脱構築する企業経営/1

企業解体の予感
コンセプトワークショップ佐藤修
( 「マネジメント21」1999年4月号(日本能率協会)
所収)

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●企業が文化を語りだした
 企業が解体しつつある、と言ったら過言かもしれない。しかし、企業が大きく変わりつつあるという意見には反対する人は少ないだろう。変化の方向が「解体」なのか「進化」なのかはともかく、どうもその「変化」は時代を画するものになりそうである。もし「進化」であるとしても、それはこれまでとは次元を異にする「大進化」になる可能性が強い。産業革命を背景にヨーロッパが創出し、アメリカが発展させてきた「近代企業制度」は、いま大きな曲がり角に直面している。
 解体もしくは大進化を感じさせる予兆は、日毎に増えている。
 まず目立つのが、企業が文化を語り始めたことである。それも事業との関係を超えてである。一昔前に話題となった「文化産業論」は、文化資源の事業化という極めて経済主義的な発想であったし、暫く前に語られた「第5の経営資源としての企業文化」論も所詮は事業展開のための経営戦略論を超えていなかった。その限りでは、既存の企業論理の拡大でしかなかったように思われる。しかし、最近、様相が変わり始めた。営利目的の経済機関を自認していたはずの企業が、自らの文化性を議論しはじめ、単なる経済機関から文化機関へなどと言い出してきたのである。社員に対して文化性を持てと言っている経営者も出始めている。経済活動に埋没する「企業戦士」の時代は、どうやら終わりつつある。

*文化産業論の危険性
  文化産業論は日下公人氏(当時日本長期信用銀行)が1977年に発表した論文「新・文化産業論」によって広がった考え方である。同論文によれば、文化産業とは「ある文化を創造し、その文化およびその記号を販売するもの」と定義されている。日本経の"モノ・コンプレックス"や"数量的効率発想"からの離脱には大きな功績があったが、そもそも構築基盤の異なる文化と産業との接合は、文化創造どころか文化消費を引き起こすおそれがある。企業はこれまでも、悪意とは無関係に環境や人間性を浪費してきた面があるが、文化との付き合いは慎重でなければならず、安直に文化の産業化などというべきではない。必要なことは産業の文化化であろう。さらに、この論議の延長に、日本は「文化輸出国」になるべきだとの指摘もあるが、文化は伝播するものであって輸出するものではない。経済大国を背景とした企業人の奢りと卑しさを感じざるを得ない。


*経営資源としての企業文化論の限界
企業文化を経営資源として考える場合、その視点は組織効率の向上から自由になれない。そこから出てくる議論は、たとえば次のようなものである。
 ・経営力強化のための体質強化
   社員意識の変革管理
 ・事業多角化のための体質変革
   多様な価値観の醸成と組み込み
 ・人材集めのためのイメージづくり
   魅力的な企業の見せ方の演出
 ・社員が働きやすい風土づくり
   職場環境整備による生産性向上
しかし、いま必要なのは社会の視点からの企業文化論である。企業文化を経営資源として位置づける前に、企業の社会性をしっかりと認識し、社会制度としての企業文化のあり方を前提に議論していく必要がある。

●企業への期待が変わり始めた
 企業と行政の役割分担も変わりつつある。行政は営利志向的な事業への関心を深めている。北海道池田町のワイン事業をはじめ、大分県の一村一品運動、神戸市の土地造成や生活サービス事業展開など、企業活動にひけをとらないものも少なくない。逆、企業のほうは営利とは直接関係のない文化活動や社会活動に関心を深めつつある。企業文化部というような組織を設置し、積極的に社会活動に取り組もうとしている企業も増えている。企業と行政は相互乗り入れをしてしまい、いまや両者の境界は消失しつつある。営利を目的とした継続的事業活動は企業の独壇場ではなくなってしまった。
 社会からの企業に対する役割期待も広がっている。単に「いいモノやサービスを安く提供する」だけでは充分ではない。企業の社会貢献活動の議論も盛んであるが、そこでのテーマは、教育、育児、地球環境、社会福祉、文化活動、地域整備、政治変革など、極めて広範囲である。もちろん、企業がこれらの問題をすべて引き受けることはできないし、またそうすべきでもないが、それだけの期待が社会から寄せられていることは認識しておく必要がある。そして、それ以上に重要なことは、それが何故なのかということである。
 まず考えられるのが、企業の問題解決能力の高さが評価されているということである。もしそうであれば、そうしたテーマを事業化していくことが対応策になる。企業のパワーとノウハウを駆使すればそれは充分可能だし、現実にそうした展開も始まっている。なにしろ、すべてのテーマが営利事業になる「汎産業化の時代」である。問題があれば人々のニーズがあり、ニーズがあれば市場が存在し事業が成立するというのが、現在の企業経営思想である。経営学者はニーズがなければ顧客を創造しろとさえ勧めている。ニーズがなくともウォンツがあると言う人もいる。その結果、生活や社会の隅々に至るまで、貪欲な市場経済化の波が押し寄せている。しかし、そうした市場経済の論理で、企業の役割を広げていくだけでいいのだろうか。
 企業に対する社会からの期待の中には、企業責任の問いかけが含まれていることを理解すべきである。前述の問題はすべて何らかの形で企業の活動が影響している。企業活動は社会を豊かにする上で大きな役割を果たしているが、その反面でマイナスの影響も与えている。ものにはすべて裏と表がある。これだけ企業の存在が大きくなっている以上、企業が影を落としていない社会問題はないと言っていい。だとしたら、その解決に再び営利事業(産業化)発想で取り組むことは適切とはいえない。
 たとえば、使用済の商品や包装機材の処理が廃棄物問題や環境問題を起こしている。それに関連して「静脈産業論」がしばしば議論される。商品の提供を動脈産業、廃棄物処理を静脈産業と考え、社会にはその両方が必要だという発想である。一見正しいようであるが、なぜ産業化されるべきなのかは問題である。むしろ廃棄物処理を始めから考えた(動脈)産業づくりをするのが理想だろう。静脈産業発想を認めれば、企業が営利事業によって社会的問題を発生させ、その問題処理のために新しい営利事業が成立するという無限の産業化の世界に陥ってしまいかねない。その循環から抜け出ることが、いま求められているのではないだろうか。社会からの期待は、事業の光の部分を広げることよりも影の部分を最小化することに重点が移りつつある。
 発想を転換しなければならないのだ。これまでの延長で企業が役割を拡大していくのではなく、新しい発想が求められているのである。そこに解体もしくは大進化の兆しを見ることができる。企業は、これまでのような狭い経済活動だけの世界にとどまっているには、あまりに大きすぎる存在になってしまった。

*ボルボ・ジャパンの英断
 「私たちの製品は公害と騒音と廃棄物を生み出しています──だからこそボルボは環境問題に真剣に取り組みます」と言うボルボ・ジャパンの広告は様々な議論を呼んだが、これは企業のあり方にとって大きな前進ではないかと思われる。地球環境意識の高まりを事業化の対象にしてしまう企業もあるが、営利活動とは別の形で地球環境問題に取り組むことのほうが重要である。いま、企業が必要なことは自社の事業のマイナス面をしっかりと認識して、社会と共にその解決に向けた努力に取り組むことである。そのために、自社事業の弊害とそれに関する情報を公開していくべきであろう。同時に、社会の側もそのマイナス面に感情的に反応せずに当該事業のプラス(効用)面を踏まえて自分たちに何ができるかを考えるべきである。こうした情報公開もまた、企業解体の兆しの一例である。

●企業人も会社の壁を超え出した
 「一社懸命」に働いていた企業人たちも変わりつつある。ある会社に所属しながら、別の活動拠点として自分の会社を持っている企業人も出現してきた。複数の会社に所属する「多社籍社員」も増えている。自分の生活設計に合わせて会社と有時限的な(あるノウハウを蓄積したら別の会社に移るような)付き合いをしている企業人もいる。転社に対する考えも変わりつつある。会社と社員との関係は大きく変化していくだろう。

*多社籍社員のつくる企業の意味
 企業に勤めながら仲間たちと自分たちのもうひとつの会社を設立し、勤務時間後や休日に仕事をすることが、趣味の会やボランティア活動のグループに所属するのとどこが違うのかは明確ではない。ただ、そうしてつくられた会社は、これまでの会社とはかなり異なる理念(例えばノン・プロフィット)によって運営されることが多い。新しい企業の実験の場とも考えられないことはない。

*生活設計のための企業活用計画
 最近の若者の中には、自分の目標達成のためにいくつかの会社を修行(ノウハウや人的ネットワークの獲得)に回るという姿勢を持っている人がいる。仲間たちと示しあってそれぞれが違う会社に入りパワーを高め、いつか集まって自分たちの事業構想を実現しようという遠大な計画を持っているグループもある。
 勤務時間中はもちろん、仕事後に飲むに行くことから休日のゴルフ、そして社宅生活や社員旅行と、ほぼすべての生活を会社仲間と共にしていたような生活はもはや無くなりつつある。変わって求められているのが、他社の社員や異質な仕事をしている人たちとの幅広い人的ネットワークである。交際範囲は次第に企業の枠を超え始めている。
 これは社員側だけの問題ではなく、企業側にも同様な意識がある。途中入社を増加させている企業は少なくないし、社員の「もうひとつの活動(自社の仕事以外の活動)」を奨励している企業も出てきている。社員の視野の広がりや柔軟な発想、あるいは外部に開いた人的ネットワークが、企業にとっても重要な要素になり始めているのである。同質で管理しやすい人間の集団を志向していた企業論理は見直されてきている。新入社員教育や社員研修も根本から問い直され始めている。

*社員教育の意味の変化
 
「新入社員には新しい風を職場に吹き込んでもらいたいのだが、実際には数か月にわたる全社新入社員教育によってトヨタの考え方が注入されてしまうので、新しい風にはならない。職場配属後、我々がやることは新入社員教育でたたきこまれたトヨタ文化を取り除くことだ」とトヨタ自動車のある中堅社員が話してくれたことがある。企業変革が課題になっている時の教育のあり方は、これまでとは全く異なるものになるだろう。その認識がほとんどの企業には欠落している。
 企業に囲われていた社員がその枠を超えて多様な世界と交流する機会が増えるとどうなるか。異質な触れ合いによって刺激を受けた社員が自閉的な企業から出ていってしまうこともある。外部機関への出向や留学を契機に転職や転社してしまう企業人は決して少なくない。「井の中の蛙」が、広い世界と触れ合った時の眩しいほどの興奮と感動は、現在の企業人の多くにもあてはまる。だが、その危険覚悟で企業は社員を外部に触れさせ始めている。もちろん、異質との触れ合いが企業人としての意識と企業内での仕事を高めていくケースのほうが多いだろう。その場合も、一度広い世界を見た社員の意識は変化するから、企業としても付き合い方を変えていく必要がある。
 異質との触れ合いは直接的な交流からもたらされるだけではない。情報化の進展が他社の様子や企業外部の世界を生々しく伝えてくれることも、企業の解体につながっていく。いかに企業が外部との壁を築こうとも、情報はそれを超えてどんどん入ってきてしまう。それが情報化社会の特質である。最近、ドラマティックに進んでいる国際政治の流れに似た状況が企業にも生じているのである。ベルリンの壁と同じように、企業の壁は崩れ始めている。情報に対してとりわけ敏感な若者たちから、まず動きが出ていることも国際政治と同様である。

●会社よりも生活を起点とした発想
 勤務する企業を起点として住む場所を考えるという発想も変わりつつある。生活を起点に勤務先や仕事を考える人が増えてきた。企業の都合での単身赴任制度も根本から見直される必要がある。企業都合よりも生活優先という価値観も強まっている。若者たちだけの話ではない。むしろ熟年企業人のほうが切実に生活への関心を高めているように思われる。ただ、その方法や会社との関係をうまく処理できないでいるだけではないだろうか。企業人の意識は間違いなく自分の生活に向き始めている。
 企業にとっての経営資源として「ヒト、モノ、カネ、情報」ということがよく言われるが、その「ヒト」が変わり始めたのである。労働力でしかなかったヒトが、生活と個性を持ち始めた。労働力は管理できても、個性や個人の生活は管理できないだろう。経済のソフト化は「労働力」から「人間」へと社員の役割を変えていくだろう。与えられた仕事に従事すればよかった「従業員」では企業は支えきれなくなってきている。そろそろ「従業員」などという言葉から離別しなければならない。会社を支えているのが一人ひとりのメンバーの活動であるという実態を踏まえれば「社員」という言葉こそ相応しい。それに伴い「従業員管理」や「人事管理」という発想も見直さなければならなくなるだろう。「人材」を「人財」という言葉に置き換える人もいるが、むしろ時代に逆行した発想と言うべきである。人間は企業の財産ではない。企業が人間にとっての財産なのである。その構造が問われているのである。間違ってはならない。
 勤務時間を社員の生活リズムに合わせようという動きも、こうした流れのひとつである。社員が就業規則や事業内容を決める会社も出始めている。会社と社員の主従関係は逆転しつつあると言ってもいい。ここにも、企業解体の兆しを感ずることができる。

*地方転居族の増加
 昨年、何人かの友人が首都圏から地方に転居した。一人は中堅企業の課長。出張で訪問した仙台に一目惚れして4か月後に引っ越した。退社を申し入れたが、社長から慰留され暫くは在社することになった。月曜に東京に出社、金曜に仙台に帰宅する二重生活を続けている。但し、仙台駅から車で10分くらいのところに70坪3000万円で自宅を購入。通勤費や二重生活費を加えても生活費の負担は少ないと言う。2年後には仙台に仕事を見つけるだろう。ある大手企業の部長から地方大学の先生になった友人は子供たちを自宅に残して夫婦二人で地方に転居した。経済的な収支はかなり悪化しただろうが、生活の豊かさは大きく高まったようである。大学卒業後、地方勤務を続けてきた友人夫婦は25年ぶりに憧れの東京本社に戻ってきた。しかし、今や地方のほうが豊かな生活ができるという実感から2か月後に家族は前任地に戻ってしまった。彼も意識としてはそれに賛成のようである。他にも首都圏では自宅が持てないからと出身地にUターンした大手企業の課長もいる。勤務する会社が生活地を決める時代は終わりつつある。

●企業の脱構築
 いくつかの解体もしくは大進化の兆しを見てきた。こうした背景には、もちろんそれなりの理由がある。物的豊かさの実現の中で生活の内容を考える余裕が出来てきたとか、国際化の進行がこれまでの企業のあり方を考え直す契機を与えたとか、物不足から物余りとなったことから生産や流通の意味が変化したとか、いろいろあるだろう。高齢化の到来や情報化の進展もそのひとつである。
 しかし、基本にあるのは「企業の成功」であろう。「豊かな社会」の実現にとって、企業の果たした役割は極めて大きい。個人主義的自由を前提とした経済体制の核として、企業は価値の創造に果敢に挑戦し、効率性追求により価値の大衆化を進め、豊かさの実現に邁進してきた。そして「豊かな社会」が実現された。その結果、企業は社会において圧倒的に大きな役割を果たす存在になったのである。現代は企業社会と言ってもいい。
 しかし、豊かな社会における企業の役割は、当然これまでとは変わっていかなければならない。新しい社会には新しい役割や主体が必要になる。これまでの使命や理念がそのまま有効であるわけではない。企業は自らの使命を果たしたが故に、その役割を新しくしなければならなくなってきている。成功したものの、それは宿命である。役割をそのままにして、そのやり方(経営)を変えればいい段階は終わりつつある。いま問題なのは、経営のやり方ではなく、企業そのもののあり方なのだ。経営のパラダイム転換が求められているのではなく、企業のパラダイム転換が求められている。混同すべきではない。
 企業のあり方をそのままにして、経営のやり方を効果的なものにすることは危険でさえある。もし企業の理念(概念)が変わってしまえば、経営のやり方の評価軸は反転しかねないからである。平和の経営と戦争の経営とは全く異なることを想起すべきであろう。
 では企業とは一体何なのか。これについての議論は必ずしも多くない上に明確ではない。営利を目的とする事業の継続的(永続的)推進組織というのが大方の前提であろうが、では「利益」とは何かということになると、これも明確ではない。誰にとっての利益なのか。またなぜ永続しなければならないのか。その根本のところを曖昧にしたままで、いくら経営のパラダイムシフトを考えても意味がないのではないか。もっと企業そのもののパラダイムを真剣に議論しなければならない。経営論としてではなく、社会論や文明論として企業を考えていくべき時期である。
 そのためには、一度、企業の構造を解体する作業が必要である。個々の企業にとってはリストラクチャリング(再構築)が戦略課題になるかもしれないが、時代の要請はむしろ企業のディコンストラクション(脱構築)である。ディコンストラクションはフランスの哲学者ジャック・デリダの提唱した概念である。構築物の構成要素を解体し、それぞれの意味と機能を見直し、再び全体を作りあげていくという作業である。企業に即して言えば、現在の企業制度の構造(パラダイム)を整理し、それらを要素として吟味した上で新し
い概念構築をしていくことになる。結果的には企業のパラダイム転換、あるいは新しい企業概念の創造ということになるだろう。
 次号ではまず、企業のパラダイム分析を行い、そこから新しい企業の方向を探りだしていきたい。
                                      
つづく