新しい経済を考えるメモ(未完:ブログ連載中)
イタリアの小さな村に刺激されてブログに書いたシリーズです。
〔序〕誠実な生き方(2015年1月15日)
私の好きなテレビ番組「小さな村の物語
イタリア」の190話のことを挽歌に2回ほど書きましたが、その最後に、「誠実な生き方」という言葉を使い、それに関しては時評編で書くと予告してしまいました。
それを読んだ読者から、楽しみにしているというメールをもらいました。
番組を見ていた時には、71歳のロレンツォ・パルマーノの生き方に、私とは比べようもないほどの誠実さを感じたのですが、改めてそれについて書こうと思ったら、なかなか考えがまとまりません。
しかし、メールをもらったからには書かなければいけません。
さてさて困ったものです。
しかし、ロレンツォの生き方から私たちが学べることは多いと思います。
たとえば、こんな生き方です。
ロレンツォは、挽歌に書きましたが、狩りが趣味です。
猟犬を数匹飼っており、もう年老いて猟ができない老犬も2匹います。
彼らの食事づくりも、ロレンツォの仕事です。
愛犬の食事が終わると、なぜかまた別の食事づくりです。
そしてそれを畑の外に置きに行きます。
実は森にいるシカが畑を荒らさないように、畑の外に食事を置いておくのです。
私はイスラム過激派への抗議のデモを思い出しました。
ロレンツォの態度とあまりにも違います。
シカに畑を荒らされるのは、ロレンツォにとっても嫌なことでしょう。
だからと言って、畑に網をめぐらすわけではありません。
もちろん抗議デモをして、行政に解決を求めるわけでもありません。
その代わりに、森に食べ物がなくなってしまったシカのために、わざわざ食事をつくって提供してやっているのです。
ナレーションでは、「自然へのレスペクトを忘れない」と語られていました。
レスペクトは感謝に通じます。
自分に禍をもたらすように見えるものにも感謝する。
私が最近、「誠実」と感ずる生き方は、こんな生き方かもしれません。
パリの市民たちには、こうした誠実さがありません。
イスラム過激派と言われている人たちも、好きこのんで暴挙に出たわけではないでしょう。
追い詰められて、これ以上、生きてはいられなくなっての暴挙かもしれません。
もしそうなら、「敵」(もしいるとしたらですが)はほかにいる。
むしろ一緒になって解決策を考えるのが、私が考える「誠実な取り組み」です。
「対立」は、誠実の欠如から生まれるのかもしれません。
暴挙には屈しないと声高に叫んで、あえて風刺画を再掲するような行為は、相手の思いを逆なでするだけで、言論の自由を大切にする姿勢とは思えません。
ロレンツォの行動とパリ市民の行動は、私には真反対に感じられます。
ちなみに、ロレンツォの誠実さは、シカや自然に対してだけではないでしょう。
だからバールの最終日に、谷間中の人たちが来てくれたのでしょう。
誠実さは、いつも幸せをもたらすのです。
私のお別れ会にはどれほどの人たちが、自発的に行こうと思ってくれるでしょうか。
ついでに、同じ番組に出てきた91歳の木工職人ルイージ・スクレムさんの言葉も紹介しておきたいと思います。
彼はこう語っています。
人生、誠実に仕事をすることが大切です。
支払いもなんでもごまかすことはしてはいけないんです。
そうすれば大きな問題なく、毎晩いい眠りにつける。
稼ぎは少なくても、安心できて心おだやかなのが一番です。
私が誠実に生きていないことの証は、時々、いい眠りにつけないことです。
誰かをごまかすことはしていないつもりですが、ルイージには遠く及ばない生き方なのでしょう。
反省しなければいけません。
〔1〕一緒に生きている社会(2015年1月16日)
昨日、書いた「誠実な生き方」につなげて、しばらく「新しい経済」に関して書くことにします。
昨日、韓国で暮らしている佐々木夫妻にお会いしました。
雑談の中で、私が百済と新羅の文化圏では今も何か違いがありますか、と質問したのですが、やはり違いはあるそうです。
そして、こんなことを教えてもらいました。
百済のあった朝鮮半島南西部の全羅道は豊かな穀倉に恵まれていたので、食べ物には困らず、住民たちは誰にでも食べ物を振る舞い、そのため、食堂がなかったのだそうです。
いまでも「食は全羅道」と言われているそうです。
今は食堂もたくさんありますが、ソウルとは出てくる量や味がずいぶん違うそうです。
とても興味深い話です。
以前、水俣に行った時に、水俣病が引き起こした地域問題の解決に尽力した吉本さんのお宅に泊めてもらいました。
朝、寝坊してしまったのですが、起きたら誰もいません。
食事するところには朝食が用意されていて、勝手にご飯をおひつからよそって食べた記憶があります。
食べていたら、誰かが来たような気もします。
もちろん鍵はあいていて、誰でもが勝手に入ってきてご飯を食べられるようになっていました。
私の勝手な記憶違いかもしれませんが、たしかそんな文化がまだ残っていたような気がします。
ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、1943年のベンガル飢饉を分析し、実際には、飢饉発生時には飢饉以前よりも多くの食糧生産量があったことを証明しました。
要するに、その食料が適切に配分されなかったために大飢饉が起こったのです。
飢饉は食料不足から起こるだけではなく、経済や社会の仕組みからも起こるのです。
これは、全体の経済成長と個々人の生活とは決して比例関係にはないことを示唆しています。
昔の全羅道や水俣のような社会では、食事に関しては金銭のやり取りはありません。
つまり現在の経済基準では、経済成長はおろか、低所得の貧困地域にみなされかねません。
しかしお金が流通していなくと、豊かさは実在するのです。
自然からの恵みは、たとえそれを得るために特定の個人が汗をかく必要がありますが、基本はみんなのものという認識があれば、いまとは違った経済が育っていくはずです。
全羅道や水俣の話、あるいはセンの主張は、それを示唆しているように思います。
〔2〕自分に禍をもたらすように見えるものにも感謝する(2015年1月17日)
コメリアンス村のロレンツォは、自分の畑の野菜を荒らしに来る野生のシカに、野菜を荒らさないでほしいと畑の外側にエサを置いています。
それは、荒らされないための防衛策だと考えることもできますが、野菜を与えてくれる自然への感謝の思いを込めたお返しとも考えられます。
皆さんはどうお考えでしょうか。
私は、ロレンツォの心情は後者だと思います。
自然とともに生きている人たちは、自然の恵みは自分だけのものではなく、みんなものと自然に考えているだろうと思うからです。
日本でも農家の人たちはできた野菜を通りがかりの人にまであげてしまうことを私も体験しています。
そこに、私は2つの深い意味を感じます。
まずひとつは、自然の恵みは独占してはいけないということです。
たしかにそれを収穫するために、個人的にも大きな努力をしたでしょう。
しかし、努力すれば収穫できたわけでもありません。
自然の恵みがあればこその収穫です。
そういうことをきちんと知っているのだろうと思います。
水俣の芦北で漁業をやっている緒方さんは、海の魚はまさに自然の恵みであり、
昔は漁師はとってきた魚を村中に配ったといいます。
もう一つは、災いを与えるものも含めて社会は構成されているということです。
災いかどうかは、受け取り方次第です。
シカは確かに畑を荒らしますが、シカも生態系の重要な一員です。
シカがいればこそ、自然の循環環境は守られているのです。
私たちは、目先の損得で考えてきた結果、いまのような不安定な世界になったのかもしれません。
「災いを与えるものも含めて社会は構成されている」という考えを、私たちは強く持つべきでしょう。
ロレンツォは、本能的にそのことを知っているのでしょう。
いやロレンツォに限りません。
自然とともに生きている人たちは、たぶんそのことを知っているはずです。
そして、そう考えている人は、決して、相手の存在を否定はしないでしょう。
そうであれば、パリの反イスラムデモは起きるはずもない。
反ユダヤ主義も在特会のようなヘイトスピーチデモも起きないはずです。
最近、多様性が大切だと盛んに言われています。
しかし本当に多様性が大切だと思い、行動している人はどれほどいるか。
もっとロレンツォから、私たちは学ばなければいけません。
〔3〕マイナス面から考える経済(2015年1月17日)
ロレンツォの話をもう一度書きます。
ロレンツォの趣味は狩りです。
畑の外側に、シカのために餌をつくって置いておくようなことをしながら、一方では時々、森に行ってシカを撃つのです。
これをどう理解すればいいでしょうか。
それぞれを別々に考えると矛盾するように思いますが、たぶんそれはセットのものなのでしょう。
つまり、関係性の中にはそれぞれにとってプラス面もあればマイナス面もあるということです。
どちらか一方にしか価値が流れない関係は、収奪か犠牲でしかありません。
それでは関係は持続しません。
持続する関係とは、プラス(利益)もマイナス(負担)も双方向に流れ合っている関係だろうと思います。
言い方を変えれば、プラスもマイナスも、同じコインの裏表かもしれません。
それは薬を考えればよくわかります。
どんな良薬も、マイナスの副作用を持たないものは、たぶんないでしょう。
効果が大きいものほど、劇薬性を持つものです。
昨今、私たちは商品のプラス面だけに着目しがちです。
つまり「プラス面しか考えない経済」になっているわけです。
「不足の時代」はそれでもよかったかもしれませんが、いまのような「過剰の時代」には、プラスの効用よりもマイナスの弊害の方が大切になってきているように思います。
関係性全体を、あるいは社会全体を、ホリスティックに考えていくことも大切です。
昨日も農業に造詣の深い方とお会いしたのですが、その人は農業は土から収奪するのではなく、土と一緒に育っていかないといけないということを話してくれました。
野菜を育てるために土の養分をもらう代わりに、土の健全性を維持し育てるために、土にもきちんとお返しをしていかねばいけないということです。
しかし、それは大量の化学肥料を施すということではありません。
それはますます土を死に追いやることになるからです。
化学肥料はプラス面もありますが、じわじわと土のいのちをむしばんでいく劇薬でもあるからです。
プラスだけを見てしまうと、マイナス面が見えなくなってしまうわけです。
農業に限らず、そうしたプラス面だけをみながらの経済が、あるいは生活が、社会を覆いだしているような気がしてなりません。
もっとマイナス面から考える経済があってもいいように思います。
〔4〕経済成長のための企業か社会をよくするための企業か(2015年1月19日)
現在の経済活動を主導しているのは、企業と言っていいでしょう。
その企業の目的はなんでしょうか。
私が会社に入った時に、会社の経営者から聞いた言葉のひとつは、雇用の場を増やしていくことでした。
松下幸之助は、松下電器は家電製品だけではなく、人をつくる会社だと言っていました。
また、水道の蛇口から出てくる水のように、低価格で良質なものを大量供給することでみんなの生活を豊かにしたいという「水道哲学」を松下幸之助は唱えていました。
当時、いずれにも、私は共感していました。
私が、経営者に違和感を持ち出したのは、1980年前後からです。
それにしても、最近の企業の経営者は何を目的にしているのでしょうか。
いとも簡単に従業員を解雇し、会社は、人をつくるどころか、人を壊す場所になってきています。
多くの経営者が考えているのは、目先の利益であり、経済成長への寄与だけのような気もします。
経済成長への寄与が、会社の目的になったようにすら感じます。
日本企業の統治スタイル(コーポレート・ガバナンス)の変質の結果が、それを加速させました。
経済は、本来は「経世済民」といわれるように、社会のため人々の生活のためのものでした。
そのために経済の健全な(社会や生活に役立つ)成長が大切だったのです。
しかし、いつの間にか、その手段や結果であった「経済成長」が目的になってきました。
そして、成長をはかる基準は「金銭」になっていきます。
「金銭経済成長至上主義」「マネタリーエコノミクス」です。
金銭を介さない活動は、価値を失い、金銭を得ることだけが「仕事」と評価されるようになり、女性たちもまた「社会進出」という名目で、金銭市場に取り込まれてきたわけです。
次第に、経済成長と社会の豊かさとは切り離され、社会全体の「汎市場化」が進みます。
つまり、生活や文化が「市場化」され、社会を壊すことで経済成長が実現していくようになっていきます。
その結果、経済成長も壁にぶつかることになるでしょう。
そうした事例は私たちのまわりにいくらでもあります。
地方の荒廃の原因の多くは、その結果です。
こういうことに関しては、このブログでも何回も書いてきていますし、私自身、そうした経済スキームから少しずつ抜け出す生き方に変えてきていますが、そう簡単には抜けられません。
先日も九州の友人が、夫婦2人であれば、月に10万円もあれば豊かに暮らせると話してくれました。
その友人は、いまはその数倍の収入を得ていますが、一度そういう生活に慣れてしまうと、なかなか10万円生活には移れないのも事実です。
経済や企業の変化は、人々の生活や文化、そして意識を変えてきてしまっています。
しかし、金銭経済成長はそろそろ限界にきているような気がします。
どこから変えていくかは難しいですが、まずは可能な範囲で、それぞれが生き方を変えることから始めないと流れは反転できないように思います。
逆に、そうしようと思えば、個人にもできることはたくさんあるように思います。
〔5〕トリクルダウンの逆再配分機能(2015年2月6日)
この間、「21世紀の資本」の著者のトマ・ピケティが日本に来て話題づくりをしていきました。
ピケティは、膨大なデータ解析の結果、格差の問題の根底に、「資本収益率は経済成長率よりも大きい」ことを発見し、このまま放置していたら格差は構造的にっさらに拡大すると指摘したのです。
何をいまさらという気もしますが、格差の拡大が資本主義さえも危うくするということを経済学者が明言したことには大きな意味があります。
前回も少し言及しましたが、たとえば「トリクルダウン」についてもう一度考えてみましょう。
トリクルダウンのイメージは、シャンペングラスをピラミッドのように積み上げ、その最上部のグラスにシャンペンを注いでいくと、あふれたシャンペンが次々と下の階層のグラスを満たしていくイメージでとらえていいでしょう。
ここには2つの問題があります。
第1は、グラスの大きさの問題です。
上部のグラスほど、大きいと考えていいでしょうが、そのためピラミッドとしては不安定な構造になります。
上があまりに大きくなりすぎると、ピクティが危惧しているように、社会は壊れます。第2は、上から注ぎ込むシャンペンはどこから持ってくるのかという問題です。
現実には、シャンペンを作っているのは一番最下層なのかもしれません。
しかし、それでも限界はあるでしょう。
もしかしたら、シャンペングラスピラミッドの世界の外部から持ってきたのかもしれません。
ピラミッド内部の下層からすくいあげて、上から注ぐとすれば、結局、下層にいる人たちは、自らが生み出した富、あるいは保有している富の一部しか取り戻せないということです。
となれば、トリクルダウンとは、富の再配分システムではなく、逆再配分システムということになります。
さらに、ピラミッド内部ではなく外部から取り込んでくるとすれば、それは外部からの富の収奪でしかありません。
これもまた「南北問題」という形でかつて大きな問題になったことであり、世界を今のようにゆがめてしまった原因と言うべき、世界レベルでの逆再配分システムです。
さまざまな仕組みで、南北問題は覆い隠されてしまっていますが、実態はますます深刻化し、いま起こっている「イスラム国」問題の遠因も、ここにあるのかもしれません。
現場から吸い上げて、一部を現場に戻すという発想と仕組みは、さまざまな分野に展開されています。
企業の社会貢献活動もその一つです。
あるいは生活保護制度や自立支援制度も、その応用系です。
念のために言えば、それが悪いと言っているわけではなく、そうしたサブシステムをつくっていかないとシャンペングラスピラミッドは崩れてしまいかねないということです。
つまり、資本主義が壊れてしまうということです。
だとしたら、資本主義や社会を壊さないためにも、事態をきちんと捉えなければいけません。
ピケティへの関心が高いのは、そういうことを背景としているとも言われています。
シャンペングラスピラミッドが崩れ去って、一番困るのはピラミッドの上にいる人たちだからです。
トリクルダウンが、きちんと再配分機能を果たしていた時代はあったかもしれません。
しかし、少なくとも今の日本では、逆再配分の仕組みになっているように思います。
トリクルダウン発想で、安直な経済成長を考える経済学からは抜け出なければいけません。
ブログに継続投稿中
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/cat2117434/index.html