The Ozone War(オゾン戦争)
「コモン・フューチャー1991」 NTTデータ梶@所収取材記事

■デュポン社の"決断" 
 1985年5月、当時、世界最大のフロン・サプライヤだったデュポン社のウーラード会長は、ロンドンで開催された講演会の席上で、「今日、産業界が直面している最大の課題は、環境保全である」と語った。
 同時に、米航空宇曹局(NASA)が、フロンガスによるオゾン層の破壊を公式に発表すると、同社は即座に「有害フロンの全廃」を世界に向けて宣言した。この決定は、年商7億5000万ドル、日本円にして1000億円以上にのぼる事業の廃止につながる。
 しかし、同会長によれば、「デュポン社が環境面で世界的に優れた企業であるという印象を世界の人々に知ってもらうためには」、たとえ利益を犠牲にしても「必要な措置」であったという(傍点筆者)。
 その後、同社では、たとえばプラスチック製品の回収事業の展開、野生生物の棲息地の保護、自社工場から出る有害廃棄物の35%削減など、環境を擁護する立場から積極的な対応策を打ち出している。そして、環境先進企業としての評価をかちとっていく。
同社にこうした戦略転換を促した直接のキッカケは、1989年3月にアラスカ沖で発生した原油タンカーの座礁・流出事故で見られたエクソン社のダメージの大きさにもあったかもしれない。エクソン社は、10億ドル以上をかけた原油汚染除去作業を強いられたにもかかわらず、現状復帰への道は遠く、残された損害賠償を含め、企業イメージを大きく失墜させてしまった。
 ウーラード会長の語った、「印象」を与えたいという表現のウラには、優れて戦略的なコスト・パフォーマンスの計算結果があったことは間違いない。
世界でも有数のエクセレント・カンパニーとして、同社はそう容易に上記の「決断」を下したわけではない。この「決断」に至るまでには、"オゾン戦争"と呼ばれる、実に10年以上にわたる苦痛にみちた戦いの歴史があつたのである。

■10年戦争
 "オゾン戦争"は、1970年、いくぶん変わり者のイギリスの科学者が、大気圏内のフロン量を測定しようとしたときにはじまる(L・ドット&H・シツフ『オゾン戦争』社会思想社)。その測定は、彼の妻が生活費から捻出した資金で行われていた。
 彼らは当時、「この純然たる科学分野での慎ましい投資が、冷媒やスプレーを製造する巨大企業を脅かし、最大の環境論争の口火を切ることになるとは、知る由もなかった…」のである。
 こうした測定が進められるにつれて、他の科学者たちによりフロンが分解されずに上空高く舞い上がり、オゾン層の破壊につながっている可能性があるという問題提起へと発展していったのである。
 こうした問題提起に対し、その内容は別として、デュポン社は敏速に反応している。デュポンの創業者のE・I・デュポンは、第二次大戦下にあって火薬製造で財を成し、いわば"死の商人"として出発した。だが、死の商人は、特需によって一時的には巨利を獲得できても、その利益は長くは続かないことを、身を持って知っていた彼は、技術開発力をテコに、ファイバーやプラスチック、農薬といった平和産業へ見事に転換していく。その軌跡は、同社の輝かしい歴史を彩っている。そして標榜しだしたのが、"ベターリビング"だった。
 だが、そのデュポン社でさえ、フロン問題への反応は、その輝かしい歴史的・社会的判断にもとづく方向ではなく、その事業を失うことの経済的ダメージを回避しさえすればよいという企業的・経済的判断にもとづく方向へ向けられたのだった。
 同社は間髪を入れずに、企業内の科学者や技術者を集め、問題提起に対するアンチ・キャンペーンを強力に打ち出していく。「フロンは、オゾン層を破壊していない。それは科学的に何ら実証されていない。無罪である」と。
 しかし、1970年代のアメリカの環境運動の盛り上がりは強靭で、次第に同社は追いつめられていく。そのため同社の対応も、「たとえフロンによるオゾン層破壊が本当だとしても、フロンの効用はそれ以上に大きい」「現実に、その効用を享受している消費者、雇用者は多い。少なくとも、今すぐにはフロン製造を禁ずべきではない」と徐々に後退していく。
 同社が屈したのは、1980年代に入り、観測技術が進歩して、オゾン層が人類にとって、きわめてクリティカルな「状況」になっていることが、人々の目にはっきりと見えるようになってからである。 "ベターリビング"を標榜する同社でさえ、"ベタービジネス"を超えることがいかに困難かを、この"戦争"の歴史は示唆している。

■海洋の彼方に
 地球環境問題の古典となった「沈黙の春」の著者レイチェル・力?ソシは、海洋生物学を専攻する女性だった。彼女は、海を見ていた。海を見ることによって、人間の生命や生活、地球生物の本質がそこにあると思っていたに違いない。
 その彼女が、"オゾン戦争"に先立つ1962年、地球の危機を感じて、「沈黙の春」を書く。「どうしてもこの本を書かなければ」という想いに彼女を駆りたてたもの。それは、東西の冷戦、あるいは世界大戦よりもずっと深刻な、人類にとってのいわば「最終戦争」とでも表現すべき「生命存続の危機への予感」だったのではないか。産業革命に端を発する近代経済成長、近代生活を支えてきた自由な企業間競争のメカニズムと、地球環境との間の「戦いのはじまり」だった。
 かりに、こうした"予感"を安易に認めれば、すぐにも存立を脅かされる企業は少なくない。またデュポンのような大企業組織では、たとえ一人ひとりの企業人が、その危機を理解したとしても、それを組織全体としてのカヘと高めていくことは、かなり難しい。
 それに"オゾン戦争"でも、当初から「状況」が完全に見えていたわけではなかった。「状況」の見えにくさは、戦争の常である。しかし、すべての戦争がそうであるように、戦争の恐ろしさは、状況が見えてからではもう遅いのである。
 大量の農薬散布に対してどんなに警告が発せられ、危機が予感されたれとしても、その「状況」を知り、行動を起こす「仕組み」を欠いた世界では、行動を起こすことは困難である。組織が高度に専門分化し、複雑に張りめぐらされた現代の大企業の意思決定メカニズムは、だれにとっても、ほとんどブラックボックス化してきている。
 しかし、情報の面からいえば、事態の行く末が一番見えていたのは、間違いなくデュポンだったというべきであろう。同社ほどフロンに関する情報を多く保有していた組織はなかったはずだ。それに比べれば、問題提起を重ねた科学者たちのもつ情報など、どれほどのものであっただろう。
 同社が当初から、問題提起した科学者たちと共に、同じ視点に立って、謙虚に「状況」を徹底的に究明していたならば、「決断」に至る終戦を正確に予測できていたであろうし、その時期もずっと早まっていただろう。
 にもかかわらず、輝かしい歴史をもつデュポンでさえ、苦痛にみちた戦争を惹き起こさざるを得なかったとすれば、それはすでに、ひとりデュポン社だけの問題を超えていよう。
 工業化のもつ規模・時間・カネといった定量的指向性の強い論理、スピード・リズム感と、地球環境や生態のもつ論理、スピード・リズム感の乖離は、すでに私たち一人ひとりの手を離れてしまっている。
 その意味で、問題の根はきわめて深く、私は結論を急ごうとは思わない。私たちの生活を支えている企業メカニズムを即座に廃止することなど、だれが望めようか。
 だが、そのあり方を問い直すことならば、決して遅くはない。