1904年の英文小説『Hana』
明治の奇才・村井弦斎の足跡

黒岩比佐子 産経新聞2002年7月20日

 W杯の予選リーグで日本チームがロシア戦に勝ったことを、ロシアの新聞が日露戦争を引き合いに出して報じたという。およそ百年前の1904(明治37)年、極東の小国・日本は大国ロシアに挑み、翌年、勝利を収めて世界を驚嘆させた。
 明治維新後、西洋文明国の仲間入りを目指した日本。しかし、鹿鳴館で社交ダンスを踊る日本人の姿は嘲笑の的となり、日清戦争の際には、三国干渉という形で国際社会の冷徹な現実を思い知らされることになる。
 それから約十年の後、1904年10月に一冊の本が刊行された。タイトルは『Hana――a Daughter of Japan』。中は英文だが、絹布張りの表紙に糸綴じという和装である。挿画の一枚は35回の重ね刷りで、百年近く経っているとは思えないほど色鮮やかで美しい。美術品のようなこの本の著者は村井弦斎、翻訳者は川井運吉と記されている。

 物語は日露戦争を背景に、ヒロインの花子(Hana)とロシアとアメリカの二人の求婚者との関係を軸に展開する。悪の象徴として描かれるロシア人、花子とアメリカ人が結ばれる結末にはさほど目新しさはない。
 しかし、『Hana』が興味深いのは、日露戦争の最中に日本の精神や文化を広報しようという明確な意図が読み取れる点だ。ヒロインは新しい教育を受けた女性であると同時に"サムライ精神"を受け継ぐ娘でもある。彼女は日本赤十字の看護婦に志願して負傷兵の救護をするが、当時の赤十字事業は上流階級の女性中心に組織され、海外へのアピールの一つになっていた。また、日本がロシア人捕虜を手厚く処遇したことは、欧米の新聞などでも報道されているが、同書も捕虜への人道的対応という点を強調している。
 ちなみにオペラ「蝶々夫人」の初演がちょうど1904年。当時の欧米人が抱く日本女性のイメージといえば「ゲイシャ」だったことは否定できない。著者はそれを覆すように、美しくしとやかだが、自分の意見を持ち、世界に目を向ける日本の娘を主人公にしているのである。

 著者の村井弦斎とはいったいどんな人物だろうか。今でこそすっかり忘れられているが、彼は明治の新聞小説家として絶大な人気を誇っていた。1903年に報知新聞に連載された『食道楽』は、単行本が十万部売れたというベストセラーである。しかし、日露戦争後は小説をほとんど書かず「食」の探究にのめりこんでいく。グルメから木食・断食研究へ向かい、仙人のように山中で穴居生活を行ったため、晩年は奇人視された。
 その弦斎が『Hana』を書いた時代、欧米人の日本理解に影響を与えた英文刊行物には、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『日本の覚醒』、イェール大学で教鞭をとっていた朝河貫一の『日露衝突』などがある。
 一方、文学の分野では外国文学の翻訳が多い反面、日本の同時代の小説が海外向けに翻訳された例は数えるほどしかない。『Hana』以前では、最初から英語で書かれた野口米次郎の『日本少女の米国日記』と徳富蘆花の『不如帰』の翻訳がある程度。ロシアに勝った日本への関心が高まる1905年後半から6年にかけて、尾崎紅葉『金色夜叉』、木下尚江『良人の自白』、夏目漱石『吾輩は猫である』、森鴎外『舞姫』が英訳されているにすぎない。
 その中で、弦斎の小説は『Hana』を含む3冊が日露戦争中に英訳されている。しかも、『Hana』は弦斎の自費出版で、刊行後、海外の主要メディアへ送られた。この本が、世界に日露戦争への理解を求めるために書かれたのは間違いない。実際に『Hana』の書評は世界各地の新聞雑誌に掲載されている。イギリスの「タイムズ」「アシニアム」など権威あるメディアが紙面を割いて『Hana』を論評している事実には、少なからず感動を覚えた。

 私は今、この明治の奇才の足跡を辿っているのだが、次々に発見があって興味は尽きない。たとえば、『Hana』のヒロインの父は食物療法で患者を治療するという"食医"。そのため、随所に「食」に関する弦斎の持論が顔を出す。世界の人口が増えると牧草地が不足し、食用肉を供給できなくなる恐れがあるが、広大無辺な海にはその心配がない。未来の食糧危機を防ぐためにも、肉食に偏っている欧米人に、海産物を多く使う日本料理を紹介して世界に貢献しよう、と彼は謳うのである。
 百年前にこうした構想を持ち、「食」の重要性を説いた弦斎。食生活が大きく揺らいでいる現在、改めて彼の先見性が見直されてもいいのではないか。

ノンフィクション作家 黒岩比佐子
昭和33年、東京生まれ。慶應義塾大学卒。
PR会社勤務を経てフリーのライターとして活動。
著書に『音のない記憶』『伝書鳩――もうひとつのIT』。
日本ペンクラブ会員。