●企業が変化しはじめた
企業が変わりつつある。社会も変わりつつある。それを象徴する言葉は「文化」だろう。言うまでもなく「文化」は「カルチャー(culture)」の訳語である。「土を耕す」という原点を持つこの言葉が「文化」と訳された途端に土から遠のいてしまったのは、まさに彼我の文化の違いとしか言いようがない。そのせいかわが国では「文化」という言葉がなかなか根づかず、どちらかと言えばあまり良くないイメージを持たれていた時代が最近まで続いていた。
しかし、時代は変わりつつある。政治の時代、経済の時代を経て、いま文化の時代が叫ばれている。文化と遠い存在であった企業も、文化との関わりを深めつつある。いや、それどころではない。営利目的の経済機関を自認していたはずの企業が、自らの文化性を議論しはじめ、単なる経済機関から文化機関へなどと言い出している。
それはいかにも唐突に見えるかもしれないが、実は当然のことなのである。文化の起点が「土を耕す」ことであったとすれば、モノを生産しサービスを提供する行為はまさに文化に通じている。企業が事業を通してやってきたことは文化への提案だったのであり、文化そのものだったのである。「文化」は生活から隔離された様式ではない。抽象的な美の世界にある茶道でさえも、そこには土のにおいが残っている。
企業は本来、文化的存在なのである。経済活動も文化活動なのである。経済と文化は決して対立的な概念ではない。企業も社会も、その当然の事実に気づきはじめた。そして、企業の変化が始まった。
●自閉的企業から開かれた企業へ
これまでの企業は自閉的だった。企業と社会との間には厳格な壁が築かれていた。その背景には経済と文化との勝手な峻別意識があった。社員も労働力としてしか扱われず、社員個々人の生活や文化は軽視され、「一社懸命」に労働することが要請された。その象徴が「企業戦士」なる言葉である。
企業にとって社会はまた、市場でしかなかった。自社の製品やサービスを買ってもらう市場であり、労働力を入手するための労働市場だった。したがって、社会の一員であるという共生意識よりも、市場としての社会から何がとれるかが企業の関心事であった。
こうした自閉性が企業にとって良い結果をもたらした時代もある。物不足を背景とした高度成長の時代には、自閉的であることが組織のパワーを強めたことは否定できない。しかし、自閉的な組織は必ず淀むものである。画一的な価値観が構築され、時代の変化に適応できなくなっていく。自らを社会にどう開いていくか、社会との関係をどう持つべきかが、企業にとって次第に重要な課題になってくる。言い換えれば、企業自身が社会に対して築いていた壁をどうするかである。
自閉的な存在である企業は、社会にとっても次第に気になる存在になってくる。企業の存在や影響力が大きくなるにつれて、企業への関心が高まり、企業に対するディスクロージャーの要請が強まってくる。企業の壁は、内外両面から邪魔な存在となってきたのである。
●新しい広報課題としてのメセナ活動
社会と企業をつなぐパイプが広報部だった。ほとんどの広報部の最初の姿勢は、コンシューマリズムなどの外部での企業関心の高まりへの対応であり、「受け身」で始まったと言ってよい。しかし、次第に積極的な姿勢へと転化し、今や広報は企業にとっての戦略課題にすらなっている。まさに「広報の時代」の到来である。
多くの企業が新たに広報担当部署を設置した。だが現実は、何をやっていいのかわからずに困惑している広報スタッフが少なくない。壁のある企業の広報とは違った役割が期待されているのであり、どう取り組めばいいのかはそう簡単な話ではない。これまでのようなプレス対応型広報を強化すればいいわけではない。
「広報の時代」の背景にあるのは、社会における企業のあり方の問い直しなのである。企業が営利を目的とした経済活動に専念していればいい時代は終わりつつある。「コーポレート・シチズンシップ」というアメリカ的な考えも紹介され、企業も社会の一員として市民意識を持って社会活動や文化活動に取り組むべきだという議論が高まっている。企業と社会との新しい関係づくりを職責とする広報部にとっては、まさに出番と言ってよい。活動の地平は大き
く広がり、新しい戦略課題に囲まれている。
そのひとつが企業メセナ(Mecenat)活動である。メセナという奇妙な言葉の持つ新鮮さとファジーさのためであろうか、この言葉は急速に普及している。昨年二月には企業メセナ協議会も発足した。
企業メセナ協議会の根本専務理事によれば、メセナの語源は芸術擁護に熱心だった古代ローマの政治家メセナスの
名前に由来する。彼は当時の大詩人らを庇護し、芸術の振興に大きく貢献したことから、その名前が文化支援を意味するフランス語として残ったのである。したがって、メセナ活動とは文化支援活動ということになる。
文化支援と言えば、すぐ思い出されるのがメディチ家である。企業メセナ活動もメディチ家の活動と関連して語られることが少なくない。あえてメセナという言葉が使われたことも含めて、そこには企業の文化支援活動の限界が感じられないわけではないが、文化支援がこれからの社会にとって重要なテーマであることは間違いない。
●文化支援の担い手
文化を支援することの重要性は認めるとしても、なぜ企業がそれをしなければならないかということは必ずしも自明の理ではない。
企業メセナ活動が進んでいると言われる欧米においても、企業が登場してきたのはそれほど古いことではない。メディチ家に象徴される王侯貴族の役割は、基本的には国家に引き継がれた。それが、一九七〇年代に始まる大きな政
府から小さな政府への政治の転換の中で、国家は次第に自らの役割を民間に移してきたのである。それを加速したの
がレーガンでありサッチャーであった。最近、ヨーロッパ(一部ではあるが)を回った体験では、今でも「文化支援は国の仕事」という考えは強いが、企業も文化支援に関心を高めているようである。
もちろん文化支援活動の主役は国や企業だけではない。たとえば、米国では文化支援活動(定義が問題なのだが)
の七、八割は個人が行っているという報告もある。ヨーロッパでも個人が行うチャリティ活動やボランティア活動は盛んである。この背景には、おそらくキリスト教の精神と文化や社会との共生を大切にする市民意識の伝統とがある。国家や企業のメセナ活動も、そうした個人の意識と活動に大きく支えられている。欧米企業の文化支援が、単なる金銭的な援助でないことの理由もここにある。
念のために言えば、メセナ活動は欧米の特許ではない。日本にも足利幕府の北山文化や東山文化があるし、ロック
フェラーほどではないが様々な企業メセナ活動も行われている。個人的な篤志家も決して少なくない。ただ、欧米のような個人のチャリティ意識や市民意識は希薄である。
●なぜ企業がメセナ活動をするのか
文化支援と言う時の「文化」とは何か。これに答えることは容易なことではないが、ここで問題になっている「文化」は生活様式というような意味での文化ではない。生活の先端部分としての芸術や学問を指していると言っていい。それらが社会にとって不可欠の活動であることにも異論はないだろう。しかし、なぜそれを企業が支援しなければならないのか。
先端的な文化の創造は、その社会全体にとっての財産である。その成果は長い目でみれば、社会のすべてのメンバ
ーが享受できることになる。しかし、文化創造は評価が難しい上に、効果が出てくるまでには非常に長い時間がかかる。リスクも大きい。そこで、社会としては才能に恵まれた一部の人にその仕事を託することになる。負担は社会すべてで担わなければならない。その意味で国家がその任に当たるのは当然である。メディチ家も足利義満も国家に準
ずる存在として文化と関わったと考えていい。
文化支援に無関心だった為政者もいただろうが、そうした為政者は長期的には社会を弱めるか、自らの立場を弱め
るかして排除されてきたはずである。蛇足ながら、これは社会だけの問題ではなく組織についても当てはまる。つま
り、企業(社内)文化創造への経営者の理解と企業の成長発展とは相関関係があるように思われる。
個人の文化支援活動は各人の理念と関心によって行われるが、これも「市民意識」という社会的視点からの行動と
考えてよい。国家が行う場合にも為政者の価値観が反映されるように、個人の場合にももちろん個人々々の意識が反
映される。そして、国家と個人の活動はおそらく補完と相互補正の関係にあるものと思われる。
こう考えていくと、企業が文化支援に関わる理由はふたつある。まず、国家が資金的にも能力的にも充分な文化支援ができなくなったことである。社会が複雑になるにつれ国家自体の役割やあり方が問われているが、文化支援につ
いても限界が見えてきている。それを補うものとして企業が期待されているのである。社会の中に占める企業の位置
づけが大きくなり、文化に対しても責任を持たなければならなくなったのである。企業は今や最も豊富な資金と人材と情報を手に入れているのだから、それは当然と言ってよい。期待には応えなければならない。
第二の理由は企業サイドにある。社会の成熟化によって事業と文化とが接近してきたのである。自らが活動する社会の方向づけのためにも文化に関わることが重要になってきており、企業としてのメセナ活動は重要な戦略的意味を持ち始めている。
●文化の象徴性の高まり
メセナ活動が企業にとって戦略的意味を持ち始めたことを広報の問題に限って考えてみよう。
芸術や学問は時代を切り開く象徴的な力を持っているばかりでなく、そこに関わるものにもその効果を与えてくれる。地球環境問題をテーマにした芸術活動は人々の環境意識を高め、現実の変化につながっていくが、そうした芸術活動を支援するものの意識とイメージも変えていく。企業はメセナ活動を通して、自らの企業姿勢と事業コンセプトを表現していくことが可能である。
多角化を進め、多様な個性を活性化させる必要に直面している企業は、社外的には企業イメージの向上のために、社内的には社員意識を束ねていくために、企業理念や企業文化の確立を必要としている。メセナ活動は、そうした理
念の具体化や企業文化の象徴として社内外に対する大きな情報発信効果を持っている。つまり、強力なコミュニケーション素材と言っていい。しかも、文化の時代を背景として、支援すべき対象の選択枝は激増しているし、その効果
も飛躍的に高まっている。
こうした見地からすれば、企業が支援する対象が企業理念や企業文化と関係のないものであることは望ましいことではない。メセナ活動は文化の立場に立つべきであり、企業事情は考えるべきではないという意見もあるだろうが、企業が行う以上は企業にとっての意味を考えておくことは当然である。それに、どうせ支援するのならば、その企業
らしい分野に関わっていくことが双方にとって好ましい結果を生むはずである。
広報スタッフとしては、どういう分野に関わっていくか、またその活動をどう社会に知らせていくか、社員をどう巻き込んでいくかを、企業の経営戦略や事業戦略と関連させながら考えていくべきである。新製品や新制度の発表もいいが、文化の時代にはメセナ活動の情報性をしっかりと認識しておく必要がある。
●企業の論理と文化の論理
メセナ活動はコミュニケーション素材であるとしても、それを宣伝の手段にすることは避けなければならない。メセナ活動の目的は文化の育成や支援であって、文化を企業のために消費することではない。メセナ活動が結果として企業宣伝になることはあるだろうが、企業宣伝のためのメセナ活動は本末転倒である。その境界は微妙であるが、企業としては充分わきまえておかなければならない。
文化が事業化される時代である。広告宣伝のために派手な冠つきで文化を支援したり、顧客集めのために文化を活
用したりすることも有効ではあるが、長い目で見れば、それは企業にとっても文化にとってもあまりいい結果は生まないだろう。文化支援のつもりが、その実、文化消費になってしまいかねないのが、この世界である。「文化は資源
である」という指摘は正しいが、資源を浪費してきた企業の論理をしっかりと認識しておかなければならない。 しかし、メセナ活動はあえて隠すべきではないだろう。日本には「隠徳」を良しとする風土があるが、それは必ずしもいいわけではない。自己満足的な美意識は持てるかもしれないが、社会的視点に立てば、むしろ善行は広く告知されて社会のチェックを受けておくべきである。まして、それが企業の行為であれば隠すべきではなく、自然の形で公表していくべきである。私自身は「隠徳思想」は危険であると考えているが、少なくとも善行は告知することによってさらに広がっていくことを忘れてはならない。
企業がメセナ活動をする場合、注意しなければならないことは他にもある。それは、これまでの企業が信奉してきた経済の論理と文化の論理との違いである。企業の持つ大きなパワー(資金力や活動力)は、使い方に気をつけないと文化を破壊してしまいかねない。極端な言い方をすれば、脇道に踏み込んだ象が知らないうちに小さな虫を踏みつぶしてしまうようなことも起こりうる。
日本企業が海外の有名絵画を買いあさった結果、相場がつりあがったというような事態も起こっている。絵画の購入それ自体はメセナ活動とは違うかもしれないが、そう距離があるわけではない。企業がスポーツ活動を支援した結果、スポーツの世界がどうなったかを研究してみるのもいいだろう。経済の論理と文化のそれとは大きく異なる。企業が善意で行うことが文化を損ねてしまうことも少なくない。企業としてはよほど注意しなければならない。
●企業メセナを通した企業の文化化
企業メセナ活動は企業の論理と文化の論理を繋ぐものである。文化の世界に効率や利益の論理が持ち込まれるおそ
れがないわけではないが、逆に企業の世界が変わっていく可能性も充分ある。企業の変革が要請されている現在、そ
のことの意味は大きい。
文化と接触することが、社員の意識や企業文化を変えていく。そう考えると、企業が文化支援することは、同時に文化によって企業が支援されることでもある。企業メセナ活動は一方的なものではなく、企業と文化との相互交流なのであり、さらに社会との交流にもつながっていく。企業は、宣伝効果のレベルを超えた大きなメリットを得ることが可能なはずである。しかし、やり方を間違えると双方が傷を負うことにもなる。異質なものの交流の難しさがそこにはある。ここでも広報スタッフの役割があるだろう。
ある企業のトップの方が新聞にこんなことを書いている。その方は、常々、これからの企業人は文化性を持たなければならないと社員に言っているのだが、部下から「文化の舵取りは社長のお役目。私たち野武士は業績をあげてサ
ポートします。全員が文化人なら会社はパンクします」と言われたというエピソードを紹介し、そうした社員の心遣いがうれしかったと書いている。素直な発言だと思うが、ここには「わたし文化する人、あなた稼ぐ人」という発想がある。これでは、メディチ家のメセナ活動と変わらない。当主のコジモ・デ・メディチは文化を享受しただろうが、その陰でいかに多くの人が文化と無関係の人生を過ごしたかは、一度考えてみるべきだろう。そうした仕組みと発想こそが、いま問われているのではないだろうか。そうした意識が企業メセナに関わっている人には希薄のように思われる。メセナの陥とし穴がそこにある。
一方で企業メセナ活動を掲げながら、他方で社員を二十四時間働かせる企業戦士にしている企業のあり方が問題な
のである。企業文化部の創設や文化戦略も重要だろうが、その前にまず社員の生活や文化との接触を企業は確認すべきであろう。組織として利益の一%を文化支援に回す前に、社員が収入の一%と活動の一部を文化との接触に回せるような実態をつくりだしていくべきである。
●これからの企業メセナと企業広報
企業の壁の解消と共に、広報が企業と社会のパイプ役である時代は終わりつつある。壁がなくなれば、社員全員が
社会とつながっていく。全社員広報マンの時代である。
文化との接触もそうでなければならない。芸術活動のための資金提供も重要だが、関心を持った多くの鑑賞者の存在のほうが、芸術を刺激し支援していくことは言うまでもない。全員メセナマンが志向されなければならないのであって、メセナの専門家をつくればいいわけではない。その基本を忘れてしまう傾向が企業にはある。それが企業の論理なのかもしれない。
広報の役割は企業からの情報発信や一方的な文化支援だけではない。社内への情報発信や企業文化の変革も重要な役割である。企業と社会との関わりの中で、企業を文化化し、社会を文化化していくことが広報の重要な使命になっている。メセナ活動は、そうした位置づけで取り組んでいくべきテーマである。
戦略広報課題としてのメセナ活動の重要性はさらに高まっていくだろう。それにどう取り組んでいくかによって、企業は大きく未来を変えていく可能性がある。社会の未来も関係している。明確な理念を持って取り組んでいかなくてはならない。
●参考文献
・企業は文化のパトロンとなり得るか/福原義春(求龍堂1990年)
・コーポレート・シチズンシップ/田淵節也監修(講談社1990年)
・日本の企業家と社会文化事業/川添登・山岡義典編(東洋経済新報社1987年)
・ニューヨーク午前〇時美術館は眠らない/岩渕潤子(朝日新聞社1989年)
・現代企業文化戦略症候群〔宣伝会議別冊〕(宣伝会議一九八四年)
・月刊アドバタンジング1990年4月号「特集現代のパトロネージ考」/電通
・企業と文化/河島伸子(日本能率協会JMAジャーナル1990年9月号〜12月号)
・季刊メセナ(企業メセナ協議会)
1990年12月:佐藤修