自分の生き方を自分で決められる時代がやってきた

(ソフト化経済センター共同研究会報告書「楽しい自分 元気な経済」から)

 

     時代は変わり目、なのだろうか

 

 時代が大きく変わりつつある、とよく言われる。たしかにそう言われるとそんなような気もするが、どこが大きく変わっているのかというとなかなか答えられない。

 自民党一党体制が終わったとか、地方分権が進みだしたとか言われるが、それがどうしたというほど実態は相変わらずである。喜劇役者が東京や大阪の知事になったのも、茶番劇役者たちの舞台になっていた政治の世界にやっとプロが登場しただけの話だし、学校でのいじめ事件や自殺の増加も、そもそも子どもたちの個性を殺してきた学校の必然的結果でしかない。数年前まで誰もが考えもしなかった大銀行の倒産も、要するに役割を終わった組織が整理されるという当然の結果であり、だいぶ前から予測できたことである。ヘアヌードが出回り、携帯電話が氾濫しだしているのも、所詮はこれまでの延長でしかない。いろいろと新しいことが起こっているようだが、すべてはこれまでの時代の延長にしかないのではないか、と思いたくなる。

 しかし、もし今起こっている「新しい現象」が、これまでの時代の延長上にしかないのであれば、それがなぜ「意外」なニュースになったり、「破綻」を引き起こしたりするのだろうか。

 とんでもない事件も、後から考えると、起こるべくして起こっていることが多い。素直に、そして冷静に、事件を追っていくと「そうなって当然」ということは少なくない。

 素直に事実を見る目を、私たちは失っているのかもしれない。そのため、時代の流れの当然の結果でしかない現象に驚くのである。あるいは事前に察知できずに、事件が起きてから慌てるのである。

 「素直な目」を濁らせているのは何なのだろうか。

 そのひとつは「常識の呪縛」かもしれない。

たとえば日本の人口を考えてみよう。現在の出生率は1.4を切っているから、このまま行くと50年後には人口は半減する。しかし、頭ではそれを理解しても、人口は増えるもの、という常識から私たちはなかなか抜けられない。

 人口が減って、しかも高齢社会になると社会の活力が弱まるという常識も強い。年金制度は大丈夫かと心配する人も多いが、高齢者を単なる年金受給者と考える必要はない。元気な老人力がむしろ若者を養う社会になっていくかもしれない。ここでも「常識の呪縛」が素直な目を濁らせている。常識の枠組みをちょっとはずせば、年金問題なども違った見え方がしてくる。

 

     常識に合わない「常識」が広がっている

 

 さまざまな個性によってつくられている社会をまとめていくためには、ある程度の「常識の枠組み」が必要である。それがないと、コミュニケーション効率が悪くなるからである。

 しかし「常識の枠組み」が強くなりすぎるとおかしくなる。コミュニケーションのためのプロトコールでしかなかった「常識の枠組み」が、個人の意識と行動を制約するようになってしまう。そして「常識の枠組み」が独り歩きしだすのである。おかしな言い方だが、どうも最近は常識に合わない「常識」が増えてきている。

 たとえば、地域振興商品券、金融機関への国税補填、公共事業の公共性、産廃処理施設への行政の対応、オウム裁判やオウム組織の扱いなど、多くの人の常識と食い違う形での「常識」が世間を闊歩している。

 そして、私たちもまた、一部では「違和感」を持ちながらも、自分が当事者となる世界では、与えられた「常識の枠組み」の中で発想し、行動していることが少なくない。それは居心地のいい世界かもしれないが、いつか「破綻」に直面する世界であることも間違いない。

 もし、時代が大きく変わりつつあるとしたら、それはこうした「常識」が限界に達し、ほころびが広がってきていることかもしれない。共同幻想としての常識の実態が少しずつ見えだし、その効力が薄れつつあると言ってもいい。

 裸の王様の常識ではなく、額に汗して働いている「みんなの常識」をもう一度、回復しようという動きも出てきている。その新しい常識で取り組んでみると、意外とうまくいくことにもみんな気づきだした。

 常識は「管理のツール」ではない。誰かから教えられるものでもない。素直な目で事実を判断し、おかしなことはおかしいと言い、自分に納得できる生き方をしていくことが大切である。それこそが常識の原点であり、それが積み重なって「みんなの常識」が生まれてくる。

 「常識」を脱構築し、再び活き活きした息吹を与えなければならない。それは、政治や経済や文化や正義を、私たち一人ひとりの手に取り戻すことでもある。それができる状況になってきたのだ。

 としたら、時代はまさに大きな変わり目である。表面上の瑣末な出来事に惑わされてはならない。江戸末期に見本があるように、変わり目には変わり目の生き方がある。

 

     もっと大きな時代を生きよう

 

 まず、自分の生き方を見直してみよう。与えられた常識の枠組みのなかで自分の生き方を決めつけてはいないだろうか。無意識のうちに、何かにとらわれていることはないだろうか。いやそれよりも、今の生き方で本当に幸せなのだろうか。あなたはいいかもしれないが、あなたの子どもたちは幸せになれるのだろうか。

 ナバホ・インディアンの常識のひとつに「環境は先祖から譲り受けたものではなく、子孫から預かっている大切な財産」というのがある。彼らの意思決定は7代先の子孫の幸せを考えて行われる。こうした常識のもとでは環境破壊など起こりようもない。おそらく、それに近い常識が、つい先頃まで日本にもあった。それがいつの間にか、誰かの常識によって追い出されてしまったような気がする。それでいいのだろうか。

 ナバホ・インディアンも私たちの祖父母も、きっと今の私たちよりも「長い時間」を生きていたのだろう。

 平均寿命は短かかったかもしれないが、先祖との精神的な交流や子孫への思いを通して、彼らは世代を超えて生きていた。最近の私たちの「刹那的な人生」とは大違いである。私たちも「もっと大きな時代」を生きたいものだ。そのためには、もう役割を終わったような「常識」や「枠組み」に自分の生き方を閉じ込めるのではなく、もっと大きな世界のなかで、自分の人生をしっかりと見つめ直すことが大切である。それができるのが、時代の変わり目である。常識の呪縛から開放されれば、そこにはさまざまな生き方が開かれている。

この研究会は、こうした展望に基づいて、「あなたは何にとらわれているのですか」という問いかけで始まった。そして、個人の視点に立って「生き方」と「働き方」を考えると同時に、それらを支える仕組みとしての「組織のあり方」を人間的な側面に焦点を合わせて考えてみることになった。

 テーマの大きさのせいもあって、問いかけに答える大きなメッセージには収斂しなかったが、さまざまな生き方や働き方、組織に実際に触れながら、メンバーそれぞれの視点での実感的ないくつかのメッセージが生まれてきた。それぞれの報告の中から、そのメッセージを読み取っていただければと思っている。

 

     4つの視点から「自分の生き方」を問い直す

 

 4つのテーマのつながりは必ずしも構造化されていないので、バラバラの研究報告がただ合冊されただけではないかと思われる方がいるかもしれないので、少し説明しておきたい。

 前述した通り、一つの軸は「個人のスタイル」の問題である。まさに生き方そのものである「ライフスタイル」と、それを大きく規定する「ワークスタイル」の二つをここではとりあげた。

 企業の中にいるとなかなか見えてこないが、ライフスタイルもワークスタイルも多様化している。しかも、企業人にとっても、それが可能になりつつあるのが現在である。企業人だからといって自己規制する必要は全くない。ここでは、さまざまなライフスタイルやワークスタイルを実践している人たちとの触れ合いを通して、新しいスタイルの模索をしてみた。また、どうしたら企業人としての自己規制を解くことができるかについても考えてみた。それはどうやらそう難しいことではなさそうだ。

 多様なライフスタイルやワークスタイルが広がっていくと、当然、企業にも大きな影響が出てくる。というよりも、正確にいえば、個人のライフスタイルやワークスタイルの多様化は企業の多様化と深くつながっており、企業の多様化が個人の多様な生き方を生み出している面もある。両者は相互に絡み合いながら、それぞれの多様化の動きを加速させていると言っていい。

 そこで、もうひとつの軸として「企業のスタイル」を設定した。といっても、全く新しい企業スタイルに目を向けるのではなく(これまでの企業とは全く異質な新しいタイプの企業が次々と出現している)、これまでの企業を対象とし、特に人間的な側面に焦点を合わせて、二つのテーマを取り上げてみた。

 ひとつは多様性を重視した組織のあり方で、多様性が組織の豊かさにつながるという仮説に基づく「異者協働組織」の検討である。異者とは何か、協働とは何か、という本質的な議論を通して、ライフスタイル論、ワークスタイル論にもつながっている。

 ふたつ目は、もっと個人に焦点を合わせた働きがいという問題だが、抽象的な議論にしないために、組織の視点から「モチベーション」という捉え方をしてみた。それも、多様な立場の人たちが多様な働き方をしている、フロントラインにターゲットを絞ることにした。ここでも、多様なライフスタイル、ワークスタイルが見え隠れしており、モチベーションなどという「他律的」な管理発想が成り立つのかという心配があったが、それは「多様性」を狭義にしか捉えられない私の杞憂でしかなく、いつの間にか7つの法則が出来てしまった。

 4つのテーマはそれぞれに重なっているが、視点が少しずつ違っている。中にはちょっと矛盾するようなメッセージもあるかもしれないが、それはそれで意味を持っている。

大切なことは、こうした4つの視点からも「個人の多様な生き方」と「企業の多様なあり方」が支援されているということであり、それを踏まえて私たちは自分の生き方をデザインすることができる時代を生きているということである。こんな時代は久しぶりである。もしかしたら縄文時代以来かもしれない。

 私たちはその幸せに感謝するとともに、この特典を無駄にしないようにしたいと思う。それが、7代先の私たちの子孫に対する責務なのかもしれない。

 この報告書が「生き方」をちょっと見直す契機になれば、とてもうれしいことである。

 

〔主査:佐藤修〕1998.3