■ メッセージ5:最近の裁判には違和感はありませんか〔2002/2/16〕

山口県光市の母子殺人事件の控訴審判決が出ました。無期懲役です。その判決に対する被告の家族の本村さんのコメントを皆さんはテレビで観たでしょうか。とても共感できます。と同時に、私は裁判というものに対する違和感をますます強めています。

司法に対する違和感を感じ出したのは、オウム事件の頃からです。こんな裁判のあり方では、社会から「規範性」というものがどんどんなくなってしまうのではないかと思うほどです。裁判とは一体何なのか、いのちを尊重するとはいったい何なのか、どこかで何かが間違っているような気がします。

私も一応、大学では法律を学びました。検事になりたかったのです。死刑には反対でした。人道上の理由ではありません。生命を人為的に絶つという行為が、殺人と同値に思えたからです。その理由で戦争も、私には理解しがたい行為でした。国家の平和と個人の平和は決して両立しないのではないかと思っていました。聖戦などという発想は私の理解を超えていました。

しかし、最近はかなり考えが変わりました。
もし皆さんが本村洋さんの立場におかれたらどうでしょうか。私なら、彼ほどには冷静にはなれないでしょう。おそらく「報復」を考えます。批難されるでしょうが、それが正直な気持ちです。その気持ちを納得させてくれる仕組みを、今の司法は持っていないように思います。 被害者側の人権が、今の司法では十分守られているとは思いにくいのですが、皆さんはどうでしょうか。そうしたことは、これまでも被害者側から盛んに指摘されていますが、自分がまだ被害者の立場におかれたことがないせいか、私はこれまでまじめに考えてきませんでした。それにやっと気がつきました。恥ずかしい話です。

ところで、今の裁判はなぜ被害者に冷たいのでしょうか。法や制度の不整備ではないはずです。私は裁判に関わる人たちの目線と心の問題だと思います。判事たちは判決をする時、本村さんの立場に立って考えてみたのでしょうか。もしご自身の家族が同じ目にあった時に、この判決で納得できるでしょうか。

私は死刑にすべきだなどと言っているのではありません。無期懲役でもいいのですが、不思議なことに無期懲役は必ずしも無期懲役ではないらしいのも、どうも納得できません。それはともかく、本村さんに信頼を与える判決を出せなかったことに不満を感じます。それでは裁判の規範性は維持できません。判決は死刑でなくとも、それは可能だったはずです。

最近、私の友人が突然夫から離婚宣告を受けました。夫は女性弁護士と同棲し始め、一方的な離婚の申し入れだったらしいです。訴訟になりました。ところが、相手が弁護士だったこともあり、わが友人は信じられない状況で裁判を進めなければならなくなっているようです。仲間意識は法曹界でも強いようです。もちろん例外はあるでしょうが、卑しさを感じます。

今回の事件とは別の話のようですが、同じ問題ではないかと思います。自らとは無縁の時には理念的に、自らの世界につながってくると、途端に利己的に、というところが似ています。卑しいとしかいえません。

それにしても最近の外務省といい、国会議員といい、卑しさを感じざるを得ないことがあまりに多いのが、とても哀しいです。