支え合い共創サロン(2013年11月13日)での話し合いのためのメモ

■さみしい社会(ある人からのメール)

私は、子どものいない50代のシングルで、仕事中心の、地域社会とは縁遠い日常を送っています。会社をやめたら、どこでだれとどう生きていくかという問題が、まだ少し時間はありますが、ひたひたと迫ってきました。
こうしたリタイア後の課題は、家事も子育ても妻まかせで生きてきたサラリーマンが抱えているものとほぼ同じといっていいでしょう。結婚しない女性、子どものいない女性が増えていますが、これからは女性の課題でもあると思います。
また、介護が必要になったときの不安もあります。財政状況の厳しいなかで、高齢者福祉もだんだんと先細りになっていくのは明らかで、家族がいてもいなくても、公的な介護に頼れないとしたら(現在も、家族あっての介護保険制度ですが)、経済的資源もソーシャル・キャピタルももたない高齢者は耐えて死ぬのを待つしかなくなってしまいます。それはやはり、さみしい社会ですね。

■「共同防貧」の仕組み(「〈ひと〉の現象学」鷲田清一)

柳田国男は昭和の初めに、「貧に対するわれわれの態度が変わってきた」と述べていた。その時代、都市では士族の零落、地方から出てきた労働者の劣悪な生活条件など、貧窮の「孤立」化はすでにかなり進行していたが、農村ではまだ「相互救済のカ」が具わっていた。貧窮は想像を絶するくらいに「猛烈」であったが、「同勢の多かった」という事実がおのおのの貧窮をめだたせなかった。
貧窮の惨めさは凶作や災害の時に極まった。けれども「郷党の努力には、戦時も及ばぬほどの熱心なる協同があり、この困苦を共にした記念が、また新たに隣保の情誼を深めている」のであった。そこには「共同防貧」の仕組みがまだあった。
それが、「われわれの生活ぶりが思い思いになって、衣でも食住でもまたその生産でも、個人の考え次第に区々に分かれるような時代が来ると、災害には共通のものが追い追いと少なく、貧は孤立であり、従ってその防御も独力でなければならぬように、傾いて」きたと、柳田はいう。

■コモンズの悲劇・コモンズの幸せ(CWS Private)

コモンズの悲劇的現象は世の中に充満しています。最近の給食費不払いの話などはまさにそうした事例の一つです。年金問題もそうかもしれません。
しかし、組織発想から個人発想に替えることで、パラダイム転換できる話だと私は思います。発想を変えれば、コモンズの悲劇はコモンズの幸せになるはずです。
たとえば、「消費発想」から「創造発想」に変えることで、コモンズの悲劇はたぶんなくなります。
つまり、コモンズ(みんなのもの、共有地、共有資源)を消費の対象とするか、
創造あるいは育ての対象とするかということです。

20131113/佐藤修