■メッセージ6:発想の起点を変えてみましょう〔2002/04/06〕

1995年に日本を訪れたフランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは「日本が豊かなのは日本人が貧しいからかもしれない」と言ったそうです。
経済大国と言われる日本でも、そこに住んでいる人たちの生活というのは本当に豊かなのかどうかということはたいへん疑問です。

私は二つの豊かさモデルがあると考えています。
一つは「全体が豊かになってこそ個人が豊かになる」という発想です。
日本はこのモデルで豊かさを追求してきました。
まずは個人の欲求を我慢して全体のパイを大きくしようと、みんながんばってきたのです。
個人よりも会社、個人よりも地域社会、個人よりも国家が優先されました。
言い換えれば、全体の豊かさを高める視点で制度や組織が設計されたのです。
そして見事に急速に経済を発展させ、豊かな社会を実現しました。

しかし、そのモデルは限界に来ているようです。
全体から発想していては、もはや全体の豊かささえも高められない状況にきています。

そこで、もう一つのモデルが登場します。
「個人一人ひとりが豊かになってこそ、全体が豊かになる」。
ボードリヤールのフランスはこうした発想が根底にあるのかもしれません。

この二つのモデルで考えると様々なものの問題点と解決策が見えてきます。
企業も行政も学校も地域社会も、変革が求められていますが、それに成功していないのはこうした基本的な視点を変えていないからかもしれません。
全体から考えるのではなく、個人から考えれば、簡単に解決策は見えてくるはずです。
家庭も同じかもしれません。

和歌山県の「きのくに子どもの村学園」は生き生きした学校として注目されていますが、その基本にあるのは「学校に子供を合わせるのではなく、子供に学校を合わせるのだ」というニイルの教育理念だそうです。
全体の視点から考えるのではなく、個人の視点から考えるということは、そういうことです。
言葉で言うのは簡単ですが、しっかりしたリーダーシップや真の意味のマネジメントがなければ混乱してしまうでしょう。

企業も同じことです。
経済同友会などが「個の尊重」などと盛んに言っていたことがありますが、実際にそうした方針で会社を経営した大企業を私は寡聞にして知りません。
それだけのパワーを持っていた経営者は最近の日本にはおそらくいなかったでしょう。
日本の大企業は、この数十年、護送集団方式などというわけのわからない仕組みの中で、本来的な経営などしなくても会社は成長したのです。
官僚も教師もそうだったのかもしれません。
昨今の状況を見れば、それは否定できない事実です。

しかしこれからはそうはいきません。
ようやく経営が求められだしたのです。
それは視点が個人に移ったからです。
労働力ではなく、表情をもった個人をどう束ねていくか、実に面白い時代になってきました。

みなさん、会社に使われていませんか。
組織や制度に振り回されていませんか。
会社も組織も制度も、私たちが使い込むものです。
主役は私たち一人ひとりです。
会社や組織や制度を使い込んで、それらの価値を高めていかねばなりません。

もちろん組織を使い込むということは、外務省の官僚たちのような卑しい行動を指しているわけではありません。
言わずもがななことですが。