〔もうひとつの生き方の発見/2〕

古代ギリシアを楽しむパウサニアス・ジャパン

ささやかなパトロネージへの参加

         

●旅は新しいテーマとの出会い

 会社を辞めてから始めたことのひとつに海外の遺跡まわりがある。エジプトから始まっ

て、ギリシア、トルコ、ローマなど、いくつかの遺跡を女房や家族とまわりだした。と言

っても、年に1回行けるかどうかという程度のことだが、遺跡との出会いに加えて、いつ

も必ず新しいテーマや魅力的な人との出会いがあり、私の人生には大きな影響を与える結

果になっている。旅は世界を広げてくれるだけではなく、さまざまな物語を生み出してく

れるものだ。今回はそこから始まった物語のひとつを紹介しよう。

 ギリシアを訪れたのは1994年だった。その前年、夕日の美しさで有名なスニオン岬に火

事があり、岬の先端にあるポセイドン神殿の周辺は無残な焼け野原になっていた。

 スニオン岬からの帰路、女房がこの焼け野に桜の木を植えたらどうかと言いだした。桜

の木はともかく、この素晴らしい遺跡たちの環境を整えるために何かできたらどんなにう

れしいことだろう。帰国後、桜の木についてギリシア政府観光局に問い合わせたり、何か

できることがないか考え始めたのだが、その話を聞いた知人がギリシアのことなら是非こ

の人に会ったらどうかと引き合わせてくれたのが吉田行雄さんである。

 吉田行雄さんは高校生の頃からの古代ギリシアの熱狂的なファンだった。会社に入って

からもその思いは止むことなく、定年に近づくにつれてますますギリシア熱が高まり、つ

いに定年を待てずに早期退職してギリシアの会づくりの準備を進めていた。にわかギリシ

アファンの私にひとわたりギリシア讃美論を語らせた上で、吉田さんは「ギリシアのため

にできることがあります」と切り出した。それがパウサニアス・ジャパンという会の構想

だった。

 

●古代ギリシア研究へのパトロネージ

 古代ギリシア文明は人類の至高の財産である。人類がいま直面しているさまざまな問題

も、すべてそこで語られていると言ってもいい。そこから学ぶことはたくさんあるし、学

ぶべきこともたくさんある。そこで、古代ギリシアを研究する人たちをささやかに支援さ

せてもらいながら、自分たちも古代ギリシアを楽しんだらどうだろうか。それはきっと古

代ギリシアにも今のギリシアにも、さらには人類の未来にも価値のあることなのではない

だろうか。それが吉田さんの思いだった。にわかギリシアファンの私は、幸せそうに語る

吉田さんの言葉にすっかり共鳴してしまい、その会づくりに参加することになった。

 毎年、会員がそれぞれ1万円ずつを拠出し、ギリシア訪問を希望している研究者を支援

していこうというのが吉田さんの考えだった。会員が増えてくれば、ギリシアからも研究

者を呼べるかもしれない。そうした活動を通して、古代ギリシアの研究にささやかな貢献

ができるかもしれないし、日本とギリシアの関係を深める一助になるかもしれない。文化

へのパトロネージというとおこがましいが、会員はちょっぴりそうした気分も味わえるし、

最先端の研究成果にも触れることができるだろう。こうしたパトロネージ精神を組み込

むことで、単なる古代ギリシアの勉強会とは一味違った集まりになるはずだと吉田さんは

考えていた。

 会の名前もすでに吉田さんが考えていた。「パウサニアス・ジャパン」である。2世紀

のギリシアの大旅行家パウサニアスの名前に由来している。パウサニアスは当時のギリシ

ア各地をくまなく現地取材し、全10巻におよぶ大著『ギリシア案内記』を残しているが、

この本のおかげで近年発掘された古代遺跡の多くのものが特定できたといわれるほどに歴

史的価値のある作品である。しかも、この本は単なる物見遊山ガイドではない。ローマ支

配下にあって本当の自由を失っているギリシア人同胞のために「古代ギリシアの精神」を

伝えたいというパウサニアスの思いが行間から伝わってくるような、メッセージのある本

でもある。日本でも全巻翻訳されて出版されている。

 

●パウサニアス・ジャパンの発足

 会は1995年2月にスタートした。吉田さんの構想に共感した人たちが10名ほど集まって、

一応の会則や事業活動も決めたが、基本的には「開かれたゆるやかな組織」というスタイ

ルをとることになった。興味を持った人が気楽に集まり楽しめる場になることが、会の存

続には不可欠である。特にささやかなパトロネージ活動は継続してこそ意味がある。

  「パウサニアス・ジャパン」という魅力的な名前とささやかなパトロネージという趣旨

がよかったのか、その後会員も増え、現在は50名近くなっている。「ささやかなパトロネ

ージ」に対する反応が思った以上に支持者が多かったのは、うれしいことだった。

 会員は古代ギリシアにとりわけ関心があった人だけではない。むしろ入会後に古代ギリ

シアの勉強を始めた人のほうが多い。パトロネージ活動に共感して参加した人も少なくな

い。会員は20代から60代まで幅広く、立場も仕事も多様である。定年で会社を辞められた

方の参加も多いが、会社現役の方も少なくない。もちろん一番元気なのは熟年の女性たち

である。夫婦会員も何組かいる。少数派であるが、若い人も参加している。

  毎月例会(サロン)を東京と大船で開いているが、そこでの話題も専門的な話から旅行

報告まで多彩である。やわらかな組織のおかげで会員以外の参加者も時々まぎれこんでく

るし、時にはゲストの話もある。ギリシアに行ってきた会員がギリシア・ワインを持ち込

むこともある。サロンという名が示す通りの気楽な集まりである。

 サロンはまた会員の研究成果の発表の場でもある。ルールの上では、会員はそれぞれ自

分のテーマを見つけて研究をすることになっている。成果は「レポート」の形でまとめら

れて会員に配付される。研究などというと堅苦しくなるが、サロンを楽しんでいるうちに

何かのテーマにぶつかったら、それを少し調べてみんなに発表してみようという程度のこ

とである。しかし、なかには「本格的」にテーマに取り組む人もいる。古代ギリシアの食

文化をテーマにしたある会員は、研究熱が高まりついにギリシアに現地調査に(食を楽し

みに?)行ってきたし、発展して日本エーゲ海学会に参加する会員も増えている。

 怠惰な会員(私もそのひとりだが)もサロンに参加するだけでそれなりの古代ギリシア

通になれるが、みんなだんだんと自分のテーマを見つけたくなるようである。学ぶことの

楽しさを思い出すのかもしれない。楽しみながら研究を進められるという意味では、この

会は「学会」ならぬ「楽会」と言ってもいい。

 楽しみながら学べることは古代ギリシアのことだけではない。世代を超えたサロンの参

加者から学びあえることは少なくない。しかも出会いはそれだけではない。

 

●ホメロスに惚れ込んだ明神さんとの出会い

  この会の特徴は「ささやかなパトロネージ」にあるが、パトロネージの相手を探すのは

そう簡単な話ではない。私たちができる「ささやかさ」を考えれば相手にも迷惑をかける

ことになるからである。一方、仮に「ささやか」であるとしても、パトロネージした側は

「支援してやった」という意識をどうしても否定しきれない。そこを克服していかないと、

パトロネージは続かない。

 大仰に聞こえるかもしれないが、パトロネージすることは自らの生き方を問い直すこと

でもある。パトロネージした恩恵を一番受けていくのは、実は自分なのだが、それに気づ

くまでには時間がかかる。したがって的確な仕組みをつくらないと双方共に気まずい思い

をすることになりかねない。これは最近広がっている「ボランティア」にも言えることだ

ろう。「善意」だけで解決するものではない。

 実際には支援対象の候補者を大学の先生方に推薦してもらい、その中から会員の話し合

いで決めさせていただいている。当然の事だが、支援するのではなく支援させていただく

わけだから、条件は一切つけない。

 昨年は、古代ギリシアの詩人ホメロスの研究家で、その作品『イリアス』の朗誦をライ

フワークにしている明神聡さんのギリシア行きを支援させていただいた。明神さんはホメ

ロスに惚れ込んで人生を過ごしている54歳(昨年)の「幸せな人」である。

 明神さんが古代ギリシアの虜になったのは大学に入ってからだというが、3年の時に東

大ギリシア悲劇研究会に参加し、それがホメロスにのめりこむ契機になったようだ。以来、

ホメロスとは別れがたく、ここまで来てしまったという方である。今でも毎朝、自宅近

くの多摩墓地で『イリアス』の朗誦の練習をしているという。大学の先生方からも「古代

ギリシア語でホメロスを朗誦できる人は世界でも明神さんだけではないか」と高い評価を

受けている。残念ながら昨今の状況ではホメロスの朗誦だけではおそらく生計をたてるの

は難しく、ご苦労も多いのではないかと思われるが、ホメロスについて語る時の明神さん

の顔は幸せそのものである。テーマを持ち続けている人はいくつになっても輝いている。

 

 明神さんはホメロスを通して古代ギリシアに関しては隅々まで知り尽くしているが、ま

だギリシアを訪問したことがなかった。そこで,私たちのささやかな支援を申し出たとこ

ろ、快く1か月ほどギリシアに行っていただけることになった。出発の前に例会のサロン

で『イリアス』を朗誦していただいた。古代ギリシア語のため全く意味不明だったが、明

神さんの世界に少しだけ入れてもらえたせいか、とても贅沢な気分になれたのは不思議で

ある。明神さんという人に出会えただけでも、パトロネージは自分にもどってくることが

よくわかる。仏教で言われる「他利自利円満」(他の人へのお役立ちが結局は自分の幸せ

につながる)とはこのことなのだろうか。

 

●「お役立ちの喜び」が人を輝かせる

 パウサニアス・ジャパンにも輝いている人たちがたくさん集まっていることは言うまで

もない。とりわけ定年退職された方々はみんな好奇心旺盛で、さまざまな活動をしている

人が多い。環境問題に取り組んだり、定年退職後改めて英検に挑戦したり、世界はむしろ

現役時代よりも広がっているようだ。定年後、ギリシア関係の書籍だけを扱う書店を開い

た人もいる。さまざまな生き方と触れ合うこともまた、この会の魅力のひとつである。

 その中でもとりわけ輝いているのが、発案者の吉田さんである。吉田さんがギリシアを

語る時の顔は明神さんに勝るとも劣らない。その幸せそうな顔が、さまざまな思いを持っ

た会員を包み込んでくれている。古代ギリシアに関する知識のまだ少ない私たちに、巧み

に刺激を与え、その気になった会員には研究の手ほどきもしてくれる。そのおかげでテー

マを持つ会員も増えてきているが、パウサニアス・ジャパンが少しずつ広がりを見せてい

る理由はもうひとつあるように思われる。

 それは「ささやかなパトロネージ」の精神である。人類の財産である古代ギリシアの研

究にささやかな支援をするという「お役立ちの喜び」が会員の意識に大きな影響を与えて

いることは間違いない。会員の輝きも、もしかするとそれと無縁ではないかもしれない。

お役立ちすることは、人を輝かせる重要な要素なのだろう。

 

 遺跡まわりから始まった物語は他にもいくつかある。昨年訪問したトルコからも、ひと

つのテーマが生まれている。親日感情の強いトルコでは日本語学習がブームのようだが、

日本にやってくることは経済的にもなかなか難しい。そこで、パウサニアス・ジャパンと

は逆に、今度は会員のカンパで毎年、トルコの若者を日本に招待しホームステイしてもら

えるような仕組みができないかと思っている。わずかながら賛同者も出始めている。

 来年はメキシコに行きたいと思っているが、そこではどんなテーマと出会えるだろうか。

そしてどんな物語が始まるのだろうか。

 

月刊シニアプラン:1996年9月号

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