CWS Private の仕事とお金にまつわる話をピックアップしました。
■ワーキングプア、あるいは働くことの意味(2007年12月11日)
いくら働いてもなお貧しい暮らしから脱出できないワーキングプアが問題になっていますが、この言葉そのものに、ある落とし穴があるような気がします。
プアでない者のたわごとと言われそうですが、念のために言えば、私はこの数年、仕事があまりできなかったため、国民年金が一番の収入源です。
ワーキングプアのどこが落とし穴かといえば、プアということが経済的な収入に直結していることです。
たしかに都会で暮らしていくためには金銭がなければやっていけませんが、人はお金がなければ生きていけないわけではありません。
金銭収入があまりなくても暮らしていける地域は、日本にもまだあるはずです。
そこでは「生活の仕方」や「働き方」が違うのです。
労働力、しかも安価な労働力の供給源を維持していくためには、経済的格差を拡大させていくことが効果的です。
そうした政策が生み出しているのが「ワーキングプア」という概念ではないかと思います。
やや極端かもしれませんが、いつの時代も、経済成長を支えているのはワーキングプアなのです。
安田喜憲さんの「一神教の闇」(ちくま新書)にこんな紹介があります(一部文章を要約)。
バリ島では農民たちが木の彫刻を作って売っている。こんなに作って売れるのかと訊いたら、それこそ市場原理に毒された考えだといわれた。農民たちにとっては、この美しい彫刻を作ること自体が喜びなのである。
私たちが忘れていたことを思い出させてくれます。
働くということは本来楽しいことだったのです。
働く喜びの結果、その彫刻が売れたとしたら、もう一つの喜びが得られます。
それがそもそもの「働くこと」の意味だったように思います。
しかし現在は、金銭を得るための行為が働くことになっています。
そこに大きな落とし穴を感じます。
労働は義務、これは近代資本主義の根幹にある発想です。
義務が楽しいはずはありません。
神が課した義務という形をとりながら、実はその神の仮面をかぶっているのは権力者だったわけですが、逆にそのために金銭が権力を持ち出してしまったのだろうと思います。そして、権力者たちもまた金銭に振り回される存在になってしまったのかもしれません。
ディーセントワークという言葉が少しずつ使われだしています。
定訳はありませんが、「価値ある仕事」とか「適正な仕事」「納得できる仕事」などと訳されています。
私は「喜びが得られる仕事」がいいかなと最近思っていますが、要は「仕事の質」が問われだしてきたと言うことです。
しかし、これまでの発想の枠組みで考えていては限界がありそうです。
一歩進んで、働くことの意味を問い直す契機に出来ないものか。
そうすれば、ワーキングプア論議も一歩進めることが出来るような気もします。
今の働き方をいくら続けていても、経済的プアからは脱却できないのではないか。
そういう発想の転換が必要かもしれません。
しかし、現実にワーキングプアに陥ってしまうと、そんなことを考える余裕さえなくなってしまうのでしょう。
そこに問題があります。
大きな問題の解決には、次元を変えた取り組みが必要です。
それをやれるのは当事者ではなく、当事者みんなのつながりなのかもしれません。
■過疎地には仕事が山積みです(2008年8月29日)
最近、全く生き方を別にしている2人の人と別々に話していて、共通の話題がテーマになりました。
「仕事がない」ってどういうことだろうという話題です。
一人は子育て支援をライフワークにしているシニアの女性で、山村留学の話をしている時に、ある山村に家族で住むには、そこに「仕事」がないと難しいという文脈で。
もう一人は、IT関係のベンチャーの若い経営者で、東京集中をやめてもっとみんな地方に分散すればいいのだが、地方には仕事がないからみんな東京にしがみつくという文脈で。
地方に移住したいのだが、移っても仕事がないから暮らしていけない、と多くの人はいいます。
それは本当でしょうか。
いえ、「仕事」ってそもそも何なのでしょうか。
生きていく上で、必要なことはたくさんあります。
生きていれば、できることはたくさんあります。
それらをみんな「仕事」だと考えれば、どこであろうと仕事はあるはずです。
とりわけ、人手が少なくなっているであろう過疎地域には、仕事は山ほどあるでしょう。
但しお金は稼げないかもしれません。
もしお金を稼ぐことが「仕事」であるとすれば、過疎地にはあまり仕事はないかもしれません。
しかし逆にそういうところでは、つまりお金を稼げないところでは、お金を稼がなくても生きていけるのではないかと思います。
山村留学に取り組んでいる、その人に言わせれば、60万円もあれば、十分1年生活できるといいます。
私もある人から、月に3万5000円あれば、豊かな暮らしができるから転居したらといわれたことがあります。
人が生きているところでは、必ず「働く仕事」はあるはずです。
ないのは「稼ぐ仕事」ですが、稼がなくても生きていければ、稼ぐ必要はないのです。
人間にとって、本当に必要なのは、稼ぐ仕事ではなく働く仕事のはずです。
しかし、なぜ私たちは仕事イコール稼ぐことと考えるのでしょうか。
その考えのもとに私たちは、馬車馬のように働き高度経済を成し遂げてきたのです。
東京でワーキングプアなどといわれる生活をするくらいなら、過疎地に移住して、自然と共にゆっくり暮らしたらいいのではないか。
実際に過疎地には空き家も多いですし、引っ越してくる人を待ち望んでいるところも少なくないでしょう。
しかし、なぜかそういう流れは起きません。
どうしてか。
私たちはもしかしたら、「洗脳」されてしまっているのです。
地方には仕事がないから生活していけないと思い込まされているのです。
幸いに日本は自然も豊かで天候も温暖です。
沙漠や寒冷地ではないのです。
そうしたところでは、生活していれば仕事はいくらでも見つかります。
いや、生きていくことが必然的に仕事を発生させるのです。
仕事のために私たちは生きているのではありません。
勘違いしてはいけません。
ワーキングプアや非正規社員の人たちが、そう思って地方に転居し出したら、一番困るのは誰でしょうか。
答は明白です。
企業経営者、もしくは資本家です。
仕事は地方にはないという命題の意味は、まさにそこにあるのです。
その呪縛から解き放たれれば、生き方は一変します。
そして、その生き方から解放される人が増えてくれば、社会は一変するでしょう。
そうなっては大変なので、「過疎地には仕事がない」と思わせておくことが必要なのです。
本当の仕事は生活に密着したところから生まれます。
しかし昨今の仕事は、生活とは無縁のものが少なくありません。
皆さんの仕事は、生活に役立つ仕事ですか。
みなさんは、お金がないと暮らしていけない暮らし方をしていますか。
もちろん、いずれも程度の問題ですが。
和歌山県のあるまちが、家族ずれの移住者を求めています。
当面は子どもを含む家族が中心です。
もし転居希望家族があればご連絡ください。
現地視察も可能です。
■「生きるための仕事」から「稼ぐための仕事」(2008年12月22日)
先週は実にたくさんのことがありました。
それに話題もかなり重いものがありました。
孤独死、自殺問題、子どもの虐待、企業倒産、介護、居場所、家庭崩壊などなどです。
すべてに関わっているわけではありませんが、それぞれに少しずつ私の役割がありそうです。
社会にはたくさんの問題が山積みですが、それに取り組んでいくことを考えれば、それはすべて「仕事」になります。
仕事にはいろいろな種類があります。
先週のホームページの週間報告に、次のような文章を書きました。
今週はたくさんのことを引き受けてしまい、いささか気が重いです。
どうしてこんなに世の中には問題が山積しているのでしょうか。
それなのに仕事がないということは、どういうことでしょうか。
「生きるための仕事」から「稼ぐための仕事」になってしまったのがとても寂しいです。
先週、中小企業の社長から、融資してもらっても消費が落ち込んでいて、仕事がないから動きがとれない、といわれました。
「消費」ではなく「浪費」に依存していた仕事で構成されていたのが、これまでの経済です。
「生きるための消費」であれば需要は一気になくなることなどありえないのです。
その認識が財界にも政治家にも欠落しています。
以前、このブログでも、「過疎地には仕事が山積みです」と書きました。
いま社会に不足しているのは、「稼ぎ仕事」であって、「仕事」ではないのです。
「生きるための仕事」と「稼ぐための仕事」は本来全く違いますが、お金に依存する社会においては逆に「生きるための仕事」こそが「お金を得る」仕事になっています。
これはとても不幸な話です。
江戸時代には、仕事と稼ぎは別のものとされていました。
そして、その両方ができてはじめて一人前とされたのです。
「稼ぎ」とは、「家」のために「飯のタネ(お金)」を得ることです。
「仕事」は、孫子を含めて自分たちみんなのために必要なことをすることです。
社会が壊れだしている昨今では、後者は少なくなり、「仕事」といえば、「稼ぐこと」になってしまっています。
ボランティアという言葉は、日本では無償性が強調されました。
しかし、ボランティアと上記の意味での「仕事」は全く違います。
ボランティアなどというおかしな英語を当てはめた結果、それは金銭基準の概念に成り下がってしまいました。
さらに、そうした流れの中で「儲け仕事」というものも増え始めました。
書き出すときりがないので、やめますが、「仕事」と言っても、いろいろあるわけです。
話を元に戻せば、仕事はいまもたくさんあるのです。
しかし対価としての「お金」がもらえない仕事は、みんなの目には入らなくなっているのでしょう。
そこに問題があるわけです。
経済システムがおかしくなり、困窮者が増えている今であればこそ、お金などにこだわらずに、そうした山積みされている「仕事」に着目すれば、景気対策も今とは全く違ったものになるように思います。
皆さんの周りにもきっと「仕事」は山積みされています。
そうした仕事に取り組む人が、生きていける状況を創っていかない限り、社会は変わっていかないように思います。
■仕事とお金の関係の見直し(2009年1月29日)
地元で活動している(私以上に)シニアなTさんから相談があるので会いたいという連絡があったので、今日は出かけずに在宅していました。
たまたまスペインタイル教室をやっている娘のところに、その方とは別の(私以上に)シニアのBさんが来ていましたので、教室が終わった後、少し話させてもらいました。
お2人とも以前からの知り合いで、いずれもさまざまな活動をされています。
Bさんは、まさに遊学的生活を楽しまれています。
スペインタイル教室通いもまさにその一つで、タイル作りに専念している時は至福の時間だそうです。
Bさんのもう一つの至福の時間はアッカド語です。
アッカド語を学びながら、書き写しているそうですが、1行をマスターするのに1時間以上かかるのだそうです。
テキストを見せてもらいましたが、1冊を仕上げるにはかなりの時間がかかりそうです。
その時間感覚はまさに非日常的です。
ちなみにBさんは現役時代ある大企業の経営者でしたので、当時の時間とは全く違った世界にいるわけです。
Bさんは、しかし自分のためだけにそうしたことをしているのではありません。
地元の集まりの世話人もやっていますし、何よりもそうやってしっかりと学んでいる姿を次につづく世代の人たちに見せたいという思いがあるのです。
Aさんも現役時代は自分の企業を経営していた人です。
引退後、それまで培った豊富な知見を活かしながら、地元(我孫子市)のまちづくりに積極的に関わっています。
私が長らく関わっていた山形市の出身であることもあって、親しくさせてもらっていますが、ビジョンと夢をしっかりと持った方です。
今日はまた新しい構想を聞かされ、協力を要請されました。
面と向かって頼まれると断れないのが私の性格ですので、またまた引きずり込まれそうです。
(私以上に)シニアな人たちからの要請は、お2人に限ったことではありません。
先週も、先々週も、別のCさん、Dさん、Eさんから相談を受けています。
近くのFさんも相談したいと言っていましたので、近々相談に来るでしょう。
実は、社会には仕事が山ほどあるのです。
時間を持て余したシニアの人たちは、そうやって「仕事」を見つけ出し、創りだしているのです。
それはお金に余裕のある人の道楽だと言われるかもしれません。
それに対価ももらえず、むしろ持ち出しの活動は仕事とはいえないだろうという人もいるかもしれません。
しかし、そうでしょうか。
お金はなくても生きていけるが、仕事はないと生きていけない。
そして誠実に仕事をしていたら、お金は後からついてくるものだ。
これが私の信念です。
残念ながら、確信を持って誰にでもお勧めできるまでには至っていませんが、私はこの20年、その信念のもとに何とか生かせてもらっています。
まさに、信ずるものは救われる、です。
シニアの方たちが、なぜお金目的ではなく、活動をするのか。
そこに大きな示唆があります。
仕事とお金の世界を分けて考えるべき時代が来ているような気がしてなりません。
ガンジーは、「すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、すべての貪欲を満たすに足るものは存在しない」と言ったそうですが、私もそう思います。
本来、人の数だけ仕事はあるはずなのです。
たしかに、子育てなどでお金が無いとやっていけないライフステージはありますが、それこそ社会の仕組みで対応できる話ではないかと思います。
これに関してはいつかまた書くようにします。
ガンジーが指摘しているように、貪欲と浪費が欠乏につながっているのです。
2006年に公表されたデータによると、「OECDにおける相対性貧困率ランキング」は、日本はアメリカに次いで第2位だそうです。
どこかで私たちの意識を変えないと、この状況から抜け出せません。
■「生きるための経済学」(2009年3月2日)
とても刺激的な本を読みました。
安冨歩さんの「生きるための経済学」(NHKブックス)です。
書き出しは、今の経済学は物理学の原理に反していると指摘します。
そしていろいろと刺激的な議論が展開され、要するに今の経済学は、人類のみならず、すべての生態系を破壊する「死の経済学」(ネクロフィリア・エコノミー:ネクロ経済学)だというのです。
マクロ経済学でもミクロ経済学でもない、ネクロ経済学です。
その経済学から抜け出て、生を目指す「生きるための経済学」(ビオフィリア・エコノミー:ビオ経済学)に取り組まなければいけないというのです。
そのためには、創発的コミュニケーションを通じて価値が生み出され、それが人々に分配されるようにしなければいけないという処方箋は、とても共感できます。
これだけでは内容がうまく伝わらないでしょうが、私にとっては実に納得できる本でした。
しかし、この著者は「常人」とは言いがたく、かなりダメッジを受けてきているようです。
どういうダメッジかについても、あっけらかんと語っています。
半分は共感できますが、半分は違和感がありますが。
自分のことだけではなく、その「怒り」がアダム・スミスにまで言及するのはいささか異論はありますが、実に素直に書いていますので嫌味はありません。
私と同じタイプかもしれないというのは僭越ですが、親しみを感じます。
でもまあ、あんまり友だちにはなりたいとは思いませんが。
私にとっては、しかし初めて理念のところで共感できる経済学の本でした。
いや、経済学の本とはいえませんね。
家族論、人生論、まあ何の本かはよくわかりませんが、基調になっているのはフロムかもしれません。
文中、とても我田引水的に納得できる文章がありました。
「自立とは、多数の他者に依存できる状態をいう。
いつでも頼れる人が100人ほどいれば、誰にも隷属しないでいられる。」
この文章に従えば、私はかなり「自立」しています。
誤解もありますが、私には困ったら助けてくれるだろう友人がたくさんいるのです。
そう思い込んでいるので、あえて「自立」しなくてもいいと思っているのですが、この本によれば、それこそが「自立」なのです。
もっとも、私の友人がいざとなったら私を支えてくれる保証は皆無です。
大切なのは、その事実ではなく、私がそう思い込めていることなのです。
私は勘違いの多い人間ですから、事実でない確率のほうが圧倒的に高いでしょうが、まあそんなことは瑣末な話です。
これ以外にも、「目からうろこ」の示唆がたくさんあります。
昨今の社会にいささかの違和感をお持ちの方、お暇だったら読んでみてください。
面白さは保証しません。私の勘違いかもしれませんので。
■これまでの仕事観や経営観からの脱却(2009年4月2日)
経済はますます悪化していくという報道が多いです。
みんな先行き不安感を強めています。
不安感を与えすぎだと思いますが、社会に不安感が広がる(広げる)ことの意味はよく考える必要があります。
マスコミの増幅機能に関しては以前も書きましたが、使い方によっては大きな弊害を起こしかねません。
景気の浮き沈みはいつの時代にもありましたし、悪い話の反対側には良い話があるのも経済の特徴です。
実体経済を「生活の経済の反映」と考えれば、そんなに大きな変動はありえません。
もし貨幣がなければ、私たちの暮らしの経済は変動しようがないからです。
金融機関のみならず、メーカーさえもがレバレッジ発想を持ったことが今回の変動を大きくしていますが、その発想そのものがすでに従来の実体経済発想をはみ出してしまっています。
トヨタの大幅生産減は、自動車を一種の金融商品にしてしまった結果です。
メーカーとしての経営を逸脱したといってもいいように思います。
いまそれがまた修正されている過程だと考えられます。
問題は、広がる雇用解雇です。
これもしかし、かなり前から問題としては明らかになってきていました。
つまり「労働の終焉」というテーマです。
技術の進歩により生産性は飛躍的に高まり、従来型の発想での「仕事」は減少してきています。
にもかかわらず、経済や政治は「仕事観」を変えていませんし、私たち自身も「仕事観」を変えていませんから、そのずれの中で、雇用解雇が問題として起こってしまうわけです。
私は21年前に、仕事観を変えて、会社を辞めました。
そして「働くでもなく遊ぶでもなく休むでもなく学ぶでもない」生き方にはいりました。
仕事をすることは「お金」をもらうことではなく「お金」を使うことだと発想を切り替えました。
もちろん結果としてお金をもらえることも多く、生活にはさほど支障はなく、いまもその生き方を続けています。
しかし、テレビなどを見ていると、たしかに深刻な話は増えています。
私は時間をかけて生き方を変えることが出来ましたが、一挙に変化の衝撃を受けたところは大変です。
もちろん実際にはじわじわと追い込まれていたのだと思いますが、現場の真っ只中にいるとなかなか変化は見えません。
誠実に生きている人ほど、見えないところが悩ましい話です。
そんななかで、「100年に一度のチャンス」などと脳天気のことを書いていると、怒られそうな状況がテレビでは報道されます。
たしかに企業をどうにかして倒産させないようにと日々苦労している経営者の人には私の発言は怒られても仕方がないでしょう。
それを承知で、しかし、生き方を変える契機にしてほしいと、やはり思います。
経営者が一人で悩むことの限界は明らかです。
しかし、企業に関わる従業員みんなで誠実に考えたら解決策はあるはずです。
解決策は現場にある、というのが私の考えです。
その基盤として、オープンブックマネジメントの発想が必要だと思い、以前、その本も翻訳出版させてもらいました。
当時は、オープンブックマネジメント発想さえ持てば、企業はすべて元気になると思っていましたが、残念ながらこの本は売れませんでした。
また長くなってしまいましたが、仕事観や企業経営観を変える時です。
従来型の発想の呪縛から自らを解き放せば、新しい解決策が見えてくるように思います。
大切なのは、支えあいながら生きることであって、仕事や企業ではありません。
■仕事がなくなったのではなく、仕事の意味を変えられる時代になったのです(2010年1月20日)
昨年末から東京都が実施してきた「官製派遣村」が18日午前、終了しました。当面の対応としては効果を上げたと思いますが、新しく仕事が決まった人はごく一部だあったようで、いろいろと課題は残ったままだという報道が新聞に出ていました。
今朝の朝日新聞の地方版には、こんな記事がありました。
千葉県内の今春大卒予定者の就職内定率が47%。調査開始以来の最低記録だそうです。
オートメーション化が始まった1980年代に、オートメーション化によって仕事が激減するという警告が発しられていました。
私は当時はまだ会社にいましたが、それによって「仕事の体系」は変わるだろうなと思っていました。
しかしそうはなりませんでした。
仕事の体系は変わるどころか、それまで以上に過酷な労働条件へと変化してきたように思います。
1990年代の初めでしょうか、ある企業の研修に講師として招かれました。
研修が始まる前に、事務局の人が、日本の労働者の半分は余剰。その余剰にならないようにがんばってほしいと挨拶しました。
私は一気に意欲を削がれてしまいました。
がんばらないと企業から排除されるなどという脅しのもとでの研修には加担したくなかったからです。
そういう話をしてしまったためか、その会社からの講師依頼はその後なくなりました。
かつて就農人工が激減しましたが、その吸収先は工業とサービス業でした。
しかしオートメーション化やIT化による仕事の激減を吸収する先はこれまでの発想では見当たりません。
発想を変えれば簡単なのですが、なかなそうはならないようです。
ベーシックインカムの発想は、仕事の意味を変えようとしています。
いささか独断的ではありますが、「消費すること」を仕事にするということです。
まさに「パンとサーカス」の発想ですが、働く能力のない人は、企業が生みだす商品やサービスを消費する「労働者」になれということです。
それはそれで論理は通っていると思いますが、あまりに非人間的な発想ではないかと思います。
全く別の方向で、仕事のパラダイムを変えることもできます。
そのひとつがワークシェアであり、支えあいの関係を育てることです。
そうした発想で私たち一人一人も生き方を少しずつ変えていけば、たぶん50年もすれば社会は住み良くなるでしょう。
どこかで発想を変えなければいけません。
■そろそろ仕事とお金を分けて考えましょう(2010年1月31日)
新しい経済システムを考える際に重要なことは「仕事」の意味を考え直すことではないかと思います。
「仕事と思いやる金の関係の見直し」など、これまでも何回か書いてきました。
先日のオープンサロンでもお話したのですが、仕事は社会との関わりの活動、人とのつながり方の関係活動と考え、お金はそれとは全く別の次元のものと考えると世界の見え方は変わってきます。
金銭的な評価を受けない家事労働がシャドーワークとされたり、価値のない仕事とされたりするのは、金銭を主軸に考えるからです。
そこから抜け出せば、とても生きやすい世界に移住できます。
社会と関わったり、人とのつながりを育てたりすることは、お金がなくてもできるのです。
仕事をお金と切り離して考えると、つい50年前までは幼児や老人もみんな仕事をしていました。
しかし効率至上主義の工業化社会はそうした人たちを「お客様」扱いしてしまい、彼らから「仕事」を奪い、「消費者」という顧客に貶めてしまったのです。
ここでも私の嫌いなドラッカー信仰が力を発揮しました。
世界が「悪しき経営」思想に覆われてしまったのです。
私の友人知人にはドラッカーファンが多いですので怒られそうですが、ドラッカーご本人はすばらしい人であっても、それが産み出した問題はやはりしっかりと考えなければいけません。
原爆開発を進言したアインシュタインがパグウォッシュ会議を提唱したことを思い出すべきでしょう。
ドラッカーはそれをしませんでした。
また話がそれました。
大切なのは、「仕事」と「お金」の関係を切り離すことから新しい経済パラダイムを考えるべきだということです。
お金をもらえない活動は仕事ではないと考えるべきで゙はありません。
仕事をしていれば、お金が入ってくることもあると考えるべきだろうと思います。
そういう発想で考えると金融で稼ぐ仕事など出てこないように思います。
しかしお金を稼がないと生きていけないと言われるかもしれません。
しかしお金は、自分以外の人がいるからこそ意味を持ってくる「人をつなぐメディア」でしかありません。
人のいない無人島ではお金は何の役にも立ちません。
まずはそこから「お金の意味」を考えて行くのがいいように思います。
■ふたつの仕事(2010年7月17)
昨日、紹介したマリア・ミースの論文ですが、もう少し紹介したくなりました。
本を読んでくださいと言っても、読んでくれる人はまずいないでしょうから。
一部文章を省略しての紹介ですが、マリア・ミースはこう書いています。
貨幣ないし資本を生産する労働のために用いられる、生産的労働および生産性という概念は、古典経済学理論の最も言語同断な嘘のひとつである。
その一方で、子どもを産み、養い、世話をし、慈しむ等々の女性の仕事は、直接に貨幣をもたらさないがゆえに、非生産的であるとみなされている。
また、多くの部族や農民のような自らのサブシステンスのためにだけ生産している人々の仕事も同じやり方で評価され、非生産的であると呼ばれている。
そのようなサブシステンス生産を破壊し、自給自足的な諸部族や女性や小農たちのいわゆる「非生産的な」生活維持的サブシステンス労働を変えることが、世界銀行のような資本家の国際機関の明確な目的になっている。
このことは、彼らを仕事と生計の面で貨幣収入と資本に従属させることを意味している。
資本は、膨大な数の人々が自給自足的である時には成長することができないのである。
サブシステンスとは耳慣れない言葉でしょうが、このブログでは何回か使わせてもらっています。
一般的には生命の維持や生存のための活動をさしますが、イリイチやミースは、「人々の営みの根底にあってその社会の基礎をなす物質的・精神的な基盤」という意味を与えています。
つまり、社会を維持しながら人が生きていくための必要不可欠な活動のことです。
サブシステンスという概念を持ち込むと、人の活動(ワーク)には2種類あることがわかります。
サブシステンスのための活動(サブシステンスワーク)と金銭を得るための活動(ペイドワーク)です。
金銭を使うための活動と言うものもありますが、それは金を得るための活動の変種だと捉えていいでしょう。
サブシステンスワークとペイドワークと、みなさんの人生においてはどちらが重要でしょうか。
いうまでもありませんが、前者のはずです。
何しろ前者は生きていくためのワークなのですから。
しかし今の時代においては、ほとんどの人が後者を重視しています。
それこそが「呪縛」なのです。
ミースは、そのことを指摘しているのです。
昨日の時評も、その文脈で受け止めてください。
雇用創出はサブシステンスワークの破壊にもなりかねないのです。
ペイドワークがなくなっても生活は破壊しませんが、サブシステンスワークがなくなれば生きてはいけません。
そんな簡単なことにみんな気づかなくなってきている。
だから「自殺」などと言うことが社会現象になってしまうのです。
また補足しないと誤解されそうな文章を付け加えてしまいました。
■お金がない生き方(2011年9月22日)
最近、面白い本を読みました。
安冨歩さんという東大の教授の「経済学の船出」です。
安冨さんの本は以前、「生きるための経済学」を読んだことがありますが、これも面白かったです。
たとえば、「自立とは、多数の他者に依存できる状態」というような、実際に自分を生きている人ならではの言葉がたくさん出てきます。
「経済学の船出」は、過激な本です。
私には1点を除いて、実に痛快でした。
最近の経済学に辟易している人にはお薦めですが、今日、取り上げるのは、その本に出てきたハイデマリーの実験の話です。
ハイデマリー・シュヴェルマーは、私とほぼ同年齢のドイツ人女性です。
彼女の実験とは「お金なしの生活の実験」です。
彼女は1996年に、ほとんどすべての所有物を手放し、アパートを引き払い、健康保険さえも解約し、仕事も辞めて、「お金なしの生活の実験」を開始したのです。
そしてそれから4年間、公衆トイレさえお金をとるドイツ社会で、お金をまったく使わないで生活し、その後も、お金をほとんど使わないで暮らしているのだそうです。
「経済学の船出」での紹介を読む限り、その考えは私と同じです。
もしそれが本当であれば、私が理想として実現できていない暮らし方をすでにやっている人がいるわけです。
理屈だけの私と違って、素晴らしい。
そこで、彼女の生活報告「食費はただ、家賃も0円!お金なしで生きるなんてホントは簡単」(角川書店)を早速取り寄せて読んでみました。
基本的にはとても共感できましたが、同時に私の考えとは違うこともわかりました。
というよりも、私よりは金銭に依存しているように思いました。
しかし「お金への執着」から解放されると実に生きやすく楽しくなるということにおいては、彼女の実践には魅力があります。
以前読んだ、韓国の法頂師の「無所有」にも通じてるところもあります。
コモンズを生きているハイデマリーの「強かさ」には共感しながらもどこかに違和感を持ちました。
少なくともそれは私には大きく欠落しているところです。
私は「金の切れ目が縁の始まり」という考えを大事にしています。
お金を基準にして生きている限り、心をつなぐ縁も、心からの歓びも得られないと思っているからです。
お金がない生き方を目指している方に、とりあえずお薦めの1冊です。
■仕事とお金を稼ぐことは分けて考えたほうがいい(2011年9月26日)
上関町の町長選挙のことをフェイスブックに書いたら、いくつかのコメントをもらいました。
そのなかに、「過疎地の切実な問題という側面もあると思います」という表現がありました。
私は過疎地に住んだことがありませんが、過疎地という言葉が30年まえから理解できずにいます。
それに言われているほど、マイナスだけではないと思います。
なぜならみんなそこに住み続けているからです。
地域の活性化という言葉も、あまり好きではありません。
なんだかとても人為的だからです。
いささか考えすぎかもしれませんが、お金が付きまとっているような気がするのです。
きっとそれによって被害を受けている人もいるはずです。
経済的に得をしている人がいるからです。
上関町は原発のおかげで仕事が増えたという人もいます。
原発で増えた仕事とはなんでしょうか。
自動車事故が増えても、戦争が起きても仕事は増えます。
私たちはお金を稼ぐことが仕事だと考えがちです。
そしてお金をもらわない仕事をボランティアなどといいます。
この発想が私にはなじめません。
昨日、高崎のささえあい交流会でも話させてもらいましたが、
仕事とお金を稼ぐことは分けて考えたほうがいいように思います。
もしお金を稼ぐことが仕事ならば、強盗も仕事になりますし、詐欺も仕事になります。
その違いをしっかりと認識していないが故に、詐欺まがいの、あるいは強盗まがいのビジネスが生まれます。
あるいは、仕事の中に、そうした要素が入り込みやすくなります。
私は20数年前に会社を辞めて以来、両者を切り離して考えるようにしています。
仕事観を変えると生活は変わります。
上関町の対岸にある祝島の人たちの仕事観や生活の仕方と上関町の人たちのそれとはかなり対照的のようです。
原発が建設されないと仕事がない、というお金まみれの仕事観を変えることが大切なような気がします。
ハイデマリーの実験は、そうしたことをメッセージしています。
お金を稼ぐことから生活を発想せずに、生活することから発想すれば、仕事は山のようにあるはずです。
雇われ仕事だけが仕事ではありません。
雇われることも社会を支えるためには大切ですが、心まで雇われてしまっては、悲しいです。
ある人が、エコノミックアニマルではなく、エコノミックスレーブだと書き込んできました。
そうはなりたくありません。
■働くということの多義性(2011年12月24日)
高齢社会の中では、高齢者にも働いてもらわないと年金制度も維持できないという発想から、高齢者にどう働いてもらうかが、議論されだしています。
その発想に私は違和感がありますが、それはそれとして、先日、シニアの活性化をテーマにしたある研究会で、いろんな人の報告を聞いていて、思ったことです。
働きたいと思っている個人がいる。
働かせたいと思っている会社がある。
そして高齢者も働く社会にしないといけないという社会がある。
この3つがあるわけですが、実はそのそれぞれが考えている「働き」の意味や目的が違っているのです。
まず働きたいと思っている個人。
その目的は金銭的報酬でしょうか、生きがいでしょうか。
もちろん人によって違いはあると思いますが、後者の意味のほうが大きいように思います。
簡単に言えば、「稼ぐ仕事」ではなく「社会とのつながりを実感できる傍(はた)を楽(らく)にする仕事」です。
そのことを示唆しているのが、現在の東北被災地での状況のように思います。
そこで大切なのは、仕事の内容であって、対価ではありません。
働かせたい会社はどうでしょうか。
技能継承という面もあるでしょうが、コスト的には若い労働力が有利でしょうし、高齢者の労働は安全面でも問題が増えてきます。
従業員の福利厚生面的な意味もあります。
定年が長くなれば安心してモティベーションも高まります。
しかしその一方で、安直なリストラや非正規従業員比率を増やしている実態がありますから、基本的にはかつての日本的経営のような安心感や一体感は生まないでしょう。
それに次世代を担う若者たちが、きちんとした働きの場を体験していかないと、これまで蓄積されてきた「労働文化」が維持できなくなるでしょう。
それは日本の企業にとっても産業にとっても致命的なダメッジを与えかねません。
従業員のモティベーションのためであれば、その働かせ方はそれまでの働かせ方とは変える必要がありますし、その変え様似によっては新しい企業の発展が生まれるかもしれません。
社会はどうでしょうか。
そもそも高齢者を若者が支えるなどという発想がおかしいと思います。
相互に支えあっているのが社会です。
にもかかわらず、そう考えるのは、社会はすべてお金で成り立っていると考えるからです。
お金を稼ぐ壮年層を中心にした社会観を変える必要があります。
お金がなければ生きていけない社会になったのは、ほんのこの50年くらいでしょう。
消費市場から自由になれば、お金などなくてもいくらでも生きていける仕組みはつくることができます。
そのことも、今回の東北大震災の被災者の言葉に示唆されているように思います。
これまでも何回も書いてきていますが、働くこと、つまり仕事と、稼ぐこと、つまりお金とを切り離して考える必要を感じます。
■「働くこと」は「生きること」か(2012年10月23日)
先日、あるビジネススクールで「ソーシャルビジネス」をテーマにした話をさせていただきました。
私のソーシャルビジネス観は、少し一般的ではないのですが、前にも何回か書いているように、マネタリーエコノミーの世界で発想している限り、ソーシャルビジネスとは言わないというのが私の考えです。
そもそも、ビジネスは本来的に「ソーシャル」なものであり、企業の事業とは社会性を持ったはずです。
にもかかわらず、最近、ビジネスに「ソーシャル」という形容詞がついているのは、ビジネスが「ソーシャル」ではなくなっているからでしょう。
ではそれは何かといえば、「マネタリービジネス」です。
まあそういう視点で、少しお話をさせてもらいました。
それを聞いてくれたみなさんからいろんなご意見をいただきましたが、すぐにメールで届いた意見のなかに「働くこと=生きること」に言及した人が2人いました。
そこに反応してもらえたことがとてもうれしかったので、引用させてもらいます。
お一人は有名大企業に勤める40代の、MBAもお持ちの男性です、
本日のお話で最も衝撃的だったのは、マネタイズのないところにビジネスの価値がある、働くこと=生きること、という考え方です。
この方は、最近ちょっとマネタイズに疲れつつあり、マネタリーにこだわらない生き方を模索中と書かれています。
私が大切にしている生き方は、一人称で生きるということです。
これも何回もこのブログやホームページで書いてきました。
講義では、ライフワークバランスという発想も否定しました。
ライフにとってワークはとても大事な要素であると私は考えているからです。
次元の違うものをバランスさせようというのは、私には理解できない発想なのです。
一人称で考えると、当然のことですが、「働くこと=生きること」になるはずです。
組織や社会のために生きるのではなく、自らを誠実に生きることが社会を構成している市民の義務だろうと思うわけです。
ちょっと飛躍がありますが、明日からもう少し書き込んでいくつもりです。
もう一人は、専門職の30代の女性です。
私の育った環境のせいか、お金に対する嫌悪感と共にどうやってもお金が問題解決にはどうしても必要なんだというイメージから抜け出せずにいます。
と、同時に今は恵まれた職場にいますがどうも満たされない思いを抱えています。これは、生きることについて素直に向きあっていないせいかもしれません。
仕事=生きること。その通りだと思います。
この方は、すでにノンマネタリーな仕事にも取り組みだしているようですが、こう続けています。
今回の授業でのお話は半信半疑ながら心に響くものがありました。
半信半疑という表現がとてもうれしいです。
おそらくそれが多くの人の感想だったはずですし、似たようなコメントも数名からもらっています。
半信半疑というのは、まさに一人称の判断です、
「働くこと=生きること」。
これについて、少し何回か書いてみたいと思います。
今日はとりあえず、その予告編でした。