから書き出されています。
だから、「もう一つの戦いの場」であるオリンピックを始めた、と。
そのギリシアはまた、痩せた土地の褐色の大地だったために、海外へと「侵略」を重ねていくわけです。
そしてそこに文化と文明を創りだす歴史が広がりだしました。

その見事な成果だった、パルミラ遺跡もISによって爆破されてしまいました。
歴史は方向を転じたのでしょうか。
青かった地球は、褐色になっていくのでしょうか。
唯一の対抗策は、沖縄の人たちのように、非暴力での抵抗かもしれません。
沖縄の人たちは、ゴザ暴動から多くのことを学んでいるのでしょう。
私も改めて沖縄のことを学び直そうと思っています。
ギリシアから学ぶことは、もうないような気がしだしています。

最後まで支離滅裂なシリーズになってしまいました。
しかしこの間、かなりさまざまなことを考えました。
そして、戦争とか平和とかに関しては、もうあまり考えたくなくなってきました。
戦争とか平和とかいう「言葉」で語ること自体に、すでに罠があるような気がしてきたからです。
まずは他者との関係を楽しいものにしていこうと思います。
よかったら湯島に遊びにお越しください。

■戦争と平和を考える蛇足:恐ろしい未来への不安(2015年11月21日)
蛇足を追加します。

イラクヘの自衛隊派遣では日本の自衛隊員は一人も殺されることなく、またひとりも殺すことなく、任務を終えたといわれています。
たぶんそれは事実でしょう。

しかし、その後の報道によれば、イラクに派遣された自衛隊員延べ1万人のうち、30人前後が帰国後、自殺していると報道されています。
アメリカにおいても、ベトナム戦争での精神的後遺症の多さは話題にされ、それがアメリカ社会を変質させたとも考えられます。

こうしたことはもっとしっかりと認識されるべきでしょう。
人は戦場で肉体的に殺傷されるだけではないのです。
もしかしたら、昨今の日本社会は、ある意味での「戦場状況」なのかもしれません。

第二次世界大戦後、戦場で戦った元兵士たちは、帰還後多くを語らずに、最近になってようやく重い口を開きだした人もいます。

戦争と平和の問題は、一筋縄ではいきません。
先日放映された「新・映像の世紀」はヒトラーのナチスドイツが中心でした。
戦後解放された強制収容所の実情をドイツ人は見学させられました。
事実を突きつけられたドイツ人は「知らなかった」と言いました。
それに対して解放された人たちは、怒りを込めて叫んだそうです。
「あなたたちは知っていた」

私の未来を見ているような気がしました。
見学者になるか、解放された被収容者になるか。
できればそのいずれにもなりたくはありません。
しかし、どうもそれが許されないところまで来ているのかもしれません。