雪印事件から見えてくる組織変革の方向性

 

「リスクマネジメント」2002年4月号 掲載

 

○雪印事件は氷山の一角

雪印グループによる一連の不祥事とその後の事態の展開は、現在の企業組織が内包しているさまざまな問題点を顕在化させるとともに、情報社会における企業のあり方に関して実に多くのことを示唆している。

雪印乳業の食中毒事件と雪印食品の牛肉詐称事件は、事件の発端における「積極的意図」の有無という点で、性格を異にするという見方もあるが、事の本質は全く変わらない。事件発覚後の対応にいたっては、まさに瓜二つと言っていい。いずれも雪印グループにおける企業文化が顕在化しただけの話である。そういう意味では「事件」ではなく、「現象」というべきであろう。

しかも、問題は決して、雪印グループ特有のことではない。おそらくほとんどの企業にとって、今回の事件は極めて身近な話なのではないだろうか。同じような事件の芽は、多かれ少なかれ各社に内在している。消費者がうすうす感じ出したように、これは日本の企業に広がっている現象の、氷山の一角でしかないのかもしれない。経営者は、こうした事件が自分の会社でいつ起こってもおかしくないと思うべきである。だが、そう実感して、行動を起こした経営者は果たしてどのくらいいただろうか。

経営者だけではない。雪印に対する批判の視線を自社や自分の仕事に向けた企業人や行政職員がどのくらいいたか。ほとんどの組織人にとって、雪印事件は対岸の火事ではないはずだ。明日はわが身かもしれない。そんなことはない、と自信をもって言い切れる組織人は少ないだろう。もって他山の石と目すべきである。だが、残念ながら、みんな自分のことになると判断や行動は鈍ってくる。

 

     個人の判断を思考停止させる組織の常識

 主体性と生活者感覚をしっかり持っているがゆえに、これまで4回転職し、今、5つ目の会社で仕事をしている友人がいる。つい最近も社長と意見が合わず、4番目の会社をやめてしまったところなのだが、その彼ですら、雪印食品の事件について、「もし自分が同じ立場に置かれたら(偽装作業を命じられたら)、同じことをするかもしれない」と言う。確かにいまの企業にはそうした状況がある。問題は、「行為」ではなく、その「状況」なのかもしれない。そうだとしたら、対策は全く変わってくる。いくら倫理規程を作っても、倫理研修を充実しても事態は変わりにくい。状況を変えない限り、雪印がそうであるように、事件は繰り返し発生する。

 雪印食品の場合は、詐称事件と言われるように犯罪である。しかし、関係者たちが犯罪と思っていたかどうかは疑わしい。そうでなければ、これほどの広がりはなかっただろう。「いい仕事」をしたいという熱心さから、どこかで判断基準が狂いだし、組織全体の文化や常識が個々人の判断や思考を停止させていったに違いない。問題はそこにある。

組織の常識と社会の常識とは違うとよくいわれるが、仮に常識の違いに気づいても、組織のなかで自分の思いを貫き通すことは難しい。社会のありようが個人の行動を大きく規定しているように、組織の常識は組織人の行動を左右する。常識が「気持ちよく生きていくための知恵」であるとすれば、それに従うことは自然の流れである。ましてや昨今のように、厳しい経済状況にあっては、大義や社会常識よりも、意識的に自己防衛的私利が優先されがちで、社会から逸脱した特殊な常識が広がっていく可能性は大きい。

 しかし、そうした発想の起点にある「小さな私利」が、実は「大きな損失」を社会のみならず、会社にも自分にも与えることを今回の事件は明白に示している。しかも「即効的」かつ「破壊的」に、である。いまや、生きやすさのための組織の常識が生きにくさの原因に変わりつつある。ITによって組織の壁が崩され、社会とつながったことが大きな理由と言っていい。組織の状況を変えない限り、同じような事件はますます増えていくだろう。

 

○組織の原点に返っての開かれた組織づくり

 では、変えるべき状況は何か。本来、組織は個人と社会をつなぐ装置である。一人で出来ないことを効果的かつ効率的に実現するためにつくられた仕組みといっていい。雪印グループは、まさにそうした思いをもった創業者たちがつくった会社だった。「健土・健民」を理念に、酪農家の零細な資産を集めて創設された組織が雪印の起点である。その思いの共有が、雪印を発展させ、そこに集った人たちを元気にさせてきた。組織を元気にさせるのは、いつの時代もそこに集る個々人の元気である。もし組織の論理なるものがあるとすれば、そこに関わる人たちの思いに深く繋がっていなければならない。

 だが、雪印は次第に個人から離れていく。それは同時に、仕事の現場からも、生きた社会からも離れていくことだった。組織の論理が肥大化し、いつしか特殊な常識が生まれ、個人の意識もそれに合わせられていく。個人のための会社から、会社のための個人への、主客転倒が起こったのである。

これは雪印だけの話ではなく、おそらく例外なくすべての企業が歩む道である。そして、そうした「成功」の中で、今回の現象(事件)の芽が大きくなっていく。

組織が個人より優位になると何が起こるか。組織そのものが何かを考えたり、責任をとったりするわけではない。外部と付き合うのも特定の個人であって、組織ではない。すべては人間が行なうことである。にもかかわらず、組織が主語や目的語で語られだしていく。「組織のためには仕方がない」という奇妙な言い訳がまかり通りだす。その場合の組織とはいったい何なのかは誰も真剣に考えない。言うまでもなく、本当は発言者自身の私利のためなのだが、なんとなく「みんなのため」と勘違いしてしまう。

つまり、だれも何も考えないようになっていく。責任の所在も曖昧になり、外部との生きた付き合いも消えていく。そして個人からも社会からも閉じられていくのである。おそらくこれが、今の日本企業の姿である。この状況を変えなければならない。

実体のない組織の論理(常識)に呪縛された閉鎖的な企業の構造を内外に開いていくことで、組織と社会の常識の同期化をはかっていくことが、今回のような事件を繰り返させない最善の処方ではないだろうか。その鍵は、組織と個人の関係にある。

 

○個人起点への発想の転換

 社会の常識も組織の常識も、支えているのは同じ人間である。生活者としての従業員の常識が、社会の常識をつくっている。それなのにどうして両者は食い違ってくるのだろうか。雪印食品の事件に対しては社外の人ならばみんな非難の声をあげるだろう。だが、あれほど多くの従業員が関わりながら阻止できなかった。雪印の従業員が特殊だったはずはない。社会の常識を持った従業員はたくさんいたはずだ。どの会社にも、実は社会の常識は充満している。それが抑圧されてしまっている。その常識を復権させられれば、おそらく状況は変化する。特別な倫理研修や監視機構をつくる必要などさらさらない。

 大切なことは、会社の中でも従業員一人ひとりが生活感覚をしっかり持って、良識にしたがって行動する状況をつくることである。それができれば会社の内部に生き生きした社会が実現し、外部との付き合い方も生き生きしてくるはずだ。

 顧客満足経営のモデルとなった米国のノードストローム社の就業規則はひとつしかない。「どんな状況においても自分自身の良識にしたがって判断すること」。それ以外のルールはない。個人の良識を通して、同社は社会と生き生きとつながっている。管理職や経営者からの指示や方針も、従業員たちの主体的な判断にさらされることになる。会社の常識などという実体のない幻想が個人に行動を強要することはないだろう。そして従業員は生き生きと行動することで、自らの良識を磨き上げていくことができる。経営者とて例外ではない。今の日本の多くの企業とは全く違う。

 組織から発想する経営観はそろそろ見直されるべき時期にきている。いくら立派な組織や制度をつくっても、それを生かしていくのは従業員一人ひとりである。会社の枠組みに個人を合わせる構造のなかで、主役の意識や常識を抑えるような組織や制度には限界がある。発想のベクトルを逆転させて、個人から発想し、個人(社会)の常識に会社を合わせていくことが必要になってきている。個人のための会社への回帰である。

 個人を基軸にして会社の組織や制度を再構築していくことは、情報の共有化によって可能になる。それは社会に対する透明性にもつながっていく。経営のさまざまな実態が顕在化することで、企業不祥事や企業犯罪への芽は必然的に摘まれることになる。

それだけではない。情報の共有化は、個人の生き生きした常識や主体的意識を刺激し、相乗させていくことで、新しい事業戦略や事業創造を生み、会社そのものを元気にしていく。それがまた、不祥事や不正事の発生を予防することになる。元気で透明な会社には不正ははびこらない。

 社会のために身を正すのではない。身を正すことが一番のマーケティングであり、コストダウンであることを知らなければならない。その認識がない限り、いくら倫理倫理と騒いでも実効はあがらないだろう。

 

○不祥事を防ぐためのリーダーの役割

企業不祥事をなくすためには、経営の舵取りを個人基軸へと変えていかねばならない。言うまでもないことだが、個人基軸とは個人優遇ということではない。個人のコミットメントと責任を明確にすることだ。最近話題のオープンブック・マネジメントやエンパワーメント、ワークシェアリングなども、そうした文脈で捉えるべきだろう。いずれも個人を基軸にして、組織を生き生きさせるための処方箋である。これまでの経営の文脈で考えてはならない。

経営の舵取りを切り替えていくのは経営者や管理者の役割だが、組織や制度で経営が変わるわけではない。それらが生き生きして実効をあげていくためには、リーダー自身の行動が極めて重要である。

雪印乳業には経営の根本思想としての5か条が存在していた。第一に掲げられていたのが「正直であること」、二番目が「約束ごとは必ず守ること」だった。これが実行されていたら、今回のような事件は起こらなかっただろう。多くの会社が経営理念や行動指針を決め、その社内浸透に努力しているが、企業文化や従業員の行動は、そんなものでは決まらない。それを決めるのは経営者や管理者の行動である。組織が開かれて、個人起点の経営が完全に実現されれば別だろうが、そこに行き着くまではリーダーの行動と生きざまが従業員の意識や行動を決めていく。雪印各社のトップは無念だったと推察するが、厳しい言い方をすれば、現場での不祥事はトップの生きざまを写しているだけの話である。

 ともすれば閉塞的になり組織防衛に向かいがちな組織の中に、生き生きした社会を呼び込み、広い社会とのつながりを豊かにしていくことも、これからの経営者や管理者の役割である。そのためには自分の生活をしっかりと持つことが不可欠だ。曖昧な組織の都合を優先するのではなく、自らの主体性に立脚した毅然とした生き方がこれからの組織のリーダーに求められている。それは同時に部下の主体的な生き方を認めることにつながっている。それができれば、おそらく企業不祥事も克服できるだろう。

 経営者や管理者の生きざまが問われているのである。従業員に倫理研修を行うのもいいが、正すべきは自らであることを知らねばならない。

最後に雪印食品の問題の処し方に言及しておきたい。リスクマネジメントはリスクをチャンスにすることである。その点から言えば、雪印食品は折角のチャンスを活かせなかった。確かに事態は深刻であり、起死回生の策は容易には見つからなかったかもしれない。しかし、解散の道を選んだことが問題をさらに増幅させてしまった。まさに組織の論理での意思決定というほかなく、従業員や関係者の思いは無視されている。不祥事の発生経緯や対処活動と同じ轍を踏んでしまったと言っていい。従業員や関係者に徹底的に情報を開示し、その全幅の努力を引き出すことで、社会の常識に沿った解決策を見出していけば、社会からの信頼感を回復することも決して不可能ではなかったはずである。これまで繰り返し発生したリスクマネジメントの教訓は全く活かされていない。雪印というブランドの持つ意味を生かせなかったことも残念である。ここにも組織の論理が色濃く出ている。ブランドは決して会社だけのものではないのである。

 今回の事件が企業変革の契機になれば幸いである。

 

2002年2月10日

佐藤修(コンセプトワークショップ)