環境は消費財か支援財か
バルディーズ研究会通信101寄稿文(2003年10月)


 バルディーズ研究会に参加してかなりの年月がたつが、全く活動に寄与しない怠惰な会員を続けている。時に会費の納入まで忘れてしまうほどの怠惰さだが、運営委員の角田さんのおかげでなんとか会員を持続させてもらっている。
 一応、学生の頃から、エコロジストを自称し、シンプルライフにあこがれていた。6〜7年ほど前までは、それなりに環境問題にも関心が高く、ささやかながら研究会をやったり、企業における環境意識喚起などにも取り組んでいたが、最近はかなり自分の意識が変わってしまった。

 そのきっかけの一つは、5年ほど前に水俣を訪問したついでに立ち寄った綾町での、東洋1の照葉樹林との出会いである。もりもりと湧き上がるような見事な森の迫力に圧倒され、30分くらい立ち尽くしてしまった。自然は小賢しいわれわれの発想を大きく超えている。都会で理屈をこね回していた自分に嫌気がさしてしまった。
 水俣に出かける前に、日本能率協会の環境経営の提言をとりまとめるのに協力していた関係で、各社の環境報告書を読んだり、環境担当の役員の話を聞いたりしていたのだが、それらがすべて空しいものに感じられてしまったのである。そしてなんとなく感じていたことが、改めて実感をもって頭をよぎってきた。

 各社の環境報告書はなぜあれほどに退屈なのだろうか。何を考えているのかわからないし、思いも感じられない。第一、誰に向かってメッセージしているのだろうか。読めば読むほどにわからない。環境報告書を作成する事が目的化しているような気もしないでもない。せっかく資金とエネルギーを投入して、これほど立派な報告書をつくるのであれば、もう少し効果的な取り組み方があるだろう。まさに資源の無駄遣いではないか。大切なのは、報告書を活かして現実を変えていくことだが、そうした動きもあまり感じない。環境経営とか環境会計とか、言葉や概念はどんどん広がっているが、その内容が真剣に吟味されているとも思えない。かつての「企業の社会貢献活動」のような、義務感や体面づくり、あるいは流行への追随に思えてならない。それではいかにももったいない。
 ISO14001の広がりも、どうも素直には喜べない。昔のTQCとはいわないが、制度や形式が優先しがちで、本気で取り組んでいるのは事務局だけなどという実態も垣間見えてしまう。導入の動機にも真剣さが感じられないことが多い。
そんな思いがどっと出てきてしまったのである。
 こんなふうに書くと誤解されそうだが、環境報告書やISO14001を否定しているわけではない。それらが果たしている役割は、高く評価しているし、大きな期待を持っている。それらによって企業も社会も変わってきているし、環境問題もビジュアライズされていることは間違いない。
 しかし、今のかたちには大きな違和感がある。袋小路に入っているとしか思えない企業活動(経済システム)にとって、事態を変えていくための契機が、環境問題にあるはずなのに、そうした視点で取り組んでいる動きが見えないのが、残念だ。

 そもそも企業にとっての環境問題とは、いったい何なのだろうか。その捉え方に間違いがあるのではないか。
 現在、環境問題は企業にとっての制約条件や消費対象としての経営資源と捉えられているように思うが、果たしてそれでいいのか。むしろ、「支援財」(こなれない言葉だが)と捉えるべきではないか。それも「企業を支援し、企業に支援される」ホリスティックな支援財として。
 環境問題を視野に入れていくことは決して義務やコストの話ではなく、まさに企業活動や経済を考える本質的な問題である。環境経営や環境行政は、これまでの経済や社会の根源を問い直す契機になるはずなのに、社会的な風潮への追随や防衛的な姿勢で環境問題を考えているところが多すぎる。ファクター4のように、環境と経済のシナジーが話題にはなっているが、それも所詮は改善的な取り組みのような気がする。環境問題が提起している事はもっとダイナミックな、企業進化のヒントなのではないか。
 環境問題を考えるということは、世界のつながりや生命の輝きに気づくことであって、個別の問題解決に取り組むことではないというのが、私が照葉樹林の前で考えたことだ。脈絡が伝わりにくいと思うが、環境とはアメニティを高めていくことであり、自然とのつきあいの回復だということに気づいたのである。こんなに素晴らしい自然があるのに、その価値を活かそうとしているのか。悪いことだけに目を向けすぎていないか。
 山が荒れるのは人が乱開発することだけではなく、人が放置してしまっているからともいわれるが、大切なのは自然との付き合い方だ。もちろん、活かすということはリゾート開発やスーパー林道をつくることではない。
 そもそもエコノミーも、エコロジーも、同じところから始まった知の体系であり、「環境と開発」「環境と経済」は、決して対立はしないはずだった。どこかで自然との付き合い方を間違ったのである。そうした原点に戻っての、自然との付き合いが、各地の生活レベルで、いま始まりだしているが、企業にとってもこうした動きは大きなヒントになるはずだ。経済システムや企業が、いま壁にぶつかっているように思われるが、その閉塞状況をブレークスルーする鍵が、そこにありそうな気がする。

 これまでの産業化(工業化)はある種のジレンマを抱えている。
 社会の問題を解決することが産業化の起点であるとすれば、問題が多ければ多いほど、産業は発展する。生活が「不便」(不便さは相対的なもの)になればなるほど商品は売れ、生活が不安になればなるほど保険契約は伸びる。病人が増えれば、製薬会社が繁盛する。本来は、不便さや不安を解消し、病人をなくすはずの商品が、自らの発展のためにはむしろそれらを助長する動因を内在しているのである。顧客創造が経営の本質と語られたこともあるように、問題解決ではなく、問題の創出こそが、近代産業の根底にある本質といっていい。
 そのジレンマのもとに、産業が生み出す問題が新たなる産業を創出する。たとえば、産業が生み出す廃棄物が、リサイクル産業を育てていくというわけだ。そして、そのリサイクル産業がまた新たな問題を生み出し、新たな産業を育てていく。つまり無限の産業化のスパイラルが、工業の本性である。しかし、実際には無限なのではなくて、いつか破綻がくることはいうまでもない。動脈と静脈とのアナロジーに納得してはならない。
北九州市のエコタウンを見せてもらった時に、これでは問題は大きくなるだけで、何も解決しないのではないかと、どうも割り切れない思いを持った。エコタウンが成功するためには、廃棄物を増やさないといけないという矛盾を感じたからである。
どこに問題があるのか。
 おそらく産業や経済のパラダイムの問題なのだろう。よくいわれるように、日本古来の農業には廃棄物の概念もなければ、自然を破壊する視点もなかった。むしろ、農業のエッセンスは、「土づくり」と言われるように、「生きた自然」を創っていくことだった。工業化された農業とは全くベクトルが逆である。
 ベクトルだけではない。ホリスティックに問題を考えていくか、要素還元的に個別対応していくかも大きな違いである。環境問題を考えるとは、ホリスティックに問題を設定し、考えていくことである。今の経済や社会のシステムには、そうした視点はほとんどない。もちろん企業にも希薄である。
もう一つのポイントは、時間軸にある。林業の衰退は時間軸が産業化のリズムにあわなかったからだろう。エコロジーとエコノミーの時間軸を一致させることは無理だろうが、整合させることは可能なはずだ。わが国には、その実績もある。スローライフを単なる掛け声や商業主義の具に終わらせるべきではない。
 いま、問われているのは、そうした産業や経済のパラダイムなのではないか。もっと言えば、私たちの生き方の問い直しではないか。そして、そうした動きはさまざまなところで生まれだしている。
 「環境分野」はこれからの成長市場だとか、「環境」こそは企業のコミュニケーション戦略のキーコンセプトなどという言い方は、昨今ではさすがにされなくなってきたが、実際にはまだまだそうした発想から抜け出ていないのが現実だろう。環境は決して、効果的なコミュニケーションのテーマとして消費すべきものではない。ましてや成長産業の対象にして消費すべきものではないだろう。工業化社会の延命策として構想されるような、循環型社会に向けての取り組みではなく、土につながった生き方を 一人ひとりが回復する事が大切ではないか。
 大切なのは個々の問題ではなく、気持ちよく暮らせる生き方の回復である。

 照葉樹林との出会いを契機に、そんな事を考えているうちに、最近はすっかり「福祉」の世界に足を踏み入れてしまった。環境問題が私の中では、福祉問題へと変身してしまったのである。
 今、「大きな福祉」をテーマにして、全国各地のさまざまな市民活動をつなげていく活動に取り組んでいる。福祉といっても、介護や障害などの個別問題ではなく、みんなが気持ちよく暮らせる生き方の回復が目的である。それは環境問題と通底している。
 個別問題に焦点を合わせた取り組みは、どこかで壁にぶつかる。私たちの生活は、そんなに簡単ではない。さまざまな事柄が複雑に絡み合っているのが生活であり社会なのだ。それらをつなぎあわせ、ホリスティックに考えていってはじめて、みんなが気持ちよく暮らせる社会が実現する。
 そうした視点から環境報告書やISO14001を捉え直すと、今とは違った展開が考えられるような気がする。いや、事業そのものの捉え方が変わってくるはずだ。環境を「事業化」するのではなく、事業を「環境化」する方向に向かうことになるだろう。今、必要なのは、そうしたパラダイムの展開ではないだろうか。それは同時に、環境問題のパラダイムにも影響を与えていくことになるだろう。
 福祉と環境。これは全く同じテーマなのだ。いや、それらを同じものと考えるかどうかこそが、問題の本質かもしれない。つまり要素から考えるか、目的から考えるかである。そこから改めてまた環境問題や企業進化の方向性も見えてくる。
 今年は大きな福祉の活動を、さらに一歩進めて、要素としての環境問題と福祉問題のつながりを、少し考えてみようと思っている。

 環境問題は決して企業の前に立ちふさがる壁ではない。次のステージに向けての企業進化を促し支援するものである。そうした視点で環境問題を考えていくことが、必要なのではないか。そんなことを、最近、ぼんやりと考え出している。

(さとうおさむ/会員)