■ メッセージ4:生活者の素直な感想を大切にしましょう(2002/02/17)
今年のオリンピックで起こった、フィギュアスケート・ペアのフリー演技での「二組の金メダル事件」は、いま世界的に始まっている「真実を露出する事件」の一つとして、実に多くの含意を持つ事件でした。私が一番、元気づけられたことを今回は書かせてもらいます。
今日の日経新聞の春秋からの引用です。
(カナダペアの評価に対して)観客席からブーイングが起きた。(中略)観客席の気持ちは良くわかった。春秋子も「あれっ」と思った。(中略)ロシア金の判定に、素人と玄人の見所は違うのだ、と独り合点したが、"地元"北米のメディアは納得しなかった。
「素人と玄人の見所」が違うことは少なくありません。これはなにもオリンピックの判定だけの話ではありません。
たとえば行政の判断はどうでしょうか。諫早干拓や長良川河口堰にしても、狂牛病対策にしても、地域振興券や市町村合併にしても、なんだかちょっと違うなと思っている人も少なくないと思います。でもまあ、専門家が集まって検討し、決めたことだから間違いはないだろうと思ってしまいがちです。つまり、私たちはそこで思考を停止させてしまい、自分を納得させてしまうのです。
企業ではどうでしょうか。最近の雪印の事件ではおそらく関係者の多くは「素人(生活者)」として「おかしいな」と思っていたはずです。にもかかわらず、企業経営の「玄人(経営管理者)」にいわれるとそんなものかと思考停止してしまったのではないかと思います。そうした状況は雪印に限りません。多くの企業で日常化しているように思います。せめてもの救いは、失敗の責任が問われない行政と違って、企業の場合はしっかりと責任が問われることです。
学校も病院も同じです。「玄人」の先生と「素人」の生徒や患者とでは、意見の違いの行き着く先は明白です。
「素人と玄人の見所」が違ってくる理由は大きくは二つあります。「情報の違い」と「判断基準(視点)の違い」です。
情報の違いはIT革命のおかげで、急速に解消されつつあります。さまざまな分野で最近始まっている「真実の露出」事件はその影響です。情報は本来、拡散する本性を持っていますから、情報共有化は歴史の流れです。組織や制度も大きく変わらなければ、機能不全に陥るでしょう。
そうなると、問題は判断基準(視点)です。素人と玄人の視点、つまり判断基準はどう違うか。情緒的にいえば、心で考えるか頭で考えるか、ではないかと思います。
長くなってしまいましたが、今回、私がメッセージしたいことは、生活感覚から出てくる素直な感想を私たちはもっと大切にしたい、ということです。その感覚がきちんと評価され、歴史を変えていく力を持ち出したのです。
おかしいことをおかしいと言い出しましょう。納得できないことはノーと言いましょう。生活者の常識にもっともっと自信を持って、素直に生きたいと思います。